マロリオン物語5 疫病帝国
DEMON LORD OF KARANDA
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柄《つか》にのせた由緒ある
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぼくたち[#「ぼくたち」に傍点]はそれほどの脅威は与えていないよ。
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作者と妻とファッツオより
とびきりの友人である
パトリック・ジャンソン=スミスに
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前回同様、ふたたび妻のリー・エディングスに感謝したい。この物語を進行させるにあたって、彼女はわたしを支え、励まし、心から協力してくれた。妻の援助がなかったら、ここまでこぎつけることはできなかっただろう。
また、編集者であるレスター・デル・レイにも、その忍耐と寛容、さらに、数しれぬ献身に、この場を借りて感謝する。
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目 次
プロローグ
第一部 ラク・ハッガ
第二部 マル・ゼス
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疫病帝国
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登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エリオンド…………………………………〈珠〉を運んだ少年
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
ザカーズ……………………………………マロリー皇帝
ブラドー……………………………………マロリーの国務長官
ヤーブレック………………………………ナドラクの商人
ヴェラ………………………………………ヤーブレックの妻
フェルデガースト…………………………道化師
メンガ………………………………………妖術使い
シラディス…………………………………女予言者
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
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プロローグ
マロリーとそこに住む人種の簡単な歴史
[#地から2字上げ]――メルセネ大学出版部『アンガラクの年代記』よりの要約
言い伝えによれば、アンガラク人の祖先のふるさとは現在のダラシアの南部沿岸沖のあたりである。その昔アンガラクの竜神トラクが、クトラグ・ヤスカなる〈石〉の力を利用した結果、世界はいわばこなごな≠ノなった。地表にひびが入り、地層の奥からマグマが噴き出し、南の大洋の水があふれ〈東の海〉となった。この大変動が数十年続いて、ようやく世界は徐々に現在の形をとるに至った。
この大変動の結果、アローン人とその同国人たちは人跡未踏の西部大陸への移動を余儀なくされ、一方のアンガラク人はマロリーの荒野へ逃げ込んだ。
トラクが〈石〉を悪用したために、〈石〉は謀反を起こし、美しい竜神の顔と体の半分に醜悪な傷痕を刻み込んだ。トラクに仕えていた僧侶、グロリムたちはこの出来事ですっかり意気阻喪した。トラクと僧侶たちが挫折したことによって、それまでかれらが握っていたアンガラクの指導権は軍隊の手に渡り、グロリムたちが立ち直ったときには、すでに軍隊は全アンガラクを支配する事実上のルールを確立していた。以前の傑出した力を失った僧侶たちはカランデセ山脈の頂上近くにあるマル・ヤスカに反対勢力の拠点を作った。
このとき、トラクは奮起して僧職と軍律の一触即発の内乱を防ごうとした。しかしマル・ゼスにある軍の司令本部を攻撃するかわりに、トラクはアンガラクの民の四分の一を引き連れて古マロリーの極北西へ進軍し、聖なる都市クトル・ミシュラクを建てた。そこにとどまったトラクはクトラグ・ヤスカを思いのままにあやつることに熱中したあまり、アンガラク人のほとんどが神を敬う熱意を失ったことに気づかなかった。クトル・ミシュラクのトラクの周囲にいるのは、かれの三人の弟子ゼダー、クトゥーチク、ウルヴォンに絶対服従するひと握りの狂信的逸脱者にすぎなかった。この三人は他のアンガラク人たちが変わっていくあいだも、クトル・ミシュラクの社会で古いしきたりを守っていた。
トラクは教会と軍部の絶え間ないこぜりあいにようやく気づくと、軍の最高指揮官とグロリムの高僧をクトル・ミシュラクに呼び、有無を言わせぬ言い方で命令を申し渡した。すなわちマル・ヤスカと、マル・ゼスだけを除いて、すべての町と地方を軍と僧侶たちで共同統治すべしという命令であった。高僧と最高指揮官は不満をかかえたままただちに不和を解消し、それぞれの領地へ引き返した。この押しつけられた停戦は、将軍たちの注意をマロリーに住む他の人々へ向けさせることになった。
こうした人々の起源は定かではないが、大陸にはアンガラク人に先だって三つの人種が住んでいた。南西のダラシア人、北のカランド人、東のメルセネ人である。軍部が目をつけたのは、カランド人だった。
カランド人は文化、教養といった繊細なものには関心の薄い好戦的人種だった。ぬかるんだ通りに霧のたちこめる粗末な都市が、かれらの住処だった。伝えられるところによれば、カランド人はガール・オグ・ナドラクの極北のモリンディム人と血のつながりがあり、どちらの種族も悪魔崇拝のしきたりがあるといわれていた。
第二黄金期のはじめ、東部辺境沿いではカランド人の盗賊一味の跳梁が深刻な問題となっていた。そこでアンガラク軍はマル・ゼスを出発し、パリアのカランデセ王国の西部周辺へ向かった。パリア南西にあるカランドの都市は略奪され焼き払われて、住民は捕虜となった。
このとき、アンガラク史上もっとも偉大な決定のひとつが下された。グロリムたちは人間のいけにえを捧げる秘儀の祭りの準備に余念がなかったが、将軍たちはためらった。将軍たちはパリアを占領したいと思わなかった。マル・ゼスから相当距離があり、意志の疎通に難があるためだった。将軍たちにとっては、住民の絶えた領土を占領するより、パリアを従属国として、貢ぎ物として、維持するほうがはるかにましに思えたのである。グロリムたちは激怒したが、将軍たちは意志を曲げなかった。ついに、双方はトラクに決定を仰ぐことにした。
トラクが最高指揮官の意見に同意したのは、むりからぬことだった。カランド人を味方につけることができれば、将来西方の諸王たちとの対決にさいして、軍隊の規模ばかりでなく、教会の会衆も倍近くにふやせるからである。「果てしなきマロリーに住まう者はだれあろうと、ひれ伏してわたしを崇拝するのだ」トラクは反抗的なグロリムの使節団に申し渡した。そしてトラク崇拝を確実なものにするために、ウルヴォンをマル・ヤスカへ送り込み、カランド人の改宗をうながした。ウルヴォンはその地で華美にして贅沢なマロリー教会の一時的指導者に成り上がったが、それは禁欲的なこれまでのグロリムたちには未知の世界だった。
軍隊はパリア同様カタコール、ジェンノ、デルチンを攻撃した。しかしカランド人の妖術使いたちが悪魔の一団を呼び出してカランド人社会を守ったので、攻撃は失敗に終わった。業を煮やしたウルヴォンはトラクと相談するためにクトル・ミシュラクへ向かった。トラクが何をしたかは明らかではない。が、カランドの妖術使いたちはまもなく悪魔をあやつる呪文が、以前のように効かなくなったのに気づいた。闇の領域へ達する妖術使いたちは、命と魂を引き換えにしなければならなくなった。
その後数世紀にわたり、軍部と僧侶たちはカランド人征服に専念したが、ついに抵抗運動は瓦解し、カランダは属国となって、カランド人は一般に劣等人種と見なされるに至った。
しかしながら大マガン川を下り、メルセネ帝国へ侵攻したとき、軍が遭遇したのは高度に洗練された優秀な人間たちだった。いくたびか壊滅的な戦闘が展開され、メルセネの戦車と象にまたがった騎兵隊が全軍を破るにおよんで、アンガラク人は白旗を上げた。アンガラクの将軍たちは和平提案を申し出た。おどろいたことに、メルセネ人はただちに関係の正常化に同意し、以前アンガラクに不足していた馬の売買を提案した。しかし、象の売買については話し合うことさえ拒否した。
次に軍隊はダラシアへ矛先を向け、いともたやすくダラシアを征服した。ダラシア人は素朴な農夫や羊飼いであり、戦う術を知らなかったからである。ダラシアに侵攻したアンガラク人はその後十年にわたり軍事的保護制度を確立した。宗教の点でも当初は同様にうまくいくかに見えた。ダラシア人たちはおとなしくアンガラクの崇拝形態を受け入れたからである。だがダラシア人は得体の知れぬ人々であり、グロリムたちはたちまち魔女や予言者たちの力が依然衰えていないことを発見した。さらに、かの悪評高い『マロリーの福音書』がダラシア人のあいだではひそかになおも回覧されていた。
そのまま何事もなければ、早晩、グロリムたちは謎めいたダラシアの宗教を根絶やしにすることに成功していただろう。だが、やがてアンガラクの生活状況を永久に変えることになる、ある惨事が発生した。どうしたものか、伝説上の魔術師ベルガラスが三人のアローン人を連れて、あらゆる防衛手段をかわし、夜陰にまぎれてクトル・ミシュラクの中心にあるトラクの鉄塔からクトラグ・ヤスカを盗み、まんまと西方へ脱出したのである。
トラクは憤怒のあまり、クトル・ミシュラクを打ち壊したあと、マーゴ人、タール人、ナドラク人を〈東の海〉の西部国境へ送りだした。しかし、北の陸橋を渡るときに百万の兵が命を落とし、アンガラク人の社会と文化は容易に回復できない痛手を負った。
トラクはクトル・ミシュラクを破壊したあと、およそ近づきがたい神となり、力を蓄えはじめた西方の諸王国を破るさまざまな計略に心血を注いだ。神の監視がなおざりになったのをよいことに、軍部は持てる時間をすべてつぎこんでマロリーと従属的諸王国の完全支配に乗り出した。
アンガラク人とメルセネ人はときおりささいな小ぜりあいを繰り返しながら、何世紀も何世紀も不安定な平和を維持していた。両国民は最終的にひとつのしきたりを確立した。双方の指導者の子供たちを交換して養育するという制度である。これによって両国民は完全な相互理解を達成し、世界人として通用する若い世代を育てることにもなった。ひいてはそれがマロリー帝国の支配階級の規範となったのである。
アンガラクの上級将軍の息子、カラーズもそんな若者のひとりだった。メルセネで養育を受けたカラーズはマル・ゼスに帰り、史上最年少の一般幕僚に昇進した。メルセネへ再度戻ったかれはメルセネ皇帝の皇女と結婚し、三八三〇年に義父が死ぬと抜け目なくみずから皇帝を名乗った。次にメルセネ軍を後ろ楯に、アンガラク軍の世襲の最高司令官を宣言した。
メルセネとアンガラクの統制は混乱をきわめた。しかしやがてメルセネ人の辛抱強さがアンガラク人の残忍さを圧倒した。その他の民と異なり、メルセネ人は官僚政治によって統治されていたが、結果的には、官僚政治のほうがアンガラクの軍政よりもはるかに有効であることが証明されたのである。四四〇〇年までには、官僚政治のほうが完全に優勢になった。またそのころには、最高司令官の称号は忘れ去られ、両国民の統治者はただのマロリー皇帝になった。
知的に洗練されたメルセネ人にとって、トラク崇拝は依然としてごく表面的なものにすぎなかった。都合上その形態を受け入れていたものの、グロリムたちはアンガラク人の特徴であった竜神への卑屈な服従をメルセネ人に命じることはついにできなかった。
こうして四八五〇年を迎えたとき、突如トラクが永劫の引遁生活に終止符を打ち、マル・ゼスの門前に姿をあらわした。傷ついた顔をはがねの仮面で隠したトラクは皇帝を押し退けて、みずからカル・トラク、すなわち王にして神であることを宣言した。カル・トラクはただちにとほうもない力を発揮しはじめ、西方の諸王国を粉砕し、全世界を支配下に治めようとした。
それにともなう兵の動員は、文字通りマロリーから頑健な男子を奪った。アンガラク人とカランド人は北の陸橋めざして進軍し、最北のガール・オグ・ナドラクへ渡り、ダラシア人とメルセネ人は艦隊で〈東の海〉を渡り、南のクトル・マーゴスへ向かった。北のマロリー人はナドラク人、タール人、北のマーゴ人に合流して、ドラスニアとアルガリアの両王国へ攻め込んだ。マロリー人の第二グループは南のマーゴ人とともに北西へ向かった。トラクはふたつの巨大な軍勢で西方を挟み打ちにするつもりだったのである。
ところが、南の軍勢は四八七五年の春、〈西の大海〉を襲ったきまぐれな嵐にあい、歴史上最悪の吹雪で生き埋めとなった。吹雪がようやくおさまったとき、軍勢は高さ十四フィートの吹きだまりにはまり、その雪は初夏まで溶けなかった。この嵐は理屈では説明のつかないものであり、自然発生したものでないのはあきらかだった。原因が何であれ、南の軍勢は壊滅した。ひとにぎりの生存者はやっとのことで東へ引き返し、想像を絶する恐怖を語ったのだった。
北の軍勢もまた、さまざまな災難に見舞われながらついにボー・ミンブルを包囲攻撃したが、西方の混成軍によって完全に蹴ちらされてしまった。トラクはボー・ミンブルでクトラグ・ヤスカ(そこでは〈アルダーの珠〉と呼ばれていた)の力にうちのめされ、意識を失った。この昏睡状態は数世紀におよぶこととなるのだが、トラクの体はこのとき弟子のゼダーによって救出され秘密の隠し場所へ運ばれた。
こうした大惨事につづく数年のうちにマロリーの社会は崩れだし、メルセネ、カランダ、ダラシア、そしてアンガラク人の土地という元来のばらばらの状態に逆戻りした。帝国が救われたのは、ひとえに皇帝コーゼスの出現のためだった。
コーゼスが年老いた父親から王座を継いだのは、わずか十四歳のときだった。独立派が率いる地区では、その若さをよいことに、帝国の独立を主張しはじめた。コーゼスは改革を断固食い止める動きに出た。かれは終生馬上で過ごし、史上最大の大虐殺をおこなった皇帝のひとりとなったが、死して結束の強いマロリー帝国を残したのだった。以後、コーゼスの子孫たちはマル・ゼスから絶大な力をもってマロリーを統治してきた。
この状態は、現皇帝ザカーズが王座につくまでつづいた。しばらくのあいだ、ザカーズはマロリーおよびアンガラク人の西の諸王国をおさめる類まれな統治者の片鱗を見せていた。しかし、やがて不穏な兆しがあらわれた。
マーゴ人はタウル・ウルガスに支配されていたが、かれが狂人であり、無法な野心家であることは明らかだった。タウル・ウルガスは若いザカーズ皇帝を倒すある計略を立てた。その計略がどういうものだったのかは、あきらかにされていない。だが、ザカーズは計略の背後にタウル・ヴルガスがいたことをつきとめ、復讐を誓った。復讐は激しい戦いという形となってあらわれ、ザカーズは狂った統治者の息の根を止めようとした。
西方は偶然この闘争のまっただなかに行き当たった。西方の王たちが東に軍勢を送りだしたころ、〈西方の大君主〉であり、魔術師ベルガラスの子孫である若いベルガリオンが徒歩で北へ向い、陸橋を渡ってマロリーへはいったのである。かれはベルガラスとひとりのドラスニア人をともなっており、クトラグ・ヤスカ、すなわち〈アルダーの珠〉を柄《つか》にのせた由緒ある〈リヴァ王の剣〉を持っていた。ベルガリオンの目的はトラクを殺すことだったが、これは西方で知られているある予言に応えた行動だったと思われた。
古代都市クトル・ミシュラクの廃墟で、長い昏睡から目覚めていたトラクは、挑戦者と対決しようとした。だが、ベルガリオンは神を打ち負かし、剣でその息の根を止めた。こうしてマロリーの僧侶たちはおおいなる混乱に陥った。
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第一部 ラク・ハッガ
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その冬最初の雪が風のない空中を音もなく舞いおりて、一行を乗せた船の甲板をうっすらとおおっていた。湿った大きな雪片が綱や索具につもり、タールを塗ったロープを太く白い綱に変えていく。海は黒く、大波が音もたてずに盛り上がっては平らになった。船尾からゆるやかな一定のリズムでくぐもった太鼓の音がひびいている。マロリー人の漕ぎ手たちがそれに合わせてオールを漕いでいるのだ。降りこむ雪片を肩や真っ赤なマントのひだにつもるにまかせて、船乗りたちは朝の雪のなかを着実に船を進ませていた。太鼓の音に合わせていっせいに体を屈伸させるたびに、湿りをおびた冷えた空中にかれらの息が白く浮き上がった。
ガリオンとシルクはマントをしっかりと巻きつけて手すりにもたれ、憂鬱そうにふりしきる雪をじっと見つめていた。
「気の滅入る朝だな」ネズミ顔の小柄なドラスニア人は、さもいやそうに肩の雪をはたき落とした。
ガリオンは気むずかしげなうなり声をたてた。
「きょうはご機嫌ななめらしいな」
「にこにこしていられる気分じゃないんだよ、シルク」ガリオンは陰気な黒と白の朝をふたたびにらみつけた。
船尾の客室から魔術師のベルガラスが現われ、目をすがめてふりつもった雪をながめ、ぶあつい古ぼけたマントの頭巾をかぶった。
シルクは老人のあとから遠慮がちに甲板にでてきた赤マントのマロリーの兵士を一瞥した。兵士はいま数ヤード船尾よりの手すりに退屈そうなふりをして寄りかかっている。「アテスカ将軍はいまだにあなたの幸福に気を遣ってると見えますね」ラク・ヴァーカトの港を発ってから、金魚のフンみたいにずっとベルガラスのあとをついて離れない兵士を、シルクは指さした。
ベルガラスはうんざりしたようにすばやく兵士のほうを見た。「ばかばかしい」そっけなく言った。「わしがどこへ行けると思ってるんだ?」
ふいにある考えがガリオンの頭に浮かんだ。ガリオンは身を乗り出してひそひそ声で言った。「ねえ、そういや、その気になればわれわれはどこかへ行けるじゃないか。こうして船に乗っているんだし、船ってものはこっちの思いどおりのところへ行くものだろう――ハッガの沿岸同様、マロリーへ行くのだってたやすいものだ」
「そいつはおもしろい考えですよ、ベルガラス」シルクが賛成した。
「こっちには魔術を使える人間が四人もいるんだ、おじいさん」ガリオンは指摘した。「ぼく、おじいさん、ポルおばさん、それにダーニク。この船を乗っ取るのはさほどむずかしいことじゃないはずだ。そうすれば針路を変えて、マロリーへ行ける。カル・ザカーズがわれわれがラク・ハッガへこないと知ったときはもう後の祭りさ」考えれば考えるほど、ガリオンは興奮してきた。「あとはマロリー沿岸にそって北へ航行し、カマト海岸の入り江なり、片隅なりに錨をおろせばいい。そうなれば、アシャバまではほんの一週間だ。ザンドラマスよりさきにアシャバへ着くことだってできる」ガリオンの口元が残忍そうにゆがんだ。「ザンドラマスの到着を待ち受けるのも悪くないな」
「見込みは大いにありますよ、ベルガラス」シルクが言った。「できますかね?」
ベルガラスは考えこむようにあごをぼりぼりと掻き、目を細くしてふりしきる雪を見つめた。「見込みはある」老人は認めたあと、ガリオンを見た。「しかし、カマト海岸にいったん着いたら、ここにいるマロリーの兵隊や船乗りたちをどうするつもりだ? ザンドラマスが用済みの人間を始末したように、船を沈没させてかれら全員を溺死させようというんじゃあるまいな?」
「あたりまえだろ!」
「それを聞いてほっとしたよ――だが、とすると、わしらにおきざりにされたとたん兵隊が最寄りの駐屯地へ駆け込むのをどうやって阻止するつもりだったんだ? おまえはどうだか知らんが、マロリーの大部隊に追跡されるという考えは、わしはあまりぞっとせんな」
ガリオンは渋い顔で素直に認めた。「そこまでは考えなかった」
「だろうと思ったよ。何かを思いついたら、行動する前にまずとことん考えてみることだな。あとでその場しのぎの大汗をかかずにすむ」
「わかった」ガリオンはちょっとバツの悪い思いで言った。
「おまえのいらだちはわかる、ガリオン、だが、考え抜かれた計画の前では、いらだちなどお粗末な代用物なんだ」
「もうやめてくれないかな」ガリオンはにがにがしげに言った。
「それにな、わしらはラク・ハッガへ行き、カル・ザカーズと会うことになっているのかもしれんのだ。『いにしえの書』をわしに渡すという難行をやってのけることまでしたシラディスが、どうしてわしらをマロリー兵に引き渡したと思う? 何か別のことが進行中なのだ。それをもう少し探り出すまでは、静観していたほうがいい」
客室のドアが開いて、ヴァーカト島を占領していたマロリー軍の指揮官であるアテスカ将軍があらわれた。一行が同行を認めたときから、アテスカは的を射た丁重な態度でかれらに接していた。アテスカはまた、一行をみずからラク・ハッガのカル・ザカーズに引き渡すことに強い執着を持っていた。アテスカは長身痩躯、着ている目のさめるような深紅の軍服には、無数のメダルや装飾物がひしめきあっている。背筋を伸ばして威厳たっぷりに近づいてくるが、昔鼻を折られたせいで、帝国軍の将軍というより街のチンピラみたいに見えた。ぴかぴかに磨きあげたブーツが汚れるのもかまわず、将軍は溶けた雪におおわれた甲板を歩いてきた。「おはようございます、みなさん」堅苦しい軍隊式のお辞儀をして一同に挨拶した。「よくお眠りになれましたか?」
「まあまあだね」シルクが答えた。
「雪が降っているようですな」将軍はあたりを見回しながら、儀礼的な口調で言った。
「気づいてたさ」シルクは言った。「ラク・ハッガまでどのくらいかかりそうかな?」
「沿岸まではあと数時間です、殿下、都市までは馬で二日の道のりです」
シルクはうなずいた。「皇帝がおれたちに会いたがっているわけを知ってるかい?」
「そのことについてはなにも言われませんでした」アテスカはそっけなく答えた。「たずねるのが適当だとはわたしも思いませんでした。ただ、あなたがたをラク・ハッガまで同行願うよう命じられただけですよ。みなさんが逃げようとしないかぎり、きわめて丁重な扱いをうけるはずです。逃げようとすれば、断固たる措置をとるよう皇帝に指示されているのです」アテスカ将軍の口調は中立で、顔も無表情なままだった。「では失礼します。留意しなければならないことがいくつかありますから」将軍は短く一礼するときびすを返して立ち去った。
「情報の宝庫だな、え?」シルクがそっけなく言った。「メルセネ人てのはたいていゴシップ好きなんだが、あの男ときたら貝みたいに口が固いや」
「メルセネ人なのか?」ガリオンは言った。「知らなかった」
シルクはうなずいた。「アテスカはメルセネの名前なんだ。カル・ザカーズは才能ある貴族階級に関しておかしな考えを持っているのさ。アンガラクの士官連中はその考えが不満なんだが、打つ手はないも同然だ――首を失くしたくないならね」
マロリーの複雑な政治にはそれほど興味がなかったので、ガリオンはそれ以上は追求せず、さきほどまで話し合っていた話題に戻った。「どういう意味なのかよくわからないな、おじいさん。われわれがラク・ハッガへ行くことになっているとかいうことだけど」
「シラディスは選択をするのは自分だと思い込んでいる」老人は答えた。「彼女が選択する前に、満たされねばならん条件がいくつかある。わしはおまえがザカーズと会うのもその条件のひとつではないかと思っているのだ」
「本気でシラディスを信じているわけじゃないんだろう?」
「奇妙なことが起きるのを見ただろう。わしはつねにケルの予言者を刺激せんようにしとる」
「『ムリンの書』ではそんな会合のことは読まなかった」
「わしもさ。だが、世界にあるのは『ムリンの書』だけではない。シラディスが予言の両面を利用している事実を心に留めておかねばならんぞ。もしふたつの予言が同等なら、そこには同等の真実が含まれていることになる。それだけではない、シラディスは予言者だけが知っている他の予言書をも利用しているらしいのだ。しかし、この前提条件のリストの出所がどこであるにせよ、シラディスがリストにあるすべての項目に線を引いて消すまで、例の〈もはや存在しない場所〉へわれわれをたどりつかせないことだけはまちがいない」
「おれたちをそこへ行かせないっていうんですか?」シルクが言った。
「シラディスを甘く見てはいかんぞ、シルク」ベルガラスは警告した。「彼女はダル人の持つ力のすべてを備えているのだ。わしらが夢想だにしないことをやってのける力を持っているのだよ。だがここはひとつ、実際的見地から物事を眺めてみよう。当初、わしらはザンドラマスに半年の遅れをとっており、非常に退屈で時間のかかるクトル・マーゴス横断を計画していた――ところが、たえず邪魔がはいった」
「そっちの話のほうがおもしろそうだな」シルクが皮肉っぽく言った。
「そうした邪魔にもかかわらず、予想以上の早さでわしらが大陸の東側へ到達し、ザンドラマスとの開きを数週間にまで縮めたとは、不思議じゃないか?」
シルクは目をぱちくりさせ、次にその目を細めた。
「これでちょっとは考える材料ができたか?」老人はさらにしっかりマントを巻きつけると、船上につもるいっぽうの雪を見回した。「なかへはいろう。まったくもってここは不愉快だ」
低い丘陵を背後にひかえたハッガの海岸は、ふりしきる雪のなかで白くぼやけて見えた。ときどき海水の流れ込む草地が水際から陸地へ伸び、茶色に枯れた葦が濡れて凍りついた雪の重みにうなだれている。その草地をよこぎって黒っぽい木の桟橋が海中へ突き出ており、一行は何事もなくマロリーの船からそこへ降り立った。陸地寄りの桟橋のはずれから丘陵へ荷馬車のわだちが伸びている。相似形を描くそれは、雪に埋もれかけていた。
一行が馬にまたがって桟橋から道路へ出たとき、宦官のサディがやや放心の体で指の長い手で剃り上げた頭をつるりとなでた。「まさしく羽根のようですな」かれは微笑した。
「なんのことだ?」シルクがたずねた。
「雪片ですよ。これまでほとんど雪を見たことがないんです――北の王国を訪問中だったときに一回見たきりでね――雪がふっているときに外にいるのはこれがはじめてなんですよ。悪くないじゃありませんか?」
シルクは不機嫌な目つきでサディを見た。「機会があったら、まっさきにあんたにソリを買ってやるよ」
サディはとまどった顔をした。「失礼ですが、ケルダー、ソリとはなんです?」
シルクはためいきをついた。「気にするな、サディ。おれはふざけようとしただけなんだ」
最初の丘の頂上にのぼりついたとき、さまざまな角度に傾斜した十二ばかりの十字架が道端に立っているのが見えた。それぞれの十字架には、ずたずたに破れたぼろをまとった野ざらしの白骨がぶらさがり、うつろな眼窩の頭蓋骨の上に雪がふりつもっている。
「あれの理由を知りたいものですね、アテスカ将軍」サディがおだやかな口調で、道端の陰鬱な見せ物を指さした。
「政策のひとつですよ、閣下」アテスカはそっけなく答えた。「皇帝陛下はマーゴ人とかれらの王との不和を狙っておいでなのです。ウルギットのせいでこんな不運に見舞われるのだということをマーゴ人たちに悟らせようというのです」
サディは信じられないというようにかぶりをふった。「ああいう政策の背後にある論理がわたしには理解できませんね。残虐なことをして犠牲者から慕われるなどということはまずありえませんよ。わたし自身はつねに賄賂を好んだものです」
「マーゴ人は残酷な扱いを受けるのに慣れているんです」アテスカは肩をすくめた。「連中に理解できるのはそのことだけだ」
「なんだってかれらを下へおろして埋めてやらなかったんだ?」ダーニクが強い口調できいた。顔が青ざめ、激しい怒りのためにだみ声になっている。
アテスカは長々とダーニクを見つめた。「節約ですよ、善人。十字架がからっぽでは何の証明にもならんでしょう。かりに連中を下へおろせば、新たに別のマーゴ人を十字架にかけなけりゃならない。いずれそういうことには飽きがくるし、遅かれ早かれ十字架にかける人間の数がたりなくなってくる。骸骨をあそこにかけっぱなしにしておくほうが効果的なんですよ――しかも時間の節約になる」
ガリオンは最善を尽くしてセ・ネドラと道端の気味の悪い教訓的戒めのあいだに体を割り込ませ、そのぞっとする光景を彼女の目に触れさせまいとした。しかし、セ・ネドラはそんなことも気づかないように馬を進めていた。妙に無表情で、何も見ていないかのようにうつろな目をしている。すばやくポルガラに目顔でたずねると、ポルガラの顔がわずかに曇った。ガリオンは速度を落としてポルガラの隣りに並んだ。「セ・ネドラ、どうしたんだろう?」ガリオンは硬い声でささやいた。
「よくわからないのよ、ガリオン」ポルガラはささやきかえした。
「鬱病がぶりかえしたのかな?」ガリオンはみぞおちのあたりに重苦しさをおぼえた。
「そうではなさそうだわ」ポルガラは考えこむように目を細め、うわの空で青い服の頭巾をひきあげ、漆黒の髪に混じる一房の白髪を隠した。「目を離さないようにするわ」
「ぼくはどうしたらいい?」
「そばについていらっしゃい。つとめてセ・ネドラをしゃべらせるようにして。なにか手がかりになるようなことを言うかもしれないわ」
しかし、会話に引き込もうとするガリオンの努力にもセ・ネドラはろくすっぽ反応せず、その雪の日が暮れるまで、ガリオンの質問にも、意見にも、とんちんかんな返事ばかりしていた。
戦いの爪跡も生々しいハッガの郊外に夜のとばりがおりはじめると、アテスカ将軍は停止の号令をかけた。兵士たちは焼き払われた村の唯一の残骸である、火事で黒ずんだ石塀の風下側に、いくつかの深紅の大テントを建てはじめた。「明日の午後遅くにはラク・ハッガに着くはずです」将軍は一行に言った。「今夜は野営地中央のあの大きなテントをお使いください。じきに部下たちが夕食をお持ちします。では、失礼――」アテスカ将軍は短く一礼すると、馬首をめぐらして部下たちを監督しに行った。
兵士たちがテントを建ておえると、ガリオンたちはアテスカが指さした大きなテントの前で馬をおりた。シルクはその大きな赤いテントを囲むように配置された護衛隊を眺め回した。「あいつもいい加減決心してくれりゃいいのに」シルクはいらだたしげに言った。
「なんのこと、ケルダー王子?」ヴェルヴェットが言った。「だれが決心すればいいですって?」
「アテスカさ。礼儀正しいのは結構だが、武装した護衛隊におれたちを包囲させてる」
「わたしたちを保護するためかもしれないわよ、ケルダー。なんといってもここは戦闘地帯ですもの」
「もちろんそうさ」シルクはそっけなく言った。「牝牛だって飛ぶかもしれん――翼があればな」
「すごくおもしろいことおっしゃるのね」ヴェルヴェットはあきれぎみだった。
「四六時中そういうことをするのはやめてもらいたいね」
「そういうことって?」ヴェルヴェットは無邪気そのものといったようすで褐色の目を丸く見開いてみせた。
「なんでもない」
アテスカの部下の料理番がこしらえた夕食は、兵士の割当食料を材料にした質素なもので、ブリキ皿に盛られていたが、熱かったし、空腹を満たすにはじゅうぶんだった。テントの内部は木炭火鉢で暖められ、ぶらさがったオイル・ランプの金色の輝きで満たされていた。置かれているのはいかにも簡素な、取扱いの楽な軍隊式のテーブル、ベッド、椅子だった。床と壁は真っ赤に染めたマロリーの絨緞でおおわれている。
エリオンドは皿を押しやったあと、ものめずらしそうにきょろきょろした。「マロリー人て異常に赤が好きみたいだなあ」
「血を連想させるからだと思うね」ダーニクがひややかに言いきった。「連中は血が好きなんだ」かれはトスを冷たくふりかえり、平板な口調で言った。「食べ終わったなら、席をはずしてもらいたいんだ」
「丁寧とは言えない態度ね、ダーニク」ポルガラが非難をこめて言った。
「丁寧にするつもりはないんだ、ポル。そもそもどうしてかれがわれわれと一緒にいなけりゃならないんだね。かれは裏切り者なんだよ。仲間のところへ行けばいいじゃないか?」
大男は沈鬱な表情でテーブルから立ち上がった。片手をあげ、これまで鍛冶屋とかわしてきたあのあいまいな仕草をしようとしたが、ダーニクはわざとトスに背中を向けた。トスはためいきをつき、片隅にひっこんで遠慮がちに腰をおろした。
「ガリオン」セ・ネドラがいぶかしげに眉をひそめて、いきなり口をひらいた。「わたしの赤ちゃんはどこ?」
ガリオンはセ・ネドラをまじまじと見つめた。
「ゲランはどこなの?」セ・ネドラの声が甲高くなった。
「セ・ネドラ――」
「泣いているのが聞こえるのよ。あの子をどうしたの?」セ・ネドラは突然はじかれたように立ち上がって、テントのなかを走りだした。寝室用に仕切られた部屋のカーテンを乱暴に押し退けて、ベッドの毛布を一枚一枚ひきはがしていった。「手伝って!」彼女は叫んだ。「赤ちゃんを見つけるのを手伝って!」
ガリオンはすばやくテントを突っきってセ・ネドラの腕をつかんだ。「セ・ネドラ――」
「やめて!」セ・ネドラはわめいた。「あの子をどこかに隠したのね! 放してったら!」彼女はガリオンの手をもぎはなすと、すすり泣きながら死にものぐるいでゲランを求め、家具をひっくりかえしはじめた。
ガリオンはもう一度セ・ネドラをなだめようとしたが、彼女はいきなりののしり声を浴びせて、指を折り曲げかれの目をひっかこうとした。
「セ・ネドラ! やめるんだ!」
しかしセ・ネドラはガリオンをよけるように走りだして、雪のふる夜のなかへ飛び出した。
あとを追ってテントの垂れ蓋から飛び出したとたん、ガリオンは赤マントのマロリーの兵士に道をふさがれた。「おまえ! さっさとなかへ戻れ!」兵十は吠えるように命じると、槍の柄で通せんぼした。兵士の肩ごしに、セ・ネドラが別の兵士にとりおさえられてもがいているのが見えた。ガリオンは反射的に男の顔面を殴りつけた。番兵はよたよたとあとずさってひっくりかえった。ガリオンはその上をとびこえたが、あっというまにさらに六人の番兵にうしろから押さえつけられてしまった。「妻を放せ!」小さな女王の片腕をうしろにねじりあげている番兵にかれは怒鳴った。
「テントに戻るんだ!」荒々しい声が命じ、ガリオンはテントの垂れ蓋のほうへ一歩一歩うしろむきにひきずられていった。セ・ネドラをつかんでいる番兵も半ば持ち上げるようにして、同じ場所へ彼女を押し戻しはじめた。ガリオンは怒りが爆発しそうになるのをぐっとこらえて、冷静に意志の力を抑え込んだ。
「そこまででじゅうぶんよ!」テントの入口からポルガラのしわがれ声が命令した。
番兵たちは立ち止まって、おぼつかなげに互いを見やり、つぎに入口の威圧的な女性をうかがい見た。
「ダーニク! ガリオンに手を貸してセ・ネドラをなかへいれてちょうだい」
ガリオンは体にかけられていた手をふりはらうと、ダーニクとふたりで狂ったようにあばれる小柄な女王を番兵から受け取り、テントのほうへひっぱっていった。
「サディ」ダーニクとガリオンがセ・ネドラをあいだにはさんでテントにはいってくると、ポルガラは言った。「あなたのあの箱にオレトはある?」
「ありますとも、レディ・ポルガラ」宦官は答えた。「しかし本当にこの場合オレトでいいんですか? わたしはむしろナラディウムのほうがいいと思いますよ」
「これはただのヒステリーじゃなさそうなのよ、サディ。わたしがちょっと目を離したすきに、セ・ネドラが目をさましたりしないような強い薬がほしいの」
「あなたがそうお考えならそれが一番でしょう、レディ・ポルガラ」サディは絨緞敷の床を横切って赤い革の箱をあけ、濃紺の液体がはいったガラス瓶を取り出した。次にテーブルに近づいて水のコップを持ち上げ、物問いたげにポルガラを見た。
ポルガラは額にしわを寄せて考えこみ、決断した。「三滴にして」
サディはちょっとおどろいたような顔をしたが、重々しく、言われた量を水のなかへたらした。
なだめすかしたあげく、セ・ネドラはようやくコップの中身を飲んだ。そのあともしばらくはめそめそと泣きじゃくっては暴れようとしたが、しだいに暴れかたがおとなしくなり、すすり泣きもおさまってきた。そしてとうとう深いためいきをついて目をとじ、規則正しい息遣いに戻った。
「ベッドへ連れていきましょう」ポルガラが先に立ってカーテンで仕切った部屋のひとつに入った。
ガリオンは眠っている妻の小さな体を抱き上げてあとにつづいた。「どうしたんだろう、ポルおばさん?」そっとベッドに彼女を寝かせると、ガリオンはたずねた。
「断定はできないわ」ポルガラはごわごわした兵士用の毛布をセ・ネドラにかけてやりながら答えた。
「ぼくたちはどうすればいい?」
「旅の途中ではあまりたいした手は打てないわね。ラク・ハッガへつくまで眠らせておきましょう。状況がもっと安定したら、治療もできるでしょう。そばについていてやって。ちょっとサディと話したいことがあるのよ」
ポルガラが箱にはいっているさまざまな薬のことで宦官と相談しに行ってしまうと、ガリオンは不安な思いでベッドわきに腰をおろし、力ない妻の小さな手をそっと握りしめた。しばらくするとポルガラが戻ってきて、カーテンをうしろ手にしめた。「必要なものはほとんどサディが持っているわ」と静かに報告した。「あとはわたしが即席で調合できそうよ」ポルガラはガリオンの肩に手を置くと、前かがみになってささやいた。「たったいまアテスカ将軍がはいってきたの。あなたに会いたがっているわ。わたしならセ・ネドラの発作の原因について言明はしないでしょうね。ザカーズがわたしたちがここにいる理由についてどの程度知っているのかわからないし、アテスカが起きたことを細大もらさず報告するのはまちがいないから、気をつけてしゃべってちょうだい」
ガリオンは反論しようとした。
「ここでできることはなにもないのよ、ガリオン、あなたはラク・ハッガで待たれているんですからね。セ・ネドラはわたしがちゃんと見ているわ」
「ああいう発作をたびたび起こされているんですか?」カーテンをくぐってガリオンが出て行ったとき、アテスカがたずねているのが聞こえた。
「彼女はたいへん敏感でね」シルクが答えた。「環境によってときどきああなるんだ。ポルガラがついているから心配はない」
アテスカはガリオンに向きなおった。「陛下」よそよそしい口調だった。「部下を攻撃なさるとは感心できかねますな」
「向こうが邪魔をしたんだ、将軍」ガリオンは答えた。「たいした怪我はさせなかったはずだ」
「信念がかかわっていますので、陛下」
「ああ、そうだな」ガリオンはうなずいた。「すまなかったと伝えておいてくれ。だが二度と立ち入った真似はしないように言っておいてもらいたい――特に、妻に関する場合は。人を傷つけたくはないが、そうせざるをえないときもあるんだ」
アテスカの目が鋼のように冷たくなった。ガリオンが返した視線も同じようにひややかだった。ふたりはしばらくにらみあった。アテスカがようやく口を開いた。「じゅうぶん尊重はいたしますが、二度とわたしの好意を悪用しないでいただきたい」
「やむをえない状況を除いてだ、将軍」
「奥方のために担架を用意させましょう」アテスカはそう言ったあと、「明朝早く出発の予定です。女王がご病気なら、一刻も早くラク・ハッガへ着いたほうがいいでしょう」
「ありがとう、将軍」
アテスカはおざなりな一礼をすると、回れ右をして出ていった。
「いささか無作法だったんじゃありませんか、ベルガリオン?」サディがつぶやいた。「いまのわたしたちはアテスカの手中にあるんですよ」
ガリオンはぶつぶつ言った。「かれの態度が虫が好かなかったんだよ」ベルガラスを見ると、やや憮然たる表情をしている。「それで?」ガリオンはきいた。
「わしは何も言っとらんぞ」
「言うまでもなかったよ。何を考えていたか手に取るようにわかったんだから」
「じゃあ、言う必要はなかろう、え?」
翌日は冷え込みが厳しく、じめじめしていたが、雪はやんでいた。セ・ネドラは馬に乗せられた担架に横たわり、ガリオンはいかにも心配そうな顔で、担架に寄り添うように馬を進めていた。一行のたどる道が北西へ行くにしたがって、焼け落ちた村や破壊された町の数がふえてきた。前日の湿った雪が廃墟をすっぽりおおい隠しているものの、どの村も町も、白骨のぶらさがる十字架や杭が周囲をぐるりと囲んでいる。
午後三時ごろ、丘の頂上にのぼった一行の前に、北東へのびる鉛色の広大なハッガ湖が姿を見せた。手前の岸辺に城壁をめぐらした大都市が建っている。
「ラク・ハッガです」アテスカがそれとない安堵をにじませて言った。
一行は都市に向かって丘をくだった。湖の向こうから寒風が吹きつけてきて、みんなのマントをあおり、馬たちのたてがみをさわがせた。
「ようし、おまえたち」アテスカが肩ごしに部隊に声をかけた。「編隊を組み、兵士らしく見えるようにするんだ」赤マントのマロリー兵たちは馬を進めて二列縦隊になると、鞍の上で背筋をのばした。
ラク・ハッガの城壁は数ヵ所に穴があき、胸壁のてっぺんは雨あられと降り注いだ鋼の先端を持つ矢によって、欠け落ちたり、へこんだりしていた。がっしりした城門は、都市を襲った最後の攻撃のあいだにまっぷたつに割れて、錆ついた鉄の蝶番から門の残骸がぶらさがっていた。
アテスカが先頭に立って都市へ入って行くと、城門の前にいた番兵たちが直立不動の姿勢をとって、すかさず敬礼した。城門をくぐると、石造りの家々が見るも無残な姿をさらして、ラク・ハッガ陥落までつづいた戦闘のすさまじさを語っていた。ほとんどの家は屋根がなくなり、煤で黒ずんだガラスのない窓が瓦礫に埋もれた通りを見つめている。ふてくされたマーゴ人の一団が鎖をひきずって、マロリー兵の部隊が監視するなか、ぬかるんだ通りから倒壊した建物の石材を片づけていた。
「なあ」シルクが言った。「マーゴ人が実際に働くところを見たのはこれがはじめてだよ。連中が働きかたを知っているとは思わなかったな」
クトル・マーゴスにおけるマロリー軍の司令本部は、都市の中心部にほど近い大きな堂々たる黄色い煉瓦の家のなかにあった。家は雪におおわれた大きな広場に面しており、玄関扉から上へのびる大理石の階段の両側には赤マントのマロリー兵が一列に並んでいた。
「ハッガのマーゴ軍司令官の住居だったところですよ」かれらがその家のそばまできたとき、サディが言った。
「じゃ、前にここにきたことがあるのか?」シルクがきいた。
「若かりしころにね」サディは答えた。「ラク・ハッガは奴隷売買の中心地だったんです」
アテスカが馬をおり、士官のひとりを振り返った。「大尉、部下たちに女王の担架を運ばせるんだ。細心の注意を払うよう命令したまえ」
残りの面々が馬をおりると、大尉の部下たちが二頭の馬の鞍から担架をおろして、アテスカ将軍のあとから大理石の階段をのぼりはじめた。
大きなドアを入ったところにぴかぴかのテーブルがあり、そのうしろに不遜な顔つきの角ばった目をした男がひとり、高価そうな深紅の軍服をきてすわっていた。向こうの壁ぎわに椅子が一列に並んでおり、うんざり顔の役人たちが腰かけている。
「用件を述べろ」テーブルのうしろの士官がぶっきらぼうに言った。
アテスカは顔色ひとつ変えずに、無言で士官をにらみつけた。
「用件を述べろと言ったんだ」
「規則が変わったのかね、大佐?」アテスカは内心のいらだちをおくびにも出さずにやんわりとたずねた。「われわれはもはや上官の面前で起立もしないのか?」
「辺境帰りのどうでもいいメルセネの士官のために、あわてて立ち上がるほど暇じゃないんでね」大佐は大声で言った。
「大尉」アテスカは無表情に部下に言った。「心臓の鼓動がふたつ打つあいだに、この大佐が立たなかったら、わたしに代わってこいつの首を切り落としてくれるか?」
「わかりました、サー」大尉が答えて剣を抜くのと同時に、大佐はぎくりとしてそそくさと立ち上がった。
「ずっとよくなったぞ」アテスカは言った。「さあ、もう一度最初からはじめよう。ときに、敬礼の仕方をおぼえているかね?」
大佐はすかさず敬礼したが、顔からは血の気が失せていた。
「すばらしい。まだ兵士として捨てたもんじゃない。さてと、わたしが護送してきたこの一行のひとり――さる高位のご婦人だ――が旅の途中で病気になった。ついては早急に暖かく居心地のよい部屋を用意してもらいたい」
「サー」大佐は抗議した。「そこまでする権限はわたしにはありませんよ」
「まだ剣をしまうのは早いぞ、大尉」
「そう言われても、将軍、そういう決定を下すのは陛下の王室付きの者の役目なんです。わたしが出すぎた真似をしたら、たいへんな剣幕で怒鳴り込まれてしまいます」
「それはわたしから陛下に説明しておく、大佐」アテスカは言った。「状況が普段とは多少異なるが、陛下は認めてくださるはずだ」
大佐は決心をつけかねて、ぐずぐずしていた。
「やるんだ、大佐! いますぐ!」
「ただちに取り計らいます、将軍」大佐はすぐさま決断した。「おまえたち」セ・ネドラの担架を持っている兵士たちに言った。「わたしについてこい」
ガリオンは反射的に担架についていきそうになったが、ポルガラがかれの腕をつかんだ。「だめよ、ガリオン。わたしが一緒に行くわ。いまあなたにできることはなにもないんだし、ザカーズはあなたと話したがっているのよ。注意してしゃべるようにね」ポルガラはそれだけ言うと担架を追って廊下を歩いていった。
「マロリーの社会にはまだ確執が残っているらしいな」シルクがものやわらかにアテスカ将軍に言った。
「アンガラク人め」アテスカは不満そうだった。「連中は現代の世界にうまく調和できないんですよ。失礼します、ケルダー王子。われわれの到着を陛下にお知らせしたいので」アテスカは部屋の向こう側の磨き込まれたドアのところへ歩いていくと、護衛のひとりと手短に話し合って、戻ってきた。「皇帝にわれわれの到着をお知らせしました。もうじきお会いになれるでしょう」
簡素だが見るからに値のはりそうな茶色の長衣を着て、重たげな金鎖を首にかけたぽっちゃりした禿頭の男が近づいてきた。「アテスカ、親愛なる友よ」男は将軍に挨拶した。「ラク・ヴァーカトに駐屯していたそうだな」
「皇帝にちょっと用があってね、ブラドー。クトル・マーゴスで何をしている?」
「かかとを冷やしているのさ」ぽっちゃりした男は答えた。「カル・ザカーズにお目にかかるのをもう二日も待っているんだ」
「故郷の任務はどうなっているんだ」
「ひとりでにどうにかなるように手配してきたのさ」ブラドーは答えた。「陛下のところへ報告書を持ってきたんだが、非常に重要な内容なんでわたし自ら出向いてきたというわけだ」
「居心地満点のマル・ゼスから国務長官じきじきのおでましとは、いったい何事だね?」
「陛下もこのクトル・マーゴスでのうさ晴らしに見切りをつけて、そろそろ首都へ戻られるときだと思うんだ」
「注意したほうがいいぞ、ブラドー」アテスカはつかのま微笑をうかべて言った。「あんたの例の調子のいいメルセネ人の偏見が見えかくれしてる」
「マル・ゼスの状況が悪化してきているんだ、アテスカ」ブラドーは深刻な口調で言った。「どうしても皇帝に話をしなけりゃならん。お目にかかれるよう取りはからってくれないか?」
「なにができるかやってみるよ」
「ありがとう、友よ」ブラドーは将軍の腕を力をこめてにぎった。「カル・ザカーズを説得申しあげて、マル・ゼスへご帰還願うことに、国の命運がかかっているんだ」
「アテスカ将軍」磨き込まれたドアの前で槍をかまえた護衛のひとりが呼ばわった。「皇帝陛下があなたとあなたの囚人たちにお目にかかります」
「わかった」アテスカは囚人≠ニいう不吉な言葉を無視して答えると、ガリオンを見た。「皇帝は一刻も早くあなたに会いたがっておられるにちがいありません、陛下。お目通りするのに何週間もかかることがざらにあるんですよ。ではなかへはいりましょうか?」
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国境なきマロリーの皇帝、カル・ザカーズは広々とした何の変哲もない部屋の向こう端で、赤いクッション敷きの椅子にゆったり腰かけていた。簡素な白い麻布のローブを着た皇帝は、ござっぱりと飾り気がなかった。ガリオンの知るかぎり、少なくとも四十代のはずだが、髪は真っ黒で顔にはしわひとつなく、つるりとしている。しかしその目には、人生になんの喜びも関心すらもない、倦み疲れたような色が浮かんでいた。膝の上には黒と白の縞のありふれた野良猫が丸くなって、目を閉じ、前足を交互に皇帝の腿の上で動かしていた。皇帝自身はいたって質素な服装だが、壁ぎわにずらりと並んだ護衛たちは金《きん》をふんだんにちりばめた鋼の胸当てをつけていた。
「皇帝陛下」アテスカ将軍が深々と頭をさげて言った。「慎んでここにリヴァのベルガリオン王陛下をご紹介いたします」
ガリオンがそっけなく会釈すると、ザカーズも短くそれに応えた。「ずいぶん遅かったではないか、ベルガリオン」ザカーズの声は目つき同様生気に欠けていた。「世界は貴公の偉業に揺り動かされている」
「それはお互いさまだ、ザカーズ」ラク・ヴァーカトを発つ前から、ガリオンはこのマロリー人がみずからにつけたカル≠ニいうばかげた称号を、早々に省くべきだと考えていた。
ザカーズの口元にあるかなきかの微笑が浮がび、「ああ」と、ガリオンの心づもりをそれとなく察したような口調で言った。ほかの面々にそっけない会釈を繰り返していたザカーズは、最後にガリオンの祖父のだらしない旅姿にじっと目を注いだ。「そしてもちろん、あなたがベルガラスでしょうな。あまり普通の様子なのでいささか意外でしたよ。マロリーのグロリムたちはこぞってあなたが身の丈百フィート――ことによると二百――で角を生やし、先が三つに分かれた尻尾を持っていると主張していますからね」
「身をやつしておるのさ」ベルガラスは悠然と答えた。
ザカーズはけらけら笑ったが、そのほとんど機械的ともいえる声音にはおもしろがっているようすはみじんもなかった。やがてかれは不審そうにあたりをみまわした。「顔ぶれがそろっていないようだな」
「セ・ネドラ女王が旅の途中で病気になられたのです、陛下」アテスカが教えた。「レディ・ポルガラがつきそっておいでです」
「病気だと? 重いのかね?」
「現時点ではなんとも申しあげられません、皇帝陛下」サディがすらすらと答えた。「ですが、ある薬を服用なさいましたし、わたしはレディ・ポルガラの腕に全幅の信頼を置いておりますよ」
ザカーズはガリオンを見た。「伝令を先によこせばよかったものを、ベルガリオン。わたし付きの参謀に治癒者がいるのだ――ダラシアの女だがおどろくべき才能の持ち主だ。さっそく女王の部屋へその治癒者を行かせよう。なによりもまず貴公の奥方の健康に気を配らねばならん」
「ありがとう」ガリオンは心から答えた。
ザカーズはベルの引き紐を引き、間髪をいれずにあらわれた召使いに手短に指示を与えた。
それが終わると皇帝は言った。「どうかおすわりください。儀式ばったことには特に関心がないのでね」
護衛たちがあわてて椅子を運んできた。ザカーズの膝の上で眠っていた猫が金色の目をあけて、一同を順ぐりに見回した。猫は起き上がって背中をそらし、あくびをした。次にごろごろと不満そうな声を漏らしながらどしんと床にとびおり、のっそり歩いてきてエリオンドの手の匂いをかいだ。かすかにおもしろがっている表情で、ザカーズはあきらかに妊娠している猫が母親然と絨緞の上を歩きまわるのを見守った。「みなさんお気づきだろうが、あの猫はわたしに不貞を働いたのだよ――またしても」ふざけ半分にザカーズはあきらめのためいきをついた。「しょっちゅうわたしを裏切っているのだ、しかもこれっぽっちもそれを悪いと思っていないらしい」
猫はエリオンドの膝にとびのると丸くなって、満足そうに喉を鳴らしはじめた。
「大きくなったな、え」ザカーズはエリオンドに言った。「もうしゃべりかたをみんなに教わったか?」
「だいぶ聞き分けられるようになりましたよ、ザカーズ」エリオンドは持ち前の澄んだ声で言った。
「あとの面々のことは知っている――少なくとも評判によってな」ザカーズは言った。「善人ダーニクとはミシュラク・アク・タールの平原で会ったし、ドラスニア謀報局のリセル辺境伯令嬢のことも、ケルダー王子のこともむろん聞いている。ケルダー王子は世界一の金持ちになろうと奮闘しているそうだな」
ヴェルヴェットの優雅なお辞儀は、シルクの大げさな一礼にくらべるとぎごちなかった。
「そしてここにいるのは、もちろん」皇帝はつづけた。「サルミスラ女王の宮殿の宦官長サディだ」
サディはなめらかにお辞儀した。「陛下はまことに情報通でいらっしゃいますな」かれは甲高い声で言った。「開いた本でも読むように、わたしたち全員のことを知っておられる」
「謀報機関の長官がたえず情報を流す努力をしているのだ、サディ。ボクトールのすご腕ジャヴェリンほどの才能はないかもしれんが、世界のこのあたりで進行中のことはほとんど網羅している。あの隅にいる大男のことも言っていたが、いまのところ名前をつきとめるには至っていなかった」
「かれはトスと呼ばれてます」エリオンドが不足している情報を補った。「口がきけないので、ぼくたちが代わって話してあげなくちゃなりません」
「しかもダラシア人だ」ザカーズは言った。「実に興味深い」
ガリオンはさきほどからこの男を注意深く観察していた。洗練された都会的なうわべの下に、それとなく相手を探るような動きが感じられる。悠長な挨拶も、みんなをくつろがせるための行き届いた思いやりのように見えて、実はもっと深い動機が陰にひそんでいるらしい。ガリオンはなんとなくザカーズがみんなをひとりずつ試しているような気がしてならなかった。
やがて皇帝は背すじをのばして言った。「奇妙な組み合せの道連れだな、ベルガリオン。おまけにここは故郷からはずいぶん離れている。クトル・マーゴスにいる理由が知りたいものだ」
「個人的問題だ、ザカーズ」
皇帝の眉が片方だけちょっとつりあがった。「こういう状況では、満足のいく返事とは言えないな、ベルガリオン。貴公がウルギットと手を結んでいる見込みがあれば、ないがしろにはできん」
