マロリオン物語3 マーゴスの王
KING OF THE MURGOS
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)その柄《つか》に〈珠〉をのせた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|言葉に気をつけろ《ウォッチ・ユア・タング》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
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デンに、かれが理解してくれるであろう理由のために――
――そしてわたしたちのジャニーに、
彼女のそのありかたのために。
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この度、わたしは妻のリー・エディングスに感謝の意を表明したいと思う。この物語を進行させるにあたって、彼女はわたしを支え、励まし、心から協力してくれた。妻の助けがなかったら、ここまでこぎつけることはできなかっただろう。
また、編集者であるレスター・デル・レイにも、その忍耐と寛容、さらに、数しれぬ献身にたいし、この機会を借りて感謝したい。
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目 次
プロローグ
第一部 蛇の女王
第二部 ラク・ウルガ
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マーゴスの王
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登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エランド(エリオンド)…………………〈珠〉を運んだ少年
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
イサス………………………………………ニーサの暗殺者
ゴリム………………………………………ウルゴ人の長老
ヴァラナ……………………………………トルネドラ皇帝
クサンサ……………………………………ドリュアドの女王
サルミスラ…………………………………ニーサの女王
ジャハーブ…………………………………ダガシ族の長老
チャバト……………………………………グロリム
ベルディン…………………………………魔術師
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
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プロローグ
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ベルガリオンの息子が誘拐されたいきさつと、その誘拐者こそ、強大なる〈アルダーの珠〉が警告していた敵、ザンドラマスであることをベルガリオンがつきとめた顛末の記。
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[#地から2字上げ]――『ベルガリオン大王の生涯』(第四巻序文より)
さて、再三語られてきたように、天地あけぼのの頃、神々は世界を創造し、ありとあらゆる種類の獣、鳥、植物で世界を満たした。さらに神々は人間をも創造し、みずからが導き、治める民をさまざまな種族のなかより各自選んだ。しかしながら、アルダー神だけは民を選ばず、塔にこもって自分たち神々のつくった創造物を研究する道を選んだ。
だが、あるとき、腹をすかせたひとりの子供がアルダーの塔にたどりつくと、アルダーは子供を塔に入れてやり、すべての力をつかさどる〈意志〉と〈言葉〉、すなわち人間のいう魔術を、その子に教えた。少年が才能を示したとき、アルダーはかれをベルガラスと名づけて弟子にした。やがてほかにも塔にたどりつく者が出はじめると、アルダーはかれらにも〈意志〉と〈言葉〉を教えてやはり弟子にした。この中にいた奇形の子供を、アルダーはベルディンと名づけた。
ある日、アルダーはひとつの石をとりあげ、それを形作って〈珠〉と呼んだ。なぜなら、その石は星々のかなたより落ちてきた、偉大な力を秘めたものであり、この世のはじめより万物の支配権をめぐって対立していたふたつの運命のひとつの中心となるものだったからである。
しかしトラク神は、〈闇の運命〉がかれの魂こそ石の仲介者であると主張したため、石を不当に欲し、それを盗んだ。そこでアローン人として知られるアロリアの民はベルガラスを捜し出し、ベルガラスは〈熊の背〉チェレクとその三人の息子を率いて、トラクが〈永遠の夜の都市〉すなわちクトル・ミシュラクを建てた極東へと向かった。かれらはこっそりと〈珠〉を奪い返してひきあげた。
神々の相談のもと、ベルガラスは、アロリアを四分割し、同行していたチェレクと三人の息子の名にちなんで、それぞれの王国をチェレク、ドラスニア、アルガリア、リヴァと命名した。そして〈風の島〉を支配することになった〈鉄拳〉リヴァに、〈珠〉の保有権を与えた。リヴァは、〈リヴァ王の広間〉の王座の背後の壁に、巨大な剣をかけ、その柄《つか》に〈珠〉をのせた。
かくしてベルガラスはわが家へ帰りついたが、かれを待ち受けていたのは悲しい出来事だった。愛する妻のポレドラが双子の娘を産んで、生ある世界から去っていたのである。時が流れ、ベルガラスは金髪の娘ベルダランを〈鉄拳〉リヴァに嫁がせた。リヴァの王の一族を形成するためである。もうひとりの娘ポルガラを手放さなかったのは、娘の黒髪に、女魔術師のしるしである一房の白い髪が生えていたためだった。
〈珠〉の力に守られて、〈西方〉は数千年のあいだ平穏だった。ところが、ある日のこと、リヴァのゴレク王とその息子たち、さらに孫たちは、卑劣な裏切りによって無残にも殺されてしまった。たったひとりだけ逃げのびた子供がおり、以来その子はベルガラスとポルガラによってひそかに保護されるところとなった。島の王国リヴァでは、〈リヴァの番人〉ブランドが殺された君主にかわって、悲しみのうちに国務を代行し、かれ亡きあとはその息子たちがひきつづき〈アルダーの珠〉を守った。こうしてかれら番人は全員ブランドの名で通るようになった。
ところがあるとき、〈裏切り者〉ゼダーは〈珠〉の火に焼かれることなく〈珠〉にさわることのできる純真無垢なひとりの子供を発見した。こうしてゼダーは〈珠〉を盗み、恐ろしいかれの〈師〉であるトラクが身を潜めている場所へと逃げ帰った。
ベルガラスはこれを知ると、センダリアにある静かな農場へ急いだ。そこではポルガラがガリオンという少年を育てていたが、ガリオンこそはリヴァ一族の最後の子孫だった。かれらはガリオンを連れて〈珠〉を求める旅に出た。幾多の危険な冒険をくぐりぬけて、かれらはくだんの子供を発見し、その子をエランドと名づけた。そして、エランドに〈珠〉を持たせたまま、剣の柄《つか》に〈珠〉をふたたび据えるべくひきかえした。
やがてガリオンは――すでにかれの示した魔術の威力によって、いまではベルガリオンと呼ばれていたが――ある予言を知るにいたった。それによれば、かれが〈光の子〉として邪神トラクと対決し、殺すか殺されるかの一騎討ちを果たさねばならぬときが迫っていた。ベルガリオンは内心恐れながらも、宿命にまみえるために〈永遠の夜の都市〉めざして東へ旅立った。しかし、〈アルダーの珠〉をのせた偉大なる剣の助けによって、かれは優勢に立ち、トラクの息の根をとめたのだった。
かくして〈鉄拳〉リヴァの子孫、ベルガリオンはリヴァの王に即位し、〈西方の大君主〉となった。かれはトルネドラのセ・ネドラ皇女を妻にし、ポルガラは神々が死からよみがえらせて、彼女と同等の魔力を授けた忠実な鍛冶屋のダーニクを夫にした。ポルガラとダーニクはベルガラスとともにアルガリアの〈アルダー谷〉へ出発した。やさしいふしぎな子供、エランドを〈谷〉で育てるつもりだったのである。
歳月が流れ、ベルガリオンは若い花嫁の夫たることを学び、魔術の力や、王であることの権力を修得しはじめていた。〈西方〉は安泰だったが、マロリー皇帝カル・ザカーズがマーゴの王に戦いをいどんだ〈南方〉は、不穏な空気につつまれていた。マロリーへ旅に出ていたベルガラスは、帰ってくるとサルディオンなる石についてのよからぬ噂を報告した。だが、その石がいかなるものであるにせよ、ベルガラスにはそれが恐ろしいものであるということしかわからなかった。
ある夜のこと、リヴァの城塞を訪問中だったエランド少年と、ベルガリオンは、めいめい心のなかにひそむ予言の声に起こされて、謁見の間で落ち合った。すると、剣の柄《つか》にのっていた青い〈珠〉がにわかに真っ赤に怒り、口をきいた。「ザンドラマスに気をつけよ!」しかし、ザンドラマスが人間なのか、物なのかさっぱりわからなかった。
さて、セ・ネドラは数年間待ちわびたあげく、待望の懐妊をした。しかし熊神教の狂信者の活動がふたたび活発化しており、トルネドラ人は王妃にふさわしくないと声高に主張しはじめていた。アローン人の純血を守るためにセ・ネドラは身をひくべきだというのがかれらの論理だった。
臨月が近づいたころ、王妃は入浴中を襲われ、溺死させられそうになった。暗殺者は城塞の塔へ逃げ、そこから身を投げた。だがシルクの名でも知られるドラスニアの冒険者ケルダー王子は、自殺した女暗殺者の服から、女が熊神教の信奉者かもしれないと考えた。ベルガリオンは激怒したが、まだ戦いを挑むことはしなかった。
セ・ネドラ王妃は月満ちて、リヴァの王座にすわる健康な世継ぎを産んだ。アローン中から、さらにはもっと遠方からも、著名な人々がリヴァに駆けつけ、この幸福な誕生を喜び、祝った。
かれらがみな帰途につき、城塞にふたたび平穏な日が訪れると、ベルガリオンは『ムリンの書』と呼ばれる大昔の予言書を調べる仕事を再開した。奇妙なしみに長らく悩まされてきたかれは、〈珠〉の投げる光でそれが読めることを発見した。こうしてベルガリオンは闇の予言と、〈光の子〉としてのかれの責任が、トラク殺害によって終わったわけではないのを知った。現在の〈闇の子〉はザンドラマスであり、かれはそのザンドラマスともはやどこにも存在しない場所≠ナ近いうちに対決しなければならなかったのである。
ベルガリオンは暗澹たる気持ちで、この予言の内容を相談するために、〈アルダー谷〉にいる祖父のベルガラスのもとへ急いだ。しかし、老人と話しあっていたとき、悪い知らせが届いた。暗殺者一味が夜城塞に侵入し、忠実な〈リヴァの番人〉ブランドを殺したのだった。
ベルガラス、ポルガラおばさん、ベルガリオンはリヴァへ急行した。暗殺者一味のうちひとりだけがかろうじて生きていた。ケルダー王子が到着して、意識不明の暗殺者は熊神教の信者であることが判明した。新しい証拠によって、熊神教がドラスニアのレオンに一大隊を結集させていることや、チェレクの沿岸にあるジャーヴィクショルムで戦艦を建造していることがあきらかになった。
ついにベルガリオン王は熊神教にたいし宣戦布告した。アローンの他の君主たちの助言にしたがって、かれはまずジャーヴィクショルムの造船所を攻撃し、〈風の海〉に敵艦が侵入する脅威を阻止した。ベルガリオンの攻撃は迅速にして無情だった。ジャーヴィクショルムは陥落し、作りかけの艦隊は一隻も海に出ないうちに焼き払われた。
しかし、リヴァからの伝言が届いたとき、勝利は灰燼に帰した。ベルガリオンの幼い息子が誘拐されたのである。
ベルガリオン、ベルガラス、ポルガラは鳥に姿を変えて、一日のうちにリヴァへ飛び帰った。リヴァの都市はすでにしらみつぶしに捜索されていた。だが、〈珠〉の助けによって、ベルガリオンは誘拐者たちの臭跡をたどり、島の西海岸へ向かった。かれらはチェレクの信者一派を発見して飛びかかり、ひとりだけ生き残った男をポルガラがむりやりしゃべらせた。男は子供が熊神教の指導者ウルフガーの命令で誘拐されたこと、ウルフガーの本拠地は東部ドラスニアのレオンにあることを高らかに宣言した。しかしポルガラがさらに情報をしぼりだそうとしたとき、信者は立っていた崖のてっぺんから眼下の岩場へ身投げした。
戦いの矛先はいまやレオンに向けられていた。ベルガリオンの軍勢は数の点で敵に劣り、都市へ進軍する途中で闇討ちにあった。あわやというとき、ケルダー王子がナドラクの傭兵を率いて到着し、戦いの流れを変えた。ナドラク人の増援隊を得て、リヴァ軍は都市レオンを包囲攻撃した。
ベルガリオンとダーニクは意志の力を合わせて都市の外壁をぐらぐらにし、マンドラレン男爵の投石器が壁を倒した。リヴァ軍とナドラク軍はベルガリオンに率いられて都市へなだれこんだ。戦いは辛酸をきわめたが、信者たちは撃退され、ほとんどが殺された。やがてベルガリオンとダーニクは熊神教の指導者であるウルフガーを捕らえた。
すでに息子が都市にはいないことを知っていたものの、ベルガリオンはしぼりあげれば子供の居所をウルフガーから引き出せるかもしれないと期待した。指導者は頑強に返事を拒んだ。すると、おどろくべきことに、エランドがウルフガーの心から直接情報を引き出した。
ウルフガーはセ・ネドラ暗殺の首謀者だったことはあきらかになったものの、子供の誘拐にはまったく無関係だった。実際、かれの主目的はベルガリオンの息子の死――それもできるなら誕生前の――だったのである。ウルフガーはあきらかに誘拐については何も知らなかった、誘拐はかれの目的にまったくそぐわなかった。
そこへ魔術師ベルディンがやってきた。かれはひとめでウルフガーがトラクの最後の弟子ウルヴォンの下っ端のハラカンであることを見抜いた。ハラカンは突然姿を消し、ベルディンはただちにあとを追った。
やがてリヴァから使者がやってきた。ベルガリオンの出発後おこなわれた調査により、丘陵の羊飼いが発見されていた。この羊飼いは赤ん坊らしきものをかかえた人影がニーサ風の船に乗って南へ向かうのを目撃したのだった。
しばらくするとケルの女予言者シラディスが自分の影を送りこんできて、ベルガラスたち一同にさらにくわしい話をした。子供を奪ったのはザンドラマスである、とシラディスは主張した。ザンドラマスは偽装の糸をはりめぐらしてハラカンに誘拐の罪をなすりつけたのだった。熊神教の信者たちさえ誘拐者はハラカンだと信じていた。ポルガラが〈風の島〉の断崖で捕虜から聞き出したこともその虚偽の内容だったのである。
〈闇の子〉がある目的のために赤ん坊を盗んだのはあきらかだ、とシラディスは言った。その目的はサルディオンとつながりがあった。いまこそかれらはザンドラマスを追跡しなければならない。シラディスはベルガリオンに同行しなくてはならない者たちを名ざししたあと、口をつぐんでしまった。こうしてシラディスは雲をつくような大男の案内人トスを一同の仲間に残して、姿を消した。
ベルガリオンの心は暗かった。息子の誘拐犯はすでに遠くに逃亡しているうえ、その足跡がきわめてあいまいなものになっていたからである。しかしかれは鉄の意志をもってザンドラマス追跡のために仲間を集めた。必要とあらば、世界の果てまで、宇宙までも追いかける覚悟で。
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第一部 蛇の女王
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1
ガリオンは闇のどこかで、ぽたぽたとしたたる澄んだ水滴の音を聞きとった。単調な規則正しさで、水はゆっくりとしたたっている。周囲の空気はひんやりして、岩の匂いと、暗闇で成長し光を避ける青白い生物のカビくさいじめじめした臭いに満ちていた。いつしかかれはウルゴの暗い洞窟にあふれるひそやかな物音をひとつも聞きのがすまいと、全身を耳にしていた――水がちょろちょろと流れる音、踏まれた小石が浅い勾配をゆっくりと転げ落ちる音、そして岩の微細な裂け目を通して、地上からつたいおりてくる空気の物悲しいためいき。
ベルガラスが立ちどまって、いがらっぽいたいまつをかかげると、狭い通路いっぱいにオレンジ色の光がゆらめき、影が踊った。「ここでしばらく待ってろ」ベルガラスはそう言うと、すりへった左右ちぐはぐのブーツをひきずって、床のでこぼこなカビくさい通路を奥へと歩いていった。残った者たちは、闇に取り巻かれて、待った。
「いやだ、いやだ」シルクがなかばひとりごとのように言った。
かれらは待った。
ベルガラスのたいまつの赤いゆらめきが、通路のずっと向こうにふたたび現われた。「ようし、こっちだ」ベルガラスが呼びかけた。
ガリオンはセ・ネドラの細い肩に腕をまわした。レオンから馬で南下してくるあいだ、セ・ネドラは妙におし黙っていた。東部ドラスニアでの熊神教との戦いが、皮肉にも、ゲランを誘拐したザンドラマスに圧倒的リードを与えたにすぎないことが、しだいにあきらかになってきたからだ。ガリオンはいらだちのあまり、まわりの岩にこぶしをたたきつけ、行き場のない怒りにわめきたい衝動にかられていたが、セ・ネドラは深い失望の殻にひきこもっていた。そして今、彼女は悲しみのどん底に沈んだまま、一行が自分をどこへ連れていこうとしているのか知ろうとも、気にかけようともせず、ウルゴの暗い洞窟をよろめき歩いていた。ガリオンはふりかえってポルガラを見つめた。かれの顔には強い懸念が表われていた。ポルガラが返した表情はきびしかったが、落ち着いて見えた。彼女は青いマントの前を開くと、指をかすかに動かしてドラスニアの秘密言葉で言った。(セ・ネドラを暖かくさせておくのよ、とても感じやすくなっているからいま体を冷やすのは禁物だわ)
やみくもな質問がいくつもガリオンの胸中にうかんだが、セ・ネドラの肩に腕をまわしているので、たずねるわけにいかなかった。
(冷静さを失わないことよ、ガリオン)ポルガラの指が言った。(あなたの不安をセ・ネドラに気づかせてはならないわ。彼女には目を配っているから、心配しないで)
ベルガラスがふたたび足をとめ、片方の耳たぶをひっぱりながら暗い通路の先を疑わしげに見やったあと、左に枝わかれしている別の通路に目をこらした。
「また迷ったんでしょう?」シルクが非難した。ネズミ顔の小柄なドラスニア人は、真珠色の上着も宝石も金鎖もしまいこんで、古ぼけた茶色のチュニックに着古しててかてか光る虫くいだらけの毛皮をはおり、よれよれの帽子をかぶって、またしても数ある変装のひとつに身をやつしていた。
「迷ってなぞいるものか」ベルガラスは言い返した。「いまのわれわれがいる場所が正確に把握できんだけだ」
「ベルガラス、そういうのを迷ったというんですよ」
「くだらん。たしかこっちだ」かれは左の通路を指さした。
「たしか?」
「あの――シルク」鍛冶屋のダーニクが静かに注意をうながした。「声を落としたほうがいいよ。わたしの見るところ、そこの天井はそれほどしっかりしていないようだし、ときには大きな音で天井の一部が落ちることもあるから」
シルクは凍りついたようになって、不安そうに天井を見上げた。額に汗がふきだしているのが見えた。「ポルガラ」喉がつまったような声でシルクはささやいた。「ダーニクに変なことを言わせないでくださいよ」
「シルクのことはそっとしておいたほうがいいわ、ダーニク」ポルガラは落ち着きはらって言った。「かれが洞窟ぎらいなのは知ってるでしょう」
「知っておいたほうがいいと思っただけだよ、ポル」鍛冶屋は説明した。「洞窟ではそういうことが本当に起きるんだ」
「ポルガラ!」シルクの声は恐怖でしわがれていた。「頼みますよ!」
「ひきかえして、エランドとトスが馬をどうしてるか見てくるとしよう」ダーニクは脂汗をかいているチビのドラスニア人を一瞥してから、忠告した。「くれぐれも叫ばないように」
一行が曲がりくねった通路の角を曲がると、急に道が広がって、天井に幅広い石英の鉱脈が走る広々とした洞窟に出た。鉱脈は数マイル先で地表に達しているのだろう。屈折してはいりこんだ日光が、石英という多面体によってこなごなに砕け、踊る虹のように洞窟にごぼれおちて、洞窟中央の小さな浅い湖のきらめく水面で輝いたり弱まったりしている。湖の向こう側には小さな滝があり、岩から岩へと果てしなく流れおちる水音が洞窟を満たしていた。
「セ・ネドラ、ごらん!」ガリオンは注意をうながした。
「なあに?」セ・ネドラは顔をあげ、無関心に言った。「あら、ほんとう。とてもきれいね」そしてふたたびぼんやりとした沈黙にとじこもった。
ガリオンは助けを求めるようにポルおばさんを見た。
するとポルガラが口を開いた。「おとうさん、そろそろお昼の時間じゃないかしら。ここならちょっと休息して腹ごしらえするのにちょうどよさそうよ」
「ポル、一マイルか二マイルごとに休んでいたんじゃ、いつまでたっても目的地につかんぞ」
「どうしていつもわたしの考えにケチをつけるの、おとうさん? なにか人知れない主義でもあるの?」
ベルガラスはちょっとのあいだポルガラをにらみつけていたが、やがて悪態をつきながらぷいと顔をそむけた。
エランドとトスが馬をひいてきらめく湖の岸辺に近づき、馬に水を飲ませた。かれらは奇妙にふつりあいなペアだった。エランドは巻毛で金髪のほっそりした少年で、質素な茶色の農民風のうわっぱりを着ていた。いっぽうのトスは若木の上にそびえたつ巨木よろしく、エランドを見おろしている。西方の諸王国に冬が近づいてきた今も、この雲をつくような男はあいかわらずサンダルと、腰にベルトのついた短い上着をきただけで、無漂白の毛織毛布を肩にひっかけているにすぎなかった。むきだしの両腕と両脚は木の幹のようにたくましく、動くたびに筋肉が瘤のようにもりあがってさざなみだった。特徴のない茶色の髪はうしろへまっすぐなでつけられて、短い革紐で首のうしろにたばねられている。盲目のシラディスが一行に語ったところによれば、この物言わぬ巨人はザンドラマスとガリオンの誘拐された息子を捜索する助けとなるはずだったが、いままでのところは無表情にひたすら一行についていくことに満足しているらしく、行き先にはいっこうに頓着していないようだった。
「手伝ってもらえない、セ・ネドラ?」ポルガラは陽気にたずねて、荷物のひとつをほどきはじめた。
セ・ネドラはぼんやりした顔で洞窟のなめらかな石の床をのろのろと歩いていくと、荷物をのせている馬のそばに黙ってたたずんだ。
「パンがいるわね」ポルガラはセ・ネドラの放心状態にも気づかないように、荷物のなかをひっかきまわした。細長い焦げ茶色の農夫のパンを数本とりだすと、たきぎでもあつかうように、小柄な王妃の両腕のなかにパンをつみあげた。「それにもちろんチーズも」ポルガラはそうつけくわえると、蝋びきの丸いセンダリアのチーズをもちあげ、口をきゅっとひき結んだ。「それからハムもすこしいるわ、そうじゃない?」
「そうですわね」セ・ネドラは抑揚のない口調で答えた。
「ガリオン」ポルガラはつづけた。「このきれをあそこの平らな岩にかけてくれない?」彼女はセ・ネドラをふりかえった。「むきだしのテーブルで食事をするのはだいきらいなのよ、ね、セ・ネドラ?」
「はあ」セ・ネドラは答えた。
ふたりはバンと蝋びきのチーズとハムを即席のテーブルまで運んだ。ポルガラはぱちんと指をならして、首をふった。「ナイフを忘れたわ。とってきてもらえる?」
セ・ネドラはこっくりうなずくと、荷物を積んだ馬のほうへひきかえしはじめた。
「ポルおばさん、セ・ネドラはどうしちゃったんだろう?」ガリオンが声をひそめてたずねた。
「一種の鬱病よ、ディア」
「危険なの?」
「長引くようだとね」
「なにかできない? つまり、なにかの薬を与えるとか?」
「せっぱ詰まった状態でもないかぎり、そういうことはしたくないのよ、ガリオン。場合によっては薬は症状をわかりにくくするだけで、別の問題が出てくることがあるの。セ・ネドラのような症状は、たいがいの場合、自然のなりゆきにまかせるのが一番だわ」
「ポルおばさん、見ていられないんだよ、セ・ネドラがかわいそうで」
「しばらくがまんするのね、ガリオン。彼女のふるまいかたに気づいていないように行動しなさい。セ・ネドラにはまだあの症状から脱する準備ができていないのよ」ポルガラはあたたかい微笑を浮かべてふりかえった。「ああ、これこれ」セ・ネドラからナイフをとりあげながら言った。「ありがとう、ディア」
みんなはポルガラのにわか作りのテーブルに集まって、簡単な昼食を食べた。鍛冶屋のダーニクはもぐもぐやりながら、考えこむようにきらめく小さな湖をながめた。「あそこに魚はいるのかな」
「いるもんですか、ディア」
「いるかもしれないよ、ポル。地表からの水であの湖ができているなら、魚だって稚魚のころに流れ落ちてきたかもしれない、そして――」
「いいえ、ダーニク」
かれはためいきをついた。
昼食が終わると、一行はふたたび果てしなく曲がりくねる通路にはいり、ふたたびベルガラスのゆらめくたいまつのあとについていった。時間が這うように過ぎ、かれらは手でさわれそうな闇にとじこめられたまま何マイルもとぼとぼと歩きつづけた。
「あとどのくらい行かなくちゃならないの、おじいさん?」ガリオンは速度をゆるめて老人と並びながらたずねた。
「正確にはなんともいえん。この洞窟の中では距離はあてにならんのだ」
「ここまでぼくたちがこなけりゃならなかった理由について、なにか考えがあったのかい? つまりさ、『ムリンの書』――それとも、『ダリネの書』――に、ここウルゴで起きるはずのなにかについて語っている部分でもあるの?」
「わしがおぼえているかぎりは、ない」
「ぼくたち誤解したんじゃないだろうね?」
「われらが友人はきわめて断定的だったはずだぞ、ガリオン。かれはわれわれは南へ行く途中でプロルグに立ち寄らねばならんと言ったんだ。なぜなら、ここで起きることになっているなにかが起きるからだ」
「それはぼくたちがいないと起きないのか?」ガリオンは問いつめた。「ぼくたちはこの洞窟をへっぴり腰で進んでいるだけじゃないか。そのすきにザンドラマスはぼくの息子を連れて、どんどんぼくたちの手の届かないところへ遠ざかっていくんだ」
「あれはなんですか?」後方からエランドが突然たずねた。「なにかが聞こえたようでしたけど」
かれらは立ち止まって耳をすました。耳をそばだてると、ベルガラスのたいまつのじりじり燃える音が、急にばかでかく聞こえた。ガリオンは闇のなかへ意識を伸ばして、きまぐれな物音をつかまえようとした。闇のどこかでこだまする緩慢な水のしたたり。岩の割れ目をつたいおりて、物悲しい伴奏をつけている空気のかすかなためいき。そのときガリオンはかすかな歌声を聞き取った。妙に不調和ながら、ウルへの深い敬意をあらわす賛歌のコーラスが、五千余年にわたってこの薄暗い洞窟に反響しつづけているのだ。
「ああ、ウルゴ人たちだ」ベルガラスが満足そうに言った。「プロルグはもうすぐだぞ。さあ、ここで起きることになっているのがどんなことなのかつきとめようじゃないか」
さらに一マイルばかり進むと、通路が急に下り坂になって、一行を地中の奥深くへと連れていった。
「ヤック!」前方のどこからか鋭い声がとんだ。「タチャ・ヴェルク?」
「ベルガラス、ユン・バク」老魔術師は冷静に誰何《すいか》に応じた。
「ベルガラス?」声はおどろいたようだった。「ザジェック・カリグ、ベルガラス?」
「マレケグ・ゴリム、ユン・ザジェック」
「ヴィード・モ。マー・イシュム・ウルゴ」
ベルガラスはたいまつを消した。ウルゴの歩哨が燐光を放つ木鉢を高くかかげもって近づいてきた。
「ヤドホー、ベルガラス。グロージャ・ウル」
「ヤドホー」老人はその儀式ばった挨拶に答えた。「グロージャ・ウル」
背が低く肩幅の広いウルゴ人は短く一礼してから、くるりと向きをかえ、かれらを薄暗い通路の奥へと案内した。歩哨のかかげ持つ木鉢から緑がかった静止した輝きがもれて、暗い通路に気味の悪い明かりを広げ、かれらの顔を幽霊じみた色に染めた。さらに一マイルほど行くと、通路は広がってだだっぴろい洞窟になった。ウルゴ人の考案したその不思議な冷たい光が、石壁の上方にくりぬかれた無数の穴から弱い照明をかれらに向かってまたたかせている。一行は用心深く細い岩棚をつたって、洞窟の石壁から切り出した石段の下へ近づいた。案内人が短くベルガラスに話しかけた。
「馬はここへおいていかねばならないようだ」老人は言った。
「わたしが馬とここへ残りましょう」ダーニクが申し出た。
「いや。馬はウルゴ人たちが見てくれるよ。階段をのぼろう」ベルガラスは急な石段をのぼりはじめた。
かれらはだまって階段をのぼっていった。足音が洞窟のはるか彼方からうつろにはねかえってくる。
「そんなにはじから身をのりださないでちょうだい、エランド」半分ほどのぼったとき、ポルガラが言った。
「どのくらい深いか確かめたかっただけです」エランドは答えた。「下に水があるって知ってましたか?」
「だから身をのりださないでと言ってるのよ」
エランドはふっとほほえんで、のぼりつづけた。
階段のてっぺんにつくと、地下の暗い奈落のはじを避けて数百ヤード進み、通路のひとつにはいった。そこには岩からくりぬいた小部屋がいくつもあって、ウルゴ人たちが生活したり働いたりしていた。その通路の向こうに薄暗く照らされたゴリムの洞窟があった。壮厳な白い円柱が、ゴリムの湖とゴリムの島と、ピラミッド型の不思議な家を囲んでいる。湖を横切る大理石の土手道のつきあたりに、ウルゴのゴリムがいつものように白い長衣を着て、こちらをうかがっていた。「ベルガラスか?」かれはふるえる声で呼びかけた。「あんたか?」
「そうだ。わしだよ、聖なるお人」老人は答えた。「わしがまた現われることは察しがついていたんじゃないかね」
「ようこそ、友よ」
ベルガラスは土手道に向かって歩き出そうとした。が、セ・ネドラが茜《あかね》色の巻毛をふりたてて、わきを矢のようにすりぬけ、両腕をのばしてゴリムのほうへかけだしていった。
「セ・ネドラ?」セ・ネドラが首にしがみついてきたので、ゴリムはあっけにとられて目をぱちくりさせた。
「ああ、聖なるゴリム」彼女はゴリムの肩に顔をうずめて泣きじゃくった。「だれかがわたしの赤ちゃんを連れていってしまったのよ」
「なんだって?」ゴリムは叫んだ。
ガリオンはセ・ネドラのそばへ行こうと、ほとんど反射的に土手道を渡りはじめていたが、ポルガラが腕をおさえてとめた。「まだ行ってはだめよ、ディア」
「しかし――」
「たぶんセ・ネドラにとっては、これこそ必要なことなのよ、ガリオン」
「そう言うけどね、ポルおばさん、泣いているんだよ」
「そうね、ディア。わたしはこれを待っていたの。セ・ネドラがもとの彼女に戻るには、苦悩を吐き出すことが必要なのよ」
ゴリムは小柄な王妃を両腕に抱いて、やわらかななだめるような口調でささやきかけていた。セ・ネドラの最初の涙の嵐がおさまると、かれはしわ深い顔をあげて、たずねた。「すべてが起きたのはいつだね?」
「去年の夏の終わりだ」ベルガラスが答えた。「すこぶるこみいった話でね」
「では家におはいり、皆の衆」ゴリムは言った。「召使いたちが食べ物と飲み物を用意する。食べながら話せばよい」
かれらはゴリムの島に建つピラミッド型の家にぞろぞろとはいって、石の腰掛けとテーブルのある大きな中央の部屋に足を踏みいれた。天井や、内側にむかってカーブした風変わりな壁から鎖がぶらさがり、その先端に輝く水晶ランプがさがっている。ゴリムは物静かな召使いのひとりに短く話しかけてから、セ・ネドラの肩を抱いたままふりかえって、一同に言った。「すわってくれ、皆の衆」
かれらが石のテーブルにつくと、ゴリムの召使いのひとりが磨きこんだクリスタルの酒杯と、強烈なウルゴの飲み物のはいった瓶を載せた盆を運んできた。
「さてと」気高い老翁は口を開いた。「なにがあったのだ?」
ベルガラスは酒杯のひとつを手酌で満たしてから、この数ヵ月の出来事をてきぱきとかいつまんで話し、ブランドが殺害されたこと、アローンの王たちのあいだに紛争の種をまこうとする企てがあったこと、ジャーヴィクショルムの熊神教の本拠地に戦いを挑んだことを、ゴリムに告げた。
「そしてだ」ベルガラスの話の最中にゴリムの召使いたちが生の果物や野菜、串からはずしたばかりの熱々のあぶり肉の盆を運んできた。「われわれがジャーヴィクショルムを攻略したのとほぼ同じころに、何者かがリヴァの城塞にある育児室に忍び込んで、ゲラン王子をゆりかごから連れ去ったのだ。島へ帰ったとき、われわれは〈珠〉が赤ん坊の足跡をたどろうとしていることに気づいた――とにかく、足跡がかわいた地面の上にあるかぎりはな。〈珠〉はわれわれを島の西側へ導き、われわれは誘拐者がおきざりにしていった数人の熊神教の信者たちに出くわした。われわれが問いつめると、連中は新しい熊神教の指導者ウルフガーが誘拐を命じたと答えた」
「しかし、かれらの言ったことは本当ではなかったのだな?」ゴリムは抜け目なくたずねた。
「半分は嘘っぱちでしたよ」シルクが答えた。
「もちろん問題は、それがでたらめだということをかれらさえ知らなかった点にある」ベルガラスはつづけた。「連中は事前にきわめて周到にでたらめを吹き込まれていたのさ。したがって、その話はいかにももっともらしく聞こえた――とりわけ、われわれがすでに熊神教と戦争状態にあった事実から見るとな。いずれにせよ、われわれはドラスニア北東部のレオンにある熊神教の最後の砦を襲撃した。町を攻め落とし、ウルフガーを捕らえたあとで、真相があきらかになった。ウルフガーはハラカンというマロリーのグロリムで、誘拐とはなんの関係もなかったのだ。真犯人は、わしが数年前にあんたに話したことのある、正体不明のザンドラマスとやらだったのだ。サルディオンがこの事件全体の中でどういう役を演じているのか正確にはよくわからん。だが、なんらかの理由で、ザンドラマスは『ムリンの書』に出てくる場所――もはや存在しない場所――へ赤ん坊を連れていきたがっている。ウルヴォンは死に物狂いでそれを阻止しようとしており、だから子分を西へ送りこんで、そういう事態が起きないように赤ん坊の殺害を企んだのだ」
「どこから捜索をはじめるか、考えでもあるのかね?」ゴリムがたずねた。
ベルガラスは肩をすくめた。「二、三手がかりがあるだけだ。ザンドラマスが〈風の島〉をニーサの船に乗って去ったことはまちがいないから、そこからはじめるさ。『ムリンの書』によれば、わしが謎のなかでサルディオンへの道を見つけることになっている。サルディオンが見つかれば、ザンドラマスと赤ん坊との距離がちぢまることは確実だ。たぶん、予言書の中にヒントが見つかるだろう――破損していない写しが発見できればの話だが」
「ケルの予言者たちも直接かかわっているらしいの」ポルガラがつけくわえた。
「予言者たちが?」ゴリムは驚いた声をあげた。「かれらはこれまでそういうことはしたためしがない」
「知っているわ。かれらのひとり――シラディスという名の娘――がレオンに現われて、付随する情報と、ある指示をわたしたちに与えたのよ」
「ケルらしからぬことだな」
「どうやら事態は最後のクライマックスにむかって動きだしているらしいのだ、聖なるお人」ベルガラスは言った。「われわれはみなガリオンとトラクの対決に気をとられすぎて、真の対決は〈光の子〉と〈闇の子〉とで争われるという事実を見失っていたのだ。シラディスの話ではこれが最後の対決になるらしい。そして今度こそ、いっさいがそれをもって永久に決せられるのだ。思うに、予言者たちがついにおおやけの場にでてきたのは、そのためだろう」
ゴリムは眉をひそめた。「かれらが他人の問題に関心を寄せるとは思ってもみなかった」かれは重々しく言った。
「その予言者ってどういう人たちですの、聖なるゴリム?」セ・ネドラが押し殺した声でたずねた。
「かれらはわしらのいとこなのだよ」ゴリムは簡潔に答えた。
セ・ネドラはきつねにつままれたような顔をした。
「神々がいくたの民を創られたあと、選択のときがきた」かれは説明した。「民は七つあった――神々が七人おられたのと同じだ。しかしアルダーがひとりでいる道を選ばれたので、七つのうちひとつの民が神を持たぬまま残ってしまった」
「ええ。そのくだりは聞いたことがありますわ」セ・ネドラはうなずいた。
「わしらはもとは同じ民だったのだ」ゴリムはつづけた。「マロリー北部にはわしらウルゴ人、モリンディム人、カランド人、うんと東にはメルセネ人、それにダル人がいた。わしらはダル人ともっとも親しかったのだが、わしらがウル神を捜しに北へ行ったとき、かれらはすでに星を読もうと目を空へ向けておった。わしらは同行をうながしたが、かれらは一緒に行こうとしなかった」
「じゃあ、それっきりダル人との接触はなくなってしまったの?」
「たまにダル人の予言者が何人かわしらのところへやってくるが、どういう目的なのかたいてい話そうとせんのだ。予言者はたいそう賢いのだよ。かれらに現われる〈予見〉が過去、現在、未来の知識――さらには、その意味をも――与えるからだ」
「それで、予言者は女ばかりなの?」
「いや、男もいる。過去や未来を見る視力を授かると、かれらは必ず布で目をおおい、俗世間の光を残らずしめだして、もうひとつの光がよりはっきりと見えるようにする。したがって、予言者がひとり出現すると、道案内と保護者をつとめる物言わぬ男もひとり出現するわけだ。かれらはつねに二人で一組なんだよ――永久に」
「グロリムたちはなんであんなに予言者たちをおそれるんです?」シルクがいきなり口をはさんだ。「マロリーに何度か行ったとき、ケルのことをちょっと口にしただけで、マロリーのグロリムは蜘蛛の子を散らすように逃げていっちまったんです」
「おそらくグロリムがケルに接近しないよう、ダル人が手段を講じたのだろう。それがダル人たちの学んだ一番重要なことなのだ。グロリムたちはアンガラク以外のものには我慢ならないたちだからな」
「予言者たちの目的はどういうものなんですか、聖なるお人?」ガリオンはたずねた。
「予言者だけにかぎったことではないのだ、ベルガリオン」ゴリムは答えた。「ダル人は秘儀的知識のあらゆる分野にかかわっている――降霊術、魔法、魔術、魔力――もっとあるかもしれん。予言者の目的がなんであるか、正確なことはだれも――ダル人自身をのぞけば――知らないらしい。だが、それがどんなものであれ、かれらはその目的に心身を捧げている――マロリーの予言者もここ西方の予言者もな」
「西方?」シルクが目をぱちくりさせた。「ダル人がこのへんにいるなんて知りませんでしたよ」
ゴリムはうなずいた。「トラクが〈珠〉を使って世界にひびをいれたとき、ダル人は〈東の海〉によってふたつに分けられてしまったのだ。西のダル人は第三黄金期のあいだ、マーゴ人の奴隷になっていた。しかし、住む場所がどこであろうと――東であろうと、西であろうと――かれらは無限の歳月をこえてある仕事にいそしんできた。その仕事がいかなるものであれ、それが万物の運命を左右するのだと、かれらは確信しておる」
