マロリオン物語6 カランダの魔神
DEMON LORD OF KARANDA
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)|西洋ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]《せいようぶな》の庭園
-------------------------------------------------------
[#ここから4字下げ]
作者と妻とファッツオより
とびきりの友人である
パトリック・ジャンソン=スミスに
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
前回同様、ふたたび妻のリー・エディングスに感謝したい。この物語を進行させるにあたって、彼女はわたしを支え、励まし、心から協力してくれた。妻の援助がなかったら、ここまでこぎつけることはできなかっただろう。
また、編集者であるレスター・デル・レイにも、その忍耐と寛容、さらに、数しれぬ献身に、この場を借りて感謝する。
[#改丁]
目 次
第一部 アシャバ
第二部 ザマド山脈
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
カランダの魔神
[#改ページ]
登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エリオンド…………………………………〈珠〉を運んだ少年
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
フェルデガースト…………………………道化師
ウルヴォン…………………………………トラク神の弟子
メンガ………………………………………妖術使い
ナハズ………………………………………魔神
シラディス…………………………………女予言者
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
[#改丁]
第一部 アシャバ
[#改ページ]
1
マル・ゼスから北へ伸びる道は広々とした肥沃な平原の中を通っていた。芽が出たばかりの穀物が、低くたれこめた明るい緑色のもやのように、湿った大地をおおい、萌えたつ匂いが暖かな春の大気に満ちていた。いろいろな意味で、その景色はアレンディアの青々とした平原や、センダリアの整然とした田畑に似ていた。もちろんわらぶき屋根に白壁の村落もあり、犬たちが道端まで出てきては吠えたてた。春の空は抜けるように青く、ふわふわした白い雲が空色の牧草地で草を食む羊のように見えた。
道はさながらまっすぐに置かれたほこりっぽい茶色のリボンで、周囲の緑の野原は、地形がゆるやかに隆起して丸い丘陵になるにつれ、平坦だったのが段状になり、なだらかな上り坂になった。
その朝、一行はきらめく日差しを浴びて出発した。ヤーブレックのラバたちの首の鈴が、太陽を歓迎してさえずる小鳥たちの朝の歌に伴奏をつけた。一行の後方にある巨大な盆地からは、真っ黒な煙の大きな柱がたちのぼっている。その盆地でマル・ゼスが炎上しているのだ。
馬にまたがって遠ざかりながら、ガリオンはどうしても後ろをふりかえる気になれなかった。
道ゆく者はほかにも大勢いた。疫病に侵された都市から逃げだしたのは、ガリオンとその仲間たちだけではなかった。ひとりで、あるいは少人数で、用心深い旅人たちが北へ移動していた。かれらは体が触れあうのを恐れて、ほかの避難民に追いつくたびに道からはずれて田畑の奥まで後退し、避難民の姿が見えなくなるのを見送ってから、やっとほこりっぽいリボンに戻ってくるのだった。道づれのいない旅人も、グループの旅人も、こうして注意深く孤立して、できるだけ前後に空間をとっていた。
道から枝分かれして、緑あざやかな田畑を横切っている小道は、どれもこれも切り倒したばかりの灌木のバリケードで遮断され、それらのバリケードの前にはけわしい顔つきの農民たちが手に手に棒や、重たげな石弓をぎごちなくかまえて、近づこうとするものに警告を叫んでいた。
「いまいましいやつらめ」そういうバリケードの前を旅人たちがとぼとぼと通りすぎるのを見て、ヤーブレックが不機嫌に言った。「世界中どこへ行っても、やつらはおんなじだ。こっちがやつらのほしいものを持ってるとにこにこするくせに、それ以外のときはいつもおっぱらおうとしやがる。あいつらのうすぎたないけちな村なんかに、本気で行きたがる人間がいると思ってるのかね?」ヤーブレックはいらだたしげに毛皮の帽子を耳の上までぐいとひきずりおろした。
「かれらは恐れているのよ」ポルガラは言った。「自分たちの村がそう豊かでないとはわかっていても、村が唯一の財産なんですもの、安全な状態に保っておきたいのよ」
「あんなバリケードや脅しが役にたつんですかね?」ヤーブレックはたずねた。「つまり、疫病をしめだすのにさ?」
「早めにああいうことをしたのなら、多少効果はあるでしょうね」
ヤーブレックは不服そうな声をもらしたあと、シルクを見やった。「ちょいと言いたいことがあるんだが?」
「おれが耳を傾けるかどうかは、その内容によるな」シルクは答えた。小男はいつもの旅着に戻っていた――地味で、かざりけのない、特徴のない服装だ。
「疫病と悪魔たちに両側からはさまれて、ここらはだんだんいやな雰囲気になってきてるだろ。このマロリーで持ち物を全部処分して、ことが落ち着くまでじっとしてたらどうなんだい?」
「わかってないなおまえは、ヤーブレック」シルクは言った。「混乱や戦争は商売にもってこいなんだぞ」
ヤーブレックはしかめっつらをした。「そういう考えかたをするんじゃないかと思ったぜ」
半マイルほど前方にまた別のバリケードがあった。今度のは街道のどまんなかに置かれている。
「ありゃなんだ?」ヤーブレックがぷりぷりしながら手綱を引いた。
「おれが見てくる」シルクは馬のわきばらをかかとで蹴った。ガリオンはとっさについていった。
バリケードまで五十ヤードほどに接近すると、茶色のズックの仕事着姿の農民たちが十二人、石弓をかまえてバリケードのうしろからたちあがった。顔にも服にも泥のはねがついている。「そこでとまれ!」ひとりが威嚇するように命令した。ごわごわのひげを生やしたがっしりした男で、目がやぶにらみだった。
「おれたちは通り過ぎようとしてるだけなんだぜ、友だち」シルクが言った。
「通行料を払わねえなら、通すわけにはいかねえ」
「通行料だ?」シルクは叫んだ。「ここは帝国の街道だぞ。通行料などあるはずないだろう」
「いまはあるんだよ。おまえら町の人間は何代もおれたち百姓をだまくらかしておいて、今度は病気をおれたちにうつそうとしてるんだ。おい、これからは金を払ってけ。どのくらい金を持ってる?」
「しゃべらせておいてくれ」ガリオンはつぶやいて、あたりを見回した。
「ようし」まじめな交渉をするときのとっておきの口調で、シルクはやぶにらみの農民に言った。「話し合おうじゃないか」
四分の一マイルばかり向こうの草深い小山の上に、ごちゃごちゃしたきたない村があった。ガリオンは注意を集中させて意志の力をたぐりよせ、村の方角へそれとない仕草をした。そして、「煙」と、ささやくように言った。
シルクは武装した農民たちと押し問答をして、できるだけ時間をかせいでいた。
「あの――ちょっと?」ガリオンは遠慮がちに口をはさんだ。「向こうで何か燃えているんじゃないか?」
農民たちは自分の村から真っ黒な煙がたちのぼっているのを見て、棒立ちになった。くちぐちに驚いた叫びをあげて、農民のほとんどが石弓をほうりだし、田畑を横切って、目に見える惨事めざして走りだした。やぶにらみの男はそのあとを追いかけて、持ち場に戻れと怒鳴り声をあげ、シルクたちを脅かすように石弓をふりまわして駆けもどってきた。男は決心をつけかねて、怒ったような顔でぴょんぴょんはねまわった。目の前の旅人たちから金をまきあげたい反面、自分の家や納屋から火が出ている光景を思いうかべて、どうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。ついにどっちつかずの状態に耐えられなくなり、男も武器をなげすて、仲間たちのあとを追って走り去った。
「本当にやつらの村に火をつけたのか?」シルクがちょっとショックをうけたような声で言った。
「もちろんちがうさ」
「じゃ、煙はどこから出てるんだ?」
「いろんなところからだよ」ガリオンは片目をつぶってみせた。「屋根のかやのあいだとか、通りの石のあいだとか、地下室や穀物倉からとか――いろんなところからさ。だが、ただの煙なんだ」かれはクレティエンヌの背からひらりとおりると、地面に落ちている石弓をかき集めた。灌木のバリケードにそって、先端を下にして石弓をきちんと並べた。「石弓のロープをはりなおすのにどれくらいかかる?」ガリオンはたずねた。
「数時間だな」シルクはきゅうににやりとした。「ふたりがかりで、巻き上げ機で大枝を曲げてから、またふたりがかりでロープをきちんとかけなけりゃならない」
「思ったとおりだ」ガリオンは使いこんだナイフをぬくと、武器の列に近づき、よじったロープを一本ずつ切断していった。どの石弓もビインと大きな音を立てた。「じゃ、行こうか?」ガリオンはきいた。
「これはどうする?」シルクは灌木のバリケードを指さした。
ガリオンは肩をすくめた。「迂回して通れるだろう」
「かれらはなにをしようとしてたんですか?」ふたりが引き返すと、ダーニクがたずねた。
「野心的な地元農民のグループが、あのあたりで通行料をとりたてる気になってたんだ」シルクは肩をすくめた。「もっとも、連中、商売向きの気質はもちあわせてなかったがね。ちょいと騒動をひきおこしてやったら、さっさと店をほったらかしにして行っちまいやがった」
一行はだれもいなくなったバリケードを通過した。荷物を背負ったヤーブレックのラバたちが物悲しげな鈴の音をひびかせて、あとにつづいた。
「まもなくおまえさんたちとは別れなくてはならんことになりそうだ」ベルガラスは毛皮の帽子をかぶったナドラク人に言った。「わしらは今週中にアシャバへたどりつかねばならんのだ。おまえさんのラバが一緒だと、早く進めないのでな」
ヤーブレックはうなずいた。「ラバの一隊が足が早けりゃだれも非難はしませんよ。とにかく、おれはもうじき西へ向かいますって。みなさんお望みならカランダにはいることもできるが、おれは一刻も早く海岸につきたいんで」
「ガリオン」ポルガラが言った。後方の村からたちのぼる煙を、彼女は意味ありげに見た。
「ああ、忘れてた」ガリオンはさもおおげさに片手をあげて、意志の力をゆるめ、「もういい」と言った。煙の根元が細くなり、元から切断された煙の柱が雲のように上昇しつづけた。
「芝居がかったことをしないの」ポルガラが忠告した。「みせびらかすのはやめなさい」
「おばさんはいつもやってるじゃないか」
「ええ、ディア、でもわたしはやりかたを心得ているわ」
正午ごろ、長い丘をのぼって、明るい日差しをあびて頂上までたどりついたとき、鎖かたびらに赤いチュニックのマロリーの兵たちが、残忍そうな槍を手に、溝や浅い谷からとびだしてきて、一行を取り囲んだ。
「おまえたち! とまれ!」分隊の隊長がぶっきらぼうに命じた。隊長は小柄だった。シルクより低いくらいだが、十フィートもあるようにそっくりかえっている。
「もちろんですとも、隊長さん」ヤーブレックは馬の手綱を引いた。
「どうする?」ガリオンはシルクにささやいた。
「ヤーブレックにやらせよう」シルクはつぶやいた。「こういうことなら心得てる」
「どこへ行く?」隊長はやせこけたナドラク人が馬をおりると、きいた。
「マル・ダリヤです」ヤーブレックは答えた。「あるいは、マル・カマトか――船を雇ってヤー・マラクまで商品を運べるならどこだっていいんですよ」
その返事になにかまずい点をみつけようとするかのように、隊長はうなった。
「問題は、おまえがどこからきたかってことなんだ」隊長の目が細まった。
「マガ・レンです」ヤーブレックは肩をすくめた。
「マル・ゼスではないのか?」チビの隊長の目がいっそうけわしく、疑い深くなった。
「マル・ゼスではあんまり商売をしないんですよ、隊長さん。金がかかりすぎるからね――ほら、袖の下がかさんじまって」
「それを証明できるのか?」隊長は突っかかるような口調で言った。
「できると思いますよ――必要ならば」
「必要なんだ、ナドラク人、というのはな、マル・ゼスからきたのではないということを証明できなければ、おまえを追い返すことになるからさ」隊長はうれしそうだった。
「追い返す? そんなむちゃな。あたしは夏までにボクトールへ行かなけりゃならないんですよ」
「それはそっちの問題だ、商人」チビの隊長は自分より大きな相手をうろたえさせたことに、気をよくしているようだった。「マル・ゼスには疫病が蔓延している。だからおれはここでそれが広がるのを防いでいるわけさ」かれはどうだと言わんばかりに胸をたたいた。
「疫病!」ヤーブレックの目が大きく見開かれ、顔が本当に真っ青になった。「くわばらくわばら! もうちょっとであそこに立ち寄るところだった!」ヤーブレックはいきなり指を鳴らした。「そのせいだったのか、このへんの村がみんな障害物をおいてはいれないようにしてあるのは」
「マガ・レンからきたことを証明できるのか?」隊長は言いつのった。
「ええと――」ヤーブレックは右のあぶみの下にさげた使い古した鞍袋の口をあけて、なかをひっかきまわした。「商務省が発行した許可証をここに持ってるんです」やや心配そうに言った。「それがあれば、マガ・レンからマル・ダリヤへ商品を移していいはずなんですよ。マル・ダリヤで船が見つからなかったら、もうひとつ許可証をもらってマル・カマトへ行かなけりゃなりません。これでいいでしょうか?」
「見せてみろ」隊長は片手をつきだして、いらいらと指を鳴らした。
ヤーブレックは許可証を渡した。
「ちょっとよごれてるぞ」隊長は疑わしげだった。
「ペン・ダカの居酒屋でビールをこぼしちまったんですよ」ヤーブレックは肩をすくめた。「薄い水みたいなしろものでしたがね。悪いことは言いませんよ、隊長さん、ペン・ダカでとことん飲もうなんて気は起こさないことです。時間と金のむだ遣いだ」
「おまえたちナドラク人は酒のことしか考えないのか?」
「気候のせいなんで。冬場のガール・オグ・ナドラクにはほかにすることがないもんだから」
「ほかに証明になるものは?」
ヤーブレックは鞍袋をさらにかきまわした。「マガ・レンのヨーバ街で絨緞商人からもらった売り渡し証書があります――虫歯だらけのあばた面の男でしてね。ひょっとしてご存じないですか?」
「なんでおれがマガ・レンの絨緞商人を知ってるんだ? おれはマロリー帝国軍の士官だぞ。大衆とは関係ない。この日付けは正確なのか?」
「さあて。ガール・オグ・ナドラクではちがうカレンダーを使ってますんで。二週間ほど前のことでしたよ、それでお役に立つなら」
隊長は考えこんだ。権限を行使する言い訳を見つけだそうと、やっきになっているのはあきらかだった。とうとうその顔にやや失望したような表情が浮かんだ。
「よかろう」隊長はしぶしぶ言うと、書類を返した。「行ってよい。だが、寄り道はするな。仲間が隊列を離れるのはまかりならんぞ」
「こいつらは離れないほうがいいんですよ――賃金を払ってもらいたいならば。ご面倒かけました、隊長」ヤーブレックは鞍にとびのった。
士官はぶつくさ言うと、手をふって一行を通した。
「チビの人間にゃ、どんなたぐいの権限も与えるべきじゃないね」聞こえないところまで行くと、ナドラク人は皮肉たっぷりに言った。「権限の重みで脳みそがつぶれちまうわ」
「ヤーブレック!」シルクがなじった。
「もちろん、ここにいる連れは例外だよ」
「そうか。じゃ、話は別だ」
「嘘をつくために生まれてきたみたいじゃござんせんか、ヤーブレックさん」道化師のフェルデガーストがほれぼれと言った。
「あるドラスニア人との腐れ縁のせいだよ」
「さっきの許可証や売り渡し証だが、どうやって手に入れたんだ?」シルクがきいた。
ヤーブレックは片目をつぶって、額をコツコツとたたいた。「役人てのは公式然とした書類にゃ頭があがらないと決まってるのさ――ケチな役人ほど、恐れ入る。あの不愉快なチビの隊長相手なら、どこからきたとでも証明できたさ――メルセネだろうと、ザマド山脈のアドゥマだろうと、ガンダハール沿岸のクロル・ティブだろうとな――ただし、クロル・ティブで買えるものといったら象だけで、象を連れているわけじゃないから、そこはちょいと疑いを招いたかもしれないが」
シルクは満面に笑みをたたえて、みんなを見回した。「これでわかっただろう、おれがヤーブレックと組んでるわけが」
「ふたりとも息はぴったりね」ヴェルヴェットがうなずいた。
ベルガラスが片耳をひっぱりながらヤーブレックに言った。「今夜暗くなったら、おまえさんたちとは別れよう。また他のおせっかいな兵隊に足止めされて、人数を数えられたくない――部隊の付き添いが必要だと判断されても困る」
ヤーブレックはうなずいた。「なにか必要なものはありますかい?」
「食糧がすこしあればそれでいい」ベルガラスはラバたちと並んで、荷物を背負ってついてくる馬たちをちらりと振り返った。「かなりの距離をきたことだし、ここらで本当に必要なものをまとめて、そうでないものは捨てるとしよう」
「食べ物がたりなくならないよう、あたしが見てあげるよ」セ・ネドラとヴェルヴェットにはさまれて馬に乗っているヴェラが約束した。「あんたが旅に必要なものがエールで満杯の樽だけじゃないってことを、ヤーブレックはときどき忘れるからね」
「するてえと、北へ向かいなさるんで?」フェルデガーストがベルガラスにたずねた。チビの道化師は満艦飾の服を脱いで、ありふれた茶色の服に着替えていた。
「どこかへ移動でもしていないかぎり、アシャバはそっちの方角にあるからな」ベルガラスは答えた。
「同じことなら、あっしももうしばらくご一緒さしてくださいよ」
「ほう?」
「この前マル・ダリヤにいたとき、おかみとちょいといざこざを起こしちまいましてね、あっしが勝利の帰還をする前に、連中に面目をとり戻す時間を与えてやりたいんです。おかみというやつは、そら、時代遅れで許しがたいところがあるでしょうが――遊び心からやったおふざけや、いたずらをいつでもかき集めておいて、こっちの顔に投げつけてくる」
ベルガラスはまばたきもせずに長々とフェルデガーストを見つめてから、肩をすくめた。「かまわんよ」
ガリオンは鋭く老人を見た。ヴェルヴェットやサディを一行に加えることにいきまいて抗議したことを思うと、ベルガラスが急に道化師の同行を認めたことがひどく不可解に思えた。つづいてガリオンはポルガラを見たが、彼女も平然としていた。ガリオンの胸に不審が芽生えた。
マロリーの平原に夕闇がおりると、一行は道をそれて|西洋ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]《せいようぶな》の庭園のような木立に一夜の場所を作った。ヤーブレックのラバ追いたちはひとつのたきびを囲んで、土焼きのジョッキを回し飲みしながらだんだん騒々しくなっていった。ガリオンとその仲間は木立の南端で別のたきびを囲み、夕食を食べながらヤーブレックとヴェラもまじえて静かに話しあった。
「ヴェンナへ入るときは気をつけろよ」ヤーブレックはネズミ顔の相棒に注意した。「あそこから洩れ聞こえてくる話のいくつかの気味悪さときたら、カランダの噂話の比じゃないぜ」
「へえ?」
「住民全員が一種の狂気にとりつかれているみたいなんだ。そりゃもちろんグロリムってのは、そもそものはじめからまっとうじゃなかったがな」
「グロリム?」サディがさっと顔をあげた。
「ヴェンナは教会の支配する国家なんだ」シルクが説明した。「権力者は全員がウルヴォンの弟子か、マル・ヤスカでのやつの家来かだ」
「前はな」ヤーブレックが訂正した。「いまはだれが権力をにぎってるのか、だれも知らないらしいぜ。グロリムどもがよりあつまっては話しあってるが、話し合いがだんだんエスカレートして、最後にゃナイフを出してくる始末さ。おれも確かなところはつかめてないんだ。神殿の護衛までがいがみあってる」
「グロリムたちが互いをこまぎれにしあうってのは、悪くないな」シルクが言った。
「まったくだ」ヤーブレックはあいづちをうった。「それに巻き込まれないようにしてさえいりゃな」
さきほどからリュートをつまびいていたフェルデガーストが、ガリオンですら気づくほどの耳ざわりな音をたてた。
「調子はずれだよ」ダーニクが忠告した。
「そうなんだ」道化師は答えた。「糸巻がすぐにゆるんじまうんでさ」
「どれ、直せるかもしれない」ダーニクは修理を申し出た。
「こいつはもうガタがきてるんでさ、ダーニクさん。すばらしい楽器なんだが、いかんせん古くてね」
「そういうものこそ直す価値がある」ダーニクはリュートを手にとると、ゆるんだ糸巻をひねりながら親指でそっと弦の張り具合いをためした。そのあとナイフをとりだし、そばにあった木をちょっとけずった。それらの木っ端を慎重に糸巻の周囲にはめこみ、ナイフの柄でたたいてきちんと埋め込んだ。それから糸巻をねじって弦の調子を合わせなおした。「これでいいはずだぞ」ダーニクはリュートをかかえて二、三度かき鳴らした。次にゆっくりしたテンポで古めかしい節をつまびいた。単純な調べがふるえるように響いた。同じ曲を通して弾くうちに、しだいに指に自信がついてきたようだった。ダーニクはもう一度はじめから弾きなおしたが、今度はガリオンのびっくりしたことに、ひとつの楽器から出る音とは思えないほど複雑な旋律が、その単純な節についていた。「このリュートはすばらしい音が出るよ」ダーニクはフェルデガーストに言った。
「これはおそれいりました、鍛冶屋さん。最初にあっしのリュートを直し、お次はあっしが逆立ちしてもできっこないような演奏をなさるとはね」
ポルガラの目が丸くなって、輝いていた。「どうしていままでわたしに教えてくれなかったの、ダーニク?」彼女はきいた。
「じつをいうと、わたしもすっかり忘れていたんだよ」弦の上で指を踊らせて豊かに鳴り響くメロディをつむぎだしながら、ダーニクはほほえんだ。「若いころ、リュート作りの職人と一緒にしばらく働いていたんだ。年寄りで、指はこわばっていたが、作る楽器の調子を聞く必要があったので、わたしにリュートの弾きかたを教えてくれたんだ」
ダーニクはたきびをはさんですわっている図体の大きな友だちを見やった。ふたりのあいだを何かが行き交ったようだった。トスはこっくりすると、肩にひっかけているごわごわの毛布のなかへ手をつっこんで、妙な形の笛を取り出した。中身をくりぬいた大小のアシを短い順に並べて、ばらばらにならないようにくくりつけてある。ダーニクがメロディの最初の部分にふたたび戻ったとき、物言わぬ男は静かにその笛を口に近づけた。素朴な笛からトスが引き出した音は心をえぐるような物悲しい響きに満ちていた。笛の音は複雑微妙なリュートのしらべにのって、空を舞い上がった。
「あっしはまるでお呼びじゃないね、これじゃ」フェルデガーストが感嘆して言った。「あっしのリュートや笛だって、そこらの居酒屋ならじゅうぶん聞くに耐えるが、このふたりみたいな名手じゃないからなあ」道化師は巨漢のトスを見た。「あんなでっかい人間が、どうしてこんなデリケートな音を出せるんでしょうかね?」
「かれはとても上手なんだよ」エリオンドがフェルデガーストに言った。「ときどきダーニクやぼくのために笛を吹いてくれるんだ――魚がかからないときに」
「ああ、うっとりする」フェルデガーストは言った。「むだにするのはもったいない」かれはたきびの向こう側にいるヴェラを見た。「ちょいと踊ってくれないか、おじょうさん、夜をすばらしいものにするためだよ、な?」
「いいともさ」ヴェラは頭をそらして笑った。彼女は立ち上がって、たきびの反対側へ移動した。「このリズムについといで」そう指示すると、むっちりした両腕を頭の上にもちあげて、拍子にあわせて指を鳴らした。フェルデガーストはそのリズムにならって、リズミカルに手をたたいた。
ガリオンは以前ヴェラの踊りを見たことがあったから――ずいぶんと昔、ガール・オグ・ナドラクの森の居酒屋でのことだ――これからどういうことがはじまるかだいたいの見当はついた。しかし、そういう露骨な色気を売り物にした踊りをエリオンドが――そしてセ・ネドラも――見てはならないことだけは断言できた。ところが、いざはじまってみると、ヴェラの踊りはいたって無害だったので、この前見たときは自分が敏感すぎたのかと思いはじめた。
だが、ヴェラの指を鳴らす鋭い音と、フェルデガーストの手拍子がテンポを早めはじめ、ヴェラの踊りが奔放さを増しはじめると、ガリオンは最初の予感があたっていたことを実感した。エリオンドはこのダンスを見るべきではないし、セ・ネドラはただちに向こうへ行くべきなのだ。しかし、いかんせんガリオンにはそうするための方法が思いつかなかった。
テンポがふたたび遅くなり、ダーニクとトスがはじめの曲の素朴な演奏に戻ると、ナドラク人の女はたきびを囲む男たち全員を挑発する、あの自信たっぷりで、けしかけるようなステップで踊りを終了した。
エリオンドがけろりとした顔で心からの拍手を送ったので、ガリオンはあっけにとられた。かれは自分の首が燃えるように熱いことや、心臓が早鐘を打っているのを意識した。
セ・ネドラの反応はほぼ予想したとおりだった。頬はさくら色に染まり、目は大きく見開かれている。すると、彼女は突然うれしそうに笑い声をあげた。「すばらしいわ!」そう叫んで、いたずらっぽい目つきでガリオンをちらりと見た。ガリオンはあたふたと咳きこんだ。
フェルデガーストは涙をふいて、盛大な音をたてて鼻をかむと、立ち上がった。「ああ、男たらしのべっぴんさんよ」ヴェラに下品なことを言いながら、道化師はヴェラの首に残念そうに抱きついて――ヴェラの短剣が常に使える状態にあることを考慮すれば、命と手足を危険にさらして――大きな音をたてて、くちびるに接吻した。「別れなけりゃならないとは、あっしはふぬけも同然だよ。おまえさんが恋しくなる、まちがいないとも。だが、きっとまた会えるって。そんときゃ例の助平な小話でおまえさんを喜ばせてやるよ、おまえさんはあのいまいましい酒であっしをよっぱらわせ、ふたりで笑って歌って、互いを友とする喜びに浸ろうじゃないか」そう言うとフェルデガーストは親しみをこめてヴェラのお尻をぴしゃりとたたき、彼女が短剣の柄をつかまないうちにあわててそばを離れた。
「彼女はよくおまえのために踊るのか、ヤーブレック?」シルクが目をきらきらさせて相棒にたずねた。
「ようくな」ヤーブレックは陰気に答えた。「で、そのたびに、おれはあいつの短剣が本当はそんなに鋭くなくって、切り傷のひとつやふたつどうってことはないと考えはじめる自分に気づくのよ」
「いつでも遠慮はいらないよ、ヤーブレック」ヴェラが短剣のひとつに手をかけて言い、セ・ネドラを見て大きくウィンクした。
「どうしてあんな踊りをおどるの?」まだほんのり頬を染めたまま、セ・ネドラがたずねた。「見ている男の人たちに、あれがどういう作用を及ぼすか知ってるでしょう」
「それが楽しみの一部なのさ、セ・ネドラ。最初は男をあおりたてといて、次に短剣でおっぱらう。これをやると男は狂ったみたいになるんだよ。今度会うとき、どうやるか教えてあげる」ヴェラはガリオンを見て、意地悪そうに笑った。
ベルガラスがたきびのそばに戻ってきた。ヴェラが踊っていたしばらくのあいだ姿が見えなかったのだが、ガリオンは踊りに見とれていたので気づかなかった。
「だいぶ暗くなった」ベルガラスはみんなに言った。「いまなら格別注意をひくこともなく出発できるだろう」
一行はすわっていたところから立ち上がった。
「どうすればいいかわかってるな?」シルクが相棒に念を押した。
ヤーブレックはうなずいた。
「よし。必要ならどんなことをやってもかまわないから、おれをヤバい立場に立たせるなよ」
「なんだっておまえは政治に首をつっこむことにこだわるんだよ、シルク?」
「そのほうが盗むためのよりでかいチャンスにありつけるからさ」
「そうか。そんならいい」ヤーブレックは片手を差しだした。「気をつけろよ、シルク」
「おまえもな、ヤーブレック。できたら、おれたちが嫌われ者にならないように努力しろ。また一年ほどしたら会おうぜ」
「おまえが生きてたらな」
「そっちもな」
「さっきの踊り、楽しかったわよ、ヴェラ」ポルガラがナドラクの女を抱擁した。
「光栄だよ、レディ」ヴェラはちょっとはずかしそうに答えた。「また会えるね」
「ええ、会えるわ」
「あんたのとほうもない言い値をもういっぺん考えてみる気はないのかい、ヤーブレックさん?」フェルデガーストがたずねた。
「そのことならあれに話せ」ヤーブレックはヴェラのほうへぐいと頭を倒した。「あの値段を決めたのはあいつなんだ」
「あんたは冷たい女だからな、おじょうさん」道化師はヴェラをなじった。
ヴェラは肩をすくめた。「安く買ったら、大切にしないだろ」
「そりゃそうだわな。大金を稼げるかどうかやってみよう、まちがいなくあんたをあっしのものにするつもりだよ、おじょうさん」
「見ててあげるよ」ヴェラはかすかな笑いを浮かべて答えた。
一行はたきびの輪を離れて、つないである馬たち――と、道化師のラバ――のところへ行き静かに馬にまたがった。月はすでに昇り、ヤーブレックの野営地をあとにして用心深いだくあしで北へ進みだしたときには、暖かいビロードのような宵の空に明るい宝石のような星が輝いていた。数時間後に太陽が昇ったとき、一行は数マイル進んでおり、手入れのいきとどいた街道をマル・ラクトのある北の方角へ向かっていた。マル・ラクトはラク川の南側にあるアンガラクの都市で、ラク川はヴェンナの南の国境にあたる。朝は暖かく、空は澄み、一行は順調に距離をかせいだ。
またしても道には避難民がたくさんいたが、きのうとちがい、かれらのほとんどは南へ向かって逃げていた。
「疫病が北にも広がったんでしょうかね?」サディが言った。
ポルガラは眉をひそめた。「かもしれないわね」
「むしろこの連中はメンガから逃げているとわしは思うね」ベルガラスが異議をとなえた。
「ここらへんでちょっとした混乱が起きそうだな」シルクが言った。「一方で疫病から逃げてくる連中がいて、もう一方で悪魔たちから逃げてくる連中がいる。このあたりの平原は避難民でこったがえすことになるぞ」
「わたしたちには願ってもない混乱よ、ケルダー」ヴェルヴェットが指摘した。「遅かれ早かれザカーズはわたしたちが内緒でマル・ゼスを出ていったことに気づくわ。そして部隊を送り出して、わたしたちを捜索させるでしょう。この近辺で避難民同士がぶつかりあえば、捜索を混乱させるのに役立つはずよ、そうじゃない?」
「なるほど」シルクは認めた。
ガリオンは馬の背でうとうとしていた。ベルガラスから学んだちょっとした小細工なのだ。これまでにもときどき夜に眠りそびれることはあったが、いつまでたっても睡眠不足には慣れることができなかった。ガリオンは頭を垂れ、周囲で起きていることをぼんやり意識した状態で馬にゆられていた。
ある執拗な物音が意識の端をつついているのが聞こえた。目をつぶったまま、眉をひそめて音の正体をつきとめようとした。やがて記憶がよみがえった。それは力ない絶望的な泣き声だった。マル・ゼスのみすぼらしい通りで子供が死にかけていた、あの無残な光景が襲いかかってきた。目をさまそうとしても、意識をふりほどくことができず、やむことのない泣き声がガリオンの心をしめつけた。
そのとき、大きな手が肩に置かれ、そっと自分を揺さぶるのを感じた。必死の思いで頭を起こしたガリオンは、巨人のトスの悲しそうな顔をまともにのぞきこんだ。
「きみもあれを聞いたのか?」ガリオンはきいた。
トスは同情に満ちた顔でうなずいた。
「あれはただの夢だったんだ、そうだろう?」
トスは肯定も否定もしない表情で、両手を広げた。
ガリオンは肩をそびやかして、鞍のなかで背すじを伸ばし、もううたたねをするのはよそうと決心した。
一行は道から少しはずれて、麦畑のまんなかにぽつんとある大きな楡の木蔭で、パンとチーズと薫製ソーセージの冷たい昼食をとった。そこからほど近いところに、苔むした岩に囲まれた小さな泉があったので、馬たちに水をやり、水袋をいっぱいにすることができた。
ベルガラスは畑に立って遠くの村と、そこへつづく障害物の置かれた小道を眺めた。「食糧はどのくらいある、ポル?」とたずねた。「この先、出くわす村の全部がこれまで通過してきた村のように出入りを禁じているとすると、食べ物を補充するのはむずかしいぞ」
「だいじょうぶよ、おとうさん」ポルガラは答えた。「ヴェラがずいぶん気前よくしてくれたわ」
「わたし、あの人が好きよ」セ・ネドラは微笑した。「たとえ四六時中悪態をついていてもね」
ポルガラがほほえみかえした。「あれがナドラク人なのよ、ディア。ガール・オグ・ナドラクにいたときは、人並に扱われるためにわたしも記憶をたどって父の語彙のなかでも、うんといかがわしい部分を頼りにしなければならなかったほどですもの」
「こんにちはあ!」だれかが呼びかけた。
「あっちだ」シルクが道のほうを指さした。
メルセネ人の官僚であることを示す茶色の裾の長い服をきた男が、栗毛の馬にまたがってものほしげにかれらを見ていた。
「なんの用だ?」ダーニクが怒鳴った。
「少し食べ物を分けてもらえないか?」メルセネ人は叫んだ。「このあたりの村には入れないし、三日も食べていない。金は払う」
ダーニクは物問いたげにポルガラを見た。
彼女はうなずいた。「食糧はたっぷりあるわ」
「どっちからきたのだろうな?」ベルガラスが言った。
「南ですよ、たぶん」シルクが答えた。
「うんと言ってやれ、ダーニク」老人は言った。「北の最新のニュースを何か教えてくれるかもしれん」
「こっちへこい」ダーニクは腹をすかせた男に叫んだ。
官僚は二十ヤードほど接近してきて、用心深く立ち止まった。「マル・ゼスからきたのか?」と問いつめた。
「疫病が広がる前に出発したよ」シルクが嘘をついた。
役人はためらった。「ここのこの岩の上に金をおく」男は白い丸石を指さした。「それからちょっとさがるから、そっちは金を取って、食べ物をおいてくれ。そうしたほうがどっちも危険を冒さずにすむ」
「筋は通ってるな」シルクは陽気に答えた。
ポルガラが黒パンと、チーズの大きな塊を鋭い顔のドラスニア人に渡した。
メルセネ人は馬をおりると、岩の上にコインを数枚おいて、馬をひいて少しあとずさった。
「どこからきたんだ?」シルクは岩に近づきながらたずねた。
「カタコールのアッカドにいたんだよ」腹ぺこの男はパンとチーズに目を釘づけにして答えた。「公共労働省の上級役人だったんだ――ほら、塀だの水道だの通りだのの建設を監督する仕事だ。わいろの額はたかが知れてたが、なんとかうまくやっていた。とにかく、メンガとやつの悪魔たちがアッカドを制圧するほんの数時間前に逃げてきたんだ」
シルクは岩の上に食べ物をおいて、金をつかんだ。それから後退した。「アッカドはしばらく前に陥落したと聞いてるぞ」
メルセネ人は駆け寄るようにして岩に近づくと、パンとチーズをわしづかみにした。チーズにかぶりつきながら、パンをひきむしった。「山のなかに隠れていたんだ」男は口いっぱいにほおばりながら答えた。
「アッカドといえば、アシャバがあるところじゃないか?」シルクはいかにもさりげなくたずねた。
メルセネ人は食べ物をのみくだしてこっくりした。「だからついに出てきたんだよ」口にパンをつめこみながら言った。「あの場所は大型の野犬がうようよしているんだ――馬ぐらいあるおそろしい獣さ――しかもカランド人の集団がうろついていて、出会った者をかたっぱしから殺している。わたしは犬にもカランド人たちにも出くわさずにすんだが、アシャバではなにか恐ろしいことが進行している。夜になると、城から身の毛のよだつ音が聞こえて、城の上空に奇怪な光があらわれるんだ。怪談は大嫌いなんでね、逃げてきた」メルセネ人はしあわせそうにためいきをついて、パンをまた食いちぎった。「一ヵ月前なら黒パンとチーズなんかには目もくれなかっただろうが、今は大ごちそうを食べている気分だ」
「飢えは最高の調味料だよ」シルクが古い格言を引用した。
「まったくだ」
「なんでヴェンナにとどまらなかったんだ? マル・ゼスに疫病が広がってるのを知らなかったのか?」
メルセネ人はみぶるいした。「ヴェンナで起きていることは、カタコールやマル・ゼスで進行していることよりもっとひどいんだ。今度のことでわたしはすっかり神経がまいってしまったよ。わたしは一介の建築家だ。悪魔だの新しい神々だの魔法だのについて何を知っているというんだね? 舗装用の石や材木や漆喰やそこそこの賄賂の話ならいくらでもつきあうが、その他のああいったたわごとは聞くだけでみぶるいがでる」
「新しい神々だって?」シルクはたずねた。「だれが新しい神々について話しているんだ?」
「チャンディムさ。連中のことを知らないのか?」
「やつらならトラクの弟子ウルヴォンに従属してるんじゃないのか?」
「いまはだれにも従属していないと思うね。チャンディムはヴェンナで狂暴のかぎりを尽くした。もう一ヵ月以上だれもウルヴォンを見ていない――マル・ヤスカの人々さえもだ。チャンディムはすっかり野放しになってる。連中は野原のまんなかに祭壇を作って、一度にふたつのいけにえをささげている――ひとつめの心臓はトラクに、そしてふたつめの心臓はこの新しいアンガラクの神にだ――ふたつの祭壇にお辞儀をしない者はだれかれかまわずその場で心臓をえぐりだされる」
「ヴェンナに長居したくなかったのも道理だな」シルクは皮肉っぽく言った。「その新しい神に連中は名前をつけてるのか?」
「わたしが聞いたかぎりでは名前はない。ただこう呼んでいるよ、トラクに代わり、〈神をほふる者〉におそるべき復讐を果たすアンガラクの新しい神≠ニね」
「〈神をほふる者〉といったら、あなたのことですわ」ヴェルヴェットがガリオンにつぶやいた。
「気になるのか?」
「知っておいでになったほうがいいと思っただけです」
「ヴェンナではおおっぴらな戦いが行なわれているんだ」メルセネ人はつづけた。「あそこにはあまり近づかないほうがいいよ」
「戦い?」
「教会の内部でね。チャンディムは古いグロリムたち――つまりあいかわらずトラクに忠実な連中を虐殺しているんだ。神殿の護衛たちはグロリム側について、ヴェンナの平原で激戦をくりひろげている――そのときから連中は田園一帯を略奪し、農家に火を放ち、すべての村をめちゃくちゃにしている。ヴェンナ全体が狂気にとりつかれたようなものさ。いまあそこで生き延びるのはまさに命がけのことなんだよ。連中はだれかれかまわずどっちの神を崇拝するかを問いかけてくる。答えがまちがっていたら、一巻の終わりだ」メルセネ人はまだ口をもぐもぐさせながら、言葉を切った。「静かで安全な場所をどこか知らないか?」すがるようにたずねた。
「海岸をあたってみろよ」シルクは言った。「マル・アバドか、マル・カマトあたりを」
「あんたたちはどっちへ行く?」
「おれたちは北にある川へ向かい、ペン・ダカ湖へ連れていってくれる船を見つけられるかどうかやってみるんだ」
「あそこもそういつまでも安全じゃないぞ。疫病の心配はないとしても、メンガの悪魔どもがやってくる――あるいは狂ったグロリムと護衛たちがヴェンナから逃げてくるかだ」
「滞在する予定はないよ」シルクは言った。「急いでデルチンを横断してマガ・レンへ行き、そこからマガンへ向かうんだ」
「それは長旅だ」
「疫病と狂ったグロリムどもから逃げるためなら、ガンダハールへだって行くさ。最悪の事態になったら、象飼いたちのあいだにまぎれこむ。象ってのはそういやな動物じゃないからな」
メルセネ人はちょっとだけ微笑した。「食べ物をありがとう」残ったパンとチーズを服のなかにしまいこむと、草を食んでいる馬をさがしてきょろきょろした。「ガンダハールへついたら、幸運を祈るよ」
「あんたも無事海岸地方にたどりつけるようにな」
一行は馬で遠ざかっていくメルセネ人を見送った。
「どうしてお金をとったの、ケルダー?」エリオンドがおもしろそうにたずねた。「食べ物をあげるだけなのかと思った」
「思いがけない不可解な慈善行為ってやつは、相手に強い印象を植え付けるものなんだ、エリオンド、すると好奇心が感謝に勝つ。おれが金を取ったのは、あしたになってあのメルセネ人がおれたちの人相風体をせんさく好きな兵士たちに説明することにならないようにさ」
「ああ」少年はちょっと悲しそうに言った。「物事がそんなふうなのは悲しいことですよね」
「サディが言うように、おれが世界を創ったわけじゃない。おれはそこで生きようとしてるだけだ」
「さて、おまえはどう思う?」ベルガラスは道化師に言った。
フェルデガーストは地平線の方角を目をすがめて眺めた。「どうしてもヴェンナのどまんなかを通って行くんですかい――マル・ヤスカを通過して?」
「そうするしかないのだ。アシャバへたどりつくにはぎりぎりの時間しかない」
「そう考えるんじゃないかと思った」
「アシャバへ行く方法を知っとるのか?」
フェルデガーストは頭をかいた。「危険な方法ですよ、ご老体」疑わしげに言った。「グロリムやらチャンディムやら神殿の護衛やらがいるんだから」
「アシャバでの対決を逃すことにくらべれば、何が危険なものか」
「ま、どうしてもとおっしゃるなら、なんとかしますがね」
「よし」ベルガラスは言った。「では出発だ」
前の日ガリオンの心に芽生えていた不審がいちだんと深まった。どうしてろくに知りもしない相手に祖父はこんな質問をするのだろう? 考えれば考えるほど、目には見えない多くのことがひそかに起きているのだと思えてならなかった。
[#改ページ]
2
ぬかるんだ川の土手にうずくまる陰気な要塞都市マル・ラクトについたのは、午後も遅くなってからだった。高い城壁の内側には、黒い塔がいくつもそびえている。城壁の外側にはおびただしい数の人々が集まって、中へ入れろと市民に頼んでいたが、門は閉鎖されており、胸壁には弓矢をかまえた射手たちが並んで眼下の難民たちを威嚇していた。
「問題はああいう応対だよ、そうだろう?」おびえた都市からやや離れた丘の頂上で手綱を引いて、ガリオンはつぶやいた。
ベルガラスは不服そうだった。「だいたい予想どおりだな。いずれにせよ、マル・ラクトには用事はないんだから、意見を言ったところでしかたあるまい」
「しかし、どうやって川を渡るつもりだい?」
「あっしの記憶が正しけりゃ、ほんの数マイル上流に渡し船があるんでさ」フェルデガーストがみんなに言った。
「渡し守もあの都市にいる人たちのように疫病をこわがるんじゃないかね?」ダーニクが道化師にきいた。
「牡牛が引く渡し船なんで、善人さん――船の両側に牡牛が二頭ずつついて、ロープと滑車で引っ張るんだ。渡し守は金を取って、あっしらから五十ヤード離れたままで、ちゃあんと向こう岸にあっしらを渡せるわけだ。しかしね、船賃はえらく高くつきますぜ」
行ってみると、渡し船というのは、黄土色に濁った川の向こう岸まで伸びる太いロープにつながれたおんぼろのはしけだった。
「こっちにくるな!」一行が近づいていくと、泥まみれの男が怒鳴った。男は手前の先導役の牡牛の首のロープをつかんでいる。「おまえらのけがらわしい病気をうつされちゃたまらん」
「向こう岸までいくらだ?」シルクが呼びかけた。
泥だらけの男は欲深そうに目を細めて一行を眺め、かれらの服装や馬たちを値踏みした。「ひとり金貨一枚だ」きっぱりと言った。
「むちゃくちゃじゃないか!」
「いやなら、泳いでみるんだな」
「払ってやれ」ベルガラスが言った。
「いやですね」シルクは答えた。「足元を見られるのはまっぴらだ――たとえこういう場所でもね。ちょっと考えさせてください」やせて尖った顔が真剣になり、シルクはごうつくばりの渡し守をじっと見つめた。「ダーニク」考えこみながら言った。「そこにあんたの斧を持ってるか?」
鍛冶屋はうなずいて、鞍のうしろの輪にぶらさげてある斧をたたいた。
「ちょっと考え直せないか、え?」小柄なドラスニア人は嘆願口調で渡し守に呼びかけた。
「ひとり金貨一枚だ」渡し守は強情に繰り返した。
シルクはためいきをついた。「まず船を見せてもらえないか? おれにはそれほどの大金に値するような安全な乗り物に見えないんでね」
「勝手にしな――だが、払ってもらうまでは絶対動かさねえよ」
シルクはダーニクを見た。「斧を持ってきてくれ」
ダーニクは馬をおりて、輪から刃の広い斧をはずした。それからふたりははしけのところまで、すべりやすい土手をおりた。傾斜した渡し板を渡って、甲板に立った。シルクは試しに床板の上で足踏みした。「いい船だ」かれは渡し守に言った。渡し守は用心深く少し離れて立っている。「値段を考え直す気は本当にないのか?」