「結んでいないと言ったら、信じるのか?」
「ラク・ウルガ訪問についてもう少しくわしいことがわかるまでは信じないね。ウルギットはひどく唐突にラク・ウルガを出発した――どうやら貴公に同行していたらしい――そしてこれまた突然モークトの平原に現われて、若い女とふたりで、わたしが苦心の末に仕掛けた不意打ちから、さっさと部隊を救出した。このふたつが単なる偶然ではないことは貴公も認めなくてはなるまいぞ」
「実際的見地から見れば、そうでもない」ベルガラスが口をはさんだ。「ウルギットを同行させたのは、わしの考えだったのだ。ウルギットはわしらの正体に気づいたが、わしはマーゴの軍隊に追跡されるのはまっぴらだった。マーゴ人はあまり利口じゃないが、邪魔になることもあるからな」
ザカーズはおどろいたようだった。「ウルギットは貴公たちに捕まっていたのか?」
ベルガラスは肩をすくめた。「そういう言い方もできる」
皇帝はひねくれた笑い声をあげた。「やつをわたしに渡してくれていれば、どんな約束でもわたしにとりつけることができたのに。なんでウルギットを行かせたんだ?」
「もう必要ではなくなったからさ」ガリオンは答えた。「クタカ湖の岸辺に着いてしまえば、ウルギットはわれわれにとっていかなるたぐいの脅威でもなかった」
ザカーズはいぶかしげに目を細めた。「ほかにも起きたことがある。ウルギットはこれまでずっと評判の臆病者で、グロリムのアガチャクと父親に仕えていた将軍連中に完全に牛耳られていた。ところが、われわれが仕掛けておいたわなから味方の部隊を救出したときのウルギットは、それほどびくついているようには見えなかった。しかも、ラク・ウルガから漏れてくる報告はどれもこれもウルギットが国王然として振る舞っていることをほのめかしている。そのことと貴公とはなにか関係があるのか?」
「かもしれない」ガリオンは答えた。「ウルギットとは何度か話しあったし、かれのどこがまちがっているのか教えてやったこともある」
ザカーズはずるがしこい目つきで、人差し指であごを軽くたたいた。「ベルガリオン、貴公はやつをライオンにしたわけではなかろうが、少なくともウルギットはもうウサギではない」マロリー人の口元にぞっとするような微笑が浮かんだ。「ある意味では、喜ばしいことだ。ウサギ狩りにはつねづね不満をおぼえていたのだ」部屋の明かりが特にまぶしいわけでもないのに、ザカーズは片手で目の上にひさしを作った。「だが、わからないのはどうやって貴公がウルギットにドロジム宮殿を出て都市から離れる勇気を吹き込んだかだ。やつには大勢の護衛がついているのだぞ」
「何か見落としていやせんか、ザカーズ」ベルガラスが言った。「わしらには他人にはない利点がある」
「魔術のことか? 魔術はそれほど頼れるものなのか?」
「それのおかげでときどきいい目をみてきた」
ザカーズの死んだような目がにわかに活気をおびた。「貴公は五千歳だとかいう話だが、本当なのか、ベルガラス?」
「七千歳だ、実を言うとな――もう少しいってるかもしれん。なぜたずねる?」
「それだけの歳月のあいだ、権力を握ろうという考えはちらとも浮かばなかったのか? その気になれば世界の王にもなれただろうに」
ベルガラスはおもしろそうな顔をした。「どうしてそんなことをわしがしたがるんだ?」
「人間ならだれしも権力を握りたがるものだ。それが人間というものだろう」
「おまえさんの権力は本当におまえさんを幸福にしたかね?」
「かなりの満足を与えてくれている」
「権力についてまわる煩雑な義務を補って余りある満足か?」
「そういうことには我慢できる。少なくとも、だれからも命令されない立場にいられるわけだからな」
「わしはだれにも命令されないし、そういう退屈な責務も負わせられておらん」ベルガラスは背筋をのばした。「さあ、ザカーズ、要点にはいろうじゃないか? わしらをどうするつもりなんだ?」
「それはまだ決めていない」皇帝は一同を見回した。「現在の状況については、われわれ双方とも教化されうるものと思うが?」
「どういう意味だ、教化とは?」ガリオンはきいた。
「だれひとり逃げることも、軽率な真似をすることもないという貴公の言葉を受け入れるとしよう。貴公と仲間のひとりが特殊な才能を持っているのはわかっている。それに対抗するような措置をとらざるをえない立場には立ちたくない」
「われわれは急ぎの用があるのだ」ガリオンは慎重に答えた。「したがって、そう長居はできないが、しばらくは、おとなしくしているつもりだ」
「結構。あとでまたさしで話しあい、互いを知らねばならんな。貴公と友人たちのために快適な部屋を用意させてある。奥方のことが心配だろう。では、失礼するよ、ベルガラスの言った退屈な責務が待っているのでね」
その家は広大だったが、厳密に言えば、宮殿ではなかった。建築を命じたハッガのマーゴ人総督は、ウルガの統治者たちにとりついていた誇大妄想には無縁だったらしく、建物は装飾的というより機能一点ばりだった。
「わたしはここで失礼します」アテスカ将軍は謁見の間から出ると、一同に言った。「これから陛下に綿密な報告をし――さまざまな事柄について――そのあとただちにラク・ヴァーカトへ引き返さなくてはならないのです」将軍はガリオンを見た。「楽しい状況のもとでお目にかかったわけではありませんでしたが、どうかわたしのことをあまり悪く思わないでください」アテスカはややぎごちなく一礼すると、皇帝の参謀のひとりにつきそわれて立ち去った。
一同を案内して黒っぽい羽目板張りの長い廊下を家の中心へ向かって歩き出した男は、あきらかにアンガラク人ではなかった。目も角ばっていなければ、アンガラク人特有の荒々しい不敵な面構えもしていない。男の陽気な丸顔はメルセネ人の血を引いていることを示している。ガリオンはマロリー人の生活の大部分を支配している官僚主義が、ほとんどメルセネ人によって作り上げられたものであることを思いだした。「みなさんの部屋が牢屋を意図したものでないことを忘れずにお伝えしろと、陛下から申しつかっております」役人は廊下の一部を塞いでいる重いかんぬきのかかった鉄のドアへ近づきながら、言った。「われわれが都市を占拠する以前は、ここはマーゴ人の家でした。ですから、構造上おかしなところがあるんですよ。みなさんの部屋はかつてはご婦人の部屋でした。マーゴ人は同国人の女性を守ることにかけては異常に用心深いですからね。人種的な純血主義が関係しているんでしょう」
このときのガリオンには寝室の位置関係などどうでもよいことだった。気になるのはセ・ネドラのことだけだった。「妻の居所を知らないかな?」ガリオンは丸顔の官僚にたずねた。
「この廊下のつきあたりの部屋です、陛下」メルセネ人は廊下のずっと向こうに見える青塗りのドアを指さした。
「ありがとう」ガリオンはみんなをちらりと見た。「すぐに戻る」かれは大股にドアめざして歩きだした。
ガリオンが足を踏み入れた部屋は暖かく、薄暗かった。毛足の長い、凝った織り方のマロリーの絨緞が床に敷きつめられ、高く細い窓には淡い緑色のビロードの垂れ幕がさがっていた。セ・ネドラはドアの真正面の壁ぎわに置かれた支柱の高いベッドに横たわり、ポルガラがいかめしい表情でかたわらにすわっていた。
「変わったことはなかった?」ガリオンはドアをそっとうしろ手にしめながらたずねた。
「まだ何も」ポルガラは答えた。
真紅の巻き毛を枕の上に波うたせ、セ・ネドラは青い顔で眠っていた。
「だいじょうぶなんだろうね?」
「もちろんよ、ガリオン」
ベッドのそばにもうひとりすわっている女がいた。明るい緑の頭巾のついた裾の長い服を着て、室内にいるのに頭巾をかぶっている。そのせいで顔はよく見えなかった。セ・ネドラが妙に荒々しい口調でなにかつぶやき、せわしなく枕の上で頭を動かした。頭巾の女は眉をひそめた。「これが女王さまの普段のお声ですか、レディ・ポルガラ?」
ポルガラはすばやく女を見た。「いいえ、まるでちがうわ」
「女王さまが飲まれた薬が、声音に影響を与えるようなことは?」
「いいえ、ありえないわ。本当なら、口をきくことさえないはずよ」
「ああ」女は言った。「だいたいわかってきました」女は身をのりだすと、セ・ネドラのくちびるにそっと片手をあてた。それからうなずき、手をひっこめて、「思ったとおりだわ」とつぶやいた。
ポルガラも片手をのばしてセ・ネドラの顔にふれた。ガリオンはポルガラの意志のかすかなささやきを聞いた。ベッドわきの蝋燭がほんの少しあかるくなったかと思うと、すぐに元通りになってみるみる炎が小さくなった。「気づくべきだったわ」ポルガラは自分を責めた。
「どういうこと?」ガリオンは不安にかられた。
「別の意識が奥方を征服して奥方の意志を抑え込もうとしているのです、陛下」頭巾の女が言った。「グロリムたちがときどき使う術です。第三時代にかれらはその術をまったく偶然に発見したのです」
「これはアンデルよ、ガリオン」ポルガラが教えた。「ザカーズがセ・ネドラの治療の助けにとここへよこしてくれたの」
ガリオンは頭巾の女に短く会釈した。「征服≠ニは正確にはどういうことだろう?」
「そのことなら、たいがいの人よりあなたのほうがよく知っているはずでしょう、ガリオン」ポルガラは言った。「マーゴ人のアシャラクを忘れてはいないはずよ」
ガリオンはにわかに悪寒をおぼえた。もの心ついたころから大人になるまで、かれの意識を支配しようとつきまとって離れなかったおそるべき意志の力が、記憶によみがえった。「そいつを追い出してくれ」ガリオンは頼んだ。「何者だか知らないが、セ・ネドラの心からそいつを追い出してくれ」
「まだ早いわ、ガリオン」ポルガラは冷たかった。「これはチャンスなのよ。無駄にするのはよしましょう」
「どういうことだ」
「いまにわかるわ、ディア」ポルガラは立ち上がってベッドの端に腰掛け、セ・ネドラのこめかみをそっと両手でおさえた。かすかなささやきがふたたび聞こえた。今度はそれが強まり、ふたたび蝋燭がぱっと燃え上がって、酸素が足りなくなったかのように炎が小さくなった。するとポルガラが言った。「そこにいるのはわかっているわ。しゃべったらどうなの」
セ・ネドラの顔がゆがみ、こめかみの両手を払いのけようとするように、頭が左右にふられた。ポルガラの顔がきびしくなり、彼女は容赦なくしっかりとこめかみをおさえこんだ。額の生え際の白い一房が輝きはじめ、ベッドそれ自体が冷気を発散しているかのように、室内が妙にひえびえしてきた。
セ・ネドラが突然絶叫した。
「しゃべるのよ!」ポルガラは命令した。「わたしがこの手を離さないかぎり、あんたは逃げられないわ。しゃべるまでは絶対に離さないわよ」
セ・ネドラの目がふいに開いた。その目に憎悪がみなぎっていた。「おまえなど恐くはない、ポルガラ」セ・ネドラは奇妙なアクセントのあるしわがれ声で言った。
「わたしも恐くはないわ。さあ、何者なの?」
「おまえはわたしを知っているのだよ、ポルガラ」
「でしょうね、でもあんたから名前を聞きたいのよ」長い間があいて、ポルガラの意志のうねりがいっそう強まった。
セ・ネドラがふたたび絶叫した――ガリオンをすくみあがらせるような苦悶に満ちた悲鳴だった。「やめておくれ!」しわがれ声が叫んだ。「しゃべる!」
「名前を言うのよ」ポルガラは容赦なく言いつのった。
「わたしはザンドラマスだ」
「思ったとおりね。何が狙いでこんなことをするの?」
セ・ネドラの血の気の失せたくちびるから、いやらしいくすくす笑いが洩れた。「この女の心の拠り所はもう盗んだよ、ポルガラ――あの子供をね。今度は意識も盗んでやろうというのさ。わたしがその気になれば、この女を殺すぐらいわけはない。だが死ねば女王は埋葬され、墓があとに残るだけだ。しかし、気が狂えば、おまえはサルディオンを捜すどころではなくなる、狂人は手がかかるからね」
「わたしが指を鳴らせば、あんたを追っぱらえるのよ、ザンドラマス」
「そのぐらいのこと、こっちだって同じくらい早くやってのけられるのよ」
ポルガラの口元にひややかな微笑が浮かんだ。「思ったほど利口じゃないのね。興味半分であんたの名前を聞き出したとでも思ったの? 自分の名前をしゃべった瞬間に、わたしにどんな力を与えたか知らなかった? 名前の威力はすべての根幹なのよ。これであんたをセ・ネドラの意識から永久追放できるわ。でも、それだけじゃない。たとえば、あんたがアシャバにいて、コウモリだらけの〈トラクの家〉の廃墟をあわれなぼろをまとった亡霊みたいにほっつき歩いているのも、もうわかってしまったのよ」
はっと息をのむ音が室内にこだました。
「まだあるけどね、ザンドラマス、もうこのへんでやめておくわ、うんざりしてきたから」ポルガラは両手をセ・ネドラのこめかみに当てたまま、背中を伸ばした。生え際の白い一房がまばゆい光輝を放ち、かすかなささやきが耳をつんざくとどろきになった。「さあ、行っておしまい!」ポルガラは命じた。
セ・ネドラがうめき声をあげた。いきなりその顔が苦悶にゆがんだ。氷のように冷たい、いやな臭いの風が室内でごうごう音をたて、蝋燭や白熱した火鉢の炎がにわかに弱まって、部屋が暗くなった。
「行っておしまい!」ポルガラは繰り返した。
セ・ネドラの口から苦しげな泣き声が洩れ、やがてその泣き声が肉体から分離して、ベッドの上のからっぽの空中から聞こえてきた。蝋燭が消え、火鉢の火が全部消えてしまった。泣き声が薄れだして、みるみる遠ざかっていき、ついには想像もつかないほど遠くからひびいてくるただのつぶやきになった。
「行ってしまったのか?」ガリオンはふるえ声でたずねた。
「ええ」ポルガラが急に部屋を閉ざした闇のなかから冷静に答えた。
「セ・ネドラにどう言ったらいいんだろう? 目がさめたらという意味だが?」
「彼女は何もおぼえていないわ。適当にごまかしておくことね。あかりをつけてちょうだい、ディア」
ガリオンは蝋燭の一本を手探りでつかもうとした。袖がかすったはずみに蝋燭が床に落ちそうになったが、かれはすかさず蝋燭を受け止め、まんざらでもない気分になった。
「遊んでないで、ガリオン。火をつければいいのよ」
それが耳にタコができるほど聞かされた馴染み深い口調だったので、ガリオンは思わず笑いだしてしまった。すると蝋燭に向けていたかれの意志の小さなうねりが、ちょっとしたいたずらをした。芯の先にともった金色の炎が上下にふるえながら無言のくすくす笑いをはじめたのだ。
ポルガラはうれしそうに笑っている蝋燭をじっと見てから目をつぶって、あきらめたようにためいきをついた。「ああ、ガリオンたら」
ガリオンは室内を動き回ってほかの蝋燭にふたたび火をともし、火鉢に息を吹きかけて消えていた火を起こした。どの炎もまじめそのものだった――最初のだけは例外で、陽気に踊ったり笑ったりしつづけていたが。
ポルガラが頭巾をかぶったダラシア人の治癒者のほうを向いて、言った。「すばらしい知覚力ね、アンデル。自分の捜しているものを正確に知っていないかぎり、ああいうことはなかなか見きわめられないものよ」
「あの知覚力はわたしのものではなかったんです、レディ・ポルガラ」アンデルは答えた。「女王陛下のご病気の原因をわたしに教えたのはもうひとりのダラシア人ですわ」
「シラディス?」
アンデルはうなずいた。「わたしたちダラシア人の意識はすべてシラディスの意識につながっているんです。それというのも、わたしたちは彼女に課せられている務めを果たすための道具だからです。女王さまの回復を願うシラディスの関心が、彼女の介入をうながしたのです」頭巾の女はそこまでしゃべってからためらった。「聖なる女予言者は、トスのことについてあなたがご主人をとりなしてくださることを願ってもいましたわ。善人の怒りのために、あの心やさしい巨人は大変苦しんでいます。トスの苦しみはシラディスの苦しみでもあるのです。ヴァーカトで起きたことはどうしても必要だったのです――さもなければ、〈光の子〉と〈闇の子〉の対決は今後ずっと実現しえなくなったでしょう」
ポルガラは重々しくうなずいた。「そんなことだろうと思っていたのよ。トスのためにわたしがダーニクに話をするとシラディスに伝えてちょうだい」
アンデルは感謝をこめて小首をかしげた。
「ガリオン」セ・ネドラがものうげにつぶやいた。「ここはどこ?」
ガリオンはいそいでセ・ネドラに向きなおった。「だいじょうぶか?」彼女の手をとってたずねた。
「うーん。すごく眠いだけよ。なにがあったの――ここはどこなの?」
「ラク・ハッガだ」すばやくポルガラを見てからまたベッドに視線を戻した。「ちょっとのあいだ気を失っていただけだ」ガリオンはことさらなにげない口調で言った。「気分はどう?」
「いいわ、ディア、でもいまは眠りたいの」まぶたがさがったかと思うと、セ・ネドラはふたたびちょっといぶかしそうにもうろうと目をあけた。「ガリオン、あの蝋燭、どうしてあんなふうなのかしら?」
かれは妻の頬に軽くくちづけた。「心配いらないよ、ディア」だがそう言ったときには、セ・ネドラはもう眠りに落ちていた。
眠っている部屋のドアを軽くたたく音でガリオンが目をさましたのは、真夜中すぎだった。
「だれだ?」ベッドに起き上がりながら、問いただした。
「皇帝の使いの者です、陛下」ドアの向こう側で声が答えた。「皇帝専用の書斎においで願えないかとのことですが」
「いますぐにか? 真夜中だぞ」
「そう申しつかったものですから、陛下」
「わかった」ガリオンは毛布をはねのけて、ひんやりした床に足をふりおろした。
「支度をするからちょっと待ってくれ」
「もちろんです、陛下」
ぶつぶつこぼしながら、ガリオンは隅に置かれた火鉢のかすかな火あかりを頼りに、服を身につけはじめた。服を着終わると、冷たい水で顔をぬらし、砂色の髪に手ぐしをいれて、はねた髪を多少なりとも整えようとした。それからとっさの思いつきで鉄拳の剣の鞘についている革紐を頭にくぐらせ、腕を通して、剣を背中にしょった。準備ができると、ガリオンはドアをあけて、使いの者に言った。「よし、行こう」
カル・ザカーズの書斎にはずらりと書物が並んでいた。詰め物をした革張りの椅子が数脚と、大きな磨き込まれたテーブルがあり、暖炉にはぱちぱちと火が燃えていた。皇帝はあいかわらず簡素な白い麻布に身を包んで、テーブルに向かい、ひとつしかないオイル・ランプのあかりで羊皮紙の束をめくっていた。
「ぼくに用か、ザカーズ?」ガリオンは書斎に入ってたずねた。
「ああ、そうだ、ベルガリオン」ザカーズは羊皮紙をわきへ押しやった。「よくきてくれた。奥方は回復に向かわれたそうだな」
ガリオンはうなずいた。「アンデルをよこしてくれたことに重ねて礼を言うよ。彼女のおかげでおおいに助かった」
「どういたしまして、ベルガリオン」ザカーズは手を伸ばすと、部屋の四隅が闇に沈むまでランプの芯を短くした。「ちょっと話をしようかと思ってね」
「時間が遅すぎやしないか?」
「わたしはあまり眠らないのだ、ベルガリオン。眠ると、人間の人生は三分の一が無駄になる。昼間はあかるい光と雑事でいっぱいだ。それにひきかえ、夜は薄暗く、静かで、昼よりよほど物事を集中して考えることができる。どうか、すわってくれたまえ」
ガリオンは剣の留め金をゆるめて、鞘ごと本棚にたてかけた。
「わたしはそれほど危険な男ではないぞ」皇帝は巨大な剣を皮肉っぽく見ながら言った。
ガリオンは心もち微笑を浮かべて、暖炉のそばの椅子に腰をおろした。「あんたがいるから持ってきたわけではない、ザカーズ。剣を持ち歩くのは単なる習慣だ。置きっぱなしにしたくないんでね」
「盗もうとする輩がいるとは思えんがな、ベルガリオン」
「盗むのは不可能だ。ただ、だれかが手をふれて偶然怪我をしたりすると困るだけさ」
「すると、それがあの剣なのか?」
ガリオンはうなずいた。「たえず気を配らざるをえないんだ。たいがいのときは厄介な荷物でしかないが、それがあってよかったと思うときが何度かあった」
「クトル・ミシュラクでは本当のところどんなことが起きたんだ?」ザカーズはだしぬけにたずねた。「話だけはそれこそいろいろと聞いたがね」
ガリオンはそっけなくうなずいた。「こっちもさ。大部分の噂話は正確だが、そうではないのもたくさんある。トラクもぼくもなりゆきにまかせるしかなかった。われわれは戦い、ぼくがあの剣をトラクの胸に突き刺した」
「そしてトラクは死んだ」ザカーズの顔は真剣だった。
「最後にはね」
「最後には?」
「トラクは火を吐き、炎の涙を流した。それから絶叫した」
「何と叫んだ?」
「母上、と」ガリオンは短く答えた。そのことを話すのは気が進まなかった。
「トラクにしてはなんとも突飛じゃないか。トラクの肉体はどうなったんだね? 遺体をさがしてわたしはクトル・ミシュラクの廃墟をくまなく調べさせたのだ」
「ほかの神々がやってきて運びさった。ほかの話をしないか? あのことを思いだすのは気が重いんだ」
「トラクは貴公の敵だったのだろう」
ガリオンはためいきをついた。「トラクは神でもあったんだ、ザカーズ――神を殺すのは恐れ多いことだよ」
「貴公は妙に心根のやさしい男だな、ベルガリオン。わたしは無敵の勇気より、むしろ貴公のそのやさしさに敬服する」
「ぼくなら無敵とは言わない。ずっとびくついていたんだ――トラクもそうだったと思う。本当は話したいことがなにかあったんだろう?」
ザカーズは椅子に背をもたせて、ひき結んだくちびるを考えこむように指でたたいた。「貴公とわたしが結局は敵対しなければならないことは知っているな?」
「いや」ガリオンは反対した。「絶対に確かだというわけじゃない」
「世界に君臨する王はひとりしかいないはずだ」
ガリオンはにがにがしげな顔になった。「こっちは四苦八苦して小さな島国を治めようとしているんだ。世界の王になりたいなどと思ったこともない」
「だがわたしはずっとそう思ってきた――いまも思っている」
ガリオンは吐息を洩らした。「だとすると、そのことでは遅かれ早かれ戦うことになるだろう。世界がひとりの人間による支配を望んでいるとは思えない。そっちが世界を支配する王になろうというなら、とめるしかない」
「わたしはひきさがらないそ、ベルガリオン」
「トラクもそうだった――少なくともそう考えていた」
「ずいぶん失敬な言い方だ」
「言ったほうがあとでいろいろ誤解せずにすむ。ぼくの王国への侵略――あるいはぼくの友人たちへの――を狙うよりも、まず自国のごたごたを解決すべきじゃないのか。ここクトル・マーゴスの膠着状態を解決すべきなのは言うまでもない」
「情報通だな」
「ポレン王妃は親しい友人なんだ。たえず情報を流してくれている。シルクも商売のかたわらおびただしい量の情報を仕入れてくる」
「シルク?」
「失礼。ケルダー王子のことだ。シルクはいわばあだ名でね」
ザカーズはじっとガリオンを凝視した。「ある意味でわれわれは非常によく似ているよ、ベルガリオン、その反面大いに異なる点もあるが、必然にかられて行動していることに変わりはない。なすすべもなくさまざまな出来事にたえず翻弄されている」
「ふたつの予言のことを言っているのか?」
ザカーズは短く笑った。「予言など信じていない。信じるのは権力だけだ。しかし、われわれがふたりそろって最近似たような問題に直面してきたのは興味深い。貴公は最近アロリアでの暴動を鎮圧しなければならなかった――たしか宗教的狂信者の一団によるものだったと思うが。ダーシヴァでも同じような性質の問題が多発しているのだ。宗教というやつは、統治者のわき腹を突つくトゲのようなものだよ、そうじゃないか?」
「これまでのところ、そういう問題は努力して解決してきた――たいがいの場合は」
「だとしたら、運がいいのだ。トラクは善い神でも、親切な神でもなかったし、トラクに仕える聖職者であるグロリムたちはひどい連中だ。このクトル・マーゴスが安泰ならば、すべてのグロリムを地球上から抹殺してやるんだがね。そうすれば、この先千年余り人々から愛されるかもしれん」
ガリオンはにやにやした。「それはそういうことを考えている相手に言うことじゃないのか?」
ザカーズは短い笑い声をあげると、ふたたび真顔になった。「ザンドラマスという名前は、貴公にとってなにか意味があるか?」
ガリオンは慎重に対応した。かれらがクトル・マーゴスにいる本当の理由について、ザカーズがどこまで知っているのかわからないからだ。「噂はいくつか耳にしている」
「クトラグ・サルディウスについてはどうだ?」
「聞いたことはある」
「ごまかしているな、ベルガリオン」ザカーズはガリオンを見すえていたが、やがて疲れたように片手で目をこすった。
「少し眠ったほうがいいんじゃないのか」ガリオンは言った。
「眠る時間ならもうすぐできる――仕事が片づけば」
「まあ、あんたしだいだろうがね」
「マロリーについてどのくらい知っている、ベルガリオン?」
「報告は受けている――ときどきちょっとしたいさかいが生じているが、どれも一過性のものだ」
「いや。わたしが言うのは過去のことだ」
「あまりよく知らないな。西方の歴史家たちはマロリーが存在する事実すら、つとめて無視しようとしてきたんだ」
ザカーズが皮肉っぽい薄笑いを浮かべた。「メルセネ大学でも西方に関しては同じような狭量な考えを持っている。いずれにせよ、過去数世紀にわたって――ボー・ミンブルの災厄以来――マロリーの社会はほぼ完全に非宗教的なものになっている。トラクは眠りに縛られていたし、クトゥーチクはこのクトル・マーゴスに堕落を広めていた。ゼダーも根なしの流浪者のように世界を放浪していた――ところで、ゼダーはどうなったんだね? クトル・ミシュラクにいたはずだ」
「いた」
「ゼダーの死体は見つからなかったぞ」
「かれは死んでいない」
「死んでない?」ザカーズはあっけにとられたようだった。「では、どこにいる?」
「クトル・ミシュラクの地下さ。ベルガラスが地面を開いて、ゼダーを廃墟の下の硬い岩のなかに封じ込めたんだ」
「生きたままか?」ザカーズは息が詰まったような声を出した。
「そうされても当然のことをしたのさ。そっちの話をつづけてくれ」
ザカーズはふるえていたが、やがて気を取り直した。「かれらを除くと、マロリーに残った宗教的人物はウルヴォンだけだった。ウルヴォンはほとんどわき目もふらずに、マル・ヤスカに自分の城を作ることに専念した。マル・ゼスにある威厳たっぷりの宮殿よりもっと贅沢なやつを建設しようとしたんだ。ウルヴォンはひっきりなしにわけのわからないたわごとだらけの説教をしたものだが、その間ほとんどトラクのことはきれいに忘れていたらしい。竜神とその弟子たちがいなくなってしまうと、グロリム教会の力は消えてしまった――僧侶たちはトラクの復活をめぐってやくたいもないことをしゃべっては、口先だけでまことしやかにいつか眠れる神が目をさますという考えを広めていたが、トラクの思い出は日増しに薄れていった。教会の力が弱まるのとは逆に、軍の力――皇帝の力――がしだいに強まっていった」
「マロリーの政治はまったく陰気な感じがするな」ガリオンは言った。
ザカーズはうなずいた。「陰気なのはわれわれマロリー人の生来の気質なのだ。とにかく、われわれの社会は暗黒時代を脱皮して――ゆっくりとだが、動きはじめていた。ところが、突然どこからともなく貴公があらわれて、トラクを起こした――そしてこれまた突然、トラクを永遠の眠りにつかせた。そのときから、われわれすべての問題がはじまったんだ」
「終わったはずじゃないのか? ぼくはそういうふうに考えていたが」
「宗教の本質をとらえていないようだな、ベルガリオン。トラクがそこにいるかぎり――たとえ眠っていても――グロリムたちや帝国のヒステリックな他の信者たちはきわめておとなしく、落ち着いていたんだ。いつかトラクが目をさまし、自分たちの敵をひとり残らずこらしめて、どす黒い僧職の絶対権力を重ねて主張してくれるものと信じてね。ところが、貴公がトラクを殺してしまった。貴公はあのとき連中のぬくぬくとした安泰感もぶち壊したのさ。トラクがいなくなって、連中は自分たちが虫けら同然の存在であることに直面させられた。一部の僧侶たちは失望が高じて気が狂った。残りは完全な放心状態に陥った。しかし何人かは新しい神話を考察しはじめた――そこにあるあの剣の一撃で貴公が破壊したものに取って代わる何かをね」
「思ってもみなかったことだな」ガリオンは言った。
「肝心なのは結果だよ、ベルガリオン、目的じゃない。とにかく、追従者にちやほやされて贅沢を追い求めていたウルヴォンは、安穏とした生活からむりやり引き離されて、職務に連れ戻された。しばらく、かれは狂ったように行動した。虫の喰った古い予言書を全部もう一度ひっぱりだして、あちこちいじりまわし、とうとう思い通りの内容に仕立てた」
「どういう内容だったんだ?」
「ウルヴォンは人々に新しい神がアンガラクを統治しにあらわれることを確信させようとしているのだ――トラクそのものの復活か、トラクの魂を吹き込まれた新しい神のいずれかをね。かれの胸中にはこのアンガラクの新しい神の候補さえある」
「ほう? だれなんだ、それは?」
ザカーズはおもしろがっている表情になった。「ウルヴォンは鏡をのぞくたびに新しい神の顔を見ているのさ」
「まさか!」
「いや、そうなのだ。ウルヴォンはかれこれ数世紀にわたって、自分こそは神格化された英雄だと確信しようとしてきた。金色の火の戦車でマロリー中をパレードしていただろう――マル・ヤスカを離れることをこわがりさえしなければな。なんでも、長年のあいだかれを殺そうとしている世にも醜い小男がいるらしい――アルダーの弟子のひとりだと思うが」
ガリオンはうなずいた。「ベルディンだ。会ったことがある」
「本当に噂されているような不潔な人物なのか?」
「たぶん噂以上だろうね。ベルディンがウルヴォンをつかまえたら、何をするかそばで見ていたいとは思わないな」
「うまくつかまえてくれるといいが、わたしのかかえる問題はウルヴォンだけではない。トラクの死後まもなく、ある噂がダーシヴァから流れだした。あるグロリムの尼僧――ザンドラマスという名の――も新しい神の出現を予言しはじめたという噂だった」
「ザンドラマスがグロリムだとは知らなかった」ガリオンはいささかおどろいて言った。
ザカーズは重々しくうなずいた。「以前ダーシヴァできわめてかんばしくない評判のあった女なんだが、やがていわゆる予言の恍惚とやらにとりつかれて、にわかに別人のようになった。いまではザンドラマスがしゃべると、だれひとりその言葉にさからえない。あの女に説教された大衆は抑えがたい熱意につき動かされる。新しい神の出現をとなえるザンドラマスの言葉は野火よろしくダーシヴァ全土をかけめぐり、レンゲル、ヴォレセボ、ザマドにも広がった。文字どおりマロリーの北東部沿岸全域がザンドラマスに支配されてしまっている」
「サルディオンはこれとどんな関係があるんだ?」
「どうやらそれがいっさいの鍵らしい」ザカーズは答えた。「しかしザンドラマスとウルヴォンはサルディオンを発見して所有するのがだれであれ、その人物が最後には勝利をおさめると信じているらしい」
「アガチャク――ラク・ウルガの高僧だ――も同じことを信じている」ガリオンは言った。
ザカーズは陰気にうなずいた。「それくらいのことは気づいているべきだったな。グロリムはグロリムだ――マロリー出身だろうとクトル・マーゴス出身だろうと変わりはない」
「マロリーへ戻って、事態の混乱をおさめたほうがいいんじゃないのか」
「いや、ベルガリオン、クトル・マーゴスでの軍事作戦を放棄するつもりはない」
「私的な復讐にそれだけの値打ちがあるかな?」
ザカーズはおどろいた顔をした。
「あんたがなぜタウル・ウルガスを憎んでいたのか知っているんだ。だが、タウル・ウルガスは死んだんだし、ウルギットはまるで父親には似ていない。死人に復讐するだけのために、帝国全体を犠牲にするつもりだとは、ぼくにはにわかに信じられないね」
「知っているのか?」ザカーズの顔はこわばって見えた。「だれに聞いた?」
「ウルギットだ。一部始終話してくれたよ」
「誇らしげに、だろう」ザカーズは青ざめた顔で、歯をくいしばるように言った。
「いや、ちっとも。残念そうにだ――そしてタウル・ウルガスへの軽蔑をこめてだ。ウルギットはあんたに負けないぐらいタウル・ウルガスを憎んでいたんだ」
「そんなはずはない、ベルガリオン。貴公の質問にたいする返事は、イエスだ、わたしは喜んでわが帝国を犠牲にする――必要なら全世界を犠牲にしてもいい――タウル・ウルガスの血を最後の一滴までしぼりあげるためならばな。眠ることも、休むことも、復讐以外のことに注意を向けるつもりもないし、邪魔をするやつはだれだろうとぶったぎる」
(教えてやれ)ガリオンの心のなかのかわいた声がいきなり言った。
(え?)
(ウルギットについての真実を教えてやれ)
(でも――)
(やるのだ、ガリオン。ザカーズは知る必要がある。かれにはやらねばならんことがある。ウルギットを殺すというこの強迫観念を取り払ってやらないと、それができないのだ)
ザカーズが好奇の目で見ていた。
「失礼、ちょっと指示を受けていたんだ」ガリオンはあやふやに説明した。
「指示? だれから?」
「言っても信じないさ。ある情報を与えるよう言われたんだ」ガリオンは大きく息を吸い込むと、感情をまじえずに言った。「ウルギットはマーゴ人じゃない」
「何を言ってるんだ?」
「ウルギットはマーゴ人じゃないと言ったんだ――少なくとも純粋なマーゴ人じゃない。母親はもちろんマーゴ人だが、父親はタウル・ウルガスじゃないんだ」
「でたらめだ!」
「いや、本当さ。ラク・ウルガのドロジム宮殿にいたとき、わかったんだ。ウルギットも知らなかった」
「そんな話、信じるものか、ベルガリオン!」ザカーズの顔は土気色で、いまにも叫び出しそうだった。
「タウル・ウルガスは死んでいるんだ」ガリオンはあきあきしたように言った。「ウルギットは念のために、かれの喉をかき切り、頭を下にして墓に埋めている。ウルギットはまた、兄弟――つまりタウル・ウルガスの本当の息子たち――はひとり残らず殺したと主張している。かれ自身の王位を守るためだ。この世にウルガ一族の血は一滴も残っていないはずだよ」
ザカーズの目が細まった。「わなだな。貴公はウルギットと手を結び、あいつの命を救うためにこんなばかげた嘘をついたのだ」
(珠を使え、ガリオン)声が指示した。
(どうやって?)
(剣の柄からはずして、右手に持つのだ。それがザカーズに真実を見せるだろう)
ガリオンは立ち上がった。「真実を見せることができたら、見るか?」興奮しているマロリー皇帝にたずねた。
「見る? なにを見るんだ?」
ガリオンは剣に歩み寄ると、柄をおおっている柔らかな革の鞘をはずした。〈珠〉に片手をかけると、かちゃりという音とともに〈珠〉が柄からはずれた。ガリオンはテーブルについている男に向きなおった。「これがどう働くのかよくわからないんだ。アルダー神にはそれができるらしいが、ぼく自身は一度もやったことがない。これをのぞきこんでみてくれ」ガリオンは右腕を伸ばして、〈珠〉をザカーズの顔の前に差しだした。
「これは何だ?」
「クトラグ・ヤスカと呼ばれているものだ」
ザカーズは顔面蒼白になって、すくみあがった。
「だいじょうぶだ――さわらないかぎり命に別条はない」
この数ヵ月間、おとなしくしているようにとのガリオンの指示にしたがってふてくされていた〈珠〉は、ゆっくりと脈動しはじめ、かれの手のなかで輝きはじめた。ザカーズの顔が青い光輝に染まった。皇帝は光る石をおしのけようとするように、片手をあげた。
「さわるな」ガリオンは警告した。「ただ見るんだ」
だがザカーズの目はすでに、しだいに青い光を強めていく石に釘づけになっていた。前にあるテーブルのふちを関節が白くなるほどきつく両手で握りしめている。長いあいだ、ザカーズはその青い光輝に目をこらしていた。やがて、ゆっくりとテーブルのふちをつかんでいた手から力が抜け、椅子の腕の上にだらりと落ちた。苦悩の表情がその顔をよぎった。「知らなかった」閉じたまぶたの下から涙がこぼれ、しぼりだすように言った。「わたしは無益な大量殺人を犯してしまったのか」ゆがんだ顔を涙がぬらした。
「残念だ、ザカーズ」ガリオンはそっと言って、手をおろした。「すでに起きてしまったことは変えられない。だがあんたは真実を知らなくてはならなかったんだ」
「この真実を教えてくれた礼は言えない」ザカーズははげしい鳴咽に肩をふるわせた。「ひとりにしといてくれ、ベルガリオン。そのいまいましい石をわたしの目の届かないところへ持って行ってくれ」
ガリオンは深い同情と悲しみを感じながらうなずいた。そして〈珠〉を剣の柄に戻し、柄をふたたび覆い隠してから、巨大な剣を持ち上げた。「本当に残念だよ、ザカーズ」もう一度言ってから、ガリオンは煩悶する国境なきマロリーの皇帝をひとりにして、そっと部屋を出た。
[#改ページ]
「本当よ、ガリオン、すっかりよくなったわ」セ・ネドラがまた反論した。
「そう聞いてうれしいよ」
「じゃ、ベッドから出てもいい?」
「だめだ」
「そんなのずるいわ」セ・ネドラはぷっとふくれた。
「もうちょっとお茶をどう?」ガリオンは暖炉に近づいて、火かき棒をつかみ、鉄鉤からさがっているやかんをはずした。
「ううん、いらない」セ・ネドラはすねたように小さな声で答えた。「くさいし、まずいんですもの」
「ポルおばさんがきみにはとてもいい薬だと言ってるよ。もう少し飲めば、ベッドを出てしばらく椅子にすわってもいいとお許しが出るかもしれないぞ」ガリオンは土焼きの壺から乾燥した香りの強い葉っぱを数枚スプーンでカップに入れ、やかんを火かき棒で慎重に傾けて熱湯をカップに注いだ。
セ・ネドラの目が一瞬あかるくなったが、すぐまた疑ぐり深そうに細まった。「まあ、ずいぶんうまいことを言うのね、ガリオン」せいぜい皮肉をきかせて言った。「恩着せがましくしないでよ」
「だれがするものか」ガリオンはそっけなく言って、カップをベッドわきの台にのせた。「しばらく葉を浸しておいたほうがいいかもしれないな」
「なんなら一年中浸っていればいいんだわ。わたしは飲みませんからね」
ガリオンはあきらめたようにためいきをつき、心底残念そうに言った。「あいにくだが、セ・ネドラ、きみはまちがってる。ポルおばさんの話だと、きみはおばさんがもういいと言うまで、一時間ごとにこれを飲むことになってるんだ。それがこれからきみがすることさ」
「いやだと言ったら?」セ・ネドラは挑むように言った。
「ぼくのほうがきみより大きいんだぜ」ガリオンは思い出させた。
彼女の目がショックで大きくなった。「まさかむりやり飲ませようっていうんじゃないでしょうね?」
ガリオンはいたましげな顔になった。「そういうことをするのは本当はいやなんだよ」
「でも、するのね、そうなのね?」セ・ネドラはとがめた。
ガリオンは少し考えてからうなずいた。「たぶんね。ポルおばさんがそうしろと言えば」
セ・ネドラはガリオンをにらみつけた。「いいわ」とうとう彼女は観念した。「そのくさいお茶をちょうだい」
「それほどひどい臭いじゃないよ、セ・ネドラ」
「じゃ、あなたが飲めば?」
「病気なのはぼくじゃない」
つづいてセ・ネドラはガリオンに向かって――長々と――まくしたてた。そのお茶をどう思っているかについて、ガリオンやこのベッドやこの部屋や、全世界一般をどう思っているかについて。使った言葉のほとんどはきわめて色彩豊かで――けばけばしくさえあり――なかにはかれの認識を越えた言葉もあった。
「この叫び声はいったい何なの?」ポルガラが部屋にはいってきてたずねた。
「わたし、これにがまんできないのよ!」セ・ネドラは声をはりあげてきっぱり言った。カップをふりまわしたので、中身の大半がこぼれてしまった。
「そんなにいやなら、わたしなら飲まないでしょうね」ポルおばさんは平然と言った。
「でもガリオンが、飲まなければ力ずくで喉に流し込むって言うんですもの」
「まあ。それはきのうのことよ」ポルガラはガリオンを見た。「きょうはそんなことはしなくていいと言わなかった?」
「いや」ガリオンは答えた。「言わなかったよ、じっさい」びくともせずに言いきったガリオンは、自分の口調が平然としていたのを誇らしく思った。
「ごめんなさい、ディア。きっと言い忘れたんだわ」
「いつベッドから出られますの?」セ・ネドラが詰め寄った。
ポルガラはびっくりして彼女を見た。「いつでも好きなときによ、ディア。じつを言うと、一緒に朝食を食べるつもりなのかどうか聞きにきたの」
セ・ネドラはベッドに起き上がった。その目は小さな石のように硬かった。ゆっくりと視線をめぐらして、氷のようにひややかにガリオンをにらんだかと思うと、いかにもわざとらしく舌を突き出してみせた。
ガリオンはポルガラのほうを向いた。「恩にきるよ、本当に」
「いんちきはだめよ、ディア」ポルガラはつぶやいて、いきまいている小柄な女王を見た。「セ・ネドラ、子供のころ舌を出すのはとてもお行儀の悪いことだと教わらなかったの?」
セ・ネドラはにっこり笑った。「まあ、ええ、レディ・ポルガラ、じつを言うと教わりましたわ。だから特別なときにしかしないんですの」
「散歩でもしてこようかな」ガリオンはだれにともなく言うと、ドアに近寄り、ドアをあけて外に出た。
数日後、ガリオンはみんなと一緒に寝起きしている元婦人用住居の居間のひとつで、ぶらぶらしていた。そこは妙に女っぽい部屋だった。家具はモーヴ色でやわらかな詰め物がしてあるし、広い窓には淡いラヴェンダー色の紗のカーテンがかかっている。窓の外には、雪におおわれた庭が、このぶっきらぼうなマーゴの邸宅の高い翼にすっぽり抱かれた格好で広がっていた。半円形の大きな暖炉では陽気な火が踊り、部屋の向こうの隅には緑色のシダやコケがこんもりとおい茂る巧妙な作りの洞窟があって、これみよがしにちろちろと水をしたたらせている。腰をおろして、考えにふけりながら太陽のない昼の空――雪でもひょうでもない、その中間の白くて丸い玉を降らせてくる灰色の空――を見ていたガリオンは、ふとリヴァを恋しく思っている自分に気づいた。世界の反対側にいてそんな気持ちになるとはふしぎだった。いままではつねに、ホームシック≠ニいう言葉はファルドー農園と結びついていた――台所、広々とした中央の中庭、ダーニクの鍛冶仕事、そしてその他すべての愛しく、何ものにも変えがたい思い出の数々。ところが急に、あの嵐に翻弄される海岸や、荒涼たる都市を眼下に見おろすあの陰気で安全な城塞や、嵐をはらむ黒い空を背景に真っ白く浮かび上がる雪をかぶった山々が懐かしくなった。
ドアにかすかなノックがあった。
「なんだ?」ガリオンは空を見たまま、うわの空で言った。
ドアが遠慮がちに開いた。「陛下?」どことなく聞きおぼえのある声が言った。
ガリオンは振り向いて、肩ごしにドアのほうを見た。男はぽっちゃりしていて、頭がはげあがり、飾り気のないもちのよい茶色の服を着ていたが、それが値のはる服であることは一目で知れた。首にさげた重い金鎖が、男が下っ端役人ではないことを声高に主張している。ガリオンはちょっと眉を寄せた。「前に会わなかったか? たしかアテスカ将軍の友人の――ええと――」
「ブラドーです、陛下」茶色の服の男は言葉をついだ。「国務長官の」
「ああ、そうだった。思いだした。さあ、どうぞ、閣下」
「ありがとうございます、陛下」ブラドーは部屋にはいってくると、暖炉に近づいて両手をかざした。「いやな天気です」ブラドーは身ぶるいした。
「リヴァの冬を経験してみるといい」ガリオンは言った。「もっとも、リヴァはいまは夏だが」
ブラドーは窓の外の雪におおわれた庭をながめた。「妙なところですな、クトル・マーゴスは。マーゴの世界は例外なく醜悪なのだと思いこもうとすると、こんな部屋に出くわしたりするんですから」
「醜悪なのはクトゥーチクを満足させるためだったんだろうな――そしてタウル・ウルガスを」ガリオンは答えた。「一皮むけば、マーゴ人はわれわれとたいして変わりはないんだ」
ブラドーは笑った。「そういう考えは、マル・ゼスでは異端視されますよ」
「ヴァル・アローンの人々も大方似たり寄ったりの感じかたをしているよ」ガリオンは官僚を見た。「これはただの社交的訪問ではないだろう、ブラドー。何の用だ?」
「陛下」ブラドーは真剣な口調で言った。「どうしても皇帝にお話ししなければならないことがあるんです。アテスカがラク・ヴァーカトへ引き返す前に謁見できるよう努力してくれたのですが――」ブラドーは困ったように両手を広げた。「皇帝にお口ぞえ願えませんか? ことはきわめて急を要しているのです」
「してあげられることはあまりなさそうだ、ブラドー。目下ぼくは皇帝が一番話したくない相手なんだよ」
「はあ?」
「かれが聞きたくないことをしゃべったのさ」
ブラドーががっくりと肩を落とした。「陛下が最後の頼みの綱でしたのに」
「どういう問題なんだ?」
ブラドーはためらって、ほかにだれもいないのを確かめるようにあたりをうかがった。「ベルガリオン」かれはひどく小さな声で言った。「悪魔を見たことがおありですか?」
「二度ある。繰り返したくなるような経験じゃないな」
「カランド人についてはどのくらいご存じですか?」
「そんなには知らない。ガール・オグ・ナドラク北部のモリンディム人と血がつながっているそうだ」
「するとたいがいの人々よりは知識がおありですね。モリンディム人の宗教的しきたりについてもよく知っていらっしゃるのですか?」
ガリオンはうなずいた。「モリンディム人は悪魔の崇拝者だ。いささか物騒な宗教形態だな」
ブラドーの顔はけわしかった。「カランド人は西方の北極平原に住むその遠い親類の信念としきたりを分かちあっているのです。かれらがトラク崇拝に改宗したあと、グロリムたちがそのしきたりを根絶しようとしたのですが、山や森に暮らすカランド人のあいだではいまもしきたりが残っています」ブラドーはそこまで言うと、また不安そうにあたりを見回した。「ベルガリオン」ほとんどささやくように言った。「メンガという名に心あたりはおありですか?」
「いや、知らない。メンガとは何者だ?」
「わたしどもにはわかりません――少なくとも確実なことはわからないのです。この男は半年ばかり前に森から出てきて、カランダ湖の北へ向かったらしいのです」
「それで?」
「ジェンノにあるカリダの城門へ歩いていき――ひとりで――都市の降伏を求めました。むろん、カリダの住民はメンガをあざ笑いましたが、そのとき、メンガは地面にあるシンボルを描いたのです。それからは住民はもう笑いませんでした」メルセネ人の官僚の顔は青ざめていた。「ベルガリオン、メンガは人間がいまだかつて見たことがないような恐怖をカリダに解き放ったのです。かれが地面に描いたそれらのシンボルが悪魔の群れを呼び出したのですよ――ひとりや十人ではなく、悪魔の大部隊を。わたしはその攻撃でからくも助かった者たちと話をしました。かれらは狂気の一歩手前にいましたよ――いっそ狂ってしまったほうが楽でしょう――そして、カリダで起きたのは言葉では言いあらわせないようなことだったのです」
「悪魔の部隊だって?」ガリオンは叫んだ。
ブラドーはうなずいた。「メンガがきわめておそるべき存在であるのはそのためなのです。ご存じでしょうが、ふつうだれかが悪魔を呼び出すと、遅かれ早かれ悪魔は自分を呼び出した本人に逆らって殺してしまうものです。ところが、メンガはかれが呼び出した悪魔をひとり残らず牛耳っているらしく、何百と呼び出すことができるのです。ウルヴォンは恐れをなして、マル・ヤスカをメンガから守ろうと、妖術の実験さえはじめました。われわれはザンドラマスがどこにいるのか知りませんが、ザンドラマスを主格とする裏切り者のグロリムの軍勢もまた、死に物狂いで悪魔たちを呼び出そうとしています。おお、ベルガリオン、わたしに力をお貸しください! このままではこの堕落した行為がマロリー中に広がって、やがて世界を席巻してしまいます。われわれはみな途方もない悪魔たちにひとのみにされ、いかに離れていようと、哀れな人類の生き残りにとっての安息所はどこにもなくなってしまうのです。どうかわたしにお力を貸してください。カル・ザカーズを説得して、ここクトル・マーゴスでのけちな戦いがマロリーに出現した恐怖の前では何の意味もないことを皇帝に納得していただかなくてはならないのです」
ガリオンはブラドーをじっと見つめていたが、やがて立ち上がって静かに言った。「ぼくと一緒にきたほうがいい、ブラドー。ベルガラスに話す必要がありそうだ」
老魔術師は邸宅の本の並んだ書庫で、緑の革とじの古い書物を熱心に読んでいるところだった。ブラドーがガリオンに話したことを繰り返すと、老人は本を置いて耳を傾けた。「ウルヴォンとザンドラマスもこの気ちがいざたにかかわっているのか?」メルセネ人がしゃべり終えると、かれはたずねた。
ブラドーはうなずいた。「われわれの最高の情報源によれば、そうです、長老どの」
ベルガラスはテーブルにこぶしをたたきつけて、悪態をつきはじめた。「連中はなにを考えているんだ?」わめきながら、行ったりきたりした。「ウルご自身がこういうことを禁じたのを知らないのか?」
「ふたりともメンガがこわいのです」ブラドーが困ったように言った。「メンガの悪魔の群れから身を守る手段を講じなくてはならないと思っているのです」
「呼び出す悪魔の数をふやしたところで、悪魔から身を守ることにはならん」老人はいきまいた。「そのうちのひとりでも束縛を破れば、すべての悪魔が野放しになるのだぞ。ウルヴォンかザンドラマスなら悪魔をうまく扱えるかもしれんが、どうせ下っ端がへまをしでかすにきまっとるんだ。ザカーズに会いに行こう」
「いまかれに会うのはむりじゃないかな、おじいさん」ガリオンがうたがわしげに言った。「ザカーズはウルギットについてぼくの言ったことでへそを曲げているんだよ」
「それはまずい。しかしこれはザカーズの機嫌が直るまで待てるような問題ではないのだ。行こう」
三人は足早に邸宅の廊下を抜けて、ラク・ヴァーカトから到着したときアテスカ将軍と一緒に入った大きな控えの間へ向かった。
「絶対に不可能です」ベルガラスが即刻皇帝に会いたいと要求したとき、中央ドアのわきの机にむかっていた大佐はそう宣言した。
「もっと年をとれば、不可能≠ニいう言葉がいかに無意味であるかわかるだろう、大佐」老人は不吉に言うと、片手をあげてなんとなく芝居がかった仕草をした。ガリオンはベルガラスの意志のうねりを耳と肌で感じ取った。
向かい側の壁の床から十五フィートほどの高さに、無数の戦旗をはためかせた頑丈な柱がにょっきりとびだしていた。任務に忠実な大佐が椅子から忽然と消え、その柱の一本に危なっかしくまたがった格好でふたたびあらわれた。目を飛びださんばかりに見開いて、つるつるすべる柱に死に物狂いでしがみついている。
「次はどこへ行きたい、大佐?」ベルガラスはたずねた。「たしか、外の正面にえらく高い旗竿があったな。なんなら、あれのてっぺんにすわらせてやってもいいぞ」
大佐は恐怖のまなこでベルガラスを見つめた。
「さあ、そこからおろしてやったらすぐにわしらに会うよう皇帝を説得するのだ。今後きみは非常に説得力に富む人物になるぞ、大佐――むろん、永久に旗竿の飾りになりたくなければの話だが」
謁見の間に通じる護衛つきのドアから現われたとき、大佐の顔はまだ蒼白だった。かれはベルガラスが手を動かすたびに、あわれなほどたじろいだ。「陛下がお目にかかります」大佐はどもりながら言った。
ベルガラスは満足気だった。「きっとそうだろうと思っとったんだ」
カル・ザカーズは最後にガリオンが会ったときから、著しい変化をとげていた。白い麻布のローブはしわくちゃでしみがつき、目の下には黒いくまができていた。顔は死人のように青く、髪は乱れ、無精ひげがめだった。発作を思わせるけいれんが体を走り、立っているのもやっとに見える。「なんの用だ?」皇帝はかろうじて聞き取れるほどの声で問いつめた。
「病気なのか?」ベルガラスがたずねた。
「ちょっと熱があるだけだろう」ザカーズは肩をすくめた。「御大みずからおでましになるとは、どんな一大事だ?」
「あんたの帝国が崩壊の危機に頻しておるのだ、ザカーズ」ベルガラスは何の感情もまじえずに言った。「そろそろ国へ帰って、垣根の破れ目をなおしたほうがいい」
ザカーズはうっすらと笑った。「あんたにとってはまことに好都合な話じゃないか?」
「マロリーで進行していることは、だれにとっても好都合なことなどではない。話してやれ、ブラドー」
メルセネ人の官僚は神経質に報告をおこなった。
「悪魔だと?」ザカーズは怪しむように言い返した。「よしてくれ、ベルガラス。まさかわたしにそれを信じろというんじゃあるまいな? 実体のない物を追いかけるために、本気でわたしがマロリーへ飛んで帰ると思うのか? そのすきにこの西方で軍を徴集し、わたしと対決させる寸法だろう」部屋へはいったときにガリオンが気づいた発作的なふるえは、ますますひどくなってきたようだった。頭ががくがくと揺れ、口のはたからつばが糸をひいてたれているのにも気づいていない。
「わしらを置いて行くことはない、ザカーズ」ベルガラスが答えた。「わしらも同行する。ブラドーの言うことの十分の一でも真実なら、わしはカランダへ行って、このメンガとやらを食い止めねばならん。メンガが悪魔を呼び出しているのなら、わしらは一丸となってほかのすべてをうっちゃってでもメンガを食い止めねばならんだろう」
「ばかばかしい!」ザカーズはうわずった声で断言した。その目はいまや焦点が合わなくなり、手足をあやつることもできないほど震えがひどくなってきた。「こざかしい老人にだまされるようなわたしでは――」ザカーズは突然獣じみた叫びをあげて椅子からとぴあがり、両のこめかみのあたりを押さえた。次の瞬間、かれは前のめりに床にころげ落ち、体をぴくぴくとけいれんさせた。
ベルガラスはいそいでかけ寄ると、けいれんしている男の両腕をつかんだ。「早く!」怒鳴った。「歯と歯のあいだに何か突っ込め、舌を噛みきるぞ!」
ブラドーがそばのテーブルから報告書をひったくって丸め、泡を吹いている皇帝の口に押し込んだ。
「ガリオン!」ベルガラスが吠えた。「ポルを連れてこい――急げ!」
ガリオンはドアに走り寄った。
