マロリオン物語4 禁じられた呪文
KING OF THE MURGOS
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)剣の柄《つか》へ手をおいた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「|なんたることだ《トラクス・ティース》!」
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)垂木[#「垂木」は「木+垂」、第3水準1-85-77]
-------------------------------------------------------
[#ここから2字下げ]
デンに、かれが理解してくれるであろう理由のために――
――そしてわたしたちのジャニーに、
彼女のそのありかたのために。
[#改ページ]
この度、わたしは妻のリー・エディングスに感謝の意を表明したいと思う。この物語を進行させるにあたって、彼女はわたしを支え、励まし、心から協力してくれた。妻の助けがなかったら、ここまでこぎつけることはできなかっただろう。
また、編集者であるレスター・デル・レイにも、その忍耐と寛容、さらに、数しれぬ献身にたいし、この機会を借りて感謝したい。
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
第一部 ラク・ウルガ
第二部 ヴァーカト島
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
禁じられた呪文
[#改ページ]
登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エランド(エリオンド)…………………〈珠〉を運んだ少年
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
アガチャク…………………………………ラク・ウルガのグロリム
チャバト……………………………………ラク・ウルガのグロリム
ウルギット…………………………………クトル・マーゴスの王
レディ・タマジン…………………………ウルギットの母
オスカタット………………………………ウルギットの家令
プララ………………………………………クタン家の王女
ヴァード……………………………………ヴァーカト島の住人
シラディス…………………………………女予言者
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
[#改丁]
第一部 ラク・ウルガ
[#改ページ]
1
もうこそこそする必要はなかった。警戒の鐘が神殿中に鳴りひびき、おどろいたグロリムたちが相反する命令を投げつけあいながら、足早に右往左往しはじめた。ガリオンはその人ごみにまじって走りながら、必死にベルガラスとシルクの姿を捜し求めた。
角を曲がったとき、目を血走らせたひとりのグロリムがガリオンの腕をつかんだ。「事件が起きたとき、聖所にいたのか?」男は問いつめた。
「いや」ガリオンは嘘をついて、腕をふりはらおうとした。
「そいつは身の丈が十フィートもあって、十二人の僧侶たちを吹き飛ばしてから、祭壇の火を消したそうだぞ」
「ほう?」ガリオンはまだグロリムの手をほどこうとしながら言った。
「魔術師ベルガラスだったという者もいる」
「それは信じがたいな」
「ほかにそんな力を持っている者がいるか?」グロリムはふいにしゃべるのをやめて、目をかっと見開いた。「これがなにを意味しているか、わかるだろう?」おののきながらきいた。
「なんだ?」
「聖所を清めるにはまたいけにえをささげなくてはならない。つまり、グロリムの血が必要ということだ。聖所が清められる前に、おれたちが何人も死ななくてはならないのだ」
「本当にもう行かないと」ガリオンは男が両手でしっかりつかんでいる腕をひっぱった。
「チャバトはおれたちの血の海を腰までつかって歩くだろう」僧侶はガリオンの言うことなどそっちのけで、ヒステリックにうめいた。
ぐずぐずしてはいられなかった。事態は切迫している。立ち話をしている余裕はない。ガリオンはうわごとのようにしゃべりつづけるグロリムの肩ごしに向こうを見て、ぎょっとしたような表情を作った。「チャバトじゃないか?」しわがれ声でささやいた。
グロリムはびくりとして、うしろをふりかえろうとした。ガリオンは慎重に狙いさだめて、おびえている男の無防備な横っつらをなぐった。グロリムは白目をだして壁にたたきつけられ、ずるずると床にくずおれた。
「あざやかだ」数ヤード先の暗い戸口から、シルクの声がした。「だが、理由をききそこねたな」
「腕をつかまれて動けなかったんだ」ガリオンはかがみこんで、気絶している男をかかえ、薄暗いひっこんだ場所へひきずっていくと、すわっているような格好で壁によりかからせた。「おじいさんがどこにいるか知らないか?」
「ここさ」シルクは背後のドアに親指をつきたててみせた。「なにがあったんだ?」
「いま説明するよ。中に入ろう」
ドアを入ると、ベルガラスがテーブルの端に腰かけていた。「なにごとだ?」老人は問いつめた。
「エリオンドを見つけた」
「でかした」
「それが、そうでもないんだ。エリオンドはグロリムたちが奴隷をいけにえにしようとしているところへ入ってきて、火を消したんだよ」
「なにをしたって?」
「火を消したのさ。やったのはたぶんエリオンドだ。ぼくはその場にいたから、ぼくのしわざじゃないことははっきりしてる。かれはふらりと入ってきて、もう人々をいけにえにすることはできない、とグロリムたちに言ったんだ。すると火が消えちまった。おじいさん、エリオンドは物音ひとつたてずにやってのけたんだよ――空気のうねりも、さわがしい音もしなかった」
「まちがいなくエリオンドのしわざなのか? つまり――自然のなりゆきではなかったのかね?」
ガリオンは首をふった。「ちがう。火は一瞬燃え上がってから、吹き消された蝋燭みたいに消えた。それだけじゃない。例の声がぼくに話しかけると、筋肉ひとつ動かせなくなったんだ。奴隷を祭壇へひきずってきたグロリムたちは、エリオンドに言われたとたんに奴隷を放した。それからエリオンドはグロリムたちにふたたび火を燃やすことはできないと言い渡したんだ」
「あの子はいまどこにいる?」
「グロリムたちがチャバトのところへ連れていった」
「とめられなかったのか?」
「手出しをするなと言われたんだ」ガリオンは額を指先でたたいた。
「予期しておくべきだった」ベルガラスはいらいらと言った。「ポルや他のみなに警告しに行ったほうがいいな。エリオンドを救出してから、力ずくでここから脱出しなくてはならないかもしれん」ベルガラスはドアをあけて廊下を見渡し、ガリオンとシルクを手招きした。
三人がみんなの待つ部屋へ戻ったとき、ポルガラの顔は死人のように青ざめていた。「見つからなかったのね」彼女は言った。それは質問ではなかった。
「ガリオンが見つけた」ベルガラスは答えた。
ポルガラはガリオンを問いつめた。「じゃ、どうして一緒じゃないの?」
「エリオンドはグロリムたちにつかまっているんだよ、ポルおばさん」
「まずいことになったんだ、ポル」ベルガラスが重々しく言った。「ガリオンの話では、エリオンドは聖所へいって、火を消したらしい」
「なんですって?」ポルガラは叫んだ。
ガリオンは面目なさそうに両手を広げた。「ふらっとはいってきて、火を消したんだ。グロリムたちがかれをつかまえて、チャバトのところへ連れていった」
「これは重大事ですよ、ベルガラス」サディが口をはさんだ。「あの火は永遠に燃えることになっているんです。エリオンド少年のしわざだと思われれば、命があぶない」
「わかっている」老人はうなずいた。
「なるほど、それでは」ダーニクが静かに言った。「われわれでエリオンドを助けに行くしかないでしょう」かれが立ち上がると、トスがだまってそばに立った。
「しかし、もうちょっとで船の用意ができるんですよ」サディが抗議した。「こっそりここから出られるんです」
「こうなっては、船は見送るよりしかたがない」ベルガラスはけわしい表情できっぱり言った。
「あなたがたのうちどなたかが取り返しのつかないことをする前に、この窮状を打開できないかどうか考えさせてくださいよ」サディは泣きついた。「わたしの説得が効かなかったとしても、すぐさま直接的行動に出なくても時間はあるんですから」
ガリオンはきょろきょろした。「セ・ネドラは?」
「眠っているわ」ポルガラが答えた。「リセルがつきそっているの」
「だいじょうぶかな? シルクの話じゃ、セ・ネドラは動転したと言ってたけど。また具合いが悪くなったんじゃない?」
「そうじゃないのよ、ガリオン。聖所から聞こえてくる音のせいなの。あれに耐えられなかったのよ」
かんぬきのかかったドアが突然ドンドンとたたかれた。ガリオンはとびあがって、本能的に剣に手をのばした。「ここをあけろ!」耳ざわりな声が外から命令した。
「急いで」サディが低い声で言った。「みんな小部屋に戻って、いままで寝ていたような顔で出てきてください」
かれらはそそくさと小部屋に戻って、やせた宦官がドアに近づき、かんぬきをあけるのを息をひそめて待った。「どうかしましたか?」サディがおだやかにたずねるのと同時に、複数のグロリムたちが武器をぬいてなだれこんできた。
「高僧が謁見なさるのだ、奴隷商人」ひとりがどなった。「おまえも従者たちもひとり残らずついてこい」
「ありがたいことでございます」サディはもぐもぐ言った。
「ありがたくはないぞ。おまえたちは尋問されるのだ。真実を話したほうが身のためだ、嘘をつけば、アガチャクさまの力で、じわじわと生皮をはがれるのがおちだからな」
「なんともいやなおっしゃりようですな。すると、高僧はドロジム宮殿より戻られたのですね?」
「おまえの従者のひとりが犯した大罪が、宮殿におられた高僧に伝えられたのだ」
「大罪? 大罪とおっしゃいましたか?」
グロリムたちはサディを無視した。「チャバトの命令で、アガチャクさまが神殿へ戻られるまで、おまえたちは全員監禁されるのだ」
眠ったふりをしていたガリオンたちは手荒くゆりおこされ、いがらっぽい廊下を通って、狭い石段をおり、地下室へ連れていかれた。地上の部屋とちがって、地下の小部屋はかんぬきのついた鉄のドアがついており、周囲の廊下には世界中の囚人や独房にしみついているあの妙にすっぱい臭いが漂っていた。グロリムたちのひとりがかんぬきのついたドアをあけ、中へ入れと身ぶりで命じた。
「本当にこんな必要があるのですか、司祭さま?」サディが異議をとなえた。
グロリムは脅かすように剣の柄《つか》へ手をおいた。
「落ち着いてください。わたしはおたずねしただけですよ」
「中へ入れ! いますぐだ!」
かれらがぞろぞろと小部屋にはいると、黒装束の僧侶はたたきつけるようにドアをしめた。かんぬきに鍵をかける音が、なぜかばかでかく聞こえた。
「ガリオン」セ・ネドラがおびえたように小さな声で言った。「なにが起きているの? どうしてこんなことをするの?」
かれはなだめるようにセ・ネドラの肩に腕をまわした。「エリオンドが厄介事にまきこまれたんだ」と説明した。「サディが話をつけてぼくたちをここから出してくれる」
「もしだめだったら?」
「そのときは他の手を使うさ」
シルクが嫌悪もあらわに鼻をひくつかせて、薄暗い独房を見回した。「独房ってやつはいつもこれだ、想像力の欠如の産物だな」かれは片足で床にばらまかれたカビ臭い藁をかきまわした。
「独房についてはそんなに経験豊富なの、ケルダー?」ヴェルヴェットがたずねた。
「何度かはいったからな」かれは肩をすくめた。「二、三時間以上いたい気になったことはただの一度もなかったよ」シルクは爪先だって、ドアにある格子入りの小窓をのぞいた。「いいぞ、見張りはいない」かれはベルガラスを見た。「これをあけましょうか?」指の関節でこつこつとドアをたたいた。「ここにいたんじゃなにもできないでしょう」
「辛抱してください、ケルダー王子」サディが言った。「この独房を破ったら、事態はわたしの手に負えなくなってしまいますよ」
「わたしはエリオンドがどうなったか突き止めなくてはならないのよ」ポルガラが有無を言わさぬ口調で宦官に言った。「いいからドアをあけてちょうだい、シルク」
「ポルガラ?」聞きおぼえのある軽やかな声が隣りの独房から聞こえた。「あなたですか?」
「エリオンド!」ポルガラは安堵のためいきをついた。「なんともない?」
「元気ですよ、ポルガラ。鎖でつながれてるけど、そんなにひどくありません」
「どうしてあんなことを――聖所でなにをしたの?」
「あの火がいやだったんです」
「わたしだっていやだったわよ、でも――」
「心の底からいやだったんですよ、ポルガラ。ああいうことはやめるべきだし、そのためにはとっかかりがいるでしょう」
「どうやって消したのだ?」ベルガラスが格子入りの窓からたずねた。「おまえが火を消したときガリオンはあそこにいたが、なにも聞かなかったし、感じなかったと言っているぞ」
「よくわからないんです、ベルガラス。火を消すのに特別なことはしてないんです。ただあれ以上燃えてほしくないと思ったから、ぼくの気持ちを知らせたら、消えちゃったんです」
「それだけか?」
「おぼえているかぎりでは、そうです」
ベルガラスは当惑の面もちでドアから向きなおった。「ここを出たら、この件についてあの子と長い話をすることになりそうだ。これまでにも何度そうしようと思ったかわからんのだが、いざとなるといつもあっさり気をそらされてしまってな」老人はガリオンを見た。「今度おまえの友だちに話しかけるときは、ああいうことはやめるよう言ってくれ。いらいらしてくる」
「おじいさんがいらいらすることなら、かれはもう知ってるよ。だからやるんだ」
外の廊下のどこかで重い鉄のドアががちゃんと開き、複数の足音がこっちへ向かってきた。
「グロリムどもだな」シルクが格子のはまった窓から静かに言った。
「他にだれがいる?」ベルガラスの口調はにがにがしげだった。
一団は接近してきて外でとまり、エリオンドの独房の鍵穴に鍵がおしこまれる音がした。ドアがギィと開いた。「小僧」しわがれ声がどなった。「いっしょにこい」
「おとうさん」ポルガラが切迫した声でささやいた。
老人は片手をあげた。「待て」
するとかれらの独房にも鍵がさしこまれる音がして、ドアが開いた。「アガチャクさまが戻られた」あけはなった戸口からグロリムがそっけなく言った。「さあ、全員そこから出てこい」
「ありがたい」サディがほっとしたように言った。「どういうことだか知りませんが、きっとすぐに誤解がとけるはずです」
「しゃべるな!」グロリムはくるりと背中を向けると、武器をぬいた十二人の部下を囚人たちのうしろにつけて、廊下を歩きだした。
ラク・ウルガの高僧アガチャクは長いひげをはやした、死人のような顔つきの男だった。アガチャクはまばゆいほどのたいまつに囲まれた、濃いえび茶色のカーテンのさがった部屋で、王座然とした椅子にすわっていた。頭巾つきの服は血のように赤く、もじゃもじゃの灰色の眉の下のおちくぼんだ目は、燃えるような光をたたえていた。エリオンドは鎖につながれたまま、アガチャクの前におかれた粗末な木の腰かけに静かに腰をおろした。やせた尼僧のチャバトが紫のふちどりのある頭巾をうしろへはねのけ、頬の赤い傷痕をたいまつの明かりに燃え立たせて、冷酷な勝ち誇った表情で、主人のすぐそばに立っていた。
「スシス・トールのウッサというのはどの者か?」高僧はうつろにひびく声で問いただした。
サディは進みでて、なめらかに一礼した。「手前がウッサでございます、聖なる高僧さま」
「おまえはたいへんな立場に立たされているのだよ、ウッサ」チャバトが満足そうなしわがれ声で言った。
「ですが、わたしはなにもしておりません」
「ここクトル・マーゴスでは、従者のあやまちは主人の責任なのだ」
アガチャクはサディをじっと見つめていたが、その骨ばった青白い顔は無表情なままだった。「審理を進めよ」かれは命令した。「この問題における証拠を提出するのはだれだ?」
チャバトがふりかえって、壁のそばに立っている頭巾をかぶったグロリムに合図した。「ソーチャクが審問官をつとめます、師よ」この場をすっかり牛耳っているような尊大な口調で彼女は答えた。「かれの熱意にはお気づきと存じますが」
「ああ、そうだな」アガチャクの口ぶりはあいまいだった。「察しをつけておくべきだった」アガチャクはあるかなきかの軽蔑に口元をゆがめた。「よかろう、審問官、嫌疑を述べるがいい」
黒装束のグロリムが進みでて、くしゃくしゃの髪にかぶっていた緑のふちどりの頭巾をぬいだ。「問題それ自体は単純でございます、閣下」甲高い声でソーチャクは宣言した。「証人が多数現場におりましたので、この若いならず者が有罪でありますことは疑問の余地がありません。しかし、その犯罪の持つ意味は追求されねばなりません」
「判決をお願いいたします、偉大なる高僧さま」チャバトが王座にすわった死人のような顔の男をうながした。「この口のうまいニーサ人とその従者たちからはわたしがすべての真実をしぼりだすつもりです」
「有罪だというのは聞いた、チャバト。だが、嫌疑や証拠の内容はまだ聞いておらんぞ」
チャバトは高僧の言葉にかすかにたじろいだようだった。「形式的審問は退屈ですので、省いたほうがよいと思ったのです、師よ。わたしはソーチャクのいうとおりだと確信しております。これまでにもこのような問題につきましては、つねに師はわたしの判断をお認めくださいました」
「そうかもしれん」アガチャクは言った。「しかし、今回は自分で判断したいのだ」かれは目の前に立っている、脂でべとついた髪の僧侶に目をやった。「嫌疑の内容を、ソーチャク。正確に、その若者はとがめられるような何をしたのだ?」高僧の声にかすかな嫌悪がしのびこんだ。
アガチャクの口にはださない嫌悪を感じ取って、ソーチャクの飛び出た目が心持ち不安そうになった。ややあって、かれは肩をそびやかし、話しはじめた。「夕方のことでございます、われわれの信仰するもっとも聖なる儀式が、聖所の祭壇でいましも遂行されようというとき、この若造がはいってきて、祭壇の火を消したのでございます。それがこやつのしたことであり、そのためにわたしはこやつを訴えているのでございます。神に誓って、この若造は有罪です」
「ばかばかしい」サディが抗議した。「みなさんは祭壇の火が消えないように、絶えず見張っておられるんじゃないんですか? この少年がどうしてそんなにそばまで近寄って火を消すことができるんです?」
「トラクに仕える僧侶の誓った言葉に疑問をさしはさむとはどういうつもりだ?」チャバトが傷のある頬をゆがめて、食ってかかった。「ソーチャクは小僧の有罪を断言したんだよ、だから、小僧は有罪なんだ。僧侶の言葉を疑うのは死を欲するも同然」
アガチャクのおちくぼんだ目が謎めいた表情をうかべて、チャバトを見た。「おまえと審問官をそれほどまでに納得させた証拠を、わたしも聞きたいものだな、チャバト」かれは抑揚のない声で言った。「嫌疑と有罪はかならずしも同じものではない。ウッサの疑問ももっともだ」
高僧の言葉を聞いて、かすかな希望がガリオンの胸にきざした。アガチャクは知っているのだ。チャバトとソーチャクの共謀関係を完全に知っていて、悪臭ふんぷんたるグロリムの発言を擁護するチャバトの熱のいれようをいらだたしく思っている。
「さあ、審問官」アガチャクはつづけた。「この少年はどうやって祭壇の火を消したのだ? 火を守る側に落度があったのか?」
あぶない立場に立たされたと悟って、ソーチャクの目が用心深くなった。「証人はいくらでもおります、閣下」かれはきっぱり言った。「聖所が魔術という手段によって冒涜されたことは、その場にいあわせた者全員の意見が一致するところでございます」
「ほう、魔術とな? それならば、むろんすべての説明がつく」アガチャクはいったん言葉をきって、汗をかきはじめたソーチャクをおそろしい目でひたと見すえた。「しかし、わたしの気づいたところでは、魔女≠セの魔術師≠セのの声がさかんに聞かれるのは、確たる証拠がない場合なのだ。聖所で起きたことについて、ほかの説明はないのか? これほど使い古された訴えに頼らざるをえないほど、審問官の申し立ては根拠のないものなのか?」
チャバトが耳を疑う表情になり、ソーチャクはふるえだした。
「さいわい、この点は楽に解決できる」アガチャクはつけくわえた。「魔術という才能にはわずかな欠点があるのだ。同じ才能を持つ者なら、魔力の使用をはっきりと察知することができる」高僧は言葉をきった。「それを知らなかったのか、ソーチャク? 出世して〈紫階級〉になりたいと思っている〈緑階級〉なら、もっと勉強熱心であるべきであり、その程度のことは当然知っているはずだ――しかるにおまえは他のことに熱中しているのではないか?」アガチャクは横にいる尼僧のほうを向いた。「それにしても、このような嫌疑を持ち出す前に、おまえがここにいる子分をもっと徹底的に指導しなかったとは、意外だな、チャバト。しかるべく指導していれば、かれもこんなばかな真似をしなくてもすんだものを――そしておまえもな」
チャバトの目がかっと燃え上がり、炎に似せた顔の傷痕が鉛色になった。と、皮膚の下を火が走ったかのように、傷痕がいきなり赤く輝きはじめた。
「そうか、チャバト」アガチャクはおそろしいほど落ち着きはらった声で言った。「すると、いよいよなのだな? ついにおまえの意志をわたしの意志に対抗させようというのか?」
おそろしい質問が宙ぶらりんになり、ガリオンはおもわず息をつめた。だが、チャバトは目をそらし、高僧から顔をそむけた。頬の火も薄れはじめた。
「賢明な判断だ、チャバト」アガチャクはサディのほうを見た。「ところで、スシス・トールのウッサ、ここにいるおまえの従者が魔術師だという嫌疑にはどう答える?」
「トラクの僧侶どのはかんちがいをしておられるのです、閣下」サディは如才なく答えた。「信じてください、この愚かな若者が魔術師であるわけがありません。毎朝、どっちの靴をどっちの足にはけばよいのかと、十分も考えこんでいるのですよ。こいつをごらんください。知性の知の字もない目をしております。こわいということもわからない鈍い若者ですよ」
チャバトの目がまた怒りの色をうかべたが、今度はかすかな不安がまじっていた。「ニーサの奴隷商人ごときに魔術のなにがわかりましょう、師よ」チャバトはせせら笑った。「蛇の民の習慣はご存じでしょう。このウッサの頭はどうせ薬漬けになっているのです。従者のひとりがベルガラスだったとしても、気づきもしないでしょう」
「じつにおもしろい指摘だ」アガチャクはつぶやいた。「さあ、この問題を調べてみよう。祭壇の火が消えたことはわかっている。それだけは確かだ。ソーチャクはこの若者が魔術で火を消したのだと断言しているが――その嫌疑を裏づける証拠はなにひとつつかんでいない。スシス・トールのウッサは、薬漬けで判断が鈍っているかもしれないが、若者はただのばかで、そのようなとてつもないことができるはずはないと言う。さて、この矛盾をどう解決したらよい?」
「連中を拷問にかけるのです、聖なる高僧さま」チャバトが熱っぽく言った。「わたし自身がこの者たちから真実をしぼりだしてやります――ひとつずつ」
ガリオンは身を固くして、こっそりベルガラスを見た。老人は赤っぽいたいまつの明かりに、短い銀色のひげを輝かせて、いたって平静に立っている。直接行動をほのめかすような合図もしなかった。
「おまえの拷問部屋好きは有名だ、チャバト」アガチャクはそっけなかった。「おまえのやりかたでは、犠牲者はおまえが言わせたいと思うことしか言わん――それはかならずしも絶対の真実ではない」
「わたしは神にお仕えしているだけです、師よ」チャバトは誇らしげにきっぱりと言った。
「ここにいるわれわれはみなそうだ、尼僧よ」アガチャクは叱りつけた。「昇進目的で、自分の信心深さを過度に主張するのは、賢いことではないぞ――そのことで子分の出世を謀るのもな」かれは軽蔑もあらわにソーチャクを見た。「ここではまだわたしが高僧だ。この問題についての最終決定はわたしが下す」
顔に傷のある尼僧はたじろいで、急におどおどした目つきになった。「お許しください、アガチャクさま」どもりながら言った。「このにっくき犯罪に我を忘れてしまったのです。ですが、おっしゃるとおり、最終決定はアガチャクさまのなさることです」
「わたしの権威を認める発言、喜ばしいぞ、チャバト。忘れているのかと思った」
そのとき、たいまつに照らされた部屋の奥で動きがあった。ぴかぴかの長い槍を持ったがっしりしたふたりのマーゴ人が、ドアのそばにかたまっているグロリムたちを手荒におしのけてはいってきた。無表情な浅黒い顔をして、かれらは同時に槍の柄で床をたたいた。「道をあけい!」ひとりがわれ鐘のような声をあげた。「クトル・マーゴスのウルギット王のお通りであるぞ!」
護衛に囲まれてぶらりと部屋に入ってきた人物は、ガリオンが今まで見たことのあるマーゴ人とはまったくちがっていた。背が低く、やせているが、屈強な体格をしている。黒い髪はしなやかで、細面だ。ゆるやかな長衣の前がむぞうさにあいていて、マーゴ人の制服とも言える鎖かたびらではなく、西方風の上着と深い紫のズボンを着ているのが見えた。鉄の冠はイキな感じで頭にはすに乗っている。表情は皮肉っぽいが、目は用心深かった。「アガチャク」ウルギット王は高僧にぞんざいに挨拶した。「ドロジム宮殿であんたに伝えられた知らせについて、ちょっと考えてみた結果、この遺憾な出来事の原因解明に多少なりとも役に立てそうだという結論に達したんだ」
「王さまがおいでになられるとは、光栄です」アガチャクは形式的に言った。
「ラク・ウルガの高僧にかくも丁重に迎えられて、王も光栄だ」ウルギットは答えて、きょろきょろした。「椅子はないかな? きょうは長い疲れる一日だったんでね」
「椅子を」アガチャクは王座のかたわらに立っている尼僧にそっけなく言いつけた。
チャバトは目をぱちくりさせた。次に頬にゆっくりと朱がのぼった。「陛下に椅子を」彼女はしわがれ声で命令した。「さっさとしなさい」
ドアのそばにいたグロリムのひとりが足早に出ていって、どっしりした椅子を運んできた。
「ありがとう」王は椅子に身を沈めると、アガチャクを見た。「ちょっと打ち明けねばならないことがあるんだ、聖なる高僧」と、申し訳なさそうに咳きばらいした。「この部屋にはいろうとしたとき、しばらく外の廊下でうろうろしていたのだよ。この問題の詳細について知っておきたいと思ってね」ウルギットは短く笑った。「ドアごしに聞き耳をたてるのは、わたしの昔からの習慣でね。不安な子供時代を送ったせいだ。とにかく、わたしは審問官の述べた嫌疑を聞くことができた。率直に言って、アガチャク、審問官の言い分はまるであてにならん」ウルギットはへつらうような視線をすばやく高僧に向けた。「だが、むろん、その点はあんたが指摘した、そうだろう?」
アガチャクは顔色ひとつ変えずに、短くうなずいた。
「それでだ」ウルギットは早口に先をつづけた。「これはあきらかに教会内の問題だから、干渉したくはないんだが、この出来事の謎を解く自然な説明はいくらでもあると言わなかったか?」かれは期待をこめてアガチャクを見た。そして高僧の顔に同意のしるしを認めると、いきおいを得てさらにつづけた。「つまり、われわれは前にも火が消えたのを見たことがある。そうじゃないか? 実際はめずらしくもなんともないこの出来事の原因究明に、こんなことまでする必要があるだろうか? 神殿の火たき番たちが注意散漫になって、ひとりでに火が消えたというのが順当なところじゃないか――燃料不足の火がそうなるように?」
「まったくのたわごとだ!」垢じみた髪のソーチャクが激昂して叫んだ。
ウルギットは目に見えてたじろぐと、訴えるようにアガチャクを見た。
「分をわきまえよ、審問官」高僧は言った。「われわれの客はクトル・マーゴスの王だぞ。王を怒らせたら、謝罪のしるしにおまえの首を王にさしあげることになりかねんのだ」
ソーチャクはごくりとつばをのみこんだ。「どうかお許しください、陛下」と喉がつまったような声でわびた。「おもわずあのようなことを言ってしまったのです」
「気にするな」ウルギットは寛大に片手をふってソーチャクを許した。「人間だれしも興奮すると思わぬことを口走るものだ」かれは高僧に向きなおった。「わたしはこの災難をだれにも負けぬぐらい遺憾に思っている、アガチャク。だが、このニーサの奴隷商人はジャハーブによってここへ送り込まれてきたのだ。あんたもわたしもジャハーブの使命が教会にとって、ひいては国にとっていかに緊急を要するものであるか、よく知っている。この出来事は政策上の問題として、大目に見てもかまわないんじゃないかね?」
「まさか、このような嫌疑をうやむやにしておしまいになるのではないでしょうね?」チャバトは高僧に顔を向けて、キイキイ声で言った。「だれが聖所を冒涜した罪で罰せられるのです?」
ウルギットの顔がくもり、かれはまたもや、訴えるような目でアガチャクの支援を求めた。ガリオンはウルギットが強い王でないことをはっきり見てとった。かれはおずおずと物事を提案し、それにちょっとでも難色を示されると、本能的に意見をひっこめるか、自分より強そうなだれかの支援を求めるタイプだった。
アガチャクはゆっくりと視線を動かして、傷痕のある尼僧に面と向き合うと、ぶっきらぼうに言った。「そのきんきん声にはもううんざりだ、チャバト。普通の声でしゃべれないなら、出ていってかまわんぞ」
チャバトは呆然とアガチャクを見つめた。
「火が消えた事実よりはるかに重要なことがある」かれはチャバトに言った。「大昔に予言されたように、〈光の子〉と〈闇の子〉の最後の対決のときが迫っているのだ。もしわたしがその対決にいあわせられなかったら、おまえはウルヴォンかザンドラマスに平身低頭することになるぞ。かれらのどちらかがおまえのふざけた行ないをおもしろがって、おまえを生かしておくとは思えん。魔術の嫌疑については、はっきり白黒をつける簡単な方法がある」アガチャクは王座から立ち上がると、エリオンドに歩みより、かれのこめかみを両手にはさんだ。
ポルおばさんが鋭く息を吸い込み、ガリオンは用心深く意志の力を集めはじめた。
エリオンドは死人のような顔の高僧を見上げて、おだやかな微笑をうかべた。
「ふん!」アガチャクはいそいで両手を離すと、けんもほろろに言った。「この子どもは無罪だ。魔力の味を知っているような証拠は頭のどこにもない」かれはふりかえってソーチャクを見つめた。「おまえの申し立ては根拠のないことがわかった、審問官、よって、嫌疑は却下する」
ソーチャクは目をとびださんばかりにして顔面蒼白になった。
「気をつけるがいいぞ、ソーチャク」高僧は不吉に言った。「わたしの決定にあまり激しく楯つくと、わたしがこの出来事はすべてはおまえのせいだと考えるかもしれん。チャバトは責め殺す者がいなくなって、失望のあまり病気になる」アガチャクは狡猾な目つきで尼僧を一瞥した。「ソーチャクを殺したらどうだ、おい? わたしはいつも、おまえにささやかな贈物をするのを喜びとしてきた。おまえがソーチャクのはらわたを赤く焼けた鉤針でゆっくりひきずりだす眺めは、さぞ楽しかろう」
炎のもようのついたチャバトの顔は、くやしさでいっぱいだった。ガリオンはチャバトが高僧をみくびっていたことに気づいた。過去何回もそうしてきたように、今度もアガチャクがおとなしく自分の横柄な要求を受け入れるものとチャバトは確信していたのだ。そして彼女はひと目見るなり嫌悪をおぼえたサディを罰することに、威信のすべてを賭けていた。彼女とソーチャクが用意した嫌疑が、アガチャクによって、おもいがけなくも、そしてほとんど軽蔑するように、拒絶されたことで、彼女の慢心したうぬぼれは根底からゆさぶられていた。だが、それよりもっと重大なのは、神殿における権力の地位までがぐらついてきたことだった。この状況からなにかを――なんでもいいから――救い出すことができなければ、チャバトは日頃から彼女をにがにがしく思っている大勢の敵にひきずりおろされてしまうだろう。みずからの優位を知っていたとき以上に、いまのチャバトは危険だった。ガリオンはサディがそのことに気づくように祈らずにいられなかった。
高僧の気分を推し量ろうとしながら、チャバトは警戒ぎみに目を細めていたが、やがて肩をそびやかしてウルギット王に話しかけた。「ここには国家的犯罪もございます、陛下」彼女は言った。「わたくしは聖所の冒涜のほうがより深刻かと思っておりましたが、尊敬する高僧さまがその英知において、そちらの嫌疑は根拠のないものであることを発見なさいましたので、国をおびやかす犯罪についてご忠告申しあげるのが、いまのわたくしの義務でございます」
ウルギットはアガチャクとすばやく視線をかわすと、悲しげな目をして、さらに椅子に沈みこんだ。「聖職者の言葉はつねに聞く用意があるぞ」かれはさほど気のりしないようすで答えた。
チャバトはふたたび勝ち誇った表情になり、おおっぴらな憎悪をうかべてサディを見やった。「わたくしたちの国家創設のころより、蛇の民のいやらしい薬や毒薬はクトル・マーゴスでは国の法令により禁じられてまいりました。このウッサと従者たちが独房に監禁されましたあと、かれらの身の回り品を調べさせたのです」チャバトはくるりと向きをかえて、「あの箱を持ってくるように」と命令した。
わきのドアが開き、ぺこぺこした下級僧がサディの赤い革の箱を持ってはいってきた。狂信者のソーチャクが、やはり勝ち誇った笑いをうかべて、箱をうけとった。「スシス・トールのウッサがわれわれの法を破り、よって、命を剥奪される証拠をごらんください」ソーチャクは甲高い声で言うと、掛け金をはずして箱をあけ、サディのさまざまなガラス瓶と、ジスが住んでいる土焼きの瓶を見せた。
ウルギットがますますみじめな顔つきになった。かれは不安そうにサディを見ると、期待をこめてたずねた。「こういうものを持っていることについての説明はあるんだろうね?」
サディはおおげさに無邪気な表情をつくった。「陛下、まさかわたしがここクトル・マーゴスにこれらのものを広めようとしていたとお考えなのではないでしょうね」かれは抗議口調で言った。
「しかしだな」ウルギットはあいまいに言った。「おまえはそういうものを所持しているではないか」
「それはもちろんでございますが、マロリー人向けの商品としてでございます。あの連中のあいだでは、このような品は高く売れるのです」
「それはそうだろうな」ウルギットは椅子のなかで背筋をのばした。「すると、わが国民に薬を売るつもりはなかったと?」
「めっそうもないことでございますよ、陛下」サディは怒ったように答えた。
ウルギットはほっとした顔になった。「やれやれだ」かれはサディをにらみつけているチャバトに言った。「そういうわけだ。ここにいるニーサの友人がマロリー人を骨ぬきにしようとしている事実については、われわれのだれひとり異議を唱えることはできんはずだ――口だししなければ、それだけ好都合だ」
「これはどうなのです?」ソーチャクがサディの箱を床におろして、土焼きの瓶をもちあげた。「ここにはどんな秘密が隠してあるんだ、スシス・トールのウッサ?」かれは瓶をゆすった。
「気をつけてくださいよ!」サディは叫ぶなり、片手を伸ばして瓶にとびつこうとした。
「ははあ!」チャバトが勝ち誇った声で叫んだ。「その瓶の中には、奴隷商人の大事ななにかがはいっているらしいね。中身を調べさせてもらうよ。まだ発見されていない犯罪がここにひそんでいるやもしれない。瓶をあけよ、ソーチャク」
「お願いです」サディは懇願した。「命を大切になさるなら、その瓶に手を出さないでください」
「いいからあけよ、ソーチャク」チャバトは無情に命令した。
グロリムはほくそえみながらふたたび瓶をゆすると、コルク栓をはずしはじめた。
「後生です、お坊さま!」サディは声をふるわせた。
「見るだけだ」ソーチャクはにやにや笑った。「ちょっと見るだけなら、害はあるまい」かれはコルク栓をぬいて、瓶をもちあげ、片目をあてて中をのぞきこんだ。
ジスがとっさに攻撃したのは、言うまでもない。
首をしめられたような悲鳴をあげて、ソーチャクは両腕をふりまわしながら、うしろ向きにのけぞった。そのはずみに土焼きの瓶がソーチャクの手からとびだし、床に落下する寸前にサディが受け止めた。襲われた僧侶は恐怖に顔をゆがめて、両手で目をおおった。と、指のあいだから血が噴き出した。ソーチャクは手足をけいれんさせて豚のような金切り声をあげはじめた。いきなり前のめりに倒れ、狂ったように顔をたたいて皮膚をかきむしった。次に頭を床に打ちつけはじめた。けいれんはますます激しくなり、口から泡をふきはじめた。甲高い絶叫とともに、かれは突然宙高くとびあがった。落下したとき、ソーチャクは絶命していた。
肝をつぶしたような静寂が一瞬あたりを支配し、やがてチャバトが黄色い声をはりあげた。「ソーチャク!」その声は苦悩とかけがえのないものを失った不安に満ちていた。彼女は死んだ男のかたわらに駆け寄ると、身をなげかけて身も世もないようにすすり泣いた。
ウルギットは口をあけ、嫌悪の表情でソーチャクの死体を凝視していた。「|なんたることだ《トラクス・ティース》!」喉がつまったような声でささやいた。「ウッサ、その瓶にはなにがはいっているのだ?」
「はあ――ペットでございます、陛下」ウッサは神経質に答えた。「あれだけ警告しようとしましたのに」
「たしかにそうだった、ウッサ」アガチャクがなだめた。「おまえが警告を与えたことはわれわれ全員が聞いている。ときに、そのおまえのペットを見せてもらえないか?」アガチャクは残酷な薄笑いをうかべて、ヒステリックにすすり泣いているチャバトを小気味よさそうにながめた。
「はい、聖なる高僧さま」サディはすばやく答えた。かれは慎重に瓶を床におき、謝るように言った。「念のためです。ちょっと興奮していますので、まちがいをさせたくありません」かれは瓶の上にかがみこんで、中にひそむ復讐心に燃えた小さな爬虫類に、なだめるように話しかけた。「悪いやつはもういないよ、もうだいじょうぶだ」
ジスはまだ怒ったまま、瓶の中ですねている。
「ほんとうだよ、ディア」サディはジスを安心させた。「だいじょうぶさ。わたしを信用しないのか?」
瓶の中から横柄なシュウシュウという小さな音がした。
「そういうことを言うのは行儀が悪いぞ、ジス」サディはやさしく蛇を叱った。「かれがおまえの邪魔をしないようにと、わたしはできるだけのことをしたんだ」サディは申し訳なさそうにアガチャクを見た。「これがこういう言葉をどこでおぼえたのか、わたしにはとんとわからないのです、聖なる高僧さま」サディはふたたび瓶に注意を戻した。「いい子だから、ディア、機嫌をなおしてくれよ」
瓶からまたも悪意に満ちた小さな音がした。
「そんな聞き分けのないことを言うもんじゃないぞ、ジス。すぐにそこから出てきなさい」
小さな緑の蛇が用心深く瓶から頭を突き出して、鎌首をもたげ、床の死体を見つめた。ソーチャクの顔は恐ろしい土気色で、くちびるについた泡が乾きかけていた。チャバトは硬直しはじめたその体にしがみついて、まだヒステリックにすすり泣いていた。ジスは小さな家から全身をあらわすと、侮辱するように尻尾をかすかにゆらして死んだ男にそっぽをむき、自己満足に喉を鳴らしながらサディのほうへ這っていった。サディが片手を下に伸ばすと、ジスは愛情をこめてかれの手に頭をすりよせた。「かわいらしいでしょう?」サディはいとおしげに言った。「だれかをかんだあとは、いつも子猫のようにじゃれつくんですよ」
かすかな動きがガリオンの目をとらえた。ヴェルヴェットが身をのりだして、満足そうな音をたてている小さな爬虫類を見つめている。その顔には、すっかり魅せられたようなうっとりした表情がうかんでいた。
「蛇はおまえの言うことはよく聞くのだろうな、ウッサ?」ウルギットがちょっと心配そうにたずねた。
「それはもう、陛下」サディが受け合った。「彼女はいまはすっかり満足しています。もう少ししたら、わたしが軽い食事を与え、風呂にいれてやるんです。そうすれば赤ん坊のように眠りますよ」
ウルギットは高僧に向きなおった。「どうだね、アガチャク? あんたの判決は? わたし個人としては、この審理はつづける理由がないと思うがね。奴隷商人にも従者たちにもまったく罪はなさそうだ」
高僧は表情を殺した目つきで考えた。「おおせのとおりです、陛下」かれはグロリムのひとりにむかって、エリオンドを指さした。「この愚かな少年を放してやれ」
ソーチャクの死体にすがりついていたチャバトがゆっくりと立ち上がった。傷のある顔は苦悩にやつれていた。チャバトは最初にウルギットを見、次にアガチャクを見た。「これはどうなるんです?」声をうわずらせて問いつめた。「これはどうなるんです?」足元の硬直したソーチャクを示した。「このために罰せられるのはだれですか? わたしはだれにうらみをはらせばいいんです?」
「その男が死んだのは自業自得だ、チャバト」アガチャクは彼女の追求を受け流した。「だれの罪でもない」
「だれの罪でもない?」チャバトはしぼりだすように言った。「だれの罪でもないですって!」声がだんだん大きくなった。「グロリムの命はそれほど軽いのですか?」チャバトはくるりとふりかえると、目をぎらつかせてサディをねめつけた。「おまえがこのつぐないをするのだ、スシス・トールのウッサ。ソーチャクの体と、トラクの体に誓って、わたしが仇をとってやる。おまえはわたしから逃げられないよ。ソーチャクを殺したおまえと従者たちにわたしが復讐してやる」
「どうしてそんなに動転している、チャバト?」アガチャクがうつろな声をおもしろそうにひびかせてたずねた。「神殿には他にもおおぜいグロリムがいるではないか。ソーチャクは、他のグロリムと少しも変わらなかったぞ――強欲で、野心に燃え、人を欺く男だ。かれが死んだのはかれ自身の――そしておまえの――愚かさの結果にすぎん」アガチャクの薄いくちびるに冷酷な笑いがうかんだ。「おまえはこの死んだグロリムに個人的関心を持っていたのではないか? おまえは長いあいだわたしの気に入りだった。チャバト。わたしはおまえを全面的に信用していた。ほかの男の腕の中の快楽を求めて、おまえはわたしに背いていたのではないか?」
チャバトの顔から血の気がひいた。ソーチャクの死に動揺したあまり、本心をさらけだしてしまったことを悟って、ふるえる手で口もとをおさえた。
アガチャクはぞっとするような声で笑った。「サルディオン探索に熱中するあまり、わたしがおまえのひそかな楽しみに気づかないとでも思っていたのか?」かれはいったん言葉をきり、なにげなく言った。「どうなんだ、チャバト、おまえとソーチャクは悪魔を呼び出すのに成功したのか?」
チャバトはたじろいだ。急におそろしくなり、目を大きく見開いて師のほうを向いた。
「だめだったらしいな」アガチャクはつぶやいた。「じつに残念だ。あれだけの努力が水の泡とは。真夜中の儀式に新しい相棒が必要だろう、チャバト。いずれにせよ、ソーチャクの心臓がおまえの企ての対象になったことはなかったのだからな。こいつはけちなご都合主義者にすぎなかった。したがって、おまえの損失はおまえが思っているほど大きなものではない。こいつが陰でおまえをなんと呼んでいたか知っているか?」アガチャクは目を輝かせてたずねた。
チャバトは無表情にかぶりをふった。
「きわめて信頼できる筋によると、ソーチャクはおまえをいつもあの醜い顔の鬼ばばあ≠ニ呼んでいたらしいぞ。これでその苦悩も少しは薄れるか?」
チャバトはたったいま公衆の面前で冷酷にはずかしめられたことに気づいて、屈辱に満ちた表情で、アガチャクからあとずさった。そして怒りにふるえながらくるりとふりかえり、死者のなにも感じないわき腹を蹴飛ばした。「醜い顔の鬼ばばあだって?」チャバトは金切り声をあげて、また体を蹴った。「醜い顔の鬼ばばあだ? たわけたことを、ソーチャク! おまえの臭い死体なんか蛆虫どもにたかられりゃいいのさ!」そう言うと、チャバトは身をひるがえしてすすり泣きながら逃げるように部屋を出ていった。
「いささか錯乱しているようだな」ウルギットがおだやかに言った。
アガチャクは肩をすくめた。「幻想が砕かれるのは、いつもつらいものですよ」
ウルギットはうわの空でとがった鼻をひっぱった。「だが、彼女の精神的混乱は、ここでは多少危険を招くことになるぞ、アガチャク」かれは考え込むように言った。「この奴隷商人の使命はわれわれ双方にとってきわめて重大なものだ。ヒステリックな女は――とりわけ、チャバトのような力のある女は――非常に危険な存在になりかねない。彼女はあきらかにここにいるウッサに敵意をいだいている。かれがチャバトのこうむった侮辱とソーチャクの死の両方にからんでいるとあれば、神殿はかれにとって世界一安全な場所とは言えんだろう」
アガチャクは重々しくうなずいた。「陛下のご指摘どおりです」
名案が浮かんだようにウルギットの顔が明るくなった。「アガチャク、かれが無事に出発できるまで、ウッサとかれの従者たちをわたしがドロジム宮殿にかくまうというのはいかがなものだろう? そうすれば、逆上したチャバトがむこうみずな行動に走っても、ウッサの身は安全だ」ウルギットは気がかりそうに言葉をきってから、いそいでつけくわえた。「すべて、あなたしだいだが、アガチャクどの」
「一理も二理もある提案ですな、ウルギット王」アガチャクは答えた。「ここでちょっとした過失を犯せば、あなたはカル・ザカーズのいいなりになり、わたしはウルヴォンかザンドラマスの前に服従するはめになりかねない。こうした災難はなんとしても避けたいものです」かれはサディのほうを向いた。「おまえと従者たちは陛下についてドロジム宮殿へ行くがよい、ウッサ。おまえの手回り品はあとで送らせる。宮殿にいれば安全だ。数日のうちに船の用意も整う」アガチャクは皮肉めかしてほほえんだ。「われわれの心づかいをありがたく思えよ」
サディは頭をさげた。「感謝の言葉もないくらいでございます、聖なる高僧さま」
「しかし、ダガシ族のカバチはこの神殿においておきましょう」アガチャクは王に言った。「そのほうがわれわれも、ラク・ハッガへ向かう一行にまぎれこむ重要人物を掌中ににぎることになります。協力するためにはそのほうが心強い」
「もちろんだ」ウルギットはせきこんで同意した。「よくわかっている」かれは立ち上がった。「もう時間も遅い。わたしは宮殿へ帰るとしよう。あんたにはやらねばならない宗教的義務がたくさんあるだろう、恐れおおい高僧どの」
「ご母堂のレディ・タマジンによろしくお伝えください」アガチャクは答えた。
「伝えるよ、アガチャク。あんたが憶えていてくれたと知ったら、母はさぞ喜ぶだろう。ではまいろうか、ウッサ」ウルギットは回れ右をして、ドアのほうへ歩きだした。
「トラクの魂があなたとともにありますように、陛下」アガチャクがうしろから呼びかけた。
「それは遠慮したいな」ウルギットはサディにつぶやき、かれらはドアをくぐりぬけた。
「陛下はいいときにおいでくださいましたよ」サディが廊下を歩きながら、静かに言った。「いささか緊迫した状況になっていたんです」
「世辞はよしてくれ」ウルギットはにがにがしげだった。「なにがなんでもカバチをラク・ハッガへ送り込む必要性がなかったら、グロリムどもと敵対するような危険をわたしが犯すものか。おまえはいいやつらしいが、自分の命のことも考えなくてはならんからな」
飾りびょうを打ちつけた神殿の扉の外へ出ると、マーゴの王は背伸びをして、冷たい夜気を深々と吸い込んだ。「あの臭い場所から出てくると、いつもほっとする」かれは部下の護衛のひとりに身振りで命じた。「馬たちを連れてまいれ」
「ただいま、陛下」
次にウルギットはつるつる頭のニーサ人をふりかえった。「もういいぞ、このずるがしこいキツネめ」かれはおもしろがっているような口調で言った。「さあ、このクトル・マーゴスでなにをしているのか教えろ――その変装の理由もな。得体の知れないスシス・トールのウッサとやらが、サルミスラ女王の宮殿にいた宦官長のなつかしい友だちサディにほかならないと気づいたとき、わがはいはもうちょっとで気絶するところだったぞ」
[#改ページ]
2
たいまつをかかげ持った王の護衛たちにぴったり取り囲まれて、かれらは人気のない真夜中のラク・ウルガの通りを、ひづめの音をひびかせて進んでいた。「むろん、すべて見せかけだ」ウルギットがサディに言っていた。「わがはいはアガチャクに頭を下げ、口で敬虔なきまり文句をささやいてかれを喜ばせているが、本心は明かさない。アガチャクの支持が必要だから、気にいられるようにしていなければならないのだ。それはかれも知っている。だから、その状況をできるだけ利用している」
「クトル・マーゴスにおける教会と国家の絆は有名ですよ」大きな広場にはいったとき、サディが言った。燃えるたいまつの火が、近くの建物の側面をくすんだオレンジ色に染めた。
ウルギットが下品な音をたてた。「絆だと!」かれはせせら笑った。「鎖といったほうが正確だぞ、サディ――それもわがはいの首にまきついた鎖だ」ウルギットは暗い空を見上げた。鋭い容貌がたいまつのあかりを浴びて、赤らんでいる。「だが、アガチャクとわがはいはあるひとつのことについては同意している。ダガシ族のカバチを、冬が訪れる前にラク・ハッガへ送りこむということだ。これだけは絶対必要なことなのだ。ジャハーブはもう何ヵ月も前から家来たちにクトル・マーゴス西部を徹底的に捜索させて、カバチをマロリー戦線へ潜入させるための奴隷商人をさがしていた」ウルギットは急にサディににやりと笑いかけた。「運よく、ジャハーブの見つけた奴隷商人はたまたまわがはいの古い友人だったわけだ。われわれが知り合いだということは、だが、アガチャクに知らせる必要はないだろう。いくつか秘密を作っておきたいのだ」
サディは顔をしかめた。「あなたがカル・ザカーズの本拠地のある都市に暗殺者を送り込んでいる理由を推測するのは、それほどむずかしいことじゃありませんね」
「むこうへカバチを送りとどけたら、ぶらぶらと名所見物などしないほうがいい」ウルギットは同意した。「だが、どのみち、ラク・ハッガはあまり魅力のある町ではないよ」
サディは浮かぬ顔でうなずいた。「どうせそんなことだろうと思ってましたよ」かれは剃りあげた頭を指の長い手でなでながら考えこんだ。「しかし、ザカーズが死んでも、あなたのかかえる問題の解決にはならんでしょう? 皇帝が殺されただけで、マロリーの将軍たちが荷物をまとめて家へ帰るとは思えません」
ウルギットはためいきをついた。「一度にひとつずつだよ、サディ。おそらく将軍連中は買収できるだろう、あるいはほめちぎるかなにかすればすむかもしれない。最初の一歩はザカーズを片づけることだ。あの男に道理をといてもむだだからな」ウルギットはゆらめくたいまつの明かりに照らしだされた、たけだけしくわびしい石造りの建物を見回した。「わがはいはこの場所が大嫌いなんだ」ふいにかれは口走った。「まったく虫が好かない」
「ラク・ウルガがですか?」
「クトル・マーゴスがだよ、サディ。悪臭ふんぷんたる国全体がいやなんだ。どうしてわがはいはトルネドラに生まれなかったんだろう――あるいは、センダリアに? なんの因果でクトル・マーゴスにへばりついていなけりゃならないんだ?」
「だって、あなたは王さまでしょう」
「好きで王になったわけじゃない。われわれの魅力ある習慣のひとつに、新しい王が即位したら、それ以外の王位継承候補はひとり残らず命をうばわれるというのがあるんだ。わがはいにとって、それは王になるか墓場へ行くかだった。王になったときは、おおぜい兄弟がいたが、いまじゃひとりっ子だ」ウルギットはみぶるいした。「気の滅入る習慣だよ、そう思わないか? ほかの話をしよう。おまえはクトル・マーゴスでなにをしているんだ、サディ? おまえはサルミスラの右腕だったはずだろう」
サディは咳きばらいした。「女王陛下とのあいだにささいな誤解が生じましてね。それでしばらくニーサを出たほうがよかろうと考えたんです」
「どうしてクトル・マーゴスに? なぜトル・ホネスに行かなかった? トル・ホネスのほうがはるかに文化的だし、居心地がいいだろうに」ウルギットはまたためいきをついた。「トル・ホネスで暮らせるなら、なにをやっても惜しくない」
「トルネドラには強敵がいるんです、陛下」サディは答えた。「クトル・マーゴス周辺には詳しいですから、こうしてアローンの傭兵たちを雇って身辺を保護してもらいながら、奴隷商人を装ってここにきたんですよ」
「そこでジャハーブに拾われたというわけか。おまえも気の毒にな、サディ、どこへ行っても、つねに政治に巻き込まれる――いやおうなしだ」
「呪われているんですよ」サディは嘆かわしげに言った。「終生呪いがついてまわるんです」
一行は角を曲がって、高い塀に囲まれた不規則に広がる巨大な建築物に近づいた。おびただしいたいまつの明かりに照らされて、ドームや塔がにょきにょきそびえている。六色の相対立する色をぬりたくったそれは、見るからにけばけばしく、ラク・ウルガの他の部分から浮き上がって見えた。「ドロジム宮殿を見るがいい」ウルギット王はおおげさな口ぶりでサディに言った。「ウルガ家の代々の屋敷だ」
「非常にめずらしい建物ですね、陛下」サディがつぶやいた。
「それは表向きの言い方だ」ウルギットは批判をこめて宮殿を見た。「けばけばしくて、醜悪で、悪趣味もいいところだ。だが、わがはいの個性にはほぼかんぺきにマッチしている」かれは護衛のひとりをふりかえった。「いい子だから先へ行け」と指示した。「門番たちに王さまがお見えになると言え。門をあけるあいだ待たされるようなことがあれば、耳を切り落とすぞとな」
「ただいま、陛下」
ウルギットはサディににやりとしてみせた。「わがはいの数少ない楽しみのひとつなんだ。わがはいがいばってみせられるのは、召使いと兵卒にたいしてだけでね。マーゴ人はみんなだれかにいばりたいという潜在的欲求を持っているんだ」
あわただしくあけられた門を通って、一行は馬をおり、たいまつが赤々と照らす中庭に入った。ウルギットはけばけばしい色の外壁を見回した。「ぞっとするだろう?」と身をふるわせた。「中へ入ろう」
石段のてっぺんに大きな扉があり、ウルギットは一行を中へいれると、丸天井の長い廊下を歩きだした。磨きこまれた一対の両開きのドアの前で立ちどまり、顔に傷のあるふたりの番兵に言った。「どうした?」
「はあ、陛下?」ひとりが答えた。
「言わないとドアをあけんのか?」ウルギットはたずねた。「それとも、即刻戦線送りになりたいのか?」
「ただいま、陛下」兵士は答えるなり、あわててぐいとドアをあけた。
「よくやった。次回は蝶番がはずれんようにやれよ」王はドアをくぐって部屋に入った。「謁見の間だ」もったいぶって言った。「連綿とつづく病んだ想像力の産物さ」
その部屋はガリオンの城塞にあるリヴァ王の広間より大きかった。迷路のように交差する丸天井は、クトル・マーゴスの鉱山から産出する金箔でおおわれていた。壁や柱は埋め込まれた宝石できらきらと輝き、部屋の両側にずらりと並んだ椅子にはアンガラクの金がちりばめてある。部屋のはるか奥に、宝石で飾りたてた王座があり、そのうしろに血のように赤いカーテンがさがっていた。その王座のかたわらの簡素な椅子に、銀髪の婦人がひとり腰かけて、静かに刺繍をしていた。
「ひどいもんだ、そうじゃないか?」ウルギットは言った。「ウルガ家の人間は何世紀もラク・ゴスカで宝を略奪しては、ドロジム宮殿を飾りたてたんだ。だが、信じられるか、いまだに屋根は雨もりする」ウルギットはぶらぶらと部屋の奥へ歩いていき、刺繍に忙しい黒い化粧着をはおった婦人の前で足をとめた。「母上」かれはおどけたように一礼した。「遅くまで起きていらっしゃるんですね?」
「若いときほどたくさん寝る必要がないんですよ、ウルギット」婦人は刺繍をわきへおいた。「それに、わたしたちはいつもおまえが夜休む前に、一日の出来事を話しているじゃありませんか」
「きょうはたいへんな日でしたよ、母上」ウルギットはかすかな笑みをうかべて答えた。
彼女は愛情をこめて、機嫌よく笑いかえした。その微笑が顔を明るくしたとき、ガリオンは彼女がびっくりするほど魅力的な女性であることに気づいた。髪は白く、目尻にはしわが刻まれているが、昔日の息をのむような美しさはまだ失われていない。かすかな動きに気づいて、そっちへ目をやると、シルクがトスの大きな背中の陰に隠れて、緑の頭巾ですっぽり顔を隠しているのが見えた。
「どなたなの、ウルギット?」銀髪の婦人は息子にたずねた。
「ああ、失礼しました、母上。ついうっかりして。蛇の民のサルミスラ女王に仕える宦官長サディです」
「もと宦官長です」サディは訂正した。かれは深々と頭をさげた。「マーゴ人の王国の皇太后さまにお目にかかれるとは光栄でございます」
「そうそう」壇にのぼって、片脚を宝石で飾った肘かけにひっかけ、だらしなくすわったウルギットが言った。「わがはいは礼儀を忘れてばかりいるな。サディ、わがはいの母、レディ・タマジンだ、ハッガの家の宝石にして、わがはいの亡き父、狂人タウル・ウルガスを慕いつづける未亡人でもある――慈悲の雨をその手にふらせ、父をトラクの胸へ送りたまえ」
「おまえはまじめになるということができないの、ウルギット?」母親が叱った。
「ですが、父上を慕っておいででしょう、母上? 父上とすごしたすばらしいときを、母上が心のなかで懐かしんでおられるのはわかっています――家具をかじる父上を見守り、狂ったたわごとに耳をかたむけ、妻たちへの愛情表現に腹をなぐり、頭を蹴ったあのふざけた行ないを楽しんだことを」
「いいかげんになさい、ウルギット」彼女は断固たる口調で言った。