「ひとり金貨一枚だ。払うかあきらめるかだな」
シルクはためいきをもらした。「そう出るんじゃないかと思ったんだ」かれは片足で泥だらけの甲板をこすった。「船のことはおれよりあんたのほうがよく知ってるだろう。なあ、ここにいるおれの友だちが底に穴をあけたら、このぶかっこうなしろものが沈むのにどのくらいかかると思う?」
渡し守はだらしなく口をあけてシルクを凝視した。
「へさきの甲板へ出ようや、ダーニク」シルクは陽気にほのめかした。「おもいきりそいつをふるうには、広い場所がいるだろう」
渡し守はあわてふためいて、棒をつかむと、土手をかけおりてきた。
「用心しろよ、おい」シルクは言った。「おれたちはほんのきのうマル・ゼスを出てきたんだ。それに早くもおれはちょっと熱っぽい――きっと何か食べ物のせいだな」
渡し守は凍りついたように立ち止まった。
ダーニクはにやにやしながらはしけの前部の甲板をこじあけはじめた。
「このおれの友だちはプロの木こりなんだ」シルクはくつろいだ口調でつづけた。「この斧は、だからものすごく鋭い。こいつならものの十分で、この船を川底に沈めることができるぞ」
「船倉が見えてきた」ダーニクが親指で斧の切れ味をためしながら報告した。「どのくらいの穴がいいんだ?」
「さあ、わからないよ、ダーニク――一ヤード四方くらいかな。それぐらいなら沈むか?」
「どうだかな。やってみようか?」ダーニクは短い上着の袖をまくりあげると、二度斧をふるった。
渡し守がくびり殺されるような声をあげて、ぴょんぴょんとびはねた。
「ここらで交渉しないか?」シルクはたずねた。「お互い妥協点に到達できるのはまずまちがいないぜ――あんたもこれで状況がじゅうぶん理解できただろうからな」
一行が川を半分渡り、はしけがもがくように流れを進んでいたとき、ダーニクがへさきへ歩いていき自分が甲板をこじあけて作った穴をのぞきこんだ。「どのくらい大きな穴だと、こいつは沈むのかな」鍛冶屋はひとりごとを言った。
「なんですって、ディア?」ポルガラがたずねた。
「考えごとをしていただけだよ、ポル。だが、どうなんだろう、たったいま気づいたんだが、わたしはこれまで一度も船を沈めたことがないんだ」
ポルガラは空を仰いで、ためいきをもらした。「これですもの、男は」
「馬たちを向こう岸におろせるように、船板をもとどおりにしたほうがよさそうだな」ダーニクは残念そうに言った。
その晩は川のそばの杉木立の蔭にテントを張った。マロリーに到着して以来ずっと晴れて穏やかだった空が、日が沈むと不吉な色に変わっていた。西のほうでは、雷鳴がひびき、雲間に稲妻が一瞬光った。
夕食後、木立を出てようすを見に行ったダーニクとトスは、浮かぬ顔で戻ってきた。「しばらく悪天候に悩まされそうだぞ」鍛冶屋は報告した。「嵐が接近してくる匂いがする」
「雨のなかで馬に乗るのは大嫌いなんだ」シルクが不平をもらした。
「たいがいの人間はそうでさ、ケルダー王子」フェルデガーストが言った。「だが、天気が悪いと他人もうちにひっこんでるはずだ、そうでしょうが。で、きょうの午後あの腹ぺこの旅人があっしらに言ったことがほんとなら、おてんとさまが出てれば、ヴェンナにはやな[#「やな」に傍点]やつらがうようよしてるわけだ。そういうやつらには、あっしらとしちゃ会いたくないですわな」
「チャンディムのことを言ってるんですよ」サディが眉をひそめた。「正確なところ、どういう連中なんですか?」
「チャンディムというのはグロリム教会内部の結社なのだ」ベルガラスが説明した。「トラクがクトル・ミシュラクを建てたとき、かれは一部のグロリムたちを猟犬に変えて都市を巡回させた。ボー・ミンブルの後、トラクが眠りに拘束されると、ウルヴォンが猟犬にされていたグロリムのほぼ半数をふたたび元の姿に戻した。人間の姿をとりもどしたグロリムたちは、程度の差こそあれ、全員が才能ある魔術師でな、まだ猟犬のままでいる仲間たちと意志を通わせることができるのだ。かれらは異常に緊密な関係を保っている――ちょうど野犬の群れのように――そしてウルヴォンに狂信的なまでに忠義を尽くしているのだ」
「で、それがウルヴォンの力の源になってるわけだわな」フェルデガーストがつけくわえた。「ふつうのグロリムたちはいつも互いを蹴落とし、自分より位の高い連中を蹴落とすことにきゅうきゅうとしてるのに、ウルヴォンのチャンディムだけは、もう五百年もマロリーのグロリムを団結させてるんだ」
「すると、神殿の護衛たちはどうなんです?」サディがきいた。「かれらもチャンディム、つまりグロリムなんですか?」
「ふつうはちがう」ベルガラスが答えた。「もちろん、護衛たちのなかにはプロリムもいるが、ほとんどはマロリーのアンガラク人たちだ。ボー・ミンブル以前にトラクの個人的な護衛役として徴兵された連中だ」
「どうして神に護衛が要るんです?」
「それについては、わしにもついぞわからなかった」老人は認めた。「とにかく、ボー・ミンブルのあとも、そういう連中の何人かが残っているのだ――先の戦闘で負傷した新兵や老兵たちは故郷へ送りかえされたり、なんだりしたわけだがね。ウルヴォンは残った連中を説得して自分がトラクの代弁者であると思いこませた。いまかれらはウルヴォンに忠誠を誓っている。その後、かれらは階級の穴埋めに、若いアンガラク人をもっと徴兵した。だが、いまやかれらは単なる神殿の護衛ではなくなっている。ウルヴォンはマル・ゼスで皇帝たちといさかいを起こしはじめたとき、戦力の必要性を痛感して、神殿の護衛を軍隊に拡張したのだ」
「実利的取り決めですわな」フェルデガーストが指摘した。「チャンディムはウルヴォンにかれが他のグロリムどもを統制するのに必要だった魔術を提供し、神殿の護衛は庶民の反抗を抑え込む力を提供したってわけだ」
「すると、その護衛たちはただの兵隊なんですか?」ダーニクがたずねた。
「そうではない。騎士に近いのだ」ベルガラスが答えた。
「マンドラレンのような? つまり――全身を鎧兜でかため、楯やら槍やらを持ち、軍馬にまたがってるような騎士ですか?」
「ちがいますって、善人さん」フェルデガーストが答えた。「そんなにりっぱじゃない。槍や兜や楯はたしかに持ってるが、あとは鎖かたびらだけさ。しかしね、アレンド人に負けず劣らずのまぬけなんだ。そういう鋼やらなにやらを身につけてると、世界中どこの騎士でも頭がからっぽになる」
ベルガラスは考えこむようにガリオンを見ていた。「血が騒ぐだろう?」
「べつに――どうして?」
「ここにひとつちょっとした問題があるのだ。わしらが出くわすのは、チャンディムより護衛である可能性のほうがはるかに大きい。が、わしらが意識を使ってブリキの男たちを落馬させはじめたら、すさまじい音がして、のろしよろしくチャンディムの注意をひきつけてしまうだろう」
ガリオンは祖父をにらみつけた。「じょうだんじゃない! ぼくはマンドラレンじゃないんだぜ、おじいさん」
「ちがうとも。おまえのほうがかれよりずっと分別がある」
「わたしの騎士が侮辱されるのを黙って聞いてるわけにはいかないわ!」セ・ネドラがいきまいた。
「セ・ネドラ」ベルガラスはほとんどうわの空で言った。「おだまり」
「おだまりですって?」
「聞こえただろう」こわい顔で老人がにらみつけたので、セ・ネドラはあわててポルガラのうしろに逃げ込んだ。「問題はだ、ガリオン」老人はつづけた。「おまえがこの種のことでマンドラレンからかなりの手ほどきを受けており、おまえにはなにがしかの経験があるということなのだ。わしらのだれもそんな経験はない」
「武器がないよ」
「鎖かたびらがある」
「兜がない――楯もだ」
「それはわたしがなんとかするよ、ガリオン」ダーニクが申し出た。
ガリオンは古い友だちを見て、言った。「あんたにはすっかり失望したよ、ダーニク」
「こわいんじゃないでしょうね、ガリオン?」セ・ネドラが小さな声できいた。
「そうじゃない。こわかないさ。ただあまりにもばかげてるからだ――滑稽すぎるよ」
「古くなったなべを借りられるかい、ポル?」ダーニクがたずねた。
「どのくらい大きなおなべ?」
「ガリオンの頭がはいるぐらいのだ」
「いいかげんにしてくれ!」ガリオンはわめいた。「だれが兜のかわりに台所なべをかぶったりするものか。そんなことをしたのは子供のときだけだ」
「うまく修正するよ」ダーニクが断言した。「そのあと、蓋で楯を作ってあげよう」
ガリオンは悪態をつきながら歩き去った。
ヴェルヴェットの目がいぶかしげに細められていた。彼女はにこりともせずにフェルデガーストを見つめた。「ねえ、道化師さん。道端の居酒屋で小銭のために芸をするどさ回りの芸人が、マロリーのグロリム社会の内部組織にどうしてそんなに詳しいの?」
「あっしは見かけほどばかじゃないんでさ、おじょうさん」フェルデガーストは答えた。「目も耳もちゃんとついてるし、その使いかたも知ってるしね」
「うまくはぐらかしたな」ベルガラスがおだてた。
道化師はにやにやした。「自分でもそう思ったよ。さてと」フェルデガーストは真顔になってつづけた。「ここにいるあっしの古い友人の言うように、雨がふったらあっしらがチャンディムに出くわす見込みはあんまりない。ていうのは、犬ってやつはたいてい天気が悪いと犬小屋から出てこないだけの分別を持ってるからなんだ――よっぽど外へ出る必要でもないかぎりは。だから、神殿の護衛たちに会う可能性のほうがうんと高い。アレンド人だろうがマロリー人だろうが、騎士ってのは鎧兜にあたるやさしい雨音がてんで聞こえないらしいからね。出くわす護衛がひとりなら、そこにおいでの若い王さまがやられちまう気づかいはありゃしないが、集団に出くわすことだってある。そうなったら、油断しないことだね、騎士ってのはいったん突進してきたらすぐに向きを変えられないってことを忘れないようにすりゃいい。身をかわして、後頭部をガツンとやりゃ、たいがい鞍から転げ落ちるし、鎧兜を着たやつは――馬から落っこっちまえば――裏返しにされたカメみたいなもんだからね、そうでしょうが」
「何度かやったことがあるらしいね」サディがつぶやいた。
「神殿の護衛たちと意見がくいちがったことがあったんですわ」フェルデガーストは認めた。「お気づきでしょうがね、あっしがここにいるのはその誤解について話すためなんでさ」
ダーニクはポルガラがくれた鋳鉄製のなべを持って、たきびのまんなかにそれを置いた。しばらくすると、真っ赤になったなべを丈夫な棒で火からはずし、折れたナイフの刃を丸い岩の上にのせ、なべをその上におろした。斧を手にとり、上下をさかさまにして、太い柄をなべの上にふりかざした。
「壊れちまうぜ」シルクが知ったふうに言った。「鋳鉄のなべはもろいからな、たたいたりしたらひとたまりもない」
「信用してください、シルク」鍛冶屋は片目をつぶってみせた。かれは深呼吸をして、なべを軽くたたきはじめた。ダーニクがなべをたたく音は鋳鉄の鈍いガチンという音ではなく、鋼の澄んだひびきだった。ガリオンは幼い子供のころを思いだした。鍛冶屋は手際よくなべを変形させて、てっぺんが平らで、攻撃的な鼻当てと丈夫な面頬のついた兜を作っていった。ガリオンはその昔ながらの友だちがちょっとだけずるをしているのに気づいた。できあがってくる兜にダーニクがかすかなささやきと、うねりを向けているのを感じたからだ。
やがてダーニクはバケツの水に兜をつけた。ジューッとものすごい音がして、蒸気がもうもうとあがった。ところが、鍛冶屋が楯に作り変えようとしたなべの蓋は、かれの不正に挑戦した。身を守るのに必要な大きさにしようと、鍛冶屋が蓋をたたくうちに、極端に厚みが薄くなってしまうのがあきらかになったのだ。それでは槍や剣の一撃はおろか、短剣をかわすこともできない。蓋をがんがんたたきながら、ダーニクは考えた。かれは斧をおろして、トスにあいまいな身ぶりをした。大男はうなずいて、川の土手に行き、バケツ一杯の土を運んでくると、真っ赤に焼けた楯のまんなかにバケツをあけた。ジュウジュウいやな音がし、ダーニクはふたたび斧をとりあげてたたきつづけた。
「あの――ダーニク」相手が気を悪くしないように努力しながら、ガリオンは言った。「陶器の楯っていうのは、ぼくが考えてたのとちょっとちがうんだけど」
ダーニクは笑いだしたいのをこらえているような顔を向けて、斧をふるうテンポを変えずに言った。「まあ見ててごらん、ガリオン」
楯を見つめていたガリオンの目がいきなりまんまるになった。ダーニクがたたいている真っ赤に焼けた円形の部分が、堅牢な鮮紅色の鋼になっている。「どうやってやったんだ?」
「変性だわ!」ポルガラが息をのんだ。「ある物を別の物に変える術よ! ダーニク、いったいどこでそんな術を身につけたの?」
「自然におぼえたんだよ、ポル」ダーニクは笑った。「はじめに小さな鋼を――あの古いナイフの刃のような――持っていれば、手近にある物――鋳鉄でも土でもなんでもいい――からほとんどどんなものでも作れるよ」
セ・ネドラの目がきゅうに大きくなった。「ダーニク」うやうやしいといってもいいような小声で彼女は言った。「金で楯を作れる?」
ダーニクはあいかわらず蓋をたたきながら、考えた。「できると思う。だが、金は重すぎるし、丈夫な楯を作るには柔らかすぎるんじゃないかな」
「もうひとつ作ってくださらない?」セ・ネドラは甘えた声を出した。「わたしのために? そんなに大きくなくていいの――ふつうのでいいのよ。お願い、ダーニク」
真っ赤な火花を散らし、音楽的なひびきで鋼と鋼をぶつけながら、ダーニクは楯のふちを完成させた。「いい考えとはいえないね、セ・ネドラ」かれは言った。「金が貴重なのは数が少ないからなんだ。わたしが土から金を作りはじめたら、遠からず金にはなんの価値もなくなってしまうよ。わかるだろう」
「でも――」
「だめだよ、セ・ネドラ」ダーニクはきっぱり言った。
「ガリオン――」セ・ネドラはうらみがましい声で訴えた。
「ダーニクの言うとおりだ、ディア」
「だけど――」
「やめるんだ、セ・ネドラ」
たきびは消えて、赤い燃えさしだけになっていた。ガリオンはびくっとして目をさまし、いきなり起き上がった。汗をびっしょりかき、体が激しくふるえている。前日聞いたあの力ない泣き声をまた聞いたのだ。その声が胸をしめつけた。かれは長いこと起きたまま燃えさしを見つめていた。やがて汗は乾き、体のふるえも静まった。
となりに寝ているセ・ネドラは規則正しい寝息をたてている。外気から遮断されたかれらのテントのなかは、静まりかえっている。ガリオンはそっと毛布の外へころげでると、杉木立の端まで歩いていき、墨を流したような空の下の暗い無人の田畑をじっとながめた。それから、ほかにすることもなかったので、ふたたび引き返し、明け方まで断続的に眠った。
目がさめると、霧雨がふっていた。そっと起き上がってテントの外で火を起こしているダーニクに近づいた。「斧を貸してもらえるかい?」ガリオンは友だちにたずねた。
ダーニクはガリオンを見上げた。
「あれのほかに槍が必要になるだろうと思ってね」荷物と鞍のそばの鎖かたびらの上にのせてある、兜と楯をガリオンはいやそうに眺めた。
「ああ」鍛冶屋は言った。「もうちょっとで忘れるところだった。一本でたりるかな? みんなときどき槍を折るだろう、ほら――すくなくともマンドラレンはいつも折っていた」
「一本でたくさんだよ」ガリオンは肩ごしに親指で剣の柄をぐいと突いた。「どうせ、このでっかいナイフは利用するために持ってるんだ」
夜明け前からふっていた冷たい霧雨で、近くの田畑がぼんやりとかすんでいた。朝食をすませたあと、一行は荷物のなかからぶあつい外套をひっぱりだして、悪天候にそなえた。すでに鎖かたびらをきていたガリオンは、兜のなかに着古したチュニックをつめて頭にかぶった。鎖かたびらを鳴らしてクレティエンヌに鞍をつけながら、なんだかばかばかしい気がした。鎖かたびらは早くも金臭いいやなにおいをさせており、どういうわけか、雨のしょぼふる朝の冷気を吸収しているように思えた。作ったばかりの槍と、丸い楯を見て、ガリオンは言った。「かっこ悪いな」
「楯を鞍の前弓からぶらさげるんだ、ガリオン」ダーニクが言った。「そして槍の太いほうの端を足の横のあぶみにつっこめばいい。マンドラレンはそうやってるよ」
「やってみよう」ガリオンは鎖かたびらの重みでもう汗をかきながら、鞍にまたがった。ダーニクが楯を渡してくれたので、鞍の前弓にその紐をひっかけた。次に槍をつかんで、端をあぶみにつっこみながら、爪先を丸めた。
「槍はつかんでなけりゃだめだよ」鍛冶屋が言った。「ひとりじゃ直立できないんだから」
ガリオンはぶつくさ言うと、槍の柄を右手でつかんだ。
「とってもりっぱよ、ディア」セ・ネドラが受け合った。
「けっこうだね」ガリオンはそっけなく答えた。
一行は杉木立から、ぬれたみじめな朝のなかへ出た。先頭に立つガリオンは戦争に出かけるようないでたちがはずかしくてたまらなかった。
たちまちわかったのは、ともすれば槍があぶみからずりおちて地面につきそうになるということだった。バランスの中心点を見つけるまで、ガリオンは槍を握っている手を上のほうへずらしていった。槍の柄に雨滴がついて、ぬれた手を伝わり、袖のなかへしたたり落ちた。いくらも行かないうちに、肘から雨水がぽたぽたと落ちはじめた。「これじゃ雨樋だよ」ガリオンはぶつぶつ言った。
「ペースをあげよう」ベルガラスがガリオンに言った。「アシャバまでは長い道のりだし、時間もあまりない」
ガリオンがかかとでクレティエンヌを小突くと、大きな灰色の馬ははじめはだく足で、やがてなめらかな駆け足で走りだした。どういうわけか、ガリオンはいくらかばかばかしさから救われた気がした。
前の晩にフェルデガーストがみんなに説明した道は、往来もまばらで、今朝はまったく人気《ひとけ》がなかった。見捨てられた農場がいくつも両側に建っていた。どの農家も、わらぶき屋根の残骸を乗せたイバラのからみついた哀れな骨組みだけになって倒壊している。そのうちのいくつかは、つい最近焼け落ちていた。
たえまなくふる雨を地面が吸い込むにつれて、道はぬかるみはじめた。駆け足で行く馬たちのひづめが、動物の脚や腹に泥をはねとばし、乗り手のブーツや外套にまではねをとばした。
尖った顔に油断のない表情を浮かべてガリオンと並んで進んでいたシルクは、丘の頂上に一行がさしかかるたびに、前に駆けだしていって、前方に横たわる浅い谷にすばやい視線を走らせた。
朝の九時ごろには、ガリオンは全身ずぶぬれになって不快感と新しい錆の臭いに耐えながら、雨がやむことを切に願っていた。
前方を偵察していたシルクが丘からおりてきた。顔に緊張がみなぎっている。かれは全員に身振りで停止を命じた。
「あっちにグロリムどもがいる」簡潔に報告した。
「何人だ?」ベルガラスがきいた。
「二十四人ぐらいですね。なにか宗教的儀式をおこなってます」
老人はぶつぶつ言った。「ちょっと見てみよう」かれはガリオンを見た。「槍はダーニクに持っててもらえ。長すぎて目だつ。注意をひきたくない」
ガリオンはうなずいて槍を鍛冶屋に渡すと、シルク、ベルガラス、フェルデガーストにつづいて丘をのぼった。頂上の少し手前で馬をおり、用心深くてっぺんまで移動した。隠れるのにちょうどいい灌木の茂みがあった。
丘をくだった少し先で、黒装束のグロリムたちが陰気なふたつの祭壇の前で、ぬれた草むらにひざまずいている。それぞれの祭壇の上には、ぴくりともしない人影が横たえられ、おびただしい血が流れていた。ふたつの祭壇の端にはばちばちと音をたてる火鉢がおかれ、黒い煙の柱が二本、霧雨のなかへたちのぼっている。グロリムたちは、これまでガリオンがいやというほど耳にしてきたあのよくひびくうめきにも似た声で詠唱していた。何と言っているのかはよくわからない。
「チャンディムか?」ベルガラスが道化師に小声でたずねた。
「はっきりとはわからないね、ご老体」フェルデガーストは答えた。「ふたつの祭壇からすると、チャンディムらしいが、あのしきたりが広まったとも考えられるわな。グロリムたちは教会の政策の変化に慣れるのが早いからね。だが、チャンディムだろうがなかろうが、あいつらを避けるにこしたことはないよ。グロリムたちといきあたりばったりにごぜりあいをしたって、いいことなんかひとつもありゃしない」
「谷の東側に木立があるんだ」シルクが指差しながら言った。「そこにいれば、見られないですむ」
ベルガラスがうなずいた。
「どのくらいああやって祈ってるのかな?」ガリオンがきいた。
「せいぜいあと三十分でさ」フェルデガーストが答えた。
ガリオンは一対の祭壇を見つめた。冷たい怒りがわきあがってきた。「ちょっとあそこへ出ていって、やつらの儀式をめちゃくちゃにしてやりたいよ」
「忘れろ」ベルガラスが言った。「悪を正すためにここにいるわけじゃないんだ。みんなのところへ引き返すとしよう。連中が祈りを終わらせないうちに、移動したい」
一行は浅い谷の東のへりにそって曲がりくねる、ぬれそぼった帯状の木立を用心深く進み、陰惨な儀式をおこなっているグロリムたちが一マイルほど後方に遠ざかったころ、ふたたび泥道に戻った。そこからもう一度ガリオンが先頭となって、猛スピードで出発した。
グロリムたちがふたりの不幸な農夫をいけにえに捧げていた村から何マイルもきたとき、もうもうたる黒煙をあげて炎上する村にさしかかった。人影はなかったが、燃え上がる家々の近くで争っているような気配があった。
一行はたちどまらずに進みつづけた。
雨は午後三時ごろにはあがったが、空はあいかわらず暗かった。なだらかに起伏する田園の丘をまたひとつのぼりつめたとき、谷の向こう側に馬にまたがった人影が見えた。相当距離が離れていたので、こまかいところまではわからなかったが、ガリオンはその人影が槍で武装しているのを見分けることができた。
「どうする?」ガリオンは肩ごしにうしろにいる全員に呼びかけた。
「こういうときのために、おまえは兜をつけて槍を持っておるんだぞ、ガリオン」ベルガラスが答えた。
「せめてわきへよけるチャンスぐらい与えてやってもいいんだろう?」
「なんのためです?」フェルデガーストがきいた。「どきゃしませんて。槍と楯を持ってここにおいでのあなたの存在そのものが、挑戦なんだからね、あっちが拒むわけがない。引き倒しちまいなさい、お若い王様。ぼやぼやしてたら、日が暮れちまう、そうでしょうが」
「わかったよ」ガリオンはむっつりと言った。留め金で楯を左腕にしばりつけ、兜をちゃんとかぶりなおすと、あぶみから槍の太い端をひきぬいた。クレティエンヌは早くも前脚で地面をひっかき、いどむような鼻息をたてている。
「うずうずしてるんだな」ガリオンは馬にささやきかけた。「ようし、それじゃ行こう」
大きな灰色の馬は地鳴りをたてて突進した。必ずしも駆け足ではなく、かといってしゃにむにつっぱしるというのでもなくて、情け容赦のないその足取りは、挑戦としか呼びようのないものだった。
谷の向こうの武装した男は、挑戦も威嚇も、ましてや侮辱もされたことのない場所で、いきなり攻撃を受けることにややびっくりしたようだった。装備をちょっとまさぐったあと、男はなんとか楯をかまえ、槍をもちあげた。ばかに図体の大きな男のように見えたが、それは鎧兜のせいだったのかもしれない。男の鎖かたびらは膝まであった。兜は丸く、ひさしがついており、腰には巨大な剣を鞘ごとさしている。がちゃがちゃと音をたててひさしをおろすと、男は拍車で馬の脇腹を蹴り、同じように突進してきた。
ガリオンは槍を低くかまえて敵に狙いをさだめ、楯のうしろに身を隠してクレティエンヌを走らせた。道の片側のぬれた田畑がにじんで見えた。マンドラレンがそういう姿勢をとるのを何度も見ていたので、基本的なことはのみこんでいた。ガリオンと相手の距離がみるみるちぢまり、敵の馬のひづめがはねとばす泥がはっきり見えた。両者がぶつかる寸前、ガリオンはマンドラレンに教わったとおり、あぶみにたちあがり、衝撃にそなえて全身を乗り出して、相手の楯のどまんなかに槍を慎重に狙いさだめた。
ガチャンというおそるべき衝突の衝撃を感じたかと思うと、ガリオンの周囲に相手の槍がくだけちった。しかしかれ自身の槍は、丈夫さの点では相手の槍と大差なかったものの、杉の木製であるおかげでよくしなった。それはひきしぼられた弓よろしく半円形に曲がり、ふたたびまっすぐに戻った。おどろいた相手はいきなり鞍からもちあげられた。護衛の体は優雅な弧を描いて宙を舞い、まっさかさまに道のまんなかに落下した。
ひづめの音も高く走りさったガリオンはようやく大きな灰色の馬の手綱を引き、回れ右をして止まった。敵は道のぬかるみに仰向けに倒れていた。ぴくりとも動かない。ガリオンは慎重に槍をかまえて、衝突地点までクレティエンヌをゆっくり歩かせた。
「だいじょうぶか?」ガリオンはぬかるみに倒れている神殿の護衛に声をかけた。
返事はなかった。
用心深く馬をおり、槍を離して〈鉄拳〉の剣を抜いた。「だいじょうぶかときいてるんだ」ガリオンはまた言った。片足をのばして、敵の体をつついた。
護衛のひさしが閉じていたので、ガリオンは剣の先をひさしの底にさしこんで持ち上げた。男は白目をむいていた。鼻からは血が吹き出している。
みんなが駆け足で近づいてきた。馬が止まるか止まらないかのうちに、セ・ネドラが鞍からとびおりて夫の腕にとびこんだ。「みごとだったわ、ガリオン! ほんとに!」
「まあまあだっただろう?」剣と楯と妻をいっぺんに扱おうとしながら、ガリオンはひかえめに答えた。やはり馬からおりてきたポルガラを見ながら、ガリオンはきいた。「この男、だいじょうぶだと思うかい、ポルおばさん? それほど痛めつけなかったつもりなんだけど」
ポルガラは道に倒れたままぴくりともしない男を調べた。「心配いらないわ、ディア。気絶しているだけよ」
「あざやかだったな」シルクが言った。
ガリオンは急ににやにやした。「あのさ、なんでマンドラレンがこういうのが好きなのかわかってきたよ。気分がスカッとするんだ」
「あっしは兜の重さと関係があるんだと思うね」フェルデガーストが痛ましげにベルガラスに言った。「あまりの重さで、脳みその汁気が全部出ちゃうんでさ」
「行こうか」ベルガラスが言った。
翌日の朝九時ごろには、トラクの弟子ウルヴォンの宮殿と、マロリーの教会都市マル・ヤスカのある広い盆地に入っていた。空はあいかわらずどんよりしていたが、雨は通過したあとで、突風がぬれた草むらを乾かし、道を進みにくくしているぬかるみもいくらか固まりかけていた。村のあちこちに野営場所ができていた。南の悪魔たちから逃げてきた人々と、北の疫病から逃げてきた人々が雨つゆをしのいでいるのだ。どのグループも隣りとは十分距離をおき、全員が武器を手元においている。
マル・ラクトの門とちがって、マル・ヤスカの門は大きく開いていたが、鎖かたびらを着た神殿の護衛たちが巡回していた。
「あの人たちはどうして都市にはいらないんだろう?」難民の群れを見ながら、ダーニクが言った。
「マル・ヤスカは積極的に訪問したくなるようなところじゃないんでさ、善人さん」フェルデガーストが答えた。「祭壇にのっけるいけにえをグロリムどもが捜してるときに、のこのこ出てくのは利口なやりかたじゃないからね」道化師はベルガラスを見た。「ひとつ提案があるんですがね、ご老体?」
「言ってみろ」
「あっちで何が起きてるか、あっしらは知る必要がありますわな」フェルデガーストは北の地平線にそびえている雪をいただいた山々を指さした。「あっしはマル・ヤスカのことはよく知ってるし、グロリムどもを避けるコツも知ってる。だから、一時間かそこら待ってちゃくれませんか。そのあいだにあっしが中央市場のあたりをうろついて、情報を仕入れてきますわ」
「もっともな提案ですよ、ベルガラス」シルクが真顔でうなずいた。「右も左もわからないまま、都市にはいるのはいやですからね」
ベルガラスは考えた。「よかろう」かれは道化師に言った。「だが、用心しろ――居酒屋に近寄るんじゃないぞ」
フェルデガーストはためいきをついた。「マル・ヤスカにゃそんな安息所はありゃしませんて、ベルガラス。あそこのグロリムどもはつましい喜びを頑として認めようとしないんだから」道化師はラバの手綱をゆすると、ウルヴォンの都市の黒い城壁めざして草原を横切っていった。
「かれは矛盾してやしませんかね?」サディがたずねた。「はじめは都市にはいるなんてめっそうもないと言っておいて、今度はさっさと行ってしまうとは」
「自分のしていることは心得ているさ」ベルガラスが言った。「あの男なら危険な目にはあわん」
「待っているあいだにお昼を食べたほうがいいわね、おとうさん」ポルガラが言った。
ベルガラスはうなずき、一行は広々とした草原を少し先へ行ったところで馬をおりた。
ガリオンは槍を横におき、汗ばむ頭から兜を脱いで、草原の向こうにそびえるマロリーの教会権力の中枢を眺めた。たしかに大きな都市だが、マル・ゼスほど大きくはない。高くてぶあつい城壁の上に、がっしりした胸壁があり、内側から四角いずんぐりした塔がそびえている。都市には一種単調な醜さがあった。険悪な脅威を発散しているように見えるのは、永劫の残虐さと血に飢えた欲望が都市を形成する石そのものに染み込んでいるせいだろうか。都市中央に近いどこからか隠しようのない黒い煙の柱が空中にたちのぼり、おびえた難民たちがそそくさと集まる音が草原の向こうから聞こえてきた。ガリオンはトラクの神殿から陰鬱などらの音を聞いたように思った。ようやくかれはためいきをもらし、顔をそむけた。
「あんなこと永遠につづくわけがない」かたわらにきていたエリオンドがきっぱりと言った。「ぼくたちでもう終わらせるんだ。祭壇はひとつ残らずたたき割られ、グロリムたちはナイフをかたづけて、ナイフは錆びていく」
「ほんとか、エリオンド?」
「ええ、ベルガリオン。絶対たしかです」
かれらは冷たい昼食を食べた。それからまもなくフェルデガーストがうかない顔で戻ってきた。「あっしらが予想していたより、事態はちっとばかし深刻ですわ、ご老体」ラバからとびおりて報告した。「チャンディムが都市を完全に支配してるし、神殿の護衛たちは連中から直接命令を受けてる。古いしきたりに固執するグロリムたちはひとり残らず隠れちまってるが、トラクの猟犬の群れがそいつらの隠れ場をかぎ出しちゃ、見つけたその場で八つ裂きにしてる」
「グロリムに同情するのはわたしには不可能ですな」サディがつぶやいた。
「あっしだって、やつらの不運にゃ平気で耐えられるよ」フェルデガーストが同意した。「だがね、市場あたりの噂じゃ、チャンディムとやつらの犬どもと護衛たちは、カタコールの国境の向こうでも行動してるようだよ」
「カランド人とメンガの悪魔たちがいるっていうのにか?」シルクがおどろいてたずねた。
「あっしがどうにも解せないのはそれなんだ」道化師は答えた。「なぜなのか、どうしてなのか、だれも教えちゃくれないが、チャンディムも護衛たちも、メンガやかれの軍隊や悪魔なんてメじゃないみたいなんですわ」
「なんだかにおうな、協定かなにかが結ばれてるみたいだ」シルクが言った。
「その気配は以前からあったんでさ」フェルデガーストが言った。
「同盟か?」ベルガラスが眉をひそめた。
「たしかなところはわかりませんよ、ご老体。だが、ウルヴォンは策略家ですわな、やつはマル・ゼスの皇帝の座についちゃ昔から異議を唱えてた。もしもウルヴォンがメンガを思いのままにあやつるようにでもなりゃ、カル・ザカーズは守りを固めたほうがいいね」
「ウルヴォンは都市にいるのか?」ベルガラスがたずねた。
「いや。だれもウルヴォンの所在は知らないが、あそこの宮殿にゃいない」
「それは奇妙だな」ベルガラスが言った。
「まったくでさ」道化師は答えた。「だが、やつがなにをしてようと、なにをするつもりでいようと、あっしらが国境を越えてカタコールへはいったら、鳴りをひそめてたほうがいいと思うね。猟犬と神殿の護衛が、すでにそこにいる悪魔とカランド人たちに加わったら、こりゃえらいことだよ、アシャバの〈トラクの家〉に近づくのはおっそろしく危険なことだ」
「その危険はおかさねばならん」老人は陰気に言った。「わしらはアシャバへ行く。なにが――猟犬でも、人間でも、悪魔でも――行く手に立ちふさがろうと、そのときはなんとか切り抜けねばならん」
[#改ページ]
3
依然として低くたれこめた空の下を、城門に立つ武装した護衛たちや、城壁を背にした頭巾姿のグロリムたちの猜疑の視線を浴びて、一行はグロリム教会の陰気な都市の前を通過した。
「われわれを追ってくるだろうか?」ダーニクがたずねた。
「その可能性はあまりないでしょうね、善人」サディが答えた。「まわりをごらんなさい。何百人という難民がここで野営しているんです。この連中がテントをたたんで移動するとき、護衛やグロリムがわざわざかれら全員のあとをつけるとは思えませんよ」
「あんたのいうとおりだね」鍛冶屋は同意した。
午後も遅くなると、マル・ヤスカははるか後方に遠ざかり、カタコールの雪をかぶった峰々が西から飛来してくるきたないねずみ色の雲を背に、前方にくっきりとうかびあがった。
「国境を越える前に一夜のテントを張りますかい?」フェルデガーストがベルガラスにきいた。
「ここから国境までどのくらいある?」
「もうじきでさ、ご老体」
「国境は警備されているのか?」
「ふつうはね、そうでさ」
「シルク」老人は言った。「先に行って見てきてくれ」
小男はうなずいて、馬の脇腹に蹴りを入れ、駆け足で見えなくなった。
「よし」ベルガラスは全員に声が聞こえるように停止の合図をしてから、言った。「わしらがきょうの午後見かけた連中は全員が南へ向かっていた。カタコールのほうへ逃げていく者はひとりもいなかった。さて、人間というのは逃亡中に国境が見えると立ちどまらないものだ。そのまま進みつづける。すなわち、カタコール側の国境数マイル以内には、まず人間はいないということだ。したがって、もしも国境が警備されていなければ、わしらはわけなく国境を越えて、向こう側で夜を明かせるわけだ」
「国境が警備されていたら?」サディがたずねた。
ベルガラスの目から表情が消えた。「それでも国境を突破する」
「戦うことになりそうですね」
「そのとおり。では、進もうか?」
十五分ほどしたころ、シルクが戻ってきた。「国境地点に十人ばかり護衛が立ってますね」
「不意をつくチャンスはあるか?」ベルガラスがきいた。
「なくはないでしょうが、国境にいたる道は直線で平坦だし、半マイル以内に道の両側に警備所がありますよ」
老人は声をひそめて毒づいた。「よかろう、それではいいか。護衛たちは少なくとも馬まではたどりつけるだろう。だが、やつらにやれる時間はそこまでだ。身構える暇まで与えたくない。フェルデガーストが言ったことを忘れるな、ぬかるなよ。危険を冒してはならんが、わしらの最初の突撃で護衛たちをひとり残らず片付けたいのだ。ポル、おまえはご婦人たちとさがっててくれ――エリオンドも一緒にだ」
「でも――」ヴェルヴェットが異議を唱えようとした。
「口答えするな、リセル――今度だけだ」
「レディ・ポルガラの魔術で護衛たちを眠らせるわけにいかないんですか?」サディがきいた。「マル・ゼスで密偵たちを眠らせたように?」
ベルガラスはかぶりをふった。「護衛のなかにはグロリムがいる。あのわざはグロリムには効かないのだ。今度は全力をふるってやるしかない――大事をとってな」
サディは顔を曇らせてうなずくと、馬をおり、道端に落ちていた頑丈そうな枝をひろいあげた。ためしにそれで芝生をつついてみながら、「みなさんに知ってもらいたいんですが、こういうのはわたしの好きなやりかたじゃないんですよ」
残りの面々も馬からおりて、めいめい棍棒や杖で武装した。それからふたたび馬にまたがり、進みつづけた。
白塗りの石の小屋と、道の両側の柱に渡した一本の白い棒が、国境のゲートだった。小屋の外に十二頭の馬がつながれており、壁に槍がたてかけてある。鎖かたびらをきた護衛がひとり、剣を背中にしょって、ゲートのこちら側の道をいったりきたりしていた。
「よし」ベルガラスが言った。「できるだけすばやく行動しよう。ここで待ってろ、ポル」
ガリオンはためいきをついた。「ぼくが最初に行ったほうがいいだろう」
「そう言ってくれるのを期待してたんだよ」シルクの笑いがこわばっている。
ガリオンはそれを無視した。楯の留め金をしめ、兜をきちんとかぶり、もう一度あぶみから槍をひきぬいた。「みんな、用意はいいか?」まわりを見てから、槍をかまえ、馬に拍車をかけて突進した。みんながぴたりとそのあとにつづく。
ゲートにいた護衛は突っこんでくる一団をぎょっとしたように見ると、小屋の戸口に駆け寄って、なかにいる仲間に怒鳴った。次につないである馬の鞍によじのぼり、身をのりだして槍をつかむと、道に出てきた。他の護衛たちが装備をかかえ、蹴つまずきながらわれ先に小屋から飛び出してきた。
二、三人の武装した男が鞍に乗るより早く、ガリオンはゲートまでの距離を半分にちぢめていた。したがって、ガリオンの突撃にひとりで立ち向かうはめになったのは、見張りに立っていたさっきの男だった。
結果は楽に予測がついた。
ガリオンがひづめを鳴らしてすれちがいざまに敵を落馬させたとき、もうひとりの護衛が半ば駆け足で道に出てきた。だが、ガリオンはその護衛に身構える暇も、馬首をめぐらす暇も与えなかった。まごまごしているうちに、衝突のショックで馬がどうと倒れた。護衛は馬より先に地面に落下し、馬はその上にひっくりかえっていななきながらおびえて宙を蹴った。
ガリオンは手綱を引こうとしたが、すっかり興奮していたクレティエンヌは長い優雅なジャンプでゲートを飛び越えると、そのまま突進した。ガリオンは悪態をついて、手綱をひくのをあきらめ、身をのりだして灰色の大きな馬の片耳をつかんでぐいとひっぱった。おどろいたクレティエンヌがいきなり立ち止まったので、お尻が道をひきずったほどだった。
「戦いはあっちだぞ」ガリオンは馬に言った。「それとも、もう忘れたのか?」
クレティエンヌは非難がましくガリオンを一瞥すると、くるりと向きを変えて、ふたたびゲートめがけて突進した。
攻撃が猛スピードで行なわれたので、槍を使うまもなく護衛たちはガリオンの仲間たちにやられてしまった。戦いはみるみるエスカレートした。ダーニクは斧の柄を使ってひとりの護衛の兜のひさしをぶん殴った。ひさしをべこべこにへこまされて視界を失った護衛は両手で兜をつかみ、なすすべもなく馬にまたがってぐるぐる回っているうちに、低くはりだした枝にぶつかって、馬から転落した。
シルクは大きくふりまわされる剣を避けながら短剣に手を伸ばし、相手の腹帯のひもをぶつんと切った。敵の馬が乗り手をおきざりにして前に飛び出した。護衛は鞍ごと道にころげおち、必死に立ち上がって剣をかまえたが、フェルデガーストが背後から忍びよって鉛の棒でガツンと殴りつけたので、またもや地面にひっくりかえった。
だが一番追いつめられているのは、トスだった。三人の護衛が巨人にじわじわと攻めよっていた。クレティエンヌがまたもゲートを飛び越えたとき、ガリオンは大男がぎごちなく棒をふりまわしているのを見た。まるで生まれてこのかたそんなものは持ったことがないようなぶざまなへっぴり腰だった。ところが、三人が棒の届く距離にはいると、トスの態度は奇跡的に一変した。ずっしりした棍棒がうなりをあげて円を描いた。護衛のひとりは地面になぎ倒されて、折れたあばら骨をおさえた。もうひとりは棍棒の先端でみぞおちにあざやかな一撃を食らい、体を二つに折って悶えた。三人目は死に物狂いで剣を持ち上げたが、巨人はそれをぽいとはたき落として、腕を伸ばし、肝をつぶしている護衛の胸ぐらをつかんだ。トスが鎖かたびらをひねりつぶす音を、ガリオンははっきりと聞いた。そのあと巨人はあたりを見回し、ほとんどなにげないともいえるしぐさで、道端の木に武装したその護衛を力まかせにぶん投げたので、一番高い枝から葉がぱらぱらと落下した。
残る三人の護衛は槍を使うための空間を作ろうとあとずさりはじめたが、ガリオンが戻ってくる――かれらのうしろから――ことには気づかないようだった。
なにも知らない三人組めざしてクレティエンヌが走っていくあいだ、ガリオンはふといいことを思いついた。かれはすばやく槍を横にして、護衛たちの背中に槍の柄が当たるように鞍の前に置いた。作戦は図に当たり、よくしなう杉の槍は三人を鞍からすくいとって、馬たちの頭をとびこえさせた。地面に落下した三人が立ち上がる前に、サディとフェルデガーストとダーニクがとびかかり、戦いは始まったときと同じように、あっというまに終わった。
「ああいう槍の使いかたをしたやつを見たのははじめてだよ」シルクが陽気にガリオンに言った。
「急に思いついたのさ」ガリオンは興奮してにやにやしながら答えた。
「あれを違反とみなすルールが最低六つはあるぜ」
「じゃ、だまっていたほうがいいな」
「おまえがだまっててくれというなら、だれにも言わないさ」
ダーニクは入念にあたりを見回していた。あちこちに護衛たちが倒れている。気絶している者もいれば、骨折してうめいている者もいた。トスにみぞおちを突かれた護衛だけがまだ鞍に乗っていたが、上半身をつっぷして息もたえだえにあえいでいる。ダーニクは馬でその護衛に近づいた。「失礼ですが」ダーニクは丁寧に言うと、あわれな男の兜をはずして、斧の柄でコンと頭のてっぺんをたたいた。護衛の目がとろんとなり、体が力なく鞍からすべり落ちた。
ベルガラスがいきなり体をくの字にして、げらげら笑いだした。「失礼ですが、だと?」老人は鍛冶屋に問いただした。
「ぞんざいな口をきく必要はないですからね、ベルガラス」ダーニクはまじめに答えた。
ポルガラがセ・ネドラ、ヴェルヴェット、エリオンドをしたがえて悠々と丘をおりてきた。
「おみごとだったわ、みなさん」倒れている護衛たちを見回して、男たちをほめた。次にポルガラはゲートまで馬を進め、手綱を引いて快活に言った。「ガリオン、ディア、ちょっといいかしら?」
ガリオンは笑ってクレティエンヌをゲートのそばまで近づけ、ゲートを蹴ってどかし、ポルガラが通れるようにした。
「戦いのまっさいちゅうにゲートを飛び越えるなんて、いったいどういうわけ?」ポルガラは興味ありげにたずねた。
「ぼくの考えじゃなかったんだよ」
「あら」ポルガラは大きな馬をじっと見つめた。「そうだったの」
クレティエンヌは穴があったら入りたいといったようすを見せた。
一行が国境を越えたころ、いつのまにか日が暮れて、はじめからどんよりしていた空がさらに暗くなった。フェルデガーストはベルガラスの隣りに馬を並べた。
「この数マイルばかし先に密売人たちが使ってたほら穴があるんですがね、そこで夜を明かしちゃどうかとあっしが言ったら、道徳心にさわりますかい?」
ベルガラスはにやりとしてかぶりをふった。「全然。ほら穴が必要なら、前の住人のことなど関係ない」そう言って老人は笑った。「かつて一週間冬眠中のクマと同居していたことがあるよ――じつにおとなしいクマだった、いびきになれてさえしまえばな」
「そりゃ愉快な話ですわな、ぜひそいつを聞きたいね――だが、夜も近いこったし、晩めしでも食べながら話しておくんなさいよ。じゃ、行きますかね?」道化師はラバの腹をかかとで蹴ると、先頭に立って、急速に暮れてきたわだちだらけの道を駆け足で進みだした。
最初の丘の中腹に出ると、ひどいでこぼこ道が陰気な常緑樹の並木の間を走っているのが見えた。道にはだれもいなかったが、最近人が大勢通過した痕跡があった――すべて南へ向かう足跡だ。
「そのほら穴だが、あとどのくらいある?」ベルガラスが先を行く道化師に呼びかけた。
「もうじきだよ、ご老体」フェルデガーストは受け合った。「この道は先で干上がった小谷にぶつかるんだが、その谷をちょいとのぼれば着く」
「自分のしていることがわかっているんだろうな」
「信用してもらわにゃ」
意外にも、ベルガラスはそれを受け流した。
道を行くうちに、陰気な薄闇が周囲の丘の中腹を閉ざし、常緑樹の幹のあたりに濃い闇が集まりはじめた。
「ああ、そろそろだ」フェルデガーストが干上がった小川のごつごつした川床を指さした。「ここは足元が危ないから、馬は引いてったほうがいいね」道化師はラバからおりると、注意しながら小谷を進みはじめた。着実にあたりは暗くなり、どんよりした空から急速に光が薄れだした。小谷がせばまって鋭い角度で曲がっているところまでくると、道化師はラバの背にくくりつけてあるズックの袋のなかをひっかきまわして、一本の蝋燭をひっぱりだし、ダーニクを見た。「ちょいと火を作ってもらえないかな、善人さん? あっしがやってもいいんだが、ほくち[#「ほくち」に傍点]がどっかにまぎれこんじまったみたいでね」
ダーニクは袋をあけて、火うち石と鋼とほくちをとりだし、何度かやったあとで明るい火花でちっぽけな火を作り出した。両手で囲って火を差し出すと、フェルデガーストがちびた蝋燭にその火をともした。