「待て!」ベルガラスは疑わしげに、押さえつけている男の顔のそばで鼻をひくひくさせた。「サディも連れてくるんだ。妙な匂いがする。早く!」
ガリオンは飛び出した。仰天している役人や召使いのそばをすりぬけて廊下を突っ走り、ポルガラがセ・ネドラやヴェルヴェットと静かに話しあっている部屋へ飛び込んだ。「ポルおばさん! 早くきて! ザカーズがひっくりかえった!」それだけ言うと、すばやく回れ右をしてさらに廊下を進み、サディの部屋のドアを肩でおしあけた。「あんたが必要なんだ」びっくり顔の宦官に叫んだ。「一緒にきてくれ」
ものの数分もたたぬうちに、三人は控えの間の磨きこまれたドアの前に戻った。
「何事です?」アンガラク人の大佐がおびえた声で問いただしながら、立ちふさがった。
「あんたの皇帝が病気なんだ」ガリオンは言った。「どいてくれ」抗議しようとする役人を荒っぽく押し退けて、ドアをいきおいよくあけた。
ザカーズのけいれんはいくぶんおさまっていたが、ベルガラスはまだかれを押さえつけていた。
「どうしたの、おとうさん?」ポルガラが体をひきつらせている皇帝のわきにひざまづいた。
「発作を起こした」
「てんかんかしら?」
「そうではなさそうだ。ようすがちがう。サディ、こっちへきて息をかいでくれ。変なにおいがするんだ」
サディは用心深く近づいてきて、身をかがめ、何度か鼻をひくつかせた。やがて背すじをのばしたが、顔は青ざめていた。「ザロットです」
「毒薬?」ポルガラがきいた。
サディはうなずいた。「たいへんめずらしいものです」
「解毒剤を持ってる?」
「いえ、レディ。ザロットの解毒剤はないんです。ザロットは例外なく致命的なものでしてね。めったに使われることはありません。というのも、効き目のあらわれるのがひどくゆっくりである反面、これまで命を取り留めた者がひとりもいないからなんです」
「すると、ザカーズは死ぬのか?」ガリオンはむかむかしながらたずねた。
「まあ、そういうことになります。けいれんはだんだん弱まってくるのですが、発作の頻度はかえってひどくなるんです。そして最後は……」サディは肩をすくめた。
「望みはまったくないの?」ポルガラがきいた。
「どんなに手を尽くしてもだめです、レディ。わたしたちにできるのは、皇帝の最後の数日を多少なりとも心地よいものにしてあげることだけです」
ベルガラスがののしり声をあげはじめた。「ザカーズを静かにさせてくれ、ポル。ベッドへ運び込まねばならん。こんなにけいれんしていたんでは動かせんよ」
ポルガラはうなずいて、ザカーズの額に片手を置いた。ガリオンがかすかなうねりを感じると、もがいていた皇帝は静かになった。
ブラドーが真っ青な顔で、かれらを見、「このことはまだ内密にしておいたほうがいいと思います」と言った。「どうすればいいか決定できるまでは、軽い病気だということにしておきましょう。担架を持ってこさせます」
意識不明のザカーズが運び込まれた部屋は質素といってもいいほどがらんとしていた。皇帝のベッドは狭い簡易寝台だった。ほかにある家具といえば、簡素な椅子が一脚と、低いタンスだけだ。壁は白く、むきだしで、片隅に火鉢が赤く輝いている。サディはいったん部屋へひきかえしてから、例の赤い箱と、ポルガラが薬草や薬をしまっている粗布の袋を持って戻ってきた。ふたりが低い声で相談しているあいだ、ガリオンとブラドーは担架の運び手や、物見高い兵士たちを部屋から押し出した。やがてポルガラとサディはツンとする臭いの湯気の立つ液体をカップに調合した。サディがザカーズの頭を持ち上げて支え、ポルガラがだらしなく開いた口にスプーンで薬を流し込んだ。
ドアがそっと開いて、緑の服をきたダラシアの治癒者、アンデルが入ってきた。「話を聞いてすぐにかけつけてまいりました」アンデルは言った。「皇帝のご病気は重いのですか?」
ポルガラが重々しくアンデルを見た。「ドアをしめて、アンデル」静かに言った。
治癒者は不審そうな顔をしたが、ドアをしめた。「そんなにひどいのですか、レディ?」
ポルガラはうなずいた。「毒を盛られたのよ。まだ外部に知られたくないの」
アンデルは喘ぎをもらした。「お手伝いできることがありまして?」彼女はあわててベッドに近づいた。
「あまりないんですよ」サディが言った。
「解毒剤はもう?」
「解毒剤はないんです」
「そんなばかな。レディ・ポルガラ――」
ポルガラは悲しそうに首をふった。
「ではわたくしがしくじったんですわ」頭巾の女はいまにも泣きだしそうな声で言った。アンデルは頭を垂れてベッドから向きなおった。ガリオンはアンデルの頭上の空中からかすかなつぶやきが聞こえたような気がした――それはふしぎにも、ひとつの声によるつぶやきではなかった。長い沈黙があった。やがてベッドの足元にちらちらと光るものが現われた。それが鮮明になったとき、目かくしをしたシラディスの姿が片手をわずかに伸ばして、立っていた。「これはあってはならぬこと」シラディスは澄んだ鈴の音を思わせる声で言った。「そなたの術を使うとよい、レディ・ポルガラ。ザカーズを回復させよ。ザカーズが死ねば、われらの務めはすべて失敗するであろう。そなたの威力を発揮するのじゃ」
「むりよ、シラディス」ポルガラはカップをおろしながら答えた。「毒の影響が現われるのが血液だけなら、血を清めるのは可能だわ。サディも箱いっぱいの解毒剤を持っているしね。でも、この毒薬は体のあらゆる部分に染み込むものなのよ。血だけでなく、骨も器官もやられてしまうの。この毒を追い出すすべはないわ」
ベッドの足元の微光を放つ姿が、両手をしぼって煩悶した。「そんなはずはない」シラディスは泣き声を出した。「特効薬を与えてみたのか?」
ポルガラはすばやく顔をあげた。「特効薬? 万能薬のこと? そんな薬は知らないわ」
「でもたしかにあるのじゃ、レディ・ポルガラ。それの起源も成分も知らないが、数年前からその穏やかな力が世界に広まっているのをわたしは感じていた」
ポルガラはアンデルを見たが、治癒者はとまどったように首をふった。「そのような薬は存じません、レディ」
「考えるのよ、シラディス」ポルガラはせきたてた。「あなたのしゃべることが手がかりになるかもしれないわ」
目かくしをした女予言者は片手の指先をかるくこめかみにあてた。「それが生まれたのは最近じゃ」と、なかば自分に言い聞かせるように言った。「この世に出現したのは、たかだか二十年前のこと――目だたない花かなにかのように思われる」
「それだけで絶望的ですよ」サディが言った。「花の種類は何百万とある」かれはたちあがって部屋をつっきり、ベルガラスに歩み寄った。「ここを出発したほうがいいんじゃないでしょうか――いますぐ」声を落として言った。「毒≠ニいう言葉をほのめかしでもしたら、だれもかれもが一番近くにいるニーサ人をさがしはじめるでしょう――そして皇帝と関係のある人人を。わたしたちはおそろしい危機に直面しているんです」
「ほかに何か思いつかない、シラディス?」ポルガラがせきたてた。「どんなかすかなことでもいいから」
女予言者は懸命に手がかりをつかもうとした。シラディスにしか見えないふしぎな幻をとらえようとして、その顔が緊張で力んだ。ついに彼女はがっくり肩を落とした。「だめじゃ。女の顔しか見えない」
「どんな顔か言ってみて」
「背が高い」シラディスは答えた。「髪は真っ黒だが、肌は大理石のようだ。夫は馬とのかかわりがたいへん深い」
「アダーラだ!」いとこの美しい顔がふいに目の前に浮かんで、ガリオンは叫んだ。
ポルガラが指を鳴らした。「アダーラのバラだわ!」次の瞬間、ポルガラは眉を寄せた。「何年か前に、あの花なら丹念に調べたのよ、シラディス。絶対にまちがいない? めずらしい成分が含まれてはいるけれど、特に薬効のある成分はどの花にも見つからなかったわ――抽出液にも花粉にも」
シラディスは意識を集中させた。「香りで病いが治ることはあるのか、レディ・ポルガラ?」
ポルガラは目を細めて考え込んだ。「香りを吸い込ませるという治療法があるにはあるけれど、でも――」ポルガラはうたがわしげだった。
「その方法で解毒される毒もありますよ、レディ・ポルガラ」サディが横から言った。「香気が肺に吸い込まれ、そこから心臓へ流れ込むんです。すると血液がその香気を体のすみずみへ運ぶんですよ。ザロットの影響を中和させるにはそれしかないかもしれません」
ベルガラスの表情は真剣そのものだった。「どうだ、ポル?」
「やってみる価値はあるわ、おとうさん。あの花ならいくつか持っているのよ。乾燥しているけれど、効果はあるかもしれない」
「種は?」
「少しなら」
「種ですって?」アンデルが叫んだ。「芽が出て花が咲くころまで、カル・ザカーズはもちません」
老人は狡猾そうに笑った。「そうでもないさ」かれはポルガラに片目をつぶってみせた。「わしは植物を育てることについては、ちょっとした才能の持ち主でな。土がいるな――それに土を入れる箱か桶も」
サディがドアに歩み寄って、外にいる護衛に手短に用件を伝えた。護衛たちはめんくらったようだったが、アンデルがすかさず命令するとあわてて走っていった。
「このふしぎな花が誕生したいわれはどういうものか、レディ・ポルガラ?」シラディスが興味ありげにたずねた。「どうしてそなたはその花にそれほどくわしいのじゃ?」
「ガリオンが作った花なのよ」ポルガラは肩をすくめて、ザカーズの狭い寝台を考えこむようにながめた。「ベッドを壁から離したほうがよさそうだわ、おとうさん」ポルガラは言った。「花でまわりを囲みたいのよ」
「作った?」女予言者は叫んだ。
ポルガラはうなずいた。「創造したというべきでしょうね」うわの空で言った。「この部屋の暖かさはこれで十分なの、おとうさん? 大輪のりっぱな花が必要よ、よく言ってもあの花はちょっと貧弱なんだから」
「あれで精一杯だったんだよ」ガリオンは抗議した。
「創造したと?」シラディスの声は畏怖に満ちていた。彼女は深い尊敬をこめてガリオンに会釈した。
半ば凍った土の入った桶が、けいれんを繰り返す皇帝のベッドのまわりにいくつも置かれ、表面をならされ、水で湿らされると、ポルガラは緑色の粗布の袋から小さな革袋を出し、ちっぽけな種をひとつまみ取り出して、注意深く土に撒いた。
「これでよしと」ベルガラスが農夫のように袖をまくりあげて言った。「うしろへさがって」かれは腰をかがめて桶のひとつの泥にさわった。「おまえの言ったとおりだ、ポル。ちょっと寒すぎる」老人の眉間にちょっとしわがよった。ガリオンはかれの口が動くのを見た。そのうねりは大きくはなかったが、音はささやきよりはるかに大きかった。桶のなかの湿った土から湯気がたちはじめた。「このほうがいい」老人は狭い寝台と湯気をあげる桶のほうへ両手を伸ばした。ガリオンはまたもうねりとささやきを感じた。
はじめはなにも起こらないように思えた。だが、やがて湿った土の表面にちいさな緑の点がいくつも出現した。それらの小さな葉が大きくひろがっていくのを見守りながら、ガリオンはベルガラスがこれと同じ芸当をやってのけるのを前に見たことがあったのを思いだした。時間が逆戻りしたかのように、ボー・ミンブルのコロダリン王の宮殿の中庭がありありと目前にあらわれた。二枚の板石のあいだに老人の突き立てたリンゴの小枝が、老魔術師の手のほうへ広がり伸びて、老人がベルガラスであることを信じようとしないアンドリグ卿に動かぬ証拠を突きつけたときのことが脳裏によみがえった。
薄緑の葉がしだいに濃くなり、最初にあらわれた細長い小枝や巻きひげは早くも低い茂みになっていた。
「つるがベッドの上を横切るようにしてよ、おとうさん」ポルガラが口やかましく言った。「つるにはたくさん花が咲くわ、花がいっぱいほしいのよ」
老人はオーバーに息を吐き出して、じろりとポルガラを見た。その目は内心のいらだちを雄弁に物語っていた。「わかった」やっと言った。「つるがほしいのか? そら、つるだ」
「荷が重すぎるんじゃないの、おとうさん?」ポルガラはうるさくたずねた。
ベルガラスはぐいとあごを引いたが、答えなかった。だが、汗をかきはじめた。長い巻きひげが緑の蛇のようにのたうちながら、皇帝の寝台の脚に巻きついて上へ這い上がり、寝台の枠のほうへ伸びていった。いったん枠に達すると、ベルガラスが息をついでいるあいだ、巻きひげは動きをとめたように思えた。「これは見かけより骨が折れる仕事なんだ」老人はハァハァ息をしながら言った。ふたたび意識を集中させると、つるはみるみる寝台とカル・ザカーズのぴくりともしない体をおおいかくし、とうとう見えているのは土気色の顔だけになった。
「よし」ベルガラスは植物たちに言った。「上出来だ。もう花を咲かせていいぞ」ふたたびうねりが起き、鈴が鳴るような妙な音がした。
無数の小枝の先端がふくらんで、やがてつぼみがほころびはじめ、淡いラヴェンダー色の内部がのぞきだした。首をかしげたような小さな花たちがはじらうように開きだし、やさしい香りが部屋いっぱいに広がった。ガリオンは背すじをのばして、そのえもいわれぬ香りを吸い込んだ。なぜかきゅうにひどく気分がよくなり、この数ヵ月の悩みや不安が消えていくようだった。
だらしなく口をあけたザカーズがわずかに身じろぎし、息を吸って深いためいきをついた。ポルガラが指先をザカーズの首の横にあてた。「効いてきたようだわ、おとうさん」ポルガラは言った。「心臓ももうさほど苦しくなさそうだし、呼吸が楽になってきたわ」
「よしよし。あれだけの思いをして、効果なしじゃこっちが救われんよ」
しばらくすると、皇帝は目を開いた。シラディスのちらちら光る姿が不安そうに寝台の足元をただよっていた。ふしきなことに、ザカーズはシラディスを見て微笑した。シラディスの青白い顔にはにかむようなほほえみが浮かんだ。そのあとザカーズはもう一度ためいきをついて、また目を閉じた。ガリオンは身をかがめて、病人がまだ息をしていることを確かめた。ふと寝台の足元へ目をやると、ケルの女予言者は消えていた。
[#改ページ]
その夜、湖の沖合いからなま暖かい風が吹いてきて、ラク・ハッガと都市周辺の田園地帯を覆いつくしていた雪はわびしいぬかるみに変じた。邸宅の中心部にある小さな庭では、枝に積もっていた雪がとけて落下し、灰色の板石の屋根からやわらかくなった雪のかたまりがすべり落ちた。ガリオンとシルクはモーヴ色のクッションのある部屋の暖炉のそばにすわって、庭をながめながら静かに話し合っていた。
「ヤーブレックと連絡がつけば、もっといろんなことがわかるのにな」シルクは言っていた。小男は一行がこの探索を開始する前の数年間、好きでよく着ていた真珠色の短い上着と、黒いぴったりしたズボンといういでたちに戻っていたが、当時かれをはでな成金に見せていた高価な指輪や装飾品はほんの二つ三つつけているだけだった。
「ヤーブレックはガール・オグ・ナドラクにいるわけじゃないだろう?」ガリオンはたずねた。ガリオンもまた便利な旅着を脱いで、いつもの銀色のふちどりのある青い服に着替えていた。
「特定の時間に、ヤーブレックの正確な居所をつきとめるのはまずむりってもんさ、ガリオン。あいつはおそろしく行動範囲が広いからな。だが、どこにいようと、マル・ゼス、メルセネ、マガ・レンにいるおれたちの情報源からの報告は、すべてあいつへ回される。メンガとやらのたくらみがどんなものだろうと、商売をめちゃくちゃにすることだけはまちがいない。おれたちの代理人はきっとメンガについてかき集められるだけの情報をかき集めて、ヤーブレックへ伝えたはずだ。いまごろあの貧相な相棒は、ブラドーの秘密警察よりもメンガについては詳しくなっているだろう」
「寄り道はしたくないんだよ、シルク。ぼくたちの問題はザンドラマスであって、メンガじゃない」
「悪魔はみんなの問題だよ」シルクはまじめに言った。「だがおれたちの決定がどうであれ、まずはマロリーへたどりつかなけりゃならない――ということは、ザカーズを説得して、これが深刻な事態であるとわからせる必要がある。おまえがメンガについて話したとき、ザカーズはちょっとは耳を傾けていたのか?」
ガリオンは首をふった。「なにをしゃべっていたか理解したかどうかさえ疑問だ。まるで理性的じゃなかったからな」
シルクはぶつぶつ言った。「ザカーズが目をさましたら、もう一度話してみなけりゃならないな」小男の顔にずるそうな笑いがうかんで消えた。「病人との交渉に関しちゃ、おれはかなりツイてるんだ」
「それはあまり感心できることじゃないんじゃないの?」
「もちろんそうさ――だが、成果はあるぜ」
昼近く、ガリオンとネズミ顔の友だちは皇帝の部屋に立ち寄って、体裁上、ザカーズの病状をたずねた。ベッドの片側にポルガラとサディが腰かけ、アンデルが隅に静かに腰かけていた。狭い寝台を包みこんでいたつるはとり払われていたが、室内には小さなラヴェンダー色の花の匂いがまだ濃厚にたちこめていた。病人は上体を起こした格好で枕にもたれていたが、シルクとガリオンが入っていったとき、目は閉じていた。皇帝の猫がベッドの足元に寝そべって満ち足りたようすで喉を鳴らしていた。
「具合いはどう?」ガリオンは静かにたずねた。
「何度か目をさましましたよ」サディが答えた。「手足にはまだザロットの影響が多少残っていますが、だんだんよくなってきました」宦官は興味ありげに小さな花のひとつを持ち上げた。「これを蒸留してエキスか香水を抽出したら効き目はどうでしょうかねえ」と、考えこんだ。「香水をつけて毒を防ぐというのは実におもしろい」かれは心もち眉をひそめた。「蛇の毒には効果はあるんでしょうか」
「ジスにだれかを噛ませたら、テストできるよ」シルクがほのめかした。
「志願しませんか、ケルダー王子?」
「遠慮するよ、サディ」シルクは断わった。「お誘いは感謝するがね」シルクは部屋の片隅にあけっぱなしで置いてある赤い箱に目をやると、神経質にたずねた。「ときに、ジスはとじこめてあるのかい?」
「眠っていますよ。朝食のあとはいつもひと眠りするんです」
ガリオンはうとうとしている皇帝を見た。「言うことに筋は通ってるの――つまり、起きてるときは?」
「頭ははっきりしてきているようよ」ポルガラが言った。
「ヒステリーと精神錯乱は、ザロットがもたらす症状なんです」サディが言った。「理性的になってきているのは、回復のきざしですよ」
「きみか、ベルガリオン?」ザカーズが目を閉じたまま、ささやくようにたずねた。
「そうだ。気分はどうだ?」
「力が出ない。頭がくらくらする――体中の筋肉が膿んだ歯ぐきみたいに悲鳴をあげている。それを別にすれば、気分は悪くない」ザカーズは目をあけて、ゆがんだ微笑を浮かべた。「何が起きたんだ? 記憶の糸がきれてしまったらしい」
ガリオンがポルガラを一瞥すると、彼女はうなずいた。「毒を盛られたんだ」ガリオンは病人に言った。
ザカーズはちょっとおどろいたようすだった。「すると、たいした毒ではなかったんだな」
「それが猛毒中の猛毒なんですよ、陛下」サディがやんわりと異議を唱えた。「例外なく死にいたらしめる猛毒です」
「では、わたしは死にかけているのだな?」ザカーズはその考えを歓迎しているかのように、不思議と満足そうに言った。「ああ、そうなのか」ためいきをもらした。「これで多くの問題が解決される」
「あいにくですがね、陛下」シルクが残念そうなふりをして言った。「あなたは死にませんよ。ベルガラスはときどき自然な事の成行きによけいなちょっかいをだすんです。若いころにおぼえた悪い癖なんですが、人間にはなんらかの悪癖が必要なんでしょうな」
ザカーズは弱々しく微笑した。「きみはおどけた男だな、ケルダー王子」
「しかし、本当にそれほど死にたいなら」シルクはふらちなことをつけくわえた。「おれたちがいつでもジスを起こしてあげますよ。彼女にひと噛みされたら、まずまちがいなく永遠の眠りにつけます」
「ジス?」
「サディのペットです――小さな緑色の蛇でね。ジスならあなたを噛んであなたを永遠の眠りに誘い込んだあと、平然と耳元でとぐろを巻くでしょうな」
ザカーズは吐息をもらした。まぶたがまたさがってきた。
「眠らせたほうがいいと思うわ」ポルガラが静かに言った。
「まだだ、レディ・ポルガラ」皇帝は言った。「あまりにも長いあいだ眠りと眠りのなかにはびこる夢を避けてきたせいか、夢がひどく現実ばなれしたものになってきた」
「お眠りにならなくてはいけません、カル・ザカーズ」アンデルが言った。「悪夢を退治する方法はいくつかあります。眠りこそ最高の治療ですわ」
ザカーズはためいきをついて、首をふった。「この夢はおまえには消せないよ、アンデル」そのあと皇帝は少し声を落とした。「サディ、幻覚はわたしが盛られた毒の影響のひとつなのか?」
「おそらくそうでしょう」宦官は認めた。「どんなおそろしい幻覚をごらんになったんです?」
「おそろしくはない」ザカーズは答えた。「若い娘の顔を見ているような気がするのだ。娘の目は細長い布で目隠しされている。その顔をみると、妙に心がなごむのだよ」
「では、それは幻覚ではなかったのですわ、カル・ザカーズ」アンデルが言った。
「すると、この目の見えない不思議な娘は何者なのだ?」
「わたくしの主人です」アンデルは誇らしげに言った。「陛下が危篤状態にいらしたときに現われた顔は、ケルの女予言者シラディスの顔だったのです。世界の命運は――そしてそれ以外のあらゆる世界の運命も――シラディスの決定にかかっているのです」
「あのようなかぼそい肩に、そんな重荷がのっているのか」ザカーズは言った。
「それがシラディスの務めなのです」アンデルは簡潔に言った。
病人はまたうとうとしはじめたようだった。口元にはふしぎな微笑がかすかに浮かんでいた。しばらくすると、ザカーズはまた目をあけた。前より動きが敏捷になってきたようだ。「わたしは治るのか、サディ?」かれは頭を剃り上げた宦官にきいた。「すばらしいニーサの毒消しはちゃんと毒を退治してくれたのか?」
「ああ」サディは推し量るように答えた。「まだ完全に回復なさってはいませんが、危機は脱したと申しあげていいでしょう、陛下」
「うむ」ザカーズは肩を上へずらしてすわった姿勢をとろうとした。ガリオンは手を貸してやった。「それで、わたしに毒を盛ったやつについては、もう見当はついたのか?」
サディは首をふった。「いまのところまだ」
「では、下手人をつきとめるのが第一だろうな。少し腹がへってきたのだが、また同じ目に会うのはごめんだ。この毒薬だが、クトル・マーゴスではありふれたものなのか?」
サディは額にしわをよせて考えた。「マーゴの法律は毒や薬の使用を禁じています、陛下」と答えた。「マーゴ人は非文明的な連中ですから。しかし、ダガシ族の暗殺者なら、ザロットを入手する手段を持っているかもしれません」
「では、毒を盛ったのはダガシ族かもしれないと思うのか?」
サディは肩をすくめた。「クトル・マーゴスで行なわれる暗殺の大部分は、ダガシ族によるものです。連中は人殺しの能力にたけていますし、用心深いですからね」
ザカーズは目を細めて考え込んだ。「するとウルギットのしわざということになりそうだな。ダカシ族を雇うのは金がかかるが、ウルギットなら王室の金が自由になる」
シルクが顔をしかめ、きっぱり言った。「じょうだんじゃない。ウルギットはそんなことはしませんよ。背中にナイフをつきたてるぐらいならするかもしれないが、毒は盛らない」
「どうしてそんなに自信がある、ケルダー?」
「ウルギットを知っているからですよ」シルクはいささか悲しそうに答えた。「あいつは弱いし、ちょいと臆病ですが、毒を盛るような人間じゃない。毒を盛るなんて、政治的不和を解決するにはいやしむべきやりかたですよ」
「ケルダー王子!」サディが抗議の声をあげた。
「もちろん、ニーサは例外ですがね」シルクは譲歩した。「風変わりなその国独特の習慣は、常に考慮にいれる必要があります」シルクは先のとがった長い鼻をひっぱった。「ある朝あなたが死んだとしても、ウルギットがさほど悲しまないことは認めましょう」とマロリー皇帝に言った。「しかし、そんなのは取るにたりないことだ。もしあなたの部下の将軍連中があなたを殺したのはウルギットのさしがねだと思いこんだら、連中はこの先十代にわたってここに居座り、マーゴの勢力範囲をかたっぱしから抹殺しようとします、そうでしょう?」
「だろうな」ザカーズは言った。
「あなたを片づけ、あなたの軍勢が予見しうる将来マロリーに戻らないのを確実にすることで、もっとも利益を得るのはだれです? ウルギットじゃないことだけは確かです。マロリーで自由に動き回ることを狙っている何者かである見込みのほうがよほど強い」シルクは肩をそびやかした。「犯人を決め込む前に、リセルとおれにちょっとした諜報活動をさせてみませんか? 明白な事態はいつもおれを疑わしい気分にさせるんですよ」
「いいとも、ケルダー」ザカーズは試すように言った。「だが、次の食事にまた別の異国の薬味がきいていないとどうしてわかる?」
「ベッドわきに世界一の料理人がいるじゃありませんか」ネズミ顔の男はもったいぶってポルガラを指さした。「彼女が毒を盛らないことはこの首にかけて保証しますよ。怒らせるようなことをしたら、あなたを赤カブに変えるかもしれないが、絶対に毒は盛りません」
「もうけっこうよ、シルク、それくらいにしておきなさい」ポルガラが言った。
「あなたの人並はずれた才能をたたえているだけですよ、ポルガラ」
ポルの目がけわしくなった。
「そろそろ出てったほうがよさそうだな」シルクはガリオンにつぶやいた。
「賢明な判断だね」ガリオンはささやいた。
小男はくるりと向きを変えると、そそくさと部屋を立ち去った。
「かれは本当に見せかけどおりの腕ききなのか?」ザカーズがおもしろそうにたずねた。
ポルガラがうなずいた。「ケルダーとリセルのふたりなら、世界中のどんな秘密でも探り出せるでしょうね。シルクはいつもいやがっているけれど、あのふたりはほぼ完璧な組み合わせですわ。さて、陛下、朝食はなにがよろしいかしら?」
部屋の隅で奇妙な交歓がおこなわれていた。先の会話の間じゅう、ガリオンはジスのいる土焼きの瓶から眠たそうなかすかなグルグルという音がするのを聞きつけていた。小さな蛇が満足の意思表示をしていたのかもしれないし、あるいは、眠っているあいだに蛇というものがたてる音のひとつなのかもしれない。ザカーズの妊娠中の白黒縞の猫が、その音にひかれてベッドからとびおり、好奇心からジスの小さなわが家のほうへ歩いていった。そして、ほとんど機械的に、瓶のなかから聞こえるグルグルという音に応答するようにごろごろと喉を鳴らした。猫は瓶のにおいをかいでから、試しにやわらかな前足で瓶をさわった。喉を鳴らすような妙なデュエットがつづいた。
そうこうするうち、サディが瓶の栓をしっかりしめておかなかったせいなのか、それとも玄関をあけるこの単純な手段をジスがとうの昔に考えだしていたのか、小さな蛇は丸っこい鼻でコルクを瓶から押しだした。二匹の動物は鳴きつづけたが、猫のほうはいまやあきらかに好奇心でうずうずしていた。ジスはしばらく姿をあらわさずに、はずかしそうに瓶にひそんだまま鳴きつづけた。やがて、ジスは用心深く頭を突き出し、先端が三つに分かれた舌をちろちろさせてようすをうかがった。
猫はびっくりしたうなり声をあげて、三フィートばかりまっすぐ上にジャンプした。ジスはすぐさま安全な家にひっこんだが、あいかわらずグルグルと音をたてつづけた。
そろそろと、だが好奇心にいてもたってもいられずに、猫は再度瓶に近づいた。
「サディ」ザカーズが心配そうな声で言った。
「まだだいじょうぶですよ、陛下」宦官は断言した。「喉を鳴らしているあいだ、ジスはぜったいに噛みつかないんです」
小さな緑色の蛇はまた瓶から頭を出した。今度は猫はちょっとたじろいだだけだった。次に、好奇心が生来の爬虫類ぎらいに勝って、猫はこのおどろくべき生き物のほうへ鼻を突き出すようにしてゆっくり前に進みでた。ジスもまた依然としてグルグルいいながら、丸っこい鼻を突き出した。両方の鼻がふれあうと、猫と蛇はどちらもかすかにしりごみした。二匹はすぐまたにおいをかぎあった。猫は鼻で、蛇は舌で。いまや両方とも大声で鳴いていた。
「おどろいたな」サディがつぶやいた。「本当におたがいが気に入ったらしい」
ザカーズが訴えるように言った。「サディ、きみがその蛇をどう思っているのか知らないが、わたしはあの猫が大いに気に入っているのだ。それにあれは母親になろうというときなのだよ」
「言い聞かせますよ、陛下」サディはうけあった。「耳を貸すかどうかわかりませんが、断固言い聞かせます」
ベルガラスはまた書庫にひきこもっていた。その日遅くガリオンが行くと、老人は北部マロリーの大きな地図を丹念にながめているところだった。「ああ」ガリオンがはいってくるのを見上げて、ベルガラスは言った。「おまえか。ちょうどいま呼びにやらせようかと思っていたんだ。ここへきて、これを見てみろ」
ガリオンはテーブルに歩み寄った。
「このメンガというやつの出現は、わしらに有利に働くかもしれんからな」
「どういうことだかさっぱりだな」
「ザンドラマスはここアシャバにいる、そうだな?」ベルガラスはカランドの山岳地帯を示す場所に指を突き立てた。
「そうだ」
「で、メンガはこっちのカリダから西南へ動いている」老人はふたたび地図に指を突き立てた。
「ブラドーはそう言ってる」
「メンガのおかげで、ザンドラマスが大陸のどの部分にも侵入できなくなっているのだ、ガリオン。ザンドラマスはこのクトル・マーゴスではきわめて慎重だった、人口密集地帯をさけるためだ。ひとたびマロリーへたどりついても、おそらく人の住む地域を避けようとするだろう。ウルヴォンはマル・ヤスカにいるからザンドラマスは南へは行けない。北へいたる不毛地帯を横断するのは文字どおり不可能だ――たとえ夏でもな」
「夏?」
「世界の北半分では、いまは夏なんだ」
「そうか。ついつい忘れちゃうんだ」ガリオンは地図を見つめた。「おじいさん、もはや存在しない場所≠ェどこにあるんだか、ぼくたちには見当もついていない。アシャバを出れば、ザンドラマスはどっちにだって行けるんじゃないかな」
ベルガラスは目をすがめて地図をにらんだ。「わしはそうは思わん、ガリオン。マロリーで起きたあらゆる出来事を考慮して――いまごろザンドラマスがわしらの追跡に気づいている事実も合わせ――ザンドラマスは、ダーシヴァの根拠地に引き返そうとするにちがいない。世界中の人間がザンドラマスを追っているんだ、援助が必要だろう」
「ぼくたち[#「ぼくたち」に傍点]はそれほどの脅威は与えていないよ。なにしろクトル・マーゴスを出ることさえできないんだから」ガリオンはむっつりと言った。
「話したかったのはそこなのだ。おまえはザカーズを説得して、なるべく早くここを出発してマロリーへ到着することがわしらにとっては重要であることを納得させねばならん」
「説得って?」
「どんな手を使おうとかまわん、ガリオン。多くのことが危機に面しているのだ」
「なんでぼくが?」ガリオンは思わず口走った。
ベルガラスは長々とガリオンをにらみつけた。
「ごめん。いまのは忘れてよ」
「よし、忘れる」
その夜遅く、ザカーズの猫が七匹の健康な子猫を産んだ。その間、ジスは心配そうに行きつ戻りつして、不吉なシュルシュルという音をたてながら見物人をかたっぱしから追い払った。不思議なことに、保護者然としたこの小さな爬虫類が、生まれたばかりの子猫たちのそばに近寄るのを許したのは、リセルただひとりだった。
その後の二日間、ガリオンは快方に向かうザカーズとの会話をなんとか方向転換させて、マロリーへ戻る必要性を訴えようとしたが、はかばかしい成功はおさめられなかった。ザカーズは毒を盛られて体が弱ってしまったと嘆いてばかりいたが、それは言い訳だろうとガリオンは内心疑っていた。というのも、普段の行動にはまったく不自由していないようなのに、航海の話を持ち出すと、きまって疲労を訴えるからだった。
しかし、四日目の晩、さらに直接的な二者択一を迫る前に、ガリオンは最後の交渉を試みることにした。ザカーズは両手で本を持ち、ベッドのそばの椅子にすわっていた。目の下の隈も消え、けいれんもすっかりおさまったザカーズは、敏捷そのものに見えた。「ああ、ベルガリオン」かれはほとんど陽気とも言える声で言った。「立ち寄ってくれるとはうれしい」
「また眠らせてあげようと思ったのさ」ガリオンは皮肉たっぷりに答えた。
「そんなに露骨だったかね?」ザカーズはたずねた。
「ああ、じつのところね。ひとつのセンテンスで船≠ニマロリー≠ニいう言葉を口に出すと、そのつど、まぶたがさがってきた。ザカーズ、われわれはこの件についてどうしても話し合う必要があるんだ、時間が残り少なくなってきている」
ザカーズはさも疲れているといいたげに、片手で目をこすった。
「こう言ってもいい」ガリオンは後にはひかなかった。「ベルガラスがいらだちはじめているんだ。ぼくは努力してこの話し合いを礼儀正しいものにとどめているが、ベルガラスが干渉してきたら、不愉快な話し合いになるのはまずまちがいない――それもあっというまにね」
ザカーズは手をさげて、目を細めた。「脅迫めいて聞こえるな、ベルガリオン」
「そうじゃない。じつのところ、これは友人としての忠告なんだ。クトル・マーゴスにとどまりたいのなら、それはそっちしだいだ。だが、われわれはマロリーへ行かなくてはならないんだよ――いますぐ」
「許可しないと言ったら?」
「許可だって?」ガリオンは笑った。「ザカーズ、あんたは本当にわれわれと同じ世界で育ったのか? 何の話をしているのかちょっとでもわかっているのか?」
「会見はどうやら終わりのようだな、ベルガリオン」皇帝はひややかに言った。ザカーズはぎごちなく立ち上がると、ベッドに向きなおった。例によって、皇帝の猫が掛けぶとんの中央にニャアニャア鳴いている子猫たちを置きざりにして、部屋の隅のウールで内張りした箱で昼寝をしていた。いらいらしている皇帝はベッドの上の毛玉たちをうんざりしたようにながめた。「下がっていいぞ、ベルガリオン」肩ごしに言うと、両手を伸ばして子猫たちをすくいあげようとした。
ジスが毛玉のまん中から鎌首をもたげて冷たい目でザカーズを凝視し、警告するようにシュルシュル音を立てた。
「くそ!」ザカーズは悪態をついて、急いで両手をひっこめた。「我慢にもほどがある! このいやらしい蛇をわたしの部屋からただちにつまみだせと、サディに言ってくれ!」
「もう四回も連れ戻したんだよ、ザカーズ」ガリオンはやんわりと言った。「そのたびに這い戻ってくるのさ」かれは笑いをかみ殺した。「あんたが好きなのかもしれないな」
「からかっているのか?」
「ぼくが?」
「蛇をここからつまみだせ」
ガリオンは両手をうしろに回した。「ごめんだな、ザカーズ。サディをよこすよ」
だが、外の廊下でガリオンは、謎めいた微笑を浮かべて皇帝の部屋のほうへやってくるヴェルヴェットに出くわした。
「ジスを動かせると思うかい?」ガリオンはきいた。「あの子猫たちとザカーズのベッドのまんなかに陣取っているんだよ」
「あなたなら動かせますわ、ベルガリオン」金髪の娘はえくぼを見せて言った。「ジスはあなたを信頼していますもの」
「試してみるのは気が進まないね」
ふたりは皇帝の寝室へはいった。
「辺境伯令嬢」ザカーズは丁寧に彼女を迎えて会釈した。
ヴェルヴェットは膝を曲げてお辞儀した。「陛下」
「なんとかなるかね?」あいかわらず鎌首をもたげたまま、毛玉のまんなかから目を光らせている蛇を指さした。
「もちろんです、陛下」ヴェルヴェットがベッドに近づくと、蛇は神経質に舌をちろちろ突き出した。「まあ、よしなさい、ジス」金髪の娘は叱った。次に彼女はスカートの前を持ち上げ、子猫たちをつまみあげてそのにわか作りのバスケットにいれた。最後にジスを持ち上げ、子猫たちのまんなかに置いた。それから部屋を横切って、母猫のいる箱のなかへなんということもなく子猫と蛇を移し変えた。母猫は金色の片目をあけて、子猫たちと目のさめるような緑色の乳母のためにすきまを作り、すぐまた眠りだした。
「これでいいでしょ?」ヴェルヴェットはそっとつぶやくと、ザカーズのところへ引き返した。「そうそう、ところで陛下、ケルダーとわたしとで陛下に毒を盛った人間をつきとめましたわ」
「なに?」
彼女は心もち眉をひそめながらうなずいた。「じつを言いますと、意外な人物だったのです」
皇帝の目が熱をおびていた。「確かなのか?」
「このようなケースで確信できることと同じくらい確かです。毒を入れる現場を目撃した者を見つけるのはまずむりです。ですが、問題の男はしかるべきときに台所にいましたし、陛下の具合いが悪くなった直後に立ち去っています。それにわたしたちは男を噂で知っているのです」ヴェルヴェットはガリオンにほほえみかけた。「人々がいつも白い目をした男のことを記憶にとどめているのに気づいていらしたでしょう?」
「ナラダスか?」ガリオンは叫んだ
「おどろくべきことですわ、ねえ?」
「ナラダスとは何者だ?」ザカーズが問いつめた。
「ザンドラマスの手下だ」ガリオンは答えてから、眉をひそめた。「つじつまがあわないぞ、ヴェルヴェット。どうしてザンドラマスがザカーズを殺したがるんだ? むしろ生かしておきたいはずじゃないか?」
ヴェルヴェットは両手を広げた。「わかりませんわ、ベルガリオン――とにかく、まだいまのところは」
「ヴェルヴェット?」ザカーズがとまどいぎみにたずねた。
ヴェルヴェットの頬にまたえくぼができた。「ばかげていますでしょう?」彼女は笑った。「でも、あだなというものは愛情のしるしのようなものだと思っているんです。ですけど、ベルガリオンの質問は的を射ていますわ。ザンドラマスが陛下の命を奪おうとする理由に心あたりがおありですか?」
「すぐには思いつかないが、つかまえたときに答えはザンドラマスからしぼりだせるだろう――クトル・マーゴスの石を一枚一枚はがしてでも、必ずとらえてみせる」
「ザンドラマスはここにはいないよ」ガリオンは事件の全貌をとらえようとしつつ、うわの空で言った。「アシャバにいるんだ――〈トラクの家〉に」
ザカーズの目が疑わしげに細まった。「それはまた好都合じゃないか、ベルガリオン? たまたまわたしは諸君の到着直後に毒を盛られた。たまたまベルガラスがいてわたしを治してくれた。ケルダーとリセルはたまたま毒殺者の素性を発見し、たまたまそいつはザンドラマスの手下で、ザンドラマスはたまたまアシャバにおり、アシャバはたまたまマロリーにある――そこはたまたま諸君がなんとしてでも行きたがっている場所だ。想像力顔負けの偶然の一致だよ、そうじゃないかね?」
「ザカーズ、あんたにはうんざりしてきたよ」ガリオンはいらだたしげに言った「マロリーへ行くための船が必要だと決めたら、こっちは船を確保するまでだ。いままでそうしないで我慢してきたのは、レディ・ポルガラに子供のころにたたきこまれた礼儀のためさ」
「それで、どの面さげてこの屋敷を出るつもりだ?」ザカーズはかみつかんばかりだった。かれも腹をたてはじめていた。
それが我慢の限界だった。ガリオンの胸に理性のかけらもない怒りがむらむらとこみあげてきた。それはかれこれ一年近くガリオンをいらだたせてきた無数の遅延と、邪魔な障害と、くだらない横やりが作り上げた怒りだった。かれは肩ごしに腕をのばして〈鉄拳〉の剣を鞘から抜き放ち、革の覆いを柄からひきむしった。巨大な剣を体の前にかかげもち、文字どおり意志の力を〈珠〉に投げつけた。剣はにわかに青い炎を放った。「どの面さげてこの屋敷を出て行くかだと?」ガリオンは肝をつぶしている皇帝に怒鳴るように言った。「これを使ってだ。効き目はこんなものだ」腕を伸ばし、輝く剣をぴたりとドアに向けて、命令した。「やれ!」
その怒りは理性のかけらもないばかりか、異常でさえあった。ガリオンとしてはドアだけに――場合によってはドア枠の一部も――的を絞って、自分の気持ちをザカーズに見せてやるつもりだった。ところが、〈珠〉はガリオンの怒れる意志にいきなりたたき起こされてびっくりし、やりすぎてしまった。ドアはなるほど消滅した。こっぱみじんになって廊下へ吹っとんでいった。ドア枠も消えてなくなった。しかし、思いもよらないことに、壁も余波を食ってしまった。
ザカーズは顔面蒼白になってあとずさり、ふるえながら突如として見えるようになった外の廊下と、そこを埋め尽くす瓦れきの山――ついさっきまでザカーズの寝室の厚さ二フィートの堅牢な石壁だったもの――をまじまじと凝視した。
「あらまあ」ヴェルヴェットが穏やかに言った。
ガリオンは芝居がかったばかげたことだと知りながら、理不尽な激しい怒りにとらわれたまま、呆然自失のザカーズの片腕を左手でつかみ、右手に持った剣をふり動かした。「さあ、ベルガラスに話をしに行くんだ。角を曲がるたびに兵隊を呼ばないと約束するなら、あの廊下を通って行こう。それがいやなら、屋敷をまっすぐ突き抜ける。書庫はその方角にあるはずだろう?」ガリオンはまだ崩れずにいる壁を剣で示した。
「ベルガリオン」ヴェルヴェットはやさしく叱った。「さあ、そんなふるまいはおよしになって。カル・ザカーズはとても丁寧なもてなし役でいらしたじゃありませんか。これでもう状況はよくおわかりになったはずだわ、喜んで協力してくださるわよ、そうですわね、皇帝陛下?」ヴェルヴェットは愛敬たっぷりに皇帝にほほえみかけた。「リヴァ王を本当に怒らせるのは得策じゃありませんわ、そうでしょう? ここには壊れやすいものがたくさんありますもの――窓、壁、家、ラク・ハッガの都市――そういったものが」
ベルガラスはやはり書庫にいた。小さな巻物を読んでおり、肘のそばには大きなジョッキがひとつ置かれている。
「あることが判明したよ」ガリオンは書庫に入るなり短く言った。
「ほう?」
「ヴェルヴェットの話だと、彼女とシルクはザカーズに毒を持ったのがナラダスであることをつきとめたんだ」
「ナラダス?」老人は目をぱちくりさせた。「そいつは意外だな」
「なにを企んでいるんだろう、おじいさん? ザンドラマスのやつ」
「わからん」ベルガラスはザカーズに視線を移した。「何者かがあんたを殺そうとしたら、後を継ぎそうなのはだれだ?」
ザカーズは肩をすくめた。「遠い親戚が何人かあちこちにいる――ほとんどはメルセネ諸島とセランタに住んでいるが、だれが継承するかはあまり釈然としない」
「おそらくそこがザンドラマスの狙いなんですわ、ベルガラス」ヴェルヴェットが真剣に言った。「あなたがラク・ハッガで発見なさったグロリムの予言書にすこしでも真実が含まれているのなら、ザンドラマスは最後の対決のときに、アンガラク人の王を味方につけておかなくてはなりません。ここにおいでの陛下のような人物よりも、おとなしい王のほうがてなずけやすいに決まっています――遠い親戚のだれかに王冠をかぶらせてその人物を王と宣言すればよいのです。そうすれば、手下のグロリムたちに王を見張らせておき、しかるべきときに王を自分のところへ引き渡させることができます」
「ありうることだ」ベルガラスは同意した。「しかし事はそれほど単純ではなかろう。ザンドラマスはこれまで何事に限らず手のこんだ行動をしている」
「わたしがちんぷんかんぷんでいることはわかっているんだろうな」ザカーズがいらだたしげに言った。
「かれはどのくらい知っているんだ?」ベルガラスはガリオンにたずねた。
「ほとんど知らない」
「そうか。何が起きているのかわかれば、説得するのはさほどむずかしくないだろう」ベルガラスはマロリー皇帝に向きなおった。「『ムリンの書』について聞いたことは?」
「いわゆる予言書の大半同様、狂人が書いたものだと聞いている」
「〈光の子〉と〈闇の子〉についてはどうだ?」
「狂信的な信者連中が利用する標準的たわごとの一部だ」
「ザカーズ、あんたにはこれからあることを信じてもらわねばならん。それでないと、これはきわめて理解しがたいことなんだ」
「懐疑主義を一時的にひっこめれば満足するのかね?」皇帝は言い返した。
「それでじゅうぶんだ。よしと、では、こみいった話だから、注意してよく聞いてもらいたい、わからないところがあったらそう言ってくれ」
そして老人は世界が始まる以前に発生した事故≠ニ、未来のふたつの方向とその方向を満たすふたつの意識の分離をめぐる大昔の物語をおおざっぱに語っていった。
「なるほど」ザカーズが言った。「これまでのところは、ごく模範的な神学だな。子供のころからそれと同じばかげた話をグロリムたちにくどくどと説教されたよ」
ベルガラスはうなずいた。「一般によく知られているところからはじめたかっただけなのだ」つづいて老人はザカーズに、世界の分裂からボー・ミンブルの戦いにいたる数世紀の出来事を話した。
「われわれの見解は少しちがう」ザカーズはつぶやいた。
「だろうな」ベルガラスは別段反論もしなかった。「ボー・ミンブルの戦いから五百年後、〈珠〉は裏切り者のゼダーによって盗まれた」
「奪い返されたんだ」ザカーズは訂正した。「〈珠〉はクトル・ミシュラクから盗み出されたんだぞ、〈鉄拳〉のこそ泥ともうひとり――」ザカーズは口をつぐむと、急に目を見開いてみすぼらしい老人を凝視した。
「そうだ」ベルガラスは言った。「わしはじっさいあの場にいたのさ、ザカーズ――その二千年前にトラクがわしの師から〈珠〉を盗んだときも、その場にいたのだ」
「気分が悪くなった、ベルガラス」皇帝は弱々しく言うと、椅子にすわりこんだ。「たてつづけにあまりショックを与えないでくれ、そこまで神経が回復していないんだ」
ベルガラスはきょとんとしてザカーズを見た。
「陛下たちはちょっと議論をなさったんです」ヴェルヴェットがきびきびと説明した。「ベルガリオン王が〈リヴァ王の剣〉の威力をちょっとはでに見せつけたんです。皇帝はすっかりふるえあがってしまわれました。屋敷のあのあたりに居合わせた者はみんなおじけついていましたわ」
ベルガラスはガリオンにひややかな目を向けた。「またいたずらか?」
ガリオンは答えようとしたが、じっさいには何も言えなかった。
「よろしい、つづけよう」ベルガラスは威勢よく言った。「ここにいるガリオンが出現してから起きたことは、すべて最近のことだから、あんたも知っているはずだ」
「ガリオン?」ザカーズが聞き返した。
「より一般的な、なじみ深い呼び方だ。ベルガリオン≠ヘいささかこれみよがしのところがあるからな、そう思わんかね?」
「ベルガラス≠セって同じだ」
「わしはかれこれ七千年ちかくベルガラス≠ナ通っているのだぞ、ザカーズ。いうなれば角もとれておる。ガリオンのベル≠ヘついてからまだほんの十二年だ。ガリオンがパッと一回転すると、まだぎしぎしきしむ」
ガリオンはその言い方にちょっとむっとした。
「とにかくだな」老人はつづけた。「トラクが死んだ後、ガリオンとセ・ネドラは結婚した。一年ばかり前にセ・ネドラは息子を産んだ。そのときガリオンの注意は熊神教に向けられていた。するとそのすきを狙うかのように、何者かがセ・ネドラを殺そうとし、リヴァの番人を殺すことに成功した」
「そのことは聞いている」ザカーズは言った。
「それはともかく、ガリオンは熊神教を壊滅へ追い込んでいた――いったんその気になると、徹底的に熊神教を粉砕した――そのとき、何者かがリヴァの城塞に侵入し、かれの幼い息子――わしのひ孫――を誘拐したのだ」
「まさか!」ザカーズは叫んだ。
「いや、そうなのだ」ベルガラスは陰気に先をつづけた。「わしらは熊神教のしわざと考えて、連中の司令部であるドラスニアのレオンへ進軍したが、それは巧妙に仕組まれた策略だった。ザンドラマスがゲラン王子を誘拐して、わしらをわざとレオンへ行かせたのだ。熊神教の指導者はハラカン、つまりウルヴォンの手下のひとりであることが判明した――早すぎるかね?」
ザカーズの顔はおどろいていた。目はふたたび大きく見開かれている。「いや」かれは固唾をのんで言った。「だいじょうぶだ」
「あとはたいしたことはない。わしらは間違いに気づくと、誘拐犯を追跡した。ザンドラマスがマロリーへ向かっているのはわかっている――〈もはや存在しない場所〉へ行くつもりなのだ。そこにはサルディオンがある。わしらはザンドラマスをくいとめるか、少なくとも、同時にマロリーへ着かねばならんのだ。わしら全員がこの〈もはや存在しない場所〉へ到着したとき、そもそもの初めよりあった〈光の子〉と〈闇の子〉のいずれかをシラディスが選ぶだろう。そしてそれが対決の終わりということになっているのだ」
「その時点でわたしの懐疑主義がまた頭をもたげそうだ、ベルガラス」ザカーズは言った。「世界を先駆けるそのふたりの曖昧模糊とした人物が、その謎めいた場所に到着し、もう一度取っくみ合いをするんだと、本気でわたしが信じると思うのか?」
「どういうわけで、かれらが曖昧模糊としているなどと思うんだね? ふたつの起こりうる運命の中心の魂が、この対決のあいだ、魂の道具として行動することを現実の人間に吹き込んでいるのだ。たとえば、現在ではザンドラマスが〈闇の子〉なのだ。以前はトラクだった――ガリオンが殺すまでは」
「すると、〈光の子〉はだれなんだ?」
「言わずと知れたことだろう」
ザカーズは向きを変えて、信じられないようにガリオンの青い目をのぞきこんだ。「貴公か?」喘ぐようにたずねた。
「みんながそう言うんだよ」ガリオンは答えた。
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国境なきマロリーの泣く子もだまる皇帝、カル・ザカーズはまずベルガラスを見、次にもう一度ガリオンを見、最後にヴェルヴェットを見た。「ここでの支配権がわたしの手をはなれていくように感じるのはなぜなんだ? ここへやってきたとき、諸君は多かれ少なかれわたしの囚人だった。ところがいまやわたしが囚人になっている」
「あんたが以前は知らなかったことをわしらが話した、それだけのことだ」ベルガラスは言った。
「あるいは、諸君が巧妙にでっちあげたことをな」
「なんでそんなことをする必要がある?」
「理由はいくらでも思いつける。話し合いをつづけるために、ベルガリオンの子息が誘拐されたとかいう話は受け入れよう。だが、それが諸君の動機をきわめて明瞭にしているのがわからないかね? 諸君は子供を捜索するのにわたしの援助が必要なのだ。この突拍子もないたわごとすべてと、さらに、ウルギットの親子関係にまつわる愚にもつかぬ話は、ここクトル・マーゴスでの戦いからわたしの注意をそらし、諸君とともにわたしをマロリーへ帰還させるために仕組まれたものだといってもおかしくない。ここへきてから諸君がしたり、言ったりしたことのいっさいは、それが狙いなのだろう」
「われわれがそんなことをすると本気で思っているのか?」ガリオンはきいた。
「ベルガリオン、もしこのわたしに息子がいて、何者かが息子を誘拐したら、わたしはなんとしてでも息子を取り返そうとするだろう。貴公の立場には同情する。だが、わたしにはわたしの関心事がある。それはここにあるのであって、マロリーにあるのではない。悪いが、考えれば考えるほど信じられなくなってくる。わたしが世界をそれほど読み誤るはずがないのだ。悪魔だ? 予言だと? 魔術? 不死の老人? どれもみなじつにおもしろいが、ひとことも信じないね」
「〈珠〉がウルギットについてあんたにあれだけのことを見せたあとでもか?」ガリオンはたずねた。
「ベルガリオン、わたしを子供扱いするのはやめてくれたまえ」ザカーズの口元がゆがんで皮肉めいた微笑があらわれた。「毒がすでにわたしの頭にはいりこんだ可能性は大いにあるんじゃないかね? そして村祭りに出没するほら吹き男よろしく、貴公が謎めかした光や暗示を利用してわたしに見てもらいたいものを見せたこともありうるんじゃないか?」
「どんなことなら信じますの、カル・ザカーズ?」ヴェルヴェットがきいた。
「この目で見て、この手でさわれることだ――ほかにはない」
「筋金入りの懐疑主義者でいらっしゃるのね」ヴェルヴェットはつぶやいた。「では、普通ではないことはただのひとつもお認めになりませんの?」
「自分に考えられないことはな」
「ケルの予言者の不思議な才能もですか? あの才能は明瞭に実証されておりますわ」
ザカーズはわずかに顔をしかめた。「そうだな。事実そのとおりだ」
「まぼろしをどうやって実証できるんだ?」ガリオンは好奇心からたずねた。
「グロリムたちは予言者の信用をだいなしにしようともくろんでいた」ザカーズは言った。「その一番簡単な方法は、未来についての予言を記録させ、なにが起きるかを見届けることだとグロリムたちは考えた。官僚は記録をつけることを指示された。これまでのところ、予言者の予言はひとつとしてまちがっていなかった」
「そうしますと、わたしたちにはおよそ理解できない方法で、予言者たちが過去、現在、未来の物事を知る能力を持っていることは信じていらっしゃるわけですね?」ヴェルヴェットは念をおした。
ザカーズは口元をひきしめた。「いいだろう、辺境伯令嬢」かれはしぶしぶ言った。「まだ解明されていないある能力が予言者にそなわっていることには同意する」
「予言者にも嘘はつけると思いますか?」
「よしよし」ベルガラスが賛同をこめてつぶやいた。
「いや」ザカーズはちょっと考えてから答えた。「予言者に嘘はつけない。連中が正直なのは定評があるからな」
「でしたら」ヴェルヴェットはえくぼを見せた。「わたしたちが陛下にお話ししたことが真実かどうかをつきとめるには、予言者を呼びにやればすむことです、そうですわね?」
「リセル」ガリオンは異議をとなえた。「それには何週間もかかるよ。そんな時間はない」
「あら。わたしの記憶が正しければ、それほど長くはかからないと思いますわ。ここにおいでの陛下が危篤に陥っておいでのとき、アンデルがシラディスを呼び出したとレディ・ポルガラがおっしゃってましたもの。アンデルを説得して、もう一度シラディスを呼び出してもらえばいいんです」
「どうだ、ザカーズ」ベルガラスが言った。「シラディスが真実としてあんたに話すことなら受け入れるか?」
皇帝は疑りぶかそうに目をほそめてベルガラスを見ながら、逃げ口上を捜した。「うまいことわたしを追いつめたな。よかろう、ベルガラス」ザカーズはついに言った。「シラディスが真実として言うことならどんなことでも受け入れる――あなたも同じようにすると同意するならば」