「はい、母上」
「ドロジム宮殿へようこそ、サディ」レディ・タマジンは礼儀正しく宦官に挨拶したあと、物問いたげに他の面々を見つめた。
「わたしの従者たちでございます、レディ・タマジン」サディが口早に言った。「ほとんどがアローン人でして」
「ほんとにめずらしいこと」レディ・タマジンはつぶやいた。「マーゴとアローンの昔の戦争のせいで、アローン人にはめったに会うチャンスがなくなってしまったのですものね」彼女はまともにポルおばさんを見た。「このご婦人は従者ではないわね」と疑わしげに言った。
「一時的取り決めですの、レディ・タマジン」ポルガラが優雅に腰をかがめて答えた。「家庭の不愉快な出来事を避けるために、しばらく別のところにいる必要があったのですわ」
皇太后は微笑した。「わかりますとも。殿方というものは政治にうつつをぬかして、その愚行のつぐないをするのはいつも女ですものね」レディ・タマジンは息子に向きなおった。「それで、高僧との会合はいかがでした?」
「悪くありません」ウルギットは肩をすくめた。「かれをいい気分にさせておくために、十分平身低頭しましたよ」
「もうたくさんです、ウルギット」レディ・タマジンの声は鋭かった。「おまえはアガチャクにたいへん世話になっているのだから、それ相応の尊敬を払うのが当然でしょう」
ウルギットは彼女の口調にいささかたじろいだ。「はい、母上」とおとなしく答えた。「そうだ、もうちょっとで忘れるところでした。尼僧のチャバトがちょっとした失態を演じましたよ」
皇太后の表情が嫌悪のそれになった。「彼女のふるまいは公的スキャンダルですよ。アガチャクがなぜあんな女を大目に見ているのかわかりませんね」
「アガチャクはチャバトをおもしろがっているんですよ、母上。グロリムのユーモアのセンスは普通じゃありませんからね。とにかく、チャバトの友だち――非常に親密なる友だち――が事故にあったんです。ラク・ウルガの善人たちを憤慨させるには、チャバトは別の遊び友だちを見つける必要があるでしょうな」
「どうしておまえはいつでもそう浮ついた態度をとるんです、ウルギット?」
「それをわがはいの初期の狂気の兆候と呼んだらどうでしょう?」
「おまえは狂人になったりしませんよ」レディ・タマジンはきっぱりと言った。
「もちろんならないでしょうね、母上。むしろそうなってほしいんですが」
「こういうときのおまえとは話し合ってもむだだわ」彼女は息子に小言を言った。「まだずっと起きているつもり?」
「いえ。サディとは二、三協議することがありますが、明日でもかまいませんから」
皇太后はふたたびポルガラのほうを向いた。「わたくしの部屋はとても広いんですのよ、レディ。ドロジム宮殿にいるあいだ、お仲間と一緒にわたしの部屋を使ったらいかがかしら?」
「光栄です、レディ」ポルガラは言った。
「よかったこと、それでは」ウルギットの母は言った。「プララ」
王座のうしろの暗がりから、年の頃十六ばかりのほっそりした少女が進みでた。黒い化粧着をきて、長いつややかな黒髪をしている。黒くてつり上がった目はたいがいのマーゴ人をひどく風変わりに見せるものだが、この少女の場合は、びっくりするほど大きなアーモンド形のその目が、異国的な美しさを添えていた。だが、その顔は若さに似合わぬ決然とした表情にあふれていた。少女はレディ・タマジンの椅子に歩みよると、彼女が立ち上がるのに手をかした。
ウルギットの顔が暗くなった。母親が少女の肩によりかかって、足をひきずりながら壇をおりるのを見守る目が冷酷な光をおびた。「なにをしでかすかわからなかったタウル・ウルガスからのささやかな贈物さ」かれはサディに言った。「ある晩、いたずら心を起こした父は、母上を階段から蹴落とした。腰の骨が折れたんだ。そのときから、母上はああして足が不自由になった」
「もうこんなこと気づいてもいませんよ、ウルギット」
「チョ・ハグ王のサーベルが父の腹を切ったあと、われわれのちょっとした痛みや苦痛がどれだけよくなったか、おどろくほどだよ」ウルギットは言葉をきった。「チョ・ハグに感謝のしるしを贈るにはもう遅すぎるだろうか」
「そうそう」皇太后がポルガラに言った。「こちらはクタン家の王女レディ・プララ」
「王女さま」ポルガラはレディ・タマジンを支えるほっそりした少女に挨拶した。
「レディ」プララは澄んだ声で応じた。
レディ・タマジンはプララの肩にすがって、ポルガラ、セ・ネドラ、ヴェルヴェットをひきつれてゆっくりと部屋から出ていった。
「あの娘がいると、わがはいはなぜか非常に落ち着かないのだ」ウルギットがサディにつぶやいた。「母上は彼女を熱愛しているが、あの娘はなにか腹に一物ある。絶対にわがはいから目を離さないのだ」いやな考えをふりはらうように、ウルギットはかぶりをふった。「おまえも従者たちもじつに忙しい日だったな、サディ。これ以上の話は今夜ぐっすり眠ったあと、明日しよう」かれは手をのばして、絹の引き綱をひいた。謁見の間の外のどこかで、大きな鐘の音がひびいた。ウルギットはうんざりしたように天井を仰いだ。「なんでいつもいつもこうやかましく鳴らなけりゃならないんだ?」不平をもらした。「いつか引き綱を引いて、小さなチリチリという音を聞きたいもんだ」
謁見の間のつきあたりのドアが開いて、がっしりした中年のマーゴ人がひとりはいってきた。白髪まじりで、傷のある顔には深いしわがきざまれている。いまだかつてほほえんだことがないような陰気な顔だ。「ご用ですか、陛下?」男は耳ざわりな声で言った。
「そうだ、オスカタット」妙にうやうやしい口調でウルギットが答えた。「わがはいの友人サディと従者たちを適当な部屋へ案内してもらえるかね?」かれはサディに向きなおった。「オスカタットは宮殿の家令なのだ。ラク・ゴスカでも同じ資格で父に仕えていた」いつものふざけた話しぶりはすっかり影をひそめている。「母上とわがはいは父の家では不人気だったから、ラク・ゴスカではオスカタットがわれわれにとって一番の友人だったのだよ」
「閣下」サディは深々と一礼しながら、そのごま塩頭の大柄な男に言った。
家令はそっけなくうなずいて応じると、荒々しい視線を王に向けた。「レディ・タマジンはもうお休みになりましたか?」
「ああ、オスカタット」
「では、陛下もベッドへ向かわれたほうがよろしいかと思います。もう遅いですから」
「これからそうするところだよ」ウルギットはすばやく立ち上がってから、足をとめた。「オスカタット」かれは訴えるように言った。「わがはいはもう病気の子供じゃない。昔のように毎晩ベッドで十二時間もすごす必要はないんだ」
「王であられる重荷はたくさんあります」家令は短く言った。「休息が必要なのです」かれはサディに向きなおった。「ついてまいれ」オスカタットはドアのほうへ歩きだした。
「それじゃ明日また会おう、サディ」ウルギットは言った。「ぐっすり眠れよ」
「ありがとうございます、陛下」
荒々しい顔つきのオスカタットが一行を案内した部屋は、ドロジム宮殿の他の場所同様、けばけばしかった。不健康な芥子色に塗られた壁に、しみだらけのタペストリーがかかっていた。家具はめずらしい貴重な材木からつくられており、青いマロリーの絨緞は羊の背中の毛に勝るとも劣らずふかふかだった。一行のためにドアをあけると、オスカタットはほんのしるし程度にうなずいて、立ちさった。
「魅力的な人物だな」サディがつぶやいた。
ガリオンはさっきから、まだ頭巾で顔を隠しているシルクをふしぎそうに見ていた。「なんでそんなに必死に隠れようとしているんだい?」
小男はうらめしげな表情で頭巾をぬいだ。「世界を股にかける人間の不利な点のひとつは、しょっちゅう昔知った顔にでくわすってことなんだ」
「もうちょっとわかりやすく言ってほしいな」
「おれたちが以前ラク・クトルへ行く途中、おれがタウル・ウルガスにつかまってあの穴に閉じ込められたことをおぼえてるか?」
「うん」
「どうしてかれがそんなことをしたか――その翌日にかれがおれの皮をじわじわとはぐつもりだった理由をおぼえてるか?」
「一度ラク・ウルガに行ったとき、まちがってかれの長男を殺したせいだと言ってたな」
「そのとおり。抜群の記憶力だな、ガリオン。とにかく、その不幸な出来事が起きる前、折りあしくおれはタウル・ウルガス自身とある交渉をしていたんだ。ラク・ゴスカの宮殿を足しげく訪問し、レディ・タマジンにも何度も会ってる。彼女がおれをおぼえているのはまちがいない――おれのおやじを知っていると言ってたから、なおさらだよ」
「そいつはいささか問題だな」ベルガラスが言った。
「おれが彼女を避ければだいじょうぶでしょう」シルクは肩をすくめた。「マーゴの女性はめったに男をもてなしません――特によそ者はね――だから、これからの数日間にばったりでくわすなんてことはまずありませんよ。しかし、オスカタットはそうはいかない。かれにもラク・ゴスカで会ってるんです」
「可能なら、おまえさんはこの部屋にひきこもっているべきだな」老人は言った。「そうやって行動をつつしめば、このさきずっと厄介ごとにまきこまれんですむかもしれんぞ」
シルクはやんわり言った。「ベルガラス、言うにことかいてひどいなあ」
「ウルギット王はいつもこんなふうなのかい?」ダーニクがサディにたずねた。「なんというか――おそろしく――おどけているようだが――こういう表現でいいんだろうね。マーゴ人が笑いかたを知っているとは思わなかったよ」
「かれは非常に複雑な人間でしてね」サディが答えた。
「知り合って長いのかい?」
「若いころ、ウルギットはよくスシス・トールにきたんです――たいていは父上の代役でね。ラク・ゴスカから出られる言い訳なら、どんなものにだってとびついたんでしょう。ウルギットとサルミスラはかなりうまくやってました。もちろん、レディ・ポルガラが彼女を蛇に変える前の話です」宦官はうわの空でつるつる頭をさすった。「かれはあまり強い王じゃないんですよ。タウル・ウルガスの宮殿で子供時代を送ったために臆病になってしまったんですな。どんなたぐいの闘争でも、争いからは身をひいてしまう。だが、どっこい生き残った。生きていようとする努力に全生涯を傾けているんです。そういう努力はきわめて警戒心の強い人間を育てるもんです」
「明日はウルギットとまた話し合いをするんだろう」ベルガラスが言った。「われわれを乗せる予定の船について、たしかな情報をウルギットから聞き出してもらいたい。冬がやってくる前に、ヴァーカト島へ着きたいのだよ。ここに長居をするはめになると、一行のだれかが注意をひくようなことをしでかさんともかぎらん」ベルガラスは非難がましくエリオンドを見やった。
「あれはぼくが悪かったんじゃありませんよ、ベルガラス」若者はおだやかに反論した。「聖所の火がいやだったんです、それだけのことです」
「おまえの偏見にはしっかり蓋をしておけ、エリオンド」老人はちょっと皮肉めかした声で言った。「いまはこの道徳十字軍から脱線せんようにな」
「やってみます、ベルガラス」
「よしよし」
翌朝、家令のオスカタットがかれら全員をマーゴ王との謁見に召集した。今度の部屋はきのう見ただだっぴろい謁見の間よりも小さめで、装飾もいくぶんおとなしかった。ガリオンはシルクが、ごま塩頭の家令が立ちさるまで、用心深く頭巾をかぶったままなのに気づいた。みんなが壁ぎわに並ぶ椅子におとなしくすわっているあいだ、ウルギットとサディは静かに話し合った。
「わがはいの父が狂いだしたのを、実際に他人が最初に気づいたのは、おそらくあの一件でだったろう」マーゴの王が言っていた。かれはまた紫色の上着とズボンをきて、両脚を長々とつきだして王座にすわっていた。「父は突如アンガラクの大王になるという野心にとりつかれたのだ。わがはい個人としては、その考えはクトゥーチクがウルヴォンをいらだたせる手段として、父に吹き込んだものだと考えている。が、とにかく」ウルギットは指の一本にはめた重そうな金の指輪をひねりながら先をつづけた。「ザカーズの軍隊はわが軍の五倍の規模で、ザカーズなら好きなときに父を虫けらみたいにひねりつぶすことができるということを、狂った父に納得させるには、将軍たちを総動員して、説得にあたらせなくてはならなかった。そのことがようやくのみこめたとき、父はすっかり狂暴化してしまったんだ」
「ほう?」サディが言った。
ウルギットはにやにやした。「床に身を投げて、絨緞をかみはじめたんだよ。落ち着きをとりもどしたあと、父は代案を試すことにした。マロリーじゅうにマーゴの密偵を放ったのさ――マーゴ人はおそらく世界一不器用な密偵だろうな。簡単に言うと――そのときザカーズは十九かそこらで、メルセネのある娘に熱をあげていた。娘の家族は借金にあえいでいたので、父の密偵たちは負債を全部買い上げて、家族に圧力をかけはじめたんだ。父が狂った頭で考えたすばらしい考えとは、娘が恋に盲いた若いザカーズをたきつけて、結婚し、なるべく早いチャンスにザカーズのあばら骨のあいだにナイフをつきたてるというものだった。ところが、不器用なマーゴの密偵たちに買収されたメルセネ人のひとりが、ザカーズのもとへ走っていっさいをぶちまけた。娘とその家族は即刻皆殺しさ」
「じつにいたましい話です」サディがつぶやいた。
「ハイライトはこれからだ。数人のマーゴの密偵たちが説得されて一部始終をうちあけたんだ――マロリー人は説得の天才だからな――そしてザカーズは無残にも、娘がわがはいの父の計略をなにも知らなかったことに気がついた。かれはマル・ゼスの宮殿の部屋にまるひと月閉じこもっていたよ。閉じこもる前のザカーズは陽気であけっぴろげな若者で、マロリーのもっとも偉大な皇帝のひとりになる片鱗をおおいにうかがわせていた。出てきたときには、われわれみんなが知り、愛するところの冷血な怪物になっていたんだ。ザカーズはマロリーじゅうのマーゴ人を狩り集めた――そのなかにはわがはいの父の親類もたくさんいたよ――そして、飾りたてた容器にこまぎれにしたマーゴ人たちをつめこみ、おそろしく侮蔑的なメモを添えて、ラク・ゴスカへ送りかえしてきた」
「しかし、お父上とザカーズはタール・マードゥの戦闘には参加しなかったのではありませんか?」
ウルギットは笑った。「世間一般にはそう思われているかもしれないがね、サディ、実をいえば、トルネドラ皇女のセ・ネドラの軍が折りあしく、対立するふたりのアンガラクの君主のあいだにはいってきたんだ。かれらにとっては皇女のことも、ミシュラク・アク・タールとかいう例の糞の山のことも、どうでもよかった。ふたりの目的は相手の息の根をとめることだけだったんだ。やがてわがはいの愚かな父はアルガリアのチョ・ハグ王に一騎討ちを挑むというへまをしでかし、チョ・ハグが冴えに冴えた剣術のレッスンを父にしたというわけさ」ウルギットは暖炉の火にじっと見入った。「やはり、チョ・ハグになにか感謝のしるしを贈るべきだろうな」
「口をはさむようですが、陛下」サディはけげんそうだった。「しかし、よく理解できないんですよ。カル・ザカーズは陛下のお父上に敵意をいだいていたわけでしょう、そして、タウル・ウルガスはもう亡くなっている」
「そうとも、まちがいなく死んだよ」ウルギットはうなずいた。「埋葬する前にわがはいが父の喉をかき切った――念のためにね。ザカーズを悩ませているのは、直接父に手をくだすチャンスを奪われたことらしい。父を殺しそこねたので、わがはいに矛先を向けているんだ」ウルギットは立ち上がって、憂鬱そうにいったりきたりしはじめた。「何度も和平交渉を申し入れたんだが、ザカーズのやることときたら、使者の首を送りかえしてくることだけだ。どうやらザカーズも父に劣らず狂人と見える」そわそわと歩き回っていたウルギットは足をとめた。「なあ、わがはいは王座につくのを急ぎすぎたのかもしれんな。わがはいには十二人の兄弟がいた――みんなタウル・ウルガスの血をひいていた。かれらの何人かを生かしておいたら、身代わりにザカーズにくれてやることができただろうに。ウルガの血をたらふく飲んだら、ザカーズももう飽き飽きしたかもしれない」
ドアが開いて、ごてごてした金鎖を首にかけた、がっしりしたマーゴ人が部屋にはいってきた。「これにご署名願いたい」男はぞんざいな口調でウルギットに一枚の羊皮紙をつきだした。
「なんだねそれは、クラダク将軍?」ウルギットはおとなしくたずねた。
士官の顔が険悪になった。
ウルギットはなだめるように言った。「まあまあ、興奮するな」かれは羊皮紙を近くのテーブルへ持っていった。テーブルには銀製のインク壺と、鵞ペンが並んでいる。ウルギットはペンの先にインクをつけると、紙の一番下に名前を書き、将軍に返した。
「感謝します、陛下」クラダク将軍はそっけなく言うと、きびすを返して出ていった。
「父に仕えていた将軍のひとりだ」ウルギットはにがにがしげにサディに言った。「連中はみんなああいうふうにわがはいをあしらう」かれは足をひきずるようにして、ふたたび絨緞の上をいったりきたりしはじめた。「おまえはベルガリオン王についてどのくらい知っている、サディ?」突然かれはたずねた。
宦官は肩をすくめた。「はて、一度か二度会ったことがあります」
「おまえの従者たちは大半がアローン人だと言わなかったか?」
「アローンの傭兵です、はい。戦いが勃発しても、頼りになりますし、じつに心強いですよ」
マーゴの王は椅子でうたたねしているベルガラスのほうを向いた。「おい――じいさん」と、いきなり声をかけた。「リヴァのベルガリオンに会ったことがあるか?」
「何度か」ベルガラスは落ち着きはらって認めた。
「どういう男だ?」
「誠実ですな」ベルガラスは答えた。「よい王であろうとたいへんな努力をしています」
「どのくらいの力を持っている?」
「そうですね、アローン全土の同盟国がついていますし、法律上は〈西方の大君主〉ですよ――もっともトルネドラ人はわが道を行くタイプですし、アレンド人は互いに戦うのが好きですが」
「そういう意味ではない。どのくらい腕のたつ魔術師なのかときいているのだ」
「どうしてわたしにおたずねになるんです、陛下? わたしがそういうことに詳しい人間に見えますか? もっとも、ベルガリオンはまんまとトラクを殺しましたし、あれは腕がたつ証拠でしょうな」
「ベルガラスはどうだ? 本当にそういう人物がいるのか、それともただの神話上の人物なのかね?」
「いえいえ、ベルガラスは現実の人間ですよ」
「すると、かれは七千歳なのか?」
「まあそのくらいでしょうな」ベルガラスは肩をすくめた。「七千プラス、マイナス二、三世紀でしょう」
「で、その娘のポルガラは?」
「彼女も実在の人物です」
「やはり数千歳なのか?」
「そんなところでしょう。必要なら、計算できますが、紳士はご婦人の年齢をきかんものですよ」
ウルギットは笑った――短くて、聞き苦しい、ほえるような音だった。「紳士≠ニマーゴ人≠ヘ互いに相容れない言葉だ。わがはいが使者をリヴァへ送ったら、ベルガリオンは受け入れてくれると思うか?」
「かれはいま国外にいますよ」ベルガラスはやんわりと言った。
「それは知らなかった」
「ときどき国を出るんです。儀式ぜめの生活にうんざりして、いやになるとふらりとどこかへ行ってしまうんですよ」
「どうすればそういうことができるんだろう? 馬に乗って、ただ出て行ってしまうなんてことがどうしてできるんだ?」
「王に文句を言う者などいませんからね」
ウルギットは指の爪を心配そうにかみはじめた。「たとえ、ダガシ族のカバチがザカーズを殺すことに成功しても、マロリー軍を身辺から一掃することは不可能だ。連中を片づけるつもりなら、どうしても味方がいる」かれはまたしてもいったりきたりしはじめた。「おまけに」とつけくわえた。「ベルガリオンの同意を得ることができれば、わがはいの首ねっこをおさえているアガチャクの手を払いのけることができる。ベルガリオンはわがはいの提案に耳を傾けると思うか?」
「たずねてみたらいかがです」
ドアがまた開いて、プララに支えられた皇太后がはいってきた。
「おはようございます、母上」ウルギットは挨拶した。「どうしてこの狂人屋敷の廊下をうろつきまわっておられるんです?」
「ウルギット」彼女はきびしい口調で言った。「なんでも茶化そうとするのをやめたら、おまえはもっとずっとすばらしいのだけれどね」
「ふざけていたほうが、自分の置かれた環境を考えずにすむんですよ」軽々しく言った。「戦争には負けているし、家来の半分はわたしを王の座からひきずりおろして、皿にのせた首をザカーズに送りつけたがっているんですから。わたしの気がふれるのも時間の問題ですよ、首に腫れ物ができているようですしね。笑うのがわたしに残された数少ない気晴らしなんです。だから、それができるあいだに冗談のひとつやふたつ言わせてください、母上」
「どうしておまえは頭が変になるということばかり言いつづけるんです?」
「ウルガ一族の男は、過去五百年間、ひとり残らず五十になるまえに狂人になっているんですよ」かれは母親に思い出させた。「それがわれわれがかくもすばらしい王を生んできた理由のひとつです。心の奥底ではだれもクトル・マーゴスの王座など望んじゃいませんよ。なにか特別の用でもあるんですか、母上? それとも、すてきな会話の仲間入りをなさりたいのですか?」
レディ・タマジンは部屋を見回した。「あの小柄な赤毛の女性と結婚なさっているのはどちら?」
ガリオンはさっと目をあげた。「妻はだいじょうぶですか、皇太后?」
「ポルが、額のはえぎわの髪が白いあの婦人が、すぐにきてほしいと言ってますよ。奥さんが困っているようすですわ」
ガリオンは立ち上がると、ゆっくりとドアのほうへ引き返しはじめた皇太后についていった。ドアのすぐ前まできたとき、彼女は足をとめて、シルクを一瞥した。かれはさっきレディ・タマジンがはいってくるやいなや、頭巾をすっぽりかぶっていた。「お友だちについていってあげたらいかが? 体面上だけでも」
かれらは部屋を出ると、ドロジム宮殿のけばけばしい廊下のひとつを通って、鎖かたびらの兵士二人が警護している黒い羽目板張りのドアに近づいた。兵士のひとりがレディ・タマジンにうやうやしく一礼してドアをあけると、彼女はガリオンとシルクを中へ通した。レディ・タマジンの部屋はドロジム宮殿の他の部分より、はるかに洗練されていた。壁は白く、装飾もひかえめだ。ポルおばさんが低い寝椅子にすわって、すすり泣くセ・ネドラを両腕に抱いており、ヴェルヴェットがそばに立っていた。
(彼女、だいじょうぶ?)ガリオンの指がすばやくたずねた。
(それほど深刻なものではないと思うわ)ポルガラの指が答えた。(一時的ヒステリーでしょうね、でもこういう発作があまり長くつづくのはよくないわ。まだ鬱状態から完全に回復していないのよ。なぐさめられるかどうか、やってみてちょうだい)
ガリオンは寝椅子に歩みよって、セ・ネドラをやさしく抱きとった。セ・ネドラはあいかわらず泣きじゃくりながらしがみついてきた。
「この若いご婦人は、こうしてよく泣きつづけることがあるの、ポル?」皇太后が、暖炉の真向いの椅子に並んですわりながら、ポルガラにたずねた。火格子の上で炎が陽気に踊っている。
「それほどひんぱんではありませんわ、タマジン」ポルガラが答えた。「でも、彼女の家庭で最近痛ましい出来事があって、そのせいで神経がまいっているんですの」
「まあ」ウルギットの母は言った。「お茶をいかがかしら、ポル? 朝お茶をいただくと、わたくしはいつもとってもくつろぐのよ」
「ありがとうございます、タマジン。すてきですわ」
すすり泣きは少しずつおさまってきたが、セ・ネドラはあいかわらずしっかりとガリオンにしがみついていた。やっとのことで彼女は顔をあげると、指先で涙をぬぐった。「ほんとにごめんなさい」セ・ネドラはあやまった。「なんだかわからないうちに涙がとまらなくなってしまったの」
「いいんだよ、ディア」ガリオンはセ・ネドラの肩を抱いたままつぶやいた。
セ・ネドラは薄い小さなハンカチでまた目をふいた。「きっとひどい顔でしょうね」涙声で小さく笑いながら言った。
「まあ、そうだな」ガリオンはうなずいて、にっこりした。
「一度あなたに言ったでしょ、ディア、人前で泣いてはいけないって」ポルガラがセ・ネドラに言った。「泣くと、顔が赤くなるんだから」
セ・ネドラはおずおずとほほえむと、立ち上がった。「顔を洗ってきたほうがいいわね。それから、少し横になりたいの」彼女はガリオンのほうを向いた。「きてくれてありがとう」
「必要なときはいつでもくるよ」
「一緒にいってあげたらどう、プララ?」レディ・タマジンが言った。
「もちろんです」ほっそりしたマーゴの王女はすばやく立ち上がった。
シルクはさっきからずっとそわそわとドアのそばに立って、緑の頭巾を深々とかぶり、うつむいて顔を隠していた。
「まあ、もうおよしなさい、ケルダー王子」セ・ネドラとプララが部屋を出ていってしまうと、皇太后は言った。「ゆうべあなたには気づきましたよ。だから顔を隠そうとしてもむだです」
シルクはためいきをついて頭巾をぬいだ。「そうじゃないかと思ってたんです」
「いずれにせよ、頭巾ではあなたの一番の特徴は隠せませんよ」
「どんな特徴です、皇太后?」
「鼻ですよ、ケルダー、その長くて尖った鼻は、どこに行こうともあなたに優先しますからね」
「でも、とてもりっぱな鼻ですわ、皇太后」ヴェルヴェットがえくぼを見せて言った。「あれがなかったら、ケルダーじゃないも同然ですもの」
「目ざわりじゃありませんか、おれがいても?」シルクはたずねた。
「本当に神出鬼没ね、ケルダー王子?」レディ・タマジンは言った。「マーゴ軍の半分にすぐあとを追いかけられながら、あなたがラク・ゴスカを出てからどのくらいになるかしら?」
「十五年か二十年でしょう、皇太后」シルクは火のそばに寄りながら答えた。
「あなたが出ていったと聞いたときにはがっかりしましたよ。あまり人好きのする感じではなかったけれど、あなたのおしゃべりはそれはもう楽しかったですからね。タウル・ウルガスの家には娯楽らしきものがほとんどありませんでしたから」
「すると、おれの素性をみんなに知らせるおつもりはないんですか?」シルクは用心深くたずねた。
「そういうことにわたくしの関心はないんですよ、ケルダー」皇太后は肩をすくめた。「マーゴの女は殿方の問題には首をつっこまないのです。大昔からわたくしどもはそのほうが安全であると身をもって感じてきましたからね」
「では、動揺なさっておられないのですか、皇太后?」ガリオンがたずねた。「というのは、ケルダー王子はあやまってタウル・ウルガスの長男を殺したと聞いているからです。少しも立腹なさらなかったんですか?」
「わたくしには関係のないことでした」彼女は答えた。「ケルダーが殺したのは、タウル・ウルガスの最初の妻の子だったのです――ゴラト家出身のあの憎らしい歯なしの女は、自分が世継ぎを生んだことでほくそえんでいたものですよ。そして、息子が王位についたらすぐに残りのわたくしどもをしばり首にするつもりだったのです」
「あなたがあの若者に特別な好意を寄せていなかったとわかって、ほっとしましたよ」シルクが言った。
「好意ですって? かれは化け物でしたわ――父親そっくりな。ほんの子供だったころ、かれは生きた子犬を煮えたぎる熱湯に投げ込んで喜んでいたものです。あんな人間はいないほうが世界のためですよ」
シルクが偉そうな顔をした。「おれはつねにそうしたささやかな公共奉仕をするのが好きでしてね。それが紳士たるものの義務だと思っているんです」
「かれの死は偶発的なものだったと言ったんじゃなかったっけ?」ガリオンが口をはさんだ。
「うむ、まあな。じつのところおれは腹を刺そうとしていたんだが――腹だと、苦痛は激しいが、致命傷にはめったにならない――おれが剣をつきだした瞬間にかれが体当たりしてきたんで、はずみで剣が心臓にずぶりと刺さったのさ」
「あわれだこと」タマジンはつぶやいた。「でも、わたくしだったらこのドロジムでは慎重にふるまいますよ、ケルダー。あなたの素性をあきらかにするつもりはありませんが、家令のオスカタットもあなたの容貌を知っていますからね、かれはおそらくあなたに仕返しする義務があると思っているでしょう」
「それはよくわかっています、皇太后。オスカタットは避けるようにしますよ」
「ところで、ケルダー王子、おとうさまはお元気なの?」
シルクはためいきをついた。「父は亡くなりました」悲しげに答えた。「もう数年になります。突然の死でした」
たまたま、シルクと話している皇太后の顔をまともに見ていたガリオンは、彼女の美しい顔が一瞬苦悩にゆがんだのを見逃さなかった。レディ・タマジンはすばやく立ちなおったが、その目にはまだ悲嘆があふれていた。「まあ」彼女はばかに静かな声で言った。「お気の毒なことを、ケルダー――わたくしがどれほど残念な気持ちでいるかあなたはわからないでしょうね。わたくしはあなたのお父上が大好きでしたわ。かれがラク・ゴスカにいた数ヵ月の思い出は、わたくしの人生が一番幸福なときでしたのよ」
見つめているのをさとられないように、ガリオンは横を向いた。ふとヴェルヴェットを見ると、彼女は思案気な表情を浮かべていた。ヴェルヴェットが見返してきたとき、その目には無数の意味と、答えられないいくつかの疑問が浮かんでいた。
[#改ページ]
3
翌朝は晴れて寒かった。ガリオンは部屋の窓辺に立って、ラク・ウルガの石板の屋根を眺めた。低くはいつくばった家々が、町の両端に位置するけばけばしいドロジム宮殿と、トラクの黒い神殿の一対の存在の足元で、こわごわと肩を寄せあっているように見えた。無数の煙突から風のない空へ、青いまっすぐな柱のような煙がたちのぼっている。
「気がめいってくる場所だよな、え?」シルクが緑の服をむぞうさに肩にひっかけて部屋にはいってきた。
ガリオンはうなずいた。「まるでわざと醜くしているみたいだね」
「マーゴの精神の反映なのさ。そうそう、ウルギットがまたおれたちに会いたがっている」小男はガリオンの物問いたげな目を見て言った。「べつだん重要な用じゃないらしい。たぶん、会話に飢えているんだろう。マーゴ人としゃべってもすぐあきちまうのは容易に察しがつくよ」
王の召集を伝えにきた鎖かたびらの護衛にくっついて、かれらはぞろぞろときらびやかな廊下を通って、前日ウルギットに会った部屋へ向かった。ウルギットは暖炉のそばの椅子にだらしなくすわって片脚を肘かけにのせ、片手に食べかけのチキンの脚を持っていた。「おはよう、諸君」ウルギットはかれらを迎えて言った。「すわってくれ」一方の壁ぎわに並んでいる椅子のほうへ朝食をふってみせ、「わがはいはあまり行儀にうるさくないんだ」かれはサディを見た。「よく眠れたか?」
「明け方は少し寒うございましたね、陛下」
「これはだらしのない建築物だからな、馬一頭通れるほどの大きなひびわれがいくつも壁にできているんだ。冬になると、廊下は吹雪さ」ウルギットはためいきをついた。「トル・ホネスがいま春だということに気づいているか?」またためいきをつき、ベルガラスをちらりと見た。ベルガラスは妙なにやにや笑いをうかべて立っていた。「なにがおかしいんだ、じいさん?」
「いえべつに。思いだし笑いです」老人は暖炉に近づくと、ばちばちと燃えている火に両手をかざした。「陛下の家来の方々はいつ船に乗ってくるのです?」
「準備が整うのは、早くても明日になるだろう」ウルギットは答えた。「冬が近づいているし、ウルガ半島の南端を取り巻く海は、天候のよい季節でもおだやかとは言いがたい。だからわがはいは船大工に特別気を配るよう命じておいたんだ」かれは身をのりだして、チキンの脚をぽいと暖炉のなかへなげこんだ。「焦げていたのさ」うわの空で言った。「ここでわがはいが食べる食事はどれもこれも焦げてるか生かだ」ウルギットは不思議そうにベルガラスを見つめた。「あんたがどうも気になるんだ、じいさん、ニーサの奴隷商人に雇われて一生を終えるタイプには見えない」
「見かけはあてにならないものです」ベルガラスは肩をすくめた。「陛下だって王さまには見えませんが、ちゃんと王冠をかぶっておられる」
ウルギットは手をのばして、鉄の輪をはずした。それをいやそうに眺めてから、ベルガラスに差し出した。「これがほしいか?」とたずねた。「あんたのほうがわがはいよりよっぽど似合いそうだ。なくなればせいせいする――カル・ザカーズがこれの下からわがはいの首をとりたくてうずうずしているとあれば、なおさらだ」ウルギットは王冠を椅子のかたわらの床へほうりだした。王冠は床にぶつかって鈍い音をたてた。「きのう話しあっていたことに戻ろう。ベルガリオンを知っていると申したな」
ベルガラスはうなずいた。
「どのくらい知っている?」
「他人のことを知っている者などいやしませんよ」
「質問をはぐらかしているな」
「そう思えますか」
ウルギットはそれを受け流して、じっと老人を見つめた。「わがはいと同盟を結んでマロリー人を大陸から追い出すことを提案したら、ベルガリオンはどう反応すると思う? マロリー軍の存在はわがはいに負けず劣らずベルガリオンを悩ませているはずだ」
「見込みはあまりないですな」ベルガラスは言った。「ベルガリオンを説得して名案だと思わせることはできても、アローンの他の君主たちがおそらく反対するでしょう」
「かれらはドロスタと和解にこぎつけたのだろう?」
「それはローダーとドロスタのあいだのことだったのですよ。ドラスニア人とナドラク人のあいだにはつねに周到な友情がありましたからな。陛下のお考えを認めてもらわなくてはならない相手は、チョ・ハグでしょう。ですが、チョ・ハグは必ずしもマーゴ人に友好的ではありません」
「わがはいに必要なのは味方だ、平凡な意見ではない」ウルギットはちょっと間をおいた。「ベルガラスに話したらどうだろう?」
「なんとおっしゃるのです?」
「西方の諸王国にとっては、わがはいよりもザカーズのほうがはるかに脅威であることを納得してもらうのだ。かれならアローン人に耳を傾けさせることができるかもしれない」
「それもあまり期待はできませんよ」老人は踊る炎をじっと見つめた。銀色の短いひげに火あかりが照りはえている。「ベルガラスは普通の人間とはちがう世界に住んでいることを理解なさらなければなりません。かれは神と原始の力の世界に住んでいるのです。かれにしてみれば、カル・ザカーズなどささいないらだち程度のものでしかないでしょう」
「|ちくしょう《トラクズ・ティース》」ウルギットはののしり声をあげた。「どうすればわがはいの求める軍隊が手にはいるのだ?」
「傭兵を雇われることです」窓のそばに立っていたシルクがふりかえらずに言った。
「なんだって?」
「宮殿の丸天井をけずって、アンガラクの偽の金をつくるのです。そして西方の諸王国に使者を送り、腕のいい兵士が必要であること、かれらに良質の金を払うつもりでいることを伝えるのです。志願兵がわんさと押しかけてきますよ」
「わがはいは愛国のために――あるいは宗教のために戦う兵のほうが好ましい」ウルギットは硬い口調で宣言した。
シルクはおもしろそうな表情でふりかえった。「わたしの観察では、たくさんの王さまがそれと同じ好みをお持ちです。ですが、信じてください、陛下、理想への忠誠は強さにばらつきがありますが、金への忠誠には一貫性があるのです。傭兵が兵士としてすぐれているのはそのためなんです」
「おまえは皮肉屋だな」ウルギットは非難した。
シルクは首をふった。「いいえ、陛下。おれは現実主義者なんです」かれはサディに歩みよってなにごとかささやいた。宦官がうなずくと、ネズミ顔の小柄なドラスニア人は部屋を出ていった。
ウルギットはどういうことだというように片方の眉をつりあげた。
「荷物を詰めるつもりですよ、陛下」サディが説明した。「明日出航するなら、用意をしておかねばなりません」
ウルギットとサディが十五分あまり静かに話し合っていると、部屋の向こう端にあるドアがまた開いた。ポルガラと他の女性たちがレディ・タマジンと一緒にはいってきた。
「おはようございます、母上」ウルギットは挨拶した。「よくお眠りになったのでしょうね?」
「ぐっすり休みましたよ、ありがとう」レディ・タマジンはとがめるようにウルギットを見た。「ウルギット、王冠はどこへやったのです?」
「ぬいだんですよ。あれをかぶっていると頭が痛くなるんです」
「すぐにかぶりなおしなさい」
「なんのためにです?」
「ウルギット、おまえは少しも王らしく見えませんよ。背は低いし、やせているし、顔はイタチそっくりです。マーゴ人は頭がよくないんです。いつも王冠をかぶっていないと、おまえがだれだかみんなに忘れられてしまいますよ。さあ、かぶりなさい」
「はい、母上」ウルギットは冠をひろいあげて、頭にのっけた。「これでどうです?」
「まがっているわ、ディア」その静かな口調は、ガリオンがびっくりしてすばやくポルガラをちらりと見たほど、なじみ深い言い方だった。「それじゃまるで飲んだくれの水兵ですよ」
ウルギットは笑い声をあげて、王冠をまっすぐにした。
ガリオンは注意深くセ・ネドラを見つめた。前日の激しい感情の揺れの痕跡が残っていないかと気になったのだが、あの嵐のような動揺がすぐまたぶりかえす気配はどこにも見あたらなかった。彼女はクタン家の王女プララと声をひそめておしゃべりをしており、マーゴの少女の顔を見れば、プララが早くもすっかりセ・ネドラにひきつけられてしまったのはあきらかだった。
「それで、おまえは、ウルギット、よく眠れたの?」レディ・タマジンが言った。
「じつは一睡もしていないんですよ、母上。ご存じのくせに。もう何年も前に、不眠症でいるほうが、永遠に眠りからさめないよりはずっといいという結論に達しているんです」
ガリオンは自分がこれまでの考えを苦労して改めようとしているのに気づいた。かれはマーゴ人が好きだったことはただの一度もなかった。マーゴ人にはつねに不信感をいだいていたし、恐怖感さえもっていた。ところが、ウルギット王の人となりは、その容貌同様まるでマーゴ人らしくなかった。すばしっこくて、移り気で、皮肉っぽいだじゃれをとばすかと思うと、いきなりむっつりだまりこむ。次になにがとびだすかまったく予想もつかない。ウルギットはどう見ても強い王ではなかった。ガリオンは自分も王である経験から、ウルギットがどこでまちがいを犯しているのかよくわかった。しかし、いつのまにかガリオンはウルギットが好きになり、絶望的なくらい不似合いな職務に悪戦苦闘しているウルギットに奇妙な同情を覚えた。言うまでもなく、そういう気持ちを持つのは禁物だった。ガリオンはこの人物を好きになりたくなかった。こんな同情を持つのは場ちがいもはなはだしいように思えた。ガリオンは椅子から立つと、部屋の向こう端へひっこんで、窓の外をながめるふりをしながら、マーゴの王のいんぎんな機知に耳を傾けまいとした。荒涼たる沿岸に肩を寄せあうこの醜悪なマーゴの都市や、本当はそれほど悪い男ではないが、敵と見なさなくてはならない、この弱くておどおどした人物から、一刻も早く離れて、船上の人となりたいと思った。
「どうかしたの、ガリオン?」ポルガラがうしろから近づいてきて、そっとたずねた。
「いらいらしているだけだよ、ポルおばさん。じっとしていられない気持ちなんだ」
「わたしたちみんながそうなのよ、ディア。でも、あと一日のしんぼうだわ」
「なんでかれはぼくたちをほっといてくれないのかな?」
「かれって?」
「ウルギットさ。ぼくはかれの悩みなんかどうでもいい。どうして一日中ぼくたちをつかまえてしゃべらなくちゃならないんだろう?」
「さびしいからよ、ガリオン」
「王なんてみんなさびしいもんさ。孤独は王につきものなんだ。だが、ぼくたちのほとんどはそれに耐えるすべを学ぶ。漫然とすわって、泣き言を言ったりしない」
「冷たいのね、ガリオン。あなたらしくもないわ」
「なんでぼくたちみんなが口のうまい軟弱な王のことを気にかける必要があるんだい?」
「たぶんそれは、ウルギットがわたしたちがじつに久しぶりに会った人間らしいマーゴ人だからだわ。かれの人柄のせいよ。いつかはアローン人とマーゴ人が流血にたよらずに不和解消の道を見つける可能性が、かれの中に見えるからよ」
ガリオンは窓の外を見つめつづけていたが、首すじにゆっくりと朱がさしてきた。「子供みたいなことを言っちゃったね」
「そうね、ディア、そう思うわ。偏見があなたの判断力をくもらせているのよ。凡人にはゆるされても、王にはゆるされないことだわ。さ、ウルギットのところへ戻りましょう、ガリオン、そしてかれをよく観察するの。かれを知るにはもってこいのチャンスよ。その知識があなたの役に立つときがくるかもしれないわ」
「そうだね、ポルおばさん」ガリオンはためいきをつくと、決然と肩をそびやかした。
正午近く、オスカタットが部屋にはいってきた。「陛下」かれは耳ざわりな声で知らせた。「ラク・ウルガの高僧アガチャクどのが謁見を求めておられます」
「お通ししろ、オスカタット」ウルギットは退屈そうに答えてから、母親のほうを向いた。「別の隠れ場所を見つけなくてはならないようですね。わがはいがどこで見つかるか、知っている者が多すぎます」
「わたくしの部屋にすばらしい戸棚がありますよ、ウルギット。暖かくて、乾いていて、暗いわ。あそこに隠れて毛布をかぶっていたらいいわ。ときどき食べ物をさしいれてあげましょう」
「からかっておられるんですか、母上?」
「いいえ、ディア。でも、好むと好まざるとにかかわらず、おまえは王なのですよ。王でいてもいいし、甘やかされた子供でいてもいいのです。おまえしだいなのよ」
ガリオンはうしろめたそうにポルガラをちらりと見た。
「なあに?」
だがガリオンは答えないことにした。
死人のような顔のアガチャクがはいってきて、おざなりに王にお辞儀し、「陛下」とうつろな声で言った。
「おそれおおい高僧どの」ウルギットは答えたが、その声にはまるで感情がこもっていなかった。
「ときが過ぎてゆきます、陛下」
「ときは過ぎてゆくものだと思ったが」
「わたしが申しますのは、天候が嵐になりそうだということですよ。船の準備はもうできているのですか?」
「明日には出航のはずだ」
「そうでしたか。では、カバチに用意をするように指示しておきましょう」
「尼僧のチャバトは落ち着きを取り戻したかね?」
「そうでもないようです、陛下。いまだに情夫の死を嘆いています」
「自分への男の本当の気持ちを知ったあとでもか? 女心というのはまことに奇怪なものだな」
「チャバトはそれほど複雑ではありません、陛下」アガチャクは肩をすくめた。「醜い女には恋人をひきつけるチャンスはそうないのですよ。ですから、不実な男でも死なれれば嘆きは大きいのです。しかし、特にこの場合のチャバトの損失の深さは普通以上のものがありましてな。ソーチャクはある魔法の儀式の遂行を手助けしていたのです。ソーチャクがいなくては、悪魔を呼び出す努力をつづけるのはむりでしょう」
ウルギットはみぶるいした。「チャバトは魔女だったはずだろう。それだけでは不満なのかね? なぜ魔法にまで手をだしたがるのだろう?」
「チャバトはじつはそれほど力のある魔女ではないのです」アガチャクは答えた。「悪魔をうしろだてにできれば、最終的にわたしと対決するときはるかに有利だと考えているのですよ」
「あんたと対決する? それがチャバトのたくらみなのか?」
「むろんです。チャバトがときどきわたしと戯れるのは、ほんの気晴らしなのです。彼女の主たる目的はこれまでつねに権力でした。いずれ、彼女はわたしから力ずくで権力を奪おうとするでしょうな」
「もしそうなら、どうしてチャバトに神殿であのような権力を与えたのだ?」
「おもしろかったのです」アガチャクはぞっとするような笑みをうかべた。「普通の人間にくらべて、わたしは醜いものにあまり反発を感じない。それにチャバトはあの野心にもかかわらず――というより、あの野心があるからこそ――非常に有能なのです」
「ソーチャクとの仲は知っていたのだろう。腹がたたなかったのか?」
「たちません」死人のような顔つきの高僧は答えた。「あれはわたしがみずからお膳立てをした楽しみの一部にすぎませんよ。最後にはチャバトは悪魔を呼び出すのに成功するでしょう。そしてわたしに挑んでくるはずです。彼女の勝利が目前に見えたとき、わたしも悪魔を呼び出すつもりです。わたしの悪魔がチャバトの悪魔をほろぼすでしょうな。そうしたら、あの女を裸にして聖所へひきずっていくのです。チャバトは祭壇に仰向けに寝かされ、わたしがこの手でじわじわと喉をかき切ってやるのです。その瞬間がいまから待ちきれないほどですよ。わたしを打ち負かしたとチャバトが思ったときに、チャバトの息の根をとめるのだから、快感もひとしおです」青ざめた顔がおぞましい喜びで生き返ったように赤味をおび、目はぎらぎらと輝いて、口の両端に唾がたまった。
それにひきかえ、ウルギットはなんだか吐きそうな顔つきだった。「グロリムというのは並みの人間より風変わりな楽しみかたをするようだな」
「そうでもないでしょう、ウルギット。権力の魅力はただひとつ、敵を滅ぼすのにそれを行使できるということです。息の根をとめる前にふんぞりかえっている敵をひきずりおろすことができれば、それにまさる楽しみはありませんよ。いかがです、ダガシのナイフを心臓につきたてられて、あのいばりくさったカル・ザカーズが死ぬところを見たくはありませんか?」
「いや。わがはいはザカーズがいなくなればそれでいい。その過程を特に見たいとは思わない」
「では、陛下はまだ権力の真の意味をご存じないのでしょう。陛下とわたしとでクトラグ・サルディウスの前に立ち、〈闇の神〉の再生と〈闇の子〉の最後の勝利を目撃したら、いまの考えも変わるかもしれませんぞ」
ウルギットが苦しげな表情になった。
「宿命に背を向けてはなりませんよ、ウルギット」アガチャクはうつろな声で言った。「最後の対決にアンガラクの王が立ち会うことは予言されているのです。その王はあなただ――いけにえを捧げ、再生する〈神〉の最初の弟子になるのがこのわたしであるようにね。われわれは宿命の鎖で固く結ばれているのですよ。あなたの宿命はアンガラクの大王になることだし、わたしの宿命は教会を支配することだ」
ウルギットは観念したようにためいきをついた。「しかしアガチャク、あんたがなんと言おうと、まだわれわれには乗り越えなくてはならない問題がいくつかある」
「そんなものはわたしにはどうでもよいのです」高僧は高らかに言った。
「だが、わがはいにはどうでもよくない」ウルギットはおどろくほどきっぱりと言った。「まず、われわれはザカーズを片づけなくてはならない。次にゲセルとドロスタを処分する必要がある――安全のためだ。前に王位争奪の争いを経験しているわがはいとしては、勝ち残ったのが自分ひとりだけになれば、そのほうがずっと自信が持てるのだよ。しかし、あんたの問題はもう少し重いだろう。ウルヴォンとザンドラマスはたいへんな強敵だ」
「ウルヴォンなど腰のふらついた愚かな年寄りです。ザンドラマスはただの女にすぎません」
「アガチャク」ウルギットは鋭く言った。「ポルガラもただの女だ。あんたは彼女に立ち向かえるかね? そうではあるまい、高僧どの、ウルヴォンだってあんたが考えているほどもうろくはしていないだろう。それにザンドラマスはあんたが信じたがっているよりもはるかに危険だ。あの女はベルガリオンの息子をまんまと誘拐した。あれは絶対に小手先の手品などではなかった。しかも、あんたたちがまるでそこにいなかったかのように、あんたがた高僧たちをまいてしまった。おたがいにこういうことをあまり軽く考えるのはよそうじゃないか」
「わたしはザンドラマスの居所を知っているんですよ」アガチャクがぞっとするような微笑をうかべて言った。「だからしかるべきときがきたら、ベルガリオンの息子を奪い取るつもりです。定められたときに、あなたとわたしと、いけにえになる赤ん坊がサルディオンの前にでることは予言されている。わたしはそこでいけにえの儀式を行なうだろうし、あなたはそれを目撃する、そしてわれわれふたりはナンバー・ワンの地位につく。そう書かれているのです」
「あんたがそれをどう読んだかによるよ」ウルギットはのろのろとつけくわえた。
ガリオンはなにげない顔をしてセ・ネドラに近づいた。グロリムの高僧がたったいま口にしたことの意味がわかって、セ・ネドラの顔からゆっくりと血の気がひきはじめた。「あんなこと、起こりゃしないよ」ガリオンは静かな声できっぱりと言った。「ぼくらの子にそんなことをするやつがいるもんか」
「知っていたのね」セ・ネドラは押し殺した声でガリオンを非難した。
「おじいさんとふたりで、神殿の書庫でグロリムの予言書の中にそう書いてあるのを見つけたんだ」
「ああ、ガリオン」セ・ネドラは泣き出すまいと、きつくくちびるをかみしめた。
「心配するな。その同じ予言書には、トラクがクトル・ミシュラクで勝つと書いてあった。トラクは勝たなかった、だから、これも現実にはならない」
「でも、もし――」
「もし、はない」ガリオンは断言した。「そんなことは起きないんだ」
高僧が立ち去ったあと、ウルギット王の気分は一変した。王座にすわったまま、気むずかしげに考えこんでいる。
「陛下はおひとりになられたいのではありませんか」サディが思い切ってたずねた。
「そうではない、サディ」ウルギットはためいきをついた。「どれだけ心配したところで、すでに動きだしたことは変えられないのだ」かれは首をふってから、いっさいにケリをつけるように肩をすくめた。「サルミスラがそんなにおまえに腹をたてる原因になった、ささいな不品行とはどんなことだったのか、詳しい話を聞かせてくれないか? 裏切りや不名誉な話に目がなくてな。そういう話を聞くと、いつも、この世も結局そう悪いところじゃないという気になれるのだ」
サディが失墜の引き金になった複雑な計略の話を、微に入り細に入りしゃべりだしてまもなく、家令がふたたび部屋にはいってきた。「クタカの軍司令官より至急便がとどきました、陛下」オスカタットはやすりをかけたような声で伝えた。
「今度はなにが望みなのだ?」ウルギットはうんざりしたようにつぶやいた。
「マロリー軍が南部で大がかりな戦いを展開しているとのことです。ラク・ゴラトは包囲攻撃されており、一週間以内に陥落するのは必至の状勢です」
「秋だというのにか?」ウルギットは叫んで、がっくりしたように椅子から立ち上がった。「夏がすでに終わったというのに、戦いをしかけているのか?」
「そのようです」オスカタットは答えた。「陛下の不意をつこうとのカル・ザカーズの計略でしょう。ひとたびラク・ゴラトが落ちれば、ザカーズ軍とラク・クタカのあいだにはなにもないも同然です」
「ラク・クタカの駐屯軍は存在しないも同じなのだろう?」
「残念ながら、ウルギットさま。ラク・クタカも陥落するでしょう。そうなると、ザカーズは丸ひと冬かけて、南部における支配を固めることができます」
ウルギットは汗をかきはじめた。壁にはられた地図のところへ急いで歩いていき、「モークトに駐屯しているわが軍はどのくらいいるのだ?」とひとさし指で地図をたたきながら問いつめた。
「クラダクを連れてまいったほうがよさそうですな」オスカタットは言った。「このことは将軍たちも知っておく必要があります」
「おまえが一番いいと思うようにしてくれ」ウルギットはしてやられた口調で答えた。
家令が大股に部屋を出て行くと、ガリオンは部屋をつっきって、地図を眺めた。ひとめ見ただけで、ウルギットのかかえる問題を打破する方法が頭にうかんだが、それをしゃべるのは気が進まなかった。巻き込まれるのはごめんだった。口をつぐんでいたほうがいい理由はいくらでもあった――なかでも一番重要なのは、マーゴの王に解決法を申し出たら、ある意味でかかわりあいをもってしまうということだった。どんなにささいなものであれ、ウルギットとかかわりあいになるのはなんとしても避けたかった。しかし、問題を未解決のままにしておくことは、ガリオンの責任感が許さなかった。それに背を向けるのは――たとえそれが彼自身の責任ではなくても――心の奥底にあるなにかを踏みにじるのに等しかった。ガリオンはひそかに悪態をついてから、悩めるウルギットのほうを向いた。「失礼ですが、陛下」遠回しに核心に近づいた。「ラク・クタカはどの程度要塞化されているのですか?」
「マーゴのあらゆる都市と同じだ」ウルギットはうわの空で答えた。「城壁は高さ七十フィート、厚さが三十フィートある。それがどうかしたか?」
「では、包囲攻撃には耐えられますね――十分な兵を配置できれば」
「それが問題なのだ――兵がたりない」
「ではマロリー軍がラク・クタカに着く前に、増援部隊を送り込む必要があります」
「名案だな。だが、増援部隊の到着が間に合わなかったら、通りがマロリー軍でいっぱいになる前にどうやって部隊をはいりこませるのだ?」
ガリオンは肩をすくめた。「船で送りこむんです」
「船で?」ウルギットはぽかんとした。
「こちらの港には船がたくさんありますし、この都市は兵ではちきれそうです。ラク・クタカの駐屯軍を増強するために、船に兵を乗せて、送りこめばいいんです。ラク・ゴラトがあす陥落したとしても、マロリー軍が陸路で前進すればラク・クタカまで十日はかかるでしょう。船なら一週間以内に到着できます。駐屯部隊を増強してやれば、救援隊が到着するまで都市を守ることができますよ」
ウルギットはかぶりをふった。「マーゴ軍は船による移動はしないのだ。将軍たちが聞き入れようとせんだろう」
「あなたは王でしょう? 聞き入れさせるんです」
ウルギットの顔は悲観的だった。「連中はわがはいの言うことには耳をかさないのだよ」
ガリオンはウルギットをゆさぶってやりたい衝動をかろうじて抑えた。「歩くほうがりっぱだなんてことはありゃしないんです」かれは言った。「ラク・クタカまで兵を行進させたら、都市を失うことになるんですから、なおさらじゃありませんか。将軍たちにお言いなさい、兵を船に乗せるとね、そしてこの件に反論は許さないとも言うんです」
「連中は言うことを聞かないよ」
「だったら、かれらを地位からはずして大佐を何人か昇進させたらいかがです」
ウルギットはぎょっとしたようにガリオンを見つめた。「そんなことはできない」
「あなたは王なんですよ。やりたいことはなんだってできるんです」
ウルギットは優柔不断だった。
「その人の言うとおりになさい、ウルギット」レディ・タマジンがだしぬけに命令した。「ラク・クタカを救うにはそれしかないわ」
ウルギットは放心したような顔で母親を見た。「本当にそうすべきだと思うんですか、母上?」小さな声でたずねた。
「そうするのよ。このお若い人の言ったとおり、あなたは王なんですからね――そろそろ王らしくふるまってよいときだわ」
「ほかにも考慮すべきことがありますよ、陛下」サディがまじめな顔で言った。「マロリー軍がラク・クタカを包囲攻撃したら、わたしはそこに上陸できません。戦いがはじまる前にその近辺を通過していなくてはならないでしょう。奴隷商人はほとんど干渉されずに動き回ることができますが、実際に戦闘が始まってしまったら、マロリー軍はわれわれを拘留するにきまっています。すぐにでも行動しないと、あなたのダガシ人は次の夏までにラク・ハッガに到着できませんよ」
ウルギットの顔はますます暗くなった。「それを忘れていた。おまえと従者たちはすぐここを発つ用意をしたほうがいいだろう。神殿に使いをやって、アガチャクに計画が変更したことを伝える」
ドアがひらいた。オスカタットがはいってきた。前日無遠慮にウルギットの署名を要求したマーゴの将軍が一緒だった。
「ああ、クラダク将軍」ウルギットは快活をよそおって挨拶した。「きてくれてよかった。南部で起きていることはもう聞いたかね?」
将軍はそっけなくうなずいた。「状勢は深刻です」かれは言った。「ラク・ゴラトとラク・クタカは存亡の危機にあります」
「あんたならどういう忠告をする、将軍?」ウルギットはたずねた。
「忠告などありません」クラダクは言った。「ゴラトとクタカが敵のものになる事実を受け入れて、ウルガ、モークト、アラガを固守することに努力を注ぐしかありませんな」
「将軍、それではクトル・マーゴスの九つの軍管区のうち、わがはいの支配下にあるのはただの三ヵ所になってしまう。王国はザカーズにひとのみにされてしまうぞ」
将軍は肩をすくめた。「マロリー軍より先にラク・クタカに到着するのはむりですな。都市は陥落するでしょう。しかたのないことですよ」
「あそこの駐屯軍を増強したとしたら、どうだ? 状況は変わってくるのではないか?」
「たしかに、だが、不可能です」
「見込みはあるかもしれん」ウルギットはすばやくガリオンを見やった。「船で増援部隊を移動させるのをどう思う?」
「船で?」将軍は目をぱちくりさせたが、すぐにけわしい顔になった。「ばかげている」
「どうしてばかげているのだ?」
「クトル・マーゴスではそのようなことは行なわれたためしがないんですよ」
「クトル・マーゴスで行なわれたためしのないことなど、いくらでもあるだろう。船ではうまくいかないという特別な理由でもあるのか?」
「船に沈没はつきものです、陛下」クラダクは子供相手にしゃべっているかのように、皮肉っぽく指摘した。「部隊もそのくらいのことは知っていますからね、乗船を拒否するでしょうな」
オスカタットが前に進みでた。「甲板の上で最初に拒否した者を十人ばかりはりつけにしてやれば、そうでもなくなります」かれは断固たる口調で言った。「そういう見せしめは、残りの兵の抵抗を弱めるはずです」
クラダクが露骨な憎悪を浮かべて、ごま塩頭の男を一瞥した。「家令ごときに司令のなにがわかるんだ?」と問いつめると、ふたたび冷笑を隠そうともせずにウルギットの方を向いた。「あなたはそこにすわっていればよろしいのですよ、ウルギット」しわがれ声で言った。「王冠と笏《しゃく》をもてあそびながら、本物の王だというふりをしていればいいのです。だが、戦争の指揮にはくちばしをつっこまないでいただきたい」