「ああ、さあついた」道化師は悠然と蝋燭をかかげて、小谷の急勾配の土手を照らした。
「どこだい?」シルクがとまどった顔できょろきょろした。
「いいですかい、ケルダー王子、パッと見てすぐわかっちまうようじゃ、秘密のほら穴とは言えないよ、そうでしょうが?」フェルデガーストは小谷の険しい側へ歩いていった。水の流れで摩滅した大きなみかげ石の板が土手にたてかけてある。道化師は片手で火をかばいながら蝋燭をさげ、ちょっと身をかがめたかと思うと、ラバをうしろに引いてその石板のうしろに姿を消した。
ほら穴の床はきれいな白砂だった。内部の壁は何世紀も水流が渦巻いていたためにすりへってなめらかになっている。フェルデガーストは蝋燭を高くかかげてほら穴のまん中に立っていた。壁ぎわには粗末な丸太作りの寝台がいくつかあり、中央にはテーブルと腰掛けがいくつか、それに遠くの壁のそばには大まかな作りの暖炉があって、すでにたきぎが置かれている。フェルデガーストは床を横切って暖炉に近づくと、腰をかがめてぞんざいな石格子の上にのっている丸太の下のたきつけに蝋燭で火をつけた。「さあ、このほうがいい」ぱちぱちと燃え始めた炎に両手をかざして言った。「なかなかの場所でしょうが?」
暖炉のすぐ向こうにアーチ型の通路があった。半分は自然の、半分は人間の手で作られた通路だ。その通路の前部は水平に並んだ数本の棒で閉じられている。フェルデガーストはそれを指さした。「厩ですわ、あれの奥にはちいさな泉もある。マロリーのこのあたりじゃ、ここにまさる密売人のほら穴はありゃしませんて」
「うまくできているな」ベルガラスがあたりを眺めながらうなずいた。
「なにを密輸するんだ?」シルクが職業的好奇心からたずねた。
「ほとんどは宝石ですわな。カタコールの断崖にゃ鉱石がたんまりあるし、拾い上げる苦労さえいとわなけりゃ、砂州全体が光るちっちゃな石でできてることもよくあるんだ。だが、ここの税金は悪評高い酷税だからね、この山のこのあたりに住む大胆な若い連中はいろんな方法をあみだしちゃ、あくせく働く税の取り立て人たちの眠りをさまたげることなく、品物を国境の向こうへ運んでるんでさ」
ポルガラは暖炉を調べていた。暖炉の内壁からは鉄のなべ掛けが数本つきでており、片側には丈夫な脚のついた大きな鉄の格子がある。「上出来だわ」ポルガラは満足そうにつぶやいた。「たきぎはじゅうぶんあって?」
「じゅうぶん以上ですって、奥方」道化師は答えた。「馬のまぐさと一緒にたきぎも厩につんであるんだ」
「そう、それじゃ」ポルガラは青いマントを脱いで寝台のひとつに置いた。「今夜の食事のために予定しておいたメニューをもっと充実させることができそうよ。ここにこんなに申し分のない道具がそろっているんですもの、無駄にしてはもったいないわ。もっとたきぎが必要になるわね――もちろん水も」ポルガラは鼻歌まじりに料理道具と食糧を積んでいる馬に歩みよった。
ダーニクとトスとエリオンドは馬たちを厩にいれて、鞍をはずしはじめた。槍を外に置いてきたガリオンは寝台のひとつに近づいて兜を脱いでそこに置き、楯を寝台の下におろすと、身をよじって鎖かたびらを脱ぎにかかった。セ・ネドラが手伝いにきた。
「きょうはすてきだったわよ、ディア」セ・ネドラは心をこめて言った。
ガリオンはあいまいにぶつぶつ言って、前かがみになり両腕を頭の上に伸ばして、セ・ネドラに鎖かたびらを脱がせてもらおうとした。
セ・ネドラが強くひっぱったので、鎖かたびらがいきなりすっぽぬけた。その重みにバランスをくずして、セ・ネドラは鎖かたびらを持ったまま砂の床にどしんと尻もちをついた。
ガリオンは笑いながら急いで妻に歩みよった。「はは、セ・ネドラ」まだ笑いながら言った。「愛してるよ」彼女にキスしてから、助け起こした。
「これってすごく重いのね」鋼をつないでつくった鎖かたびらを持ち上げようとしながら、セ・ネドラは言った。
「そうさ」ガリオンはずきずきする片方の肩をさすった。「ふざけてるだけだと思ってたんだろう」
「すねないで、ディア。これ、掛けておきましょうか?」
ガリオンは肩をすくめた。「寝台の下へ蹴りこんでおけばいいよ」
セ・ネドラの表情は不満げだった。
「しわにはならないと思うよ、セ・ネドラ」
「でも、そんなふうにしておいたらだらしがないわ、ディア」セ・ネドラは苦心してそれをたたもうとし、やがてあきらめて丸めると、足で寝台の下の奥へ押し込んだ。
その夜の食事はヴェラがくれたハムの厚切りと、シチュウといってもよさそうなほど中身の濃いスープと、火の前で温められた大きなパン、それに蜂蜜とシナモンをまぶした焼きリンゴだった。
みんなが食べ終わったあと、ポルガラは立ち上がって、またほら穴を見回した。「いまから男の人たちにはちょっと席をはずしてもらう必要があるわ。洗面器数杯の熱いお湯も必要ね」
ベルガラスがためいきをついた。「またか、ポル?」
「ええ、おとうさん。このへんで清潔にして、服を着替えないとね――わたしたち全員が」ポルガラはこれみよがしに小さなほら穴の空気をくんくんかいだ。「しおどきだわ」
かれらはポルガラとセ・ネドラとヴェルヴェットに彼女たちが要求しているプライヴァシーを与えるべく、ほら穴をカーテンで仕切り、暖炉で湯をわかしはじめた。
はじめは動くことさえおっくうだったのに、体を洗い、清潔な乾いた服に着替えたあと、ガリオンははるかに気分爽快になったことを認めなくてはならなかった。かれはセ・ネドラと並んで寝台のひとつによりかかった。彼女の髪のぬれた匂いが快かった。悪天候のなか一日戸外で過ごしたあと、身を清め、腹いっぱい食べて、ぬくぬくとしていられる心地よさがたまらなかった。うとうとしはじめたとき、外の狭い小谷をすさまじい咆哮が響きわたった。動物とも人間ともつかぬ、血を凍りつかせ、うなじの毛をさかだてるような恐ろしい叫びだった。
「あれは何?」セ・ネドラがおびえた叫びをあげた。
「しっ、おじょうさん」フェルデガーストがやんわりと警告した。道化師は急いで立ち上がると、暖炉の前に粗布をすばやく広げて、ほら穴を真っ暗にした。
人とも思えぬ咆哮がふたたび小谷にこだました。ぞっとするような悪意に満ちた音だった。
「あれはいったいなんでしょう?」サディが静かな声でたずねた。
「あんな声はこれまで一度だって聞いたことがない」ダーニクが言った。
「わしはあるような気がする」ベルガラスが陰気に言った。「モリンド国にいたときのことだ、日が落ちてから、手下の悪魔に獲物を漁らせたらおもしろかろうと考えた妖術使いがいてな、そのときもあんな声がしたよ」
「なんとまた気味の悪いことを」宦官はつぶやいた。「悪魔は何を食べるんです?」
「本当は知りたくないんだろう」シルクが言って、ベルガラスのほうを向いた。「悪魔ってやつがどのくらいの大きさなのか、だいたいのところはわかりますかね?」
「いろいろさ。だが、あの音のすごさからすると、そうとう大きかろうな」
「すると、このほら穴には入ってこられませんね?」
「それはなんとも言えん」
「おれたちのにおいをかぎつけるでしょうね?」
老人はうなずいた。
「悪魔がきたりしたら、もうめちゃくちゃですよ、ベルガラス。なにか退治する方法はないんですかい?」小男はポルガラのほうを向いた。「それとも、ポルガラ、あなたならできますよね。ラク・ウルガの港でチャバトが呼んだ悪魔を退治したんだから」
「あのときはうしろ盾があったのよ、シルク」ポルガラは思い出させた。「アルダーが加勢してくださったわ」
ベルガラスはこわい顔で床をにらみながら、行きつ戻りつしはじめた。
「それで?」シルクがせかした。
「せっつくな」老大はうなり声を出した。「打つ手がないことはない」しぶしぶ言った。「しかし、それをやれば、カタコール中のグロリムに聞こえるような音を立てることになる――ザンドラマスにも聞こえるだろう。チャンディムか、ザンドラマスの手下のグロリムどもにアシャバまでずっとつけられてしまう」
「どうして〈珠〉を使わないんです?」馬勒を修理していたエリオンドが顔をあげて言った。
「なぜなら〈珠〉はわし以上にすごい音を出すからだ。仮にガリオンが〈珠〉を使って悪魔を追い払ったら、その音は大陸の向こう側のガンダハールまで聞こえるだろう」
「でも、効き目はあるんでしょう?」
ベルガラスはポルガラを見た。
「エリオンドの言うとおりだと思うわ、おとうさん」ポルガラは言った。「悪魔はまちがいなく〈珠〉から逃げるわよ――たとえ主人の妖術使いに怒られても。怒られなければ、もっとスピードをあげて逃げるでしょうね」
「ほかに何か思いつかんのか?」
「神ね」ポルガラは肩をすくめた。「悪魔はみんな――どんなに力があっても――神々からは逃げ出すわ。神々と面識はないの?」
「何人かは知っとるさ。だが、あいにく今はみんな忙しいんだ」
またもものすごい咆哮が山中に響きわたった。ほら穴のすぐ外から聞こえたようだった。
「決断のときですよ」シルクがせきたてた。
「心配なのは〈珠〉が立てる音なんですか?」エリオンドがきいた。
「それと光だ。ガリオンが剣を抜くたびに輝くあの青い光は、のろしみたいなものだからな」
「みんなでぼくを悪魔と戦わせようとしているんじゃないだろうな?」ガリオンは憤慨した。
「もちろんそうじゃない」ベルガラスがふんと鼻を鳴らした。「だれも悪魔とは戦わんよ――戦えないのだ。わしらが議論しているのは、悪魔を撃退する可能性についてだ」老人はふたたび砂に足をひきずって行きつ戻りつしはじめた。「ここにわしらがいることをわからせたくない」
外で悪魔がまた吠えた。ほら穴の口をふさいでいる巨大なみかげ石の板が、途方もない力によってこじあけられていくかのように、前後にぎしぎしときしみはじめた。
「選択している暇はなさそうですよ、ベルガラス」シルクが言った。「時間もなくなってきた。早く手を打たないと、このなかまではいってきますぜ」
「わしらの居場所をグロリムどもに教えるようなことはするなよ」ベルガラスはガリオンに言った。
「本気でぼくに外へ出て行って、悪魔を追っぱらわせたいのかい?」
「もちろんだ。シルクの言うとおりだ。時間がない」
ガリオンは寝台に歩みよって、下に押し込んであった鎖かたびらをひきずりだした。
「それはいらんぞ。どうせ何の役にもたたん」
ガリオンは肩ごしに背中へ手を伸ばし、巨大な剣をひき抜いた。砂地に切っ先を突き刺し、柄をおおっている柔らかな革の鞘をはずした。「まちがってるよ、こんなこと」ガリオンは大声で言った。それから片手を〈珠〉にのせた。
「ぼくにやらせて、ガリオン」エリオンドが立ち上がり、そばへやってくるとガリオンの手に手を重ねた。
ガリオンはびっくりしてエリオンドを見た。
「〈珠〉はぼくを知っている、そうでしょう?」少年は説明した。「ちょっといいことを思いついたんです」
奇妙なちくちくする感触が手から腕に伝わってきて、ガリオンはエリオンドが自分よりもっと直接的なやり方で〈珠〉と意志を通わせているのに気づいた。まるで少年が〈珠〉の運び手であった数ヵ月のあいだに、その石がある特別な方法でそれ自身の言葉を少年に教えたかのようだった。
ほら穴の入口から耳ざわりな恐ろしい音が聞こえた。巨大な蹴爪が石板をひっかいているような音だ。
「気をつけるんだぞ」ベルガラスが警告した。「危険な真似はするな。ただ悪魔に見えるように剣をかかげ持つんだ。あとは〈珠〉がやってくれるはずだ」
ガリオンはためいきをつき、「わかった」と言うと、ほら穴の入口に近づいた。エリオンドがすぐうしろにつづいた。
「どこへ行くつもり?」ポルガラが金髪の少年にたずねた。
「ベルガリオンと一緒に行くんです」エリオンドは答えた。「これを正しくやるためには、ぼくたちふたりが〈珠〉と話をする必要があるんですよ。あとで説明します、ポルガラ」
ほら穴の入口の石板がまた前後にゆれだした。ガリオンはすばやく石板のうしろから飛び出すと、エリオンドをしたがえて小谷を数ヤード駆け上がった。それからくるりと向きを変えて、剣を持ち上げた。
「まだだ」エリオンドが注意した。「ぼくらに気づいていませんよ」
小谷には猛烈な悪臭がたちこめていた。しばらくしてだんだん目が暗闇になれてくると、ガリオンは頭上にわきあがる雲を背に、悪魔の姿が浮かび上がっているのに気づいた。それはとほうもなく大きかった。広い肩幅が空の半分をおおいかくしている。長い尖った耳は、さながら巨大な猫の耳のようで、緑の火のように燃える目が小谷の地面を断続的に照らしている。
悪魔は吠え声をあげて、ガリオンとエリオンドのほうへ大きな鱗だらけの蹴爪を伸ばしてきた。
「いまだ、ベルガリオン」エリオンドが落ち着き払って言った。
ガリオンは両腕をあげて、切っ先を空に向け、剣を体の正面にかまえると、〈珠〉を抑えていた拘束力を解き放った。
どんなことが起きるのか、ガリオンはまったく予期していなかった。すさまじい物音が大地をゆるがし、近くの山々からこだまとなってはねかえり、数マイル向こうの巨木の森をふるわせた。巨大な剣が燃え上がったのはもちろん、空全体がいきなり発火したように強烈なサファイア色に輝いた。地平線から地平線へ青い炎が飛び移り、大音響が大地をふるわせつづけた。
悪魔は凍りついたように動きをとめると、歯のぎっしり生えたばかでかい顎をあげて、おびえたように青く燃える空を仰いだ。ガリオンは燃える剣を体の前にかまえたまま、用心深く悪魔に接近した。獣はガリオンからあとずさって、激しい青い光から顔をかばおうとした。そして耐えがたい苦痛に襲われたかのように、いきなり絶叫するとよろめいて倒れ、ふたたびもがくように立ち上がった。次に悪魔は炎士する空をもう一度見ると、くるりと背中を向けて、四つの蹴爪で地面をつかみながら妙に跳ねるような動きで、わめきながら逃げていった。
「おまえの考える静か≠ニいうのがあれなのか?」ほら穴の入口からベルガラスが怒鳴った。「しかもあれはいったいどういうことだ?」老人はふるえる指でまだ光っている空をさした。
「だいじょうぶですよ、ベルガラス」エリオンドがいきまいている老人に言った。「物音からぼくらの居所をグロリムたちに知られたくなかったんでしょう、だからこの地域全体の騒ぎにしたんです。この騒ぎのもとをつきとめることなんか、だれにもできなかったはずです」
ベルガラスは目をぱちくりさせた。それからちょっと眉をよせた。「あのけばけばしい光はどうなんだ?」語調をやわらげてたずねた。
「あれだって似たり寄ったりです」エリオンドは穏やかに説明した。「闇夜の山々に青い炎がひとつだけ浮かびでたら、だれにだって見えちゃうでしょう。でも、空全体が燃え上がれば、どこから火が出てるのかなんてだれにもわかりません」
「筋は通ってるよ、おじいさん」ガリオンが言った。
「ふたりともだいじょうぶなの、おとうさん?」老人の背後からポルガラがたずねた。
「怪我するわけがなかろう? ガリオンはあの剣で山を持ち上げられるんだぞ。事実、すんでにそうするところだったんだ。カランデセ山脈全体が鐘みたいに鳴りおった」ベルガラスはまだ光っている空を見上げた。「あれを消せんのか?」
「おっと」ガリオンは剣を裏返して、背中に斜めにしょっている鞘におさめた。空の火が消えた。
「ぼくたち、本当にああいうふうにやるしかなかったんですよ、ベルガラス」エリオンドがつづけた。「悪魔をおどかして追い払うには光と音が必要だったし、グロリムたちにここをわからせないためには、ああいうふうにやらなくちゃならなかったんです、だから――」少年は両手を広げて肩をすくめた。
「おまえはこのことを知っとったのか?」ベルガラスはガリオンにきいた。
「もちろんだよ、おじいさん」ガリオンは嘘をついた。
ベルガラスはぶつくさ言った。「ようし。なかへ戻ろう」
ガリオンはちょっと身をかがめてエリオンドの耳にささやいた。「ぼくたちが何をすることになるか、なんで教えてくれなかった?」
「本当に時間がなかったんです、ベルガリオン」
「今度ああいうことをするときは、時間をかけろよ。地面が足の下でゆれだしたときは、もうちょっとで剣を落とすところだったんだ」
「じゃ、教えなくてよかったじゃないですか」
「そうか」
無数の石がほら穴の天井から落下して、砂の床にちらばっていた。なかには土ぼこりがもうもうとたちこめていた。
「外で何があったんだ?」シルクがふるえ声で問いつめた。
「それほどたいしたことじゃないさ」ガリオンはわざとなにげない口調で答えた。「ただ、カタコール中の人間が、この山中で何かが動き回っていることは気づいてるよ。だからこれからはじゅうぶん注意する必要がある」
「アシャバまではあとどのくらいです?」サディがたずねた。
「馬で一日といったところだ」
「まにあうでしょうかね?」
「かろうじてね。少し眠ろう」
その夜、ガリオンはまた同じ夢を見た。ただ、それが本当に夢だったのかどうか確信が持てなかった。というのは、普通、夢には音も光景もあるのに、そこに出てきたのは執拗な絶望的泣き声と、恐怖感だけだったからだ。その恐怖が耐えがたいまでに高まったとき、ガリオンは汗をびっしょりかいて、ふるえながら寝台に起き上がった。しばらくして、毛布を肩までひっぱりあげ、両腕で膝をかかえて、暖炉の赤らんだ燃えさしを凝視していたが、ふたたびうとうとしはじめた。
翌朝、空はあいかわらずどんよりと曇っていた。一行は慎重に小谷をくだり、山脈のふもとにいたるわだちだらけの道をたどった。シルクとフェルデガーストが危険にそなえて、斥候役としてみんなより先にでかけた。
一リーグばかり進んだころ、ふたりが細道をひきかえしてきた。ふたりは真剣な顔つきで、身振りで声をたてないよう指示した。
「この道をちょっと行ったあたりで、カランド人の一団が野営してる」シルクがほとんどささやくように報告した。
「不意うちをかけるつもりでしょうかね?」サディがきいた。
「いいや」フェルデガーストが低い声で答えた。「ほとんどの連中は眠ってまさ。ようすから見ると、宗教的儀式かなんかで一夜を過ごし、くたくたになってるらしい――あるいはまだ酔いがさめてないかだね」
「そいつらを迂回できんのか?」ベルガラスがたずねた。
「さほどむずかしくはないでしょう」シルクが答えた。「道をそれて木立にはいり、連中が眠っている場所を通過してからまた道に戻ればいい」
老人はうなずいた。「そうしよう」
一行は道からはずれて、抜き足差し足で森にはいった。
「どんな儀式をしていたんだね?」ダーニクがそっとたずねた。
シルクは肩をすくめた。「それがさっぱりわからなかったんだ。祭壇がひとつあって、そのうしろに柱が並び、その上に頭蓋骨がのっているのさ。酒をあびるほど飲んだらしい――他のこともやったようだが」
「どんなことを?」
シルクの顔がかすかに苦々しげになった。「連中は女連れなんだ」吐き捨てるように答えた。「いささか度を越した行為があった証拠がある」
ダーニクの頬が突然真っ赤になった。
「ちょっと誇張しているんじゃない、ケルダー?」ヴェルヴェットがきいた。
「いや、そんなことはない。何人かはまだ浮かれ騒いでいた」
「だけど、ここらのけったくそ悪い宗教的儀式よりもうちょい重要なのは」と、フェルデガーストがあいかわらず声を落として言った。「カランド人が飼ってる奇妙なペットのほうでしょうな」
「ペット?」ベルガラスが聞き返した。
「正しい表現じゃないかもしれませんがね、ご老体、しかし野営地のまわりにゃおびただしい数の猟犬がすわってたんでさ――そして見じろぎひとつしないで、飲んだくれて騒いでる連中をむさぼるように見つめてるんだ」
ベルガラスは鋭く道化師を見た。「確かか?」
「トラクの猟犬ならいやってほど見ましたからね、ぜったいまちがいっこありませんや」
「ということは、メンガとウルヴォンのあいだにはやはりなんらかの関係があるのだな」老人は言った。
「まったくたいした叡知ですな、ご老体。一万年の経験のおかげで、そういう結論をだせるなんざ、きっと、並の人間には想像もつかない喜びでしょうな」
「七千年だ」ベルガラスは訂正した。
「七千だって――一万だって――たいしたかわりはないでしょうが」
「七千年だ」ベルガラスはちょっと気を悪くしたような顔で繰り返した。
[#改ページ]
4
その日の午後、かれらは生気のない荒涼とした土地に馬を乗り入れた。悪臭ふんぷんたるその土地では、白茶けて折れた枝が骸骨の指のように低くたれこめた暗い空をさわり、油じみた臭い池ではよどんだ汚水が腐臭を放っていた。枯れて久しい木々の幹には茸が大量発生し、うっそうとおい茂った雑草が灰のような地面から懸命に太陽のない空へ体を伸ばしていた。
「まるでクトル・ミシュラクじゃないか?」シルクがさもいやそうにあたりをながめながらきいた。
「アシャバまではあと一歩だ」ベルガラスが言った。「トラクの周囲ではすべてはこうなのだ」
「トラクは知らなかったのかしら?」ヴェルヴェットが悲しそうに言った。
「何を知らなかったの?」セ・ネドラがたずねた。
「自分の存在そのものが大地を汚すということを、そうじゃありません?」
セ・ネドラは答えた。「もちろん知らなかったんだと思うわ。心がひねくれていたあまり、トラクは気づきもしなかったのよ。太陽がかれから隠れても、トラクはそれを自分の力のしるしとしてしか考えなかったんだわ、太陽が自分をきらったしるしとは思いもしなかったのよ」
それはセ・ネドラらしからぬ明敏な観察で、ガリオンはすくなからずびっくりした。かれの妻はもともとおそろしく軽はずみなところがあって、小柄なせいもあり、つい子供扱いしてしまうことがよくあった。だが、最近になってガリオンは自分と人生を共有しているこの小さくてわがままな女性を見直す必要にかられていた。ときどきばかげたふるまいをすることはあっても、セ・ネドラは決してばかではなかった。洋服や宝石や高価な香水を見る以上にしっかりした目で、彼女は世界を見ていた。ふいにガリオンは心臓が張り裂けるほどセ・ネドラのことが誇らしくなった。
「アシャバまではあとどのくらいあるんです?」サディが抑えた声でたずねた。「言いたくないんですが、特にこの湿地帯を見ていると気が滅入ってくるんですよ」
「あんたがかね?」ダーニクが言った。「あんたは湿地帯が好きなんだと思っていたよ」
「湿地帯とは緑と生命にあふれているべきものなんですよ、善人」宦官は答えた。「ここにあるのは死だけです」かれはヴェルヴェットを見た。「ジスを持っているでしょう、辺境伯令嬢?」サディは訴えるようにたずねた。「ここへきてちょっとさびしくなってきましたよ」
「彼女はいま眠っているわよ、サディ」ヴェルヴェットは片手で胴着の前をかばうようにしながら言った。「安全で、ぬくぬくして、とっても満足してるわ。喉を鳴らしてさえいてよ」
「いい匂いのするちいさな住処で休んでいるわけですな」サディはためいきをついた。「ときどきジスがうらやましくなりますよ」
「まあ、サディ」ヴェルヴェットはちょっと赤くなって目を伏せたあと、すぐに宦官にむかってえくぼを見せた。
「単なる客観的感想ですよ、リセル」サディはやや悲しそうに言った。「そうでなければいいと思うこともときにはありますがね、しかし……」かれはまたためいきをついた。
「ほんとにその蛇をそこに持っていなけりゃならないのか?」シルクが金髪の娘にきいた。
「そうよ、ケルダー。じっさい、そうなの」
「わたしの質問に答えてくださいませんでしたね、長老」サディはベルガラスに言った。「アシャバまであとどのくらいなんです?」
「アシャバはあそこにある」老魔術師は短く答えて、悪臭を放つ不毛地帯から急角度で持ち上がっている小谷のほうを指さした。「日暮れまでにはつくはずだ」
「幽霊の出る家を訪問するにゃ、よりによっていやな時間ですわな」フェルデガーストがつけたした。
一行が小谷をのぼりだしたとき、草深い道の片側のおいしげったしたばえのなかから突然おそろしいうなり声がして、一匹の巨大な黒い猟犬が飛び出してきた。目は赤く燃え、残忍そうな牙からは泡がしたたっている。「もう逃がさんぞ!」猟犬はかみつくようにわめいた。
セ・ネドラが悲鳴をあげ、ガリオンの手がさっと肩ごしに背中へ伸びた。だが、サディはもっとすばやかった。宦官はおびえている馬に拍車を入れると、巨大な犬めがけてまっすぐ突っ込んでいった。獣はかっと口をあけて立ち上がったが、サディは粒の粗い小麦粉のような、ふしぎな色の粉を猟犬の顔面めがけて投げつけた。
猟犬は依然としておそろしいうなりをあげながら、頭をふった。次の瞬間、その口からこぼれた絶叫は、ぞっとするほど人間の声に似ていた。犬の目が恐怖に大きく見開かれた。次に、それは周囲のなにもない空間に死に物狂いでかみつきはじめ、クンクン鳴きながらあとずさろうとした。攻撃してきたときと同じように、猟犬はいきなり向きを変えると、遠吠えをしながらおいしげったやぶのなかへ逃げ込んだ。
「なにをしたんだ?」シルクがきいた。
サディの細い顔にかすかな微笑がのぼった。「ベルガラスがトラクの猟犬のことを話してくれたとき、ある準備をしておいたんですよ」巨大な犬のおびえた鳴き声がしだいに遠ざかっていくのを、首を傾けて聞きながらサディは答えた。
「毒薬か?」
「いや。その必要がないなら、犬に毒を盛るのは卑しむべき行為です。猟犬はわたしが顔に投げつけたあの粉の一部を吸い込んだだけですよ。すると、非常に気になるものが見えはじめたんです――非常に気になるものがね」サディはふたたび微笑した。「一度、たまたまあの粉の主成分を嗅いだ牝牛を見たことがありますがね、最後にわたしが見たとき、牝牛は木に登ろうとしていましたっけ」宦官はベルガラスを見やった。「相談もしないで行動したことを怒らないでください、長老どの、しかし、指摘なさったように、あなたの魔術はこのあたりにいる他の連中を警戒させることになるかもしれませんでしたからね、わたしとしてはあなたが魔術を使わざるをえない事態にならないうちに、手を打たねばならなかったんです」
「かまわんとも、サディ」ベルガラスは答えた。「前にも言ったかもしれんが、おまえさんは実に多才な男だな」
「薬理学の徒というだけのことですよ、ベルガラス。化学はほとんどすべての状況に適していると思われます」
「あの猟犬が群れのところへ戻って、わたしたちがここにいることを報告しないだろうか?」ダーニクが心配そうにあたりに目を配りながらたずねた。
「数日は大丈夫ですよ」サディはくすくす笑って、両手を顔からなるべく離して、パンパンとはたいた。
かれらは草の生えた小谷の底をゆっくりと進んでいった。陰気な黒ずんだ木々が枝を広げて、深い谷底を暗くしている。遠くのほうで、森を走る猟犬たちの吠え声が聞こえた。頭上ではすすのように黒い鴉たちが枝から枝へ飛び移りながら、ものほしげなしわがれ声で鳴いている。
「やかましいところね」ヴェルヴェットがつぶやいた。
「で、あれが不気味な雰囲気の総仕上げってとこだな」シルクが小谷の前方の枯れた倒木の枝にとまっている、大きな禿鷲を指さした。
「かなりアシャバのそばまできてるけど、ザンドラマスがまだアシャバにいるかどうかもうわかる?」ガリオンはポルガラにたずねた。
「たぶんいるはずよ」ポルガラは答えた。「でも、ほんのかすかな物音でも聞かれてしまうわ」
「ここまでくればじゅうぶんだ、ようすをうかがうとしよう」ベルガラスが言った。「だが、ひとつ言っておくことがある。もしわしのひ孫がアシャバにいるなら、わしは草の根をわけてでもひ孫を捜し出す。どんなに大きな音をたてようがかまわん」
セ・ネドラは衝動にかられて馬をベルガラスの馬の横につけ、身をのりだして老人の腰に抱きついた。「ああ、ベルガラス。愛してますわ」彼女はベルガラスの肩に顔を埋めた。
「何事だね?」老人の声はかすかに驚いていた。
セ・ネドラは目に涙をうかべて体を起こした。手の甲でその涙を拭ってから、ちゃめっけのある表情でベルガラスを見た。「あなたはこの世でいちばん大事な方ですわ。あなたのためなら、ガリオンを捨ててもいいかと思ったくらい」そこまで言って彼女はつけくわえた。「あなたが一万二千歳だっていう事実さえなければ、ですけど」
「七千だ」ベルガラスは思わず訂正した。
セ・ネドラは愁いをふくんだ気まぐれな微笑を老人に向けた。もうどうでもよくなった進行中の競争に勝利をおさめたことを物語る、けだるいサインである。「何歳とおっしゃってもだめよ」彼女はためいきをもらした。
するとベルガラスは妙にかれらしからぬ態度でセ・ネドラを抱きしめ、やさしくキスした。「かわいい子や」老人は目に涙をためて言うと、ふりかえってポルガラを見た。「セ・ネドラなしでこれまでどうやってわしらは仲良くやってこられたのだろうな?」
ポルガラの目は謎めいていた。「わからないわ、おとうさん」彼女は答えた。「本当に」
小谷をのぼりきったところで、サディが馬をおり、一行がたどってきた道のまんなかに生える低い灌木に、例の粉をさらにふりかけた。「念のためです」そう説明すると、宦官はふたたび鞍にまたがった。
低くたれこめた空の下で谷から出た一行は、樹木に富む平原に入った。強まる風にマントをはためかせて、かろうじて見える道を北へ向かって馬を進ませた。どこか遠くのほうで、トラクの猟犬たちの吠え声がまだ聞こえていたが、近づいてくる気配はなかった。
これまで同様、シルクとフェルデガーストが危険がないかどうか、先に行ってあたりを偵察した。ガリオンは兜をかぶり、槍をあぶみにいれて、ふたたび列の先頭に立っていた。急角度で曲がっている道を折れたとき、前方にシルクと道化師の姿が見えた。馬をおり、茂みのかげにしゃがみこんでいる。シルクがすばやくふりかえって、さがってろというようにガリオンに合図した。ガリオンは急いでそのことをうしろにいる面々に身ぶりで伝え、一歩ずつ灰色の種馬をあとずさりさせた。角からひっこむと、ガリオンは槍を木にたてかけて、兜を脱いだ。
「どうしたんだ?」ベルガラスがやはり馬からおりてたずねた。
「わからない」ガリオンは答えた。「シルクがさがってろと合図してきたんだ」
「見に行こう」老人は言った。
「よし」
ふたりは腰をかがめて、忍び足でネズミ顔の男と道化師に近づいた。シルクが人差し指を口にあてた。ガリオンは茂みに着くと、注意深く葉をかきわけて向こうを見た。
一本の道が見えた。かれらがたどってきた道と交わる道だ。その道を五十人ほどの男たちが馬で行進していた。ほとんどの男が毛皮をまとい、錆びた兜をかぶって、曲がったりへこんだりした剣を手に持っている。しかし、列の先頭を行く男たちは鎖かたびらを着ていた。かれらの兜はぴかぴかで、手には槍と楯をつかんでいる。
ガリオンと仲間は身を固くして、ひとこともしゃべらずに、乱れた隊列が通過するのを見守った。
見知らぬ連中が見えなくなると、フェルデガーストがベルガラスのほうを向いて言った。「あんたの疑ってたとおりのようですな、ご老体」
「やつらは何者なんだ?」ガリオンは声を落としてたずねた。
「毛皮の連中はカランド人ですよ」フェルデガーストが答えた。「で、鎖かたびらを着てたのは神殿の護衛たちだ。ウルヴォンとメンガのあいだに協力関係があるってなによりの証拠でしょうよ」
「カランド人がメンガの手下というのは確かなのか?」
「メンガはカタコールを完全に征服しましたからね、カタコールで武装してる唯一のカランド人はやつの手下に決まってまさ。ウルヴォンとかれのチャンディムは護衛を支配してる――それに、猟犬をね。きのうカランド人と猟犬が一緒のところを見たときに、協力関係があるのはようくわかったが、カランダの狂信者どもが武装した護衛たちに付き添われてるのを見りゃ、もう疑いの余地はありませんや」
「あのバカは何をたくらんでるんだ?」ベルガラスがつぶやいた。
「だれのことです?」シルクがきいた。
「ウルヴォンさ。これまでにも相当悪どいことをしてきたやつだが、悪魔とつきあうような真似はしなかった」
「それはたぶん、トラクが禁じてたからじゃありませんかね」フェルデガーストが言った。「だが、トラクが死んだとあれば、何をしようと自由の身ですわ。教会と皇帝の座とのあいだで長年くすぶっていた対決がついに現実のものとなれば、悪魔は勝利を得るのに強力な要因となるはずでしょうが」
「やれやれ」ベルガラスは不満そうだった。「いまやあれこれせんさくしている暇はない。みんなのところへ戻って、前進だ」
一行はカランド人と護衛たちがいなくなった道をいそいで横断し、細い道を進みつづけた。さらに数マイル行くと、低い丘の頂上へ出た。しばらく前に火事があったと見え、丘は丸裸だった。平原の向こう端には切り立った絶壁がそそり立って、山並につづいている。その絶壁の少し手前に、巨大な黒い建造物がまるでそれ自身山のようにそびえていた。荒々しいいくつもの塔と、胸壁のある塀が建造物を囲み、周囲の草木をなかば窒息状態に追い込んでいる。
「アシャバだ」ベルガラスが険しい目をして、短く言った。
「アシャバは廃墟だとばかり思ってた」シルクが意外そうに言った。
「廃墟となっている部分もあるらしい」老人は答えた。「上階部分はもはや住めるような状態ではないが、一階はまだほとんど無傷なのだ――少なくともそう思われている。あれだけ大きな建物だ、雨風でぼろぼろになるには相当長い年月がかかるだろう」老人は馬を軽く蹴って、低い丘をおり、風の吹き荒れる森へ戻った。
一行がトラクの家を囲む空き地の端に着いたころには、あたりはほとんど暗くなっていた。ガリオンは黒い城の塀をなかばおおっている植物が、木苺と茎の太い茨なのに気づいた。長年風雨にさらされた窓ガラスはすっかり曇り、ガラスの割れた窓枠が、黒い頭蓋骨の眼窩よろしく空き地を凝視している。
「どうなの、おとうさん?」ポルガラが言った。
ベルガラスはあごひげをかいて、森の奥から聞こえる猟犬たちの鳴き声に耳をすました。
「ちょいとばかりあっしの忠告を聞く気があるんなら、ご老体」とフェルデガーストが言った。「すっかり暗くなるのを待って、なかへはいったほうが賢明なんじゃないでしょうかね? 万が一家のなかに見張りがいても、夜はそいつらの目からあっしらを隠してくれるでしょう。それに、いったん暗くなっちまえば、家に人がいるんなら、明かりがつくにきまってますわな。そのほうが予測が立てやすいってもんでしょう」
「もっともですよ、ベルガラス」シルクが賛成した。「まっぴるまに非友好的な家に堂々とはいっていくのは、おれの作法じゃありませんね」
「だからおまえさんは盗っ人だというんだよ。しかし、案としてはそれが一番いいようだ。森へ少しひっこんで、暗くなるのを待とう」
ラクトとヴェンナの平原では春のようにぽかぽかしていた陽気が、カランデセ山脈のふもとのここでは、まだ身を切るように冷たかった。この高地をつかんでいた冬が、ようやくその手を離したばかりだったからだ。風は冷たく、木々の下にはところどころ去年の冬に積もった深い雪が溶けずによごれて固まっていた。
「家を囲むあの塀だけど、ぼくたちにとって障害になるかい?」ガリオンはたずねた。
「だれかが門を修繕していなければ、問題はない」ベルガラスが答えた。「ボー・ミンブルの戦いのあと、ベルディンとわしがここにきたときは、門にはすべて鍵がかかっていたのだ。わしらは鍵をこわしてなかへはいらねばならなかった」
「門めざして歩いていくのは、世界一の名案とは言えませんや、ベルガラス」フェルデガーストが言った。「チャンディムかカランド人か護衛が家にいたら、門を見張らせてるに決まってるし、真っ暗闇夜にだって明かりがいっぱいついてるはずですからね。だが、この家の東側にゃ裏門がありましてね、そこから中庭へはいれるんです。夜になりゃ、中庭はあっというまに真っ暗になるんでさ」
「裏門にはかんぬきがかけられないのか?」シルクがきいた。
「かけられますとも、ケルダー王子。しかし、あっしみたいに手先の器用な人間にとっちゃ、へ[#「へ」に傍点]でもない鍵でしてね」
「じゃ、なかにはいったことがあるのか?」
「ときどき、廃屋をうろつきまわるのがあっしの趣味なんですよ。前の住人がどんなものを残していったかなんてだれにもわかりませんからね。いい稼ぎになりますわ」
「それは認める」シルクはうなずいた。
森の入口で家を見守っていたダーニクが戻ってきた。ちょっと心配そうな表情を浮かべている。「絶対確実というわけじゃないが」と前置きして、「あそこの塔のひとつから煙が出ているように見えるんだ」
「一緒に行って、ちょっと見てきましょう」道化師が言い、フェルデガーストと鍛冶屋は濃くなってきた闇のなかを木立をくぐって歩いていった。数分後にふたりは戻ってきた。ダーニクの顔にはかすかな嫌悪がはりついていた。
「煙だったか?」ベルガラスがたずねた。
フェルデガーストは首をふって答えた。「コウモリですよ。小さいコウモリが何千匹と飛んでるんですわ。大きな黒雲みたいに塔から出たり入ったりしてるんです」
「コウモリですって!」セ・ネドラが叫び声をあげて、本能的に両手で髪を押さえた。
「めずらしいことじゃないわ」ポルガラが言った。「コウモリには巣を作るための、保護された場所が必要なのよ。廃墟や廃屋はかれらにとって理想的な場所なの」
「でも、とっても気味悪いんですもの!」セ・ネドラはみぶるいしながら言った。
「羽根の生えたネズミってだけのことですよ、おじょうさん」フェルデガーストが言った。
「わたし、ネズミも嫌いなの」
「ずいぶん好き嫌いの激しい女と結婚したんですな、陛下」フェルデガーストはガリオンに言った。「偏見といわれのない嫌悪にこりかたまってる」
「そんなことより、なかから明かりは漏れてたのか?」ベルガラスがたずねた。
「光は見えませんでしたがね、ご老体、でかい家だから窓のない部屋が内側にあるんでさ。トラクが太陽を嫌ってたのはご存じでしょうが」
「森を抜けて、おまえの言った裏門へ近づくとしようか」老人は言った。「日の光が完全に消えてしまわないうちにな」
かれらは木立から出ないようにして、中心に大きな黒い家の立つ空き地のまわりをぐるりと回った。雲におおわれた空から最後の光が消えかけたころ、森の端から用心ぶかく外をのぞいてみた。
「裏門がよく見えないぞ」シルクが家のほうをのぞきこみながらつぶやいた。
「一部隠されているんですよ」フェルデガーストが教えた。「蔦にほんのちょっとでも場所をやってごらんなさい、数百年でこの建物全体が蔦にのみこまれちまう。心配御無用でさ、ケルダー王子。勝手はよくわかってますって、トラクの家への入口は真っ暗闇でもちゃんと見つけられますよ」
「日が暮れると、猟犬たちがこのあたりを巡回するんだろう?」ガリオンはそう言って、サディを見た。「あそこで粉を使い切ったんじゃないだろうね」
「まだじゅうぶん残ってますよ、ベルガリオン」宦官は微笑して小袋をたたいてみせた。「フェルデガーストさんの裏門への入口にちょっとまいておけば、いったんなかへはいったあと心配せずにすむでしょう」
「どう思います?」ダーニクが暗い空を目を細めて見上げた。
「もうよかろう」ベルガラスはつぶやいた。「なかへはいりたい」
一行は馬をひいて雑草のおい茂る空き地を横切り、そびえたつ塀にたどりついた。
「もうちょいこっちです」フェルデガーストが低い声で言いながら、塀の黒い粗石にそってさぐるように歩きだした。
一行は道化師の姿ではなく、かれの足が草をわける音に導かれて、数分間歩いた。
「あ、ここですよ」フェルデガーストは満足そうに言った。塀にくり抜かれたアーチ型の低い入口が、蔦と茨でほとんどふさがれている。ダーニクと巨人のトスが大きな音を立てないようにゆっくりと動いて、みんなが馬と一緒になかへはいれるように邪魔な蔦をつかんでわきへどかした。ふたりはみんなのあとからなかにはいり、蔦を元の位置に戻して、入口をふたたび隠した。
なかは真っ暗だった。カビとキノコのじめじめした匂いがたちこめている。「もういっぺん火打ち石とほくち[#「ほくち」に傍点]と鋼を貸してもらえますかね、善人さん?」フェルデガーストがささやいた。小さなチンという音につづいて、せわしないカチカチいう音と無数の火花がこぼれでた。フェルデガーストはそのかすかな輝きさえも隠すようにひざまずいて、ダーニクの火打ち石と鋼をこすりあわせた。しばらくして、道化師はほくち[#「ほくち」に傍点]に息を吹きかけ、ちっぽけな炎を誕生させた。塀の小さなへこみからとりあげた四角いランタンの前をあけたとき、またチンという音がした。
「それは賢明なことかね?」道化師が火をともしたちびた蝋燭をランタンのなかにいれ、ほくち[#「ほくち」に傍点]と鋼を返したとき、ダーニクは疑わしげにたずねた。
「ちゃんとおおいはしてありますって、善人さん。それに、この場所ときたらあんたのブーツのなかより暗いんですぜ。このことについちゃ、あっしを信用しておくんなさいよ、小指の先ほどの光だって漏らしゃしないから」
「盗賊のランタンて呼ばれてるやつはそれじゃないのか?」シルクが興味ありげにたずねた。
「はて」そう言ったフェルデガーストの声はちょっぴり気分を害しているようだった。「これをなんて言うんだか、あっしはよくは知りませんね。盗賊のランタンなんておもしろくもないひびきですよ」
「ベルガラス」シルクは低い声でくっくっと笑った。「ここにいるあなたの友だちは、おれたちが信じこまされている以上に波乱万丈の過去を送ってきたようですね。かれのことがどうしてこんなに好きなのか、われながら不思議ですよ」
フェルデガーストは小さなランタンの両側にあるブリキの蓋をおろして、小さな光の点だけが足元の地面を照らすようにしていた。「じゃ、行きますか」かれはみんなに言った。「裏門はこの塀をちょいと戻ったところにあるんでね、そこまで行けば裏門を閉めるのに使う格子に行きあたる。そこから右に曲がってもうちょい進み、今度は左に曲がるんでさ。そうすりゃ家の中庭に出る」
「なんでそんなにくねくね曲がりくねっているんだ?」ガリオンは道化師にたずねた。
「トラクはひねくれ者でしたからね、そうでしょうが。太陽を憎悪したのと同じくらい、まっすぐな線を憎悪してたんじゃないでしょうかね」
一行はランタンが投げるかすかな光の点をたどった。何世紀ものあいだ入口から吹き込んで積もった朽ち葉が、湿ったマットのように地面を覆い、馬たちのひづめの音を吸い込んでくれた。
通路を遮断している格子は、錆ついた鉄棒を互い違いに組んだとてつもなく大きな建造物だった。フェルデガーストはしばらくその巨大な掛け金をいじりまわしていたが、やがて見事にそれをはずした。「さてと、そこのでっかい友だち」と、トスに声をかけた。「ここであんたのばか力が必要になってくるんだ。警告さしてもらうと、この格子はおっそろしく重いし、それに蝶番はすっかり錆ついてるから、ちっとやそっとじゃびくともしない」道化師はいったん言葉を切った。「それで思いだしたんだが――やれやれ、あっしの脳みそはどこへ行っちまったんだろう? つまり、あんたが格子をあけるときに立てるすさまじいきしりをごまかす何かが必要なんだよ」フェルデガーストは一同をふりかえった。「馬の手綱をしっかり持っててくださいよ。馬はびっくりするでしょうからね」
トスはばかでかい両手をがっしりした格子にかけて、道化師を見た。
「やってくれ!」フェルデガーストは鋭く言ってから、大男がゆっくりときしみをあげる蝶番をこじあけはじめると同時に、顔を上向け、外をうろついている大型の猟犬そっくりの声で吠えた。
クレティエンヌが鼻息を荒くして、その恐ろしい咆哮からあとずさろうとしたが、ガリオンは手綱をしっかりつかんでいた。
「ふむ、うまい手だ」シルクが感心した。
「あっしはときどきこれをやるんですよ」フェルデガーストは認めた。「外で犬どもがぎゃあぎゃあ鳴いてるんだから、鳴き声がひとつ増えたってだれもなんとも思いやしないが、蝶番のきしみとなると、これは別問題ですからね」
フェルデガーストは先頭に立って、いまは大きく開いた格子をくぐり、じめじめした通路を進んでいきなり右に折れた。さらにしばらく進むと、通路はふたたび左に曲がっていた。その角を曲がる前に、道化師はランタンの火を完全に消してしまい、あたりは鼻をつままれてもわからない闇に包まれた。「そろそろ中庭です」かれはみんなにささやいた。「ここからは沈黙と用心が必要ですぜ。家にだれかがいたら、最大限の注意を払って、だれにも不意をつかれないようにしてるでしょうからね。そこの塀にゃ手すりがついてるから、馬たちはここにつないでおくのがいいと思いますよ。中庭の石の上だと馬のひづめはとびあがるような音をたてるだろうし、この呪われた場所の廊下を馬で進みたくはないからね」
一同は静かに馬たちの手綱を錆ついた鉄の手すりにつなぐと、足音を忍ばせて通路の角に近づいた。角の向こうはいくらか闇が薄かった――明るいわけではないが、息づまるような暗黒がいくらかやわらいでいる。一同はやがて裏門に通じる内側の入口にたどりつき、広い中庭の向こうにそびえる黒い家を眺めた。その家の様式には、優雅なところは微塵もなかった。ずんぐりした醜悪なその外見は、まるで、美という言葉の意味を理解できない大工たちが、苦心して家の所有者の傲岸不遜な誇りを具現したかのように見える。