「そうなんですか?」ガリオンはきいた。
「わしらにはわからんよ、ベルガリオン。その仕事がどういうものなのか知らないのだから、意義を推測することもできん。ただ、わかっているのは、宇宙を支配する予言にもかれらが従っていないということだ。かれらはもっと崇高な宿命によってその仕事が自分たちに課せられたのだと信じている」
「わしが気になるのはそこなんだ」ベルガラスが言った。「シラディスは秘密めかしたことを言って、われわれを操っている。たぶんザンドラマスのことも操っているだろう。わしは鼻づらをひっぱりまわされるのはいやなんだ――とりわけ、どんな動機を持っているのか見当もつかん者にひっぱりまわされるのはな。シラディスは万事をややこしくしてしまっている。わしはややこしいのは好かんのだよ。わしが好きなのは、すっきりした単純な状況と、すっきりした簡単な解決なんだ」
「善と悪のような?」ダーニクがほのめかした。
「それでもむずかしいよ、ダーニク。かれらとわれわれ≠フほうがいい。それなら余計なものがはいりこむ余地がないから一目瞭然だ」
その晩、ガリオンはよく眠れず、早々と起き出したときは、頭に砂がいっぱい詰まっているような気分だった。ゴリムの家の中央の部屋で、しばらく石の腰掛けにぼんやりすわっていたが、気分転換をはかろうと、島を取り囲む静かな湖を見に外へ出た。洞窟の天井からさがった鎖の先端の球体がかすかな光を放って、湖面をおぼろげに照らしている。その光はこの世のものというより、夢で見る光のようだった。水ぎわにたたずんで物思いにふけっていると、向こうの岸辺でなにかが動くのが目の隅にうつった。
彼女たちは二、三人ずつ歌いながらやってきた。大きな黒い目と白い髪の、透けるような肌をしたウルゴの娘たちだった。みな簡素な白いガウンをきて、大理石の土手道の向こう側にはずかしそうに集まり、弱い光のなかでこちらをうかがっている。ガリオンは湖の向こうにいる彼女たちを見て、声をはりあげた。「なにか用かい?」
娘たちはしばらくこそこそと相談していたが、やがて代表を前におしだした。
「わたしたち――わたしたち、セ・ネドラ皇女にお会いしたいんです」顔を真っ赤にして、娘はおずおずと言った。「お忙しくなければ、ですけれど」なじみのない言葉をしゃべっているかのように、どもっている。
「起きているかどうか見てこよう」
「ありがとうございます」娘は答えると、身をすくめるようにして友だちの輪に隠れた。
ガリオンが家に戻ると、セ・ネドラはベッドの上に起き上がっていた。この数週間で見慣れたものになっていた、あのまひしたような無関心はあとかたもなかった。目つきまで敏捷さを取り戻したようだ。「早起きなのね」セ・ネドラは言った。
「よく眠れなかったんだ。加減はどう?」
「上々よ。ガリオン。どうしてそんなこときくの?」
「ただちょっと――」ガリオンは肩をすくめて言葉をきった。「外に若いウルゴの娘たちがいるよ。きみに会いたがってる」
セ・ネドラはいぶかしげだった。「いったいだれかしら?」
「きみを知ってるようだった。セ・ネドラ皇女に会いたいと言ってたよ」
「きまってるじゃない!」セ・ネドラは叫んで、ベッドからとびおりた。「もうちょっとで忘れるところだったわ」小鴨色の化粧着をいそいではおると、彼女は部屋からとびだした。
ガリオンは好奇心からあとを追いかけようとしたが、ポルガラとダーニクとゴリムが石のテーブルに静かにすわっているのを見て、家の中央廊下でたちどまった。
「なんの騒ぎ?」ポルガラが小走りにかけていく小柄な王妃を見送りながらたずねた。
「外にウルゴの女性たちがいるんだ」ガリオンは答えた。「セ・ネドラの友だちらしい」
「滞在中に、彼女はたいへんな人気者になったのだ」ゴリムが言った。「ウルゴの娘たちはえらくはずかしがりやなんだが、セ・ネドラは娘たちみんなと友だちになってね。みんな彼女を敬愛していたよ」
「失礼ですが、閣下」ダーニクが口をはさんだ。「レルグはどこです? ここにいれば、レルグに会えると思っていたんですがね」
「レルグとタイバは子供たちを連れて、マラゴーへ引っ越した」ゴリムは言った。
「マラゴーへ?」ガリオンは目をぱちくりさせた。「あそこの幽霊はどうなったんです?」
「レルグはマラに保護されておる。マラとウルはなんらかの相互理解にこぎつけたらしい。しかとわかっているわけではないが、マラは、タイバの子供たちはマラグ人であり、マラが子供たちをマラゴーで守ると誓ったと主張しているのだ」
ガリオンは腑におちなかった。「しかし、レルグたちの最初の息子はいつかはゴリムになるんでしょう?」
老翁はうなずいた。「そうだ。あの子の目はいまでもサファイアのように青い。わしもはじめは心配したのだよ、ベルガリオン。しかしいまでは確信しておる、ウルはしかるべきときがくれば、レルグの長男をウルゴの洞窟にお返しくださるとな」
「けさのセ・ネドラはどう、ガリオン?」ポルガラが真剣な顔でたずねた。
「ほとんど正常に戻ったみたいだよ。もう心配ないんじゃないかな?」
「それはいい兆候だわ、ディア。でもまだ安心するのは早いかもしれないわね。たえず目配りしておいてちょうだい」
「わかった」
「それとなくよ。いまは反抗的になる時期だから、こっそり見張られていると思わせたくないの」
「気をつけるよ、ポルおばさん」ガリオンは外へ出て、なにげないようすで小島のまわりを歩きながら、向こう岸にいるグループをひっきりなしにちらちらながめた。白っぽいガウン姿のウルゴの娘たちがセ・ネドラのまわりに群がっている。彼女の緑色のローブと燃えるような赤毛がグループの中央でひときわ目だっていた。ふいにあるイメージがガリオンの頭にうかんだ。セ・ネドラは白ユリの花壇のまんなかに咲く真っ赤な一輪のバラだった。
十分ほどたったころ、ポルガラが家から出てきた。「ガリオン、けさエランドを見た?」
「いや、ポルおばさん」
「部屋にいないのよ」ポルおばさんはちょっぴり眉をひそめた。「あの子ったらなにを思いついたのかしら? 捜してきてもらえない?」
「はい、マアム」ガリオンは反射的に答えた。上手道をわたりはじめたとき、かれは思わず苦笑した。なんのかんのと言っても、やっぱりガリオンとポルおばさんはいつでもかれが少年だったころの関係に戻ってしまうのだ。かれが一国の王であることを、ほとんどの場合、ポルおばさんはケロッと忘れている。だからつまらぬ用件をひっきりなしに言いつけるのだ。それがガリオンの威厳をそこなうとは思いもよらずに。それに実のところ、かれ自身ちっともそのことを気にしていなかった。有無を言わせぬポルガラの命令にただちに従うというパターンに落ち着いているかぎり、こむずかしい決定をくだす必要もないし、農園に住むただの少年だったころのように、リヴァの王としての気づかいや責任も忘れていられる。
セ・ネドラと娘たちは薄暗い湖の岸辺からすこしはなれた岩の上にすわっていた。彼女たちの会話は元気がなく、セ・ネドラはまた陰気な表情に戻っていた。
「だいじょうぶかい?」ガリオンは近づいていきながらたずねた。
「ええ。おしゃべりしていただけよ」
ガリオンはじっとセ・ネドラを見たが、それ以上なにも言わないことにして、かわりにたずねた。「エランドを見なかった?」
「いいえ。家にいないの?」
ガリオンは首をふった。「探検にでも出かけたんだろう。ポルおばさんに見つけてきてくれと頼まれたんだ」
ウルゴの娘のひとりがセ・ネドラになにかささやいた。
「サバがここへくるとき、主要通路でエランドを見たと言ってるわ。一時間ほど前ですって」
「それはどっちの通路だい?」
「あっちよ」セ・ネドラは岩の中へつづいている開けた場所を指さした。
ガリオンはうなずいてから、たずねた。「寒くないか?」
「なんともないわ、ガリオン」
「すぐに戻る」ガリオンはセ・ネドラが指さした通路のほうへ歩きだした。こんなふうに腫れ物にさわるように接しなくてはならないのはけっして気分のいいものではなかったが、不注意な発言がセ・ネドラをふたたびあの青ざめた憂鬱へ突き落とすかもしれないと思うと、慎重に話しかけざるをえなかった。体の病気も心配だったが、心の病はなんだか恐ろしかった。
問題の通路は、ウルゴが一生を送るほら穴や廊下がみなそうであるように、燐光性の岩が放つおぼろげな輝きによってぼんやりと照らされていた。通路の両側にならぶ小部屋はきれいに掃除がいきとどき、どの部屋でも家族が朝食のテーブルを囲んていた。部屋の正面があいていて、この通路を通るだれにでものぞきこまれてしまう事実をかれらはうっかり忘れているらしい。
ガリオンと同じ言葉をしゃべれるウルゴ人がほとんどいないので、エランドが通りかかったかどうかをたずねるわけにもいかず、いつしかかれはエランドに出くわすのを期待してぶらぶらとさまよいはじめていた。つきあたりまで行くと、通路は広がって大きな洞窟になった。のみで削った石の階段があって、薄闇の中へ落ち込んでいる。
エランドが馬に会いにこの階段をおりていった可能性を考えてみたが、それよりも、この深い割れ目の端を囲む広い岩棚をたどって行ったほうがよさそうな気がした。数百ヤードと行かないうちに、曲がりくねった暗い通路の入口から人声が聞こえてきた。声があちこちにこだまするので、言葉をききわけるのはむりだったが、ガリオンには声のひとつがエランドのもののように思えた。ガリオンは通路にはいって、その音だけをたよりに進んでいった。
通路は使われた形跡がなく真っ暗だったので、はじめのうちガリオンは片手で岩肌をさわりながら少しずつ前進した。だが、角を曲がると、前方のどこからか光がもれてくるのが見えた――この暗い洞窟の世界を通常照らしている緑がかったかすかな燐光性の光とはまったくちがう、不思議なびくともしない白い光輝だった。やがて通路は急角度で左に折れ、角を曲がると、エランドが長身の白い長衣をきた人影と話しているのが目にはいった。ガリオンは目を丸くした。かれが見た光輝はその人影から出ているのだ。ガリオンは超越的な畏怖すべき存在を感じた。
輝く人影は振り返らずに、おだやかな落ち着いた声で話しかけた。「よくぞきた、こちらへくるがよい、ベルガリオン」
無言で従いながら、ガリオンは体がふるえているのに気づいた。そのとき、白衣の人影が振り返り、ガリオンはウルその人の時を超越した顔を見ていた。
「ここにいるエリオンドに、かれの前に横たわる務めについて、指示を与えていたのだ」神々の父は言った。
「エリオンド?」
「それが本当の名前なのだ、ベルガリオン。少年期の子供じみた名前を捨てて、真の名を名乗るときがきたのだ。おまえがただのガリオンを隠れみのにしていたように、かれもエランド≠ニいう名を隠れみのにしていた。英知のなせるわざだ。なぜなら偉大なる務めをひかえている者が、まだその名を継ぐにいたらぬときに真の名をあかすと、しばしば危険をもたらすことがあるからだ」
「いい名前でしょう、そう思いませんか、ベルガリオン?」エリオンドが誇らしげに言った。
「すばらしい名前だ、エリオンド」ガリオンは同意した。
ガリオンが鞘におさめて背中にしょっている大剣の柄《つか》のうえで、〈珠〉が青く光ってウルの白い光輝に答えると、神はうなずいて石を認めた。
「おまえたちふたりに務めが課せられた」ウルはつづけた。「そしておまえたちに同行する仲間にも。これらの務めは〈光の子〉と〈闇の子〉がふたたびまみえ、対決をするときに、完了されねばならぬ」
「どうかお教えください、聖なるウル」ガリオンは言った。「――わたしの息子は無事でしょうか?」
「元気だ、ベルガリオン。かれをつかんでいる者がかれの要求を満たすだろう。さしあたり、危険はない」
「ありがとうございます」ガリオンは感謝をこめて言うと、肩をそびやかした。「それで、わたしの務めとはどのようなものですか?」
「おまえの務めはすでにケルの女予言者によってあきらかにされたはずだ、ベルガリオン。おまえはザンドラマスがサルディオンに近づくのを阻止せねばならぬ。なぜなら、〈闇の子〉がおまえの息子とともにあの恐るべき石を手中にすれば、この最後の対決において〈闇〉が勝利をおさめるからだ」
ガリオンは返事を恐れながらも、心を鬼にして次の質問をした。「アシャバの神託によれば、闇の神がふたたび現われることになっています。それはトラクが再生し、またわたしがかれと戦わねばならないということでしょうか?」
「そうではない、ベルガリオン。わたしの息子が戻ってくることはない。おまえの燃える剣がかれの命を奪ったのだ。トラクはもはや存在しない。この対決の敵はかれ以上に危険だろう。トラクに宿っていた魂が、別の器を見いだしたのだ。トラクは自尊心により不具となり、不完全になった。かわって現われるこの敵は――おまえが務めに失敗すれば――無敵となるだろう。さらに、おまえの剣をもってしても、世界中のあらゆる剣をもってしても、かれに対抗するには十分ではない」
「すると、わたしが戦わなくてはならないのはザンドラマスなんですね」ガリオンはぽつりと言った。「理由はじゅうぶんあります。それだけは確かです」
「〈光の子〉と〈闇の子〉の対決は、おまえとザンドラマスの対決ではない」
「しかし、予言者によれば、ザンドラマスが〈闇の子〉なんですよ」ガリオンは異議をとなえた。
「いまはな――いまはおまえが〈光の子〉であるように。しかし、その重荷は最後の対決が行なわれるに先だって、おまえたち双方からはずされるだろう。さらに、これを知っておくがよい。おまえの息子の誕生とともにはじまった事件は、いずれ完了されねばならぬ。おまえとその仲間の前方に横たわる務めは膨大であり、そのすべてがこの対決のために定められた時より前に完了されねばならないのだ。おまえか、その仲間のだれかが、務めを完了しそこなえば、無限の歳月におよぶわれわれ全員の努力は水泡に帰してしまう。〈光の子〉と〈闇の子〉のこの最後の対決は完了されねばならぬ。そしてあらゆる必要条件が満たされねばならぬのだ。なぜなら、この対決においてこそ、分かれていたいっさいがふたたびひとつになるからだ。この世の――そしてほかのすべての世界の――運命がおまえの両手に託されているのだ、ベルガリオン、そしてその結果を左右するのは、おまえの剣ではなく、おまえがしなければならぬ選択なのだ」
神々の父は好もしげにふたりを見た。「恐れるでないぞ、息子たちよ。おまえたちは多くの点で異なっているが、同じ精神を分かちあっているのだからな。互いに助けあい、支えあって、わたしがおまえたちとともにあるということを慰めとするがよい」次の瞬間、輝く人影はゆらめいて消え去り、想像上の巨大な鐘の余韻にも似たこだまが鳴りひびいて、ウルゴの洞窟を満たした。
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思考力を抜き取られたようなのどかさがガリオンを浸していた。その昔、〈永遠の夜の都市〉の朽ちかけた廃墟でトラクと向き合ったときの気持ちとそっくりの、おだやかな決意だった。あの恐ろしい夜を思いだしながら、ガリオンはおどろくべき真実への道をまさぐりはじめた。半身を焼かれた神は、純粋に物理的勝利を求めて戦っていたのではなかった。すさまじい意志の力のありったけを注ぎ込んで、かれは人々を従わせようとしていたのだ。そして最後にトラクを打ち負かしたのは、ガリオンの燃える剣ではなく、屈服をこばんだ人々の不屈の信念だったのだ。夜が明けそめるように、ゆっくりと、真実がガリオンの胸にしみこんでいった。闇の世界を闊歩しているときの悪は無敵のように見えるかもしれない。だが実は悪も光を渇望している。だから、光が降伏しないかぎり、闇は勝つことができない。〈光の子〉が不屈の構えを崩さないかぎり、ぼくは恐いものなしなのだ。暗い洞窟に立って、ウルが去ったあとの余韻に耳を傾けながら、ガリオンは敵の心をじかにのぞきこんでいるような気がした。光と闇の対立の陰で、トラクは恐れていたのだ。そしていまですら、同じ恐怖がザンドラマスの心をさいなんでいる。
そのうちガリオンはもうひとつの真実に気づいた。おそろしく単純であると同時に、かれという存在の繊維組織のひとつひとつをゆさぶるほど深遠な真実だった。闇などというものはないのだ! とてつもなく広大で圧倒的に思えたものは、光の欠如にほかならない。〈光の子〉がそのことをしっかり念頭に置いているかぎり、〈闇の子〉はけっして勝てない。トラクはそのことを知っていた。ザンドラマスも知っている。そしていまやっとガリオン自身もそれを理解したのだった。歓喜のうねりが体中に広がった。
「いったんわかってしまえば、簡単でしょう?」これまでずっとエランドで通ってきた若者が静かにたずねた。
「ぼくがなにを考えているかわかったんだな?」
「ええ。困りますか?」
「いや。そんなことはない」ガリオンはあたりを見回した。ウルの去ったあとの通路はにわかに暗さを増したように見えた。ひきかえす道はわかっていたが、たったいまつかんだ考えが、なんらかの確認を求めているように思えた。かれはふりむいて、大剣の柄《つか》にのっている〈珠〉に直接話しかけた。「ちょっと光をくれないか?」
〈珠〉はそれに応えて青い光を放ち、同時に澄んだ歌でガリオンの心を満たした。ガリオンはエリオンドを見た。「そろそろ戻ろうか? ポルおばさんがきみが見つからないんで心配していた」
回れ右をして、無人の通路をたどり、来た道をひきかえしながら、ガリオンは愛情をこめて若い友だちの肩に腕をまわした。なぜかいまふたりはきってもきれない関係にあるように思えた。
かれらは通路をぬけて、暗い穴の端へ出た。青白い光が切り立った壁に斑点を投げ、はるか下方の滝のつぶやきがかすかに聞こえてきた。
ガリオンは急に昨日のことを思いだした。「ポルおばさんはきみと水のことになると、なんであんなに心配するんだ?」かれは好奇心からたずねた。
エリオンドは笑った。「ああ、あのこと。ぼくが小さかったとき――〈谷〉にあるポレドラの小屋に引っ越してまもないころ――しょっちゅう川に落ちてたんです」
ガリオンはにやにやした。「ぼくにはごくあたりまえのことに思えるけどね」
「最近じゃそんなことはしなくなったけど、ポルガラはぼくが水にとびこまないのは、なにか特別なチャンスをねらっているせいだと思ってるんですよ」
ガリオンは笑った。ふたりはウルゴの洞窟につづく、小部屋の並ぶ廊下へはいった。そこに住んで働くウルゴ人たちが、通過するふたりをびっくりしたようにながめた。
「あの――ベルガリオン」エリオンドが言った。「〈珠〉がまだ光ってますよ」
「ああ、うっかりしてた」かれは陽気に輝いている石をふり返って、命じた。「もういいんだ。やめていい」
〈珠〉の最後のひらめきは少しうらめしげだった。
みんなはゴリムの家の中央の部屋に集まって朝食を食べていた。ふたりがはいっていくと、ポルガラが顔をあげた。「いったいどこに――」言いかけて、口をつぐみ、エリオンドの目をじっとのぞきこんだ。「なにかあったのね?」
エリオンドはうなずいた。「はい。ウルがぼくたちふたりと話したがったんです。ぼくたちが知る必要のあることがあったんですよ」
ベルガラスが真顔になって、皿をおしのけた。「話してもらったほうがよさそうだ。たっぷり時間をかけて、なにひとつとばさんようにしてくれよ」
ガリオンは部屋をよこぎって、セ・ネドラとならんでテーブルについた。かれは神々の父との会合を注意深く説明し、できるだけ正確にウルの言葉を繰り返そうとした。「そのあと、ウルはエリオンドとぼくはおなじ精神を分かちあっている、ぼくたちは互いに助け合い、支えあうことになっていると言われた」
「ウルが言われたのはそれだけか?」ベルガラスがたずねた。
「うん、でもそれだけなんてものじゃないよ」
「かれはぼくたちとともにあるとも言ってました」エリオンドがつけくわえた。
「すべてが完了されねばならないその時期について、もっとはっきりしたことは言われなかったのか?」老人はいささか不安げな表情で問いただした。
ガリオンは首をふった。「いや。わるいけど、おじいさん。そういうことはなにも」
ベルガラスの表情がにわかに自暴自棄になった。「見えない計画に従って行動するのはだいきらいなんだ」かれはぶつぶつ言った。「前進してるのか、後退してるのかもわからんじゃないか」
セ・ネドラはガリオンにずっとしがみついていた。不安と安堵がその顔の上でせめぎあっている。「ウルがわたしたちの赤ちゃんは無事だとおっしゃったのは、本当に確かなのね?」彼女はきいた。
「ゲランは元気だと言いました」エリオンドが元気づけた。「ゲランをつかんでいる者がかれの要求をみたすだろうし、さしあたってかれに危険はないそうです」
「さしあたって?」セ・ネドラは叫んだ。「それはどういう意味?」
「はっきりしたことは言われなかったんだよ、セ・ネドラ」ガリオンは言った。
「ゲランがどこにいるか、どうしてウルにきかなかったの?」
「教えてくださらないとわかっていたからさ。ゲランとザンドラマスを見つけ出すのがぼくの仕事なんだ。ほかのだれかにその仕事をやってもらうなんてことは、かれらが許さないと思うよ」
「かれら? かれらってだれのこと?」
「予言書だよ――ふたつの。かれらはゲームをしている。ぼくたちみんなはそのルールに従わなくてはならないんだ――それがどんなルールかわからなくてもね」
「ばかげてるわ」
「予言書にそう言ってやれよ。考えたのはぼくじゃない」
ポルおばさんはふしぎそうにエリオンドを見ていた。「知ってたの?」おばさんはたずねた。「名前のことだけど?」
「ぼくにもうひとつ名前があることは知ってました。あなたがぼくをエランドって呼んだとき、なんだか、ピンとこなかったんです。すごく気になりますか、ポルガラ?」
彼女はほほえんで立ち上がると、テーブルを回って、エリオンドをあたたかく抱きしめた。「いいえ、エリオンド。ちっとも気にならないわ」
「ウルがおまえたちに課せられた務めとは、正確にはどういうものなんだ?」ベルガラスがきいた。
「そのときになればわかるものだと」
「それだけしか言われなかったのか?」
「それはきわめて重要なもので、それがぼくを変えることになるんだって」
ベルガラスは首をふって、ぶつくさ言った。「どうしていつもすべてが謎だらけじゃなくちゃならんのだ?」
「それもまたガリオンの言ったルールのひとつなんですよ」シルクが瓶のひとつから自分の酒杯に酒を再度満たしながら言った。「それで、次はどうします?」
ベルガラスは考えながら、片方の耳たぶをひっぱって、ほのかに光るランプのひとつを見上げた。「ガリオンたちのウルとの遭遇が、プロルグで起きる予定だったものであることはほぼまちがいないだろう。したがって、もう先へ進んだほうがいいと思う。目的地へ多少早くついたところで害はないだろうが、遅れたらたいへんなことになる」ベルガラスは腰掛けから立ち上がると、グロリムの折れそうな肩に片手をのせた。「ときどき連絡するようにしよう」と約束した。「洞窟を行くのに、ウルゴ人を何人かアレンディアまでの案内役として貸してもらえないか? できるだけ早く地上へ出たいのだ」
「もちろんだとも、友よ」ゴリムは答えた。「ウルがお導きくださるように」
「だれでもいいから頼むよ」シルクがぼそっと言った。
ベルガラスがじろりとシルクをにらんだ。
「だいじょうぶですよ、ベルガラス」シルクはおうように言った。「あなたがひっきりなしに道に迷ったからといって、あなたにたいするわれわれの尊敬はこれっぽちもへったりしやしませんから。迷子になるのは、きっとあなたがどこかで身につけた悪い癖なんだ――たぶん、もっと重要な問題に気をとられていたせいでしょう」
ベルガラスはガリオンを見た。「本当にシルクを同行させる必要があったのか?」
「うん、おじいさん、本当にあったんだ」
二日後、日が昇ったばかりの時刻に、一行は不定形な洞窟の出口にたどりついた。樺の森が外に広がっている。真っ青な空に向かって樺の白い木々が裸の枝を伸ばし、黄金色の落葉の絨緞が地面をおおっていた。洞窟の口までかれらを案内してきたウルゴ人たちは、はた目にもわかるほどひるんで、日光からあとずさった。かれらは二言三言ベルガラスにささやき、ベルガラスがかれらに礼を述べた。するとウルゴ人たちは心休まる暗闇のなかへ戻っていった。
「おれがいまどんなにいい気分でいるか、みんなには想像もつかないだろうな」シルクがほっとしたように洞窟の外へ出て、冷たい朝日をむさぼった。木々のあいだのあちこちの地面が凍った雪で白くなり、斜めに差し込む朝日をあびてきらめいている。どこか左の遠くのほうで、山あいの小川が流れているらしく、せせらぎの音が聞き取れた。
「ここがどこだかわかりますか?」一行が馬に乗って樺の木立にはいったとき、ダーニクがベルガラスにたずねた。
老人は目をすがめて肩ごしにうしろを見ると、昇ったばかりの太陽の角度を推し測った。「推測では、中部アレンディアにそびえる山のふもとだな」
「アレンドの森の南端の斜面ですかね?」シルクがきいた。
「断言はできん」
チビのドラスニア人はまわりをきょろきょろした。「ちょっと見てきたほうがよさそうだ」かれは森のはずれの丘を指さした。「あそこにのぼればなにか目じるしになりそうなものが見えるかもしれない」
「そしてわたしは朝食の用意ができるかもしれないわ」ポルガラが言った。「空き地を見つけて火をおこしましょう」
「すぐに戻りますよ」シルクは馬の向きを変えると、樺の白い幹のあいだをぬけて遠ざかっていった。
残りの面々は斜面をくだった。馬のひづめが黄金色の落葉の厚い絨緞をかさこそと蹴ちらした。数百ヤード森にはいったあたりに小川が流れていて、その土手に空き地が広がっていた。洞窟を出たときに聞こえたのは、この小川のせせらぎだったのだ。ポルガラが手綱をひいた。
「ここにしましょう。ガリオン、エリオンドとふたりでたきぎを集めてくれない? ベーコンとトーストがあればじゅうぶんだと思うわ」
「いいよ、ポルおばさん」ガリオンは反射的に答えると、鞍からおりた。エリオンドがそばへやってくると、ふたりは白い木立のなかへ引き返して落ちた小枝をさがしはじめた。
「また日光のもとへ戻れてよかった」エリオンドが倒木の下から大きな枝をひきずりだしながら言った。「洞窟もいいけど、やっぱり空を見られるほうがいいですよね」
ガリオンはこのあけっぴろげな顔つきの若者をひどく身近に感じた。洞窟の中で共有した経験がふたりの関係に密度をくわえ、この数年間ガリオンの意識の端でうろついていたある思いを明確にしていた。かれもエリオンドもポルおばさんとダーニクによって育てられたという事実、それが多くの点でかれらを兄弟のようにしているのだ。ガリオンはそのことを考えながら、一本のロープで大きな枝を束ねた。同時に気づいたのは、エリオンドのことをほとんど知らないということだった。みんながラク・クトルで発見する前、エリオンドの身にはどんなことがあったのだろう? 「エリオンド」ガリオンは興味深げにたずねた。「ゼダーがきみを見つける前、自分がどこに住んでたか少しでもおぼえてるかい?」
若者は考えこむ目つきになって、空をあおいだ。「都市みたいなところだったと思うなあ。通りや――店をおぼえているような気がするんです」
「おかあさんをおぼえてる?」
「おぼえてません。一ヵ所に長く住んだり――同じひとたちといたりした記憶がないんです。なんだか、ぼくはいつもよその家のドアを叩いていたような気がします。そうすると中のひとたちがぼくをいれてくれ、食べ物と寝る場所を与えてくれたんです」
ガリオンの胸にふいに強い憐れみがつきあげてきた。エリオンドもぼくと同じ――あるいはぼく以上にかわいそうな――みなし子だったんだ。「ゼダーがきみを見つけた日のことをおぼえてるかい?」
エリオンドはうなずいた。「ええ。とてもはっきりと。その日は曇りでした。日暮れがわからなかったから、何時ごろだったのか正確にはわからなかったんです。ぼくはすごく細い通りでゼダーに会ったんです――路地みたいなところでしょうね、きっと。ゼダーの目に傷ついたような表情があったのをおぼえてるんです――なにかひどいことがあったみたいに」エリオンドはためいきをついた。「かわいそうなゼダー」
「ゼダーはきみに話しかけたことがあった?」
「あまりたくさんはありませんでした。かれがしゃべるのは、ぼくに用事《エランド》があるときだけでした。でも、ときどき寝言を言う癖がありましたっけ。よく師《マスター》よ≠チて言ってたのをおぼえてます。そう言うときのゼダーの声には、愛があふれてることがありました。恐怖に満ちてるときもあったけど。なんだかかれにはふたりの全然ちがうマスターがいるみたいだった」
「そのとおりなんだ。はじめゼダーはアルダーの弟子のひとりだったんだよ。その後、かれのマスターはトラクになった」
「どうしてそんなことをしたんでしょうね、ベルガリオン? マスターを変えるなんて?」
「わからないよ、エリオンド。ほんとにわからない」
空き地のまんなかにダーニクが小さな火を起こしていた。ポルガラは低い声でハミングしながら、火のわきにポットや鍋を広げていた。集めてきた枝をガリオンとエリオンドが適当な長さに折りはじめたとき、馬にまたがったシルクが丘をおりてきて、みんなに合流した。「あそこはすごく見晴らしがいい」かれは鞍からひらりと飛び降りて言った。「あと十リーグも大道を行けばミュロスだ」
「マレリン川は見えたか?」ベルガラスがきいた。
シルクはかぶりをふった。「川そのものは見えませんでしたが、南のほうにでっかい谷がありますよ。川はそこを流れているんじゃないですか」
「するともうすぐだな。ここからその大道までの地形はどんなだね?」
「ちょっとしんどいですね。険しいし、森は木が密生しているようですから」
「がんばって進まにゃなるまいな。いったん大道についてしまえば、もう安心だ」
シルクがしかめっつらをした。「しかし、もうひとつの問題がありますよ。西から嵐が近づいてるんです」
ダーニクが顔をあげて冷たい空気の匂いをかぎ、うなずいた。「雪だ」かれは断言した。「吹雪だね」
シルクはうんざりしたような顔をした。「そこまで言わなきゃならないのか、ダーニク?」かれはほとんど非難口調で言った。
ダーニクはぽかんとしている。
「いやな事を口にすると、それが現実になるってことを知らなかったのか?」
「シルク、それはまったくのでたらめですよ」
小男は鼻を鳴らした。「知ってるさ――でもやっぱり本当なんだよ」
ポルおばさんの用意してくれたパンと干した果物とベーコンの朝食は、質素だったが、かれら全員を満足させるにじゅうぶんだった。食べ終わると、かれらはふたたび荷造りをして、冷たい小川の水で火を消し、馬にまたがって険しい斜面を進み、幹の白い樺の森を通ってせせらぐ小川をたどっていった。
ダーニクは速度をゆるめてトスと馬首をならべた。「なあ、トス」苔むした緑の石にしぶきをはねかえしている冷たそうな水を眺めながら、話しかけてみた。「これまで釣りをしたことはあるかい?」
大男ははにかんだように微笑した。
「じつはね、荷物のひとつに釣り糸と釣り針をいれてあるんだよ。チャンスがあったらふたりで――」ダーニクは言葉をとぎらせた。
トスの微笑が大きく広がった。
シルクがあぶみに立ち上がって、前方に目をこらした。「あと三十分で吹雪になるぞ」
ベルガラスがこぼした。「いったん吹雪になったら、なかなか進めないな」
「雪は大の苦手なんだ」シルクはいやそうにみぶるいした。
「それがドラスニア人の特徴なんだよ」
「そもそもどうしておれがドラスニアを出てきたと思うんです?」
一行が丘を進みつづけるうちに、前方にぶあつい雲がたれこめてきた。朝日が弱まったかと思うと消え、上空高く猛スピードで進んできた嵐の先端が真っ青な秋空を覆ってしまった。「さあくるぞ」エリオンドが陽気に言ったとき、最初の雪片が舞い降りてきて、寒風に渦巻きながらかれらのほうへ移動してきた。
シルクはエリオンドに渋い顔を向けると、ぼろぼろの帽子を耳まで引きおろし、みすぼらしいマントをしっかりと体にまきつけた。かれはベルガラスを見た。「これをどうにかする考えはないんでしょうね?」と辛らつにたずねた。
「名案とは言えんね」
「ときどきあんたにはほんとにがっくりさせられますよ、ベルガラス」シルクはマントの中へさらにふかくちぢこまりながら言った。
雪はいちだんとはげしくなってきた。周囲の木々が森中にふりしきる白いカーテンのためにかすみはじめた。
丘を一マイルあまり進んだあたりで、一行は樺の森を出て、暗緑色にそびえる縦の森にはいった。こんもりした常緑樹が風をさえぎり、ふるいにかけられた雪が枝の合間からものうげに落ちてきて、針をばらまいたような森の床にうっすらとつもっていく。ベルガラスはマントのひだにたまった雪をはらいおとすと、道をえらぼうとあたりを見回した。
「また迷ったんですか?」シルクがたずねた。
「そういうわけではない」老人はふりかえってダーニクを見た。「この丘をあとどのくらいおりたら、雪からはずれることができると思うね?」
ダーニクはあごをかいた。「さあて」かれはかたわらの大男のほうを向いた。「どう思う、トス?」
巨漢は頭を起こすと、空気の匂いをかぎ、片手であいまいな一連のジェスチャーをした。
「たぶんそのとおりだろうね」ダーニクは同意してから、ベルガラスに向きなおった。「この斜面がこの先も険しければ、きょうの午後になるでしょうね――進みつづけての話ですが」
「ふむ、それでは前進したほうがよさそうだ」ベルガラスは先に立って速足で丘をおりはじめた。
雪はふりつづけた。縦の木のすきまから差し込む光が弱まって、黒い木の幹のあいだに残っていた薄闇が薄れてしまうと、たよりになるのは、白い雪の不思議な、光源のない光だった。
正午近く、かれらはパンとチーズの昼食をそそくさとすませ、アレンディアをめざして森の斜面をくだりつづけた。午後の三時には、ダーニクとトスの予想どおり、雪に氷雨がまじりだした。まもなくしめった大きな雪片が消え、一行は木々をぬらす規則正しい霧雨の中を進んでいった。
夕方近くなると風が出てきて、冷たく不愉快な雨をおい散らした。ダーニクはきょろきょろした。「そろそろ夜を明かす場所をさがしたほうがいい。この風をよけられる場所がないと困る。それにしても、かわいたたきぎを見つけるのはちょっとむずかしそうだな」
馬にまたがっていても足が地面にくっつきそうな巨漢のトスが、あたりを見回してから、いましがたかれらがはいってきた広い空き地の向こう端を指さした。そこには常緑樹の若木が密生している。ふたたびトスは両手を動かしてさっきと同じ奇妙なジェスチャーをした。ダーニクはしばらくトスをじっと見守っていたが、やがてうなずいて、ふたりでしげみのほうへ近づき、馬からおりて、仕事にとりかかった。
ふたりの作った野営地は、若木が密生した奥にあった。風も吹き込まないし、からみあった枝がかやぶき屋根のように雨をはじいてくれる。ふたりは高い若木を曲げてその先端をほかの木の幹にしばりつけ、かなり大きなドーム状の枠をこしらえた。次にテントのキャンバス地で枠を被い、それを適当な場所でしっかり結びあわせた。こうして丸天井の、正面があいた、大きな部屋ほどもある大天幕ができあがった。正面に火をたく穴を掘り、その回りに石を並べた。
森は雨にぬれそぼっていた。かわいたたきぎを見つけるのはむずかしかったが、ガリオンは〈珠〉を追い求めた旅で得た経験を生かして、倒れた木の下や、大きな木の幹の風下側、せりだした岩の下のやぶの茂った場所などをさがした。そういうところなら、かわいた小枝や大枝がみつかるのだ。日が暮れるころには、エリオンドとふたりで、ポルガラとセ・ネドラが夕食の支度をしている即席のコンロからちょっと離れたところに、大量のたきぎをつみあげていた。
斜面を数百ヤードくだったところに小さな泉があったので、ガリオンは革袋をふたつ棒につるして肩にかつぎ、くだり坂をすべりおりていった。光は急速に闇と吹きさらしの常緑樹にまぎれこんでしまい、口まで水のはいった革袋を腿にぶつけながら、ふたたび木立をぬって斜面をのぼりだしたころには、たきびの赤い輝きが陽気にかれをさし招いていた。
ポルガラはしめったマントを木の大枝にひっかけて、低い声で鼻歌をうたいながら、セ・ネドラと料理をしていた。
「まあ、おそれいります、陛下」ガリオンが革袋を渡すと、セ・ネドラは言った。かすかな笑みは心もとなく、まるで意識的に努力して快活にふるまっているかのようだった。
「どういたしまして、女王陛下」ガリオンはオーバーに腰をかがめた。「料理人の助手が水を必要とするときは、いつでもこの皿洗いが見つけてさしあげますよ」
セ・ネドラはちょっとほほえんで、かれの頬にキスしたあと、ためいきをついて、ふたたびポルガラがかきまぜているシチューのために、野菜をさいの目に切りはじめた。
食事がすんだあと、みんなはたきびの前にものうげにすわって、木のこずえを騒がせる風の音や、周囲の森にふりこめる雨の音に聞き入った。
「きょうはどのくらいきたの?」ガリオンの肩に力なくもたれているセ・ネドラがいまにも眠りそうな声でたずねた。
「七、八リーグというところだね」ダーニクが答えた。「たどるべき道がないと、歩みものろくなる」
「ミュロスから〈大市〉にいたる公道にたどりついてしまえば、もっと早く進めるよ」シルクがつけくわえた。その考えにかれの目は輝きを増し、長いとがった鼻がうごめきはじめた。
「気にせんでいいぞ」ベルガラスがシルクに釘をさした。
「どうしたって、物資が必要になりますよ、ベルガラス」シルクは目を輝かせたまま言った。
「それはダーニクにまかせるさ。おまえさんと取引する連中は物事を徹底的に考える時間があると、きまって前後の見境をなくすようだからな」
「しかしですね、ベルガラス、この旅は急いでいると言ったじゃありませんか」
「それとどういう関係があるんだ」
「だれかを追いかけていると、旅人は先を急ぐものでしょうが――知らなかったんですか」
ベルガラスは長々とシルクを見つめ、「ほっといてくれ、シルク」と言ったあと、残る全員に「みんな少し眠ろうじゃないか。明日は長い一日になるぞ」
真夜中をまわったころ、ガリオンは突然ぎくりとして目をさました。毛布の中で寝返りをうち、となりに寝ているセ・ネドラの規則正しい寝息と、木の大枝をたたく低い雨音に耳をすました。風はやんでおり、居心地のいい避難所の正面のたきびは燃え尽きて、赤らんだ燃えさしになっていた。ガリオンはわずかに残っていた眠気をふりはらって、目覚めた原因を思いだそうとした。
「物音を立てるな」ベルガラスが避難所の向こう側から低く言った。
「おじいさんも目がさめたのかい?」
「ゆっくり毛布から出てくるんだ」老人の声はかろうじて聞き取れるほどだった。「剣に手をかけてな」
「なにごとだい、おじいさん?」
「いいから言われたとおりにしろ!」
雨のふる闇の頭士高く、大きなはばたきが聞こえてきて、黒ずんだ赤い光が急にひらめいた。ふたたびはばたきが聞こえ、遠ざかった。
「動け、ガリオン」ベルガラスがせきたてた。「剣をぬくんだ――輝きが見えないように〈珠〉をなにかで隠せ」