ウルギットは青くなって、しょんぼりと椅子に沈みこんだ。
「首切り役人を呼びにやらせましょうか、陛下?」オスカタットが氷のような声で問いかけた。「クラダク将軍は長生きをしすぎて、もう役立たずと思われます」
クラダクが信じられないようにオスカタットを凝視した。「よくもそんなことを!」あえぐように言った。
「あんたの命はいまや陛下のご気分しだいだぞ、クラダク。陛下が一言おっしゃれば、あんたの首は土ぼこりの中にころげ落ちるのだ」
「おれはクトル・マーゴスの軍隊を率いる将軍だぞ」クラダクはすがるように首にさげた金鎖をにぎりしめた。「タウル・ウルガスその人から約束された地位だ。おまえに指図される筋合いはない、オスカタット」
ウルギットが椅子の中で身を起こした。顔が怒りで赤くなっている。「ほう、そうなのか?」かれは危険なほど静かな声で言った。「二、三の事柄をはっきりさせるときがきたようだな」かれは王冠をぬいで、かかげもった。「これがわかるか、クラダク?」
将軍は無表情な顔でウルギットをにらみつけた。
「答えろ!」
「クトル・マーゴスの王冠です」クラダクはふてくされて答えた。
「だから、これをかぶっている者には絶対の権力があるのだ、そうだな?」
「タウル・ウルガスさまはそうでした」
「タウル・ウルガスは死んだ。いまはわがはいが王座についている。おまえは父にしたがったように、わがはいにしたがうのだ。わかったか?」
「あなたはタウル・ウルガスではない」
「そんなことはわかりきっている、クラダク将軍」ウルギットは冷たく答えた。「だが、わがはいはおまえの王だ、ウルガ家の一員でもある。興奮すると、ウルガ一族の狂気がしのびよってくるのを感じるのだ――いまも狂気が猛烈な早さで近づいてくる。わがはいが命じたとおりにしないと、日が沈む前に首がとぶぞ。さあ、部隊に乗船命令をだしてこい」
「もし拒否したら?」
ウルギットの表情が揺れた。なぜか、かれは訴えるようにガリオンを見た。
「殺すんだ」ガリオンは人々の注意をただちにとらえずにおかない、あの平板な声で言った。
ウルギットはふたたび背筋を伸ばすと、鐘の引き綱をぐいとひっぱった。外の廊下で大きなどらの音がひびいた。すぐさまふたりのたくましい護衛が応じた。
「はい、陛下?」ひとりがたずねた。
「どうなんだ、クラダク?」ウルギットはきいた。「どうする? 船か首切り台か? さっさと言え。一日中待っているわけにはいかんぞ」
クラダクの顔は土気色になった。「船です、陛下」かれはふるえ声で答えた。
「よろしい。不快な事態にいたらずに、ささいな不和を解消できてまことによろこばしい」ウルギットは護衛たちのほうを向いた。「クラダク将軍はいまから第三歩兵隊の兵舎へ直接出向くことになっている。おまえたちもついていけ。将軍は兵隊たちに港にある船で、ラク・クタカの駐屯部隊の救援に向かうよう命じるはずだ」かれは目を細めて、疑うようにクラダクを見た。「もしかれがそれ以外のことを命じたら、その場で首をはね、わがはいのところへもってこい――バケツに入れてな」
「かしこまりました」護衛は声をそろえて答えると、こぶしで鎖かたびらの胸をたたいた。
クラダクはにわかにうちしおれたようすで、ふるえながら回れ右をし、冷たい表情の護衛たちにぴたりと両わきをはさまれて、出ていった。
ウルギットはドアがしまるまで堂々たる表情をくずさなかったが、やがて万歳と言うように両腕をつきあげて、床を踏みならし、快哉を叫んだ。「はは、やったぞ!」うっとりと言った。「いい気分だった! 生まれてからずっと、ああいうことがやりたかったんだ!」
レディ・タマジンが椅子からおごそかに立ち上がり、脚をひきずって息子のすわっているところへ行くと、だまってかれをだきしめた。
「愛情のしるしですか、母上?」ウルギットは鋭い容貌をにやにや笑いでくしゃくしゃにしたまま、陽気にたずねた。「まるでマーゴ人らしくありませんね」そう言うと、ウルギットは笑い声をあげて、乱暴にレディ・タマジンを抱きしめた。
「結局、希望はあるようだわね」彼女は静かにオスカタットに話しかけた。
大きなマーゴ人の口元にかすかな笑いが浮かんで消えた。「これまでより多少期待がもてそうです、皇太后さま」オスカタットは同意した。
「助け船をだしてくれて感謝するよ、オスカタット」ウルギットは家令に言った。「きみの助けがなかったら、あそこまでできなかったかもしれない」かれは言葉をきった。「しかし、きみがわがはいの計画に賛成だとはいささか意外だったと言わなくてはならないな」
「賛成ではありません。はじめからうまくいきそうもないばかげた考えだと思っています」
ウルギットは目をぱちくりさせた。
「ですが、もうひとつゆるがせにできないことがあったのですよ――そのほうがはるかに重要なのです」大男の顔に奇妙な誇りが浮かんだ。「陛下が将軍たちのひとりを威圧したのは、これがはじめてだということにお気づきですか? 将軍連中は、陛下が即位なさった日以来、陛下を踏みつけてきたのです。船数隻と二、三千人の兵を失うぐらい、正真正銘の王がクトル・マーゴスの王座に就いた代償には安いものです」
「率直な意見をありがとう、オスカタット」ウルギットはいかめしく言った。「だが、事態はおまえが考えているほどひどいことにはならないかもしれない」
「そうかもしれません、しかし、タウル・ウルガスだったら、こんなことはなさらなかったでしょう」
「いつかタウル・ウルガスがもうこの世にいないことをわれわれみんなが喜ぶ日がくるかもしれないそ、オスカタット」わずかに皮肉めかした微笑が王の口元をよこぎった。「じっさい、わがはいは早くも小さな歓喜がこみあげてくるのを感じたような気がするのだ。この戦争はわがはいに不利だ。戦いに負けている者は思い切った手段に出るしかない。カル・ザカーズがわがはいの首を竿の先にぶらさげてラク・ウルガの街を行進するのを防ぎたかったら、いちかばちかやってみるしかないんだ」
「おおせのとおりに」家令は一礼しながら言った。「わたしも少し命令を出さねばならないようです。さがってもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
オスカタットはきびすをかえしてドアのほうへ歩きだした。ところがそこまで行かないうちに、ドアが開いてシルクが部屋にはいってきた。家令は足をとめて、まじまじとドラスニア人を見つめた。シルクの手がすばやく頭巾のほうへ動いたが、やがてかれは残念そうに顔をしかめて手をおろした。
ガリオンは心のなかでうめき声をあげた。用心深くオスカタットの背後に近づいていくと、ダーニクと巨漢のトスも万一にそなえてオスカタットを両わきからはさむように接近してくるのが見えた。
「きさま!」オスカタットはシルクに向かってわめいた。「ここでなにをしている?」
シルクは観念した表情になった。「通りすがりだよ、オスカタット」となにげなく答えた。「元気らしいね?」
ウルギットが顔をあげた。「どういうことだ?」
「家令とわたしは古い友人なんです、陛下」シルクは答えた。「何年か前にラク・ゴスカで会ったことがありましてね」
「陛下はこの男の素性を知っておられるんですか?」オスカタットが問いつめた。
ウルギットは肩をすくめた。「サディの従者のひとりだ。そう聞いている」
「真っ赤な嘘です、ウルギット。こいつはドラスニアのケルダー王子ですよ、世界きっての悪評高い密偵です」
「それはいささかほめすぎというものだよ」シルクはやんわりと言った。
「ラク・ゴスカでおまえの悪計がばれたとき、タウル・ウルガスがおまえを拘留するために送り込んだ兵隊たちを殺したのを否定するのか?」オスカタットは非難した。
「本当に殺した≠ニいう言葉を使ったかどうかわからないがね、閣下」シルクはひるんだ。「まあ、多少不快なことがあったのは認めるが、殺したというのは、要約としてはあまりいただけないな」
「陛下」陰気な顔の年配のマーゴ人は言った。「陛下の長兄であられるドラク・ウルガスの死はこやつの責任ですぞ。長年こやつの死刑を望んでおりましたが、即刻実行に移しましょう。ただちに首切り役人を呼びにやらせます」
[#改ページ]
4
ウルギットの顔がひややかになっていた。かれは目を細めて神経質に指の爪をかんだ。「ようし、サディ。これはいったいどういうことだ?」
「陛下――わたしは――」宦官は片手を広げた。
「知らんぷりをするのはやめろ」ウルギットはぴしゃりと言った。「おまえはこの男のことを知っていたのか?」とシルクを指さした。
「は、はあ、ですが――」
「わがはいに隠していたのか? なにをたくらんでいるんだ、サディ?」
宦官はちゅうちょした。ガリオンが見ると、サディの額に玉の汗が吹き出している。ダーニクとトスがさわらぬ神にたたりなしとでもいうように、なにげなくオスカタットのそばを通って、ドアの両側の壁によりかかった。
「どうなんだ、サディ?」ウルギットがせきたてた。「このケルダー王子のことは聞いたことがある。かれはたんなる密偵ではない。暗殺者でもある」ウルギットの目がにわかに大きくなった。「そうだったのか!」かれはシルクを凝視しながら、あえぐように言った。「ベルガリオンがわがはいを殺すために、おまえをここに送り込んだのだな――おまえとここにいるその他のアローン人を」
「ばかなことを言うもんじゃありません、ウルギット」レディ・タマジンが椅子から言った。「かれらがここに到着してから、おまえはこの人たちと何時間も一緒にいたではありませんか。この人たちがおまえを殺す目的でここにきたなら、とっくにおまえは死んでいますよ」
ウルギットは考え込んだ。「いいだろう、おまえ――ケルダー王子――がしゃべるんだ。おまえがここでなにをしているのか正確なことが知りたい。さあ、しゃべるんだ」
シルクは肩をすくめた。「オスカタット閣下に言ったとおりですよ、陛下、おれはただの通りすがりの者です。おれの任務は世界の別の場所にあるんです」
「どの場所だ?」
「ほうぼうですよ」シルクははぐらかした。
「明確な答えがほしいのだ」ウルギットは断固として主張した。
「首切り役人を呼びにやらせましょうか、陛下?」オスカタットが不吉なことを言った。
「それも悪い考えではないな」ウルギットはうなずいた。
家令は回れ右をしたが、ダーニクと無表情のトスが行く手に立ちふさがっていた。ウルギットはたちまち状況をのみこんで、すばやく鐘の引き綱に手を伸ばした。それを引けば、武装したマーゴ人がなだれこんでくるだろう。
「ウルギット!」レディ・タマジンがぴしゃりと言った。「やめなさい!」
ウルギットはためらった。
「わたしの言うとおりになさい!」
「どういうことです?」
「まわりをごらん」レディ・タマジンは息子に言った。「おまえがその綱にちょっとでもさわったら、ここにいる者たちのひとりがおまえの喉にナイフをつきつけるでしょう」
ウルギットはにわかにおびえた顔になって、ゆっくりと手をおろした。
サディが咳きばらいした。「あの――陛下。皇太后さまはこの問題の核心をついておられると思います。われわれはたがいにきわめて不都合な立場にあります。不快な事態にいたらぬうちに、冷静な話し合いをしたほうが賢明ではないでしょうか?」
「おまえのねらいはなんだ、サディ?」ウルギットはわずかに声をふるわせてたずねた。
「陛下がずっとなさるおつもりだったことですよ。ケルダーが言いましたように、われわれの任務は世界の別の場所にあるのです。陛下とは直接関係のないことでございます。われわれに提供するおつもりでいらっしゃる船を早く貸してください。そうすれば、かわりにわれわれはダガシ人を約束どおりラク・ハッガへ連れていきましょう。そのあとは、われわれ自身の任務を遂行するのみです。これ以上に公平なことがあるでしょうか?」
「サディの言うことに耳を傾けるのですよ、ウルギット」レディ・タマジンがうながした。「かれの話はいちいちもっともだわ」
ウルギットの顔は疑惑でいっぱいだった。「本当にそう思うのですか、母上?」
「かれらがひとたびマロリー軍の戦線の向こうにはいってしまえば、おまえにどんな危害を加えられるというんです? かれらのことが気になるなら、一刻も早くラク・ウルガから追放することです」
「このひとりをのぞいてです」オスカタットがシルクを指さした。
「かれはわれわれになくてはならぬ存在でございます、閣下」サディが丁重に言った。
「こやつはドラク・ウルガスを殺したのだ」家令は頑固だった。
「そのことでは、あとでかれにメダルをやってもいいな、オスカタット」ウルギットが言った。
オスカタットは、ウルギットをまじまじと見つめた。
「おいおい、なにをとぼけているんだ。おまえだってわがはいに劣らぬくらいドラクを嫌っていたじゃないか」
「かれはマーゴの王子だったのですよ、陛下。かれを殺した者をほうっておくわけにはまいりません」
「わがはい自身、王座につくまでに自分の兄弟を――王女たちまで――たくさん殺したのだぞ、おまえはそのことを忘れているらしいな。わがはいのことも同じように罰するつもりか?」ウルギットはサディに視線を戻した。「しかし、ケルダーをここドロジム宮殿にひきとめておくのも、悪くないかもしれん。いわば人質がわりにな。おまえがカバチをラク・ハッガに送り届けたら、シルクを解放しよう。あとでおまえたちに追いつけるだろう」
サディの表情は苦しげだった。
「おまえは大事なことを見落としていますよ、ウルギット」レディ・タマジンがいわくありげに身をのりだして言った。
「ほう、なんです、母上?」
「ドラスニアのケルダー王子はベルガリオン王のもっとも親しい友人のひとりという評判です。リヴァの王への手紙を託すには、願ってもない使者がここにいるのですよ」
ウルギットは鋭くシルクを見た。「それは本当か? 本当にベルガリオンを知っているのか?」
「よく知っていますよ」シルクは答えた。「かれが子供のころから知っています」
「あそこにいるあの老人は、ベルガリオンはいまリヴァにはいないと言っていたが、どこへ行けばかれを見つけられるか見当がつくか?」
「陛下」シルクは真顔そのもので答えた。「正直な話、いまこの瞬間ベルガリオンがどこにいるかもちゃんと知っていますよ」
ウルギットは疑わしげな目つきで、頬をかいた。「気にいらないな。わがはいがおまえにベルガリオン宛ての手紙を託すとして、おまえがそれをほうりなげて友人に合流しないとどうして断言できる?」
「道義心ですよ」シルクは肩をすくめた。「おれはつねに報酬を支払われれば、やるだけのことはやります。むろん金は払うおつもりだったんでしょうね?」
ウルギットはしばらくシルクを凝視していたが、やがて頭をのけぞらして笑った。「たいした度胸だな、ケルダー。首切り役人の家から二歩たらずのところにいるというのに、わがはいから金をまきあげようというのか」
シルクはためいきをついて、悲劇的にあたりを見回した。「どうして報酬≠ニいう言葉を口にすると、世界中の王は判で押したように狼狽した目つきになるんでしょうかね? まさか陛下はおれがこのめったにない仕事を無報酬で引き受けるとお考えなんじゃないでしょうな?」
「首をはねられるより、十分な報酬をもらうほうが大事だと言うのではなかろうな?」
「おれの首がとぶ心配はまずありませんよ。陛下の手紙をぶじ届けられるのは世界中でおれひとりだけなんですからね、殺すにはもったいなさすぎます、そうでしょう?」
レディ・タマジンがいきなり笑いだした。彼女はいたずらっぽい表情でふたりを見くらべた。
「なにかおもしろいことでもありますか、母上?」ウルギットがたずねた。
「いいえ、ウルギット。なんでもないの」
王の目はまだためらっていた。かれは期待をこめて家令を見た。「どう思う、オスカタット?」
「お決めになるのは陛下です」大柄なマーゴ人は堅苦しく答えた。
「王としてきいているのではない。友人としてきいている」
オスカタットはひるんだ。「それは残酷というものです、ウルギット。陛下はわたしに義務と友情のどちらをとるか決めろと言っておられる」
「ようし、それでは、やり直しだ。わがはいはどうすべきだろう?」
「王としては、法にしたがうべきです――たとえそれが陛下ご自身の最大の利益に反することになろうとも。しかし、人間としては、災難を避けるために差し出されるチャンスは残らずつかむべきです」
「それで? どうしたらいい? 王であるべきか、人間であるべきか? おまえはどう進言する?」
問いがふたりの間にぶらさがった。家令はウルギットと目を合わせまいとした。かわりに、かれは訴えるようにすばやくレディ・タマジンを見た。「トラクよ、おゆるしください」ついにオスカタットはつぶやくと、背筋をのばし、まともに王の顔をみすえた。「災難は避けるべきです、ウルギット。このドラスニア人がベルガリオンとの同盟のお膳立てをととのえることができるなら、かれが要求するだけのものを払って、送り出すのです。ベルガリオンはいつかは陛下を裏切るかもしれません。だが、カル・ザカーズはいま陛下の首をねらっています。どんな犠牲をはらってでも、陛下には同盟国が必要です」
「ありがとう、オスカタット」王は心からの感謝をこめて言った。かれはシルクに向きなおった。「どのくらい早く、わがはいの手紙をベルガリオンに届けられると思うか?」
「陛下」シルクは答えた。「陛下のご想像よりはるかに早くベルガリオンの手にお手紙を渡せますよ。では、金の話をしましょうか?」ガリオンはシルクの長いとがった鼻が例によってぴくぴくしはじめたのにすぐ気づいた。
「どのくらいほしいのだ?」ウルギットは用心深くたずねた。
「そうですね」シルクは考えるふりをした。「トルネドラ金貨で百マルクもあれば事足りるでしょう」
ウルギットはあんぐりと口をあけた。「百マルクだと? 正気の沙汰か?」
シルクはなにげないふうで片手の爪を眺めた。「値段は交渉の余地ありですよ、陛下。おれはただ、事をスムーズにはじめるためにだいたいの値段の枠を決めておきたかったんです」
ウルギットの目に奇妙な光が宿った。かれは身をのりだして、うわの空で鼻をひっぱった。「十マルクかそこらならまちがいなく払えるがね」かれは言い返した。「そんな多額のトルネドラのコインはわがはいの金庫室にはないのだ」
「ああ、ご心配にはおよびません、陛下」シルクは寛大に言った。「アンガラクのコインでも喜んで受け取りますよ――むろん、多少割引価格で」
「割引価格?」
「アンガラクの金貨はあきらかに混ぜ物がはいっていますからね、ウルギット王。だから黄色じゃなく赤いんです」
ウルギットは目を細めてシルクを見つめた。「椅子をもっと近くへもってきたらどうだ。この交渉はすこし長引きそうだぞ」不思議なことに、ウルギットの鼻もぴくぴくしはじめていた。
そのあとに起きたことは、どちらの交渉者もそうとうなくわせ者であることをあきらかにした。このたぐいの状況におかれたシルクをこれまで何度となく見てきたガリオンは、鼻のとがったこの友人がこと取引の場にのぞむと無類のすご腕であることを信じて疑わなかった。ところが、ウルギットもまたすご腕であることがたちまちあきらかになったのだ。シルクが手紙を運ぶ途中で直面しなければならない危険を適度に誇張して指摘すると、ウルギットは報酬を増額するよりもマーゴの兵を護衛につけると申し出ることによって、きりかえした。シルクはその線から攻撃するのをやめて、余分な出費――新しい馬や、食べ物や宿泊代など――にしばらく的をしぼった。するとマーゴの王はいちいち金ではなくて物質面での援助――馬や食べ物やマーゴの大使館や貿易会館での宿泊――を提案し、買収の必要性を避けるために、マーゴの公務員宿舎を紹介しさえした。シルクはそれを考えるふりをしながら、相手の顔からかたときも目を離さなかった。やがてかれはふたたび最初に準備した立場に戻って、リヴァの王との友情をあらためて強調し、自分はこの世のだれよりもうまく、きわめて好もしい状況で、ベルガリオンに同盟を求める手紙を渡すことができるのだと主張した。「結局」シルクは結論づけた。「最終的問題は、その同盟が陛下にとってどの程度価値があるかということでしょうな」
「非常に大きな価値がある」ウルギットは率直なふりをして認めた。「だが、あんたが完璧な使者であることは認めるが、ベルガリオンが同盟に賛成するかどうかの保証はまったくない。はて?」ウルギットは言葉をきり、いかにもたったいま思いついたと言わんばかりの顔をして、「いいことがあるぞ」と、さも熱心そうに言った。「手紙を実際に配達する仕事には、もう少し穏当な金額をきめないか――そうだ、わがはいがさっき言った十マルクにしよう」
シルクの顔が硬くなったが、ウルギットが片手をあげて、「最後まで聞いてくれ、殿下」と言った。「いま言ったように、手紙を運ぶ仕事への報酬としての金額は十マルクにするんだ。ただし、ベルガリオンが同盟に賛成したら、あんたが要求した金額の残りを喜んで支払う」
「それではとても公平とは言えませんよ、陛下」シルクは抗議した。「あなたは問題をまるごとすりかえてしまっている。手紙を渡すところまでは保証できますよ。だが、かれがその内容を認めるところまでは保証できない。ベルガリオンは独立した王です。指図はできません。かれがあなたの提案にどう反応するか知るすべもないんです」
「あんたはベルガリオンのもっとも古い友だちだと言わなかったか? 少なくともかれがその問題をどう見るか、見当ぐらいはつくだろう」
「あなたは交渉の根本のところをまるごと動かそうとしておられる。陛下」シルクが非難した。
「ああ、わかっている」ウルギットはにやにや笑った。
「あなたとベルガリオンの同盟を確固たるものにするには、もっとずっと高額の報酬が必要ですよ」シルクがやりかえした。「あなたの提案はまったく運まかせなんですよ」
「運まかせ? どういうことだ?」
「ベルガリオンはまったく自由な代表者というわけじゃないんです。たとえ〈西方の大君主〉でも、他国の王たちにたいする責任がある――とりわけアローンの王たちへの責任がね。率直に言いますが、アローン人はマーゴ人を嫌っています。おれがベルガリオンを説得してあなたと同盟を結ぶことになったら、ほかのアローンの王たちはおれを裏切り者だと考えるにきまってます。そうなったら、おれはこのさき死ぬまでかれらの放った暗殺者から逃げ回らなくちゃならない」
「そんなことはとうてい信じられんな、ケルダー」
「かれらをご存じないからですよ。アローン人というのはおそろしく執念深い人種なんです。もしおれがアローン人の基本的考えにそむいたと思ったら、おれのおばだっておれの首ねっこをおさえろと命令するでしょうね。あなたの提案はまったく問題外です――むろん、本当に意義深い金額についての話をはじめるなら別ですが」
「意義深いというと?」ウルギットが用心しながらたずねた。
「そうですね――」シルクはその問題を考えるふりをした。「当然おれは西方の諸王国でやっている事業をすべて放棄しなけりゃならないでしょう。アローンの王たちがおれを無法者と決めつけたら、おれの財産はどのみち没収される。おれの商売上の投機は多岐にわたっているから、その公平な価値を確立するにはかなりの時間がかかります。それに、もちろんアローン人の追跡の手が届かない世界のどこかで事業を起こす費用が必要です」
「それはわけないことだ、ケルダー。クトル・マーゴスへきたらいい。わがはいがあんたを保護しょう」
「おこらないでくださいよ、陛下、だが、クトル・マーゴスはおれには合いません。マル・ゼスかメルセネあたりを考えていたんです。メルセネならたぶんうまくやっていけるでしょうな」
「シルク」ベルガラスがいきなり言った。「いったいなにが言いたいのだ?」
「おれはただ――」
「おまえさんのやろうとしていることはわかってる。楽しむのはあとでもできるだろう。いまのわれわれに必要なのは船だ」
「ですけどね、ベル――」シルクはあわてて言葉をのみこむと、すばやく横目でウルギットのようすをうかがった。
「おまえは命令を出す立場ではないぞ、じいさん」マーゴの王はそう言ってから、猜疑に満ちた目であたりを見回した。「なにかわがはいの気にいらないことが進行しているらしい。きょうはだれもどこへも行ってはならん。ことの真相をつきとめるまで、おまえたちのだれも自由にしてやらんぞ」
「ばかなことを言うのはおよしなさい、ウルギット」母親が口をはさんだ。「この人たちはすぐにでも出発しなければならないのですよ」
「口出ししないでください、母上」
「子供じみたふるまいはよしなさい。サディは戦いがはじまらないうちに、ラク・クタカを通過しなければならないんです。ケルダーも一時間以内にベルガリオンのところへ出発する必要があります。腹だちまぎれにせっかくのチャンスをふいにしてはなりません」
ふたりの視線がからみあった。ウルギットの顔が急に怒りで赤くなったが、母親は動じなかった。かなりたってから、ウルギットは目を伏せ、つぶやいた。「母上らしくもない。どうしてわざと人前でわがはいをはずかしめようとなさるんです?」
「そんなことはしていません、ウルギット。わたくしはおまえの目をさまそうとしているだけですよ。王たるものは、つねに現実にしたがわねばなりません――たとえそうすることで、プライドを傷つけられてもです」
ウルギットは射るような目でレディ・タマジンをじっと見つめていた。「事態はそれほど切迫してはいませんよ、母上。サディには時間的余裕があるし、ケルダーにしてもあと一日かそこらは出発する必要はないんです。わがはいに分別がなかったら、これ以上かれらとわがはいを話し合わせたくない個人的理由が母上にあるのではないかと思うところです」
「ばかばかしい!」レディ・タマジンの顔はまっさおだった。
「動揺していますね、母上。なぜですか?」
「彼女からあなたには言えません」エリオンドがふいに口を開いた。若者はそばの窓の正面にある腰掛けにすわっていた。白っぽい金髪に秋の太陽が金色に照りはえている。
「なんだと?」
「あなたのお母さんからあなたには言えないんです」エリオンドはくりかえした。「あなたが生まれる前から、彼女は心にしまいこんでいる秘密があるんです」
「やめて!」レディ・タマジンはおもわずあえぐように言った。「やめてちょうだい!」
「それはどんな秘密だ?」ウルギットはひとりひとりの顔に疑いの目を向けながら問いつめた。
エリオンドの頬がゆっくりと赤くなった。「ぼくの口からは言えません」かれはわずかにどぎまぎした口調で答えた。
ヴェルヴェットはさきほどから我を忘れたように、このやりとりをじっと見守っていた。ガリオンの胸におどろくべき疑惑が頭をもたげたとき、彼女がいきなり笑いだした。
「なにがそんなにおかしい、娘?」ウルギットがいらだたしげにたずねた。
「おかしな考えが頭にうかんだのです、陛下」ヴェルヴェットは答えた。彼女はレディ・タマジンのほうを向いた。「ケルダー王子の父上をご存じだったとおっしゃいませんでしたか、皇太后?」
タマジンのあごがこころもちあがった。顔はまだ死人のように青ざめていたが、彼女は答えなかった。
「それはどのくらい前のことだとおっしゃいましたか?」ヴェルヴェットがきいた。
タマジンの口はかたくとざされたままだった。
ヴェルヴェットはためいきをついてから、シルクを見た。「ケルダー、ずっと昔、父上はラク・ゴスカを訪問なさったことがあったわね? たしかローダー王の代理で、交易交渉かなにかをするためだったわ。何年前のことだったか、思いだせて?」
シルクはとまどった顔をした。「さあね。たしかあれは――」と頭をひねった。「おやじが留守のあいだ、おれとおふくろはボクトールの城にいたんだ。おれは八つかそこらだったな。ということは、ざっと四十年前だ。それがどうかしたのか、リセル?」
「興味深いわ」リセルはシルクの質問を無視してつぶやいた。「レディ・タマジン、あなたはご子息におまえは狂人にはならないと言いつづけておいでです――でもウルガ家の血をひく男性はひとりのこらずあの遺伝的不幸を背負っているのではありませんか? ウルギット王がその一族の呪いを避けることに、なぜそれほど自信がおありなのです?」
タマジンはかたくなに口をとじていたが、その顔はますます青ざめてきた。
「家令閣下」ヴェルヴェットはオスカタットに言った。「つかぬことをうかがいますが、陛下はおいくつでしょう?」
オスカタットの顔もまた死人のように血の気がなかった。かれはこわばった表情でレディ・タマジンを見たあと、やはり貝のように口をとざした。
「わがはいは三十九だ」ウルギットはかみつくように言った。「それがどうした――」ウルギットはふいに言葉をとぎらせ、目をとびださんばかりに見開いて、呆然とレディ・タマジンのほうを見た。「母上!」
サディが笑いだした。
「ハッピー・エンドって本当にすてきだわ、そうお思いにならない?」ヴェルヴェットは明るくセ・ネドラに言った。彼女はいたずらっぽくシルクを見た。「ねえ、そこにすわっていないで、ケルダー、あなたの弟を抱きしめていらっしゃいな」
レディ・タマジンはゆっくりと椅子から立ち上がった。その顔には誇りがあふれていた。「首切り役人を呼びなさい、オスカタット。覚悟はできています」
「いいえ、皇太后。できません」
「それが法律ですよ、オスカタット」彼女は言い張った。「不貞を働いたマーゴの女は即刻死刑に処せられるのです」
「ああ、すわってください、母上」ウルギットがぼんやりと指の関節のひとつをかみながら言った。「いまはお芝居をしているときじゃないんです」
シルクの目はちょっと血走っていた。「えらく察しがいいんだな、リセル」声をひきつらせて言った。
「そうでもないの。もっと前に気づいてしかるべきだったわ。あなたと陛下はおたがいにひげ剃り用の鏡になれるほど瓜ふたつですもの。それに陛下の交渉のしかたもあなたとおなじくらい抜け目がないわ」ヴェルヴェットはえくぼを見せて、あっけにとられているマーゴの王を見つめた。「もし王座に飽きられたら、きっとわたしのおじが陛下のために仕事を見つけてくれますわ」
「これで事態は大きく変化するな、ウルギット」ベルガラスが言った。「マーゴ人の偏見は有名だ。もしあんたが本当のマーゴ人でないとわかれば、家来たちが黙っていないのではないかな?」
ウルギットは穴のあくほどシルクを凝視していた。「だまっててくれ、じいさん」かれはうわの空で言った。「考えさせてくれ」
「これで陛下もわたしどもの判断が完全に信用できるとおわかりになったはずですよ」サディがなめらかに言った。
「もちろんだ」ウルギットはそっけなく答えた。「わがはいがおまえの言うとおりにするかぎりはな」
「ええ、もちろん、そうですとも」
ウルギットは家令に視線を転じた。「どうなんだ、オスカタット。いまからドロジム宮殿の一番高い窓へかけあがって、このことを全都市に公言するのか?」
「どうしてそんなことをするんです?」オスカタットは肩をすくめた。「わたしは陛下が幼少のころから、タウル・ウルガスの子息ではないと知っていました」
レディ・タマジンが息をのみ、急に片手で口を押さえた。「知っていたの、オスカタット? それなのにわたくしの恥ずべき行為を秘密にしていたと?」
「皇太后」オスカタットはぎごちなく頭をさげた。「たとえ拷問台に乗せられても、皇太后を裏切るようなまねはしなかったでしょう」
レディ・タマジンは脇に落ちぬように家令を見た。「どうしてです、オスカタット」と静かにたずねた。
「あなたはハッガ家の出でいらっしゃる。わたしもです。血への忠誠はクトル・マーゴスではたいへん強いのです」
「それだけなの、オスカタット? おまえがわたしを助け、わたしの息子を守ってくれた理由はそれだけなの?」
オスカタットは、レディ・タマジンを正面から見つめた。「いいえ」かれはほとんど誇らしげに言った。「それだけではありません」
レディ・タマジンはまつげを伏せた。
「あなたの秘密を守った理由はほかにもありました」オスカタットはづけた。「それほど個人的なものではありませんが、家系への忠誠に負けぬほどの強い動機でした。ウルガ王朝はクトル・マーゴスを災厄の瀬戸際へ追い込んでいました。わたしはウルギットぼっちゃまの中に王国の最良の希望を見いだしたのです。ぼっちゃまにはもっと強くなってほしいと思いましたが、その機転の早さは軟弱なところを補ってあまりある将来性を示していたのです。長い目で見れば、賢明な王のほうが、脳なしの強いだけの王よりもだいたい好ましいですからね」
ベルガラスが椅子から立ち上がった。「お祭り気分に水をさすようで悪いんだがね、われわれはもう出発しなければならん。あまりに多くの秘密が露見しはじめているからな」かれはウルギットを見つめた。「神殿へは使者を出したのかね? アガチャクのところにいるダガシ人がわれわれと一緒にくる気なら、ダガシ人にはすぐ港まで来てもらわないとならん」
ウルギットは怒ったような顔つきで椅子から腰を浮かせた。次の瞬間、かれは動きをとめて、目を細めた。「あんたは何者だ、じいさん? 宿なしみたいに見えるが、さっきからまるで皇帝みたいに命令をくだしているじゃないか」
だが、先刻からベルガラスをじっと見ていたレディ・タマジンは急に目をまん丸にした。それから、ふりかえってポルおばさんを畏怖のまなざしで凝視した。
「ウルギット!」彼女は喉がつまったようなささやき声で言った。
「なんです、母上?」
「その老人をごらんなさい。ようく見るんです――そしてここにいるかれの娘を見て」
「かれの娘? そのふたりが親子だとは知らなかったな」
「わたくしもですよ――たったいま気づいたんです」皇太后はまっすぐにポルガラを見つめた。「あの老人はあなたのお父上でしょう、レディ・ポルガラ?」
ポルガラは背中をのばした。生え際の白い一房が蝋燭のあかりに輝いた。「しらばっくれてもだめらしいわ、おとうさん」ポルガラは皮肉っぽい表情で老人に言った。「これ以上隠そうとしてもむだよ、そうじゃない?」
「ご老体」シルクが軽口をたたいた。「ねえ、本気でその容貌をどうにかすべきですよ。あなたの顔だちはこの何世紀ものあいだ世界中に知れ渡っているんですからね、しょっちゅう人に見破られてしまいますよ。そのひげを剃り落とそうと考えたことはないんですか?」
ウルギットは恐怖に近い顔で老人を見つめていた。
「やれやれ、そういう目で見ないでくれんか」ベルガラスはうんざりして言った。
ウルギットはすくみあがった。
「そういうのもいただけないな。おまえたちがなんと聞いているか知らないが、わしは娯楽のためにマーゴ人の赤ん坊の頭をくいちぎるようなことはしないぞ」かれは片耳を考え深げにひっぱりながら、まずウルギットを見てからレディ・タマジンに視線を移し、最後にオスカタットとプララを見た。「計画はいくつか変更しなくてはならんようだ。思うに、あんたがたはみんなこの先なにがなんでも船旅をしたい気持ちになるだろう――用心のためにな。あんたがたには守りたい秘密がある。われわれも同じだ。一緒に船にのれば、互いに監視の目を光らせることができるわけだ」
「じょうだんじゃない!」ウルギットが叫んだ。
「そうだ、じっさい、じょうだんでもなんでもない。結末を見届けないで出発するのは好きでないんでな」
ドアが開いた。ガリオンはさっとふりかえったが、剣の柄《つか》へ伸ばしかけた手を途中でとめた。はいってきたマーゴの役人が、その場の緊張に気づいて、不審そうに部屋の面々を見たからだ。
「ええ――失礼いたします、陛下」役人はちょっと用心しながら言った。
ウルギットはかれを見た。その顔に希望がさっとあらわれて消えた。次にウルギットはベルガラスをすばやくこわごわ一瞥した。「なんだ、大佐」慎重に平静な声で答えた。
「たったいま高僧から手紙が届きました、陛下。それによりますと、ダガシのカバチは一時間以内に港へ参上するとのことでございます」
同時に動きだしたダーニクとトスが注意深くそろそろと歩を進めて、オスカタットの両側に立った。ポルガラはレディ・タマジンの椅子に接近していた。
ウルギットの顔が心なしか青ざめた。「よろしい、大佐。ありがとう」
役人は一礼してドアに向かおうとした。
「大佐」プララの澄んだ声がかれをとめた。
大佐はうやうやしくふりかえった。「は、王女さま?」
ヴェルヴェットがなにげないふりをしてマーゴの娘のほうへ歩きだした。いつ暴力ざたになってもおかしくないような気配が空中に濃厚にたちこめた。ガリオンはその可能性に内心ひるみながらも、同時になにも知らない大佐との距離を測っていた。
「南の沿岸ぞいのお天気について、なにか報告を受けていますか?」プララは落ち着いてたずねた。
「風がすこしあるようです、殿下」大佐は答えた。「半島の先端付近は、例によって雨まじりの突風が吹いています」
「ありがとう、大佐」
大佐は一礼して静かに部屋を出ていった。
ガリオンはフーッと息をはきだした。
「ベルガラスさま」プララの声は毅然としていた。「レディ・タマジンをそのような天候にさらすことはできませんわ。わたしが許しません」
ベルガラスは目をぱちくりさせた。「許さない?」と信じられずに問い返した。
「絶対にだめです。どうしてもと言われるなら、屋根も落ちるような声で叫びます」プララはひややかにヴェルヴェットのほうを向いた。「それ以上近寄らないで、リセル。あなたがわたしを殺す前に、少なくとも二回は叫べるわ。そうすればドロジム宮殿中の護衛がこの部屋に走ってくるでしょう」
「プララの言うとおりよ、おとうさん」ポルガラがばかに静かな声で言った。「タマジンはきびしい航海にはおそらく耐えられないでしょう」
「それではわれわれは――」
「だめよ、おとうさん」ポルガラはきっぱり言った。「問題外だわ」
ベルガラスは皮肉まじりの悪態をついてから、ぐいとサディにあごをしゃくった。ふたりは部屋の向こう端へ移動して、ひそひそ話をはじめた。
「あんたは上着の下にナイフをもっているんだろうな、ケルダー?」ウルギットがたずねた。
「じつを言えば、二本ね」シルクは事務的に答えた。「ブーツの中にも一本あるし、背中の紐にももう一本通してある。緊急事態にそなえておくのが好きなのさ――しかし、起きずにすんだ不快な事態のことをどうして考えるんだ?」
「あんたはおそろしい男だ、ケルダー」
「わかってる」
ベルガラスが低い声でサディと話しながら戻ってきた。「レディ・タマジン」
皇太后は頭をそらした。「なんでしょう?」
「この状況では、われわれはあんたの分別を信用できると思う。あんたはすでに秘密を守るすべを知っていることを証明してみせた。あんたの人生――それにあんたの息子の人生――がここであったことを他言しないという分別にかかっているのは、よくわかっているはずだ」
「ええ、そうですわ」
「いずれにせよ、われわれは体面上ここを管理する者を残していく必要がある、これで問題は解決ではないかね」
「あなたの提案は不可能ですわ、ベルガラスさま」
「その呼び方をみんながやめてくれるといいんだがね。今度はなにがまずいのだ?」
「マーゴ人は女から命令は受けません」
ベルガラスはぶつぶつこぼした。「おお、そうだったな。マーゴ人独得の偏見を忘れておった」
「オスカタットさま」サディが言った。
家令は無表情に、両わきに立っているダーニクとトスをちらりと見た。
「陛下がお留守のあいだ、国事を行なうにはあなたが論理上最適なのではありませんか?」
「可能ではあります」
「あなたの血縁であられるレディ・タマジンへの忠誠はどのくらいのものですか?」
オスカタットはしかめっつらをしてみせた。
「エリオンド」そのときセ・ネドラが言った。
「はい?」
「家令はわたしたちが出発したらすぐ追っ手の艦隊を送りださないかしら?」
ガリオンははっと顔をあげた。かれは他人の心の中をのぞきこめる若い友人の能力をすっかり忘れていた。
「かれはなにも言いませんよ」エリオンドが自信をもって答えた。
「ほんとう?」セ・ネドラがきいた。
「絶対にたしかです。タマジンを裏切るくらいなら死んだほうがましなんです」
大柄なマーゴ人の傷のある頬がうっすらと赤くなり、かれは皇太后の目を避けようとわきを向いた。
「ようし、それでは」ベルガラスは腹が決まったように言った。「ウルギットがわれわれと一緒にいくんだ」かれは家令を見た。「ラク・クタカからそう遠くないところでウルギットをおろす。それは信じていい。あんたはタマジンとここに残るんだ。あんた次第だが、わしとしてはラク・クタカに船で増援部隊を送る計画を実行したほうがいいと思う。さもないと、あんたの王はひとりでマロリー軍を撃退しなければならなくなるぞ」
「プララはどうするの?」セ・ネドラがたずねた。
ベルガラスは耳をかいた。「彼女を連れていってもしかたがない。ここに残れば、プララがわれわれの秘密を暴露しないようタマジンとオスカタットが監視できるだろう」
「いいえ、ベルガラスさま」ほっそりしたクタン家の王女は断固たる口調で言った。「わたしは残りません。陛下がラク・クタカへおいでになるなら、わたしもまいります。口をつぐんでいられるとは思えませんの。わたしを連れていらっしゃるしかないと思いますわ――さもなければ、殺してください」
「どうしてだ?」ウルギットは困惑顔だった。
だがシルクはすでに察しをつけていた。「逃げ出したいなら、ウルギット、おまえがいいスタートをきれるように、おれがプララをおさえつけてやるよ」
「なんの話をしてるんだ、ケルダー?」
「おまえがすごく運がよけりゃ、弟よ、カル・ザカーズはおまえをつかまえられないだろう。だが、この若いご婦人から逃げるチャンスはもっと見込み薄だぞ。いいから、おれの言うことを聞いて、いますぐ逃げ出せ」
[#改ページ]
5
〈西の大海〉の上空にあったぶあつい灰色の雲が、内陸へ移動してきていた。ドロジム宮殿の中庭でかれらが馬に乗ったときには、沖合いから吹きつける突風でみんなの服はちぎれんばかりだった。
「なにをすべきかわかっているね、オスカタット?」ウルギットは家令にたずねた。
大きなマーゴ人はうなずいた。「二日以内に、増援部隊を乗せた船を出発させます、陛下。ご安心を」
「よし。ひとりで戦うのは気がすすまないからな。必要以上に逮捕状を使わないようにしてくれよ」
「信用してください」オスカタットの顔がゆがんでひややかな微笑があらわれた。
ウルギットは狼みたいににやりと笑い返し、「母上をたのむぞ」とつけくわえた。
「何年もしてきたことです――皇太后はお気づきにもなりませんでしたが」
マーゴの王は厳粛な顔つきで鞍から身をのりだすと、友と握手した。それからきっぱりと身を起こした。「よし」護衛隊の隊長に声をかけた。「行こう」
一行がひづめの音高く中庭を出ると、シルクは弟と馬首をならべて、好奇心むきだしでたずねた。「逮捕状がどうかとか言ってたがなんのことだ?」
ウルギットは笑った。「将軍たちがオスカタットの命令にしたがうのを拒否するかもしれないんでね、将軍全員の処刑を命じる逮捕状に一枚ずつ署名して、適当と見たら使えるようにオスカタットに託してきたんだ」
「ぬけめがないね」
「もっと前に思いついているべきだったよ」ウルギットは長衣をはためかせながら、疾風のように頭上を流れる雲を見上げた。「わがはいは船にはあまり強くないんだ、ケルダー」ウルギットはぶるっと身をふるわせて言った。「悪天候だと吐いてばかりいる」
シルクは笑った。「じゃ、風下の手すりにずっとしがみついているのを忘れないようにするんだな」
ガリオンにはどんよりした空がラク・ウルガの荒涼たるたたずまいにぴったりに思えた。空が晴れ、太陽が輝いていると、美しさのかけらもない都市は不自然に見える。だが、いまわきあがった雲の下にうずくまったラク・ウルガはまるで冬眠中の石でできたヒキガエルそっくりだった。黒装束のマーゴ人たちが狭い通りのわきによって、王のために道をあけた。お辞儀をする者もいたが、あとはみな無表情につったって、一行が通り過ぎるのを見ているだけだった。
一行は広場を通って、神殿へつづく石畳の通りに入った。「隊長」ウルギットが先頭を行く士官に呼びかけた。「部下のひとりを神殿へ行かせて、高僧にわれわれが出発すると伝えろ。われわれに同行する者が神殿にいるんだ」
「かしこまりました」士官は答えた。
そのまま丸石敷の通りを進んで角を曲がると、港が見えた。港は波風を避けた入り江にあった。入り江の前には岬があって、ウルガ湾の細い入口のほうへつきでている。港には黒いマーゴの船が何隻かつながれていた。海と陸の匂い、海水と海草と死んだ魚の臭いのまじりあった、あのおなじみの臭いがガリオンの鼻孔にはいりこんできて、ふたたび海へ出て行く期待に血が騒ぎはじめた。
かれらが乗り込む予定の黒い船は、石の桟橋の片側につながれていて、港にある大部分の船より大きかった。船幅は広いが、ずんぐりしただるま船で、マストは傾き、船体外板はぼろぼろに腐っている。シルクは不信のまなこで船をじろじろながめまわした。「本気でこのしろものを船と呼んでるのか?」かれは弟にたずねた。
「マーゴの船については警告しておいただろう」
一行が船のそばまで行くと、馬をめぐって一悶着あった。「まったくの問題外ですよ、陛下」性根の悪そうな図体のでかい船長が頑として言った。「あっしは家畜は乗せないんです」船長は小柄なウルギットを見下すように、軽蔑のまじったいばりくさった表情で言った。
ウルギットは困った顔になった。
「王の独断を練習するいいチャンスじゃないか」シルクが耳うちした。
ウルギットはすばやくシルクを見てから、肩をそびやかした。図体のでかい船長に向きなおり、「この馬たちを船に乗せるんだ、船長」と、前よりも強い口調でくりかえし命じた。
「いま言ったように、あっしは――」
「早すぎて聞き取れなかったのか? 今度は注意して聞けよ。この――馬たちを――船に――乗せるんだ。言われたとおりにしないと、船首飾りのかわりに舳先《へさき》におまえを釘でとめてやるぞ。いいのか?」
船長はあとずさった。傲慢な表情がひっこんで、疑惑と不安の表情が浮かび出た。「陛下――」
「さっさとやれ、船長!」ウルギットは一喝した。「いますぐだ!」
船長はパッと姿勢を正すと、敬礼して、船乗りたちをふりかえった。「聞こえたな」しがわれ声で言った。「馬たちを乗せろ」船長はぶつぶつ言いながら、大股に歩きさった。
「な、回を重ねるごとに簡単になっていくだろう?」シルクが言った。「自分の命令は絶対なんだということを忘れないようにするだけでいいのさ」
ウルギットはほくそえみながら言った。「こいつはやみつきになりそうだ」
船乗りたちが足元のおぼつかない馬たちを押して、細い渡し板を渡り、急な傾斜路をおりて、船倉へ連れていった。馬たちの半数を運びこんだころ、桟橋へつづく細い丸石敷の通りから陰気な太鼓の音が聞こえてきた。二列に並んでぴかぴかのはがねの仮面をかぶった黒装束のグロリムたちが、ガリオンが神殿で見た、あの奇妙なゆれるような足取りで海のほうへ向かってくる。ベルガラスはウルギットの袖をひっぱって、護衛や忙しい船乗りたちに聞かれないところへ連れていった。「ここは穏便に事を進めたい、ウルギット」ベルガラスはきっぱりと言った。「だからなるべく早くアガチャクとの堅苦しい挨拶を終えてしまおう。都市を守る個人的命令をだすために、ラク・ハッガへ行くことになったと言うんだ。ダガシ人をさっさと船に乗せてここから逃げだそう」
「それについてはわがはいには選択権はないんでしょうな?」ウルギットはうらめしそうにたずねた。
「ない。ほとんどな」
やせこけたアガチャクは十二人のグロリムが担ぐ籠に乗っていた。その横に、傷のある顔を昂然ともたげた尼僧のチャバトが歩いている。目を赤く泣きはらしたその顔は、ぞっとするほど青ざめているものの、サディをにらみつけている目には激しい憎悪があふれている。
アガチャクの籠のうしろを、頭巾をかぶった人間が歩いていた。高僧に付き添うグロリムたちとちがって、普通の歩き方をしている。ガリオンはあの男が謎のカバチだなと推測した。好奇心からじっと見つめたが、顔が頭巾に隠れて見えない。
籠が舷門に到着すると、アガチャクは籠かきたちに停止を命じた。「陛下」籠が石の桟橋に降ろされると、かれはうつろな声でウルギットに挨拶した。
「恐れ多い高僧どの」
「お手紙受け取りました。南はゆゆしい状況だとか、本当にそうなのですかな?」
「そうらしい、アガチャク。ついでだからわがはいもこの船でラク・クタカへ行き、個人的に指揮をとるつもりだ」
「あなたがですか、陛下?」アガチャクはおどろいた顔をした。「はたしてそれは賢明でしょうか?」
「そうではないかもしれん。しかし将軍たちに任せておけば、もっとひどいことになるのは目に見えている。船でラク・クタカへ増援部隊を送るよう命令を残してきた」
「船で? 新機軸ですな、陛下。将軍たちがよく同意しましたね」
「同意など求めなかった。わがはいに忠告を与えるかれらの義務が、わがはいに命令する権限とはちがうことにおそまきながら気づいたのだよ」
アガチャクは考え込むような目つきで、ウルギットを見つめた。「そんな面がおありになるとは意外でしたよ、陛下」かれは籠から石の桟橋におりたった。
「そろそろやりかたを変えるときだと思ったのさ」
そのときだった、ガリオンは両耳のすぐ上に、警告のうずきと、のしかかるような重みが加わったような気がした。いそいでポルガラを見ると、彼女もうなずいている。それは高僧から発しているものではなさそうだった。アガチャクはウルギットとの会話にすっかり夢中になっている。チャバトはわきに立って、燃えるような目でサディをにらみつけていたが、彼女の意志が増大したような気配はなかった。ガリオンの心をさぐっているこのひそかな意志の力は、どこか他からきていた。
「五日か六日でラク・クタカへつけるはずだ」ウルギットが赤い服の高僧に言っていた。「ついたらすぐに、ウッサとかれの従者たちをラク・ハッガへ出発させる、われわれのダガシと一緒にな。マロリー軍の侵攻を避けるために、少し南へ迂回しなければならないかもしれないが、それほど時間のむだにはならないはずだ」
「ラク・クタカではじゅうぶんに注意されたほうがよろしいですそ、陛下」アガチャクが注意した。「あなたの双肩に乗っているのは、クトル・マーゴスの運命だけではない。全世界の運命がかかっているのですからな」
「わがはいは運命にはあまり関心がないんだ、アガチャク。次の一時間を生きていることが主たる関心の的だった男にとって、来年のことを心配している暇はない。カバチはどこにいる?」
頭巾をかぶったくだんの男が籠のうしろから進みでた。「ここにおります、陛下」太くひびく声で男は言った。その声にはなんとなく聞きおぼえがあった。ガリオンの背すじをちくちくするような警戒信号がかけあがった。
「よし。カバチに最後の指示があるか、アガチャク?」
「言うべきことはすべて言ってあります」高僧は答えた。
「ではもうよいわけだな」ウルギットはあたりを見回した。「よしと、みんな乗船しよう」
「まだ早いかと思います、陛下」黒装束のダガシが進みでて、頭巾をぬいだ。ガリオンはアッと叫びそうになった。黒いひげは剃り落としてあるが、男が何者であるかは疑問の余地がなかった。ハラカンだ。
「乗船の前に、陛下が知っておかれたほうがよいことがひとつあります」ハラカンは桟橋にいる全員に聞こえるように一語一語はっきりと言った。「そこにいる剣を持った男が、リヴァのベルガリオンであることに気づいておられましたか?」
ウルギットの目がまん丸になり、驚愕のさざなみが桟橋に立っている僧侶や兵たちのあいだに広がった。だが、マーゴの王はすばやく平静を取り戻した。「じつに興味深い発言だ、カバチ」かれは慎重に言った。「なぜそんなに自信があるのか知りたいものだな」
「たわごともいいところです」サディがせきこんで言った。
アガチャクのくぼんだ目がガリオンの顔を穴のあくほどながめた。「わたしはベルガリオンを見たことがある」うつろな、抑揚のない声だった。「そのときはもっとずっと若かったが、たしかに似ているところがある」
「他人の空似にきまっていますよ、高僧どの」サディは急いで言った。「その若者は子供のときからわたしに仕えているんですよ。そりゃ、顔かたちがそっくりだという例があるのは認めますが、断じてこいつはベルガリオンなんかじゃありません」
シルクはウルギットのすぐうしろに立っていた。かれは猛烈な早さで口を動かして、発見したばかりの弟になにごとかささやいていた。マーゴの王は老練な政治家だったから、ポーカー・フェイスを保つのはお手のものだったが、それでも目だけは、大爆発のどまんなかに自分がたっていることに気づいて、せわしなくきょときょとと動いていた。ようやくかれは咳きばらいをした。「この若者がベルガリオンだと信じるにいたった理由をまだ話していないな、カバチ」
「わたしは数年前にトル・ホネスにおりました」ハラカンは肩をすくめた。「ベルガリオンも同じときそこにいたんです――葬儀のためだったと思います。だれかがかれを指さして教えてくれたんですよ」
「ダガシ人のかんちがいだと思いますね」サディが言った。「それでは遠くからちらりと見ただけではありませんか。とうてい確たる証拠とは言えません。誓ってこの者はベルガリオンではありません」
「嘘をついているんだ」ハラカンは平板な声で言った。「わたしはダガシ族だ。観察者として訓練されている」
「それでおもしろい点に気づいたんだがね、アガチャク」ウルギットは目を細めてハラカンを見ながら言った。「なんといっても、ダガシ族はまだマーゴ人だ。生きているマーゴ人はだれでもトラクへの血の供物として顔に傷をつける」ウルギットは振り向いて、頬にうっすらと残る二本の白いすじを指さした。かろうじて見える王の傷は、かれがふしょうぶしょう傷をつけたことを如実に物語っていた。「そのダガシを見たまえ。かれの顔にはまったく傷がない、そうではないか?」
「長老に習慣的な血の供物をしないよう指示されたのです」ハラカンはあわてて言った。「西方の諸王国を自由に動き回れるようにと、傷をつけないことを長老が望んだのですよ」
「あいにくだが、カバチ」ウルギットはさも疑わしげに言った。「その話はまるでつじつまがあわんな。トラクへの血の供物は成人になるときの儀式の一環なのだ。おまえは十歳にもならないうちに、密偵に仕立てようと長老が考えるほど早熟な子供だったのか? たとえそうだったとしても、結婚する前や、神殿に入る前に、その儀式を行なう必要があったはずだ。顔に傷がなくとも、おまえがマーゴ人なら、どこかに傷があるはずだぞ。傷を見せよ、ダガシ。トラクへの忠誠と、汚れなきマーゴの血の証拠をわれわれに見せてみろ」
「恐れ多い高僧どの」サディが考え深げな表情をうかべて言った。「わたしの従者のひとりに向けられた嫌疑はこれがはじめてではありません」と意味ありげにチャバトを見、「お弟子のグロリムたちのあいだに、もしや、今回のこの任務を成功させたくないような内輪もめがあるのではないでしょうか――|もっともらしい顔《フォルス・ベアード》をして一部のお弟子たちがなにかたくらんでいるようなことはないでしょうか?」
「|ひげ《ベアード》か!」シルクが叫んで指をぱちんと鳴らした。「やつだとわからなかったのは、そのせいだ! ひげを剃り落としていたんだ――」
ウルギットが物問いたげにふりかえってシルクを見た。「なんの話だ?」
「失礼しました、陛下」シルクはことさらへりくだった口調で言った。「あることに気づいて、びっくりしたんです。これで事態を明瞭にすることができると思います」
「だれでもいいからぜひそう願いたいものだ。よし、先をつづけてくれ」
「おそれいります。陛下」シルクはさも落ち着かないといった顔つきで、あたりを見回した。「わたしはアローン人でございます、陛下」と言ってから、すばやく片手をあげて、「最後までどうぞ聞いてください」と半分は王に向かって、半分は回りを囲むマーゴ人たちに向かって頼み込んだ。「わたしはアローン人でございますが、そのことに関しましては、いたって冷静な考えをもっております。考えますに、アローン人とマーゴ人の生きる余地はこの世にいくらでもございます。生きよ、生かせよ、つねにわたしはそう申しております。それはともかく、昨年わたしはベルガリオン王の軍隊に兵として志願いたしました――ドラスニア北東部のレオンで熊神教徒を包囲攻撃するために、ベルガリオン王が徴集した軍でございます。で、簡単に申しますと、わたしはベルガリオンとそのセンダリア人の友人が――たしかダーニクという名でしたが――熊神教徒の指導者ウルフガーを捕えたとき、その場にいたのです。当時ウルフガーはひげをはやしておりましたが、このカバチが同一人物であることは誓ってまちがいありません。たしかです。ダーニクがウルフガーを気絶させたあと、家へ運び込むのを手伝ったのですから」
「ダガシ人がドラスニアでなにをしていたのだ?」ウルギットは巧みに当惑顔をつくってたずねた。
「いえ、ダガシ人ではありません、陛下」シルクは説明した。「ベルガリオン王とその友人たちが質問したとき、かれはマロリーのグロリムであることがあきらかになったのです。たしか、ハラカンという名前でした」
「ハラカン?」アガチャクがふいに疑惑に満ちた目つきで、すばやくにせのダガシを凝視した。
「ばかばかしい」ハラカンはあざ笑った。「このチビのイタチはベルガリオンの召使いのひとりです。主人を守ろうと嘘をついているのですよ」
「ハラカンという名に心あたりがあるのか、アガチャク?」ウルギットはきいた。
高僧は真剣な目つきで背すじをのばした。「ハラカンはウルヴォンの手下です。この西部で姿が目撃されたと聞いていたのです」
「さて、困ったことになったな、アガチャク」ウルギットは言った。「この嫌疑――ここにいるふたりにかけられた嫌疑――を無視するわけにはいかんぞ、重大すぎる。この場で真実をつきとめねばならない」