「ああ」ベルガラスが陰気につぶやいた。「あれがアシャバだ」
ガリオンは目の前の黒々とした家を、不安と、いてもたってもいられぬ期待がいりまじった気持ちで見つめた。
そのとき何かがかれの目をとらえた。ガリオンは中庭の向こうの家の正面に視線を移動させた。向こう端、一階のとある窓のなかでおぼろげな光が、まるで油断のない目のように輝いていた。
[#改ページ]
5
「どうする?」シルクがぼんやりと照らされた窓を見ながらささやいた。「家にたどりつくには、あの中庭を横切らなけりゃならないが、あの窓から見張っているやつがいるのかいないのかわからんときたぜ」
「学園を卒業してから歳月が流れすぎたようね、ケルダー」ヴェルヴェットがつぶやいた。「レッスンを忘れてるわよ。こっそりやるのが不可能なら、堂々とやってみろ、でしょ」
「ドアまで歩いていって、ノックしろっていうのか?」
「まあ、ノックまでするつもりはないけれど」
「どうしようというの、リセル?」ポルガラがそっとたずねた。
「家のなかに人間がいるとしたら、たぶんグロリムたちですわ、そうでしょう?」
「まずまちがいない」ベルガラスが言った。「たいがいの人間はこの場所を避けるからな」
「わたしの観察では、グロリムは他のグロリムにはほとんど関心を払いません」ヴェルヴェットはつづけた。
「おれたちがグロリムの服を持ってないことを忘れてるぜ」シルクが指摘した。
「あの中庭は真っ暗なのよ、ケルダー。あの暗がりなら黒っぽい色ならなんだって黒に見えるんじゃない?」
「まあ、だろうな」シルクは認めた。
「わたしたちの荷物にはまだあの緑色の絹の服がはいってるのよ、そうじゃない?」
シルクは暗闇で目を細めてリセルを見てから、ベルガラスに視線を移した。「おれの本能はいやがってるけど、うまくいく見込みはありますな」
「どのみちわしらは家へはいらねばならんのだ。何事であれ決める前に、なかにだれがいるのか――なぜいるのか――つきとめねばならん」
「ザンドラマスにはグロリムたちがついているのかしら?」セ・ネドラがたずねた。「もしあの家にいるのが彼女ひとりで、一列に並んだグロリムが中庭を横切ってくるのを見たら、びっくりしてわたしの赤ちゃんを連れて逃げてしまうんじゃない?」
ベルガラスは首をふった。「たとえ逃げても、つかまえるさ――いかにザンドラマスが追跡をまこうとしても、〈珠〉がまかれることはありえない。それに、もしザンドラマスが家にいるなら、おそらく自分のグロリムたちを連れているだろう。ここからダーシヴァまでは目と鼻の先だ、手下どもを召集するのはわけなかったはずだよ」
「かれはどうします?」ダーニクが小声で言って、フェルデガーストを指さした。「奴隷商人の衣装がありませんよ」
「即席で何かこしらえましょうよ」ヴェルヴェットがつぶやいた。彼女は道化師を見て微笑した。「かれの目を際だたせること受け合いの、すてきなダーク・ブルーの化粧着を持ってますの。ネッカチーフを頭巾に仕立てれば、ごまかせるわ――かれがわたしたちのまんなかにまぎれこんでいればね」
「あっしの威厳をそこなうやりかたですよ」フェルデガーストは文句をつけた。
「ここに残って馬たちを見張っているほうがいいの?」ヴェルヴェットは楽しげにたずねた。
「いじわるなんだな、あんたは、おじょうさん」道化師は不服そうだった。
「ときどきはね」
「それでいこう」ベルガラスは決断した。「わしはあの家にはいらねばならん」
馬たちがつながれているところへ引き返して、フェルデガーストのランタンの弱い光をたよりに、きちんと畳まれた奴隷商人の服を荷物からひっぱりだすまで、ものの数分とかからなかった。
「これじゃピエロじゃないか?」道化師はヴェルヴェットがかれの体に巻き付けた青いサテンの化粧着を指さしながら、怒って言った。
「とってもすてきだと思うわ」セ・ネドラが言った。
「あそこに人間がいるなら、廊下を巡回していそうなものじゃないか?」ダーニクがきいた。
「一階だけですって、善人さん」フェルデガーストが答えた。「上のほうは人が住める状態じゃないんでね――窓って窓は割れてるわ、風は廊下中に吹き込むわで、まるで広々した戸外も同然なんだ。玄関をはいった正面にりっぱな階段があるからね、ツイてればだれにも見られないでこっそり階段をのぼれるはずなんだ。上まであがっちまえば、生き物に出くわす見込みはまずありませんや――コウモリだのネズミだのときどき侵入してくる冒険好きの野ネズミを別にすれば」
「どうしてもそれを言わなくちゃならなかったの?」セ・ネドラが皮肉っぽく言った。
「ああ、これはこれは」フェルデガーストはにやにやした。「だが、ご安心を。あっしがそばについてますからね、あっしに勝てるコウモリや家ネズミや野ネズミなんていやしないんだから」
「もっともですよ、ベルガラス」シルクが言った。「おれたち一団が一階の廊下へぞろぞろはいっていったら、遅かれ早かれだれかに気づかれちまう。だが、上へあがってしまえば、おれが偵察して、何を相手にすることになるのか正確に見きわめられますからね」
「よし」老人は同意した。「だが、まずなかへはいることだ」
「では、出発しましょう」フェルデガーストが化粧着をひるがえして言った。
「その光を隠せ」ベルガラスは命じた。
かれらは一列になって入口をくぐり、裏門につくと、儀式の折りにグロリム僧たちがやる揺れるような歩き方で、暗い中庭へはいっていった。家の端の明かりのともった窓が、かれらの一挙一動を見張る目のように見えた。
中庭はそれほど広くなかったが、ガリオンにはそれを横切るのが数時間にも感じられた。だがとうとう一行は玄関にたどりついた。ばかでかい黒いドアには釘が打ちつけられていて、ガリオンがこれまで見たことのあるグロリムの神殿のドアとそっくりだった。だが、その上に掛けてある鋼の仮面はもう磨かれてはいなかった。家の一端の窓からもれるかすかな光で、ガリオンはその仮面が数世紀のあいだに錆ついていることや、冷たく美しい顔がゆがみ、へこんでいることに気づいた。だが、それ以上に仮面を恐ろしく見せているのは、眼窩から頬にかけて走る二本のでこぼこした半液体状の錆だった。倒れる前に傷ついた神の顔を流れ落ちた憤怒の涙を思いだして、ガリオンはみぶるいした。
かれらは階段を三つあがってそのおぞましいドアに近づき、トスがゆっくりとドアを押し開けた。
なかの廊下は、遠くでゆらめく一本のたいまつによってぼんやりと照らされていた。フェルデガーストの言ったとおり、ドアの向かい側に大きな階段があり、闇のなかへ消えている。踏み段には落下した石がちらばり、暗がりにまぎれて見えない天井からは長い花綱のような蜘蛛の巣がぶらさがっている。依然としてグロリムの足取りで動きながら、ベルガラスは先に立って廊下を横切り、階段をのぼりはじめた。ガリオンは用心深い歩調でそのあとにつづいたが、体中の神経は走れと叫んでいた。階段を半分ほどのぼったとき、背後でカチャという音が聞こえ、突然階段の下に明かりがついた。「何をしている?」荒っぽい声が問いつめた。「おまえたちは何者だ?」
ガリオンは暗澹たる気持ちで振り向いた。階段の下の男は裾の長い外套のような鎖かたびらを着ていた。兜をかぶり、左腕には楯をひもでくくりつけている。右腕で、男はパチパチ燃えるたいまつをかかげもっていた。
「こっちへおりてくるんだ」鎖かたびらの男はかれらに命令した。
巨人のトスがおとなしく向きを変えた。頭巾を深くかぶって顔をおおい隠したトスは、両腕を交差させて手を袖の中へひっこめていた。従順な態度で、かれは階段をおりはじめた。
「おまえたち全員おりてくるんだ」神殿の護衛はくいさがった。「アンガラクの神の名にかけて、命令する」
トスが階段の下についたとき、大男の着ているのがグロリムの黒服でないことに気づいて護衛の目が大きく見開かれた。「なんだ、これは?」男は叫んだ。「おまえたち、チャンディムではないな! いったい――」男の声が突然途切れた。トスのばかでかい片手が護衛の喉もとをつかんで床から持ち上げたからだ。護衛はたいまつを落として、必死に手足をばたつかせた。するとトスはいたってなにげないようすで、もう片方の手で護衛の兜を脱がせ、廊下の石壁に護衛の頭を何度か打ちつけた。鎖かたびらの男はけいれんしながらぐったりと動かなくなった。トスは気絶した男を肩にかついで、ふたたび階段をのぼりはじめた。
シルクが飛び上がって廊下へとってかえし、鋼の兜と消えたたいまつをひろいあげ、また階段の上に戻ってきた。「証拠はつねに消せ、だ」かれはトスにささやきかけた。「ちゃんと後始末をしなけりゃ、完全犯罪じゃないぜ」
トスはにやりと笑ってみせた。
階段のてっぺんまであと一歩というとき、かれらは踏み段が外から吹き込んだ枯葉におおわれていることや、腐ったカーテンのような穴だらけの蜘蛛の巣が、割れた窓ガラスからはいってくる風に揺れていることに気づいた。
階段のてっぺんの廊下はゴミだらけだった。床には乾いた葉がくるぶしまでつもり、風に舞っている。後方の廊下のつきあたりには、蔦がぎっしり這ったガラスのない大きな観音開きの窓があり、山々の斜面を伝って吹き込んでくる冷たい夜風が蔦を騒がせている。ドアというドアは半ば腐り落ちて、蝶番からぶらさがっていた。ドアの向こうの部屋はどれも朽ち葉とほこりに埋もれ、家具もベッドも家作りの材料を捜し求める無数のネズミたちの餌食になって、布の部分は根こそぎなくなっている。トスが気絶した捕虜をそんな部屋のひとつに運びこんで、手足をしばったあと、さるぐつわをはめた。こうしておけば、夜が明ける前に意識を取り戻しても、大声をあげられない。
「あの明かりは家のもういっぽうの端にともっていたよな?」ガリオンがきいた。「あそこにはなにがあるんだ?」
「トラク自身の居室があったところですよ」フェルデガーストが答えて、かすかな光線が漏れるようにランタンを調節した。「謁見の間があそこにあったんですわ、それとトラク専用の礼拝室が。なんなら、トラクの寝室にご案内してもいいですぜ、そうすりゃやつのばかでかいベッドの上で――というか、ベッドの残骸の上で――好きなだけぴょんぴょんできるってもんだ」
「それはやらなくてもいい」
ベルガラスはさっきから片方の耳たぶをひっぱっていた。「最近ここへきたことがあるのか?」老人は道化師にたずねた。
「六ヵ月ばかし前ですがね」
「ここにだれかいた?」セ・ネドラがせきこんでたずねた。
「いんや。墓みたいにからっぽでしたよ」
「ザンドラマスがここへつく前だったのよ、セ・ネドラ」ポルガラがやさしく言った。
「どうしてです、ベルガラス?」フェルデガーストは言った。
「わしはボー・ミンブル以後、ここへきていないのだ」ベルガラスはとりちらかった廊下を歩き続けながら言った。「当時、この家は少しも傷んでいなかった。だが、アンガラク人の建てる建造物はもちの悪さで名高いからな。よく漆喰がもっているな」
「一年たったパンみたいにぼろぼろですよ」
ベルガラスはうなずいた。「そんなことだろうと思った。さてと、わしらがここで求めているのは情報だ、廊下でのおおっぴらな戦いではない」
「ここにいるのがザンドラマスでなければの話さ」ガリオンは訂正した。「もしあの女がまだぼくの息子を連れてここにいるなら、ぼくは戦う。ボー・ミンブルが田舎の祭りにしか見えないようなすさまじい戦いをしてやる」
「そして、ガリオンがし損じたことはわたしが始末するわ」セ・ネドラが激しい口調でつけくわえた。
「このふたりをおとなしくさせておけんのか?」ベルガラスは娘にきいた。
「この状況じゃ、むりね」ポルガラは答えた。「わたし自身加勢するつもりなんだから」
「わしらは、おまえの性格からアローン人気質をいくらか消しさることができたものと思っておったがな、ポル」
「これは気質の問題じゃないわ、おとうさん」
「わしが言っておるのはな」とベルガラス。「みんな――男だろうと女だろうと――が筋肉をウォーミングアップさせないうちに、わしがせめて明確にしておこうとしているのはだ、この二階から家の主要部分で何がおこなわれているのかを見聞きするのは完全に可能だということなんだ。フェルデガーストの言うとおり、漆喰が腐っていれば、この部屋のどこかの床にちいさな割れ目を見つけて――あるいは作って――知る必要のあることをつきとめるのはむずかしいことじゃない。ザンドラマスがここにいれば、大事なのはそれだが、どんな方法であれ、ふさわしいと思えるやりかたでザンドラマスと戦うことができるだろう。だが、ここにいるのがウルヴォンのチャンディムや護衛や、あるいはメンガの率いるカランド人の狂信者グループなら、わしらはここにいることを知らせずに、ザンドラマスの跡を追ってわしらの目的に専念したほうがいい」
「もっともですね」ダーニクが賛同した。「不要な戦いに巻き込まれるのは意味がありません」
「この喧嘩っ早いグループのなかに常識を持ち合わせた者がいてよかったよ」老人は言った。
「もちろん、ザンドラマスが下にいたら」と鍛冶屋はつけくわえた。「わたしもなんらかの処置をしなければなりませんが」
「おまえさんもか?」ベルガラスはうめいた。
「あたりまえでしょう。なんといっても、正しいことは正しいのですから、ベルガラス」
一同は朽ち葉におおわれた廊下を進んでいった。穴だらけの蜘蛛の巣が天井からぶらさがり、隅のほうではネズミたちの足音が聞こえた。
並はずれてぶあついおかげで、まだ無傷の大きな両開きドアの前にさしかかったとき、ベルガラスはあることを思いだしたようだった。「ここを見てみたい」老人がつぶやいて、そのドアをあけたとき、ガリオンが背中にしょっている剣が、ガリオンをよろめかせるほどの力でかれをひっぱった。「おじいさん!」ガリオンはあえぐように言った。うしろに手をのばして〈珠〉にはずれるように指示すると、ガリオンは大きな剣を抜きはなった。先端を床につけたとき、ガリオンはすんでに部屋のなかへひきずりこまれそうになった。「ザンドラマスはここにいたんだ」
「なんだって?」ダーニクが聞き返した。
「ザンドラマスだ。あの女はゲランとこの部屋にいたんだ」
フェルデガーストがランタンの前蓋を大きくあげて、部屋をもっとよく照らしだした。そこは広々とした書庫だった。床から丸天井まで達するほどの高い棚が並び、ほこりまみれのカビ臭い本や巻物がぎっしりつめこまれている。
「すると、ザンドラマスがさがしていたのはあれだったのか」ベルガラスがひとりごちた。
「あれって?」シルクがたずねた。
「一冊の本さ。予言書だ」老人の顔が暗くなった。「ザンドラマスはわしと同じものを追跡している。おそらくここが、『アシャバの神託』の完全な写しを発見できる唯一の場所なのだ」
「ああ!」セ・ネドラがひきつった声で小さく叫んだ。彼女はふるえる手でほこりのつもった床を指さした。そこには足跡があった。あるものはあきらかに女の靴による足跡だったが、足跡はほかにもあった――非常に小さな足跡が。「わたしの赤ちゃんがここにいたんだわ」セ・ネドラは泣きだしそうな声で言うと、鳴咽をもらして泣きじゃくりはじめた。「あ、あの子は歩けるようになったんだわ。それなのに、わたしは最初の一歩を見ることもできなかった」
ポルガラがそばに近づいて、なぐさめるようにセ・ネドラを抱きしめた。
ガリオンの目にも涙が浮かんでいた。剣の柄を握る手に力がこもり、関節が白くなった。かれはそこらじゅうの物をたたき壊したい衝動にかられた。
ベルガラスは低い声で毒づいていた。
「どうしたんです?」シルクがきいた。
「あれがあればこそ、わしはここへこなければならなかったのだ」老人は歯ぎしりした。「つまり、わしは『アシャバの神託』の完全な写しが必要だったのだ。ところがザンドラマスに先を越されてしまうとは」
「まだほかにもあるかもしれないじゃないですか」
「その見込みはまずない。ザンドラマスは事あるごとにわしを出し抜いて本を焼き捨ててきた。ここにいくつもの写しがあったとしても、あの女がわしの手には入らないように始末してしまっただろう。だからザンドラマスは長時間ここにとどまっていたのだ――この場所をめちゃくちゃにして、写しが自分以外の者の手に入らないようにな」ベルガラスはまた毒づきはじめた。
「これは大事なものなのかな?」エリオンドがテーブルに近づきながら言った。書庫にあるほかの家具とちがい、そのテーブルはほこりがはらわれ、ぴかぴかに磨かれてさえいた。そのテーブルのどまんなかに、黒革で綴じた一冊の本がおいてあり、両側には蝋燭が立っていた。エリオンドがその本をとりあげたとき、たたんだ一枚の羊皮紙がはらりとページのあいだから落ちた。若者はかがみこんでそれを拾い、ちらりと目を走らせた。
「なんだ、それは?」ベルガラスがたずねた。
「メモです」エリオンドは答えた。「あなた宛ですよ」かれは羊皮紙と本を老人に渡した。
ベルガラスはメモを読んだ。とたんに顔が青ざめ、次にビートみたいに真っ赤になった。顔と首に青筋をたてて、老人は歯ぎしりした。ガリオンは老魔術師の意志の力が突然めらめらと燃え上がるのを感じた。
「おとうさん!」ポルガラがぴしゃりと言った。「だめよ! ここにいるのはわたしたちだけじゃないってことを忘れないで!」
ベルガラスは並々ならぬ努力のすえに自分を抑え、そのあと羊皮紙をくしゃくしゃに丸めて床にたたきつけた。あんまり力一杯たたきつけたので、それは宙高くはねあがって、部屋の向こうまでころがっていった。本もそっちへほうり投げようと、本をつかんだ手をうしろへふりかざしたが、それはやめたほうがいいと判断したようだった。かわりに、でたらめに本を開き、数ぺージめくったところで、猛烈ないきおいで悪態をつきはじめた。ベルガラスはその本をガリオンに突き出した。「ほら、これを持ってろ」そう言ってから、雷雲さながらの険悪な顔つきで、ののしり声をあげ、両手をふりまわしながら、行ったりきたりしはじめた。
ガリオンは本を開いて、字が見えるように明かりにかざした。ベルガラスの怒りの原因はすぐにわかった。文章全部がきれいに削除されていたのだ――単に消されていただけでなく、剃刀かごく鋭利なナイフでぺージからそっくり切り取られていた。ガリオンも悪態をつきはじめた。
シルクが興味しんしんで近づいてきて、羊皮紙をつまみあげ、一瞥した。かれはごくりと唾をのみこむと、罵り声をあげているベルガラスを不安げに見やった。「あーあ」
「どういうことだ?」ガリオンはたずねた。
「おれたち全員、おまえのおじいさんからしばらく離れていたほうが身のためだと思うぜ」ネズミ顔の男は答えた。「怒りがおさまるまでちょっとかかりそうだもんな」
「読んでちょうだい、シルク」ポルガラが言った。「説明はいらないわ」
シルクはもう一度ベルガラスを見た。いま、老人は部屋の隅っこで、げんこつを石壁にたたきつけていた。「ベルガラス=vシルクは読み上げた。「おあいにくだったね、おいぼれ。これからわたしは最後の対決のため、〈もはや存在しない場所〉へ行く。できるなら、ついておいで。たぶんこの本がおまえの助けになるだろうよ=v
「署名は?」ヴェルヴェットがたずねた。
「ザンドラマス」シルクは答えた。「きまってるだろう?」
「じつにいまいましい手紙ですな」サディがつぶやいた。宦官はベルガラスを見た。老人はあいかわらず無力な怒りにかられてげんこつで壁をたたきつづけている。「長老が怒りを爆発させなかったのがふしぎなほどですよ――あらゆることを考慮すると」
「でも、それでたくさんの疑問がとけたわ」ヴェルヴェットが考えこみながら言った。
「たとえば?」シルクがたずねた。
「わたしたちはザンドラマスがまだここにいるのかどうかと考えていたでしょう。いないことはこれで明らかよ。そういうメッセージをベルガラスに残しておいて、かれにつかまる可能性のあるここにうろうろしてるわけがないわ」
「そりゃそうだ」シルクは同意した。「てことは、ここにいても意味がないな。〈珠〉がまた足跡をたどってくれるわけだから、この家にはおさらばして、ザンドラマスを追跡すればいい」
「ここにいるのが何者かつきとめないままで、ですかい?」フェルデガーストが異議を唱えた。「あっしは興味しんしんなんですよ、この好奇心を満足させないで立ち去るなんざいやだね」道化師は部屋の向こうで頭から湯気を立てているベルガラスをちらりと見た。「それに、われらが年配の友人のほとぼりがさめるまでには、まだちょいとかかりそうですぜ。これから廊下のつきあたりまで行って、この家の下の部屋を見おろせる場所がないもんかどうか見てきますって――さっきからやいのやいのあっしをせっついてる疑問に答えるためにね」フェルデガーストはテーブルに近づくと、小さなランタンから蝋燭のひとつに火をともした。「一緒にきなさるかね、ケルダー王子?」と水を向けた。
シルクは肩をすくめた。「いいとも」
「ぼくも行く」ガリオンはそう言うと、ポルガラに本を渡して、怒り狂っているベルガラスを批判的にながめた。「いずれはおさまるのかな?」
「わたしが話をするわ、ディア。長くならないようにね」
ガリオンはうなずいて、シルクと道化師とともに静かに書庫をあとにした。
廊下のつきあたりにはひとつ部屋があった。とりたてて大きな部屋ではなく、壁ぎわに本棚が並んでいる。かつては倉庫かリネン室だったのではないかとガリオンは推測した。フェルデガーストは葉のちらばった床を値踏みするようにじっと見たあと、ランタンにおおいをかけた。
部屋の四隅と壁ぎわには枯葉がうず高く積もっていたが、そのあいだからふいにかすかな光が漏れ、下からぼそぼそいう声が聞こえた。
「ご機嫌ななめのあっしの老友の予感は当たっていたようですな」フェルデガーストはささやいた。「あの壁の漆喰はすっかりぼろぼろになってるらしい。枯葉をどけりゃ、格好ののぞき穴が出てきますぜ。トラクの家に住みついてるのが何者か、見てやりましょうや」
ガリオンは突然ずっと前に起きたことをふたたび経験しているような、奇妙な感覚にとらわれた。ヴァル・アローンのアンヘグ王の宮殿にいたときのこと、ガリオンは緑のマントの男の跡を追って、人気《ひとけ》のない二階の廊下を進み、漆喰がぼろぼろに崩れている場所へたどりついたことがある。漆喰のすきまから廊下の人声が漏れていた。そこまで思いだしたとき、別の記憶がよみがえった。一行がトル・ホネスにいたとき、たしかベルガラスは、ゼダーと〈珠〉を追跡しているあいだに起きたほとんどの出来事はもう一度起きる可能性がある、と言わなかったか? なぜなら、一切は〈光の子〉と〈闇の子〉とのもう一つの対決につながっているからだと? ガリオンはその不思議な気持ちを振り払おうとしたが、うまくいかなかった。
三人は枯葉が一枚でも下の部屋に落ちないように、慎重に倉庫の壁に走る裂け目から枯葉をとりのぞいた。それから、めいめいよく見える位置を選んで目と耳をそばだてた。
かれらがのぞきこんだ部屋はたいへん大きかった。窓にはぼろぼろの幕がかかり、四隅には蜘蛛の巣が二重三重にかかっていた。壁の鉄の輪にはいぶるたいまつがはめこまれ、床はほこりと長年のごみで埋もれている。室内は黒装束のグロリムと、粗末な服装の数人のカランド人、それに鋼で武装した多数の神殿の護衛たちで、立錐の余地もなかった。兵士の一隊よろしく整列した一団の正面近くに、巨大なトラクの黒い猟犬の群れが何事かを期待するようにすわっている。猟犬の前には最近使用された形跡のある黒い祭壇があって、片側に赤く光る火鉢が置かれていた。高い壇の上には金色の王座が壁を背においてあり、そのうしろにはぼろぼろに破れた黒い幕とトラクの顔をかたどったばかでかい仮面が見えた。
「これは火傷顔の謁見の間だったところですよ、そうでしょうが」フェルデガーストがささやいた。
「あそこにいるのはチャンディムたちだろう?」ガリオンはささやきかえした。
「鎖かたびらのいばった野郎たちもそうだが、グロリムも獣もチャンディムですわ。ウルヴォンがこの場所をかれの犬どもに占拠させたとはちょいと意外だが、考えてみりゃアシャバは昔っから犬小屋が妥当な使い途でしたよ」
絶えずそわそわと王座を見ている様子からして、謁見の間の連中が何かを待ち受けているのは明らかだった。
そのとき階下から大きなどら[#「どら」に傍点]の音が響いて、煙のたちこめた空中に余韻が残った。
「ひざまずけ!」ばかでかい声が大部屋の一団に命令した。「アンガラクの新たな神に服従と敬意を表するがよいそ!」
「なんだと?」シルクが押し殺した叫びをあげた。
「静かに!」フェルデガーストが叱りつけた。
階下から大きな太鼓の音が聞こえ、ついでやかましいファンファーレが鳴り渡った。金色の王座の近くのぼろぼろの幕がふたつにわかれ、二列に並んだグロリムたちが熱っぽく詠唱しながら入ってくると、集まっていたチャンディムと護衛たちはいっせいにひざまずき、猟犬たちとカランド人たちはひれ伏してくんくんと鳴き声をあげた。
鼓膜の破れそうな太鼓の音がひとしきりつづいたあと、金色の服をまとい、冠をかぶった人物が幕のあいだからもったいぶってあらわれた。輝く光輪が人物を取り囲んでいたが、ガリオンはその輝きを金ぴか服の当人から発散させつづけている意志をはっきり感じ取ることができた。やがて男は尊大な仕草で頭を起こした。その顔はまだらだった――ある部分は健康な皮膚の色をしているが、その他は死人のように青ざめている。だが、ガリオンの血を凍りつかせたのは、男の目が完全に正気を失っていることだった。
「ウルヴォン!」フェルデガーストがはっと息をのんだ。「この薄汚いまだら面の犬めが!」いつもの歌うようなアクセントは跡形もなく消えていた。
そのまだら顔の狂人の真うしろから黒っぽい人影があらわれた。すっぽりと頭巾をかぶっているので、顔はまったく見えない。その人影が着ている黒は単なるグロリムの黒装束というより、人影そのものからにじみでているようだった。その黒い姿の周囲の空気にまじりけなしの悪が浸透するのを感じたとき、ガリオンは冷たい恐怖をおぼえた。
ウルヴォンは壇上にのぼり、王座についた。狂気を宿した目はとびだし、傲慢ないばりくさった表情が顔にはりついている。黒っぽい人影はウルヴォンの左肩のうしろに控えると、身をのりだしてウルヴォンにそっと何かを耳うちした。
謁見の間にいるチャンディム、護衛、カランド人たちはさきほどからひれ伏したまま、猟犬ともどもへつらうような声をたてていた。トラクの最後の弟子は、その間、かれらの追従を一身に受けてふんぞりかえっている。十二人ばかりの黒装束のチャンディムがひざまずいたまま前へいざりでて、金箔を塗った大箱を壇の前の祭壇にうやうやしくのせた。かれらがその大箱の蓋をあけたとき、ふちまでぎっしりアンガラクの赤金と宝石が詰まっているのが見えた。
「これらの貢ぎ物は余の目を楽しませるぞ」王座についた弟子はきいきい声で言った。「他の者も前へ出て、新たなるアンガラクの神に貢ぎ物をするがよい」
チャンディムたちのあいだに狼狽が走り、かれらはあわててこそこそと相談した。
次のグループの貢ぎ物はありふれた木の箱にはいっていた。かれらがそれをあけたとき、入っていたのはただの小石と小枝だった。それらの箱を祭壇へもっていったチャンディムたちは、黒い石の祭壇に箱をおくなり、こっそり金箔の箱とすりかえた。
ウルヴォンは満足そうに大箱と小箱をながめてほくそえんでいた。どうやら金と小石の区別がつけられないようだ。一列に並んだチャンディムたちは祭壇へやってきては箱をおき、別の箱を隠しもってふたたび列の後ろにもどった。
「余は大いに満足であるぞ、皆の者」堂々めぐりが一段落したとき、ウルヴォンは甲高い声で言った。「まこと、おまえたちは余に一国の富をもたらしてくれた」
チャンディム、カランド人、護衛が立ち上がると、ウルヴォンの肩口に控えた黒っぽい人影がひきつづき何事かささやいた。
「ではこれからメンガどのをお迎えする」狂人は発表した。「余に仕えるなかでももっとも好ましい人物だ。余の気高い神性を余に教えてくれたのは、ここにいるこの親愛なる人物だが」と、背後の人影を指さし、「かれを余にひきあわせたのがメンガどのなのだ」
「メンガどのを呼び出すがよい。メンガどのはウルヴォン神に敬意を表し、よって、アンガラクの新たなる神に感謝をもって迎えられるであろう」墓から聞こえたのかと思うほど、その命令を叫んだ声はうつろだった。
広間の奥のドアから再度トランペットがファンファーレを鳴らし、別のうつろな声が答えた。「アンガラクの新しい神、ウルヴォン万歳」声は平板に言った。「敬意を表すため、生ける神との話し合いを求めるために、メンガどのがお目見えになる」
ふたたびやかましい太鼓の音がして、グロリムの黒服を着たひとりの男が広い通路を祭壇と壇のほうへ歩いてきた。祭壇に着くと、男はトラクの王座についている狂人に膝をついて一礼した。
「メンガさまの恐れ多い顔を見るがよいぞ、ウルヴォン神のもっとも愛するしもべにて、やがて第一の弟子になられるお方だ」うつろな声が叫んだ。
祭壇の前の人物はくるりと振り向いて頭巾を脱ぐと、信者たちに顔を見せた。
ガリオンは目をみはり、驚きの声をのみこんだ。祭壇の前に立っている男は、ハラカンだった。
[#改ページ]
6
「くそ!」シルクが声を落として毒づいた。
「みなのもの、神の一番弟子に頭を垂れよ!」ウルヴォンはきんきん声で命じた。「かれを崇拝せよと余が命令しているのだ」
集まったチャンディムのあいだにおどろいたようなざわめきが生じ、上の部屋からのぞき見ていたガリオンは、一部のチャンディムの顔に不本意な表情を見たような気がした。
「頭を垂れよ!」ウルヴォンは立ち上がって金切り声を出した。「かれは余の弟子であるぞ!」
チャンディムは壇上で口から泡をとばしている狂人を見たあと、残忍なハラカンの顔を見た。かれらはおそるおそるひざまずいた。
「われらが神の命令にたいするいとも従順な態度、うれしく思うぞ」ハラカンは皮肉たっぷりに言った。「常にそうであるようおぼえておこう」その声にはまぎれもない脅しが感じられた。
「余の弟子が余の声を代弁していることを知るがよいぞ」ウルヴォンはそう言うと、ふたたび王座に腰をおろした。「かれの言葉は余の言葉だ、余に従うようにかれに従うのだ」
「われらが神の言葉を聞くがいい」ハラカンはさきほどと同じ皮肉めいた声で投げやりに言った。「アンガラクの神は強大だからな、注意を払うことを怠れば怒りはみるまに爆発する。さらにわたし、メンガがウルヴォンの声であると同時に剣でもあることを知っておくがいい、そして不従順の懲罰はこのわたしの手が下すことをな」露骨な脅しだった。ハラカンは文句があるなら言ってみろといわんばかりに、集まった僧侶たちの顔をゆっくりと見渡した。
「生き神さまの弟子メンガ万歳!」鎖かたびらの護衛のひとりが叫んだ。
「メンガ万歳!」残りの護衛たちが呼応し、げんこつで楯を叩いて敬礼した。
「メンガ万歳!」カランド人が金切り声をあげた。
「メンガ万歳!」ひざまずいていたチャンディムがついに折れて言った。すると大きな猟犬たちが腹ばいになって前進し、ハラカンの足元にじゃれついて手をなめた。
「よろしい」王座についた狂人が甲高い声で宣言した。「アンガラクの神は満足であるぞ」
そのとき眼下の謁見の間に、さっきウルヴォンがあらわれた腐った幕のあいだから、もうひとりの人物があらわれた。細身で、体にまといつく黒いサテンの服をまとっている。頭は黒い頭巾によって一部隠されており、服の下に何かを隠し持っている。祭壇に着くと、その人物は嘲笑の声をあげて頭巾を脱いだ。下からあらわれた大理石のように白い顔には、この世のものならぬ美しさと、この世のものならぬ残忍さが浮かんでいた。「脳なしぞろいだね」その人物はしわがれ声で吐き捨てるように言った。「あたしの許可なしにアンガラクに新しい神を出現させられると思うのかい?」
「そなたを呼んだおぼえはないぞ、ザンドラマス!」ウルヴォンが叫んだ。
「あんたの召集なんぞどうでもいいのさ、ウルヴォン」ザンドラマスは侮蔑に満ちた声で答えた。「ここにいる犬どもとちがって、あたしはあんたの創造物じゃない。あたしはアンガラクの神にお仕えしているんだ、そのお方があらわれたら、あんたはぐうの音も出まいよ」
「余がアンガラクの神なるぞ!」ウルヴォンは金切り声をあげた。
ハラカンが祭壇をまわってザンドラマスに接近した。
「で、おまえはそのちっぽけな意志の力を〈闇の子〉の意志と戦わせようというのかい、ハラカン?」ザンドラマスはひややかにきいた。「いくら名前を変えたところで、おまえの力が大きくなるわけではなかろうに」その声は氷のように冷たかった。
ハラカンは急に用心深い目つきになって、立ち止まった。
ザンドラマスはウルヴォンに向きなおった。「あんたが神に格上げされたのを知らせてもらえなかったのが残念だよ」と、つづけた。「知っていたなら、もっと前にきて、あんたに敬意を表し、あんたの祝福を求めただろうさ」次の瞬間、ザンドラマスの口が冷笑にめくれあがり、端整な顔をゆがめた。「あんたが?」ザンドラマスは言った。「あんたが神だって? いつまでもトラクの王座にすわっているがいい、そのあいだにこのみすぼらしい廃墟があんたの周囲でくずれおちる。神が聞いてあきれるわ。せいぜい屑をいつくしんで、金と呼ぶがいい、神が聞いてあきれるわ。まつわりつく犬どものおべっかに浸っているがいい、いまですらこいつらは糞であんたの謁見の間を汚しているんだよ、神が聞いてあきれるわ。あんたのてなずけた悪魔のナハズがあんたの耳に狂気をいまも吹き込んでいるんだよ、せいぜいその言葉に耳をかたむけるがいいさ、神が聞いてあきれるわ」
「余は神だ!」ウルヴォンはわめいて、また立ち上がろうとした。
「だから? せいぜいそう言うがいいさ、ウルヴォン」ザンドラマスは喉を鳴らさんばかりだった。「だが、あんたが神なら、神でいられるうちに楽しむことだ。傷ついたトラク同様、あんたも死ぬ定めなんだからね」
「神を殺す者がどこにいる?」ウルヴォンは口から泡を飛ばしてくってかかった。
ザンドラマスは身の毛もよだつ笑い声をたてた。「どこにいるって? そいつはトラクの命さえ奪ったんだよ。あんたの師の命をえぐりだした〈鉄拳〉の燃える剣のひと突きに備えておくことだね、なぜならこのあたしが〈神をほふる者〉を呼んだからさ!」
そう言うと、ザンドラマスは前に出て、服の下に隠し持っていた布の包みを黒い祭壇にのせた。そして顔をあげ、ガリオンが凝然と目を見張っている漆喰の隙間をひたと見上げた。「そなたの息子を見るがよい、ベルガリオン」ザンドラマスはガリオンに呼びかけた。「そしてその泣き声を聞くがよい!」ザンドラマスは布を広げて、おさないゲランをむきだしにした。赤ん坊の顔は恐怖にゆがんでいた。ゲランはよるべない迷い子のように泣きだした。
ガリオンの頭は空白になった。その泣き声こそ、マル・ゼスを発ってから耳にこびりついて離れなかった声だった。あれは、夢にあらわれた疫病の蔓延する路地で、死を待つばかりのあの子どもの泣き声ではなかった。ガリオンの血を分けた息子の声だったのだ! その力なく呼びかけてくる泣き声に抗いきれず、ガリオンはのぞき穴から目を離した。目の前にいきなり一面の炎が燃え上がったような気がした。下の祭壇で泣いている幼な子のもとへ行かなければならないという捨身の欲求だけを残して、心の中のいっさいを消し去る炎が。
ガリオンは枯葉の散らばる薄暗い廊下を突っ走り、わめきながら〈鉄拳〉の剣を鞘からむしりとっている自分にぼんやりと気づいた。
がらんとした廊下を猛スピードで駆け抜けると、からっぽになって久しい部屋の朽ちたドアが飛ぶようにうしろに遠ざかった。うしろのほうでシルクのおどろいた叫びがかすかに聞こえた。「ガリオン! やめろ!」ガリオンは耳を貸そうともせず、頭を熱く煮えたぎらせたまま、燃え上がるリヴァの巨大な剣をかざして走りつづけた。
数年たってからも、階段は記憶から抜け落ちている。おぼろげに思い出せるのは、怒り狂いながら階下の広間へ駆け込んでいったことだけだ。
そこにいた神殿の護衛やカランド人たちはガリオンを見てすくみあがり、および腰で刃向かおうとしたが、ガリオンは剣の柄を両手で握りしめ、穀物を刈り取る者のようにかれらの中へはいっていった。剣をふるって列を刈り込むと、護衛たちが血しぶきをあげて倒れた。
死んだ神の謁見の間に通じる巨大なドアは閉じられ、かんぬきがかけられていたが、ガリオンは魔術に頼ることさえしなかった。かれは燃える剣でただドアを――そして死に物狂いでドアをあけまいとした者たちを――こなみじんにした。
謁見の間に躍りこんだとき、ガリオンの目には狂気がみなぎっていた。〈神をほふる者〉のすさまじい形相に固唾をのむチャンディムたちを怒鳴りつけ、かれは青い光の輪に包まれて、おびえるかれらに接近した。めくれあがったガリオンのくちびるからは罵声がとび、おそるべき剣は深紅に燃え上がって、死の大ばさみよろしく前後に揺れていた。
ひとりのグロリムが片腕をあげて前に飛び出してくると、ガリオンはほとんど聞き取れないほどの、息を吸い込むような音をたてて意志の力を集めた。ガリオンは足をとめようとしなかった。謁見の間にいた他のグロリムたちは恐怖におじけづき、ガリオンの燃える剣の先端が向こうみずな僧侶の肩胛骨のあいだにつきささった。致命傷を負ったグロリムは胸に刺さった燃える剣を凝視した。ふるえる手でその剣をつかもうとしたが、ガリオンは剣をひきぬき、情け容赦なく前進した。
どくろが握りについた杖を持ったひとりのカランド人が行く手をさえぎって、懸命に呪文をとなえた。だが、ガリオンの剣が男の喉をきりさいたとき、言葉は唐突に途切れた。
「〈神をほふる者〉を見るがいい、ウルヴォン!」ザンドラマスが勝ち誇って言った。「あんたの命もこれまでだよ、アンガラクの神。トラクが命を奪われたように、あんたもベルガリオンによって命を奪われるからさ!」そう言うと、ザンドラマスはひるんでいる狂人に背を向け、「〈光の子〉よ、万歳!」と、よく通る声で叫び、冷酷な微笑をガリオンに向けた。「ベルガリオン、万歳」ザンドラマスはあざけるように言った。「アンガラクの神をいま一度殺しておくれ、それがそなたの務めだったのだからね。では、〈もはや存在しない場所〉でそなたがくるのを待っているよ」ザンドラマスはやおら泣いている赤ん坊を両腕に抱き取ると、ふたたびマントで幼な子をくるみ、にじむような微光を放って消えてしまった。
体よくだまされていたことに気づいて、ガリオンは舌をかみきりたいほどの後悔に襲われた。ザンドラマスはかれの息子とともに実際にそこにいたわけではなかったのだ。ガリオンはからっぽの投影に煮えたぎる怒りのすべてをぶつけていたにすぎなかった。もっと悪いことに、かれをあやつっていた泣きじゃくる子供の悪夢は、ザンドラマスがその嘲笑に満ちた命令にかれを応じさせるために、ガリオンの意識に植えつけたものだったのである。ガリオンの士気は阻喪した。剣が下を向き、輝きがいろあせはじめた。
「そいつを殺せ!」ハラカンが叫んだ。「トラクを殺した張本人を殺すのだ!」
「殺せ!」ウルヴォンが狂った悲鳴をあげた。「殺して、その心臓を余に捧げよ!」
神殿の護衛が六人、あきらかに不承不承、慎重な前進を開始した。ガリオンはふたたび剣を持ち上げた。新たに燃え上がった光を見て、護衛たちは飛びのいた。
ハラカンが武装した護衛たちを見てあざわらった。「臆病者がどういう目にあうか、よく見るがいい」吐き捨てるように言うと、ハラカンは片手を伸ばして一言つぶやいた。護衛のひとりが絶叫し、悶えながら床に倒れた。鎖かたびらと兜が一瞬にして白熱し、生きながら護衛を蒸し焼きにした。
「さあ、おれに従うのだ!」ハラカンはわめいた。「やつを殺せ!」
ハラカンの行為に恐れをなした護衛たちは、気を取り直して、じわじわとガリオンを追いつめ始めた。そのとき、外の廊下を走ってくる足音が聞こえた。ガリオンがすばやく肩ごしに目をやると、仲間たちが謁見の間に飛び込んでくるのが見えた。
「気でも狂ったのか?」ベルガラスが怒鳴りつけた。
「あとで説明する」挫折感と失望からまだ立ち直れずにいたガリオンは言った。目の前の武装した護衛たちに注意を戻すと、かれは巨大な剣をふたたび大きく振り回してかれらを撃退しはじめた。
ベルガラスは中央通路の片側にいたチャンディムの方を向くと、一瞬意識を集中させて、短いジェスチャーをした。通路両側の石の床から、いきなり激しい炎が噴き出した。
老人とポルガラのあいだに何かが行き交ったようだった。ポルガラがうなずいたとたん、通路の反対側にも炎の壁が出現した。
護衛のうちふたりはガリオンの剣に倒れていたが、残りは目を血走らせたカランド人を率いて仲間を加勢しようとした。ところが、通路の両側から火が噴き出したので、日に見えてひるみ、加勢より先に火と戦わなくてはならなくなった。
「意志を結集させろ!」ハラカンがチャンディムにわめいていた。「火を消すんだ!」
護衛とカランド人たちに包囲され、〈鉄拳〉の剣をふるって敵をなぎ倒していてもなお、ガリオンはチャンディムの結集した意志のうねりを感じた。ベルガラスとポルガラの努力にもかかわらず、通路両側の火が弱まって、消えそうになりはじめた。
ガリオンと向き合う護衛たちの列のあいだから、一頭の巨大な猟犬が飛び出してきた。目はらんらんと輝き、歯のぎっしり生えた口を大きくあけている。猟犬はぞっとするようなうなり声をあげて、ガリオンの顔めがけて飛びかかってきたが、ガリオンが剣で頭をたたき割るとけいれんしながら床に倒れた。
そのときハラカンが護衛とカランド人をかきわけてガリオンの前へ出てきた。
「また会ったな、ベルガリオン」ハラカンは犬そっくりの声で言った。「剣を捨てろ、さもないとおまえの仲間と――おまえの女房を殺すぞ。おれには百人のチャンディムがついているんだ。いくらおまえでもそれにはかなうまい」ハラカンは意志の力を結集させはじめた。
そのとき、ガリオンのおどろいたことにヴェルヴェットがその冷酷なグロリムのほうへ両手をさしのべて、わきから走りでてきた。「お願い!」ヴェルヴェットは泣き叫んだ。「わたしを殺さないでください!」ヴェルヴェットはハラカンの足元に身を投げると、黒い服にしがみついてひれ伏した。
この思いがけない従順なふるまいに一瞬虚をつかれて、ハラカンはかき集めた意志の力を放し、服をつかんでいるヴェルヴェットの手をふりはらおうとあとずさった。蹴られても、たたかれても、ヴェルヴェットはハラカンにしがみついたまま、泣きじゃくりながら命ごいをした。
「この女をどけろ!」ハラカンは手下に命令して、わずかに顔をそちらへ向けた。そのまばたきほどの短い一瞬が、ハラカンの命取りとなった。ヴェルヴェットの手が目にもとまらぬすばやさで胴着の中へ伸びた。胴着から出てきたとき、その手はあざやかな緑色の小さな蛇を握っていた。
「プレゼントよ、ハラカン!」ヴェルヴェットは勝ち誇ったように叫んだ。「〈狩人〉から熊神教の指導者へのプレゼントよ!」そう言うなり、ヴェルヴェットはジスをハラカンの顔に投げつけた。
最初にジスが噛んだとき、ハラカンは一度だけ悲鳴をあげた。ジスを顔からどけようと両手が持ち上がったのもつかのま、悲鳴はおそろしいごぼごぼという音に変わり、両手がむなしく宙でふるえた。絶叫し、あとずさるハラカンを、怒った小さな爬虫類は何度も攻撃した。ハラカンは体を硬直させ、祭壇の上にのけぞって倒れた。両足がかすかに床をかすり、両腕は無益にばたばた動いていた。かれは祭壇の黒い石に頭を打ちつけた。目は飛び出し、口からはふくれあがった舌が突き出ている。やがてどす黒い泡が口からこぼれ、さらに何度かけいれんしたあと、ハラカンの体はぐにゃりと祭壇からころげ落ちた。
「ベスラの仇よ」祭壇の前の床にぼろきれのように倒れた死者に向かって、ヴェルヴェットが言った。
チャンディムとその一団は倒れた指導者の死体を凝視しながら、こわごわあとずさりはじめた。
「敵はわずかだ!」ウルヴォンが金切り声をあげた。「われわれのほうが数は多い! 全員やっつけてしまえ! これは神の命令だ!」
チャンディムは最初にハラカンのねじれた死体を呆然と見つめた。次に王座についている冠をかぶった狂人を見つめ、最後に、祭壇の上で鎌首をもたげ怒ったシュウシュウという音をたてている恐ろしい小さな蛇を見つめた。
「もうたくさんだ」ベルガラスがぴしゃりと言って、最後の炎を消し、意志の力にふたたび焦点をしぼりはじめた。ガリオンも背筋を伸ばして意志の力を引き込んだ。おびえたチャンディムが最後のおそるべき対決のために力を結集しはじめたのが感じられた。
「いったい何事ですかい?」フェルデガーストが笑いながらいきなりガリオンと敵たちのあいだに進み出た。「いいですかい、こういう憎みあいやら争いやらは、その気になりゃやめられるんですぜ。あっしがどうするつもりか教えましょう。あっしのわざをちょいとご披露させてくださいよ。そうすりゃみんな笑いだしてこれっきり憎みあいなんぞなくなっちまうから。心に笑いがあふれてりゃ、憎悪なんかどこかへいっちまいまさ、そうでしょうが」