ガリオンは毛布にからまった足を蹴るようにして、闇の中で〈鉄拳〉の剣を手探りで捜した。
ふたたびものすごいはばたきが頭上に聞こえ、次に奇怪なしゅうしゅうという鳴き声にともなって、黒ずんだ赤い光がまたひらめいた。
「あれはなに?」セ・ネドラが叫んだ。
「静かにするんだ!」ベルガラスがぴしゃりと言った。
かれらが闇の中で身を固くしているうちに、はばたきは雨のふりしきる夜のなかへ遠ざかっていった。
「なんです、あれは、ベルガラス?」シルクが緊張ぎみにたずねた。
「ものすごく大きな雌の獣だ」老人は静かに答えた。「目はあまりきかないし、切株並みに頭はからっぽだが、非常に危険な獣だ。獲物をさがしている。おそらく馬や――われわれの匂いをかぎつけたのだろう」
「どうして雌だとわかるんですか?」ダーニクがたずねた。
「世界中で残っているのはこれ一匹だけだからだ。めったに棲家のほら穴から出てこないが、数世紀にわたって、おおぜいの人々がこの獣を垣間見ている。伝説が生まれた由縁さ」
「すごくいやな気分がしてきたよ」シルクがつぶやいた。
「伝説にもとついて描かれた絵はまるでドラゴンだが、実際はそれほど似ておらん」ベルガラスはつづけた。「だが、おそろしくでかいし、本当に飛ぶことができる」
「ふざけないでください、ベルガラス」ダーニクが笑った。「ドラゴンなんて生き物はいやしませんよ」
「それを聞いてほっとしたよ。それじゃ、外へ出てそのことを獣に説明してやったらどうだ?」
「その獣って、例の夜、マラゴーの上の山中でぼくたちが聞いたのと同じ動物かい?」ガリオンがたずねた。
「そうだ。剣は持ったか?」
「ここにあるよ、おじいさん」
「よし。さあゆっくりと外にはいだして、最後の燃えさしに泥をかけるんだ。火は獣をひきつけるから、いきなり火を吐きかけられるような危険は冒さないようにしよう」
ガリオンはあけっぱなしの正面からにじり出て、両手に泥をすくい、いそいで火の上にかぶせた。
「本当に空飛ぶトカゲなんですかい?」シルクがしわがれ声でささやいた。
「いや」ベルガラスは答えた。「実際は鳥の仲間なんだ。だが長い蛇のような尻尾があるし、体をおおっているのは羽根というよりむしろ鱗だ。歯もある――おそろしく長くて鋭い歯がぎっしりとな」
「正確にどのくらいの大きさなんです?」ダーニクがきいた。
「ファルドー農園の納屋をおぼえているかね?」
「ええ」
「あのくらいある」
どこか遠くのほうからふたたび金属的な鳴き声がひびいてきて、暗赤色の光がひらめいた。
「あれが吐く火はそんなにたいしたものじゃない」ベルガラスは相変わらず声を低めて話しつづけた。「この森は雨でびしょぬれだからなおさらだ。火が厄介なものになるのは、乾燥した草むらであれにつかまった場合だよ。この獣は図体は大きいが、あまり勇敢ではない――しかも地上では凍った池の上のブタそのものだ。機敏に動けないのさ。しかし、あれが戦いはじめたら事だぞ。徹底的に痛めつけるのはまずむずかしいだろう。われわれに期待できる最良の手段は、おどかしておっぱらってしまうことだ」
「戦う?」シルクが喉をつまらせた。「本気じゃないんでしょうね」
「こっちに選択権はないよ。もしあの獣が空腹で、われわれや馬の匂いを嗅ぎあてたら、この森を引き裂いてでもわれわれを見つけようとするだろう。むこうにも弱点はいくつかある。一番弱いのは尻尾だ。翼が邪魔になってうしろがよく見えないし、地上ではあまり早く向きを変えられない」
「つまりはこういうことですか」シルクが言った。「このドラゴンの背後にこっそりしのびよって、尻尾をなぐりつける、と」
「まあそんなところだ」
「ベルガラス、気でも狂ったんですか? なんで魔術で追っぱらわないんです?」
「あの獣には魔術がきかないからよ」ポルガラが平然と説明した。「神々があの獣の種を創造したとき、魔術にたいする免疫をトラクがあとからつけたしたの。ドラゴンの概念にすっかり感心して、トラクはそれを自分の象徴に選んだのよ。かれはあらゆる手段を尽くして、あれを見えないものにしようと務めたわ」
「あの獣はトラクの性格上の欠陥を具現していたんだ」ベルガラスがにがにがしげに言い添えた。「とにかく、ドラゴンは動きがにぶいし、利口じゃないし、痛みに不慣れだ。慎重にやれば、だれも怪我をせずにあれをおどかして追い払うことができるだろう」
「戻ってきます」エリオンドが言った。
かれらが耳をすますと、ぬれそぼった森の向こうから巨大な翼のはばたきがまたひびいてきた。
「広いところへ出よう」ベルガラスが緊張の面もちで言った。
「それはいい考えだ」シルクがうなずいた。「これをやらなけりゃならないなら、逃げるための広くて平坦な場所がまわりにほしいですからね」
「セ・ネドラ」ポルガラが言った。「あなたはこのしげみのできるだけ奥へはいってなさい。隠れる場所を見つけるのよ」
「はい、レディ・ポルガラ」セ・ネドラはおびえたように小さな声で答えた。
かれらは避難所から闇の中へ這って出た。雨は弱まって霧雨になり、木々のあいだにしたたっている。少し離れたところにつながれている馬たちが神経質にいなないた。ガリオンはぬれた常緑樹の樹脂の匂いにまじって、馬たちのツンとくる恐怖の匂いを嗅ぎとった。
「ようし」ベルガラスがささやいた。「ちらばるんだ――気をつけろ。獣がほかに気を取られていないかぎり、攻撃しようとするな」
かれらはしげみから広い空き地へ出ると、歩きはじめた。ガリオンは剣をにぎりしめて、足で地面をさぐりながら慎重に進んでいった。空き地の向こう側につくと、大きな木の幹を見つけて、そのうしろにまわりこんだ。
雨におおわれた夜空に目をこらし、かれらは緊張のうちに待ち受けた。
重苦しいはばたきが木立のあいだからつたわってきて、またあの大きな鳴き声が聞こえた。その音がかれらの上にのしかかってきたとき、ガリオンは上空に巨大な渦巻く炎を見た。その炎にふちどられて、ドラゴンの姿が浮かびあがった。ドラゴンはかれが想像していたよりもずっと大きかった。翼はゆうに一エーカーをおおいかくしてしまうだろう。残忍そうなくちばしが開いている。のたくる炎に囲まれたとがった歯がはっきり見えた。異様に長い蛇のような首、巨大な爪。そして長いトカゲそっくりの尻尾が、空き地めがけてつっこんでくる獣のうしろで宙をたたいている。
そのとき、エリオンドが木の幹のうしろから進み出て、昼の散歩でもするように、落ち着きはらって空き地のまんなかへ歩いていった。
「エリオンド!」ポルガラが叫んだとき、勝ち誇った金切り声をあげてドラゴンが空き地へ急降下してきた。爪をひろげて、ドラゴンは無防備な若者に襲いかかった。くちばしを開き、どす黒いオレンジ色の炎を吐いて、エリオンドをひとのみにしようとした。エリオンドがやられる! ガリオンは剣を高くかかげてとびだした。だが、巨大な獣に向かって走りだしたそのとき、なじみ深いポルおばさんの意志の力がうねりたつのを感じ、エリオンドは消え失せた。彼女が安全な場所へエリオンドを転位させたのだ。
ドラゴンが大地をゆるがせて地面にぶつかった。いまいましげなわめき声と、赤い火の輝きが空き地を満たした。半分たたまれた鱗状の翼は家よりも高くつきでていた。地面をたたく尻尾は馬の体よりぶあつく、びっしり歯の生えた湾曲した口は見るのも恐いほどだった。炎を吐きだすたびに、むかつくような悪臭が空き地に充満した。ドラゴンの吐く火明かりで、ガリオンは黄色い細い目をはっきり見ることができた。ベルガラスの話から鈍そうな表情を予想していたのだが、空き地をねめまわす目は機敏で、ぞっとするような飢餓感をたたえていた。
そのとき、ダーニクとトスがドラゴンに襲いかかった。かれらは木立のなかからとびだしてきた。ダーニクは斧を、トスは鍛冶屋の鋭い刃のついた鍬を持っている。かれらはふた手にわかれてドラゴンののたうつ尻尾をたたき切りはじめた。ドラゴンは悲鳴をあげて炎を吐き、ぬれた森の土を爪でかきむしりはじめた。
「気をつけろ!」シルクが叫んだ。「向きを変えようとしてるぞ!」
翼で空をたたき、巨大な土くれをはねとばしながら、ドラゴンはぎごちなくふりかえった。だが、ダーニクとトスはすでに安全な木立のなかへ逃げ込んでいた。ドラゴンが燃えるような目で空き地をさがしまわっているとき、シルクが刃の広いドラスニアの短剣を手にすばやくドラゴンの背後にとびだした。かれは巨大な尻尾の根元に何度も短剣をつきさした。そしてドラゴンがもがきながら向きを変えると、ふたたびまわりの安全な森へ逃げ帰った。
すると、またしてもエリオンドが空き地に出ていった。みじんの恐怖もない、いかめしい表情で、木立のあいだからまっすぐ怒り狂う獣のほうへ歩いていく。
「どうしてこんなことをしているんだ?」エリオンドは静かにたずねた。「いまはこんなことをしている時じゃないし、ここはそんなことをする場所じゃないよ」
ドラゴンはかれの声を聞くと、びくりとしたようだった。燃えるようだった目が用心深くなった。
「起きようとしていることはおまえには避けられない」かれは真剣につづけた。「ぼくたちのだれにも避けられないんだ――だからこんなばかなことをしたって、それは変えられないよ。もう行ったほうがいい。ぼくたちだって本当はおまえを傷つけたくはないんだ」
ドラゴンはたじろいだ。ふいにガリオンはドラゴンが当惑しているだけでなく、恐れてもいるのを感じた。次の瞬間、彼女は歯をくいしばったように見えた。猛り狂ったような声をあげて、大きくあけた口からおびただしい炎を吐き、エリオンドをのみこもうとした。かれは逃げようともしなかった。
ガリオンの体中の神経が悲鳴をあげて、若い友の助けに駆けつけうとガリオンをせきたてた。だが、ガリオンは筋肉ひとつ動かすことができなかった。かれは片手に剣を持ったまま、かなしばりにあったようにたちすくんだ。
すさまじい炎が鎮まったとき、残念そうだが断固たる表情をうかべたエリオンドが無事現われた。「こういうことはしないですませたかったんだ」かれはドラゴンに言った。「でも、おまえがこんなふうじゃぼくたちだってだまっているわけにはいかない」かれはためいきをついた。「しかたありません、ベルガリオン。彼女を追いはらいましょう――でもあまり痛い目にはあわせないでください」
それらの言葉があらゆる拘束をときはなったかのように、激しい喜びがつきあげてきて、ガリオンはまっしぐらにドラゴンの背後にかけより、ふいに輝きだした剣で無防備な背中と尻尾をたてつづけに攻撃した。肉の焼けるものすごい悪臭が空き地に充満し、ドラゴンが激痛に金切り声をあげた。苦しまぎれにばかでかい尻尾をふり動かしたが、それは、〈鉄拳〉の剣をふりまわすガリオンをやっつけようという獣の意識的努力に反して、かえってそのすさまじい殴打からガリオンを守ることになった。鋭い刃はやすやすと鱗と肉と骨を切り分け、のたうつ尻尾の先を四フィートほどあざやかに切断した。
ドラゴンの口から天地をゆるがす悲鳴があがり、炎が巨大な雲のように広がって空を焦がした。剣の与えた傷口から血がほとばしってガリオンの顔にかかり、瞬間的にかれは目が見えなくなった。
「ガリオン!」ポルガラが叫んだ。「気をつけて!」
熱い血をぬぐおうと、ガリオンは目をこすった。ドラゴンはおどろくほど機敏にうしろをふりかえった。爪が地面をかきむしり、翼が空気をふるわせた。〈珠〉がにわかにカッと燃えあがった。青い炎が新たに剣をかけあがり、刃にこびりついたどろどろの血を焼き払った。鋭くとがった口でガリオンを襲おうとしていたドラゴンは、白く燃える剣を見てたじろいだ。ガリオンが剣をかかげ持つと、ドラゴンはまたひるんで、一歩一歩ぬれた空き地を後退しはじめた。
ドラゴンは恐れている! どういうわけか、剣の青い炎がドラゴンをおびえさせているのだ! 金切り声をあげ、かまどのような熱い火を吹いて必死に身をかばおうとしながら、ドラゴンはあとずさっていく。傷ついた尻尾から流れ出す血が空き地に点々と飛び散った。あきらかに〈珠〉の火は、ドラゴンにとって耐えられないものなのだ。ふたたび狂おしい興奮にかられたガリオンが剣を高くあげると、猛烈な火柱がその先端から噴き出した。むちのようにしなう炎をドラゴンにつきつけると、翼や肩がしゅうしゅうと焦げる音が聞こえた。これでもかこれでもかといわんばかりに、炎をふりかざすと、ついにドラゴンは苦悩の叫びをあげて向きを変え、爪で地面をひっかき、巨大な翼を死に物狂いではばたかせて、逃げだそうとした。
ほうほうの体で宙に身を投げ出すようにして、翼で夜をひっかき、ばかでかい体をもちあげようとした。空き地のはずれの樺のこずえにぶつかり、森の上へ上昇しようと狂ったようにはばたいて、ようやくドラゴンは空へ浮かびあがった。暗い宙いっぱいに黒っぽい火を吐き、うしろに血の糸をひいて、耳ざわりな鳴き声をあげながら、彼女は南西へ飛びさっていった。
呆然たる静寂のなかで、かれらは雨空に消えていく巨大な獣を見上げた。
真っ青な顔をしたポルガラが木々の下から出てきて、エリオンドに向き合った。
「いったいどういうつもりなの?」彼女はおそろしく静かな声でたずねた。
「なんのことですか、ポルガラ」エリオンドはとまどったように言った。
彼女ははた目にもわかる努力をして自分を抑えた。「危険という言葉はあなたにはなんの意味もないってわけ?」
「ドラゴンのことですか? でも、彼女は本当はそれほど危険じゃありませんでしたよ」
「あいつはおまえをおでこまで火だるまにしたんだぜ、エリオンド」シルクが指摘した。
「ああ、あれ」エリオンドはほほえんだ。「でもあの火は本物じゃなかったんです」かれは残りの面々を見回した。「みんなそのことを知らなかったんですか?」ちょっとびっくりしたようにたずねた。「あれはただのまぼろしだったんです。悪はいつだってそうですよ――まばろしなんです。心配させたのなら悪かったけど、説明してる暇がなかったんです」
ポルおばさんは落ち着きはらっている若者をしばらくじっと見ていたが、やがて、燃える剣をまだ持ったままのガリオンに視線を転じた。「それで、あんたは――あんたは――」あとは言葉にならなかった。ポルガラはのろのろとふるえる両手に顔を埋めた。「このふたりときたら」彼女は悲痛な声で言った。「このふたりときたら! もう耐えられそうにないわ――このふたりには」
ダーニクはいかめしい顔でポルガラを見ると、斧を大男のトスに渡した。そして彼女に歩み寄り、肩に腕をまわした。「よしよし」はじめのうち、ポルガラは抵抗しそうに見えたが、やがて突然ダーニクの肩に顔を埋めた。「さあ、行こう、ポル」かれはなだめるように言うと、そっとポルガラに回れ右をさせて、避難所へ連れだって歩きはじめた。「朝になれば、なにもかもずっとよくなるさ」
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その雨の夜、ガリオンは朝までほとんど眠れなかった。興奮の余韻でいまだに脈が早く、セ・ネドラと並んで毛布にくるまったまま、ドラゴンとの出会いを幾度となく思いかえした。空が白々と明けはじめるころになって、ようやく冷静を取り戻し、戦いのさなかにふと思ったことをじっくり考えることができた。ぼくは戦うのを楽しんでいた。ひるむのがあたりまえの戦いを、実際には楽しんでいた。そのことを考えれば考えるほど、そういうことが起きたのはなにも今度がはじめてではないのに気づいた。幼い子供のころにも、危機にさらされるたびに、これと同じやみくもな興奮に血をわきたたせたことがある。
センダリア仕込みの堅実な良識は、戦いや危険にたいするこの熱中は、アローン人ゆずりの不健全な副産物であり、きびしく抑制すべきものだとささやいていたが、ガリオンがその忠告に耳をかたむけないことははっきりしていた。これまでしばしば口にしたなぜ、ぼくが?≠ニいう訴えにたいする答えを、ついにかれはつきとめていた。ガリオンがこれらの恐ろしい、投げ出したくなるような務めを果たすべく選ばれたのは、かれがそれにうってつけだったからなのだ。
「それがぼくのすることなんだ」ガリオンはつぶやいた。「理性的人間なら試してみようとも思わないような、ばかばかしいほど危険なことがあると、いつでもみんなはぼくを呼びにやる」
「なんですって、ガリオン?」セ・ネドラがねぼけ声で言った。
「なんでもないよ、ディア。ちょっと考えごとをしていたんだ。おやすみ」
「うーん」彼女はつぶやくとかれに身をすりよせてきた。かぐわしい髪の匂いがガリオンの鼻孔を満たした。
ずぶぬれの森の大きく広がった枝の下に夜明けがゆっくりと這いおりて、あたりが白っぽくなった。執拗な霧雨が森の床からたちのぼる朝霧とまじりあって、しめった灰色の雲のようなものになり、樺と樅《もみ》の黒い幹を包みこんだ。
まどろみからさめたガリオンは、ダーニクとトスのぼんやりした姿が、避難所正面の火の消えたたきびのわきにひっそりと立っているのに気づいた。かれは毛布からすべりでて、眠っている妻を起こさないように注意しながら、じっとりと冷たいブーツに足をつっこんだ。それから立ち上がってマントをはおり、テントの外へ出てふたりに近づいた。
ガリオンは陰気な朝の空を見上げ、「まだふってるのか」と、日の出前に起きた人間特有の静かな口調で言った。
ダーニクはうなずいた。「この季節だと、一週間やそこらはやまないだろうね」腰にさげた革袋をあけると、ダーニクは小さな火口《ほくち》を取り出した。「火を起こしたほうがいいだろう」
大男のトスがだまって避難所の片側に歩いていき、ふたつの革袋をもちあげて、泉のほうへ急斜面をおりはじめた。大きな図体をしているのに、霧にかすむしげみをほとんど音もたてずに進んでいく。
ダーニクは火をたく穴のそばにひざまずいて、その中心にかわいた小枝を注意深くつみあげた。つぎに火口の玉を小枝の横に置き、火打ち石と鋼をとりだした。
「ポルおばさんはまだ眠ってるの?」ガリオンはたずねた。
「うとうとしている。だれかが火を起こしているあいだ、温かいベッドでぬくぬくしているのは最高に気持ちがいいんだそうだ」ダーニクはやさしくほほえんだ。
ガリオンもにやりとした。「これまでずっと一番に起きてきたからだろうね」かれはちょっと口をつぐんだ。「ゆうべのことをまだ怒っているのかな?」
ダーニクは穴の上にかがみこんで鋼で火打ち石をたたいた。「いや、いつもの落ち着きが戻ったようだよ」火打ち石と鋼がくぐもったカチッという音をたてた。カチッと鳴るたびに明るい火花が穴のなかへ落ちていく。そのうちのひとつが火口《ほくち》に落ちると、鍛冶屋はその中心からオレンジ色の小さな炎の舌が出てくるまで、そっと息を吹きかけた。それから注意深く火口《ほくち》を小枝の下にさしいれると、炎が大きくなってかわいたぱちぱちという音とともに広がった。「さあ、ついたぞ」ダーニクは火口《ほくち》の火をはたき落とすと、火打ち石や鋼と一緒に革袋にしまいこんだ。
ガリオンは隣りにしゃがんで、かわいた大きな枝を短く折りはじめた。
「きのうはずいぶん勇敢だったな、ガリオン」ふたりで火をくべながら、ダーニクが言った。
「それを言うなら、いかれてた、のほうが正しいと思うよ」ガリオンは皮肉っぽく答えた。「正常な人間があんなことをやろうとする? 問題なのは、ぼくがいつでも、事態がどんなに危険かをこれっぽちも考えないうちに、とびだしていっちまうことなんだ。ときどきおじいさんの言ったことは正しくないんじゃないかと思うよ。たぶんポルおばさんはぼくが赤ん坊のときに、ぼくを頭から落としたんだ」
ダーニクは低い声でくすくす笑った。「それはどうかな。ポルは子供や、壊れやすいものにはとても用心深いからね」
ふたりでさらに枝をくべ、火がいせいよく燃えだすと、ガリオンは立ち上がった。やわらかな赤らんだ火明かりが霧に照りはえて、現実ばなれした不思議な雰囲気をかもしだしていた。まるで夜のあいだにみんながそれとは知らずに現実世界の境界を越えて、魔法とおとぎの世界へ踏み込んだかのようだった。
トスが水のしたたる袋をかついで泉から戻ってくると、ポルガラが長い黒髪をくしけずりながら、避難所から現われた。左のはえぎわにある二房の白い髪が、けさはなぜか光ってみえた。「とてもよく燃えてるわね、ディア」彼女は夫にキスしてから、ガリオンを見つめてたずねた。「なんともない?」
「え? あ、うん。元気だよ」
「切傷も打ち身も火傷もしてない? ゆうべは見過ごしたかもしれないわよ」
「ぜんぜん。すり傷ひとつなく切り抜けたらしいや」ガリオンはためらった、「ゆうべはずいぶんあわてた、ポルおばさん――エリオンドとぼくのことで?」
「ええ、ガリオン、本当にびっくりしたわ――でももうすんだことよ。朝食はなにが食べたい?」
そのしばらくあと、白い夜明けが木々の下へ着実に這いおりてきたころ、シルクはふるえながらたきびの前に立って、両手を火にかざしながら、ポルおばさんが炎すれすれに置いた平らな岩の上に、ぐつぐつ煮えたつ鍋をかけるのを疑いのまなこで見つめた。「粥《かゆ》?」かれはたずねた。「また?」
「あつあつのポリッジよ」ポルおばさんは柄の長い木のスプーンで鍋の中身をかきまぜながら、訂正した。
「おなじですよ、ポルガラ」
「いいえ、ちがうわ。お粥《かゆ》のほうが薄いのよ」
「こってりしてようと、薄かろうと、おなじでしょうが」
ポルガラは片方の眉をつりあげて、シルクをじっと見た。「ねえ、ケルダー王子、どうして朝はいつもそう突っかかるの?」
「朝がだいきらいだからですよ。朝なんてものがあるのは、だいたい、夜と午後が衝突しないためにすぎないんだ」
「わたしの強壮剤を飲めば、気分がすっきりするかもしれないわ」
シルクの目が用心深くなった。「あ――遠慮しますよ。ありがたいけど、ポルガラ。これで眠気もふっとんだから、ずっと気分がよくなるでしょうよ」
「よかった。さてと、ちょっとそこをどいてもらえる? そっちでベーコンを焼きたいのよ」
「おおせのとおりに」シルクは回れ右をすると、そそくさと避難所へ逆戻りした。
毛布の上に寝そべっていたベルガラスが、おもしろそうな顔で小男を見上げた。「賢明であるはずの男にしちゃ、おまえさんはときどきへまをやる傾向があるな。料理中のポルに文句をつけるのはやめたほうがいいことぐらい、もうのみこんでおくべきだぞ」
シルクはもぐもぐ言って、蛾の食った穴だらけの毛皮のマントを拾い上げた。
「馬のようすを見てきますよ。一緒にどうです?」
ベルガラスはポルガラがたきぎをじゃんじゃん使っているのをじっと眺めてから、同意した。「悪くない考えだ」かれは立ち上がった。
「ぼくも行くよ」ガリオンは言った。「筋肉をほぐしたいんだ。ゆうべは切株の上で眠ったんじゃないかと思うほどでね」かれは剣のベルトを肩からはずすと、ふたりについて避難所の外へ出た。
「あれが現実にあったことだとは信じられないな」空き地まできたとき、シルクがつぶやいた。「ドラゴンのことさ。日の光で見ると、なにもかもひどく平凡に見える」
「そうでもないよ」ガリオンは空き地の向こう端に落ちている鱗だらけのドラゴンの尻尾のきれはしを指さした。その先端はまだかすかに動いていた。
シルクはうなずいた。「たしかになんでもない朝の散歩ででくわす物じゃない」かれはベルガラスを見た。「またドラゴンが襲ってくる見込みはありますかね? しょっちゅう肩ごしにうしろを確かめなくちゃならないとしたら、これはえらく気疲れする旅になりますよ。ドラゴンは執念深いんですか?」
「どういう意味だ?」老人はたずねた。
「だって、ガリオンが尻尾を切り落としたんですからね。ひそかに恨んだりしませんか?」
「ふつうはそういうことはない」ベルガラスは答えた。「それほどの頭はないよ」かれは眉をよせて考えこんだ。「わしが気になるのは、あの遭遇自体によからぬなにかがあったということなのだ」
「遭遇したこと自体よくはありませんでしたよ」シルクはみぶるいした。
ベルガラスはかぶりをふった。「そういうことではない。わしの気のせいだったのかもしれんが、ドラゴンはわれわれのうち特定のひとりを捜していたように思えたのだ」
「エリオンドかな?」ガリオンは言った。
「そんなふうに見えた。だがエリオンドを見つけたとき、ドラゴンは恐れているようなようすを見せた。それに、かれがドラゴンに言ったことはどういう意味だったのだろう?」
「だれにもわかりゃしません」シルクが肩をすくめた。「エリオンドはこれまでもずっと摩訶不思議な子供だったんですからね。かれがおれたちと同じ世界の人間だとは思えない」
「しかし、ドラゴンはガリオンの剣をどうしてあれほどこわがったのだ?」
「まるごとひとつの軍隊だって、あの剣には恐れをなしますって、ベルガラス。火ひとつにしたって、じつにぞっとさせられますよ」
「ドラゴンは火が好きなんだぞ、シルク。わしはあの獣が燃える納屋ひとつのために、しおらしいふりをして人をだまそうとするのを見たことがあるし、あるときなどは、うっとりと山火事を見ながら一週間とびまわっていたくらいだ。ゆうべのなにかが、ずっと頭にひっかかっているのだ」
馬たちがつながれているしげみの奥からエリオンドが出てきて、雨にぬれた草むらを用心深く歩いてきた。
「なんともないかい?」ガリオンがたずねた。
「馬たちですか? 元気です、ベルガリオン。朝食の用意はもうできてますか?」
「あれを朝食と呼びたいならな」シルクが渋い顔で答えた。
「ポルガラの料理の腕はすごいですよ、ケルダー」エリオンドは熱っぽく断言した。
「世界一の料理人だって、相手がポリッジじゃ腕のふるいようがないさ」
エリオンドの目が輝いた。「ポリッジをこしらえているんですか? ぼくそれが大好きなんです」
シルクはまじまじとエリオンドを見てから、悲しげにガリオンをふりかえった。「な、若者を堕落させるのは赤子の手をひねるようなもんさ。ちょっとでも健全なしつけをほどこそうものなら、それっきりだ」シルクは肩をそびやかすと、陰気に言った。「しかたがない、粥《かゆ》を片づけちまうとするか」
朝食をすませると、一行は一夜の宿を解体して、泣きべそをかいた空から落ちてくるやわらかな霧雨のなかを出発した。正午近く、広々とした場所にたどりついた。一筋に伸びた茂み、点々と切株の残る地面は幅が四分の一マイルほどあって、そのまんなかを広い泥道が走っている、
「ミュロスからつづく大道だ」シルクが満足そうに言った。
「どうして木が全部切り倒されているのかな?」エリオンドがたずねた。
「この道のわきでよく追いはぎの待ち伏せがあったんだよ。両側の木を切り倒しておけば、襲われた旅人が逃げられるだろう」
一行は雨のしたたる木立の下から出て、雑草だらけの空き地を横切り、泥道にはいった。
「これでもっと早く進めるはずだ」ベルガラスが馬を蹴って速足にさせながら言った。
かれらは緩い駆け足で、休みなく数時間南へ大道をたどっていった。木々におおわれた丘のふもとをあとにすると、木は起伏する草原に変わった。丘の頂上にたどりついたところで、手綱を引き、白い息を吐いている馬たちを一服させた。北西におおきなアレンドの森の黒々とした国境が霧雨にかすんで見え、さらにその少し先に、陰気な色の城壁をはりめぐらしたミンブレイトの城が、草原を見下ろすようにそびえているのが見えた。セ・ネドラがためいきをもらしてぬれた草原に目をこらし、城塞をじっと見つめた。アレンド社会の中核を成す頑固で、抜け目のない疑い深さが、その石造りの城に体現されているように見えた。
「だいじょうぶかい?」ガリオンはたずねた。いまのためいきが、つい最近になって影をひそめた、あの暗い憂鬱のぶりかえしのあらわれではないかと思ったのだ。
「アレンディアにはとても悲しそうな雰囲気があるわ」セ・ネドラは答えた。「数千年の憎悪と苦悩、それが証明したのはなんなの? あのお城だって泣いているみたい」
「あれはただの雨だよ、セ・ネドラ」ガリオンは慎重に返事をした。
「ちがうわ」セ・ネドラはまたためいきをついた。「それだけじゃないわよ」
ミュロスからの道はぬかるんだ黄色の傷跡のように茶色くうなだれた草原のあいだを伸びて、紆余曲折しながらアレンドの平原へとつづいていた。つぎの数日間で一行は威容を誇るミンブレイトの城を通過して、藁ぶきや編み垣屋根のうすよごれた村へはいっていった。冷たい空気中にツンとする木の燃える煙が沼気のようにただよい、ぼろをまとった農奴たちの希望のない表情が、みじめな絶望のうちに一生が終わることを表わしていた。日が暮れるたびに一行が泊まったみすぼらしい路傍の宿屋は、いつも腐った食べ物と汚れた体の臭いがした。
四日め、かれらは丘の頂上に達し、ミュロスからの公道と〈西の大街道〉の交差点に立つ〈アレンドの大市〉のにぎわいを見おろした。泣きだしそうな灰色の空の下、一リーグ以上にわたって、青や赤や黄色のテントや大天幕が広がり、その大規模な市場の中心を出入りする荷物を積んだ動物の列が、アリの行列よろしく平原をのろのろと横切っていく。
シルクはみすぼらしい帽子をうしろにおしあげた。「みんなであそこへ乗りいれる前に、ちょいと見てきたほうがよさそうだな。しばらく浮世とは縁がなかったから、物事の感触をつかんでおくのは悪くない」
「よかろう」ベルガラスが同意した。「だが、ごまかしはいかんぞ」
「ごまかし?」
「なんのことかわかるだろう、シルク。才覚を働かせるなと言っているのだ」
「信用してくださいよ、ベルガラス」
「そうするよりしかたないな」
シルクは笑って馬の脇腹をかかとで蹴った。
残りの一行は、シルクが泥だらけの平原に立つ半永久的なテント都市めざして疾走していくのを見ながら、並足で長い斜面をくだりはじめた。市が近くなるにつれて、空中に充満する耳ざわりな喧騒が聞こえてきた――無数の声がいっぺんに叫んでいるような、ごうごうたるやかましさだ。匂いも種々さまざまだった――香料の匂い、食べ物を料理する匂い、めずらしい香水の匂い、そして馬の囲いの臭い。
ベルガラスは馬の手綱を引いた。「ここでシルクを待とう。まごまごしてとんでもないことに会うのはごめんだ」
かれらは冷たい雨の中で、道の片側に馬たちを休ませ、荷物を積んだ動物たちがぬかるんだ道をこちらにむかって足をすべらしながら、のろのろと近づいてくるのを見守った。
四十五分ばかりたったころ、シルクが丘をあがってきた。「慎重に近づいたほうがいいと思いますよ」かれのとがった顔は真剣だった。
「何事だ?」ベルガラスはたずねた。
「デルヴォーにでくわしたんです。おれたちのことを聞いてまわっているアンガラク人の商人がいるそうです」
「それなら、市は素通りすべきですね」ダーニクが言った。
シルクは首をふった。「その好奇心の強いアンガラク人について、もうちょっと知っておいたほうがいい。デルヴォーがかれのテントにおれたちを一日かそこらかくまってくれるそうだが、市をぐるっとまわって南からはいるなら、それも悪くない考えだと思う。トル・ホネスからの隊商のひとつに合流できるからな。そうすれば、それほど目だたない」
ベルガラスは雨空をにらみながら考えた。「よかろう」かれは決心した。「あまり時間をむだにしたくないが、だれかにつけられているのも気にいらん。デルヴォーがどんなことを話してくれるか行ってみるとしよう」
かれらは雨でびしょぬれの草むらを大きく半円形に進んで、市の一マイル余り南にある〈西の大街道〉のぬかるんだ道にたどりついた。贅沢な毛皮のマントにくるまったトルネドラの商人たちが六人、ぎしぎしうめく荷馬車の列をしたがえてやってきた。ガリオンたちはひかえめにその行列の最後尾につづいた。空がしだいに暗くなりはじめ、わびしい雨の夜が近づいていることを告げていた。
テントと大天幕のあいだの細い小道は、世界各地からやってきた商人たちでこったがえしていた。くるぶしまであるスープみたいなぬかるみは、おびただしい馬のひづめや色あざやかな服装の商人たちの足で攪拌され、商人たちは雨もぬかるみもそっちのけで、どなり、叫び、押し問答しあっている。両側にたいまつやランタンをさげた、粗布つくりの正面のあいた店々には、真鍮の鍋や安物のブリキの皿と並んで目玉がとびだしそうな高価な宝が売られていた。
「こっちだ」シルクがわき道へはいった。「この数百ヤード先にデルヴォーのテントがある」
「デルヴォーって、だれ?」そうそうしい居酒屋の大天幕の前を馬で通りすぎながら、セ・ネドラがガリオンにたずねた。
「シルクの友だちさ。この前ここへきたときに会ったんだ。ドラスニア諜報部の一員だと思うよ」
セ・ネドラは鼻を鳴らした。「ドラスニア人てひとり残らず諜報部の人間なんじゃない?」
ガリオンはにやにやした。「たぶんね」
青と白の縞の大天幕の前で、デルヴォーが一行を待っていた。シルクの友だちはガリオンが最後に見たときからほとんど変わっていなかった。卵みたいにつるっぱげで、表情もあのときと同じく抜け目がなく、皮肉っぽい。毛皮で縁どりしたマントをしっかり着込み、はげ頭が雨にぬれててかてかしている。「馬はうちの召使いたちが見ますよ」一行が馬からおりると、デルヴォーは言った。「おおぜいの者に見られないうちに、中へはいってください」
かれらがデルヴォーのあとから明るく照らされた暖かな大天幕の中へはいると、かれは用心深くテントのたれ蓋をおろした。内部は手入れのゆきとどいた家とさして変わらないほど居心地がよさそうだった、椅子があり、寝椅子があり、大きな磨かれたテーブルにはすばらしい夕食の支度がととのっている。床には絨緞がしきつめられ、壁にも絨緞が張られて、天井からさがった鎖に青いオイル・ランプがぶらさがっている。四隅には赤く燃える石炭の詰まった鉄火ばちが置かれていた。デルヴォーの召使たちは全員地味な色のお仕着せを着て、無言のままガリオンたちのびしょぬれのマントをうけとると、粗布の仕切りをくぐって、となりのテントへ運んでいった。
デルヴォーが丁重に言った。「どうぞおかけください。失礼ながら夕食の用意をさせていただきました」
かれらがテーブルにつくと、シルクはきょろきょろしながら言った。「贅沢なもんだ」
デルヴォーは肩をすくめた。「ちょっとした計画――プラス、大金だよ。テントだからといって、居心地が悪い必要はないからね」
「しかも携帯可能ときてる」シルクはつけくわえた。「いそいでどこかへ出発しなければならないときでも、テントならたたんで持っていける。家じゃそうはいかない」
「それもそうだ」デルヴォーは温和に認めた。「召し上がってください、みなさん。ここアレンディアの宿屋が提供する設備――と食事――がどんなものかはわかっています」
一行のために用意された夕食は、貴族の食卓にも劣らぬすばらしさだった。銀の皿に盛られた薫製肉の山、えもいわれぬ味わいのチーズ・ソースのなかを泳ぐゆでたたまねぎや豆や人参。最高級の白パンは焼きたてでまだ湯気をたてており、極上ワインもいろいろあった。
「おたくの料理人はかなりの才能の持ち主のようだわね、デルヴォー」ポルガラが感想を述べた。
「おそれいります、レディ」デルヴォーは答えた。「年に数十クラウン余計に払っていますし、気短かな男なんですが、それだけのことはあると思っています」
「その奇妙なアンガラクの商人のことなんだが」ベルガラスが薫製肉をふたつ皿にとりながらたずねた。
「二、三日前に六人の召使いを連れて市へやってきたんですが、荷を積んだ馬も馬車もないんです。連中が乗ってきた馬は、あわててここへきたかのように、疲れてぐったりして見えました。到着してから、その商人はまったく商売をしていないんです。召使いたちと一緒に、人をつかまえては質問するばかりで」
「特にわれわれのことをたずねているのかね」
「名前は出しませんが、長老どの、連中があなたがたのことを聞いて回っているのはほぼまちがいありません。情報を提供した者には金を払っています――大金を」
「アンガラク人と言ってもいろいろいるが?」
「自分ではナドラク人だと主張していますが、あの男がナドラク人なら、わたしはタール人ですよ。おそらく、マロリー人でしょう。中肉中背で、ひげはなく、地味な服をきています。めだって異様なのは目だけです。真っ白に見えるんですよ――瞳以外は。あとはまったく色がないんです」
ポルおばさんがさっと頭をあげた。「盲人なの?」
「盲人? そうではないでしょう。ちゃんと見えて歩いているようですよ。どうしてですか、レディ?」
「あなたがいま説明したことは、きわめてまれな病気の結果なのよ。その病気をわずらった者はほとんど失明するわ」
「おれたちがここを出発してから十分かそこらでそいつに後をつけられないようにするには、なにかでそいつの気をそらして遅らせる必要があるな」シルクはクリスタルの酒杯をいじりながら、友だちを見た。「この前ここにいたときに、あのマーゴのテントにかくした例の鉛のコインはもう持ってないだろうな?」
「あいにくだがないんだ、シルク。数ヵ月前にトルネドラの国境で税関を通らなければならなかったんだ。そういうものを荷物から見つけられるのはまずいと思って、木の下に埋めてきたんだよ」
「鉛のコインですって?」セ・ネドラがとまどったように言った。「鉛でできたコインなんかで物が買えるの?」
「めっきしてあるんですよ、陛下」デルヴォーが言った。「見た目にはトルネドラの金貨そっくりなんです」
セ・ネドラの顔が急に青くなった。「ひどいわ!」彼女は喘ぐように言った。
セ・ネドラの反応の激しさにデルヴォーの顔に困惑が広がった。
「女王陛下はトルネドラ人なんだよ、デルヴォー」シルクが思い出させた。「金の偽造はトルネドラ人にはものすごいショックなんだ。たぶん宗教と関係があるんだと思うよ」
「そんなにおもしろがることじゃないでしょ、ケルダー王子」セ・ネドラは辛辣に言った。
夕食後もかれらはしばらく話をした。おなかいっぱい食べて、ぬくぬくしていると、会話はなごやかになる。やがてデルヴォーが粗布で仕切られた隣りのテントにある寝室へかれらを案内した。ガリオンは頭が枕にふれるやいなや眠りに落ち、翌朝、数週間ぶりに爽快な気分で目をさました。セ・ネドラを起こさないようにそっと服を着ると、大天幕へはいっていった。
シルクとデルヴォーがテーブルについて静かに話をしていた。「ここアレンディアは上を下への大騒ぎなんだ」デルヴォーが言つていた。「アローンの諸王国で熊神教を倒す戦いがあったというニュースが、血気さかんな若者たち――ミンブレイトとアストゥリアの――の血を騒がせている。どこかの戦いに参加を求められなかったというんで、若いアレンド人たちはくやしがっているんだ」
「べつだんめずらしいことじゃないな」シルクが言った。「おはよう、ガリオン」
「おはようございます」ガリオンはていねいに言って、椅子をひいた。
「陛下」デルヴォーは挨拶してから、シルクに向きなおった。「だが、若い貴族たちの戦い好き以上にみんなの関心をひいているのは、農奴たちのあいだに湧いてきた不安でね」
ガリオンはこの数日間通過してきた村々で見たみじめなあばら屋や、住民たちの顔に浮かんでいた絶望を思い出した。「農奴たちが不満をおぼえる理由はじゅうぶんにある、そう思わないか?」