「では決まった」ベルガラスは言った。「アンデルを呼んできて、つづきをやろうじゃないか」
ヴェルヴェットが廊下へ出て、どこへ行くにもザカーズのあとを離れない護衛のひとりに話しかけると、ザカーズは椅子に背をもたせた。「諸君の言う突飛で不可能な話を、このわたしが考慮しているということさえ信じられん」
ガリオンはすばやく祖父と視線をかわしたかと思うと、ふたりそろって笑いだした。
「なにがおかしいんだね、ふたりとも?」
「ただの内々の冗談さ、ザカーズ」ベルガラスが言った。「ガリオンとわしはかれが九つほどのときから可能と不可能について言い争っているのだ。そのことではガリオンのほうがあんたよりよっぽど頑固だったよ」
「最初のショックが薄れると、受け入れるのが楽になってくるんだ」ガリオンはつけくわえた。「すごく冷たい水のなかを泳ぐようなものさ。いったん感覚が麻痺すれば、そんなにつらくない」
まもなくヴェルヴェットが頭巾をかぶったアンデルと一緒に部屋に戻ってきた。
「ケルの女予言者はおまえの主人だと言ったな、アンデル?」ザカーズが言った。
「はい、おっしゃるとおりでございます、陛下」
「彼女を呼び出せるか?」
「そのことが必要で、現われることに主人が同意してくれれば、姿を呼び出すことはできます、陛下」
「必要らしいのだ、アンデル。ベルガラスがわたしにいくつかの話をしたのだが、それを確かめる必要がある。シラディスが真実しか話さないことはわかっているが、ベルガラスの評判は疑わしいところがあるからな」ザカーズはずるがしこそうに横目で老人をちらりと見た。
ベルガラスはにやりとして片目をつぶってみせた。
「主人に話しましょう、陛下」アンデルは言った。「そしてここに姿を送ってくれるよう頼んでみます。同意したら、どうか急いで質問なさってください。世界の裏側に姿を送るのは並み大抵のことではないのです。シラディスは丈夫ではありません」そう言うと、ダラシアの女は敬虔にひざまずき、頭をたれた。ガリオンはまたしてもたくさんの声が構成するあの奇妙なつぶやきを聞き取った。そのあとしばらく沈黙がつづいた。空中に前と同じちらちらした光が出現した。それが晴れたとき、頭巾をかぶり、目隠しをしたシラディスが立っていた。
「きてくれて感謝する、聖なる女予言者」ザカーズは不思議とうやうやしい口調で言った。「ここにいるわたしの客たちがあることをわたしに言ったのだが、わたしはそれを信じたくない。だが、あなたが確認できることならなんでも受け入れると同意したのだ」
「確認できることをそなたに告げよう、ザカーズ」シラディスは答えた。「あるものはわたしから隠されている、それ以外にもまだあきらかにされていないものもある」
「限界があるのはわかっている、シラディス。ベルガリオンがマーゴ人の王ウルギットはタウル・ウルガスの血を分けた子供ではないと言うのだ。それは本当か?」
「いかにも」シラディスは簡潔に答えた。「ウルギット王の父はアローン人だった」
「タウル・ウルガスの息子でまだ生きている者はいるのか?」
「おらぬ、ザカーズ。タウル・ウルガスの血族は十二年ほど前、最後の息子がウルギット王の家令オスカタットの命令で、ラク・ゴスカの地下室で縛り首にされたときに全滅したのじゃ」
ザカーズはためいきをついて、悲しげに首をふった。「つまり終わったわけだ。わたしの敵一族は気づかれることもなく暗い地下室でこの世界から消えたのだ――敵の消滅にわたしが喜ぶこともできないほどひっそりと死んだのだ。敵をわたしの手から奪ったやつらに呪いを吐くこともできなかったとは」
「復讐はむなしいものじゃ、ザカーズ」
「この三十年、復讐だけが生きがいだったのだ」ザカーズはふたたびためいきをついたあと、うなだれた姿勢を正した。「ザンドラマスは本当にベルガリオンの息子を誘拐したのか?」
「そうじゃ、そしていまザンドラマスは〈もはや存在しない場所〉へ子供を連れて向かっている」
「どこにあるんだ、その場所は?」
シラディスの顔が無表情になった。「それは教えられない」ようやく答えた。「だが、サルディオンはそこにある」
「サルディオンとは何なのか教えてもらえるか?」
「分割された石の半分」
「それは本当にそんなに重要なものなのか?」
「アンガラク中にあれほど価値のあるものはほかにない。グロリムたちはみなそれを知っている。ウルヴォンはそれを手にいれるためなら、すべての富を投げ出すであろう。ザンドラマスも、それのためなら無数の信者の崇拝もほしくはなかろう。メンガは魂と引き換えにしてでもそれをほしがるであろう――事実、メンガは援助を得ようと悪魔の部隊を呼び出したとき、すでに魂を売り渡したのじゃ。ラク・ウルガの高僧アガチャクでさえ、サルディオンを手にいれるためなら、クトル・マーゴスの権勢を放棄するであろう」
「それほど価値のあるものにわたしが気づかなかったとはどういうわけだ?」
「そなたの目は世界の事物に向けられている、ザカーズ。サルディオンはこの世のものではない――分割されたもう半分の石がこの世のものではないのと同じように」
「もう半分というと?」
「アンガラク人がクトラグ・ヤスカと呼び、西方の者たちが〈アルダーの珠〉と呼んでいるものじゃ。クトラグ・サルディウスとクトラグ・ヤスカは相対立する〈宿命〉の誕生を見た瞬間にふたつに分かれた」
ザカーズの顔はいつのまにか真っ青になっていた。かれは手のふるえを抑えようと、両手を胸の前で固く握り合わせた。「すると、すべて真実なのか?」しわがれ声でたずねた。
「すべてじゃ、カル・ザカーズ。すべて」
「ベルガリオンとザンドラマスが〈光の子〉と〈闇の子〉であることもか?」
「そう、いかにも」ザカーズはもうひとつ何かたずねようとしたが、シラディスは片手をあげて制した。「残り時間は少ない、ザカーズ、ここでわたしはさらに重大なことをそなたに知らせねばならぬ。そなたの人生が重要な分かれ道にさしかかっていることを知るがよい。権力への欲望や、復讐への飢えのような子供じみたことにいつまでもかかずらっているべきではない。マル・ゼスへ戻り、きたるべき対決におけるそなたの役割に備えるのじゃ」
「わたしの役割?」ザカーズはおどろいたようだった。
「そなたの名と務めが運勢に書かれている」
「で、どんな務めなのだ?」
「これこそは自分の責務であるとそなたが理解する覚悟ができたら教えよう。まず、そなたはその苦悩に満ちた心とそなたにつきまとう自責の念を晴らさねばならぬ」
ザカーズの顔が冷たくなり、かれはためいきをついた。「それはむりだ、シラディス。まったく不可能だ」
「では、そなたは季節の変わり目にまちがいなく死ぬことになろう。わたしの言ったことをよく考えるがよいぞ、マロリー皇帝。そなたとはいずれまた話し合おう」そう言うと、シラディスは微光を放って消えた。
ザカーズはシラディスの立っていた空間をじっと見つめていた。あごを引いたその顔から血の気が失せている。
「どうだ、ザカーズ?」ベルガラスが言った。「確信できたか?」
皇帝は椅子から立ち上がると、行ったりきたりしはじめた。そしていきなり興奮した声でわめいた。「こんなばかなことがあるか!」
「気持ちはわかる」ベルガラスは穏やかに答えた。「だがな、ばかげたことを信じる心が信頼のあらわれなのだ。その信頼こそ、シラディスの言った覚悟への、第一歩かもしれん」
「信じたくないというのではない、ベルガラス」ザカーズは妙に控え目な口調で言った。「ただ――」
「信じるのは簡単だなどとはだれも言っておらんさ」老人は言った。「しかし、あんたは簡単ではないことを前にやっただろうが?」
ザカーズはまた椅子にすわりこんだ。目を宙にすえて考えこんでいる。「なぜわたしなんだ?」と哀れな声を出した。「なぜこのわたしがこんなことに巻き込まれなくてはならないのだ?」
ガリオンが吹き出した。
ザカーズはひややかにガリオンをにらんだ。
「悪かった」ガリオンは謝った。「だが、ぼくは十四ぐらいのころからなぜぼくなんだ?≠ニ言いつづけてきたのさ。これまでだれも満足できる答えを与えてくれなかった。あんたもしばらくすればその不公平に慣れてくるよ」
「わたしは責任のすべてを避けようとしているのではない、ベルガリオン。ただ、自分にどんな手助けができるのかわからないのだ。諸君はザンドラマスを追跡して貴公の子息を救出し、サルディオンを滅ぼすつもりでいる。そうだろう?」
「事はもう少し込み入っているのだよ」ベルガラスが言った。「サルディオンを滅ぼせば、大異変を巻き起こすことになる」
「よくわからんな。片手を振って、サルディオンに存在することをやめさせるわけにはいかないのか? なんといっても、魔術師ではないか――聞くところによれば」
「それは禁じられているんだ」ガリオンは反射的に言った。「物を破壊することはできない。それがクトゥーチクのやろうとしたことなんだ。おかげでかれはかれ自身を滅ぼしてしまった」
ザカーズはけげんそうにベルガラスを見た。「あなたがクトゥーチクを殺したのだと思っていた」
「たいていの連中はそう思っているのだ」老人は肩をすくめた。「そう思わせておくほうがわしの名声を高めるから、あえて文句はつけんがね」と片方の耳たぶをひっぱった。「事実はちがう。さて、わしらはこの問題を最後まで検討すべきだと思う。サルディオンを滅ぼす唯一の方法が、〈光の子〉と〈闇の子〉の最後の対決の結果であることはまちがいない」ベルガラスはいったん言葉を切って、真剣な顔でいきなり立ち上がった。「どうやら、シラディスはうっかり言うつもりのなかったことをわしらに与えたようだ。彼女はこう言った。グロリムどもはこぞってサルディオンを喉から手が出るほどほしがっているとな。そしてそのリストにはメンガもはいっていた。すなわち、メンガもやはりグロリムということではないか?」老人はアンデルを見た。「あんたの女主人はよくこういうささいなミスをするのかね?」
「シラディスがまちがってしゃべることはありえません、聖なるベルガラス」治癒者は答えた。「女予言者はみずからの声で話すのではなく、予見の声で話すのです」
「すると、シラディスはメンガがグロリムである――あるいは、過去にグロリムだった――ことをわしらに知らせたかったのだ。メンガがサルディオン捜索の手助けに悪魔を呼び出したのも、グロリムだからなのだ」ベルガラスは考えてから、つけくわえた。「もうひとつありがたくない可能性もある。メンガの悪魔たちがサルディオンを手に入れるために、逆にメンガを利用しているという考えだ。ひょっとすると、メンガに関するかぎり悪魔たちがばかにおとなしいのはそのためかもしれん。悪魔はそれだけでも邪悪な存在だ、だが、もしもサルディオンに〈珠〉と同じ力があるのなら、わしらは絶対にサルディオンを悪魔どもに渡してはならん」ベルガラスはザカーズのほうを見た。「どうだ?」
「どうだというと?」
「あんたはわしらの味方か、敵か?」
「いささか無作法ではないか?」
「たしかにな――だが礼儀正しくたずねている暇はないのだ、時間が一つの要素になってきている」
ザカーズは椅子にすわったままだらしなく姿勢をずらした。何を考えているのかその顔からは読み取れない。「この取り決めは、わたしにとって一文の得にもならないようだな」と言った。
「命が惜しくないのか」ガリオンは思い出させた。「シラディスが言っただろう、彼女があんたの前に差し出す務めに背を向ければ、春がくる前に死ぬと」
ザカーズの顔にあるかなきかの陰鬱な微笑がのぼった。死んだような無関心がその目に戻っていた。「わたしの人生はそれほど楽しいものではなかった。余計なことをしてまで長引かせようとは思わん、ベルガリオン」
「ちょっと子供じみていると思わないか、ザカーズ?」ガリオンはかみつくように言った。ふたたび怒りがこみあげてきた。「このクトル・マーゴスでなにひとつ達成していないじゃないか。あんたのために流れるウルガ一族の血はもう一滴も残っちゃいない。あんたの国は災難の瀬戸際にあるんだぞ。それでも一国の王か――王じゃなくて皇帝だかなんだか知らないが――それとも甘やかされた子供なのか? 他人にそうすべきだと言われただけで、あんたはマル・ゼスへ戻るのを拒んでいる。戻らなければ死ぬと他人に断言されても、自分の考えを譲ろうとしない。そんなのは子供じみているだけじゃなく、不合理だ。頭の狂った人間に道理を説いている暇はないんだ。まあ、このラク・ハッガにうずくまって、手垢のついたくたびれた苦悩や失望をあやしているがいいさ。そのうちシラディスの予言があんたをつかまえる。こっちにはどうでもいいことだ。だが、ゲランはぼくの息子だ、ぼくはマロリーへ行く。やらねばならない仕事があるから、あんたをなだめすかしている時間はない」一気にまくしたててから、ガリオンは見下すような、どうでもいい口調でとどめをさした。「おまけに、どうせ、あんたはもう用なしなんだよ」
ザカーズが立ち上がった。目が怒りに燃えている。「失敬だぞ!」ザカーズはそうわめくや、テーブルにこぶしをたたきつけた。
「おどろいたね」ガリオンは皮肉たっぷりに言った。「結局、まだ生きてたんだ。足でも踏まなけりゃ、うんともすんとも言わないのかと思ってた。よし、目がさめたんだから、争おうぜ」
「どういう意味だ、争うとは?」ザカーズは怒りに顔を染めたまま、問いただした。「何をめぐって争うのだ?」
「われわれと一緒にマロリーへ行くか行かないかについてさ」
「ばかを言うな。もちろん一緒に行く。われわれが争うことになるのは、貴公の信じがたい常識的礼儀作法の欠如についてだ」
ガリオンは一瞬ザカーズを見つめたかと思うと、体をくの字にしていきなりげらげら笑いだした。
ザカーズの顔はまだ真っ赤で、こぶしは握りしめられたり開いたりしていた。そのうちに、顔にちょっぴりはにかんだような表情が忍び込み、かれも笑いはじめた。
ベルガラスはびっくりするほど大きな音をたてて息を吐き出すと、いらだたしげに言った。「ガリオン、今度いまのような発言をするときは知らせろ。わしの血管は以前ほど丈夫ではないのだぞ」
ザカーズは目をふいたが、まだ笑っていた。「諸君が荷作りするのにどれくらいかかりそうだ?」かれはたずねた。
「それほど手間取らないよ」ガリオンは答えた。「なぜだ?」
「急にマル・ゼスが懐かしくなったのだ。あそこはいま春だ、桜が満開だろう。貴公もセ・ネドラもマル・ゼスが大いに好きになるぞ、ガリオン」
ベル≠フ省略が不注意によるものなのか、友情の申し出なのか、ガリオンにはよくわからなかった。しかし、マロリー皇帝が想像していたよりはるかに複雑な男であることだけは確かだった。
「では、失礼する」ザカーズは言った。「ブラドーと話し合って、カランダで進行中のことについてもう少し詳しいことが知りたいのでね。ブラドーの話では、このメンガとやらはおおっぴらに王に反抗しているらしい。そのたぐいのことには、わたしはつねつね激しい嫌悪をいだいているのだ」
「右に同じさ」ガリオンはそっけなく賛成した。
それからの数日間、ラク・ハッガと港湾都市ラク・クタンをつなぐ道路は、王の使いの者たちで混みあった。太陽が輝き、空が深い青に晴れて、ラク・ハッガの暗い海から霧のような湯気がたちのぼるころ、ようやく一行は屋敷を出て、冬枯れの平原を横切り、海岸へ向かった。ガリオンは灰色のリヴァのマントを羽織り、ザカーズとともに縦隊の先頭に立っていた。ザカーズはどういうわけか、ふたりが会って以来いつになくうきうきしているようだった。縦隊はかれらの後方数マイルにわたってつづいていた。
「俗悪だな、そうじゃないか?」マロリー人はうんざりしたように肩ごしにうしろを見た。「わたしは追従者とおべっか使いに完全に包囲されているのさ。かれらは腐肉にたかるうじ虫のように増殖するのだ」
「それほどいやなやつらなら、解雇したらいいじゃないか」ガリオンはほのめかした。
「できないのだ。どいつもこいつも有力者の縁者がついている。慎重に連中のバランスをとらねばならない――この部族のひとりにはあの一族のひとりを配するという具合いにな。ある一族から極端に大勢の高官が出ていないかぎり、連中は相手を蹴落とす計略を練ることに余念がない。すなわち、わたしを蹴落とす計略を練る暇はないわけだ」
「物事を治めていくにはそれもひとつの方法だな」
この世界の北端で、太陽が青く澄んだ冬の中空に昇ると、枯草の長い茎やシダについていた霜がそっと溶けたり、軽やかに落下したりして、下に広がる短い緑の苔の上に、枯れてしなだれたシダの白い跡をつけた。
一行は昼食のために小休止した。それはラク・ハッガで用意されたらこうだっただろうと思わせるほどあくまでも贅沢な食事で、おまけに、大きな粗布の屋根の下で純白のダマスク織りのテーブルクロスの上に並べられた。「こんなものだろうな」ザカーズは一行が食べ終わったあとで批判するように言った。
「甘やかされすぎね、閣下」ポルガラが言った。「雨のなかを強行軍で進んで、一日ばかり食べ物を制限されたら、びっくりするほどおなかがすくでしょうに」
ザカーズはおもしろそうにガリオンを見た。「貴公だけかと思っていたが、このぶっきらぼうな物言いは貴公の一族全体の特徴らしいな」
ガリオンは肩をすくめた。「そのほうが時間の節約になる」
「こんなことを言うのもなんですが、ベルガリオン」サディが横から口をだした。「不死身の方が時間にどんな関心を持てるんですか?」かれは哀れっぽいためいきをもらした。「死なないということはさぞ小気味のいいものでしょうね――敵がひとり残らず年をとって死ぬのを見ていられるんですから」
「それは買いかぶりすぎだ」ベルガラスがなみなみと酒をついだ銀のジョッキを手に椅子にもたれた。「ときには、敵もないまま何世紀も過ぎることがある。そんなときは歳月が流れていくのをただ見守っているしかない」
ザカーズがきゅうに口元をほころばせた。「いいことを教えよう」かれはみんなに言った。「この二十五年間で、いまほど爽快な気分になったのははじめてだ。まるで重いものがとりのぞかれたようだよ」
「たぶん毒薬の後遺症ですわ」ヴェルヴェットが意地悪く言った。「たっぷりお休みなさいませ、そうすれば一ヵ月余りでよくなります」
「辺境伯令嬢はいつもこんなふうなのか?」ザカーズはたずねた。
「もっとひどいこともありますよ」シルクがのっそり答えた。
大テントの外へ出たとき、ガリオンはそこまで乗ってきた長い鉤鼻の便利なあし毛の馬を捜してきょろきょろしたが、見あたらなかった。ふと気がつくと、自分の鞍と荷物が別の馬に置かれている。ばかでかいねずみ色の種馬だ。ガリオンが困惑ぎみにザカーズを見ると、じっとこちらを見ているザカーズの目とぶつかった。「これはどういうことだ?」ガリオンはたずねた。
「わたしの無限の尊敬のしるしだ、ガリオン」ザカーズは目を輝かせて言った。「貴公のあし毛も悪くなかったが、とうてい堂々たる馬とは言えない。王には王にふさわしい馬が必要だ。クレティエンヌなら格式を必要とするどんな機会にも恥ずかしくない」
「クレティエンヌ?」
「それがそいつの名前なのだ。このクトル・マーゴスではわたしの厩の誇りだったのだよ。リヴァには厩はあるのか?」
ガリオンは笑った。「ぼくの王国は島だ、ザカーズ。馬よりも船のほうに興味がある」ガリオンは首を曲げ、ひづめのひとつで軽く地面をひっかいている誇り高い灰色の馬を見つめた。かれは急に感謝の気持ちでいっぱいになった。ガリオンはマロリー皇帝の手を温かく握りしめた。「すばらしい贈物だ、ザカーズ」
「もちろんだとも。わたしはすばらしい男だからな――それとも、気づいていなかったのか? 乗ってみろ、ガリオン。顔に風を感じ、ひづめのとどろきに血潮を沸き立たせてみるといい」
「そうだな」ガリオンははやる気持ちを抑えようとしながら言った。「まず互いを知ったほうがいいだろう」
ザカーズはうれしそうに笑った。「もちろんだ」
ガリオンは大きな灰色の馬に歩み寄った。馬はいたって静かにかれを見た。
「しばらくのあいだ鞍を一緒に使うことになりそうだよ」ガリオンは馬に話しかけた。クレティエンヌはいなないて、鼻でガリオンを軽く押した。
「走りたがってるんだ」エリオンドが言った。「あなたが気にしないなら、あなたを乗せて走りますよ。馬も走りたいんです」
「よし。それじゃ行こう」ガリオンは手綱をつかんであぶみに足を乗せ、鞍にまたがった。灰色の馬はガリオンがすわるかすわらないかのうちに、早くも走っていた。
それは新しい経験だった。これまでガリオンは何時間も馬に乗って過ごしたことがある――ときには数週間におよぶことさえあった。善良なセンダー人ならだれでもそうするように、ガリオンもよく馬の面倒をみたが、特別な愛着を感じたことはこれまで一度もなかった。かれにとって馬は単なる輸送手段であり、一ヵ所から一ヵ所へ移動するための方法にすぎなかったから、馬に乗るのはとりたてて楽しいことではなかったのだ。ところが、相手がこの大きな種馬のクレティエンヌだと、事情はまったくちがっていた。疾走するエリオンドとかれの葦毛の種馬と並んで、一マイルほど遠くに見える円丘めざし、冬枯れの草原をかけていくと、体の下で波うつ大きな馬の筋肉が電気ショックにも似た快感を伝えてきた。
丘の頂上にたどりついたとき、ガリオンは息を切らして、まじりけなしの喜びに笑い声をたてていた。手綱を引くとクレティエンヌは後足で立ってひづめで空中をひっかき、もっと走りたがった。
「これでわかったでしょう?」エリオンドがにっこりしてたずねた。
「ああ」ガリオンはまだ笑いながら認めた。「わかった。これまでずっとどうして気づかなかったんだろう」
「ぴったりくる馬じゃないとだめなんですよ」エリオンドは賢そうに言うと、横目使いにガリオンを見た。「自分が前とはまるでちがうってこと、わかるでしょう?」
「まったくだな」ガリオンは答えた。「なんだかこれまでのやりかたじゃ退屈になってきたよ」一リーグほど前方に澄みきった青空を背景に、なだらかな丘陵が見えている。ガリオンはそれを指さして提案した。「あそこへ行って、向こう側がどうなっているのか見てみないか?」
「そうしましょう」エリオンドは笑った。
ふたりと二頭は走りだした。
皇帝の家事担当たちは万事そつがなく、かなりの数の兵たちが先に行って、海岸までちょうど半分の地点に夜の野営の準備をした。縦隊は翌朝早く出発し、ふたたび濃い青空のもとを霜におおわれた道を馬でたどった。午後遅く、一行はとある丘の頂上に登り、〈東の海〉の広大な広がりを見おろした。冬の太陽の下で濃紺の波がうねり、煙のような雲が錆色に染まって遠くの水平線をぼかしている。はるか下方の浅い湾のくぼんだ曲がり目に、赤い帆を巻き上げた船が二十四隻錨をおろしていた。ガリオンは当惑してザカーズを見た。
「これもわたしの言った俗悪な誇示趣味のひとつだ」皇帝は肩をすくめた。「クタンの港からここへこの艦隊を移動させるように命じたのだよ。あのうちの十二隻にはわたしのおべっかつかいたちが――じっさいに仕事をする多少は控え目な連中と一緒に乗る。あとの十二隻はわれわれやんごとなき人々に、それにふさわしい壮麗さをもって付き添うのだ。見かけは大事だぞ、ガリオン。そうでもしないと、王も皇帝もただの正直者とまちがわれてしまう」
「きょうの午後はまた一風変わった気分らしいね」
「ことによるとリセルの言った後遺症のひとつかもしれん。今夜は船のなかで眠り、明日夜明けとともに出航だ」
ガリオンはうなずいて、妙に名残惜しい気持ちでクレティエンヌのうなだれた首にさわり、待っている馬丁に手綱を渡した。
砂浜から一行が乗り込んだ船はゆったりしていた。これまでガリオンが乗ったことのある船の客室は、例外なくせせこましかったが、この船の部屋は大邸宅の部屋に劣らず広々としていた。この違いがどこからくるのかつきとめるまでしばらくかかった。大部分の船が客室にわずかなスペースしかさかないのは、船上の空間のほとんどが荷物に占領されるからなのだ。だが、この船を占領するのはマロリー皇帝ひとりだった。
その晩かれらはザカーズの漂う宮殿の梁の低い食堂で、夕食に伊勢エビを食べた。この一週間余り、予測のつかない皇帝にもっぱら注意を注いでいたため、ガリオンは友人たちと話す機会があまりなかった。というわけで、テーブルにつくとき、ガリオンはわざとマロリー人から遠く離れた正面の席を選んだ。セ・ネドラとヴェルヴェットが女性特有の笑いさざめくようなおしゃべりで皇帝の気を紛らしているあいだ、ポルガラとダーニクにはさまれてすわっていると肩の荷がおりたような安堵感をおぼえた。
「疲れているようね、ガリオン」ポルガラが目ざとく言った。
「ちょっと気を張っていたからね」ガリオンは答えた。「あの男が猫の目みたいにころころ変わらないでいてくれればいいんだが。どういう人間かわかったと思うたびに、別人みたいになるんだからな」
「人を分類するのは賢明な考えじゃないわね、ディア」ポルガラは穏やかに忠告してガリオンの腕にふれた。「ものの考え方が不明瞭になってきた最初の兆候よ」
「本当にこんなものを食べることになってるのかね?」ダーニクがさもいやそうにナイフで皿を指した。真っ赤な伊勢エビがつめをふりたてているような格好で、皿からダーニクを見上げている。
「だからペンチがあるのよ、ダーニク」ポルガラが妙に温和な口調で説明した。「殻を割って中身を取り出さなくちゃ」
ダーニクは皿を押しやった。「でかくて赤い虫みたいなものを食べるつもりはない」いつになく強い口調で鍛冶屋は宣言した。「我慢できないものもあるんだ」
「伊勢エビはおいしいわよ、ダーニク」
かれはぶつぶつ言った。「カタツムリを食べる連中もいるからな」
ポルガラの目がさっと燃え上がったが、彼女は怒りを抑えてさっきと同じ温和な口調で話しかけた。「なんならそれを片づけさせて、別のものを持ってきてもらったらいかが」
ダーニクはポルガラをにらみつけた。
ガリオンはふたりの間で視線を行きつ戻りつさせた。が、そのうちに、長いつきあいなのだから、どんな問題であれ遠慮して避けて通ることはないのだと判断した。「どうしたんだい、ダーニク?」ガリオンはぶっきらぼうにたずねた。「鼻をすりむいた穴熊みたいに機嫌が悪いね」
「なんでもない」ダーニクはかみつかんばかりだった。
ガリオンは二、三の事柄を組み合わせはじめた。トスに関して、アンデルがポルおばさんに頼んでいたことを思いだした。視線を動かして見ると、大柄な物言わぬ男はテーブルの向こうで目を皿に伏せ、消え入りたいと努力しているようだった。次にダーニクに視線を戻すと、鍛冶屋はあいかわらず元友人からかたくなに顔をそむけている。
「ははあ」ガリオンは言った。「いまわかったよ。ポルおばさんがダーニクの聞きたくないことを何か言ったんだな。心から好きだっただれかさんがダーニクを怒らせるようなことをしたんで、ひどいことを言ってしまったが、いまになってそれを後悔しているんだろう。そこへきて、そのだれかさんがその件については選択の余地がなかったことや、結局その行動が正しかったことがわかった。仲直りしたいのに、どうすればいいのかわからないんだ。それでそんなふうにふるまっている――そしてポルおばさんにまでやつあたりしているんだね?」
ダーニクの顔が最初こわばった。次に顔が真っ赤になり――やがて青くなった。「そんなことを聞く必要はない」叫ぶように言って立ち上がった。
「やだなあ、すわってくれよ、ダーニク」ガリオンは言った。「ぼくたちみんなこんなふるまいをするような仲じゃないじゃないか。どぎまぎしたり、怒ったりしないで、どうすればいいか考えないか?」
ダーニクはガリオンと目を合わせようとしたが、ついに真っ赤になって顔を伏せた。「わたしはトスにひどいことをした、ガリオン」ぼそっと言うと、鍛冶屋はまたすわりこんだ。
「ああ」ガリオンは同意した。「そうだな。だがそれはトスが何をしているのか――なぜあんなことをしたのか――理解できなかったからだ。ぼくだっておとといまで理解できなかった――ザカーズがようやく気を変えて、ぼくたちをマル・ゼスへ連れていこうと決心するまでは。シラディスはザカーズがそうすることを知っていた。だからトスにぼくたちをアテスカの部下に引き渡させたのさ。シラディスはぼくたちがサルディオンにたどりつき、ザンドラマスに会うことを望んでいる。だからそうもっていこうとしている。現在の状況では、トスほどの友だちは見つけたくても見つけられないよ」
「どうしたらいい――つまりその、トスにあんな仕打ちをしたあとで?」
「正直になることだ。自分が悪かったことを認めて謝るんだよ」
ダーニクの表情が硬くなった。
「言葉で謝る必要はないさ、ダーニク」ガリオンは辛抱強く言い聞かせた。「トスとは何ヵ月も言葉を使わないで話し合っていたじゃないか」ガリオンは推し量るように梁の低い天井を見上げた。「これは船だ。ぼくたちはこれから海へ出て行くところだ。どうだろう、あの海にも少しは魚がいるかな?」
たちどころにダーニクの顔に微笑が浮かんだ。
しかしポルガラのためいきは物思わしげだった。
鍛冶屋はほとんど恥じらうようにテーブルをながめた。「どうやったらこれを殻から出せると言ったっけな、ポル?」かれは皿の上で怒っているような伊勢エビを指さした。
ハッガの沿岸から北東へ進むと、まもなく冬は遠ざかった。航行の途中のどこかで、北極と南極から等距離にある目に見えない境界線を越え、ふたたび世界の北半球にはいった。ダーニクとトスははじめのうち照れていたが、やがて信頼と友情を取り戻して、終日船尾に居すわり、釣り竿と色あざやかな毛針と、見物人から集めたさまざまな餌で海を探った。
ザカーズはベルガラスとポルガラと話し込んでいた。話題はもっぱら悪魔の性質という笑いとは縁遠いものだったが、ザカーズのザカーズらしからぬ機嫌のよさはあいかわらずだった。海に出てから一週間たったある日、左舷の手すりにもたれてきらめく波の上で踊る風を眺めていたガリオンのところへ、ようやくひとりの召使いがやってきて、皇帝がお目にかかりたがっていると告げた。ガリオンはうなずくと、ザカーズがいつも謁見している船尾の客室へ向かった。この漂う宮殿にある客室の多分にもれず、その部屋も大きくてこれみよがしな装飾が施されていた。船尾を横切る格好で大きな窓が伸びているので、室内はあかるく、広々している。窓の両側にひきしぼられている幕は真っ赤なビロードで、上質のマロリーの絨緞は深い青だった。ザカーズは例によって簡素な白い麻布を着て、部屋の向こうの突き当たりに置かれた詰め物をした低い革張りの寝椅子にすわり、白い波頭と船のあとをついてくる真っ白なカモメの群れを眺めていた。
「何か用か、ザカーズ?」ガリオンは部屋にはいってたずねた。
「ああ。はいりたまえ、ガリオン」マロリー人は答えた。「ここ数日あまり貴公と顔を合わせなかったな。避けているのか?」
「いや。そっちが悪魔の勉強に忙しかったんだ。ぼくは悪魔にはあまり詳しくないから、話し合いに加わらなかっただけのことさ」ガリオンは部屋を横切りかけて立ち止まり、かがみこんで、獰猛にじゃれついてくる子猫を左の足首から引き離した。
「飛びかかるのが大好きなのだ」ザカーズは微笑した。
ガリオンはふと思いついて、用心深くあたりを見回した。「ジスはいないんだろうね?」
ザカーズは笑った。「いない。サディがジスをひきとめておく手段を考案したのだ」かれは妙な目でガリオンを見た。「あの蛇には本当にサディが言うような猛毒があるのか?」
ガリオンはうなずいた。「ラク・ウルガで一人のグロリム僧にかみついた。かれは三十秒とたたないうちに死んだよ」
ザカーズはみぶるいした。「サディには言わなくていいが、蛇を見るとわたしは鳥肌がたつのだ」
「シルクに話してみるといい。どんなに蛇がきらいか長々と論述してくれる」
「複雑な男だな、ケルダー王子も」
ガリオンはほほえんだ。「まったく。かれの人生は危険と興奮でいっぱいなんだ。だから、きつく巻いたリュートのバネみたいに神経がぴりぴりしている。のらりくらりとらえどころがないときもあるが、しばらくすればそれにも慣れるさ」革張りの寝椅子の反対側に腰かけながら言った。「きっと海の空気が合っているんだな」
「じつは空気のせいではなさそうなのだよ、ガリオン。このところ八時間から十時間眠っていてね、それと関係があるにちがいない」
「眠ってる? あんたが?」
「おどろくべきことじゃないか」ザカーズの顔が突然真顔になった。「無駄話はこのへんにしておこう、ガリオン」
「もちろん」
「わたしが若かったときに何があったか、ウルギットは話したかね?」
ガリオンはうなずいた。「ああ」
「ほとんど眠らない習慣がはじまったのはそのときからなのだ。最愛の人の顔が夜な夜な夢にあらわれて、眠るのが苦痛になってしまった」
「だんだん見なくなるということはなかったのか? 三十年ちかくたっているんだぞ?」
「まったくなかった。わたしはたえず苦悩と罪悪感と悔恨にさらされて生きてきたのさ。タウル・ウルガスへの復讐だけを支えに生きていたのだ。だが、チョ・ハグの剣がその支えをわたしから奪ってしまった。あの狂人を殺す計画――考えつくたびに残忍になっていく――を十二通りも胸に温めていたのに、やつは戦いであっさり死んでしまい、わたしは肩すかしをくってしまった」
「それはちがう」ガリオンは反論した。「タウル・ウルガスの死はあんたには思いつかないような無残なものだったんだ。そのことでチョ・ハグと話したことがある。チョ・ハグが殺す前に、タウル・ウルガスは完全に気が狂っていたが、自分がついに負けたということだけは理解していた。怒りと絶望のあまり、かれは地面にかみつき、土をかきむしりながら死んでいったそうだ。敗北ほど耐えがたいものはなかったのさ」
ザカーズは考え込んだ。「そうだな」ついに言った。「やつにとっては負けるのはおそるべき恐怖だったろう。それを聞いて、いくらか気が晴れたような気がする」
「で、ウルガ一族がいまや全滅しているとわかったから、長年眠りにとりついていた亡霊がいなくなったのか?」
「いや、ガリオン。そのこととは関係ないようだ。これまでずっとあった顔が、他の顔にとってかわっただけなのだ」
「ほう?」
「目隠しをした顔にな」
「シラディスか? 彼女のことをそういうふうに考えるのは薦められないな」
「それは誤解だ、ガリオン。シラディスは小娘にすぎん。しかし、なぜだかこれまで知らなかったような安らぎと慰めをわたしの人生に添えてくれたのだよ。わたしは赤ん坊のように眠り、この愚かな陶酔を身の内に感じながら一日中歩き回っている」ザカーズはかぶりをふった。「率直なところ、こんな自分にあきれているが、どうすることもできない」
ガリオンは窓の外を見つめたが、その目は波にたわむれる日差しも、群れ遊ぶカモメも見てはいなかった。やがて頭のなかでぼんやりしていたものが鮮明になり、それが否定しようのない真実であることがわかった。「それはシラディスの言った人生の分かれ道にあんたがさしかかっているからなんだ。正しい道を選んだそのほうびなんだよ」
「ほうび? だれがくれるほうびなんだ?」
ガリオンはザカーズを見て、いきなり笑いだした。「まだ受け入れる態勢ができていなかったらしいな。いまの安らかな気持ちをもたらしているのがシラディスだってことは信じられるんだろう?」
「まあ、そうだな」
「事はもうちょっと複雑なんだが、そこがスタートだ」ガリオンは目の前のけげんそうな男を見つめた。「あんたもぼくもぼくたちの力ではどうすることもできないことに巻き込まれている」ガリオンはまじめに言った。「ぼくは前にもそういう目に会っているから、できるだけあんたのために用意されているショックを和らげる努力をするつもりでいる。世界を一風変わったやりかたで見るということに、偏見を持たないでくれ」ガリオンはさらに考えた。「われわれは協力することになりそうなんだ――少なくともある時点までは――だから、友人でいるほうがいいんだよ」と、右手を差しだした。
ザカーズは笑って、ガリオンの手を固く握りしめた。「もちろんだ。ふたりともタウル・ウルガスに負けない狂人のような気がするが、いいではないか。われわれは世界でもっとも力のあるふたりなのだ。不倶戴天の敵のはずだが、貴公は友情を申し出ている。喜んで受け入れるよ」ザカーズはまたうれしそうに笑った。
「不倶戴天の敵ならほかにたくさんいる、ザカーズ」ガリオンは重々しく言った。「あんたの軍勢のすべても――ぼくの軍勢のすべても――われわれが向かっているところへたどりついたときには、何の意味もなくなるんだ」
「それはどこなのだ、友よ?」
「〈もはや存在しない場所〉と呼ばれているところさ」
「そのことをきこうと思っていたのだ。その言い回しは言葉の上で矛盾している。もう無い場所へどうやって行けるのだ?」
「よくわからない。そこへついたら教えてやるよ」
二日後、かれらは古マロリー南部の港、マル・ゲミラに到着し、馬にまたがった。ゆるいかけ足で、緑に萌えるすがすがしい平原を左右に見ながら、手入れのゆきとどいた本道を東へ向かった。赤いチュニック姿の騎兵隊が先頭に立って道をあけさせ、いつもなら皇帝に付き添っている側近たちはついてゆけずにはるか後方に遅れた。本道に沿って休憩所――西方の道沿いに点在するトルネドラの宿屋に似ていなくもない――があり、そういう道端の休憩所では皇帝の護衛がややぞんざいに他の客たちを追い払って、皇帝とその一行のために席を確保した。
一日一日と進むにつれて、ガリオンは少しずつマロリーにかぶせられている国境なき≠ニいう言葉の本当の意味がわかってきた。前はいつ見ても信じがたいほど広大に思えたアルガリアの平原が、ここでは取るにたらぬ大きさだった。かれらが進む道の南にあるドラスニアの雪をいただいた山脈の峰々が、白い鋭い爪で空をひっかいている。この広大無辺の領土を奥へ奥へと進むにつれて、ガリオンは自分が小さくなっていくような錯覚にとらわれた。
不思議なことに、セ・ネドラも同じような感覚に悩まされているようだった。彼女がそれを嫌悪しているのはあきらかだった。言うことがだんだん辛辣になり、皮肉っぽくなってきた。農夫の着ているぶかぶかの服をぶざまだと考え、辛抱強くとぼとぼ進む牡牛たちのうしろについている、一度で何エーカーもの土地を耕す複式鋤の構造に難癖をつけた。食べ物も攻撃の対象だった。水さえも――トルネドラの山中の岩の割れ目からほとばしり出ているような、水晶のように透き通って、冷たく甘い――彼女の舌を怒らせた。
マル・ゲミラからの旅の最後の日の、よく晴れた朝の九時ごろ、シルクはセ・ネドラと並んで馬を進めながら、いたずらっぽく目を輝かせていた。「気をつけたほうがいいよ、女王陛下」かれはこずるそうにセ・ネドラに警告した。一行が近づいていく丘の中腹は緑の霧がかかっているのかと見まちがうほど、春の草にこんもりとおおわれていた。「不用心な旅人のなかにはマル・ゼスをはじめて見たとたんに、目が見えなくなるのがいるんだ。安全のために、片目を手でおおっておいたらどうだい? そうすればすくなくとも片目は助かる」
セ・ネドラはよそよそしい顔つきになって、鞍のなかで精一杯背すじをのばし――彼女がもうちょっと背が高ければ、もっと堂に入った動作になっただろう――おそろしく尊大な口調で言った。「おもしろくもないわ、ケルダー王子、世界の果ての未開の都市が、世界でただひとつの本物の帝都、トル・ホネスのすばらしさに匹敵するなんてだれも思っては――」
そこまで言ってセ・ネドラはたちどまった――みんなも手綱をひいた。
頂上の向こう側に数マイルどころか、数リーグにわたって谷がのびていた。そしてマル・ゼスの都市がその谷いっぱいに広がっていた。街路はぴんと張られた紐のようにまっすぐで、建物はきらめいていた――大理石で、ではない。というのも、この巨大な都市の建造物のすべてをおおうほどの大理石は世界にないからだ――大理石をしのぐまばゆい光を放っているのは、ぶあつい白漆喰で、そのまぶしさは目を射らんばかりだった。ほれぼれするような都市だった。
「たいしたことはない」ザカーズの口調はばかに否定的だった。「われわれが好んで故郷と呼んでいる友好的な町にすぎんよ」かれはセ・ネドラのこわばって青ざめた小さな顔をずるそうな表情で眺めて、言った。「進んだほうがいいだろうね、女王陛下。ここから宮殿までは半日かかるから」
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第二部 マル・ゼス
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マル・ゼスの城門は、トル・ホネスの城門のように青銅で、幅広く、ぴかぴかに磨きこまれていた。だが城門の内側の都市は、トルネドラ帝国の首都とはかなり異なっていた。建物同士が妙に似通っているうえ、ぴったりくっつきあっているために、まるで一個の大きな建造物のようだ。都市の広い街路は堅固な漆喰の外壁に両側からはさまれているように見える。外壁の継目らしきものは、奥のほうに設けられたアーチ型の戸口だけで、そこからひらべったい屋根の上まで狭くて白い階段が伸びていた。ところどころで漆喰がはがれ落ち、建物の骨組みは角材であることが露呈されている。建築物はことごとく石でできているべきだ、と信じているダーニクはその事実に気づいて不満げだった。
都市のなかへはいっていくにつれて、ガリオンは窓というものがほとんどないのに気づいた。「批判するつもりはないが、この都市はちょっと単調すぎやしないか?」ザカーズに言った。
ザカーズは不思議そうにガリオンを見た。
「どの家も同じだし、窓が少なすぎるよ」
「そのことか」ザカーズはほほえんだ。「設計を軍部に一任した間違いのひとつでね。軍の連中は均一性をなによりも重視する。それに、要塞に窓はいらない。だが、どの家にもささやかな庭があって、窓はそこに面しているのだ。夏になると、市民はほとんどの時間を庭で過ごす――あるいは屋根の上で」
「都市全体がこんなふうなんですか?」ダーニクはひしめきあっている小さな家々を指さした。
「そうではない、善人」皇帝は答えた。「この一画は伍長連中のためのものだ。士官専用の居住区はもう少し飾り気があるし、兵卒や労働者はもっとみすぼらしいところに住んでいる。軍人は階級にこだわる傾向があるから、外見もそれにふさわしいものになるというわけだ」
かれらが行く大通りから枝分かれしたわき道の少し先で、どっしりした赤ら顔の女がやせた男を怒鳴りつけていた。卑屈な表情を浮かべた男のそばで、数人の兵隊が家から家具をひきずりだし、ぐらぐらの荷車に積み上げている。「ああいうことをしなけりゃ気がすまなかったのかい、アクタス?」女はくってかかった。「酔っぱらって、大尉さんを侮辱するだなんて、あたしらはこれからどうなるのさ? あたしはこれまでずっとこのきたならしい兵卒居住区で、あんたがえらくなるのを我慢して待ってたんだ。そろそろ上向きになってきたと思ってたら、飲んだくれてまた兵卒に格下げだ、おかげで全部ぶちこわしじゃないか」
男はもぐもぐ言った。
「なんだって?」
「なんでもないよ、おまえ」
「忘れようたってそうはさせないよ、アクタス、いいかい」
「人生に浮き沈みはつきものですよ」そのやりとりが聞こえないところまでくると、サディがつぶやいた。
「笑ってすましていいことじゃないと思うわ」セ・ネドラがびっくりするほど熱っぽく言った。「一時の愚行のおかげで、あのふたりは家からたたきだされてしまうのよ。だれかなんとかできないの?」
ザカーズが見直したようにセ・ネドラを見たあと、うやうやしくあとからついてくる赤マントの士官のひとりを手招きした。「あの男の所属部隊をつきとめてくれ」ザカーズは指示した。「そして部隊の大尉のところへ行き、アクタスが元の階級に戻れたら――アクタスがしらふであることを条件に――わたしが個人的好意として配慮すると伝えるのだ」
「さっそく仰せのとおりに、陛下」士官は敬礼して馬で立ち去った。
「まあ、ありがとう、ザカーズ」セ・ネドラがちょっとおどろいたように言った。
「おやすい御用だよ、セ・ネドラ」ザカーズは鞍の上からお辞儀したあと、短い笑い声をもらした。「いずれにせよ、アクタスの女房は亭主をいやというほど後悔させるだろうな」
「あんな同情を与えてやって、評判に傷がつきませんか、陛下?」サディがたずねた。
「いや。統治者はつねに予測のつかぬ行動を取る必要があるのだ、サディ。そうすれば、下っ端連中はうかうかしていられない。おまけに階級の低い者にときどきあわれみをかけてやると、忠誠心を高めるのに役立つ」
「政治に左右されない行動をすることはないのか?」ガリオンはきいた。自分の行動を説明するザカーズの軽々しい言い方が、なんだかしゃくにさわった。
「思いつけるかぎりではないね」ザカーズは言った。「政治ほど偉大なゲームはこの世にないのだ、ガリオン、ただし、優位は保たねばならん」
シルクが笑った。「商売にも同じことがあてはまるな。ただひとつ違うのは、商売では優位に立つ手段として、金があるってことですよ。政治ではどうやって優位を保つんです?」
ザカーズの顔の上で、おもしろがっているような表情と、おそろしく真剣な表情がまざりあった。「じつに簡単だよ、ケルダー。最期まで王座にすわっていれば、勝ちなのだ。死んだら負けさ――毎日がまったく新しいゲームなのだ」
シルクは値踏みするようにじっとザカーズを見つめてから、ガリオンを見やってわずかに指を動かした。(おまえと話す必要がある――いますぐに)
ガリオンは短くうなずくと、鞍にすわったまま前かがみになり、手綱を引いた。
「どうした?」ザカーズがきいた。
「馬帯がゆるんでるらしい」ガリオンは答えて馬をおりた。「先に行っててくれ。すぐに追いつく」
「手伝ってやるよ、ガリオン」シルクが申し出て、やはり鞍からとびおりた。
「どういうことなんだ?」皇帝がセ・ネドラと談笑しながら行ってしまうと、ガリオンはたずねた。
「ザカーズにはじゅうぶん気をつけろ、ガリオン」小男はガリオンの鞍についている紐を点検するふりをしながら、声をひそめて答えた。「やつはさっきうっかり本音を吐いたんだ。表面上はにこやかに礼儀正しくしているが、一皮むけば、以前とほとんど変わっていない」
「冗談を言ってただけじゃないというのか?」
「ちがう。ザカーズはおおまじめだった。おれたちみんなをマル・ゼスへ連れてきたのは、メンガやザンドラマスの捜索とは関係のない理由のためだよ。油断するなよ。あの友だち面した微笑は、いまに一変するぞ」シルクはそこまで言うと、ちょっと声をはりあげた。「そら」と紐をひっぱった。「これでいいはずだ。みんなに追いつこう」
一行が馬を乗り入れた大きな広場は、四方を赤、緑、青、黄色のさまざまな色合いに染めた粗布の売店に囲まれていた。色とりどりのゆるやかなかかとまで届く服をきた商人や市民が、広場を埋め尽くしている。
「都市全体が兵隊の階級に基づいて分けられているとすると、一般市民はどこに住んでいるんです?」ダーニクがたずねた。
たまたま鍛冶屋の隣りで馬にまたがっていたはげでぽっちゃりした国務長官のブラドーが、笑顔であたりを見回した。「市民にも階級があるんですよ、善人。ひとりひとりの業績によってね。すべてが昇進局によって厳しく管理されています。家、仕事場、それ相応の結婚――すべて階級によって決定されるんです」
「それはちょっと統制のしすぎじゃないですか?」ダーニクは辛辣に言った。
「マロリー人は統制されるのが好きなんですよ、善人ダーニク」ブラドーは笑った。「アンガラク人はお上に反射的にお辞儀をするし、メルセネ人は物事を細かく分ける内なる深い欲求を持っている。カランド人は愚かすぎて、みずからの運命を支配することができない。そしてダル人は――そう、ダル人が何を望んでいるかはだれにもわかりませんがね」
「われわれは西方の人々とそれほどちがわないのだ、ダーニク」ザカーズがふりかえって言った。「トルネドラやセンダリアでは、そういう事柄は金のあるなしによって決定される。庶民はそれ相応の家や店や結婚に自然に落ち着くものだ。われわれはそれを形式化しているだけのことだよ」
「あのですね、陛下」サディが言った。「陛下の国民はどうしてああ物静かなんですか?」
「なんのことかね」
「あなたが通りかかったら、せめて敬礼ぐらいはすべきじゃないんですか? なんといっても、あなたは皇帝なんですから」
「わたしがわからないのだ」ザカーズは肩をすくめた。「皇帝とは真紅のマントを着て、金色の馬車に乗り、おそろしく重い宝石だらけの冠をかぶった人物であり、ラッパを吹き鳴らす近衛兵の一団をしたがえていることになっている。だがわたしは白い麻布を着て、数人の友人と町を馬で通過している男にすぎん」
ガリオンはシルクが小声でささやいた警告を念頭において、そのことを考えてみた。ザカーズの言ったことには自己顕示のかけらもなかったが、そのこと自体、かれが複雑な人間であることを示すもうひとつの面にほかならなかった。西方の全君主のなかでもっとも温和なセンダリアのフルラク王ですら、ここまで自己をなくすことは不可能にちがいない。
広場の向こうの通りには、かれらが通ってきた城門近辺の家よりもいくらか大きな家々が並んでおり、そこでは多少家を装飾する試みが見受けられた。だが、マロリー人彫刻家の才能には限りがあると見え、どの家の正面にも置かれている漆喰を鋳型に流し込んで作った細工物は、武骨で優雅とはいいがたかった。
「曹長の居住区だ」ザカーズがそっけなく言った。
都市は際限なくつづいているようだった。規則正しい間隔で広場や市場や露店があらわれ、そのどれもがマロリー人の平均的服装らしい、色あざやかなぶかぶかの服を着た人々でこったがえしていた。曹長たちの見分けもつかないくらいよく似た家並の前を通りすぎ、同じ階級の市民の家々を通過すると、一行は樹木と芝生の広い帯状地帯にはいった。噴水が水しぶきをあげて日差しにきらめき、幅の広い並木道の両側には、念入りに剪定した緑の生け垣があって、そのところどころにピンクの花をつけたサクラの木がそよ風に揺れている。
「まあ、すてき」セ・ネドラが歓声をあげた。
「マル・ゼスにも美しいところはあるのだよ」ザカーズはセ・ネドラに言った。「ひとつの都市を端から端まで醜悪なものに仕立てることはだれにも――軍の建築家にさえ――できない」
「士官の居住区はなかなかのもんだよ」シルクは小さな女王に言った。
「すると、マル・ゼスを知っておられるのですね、殿下?」ブラドーがたずねた。
シルクはうなずいて、答えた。「相棒とふたりでここに店を持ってるんだ。実際の商売というよりは、中央に集められた収集物の置き場所といった色あいのほうが強いがね。マル・ゼスで商売をするのは厄介なんだ――規制が多すぎてな」
「殿下に割り当てられた階級をおたずねしてもよろしいですか?」丸顔の官僚は遠慮がちにたずねた。
「将軍クラスさ」シルクはどうだいと言わんばかりだった。「ヤーブレックは元帥になりたかったんだが、おれはその階級の購入額が不当に高いと思ったんだ」
「階級を買うんですか?」サディがきいた。
「マル・ゼスではあらゆるものが金で買えるんだ」シルクは答えた。「ほとんどの点で、マル・ゼスはトル・ホネスそっくりだよ」
「全部が全部というわけじゃなくてよ、シルク」セ・ネドラがしかつめらしく言った。
「広い意味においてというだけのことさ、女王陛下」シルクはあわてて言った。「マル・ゼスは高価な宝石のように輝き、太陽も顔負けの光輝にあふれた、息をのむほどに美しい女王を拝んだことなど一度もなかったんだからね」
セ・ネドラはけわしい目つきでシルクをにらんでから、ぷいと背中を向けた。
「おれが何を言った?」小男は傷つけられた口調でガリオンにたずねた。
「人から疑われるのはいつものことじゃないか、シルク」ガリオンは言った。「からかわれているわけじゃないってことが、みんなにはよくわからないんだよ。そのくらい知ってるはずだろう」
シルクはことさら悲しそうなためいきをついた。「だれもおれをわかってくれないんだ」
「いいや、わかってるさ」
帯状に広がる公園と庭園の向こうの広場と大通りは、さらに壮大だった。家は一段と大きくなって、一軒一軒離れて建っていた。それでも、依然として依怙地なまでに似通っていることに変わりはなく、頑固な同一性を見れば、同じ階級の人々はあくまでも同じ居住区に割り当てられることになっているのはあきらかだった。
将軍と、将軍と同じクラスの商人たちの住む邸宅の向こうには、ふたたび樹木の植わった広大な芝生が広がり、その円形に広がる緑に囲まれて、城壁とぴかぴかの城門のあるかなり大きな大理石の都市がそびえていた。
「宮殿だ」ザカーズがこともなげに言ってから、眉をひそめた。「あそこはどうしたのだ?」かれはブラドーにたずねて、緑に囲まれた南の城壁の近くに建つ高い建造物の長い列を指さした。
ブラドーはコホンと咳き払いした。「官僚のオフィスでございます、陛下」かれは感情をまじえずに答えた。「タール・マードゥの戦いの直前に、オフィスの建築を許可なさいました」
ザカーズは口元をひきしめた。「あれほど大規模なものだとは思いもしなかった」
「わたしども官僚はおびただしい数にのぼります、陛下」ブラドーは説明した。「各省にそれそれの建物があったほうが、より協調性が出てくると思ったのです」ブラドーは申し訳なさそうな顔をした。「わたしどもにはぜひともスペースが必要だったんだよ」と、弁解口調でサディに説明した。「軍人とごちゃまぜになってしまい、しょっちゅう異なる省の人間同士が同じオフィスを共有しなければならなかった。このほうがずっと効率がいい、そう思わないかね?」
「この議論にわたしを巻き込まないでいただけるとありがたいんですが、閣下」サディは答えた。
「わたしはただ国事をきりまわすあなたの知識を参考にしたかっただけだよ」
「サルミスラの宮殿はいささか風変わりなんです」サディはブラドーに言った。「わたしたちはごちゃまぜになるのを好んだんですよ。そのほうがスパイ活動や、殺人や、陰謀や、その他の正常な政府活動をするにはもってこいですからね」
宮殿の城門に近づくにつれて、ガリオンはぶあつい青銅の城門が金箔でおおわれているのに気づいて、少なからずおどろき、そのような理由のない浪費を考えただけで、つましいセンダリア気質が反発した。ところが、セ・ネドラはそのとほうもない城門をまぎれもない賞賛のまなざしでながめていた。