やがてかれは手品をはじめ、空中から色あざやかなボールをいくつも取り出した。グロリムたちはこの予想外の中断にあっけにとられてフェルデガーストを見つめ、ガリオンは故意に自殺的行為に出ているとしか思えないフェルデガーストを信じられない思いで凝視した。手品をつづけたまま、フェルデガーストはどっしりしたベンチの背もたれにひょいと飛び乗り、片手で逆立ちをしながら、空いているほうの手と両足で手品をつづけた。宙から降って湧くボールの数がどんどん増え、ボールの回転するスピードがどんどん早くなった。さらにたくさんのボールが回転するにつれて、ボールの色はますますあざやかになり、ついにはボールが白熱して、逆立ちしている小男の扱うボールは火の玉になった。
と、小男は体を支えていた腕にいきおいをつけてベンチの上に跳ね上がった。ところが、両足が床についたとき、そこに立っていたのはもはや道化師フェルデガーストではなかった。茶めっけたっぷりの芸人の代わりに立っていたのは、節くれだった木のような小男の魔術師、ベルディンの姿だった。いきなりずるがしこい笑いをあげて、ベルディンは度肝を抜かれたグロリムと武装したその仲間たちに火の玉を投げつけはじめた。
ベルディンの狙いは正確だった。死を呼ぶ火の玉は、グロリムたちの服を、護衛たちの鎖かたびらを、カランド人の毛皮のチョッキを、同じようにやすやすと貫いた。犠牲者たちの胸に煙のたちのぼる穴があらわれた。ベルディンの倒した敵は数十人にのぼった。にやにや笑いを浮かべた醜いちびの魔術師が死の連続打を放つあいだに、煙と肉の焼ける異臭が謁見の間に充満した。
「きさま!」ウルヴォンがおののいたような悲鳴をあげた。何千年ものあいだ恐れていた男がいきなりあらわれたショックが、ウルヴォンの狂った心を正気へと引き戻したように見えた。折しもチャンディムとその手下たちは恐怖の叫びをあげて、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「また会えてよかったぜ」魔術師は陽気に言った。「おれたちの会話はこの前中断されたままになってたからな。だが、たしかおれはおまえの腹に熱く焼けた鉤を突っ込んで、はらわたをひきずりだしてやると約束したよな」ベルディンは節くれだった右手を伸ばして指をぱちんと鳴らした。いきなり光がひらめき、白熱して煙を出している残忍そうな鉤があらわれた。「あのつづきをやらねえか」ベルディンは王座にすわってちぢみあがっているあばた面の男に近づきながら言った。
そのとき、狂人の背後でじっとしていた人影が王座の前に進み出た。「やめろ」それはかすれたささやき声で言った。人間の喉には出せっこない音だった。「おれはこいつが必要なのだ」それは輪郭のさだかでない手を伸ばして、支離滅裂なたわごとをしゃべっているトラクの弟子を指さした。「こいつはおれの目的に役に立つ。おまえにこいつを殺させるつもりはない」
「すると、おまえがナハズだな」ベルディンは思わせぶりな口調で言った。
「そうだ」人影はささやいた。「悪魔の神であり、闇の帝王のナハズだ」
「他のオモチャを捜しに行くんだな、悪魔神」ベルディンは耳ざわりな声で言った。「こいつはおれのものだ」
「おまえの意志をおれの意志と戦わせようというのか、魔術師?」
「必要とあらば」
「では、おれの顔をよく見て、死を覚悟するがいい」悪魔は黒い頭巾を脱いだ。ガリオンはたじろいで思わず息をのんだ。ナハズはふた目と見られぬようなひどい顔をしていたが、見る者をふるえあがらせるのはそのくずれた顔だちだけではなかった。血も凍りつく邪悪なものが、燃えるその目からあふれでていたのである。おぞましい緑の火を宿して燃える目がしだいしだいに輝きをまして、その光の束がベルディンのほうへ飛び出した。背中にこぶのある魔術師は奥歯をかみしめると、片手をあげた。その手がいきなり真っ青に輝いてかれの体を流れるように覆い、悪魔の力をはねかえす楯となった。
「おまえの意志は強い」ナハズは食いしばった歯のすきまから押し出すように言った。「だが、おれの意志のほうが一枚上手だ」
すると、ポルガラが犠牲者の散乱する通路を歩いていった。生え際の白い一房が光り輝いている。彼女の片側にはベルガラスが、もう片側にはダーニクが寄り添っていた。三人がそばにきたとき、ガリオンもかれらに合流した。こうしてかれらはゆっくりとベルディンを囲むような位置に立った。気がつくと、エリオンドがすこし離れて、ベルディンを加勢するように立っている。
「さあ、悪魔」ポルガラが不気味な声で言った。「わたしたち全員と対決するつもり?」
ガリオンは剣を持ち上げて、光を解き放った。「そして、これにもか?」〈珠〉を抑制していた力をすべて解放して、つけくわえた。
悪魔は一瞬たじろいだが、すぐまた体勢を立て直した。異形の顔があの恐ろしい緑の火に浸されている。悪魔は黒っぽい服の下から濃い緑に輝く錫《しゃく》か杖のようなものを取り出した。しかし、その杖を持ち上げたとき、悪魔は以前に見落としていた何かに気づいたように見えた。その無残な顔に突然恐怖の影が走り、杖の光が消えると、ナハズの顔を浸していた濃い緑の光が勢いをなくし、弱まりはじめた。すると、ナハズは丸天井をふりあおいで咆哮した――身の毛がよだつようなぞっとする声だった。悪魔はすばやく向きを変えると、ふるえあがっているウルヴォンに詰め寄った。ぼんやりとしか見えない両手を伸ばして、金色の服をまとった狂人の胸ぐらをつかむと、ウルヴォンをやすやすと王座から持ち上げた。次の瞬間、悪魔は逃走した。巨大な破城槌のように炎を押しだしてトラクの家の壁を吹き飛ばし、姿をくらました。
崩れはじめた家からナハズがウルヴォンを運びさるとき、その頭に載っていた冠が転げ落ち、床にあたって真鍮らしい小さな音を立てた。
[#改丁]
第二部 ザマド山脈
[#改ページ]
7
ベルディンは耳をふさぎたくなるような罵声をあげて、輝く鉤を王座に投げつけた。次にかれは、逃走した悪魔が謁見の間の壁にぶち抜いた煙のたちのぼる穴のほうへ向かいかけた。
しかしベルガラスが怒り心頭に発した魔術師の正面に立ちはだかって、きっぱりと申し渡した。「よせ、ベルディン」
「どけ、ベルガラス」
「いつなんどきおまえに襲いかからんともかぎらん悪魔を迫跡させるわけにはいかん」
「自分の世話は自分で焼ける。さあ、どけよ」
「おまえは頭に血がのぼっているんだ、ベルディン。ウルヴォンをやっつける時間ならあとでいくらでもある。いまのわしらは決定せねばならんことがあるんだ」
「何を決定するんだ? おまえはザンドラマスを追い、おれはウルヴォンを追う。それでいいじゃないか」
「そうでもない。とにかく、闇の中へナハズを追いかけさせるわけにはいかんのだ。闇がやつの力を倍増させることは、わし同様おまえも知っているだろう――頭にきたというだけで、おまえの命を悪魔にくれてやるほどわしに残された兄弟分は多くない」
ふたりの視線がからみあい、醜い魔術師はとうとう視線をそらした。足をひきずって壇の方へ戻ると、悪態をつきながら邪魔になる椅子をめちゃくちゃに蹴り壊した。
「みんな大丈夫かい?」シルクがナイフを鞘におさめながらあたりを見回した。
「のようね」ポルガラが答えて、青いマントの頭巾を脱いだ。
「ちょっとあぶないところだった、そうでしょう?」小男の目はばかにきらきらしていた。
「不要な戦いでもあったわ」ポルガラはガリオンに厳しい視線を向けながら、言った。「家の残りの部分をひととおり見てきたほうがいいわ、ケルダー。本当にからっぽかどうか確認しておきましょう。ダーニク、あなたとトスはケルダーと一緒に行ってちょうだい」
シルクはうなずいて、ダーニクとトスを従え、多数の死体をまたぎながら血糊の飛び散った通路をひきかえしはじめた。
「なにがなんだかわからないわ」セ・ネドラが節こぶだらけの木のようなベルディンを呆然と見つめながら言った。ベルディンはふたたびぼろを身にまとっており、おなじみの小枝だの藁だのが体のほうぼうにくっついていた。「どうやってフェルデガーストと入れ替わったの――かれはどこにいるの?」
ずるがしこい笑いがベルディンの顔に浮かんで消えた。「ああ、かわいいおじょうさん」かれは道化師の歌うような口調でセ・ネドラに言った。「あっしはここにおりますって、そうでしょうが。お望みとあれば、あっしの浮世離れしたわざでいまでもあんたを魅了できますぜ」
「でも、わたしはフェルデガーストが好きだったのよ」セ・ネドラは泣きださんばかりだった。
「その愛情をあっしに移し変えりゃそれでいいんですよ、おじょうさん」
「そんなの、同じじゃないわ」セ・ネドラは文句を言った。
ベルガラスは体のねじまがった魔術師をじっとにらみつけていた。「そのへんてこな言い回しがどれだけわしをいらいらさせるか、わかってるのか?」
「そりゃもう、兄弟」ベルガラスはにやにやした。「ようくわかってるさ。だからこそ、この言い回しを選んだんだ」
「どうしてそれほど入念な変装をする必要があったのか、わたしにはよくわかりませんね」毒を塗った小さな短剣をしまいながら、サディが言った。
「マロリーのこのあたりじゃ、おれの顔は知られ過ぎているんだ」ベルディンは答えた。「過去二千年のあいだ、マル・ヤスカの百リーグ以内にある木という木、柱という柱に、ウルヴォンがおれの人相書きを書かせたんでね。正直言って、一番おおざっぱな人相書きからでさえ、おれを見抜くのはそうむずかしくなかったろうよ」
「一種独特の風体ですものね、おじさん」ポルガラが好もしげに微笑しながら言った。
「ああ、なんとも気のきいた表現ですわな、おじょうさん」ベルディンはおおげさにお辞儀をした。
「その言い方、やめてくれんか?」ベルガラスが言った。次に老人はガリオンに向きなおった。「たしか、あとで何か説明すると言っていたな。聞こう――もうあとになった」
「だまされたんだ」ガリオンはしぶしぶ認めた。
「だれに?」
「ザンドラマスさ」
「まだここにいるの?」セ・ネドラが叫んだ。
ガリオンはかぶりをふった。「そうじゃない。ザンドラマスはここに投影してきたんだ――彼女自身とゲランの影を」
「投影と実物の違いがわからなかったのか?」ベルガラスは問いつめた。
「それが起きたときは、相違に気づくような状態じゃなかったんだ」
「説明できるんだろうな」
ガリオンは大きく息を吸うと、ベンチのひとつにすわった。ふと見ると、血のついた両手がふるえていた。「ザンドラマスは用意周到だった。マル・ゼスを出発してからというもの、ぼくは同じ夢を繰り返し見ていたんだ」
「夢を?」ポルガラが鋭く聞き返した。「どんな夢?」
「夢というのは正しい言い方じゃないかもしれない」ガリオンは答えた。「だが、ぼくは何度も何度も赤ん坊の泣き声を聞いた。はじめはマル・ゼスの裏通りでぼくたちが見たあの病気の子供の泣き声を思いだしているんだと思ったが、そうじゃなかったんだ。シルクとベルディンとぼくがこの部屋の真上の部屋からここを見おろしていると、ウルヴォンがナハズをすぐうしろに従えて入ってくるのが見えた。ウルヴォンは完全に狂ってた。自分を神だと思っているんだ。とにかく、ウルヴォンはメンガを呼び――メンガはハラカンだったわけだが、そして――」
「ちょっと待った」ベルガラスがさえぎった。「ハラカンがメンガなのか?」
ガリオンは祭壇の前にだらしなく伸びている死体をちらりと見やった。ジスがまだ黒い石の上でとぐろを巻いて、シュウシュウと音を立てている。「ああ、そうだったんだ」
「この騒ぎがはじまる前に、ウルヴォンが宣言したのさ」ベルディンがつけくわえた。「おまえに教えてる暇はなかった」
「それで相当いろんなことの説明がつくな」ベルガラスは考え込んでから、ヴェルヴェットを見た。「このことを知っていたのかね?」
「いいえ、長老」ヴェルヴェットは答えた。「じつは知りませんでした。わたしはただチャンスを逃がさなかっただけですわ」
シルク、ダーニク、トスの三人が死体の散らばる謁見の間に戻ってきた。「家はもぬけのからですよ」小男が報告した。「いるのはおれたちだけだ」
「よし」ベルガラスは言った。「自分勝手な戦いをはじめた理由を、いまガリオンに聞いていたところだ」
「ザンドラマスがやれと言ったんですよ」シルクは肩をすくめた。「なんでガリオンがあの女の言うことを聞いたのかわからないが、それが起きたことなんです」
「そこのところを説明しようとしてたんだ」ガリオンは言った。「ウルヴォンが下ですべてのチャンディムに、ハラカン――メンガ――がかれの一番弟子になるだろうとしゃべっていた。そのとき、ザンドラマスが現われたんだ――少なくとも、そう見えた。マントの下に包みを持っていた。はじめはそれが何かわからなかったが、ゲランだったんだ。ザンドラマスとウルヴォンはしばらくたがいに怒鳴りあっていたが、ウルヴォンがとうとう自分は神だと主張した。すると、ザンドラマスがこんなことを言ったんだ、『そうかい。それなら〈神をほふる者〉を呼んでおまえを始末させよう』そして包みを祭壇に置き、開いた。現われたのはゲランだった。ゲランは泣きだし、ぼくは突然いままでずっと聞いていたのがゲランの泣き声だったことに気づいた。その時点で、思考が完全に止まってしまったんだ」
「らしいな」ベルガラスが言った。
「まあとにかく、あとは知ってのとおりだよ」死体の累々と並ぶ謁見の間を見回して、ガリオンは身震いした。「どういうことになるか、全然わかっていなかったんだ。逆上していたんだと思う」
「狂暴化、と言ってもらいたいな、ガリオン」ベルガラスが言った。「アローン人にはよくあることだ。そういう性癖には免疫ができているだろうと思っておったが、どうやらわしの見込みちがいだったらしい」
「ガリオンが取った行動にはそれ相応の理由があったのよ」ポルガラが言った。
「カッとなることにそれ相応の理由などあるものか、ポル」
「ガリオンは挑発されたんだわ」ポルガラは考えこむようにくちびるをきゅっと結ぶと、ガリオンに近づいてこめかみにそっと両手を当てた。「もう消えてるわ」
「なんですの?」セ・ネドラは不安そうだった。
「占有よ」
「占有?」
ポルガラはうなずいた。「ええ。その手でザンドラマスはガリオンをひっかけたんだわ。赤ん坊の泣き声でガリオンの意識を一杯にしておいて、祭壇の上にゲランらしき包みを置いたのよ。同じ泣き声を聞いたガリオンは、ザンドラマスの望みどおりのことをせざるをえなくなってしまったわけ」ポルガラはベルガラスに視線を移した。「これはとても重大なことよ、おとうさん。ザンドラマスはすでにセ・ネドラの意識に侵入したわ、今度はガリオンでしょう。他の仲間にも同じことをしようとするかもしれない」
「何が言いたいのだ? おまえは現場をおさえられるんだろう?」
「普通ならね――何が進行中かわかっていれば。でもザンドラマスのやりかたはおそろしく巧妙だわ、とらえどころがないのよ。多くの点で、マーゴ人のアシャラクより上手なのよ」ポルガラは一同を見回した。「みんな、注意して聞いて。もしなにか普通でないことが自分の身に起こりはじめたら――夢とか、考え、奇妙な思いつき、異様な気分――どんなことでもいいから、すぐわたしに教えてもらいたいの。ザンドラマスはわたしたちに追いかけられているのを知っているから、わたしたちの足をひっぱるためにこの占有という手段を使っているのよ。ラク・ハッガへ行く途中ではセ・ネドラにそれを使おうとしたし、今度は――」
「わたしに?」セ・ネドラがびっくりして言った。「知らなかったわ」
「ラク・ヴァーカトからの帰り道、気分が悪くなったのをおぼえている?」ポルガラは言った。「あれは正確には病気ではなかったのよ。ザンドラマスがあなたの意識をいじっていたの」
「でも、だれもそんなこと教えてくれなかったわ」
「アンデルとわたしがザンドラマスを追い払ったあとは、もう心配する必要がなかったからよ。とにかく、ザンドラマスはまずセ・ネドラを利用し、今度はガリオンを利用したわ。次は残りのわたしたちのだれが利用されてもおかしくないのよ、だから、ちょっとでもおかしな気分になりはじめたら教えて」
「真鍮だ」ダーニクが言った。
「なんですって、ディア?」ポルガラがたずねた。
ダーニクはウルヴォンの王冠を持ち上げた。「こいつは真鍮だよ。王座もそうだ。ここには金はまったくないらしいね。家も見捨てられて、何世紀も盗賊が出入りしていたようだ」
「悪魔の贈物がたどる末路はたいがいそんなものさ」ベルディンが言った。「悪魔ってのはまぼろしを創り出すのがえらくうまいんだ」かれはきょろきょろした。「たぶんウルヴォンはこれを神秘的ですばらしいと思ったんだろうよ。腐った幕も、蜘蛛の巣も、床のごみも目にはいらなかったんだ。やつに見えたのは、ナハズがやつに見せたかった栄誉だけだったのさ」薄汚い魔術師はけたけた笑った。「ウルヴォンがわめきちらす狂人として晩年を過ごしてると思うと、うきうきしてくる」ベルディンは付け加えた。「それもおれが鉤をやつのはらわたに食い込ませるまでだがな」
シルクはさきほどからじっとヴェルヴェットを見ていた。「おれに何か説明することがあるんじゃないか?」
「やってみるわ」
「ジスをハラカンの顔に投げつけたとき、なんか妙なことを言ったな」
「言ったかしら?」
「こう言ったんだ、『〈狩人〉から熊神教の指導者へのプレゼントよ』」
「ああ、あれね」ヴェルヴェットがほほえむと、えくぼがあらわれた。「ハラカンを殺すのがだれか知っておいてもらいたかっただけ、それだけよ」
シルクはまじまじとヴェルヴェットを見つめた。
「錆ついてきたわね、ケルダーったら」彼女は叱った。「もうとっくに見当がついていると思ったわ。はっきり言わなかっただけよ」
「〈狩人〉だって?」シルクは信じられなかった。「きみが?」
「わたしが〈狩人〉になってもうずいぶんになるわ。だからいそいでトル・ホネスであなたがたに追いついたのよ」ヴェルヴェットは質素な灰色の旅着のスカートのしわを伸ばした。
「トル・ホネスではベスラが〈狩人〉だと言ったじゃないか」
「だった[#「だった」に傍点]わ、ケルダー、でも彼女の仕事は終わったの。彼女はラン・ボルーンの後継者としてふさわしい人物を確実に王座にすわらせることになってたの。まず、ホネス一族の数人をかれらが立場を固める前に排除しなければならなかったし、そのあとはヴァラナについてラン・ボルーンに二、三提案をしたのよ、かれらがふたりっきりで――」ヴェルヴェットはためらってセ・ネドラをちらりと見、咳払いした。「――その、互いをもてなしあっているときに」
セ・ネドラは真っ赤になった。
「まあ、ディア」金髪の娘は片手を頬に当てた。「まずい言い方だったみたい、とにかく」彼女は急いで先をつづけた。「ジャヴェリンがベスラの仕事は完了したと判断し、新たな使命を帯びた新しい〈狩人〉を送り出す頃合だと考えたの。ポレン王妃はハラカンが西でやったことにひどく気をもんでいたわ――セ・ネドラの殺人未遂や、ブランド殺害、それにレオンで起きたすべてのことについて――それである懲罰を与えるようジャヴェリンに指示したの。その懲罰の実行役にかれが選んだのがわたしだったわけ。わたしはハラカンがマロリーへ戻ってくることを確信してたわ。あなたがたがここへくること――最終的に――も知っていたので、お仲間に加わったわけなの」ヴェルヴェットはぐにゃりとしたハラカンの死体を見やった。「祭壇の正面にハラカンが立っているのを見たときは心底おどろいたわ。でも、そんな絶好のチャンスを逃すわけにはいかなかったの」彼女はほほえんだ。「じっさい、うまくいったわ。このへんで別れて、ひとりでハラカンを捜しにマル・ヤスカへもどろうかと思っていたところだったのよ。ハラカンがメンガだったという事実も、おもいがけないごほうびだったしね」
「おれのお目付け役だとばかり思ったよ」
「ごめんなさい、ケルダー王子。あれはわたしのでっちあげ。合流するための理由が必要だったのよ。ベルガラスはときどきどうしようもなく強情になるでしょう」ヴェルヴェットは魅力たっぷりの笑顔を老魔術師に向けてから、してやられた顔つきのシルクに視線を戻した。「ほんとはね、おじはあなたについてはちっとも動揺なんてしてないの」
「しかし、きみは――」シルクは目をみはった。「この嘘つきめ!」かれは非難した。
「嘘つきだなんて、聞き苦しい言葉よ、ケルダー」ヴェルヴェットはシルクの頬をぴたぴたとたたいた。「ちょっとおおげさだったと言えないこと? たしかに、あなたから目を離したくなかったけれど、それはわたしの個人的理由からだわ。ドラスニアの国政とはまるで無関係よ」
シルクの頬にゆっくりと赤味がさした。
「あら、ケルダーったら」ヴェルヴェットははしゃぎ声をあげた。「赤くなってるわよ――誘惑されたばかりの純情な村娘みたい」
ガリオンは腑に落ちなかった。「どういうことだったんだい、ポルおばさん?」と、たずねた。「つまり、ザンドラマスはぼくに何をしたんだ?」
「追跡を遅らせたのよ」ポルガラは答えた。「でも、もっと重要なのは、わたしたちが最後の対決に臨む前に、わたしたちを打ち負かす可能性があったということだわ」
「わからないな」
ポルガラはためいきをついた。「わたしたちのひとりが死ぬことになっているのはわかっているわね。レオンでシラディスがそう言ったでしょう。でもこういう行きあたりばったりのこぜりあいでは、ほかのだれかが殺される可能性が常に存在するのよ――まったくの偶然でね。もし〈光の子〉――あなたよ――が〈闇の子〉と対決するさいに、任務を終えていないだれかを失っていたら、〈光の子〉が勝つ見込みはなくなるわ。ザンドラマスは不戦勝をおさめることになるのよ。彼女がやっているあの冷酷なゲームの目的は、ひとえにあなたをチャンディムとナハズの争いに誘い込むことだったのよ。残りのわたしたちがあなたの加勢に駆けつけるのは目に見えているわ。そういう戦いは、常に突発事故が起きる可能性をはらんでいるのよ」
「突発事故? ぼくたち全員が予言に支配されているのに、どうしてそんなことが起こりうるんだ?」
「おまえは重要なことを忘れてるな、ベルガリオン」ベルディンが言った。「このことすべては、ある突発的な出来事から始まったんだぜ。第一に予言を二分したのがそれなんだ。頭が白くなるまで予言書を読んでも、場当たり的な偶然の出来事がはいりこんできて、物事を攪乱する余地はいつだってあるんだよ」
「わしの兄弟はいっぱしの哲学者でな」ベルガラスが言った。「いつも物事の裏側を見るんだ」
「あなたがたは本当の兄弟なの?」セ・ネドラが好奇心からたずねた。
「そうさ」ベルディンが答えた。「だが、あんたには絶対にわかりっこない形での兄弟なんだ。おれたちの師がおれたちに印づけたものなんだ」
「じゃ、ゼダーもあなたがたの兄弟だったの?」セ・ネドラはにわかに恐怖のまなこでベルガラスを見つめた。
老人は顎を引いた。「そうだ」
「でも、あなたは――」
「遠慮せずに言ったらいい、セ・ネドラ」ベルガラスは言った。「わしがまだ自分に言っていないことなんかもうひとつも残っていないんだ」
「いつか」セ・ネドラはばかに小さな声で言った。「いつかこれが全部おわったら、ゼダーを出してあげるの?」
ベルガラスの目は石のように無表情だった。「そうは思わんね」
「たとえベルガラスがやつを出したとしたって、おれがまたやつを見つけだして元どおりに押し込めてやる」ベルディンがつけくわえた。
「昔のことをほじくり返してみたところで何にもならんよ」ベルガラスはちょっと考えてから言った。「ケルの乙女ともう一度話す頃合だと思う」かれはトスのほうを向いた。「主人を呼び出してくれるか?」
巨人の顔はむっつりしていた。ようやくうなずいたとき、トスの気が進まないのは明らかだった。
「すまんな」ベルガラスはトスに言った。「だが、どうしても必要なんだ」
トスは吐息をもらしてから、祈りでも捧げるような奇妙な仕草で片膝をついて目を閉じた。ヴァーカト島やラク・ハッガでもそうだったように、ガリオンは多数の声が構成するひとつのつぶやきを聞いた。やがてあのふしぎな多彩色のちらちらする光が、ウルヴォンの見かけ倒しの王座にほど近い空中に出現した。空気が澄んだとき、ケルの女予言者の明瞭な姿が壇上に立っていた。ガリオンははじめて彼女をしげしげと観察した。ほっそりしたその姿は、白いローブと目隠しされた目のせいで、ひどくはかなげで、無力に見えた。しかし、その顔には落ち着きがうかがえた――宿命に面と向かい、疑問も遠慮もなくそれを受け入れている者だけが持つ落ち着きが。シラディスのまばゆい存在に、なぜかガリオンは畏怖の念を禁じえなかった。
「きてくれて感謝する、シラディス」ベルガラスは簡単に言った。「面倒をかけてすまない。これをするのがいかに骨の折れることかわかっているが、これ以上先へ進む前にどうしても聞いておきたいことがあるのだ」
「許されているかぎりの答えを与えよう、長老」シラディスは答えた。その声は明るく音楽のようだったが、そのしゃべりかたにはこの世のものならぬ決意を秘めた力強さがあった。「しかしながら、そなたは急がねばならぬ。最後の対決の時が近づいている」
「わしが話したいと思ったことのひとつがそれなのだ。あらかじめ定められたその時について、もうすこし特定できないかね?」
シラディスは考え込んでいるようだった。思っただけでガリオンの想像力がひるみそうな、とてつもなく大きな力と相談しているように見えた。「そなたの言う時というものが、わたしにはわからぬのじゃ、聖なるベルガラス。だが、赤子が母の胸の下にいるあいだに、〈光の子〉と〈闇の子〉は〈もはや存在しない場所〉で対決せねばならぬし、わたしの務めも完了されねばならぬ」
「なるほど」ベルガラスは言った。「それだけ聞けばじゅうぶんだ。ところで、マル・ゼスでわれわれの前にあらわれたとき、進みつづける前に、ここアシャバで達成される必要のあることがあると言ったな。あまりいろんなことが起きたので、どれがその仕事だったのかわからないのだ。もう少しくわしく教えてもらえないか?」
「その務めなら完了されている、〈永遠なる者〉、というのは、『天の書』に〈女狩人〉は餌食を見つけ、十六番目の月に〈闇の家〉で餌食を倒さねばならぬと書かれているからじゃ。それによいか、運命の宣言と同時に、それは実現したのじゃ」
老人の顔にかすかな困惑の表情が浮かんだ。
「もっとたずねるがよい、アルダーの弟子よ」シラディスはベルガラスに言った。「まもなくわたしは行かねばならぬ」
「わしは〈予言〉のあとをたどることになっている。ところが、ザンドラマスが『アシャバの神託』の写しから重要な部分をけずりとり、わしに発見させるためにそれをここへ残していった」
「そうではない、長老。そなたの書物をけずったのはザンドラマスの手ではなく、その著者の手だったのじゃ」
「トラクの?」ベルガラスはおどろいた声を出した。
「いかにも。なぜならば、予言の言葉がだれの指図も受けなくなると、その意味をあらわすことが予言者にとってはしばしば苦痛となるからじゃ。したがって、書物を操作したのはこの家のあるじだったのじゃ」
「だが、ザンドラマスはけずりとられていない写しをまんまとせしめたのだな?」ベルガラスはたずねた。
女予言者はうなずいた。
「火傷顔が手を加えなかった写しは他にあるのか?」ベルディンが熱っぽくきいた。
「ふたつだけ」シラディスは答えた。「ひとつは弟子のウルヴォンの家にあるが、それは呪われし者、ナハズの手中にある。死にたくなければ、ナハズからそれを取り上げようとせぬことじゃ」
「で、もうひとつは?」醜い魔術師は問いつめた。
「エビ足の人間を捜し出せばよい。その男が書物を捜すそなたたちの助けとなるであろう」
「それじゃあんまり役にはたたねえな」
「わたしは『天の書』に書かれている言葉でそなたたちに話しかけているのじゃ、世界が誕生したときに書かれた書であるぞ。それらの言葉には音はなく、魂に直接話しかけるしかないのじゃ」
「もっともだ」ベルディンは言った。「わかったよ。おまえさんはナハズの話をした。やつはカランダまでの道中、おれたちの行く先々に悪魔を出現させるだろうかね?」
「いいえ、ベルディン。ナハズはカランダにはこれ以上の関心は持っておらぬ。ナハズの闇の軍勢はもはやカランダではもちこたえられぬし、いかな力を発揮しようと、召集にはもはや応じぬ。かわりに、軍勢はダーシヴァの平原に広がって、そこでザンドラマスの手先と戦うことになろう」
「ザンドラマスは今どこにいる?」ベルガラスがたずねた。
「サルディオンが長きにわたって隠されていた場所へ向かっている。サルディオンはもはやそこにはないが、彼女は石に沈みこんだサルディオンの痕跡を発見して、〈もはや存在しない場所〉までその跡をたどっていくつもりなのじゃ」
「そんなことができるのか?」
シラディスの顔から表情が消えた。「それは教えられぬ」そう答えてから、シラディスは背筋を伸ばした。「この場所ではもはやそなたに話すことはない、ベルガラス。そなたを導く予言書を捜すのじゃ。しかし、急がねばならぬ。〈時〉の決められた歩みはとどまることも、ためらうこともないのだから」そのあと、女予言者は壇の前にある黒い祭壇のほうを向いた。そこでジスがとぐろを巻いて、相変わらずいらだたしげにシュウシュウ音を立てていた。「落ち着きなさい、妹よ」シラディスは言った。「おまえの一生の目的が成し遂げられるのだからね。延期されていたことがいまに実現する」そのあと、シラディスは目隠しをしているにもかかわらず、穏やかな顔をひとりひとりのほうへ向け、ポルガラにたいしてだけ頭をさげて深い尊敬を示したように見えた。最後にシラディスはトスのほうを向いた。顔には苦悩が満ちていたが、彼女はひとこともしゃべらなかった。やがて、ためいきをつくと、シラディスは忽然と消えた。
ベルディンは顔をしかめて言った。「あれなんだ、いつも。おれは謎かけは大嫌いだね。謎かけなんてものは、無教養なやつらの楽しみ事だ」
「教養をひけらかすのはやめて、いまのやりとりを分析してみようじゃないか」ベルガラスが言った。「どっちみち九ヵ月余りでこれがすべて決定されることになるのはわかっているんだ。わしに必要なのはその数字だったのだよ」
サディは怪訝そうにたずねた。「どこからその数字が出てきたんです? 正直言って、わたしにはシラディスの言ったことがあまりよく理解できなかったんですよ」
「彼女はわたしたちにあるのは、赤ん坊が母親の子宮の中にいる時間だけだと言ったのよ」ポルガラは説明した。「それは九ヵ月なの」
「そうだったんですか」サディはそう言ったあと、ちょっと悲しそうに微笑した。「そういうことにはどうも疎くて」
「十六番目の月ってのは何のことだったんです?」シルクがきいた。「何のことやらさっぱりわからなかったけど」
「この一切が始まったのは、ベルガリオンの息子が生まれてからだ」ベルディンが答えた。「おれたちは『ムリンの書』の中に、それについて書いてあるところを見つけた。蛇を連れてるおまえの友だちは、十六ヵ月後にこのアシャバにいなけりゃならなかったということさ」
シルクは眉間にしわをよせて指おり数えた。「ゲランが生まれてからまだ十六ヵ月になってないよ」と反論した。
「月だぜ、ケルダー」ベルディンは言った。「月だ、一ヵ月、二ヵ月の月じゃない。それがちがうのは知ってるだろう」
「そうか。それならわかる」
「神託の完全な写しを持っているというエビ足の男とはだれだろう?」ベルガラスが言った。
「なにか思い当たる節があるんだ」ベルディンが答えた。「考えさせろ」
「ナハズはダーシヴァでなにをするんだろう?」ガリオンはたずねた。
「ダーシヴァのグロリムどもを攻撃するんだろうな」ベルガラスが答えた。「ダーシヴァはザンドラマスの出身地だし、あの地域の教会はザンドラマスのものだ。もしナハズがサルディオンをウルヴォンの手に渡したいなら、ザンドラマスをくいとめねばならんだろう。そうでなければ、ザントラマスが最初にサルディオンを手中にすることになる」
セ・ネドラはふいにあることを思いだしたようだった。彼女は飢えたような目でガリオンを見た。「あなたゲランを見たと言ったわね――ザンドラマスがあなたをだましたときに」
「ゲランの投影をね、ああ、見た」
「あの子、どんなだった?」
「同じだ。最後にぼくが見たときと少しも変わっていなかった」
「ガリオン、ディア」ポルガラがそっと言った。「それじゃおかしいでしょう。ゲランはもう一歳になろうとしてるのよ。同じに見えるわけがないわ。赤ん坊というのは最初の二、三年で目をみはるような成長をするものなのよ」
ガリオンはむっつりとうなずいた。「いまにして思えばたしかにおかしいな。あのときは、そんなことを考えている余裕がなかったんだ」そこまで言ってから、ガリオンは口をつぐんだ。「どうしてザンドラマスは今のゲランの姿を投影しなかったんだろう?」
「あなたにまちがいなくわからせたかったからよ」
「やめないか」サディが叫んだ。祭壇のそばに立っていたサディは、あわててジスから手をひっこめたところだった。小さな緑色の蛇は不吉な音を立てて、サディをにらみつけていた。宦官はヴェルヴェットのほうを向いた。「自分が何をしたかわかりますか?」かれは非難した。「あなたはジスをひどく怒らせてしまったんですよ」
「わたしが?」ヴェルヴェットは意外そうにたずねた。
「温かいベッドからひきずりだされて、だれかの顔に投げつけられたらどんな気がすると思うんです?」
「それは考えていなかったわ。ジスに謝るわ、サディ――彼女がもうちょっと平静を取り戻したらすぐにでも。自分からあの瓶に入るかしら?」
「いつもならね」
「じゃ、それが一番安全なやりかたよ。瓶を祭壇に置いて、ジスをなかまで這っていかせ、ちょっとむくれさせておいたらいいわ」
「そうですな」
「この家には泊まれそうな部屋が他にあるの?」ポルガラがシルクにきいた。
シルクはうなずいた。「いくつかね。チャンディムと護衛たちが寝泊まりしていた部屋がありますよ」
ポルガラは死体の散らばる謁見の間を見回し、ベルガラスに言った。「じゃ、ここから出ましょうよ。ここはまるで戦場だわ。血の匂いはそれほど心地よいものではないしね」
「どうしてわざわざそんなことを?」セ・ネドラが言った。「すぐにでもザンドラマスを追いかけるんでしょう?」
「それは夜が明けてからよ、ディア」ポルガラは答えた。「外は暗いし寒いわ。わたしたちはみんな疲れているし、おなかもすいているでしょう」
「でも――」
「チャンディムや護衛は逃げていったけれどね、セ・ネドラ、かれらがどこまで行ったかはっきりとはわからないのよ。それに、もちろん、猟犬もうろついているでしょう。わたしたちが近づく最初の木のうしろに何が潜んでいるかわからないわ。こんな闇夜に森へ入っていくような過ちを犯すのはやめましょう」
「そのとおりですわ、セ・ネドラ」ヴェルヴェットが言い聞かせた。「少し眠って、明日の朝早く出発しましょう」
小さな女王はためいきをついた。「そうね。ただちょっと――」
「ザンドラマスはぼくから逃げられやしないよ、セ・ネドラ」ガリオンが元気づけた。「あの女がどっちの道を行ったか、〈珠〉が知っている」
一同はシルクについて謁見の問から出、血しぶきの飛び散った外の廊下を歩いていった。ガリオンはできるだけのことをして、怒りにかられてトラクの謁見の間へたどりつく途中に殺した護衛やカランド人たちのもつれあった死体を、セ・ネドラの目から隠そうとした。廊下を半分ほど進んだとき、シルクがとあるドアをあけて、壁の鉄の輪からはずしておいたたいまつを高くかかげた。「これがおれに提供できる一番いい部屋ですよ」かれはポルガラに言った。「少なくとも、だれかが掃除する努力だけはしてますからね」
ポルガラはあたりを見回した。バラックといった感じの部屋だった。壁から寝台がつきだし、中央にはベンチと長いテーブルがある。向こう端には暖炉があって、最後の燃えさしが輝いていた。「まあまあってとこね」
「馬たちを見てきたほうがいいな」ダーニクが言った。「一階のどこかに厩はあるかい?」
「中庭のつきあたりにある」ベルディンが言った。「ここにいた護衛どもが自分らの馬たちのために、たぶんまぐさと水を置いているだろうよ」
「よかった」ダーニクは言った。
「わたしの料理道具と食料品の入った荷物を持ってきてもらえる、ディア?」ポルガラがきいた。
「もちろんだとも」ダーニクはトスとエリオンドをともなって出ていった。
「急にくたくたになっちゃったよ、立っていられないほどだ」ガリオンは言いながらベンチにすわりこんだ。
「むりもないな」ベルディンがぶつぶつ言った。「おまえにとっちゃ、忙しい夜だったんだ」
「わしらと一緒にくるのか?」ベルガラスがベルディンにたずねた。
「いや、やめとく」ベルディンはベンチに長々と寝そべった。「ナハズがどこへウルヴォンを連れてったのかつきとめたい」
「やつを追いかけられるのか?」
「当然よ」ベルディンは鼻をつついた。「悪魔の匂いなら、通過して六日たってもかぎあてられる。鼻のきく犬みたいにナハズを追跡するさ。長くはかからんだろう。おまえはさきにザンドラマスを追跡しろ。途中で追いつく」ベルディンは考えこむように顎をこすった。「ナハズはまずまちがいなくウルヴォンを目の届かんところにはやらんだろう。なんてったって、ウルヴォンはトラクの弟子なんだからな――だったというべきかね。どれだけおれがやつを毛嫌いしていようと、やつが非常に強い意志の持ち主であることは認めないわけにはいかん。ナハズはウルヴォンが正気に戻らないように、たえずやつに話しかけてなけりゃならんだろう。したがってだ、あの魔神が手下を監督するためにダーシヴァへ行ったなら、ウルヴォンを連れてったことはほぼ確実だ」
「気をつけてくれよ、え?」
「女々《めめ》しいことを言うのはやめてくれ、ベルガラス。おれが追跡できるように、なにか痕跡を残してってくれよ。おまえを捜してマロリー中を捜索するはめになりたかないからな」
サディが片手に赤い革の箱を、片手にジスのはいった小さな瓶を持って謁見の間からやってきた。「まだひどくいらだってますよ」かれはヴェルヴェットに言った。「武器として利用されたことに腹を立ててるんです」
「謝るって言ったでしょ、サディ。ちゃんと説明するわ。きっとわかってくれるわよ」
シルクが妙な顔つきで金髪の娘を見ていた。「教えてくれないか」かれは言った。「はじめてジスを胸の奥へいれたとき、全然平気だったのか?」
ヴェルヴェットは笑った。「白状するとね、ケルダー王子、最初は悲鳴をあげないようにするだけで精一杯だったのよ」
[#改ページ]
8
夜が明けて最初の光がさしたとき――光といっても、山脈から吹きおろす寒風に流れる、ぶあつい雲におおわれた暗い空をほんのちょっと明るくする程度のものでしがなかったが――一同が夜を過ごした部屋にシルクが戻ってきた。「この家は監視されてるぞ」かれはみんなに言った。
「相手は何人だ?」ベルガラスがたずねた。
「見たのはひとりですがね、他にもいるのはまちがいないですよ」
「どこにいるんだ? おまえさんが見たやつは?」
シルクは意地悪そうにニヤッとした。「空を見てますよ。少なくとも、見てるように見える。目はあいてるし、仰向けになってるから」シルクは片手をブーツの中へすべりこませると、いつも持ち歩いている短剣のひとつを取り出して、かつては鋭利だったその刃を残念そうに眺めた。「鎖かたびらの上からナイフを突き刺すのがどんなに骨が折れるか、わかりますかい?」
「だからみんな鎖かたびらを着るんだと思うけど、ケルダー」ヴェルヴェットが口をはさんだ。「こういうのを使ったほうがいいわよ」柔らかく女らしい服のどこからか、彼女は針のように先の尖った刃の長い懐剣をひっぱりだした。
「好きなのは蛇だけかと思ってたよ」
「常にふさわしい武器を用いることよ、ケルダー。鎖かたびらに噛みつかせてジスの歯を折るような真似はしたくないもの」
「ふたりとも、仕事の話は他のときにやってくれ」ベルガラスが割って入った。「急に空に心を奪われちまったその男だが、何者かわかるか?」
「自己紹介してる暇はなかったもんですからね」シルクは刃のこぼれたナイフをブーツにしまいこんだ。
「わしが言ってるのは、何者かってことだ、名前を聞いとるんじゃない」
「そうか。神殿の護衛でしたよ」
「チャンディムのひとりじゃないのか?」
「服装しか判断材料になるものがなかったんです」
老人はぶつくさ言った。
「馬で進みながらいちいち木や茂みの陰を調べなけりゃならないとしたら、到底早くは進めませんね」サディが言った。
「わかっとる」ベルガラスは片方の耳たぶをひっぱった。「よく考えさせてくれ」
「おとうさんが結論を出すまでのあいだに、朝食をこしらえるわ」ポルガラがヘアブラシをわきに置きながら言った。「みんな何が食べたい?」
「ポリッジは?」エリオンドが期待をこめてたずねた。
シルクはためいきをついた。「それを言うなら、粥だ、エリオンド。粥」言ったあとで、シルクはあわててポルガラを見た。ポルガラの目がにわかに冷ややかになった。「ごめんよ、ポルガラ」シルクは謝った。「しかし、若者を教育するのはわれわれの義務だ、そうは思いませんかね?」
「わたしが思ってるのは、もっと薪が必要だということだわ」
「すぐに取ってこよう」
「ご親切ね」
シルクは逃げるように部屋を出ていった。
「なにか考えついたか?」醜い魔術師のベルディンがベルガラスにたずねた。
「いくつかな。だが、どの案にも欠点がある」
「おれにまかせちゃどうだ」体のねじれた魔術師は暖炉に近いベンチにだらしなくすわると、うわの空で腹をぼりぼりかいた。「ゆうべは疲れただろうし、一万歳ともなりゃ、力を蓄えておく必要があるぜ」
「本気でそういうばかな言いぐさをおもしろがってるのか、え? いっそ、二万歳と言ったらどうだ――五万歳でもいい。とことんばかを言ってみろ」
「やれやれ」と、ベルディン。「おれたちけさは短気になってやしないかね? ポル、そこにビールはないのか?」
「朝食前から、おじさん?」暖炉で大なべをかき回していたポルガラが言った。
「粥のショックから胃袋を守るためさ」
ポルガラはじろりとベルディンをにらんだ。
ベルディンはにやにやしてから、ベルガラスに向きなおった。「しかし、まじめな話、家の周囲に潜んでる連中のことはおれにまかせちゃどうなんだ? ケルダーはナイフを一本残らずなまくらにできるだろうし、リセルはあのあわれなちっこい蛇を牙がすりへるまで利用できるだろうが、おまえはこのあたりの森から敵を一掃できるかどうか自信がないだろう。おれはどうせちがう方向に行くんだから、護衛やカランド人をおどかすようなはなばなしいことをやってから、チャンディムと猟犬どもにうってつけの目立つ痕跡を残して行くよ、な、そうさせてくれ。やつらがおれを追いかけてくりゃ、おまえたちはからっぽの森を進めるってもんだ」
ベルガラスは推し量るようにベルディンを見た。「本当は何を考えてる?」
「まだ考慮中さ」魔術師は考えこみながら、背中をもたせかけた。「正面から考えてみろよ、ベルガラス、チャンディムとザンドラマスはおれたちがここにいるのをすでに知ってるんだぜ。となりゃ、抜き足さし足で歩き回ったって意味がない。ちょいと騒々しい音を立てたからって、別段まずいことにもなるまいよ」
「それはそうだな」ベルガラスは同意してから、ガリオンに目を向けた。「ザンドラマスがここを出発してからどっちの方角へ行ったか、〈珠〉からヒントはあるのか?」
「東の方角へ絶えず引っ張るような感触があるが、それだけだ」
ベルディンはひとりごちた。「筋は通るな。というのは、カタコール中にウルヴォンの手下がうろついてたから、ザンドラマスはできるかぎり急いで見張られていない一番近くの国境へたどりつきたいと考えたはずだ。となると、ジェンノだ」
「ジェンノとカタコールのあいだの国境には見張りがいませんの?」ヴェルヴェットがたずねた。
「どこが国境だか連中にはわかってもいないのさ」ベルディンは鼻で笑った。「少なくとも、森の中ではな。どうせ国境までは木しかないんだから、わざわざ警備しようともしないんだ」かれはベルガラスに向きなおった。「こういうことについては、思いこみすぎないほうがいいぜ」と、忠告した。「マル・ゼスにいたとき、ふたりであれこれ考えただろう。そしていきついたのは、真実はあいまいだってことだった。ここマロリーじゃ陰謀が渦巻いてるからな、意外な形で事態が展開すると思ってたほうがいいぜ」
「ガリオン」暖炉からポルガラが言った。「シルクを見つけてきてもらえない? もうすぐ朝食なのよ」
「わかった、ポルおばさん」ガリオンは反射的に答えた。
朝食をすませると、一同は身の回り品をふたたび詰めて、荷物を厩へ運んだ。