尼僧のチャバトの目が細まって、狡猾そうな表情があらわれた。「真実をつきとめるのはわけのないことです、陛下」チャバトは高らかに言った。「わが師アガチャクさまはクトル・マーゴスきっての力のある魔術師でいらっしゃいます。ここにいる全員の心をさぐり、だれが真実を話し、だれが嘘をついているかつきとめるのは、雑作もないことでございましょう」
「本当にそんなことができるのか、アガチャク?」
アガチャクは肩をすくめた。「簡単なことです」
「ではそう願おう。やってくれ。同じ船に乗るのがだれになるのかはっきりするまでは、あそこにあるだるま船に乗るつもりはない」
アガチャクは深呼吸をひとつすると、意志の力をたぐりよせはじめた。
「師よ!」紫の絹の縁どりの頭巾をかぶった、ひとりのグロリムが片手をつきだして前にとびだしてきた。「いけません!」
「なにを言う?」チャバトが目を燃え上がらせて、金切り声を出した。
グロリムは耳をかさなかった。「師よ」かれはアガチャクに言った。「尼僧の提案はたいへん危険でございます。このふたりのどちらかが真実を言っていれば、師は強力な魔術師の心をさぐることになりましょう。師ご自身の心はその間まったくの無防備になります。たったひとつの考えが、師の意識全体を消すこともありえるのです」
アガチャクはゆっくりと意志の力をゆるめた。「おお、そうだな。その危険を考慮にいれていなかった」チャバトをふりかえったアガチャクは、女の顔につかのまの失望がうかんだのを見逃さなかった。「わが聖なる尼僧よ、いまの提案をする前におまえがその危険に思いいたらなかったとは、不思議なこともあるものだ――それとも、わかっていたのか、チャバト? すると、悪魔を呼び出してわたしを滅ぼすという考えはあきらめたわけか? 単純な裏切りも同然の陳腐な手段にたよるのか? おまえにはまったく失望させられるな、おい」
チャバトはすくみあがった。傷のある顔におびえが走った。
「この問題は解決しなければならない、アガチャク」ウルギットが言った。「この場で真実がわかるまでは、わがはいはあの船に近づく気はないぞ。無謀なことをして、これまで生き延びてきたわけではないんだ」
「いずれにせよ、問題はいまや非現実的になってまいりましたな」アガチャクは答えた。「ここにいる人間はだれも出発できそうにない」
「アガチャク、わがはいはすぐにでもラク・クタカへ行かねばならんのだ」
「では行ってください。わたしは別の奴隷商人の一行を見つけ、別のダガシを雇います」
「それじゃ何ヵ月もかかってしまうぞ」ウルギットは抗議した。「わがはい個人としては、この奴隷商人を信用するほうに傾いている。ウッサはいままでわがはいにたいしきわめて正直だったし、向こうの若者はまったく王らしく見えん。しかるに、このカバチを名乗る者はじつに疑わしい。ここからカーシャ山までの道を調べれば、どこかに掘った浅い墓に本物のカバチが眠っているのが見つかるかもしれんぞ。この男は――何者か知らんが――ラク・ハッガへの使節に先回りして事を妨害しようとしているにちがいない。それこそウルヴォンが望んでいることではないか?」
「おっしゃることはもっともです、陛下。しかし、真実をつきとめるまでは、ここにいる連中のだれひとりあの船に乗せる気はありません」
「では、かれらに白黒をつけさせたらどうだ?」
「どういうことです?」
「かれらのうちひとりが――それともふたりともが――魔術師なのだ。ふたりを戦わせ、どちらが魔術によって相手を殺そうとするか見届けるのだ」
「戦わせて決めるのですな?」
「そうだとも。いささか古い手ではあるが、この状況では妥当な解決法だろう」
「悪くありません、陛下」
ウルギットはきゅうににやりとした。「では場所をあけよう。このふたりが稲妻を投げつけあうときに、黒こげにされたくない」かれはガリオンに歩みよって腕をつかんだ。「冷静でいろよ。目だつことはするな。相手に魔術を使わせるようにするんだ」それだけささやくと、ウルギットは、石の桟橋に急いで作られた円のほうへガリオンを押しやった。「リヴァの王≠ヘここだ」かれはアガチャクに言った。「さあ、マロリーのグロリム≠ェ前進すれば、だれが真実を言っていたのかがわかる」
「剣を持っていませんよ」ハラカンがすねたように言った。
「そんなことはなんでもない。だれか剣をかしてやれ」
ただちに数本の剣が差し出された。
「困ったことになったな、ハラカン」ウルギットはにんまりした。「もしおまえがひとさし指をぴくぴくさせでもしたら、おまえの正体はマロリーのグロリムだということになる。そうすれば、わがはいの兵たちの矢がおまえを蜂の巣にするだろう。いっぽう、もしあの若者が本当にベルガリオンで、おまえが身を守るために魔術を使わなければ、かれはおまえを焼きつくしてちいさな灰の山にしてしまうだろう。どっちにしても、おまえにとってはじつにいやな午後になりそうだ」
ガリオンは歯ぎしりしながら、〈珠〉にむかって何度もとっぴなことをしないようにと言い聞かせた。それがすむと、心を鬼にして背中へ腕をのばした。巨大な剣がシュッと音をたてて鞘から抜かれた。
ハラカンは借り物の剣を神経質にもてあそんでいたが、剣のかまえかたや、足構えはかれが手ごわい剣士であることを明確に示していた。ガリオンはふいに怒りでいっぱいになった。この男がセ・ネドラの命を奪おうとし、ブランドを殺した張本人なのだ。かれは腰を落として、〈鉄拳〉の剣を持った腕を伸ばした。ハラカンは死に物狂いで巨大な剣をはらおうとし、ふたつの剣がぶつかって金属的な音が鳴りひびいた。ガリオンは容赦なく敵を追いつめた。この対決の理由も忘れてしまうほど、かれの怒りは激しかった。ハラカンの仮面をはがすことなどもうどうでもよかった。ハラカンを殺すこと、ガリオンがやりたいのはそれだけだった。
突いてはかわすめまぐるしい応酬がくりかえされ、港全体に剣が激しくぶつかりあう金属音が鳴り響いた。ハラカンは一歩また一歩と後退し、目に恐怖が浮かびはじめた。だがついにガリオンは剣でやりあっているだけでは我慢できなくなった。かれは目をぎらつかせて、巨大な剣の柄《つか》を両手に握り、ふりあげた。仮に剣をふりおろしていたら、なにもそれを止めることはできなかっただろう。
死の顔をまともにのぞきこんだハラカンの頬から血の気がひいた。「ちくしょう!」ガリオンにそう叫ぶなり、かれはゆらめいて消え、桟橋の向こう端に一瞬また姿をあらわした。微光を放ったかと思うと、ハラカンはトウゾクカモメに姿をかえてみるみる遠ざかっていった。
「あれが問題の答えではないか、アガチャク?」ウルギットは落ち着きはらって言った。
だが、アガチャクは目に憎悪をたぎらせて、やはり鳥に姿を変えた。二度力強く翼をはばたかせて宙に飛び出すと、アガチャクは血を求めて甲高い鳴き声をあげながらハラカンを追っていった。
ガリオンは両手のふるえがとまらなかった。ふりかえって、つかつかとウルギットに歩みより、この小柄な男の上着の胸ぐらをつかんで海にほうりこんでやりたい衝動をけんめいにこらえた。
「お、おい、早まるな」ウルギットはあとずさった。
ガリオンはくいしばった歯のすきまから、ぞっとするほど静かな声で言った。「こんりんざい、あんなことはするな」
「もちろんだとも」ウルギットはあわてて同意した。ネズミみたいな顔に、突然興味深げな表情が浮かんだ。「もしや、本当にベルガリオンなのか?」しわがれ声でたずねた。
「証拠が見たいのか?」
「い、いや――いいんだ」ウルギットはどもった。怒りのさめやらぬガリオンをそそくさとよけて、ウルギットは足早に桟橋を横切り、チャバトに近づいた。「高僧どのがあのぺてん師をぶじ捕まえるよう祈ろう。戻られたら、よろしく言ってくれ。帰りを待ちたいところだが、乗船してすぐに出発せねばならん」
「もちろんです、陛下」チャバトはほとんど喉を鳴らさんばかりだった。「高僧がお帰りになるまで、この奴隷商人たちの面倒はわたしが見ましょう」
ウルギットはまじまじとチャバトを見つめた。
「この使節の目的はダガシ人の暗殺者をラク・ハッガへ運ぶことだったのですから、いまさら奴隷商人たちが向こうへ行ったところで意味はありません、そうですわね? わたしどもが別のダガシを求めてカーシャへ使いをだすあいだ、ここにとどまってもらいます」チャバトは露骨な笑いをうかべてサディを見た。
ウルギットはきびしい目でチャバトを見た。「聖なる尼僧、率直に言って、わがはいはあんたを信用できんのだ。あんたがこのニーサ人に私的な敵意をいだいているのはあきらかだし、かれは失うには惜しい人材だ。アガチャクとわがはいがふたりそろってラク・ウルガからいなくなれば、あんたの自制心は跡形もなくなるだろう。わがはいがウッサと従者を連れていく――安全のためだ。別のダガシがカーシャ山から到着したら、送ってよこしてくれ」
チャバトの目がけわしくなり、不機嫌な顔になった。「ラク・ハッガへ使節を送る目的は、予言を実現させることです。予言の実現はあきらかに教会の領分ですわ」
ウルギットは大きく息を吸った。それから、いつものだらしない姿勢をしゃんと正した。「使節は国の問題でもあるのだ、聖なる尼僧。アガチャクとわがはいはこの問題について以前から協力してきた。かれの不在中はわがはいが王の権利を主張する。ウッサと従者はわがはいに同行するのだ。あんたはグロリムたちと神殿へ帰って、高僧の帰りを待つがいい」
ウルギットが急に強くなったことに、チャバトはおどろいたようだった。弱々しい反論など無視するつもりでいたが、いまのウルギットはまるで別人だった。彼女は顔をこわばらせた。炎のような傷が青白い頬の上でゆがんだ。「そうでしたか、王さまはやっと大人になられたようですね。でも、よりによってこんなときに成人なさったことにいまに後悔なさると思いますわ。くれぐれもお気をつけあそばせ、クトル・マーゴスの大王さま」チャバトは手になにかを持ったままお辞儀をすると、石の桟橋に記号を書きはじめた――邪悪な光にかがやく記号を。
「ガリオン!」シルクは大声で警告した。「チャバトをとめろ!」
だがガリオンもすでにチャバトがぬれた石に書いた輝く輪を見ていた。チャバトはさらに輪の中心に燃える星を書き込んでいた。ガリオンはすぐにその記号の意味に気づいた。チャバトのほうへ半歩足を踏み出したとき、チャバトは輪の保護の中へ入って、聞いたことのない言葉をつぶやきはじめた。
ガリオンの動きも決して遅くはなかったが、ポルガラはもっと早かった。「チャバト!」彼女は鋭く言った。「やめなさい! これは禁じられているのよ!」
「力を持つ者には、禁じられていることなどあるものか」尼僧は答えた。傷のある美しい顔に他を圧するような誇りがあふれた。「ここにいるだれにわたしの邪魔ができるっていうのさ?」
ポルガラの顔が冷酷になった。「わたしができるのよ」静かに言うと、彼女は何かを片手で持ち上げるようなふしぎなジェスチャーをした。ガリオンはポルガラの意志がわきあがってくるのを感じた。石の桟橋にくだけていたすねたような大波がゆっくりと高くなって、桟橋を越え、そこに立っている者たちの足首にまとわりついた。チャバトが石に書いた燃える記号は、波に洗い流された。
グロリムの尼僧はハッと息をのんで、ポルおばさんを凝視した。ゆっくりとその目に悟ったような色があらわれた。「何者だい、あんたは?」
「あなたの命を救おうとしている者よ、チャバト」ポルガラが答えた。「悪魔を呼び出した罰は、昔からずっと変わらないわ。あなたは一度か二度成功したかもしれない――あるいはもっと――でも最後には、悪魔はあなたに向かってきて、八つ裂きにするわよ。ひねくれた狂気にとりつかれていたトラクでさえ、この一線を越える勇気はなかったでしょうね」
「だが、あたしにはある! トラクは死んだし、邪魔なアガチャクはここにいない。だれもあたしをとめることはできないよ」
「わたしができるわ、チャバト」ポルガラが静かに言った。「こういうことをするのは絶対に許しませんよ」
「どうやってあたしをとめようっていうんだい? あたしには力があるんだよ」
「わたしの力のほうが大きいのよ」ポルガラは石の桟橋にマントをはらりと脱ぎおとすと、腰をかがめて靴をぬいだ。「はじめて悪魔を呼び出したときは、悪魔を思うがままにあやつれたかもしれないけれどね、そんなの一時的なものなのよ。あなたは悪魔がこの世にはいってくるための、戸口にすぎないわ。十分な力を感じたら、たちまち悪魔はあなたを滅ぼすでしょうね、そして好き勝手にこの世を荒らしまわるわ。どうか、こんなことはやめてちょうだい。あなたの命が――魂そのものが――死の瀬戸際にあるのよ」
「あたしは恐くない」チャバトは耳ざわりな声で言った。「あたしの悪魔もあんたも恐くない」
「だとしたら、あなたはばかだわ――どうしようもない大ばかよ」
「あたしに挑戦する気かい?」
「どうしてもというのなら。わたしの土俵へ来られるかしら、チャバト?」彼女が意志の力を集めはじめると、青い目がふいに氷のようになり、はえぎわの白い一房が白熱の輝きをおびた。ふたたびポルガラが片手をもちあげると、鉛色の波がまたしても従順に、桟橋のふちを乗り越えてきた。さっきと同じように、ポルガラは落ち着きはらって水面へ足を踏み出し、まるで固い土を踏んでいるかのように、水の上に立った。グロリムたちのあいだからいっせいにうめくような声がもれた。ポルガラは畏怖に打たれている尼僧を振り返った。「さあ、チャバト、こっちへきたらどうなの? あなたにできるかしら?」
チャバトの傷だらけの顔が土気色になった。だが、その目はポルおばさんの挑戦をあきらかに受けて立つ覚悟をしていた。「できるさ」くいしばった歯のすきまから声を押し出すと、チャバトは桟橋から足を踏み出した。だが、ぶざまによろけて、きたない港の水に膝までつかった。
「これがそんなにむずかしい?」ポルガラは言った。「こんなちょっとしたことに、意志のすべてを取られてしまうのだとしたら、悪魔を自由にあやつる力があるとは言えないんじゃなくて? そんな無茶な計画は断念することね、チャバト。いまならまだ命を捨てずにすむわ」
「だれが断念するものか!」チャバトは唾をとばしてわめいた。血をしぼるような努力をして体を浮揚させ、やっとのことで水面に立つと苦心惨憺して数ヤード歩いてみせた。それから、またあの異様に勝ち誇った表情に顔をゆがめて、水面に記号を書き、黒ずんだオレンジ色の炎で星を書き込みはじめた。悪魔を呼び出す不吉な呪文を唱え、ぞっとするような抑揚をつけて、高く、低く呪文を唱えつづけた。頬の赤い傷痕が白っぽくなってきたように見え、いきなり傷が輝いて白熱した光を放った。
「ケルダー、なにが起きるんだ?」目の前で起きようとしているありえない光景に目を釘づけにしたまま、ウルギットが甲高い声で言った。
「非常に不快なことがね」シルクは答えた。
チャバトの声が耳ざわりな絶叫になったとき、港の水面が急に彼女の前で盛り上がり、蒸気と火の煮えたつ大釜となった。その炎の中央から、人知の理解をこえたおぞましいなにかがあらわれでた。とてつもなく大きく、鋭い爪と牙が生えていたが、なによりも恐ろしいのは、そのぎらぎらとした赤い目だった。
「あの女を殺せ!」チャバトは叫んで、ふるえる手でポルガラを指さした。「この魔女を殺すことをおまえに命じる!」
悪魔は赤く燃える記号の輪の中に立っている尼僧を見たあと、大木のように太い胴のまわりに煮えくりかえる湯を遊ばせながら、ポルガラのほうへ歩き出した。だが、ポルガラは少しもあわてず、片手をあげて、「とまりなさい!」と命令した。ガリオンはポルおばさんのすさまじい意志の力を感じた。
悪魔はふいに咆哮した。ポルガラに阻まれていらだたしげに牙の生えた口を灰色の雲にむけ、わめき声をあげた。
「殺せと言ったのよ!」チャバトはまた絶叫した。
怪物は巨大な両腕を下へ伸ばして、ゆっくりと水中に沈みはじめた。そして煮えくり返る水中でゆっくり回転した。周囲の水をふつふつと泡立てながら、だんだん早く回りはじめた。悪魔のまわりに、チェレク・ボアにそっくりな恐ろしい大渦巻が忽然と出現した。
チャバトは勝利の叫びをあげて、水面で小躍りしはじめた。記号を書いた炎がうねる大渦巻に消されたことにも気づかなかった。
渦がポルガラの立っている場所へ達したとき、彼女はその恐ろしい渦巻と、その中央でまだ回転をつづけている悪魔のほうへひっぱられはじめた。
「ポル!」ダーニクが叫んだ。「気をつけろ!」
だが、遅すぎた。無情な大渦巻につかまって、ポルガラはくるくるまわりながら運ばれていった。はじめはゆっくりだった回転が、しだいに早くなり、長い螺旋をえがいて、渦巻の中心へとひっぱられていった。だが、もうちょっとで中心につくというとき、ポルガラはふたたび片手を持ち上げ、いきなりうねりたつ水面下へ姿を消した。
「ポル!」ダーニクがまた叫んだ。かれの顔は死人のように青ざめていた。もがくようにチュニックをぬぎすてると、ダーニクは桟橋のはしめがけて走りだした。しかし、さきほどからにこりともせずに見ていたベルガラスが、鍛冶屋の腕をつかんだ。「離れてろ、ダーニク!」ベルガラスは鞭のような声で一喝した。
ダーニクは身をふりほどこうとした。「放してくれ!」
「邪魔をするなと言っているんだ!」
悪魔の作った渦巻の端の向こうで、一輪のバラがひょっこり水面上に顔を出した。妙に見おぼえのある花だった。外側の花びらは白く、中心は恥いるような深い真紅だ。それを見たとき、ガリオンの胸に狂おしい希望がわきあがった。
回転する渦巻の中央にいた恐ろしい怪物は、燃えるような目に困惑の色をうかべて、動きをとめた。いきなり悪魔は仁王だちになると、煮えくりかえる海中に頭からつっこんだ。
「あの女を見つけよ!」炎の傷を持つチャバトが水中にもぐった奴隷の悪魔に叫んだ。「見つけて、殺せ!」
巨大な悪魔が水中であっちへ行ったりこっちへきたりするのにつれて、港の鉛色の水が沸き立ち、湯気をたてた。そのうちに動きがばったりやんで、空気も水もしんと静まりかえった。
まだ水の上に立って、頬の無残な傷痕を輝かせていたチャバトが、感に耐えぬように両腕を頭上に突き上げた。「死ね、魔女!」彼女が叫んだ。「おまえの体に食い込むあたしの奴隷の牙を感じるがいい!」
と、チャバトの真正面の水から、ぞっとするような鱗におおわれた片手が突き出した。「まさか!」チャバトは金切り声をあげた。「そんなはずはない!」次の瞬間、チャバトは自分の立っている水を恐怖のまなこで見つめた。記号が洗い流されてしまったことにようやく気づいたのだ。よろめくように一歩あとずさったが、巨大な手がチャバトをつかみ、針のように鋭い爪が深々と体に食い込んだ。血がほとばしり、チャバトはおそるべき手につかまれたまま、身悶えしながら苦悶の叫びをあげた。
やがて、すさまじい咆哮とともに、悪魔が大きな牙の生えた口をカッと開いて、海底からのぼってきた。悪魔は身の毛もよだつ勝利のわめき声をあげて、もがく尼僧を高々ともちあげた。悪魔が桟橋に近づきはじめると、桟橋にいたグロリムたちやマーゴの兵たちは恐怖のあまり、蜘蛛の子をちらすように逃げていった。
しかし、港の水面へ漂ってきていたさきほどの一輪のバラは、ふしぎな青い光に輝きはじめていた。輝きが増すにつれて、バラは大きくなるようだった。そのとき、おだやかな顔をしたポルガラがそのきらめく光の中央にあらわれた。数フィート離れた左にも、ゆらめく光輪が出現した。桟橋であっけにとられて目を丸くしている面々の前で、二つの光輪が合体し、ポルガラのとなりに、ガリオンはアルダー神のまばゆい姿を見た。
「そうしなければなりませんの、師よ?」ポルガラがあきらかに気のすすまぬようすでたずねた。
「そうだ、娘よ」アルダーは悲しそうに答えた。
ポルガラはためいきをついた。「では、しかたありません、師よ」彼女が左手をのばすと、神は左手でその手をつつんだ。重なり合った彼女の意志が竜巻のようにガリオンの意識のなかを荒れ狂い、その威力がすさまじい力でガリオンにぶつかった。青い光につつまれ、手をつなぎあって、ポルガラとアルダーは水面に並んで立つと、力なくもがくチャバトを高々と掲げ持っている恐ろしい悪魔に向き合った。
「汝を追放する、闇の生き物よ」ポルガラが堂々たる声で言った。「汝を生んだ地獄へ帰るがよい、そのいまわしい存在によりこの世を二度と汚してはならない。汝に召されたその者を連れて去るがよい」ポルガラは片手をあげて、意志の力をアルダー神の意志に結びあわせた。彼女のてのひらから光がほとばしった。雷鳴がとどろき、悪魔が突然爆発して巨大な火の玉になった。周囲の水が間欠泉のようにふきだした。それがおさまったとき、悪魔はいなくなっていた。尼僧のチャバトも悪魔とともに消え失せた。
ガリオンがふりかえったとき、アルダーはもうポルガラの横には立っていなかった。彼女はむきをかえて、ゆっくりと水を踏んで桟橋のほうへひきあげてきた。ポルガラが近くまできたとき、ガリオンはその目が苦渋にみちているのをはっきりと見てとった。
[#改丁]
第二部 ヴァーカト島
[#改ページ]
6
翌朝、マーゴのだるま船は順調な追風に乗って着実に南へ進んでいた。左側に見えるウルガ半島の荒涼とした海岸線が、すべるようにうしろへうしろへ流れていく。砕ける波からそそりたつ断崖絶壁、延々とつづく赤錆色のわびしい岩、ほんのときたま、申し訳程度の草木が目につくだけだ。秋の空は冴えざえとした深い青だったが、ここ極南の地方は冬のおとずれが早いので、太陽ははるか北にある。
航海に出たときはいつもそうなのだが、ガリオンは日の出とともに起きて甲板にあがっていた。船の中部の手すりにもたれ、波間にきらめく朝日とたえまなくつたわってくるきしみ、それに足の裏に感じる船の揺れに、かれはなかばぼんやりと身をまかせていた。
船尾の昇降階段に通じる短い階段の傾斜ドアがギィッと開いて、ダーニクが甲板へ出てきた。ぎごちない船の揺れによろめかないように、足をふんばり、まぶしい日差しに目を細めている。普段の簡素な茶色のチュニック姿で、憂鬱そうな顔つきだった。
ガリオンは甲板を横切って友だちに近づいた。「おばさんはだいじょうぶかい?」
「そうとう疲れている」ダーニクは大儀そうに答えた。かれ自身の憔悴しきった顔が、昨夜はほとんど眠らなかったことを明白に物語っている。「ゆうべは長いこと寝返りばかり打って、ようやく眠りについたんだ。ポルにとって、あれはひどくいやなことだったんだよ」
「そのことについて、すこしは話したの?」
「ちょっとだけだ。悪魔はきたところへ送り返す必要があったんだ。さもないと、世界中に恐怖と死をまき散らしただろう。悪魔を呼び出したのはチャバトだったから、いつでも好きなときに、彼女を入口がわりにしてこの世界に入ってくることができた。だから、チャバトは悪魔と一緒に行かなくてはならなかったんだ――入口を閉めるために」
「やつらは正確にはどこからくるんだい――つまり、悪魔は?」
「そのことについてはポルはあまりしゃべらなかった。もっとも、正直なところわたしもあまり知りたくない気持ちだった」
「いまは眠っているの?」
ダーニクはうなずいた。「船のコックに話をしにいくところなんだよ。目がさめたときに、なにか温かいものを食べさせてやりたいんだ」
「ダーニクも少し眠ったほうがよさそうだよ」
「たぶんね。じゃ、ちょっといいかい、ガリオン? あまり長いあいだ離れていたくないんだ――目がさめて彼女がわたしを必要としているといけないからね」ダーニクはそのまま船の厨房へ向かっていった。
ガリオンは背中をのばして、周囲を見回した。マーゴの船乗りたちはおびえた顔つきで働いていた。きのうの午後の出来事で、普段のマーゴの特徴である傲岸不遜な表情はすっかり影をひそめている。かれらは一様におどおどした横目で、乗客たちがいきなり人喰い鬼か海の怪物に変わるのではないかというように、ひとりひとりを盗み見ていた。
ガリオンがダーニクと話をしているあいだに、シルクとウルギットが昇降階段のドアから現われて、船尾のそばの手すりにもたれ、暗緑色の海にしるされる泡の航跡と、甲高い鳴き声をたてて欲深そうに跡をついてくる翼の白いカモメの群れを、見るともなしに眺めていた。ガリオンはダーニクがさったあと、ほんの少しかれらのほうへ近づいたが、会話には加わらなかった。
「人を寄せつけない感じのところだな」切り立つ崖を見ながらシルクがぽつりと言った。小男は一行がこの旅に出発したときに着ていたみすぼらしい服をぬいで、いまは簡素な茶色の上着を身につけている。
ウルギットが気むずかしげな声をもらした。かれはぼんやりとカビ臭いパンのかたまりを船尾から投げ込んで、やかましい鳴き声をあげてついてきたカモメたちがエサを奪い合う様子をたいした興味も示さずに見守った。「ケルダー、彼女はいつもああいうことをするのか?」
「彼女とは?」
「ポルガラさ」ウルギットは身ぶるいした。「自分を怒らせる者はだれでも抹殺してしまうのか?」
「そうじゃない。ポルガラはそんなことはしない――ベルガラスたちも同じだ。そういうことは許されない行為なんだ」
「すまなかった、ケルダー。しかし、許されようと許されまいと、きのうこの目で見たものがどんなことかはわかっているつもりだ」
「そのことでベルガラスと話をした」シルクはウルギットに言った。「説明してくれたよ。チャバトと悪魔はじっさいに滅ぼされたわけじゃないんだ。かれらは悪魔がきたところへ送り返されただけなんだ。悪魔はどうしても送り返す必要があった。不幸にも、チャバトは悪魔と一緒に行かなくてはならなかった」
「不幸にも? わがはいは彼女にたいしてそんな同情は感じなかったぞ」
「よくわかっていないようだな、ウルギット。だれかを殺すのと、だれかの魂を滅ぼすのとは、まったくちがうことなんだ。ポルガラをみじめな気にさせているのはそのことなんだ。彼女はチャバトに永遠の苦痛と恐怖を与えなければならなかった。なにをやらなけりゃならないといって、それほどいやなことはない」
「ポルガラと一緒に水中から現われたのはだれだったんだ?」
「アルダーさ」
「そんなばかな!」
「いや、そうなんだ。おれはアルダー神を一度か二度見たことがある。たしかにアルダーだった」
「神が? ここに? なにをしていたんだろう?」
「かれはここにいなけりゃならなかったんだよ」シルクは肩をすくめた。「いくら力があっても、単独で悪魔に対抗できる人間はいない。モリンディム族の魔法使いたちも悪魔を呼び出すときは、悪魔が野放図にならないように、厳重な限界をもうけるんだ。ところがチャバトはなんの制限も与えずに悪魔を野放しにしてしまった。ああいう自由を得た悪魔を処分できるのは神しかいない。神というのはわれわれ人間を通して働きかけるから、ポルガラもかかわり合いにならざるをえなかったんだ。じつに油断のならない出来事だったよ」
ウルギットは身ぶるいした。「とてもわがはいには理解できそうにないな」
かれらは並んで手すりにもたれ、〈西の大海〉沖でわきあがって荒れ果てた断崖に砕けちる長い波を眺めていた。ふたりを見ていたガリオンは、かれらが血のつながった兄弟であることをどうしていままでだれも気づかなかったのかと首をかしげた。瓜ふたつというほどではないにせよ、ふたりはよく似ており、兄弟であることは疑問の余地がなかった。
「ケルダー」ウルギットがしばらくしてから言った。「われわれの父上は本当はどんな人だったんだ?」
「おれたちのどっちよりも背が高かったな」シルクは答えた。「そしてえらく人目を引く顔立ちだった。髪は鉄灰色で、おれたちをネズミみたいに見せているこの鼻も、おやじの場合はネズミというよりワシに見えた」
「われわれは齧歯類のたぐいだからな」ウルギットがふっとほほえんだ。「だが、わがはいのきいているのはそういうことじゃないんだ。父上はどういう人物だった?」
「洗練されてた。礼儀作法にすぐれ、非常に文化的、都会的な人だった。おやじがぞんざいな口をきくのは聞いたことがなかった」シルクの顔は憂鬱そうだった。
「しかし人を欺くところがあった、そうなんだろう?」
「どうしてそんなことを言うんだ?」
「結局、おやじはだましたんだ。わがはいは一時的気まぐれから生まれたんだ」
「よくわかっていないようだな」シルクはそう言うと、ときおり白波を立てる緑の大波を考え深げにながめた。「洗練されてはいたが、おれたちのおやじはたいへんな冒険家だったんだ。どんな挑戦も受けてたった――楽しいというだけでね――さらに飽くことのない放浪癖にとりつかれていた。いつも新しいなにかを求めていた。こういうふたつの特徴を重ねあわせてみれば、おやじがきみの母上にひかれたわけがわかってくるだろう。おれはタウル・ウルガスがまだ生きていたときにラク・ゴスカの宮殿を訪れたことがある。かれの妻たちはみんな厳重な護衛をつけられているか、鍵のかかった部屋に閉じ込められているかだった。おれたちのおやじにしてみれば、それはひとつの挑戦みたいなものだったんだよ」
ウルギットは顔をしかめた。「それじゃあまりなぐさめにはならないよ、ケルダー。わがはいがここにいるのは、あるドラスニアの紳士が鍵をこじあけたかったからなんだ」
「そうでもないさ。そのことについてきみの母上と話す機会はあまりなかったんだが、母上とおれたちのおやじは本当にお互いが好きだったんだと思う。タウル・ウルガスはだれも好きになったことがなかった。すくなくとも、おれたちのおやじときみの母上は楽しいときを過ごしていたんだ」
「わがはいの陽気な性質はそれで説明がつく」
シルクはためいきをついた。「だが、おふくろが病気になってからは、おやじはあまり楽しい思いはしなかった。放浪と冒険をぱったりやめてしまったんだ」
「どういう病気だったんだ?」
「ときどきドラスニアに発生する疫病でね。容貌がひどく損なわれるんだ。おふくろはそのせいで目が見えなくなった、さいわいにもね」
「さいわいにも?」
「鏡を見ることができなかったからね。おやじは終生おふくろのかたわらにつきそい、つねにおふくろを見ていながら、目にうつる悲惨なものについて、ただの一度もひとことも漏らさなかった」シルクの顔がきびしくなり、あごがしっかりとじあわされた。「あれはおれが見たなかで、人間にできるもっとも勇気ある行為だった――そしてひどいことでもあった、というのはそれがおやじの死ぬ日までずっとつづいたからなんだ」シルクはあわててそっぽを向いた。「ほかのことを話さないか?」
「すまない、ケルダー」ウルギットが同情をこめて言った。「古い傷口を開くつもりはなかったんだ」
「ラク・ゴスカで大きくなるって、どんなものだったんだい?」少したってから、シルクがたずねた。
「陰惨なもんさ」ウルギットは答えた。「タウル・ウルガスはウルガ一族の平均よりずっと早く、狂気のきざしを見せはじめていたんだ。そしてわれわれはありとあらゆる種類の儀式を行なわなくてはならなかった」
「いくつか見たことがあるよ」
「神殿での儀式だけじゃないんだ、ケルダー――それも数え切れないほどあったけどね。わがはいが言っているのは、タウル・ウルガスの個人的な奇癖のことだ。かれの右側にはだれも立たないことになっていた。王に影を落とすのは、命をなくすも同然のことだったのさ。兄弟たちとわがはいは七つになると母親たちから引き離されて訓練を受けた――大部分が軍事訓練だ――おびただしい不満と汗をともなう訓練だった。どんなたぐいのまちがいだろうと、ちょっとでもまちがえると罰として鞭で打たれた――たいていは夕食の席でね」
「それじゃ食欲もなくなるな」
「そのとおりさ。わがはいはもう夕食を食べない――いやな思い出が多すぎるからだ。兄弟もわがはいもごく幼いうちから、互いをやっつけるための策略をねりはじめた。タウル・ウルガスにはたくさんの妻と、大勢の子供たちがいた。王位を継ぐのは生き残っている最年長の息子だから、われわれはこぞって年上の兄弟たちを蹴落とす陰謀をめぐらし、年下の兄弟たちの計略から身を守ろうとした。ある魅力的な弟が兄弟のひとりにナイフをつきたてたのは、七つのときだった」
「早熟だな」シルクはつぶやいた。
「ああ、まったく。タウル・ウルガスはもちろん喜んだ。しばらく、その小さな裏切り者はかれのお気に入りだったよ。そのことがあってから、わがはいも年上の兄弟たちもひどくびくびくするようになった。狂った父がわれわれをひとり残らずしばり首にして、そのちびの怪物の生きる余地を作ろうと決めるかもしれなかったからだ。そこでわれわれはある処置を講じた」
「ほう?」
「ある日、かれが宮殿の上の部屋にひとりでいるところをつかまえて、窓から放り出したんだ」ウルギットは暗い顔で〈西の大海〉にわきあがる長い波をじっと見つめた。「母親たちから引き離された日から、われわれは絶え間ない恐怖と感覚のまひした残忍さに支配された生活をしてきたんだ。われわれは非のうちどころのないマーゴ人になることを義務づけられていた――強く、勇敢で、ばかばかしく忠実で、トラク崇拝に心血を注ぐマーゴ人にね。われわれのひとりひとりにグロリムの家庭教師がつけられ、毎日アンガラクの神に関するたわごとを何時間も聞かなくてはならなかった。楽しい子供時代と呼べるしろものじゃなかった」
「タウル・ウルガスは全然愛情らしきものを示さなかったのか?」
「わがはいには示さなかった。わがはいはいつでも一番小柄だったから、タウル・ウルガスの軽蔑の対象だったんだ。マーゴ人は大柄で男らしいことになってるからな。わがはいがどうにか跡継ぎになれるところまではいあがったあとも、礼儀正しい言葉ひとつかけるでもなく、わがはいの年下の兄弟たちにわがはいを殺すようはっぱをかけていた」
「きみはどうやって生き延びたんだ?」
「頭を働かせることによってさ――それと、まんまと盗みだしたある鍵を使うことによってだ」
「鍵?」
「宮殿の金庫室の鍵だ。金に不自由していた者が、それによってどれだけ助けられたかを知ったら――たとえ、クトル・マーゴスにおいても――おどろくだろうな」
シルクはブルッと体をふるわせた。「甲板は寒くなってきた。中へはいってスパイスのきいたワインでも飲もうじゃないか」
「酒は飲まないんだ、ケルダー」
「飲まない?」シルクはびっくりしたようだった。
「つねに頭が働く状態にしておく必要があるんだよ。酒樽に頭を突っ込んでいたんじゃ、ナイフを持っただれかにうしろから忍びよられても見えないだろう?」
「おれといれば絶対安全さ、弟」
「わがはいはだれと一緒でも安全じゃないんだ、ケルダー――兄弟だったらなおさらさ。あんたがどうこうというんじゃないんだよ、わかるだろう――きわめて神経質な子供時代を過ごした結果なんだ」
「わかったよ」シルクは愛想よく言った。「中へはいろう、おれが飲むのを見てりゃいい。飲むのは得意なんだ」
「想像はつくよ。なんといってもあんたはアローン人なんだからな」
「きみもだろ、弟」シルクは笑った。「きみもだ。行こうぜ、きみの体を流れている血と切っても切れない楽しみを教えてやるよ」
ガリオンはもうちょっとでかれらについていこうとした。が、そのときベルガラスが甲板にでてきて、あくびをしながら伸びをした。「ポルはもう起きてるか?」ベルガラスはガリオンにたずねた。
ガリオンは首をふった。「ちょっと前にダーニクと話をしたんだ。きのうのあの一件のあと、ポルおばさんはそうとうぐったりしているんだって」
ベルガラスはいささか不審そうだった。「それほど疲れるはずはないんだがな。たしかに見物だったが、ほとんど体力は消耗しなかったはずだ」
「そういう消耗じゃないんじゃないの、おじいさん。ダーニクの話じゃ、明け方近くまで悩んでいたらしいから」
老人はひげをかいた。「ほう。ときおりわしはポルが女だということを忘れてしまうんだ。あれはいやなことをすぱっと思いきることができんらしくて、ときどき憐れみの情に負けてしまう」
「それは必ずしも悪い特徴じゃないよ、おじいさん」
「女としては、そうかもしれんな」
「湿地帯でも一度そんなことがあったような気がするけどな」ガリオンはベルガラスに言った。
「おじいさんもヴォルダイのために回り道をしてなにかをしてあげたんじゃなかったっけ――あれも多少は憐れみからだったんだろう?」
ベルガラスはうしろめたそうにあたりを見回した。「そのことは口にせんということにしたんじゃなかったか」
「ねえ、おじいさん」ガリオンはかすかな微笑をうかべて言った。「おじいさんは詐欺師だな。氷みたいに冷たくて、岩みたいに固いふりをしているけれど、ひと皮むけば、ぼくたちと同じ感情を持っているんだから」
「たのむよ、ガリオン、そのことはあまり言いふらさんでくれ」
「人間だってことが困り物なのかい?」
「いや、そういうわけじゃないが、わしだって落としたくない評判というものがある」
夕方近くなると、海岸線はいよいよけわしさを増し、波が怒濤のように岩肌にくだけた。シルクとウルギットが船尾の昇降階段をあがってきた。ガリオンはふたりの足元がおぼつかないのに気づいた。
「やあ、ベルガリオン」ウルギットはおおらかに言った。「いっしょにやらないか? ケルダーとわがはいはちょっと歌をうたうことに決めたんだ」
「ああ――ありがたいのはやまやまなんだけど」ガリオンは用心深く答えた。「うたうのはあまり得意じゃないんだ」
「そんなのかまわないさ。全然かまわない。わがはいだってあまりうまくないかもしれないんだ。断言はできないけどね、生まれてこのかた歌をうたったことがないもんだから」ウルギットはきゅうにくすくす笑った。「これまでやったことのないことが山ほどあるんだ。少しは試してみる頃合いかと思ってね」
セ・ネドラとマーゴの娘プララが甲板にあらわれた。いつもの黒のかわりに、プララは目のさめるような淡いバラ色のドレス姿で、漆黒の髪がうなじのあたりで複雑な渦巻形に結われていた。
「これはこれは」ウルギットが形式ばった一礼をしたが、せっかくの礼儀作法も千鳥足のせいでぶちこわしになった。
「気をつけろよ、おい」シルクがウルギットの肘をつかんだ。「きみを海からつりあげるはめになりたくないんだ」
「ねえ、ケルダー」ウルギットはまじめくさって目をぱちくりさせた。「こんなにいい気分になったのは生まれてはじめてのような気がするんだ」かれはセ・ネドラと黒髪のプララを見た。「どう思う? そこにじつに美しいふたりの女性がいる。われわれと一緒にうたってくれるだろうか?」
「きいてみればいい」
「そうだな」
ふたりはセ・ネドラとプララのところへ行って、一緒に歌をうたうようにしつこく誘った。マーゴの王が船の揺れにあわせて前後によたよたすると、プララは声をあげて笑った。「おふたりとも酔っていらっしゃるのね」
「酔っているのか?」ウルギットはまだゆらゆらしながらシルクにたずねた。
「そうあってほしいね」シルクは答えた。「そうでないと、極上のワインを大量にむだにしたことになる」
「じゃあ、酔っているんだ。その話はこれでケリがついたから、なにをうたおう?」
「アローン人ってほんとうにしょうがない人たちね!」セ・ネドラがためいきまじりに、空を仰いだ。
翌朝、一行が目をさますと雨が降っていた。冷たい霧雨が海にとけこみ、雨が大きなしずくになってタール塗りの索具を伝い落ちてゆく。ポルガラは最後尾の昇降階段のつきあたりにある大きいほうの客室にあらわれて、みんなと朝食をとったが、口数も少なく、やつれて見えた。
ヴェルヴェットは陽気に客室を見回した。舷窓のかわりに頑丈な作りの窓が船尾のほうへ広がり、どっしりした梁が支える天井は高く、甲板より上の位置にあった。朝食のテーブルで目につくふたつの空席を、彼女はじろじろとながめた。
「ケルダー王子と気まぐれな弟ぎみはどうしたの?」彼女はたずねた。
「きのうワイン・グラスと仲良くしすぎたんじゃないかしら」セ・ネドラがちょっぴり意地悪そうな笑いを浮かべて答えた。「けさは調子がよくないんでしょ」
「あのおふたりが歌をうたっていたなんて、信じられまして?」プララが口をはさんだ。
「まあ?」とヴェルヴェット。「じょうずだった?」
プララは笑った。「カモメがびっくりして逃げていきましたわ。あんなひどい音を聞いたのははじめてです」
ポルガラとダーニクはテーブルの向こう端で静かに話し合っていた。「もうすっかりよくなったわ、ダーニク。先に行ってちょうだいな」
「きみをひとりで置いていきたくないんだよ、ポル」
「ひとりじゃないわよ、ディア。セ・ネドラやプララやリセルが一緒にいてくれるわ。いまやりたいことをしないと、一生そのことを考えて、チャンスをふいにしたことを悔やみつづけるわよ」
「ああ――きみが本当に大丈夫なら、ポル」
「心配無用よ、ディア」ポルガラは愛情をこめてダーニクの手に手を重ねると、かれの頬にキスした。
朝食後、ガリオンはマントをはおって甲板へ出た。目を細めて霧雨の落ちてくる空を二、三分も仰いでいると、背後の昇降階段のドアが開く音がした。釣りざおを持ったダーニクとトスがあらわれた。「じつに理にかなうことなんだよ、トス」ダーニクは言っていた。「あれだけ水があれば、魚がいるのはまずまちがいない」
トスはこっくりうなずいてから、両腕をひろげて、なにかを測るような奇妙な動作をした。
「なんのことかな」
トスはその動作をくりかえした。
「ああ、それほど大きくはないよ」鍛冶屋は首をふった。「魚はそんなに大きくならないだろう?」
トスは元気よくうなずいた。
「きみを疑うつもりはないんだが」ダーニクは真顔で言った。「そんな魚がいたらわたしが見てないはずがないからね」
トスは肩をすくめた。
「まったくすばらしい朝じゃないか、ガリオン?」ダーニクは霧雨にけぶる空をにこにこと見上げた。それから階段を三段のぼって船尾の甲板にでると、舵柄を握る舵手に陽気にうなずいてみせ、泡だつ航跡にあざやかに釣り糸を投げ込んだ。そして、跡をついてくる疑似餌を批判的にながめた。「糸を沈めるには、なにかおもりをつける必要がありそうだな、え?」かれはトスに話しかけた。
大男はほんの心もちほほえんでから、同意のしるしにうなずいた。
「シルクとウルギットはもう起きたのかい?」ガリオンはふたりにきいてみた。
「ええ?」ダーニクは航跡のずっとうしろを浮きつ沈みつしている色あざやかな疑似餌に目を釘づけにしている。
「シルクとかれの弟はもう起きたのかってきいたんだ」
「あ――ああ、かれらが客室で動き回っている音を聞いたような気がするな。トス、糸を沈めるのに、やっぱりなにか必要だよ」
ちょうどそのとき、ベルガラスがみすぼらしい古ぼけたマントをぴったり体にまきつけて、甲板へあがってきた。霧雨をすかして、左側をすべるように流れていくぼやけた海岸線を不機嫌にながめると、船のまんなかあたりにたたずんだ。
ガリオンはベルガラスのそばへ行ってたずねた。「ヴァーカトまでどのくらいかかると思う、おじいさん?」
「二週間だな」老人は答えた。「この天候がこれ以上悪くならないとしての話だがね。ここはかなり南だし、われわれは嵐の季節に近づいているんだ」
「でも、もっと早くつく方法があるんじゃないの?」
「どういうことだ」
「ほら、ぼくたちがジャーヴィクショルムからリヴァへ行った方法のことだよ。おじいさんとぼくとで、あの方法を使えないのかい? あとのみんなはあとからおいつけばいいんだよ」
「やめたほうがよかろうな。わしらがザンドラマスにおいつくときは、ほかのみんなもわしたちと一緒にいることになっとるんだ」
ガリオンは急に手すりにこぶしをたたきつけた。「そんなのクソくらえだ! ぼくたちがどうすることになってるかなんて、どうでもいい。ぼくは息子を取り戻したいんだ。こうやってはいずりまわって、もっともらしくひねくれた予言書を満足させるのにはうんざりなんだ。そんなのは無視して、ずばりと要点をおさえるのがなぜ悪いんだよ?」
ベルガラスは落ち着きはらった顔で、灰色の霧雨にかすむ赤錆色の断崖を見つめた。「それならわしが何度か試してみた。だが、うまく行かなかった――それどころか、いっそう遅れをとるのが関の山だったのだ。いらいらするのはわかる、ガリオン、予言にしたがうのが、行きたいところへ行き着く最短の道だという考えに我慢できなくなることもあるだろう。だがな、そのほうがいつもうまくいくんだよ」ベルガラスはガリオンの肩に手をおいた。「これは井戸を掘るようなものだ。水は底にある、だが、てっぺんからはじめなくてはならん。底から井戸を掘ってうまくいく者などおらんだろう」
「それとどういう関係があるんだよ、おじいさん? さっぱりわからないね」
「しばらく考えてみればわかるさ」
ダーニクが走ってきた。驚愕のあまり目が大きくなり、両手がふるえている。
「どうしたんだ?」ベルガラスがたずねた。
「あんな大きな魚は生まれてはじめて見ましたよ!」鍛冶屋は叫んだ。「馬よりでかかったんです!」
「逃げられたらしいな」
「二度目に跳ね上がったときに、わたしの釣り糸を切ったんです」ダーニクはふしぎと誇らしげな声で言った。目がきらきらと輝きはじめた。「みごとでしたよ、ベルガラス。投石器からとびだしてきたように、水面上にはねあがって、尻尾で本当に波の上を歩いたんです。すごい魚ですよ!」
「どうするつもりだ?」
「もちろんつかまえるんですよ――しかし、もっと丈夫な糸がいります――ロープでもいいかもしれないな。なんて魚だ! 失礼します」ダーニクはそそくさと舳先《へさき》へ歩いていった。マーゴ人の船長にロープがないかたずねるつもりなのだ。
ベルガラスは微笑した。「わしはあの男が大好きなんだ。じつにいいやつだよ」
船尾の昇降階段のドアがまた開いて、シルクとその弟があらわれた。甲板に一番乗りするのはいつもガリオンだったが、気がついてみると、一日のうちに必ずみんな一度か二度は、身のひきしまるような潮風の中へ出てくる。
イタチ顔のふたりは雨ですべりやすくなった甲板をそろそろと歩いてきた。ふたりともあまり気分がすぐれないようだ。「前進してますか?」シルクがきいた。青い顔をして、はた目にもわかるほど両手がふるえている。
「まあまあだ」とベルガラス。「ふたりともけさは寝坊したな」
「もっと寝ていればよかったと思いますよ」ウルギットが情けない顔で答えた。「ちょっと頭が痛いような気がするんです――左目の奥が」かれはおびただしい汗をかき、皮膚がかすかに青味がかっていた。「ひどい気分です。なんで、警告してくれなかったんだ、ケルダー?」
「きみをびっくりさせたかったのさ」
「翌朝はいつもこんなふうなのか?」
「たいていはな」シルクは認めた。「もっとひどいときもある」
「もっとだって? どうしたらこれ以上ひどくなれるんだ? 失礼」ウルギットはあわてて手すりにかけよると、身をのりだしてはげしく吐いた。
「二日酔いのあつかいがあまりうまくないようだな」ベルガラスが感想をもらした。
「不慣れですからね」シルクが説明した。
「本当に死にそうだ」ウルギットはふるえる手で口もとをぬぐいながら、弱々しく言った。「なんでわがはいにあんなに飲ませたりしたんだ?」
「男ならそれくらい自分で決めることだな」とシルク。
「楽しそうだったしね」ガリオンがつけくわえた。
「全然おぼえていないんだ。数時間、まったく記憶がない。わがはいはなにをした?」
「うたってた」
「うたってた? わがはいが?」ウルギットは力なくベンチにすわりこんで、ふるえている両手に顔をうずめた。「なんてことだ」かれはうめいた。「なんてことだ、いやはや」
プララが船尾のドアから出てきた。黒い外套をはおり、どことなく意地の悪い微笑を浮かべている。彼女は霧雨の中を、苦しんでいるふたりの男のところへジョッキをふたつ運んできた。「おはようございます、おふたりとも」申し訳程度に膝を折って、陽気に言った。「レディ・ポルガラがこれを飲むようにとの仰せですわ」
「中身はなんだ?」ウルギットがうたがわしげにたずねた。
「よく存じません、陛下。レディ・ポルガラとあのニーサ人が調合したものです」
「毒かもしれんぞ」ウルギットは期待をこめて言った。「てっとりばやく死んで、ケリをつけてしまいたい気分だ」ジョッキをつかむなり、ウルギットはがぶがぶとそれを飲み干した。次の瞬間、顔から血の気が失せて、身ぶるいした。その顔に浮かんだ表情は恐怖そのものだった。ウルギットははげしくふるえはじめた。「ひどい味だ!」あえぐように言った。
シルクはしばらくウルギットを注意深く観察していたかと思うと、残ったジョッキをつかんで、用心深く中身を全部海にぶちまけた。
「飲まないつもりか?」ウルギットが非難がましくきいた。
「ああ。ポルガラはときどき異常ともいえるユーモアのセンスを発揮するんだ。危険な橋を渡るようなまねはしたくないからな――魚がいっぱい海面に浮き上がってくるのを見るまでは」
「けさのご気分はいかがですの、陛下?」プララがさも同情しているような顔で、苦しんでいるウルギットにたずねた。
「むかむかする」
「ご自分のせいですわね」
「だまっててくれ」
プララはにっこりとほほえみかけた。
「楽しんでいるんだな?」ウルギットは非難した。
「それはそうですわ、陛下」プララは頭をそらしぎみに答えた。「じつはそのとおりですの」そう言うと、ふたつのジョッキを手にとり、手すりづたいに船尾のほうへひきあげていった。
「みんなあんなふうなのか?」ウルギットはみじめたらしくたずねた。「あんなに残酷なのか?」
「女のことか?」ベルガラスは肩をすくめた。「むろんだよ。女の体にはそういう血が流れとるんだ」
その陰鬱な朝から少し時間がたったころ、シルクとベルガラスが船尾の客室のひとつに逃げ込んだ。雨を避ける目的もあったのだろうが、ガリオンの察するに、寒さを吹き飛ばす効果を持つものをちょっぴり求めてのことでもあったにちがいない。ふたりがいなくなったあとも、ウルギットはあいかわらず雨にぬれたベンチにすわって頭をかかえており、いっぽうのガリオンは少し離れた甲板をむっつりと行きつもどりつしていた。「ベルガリオン」マーゴの王が訴えるように言った。「そんなに足を踏みならして歩かなけりゃならないのか?」
ガリオンはおもしろそうにちょっと笑って、「ちゃんと警告しておかないなんて、シルクもひどいことするな」
「どうしてみんなシルクと呼ぶんだね?」
「ドラスニア諜報部で同僚につけられたあだ名なんだ」
「なんだってドラスニアの王室の一員が密偵になんかなりたがったんだろう?」
「密偵はドラスニアの国家産業なんだよ」
「ケルダーは本当に優秀なのか?」
「一、二を争う密偵だよ」
ウルギットの顔は真っ青になっていた。「こいつはひどい」かれはうめき声をあげた。「二日酔いなのか船酔いなのかわからなくなってきた。水のはいったバケツに頭をつっこんだら、すこしはよくなるだろうか」
「いやってほどつっこんでおけばね」
「一案ではあるな」ウルギットは手すりに仰向けに頭をもたせかけて、霧雨が顔をぬらすにまかせた。「ベルガリオン」しばらくしてウルギットは言った。「わがはいはどんな過ちを犯している?」
「ちょっと飲み過ぎたんだ」
「そういうことじゃない。どこでまちがいを犯しているんだろう?――つまり、王として」
ガリオンはウルギットを見た。この小柄な人物が正直者であるのはあきらかだった。ラク・ウルガで感じたあの同情心がまたわきあがってきて、ガリオンはこの人物が好きだという気持ちをついに肯定した。深い息を吸うと、ガリオンは苦しんでいるウルギットのとなりに腰をおろした。「その一部はもう知っているだろう。あなたは家来に大きな顔をさせている」
「恐ろしいからだ、ベルガリオン。子供のころ、わがはいがいじめられるままになっていたのも、そうすれば殺されずにすんだからだ。習慣になってしまっているんだ」
「だれだってこわいんだ」
「きみはちがう。クトル・ミシュラクでトラクと対決したじゃないか」
「あれは必ずしもぼくが考えたことじゃなかったんだ――それに信じてほしい、あの対決に向かう途中ぼくがどんなにおびえていたか、思いもよらないくらいだよ」
「きみがか?」
「そうさ。だが、その問題に関しては、多少あなたは支配権を発揮しつつある。あの将軍――クラダクだったかな?――をドロジム宮殿でかなりうまくあしらった。自分が王だということ、命令を与えるのは自分だということをいつも忘れないようにしてりゃ、それでいいんだ」
「たぶんやれると思う。他にはどんなまちがいをしている?」
ガリオンは考えこみ、しばらくたってから答えた。「あなたはなにもかもひとりでやろうとしている。そんなことができる者はいないよ。こまかい問題が山のようにあって、ひとりじゃとうてい手がまわらない。あなたには手助けが必要だ――善良で正直な助手がね」
「クトル・マーゴスのどこへ行ったら、善良な助手がみつかるというんだ? だれを信用したらいい?」
「オスカタットを信頼しているんだろう?」
「まあそうだ、信頼している」
「じゃ、それがスタートだ。いいかい、ウルギット、問題はね、ラク・ウルガにいる家来たちが、あなたがするはずの決定をくだしているということなんだ。かれらは自分たちが決定をくだすのは、あなたが臆病すぎるか、他のことに忙しすぎるかで、権利を主張できないからだと思っている」
「きみの言ってることは矛盾しているな、ベルガリオン。はじめは手助けをしてくれる人間を見つけるべきだと言い、次にはころっと変わって他人に決定権を与えてはならんと言う」
「よく聞いていなかったからそんなことを言うんだよ。あなたに代わって決定をくだしている連中は、あなたが選んだ人間じゃない。かれらは勝手にわりこんできただけだ。多くの場合、あなたはかれらがどういう人間なのかも知らないだろう。それじゃうまくいくわけがないよ。家来は慎重に選ばなくてはだめだ。なによりもまず有能でなくてはならない。次に、あなたと――あなたの母上に個人的に忠実であることだ」
「わがはいに忠実な者などいないさ、ベルガリオン。わがはいの家来たちはわがはいを軽蔑している」
「おどろくかもしれないが、ぼくはオスカタットの忠誠心に疑いの余地はないと思うね――能力についても。はじめるならそこらへんが適当だろう。オスカタットに行政官たちを選ばせるんだ。選ばれた者はまずオスカタットに忠実を尽くすだろうが、そのうちあなたのことも尊敬するようになる」
「それは考えてもみなかった。それでうまくいくと思うかね?」
「やってみて損はしない。嘘いつわりのないところを言うとね、あなたは状況をめちゃくちゃにしているよ。それをきちんとするにはしばらくかかるだろう。だが、どうせどっかから手をつけなくちゃならないんだ」
「きみは考えるべきことをたっぷり与えてくれたよ、ベルガリオン」ウルギットはふるえながらあたりを見回した。「ここにいるのはまったくみじめだ。ケルダーはどこへ行ったんだろう?」
「中へ戻ったよ。元気をつけようとしているんじゃないかな」
「これをよくする方法があるってことか?」
「あなたをいま苦しめている原因になったものをもっと飲んでるんだろう、そういうやりかたを治療法として薦めるアローン人もいるってことさ」
ウルギットの顔が青ざめた。「もっと?」ぞっとしたように言った。「よくもそんなことができるな」
「アローン人は勇敢で鳴る連中だからね」
ウルギットの目に疑問が宿った。「ちょっと待ってくれ。それじゃあしたの朝もまったく同じ気分になるだけじゃないか?」
「たぶんそうだろうね。アローン人がたいがい寝覚めが悪いのはそのせいかもしれないな」
「ばかげたことだな、ベルガリオン」
「まったく。愚かなのはマーゴ人の独占物じゃないんだ」ガリオンはふるえている相手を見た。「中へ入ったほうがいいなと思うな、ウルギット。その他もろもろの問題にくわえて、風邪までひきたくはないだろう」
雨は夕方にはあがった。マーゴの船長はあいかわらず険悪な空を見上げたあと、断崖と、さかまく水からつきでたぎざぎざの暗礁に視線を落とし、帆をおろして錨を投げ込むよう、抜かりなく船員たちに命令した。
ダーニクとトスがいくぶん名残りおしそうに丈夫な釣り糸を巻き上げて、足もとの甲板ではねている十二匹ほどの銀色に光る魚を誇らしげにながめた。
ガリオンはふたりが立っているところまでぶらぶらと戻っていって、感嘆の体で獲物を見た。「大漁だね」
ダーニクは慎重に両手で一番大きな魚の体長を測った。「だいたい三フィートだ。しかしあの逃げた一匹にくらべれば、きょうとれたのはみんな雑魚《ざこ》だよ」
「いつも同じことを言ってるみたいだな」ガリオンは言った。「そうそう、ひとつ忘れないでよ、ダーニク。ぼくなら魚をポルおばさんに見せる前に、はらわたをぬいておくね」
ダーニクはためいきをついて、うなずいた。「やっぱりそうすべきだろうな」
その夜、夕食に獲物の一部を食べたあと、かれらは船尾の客室のテーブルを囲んで、無駄話をした。
「アガチャクはもうハラカンに追いついたと思いますか?」ダーニクがベルガラスにたずねた。
「それは疑わしいな」老人は答えた。「ハラカンは狡猾だ。ベルディンがやつをつかまえられないのなら、アガチャクだってそううまくはいくまい」
「レディ・ポルガラ」サディが突然怒った口調で抗議した。「彼女にあれをやめさせてください」
「なんのこと、サディ?」
「リセル辺境伯令嬢です。わたしの蛇を甘やかしているんですよ」
ヴェルヴェットが謎めいた微笑を浮かべて、ダーニクとトスが釣った大きな魚の腹からとった卵を、そっとジスに与えていた。小さな緑色の蛇は満足そうにシュルシュル音をたてて、次のごちそうを求めて鎌首をもたげた。
[#改ページ]
7
夜半、風が出た。ほこり臭い古い氷のにおいのする、冷たく湿った突風だった。前日ほぼ一日じゅう降っていた霧雨はみぞれに変わり、石つぶてのように索具にぶつかり、甲板にあたって音をたてた。例によって、早く目覚めたガリオンははだしのまま抜き足さし足で、眠っている妻を残し、小さな客室の外にでた。暗い昇降階段をおり、他の者たちが眠っている客室のドアの前を通過して、船尾の客室にはいった。しばらくのあいだ、船尾を横切る窓の前に立って風に激しく上下する波を見つめ、にぶくきしむ舵輪の音が客室のまんなかを通って、船尾の下の暗い水をさぐる舵へつたわっていくのに耳をかたむけた。