「あれを動かそうたってむりだよ」シルクがセ・ネドラに言った。
「なんですって?」セ・ネドラはうわの空だった。
「城門さ。盗むには重すぎる」
「黙ってて、シルク」セ・ネドラはうっとりと城門に見ほれながら言った。
シルクがげらげら笑いだすと、セ・ネドラは緑の目を細めてじろりとシルクをにらみつけた。
「うしろへ行ってベルガラスがどうしているか見てこようかな」小男は言った。
「どうぞ、ご勝手に」そう言ってから、セ・ネドラはガリオンに視線を移した。
ガリオンはにやにや笑いを隠そうとしているところだった。「なにがおかしいの?」
「べつに、ディア」ガリオンはあわてて答えた。「景色を楽しんでいるだけだよ」
城門を守る衛兵の分隊は、トル・ホネスの城門に立つ番兵たちほど飾りたてていなかった。例によって赤いチュニックの上にぴかぴか光る鎖かたびらを着、ぶかぶかのズボンの裾を膝丈の長靴のなかにつっこみ、赤いマントに先のとがった円錐形の兜をかぶっている。にもかかわらず、あまり兵士らしく見えなかった。衛兵たちはきびきびと軍隊風の敬礼をしてカル・ザカーズを迎え、皇帝が金ぴかの城門をくぐると、ラッパ吹きたちがけたたましいファンファーレを鳴らして皇帝の入城を知らせた。
「あれにはいつも虫酢が走るよ」マロリーの統治者はガリオンに打ち明けた。「あの音が耳にさわるのだ」
「ぼくがいやだったのは、ぼくがなにか必要としているんじゃないかと思ってみんながぞろぞろついてくることだったな」ガリオンは言った。
「都合のいいこともあるだろう」
ガリオンはうなずいた。「ときにはね。しかしそういう連中のひとりがぼくの背中にナイフを投げつけたときは、好都合どころじゃなかった」
「本当か? リヴァの国民はひとり残らず貴公を敬愛しているものと思っていた」
「それは誤解だったんだ。その若者と話し合ったあと、かれはもうそういう物騒なまねはしないと約束したよ」
「それだけか?」ザカーズは唖然として叫んだ。「そいつを死刑にしなかったのか?」
「もちろんしない。いったん誤解が解けてしまうと、若者は実に忠実な男であることがわかったんだ」ガリオンは残念そうにためいきをついた。「かれはタール・マードゥで死んだ」
「残念なことをしたな、ガリオン」ザカーズは言った。「われわれはみなタール・マードゥで友を失ったのだ」
城内の大理石におおわれた建物は不調和な建築様式の寄せ集めで、簡素で実利的なものから、凝りに凝った装飾的なものまでが入り乱れていた。なぜかガリオンの頭に、ヴァル・アローンのアンヘグ王の城にある養兎場が浮かんだ。ザカーズの宮殿はひとつの建造物から成り立っているのではなかったが、建物同士はすべて両側に柱の並ぶ遊歩道と柱廊によってつながれており、それらが彫像や大理石のあずまやの点在する地上を公園のように横切っていた。
ザカーズはその迷路じみた空間を通り抜けて、一行を城内の中央へ案内した。すばらしい宮殿が孤立してそびえていた。その大きさと高さが、これこそ国境なきマロリーの全権力の中心であることを声高に物語っている。「統一者カラーズの住まいだ」皇帝が皮肉たっぷりに知らせた。「尊敬すべきわが先祖さ」
「ちょっと誇張のしすぎじゃありませんこと?」マル・ゼスが少女時代の故郷よりはるかにまさっている事実をまだ認めたくないらしく、セ・ネドラが辛辣にたずねた。
「もちろん」マロリー人は答えた。「しかし、誇示は必要だったのだ。カラーズは他の将軍たちに、自分のほうが優位にあることを具体的に示さなければならなかった。マル・ゼスでは階級は住居の大小に反映する。カラーズはまぎれもない悪党であり、強奪者であり、個人的魅力に乏しい男だったから、別のやりかたで自分をアピールしなければならなかったのだ」
「政治がお好きじゃないんでしょう?」ヴェルヴェットがセ・ネドラに言った。「我欲のありったけが許される唯一の分野ですものね――国のお金がつづくかぎりは」
ザカーズは笑った。「きみに政府のポストを提供すべきかもしれんな、リセル辺境伯令嬢。どうやらわれわれには厳しい現実主義者が必要らしい――われわれの慢心したうぬぼれをぺしゃんこにする人物がな」
「まあ、おそれいります、陛下」ヴェルヴェットはえくぼをみせてほほえんだ。「一族伝来の職務への義務がなければ、考慮してみたかもしれませんわ。とてもおもしろそうですから」
ザカーズはさも残念そうにためいきをついた。「わたしが妻を必要としていたときに、きみはどこにいたんだね?」
「たぶん揺りかごのなかです、陛下」ヴェルヴェットは無邪気に答えた。
ザカーズはひるんで、とがめるように言った。「ずいぶんだな」
「そうですわね」ヴェルヴェットは同意してから、きっぱりと言った。「でも本当ですわ」
ザカーズはまた笑って、ポルガラを見た。「リセルをあなたから取り上げますよ、レディ」かれは宣言した。
「宮廷おかかえの道化師にするためにですの、カル・ザカーズ?」リセルはたずねた。その顔はもうおもしろがってはいなかった。「小利口な侮辱や冗談であなたを楽しませるためですか? いいえ。ちがいますわね。わたしにはもうひとつ陛下のお気に召さないような面がありますのよ。人はわたしをヴェルヴェット≠ニ呼んで、わたしのことをやわらかな羽根の蝶々のように思っていますけれど、この蝶々には毒針があるんです――それに気づいたときにはもう手おくれだった人が何人もいます」
「つつしみなさい、ディア」ポルガラが小声で言った。「それに、腹だちまぎれに営業秘密を明かすのはやめなさい」
ヴェルヴェットは目を伏せた。「はい、レディ・ポルガラ」おとなしく答えた。
ザカーズはヴェルヴェットを見たが、何も言わなかった。いきおいよく鞍からとびおりると、三人の馬丁がそばに駆け寄って、皇帝の手から手綱を受け取った。
「では、行こう」ザカーズはガリオンと他の面々に向かって言った。「案内したいのだ」かれはずるがしこい目でヴェルヴェットを一瞥した。「一家のあるじはどんなにつましい家でもわが家に素朴な誇りを持つものだ。わたしの気持ちもそれと同じだと言えば、辺境伯令嬢もわたしを許してくれるだろう」
ヴェルヴェットは澄んだ声でクスリと笑った。
ガリオンは馬をおりると、クレティエンヌの誇り高い首をいとおしむようになでた。待っている馬丁に手綱を渡すのが、身を切られるように辛かった。
大きな金ぴかのとびらをくぐって宮殿へはいると、そこは高い丸天井の円形広間だった。トル・ホネスにある皇帝の宮殿の広間にそっくりな形だが、ヴァラナのはいってくる通路をどことなく墓所のようにみせている大理石の彫像群はここにはなかった。大勢の役人、軍人、市民が、それぞれ重要そうな書類束を持って、皇帝を待ち受けていた。
ザカーズはかれらを見て、ためいきをもらした。「城めぐりはおあずけにしなければならんようだ。いずれにせよ、諸君は風呂にはいって着替えたいだろう――それにおきまりの儀式がはじまる前に、少し休んでおきたいはずだ。ブラドー、お客さんたちを部屋へご案内して、軽い昼食を用意するよう申しつけてくれないか?」
「もちろんでございます、陛下」
「東翼が居心地がよいだろう。城のこのあたりの廊下を急ぐ足音もあそこなら聞こえない」
「さようでございますね、陛下」
ザカーズは一同に笑いかけた。「今夜は一緒に夕食だ」と約束したあと、皮肉っぽくほほえんだ。「二、三百人たらずの客たちとの親密なこじんまりした食事だよ」ザカーズはそばでかたまってそわそわしている役人たちを見て、顔をしかめた。「では、今夜まで」
ブラドーはみんなの先頭に立って、召使いや下っ端役人たちでこみあう、足音のこだまする大理石の廊下を歩きだした。
「でかいところだな」十分ばかり歩いたころ、ベルガラスが感想をもらした。マル・ゼスにはいってから、老人はほとんど口をきかずいつものようにうつらうつらしながら馬の背にゆられていたのだが、ガリオンは祖父の半分閉じた目から免れたものがほとんどないことを確信していた。
「そうなんです」ブラドーが同意した。「初代皇帝カラーズがときおり極端におおげさな考えにとりつかれたせいです」
ベルガラスは不満そうだった。「統治者に共通の悪癖だ。思うに、どうも不安感に関係があるらしい」
「なあ、ブラドー」シルクが言った。「国家秘密警察はあんたの国務省の支配下にあると言わなかったかい?」
ブラドーは困ったように心もちほほえんでうなずいた。「数あるわたしの責任のひとつです、ケルダー王子。万事に通じておくためには、帝国内でどんなことが起きているのか知る必要があります。したがって、ささやかな諜報網を組織しなければならなかったんです――しかし、ポレン王妃の諜報網の規模にはおよぶべくもありません」
「ときとともに成長するわ」ヴェルヴェットが受け合った。「ああいうものはなぜだかそうできているのよ」
宮殿の東翼は城内の残りの建物とはやや離れており、一種袋小路のような中庭を擁していた。中庭のまん中には鏡のような池があり、そのまわりにエキゾチックな植物が茂っていた。宝石のようなハチドリたちが花から花へと飛び移り、生き生きした動きのある色彩を添えている。
ポルガラの目が輝いたのは、ブラドーがポルガラとダーニクのつづき部屋のドアを開けたときだった。アーチ型の戸口が中央の居間からつづいており、そのすぐ向こうに埋め込み式の大きな大理石の浴槽があって、小さな巻きひげのような湯気がたちのぼっている。「ああ」ポルガラはためいきをもらした。「文明よ――やっとだわ」
「ふやけて動けなくならんようにしろよ、ポル」ベルガラスが横やりをいれた。
「もちろんよ、おとうさん」ポルガラはうわの空であいづちを打った。その目はまぎれもない渇望をたたえて、湯気のたつ浴槽に釘づけになっている。
「風呂にはいるのがそんなに重要なことなのか?」ベルガラスはたずねた。
「そうよ。そうなのよ」
「汚いものへのいわれなき偏見さ」ベルガラスはみんなに向かってにやりとしてみせた。「わしなぞは不潔なほうが気が休まる」
「言わずもがなだわ」ポルガラはいったん言葉を切ってから、全員がぞろぞろ廊下へ出て行きはじめると、口やかましく言った。「ついでに言っときますけどね、おいぼれ狼、おとうさんの部屋がこれと同じ設備を備えていたら、ちゃんと利用したほうがいいわよ」
「わしがか?」
「におうのよ、おとうさん」
「それはちがうぞ、ポル」老人は訂正した。「わしはくさいんだ。におうのはおまえさ」
「どうでもいいから、清潔にしてきて」ポルガラは早くもうっとりと靴をぬぎはじめていた。
「十年間一度も風呂にはいらずにすませたことだってあるんだ」ベルガラスは高らかに言った。
「ええ。知ってますとも――わたしがどんなによく知っているかは神々だけがご存じだわ」ポルガラはひどく事務的な口調で言った。「失礼するわよ……」ばかにわざとらしく、ドレスの前のボタンをはずしはじめた。
ガリオンとセ・ネドラが案内されたつづき部屋は、どちらかといえば、ダーニクとポルガラの部屋以上に贅沢だった。ガリオンが大きな数室をまわって家具をながめているあいだに、セ・ネドラは夢見るような目つきで、服を脱ぎすてながら、まっすぐ浴室へ向かった。以前はガリオンも何気なく裸になる妻の性癖にときおりショックを受けたものだった。かれ個人としてはセ・ネドラの裸体に異議はない。かれを悩ませてきたのは、服を着ていない状態が不適当もはなはだしい場合があるという事実に、セ・ネドラがまったく頓着しないらしい点にあった。センダリア大使とリヴァの王宮に入ったときのことを思い出すと、ガリオンはいまだに身震いが出た。ちょうどそのとき、セ・ネドラは仕立て屋からその朝受け取ったばかりの新しい数点の下着を試着しているところだった。彼女はいたって平静に、そのフリルだらけの小さなものを大使の目の前でとっかえひっかえして、意見を求めたのである。謹言実直な七十代のセンダリアの老紳士である大使は、その十分間に過去半世紀に遭遇した衝撃を上回るショックを受けてしまった。そしてフルラク王への次の報告書で、大使のポスト解任をめんめんと訴えたのだった。
「セ・ネドラ、せめてドアくらいしめたらどうだ?」ガリオンは爪先で湯かげんをみている妻に言った。
「そんなことをしたらあなたとおしゃべりできなくなるわ」浴槽につかりながらセ・ネドラはもっともらしく返事をした。「叫ばなくちゃいけないなんてごめんだわ」
「へえ? 叫ぶのは得意中の得意かと思ってた」
「意地悪しないで」セ・ネドラは満足のためいきとともに湯に体を沈めた。浴槽の片側に並ぶさまざまなクリスタルの瓶を興味ありげに手にとって、蓋をはずしては匂いをかぎはじめた。おそらく女性が風呂に入れる香料がはいっているのだろう、とガリオンは推測した。セ・ネドラはそのうちいくつかは気に入らなかったと見え、また蓋をし、残りをおしげなく浴槽にふり入れた。ひとつかふたつはてのひらに受けて、体のあちこちにすりこんだ。
「だれかはいってきたらどうするんだ?」ガリオンはとがめるようにたずねた。「役人か使い走りか召使いかだれかが?」
「あら、はいってきたらどうなの?」
ガリオンは目を三角にしてセ・ネドラをにらんだ。
「ガリオン、ダーリン」セ・ネドラはあの癪にさわる、分別臭い口調で言った。「お風呂を使ってもらうつもりがないのなら、用意したりするもんですか、そうでしょう?」
ガリオンは言い返そうとして、返事に窮した。
セ・ネドラは湯のなかで頭をそらし、髪を顔のまわりに扇のように広げた。それから急に身を起こした。「背中を洗ってくださらない?」
一時間ほどたったころ、手際のいい召使いたちによってすばらしい昼食が給仕され、食事がすむと、シルクがふらりと立ち寄った。その小柄な泥棒もやはり風呂にはいって、もう一度着替えていた。あらたまった感じのする真珠色の上着は優雅で、またしても宝石をたくさんぶらさげている。短いもじゃもじゃのあごひげはさっぱりと刈り込まれ、異国風の香水のかおりをかすかに漂わせている。「見てくれも大事なのさ」ガリオンの何か言いたげな顔に答えてシルクは言った。「新しい状況に向かうときは、人間だれしもなるべくいい印象を与えたいと思うもんだ」
「当然だな」ガリオンはそっけなく言った。
「ベルガラスに寄ってきてくれと頼まれたんだ」小男はつづけた。「二階にでかい部屋がある。戦略会議のために、みんなそこに集まってるんだ」
「戦略?」
「比喩的表現だよ、もちろん」
「あ、そうか。もちろんね」
シルクがガリオンとセ・ネドラを連れていった、大理石の階段をのぼりきったところにあるその部屋は実に大きくて、奥の壁を背にした台座の上に王座のような椅子がひとつ置かれていた。贅をこらした家具や、重厚な真紅の幕を見まわして、ガリオンはたずねた。「ここは謁見の間じゃないんだろう?」
「ちがう」シルクが答えた。「少なくとも、カル・ザカーズの公式の謁見の間じゃない。訪れる王族をくつろがせるための部屋なんだ。公式めいた見てくれの、こういう環境にいないと、神経質になる王もいるんだよ」
「へえ」
ベルガラスは左右ちぐはぐのブーツを磨きこまれたテーブルの上に投げ出してすわっていた。髪とひげがかすかに湿っている。風呂にはいることに関しては無頓着をよそおっていたくせに、じつはポルガラの指示通りにしたのは一目瞭然だった。ポルガラとダーニクはテーブルの片側で静かに話し合っており、エリオンドとトスがそのそばにすわっている。ヴェルヴェットとサディは窓辺に立って、ザカーズの広大な宮殿の東にある幾何学式庭園を眺めていた。
「よしと」老魔術師は言った。「これでみんなそろったようだ。話し合う必要がありそうなのだ」
(おれならあまり立ち入った話はしませんね)シルクの指が動いて、ドラスニアの秘密言葉を作った。(密偵がまわりにいるのはほぼ確実ですよ)
ベルガラスは遠くの壁を見つめた。隠されたのぞき穴を捜して、老人は目を細め丹念に壁を見ていった。そしてぶつぶつとこぼし、ポルガラに視線を移した。
「わたしが見るわ、おとうさん」ポルガラはつぶやいた。遠くを見るような目つきになったとき、ガリオンはおなじみのうねりを感じた。やがてポルガラはうなずき、指を三本立てた。彼女がしばらく意識を集中させると、うねりの質が変化して、なんとなくものうくなった。ポルガラは背すじを伸ばし、意志をゆるめると、落ち着きはらって一同に言った。「もうだいじょうぶよ。三人とも眠りに落ちたわ」
「じつにあざやかだったね、ポル」ダーニクが感嘆の体で言った。
「あら、ありがとう、ディア」ポルガラはほほえんで、夫の手に手を重ねた。
ベルガラスは足を床におろして、身を乗り出した。「わしら全員が心に留めておかねばならんことがもうひとつある」真剣に言った。「ここマル・ゼスにいるあいだはたえず監視される公算が強いから、みんな気をつけてくれ。ザカーズは疑い深いからな、わしらの言ったことをどこまで信じているのか見当がつかん。わしらを相手に他の事をもくろんでいる可能性は大いにある。いまのところ、メンガを片づけるのにわしらの手助けを必要としているが、クトル・マーゴスでの戦いを全面的に放棄したわけではないだろう。わしらを利用してアローン人その他を自分の側につけて戦おうとしているのかもしれん。ザカーズにはウルヴォンとザンドラマスの問題もある。わしらにはマロリー内部の政治的ごたごたにかかわっている暇はない。だが、さしあたっては、大かれ少なかれザカーズの勢力範囲内にいるわけだから、無謀なことはせんようにな」
「必要とあらば、いつでもわれわれは出発できますよ、ベルガラス」ダーニクが自信たっぷりに言った。
「他にとるべき道がない事態にならないかぎり、そういうことはしないほうがよかろう」老人は答えた。「ザカーズは裏をかかれたら、いかにも腹をたてそうなタイプだ。手下の兵隊をよけながらこそこそ逃げ回るのは気がすすまん。時間をくいすぎるし、危険だ。ザカーズの祝福を――でなくとも、せめて同意を――受けてマル・ゼスを出発できたら、そのほうがよほどましさ」
「ぼくは早くアシャバにつきたいんだ、ザンドラマスがまた逃げ出す暇のないうちにね」ガリオンは主張した。
「わしだってそうだ、ガリオン」祖父は言った。「だが、ザンドラマスがアシャバで何をしとるのかわしらは知らんのだぞ。だからあの女がいつまでとどまっているつもりなのかもわからんのだ」
「ザンドラマスはなにかを捜しているのよ、おとうさん」ポルガラが老人に言った。「ラク・ハッガでザンドラマスをわなにかけたとき、それが彼女の意識に見えたの」
ベルガラスは考えこむようにポルガラを見つめた。「それが何なのか見当はついたのか、ポル?」
ポルガラは首をふった。「はっきりとは。なにかの情報だとは思うんだけれど。それを見つけるまでは、ザンドラマスは先に進めないのよ。そこまでは思考から拾いだせたわ」
「それがどんなものだろうと、巧妙に隠されているのはまちがいない」ベルガラスは言った。「ボー・ミンブルの戦いのあと、ベルディンとふたりでアシャバをくまなく捜してみたが、変わったものはなにも見つからなかった――〈トラクの家〉が風変わりではない、という考えを受け入れることができるとしての話だがな」
「ザンドラマスがわたしの赤ちゃんと一緒にアシャバにいることは確かなんでしょう?」セ・ネドラが熱っぽくたずねた。
「それが断言できないのよ、ディア」ポルガラが言った。「ザンドラマスはわたしから心を隠す手段を講じたの。じっさい、うまくやってのけているわ」
「たとえザンドラマスがアシャバを出発しても、〈珠〉ならまた足跡をたどることができる」ベルガラスは言った。「しかし捜し求めるものを発見できていない見込みは大いにある。とすれば、アシャバを離れるはずはない。発見しても、あとを追うのはむずかしくはないさ」
「では、わたしたちはアシャバへ行くんですか?」サディがきいた。「メンガへのわたしたちの関心は、マロリーへ行くための計略にすぎなかったというわけですね?」
「メンガのことで決定を下すには、まず、もっと情報が必要だろうな。たしかに、北部カランダの状況は深刻だが、わしらの主たる目的がザンドラマスである事実を見失わんようにしよう。そしてザンドラマスはアシャバにいるのだ。しかし決心をつける前に、ここマロリーでなにが進行中なのかもっと知らねばならん」
「おれのなわばりだな」シルクが進んで言った。
「そしてわたしの、ね」ヴェルヴェットがつけくわえた。
「わたしも多少お役に立てるかもしれません」サディがかすかにほほえんだかと思うと、眉をひそめた。「しかし、そう簡単にいきますかね、ベルガラス。ここにおいでのあなたとあなたの家族は力の象徴ですからね。カル・ザカーズが――たとえ表面上では丁重そうでも――あなたがたをあっさり手放すとは思えません」
老人はむっつりとうなずいた。「結局首を縦にはふらんだろうな」同意してから、ベルガラスはシルクとヴェルヴェットとサディを見て注意した。「気をつけてくれ。本能を失わんようにしろよ。情報は必要だが、だからといって面倒をひきおこしてはならんぞ」老人はじろりとシルクを見た。「これだけ言えばだいじょうぶだろうな。楽しみのために事態をややこしくするな」
「信用してくださいよ、ベルガラス」シルクは鷹揚に微笑した。
「もちろん信用していらっしゃるわ、ケルダー」ヴェルヴェットが小男に受けあった。
ベルガラスは即席のスパイ網を一瞥してかぶりをふり、ぶつぶつこぼした。「後悔しそうな気がするのはどういうわけだ?」
「わたしがちゃんと監視しますよ、ベルガラス」サディが約束した。
「もちろんだ、しかし、だれがあんたを監視するんだね?」
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その夜かれらはある儀式にのっとって、ザカーズの宮殿のざわめきのこだまする廊下から、練兵場とたいして違わないだだっぴろい宴会の間へ向かった。宴会の間へは、幅広のカーブした階段を通って行くのだが、階段の両側には枝つき燭台とお仕着せ姿のラッパ吹きがずらりと並んでいた。階段が堂々たる入場を楽にする設計になっているのはあきらかだった。新たに賓客が到着するたびに、騒々しいファンファーレが吹きならされ、ごま塩頭の式部官のわれがねのような声がひびいた。式部官はひどく痩せており、一生声をはりあげつづけていたらしまいには影のようにひょろひょろになってしまうのではないかと思われた。
ガリオンと友人たちは地元の名士たちの到着の発表が最後のひとりになるまで、こぢんまりした控えの間で待った。気むずかしい典礼長は、茶色のあごひげを入念に刈り込んだ小柄なメルセネ人で、ガリオンたちを上位の階級に組み込もうとしたものの、この不思議なグループの面々の正確な階級づけにさんざん手間取っていた。魔術師は王や王妃より位が上かどうかを果敢に決めようと四苦八苦する典礼長を見かねて、ガリオンは階段のてっぺんの踊り場にみずからセ・ネドラを連れ出すことによって、その難題を代わりに解決してやった。
「リヴァのベルガリオン王、ならびにセ・ネドラ王妃両陛下のおでまし」式部官がおごそかに声をはりあげると、ラッパが鳴りわたった。
象牙色のガウンをはおり、青一色に身を包んだガリオンは王妃と腕を組み、階段の上の大理石の踊り場にたたずんで、下の広間にいるあでやかな衣装の人々にその雄姿をたっぷり拝ませた。そのいささか芝居がかった小休止は必ずしもガリオンの考えではなかった。セ・ネドラが指の爪をかれの腕に食い込ませて、むんずと腕をつかみ、叱りつけるように小声で言ったのだ。「じっと立ってるのよ!」
ザカーズもまた大げさな演出がきらいではないようだった。というのは、式部官の披露のあとに訪れたしわぶきひとつ聞こえない静寂は、あきらかに皇帝がまさにこの瞬間まで賓客の素性を厳重に内密にしておくよう命じておいたことを示していたからである。ガリオンは素直な性格だったから、広間の群衆のあいだにいきわたった驚嘆のざわめきに気をよくした。
階段をおりようとしたかれは強情な馬よろしく自分が手綱でおさえつけられているのに気づいた。「走らないで!」セ・ネドラが押し殺した声で命令した。
「走るだって?」ガリオンは反論した。「ほとんど動いてもいないんだぜ」
「もっとゆっくりやってよ、ガリオン」
ガリオンはそのとき妻がおどろくべき才能の持ち主であるのを発見した。口を動かさずにしゃべれるのだ! どことなくよそよそしいが愛らしい微笑をうかべたまま、セ・ネドラは低い声で矢継ぎ早やに命令をくだした。
両陛下の出現で宴会場を満たしていたざわめきがうやうやしい沈黙にとってかわったとき、ふたりは階段の下にたどりついた。すると人々が次々にお辞儀をし、まるでさざ波のように群衆全体が揺れた。ガリオンとセ・ネドラは絨緞敷の道を進み、皇帝と内外の特別の賓客たちのために設けられたテーブルのある、わずかに他より高い壇のほうへ向かった。
あいかわらずいつもの白い服ながら、あらたまった機会に臨むさいの特権として、花輪の形に細工した金の冠をかぶったザカーズが、席から立ち上がってガリオンとセ・ネドラを出迎え、同じ階級のふたりが公衆の面前で会うときのぎごちない瞬間を回避した。「おいでねがえてよかった、ディア」ザカーズはセ・ネドラの手を取ってキスした。まるで地方の名士か下級貴族が隣りの友人を迎えたような挨拶だった。
「お招きくださってありがとう」セ・ネドラは気まぐれな微笑を浮かべて答えた。
「元気そうだな、ガリオン」マロリー人は片手を差しだし、あいかわらずむぞうさなくだけた口調で言った。
「まあまあだ、ザカーズ」ガリオンはもてなし役にあわせて答えた。ザカーズが演技をしたいのなら、こっちだって演技できるぞというところを見せたほうがいいと思ったのだ。
「テーブルについてくれるかね?」ザカーズがきいた。「他の者たちが到着するまで、よもやま話ができる」
「もちろん」ガリオンはわざと屈託のない口調で同意した。
だが椅子のところまで行くと、ついに好奇心が勝って、セ・ネドラに椅子を引いてやりながら、ガリオンはザカーズにたずねた。「どうしてただの人≠演じているんだ? これは儀式ばった晩餐会なんだろう、天気やら互いの健康をたずねるには、この場は少し堅苦しいんじゃないのか?」
「貴族たちの裏をかいてやるのさ」ザカーズは悠然と答えた。「期待どおりのことはするな、だよ、ガリオン。われわれが古いつきあいだと思わせることで、なんでも知っているつもりの連中をギャフンと言わせてやるのだ」皇帝はセ・ネドラにほほえみかけた。「今夜のあなたの美しさにはほれぼれするよ、ディア」
セ・ネドラはにっこりしてから、いたずらっぽくガリオンを見た。「あなたもなんとか言ったら? ここにおいでの陛下からいくらでも学べるわよ」彼女はザカーズに向きなおった。「ほめてくださるなんて、ずいぶん思いやりがおありになるのね。でもこの髪ったら本当にどうしようもないの」指先でそっと巻き毛をさわったときの、セ・ネドラの表情はいささか悲劇的だった。だがじっさいは、彼女の髪はすばらしかった。数珠つなぎの真珠を編みこんだ縦巻きの髪が茜《あかね》色の滝のように左肩の前にこぼれ落ちている。
この礼儀正しいやりとりのあいだに、一行の他の面々が紹介されていた。シルクとヴェルヴェットは少なからぬざわめきを引き起こした。シルクは宝石をちりばめた上着を着用し、ヴェルヴェットはラヴェンダー色の錦織りのガウンを着ている。
セ・ネドラがうらやましそうにためいきをついた。「わたしもあの色が着られたらいいのに」
「なんでも好きな色を着たらいいじゃないか、セ・ネドラ」ガリオンは言った。
「あなたって色盲なの、ガリオン?」セ・ネドラは言い返した。「赤毛の女にラヴェンダー色が着られるわけないでしょう」
「髪の色に悩んでいるのなら、いつでも好きな色に変えてあげるよ」
「よしてちょうだい!」セ・ネドラは肩にかかる茜《あかね》色の巻き毛をかばうように両手で押さえた。
「ちょっと言ってみただけさ、ディア」
階段のてっぺんで式部官がサディ、エリオンド、トスの三人をまとめて紹介した。少年と巨人には識別できる階級がないという事実に、式部官があたふたしているのはあきらかだった。だが、次の賓客を紹介する段になると、式部官の声は畏怖でいっぱいになり、骨ばった手足がふるえだした。「エラト侯爵婦人にして、女魔術師であられるレディ・ポルガラさまのおでまし」あたりは水を打ったように静まりかえった。「そしてセンダリアの善人ダーニク」式部官はつけくわえた。「二つの命を持つお方」
ポルガラと鍛冶屋は深い静寂のなかを階段をおりてきた。
伝説上のカップルを迎える無数のお辞儀は、祭壇の前で行なう跪拝《きはい》とまちがえるほど深かった。例によって銀糸でふちどりをした青い服を着たポルガラは女帝さながらあたりをはらう堂堂たる態度で宴会場を進んだ。謎めいた微笑を浮かべ、額の生え際の白い一房を蝋燭の火あかりに輝かせて、ダーニクとともに台のほうへ近づいてくる。
いっぽう、階段の上では式部官が次なる賓客からあとずさっていた。その目は大きく見開かれ、顔はすっかり青ざめている。
「ただそう言えばいいんだ」祖父がおびえている男に言うのが、ガリオンの耳に聞こえた。「名前はだれだって知っとるんだ」
式部官は踊り場の前の大理石の手すりのほうへ一歩ふみだして、どもりながら言った。「みなさま、ここに慎んで、思いがけなくも、魔術師ベルガラス陛下をご紹介します」
はっと息をのむ音が広間を走った。老人は頭巾のついたやわらかな灰色の毛織りの服をきて、威厳もへったくれもなくどかどかと階段をおりてきた。居並ぶマロリーの貴族たちが恐れをなしてあとずさるなかを、みんながザカーズとともにすわっているテーブルのほうへ歩き出した。
だが、壇まで半分ほどの距離にきたとき、衿ぐりの深いガウンを着たひとりの金髪のメルセネの娘がベルガラスの目をひいた。娘は畏怖のあまり棒立ちになって、世界中でもっとも有名な人物が自分に近づいてきてもお辞儀はおろか身動きすることもできなかった。ベルガラスは立ち止まると、ばかにゆっくりと娘の全身を眺めまわし、そのガウンがあらわしているものをほれぼれと見つめた。こびるような微笑が老人の顔に浮かび、青い目がきらめいた。
「いいドレスだ」ベルガラスは言った。
娘は真っ赤になった。
老人は笑って手を伸ばし、娘の頬を軽くたたいた。「これこれ」
「おとうさんたら」ポルガラがたしなめた。
「いいじゃないか、ポル」ベルガラスはくすくすと笑うと、絨緞を踏んでテーブルに歩み寄った。きれいなメルセネの娘は目をまん丸にし、ベルガラスのさわった頬に片手をあてて、老人のうしろ姿を見送った。
「いやあね」セ・ネドラがつぶやいた。
「ああいう人なのさ、ディア」ガリオンは言った。「ぶるところがまるでない。その必要がないんだ」
宴会の目玉はおびただしい種類の珍しい料理だった。なんと呼べばいいのかわからないようなものばかりで、そのいくつかにいたっては、どう食べたらいいのかもわからなかった。見かけはいとも素直な米料理が、実はすさまじい香辛料がきいていて、ガリオンは涙ぐみながらあわてて水のはいったゴブレットをわしづかみにした。
「ち、ちくしょう!」ダーニクも喉をつまらせて水を手探りでさがしまわった。記憶にあるかぎり、ガリオンがダーニクの悪態を聞いたのはそれがはじめてだった。ダーニクの悪態はびっくりするほど堂に入っていた。
「ぴりぴりしますな」サディは平然とおそるべき混合スープを飲みながら言ってのけた。
「どうしてそんなものが飲めるんだ?」ガリオンはあっけにとられて言った。
サディはにんまりした。「わたしがしょっちゅう毒を盛られていたことをお忘れですよ、ベルガリオン。毒は舌を鍛え、喉を丈夫にするんです」
ザカーズはかれらの反応をおもしろそうに見守っていた。「警告しておくべきだったな」かれは謝った。「ガンダハールの料理なのだ。ガンダハール生まれの連中は雨期のあいだ互いの胃袋のなかでたき火をして退屈をまぎらわすのだよ。かれらのほとんどが象をわなにかける名人で、勇気を誇りにしているのだ」
えんえんとつづく宴が終わったあと、茶色のローブ姿のブラドーがガリオンに近づいてきた。「よろしいでしょうか」ブラドーはそばのテーブルの笑い声やさんざめく話し声にかき消されないように、腰をかがめてガリオンの耳元で言った。「陛下にお目にかかりたがっている者たちが大勢いるのですが」
内心やれやれと思いながらも、ガリオンは礼儀正しくうなずいた。この種のことはなにもこれがはじめてではないから、たいていの場合それがどんなに退屈であるか経験ずみだった。ガリオンは国務長官のあとについて壇をおり、着飾った名士たちの渦にはいっていった。ブラドーはときおり立ち止まっては、いろいろな役人たちと挨拶し、ガリオンを紹介した。救いがたい退屈に一、二時間は耐えただろう。ところがぽっちゃりしたはげ頭のブラドーは、意外にもおもしろい付添い役であることがわかった。ガリオンをたわいのない会話にひきずりこんでいるようでいて、その実、その合間合間に簡潔で、しばしば辛辣な人物評を提供してくれるのだ。
「これからパリアの小王と話をしますよ」ブラドーはあるグループに近づいていきながらささやいた。グループの全員が細長い円錐形のフェルトの縁なし帽をかぶり、不健康な緑色に染めた革の服をまとっている。「ごきげん取りで、嘘つきで、臆病で、まったく信用できない人物です」
「ああ、きみか、ブラドー」フェルト帽の男たちのひとりが、むりにあたたかみのある口調でメルセネ人に挨拶した。
「殿下」ブラドーはなめらかに一礼して答えた。「慎んでリヴァのベルガリオン陛下をご紹介いたします」かれはガリオンのほうを向いた。「陛下、こちらはパリアのワラシン王でいらっしゃいます」
「陛下」ワラシンはおおげさに言うと、ぎごちなくお辞儀した。ワラシンはやせたあばた面の男で、目と目の間が狭く、しまりのない口元をしていた。ガリオンの気づいたところでは、手は清潔とはいいがたかった。
「殿下」ガリオンはちょっとよそよそしく答えた。
「たったいまここにいるうちの宮廷の連中に言っていたところですよ、〈西方の大君主〉がマル・ゼスにあらわれるとは、明日の朝は北から日が昇るにちがいないとね」
「世界は驚きに満ちている」
「トラクのひげにかけて、おっしゃるとおりです、ベルガリオン――ベルガリオンとお呼びしてもかまわないでしょうね、陛下?」
「トラクにはひげはなかったな」ガリオンはそっけなく訂正した。
「は?」
「トラクには――ひげはなかった。少なくとも、ぼくが会ったときにはね」
「あなたが――」ワラシンの目が急に見開かれた。「クトル・ミシュラクで起きたとされているあの話はすべて真実だとおっしゃるのですか?」ワラシンは喘ぐように言った。
「断言はできないな、殿下。まだその話を全部聞いたわけじゃないからね。お会いできてよかった」ガリオンは同じ王であることをことさら強調するように、目を白黒させている小王の肩をぽんとたたいた。「残念だがこれ以上話している時間がないのでね。いこうか、ブラドー?」パリアのけちな王に会釈すると、ガリオンは向きを変えて、メルセネ人を従え歩き始めた。
「じつにあざやかでいらっしゃる、ベルガリオン」ブラドーがささやいた。「あれほど人あしらいが巧みでいらっしゃるとは思いもしませんでしたよ、陛下が、その――」ブラドーは言葉をにごした。
「無教育な田舎者みたいに見える事実を考えると、だろう?」ガリオンは代わりに言ってやった。
「そこまではっきりおっしゃらなくても」
「いいじゃないか」ガリオンは肩をすくめた。「それが真実なんだ、そうだろう? あの小さな目の男は話題をどこへもっていこうとしていたのかな? なにか魂胆があったのはあきらかだ」
「単純なことですよ」ブラドーは答えた。「ワラシンは陛下がカル・ザカーズに最近になって接近していることに気づいているのです。マロリーではすべての権力は皇帝にあります。ですから、皇帝のちかづきになれる人物が頼もしいのですよ。ワラシンはこのところデルチンの摂政の宮と国境論争をしていましてね、おそらく陛下に皇帝への口ぞえをしてもらいたかったのでしょう」ブラドーはおもしろそうにガリオンを見た。「いまの陛下は何百万ももうけられる立場にいらっしゃるんですよ」
ガリオンは笑った。「そんなに賄賂をもらっても、運びきれないよ、ブラドー。いちどリヴァの国庫へ行ってみたことがあってね、百万がどんなに重いか知ってるんだ。次はだれだね?」
「商務省長官です――掛け値なしの悪党ですよ。たいがいの長官と同じですが」
ガリオンはにやりとした。「なにを望んでいるんだろう?」
ブラドーは考えこみながら片方の耳たぶをひっぱった。「よくわかりません。しばらく国を留守にしていましたので。しかし、ヴァスカは不誠実な男です。わたしでしたら油断しません」
「ぼくはつねに注意を怠らないよ、ブラドー」
商務省長官のヴァスカ男爵はしわくちゃのはげ頭だった。官僚の制服ともいえる茶色のローブを着て、細い首には重すぎるほどの商務省の金鎖をかけていた。一見するとか細い老人のようだが、目は禿鷹のように敏捷で抜け目がなかった。「ああ、これは陛下」ヴァスカは紹介がすむと言った。「やっとお目もじできてたいそううれしゅうございます」
「こちらこそ、ヴァスカ男爵」ガリオンは礼儀正しく答えた。
しばらく談笑したが、ガリオンの見るところ男爵の会話はいたって月並で、これといって変わったところはまったくなかった。
「ドラスニアのケルダー王子もご一行のおひとりでしたね」ようやく男爵は言った。
「古い友人でね。すると、ケルダーとは知り合いなのか、男爵?」
「ともに二、三の交渉をいたしたことがあるのでございますよ――もちつもたれつの関係でして。ですが、ケルダー王子はとかく当局との接触を避けるきらいがございますね」
「それにはときどき気づいたよ」ガリオンは言った。
「陛下ならきっとお気づきだろうと思っておりました。陛下をおひきとめしてはもうしわけない。ほかにも陛下にお目もじしたがっている者がおおぜいおります。陛下のお時間をひとりじめしたと非難されたくございませんからね。残念ですが、どうかもうおいでになってください」男爵は国務長官のほうを向いた。「陛下と引き合わせてくれて感謝するよ、ブラドー」
「なんでもないことだ、男爵」ブラドーはガリオンの腕を取ると、ヴァスカのもとを去った。
「いったいありゃなんだい?」ガリオンはたずねた。
「よくわかりません」ブラドーは答えた。「しかし、ヴァスカがほしがっていたのがなんであるにせよ、もう手に入れたようです」
「めぼしいことは少しも話さなかったぞ」
「わかっています。それが気になるのですよ。老友ヴァスカを監視させることにしましょう。うまくしてやったつもりでしょうが、わたしの好奇心はだまされません」
それからの二時間で、ガリオンはさらにふたりのけばけばしい衣装の小王と、もっと地味な服装のおびただしい数の官僚と、ひと握りの中級貴族とその婦人たちに会った。言うまでもなく、かれらのほとんどはただガリオンと話しているところを見られたいだけのことだった。そうすればあとでなにげない態度でこう言えるからだ。「先日ベルガリオンと話していたんだが、かれが言うには――」残りの少数は後日内密に話し合いたいということをそれとなく匂わせた。はっきりした約束をとりつけようとする者さえいた。
ヴェルヴェットがやっと救出にきたのは、ずいぶんたってからだった。ガリオンはぺルデインの王族につかまっているところだった。芥子色のターバンを巻いたずんぐりした短躯の小王、オレンジ色の髪とすさまじい不協和音をかもしだしているピンクのガウン姿の作り笑いを浮かべたやせこけた妻、それにひっきりなしに互いをぶちあってはめそめそしている、三人の甘やかされたガキども。「陛下」金髪の娘は膝を曲げてお辞儀しながら言った。「女王陛下が部屋へひきあげたいとの仰せで、陛下の許可を求めておいでです」
「許可?」
「ご気分がすぐれないのですわ」
ガリオンはヴェルヴェットを感謝の目で見た。「ではすぐ行ってやらねばならないな」すばやく言うと、ガリオンはベルデイン王家に向きなおった。「では勝手だが失礼する」
「もちろんですよ、ベルガリオン」小王は愛想よく答えた。
「お美しい奥方さまにどうかよろしくもうしあげてくださいませ」小女王がつけくわえた。
王子たちはわめきながら蹴りあっている。
「ちょっとうんざりしていらっしゃるように見えましたわ」ヴェルヴェットがガリオンの先にたって歩きながらつぶやいた。
「きみに感謝のキスをしたいくらいだ」
「それは興味深い提案ですわね」
ガリオンは渋い顔で肩ごしにうしろを振り返った。「あの三人のチビの怪物たちを溺死させて、かわりに小犬たちを育てるべきだな」
「小豚ですわ」ヴェルヴェットが訂正した。
ガリオンは彼女を見た。
「少なくともベーコンを売ることができますもの。そうすれば努力の甲斐も少しはあるでしょう」
「セ・ネドラは本当に具合いが悪いのか?」
「もちろんちがいます。今夜は思う存分殿方たちの心を征服なさってますわ。数人は今後のチャンスのためにとっておおきになりたいようですけれど。そろそろわたしたちの退場の時間ですから、女王陛下にお会いしたくてたまらない賛美者たちは絶望におしひしがれたまま取り残されることになりますわね」
「それはまた不思議な見方だな」
ヴェルヴェットは楽しそうに笑って、ガリオンと腕を組んだ。「陛下が女であれば、不思議でもなんでもありませんわよ」
翌朝、食事のあとまもなく、ガリオンとベルガラスは皇帝の専用書斎に呼ばれ、ザカーズとブラドーに会見した。書物や地図がずらりと並ぶ書斎は、大きくて居心地がよく、低いテーブルのまわりにふかふかの椅子が集まっていた。暖かな日で、窓が開け放たれているために、花の香りのする春のそよ風がカーテンを波うたせている。
「おはよう、紳士諸君」かれらが案内されて書斎にはいると、ザカーズが迎えでた。「よく眠れたのだといいが」
「セ・ネドラをやっとのことで浴槽からひっぱりだしたあとはね」ガリオンは笑った。「あれはちょっと便利すぎるな。きのう妻が三度も風呂にはいったと言ったら信じられるか?」
「マル・ゼスの夏はひどく熱いし、ほこりっぽい。風呂があるから耐えられるのさ」
「どうやって湯を浴槽まで運ぶんだ?」ガリオンは興味ありげにたずねた。「バケツを持って廊下を歩いている者などひとりも見なかったぞ」
「床下にパイプを引いてある」皇帝は答えた。「その装置を考案した職人は、ほうびとして男爵位を叙せられたよ」
「そのアイディアを盗んでもかまわないだろうな。ダーニクがすでに略図を書いているんだ」
「わしは不健康だと思うね」ベルガラスは言った。「風呂は戸外にあるべきものだ――それも冷水のほうがいい。過保護は人間を軟弱にする」老人はザカーズを見た。「だが風呂について哲学的考察をするためにわしらをここに呼んだわけではあるまい」
「あなたが本当にその議論をしたいのでなければ」ザカーズは椅子のなかで背すじを伸ばした。「みな旅の疲れも癒えたころだから、そろそろ仕事にかかる時期かと思ったのだ。ブラドーの部下たちからかれの手元に報告がはいってきて、カランダの現状について、かれなりの意見がまとまったのだ。話してくれ、ブラドー」
「はい、陛下」ぽっちゃりした禿頭のメルセネ人は椅子から立ち上がると、床を横切って壁にかけられたばかでかいマロリー大陸の地図に近づいた。地図には青い湖や川、緑の草原、深緑の森、頂上の白い茶色の山脈というふうに、精妙に色がつけられている。都市はただの点ではなく、建物や要塞の絵であらわされていた。ガリオンはマロリーの道路網が、西方のトルネドラのそれに劣らず広大であることに気づいた。
ブラドーは咳き払いをして、ザカーズの獰猛な子猫たちの一匹とちょっとやりあって、これから使う予定の長い棒を奪い返すと、説明を開始した。「ラク・ハッガでみなさんに報告しましたように、この広大な森からメンガなるひとりの男があらわれて、半年ばかり前にカランダ湖の北へ向かいました」カランデーズ地方からザマド山脈へ伸びた帯状の広大な樹木地帯を、かれは棒でコツコツとたたいた。「この男の素性についてはほとんどわかっておりません」
「それは必ずしも真実ではなかろう、ブラドー」ベルガラスが異議をとなえた。「シラディスがメンガはグロリムだと――あるいは現在はそうでなくとも、過去はそうだったと――教えてくれたはずだ。それで謎の部分はかなり減ったのではないか」
「補充できる意見はどんなものでも聞く用意がある」ザカーズが言った。
ベルガラスは目をすがめて書斎を見回していたが、部屋の向こうの食器棚に中身のいっぱいはいったクリスタルのデキャンターがいくつかと、磨きあげたグラスが数個のっているのに気がつくと、目を釘づけにした。「かまわんか?」ベルガラスはデキャンターを指さした。「グラスを持っていたほうがよく頭が働くのでな」
「どうぞ」ザカーズは答えた。
老人は立ち上がると食器棚に歩みより、ルピーのように赤いワインをグラスに注ぎ、「ガリオンは?」とデキャンターを差しだしてたずねた。
「せっかくだけどいらない」
ベルガラスはクリスタルの栓をチャリンとしめて、青い絨緞の上を行ったりきたりしはじめた。「これでよしと。第二黄金期、カランド人はトラク崇拝に改宗した。しかし、グロリム僧たちがそれ以前の風習の根絶を試みたにもかかわらず、カランダの奥地には悪魔崇拝が広く浸透している。メンガ自身がグロリム僧だったこともわしらにはわかっている。さて、ここマロリーのグロリムたちが、トラクの死を聞いたときのクトル・マーゴスのグロリムたちと同様の反応をしたとすれば、かれらは完全な混乱に陥っているはずだ。ウルヴォンが教会の維持を正当化してくれそうな予言書を発見しようと、数年がかりでかけずりまわった事実は、かれがグロリムの階級にひそむほぼ普遍的失望に直面した証拠にほかならない」ベルガラスはいったん口をつぐんで、ワインをすすった。「悪くない」ザカーズに向かって満足そうに言った。「なかなかのもんだ」
「それはどうも」
「さて」老人はつづけた。「宗教的失望からくる反応はいろいろある。頭がおかしくなる者もいれば、さまざまな道楽にのめりこむ者、真実を認めることを拒んで古い形式を生かしつづけようとする者もいる。ところが、ひと握りの者は新しい種類の宗教を捜し求めるのだ――たいていはこれまで信じていたものと正反対の宗教をな。カランダのグロリム教会は長年にわたって悪魔崇拝の根絶に力を注いできたわけだから、絶望したひと握りの僧侶が悪魔をあやつる連中を見つけだしてその秘儀を学びたいと思うのはいたって当然のことなのだ。いいかね、もしもじっさいに悪魔を支配できれば、向かうところ敵なしなのだ。そして権力への渇望こそ、つねにグロリムの精神の核をなしていたのだよ」
「ぴったり符合しますね、長老どの」ブラドーが認めた。
「わしもそう思った。それでだ、トラクが死ぬとメンガは自分の論理的基礎が足元からくずれていくことに突然気づく。おそらくかれは一定の期間、僧侶としてはあるまじき行為をかたっぱしからやっただろう――飲んだくれたり、女遊びをしたりな。だが、度を越すとしまいにはどんなものでもむなしくなってくる。放蕩ざんまいもしばらくたてばつまらなくなってくるのだ」
「おじいさんがそんなことを言うのを聞いたら、ポルおばさんはびっくり仰天するな」
「他言は無用」ベルガラスはガリオンに言った。「わしの悪習をめぐるポルとのいさかいが、わしらの関係のいしづえなのだ」老人はもう一口ワインをすすった。「じつに美味だ」グラスをかかげてワインの色を日差しにすかし、うっとりとながめた。「それでだ、メンガはある朝猛烈な頭痛とともに目覚める。口のなかはニワトリ小屋のような味がし、腹の水分は一滴残らず干上がって燃えあがっている。この先生きて行く理由もない。そこでメンガはいけにえのはらわたをえぐるのに使うナイフを取り出し、みずからの胸にそれをつきたてる」
「いささか想像をたくましくしすぎるのではないか?」ザカーズが漏らした。
ベルガラスは笑った。「昔語り部をやっていたことがあってな、いやすまん。おもしろい話だとついつい手を加えたくなってしまうのだ。よかろう、メンガは自殺を考えるかもしれんし、考えないかもしれん。要はどん底まで落ちたということだ。そのとき、悪魔を呼び出す考えがひらめいたのだ。悪魔を呼び出すというのは、要塞都市を攻撃している最中に攻城梯子を最初にのぼるのと同じくらい危険な行為だが、メンガにはもう失うものはない。そこであそこの森へでかけて行き、カランドの妖術使いを捜しだして拝みたおして妖術――悪魔を呼び出す術をそう呼びたければの話だが――を教えてもらう。すべての秘密を学びとるには十二年はかかるのだ」
「どのようにしてその年数を割り出されたのですか?」ブラドーがたずねた。
ベルガラスは肩をすくめた。「トラクの死から十四年たっているからさ――だいたいそんなものだろう。正常な人間なら二年も自分をいじめれば異常をきたしてくる。したがって、メンガが指示を与えてくれる妖術使いを捜しに行ったのは、おそらく十二年ばかり前だったということになる。そうしていったんすべての秘密を学びとると、メンガは教師である妖術使いを殺し、つぎに――」
「ちょっと待ってくれ」ザカーズが口をはさんだ。「どうしてそんなことをするのだ?」
「教師がメンガのことを知りすぎていたからだ。教師もまた悪魔を呼び出して、聖職を剥奪されたわれらがグロリムを襲わせる力を持っていたからさ。さらに、こうした事柄における師弟の間柄は、呪いひとつで一生の主従関係を強いることがある。教師が年老いて死ぬまで、メンガはそばにはべっていなければならない」
「どうしてそんなに詳しいのだ、ベルガラス?」ザカーズがきいた。
「二、三千年前にモリンディム人のあいだで経験ずみだからだ。当時わしはさほど重要なことは何もしていなかったし、妖術に興味があった」
「教師を殺したのか?」
「いや――まあ、正確には殺したわけではない。わしが出て行ったとき、教師はなじみの悪魔にわしのあとを追わせた。わしはそいつを思うままにあやつって、教師のところへ送り返したのだ」
「すると、そいつは教師を殺したのだな?」
「たぶんな。悪魔とはそういうものだ。それはさておき、メンガの話に戻ろう。メンガは半年前にカリダの城門に到着し、悪魔の大群を呼び出す。正常な人間なら一度にひとり以上の悪魔を呼び出すことはありえない。支配するのがおそろしく困難だからだ」ベルガラスは眉間に縦じわを寄せて床を行きつ戻りつしはじめた。「考えられるのはメンガがどうにかして魔神を呼び出すことに成功し、それを牛耳っているということしかない」
「魔神?」ガリオンがたずねた。
「悪魔にも階級があるのさ――人間と同じように。メンガが魔神を牛耳っているなら、下級悪魔の一群を呼び出しているのはそいつのしわざだ」ベルガラスはやや自己満足の体で、グラスを再び満たした。「メンガの一生はざっとこんなものだろうな」かれはまた腰をおろして言った。
「おみごと、ベルガラス」ザカーズが労をねぎらった。
「なんのなんの。わしはいま言ったように考えたのだ」老人はブラドーを見た。「これでメンガのことはわかったわけだから、やつがなにをたくらんでいるのか話してくれんか?」
ブラドーはさっきの子猫が棒にじゃれつこうとするのをかわしつつ、ふたたび地図の横に位置をしめた。「メンガがカリダを征服したあと、その偉業の噂がカランダ全土をかけめぐったのです」とブラドーはしゃべりだした。「トラク崇拝はそもそもカランド人にはさほど深く根づいていなかったらしく、かれらを従順にさせていたのはひとえにグロリムのいけにえ用のナイフへの恐怖心だったようです」
「タール人のようにか?」ガリオンがほのめかした。
「おっしゃるとおりです、陛下。しかし、トラクが死んで教会が混乱におちいると、カランド人は元の宗教に帰りはじめました。古い神殿がふたたび出現しはじめ、昔ながらの儀式が息を吹き返したのです」ブラドーはみぶるいした。「無残な儀式です。おぞましい」
「グロリムのいけにえの儀式よりひどいのか?」ガリオンは穏やかにたずねた。
「あれには多少の正当性があった、ガリオン」ザカーズが反論した。「選ばれるのは名誉であり、犠牲者たちは進んでナイフに身をさらしたのだ」
「ぼくが見たかぎりじゃ、そんな人間はひとりもいなかった」
「神学の比較ならあとでもできるぞ」ベルガラスがふたりに言った。「つづけてくれ、ブラドー」
「カランド人はメンガのことを耳にすると」メルセネの役人は話をつづけた。「大挙してカリダへ行き、メンガを支援して悪魔側に協力しはじめました。カランダのいくつかの王国ではこれまでつねにひそかに独立運動が行なわれており、せっかちな大勢の連中は、悪魔こそアンガラクの圧制のくびきを取り払う最良の希望であると信じているのです」ブラドーは皇帝を見て声を落とした。「他意はないのです、陛下」
「だれもそんなことは思っていないぞ、ブラドー」ザカーズはメルセネ人を安心させた。
「当然のように、カランダの小王たちは民をメンガに加担させまいとしました。臣民の喪失はつねに統治者には苦痛であります。軍――わたしどもの軍――もまたメンガの旗のもとへ馳せ参じるカランド人の大群には驚かされましたよ。連中は国境を封鎖するか何かしようとしたのです。しかし、軍の大部分は陛下とともにクトル・マーゴスにいたため、カランダの部隊は兵隊不足でした。カランド人は部隊をこっそり避けるか、単純に圧倒するかしたのです。メンガの軍はいまや百万になろうとしています――武器も訓練もおそまつなものでしょうが、百万は大変な数です。たとえ棒きれで武装しているにしてもです。ジェンノばかりかガネシアまでも完全にメンガの勢力圏にはいっていますし、カタコールは降伏の一歩手前にあります。ひとたびカタコールをおさえたら、メンガがパリアやデルチンに手をかけるのは必然であります。メンガをくいとめなければ、エラスタイドまでにマル・ゼスの城門をたたきだすでしょう」
「そういう戦いのさいに、メンガは悪魔たちを解き放っているのか?」ベルガラスが真剣にたずねた。
「そうではありません」ブラドーは答えた。「カリダで悪魔たちを呼び出して都市を征服したあと、その必要はなくなっているのです。メンガの兵が見えただけで、これまでかれが征服したどの都市もあわてて城門をあけてしまうからです。あきれたことに、じっさいの戦闘はほとんどしないまま次々に成功をおさめているのですよ」