「もちろんそう思います、陛下」デルヴォーは言った。「こういうことが起きたのは今度がはじめてではありません。しかし、今度はこれまでより深刻なのです。当局が武器の隠し場所を見つけたんですよ――かなり巧妙に隠してあったのです。熊手をもった農奴は武装したミンブレイトの騎士に太刀打ちできません。しかし、石弓を持った農奴となると、話はまるでちがってきます。いくつかこぜりあいがあったのです――報復も」
「そんな武器をどうやって農奴は手にいれたんだろう?」ガリオンはたずねた。「ろくに食べるものもないっていうのに、どうして石弓が買えたんだろう?」
「石弓は国外から流れ込んできたんですよ」デルヴォーが言った。「出どころはまだ正確につきとめられていませんが、何者かがアレンドの貴族を国内に釘づけにして、他国のことに干渉させないようにしたかったことだけはあきらかです」
「カル・ザカーズのしわざじゃないのか?」シルクがほのめかした。
「その可能性が強い」デルヴォーは同意した。「マロリー皇帝が世界を牛耳る野心をいだいていることは疑念の余地がないし、かりにかれがウルギット王を殺したあと、北方へ軍勢を向ける決心をしたら、西の諸王国の混乱ほど好都合なものはないだろう」
ガリオンはうめいた。「もうたくさんだ、またひとつ心配事がふえる」
他の面々が大天幕に集まると、デルヴォーの召使いたちが豪勢な朝食を運んできた。皿いっぱいの卵、山盛りのベーコンやソーセージ、それに果物とうまそうな練り粉菓子の皿がつぎつぎに現われた。
「おれが朝食と呼ぶのはこれだよ」シルクがよだれをたらさんばかりにして言った。
ポルガラがひややかな視線を向けた。「どんどんおっしゃい、ケルダー王子。さぞ興味深い感想をもらすんでしょうね」
「あなたが毎朝おれたちに出してくれるあのすばらしい粥《かゆ》について、おれがなにか言いましたっけ、親愛なるレディ?」シルクはおおげさにしらをきった。
「自分の健康に少しでも関心があるなら、文句などつけなかったはずよね」セ・ネドラがやんわりと言った。
召使いのひとりが憤慨した顔つきでテントにはいってきた。「外にけがらわしい小男がいるんです、デルヴォーさま」召使いは報告した。「あんな口ぎたない人間には会ったことがありません。しかも中へいれろと言って聞かないんです。追っぱらいましょうか?」
「あら、それはベルディンおじさんだわ」ポルガラが言った。
「知っているんですか?」デルヴォーはびっくりしたようだった。
「赤ん坊のころからの知り合いよ。本当は見かけほど悪い人じゃないの――いったん慣れてしまえばね」ポルガラはかすかに眉をひそめた。「中へ通したほうがいいでしょうね。いらいらさせられると、ベルディンは鼻もちならなくなるから」
「ベルガラス」抗議する召使いをぞんざいにおしのけて、ベルディンが呼ばわった。「まだこんなところにいたのか? いまごろはトル・ホネスにいるもんだとばかり思ってたぞ」
「ゴリムに会うためにプロルグに寄らなければならなかったんだ」ベルガラスはおだやかに答えた。
「これは大名旅行じゃないんだぞ、このとんま」ベルディンはいらだたしげにかみついた。小柄な男は例によって薄汚かった。服の代わりにまとっているぬれたぼろは、腐ったひもで体のあちこちにくくりつけられていた。こんがらかった髪には小枝やら、藁やらがくっついている。ベルディンは雷雲のように黒い醜悪な顔をして、短いねじれた脚でテーブルに近づくと、ソーセージをほおばった。
「お行儀よくしてちょうだいよ、おじさん」ポルおばさんが言った。
「なんで?」ベルディンはテーブルの上の小さな壺を指さした。「なにがはいってる?」
「ジャムです」デルヴォーがちょっぴりおじけついたように答えた。
「いいね」ベルディンはきたない片手を壺につっこんで、ジャムをなめはじめた。「悪くない」指をなめなめ言った。
「そこにパンがあるじゃないの、おじさん」ポルおばさんがとがめた。
「パンはきらいなんだ」ぶつぶつ言いながら、ベルディンは服で手をふいた。
「ハラカンには追いついたのか?」ベルガラスがたずねた。
ベルディンはセ・ネドラの顔を真っ青にさせるような卑わいなののしり言葉を連発して、それに答えた。「また逃げられた。やつを追うほど暇じゃないから、ハラカンをまっぷたつにするお楽しみは先へのばさなけりゃなるまいな」かれはまた片手をジャムの壺につっこんだ。
「やつにでくわしたら、おれたちがかわりにやってあげますよ」シルクが申し出た。
「ハラカンは魔術師だぞ、ケルダー。おまえが邪魔したら、はらわたを垣根にぶらさげられちまうぜ」
「ガリオンにやらせるつもりだったんですよ」
ベルディンはからになったジャムの壺をおろして、げっぷをした。
「他になにかさしあげましょうか?」デルヴォーがたずねた。
「いや、せっかくだがもう腹がいっぱいだ」かれはベルガラスに向きなおった。
「夏の前にトル・ホネスまでいくつもりだったのか?」
「われわれはそれほど遅れちゃいないぞ、ベルディン」ベルガラスは抗議した。
ベルディンは下品な音をたてた。「南に注意をおこたるなよ、おまえたちのことをきいてまわっているマロリー人がいる。〈西の大街道〉のいたるところで人を雇っているんだ」
ベルガラスは鋭くベルディンを見た。「名前はわかったのか?」
「いくつかの名前を使いわけている。一番よく耳にするのは、ナラダスだ」
「どんな容貌かわかりますかね?」シルクがきいた。
「おれにわかったところでは、おかしな目をしているってことだけだな。聞いたところによると、目が真っ白なんだ」
「なるほど」デルヴォーが言った。「なるほど、なるほど」
「そりゃどういう意味だ?」ベルディンはきいた。
「白い目の男がこの市にいるんですよ。ここでもやっぱり質問をしているんです」
「それじゃ、事はきわめて簡単だな。だれかにそいつの背中にナイフを突き立てさせるんだ」
ベルガラスは首をふった。「説明のつかない死体が出はじめたら、市をとりしまる軍団兵が興奮するだけだ」
ベルディンは肩をすくめた。「なにかでそいつの頭をなぐりつけて、平原へ数マイルひきずっていきゃいいさ。喉をかききって、穴に埋めちまうんだ。春まで見つかりゃしないって」ベルディンは醜い顔に薄笑いを浮かべてポルガラを見やった。「その練り粉菓子をちびちび食べつづけてるとな、おい、太っちまうぜ。おまえさんはもうじゅうぶん太っているんだからな」
「太ってる?」
「まあいいってことよ、ポル。尻のでかい女が好きな男もいるんだから」
「ひげについてるジャムをふきとったらどうなの、おじさん?」
「昼食にとってあるんだよ」ベルディンは腋の下をかいた。
「またシラミ?」ポルガラはひややかにたずねた。
「その見込みはいつだってあるさ、だが、シラミの一匹や二匹どうってことはない。おれの知ってるたいがいの人間より、シラミのほうがましだ」
「これからどこへ行く予定だ?」ベルガラスがたずねた。
「マロリーへ戻る。しばらくダーシヴァに腰をすえて、ザンドラマスについてどんなことがつかめるかやってみたい」
デルヴォーは考えこむように横目できたない小男を見つめていたが、やがてたずねた。「すぐに発つ予定ですか、マスター・ベルディン?」
「なぜだ?」
「ちょっと時間がありましたら、内密にお話ししたいことがあるんです」
「秘密の話か、デルヴォー?」シルクがたずねた。
「そういうわけじゃない。思いついたことがあるんだが、きみに話す前にもう少しはっきりさせておきたいんだ」デルヴォーはベルディンをふりかえった。「ちょっと散歩でもしませんか、マスター・ベルディン? あなたの気をひきそうな考えがあるんですよ、長くはかかりません」
ベルディンは興味を持ったようだった。「いいよ」かれが同意すると、ふたりは霧雨のふる朝のなかへ出ていった。
「どういうことだろう?」ガリオンはシルクにたずねた。
「デルヴォーが〈学園〉でおぼえた悪い癖でね。事前になにも話さないで、いきなり巧妙な計画を実行するのが好きなんだ。そうすればあとはふんぞりかえって、びっくりしたみんなの賞賛をあびることができるからな」小男はテーブルを見つめた。「あのソーセージ、もうちょっといけそうだな。それに卵も。トル・ホネスまでは長い道のりだし、あの粥《かゆ》から胃を守る緩衝物が必要だ」
ポルガラはセ・ネドラを見た。「気のきいた意見だと思うと、みんなの耳にたこができるほどそれをくりかえす人がいるってことに気づいた?」
セ・ネドラはいたずらっぽく目をきらめかせてシルクを見やった。「気づいてましたわ、レディ・ポルガラ。想像力の欠如のせいだとお思いになる?」
「関係があるのはたしかね、ディア」ポルおばさんはにっこり笑ってシルクを見た。「さ、もっとおっしゃいよ、ケルダー」
「う――いや、ポルガラ。もうやめときますよ」
正午少し前にデルヴォーとベルディンが自己満足の笑みを浮かべて戻ってきた。「まったくほれぼれする離れわざでしたね、マスター・ベルディン」デルヴォーは大天幕にはいってきながら、チビの魔術師をほめたたえた。
「子供だましさ」ベルディンは肩をすくめて受け流した。「だれだって不具の体には脳みそもないと信じてる。それにつけこんだことは数えきれん」
「いつかはなんの話か教えてくれるんだろうな」シルクが口をはさんだ。
「そうこみいったことじゃなかったんだ、シルク」デルヴォーが言った。「例のせんさく好きなマロリー人のことはもう気にかけずに出発できるぞ」
「ほう?」
「やつは情報を買おうとしていた」デルヴォーは肩をすくめた。「だから少し与えてやったのさ。やつは出発したよ――大急ぎで」
「どういう情報を売ったんだ?」
「こういうわけだったのさ」ベルディンがさらに腰を折り曲げて、不細工な体をわざと強調し、うつろな低能じみた表情をうかべた。「閣下」かれは卑屈な愚かしさのにじむ、きいきい声で言った。「ある連中をさがしてるんだそうで、そいつらの居所がわかれば、金をくれるって聞いたがね。おらそいつを見たぜ。居所も知ってる――金をくれりゃ教える。いくらくれるね?」
デルヴォーはおもしろそうに笑った。「ナラダスはそれをすっかりうのみにしたんだ。わたしはマスター・ベルディンをやつのところに連れていき、あんたの捜している連中のことを知ってる人間を見つけたと言った。金額の点でナラダスとわたしが合意すると、みなさんの友だちがやつをころりとだました」
「どっちへナラダスをやったんだ?」ベルガラスがきいた。
「北さ」ベルディンは肩をすくめた。「アレンドの森の道端で野営をしているのを見たと言ってやった――一行のひとりが病気になって、介抱するために野営しているんだとな」
「少しも疑わなかったのか?」シルクがたずねた。
デルヴォーが首をふった。「人間を疑い深くさせるのは、これといった理由のない助けなんだ。わたしはありとあらゆる理由をあげて、自分が誠実であることをナラダスに信じ込ませた。マスター・ベルディンの報酬を横取りしたのさ――がっぽりと。ナラダスはかれに銀貨を二、三枚与えた。しかし、わたしの言い値はもっとずっと高かったんだ」
「みごとだ」シルクが感嘆ぎみにつぶやいた。
「だが白目≠ノついては知っておくべきことがある」ベルディンがベルガラスに言った。「やつはマロリーのグロリムだ。こっちのやっていることをけどられたくなかったんで、深くさぐりをいれることはできなかったが、それだけはつかめた。やつは計り知れぬ力を持ってるぞ、気をつけろよ」
「だれのために働いているのかつきとめたか?」
ベルディンはかぶりをふった。「グロリムだとわかったらすぐ探るのはやめたんでな」その顔がけわしくなった。「こいつには注意しろよ、ベルガラス。おそろしく危険なやつだ」
ベルガラスの顔が非情になった。「わしも危険な人間だぞ、ベルディン」
「わかってる。しかしおまえには絶対にやらないことがある。ナラダスはそういう抑制を感じない男だ」
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4
次の六日間、一行は澄んだ空の下を南へ馬を走らせた。道の両側では冬枯れの草が寒風にうなだれ、南アレンディアのゆるやかに起伏する平原が冷たい青空の下に枯れ広がっている。ときおり通過する泥と藁の村では、ぼろをまとった農奴たちがふたたび訪れた冬に耐えようと歯をくいしばり、まれに通過する石の牢屋では誇り高いミンブレイトの男爵が隣人たちに警戒の目を光らせていた。
〈西の大街道〉は、すべての道路がトルネドラ本道制度の一部をになっているように、深紅のマントをきた帝国軍団兵によるパトロールの対象になっていた。ときどき北へ向かう商人に出会うこともあったが、かれらはみんな用心深い目つきの、頑強な雇い人を連れており、雇い人たちはつねに手を武器のそばにおいていた。
一行は凍えそうに寒い朝の九時にアレンド川にたどりつき、きらめく浅瀬をはさんで北部トルネドラのヴォードゥの森を見渡した。「ボー・ミンブルに寄りたかったんですか?」シルクがベルガラスにたずねた。
老人は首をふった。「コロダリンはおそらくドラスニアで起きたことについて、マンドラレンやレルドリンからもう話を聞いているだろう。そなた、だの、小生、だのを頻発するおしゃべりを三、四日も聞いていられる気分ではないよ。それに、一刻もはやくトル・ホネスにつきたいのだ」
浅瀬にしぶきをあげてはいったとき、ガリオンはあることを思いだした。「例の税関に寄らなくちゃならないんだろう?」かれはたずねた。
「きまってるさ」シルクが答えた。「だれでも税関を通過しなけりゃならない――むろん、許可された密輸業者は別だけどな」かれはベルガラスを見やった。「向こうへついたらおれがとりしきりましょうか?」
「あまりとっぴなことはせんようにな」
「ちゃんとやりますよ、ベルガラス。おれはこれの効果を試したいだけなんだから」シルクは着ているみすぼらしい服を指さした。
「その服を見たときは、なにを考えているのかとずっと不思議に思っていたんだ」ダーニクが言った。
シルクはこずるそうに片目をつぶってみせた。
かれらは浅瀬を出ると、ヴォードゥの森にはいった。木はきちんと間隔をあけて立ち、下生えにも手入れがゆきとどいている。一リーグもいかないうちに、税関のある白漆喰の建物についた。最近火事があったらしく、長い小屋のような建物の一角が焼け落ちて、赤いタイルの屋根も端のほうがすすで黒ずんでいた。税関業務をつとめる六人のだらしのない兵士たちがぬかるんだ裏庭で小さなたきびを囲み、寒気を追い払おうと安酒を飲んでいた。そのひとりで無精ひげをはやし、つぎあてだらけのマントに錆びた胸当てをつけた兵士がおっくうそうに立ち上がり、道の中央にやってきてごつい片手をつきだした。「そこまでだ」男はどなった。「馬をむこうの建物のわきへ連れていき、荷物をあけろ、検査する」
シルクが前に出た。「もちろんですとも、下士官さん」へつらうように答えた。「なにも隠すようなものは持っちゃおりません」
「それを決めるのはおれたちだ」無精ひげの兵士はかすかにゆれながら一行の前に立ちはだかった。
毛布を巻き付けた税関員が建物から出てきた。数年前にゼダーと盗まれた〈珠〉を追ってここを通過したときに会った、あの屈強な男だった。前に会ったときにはひとりよがりな自己満足を身辺にただよわせていたが、いま見ると、その赤ら顔には、人生にだまされたと確信している人間にありがちな、満たされない表情がはりついている。「申告するものは?」男はぶっきらぼうに問いつめた。
「なにもございません、閣下」シルクが情けない声で答えた。「あたしらはトル・ホネスへむかう貧乏な旅人でございます」
小太りな税関員は小男をのぞきこんだ。「前に会ったことがあるようだな? ボクトールのラデクじゃないか?」
「そのとおりで、閣下。すばらしい記憶力をお持ちですね」
「この仕事をしていると、そうならざるをえんのさ。あのときのセンダリアの毛織物は高く売れたか?」
シルクの顔が憂鬱そうにくもった。「期待していたほどではございませんでしたよ。トル・ホネスへ着く前に天気がくずれて、値が予定の半分以下にさがってしまいまして」
「そりゃ気の毒にな」税関員はおざなりに言った。「荷物をあけてくれないか?」
「食べ物と予備の衣類だけでございますよ」チビのドラスニア人は鼻水をすすった。
「おれの経験じゃ、人間はときどき値打のあるものを運んでいるのを忘れることがある。荷物をあけろ、ラデク」
「おおせのとおりに、閣下」シルクは馬からはいおりると、荷物のひもをほどきにかかった。「値打のあるものが本当にここにはいってりゃいいんですがね」とわびしげにためいきをついた。「あの毛織物市場で不運な目にあったのが、あたしの長い不幸のはじまりだったんです。いまじゃほとんど失業状態ですわ」
税関員はぶつぶつと言うと、数分間ずっとふるえながらかれらの荷物をひっかきまわした。ついにかれは苦い顔でシルクをふりかえった。「どうやらおまえの言うとおりらしい、ラデク。疑って悪かったな」男は両手に息をふきかけてこごえた手を温めようとした。「最近は不景気でな。この半年というもの、いいわいろになりそうなものはさっぱりはいってこない」
「ヴォードゥでなにか面倒なことがあったそうですね」シルクは荷物にふたたびひもをかけながら言った。「なんでもトルネドラからの脱退騒ぎがあったとか」
「帝国史上はじまって以来のばかげたことさ」税関員はいきまいた。「カドー大公の死後、ヴォードゥ家の頭のいい連中はみんな出ていっちまったんだ。あいつが外国勢力の手先だったということをかれらは知ってたはずなのによ」
「あいつといいますと?」
「東の商人だと主張した男さ。そいつはたくみにヴォードゥ家の信用を得て、ヴォードゥの連中をほめそやしたんだ。そいつがすっかり連中にとりいったときには、ヴォードゥの面々は本気でみずからの王国をきりまわし、残りのトルネドラから独立できると信じちまった。だがな、ヴァラナはぬけめのない男だぜ。やつはコロダリン王と話をまとめたんだ。まもなくヴォードゥにはミンブレイトの騎士たちがうようよしだして、目にはいるものを手当たりしだいに盗みはじめた」税関員は焼け焦げた建物の一角を指さした。「ほらな? 連中の一団がここにやってきて、建物を荒しまわり、火をつけたんだ」
「ひどい話ですね」シルクは同情した。「その自称商人がだれのために働いていたのか、つきとめた者はいるんですか?」
「トル・ヴォードゥの腰抜けどもがつきとめなかったのは確かだが、おれはやつをこの目で見たとたんにわかったよ」
「ほほう?」
「やつはリヴァ人だ。つまり、すべてはベルガリオン王のさしがねということだな。かれは昔からヴォードゥ家の連中を憎んでいたから、北部トルネドラにおけるかれらの勢力を根絶やしにするためにこの計画を立てたんだ」税関員は陰気に笑った。「しかし、ベルガリオン王もその報いはうけている。かれらは王にセ・ネドラ皇女との結婚を強制したし、皇女はかれの生活をみじめなものにしてるからな」
「その男がリヴァ人だとどうしてわかったんです?」シルクは興味ありげにたずねた。
「簡単さ、ラデク。リヴァ人は何千年もリヴァの島で孤立していた。血族結婚が多いせいで、いろんなたぐいの欠陥や奇形が出てきてる」
「そいつは奇形だったんですかい?」
税関員は首をふった。「おかしかったのは目なんだ。色がまるでなかったんだ――真っ白なんだ」男はみぶるいした。「見るとぞっとしたよ」男は毛布をさらにきつく巻きつけた。「悪いが、ラデク、おれはここにいるとこごえちまう。あったかい建物に戻るとするよ。おまえも友だちも行っていい」そう言うと、税関員はそそくさと暖炉のある建物へひきかえしていった。
「興味をそそられる話じゃないですか?」一行が馬を走らせはじめると、シルクは言った。
ベルガラスは額にしわをよせていた。「次の問題は、この神出鬼没の白目の男がだれに雇われているかということだ」
「ウルヴォンでしょうか?」ダーニクがほのめかした。「ひょっとするとウルヴォンは北にハラカンをやり、南にナラダスをやったのかもしれませんよ――どちらもできるだけの混乱を引き起こそうとしています」
「かもしれんな」ベルガラスはぶつぶつ言った。「だが、そうではないかもしれん」
「ねえ、ケルダー王子」セ・ネドラが手袋をはめた片手でマントの頭巾をうしろへはらいながら言った。「そうやってぺこぺこへつらったり、鼻水をすすったりしているのはいったいなんのためなの?」
「性格描写だよ、セ・ネドラ」シルクは気取って言った。「ボクトールのラデクはいばりくさったまぬけだったんだ――金持ちであるかぎりはね。貧乏になったいまは、その正反対。それが人間の性《さが》なんだよ」
「でも、ボクトールのラデクなんて人間はいやしないわ」
「もちろんいるさ。たったいま見たじゃないか。ボクトールのラデクは世界中の人々の記憶のなかに存在するんだ。多くの点で、かれはあそこにいたいばった日和見主義者よりも現実的存在なんだ」
「だけど、ラデクはあなたでしょ。あなたがかれをつくっただけじゃない」
「たしかにそうだ。おれはむしろかれを誇りに思ってるよ。かれの存在、かれの素性、かれの全経歴はおおやけの記録に残るしろものなんだ。きみよりかれのほうが本物なんだ」
「そんなのおかしいわ、シルク」セ・ネドラは抗議した。
「それはきみがドラスニア人じゃないからさ、セ・ネドラ」
数日後、一行はトル・ホネスについた。白い大理石の帝都は凍てつく冬の日差しの中できらめいていた。彫刻をほどこした青銅の門を守る軍団兵たちは、例によってきびきびして、鎧も兜もぴかぴかに磨きこんである。ガリオンとその友人たちがひづめの音高く、大理石舗装の橋を渡って門に近づくと、警備隊の指揮官がセ・ネドラを一目見るなり、敬礼がわりに握りこぶしでぴかぴかの胸当てをたたいた。「皇女さま」指揮官は挨拶した。「おいでになられるとわかっていれば、護衛の者をやらせましたのに」
「いいのよ、指揮官」セ・ネドラはうんざりしたように小さな声で答えた。「部下のひとりを先に宮殿へやって、わたしたちがここにいることを皇帝に知らせてもらえる?」
「ただちにそうします、皇女さま」指揮官はふたたび敬礼すると、わきにどいて一行を通した。
「いいかげんトルネドラの人たちにもきみが結婚していることを忘れないでほしいもんだな」ガリオンはいささか機嫌をそこねてつぶやいた。
「どうかして、ディア?」セ・ネドラがたずねた。
「いまのきみはリヴァの女王なんだということが、かれらにはわからないのかい? かれらがきみを皇女さま≠ニ呼ぶたびに、ぼくは取り巻きか――従僕かなんかみたいな気分になるよ」
「ちょっと気にしすぎじゃない、ガリオン?」
ガリオンはにがにがしげにぶつくさ言った。まだ腹の虫がおさまらなかった。
トル・ホネスの大通りは広く、両側には誇り高いトルネドラの名士たちの家が並んでいた。そうした家々の正面には、円柱や彫像がこれみよがしにところせましと置かれており、通りをいく贅沢な服をきた豪商たちは、値段もつけられないほど高価な宝石で身を飾りたてていた。シルクはかれらを横目で見ながらそばを通りすぎ、自分のみすぼらしいすりきれた服をうらめしげに見下ろしてためいきをついた。
「また性格描写、ラデク?」ポルガラおばさんがたずねた。
「ほんのちょっとだけね」かれは答えた。「もちろん、ラデクもうらやましがるでしょうが、正直なところ、おれもはでな装いが恋しくなってきたんです」
「いったいどうやってそういう架空の人物を使いわけてるの?」
「集中力ですよ、ポルガラ。集中力。集中力がなくっちゃ、どんなゲームでも成功はできませんて」
宮殿は高い城壁に囲まれて建つ彫刻をほどこした大理石の建物の一群で、都市西部の丘の上に位置していた。かれらの到着が前もって知らされていたので、門の前では軍団兵がきびきびと敬礼をしてただちに中へ通してくれた。門をはいると、舗装された中庭があり、前面に円柱を配した建物につづく大理石の階段の下に、ヴァラナ皇帝が立っていた。「トル・ホネスへようこそ」一行が馬からおりると、皇帝は声をかけた。セ・ネドラはかれのほうへかけよろうとしたが、最後の瞬間で足をとめ、堅苦しく膝を曲げてお辞儀した。「皇帝陛下」
「どうしてそんな形式ばるんだ。セ・ネドラ?」ヴァラナ皇帝は両手をさしのべながらたずねた。
「おねがい、おじさま」セ・ネドラは階段の上に居並ぶ役人たちをちらりと見ながら言った。「ここではだめよ。ここでわたしにキスしたら、張りつめていた気分がゆるんで、泣き出しちゃうわ。ボルーン家の人間は人前でぜったい泣かないのよ」
「そうだな」ヴァラナ皇帝は納得した顔になって、みんなのほうを向いた。「みなさん、中へどうぞ。暖かいところへはいりましょう」かれはセ・ネドラに向きなおると、腕をさしだし、片足をひきずりながら階段をのぼりはじめた。
ドアをくぐると、大きな円形の広間があった。壁ぎわに大理石でできた過去千年余りの代々のトルネドラ皇帝の胸像が並んでいる。「スリの一団みたいでしょう?」ヴァラナは皮肉めかした微笑をうかべてガリオンにささやいた。
「あなたが見あたりませんね」ガリオンは答えた。
「王室付きの彫刻師がわたしの鼻に手こずっているんですよ。アナディル家の人間はもともと農民の出だから、この鼻も貫禄がなくて、彫刻師の好みにあわないんですな」かれは一行の先に立って広い廊下を進み、蝋燭のともった大きな部屋へ案内した。部屋には深紅の絨緞がしきつめられ、深紅の垂れ幕がさがり、やはり同じ深紅のふかふかの家具が置かれていた。四隅に熱い鉄火鉢があって、心地よく暖かい。皇帝は言った。「どうぞ、くつろいでください。温かい飲み物を持ってこさせましょう。夕食の支度もさせておきます」ガリオンとその友人たちがマントをぬいで腰をおろしているあいだに、ヴァラナは戸口にいる軍団兵と短く言葉をかわした。
「さて」ヴァラナはドアをしめながら言った。「どういうご用件でトル・ホネスへおいでになったんです?」
「対熊神教戦争のことは聞いておるだろう?」ベルガラスがたずねた。「その理由も?」
皇帝はうなずいた。
「あとでわかったことだが、戦争はわざと仕組まれたものだったのだ。熊神教はゲラン王子の誘拐とは関係なかったのさ。そう仕向けられただけだったのだ。われわれが捜している人物は、名前をザンドラマスという。その名前に思いあたることはあるかね?」
ヴァラナは眉をひそめた。「いいえ。はじめて聞く名前ですね」
ベルガラスは手みじかに状況を説明し、ザンドラマスやハラカンやサルディオンについてわかったことをヴァラナに話した。ベルガラスが話し終えたとき、皇帝の表情はどことなく疑わしげだった。
「だいたいのところは納得できますが、ベルガラス、しかしある部分については――」かれは肩をすくめ、両手をあげた。
「腑に落ちないところでもあるのか?」
「ヴァラナは疑い深いのよ、おとうさん」ポルガラが口をはさんだ。「考えたくない部分があるんだわ」
「タール・マードゥですべてが起きたあとでもか?」ベルガラスはびっくりしたようだった。
「主義の問題なんですよ、ベルガラス」ヴァラナは笑った。「トルネドラ人であること――それに兵士であることと関係があるんです」
ベルガラスはおもしろそうにヴァラナを見た。「なるほど、それじゃ、誘拐に政治的動機があるかもしれないという点は納得できるのか?」
「もちろんです。政治ならわかりますからね」
「ふむ。マロリーにはつねに二大勢力があった――王位と教会だ。現在ではこのザンドラマスが第三勢力として台頭してきつつあるらしい。カル・ザカーズがなんらかの方法で直接関与しているかどうかわからんが、ウルヴォンとザンドラマスのあいだである種の権力闘争が起きているのは確かだ。なんらかの理由で、ガリオンの息子がその闘争の中心になっている」
「そこまでの過程で、マロリー人たちがおれたちにかかわってもらいたくないと思っていることもあきらかになった」シルクがつけくわえた。「アレンディアで何人かの手先が悶着を引き起こしてね、ヴォードゥ家の王位継承問題は、背後にマロリー人がいた可能性がある」
ヴァラナは鋭くシルクを見た。
「ナラダスという男だ」
「その名前なら聞いたことがある」皇帝は言った。「かなり大規模な貿易協定の交渉のためにここへきたアンガラクの商人がいたが、たぶんその男だ。あちこち旅をして、ずいぶん金を使っている。わたしのところの商業顧問は、ウルギット王の手先だと考えているんだ。クトル・マーゴス東部の採鉱地区をザカーズが支配しているので、ウルギットはそこで起こしている戦争の資金を喉から手がでるほどほしがっている」
シルクは首をふった。「おれはそうは思わないな。ナラダスはマロリーのグロリムだ。やつがマーゴ人の王のために働くなんてことはありそうにない」
ドアに遠慮がちなノックがあった。
「なんだ?」ヴァラナが言った。
ドアがひらいて、家令のモリン卿がはいってきた。いまやかれも年をとり、ずいぶんやせていた。すっかり白くなった髪が束になって立っている。皮膚は高齢者特有の透けたような感じで、動作もゆっくりしていた。「ドラスニア大使のおこしです、陛下」モリンはふるえ声で告げた。「緊急に陛下と――みなさまがたにお知らせしたい情報があるとのことでございます」
「ではお通ししてくれ、モリン」
「若いご婦人もご一緒です、陛下」モリンはつけくわえた。「ドラスニアの貴婦人かと思われますが」
「ふたりに会おう」ヴァラナは言った。
「仰せのとおりに、陛下」モリンはぎくしゃくと一礼しながら答えた。
老家令が大使とその連れを部屋に案内してきたとき、ガリオンはおどろいて目をぱちくりさせた。「陛下、ドラスニア王宮の大使、カルドン王子と、リセル辺境伯令嬢でいらっしゃいます、令嬢は、その――」モリンはどもった。
「密偵ですわ、閣下」リセルは平然と言葉をおぎなった。
「それは公式の称号ですか、令嬢?」
「そのほうが時間の節約になりますもの、閣下」
「なんとも」モリンはためいきをもらした。「世の中も変わったものです。では公式の密偵として陛下にご紹介したほうがよろしいのですか?」
「陛下はすでにお察しだと思いますわ、モリン卿」リセルはかれのやせた手に愛情をこめてふれながら、言った。
モリンは一礼すると、おぼつかない足どりで部屋からゆっくり出ていった。
「なんて感じのいいお年寄りかしら」リセルはつぶやいた。
「これはこれは、いとこよ」シルクは大使に言った。
「やあ」カルドン王子はそっけなく答えた。
「ふたりは血のつながりがあるのかね?」ヴァラナがたずねた。
「遠い親戚ですよ、陛下」シルクが言った。「母親同士がまたいとこなんです――またまたいとこだったかな?」
「またまたいとこのそのまたいとこだよ」カルドンはネズミ顔の親戚をじっと見た。「なんだかみすぼらしいな、おい。最後に会ったときは金やら宝石やらじゃらじゃらつけていたぞ」
「身をやつしているんだよ」シルクはものやわらかに言った。「おまえはおれに気づかないことになってるんだ」
「ああ」カルドンは皇帝のほうを向いた。「われわれの冗談をお許しください、陛下。ここにいるケルダーとわたしは子供のときから互いに毛嫌いしあっていたんです」
シルクはにやにやした。「一目見たときからでしてね。おれたちは徹底的に嫌悪しあってるんですよ」
カルドンはみじかくほほえんだ。「われわれが子供だったとき、双方の家族は家を訪問しあうたびにナイフというナイフを隠したものです」
シルクは好奇心にかられてリセルにたずねた。「トル・ホネスでなにをやっているんだい?」
「秘密よ」
「ヴェルヴェットはボクトールから公文書を数通持ってきたんだ」カルドンが説明した。「それにいくつかの指示を」
「ヴェルヴェット?」
「ばかみたいでしょう?」リセルは笑った。「でもね、もっとひどいあだ名を選んだ可能性もあると思うわ」
「パッと頭に浮かんだものよりましだな」シルクが同意した。
「おじょうずね、ケルダー」
「われわれに知らせるべきだと考えていることがあるようだが、カルドン王子?」ヴァラナがたずねた。
カルドンはためいきをついた。「悲しいご報告なのですが、高級娼婦のベスラが殺されました、陛下」
「なんだと?」
「昨夜仕事から帰る途中、人気《ひとけ》のない通りで暗殺者一味に襲われたのです。虫の息のまま放置されましたが、よろめきながらわれわれの門にたどりつき、息絶える前にある情報を伝えたのです」
シルクの顔から血の気がひいていた。「だれのしわざだったんだ?」
「まだ調査中だ、ケルダー」いとこは答えた。「もちろん、何人か容疑者はいるが、判事の前に連れていけるほど確かなことはなにもつかめてない」
皇帝はけわしい表情で、すわっていた椅子から立ち上がった。「このことについて、知っておく必要のある者が何人かいる」かれはすごみのある声で言った。「一緒にきてくれるか、カルドン王子?」
「もちろんです、陛下」
「失礼する」ヴァラナは一同に言った。「一刻を争う問題なのだ」かれはドラスニア大使をしたがえて部屋から出ていった。
「ベスラはひどく苦しんだのか?」シルクは苦痛にみちた声で、通称ヴェルヴェットにきいた。
「暗殺者たちはナイフを使ったのよ、ケルダー」彼女はぽつりと答えた。「ナイフは決して気持ちのいいものじゃないわ」
「そうか」シルクのイタチみたいな顔がこわばった。「ベスラ殺害の理由について、彼女はなにか手がかりを残していったのか?」
「わたしの考えでは、いくつかのことと関係があると思うの。ベスラはかつてヴァラナ皇帝に、かれの息子の殺害計画を知らせたことがあると言ってたわ」
「ホネス一族だわ!」セ・ネドラが金切り声をあげた。
「どうしてそんなことを言うんだ?」シルクがすばやくたずねた。
「彼女がヴァラナにそのことを話したとき、ガリオンとわたしはここにいたのよ。父の葬儀のときだったわ。ベスラがひそかに宮殿にやってきて、ホネス家のふたりの貴族――エルゴン伯爵とケルボー男爵――がヴァラナの息子の殺害をくわだてていると言ったの」
シルクの顔は石のようだった。「よく思い出してくれた、セ・ネドラ」
「ほかにもあなたに知らせたいことがあるのよ、ケルダー」ヴェルヴェットが静かに言った。彼女はみんなを見た。「このことは内密にお願いします」
「むろんだとも」ベルガラスがうけあった。
ヴェルヴェットはシルクに向きなおった。「ベスラは〈狩人〉だったの」シルクに言った。
「〈狩人〉? ベスラが?」
「もう数年前になるわ。ここトルネドラで王位継承問題が過熱しはじめたとき、ローダー王がジャヴェリンに指示して、アローン人が共存できる人物にラン・ボルーンのあとをつがせるよう取り計らったのよ。ジャヴェリンはトル・ホネスにきて、ベスラにそれを任せたの」
「ちょっと」ベルガラスが好奇心に目を輝かせて口をはさんだ。「その〈狩人〉とはいったいなんのことだね?」
「わたしたちのなかで、最高秘密にたずさわる密偵のことです」ヴェルヴェットが答えた。「〈狩人〉が扱うのはきわめて微妙な状況にかぎられているんです――ドラスニアの君主がおおっぴらに関与できない問題のような。とにかく、ホネス一族のノラゴン大公が次代皇帝にほぼ確定しそうになったとき、ローダー王がジャヴェリンにある提案をしました。すると、数ヵ月後、ノラゴンは偶然毒のある貝を食べたのです――強烈な毒のある貝を」
「ベスラがそれをやったのか?」シルクはおどろいていた。
「彼女はおそろしく機略にたけていたのよ」
「リセル辺境伯令嬢?」セ・ネドラが考えこむように目を細めて言った。
「はい、陛下?」
「〈狩人〉の素性がドラスニアで一番の国家機密なら、どうしてあなたはそれを知ったの?」
「わたしはある指示をベスラに与えるためにボクトールから派遣されたのです。おじはわたしが信用できると知っているんですわ」
「でもいまあなたはそのことをしゃべっているじゃない?」
「事後だからです、陛下。ベスラは死にました。いまは他のだれかが〈狩人〉になっているでしょう。とにかく、ベスラは死ぬ前に、だれかがノラゴン大公の死に彼女がかかわっていたことをつきとめ、その情報を回したのだとわたしたちに言いました。その情報が彼女を襲撃するきっかけとなったのだとベスラは信じていたのです」
「すると、的はホネス家にしぼられるんじゃないか?」シルクが言った。
「彼女の言い残した言葉だけでは、明確な証拠にはならないわ、ケルダー」ヴェルヴェットは言った。
「おれを満足させるにはじゅうぶんだ」
「なにか軽率なことをなさるつもりじゃないでしょうね?」彼女はたずねた。「ジャヴェリンはきっとおこるわよ」
「これはジャヴェリンの問題じゃない」
「トルネドラの政治に首をつっこんどる暇はないぞ、シルク」ベルガラスがきっぱりとつけくわえた。「われわれはいつまでもここにいるわけじゃないんだ」
「それほど手間はとりませんよ」
「あなたがなにをたくらんでいるのかジャヴェリンに報告しなけりゃならないわ」ヴェルヴェットが警告した。
「いいとも。だが、きみの報告がボクトールに届く前に、おれはそれを終わらせてるよ」
「大事なのは、わたしたちを困らせないでもらいたいってことなのよ、ケルダー」
「おれを信用しろよ」シルクはそう言うと、だまって部屋を出ていった。
「かれがあのせりふを吐くと、いつもわたしは神経質になるんだ」ダーニクがつぶやいた。
翌朝早く、ベルガラスとガリオンは宮殿を出て大学の図書室を訪れた。トル・ホネスの広い通りは凍えそうに寒く、身を切るような風がネドレイン川から吹いていた。まだ早いのに、毛皮のマントで大理石の街路をきびきびと歩いている商人の姿がちらほら見え、都市のなかでも貧乏人の多い地区では、粗末な服の労働者たちが首をうなだれ、かじかんだ両手を服の奥につっこんでうろうろしていた。
ガリオンと祖父は人気《ひとけ》のない中央市場を通り抜けて、まもなく大理石の塀に囲まれた大きな建物群につくと、皇帝の印のついた門をくぐりぬけた。中の地面は宮殿を取り囲む地面と同じようにきちんと草を刈り込まれ、広い大理石の歩道が建物から建物へと芝生を横切って伸びていた。そうした歩道のひとつを歩いていくと、背中で両手を組み、物思いにふけっているかっぷくのよい黒い長衣の学者に出会った。
「失礼だが」ベルガラスは声をかけた。「図書室はどっちでしょうか?」
「なんだって?」男は顔をあげて、目をしばたたいた。
「図書室ですよ」ベルガラスはくりかえした。「どっちですか?」
「ああ」学者は言った。「どこかあちらのほうだな」あいまいな手振りをした。
「もうちょっと正確に教えてもらえませんかな?」
学者はみすぼらしい身なりの老人をいらだたしげに眺めてつっけんどんに言った。「守衛にきいたらどうだね。わたしは忙しいんだ。二十年間取り組んできた問題がもうちょっとで解決できそうなんだ」
「ほう? どんな問題です?」
「無教養なこじきごときにはあまり興味のないことだ」学者はえらそうに答えた。「だがどうしても知りたいのなら教えてやるが、わたしは世界の正確な重さを計算しようとしているのだ」
「それだけかね? それに二十年もかかったのか?」ベルガラスはあきれた顔をした。「そんな問題ならずっと昔にわしは解決したよ――約一週間でな」
学者はベルガラスをまじまじと見つめた。顔が真っ青だった。「そんなばかな!」学者は叫んだ。「それを研究しているのは世界でわたしただひとりなんだぞ。これまでだれも考えたことのない間題なんだ」