腰をおろしてブーツをはこうとしたとき、ドアがひらいて、ダーニクがはいってきた。甲板で騒々しい音をたてているみぞれの氷片を、マントのひだからはたき落としながら、ダーニクは言った。「しばらくはゆっくり進むことになりそうだな。暴風雨だよ。しかも南からやってきている。われわれはまっしぐらにその中へつっこもうとしているんだ。船乗りたちのオールが折れはじめているよ」
「半島の先端までどのくらいあるか、見当がつくかい?」ガリオンは立ち上がって、ブーツをきちんとはこうと足踏みをした。
「船長とちょっと話をしたんだ。その話からすると、ほんの数リーグだよ。だが、半島の南端のはずれに群島があるから、船長はこの嵐がやむのを待って、それから群島のあいだを縫うように進もうと考えている。たいした船長じゃないね。これもたいした船じゃない。どうも船長はいささか臆病なところがある」
ガリオンは船尾の窓枠のひとつに両手をかけて、もういちど荒れる海を見つめた。「このぶんだと一週間はおさまらないかもしれない」かれはふりかえって友だちを見た。「船長はすっかり平静を取り戻したかい? ぼくたちがラク・ウルガを出発したときは、ちょっと動転していたじゃないか」
ダーニクはほほえんだ。「そうとう熱心に自分に言い聞かせていたようだよ。あそこで起きたことは本当は見なかったのだと、自分を納得させようとしている。もっとも、ポルが甲板に出てくると、いまだにすくみあがる傾向があるがね」
「しめしめ。ポルおばさんは起きてるの?」
ダーニクはうなずいた。「甲板へ出るまでに、ポルの朝のお茶を用意してきた」
「ぼくにかわって、船長をおどかしてくれと頼んだら――ほんのちょっとだ――どんな反応をすると思う?」
「わたしならおどす≠ニいう言葉は使わないよ、ガリオン」ダーニクはまじめに忠告した。「話をする≠ゥ、説得する≠ニ言ったほうがいい。ポルはあれをおどすこととは考えていないんだ」
「でも、じっさいはそうじゃないか」
「もちろんだ。だが、ポルはそんなふうには思わないんだよ」
「ポルおばさんに会いにいこう」
ポルガラがダーニクと使っている船室も、このぶかっこうな船の残りの船室と同じように、ちっぽけでせせこましかった。室内の三分の二は、厚板作りの、隔壁そのものがでっぱってできたような手すりの高いベッドがふさいでいる。ポルガラはお気に入りの青い化粧着姿で、そのベッドの中央にすわり、お茶のカップを手に船窓から、みぞれの切り込む海をじっと見ていた。
「おはよう、ポルおばさん」ガリオンは挨拶した。
「おはよう、ディア。うれしいわ、きてくれて」
「もうなんともないの?」ガリオンはきいた。「つまりその、港で起きたことについて、おばさんはすごく動揺してたでしょう」
ポルガラはためいきをついた。「あの出来事の最悪の部分は、わたしに選択権がなかったということだと思うのよ。いったん悪魔を呼び出したら、チャバトは死ぬ運命だった――でも、彼女の魂を滅ぼさなくてはならないのはわたしだったの」ポルガラは深い後悔のにじむ沈痛な表情で言った。「他の話をしない?」
「いいよ。ぼくにかわってある人物に話をしてくれないかな?」
「だれに?」
「船長だよ。この天候がおさまるまで、船長は錨をおろす気でいるんだ。ぼくはぐずぐずしていたくないんだよ」
「どうして自分で話さないの、ガリオン?」
「だれだって、ぼくよりもおばさんの言うことをよく聞くからさ。やってくれないかな、ポルおばさん――船長に話をしてよ」
「おどしてくれというのね」
「おどせ≠ニは言ってないよ、ポルおばさん」ガリオンは抗議した。
「でもそういうことなんでしょう、ガリオン。ものごとははっきり言うものよ」
「やってくれる?」
「いいわ、そうしてほしいならね。それで、なにをしろって言うの?」
「なんでもいいんだ、ポルおばさん」
ポルガラはカップをさしだした。「もう一杯お茶をいれてもらえる?」
朝食のあと、ポルガラは青いマントをはおって、甲板へ出た。マーゴの船長はポルガラが口を開くか開かないかのうちに、計画を変更した。それからメインマストにのぼって、大揺れに揺れるマスト上方の檣楼見張り座にはいりこんだきり、昼までおりてこなかった。
ウルガ半島の南端へくると、舵手が舵輪を大きく回し、船は急角度で港へ向かった。島々はどれも同じように見えたから、最初に船長が悪天候の中を航行したがらなかったのも、無理はなかった。狭い水路には潮流がさかまいていたし、風は黒くうねる波のてっぺんをむしりとっていた。海から立ち上がったナイフのように鋭い岩に、よせ波がものすごい音をあげてくだけちっている。マーゴの船乗りたちは血走った目で四方にぼうっとあらわれる断崖を見ながら、こわごわオールを漕いだ。最初の一リーグを進んだころ、船長がマストからはいおりてきて、身を固くして舵手のとなりに立った。船は暴風に蹂躙された島のあいだを用心深く進んでいった。
午後の三時ごろ、ようやく船は最後の岩だらけの島を通過し、船乗りたちは陸地から離れて広々とした海に向かってオールを漕ぎ出した。横なぐりのみぞれが白波にたたきこまれていた。
ベルガラスとガリオンはマントをしっかり体にまきつけて甲板に立ち、しばらく漕ぎ手たちを眺めていた。やがて老人は昇降階段のドアに歩みよった。「ウルギット!」下の狭い廊下にむかってどなった。「ここへ出てこい!」
マーゴの王は目に恐怖をたたえて、もつれる足で階段をあがり甲板へ出てきた。
「マーゴ人というのは帆が風をうけるように索具を調節するやりかたを知らんのかね?」ベルガラスは問いつめた。
ウルギットはぽかんと老人を見つめた。「なんの話かさっぱりわかりません」
「ダーニク!」ベルガラスはどなった。
鍛冶屋はトスとならんで船尾に立ち、後ろに流れる疑似餌に目を釘づけにしたまま、答えなかった。
「ダーニク!」
「はあ?」
「索具を調整しなおさねばならんのだ。どうすればいいのか、船長に教えにいってくれ」
「ちょっと待ってください」
「いますぐだ、ダーニク!」
鍛冶屋はためいきをついて、釣り糸を巻き上げはじめた。だしぬけに魚がくらいついてきてダーニクの興奮した声が強まる風につかみとられた。ダニークは釣り糸をつかんでぐいと引いた。銀色の腹をした、ばかでかい魚がしぶきをあげて海面におどりあがり、怒ったように頭をふって、風に翻弄される逆波のあいだでのたうちまわった。ダーニクの肩がすぼまった。懸命に糸を引いて、かかった獲物を雄々しくたぐりよせようとしているのだ。
ベルガラスが悪態をつきはじめた。
「ぼくが船長に教えてくるよ、おじいさん」ガリオンは言った。
「おまえにわかるのか?」
「少なくとも船に乗った回数ならダーニクに負けないからね。やりかたぐらい知ってるさ」ガリオンは舳先《へさき》へ歩いていき、前方で荒れ狂う海をなすすべもなく見つめているマーゴ人の船長に話しかけた。「ここのこっち側にある綱をゆるめればいいんだ。そして反対側のやつをひっぱる。要は、風を受けるように帆の角度を変えればいいんだよ。それから、舵を回して調整するんだ」
「そんなことをやった者はいままでひとりもいやしないぜ」船長は頑固に言った。
「アローン人はそうしているし、アローン人は世界最高の船乗りだ」
「アローン人は魔術で風をあやつってるんだ。追風でもないのに、どうやって帆を使うんだよ」
「いいからやってみろ」ガリオンは辛抱強く言った。動きそうにない船長を見て、時間のむだだと感じたガリオンは、つけくわえた。「ぼくが言うからやらないのなら、レディ・ポルガラに頼んでもいい――ぼくの頼みなら聞いてくれる」
船長はまじまじとガリオンを見つめてから、ごくりと唾をのみこんだ。「どうしろって言いましたっけね、閣下?」言葉使いまであらためて、たずねた。
綱のはり具合いにガリオンが満足するまで、十五分はかかっただろう。それがすむと、まだ疑っている船長をしたがえて船尾へ行き、舵手をおしのけて舵輪をつかんだ。「よし、帆をあげるんだ」ガリオンは言った。
「うまくいきっこない」船長は小声でつぶやいたが、やがて声をはりあげた。「帆をあげい!」
滑車がきしみだし、帆が風にはためきながらマストをはいあがった。帆はみるみるふくらんでまともに風をうけはじめた。ガリオンが舵輪を回すと、船は風下へ鋭く向きを変えた。船首が荒波を切って進みはじめた。
マーゴの船長はあんぐり口をあけて帆を見上げた。「信じられん!」船長は感嘆の声をあげた。「いままでこんなことをしたやつはひとりもいなかった」
「これでもうどうすりゃいいかわかっただろう?」ガリオンがきいた。
「もちろんだ。簡単すぎて、なんで自分で思いつかなかったのかふしぎなくらいだよ」
ガリオンにはそのわけがわかったが、答えは胸にしまっておくことにした。ガリオンに指摘されるまでもなく、船長はもうたっぷりいやな目にあっているのだ。ガリオンは舵手のほうを向いた。「右舷からくる風の力に釣りあわせるように、舵はつねにこういうふうにしておかなくちゃならない」
「わかります、閣下」
ガリオンは舵輪を舵手に返して、ダーニクとトスを見にひきかえした。ふたりはまだ釣り糸をたぐりよせているところだった。さっきまでみぞれのふりしきる海面をはねていた巨大な魚は、泡だつ航跡をまたいで長い弧をえがきながら前後にひきずられていた。魚の口とふたりの釣り人を結ぶ頑丈なロープが、熱でももっているかのように、海中でジュッと音をたてた。「すごい魚だね」奮闘中のふたりにガリオンは呼びかけた。
答えるかわりにすばやくダーニクが送ってよこした笑いは、さながら朝日のようにはればれとしていた。
日暮れまで、船はしだいに強まる風をうけて快調に進んだ。日差しが薄れはじめたころ、陸地ははるかかなたにとおざかっていた。ここまでやれば、船長も舵手も心配はいらないだろう、ガリオンはそう判断して、ダーニクの巨大な獲物のまわりに群がっている小さな輪のほうへ歩いていった。
「釣り上げたのはいいが、こいつを料理できるようなでかい鍋をどこで見つけるつもりだい?」シルクが鍛冶屋にたずねている。
ダーニクはちょっと眉間にしわをよせたが、すぐまたにっこりした。「ポルならどうすればいいかわかるよ」そう言って、甲板によこたわる怪物をあきもせずにほれぼれとながめた。「ポルはなんでも知っているんだ」
みぞれは弱まっていたが、いっそう暗さをました空と暗い海をへだててかすかに光っている水平線まで、黒くうねる海が不機嫌に広がっていた。マーゴの船長が不安げな表情で、風のふきすさぶ薄闇のなかをやってきた。船長はうやうやしくウルギットの袖にさわった。
「なんだ、船長?」
「困ったことになりそうです、陛下」
「というと?」
船長は南の水平線のほうを指さした。六隻の船が追風をうけて、まっすぐこちらへ向かってくる。
ウルギットの顔がかすかに青ざめた。「マロリー軍か?」
船長はうなずいた。
「われわれが見えると思うか?」
「まちがいありません、陛下」
「ベルガラスに話しに行ったほうがいいな」シルクが言った。「だれも異論はないだろう」
船尾の客室で緊迫した話し合いが行なわれた。「向こうのほうが速度ははるかにはやいよ、おじいさん」ガリオンは言った。「こっちは風にむかって進んでいるが、向こうは風を背にうけているんだ。北へ向きを変えるしかないと思う――少なくとも、向こうの視界から見えなくなるまでは」
老人は船長が持ってきたぼろぼろの海図をにらんでいたが、かぶりをふった。「それは気にいらん。われわれがいまいるこの湾はゴランド海に注ぎ込んでいる。そこで袋のネズミになるのはごめんだ」ベルガラスはシルクを見た。「これまで何度かマロリーへ行ったことがあるだろう。連中の船はどの程度のものなんだ?」
シルクは肩をすくめた。「これと似たりよったりですよ。悪口を言おうとしているんじゃないんだが、船長、しかしアンガラク人とチェレク人とは所詮船乗りの質が――船大工の質というべきか――ちがうからね」シルクは考えこんだ。「連中から逃げる方法がありそうだぞ。マロリー人は船乗りとしては、肝っ玉が小さいから、夜は絶対に帆を全部は広げない。こっちが北に針路をとって、ありったけの帆をあげれば、連中をぐんとひきはなすことができるだろう――いったん暗くなっちまえば、水平線上でまたたく光ぐらいにしか見えなくなるはずだ。そうしたら帆をおろして、索具を調整し、船中の明かりを残らず消してしまう」
「しかしそれはできない」船長が異議をとなえた。「法にふれる」
「わがはいが一筆書こう、船長」ウルギットがあっさり言った。
「危険すぎます、陛下。明かりを消して航行したら、真っ暗がりで別の船と衝突するかもしれません。そうなったら沈没です」
「船長」ウルギットは辛抱強く言った。「マロリーの船が六隻われわれを追跡しているんだ。追いつかれたら、どうなると思う?」
「むろん沈没でしょう」
「じゃ、同じことじゃないか。少なくとも、明かりを消せば、助かる見込みがあるんだ。先をつづけてくれ、ケルダー」
シルクは肩をすくめた。「それぐらいしかないんだ。明かりを消したあと、帆をあげてふたたび東へ進む。マロリー軍はおれたちが見えないから、こっちの航跡を横切ってそのまま進んでいくだろう。明日の朝には、おれたちがどこにいるのか皆目わからなくなっているはずだ」
「うまくいくかもしれんな」ベルガラスが認めた。
「危険だ」船長は不満そうだった。
「ときには息をすることだって危険なんだ、船長」ウルギットが言った。「どうなるかやってみよう。それにしても、マロリーの船がこんな西のはずれでなにをしているんだろう?」
「海岸線を荒し回るために送り込まれた略奪者なのかもしれませんな」サディがほのめかした。
「どうだか」ウルギットは疑わしげだった。
南極の万年雪から掃き集められたような冷たい風を受けて、かれらは真北へ進んだ。甲板のランタンが風にゆれ、嵐にしなう索具に狂おしく躍る影を落とした。帆を半分おろして慎重に進んでいた六隻のマロリーの船が遅れだし、しばらくたつと、マロリーの航海灯ははるか後方の水平線上にまたたくちっぽけな星にも満たぬ大きさになった。やがて、真夜中ごろ、船長が帆をおろす命令を出した。船乗りたちは急いで索具を調整した。舵手のとなりに立っていたガリオンのところへ船長がやってきた。「万事整いました、閣下」
「ようし、では、すべての明かりを消して、ここからこっそり出られるかどうかやってみよう」
マーゴ人の硬い表情がくずれて、悲しげな笑みがうかんだ。「うまくいったら――たとえうまくいっても――おれはひと月ベッドから起き上がれないと思いますよ」船長はそう言ったあと、声をはりあげて命令した。「甲板の明かりをすべて消せ!」
あたりは、ほとんど手でさわれそうに濃い暗闇にとざされた。
「帆をあげろ!」船長はどなった。
ガリオンは滑車のきしみと、帆のはためきを聞き取ることができた。やがて帆が風をうけて大きくうなる音がし、船は傾いて針路を右にとった。
「方角についちゃ、確かなところはわかりませんよ」船長が警告した。「たよりになる目印がなかったんですからね」
「あれを利用したらどうだ」ガリオンはずっとうしろのほうでまたたいているマロリーの船の明かりを指さした。「少しはあれを利用したっていいだろう」
暗いだるま船は帆を風にふるわせて東へ進んだ。追いかけてくるマロリーの船の甲板の明かりは用心深く北へ移動しつづけて、はるか後方を横切り、またたいて見えなくなった。
「トラクがやつらを暗礁へ導きますように」船長は熱っぽくつぶやいた。
「うまくいったじゃないか!」ウルギットがうきうきした声をあげて、船長の肩をたたいた。「ありがたい、ほんとにうまくいった!」
「おれはただ、夜間明かりをつけずに航行したことをだれにも見られないよう祈るだけですよ」船長はうじうじしていた。
暗い東の水平線がぼんやりと白みだし、十リーグほど前方に低くたれこめた闇のなかからゆっくりと日がのぼりはじめた。「あれがクタカの海岸です」船長が指さした。
「マロリーの船の気配はあるか?」ウルギットが荒海に目を配りながらたずねた。
船長はかぶりをふった。「夜のあいだにこっちの鼻先を通過していきましたよ、陛下。いまごろはゴランド海のまんなかまで行ってるでしょう」船長はガリオンを見た。「もっと岸に接近してから、またくるっと向きを変えて右へ進みますか、閣下?」
「もちろん」
船長はまぶしげに帆を見上げた。「また索具を調整しなけりゃならないようですな」
「その必要はないだろう」ガリオンは残念そうに言った。「南に針路をとれば、直接風に向かって進むことになる。帆をたたんで漕がないとだめだ」船長のがっかりした顔に気づくと、「船長、残念だが限度というものがある。この船の帆は形がそういうふうにできていないんだよ。はっきり言うと、この場合は漕ぐほうがずっと早い。ゆうべ針路を変えたのはどのあたりだった?」
「相当北のほうですよ、閣下」船長は前方に横たわる不明瞭な海岸線を見やりながら答えた。「あの追風を帆に受けて進んでいたんだから、かなりきたはずです。前方のどこかにゴランド海の入口が見えたって、おれはおどろきませんね」
「あそこへは入りたくない。マロリーの船との追いかけごっこはもうごめんだ――動きのとれない水域ではなおさらさ。ぼくは下へおりて、朝の腹ごしらえをして、乾いた服に着替えてくる。なにか起きたら、人をよこしてくれ」
「そうします、閣下」
その朝の食事は魚だった。ポルガラの提案で、ダーニクの巨大な獲物が切身にされ、弱火でじっくり焼きあげられた。
「うまいだろう?」ダーニクが誇らしげにきいた。
「ええ、ディア」ポルガラがうなずいた。「とてもおいしい魚だわ」
「どうやってつかまえたか、話したかな、ポル?」
「ええ、ディア――でもかまわないのよ。話したければ、何度でもどうぞ」
食事が終わりかけたとき、ぼろぼろのケープをはおったマーゴの船長が心配そうな顔つきで入ってきた。「やつらがもっといるんです、閣下」ガリオンを見ると、船長はせきこむように言った。
「なにがもっといるって?」
「マロリー人ですよ。別の小艦隊がクタカ海岸をこっちへ向かってきます」
ウルギットの顔から血の気がひき、両手がふるえはじめた。
「ゆうべぼくたちを追っていたのと同じ艦隊じゃないのは確かなのか?」ガリオンはすばやく立ち上がった。
「同じはずがないですよ、閣下。ちがう船団です」
シルクは目を細くして船長を見ていたが、やがてたずねた。「船長、これまでひとりで仕事をしたことがあるかい?」
船長はうしろめたそうにちらりとウルギットを見て、つぶやいた。「なんのことだかわかりませんね」
「とぼけているときじゃないぜ、船長」シルクは言った。「マロリーの艦隊のどまんなかに突っ込もうとしているんだぜ。このへんに隠れられるような入り江かなにかないのか?」
「この海岸ぞいにはありません、殿下。しかし水路を通ってゴランド海にはいるとすぐ、右舷側に小さな湾があります。暗礁のかげにすっぽりはいる湾です。マストをはずして、うまく隠れていれば、見つからずにすみそうです」
「ではそうしよう、船長」ベルガラスが短く言った。「天気はどんなぐあいだ?」
「あまりよくありませんね。南からぶあつい雲が近づいてきます。昼前に西風が吹いてきそうですよ」
「悪くない」
「悪くない?」
「海にいるのはわれわれだけではないんだ」ベルガラスは念をおすように言った。「強い西風が吹けば、マロリー人たちはわれわれを見つけることの他になにかやるべき仕事が出てくるだろう。命令をだしてきてくれ、船長。船を旋回させて、いそいで湾へ向かうんだ」
「人目につかない入り江のありかを船長が知ってることに、どうしてあんなに確信があったんだ?」船長が立ち去ったあと、ウルギットはシルクにたずねた。
シルクは肩をすくめた。「ある場所から別の場所へ動かされる商品には税金をかけるだろう?」
「もちろんだ。財源が必要だからな」
「自分の船があって、頭の働く人間なら、航海の目的地にある波止場の税関に立ち寄るのを忘れることもある――つまり買い手が見つかるまで、品物を隠しておく静かな場所を見つけ出すってことさ」
「それじゃ密売じゃないか!」
「そうさ、そういう言い方もあるだろうな。いずれにせよ、船長ならだれだってときにはそういう仕事に手を出すものなんだ」
「マーゴ人にかぎってそんなことはない」ウルギットは言い張った。
「じゃ、きみのところの船長がここから五リーグたらずのところに格好の隠れ場を知っているのは、どういうわけだ?――たぶん他にもいっぱい知っているはずだよ」
「あんたは堕落しきったいやらしい野郎だな、ケルダー」
「わかってるさ。だが、密売ってやつはすこぶるもうかる仕事なんだ。きみも考えてみたらどうだ」
「ケルダー、わがはいは王なんだぞ。そんなことをしたら、自分のふところから盗んでいるようなものじゃないか」
「おれを信用しろよ」シルクは言った。「ちょっとこみいってるが、どうすればたんまりもうけられるか教えてやるよ」
やがて船が揺れ、舵手が舵輪を回して船が転回し、かれらは船尾の窓からとぶようにうしろへ消えていく波を見つめた。はるか後方に、六つの赤い帆が見えた。
「あの船にグロリムは乗ってるか、ポル?」ベルガラスは娘にたずねた。
ラヴェンダー色の目が一瞬遠くを見る表情になり、ポルガラは片手を額の前で動かした。「いいえ、おとうさん。ただのマロリー人だけよ」
「よし。それなら隠れるのにそう苦労はないはずだな」
「船長の言った嵐が連中のうしろから近づいてきますよ」ダーニクが言った。
「やつらが速度をあげることはないだろうか?」ウルギットが神経質にたずねた。
「まずないでしょう」鍛冶屋は答えた。「連中は頭から嵐につっこもうとするにきまってます。それが嵐をのりきる唯一の安全策なんですよ」
「われわれも同じことをしなくていいのか?」
「向こうは六隻、こっちは一隻だ」シルクが言った。「いちかばちかやるしかないだろう」
近づいてくる嵐の先頭をきって、黒々とした波がはるか後方の複数の赤い帆をのみこみ、海岸線をぐんぐんのぼってきた。波はさらに高くなり、マーゴのだるま船は風にゆさぶられてはねあがった。荒海にもみくしゃにされて船材が抵抗のうめきやきしみをあげ、帆が頭上でぶうんと鳴った。そのぶうんという音にしばらく耳をすましていたガリオンは、ことの重大さにようやく気づいた。ガリオンをあわてさせたのは、船の中央から聞こえてくる不吉なぎしぎしという音だった。「あのばかが!」ガリオンは叫ぶなり、立ち上がってマントをつかんだ。
「どうしたんです?」サディがびっくりしてたずねた。
「船長のやつ、帆をいっぱいにあげているんだ! メインマストが折れなくても、このままじゃ海中へなげこまれるぞ!」ガリオンは身をひるがえして船室からとびだすと、左右にゆれる昇降階段をよろめきながら三歩でかけあがった。「船長!」雨のふりしきる甲板に走りでて叫んだ。とっさに並んでいる命綱の一本をつかんだとき、砕けた波が船尾に押し寄せ、あっというまに甲板は膝まで水につかった。ガリオンは足をすくわれそうになりながら、また「船長!」と叫び、命綱を両手でたぐりながら船首のほうへむかった。
「閣下?」船長がおどろいた顔で叫びかえした。
「帆をちぢめろ! メインマストが裂けてしまうぞ!」
船長は上を向いて目をこらした。その顔が無念そうにゆがんだ。「むりです、閣下」ガリオンがそばにきたとき、船長は言った。「この嵐じゃ帆をたたむのはむちゃですよ」
ガリオンは雨でかすむ目をごしごしこすって、ふくれるだけふくれた大帆をふりかえって見上げた。「じゃ、切るしかない」
「切る? しかし、閣下、あの帆は新品なんですよ」
「帆をとるか船をとるかの状況なんだ。この風でメインマストがぽっきり折れたら、船はまっぷたつだぞ――そうならなくても、われわれは海中に投げ込まれる。さあ、あの帆をマストからおろせ――なんならぼくがやる」
船長はガリオンを見つめた。
「いいか、もしぼくがやらなけりゃならないなら、ぼくはあんたの甲板にあるものをきれいに一掃しちまうぞ――マストも索具も帆も全部」
船長はただちに命令を出しはじめた。
いったん大帆が切断され、凧のように嵐の中へ飛んでいってしまうと、いやな振動ときしみはやわらぎ、船は小さな前檣だけを推進力に前よりなめらかに追風を受けて走りはじめた。
「ゴランド海の入口までどのくらいだ?」ガリオンはたずねた。
「もうじきです、閣下」船長は顔をぬらす汗と雨をぬぐいながら答えると、ふりしきる雨に目をこらしてあたりをながめた。かろうじて見える低い海岸が右舷をすべるように遠ざかっていく。「あれですよ」船長が指さした。一マイルほど前方に小さな丘がぼんやり見えた。「ほらあの岬――こっちに白い断崖を向けているあれです。水路はあの向こう側にあるんです」船長は船首の手すりにしがみついている船乗りたちのほうを向いた。「海錨をおろせ」と命令した。
「なんのためだ?」ガリオンはきいた。
「船の速度が速すぎるんですよ、閣下」船長は説明した。「水路を通るのはちょっとむずかしいんです。通過するには急転回しなけりゃなりません。そのためには速度を落とす必要があります。海錨をひきずっていれば、そう早くは進めませんからね」
ガリオンは考えてみたが、納得がいかなかった。なにかがおかしいように思えたが、なにがどうおかしいのかはっきりしない。ガリオンは船乗りたちが太いロープのついた長い粗布の袋のようなものを船尾の手すりからころげおとすのを見守った。袋が後方に流れた。ロープがぴんと張り、船ががたがたとゆれて、目だって速度が落ちた。
「このほうがいい」船長が満足そうに言った。
顔にふきつける冷たい雨が目にはいらないように、手でひさしを作ってガリオンはうしろをのぞいた。マロリーの艦隊は影も形もなかった。「その水路とやらは、どの程度の注意が必要なんだ?」
「中央にいくつか暗礁があるんです、閣下。それをよけるには、どっち側でもいいから海岸に沿って進まなけりゃならないんですよ。おれの言った湾は南側にあるから、おれたちは南の海岸から離れないように進むことになります」
ガリオンはうなずいた。「これから右に曲がることをみんなに知らせてこよう。急に方向が変わると、下はちょっとゆれるだろう」
「面舵と言ってくださいよ」船長は不満そうだった。
「え? ああ、それじゃだめなんだよ。仲間のほとんどは、右と言わなけりゃ通じないんだ」ガリオンは歩きだそうとして、雨をすかしてうしろへ流れていく低い海岸線を見つめた。その上にぬっとあらわれた断崖と丸い岬の方角は、いまや船のほぼどまんなかにあった。すぐ前方に突き出た岩にぶつかってしぶきをあげる問題の水路が見える。ガリオンはいきおいよく狭くて暗い昇降階段をかけおりると、よろめきながら船尾へ向かう途中で、マントについた雨のしずくをできるだけはたき落とした。主船室のドアをあけて、頭を中につっこみ、知らせた。「ゴランド海の入口にきた。ここで面舵をとる」そう言ってから、うっかり面舵と言ってしまったことを呪った。
「面舵ってどっちのこと?」セ・ネドラがたずねた。
「右だ」
「じゃあ、どうして右って言わなかったの?」
ガリオンはそれを聞き流した。「方向転換するときは、ちょっとゆれるからみんななにかにつかまってたほうがいいよ。水路のまんなかに暗礁があるので、それにぶつからないように南の海岸線にそって進まなくちゃならないんだ――」そこまで言ってはっとしたとき、ちょうど船が転回して水路へつっこんだ。「くそ!」ガリオンは毒づいて、くるりと向きをかえ肩ごしに〈鉄拳〉の剣をつかむなり、あわてて昇降階段へひきかえした。傾いた階段のドアをけやぶって雨でびしょぬれの船尾の甲板にとびだし、巨大な剣を高々とかかげた。「それを切れ!」ガリオンは叫んだ。「海錨のロープを切るんだ!」
船長はわけがわからず、あぜんとしてガリオンを見つめた。
「そのいまいましいロープを切れ!」ガリオンはわめいた。次の瞬間、ガリオンは船乗りたちに突進した。かれらはぶざまに折り重なって転倒し、起き上がろうとした。船はすでに急カーブを描いて岬へ接近しており、水路のまんなかにある暗礁や突き出た岩をよけて進んでいた。しかし、沈んだ海錨は追風に乗って走る波の力にひっぱられて、水路の入口を横切って動きつづけた。たるんでいたロープが白波にまぎれるといきなりぴんと張り、マーゴのだるま船をななめにひっぱった。突然加わった力にガリオンはよろめき、手すりにつかまっている船乗りたちのなかへ突っ込んだ。「ロープを切れ!」懸命に身をふりほどこうとしながら、ガリオンは叫んだ。「ロープを切れ!」
だが、手遅れだった。嵐に駆り立てられた波のすさまじい力にひっぱられて、重い海錨は、マーゴの船を停止させるばかりか、いまや無情にもうしろへひっぱっていた――いましがた通り抜けた安全な水路のほうへではなく、ぎざぎざの暗礁に向けてまっしぐらに。
ガリオンはよろめき立つと、足元でじたばたもがいている船乗りたちを蹴飛ばした。はじけば鳴りそうにピンとはりつめたロープを死に物狂いでなぐりつけ、ロープそのものだけでなく、それが巻き付いている頑丈な巻き上げ機を叩き壊した。
「なんてことを!」船長が抗議の声をあげた。
「あの舵輪をつかむんだ!」ガリオンはどなった。「面舵いっぱい! 向きを変えろ! 変えるんだ!」行く手で泡だっているおそるべき暗礁を指さした。
船の進路にナイフのようにとがった巨大な岩がそびえているのを見て、船長は息をのんだ。次の瞬間、船長はパッとふりかえり、ばかみたいに突っ立っている舵手から舵輪を奪い取った。そして本能的に、舵柄を左舷にきった。
「右舷だ!」ガリオンはどなった。「右舷にきれ!」
「いえ、閣下」船長は言った。「左舷でなくちゃなりません――左です」
「この船は後退してるんだぞ、このばかもの! 右にきるんだ!」
「右舷了解」船長は状況を完全にのみこめぬまま、うわの空で訂正した――そのあいだもずっと舵輪は最初にとった致命的進路に固定したままだ。
ガリオンは依然としてもがきつづけている船乗りたちを乗り越えて、ぼんやりしている船長のところへ行こうとした。が、そのとき船が頭から暗礁に突っ込み、喫水線の下から突然めりめりという音がして、船体ががくんと傾いた。船材が悲鳴をあげてぽきっと折れ、尖った岩が船底に穴をあけた。岩にくしざしにされて動けなくなるいっぽうで、波が船体を非情にたたきはじめた。船がばらばらになるのは時間の問題だった。
[#改ページ]
8
ガリオンはもがくように立ち上がると、頭をふって、耳なりと目の前で踊っている火花をおい散らそうとした。船がいきなり暗礁にぶつかった衝撃で、船尾の手すりに頭からつっこみ、頭のてっぺんにずきずきする大きなこぶができていた。騒々しい物音があたり一帯に満ちていた。甲板からは叫び声が、海からは助けを求める悲鳴が聞こえた。暗礁にひっかかった船はうめき、ゆれ、竜骨の下の見えない岩にぶつかって裂け目のできた船底をうねる波が叩いていた。ガリオンは痛みにひるみながらもう一度頭をふって、上向きに傾斜した船尾の甲板をよたよたと歩いて昇降階段のドアへ向かった。だが、そこへたどりついたとたん、ベルガラスとダーニクがとびだしてきた。「なにごとだ?」老人がといつめた。
「暗礁にぶつかったんだ」ガリオンは言った。「下でだれか怪我をしなかった?」
「だいじょうぶだ――ころんだ程度さ」
ガリオンは頭頂部のこぶをさわってみて、するどい痛みに首をすくめた。次に手を見たが、出血はしていないらしい。
「どうした?」ベルガラスがきいた。
「頭をうちつけたんだ」
「おまえがいまさらそんなドジを踏むとはな」
足の下からぞっとするようないやな音がひびいてきて、それとともに外板にひびがはいる音がした。
「ベルガラス」ダーニクが不安そうに言った。「われわれは暗礁にひっかかっているんですよ。この荒波じゃ、船はもうじきばらばらになってしまいます」
ベルガラスはすばやくあたりを見回した。「船長はどこだ?」
ガリオンは振り向いて船尾を見た。「さっきまでは舵輪を握っていたんだがなあ」短い傾斜をよじのぼって船尾の甲板へ行き、つんのめるようにやってきた舵手をつかまえて大声でたずねた。「船長はどこにいるんだ?」
「行方不明です。暗礁に衝突したとき、船尾の手すりから海へ投げ出されちまったんです」舵手の目はショックと恐怖に満ちていた。「おれたちゃ全員死ぬ運命なんだ!」そう叫ぶなり、舵手はガリオンにしがみついてきた。
「やめるんだ!」ガリオンは一喝した。「船長は行方不明だよ、おじいさん」暴風雨と甲板の混乱に負けないように、ガリオンは声をはりあげた。「手すりから投げ出された」
ベルガラスとダーニクは急いで三つの段をかけあがり、船尾の甲板に出た。「では、われわれでなんとかしなくちゃならん」老人は言った。「時間はあとどのくらいあると思う、ダーニク?」
「あまりありません。船倉内の船板がどんどん壊れてきている。海水が流れ込んでくる音が聞こえるでしょう」
「そうすると、船をこの暗礁からどかさないといかんな――岩がこれ以上船底に穴をあけんうちに」
「しかし、いま船が沈没しないでいるのは、暗礁の上にのっかっているからですよ、ベルガラス」鍛冶屋は異議を唱えた。「どかしたりしたら、たちまち沈んでしまいます」
「では、浜へ乗り上げさせるしかない。一緒にきてくれ、ふたりとも」ベルガラスは先に立って船尾へ行くと、舵柄《だへい》をつかんだ。二回ほどそれをゆすぶってみて、老人は悪態をついた。「方向舵がなくなっとる」大きく息を吸って気持ちを落ち着かせると、ベルガラスはガリオンとダーニクのほうを向いた。「一度に全部やるんだ」と言い渡した。「持ち上げたり、向きを変えたり、ひっぱりまわしたりすれば、かえって船の損傷を深めるだけだ」ベルガラスは顔をぬらす雨と波しぶきをぬぐって、一マイルほど離れた岸をじっと見つめた。かれは突き出た岬を指さした。片側の白い崖がとどろく荒波からそそりたっている。「あの崖のすぐ左に浜がある。そこをめざそう。波は荒いし、砂地は岩だらけだが、あそこが一番近い」
ダーニクは船尾の手すりから身をのりだして、下をのぞきこんだ。「船底は穴だらけですよ、ベルガラス」重々しく報告してから、鍛冶屋は目をすがめて浜までの距離を推し量った。「頼みの綱はスピードですね。いったん暗礁からはずせば、船は沈みだすでしょう。できるかぎりの速さで船を浜まで押して行かなければなりません――しかも、方向舵がないんだから、方角を定めるのは相当骨がおれますよ」
「他に選択の余地があるか?」ベルガラスはたずねた。
「思いつけるかぎりではありません」
「じゃあやるんだ」老人はふたりを見た。「川意はいいか?」
ガリオンとダーニクはそろってうなずくと、背筋をのばしてそれぞれ意識を集中させ、意志の力をたぐりよせた。全身がちくちくしはじめると、ガリオンはしっかり自分をおさえこんで、最大限の力をたくわえた。
「今だ!」ベルガラスが吠えた。
「上昇!」三人は異口同音に言った。
見るも無残な船の船尾がゆっくりと逆巻く波間からあらわれ、船体がぎざぎざの暗礁からはずれると、ずたずたになった船板が悲鳴をあげた。
「さあ!」ベルガラスが怒鳴り、なかば雨にかすんだ浜を指さした。
ガリオンは泡だつ暗礁を意志の力で蹴飛ばすように押しやった。自由になったとたん、船は胸の悪くなるような速さで船尾から沈みはじめた。が、はじめはゆっくりと、しだいに速度をあげて、船は前進した。うなりをあげる風の音にかぶさって、安全な浜へ疾走する船のわき腹を波が叩く音が聞こえた。
だが、主要水路の流れにぶつかると、方向舵のない船はまたも大きく揺れはじめた。「まっすぐに保つんだ!」ベルガラスが叫んだ。額には青筋が浮き、奥歯をかたく噛みしめている。
ガリオンは懸命の努力をつづけた。穴だらけの船が速いスピードで進んでいるかぎりは、破壊された船尾から海水が流れ込むのを防ぐことができる。だが、波にたいして船体が横向きになるようなことがあれば、速度は鈍り、沈没の危険は免れない。海は情け容赦なく船をひきずりこもうとするだろう。ガリオンは船首を意志の力で握りしめ、船の針路を正し、そのあいだもありったけの力で浜をめざしつづけた。
あと三百ヤード。汗まみれになって奮闘するガリオンの目に、小石まじりの砂浜に打ち寄せる波が見えてきた。
二百ヤード。波のとどろきが聞こえる。
百ヤード。小山のような波が体の下で盛り上がり、目と鼻の先に迫った安全地帯へ船を突進させるのが感じられる。
まもなく舳先《へさき》が泡だらけの砂地にふれたとき、かれらを浜へ押しやった大波がひいて、船のなかほどから恐ろしいぞっとするような衝撃がつたわってきた。荒波の下にひそんでいた岩にぶつかったのだ。またもガリオンはうつぶせに甲板にたたきつけられ、そのショックで気絶しそうになった。
波はまだ周囲でごうごうとうなりをあげていた。中央部の船板がびしびしと割れる音がひびいた。だが、かれらは無事だった。満身創痍の船の舳先は、浜のぬれた砂にしっかりと食い込んでいた。やっとの思いで立ち上がったとき、ガリオンは力を出し尽くして体がひからびてしまったような気がした。そのとき、足の下の甲板がいやらしい角度に傾き、船の中央部からさらに船板の壊れる音がした。
「あの岩に衝突したときに、竜骨がこわれたらしい」ダーニクがふるえ声で言った。その顔は激しい疲労で土気色になり、体ははためにもわかるほどふるえている。「全員を船から浜へおろしたほうがよさそうだ」
甲板排水孔のそばに倒れていたベルガラスが身を起こした。どこかにぶつけたらしく、片頬が赤くなっている。顔は雨と波しぶきでびしょぬれで、目には深い怒りがこもっていた。次の瞬間、その怒りがかき消えた。「馬が!」老人は叫んだ。「船倉にいるんだ! ダーニク!」
だが、鍛冶屋はすでに中央部の昇降口めざして走りだしていた。「トスを手伝いによこしてくれ!」肩ごしにかれは怒鳴った。「船倉にいる馬たちを出してやらなけりゃならない!」
「ガリオン!」ベルガラスが吠えた。「みんなを船室からだして乾いた陸地におろせ。この難波船がまっぷたつになるのは時間の問題だぞ」
ベルガラスとガリオンは波しぶきと横なぐりの雨に顔をたたかれながら、壊れた船の傾斜した甲板を気をつけて歩きだした。傾いた船尾のドアをくぐり、昇降階段をおりた。細い廊下には中央部からひびいてくる船板の壊れる音が充満していた。
船尾の客室はまったくの修羅場だった。暗礁に衝突した衝撃と、船の後部を破壊したさらにひどい衝撃によって、ボルトで固定されていた家具の大部分が金具からひきちぎられていた。反り返った船板ががたがたと揺れ、船尾をまたぐ窓は一枚残らず割れて窓枠だけになっている。波しぶきと雨が、そのぽっかりあいた穴からふきこんでいた。
セ・ネドラとプララはおびえた表情で、しがみつきあっており、ウルギットはあらたな衝突のショックにそなえようというのか、竜骨の軸にしっかりつかまっている。サディは例の赤い革の箱を抱きかかえるようにして、隅っこになかば横たわっていた。しかしポルガラは猛烈に腹をたてているように見えた。彼女もまたずぶぬれだった。痛めつけられた船尾から流れ込んだ海水が、服と髪をびしょぬれにしたのだ。ポルガラの表情は激しく憤慨している者のそれだった。「正確に言って、なにをしでかしたの?」ベルガラスとガリオンが壊れたドアからはいっていくなり、彼女は老人につめよった。
「暗礁に乗り上げたんだ、ポル」ベルガラスは答えた。「沈みかけていたんで、船を浜に乗り上げさせなけりゃならなかったのさ」
ポルガラはしばし考え込んだ。どうやら父親の言ったことに難癖をつけようとしているらしい。
「話はあとでもできる」ベルガラスはきょろきょろした。「みんなだいじょうぶか? われわれはただちにこの難破船からおりなくちゃならん」
「予想されうる程度にはだいじょうぶよ、おとうさん」ポルガラは言った。「どういうことなの? 船は浜に乗り上げたといま言ったじゃないの」
「海中の岩にぶつかって、竜骨が壊れた。この客室のあたりはまだ海のなかなんだ。このおんぼろ船がいまばらばらにならずにいるのは、板の継目に塗ってある松やにのおかげだよ。いますぐ船首のほうから船をおりなけりゃあぶない」
ポルガラはうなずいた。「わかったわ、おとうさん」彼女はみんなのほうを向いた。「運べるだけのものをまとめるのよ。上陸しなけりゃならないわ」
「ぼくはダーニクを手伝ってくる」ガリオンはベルガラスに言った。「トス、エリオンド、一緒にきてくれ」ドアのほうを向いてから、ガリオンはちょっと足をとめてセ・ネドラを見た。「だいじょうぶかい?」
「だと思うわ」セ・ネドラはおびえた声で答えると、膝にこしらえた醜いあざをさすった。
「ポルおばさんのそばを離れないように」それだけ言うと、ガリオンはドアの外に出た。
船倉内の光景は予想以上にひどかった。膝まである海水が、裂けた船体のすきまからさし込む薄明かりのなかで渦まいている。箱だの、袋だの、梱だのがいたるところにぷかぷか漂って、ばちゃばちゃとはねかえる水に汚水がまじり、砕けた船板の破片が浮かんでいる。ダーニクはすでに目を血走らせた馬たちを船首のほうへ先導しており、水位の一番低いあたりで、馬たちは身をよせあっていた。「三頭死なせてしまったよ」鍛冶屋は報告した。「二頭は首の骨を折った。一頭は溺死だ」
「ぼくの馬は?」エリオンドがせきこんでたずねた。
「ぶじだよ、エリオンド」ダーニクは安心させるように言ってから、ガリオンに向きなおった。「さっきからわれわれの荷物を集めようとしていたんだ。どうせなにもかもびしょぬれだろう。だが、食料はみんな船尾にあったんだ。あきらめるしかないね」
「そのことはあとでなんとかできるよ」ガリオンは言った。「いま肝心なのは、馬を陸にあげることだ」
ダーニクは目をすがめて、船尾が荒波に揺れるたびにこすれあう二フィート四方の竜骨のぎざぎざになった両端を見つめた。「危険すぎる」ぽつりと言った。「舳先《へさき》からおりるしかないだろう。斧をとってくる」
ガリオンはかぶりをふった。「船尾の尻尾を切り離したら、船首部分は大きく横揺れするよ。そうなったら、さらに四、五頭失いかねない。それにもう時間がないんだ」
ダーニクは大きく息を吸うと、広い肩をそびやかした。その顔は悲しげだった。
「わかってるよ」ガリオンは友だちの腕に手をおいた。「ぼくも疲れてるんだ。前からおりよう。どこから脱出しようと、ぼくたちが深い海に飛び込まなくちゃならなくなったら意味がない」
だがいざやってみると、思ったほど困難ではなかった。トスがいたことが大いなる助けとなったのである。かれらは船の片側のがっしりした二本の肋材にはさまれた場所を選んで、仕事にとりかかった。ダーニクとガリオンが集中させた意志の力で、その肋材のあいだの船板を慎重に壊しはじめると、トスが大きな鉄のこじあけ棒で同じ場所を攻撃した。魔術と、物言わぬ男のとてつもない肉体的な力が束になると、船首にたちまち細長い穴があいた。
かれらの奮闘によって木っ端が浜に飛び散った。それが届かないあたりに、シルクが立っていた。マントが風にちぎられそうになり、寄せ波が足首にまつわりついている。「みんなぶじか?」シルクは嵐に負けまいと声をはりあげてたずねた。
「だいじょうぶだ」ガリオンは怒鳴り返した。「馬をおろすとき手を貸してくれ」
だが、結局目隠しをしなければならなかった。ダーニクとエリオンドが努力のかぎりをつくしてなだめても、恐れをなした馬たちは膝の高さでちゃぷちゃぷはねる海水から目を覆ってやるまでは動こうとしなかったのだ。船倉内の半分水をかぶった敷き藁からひき離して、泡立つ波のなかへ連れ出すには、一頭ずつ手綱をひき、なだめすかさなくてはならなかった。最後の一頭が脇腹を雨にぬらし、おどおどと砂浜に立ったとき、ガリオンはゆっくりと上下に揺れる難破船をふりかえった。「荷物をおろそう」船に残っているベルガラスたちにむかって叫んだ。「できるだけ持ち出すんだ、だが、危険は冒すな」
舳先《へさき》から砂地にとびおりたあと、マーゴの船乗りたちは砂浜にあがって、突き出た大きな岩の風下側に避難していた。いま、かれらは身を寄せあって立ち、荷おろしのようすをむっつりながめていた。ガリオンと仲間たちは、一番高い波がつけた泡のすじより上に荷物をつみあげた。
「馬三頭と、食料を失くしたよ」ガリオンはベルガラスとポルガラに報告した。「他のものは全部あると思う――船室に残していかなけりゃならないものを除いてね」
ベルガラスは目を細めて雨をふり仰いだ。「荷物は配りなおせる」かれは言った。「しかし、食料が必要になるな」
「潮は満ちてくるのかな、それともひくのか?」シルクが最後の荷物を身の回り品の山にのせながら、きいた。
ダーニクが嵐に翻弄されながらゴランド海へ流れ込んでいる水路に目をこらした「干満のちょうど変わり目らしいね」
「じゃ、それほど問題はないな」小男は言った。「風を避けられる場所を見つけて、潮がひくのを待とう。潮がひいたら、戻ってきて、心ゆくまで難破船をあさればいいさ。引潮になれば、船の全身があらわれるはずだ」
「あなたの計画にはひとつだけまずい点がありますよ、ケルダー王子」サディが砂浜の上のほうを見ながら言った。「マーゴの船乗りたちを忘れてます。連中が無人の砂浜で立ち往生しているあいだ、最低十二隻のマロリーの船が連中をさがして海岸線を巡回しているんです。マロリー人はアローン人に劣らずマーゴ人を殺すことに喜びを見いだす人種ですからね、あの船乗りたちはここから逃げだそうとするでしょう。あの馬たちはもっと遠ざけておいたほうが賢明かもしれませんよ――わたしたちが馬を失いたくないのなら」
「荷物を馬につんで、馬に乗るとしよう」ベルガラスは決断した。「サディの言う通りだろう。船に残ったものはあとで取りにくればいい」
かれらは荷物をばらして、三頭減った分を考慮にいれて、重量を分配し、馬たちに鞍をつけはじめた。
長身で肩幅の広い、左目の下にふてぶてしい傷跡のあるマーゴが、船乗りたちを引き連れて浜へおりてきた。「その馬たちをどこへ連れていこうってんだ?」男はつっかかるようにきいた。
「あんたの知ったことではないだろう」サディがひややかに答えた。
「そうはいかないぜ、なあ?」
雨でずぶぬれの船乗りたちから同意のどよめきが起きた。
「馬はわたしたちのものだ」サディが言った。
「そんなこと知るか。数の多いおれたちのほうが好きにできるんだ」
「なにをしゃべってるんだよ、時間のむだだろう?」顔に傷跡のある男のうしろから、船乗りたちのひとりがわめいた。
「そうとも」大柄なマーゴ人はうなずいた。腰にさげた鞘から錆びた短い剣をぬくと、男は肩ごしにうしろを見やって剣を高くあげ、怒鳴った。「おれにつづけ!」言ったとたん、男は激痛の叫びをあげてぬれた砂の上に倒れ、折れた右腕をつかんで身悶えた。トスが表情ひとつ変えずに、ほとんど投げやりともいえる動作で、さっきから片手に握っていた鉄のこじあけ棒を横手投げに投げ、うなりをあげて回転しながら飛んでいったそれが、剣を振り回そうとしたマーゴ人の腕に命中したのだ。
船乗りたちは親玉が突然倒れたことにぎょっとして、あとずさった。やがて、前の列にいた短い頬ひげを生やした男が、重そうな鉤ざおを持ち上げて怒鳴った。「突っ込め! おれたちにゃあの馬がいるんだ。数だって、おれたちのほうが多いんだ」
「もう一度数えなおしたらどうなの」ポルガラがひややかな声で言った。剣を鞘から抜きはなって一歩前に踏み出したガリオンは、左側に奇妙な影のような存在を感じた。かれは信じられずに目をぱちくりさせた。本当にそこにいるかのように、赤ひげの巨漢、バラクの姿が隣りに立っている。
右からがちゃがちゃという音が聞こえ、そこには、鎧兜を雨に光らせたマンドラレンが立っており、その少し向こうには鷹のような顔のヘターが見えた。「どうお思いか、諸君?」無敵のボー・マンドル男爵とおぼしき姿が陽気に言った。「このならず者どもに逃亡のチャンスを与えるべきか、はたまた、こやつらに襲いかかって生き血をしぼりだしてやるか?」
「あとのほうがたしなみのある行動ってもんだろうな」バラクの幻がわれ鐘のような声で同意を示した。「どう思う、ヘター?」
「こいつらはマーゴ人だ」ヘターの影が持ち前の静かな冷たい声で言いながら、サーベルを抜いた。「いますぐここで皆殺しにしてしまおう。そのほうがあとでひとりずつ追いかける手間がはぶける」
「そういうだろうと思ったよ」バラクが笑った。「ようし、じゃあみんな、仕事にかかろう」かれはずっしりした剣を抜いた。
実物より大きな三つの幻が、ちぢみあがった船乗りたちのほうへ無情に迫っていった。そのまんなかで、現実には自分ひとりしかいないことを痛いほど意識しながら、ガリオンは巨大な剣を低くかまえて前進した。すると、バラクのまぼろしの向こう側で、トスがばかでかい棍棒を手に足並みをそろえているのが見えた。その向こう隣りでは、サディが毒をぬった短剣をかまえている。列の反対側には、ダーニクとシルクが並んでいた。
バラクの幻がちらりとガリオンに目を向けた。「いまよ、ガリオン!」ひげにおおわれたそのくちびるから、ポルガラのささやき声が言った。
ガリオンは即座に理解した。いつも〈珠〉に向けている抑制力を、かれは解き放った。手の中の巨大な剣がたちまち光を放ち、その切っ先から青い光がほとばしり出て、いまやすくみあがったマーゴ人たちの顔を照らした。
「おまえらみんな、いますぐ死にたかろうな? 追いつめられてじわじわとこまぎれにされたくない者は、前へ出ろ」ガリオンの隣りにいる赤ひげの幻が、バラク本人が逆立ちしてもできそうにない堂々たる口調で言った。「まばたきの一瞬で、おまえらを片目の神の腕のなかへゆだねてやるぜ」
しばしその言葉が宙にぶらさがり、次の瞬間、船乗りたちは逃げていった。
「ああ、やったわ!」ポルガラのよく通る声がうしろから聞こえた。「千年も前からいまみたいなことがしたかったのよ!」ガリオンはふりかえって、ポルガラを見た。荒れ狂う海と、疾走する黒雲を背に立つポルガラの青いマントが、風にちぎれんばかりにはためいている。雨にぬれた髪が、顔と首にはりついていたが、きらきら光る目は勝利に酔っていた。
「ポル!」ベルガラスが叫んで、荒っぽく娘を抱擁した。「神々よ、あなたがたはなんとすごい息子を創造なさったもんだ!」
「あなたの娘ですもの、ベルガラス」ポルガラは簡潔に答えた。「でも、わたし以上にうまくやってのけられる息子なんているかしら?」
「おらんさ、ポル」ベルガラスは吹き出して、ぎゅっとポルガラを抱きよせ、雨にぬれた頬に音をたててキスした。「ひとりもおらん」
ふたりははたと静止した。何千年ものあいだ隠そうと努めてきた深い愛情が、とうとう世界の底にある、この嵐の通過した砂浜で露呈してしまったことに驚き、多少とまどってさえいた。ほとんど恥じらうように父娘は互いを見やり、そのあと、黙っていられなくなって笑いだした。
ガリオンは急に熱いものがこみあげてきて、あわてて横を向いた。
ウルギットが腕を折られた船乗りの上にかがみこんでいた。「おい、自国の王からの忠告を受け入れるつもりがあるのなら、あそこの海にマロリー人がうようよしていることを忘れるんじゃないぞ」ウルギットはいんぎんに言った。「マロリー人は出くわしたマーゴを片っぱしからはりつけにすることに、子供めいた喜びを感じるんだ。おまえもおまえの仲間も、あのぼろぼろのだるま船のそばにはいないほうが身のためだと思わないか?」ウルギットは意味ありげに難破船を見た。
船乗りは嵐に翻弄される水路を急におびえた目でちらりと見ると、あわてて立ち上がった。そして折れた腕をあやしながら、いそいで浜をひきかえし、ちぢみあがっている仲間のもとへ走っていった。
「みごとに状況を把握したようだな、え?」ウルギットはシルクに言った。
「さっきの船乗りとは別人みたいな警戒のしようだ」シルクは同意したあと、残りの面々を見た。「おれたちも馬にまたがって、この浜を出発したらどうだい? あの難破船は燈台みたいに目だつし、われらの怪我をした友だちとその仲間が、また馬を盗もうとしないともかぎらない」シルクはさきほどポルガラが作りだした大きな図体をした幻をほれぼれとながめた。「ほんの好奇心からきくんですがね、ポルガラ、この幻たちは戦いがはじまったら、実際になんらかの働きをしたんですか?」
ポルガラはまだ笑っていた。ラヴェンダー色の目が輝いている。「包み隠さず言うとね、シルク」彼女は陽気に答えた。「それがまるっきりわからなかったのよ」
なぜかその答えに、みんなはいっせいに笑いころげた。
[#改ページ]
9
岬の頂上へ通じる斜面には、南から降りこんだ雨にうなだれた草がうっそうとしげっていた。浜からその斜面をのぼりはじめたとき、ガリオンはうしろを振り返った。マーゴの船乗りたちが難破船に群らがって、ありったけのものを運びだそうとしている。かれらはそのあいだも絶えず手をとめて、不安そうに嵐に逆巻く水路に目をやっていた。
岬をのぼりきると、強風がまともに襲いかかってきて、服はちぎれんばかりにはためき、バケツをひっくりかえしたような雨が一行をずぶぬれにした。ベルガラスは手綱をひいて馬をとめ、片手で目の上にひさしを作って、前方に横たわる木一本ない、ぬれそぼった、風になびく草原を見渡した。
「これじゃとってもむりだわ、おとうさん」ポルガラがきっぱり言って、びしょぬれのマントをさらにしっかりと体に巻きつけた。「雨風を避けられる場所を見つけて、この嵐が過ぎるのを待ちましょうよ」
「それはむずかしいかもしれんぞ、ポル」いかなるたぐいのものであれ、人家の気配もない草原をベルガラスはながめた。下方の広い谷は深い小谷が何本も縞もように走り、そこを流れる騒々しい小川が芝地を切り開いて、やせた表土とその上にしっかりとへばりついている草の下の丸石と、砂利の地層を露出させている。風がその草原を横切って草を波のようにゆすり、みぞれまじりの雨が草をびしょぬれにしている。「ウルギット」老人はいった。「このへんに村か居留地はあるかね?」
ウルギットは顔をぬぐってあたりを見回した。「なさそうですね。クタカのこのあたりには、地図を見てもなにも載っていないんですよ、内陸へつづく本街道以外は。人里離れた農家に出くわすかもしれないが、それもあまり見込みはない。ここの土は作物を作るにはやせすぎているし、家畜を飼うには冬が厳しすぎますから」
老人はむっつりとうなずいた。「そんなところじゃないかと思ったんだ」
「テントを張ることならできるでしょう」ダーニクが言った。「しかしあの広々したところじゃ、たきぎがありませんね」
エリオンドはさっきから辛抱強く種馬にじっとまたがって、妙に悟ったような表情で、その特徴に乏しい風景を見つめていた。「望楼に避難できるんじゃないですか?」
「どの望楼だ?」ベルガラスがもう一度あたりを見回しながらたずねた。「わしにはなにも見えんぞ」
「ここからは見えないんです。全壊に近い状態だから。だけど、地下室はまだだいじょうぶ」
「この海岸沿いに望楼があるなんて初耳だ」ウルギットが言った。
「長いあいだ使われていなかったんです」
「どこにあるの、エリオンド?」ポルガラがきいた。「わたしたちをそこへ案内できて?」
「もちろんです。そんなに遠くじゃありません」若者は種馬の向きを変えると、岬のもっと上めざして駆け上がった。丘を越えたとき、ガリオンは下方の草原からおびただしい石塊が突き出ているのに気づいた。しかとはわからないが、一部のその石塊にはのみ[#「のみ」に傍点]をふるった跡のようなものが残っていた。
頂上についたとき、強風がかれらのまわりで金切り声をあげ、ざわめく草が馬たちの脚を鞭のようにたたいた。
「まちがいない、エリオンド?」ポルガラが風に負けまいと声をはりあげた。
「反対側から中にはいれます」エリオンドは自信たっぷりだった。「でも、馬たちは引いていくほうがいいかもしれません。その入口は断崖のはじのすぐそばなんです」かれは鞍からすべりおりると、馬をひいて、草ぼうぼうの丸い丘の頂上を横切りはじめた。残りのみんなはエリオンドについていった。「ここに気をつけて」エリオンドはかすかなくぼ地を迂回しながら警告した。「屋根の一部がちょっとさがっているんです」
その草におおわれたくぼ地を通過するとすぐ、土手があり、下に見える狭い岩棚に向かって急傾斜していた。岩棚の向こうは、それまでつづいた断崖が急になくなっている。エリオンドは馬を引いてその土手を岩棚のほうへおりていった。ガリオンがあとにつづいた。岩棚にたどりついたとき、ガリオンは断崖の端から下を一瞥した。はるか下の浜辺に横たわる難破船が見えた。水際の難破船から足跡の列が伸びて、雨に溶けている。
「ほら、ここです」エリオンドが言った。次の瞬間、かれは馬を引いて草ぼうぼうの土手の中へ姿を消したように見えた。
不思議に思ってついていったみんなは、あきらかに人間の手で造られた狭いアーチ形の入口を見つけた。丈の高い草が入口の上まで伸び、両側にびっしりとしげっているために、ほとんどおおい隠されてしまっている。ガリオンは感謝しつつ、その草蔭の入口からしんとしたカビ臭い闇の中へはいった。
「だれかたいまつをもってくることを思いつきましたか?」サディがきいた。
「あいにく、たいまつはみんな食料袋と一緒においてあったんだ」ダーニクがすまなそうに言った。「さあ、わたしになにができるか見てみよう」ガリオンは軽いうねりと、かすかな物音を感じた。小さく輝く光の点が現われ、ダーニクのてのひらの上でバランスをとった。そのかすかな光が徐々に強まっていき、やがてその古びた廃墟の内部が見えるようになった。大昔建てられた多くの建造物の例に漏れず、この天井の低い地下室も天井は円形だった。アーチ形に組み合わされた石が天井を支え、壁は控え壁でがっちり支えられている。ガリオンはこれとまったく同じ建築様式をヴァル・アローンにあるアンヘグ王の古色蒼然たる宮殿や、ボー・ワキューンの廃墟や、かれ自身のリヴァの城塞の下の階や、さらにはクトル・ミシュラクにある片目の神の洞窟のような墓にさえ見たことがあった。
シルクが考えこむようにエリオンドを見ていた。「説明できるんだろうな。ここにこんなものがあるとどうしてわかった?」
「ぼくはしばらくゼダーとここに住んでたんです。ぼくが〈珠〉を盗める年齢になるまで、ゼダーが待ってたときのことですよ」