老人はうなずいた。「そんなことだろうと思っていたのだ。悪魔ってやつは一度血の味をおぼえると手に負えなくなるからな」
「さまざまな問題を引き起こしているのは、本当は悪魔たちではありません」ブラドーはつづけた。「メンガがカランダの残り全土にスパイを放っており、スパイがうようよしているという噂が前に中立の立場を取った人々をふるえあがらせているのです」ブラドーは皇帝を見た。
「わたしどもがじっさいにスパイのひとりを、ほかならぬこのマル・ゼスのカランド人兵舎でとらえたと申し上げたら、お信じになりますか?」
ザカーズはさっと目をあげた。「どうやってはいりこんだのだ?」
「自宅での療養休暇から戻ってきた伍長を装っていたのです」ブラドーは答えた。「本当らしく見せるために、体を傷つけることまでしていました。マーゴ人をののしるさまは迫真の演技でした」
「そいつをどうした?」
「残念ながら、尋問が終わったときには死んでしまったのです」ブラドーは顔をしかめて言うと、腰をかがめてくるぶしにじゃれつく子猫を引き離した。
「残念ながら?」
「そいつのためにある興味深い計画をたてていたのですよ。わたしの秘密警察をまんまと出し抜く者がいたら、その計画はそのときにわたしが個人的に活用するつもりです。プロの誇りの問題でございまして」
「で、おまえの忠告は?」ザカーズはたずねた。
ブラドーは行ったりきたりしはじめた。「クトル・マーゴスから軍を連れ戻していただくことになりましょう、陛下。二ヵ所で戦争するのは不可能です」
「まったく問題外だ」ザカーズはてこでも動かぬ口調で言った。
「選択の道はほとんどないと思いますが」ブラドーは言った。「ここマロリーに残っている兵力のほぼ半数はカランド人で組織されているのですよ。メンガとの対決でそのかれらに頼るのは愚の骨頂と申し上げねばなりません」
ザカーズの顔がけわしくなった。
「こうしたらいかがでしょう、陛下」ブラドーはよどみなく言った。「クトル・マーゴスでの兵力を減らせば、陛下がラク・クタカと、ことによるとラク・ゴラトを失うのはおおいにありうることです。しかし、軍を故郷へ連れ帰らなければ、マル・ゼスを失うことになります」
ザカーズはブラドーをねめつけた。
「まだ考慮する時間はございます、陛下」ブラドーは分別くさくつけくわえた。「これはわたしが説明した状況にすぎません。わたしの申し上げたことを軍の諜報課に確認なさりたいはずです。司令官と相談なさることも必要です」
「いや」ザカーズはぶっきらぼうに言った。「決定を下すのはわたしだ」と床をにらんだ。「よかろう、ブラドー。軍を連れ戻そう。司令官にわたしがただちに会いたがっていると言ってきてくれ」
「かしこまりました、陛下」
ガリオンは立ち上がった。「船で兵をクトル・マーゴスから連れてくるのにどのくらいかかる?」沈んだ気分でたずねた。
「三ヵ月ほどだ」ザカーズは答えた。
「そんなに長く待てないんだ、ザカーズ」
「すまん、ガリオン。だが、だれにもどうすることもできないのだ。貴公もわたしも軍がここに到着するまではマル・ゼスを出られない」
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翌朝、シルクが早々とガリオンとセ・ネドラの部屋へやってきた。また例の上着とズボンをはいていたが、宝石はほとんどはずしていた。片腕にかかえているのは、マル・ゼスのほとんどの市民が着る軽くて色彩豊かなマロリーのローブだ。「都市へ行ってみないか?」シルクはガリオンにきいた。
「宮殿から出してもらえるとは思えないね」
「それならもう手を打っておいた。ブラドーが許可をくれたんだ――おれたちのあとをつけてくる予定の連中をまいたりしないという条件で」
「気のりしないな。人についてこられるのは大嫌いなんだ」
「慣れちまうさ」
「何か特別考えていることでもあるのか、それともただの観光かい?」
「ここにあるおれたちの事務所にたちよって、問屋とおしゃべりしたいのさ」
ガリオンはぽかんとシルクを見た。
「マル・ゼスでおれたちにかわってことを取り仕切っている代理人のことだよ」
「ああそうか。そんな言葉ははじめて聞いた」
「それは商売をしてないからさ。ここにいるおれたちの仲間はドルマーっていうんだ。メルセネ人だよ――じつに有能だし、手くせもそんなに悪くない」
「商売の話を聞いていてもおもしろくなさそうだ」
シルクはきょろきょろとあたりを見回した。「ありとあらゆることを学べるかもしれないぜ、ガリオン」口でそういいながら、シルクの指は早くも猛スピードで動いていた。(ドルマーはカランダで本当になにが起きているのか報告してくれるんだ)身ぶりがまじった。(一緒にきたほうがいいぞ)
「うーん」ガリオンはわざとしぶしぶ言った。「そうかもしれないな。それにここに閉じ込められているような気もするしね」
「そら」シルクはローブの一枚をさしだした。「これを着ろよ」
「それほど寒くないよ、シルク」
「ローブは防寒のためじゃないんだ。西方の服を着た人間がマル・ゼスの町にいたんじゃ目だってしょうがない。おれはじろじろ見られるのが嫌いでね」シルクはすばやくにやっとした。「衆人環視のなかじゃ、スリもおちおちできないよ。行こうか?」
ガリオンのはおったローブは前あきで、裾はかかとまであった。両側に深いポケットがついていて、上にはおるものとしては都合がいい。材質はごく薄く、ぐるっと回ると円形に広がった。ガリオンは隣りの部屋のドアに歩み寄った。セ・ネドラは朝の風呂でまだ湿っている髪をとかしているところだった。
「シルクと町へ出るんだが、なにかいるものはあるかい?」
セ・ネドラは考えこんだ。「くしがあったらほしいわ」使っているくしをもちあげて見せた。「わたしのは歯がすりへってきたようなの」
「わかった」ガリオンは立ち去ろうとした。
「どうせお出かけなら、絹を一巻買ってきて――できればコガモ色のがいいわ。この宮殿にはとても腕のいい仕立屋がいるんですって」
「やってみるよ」ガリオンはあらためて立ち去ろうとした。
「それにレースを数ヤードね――あまりごてごてしてないのにして。品のいいのがいいわ」
「ほかには?」
セ・ネドラはにっこりした。「なにかびっくりするようなものを買ってきて。おもいがけないプレゼントって大好き」
「くしに、コガモ色の絹を一巻に、上品なレース数ヤードに、びっくりプレゼントね」ガリオンは指を折って数え上げた。
「あなたの着ているようなローブもほしいわ」
ガリオンは先を待った。
セ・ネドラは口元をひきしめて考えた。「思いつけるのはそれだけよ、ガリオン、でもシルクと一緒にリセルとレディ・ポルガラのところへも行って、なにか必要なものがあるかどうか聞いたほうがいいんじゃなくて」
ガリオンはためいきをついた。
「それが礼儀というものだわ、ガリオン」
「そうだな、ディア。一覧表をつくったほうがいいかもしれない」
ガリオンが戻ると、シルクはあたりさわりのない表情を浮かべていた。
「それで?」ガリオンはきいた。
「何も言ってないぜ」
「ふん」
ふたりはドアに向かいかけた。
「ガリオン」セ・ネドラが呼びかけた。
「なんだい、ディア?」
「砂糖菓子もさがしてみて」
ガリオンはシルクのあとから廊下に出ると、ドアをしっかりうしろ手にしめた。
「あしらうのがうまいな」シルクは言った。
「訓練さ」
ヴェルヴェットがガリオンの長くなる一方のリストに数品目を加え、ポルガラがさらに数点つけたした。宮殿の主要部分へ向かう足音のこだまする長い廊下を歩きながら、シルクがリストをながめた。「ブラドーがラバを数頭貸してくれるかなあ」かれはつぶやいた。
「ふざけるのはやめろよ」
「おれがいつふざけた?」
「あそこで指言葉を使ったのはどうしてだい?」
「壁に耳ありってな」
「ぼくたちの個室でか?」ふたりだけのとき、着衣――あるいは脱衣――にたいするセ・ネドラの積極的な無関心を思いだして、ガリオンはショックを受けた。
「一番おもしろい秘密が発見できるのは、私的な場所なんだ。寝室をのぞきこむチャンスを見送る密偵なんかいるもんか」
「失敬じゃないか!」ガリオンは頬を真っ赤にして叫んだ。
「もちろんそうさ。だが、それが一番ありふれた実習なんだ」
かれらは宮殿の金めっきの主要扉のすぐ内側にある丸天井の広間を通過して、かぐわしい微風がそよぐまばゆい春の朝のなかへ踏み出した。
「なあ」シルクが言った。「おれはマル・ゼスが好きなんだ。いつもじつにいい匂いがする。ここにあるおれたちの事務所はパン屋の二階でな、下から漂ってくる匂いにフラフラッと倒れそうになる朝もあるんだ」
城内の城門のところではほとんど立ち止まらずにすんだ。あとからついてくる目だたない二人組のひとりが、そっけない身振りをして、シルクとガリオンの外出が許可ずみであることを番兵たちに教えたからだ。
「たしかに、警官は役にたつこともあるな」宮殿からつづく広い大通りを歩き始めたとき、シルクは言った。
マル・ゼスの街頭は帝国全土からやってきた人々でこったがえしており、西方の人間も少なくなかった。地元の色彩豊かなローブのあいだにちらほらするトルネドラ人のマント姿を見たときは、ガリオンはちょっとびっくりした。センダー人やドラスニア人もあちこちにいたし、ナドラク人も大勢いた。だが、マーゴ人はひとりもいない。「にぎやかなところだな」ガリオンはシルクに言った。
「ああ、そうさ。マル・ゼスにくらべりゃトル・ホネスは田舎市みたいなもんだし、カマールにいたっては村の市場だ」
「それじゃ、ここが世界で一番大きな商業の中心なんだな」
「いや。それはメルセネだ――もちろん、メルセネに集中しているのは、商品ではなくて金だ。メルセネではブリキのポットひとつ買えない。買えるのは金だけだ」
「シルク、金で金を買ってどうやって利益をあげるんだ?」
「いささか複雑でね」シルクの目が細まった。「いいかい、もしきみがリヴァの国庫に手をつけることができたら、メルセネのバサ街で半年足らずで元手を二倍にする方法を教えてやるよ――ふたり分の手数料もたっぷりというおまけつきでな」
「国庫に手をつけろというのか? だれかにつきとめられでもしたら、大暴動になるよ」
「こっそりやるのさ、ガリオン。だれにもつきとめさせないようにな」
「生まれてから一度でもまじめにものを考えたことがあるのか?」
小男は首をかしげた。「おぼえているかぎりでは、ないな」率直に答えた。「だが、おれの思考はよく訓練されてるぜ」
シルクとヤーブレックがここマル・ゼスの商業帝国に構えている事務所は、小男の説明どおり、客でにぎわうパン屋の二階にあって、目だたなかった。二階へは狭い横道の外階段からはいるようになっている。シルクがその階段をのぼりだしたとき、緊張とは無縁の男だと思っていたその友人からある緊迫感が漂ってきたように思えた。「自由にしゃべれないのはじつにいやなもんだよ」シルクは言った。「マル・ゼスには密偵がうようよしてるから、ここで口にすることはこっちが口をとじないうちに、ひと言もらさず三倍になってブラドーにつたわっちまうぐらいさ」
「この事務所のまわりにも密偵がいるにちがいないな」
「もちろんだ、しかし何も聞けないよ。ヤーブレックとおれとで床と壁に厚さがゆうに一フィートはあるコルクを張らせたからな」
「コルクを?」
「音を全部吸い取ってくれる」
「ずいぶん金がかかったんじゃないか?」
シルクはうなずいた。「だがおれたちはここへきた最初の週に、その作業をやったんだ。交渉を内密裏に行なうことによってな」シルクは内ポケットに手をいれて、大きな真鍮の鍵を取り出した。「金庫にドルマーが手をつっこんでる現場を見つけられるかどうかやってみようぜ」ひそひそ声で言った。
「どうして? かれが盗みを働いているのはもう知ってるんだろう」
「むろん知ってるとも、だが、現場を見れば年末のボーナスを減らせる」
「ポケットを裏返してみればわかることじゃないか」
シルクは真鍮の鍵で頬をたたきながら考えていたが、やっと言った。「いや、そいつはあまりいいやりかたじゃない。こういう関係は信頼の上に成り立っているんだ」
ガリオンは吹き出した。
「どっかでけじめをつける必要があるんだよ、ガリオン」シルクは真鍮の鍵をそっと鍵穴にさしこんで、ゆっくり回した。それからやおらドアをぱっとあけて、部屋のなかへ飛び込んだ。
「おはようございます、ケルダー王子」質素なテーブルの向こうにすわっていた男が、落ち着きはらって言った。「おいでになるころだと思ってましたよ」
シルクはちょっとがっかりしたようだった。
テーブルに向かっている男は痩せたメルセネ人で、くっつきあったこずるそうな目と、薄いくちびると、もじゃもじゃの濃い褐色の髪をしていた。一目で信用のおけないやつだと思われそうな顔つきである。
シルクは背すじを伸ばした。「おはよう、ドルマー。こちらはリヴァのベルガリオンだ」
「陛下」ドルマーはたちあがってお辞儀をした。
「ドルマーか」
シルクはドアをしめると、茶色いコルク張りの壁ぎわから椅子をふたつひっぱってきた。床は普通の板張りだが、板の下にあるコルクの厚みを示すように、歩いても、椅子を動かしても、まったく音がしなかった。
「商売はどんなぐあいだ?」シルクは片足でガリオンのほうへ椅子をおしやり、自分もすわりながらたずねた。
「家賃を払っています」ドルマーは用心深く答えた。
「下のパン屋はさぞ喜んでいるだろう。こまかいことを教えてくれ、ドルマー。マル・ゼスにはしばらくこなかったからな。おれたちの投資がどんなにうまく運んでいるかおれをおどろかせてくれよ」
「去年から十五パーセントのアップです」
「それっぽっちか?」シルクは失望したようだった。
「在庫品を元手におおがかりな投資をしたばかりです。在庫品の現在の価値を考慮にいれれば、四十パーセント近くまで行くでしょう」
「だろうな。それにしてもなんで在庫品をたくわえているんだ?」
「ヤーブレックの指示なんです。ヤーブレックはいまマル・カマトで、商品を西へ運ぶ船の手配をしてます。一週間ほどすればここにやってくるでしょう――あの口ぎたないあま[#「あま」に傍点]と一緒に」ドルマーは立ち上がると、注意深くテーブルにちらばった書類を集めて、部屋の隅にある鉄のストーブに歩みよった。腰をかがめてストーブの口をあけ、たよりない火の上に羊皮紙の束をくべた。
ガリオンがおどろいたことに、シルクは問屋の見え透いた証拠湮滅に異議ひとつとなえなかった。「毛織物市場を調査してきましたが」メルセネ人はからっぽになったテーブルに戻って報告した。「動員数の増加にともなって、軍の備品調達局が軍服、外套、毛布用の毛織物を必要とするのはまちがいありません。大手の牧羊業者全員から選択権を買い上げることができれば、市場を操って、メルセネ組合が軍の購入品にかけている抑制をとりはらうことができるでしょう。調達局の扉に片足をつっこむことができれば、あらゆるたぐいの契約に入札するチャンスができますよ」
シルクは長いとがった鼻をひっぱりながら、目を細めて考えていたが、ひとこと言った。「豆だ」
「はあ?」
「今年の豆の収穫量をおさえられるかどうか検討してくれ。兵隊はくたびれた服でも生きられるが、食わなきゃならん。豆の収穫量をおさえれば――雑穀の収穫量も――軍の備品調達局はにっちもさっちもいかなくなる。おれたちを入札せざるをえないだろう」
「じつに巧妙ですな、ケルダー王子」
「多少は経験を積んでるからな」シルクは答えた。
「組合は今週メルセネで会合を開いています」問屋は報告した。「共通項目の値段を決める予定でしょう。できれば、その価格表がほしいところです」
「おれは宮殿にいるんだ。だれかから聞き出せるかもしれん」
「もうひとつ知っておいていただきたいことがあるんです、ケルダー王子。組合が商務省のヴァスカ男爵にある規制を提案するつもりだという噂がありましてね。経済保護という名目で提案するんでしょうが、じっさいの狙いはあなたとヤーブレックなんです。組合は、西部沿岸の二、三の飛び地領で年に十万以上の収益をあげている西方の商人たちを取り締まりたいんですよ。商いの規模が小さな商人たちにはどうってことはありませんが、われわれは商売が成り立たなくなってしまいます」
「だれかを買収してくいとめることはできないのか?」
「すでにヴァスカに一財産払っているんですが、組合は湯水のごとく金をばらまいているんです。男爵を買収しつづけるのはむりでしょう」
「宮殿内部をおれがちょいとさぐってみるよ、ヴァスカの買収額を二倍にする前にな」
「買収は標準の手つづきですよ、ケルダー王子」
「わかってるさ、だが脅迫のほうがよく効くこともある」シルクはガリオンを見たあと、問屋に視線を戻した。「カランダでどんなことが起きているか知ってるか?」
「商売には壊滅的だってことはじゅうぶん知ってますよ。尊敬できる商人や、そうでなくとも弱気な商人がこぞって店をたたんで、メンガの軍にはいろうとカリダへ馳せ参じているんです。連中は入隊すると、アンガラク人をやっちまえ≠ニ歌いながらぐるぐる行進して、錆びた剣をふりまわしているんです」
「武器を売りつけるチャンスはあるか?」シルクはせきこんでたずねた。
「まあ、だめでしょう。交渉しようにも、北部カランダには武器を買うだけの金がないんですよ。政治不安で鉱山はすべて営業停止になってますしね。宝石の市場は干上がる寸前です」
シルクはむっつりとうなずいた。「本当のところ、あそこはどうなってるんだ、ドルマー? ブラドーがおれたちに伝えてきた報告はおおざっぱすぎるんだよ」
「メンガが悪魔たちをひきつれてカリダの城門にやってきたんですよ」問屋は肩をすくめた。「カランド人はヒステリーを起こしたかと思うと、あっというまに宗教的恍惚のとりこになっちまったんです」
「ブラドーはある残虐行為の話をした」ガリオンは口をはさんだ。
「ブラドーの受けた報告はちょっとおおげさだったのだと思いますよ、陛下」ドルマーは答えた。「どんなによく訓練された傍観者でも、道に手足を切り取られた死体が十もころがっていれば話をオーバーにするものです。実際、負傷者の大部分はメルセネ人かアンガラク人です。メンガの悪魔たちはきちょうめんにカランド人を殺すのを避けています――たまたまという場合以外は。メンガがこれまで征服したどの都市でも同じなんです」ドルマーはくっつきあった目をほそめて頭をかいた。「まったく巧妙としかいいようがありませんや。カランド人はメンガを解放者と仰ぎ、かれの悪魔たちを無敵の突撃隊と見なしているんです。メンガの本当の動機はわかりませんが、あの野蛮人どもはメンガのことをカランダからアンガラク人とメルセネの官僚主義を一掃しにやってきた救世主だと信じているんです。あと半年も待っててごらんなさい、やつはこれまでだれにもできなかったことをやってのけますよ」
「なんだ、それは?」シルクがきいた。
「カランダの統一です」
「メンガは都市を攻撃するのにいつも悪魔を使ったのか?」ガリオンはブラドーの話を確認したくてたずねた。
ドルマーは首をふった。「もう悪魔は使っていません、陛下。カリダをはじめとする攻撃まもないころの都市を鎮圧するときは悪魔を呼び出していましたが、もうその必要はないんです。最近では、ただ都市へ行進していくだけですんじまうんですよ。もちろん悪魔たちも一緒ですが、悪魔たちはただそこに立ってにらみをきかせるだけです。カランド人が町中のアンガラク人とメルセネ人を虐殺し、両手をひろげてメンガを歓迎するんです。すると悪魔たちは消えちまうんです」ドルマーはちょっと考え込んだ。「しかし、いつも特定の悪魔がメンガには連れ添っていましてね――意外に大きくない幽霊みたいな生き物でして。メンガが公衆の面前に出るときには、いつもそいつがメンガの左肩のすぐうしろに控えてるんです」
ふいにある考えがガリオンの頭に浮かんだ。「悪魔たちはグロリムの神殿を冒涜しているか?」
ドルマーは目をぱちくりさせた。「いいえ」びっくりしたように答えた。「じっさい、そういうことはしていません――そういや、グロリムたちはひとりも死んでいないようです。もちうん、この事態がはじまったときに、ウルヴォンがカランダからすべてのグロリムを退去させた見込みはありますが」
「それはなさそうだ」ガリオンは言った。「メンガがカリダへやってきたのは、まったくの不意打ちだったんだからな。グロリムたちに逃げ出す暇があったはずがない」ガリオンは天井をにらんで一心に頭を働かせた。
「どういうことなんだ、ガリオン?」シルクがきいた。
「ぞっとするようなことを考えついたんだよ。メンガがグロリムであることはわかっている、だろう?」
「知りませんでした」ドルマーが少なからずおどろいて言った。
「内部情報で知ったんだ」シルクが教えた。「先をつづけろ、ガリオン」
「ウルヴォンはずっとマル・ヤスカにいる、そうだな?」
シルクはうなずいた。「そう聞いている。ベルディンにつかまりたくないんだ」
「ずいぶん役たたずの指導者じゃないか? よし、それじゃ言うそ。メンガはトラクの死後絶望の日々を送っていたとしよう。そして悪魔を呼び出す方法を教えてくれる妖術使いを見つけ出した。メンガは戻ってくると、グロリムの以前の仲間にウルヴォンの代わりをしないかともちかける――いままで経験したことのない力を得る方法も合わせてだ。無教養で愚かなカランドの妖術使いがあやつる悪魔はたかがしれている。しかし、グロリムの魔術師によって支配される悪魔はそれとはくらべものにならない。もしメンガが不満のあるグロリムたちを集めて、魔術の使いかたを教えこんだら、これは大問題だ。大勢のチャバトに立ち向かうのはぼくならごめんだ、そうだろう?」
シルクはぶるっと身をふるわせた。「いうまでもないよ」熱をこめて答えた。
「でしたら、メンガは始末しなければなりませんね」ドルマーが言った。「それもすぐに」
ガリオンは顔をしかめた。「クトル・マーゴスから軍を引き上げさせるまで、ザカーズはてこでも動かないよ――あと三ヵ月はむりだ」
「三ヵ月も手をこまねいていては、メンガを打ち破るのは並み大抵のことではなくなります」問屋はガリオンに言った。
「じゃあ、いますぐ行動するしかないな、ザカーズがいようといまいと」
「どうやって都市から出るつもりだ?」シルクがたずねた。
「それはベルガラスにまかせよう」ガリオンはシルクの代理人に視線を移した。「ほかに情報は?」
ドルマーはシルクの癖に不思議と似たしぐさで、鼻をひっぱった。「単なる噂ですが」
「話してくれ」
「カランダからつかんだそれとない話では、メンガに影のように寄り添う悪魔はナハズという名前なんです」
「それは重要なことなのか?」
「よくわかりません、陛下。第二黄金期にグロリムたちがカランダに行ったとき、かれらはカランドの神話を根こそぎ破壊してしまいました。以来、残存するものを記録しようとした者はひとりもいませんでした。残されたのは口承による不確かな伝統だけですが、わたしの聞いた噂によると、ナハズはアンガラクより先にマロリーへ移住したカランド原人の部族の悪魔だったのです。カランド人がメンガに従うのは、かれが政治的指導者であるためだけでなく、メンガがカランド人がかつて仰いでいた神にもっとも近いものを復活させたからでもあるんです」
「つまり、魔神ということか?」
「まさにぴったりの表現です、陛下。噂が真実なら、悪魔のナハズはほとんど無限の力を持っているのです」
「そう言うんじゃないかと思ってたんだ」
しばらくたって外の通りに戻ったとき、ガリオンは不思議そうにシルクを見た。「ドルマーが書類を燃やしたとき、どうして黙ってたんだ?」
「あれが昔からのやり方なんだ」ネズミ顔の男は肩をすくめた。「おれたちは文字にしたものは絶対に残さない。ドルマーはなんでも記憶するんだ」
「それじゃ、情報を盗むのはわけないじゃないか」
「もちろんそうさ。しかし、あいつは分をわきまえて盗むんだ。税務局が文字にされた記録でも見つけてみろよ、それこそ大損害だ。さあ、宮殿へ戻ろうか?」
ガリオンはリストをひっぱり出した。「そうはいかない。まずこれを片づけなくちゃ」むっつりとリストをながめた。「どうやってこれを全部はこぶんだろう」
シルクがちらりとふりかえって、黙々とあとをついてくる目だたないふたり連れを見た。
「二、三歩うしろに人手があるぜ」と笑った。「さっきも言ったが、警官てのは使いみちがいろいろあるもんだな」
それからの数日間で、ガリオンはマル・ゼスの宮殿が西方のどの宮廷とも似ていないことに気づいた。権力はすべてザカーズが握っているので、官僚や宮殿の職員たちは皇帝の寵愛を得ようと競いあい、あの手この手をめぐらして敵を蹴落とすのに忙しかった。この不穏な環境にシルクとヴェルヴェットとサディが登場したことによって、陰謀うずまく宮殿はまったく新たな局面を迎えた。三人組はガリオンとザカーズの友情をそれとなく指摘し、かれらがリヴァの王の完全な信頼を得ていることを広く知らしめた。そうしておいて、三人は事態が動き出すのをのんびり待ち受けた。
皇帝にとり入るためのこの新しいルートの重要性と、それが差しだすチャンスに、宮廷の役人や従者は飛びついた。あらたまって論じあうことさえしないで、西方の三人組は各自の能力に見合った活動範囲をきちんと分担した。シルクはもっぱら商業問題に注意を向け、ヴェルヴェットは政治に、サディは高級な犯罪の世界にその指の長い手を優雅に浸した。三人とも賄賂を受け取るのにやぶさかでないことをそれとなく匂わせたが、情報と交換にさまざまな要求を上へ回す意志があることも表明した。こうして、ほとんど偶然のようにして、ガリオンはきわめて有能な諜報網を自由に使えることになったのである。シルクとヴェルヴェットは接触してくる連中の恐れや野心やあけすけな欲を音楽家よろしく微妙に増大させ、神経をたかぶらせた役人どもを整調ずみの楽器のように巧みにあしらった。サルミスラの宮廷での経験から体得したサディのやりかたは、シルクたち以上に巧妙なこともあったが、大部分はおそろしく単刀直入だった。かれの赤い革の箱には額面以上の値段がつき、高級犯罪者や、官僚や将軍の一団をかかえている高官たちが、疑わしい状況のもとで、急死した――そのうちのひとりなどは、皇帝自身の面前で顔をどす黒くし、目を飛び出させてひっくりかえったのだった。
三人の活躍を内心おもしろがって見守っていたザカーズは、その時点で待ったをかけた。翌日、習慣になっていた夜の会見で、ザカーズはガリオンとその問題をとことん話し合った。
「わたしはケルダー王子たちがなにをしようとかまわんのだ、ガリオン」ザカーズは膝にねそべってゴロゴロ喉を鳴らしているオレンジ色の子猫の頭をおざなりになでながら言った。「宮殿の暗い隅っこでこそこそやっている虫けらどもは、おかげで右往左往している。混乱した虫けらに地位を固める力はない。わたしとしては、ああいうけちなおべっかつかいどもをずっとびくびくさせておきたいのだよ、そのほうが扱いやすいからな。しかし、毒殺には断固反対しなくてはならん。未熟な毒殺者はミスを犯しやすい」
「サディなら百人の客がいる祝宴で特定の一人を毒殺できるよ」ガリオンは断言した。
「かれの能力には全幅の信頼を置いている」ザカーズは同意した。「だが問題は、実際に毒を盛っているのがサディ自身ではないということなのだ。サディは調合した毒を愚かなしろうと連中に売っているのだよ。この宮殿にはわたしにとって必要な人間が何人かいる。そのことはだれもが知っているから、かれらが腹に短剣をつきたてられる心配はない。しかし、まちがって毒でも盛られたら、政府を支えている連中が根こそぎやられる可能性がある。この宮殿ではもう毒を売らないようサディに言ってくれないか? わたしから話してもいいのだが、公式な叱責と思われたくないのでね」
「話しておこう」ガリオンは約束した。
「感謝するぞ、ガリオン」皇帝の目がずるがしこくなった。「だが、毒だけだ。サディのその他の混合物の効果は、なかなか面白い。ついきのうも、八十五歳の老将軍が若いメイドを追いかけているのを見たよ。あのじいさんがあんな気を起こしたのは二十五年ぶりのことだろう。おとといは公共労働省の局長が――見ただけで気分が悪くなるもったいぶったばかものだがね――大勢の見物人の前でたっぷり一時間、建物の外壁を歩こうとしていたよ。あんなに笑ったのは数年ぶりだ」
「ニーサの不老長寿薬にはおかしな効果があるんだよ」ガリオンはにやにやした。「サディに売りつけるなら楽しくなる薬だけにするようにたのんでおく」
「楽しくなる薬か」ザカーズは笑った。「その表現は気に入った」
「言葉をあやつるのが昔からうまくてね」ガリオンはひかえめに言った。
オレンジ色の子猫が立ち上がって、あくびをし、皇帝の膝から飛び降りた。まだらの母猫がすかさず白黒の子猫のくびをくわえて、オレンジ色のがいままでいた場所にぽんとのせた。それから母猫はザカーズの顔を見上げて、物問いたげにミャーオと鳴いた。
「ありがとうよ」ザカーズは言った。
母猫は満足して下に飛び降り、オレンジ色の子猫をくわえると、片方の前足でおさえて毛並をなめはじめた。
「いつもそうやってるのかい?」ガリオンはたずねた。
ザカーズはうなずいた。「母親であることに忙しいのさ、だが、わたしに寂しい思いをさせたくないんだ」
「思いやりがあるんだな」
ザカーズは膝の上の白黒まだらの子猫を見おろした。子猫は四つの足をザカーズの片手にまきつけて、関節のひとつにむしゃぶりついていた。「猫なしでも生きていけそうな気がしてきた」ザカーズはひるみながら言った。
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宮殿にはびこる神出鬼没の密偵たちを避ける一番簡単な方法は、重要な話し合いをおおっぴらにやることだった。というわけで、ガリオンはひっきりなしにひとりかふたりと連れだって宮殿の敷地をぶらついた。数日後のある美しい春の朝、ガリオンはベルガラスとポルガラと一緒にサクランボの果樹園の、まだらもように日差しの落ちる木陰を歩きながら、ザカーズの宮殿の廊下にまで蔓延している政治的陰謀をめぐるヴェルヴェットの最新報告に耳を傾けていた。
「驚いたのは、ブラドーが進行中の陰謀の大半に通じているということですわ」金髪の娘は言った。「ブラドーはそれほど有能に見えませんけれど、かれの秘密警察はいたるところにいるんです」ヴェルヴェットは舞い落ちる桜の花びらを顔にうけて、香りをこれみよがしに吸い込んだ。
「連中の地獄耳もここまでは届かないな」ガリオンは言った。
「ええ。でも、わたしたちを見ることならできましてよ。わたしでしたらまだあまりおおっぴらに話すのはひかえますわ、ベルガリオン――たとえ戸外でも。きのうたまたま仕事熱心な密偵にでくわしたんですけれど、かれは五十ヤード向こうで行なわれているひそひそ話を一字一句いそがしそうに書きとっていましたわよ」
「そいつはすごいな」ベルガラスが言った。「どうしてそんなことができたんだ?」
「耳が聞こえないんです」ヴェルヴェットは答えた。「くちびるの動きで人のしゃべっていることを理解する訓練を何年も積んできたんですわ」
「巧妙だな」老人はつぶやいた。「それでなのかね、さっきからさかんに桜の匂いをかいでいるのは?」
ヴェルヴェットはえくぼをみせてにっこりした。「それもありますけれど、桜ってとてもいい匂いなんですもの」
ベルガラスはひげをかいて、片手で口をおおった。「よし、必要なのはなんらかの混乱状態だな――ブラドーの秘密警察の注意をそらして、追跡されずにマル・ゼスから脱出できるような騒ぎだ。ザカーズはクトル・マーゴスから軍をつれもどすまでは絶対になにもしない覚悟だから、わしらはかれ抜きで行動しなければならん。ここいらの密偵をひとり残らずひきつけるようなものがないもんかな?」
「あまりなさそうですわ、長老。パリアの小王とデルチンの摂政の宮は反目しあっていますが、それはもう何年も前からです。ヴォレセボの老王は息子から王座を取り戻すのに、皇帝の援助をとりつけようとしています。一年ほど前に息子に王座を追われたんですわ。商務省の局長であるヴァスカ男爵は軍の備品調達局を吸収しようとしていますが、将軍たちは裏をかいています。いまのおもな問題といったら、こんなものですわ。些細な計略なら山ほどありますが、わたしたちを見張っている密偵たちの気をそらしてくれるような大変動はありません」
「何か起こすことができそう?」ポルガラがほとんど口を動かさないでたずねた。
「やってみます。レディ・ポルガラ」ヴェルヴェットは答えた。「ですけど、この宮殿で起きることはすべてブラドーが監視しているんです。ケルダーとサディに話してみます。でも、わたしたちに都市脱出のチャンスを与えてくれそうな予想外のことを三人でやってのけられるかどうか、見込みは薄いですわ」
「急を要することなのよ、リセル」ポルガラは言った。「アシャバで捜しているものを見つけたら、ザンドラマスはまた動き出すわ。そうしたらまたクトル・マーゴスにいたときのように、遅れをとってしまうことになるのよ」
「三人で知恵をしぼってみます、レディ」ヴェルヴェットは約束した。
「中へ戻るのかね?」ベルガラスはたずねた。
ヴェルヴェットはうなずいた。
「わしも一緒に行くよ」老人はうんざりしたようにあたりを見回した。「この新鮮な空気とそぞろ歩きは、健全すぎてわしの好みに合わん」
「もう少し一緒に歩いてちょうだい、ガリオン」ポルガラが言った。
「いいよ」
ヴェルヴェットとベルガラスが宮殿の東翼のほうへ引き上げていったあと、ガリオンとおばは満開の桜の木々の下のきちんと刈り込まれた緑の芝生をぶらついた。節こぶだらけの古木のこずえで一羽のミソサザイが、胸がはりさけそうに歌っている。
「何の歌だろう?」ガリオンはおばが鳥にたいして並み外れた親近感を持っているのを思いだしてきいた。
「メスの注意をひこうとしているのよ」ポルおばさんはやさしくほほえんで答えた。「またその季節がめぐってきたの。さかんにしゃべりかけては、ありとあらゆる約束をしているのよ――夏がすぎたら、そのほとんどを破るんでしょうけどね」
ガリオンは微笑してポルガラの肩に腕を回した。
ポルおばさんは満ちたりたためいきをついた。「いい気分だわ。どういうわけか離れているといまだにあなたのことを小さな男の子として考えてしまうのよ。こんなにのっぽに成長したんだと気づくのは、いつも一種のおどろきなの」
それにたいしてガリオンに言えることはほとんどなかった。「ダーニクはどうしてる?」代わりにたずねた。「この何日かほとんど会ってないんだ」
「トスとエリオンドとの三人で宮殿の敷地の南端にマスがうようよしている池をまんまと見つけ出したわ」おどけたように目をぐるっと上にむけて、ポルガラは答えた。「毎日大漁だけれど、料理人たちはしぶい顔をしはじめているわ」
「ダーニクなら絶対見つけると思った」ガリオンは笑った。「エリオンドもじっさいに釣りをしてるのかな? かれにはちょっと不似合いみたいだけど」
「あまり熱心ではないようね。ダーニクのお供で行くようなものでしょう――それと、外にでるのが好きだから」ポルガラは立ち止まって、まっすぐガリオンを見つめた。「このごろ、セ・ネドラのようすはどう?」
「若いご婦人たちをたくさんいつも身辺にはべらせてる」ガリオンは答えた。「どこへ行くにもいつも取り巻きに囲まれてるよ」
「女はそういうのが好きなのよ」ポルガラは言った。「男性も結構だけれど、女には女の話相手が必要なの。男には理解できない大事なことがいっぱいあるのよ」ポルガラの顔がまじめになった。「それじゃ、クトル・マーゴスで起きたようなことはぶり返していないのね?」
「いまのところはだいじょうぶだ。ぼくにはいたって正常に見えるよ。ひとつ変わったことと言ったら、もうゲランのことを全然口にしなくなったってことだけだ」
「それは彼女なりの自己防衛なのよ、ガリオン。正確に言葉ではいいあらわせないかもしれないけれど、セ・ネドラはプロルグで鬱病になったことを知っているのよ。病気に負けたらもうそれっきりだということに、きっと気づいているんだわ。ゲランのことを考えないはずはないわ――おそらく始終考えているでしょう――でも、話そうとしないだけよ」ポルガラはふたたび立ち止まった。「あなたたちの結婚の肉体的な面はどうなの?」単刀直入にきいた。
ガリオンは真っ赤になって咳き込んだ。「その――そういうことのためのチャンスはあまりなかったんだよ、ポルおばさん――どうもセ・ネドラは他に考え事がたくさんあるみたいだしね」
ポルガラは考え深げに口元をひきしめた。「そのことを無視するのは名案とは言えないわね、ガリオン。定期的に親密な関係を持たない夫婦は、しばらくすると心が通わなくなるものよ」
ガリオンは赤い顔のまま、また咳き込んだ。「彼女、あまり興味がないみたいなんだよ、ポルおばさん」
「それはあなたの責任よ、ディア。必要なのはちょっとした計画と、細かなことへの注意だけじゃないの」
「ずいぶんそっけない言い方だな」
「自発性はおおいに結構だけれどね、ディア、練りに練った誘惑も捨てがたいわよ」
「ポルおばさん!」ガリオンは心底ショックをうけた。
「あなたは大人なのよ、ガリオン。それは大人の男の責任のひとつだわ。よく考えることね。ときどきとてもいいことを思いつくことがあるから、あなたならきっと名案がひらめくわよ」ポルガラは日差しをあびた芝生を見渡した。「そろそろ戻りましょうか? もうお昼だと思うわ」
その日の午後、ガリオンはまたしても宮殿の敷地を散歩していた。今度の相手はシルクと宦官のサディだった。「ベルガラスは混乱を求めているんだ」ガリオンはふたりに深刻な口調で言った。「都市からぼくたちを脱出させる計画があるらしいが、そのためには密偵全員の注意をそらして、余裕を持ってベルガラスに行動してもらう必要がある」しゃべりながらガリオンはせわしなく鼻をかいて片手で口元をおおった。
「花粉症か?」シルクがたずねた。
「いや。ブラドーの密偵のなかには耳が聞こえない者がいるんだが、くちびるの動きで相手の言ってることが全部わかるんだ。ヴェルヴェットが教えてくれたんだよ」
「たいした才能ですね」サディがつぶやいた。「耳の聞こえる人間には修得できない技術なんでしょうかね」
「おれも耳が聞こえなかったらよかったと思うことがときどきあるよ」シルクが咳をよそおって口元を隠しつつ同意してから、サディを見た。「ときに、正直に質問に答えることはあるのかい?」
「それは質問によりますよ、ケルダー」
「秘密言葉を知ってるか?」
「もちろん」
「理解できるのか?」
「残念ながら。これまで会ったドラスニア人はわたしにそれを教えるほどわたしを信用してくれなかったんです」
「なんでだろうな」
サディはにやっとした。
「口をおおいながらしゃべればなんとかなるよ」ガリオンは言った。
「最初はいいとしても、それじゃちょっと見えすいてやしませんか?」サディが反論した。
「われわれが何か隠していると知ったら、密偵たちはどうするだろう? 止まれとでも言うかな」
「おそらくそういうことはしないでしょう。しかしときどき偽情報を会話におり混ぜたほうがいいかもしれませんね。わたしたちが向こうのやり方を知っていることがわかれば、密偵たちもあきらめるでしょう」秘密言葉を教えてもらいそこねた宦官はためいきをついたあと、肩をすくめた。「ああ、やれやれ」
ガリオンはシルクを見た。「秘密警察を追っぱらうのに利用できそうな事件かなにか知らないか?」
「そうだなあ」小男は答えた。「目下メルセネ組合は今年の価格表を内密にしておいて、ヴァスカ男爵を丸めこんでヤーブレックとおれの西部沿岸にある飛び地領での活動を抑え込もうとやっきになっているんだ。だが、おれたちはヴァスカにたっぷり袖の下を使っている――ヴァスカが買収されているかぎりはな。内密裏の行動はいろいろあるんだが、いますぐ表面化してきそうな問題はなさそうだ。表面化したとしても、おれたちの監視という秘密警察の任務を解くほどでかい事件にはならないだろう」
「上へ話を持っていったらどうなんです?」サディが提案した。「ブラドーに話して、買収に応じるかどうかやってみますよ」
「それはだめだろう」ガリオンは言った。「ブラドーはザカーズからの特別な命令でわれわれを監視させているんだ。首を危うくしてまで買収に応じるとは思えない」
「人を買収する方法はほかにもありますよ、ベルガリオン」サディはずるがしこそうにほほえんだ。「わたしの箱のなかに人をひどくいい気分にさせるものがあるんです。ただそれにもひとつ困ったところがありましてね、何度か使うと手放せなくなってしまう。我慢する苦しみたるや、すさまじいものなんですよ。一週間とたたぬうちにブラドーを抱き込んで、思いどおりのことをさせてみせましょう」
ガリオンは急にその考え全体にはげしい嫌悪をおぼえた。「気が進まないな。やるとしても、それは最後の手段だ」
「あなたがたアローン人は変に道徳意識が強いんですな」宦官はつるつる頭をこすりながら言った。「平然と人をまっぷたつに斬るくせに、毒や薬には拒否反応を示すんですから」
「生まれ育った環境のせいさ、サディ」シルクが言った。
「ほかになにかいい手はないか?」ガリオンはたずねた。
サディは考え込んだ。「なにもしないでいるんじゃむずかしいですよ。しかし官僚制度は堕落しやすいものです。マロリーには官僚制度を利用している者がたくさんいます。隊商がダラシアの山中やマガ・レンからの路上で待ち伏せに会うのは習慣化しています。隊商は商務省の許可を得る必要があるんですが、ヴァスカが出発の時間やら、道順やらの情報を追いはぎの頭目たちに、折りにふれて売っているのは周知の事実です。メルセネの裕福な商人たちがたっぷり賄賂《わいろ》を積めば、ヴァスカは知らんぷりをきめこむこともあるときてる」宦官はくすくす笑った。「一度ヴァスカはそれぞれ三つの追いはぎ団にたったひとつの隊商の情報を売りつけたことがありましてね。デルチンの平原で正々堂々の争奪戦があったそうですよ」
ガリオンの目が考え深げに細まった。「このヴァスカ男爵に的をしぼるとよさそうな気がしてきたぞ。ヴェルヴェットの話では、ヴァスカは備品調達局の軍からの分離も狙っているらしい」
「そいつは知らなかった」シルクがおどろいて言った。「小さなリセルもやるもんじゃないか、え?」
「えくぼですよ、ケルダー王子」サディが言った。「わたしは女の媚びにはいかなるたぐいのものにもまったく動じませんが、正直な話彼女の微笑には膝の力が抜けてしまうんです。まことに愛らしいご婦人ですよ――じつに慎重であることは言うまでもなく」
シルクはうなずいた。「そうだな。おれたちもそこそこリセルを誇りに思ってるよ」
「ふたりでヴェルヴェットを見つけてきてくれないか?」ガリオンは言った。「堕落しきったこのヴァスカ男爵に関する情報をみんなで出し合ってほしいんだ。ことによるとなにか引き起こせるかもしれない――騒々しいやつを。宮殿の廊下でおおっぴらな喧嘩でもはじまれば、願ってもない脱出のチャンスになる」
「まことに策略に長《た》けておいでですな、ベルガリオン」サディが感心して言った。
「のみこみが早いんだよ。それが悪評高い人物とつきあっているせいなのはいうまでもないがね」
「光栄です、陛下」宦官はわざとありがたそうに答えた。
夕食後まもなくガリオンは宮殿の廊下を通って、いつものザカーズとの夜の話し合いへ出かけた。例によって忍び足の秘密警察官が、少しあとからついてきた。
その夜のザカーズはもの思いに沈んでいた――ラク・ハッガにいたときのような陰気で憂鬱な気分に陥っていた。
「いやな一日だったのか?」ガリオンは椅子の前の足乗せ台で眠っている子猫をどかしてから、ゆったり椅子にもたれて台に足を乗せた。
ザカーズは顔をしかめた。「クトル・マーゴスにいるあいだにたまっていた仕事を少しずつ片づけていたのだ。始末の悪いことに、わたしが戻ってきてから仕事の山は高くなるいっぽうでね」
「その気持ちわかるよ」ガリオンは同意した。「リヴァへ帰ったら、机の書類を全部なくすまでに一年はかかるだろう。ひとつ提案があるんだが、聞く気はあるか?」
「言ってくれ、ガリオン。いまならどんなことでも聞こう」ザカーズはまたしてもかれの関節を噛んでいる黒白まだらの子猫を非難の目で見た。「そう強く噛むな」つぶやいて獰猛な小さな獣の鼻を人差し指で軽くたたいた。
子猫は耳をうしろに倒し、甲高いうなり声をあげた。
ガリオンは慎重にきりだした。「無礼をするつもりはないんだが、あんたはウルギットと同じ過ちを犯しているように思うんだ」
「それは聞き捨てならん意見だな。つづけてくれ」
「政府を編成しなおす必要があるんじゃないだろうか」
ザカーズは目をぱちくりさせた。「ほう、それはまた大胆な提案だ。だがまだよくわからんな。ウルギットは救いがたい無能力者だったのだぞ――少なくとも貴公がやってきて、統治の基本を教え込む以前はな。ウルギットとわたしに共通の過ちとは何なのだ?」
「ウルギットは臆病だ。それは今後もおそらく変わらないだろう。あんたは臆病じゃない――いささか常軌を逸するときもたまにはあるようだが、決して臆病じゃない。問題はあんたたちがそろって同じ過ちをおかしているってことだ。あんたは決定を全部自分でしようとする――取るにたらないものでもだ。それじゃ睡眠時間を全部返上しても絶対不可能だよ」
「わたしもそのことには気づいていた。どんな解決法がある?」
「責任を委任するんだ。あんたの政府の長官や将軍たちは有能だ――言わせてもらえば、腐敗はしているが仕事はちゃんと心得ている。こまごましたことはかれらに任せて、大事な決定事項だけをあんたのところへ持ってくるよう命じるんだ。そしてもし何かまずいことになったら、首にすると言っておくのさ」
「それはアンガラクのやりかたではないな、ガリオン。統治者――この場合は皇帝だが――はつねにいっさいの決定を行なうのだ。世界の誕生からずっとこの方法でやってきている。昔はトラクがすべての決定を下していた。したがって、マロリーの皇帝たちもその例にならってきたのだ――トラクについての個人的感情はさておき」
「ウルギットもまったく同じ過ちを犯したんだ」ガリオンは言った。「あんたたちはふたりともトラクが神だったこと、かれの意識と意志には限りがなかったことを忘れている。人間がその真似をするのは無茶なんだ」
「長官にも将軍にもそういう権限を与えてよいと思える者はひとりもおらん」ザカーズは首をふった。「現状でさえ連中は手に追えないのだ」
「そのうち限度を知るようになるさ」ガリオンはザカーズを安心させた。「二、三人降格するか、辞めさせるかすれば、残りの連中もわかってくる」
ザカーズは陰気に微笑した。「それもアンガラクのやり方ではないのだ、ガリオン。見せしめにするときは、普通それは首切り役人の仕事になる」
「むろんそれは内部の問題だからね」ガリオンも反対はしなかった。「そっちの家来のことはぼくよりあんたのほうがよく知っている。しかし有能な人間の首を文字どおり切ってしまったら、その埋め合めはもうできないじゃないか。才能を無駄にするのはよしたほうがいいぞ、ザカーズ。取り返しがつかない」
「いいことを教えよう」ザカーズはちょっとおもしろがっているような顔で言った。「わたしは氷の男と呼ばれている。だが、きみはみかけは温厚だが、わたしよりよほど冷血だよ。きみほど実利的な人間には会ったことがない」
「ぼくはセンダリアで育ったんだ、ザカーズ」ガリオンは相手に思い出させた。「実利主義はセンダリアの宗教みたいなものさ。一国を切り回す術は、ファルドーという人物から学んだんだ。しかし、まじめな話、どんな統治者でもその主要目的は事態をうまく維持していくことにある。だから才能ある部下は何物にも代えがたい宝なんだ。ぼくはこれまで数人の部下を懲戒しなけりゃならなかったが、それ以上のことはしていない。そうすれば必要になったとき、またかれらを使うことができる。そのことを少し考えてみたらどうだろう」
「そうだな」ザカーズは背すじを伸ばした。「ところで、政府の腐敗についてだが――」
「ああ? そんな話をしていたかな?」
「これからするところなんだ。うちの長官たちはみんな多かれ少なかれ不正直だが、貴公の三人の友人は、われわれが処理する気もないようなこの宮殿内のけちな計略や詐欺行為を複雑にしてしまっている」
「ほう?」
「愛らしいリセル辺境伯令嬢はパリアの王とデルチンの摂政の宮をまんまと説得し、貴公にかれらのことをとりなしてやろうとしている。かれらのどちらも、長期にわたる双方の喧嘩が今にも公になることを確信している始末だ。わたしはあのふたりに宣戦布告をしあってもらいたくないのだよ。すでにカランダで問題が起きているのだからな」
「リセルに言っておこう」ガリオンは約束した。
「そしてケルダー王子は文字どおり商務省の全フロアを占領している。わたし以上にあそこから情報をひきだしているのだ。メルセネの商人たちは毎年マロリーで売られる商品すべての価格調整のためにここに集まっている。価格調整は帝国でもっともガードの固い秘密なのに、ケルダーはそれを買い取ってしまった。それらの価格をわざと低く抑え、わが国の経済全体を分裂させようとしている」
ガリオンは眉をひそめた。「そんなことは言っていなかったがな」
「ケルダーが正当な利益を得るのはいっこうにかまわん――かれが税金を払うかぎりは――だがマロリー中の商売を牛耳らせるわけにはいかんのだ、そうだろう? なんといってもかれはアローン人なのだし、政治的忠誠心がいささかあいまいだからな」
「行動を少しつつしむようそれとなく言っておこう。だが、あんたもシルクを理解してやらなくちゃいけない。シルクは金のことなど気にもかけていないんだ。かれの関心はゲームだけなんだから」
「もっとも、わたしがいまだに一番心配しているのはサディなのだよ」
「へえ?」
「農業への関わりかたが熱心すぎてな」
「サディがかい?」
「カマトの湿地で育つ野生のある植物があってね。サディはそれに大枚はたいているのだ。それで、このマロリーで有名な追いはぎの頭目のひとりが手下を総動員してその植物を刈り取らせている――そして当然、その収穫物をひとりじめしているのだ。湿地帯ではすでに何度か正正堂々と争奪戦が行なわれている」
「しかし穀物を収穫していれば、追いはぎも忙しくて路上の旅人を襲う暇などなくなるだろう」ガリオンは指摘した。
「問題はそういうことではないのだ、ガリオン。サディが二、三の役人をいい気分にさせたり、連中がばかなふるまいをしたりしている分には、さほど気にならなかったんだが、サディはこの植物を荷馬車で市内へ持込み、労働者のあいだにそれを広めているのだ――軍にもな。それは困る」
「行動を中止させられるかどうかやってみよう」ガリオンはいったん同意してから、目をほそめてマロリー皇帝を見た。「だが、あんたも気づいているんだろうな、たとえぼくがあの三人をいましめたところで、おとなしくはならないよ。ほかの新しいことをはじめるだけだ――それもたぶん同じくらい始末に終えないことをね。それよりぼくがかれらをマル・ゼスから連れだしたほうがよくはないか?」
ザカーズはにんまりした。「うまいじゃないか、ガリオン。しかしわたしはそうは思わん。わが軍がクトル・マーゴスから戻るまで待つのだ。それからなら、そろってマル・ゼスを馬で出発できる」
「あんたみたいに頑固な人間には会ったことがないよ」ガリオンはカリカリしながら言った。
「時間がいたずらに過ぎていくことがわからないのか? この遅れが取り返しのつかないものになるんだぞ――あんたやぼくにとっての災難じゃすまない、全世界の災難になるんだ」
「また〈光の子〉と〈闇の子〉の運命の対決の話か? 水をさすようで悪いが、ガリオン、ザンドラマスは貴公を待つことになっているのだ。わたしは貴公やベルガラスに自由にこの帝国を歩き回ってもらいたくないのだよ。わたしは貴公が好きだ、ガリオン、だがすっかり信用しているわけではない」
ガリオンのいらだちが怒りに変わりはじめた。ガリオンは好戦的にあごをつきだして立ち上がった。「ぼくの我慢もそろそろ限界だ、ザカーズ。いままで事を穏便にすませようと努力してきたが、物事には限度がある。もうこれまでだ。三ヵ月もこの宮殿で安穏としているつもりはないからな」
「そこがまちがっているというのだ」ザカーズも立ち上がり、驚いている子猫を乱暴に床に放り出した。
ガリオンは歯を食いしばって怒りを抑えようとした。「いままで礼儀を守ってきたが、ラク・ハッガであったことを思い出させてやってもいいんだぜ。われわれがその気になれば、いつだって出て行けるんだ」
「そんなことをすればただちにわが軍の三連隊に追跡されることになるぞ」ザカーズはいまや怒鳴り声をあげていた。
「はじめのうちだけさ」ガリオンはとげとげしく答えた。
「なにをしようというのだ?」ザカーズがさげすむように難詰した。「連隊をヒキガエルかなにかに変えるのかね? いいや、ガリオン、きみがそんなことをしないことぐらいはわかっているぞ」
ガリオンは胸をそらした。「そうだ、そんなことはしない。ぼくが考えていたのはもう少し基本的なことさ。トラクは世界にひびをいれるために〈珠〉を利用した、そうだな? ぼくはそのやり方を知っているんだ。そうするしかないのなら、ぼくにもできることだ。マロリーの中央を横切る裂け目――深さ十マイル、幅五十マイルの――に突然ころげ落ちたら、あんたの連隊はさぞ困るだろうな」
「まさかそんなことを!」ザカーズはあえぐように言った。
「試してみろよ」ガリオンはひとかたならぬ努力の末に怒りを抑え込んだ。「この話はそろそろ打ち切ったほうがいいだろう。われわれは学校の生徒みたいに脅し文句を投げつけあっている。このつづきはおたがいほとぼりが冷めてから、またしようじゃないか」
ザカーズの口から激しい応酬の言葉が吐き出されるのが見えたような気がしたが、次の瞬間皇帝も肩をそびやかし、顔は怒りでまだ青ざめているものの、平静を取り戻した。「そうだな」
ガリオンはそっけなくうなずいて、ドアに歩み寄った。
「ガリオン」そのときザカーズが言った。
「なんだ?」
「ぐっすり寝ろよ」
「あんたも」ガリオンは部屋をあとにした。