ベルガラスは笑った。「悪いがね、博識なる学者さん、しかしそれならもう何度も考えられた問題だよ。わしがこれまでに見た最高の解答はタルギンという人物によるものだ――確か、メルセネ大学でだ。第二黄金期のことだ。あんたの図書室にかれの計算の写しがあるはずだよ」
学者は目をとびださせんばかりにして、はげしくふるえだした。物も言わずにきびすをかえすと、かれは長衣のすそをひるがえして、ころばんばかりに芝生をよこぎっていった。
「あの男から目をはなすなよ、ガリオン」ベルガラスは涼しい顔で言った。「図書室へ行くにきまってる」
「世界はどのくらいの重さなんだ?」ガリオンは興味本位にたずねた。
「わしが知るはずなかろう? 正気の人間ならそんなことに興味などもたんよ」
「でも、いま言ったタルギンとやらは――答えをつきとめた人物なんだろう?」
「タルギン? ああ、そんな人物はいないよ。口からでまかせを言ったんだ」
ガリオンは老人をにらんだ。「ひどいことするなあ。たったひとつの嘘で生涯をかけた他人の研究をめちゃくちゃにするなんて」
「だが、おかげで図書室の場所がわかったじゃないか」老人はずるがしこく言った。「おまけに、もしかしたらいまごろあの男はもうちょっと意義深いものに注意を転じているかもしれん。塔のあるあの建物が図書室だな。あの男が階段をかけあがっていく。行こうか?」
図書室への主要入口をはいったところに大理石の円形広間があり、その広間のまんなかに彫刻をふんだんにほどこした高い机がひとつおいてあった。はげ頭のやせこけた男がその机にむかって、ばかでかい本から丹念に文章を写しとっている。なぜだかガリオンはその男に見おぼえがあるような気がした。机に近づいていきながら、どこで前にこの男を見たのか思いだそうとした。
「どんなご用ですか?」やせこけた男は、ベルガラスが机の正面で立ちどまると、顔をあげてたずねた。
「じつは西のグロリムたちの予言書の写しをさがしているんだが」
やせこけた男は額にしわをよせて、片方の耳をかいた。「それなら比較神学セクションにあるでしょう。作品の書かれた年代について、おおざっぱでも見当はつきますか?」
ベルガラスも額にしわをよせて、考えながら円形広間の丸天井をじっと見上げた。「第三黄金期のはじめだろうな」ようやく言った。
「そうしますと、第二ホネス王朝か、第二ヴォードゥ時代のいずれかの時期ですね」学者は言った。「見つけるのにさほど手間はかからないはずです」かれは立ち上がった。「こちらです」広間から扇形に広がった廊下のひとつを指さした。「どうぞついてきてください」
ガリオンはあいかわらずこのていねいで頼もしい学者を知っている気がしてならなかった。この男は、かれらが外で会ったいばった利己的な世界の重量研究者より、ずっと礼儀正しかった。それに――次の瞬間、記憶がよみがえった。「ジーバース先生?」ガリオンは信じられない思いで言った。「あなたですか?」
「以前お目にかかりましたか?」ジーバースはとまどったように目を細めてガリオンを見ながらていねいにたずねた。
ガリオンはにっこりした。「会いましたとも、ジーバース先生。あなたはぼくに妻を紹介してくれたんです」
「どうも記憶にないような――」
「いや、そんなことはないでしょう。あなたはある夜、ぼくの妻と宮殿を抜け出して南のトル・ボルーンへ馬を走らせたんです。途中で商人の一行に合流したでしょう。そしてぼくの妻がトル・ホネスを出発したのはラン・ボルーンの考えではなく、妻の考えであったとわかると、突然去ってしまわれた」
ジーバースは目をしばたたいていたが、ふいにその目を大きく見開いた。「陛下」かれは頭をさげた。「すぐに気づかなかったことをお許しください。近ごろめっきり目も悪くなりまして」
ガリオンは笑って、ジーバースの肩をぽんとたたいた。「いいんですよ、ジーバース。この旅で自分がだれかということをふれまわるつもりはないんだから」
「かわいいセ・ネドラはどうしてますか――いえ、その、女王陛下は?」
ガリオンはもうちょっとで妻の元家庭教師に息子が誘拐されたことをしゃべりそうになったが、ベルガラスがそれとなくかれをつついたので、かわりにこう言った。「ああ――うん、元気ですよ、とても」
「そううかがってたいへんうれしいですよ」ジーバースは愛情のこもった笑みをうかべた。「セ・ネドラ皇女は手におえない生徒でしたが、不思議なことに、彼女と別れたあと、わたしの人生はまるでおもしろみのないものになってしまいました。思いがけない結婚の話を聞いたときはとてもうれしく思いましたよ。彼女が軍勢を率いてタール・マードゥへ進軍したという噂を聞いたときも、わたしはここにいる同僚たちほどびっくりしませんでした。セ・ネドラ皇女は気性の激しいおじょうさんでしたからね――それに頭もよかった」ジーバースはちょっとすまなそうな目でガリオンを見た。「しかし、正直なところ、移り気で気まぐれな生徒だったと言わねばなりません」
「そういう特徴にはときどき気づいてましたよ」
ジーバースは笑った。「そうでしょうとも、陛下。どうかよろしくお伝えください――」かれはためらった。「もし、あつかましいとお思いでなければ――わたしが愛していることも伝えていただきたいんです」
「いいですとも、ジーバース。伝えましょう」ガリオンは約束した。
「ここがわたしどもの図書室の比較神学セクションです」はげ頭の学者は重いドアを押し開いた。「すべての項目は王朝別に分類されて保管されています。古文書セクションはこちらの奥です」革表紙の書物やきっちり巻かれた巻物のぎっしり詰まった高い本棚のあいだの狭い通路を先導しながら、やせこけた男は一度足をとめて棚の上に指を走らせた。「ほこりですよ」かれは非難がましく鼻を鳴らした。「守衛にひとつ文句を言ってやったほうがよさそうです」
「ほこりを呼ぶのは本のさだめだよ」ベルガラスが言った。
「そしてそれをだまってほうっておくのが守衛のさだめなんです」ジーバースは皮肉っぽく微笑しながらつけたした。「さあ、ここですよ」かれが立ちどまったのは、おそろしく古びた本の並ぶ、比較的広い通路のまん中だった。「そっとあつかってください」ジーバースは愛情にも似たしぐさで本の背表紙をさわった。「古いのでもろくなっているんです。こちら側には第二ホネス王朝のあいだに書かれた作品が、あちら側には第二ヴォードゥ王朝の作品があります。古いもの順に分類されていますから、お捜しのものを見つけるのはそうむずかしくないはずですよ。では、もうご用がなければこれで失礼します。机をあまり長く離れていられないのです。同僚たちのなかにはいらいらしてきて、勝手に棚をさがしはじめる者がいますから。ごちゃごちゃにされたものを元どおりにするには、何週間もかかるんですよ」
「この先はわれわれでなんとかできるよ、ジーバース先生」ベルガラスはかれを安心させた。「親切にありがとう」
「どういたしまして」ジーバースはちょっとお辞儀をして言ったあと、ガリオンに目を向けた。「かわいいセ・ネドラに忘れずによろしく伝えていただけますね?」
「約束しますよ、ジーバース先生」
「ありがとうございます、陛下」やせこけた男はきびすをかえして、本の並んだ部屋から出ていった。
「変われば変わるもんだ」ベルガラスが感想を述べた。「あのときトル・ボルーンでセ・ネドラの行為に大きなショックを受けたことから、それまでの傲慢さがふっとんでしまったらしい」老人は熱心に棚に目を走らせながら言った。「かれが非常に有能な学者であることは確かだな」
「かれはただの図書館員じゃないの? 本の世話をする?」
「それが学者であることの出発点なんだ、ガリオン。きちんと積み重ねられていなければ、世界中の本も役にはたたん」ベルガラスはちょっと腰をかがめると、下のほうの棚から黒い巻物をひきぬいた。「そらこれだ」勝ち誇ったように言った。「ジーバースがこれの目と鼻の先へわれわれを導いてくれたよ」かれは通路のはじへ移動した。高くて細い窓の前にテーブルと腰掛けがおいてあり、青白い冬の日差しが石の床を金色に染めていた。ベルガラスは腰をおろすと、黒いビロードのおおいの中にきっちりと巻き込まれている巻物のひもを用心深くほどいていった。巻物を広げたとき、老人の口から聞くに耐えないののしりがやつぎばやにとびだした。
「どうしたんだい?」ガリオンはたずねた。
「グロリムのばかが」ベルガラスはうなるように言って、巻物を突き出した。「これを見ろ。この巻物を」
ガリオンはのぞきこんだ。「ほかの巻物とちっとも変わらないように見えるけど」
「これは人間の皮膚だ」老人はおぞましげに鼻を鳴らした。
ガリオンはぎょっとしてあとずさった。「ぞっとする」
「そういうことじゃない。皮膚の提供者がだれだろうと、どうせ、提供した時点で死んでるんだ。問題は、人間の皮膚がインクを保持できないことだ」ベルガラスは巻物を一フィートばかり広げた。「見るがいい。読み取れないほど字が薄れちまってる」
「なにかを使ってもう一度読めるようにできないの――あのときアンヘグの手紙を解読したみたいにさ?」
「ガリオン、この巻物は三千年前のものなんだぞ。アンヘグの手紙に用いた塩の溶液を使ったりしたら、巻物は完全に溶けてしまう」
「じゃ、魔術は?」
ベルガラスは首をふった。「もろすぎる」ふたたび毒づきながら、明るい方へ移動して、慎重に少しずつ巻物をほどいていった。「ここになにかあるな」ベルガラスはおどろいたようにうなった。
「なんて書いてあるんだい?」
「『………蛇の国に〈闇の子〉の道を求め……』」老人は顔をあげた。「これは重要だぞ」
「どういう意味だろう?」
「書いてあるとおりさ。ザンドラマスはニーサへ行った。そこへ行けば足跡が見つかるのだ」
「そのことならもうわかっていたはずだよ」
「そうではないかと考えていただけだ、ガリオン。同じじゃない。ザンドラマスはわれわれをあざむいてでたらめな足跡をたどらせた。今度こそまちがいない」
「それほど確実とは言えないよ」
「わかっているさ、だがなにもないよりはましだ」
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5
「ちょっと、あれを見た?」翌朝、セ・ネドラが憤慨して言った。彼女は起きぬけのまま、あたたかいローブにくるまって窓のそばに立っていた。
「うん?」ガリオンはねぼけ声をだした。「なにを見たって?」ぬくぬくしたキルトの下にすっぽりともぐりこみながら、かれは眠りの世界へ戻ろうと真剣に考えていた。
「そこからじゃ見えないわ、ガリオン。こっちへきて」
ガリオンはためいきをついてベッドからすべりでると、はだしで窓に近づいた。
「うんざりしない?」
宮殿の敷地が白一色におおわれている。大きな雪片がしんとした大気中をものうげに舞っていた。
「トル・ホネスで雪がふるなんて、ちょっとめずらしいんじゃないか?」
「ガリオン、トル・ホネスでは雪はふらないのよ。わたしがここで最後に雪を見たのは、五つのときだったわ」
「めずらしい冬だったんだな」
「さあ、わたしはベッドに戻るわ、雪が全部とけるまで起きませんからね」
「おもてにでる必要はないんだよ」
「見るのもいやなのよ」セ・ネドラはぷりぷりしながら天蓋つきのベッドに引き返し、ローブを床に脱ぎ捨てると、キルトの下にもぐりこんだ。ガリオンは肩をすくめてベッドに戻ろうとした。あと一、二時間は眠ったほうがよさそうだった。
「ベッドのカーテンをしめて」セ・ネドラが言った。「部屋を出るときは静かにしてちょうだい」
ガリオンは一瞬彼女をにらんだが、すぐにあきらめてためいきをもらした。ベッドのまわりのどっしりしたカーテンをしめ、ねぼけまなこで服をきはじめた。
「お願いがあるの、ガリオン」セ・ネドラが甘えた声で言った。「厨房に立ち寄って、わたしがここで朝食を食べたがっていると伝えてくださらない?」
ずいぶん身勝手じゃないか、とかれは思った。むっつりして、残りの服に袖を通した。
「ねえ、ガリオン?」
「なんだい?」かれは努めておだやかに言った。
「髪をとかすのを忘れないで。朝のあなたって、いつも藁の山みたいなんですもの」その声は早くも半分眠りかけているように聞こえた。
火の消えた食堂へ行くと、ベルガラスが窓の前に不機嫌な顔ですわっていた。早朝だというのに、かたわらのテーブルにはジョッキがのっている。「これが信じられるか?」かれは愛想がつきたように窓の外を舞う雪を見やった。
「じきにやむと思うよ」
「トル・ホネスでは雪はふらないんだ」
「セ・ネドラも同じことを言ってた」ガリオンは赤く輝く鉄火鉢に両手をかざした。
「彼女はどこにいる?」
「ベッドに逆戻りさ」
「それもそう悪い考えではないな。なんでおまえもそうしなかったんだ?」
「ぼくは起きる時間だと彼女が決めたからさ」
「そりゃずいぶん不公平だな」
「ぼくもそう思ったよ」
ベルガラスはうわの空で耳をかきながら、まだ雪を見ていた。「トル・ホネスはかなり南にあるから、雪も一日以上はつづくまい。それにあさってはエラスタイドだ。休日のあとは旅行者がどっと増えるから、われわれもそう目立たずにすむだろう」
「すぐには出発しないほうがいいってわけ?」
「そのほうが無難だな。どうせ雪のなかを進んでもたかが知れてる」
「じゃあ、きょうはなにをするつもりだい?」
ベルガラスはジョッキをとりあげた。「これを飲んじまってからベッドに戻る」
ガリオンは赤いビロードのふかふかした椅子をひとつ引き出して、腰をおろした。この何日か心にひっかかっていることを持ち出すなら、いましかないと判断した。「おじいさん?」
「なんだ?」
「このすべてが前にも起きたことがあるような気がするのはなぜなんだろう?」
「すべてとは?」
「なにもかもがさ。アレンディアには面倒を起こそうとするアンガラク人がいる――ぼくたちがゼダーを追いかけていたときもそうだった。トルネドラには陰謀と暗殺――これも前と同じだ。ぼくたちは怪物にでくわした――今度はアルグロスじゃなくてドラゴンだけど、似たり寄ったりの化け物だ。〈珠〉を見つけようとしていたときに起きたことをそっくりくりかえしているみたいじゃないか。同じひとたちにさえ会っている――デルヴォー、あの税関員、ジーバースだってそうだ」
「ふむふむ、非常に興味深い質問だな、ガリオン」ベルガラスはしばらく考えながら、ぼんやりとジョッキの酒を一口飲んだ。「しかし、一定の方法で考えてみれば、納得できることだ」
「わからないな」
「われわれは〈光の子〉と〈闇の子〉のもうひとつの対決へ向かっている」ベルガラスは説明しはじめた。「その対決は、そもそものはじめから幾度となく起きてきた出来事の繰り返しなのだ。同じ出来事なんだから、それにいたる状況が似通っているのも当然なんだ」しばし考え込んでから、ベルガラスは言葉をついだ。「じっさい、状況は似通っていなくてはならんのだよ、そうじゃないか?」
「ぼくにはちょっと深遠すぎる話だな」
「ふたつの予言がある――同じことをふたつの面から語っているんだ。想像もつかない大昔に、なにかが起きて元はひとつだった予言がふたつになった」
「うん。それはわかる」
「予言がふたつに分かれたとき、さまざまなことがいわば停止した」
「どんなこと?」
「言葉に言い表わすのはむずかしいんだ。起きる予定だったことの成行きとでも言おうか――まあ、未来だな。このふたつの力が分離していて――同等であるかぎり、未来は起きることができないのだ。われわれは同じ一連の出来事を何度もくりかえし体験することになる」
「いつになったら終わりになるんだ?」
「予言のひとつがもうひとつに勝つときだ。〈光の子〉がついに〈闇の子〉を打ち負かすとき――あるいはその逆のときだ」
「それはもうぼくがやったんだと思っていた」
「あれは決定的なことではなかったんだよ、ガリオン」
「ぼくはトラクを殺したんだ、おじいさん。あれ以上決定的なことなんてありえないだろう?」
「おまえが殺したのはトラクなんだ、ガリオン。〈闇の予言〉を殺したんじゃない。決着をつけるには、〈夜の都市〉での剣の戦いよりもっと重要ななにかが必要らしい」
「どんな?」
ベルガラスは両手を広げた。「わからん。本当にわからんのだ。だが、このおまえの考えはかなり役に立ちそうだ」
「へえ?」
「前に起きたことに似た出来事を次々に体験することになるなら、あらかじめなにが起きるかわかっているわけだからな。ちょっと考えてみてくれんか――いまからちょっと時間をさいて、この前どんなことが起きたか正確に思いだしてくれ」
「おじいさんはなにをするんだい?」
ベルガラスはジョッキを飲みほして立ち上がった。「さっき言ったとおりさ――ベッドに戻る」
その日の午後、ガリオンがすわって本を読んでいると、茶色のマントをきた礼儀正しい役人がドアをノックし、ヴァラナ皇帝が会いたがっておいでです、と伝えた。ガリオンは本を置くと、役人のあとについて、声の反響する大理石の廊下を通り、ヴァラナの書斎に向かった。
「ああ、ベルガリオン」かれがはいっていくと、ヴァラナは言った。「きみが興味を持ちそうなニュースがたったいま届いたのだよ。どうぞ、かけてくれたまえ」
「情報か?」ガリオンは皇帝の机のとなりにある、革張りの椅子に腰をおろした。
「先日きみたちが口にした例の男――ナラダス――がこのトル・ホネスで姿を見られている」
「ナラダスが? こんなに早くどうやってここにたどりついたんだろう? 最後に聞いたときは、アレンディアの〈大市〉から北へ馬を走らせていたのに」
「きみたちを追っていたのかね?」
「あれこれ聞き回って、大金をばらまいていたんだ」
「なんなら捕まえさせることもできるよ。わたしもその男に二、三たずねたいことがあるし、必要とあらば、数ヵ月間つかまえておくこともできる」
ガリオンは考えた。しばらくたって、かれは残念そうに首をふった。「ナラダスはマロリーのグロリムなんだ。どんな牢屋でもものの一分で抜け出してしまう」
「帝国の地下牢はきわめて頑丈なんだぞ、ベルガリオン」ヴァラナはちょっと鼻白んで言った。
「それほど頑丈じゃないよ、ヴァラナ」皇帝がそういう事柄には頑固な確信を抱いているのを思いだして、ガリオンはちょっとほほえんだ。「じゃ、こう言おう、ナラダスには非凡な力がそなわっているんだ。あなたが話したがらない類の力だよ」
「ああ、例の」ヴァラナはけがらわしげに言った。
ガリオンはうなずいた。「でも、家来たちにはナラダスから目を離させないほうがいい。やつがいることをぼくたちが知らないと思わせておけば、一味のところか――すくなくとも、なんらかの情報へぼくたちを導いてくれるかもしれない。ハラカンもここで姿を目撃されているし、あのふたりのあいだになんらかのつながりがあるのかどうか突き止めたいんだ」
ヴァラナは微笑した。「わたしの人生にくらべると、きみの人生はずいぶん複雑なんだな。わたしが扱う現実はひとつだけだよ」
ガリオンは皮肉っぽく肩をすくめた。「ひまつぶしの役にはたつね」
ドアに軽いノックがあって、モリン卿が足をひきずるようにのろのろとはいってきた。「お邪魔して申し訳ございません、ですが、都市から物騒な知らせがはいってまいりました」
「ほう? 何事だ、モリン?」ヴァラナが聞いた。
「何者かがホネス家の人々を殺害しているのです――こっそりとですが、きわめて効率よく、です。この二晩で相当数が殺されました」
「毒を盛ったのか?」
「いいえ、陛下。この暗殺者はもっと直接的です。おとといの夜は数人をかれら自身の枕で窒息死させました。ひとりは墜落死しています。はじめこれらは自然死と思われました。ですが、昨晩から、暗殺者はナイフを使いはじめたのです」モリンはいたましげに首をふり、憤懣やるかたないようにつぶやいた。「ひどいことです。まったくもってひどいことです」
ヴァラナはけげんそうだった。「長年にわたる例の不和はすべておさまったものと思っていたが。ホービテ一族のしわざだと思うか? 連中はいつまでも不満をこぼしているからな」
「だれにもわからないようです、陛下。ホネス家はおじけづいています。都市を逃げだしたり、屋敷を要塞化したりしています」
ヴァラナはにやりとした。「ホネス一族の不幸にはわたしは少しも痛痒を感じないね。この犯人はなんらかの特徴を残していったか? 名の知れた暗殺者だと特定できるかね?」
「手がかりはありません、陛下。ホネス一族――生き残っている――の屋敷周辺に護衛をおくべきでしょうか?」
「兵隊なら連中も持っている」ヴァラナは肩をすくめた。「だが、おおやけに捜査状を発表して、犯人にわたしが話し合いをのぞんでいることを知らせるのだ」
「逮捕するつもり?」ガリオンはたずねた。
「さあ、そこまではわからない。ただ正体をつきとめて、もう少し厳重にルールを守るべきであることを教えてやりたいんだ、それだけさ。いったいどんなやつだろう」
だがヴァラナが犯人を逮捕しないという点は、疑わしかった。
トル・ホネスにおけるエラスタイドの祭りは大盛況だった。飲み過ぎて浮かれ騒ぐ人々が千鳥足でパーティからパーティへと渡り歩き、裕福な家族たちは互いの富をこれみよがしに見せびらかして競いあっていた。金も勢力もある人々のばかでかい邸宅は、はでな飾り布や色つきのランタンで飾りたてられた。富が豪勢な宴会に費やされ、しばしば悪趣味な娯楽が催された。宮殿での祝祭はもっと控え目だったが、ヴァラナ皇帝は内心忌み嫌う大勢の人々まで歓待してやっているような気持ちだった。
特にその夜のために以前から予定されていた催しは、きらびやかな舞踏会のあとの豪華な晩餐だった。「きみたちふたりはわたしの栄えある賓客というわけだ」ヴァラナはガリオンとセ・ネドラに申しわたした。「わたしがこれに耐えなけりゃならないなら、きみたちにも耐えてもらわなけりゃな」
「わたしは遠慮したいわ、おじさま」セ・ネドラが悲しそうにほほえんで言った。「いまは祝い事をしたいような気分じゃないのよ」
「人生を避けるわけにはいかないんだよ、セ・ネドラ」ヴァラナはやさしく言った。「パーティは――この宮殿でおこなわれるつまらないパーティだって――きみの心を悲しみからそらす役に立つかもしれん」かれはずるそうにセ・ネドラを見た。「それに、きみが出席しなければ、ホネス一族やホービテ一族、それにヴォードゥ一族がほくそえむぞ」
セ・ネドラはすばやく頭をおこした。目つきがひややかになった。「それもそうね。もちろん出席するわ。本当は着る服がないのよ」
「王宮の戸棚はどれもきみのドレスでぎっしりだよ、セ・ネドラ」ヴァラナは思い出させた。
「あら、そうだったわね。あれを忘れてたわ。いいわ、おじさま、喜んで出席します」
というわけで、淡いクリーム色のビロードのドレスをきて、燃えるような赤い巻毛に宝石をちりばめた花冠をかぶったセ・ネドラは、その夜夫であるリヴァの王の腕によりそって舞踏室に入場した。肩のあたりがいかにも窮屈そうな借り物の青い上着をきたガリオンは、すべての催しにはなはだ熱意のないようすで臨んだ。一国を代表する賓客として、かれは大舞踏室の接見の場に一時間余りも立っていなければならず、ホービテ家、ヴォードゥ家、ラニテ家、そしてボルーン家――と、その往々にして軽薄な妻たち――の冗談に空疎な受け答えをつぶやかねばならなかった。しかし、ホネス一族は見あたらず、その欠席がかえって人目をひいた。
その延々とつづく儀式が終わりに近づいたころ、ラヴェンダー色の錦織のあでやかなドレスを着たジャヴェリンの蜂蜜色の髪の姪、リセル辺境伯令嬢が、カルドン王子と連れだってやってきた。「大丈夫ですわ、陛下」膝をまげて挨拶しながら、リセルはささやきかけた。「こんなお祭り騒ぎ、永遠につづきっこありませんもの――見た目にはそうでなくても」
「ありがとう、リセル」ガリオンは熱のない口調で答えた。
接見の列がやっとのことで最後尾に達したあと、ガリオンは礼儀正しく客たちのあいだをまわり、果てしなく繰り返される意見――「トル・ホネスでは雪はふらないはずなんですよ」――に辛抱強く耐えた。
蝋燭に照らされた舞踏室のずっと向こう端ではアレンドの楽団が、西方のすべての王国になじみ深いお祝いの歌をつぎつぎに演奏していた。リュートやヴィオラ、ハーブ、フルート、オーボエの奏でる歌は、皇帝の賓客たちのおしゃべりにかき消されて、聞き取れない背景音になっていた。
「今宵はマダム・アルディマを雇って、われわれを楽しませてもらう予定だったのだよ」ヴァラナがホービテ一族の小さな輪にむかって言っていた。「彼女の歌が祝祭のハイライトになるはずだったのだ。あいにく天候が悪くなって、マダムは家から出るのをやめてしまった。なにしろ、喉の保護にかけてはたいそう慎重な人だからな」
「それでよかったのよ」ガリオンのすぐうしろに立っているラニテ家の婦人が連れにささやいた。「だいたい、それほどいい声じゃないし、年も年ですもの――ちかごろじゃ、アルディマは居酒屋で歌っているそうよ、まちがいないわ」
「歌がないと、どうもエラスタイドらしくない」ヴァラナがつづけた。「ひとつここにおいでの美しいご婦人がたのひとりに一曲か二曲、歌っていただこう」
皇帝の提案にひとりのがっしりしたボルーン家の中年婦人が即座に反応して、オーケストラに加わり、高音域が苦しげにかすれるソプラノで声をふるわせながら、おなじみの歌を歌った。婦人が歌い終えて、顔を真っ赤にし、喘ぎながら立ち尽くすと、皇帝の客たちはその金切り声に丁重な拍手で答えたが、それも五秒とつづかず、ふたたびいつ果てるとも知れぬおしゃべりがはじまった。
やがて、楽団はあるアレンドの曲を演奏しはじめた。いつごろのものかもわからないほど古い古い歌だった。アレンドの多くの歌がそうであるように、それもメランコリックな短調ではじまり、リュートが複雑な音を矢継ぎ早やに奏でた。深い音色のヴィオラが主施律にはいったとき、豊かなコントラルトの声がくわわった。会話がしだいに小さくなっていき、声に圧倒されて、賓客のおしゃべりがばたりとやんだ。ガリオンはびっくりした。オーケストラからそう遠くないところにリセル辺境伯令嬢が立って、頭を毅然と起こして歌っている。すばらしい声だ。暗くスリリングでいながら、蜂蜜のようになめらかな音質をしている。そのみごとな声にたいする深い尊敬の念から、客たちはリセルからあとずさり、彼女は蝋燭にてらされた金色の輪の中にまったく一人で立っていた。そのとき、ガリオンを仰天させることが起きた。セ・ネドラがその蝋燭の光の中へ踏み込んで、ラヴェンダー色の服をきたドラスニアの娘の横に並んだのだ。小柄なリヴァの女王は悲しげな小さな顔をあげて、辺境伯令嬢とともに歌いだした。彼女の澄んだ声は安々とフルートの調べに合わせて高くなっていった。その音色と音質があまりにも似通っていたので、声と楽器を聞き分けるのがむずかしいほどだった。だが、セ・ネドラの歌声には悲嘆の情がこめられていた。ガリオンは喉にかたまりがこみあげてくるのをおぼえ、目頭が熱くなった。周囲のお祭り騒ぎにもかかわらず、あきらかにセ・ネドラはいまも心の奥深く苦悩を抱きつづけているのだ。陽気な娯楽も彼女の苦しみを軽くすることはできなかった。
歌が終わったとき、われんばかりの拍手がわきおこった。「もっと!」客たちは叫んだ。「もっと!」
楽団は大喝采に気をよくして、ふたたび同じ昔の曲を演奏しはじめた。もう一度リュートが波立つ滝のように心の奥を吐露したが、今度はヴィオラがリセルを主施律へいざなったとき、みっつめの声がくわわった――だれが歌っているのか見るまでもなくガリオンのよく知っている声だった。
銀糸でふちどりした深い青のドレスを着たポルガラが、リセルとセ・ネドラと一緒に蝋燭の光の輪の中に立っていた。彼女の声は辺境伯令嬢の声のように豊かでなめらかだったが、セ・ネドラの声をもしのぐ悲しみに色どられていた――失われて二度と戻らない場所への悲しみ。やがてフルートがセ・ネドラをともなって高音域へ達すると、ポルガラの声も同じように高くなった。こうして作り出されたハーモニーは西方のすべての王国になじみ深い伝統的な歌ではなかった。アレンドの楽団員たちは目をうるませてこのふしぎな古い和音を奏で、何千年も聞かれたことのなかったメロディーを再演した。
そのみごとな歌の最後の音が薄れたとき、あたりは畏怖に満ちた静けさに包まれた。しばらくたって、客たちが――その多くが人目もはばからずに泣いていたが――はじかれたように拍手喝采を送ったとき、ポルガラはだまってふたりの若い女性を連れて金色の光の輪から出てきた。
ベルガラスは雪のように白いトルネドラのマントをきて、いつになく堂々と見えたが、酒をなみなみと注いだ銀の酒杯を持ってポルガラをとおせんぼしたとき、その目は謎めいていた。
「どう、おとうさん?」ポルガラはたずねた。
かれは無言で娘の額にくちづけ、酒杯を渡した。「すばらしかったよ、ポル。しかし、遠い昔に滅んだものをどうしてよみがえらせる?」
ポルガラは誇らしげにあごをつきだした。「ボー・ワキューンの思い出はわたしが生きているかぎり消えないのよ、おとうさん。あの都市は永遠にわたしの心に刻み込まれているの。かつては気品と勇気と美にあふれた輝かしい都市が存在したことを、人々にひんぱんに思い出させたいのよ。いまわたしたちの生きているこの世俗的世界が、それをどんどん記憶のかなたへやってしまっていることをね」
「しかしおまえにとってはずいぶんつらいことだろうが、ポルガラ?」ベルガラスは重々しくたずねた。
「ええ、そうよ、おとうさん――言葉では言いあらわせないほどつらいわ――でも、つらいことには慣れているの、だから……」かすかに肩をすくめると、ポルガラは威厳のある足取りで舞踏室から出ていった。
宴会のあと、ガリオンとセ・ネドラは舞踏室の床を数周した。本当にそうしたかったわけではなく、体裁上そうしたまでのことだった。
「レディ・ポルガラはワサイト・アレンド人のことでどうしてあんなに感情的になるの?」踊りながら、セ・ネドラはたずねた。
「若かったとき、長いことボー・ワキューンに住んでいたんだよ」ガリオンは答えた。「その都市を心から愛していたんだろうな――そしてそこにいた人々を」
「彼女があの歌を歌ったとき、わたし、心臓がはりさけるんじゃないかと思ったわ」
「ぼくもさ」ガリオンは静かに言った。「ポルおばさんはそうとう苦しい思いをしてきた人だけど、ボー・ワキューンの崩壊ほど彼女を傷つけた事件はなかったんだ。アストゥリア人が都市を破壊したとき、助けにこなかったおじいさんをいまだにうらんでいる」
セ・ネドラはためいきをついた。「世のなかは悲しいことだらけね」
「希望だってあるさ」
「でも、ほんのちょっとよ」セ・ネドラはまたためいきをついた。次の瞬間、いたずらっぽい微笑が口もとにうかんだ。「あの歌にはここにいる女たちはぐうの音も出なかったわね」彼女はほくそえんだ。「いいきみ」
「人前でにやにやするなよ、ラヴ」ガリオンはやさしくセ・ネドラを叱った。「この場にあまりふさわしくないぞ」
「ヴァラナおじさまはわたしのこと、栄えある賓客のひとりだって言わなかった?」
「うん――まあ」
「じゃ、これはわたしのパーティも同じよ」彼女は頭をそらした。「だからにやにやしたいときは、にやにやするわ」
ヴァラナが用意してくれた部屋へみんなでひきあげてみると、シルクが暖炉のそばに立って両手を暖めながら待っていた。悪臭を放つ屑かなにかが、体中についており、その顔には、それとわからぬほどのかすかな不安が浮かんでいる。「ヴァラナはどこだい?」かれらが蝋燭に照らされた居間にはいっていくと、シルクは緊張ぎみにたずねた。
「下の舞踏室で来客をもてなしている」ガリオンは言った。
「なにをしてらしたの、ケルダー王子?」いやな臭いのする服に顔をしかめながら、セ・ネドラがきいた。
「隠れていたんだ。残飯の山の下に。おれたちはトル・ホネスを出たほうがよさそうだ――それも急いで」
ベルガラスの目が細まった。「どういうことだ、シルク? この二日間、どこにいた?」
「あちこちに」シルクははぐらかした。「体をきれいにしてきたほうがよさそうですね」
「おじいさんはホネス一族に何が起きているか、知らないんだね?」ガリオンが言った。
「何事だ?」とベルガラス。
「きょうの午後、ヴァラナと一緒のところへモリン卿が報告しにきたんだ。ホネス一族がどんどん死んでいるんだよ。最後の勘定だと、八人から十人は死んでるな」
「正確には十二人だ」シルクが細かく訂正した。
ベルガラスはネズミ顔の男のほうを向いた。「説明してもらいたいな」
「人間は死ぬものですよ」シルクは肩をすくめた。「しょっちゅう起きていることです」
「かれらに助けはあったのか?」
「ちょっとはね、たぶん」
「で、その助けを申し出たのはおまえだったのかね?」
「おれがそんなことをすると思いますか?」
ベルガラスの顔がけわしくなった。「わたしは真実が知りたいのだ、ケルダー王子」
シルクはおおげさに両手を広げた。「真実ってなんです、友よ? 真実のなんたるかを実際に知ることのできる者なんているんですか?」
「これは哲学的議論じゃないんだぞ、シルク。おまえがホネス一族を虐殺したのか?」
「虐殺≠ニ言えるかどうかわかりませんね。その言葉には粗雑なひびきがある。おれは洗練を身上としてますから」
「おまえが人々を殺したのか?」
「やれやれ」シルクの顔にかすかに怒ったような表情がうかんだ。「どうしてもそういう言い方をしたいんなら――」
「十二人も?」ダーニクが信じられないように言った。
「もうひとり、虫の息の奴がいるよ」シルクが口をはさんだ。「とどめをさす前に邪魔がはいったんでね。だが、長くはもつまい」
「わしはまだ待っているんだぞ、シルク」ベルガラスが陰気に言った。
シルクは鼻をくんくんいわせて臭い袖を嗅いでから、顔をしかめた。「ベスラはおれの無二の友人だったんですよ」それだけ言えばすべて説明はつくといいたげに、肩をすくめた。
「しかし――」ダーニクが反論した。「彼女は一度きみを殺させようとしたじゃないか?」
「ああ、あれね。あんなのはどうってことはない。あれは仕事だったんだ――個人的なものじゃない」
「そういうきみは、個人的問題で人を殺そうとしているんじゃないのか?」
「ちがうとも、おれはベスラが取り組んでいたことに口出ししていたんだ。ほら、彼女はタール人の大使とこの取り決めを結んでいて――」
「話題を変えるな、シルク」ベルガラスが言った。
シルクの目がきつくなった。「ベスラは特別な女だったんです」かれは答えた。「美人で、頭がよく、じつに正直だった。おれは彼女を心から賞賛していました。愛していたと言ってもいいかもしれない――やや特殊な方法でね。ベスラを通りで切り殺そうと決心したやつがいると考えただけで、猛烈に腹がたったんです。おれは当然と思ったことをしたまでですよ」
「われわれが重要な任務をかかえているというのにか?」ベルガラスの顔は雷雲のようだった。「おまえはいっさいをほうりだして、つまらぬ私的な人殺しに走ったのか?」
「だまっておけないことだってあるんです、ベルガラス。方針の問題もある。おれたちはドラスニア諜報部のメンバーを殺害した者を、罰することなくすませてはならないことになってるんですよ。その種のことをしでかしてまんまと逃げおおせると思われたんじゃ、たまりませんからね。とにかく、最初の夜は事を自然に見せるのにかなり苦労しました」
「自然に?」ダーニクがきいた。「殺人をどうやれば自然に見せることができるんだい?」
「たのむよ、ダーニク。殺人なんていやな言葉をつかわないでくれ」
「シルクはベッドに寝ていた連中を枕で窒息させたんだよ」ガリオンは説明した。
「そしてもうひとりは偶然窓から落下した」シルクが言い足した。「かなり高い窓だったな。男は鉄柵の上に墜落した」
ダーニクが身ぶるいした。
「おとといの晩、やっとのことでそいつら五人のところを訪問したんだが、そのやりかただと時間を食ってしょうがないんで、昨夜はもうちょっと直接的手段を取ったんだ。もっとも、ケルボー男爵には少しばかり時間をかけたがね。ベスラを殺す命令を実際に出したのは、ケルボーだったんだ。やつが死ぬ前に、おれたちはじつにすてきなおしゃべりをした」
「ケルボーの屋敷はトル・ホネスでも一番警備が固いのよ」セ・ネドラが言った。「どうやってはいりこんだの?」
「夜になると、人間は警戒心がゆるむんだ――雪がふっていればなおさらさ。屋根からはいりこんだんだ。とにかく、ケルボーはきわめて有益な情報を与えてくれたよ。ベスラの行動をホネス一族にばらした人物は、マロリー人だったらしい」
「ナラダスかい?」ガリオンはすぐにたずねた。
「いや、そいつは黒いひげをはやしていた」
「じゃ、ハラカンか?」
「ひげのある男などいくらでもいるよ、ガリオン。もうちょっと手堅い情報が必要だ――ハラカンをこまぎれにすることに異議があるわけじゃないが、古い友人のことだけで頭がいっぱいで、本当の下手人をみすみす逃がしちまうなんてのは願いさげだからな」シルクの顔がふたたびひややかになった。「事実にかんがみて、ケルボーの言ったことから、このおせっかいなマロリー人がベスラ殺害のお膳立てをしたことはまちがいない――ホネス一族へのいわば好意としてな」
「お風呂にはいってくれるといいんだけど、ケルダー王子」セ・ネドラが言った。「いったいどういうわけで、残飯の山にもぐりこんだりしたの?」
シルクは肩をすくめた。「最後の訪問中に邪魔がはいって、おおぜいの人間に追いかけられたのさ。この雪が事をいささか面倒にしてくれてね。足跡がつくから、たちまち行き先がわかってしまう。隠れる場所が必要だった。残飯の山が手近だったんだよ」かれはうんざりした顔つきになった。「トル・ホネスに雪がふるとはね」
「同じことをきょうぼくがどんなにたくさんの連中から聞かされたか知ったら、びっくりするよ」ガリオンはつぶやいた。
「冗談じゃなく、おれたちはただちに出発したほうがいいと思うよ」シルクは言った。
「どうして?」ダーニクがきいた。「あなたは逃げおおせた、そうでしょう?」
「足跡を忘れてるよ、ダーニク」シルクは片足をあげた。「リヴァのブーツだ――愛用してる。じつにはきごこちがいいんだが、くっきり足跡がつく。だれかが断片をつなぎあわせるのは時間の問題だと思うね。ホネス一族さしまわしの暗殺者どもをかわすような気分じゃないんだよ。ホネスのやつらはまぬけぞろいだが、厄介な存在になりかねない」
ドアがそっと開いた。シルクは間髪をいれずにきたない上着の内側の短剣に手を伸ばして、腰を落とした。
「あらまあ」ラヴェンダー色のドレスのヴェルヴェットがおだやかに言いながら、ドアをうしろ手にしめた。「今夜のわたしたちは神経質になっているんじゃなくて?」
「ここでなにをやってるんだ?」シルクが問いつめた。
「皇帝主催の舞踏会に出席していたのよ。そういう場所でどんなにたくさんの噂話を小耳にはさめるかわかってないのね。このふた晩でホネス一族にふりかかった事故の話で、舞踏会はもちきりよ。この状況だと、あなたの考えじゃ、たぶんわたしたちは出発したほうがいいんでしょうね」
「わたしたち?」
「あら、話さなかった? わたしって忘れっぽいのよね。わたしもあなたがたと一緒に行くわ」
「ならん!」ベルガラスが言った。