シルクはやや失望したようだった。「なんとも現実的な話だ」
「ごめんなさい」エリオンドは馬たちを円形天井の部屋の片側へ引いていきながら言った。「かわりになにかもっともらしい話をでっちあげましょうか?」
「いいってことさ、エリオンド」小男は若者に言った。
ウルギットは先刻から控え壁のひとつを調べていた。「これはマーゴが造ったんじゃない。マーゴ人はこんなにきっちり石を組み合わせられない」
「ここはマーゴ人が世界のこのあたりにくる以前に建てられたんです」エリオンドは言った。
「奴隷によってかね?」ウルギットは信じられずにたずねた。「連中が知っているのは、泥の小屋の作り方だけだぞ」
「かれらがあなたがたにそう思わせたんですよ。奴隷族は塔を――それに都市を――建設していたんです、マーゴ人がまだヤギの皮のテントに暮らしていた時代に」
「だれか火を起こしてくださらない?」セ・ネドラが歯をかちかちいわせながら頼んだ。「こごえそうなのよ」ガリオンがよく見ると、くちびるが紫がかっている。
「ここにたきぎがあるんです」エリオンドが控え壁のひとつの後ろへまわりこんで、白く漂白された棒きれをかかえて出てきた。「ゼダーとぼくはあの浜から流木をここへ運んできたものですよ。まだいっぱい残ってる」かれは奥の壁にある暖炉に近づくと、たきぎを下において腰をかがめ、煙突をのぞきこんだ。「ススはつまってないみたいです」
ダーニクがただちに火打ち石とはがねとほくち[#「ほくち」に傍点]で火をおこしにかかった。まもなく、オレンジ色の小さな巻き上がった炎がおどり出て、ダーニクが暖炉の灰床に組み立てた木っ端の小さな屋根をなめはじめた。みんなはそのちっぽけな火のまわりに集まって、一刻も早くそれを大きくしようと小枝や棒きれを突っ込んだ。
「それじゃだめだ」ダーニクがめずらしく厳しい口調で言った。「火をけちらして消してしまうだけだ」
みんなはしぶしぶ暖炉からあとずさった。
ダーニクは輝く炎の上に注意深く小枝と木っ端をのせたあと、しばらくたってやっともっと大きな枝をかぶせた。炎がさらに高くなって、からからに乾燥したたきぎにみるみる広がった。暖炉の火明かりがカビ臭い地下室に広がりだして、ガリオンは顔がほのあたたかくなるのを感じた。
「さあ、それじゃ」ポルガラがてきぱきと言った。「食料はどうしましょうか?」
「船乗りたちはもう難破船から立ち去ったはずだよ」ガリオンは言った。「それに潮がひいたから、海につかっているのは船尾の最後部だけだ。ぼくが荷馬を何頭かあそこへ連れていって、なにが見つかるか見てこよう」
ダーニクの火はばちばち音をたてて燃えはじめていた。かれは立ち上がってエリオンドを見た。「火を見ていられるかね?」
エリオンドはうなずくと、もっとたきぎを取りに控え壁のうしろへはいっていった。
鍛冶屋はかがんで、脱いであったマントをとりあげた。「トスとわたしが一緒に行くよ、ガリオン。万が一、船乗りたちが戻ってきた用心のためにね。だが、急がないといけない。もうじき暗くなる」
雨風に痛めつけられた岬の頂上はあいかわらず疾風が吹きすさんで、みぞれまじりの雨が地面をたたきつけていた。ガリオンとふたりの友だちは注意してふたたび斜面をくだり、変わり果てた姿の船のほうへ近づいた。後部を破壊され、ねじくれて浅瀬に横たわるだるま船は、まだ生きていると訴えているようだった。
「この嵐だけど、あとどのくらいつづくと思う?」ガリオンはダーニクに向かって怒鳴った。
「判断はむずかしいな」ダーニクが怒鳴り返した。「今夜一晩でやむかもしれないし、数日つづくかもしれない」
「そう言うんじゃないかと思ってた」
かれらは難破船にたどりついて馬をおり、さっき船首にあけた穴をくぐって船倉にはいった。
「ここにはなにもないだろう」ダーニクが言った。「わたしたちの食料はすっかり水びたしになっているよ。それに船乗りたちが船倉に腐りやすいものを保存しておくはずがない」
ガリオンはうなずいた。「ポルおばさんの料理道具を発見できるかな? ほしがるだろうと思うんだ」
ダーニクはふりかえって、壊れた船尾でいまにもくずれそうな山を成している船底の汚水につかった袋や樽を見やった。船のその部分にいくつもあいた穴から、寄せ波が侵入して、それらに海水をはねかえしている。「そうだな。見てくるよ」
「ここにいるあいだに、向こうの船尾の船室に置いてあったぼくたちの残りの持ちものも集めたほうがよさそうだね。ぼくはそれを回収するから、ダーニクはトスとふたりで船乗りたちが炊事室になにを残しているか見てきてよ」ガリオンは竜骨が壊れてめちゃくちゃになった船板の山を用心深くまたいで、梯子をのぼり上の甲板に出た。とたんに足をすべらせ、船尾の昇降階段のほうへ甲板をすべっていった。
十五分ほどかかって、ガリオンはみんなが難破船を脱出したときに置き去りにした所有物をかき集めた。帆布にそれらをくるんで、甲板へ引き返した。船首のほうへ運んでいき、浜の濡れた砂の上にほうり投げた。
ダーニクが前部の昇降階段から頭を突き出した。「ほとんどからっぽだよ、ガリオン。船乗りたちがあらかた持っていってしまってる」
「見つけられたもので我慢するしかないね」ガリオンは目をすがめて上を向いた。空がみるみる暗くなってきている。「急いだほうがいいよ」と、つけくわえた。
三人は強風の吹きすさぶ夕闇のなかで岬の頂上にたどりつき、慎重に馬を引いて断崖の端へ出、夕日の最後のきれはしが空から薄れるのと同時に地下室の入口に到着した。円形天井の室内は暖かく、暖炉で踊る炎の明かりに満ちていた。みんなはかれらの留守のあいだに天井からひもを吊しており、そこにかけられた毛布や服が水滴をしたたらせて、壁ぞいに白い湯気をたてていた。
「どうだった?」ガリオンが馬を引いて中へはいると、シルクがたずねた。
「ろくなものはなかった。船乗りたちが炊事室から目ぼしいものを根こそぎ持っていってしまったんだ」
ダーニクとトスがそれぞれ馬を引いてはいってくると、急ごしらえの荷物をつぎつぎにおろしはじめた。鍛冶屋が報告した。「見つかったのは豆一袋と蜂蜜のいっぱいはいった壺ひとつ。片隅にあら粉の袋があったし、肋肉ベーコンの塊が二つあった。船乗りたちがベーコンを置いていったのは、カビ臭くなっていたからなんだが、ほとんどのカビはこそげ落とせるはずだよ」
「それだけ?」ポルガラがたずねた。
「そうなんだ、ポル」ダーニクは答えた。「火ばちをひとつと、木炭入りの袋を二つ取ってきた――この辺にはたきぎはありそうもないからね」
ポルガラはダーニクが報告したばかりの品物を心のなかでざっとさらってみながら、かすかに眉をひそめた。
ダーニクが申し訳なさそうに言った。「あまり成果はなかったよ、ポル。しかしそれで精一杯だったんだ」
「なんとかなるわ、ディア」ポルガラは笑顔を見せて言った。
「船尾の客室に置いてきたぼくたちの服も持ってきた」ガリオンが馬からおりて言った。「いくつかはぬれてもいなかったよ」
「よかった。サイズはともかく、みんなで乾いた服に着替えましょう。そのあと、どんな食事が作れるかやってみるわ」
シルクはさきほどからあら粉の袋をうたがわしげに見ていた。「粥ですか?」情けなさそうにたずねた。
「豆は調理に時間がかかりすぎるから、そうね、ポリッジと蜂蜜――それにベーコンがちょっぴり――これで夜のあいだはもつでしょう」
シルクはためいきをついた。
夜が明けると、みぞれまじりの雨はやんでいたが、風はあいかわらず岬の頂上の長い草をひきちぎらんばかりだった。マントにくるまったガリオンは地下室の入口の外にある岩棚に立って、はるか下方に見える湾内の白波や砂浜に打ち寄せる寄せ波をながめていた。南東のほうでは、雲がしだいに薄くなってきたらしく、残りの空をおおっているきたならしい黒雲のあちこちで青空が顔をのぞかせている。夜のあいだに潮はふたたびかれらの難波船を水びたしにし、いまでは船尾の最後部がもぎとられてなくなっている。死体がいくつも寄せ波に乗って上下にゆれており、ガリオンは断固目をそむけて、それらの物言わぬマーゴの船乗りたちの成れの果てを見まいとした。船が暗礁にぶつかったときに、船外に投げ出されて溺死したにちがいない。
そのとき海岸線のはるか遠くに赤い帆をあげた多数の船が見えた。ゴランド海の南岸づたいに、下の砂浜に横たわる船の残骸めざして苦心惨憺進んでくる。
ベルガラスとエリオンドが、ゆうべダーニクがアーチ形の入口に垂らしたドア代わりの帆布を押してあらわれ、ガリオンと並んで岩棚に立った。「少なくとも雨はやんだよ」ガリオンは報告した。「風も弱まってきているようだ。だが、あの問題がある」海岸線を近づいてくるマロリーの船を指さした。
ベルガラスが不満げにうなった。「難波船を見つけたら、まちがいなく浜に乗り上げるな。そろそろここを出発したほうがよさそうだ」
エリオンドは不思議そうな顔をしてきょろきょろ周囲を見ていた。「あまり変わっていないや」かれは岩棚の向こう端にある草におおわれた小さなベンチを指さした。「あそこでよく遊んだんです。ともかくゼダーがぼくを外へ行かせてくれたときは」
「ここにいたあいだ、ゼダーはよくおまえと話をしたのか?」ベルガラスがたずねた。
「たまにしかしませんでした」エリオンドは肩をすくめた。「ゼダーは人嫌いだったんです。本を数冊持ってて、たいがいは本を読んでました」
「そんなふうにして大きくなるなんて、ずいぶんさみしかっただろうな」ガリオンが言った。
「そう捨てたもんじゃありませんでしたよ。ぼくはもっぱら雲をながめて過ごしたんです――あるいは、鳥たちを。春には小鳥たちがこの断崖の表面にあいている穴に巣を作りました。岩棚から身を乗り出すと、行ったりきたりする鳥たちが見えたし、ヒナたちが生まれてはじめて飛ぼうとするのを見守るのは、いつだって楽しかったな」
「内陸に通じる本街道までどのくらいあるか見当がつくかね?」ベルガラスがたずねた。
「昔は一日がかりでした。もちろん、そのころのぼくは小さかったから、そんなに早く歩けなかったけど」
ベルガラスはうなずいた。かれは片手で目の上にひさしを作り、苦労して海岸線を近づいてくるマロリーの船団を見つめた。「みんなに言ってきたほうがよさそうだな。どっさり船荷を積んだマロリーの船乗りたちに対抗して、この場所を守ろうとしたところであまり得るところはあるまい」
生乾きの衣類やとぼしい食料をあつめて、馬の背に乗せるのに、一時間ほどかかった。用意ができると、かれらは馬たちを引いて帆布のドアから外に出、岬の向こう端をめざすことにした。ガリオンはエリオンドが一度だけ名残りおしげにふりかえったあと、毅然として子供時代を過ごした家に背中を向け、前方に横たわる草原に目を向けたのに気づいた。「この道はだいたいわかるんです」エリオンドは言った。「でも、向こうのあの小川は深くて土手すれすれまで水がきているから、気をつけなくちゃ」かれは軽々と鞍に飛び乗った。「ぼくが一番いい道筋を先導しますよ」身を乗り出して、種馬の首をなでてから、にっこりした。「どうせ、馬がちょっと走りたがっているんです」エリオンドはギャロップで丘をくだりはじめた。
「あれはじつに変わった少年だな」ウルギットが馬にまたがりながらぽつりともらした。「本当にゼダーを知っていたのか?」
「ああ、そうだ」シルクが答えた。「クトゥーチクのこともな」かれはポルガラにごずるそうな目を向けた。「生まれてからずっと風変わりな連中とつきあってきたんだから、エリオンドが変わっているのもむりはないよ」
ガリオンが目をさましたときは南東の空のところどころに見えていたにすぎなかった青空が大きく広がり、まばゆい朝日の柱が霧にかすむ空気を貫いて下方の、網の目のような小川が流れる草原を照らしていた。風も弱まってときおり突風が吹くだけになっていた。かれらはエリオンドとかれの元気いっぱいの馬のあとを追って、きびきびとしただく足でまだぬれている草地を進んでいった。
エリオンドのチュニックのひとつと毛織のレギンスという格好のセ・ネドラが、歩調をゆるめてガリオンの隣りに並んだ。
「その格好、気にいったよ、ぼくの女王さま」ガリオンはにやにやした。
「まだどのドレスもぬれてるのよ」そう言ってから、セ・ネドラは真顔になって黙りこんだ。「あまりうまくいっていないんでしょう、ガリオン? わたしたち、あの船をそれはそれは当てにしていたんですもの」
「さあ、どうかな。多少は時間が節約できたし、戦闘地帯の大半はうまくよけて通れた。いったんラク・クタカを通過したら、別の船を見つけられるかもしれない。じっさいには時間をむだにしてはいないと思うよ」
「でも、得してもいないでしょう?」
「正確にはわからないよ」
セ・ネドラはためいきをもらして、無言のままガリオンと並んで進みつづけた。
正午ごろ、本街道にたどりついて東へ曲がり、日が暮れるまで距離をかせいだ。最近他の旅人がその道を利用した気配はなかったが、シルクが念のため斥候がわりにみんなの先に立ってようすをさぐった。道端には柳の木立があり、その晩の夜露をしのぐ場所となり、テントを張るのに必要な柱の役目も果してくれた。夕食は豆にベーコンで、ウルギットはとりわけその食事に不満をもらした。「たったいま牛肉の塊が食べられたら、なんでもくれてやるのになあ」かれは不平を言った。「ドロジム宮殿の料理人たちがわしに出したひどいしろものもこれよりはましだったぞ」
「ボウルにいっぱいのゆでた草のほうがお好みですの、陛下?」プララが生意気な口をきいた。「それとも柳の木の皮のフライのほうがよろしいかしら?」
ウルギットはプララに渋い顔を見せたあと、ガリオンのほうを向いた。「どうなんだね、きみときみの友人たちはクトル・マーゴスに長居するつもりなのか?」
「そんなに長くいるつもりはないですよ、どうしてです?」
「西方のご婦人は独立心が旺盛らしい――それに、遺憾ながらはっきりものを言う傾向がある。マーゴの女性がそういう傾向に感化されるのはよくないと思うのだよ」そこまでしゃべってから、言い過ぎたと感じたのか、ウルギットはポルガラの方へ懸念そうな視線を投げた。「無礼なことを言うつもりはなかったんですよ、レディ」あわてて謝った。「ただ、昔ながらのマーゴ人の偏見でしてね」
「なるほどね」ポルガラは答えた。
ベルガラスは皿をおしやってシルクを見た。「きょうは一日じゅう外に出ていただろう。獣でも見かけなかったか?」
「大型の鹿のような群れが北へ移動していくのを見ましたよ」小男は答えた。「だが、とうてい矢の届く範囲じゃなかったな」
「なにを考えてるの?」ポルガラがきいた。
「わしらには新鮮な肉が必要だ、ポル」老人は立ち上がった。「カビだらけのベーコンと煮豆じゃ体力がもたん」小さな明かりの輪の外へ出ると、かれは目をすがめて空を仰いだ。月光でまだらに染まった雲が星空をゆっくり動いていく。「狩りにはうってつけの夜かもしれん。どう思う?」
奇妙なほほえみをくちもとに浮かべると、ポルガラも立ち上がった。「まだ力は衰えていないと思ってるの、おいぼれ狼?」
「衰えてるものか」ベルガラスはそっけなく言った。「一緒にくるんだ、ガリオン。馬たちからちょっと離れよう」
「どこへ行くんだろう?」ウルギットがシルクにたずねた。
「知りたくないんだろう、弟。本当は知りたくないんだ」
夜風になびく草原に銀色の月光がさした。ガリオンの十倍に高まった嗅覚が夜の匂いを味わったとき、草の匂いが強烈に鼻孔をうった。かれが大きな銀色の狼と並んで軽々と駆けて行く頭上では、雪のように白い梟が月光を浴びて静かに飛んでいる。風に毛皮をそよがせ、湿りをおびた芝地に足の爪をくいこませて、疲れを知らずにふたたび走り回るのは、気持ちのよいものだった。かれと祖父の狼は昔ながらの狩猟の儀式にのっとって、銀色に染まる草原をうろつきまわった。
野営場所の数リーグ東で、もつれあった草の寝床でまどろんでいた鹿に似た動物の群れが、びくりとして目をさました。二匹の狼と一羽の梟は逃げだした群れを追って、ゆるやかに起伏する丘陵を何マイルも走った。やがて、おびえた動物たちが雨で増水した小川に飛び込んだとき、年老いた雄の一頭が走り疲れて足をすべらせ、ひっくりかえって激しい水しぶきをあげた。向こう岸にたどりついたときには、角が土にめりこんで、首がグロテスクにねじれていた。倒れた瞬間に、首の骨を折ったのだった。
ガリオンはためらわず土手から水かさの増した小川へ飛び込んで、みるみる向こう岸につくと、死んだ雄を前脚と力強いあごでつかんだ。足をふんばって、流れの急な小川の水に獲物をさらわれないうちに、まだ温かい死骸を土手の上へひきずりあげた。
ふたたび本来の姿にもどっていたベルガラスとポルガラが、夜の散歩でもしていたかのように、落ち着きはらって砂利の土手をあがってきた。「すばらしいじゃない?」ポルガラが感想をもらした。
「悪くない」ベルガラスも認めた。次にベルガラスはベルトにはさんであったナイフを抜いて、親指で切れ味を試した。「皮はわしらがはぐ」ポルガラに言った。「おまえは戻って、ダーニクと荷馬を一頭連れてきてくれないか?」
「わかったわ、おとうさん」ポルガラは月光の中で微光を放ち、ふたたび梟に姿を変えると、静かに飛びさった。
「手が必要になってくるぞ、ガリオン」老人がいやみたらしく言った。
「あ、そうか」腹ばいになっていたガリオンは狼の流儀で言ってから、立ち上がった。「ごめん、おじいさん。忘れてた」ちょっと残念そうに、ガリオンはもとの人間の姿に戻った。
次の朝、ポルガラがポリッジのかわりにステーキをテーブルに出すと、いわく言いがたい表情がみんなの顔にうかんだ。が、食事の内容が突然変化したことになにか言おうとした者はひとりもいなかった。
次の二日間一行は馬で進みつづけた。頭上には嵐の最後のあがきにきれぎれになった雲が流れている。正午ごろ長い丘の頂上をきわめると、目の前に満々と青い水をたたえた広大な広がりが見えた。
「クタカ湖だ」ウルギットが言った。「あれをぐるっと回れば、ラク・クタカまではほんの二日の道のりだ」
「サディ」ベルガラスが言った。「地図を持っとるか?」
「ここにありますよ、長老」宦官はゆるやかな衣服の中へ手を入れた。
「ちょっと見せてくれ」老魔術師は馬からとびおりると羊皮紙の地図をサディから受け取って広げた。湖から吹いてくる風がさかんに地図をあおり、ベルガラスの手からもぎとろうとした。「ええい、やめんか」いらだたしげに風を叱りつけたあと、しばらく地図をにらんでいたが、ようやく言った。「これから先は道からはずれなくてはならんようだな。嵐と船が難破したおかげで遅れをとったし、われわれがラク・ウルガを発ってからマロリー軍がどこまで進軍しているかはっきりしたことがわからん。湖ぞいに進んでいるところをうしろから軍に追いつかれてはたまったもんじゃない。マロリー軍が湖の南側に現われるはずはないから、そっちへ向かおう」ベルガラスは地図にたくさんの木々が書き込まれている広い地域を指さした。「そのうちラク・クタカのようすもわかるだろう。必要なら、〈南の大森林〉にはいることもできる」
「ベルガラス」ダーニクが北のほうを指さしながら、せきこんで言った。「あれはなんです?」
黒い煙が強風に乗って地平線のほうへ低く流れていた。
「草焼きの煙じゃないですか?」サディが言った。
ベルガラスは悪態をついてから、短く言った。「いや、色がちがう」いったんたたんだ地図をまた広げ、「あそこには村がある。たぶんそのうちのひとつだろう」
「マロリー軍だ!」ウルギットが息をのんだ。
「どうしてこんな西の果てまでこられたんだ?」シルクがきいた。
「ちょっと待てよ」ガリオンはふと思いついてウルギットを見た。「マロリー軍と山のなかで戦うとき、勝つのはどっちです?」
「むろん、われわれだ。山を有利に利用する方法を知っているからな」
「だが、平地で戦う場合に勝つのは?」
「マロリー軍だ。連中のほうが数が多いからな」
「てことは、あなたの軍が安全なのは山にいる場合だけなんですか?」
「もうそう言ったじゃないか、ベルガリオン」
「だとすれば、ぼくがあなたの相手だったら、あなたを平地へおびきだす手を考えようとするでしょうね。ぼくが動き回って、ラク・クタカであなたを威嚇するような騒ぎを起こしたら、あなたはまずまちがいなくそれに反応する、そうでしょう? 全軍をウルガとモークトから送りだしてラク・クタカの都市を守ろうとする。だが、都市を攻撃するかわりにぼくが軍勢を北と西へ向かわせたら、広々とした平地であなたの軍に不意打ちをかけることができるはずだ。こちらに有利な戦場を選び、たったの一日であなたの軍をふたつとも壊滅させられる」
ウルギットは顔面蒼白になっていた。「あのマロリー軍の船団がゴランド海でやっていたのはそれだったんだ!」かれは叫んだ。「ラク・ウルガから来たわがはいの軍勢の動きを探るためにあそこにいたんだ。ザカーズめ、わがはいを罠にかけようとしているな」ウルギットは目を血走らせてふりかえった。「ベルガラス、わがはいは軍に警告しなければなりません。どうか行かせてください。このままではわが軍は寝首をかかれてしまう。マロリー軍はわが軍を徹底的にやっつけるでしょう。こことラク・ウルガのあいだにいる軍勢はかれらだけなんです」
ベルガラスは片方の耳たぶをひっぱって、ウルギットを一瞥した。
「頼みますよ、ベルガラス!」
「マロリー軍より先に軍のところまでたどりつけると思うのか?」
「たどりつかねばならないんです。このままではクトル・マーゴスは陥落する。畜生、わがはいには責任があるんだ」
「やっとわかりかけてきたようだな、ウルギット」ベルガラスは言った。「なんのかんのと言っても、おまえさんは立派な王になれそうだ。ダーニク、あるだけの食料をウルギットにやってくれ」ベルガラスは不安そうなシルクの弟のほうに向きなおって、警告した。「危ない真似はするんじゃないぞ。丘の頂上には立たんようにな、空を背にして姿が丸見えになる。できるだけ急いで行けよ、ただし、あんまり急ぎすぎて馬をくたばらせんように」ベルガラスはそこまで言うと、イタチ顔の男の肩を荒っぽく両手でつかみ、短く言った。「幸運を祈る」
ウルギットはうなずいて、馬のほうへ向かった。
プララがすぐあとにつづいた。
「どうするつもりだ?」ウルギットは問いつめた。
「おともいたします」
「絶対にならん!」
「おっしゃるだけ時間のむだですわ」
「戦闘になるかもしれんのだぞ。よく考えろ」
「わたくしもマーゴ人です」プララは挑むように言いきった。「クタン王朝の子孫ですわ。戦闘など恐くありません!」馬の手綱をつかむと、プララは鞍に乗せてあった長細い黒革の箱をおろした。留め金をあけ、箱をいきおいよく開いた。中に一本の剣がおさめられていた。柄《つか》にルビーがちりばめられている。プララはそれを箱から持ち上げて高々とかざした。「これはクタン王朝最後の王の剣です」芝居がかった口調で高らかに言った。「ボー・ミンブルの戦いにもこれを持って臨んだのです。どうかこれを汚すようなことはなさいませぬよう」彼女は刃を裏返すと、柄《つか》を二の腕にのせてウルギットに差しだした。
ウルギットはまじまじとプララを見つめ、次に剣を見つめた。
「これはわたくしたちの婚礼の日に、わたくしからの贈物になる予定でしたの」プララはウルギットに言った。「でも、あなたには今これが必要ですわ。剣をお取りください、マーゴスの王、そして馬に乗ってください。ふたりで戦いに勝ちましょう」
ウルギットは剣をつかんでかかげ持った。ルピーが日差しを浴びて、柄の上で血のしずくのような色になった。ウルギットは衝動にかられたように、いきなり振り返って言った。「ベルガリオン、剣を交差させてくれないか、幸運を祈って」
ガリオンはうなずいて巨大な剣を抜きはなった。刃を駆け上がった炎は明るい青色だった。ウルギットの伸ばした剣にふれたとき、小柄な男は自分の剣の柄《つか》でいきなり火傷でもしたかのように、たじろいだ。剣の柄《つか》の石はもはやルビーではなく、あざやかな青のサファイヤになっていた。「きみがやったのか?」ウルギットは喘ぐようにたずねた。
「いや」ガリオンは答えた。「〈珠〉がやったんだ。なんだかあなたが気に入ってるらしい。幸運を祈りますよ、陛下」
「ありがとう」ウルギットは答えた。「きみも――そしてみなさんも」ふたたび馬のほうへ向かおうとして、ふりかえり、無言でシルクを抱きしめた。
「さあ、いいぞ」ウルギットはプララに言った。「行こう」
「さようなら、セ・ネドラ」プララは馬にまたがると、呼びかけた。「ありがとう――なにもかも」ふたりはいきおいよく馬首をめぐらせて、北へ走り去った。
シルクがためいきをついた。「あいつを失いそうな気がするな」嘆かわしげに言った。
「マロリー軍によって、ということかね?」ダーニクがたずねた。
「いや――あの娘によってさ。出発したとき、彼女の顔には花嫁みたいな表情が浮かんでた」
「すてきじゃない」セ・ネドラがしんみりと言った。
「すてき? おれは胸くそが悪いね」シルクはあたりを見回した。「湖の南端へ行くんなら、そろそろ出発したほうがいいな」
金色に傾いた午後の長い日差しをあびて、かれらは湖の岸ぞいに南へ疾走し、ウルギットとプララがひどく唐突に一行と別れた場所から二リーグほど南へ進んだ。そこでまたシルクが偵察を兼ねて丘にのぼり、手招きして用心深い前進をうながした。
合流したとき、ベルガラスがたずねた。「どうしたんだ?」
「前方でさっきとはちがうものがまた燃えてるんですよ」小男は報告した。「あまり近寄れなかったが、どうやらぽつんとひとつあった農場みたいですね」
「見に行こう」ダーニクがトスに言い、ふたりは地平線上に低くたなびく煙めざして走りさった。
「ウルギットはだいじょうぶなのかな」シルクが心配そうな顔で言った。
「本当はかれが好きなんでしょう?」ヴェルヴェットがきいた。
「ウルギットのことか? ああ、そうらしい。おれたちはいろんな点でそっくりなんだ」シルクはヴェルヴェットを見た。「このことを洗いざらいジャヴェリンに出す報告書に書くつもりなんだろうな?」
「もちろんだわ」
「なあ、書かないでくれよ」
「いったいどうして?」
「よくわからん。なんだかドラスニア諜報部にクトル・マーゴの王との血縁関係を利用されるのがいやなのさ。プライヴェートな問題にしておきたいんだ」
銀色の夕闇が湖の上におりるころ、ダーニクとトスが険しい顔で戻ってきた。
「マーゴの農場でした」ダーニクが報告した。「マロリー人が数人いたようです。正規の部隊じゃないでしょう――脱走兵かなにかじゃないかな。略奪のかぎりを尽くして火をつけたんです――正規の部隊は上官が目を光らせているから、ふつうあんなことはしませんよ。母屋は焼け落ちていますが、納屋はまだ部分的には無傷です」
「ぼくたちが夜を明かすぐらいの広さがあるかな?」ガリオンはそれを知りたかった。
ダーニクは疑わしげな表情をしたが、やがて肩をすくめた。「屋根はまだほとんど残ってる」
「なにかまずいところでもあるのか?」ベルガラスがきいた。
ダーニクはそれとない身ぶりをして、みんなの耳に届かないところまで歩いていった。ガリオンとベルガラスがついていった。
「どうしたんだ、ダーニク?」ベルガラスはたずねた。
「納屋はりっぱな一夜の宿になりますよ」鍛冶屋は静かに言った。「だが、マロリーの脱走兵たちが農場にいた人たち全員を串刺しにしたんです。知っておいたほうがいいと思ったもので。ご婦人がたには見せたくないんです。あまり快い眺めじゃありませんからね」
「死体を隠せそうな場所はあるか?」老人はたずねた。
「トスとふたりでなにができるかやってみますよ」ダーニクはためいきをついた。「どうして人間てのはああいうことをするんでしょう?」
「たいていは無知のためだ。無知な人間は想像力の欠如から、蛮行に走りがちなのさ。ダーニクたちと一緒に行くといい、ガリオン。助けがいるかもしれん。終わったらたいまつをふって知らせてくれ」
じっさいのところ、助けになったのは夕暮れの闇だった。おかげでガリオンは串刺しにされた人々の顔をはっきり見ずにすんだ。まだくすぶっている母屋の裏に屋根を芝でふいた地下室があったので、かれらはそこに死体を運び込んだ。そのあと、ガリオンはたいまつを持ち上げ、母屋から少し離れたところまで行ってベルガラスに合図した。納屋は乾いており、ダーニクが慎重に石の床につくったスペースに火をたくと、すぐに中は暖かくなった。
「これなら快適だわ」セ・ネドラが壁や|垂木[#「垂木」は「木+垂」、第3水準1-85-77]《たるき》に踊る影を見回してほほえみながら言った。彼女はかぐわしい干し草の山にすわって、二、三度試しにはねてみた。「それにこれはすばらしいベッドになりそうよ。毎晩こんなふうな場所を見つけられたらね」
ガリオンはドアに近づいて外を眺めた。返事をする自信がなかったのだ。こことほとんど変わらない農場で育ったかれは、兵隊たちが略奪の目的でファルドー農園を襲い、火を放ち、人人を殺すことを想像しただけで、胸苦しいほどのはげしい怒りをおぼえた。いきなりあるイメージが目の前に浮かんだ。串刺しにされていたマーゴ人たちのぼんやりした顔が、子供のころの友だちの顔に重なって、かれの存在の中心を激しくゆさぶった。ここで死んだのはマーゴ人たちだったが、かれらもまた農夫だったのだ。ガリオンは急にかれらを身近に感じた。かれらの身にふりかかった残忍さが個人的侮辱にも等しい感情をかきたて、暗い思いが意識を満たしはじめた。
[#改ページ]
10[#「10」は縦中横]
朝にはふたたび雨が降り出していた。霧のような雨が周囲の田園をぼんやりとかすませている。一行はまた奴隷商人の服をきて、農場の廃墟をあとに湖の東岸づたいに北へ向かった。
ガリオンは無言だった。左に横たわる湖の鉛色の水のように、沈鬱な思いが現われては消えていった。昨夜感じた怒りが氷のような決意となって胸に沈んでいた。正義は空想上のものでしかないというが、マロリーの脱走兵たちに出会ったら、農場での残虐行為の責任を取らせ、空想上のものをただちに現実にしてみせるつもりだった。ベルガラスとポルガラがそういうことに賛同しないのはわかっていたので、ガリオンは沈黙を守って、正義ではなくとも、復讐のアイデアを練っていた。
湖の北端から南東へ延び、ラク・クタカの都市へ至るぬかるんだ道にたどりついてみると、おびえた顔つきの群衆が道いっぱいに広がっていた。大部分の者たちはぼろをまとい、持てるだけのわずかな身の回り品をかかえている。
「道からはずれよう」ベルガラスが判断した。「あの群衆の中を通っていくんじゃ、時間がかかってしょうがない」
「わたしどもはラク・クタカへ行くんでしょう?」サディがたずねた。
ベルガラスは道からあふれだした人々を見た。「今ラク・クタカへ行ったところで、船はおろかいかだも見つけられんだろう。森にはいって、南へぬけるとしよう。敵の領土で広々としたところにいたくない。船を雇うなら大都市の桟橋よりも、漁村のほうがずっといい」
「みんなはこのまま進んでくれ」シルクが言った。「おれはちょっとききたいことがある」
ベルガラスはぶつぶつ言った。「それも悪くないかもしれんがね、あまり手間取らんようにしろよ。それが可能だとしての話、冬が終わる前に〈南の大森林〉にたどりつきたいんだ」
「ぼくもシルクと一緒に行くよ、おじいさん」ガリオンが申し出た。「とにかく、つい最近見たものを頭から払いのける必要があるんだ」
ふたりは膝まである草むらの中を、南へ逃げようとするおびえた難民の群れに向かって進んでいった。「ガリオン」シルクが馬の手綱を引いて言った。「ありゃセンダー人じゃないか、あの手押し車を押している男は?」
ガリオンは霧雨から目をかばって、シルクが言った頑丈そうな体つきの男をじっと見つめた。「センダー人らしいね。センダー人がクトル・マーゴスなんかでなにをしてるんだろう?」
「たずねてみちゃどうだ? センダー人は噂好きだから、あれがなんの騒ぎなのかヒントになるようなことをしゃべるかもしれないぜ」小男は馬を歩かせて、手押し車の男のそばへ行った。「おはよう」シルクは快活に言った。「ここは故郷からずいぶん遠いじゃないか?」
頑丈な体つきの男は手押し車から手を離して、シルクの着ている緑色のニーサの服を横目で見つめた。「おれは奴隷じゃないぞ」男はきっぱり言った。「だから、変な考えは持たないでくれ」
「これか?」シルクは笑って、服の前をつまんだ。「心配無用だ、おれたちはニーサ人じゃない。ここまでくる途中、これを着た死体を見つけたんだよ。役人にでも出くわしたら、この服が役に立つかもしれないと思ったのさ。センダー人のあんたがクトル・マーゴスなんかでいったい何をやってるんだ?」
「逃げてるんだ」センダー人はうらめしそうに言った。「こいつらみたいにね。なにがあったか知らないのか?」
「ああ。世間から遠ざかっていたんでね」
頑丈そうな男はふたたび手押し車の取っ手を持ち上げ、草の生えた道端をとぼとぼと歩きだした。「マロリーの全軍がゴラトから西へ進軍しはじめたんだ。やつらはおれの住んでいた街を焼き払い、住民の半数を殺した。だが、ラク・クタカには目もくれなかった。だからこうしてみんなでラク・クタカへ避難しようっていうのさ。センダリアの方へ行く船の船長を見つけられるかどうか、やってみるつもりなんだ。なんだか急に故郷が恋しくなってね」
「マーゴ人の街に住んでいたっていうのか?」シルクはちょっとびっくりした。
男は渋い顔をした。「好きこのんでそうなったわけじゃない。十年前に仕事でトルネドラにいたとき、法にひっかかっちまって、商船に乗ってトルネドラから逃げだしたんだ。船長がひどい男でね、おれの金が底をつくとラク・クタカの波止場におれを置き去りにした。それで行くあてもなく湖の北側の街へたどりついたんだ。マーゴ人に追い出されなかったのは、いやな顔ひとつせずにいろんなことを引き受けていたからさ、マーゴ人にとってはやりたくないことでも、奴隷にやらせるには荷が重すぎるようなことをね。恥すべきことだったが、生きて行くにはしかたがなかった。とにかく、二日前にマロリー軍が通過していったのさ。あとには家の一軒も残っちゃいなかったよ」
「どうやって逃げたんだ?」シルクはたずねた。
「暗くなるまで干し草の山にもぐっていたんだ。それからこの群衆にまぎれこんだ」センダー人はくるぶしまで達するぬかるみの道をとぼとぼと歩いている避難民を一瞥した。「哀れなもんじゃないか? 左右に広がって草の上を歩こうって才覚さえないんだから。まったくのところ、兵隊だったらあんなことはまずしないだろう」
「それじゃ軍にいた経験があるんだな?」
「もちろんだ」がっしりした男は誇らしげに答えた。「セ・ネドラ皇女の軍で軍曹だったんだ。皇女さまとともにタール・マードゥへ行ったことがある」
「あの戦いには参加しそびれてね」シルクは顔色ひとつ変えなかった。「ほかの場所で忙しかったんだ。ここと〈南の大森林〉のあいだにマロリー軍がいるかな?」
「そんなことわかるもんか。おれはマロリー軍をさがしに行くところじゃないんだ。だが、あんただって本当は森にはいりたいわけじゃないだろう。今度の虐殺騒動で死体喰いどもが騒ぎだしてるんだ」
「死体喰いども? なんだ、それは?」
「食屍鬼のことさ。たいていは死体を食って生きているんだが、最近になって、身の毛のよだつような話をいくつも耳にした。おれならどんなことがあっても森には近づかないよ」
「覚えておいたほうがよさそうだな。ありがとうよ。ラク・クタカへついたらせいぜいうまくやってくれ。あんたがカマールまで帰りつけるよう祈るよ」
「当面はトル・ホネスにいるつもりなんだ。トルネドラの刑務所はなかなかのもんだからな」
シルクはすばやく笑ってみせると馬首をめぐらして、ガリオンとともに道から離れ、ギャロップでみんなのところへ戻った。
その日の午後、一行は湖の岸から数リーグ離れたクタカ川を渡った。夕方が近づくにつれて霧雨は晴れてきたが、空はあいかわらずどんよりしていた。いったん川の向こう岸についてみると、ぎざぎざした黒っぽい〈南の大森林〉の入口が開けた草地の一ヤードほど向こうにぬっと立ちはだかっているのが見えた。
「行ってみますか?」シルクがきいた。
「ようすを見よう」ベルガラスは言った。「おまえさんが話した男の言ったことがちょっと気になる。ぎょっとするような目には会いたくない――暗闇ではなおのことな」
「少し川下に柳の木立があります」ダーニクが指さした。半マイルばかり南の川ぞいにひょろ長い木々が大きな木立を作っている。「トスとわたしであそこにテントを張れますよ」
「いいだろう」ベルガラスは同意した。
「ヴァーカトまであとどのくらいだろう、おじいさん?」雨で増水した川にそって柳木立へ向かいながら、ガリオンはたずねた。
「地図によれば、南東へ約五十リーグ行くとヴァーカト島が正面に見える海岸につく。そこへついたら、われわれを渡してくれる船を見つけねばならん」
ガリオンはためいきをついた。
「がっかりするな」ベルガラスは言った。「これでもはじめにわしが予想したよりはるかに速いペースで進んでいるんだ。ザンドラマスは永遠に逃げられるわけじゃない。世界に陸が多すぎるだけのことだ。遅かれ早かれ、追いつける」
ダーニクとトスがテントを立てているあいだ、ガリオンとエリオンドはぬれそぼった柳の木立を歩き回ってたきぎを捜した。火がつく程度に乾いているたきぎはなかなか見つからず、一時間捜し回っても、倒木の下からポルガラのために料理用の貧弱な火がやっと焚けるぐらいの小枝が少し見つかっただけだった。ポルガラが豆と獣の肉で夕食の用意をはじめたとき、ガリオンはサディが目を皿のようにして地面を見ながらテントの回りを歩いているのに気づいた。
「ふざけるのはおよし、ディア」サディは断固たる口調で言った。「さあ、いますぐ出てくるんだ」
「なにごとだね?」ダーニクはたずねた。
「ジスが瓶から逃げだしたんですよ」サディは視線を地面にさまよわせたまま答えた。
ダーニクはすわっていた場所からあわてて立ち上がった。「本当か?」
「あれはときどきわたしから身を隠すのを楽しんでいるんです。さあ、すぐに出てくるんだ、いたずら蛇」
「シルクには言わんほうがいいぞ」ベルガラスが忠告した。「ジスが逃げたと知ったらたちまち大騒ぎだ」老人はきょろきょろした。「ところで、シルクはどこだ?」
「リセルと散歩に行ったんです」エリオンドが言った。
「この雨の中をか? ときどきわしはシルクという男がわからなくなる」
セ・ネドラがやってきて、ガリオンのすわっている丸太に並んで腰かけた。かれはセ・ネドラの肩に腕をまわして抱き寄せた。セ・ネドラは体をすり寄せてためいきをついた。「いまごろゲランはどうしているかしら」ぽつりとそう言った。
「眠っているよ、たぶん」
「寝ているときのあの子はいつもそれは愛らしかったわ」セ・ネドラはふたたびためいきをついて、目を閉じた。
木立の奥で騒々しい音がして、シルクがいきなり火明かりの輪のなかへとびこんできた。目はとびださんばかりで、顔は死人のように青ざめている。
「どうしたんだ?」ダーニクが叫んだ。
「彼女が胴着の下に蛇を入れてたんだ!」シルクは口をすべらせた。
「だれが?」
「リセルがだよ!」
ポルガラがひしゃくをつかんだまま振り向いて、片方の眉毛をつりあげ、がたがたとふるえている小男をじっと見た。「ねえ、ケルダー王子」彼女はひややかな声で言った。「リセル辺境伯令嬢の胴着の下で、あなたいったいなにをしていたの?」
その揺るぎのない凝視にしばらく耐えたあと、シルクは真っ赤になった。
「おや。なるほどね」ポルガラは背を向けて中断した料理のつづきを再開した。
真夜中を過ぎたころ、ガリオンはなにかのせいで目をさました。セ・ネドラを起こさないようにゆっくりと動いて、そっとテントの垂れ幕を左右に分け、外をのぞいた。川から濃いまといつくような霧が立ちのぼっており、すべてが汚れた白い幕に隠れていた。ガリオンは全身を耳にして、静かに横たわった。
霧の中のどこからかかすかなチャリチャリという音が聞こえた。その正体がわかるまでにしばらくかかった。鎖かたびらを着て馬にまたがった人間のたてる音なのだ。ガリオンは闇の中で手をのばし、剣をつかんだ。
「やっぱりおれは、火をつける前におまえがあの家で見つけたものをおれたちに教えるべきだと思うぜ」マロリー風のアクセントのある、くぐもった声でだれかがしゃべっているのが聞こえた。近くではないが、夜は声がよく通るのでなにを言っているのかはっきり聞き取れる。
「たいしたもんじゃありませんや、伍長」もうひとりのマロリー人の声がはぐらかすように答えた。「これがちょっと、あれがちょっと、てな程度でね」
「おれたち全員で分けあうべきじゃないか。なんてったって、おれたちみんなでやってることなんだからな」
「おれがちょいとなにかを見つけたからって、急にそんなことを言い出すなんておかしいじゃないですかい? 戦利品を分けあいたいなら、家に注意を払って、捕まえた連中を串刺しにするのはやめたらどうです」
「これは戦争なんだぞ」伍長がとってつけたように言った。「敵を殺すのがおれたちの義務だ」
「義務ね」二人めのマロリー人がフンと鼻をならした。「おれたちゃ脱走兵なんですぜ、伍長。義務だなんてちゃんちゃらおかしいでしょうが。マーゴの農夫たちを殺すのに時間を使いたけりゃ、勝手にどうぞ。だが、おれは今後のために蓄えをしてるんですよ」
ガリオンは用心深くテントの垂れ蓋の下から外へころがり出た。感情がどこかへ行ってしまったかのように、妙に平静な気持ちだった。立ち上がって、足音をしのばせて積み上げた荷物に近づき、そのひとつひとつに手を突っ込んで、ようやくはがねの感触を捜し当てた。次に、音をたてないようにそうっと重い鎖かたびらをひっぱりだして身につけ、きちんと体に添うように二度ほど肩を上下させた。
トスが馬たちのそばで寝ずの番をしていた。霧の中に大きな体がぼんやり見えた。
「ほうっておけないことがあるんだ」ガリオンは物言わぬ巨人にささやいた。
トスは重々しくガリオンを見つめてからうなずいた。ふりむいて、馬をつないである綱から一頭をはずし、ガリオンに手綱を渡した。それからばかでかい片手をガリオンの肩におき、ぎゅっとつかんで無言の同意をあらわすと、うしろへさがった。
ぐずぐずしていて、マロリーの脱走兵たちを霧に見失いたくなかったので、ガリオンは鞍もつけずに馬にまたがると静かにヤナギ木立の外へ出た。
霧の中から聞こえていたかすかな声は、森の方角へ進んでいるようだった。ガリオンは耳と意識を頼りに前方の霧深い闇を探りつつ、かれらのあとを追った。
一マイルほど行ったころ、前方の少し左よりからしわがれた笑い声が聞こえてきた。「おれたちに串刺しにされたとき、やつらがあげたきいきい声を聞いたかよ?」体にまといつく霧の中からしわがれ声が言った。
「あそこだな」ガリオンは歯ぎしりしながら、剣を抜いた。声のするほうへ馬首を向けてから、脇腹をかかとで蹴った。馬は速度を速めたが、しめった地面がひづめの音を吸い込んだ。
「明かりをつけようや」脱走兵のひとりが言った。
「そんなことをしていいのかよ? パトロール隊が脱走兵を捜しているんだぜ」
「いまは真夜中すぎだ、パトロール隊はみんなベッドのなかさ。いいからたいまつをつけろ」
まもなく暗闇に赤い目印がともって、ガリオンをさし招いた。
ガリオンの突撃は脱走兵たちにとって、まさしく寝耳に水だった。何人かはわけもわからないうちに息絶えた。脱走兵たちのまっただなかへ突っ込んで、巨大な剣を右に左にふりまわし、鞍にすわっていたかれらをなぎ倒すと、両面から悲鳴と叫びがあがった。大きな刃は鎖かたびらをやすやすと切り裂いて、骨と肉を断ち割った。脱走兵の列を駆け抜けると同時に、五人が地面にころげ落ちた。次にすばやく向きを変え、まだ生き残っている三人にとびかかった。そのうちのひとりはぎょっとして逃げだした。もうひとりは剣を鞘から抜いたが、三人めはたいまつを握りしめたまま、恐怖に凍りついてすわりこんだ。
剣をつかんだマロリー人はガリオンのおそるべき一撃から頭を守ろうと、力なく剣を持ち上げて突っ込んできた。だが、頭上から大きくふりおろされた一撃が哀れな男の剣をこっぱみじんに打ち砕き、兜をかぶった頭から胴まで切り開いた。ガリオンはけいれんしている体から荒荒しく剣を引き抜くと、たいまつを握りしめている三人めに向きなおった。
「後生だ!」男はすくみあがって、馬を走らせようとした。「お慈悲を!」
なぜかわからないが、その哀れな泣き言がガリオンの怒りをいっそうかきたてた。かれは歯を固くくいしばって、剣のひとふりで人殺しの頭を霧深い闇のなかへはね落とした。
ぎゅっと手綱を引き、しばし首をかしげて、逃げたマロリー人の馬の足音を確かめると、追跡を開始した。
脱走兵に追いつくのに数分とかからなかった。はじめはひづめの音だけが頼りだったが、そのうち前方の霧のなかを全力疾走するぼんやりした人影が見えてきた。ガリオンはちょっと右へ寄って死に物狂いの男のわきをすりぬけ、前に回り込んでとおせんぼした。
「おまえは何者だ?」無精ひげの生えたマロリー人はあわてて手綱を引いて、うわずった声をあげた。「なんでこんなことをしやがるんだ?」
「ぼくは正義だ」くいしばった歯のすきまから押し出すように言って、ガリオンはゆっくり男の体を貫いた。
脱走兵は胸から突き出た巨大な剣をあっけにとられたように見つめた。喉の奥でためいきのような音をたてながら、馬からころげ落ちた。くたっとなった体から剣がすべり抜けた。
相変わらずなんの感情もわかないまま、ガリオンは馬をおりて死んだ男のチュニックで剣の刃をぬぐった。それから思いついたように、男の馬の手綱をつかんでふたたび自分の馬にまたがり、残りの脱走兵たちを殺した場所へひきかえした。倒れている死体が息を吹き返す気配がないかどうか、ひとつずつ入念に調べてから、さらに三頭の馬の手綱をつかんで、柳の木立に隠れた一夜の宿へ帰った。
馬をつないである綱のそばで、シルクが巨漢のトスと並んで立っていた。「どこへ行ってたんだ?」ガリオンが馬からおりると、シルクはしわがれ声でささやいた。
「ぼくたちにはもっと馬が必要だったろう?」ガリオンはそれだけ言うと、つかまえた馬たちの手綱をトスに渡した。
「その鞍からすると、マロリーの馬だな」シルクが気づいて言った。「どうやって見つけたんだ?」
「これに乗ってた連中が通りすがりにしゃべってたんだ。数日前にマーゴの農場へ行ったことをすごくおもしろがっているようだった」
「おれを誘ってもくれなかったじゃないか」シルクは不満そうだった。
「ごめんよ。でも急がなくちゃならなかったんだ。霧の中で見失いたくなかったからね」
「四人いたのか?」シルクは馬を数えてたずねた。
「あとの四頭は見つからなかったんだ」ガリオンは肩をすくめた。「だけど、難破船で失ったのは三頭なんだから、これで十分埋め合せになるはずだ」
「八人もいたのか?」シルクはいささかおどろいたようだった。
「不意をついてやったんだ。戦うというほどじゃなかったよ。すこし休まないか?」
「あ、ああ――ガリオン」シルクはそれとなく言った。「おまえ、寝るまえに体を洗ったほうがいいかもしれないぞ。セ・ネドラはちょいと神経過敏だからな、目をさまして血まみれのおまえを見たら卒倒するかもしれない」
翌朝、霧はさらに濃くなっていた。冷たくまつわりつく霧が川の土手に重苦しくたちこめて、からみあった柳の枝をぬらし、真珠のネックレスのようなしずくがかれらの背中にしたたり落ちた。
「少なくとも、ぼくたちを隠す役には立つな」ガリオンはあいかわらず感情が死んでしまったような奇妙な気分のまま言った。
「向こうにいるかもしれない人間のことも隠してしまいますよ」サディが言った。「もしくは物もね。あっちのあの森はぞっとしない噂でもちきりなんですから」
「あの森はどのくらいの大きさなんだろう?」
「世界一大きい森でしょうね」サディが荷物を馬の背にのせながら答えた。「何百リーグもあるんです」かれはつながれている馬たちを不思議そうに見た。「気のせいかな、それともけさは馬の数がふえているんですか?」
「ゆうべ数頭が偶然通りかかったんだ」ガリオンは答えた。
朝食がすむと、かれらはポルガラの料理道具を積んで馬に乗り、霧に隠れた森のほうへ草地を横切って進みだした。
ガリオンはすぐうしろでしゃべっているシルクとダーニクの話を聞くともなしに聞いていた。
「ゆうべはなにをしていたんです?」ダーニクが単刀直入にたずねた。「リセルの胴着の下にジスを発見したときのことですが?」
「彼女はこれが全部片づいたら、ジャヴェリンに報告書を出すことになってるんだ」シルクが答えた。「ジャヴェリンに知ってもらいたくないことがいくつかあるんだよ。リセルと仲良くなっておけば、そういう事柄を報告書に書かないように説得できるかもしれないだろう」
「それはじつに恥ずべきことですよ。彼女はほんの子供じゃないですか」
「いいかい、ダーニク、リセルはそんなねんねじゃないんだ、おれたちはゲームをしているんだよ。もっとも、ジスのことは計算外だったがね」
「ドラスニア人はいつもゲームをしなけりゃ気がすまないんですかね?」
「そりゃそうさ。時間つぶしになる。ドラスニアの冬はえらく長くて退屈なんだ。ゲームがおれたちの機知に磨きをかけ、現実に困ったことになったときにてきぱきと行動できるように鍛えてくれるのさ」小男は心もち声をはりあげた。「ガリオン?」
「え?」
「ゆうべおまえがあの馬たちを見つけた場所は避けてるかい? 朝めしのすぐあとで、ご婦人たちを動転させるのはごめんだぜ」
「あれは向こうのほうだよ」ガリオンは身ぶりで左を示した。
「なんの話です?」とダーニク。
「あのふえた馬たちは、ぽつんとあったマーゴの農場を襲っていたマロリーの脱走兵たちのものだったんだ」シルクはあっさり言った。「そいつらがもう馬を必要としなくなるようにガリオンが手を打ったのさ」
「ほう」ダーニクはしばらく考え込んでいたが、ようやく言った。「それはよかった」
一行が森の入口に近づくと、黒っぽい木々が、霧の中からぬっと現われた。冬が近いせいで、まばらになった茶色の葉が枝にしがみつくようにして残っている。ねじれた枝の下に馬を進みいれたとき、ガリオンはまわりをながめて木の種類を知ろうとしたが、見たこともない木ばかりだった。どの木も節くれだって不思議な形をしており、巨大な幹から突き出た枝はまるでもだえ苦しみながら、太陽のない空へ手を伸ばしているようだった。節くれだった幹には黒ずんだこぶがいくつもできて、固い樹皮が深くくぼんでいる。それらのこぶのせいで、どの木も、目を大きく見開き、口をあけた、いわく言いがたい恐怖にゆがんだ人間の顔そっくりに見える。森の地而は黒ずんでぬれた落葉が深くつもり、頭上に広がる枝の下に霧が灰色にかかっていた。
セ・ネドラがマントをぴったり引き寄せて、身震いした。「どうしてもこの森を通るの?」うらめしげにたずねた。
「木は好きだったはずだろう」ガリオンは言った。
「ここのは別よ」セ・ネドラはこわごわあたりを見た。「ここの木はとても残酷な感じがするの。お互いに憎みあってるのよ」
「憎みあう? 木がかい?」
「互いにもがいたり、押しあったりして、日光に手を伸ばそうとしているわ。こんなところにいたくないわ、ガリオン」
「考えないようにするんだ」
一行は陰鬱な森の奥へ奥へとはいっていったが、その間ほとんど口をきかなかった。あたり一帯の薄闇と、ねじれた奇怪な木々からにじみでるひややかな敵意のせいで、気が沈みがちだったのだ。
冷たい昼食を手早くとったあと、日暮れまでふたたび馬を進ませたが、やがて訪れた夕闇は、憎みあう木の下に広がる灰色がかった濃い霧と暗さの点ではほとんど変わらなかった。
「もうここらで十分だろう」ようやくベルガラスが言った。「火を焚いてテントを張ろう」
単なる気のせいだったのか、あるいは獲物を追う鳥の鳴き声だったのか、穴に積み上げた枝のまわりに炎の舌がちろちろゆらめきだしたとき、ガリオンは木々そのものが金切り声をあげるのを聞いたように思った――ぞっとするような怒りが混じった恐怖の金切り声を。あたりを見回すと、かれらを取り囲む木の幹の人間そっくりの深いくぼみが、ゆらめく明かりの中で動き、憎むべき火に向かって無言の叫びをあげているように見えた。
夕食後、ガリオンは焚火から離れた。感情が自己防衛の毛布にすっぽりくるまれてしまったかのように、あいかわらず心は妙に無感覚だった。昨夜の対決の詳しい状況さえもう思い出せない。おぼえているのは赤いたいまつの明かりの中の血しぶきや、鞍からころげ落ちた男たちのこと、そしてたいまつをにぎりしめていた男の首が霧の中へはね飛んだつかのまの、なまなましい光景だけだ。
「あのことについて話したいのか?」ベルガラスがすぐうしろからそっとたずねた。
「いや、おじいさん。ぼくのしたことを聞いたら眉をしかめると思うよ。だからほうっておいたほうがいいんだ。わかってもらえっこない」
「ほう、そうかね、ガリオン。どうせたいしたことじゃあるまい。殺したんだろう――何人やったんだ?」
「八人」
「そんなにか? なるほど――マロリー人を八人か。それによってなにを証明した?」
「なにかを証明するために出ていったわけじゃないよ。やつらが二度とあんなことをしないようにしてやっただけさ。やつらがあのマーゴの農夫たちを殺した張本人だったかどうかもわからないんだ。だが、やつらはどこかで確かに数人の人たちを殺してた。そういうことをする連中は食い止めなくちゃいけない」
「なるほど、それでおまえがそうしたわけだ。少しは気分がよくなったのか?」
「いや。全然。殺したときは怒ってもいなかった。やらなくちゃならないことだったから、ぼくがやったんだ。終わってしまったら、もう思い出せもしない」
ベルガラスはながながとガリオンを凝視した。「そうか。そのことをしっかり念頭においておくんだな、そうすりゃ、しょっちゅう怪我をせんですむだろう。焚火のところへ戻ろう。この森は冷える」
その夜、ガリオンはよく眠れなかった。セ・ネドラはかれの腕の中で恐ろしそうに体を丸め、落ち着きなく身動きしては、頻ぴんと眠ったまま泣き声をあげた。
翌朝、ベルガラスは起き上がって、しかめっつらであたりを見回し、「こんなばかなことがあるか」といきなり怒り出した。「太陽はどこにあるんだ?」
「雲と霧のうしろよ、おとうさん」ポルガラが長い黒髪を平然ととかしながら答えた。
「そんなことはわかっとる、ポル」老人はいまいましげに言い返した。「だが、太陽を見る必要があるんだ――ほんの一瞬でもいいから――方角を定めるためにな。大陽が拝めないんじゃ、同じ場所を堂々めぐりしてしまうかもしれん」
火を起こしていたトスが例によって無表情な顔で、老人を見た。かれは片手をあげて、きのうの夕方かれらがやってきた斜面の方角を指さした。
ベルガラスは不審げだった。「絶対に確かか?」と巨漢にたずねた。
トルはこっくりした。
「前にこの森を通ったことがあるのか?」
大男はまたこっくりし、同じ方角をふたたびかたくなに指さした。
「あっちへ行けば、ヴァーカト島に近い南岸に出られるというのかね?」
トスはまたこっくりして、火を起こす作業に戻った。
「シラディスが言ってたじゃないか、トスは捜索の旅でいずれぼくたちの役に立つって」ガリオンは老人に思い出させた。
「よし。トスが道を知っているんだから、この森はトスに先導してもらおう。あれこれ推量するのはうんざりしてきた」
そのどんよりと曇った朝、道ともいえぬ道を自信たっぷりで先導するトスについて二リーグばかり進んだとき、ポルガラがだしぬけに馬の手綱を引いて、警告の叫びをあげた。「気をつけて!」
霧のなかからトスめがけて矢が飛んできた。だが巨漢は杖でそれをはらいのけた。と、荒くれ者の一団が――何人かはマーゴ人、あとは何人かもよくわからない連中が――いろんな武器をふりかざして森の中から突っ込んできた。
シルクは間髪いれずに鞍からおりて、奴隷商人の服の下から二本の短剣を抜きはなった。ごろつきが怒声をあげて飛びかかってくると、シルクはずっしり重い短剣を一対の槍よろしく前に突き出して迎え討った。
トスはガリオンが地面に飛びおりたときには、早くも巨大な杖をふりまわして攻撃者たちをなぎ倒しており、ダーニクは両手に斧をつかんで向こう側へ回り込んでいた。
ガリオンは〈鉄拳〉の剣を鞘から抜くと、燃え上がる剣で大きな弧を描きながら前に走りだした。ならず者のひとりが宙に飛び出してきた。過去にシルクが何度もやってのけた動作に似ていたが、こちらはもっと下手くそでガリオンの顔か胸を蹴るかわりに、燃える剣の切っ先に落ちてきて串刺しになった。
シルクは短剣の一本で襲撃者を切り開き、一回転してもう一本の短剣を別の襲撃者の額に突き立てた。
トスとダーニクは向こうとこっちから数人の襲撃者をはさみ討ちにし、逃げだそうともがく相手の頭をひとつずつたたきつぶしていった。
「ガリオン!」セ・ネドラが叫んだ。すばやくそっちを見ると、ひげづらの大男がもがく小さな女王を片手で鞍からひきずりおろし、片手でナイフをふりかざしている。次の瞬間、男の手からナイフが落ちて、宙をかきむしった。背後から急に絹の細紐が首に巻きついたのだ。金髪のヴェルヴェットがじたばたする大男の背中を膝でしっかり押さえ込み、細紐を引く手に力をこめた。セ・ネドラはあやうく自分を殺すところだった男が目の前で締め殺されるのを、恐怖におののいて見守った。
ガリオンは険しい顔で、うろたえはじめた襲撃者たちをまた攻撃しはじめた。金切り声やうめき声がにわかに周囲の空中に充満し、服の切れ端や肉片が飛び交いはじめた。ガリオンと向きあったみすぼらしい格好の男たちはすくみあがってあとずさった。巨大な剣が動いたあとに、死体がごろごろころがった。ならず者たちはいきなり逃げだした。
「腰抜けどもが!」黒い服の男が逃げる悪党たちの背中にむかってわめいた。男は持っていた弓矢を持ち上げてぴたりとガリオンに狙いをつけたが、突然くたっと二つ折りになって弓矢を地面に投げ出した。シルクの二本の短剣が目にもとまらぬスピードで一回転して、腹に突き刺さったのだ。