リヴァの王妃であり、〈西方の大君主〉ベルガリオンの最愛の妻であるセ・ネドラ妃殿下はむしゃくしゃしていた。むしゃくしゃする≠ニいうのは通常妃殿下が気分を表現するのに使う言葉ではなかった。なぐさめがない≠ニか気分がすぐれない≠ニか言ったほうが貴族的ひびきがあるだろう。が、セ・ネドラは自分に正直だったから、いまの気分にはむしゃくしゃする≠ルうがあっているとひそかに認めていた。ザカーズが彼女とガリオンのために用意してくれた贅沢な仮住まいの部屋から部屋へと、セ・ネドラはお気に入りのコガモ色の化粧着の裾をひきずり、裸足でいらだたしげに歩き回っていた。ふいに、お皿を数枚割ることがそんなにも淑女らしからぬふるまいに見えなければいいのに、と思った。
椅子が邪魔をしていた。セ・ネドラはもうちょっとでそれを蹴飛ばしそうになったが、最後の瞬間に靴をはいていないことを思いだした。かわりに椅子にのっていたクッションをつかんで床にたたきつけた。何度かくりかえしてから、身を起こし、化粧着の裾を膝までたくしあげて、目を細め、練習のために脚を数回ふりあげたあと、クッションをおもいきり部屋の向こうまで蹴飛ばした。「そら! がまんするの!」なぜだかそれでちょっとは気分がよくなった。
いまガリオンは留守だった。ザカーズ皇帝とのおきまりの夜の話し合いにでかけているのだ。ガリオンがここにいたらいいのに。そうすれば喧嘩ができる。いまちょっとでも喧嘩でもすれば、気分が落ち着くかもしれなかった。
セ・ネドラはドアをくぐって床に埋め込まれた湯気の立つ浴槽を眺めた。お風呂にはいれば気が晴れるかもしれない。爪先を湯につけてみることまでしたが、結局やめることにした。彼女はためいきをもらしてまた歩き出し、あかりのついていない居間の窓辺にしばらくたたずんだ。窓の外には、宮殿の東翼の中央にある緑の茂る中庭が見おろせる。早々と昇った満月が空高くかかって青ざめた無彩色の光を中庭にふりそそぎ、中央のプールに夜の女王の白い完璧な円が映っている。セ・ネドラはかなり長いあいだそこに立って、窓の外を見つめながら物思いに沈んでいた。
やがてドアがあいてばたんと閉まる音が聞こえた。「セ・ネドラ、どこにいるんだ?」ガリオンの少し怒っているような声がした。
「ここよ、ディア」
「どうして暗がりになんか立っているんだ?」ガリオンが部屋にはいってきた。
「お月さまを見ていただけよ。あれがトル・ホネスを――それにリヴァも――照らしているのと同じお月さまだってこと、気づいてる?」
「そんなこと考えたこともなかった」ガリオンはそっけなく答えた。
「なにをそうぷりぷりしてるの?」
「きみに怒ってるんじゃないよ、セ・ネドラ」ガリオンはすまなそうに言った。「またザカーズと衝突したんだ、それだけのことさ」
「喧嘩するのが習慣になってきたみたい」
「なんであいつはああも頑固なんだ?」
「頑固なのは王や皇帝の本質のひとつだわ、ディア」
「そりゃどういう意味だ?」
「別に」
「なにか飲むか? あのワインがまだ少し残っていたと思うが」
「わたしはけっこうよ。いまはね」
「ぼくは飲む。あの強情な皇帝とやりあったあとは、神経をなだめるものが必要だ」ガリオンは部屋を出ていった。酒杯のふちにデキャンターがちりんとぶつかる音がした。
月のこうこうと照らす中庭で、のっぽの広葉樹の陰から何かが出てきた。シルクだ。身につけているのはシャツとズボンだけで、バスタオルを肩にひっかけ、口笛を吹いている。プールの端で腰をかがめ、指先を水にひたしたあと、シルクは身を起こしてシャツのボタンをはずしはじめた。
セ・ネドラはほほえんでカーテンの陰に隠れ、小男が服を脱ぐのを見守った。やがてかれはプールにはいっていき、水に映る月が壊れてきらめく無数のかけらになった。セ・ネドラがなおも見守るなかで、まだらの月影が映る水のなかをシルクはのんびりと泳ぎ回った。
しばらくすると木立の下に別の人影があらわれ、リセルが月光のなかへあらわれた。ゆったりとしたローブをはおり、髪に花を一輪さしている。花はまぎれもない赤だが、春の満月の青い光に色を吸い取られて、金髪の娘の髪は白っぽく、その髪にさしてある花も黒く見える。「冷たくない?」リセルはそっとたずねた。声がばかに近くに聞こえる。まるで見守っているセ・ネドラと同じ部屋にいるかのようだ。
シルクがワッとおどろき、はずみに口と鼻から水を吸って咳き込んだ。ようやく平静を取り戻したかれは静かな口調で答えた。「悪くないよ」
「よかった」リセルはプールの端まで進み出た。「ケルダー、わたしたち、話し合うときだと思うの」
「ほう? 何について?」
「これについて」リセルは落ち着き払ってローブのベルトをゆるめ、それが足元の地面に落ちるにまかせた。
ローブの下にはなにも着ていなかった。
「物事はときの流れとともに変化するってことが、あなたにはよくわかってないようね」リセルは片足を水中にひたした。それから悠然と自分の体を指さした。「これもそういう物事のひとつよ」
「それには気づいてた」シルクが感嘆をこめて言った。
「うれしいわ、とっても。あなたの目は節穴なんじゃないかと思いはじめていたところだったの」リセルはプールにはいると、腰の深さまで行って立ち止まった。「それで?」と先をうながした。
「それでというと?」
「これをどうするつもり?」彼女は腕をあげて髪から花をとり、注意深く水面に浮かべた。
セ・ネドラははだしで音もなくドアにかけ寄り、「ガリオン!」と声を落としてせきたてた。「こっちへきて!」
「どうして?」
「大きな声をださないで、こっちへきて」
ガリオンはぶつぶつ言いながら暗い部屋にはいってきた。「どうしたんだ?」
セ・ネドラは窓を指さして笑いを押し殺した。「見て!」うれしそうに小声で命令した。
ガリオンは窓に近づいて外を見た。一目見ただけで、かれはあわてて目をそらした。「うわッ」かれは首をしめられたような声で言った。
セ・ネドラはまたくすくす笑ってガリオンのそばにやってくると、かれの腕の下にもぐりこんだ。「すてきじゃない?」そっとささやいた。
「そうだな」かれはささやきかえした。「だが、見るべきじゃないと思うよ」
「どうして?」
リセルが水面に浮かべた花が、ふたりを隔てる水をよこぎって漂って行き、シルクが放心したような表情でそれを拾い上げ、匂いをかいだ。「きみのだ」シルクはひとつのプールにはいっている抜けるように白い肌の娘に花をさしだした。
「ええ、そうよ」リセルは答えた。「でも、あなたはわたしの質問に答えてないわ」
「どの質問?」
「これをどうするつもりなの?」
「考えてみるよ」
「いいわ。手伝ってあげる」
ガリオンは断固腕を伸ばしてカーテンをぴたりとしめた。
「せっかくいいところだったのに」セ・ネドラは口をとがらせた。
「いいじゃないか。さあ、窓から離れよう」ガリオンはセ・ネドラを部屋から連れだした。「リセルがなにをするつもりなのか、ぼくにはさっぱりわからないよ」
「わかりきってるじゃないの」
「セ・ネドラ!」
「リセルはケルダーを誘惑してるのよ、ガリオン。小さい女の子だったときからずっとかれに恋してたんですもの、やっと行動に出る決心をしたんだわ。ほんとによかった、叫びだしたいくらいよ」
ガリオンは頭をふった。「ぼくには永遠に女がわかりそうにないな。すべてを解きあかしたと思ったとたん、よってたかってルールを変えちまうのが女なんだ。ポルおばさんが今朝ぼくになんて言ったか聞いても信じられないと思うよ」
「あら? なんておっしゃったの?」
「こう言ったんだ、ぼくは――」ガリオンは急に口をつぐんだ。顔が赤カブみたいに真っ赤になっている。「ああ――なんでもないんだ」どぎまぎしながらつけくわえた。
「何の話だったの?」
「そのうち教えてあげるよ」そのときガリオンは妙な目つきでセ・ネドラを見た。セ・ネドラはピンときた。「夜の風呂にはもうはいったのかい?」ガリオンはことさらなにげない口調でたずねた。
「まだよ。どうして?」
「一緒にはいろうかと思ってさ――かまわなければ」
セ・ネドラはしとやかに目を伏せた。「ほんとにそうしたいのならどうぞ」少女っぽい声で言った。
「あそこに蝋燭をともそう」ガリオンが言った。「ランプはちょっとあかるすぎるからね、そう思わないか?」
「あなたのお好きなようになさって、ディア」
「ワインももってはいろう。そのほうがリラックスできる」
セ・ネドラは勝利がわきあがってくるのを感じた。さっきまでのいらだちは、なぜか跡形もなく消えていた。「すてきだと思うわ、ディア」
「よし」ガリオンはかすかにふるえている手をセ・ネドラのほうへ伸ばした。「じゃ、はいろうか?」
「ええ」
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10[#「10」は縦中横]
翌日の朝食のとき、シルクはだれかにまんまとしてやられたことにたった今気づいたような、いささかぼんやりした表情を浮かべていた。小男が断固として視線を合わすまいとしているヴェルヴェットのほうはというと、目下口へ運んでいるクリームをかけたイチゴの鉢をとりすましたように見つめている。
「けさはなんだか元気がないみたいね、ケルダー王子」セ・ネドラがなにげない態度で言ったが、その目は愉快そうにきらめいている。「いったいどうしたの?」
シルクは猜疑のまなこですばやくセ・ネドラを見た。
「まあまあ」セ・ネドラはなだめるようにシルクの手をたたいた。「朝食がすめばきっと気分がよくなるわ」
「あまり腹がへってないんだ」シルクの声はちょっとふてくされていた。かれはいきなり立ち上がった。「散歩に行ってくる」
「でも、シルク」セ・ネドラは抗議した。「イチゴも食べていないじゃないの。ほっぺたが落ちるほどおいしいわよ、ねえ、リセル?」
「とっても」金髪の娘はかすかにえくぼを見せてうなずいた。
シルクのしかめっつらが一段とひどくなり、かれは断固たる態度でドアに向かって歩き出した。
「あなたのもいただいていいかしら? ケルダー?」ヴェルヴェットがその後ろ姿に呼びかけた。「あなたが残すのならってことだけど?」
シルクが力まかせにドアをしめて行ってしまうと、セ・ネドラとヴェルヴェットはげらげら笑いだした。
「どういうこと?」ポルガラがたずねた。
「あら、なんでもないの」セ・ネドラが相変わらず笑いながら言った。「ほんとになんでもないのよ、レディ・ポルガラ。ゆうべケルダー王子はちょっとした冒険をしたんだけれど、結局それがかれの期待したようにならなかったわけなの」
ヴェルヴェットはあわててセ・ネドラを見て、かすかに赤くなったが、すぐまた笑いだした。
ポルガラは笑いころげるふたりを見て、片方の眉をつりあげた。「まあ、そうだったの」
ヴェルヴェットの頬の赤味がさらに濃くなったが、それでも笑いはとまらなかった。
「あきれたこと」ポルガラはためいきをついた。
「どうかしたのかい、ポル?」ダーニクがたずねた。
ポルガラは善良で正直な夫を見、かれの厳格なセンダリア気質を推し量った。「ちょっとした混乱があっただけよ、ダーニク」ポルガラは答えた。「どうにかなるわ」
「そうか」ダーニクは鉢を押し返した。「けさはなにかしてほしい用事があるかね?」
「いいえ、ディア」ポルガラはダーニクにキスしながら答えた。
かれはキスを返してから立ち上がり、期待しながらテーブルの向こうで待っていたトスとエリオンドに目をやった。「じゃ、行こうか?」
三人は期待に顔を輝かせてどかどかと出て行った。
「あの池の魚を全部かれらが空にするまで、あとどのくらいかかるのかしら?」ポルガラは首をひねった。
「永遠に空にはなりませんよ、レディ・ポルガラ」サディがイチゴを口にほうりこみながら教えた。「毎晩庭番たちが魚を補充してるんです」
ポルガラはためいきをついた。「そんなことじゃないかと思ってたのよ」
九時ごろ、ガリオンは足音のこだまする長い廊下のひとつを行ったりきたりしていた。かれはいらだっていた。はけ口のないいらだちにおしつぶされそうな気がした。ザンドラマスより先にアシャバへ着かなくてはならないというあせりがたえず胸に去来して、ほかのことはなにも考えられないほどだった。いくつか見込みのありそうな計画はできあがっていたが、シルクとヴェルヴェットとサディは適切な陽動作戦をまだ模索中だった――ブラドーの秘密警察を仰天させて注意をそらし、かれら全員が無事に脱出できそうな事件を。ザカーズの気持ちを変えさせる見込みは万にひとつもなかったから、ガリオンとその仲間はベルガラスがときどき言うようなほかの手段で脱出する≠オかなさそうだった。ガリオンは折りにふれてザカーズを脅していたが、本当はそういうことはしたくなかった。脅迫めいた発言はマロリーを支配するその風変わりな人物とのあいだに芽生えつつある友情を、永久に終わらせてしまうにちがいないからだ。失って後悔するのが友情だけでなく、この状況にひそむ政治的可能性でもあることを認めるだけの正直さをガリオンは持ち合わせていた。
自分の部屋へ戻ろうとしたとき、深紅の仕着せ姿の召使いが近づいてきた。「陛下」召使いは深々と一礼して言った。「ケルダー王子から陛下をお捜しするよう申しつかりました。お話したいことがあるそうです」
「どこにいるんだ?」
「敷地の北の城壁のそばの大庭にいらっしゃいます、陛下。酔っぱらったナドラク人が一緒でして――それに、おそろしく口のきたない女もいます。女がわたくしに言ったことをここで申しあげても、まさかと思われますよ」
「だれだかわかったよ」ガリオンはそれとなく微笑した。「まさかじゃなくて、やっぱりと思うさ」かれは向きをかえてきびきびと廊下を歩いて宮殿の敷地に出た。
ヤーブレックは変わっていなかった。美的に刈り込まれた大庭は心地よい暖かさなのに、あいかわらずみすぼらしいフエルトの外套に、けばだった毛皮の帽子をかぶっている。葉の茂るあずまやの下のベンチにだらしなく腰かけて、穴をあけたエールの樽を都合よくすぐ手元に置いている。ヴェラも前にあったときと同じようにあでやかだった。ぴっちりしたナドラクのチョッキに革ズボンをはいて、花壇のあいだをつまらなそうにぶらぶらしている。銀の柄の短剣がブーツの口とベルトから突き出していて、挑戦的で、色気たっぷりの気取った歩きかたも前と少しも変わらない。長年練習したすえにできあがったその歩きかたが、いまではすっかり板について、無意識のうちにそうなってしまうのだろう。シルクはヤーブレックのそばの草むらにすわって、やはりエールのカップを持っていた。
「捜しに行こうかと思っていたところだ」ガリオンが近づいていくと、シルクは言った。
ひょろりとしたヤーブレックが目をすがめてガリオンを見た。「ほうほう」目をぱちくりさせながらフクロウみたいに言った。「こりゃリヴァの少年王じゃないか。まだあのでかい剣をもってるんだな」
「習慣でね」ガリオンは肩をすくめた。「元気そうだな、ヤーブレック――ちょっと酔っぱらっているのはさておき」
「これでも酒量を減らしてるんだ」ヤーブレックはしおらしく言った。「おれの胃袋も前みたいに頑丈じゃなくなってるんでな」
「ここへくる途中、ベルガラスを見かけなかったか?」シルクがガリオンにきいた。
「いや。見かけるはずなのかい?」
「かれにもきてもらうことになってるんだ。ヤーブレックが情報をもってきてくれたんでね。まずベルガラスに知ってもらいたいんだよ」
ガリオンは下品な顔つきのシルクの相棒を見た。「いつからマル・ゼスにいたんだい?」
「夕べついたんだ」ヤーブレックはエールの樽にまたジョッキをつっこみながら答えた。「ドルマーがおまえさんたち全員が宮殿にきてると教えてくれたんで、けさ立ち寄ったのさ」
「いつまで町にいる予定だ?」シルクがたずねた。
ヤーブレックはまばらなあごひげをひっぱりながら、目を細めてあずまやを見上げた。「断言するのはむずかしいな。ドルマーがおれの必要なものをあらかたとりあげちまったんだが、ちょいと市場をかぎまわりたいんだ。未加工の宝石に興味があると言ってるトルネドラ人がボクトールにいてよ。そいつを取り扱えば、てっとり早く一財産ものにできるかもしれない――ドラスニアの税関からこっそり宝石を持ち出せればな」
「ポレン王妃の税関員が荷物を徹底的に捜すんじゃないか?」ガリオンはヤーブレックにきいた。
「頭のてっぺんから爪先までな」ヤーブレックは笑った。「そいで、全身くまなく手でぱたぱた叩くのさ。だが、ヴェラには指一本ふれない。こいつが目にもとまらぬ早さで短剣を使うのをみんなよく知ってるんだ。ヴェラの服のあちこちに小さな包みを隠すことで、こいつをもらい受けるのに払った金の十二倍はもうけたぜ」ヤーブレックはしわがれ声で笑った。「むろん、隠すのも楽しくてな」かれはすさまじいげっぷをし、「ごめんよ」と言った。
ベルガラスが芝生を横切ってきた。もう少しましな衣類を提供するというザカーズの如才ない申し出にさからって、老人はあいかわらずしみだらけのチュニックとつぎの当たったズボンと、左右ちぐはぐのブーツを、挑戦的に――ガリオンの考えるところ――着ていた。「ふむ、ようやくここへついたと見えるな」ベルガラスは前おきぬきで、いきなりヤーブレックに言った。
「マル・カマトで足止めをくっちまったんでさ」ナドラク人は答えた。「カル・ザカーズがいやらしいクトル・マーゴスから軍を連れ戻そうてんで、西部沿岸を行き来している船を片っぱしから勝手に使っちまってるんでね。船を雇って、クトル・ミシュラクの廃墟の北部湿地帯に隠しておかなきゃならなかったんだ」ヤーブレックはエールの樽を指さした。「一杯どうです?」
「きくまでもない。もうひとつコップがあるか?」
ヤーブレックはかさばった外套のあちこちをたたき、内ポケットに手をつっこんでずんぐりしてへこんでいるジョッキをひとつひっぱりだした。
「用意周到な男がわしの好みなんだ」
「本物のもてなし役ってのはいつだって準備万端整えているもんですよ、好きにやってください。あんまりこぼさないように」ナドラク人はガリオンを見た。「あんたはどうだい? コップももうひとつぐらいなら見つけられると思うぜ」
「いらないよ。ありがとう、ヤーブレック。ぼくにはまだ時間がちょっと早すぎる」
そのとき、けばけばしい服装の小柄な男があずまやのむこうからあらわれた。反目しあう色彩をひとつの鍋にぶちこんだような服をきている。片方の袖は緑色、もう片方は赤。ズボンの片足はピンクと黄色の縦縞で、もう片足は大きな青の水玉もようだ。頭には尖った長い帽子をかぶり、そのてっぺんに鈴がついている。だが見る者の度肝をぬくのは、そのすさまじい服装ではなかった。まっさきにガリオンの目をとらえたのは、その男が逆立ちをしたまま、いたってなにげなく歩いている事実だった。「だれかがだれかに言うのが聞こえたような気がするが、いっぱいやらないかってね」ガリオンが聞いたことのない、奇妙に歌うようなアクセントで男は言った。
ヤーブレックが渋い顔で極彩色の小男を一瞥し、外套のなかへまた手をつっこんだ。
軽業師は肩をたわめて宙に飛び出し、一回転して地面におりたった。それから元気よく両手の泥をはらって愛想笑いを浮かべながら、ヤーブレックのほうへやってきた。見たとたんに忘れてしまいそうな、これといった特徴のない顔だが、なぜかガリオンは、どこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
「ああ、ヤーブレックさん」男はシルクの相棒に言った。「あなたみたいに親切なお方はそうそういませんよ。あっしは喉が渇いて死にそうだったんです、ほらね?」男はカップを受け取るとエールの樽につっこんで、ごくごくと飲み干し、うれしそうに大きく息を吐き出した。「こりゃまた結構なエールですね、ヤーブレックさん」男はもう一度樽にコップをつっこんだ。
ベルガラスは奇妙な表情を浮かべている。当惑すると同時におもしろがっている顔つきだ。
「おれたちがマル・カマトを発ったときからくっついてきたんだ」ヤーブレックはみんなに説明した。「ヴェラがおもしろいやつだと思ってるもんで、まだおっぱらってなかったんだよ。思いどおりにならないと、ヴェラのやつ、ちょいとヒステリーみたいになるからよ」
「フェルデガーストと申します、紳士のみなさん」けばけばしい小男はおおげさな一礼をして、自己紹介した。「詐欺師フェルデガーストでござい。軽業師でもあり――みなさんご覧のとおり――無能な道化師でもあり、はたまた芸達者な手品師でもあります。この世ならぬ手際のよさでみなさんをあっと言わせてみせますよ。小さな木の笛で感動的な調べを吹くこともできますし――あるいは、メランコリーな気分でしたら、リュートの悲しい調べでみなさんの胸を熱くし、甘くやさしい涙をみなさんの目にあふれさせることもできます。言葉ではいいあらわせないあっしの才能をここでご覧にいれましょうか?」
「もうちょっとあとにしてもらおうか」ベルガラスがまだどこかぼんやりした目つきのまま言った。「いまは仕事の話があるのだ」
「エールをもう一杯くんで、ヴェラを楽しませてこい、道化師」ヤーブレックが言った。「もっときわどい話をしてやれよ」
「それはあっしの変わらぬ喜びですよ、ヤーブレックさん」すさまじい男は悠々と言った。「なんてったって豪快なユーモアのセンスを持った元気のいいあまっこだし、みだらな話が好きときてる」小男はエールをもう一杯すくってから、黒髪のナドラクの娘のほうへはねるように芝生を横切って行った。
「吐き気がすらあ」ヤーブレックはその後ろ姿を見ながらうなるように言った。「やつがヴェラにする話ときたら、聞いてるおれのほうが恥ずかしくなってくるようなしろものなのに、話が落ちれば落ちるほど、ヴェラは笑いころげるんだ」ヤーブレックはやれやれというように頭をふった。
「仕事の話にかかろう」ベルガラスが言った。「今現在カランダでなにが起きているのか知る必要があるのだ」
「そんなの簡単ですよ」ヤーブレックは言った。「メンガ、その一言だ。メンガとやつの呪われた悪魔たち」
「ドルマーから話は聞いてるんだ」シルクが言った。「カリダで起きたことも、カランド人が七つの王国からメンガの軍に馳せ参じていることも知っている。メンガはもう南へ動きはじめてるのか?」
「おれが聞いたところではまだだな」ヤーブレックは答えた。「いまは北部の状況を固めるのに忙しいらしい。だが、カランド人はひとり残らず異常な興奮状態に陥ってるぜ。早急に手を打たないと、ザカーズは大規模な革命に見舞われることになる。だがな、いま北部カランダを旅するのは安全じゃないんだ。ザマドの海岸まで、メンガのとりこになったカランド人がすべてを支配しているからさ」
「われわれはアシャバへ行かなくてはならないんだ」ガリオンは言った。
「おれなら薦めないね」ヤーブレックはぶっきらぼうに言った。「カランド人がおそろしくいやな習慣を身につけつつあるんだよ」
「ほう?」とシルク。
「おれはアンガラク人だろ」ヤーブレックが言った。「だからガキのころからグロリムたちがトラクに捧げる人間の心臓をえぐりだすのを見てきた。だがな、カランダで起きていることには、このおれの心臓さえでんぐりがえる。カランド人は捕まえた連中を杭で地面につないでおいて、悪魔を呼び出すんだ。悪魔たちはどいつもこいつもだんだん太ってきやがった」
「もうちょっと詳しく説明してくれないか?」
「まっぴらだね。想像するんだな、シルク。モリンドランドにいたことがあるんだろう。悪魔がなにを食うか知ってるはずだぜ」
「まさか!」
「そのまさかなのさ――それで肉の切れっぱしはカランド人どもがくっちまう。言っただろう――身の毛のよだつ習慣だって。悪魔たちが人間の女に子供を産ませてるって噂もあるんだぜ」
「なんてことだ!」ガリオンは思わず息をのんだ。
「まったくだよ」ヤーブレックはうなずいた。「たいがい女たちは妊娠中に死んじまうが、何人かは子供を産んだってことだぜ」
「そういう非道はなんとしても阻止せねばならんな」ベルガラスが陰気に言った。
「がんばってくださいよ」ヤーブレックは言った。「おれですかい、おれは隊商がそろったらすぐさまガール・オグ・ナドラクへ戻るつもりでさ。メンガのそばへ行くのはまっぴらだ――やつが手なずけてるあのおとなしい悪魔のそばへもね」
「ナハズのことか?」ガリオンはたずねた。
「するってえと、名前を聞いたんだな?」
「ドルマーが教えてくれたんだ」
「そのナハズからはじめるべきだろうな」ベルガラスが言った。「ナハズをもといたところへ追い返すことができれば、残りの悪魔たちもついていくだろう」
「うまい手だね」ヤーブレックはうなった。
「臨機の才というものさ」老人はヤーブレックに言った。「悪魔たちがいなくなれば、メンガに残されたのはカランドの狂信者の寄せ集めだけだ。そうなれば、わしらは任務を続行し、後かたづけはザカーズにおしつければいい」ベルガラスはつかのま微笑した。「ザカーズもわしらの首に息を吹きかけている暇などなくなるだろう」
ヴェラが耳ざわりな笑い声をたてながら、手品師フェルデガーストとあずまやのほうへやってきた。チビの道化師はまた逆立ちで――あきれたことに、両足をおどけて宙でふりながら――歩いている。
「この人、話すことはおもしろいんだけどさ」肉感的なナドラクの女はまだ笑いながら言った。「酒なしじゃいられないんだよね」
「それほど飲んじゃいないはずだがな」シルクが言った。
「ぐでんぐでんになっちまってるのはエールのせいじゃないんだよ」ヴェラはベルトの下から銀の携帯用の瓶を取り出した。「あたしがこれをちょいと飲ませたんだよ」いたずらっぽく急に目をきらめかせた。「試してみるかい、シルク?」ヴェラは瓶を突き出した。
「なにがはいってる?」シルクは疑ぐり深くたずねた。
「あたしたちがガール・オグ・ナドラクで作ったちょいとした飲物さ」しれっとして言った。「かあさんのおっぱいみたいにまろやかだよ」これ見よがしに瓶から長々とあおって見せた。
「オスラスか?」
ヴェラはうなずいた。
「遠慮しとく」シルクは身ぶるいした。「最後にそいつを飲んだとき、おれはまる一週間ぶったおれていたんだ」
「だらしがないね、シルク」ヴェラは軽蔑をこめて言うと、もうひと口飲んだ。
「ほら? なんともないよ」ヴェラはガリオンに視線を移した。「閣下、あんたのかわいくてちっちゃい奥さんはどうしてる?」
「元気だよ、ヴェラ」
「よかった。次の子はもうできてるのかい?」
ガリオンは赤くなった。「いや」
「時間をむだにしてるよ、閣下。宮殿へ戻って、一、二度おくさんを寝室へおしこめたらどう?」次にヴェラはベルガラスのほうを向いた。「それで?」
「それでって何がだ?」
ヴェラはベルトからナイフを一本するりと引き抜いた。「もう一度ためしてみたいかい?」彼女は丸いお尻にベルガラスの手が届くよう、わざと背中を向けてたずねた。
「ああ、せっかくだが、ヴェラ」ベルガラスは威厳たっぷりに言った。「まだ陽が高い」
「いいじゃないのさ。今度はあたしの準備はできてるよ。ぺたぺたさわりたい気持ちになったらいつでもかまわないんだから、遠慮することないさ。くるまえにナイフを全部といでおいたんだ――特別あんたのために」
「思いやりのあることだ」
べろべろに酔ったフェルデガーストがぐらっとよろめき、バランスをとりもどそうとしてぶざまにひっくりかえった。泥でよごれた平凡な顔をゆがめながら、ふらふらと立ち上がり、背中を思いきり丸めてつったっているようすはまるで体型が変形してしまったように見えた。
「してやられたようだな、おい」ベルガラスが愉快そうに言いながら、いそいで酔っぱらった手品師が体を垂直に伸ばすのを助けてやった。「だがな、背すじをしゃんと伸ばしたほうがいいぞ。あんなふうに体を折り曲げて立ってると、内臓がこんがらかっちまう」ガリオンは祖父の口がかすかに動いて酔っぱらいの芸人に何かささやきかけているのに気づいた。次の瞬間かれは老人の意識のうねりを感じた。かろうじて識別できる程度のかすかなうねりだった。
フェルデガーストは体をまっすぐにして立つと、両手に顔をうずめた。「やれやれ。毒でも盛ったのかい?」かれはヴェラを問いつめた。「こんなに早く酔いがまわったのは記憶にないことだ」道化師は両手を顔からどけた。よごれもゆがみも消えて、もとの顔に戻っていた。
「ナドラクの女と一緒に飲むのはよしたほうがいい」ベルガラスが忠告した。「その女が酒をこしらえた当人であるときはなおさらだ」
「このあまっこを楽しませているあいだ、ちょいと小耳にはさんだような気がするんですがね、おたくさんがしゃべっていたのはカランダ――あそこで起きているひどいこと――のことですかい?」
「そうだ」ベルガラスは認めた。
「あっしは道端の宿屋や居酒屋で芸を披露して、銭と酒の一杯か二杯を稼いでるんだが、そういうところには情報がごまんと集まってくるんですよ。人を笑わせたり陽気にさせたりするほうが、銀貨や強い酒よりもたくさん情報を仕入れることができるんでね。こないだたまたまあっしはそういう場所で、この曲芸で見物人をうっとりさせてたんだが、たまたまそのとき、東からきた旅人がいましてね。冷血動物みたいなやつで、カランダからの悲惨なニュースをしゃべったんです。そいつが、めしを食って、そいつには上等すぎる強いエールをさんざっぱら飲んだあと、あっしはそいつを捜し出してもっとつっこんだ質問をしたんです。あっしみたいな商売をしてる人間は、案外芸を披露できるような場所に疎いもんでね。その冷血動物みたいな大男は、歩くものならどんなものでも向こうが尻尾をまいて逃げていきそうなやつだったが、そいつがおびえた赤ん坊みたいにぶるぶるふるえながら、命が惜しければカランダには近寄るなとあっしに言うんですよ。それからまことに奇妙なことを言うんです。どう解釈すればいいのかあっしにはさっぱりだったが、なんでも、カリダとマル・ヤスカのあいだの道路は前も後ろも右も左も、使者たちでいっぱいだとかいうことでね。おどろくじゃありませんか? いったいどういうことでしょうかね? もっとも世の中には妙な事があるもんですよ、みなさんがた。凡人には想像もつかない驚異がいっぱいですわ」
手品師の歌うようなアクセントは聞く者を誘い込む魅力に満ちていて、じっさいはいたってありふれた話なのに、ガリオンはいつしかすっかり引き込まれていた。けばけばしい小男が話終わったとき、ガリオンは妙にがっかりした。
「あっしの話がみなさんのささやかな気晴らしと知識になったならいいんですがね」フェルデガーストは取り入るように言って、草の汁でよごれた手をそれとなく差しだした。「小鳥のように自由きままに機知と芸を売り物にして世渡りをしているわけだが、ささやかな感謝のしるしをいただけるんなら、いつだって大歓迎です」
「払ってやれ」ベルガラスがガリオンにそっけなく言った。
「え?」
「金をやってくれ」
ガリオンはためいきをついて、ベルトにつけた革の財布に手を伸ばした。
「神々があなたにほほえみかけますように、お若いかた」フェルデガーストは数枚のコインを渡されると、ガリオンにくどくど礼を言った。それからずるがしこい目つきでヴェラを見た。「なあ、乳しぼりの娘と行商人の話を聞いたことがあるかい? しっかり警告しておかなきゃならないが、こいつはみだらな小話でね、その白いほっぺが真っ赤になるころにはこっちも恥ずかしくて身の置きどころがなくなるだろうな」
「十四のときから赤くなったことなんか一度もないよ」ヴェラは言った。
「よし、それじゃその不感症を直せないかどうかやってみようじゃないかね。赤くなるほうが顔色としちゃいいそうだよ」
ヴェラは笑って、フェルデガーストのあとについて芝生へ戻っていった。
「シルク」ベルガラスがぶっきらぼうに言った「監視の目をそらす事件が必要なのだ――いますぐに」
「まだなにも整っていないんですよ」
「では何かでっちあげろ」老人はヤーブレックのほうを向いた。「わしがいいと言うまでおまえにもマル・ゼスを出て行ってもらいたくない。おまえがここで入用になるかもしれんのだ」
「どうしたんだい、おじいさん?」ガリオンはたずねた。
「できるだけ急いでここを出発しなければならん」
芝生では、ヴェラが目を見開き、両方のてのひらを真っ赤になった頬に押し当てて立っていた。
「だから言っただろうが」フェルデガーストは勝ち誇ってけたけた笑った。「おまえさんがあっしの胃袋にあのひどいしろものを流し込んだきたないやり口への仕返しさ」手品師はほれぼれとヴェラを見た。「しかし、そんなふうに赤くなってると、おまえさんは赤いバラみたいだな。生娘みたいにどぎまぎしてるおまえさんを見るのも悪くないぜ。なあ、羊飼いの娘と騎士きどりの男の話を聞いたことはあるかい?」
ヴェラは逃げだした。
その日の午後、少しでも肉体労働らしきものはことごとく避けて通るのを信条としているシルクが、東翼の中央にある葉のおい茂るあずまやで、小さな庭のまんなかのプールに注ぎこむ新鮮なきらめく小川の入口に、数時間がかりでせっせと石を積み上げていた。ガリオンは居間の窓から興味しんしんでそれを見守っていたが、とうとうがまんできなくなり、あずまやへ出て行って汗にまみれた小柄なドラスニア人と向き合った。「造園を趣味にしはじめたのかい?」
「いや」シルクは額の汗をぬぐった。「ちょっとした予防策を講じてるだけさ」
「何にたいする予防策だ?」
シルクは指を一本立てた。「待て」にわか作りのダムのうしろに盛り上がった水位を見ながら言った。すぐに水はあふれだして、ごぼごぼとやかましい音を立てながらプールに流れ込んだ。「うるさいだろう?」シルクは自慢げだった。
「その音じゃ、この近くの部屋の者はおちおち寝ていられないんじゃないのか?」
「聞き耳をたてるのだってほとんど不可能になる」小男はほくそえんだ。「暗くなったらすぐ、きみとおれとサディとリセルでここに集まろうぜ。話し合う必要があるんだ。おれの陽気な滝音が話し声をかき消してくれるはずだ」
「どうして暗くなってからなんだ?」
シルクは長いとがった鼻のわきにそっと人差し指を置いた。「盗み聞きするのに耳を使わない例のスパイたちに、くちびるの動きを見られないようにさ」
「抜かりがないな」
「まあな。おれもそう思うよ」そう言ってからシルクは顔をしかめた。「じつはリセルのアイデアなんだ」
ガリオンはにやりとした。「だが、作業はあんたにさせてるわけだ」
シルクはぶつぶつこぼした。「指の爪を割りたくないと言い張ったんだよ。断わろうとしたんだが、えくぼを見せられたら言いなりさ」
「えくぼを相当有効的に利用してるな。シルクのナイフよりよっぽど危険だよ」
「からかってるのか、ガリオン?」
「ぼくがそんなことするかい、友だち?」
快い春の夕闇がマル・ゼスに迫ると、ガリオンは薄ぐらいあずまやにあるシルクの水しぶきをあげる滝のそばで、三人の仲間と落ち合った。
「とってもじょうずにできてるわ、ケルダー」ヴェルヴェットが小男をおだてた。
「ああ、黙っててくれよ」
「まあ、ケルダーったら!」
「それではと」話し合いをスムーズに進ませようとガリオンは口を開いた。「何かいい材料はあったかい? ベルガラスはすぐにでもマル・ゼスを出たがっているんだ」
「あなたのアドバイスに従って行動しましたよ、ベルガリオン」サディが声を低めて言った。「ヴァスカ男爵にずっと注意を向けていたんです。男爵の堕落ぶりは相当なもんですよ。あんまり方々に手を出してるもんだから、ときどきだれから賄賂をもらっているのかわからなくなるありさまです」
「正確には今はなにをやろうとしてるんだ?」ガリオンは聞いた。
「まだ軍の備品調達局をのっとろうとしていますわ」ヴェルヴェットが報告した。「でも、調達局は将軍クラスが管理しているんです。局の構成員のほとんどは大佐ですけど、局長を務めているのはブレガー将軍なる人物です。大佐連中はそれほど欲深じゃありませんが、ブレガーは給料の支払い総額を握っています。ヴァスカの乗っ取りを防ぐために、ブレガーは仲間の将軍たちのあいだに莫大なお金をばらまかなくてはならないんです」
ガリオンはそれについて考えてみた。「きみたちはヴァスカも買収してるんだろう?」
シルクが浮かぬ顔でうなずいた。「だが、値段が高くなってきてる。メルセネ組合の豪商たちはヴァスカの行く先々に大金を積んで、ヤーブレックとおれを西部沿岸からこっちへこさせないように計らってもらおうとしてるんだ」
「ヴァスカはなんらかの力を蜂起させられるのか? つまり、兵隊を?」
「やつはおおぜいの追いはぎの頭目たちと契約を結んでいます」サディが答えた。「そして頭目たちはじつに荒っぽくて、いつでも戦う気のある連中を雇っていますからね」
「いま現在マル・ゼスを拠点にしている一味はいるのか?」
サディが小さく呟き払いした。「じつはその、カマトから荷馬車が数台やってきたところでして。大部分は農産物なんですが」
ガリオンはきびしい目でサディを見た。「それはもうやらないでくれと言ったはずだろう」
「穀物はすでに収穫されたあとだったんですよ、ベルガリオン」宦官は抗議した。「畑で腐るにまかせるんじゃもったいないじゃないですか」
「それが商売人の考えかたなんだよ、ガリオン」シルクがとりなした。
「とにかくですね」サディはいそいで先をつづけた。「収穫と輸送を一手に引き受けてくれた一味は、マロリーのこのあたりでは一番大きな追いはぎ団のひとつなんですよ――とにかく二、三百人はいますから、生産物の配分に関わった猛者は相当数にのぼります」
「それをみんな数週間でやったのか?」ガリオンは信じられなかった。
「人間ひとりの足元で植物を栽培させたところで、儲けはたかがしれてますからね」サディはひかえめに言った。
「うまい表現だな」シルクがうなずいた。
「おそれいります、ケルダー王子」
ガリオンはじれったそうに首をふった。「その盗賊どもを宮殿の敷地内へいれる方法はあるのか?」
「盗賊ども?」サディは傷つけられたようだった。
「そうじゃないのか?」
「わたしは事業家と考えたいですね」
「なんとでも呼ぶがいいさ。その連中を入れられるか?」
「それはどうでしょうか、ベルガリオン。何をお考えなんです?」
「将軍連中とのきたるべき対立にそなえて、ヴァスカ男爵にその連中を雇わせてはどうかと思ったんだ」
「対立が起きそうなんですか?」サディはおどろいた顔をした。「それは聞いていませんでした」
「まだわれわれがその手はずをととのえていないからだよ。ヴァスカはかれの行動が将軍連中をいらだたせたことをいずれ気づくことになる――まあ、あしたあたり、将軍たちはオフィスに部隊をさしむけてヴァスカを逮捕し、記録を調べあげて、皇帝に告発できるだけの犯罪証拠を発見することになる」
「そいつはうまい手だ」シルクが言った。
「悪くないだろう――だが、多数の部隊を阻止するだけの助っ人をヴァスカが持っていないと、うまくいかないんだ」
「うまくいきますよ」サディが言った。「ヴァスカが差し迫った逮捕に気づくとほぼ同時に、わたしが追いはぎ一味を使うようかれに申し出るんです。労働者をよそおって宮殿の敷地内へ連中を連れ込めばいいんです。局長たちはみんなオフィスの改築に忙しいですからね。思うに、地位と関係があるんでしょうな」
「宮殿内の計画はどういうものなんだ、ガリオン?」シルクがきいた。
「宮殿の廊下のどまんなかでおおっぴらないざこざを起こしてもらいたいんだ。そうすれば、まちがいなくブラドーのスパイたちの注意を引きつけることができる」
「陛下はなるべくして王になられたんですわね」ヴェルヴェットが感心したように言った。「そういう規模の大きなたくらみは、王でなくては思いつきませんわ」
「ありがとう」ガリオンはそっけなく言った。「だがヴァスカがかれのオフィスで守勢に回れば、たくらみはうまくいかない。まず、攻撃に出るようヴァスカを説得しなければならない。兵たちがかれの言うことを聞くとは思えないから、まっさきにヴァスカを戦わせなくてはだめだ。ヴァスカはどんな男なんだ?」
「腹黒くて、欲深で、本当はそれほど利口じゃない」シルクは答えた。
「向こうみずなことをしでかす可能性はあるか?」
「まあないだろうな。官僚てのは臆病なところがあるんだ。兵士たちがくるのを見るまでやつが行動するとは思えない」
「ヴァスカを大胆にしてみせますよ」サディが言った。「緑の瓶にいい薬を持っているんです、それを飲めばネズミだってライオンに襲いかかります」
ガリオンは顔をしかめた。「その方法はあまり感心しないな」
「肝心なのは結果ですよ、ベルガリオン」サディが指摘した。「いまの状況が急を要しているのなら、感情を優先させている暇などないでしょう」
「そうだな」ガリオンは決心した。「やらなければならないことはすべてやってくれ」
「事態が動きだしたら、わたしがささやかな混乱をつけくわえてみせますわ」ヴェルヴェットが言った。「パリアの王とデルチンの摂政の宮にはどちらも多数の従者がついていますが、その従者たちは喧嘩の一歩手前にいるんです。ヴォレセボの王もいますしね。大変な高齢でだれのことも信用しない王ですわ。この三人をひとりずつまるめこんで、廊下での騒動がかれらに個人的に向けられたものだと思わせればいいんです。戦いの気配を聞きつけたらすぐに、三人とも武装した兵を廊下を向かわせるでしょう」
「そいつはおもしろそうだな」シルクが両手をこすりあわせながら言った。「宮殿で五通りの混乱がもちあがれば、おれたちも町を出られるだろう」
「宮殿にかぎったことじゃありませんよ」サディが考え深げにつけくわえた。「たくみにまちがった情報を流せば、騒ぎは町そのものにも広がるでしょう。街頭の暴動というやつは、少なからぬ注目を集めますからね、そうでしょう?」
「手はずを整えるのにどのくらいかかりそうだ?」ガリオンはたずねた。
シルクが陰謀をたくらむふたりの相棒を見て、きいた。「三日か? 四日かな?」
ふたりは考えてからうなずいた。
「そんなところだ、ガリオン。三、四日だな」
「よし。やってくれ」
かれらはそろって向きを変え、あずまやの入口のほうへ戻りはじめた。「リセル辺境伯令嬢」サディが断固たる口調で言った。
「なあに、サディ?」
「よろしければ、わたしの蛇をいますぐ返してください」
「あら、もちろんよ、サディ」リセルは上着のなかへ手をいれてジスを取り出した。
シルクの顔から血の気がひき、かれはあわててうしろへとびのいた。
「どうかして、ケルダー?」リセルは無邪気にたずねた。
「なんでもない」小男はくるりと背を向けると、緑の匂う夜のなかを身振り手振りをまじえてぶつぶつひとりごとを言いながら歩きだした。
[#改ページ]
11[#「11」は縦中横]
かれの名前はバルスカだった。悪癖と二流の腕を持つ病み目の船乗りで、北部メルセネ諸島のひとつにある魚臭い町、カダズの出身だった。過去六年間、〈スター・オブ・ジャロット〉なるごたいそうな名前の漏り穴のある商船に一般甲板水夫として正式に雇われていた。商船の船長はみずから〈ウッドフット〉と名乗るセランタ出身のかんしゃく持ちの義足の持ち主で、その目だつ名前は海軍のおえらがたから本当の素性を隠すための偽名ではないかと、バルスカはひそかに疑っていた。
バルスカはウッドフット船長がきらいだった。十年前、マロリー海軍の戦闘部隊の船に積んであった食糧からグロッグ酒をくすねた罰に即刻むちうちの刑をくらってからというもの、どんな船の上級船員も好きになったためしがなかった。船から飛び降りるチャンスを見つけるまで、その一件を根に持って不満の種をくすぶらせていたバルスカは、もっと情け深い船長や、もっと理解のある上級船員を捜し求めるようになった。
〈スター・オブ・ジャロット〉にはそういう連中はいなかった。
バルスカを一番最近幻滅させたのは、レンゲルのパノー出身の喧嘩っぱやいならず者である甲板長と意見が折り合わなかったことだった。その口論でバルスカは前歯をへし折られ、船長への断固たる抗議もむなしく、堅い樫材の、釘を打ちこんだ義足で容赦なく後甲板へ蹴り出されて嘲笑をあびるに終わった。屈辱と打ち身のひどさもさることながら、尻にささったとげは数週間にわたってバルスカをすわることもままならぬ目に合わせた。すわるのはバルスカの好きな姿勢だったのである。
ウッドフット船長の目の届かない右舷の手すりにもたれて、ぺリヴォー海峡でうねる鉛色の荒波を見つめながら、バルスカはつらつらと考えた。〈スター・オブ・ジャロット〉はドラスニア南西部の保護領のじめじめした沿岸を通過して、トゥリム・リーフを吸い込もうとする残忍な砕け波を迂回し、北西へ向かっていた。珊瑚礁が後方へ遠ざかり、無人のフィンダの沿岸を真北へ進むころには、バルスカは人生が自分をわざと不当に扱っており、陸に幸福を求めるほうがはるかによさそうだと結論づけていた。
幾晩か厳重におおいをしたランタンで船倉を捜しまわったあげく、バルスカは秘密の小部屋を発見した。ウッドフットはそこに税関員とのいざこざを避けて、貴重な小ぶりの商品を多数隠していた。バルスカのつぎあてだらけのズダ袋は、その夜またたくまに相当な重さになった。
〈スター・オブ・ジャロット〉がマル・ゲミラの港に錨をおろしたとき、バルスカは病気をよそおって、おきまりのどんちゃん騒ぎをもちかける船乗り仲間の誘いを断わった。陸にあがるかわりに、かれはハンモックに横になってわざとらしくうめいていた。午後六時から八時までの二時間当直のあいだに、防水したズックのコート――かれの唯一の価値ある所有物――をはおって、ズダ袋を持ち、忍び足で甲板にあがった。ひとりしかいない見張りは期待どおり、土焼きのジョッキに寄り添って、排水口に寝そべっていびきをかいていた。ウッドフットと上級船員たちが日頃放逸のかぎりを尽くしている船尾の船室には、あかりがついていなかった。月はすでに沈んでいる。面舵側のもやい綱につないである小さなボートが揺れていた。バルスカは器用にそこへズダ袋を投げ込むと、手すりをまたいで、音もなく〈スター・オブ・ジャロット〉に永久の別れを告げた。そのことについては、とりたてて残念には思わなかった。オールを漕ぐ手をとめて、過去六年間、かれの家だったその船に呪いの言葉をつぶやくことさえしなかった。バルスカはいたって現実的な男だったのである。いやでたまらない環境からいったん逃げだしてしまえば、恨みはもうきれいさっぱりなくなっていた。
波止場にはいると、小型のボートは右手のない、ビーズみたいな目玉の男に売ってしまった。バルスカはその取引のあいだじゅう、酔っぱらっているふりをした。手のない男――盗みを働いた罰として右手を切り落とされたのは疑問の余地がなかった――は取引があかるい太陽のもとで行なわれたなら払うはずのない大金でボートを買い取った。バルスカはそれが意味することをただちに悟った。ズダ袋を肩にかつぎ、千鳥足で波止場を進んで、波止場からの急勾配の砂利道をのぼりはじめた。最初の角までくると、いきなり左に曲がって、鹿みたいに走りだした。ビーズ目玉の男の命令でバルスカのあとをつけていた強制徴募隊はけむにまかれた。バルスカは確かにまぬけだったが、ばかでは全然なかった。
バルスカは息ができなくなるまで走りつづけた。危険に満ちみちた波止場ははるかかなたに遠ざかった。途中、いくつもの居酒屋を通り過ぎた。うしろ髪をひかれる思いだったが、まだやらなければならないことがあったし、しらふでいる必要があった。
じめじめした悪臭漂う路地裏の薄ぐらい小さな店で、かれはウッドフット船長の密輸品を売り払い、でぶでぶに太った女主人と最後の銅貨一枚にいたるまで取引した。防水コートを陸の人間が着るチュニックと取り替えることまでし、海の痕跡をきれいさっぱり捨てて路地から出てきた。名残といえるのは、数ヵ月乾いた陸地に足をふれていなかった者特有の揺れるような足取りだけだった。
かれは強制徴募隊やけちな安酒を飲ませる店のある港を避け、倉庫のたちならぶ曲がりくねった静かな通りを選んで歩いた。そうしてやっとひっそりした労働者用の居酒屋を見つけた。酒を運んできた丸ぽちゃの女給はかなり無愛想だった。不機嫌なのは、客が自分しかいないことや、あきらかに店を看板にしてベッドにはいろうと――だれのベッドか知らないが――していたことのせいだろうと、バルスカは見当をつけた。かれは女給をおだてて上機嫌とはいわないまでも、仏頂面を直させて一時間あまり過ごし、テーブルに数ぺニーをおいて、あばよというかわりに肉づき豊かな尻をつねった。それからさらなる冒険を求めて、人気のない通りによろめきでた。
ある一角でたいまつがいぶっていた。その下にバルスカは一夜の恋人を見つけた。名前は、女が言うには、エロワンダだった。本名かどうか疑わしかったが、関心の対象は名前ではなかった。エロワンダはひどく若く、ひどく病んでいた。苦しそうな咳をしたし、声はかすれてしわがれており、赤らんだ鼻からはひっきりなしに鼻水がたれていた。あまり清潔とはいえなかったし、一週間ちかく風呂にはいっていないらしく乾いた汗の臭いがした。しかしバルスカの船乗りらしい丈夫な胃袋と欲望は、六ヵ月の強制的禁欲生活でいやがうえにも高まっていた。エロワンダはあまりきれいではなかったが、安かった。短い押し問答のあと、彼女はかびた汚物の臭いのする路地の、脚のぐらつく寝台へかれを連れていった。したたかに酔っていたにもかかわらず、バルスカは東の空が白みはじめるまで、でこぼこのわら床で女にのしかかっていた。
うずく頭で目をさましたのは昼だった。もっと眠っていたかもしれなかったが、隅っこの木箱から聞こえる赤ん坊の泣き声がするどいナイフのように耳につきささってきたのだ。バルスカはとなりに横たわっている血色の悪い女をこづいて、女が起き上がり、泣きわめくガキを黙らせることを願った。女の体はぐったりしていた。手足はぐにゃぐにゃだった。
バルスカはもう一度、今度はもっと強くこづいた。それから起き上がって、女を見た。女の顔は口をぽっかりあけたおそろしい形相のまま固まっていた――ぞっとするようなにやにや笑いが、バルスカの血を凍りつかせた。突然かれは女の肌が氷のようにじっとり冷たいのに気づいた。バルスカはあわてて手をひっこめ、息をこらして毒づいた。いやいや手を伸ばして、女のまぶたをめくってみた。そしてまた毒づいた。
エロワンダと名のった女は一週間たった鯖《さば》みたいに死んでいた。
バルスカは起き上がってそそくさと服をきた。部屋をすみずみまでさがしたが、前夜かれが死んだ女に払った数枚のコイン以外、盗む価値のあるものはひとつも見つからなかった。それを取り戻してから、かれはわら床の上に横たわっている裸の死体をにらみつけ、「腐れ売女《ばいた》め!」と言いながら、脇腹を一度だけ蹴飛ばした。死体はわら床からころげおち、床にうつぶせになった。
泣いている赤ん坊を無視して、バルスカは力まかせにドアをしめ、悪臭漂う路地に出た。
ちょっとのあいだ、性病に感染したのではないかと不安になった。なにかがエロワンダの命を奪ったのだ。かれはそれほど手荒なことはしていなかった。念のために、特に梅毒を防ぐのに効きめがあると言われている水夫が昔から使うまじないを唱えた。バルスカはそれでもう安心して、一杯ひっかけようと居酒屋を捜しに行った。
午後三時ごろにはいい気持ちに酔って、居心地のよいこじんまりした居酒屋からよろめき出、かすかにゆれながら立ち止まってこの先どうしようかと考えた。いまごろ、ウッドフットはきっと隠しておいた戸棚がからっぽで、バルスカが船から飛び降りたことに気づいているだろう。ウッドフットは想像力の乏しい男だから、上級船員ともども、もっぱら波止場近辺だけを血眼になって捜しまわっているにちがいない。捜索の対象が海の見えないところへ姿をくらましたと連中が悟るには、しばらく時間がかかるだろう。執念深い元船長にこのまま差をつけておくには、内陸へ向かうことだ、とバルスカは抜け目なく判断した。それに、だれかにエロワンダと一緒のところを見られたかもしれない。彼女の死体はいまごろたぶん発見されているだろう。エロワンダの死にはとりたてて責任は感じなかったものの、バルスカは生まれつき警官と話すのにちょっと尻ごみする傾向があった。すべてを考慮して、かれはマル・ゲミラを出る頃合いだと考えた。
都市の東門へ向かって、自信たっぷりに大股にあるきだしたが、数ブロックも行くと脚が痛くなりだした。バルスカはとある倉庫の外でうろうろした。数人の労働者が大きな荷馬車に荷物を積み込んでいた。仕事がほとんど片づくまで注意深く陰に隠れていてから、そこへ出て行き快く手助けを申し出た。箱をふたつ荷馬車に積んでから、ラバの臭いをぷんぷんさせているひげもじゃの御者をさがしだした。
「どこへ行くんだい、友だち?」バルスカはどうでもよさそうな口調でたずねた。
「マル・ゼスだ」御者の返事はそっけなかった。
「こいつは偶然だな」バルスカは叫んだ。「おれもそこに用事があるんだ」じつを言えば、御者と荷馬車がどこへ行こうとバルスカにはほとんど関心がなかった。かれはひたすらウッドフットと警察を避けるために内陸へ行きたかったのである。「乗せてってくれないかな――道づれに?」
「おれはそれほどさみしかないね」御者は冷たかった。
バルスカはためいきをついた。ついてない一日になりそうだった。「金なら喜んで払うよ」悲しそうに言った。
「いくら?」
「あまり持ってないんだ」
「銅貨十枚だな」
「十枚? そんな金はない」
「じゃ、歩くんだな。方角はあっちだぜ」
バルスカはためいきをついて譲歩した。「わかったよ、十枚だ」
「前払いだ」
「いまは五枚、マル・ゼスについたら残りの五枚を払う」
「前払いだと言ってるんだよ」
「そいつはきつい」
「じゃあ歩きな」
バルスカは隅へ行ってポケットに手をつっこみ、慎重に銅貨を数えた。〈スター・オブ・ジャロット〉での盗みの結果として蓄えていた大金は、おどろくほど残り少なくなっていた。いくつもの可能性がバルスカの頭をかすめた。かれは鞘つきナイフを背中の腰のほうへ移動させた。御者がぐうぐう高いびきをかいてくれて、人里離れた場所で荷馬車が一夜を過ごすようなことがあれば、荷馬車と数頭のラバの所有者――箱の中身は言うにおよばず――として、堂々とマル・ゼスへはいっていけるのは確実だった。人殺しなら過去に何度かしたことがある――殺しても安全なときにかぎられていたが――それに殺すだけの値打ちがあるなら、喉をかき切ることに特別抵抗はない。
荷馬車は傾きだした午後の日差しのなかで、きしみながら丸石敷きの通りにひっぱりだされた。