「裏門から出たほうがいいな」中庭をもう一度横切っているとき、ベルディンが言った。「おれが出て一時間たってから出発するんだ」
「もう行くのか?」ベルガラスがきいた。
「そのほうがいい。すわりこんでしゃべってたって、何もはじまらんだろう。おれのために痕跡を残すのを忘れるなよ」
「安心しろ。ここで何をするつもりなのか教えてくれ」
「おれを信用しろって」節くれだった木のような魔術師は片目をつぶってみせた。「騒ぎがしずまるまでは、どこかに隠れて出てくるなよ」意地悪そうににやりと笑うと、ベルディンは期待をこめて汚い両手をすりあわせた。次の瞬間、かれは微光を放って、青い縞もようの鷹となり空へ舞い上がった。
「家の中へ戻ったほうがよさそうだ」ベルガラスが言った。「あいつがここで何をするつもりだか知らんが、空からごまんとがらくたが落ちてきそうだ」
かれらは再び家に入り、昨夜を過ごした部屋へ戻った。「ダーニク」ベルガラスが言った。「あの鎧戸をしめてくれるかね? 壊れたガラスが部屋の中へ飛び込んできちゃかなわん」
「しかし、見ることはできないときてる」シルクが文句を言った。
「そんなもの見なくても生きていけるぞ。じっさい、仮に見ることができても、見たくないはずだ」
ダーニクが窓に近づいて窓をわずかにあけ、鎧戸を閉めた。
やがてさきほど青い縞もようの鷹が旋回していた頭上の高い空から、絶えまない雷鳴にも似たすさまじいとどろきが聞こえ、それにともなって激しいうねりが生じた。強風にゆさぶられているかのように〈トラクの家〉が揺れ、ダーニクが閉めた鎧戸のすきまから漏れていた淡い光が消えて、インクのような真っ暗闇がそれにとってかわった。すると、家の上空からおそろしく大きな咆哮が聞こえてきた。
「悪魔かしら?」セ・ネドラが固唾をのんだ。「あれ、悪魔なの?」
「悪魔みたいなもの、よ」ポルガラが訂正した。
「外はあんなに暗いのに、どうして目がきくんです?」サディがたずねた。
「家のまわりが暗いのは、家がイメージの内側にあるからなのよ。森に隠れている連中にはよく見えるはずだわ――昼間のようにはっきりと」
「イメージと言いますけど、そんなに大きいんですか?」サディは肝をつぶしたようだった。「しかし、この家だって相当でかいですよ」
ベルガラスがにんまりした。「ベルディンはなまはんかな大きさじゃ絶対に満足しないんだ」
上空からさっきのものすごい咆哮がふたたび聞こえ、つづいて悲鳴と苦悶の叫びがかすかに聞こえた。
「いまは何をしてるのかしら?」セ・ネドラがきいた。
「なんらかの視覚的デモンストレーションだろうな」ベルガラスは肩をすくめた。「たぶんきわめて写実的なやつだ。わしの推測では、この近くにいる連中はひとり残らず、まぼろしの悪魔が実体のない人間を生きたまま食べる見せ物でもてなされていると思うね」
「やつらはそれで逃げだしますかね?」シルクがたずねた。
「おまえさんならどうだ?」
高い空からわれがねのような恐ろしい声がわめいた。「腹ぺこだ!」声は言った。「ひもじい! 食べ物がほしい! もっと食べ物が!」大地を揺るがすズシンという大音響がして、巨大な足が一エーカーの森を踏みつぶす音が聞こえた。ベルディンの巨大な像がのっしのっしと歩いているのだろう、大音響がつづいて聞こえた。光が戻ってくると、シルクが窓に駆け寄った。
「わしならやめておくね」ベルガラスが警告した。
「しかし――」
「おまえさんだって見たくはあるまいよ、シルク。わしの言葉を信用しろ。見ないほうがいい」
鼓膜をふるわせる足音が近くの森をのし歩きつづけた。
「あとどのくらいです?」サディがふるえ声でたずねた。
「一時間と言ってたな。最後の一秒まで使いきるつもりだろう。一帯にいる全員に最後のショックを与えたいにきまっとる」
いまでは森のほうから恐怖の悲鳴があがっていた。のし歩く音は一向にやまなかった。やがて別の音がした――南西のかなたへ遠ざかっていく大きな咆哮だ。ベルディンの意志のうねりが一緒に遠ざかっていく。
「チャンディムをおびきだしているんだ」ベルガラスが言った。「ということは、護衛とカランド人はすでに追っぱらったということだな。出発の用意だ」
目を血走らせた馬たちをなだめるのに少しかかったが、ようやく一同は馬にまたがり、中庭へ出ることができた。ガリオンはふたたび鎖かたびらに兜をつけており、重い楯がクレティエンヌの鞍の前弓からぶらさがっていた。「まだ槍を持つ必要があるかな?」
「たぶんないだろう」ベルガラスが答えた。「もう外ではだれにも会わんはずだ」
一行は裏門をくぐりぬけて、灌木の茂る森へ入った。黒い家のまわりをぐるりと回って東側へつくと、ガリオンは〈鉄拳〉の剣を抜いた。軽くかかげ持って前後に振ると、剣が手をひっぱるのが感じられた。「痕跡は向こうだ」ガリオンは森の奥へ消えているかろうじて見える程度の小道を指さした。
「よし」ベルガラスが言った。「少なくとも、茂みをつつきながら進む必要はないわけだ」
かれらは〈トラクの家〉を囲む草ぼうぼうの空き地を横切って、森に入った。たどっていく小道は、最近使われた形跡がほとんどなく、ときおり見失いそうになった。
「何人かがあわててここを発《た》ったみたいだな」シルクがにやりとして、小道沿いに散らばるさまざまな装備を指さした。
丘の頂上へたどりつくと、南西へ向けて森が広い帯状にめちゃくちゃになっているのが見えた。
「竜巻でしょうかね?」サディがたずねた。
「いいや。ベルディンだ。これならチャンディムもあいつの足跡を見つけそこねることはないな」
ガリオンの手の中の剣は依然としてかれらがたどっている小道をぴたりとさしていた。かれは自信を持って一行を先導し、みんなはペースを早めてどんどん森を進んでいった。一リーグばかりくると、小道はくだり坂になりはじめ、丘のふもとから離れてカランデセ山脈の東にある鬱蒼と木の茂る平地へつづいていた。
「あそこに町はありますか?」サディが森を見渡しながらたずねた。
「ここから国境までのあいだにある町といえば、アッカドだけだよ」シルクが言った。
「はじめて聞く名前ですね。どんな町なんです?」
「豚小屋みたいなところさ」シルクは答えた。「カランダの町はたいていがそうなんだ。どろんこが異常に好きらしい」
「アッカドって、あのメルセネ人の官僚の出身地じゃなかった?」ヴェルヴェットがたずねた。
「そう言ってたな」とシルク。
「そこには悪魔がいるって言ってたんじゃない?」
「いた、だ」ベルガラスが訂正した。「シラディスが教えてくれただろう、ナハズがカランダ中の悪魔を呼び集めて、ダーシヴァのグロリムどもと戦わせるためにダーシヴァへ送りこんだと」老人はあごひげをかいた。「いずれにせよ、アッカドは避けよう。悪魔たちが残っている見込みもあるが、カランド人の狂信者たちがまだうろうろしているだろうし、メンガが死んだことはまだかれらの耳に届いていまい。どうあっても、ザカーズの軍がクトル・マーゴスから戻って、かれが秩序の回復に乗り出すまでは、ここカランダは大混乱なのだ」
一行は昼食のためにいっとき休んだだけで、進みつづけた。
午後の三時ころには、アシャバの空をくすませていた雲は消えて、太陽がふたたび戻ってきた。かれらのたどる小道はしだいに広く、にぎやかになり、とうとうりっぱな道になった。一行は速度を早めて、距離をかせいだ。
日暮れが近づいてきたので、道から大きくはずれて小さな窪地に一夜のテントを張った。そこなら火明かりもあまり目立たなかった。かれらは夕食を食べた。ガリオンは食後すぐに寝床に入った。どういうわけか、くたくたになっていた。
三十分後、セ・ネドラはふたりのテントに入った。毛布の上に身を横たえ、ガリオンの背中に頭を押しつけてから、セ・ネドラは悲しそうなためいきをついた。
「全部時間の無駄だったのね? アシャバへ行ったのは」
「いや、セ・ネドラ、それはちがう」ガリオンはうとうとしながら答えた。「ヴェルヴェットがハラカンを殺せるように、ぼくたちはあそこへ行く必要があったんだ。ぼくたちが〈どこにも存在しない場所〉へ着く前に完了されなけりゃならない務めのひとつが、それだったんだから」
「本当にそんなことに意味があるのかしら、ガリオン? あなたの行動だって、それを信じているようにみえるときと、信じていないように見えるときと半々よ。ザンドラマスがあそこにわたしたちの子と一緒にいたのなら、すべての条件が満たされていないからって、彼女をそのまま立ち去らせたりはしなかったでしょう?」
「一歩だって歩かせなかったさ」ガリオンはむっつりと言った。
「じゃ、やっぱり信じていないのね?」
「ぼくはこちこちの運命論者じゃないよ、それがきみの言わんとすることならね。だが、物事が予言どおりになるのもたくさん見てきたから、完全に無視することはできないんだ」
「ときどき、もう二度とわたしの赤ちゃんには会えないような気がするの」セ・ネドラは疲れたように小さな声で言った。
「そんなことを考えちゃいけない。ぼくたちはザンドラマスに追いつく。そしてゲランをもう一度うちに連れて帰るんだ」
「うちに」セ・ネドラはためいきをついた。「ずいぶん長いこと離れているせいか、わが家がどんなふうだったかもろくに思い出せないわ」
ガリオンはセ・ネドラを抱きしめて髪に顔を埋め、彼女を抱き寄せた。しばらくすると、セ・ネドラはためいきをついて眠りに落ちた。ところがガリオンのほうは激しい疲労にもかかわらず、なかなか寝つかれなかった。
翌日は晴れて暖かだった。一行はふたたび道に戻って、〈鉄拳〉の剣が示す東の方へ進みつづけた。
九時ごろ、ポルガラが先頭を行くベルガラスに呼びかけた。「おとうさん、すぐ先の道端に隠れている者がいるわ」
ベルガラスは馬の歩調をゆるめた。「チャンディムか?」ずばりとたずねた。
「いいえ。マロリーのアンガラク人よ。ひどく恐れていて――少し頭がおかしくなってるわ」
「いたずらをもくろんでるのか?」
「何ももくろんでいないわ、おとうさん。そんなことができるほど思考が首尾一貫していないのよ」
「シルク、そいつをおびきだしてくれんか?」老人は言った。「背後に潜まれていると思うといやなんだ――相手が正気だろうとなかろうと」
「どのへんにいるんです?」小男はポルガラにたずねた。
「あの枯木から森の中へ少しはいったところよ」
シルクはうなずいた。「話をしてこよう」馬をゆるく駆けさせてから、シルクは枯木のそばで手綱を引いた。「そこにいるのはわかってるんだぜ、おい」陽気に呼びかけた。「危害を加えるつもりはないから、もっとよく見えるところへ出てこいよ」
長い間があった。
「こいったら」シルクは呼んだ。「はずかしがるなって」
「悪魔を連れてるか?」声がおどおどと言った。
「おれが悪魔とつきあうような男に見えるか?」
「おれを殺さないだろうな?」
「あたりまえさ。おれたちは話がしたいだけなんだ、それだけさ」
また長い恐れに満ちた間があった。「何か食べ物はあるか?」ひもじそうな声だった。
「ちょっとなら分けてやれると思う」
隠れている男はその言葉を吟味した。「わかった」ようやく返事がかえってきた。「いま出て行く。おれを殺さないと約束したのを忘れないでくれ」やがて茂みを踏みつける音がして、ひとりのマロリー兵がよろけながら道に出てきた。赤いチュニックはぼろぼろに破れ、兜はなくしたと見えて、ブーツの名残が革紐で足にくくりつけてあった。あきらかに、最低一ヵ月は髭もそっていなければ、風呂にも入っていない。目は血走り、頭は首の上でひくひくとけいれんしている。兵士はおそるおそるシルクを見つめた。
「あまり元気そうじゃないな、おい」シルクは言った。「おまえの隊はどこにいるんだ?」
「死んだ、みんな死んだ、悪魔に食べられたんだ」兵士の目は悪魔にとりつかれていた。「アッカドにいたのか?」恐ろしそうな声でたずねた。「悪魔たちがきたとき、あそこにいたのか?」
「いいや。おれたちはヴェンナからきたばかりだ」
「何か食べ物をくれると言ったぞ」
「ダーニク」シルクは呼んだ。「このあわれなやつにちょっと食い物を持ってきてくれないか?」
ダーニクは食料品をつんだ馬のところまで馬を進めると、パンと干し肉を取り出した。それから先へ走っていき、シルクと恐怖に狂った兵士に近づいた。
「悪魔たちがきたとき、あんたはアッカドにいたのか?」男はダーニクにたずねた。
ダーニクは首をふった。「いや。わたしはかれと一緒なんだ」と、シルクを指さした。それから男にパンと肉を渡した。
兵士はそれをひったくると、がつがつとむさぼりはじめた。
「アッカドで何が起きたんだ?」シルクはきいた。
「悪魔たちがきた」兵士は食べ物を口にほおばったまま答えた。それから、急に口を動かすのをやめ、恐怖の表情でダーニクをじっと見た。「おれを殺すのか?」
ダーニクは男をにらみつけた。「まさか」うんざりした声で言った。
「ありがとう」兵士は道端にすわりこんで、食べつづけた。
ガリオンたちはおびえている男をびっくりさせたくなかったので、ゆっくりとそばに近づいていった。
「アッカドで何があったんだ?」シルクが重ねてたずねた。「おれたちはそっちの方角へ行くところなんだよ。予備知識があったほうがいいからな」
「あそこには行くな」兵士はがたがたと身をふるわせた。「恐ろしい――恐ろしい。大声でわめくカランド人たちに囲まれて、悪魔たちが門から入ってきたんだ。カランド人は町の連中をこまぎれにし、そのあとその肉片を悪魔たちに食べさせた。あいつらはおれの隊長の両腕を切り落とし、次に両脚も切り落とした。すると悪魔が残った胴体と頭を拾い上げた。隊長はその間ずっと絶叫していた」兵士はパンを下に置いて、こわごわセ・ネドラを見つめた。「ご婦人、おれを殺すのかね?」
「殺すもんですか!」セ・ネドラはショックを受けた声で答えた。
「殺すんなら、おれが気づかないうちにやってくれ。そして悪魔が掘りかえして食べないような場所に埋めてもらいたい」
「彼女はあんたを殺しはしないわ」ポルガラがきっぱりと言った。
男の血走った目にすがるような表情があらわれた。「じゃ、あんたはやってくれるのか、ご婦人?」兵士は嘆願した。「おれはもう恐怖に耐えられない。どうかお手やわらかに殺してくれ――母親ならこうするだろうというやりかたで――それから悪魔たちに食べられないようにおれを隠してくれ」ふるえる両手に顔を埋めて男は泣きだした。
「もう少し食べ物をやれ、ダーニク」ベルガラスの目にいつのまにか同情があふれていた。「こいつは完全に狂ってる。わしらにしてやれることはそれぐらいだ」
「わたしが何かできるかもしれません、長老」サディが言った。箱をあけると、サディは琥珀色の液体が入ったガラス瓶を取り出した。「あの男にやるパンにこれを二、三滴ふりかけてくれませんか、善人」かれはダーニクに言った。「心がなごやかになって、数時間は平安がえられるでしょう」
「同情するなんてあんたらしくないな、サディ」シルクが言った。
「でしょうね」宦官はつぶやいた。「でも、あなたにはわたしが完全にわかっていないのかもしれませんよ、ケルダー王子」
ダーニクは取り乱しているマロリー兵のために荷物のなかからさらにパンと肉をだして、サディの薬をたっぷり振りかけた。それからそれらを哀れな男に与え、一同はゆっくりと男のそばを通り過ぎて道をたどりはじめた。しばらく行ったとき、ガリオンは男が呼びかける声を聞いた。「戻ってきてくれ! 戻ってきてくれ! だれか――だれでもいい――どうか戻って、おれを殺してくれ。おふくろ、おれを殺してくれ!」
ガリオンは胸をえぐられるようなせつなさを感じた。うしろから聞こえてくる必死の嘆願に耳を貸すまいと、かれは歯を食いしばって馬を進ませた。
その日の午後にはアッカドの北へ回り込み、都市を迂回して、二リーグばかり先の道へふたたび戻った。鞍頭の上で支え持っている剣の引っ張る方向は、ザンドラマスがまちがいなくこの道を通過して北東へ進みつづけ、カタコールとジェンノのあいだの比較的安全な国境を目指していることを裏づけていた。
その夜は道の数マイル北にある森のなかにテントを張り、翌朝早くふたたび出発した。道はしばらく広々とした平原のなかをつっきっていた。深いわだちが残り、路肩はまだかなりやわらかだった。
「カランド人はあんまりまじめに道を整備しないんだな」シルクが朝日に目を細めながら言った。
「わたしもそれには気づいてたよ」ダーニクが答えた。
「やっぱり」
数リーグ先で道はふたたび森に入り、一行はそびえたつ常緑樹のひんやりと湿った木蔭を進んだ。
そのとき、前方のどこからかうつろなドーンという音が聞こえた。
「あれを通過するまでは注意して行くほうがいいな」シルクが声をひそめて言った。
「何ですか、あの音は?」サディがきいた。
「太鼓だ。前方に神殿があるんだよ」
「この森のなかに?」宦官はおどろいたようだった。「グロリムがいるのは都市だけかと思ってましたよ」
「あれはグロリムの神殿じゃないんだ、サディ。トラク崇拝とは全然関係ない。じっさい、グロリムは偶然ああいう神殿を見つけると、つねに焼き払ったものなんだ。この地域一帯に古くからつたわる宗教のひとつなのさ」
「つまり、悪魔崇拝ですか?」
シルクはうなずいた。「ああいう神殿のほとんどは見捨てられてから久しいが、まだ使われている神殿に出くわすこともよくある。太鼓の音はこのすぐ先にある神殿がまだ活動していることを示す証拠なんだ」
「よけて通れるかな?」ダーニクがきいた。
「たいした問題はないはずだ」小男は答えた。「カランド人は儀式の焚火である種のキノコを焼くんだが、その煙は五感に奇妙な影響をおよぼすんだよ」
「ほう?」サディが少なからぬ興味をあらわした。
「たいしたものじゃない」ベルガラスがサディに言った。「おまえさんのあの赤い箱には、もうそれがたっぷり入っとるよ」
「単なる勉学上の好奇心ですよ、ベルガラス」
「そりゃそうだろう」
「かれらは何を崇拝しているの?」ヴェルヴェットがたずねた。「悪魔はカランダから全部出て行ったはずでしょう」
シルクは眉をひそめていた。「リズムがおかしいな」
「急に音楽評論家になったの、ケルダー?」
シルクは首をふった。「前にこの場所にきたことがあるんだ。儀式を行なっているときの太鼓のたたきかたは、普通はかなりめちゃくちゃに乱れてるものなんだよ。前方から聞こえるあのリズムは規則正しすぎる。まるで何かを待ってるみたいだ」
サディが肩をすくめた。「待たせておけばいいじゃないですか。わたしたちの知ったことじゃない、そうでしょう」
「それはどうかしら、サディ」ポルガラが言った。彼女はベルガラスを見た。「ここで待ってて、おとうさん。先へ行って見てくるわ」
「危険すぎるよ、ポル」ダーニクが反対した。
ポルガラはほほえんだ。「かれらはわたしには目もくれないわよ、ダーニク」馬をおりると、彼女は道を少し先まで歩いていった。やがて、輝く光輪のような淡い光がいきなり現われてポルガラを取り巻いた。その光が晴れたとき、雪のように白い大きな梟が木立のあいだを行きつ戻りつしてから、柔らかな翼を音もなくはばたかせてすうっと飛び去った。
「どういうわけか、あれを見るといつも背筋がぞっとするんですよ」サディがつぶやいた。
かれらが待っているあいだ、規則正しい太鼓の音は休みなくつづいた。ガリオンは馬をおりて、腹帯の紐を点検した。それから脚を伸ばそうとしばらく歩き回った。
十分ほどたった頃、ポルガラが戻ってきて、低くたれた枝の下へ白い翼で舞い降りてきた。普段の姿に戻ったとき、彼女の顔は青ざめて、目には激しい嫌悪が浮かんでいた。「いまわしい!」ポルガラは言った。「ぞっとするわ!」
「どうしたんだ、ポル?」ダーニクの声は心配そうだった。
「あの神殿でひとりの女が産みの苦しみの最中なのよ」
「神殿がそういうことにふさわしい場所かどうかは知らないが、その女が安全な場所を必要としていたのなら――」鍛冶屋は肩をすくめた。
「神殿が選ばれたのは、いたって作意的な意図からなのよ」ポルガラは答えた。「産まれようとしている赤ん坊は人間じゃないの」
「しかし――」
「悪魔なのよ」
セ・ネドラが固唾をのんだ。
ポルガラはベルガラスを見た。「黙っているわけにはいかないわ、おとうさん。くいとめなくちゃ」
「どうやってくいとめますの?」ヴェルヴェットが困惑気にたずねた。「つまり、その女がすでに産みかけているとしたら……」彼女は両手を広げた。
「女を殺さなくてはならないかもしれないわ」ポルガラは感情のない声で言った。「それでもあの恐ろしい誕生を妨げることにはならないかもしれない。そのときは、悪魔の子供をとりあげてから、窒息死させるしかないわ」
「だめよ!」セ・ネドラが叫んだ。「ほんの赤ちゃんじゃないの! 殺せやしないわ」
「そういう赤ん坊ではないのよ、セ・ネドラ。半分は人間、半分は悪魔の子なのよ。この世界の創造物であって、もうひとつの世界の子どもなのよ。生きることを許せば、放逐することは不可能だわ。永続的な恐怖のもとになるのよ」
「ガリオン!」セ・ネドラは叫んだ。「ポルガラに赤ちゃんを殺させないで」
「ポルガラの言うとおりだよ、セ・ネドラ」ベルガラスが言った。「その生き物は生きていてはいけないのだ」
「あそこには何人のカランド人が集まっているんです?」シルクがきいた。
「神殿の外には六人いるわ」ポルガラが答えた。「なかにはもっといるでしょうね」
「何人いようと、かたづけなけりゃならないだろうな」シルクは言った。「やつらは神だと信じているものの誕生を待ってるんだ。命がけで生まれたての悪魔を守ろうとするだろう」
「よし、それじゃ」ガリオンが陰気に言った。「やつらに恩をほどこしに行こう」
「赤ちゃん殺しを認めるんじゃないでしょうね?」セ・ネドラが叫んだ。
「やりたくはない」ガリオンは認めた。「しかし、選択の余地はないんだ」かれはポルガラを見た。「悪魔の世界へ赤ん坊を送り返す手段は絶対にないのかい?」
「ありえないわ」ポルガラは感情を殺した声で言った。「この世界が赤ん坊の故郷になるでしょう。呼び出されたわけでもないし、従うべきボスがいるわけでもないんだから。二年とたたないうちに、悪魔の子はこの世が見たこともないような恐怖となるでしょうね。殺さなくてはならないのよ」
「おまえ、できるか、ポル?」ベルガラスがたずねた。
「やるしかないわ、おとうさん。やらなくてはならないのよ」
「よろしい、それでは」老人は残りのみんなに言った。「わしらでポルをあの神殿のなかへ入れなくてはならん――すなわち、カランド人と対決するということだ」
シルクがブーツのなかへ手を伸ばして、短剣をひっぱりだした。「これを研いどきゃよかったな」ぶつぶつひとりごとを言いながら、こぼれた刃をうらめしげに見た。
「わたしのをひとつ貸しましょうか?」ヴェルヴェットがきいた。
「いや、それにはおよばないよ、リセル。スペアがふたつあるんだ」シルクは刃こぼれしたナイフをブーツのなかへもどして、背中の隠しからもうひとつのナイフを取り出し、三本目のナイフを首のうしろにかけた鞘から引き抜いた。
ダーニクは鞍のうしろの輪にかけておいた斧をはずした。その顔は苦しげだった。「本当にやらなけりゃならないのかい、ポル?」
「ええ、ダーニク。残念だけど」
ダーニクはためいきをついた。「わかった。それならかたづけに行こう」
一同は前方の狂信者たちに気どられないように、馬たちをゆっくりと歩かせはじめた。
カランド人はなかをくりぬいた大きな丸太を囲んですわり、棍棒でその丸太をリズミカルに叩いていた。鈍いゴーンという音が響いた。ぞんざいになめした毛皮のチョッキを着て、薄汚い麻布を結びあわせたズボンをはいている。不精髭が生え、髪は脂でべとついていた。顔にはぞっとするような色を塗っているが、目はうつろで、だらしなく口をあけていた。
「ぼくが最初に行く」ガリオンはみんなにささやいた。
「挑戦を叫んじゃどうだ」シルクがささやきかえした。
「ぼくは暗殺者じゃないんだ、シルク」ガリオンは静かに答えた。「ひとりかふたりは逃げるだけの正気があるかもしれない、そうすれば、殺さなくちゃならない人数が減る」
「おまえらしいな。だが、カランド人に理性を期待することじたいが理性的じゃないよ」
ガリオンはすばやく空き地を見渡した。半分腐った丸太造りの神殿は、一方がひどくたわんでおり、棟木の上に並んだ苔むした頭蓋骨がうつろな目を向けていた。神殿の前の地面は踏み固められた土で、太鼓を叩いている連中からほど遠からぬところに、煙のたちのぼる焚火穴があった。
「あの煙のなかにはいらないようにしろ」シルクが小声で注意した。「あんまり煙を吸い込むと、ありとあらゆる奇妙なものが見えてくるぞ」
ガリオンはうなずいて、あたりを見回した。「みんな用意はいいか?」低い声で念を押した。
一同はうなずいた。
「ようし、それ」ガリオンはクレティエンヌに拍車をかけて空き地へ躍り出た。「武器を捨てろ!」仰天しているカランド人たちに怒鳴った。
命令にしたがうどころか、カランド人たちは、棒を投げ捨てて斧や、槍、剣をつかむと挑むようなわめき声をあげた。
「ほらな?」シルクが言った。
ガリオンは歯をきつくかみしめて、剣を振り回しながら突進した。毛皮の男たちのほうへひづめの音も高く突進して行く途中、神殿からさらに四人が飛び出してくるのが見えた。
しかし人数が増えたところで徒歩の男たちは、所詮ガリオンをはじめとする馬上の仲間の敵ではなかった。罵声をあげていたカランド人のふたりは、ガリオンが最初に突っ込んだときに〈鉄拳〉の剣に切り倒され、刃の広い槍をガリオンの背中に突き立てようとしたひとりは、ダーニクに斧で脳天を叩き割られてひっくりかえった。サディは着ていたマントをひょいと振って、突き出された剣をつかんだあと、優美ともいえる動作で毒を塗った短剣で相手の喉をずぶりと刺した。トスは頑丈な杖を棍棒みたいに使ってふたりの敵をぶちのめした。かれの一撃には骨がぼきぼきと折れる音が混じった。カランド人の逆上のわめき声は、かれらが倒れるにつれて苦悶のうめき声に変わった。シルクは鞍から飛び降りて、アクロバットのように地面をころがり、短剣のひとつで狂信者をあざやかに斬り裂くと同時に、不器用に斧を振り回そうとしていた太った男の胸にもうひとつを投げた。クレティエンヌはガリオンがあやうく鞍から振り落とされそうになるほどのすばやさで一回転し、鋼の蹄鉄をはいた足でカランド人をひとり地面にめりこませた。
ひとり残った狂信者は粗末な神殿の戸口に立っていた。仲間よりかなり年配で、グロテスクな入墨を顔にほどこしている。武器らしきものは、頭蓋骨がついた杖だけで、男は甲高い声で呪文をわめきながらそれをふりまわしていた。だが、ヴェルヴェットが懐剣のひとつをなめらかな下手投げで投げつけたとき、男の言葉はばったり途切れた。妖術使いは自分の胸から突き出た懐剣の柄を、口をあけて見おろした。それからゆっくりとあおむけに倒れた。
短い静寂があり、それをさえぎるのはトスに足を折られたふたりのカランド人のうめき声だけだった。そのとき、耳ざわりな悲鳴が神殿から響いた――女の悲鳴だ。
ガリオンは鞍から飛び降りると、戸口の死体をまたいで大きないがらっぽい部屋をのぞきこんだ。
向こうの壁に押し付けられたぞんざいな祭壇の上に、半裸の女が横たわっていた。女は両手両足を広げて縛りつけられており、きたない毛布が申し訳程度に体にかけられていた。顔はゆがんでおり、腹部が異様なほどばんばんにふくれあがっている。女はまた悲鳴をあげると、あえぎあえぎしゃべった。
「ナハズ! マグラシュ・クラト・グリチャク! ナハズ!」
「ここはわたしがやるわ、ガリオン」ポルガラが背後からきっぱりと言った。「そとでみんなと待ってて」
「他にだれかいたか?」ガリオンが外へ戻ると、シルクがたずねた。
「女だけだ。ポルおばさんが一緒にいる」ガリオンはふいに体が激しくふるえているのに気づいた。
「女のしゃべっていた言葉は何語だったんです?」毒塗りの短剣についた血をていねいにぬぐいながら、サディがきいた。
「悪魔の言葉だ」ベルガラスが答えた。「赤ん坊の父親を呼んでいたのさ」
「ナハズが?」ガリオンはおどろいた声でたずねた。
「女はナハズが父親だと思ってる」老人は言った。「まちがっているのかもしれないし――正しいのかもしれない」
神殿の中からふたたび女が悲鳴をあげた。
「だれか怪我をしましたか?」ダーニクが言った。
「やつらがな」シルクが答えて、倒れているカランド人を指さした。次にかれはしゃがみこんで、短剣の血をきれいにするために、何度も短剣を地面に突き刺した。
「ケルダー」ヴェルヴェットが妙に弱々しい声で言った。「わたしの懐剣を取ってきてもらえる?」ヴェルヴェットを見たガリオンは、彼女の顔が青ざめており、両手がかすかにふるえているのに気づいた。この冷静な娘は思っていたほど冷たい女ではないのだと、ガリオンは思った。
「いいとも、リセル」シルクは落ち着いた口調で答えた。小男もまた彼女の心痛の原因をきわめて明確に理解していた。シルクは立ち上がって、戸口まで歩いていくと、妖術使いの胸から懐剣を引き抜いた。注意深く血をぬぐいとると、シルクはそれをリセルに返した。「セ・ネドラと一緒にもっとうしろにさがってたらどうだい? ここはおれたちできれいにするよ」
「ありがとう、ケルダー」ヴェルヴェットは馬首をめぐらして、空き地から出て行った。
「ほんの子供なんだよ」シルクは弁解口調でガリオンに言った。「なかなかのものではあるがね」いくばくかの誇りをこめてつけ加えた。
「そうだね」ガリオンは同意した。「たいしたものだよ」空き地に折り重なって倒れているよじれた死体をかれは見回した。「この死体を全部神殿の後ろへひっぱっていこうか。死体がなくたって、じゅうぶんいやな場所なんだから」
神殿からまた悲鳴が聞こえた。
ガリオンたちが産みの苦しみにある女の悲鳴に耐えているうちに、いつのまにか正午になり、昼が過ぎた。午後の三時には悲鳴はぐっと弱まり、太陽が沈みかけたころ、最後のぞっとするような悲鳴が空気をつんざいて静寂のなかへ消えていった。なかから何の物音もしないまま何分かたったとき、ポルガラが出てきた。顔には血の気がなく、両手と服は血まみれだった。
「それで、ポル?」ベルガラスがたずねた。
「母親は死んだわ」
「で、悪魔は?」
「死産よ。どちらも誕生までは生きられなかったわ」ポルガラは服を見おろした。「ダーニク、毛布と体を洗う水を持ってきてちょうだい」
「もちろんだとも、ポル」
夫が目隠しがわりに毛布をひろげると、ポルガラはのろのろと着ているものを全部脱ぎ捨てて、そのひとつひとつを神殿の戸口へ放り投げた。それから毛布を体に巻き付けて男たちに言った。「さあ、火をつけるのよ。焼け落ちて灰になるまで燃やして」
[#改ページ]
9
翌日の正午頃、かれらは国境を越えてジェンノに入り、ひきつづきザンドラマスの足跡をたどった。前日の午後から夕方にかけての経験が、一同を黙りこませ、沈黙のうちにかれらは馬を走らせつづけた。不確かな国境を通過して一リーグほど進み、食事のために道からはずれた。春の日差しがぽかぽかと明るい、暖かな快い日だった。ガリオンはみんなから離れて少し足を伸ばし、咲き乱れる野の花にとまってせっせと蜜を吸っている黄色い縞もようの蜂の群れをじっとながめた。
「ガリオン」あとを追ってきたセ・ネドラが小さな声で言った。
「なんだい、セ・ネドラ?」かれは妻の肩に腕を回した。
「あそこで本当はどんなことが起きたの?」
「ぼくが見たものと、きみが見たものはまったく同じだよ」
「そういうことじゃないのよ。神殿のなかで何が起きたのかときいてるの。あの気の毒な女性とその赤ちゃんは本当にただ死んだだけなの――それとも、ポルガラが殺したの?」
「セ・ネドラ!」
「わたし、知らなくちゃならないのよ、ガリオン。あそこへ入っていく前のポルガラはこわかったわ。赤ちゃんを殺すつもりだったんですもの。そのあと出てきて、わたしたちに母親と赤ちゃんはどちらも出産時に死んだと言ったのよ。都合がよすぎるんじゃなくて?」
ガリオンは大きく息を吸った。「セ・ネドラ、思い返してごらん。ポルおばさんとは長いつきあいだろう。彼女がきみに嘘をついたことがあるか――一度だって?」
「そうね――ときどきは、真実を全部話してくれなかったことがあるわ。一部だけを話して、あとは秘密にしておいたことが」
「それは嘘をつくこととはちがうよ、セ・ネドラ、そのくらいわかってるだろう」
「でも――」
「ぼくたちがあれを殺さなければならないかもしれないとポルおばさんが言ったことに、腹をたてているんだな」
「あれじゃないわ、赤ちゃんよ」セ・ネドラは強い口調で訂正した。
ガリオンはセ・ネドラの両肩をつかむと、まっすぐ顔をのぞきこんだ。「そうじゃないんだ、セ・ネドラ。あれはものだった――半分は人間、半分は悪魔、ばけものだよ」
「でもあんなに小さかったのに――あんなにいたいけなくて」
「どうしてそんなことがわかる?」
「生まれたての赤ちゃんはみんな小さいわ」
「あれはちがったと思うね。神殿から出てってくれとポルおばさんに言われる前に、ぼくはちらりとあの女を見たんだ。ゲランが生まれる直前のきみのおなかがどんなに大きかったか、おぼえてるかい? ところが、あの女の腹はあのときのきみの最低五倍はあった――きみよりいくらも大きくない女だっていうのにだ」
「冗談でしょう!」
「大まじめさ。悪魔は母親の命とひきかえでなけりゃ生まれないものなんだよ。たぶん爪で母親の胎内をひっかきながらでてくるんだろう」
「自分の母親の?」セ・ネドラはあえぐように言った。
「悪魔が自分の母親を愛するとでも思ったのか? 悪魔というのは愛することを知らないんだよ、セ・ネドラ。だから悪魔なんだ。さいわいにも、あの悪魔は死んだ。母親まで死ななくてはならなかったのは気の毒だったが、ぼくたちがあそこへついたときには、もう手のほどこしようがなかったんだ」
「あなたって、冷たくて薄情な人なのね、ガリオン」
「セ・ネドラ、なにを言ってるんだ。あそこで起きたことは確かに愉快なことじゃなかった。しかし、ぼくたちにはああする以外どうしようもなかったんだよ」
セ・ネドラはくるりと背を向けると、大股に立ち去ろうとした。
「セ・ネドラ」ガリオンはあわてて彼女をつかまえた。
「なによ」セ・ネドラはガリオンの手をふりほどこうとした。
「どうしようもなかったんだ」と、ガリオンは繰り返した。「悪魔がうようよしている世界でゲランに大きくなってほしいのか?」
セ・ネドラは目をみはった。「いいえ」きっぱりと言った。「ただ……」彼女は言葉をのみこんだ。
「わかってるよ」ガリオンはセ・ネドラを抱きしめた。
「ああ、ガリオン」セ・ネドラはいきなりかれにしがみつき、険悪だったムードはいっぺんに消しとんだ。
食事をすませると、一行は森を通り抜けた。木立の奥に肩を寄せあうようにぽつりぽつりと村が点在している。どの村も貧しく、大部分は十二軒ほどの粗末な丸太小屋の集まりで、質素な長い柵が周囲を囲んでいた。村々を囲む柵のあいだでは、たいがいびっくりするほどたくさんの豚が土をほじっていた。
「犬はあまりいないようだね」ダーニクが感想をもらした。
「ここの連中はペットとしては豚のほうが好きなんだよ」シルクが教えた。「人種的には、カランド人は泥に強い愛着を持っているし、豚はかれらの深層にひそむ欲求を満足させるのさ」
「あのね、シルク」鍛冶屋はそこまで聞いて言った。「なんでもかんでも冗談にしてしまう癖さえなかったら、きみはもっとずっと愉快な道連れなんだがな」
「それがおれの欠点なのさ。こうやって何年も世界を見てきたからね、笑わなかったらしまいには泣きだしちまうとわかってるんだ」
「まじめに言ってるんだろうね?」
「長年の友にむかって、おれが急にまじめになると思うかい?」
午後の三時頃になると道はかすかにカーブしはじめて、まもなく一行は森の入口についた。わだちのついた道はそこで三つに分かれていた。
「さてと。どっちだ?」ベルガラスがきいた。
ガリオンは鞍頭から剣を持ち上げて、おなじみの引きを感じるまで、前後にゆっくりふり動かした。「右だ」かれは答えた。
「それを聞いてほっとしたよ」シルクが言った。「左の道はカリダへ行くんだ。ハラカンの死の知らせはいまごろそこまで届いているだろう。悪魔がいなくても、ヒステリックな狂信者でいっぱいの町は訪れて楽しいところじゃないからな。メンガさまの追随者どもはメンガにおいてきぼりを食ったと聞いたら、ちょいと動転するだろう」
「右の道はどこへ行くのだ?」ベルガラスがたずねた。
「湖ですよ」シルクは答えた。「カランダ湖です。世界一でかい湖でしてね。岸辺に立つと、まるで海みたいに見えるんです」
ガリオンは眉をひそめた。「おじいさん」かれは胸さわぎがした。「ザンドラマスは〈珠〉が自分を追跡できるのを知っていると思う?」
「おそらくな」
「〈珠〉が水上では追跡できないことも知っているだろうか?」
「それはわからん」
「だが、もし知っていたら、ぼくたちから痕跡を隠すために湖へ行った可能性はないかな? 少しだけ湖の上へ出てまた引き返し、どこかで陸にあがった見込みもある。そうすれば新たな方向へすすめるだろうし、ぼくたちは二度とザンドラマスの足跡をたどれない」
ベルガラスは日差しに目をすがめて髭をかいた。「ポル、このあたりにグロリムはいるか?」
ポルガラは少しばかり意識を集中させた。「いまこの近くにはいないわ、おとうさん」
「よし。ザンドラマスがラク・ハッガでセ・ネドラの意識をいじろうとしていたとき、おまえはしばらくのあいだあの女の思考を押さえ込むことができたんだったな?」
「ええ、ちょっとのあいだね」
「そのときザンドラマスはアシャバにいた、そうだな?」
ポルガラはうなずいた。
「ザンドラマスが去ったとき、どの方角へ行くつもりでいたか、漠然とでもつかめたか?」
ポルガラは眉をひそめた。「これといって何も、おとうさん――うちへ帰りたがっているというぼんやりした感触だけよ」
「ダーシヴァだ」シルクが指を鳴らした。「ザンドラマスがダーシヴァの名前だってことはわかってるんだし、ザカーズがガリオンにザンドラマスがダーシヴァで厄介事を引き起こそうとしていると言ってたからな」
ベルガラスは不満げだった。「それだけじゃあてにならんよ。なんらかの確信が持てないと不安だ」かれはポルガラを見た。「ザンドラマスともう一度接触できないか――ほんの一瞬でも。わしに必要なのは方角だけなのだ」
「むずかしいと思うわ、おとうさん。やってはみるけど、でも……」ポルガラは肩をすくめた。やがてその顔がばかに穏やかになり、ガリオンはポルガラの意識が伸びて微妙な探索をしているのを感じることができた。二、三分ののち、ポルガラは意志の力をゆるめた。「彼女は隠れているわ、おとうさん」と、老人に言った。「なんにも拾いだせないわ」
ベルガラスは小声で悪態をついた。「湖までおりて行って、聞いてまわるしかなさそうだ。ことによると、目撃者がいるかもしれん」
「いるとは思いますけどね」シルクが言った。「ザンドラマスは船乗りを溺死させるのが好きときてますからね、おぼえてるでしょう? 彼女が上陸した場所を見た者は、たぶん三十フィート下の湖底で眠ってますよ」
「代わりのプランを思いつけるのか?」
「いまはなんにも」
「それじゃ湖まで行こう」
太陽が後方でゆっくりと沈みはじめた頃、一行は道から四分の一マイルばかり奥まったところにある、かなり大きな町を通過した。住民が町を囲む柵の外に集められていた。かれらは盛大なかがり火をたいており、火の正面には丸太作りの粗末な、頭蓋骨の載った祭壇があった。頭に数枚の羽根をさし、顔と体に毒々しい模様を描いたひとりのやせこけた男が、祭壇の前で声をはりあげて呪文をとなえている。男の両腕は何かを求めるように空へ伸ばされ、その声には必死の思いがこめられていた。
「何をしてるのかしら?」セ・ネドラが言った。
「町の人々が崇拝できるような悪魔を呼び出そうとしてるんです」エリオンドが落ち着き払って教えた。
「ガリオン!」セ・ネドラはおどろいて言った。「わたしたち、逃げたほうがいいんじゃなくて?」
「うまくいきやしませんよ」エリオンドが受け合った。「悪魔はもうあの男のところへはおりてこないんです。ナハズがそう命令したから」
妖術使いは呪文をやめた。ガリオンのいるところからでも、男の顔に狼狽が浮かんでいるのが見えた。
町民のあいだから腹だたしげなつぶやきが聞こえた。
「群衆は怒りはじめてるぞ」シルクが言った。「今度悪魔を呼び出せないと、妖術使いはトラブルに巻き込まれるな」
頭に羽根をさし、けばけばしい色を塗った男は、文字どおり空にむかって声をふりしぼりながらふたたび呪文をとなえはじめた。呪文をとなえ終えると、期待をこめてようすをうかがった。
何も起きなかった。
一瞬ののち、群衆が罵声をあげて、前へ押し寄せた。ちぢみあがっている妖術使いをつかまえると、群衆は丸太の祭壇をめちゃくちゃに壊した。それから、狂気じみた笑い声をたてながら、妖術使いの両手両足を丸太の一本に長い釘で打ちつけ、大声で叫びながらその丸太をかがり火のなかへ投げ込んだ。
「行こう」ベルガラスが言った。「いったん血の味を知ると、暴徒は狂暴化しがちだ」老人は先頭に立って駆け足で町をあとにした。
その夜、かれらは小川の土手の柳の木立にテントを張り、できるだけ火が外部の目にふれないように努めた。
翌朝は霧が出ており、一同はいつでも武器が取れる姿勢で、用心深く馬を進めた。
「湖までどのくらいだ?」太陽が霧を焼き払いはじめたとき、ベルガラスはたずねた。
シルクが薄れてきた霧をのぞくようにしてあたりをながめた。「はっきりしたところはわかりませんね。少なくともあと二リーグばかりじゃないのかな」
「では、速度をあげよう。着いたら船を見つけねばならんし、それに少し手間取るかもしれん」
一行は馬たちをせかしてゆるい駆け足にさせ、進みつづけた。道は先刻から目立って下り坂になっていた。
「おれが思ってたより多少近いよ」シルクはみんなに呼びかけた。「この道におぼえがあるんだ。あと一時間もすれば湖につくはずだ」
かれらはときおりカランド人とすれちがった。カランド人の大半は茶色の毛皮をまとい、しっかり武装していた。かれらの目は疑わしげで、敵意さえ感じられたが、ガリオンの鎖かたびらや兜、それに剣の威力は絶大で、一行は何事もなく通過することができた。
朝の九時頃には、灰色の霧は完全に晴れていた。小山の頂上へ着いたとき、ガリオンは手綱を引いた。目の前に朝日にきらめく青い水がどこまでも広がっていた。向こう岸の気配も感じられないその大きな広がりは、まるで巨大な内海のように見えたが、海特有のピリッとする潮の匂いはなかった。
「でかいだろう?」シルクがクレティエンヌの隣りに自分の馬を並べて、言った。湖岸から一マイルほど上にある、わらぶきと丸太作りの村のほうをシルクは指さした。水中に突き出た浮き桟橋に大きな船がいくつもつながれている。「湖を渡るときは、いつもあそこで船を借りたんだ」
「じゃ、このあたりで仕事をしたことがあるのかい?」
「ああ、そうさ。ザマドの山中には金鉱があるし、森には宝石の原石の鉱床があるんだ」
「あの船はどのくらいの大きさなんだ?」
「そうとうでかいぜ。おれたち全員が乗ったらちょいと窮屈だが、ちょっとぐらい積みすぎでも、天候が穏やかだから安全に渡れるさ」そこまで言って、シルクは眉毛を寄せた。「あの連中、何をやってるんだ?」
下り坂の先の村にガリオンが視線を移すと、大勢の村人がのろのろと湖岸のほうへ進んでいくのが見えた。村人はさまざまな色あいの赤や茶色の毛皮を着ているようだったが、ほとんどの者は錆色やあせた青に染めたマントをはおっている。丘の頂上を越える村人の数がふえるにしたがって、村のなかから別の連中がかれらを迎えにでてきた。
「ベルガラス」チビのドラスニア人は呼びかけた。「まずいことになったようですよ」
ベルガラスは駆け足で小山の頂上へやってきて、村の正面に集まっている群衆を見た。
「船を借りるにはあの村へ行く必要があるんです」シルクは老人に言った。「二、三十人の村人を威嚇する程度の武器なら持ってますが、あそこにいるのはいまや二、三百人ですからね。あれだけの人数をおっぱらうとなると、相当な威嚇物が必要ですよ」
「村祭りか何かじゃないのか?」老人はたずねた。
シルクは首を左右にふった。「ちがうでしょう。今年は祭りにふさわしい年じゃありませんからね。それにだれも手押し車なんか持ってない」シルクは鞍から飛び降りると、荷物を積んだ馬たちのほうへ歩いていった。しばらくして、かれはいいかげんになめした赤い毛皮のチョッキと、ぶかぶかの毛皮の帽子を持って戻ってきた。それを身につけてから、かがみこんで粗布のすね当てをふくらはぎに巻き付けて、長い紐で固定した。「どんなふうに見える?」シルクはきいた。
「みすぼらしいね」ガリオンが言った。
「それがねらいなんだ。みすぼらしいのがここカランダじゃはやってるのさ」シルクはふたたび馬にまたがった。
「その服をどこで手に入れたんだ?」ベルガラスが興味ありげにたずねた。