「ご意志にさからうのは気が進まないんですけれど、長老」ヴェルヴェットは残念そうに言った。「でも、わたしは命令にしたがって行動しているんです」彼女はシルクのほうを向いた。「この数日のあなたの行動について、おじさまはちょっと神経質になってるのよ。かれはあなたを信頼しているわ、ケルダー――信頼されていないなんて思わないで――でもおじさまは、だれかにあなたを監視させたいのよ」彼女は眉をひそめた。「あなたの真夜中のホネス一族訪問の話を耳にしたら、おじさまはすごくおこるでしょうね」
「きみだってルールを知ってるだろう、リセル」シルクは答えた。「ベスラはおれたちの仲間だったんだ。こういうことをほっておくわけにはいかない」
「もちろんだわ。でも、ジャヴェリンは個人的にそういう報復を命令するのが好きなのよ。あなたのいささか性急な復讐は、かれからそのチャンスを奪ってしまったわ。あなたはなんでもひとりでやりすぎるのよ、シルク。ジャヴェリンは正しいわ。あなたには監視が必要よ」リセルは軽く口もとをひきしめた。「でも、認めざるをえないけど、あれは見事な復讐だったわ」
「いいか、よく聞くんだ、おじょうさん」ベルガラスが熱っぽく言った。「わしはドラスニアの密偵網のために、ツアー・ガイドをやっているわけじゃない」
リセルは相手の警戒心をゆるめるような微笑をうかべると、ベルガラスのひげのはえた頬を愛情をこめて軽くたたいた。「まあ、そんな、ベルガラス」やさしい茶色の目で訴えるように老人を見つめた。「聞きわけのないことをおっしゃらないで。わたしがあとをついていくよりも、わたしを一行にくわえてくださったほうがずっと礼儀正しいし――都合がいいんじゃありません? あなたが好むと好まざるとにかかわらず、わたしは命令にしたがうつもりですわ、尊師」
「どうしてわしはいつも言うことを聞こうとしない女たちに囲まれなくちゃならんのだ?」
リセルの目がまんまるになった。「それはわたしたちがあなたを愛しているからですわ、不死身のお方」彼女は熱っぽく説明した。「あなたはすべての乙女の夢にたいする答えなのですもの、盲目的愛情からついていくのです」
「もうたくさんだよ、おじょうさん」ベルガラスは不吉な口調で言った。「きみはわしらと一緒には行かない、それで決定だ」
(なあ)ガリオンの頭のなかの乾いた声が感慨をこめて言った。(常々ベルガラスは扱いにくい男だと思っていたが、これでやっとその原因がわかったような気がする。それはかれの徹頭徹尾頑固な相反する性質のせいなのだ。こうした独断的な決定についても、本当はなんら理由はないのさ。かれはわたしをいらだたせるために、そうしているだけなのだ)
「リセルは一緒に行くことになってるってことですか?」ガリオンは思わず口走った。あんまりびっくりしたので声に出して言ってしまったのだ。
(むろんだよ。おまえたち全員が出発しないうちに、わたしがあらゆる困難をのりこえて彼女をトル・ホネスへ行かせたのはなんのためだと思っているんだね。さあ、ベルガラスに言ってやれ)
しかし、ベルガラスの表情を見れば、その必要はなかった。ガリオンの不注意な発言から、かれはすでに決定をくつがえされたことを悟っていたのだ。「また声の訪問だな?」かれはわずかにうんざりした口調で言った。
「そうなんだ、おじいさん。そうらしい」
「すると、リセルは一緒に行くのか?」
ガリオンはうなずいた。
(こうした言い争いに負けたときのベルガラスの顔つきをながめるのがわたしは大好きでね)乾いた声は満足そうだった。
ポルガラが笑いだした。
「なにがそんなにおかしいんだ、ポル?」ベルガラスが問いつめた。
「なんでもないわ、おとうさん」ポルガラはしらばっくれた。
ベルガラスはやにわに両手を宙に投げた。「勝手にしやがれだ」やぶれかぶれで言った。
「トル・ホネス中の人間を一緒に来させるがいい。わしは平気だ」
「まあ、おとうさんたら。そういうへそ曲がりはやめてちょうだい」
「へそ曲がりだ? ポル、|言葉に気をつけろ《ウォッチ・ユア・タング》」
「それはとてもむずかしいわ、それにそんなことをしたらばかみたいに見えるわよ。さあ、いくつか計画を練ったほうがいいんじゃないかしら。残りのわたしたちが着替えて荷物を詰めているあいだに、ガリオンとふたりで出発しなければならないことをヴァラナに説明に行ってきたらいかが。なにか適当な言い訳をひねりだすのよ。シルクの夜の行動についてヴァラナに知らせる必要があるかどうかわたしにはわからないわ」ポルガラは考えこむように天井を見上げた。「ダーニクとエリオンドとトスはもちろん馬のようすを見に行くわ」彼女は思案した。「あなたには特別の仕事をあげるわよ、ケルダー王子」
「へえ?」
「体を洗ってらっしゃい――すみずみまで」
「服も洗ったほうがよさそうだ」かれは残飯まみれの上着とズボンを見下ろした。
「いいえ、シルク。洗うんじゃだめ――燃やすのよ」
「今夜出発するのはむりよ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラが言った。「都市の門にはすべて錠がおりているし、軍団兵は絶対に門をあけないわ――皇帝じきじきの命令でもないかぎり」
「わたしならみんなを都市から出せるわ」ヴェルヴェットが自信たっぷりに言った。
「どうするんだね?」ベルガラスがたずねた。
「信用してください」
「みんなそれしか言わんのだ、いいかげんにやめてもらいたいね」
「まあ。そうそう、ところで」ヴェルヴェットがつづけた。「きょう、わたしたちの古い友人を見かけたんです。ホネス一族がおおぜいひとかたまりになって南門のほうへ馬を走らせていたんですが」彼女はシルクを見やった。「あなたはかれらをこわがらせたにちがいないわ、ケルダー。かれらは引き連れていた大部隊をまわりに立たせて、あなたを近づけないようにしていたもの。とにかく、かれらの中央で馬にまたがって、どこから見てもトルネドラの紳士然としていたのは、マロリー人のハラカンでしたわ」
「ふむふむ」シルクが言った。「そいつはおもしろい」
「ケルダー王子」ヴェルヴェットは陽気に言った。「お願いだから、お風呂へはいってきて――でなければ、すくなくとももうちょっと離れてよ」
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ひんやりした灰色の霧が川から立ちのぼって、トル・ホネスの広い街路をおおっている。雪は雨になっていた――霧のなかから落ちてくる冷たい霧雨だ。屋根や中庭はまだ白一色だが、街路や大通りはじゅくじゅくと茶色にぬかるんで、荷馬車や馬車のわだちが二重三重についていた。真夜中近く、ガリオンとその一行はひそかに宮殿をあとにした。道で出くわした一団は祝日に浮かれ騒いで、足腰も立たぬほど泥酔していた。
あし毛の雌馬にまたがり、ぶあつい灰色のマントをまとったヴェルヴェットが、一行を先導した。正面に大理石を飾ったトル・ホネスの豪商の家々の前を通過し、人気《ひとけ》のない中央市場を通って、都市の南に位置する下層階級の人々の住む地区へはいった。わき道の角を曲がったとき、居丈高な声が霧のなかから叫んだ。「とまれ!」
ヴェルヴェットが手綱をひくと、兜をかぶり、赤マントをきた軍団兵の一団が槍を手に、霧雨のなかから現われた。「仕事の内容をお聞かせねがおう」一団を指揮する軍曹がぶっきらぼうに言った。
「本当は仕事じゃないのよ」ヴェルヴェットは明るく答えた。「わたしたち、お楽しみに行くところなの。ノレイン伯爵がお屋敷でパーティを開いているのよ。もちろん伯爵はご存じでしょ?」
軍曹の顔に浮かんでいた疑惑がいくぶんやわらいだ。「いや、おじょうさん。知りませんな」
「ノリーを知らないの?」ヴェルヴェットは叫んだ。「おどろきだわ! トル・ホネス中の人がかれを知っていると思ってたのに――すくなくとも、かれはいつもそう言ってるのよ。気の毒に、これを知ったらノリーはすごくがっかりするわ。そうだわ、部下のみなさんも一緒にわたしたちとノリーに会いにいらっしゃらない? きっとお気に召すわよ。かれのパーティはいっだってとてもおもしろいんですもの」ヴェルヴェットは目を大きくして、軍曹に気の抜けた微笑を送った。
「残念ですが、われわれは勤務中です。この通りでまちがいないんですか? ここは貧乏人の居住地区ですよ。このあたりに貴族の屋敷があるはずはないんだが」
「近道なのよ。ほら、ここを通って左に曲がるの」ヴェルヴェットはためらった。「それとも右だったかしら? よくおぼえていないわ。でも友だちのひとりがちゃんと道を知っているのよ」
「このあたりには気をつけないといけませんよ、おじょうさん。追いはぎやスリが横行しているんです」
「まあ!」
「たいまつを持って行くべきですな」
「たいまつ? とんでもないわ! たいまつの煙のにおいが髪にしみこんだら、何週間もにおうんですもの。ほんとに一緒にいらっしゃらない? ノリーのパーティは最高よ」
「伯爵によろしく言ってください、おじょうさん」
「それじゃ、行きましょうか」ヴェルヴェットは一行に声をかけた。「ほんとに急がなくちゃ。このままじゃ遅刻もいいところだわ。さよなら、大尉」
「軍曹です」
「あら? 大尉と軍曹はちがうの?」
「いやいいんですよ、おじょうさん。では急いでいってらっしゃい。お楽しみを逃したくないでしょう」
ヴェルヴェットは陽気に笑って、規則正しい駆け足で馬を走らせはじめた。
「ノレイン伯爵ってだれなんです?」軍団兵の耳にはいらないところまできたとき、ダーニクが興味ありげにたずねた。
「架空の人物よ、善人ダーニク」ヴェルヴェットは笑った。
「リセルは正真正銘のドラスニア人だな」ベルガラスがつぶやいた。
「疑っていらしたんですの、永遠のお方?」
「わたしたちを正確にはどこへ連れていくの、リセル?」霧深い通りを行きながらポルガラがたずねた。
「わたしの知っている家があるんです、レディ・ポルガラ。あまり品のいい家じゃありませんけど、都市の南の城壁に背面をくっつけて建っていますし、とても役にたつ裏口があるんです」
「城壁に背面がくっついているのに、どうして裏口があるの?」霧雨をよけようと緑色のマントの頭巾をかぶりながら、セ・ネドラがきいた。
ヴェルヴェットは片目をつぶってみせた。「いまにわかりますわ」
一行の進む道はますますみすぼらしくなってきた。霧のなかから現われでる建物は大理石ではなく、粗石でできており、その大半は窓もない倉庫も同然で、うつろな顔を通りに向けていた。
いやな臭いのする居酒屋の前を通りすぎたとき、なかから叫び声と笑い声とみだらな歌の断片が聞こえてきた。数人の酔っぱらいが居酒屋のドアからとびだしてきて、こぶしや棍棒でなぐりあいをはじめた。無精ひげのはえた、がっしりした体つきのならず者が、千鳥足で通りにでてきて、揺れながら一行の前にたちふさがった。
「わきへどきなさい」ヴェルヴェットはひややかに言った。
「そう言うのはどこのどいつだ?」
トスが悠々と馬を進めてヴェルヴェットの隣りに並び、丸太のような腕をのばして持っていた杖の先で男の胸を軽くおした。
「だれを突いてるのかよく見ろってんだ!」酔っぱらいは杖をはらった。
トスは表情ひとつ変えずに手首をひねった。杖の先が男の側頭部にがつんとあたり、男は白目をだしてけいれんしながら溝に倒れこんだ。
「まあ、ありがとう」ヴェルヴェットが巨漢に向かって快活に言うと、トスは礼儀正しく首をかしげ、並んでみすぼらしい通りを進んでいった。
「いったいなにが原因で喧嘩していたのかしら?」セ・ネドラがおもしろそうにきいた。
「体をあっためるには喧嘩が一番なんだ」シルクが答えた。「トル・ホネスじゃたきぎは貴重品だし、友好的喧嘩は血を沸き立たせる。だれでも知ってることだと思ったよ」
「わたしをからかってるの?」
「おれがそんなことするかね?」
「かれはもともと軽薄なところがあるんです、女王陛下」ヴェルヴェットが言った。
「リセル」セ・ネドラはきっぱりと言った。「これから一緒に旅をする仲なのよ、堅苦しい称号は抜きにしましょう。わたしの名前はセ・ネドラよ」
「女王陛下がそのほうがお好きなら」
「お好きなのよ」
「それじゃ、セ・ネドラ」蜂蜜色の髪の娘はにっこりとほほえんだ。
一行は暗い帝都の通りを馬に乗って進みつづけ、ついにのしかかるようにそびえる南の城壁についた。「こっちです」ヴェルヴェットは城壁と、倉庫のような家の長い列のあいだの雨にぬれた道にはいった。彼女が一行を連れていった家は頑丈な二階家だった。雨と霧にぬれて黒光りした石造りの家は、中庭のほぼ中央に位置しており、どっしりした正門があった。細い窓にはすべてよろい戸がおり、ひとつだけともった小さなランタンが門の上を照らしている。
ヴェルヴェットはすそをよごさないようにスカートをたくしあげて、用心深く馬をおりた。門に歩み寄り、さがっているロープをひっぱると、中庭の内側で小さな鐘がチリンと鳴った。中から答える声がすると、彼女は門番としばらく声をひそめて話し合った。やがて鎖の鳴る音がして、門が大きく開けられた。ヴェルヴェットが馬を中庭へ導き、みんなも彼女につづいた。ガリオンは興味しんしんであたりを見回した。中庭はきれいに雪かきされて、一向にふりやまない霧雨に玉石がぬれて光っている。鞍をのせた馬が数頭ひさしの深い屋根の下に立っており、手入れのゆきとどいた馬車が二台、堅牢そうなドアの前に横づけになっていた。
「中にはいるの?」セ・ネドラがきょろきょろしながらたずねた。
ヴェルヴェットは値踏みするような目でセ・ネドラを見つめてから、ふりかえってエリオンドを見た。「それはあまりいい考えじゃないかもしれませんわ」
家のどこからかくぐもった笑い声がして、それにかぶさるように女の甲高い悲鳴が聞こえた。
ポルガラの眉が片方つりあがった。「リセルの言うとおりだと思うわ」彼女はきっぱり言った。
「ここで待ちましょう」
「わたしは大人の女よ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラがさからった。
「それほど大人じゃないわ、ディア」
「ついてきてもらえる、ケルダー王子?」ヴェルヴェットは小男にたずねた。「連れの男性がいないと、女はこの家じゃ誤解されることがあるの」
「もちろん」シルクは答えた。
「すぐ戻ります」ヴェルヴェットはみんなにうけあった。シルクと並んでドアに近づき、軽くノックすると、たちまち中に消えた。
「どうして温かく濡れていない家の中で待っちゃいけないのかわからないわ」セ・ネドラは不平を言って、マントをしっかり体にまきつけた。
「中へはいったって文句を言うにきまっているわよ」とポルガラ。「霧雨ぐらいがまんなさい」
「この家にどんないけないことがあるっていうの?」
また悲鳴が聞こえ、そのあとにいっそう耳ざわりな笑い声がひびいた。
「ひとつには、あれよ」ポルガラは答えた。
セ・ネドラの目が見開かれた。「あのたぐいの場所だとおっしゃるの?」彼女は急に顔を真っ赤にした。
「ここはそのしるしだらけよ」
十五分ばかりたったとき、雨にぬれた中庭の後方にある地下室のドアがギィーと開いて、輝くランタンを持ったシルクが下から現われた。「馬たちを下へおろさなくちゃならないようだ」
「どこへいくんだい?」ガリオンはたずねた。
「地下室だ。この家はまるでびっくり箱だよ」
おじけづく馬をひいて、かれらは一列になってシルクのあとから傾いた石段をおりていった。どこか下のほうからごぼごぼと水の流れる音がする。石段の下についたとき、ガリオンは狭い通路が広がって大きなほら穴のような部屋になっているのに気づいた。巨大な石のアーチが屋根のようにせりだし、いぶるたいまつによってぼんやり照らされている。部屋のまん中は黒い油のようにとろりとした水に満たされ、細い通路がその水たまりの三面を走っていた。通路につながれているのはかなり大きな黒塗りのはしけで、黒装束の漕ぎ手が両側に六人ずつすわっている。
そのはしけの横の通路に、ヴェルヴェットが立っていた。「一度にふたりしか渡れないんです」彼女は一行に言った。丸天井の室内で声がうつろにひびいた。「馬も乗せなきゃなりませんから」
「渡るですって?」セ・ネドラが言った。「どこへ渡るの?」
「ネドレインの南岸へですわ」とヴェルヴェット。
「でも、わたしたちはまだ城壁の内側にいるのよ」
「じっさいには、城壁の下にいるんです、セ・ネドラ。わたしたちと川をへだてているのは、城壁の外側の表面を形成している大理石の板二枚だけなんです」
そのとき薄暗がりのどこかで重い巻き上げ機のきしむ音がして、地下の港の正面の壁がゆっくりと開き、たっぷり油をさした大きな鉄の蝶番が回転して壁が左右にわかれはじめた。二枚の石板がのろのろと開いたとき、その向こうにガリオンは雨のえくぼのついた川の水面を認めた。向こう岸が濃い霧にかすんでいるのも見える。
「じつに巧みだ」ベルガラスがうなった。「この家はいつごろからここにあるんだね?」
「何世紀も前からです」ヴェルヴェットが答えた。「だれもが抱く願望を満たすために建てられたんですわ。折りにふれて顧客のひとりは人に見られずに都市を出たがったり――都市にはいりたがったりします。ここはそのためにあるんです」
「どうやってこのことをつきとめたんだい?」ガリオンはたずねた。
リセルは肩をすくめた。「ベスラがこの家の所有者だったんです。彼女がジャヴェリンにこの秘密を教えたんですわ」
シルクはためいきをついた。「彼女は墓にはいってもおれたちに援助の手をさしのべているんだ」
一行はふたりずつはしけに乗り、霧深い雨のふるネドレイン川を渡って、背後に柳が密集する霧につつまれた細い砂の岸におりたった。最後にヴェルヴェットが渡ってきたときには真夜中を三時間はすぎていただろう。「漕ぎ手たちが砂についたわたしたちの足跡を消してくれます」彼女は言った。「それも料金のうちなんです」
「ずいぶん高くついただろう?」シルクがきいた。
「そりゃもうすごいわよ。でもドラスニア大使館の予算から出てるんですもの。あなたのいとこはそれがあんまり気にいらなかったんだけれど、わたしが説きふせたの――最終的には」
シルクは意地悪そうににんまりした。
「夜明けまであと数時間です」ヴェルヴェットはつづけた。「この柳の木立の向こう側に馬車道があって、一マイルほど川下で帝国街道に合流しています。都市の耳に届かないところにつくまでは、徒歩で進むほうがいいでしょう。馬が疾走するのを聞きつけたら、南門の軍団兵が不審に思うかもしれません」
かれらは霧雨のまとわりつく闇のなかで馬にまたがり、柳木立をぬけてぬかるんだ馬車道に向かった。ガリオンは速度をゆるめてシルクと並んだ。「あの家でなにがおこなわれていたんだい?」好奇心からたずねた。
「きみに想像できるかぎりのことがさ」シルクは笑った。「そして想像もつかない多くのことがね。金があり余っている人間にとっちゃ、あそこはありとあらゆるたぐいの気晴らしを提供してくれる願ってもない場所なんだ」
「知ってる顔がいた?」
「じっさい何人かいたよ――帝国で深い尊敬を得ている貴族の面々が」
すぐうしろで手綱をにぎっていたセ・ネドラがけがらわしげにフンと鼻を鳴らした。「男の人がああいうところに出入りする理由が理解できないわ」
「顧客は男だけじゃないよ、セ・ネドラ」シルクが言った。
「じょうだんでしょう」
「かなりの数の高貴な生まれのトル・ホネスのご婦人方が、あらゆる種類の方法で退屈をまぎらしている。むろん、仮面をつけているが――あとは堂々たるものさ。おれはある伯爵夫人に気づいたよ――ホービテ一族の中心人物のひとりだ」
「仮面をつけていたなら、どうしてわかったの?」
「彼女には目だつあざがあるんだ――めったに人目にさらさない場所にね。何年か前、彼女とじっこんの仲だったときにそれを見せてもらったんだよ」
長い沈黙があった。「これ以上この話はしたくないわ」セ・ネドラはとりすまして言うと、馬を小突いてかれらのわきを通り過ぎ前方にいるポルガラとヴェルヴェットのそばへ行ってしまった。
「たずねたのは彼女だぜ」シルクは無邪気にガリオンに抗議した。「きみだって聞いてただろう?」
数日間南へ進むうちに、天気は回復した。いつのまにかエラスタイドは過ぎてしまい、ガリオンはそのことを妙に残念に思った。ほんの子供だったときから、真冬の祝日は一年のハイライトのひとつだった。それをなおざりに見送ってしまうことは、きわめて神聖ななにかにそむいているような気がした。セ・ネドラのためになにか特別なものを買ってやれる時間があったらと残念でならなかったが、贈物がわりにできそうなのは、やさしいキスぐらいなものだった。
トル・ボルーンの数リーグ北へきたとき、十二人あまりのお仕着せ姿の召使いをひきつれて帝都へ向かう贅沢な身なりの男女に出会った。「おい。そこの」ビロードの服をきた貴族は、たまたま先頭にいたシルクにいばった口調でよびかけた。
「トル・ホネスはどんなようすだ?」
「例によって例のごとしですよ、閣下」シルクはへつらうように答えた。「暗殺、企み、陰謀――高貴な方々のいつものお楽しみだ」
「そういう言い方はあまり気にいらんな、おい」貴族は言った。
「わたしも、おい≠ニ呼ばれるのはあまり気にいりませんね」
「びっくりするような話を聞いたのよ」毛皮で縁どりした赤いビロードのケープをつけたけばけばしい感じの婦人がせきこんで言った。「何者かがホネス一族を皆殺しにしようとしているって本当なの? 一族全員がベッドで殺されたそうだけど」
「バレラ」夫がうんざりしたように言った。「おまえは根も葉もない噂をくりかえしているだけじゃないか。こんなみすぼらしい平民に首都で実際になにが起きているかわかるはずがなかろう? そんな突拍子もない話に多少なりとも根拠があるなら、ナラダスが教えてくれたはずだ」
「ナラダス?」シルクの目が突然好奇心でいっぱいになった。「白目のアンガラクの商人のことですか?」
「知っているのか?」貴族は少なからずおどろいたようだった。
「噂は知ってますよ、閣下」シルクは慎重に答えた。「あいつを知り合いだなんておおっぴらに口にしないほうが賢明ですぜ。皇帝があいつの首に賞金をかけたのはご存じでしょうが?」
「ナラダスに? まさか!」
「あいにくですがね、閣下、トル・ホネス中が知ってることですよ。あいつをつかまえられる場所を知っているんなら、金貨で千クラウンわけなく稼ぐことができますぜ」
「千クラウンだと!」
シルクはこっそりあたりをうかがった。「あんまり人にはしゃべりたくないんだが」かれは声を落として言った。「あいつが気前よく使ってる金貨はにせ物だって、トル・ホネスじゃもっぱらの噂でね」
「にせ物?」貴族は突然目をむいて叫んだ。
「じつに巧妙なにせ金なんだ」シルクはつづけた。「本物らしく見せるために金に卑金属を混ぜてあるんだが、見かけの十分の一の値打ちもないときてる」
貴族の顔からみるみる血の気がひき、かれは思わずベルトにくくりつけた財布をにぎりしめた。「貨幣価値を低下させることによってトルネドラ経済を破綻させる計略の一環なんだ。ホネス一族はある方法でそれに関係していたんで、皆殺しになってるのさ。もちろん、にせ金を持っているところを見つかれば、だれでもたちまちしばり首だ」
「なんだって?」
「当然だわな」シルクは肩をすくめた。「皇帝はこの悪事をただちに撲滅するつもりでいる。きびしい手段をこうじることが絶対に必要だよ」
「わたしは破産だ!」貴族はうめいた。「早く、バレラ!」かれはそそくさと馬の向きを変えた。「いますぐトル・ボルーンへ戻らねばならん!」貴族はおどろいている妻を連れて、猛スピードで南へ引き返していった。
「陰で糸をひいているのがどの王国だか聞きたくないのかい?」シルクが呼びかけた。やがてかれは鞍の上で体をふたつ折りにして笑いころげた。
「あざやかだわ、ケルダー王子」ヴェルヴェットが感嘆の面もちでつぶやいた。
「ナラダスという男、ずいぶん動きまわっているね」ダーニクが言った。
「どうやら首ねっこをおさえたようだぞ」シルクはほくそえんだ。「あの噂が広まれば、ナラダスも金を使うのにちょいと苦労するようになるだろう――興味はもちろんのこと、あちこちで懸賞金騒動が起きるよ」
「でも、あの気の毒な貴族にやったことはひどいんじゃない?」ヴェルヴェットが非難した。「あの人、トル・ボルーンへの帰り道できっと金庫を全部からにして、お金をどこかに埋めるわ」
シルクは肩をすくめた。「アンガラク人とつきあった報いさ。さあ、進もうか?」
一行はトル・ボルーンをそのまま通りすぎてドリュアドの森のほうへ南に馬を走らせつづけた。南の地平線上にそのいにしえの森が見えてきたとき、ポルガラは手綱をひいて、居眠りしているベルガラスの馬と並んだ。「クサンサのところへ寄って挨拶をしていくべきだと思うわ、おとうさん」
老人は目をさまして、まぶしげに森の方角を見やった。「そうかな」疑わしげにつぶやいた。
「彼女には世話になってるんだし、そう道からそれるわけではないわ、おとうさん」
「よかろう、ポル。だが、長居は無用だぞ。われわれはすでに数ヵ月分ザンドラマスに遅れをとっているのだ」
かれらは広々とした最後の平地をよこぎって、苔むした古い樫の木立の下へ馬をのりいれた。冬の寒風で葉はすっかり落ち、裸になった巨木の枝が空にくっきりと浮かびあがっている。
森にはいったとき、セ・ネドラに微妙な変化があらわれた。実際にはあいかわらずの寒さなのに、マントの頭巾をはねのけて茜《あかね》色の巻毛を揺すり、ドングリ型の小さな金のイヤリングをチリチリと鳴らした。顔が不思議におだやかになり、息子を誘拐された日から消えたことのなかった悲嘆の色は消えうせている。目つきもやわらかくなって、ほとんどうつろにさえ見えた。「戻ってきたわ」セ・ネドラは枝を広げた木々の下で静かな空気のなかへつぶやいた。
ガリオンはかすかな返事を聞くというより感じ取った。そよ風ひとつ吹いていないのに、周囲のあらゆるところからシューシューというためいきが聞こえたような気がした。ためいきはまるでコーラスのように、かろうじて聞こえる程度のひっそりとした嘆きの歌になり、おだやかな後悔と変わらぬ希望にあふれた歌になった。
「どうして木は悲しんでいるんですか?」エリオンドがセ・ネドラにたずねた。
「冬だからよ」彼女は答えた。「葉が散ってしまうのを嘆き、鳥たちが南へ飛んでいってしまったのを残念がっているの」
「でもまた春がきますよ」
「それは木も知っているわ、でもいつも冬はかれらを悲しませるのよ」
ヴェルヴェットはおもしろそうに小さな女王を見ていた。
「血筋柄、セ・ネドラは木についてはとても敏感なのよ」ポルガラが説明した。
「トルネドラ人が戸外にそんなに関心が強いとは知りませんでしたわ」
「彼女は半分しかトルネドラ人じゃないのよ、リセル。木への愛情はもう半分の血筋のせいなの」
「わたしはドリュアドなのよ」あいかわらず夢見心地の目をしたまま、セ・ネドラがぽつんと言った。
「知りませんでしたわ」
「必ずしもそのことは公表しなかったのだよ」ベルガラスがリセルに言った。「トルネドラ人をリヴァの女王としてアローン人に認めさせるだけでも大変だったから、セ・ネドラが人間じゃないなんてことをしゃべって事を複雑にしたくなかったのだ」
何年も前、サルミスラ女王がさしむけた泥人間たちの襲撃を受けた場所から、あまり遠くないところでかれらは簡単なテントをはった。この聖なる森の生きた木々からたきぎをつくることはできなかったので、夜露をしのぐ一夜の宿を作るにも落葉に埋もれた森の地面に見つけられたものを最大限に活用するしかなかったし、やむなくたいた火もごくつつましかった。しんとした森にゆっくりと夕暮れがおりると、シルクはちっぽけなゆらめく炎を疑わしげに見てから、木立のあいだの、ほとんど動いているように見える広大な闇に目をこらして、言った。「寒い夜をすごすことになりそうだな」
ガリオンはよく眠れなかった。セ・ネドラと一緒の即席のベッドには落葉をこんもりと積み上げたのだが、そのしっとりした冷たさが体にしみこんでくるようだった。木々のすきまからぼんやりした最初の淡い日差しが差し込んできたのと同時に、かれは断続的なうたたねからさめた。ぎごちなく起き上がって毛布をはねのけようとして、手をとめた。とっくに消えたたきびの向こう側で、エリオンドが倒れた丸太に腰掛けていた。そしてその隣りに黄褐色の髪のドリュアドがひとりすわっている。
「木たちがあなたは友だちだと言ってるわ」先の尖った矢をうわの空でもてあそびながら、ドリュアドは言っていた。
「ぼくは木が好きなんだ」エリオンドが答えた。
「かれらが言ってるのはそういうことじゃないの」
「知ってるよ」
ガリオンはそっと毛布を押しのけて立ち上がった。
ドリュアドは横においてある弓のほうへすばやく伸ばした手を止めて、言った。
「まあ。あなたなの」彼女はガリオンをじろじろ眺めた。ガラスのような灰色の目だった。「りっぱになったじゃない?」
「かなり前だからね」ガリオンはこのドリュアドを前に見た場所を正確に思いだそうとした。
彼女のくちびるにかすかな微笑がうかんだ。「わたしのこと、思い出せないのね」
「ああ、まあね」
彼女は笑い声をたててから持っていた弓に矢をつがえると、ガリオンにねらいをさだめた。「これで少しは思いだした?」
ガリオンは目をぱちくりさせた。「きみはぼくを殺そうとしたドリュアドじゃないか?」
「なんといってもそれが妥当だったのよ。あなたをつかまえたのはわたしなんだから、殺すのもわたしのはずだったのよ」
「きみはつかまえた人間をみんな殺すの?」エリオンドがたずねた。
ドリュアドは弓をおろした。「ひとり残らずってわけじゃないわ。ときにはべつの使い道を見つけることもあるわよ」
ガリオンは彼女をもうちょっとよく見た。「ちっとも変わっていないな。前のまんまだ」
「知ってるわ」挑むような目つきになった。「きれいでしょ?」
「とてもきれいだ」
「うれしいこと言ってくれるのね。結局あなたを殺さなくてよかったのかもしれないわ。ねえ、わたしとふたりでどこかへ行って、もっとわたしをうれしがらせるようなことを言ってくれない?」
「もうたくさんよ、クセベル」セ・ネドラが落葉のベッドからぴしゃりと言った。「かれはわたしのものなんだから、変なこと考えないでちょうだい」
「あら、セ・ネドラ」黄褐色の髪のドリュアドはつい先週おしゃべりをしたばかりのように、平然と言った。「自分の姉妹のひとりとかれを共有するのがいやなんじゃないでしょうね?」
「あなただって自分のくしを貸そうとしないじゃない?」
「あたりまえよ――だけどそれとこれとは全然ちがうわ」
「ほんとにわけのわからない人ね」セ・ネドラは毛布を押しのけて立ち上がった。
「人間ってどうしようもないわ」クセベルはためいきをついた。「だれもかれもおかしな考えを持っているんだから」彼女は値踏みするようにエリオンドを見ると、ほっそりした小さな手でかれの頬をさわった。「この人間ならどう? これもあなたのものなの?」
もうひとつの即席の宿からポルガラが現われた。表情は落ち着いているが、片方の眉がつりあがっている。「おはよう、クセベル。早起きなのね」
「狩りをしてたんです」ドリュアドは答えた。「この金髪の人間はあなたのですか、ポルガラ? あっちの人間はセ・ネドラが貸してくれないんだけど、こっちは――」彼女の手がエリオンドのやわらかな巻毛をぐずぐずとさわっていた。
「だめよ、クセベル」ポルガラはきっぱり言い渡した。
クセベルはまたためいきをもらした。「あなたたちってまるでおもしろくないわ」口をとがらせて、立ち上がった。セ・ネドラと同じくらい小さくて、柳のようにほっそりしている。「そうだ、もうちょっとで忘れるところだったわ。クサンサに言われて、あなたがたを彼女のところへ連れて行くことになってるんだった」
「でも、脱線したってわけね?」セ・ネドラがそっけなくつけくわえた。
そのときベルガラスとシルクが出てきて、消えた火のまわりの広々としたところへやってきた。そのすぐあとに、ダーニクとトスが現われた。
「こんなにたくさんいるんじゃないの」クセベルがうれしそうにつぶやいた。「ひとりぐらいちょっと貸してもらえるはずだわ」
「なんの話だい?」シルクが興味深げにたずねた。
「なんでもないのよ、シルク」ポルガラが言った。「クサンサがわたしたちに会いたがっているの。朝食がすみしだい、ここにいるクセベルが案内してくれるわ――そうじゃない、クセベル?」
「ええ、まあ」クセベルはちょっとふくれっつらでためいきをもらした。
簡単な朝食がおわると、黄褐色の髪のドリュアドはかれらをいにしえの森の奥へと導いた。ベルガラスは馬をひいて彼女と並んで歩いていたが、ふたりはなにかの話に夢中になっているようだった。ガリオンは祖父がときどきいそいそとポケットに手をつっこんでなにかをほっそりしたドリュアドにやっているのに気づいた――彼女はそれをひったくるようにとっては口にほうりこんでいる。
「なにをあげているんでしょう?」ヴェルヴェットがたずねた。
「お菓子よ」ポルガラはうんざりしたように言った。「お菓子は彼女によくないんだけれど、父はこの森にくるときはいつもお菓子を持ってくるの」
「ははあ、わかりましたわ」ヴェルヴェットは口もとをひきしめた。「若すぎて相手不足だからなのね、その――」
セ・ネドラが笑った。「見かけはあてにならないわよ、リセル。クセベルは見かけよりずっと年をとってるの」
「いくつぐらいですの?」
「少なくとも、二、三百歳はいってるわ。彼女は彼女の木と同年齢なんだけど、樫の木はとても長生きですもの」
森の奥へはいると、くすくす笑いやささやき声や、小さな金色のベルのかすかなひびきが聞こえてきた。ときおりガリオンはドリュアドがイヤリングを鳴らしながら木立をかけぬけるときの、服の色を垣間見ることができた。
クサンサ女王の木はガリオンが記憶していた以上に巨大で、枝は街道のように太く、幹のうろはほら穴の口のようだった。色あざやかなチュニックを着たドリュアドたちが花のように太い大枝に腰かけて、笑ったり、ささやきあったりしながら、訪問者たちを指さしていた。クセベルは木の下の苔におおわれた広い空き地にかれらをつれていくと、くちびるに手をあてて、奇妙な小鳥のような口笛をふいた。
クサンサ女王が赤毛の娘クセラをかたわらに、太い幹のうろのひとつから姿を現わして、挨拶しながらおりてきた。女王とポルガラが抱擁しあっているすきに、セ・ネドラとクセラは互いの腕にとびこんだ。クサンサの金色の髪はこめかみのあたりが灰色になり、灰緑色の目には疲れがにじんでいた。
「具合いでも悪いの、クサンサ?」ポルガラはたずねた。
女王はためいきをついた。「そのときが近づいてるのよ、それだけ」彼女はとてつもなく大きな樫の木をいとおしげに見上げた。「かれはとても疲れてきているのよ。重みが根を圧迫しているの。春がくるたびに気力をふるいおこして葉を出しているけれど、それもだんだんつらくなってきているわ」
「わたしになにかできることがあるかしら?」
「いいえ、最愛のポルガラ。苦痛はないの――ひどくくたびれているだけよ。永遠の眠りにつくのはいっこうに平気だわ。ねえ、どういうわけでわたしたちの森にいらしたの?」
「だれかがわたしの赤ちゃんを連れてったのよ」セ・ネドラがわっと泣きながらおばの腕にとびこんだ。
「なにを言ってるの、あなたは?」
「去年の夏に誘拐されたんだ、クサンサ」ベルガラスが教えた。「われわれは赤ん坊を奪った人物の跡をたどろうとしているところなんだ――ザンドラマスという名のマロリー人だ。ニーサの船で南へ逃げたらしい」
クセベルは巨人のトスからちょっと離れたところに立って、おそろしいほど筋肉の発達したかれの両腕をしげしげと見つめていた。「去年の夏の終わりに、蛇人間の船を一隻見たわ」見上げるように大きなトスに目を釘づけにしたまま、彼女は言った。「わたしたちの川が大きな湖にながれこんでいるところで」
「そんなこと一度も言わなかったじゃないの、クセベル」クサンサは言った。
「忘れてたんですもの。蛇人間の行動に興味のある人なんてほんとにいるの?」
「大きな湖?」ダーニクが不審そうに言った。「この森に大きな湖などあったかな?」
「変な味のする湖よ」クセベルが言った。「向こう側が見えないの」
「じゃ、きっと〈西の大海〉のことだ」
「なんとでも好きにお呼びになればいいわ」彼女は無関心そうに答えて、トスを頭のてっぺんから爪先までじろじろながめつづけた。
「そのニーサの船だが、通り過ぎていっただけかね?」ベルガラスがたずねた。
「いいえ。燃え上がったの。でもそれはだれかが降りたあとのことよ」
「クセベル」ポルガラは黄褐色の髪の小さなドリュアドと、彼女の好奇心の対象のあいだに立ちふさがった。「見たことを正確に思い出せる?」
「たぶん。でも、そうたいしたことじゃなかったわよ。わたし狩りをしていたの。川の南側の岸に船が横づけになるのを見たのよ。黒マントに頭巾をかぶった人間がなにかをかかえておりてきたの。つぎにその黒い船が水の中へおしもどされると、岸におりた人間が船にむかって片手をふったわ。その瞬間、船が火に包まれたの――火だるまになったわ。あっというまよ」
「乗組員はどうなったんだろう?」ダーニクが言った。
「歯がいっぱいある大きな魚をご存じ?」
「サメかな?」
「たぶんそれね。とにかく、船のまわりはサメだらけだったのよ。人間たちが火事から逃げようと船からとびおりたところを、サメが全部食べちゃったの」クセベルは吐息をもらした。「無駄使いもいいところだったわ。ひとりかふたりは逃げられると思ったのに――三人は逃げられそうだったのよ」また吐息をもらした。
「岸におりた人間はそれからどうしたの?」ポルガラがたずねた。
クセベルは肩をすくめた。「船が全部燃えてしまうまで待ってから、川の南側にある森にはいっていったわ」彼女は口のきけない大男に目を注いだまま、ポルガラをまわりこんだ。「この人間をお使いでないんなら、ポルガラ、ちょっとお借りしてもいいでしょう? こんなに大きな人間は見たことないんだもの」
ガリオンはパッと向きをかえて馬のほうへ走りだしたが、エリオンドが一足早く着いて、自分のくり毛の種馬の手綱をさしだした。「この馬のほうが早いですよ、ベルガリオン。乗ってください」
ガリオンは短くうなずくと、ひらりと鞍にまたがった。
「ガリオン!」セ・ネドラが叫んだ。「どこへ行くの?」
だがかれはすでに全力疾走で森の中へかけだしていた。種馬が葉の落ちた森をふるわせているのも、ろくに考えなかった。頭にあるのは、無頓着なクセベルがかきたてたイメージ――なにかをかかえて岸におりた黒装束の姿――だけだった。しかし、少しずつほかのあることが意識に侵入しはじめた。種馬の走りかたが奇妙なのだ。四歩か五歩ごとに急に前傾姿勢になり、森が一瞬ぼやけるように思える。そしてまたしばらく疾走がつづき、ふたたび前傾姿勢と、森のぼやけがくりかえされる。
〈森の川〉が〈西の大海〉に注ぎ込んでいる岸辺は、たしかクサンサの木からはそうとう遠いはずだった。全力疾走でも一日半はかかるだろう。だが、前方の木立のあいだで冬の日差しをうけてきらめいているのは、広大な水ではないか?