「だれか怪我をした者は?」ガリオンは血のしたたる剣をつかんだまま、すばやく向きなおってたずねた。
「やつらがしたよ」シルクは陽気な笑い声をあげて、血にまみれた森の空き地をなにがなし満足そうに見回した。
「やめてちょうだい!」セ・ネドラが見るに耐えないという声でヴェルヴェットに叫んだ。
「え?」金髪の娘はぼんやりと聞き返した。彼女はすでに息絶えた男の首に巻きついている絹の細紐をまだきりきりとひきしぼっていた。「あら、ごめんなさい、セ・ネドラ。ちょっと注意がおろそかになったようだわ」ヴェルヴェットが紐を離すと、どす黒い顔になった死人が彼女の足元に倒れた。
「あざやかだ」シルクがほめた。
「なんでもないわ」ヴェルヴェットは肩をすくめて、|首締め具《ギャロット》を注意深く巻き上げた。
「ばかに冷静に見えるな」
「とりたてて興奮する理由なんてありゃしないわ、ケルダー。なんといっても、訓練された職務の一部なんですもの」
シルクはなにか言い返そうとしたが、彼女のけろりとした口調に言葉が出てこなかった。
「なあに?」ヴェルヴェットがきいた。
「いや、別に」
[#改ページ]
11[#「11」は縦中横]
「やめてくれないか!」ダーニクが嫌悪もあらわにサディに言った。サディは地面にちらばる死体に小さな毒を塗った短剣を順番に突き刺して回っているところだった。
「念を入れてるだけですよ、善人」サディはそっけなく答えた。「死んだふりをしている敵を置き去りにしていくのは、分別のあることじゃありませんからね」サディはシルクがやっつけた黒服の男に近づいた。「おや」ちょっとおどろいたように言った。「まだ息がある」瀕死の男の頭巾を脱がせて顔を見ようとしたサディははっと息をのんで、手をひっこめた。「ベルガラス、こいつを見たほうがいいですよ」
ベルガラスは空き地を横切って、宦官のそばへやってきた。
「頭巾の内側に紫色の筋がついてます、こいつはグロリムじゃありませんか?」
ベルガラスは険しい顔でうなずいた。腰をかがめて、まだ男の腹から突き出ているシルクの短剣の柄《つか》に軽くさわった。「あといくらも生きられん。意識を回復させられるかね、二、三たずねてみたいことがある」
「やってみましょう」サディはかれの馬のところへ行って、赤い箱から黄色い液体のはいったガラス瓶をとりだした。「水を一杯くれませんか、善人?」ダーニクにたずねた。
鍛冶屋は非難がましい表情をうかべたが、荷物のひとつからブリキのカップを持ってきて、水袋から水をすくいとった。
サディは黄色い液体を慎重に数滴カップにいれて、何度かかきまぜた。死にかけている男のかたわらにひざまづき、やさしいともいえる手つきで男の頭を持ち上げた。「さあ」サディはそっと言った。「これを飲むんだ。気分がよくなる」かれはグロリムの頭を腕で支えてカップを口にあてがった。瀕死の男は力なくそれを飲むと、また仰向けになった。しばらくすると、土気色の顔に静かな微笑がうかんだ。
「ほら、よくなっただろう?」
「ずっとよくなった」男はしわがれ声で言った。
「かなりのこぜりあいだったな」
「われわれはおまえたちをおどかすつもりだった」グロリムは認めた。「だが、おどろいたのはわれわれのほうだった」
「あんたの指導者――なんと言ったっけな? 物忘れがひどくてね」
「モーガト」グロリムの顔がもうろうとしてきた。「ラク・クタンの高僧だ」
「そうそう、思いだしたよ。とにかく、モーガトはあんたにもっとおおぜい助っ人をつけるべきだったんだ」
「あいつらはわたしが自分で雇った――ラク・クタカで。プロだというふれこみだったが――」男は弱々しく咳きこみはじめた。
「むりをするな」サディは少し間をおいてからたずねた。「モーガトがわれわれにどんな関心があるんだ?」
「かれはアガチャクの指示で行動している」グロリムの声はささやきに近かった。「アガチャクは危ない真似をする人間じゃない。ラク・ウルガでたいへんな悪事が行なわれたと聞いてる。アガチャクは紫階級のグロリム全員にあんたがたの捜索を命じたんだ」
サディはためいきをついた。「だいたいそんなことだろうと思ったよ」なげかわしげに言った。「いつだってわたしはみんなに信用されないんだ。なあ、あんたはどうやってわれわれを見つけだしたんだ?」
「クトラグ・ヤスカによってだ」グロリムは答えた。息をするのもやっとだった。「クトラグ・ヤスカの非難の歌声がクトル・マーゴスじゅうにのろしのようにひびきわたって、紫階級のグロリム全員にあんたがたを追跡させたんだ」瀕死の男は深々と息を吸い込んだ。焦点を失った目がにわかに敏捷になった。「あのカップにはなにがはいってたんだ?」鋭く問いつめると、サディの腕をおしやって起き上がろうとした。大量の血が口から吹き出して、目がうつろになった。男ははげしくふるえ、一度だけ長いごぼごぼといううめきをあげたあと、くたっと仰向けにひっくりかえった。
「死んだ」サディが診断をくだした。「これがオレトのまずい点なんだ。心臓にちょっと負担がかかるし、こいつははじめからあまりいい状態じゃなかったからな。すみません、ベルガラス、でもわたしにはこれで精一杯だったんです」
「十分だったよ、サディ」老人は険しい顔で答えた。「ちょっときてくれ、ガリオン。どこか静かなところへ行こう。〈珠〉のことでじっくり話しあわなけりゃならん」
「少し先に伸ばせませんか、ベルガラス?」サディが神経質にあたりを見回しながらたずねた。「ここからなるべく遠くへ行ったほうがいいと思うんです――それも即刻」
「あの連中ならまず戻ってこないぜ、サディ」シルクがものうげに言った。
「心配なのはそのことじゃないんですよ、ケルダー。この森で死体がごろごろしているそばにいるのは利口じゃありません。わたしたちはすでにたっぷりここで足止めをくってるんですからね」
「わけを説明してくれないか?」ガリオンがきいた。
「道でセンダー人があなたとケルダーに与えた警告をおぼえてますか?」
「死体喰いとかいうやつのことかい?」
「そうです。どのへんまで聞いたんです?」
「なんでもそいつらは食屍鬼だとか――死体を食べて生きている動物だって話だったな。だが、ただの怪談だろう?」
「そうじゃないんですよ。じっさいにそいつらを見た人々から話を聞いたことがあるんです。ここから離れましょう。この森で――あるいは森のそばで――生活している人たちのほとんどは死体を埋めないんです。焼くんですよ」
「いやな話だな」ダーニクが言った。
「死者への尊敬うんぬんとはまったく関係ないんです、善人――尊敬してないわけじゃない。かれらが死体を焼くのは生きている者を守るためなんです」
「なるほど」シルクが言った。「その食屍鬼どもはどんなことをするんだい? 死体を掘り起こそうとする動物なんていくらでもいるぜ」
「死体喰いは動物じゃないんです、ケルダー。人間なんですよ――少なくとも見た目はね。通常はたいへん動きが鈍くて、夜しか出てこないんですが、戦争中だとか、疫病の蔓延とかで、おびただしい数の死体が埋められないまま放置されたりすると、一種の繰状態になるんです。死の臭いがやつらを引き寄せ、獰猛な性格に一変する。そういうときのやつらはなんにだってとびかかってくるんです」
「おとうさん」ポルガラが言った。「本当かしら?」
「可能性はある」ベルガラスは認めた。「わし自身この森に関する不快な話を聞いたことがあるんだ。怪談には興味がないから、わざわざ調べるようなことはしなかったがね」
「どこの国にだって人喰い鬼や怪物の話はあるぜ」シルクが疑わしげに言った。「そんなのをこわがるのは子供たちだけさ」
「ひとつ取引をしましょう、ケルダー」サディが言った。「もしわたしたちが死体喰いに出くわさないでこの森を抜けられたら、好きなだけわたしを臆病者扱いして笑ってくださってけっこうです。だが、ご婦人がたのために、ここにいるのはよしましょうよ」
ベルガラスは眉をひそめていた。「食屍鬼の話を完全に認めるわけじゃないが、エルドラクを見るまでは、わしもエルドラクなどという生き物がいるとは信じなかった。いずれにせよ、先へ進もう。〈珠〉の話はあとでもできる」
ふたたびトスを先頭に一行はギャロップで道なき道を進み、南東へ向かった。霧深い森を駆け抜けると、地面にこんもりつもった枯葉が、馬たちのひづめに舞い上がった。足音高く通り過ぎる一行を、いびつな木々が口をあけてのみこもうとしているように見え、ガリオンは気のせいだとわかっていながら、人間そっくりのこのグロテスクな木々が悪意にみちた笑いをうかべているように思えてならなかった。
「待て!」突然シルクが叫んだ。「止まれ!」
かれらはいっせいに手綱を引いた。
「なにかが聞こえたような気がする――あっちのほうだ」
みんなは耳をそばだてて、馬たちの深い喘ぎ以外の音を聞き取ろうとした。
東のほうから、霧をついてかすかな悲鳴が聞こえてきた。
「ほら、まただ」シルクが馬の向きをかえながら言った。
「どうするつもりだ?」ベルガラスがたずねた。
「ちょっと見てきますよ」
だがトスが馬をぐるりと回して、ドラスニア人の前にたちふさがった。重々しく巨人はかぶりをふった。
「トス、なにが起きてるのか知らなくちゃならないんだ」シルクは言った。
トスはまたかぶりをふった。
「トス」ガリオンが言った。「サディがぼくたちに言ったことは本当なのか? 死体喰いみたいなものが本当にいるのか?」
トスの顔が険しくなり、かれはこっくりうなずいた。
薄暗い森からまた悲鳴が聞こえた。今度はかなり近いようだった。悲鳴は恐怖と苦痛に満ちていた。
「だれなの?」セ・ネドラが声をふるわせておびえたようにたずねた。「だれが悲鳴をあげてるの?」
「ぼくらを襲った男たちです」エリオンドが気分が悪そうに答えた。「逃げ延びた男たちですよ。なにかがかれらをひとりずつ追いつめてるんだ」
「死体喰いか?」ガリオンはきいた。
「たぶんそうです。なんだか知らないけど、ぞっとするな」
「こっちへきますよ」サディが言った。「はやく行きましょう」かれは馬の脇腹を蹴った。
一行は道をたどろうともせずに、陰鬱な森の奥へ走りだした。やみくもに半マイルも進んだころ、ふいにポルガラが手綱を引いて馬をとめた。「とまるのよ!」
「どうしたんだ、ポル?」ダーニクがたずねた。
だがポルガラは注意深く前へ進み、霧になかばかすんでいるしげみのほうをうかがった。「前にだれかいるわ」小声で言った。
「死体喰いかい?」ガリオンは声を落とした。
ポルガラはちょっと意識を集中させた。「ちがうわ。襲撃者のひとりよ。隠れようとしてるのよ」
「どのへんにいるんだ?」
「近くよ」ポルガラはたれこめた霧にふたたび目をこらした。「あそこ、しげみの際のあの木のうしろよ――腕が折れてるわ」
ぬれそぼった落葉のあいだから隆起した節くれだった木の根のうしろに、黒っぽいものが半分見えているのがぼんやりとわかった。そのとき、なにかがガリオンの目の隅で動き、木立の奥からよろよろした人影が現われたのが垣間見えた。それは霧に溶けこんだような灰色をしており、骸骨と見まがうほどやせさらばえていた。まとっているぼろには泥と血がしみこんでいる。青白い頭部にはまばらな毛があり、なかば前かがみになって鼻をふんふんいわせながら両手をだらんとたらして歩いている。目はうつろで、口はほら穴のようだ。
やがてもうひとりが森から現われ、さらにもうひとり現われた。かれらは前進しながら低いうめき声に似た音を立てた。まったく意味不明だが、それが激しい飢えをあらわしていることだけは確かなようだ。
「逃げ出すわ!」ポルガラが言った。
隠れていた男は絶望の叫びとともにはじかれたように立ち上がり、死に物狂いで走りだした。死体喰いたちはうめき声を高めていっせいに追いかけはじめた。よろよろした足取りが早まり、やせ衰えた脚が驚異的スピードで動いた。
恐慌をきたしたならず者は体をひねったり避けたりしながら木立をぬって逃げたが、おそるべき追跡者たちは一歩ごとにかれに近づいた。ついにかれが霧の奥に見えなくなったとき、死体喰いたちはあと数ヤードに迫っていた。
ぎょっとするような悲鳴があたりをつんざいた。男はふたたび絶叫した――そしてまた。
「かれを殺そうとしているの?」セ・ネドラの声は悲鳴に近かった。
ポルガラの顔は真っ青になっており、目は恐怖に満ちていた。「いいえ」ふるえ声で答えた。
「じゃあなにをしてるんだ?」シルクがきいた。
「食べてるのよ」
「しかし――」シルクは言葉をのみこんだ。霧のなかから何度も悲鳴があがった。「あの男はまだ――」ポルガラを見つめるシルクの目が飛びださんばかりに見開かれ、頬から血の気がひいた。
セ・ネドラが固唾をのんだ。「生きたまま?」押し殺したささやき声で言った。「生きたまま食べているの?」
「わたしが警告しようとしたのはそのことなんですよ、女王陛下」サディが陰気に言った。「逆上すると、やつらは生きている人間と死人の区別がつかなくなるんです。なんでもくっちまうんですよ」
「トス」ベルガラスが鋭く言った。「やつらをこわがらせておっぱらうことはできるか?」
大男はかぶりをふって、ダーニクのほうを向きあわただしく手ぶりで頭と腹にさわった。
「恐怖を感じるほどの頭はないそうです」鍛冶屋が通訳した。「やつらが知っているのは空腹だけです」
「どうしたらいいかしら、おとうさん?」ポルガラがきいた。
「逃げるんだ。もしやつらが行く手にあらわれたら、殺すしかないだろう」老人はトスをふりかえった。「やつらはどのくらい走れる?」
トスは片手をあげて、頭の上に半円を描いてから、さらにふたつの半円を描いた。
「何日もです」ダーニクが伝えた。
ベルガラスの顔が暗くなった。「行こう、みんな離れるなよ」
恐ろしい森を進む一行のペースは、いまや一段と慎重になり、全員が武器を持っていた。
最初の襲撃は、一マイルと行かないうちに起きた。灰色の顔をした十二人の死体喰いが木立のなかからよろよろと出てきて、すさまじい空腹のうめきをあげながら道いっぱいに広がった。
ガリオンは拍車をかけて剣を大きくふりまわしながら飛び出した。ガリオンを鞍からひきずりおろそうと愚かにも手を伸ばしてくる、よだれをたらした死体喰いたちの列に情け容赦なく切り込んだ。斬り倒された連中からすさまじい腐臭がたちのぼった。突撃して六人を殺したかれは、すばやく回れ右をしてふたたびかれらを粉砕しようとしたが、吐き気がこみあげてきてあわてて手綱を引いた。ガリオンの剣をまぬがれた死体喰いたちが倒れた仲間の死体をひきむしり、血のしたたる肉片をちぎっては、あのおぞましいうめきをあげながら、けづめのような手でそれをほら穴のような口へほうりこんでいる。
ベルガラスたちはそのおそるべき光景から目をそむけたまま、死体喰いたちを迂回して向こう側へまわりこんだ。
「こんなことをしてもむだよ、おとうさん」ポルガラが言った。「遅かれ早かれ、わたしたちのだれかがまちがいをしでかすわ。遮蔽物《シールド》が必要よ」
ベルガラスはちょっと考えた。「おまえの言うとおりかもしれんな、ポル」ようやく認めると、かれはガリオンを見た。「おまえとダーニクとで、どうやってこれをやるのかよく見ていてくれ。わしらが疲れたら、かわってもらいたいのだ」
一行が馬を歩かせはじめると、ベルガラスとポルガラはふたりの意志の力で作り士げたシールドに調整を加えた。いくらも進まないうちに、灰色の顔の死体喰いがねじれた木々のあいだからよろよろと、うめきながら出てきた。ダーニクの馬まであと十ヤードに近づいたとき、死体喰いは突然なにか固いものに頭から突き当たったかのように、あとずさった。不気味なうめき声をあげながら、それはふたたび前進し、きたない長い爪の生えた手で虚空をひっかきはじめた。
「ダーニク」ポルガラが落ち着きはらって言った。「これを処理してもらえるかしら?」
「いいとも、ポル」極度の集中力のために眉間にしわを寄せて、鍛冶屋はひとことつぶやいた。死体喰いが一瞬視界から消えた。ふたたびあらわれたとき、それは二十ヤードも向こうの大木の横にいた。死体喰いはまたもとびかかろうとしたが、どういうわけか体が動かないようだった。
「その調子」ダーニクが言った。
「なにをしたんだい?」シルクがもがいている死体喰いを見ながらたずねた。
「あいつの腕をあの木につっこんでやったんだ」ダーニクは答えた。「もう一度襲ってこようとしたら、木ごとひきぬくか、腕をもぎとるかしなくちゃならない。本当は痛くないはずだが、腕を抜くには一日かそこらかかる」
「シールドをしっかりつかんだか、ポル?」ベルガラスが肩ごしにたずねた。
「ええ、おとうさん」
「じゃあ、少しだけペースをあげよう。多少はずみがついても、どうってことはない」
はじめはゆっくりした駆け足で、そのあとは速度をあげて、一行は前進した。ベルガラスが前方に投影しているシールドが破城槌みたいに、ぼろをまとった邪魔者の死体喰いたちをはねとばした。
「やつらはあの服をどこで手に入れたんだろう?」シルクが馬を進めながら言った。
トスが片手で土を掘るような仕草をした。
「掘り起こした死体から剥いだと言ってる」ダーニクが通訳した。
シルクはぶるっと体をふるわせた。「どうりですごい悪臭がしたわけだ」
その後の数日は、ガリオンの記憶の中でぼやけている。四時間ごとにポルガラとベルガラスを休ませる必要があったので、かれとダーニクとでシールドを直立させておかねばならず、その重みが一マイル行くたびに増すように思えた。霧はいっこうに晴れず、どっちを見ても百ヤードと見えないうえに、人間の顔そっくりなねじれた木々がそのかすむもやの中からいきなりワッとばかりにとびだしてくる。灰色のやせさらばえた姿が霧の中を移動し、食屍鬼の跋扈《ばっこ》する森をつき進むかれらの四方八方から獣じみたうめきが聞こえてくる。
夜はすさまじい恐怖の時間だった。シールドのまわりに群がる死体喰いたちが飽くことのない飢餓のうめきをあげながら、シールドに爪をたてるのだ。一日の疲れでぐったりしているガリオンは意志の力を最後の一滴にいたるまで使わなくてはならなかった――シールドを維持する番がまわってきたときにそれをしっかり支えるだけでなく、眠りを追い払うためにも。睡魔は死体喰い以上の敵だった。ガリオンはみずからを叱咤して歩きまわった。体をつねりもした。不快感で眠気がまぎれるのではないかと、左のブーツに大きな石ころをいれることまでした。一度、なにをやっても睡魔に勝てず、ついにこっくりこっくりしはじめたときがあった。
ガリオンを目覚めさせたのは、強烈な悪臭だった。ぎょっとして頭をおこすと、そこに、かれのまん前に、ひとりの死体喰いが立っていた。なにも考えていないうつろな目、欠けて腐った歯が見える穴ぼこのような口、そして黒い爪の生えた手がまさぐるように伸びて――ガリオンをつかもうとしていた。ガリオンはわっと叫ぶと、意志の力で強い一撃を繰り出し、その生き物をうしろへ投げ飛ばした。そして、がたがたとふるえながらゆるみはじめていたシールドを建て直した。
そうこうするうち、ついに一行は恐怖の森の南端にたどりつき、よじれた木立の下から霧にかすむヒースの野に出た。
「まだ追いかけてくるだろうか?」ダーニクは雲をつくような友だちにたずねた。激しい疲労のために鍛冶屋は声を押し出すように言った。
トスはいくつもあいまいな仕草をした。
「なんだって?」ガリオンがきいた。
ダーニクの顔はけわしかった。「霧があがらないかぎり、あきらめないだろうとさ。やつらは太陽が嫌いなんだが、霧が太陽を隠してくれるかぎりは――」肩をすくめた。
「じゃ、これからもずっとシールドを支えていかなけりゃならないのか」
「そうらしい」
一行が横切ったヒースの野は荒涼としたわびしいところで、一面低いイバラの茂みにおおわれ、赤錆色の水がたまった浅い沼が点在していた。霧が渦巻き、かろうじて見えるあたりにはいつも死体喰いたちのおぼろげな姿がひそんでいた。
馬たちは進みつづけた。ポルガラとベルガラスがシールドを支える重労働を引き受け、ガリオンは鞍の上でがっくりと首をたれ、疲労にふるえていた。
そのとき、ほんのかすかだが、潮の匂いがした。
「海だ!」ダーニクが叫んだ。「海についたんだ」
「今度は船があればそれですむ」シルクが言った。
だが、トスが確信ありげに前方を指さして、奇妙な仕草をした。
「われわれを待っている船があると言ってる」ダーニクがみんなに言った。
「ほんとか?」シルクはびっくりしたようだった。「どうしてそんなことがわかるんだい?」
「わたしにもわからない」ダーニクが答えた。「トスはそこまでは言わなかった」
「ダーニク」シルクが言った。「トスの言ってることがいったいどうしてわかるんだ? トスのジェスチャーはおれにはまるでちんぷんかんぷんだぜ」
ダーニクは困った顔をした。「どうしてかなあ。考えたこともない。トスの言いたいことがなんとなくわかるような気がするんだよ」
「魔術を使ってるのか?」
「いや。ひょっとしたら、何度か一緒に仕事をしたせいかもしれない。協力しあうと人間は隔てがとれて親しくなるからね」
「そういうことにしておくか」
一行は土墳のような丘をのぼりつめて、砂利の浜辺を見おろした。霧に煙る沖合いから巻き上がった長い波が寄せてきて、丸い小石の浜に砕け、悲しそうなしゅるしゅるという音とともに泡の斑点をつけた水が退き、ふたたび浜にくだけちっては退いていく。
「船なんか見えないぜ、トス」シルクが非難がましく言った。「どこにあるんだ?」
トスは霧のなかを指さした。
「ほんとかよ?」シルクは懐疑的だった。
大男はうなずいた。
一行が浜めざしてくだりはじめると、死体喰いたちはいままで以上に興奮して追いかけてきた。せっぱつまったうめき声をあげて、かなわぬものをつかもうとするように爪の長い手をのばし、丘のてっぺんで前後に走りだした。だが、それ以上は追いかけてこなかった。
「気のせいかしら、なにかをこわがっているみたいに見えるけど」ヴェルヴェットが言った。
「たしかに丘をおりてこないね」ダーニクは同意して、トスのほうを向いた。「やつらはこわがっているのか?」
トスはこっくりした。
「なにをこわがってるのかしら」ヴェルヴェットが言った。
巨人は両手である動作をした。
「やつらよりもっと腹をすかせているものと関係があるらしい」ダーニクが通訳した。「それを恐れているんだ」
「サメじゃないか?」シルクがほのめかした。
「いや。海そのものだよ」
砂利の海岸にたどりつくと、かれらは馬をおりて、疲労困憊の体で水ぎわに小さな輪を作ってたたずんだ。「だいじょうぶ、おとうさん?」ポルガラが老人にたずねた。ベルガラスは鞍にもたれて、暗い海面をおおう白い霧にじっと目を注いでいる。
「あ? ああ、だいじょうぶだ、ポル――ちょっと考えていただけだ。あっちに船があるとして、だれが用意したのか、また、よりによってこの場所にわしらが到着するとどうやって知ったのかとな」
「それよりも」シルクがつけくわえた。「おれたちが着いたことをどうやって知らせたらいいんでしょうかね。あっちの霧はまるで毛布みたいにぶあついってのに」
「トスが言うには、われわれがここにいることはもう知ってるそうだよ」ダーニクがシルクに言った。「あと三十分もすれば向こうからやってくるらしい」
「ほう?」ベルガラスが好奇心をかきたてられてたずねた。「で、そもそも何者なんだね、船を送りこんできたのは?」
「シラディスだそうです」
「近いうちにあの娘と長い話をせねばならんことになりそうだな」ベルガラスは言った。「いくつか、ちょいと気になることがある」
「やつら、ひきあげていきましたよ」種馬のうなだれた首をなでながら、エリオンドがみんなに言った。
「だれのことだい?」ガリオンがたずねた。
「死体喰いたちですよ」少年は丘の上を指さした。「あきらめて、森へひきかえしはじめた」
「さよならも言わずにな」シルクがひきつった笑いをうかべてつけくわえた。「ちかごろのマナーはどうなっちゃってるのかね」
霧の中からぼうっと船があらわれた。船首と船尾が高く、二対のマストに大きな帆をはった不思議な造りの船だ。
「どうやって進んでるのかしら?」セ・ネドラが霧にかすむ姿を興味深そうに見つめた。
「なんのことだい?」ガリオンは言った。
「漕ぎ手がいないわ。それに風はそよとも吹いていないでしょう」
改めて船を見たガリオンは、すぐセ・ネドラの言うとおりなのに気づいた。ぼんやりした船端からは一本のオールも突き出ていない。だが、死んだように静かな霧深い空気にもかかわらず、帆は外側に大きくふくらみ、船は油のような海をなめらかに進んでくる。
「魔術かしら?」セ・ネドラがたずねた。
ガリオンは意識を押しだして、魔術の気配をさがしてみた。「そうじゃなさそうだ。少なくとも、ぼくの知ってるたぐいの魔術じゃない」
ベルガラスはすぐそばに立っていたが、その表情はひどく不快げだった。
「どうやって船を動かしているんだろう、おじいさん?」
「妖術のひとつだ」老人はしかめっつらのまま言った。「予想のつかん、たいがいはきわめて当てにならんものだ」ベルガラスはトスのほうを向いた。「わしらにあれに乗ってもらいたいのか?」
トスはこっくりした。
「ヴァーカトへ連れていってくれるのか?」
トスはまたこっくりした。
「船を押しているあの妖精がその思いつきに飽きなかったらの話だろう――それとも、正反対の方向へわしらを連れていったほうが愉快だと思わなければのな」
トスが両手を突き出した。
「自分を信用してくれと言ってますよ」ダーニクが伝えた。
「よってたかってわしにそのせりふを吐くのはやめてもらいたいもんだ」
船の速度が落ちて、竜骨が砂利底にぶつかって静かにきしった。船端から広い渡し板がするするとあらわれて、おもりのついたその先端が三フィートほど水中に沈んだ。トスがいやがる馬を引いて板にむかって水を渡りはじめた。トスは振り返って、物問いたげにみんなを見、早くというように腕を動かした。
「もう乗ることになってるんだと言ってますよ」とダーニク。
「わかっとる」ベルガラスがうなった。「よし、乗ったほうがいいだろう」老人は渋い顔で馬の手綱をとると、水にはいっていった。
[#改ページ]
12[#「12」は縦中横]
その不思議な船の乗組員たちは全員あつぼったいきれでできたごわごわの頭巾つきのチュニックを着ていた。みんなひどく骨ばった顔だちで、そのせいか妙に荒削りな感じがし、全員がトスのような聾唖者だった。かれらはもくもくと仕事をした。チェレクの船乗りたちの怒声と悪態まじりの仕事に慣れっこになっているガリオンには、この音無しの働きぶりが奇妙に思えたし、いささかいらいらさせられもした。船それ自体が、普通ならたてる音をいっさいたてないのだ。オールが輪留めにこすれる音も、索具のぎぃぎぃいう音も、船板のうめきも聞こえない――ガリオンには理解さえできないある精神力によって、霧におおわれた海を進んでいく船の腹に波があたるかすかな水音が聞こえるばかりだ。
いったん岸が後方の霧にまぎれてしまうと、目印になるものも、方角を見きわめるための手がかりも、いっさいなくなってしまった。音のない船は進みつづけた。
ガリオンはセ・ネドラの肩に腕をまわして立っていた。死体喰いの森での試練による激しい疲労感にくわえ、どこまでも広がる黒い陰鬱な海とぶあつくたれこめた霧のために、気分がふさがり、思いは千々に乱れていた。疲れはてた妻のかたわらに立ち、かばうように妻を抱いてぼんやりと霧の中を見ているだけで精一杯だった。
「いったいあれはなに?」どこかうしろのほうでヴェルヴェットが叫んだ。ガリオンは振り返って船尾のほうを見た。真珠色の霧の中から幽霊のように白い、とてつもなく大きな翼の鳥が一羽あらわれた――その翼の大きさたるや、長身の人間が両腕をいっぱいに広げた長さよりもっと長く見える。翼は動いていなかった。それなのに鳥は肉体を離れた魂のように、霧深い空中をすべるように音もたてずに飛んでくる。
「アホウドリだわ」ポルガラがその堂々たる鳥を見て言った。
「不吉な兆候とされているんじゃないですか?」シルクがたずねた。
「迷信を気にするの、ケルダー王子?」
「そういうわけじゃありませんよ、しかし――」シルクは言葉を濁した。
「アホウドリは海鳥なのよ、それだけのことだわ」
「どうしてあんなに大きな翼を持ってるのかしら?」ヴェルヴェットが興味深げにたずねた。
「アホウドリは大海原をどこまでも飛ぶことができるの。あの翼のおかげで楽々と飛びつづけられるわけよ。ごく実用的なものなの」
大きな翼の鳥は空中で体を傾け、妙に悲しそうな鳴き声をあげた。広大な海のうつろさを表現しているような声だった。
ポルガラはその不思議な挨拶にたいし、小首をかしげて応えた。
「あれはなんと言ったんだね、ポル?」ダーニクが妙に押し殺した声でたずねた。
「とても堅苦しい挨拶だったわ。海鳥というのは威厳のかたまりなのよ――ひとりでいることが多すぎるせいじゃないかしら。いろんなことを考える暇がたっぷりあるでしょう。陸の鳥は他愛のないおしゃべりばかりするけれど、海鳥は深遠ぶろうとするの」
「不思議な生き物なんだな――鳥のことだが」
「いったん慣れてしまえばそんなことないわ」ポルガラは他人にはうかがいしれぬ表情を浮かべて、船と並んでしんとした空中を滑空している、石膏のように白い鳥を見つめた。
アホウドリは巨大な翼を動かして舳先《へさき》のすぐ前へ出た。霧に静止したまま浮かんでいるように見えた。
ベルガラスはさきほどから上を向いて帆をにらみつけていた。そよとの風も吹かない大気のなかで、帆はありえないように大きくふくらんでいる。ついにぶつぶつとひとりごちると、老人はトスのほうを向いた。「ヴァーカトまではどのくらいかかるんだ?」
トスは両手で短い距離を示した。
「それじゃあまりよくわからんよ、友だち」
トスは上を指さして手を大きく広げた。
「五時間ぐらいだと言ってるんですよ、ベルガラス」ダーニクが通訳した。
「すると見かけよりは速く進んでいるわけだな」老人は言った。「それにしても、ひとつのことにそんなに長時間妖精の心を向けさせておくとは、いったいどうやって説得したんだろう。わしは一分と同じことを考えていられる妖精には、ついぞ出くわしたことがないんだ」
「トスにたずねてみますか?」
ベルガラスは目をすがめて帆を見上げた。「いいや、やめておく。どうせ気にいらん返事がかえってくるんだ」
夕闇が近づくにつれて、霧のなかからヴァーカト島の北酉沿岸が黒く、くっきりと浮かび上がってきた。白く輝くアホウドリを前方に、さらに島へ接近すると、小石だらけの浜の後方に低い丘陵があり、霧にからみつかれた濃い常緑樹がびっしりと生い茂っているのが見えた。浜からかなり奥まったあたりに、金色の明かりが村の窓々で点々と輝き、その村から海岸のほうへたいまつの列が曲がりくねってつづいている。ガリオンはかすかな歌声を聞き取ることができた。言葉は不明瞭だが、全体に深い悲しみと尽きることのない慕情が感じられる。
船は浅い湾を音もなく横切って、人工のものというよりは天然の岩のように見える粗雑な石の桟橋の横にそっと横づけになった。
桟橋には白い亜麻布の長衣を着た背の高い男が立っていた。顔はしわひとつなく、眉も大烏の羽根のように黒々としているのに、流れるような髪はベルガラスと同じ銀色だった。「ようこそ」男は一行を迎えて言った。深みのある、妙にやさしい声だった。「わたしはヴァードです。あなたがたのおいでを長いあいだ待っていました。みなさんがおいでになることは『天の書』で、大昔にわたしたちに知らされていたのですよ」
「わしがこういう連中を好かんわけがこれで納得できたろう」ベルガラスがぶつぶつ言った。「知ったかぶりをするやつは大嫌いなんだ」
「お許しください、聖なるベルガラス」桟橋の男は心もちほほえんで言った。「お気にさわるのであれば、星に読んだ運命のことは隠しますよ」
「地獄耳だな、ヴァード」老人はむっつり言った。
「そうお考えになりたいなら、それでけっこうです」ヴァードは肩をすくめた。「みなさんがたの部屋を用意してあります――食べ物も。長いたいへんな旅でしたから、さぞお疲れでしょう。わたしと一緒においでください、案内いたしましょう。家来たちが馬と荷物を運びます」
「ご親切に、ヴァード」ポルガラが船の手すりこしに言うと、物言わぬ船乗りたちが石の桟橋に板をおろした。
ヴァードはお辞儀した。「おいでいただいて光栄です、レディ・ポルガラ。〈第三時代〉のはじめから、わたしたちはあなたを畏怖しておりました」
湾からの道は細くてやたらとうねうねしていた。「西のりっぱな都市にくらべると、わたしたちの村は粗末だと思われるでしょうね」白い服の男はすまなそうに言った。「わたしたちはこれまでずっと環境に無関心だったんです」
「どの家も似たりよったりだな」ベルガラスが同意するように言って、霧の中で輝いている、ひとかたまりの明かりのともった窓のほうを見やった。
村を形づくっているのは、二十軒あまりの粗末な石ころを組んだ、藁ぶき屋根の家だった。見たところ家々はでたらめにちらばっていて、きちんとした通りらしきものはどこにも見あたらなかった。だが、村は手入れがゆきとどき、そういう場所にありがちなごたごたした乱雑さはなく、どの家の戸口も頻繁に掃除されていることを示していた。
ヴァードは村の中央にある大きな家へ一行を案内すると、ドアをあけた。「滞在されるあいだは、ここがみなさんの家になります」かれは言った。「食事の用意ができています。家来が何人かお世話にあたるでしょう。他になにかありましたら、わたしを呼びにやらせてください」ヴァードは一礼すると回れ右をしてぼんやりした夕闇の中へ歩きさった。
家の中はけっして贅沢ではなかったが、粗末な外見とは著しい対照をなしていた。どの部屋にも陽気に火が踊る低い暖炉があって、暖かく明るかった。戸口はアーチ形で、壁はすべて漆喰塗りだった。家具は質素ながら丈夫な作りで、ベッドには羽毛の詰まったぶあついふとんがかかっていた。
まんなかの部屋にテーブルと腰かけがあり、土焼きの壺がたくさんテーブルに載っていた。それらの壺からたちのぼる匂いに、ガリオンはもう何日も温かい食事をしていなかったことを思いだした。
「変わった感じの人たちね」ヴェルヴェットがマントを脱ぎながら言った。「でも、親切にもてなしてくれることだけはまちがいないわ」
シルクはさっきからテーブルに目を釘づけにしていた。「食事を冷ましちまって、かれらをがっかりさせたくないね。みんなはどうだか知らないが、おれは腹ぺこで死にそうだよ」
かれらのために用意されていた夕食は美味だった。なじみのある料理はひとつもなかったが、どれも絶妙な味つけだった。主菜はガリオンの知らない動物の腰肉をこんがり焼いたものだったが、こくがあって、すばらしい味だった。
「このおいしいあぶり肉はなにかしら?」セ・ネドラがもうひと切れ皿に取りながらたずねた。
「山羊だと思うわ」ポルガラは答えた。
「山羊?」
「らしいわ」
「でも、わたし山羊は大嫌いよ」
「それで三切れめでしょ、ディア」
食事が終わると、かれらは暖炉のまわりに腰をおろした。ガリオンは激しい疲労をおぼえた。寝たほうがいいとわかっていたが、あんまり居心地がよすぎて動くのがおっくうだった。
「ザンドラマスがここを通った気配は感じたかい?」シルクがきいた。
「え? ああ――いや。なにも感じなかった」
「あの女は人が住んでいる地域は避けているようだ」ベルガラスが言った。「この村にはこなかっただろう。明日になったら、おまえさん馬に乗ってザンドラマスの足跡をたどれるかどうか見てくれ」
「まっすぐラク・ヴァーカトへ行ったんじゃないですかね?」シルクはそれとなく言った。「あそこには船がいくらでもあるんだし、ザンドラマスはマロリーへ行きたがってるんでしょう?」
「ほかの手筈をととのえた可能性もある」老人は言った。「なにしろ首に懸賞をかけられているんだ。ラク・ヴァーカトのマロリー人もラク・ハッガのマロリー人同様、金を集めることに関心がある。ザンドラマスはあらかじめ慎重に準備をととのえてこの旅をしているんだ。ここまできたからには、あの女が命をねらわれるような危険な真似をむざむざするわけがない」
サディが小さな土焼きの瓶を持って部屋に戻ってきた。「リセル辺境伯令嬢」サディはにがにがしげに言った。「わたしの蛇を返していただけますかな?」
「あら、ごめんなさい、本当に、サディ」リセルはあやまった。「すっかり忘れてたわ」ドレスの前に手をいれると、小さな緑色の爬虫類をそっと取り出した。
シルクがヒィッと言ってあとずさった。
「本当に盗もうとしたんじゃないのよ」ヴェルヴェットはサディに受け合った。「この子が冷えきってたからなの」
「もちろんです」サディは蛇を受け取った。
「暖めてやろうとしていただけよ、サディ。あなただってその子を病気にさせたくないでしょう?」
「ほろりとさせるようなことをおっしゃる」サディはくるりと背を向けると、手首にものうげなジスを巻きつかせて寝室のほうへひきあげていった。
翌朝、ガリオンは家の裏にある小屋にはいって馬に鞍をつけ、小石まじりの浜へ引き返した。霧にかすむ沖合いで波がいつ果てるともなく巻き上がっては岸に砕け散っている。ガリオンは馬をとめ、浜を左右に見渡した。肩をすくめ、馬を北東へ向けた。
岩の散在する浜の南端には、白く漂白された流木がたくさん打ち上げられていた。馬を進めながら、かれはそれらのもつれあった枝の山や、折れた丸太を所在なげに見ていった。気がつくと、ときおり木片やがらくたに四角い船板がまじっている。無残な最期をとげた船の物言わぬ証拠だ。こうした船板を漂流させた船が難破したのは、ことによると一世紀前かもしれないし、壊れた船板は世界を半周してこの塩の殻をかぶった小石だらけの浜にたどりついたのかもしれない、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。
(じつに興味深い)頭のなかの乾いた声が言った。(だが、おまえはまちがった方へ行っているぞ)
「いままでどこにいたんです?」ガリオンは手綱を引いてたずねた。
(どうして会話のはじめに、おまえはいつも同じ質問をしないと気がすまないのだ? 答えを聞いたところでおまえにはなんの意味もない。どうしていつも知りたがる? 馬首をめぐらして引き返せ。足跡は村の反対側にある。島をひとまわりするだけの暇はないぞ)
「ザンドラマスはぼくの息子とまだここにいるんですか?」ガリオンはとらえどころのない声がふたたび消えてしまう前に返事をもらおうと、いそいでたずねた。
(いや)声は答えた。(女は一週間前に去った)
「じゃあ、ぼくたちとの距離はちぢまってるんだ」にわかに希望がわいてきて、ガリオンは声にだして言った。
(論理的憶測ではそうなるな)
「どこへ行ったんです?」
(マロリーさ――だが、そのことはもう知っていたのだろう?)
「もうちょっと特定できませんか? マロリーは広いんです」
(それをきいちゃならん、ガリオン)声は言った。(ウルに言われただろう、息子を見つけるのがおまえの務めだとな。ウル同様、わしもおまえにかわってそれをやってはならぬのだ。そうそう、ついでに言っておくが、セ・ネドラから目を離さんように)
「セ・ネドラ? どうしてです?」
だが声はすでに消えていた。ガリオンは毒づいて、きた方向へ引き返した。
村の一リーグほど南に、ふたつの突き出た岬に囲まれて海岸線まではいりこんだ入り江があった。そこまできたとき、背中の剣がガリオンをひっぱった。かれはすばやく手綱を引いて剣を抜きはなった。剣は手のなかで向きを変え、まっすぐ内陸を指し示した。
ガリオンは鞍頭に〈鉄拳〉の剣を置いて、駆け足で丘をのぼった。足跡は方向を変えていなかった。前方には草深い長い斜面があり、その先は常緑樹の森の入口が霧にまぎれている。しばらく状況を考えてから、ガリオンはひとりでザンドラマスを追跡するより、ひとまずひきあげてみんなに話したほうがいいだろうと判断した。村に戻る途中、入り江の浅瀬をちらりと見おろすと、小型船の残骸が横倒しになって沈んでいるのが見えた。ガリオンの顔がけわしくなった。またもザンドラマスは彼女に手を貸した者たちに死をもって報いたのだ。ガリオンは馬に蹴りをいれてゆるやかな駆け足で、海と暗い森のあいだの霧深い草原を引き返し、村へ向かった。
ヴァードが提供した家についたのは昼近くだった。ガリオンはできるだけ興奮をおさえて鞍から飛び降りた。
「それで?」部屋にはいっていくと、マグを片手に暖炉の前にすわっていたベルガラスがたずねた。
「一リーグほど南に足跡がある」
一枚の羊皮紙を調べていたポルガラが鋭く顔をあげて言った。「まちがいない?」
「〈珠〉が言うんだから確かだよ」ガリオンはマントの前をゆるめた。「そうそう――ぼくたちの友だちがまた訪ねてきた」かれはこつこつ額をたたいてみせた。「かれの話では、ザンドラマスは一週間ほど前に島を発ってマロリーへ向かっている。かれからつかめたのはそれだけなんだ。セ・ネドラは? 距離がちぢまったことを教えてやりたい」
「眠っているわ」ポルガラが注意深く羊皮紙をたたみながら言った。
「それ、おじいさんがさがしていた本のひとつのページ?」
「いいえ、ディア。ゆうべわたしたちが飲んだあのスープの作り方よ」ポルガラはベルガラスを見た。「どうするの、おとうさん? また足跡をたどるの?」
老人は炉床の上で踊っている火をぼんやり見つめながら考えた。「どうだかな、ポル」ようやく答えた。「わしらはなにかのために、故意にこの島へ連れてこられたんだ。もう一日かそこらここにとどまるべきだと思う」
「ザンドラマスに追いつくまでもうちょっとなのよ、おとうさん。どうして一ヵ所にとどまって、せっかくのチャンスをむだにしたりするの?」
「予感とでもいうかな、ポル。わしらはここでなにかを――非常に重要ななにかを待つことになっているような気がしてならんのだ」
「かんちがいじゃないの、おとうさん」
「なんにでも異議をとなえる、それがおまえの特権だな、ポル。おまえにはものごとの考え方を教えたことがなかったからしかたがない」
「行動することばかりでね」ポルガラは皮肉っぽくつけくわえた。
「それがわしの特権なんだ。子どもを導くのが父親の義務だ。わかっとるはずだぞ」
ドアがひらいて、シルクとヴェルヴェットが太陽のない昼の外からはいってきた。「足跡を見つけたかい?」シルクがマントを脱ぎながらたずねた。
ガリオンはうなずいた。「ザンドラマスは一リーグばかり向こうの浜に上陸したんだ。そのあと乗ってきた船を沈めた。浜から五十ヤードぐらいの海底に、乗員全員を乗せたまま沈んでるよ」
「すると、流儀を忠実に守っているわけだ」
「けさはなにをやっていたんだい?」ガリオンはシルクにきいた。
「嗅ぎまわってたのさ」
「それを言うなら情報収集≠ナしょう、ケルダー」ヴェルヴェットが気取って言い、やはりマントを脱いで、ドレスの前のしわをのばした。
「同じことじゃないか」
「もちろん、でも嗅ぎまわる≠チて言い方、とても下品だわ」
「なにかわかったのか?」ガリオンはたずねた。
「あまり収穫はなかった」シルクは暖炉に近づいて冷えた体を暖めた。「ここの連中はみんなえらく丁寧だが、単刀直入な質問をはぐらかすのがすごくうまいんだ。だが、ひとつだけたしかなことがある。この場所は本当は村なんかじゃないってことさ――少なくとも、おれたちが理解しているような意味の村じゃない。なにもかも粗末で古くさく見えるように入念に仕立てられている。ここの連中は穀物や家畜を育てているようなふりをしてるが、全部見せかけなんだ。鋤も鍬もほとんど使った形跡がないし、家畜にしても世話がちょいといき届きすぎてる」
「じゃあ、なにをしているんだ?」ガリオンはたずねた。
「研究に時間をつぎ込んでいるんだと思いますわ」ヴェルヴェットが答えた。「村に住むひとりの女性の家を訪ねたんですけれど、テーブルに図面のようなものが置いてありました。わたしが見ようとしたら、あわてて片づけてしまいましたけど、星座の地図みたいでしたわ――夜空の絵みたいな」
ベルガラスがぶつぶつ言った。「占星術師さ。わしはだいたい占星術を疑っておるんだ。星というのは十五分ごとにころころ意見を変えるような気がしてな」老人はしばらく考えていた。「プロルグにいたとき、ゴリムが占星術をおこなう人々をダル人と言っておったな――マロリー南部に住む連中と同じ人種だ――ダル人がなにをしようとしているのかはだれにも見当がつかんということだった。おとなしくて、おだやかそうに見えるが、あれは猫をかぶっているだけだと思うね。ダラシアに占星術の学習所がいくつかあるんだが、この場所がそれと同じようなものだとわかっても、わしはおどろかんよ。ときに、おまえさんたちのどちらか目隠しをしている者を見かけなかったか――シラディスがやっていたような?」
「予言者ですか?」シルクが言った。「おれは見なかったな」かれはヴェルヴェットを見やった。
ヴェルヴェットは首をふった。
「トスならその問いに答えてくれるかもしれないわよ、おとうさん」ポルガラが口をはさんだ。「わたしたちにはできないやり方でここの人たちと意志を通じあえるようだから」
「口がきけないのにどうやって答えをひきだすんです、ポルガラ?」シルクがたずねた。
「ダーニクならだいじょうぶよ。ところで、あのふたりはどこにいるの?」
「村の南のはずれに池を見つけたんです」ヴェルヴェットが答えた。「魚がいるかどうか見に行きましたわ。エリオンドも一緒に」
「しょうがないわね」ポルガラは微笑した。
「ちょっと退屈しちゃうんじゃないかしら?」ヴェルヴェットがきいた。「釣りしかすることがないなんて」
「釣りは健全な気晴らしよ」ポルガラは意味ありげにベルガラスの手の中のマグを見た。「ダーニクのためにも、他のなんとか言う娯楽よりはるかにいいんじゃないかしら」
「次はどうしますかね?」シルクがベルガラスにきいた。
「しばらくじっと腰をすえて、目と耳をそばだてておこう。ここで重要なことが起こるような気がしてならんのだ」
午後になると風が出て、この一週間ばかりかれらを悩ませてきた霧が動きはじめた。夕方が近づくと、夕日に赤くそまって西方にいすわっているぶあつい雲を別にすると、空が晴れ渡った。
サディは一日中ヴァードと過ごしていた。帰ってきたとき、その顔には失望が浮かんでいた。
「なにかさぐりだせたか?」シルクがきいた。
「意味のわかることはなにひとつ」宦官は答えた。「この人たちは現実にたいする意識が希薄なようですな。興味があるのは、かれらが仕事と称するわけのわからんものだけなんです。その仕事がどういうものなのか、ヴァードははっきり教えてくれませんでしたが、どうやらかれらはこの世の最初からそれに関する情報を集めているらしい」
薄闇が島をおおいはじめたころ、釣り竿をかついだダーニクがエリオンドと肩を並べ、がっかりした顔で戻ってきた。
「トスは?」ガリオンはたずねた。
「なにかやることがあると言ってた」ダーニクは答えて、釣り道具を慎重に点検した。「もっと小さな釣り針でないとだめらしい」
ポルガラとヴェルヴェットが夕食の支度をはじめると、シルクがガリオンを見て言った。「散歩にでも行かないか?」
「いまから?」
「ちょっと気分が落ち着かないんだ」イタチ顔の男は椅子から立ち上がった。「行こうぜ。それ以上その椅子にすわってると、根が生えちまうぞ」
ガリオンは当惑しながら友だちのあとから外に出た。「いったいどうしたっていうんだ?」
「トスが何をしてるのか確かめたいんだよ。リセルについてきてもらいたくないんでね」
「リセルを好きなんだと思ってた」
「好きさ、しかしね、おれの行く先々で彼女がおれの肩ごしにうしろをふりむくのには、いい加減うんざりなんだ」シルクは立ちどまった。「連中、どこへ行くんだろう?」指さすほうを見ると、村と森の入口の中間に横たわる草原を、たいまつの列が横切って行く。
「ついていけばわかるさ」
「よし。行こう」
草原の南端にある暗い森のほうへ、たいまつを持った村人たちを導いているのはヴァードだった。そしてみんなを見おろすようにして、ヴァードのかたわらをトスが歩いている。ガリオンとシルクは身をかがめて背の高い草むらに隠れながら、一定の距離を置いてかれらと平行に進んでいった。
村人たちのたいまつの列が森の入口に近づいたとき、いくつかのぼんやりした人影が木立の蔭からあらわれて、一行を待ち受けた。「何者だか見分けられるかい?」ガリオンはささやいた。
シルクは首をふってつぶやいた。「遠すぎる。それに暗いしな。もっとそばまで行かないと」シルクは腹ばいになって、草むらを這って進みはじめた。
草原は数日の濃い霧のためにまだぬれていた。木立のきわの心強い暗がりにたどりついたときには、ガリオンもシルクもびしょぬれになっていた。
「気持ち悪いよ、シルク」ガリオンは気むずかしげにささやいた。
「溶けやしないさ」シルクはささやきかえした。次にかれは頭をあげて木立のなかをのぞきこんだ。「あの連中、目隠ししてるのか?」
「そんなふうに見えるね」ガリオンは答えた。
「じゃ、予言者だってことじゃないか。村ではひとりも見なかったんだから、この森のどこかに住んでいるのかもしれない。もうちょっとそばまで行けるかどうかやってみよう。好奇心で体がむずむずする」
村人たちはあいかわらずたいまつをかかげたまま、じめじめした森のなかへ数百ヤードはいってから、広い空き地でやっと足をとめた。空き地のまわりにはおおざっぱな四角に切られた、それぞれが長身の人間の二倍はあろうかという高い石の塊が並んでいる。村人たちはその石塊のあいだに間隔をあけて立ち、たいまつの輪を形成した。すると、目隠しをした十二人ばかりの予言者が輪の中に集まって手をつなぎ、もうひとつの輪を作った。予言者のひとりひとりのまうしろには、大柄な筋骨たくましい男がひとりずつ立った――案内人兼保護者だろう、とガリオンは思った。予言者たちの内側の輪の中央に立っているのは、銀髪のヴァードと巨人のトスだった。
ガリオンとシルクは這いつくばってさらに接近した。
空き地のなかの物音といえば、じりじり燃えるたいまつの音だけだった。と、輪のなかの人人がうたいだした。はじめはごく静かだった声がしだいに高くなった。多くの点で、かれらの歌はウルゴ人の不調和な聖歌に似ていたが、そこには微妙な相違があった。音楽学にも調和にもうといガリオンだったが、この賛美歌は五千年にわたってウルゴの洞窟に鳴り響いている聖歌よりもっと古くて、もっと純粋であるように思えた。直観的にガリオンは、何世紀にもおよぶ混乱したこだまが徐々にウルゴ人の歌をくずしていることも理解した。さらに、この賛美歌はウルに捧げられたものではなく、未知の神に捧げられたものだということもわかった。これはその名のない神が顕現し、ダル人を導き守るためにやってくることを嘆願する歌なのだ。ちょうどウルがウルゴ人を導き守ったように。
やがてガリオンはその信じがたいほど古い賛美歌に、別の音が加わったのを聞くか、感じるかした。かれの意識のなかで奇妙なためいきがもれ、不思議な輪のなかに集ったこれらの人々が、意志の力を結集させて、星空に昇っていく歌声に神秘的な同伴者を呼び寄せた。
空き地のどまんなかの空中でなにかが微光を放ち、頭巾つきの白い亜麻布の服をまとい、きれで目隠しをしたきらめくシラディスの姿が現われた。
「どこからきたんだ?」シルクが息をのんだ。
「本当はあそこにいるわけじゃない」ガリオンはささやいた。「あれは投影だ。しっ」
「ようこそ、聖なる女予言者よ」ヴァードがきらめく幻を迎えた。「われわれの呼びかけに応じてくれたことを一同感謝する」
「礼は不要じゃ、ヴァード」目隠しをした娘の澄んだ声が答えた。「わが務めにより課せられた義務から応じたまでのこと。では、探索者たちが到着したのだね?」
「たしかに、聖なるシラディス」ヴァードは答えた。「さらに、ベルガリオンなる者はここで探していたものを見つけた」
「〈光の子〉の探索ははじまったばかりじゃ」幻は言った。「〈闇の子〉ははるかかなたのマロリーの海岸に到着し、いましもアシャバの〈トラクの家〉への旅をつづけている。〈永遠なる者〉が『いにしえの書』を開くときがきたのじゃ」
ヴァードがとまどった顔になった。「それは賢明なことだろうか、シラディス? いくら長老ベルガラスといえどもあの書を読ませてしまっていいのかね? かれの全生涯は、いっさいを支配するふたつの魂のうちのひとつに捧げられてきたのだぞ」
「そうでなくてはならぬのだ、ヴァード、さもないと〈光の子〉と〈闇の子〉の対決が定められたときに実現しなくなる。われらのつとめも未完成のままになろう」シラディスはためいきをついた。「そのときは近い」彼女は全員に告げた。「われらが〈第一時代〉のはじめより待っていたときは目前に迫っている。そのときがきたら、長いあいだわれらに課せられてきたあの務めをわたしは果たさねばならぬ。その前にすべてが遂行されねばならぬのじゃ。『いにしえの書』を永遠なるベルガラスに与えるがよい。ベルガラスが〈光の子〉をもはや存在しない場所へ導けるように――そこでいっさいが永遠に決定されるであろう」そこまで言って、シラディスは白い服のヴァードの横に無表情に立っている雲つくような大男のほうを向いた。「そなたがおらぬと、わたしの心はうつろじゃ」シラディスは泣きだしそうな声で言った。「足元がよろけても誰も助けてくれぬ。いとしい道連れよ、どうかそなたの務めを一刻も早く完了させておくれ、そなたがおらぬとわたしはさびしい」
ゆらめくたいまつの明かりのなかで、ガリオンはトスの目が涙でうるみ、顔がゆがむのをはっきり見た。巨人はきらめく幻のほうへ手をさしのべ、力なくその手をたらした。
シラディスも片手をあげた。それはほとんど無意識に出た仕草に見えた。
次の瞬間、彼女はかき消えた。
[#改ページ]
13[#「13」は縦中横]
「まちがいなくアシャバと言ったのか?」ベルガラスの口調は真剣だった。
「ぼくもシラディスがそう言うのを聞いたよ、おじいさん」ガリオンはたったいまシルクが報告したことを改めて確認した。「〈闇の子〉がマロリーへ到着し、アシャバにある〈トラクの家〉へ向かっていると言ったんだ」
「だが、あそこにはなにもないのだぞ」ベルガラスは反論した。「ボー・ミンブルの戦いのあと、ベルディンとわしとであの場所をくまなく捜したんだ」老人は眉間に縦じわを寄せて行ったりきたりしはじめた。「ザンドラマスはあそこでなにをしようっていうんだ? あれはただの空き家なんだ」
「『いにしえの書』になにか答えが見つかるんじゃないですか?」シルクがほのめかした。
ベルガラスは歩くのをやめてシルクを見つめた。
「いけね、その部分をまだ伝えてませんでしたね」小男は言った。「シラディスはあなたにその書を与えるようヴァードに命じたんですよ。ヴァードはあまり気乗りしないようだったが、シラディスがどうしてもと言い張ったんです」
ベルガラスの両手がふるえだし、かれははた目にもわかるほどのたいへんな努力をはらって自分を抑えた。
「重要なことなんですか?」シルクは好奇心まるだしでたずねた。
「すると、それだったんだな!」老人は叫んだ。「わしらをここへ連れてきた裏に、なにか理由があるにちがいないと思っていたんだ」
「『いにしえの書』ってなんですの、ベルガラス?」セ・ネドラがたずねた。
「『マロリーの福音書』のひとつでな――ケルの予言者たちの聖なる書物なのだ。どうやら、わしらがここへ導かれてきたのは、その本をわしの手に渡すためだったらしい」
「おれにはなんだかよくわかりませんね」シルクは身震いした。「体を洗ってこようや、ガリオン。全身ずぶぬれだ」
「どうしてそんなにびしょぬれなの?」ヴェルヴェットがきいた。
「草むらをはいずりまわってたんだ」
「説明にはなりますわね」
「それをやらないと気がすまないのか、リセル?」
「それって?」
「なんでもない。行こう、ガリオン」
「リセルの何にそんなにいらいらしてるんだい?」家の奥へつづく廊下を歩きながら、ガリオンはたずねた。
「本当はよくわからんのさ」シルクは答えた。「リセルがしょっちゅうおれを笑っているような気がするんだ――それと、なにかおれに内緒でたくらんでいるような気がね。なんだか知らないが、彼女はおれをひどく神経質な気持ちにさせるんだよ」
体をふいて清潔な服に着替えたあと、ふたりが暖炉の燃える暖かい主室に戻ると、トスが帰ってきていた。ドアの近くの腰かけに無表情にすわって、ばかでかい両手を膝においている。ガリオンが空き地で見た苦悩の表情はあとかたもなく、いまのトスはこれまで同様の謎めいた顔つきをしていた。
ベルガラスは大きな革表紙の本を持って暖炉のそばにすわり、火明かりで文字を照らしながら熱心に目で文字を追っていた。
「それが例の本ですか?」シルクがたずねた。
「そうよ」ポルガラが答えた。「トスが持ってきてくれたの」
「この旅の苦労に報いるようなことが書いてあってほしいもんだな」
ガリオンとシルクとトスが食事をしているあいだも、ベルガラスはぱりぱり音のするページをめくって『いにしえの書』を辛抱強く読みつづけた。「これを聴くんだ」ベルガラスは咳きばらいすると、声にだして読みはじめた。「『知るがよい、おおわが民よ、終わりなき時の道すべてがふたつに断ち切られていることを――なぜなら天地万物のまさにその中心に不和があるためである。だが、岩の中の星と魂と声は、不和が終わりいっさいがふたたびひとつになる日の到来を告げている。なぜなら、万物そのものがその日がくるのを知っているためである。時の中心でふたつの魂が争いあっている。これらの魂は万物を断ち切ったものの二つの面である。いっさいがひとつになる日、われわれはふたつの魂のいずれかを選ばねばならない。われわれに課せられたその選択は、絶対の善と絶対の悪のいずれかを選ぶものである。われわれが選ぶものが――善であれ悪であれ――この世の終わりまで世界を支配するだろう。だが、どちらが善でどちらが悪か、どうしてわれわれにわかるだろう?