「神殿の死体のひとつから失敬したんですよ」小男は肩をすくめた。「変装用の服をいつも何着か持っていたいんでね。あそこで何が起きているのかさぐってきます」かれは馬の脇腹をかかとで蹴ると、岸辺の村の近くに集まっている群衆のほうへ駆けおりて行った。
「見えないようにひっこんでいよう」ベルガラスが言った。「あまり人目を引きたくない」
一行は小山の裏側へ馬を歩かせてから、道から少し離れた。身を隠すのにちょうどいい浅い涸れ谷へはいって馬をおりた。ガリオンは歩いて涸れ谷から出ると、高い草むらにはいつくばって見張りをつづけた。
三十分ばかりして、シルクがゆるい駆け足で小山の頂上へ戻ってきた。ガリオンは草むらから立ち上がって、手をふった。
涸れ谷へ着いて馬からおりたとき、小男はうんざりした表情をうかべていた。「宗教ってやつは」かれはふんと鼻を鳴らした。「宗教がなかったら、世界はどんなふうなんだろうな。あそこに集まっている連中は、力のある妖術使いのやらかす見せ物を見ようとしてるんだ。そいつは絶対に悪魔を呼び出してみせると保証してやがる――他の妖術使いが最近さっぱり成功していないというのにだ。うまく説得すれば、悪魔神ナハズに出てきてもらうことも夢じゃないとまでほのめかしてる始末さ。あの群衆は一日中あそこを動きそうもないな」
「じゃあ、どうするんです?」サディがたずねた。
ベルガラスは涸れ谷を少し先まで歩いていって、物思わしげに空を仰いだ。そして、決然たる表情で引き返してきた。「それがあとふたり分必要になるな」老人はシルクの変装用の服を指さした。
「お安いごようですよ」シルクは答えた。「あの丘をこれからのこのこおりていく者がまだいるだろうから、待ち伏せして二、三人の服を奪うのはわけない。どんな計画なんです?」
「おまえさんと、ガリオンとわしがあそこへおりていくのだ」
「おもしろそうだが、まだわかりませんね」
「どういうやつだか知らんが、その妖術使いはナハズを呼び出してみせると約束しとるんだろう。だが、ナハズはウルヴォンと一緒だし、あいつがあらわれる見込みは全然ない。きのうあの村でわしらが目撃したことからすると、悪魔を呼び出しそこなえば、妖術使いは命が危ない。したがって、そんなに自信たっぷりだとすると、あの妖術使いはおそらく幻覚を作りだすつもりでいるのだろう――最近ではだれひとり本物は呼び出せておらんのだからな。わしも幻覚を作るのは得意なんだ。そこであそこへおりて行って、やつに挑んでみようというのだよ」
「村人たちがひれ伏して、あなたの幻覚を崇拝するようなことになりません?」ヴェルヴェットがきいた。
ベルガラスはぞっとするような笑みをうかべた。「そういうことにはなるまいよ、リセル。いいか、悪魔、また悪魔のオンパレードなんだ。わしがうまくやれば、日暮れまでにこの五リーグ以内にカランド人はひとりもいなくなるだろう――もちろん、連中がどれだけ早く逃げ出せるかによるがね」老人はシルクを見ると、非難がましくきいた。「まだそこにおったのか?」
変装用の服を求めてシルクが出かけているあいだに、老魔術師はその他の準備をした。かすかに曲がった長い枝を見つけて杖代わりにし、羽根を二枚拾って髪にさした。次に腰をおろし、荷物のひとつを枕に仰向けになった。「ようし、ポル」老人は娘に指示した。「わしをぞっとするような顔にしてくれ」
ポルガラはうっすら笑うと、片手をあげかけた。
「そうじゃない。インクを取ってきて顔に模様を描くんだ。そう本物らしくする必要はないぞ。カランド人は宗教をすっかり堕落させてしまったからな、本物に行き当たってもわからんだろう」
ポルガラは笑って、荷物のひとつに歩みより、インク壺と鵞ペンを手に戻ってきた。
「いったいどうしてインクなんか持ち歩いていらっしゃるの、レディ・ポルガラ?」セ・ネドラがたずねた。
「万一の場合に備えておきたいからよ。一度長旅に出て、途中でだれかにメモを残して行かなくてはならなかったことがあるの。インクを持っていなかったので、結局血管を切って、血で書く羽目になったわ。わたしは同じ過ちはめったに繰り返さないのよ。目をつぶって、おとうさん。まぶたからはじめるのが好きなのよ」
ベルガラスは目を閉じた。「ダーニク」ポルガラが鵞ペンで顔に模様を描きだすと、声をかけた。「みんなと一緒にここにいてくれ。この涸れ谷よりもっと人目につかん場所がないかどうか見てくれんか」
「わかりました、ベルガラス」鍛冶屋は答えた。「湖岸へおりても安全だと、どうしたらわかりますか?」
「悲鳴がやんだらだ」
「口を動かさないで、おとうさん」眉間にしわを寄せて一生懸命にペンを動かしながら、ポルガラが言った。「ひげも黒くするの?」
「ひげはそのままにしといてくれ。迷信深い連中というのは、いかめしさに弱いものだし、わしはだれよりも年寄りに見えるからな」
ポルガラは同意のしるしにうなずいた。「ほんとね、おとうさん。泥より年とってみえるわ」
「何を言っとるんだ、ポル」ベルガラスは不機嫌に言った。「もう終わりか?」
「額に死の象徴がほしかった?」
「あったほうがよかろう」老人はぶつぶつ言った。「あそこのばかどもにはわからんだろうが、重々しい感じを与える」
ポルガラが芸術作品を仕上げたころ、シルクがよせ集めの衣類を持って戻ってきた。
「何か問題は?」ダーニクがたずねた。
「ちょろいもんさ」シルクは肩をすくめた。「空をじっと見つめている人間のうしろからしのびよるのは子供にだってできることだ。後頭部をすばやく一撃すれば、たいがいは気絶する」
「鎖かたびらと兜を脱げ、ガリオン」ベルガラスが言った。「カランド人はそういうものは着ないのだ。ただし剣は持っていけよ」
「そのつもりだったさ」ガリオンは四苦八苦して鎖かたびらを脱ぎはじめた。すぐにセ・ネドラが手伝いにきた。
「錆がついちゃってるわ」ふたりがかりでその重いものをはぎとったあと、セ・ネドラが言った。鎖かたびらの下に着ていた麻布のチュニックについた赤っぽい茶色の無数の点を、彼女は指さした。
「鎖かたびらを着た後遺症のひとつだよ」ガリオンは答えた。
「それと、この臭いね」セ・ネドラは鼻にしわを寄せた。「絶対お風呂が必要よ、ガリオン」
「そのうちそういうチャンスがあればね」ガリオンはシルクが盗んできた毛皮のチョッキのひとつを着た。それから粗末なすね当てを巻き付け、すっぱい臭いのする毛皮の帽子をかぶった。「どう見える?」セ・ネドラにきいた。
「野蛮人みたい」
「それでいいんだ」
「帽子は盗みませんでしたよ」シルクがベルガラスに言っていた。「羽根をつけるほうが好きだろうと思ったんでね」
ベルガラスはうなずいた。「われわれすぐれた妖術使いはみな羽根をつけておる。まあ、一時的流行ではあるんだが、わしは常に先端をいくのが好きでな」老人は馬たちを見やった。「歩いていくことにしよう。騒ぎがはじまったら、馬たちはおじけつくだろう」ベルガラスはあとに残るポルガラやみんなを見た。「そう長くはかからんはずだ」自信たっぷりに言うと、ガリオンとシルクを従えて大股に涸れ谷をくだっていった。
小山の南端の涸れ谷の入口からあらわれた三人は、丘をくだって湖岸に集まっている群衆のほうへ向かった。
「妖術使いの姿はまだ見えないな」前方をのぞきながら、ガリオンが言った。
「妖術使いというのは、聴衆を待たせるのが好きなのさ」ベルガラスが言った。「そのほうが期待や何かを高めるということになっとるんだ」
かなり暖かな日だったので、丘をくだっていくかれらの衣服からたちのぼる鼻をさす臭いが、しだいに強まってきた。三人ともあまりカランド人らしく見えなかったが、カランド人のなかへはいっていっても、群衆はほとんど注意を向けてこなかった。目という目は演壇と、頭蓋骨の並んだ杭がうしろに控える丸太づくりの祭壇のひとつに釘づけになっているようだ。
「どこであの頭蓋骨を手にいれるんだろう?」ガリオンはシルクにささやきかけた。
「カランド人は昔は首狩りをしていたんだ」シルクは答えた。「アンガラク人がその習慣をやめさせたんで、いまは夜中にこっそりうろつきまわって墓を荒してるのさ。カランダ中の墓地を捜しても、五体満足な骸骨はひとつも見つからないだろうな」
「祭壇にもっと近づこう」ベルガラスがつぶやいた。「事がはじまるとき、この群衆をかきわけて行くのはごめんだ」かれらは人々をおしのけて前へ出た。何人かの脂じみた髪の狂信者が押し退けられたことに文句を言いかけたが、ポルガラがベルガラスの顔に描いたぎょっとするような模様を一目見ると、おとなしくなった。ベルガラスのことを恐れ多い力を持つ妖術使いだと思い込んだのはあきらかだった。おそらく、手出ししないほうが賢明だと考えたのだろう。
三人が祭壇の正面のそばまでたどりついたちょうどそのとき、湖岸の村の門から黒いグロリム僧の服をまとったひとりの男が大股にあらわれて、まっすぐ祭壇のほうへやってきた。
「あれがわれらが妖術使いらしいな」ベルガラスがそっと言った。
「グロリムですかね?」シルクの声はちょっとおどろいていた。
「やっこさんがなにをする気か見ていよう」
黒装束の男は壇のそばまでくると、壇にあがって祭壇の正面に立った。そして両手をあげ、ガリオンには理解できない言葉で耳ざわりにしゃべりだした。その言葉は祝福とも、呪詛ともとれた。群衆はたちどころに静かになった。男はゆっくと頭巾を脱ぐと、衣服が壇の上に落ちるにまかせた。身につけているのは腰布だけで、頭は剃りあげられている。体は頭から足の先まで複雑微妙な入墨でおおわれていた。
シルクがひるんだ。「ありゃさぞ痛かっただろうな」
「心せよ、これからおまえたちの神の顔を見せるぞ」グロリムは大声で宣言すると、腰をかがめて祭壇の前の壇上に模様を描いた。
「わしの思ったとおりだ」ベルガラスがささやいた。「やつの描いた円は完全ではない。もし本気で悪魔を呼び出すつもりなら、あんなへまはしなかったはずだ」
グロリムは身を起こすと、演説調に高低をつけて呪文の言葉をとなえはじめた。
「かなり用心深いぞ」ベルガラスはふたりに言った。「大事な文句を抜け目なくはずしている。まちがって本物の悪魔を呼び起こすことにならんよう気を配っているのだ。待て」老人は陰気に微笑した。「そら、やるぞ」
ガリオンもまたグロリムの意志が一点に集中するさいのうねりを感じ、つづいておなじみのざわざわした物音を聞き取った。
「魔神ナハズを見るがよい」入墨のグロリムが叫ぶと、炎のひらめきや、雷鳴、硫黄臭い煙とともに祭壇の前に薄闇に包まれた姿があらわれた。その姿は普通の人間よりいくらも大きくなかったが、どういうわけかじつに本物らしく見えた。
「悪くない」ベルガラスがしぶしぶ認めた。
「おれにはとてもまぼろしには見えませんぜ、ベルガラス」シルクが神経質に言った。
「ただのまぼろしだよ、シルク」老人は小声でシルクを安心させた。「うまくできとるが、実体はない」
祭壇前の壇上のぼんやりした姿は立ち上がると、闇の頭巾を脱いで、ガリオンがアシャバのトラクの謁見の間で見たあのぞっとするような顔をあらわにした。
群衆がうめきともつかぬ声をあげてひざまずいたとき、ベルガラスは鋭く息を吸い込んで、指示した。「この連中がちりぢりになるときに、グロリムを逃がさんようにしてくれ。やつが本物のナハズを見たことがあるのはまちがいない。つまり、やつもハラカンの一派ということだ。やつにいくつか聞きたいことがある」それだけ言うと老人は立ち上がった。「ではと、そろそろはじめたほうがよさそうだ」ベルガラスは壇の正面に歩みより、大声でわめいた。「ぺてんだ! ぺてんだ、まやかしだ!」
グロリムはまじまじとベルガラスを見た。老人の顔の模様を見たとき、その目が細まった。「魔神の前にひざまずくのだ」グロリムはどなりかえした。
「ぺてんだ!」ベルガラスは再度けちをつけた。そして壇に近づき、あっけにとられている群衆に向きなおると、高らかに宣言した。「これは妖術使いではないぞ、ただのグロリムのぺてん師だ」
「魔神に骨から肉をひきむしられたいのか」グロリムは金切り声を出した。
「いいとも」ベルガラスは穏やかな軽蔑をこめて答えた。「やらせてみるがいい。そら。なんなら手助けしてもいいぞ」ベルガラスは袖をまくりあげて、祭壇前を威嚇的に行きつ戻りつしているぼんやりしたまぼろしに近づくと、カッと開いているまぼろしの口にわざとむきだしの腕を突っ込んだ。一瞬ののち、かれの手が魔神の頭のうしろからあらわれた、というよりそんなふうに見えた。ベルガラスが腕をさらに奥へ突っ込むと、手首と二の腕がまぼろしの背中から突き出した。次に、老人はわざとらしく、祭壇の前に集まった人々に指をうごめかして見せた。
神経質な笑いが群衆のあいだを走った。
「ひとかけらの肉も食べなかったようだな、ナハズ」老人は前に立っているぼんやりした姿に言った。「わしの指にも腕にも肉はまだいっぱいついておるようだぞ」ベルガラスはまぼろしから腕をひきぬいて、グロリムのまぼろしに両手をつっこみ前後に動かした。「これはいささか実体にかけるようだな、え」入墨をした男に言った。「こいつは元のところへ送り返したらどうだ? そのあと、わしがおまえとおまえの教区民に本物の悪魔を見せてしんぜよう」
ベルガラスは両手を腰にあてると、上体を少し前に倒して、まぼろしに息を吹きかけた。まぼろしは跡形もなく消えてしまい、入墨をしたグロリムはおそろしそうにあとずさった。
「逃げるつもりだ」シルクがガリオンにささやいた。「おまえは壇のあっち側へ行ってくれ、おれはここを見張る。おまえのほうへきたら頭を一発ガツンとやるんだ」
ガリオンはうなずいて、壇の向こう側へそろそろと近づいていった。
ベルガラスはふたたび群衆に向かって声をはりあげた。「おまえたちは魔神の影の前にひざまずいているのだぞ。わしが地獄の魔王をここへ連れてきたら、どうするつもりだ?」ベルガラスは身をかがめると、いそいで足元の円と五芒星形をなぞった。入墨をしたグロリム僧は少しずつベルガラスから遠ざかりはじめた。
「逃げるでないぞ、グロリム」ベルガラスは冷酷な笑い声をあげて言った。「地獄の魔王はいつも腹をすかせているのだ。到着したらおまえを食べたがるかもしれん」老人が片手で招き寄せるような動作をすると、グロリムは目に見えない手にむんずとつかまれたかのようにじたばたしはじめた。
やがてベルガラスは先刻のグロリム僧の呪文とはまったく異なる呪文をとなえはじめた。言葉が天空から反射し、老人はたくみにそれをさらに増幅させた。極彩色の炎の壁が地平線から地平線まで空を覆い隠した。
「地獄の門を見よ!」ベルガラスは叫んで、指さした。
湖の沖合いに二本の巨大な柱が出現したように見えた。そのあいだから煙と炎が渦を巻いて吹き出してくる。その燃える門の背後から、無数の恐ろしい声がぞっとするような賛美歌を歌っているのが聞こえてきた。
「では、地獄の魔王を呼んで姿を現わしてもらうぞ!」老人は叫ぶと、曲がった杖をもちあげた。ベルガラスの意志がうねりたつ威力はすさまじく、空をなめる巨大な炎の壁はじっさいに太陽をおおい、日差しに代わって恐ろしい炎の明かりがあたりを支配したように見えた。
火の門のかなたから耳をつんざくびゅうびゅうという音が聞こえてきて、それがおさまって咆哮になった。炎がふたつに分かれ、巨大な竜巻が二本の柱のあいだを駆け抜けた。渦巻く速度がはやまるにつれて、竜巻の色が真っ黒から灰色へ、凍てつくような白へと変化した。そのそびえたつ白雲が湖の向こうから音をたてて迫ってきた。湖は白雲の通過にともなって凍りはじめた。はじめそれはうつろな目とぱっくりあいた口を持つ、とほうもなく大きな雪の亡霊のように見えた。身の丈は実に数百フィート、その息は祭壇の前ですくみあがっている群衆に吹雪のごとく襲いかかった。
「おまえたちはいま氷を体験した」ベルガラスは群衆に言った。「今度は火を体験するがよい! 嘘っぱちの魔神をおまえたちが崇拝したことが、魔王の怒りを買ったのだ。いまからおまえたちは永劫の炎に焼かれるのだ!」ベルガラスが杖でもう一度あたりを払うような仕草をすると、いましも湖の岸へ近づいてくる白い姿の中央に、深紅の輝きがあらわれた。黒ずんだ赤い輝きはみるみる大きくなって、とうとう白をすっぽり包み込んだ。すると、炎と渦巻く氷でできた亡霊じみた姿が長さ百フィートの両腕をもちあげて、鼓膜が破れそうな声でわめいた。氷は砕け散ったと見え、亡霊は火の生き物となって立ち尽くした。その口や鼻孔から火の玉が飛び出し、岸までの最後の数ヤードの湖面をかすめて、湯気をたちのぼらせた。
亡霊はばかでかい片手を伸ばすと、てのひらを上にして祭壇の上にのせた。ベルガラスが平然とその燃える片手にのると、まぼろしはかれを空中高く持ち上げた。
「不信心者ども!」ベルガラスは声をはりあげた。「けがらわしい変節の罰として、魔王の怒りをしのぶ覚悟をするがよいぞ!」
カランド人たちのあいだからものすごいうめき声がわきおこり、つづいて恐怖の悲鳴がひびきわたった。火の亡霊がもう片方の巨大な手を群衆のほうへ伸ばしたのだ。次の瞬間、群衆は一丸となって金切り声をあげながら、向きを変えて逃げていった。
ベルガラスが自分の創造した巨大な物体に気をとられすぎ、その維持に四苦八苦していたせいだろう、グロリム僧はどうにか老人の拘束力を断ち切って、壇から飛び降りた。
しかしそこにはガリオンが待ち受けていた。かれは腕を伸ばして、逃げようとする入墨の男の胸を片手で押し返し、大きくふりかざした拳で側頭部をガツンと殴りつけた。
グロリムはくたっとくずおれた。どういうわけか、ガリオンはおおいに満足した。
[#改ページ]
10[#「10」は縦中横]
「どの船を盗みたい?」湖に突き出た桟橋に、ガリオンが気絶したグロリムをおろしたとき、シルクがたずねた。
「どうしてぼくにきくんだ?」シルクの言葉の選択にちょっと居心地の悪い思いをしながら、ガリオンは答えた。
「船を走らせる役目を果たすのが、おまえかダーニクだからさ。ひっくりかえさないで船を動かすことにかけては、おれはド素人なんでね」
「転覆させないで、だろ」波止場につながれたさまざまな船をながめながら、ガリオンはうわの空で訂正した。
「え?」
「転覆させる≠ニ言うんだよ、シルク。荷馬車はひっくり返す。船は転覆させる」
「つまりは、同じことだろうが」
「まあね」
「じゃ、なんで四の五の言うんだよ? これなんかどうだ?」小男は船首にふたつの目を描いた、船幅の広い船を指さした。
「乾舷が浅いな」ガリオンは言った。「馬たちが重いから、ぼくたちが乗ると、船はかなり沈むんだ」
シルクは肩をすくめた。「さすがくろうと。バラクやグレルディクに勝るとも劣らぬプロのくちぶりになってきたぜ」小男はふいににやにやした。「なあ、ガリオン、おれはこれまで船みたいにでかいものは盗んだことがないんだ。腕が鳴るよ」
「盗む≠チて言葉を使うのをやめてくれないか。借りると言うだけじゃだめなのか?」
「使い終わったら、また戻ってきて返すつもりだったのか?」
「いや、ちがう」
「それなら、盗む≠ェ正しい言い方だぜ。おまえは船と航行の専門家、おれは盗みの専門家なんだ」
ふたりはさらに桟橋を歩いていった。
「こいつに乗って、なかを見てみよう」ガリオンが指さしたのは、病的な緑色に塗られた不格好な大型平底船だった。
「まるで洗い桶だな」
「これでレースに勝とうってわけじゃないからね」ガリオンは平底船に飛び乗った。「馬たちが乗ってもじゅうぶんゆとりがあるし、乾舷が高いから重みで沈む心配もない」円材や索具を調べた。「ちょっとお粗末だが、ダーニクとぼくとでなんとかなるはずだ」
「船底に穴があいてないかどうか点検してくれよ」とシルク。「水漏れでもしてなけりゃ、だれもこんな色には塗らないぜ」
ガリオンは下へおりて船倉と船底を調べた。甲板に戻ったとき、かれの心はすでに決まっていた。「これを借りよう」桟橋に跳び移りながら言った。
「盗む≠セってば、ガリオン」
ガリオンはためいきをついた。「わかったよ、盗もう――それで気がすむのなら」
「正確に表現しようとしてるんだ、それだけさ」
「あのグロリムをここまでひきずってこよう。船にほうりこんで縛りあげておくんだ。しばらく目はさまさないと思うが、危険を冒すことはない」
「どのくらいの強さで殴ったんだ?」
「そうとう強くだ。あいつを見てたらなんだかむしゃくしゃしてきたんだよ」ふたりはグロリムがころがっているところへ引き返しはじめた。
「おまえ、日増しにベルガラスに似てくるな」シルクが言った。「単なるいらだちからでも、おまえがやると、普通の人間が怒り心頭に発してやるのよりひどいダメージを与えるんだぞ」
ガリオンは肩をすくめて、足で入墨のグロリムをごろんところがした。気絶している男の片方の足首をつかみ、「もう片方の足をもってくれ」と言った。
ふたりはグロリムをずるずるとひきずりながら大型平底船のほうへ引き返した。男のつるつるの頭が桟橋の丸太の上で上下に跳ねた。平底船に着くと、ガリオンが男の両腕をつかみ、シルクが両足首をつかんだ。二、三度前後に揺すってから、ふたりは男を穀物袋のように手すりごしに中へ放り投げた。ガリオンがまた船に飛び乗って、手足を縛り上げた。
「ベルガラスがみんなを連れておでましだ」シルクが桟橋から言った。
「よし。そら――この渡り板のそっち側をつかまえてくれ」ガリオンはその不格好な板を振り回して、待っているチビのドラスニア人のほうへ突き出した。シルクはそれをつかんでひっぱりよせ、先端を桟橋にかけた。
「なにか見つかったかい?」みんなが近づいてくると、シルクはたずねた。
「首尾は上々だよ」ダーニクが答えた。「あの建物のひとつが貯蔵庫なんだ。天井まで食糧がぎっしり詰まっていた」
「いいぞ。空腹をかかえて残りの旅をするのはいやだと思ってたんだ」
ベルガラスは大型平底船を見ていた。「パッとせん船だな」と文句をつけた。「どうせ盗むなら、どうしてもう少し見栄えのするのを盗まなかったのだ?」
「な?」シルクがガリオンに言った。「あれが正しい言葉だっておれが言っただろう」
「見てくれだけで盗んだってしかたがないだろう、おじいさん」ガリオンは反論した。「自分の船にするつもりはないんだ。これなら馬たちをのせてもたっぷりゆとりがあるし、帆も単純だからダーニクやぼくでじゅうぶん操作できる。気に入らないなら、自分の乗るのを盗んでくればいいだろう」
「きょうのわしらはいらいらしとるようだな」老人はやんわりと言った。「わしのグロリムはどうした?」
「甲板の排水孔あたりにころがってる」
「もう意識は戻ったのか?」
「まだしばらくはだめだと思うよ。かなり強く殴ったんだ。乗るの、それとも別の船を盗みにいくのかい?」
「口のききかたに気をつけなさい、ディア」ポルガラが叱った。
「いや、ガリオン」ベルガラスは言った。「おまえがこれと決めたなら、わしらはこれに乗るさ」
馬たちを乗船させるのにちょっとてこずった。それがすむと、全員で船の横帆式の帆をあげる仕事に取り掛かった。帆があげられ、ガリオンの満足のいくように固定されると、かれは舵柄を握った。「ようし、索を解け」
「まるで木物の船乗りみたいよ、ディア」セ・ネドラがほれぼれと言った。
「認めてくれてうれしいよ」ガリオンはこころもち声をはりあげた。「トス、その鉤竿を取って、桟橋からぼくらを押しだしてくれないか? 広々した水上へ出る前にほかのボートに衝突したくないんだよ」
巨人はこっくりうなずいて、長い鉤竿を拾い上げると、それで桟橋をぐいと押した。船首がゆっくりと桟橋から離れ、きまぐれな風に帆がふくらんだ。
「船≠カゃないの、ガリオン?」セ・ネドラがたずねた。
「なんだって?」
「ほかの船のことをボートって呼んだでしょう。船とはちがうの?」
ガリオンはまばたきもせずに長々とセ・ネドラを凝視した。
「わたしはただ聞いてるだけよ」セ・ネドラが弁解口調で言った。
「やめてくれよ。たのむから」
「ガリオン、何でこいつを殴ったんだ?」ベルガラスがきむずかしげにたずねた。グロリム僧のわきに膝をついている。
「げんこつでさ」
「この次からは斧か棍棒を使え。もうちょっとで殺すところだったぞ」
「ほかに文句を言いたい者はいるか?」ガリオンは大声でたずねた。「いますぐ全部の不満を山積みにしようじゃないか」
みんなはガリオンをまじまじと見つめた。どの顔もちょっとショックを受けたような表情を浮かべている。
ガリオンはあきらめた。「ぼくの言ったことは忘れてくれ」目をすがめて帆を見上げると、帆が沖に向かって吹く風を受けるような角度に船首を回した。するとにわかに帆がふくらんでブーンと鳴り、平底船は速度をあげて桟橋の先端を離れ、広々とした湖面へ出た。
「ポル」ベルガラスが言った。「こっちへきて、この男に何ができるか見てくれんか。わしがやってもぴくりともせんのだが、質問したいことがあるのだ」
「いいわ、おとうさん」ポルガラはグロリムに近づいてかたわらにひざまずくと、両手をこめかみにあてた。ポルガラがしばらく意識を集中させると、ガリオンは意志のうねりを感じた。
グロリムがうめいた。
「サディ」ポルガラは考えこみながら言った。「あなたのあの箱にネファラはあって?」
宦官はうなずいた。「わたしもあれを使ったらどうかと思っていたんですよ、レディ・ポルガラ」サディは膝をついて赤い箱をあけた。
ベルガラスは物問いたげに娘を見た。
「薬よ、おとうさん。真実を引き出す効果があるの」
「どうしていつものやりかたでやらんのだ?」
「この男はグロリムなのよ。強靭な意志を持っているにちがいないわ。わたしなら勝てるでしょうけど、時間がかかるでしょうね――それにひどく疲れるはずよ。ネファラなら同じ効き目があるし、楽にかたづくわ」
ベルガラスは肩をすくめた。「好きなようにするさ、ポル」
サディが箱の中から濃い緑色の液体の瓶を取り出していた。瓶の蓋をとると、かれはグロリムの鼻をつまんだ。意識のもうろうとしている男は息を吸うために口をあけざるをえなくなり、宦官はすかさずそのチャンスに緑のシロップをきっかり三滴男の舌にたらした。「ちょっとたってから起こしたほうがいいと思いますよ、レディ・ポルガラ」サディはグロリムの顔を医者みたいに眺めながら言った。「まず薬の効果があらわれるのを待ってください」かれは瓶の蓋をしめると、箱にしまいなおした。
「その薬でどこかが痛くなることはあるのかい?」ダーニクがたずねた。
サディはかぶりをふった。「意志をゆるめるだけですよ。目をさましたら理性的で、言うことも首尾一貫しているだろうし、とてもすなおなはずです」
「おまけに、このグロリムが持っているはずのどんな力を使っても、意識をちゃんと集中させることができなくなるのよ」ポルガラがつけくわえた。「目がさめた瞬間にわたしたちから姿をくらまさないかと心配する必要もないしね」ポルガラはグロリムの顔を仔細に見守りながら、ときおりまぶたをめくって薬の進行具合いをたしかめた。「そろそろいいころだわ」ようやく言うと、捕虜の手足の紐をほどいた。それから男のこめかみに両手を当てて、そっと正気づかせた。「気分はどう?」ポルガラはきいた。
「頭が痛い」グロリムは情けない声で言った。
「いまになおるわ」ポルガラは男を安心させると、立ち上がってベルガラスを見た。「静かに話しかけて、おとうさん。はじめは簡単な質問にしてよ。ネファラを使ったときは、少しずつ重要な事柄に近づいていくのが最善のやりかたなの」
ベルガラスはうなずいて、木のバケツをつかむとさかさまにして、グロリムの横の甲板に置き、そこに腰をおろした。「おはよう、友だち」老人は陽気に言った。「それとも、こんにちは、かな」と、目をすがめて空を見上げた。
「おまえ、本当はカランド人じゃないんだろう?」グロリムがたずねた。その声は夢でも見ているようにたよりなかった。「あの妖術使いのひとりだと思っていたが、こうやってまぢかでみると、そうじゃないな」
「なかなか鋭いな、友だち」ベルガラスは相手をほめた。「名前は何という?」
「アーシャグだ」グロリムは答えた。
「どこからきた?」
「カリダの神殿だ」
「そうじゃないかと思った。ときに、ハラカンというチャンディムを知らないか?」
「いまのかれならメンガで通りたいと思っているだろう」
「ははあ、そのことなら聞いたことがあるぞ。おまえがけさ呼び出したナハズのまぼろしだが、じつによくできていた。あれだけこまかいところまで正確につかむには、これまで何度かナハズに会ったことがあるにちがいないな」
「ナハズとはしばしば密接に接触していた」グロリムは認めた。「ナハズをメンガに渡したのは、おれだったんだ」
「そのことを話してくれないか。おもしろそうだし、ぜひ聞きたいんだ。いそぐことはないぞ、アーシャグ。一部始終話してくれ、こまかい部分も飛ばさないようにしてな」
グロリムはうれしそうに微笑した。「いままでずっとだれかにその話をしたいと思っていたんだ。本当に聞きたいのか?」
「聞きたくてうずうずしているよ」ベルガラスは受け合った。
グロリムはまたにっこりした。「それじゃ」かれはしゃべりだした。「すべてがはじまったのは、もう何年も前のことだ――トラクの死後まもなくだったな。おれはカリダの神殿に勤めていた。おれたちはみんな絶望していたが、信仰を絶やすまいとした。するとある日ハラカンがおれたちの神殿にやってきて、おれをひそかに捜し出したんだ。おれは教会の仕事でそれまでときどきマル・ヤスカへ旅に出たことがあったので、ハラカンがチャンディムのなかでも高位にある僧で、聖なる弟子のウルヴォンとごく親しいことを知っていた。おれたちがふたりきりでいたとき、ハラカンはおれに、前途多難なとき、教会がとるべき方向について、ウルヴォンが神託と予言書を調べたと話してくれた。新しい神がアンガラクにあらわれる運命になっていることや、その神が右手に〈クトラグ・サルディウス〉を、左手に〈クトラグ・ヤスカ〉を持っていることをウルヴォンはつきとめていた。そして神は全能の〈闇の子〉となり、魔神たちはその命令に従うであろう」
「最後のは直接の引用だな?」
アーシャグはうなずいた。「『アシャバの神託』の第八楽節からのだ」
「いささかあいまいだが、神託というのはだいたいそういうものだよ。先をつづけてくれ」
アーシャグはすわりなおして、話しつづけた。「弟子のウルヴォンはその楽節を、われわれの新しい神が悪魔たちの加勢を得て、敵を鎮圧することだと解釈した」
「ハラカンはその敵がだれなのかおまえに教えてくれたか?」
アーシャグはまたうなずいた。「かれが言ったのはザンドラマス――おれも聞いたことがあった――とアガチャクという名前の人物だった。おかしな名前だよ。また〈光の子〉もおそらく干渉してくるだろうと警告した」
「筋の通った推測だな」シルクがガリオンにささやいた。
「弟子のもっとも親しい顧問のハラカンが、大事な仕事を果たすためにこのおれを選んでくれたのだ」アーシャグは誇らしげだった。「ハラカンが命じたのは、カランダの妖術使いたちを捜し出し、かれらのわざを研究することだった。そうすれば、おれも魔神ナハズを呼び出して、敵と戦う弟子のウルヴォンを助けるように頼めるからだ」
「ハラカンはそれがどんなに危険な仕事か話したか?」ベルガラスはたずねた。
「危険なのはわかっていた」アーシャグは言った。「だがおれは喜んで引き受けたよ、報酬もそれに見合うだけのものだったからな」
「だろうな」ベルガラスはつぶやいた。「どうしてハラカンが自分でやらなかったんだ?」
「弟子のウルヴォンが別の仕事をハラカンに言いつけていたからだ――なんでも西方のどこかで、子供に関係ある仕事だ」
ベルガラスはそしらぬ顔でうなずいた。「そのことなら聞いたことがある」
「とにかく」アーシャグはつづけた。「おれは北の森へ旅して、教会の目から隠れた場所で儀式の練習をしている妖術使いたちを捜そうとした。やがて、そういうひとりを見つけたんだ」アーシャグの口が冷笑にゆがんだ。「三流どころの無知な野蛮人でな、小鬼のひとりかふたりを呼び出すのがせいぜいだったが、おれを生徒として――そして奴隷として――受け入れることに同意した。おれの体にこのしるしをつけるといいと思ったのはそいつだったんだ」アーシャグはけがらわしげに入墨をちらりと見た。「そいつはおれを犬小屋に閉じ込めて、こきつかい、やつのたわごとに耳を傾けさせた。ほとんどそいつからは得るところがないとわかると、おれはそいつを締め殺してもっと力のある教師を捜しに行った」
「聞いたか、グロリム僧の感謝のあらわしかたを」シルクがそっとガリオンに言った。話を聞きながら平底船を操縦しているガリオンは、半分ずつの注意を払うことしかできなかった。
「その後の数年はたいへんだった」アーシャグはしゃべりつづけた。「おれは教師から教師へと渡り歩き、酷使され、虐待された」陰気な微笑があらわれて消えた。「ときどきやつらはおれをほかの妖術使いたちに売ったものさ――牝牛か豚を売るようにしてな。わざを身につけたあと、おれは引き返してひとりひとりにそのひどい仕打ちの仕返しをしてやった。ついに、北の不毛地帯に近いある場所で、おれはカランダ一の妖術使いとして名高い年寄りの弟子になることができた。かなりのじいさんで、目が見えなかったんで、おれを英知を求める若いカランド人だと勘違いしたんだ。じいさんはおれを弟子として受け入れ、熱心な訓練がはじまった。小物の悪魔を呼び出すのはたいしたことじゃないが、魔神を召集するのはすこぶる困難だし、危険でもある。妖術使いのじいさんは生涯に二度だけ魔神を呼び出したと主張したが、嘘をついていたのかもしれない。しかし、じいさんはおれに魔神ナハズのイメージを呼び出す方法と、ナハズと意志を疎通させるコツはちゃんと教えてくれたよ。まじないも呪文も、呼ばれたときに魔神を出現させるにはふじゅうぶんなんだ。行ってもいいと思ったときにしか、魔神はあらわれない――それも普通は自分の勝手な理由からだ。
老妖術使いがおれに教えられるだけのことを学んでしまうと、おれはじいさんを殺してふたたびカリダめざして南へ旅をつづけた」アーシャグはちょっと気がとがめるようなためいきをついた。「じいさんは親切な教師だったし、殺さなけりゃならなかったのは残念だったよ」それから肩をすくめた。「だが、年寄りだったんだ。心臓をナイフでひと突きしてあの世へ送ってやったんだから、そうむごいわけでもないさ」
「落ち着けよ、ダーニク」シルクが腹をたてている鍛冶屋の腕をおさえて言った。
「カリダで、おれは神殿がめちゃくちゃになっているのを発見した」アーシャグはつづけた。「ついに兄弟たちは失望に負けてしまっていたんだ。神殿は堕落と衰亡のきたならしい汚水だめになっていた。しかし、おれは怒りを抑えて、孤独を守った。そしてマル・ヤスカに急いで手紙を送り、使命を果たしたこと、カリダの神殿で命令を待っていることをハラカンに伝えた。そうこうするうち、チャンディムのひとりから返事が届いた。ハラカンはまだ西方から戻っていないというのだ」アーシャグはいったん言葉を切った。「水をもらえるか?」と、たずねた。「なんだか口の中がひどくいやな味なんだ」
サディが船尾の水桶のところへ行って、ブリキのカップに水をすくった。「どんな薬にも欠点はつきものなんです」通りすがりに、かれは弁解ぎみに小声でガリオンに言った。
アーシャグはありがたそうにサディからカップを受け取って、飲んだ。
「話をつづけてくれ」飲み終わると、ベルガラスが言った。
アーシャグはうなずいた。「一年足らず前のことだ、ハラカンが西方から戻ってきた。カリダへやってきたハラカンとおれは内密に会った。おれは自分の成し遂げたことを話し、魔神を呼び出す試みには限界があることを教えた。次におれたちは人里離れた場所へ行った。そして、ナハズのイメージを呼び出す呪文とまじないを通じて、ふたつの世界をへだてる門のこちら側から話しかけることができ、ナハズと直接意志を通わせられることをハラカンに教えたんだ。いったんおれが魔神との接触を確立すると、ハラカンはナハズと話しはじめた。ハラカンはクトラグ・サルディウスのことを言ったが、ナハズはすでにそれを知っていた。そのあとハラカンはナハズにこう言った。トラクが眠りについている長年のあいだに、弟子のウルヴォンはますます富と権力にとりつかれるようになって、とうとう自分こそが神と崇拝される人物であると思いこむようになった、とね。ハラカンはナハズとのあいだに協定を提案したんだ。魔神がウルヴォンを狂気の世界へひっぱりこみ、クトラグ・サルディウスの隠し場所を捜している連中全員を片付ける手助けをしてはどうかと。そうすれば、ウルヴォンはだれにも邪魔されることなく、あっさりその石を手に入れるだろう」
「おまえはかれらと共謀するほうを選んだとみえるな――ウルヴォンに身近な危険を教えるかわりに? おまえはその協定から何を得た?」
「かれらがおれを生かしておいてくれる」アーシャグは肩をすくめた。「ハラカンはおれを殺したかったらしい――安全のためだ――だが、ナハズがおれはまだ使えるとハラカンに言ったんだ。ナハズはおれ自身が治める王国をおれにくれると約束した――そしておれの命令に従う悪魔の子供たちをくれると。ハラカンは魔神に説得され、おれを丁重に扱った」
「サルディオンをウルヴォンに与えることが、ナハズにとってどれだけ有利になるのか、そこのところがよくわからんな」ベルガラスは率直に言った。
「ナハズは自分のためにクトラグ・サルディウスがほしいんだ」アーシャグは言った。「ウルヴォンが狂人になれば、ナハズはクトラグ・サルディウスを取り上げて、そこらの石ころと取り替えてしまうつもりなのさ。そのあと、ハラカンとふたりでウルヴォンをどこかの家に閉じ込める――アシャバあたりだろう、あるいはへんぴな場所にある城か――そして小鬼やけちな悪魔たちに周囲を取りまかせて、幻覚で目をくらませてしまうつもりだ。そうやってウルヴォンが至福の狂気に浸っているあいだに、ナハズとハラカンがふたりで世界を支配するのさ」
「アンガラクの本当の新しい神が現われるまでね」ポルガラがつけくわえた。
「アンガラクの新しい神はもう現われない」アーシャグはさからった。「ナハズがクトラグ・サルディウス――サルディオン――にひとたび手をのせたら、どちらの予言も消滅する。〈光の子〉と〈闇の子〉は永久に消えてしまうんだ。古い神々は追放され、ナハズが宇宙の神となり、全人類の運命の支配者となるだろう」
「ハラカンがそこから得られるものは何だ?」ベルガラスがたずねた。
「教会の支配権さ――それに世界中の不朽の王権だ」
「ハラカンがそれを文字にして持っていることを祈るよ」ベルガラスはそっけなく言った。「悪魔というやつは、約束を守らないので有名なんだ。それから、どうなった?」
「ウルヴォンからの使いが、ハラカン宛にさまざまな指示の書かれた手紙を持って、カリダに到着した。ウルヴォンは、カル・ザカーズがクトル・マーゴスから戻らざるをえないほどすさまじい分裂騒ぎがカランダで発生したと言ってきた。いったん皇帝がマロリーへ戻れば、ザカーズを殺すのは簡単だろうし、ザカーズが死んでしまえば、王位継承権を操作して扱いやすい男――サルディオンが隠されている場所へ行くとき、一緒に連れて行けるような――を王座にすわらせればいいとウルヴォンは信じているんだ。どうやらこれは新しい神が現われる前に果たされなければならない条件の一つらしい」
ベルガラスはうなずいた。「そう聞くと、じつに多くの事柄がひとつところにおさまるな。それで、どうなった?」
「ハラカンとおれはふたたびこっそりと例の人里離れた場所へ出かけていき、おれはふたたび門を開いてナハズのイメージを引き出した。ハラカンと魔神はしばらく一緒にしゃべっていたが、突然そのイメージが実体を持ち、ナハズ自身がおれたちの前に立ったんだ。
ハラカンがこれからはハラカンでなくメンガと呼べと指示した。ハラカンという名前はマロリーでは広く知れ渡っているからだというんだ。そのあとおれたちはまたカリダへ行ったが、今度はナハズも一緒だった。魔神が悪魔の群れを召集すると、カリダは陥落した。ナハズはそれにたいしてある報酬を要求し、メンガがおれにその要求をかなえるよう指示した。このときになっておれはナハズがおれを生かしておいたわけを知った。おれはナハズと話し合い、ナハズはほしいものを言った。おれはそれを聞いてもへっちゃらだったが、関わりのある人間はカランド人しかいなかったから、それで――」アーシャグは肩をすくめた。「カランド人はナハズを神とあがめてるから、若いカランド人の娘たちを説得して魔神の寵愛を受けるのは最高の名誉だと思わせるのはむずかしくなかった。娘たちはよろこんでナハズのところへ行ったよ、どの娘も心の底ではナハズの子を産みたがっていた――もちろんそういう出産で、自分の体が内臓をえぐりだされたばかりの豚みたいにずたずたになるとは知らなかったがね」アーシャグはさげすむような笑いを浮かべた。「あとのことは知ってるだろう」
「ああ、知っているとも」ベルガラスの声は平らな石を釘でひっかいているような音だった。「かれらはいつ出発したんだ? ハラカンとナハズのことだが? かれらがもうカランダのこのあたりにいないことはわかっている」
「一ヵ月ほど前だった。おれたちはデルチンの国境にあるトルパカンに包囲攻撃をしかける準備をしていたんだ。ある朝目をさましてみると、メンガとナハズがいなくなっており、かれらがいつも連れていた悪魔たちももう軍から消えていた。みんながおれを見たが、おれのまじないも呪文も一番下っ端の悪魔を呼び出すことさえできなかった。軍は荒れはじめ、おれは命からがら逃げだした。そしてまた北のカリダへ向かったが、行ってみるとそこはめちゃくちゃになっていた。監視役の悪魔たちがいなくなった軍は、みるまに秩序を失っていた。だが、おれはまだナハズのイメージを呼び出せることに気づいた。もしイメージをうまく利用すれば、メンガとナハズがいなくなったいま、カランド人の忠誠心をおれに向けさせることができるかもしれないと思ったんだ。そこでおれはけさその計画を実現させようとしていたんだよ、そこへおまえが邪魔にはいった」
「ふむ」ベルガラスはそっけなく言った。
「いつごろからこのあたりにいるの?」ポルガラがだしぬけに捕虜に質問した。
「数週間前からだ」グロリムは答えた。
「そう。二、三週間前にひとりの女が子供連れで西からやってきたのよ」
「女にはろくすっぽ注意を払わないんだ」
「この女はちょっと普通じゃなかったかもしれないわ。その女が湖岸のあの村へきたことはわかってるの。そしてボートを借りたこともね。何も聞いていない?」
「カランダにはいまは旅人は数えるほどしかいない」アーシャグは言った。「騒然としてるからな。この一ヵ月、あの村から出たボートはひとつしかないよ。だがな、もしその捜している女があんたらの友だちで、あのボートに乗ってたなら、その女のために泣く用意をしたほうがいいぜ」
「あら?」
「そのボートは湖の東側にあるガネシアというカランダの都市まで、あと一歩というときに、突然襲ってきた嵐に巻き込まれて沈んじまったんだ」
「ザンドラマスのいいところは、予測がつくってことだな」シルクがガリオンにささやいた。「あの女の足跡をもう一度たどるのはそうむずかしいことじゃなさそうだ、だろ?」
アーシャグのまぶたがさがりはじめ、頭を起こしていることがほとんどできないようだった。
「まだ質問があるんでしたら、早くしたほうがいいですよ、長老」サディが勧めた。「薬が切れはじめてきたし、いまにも眠りこみそうだ」
「必要なことはすべて聞き出したよ」老人は答えた。
「わたしもよ」ポルガラがむっつりとつけくわえた。
広大な湖なので、日暮れ前に東の岸に到着できる見込みはなかった。そこで一同は帆をおろし、平底船が夜のうちに流される距離を最小限にくいとめるために錨をおろした。翌日、最初の光とともにふたたび帆をあげ、正午をまわった頃、東の水平線上に黒っぽいしみのようなものが見えてきた。
「あれが東の岸だな」シルクがガリオンに言った。「船首へのぼって、陸標がないかどうか見てくる。カランダの波止場にまっすぐはいりたくはないだろう?」
「ああ。ごめんだ」
「どこかに静かな入り江を見つけられるかどうかやってみるよ。入り江があれば、注意を引かずにあちこち見てまわれる」
午後の三時頃、かれらは高い砂丘と灌木に囲まれた静かな湾に平底船をのりあげた。
「どう思う、おじいさん?」馬たちを下船させたあと、ガリオンはたずねた。
「どうって、何を?」
「船さ。どうしたらいい?」
「漂わせておくさ。わしらがここに上陸したことを知らせるようなことをするのはよそう」
「そうだね」ガリオンはちょっと残念そうにためいきをついた。「悪くない船だったろ?」
「ひっくり返らなかったな」
「転覆しなかった、だろ」ガリオンは訂正した。
ポルガラがふたりのところへやってきた。「これ以上アーシャグが必要かしら?」彼女は老人にたずねた。
「いや、わしもやつをどうするかさっきから心を決めようとしていたんだ」