また前傾姿勢とあの奇妙なぼやけが生じた。だしぬけに種馬は砂地をすべって、うねりたつ波打ち際にぎごちなく前脚をうめた。
「どうやってやったんだ?」
馬は物問いたげにふりかえってガリオンを見つめた。
そのときガリオンはがっかりしてあたりを見回した。「川のまちがった側にきちまったよ。向こう側にいるはずだったんだ」かれは意志の力を引き寄せて、南の岸に転位しようとした。だが、馬はいなないて二歩進み、ふたたび前傾姿勢をとった。
かれらはいきなり南の砂の多い岸に立っており、ガリオンはふりおとされまいと鞍にしがみついた。一瞬、いきなり転位した馬を叱ろうかと思ったが、それよりもっと重要なことがあった。かれは鞍からすべりおりると、〈鉄拳〉の剣をひきずって、水辺のしめった砂地を走りだした。剣をかかげ持つと、〈珠〉がしきりに輝いた。「ゲランだ!」ガリオンは〈珠〉にむかって叫んだ。「息子を見つけてくれ」
二歩もいかないうちに、〈珠〉がよろけるほど強くガリオンをひっぱった。両手の中の剣が力強くひっぱるのを感じながら、かれは固く踏みしめられた砂の上で急停止した。先端をさげて一度砂にさわると、〈珠〉が勝ち誇ったようにひらめき、刃が流木の散乱する岸の北端にある灌木のしげる森をぴたりと指した。
本当だったのだ! この手がかりももうひとつの巧みに仕組まれた計略ではないのかとひそかに恐れていたのだが、ザンドラマスと幼い息子の足跡はやはりここにあった。にわかに歓喜の波がおしよせてきた。
「逃げるがいい、ザンドラマス!」ガリオンは叫んだ。「ありったけの早さで逃げるがいい! もう尻尾はつかまえたぞ、ぼくから隠れる場所を見つけられるほど世界は広くない!」
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頭上でからみあった枝の下の空気は冷たくじっとりしていた。よどんだ水の臭いと草木の朽ちる臭いがかれらの鼻孔を満たした。木々は光を求めて、ジャングルの暗い地面からよじれながら上へのびている。灰緑色の苔が木から房状にぶらさがり、ねばねばしたつる植物が太い蛇のように幹にからみついていた。うっすらとした白い霧が木立のあいだをただよい、黒い水たまりや流れのよどんだ小川からはじめじめした悪臭が立ちのぼっていた。
かれらがたどっている道はそうとう古く、もつれあったしげみにおおわれていた。ガリオンはいま、鞍頭の上に剣を置き、〈珠〉にひきずられるようにして、一行の先頭を馬で進んでいた。時刻は夕方近く、どんより曇っていた一日はゆっくりと、ほとんど悲しんでいるかのように夜に向けて暮れはじめていた。
「ニーサ人が道をつくったことがあったなんて、知らなかったわ」前方にのびる草ぼうぼうの道を見ながら、セ・ネドラが言った。
「第二黄金期の終わりにマラグ人が侵入したあとは、こうした道はすべて見捨てられてしまった」ベルガラスが言った。「街道というものが敵軍にとってまことに好都合な侵入路となることがわかったので、サルミスラが道という道を全部ジャングルの中へ隠すよう命令したのさ」
ガリオンの手の中の剣がわずかに揺れて、道端のうっそうとした下生えを指した。ガリオンは不審に思いながら手綱をひいた。「おじいさん、足跡は森の中へはいっているらしい」
みんなは手綱をひいて、おいしげる茂みに目をこらした。「おれがちょっと見てこよう」シルクが馬からおりて、道端のほうへ歩いていった。
「蛇に気をつけて」ダーニクがうしろから呼びかけた。
シルクははたと立ち止まって、皮肉っぽい声で言った。「ご忠告ありがとう」かれは地面から目を離さずに、注意深くしげみをおしわけて中へはいっていった。
シルクが下生えの奥を動き回っているがさがさという音に耳をすましながら、一行は待った。
「こっちに野営した跡がある」シルクが声をはりあげた。「火をたいた穴と、差しかけ小屋がいくつかあるんだ」
「見に行こう」ベルガラスが鞍からとびおりた。
かれらはトスを馬と一緒に残して、きゅうくつな茂みの奥へはいっていった。道から数ヤードひっこんだところに空き地があり、シルクが冷たくなった火たき穴を見おろしていた。穴の底に無数の焦げた棒が残っている。「ザンドラマスがここにいたのかな?」かれはガリオンにたずねた。
ガリオンは剣をつきだして前に進みでた。剣は手の中でもぞもぞと動き、あちこちを指した。次に、壊れかけた差しかけ小屋のひとつのほうへかれをひっぱった。ガリオンがそこにつくと、剣はひょいと下を向いて粗末な差しかけ小屋の中の地面にふれた。すると〈珠〉がひらめいた。
「それが答えらしいな」シルクは満足そうに言った。
ダーニクは火をたいた穴のわきに膝をついて、焦げた棒をそっとひっくりかえし、下の灰をのぞきこんでいた。「数ヵ月はたっている」
シルクはあたりをきょろきょろした。「小屋の数からして、ここに野営した人間は最低四人はいるな」
ベルガラスはうなった。「すると、ザンドラマスはもはやひとりではないわけだ」
ものめずらしげに粗末な差しかけ小屋をのぞきこんでいたエリオンドが、小屋のひとつにはいり、地面からなにかを拾い上げてみんなのところへ戻ってきた。かれはだまってそれをセ・ネドラにさしだした。
「まあ」彼女は叫ぶなり、それをすばやく手にとって胸に抱きしめた。
「なんですの、セ・ネドラ?」ヴェルヴェットがたずねた。
小さな女王は目に涙をためて、たった今エリオンドに渡されたものを無言でさしだした。彼女の手には湿った小さな毛編みの帽子が悲しげに握られていた。「わたしの赤ちゃんのよ」セ・ネドラは声をつまらせた。「誘拐された夜にかぶっていたの」
ダーニクが痛ましげに咳きばらいした。「だんだん暗くなってきた」かれは静かに言った。「ここで夜を明かすかね?」
ガリオンは苦悩に満ちたセ・ネドラの顔を見て、答えた。「いや、もうすこし先へ進もう」
ダーニクも悲嘆にくれている女王を見やってうなずいた。「そうだな」
さらに半マイルほど道を行くと、遠い昔に見捨てられた都市の廃墟が、おいしげるジャングルになかば埋もれて建っていた。かつては広い通りだったところにはわがもの顔に木がそびえ、がらんとした塔にはつる植物が上まで巻きついていた。
「場所としては悪くなさそうに見えるが」ダーニクが廃墟を見回した。「どうして見捨てられてしまったんだろう?」
「理由はいくらでも考えられるわ、ダーニク」ポルガラが言った。「疫病、政治、戦争――気まぐれという可能性だって」
「気まぐれ?」ダーニクはおどろいた顔をした。
「ここはニーサなのよ」ポルガラが念をおすように言った。「ここを支配しているのはサルミスラだし、民を牛耳る彼女の権威は世界一だわ。もし、その昔彼女がここへきて、立ち去るようにと民に命じたのだとしたら、民は言われたとおりにしたでしょう」
ダーニクは賛成できかねるように首をふった。「まちがってる」
「ええ、ディア」ポルガラは同意した。「わかってるわ」
一行は見捨てられた廃墟で一夜を過ごし、夜があけると、ふたたび南東の方角へ進みつづけた。ニーサのジャングルの奥にはいるにつれて、すこしずつ植物に変化があらわれてきた。木はいちだんと高くそびえ、幹はいちだんと太くなった。下生えはますます密生し、あたり一帯にただようよどんだ水の悪臭はますます強くなった。そうこうするうち、正午少し前だろうか、とりとめのない微風がふいにもうひとつの匂いをガリオンの鼻に運んできた。それは思わずくらくらっとするほど甘い匂いだった。
「このいい匂いはなにかしら?」ヴェルヴェットが茶色の目をなごませてたずねた。
ちょうどそのとき、かれらは角を曲がった。すると道端にこれまで見たこともないほど美しい木が優雅に立っていた。葉は微光を放つ金色で、枝からは長い深紅のつるが豊かにさがっている。とてつもなく大きな赤、青、そしてあざやかなラヴェンダー色の花が木を埋めつくし、それらの花のあいだに今にもはじけそうに紫色に熟した光る果物がいっぱいぶらさがっていた。そのすばらしい木の姿と匂いにうっとりとして、ガリオンは果物がほしくて矢も楯もたまらなくなった。
だが早くもヴェルヴェットが木に近づこうとしていた。木に馬を近づけているその顔には夢見るような微笑が浮かんでいる。
「リセル!」ポルガラの声がむちのようにしなった。「とまるのよ!」
「でも――」ヴェルヴェットの声はよだれをたらさんばかりだった。
「動かないで」ポルガラは命令した。「あなたはおそろしい危険の一歩手前にいるのよ」
「危険?」ガリオンは言った。「ただの木じゃないか、ポルおばさん」
「わたしと一緒にくるのよ、みんな」ポルガラは有無をも言わせぬ口調で言った。「馬の手綱をしっかり握って、あの木のそばには行かないように」彼女は両手に手綱を握りしめて、ゆっくりと並足で馬を前進させた。
「どういうことだ、ポル?」ダーニクがたずねた。
「この木はひとつ残らず根絶やしになったものと思っていたのに」ポルガラは冷たい嫌悪の表情であでやかな木を見ながらつぶやいた。
「でも――」ヴェルヴェットが反論した。「こんなに美しいものをどうして根絶やしなんかにするんです?」
「美しいのは言うまでもないわ。それで獲物を釣るんですもの」
「獲物?」シルクがおどろいた声で言った。「ポルガラ、これはただの木ですぜ、木は獲物なんかつかまえませんよ」
「これはつかまえるのよ。その果物を一口食べたら、たちまち死んでしまうし、花にさわれば全身の筋肉が麻痺するのよ。あそこをごらんなさい」ポルガラはその木の下の高い草むらの中のなにかを指さした。ガリオンが草むらをのぞきこむと、大型動物の骸骨が見えた。花が鈴なりになった枝のひとつから真っ赤な六本の巻きひげがたれさがって、動物のあばら骨の奥へはいりこみ、からみあって、苔のはえた骨の中へ侵入している。
「その木を見てはだめよ」おそろしい口調でポルガラが言った。「果物のことはきっぱり頭からしめだして、花の匂いをあまり深く吸い込まないようになさい。木はあなたたちを巻きひげの届くところへ誘いこもうとしているのよ。馬を進めるのよ、ふりかえらないで」彼女は手綱をひいた。
「一緒にこないのか?」ダーニクが心配そうにたずねた。
「すぐに追いつくわ。まずこの化物を始末しないとね」
「ポルの言うとおりにするのだ」ベルガラスが一同に言った。「行こう」
一行がその美しい恐怖の木の前を素通りしたとき、ガリオンははげしい失望を感じとった。木から遠ざかったとき、無念のうなりが聞こえたような気がしてふりかえると、おどろいたことに枝からたれさがっている真っ赤な巻きひげが猛り狂ったように身をくねらせて空をたたいているのがちらりと見えた。次の瞬間、セ・ネドラが激しく吐くような音を立てたので、かれはすばやく向きなおった。
「どうした?」
「あの木よ!」セ・ネドラは喘ぐように言った。「ぞっとするわ! 犠牲者の体だけじゃなく、苦痛までも生きる糧にしてるなんて!」
もうひとつ角をまがったとき、ガリオンはすさまじい空気のうねりを感じた。後方からとてつもない衝撃がつたわってきたかと思うと、じゅうじゅう音を立てる火柱が生きた森を天にむかって貫いた。ガリオンは意識の内で苦痛と怒りと悪意ある憎悪に満ちたおそるべき悲鳴を聞いた。脂ぎった黒煙が地面まではいおりてきて、猛列な悪臭をまきちらした。
十五分ばかりたったころ、ポルガラがかれらに追いついた。「木は二度と獲物を食べないわ」満足そうに言って、皮肉っぽい微笑をうかべた。「それがサルミスラとわたしがこれまで合意にこぎつけた数少ないことのひとつなのよ。もうあの木の居場所はこの世にはないわ」
かれらは進みつづけてニーサにはいり、草ぼうぼうの見捨てられた街道をたどっていった。翌日の正午ごろ、エリオンドのくり毛の種馬が言うことを聞かなくなったので、金髪の若者は鞍頭に剣をのせてあいかわらず先頭にいるガリオンの隣りへ馬を進めた。「かれが走りたがってるんですよ」エリオンドはおだやかに笑った。「いつでも走りたがるんです」
ガリオンはかれを見て言った。「エリオンド、きこうと思っていたことがあるんだ」
「なんですか、ベルガリオン?」
「ドリュアドの森で、ぼくが浜まできみの馬に乗っていったとき、かれはある不思議なことをしたんだよ」
「不思議? どういう意味かな?」
「本当なら海までは二日近くかかったはずなんだが、きみの馬はたった三十分でついてしまったんだ」
「ああ、そのこと」
「どうやってやったのか、説明できるかい?」
「ぼくがどこかへいそいで行こうとしていると知ると、ときどきそういうことをやるんです。かれはもうひとつの場所へ行くんですよ。で、かれが戻ってくると、ぼくは出発したときよりずっと先まで行ってるってわけなんです」
「そのもうひとつの場所って、どこなんだ?」
「ここ――ぼくたちのまわりのどこでも――であると同時に、ここではない場所ですよ。この説明で意味が通じますか?」
「いや。わからないな」
エリオンドは眉間にしわをよせてじっと考え込んだ。「あるときあなたは狼に姿を変えられるって言いましたよね――ベルガラスと同じやりかたで」
「ああ」
「そしてそれをやるとき、剣はあいかわらずあなたとともにあって、ない、と言ったでしょう」
「それはおじいさんがぼくに言ったことだ」
「それがこのもうひとつの場所だと思うんです――あなたの剣が行くところもそこなんだ。距離はこことそこでは同じではないような気がします。これでちょっとは説明になってますか?」
ガリオンは笑った。「さっきよりわからなくなったよ。エリオンド、だが、きみの言葉を信じよう」
次の日の午後三時ごろ、一行は〈蛇の川〉のじめじめした土手についた。街道はそこで東に曲がり、紆余曲折してよどんだ川にそってのびていた。
「前方を偵察してきたほうがいいかもしれないな」シルクが言った。「このあたりの道は人通りが多そうだし、この前ここにきたときいっぱい友だちをつくったとは言いがたいしな」かれは馬のわき腹を蹴り、きびきびしただく足で走り去った。二、三分とたたないうちにシルクは草ぼうぼうの道を曲がって見えなくなった。
「スシス・トールを通っていかなくてもいいんでしょう?」セ・ネドラがたずねた。
「ああ」ベルガラスが答えた。「あれは川の反対側だ」大昔の街道と苔むした川の土手をへだてる一面の木と茂みを老人は見つめた。「あの茂みならわけなく通過できるはずだ」
一時間ばかりして道を曲がると、川の向こう側に蛇の民が住む奇妙な異形の塔がそびえているのが垣間見えた。ニーサの建築物には首尾一貫したパターンはないらしい。ほっそりした尖塔もあれば、てっぺんが球根みたいなずんぐりした塔もある。空に向かって螺旋を描いている塔さえあった。そのうえ、考えられるかぎりの色を塗ってある――緑、赤、黄色、けばけばしい紫色のものまであった。さらに道を数百ヤード行ったところで、シルクが一行を待っていた。
「向こう側から見られずにここを通過するのは簡単ですよ」かれは報告した。「だが、この先でわれわれと話をしたがっているやつがいるんです」
「何者だ?」ベルガラスが鋭くたずねた。
「言わなかったんですよ、だが、われわれがくるのを知っていたらしいんです」
「すこぶる気にいらんな。なにがほしいのか言ったかね?」
「メッセージのようなものをもっていると言っただけです」
「行ってみるか」老人はガリオンを一瞥した。「〈珠〉におおいをかけたほうがいいぞ。人目にふれさせんようにしよう――危ない目にあいたくない」
ガリオンはうなずくと、しなやかでぴったりした革の鞘をとりだして、〈鉄拳〉の剣の柄《つか》まですっぽりかぶせた。
かれらを待ちうけていたつるつる頭のニーサ人は、みすぼらしいしみだらけの服をきていた。ぽっかりあいた片目の眼窩をまたいで、額から顎まで長い傷跡が走っている。かれらが手綱をひいて馬をとめると、男は前置きぬきでいきなり言った。「もっと早くここにつくものと思ってましたよ。なんで遅れたんです?」
ガリオンは片目の男を注意深く見た。「会ったことがないかな?」ガリオンはたずねた。「あんたの名前はイサスじゃないか?」
イサスはうなった。「おぼえているとは驚きだね。最後に会ったとき、あなたはもうろうとしていたはずだ」
「おいそれと忘れられる状況じゃなかったからね」
「都市である人物があなたがたに会いたがっているんですよ」イサスは言った。
ベルガラスが言った。「悪いんだが、われわれは急いでいるのだ。スシス・トールの人間と話しあう必要があるとは思えん」
イサスは肩をすくめた。「そうおっしゃるなら。あたしは金をもらってあなたがたに伝言を伝えるように言われただけですから」かれは回れ右をすると、傾いた夕方の日差しのなかをひきかえそうとした。川の土手にうっそうと茂る下生えの方へ歩き始めて、立ちどまった。
「そうそう。もうちょっとで忘れるところでした。あたしに金をくれた男ですがね、ザンドラマスという名前の人物について情報を持っているから、そのことを伝えてくれと言ってましたっけ。それがあなたがたになにか意味があるならばですが」
「ザンドラマス?」セ・ネドラが鋭く言った。
イサスは答えた。「だれだか知らないが、興味があるんなら船の用意がしてありますよ。お望みなら何人か都市へ連れていってあげられます」
「ちょっと話しあう時間をくれ」ベルガラスが言った。
「お好きなだけどうぞ。どうせ、暗くなってからでないと渡れないんです。決心がつくまで、あたしは船で待ってますよ」かれは茂みをかきわけて川の土手に向かっていった。
「何者だい、あいつは?」シルクがガリオンにきいた。
「名前はイサス。金で雇われている。最後に会ったときは、サディ――サルミスラの宮殿にいる宦官長だ――のために働いていた。だが、金がもらえるかぎり、どんな仕事でもする男だよ」ガリオンはベルガラスのほうを向いた。「どう思う、おじいさん?」
老人は片方の耳たぶをひっぱった。「なにかの罠という可能性もある。しかし都市にいる何者かはわれわれがザンドラマスに関心があることをよく知っているらしい。この事情通の市民がどういう人物なのかつきとめてみたい気がする」
「イサスからはなにも得られませんよ」シルクが言った。「もうおれがやってみましたからね」
ベルガラスはちょっと思案した。「イサスの船がどの程度のものか見てきてくれないか」
シルクが道端まで行って、茂みのすきまからのぞいた。「全員は乗れませんね。四人てところだな」
ベルガラスはあごをかいた。「おまえさんと、わし、ポル、それにガリオンだ」かれはダーニクのほうを向いた。「あとを頼むぞ――馬もな。ちょっとジャングルの奥にはいっていたほうがいい。しばらくかかるかもしれん。都市から見えるとまずいから、火はたかんように」
「まかせてください、ベルガラス」
イサスが都市から漕いできた船はくすんだ黒で、沈みかけた丸太につながれ、たれさがった木の枝に隠れていた。片目の男は非難めいた顔でガリオンを見た。「そのでっかい剣を置いていくわけにはいかないんですかい?」
「だめだ」
イサスは肩をすくめた。「勝手にどうぞ」
川に夕闇がおりると、小さなブヨの大群が周囲のしげみからわいてきて、暗くなるのを待って船にすわっているかれらのまわりに群がった。シルクはうわの空で首をぴしゃっとたたいた。
「船をゆらさないでくださいよ」イサスが警告した。「一年のこの時期はヒルが腹をすかせているから、泳ぐにはよくありませんぜ」
光が徐々に薄れていくあいだ、かれらはブヨの襲撃に耐えながら身をよせあってすわっていた。三十分ほど不快な思いをしたあと、イサスが船を隠している枝のすきまから外をのぞいて、ひとこと言った。「十分暗くなったな」つないでいたひもをほどくと、かれは一本のオールで土手から船を押しだした。それから腰をすえてはるか対岸のスシス・トールの明かりに向かって漕ぎはじめた。二十分ばかりたったころ、ドラスニアの飛び地から水中につきでた波止場の下の深い闇の中へ船をいれた。そこは北の商人たちにも商売の許可がおりている川ぞいの商業地帯だった。波止場の下にタール塗りのロープが一本さがっている。イサスはそのロープをたぐりよせて、梯子のそばへ船を近づけた。「ここをのぼるんでさ」梯子のそばの杭に船をつなごうとしながらイサスは言った。「あまり音をたてないようにしてくださいよ」
「わたしたちをどこへ連れていくの?」ポルガラがたずねた。
「すぐですよ」イサスは答えて梯子をすばやくのぼった。
「目をしっかりあけとけよ」ベルガラスがつぶやいた。「あの男はどうも信用できん」
スシス・トールの街路は暗かった。一階の窓という窓によろい戸がおろされているせいだ。イサスはネコのように足音ひとつたてずに暗がりばかりを歩きつづけたが、ガリオンにはやむなくそうしているのか、単なる習慣なのかよくわからなかった。細い路地を通り過ぎたとき、ガリオンは闇のどこからかかすかな物音がするのに気づいて、すばやく剣の柄《つか》に手をのばした。「あれはなんだ?」
「ネズミでさ」イサスは肩をすくめた。「夜になると残飯をあさりに川からあがってくるんです――するとお次はネズミを食いにヘビがジャングルからはいだしてくる」かれは片手をあげた。「ここでちょっと待っててください」目と鼻の先の広い通りまで歩いていって、用心深く左右に目を配った。「だれもいない。行きましょう。目ざす家は通りを渡ったところです」
「あれはドロブレクの家じゃない?」うさん臭いニーサ人のそばまで行ったとき、ポルガラがたずねた。「ドラスニアの港湾局長の?」
「前にここにきたことがあるんですね。行きましょう。みなさんお待ちだ」
イサスの軽いノックに応えて、ドロブレク自身がドアをあけた。ドラスニアの港湾役人はゆったりした茶色の長衣をまとい、どちらかといえば、ガリオンが前に会ったときよりもいっそう肉づき豊かになっていた。ドアをあけたとき、ドロブレクは神経質に通りを見渡し、暗闇のあちこちに目を走らせた。「いそいで」かれは小声でささやいた。「なかへ――みなさんどうぞ」いったんドアをしめて、頑丈な錠をしっかりかけると、いくらかほっとしたようだった。「マイ・レディ」かれは太った体をくるしそうに折り曲げて一礼すると、喘ぎながらポルガラに言った。「おいでいただけて光栄です」
「ありがとう、ドロブレク。わたしたちを呼んだのはあなたなの?」
「いえ、マイ・レディ。しかし、お膳立ての手伝いはしました」
「ちょいと神経質になってるようだな、ドロブレク」シルクが言った。
「ここでは持っていないほうがよさそうなあるものをこの家に隠しているんですよ、ケルダー王子。だれかにそのことを知られたら、わたしは非常にまずい立場に立たされます。いつも部下にわたしの家を見張らせているトルネドラ大使などは、わたしをへこませるチャンスに大喜びするでしょう」
「われわれが会うことになっているその人物はどこにいるのだ?」ベルガラスがぶっきらぼうにたずねた。
ドロブレクは畏怖のにじむ顔で答えた。「家の奥に隠し部屋があるのです、長老さま。かれはそこで待っています」
「では会いに行こう」
「ただいま、永遠なるベルガラス」はた目にもわかるほど息をきらして、ドラスニアの役人は薄ぐらい廊下の奥へかれらを案内した。つきあたりまでくると、片手で石壁をなでまわし、ひとつの石に軽くふれた。大きなカチャという音がして不規則な形の壁の一部がわずかに他の部分より浮きあがった。
「めずらしい仕掛けだな」シルクがつぶやいた。
「そこにいるのはだれだ?」甲高い声が隠しドアの向こう側から言った。
「わたしだ――ドロブレクだ」太った男は答えた。「あんたが会いたがっていた人たちが到着したんだ」ドロブレクは石板におおわれたドアを引き開けた。「わたしはまた見張りに戻りますから」かれはベルガラスたちに言った。
ドアの向こう側は蝋燭一本に照らされた、薄暗くて小さな、じめじめした隠し部屋だった。おんぼろの木のテーブルのそばに、宦官のサディがこわごわ立っていた。剃りあげた頭には短い毛がはえはじめ、真っ赤な絹のローブはぼろぼろだった。目には追いつめられた表情が浮かんでいる。「ついにきましたね」かれはほっとしたように言った。
「いったいぜんたいこんなところでなにをしてるの、サディ?」ポルガラがたずねた。
「隠れてるんです。どうかみなさんなかへはいって、ドアをしめてください。わたしがここにいることを偶然だれかに見られたくないんです」
かれらがその小部屋にはいると、ドロブレクが外からぴったりドアをしめた。
「なんだって、サルミスラの宮殿の宦官長が、ドラスニアの港湾局長の家に隠れているんだい?」シルクが興味しんしんでたずねた。
「宮殿でささいな誤解があったんですよ、ケルダー王子」サディは答えて、木のテーブルの横の椅子に力なくすわりこんだ。「わたしはもう宦官長じゃない。じっさいのところ、わたしの首には賞金がかけられているという話ですよ――莫大な賞金が。ドロブレクはわたしに借りがあったので、ここにわたしをかくまっているんです――あまり気はすすまぬようだが、しかし――」かれは肩をすくめた。
「金の話が出たついでだから、そろそろあたしの金を払ってもらいたいね」イサスが口をひらいた。
「もうひとつやってもらいたい仕事があるんだ、イサス」宦官は変に甲高い持ち前の声で言った。「宮殿にはいりこめると思うか?」
「必要とあれば」
「わたしの部屋に赤い革の箱があるんだ――ベッドの下だ。真鍮の蝶番のついているやつだ。それがほしい」
「報酬は?」
「妥当と思うだけ払ってやる」
「いいでしょう。すでにやった仕事の二倍でどうです?」
「二倍だと?」
「宮殿は目下きわめて危険なんですぜ」
「入の弱みにつけこむな、イサス」
「じゃ、自分でとりにいったらどうです」
サディは弱りきったようにイサスをにらんだ。「しかたがない、倍だそう」
「あんたと仕事をするのはいつも変わらぬ楽しみですよ、サディ」イサスは口先だけで言うと、ドアからこっそり出ていった。
「なにがあったんだ?」シルクは神経をとがらせている宦官にたずねた。
サディはためいきをついた。「ある言いがかりの的にされたんですよ」かれは苦渋に満ちた声で言った。「突然のことで、反論するにもしようがなかったので、任務からしばらく離れたほうがよかろうと考えたんです。いずれにせよ、最近は働きすぎでしたからね」
「事実無根の言いがかりだったのか?」
サディは短い毛が生えだした頭を指の長い手でなでた。「それが――完全にそうだというわけでは」と認めた。「しかし、針小棒大もいいところですよ」
「宮殿でだれがきみの後がまにすわったんだ?」
「サリスです」サディは吐きすてるように言った。「本物の流儀などまるで持ち合わせない三流の陰謀家ですよ。いつか、やつが喉から手が出るほど必要としているものを切り落としてやる――なまくらなナイフでね、さぞ楽しいことでしょう」
「イサスの話では、ザンドラマスという人物についての情報を持っているそうだな」ベルガラスが横から言った。
「そのとおりです」サディは答えた。椅子からたちあがると、かれは一方の壁ぎわにおしつけられた寝乱れたベッドに近寄った。きたない茶色の毛布の下をひっかきまわして小さな銀の瓶をとりだし、蓋をとって、「失礼」とひと口すすった。サディは顔をしかめた。「こんなにまずくなければいいのに」
ポルガラがひややかにかれを一瞥した。「そんなことでザンドラマスについて知っていることを話せるの?――いまにチョウチョの幻覚がちらついてくるわよ」
サディはしらばっくれてポルガラを見た。「いや、まさか。これはそういうものじゃありませんよ、レディ・ポルガラ」かれは瓶をふりながら受け合った。「鎮静効果があるだけです。この数ヵ月に起きたことで、神経がずたずたにされてしまったのでね」
「本題にはいろうじゃないか」ベルガラスがほのめかした。
「けっこうです。わたしはあなたがたの望むものを持っているし、あなたがたはわたしが望むものを持っている。取引は当を得たことだと思いますよ」
「その話をしよう」シルクの目がにわかに光りはじめ、長い鼻がうごめいた。
「あなたの評判はよく知っていますよ、ケルダー王子」サディは微笑した。「あなたと取引しようとするほどわたしはおめでたくない」
「よかろう、あんたがわれわれに望むものとはなんだね、サディ?」ベルガラスはどんよりした目つきの宦官にたずねた。
「あなたがたはニーサから出るところでしょう。わたしを一緒に連れていってもらいたいのです。かわりにザンドラマスについて知ったことをすべて教えましょう」
「話にもならんな」
「それは早とちりだと思いますよ、長老。まず最後まで聞いてください」
「わしはあんたを信用しておらんのだ、サディ」ベルガラスはつっけんどんに言った。
「無理からぬことです。わたしは信用されるべきたぐいの人間じゃありませんからね」
「ではどうしてあんたみたいな荷物をしょいこまねばならんのだ?」
「なぜなら、わたしはあなたがたがザンドラマスを追っている理由を知っているからですよ――それだけでなく、ザンドラマスがどこへ向かっているのかも知っている。あなたがたにとってはじつに危険な場所だが、いったんそこへつけば、自由に動き回れるようわたしが取り計らってさしあげられる。さあ、お互いの信頼感などという子供じみた考えはやめて、取引に移ろうじゃありませんか?」
「ここにいても時間が無駄になるだけだ」ベルガラスはみんなに言った。
「わたしはあなたにとって、すこぶるお役にたちますよ、長老」サディが言った。
「あるいは、おれたちの居所を知りたがっているだれかにとって、だな」シルクがつけくわえた。
「そういうことをしてもあまり利益にはなりませんよ、ケルダー」
「それで思いだした。おれはここで手っとり早い金もうけができるすばらしいチャンスに恵まれているわけだ。首に莫大な賞金がかかっていると言ったな。あんたが協力を拒めば、その賞金をいただくことにすりゃいいんだ。いくらと言った?」
「あなたはそんなことはしませんよ、ケルダー」サディは涼しい顔で答えた。「あなたがたはザンドラマスに追いつこうと急いでいるし、報酬を手に入れるにはおびただしい煩雑な手つづきが必要なんです。金を見るまでに、まあ、一ヵ月はかかるでしょうな。そのすきにザンドラマスはますます遠くへ逃げてしまう」
「それもそうだな」シルクは認めた。残念そうな表情で、かれは短剣のひとつに手をのばした。「だが、こっちの手もある――むごたらしいが、たいがいはきわめて効果的だ」
サディはシルクからあとずさった。「ベルガラス」かれはかすかにおびえた声を出した。
「その必要はない、シルク」老人はポルガラのほうを向いた。「おまえになにができるか見てみよう、ポル」
「そうね、おとうさん」彼女は、宦官のほうを向いた。「すわるのよ、サディ。見てもらいたいものがあるの」
「いいですとも、レディ・ポルガラ」かれは愛想よくうなずいて、テーブルの横の椅子に腰かけた。
「よくごらん」ポルガラはかれの目の前で奇妙なジェスチャーをした。
宦官はあいかわらずにこやかだった。「じつに魅力的だ」かれは目の前に出現したらしきものを見ながらつぶやいた。「ほかの手品もできるんですか?」
ポルガラは腰をかがめると、サディの目をじっとのぞきこんだ。「そうだったの。あんたは思っていたより頭がいいわ、サディ」彼女はみんなのほうに向きなおった。「薬を飲んでるわ。たぶんさっきの瓶がそうよ。さしあたってはどうすることもできないわ」
「ということは、さっきの手に戻るしかないな」シルクがふたたび短剣に手をのばした。
ポルガラがかぶりをふった。「いまやっても、感じもしないでしょうね」
「あれ」サディががっかりした口調で言った。「消してしまったんですか――気にいってたのに」
「薬はいつかは切れる」シルクは肩をすくめた。「効き目が薄れてくるころには、おれたちは都市からかなり遠ざかっているはずだし、注意をひく悲鳴もあげさせないで、こいつから答えをひきだせるだろう」かれの手は短剣のそばをいきつもどりつした。
(アローン人というやつは)ガリオンの頭のなかの乾いた声がうんざりしたように言った。(なぜおまえたちはあらゆる問題を剣でけりをつけようとするのだ?)
(は?)
(チビの泥棒に短剣をしまえと言うのだ)
(しかし――)
(わたしにさからうな、ガリオン。おまえにはザンドラマスに関するサディの情報が必要なのだ、それを与えてやることはわたしにはできん)
(かれを同行させろとほのめかしておられるんじゃないでしょうね?)ガリオンはその考えにいたくショックを受けた。
(なにもほのめかしてなどおらんぞ、ガリオン。言っているのだ。サディは同行する。かれぬきでは任務は果たせん。さあ、ベルガラスにそう言ってやれ)
(気にいらないと思いますよ)
(そんな反応は痛くもかゆくもない)それだけ言って、声は消えた。
「おじいさん」ガリオンはしぶしぶ言った。
「なんだ?」老人の口調はいらだたしげだった。
「これはぼくの考えじゃないんだ、おじいさん、だが――」ガリオンはうっとりとしている宦官をけがらわしげに見つめてから、処置なしといったように両手をあげた。
「そんなばかな!」一瞬間をおいて、ベルガラスは叫んだ。
「残念だけど」
「なんのお話ですか?」サディが興味ありげにたずねた。
「だまれ!」ベルガラスは一喝すると、ガリオンに向きなおった。「絶対に確かなのか?」
ガリオンはしょんぼりとうなずいた。
「じつにばかげておる!」老人は向きを変えて、サディをねめつけた。それからテーブルごしに宦官の虹色のローブの胸ぐらをむんずとつかんだ。「ようく聞けよ、サディ」ベルガラスはくいしばった歯のすきまからおしだすように言った。「おまえはわれわれに同行する、ただし、あの瓶には二度と鼻をつっこむな。わかったか?」
「もちろんです、長老」屋官はさっきと同じうっとりした声で答えた。
「わしの言っていることがよくわかっておらんようだな」ベルガラスはおそろしいほど静かな声でつづけた。「一度でもおまえが頭をタンポポでいっぱいにしているところを見つけたら、ケルダーに短剣で刺されたほうがよかったと思うような目にあわせてやるぞ。いいな?」
サディの目が大きくなり、顔が蒼白になった。「は――はい、ベルガラス」かれは恐ろしげにどもった。
「よし。さあ、話すんだ。正確には、ザンドラマスについてなにを知っている?」
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「すべてがはじまったのは去年のことでした」あいかわらず気がかりそうな目つきでベルガラスを見ながら、サディが話しはじめた。「宝石商人をよそおったマロリー人がスシス・トールへやってきて、宮殿にいるわたしの宿敵をさがしだしました――サリスというけちな策略家です。サリスが以前からわたしの地位を狙っていたことは周知の事実だったのですが、わたしはたかをくくって、まだそいつを始末させていなかったのです」サディは渋い顔をした。「いまになってみれば、とんだ失敗でしたよ。とにかく、サリスとそのマロリー人はしばらく交渉したあとで、宝石とはまったく無関係な取引をしました。この自称宝石商人は高い地位にある者だけが提供できるなにかを必要としていたんですな、そこでサリスにある情報を与えたんです。わたしの信用を落とし、わたしの地位を乗っとるのに利用できる情報をね」
「おれは駆引きには目がないんだが、そうじゃないやつもいるのかね?」シルクがだれにともなく言った。
サディはまた顔をしかめた。「わたしに向けられていた女王の寵愛がよそに移ったことについては、詳しい話をしても退屈ですし、あなたがたを退屈させたくはありませんからしませんがね。とにかく、サリスが宦官長の後釜にすわり、わたしは命からがら宮殿から逃げだしたのです。いったん地位が固まると、サリスはなんなくマロリー人の友だちと結んだ取引を完了させることができました」
「で、そのマロリー人がほしがったのはなんだったんだ?」シルクがきいた。
「これですよ、ケルダー王子」サディは立ち上がって、しわくちゃの寝台に近づいた。マットレスの下から折り畳んだ羊皮紙を注意深くひっぱりだし、小男に渡した。
シルクはすばやくそれに目を走らせると、口笛を吹いた。
「それで?」ベルガラスが言った。
「こりゃ公式文書ですよ」シルクが答えた。「すくなくとも、女王の封印がしてある。去年の早春、サルミスラはセンダリアへ外交団を派遣したんです」
「それは毎年のことだ、シルク」
「知ってます、だがこの外交団にはあるひそかな指示が与えられているんですよ。サルミスラは外交団に、〈蛇の川〉の河口でひとりの外国人に会うだろうと言っています。そしてその見知らぬ人物にできるかぎりの援助を惜しまぬようにとも言っている。要するに、この外交団はチェレクの西海岸にあるハルバーグ港までその外国人を送り届ける手筈をととのえることになっていたんです。そして、去年の夏のなかばごろのある日に、リヴァの海岸の沖へむかってニーサの船を航行させることになっていた」
「偶然の一致だろう?」ベルガラスが言った。
シルクは首をふって、羊皮紙を持ち上げた。「その外国人の名前が書いてありますよ。外交団は客人を見分けるのに、ザンドラマス≠ニいう名を与えられていたんです」
「いくつかのことはそれで説明がつくな」ガリオンは言った。
「それを見せてもらえる?」ポルガラがきいた。
シルクは羊皮紙を彼女に手渡した。
ポルガラは一瞥してから、サディにむかって羊皮紙をつきつけた。「これがサルミスラの封印であることは絶対たしかなの?」
「疑問の余地はありません、ポルガラ」サディは答えた。「だいたいその封印には女王の同意なしではだれもさわることさえできないんです」
「わかったわ」
「あんたはどうやってこの文書を手にいれたんだ、サディ」シルクが興味ありげにたずねた。
「公式文書はすべて四通写しをつくるのがきまりなんですよ、ケルダー王子。女王の寵を受けている者たちの小遣い稼ぎのひとつでしてね。余分な写しの購入価格は何世紀も昔から確立されているんです」
「なるほど」ガリオンが言った。「ということは、ザンドラマスが商人にばけてニーサに現われ、サリスを宦官長としてあんたの後釜にすわらせたあと、首尾よくサルミスラにその命令を出させた、というわけだな?」
「それほど単純ではありません、ベルガリオン」サディが言った。「そのマロリー人の商人はザンドラマスではなかったんです。ここスシス・トールでこれまでザンドラマスを見た者はひとりもいないのです。文書にあるその見知らぬ人物≠ヘ、センダリアへ向かう外交団に合流しました。わたしに判断できるかぎりでは、ザンドラマスはスシス・トールを通過していません。それだけでなく、ハルバーグへ船を向かわせる手つづきが終わったあと、外交団は都合よく全員死んでいるんです。首都へ向かう途中でカマールの宿屋に泊まっていたとき、宿屋が真夜中に火事になったんですよ。全員焼死です」
「似たようなことがあったな」シルクが言った。
「ふうむ、それじゃ、そのマロリー人の宝石商はだれだったんだ?」ガリオンがきいた。
サディはふがいなさそうに両手を広げた。「ついにわからずじまいです」
「その男を見たことは?」
「一度だけ。奇快な容貌のやつでしたよ。目が真っ白だったんです」
長い間があって、シルクが口をひらいた。「それでいくらかわかってきたぞ」
「そうだな」ガリオンは言った。「しかし、まだ大きな疑問が残っている。ザンドラマスがチェレクへ行き、息子を連れて〈風の島〉から逃げたことはわかったが、ぼくの知りたいのは、ぼくたちの追っている足跡がどこへ向かっているかなんだ」
サディがわかりきっているではないかというように、「ラク・ヴァーカトですよ」
「どうしてその結論に達したんだ?」シルクがきいた。
「サリスは信用のおけない下っ端たちを一掃しないうちに、権力の座からすべりおちたんです。内密の企てに通じている男をひとり見つけましてね。ザンドラマスはこの春にはゲラン王子を連れてマロリーにいなくてはならないんです。そしてそのルートはラク・ヴァーカトを通るものでなくてはならない」
「ラク・クタンから船で行ったほうが近いんじゃないか?」シルクがきいた。
サディが心もちおどろいたようにシルクを見た。「てっきり知っているものと思っていましたよ。カル・ザカーズがザンドラマスの首に賞金をかけたんです。だからマロリーの予備部隊の注意はもっぱらラク・ハッガに集中しています。ザンドラマスがハッガを通ってクタンに行こうとすれば、部隊はすべてをほうりだしてザンドラマスの首を狙いに走るでしょう。ザンドラマスにとって安全に船を出せる港は、ラク・ヴァーカトしかないんです」
「あんたが抱きこんだその下っ端だが、当てになるやつだったのか?」シルクが問いつめた。
「当てになるもんですか。すべてを話しおえたらすぐに、そいつはわたしに報酬を迫るつもりだったんです――当然ながら、死の報酬をね。ということは、わたしに嘘をつく理由はなかったということですよ。いずれにせよ、話をでっちあげるほど頭のあるやつじゃなかったんです」宦官は冷酷に笑った。「だが、わたしも策略にはくわしいですからね。非常に信用できる策略です。そいつはわたしにまったくの真実を話していたんです。じっさい、わたしがうんざりしてきてもまだ真実をしゃべりつづけてましたっけ。サリスはザンドラマスにニーサへ渡る護衛と、ヴァーカト島へ行く一番近い道順を書いた詳細な地図をやったんです」
「その男がしゃべったのはそれだけか?」ガリオンがきいた。
「いやいや」サディは答えた。「学校の試験をごまかしたことまで告白しましたよ、もっともその最中にイサスに喉をかききらせましたがね。一日にそんなにたくさんの事実に関与するわけにはいきませんから」
ガリオンはそれを無視して、「そうか、ザンドラマスはヴァーカト島へ行くんだな。それがどうわれわれのプラスになるんだ?」
「ザンドラマスは大回りをせざるをえないはずです――わたしの言った懸賞金のせいでね。いっぽう、わたしたちはクトル・マーゴスをまっすぐ突っきって島へ行くことができる。数ヵ月は節約できますよ」
「それだと戦闘地帯のどまんなかを通ることになるぞ」シルクが異議をとなえた。
「そんなのはとりたてて問題ではありませんよ。わたしならマーゴ軍からも、マロリー軍からもいっさい妨害されずに、あなたがたを直接ヴァーカトへ連れていってあげられます」
「どうやってきりぬけるつもりだ?」