「出発する前に、いくつかはっきりさせておこうじゃないか」御者が言った。「おれはしゃべるのは好きじゃない。ぺちゃくちゃしゃべりかけられるのもきらいだ」
「わかった」
御者はうしろへ手を伸ばすと、荷馬車台からみるからに残忍そうな手斧を取りあげた。「さ、ナイフをよこしな」
「ナイフは持ってない」
御者はラバの手綱をひいた。「おりろ」短く言った。
「だが、金を払ったんだぜ」
「おまえを乗せるのは危険だ。あの金じゃたりない。ナイフをよこすか、おれの荷馬車からおりるかだ」
バルスカは御者をにらみつけたあと、手斧に視線を移した。のろのろとかれは短剣を引き抜いて、渡した。
「いいだろう。マル・ゼスについたら返す。そうそう、ついでだが、おれはこいつを片手に握って、片目をあけて眠るからな」御者はバルスカの顔の前に手斧を突き出した。「進行中におれのそばにきやがったら、脳みそをたたきつぶす」
バルスカはちぢみあがった。
「おたがい理解しあえてよかったぜ」御者は手綱をゆすり、かれらはマル・ゲミラからゴトゴトと出発した。
マル・ゼスに到着したとき、バルスカは気分が悪かった。はじめは荷馬車が揺れたせいかもしれないと考えた。船乗りとして過ごしてきた長年のあいだ、船に酔ったことは一度もなかったが、陸ではよく気持ちが悪くなったからだ。だが、今度は少々ようすがちがっていた。確かに胸はむかむかするのだが、前に吐き気をもよおしたときとちがって、今度は汗が大量に吹き出し、喉がひりひりして唾をのみこむのもやっとなのだ。寒気がしたかと思うと、燃えるように体が熱くなり、口のなかがいやな味がした。
むっつりした御者はマル・ゼスの主要門でバルスカをおろすと、なげやりにかれの短剣をあしもとにほうり投げ、目を細めて元乗客を見やった。「気持ちが悪いみたいだな。医者かなんかにかかったほうがいいぜ」
バルスカはたしなみのない音をたてた。「医者にかかって死ぬこともあるぜ。運よく恢復したって、からっけつになっちまう」
「勝手にしな」御者は肩をすくめて、ふりむきもせずに都市へ荷馬車を走らせていった。
バルスカはありったけの悪態を投げつけてから、腰をかがめてナイフを拾い上げ、徒歩でマル・ゼスにはいった。町のようすをつかもうとしばらくうろついたあと、やっと防水コートの男に話しかけた。
「すまんがね、おい」喉がひりひりするのでバルスカの声はやすりみたいな音を立てた。「安くてうまいグロッグが飲める場所はどこだい?」
「〈赤犬亭〉へ行ってみろよ」船乗りは答えた。「角から二本向こうの通りだ」
「ありがとよ」
「気持ちが悪そうな顔をしてるぜ」
「風邪ぎみなんだ、たぶん」バルスカはにやっとしてみせた。「グロッグの二、三杯でもひっかけりゃ治っちまうさ」
「そりゃそうだな」船乗りは笑った。「酒はこの世で最高の薬だよ」
〈赤犬亭〉は薄ぐらい安酒屋で、そのたたずまいは船の前甲板にどことなく似ていた。天井は低くて、黒っぽい梁がむきだしになっており、窓のかわりに船窓がついている。あるじはぶっきらぼうな赤ら顔の男で、両腕にいれずみがあり、潮の匂いがぷんとするようなしゃべりかたをした。しばらくするとあるじのよお≠セのダチ≠セのがバルスカの神経にさわりはじめたが、グロックを三杯飲むとそれほど気にならなくなった。喉の痛みはやわらぎ、胃袋も落ち着いて、手のふるえもおさまっていたが、それでもまだ頭は割れるようだった。さらに二杯グロッグを飲んだあと、バルスカは交差させた腕に顔を伏せて眠りこんだ。
「よお、あんた。看板だよ」〈赤犬亭〉のあるじがしばらくたってかれの肩をゆすぶりながら言った。
バルスカは体を起こして、目をしばたたいた。「何分かうとうとしちまったらしいな」しわがれ声でつぶやいた。
「それを言うなら何時間かだよ、あんた」あるじは眉をひそめてから、バルスカの額に手を当てた。「ひどい熱だぞ、あんた。ベッドにはいったほうが身のためだ」
「どこか安く泊まれるところはないか?」バルスカはよろよろと立ち上がった。喉の痛みは以前にも増してひどくなっており、また胸がむかむかした。
「通りの三軒となりをあたってみなよ。おれに紹介されたと言ってくれ」
バルスカはうなずいて酒を一本買い、店を出しなにドアのわきの棚から、ロープのこすれた跡がある綱通しの鉄の棒を一本こっそりちょろまかした。「いい居酒屋だ」しわがれ声であるじに言った。「この雰囲気が気に入ったよ」
いれずみの男は誇らしげにうなずいた。「おれの思いつきなんだ。船乗りはこういうところで飲むほうが落ち着くだろうと思ってな――ここみたいに海から相当離れていてもだ。また寄ってくれよ」
「そうしよう」バルスカは約束した。
連れのいない通行人を見つけるまで、三十分ほどかかった。通行人はチュニックのポケットに両手を深くつっこんで、うつむき加減に家路を急いでいた。バルスカは一ブロックほど男のあとをつけていった。縄底の靴は丸石敷きの道の上では物音ひとつたてなかった。やがて通行人が路地の暗い入口にさしかかったとき、バルスカは背後にしのびよって後頭部を鉄棒で一撃した。男は畜殺された牡牛よろしく昏倒した。船上での喧嘩や居酒屋での騒ぎの経験から、バルスカはどこをどのくらい強く殴ればいいかを正確に心得ていた。男をころがしてから、念のために頭の横をもう一度殴りつけた。次に気絶した男のポケットを順ぐりにさぐっていった。コインが数枚と、頑丈そうなナイフが見つかった。バルスカはコインをポケットにいれ、ナイフを太い革のベルトにはさみこむと、犠牲者を見つからないように路地のなかへひきずりこんだ。それから通りに戻り、なじみ深い海の歌を口笛で吹いた。
翌日、バルスカの具合いはさらにひどくなっていた。頭はずきずきし、しゃべることもろくにできないほど喉が腫れ上がっていた。熱は前よりまちがいなくあがっていたし、ひっきりなしにはながたれた。瓶から酒を三口あおると、おかしかった腹具合いはおさまった。外へ出て食べ物を腹にいれるべきだとわかっていても、食べ物のことを考えただけで胸がむかついた。もう一度長々と瓶の酒をあおり、泊まっている部屋のきたないベッドに仰向けになって、うとうとした。
ふたたび目がさめたとき、外は暗くなっており、バルスカの体はがたがたとふるえていた。さしたる安堵も得られないまま、酒を飲み干してしまうと、服が悪臭を放っていることにぼんやりと気づきながら、ふるえつつ服をきて、よろよろと通りに出、三軒となりの〈赤犬亭〉のドアをくぐった。
「おやおや、あんた」いれずみのあるじが言った。「ひどい顔だよ」
「グロッグだ」バルスカはしわがれ声を出した。「グロッグをくれ」
全身をとらえているひどいふるえをとめるのに、九杯のグロッグが必要だった。
バルスカはもう数えるのをやめていた。
金が底をつくと、通りへよろめき出て、わずか六ペニーのために鉄棒で通りがかった男を殴り殺した。暗がりに身をひそめ、太った商人がやってくるとナイフで刺し殺して財布を奪った。財布には金貨も入っていた。バルスカはおぼつかない足取りで〈赤犬亭〉へ引き返し、閉店まで飲んだ。
「気をつけなよ、あんた」外へ出ようとしたとき、あるじが警告した。「人殺しの追いはぎがうろついてるんだ、そう聞いてる――ここらの通りや路地は、きたない犬にたかるノミみたいに警官がうようよしてるぜ」
バルスカはグロッグの樽を買ってみすぼらしい部屋へ持ち帰り、意識を失うまで飲みまくった。
翌朝、かれはうわごとを言い、何時間もわめきつづけ、樽からグロッグをあおっては、ベッドに吐いた。
日没まで荒れ狂って、バルスカは息絶えた。最後の言葉は「かあちゃん、助けて」だった。
数日後に発見されたとき、死体は弓なりにそり、顔にはぞっとするような笑いがはりついていた。
それから三日後、ふたりの旅人がマル・ゲミラへの道端の溝に横たわるひげ面の御者の死体を発見した。かたわらには荷馬車が止まっていた。死体は弓なりに硬直し、顔はにやりと笑っているようなグロテスクな形相をしていた。ラバも荷馬車ももう必要あるまいと判断した旅人は、それを盗んだ。あとから思いついて、御者の服も奪い、死体に枯葉をかぶせた。それからふたりは荷馬車の向きを変えて、マル・ゼスへ引き返した。
バルスカがさしたる注目を集めることもなく死んでから一週間ほどたったころ、防水コートの男が日差しのふりそそぐ薄ぎたない通りによろめきあらわれた。男はわめきながら喉をかきむしり、百フィートばかり丸石敷きの通りをよろめき歩いたあと、崩れるように倒れて死んだ。泡をふいた口もとにはおそろしい笑いがはりつき、通りがかりの人々はその夜悪夢にうなされた。
翌朝〈赤犬亭〉のいれずみのあるあるじが、店内で死んで発見された。最後の錯乱に襲われたとき、テーブルや椅子をたたき壊したらしく、その残骸のあいだにひっくり返っていた。ゆがんだ顔は目をそむけたくなる笑いを浮かべていた。
時間がたつにつれ、その日のうちに、都市のその近辺で、いずれも〈赤犬亭〉のなじみ客だった十二人の男がさらに死亡した。
翌日はさらに四十人ちかい死人が出た。当局が注目しはじめた。
しかし、そのときには手遅れだった。大都市特有の階級間の交流が、すべての地域にその伝染病を広げてしまったのである。町のみすぼらしい地域に暮らす召使いたちが裕福な有力者の屋敷に病気を持ちこんだ。労働者たちは建築現場に病気を持ちこみ、その仲間の労働者たちが都市の別の区域へ病気を持ち帰った。客が商人に病気をうつし、商人が今度は別の客に病気をうつした。ほんのちょっとした接触で、簡単に病気は感染した。
はじめ死者は数十人だったが、その週の終わりには数百人が病気になっていた。病人の出た家は、なかから住人の弱々しい叫びが聞こえるのもかまわず、板をうちつけられた。通りを陰気な荷車がゴトゴトと行き交い、消毒液でぬれた服をきた不機嫌そうな労働者たちが、柄の長い鎌で死人を拾い上げた。死体はたきぎのように荷車に積み上げられ、墓地へ運ばれて広大な公墓に儀式も抜きで埋められた。マル・ゼスの通りは人気《ひとけ》がなくなり、おびえた市民は家にひきこもった。
宮殿の内部には当然不安があったが、宮殿は城壁に囲まれているうえ、残りの都市からは遠くはなれていた。しかし、念には念を入れて、皇帝は敷地内の出入りを厳禁した。敷地内にとじこめられた者のなかには、商務省の長官であるヴァスカ男爵が各省の刷新を計ろうと雇った数百人の労働者が含まれていた。
その日、宮殿の門は閉鎖され、昼近くガリオンとポルガラとベルガラスはザカーズとの謁見に呼ばれた。かれらが書斎にはいると、やつれてうつろな目をしたザガーズが帝都の地図を熱心に眺めていた。「どうぞ、どうぞ」三人があらわれると皇帝は言った。かれらはなかへはいって、ザカーズがうわの空でさし示した椅子に腰をおろした。
「疲れているようね」ポルガラが言った。
「この四日間一睡もしていないのだ」ザカーズは認めた。かれはくたびれた目でベルガラスを見た。「あなたは七千歳だと言われたな」
「そんなところだ」
「伝染病をきりぬけたことがおありか?」
「何度かある」
「普通伝染病はどのくらいつづくのだ?」
「どんな病気かによるな。二、三ヵ月で終息するものもあれば、その地域の者が全滅するまで蔓延する場合もある。ポルのほうがわしより詳しいだろう。ありとあらゆる医療経験の持ち主だからな」
「レディ・ポルガラ?」皇帝は訴えるようにポルガラを見た。
「病いを見分ける前に、症状を知る必要があるわ」
ザカーズは目の前のテーブルにちらばっている書類をひっかきまわした。「これだ」一枚の羊皮紙を取り上げて読み上げた。「高熱、むかつき、嘔吐、悪寒、大量の発汗、喉の痛み、頭痛。最後は錯乱に陥り、まもなく死に至る」
ポルガラは重々しくザカーズを見た。「よくないわね。死後の体にみられる特徴は?」
「おそろしい笑いを浮かべているそうだ」羊皮紙を読みながらザカーズは言った。
ポルガラは首をふった。「そうじゃないかと思ったわ」
「どういう病気なんだね?」
「疫病のひとつよ」
「疫病?」ザカーズの顔はいつのまにか青ざめていた。「疫病は死体がふくれあがるものだとばかり思っていた。これにはそういうことは書いていない」かれは羊皮紙を持ち上げた。
「病気にはいろいろな種類があるのよ、ザカーズ。あなたの言った膨張はもっともよくある症状だわ。肺をやられるのもあるわ。ここに発生しているのは、きわめてまれで、悪性の疫病ね」
「治る見込みはあるのかね?」
「いいえ、ないわ。死なずにすむ者もいるけれど、それはおそらく軽くすんだ場合か、体に生まれつき抵抗力がそなわっていた場合ね。免疫がある者もいるのよ。そういう人々は何度疫病にさらされてもけろりとしているわ」
「わたしに何ができる?」
ポルガラはじっとザカーズを見つめた。「気に入らないと思うわ」
「疫病のほうがもっと気に入らない」
「マル・ゼスを封鎖することね。宮殿を封鎖したように、都市も封鎖するのよ」
「まさかそんな!」
「本気ですとも。伝染病をマル・ゼス以外に広げてはならないわ。そのためには市民を都市にとじこめて病気をよそへ広げないようにするしかないのよ」ポルガラの顔は険しかった。「そして、わたしが都市を封鎖しろと言ったら、それは徹底的にやれということなの。だれも都市からでることはまかりならないわ」
「わたしには統治しなければならない帝国があるのだ、ポルガラ。ここに閉じ込もって帝国を放置しておくわけにはいかん。使者を出したり、外からの使者を受け入れたりしないわけにはいかないのだ」
「それじゃ、死の帝国を統治することになるわね。この疫病の症状が出るのは、最初の感染から一、二週間たってからなのよ。でもその潜伏期間の最後の数日間、感染者はすでに発病の一歩手前にあるわ。だから、いたって健康そうにみえる者から感染する可能性もあるのよ。使者を送りだしたら、遅かれ早かれ感染して、疫病がマロリー全土に広がることになるわ」
ザカーズはポルガラの説明にふるえあがってがっくり肩を落とした。「何人だ?」かれは静かにたずねた。
「質問の意味がわからないわ」
「このマル・ゼスで何人の死人が出るだろう、ポルガラ?」
彼女は考えこんだ。「半数ね、運がよくて」
「半数?」ザカーズは固唾をのんだ。「ポルガラ、ここは世界最大の都市だ。それでは人類史上最大の災害ではないか」
「わかってるわ――それも運がよければの話なのよ。死亡率は全人口の五分の四にのぼるかもしれないわ」
ザカーズはふるえる両手に顔を埋めた。「何か打つ手はないのか?」くぐもった声でたずねた。
「死者は焼かなければだめよ。一番いいのは家ごと焼いてしまうことね。そうすれば疫病が広がる見込みは低くなるから」
「通りも巡回させたほうがいい」ベルガラスは陰気につけくわえた。「かならず略奪する者があらわれる。略奪者は病気に感染するだろう。射手を送りだして、略奪者を見たら矢を放つよう命令するのだ。そのあと死体を感染者の出た家へ長い棒で押し込み、家の中ですでに死んでいる者たちもろとも焼いてしまうのだ」
「マル・ゼスを破壊しろというのか!」ザカーズは激昂してたち上がろうとした。
「いいえ」ポルガラが言った。「あなたの市民をできるだけたくさん救おうとしているのよ。心を鬼にしなくてはいけないわ、ザカーズ。このままでは、健康な市民全員を野原へ追いやって、かれらの逃亡を防ぐために見張りを周囲に置くはめになるのよ。それからマル・ゼスに火を放ち、灰にしてしまわなくては」
「そんなことは考えられん!」
「考えはじめたほうがいいわ」ポルガラは言った。「別の道はもっともっと悲惨よ」
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12[#「12」は縦中横]
「シルク」ガリオンはせっぱつまった声で言った。「そういうことはやめなきゃだめだよ」
「あいにくだがな、ガリオン」小男は密偵がひそんでいないかと、月に照らされたあずまやを注意深く見回しながら答えた。「いまさら引き返すわけにはいかないんだ。サディの追いはぎの一味は宮殿の敷地内にいて、ヴァスカから命令を受けている。ヴァスカはいまや自信まんまんでザカーズと対決せんばかりだ。軍の備品調達局のブレガー将軍はなにかが進行中だと感づいて、身辺に部隊を控えさせている。パリアの王とデルチンの摂政の宮、それにヴォレセボの老王は家来を一人残らず武装させた。宮殿は封鎖されているし、だれも外部からの援助は受けられない――ザカーズ自身さえもだ。こういう状況では、ほんの一言が起爆剤になる」
ガリオンは悪態をつきながら、薄ぐらいあずまやを歩き回り、短く刈り込まれた芝を蹴飛ばした。
「どんどんやってくれと言ったのはそっちだぜ」シルクは思い出させた。
「シルク、このままじゃぼくたちは都市から脱出することはおろか、宮殿を出ることさえできないじゃないか。一触即発の事態をひきおこしたはいいが、そのどまんなかで身動きもできなくなっちまう」
シルクはむっつりとうなずいた。「わかってる」
「ザカーズのところへ行くしかない」ガリオンは言った。「一部始終を話すんだ。かれなら皇帝の護衛隊に命じて全員を武装解除させることができる」
「宮殿から出る手段がそれしかないと思っているなら、皇帝の牢屋から脱出する方法を考えはじめたほうがいいぜ。ザカーズはこれまでは丁重だったが、かれの忍耐――というか、親切心――がそこまでもつとは思えない」
ガリオンはうなった。
「どうやらおれたちはしくじったようだ」シルクは頭をかいた。「おれはときどきそれをやるんだよ」
「この状況を元に戻す方法を思いつかないか?」
「だめだ。状況全体が火のつく一歩手前まできているからな。ベルガラスに話したほうがいいかもしれない」
ガリオンはひるんだ。「怒るな」
「だまってたら、もっと怒るぜ」
ガリオンはためいきをついた。「それもそうだな。しかたがない、いやなことはすませてしまおう」
ベルガラスの居所を見つけるまで、かなり手間取った。ようやく捜しあてたとき、老人は東翼の二階の部屋の窓辺にたたずんでいた。窓は宮殿の城壁を見おろす位置にある。その城壁の向こうでは、傷ついた都市に火の手があがっていた。煤まじりの一面の炎が居住区全域から吹きあげ、真っ黒な煙が満天の星空をおおっている。「だんだん手に負えん状態になってきている」老人は言った。「家を壊して防火地帯を作るべきなんだが、兵隊連中は兵舎を出るのをこわがっているらしい」ベルガラスはののしり声をあげた。「火事はきらいだ」
「ちょっと問題があるんですがね」シルクが部屋の壁に密偵ののぞき穴がないかときょろきょろしながら、慎重に切り出した。
「なんだ?」
「いや、たいしたことじゃないんです」シルクはことさらなにげない態度で答えた。「ちょっとお耳に入れといたほうがいいんじゃないかと思っただけで」だが、シルクの指はすばやくぴくぴくと動いていた。聞き耳をたてて見張っているはずの密偵たちの薫陶のために、どうでもいいような馬の話を落ち着き払ってでっちあげながら、シルクはさかんに指を動かして全状況を老人に述懐した。
「なんだと?」ベルガラスは大声を出してから、あわてて咳き込んでごまかした。(秘密警察の気をそらすような事態を作れと言ったでしょう、おじいさん)シルクが馬について口からでまかせをしゃべりつづけているあいだに、ガリオンの指が言った。
それにベルガラスの指が答える。(だが、宮殿内部で戦闘を起こせとは言わなかったぞ。いったい何を考えてたんだ?)
(それがぼくたちに思いつける最善の方法だったんだよ)ガリオンはうらめしげに答えた。
「ちょっと考えさせてくれ」老人は声に出して言った。両手をうしろで組み、眉間に縦じわを寄せて一心に考えこみながら、しばらく行ったりきたりした。「ダーニクと話をしに行こう」ようやくベルガラスは言った。「馬の世話は多かれ少なかれ、かれがやっているから、ダーニクの意見を聞く必要がある」窓から向きなおって、ガリオンたちをしたがえ部屋を出る直前に、ベルガラスの指がもう一度だけすばやく動いた。(下へ行く途中、あまり静かには歩かないようにしろ)
老人はふたりに言った。(いくつか指示を与える必要があるし、指をうごめかせていたんじゃ、時間がかかってしょうがない)
部屋を出ると、ガリオンとシルクは足をひきずってブーツのかかとを大理石の床に強くうちつけ、ベルガラスのひそひそ声をごまかした。
「いいか」老人は階下へつづく階段のほうへ廊下を歩きながら、ほとんど口を動かさずにささやいた。「状況は取り返しのつかないところまできている。いずれにせよ、おまえたちがお膳立てしたこの騒ぎを止めるわけにはいかんのだから、騒動が起きるにまかせるしかない。ただし、われわれには馬が入り用になる。したがってだ、ガリオン、おまえはザカーズのところへ行き、わしらの馬を厩にいるほかの馬から離してくれるよう言ってもらいたい。疫病の感染を避けるためだと言え」
「馬にも感染するのかい?」ガリオンはびっくりしてささやいた。
「そんなこと知るものか。だが、わしが知らんのだから、ザカーズが知っているはずがない。シルク、おまえさんはそれとなく行動して、みんなにわしらがいますぐにも出発するから、目だたぬように準備をしろと知らせるのだ――こっそりとな」
「出発する?」ガリオンはあっけにとられた。「おじいさん、宮殿から――都市から――出る方法を知ってるのかい?」
「いや、だが、だれかが知っているはずだ。なるべくいそいで馬の隔離の件をザカーズに伝えてくれ。いまはほかのことで頭がいっぱいだろうから、おそらくザカーズはすんなり要求をのむだろう」ベルガラスはシルクに視線を移した。「おまえさんの仕組んだ騒ぎはいつごろ起こりそうなんだ?」
「そうですね」シルクはあいかわらずかかとをぶつけるようにして階段をおりながら、ささやき返した。「いつ起きてもおかしくないな」
ベルガラスはあいそをつかしてかぶりをふった。「勉強をやりなおす必要がありそうだな」いらだたしげにささやいた。「いかにして何かをするかは、確かに重要だ、しかし、いつするかのほうがもっと重要なこともあるのだぞ」
「覚えておきますよ」
「忘れるな。では、いそいだほうがいい。このスケジュールにないちょっとした噴火が起きるときに、用意万端整えておきたいのだ」
ガリオンが赤いカーテンのさがった広大な部屋に通されたとき、室内には十二人の高位高官がいてザカーズと協議の最中だった。「すぐに終わる。ガリオン」やつれた顔の皇帝はそう言って、将軍たちのほうに向きなおった。「部隊に命令を出さねばならん。都市へ出て行ってくれる有志が必要だ」
将軍たちは顔を見合わせて、ぶあつい青の絨緞の上で足をもぞもぞ動かした。
「だれかに行けと命令しなければならんのか?」ザカーズはいらいらと問いただした。
「あの――ちょっと」ガリオンはやんわりとわってはいった。「どうしてだれかが行く必要があるのかな?」
「マル・ゼスが燃えているあいだ、部隊の兵たちがそろいもそろって兵舎にひきこもっているからだ」ザカーズはかみつくように言った。「家を破壊して火を消し止めるべきなのだ。さもないとわれわれは全市を失うことになる。だれかがその命令をださねばならん」
「宮殿の城壁の外に部隊を配置させているか?」ガリオンはたずねた。
「ああ。民衆を寄せつけるなと命令してある」
「城壁のてっぺんからかれらに叫べばすむことじゃないか。兵隊のひとりに大佐かだれかを連れてこいと言ってから、命令を叫べばいい。部隊を仕事にとりかからせろと伝えるんだ。百ヤードも離れていれば、疫病には感染しないよ――ぼくはそう思う」
ザカーズはまじまじとガリオンを見てから、急に情けなさそうに笑いだした。「どうしてそんなことを思いつかなかったのだろう?」
「農場育ちじゃないからさ」ガリオンは答えた。「別の畑を耕している男に話しかけたかったら、怒鳴りあうしかない。そうでもしないと、不必要にたくさん歩くはめになる」
「なるほど」ザカーズはきびきびと言って、将軍たちを見た。「一番声の大きいのはだれだ?」
大きな太鼓腹に真っ白な髪の赤ら顔の将軍がふいににやりとした。「若いころは、連兵場の端から端まで声が届いたものです、陛下」
「よし。まだそれができるかどうかやってみよう。頭のいい大佐をつかまえるんだ。すでに燃えている地区はそのままにして、その周囲の家を破壊し、火が広がるのを防ぐよう命令しろ。マル・ゼスの少なくとも半分を救ったら、将官の地位を与えると言うのだ」
「大佐が疫病にかかって死ななければの話ですな」将軍のひとりがつぶやいた。
「兵たるものそれくらいの覚悟はしなければならんよ、諸君。ラッパが鳴ったら、きみたちは仕事にとりかかることになっている。ラッパを吹くぞ――いますぐ」
「かしこまりました、陛下」将軍たちは異口同音に言うと、くるりと向きをかえて部屋を出ていった。
「名案だったな、ガリオン」ザカーズは感謝をこめて「ありがとう」と言うと疲れきったように椅子に手足をのばした。
「ただの常識だよ」ガリオンは肩をすくめ、やはり腰をおろした。
「王や皇帝というのは常識がないことになっているのだ。凡庸すぎるからな」
「少し眠ったほうがいいよ、ザカーズ」ガリオンは真剣に言った。「死にかけているみたいな顔つきだ」
「そうはいかない」ザカーズは答えた。「いま数時間の睡眠をとれば、カランダの半分を失うことになる――もっとも、もうカランダの半分はわたしのものではないが」
「じゃ、眠れよ」
「むりだ。やらねばならんことがありすぎる」
「睡眠不足で倒れたら、何にもならないじゃないか。目がさめるまで将軍たちが肩がわりをしてくれるさ。将軍はそのためにいるんだろう?」
「かもしれんな」ザカーズは椅子にすわったまま体をずらした。かれは正面からガリオンを見つめた。「何か用事か? ここへきたのは、ただのご機嫌うかがいではあるまい」
「いやその」ほんのついでといった口調でガリオンは言った。「ダーニクがわれわれの馬のことを心配してるんだ。ポルおばさん――レディ・ポルガラ――と話し合ったんだが、馬が疫病に感染するかどうかポルガラもよくわからないんだ。われわれの馬を厩から出して、ダーニクの目が届く東翼の近くのどこかにつないでもいいかどうか、あんたにきいてほしいとダーニクに頼まれたんだよ」
「馬だって?」ザカーズは信じられないように言った。「こんなときにダーニクは馬の心配をしているのか?」
「ダーニクがわかっていないからそんなことを言うのさ」ガリオンは答えた。「ものすごく責任感が強いんだ。馬のことは自分の義務だと思っている。どっちもすばらしいことだ」
ザカーズはかわいた笑い声をあげた。「昔ながらのセンダリア人の美徳というやつだな。義務、実直さ、実用主義」ザカーズは肩をすくめた。「いいとも。善人ダーニクがそれで安心するなら、東翼の廊下へ馬を移したらいい」
「いや、それはだめだろう」ちょっと考えたあと、ガリオンは答えた。「あんたが言わなかったセンダリア人の美徳のひとつに、適性ってものがある。馬は屋内にいるものじゃない。それに、大理石の廊下はひづめを傷つけるだろう」
ザカーズは力なくほほえんだ。「貴公はおもしろい人間だ、ガリオン。ときどきどうでもいいようなささいなことに、妙に真剣になるんだな」
「重要事項はささいな事柄の集まりなんだ、ザカーズ」ガリオンは格言めかして答えた。テーブルの向こうで疲労困憊している男を見ながら、ガリオンは心から好きな相手をだまさなくてはならないことをひどく残念に思った。「大丈夫か?」
「死にはしないさ」ザカーズは言った。「いいか、ガリオン、この世の大きな秘密のひとつは、必死で生にしがみついている人間にかぎって死ぬということなんだ。わたしはどのみち生きることに執着していないから、百年は生きる」
「そういう迷信はあまりあてにならないよ」そのとき、ある考えが浮かんだ。「疫病騒ぎが一段落するまで、われわれが東翼のドアに内側から鍵をかけたら困るかい? ぼく自身は病気になるのを特に恐れているわけじゃないが、セ・ネドラやリセルやエリオンドのことがちょっと心配なんだ。みんなそれほど丈夫じゃないし、ポルおばさんが言うには疫病で助かるにはスタミナが肝心らしい」
ザカーズはうなずいた。「妥当な要求だ。じっさい賢明な考えだよ。できることなら、ご婦人がたとあの少年を保護しよう」
ガリオンは立ち上がった。「少し眠るべきだ」
「眠れるとは思えん。いまは頭のなかがいっぱいなんだ」
「だれかに言いつけてアンデルをここにこさせよう。アンデルがポルおばさんが考えているその半分でも有能なら、眠くなる薬をくれるだろう」ガリオンは警戒しながらも友人と考えている疲れ果てた男を見つめた。「しばらく会えないな。幸運を祈るよ。体に気をつけて、いいね?」
「やってみるよ、ガリオン。やってみる」
ふたりは厳粛に握手をかわし、ガリオンは向きを変えて静かに部屋を出た。
そのあとの数時間、かれらは忙しかった。ガリオンのごまかしにもかかわらず、ブラドーの秘密警察はどこへ行くにもかれらのあとについてきた。厩へ行って馬たちをひいて戻ってきたダーニクとトスとエリオンドのうしろには、目だたない警官たちが影のようにへばりついていた。
「何が事態をとどこおらせているのだ?」ふたたびかれらが階段の上にある、壇と王座のような椅子を突き当たりに置いた大きな部屋に集まったとき、ベルガラスが問いつめた。
「よくわからないんですよ」シルクがあたりに目を配りながら用心深く答えた。「しかし、単なる時間の問題でしょう」
そのとき、東翼のかんぬきをかけたドアのむこうの宮殿の敷地で、叫び声と走り回る足音が聞こえ、ついで鋼と鋼がこすれあう音がひびきわたった。
「なにかが始まったようですわ」ヴェルヴェットが冷静に言った。
「当然そうなっていいころだ」ベルガラスはぶつくさもらした。
「ふくれないでくださいな、長老さま」
かれらがひきこもっている建物の内部でも、せわしなくかけ回る足音が断続的に聞こえてきた。宮殿の中から外へ通じるドアがあいついで音をたてて閉じた。
「全員出て行ったか、ポル?」ベルガラスがたずねた。
ポルガラの目が一瞬遠くを見る目つきになった。「ええ、おとうさん」
走る足音と、ドアの閉まる音はさらに数分間つづいた。
「これはこれは」サディが温和な口調で言った。「ずいぶん大勢いたじゃありませんか?」
「おまえたち三人は自画自賛するのをやめて、連中があけたドアに改めてかんぬきをかけてきてくれんか?」
シルクがにやにやして音もなくドアから出て行った。数分後に、かれはうかぬ顔で戻ってきた。「ちょいと問題があるんだ。表の入口を守っている番兵たちは、異常に義務感が強いらしい。頑として持ち場を守ってる」
「たいした工作だな、シルク」ベルガラスが皮肉たっぷりに言った。
「トスとわたしとでなんとかしますよ」ダーニクが自信を持って言った。かれは暖炉わきの箱に歩みよると、頑丈なカシの薪を一本つかんだ。
「ちょっと直接的すぎやしないかしら、ディア」ポルガラがつぶやいた。「あなたが番兵たちを殺したいはずがないから、遅かれ早かれかれらは意識を取り戻してザカーズのもとへかけつけるわ。もう少し卑劣な手段が必要だと思うの」
「その言葉はあまり感心しないね、ポル」ダーニクはこわばった口調で言った。
「策略に富む≠ネらどう?」
ダーニクは考え込んだ。「いや、よくない。結局は同じことだろう?」
「まあ、そうね」ポルガラはうなずいた。「でも多少はましでしょう?」
「ポルガラ」鍛冶屋はきっぱりと言った。ガリオンはダーニクがポルおばさんのフル・ネームを使うのをはじめて聞いた。「わからずやになるつもりはないが、窮地に追いつめられるたびに、嘘をついたり、だましたり、きたない手を使ったりしたら、どうやって世間に顔向けできるんだ? わたしは本気だよ、ポル」
ポルガラはダーニクを見つめた。「ああ、ダーニク。愛してるわ」娘じみた熱っぽさで彼女は夫の首に両腕を投げかけた。「この世界で生きるにはあなたは善良すぎてもったいないくらいよ、それがわかっていて?」
「いや」ダーニクはどぎまぎして言った。そういう愛情の発露は人前ですべきものではないと考えているのははためにも明らかだった。「要は思いやりの問題ではないかな」
「もちろんだわ、ダーニク」ポルガラは妙に従順に賛成した。「なんとでもあなたの言うとおりよ」
「見張りをどうしよう?」ガリオンはたずねた。
「わたしが処理するわ、ディア」ポルガラはうっすらと笑った。「かれらが何ひとつ見も、聞きもしないように手筈をととのえましょう。だれも何も知らないうちに、出発できるわよ――自分が何を言っているのかおとうさんがわかっていればだけれど」
ベルガラスはポルガラをにらみつけたかと思うと、急に片目をつぶってみせた。「わしを信用しろ。ダーニク、馬たちをなかへ連れてきてくれ」
「入れるんですか、なかへ?」ダーニクはおどろいた顔をした。
ベルガラスはうなずいた。「馬を地下室へおろさねばならんのだ」
「この翼棟に地下室があるとは知らなかったな」シルクが言った。
「ザカーズも知らん」ベルガラスはにんまりした。「ブラドーもな」
「ガリオン」セ・ネドラが鋭く言った。
ガリオンが振り返ると、部屋の中央にちらちら光るものがあった。次の瞬間、目かくしをしたシラディスの姿があらわれた。
「いそぐがよい」シラディスは一同をせきたてた。「今週中にアシャバへ到着せねばならぬ」
「アシャバへだって?」シルクが叫んだ。「おれたちはカリダへ行かなくちゃならないんだ。メンガってやつがカリダで悪魔たちを呼び起こしているんだよ」
「それは火急の問題ではない、ケルダー王子。悪魔などそなたたちの関心の対象にもならぬ。だが、メンガなる者もまたアシャバへ向かうことを知るがよいぞ。〈光の子〉と〈闇の子〉の対決が〈もはや存在しない場所〉で実現するときに、まっとうされねばならぬ務めのひとつに、メンガはかかわってくるのじゃ」シラディスは目かくしをした顔をガリオンのほうへ向けた。「リヴァのベルガリオン、この務めをまっとうするときが迫っている。そなたの仲間が課せられた務めを果たしそこねるようなことがあれば、世界は失われる。それゆえ、どうかアシャバへ行くのだ」それだけ言うとシラディスは消えた。
かれらは長いことひとことも言わぬまま、シラディスがいままで立っていた場所をじっと見つめていた。
「では、そういうことだ」ベルガラスが平板に言った。「わしらはアシャバへ行く」
「宮殿から出られたらの話ですがね」サディがつぶやいた。
「出られるさ。それはわしにまかせろ」
「むろんですとも、長老どの」
老人は一同の先頭に立って廊下へ出、階段をおり、宮殿のあとの部分に通じる頑丈なドアめざして主廊下を歩いていった。
「ちょっと待って、おとうさん」ポルガラがしばらく意識を集中させた。はえぎわの白いひと房が輝いた。すぐにガリオンはポルガラの意志のうねりを感じとった。「いいわ。見張りたちはもう眠っているわよ」
老人は廊下を進みつづけた「さあ、ここだ」大理石の壁にかかっている大きなつづれ織りの前で足をとめた。ベルガラスはつづれ織りの裏へ手をいれて、古びて黒ずんだ鉄の輪をつかみ、引っ張った。金属がきしる音につづき、ガチャンと大きな音がした。「そっち側を押してくれ」老人はつづれ織りのむこう側を示した。
ガリオンは二、三歩前に出て、つづれ織りを肩で押した。金属的なきしりとともに、つづれ織りにおおわれている大理石の板が、その中央の上下に固定された錆ついた鉄の軸の上でゆっくりと回転した。
「みごとな仕掛けだな」シルクが大理石の板の向こうにぽっかりとあらわれた、クモの巣だらけの暗がりをのぞきこみながら言った。「だれが作ったんだろう?」
「その昔、マロリーの皇帝のひとりが王の地位にいささか神経質になっていたのだ」老人は答えた。「かれは事態が危うくなりだした場合にそなえて、宮殿からの脱出路を用意しておくことを考えたのだ。この脱出路は過去の遺物だから、だれもわしらを追いかけてはこないだろう。荷物その他の身の回り品を取ってこよう。もう戻ってくることはないのだ」
約五分後、つづれ織りに隠された大理石の板の前に、一同は荷物を積み上げた。そのころにはダーニクとトスとエリオンドがひづめの音を大きくひびかせて馬たちを引いてきた。
ガリオンは角まで行って、表のドアをのぞきこんだ。ふたりの見張りはみじろぎひとつせずに立っていた。放心したような表情で、虚空を凝視している。それを見届けると、ガリオンはみんなのところへ引き返した。「いつかあれをやる方法を教えてもらわなけりゃ」肩ごしに、昏睡状態にあるふたりの兵士のほうへ親指をぐいと曲げてみせながら、ポルガラに言った。
「わけないわよ、ガリオン」
「おばさんにとっては、だろう」ガリオンは言った。そのあと、ふと思いついてけげんそうに言った。「おじいさん、この通路が都市に通じているとすると、宮殿にいるよりもっとひどい事態になるんじゃないか? 都市では疫病が猛威をふるっているんだし、城門はすべて鍵がかけられているんだ」
「マル・ゼスのなかには出ないのだ」老人は答えた。「そう聞いている」
宮殿の外では戦いの物音が激しさを増していた。
「ずいぶんと熱中しているようじゃありませんか」サディが自己満悦の体でつぶやいた。
「やれやれ」聞きおぼえのある歌うような声が大理石の板の向こうの地下室からのぼってきた。「みなさん、そこにそうやって背中をたたきあいながら何時間も突っ立って、なにひとつやりとげないうちに朝になっちまってもいいんですかい? 行動を開始しなけりゃ今月中にマル・ゼスから脱出できなくなりますぜ」
「行こう」ベルガラスが短く言った。
馬たちは大理石の板の向こうの暗くカビ臭い場所になかなか入ろうとしなかったが、エリオンドとかれの馬がガリオンの大きな灰色のクレティエンヌとともに自信たっぷりに穴をくぐりぬけると、ようやくおずおずとしたがった。
入ってみてわかったのだが、じっさいはそこは地下室というより、粗末な石の通路とでも言ったほうがいいようなところだった。馬たちは階段をおりることに相当難渋したが、結局、エリオンドとかれの馬とクレティエンヌのあとについて下までたどりついた。
階段の上で巨漢のトスが秘密の板を押してふたたび閉めると、さし錠がとほうもなく大きなガチャンという音をたてた。
「ちょっと待って、おとうさん」ポルガラが言った。カビ臭い濃い闇のなかで、ガリオンはポルガラのかすかな意志のうねりを感じた。「そら、兵士たちは目がさめたわ。わたしたちがここにいるとは夢にも思っていないわよ」
階段の下で、滑稽な道化師のフェルデガーストがあかりがもれないようにおおいをしたランタンを持って立っていた。「そぞろ歩きにゃもってこいの晩ですわい」かれは言った。「ではまいりましょうか?」
「自分のしていることはわかっているんだろうね」ベルガラスがフェルデガーストに言った。
「よくもあっしを疑えますね、ご老体」道化師はことさら傷つけられた顔をした。「あっしは非常に用意周到な人間なんですよ」かれはちょっぴり顔をしかめた。「ちっちゃい問題がひとつだけあります。この通路の一部がその昔ひとりでに崩壊しているらしいんですわ、であるからして、あっしらはちょっくら通りにでなくちゃならないんです」
「ちょっくら――いや、ちょっとのあいだとはどの程度なんだ?」ベルガラスは問いつめて、なまいきな道化師をにらみつけた。「そういうものの言い方はやめてくれんか」老人はいらだたしげだった。「どういう了見で、二千年前に死滅した言葉使いをする?」
「それがあっしの魅力のひとつなんでさ、ベルガラスさん。ボールを宙に投げてそれをまた受け止めることならだれにだってできるが、人の行動を特徴づけるのはしゃべりかたですからね」
「あなたがた、前に会ったことがあるのね?」ポルガラが片方の眉をつりあげて言った。
「あなたの名誉あるお父上とは古い古い友人でしてね、親愛なるレディ・ポルガラ」フェルデガーストはさっと一礼した。「かねがねお噂はうかがってますよ。ですが、あなたの人間ばなれしたお美しさには完全に圧倒されました」
「めずらしいごろつきを見つけたものね、おとうさん」ポルガラは妙な笑いを浮かべて言った。「かれが気に入りそうだわ」
「それはよしたほうがいいぞ、ポル。こいつは嘘つきでこずるいうえに、けがらわしい趣味の持ち主なんだ。質問をはぐらかしているな、フェルデガースト――そう名乗りたいならしかたがないが。どのくらい通りを歩かねばならんのだ?」
「そんなに長い距離じゃありませんよ、もうろくしなすったね――半マイルも行けば通路の屋根もまたしっかりしてきて、通りの舗装石があっしらの頭上に落ちてくるようなこともなくなるでしょうよ。じゃ、行きますか。マル・ゼスの北壁までは長い長い道のりだ、夜はどんどん更けていく」
「もうろくだと?」ベルガラスはやんわりと反論した。
「それがあっしのしゃべりかたなんですよ、ご老体」フェルデガーストはあやまった。「悪気はないんだからね」かれはポルガラのほうを向いた。「一緒に歩いてもらえますかね、おじょうさん? あんたは体がとろけちまいそうないい匂いをさせておいでだ。並んで歩きながら、肺までその匂いを吸い込んだら、感きわまって息がとまりそうだ」
ポルガラはしかたなさそうに笑うと、奇妙な小男の腕に腕を通した。
「わたし、かれが気に入ったわ」クモの巣だらけの通路をたどっていきながら、セ・ネドラはガリオンにささやきかけた。
「だろうな、おじょうさん」ガリオンは道化師のなまりをへたに真似ながら言った。「あれもあの男の魅力のひとつなんでさ、知らなかったのかい?」
「まあ、ガリオンたら」セ・ネドラは笑った。「愛してるわ」
「うん、知ってる」
セ・ネドラは口をとがらせて、小さなげんこつでガリオンの肩をたたいた。
「いて」
「痛かった?」セ・ネドラは急に心配そうにかれの腕を取った。
「がまんできるとは思うけどね、ディア。ぼくたち高潔なるヒーローたちはあらゆるたぐいのことにがまんできるんだ」
一行はフェルデガーストのランタンをたよりに、ひづめをひびかせる馬たちをしたがえて、クモの巣がカーテンよろしくたれさがる通路を一マイルあまり歩いた。ときおり、頭上の通りをいたましい荷物を満載した死の荷車がゴトゴトと音をたてて通りすぎていくのが聞こえてきた。しかし、このカビ臭い真っ暗闇で聞こえる音といえば、たまに道をまちがえたネズミがすばしこく行きかう音と、丸天井を油断なく動きまわる蜘蛛たちのたてる、ささやきにも似た音だけだった。
「こういうのは大の苦手なんだ」シルクがだれにともなく言った。「まったくぞっとするよ」
「だいじょうぶよ、ケルダー」ヴェルヴェットが小男の手を取って答えた。「わたしがしっかり守ってあげるわ」
「ありがたいこった」シルクは言ったが、手をひっこめようとはしなかった。
「そこにいるのはだれだ?」前方から声がした。
「あっしですよ、ヤーブレックさん」フェルデガーストは答えた。「あっしと、この真っ暗闇夜に道をさがそうとしてる迷える数人でさ」
「おまえ、やつといるとほんとにそれほど楽しいのか?」ヤーブレックは不機嫌そうにほかのだれかに言った。
「フェルデガーストはあたしの生きる喜びだよ」ヴェラの声が闇のなかから聞こえた。「すくなくとも、あいつといるかぎりは貞操を守るためにしょっちゅう短剣に目を配らなくてすむもの」
ヤーブレックが大きなためいきをついた。「そういうことを言うんじゃないかと思ってたんだ」
「レディ」ヴェラは女魔術師が道化師と腕を組んで、苔むした落石が通路を阻んでいるところまでくると、このうえなく優雅な動作でポルガラにお辞儀した。
「ヴェラ」ポルガラは奇妙なナドラクなまりで応じた。「願わくは、ナイフを常にとぎすましておかんことを」その挨拶は妙に堅苦しかったが、ガリオンはそれが大昔の儀式ばった呼び掛けであるのに気づいた。
「そして願わくは、あなたが常に乱暴狼藉からおん身を守る手だてを用意されておかんことを」ナドラクの踊り子は機械的に答えて儀式を終わらせた。
「上はどうなっている?」ベルガラスはフェルトの外套をきたヤーブレックにたずねた。
「みんな棺桶に片足をつっこんでますわ」ヤーブレックはそっけなく答えた。「いっぺんに通りがまるごと死んでいくありさまだ」
「都市は避けてきたんだろうな?」シルクが相棒にきいた。
ヤーブレックはうなずいた。「門の外に野営してる。門が鎖でしめられる直前に外へ逃れたんだ。だが、ドルマーは死んだぜ。疫病に感染したと知ると、やつは古い剣を持ち出してきて、その上に倒れやがった」
シルクはためいきをついた。「いいやつだったのにな――あまり正直じゃなかったが、それでもいいやつだった」
ヤーブレックは悲しそうにうなずいた。「すくなくともきれいに死んでったよ」そう言ったあと、かれはかぶりをふった。「通りへ出る階段はこっちだ」ヤーブレックは暗闇の奥をゆびさした。「時間も遅いから外にいるやつはいないだろう――死体運搬の荷車と、死ぬための暖かいどぶをさがして、よろよろと歩いてる錯乱状態のやつらを別にすればな」ヤーブレックは肩をそびやかして言った。「行こうぜ。上の通りをすばやく通過できれば、それだけ早く安全な地下に戻ってこられるんだ」
「この通路は都市の城壁までずっとつづいているのか?」ガリオンはたずねた。
ヤーブレックはうなずいた。「城壁より一マイルかそこら先まで伸びてる。古い石の桟橋が終点だ」かれはフェルデガーストを見やった。「どうやってこれを見つけだしたのか、一度も言わなかったな」
「あっしの秘密のひとつなんでさ、ヤーブレックさん」道化師は答えた。「どんなに正直者だって、町をでる近道を知っておいて損はありませんや、でしょうが」
「もっともだな」シルクが言った。
「知っててあたりまえだ」ヤーブレックは答えた。「ここから出ようぜ」
かれらは馬たちを引いて、フェルデガーストのランタンの光の輪の向こうの闇から上へ伸びる石の階段へ近づき、苦心惨憺していやがる馬たちを一段一段押し上げた。のぼりきると、そこはおんぼろの物置で、床にはわらがまいてあった。最後の一頭がおしあげられたあと、フェルデガーストははねあげ式の細長い戸をまたしめて、わらをばらまき痕跡を隠した。「こいつは便利なものですわい」そう言って、道化師は階下の秘密の通路を指さした。「だが、秘密ってやつはだれかが見つけ出したら、やっかいなことになる」
ヤーブレックはドアのそばに立って、外の細い路地をのぞき見た。
「だれかいるか?」シルクが聞いた。
「死体がいくつかころがってる」ナドラク人は簡潔に答えた。「どういうわけか、どいつもこいつも死ぬときは路地へやってくるらしい」かれは大きく息を吸い込んだ。「ようし、じゃ、行こうぜ」
一行は路地へ出た。ガリオンは片隅やどぶにかたまって息絶えている疫病の犠牲者たちのひきつった死体から、ずっと目をそらしていた。
夜は燃える都市の煙であふれていた。死体を焼く臭いと、ぞっとする腐敗臭がたちこめている。
ヤーブレックも鼻をうごめかして、しかめっつらをした。「この臭いからすると、死体運搬の荷車は死体をいくつか見落としてるな」かれは路地の出口へ歩み寄り、通りをのぞきこんだ。「すっきりしたもんだ」ぶつぶつ言った。「かっぱらいどもが死人をあさってるだけだ。こいよ」
かれらは路地から出て、燃え上がる火に照らされた通りを進んでいった。別の家の壁のわきで、何かがこそこそと動いているのを見たガリオンは、ややあって、それがぼろをまとった男の姿なのに気づいた。男は大の字に倒れている死体の上にかがみこんで、疫病の犠牲者の衣服をさぐっているのだった。「うつらないのか?」ガリオンは男を指さして、ヤーブレックにたずねた。
「だろうね」ヤーブレックは肩をすくめた。「もっとも、感染して死んだって、世界はその損失をこれっぽっちも嘆かないだろうよ」
一行は角を曲がって、とある通りに入った。そこでは家々の半分が燃えていた。死体運搬の荷車が炎を吹く一軒の家の前に止まっており、むっつりした顔のふたりの男が、残忍なほどなにくわぬ態度で、死体を火のなかへ投げ込んでいた。
「さがってろ!」ひとりがかれらに怒鳴った。「こっちは疫病だらけだぞ!」
「このいたましい都市のいたるところ、疫病だらけじゃござんせんか」フェルデガーストは答えた。「だが、ご忠告ありがたくうけたまわっておきますよ。あっしらは通りの向こう側へ行くだけなんですよ、あんたらの気にさわらなけりゃね」道化師は興味ありげにふたりを見つめた。「なんだってあんたらは伝染病がこわくないんだね?」
「もうかかったことがあるのさ」ひとりが短く笑って答えた。「あんなに気分の悪いのは生まれてはじめてだったが、すくなくとも死にゃしなかった――なんでも、これにかかるのは一回こっきりらしい」
「そりゃ、ついてたね」フェルデガーストは男を祝福した。
不機嫌そうな二人組みの前を通って、次の角までかれらは歩いていった。
「こっちだ」フェルデガーストが言った。
「どのくらいあるんだ?」ベルガラスが聞いた。
「もうちょい行ったら、安全な地下にまた戻りますって」
「おまえは地下を安全と思うかもしれないが」シルクがさえない顔で言った。「おれは全然そうは思わないね」
通りを半分ほど行ったところで、奥に深くはいりこんだ戸口のひとつでふいに何かが動くのが見え、弱々しい泣き声が聞こえた。ガリオンはその戸口に目をこらした。そのとき、ひとつ向こうの通りで炎上する家が倒壊し、炎と火花が宙高く舞い上がった。その一瞬の火あかりが、暗がりにあるものを照らしだした。戸口にはひとりの女がうずくまるように倒れており、そのかたわらにひとつになるかならぬかの子供がすわりこんで、泣き叫んでいた。目の前の無残な光景に、ガリオンは心臓をつかまれたような気持ちがした。
と、そのとき、低い叫びとともにセ・ネドラが両腕をさしのべて、その子供のほうへ走りだした。
「セ・ネドラ!」クレティエンヌの手綱から手をふりほどこうとしながら、ガリオンは叫んだ。「やめろ!」
だが、ガリオンが追いつくよりさきに、ヴェラがセ・ネドラの肩をつかみ、乱暴に半回転させた。「セ・ネドラ!」ヴェラは叱りつけた。「行くんじゃないよ!」
「行かせて!」セ・ネドラは金切り声をあげた。「ほんの赤ちゃんだってことがわからないの?」セ・ネドラは身をふりほどこうとした。
ヴェラは落ち着き払って小柄な女王をじっと見つめると、いきなり顔に平手打ちをくわせた。ガリオンの知るかぎり、だれかがセ・ネドラを叩いたのはそれが最初だった。「あの赤ん坊は死ぬんだよ、セ・ネドラ」ヴェラはずばりと言った。「あの子のそばに行ったら、あんたも死ぬよ」ヴェラはひきずるようにして、セ・ネドラをみんなのほうへひっぱりはじめた。セ・ネドラは身をよじって、力なく泣いている子供を見つめ、片手を伸ばした。
ヴェルヴェットがそのかたわらに歩み寄り、セ・ネドラを抱きかかえるようにして、子供の姿を視界の外へ追い払うようにそっと前を向かせた。「セ・ネドラ。あなた自身の赤ちゃんのことを第一に考えなくてはいけませんわ。このおそろしい病気をかれのところへ運びたいの?」
セ・ネドラはまじまじとヴェルヴェットを見た。
「それとも、また会えるまでに死んでしまってもいいとおっしゃるの?」
セ・ネドラは急にヴェルヴェットの腕に泣き崩れて、はげしくしゃくりあげた。
「あたしをうらまなきゃいいんだけど」ヴェラがつぶやいた。
「とてもすばやい行動だったわ」ポルガラが言った。「必要となると、おどろくほど頭の回転が早いのね」
ヴェラは肩をすくめた。「ヒステリーには横っつらをぴしゃりとやるのが一番よく効くって、知ってたんだよ」
ポルガラはうなずいて、同意した。「たいていはよく効くわね」
しばらくその通りを歩きつづけたあと、フェルデガーストはまた別のいやな臭いのする路地へ一行を導いた。かれは板打ちされている、とある倉庫の大きなドアの掛けがねをいじって、大きく開けた。「さあついた」みんなはかれのあとからなかに入った。長い傾斜路がほらあなのような地下室へつづいており、ヤーブレックと道化師が積み上げられた木箱をどかすと、もうひとつの通路の入口があらわれた。
かれらは馬たちを引いてその暗い入口をくぐり、フェルデガーストが外に残って通路の入口をふたたび隠した。入口がすっかり隠れると、道化師はぞんざいに積み上げた木箱のすきまから身をくねらせて地下におりた。「どんなもんだい」かれは満悦の体で両手をこすりあわせた。「あっしらがここへきたって知ってるものはひとりもいませんや、でしょうが、それじゃ行きましょうか」
フェルデガーストのゆらめくランタンについて通路をとぼとぼと歩きながら、ガリオンは暗い気持ちになった。苦心のすえに友情を築きつつあった相手のもとから姿をくらまして、疫病に侵された炎上する都市にかれを置き去りにしてきたからだ。助けようにも、できることはほとんどなかったとはいえ、ザカーズを見捨ててきたことが心に重くのしかかっていた。だが、道はほかになかったのだ。シラディスの指示は絶対だった。ガリオンはうしろ髪をひかれる思いでマル・ゼスに背を向け、決然とアシャバの方角へ顔を向けた。
底本:「マロリオン物語5 疫病帝国」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1991(平成 3)年 2月28日 発行
2000(平成12)年 5月15日 三刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年3月 9日作成
2009年2月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語5 疫病帝国.zip iWbp3iMHRN 81,912,482 3c433a5bf932ae89f78f590b02b2a295
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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注意点、気になった点など
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底本96頁5行 この世に出現したのは、たかだか二十年前のこと
ガリオンが花を創造したシーンは、ベルガリアード物語の四巻で描かれている。それから二十年も経っていないはず。おそらく「十二年」の誤訳だと思われる。
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本107頁13行 ダカシ族
ダガシ
底本291頁11行 グロック
グロッグ
底本296頁12行 ザガーズ
ザカーズ