「わたしにまかせて、おとうさん」ポルガラはきびすを返して、ふたたび縛りあげられて砂浜に寝ころがっているアーシャグのところへ戻っていった。しばらくアーシャグを立ったまま見おろしていたが、ポルガラはやがて片手をあげた。ガリオンが突然強力な意志のうねりを感じたとき、グロリムははげしく身をちぢこめた。
「ようくお聞き、アーシャグ」ポルガラは言った。「おまえはナハズがこの世界に忌まわしい化物を野放しにできるよう、魔神に女たちを提供した。その行為は罰せられねばならない。そこで、これがおまえの罰だよ。いまからおまえは敵なしになる。だれもおまえを殺せない――人間も、悪魔も――おまえ自身ですらもね。だが、おまえの言うことはだれも一言たりとも二度と信じなくなるだろう。おまえはこの先毎日絶え間ないあざけりを浴びせられることになろうし、どこへ行っても追い出されて、根なしの放浪者として世界をさまようことになろう。メンガを助け、ナハズを野放しにする手伝いをし、愚かな女たちを魔神のけがらわしい欲望の犠牲にしたことへの、報いがこれなのだよ」ポルガラはダーニクのほうを向いた。「縄をほどいて」と命じた。
手足が自由になると、アーシャグはよろめくように立ち上がった。入墨のある顔は土気色だった。「おまえは何者だ、女?」かれはふるえ声で問いつめた。「そんなおそろしい呪いをかけるどんな力を持っているというのだ?」
「わたしはポルガラ。聞いたことがおありだろう。さあ、行っておしまい!」ポルガラは有無を言わせぬ口調で砂浜の先を指さした。
あらがいがたい衝動にいきなりつき動かされたかのようにアーシャグはくるっと向きを変え、恐怖に顔をこわばらせてつまずきながら砂丘のひとつをのぼって向こう側に見えなくなった。
「素性を明かしたのは賢明だったでしょうかね?」サディが疑わしげにたずねた。
「だいじょうぶよ、サディ」ポルガラは微笑した。「屋根という屋根にのぼってアーシャグがわたしの名前を叫んだって、だれも信じるものですか」
「あの人、どのくらいまで生きるの?」セ・ネドラの声は聞き取れないほどだった。
「永遠に、でしょうね。自分のしでかしたことの重大さを認識するのには、じゅうぶんな長さだわ」
セ・ネドラはまじまじとポルガラを見つめた。「レディ・ポルガラ!」強い口調でセ・ネドラは言った。「どうしてそんなことができるの? むごすぎるわ」
「そうね」ポルガラは答えた。「むごいわね――でもわたしたちが焼き払ったあの神殿で起きたのも、むごいことだったのよ」
[#改ページ]
11[#「11」は縦中横]
その通りは、通りと呼べるならばだが、細いうえに曲がりくねっていた。過去のある時点で、表面を丸太で覆うという試みがなされていたが、丸太はとうの昔に腐って泥の中に埋没している。粗雑な造りの丸太の家の壁ぎわには、腐った残飯が山積みにされ、骨と皮ばかりの豚の群れが食べ物を捜して、元気なくごみの山をかきまわしていた。
またぞろカランド人のチョッキに帽子をかぶり、ズダ袋でできたすね当てを巻きつけて湖に突き出た桟橋に近づいたシルクとガリオンのふたりは、腐りかけた魚の放つ強烈な悪臭にめげそうになった。
「結構なにおいのするところだな、え?」シルクがハンカチで鼻を押さえながら言った。
「住民はどうやって我慢していられるんだろうな?」吐き気をこらえつつ、ガリオンはたずねた。
「何世紀ものあいだに、嗅覚がまひしちゃったんじゃないのか。このカランダの都市は、七つの王国に分かれて暮らす全カランド人の祖先の地なんだ。都市は大昔からここにある、したがって、この屑も――悪臭も――年季が入っているのさ」
巨大な雌豚がキィキィ鳴く子豚の群れを従えて、通りのどまんなかによたよたと出てくると、大きなうめき声とともにどさりと横向きに倒れた。すかさず子豚たちがとびついて乳を飲もうと押しあいへしあいしはじめた。
「ヒントはさっぱりか?」シルクがきいた。
ガリオンはうなずいた。背中に紐でしょっている剣は、その日の早朝、ふたりが北門から徒歩でこの都市にはいってからぴくりともしていなかった。「ザンドラマスは都市には足を踏み入れなかったのかもしれない」ガリオンは言った。「前にも人が住んでいる場所を避けているしな」
「そういうことになるな」シルクは認めた。「だが、ザンドラマスの上陸地点をつきとめるまでは、先へ進まないほうがいいとおれは思うね。いったん湖のこっち側に着けば、どの方角へ行ったとしてもおかしくない――ダーシヴァ、ザマド、ヴォレセボ――デルチンへ入ってからマガンを通りレンゲルかペルデインへ向かった見込みだってあるんだ」
「わかってる」ガリオンは言った。「だが、こうして遅れを取ることがたまらないんだ。ぼくたちはザンドラマスに近づいてきている。感じるんだよ。それなのに、ぼくたちが無駄にする一分一分が、ゲランを連れて逃げるあの女の時間をふやしているんだ」
「しかたがないさ」シルクは肩をすくめた。「ここでおれたちにできるのは、塀の内側をたどり、湖岸を歩くことだけなんだ。ザンドラマスが都市を通過したんだったら、おれたちはまちがいなくザンドラマスの通った道と交わることになる」
ふたりは角を曲がると、長い竿に魚獲りの網をほしてある湖岸に向かって伸びる、ぬかるんだ通りを眺めた。ぬかるみを重い足取りで歩いて、浮き桟橋が湖中へ伸びている湖岸線沿いの通りへ着き、そこから湖岸をたどった。
湖岸はずいぶんと活気づいていた。色あせた青のチュニックを着た大勢の船乗りたちがさかんに叫んだり、ちぐはぐな命令を怒鳴ったりしながら、半分水につかった大きな船を岸にひっぱりあげている。桟橋のあちこちには錆茶色の服をきた漁師のグループがすわりこんで網をつくろっており、通りのずっと先では毛皮のチョッキにすね当てのなまけ者が何人か、すっぱい臭いのする居酒屋の店先の丸太の階段に腰をかけて、ブリキのカップで安酒を飲んでいた。ちりちりのオレンジ色の髪に顔にあばたのある薄汚い娘が二階の窓から身を乗り出して、媚びるような声で通行人に呼びかけていたが、ガリオンにはしわがれ声としか聞こえなかった。
「にぎやかなところだな」シルクがつぶやいた。
ガリオンは鼻を鳴らし、ふたりはごみだらけの通りを歩きつづけた。
反対側から武装した一団がやってくるのが見えた。全員がなんらかの兜らしきものをかぶっているが、それをのぞけば服の色もちぐはぐで、いくら想像力をたくましくしても軍服とはよべないいでたちだ。だが、その横柄な歩きかたは、かれらが兵隊かある種の警察であることを明確に物語っていた。
「そこのふたり! とまれ!」ガリオンとシルクがすれちがおうとしたとき、ひとりが吠えるように命令した。
「なにか問題でも?」シルクがへつらうようにたずねた。
「はじめて見る顔だな」男は剣の柄に手をかけて言った。背が高く、兜の下から柔らかそうな赤毛がのぞいていた。「素性をあきらかにしろ」
「手前の名前はサルダスでございます」シルクは口からでまかせを言った。「こいつはクヴァスタで」と、ガリオンを指さした。「カランダにははじめて参りました」
「ここになんの用だ――どこからきた?」
「ジェンノのドリカンです」シルクは言った。「兄を捜しにきたのです。少し前に湖の向こう側のダシュンの村から船で出ていったきり、戻ってこないもので」
赤毛は疑わしげな顔をした。
「北門のそばである人と話をしたところ」シルクはつづけた。「なんでもここの桟橋沖で船が嵐で沈没したとか」その顔に陰鬱な表情がしのびこんだ。「時期もだいたい合うようですし、その船のようすが兄が乗っていった船と一致するのです。沈没船のことで、なにかお聞きになりましたか?」小男の口ぶりは真剣そのものだった。
赤毛の男の顔に浮かんでいた、疑惑の色がやや薄れた。「その話なら聞いたような気がするな」と、同意した。
「なんでもその人が言うには、生存者が何人かいるらしいとのことでした」シルクはつけくわえた。「とにかく、ひとりは自分が知っていると言っていましたっけ。黒いマントを着て、赤ん坊をかかえた女が小舟で脱出したとかで。そのことについて、なにかご存じですか?」
カランド人の顔がけわしくなった。「ああ。その女のことなら知っている、たしかにな」
「どこへ行ったか教えていただけませんか?」シルクはたずねた。「その女と話をして、兄のことを何か知っていないかつきとめたいのです」シルクは秘密を打ち明けるように相手のほうへ身を乗り出した。「じつはですね、おれは兄貴にはがまんならないんですよ。子供の時分から互いに憎みあってきましたからね。ですが、年老いたおやじに兄がどうなったかつきとめると約束してしまったんです」シルクはおおげさに片目をつぶってみせた。「遺産問題がからんでましてね。兄貴が死んだとおやじにはっきり伝えることができれば、ちょっとした財産がころがりこんでくるもので」
赤毛の男はにやにやした。「おまえの立場はよくわかる、サルダス。おれも財産をめぐって、自分の兄弟と喧嘩したことがあるんだ」男の目が細まった。「ドリカンからきたと言ったな?」
「はい。マガン川北部の土手の都市です。ご存じですか?」
「ドリカンはメンガの教えに従っているのか?」
「あの解放者のお方にですか? もちろんです。カランダ全土がそうなんじゃないですか?」
「この一ヵ月かそこらで闇の神たちを何人かでも見たか?」
「ナハズの家来のことですか? いや、見たとは言えません――もっとも、クヴァスタとおれはしばらく崇拝の勤めに出席していませんでしたから。ですが、妖術使いたちはまだ悪魔たちを呼び出しているはずですよ」
「それはどうかな、サルダス。おれたちはもう五週間以上カランダのここでは悪魔のひとりも見ていないのだ。妖術使いたちが呼び出そうとしたが、悪魔たちは出てくるのを拒否している。ナハズを崇拝するグロリム僧たちですら、成功していない。そろって有力な魔術師だというのにだ」
「まったく」シルクは同意した。
「メンガの居所についてなにか聞いているか?」
シルクは肩をすくめた。「最後に聞いたところでは、カタコールのどこかにいるということでした。ドリカンでは都市をあげてナハズの帰還を待っているんです、アンガラク人をカランダ全土から一掃できるようにとの願いをこめて」
その返事は長身の男を満足させたようだった。「ようし、サルダス。なんといってもおまえにはカランダにいておかしくない理由がある。ただし、おまえが話したがっている例の女を見つけるのはむずかしかろうな。おれの聞いたところでは、確かに女はおまえの兄貴の船に乗っており、嵐で船が沈むより先に逃げだしている。小舟を持っていて、都市の南に上陸したんだ。がきを抱いて南門にやってくると、まっすぐ神殿に向かった。なかでグロリム僧たちと一時間ほど話をし、女が立ち去るときには、僧たちがみんなあとをぞろぞろついていったんだ」
「どっちへ行ったんです?」シルクはたずねた。
「東門から出て行った」
「いっごろのことですか、それは?」
「先週の終わりだ。なあ、いいかサルダス。メンガはカタコールでやっていることをやめて、本来の居所であるカランダの中央へもどってきたほうがいい。すべての動きが崩壊しかかっている。闇の神たちはおれたちを見放し、グロリムたちは赤ん坊連れのその女にくっついていっちまった。おれたちに残されたのは妖術使いだけだが、どうせ、その大半は狂ってる」
「昔からそうだったじゃないですか?」シルクはにやりとした。「尋常じゃないものをいじりまわすことは、人間の脳を不安定にさせる傾向がありますからね」
「おまえは物のよくわかった男らしいな、サルダス」赤毛はシルクの肩をたたいた。「もっとおまえとしゃべっていたいが、巡回を終わらせなけりゃならん。兄貴が見つかるといいな」赤毛はこずるそうに片目をつぶった。「それとも、見つからないほうがいい、と言うべきかね」
シルクはにやりと笑いかえした。「兄貴の健康の悪化を願ってくださって、感謝しますよ」
兵士たちは通りを遠ざかっていった。
「ベルガラスに負けない嘘つきだな」ガリオンは小柄な友だちに言った。
「ツイてたな。いまあの兵隊に出くわしたのは、かなり有益だったぞ。これで〈珠〉がまだ足跡をつかめないわけがわかったよ。おれたちは北門から都市にはいったが、ザンドラマスは南から入ったんだ。もしおれたちが神殿へまっすぐ向かったら、〈珠〉にひっぱられておまえはひっくりかえっちまうぜ」
ガリオンはうなずいた。「大事なのは、ぼくたちの遅れがほんの数日でしかないってことだ」いったん言葉をきって、眉をよせた。「それにしても、なんでザンドラマスはグロリムたちを集めているんだ?」
「さあね。増援隊のつもりだろう。おれたちがすぐ背後に迫っているのを知ってるんだ。でなきゃ、ダーシヴァに帰るときに、カランダの妖術で鍛えられてるグロリムたちが必要だと思ってるのかもしれない。ナハズがダーシヴァへ悪魔たちを送り込んだら、ザンドラマスにはありったけの援助が必要になるだろう。ベルガラスに分析させようや。神殿へ行って、足跡を拾えるかどうかやってみようぜ」
都市中央の神殿へ近づくにつれて、〈珠〉がふたたびガリオンをひっぱりはじめ、ガリオンは喜びのうねりを感じた。「きたよ」かれはシルクに言った。
「いいぞ」小男は神殿を見上げた。「ちょいと修正をしたと見えるな」
ガリオンが見ると、普通は飾り鋲を打ったドアの真上に陣取っている、ぴかぴか光る鋼のトラクの顔の仮面が取り除かれており、代わりに額に一対の角をねじこんだ、赤く塗った頭蓋骨がすえられている。
「頭蓋骨がそれほど大規模な改善とは思えないな」シルクは言った。「だが、悪趣味の点ではいい勝負だ。ふりかえるたびにあの仮面がにらみつけてくるのには、いささかうんざりしてきてたんだ」
「足跡をたどろう」ガリオンは言った。「みんなを連れてくる前に、ザンドラマスが都市を出ていったのを確かめたい」
「そうだな」
足跡は神殿の扉からごみだらけの通りを通って、都市の東門へ向かっていた。ガリオンとシルクはそれについてカランダを出、ガネシアの平原を東へ横切る街道を半マイルほど進んだ。
「ザンドラマスのやつ、方角を変えてるか?」シルクはきいた。
「いや、まだだ。この街道をたどってる」
「よし。みんなを連れてこよう――それにおれたちの馬も。歩いてたんじゃ遅くなっちまう」
ふたりは街道から離れて膝まである草原を歩きだした。
「ここは土が肥えてるように見えるな」ガリオンが感想をもらした。「ヤーブレックと農地を買うことを考えたことはないのか? いい投資になるかもしれないぞ」
「あるわけないだろ、ガリオン」シルクは笑った。「土地を所有することには大きな欠点があるんだ。急いで出発しなけりゃならない場合、土地を一緒に持って行くわけにいかないからな」
「それもそうだ」
他の面々は都市の一マイルばかり北にある大きな古びた柳木立で待っており、ガリオンとシルクが枝をくぐって入っていくと、期待に満ちた顔を向けてきた。
「見つけたか?」ベルガラスがたずねた。
ガリオンはうなずいた。「ザンドラマスは東へ行った」
「どうやら神殿からグロリム僧をひとり残らず連れて行ったようですよ」シルクがつけくわえた。
ベルガラスはとまどった顔をした。「どうしてそんなことを?」
「手がかりはつかめなかった。ザンドラマスに追いついたときにきけばいいさ」
「どのくらい先にいるのか見当はついて?」セ・ネドラがたずねた。
「わずか数日の差だ」ガリオンは言った。「運がよければ、ザンドラマスがザマド山脈を越える前に追いつけるだろう」
「わしらが出発せんことには話にならんぞ」ベルガラスが言った。
一行は大きな広々した野原を横切って街道に入り、東の空にそびえる峰々めざして平原を横切った。〈珠〉がふたたび足跡を拾い出し、かれらは駆け足でそれをたどった。
「あそこはどんな都市だったの?」くつわを並べて進みながら、ヴェルヴェットがシルクにたずねた。
「訪問するにはいいところだが、住みたいとは思わないだろうな。豚は申し分なく清潔なんだが、住民はおそろしく不潔なんだ」
「うまい表現ね、ケルダー」
「言葉の扱いは昔からうまいんだ」シルクはつつましやかに同意した。
「おとうさん」ポルガラが老人に呼びかけた。「大勢のグロリムがこの道を通過してるわ」
ベルガラスはあたりを見回してうなずいた。「すると、シルクの言ったとおりだったわけだ。なぜか、ザンドラマスはメンガの手下を滅ぼしている。待ち伏せしている可能性もあるから、気をつけよう」
一日が暮れるまで馬を走らせて、その晩は道からかなり離れた場所にテントを張り、翌朝の曙光とともにふたたび出発した。昼頃、少し前方の道端に村が見えてきた。その方角から、ひとりの男がぐらぐらの荷車をやせこけた白い馬に引かせてやってくる。
「もしかしてエールを一瓶お持ちじゃありませんか、レディ・ポルガラ?」一行が速度を落として歩き出したとき、サディがたずねた。
「喉がかわいてるの?」
「いや、わたしじゃないんです。エールは個人的に好みませんから。あそこのあの馬車引きのためです。われわれには情報が入用じゃないかと思いましてね」サディはシルクを見やった。「きょうは見ず知らずの人間と気安くおしゃべりできそうな気分ですか、ケルダー?」
「いつもほどじゃないな。どうして?」
「これをちょっとお飲みなさい」宦官はポルガラが荷物のひとつから取り出したエールの瓶を小男にさしだした。「飲み過ぎないよう注意してくださいよ。ただ酔っぱらってる匂いがしてくれればいいんです」
「いいとも」シルクは肩をすくめて長々とあおった。
「それくらいでいいでしょう。さあ、返してくださいよ」
「あんたはほしくないんだと思ってたよ」
「ほしくありませんよ。ちょっと香りづけをしたいだけです」サディは赤い箱をあけた。「この瓶からはもう飲まないでください」シルクに警告しながら、きらめく赤い液体を四滴瓶の口からふりこんだ。「飲んだら、何日もあなたのおしゃべりをわたしたち全員ががまんして聞くはめになるんですから」サディは瓶を小男に返した。「あそこにいるあの男に一杯すすめたらどうです。一杯やりたそうな顔をしてますよ」
「毒を盛ったんじゃないだろうな?」
「まさか。腹をおさえて地面をころげまわる人間から情報を引き出すのは、容易なことじゃありません。しかしその瓶から一、二回あおれば、あの荷馬車引きはどうしようもなくしゃべりたい気分に襲われるはずです――どんな内容だろうと、したしげに質問する相手にならね。あの哀れな男に愛想よくしてやってください、ケルダー。ひどくさみしそうですからね」
シルクはにやにやすると、鞍の中でゆらゆらしながら調子っぱずれの大声で歌をうたいつつ、近づいてくる荷馬車のほうへ馬を走らせていった。
「とてもああいうのが上手なんですけれど」と、ヴェルヴェットがセ・ネドラに耳うちした。「いつもやりすぎなんです。ボクトールへ戻ったら、優秀な芝居のコーチのところへ派遣しようかと思ってますの」
セ・ネドラは笑った。
一行が荷馬車のところへ着いたときには、赤錆色のうわっぱりを着たみすぼらしげな男は荷馬車を道のわきによせて、シルクと歌――いささか品のない――を歌っていた。
「ああ、きたきた」シルクはまじめくさって目をすがめてサディを見た。「いつになったら追いつくのかと思ってたんだ。さあ――」と、瓶を宦官につきつけた。「飲めよ」
サディは瓶から長々と飲むふりをした。それからホーッと大きな吐息をもらして袖で口をぬぐい、瓶を返した。
シルクは瓶を荷馬車引きに回した。「おまえの番だ、友だち」
荷馬車引きは一口飲んで、間の抜けたにやにや笑いを浮かべた。「こんないい気分になったのは数週間ぶりだよ」男は言った。
「われわれは東へ行くところなんだ」サディが言った。
「そのことなら一目でわかったさ」荷馬車引きは言った。「あんたらが馬に逆さま歩きを教えているんじゃなけりゃな」男は自分の冗談に膝をたたいてげらげら笑った。
「なんともひょうきんなやつだ」宦官はつぶやいた。「あそこの村の出身か?」
「生まれてからずっとあそこに住んでる」荷馬車引きは答えた。「おれの前はおやじが住んでたし――おやじの前はそのまたおやじが――そのまた前はおやじのおやじのおやじが――そのまたまた――」
「赤ん坊を抱いた黒マントの女が先週ここを通ったのを見なかったか?」サディがさえぎった。「グロリムの大集団を引き連れていたかもしれない」
荷馬車引きはグロリム≠ニいう言葉に悪魔の目を払うしぐさをした。「ああ、見たよ。たしかに通った。ここの神殿に入っていった――あれを神殿と呼べるならだがね。大きさだっておれの家とちっとも変わらないし、たったの三人グロリムがいただけなんだ――若いのがふたりに、年とったのがひとり。とにかく、その赤ん坊を抱いた女は神殿へ入って行ったよ。女の話し声が聞こえたんだ。そしてすぐに三人のグロリムと一緒に出てきた――年よりのひとりだけはあとの若いふたりを説得して行かせまいとしたんだが、女が何かふたりに言うと、そいつらはナイフを抜いて年よりを刺しはじめた。年よりはわめきながら地面をころげまわって羊みたいに死んじまい、女は若いふたりのグロリムを連れて道に引き返し、待っていたほかのグロリムたちとみんなして行っちまった。ぬかるみに顔を突っ込んで死んでる年よりのグロリムをおきざりにしてな、そして――」
「何人のグロリムを連れていたと言った?」サディがたずねた。
「この村のふたりを入れて、三、四十人てとこかな――五十人はいたかもしれない。そういうのをすばやく推測するのは苦手なんだよ。三人と四人のちがいならわかるが、頭がこんがらかっちまうともう――」
「それがいつのことだったか、正確なところはわかるか?」
「そうだな」荷馬車引きは空をにらんで、指折り数えた。「きのうってことはありえないな、なぜかっていうと、きのうはあの樽の荷物をカエル顔の農場へ運んだんだからな。カエル顔を知ってるか? 見たこともないような醜いやつなんだが、その娘はすごい美人でな。あの娘の話ならいくらでもできるぜ、話そうか」
「すると、きのうじゃなかったんだな?」
「そうだ。ぜったいにきのうじゃなかった。きのうの大部分はカエル顔の娘と干し草の山のなかで過ごしたからな。おとといじゃなかったのも確かだ。なぜかっていうと、その日は酔っぱらっちまって、午後三時からあとのことはひとつもおぼえていないからさ」荷馬車引きは瓶からもうひと口飲んだ。
「その前の日はどうだ?」
「そうかもしれん。それとも、そのまた前の日かも」
「そのまた前の日は?」
荷馬車引きはかぶりをふった。「いや、その日はおれたちの豚が子を産んだんだ。女が通りがかったのはその日のあとだ。おとといか、そのまた前の日かどっちかにちがいない」
「すると、三、四日前だな?」
「そういうことになるね」荷馬車引きは肩をすくめてまたエールをあおった。
「ありがとうよ、友だち」サディはシルクを見た。「そろそろ行ったほうがいいと思うね」
「瓶を返してほしかったのか?」荷馬車引きがきいた。
「いいからとっときな、友だち」シルクが言った。「いずれにしろ、おれはもうたくさんだ」
「エールをありがとうよ――それにおしゃべりも」一行が遠ざかると、荷馬車引きは呼びかけた。ガリオンがちらりとうしろを振り返ると、男は荷馬車からおりて、身振り手振りをまじえて馬とおしゃべりに興じているところだった。
「三日!」セ・ネドラがうれしそうに叫んだ。
「あるいは、せいぜいが四日です」サディが言った。
「わたしたち追いついてきてるのね!」セ・ネドラはいきなり身を乗り出して、宦官の首に抱きついた。
「そのようですな、女王陛下」サディは同意しながらも、ちょっとどぎまぎしているようだった。
夜はふたたび道のはずれにテントを張り、翌朝また早く出発した。太陽がちょうどのぼったとき、青い縞もようの大きな鷹が舞い降りてきて、爪が地面に触れると同時に微光がゆらめき、ベルディンがあらわれた。「前方におまえたちを待ちかまえている連中がいるぜ」ベルディンは一マイルほど先にそびえるザマド山脈のふもとを指さした。
「ほう?」ベルガラスが馬の手綱を引きながら言った。
「十二人ばかりのグロリムさ」ベルディンは言った。「道の両側の茂みに隠れてる」
ベルガラスは毒づいた。
「グロリムどもをうるさがらせるようなことをしてるのか?」醜い魔術師はたずねた。
ベルガラスは首をふった。「ザンドラマスが道すがらグロリムたちを集めていたんだ。いまでは相当数のグロリムを引き連れている。追跡をはばむために、おそらくその一団をあとに残していったんだろう。わしらが背後に迫っているのを知っているのだ」
「どうしたらいいの、ベルガラス?」セ・ネドラがたずねた。「こんなに近くまできたんですもの。いまさら止まれないわ」
老人は兄弟分の魔術師を見た。「どうだ?」
ベルディンはしかめっつらをした。「よかろう、おれがやるよ。だが、借りを作ったことを忘れるなよ、ベルガラス」
「ほかのことと全部一緒に書き留めておけ。これがきれいさっぱり終わったら、片をつけよう」
「言われないでも書き留めるさ」
「ナハズがウルヴォンをどこへ連れていったかつきとめたのか?」
「マル・ヤスカへ戻ったと聞いたら信じるか?」ベルディンはうんざりしたように言った。
「最後にはあらわれるさ」ベルガラスは醜い魔術師を元気づけた。「グロリムを始末するのに助けがいるか? なんならポルを貸してもいいぞ」
「ふざけてるのか?」
「いいや。たずねているだけだ。あまり大騒ぎを起こすなよ」
ベルディンは下品な音をたてると、ふたたび鷹に姿を変えて空へ舞い上がった。
「どこへ行くんだろう?」シルクがきいた。
「グロリムどもをおびきだそうというのさ」
「ほう? どうやって?」
「それは聞かなかった」ベルガラスは肩をすくめた。「ベルディンにしばらく時間をやって、それからまっすぐ進むとしよう」
「優秀なんでしょうね?」
「ベルディンか? そりゃもう、おおいに優秀さ。そら、ベルディンが行く」
シルクはきょろきょろした。「どこです?」
「姿は見なかった――音でわかるのさ。グロリムどもが隠れている場所から一マイルばかり北を低空飛行しているんだ。ちょうどわれわれ一行が見られないでこっそりグロリムたちを迂回しようとしていると思わせるような音をたてているんだ」ベルガラスは娘をちらりと見た。「ポル、効果のほどを確かめてくれんか?」
「いいわよ、おとうさん」ポルガラが意識を集中すると、ガリオンは彼女の意識が伸びて探っているのを感じることができた。「連中、ひっかかったわ」ポルガラは報告した。「ひとり残らずベルディンのあとを追って走りだしたわよ」
「お茶の子さいさいだったな、え? 出発しよう」
一行は馬たちを駆け足にさせて、短時間のうちにザマド山脈の最初のふもとへたどりついた。急斜面の道をたどって、浅い谷を通過した。その地形の向こうはさらにけわしくなり、暗緑色の森が峰々の急斜面を覆っていた。
馬を進めるにつれて、ガリオンが〈珠〉から感じるシグナルが相反するようになりはじめた。はじめのうちはザンドラマスとゲランの足跡をたどる熱意しか感じられなかったのに、いまでは不機嫌な潜在的感情や、おそろしく執念深い憎悪が伝わってくるようになった。鞘におさめた剣をしょっている背中がだんだん熱くなってきた。
「どうして赤く燃えてるの?」セ・ネドラがうしろからきいた。
「何が赤く燃えてるって?」
「〈珠〉だと思うわ。あなたがかけている革の覆いこしに、赤く光っているのが見えるのよ」
「しばらく停止だ」ベルガラスが馬の手綱をひきながら言った。
「どういうことだろう、おじいさん?」
「わからん。剣をおろして、鞘を取ってみろ。どうなっているか見てみよう」
ガリオンは剣を鞘から抜いた。どうしたことか、いつもより重く感じられる。柔らかな革のおおいを外したとき、一同は〈アルダーの珠〉が普段の水色ではなく、暗いすすけたような赤に光っているのを見た。
「どういうこと、おとうさん?」ポルガラがたずねた。
「サルディオンを感じているんです」エリオンドが平静な声で言った。
「そんなに近くまできてるのか?」ガリオンが問いつめた。「ここが〈もはや存在しない場所〉なのか?」
「そうではないと思います、ベルガリオン」若者は答えた。「それはどこかほかの場所です」
「じゃ、何なんだ?」
「よくわからないけど、〈珠〉はもうひとつの珠になんらかの方法で答えているんです。ぼくには理解できないやり方で、話しあってるんです」
一同がふたたび進みつづけてしばらくすると、青い縞もようの鷹が舞い降りてきて、ベルディンの姿に戻り、一同の前に立った。その顔には、心もち自己満足の色が浮かんでいる。
「クリームに顔を突っ込んだ猫みたいな顔だな」ベルガラスが言った。
「当然さ。一ダースばかりのグロリムをたった今北極の万年雪の方角へ送りこんでやったんだ。氷の板が割れだして、残りの夏中あそこを漂流しはじめたら、さぞや楽しいだろうよ」
「前方を偵察するつもりか?」ベルガラスがたずねた。
「そうさ」ベルディンは両腕を広げて翼に変えると、空中へ飛び立った。
一行はこれまでより用心して、ザマド山脈を奥へ奥へとのぼっていった。周囲の田園風景が途切れがちになりだした。赤っぽい峰々はのこぎりのようにぎざぎざで、低いところは黒ずんだ樅や松におおわれている。急流が岩にぶつかって泡立ち、泡だらけの滝となって断崖を流れ落ちていた。ガネシアの平原ではまっすぐで平坦だった道は、急斜面をのぼるにつれてくねくねと曲がりはじめた。
昼近く、ベルディンがふたたび戻ってきた。「グロリムの本隊は南へ曲がった。ざっと四十人いる」
「ザンドラマスは一緒だったかい?」ガリオンはすかさずたずねた。
「いや。ちがうようだな――すくなくともその一団に尋常ならぬ人間がいる気配はなかった」
「見失ったのかしら?」セ・ネドラがおびえたようにきいた。
「そんなことはない」ガリオンは答えた。「〈珠〉はまだ足跡をつかんでる」かれは肩ごしにうしろを一瞥した。剣の柄の上で、石はあいかわらずくすんだ赤に燃えていた。
「わしらにできることは、ザンドラマスのあとを追うことだけだ」ベルガラスが言った。「わしらが関心があるのはザンドラマスであって、迷えるグロリムの一団ではない。ここがどこなのか正確にわかるか?」老人はベルディンにたずねた。
「マロリーさ」
「正確で涙がでる」
「おれたちはザマドへ入った。この道は、しかし、ヴォレセボへつづいてる。おれのラバはどこだ?」
「荷物を積んだ馬たちと一緒にうしろのほうにいますよ」ダーニクが教えた。
進みつづけながら、ガリオンはポルガラが意識で前方を探っているのを感じることができた。
「なにかつかめるか、ポル?」ベルガラスがきいた。
「これといってなにも、おとうさん」ポルガラは答えた。「ザンドラマスが近くにいることは感じるけれど、シールドをはりめぐらしているので正確な所在がつきとめられないのよ」
一行はいまでは用心深く馬を歩かせていた。やがて、道が狭い山あいを通過して、向こう側へ下りはじめたとき、前方の道に白く輝く長衣を着た人影が立っているのが見えた。さらに近づいたとき、ガリオンはそれがシラディスなのに気づいた。
「この場所はじゅうぶんに心して進むがよい」警告したその声には怒りがこもっていた。「〈闇の子〉が定められた出来事の道順を攪乱しようと、そなたたちに罠をしかけているのじゃ」
「別段目新しいことでも、驚くべきことでもないね」ベルディンがぶつぶつ言った。「ザンドラマスのやつ、何をしようというんだ?」
「〈光の子〉の道連れのひとりを殺し、よって、最後の対決の前に達成されねばならぬ務めのひとつの完成をはばむのが、彼女の考えなのじゃ。ザンドラマスが成功すれば、これまでに行なわれたいっさいは泡と化す。わたしについてくるがよい、次なる務めまで無事そなたたちを導こう」
トスが馬からおりて、痩せた女主人のかたわらへすばやく馬を引いて近づいた。シラディスは顔を輝かせてトスにほほえみかけ、かれのばかでかい腕にほっそりした手をかけた。巨漢は安々とシラディスを馬の鞍に乗せて、手綱を取った。
「ポルおばさん」ガリオンはささやいた。「これはぼくの空想なのかい、それとも今度はシラディスは本当にそこにいるの?」
ポルガラは目隠しをした女予言者をじっと見つめた。「投影じゃないわ。実在感がありすぎるもの。どうやってここへ着いたのか想像もつかないけれど、どうやらあなたは正しいようよ、ガリオン。シラディスは本当にここにいるわ」
一同はシラディスと彼女の物言わぬ案内人について険しい下りの道をおり、四方を高い樅に囲まれた草深い窪地へ出た。その窪地のまん中に小さな湖があり、日差しにきらめいていた。
ポルガラが突然鋭く息を吸い込んだ。「わたしたち監視されているわ」
「何者だ、ポル?」ベルガラスがたずねた。
「意識を隠しているのよ、おとうさん。わかるのは監視されているという感覚だけだわ――それと怒りと」ポルの口元に微笑がのぼった。「きっとザンドラマスね。シールドをめぐらしているから、意識には手が届かないけれど、監視されているというわたしの感覚を遮断することはできないのよ。怒りを抑えきれないものだから、わたしに尻尾をつかまれてしまってるんだわ」
「だれに怒っているんだ?」
「シラディスに、でしょうね。さんざん苦労してわたしたちに罠をしかけたのに、シラディスがやってきてだいなしにしてしまったんですもの。まだなにかやろうとするかもしれないから、全員油断しないほうがいいでしょうね」
ベルガラスは陰気にうなずいた。「そうだな」
トスは女主人の乗った馬を窪地に入れて、湖のきわで立ち止まらせた。残りの面々がそばまでくると、シラディスは透き通った水を指さした。「務めはあそこにある。湖底に岩屋があるのじゃ。そなたたちのひとりがその岩屋へ入って、戻ってこなければならぬ。そこで多くのことがあきらかにされるであろう」
ベルガラスが期待をこめてベルディンを見た。
「今回はごめんこうむるぜ」ちびの魔術師は首をふった。「おれは鷹で、魚じゃないし、冷たい水はおまえ同様まっぴらだ」
「ポル?」ベルガラスは訴えるように言った。
「遠慮するわ、おとうさん。今度はおとうさんの番よ。それに、わたしはザンドラマスに意識を集中させる必要があるわ」
ベルガラスは腰をかがめてきらめく水に手を浸した。それから身ぶるいした。「こいつは酷だ」
シルクがにたにた笑っていた。
「言うな、ケルダー王子」ベルガラスはしかめっつらをして、服をぬぎはじめた。「口を閉じておけ」
老人の体がたくましく、皮膚もつややかなことに一同はいささかびっくりした。こってりした食べ物と上等の褐色のエールに目がないにもかかわらず、板のように平らな腹をしている。棒きれのように痩せているとはいえ、肩や胸は動くたびに筋肉が盛り上がった。
「まあ」腰布ひとつになった老人を見ながら、ヴェルヴェットが賛嘆のつぶやきをもらした。
ベルガラスはふいにいたずらっぽくヴェルヴェットににやりと笑いかけた。「水中でまたたわむれてみたいか、リセル?」水色の目にからかうような表情をうかべて誘った。
ヴェルヴェットは急に頬をピンク色に染めて、うしろめたそうにシルクをちらりと見た。
ベルガラスは笑い声をあげて、弓なりに飛び込んだ。体が、ナイフの刃のように湖の水をきれいに左右に分けた。数ヤード先で水面に躍り出、空中高くジャンプして銀色の鱗に日差しをきらめかせ、大きな尻尾をふって宝石のような水滴をきらめく湖面にふりまいた。次の瞬間、黒っぽいどっしりした体が水中につっこみ、透き通った湖深く潜っていった。
「おお」ダーニクが思わず声をあげた。両手がぴくぴくしている。
「およしなさいよ、ディア」ポルガラが笑った。「あなたに釣り針でひっかけられたら、おとうさんはかんかんに怒るわよ」
銀色の腹をしたばかでかい鮭はぐるりと輪を描いて、湖底近くの不規則な形の穴に姿を消した。
一同は待った。ガリオンは知らず知らず息をつめている自分に気づいた。
永遠にも思える時間がたった頃、ばかでかい魚が湖底の岩屋の入口から急上昇して、水面高く跳ね上がったあと、尾で水面をはねるようにして、頭をふり、鰭でバランスをとりながら戻ってきた。それから岸近くの水中に頭からつっこんだかと思うと、ずぶぬれのベルガラスがふるえながらあらわれた。「爽快だよ」ベルガラスは土手にあがってくると、「毛布はあるか、ポル?」ときいて、両手で腕と脚の水をぬぐった。
「見せびらかしおって」ベルディンがぶつぶつ言った。
「底はどんなだった?」ガリオンはたずねた。
「何かの古い神殿のようだな」老人はポルガラが渡した毛布でごしごし体をふきながら答えた。「だれかが天然の岩屋を利用して、側面を壁でふさいだのだ。特殊なくぼみのある祭壇がひとつあった――むろん、くぼみはからっぽだったが、あの場所は見る者を圧倒するような存在感に満ちている。岩という岩は全部赤く光っておった」
「サルディオンか?」ベルディンが真剣にたずねた。
「もうありはせんだろう」ベルガラスは髪を乾かしながら答えた。「だが、長いあいだあそこにあったのはまちがいない――そして誰にも見つからないように、なんらかの障害物を築いていたのだ。サルディオンはもうないが、今度近くに行ったら、感じでわかるだろう」
「ガリオン!」セ・ネドラが叫んだ。「見て!」ふるえる手でセ・ネドラは近くのきりたった岩を指さしていた。そのごつごつした岩の頂上に、光沢のある黒いサテンにくるまった人影が立っていた。それはおそろしく傲慢な態度で頭巾をうしろへはらいのけたが、それより早く、ガリオンはその正体に気づいた。反射的にガリオンは〈鉄拳〉の剣に手を伸ばした。意識がいきなり火をつけられたようにカッと燃え上がった。
だがそのとき、シラディスが澄んだ、きっぱりした声でしゃべりだした。「わたしはそなたに腹をたてている、ザンドラマス。起こらなければならぬことに干渉するのはやめよ、さもないと今ここで選択をする」
「まぬけの弱虫めが、そんなことをすれば、すべてはめちゃくちゃになり、おまえの務めは不完全なままになってしまうのだよ。そしていきあたりばったりの運が予言に取ってかわるだろう。ごらん、わたしは〈闇の子〉なのだよ、だから運命の手はこわくない。運命はそれが〈光の子〉のしもべである以上に、わたしのしもべなのだからね」
そのとき、ガリオンは低いうなり声のようなおそろしい音を聞いた――それが妻の喉から出た音だっただけに、よけいおそろしかった。おどろくほどのすばやさで、セ・ネドラはダーニクの馬に駆け寄り、ローブにぶらさがっていた鍛冶屋の斧をひきちぎった。そして怒りの悲鳴をあげて斧をふりかざし、小さな山あいの湖の岸に沿って走りだした。
「セ・ネドラ!」ガリオンははじかれたようにあとをおいかけた。「よせ!」
ザンドラマスは冷ややかにあざわらった。「選べるものなら、選んでみるがいい、シラディス! 中身のない選択をするがいいさ、リヴァの女王が死ねばわたしの勝利だよ!」そう叫ぶと、ザンドラマスは両手を頭上に持ち上げた。
あらんかぎりの早さで走りながら、ガリオンはセ・ネドラにおいつく見込みがないことを知った。セ・ネドラはきりたった岩の頂上にいるサテンをまとった魔女にあと一歩と迫っていた。いましも、かれの妻は岩をよじのぼりだし、甲高い声でののしりながら、ダーニクの斧で行く手を邪魔する岩をたたきわっている。
と、降って湧いたように青く光る狼の姿が、セ・ネドラと彼女の憤怒の的のあいだにあらわれた。セ・ネドラは凍りついたように立ち止まり、ザンドラマスはうなりをあげる狼にひるんだ。狼を取り巻く光がいっときゆらめいたかと思うと、ガリオンの遠い祖母であり、ベルガラスの妻であり、ポルガラの母である人の姿が、セ・ネドラとザンドラマスのあいだに立っていた。黄褐色の髪が青い光に燃え上がり、金色の目はこの世のものならぬ火に輝いていた。
「おまえは!」ザンドラマスはあえぐように言うと、いっそうちぢみあがった。
ポレドラはうしろへ手をやってセ・ネドラをとなりへ引き寄せると、かばうように彼女の小さな肩に腕を回した。もう一方の手で小柄な女王の急に力の抜けた手から斧をそっと取った。大きく見開かれたセ・ネドラの目はうつろで、夢でも見ているかのように彼女は身じろぎひとつしなかった。
「彼女はわたしが保護しているのよ、ザンドラマス」ポレドラは言った。「おまえに彼女を傷つけることはできないわ」
きりたった岩のてっぺんで、魔女はいきなりたまりかねたようにわめくと、怒りに燃える目で、ふたたび背すじを伸ばした。
「いまがそうなの、ザンドラマス?」ポレドラはぞっとするような声でたずねた。「これが、おまえがわたしたちの対決に選んだときなの? わたしたちがまちがったときに、まちがった場所で会えば、ふたりそろって滅ぼされてしまうことはわたし同様おまえも知っているはずね」
「おまえなど恐ろしくはない、ポレドラ!」魔女は金切り声をあげた。
「わたしもよ。それでは、ザンドラマス、ここでいますぐ互いに滅びるとしましょう――〈光の子〉が邪魔されずに〈もはや存在しない場所〉へ行って、そこで待ち受ける〈闇の子〉がいないことを発見すれば、このわたしの勝利なのだから! いまがおまえの選んだときと場所なら、おまえの力を呼び出してそういう事態を出現させるがいいわ――おまえにはうんざりしてきているのだからね」
ザンドラマスの顔が激しい怒りにゆがみ、ガリオンは彼女の意志の力が強まるのを感じた。かれは肩ごしに剣をつかんで、剣の火を解き放ち、きりたった岩の上から憎むべき魔女を吹き飛ばそうとしたが、セ・ネドラが身じろぎひとつできないのと同じに、ガリオンの筋肉もしびれたように動かなかった。背後からも、仲間の面々がかれらを釘づけにしている力から自由になろうともがいているのが感じられた。
「だめよ」ポレドラの断固たる声がガリオンの意識の天井にひびいた。「これはザンドラマスとわたしの問題なの。手出ししないで」
「さあ、ザンドラマス」ポレドラはそのあと口に出して言った。「おまえの決定はどうなの? もうしばらく生にしがみついているつもり、それともいま死にたい?」
魔女は懸命に平静を取り戻そうとしたが、ポレドラのまわりの光輪は輝きをますばかりだった。やがてザンドラマスは憤怒と絶望の叫びをあげると、一閃のオレンジ色の光を放って姿を消した。
「思ったとおり、わたしのやりかたがわかったようね」ポレドラは落ち着き払っていうと、ガリオンをはじめとする一同のほうを向いた。金色の目がおもしろそうに輝いていた。「どうしてこんなに長くかかったの?」ポレドラはきいた。「ここで何ヵ月もあなたがたを待っていたのよ」そして半裸のベルガラスをじろりと眺めた。老人はまぎれもない愛慕のまなざしでポレドラを見つめているところだった。「まるで骨みたいじゃないの、老いぼれ狼。もっとたくさん食べるべきだわ、いいこと」彼女は好ましげに夫にほほえみかけた。「肥えた兎をつかまえてきてあげましょうか?」そう聞いてから、ポレドラは笑い声をあげて、微光とともに青い狼の姿に戻り、軽やかに走り去った。その前足はほとんど地面についていないように見えた。
底本:「マロリオン物語6 カランダの魔神」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1991(平成 3)年 3月31日 発行
1994(平成 6)年 3月31日 二刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年6月14日作成
2009年1月31日校正
----------------------------------------
このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語6 カランダの魔神.zip iWbp3iMHRN 65,057,181 c453655879970f33f7d979a68c833cd1
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
----------------------------------------
底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
----------------------------------------
使用したWindows機種依存文字
----------------------------------------
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
----------------------------------------
注意点、気になった点など
----------------------------------------
底本149頁8行 ベルガラスはにやにやした。
これはベルガラスではなくベルディンではないか?
[#改ページ]
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
----------------------------------------
底本165頁12行 ザントラマス
ザンドラマス
底本238頁4行 心の底では
心の底「から」、では?