この事実をも見るがよい。世界の、そしてその他のあらゆる世界の岩が分断の中心にあるふたつの石のことをたえずささやいている。かつてこれらの石はひとつであり、それは天地万物の中心にあった。だが、その他のあらゆるものと同様に、石はふたつに割れ、その瞬間をもって石はすべての太陽を破壊する力を持つにいたった。これらの石がふたつながらに見いだされる場所で、まちがいなくふたつの魂のあいだで最期の対決が起きるであろう。その日が訪れるとき、いっさいの分断は終息し、いっさいがふたたびひとつになるであろう――ただ、ふたつの石の不和はたいそう大きいため、それらがひとつになることはありえない。不和が終わる日に、石のひとつは永遠に存在するのをやめ、その日に魂のひとつもまた消えるであろう』」
「〈珠〉はもとはひとつだったその石の半分にすぎないって言うの?」ガリオンは信じられずにたずねた。
「そして残りの半分がサルディオンだろう」ベルガラスは言った。「それならいろいろと説明がつく」
「そのふたつのあいだにつながりがあるなんて、知らなかった」
「わしもだ。だが、つじつまは合うじゃないか? これまでのいっさいに関する問題のすべてが、もとはふたつでひとつだったのだ――ふたつの予言、ふたつの宿命、〈光の子〉と〈闇の子〉――石がふたつなければ成り立たない、そうじゃないか?」
「すると、サルディオンには〈珠〉と同じ威力があるのね」ポルガラが重々しくつけくわえた。
ベルガラスはうなずいた。「〈闇の子〉の手の中にあれば、サルディオンはガリオンが〈珠〉を使ってできることならなんでもやってのけられるのだ――しかもわしらはその限界をまだ試してみたことさえない」
「ザンドラマスをサルディオンに近づけないための動機がちょっと濃くなるだけのことじゃないですか」シルクが言った。
「動機ならもう世界中の動機がわたしにはあるわ」セ・ネドラが悲しげに言った。
ガリオンは翌朝早起きした。セ・ネドラと一緒の部屋を出て主室へ行ってみると、蝋のたれた蝋燭の明かりのなかで、ベルガラスがテーブルに向かって『いにしえの書』を広げていた。
「寝なかったの、おじいさん?」
「ああ? おお――寝なかった。邪魔されずに最後まで読んでしまいたかったんだ」
「なにか役に立つことを見つけたかい?」
「山ほどな、ガリオン。どっさりあった。これでシラディスのしていることがわかったよ」
「シラディスは本当にこれに関わってるの?」
「彼女はそう思っている」ベルガラスは本を閉じて背もたれに寄りかかり、遠くの壁を考え込むように見つめた。「なあ、ここの連中とダラシアのケルにいる連中は、ふたつの予言――宇宙をふたつに分けたふたつの力――のどちらかを選ぶのが自分たちの務めだと思っているんだ――そして、自分たちの選択がこれに永遠にけりをつけるのだと思いこんでいる」
「ただ一度の選択が? それだけ? どっちかひとつを選ぶだけでいいっていうのかい? それでおしまいだっていうの?」
「おおざっぱには、そうなんだ。連中は〈光の子〉と〈闇の子〉が対決するあいだに、その選択をしなければならないと信じている――そしてふたつの石、〈珠〉とサルディオンがその場になければならんとな。歴史をさかのぼってみると、選択をするのはつねに予言者のひとりの務めだったのだ。〈光の子〉と〈闇の子〉が対決するたびに、その特別の予言者がその場に居合わせた。おまえがトラクとクトル・ミシュラクで対決したときも、どこかに予言者がひそんでいたのだろう。とにかく、その務めがついにシラディスに課せられたのだ。彼女はサルディオンがどこにあるか知っているし、今度の対決がいつ行なわれるかも知っている。シラディスはその場にやってくるだろう。すべての条件が整えば、彼女が選択をすることになる」
ガリオンは消えかけた暖炉のそばの椅子にすわりこんだ。「まさかそれを信じてるんじゃないだろう?」
「わからんのだ、ガリオン。わしらは予言の内容をこの目で見届けるために生涯を費やしてきた。ここへたどりつき、この本を手にするまでにははかりしれぬ苦難があったのだ。この謎めいた予言を頭から信じているわけではないが、無視するつもりもない」
「ゲランのことをなにか書いてなかった? ゲランの役割は何なんだろう?」
「確かなことはわからん。いけにえという可能性もある――アガチャクが信じているようにな。あるいは、ザンドラマスがおまえを〈珠〉とともにおびきよせる手段として、誘拐しただけなのかもしれん。〈珠〉とサルディオンが同じ場所でひきあわされるまでは、なにひとつ決着はつかんだろう」
「もはや存在しない場所でか」ガリオンはにがにがしげにつけくわえた。
ベルガラスはいらだたしげだった。「そのくだりがどうも気になってしかたがないんだ。もうちょっとでつかまえられそうなんだが、いつもするっと逃げられてしまう。前に見るか聞くかしているんだが、どこだったのか思いだせない」
ポルガラが部屋にはいってきた。「ふたりとも早起きなのね」
「ガリオンだけさ」ベルガラスは答えた。「わしは寝なかったんだ」
「一晩中起きていたの、おとうさん?」
「そんなところだ。これがわしの待っていたものだと思うんだよ」ベルガラスは目の前の本に片手をのせた。「みんなが起きたらすぐに荷作りして出発の用意だ。そろそろ先へ進まねばならん」
外側のドアに軽いノックがあった。ガリオンは立ち上がって部屋を横切り、ドアをあけた。
夜明けの淡い灰色の光のなかに、ヴァードが立っていた。「お話ししなければならないことがあります」
「どうぞ」ガリオンはドアをあけてささえてやった。
「おはよう、ヴァード」ベルガラスが白い服の男に挨拶した。「この本のことでまだあんたに礼を言っていなかったな」
「それならシラディスにおっしゃってください。わたしたちは彼女に言われてあなたにさしあげたんです。あなたもご友人がたもお発ちになったほうがよさそうですよ。兵隊たちがやってきます」
「マロリー軍か?」
ヴァードはうなずいた。「ラク・ヴァーカトから一隊が動きだしています。おそらく正午前には、この村に到着するでしょう」
「どんな船でもかまわないから貸してもらえないか?」ベルガラスはたずねた。「マロリーへ行く必要があるのだ」
「いまマロリーへ行くのは賢明ではないでしょう。沿岸もマロリーの船隊が巡回しています」
「わたしたちを捜しているのだと思って?」ポルガラがきいた。
「ありうることです、レディ・ポルガラ」ヴァードは認めた。「しかし、ラク・ヴァーカトの司令官は以前にもこうした地方の捜索を命じたことがあります――たいていは、島に隠れているかもしれないマーゴ人を駆り出すためですが。二、三日つつきまわってから、ラク・ヴァーカトの駐屯地に引き上げていくんですよ。今度の遠征がそういうただの周期的捜索なら、徹底的にはやらないだろうし、このあたりに長居はしないはずです。兵隊たちが行ってしまったらすぐにここへ戻ってこられますよ。船はそのときにお貸ししましょう」
「あの森はどのくらい広いんだね?」ベルガラスはヴァードにたずねた。
「そうとう大きな森ですよ、長老どの」
「ふむ。マロリー人は森と相性が悪い。木立の奥へはいってしまえば、かれらをやり過ごすのはさほどむずかしくあるまい」
「しかし、森に住む隠者を避ける必要があります」
「隠者?」
「あわれな狂人ですよ。本当の悪人ではありませんが、いたずら好きで旅人に悪さをするのが好きなんです」
「覚えておこう」ベルガラスは言った。「ガリオン、みんなを起こしてきてくれ。出発の準備だ」
出発の用意がすべて整ったときには、太陽が東の低い丘陵の上に昇っていた。サディがドアの外に首をつきだして、村の上にふりそそぎ港の波にきらめいている明るい日差しを見た。「必要だってときに、霧はどこへ行っちゃったんだろう?」かれは誰にともなく言った。
ベルガラスはあたりを見回した。「マロリーの兵隊たちがここにくるまで、あと四時間ほどある。そのすきにこの場所から遠ざかるんだ」かれはヴァードのほうを向いた。「いろいろ世話になったな」とだけ言った。
「すべての神々がみなさんとともにありますように」銀髪の男は答えた。「さあ、行ってください――急いで」
かれらは馬に乗って村を出、草原を横切って暗い森の入口へ向かった。
「特にめざす方角でもあるんですか?」シルクがベルガラスにきいた。
「方角はそれほど関係ないだろう」老人は答えた。「わしらに必要なのは身をひそめる茂みだけだからな。マロリー人は四方が一マイルぐらいしか見通せないと、不安に陥るんだ。だからこの森もそれほど奥までは捜索しないだろう」
「何が見つかるか見てきますよ」小男は申し出た。馬の向きを変え、北東の方角へ向かおうとしたシルクはいきなり手綱を引いた。木立の中からふたつの人影があらわれた。ひとりは長いゆるやかな衣服を着て頭巾をかぶっており、もうひとりは油断のない目をした大男だった。
「ようこそ、長老ベルガラスどの」頭巾の人影は澄んだ女の声で言った。顔をあげたとき、ガリオンは女が黒い目隠しをしているのを見た。「わたしはオナテル」女はつづけた。「そなたに安全な道を教えるためにここにいるのじゃ」
「助けてくれるとはありがたい、オナテル」
「そなたの道は南にある、ベルガラス。この森を少し行くと、うっそうと草の茂った、古い踏みならされた道が見つかるであろう。その道がそなたを隠れ場へ導いてくれる」
「何が起きるかもう見たの、オナテル?」ポルガラがたずねた。「兵隊たちはこの森を捜索するの?」
「かれらが捜しているのは、そなたとそなたの仲間じゃ、ポルガラ、かれらは島中をしらみつぶしにするが、そなたたちを見つけることはない――だれかがそなたたちの居所を兵隊たちに教えるようなことが起きないかぎり。だが、この森に住む隠者には気をつけるよう。あの男はそなたを試そうとするであろう」そう言うとオナテルは背中を向けて片手を伸ばした。暗がりに立っていた大柄な男が宙をまさぐるその手を取って、女予言者をやさしく森の中へ連れ戻した。
「なんてタイミングがいいの」ヴェルヴェットがつぶやいた。「ちょっとよすぎるんじゃないかしら」
「彼女は嘘はつかないわ、リセル」ポルガラが言った。
「でも、予言者だってまったくの真実を言わなければならないわけじゃないでしょう?」
「えらく疑り深い性格なんだな」シルクが言った。
「用心深いと言ってちょうだい。全然知らない人間がわざわざやってきて助けてくれたら、いつだって少しは神経質な気分になるわ」
「さあ、オナテルの言ったその道を見つけに行こう」ベルガラスは言った。「あとで方角を変えることに決めるにしても、人目につかん場所でやったほうがいい」
かれらは枝を広げた常緑樹の下の薄闇の中へはいっていった。森の地面は頭上の枝から落ちた針葉でこんもりとおおわれ、湿っていた。日光が長い金色の筋になってななめにさし込み、薄闇が朝のかすかに青みがかった色合いを帯びている。ぶあつい壌土が通過する一行の足音をくぐもらせ、かれらはやわらかな静寂の中を馬を進めた。
女予言者が教えた小道は森を一マイルほどはいったところにあった。森の地面より深くへこんでいるようすは、昔は往来がさかんな道であったかのようだ。だがいまは利用されている形跡もなく、雑草がわがもの顔にはびこっていた。
太陽が空に昇り、木立の下の青みがかった影が薄れて、無数の小さな昆虫が光線の中でくるくる回ったり、矢のように飛んだりした。そのとき、いきなりベルガラスが馬の手綱を引いた。
「静かに!」鋭く言った。
ずっとうしろのほうから突き刺さるような吠え声が何度も聞こえた。
「犬かな?」シルクが神経質にうしろを振り返った。「おれたちの匂いを嗅ぎだすために、マロリーのやつらが犬を連れてきたんでしょうかね?」
「犬ではない」ベルガラスが言った。「あれは狼だ」
「狼!」サディが叫んだ。「逃げなくちゃ!」
「興奮するな、サディ」老人は言った。「狼は人間を追いかけたりしない」
「それはどうでしょうかね、ベルガラス」宦官は言った。「ぞっとするような話をいくつか聞いたことがあるんですよ」
「それはあくまでも話にすぎん。わしを信用しろ、狼には詳しいんだ。誇り高い狼は人間を食うことなぞ考えもしないさ。みんなここにいてくれ。狼がなにをしているのかわしが見に行ってくる」ベルガラスは軽々と鞍からとびおりた。
「あんまり馬たちのそばへはこないでよ、おとうさん」ポルガラが忠告した。「馬が狼をどう思ってるか知ってるでしょ」
ベルガラスはぶつくさ言いながら森の奥へ姿を消した。
「なにをしようって言うんです?」サディが不安げにたずねた。
「聞いたってどうせ信じやしないさ」シルクが答えた。
かれらはひんやり湿った森のなかで、かすかな吠え声とときおり木立にこだまする鐘のような遠吠えに耳をすませながら待った。
しばらくたって戻ってきたとき、ベルガラスはぶりぶりしながら悪態をついていた。
「いったいどうしたの、おとうさん?」ポルガラがきいた。
「だれかがいたずらをしているんだ」老人は怒って言い返した。「あそこには狼なんぞいやしない」
「ベルガラス」サディが口を出した。「しかし声が聞こえるじゃありませんか。この三十分のあいだ、わたしたちの跡をつけて吠えつづけているんですよ」
「だからあっちにあるのはそれだけなんだ――声だけさ。ここから数マイルの範囲内には狼一匹おらん」
「じゃあ、あの声は何なんです?」
「言っただろう。だれかがふざけてるのさ。このまま進もう――しっかり目をあけてな」
かれらはいま、用心深く馬を進めていた。実態のない吠え声がかれらの背後の森にあふれていた。すると突然前方のどこからか甲高い吠え声がした。
「ありゃなんだ?」ダーニクが叫んで斧に手を伸ばした。
「よさんか」ベルガラスがぴしゃりと言った。「知らん顔をしてるんだ。狼同様ただの目くらましさ」
だが前方に広がる木立の下の暗がりで、なにかが前後に揺れている――灰色でとほうもなく大きななにかが。
「あそこ! あれはなに?」セ・ネドラが金切り声をあげた。
「象よ、ディア」ポルガラが落ち着きはらって教えた。「マロリーの東海岸のガンダハールの密林には象が棲んでいるの」
「じゃ、どうやってここへきたの?」
「きやしないわ。あれはただの幻よ。おとうさんの言ったとおりだわ。この森にいるだれかはずいぶんとひねくれたユーモアの持ち主らしいわね」
「わしがこのくだらんおふざけをどう思っているか、その道化者にはっきり思い知らせてやる」
「だめよ、おとうさん」ポルガラは首をふった。「わたしにまかせたほうが無難だと思うわ。いらだっていると、やりすぎてしまうことがあるでしょう。わたしが面倒を見るわ」
「ポルガラ――」ベルガラスは抗議しようとした。
「なんなの、おとうさん?」ポルガラの視線はとりつく島もなかった。
老人は努力のすえに自分を抑えた。「よかろう、ポル、だがあぶない真似はするなよ。この変人はまだ他のいたずらを隠し持っているかもしれん」
「わたしが注意を怠ったことがあって、おとうさん」ポルガラは馬を歩かせて一行から数ヤード前に出た。「ほんとにすてきな象だこと」前方の暗がりで相手を脅かすように体を揺すっている巨大な灰色のものを見すえながら、森の中に向かって声をはりあげた。「まだ他にわたしたちに見せたいものがあるの?」
長い間があった。
「あんまり感心していないようだな」ざらざらした声がどこかすぐ近くからうなるように言った。
「まあね、あなたいくつかヘマをやってるわ。たとえば、耳は小さすぎるし、尻尾が長すぎるわよ」
「だが足と牙には文句あるまい」森の中の声がかみついた。「見りゃわかるだろうがな」
灰色の姿は巨大な鼻をもちあげてうなり声をあげたかと思うと、次の瞬間、ポルガラめがけてまっしぐらに突っ込んできた。
「退屈だこと」ポルガラは片手で投げやりともみえるジェスチャーをした。
象は向かってくる途中で消えた。
「どう?」
一本の木のうしろから人影があらわれた。痩せた背の高い男で、髪はくしゃくしゃ、極端に長いあごひげには小枝や藁がくっついていた。薄汚いうわっぱりを着て、魚の腹みたいになまっちろい脚はほうぼうに傷があり、膝にはこぶができている。男は片手で細長い杖をついていた。
「おまえには力があるらしいな、女」脅しをこめた声で男は言った。
「多少ね」ポルガラは落ち着きはらって認めた。「あなたが噂に聞いた隠者ね」
狡猾そうな表情が目に浮かんだ。「かもしれん。おまえは何者だ?」
「訪問者ということにしておきましょう」
「訪問者などきてもらいたくない。これはおれの森だ。ひとりにしといてもらいたいね」
「ずいぶん失礼なのね。がまんするということを学ばなくちゃ」
男の顔がいきなりゆがんで、狂気じみた渋面になった。「おれに指図するんじゃない!」男は金切り声をあげた。「おれは神なんだぞ!」
「まずありえないことだわ」
「おれの不快感をとくと感じるがいい!」男はわめいた。片手に持っている杖を持ち上げると、その先端から白熱した火花が散った。だしぬけに、どこからともなく化物が躍りでてポルガラに襲いかかろうとした。鱗におおわれた体、尖った牙でぎっしりの大きくあけた口、大きな前足には針のように鋭い爪が生えている。
ポルガラがてのひらを外に向けて片手をあげると、化物はぴたりと動きをとめて空中に静止した。「前よりちょっとよくなったわ」ポルガラは批評した。「これは本物らしくさえ見えるもの」
「そいつを放せ!」隠者は憤怒にかられてぴょんぴょんとびはねながら、ポルガラにむかってわめいた。
「本当にそうしてほしいの?」
「放せ! 放せ! 放せ!」狂ったようにはねまわりながら、声がだんだん甲高くなっていった。
「そんなに言うなら」ポルガラは答えた。がんじがらめの化物は空中でゆっくりと向きを変え、地面に落下した。うなりとともに、化物はおどろいている隠者に突進した。
やせこけた男はひるみながら杖を前に突き出した。化物は忽然と消えた。
「化物にはいつも気をつけなくちゃね」ポルガラは忠告した。「いつ向かってくるかわからないわよ」
狂気の宿った目が細まり、男は杖でポルガラに狙いをつけた。白熱した火の玉がその先端からつぎつぎに飛び出して、ポルガラめがけて宙を飛んだ。
ポルガラがまた片手をあげると、くすぶる火の玉ははねかえって森の中に飛び込んだ。そのひとつをちらりと見たガリオンはそれが本当に燃えていて、森の地面につもった針葉から煙がたちのぼるのに気づいた。ガリオンが馬の脇腹をかかとで蹴るのと同時に、ダーニクも棍棒をふりまわしながら馬に拍車をかけた。
「じっとしてろ、ふたりとも!」ベルガラスが怒鳴った。「ポルは自分の面倒ぐらい見られる」
「でも、おじいさん」ガリオンは反抗した。「あれは本物の火だったんだ」
「わしの言うとおりにしろ、ガリオン。いまおまえたちがあそこへ飛び出していったりしたら、ポルのバランスが崩れてしまうんだ」
「どうしてそんなに気むずかしいの」ポルガラは彼女をにらみつけている狂人にたずねた。「わたしたちはこの森を通っているだけじゃないの」
「これはおれの森だ!」男は絶叫した。「おれの森だ! おれの森だ! おれの森だ!」またも隠者は怒りにまかせてはねまわり、両のこぶしをポルガラにむかってふりまわした。
「聞き分けがないのね」
隠者はおどろいた悲鳴をあげてうしろにとびのいた。目の前の地面から緑色の火と、あざやかな紫の煙が吹き出したのだ。
「お好きな色だったかしら?」ポルガラはきいた。「わたしはもうちょっとバラエティのある色がいいと思うこともあるけれど、いかが?」
「ポル」ベルガラスがやきもきして言った。「遊ぶのはやめたらどうなんだ?」
「これは遊びじゃないわ、おとうさん」ポルガラはきっぱり答えた。「これは教育よ」
隠者の数ヤードうしろに立っていた木がいきなり前のめりになって、頑丈な枝で隠者をからめとり、ふたたびまっすぐに立った。男はもがきながら宙にもちあげられた。
「これでもまだ十分じゃないの?」ポルガラは驚愕している男を見上げた。男は胴に巻きついた枝から死に物狂いで身をほどこうとしている。「はやく決めたほうがいいわよ。地面からずいぶん高いところにいるんだし、あなたをそこにぶらさげておくのにわたしあきてきたんだから」
ののしり声とともに隠者は身をもぎはなし、木のそばの壌土の上にどさりところげ落ちた。
「怪我しなかった?」ポルガラは熱心にたずねた。
男はわめきながらポルガラに真っ黒なうねりを投げつけた。
平然と馬にすわったまま、ポルガラが一心に青い光をつむぎだすと、暗黒は押し返された。
ふたたび男の目に狡猾な狂気の色が忍び込んだ。ガリオンはばらばらになったうねりを感じた。一度に一部分ずつ、狂った男の体が膨張しはじめ、どんどん大きくなりだした。その顔はいまや完全に狂気にとりつかれている。男は巨大なこぶしを固めてそばにあった木を一撃し、ばらばらにした。そしてかがみこんで長い枝をひろいあげ、ふたつにへし折った。短いほうを捨てると、男は残った長い枝をふりまわしながらポルガラにつめよった。
「ポル!」ベルガラスが急に警戒の叫びをあげた。「そいつに気をつけろ!」
「だいじょうぶよ、おとうさん」ポルガラは身の丈十フィートの狂人に向き合った。「こうなったらもうあとにはひけないわ」彼女は男に言った。「あなたが逃げ方を知っていることを祈るわ」ポルガラは奇妙な身振りをした。
ふたりの間に出現した狼はありえないほど大きかった――馬の一倍半はあるだろう――そしてそのうなり声は雷のようにとどろいた。
「おまえの幻なんかこわくないぜ、女」そびえたつ隠者はわめいた。「おれは神だ、恐れるものはなにもない」
狼が男にかみついた。歯が肩に食い込んだ。男は悲鳴をあげ、枝を落としてあとずさった。
「あっちへ行け!」うなりをあげる狼に叫んだ。
獣は牙をむきだしてしゃがみこんだ。
「あっちへ行け!」隠者はまた叫んだ。かれは両手を宙でばたばた動かした。狂った男が狼を消そうとありったけの力をかき集めたとき、ガリオンはふたたびあのばらばらになったうねりを感じた。
「いますぐ逃げることをおすすめするわ」ポルガラがほのめかした。「その狼は千年もなにも食べていないから、それはそれはおなかをすかせているのよ」
隠者の踏んばりもそこまでだった。男は身をひるがえしてしゃにむに森の奥へ逃げ込んだ。青白いやせた脚をめちゃくちゃに動かし、髪とひげをうしろになびかせて。狼は男のかかとにかみつこうと、おそろしげなうなりをあげて、ゆったりと男を追跡にかかった。
「楽しい一日を」ポルガラは隠者のうしろ姿に呼びかけた。
[#改ページ]
14[#「14」は縦中横]
逃げていく隠者を見送るポルガラの表情は、不可解だった。ようやく彼女はためいきをつき、つぶやいた。「あわれな男」
「狼はかれをつかまえるかしら?」セ・ネドラが小さな声でたずねた。
「狼? まさか、ディア。あれはただの幻だったのよ」
「でも、かみついたわ。血が見えたもの」
「ただの小細工よ、セ・ネドラ」
「それじゃ、どうしてあわれな男≠ニ言ったの?」
「完全に狂ってしまっているからよ。あの男の意識にはありとあらゆるたぐいの幻がはびこっているの」
「ああいうのはままあることだよ、ポルガラ」ベルガラスが言った。「先へ急こう。日が沈まないうちに、この森をもっと奥まで入りたい」
森に分け入りながら、ガリオンは馬の速度を落としてベルガラスの隣りに並んだ。「あの男だけど、一時期グロリムだったことがあると思う?」
「どうしてだ?」
「その――そんな気がしてさ――」ガリオンはうまく言葉に言い現わそうとした。「つまり、世界には魔術師のグループがふたつあるだろう――グロリムとぼくたちだ。あの男はぼくたちの仲間じゃなかった、だよね?」
「なんともおもしろい意見だな」ベルガラスは言った。「だれでも潜在能力としての魔力を持っているんだ。それはどんなところにも現われうるし、事実現われる。文化が異なれば、方向も異なるが、すべて関連があるんだ――魔法、妖術、魔術、予言者のもつ特異な才能さえな。すべて同じところから出たものだし、基本的にはみな同じものなんだ。現われかたが違うだけさ」
「知らなかったよ」
「じゃ、きょうはひとつ学んだわけだ。なんにも学ばないで一日を過ごしてしまうのはもったいないぞ」
秋の太陽はまばゆいほどだったが、北の地平線上に沈もうとしていた。もうすぐ冬がやってくる。ガリオンはここが季節の逆行する世界の見知らぬ場所であることをまたしても思いだした。ファルドー農園では、いまは初夏のはずだ。畑が耕されて穀物が植えられ、日の長い暖かな日々がつづいているだろう。だが、この世界の底では、季節は正反対だった。アラガの砂漠にいた短い時期をのぞくと、今年はまったく夏に出会わなかったことに気づいてびっくりすると同時に、なぜか、そのことがひどく残念に思えた。
一行はこの一時間余り、島の背骨を形成する丘陵の低い連なりを登っていた。地形はとぎれがちになり、木の多い小峡谷や小谷がたえず森を横切った。
「山岳地帯はきらいなんですよ」サディがこぼして、いきなり木立の中からあらわれた断崖を見やった。「凹凸の激しい地形はひどく不便ですからね」
「マロリー軍にとっても厄介だろうよ」シルクが指摘した。
「そりゃまあそうですが、やっぱり丘や谷は好きになれませんね。なぜだか、ひどく不自然に見えるんですよ。平坦な湿地帯ならいつでも歓迎ですがね」
「すぐ前に見えるあの小谷を調べてきます」ダーニクが言った。「そろそろ日が暮れるし、夜を過ごす安全な場所が必要ですから」彼はゆるい駆け足で馬を狭い谷道へ進め、河口から威勢よく流れている小川を渡って上流に姿を消した。
「きょうはどのくらいきたとお思いですか?」ヴェルヴェットがたずねた。
「六リーグか八リーグだろう」ベルガラスが答えた。「ここまで深くはいれば、気づかれる心配はあるまい――マロリー軍がこの捜索を真剣にやるつもりがなければな」
「あるいはわたしたちが偶然出会ったあの女予言者が、わたしたちがここにいることをたまたましゃべったりしなければ、ですわね」ヴェルヴェットはつけくわえた。
「あの人たちをどうしてそんなに疑うの?」セ・ネドラがきいた。
「はっきりした理由があるわけじゃないんです」金髪の娘は答えた。「でも、ああいう人たちの指示で、一定の方角へきたりすると、そのたびに落ち着かない気分になりますわ。予言者が中立であるはずなら、どうしてわざわざわたしたちを助けたりするかしら?」
「学園で受けた訓練のせいなんだよ、セ・ネドラ」シルクが言った。「懐疑主義はあそこの主要学問のひとつなんだ」
「あなたはあの女予言者を信用するの、ケルダー?」ヴェルヴェットがちくりと言った。
「もちろん、しないさ――おれも学園出身だからな」
ダーニクが満足げな顔で小谷から戻ってきた。「いいところです。安全だし、人目につかない」
「見に行こう」ベルガラスが言った。
かれらは鍛冶屋のあとから小谷を進んだ。横で小川が水しぶきをあげている。数百ヤードほど行くと、小谷は急角度で左に曲がった。さらに行くとねじれたようにふたたび右に曲がり、樹木におおわれたくぼ地が広がった。一行が上流へとたどっていた小川がそのくぼ地の上にそびえるけわしい石灰石の絶壁の端からこぼれ落ち、霧のようにこまかいしぶきとなって小谷の上端にある池に注いでいる。
「とてもいいわ、ダーニク」ポルガラが夫をほめた。「あの池にしても、ここを選んだこととはなんの関係もないんでしょう?」
「それがその――」
ポルガラは豊かにひびく温かい笑い声をあげて、ちょっと身を乗り出しダーニクに軽くキスした。「いいのよ、ダーニク。でもまず隠れ場が必要だわ。その用意がすんだら、池に魚がいるかどうか見てごらんなさいな」
「ああ、いるとも、ポル」ダーニクは力をこめて言った。「一匹はねるのが見えたんだ」かれはためらった。「つまり――その、通りかかったときにたまたま気づいたんだよ、それだけなんだ」
「もちろんだわ、ディア」
ダーニクはまるで小学校の生徒みたいに、きまり悪げに頭をたれたが、ガリオンは鍛冶屋の口元にかすかな微笑が浮かんで消えるのを見逃さなかった。ガリオンはこの純朴で真正直な友だちが、ときどき見かけによらぬ悪知恵を働かせるのに気づいて、ほとんどショックに近い気分を味わった。ポルガラが夫のこういうたわいのないごまかしを見抜くのが大好きなので、ダーニクはわざとすぐに見抜かれるように工夫をこらすことがよくあるのだ――ただ妻を喜ばせるだけの目的で。
かれらは池のふちからほど遠からぬところにある木立の下にテントを張った。ダーニクとトスがテントを建てるあいだ、例によってたきぎを集める雑用はガリオンとエリオンドに回ってきた。さらに例によって、シルクとベルガラスはいっさいの仕事が完了するまで姿をくらました。サディはヴェルヴェットとセ・ネドラといっしょにすわっておしゃべりをしていたが、その甲高い声はふたりの女性の声に勝るとも劣らず女っぽかった。
ポルガラが夕食の支度にとりかかると、ダーニクはテントの周囲を見回した。
「そろそろいいかな」
「ええ、ディア」ポルガラが同意した。
「ほかになにか必要なものはないかい?」
「いいえ、ディア」
「そうか、それじゃ――」ダーニクは池のほうへちらと目をくれた。
「いってらっしゃいな、ダーニク。食事ができたら忘れずに戻ってきてね」
「くるかい、トス?」ダーニクは友だちにたずねた。
一行が隠れているくぼ地が夕闇におおわれ、頭上のビロードのような空に星が出ると、かれらは焚火のまわりに集まって軽くあぶったラムとゆで野菜、黒パンの夕食を食べた。浜の近くの村を出てくるときに、ヴァードがぜひにと言って持たせてくれた食料の一部だ。
「王の食卓にも匹敵する食事ですな、レディ・ポルガラ」サディがうしろに手をついてのけぞりながら言った。
「ほんと」ガリオンはつぶやいた。
サディは笑った。「いや、ついつい忘れてしまうな。あなたはじつに気どらないお人だ、ベルガリオン。もうちょっといばっていれば、あなたが王であることにみんなもっと注日するかもしれませんよ」
「まったくよね、サディ」セ・ネドラが言った。
「さしあたって、それはあまりいい考えじゃないと思うよ」ガリオンはふたりに言った。「いまは、どんなたぐいの注目だろうと、人目を引きたくないんだ」
さっきからずっとすわっていたシルクが立ち上がった。
「どこへ行くの、ケルダー?」ヴェルヴェットがたずねた。
「その辺を見てくる。戻ったときに一切合財報告するよ。そうすりゃジャヴェリンに出す報告書に役立つだろう」
「この状況が全然わかってないのね、ケルダー王子」
「あとをつけ回されるのはごめんだ」
「あなたの幸福を願う友人としての気づかいだと思ってほしいわ。そう考えれば、つけ回されてるとは言えないでしょう?」
「結局は同じことさ、リセル」
「そりゃそうだけど、そう思えばそれほどいやな感じじゃなくなってくるんじゃない?」
「実に言葉巧みだな」
「我ながらわたしもそう思ったわ。むこうで迷子にならないようにね」
シルクはぶつくさ言いながら闇の中へ見えなくなった。
「兵隊たちはいつまで捜索をつづけるかな?」ガリオンはたずねた。
ベルガラスがひげの生えたあごをぼんやりと掻きながら答えた。「はっきりとはわからんな。マロリー人はマーゴ人ほど頑固でしつこくはないが、相当権力のある者から命令が出ているのだとすると、少なくとも徹底捜索の活動だけでも完了するまではあきらめんだろう」
「てことは、数日?」
「最低でな」
「そのあいだに、ザンドラマスは息子と一緒にどんどん遠くへ行っちまうよ」
「やむをえんだろう」
「奴隷商人の服装でごまかせないでしょうかね、ベルガラス?」サディがきいた。
「それはやめたほうがいい。マーゴ兵なら何年もここらをニーサの奴隷商人が動きまわっているのを見ているから、一顧だにしないだろうが、マロリー兵はもっと機転がきくだろう――おまけに、わしらは連中の捜索の目的を正確に知っているわけじゃない。ことによると、ほかならぬ奴隷商人の一行を探しているのかもしれんからな」
シルクが音もなく焚火に戻ってきた。「おれたちだけじゃないぞ。あっちに焚火がいくつも見えた」かれは北東のほうを身振りで示した。
「どのくらい近いんだ?」ガリオンはせきこんでたずねた。
「数リーグほどだ。あの尾根の上にいたんだが、かなり遠くまで見渡せる。火はそうとう広範囲に広がってる」
「マロリー軍だろうか?」ダーニクがたずねた。
「たぶんな。森をしらみつぶしにしてる」
「どうするの、おとうさん?」ポルガラがきいた。
「夜明けまで判断は待つとしよう」老人は答えた。「やつらがおおざっぱな捜索をしているだけなら、じっとしていればすむ。そうでないなら、なにかほかの手を考えなけりゃならん。みんな少し眠ったほうがいいぞ。明日は疲れる一日になりそうだ」
翌朝、シルクは日の出前に起きた。他のみんなが起きて明け方のまだ弱々しい光の中で火のまわりに集まってきたとき、尾根をおりて戻ってきた。「やってくるぞ」シルクは知らせた。「森をくまなく捜しまわっている。何人かがこの小谷へくるのはまちがいない」
ベルガラスが立ち上がった。「だれかその火を消せ。煙で場所を教えるようなものだ」
ダーニクが料理用の火にすばやくシャベルで泥をかけると、トスが立ち上がってくぼ地の向こうをじっと見た。次にかれはベルガラスの肩をぽんぽんとたたき、指さした。
「何と言ったんだ、ダーニク?」老人がきいた。
鍛冶屋とその雲をつくような友だちはなにやらあいまいなジェスチャーをかわした。
「池の向こう側にイバラの茂みがあると言ってます」ダーニクが通訳した。「そのうしろは断崖になっているので、茂みの裏側へ回りこめば、うまい隠れ場が見つかるかもしれないそうです」
「見てきてくれ」ベルガラスは短く言った。「そのあいだにこっちはここに人間のいた形跡を消しておく」
約十五分でかれらはテントをたたみ、この人目につかない場所で夜を過ごした者がいることを兵隊たちに気どられないように、ひとつ残らず足跡を消した。シルクが油断なく最後の点検をしているとき、ダーニクとトスが戻ってきた。「隠れるにはいい場所ですよ」鍛冶屋は報告した。「茂みのまんなかが広くあいているんです。馬に乗って用心深くそこへはいれば、足跡ひとつ残さずにすむでしょう」
「あそこからはどうなんだ?」ガリオンは断崖の頭上を指さした。
「イバラを上にかぶせれば見つからない」ダーニクが答えた。「そう長くはかからないだろう」かれはシルクを見た。「あと時間はどのくらいあるかな? 兵隊たちはどの辺にいる?」
「ここまで一時間はかかるね」
「じゃあ、時間はたっぷりある」
「よし」ベルガラスが言った。「そこへ行くとしよう。いずれにせよ、わしは逃げるより隠れたほうがいい」
茂みのまんなかへ馬たちを連れて行くには、イバラを左右にかきわけなくてはならなかった。ガリオンとシルクがかきわけたイバラを注意して元どおりにし、隠れる場所へ至る道を隠すと、今度はダーニクとトスが長い棘だらけのつるを切って中央の開けた場所をおおう屋根を作った。その作業の途中、トスがふいに手を止め、なにかに耳を傾けているようにうつろな目つきになった。妙にやる気の失せた表情になり、かれはためいきをついた。
「どうした、トス?」ダーニクがきいた。
巨人は肩をすくめて仕事に戻った。
「おじいさん」ガリオンは言った。「兵隊にグロリムがまじっていたら、心をつかってぼくたちを捜そうとするんじゃないかな?」
「グロリムがいる見込みはまずないよ、ガリオン」シルクが言った。「これはそんな大規模な捜索隊じゃないし、教会と軍はマロリーじゃあまり仲がよくないんだ」
「やってくるわ、おとうさん」ポルガラが言った。
「どのへんにいる?」
「あと一マイルほどよ」
「茂みのはじまで出ようや」シルクがガリオンに言った。「目を離したくないんだ」シルクは馬からおりてちくちくするイバラの根元のあいだを這うように進みはじめた。
数ヤードも行くと、ガリオンは選りすぐりの悪態をつきはじめた。どっちへ体をひねっても、鋭い棘にそこらじゅうをちくちく刺されてしまう。
「せっかくの悪態の邪魔をして悪いがね」シルクがささやいた。「しっかり口をとじといたほうがいいぞ」
「なにか見えるか?」ガリオンはささやき返した。
「まだだ、だが小谷の入口でやつらがやかましい音をたててるのが聞こえるだろ。マロリー人はこっそり進むのが苦手なんだ」
はるか下の小谷のほうから、数人の話し声がかすかに聞こえてきた。よじれた岸壁にはねかえってこだまするので、ゆがんだ音がいきなり耳にとびこんでくる。やがて威勢よく流れる小川のわきの岩場をひづめがたたく音がして、マロリー軍が細い道の捜索を開始した。
十二人あまりの編成隊だ。トレードマークの赤いチュニックを着て、ぎごちなく馬に乗っている。鞍の上ではあまり居心地がよくないらしい。
「おれたちが捜しているやつらだが、捜す理由をだれか言ったか?」ひとりがおもしろくなさそうにたずねた。
「おまえ、軍にはもう長いんだからな、ブレク、そのくらいのことはわかってるだろう」連れのひとりが答えた。「理由なんか教えてくれるわけないさ。土官がとびはねろと言ったら、理由なんか聞かないで、ただこう言うんだ、どれくらい遠くまででありますか=v
「へっ」ブレクが唾を吐いた。「士官連中は仕事らしい仕事もしないで、一番うまいところをそっくり持っていきやがる。おまえやおれみたいな一兵卒がいつまでも言うことを聞くと思ったらおおまちがいだぜ。そのときになったら、ごりっぱな将軍や大尉たちめ、せいぜいあわてりゃいいんだ」
「おまえの言ってるのは上官抵抗だぞ、ブレク」連れが神経質にあたりを見回した。「大尉に聞かれたら、その場ではりつけにされちまうぜ」
ブレクは陰気に毒づいた。「ふん、上官どもが、気をつけたほうがいいぜ。人間、こづきまわされるのには限度ってものがあるんだ」
赤い服の兵隊たちはガリオンたちが慎重に形跡を消した野営地をまっすぐつっきって、池のふちづたいに馬を進めた。
「軍曹」ブレクが不平たらたらで、先頭を行くがっしりした男に声をかけた。「そろそろ停止して休む時間じゃないですか?」
「ブレク」軍曹は答えた。「近いうちに、起きること起きることかたっぱしから文句をつけるおまえの繰言を聞かずに一日を過ごしたいもんだな」
「そんな言い方ってないでしょう」ブレクは逆らった。「おれは命令にしたがってますよ、そうでしょう?」
「だが、文句が多いんだよ、ブレク。なんでもかんでもおまえがぐだぐだ泣き言を言うのにはもううんざりなんだ。今度口を開いたら、歯をへし折ってやる」
「いま言ったことを大尉に話しますぜ」ブレクは脅した。「あんたがおれたちを殴ることについて、大尉がなんて言ってるか聞いたでしょう」
「どうやって大尉に理解させるつもりだよ、ブレク?」軍曹は不吉な口調でたずねた。「歯がなけりゃ、人間はもごもご言うしかないんだぜ、さあ、きさまの馬に水をやって、きさまはだまってろ」
そのとき、いかめしい顔つきの鉄灰色の髪の男がやせ馬にまたがって緩いだく足で小谷からくぼ地にはいってきた。「形跡はあるか?」男はぶっきらぼうに質問した。
軍曹は敬礼した。「なにもありません、大尉」と報告した。
大尉はあたりを一瞥して、「あの茂みは調べたのか?」とガリオンたちが隠れている場所のほうを指さした。
「調べようとしたのでありますが、足跡がありませんので」軍曹は答えた。
「足跡など消せる。部下に見に行かせろ」
「ただちにそうします、大尉」
兵隊たちが茂みに馬を近づけると、大尉は馬をおりて水を飲ませに池まで馬を連れていった。
「将軍はわれわれの捜している連中を捕らえたい理由について、なにか言われましたか?」軍曹がやはり馬をおりながらたずねた。
「おまえには関係ないことだ、軍曹」
兵隊たちが茂みの回りに集まって、イバラをのぞきこんだ。
「馬をおりるように言え、軍曹」大尉はうんざりしたように言った。「その茂みを徹底的に捜索したい。村にいたあの銀髪の男が、われわれの捜し求める連中は森のこのあたりにいるはずだと言ったんだ」
ガリオンははっと息をのんだ。「ヴァードだ!」シルクにささやいた。「あいつがぼくたちの居場所を教えたんだ」
「そういうことらしいな」シルクが険しい顔でささやき返した。「茂みのもうちょっと奥まで戻ろう。こいつら、かなり真剣に捜すらしいぞ」
「茂みは棘だらけですよ、大尉」少し前進したブレクが怒鳴り返した。「まるではいりこめませんよ」
「槍を使え」大尉は命じた。「つつきまわって、飛び出す者がいないかどうか見るんだ」
マロリー軍は鞍に結びつけていた槍をほどいて、茂みに突き刺しはじめた。
「頭を低くしてろ」シルクはささやいた。
ガリオンはたくさんの棘が太腿に刺さるのを感じてひるみながら、地面に這いつくばった。
「奥までイバラですよ、大尉」しばらく槍をつきたてたあと、ブレクが怒鳴った。「こんなところに入れるやつなどいませんよ――馬ごとじゃとうていむりだ」
「ようし」大尉は言った。「馬に乗ってこっちへ戻ってこい。次の小谷を捜してみる」
ガリオンはとめていた息をそうっと吐き出した。「近かったな」声を殺してシルクに言った。
「近いのなんのって。ヴァードと話しあうことになりそうだ」
「なんであんなふうにぼくたちを裏切ったんだろう?」
「かれに会ったらそいつも聞いてみるさ」
兵隊たちが池のそばまで行くと、大尉は鞍に飛び乗った。「よし、軍曹、部下を並ばせろ、先へ進むぞ」
そのとき、大尉のまん前の空中が奇妙な微光を放ち、裾の長い服に頭巾をつけたシラディスがあらわれた。
大尉の馬がびっくりして後足で立ち上がり、大尉は振り落とされないように鞍にしがみついた。「なにやつだ! どこからきた?」
「いまはそのようなことを話しているときではない」シラディスは答えた。「そなたの捜索を助けるために参ったのじゃ」
「気をつけたほうがいいですぜ、大尉!」ブレクが警告するように大声をはりあげた。「そいつはダラシアの魔女だ。油断してると呪いをかけられます」
「だまってろ、ブレク」軍曹がぴしゃりと言った。
「説明しろ、女」大尉は尊大な口調を崩さなかった。「その最後に言ったのは、どういう意味だ?」
シラディスは体の向きを変えて、イバラの茂みに向き合った。片手をあげ、指さした。「そなたの求める者たちはあそこに隠れている」
ガリオンの耳に、後方のどこかでセ・ネドラが息をのむ音が聞こえた。
「あそこは捜したばかりだぞ」ブレクが抗議した。「あの茂みにはだれもいないんだ」
「では、そなたの目が節穴なのじゃ」
大尉の顔がひややかになった。「おまえにかかずらっている暇はない。おれはこの目で部下たちの捜索を見ていたんだ」大尉はこずるそうに目を細めて、問いつめた。「ケルの女予言者が、クトル・マーゴスのこんなところでなにをしている? おまえたち予言者に用はない。さっさと帰って、気のふれた幻覚でも見ているがいい。くちばしの黄色い魔女のたわごとにつきあっている暇はないんだ」
「ではわたしの言葉が真実であることを証明して見せねばならない」シラディスは頭をもたげ、みじろぎもせずに立った。
腹ばいになって隠れているガリオンとシルクのうしろのほうから騒々しい音がして、巨人のトスが女主人の無言の呼びかけに応じ、イバラの茂みからいきなり飛び出してきた。その腕にはもがくセ・ネドラをかかえている。
大尉は目をみはった。
「ありゃやつらのひとりですぜ、大尉!」ブレクが叫んだ。「あのでかいのは大尉が捜索を命じた男です――それに赤毛のあまっこも!」
「言ったとおりであろう。あそこで他の者も捜せばよいのじゃ」それだけ言うと、シラディスは消えた。
「あのふたりをひっとらえろ!」軍曹が命令し、数人の部下が鞍から飛び降りて武器をかまえ、まだもがいているセ・ネドラとトスを取り囲んだ。
「どうしよう?」ガリオンはシルクにささやいた。「セ・ネドラがつかまる」
「おれにまかせろ」
「じゃ、行くぞ」ガリオンは剣に手を伸ばした。
「頭を使え」小男が叱りつけた。「あそこへ走りでたら、セ・ネドラがもっと危ない目にあうだけだ」
「ガリオン――シルク」ベルガラスの押し殺した声が聞こえてきた。「なにごとだ?」
ガリオンが身をよじってうしろを見ると、祖父がイバラのすきまからのぞいていた。「トスとセ・ネドラがつかまった」声を落として知らせた。「シラディスの差金なんだ。ぼくたちの居所をシラディスがマロリー兵たちに教えたんだ」
ベルガラスの顔が石のように無表情になり、ありったけの悪態をついているのが口の動きからわかった。
マロリーの大尉は軍曹と残りの部下を従えて茂みに接近した。「おまえたち、そこから出てきたほうが身のためだぞ」大尉はきびきびと命令した。「仲間のふたりはすでにつかまえた。そこにいるのはわかってるんだ」
だれも答えなかった。
「さあ、いいかげんにしろ。おとなしく出てこい。出てこないと、もっと兵を呼びにやって剣でこの茂みを切り倒すぞ。さっきのふたりはまだ無傷だ、いま出てくるなら、おまえたちにも危害を加えないと約束する。武器の携帯も認めよう――信頼のしるしとしてな」
ガリオンは茂みの奥の中央でひそひそと相談する声を聞いた。
「よかろう、大尉」ベルガラスが不承ぶしょうといった口ぶりで叫んだ。「部下たちに手出しさせるな。いまから出ていく。ガリオン、おまえとシルクもだ」
「なんでおめおめ降参なんかしたんだ?」ガリオンはたずねた。「ぼくたちがここに隠れていれば、こっそり茂みから出てみんなを助けてやれるのに」
「マロリー軍はおれたちが何人いるか知ってるのさ」シルクは答えた。「さしあたっては大尉のほうが優位に立ってるんだ。行こう」シルクは茂みの出口へ這って進みはじめた。
ガリオンは毒づいてあとにつづいた。
みんなは茂みの奥から現われて、マロリーの士官のほうへ歩きだした。だがダーニクは怒りに顔をどす黒くしてみんなを追い越し、大股に斜面をおりてトスの前に立った。「これがおまえの考える友情なのか?」と問いつめた。「これがわたしたちの好意に報いるおまえのやりかたなのか?」
トスは悲しそうな顔になったが、答えるそぶりも、説明のそぶりも見せなかった。
「わたしがまちがっていたよ、トス」鍛冶屋はひどく静かな声でつづけた。「おまえは友だちなんかじゃなかったんだ。おまえの女主人がわたしたちを裏切れるような立場におまえを置いただけのことだったんだ。まあいい、二度とこういうことができないようにしてやるよ」ダーニクは片手をあげかけた。ガリオンはダーニクが意識を集めるときのうねりを感じた。
「ダーニク!」ポルガラが叫んだ。「だめよ!」
「かれはわたしたちを裏切ったんだよ、ポル。このままにしておくわけにはいかない」
ポルガラとダーニクは長いこと見つめあっていた。なにかがふたりのあいだを通過し、ダーニクはついに視線を伏せた。かれは物言わぬ大男のほうを振り返った。
「おまえとの仲はもうおしまいだ、トス。わたしは二度とおまえを信用しない。おまえの顔はもう見るのもいやだ。王女を返せ。おまえにさわってもらいたくない」
トスは黙ってセ・ネドラの小さな体を差しだした。ダーニクは彼女を抱き取ると、故意に物言わぬ大男に背を向けた。
「よし、大尉」ベルガラスが言った。「これからどうする?」
「おれが受けた命令は、あんたがたに同行して無事ラク・ヴァーカトまで行くことだ、長老ベルガラス。軍司令官があんたがたの到着を待っておられる。言うまでもなく、数人の仲間はあんたと別れてもらわねばならんだろう――用心のためだ。あんたの力とレディ・ポルガラの力は広く知れ渡っている。友だちの運はあんたの聞き分けしだいだ。わかるだろう」
「もちろんだ」ベルガラスはそっけなく答えた。
「で、その軍司令官の計画だが、独房とかそういったものと関係あるのか?」シルクがたずねた。
「あんたは閣下を誤解してる、ケルダー王子」大尉は言った。「閣下は最大級の尊敬をもってあんたがたと接するよう指示されているんだ」
「わたしたちの素性をよく知っているようね、大尉」ポルガラが言った。
「あんたがたを押さえるよう命じられた方が非常に明確にそう言われたんでね、レディ」大尉は短い軍隊式のお辞儀をした。
「それはだれかしら?」
「もうおわかりだろう、レディ・ポルガラ? この命令はカル・ザカーズ皇帝陛下じきじきのものだ。陛下はしばらく前からあんたがた一行がクトル・マーゴスにいるのに気づいておられた」大尉は部下のほうを向き、鋭く命じた。「捕らえた者たちを取り囲め」それからポルガラに向きなおった。「どうかお許しを、レディ」と弁解口調で言った。「客扱いするつもりでも、軍隊用語はときにぞんざいなことがあるのでね。ラク・ヴァーカトで船が待っている。そこへついたらただちに出港だ。ラク・ハッガで皇帝陛下が首を長くしてあんたがたの到着を待っておられるんだ」
底本:「マロリオン物語4 禁じられた呪文」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1990(平成 2)年10月31日 発行
1998(平成10)年 9月15日 三刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年2月 8日作成
2008年9月19日校正
2009年2月10日校正
----------------------------------------
このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語4 禁じられた呪文.zip iWbp3iMHRN 87,214,637 cd5170a27d11af3b9eb52e56dfac88de
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
----------------------------------------
底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
----------------------------------------
使用したWindows機種依存文字
----------------------------------------
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
----------------------------------------
底本71頁16行 お気の毒なことを、ケルダー―わたくしが
ダッシュが一つだけなのはおかしいのでこのテキスト本文では二つに変更しました。
底本117頁2行 オスカタットはづけた。
おそらくは「つづけた」じゃないかと。
底本186頁7行 ダニーク
ダーニク
底本262頁16行 トル
トス