「若かりしころ、クトル・マーゴスで奴隷売買にたずさわっていたことがあるんです。地理にはくわしいし、だれに賄賂をつかませたらいいか、だれを避ければいいかもわかっています。奴隷商人は戦いとなると、マーゴ軍にとってもマロリー軍にとっても役に立つので、自由に動きまわれるんですよ。わたしたちに必要なのは、奴隷商人の身なりをすることだけです、そうすればだれも干渉しません」
「国境を越えたとたん、おまえがおれたちをグロリムどもに売りつけないという保障は?」シルクはぶっきらぼうにたずねた。
「利己心ですよ」サディは肩をすくめた。「グロリムというのは恩知らずな連中でね。わたしがあなたがたを売ったら、今度はわたしが連中にサルミスラに売られることもおおいにありうる。それだけはごめんですからね」
「サルミスラは本当にあんたに腹をたてているのか?」ガリオンがきいた。
「いらだっているんですよ。蛇というやつは腹はたてないんです。もっとも、彼女個人はわたしにかみつきたがっているそうですがね。むろん、それは大変な名誉なんですが、わたしとしては遠慮したい」
隠しドアがカチャリと開いて、ドロブレクが顔をのぞかせた。「イサスが戻ってきた」
「よし」ベルガラスは言った。「朝がくる前にまた川を渡りたい」
片目の男はサディが説明したとおりの箱を持ってはいってきた。さしわたしが二フィート、厚みが数インチのひらべったい四角な箱だ。「なにがはいっているんです、サディ?」イサスがきいた。「ゴトゴト音がしますぜ」かれは箱をふった。
「気をつけろ!」サディが叫んだ。「壊れやすい瓶もはいってるんだ」
「これはなんだ?」ベルガラスがといつめた。
「なんやかやとね」サディはごまかした。
「薬か?」
「毒と解毒剤です――催淫剤が少し、麻酔剤が一つ二つ、きわめて効果的な正真正銘の薬がひとつ――それにジスです」
「ジスとはなんだ?」
「ジスは生き物ですよ、長老、ただの物じゃない。わたしは彼女なしではどこにも行きません」サディは箱をあけると、小さな土焼きの壺を後生大事にとりだした。口にはきっちりコルク栓がしてあり、首の周囲に小さな穴があいている。「これを持っててもらえますか?」サディはシルクにその瓶を手渡しながら言った。「イサスがなにも壊していないか確認したいんです」箱のなかのビロード張りのポケットにずらりと並んだガラス瓶を、サディは慎重に確かめはじめた。
シルクはものめずらしげに瓶をながめてから、コルク栓をつかんだ。
「わたしならやめときますがね、ケルダー王子」サディが忠告した。「ぎょっとしても知りませんよ」
「なにがはいってるんだ?」シルクは瓶をゆすった。
「やめてください、ケルダー。ジスはゆさぶられると不機嫌になるんです」サディは箱のふたをしめてわきにおしやると、シルクから瓶をうけとった。「これこれ」かれはあやすように話しかけた。「びっくりしないでいいんだよ、ディア。わたしがきたからもうだいじょうぶだ」
瓶のなかから奇妙な喉をならすような音がした。
「どうやってネコをそんなところにいれたんだ?」ガリオンがたずねた。
「ああ、ジスはネコじゃありませんよ、ベルガリオン。ほら、お見せしましょう」サディはそうっとコルクをぬくと、瓶を倒してテーブルの上にのせた。「もう出てきていいよ、ディア」かれは猫撫で声で言った。
なにも起きなかった。
「さあ、おいで、ジス。はずかしがらないで」
すると、緑に輝く小さな蛇がおとなしく瓶の口からずるずるとはいだしてきた。目は黄色にきらめき、頭から尻尾まで明るく光る赤の縞模様がはいっている。ふたまたに分かれた舌がすばやくのびて、サディのさしだした手をなめた。
シルクはギャッとばかりにとびのいた。
「美しいでしょう?」サディは一本の指でその小さな蛇の頭をやさしくなでた。蛇は満足そうな音をたてると、きゅうに頭をもたげて冷たい爬虫類特有の目でシルクをにらみつけ、うらみがましくシュウシュウ言った。
「彼女を怒らせたようですな、ケルダー王子。しばらくジスには近寄らないほうがいいかもしれませんね」
「心配御無用」シルクはそそくさとあとずさった。「毒蛇か?」
「世界一毒性の強い小さな蛇ですよ。そうだね、ディア?」サディはまた蛇の頭をなでた。
「世界一めずらしい蛇でもあります。あらゆる爬虫類のなかでもずばぬけて賢いので、ニーサではこの種が高く評価されているんです。友好的だし――人なつっこくさえあるんです――いうまでもないことですが、このゴロゴロと喉をならす音はじつに愛敬がある」
「だが、かむ」シルクがつけくわえた。
「自分をいらだたせる人間にたいしてだけです――友だちには絶対にかみつかない。餌《えさ》をやり、温かくしてやって、ときどきちょっとした愛情を示してやりさえすれば、子犬みたいにまつわりつきますよ」
「おれにはじゃれつかないよ、絶対」
「サディ」ベルガラスが箱を指さしながら言った。「どういう了見なんだ? 歩く薬局を連れて行くつもりはないぞ」
サディは片手をあげた。「マーゴ人は金にはあまり興味を示しません、長老、しかし、クトル・マーゴスを横切るときに買収しなければならない連中がいるんです。そのなかの何人かはある習慣に染まってましてね。あの箱は金を積んだ馬以上にわたしたちにとって価値あるものになるはずなんです」
ベルガラスはぶつぶつ言った。「おまえは使うなよ。いざってときにおまえがもうろうとしてたんじゃ困る――それから、その蛇をおとなしくさせといてくれ」
「もちろんですよ、ベルガラス」
老魔術師はイサスのほうを向いた。「もっと大きな船を手にいれられるか? われわれは川をまたひきかえさなけりゃならんのだが、さっきの船では全員が乗りきらない」
イサスはうなずいた。
「ちょっと待って、おとうさん」ポルガラが口をはさんだ。「もうしばらくイサスが必要だわ」
「ポル、わしらは夜明け前に川の向こう側へ戻らなけりゃならんのだぞ」
「そんなに長くかからないわよ、宮殿へ行かなくてはならないの」
「宮殿?」
「ザンドラマスはチェレクへ行ったわ――〈猪首〉の時代からアンガラク人は絶対にはいることを許されていないところへね。サルミスラがその手配をしたのよ。セ・ネドラの赤ん坊を誘拐したあと、〈風の島〉からの脱出を助けたのもサルミスラだわ。その理由を知りたいのよ」
「時間がないんだ、ポルガラ。あとまわしにできんのか?」
「そうはいかないわ。ほかの取り決めがなかったかどうか知っておくべきなんじゃない? わたしたちがたどっているジャングルの道ぞいに、ニーサの軍団のひとつやふたつが潜んでいたとしても、おどろくことじゃないわ」
ベルガラスは眉をひそめた。「おまえの言うとおりかもしれんな」
「宮殿へ行くつもり?」ガリオンはたずねた。
「行かなくちゃならないのよ、ディア」
「じゃ、ぼくも行くよ」ガリオンは肩をそびやかした。
ポルガラはしげしげとガリオンを見つめた。「だめだと言っても行くつもりね?」
ガリオンはうなずいた。「そうだよ、ポルおばさん、そのつもりさ」かれはかたくなに言った。
ポルガラはためいきをついた。「子供ってあっというまに大きくなるものね」それからイサスのほうを向いた。「宮殿へ戻る道を知っている?」
片目の男はこっくりした。
「わたしたちを案内してくれるわね?」
「むろんでさ」答えてから、イサスは言った。「値段は後で交渉すればいい」
「値段?」
「タダじゃなにもできませんよ、レディ」イサスは肩をすくめた。「行きますか?」
イサスがポルガラとガリオンを導いてドロブレクの家の裏口から、腐った残飯の強烈な臭いがたちこめる細い路地に出たのは、真夜中近かった。かれらは曲がりくねった似たような路地を忍び足で通って行った。ときには、ひとつの路地から別の路地にはいるために、他人の家の一階の廊下を通り抜けもした。
「どの家のドアに鍵がかかっていないとどうしてわかるんだ?」あばら家が建ち並ぶ都市の一角にある、ひょろりと細長い家から出てきたとき、ガリオンがささやいた。
「それがあたしの仕事でね」イサスは背すじをのばしてあたりをきょろきょろした。「宮殿はもうすぐです。このあたりの路地や通りは兵隊が巡回しているんでね、ちょっとここで待っててください」かれは足音を忍ばせて路地を横切ると、ひっこんだところにあるドアをあけて、なかへすべりこんだ。まもなくイサスは絹の服を二着と槍を二本、それに真鍮の兜をふたつ持って出てきた。「おれたちはこれを着るんです」と、ガリオンに言った。「あんたは心配いりません、レディ。頭巾をもっと深くかぶりゃ顔が隠れるからね。だれかに止められたら、あたしにしゃべらせてください」
ガリオンは服をきて、兜をかぶり、槍のひとつを暗殺者から受け取った。
「髪の毛を兜の下にたくしこんで」イサスはそう指示すると、変装が見破られないことを頼りに、思いきりよく大股に歩きだした。
次の通りにはいるかはいらないかのうちに、武装した六人の兵に停止を命じられた。
「何をしている?」警備隊の隊長が難詰した。
「お客を宮殿まで案内するところです」イサスは答えた。
「どういう客だ?」
イサスはうんざりした顔をした。「干渉しないほうがいいですよ、伍長。彼女を待っている人物がこれを知ったら、いい顔はしないでしょう」
「で、それはだれなんだ?」
「いいですか、それは大変な愚問ですよ。わたしがあなたにしゃべったことをこの女の友人がつきとめたら、わたしらはどっちも川に投げ込まれておだぶつですぜ」
「おまえの話が事実だとどうしておれにわかる?」
「わかりゃしないでしょうな――しかし、本当に危ない目に会ってもいいんですかい?」
思案するうちに伍長の表情がわずかに神経質になってきた。かれはついに言った。「行ってかまわん」
「わかってもらえると思ってましたよ」イサスはそう言って、乱暴にポルガラの腕をつかんだ。「歩け、ほれ」と命令口調で言った。
通りのつきあたりまできたとき、ガリオンはちらりとうしろを振り返った。兵士たちはまだかれらを見ていたが、追いかけてはこなかった。
「怒っちゃいないでしょうね、レディ」イサスが謝った。
「いいえ」ポルガラは答えた。「あんたはとても機知に富んだ男だわ、イサス」
「それで金をもらってるんですよ。この道を行くんです」
サルミスラの宮殿の塀はとてつもなく高く、それを構成しているばかでかい粗石は、川沿いのこのじめじめした都市にもう何世紀も立っていた。イサスは塀の下の真っ暗闇を進んで、鉄のかんぬきがかかった小さな門に歩み寄った。ちょっと鍵をいじりまわしていたが、すぐにそうっと門をあけて、「行きましょう」とささやいた。
宮殿はさながら薄暗い廊下の迷路だったが、イサスはまるで重要な使命をおびているかのように、自信たっぷりにかれらを先導した。もっと広くて、いくぶん照明も明るい宮殿の中心にほど近い廊下まできたとき、グロテスクな化粧をした宦官が目をとろんとさせ、ぎごちない足どりでふらふらとそばを通りすぎた。口にはまひしたようなにたにた笑いがはりつき、体は発作的にけいれんしていた。あけっぱなしのドアの前を通りすぎたとき、なかでだれかがとめどもなくケタケタと笑っているのが聞こえた。それが男なのか、女なのか、ガリオンには判断できなかった。
片目の男はたちどまって、とあるドアをあけた。「ここを通っていかなけりゃならないんですよ」ドアのそばの壁のくぼみから、いぶっているランプを取って言った。「気をつけて。暗いし、床に蛇がいますからね」
部屋はひんやりして、カビ臭いにおいがした。隅のほうで鱗がこすれあうかわいた音がはっきりと聞こえた。「絶対安全です。きょうは餌《えさ》をもらったから、動きがにぶくなってる」イサスはドアの前でたちどまると、ドアを細目にあけて外をのぞいた。「待って」
外の廊下でふたりの男が話す声と足音が聞こえた。やがてドアがあき、閉まった。
「だれもいない」イサスが声をひそめて言った。「行きましょう」先に立って廊下にでると、薄暗い廊下づたいに磨きこまれたドアに近づいた。かれはポルガラを見た。「女王に会いたいのは確かなんですか?」とたずねた。
ポルガラはうなずいた。
「けっこう。サリスがこの中にいます。かれがあたしらを謁見の間へ連れていってくれるでしょう」
「だいじょうぶかい?」ガリオンはささやいた。
イサスは路地で着た服の下に手をいれて、長くて刃がぎざぎざの短剣をとりだした。「それは保証できたも同然ですよ。一分ください。そしたら入ってきて、ドアをしめるんです」かれはドアをパッとあけると、忍び足の大きな猫よろしく部屋にとびこんだ。
「なんだ――」部屋のなかにいるだれかが甲高い声で叫んだかと思うと、おそろしい静寂が訪れた。
ガリオンとポルガラはすばやく中へはいって、ドアをうしろ手にしめた。テーブルに男がすわっていた。イサスの短剣の切っ先を喉におしあてられて、恐怖に目をとびださんばかりにしている。真っ赤な絹の長衣をきており、剃りあげた頭が青ざめていた。脂ぎった不健康な脂肪が幾重にもだぶついてあごからたれさがり、おびえた目は小さくてブタそっくりだ。
イサスが気味が悪いほど静かな声で男に話しかけていた。短剣の先端を太った男の喉の皮膚にめりこませることで、話の内容を強調している。「こいつはウルゴのナイフだぜ、イサス。はいるときはほとんど血もでないくらいだが、ひきぬくときは、ありとあらゆるたぐいのものが一緒にでてくる。さあ、叫び声ひとつたてずにあの世へ行きたいのか?」
「や、やめてくれ」サリスは甲高い声でどもりながら言った。
「だろうと思った。じつはこういうことだ。このご婦人とその若い友人は女王と話をしたがっている。だから、おまえがおれたちを謁見の間へ連れていくんだ」
「女王と?」サリスは喘ぐように言った。「許可なしにはだれも女王のところへは行けないのだ。そ、そんなことはできん」
「ではしかたがない」イサスはポルガラを見やった。「向こうをむいていただけませんか、レディ?」丁重に言った。「人間の耳から脳みそが流れ出す光景を見ると、気分の悪くなる人がいるんでね」
「やめてくれ」サリスは懇願した。「わたしにはできん。呼ばれもしないのに、おまえたちを謁見の間に連れていったりしたら、女王に殺されてしまう」
「連れていかなければ、おれに殺されるんだぜ。どうやら、きょうはツイてない日になりそうだな、サリス。さあ、立ちな」暗殺者はふるえている太った男を椅子からひきずりあげた。
宦官を小突きながらかれらは廊下に出た。サリスの顔には脂汗が流れ、目は血走っていた。
「へまをやるなよ、サリス」イサスが警告した。「おれがうしろにぴったりついてるのを忘れるな」
謁見の間の入口に立っていたふたりの屈強な護衛が、宦官長を見てうやうやしく一礼し、重い扉をあけた。
サルミスラの謁見の間は変わっていなかった。蛇神イサのとてつもなく大きな石の彫像が、部屋のずっと奥のつきあたりにある壇のうしろにあいかわらずそびえていた。クリスタルのランプはあいかわらず銀の鎖にぶらさがってぼんやり光っているし、深紅の長衣に頭を剃りあげた二十四人の宦官があいかわらず磨かれた床にひざまずいて崇拝の言葉をいっせいにつぶやこうとしている。寝椅子のような王座のかたわらには、あの金枠の鏡までが今も台座にのっていた。
しかし、サルミスラ自身はおそろしいほどの変わりようだった。薬を飲まされてもうろうとしたガリオンが、はじめてその前面へ引き出されたときの、美しい官能的な女はもはやどこにもいなかった。彼女は王座に横たわって、とぐろを巻いたまだらもようの体を落ち着きなくうねらせていた。ランプの明かりを受けて磨きこまれた鱗が輝き、ひらべったい爬虫類の頭を長く細い首からもたげて、うつろな目の上に蛇の女王の金の王冠をそっとのせている。
サルミスラはかれらがはいっていったときちらりと向けた視線を、ふたたび鏡に写る自分の姿に戻した。「おまえを呼んだおぼえはないよ、サリス」かさかさに乾いたささやき声で言った。
「女王さまは宦官長におたずね」壇のそばにひざまずいている二十四人のつるつる頭の男たちが、声をあわせて歌うように言った。
「お許しください、永遠なるサルミスラさま」宦官長は王座の前の床にひれふした。「この見も知らぬ連中にむりやり連れてこられたのでございます。言うことを聞かなければ殺すと脅されました」
「では死ぬがよい、サリス」蛇はささやいた。「あたしが邪魔されるのを嫌っているのは知っているはずだ」
「女王陛下はお腹だち」ひざまずいた宦官の半数がつぶやいた。
「おお」のこりの半数が悪意に満ちた満足とともに応じた。
サルミスラはゆれる頭をわずかに動かして、イサスを見た。「おまえを知っているような気がする。
片目の男はお辞儀した。「イサスです、女王陛下」かれは答えた。「暗殺者の」
「いまは邪魔されたくないね」蛇の女王は感情のないささやき声で言った。「これでおまえがサリスを殺すことになるのなら、廊下へ連れだしてからやっておくれ」
「いつまでも邪魔をする気はないわ、サルミスラ」ポルガラがマントの頭巾をうしろへはらいながら言った。
蛇の頭がのろのろと回って、先端がふたつに分かれた舌が空気をなめまわした。
「あら、ポルガラ」べつだん驚いたふうもなく、女王はシュウシュウ言った。「ひさしぶりだこと」
「数年ぶりよ」
「ときの流れなんてもうどうでもいいわ」サルミスラのうつろな目がガリオンに移動した。「それに、ベルガリオン。もう子供じゃないのね」
「ああ」ガリオンはどうしようもなく体がふるえてくるのをおさえようとしながら答えた。
「もっと近くへおいで」サルミスラはささやいた。「かつておまえはあたしを美しいと思い、あたしのキスを渇望したろう。いまあたしにキスしたいかい?」
ガリオンはその言葉に従いたいという奇妙な衝動をおぼえ、気がつくと蛇の女王の目から目がそらせなくなっていた。思わずかれは壇のほうへためらいがちに一歩進みでた。
「幸運な者、王座に近よる」宦官たちがつぶやいた。
「ガリオン!」ポルガラの鋭い声がとんだ。
「傷つけやしないわよ、ポルガラ。かれを傷つけようとしたことは一度もないわ」
「あなたにいくつかききたいことがあるのよ、サルミスラ」ポルガラは冷たく言った。「質問に答えてくれたら失礼するから、また鏡をながめたらいいわ」
「どんな質問、ポルガラ? あんたの魔術でも捜し出せないことがなんであたしにわかるのよ?」
「最近ナラダスというマロリー人に会ったでしょう」ポルガラは言った。「白目の男よ」
「それがあの男の名前なの? サリスは教えてくれなかったわ」
「かれと取引をしたわね」
「あたしが?」
「ナラダスの要求で、外交団をセンダリアへ派遣したはずよ。そのなかにはザンドラマスという名の外国人がいた。あなたの外交団はその外国人にあらゆる援助を惜しまず、チェレクの西海岸にあるハルバーグへ送り届けるよう指示されていたわ。あなたは〈風の島〉へ船をやって、ザンドラマスをニーサへふたたび連れ戻すことまで命じていた」
「あたしはそんな命令はしなかったわよ、ポルガラ。ザンドラマスのことなんてまるで興味はないね」
「知っている名前なの?」
「もちろんさ。一度話したことがあったでしょう、隠された真実を見つけだせるのはアンガラクの僧侶やアロリアの魔術師たちだけじゃないって。リヴァの城塞からベルガリオンの息子を奪った者たちをあんたたちが必死で追いかけているのは知っているよ」
「でも取引とはいっさい関係ないというの?」
「そのナラダスとかいう男ならあたしに貢ぎ物をもってきたわ」サルミスラはささやいた。「だが、ここニーサで商売をする許可がほしいと言っただけで、ほかのことはなにも言わなかった」
「では、これをどう説明するの?」ポルおばさんはサディに預かった羊皮紙をマントの下からとりだした。
サルミスラはひざまずいている宦官のひとりに向かって舌をすばやくつきだした。「あたしのところへあれを持ってくるんだ」
宦官ははじかれたように立ち上がると、ポルおばさんから羊皮紙をうけとり、壇の端にひざまずいて、羊皮紙をひろげると女王のほうへつきだした。
「これはあたしの出した命令じゃない」サルミスラはちらりと目をくれただけで、そっけなく言った。「センダリアへ外交団を派遣する命令はくだした――それだけよ。あんたの写しは正確じゃないね、ポルガラ」
「どこかに元の文書があるだろうか?」ガリオンはたずねた。
「サリスがもっているはずよ」
ガリオンは床にひれふしている太った宦官を見て、問いつめた。「どこにある?」
サリスはガリオンを見つめたが、やがてこわごわと王座に寝そべった蛇のほうへ視線を移した。
ガリオンはいくつかの方法も考えたが、結局一番簡単な方法をとることにした。「サリスをしゃべらせるんだ、イサス」短く命じた。
片目の男は前に出て、ふるえている宦官の上に馬乗りになり、背後からあごをしっかりつかむと、サリスの体が弓なりに反るまであごをぐいとひっぱりあげた。ぎざぎざした刃の短剣がこすれるような音をたてて、鞘からひきぬかれた。
「待ってくれ!」サリスは押し殺した声で懇願した。「文――文書はわたしの部屋のたんすの一番下の引出しにある」
「おまえのやりくちは単刀直入ね、暗殺者」女王が言った。
「あたしは単純な男なんですよ、女王陛下」イサスは答えた。「微妙とか複雑とかとは無縁の気性でしてね。結局は直接的なのが時間の節約になるんです」かれはおびえているサリスを放してから、ウルゴの短剣を鞘におさめた。イサスはガリオンを見た。「その羊皮紙を取ってきますか?」
「どうしても見る必要があるな」
「いいでしょう」イサスは回れ右をして出ていった。
「おもしろい男ね」サルミスラが感想をもらした。彼女は頭をさげて、とぐろを巻いたまだらもようの体を短い鼻で愛撫した。「あんたが最後にここにきたときから、あたしの人生は大きく変わったわ、ポルガラ」サルミスラはかさかさの声でささやいた。「以前のような飢えに駆られることはもうないの。かわりに落ち着きのないうたたねで毎日が過ぎていくわ。この鱗が互いを愛撫しあう甘美な音を伴奏にして、うとうとしているの。眠っていると、夢も見るわ。深くてひんやりした森のなかの苔むした洞窟の夢や、あたしがまだ女だったころの夢をね。でもときには夢のなかのあたしは体を持たない魂で、他人の隠す真実をさがしだすのよ。あたしはあんたの心の奥にひそむ恐怖を知っているわ、ポルガラ、ザンドラマスを駆り立てている死に物狂いの要求もね。シラディスに課せられているおそろしい役目だって知っているのよ」
「それでも、この件とは関係ないとまだ言い張るの?」
「興味がないのさ。あんたとザンドラマスは追っかけあって、世界中の王国をまわっていりゃいいわ。だが、その結果などあたしにはどうでもいいことよ」
サルミスラを見つめるポルおばさんの目が細くなった。
「あんたに嘘をつく理由などないからね、ポルガラ」サルミスラはその目つきにうかんだ疑惑に気づいて言った。「ザンドラマスにあたしの援助を仰げるようなどんな申し出ができたというのさ? あたしの要求はすべて満たされているし、あたしにはもう欲望はないんだから」鎌首をもたげると、彼女は舌をチロチロ出した。「だけど、ザンドラマス捜しのおかげであんたがまたきてくれてうれしいわ、その完璧な顔をもう一度見られたからね」
ポルガラはツンと頭をそらした。「それじゃいそいで見ることね、サルミスラ。わたしは蛇の娯楽につきあっているほど我慢強くないのよ」
「何世紀もの歳月があんたをおこりっぽくしたようね、ポルガラ。お互い礼儀正しくしようじゃないの。ザンドラマスについて知っていることをあたしに話してほしいだろう? 彼女はもうかつての彼女じゃないよ」
「彼女だって!」ガリオンは叫んだ。
「そんなことも知らなかったの?」蛇は意地悪そうにシュウシュウ言った。「するとあんたの魔術はインチキね、ポルガラ。敵が女だってわからなかった? すでに彼女に会っていることにも気づかなかったんでしょうね?」
「なにを言ってるの、サルミスラ?」
「あわれなポルガラ。長い間にその賢いおつむにクモの巣がはっちまったらしいね。世界中で姿を変えられるのは自分とベルガラスだけだと本気で思っていたの? アレンディアの北の山中であんたたちの前に姿を現わした例のドラゴンね、あれはドラゴンの本来の姿じゃないのさ」
謁見の間のドアがあいて、イサスが赤い蝋の封印が下に押された羊皮紙を手に戻ってきた。
「こっちへ」サルミスラが命令した。
イサスは女王を見、ひとつだけしかない目を細めて、蛇のいる王座とかれ自身の無防備な体のあいだの距離を推し量った。それからさきほどポルガラの文書を女王に見せた宦官に歩み寄った。イサスは表情ひとつ変えずに、ひれふしている宦官のあばら骨のあたりをしたたかに蹴った。「そら」と羊皮紙をつきだした。「これを陛下にお見せしろ」
「あたしがこわいのかい、イサス?」サルミスラはちょっとおもしろがっているようだった。
「あたしはしがない暗殺者ですから、おそれおおくて陛下のおそばに近寄れませんよ」
サルミスラは頭をさげて、ふるえる宦官が読めるようにとさしだしている羊皮紙を調べた。「どこかにくいちがいがあるようね」彼女はシュウシュウ言った。「この文書はあんたがあたしに見せたものと同じだけれど、ポルガラ、あたしが封印をするよう命じた文書じゃないわ。どうしてこんなことが?」
「よろしいでしょうか、女王さま?」羊皮紙をもっている宦官がふるえ声でたずねた。
「もちろんよ、アディス」彼女はほとんど陽気ともいえる口調で答えた。「おまえの言うことがあたしを怒らせたら、報復としてあたしのキスであの世送りになることを承知しているのならね」二又の舌がアディスのほうへチロチロ動いた。
宦官の顔が土気色になり、体のふるえがひどくなって、もうちょっとでくずおれそうになった。
「お話し、アディス」サルミスラはささやいた。「命令よ、おまえの心をあたしに開きなさい。そうすれば、おまえが死ぬのか生きるのか判断できる。さあ、お話し」
「女王さま」かれはわなわなと声をふるわせた。「陛下の封印にさわることを許されているのは、宮殿では宦官長ただひとりでございます。問題の文書がいつわりならば、宦官長に説明を求めなくてはならないのではないでしょうか?」
蛇は考えこんだ。頭がリズミカルに前後にゆれ、分かれた舌が動いた。ついに彼女は爬虫類のダンスをやめると、ゆっくりと身をのりだしてちぢこまっている宦官の頬を舌でなぶった。「生きていてよい、アディス。おまえの言ったことはあたしを怒らせなかった、したがってあたしのキスは命の贈物になる」それだけささやくと、彼女はふたたびとぐろを巻いて、死んだような目でサリスをながめた。「説明があるのか、サリス? もっともすぐれた召使いアディスの指摘したように、おまえはあたしの宦官長だ。おまえがあたしの封印を押した。このくいちがいはどうして起きたのだ?」
「女王さま――」サリスの口はしまりなく開き、真っ青な顔はまぎれもない恐怖の表情にこおりついていた。
まだふるえのとまらないアディスがふいにやみくもな期待を目にみなぎらせて、腰をうかせた。かれは片手に持った羊皮紙をもちあげると、壇の片側にひざまずいている深紅の長衣をきた同僚のほうを向いた。「見るがいい」かれは勝ち誇った声で叫んだ。「宦官長の不正行為の証拠を見るがいい!」
他の宦官たちはまずアディスを見、ついでひれふして恐れおののいている宦官長を見た。かれらの目はサルミスラの顔にうかぶ謎めいた表情をこっそり読もうともしていた。「ああ」宦官たちはようやくいっせいに言った。
「あたしはまだ待っているんだよ、サリス」蛇の女王はささやいた。
ところがサリスはいきなりもがくように立ち上がると、愚かな動物じみた甲高い奇声を発しながら謁見の間のドアめがけて突進した。その突然の逃亡もすばやかったが、イサスのほうがもっと早かった。みすぼらしい片目の暗殺者は片手におそるべき短剣をつかむなり、逃げる太った男にとびかかった。そしてあいているほうの手で宦官長の真っ赤な長衣の背中をつかみ、ぐいとひきもどした。短剣をふりあげたところで、イサスは物問いたげにサルミスラを見た。
「まだよ、イサス」女王は決断した。「あたしのところへ連れておいで」
イサスは不満そうに、もがく相手を王座のほうへひきずっていった。サリスは恐怖のあまりわけのわからないことを口走りながら、磨かれた床に足をふんばって連れていかれまいとした。
「返事がききたいんだよ、サリス」サルミスラはささやいた。
「しゃべるんだ」イサスが短剣の先端を宦官の下まぶたにおしあてて、抑揚のない声で言った。わずかに力をくわえると、真っ赤な血がふいに太った男の頬にしたたった。
サリスは悲鳴をあげて、おいおい泣きだした。「お許しください、女王陛下」かれは許しを乞うた。「マロリー人ナラダスに強要されたのです」
「どうやったのだ、サリス?」蛇は無情にといつめた。
「わ、わたしがそのページの一番下に陛下の封印を押しました、聖なるサルミスラさま」サリスは観念したようにしゃべりだした。「そのときわたしはひとりでした。あとの命令はわたしがつけたしたのです」
「それ以外の命令もしたの?」ポルおばさんがきいた。「わたしたちはザンドラマス追跡の途中で邪魔や罠に出くわすことになるわけ?」
「いえ。とんでもない。わたしはザンドラマスにマーゴの国境まで護衛をつけることを命じて、彼女の要求した地図を与えただけで、それ以上のことはしていません。お願いです、女王陛下。お許しを」
「それはまったく不可能だね、サリス」サルミスラはシュウシュウ言った。「あたしはポルガラとザンドラマスのあいだの論争にはタッチしないつもりだったのに、おまえが信頼を裏切ったおかげで巻き込まれてしまった」
「殺しますか?」イサスが平然とたずねた。
「いや、イサス。サリスとあたしはこの宮殿の習慣にのっとって、キスを分かちあうんだよ」サルミスラは妙な目でイサスを見た。「おまえは興味深い男だね、暗殺者。あたしに仕える気はないかい? おまえの数ある才能のひとつのためなら、ちゃんと地位を見つけてやれるよ」
宦官のアディスが急に顔を青くして息をのんだ。「ですが、女王陛下」アディスはあわてて立ちあがって抗議した。「陛下の従者はこれまでずっと宦官だったのですよ、しかるにこやつは――」自分の無鉄砲さにふいに気づいて、アディスはどもった。
サルミスラのうつろな目に凝視されて、アディスは青い顔でふたたび床にへたりこんだ。
「おまえには失望したよ、アディス」彼女はあのかさかさしたささやき声で言った。「どうだね、イサス? おまえほどの才能がある男ならうんと出世できるよ、そのための処置だが、たいしたことではないと聞いている。すぐに回復して、女王の従者になれるのだよ」
「その――光栄です、陛下」イサスは用心深く答えた。「しかし、あたしはこのままの体でいたいんですよ。あたしのような職業には多少激しさが求められるもんだし、いじくりまわすことでそいつを失ってしまいたくないんです」
「なるほど」サルミスラはいっとき頭をゆすってひれふしているアディスを見つめ、暗殺者にふたたび視線を戻した。「だが、きょうおまえは敵をつくったようだ――その敵はいつかきわめて有力な存在になるかもしれないよ」
イサスは肩をすくめた。「敵ならいくらでもいましたよ。そのうちの数人はまだ生きてすらいます」かれはひれふしている宦官に冷酷な一瞥を与えた。「そのことをアディスが追求したいなら、かれとあたしとでいつかひそかに話しあえばいいんです――あるいは話しあいがだれの邪魔にもならないような深夜にでもね」
「わたしたちはもう行かなくちゃ」ポルガラが言った。「あなたはとても役にたったわ、サルミスラ。ありがとう」
「あんたの感謝などどうでもいいのよ。もう会うことはないでしょうよ、ポルガラ。あたしはザンドラマスのほうがあんたより強いと思うし、あんたは彼女にやられると思うわ」
「それは時がこなければわからないわね」
「ほんとうに。さよなら、ポルガラ」
「さよなら、サルミスラ」ポルガラはわざとらしく壇に背を向けた。「行きましょう、ガリオン――イサス」
「サリス」サルミスラが奇妙な歌うような口調で言った。「こっちへ」ガリオンは肩ごしにちらりとうしろを見た。サルミスラはとぐろをといて、壇とビロード貼りの王座の上高くまだらの体を直立させていた。彼女はリズミカルに前後に体をゆすった。うつろなおぞましい飢えのために目がぎらぎらと光りだし、鱗におおわれた額の下で、どん欲そうに輝いた。
サリスはだらしなく口をあけ、あらゆる思考を抜き取られたようなブタそっくりの目をして、ひきつった足取りで壇のほうへ近づいて行く。
「さあ、サリス」サルミスラは猫撫で声をだした。「おまえを抱いてキスしたくてたまらないんだよ」
ポルおばさん、ガリオン、イサスはふんだんに彫刻をほどこしたドアに達すると、静かに外の廊下に出た。数ヤードと行かないうちに、謁見の間から突然恐怖に満ちた絶叫が聞こえ、首をしめられたようなごぼごぼという音がして静かになった。
「宦官長の地位があいたようですね」イサスがそっけなく言った。やがて薄暗い廊下を歩きつづけながら、イサスがポルガラのほうを向いた。「さて、レディ」かれは手にしるしをつけながら言った。「まずはじめに、あなたとその若者を宮殿まで案内した料金、次に、あたしらを謁見の間に連れていくようサリスを説得した料金、それから……」
[#改丁]
第二部 ラク・ウルガ
[#改ページ]
9
夜が明けそめるころ、かれらは足音を忍ばせてドロブレクの家から外に出た。スシス・トールの狭くて曲がりくねった通りには濃い灰色の霧がたちこめていた。イサスの先導で、かれらは波止場近くのむさくるしい地区を通り抜けた。川のにおいと、周囲の湿地の悪臭が霧深い闇に充満し、ガリオンの鼻孔をよどんだ水の腐臭でいっぱいにした。
一行が細い路地から出たとき、イサスが止まれの合図をして、霧に目をこらした。一瞬の間をおいて、かれはうなずき、ささやいた。「行きましょう。物音を立てないように」霧にぬれて光る薄暗い砂利道を、ぼんやりした赤い光輪に囲まれた数本のたいまつだけを頼りに急ぎ足でよこぎり、一段と暗い、残飯の散らばる別の路地にはいった。その路地のずっと向こうに、音をたてて流れる川のゆっくり動く水面が霧にかすんで見えた。
片目の暗殺者は一行の先に立って、また別の砂利道にはいり、霧のなかへ突き出た崩れそうな波止場に到着した。なかば水面上にはみだしたぼろぼろの差しかけ小屋のそばの暗がりで足をとめると、イサスはドアを手さぐりした。ギイッときしむ錆ついた蝶番をぼろきれでおさえて、ゆっくりとドアをあけた。「ここへ」かれがささやくと、ガリオンたちはイサスのあとからしめっぽい差しかけ小屋にはいった。「この波止場の先端に船が一艘つないであります」かれは声を落として言った。「あたしがそれをもってくるあいだ、ここで待っててください」イサスは差しかけ小屋の正面へ行った。蝶番がきしんで、はね戸が開く音が聞こえた。
かれらは待ちながら、全身を耳にした。町のこのあたりにうようよいるネズミたちの足音や鳴き声が聞こえてくる。数秒が這うように過ぎていくあいだ、ガリオンはドアのそばに立ち、腐った板のすきまから川沿いに伸びる霧深い通りを見張った。
「だいじょうぶだ」何時間もたったような気がしたとき、下からイサスの声が聞こえた。「梯子に気をつけて。桟がすべりやすくなってますよ」
かれらはひとりずつ梯子をおりて、片目の男が波止場の下からひっぱってきた船に乗り移った。「静かにしてなきゃなりません」みんながすわると、イサスは警告した。「川のどこかにもう一艘出てる船があるんでね」
「船が?」サディがおびえたようにたずねた。「なにをしているんだろう?」
イサスは肩をすくめた。「どうせ不法行為でしょうよ」かれは船を波止場の横の暗がりに押し出すと、中央の席にすわり、水音をたてないよう油のような川の水面に慎重にオールをくぐらせて漕ぎはじめた。
暗い水から霧が小さな渦となってたちのぼり、明かりのともったスシス・トールの塔の高窓が夢に見る金色の小さな蝋燭のように、現実ばなれしたものに見えた。イサスはほとんど音をたてずに着実に漕ぎつづけた。
そのとき、少し上流のどこからかふいにくぐもった叫びが聞こえ、そのすぐあとに水しぶきがあがる音と、ごぼごぼとあぶくが水面にのぼってくる音がした。
「なんだ、あれは?」サディが神経質に小声でささやき、イサスが漕ぐのをやめて耳をすました。
「静かに」片目の男はささやいた。
霧の中のどこからかだれかが船の中を動き回っている音が聞こえ、つづいて不器用にオールをひっぱる水音がした。男がひとり、ののしり声をあげた。耳ざわりな大声だった。
「静かにしてろ」別の声が言った。
「どうしてだよ?」
「おれたちがここにいることをスシス・トールのだれにも知られたくないんだ」
「心配しすぎだぜ。おれがやつの足首に結んだあの岩が、当分やつを沈めといてくれるって」オール受けのぎしぎしきしむ音が霧のなかへ遠ざかっていった。
「しろうとめが」イサスが小声であざわらった。
「暗殺ってとこか?」シルクが職業上の好奇心からたずねた。「それとも個人的殺人かな?」
「どっちも同じじゃないですか」イサスはふたたびオールをゆっくり水中に浸して漕ぎはじめた。スシス・トールは背後の霧にまぎれて見えなくなっていた。ぼんやりした町の明かりが見えなくなると、ガリオンには船がまったく動かないで暗い川面に静止しているように思えた。やがて、湿り気をおびた霧の前方に、ようやく岸が現われた。さらに数分たつと、白い霧に浮かびあがる木々の形がひとつずつ見分けられるようになってきた。
土手から低い口笛が聞こえると、イサスがその合図を頼りに船の角度をわずかにずらした。
「ガリオン、きみかい?」ダーニクのささやき声が暗がりから言った。
「そうだ」
イサスが上にはりだした枝の下に船をいれると、ダーニクが船首をつかんだ。「みんなは道のずっと向こう側で待っているよ」かれは船からおりるポルガラに手を貸しながら、静かに言った。
「おまえはじつによくやってくれた、イサス」サディが雇人に言った。
片目の男は肩をすくめた。「だからおれを雇ったんでしょうが?」
シルクがイサスを見た。「おれの申し出を考える気になったら、ドロブレクに話してくれ」
「考えときますよ」イサスは答えた。ためらってから、かれはポルガラを見た。「道中ご無事で、レディ」と静かに言った。「なんだか、あなたには運が必要になりそうな気がするんです」
「ありがとう、イサス」
イサスは船を霧の中へ押し戻して、見えなくなった。
「いったいなんの話です?」サディがシルクにきいた。
「いや、たいしたことじゃない。ドラスニア諜報部はつねに優秀な人材を求めているんでね、それだけだ」
ダーニクはつるつる頭の宦官を興味深げにながめていた。
「みんなのところへ戻ったら、説明するわよ」ポルガラが夫を安心させた。
「そうだね、ポル。こっちだ」ダーニクは草のしげった土手をのぼって砂利道にでると、もつれあった下生えをかきわけていった。残りの面々はすぐあとからついていった。
セ・ネドラ、エリオンド、トス、ヴェルヴェットは、苔におおわれた倒木の幹のかげにある、ちいさなくぼ地にすわっていた。すっぽりおおいをかぶせたランタンがひとつ、力なく輝いて、かすかな光でくぼ地を照らしている。「ガリオン」セ・ネドラがほっとしたように叫んで、すばやく立ち上がった。「どうしてこんなに時間がかかったの?」
「思いがけない展開があったんだよ」ガリオンはセ・ネドラを抱きしめて、髪に顔をうずめた。つねにかれの心をときめかせるあの暖かく甘い香りは、まだなくなっていなかった。
「ようし」ベルガラスが白みかけてきた空を見ながら言った。「行動を開始したいから、説明は簡単にしよう」かれはランタンのそばのやわらかい苔のうえに腰をおろした。「これはサディだ」頭を剃りあげた宦官を指さした。「おまえたちのほとんどはすでにかれのことは知っているな。サディはわれわれと一緒に行くことになる」
「それははたして賢明でしょうか、ベルガラス?」ダーニクが疑わしげにたずねた。
「賢明ではないだろうな」老人は答えた。「しかし、これはわたしの考えではないのだ。サディはザンドラマスがクトル・マーゴス南部へ行ったと思っている。そこで大陸を横断して、南東の沿岸おきのヴァーカト島へ向かうつもりなのだ」
「あそこはいま世界一危険な場所ですわ、長老」ヴェルヴェットがつぶやいた。
「だいじょうぶですよ、おじょうさん」サディが男にしては甲高い声で断言した。「奴隷商人のふりをしていれば、だれにも邪魔はされません」
「あんたはそう言うがね」ベルガラスは疑心暗鬼で言った。「戦争前なら確かにそのとおりだったかもしれん。だが、マロリー人が奴隷売買をどう見ているかたしかなところはまだわからんぞ」
「みんなにもうひとつ知っておいてもらいたいことがあるわ」ポルガラが静かにつけくわえた。「ガリオンとわたしはサルミスラがこの件にからんでいるかどうかつきとめるために、宮殿へ行ったのよ。サルミスラはザンドラマスは女だと言ったわ」
「女ですって?」セ・ネドラが叫んだ。
「彼女はそう言ったのよ、それに、わたしたちに嘘をつく理由はないはずだわ」
ダーニクは頭をかいた。「それはいささか意外だね。サルミスラは本当に自分の言っていることがわかっていたんだろうね?」
ポルガラはうなずいた。「はっきりとね――わたしがそれを知らなかったので、ご満悦だったわよ」
「つじつまの合うところもたしかにありますわ」ヴェルヴェットが考えながら言った。「ザンドラマスの行動の大半は、いかにも女がやりそうなことでしたもの」
「よくわからないね」ダーニクが率直に言った。
「男は一定の方法で行動するということですわ、善人。女はそのつどちがいます。ザンドラマスが女だとすれば、納得のいくことがたくさんあるんです」
「ザンドラマスは事実を隠すのにあらゆる手を尽くしてもいる」シルクがつけ加えた。「自分を見た者を口封じのために全員始末しているんだ」
「このことについてはあとで話そうじゃないか」ベルガラスは立ち上がると、少しずつ薄れてきた霧を見回した。「川の向こう側にいる連中が動き回らないうちに、ここを発ちたい。馬に鞍をつけよう」
サディのために馬の一頭から荷物をどけて、それをまた積みなおすのにちょっと手間どったが、ほどなくかれらは一夜の隠れ場をあとにして、曲がりくねった〈蛇の川〉に平行する草深い道をたどりはじめた。最初は用心して馬を歩かせたが、川の向こうで霧にまぎれているスシス・トールの周辺を通過してしまうと、ペースをあげて、蛇の民が住む悪臭ふんぷんたるジャングルと湿地を貫く見捨てられた道を駆け足で進みつづけた。
太陽がのぼると、一行をとりまく霧が日差しをあびて神秘的に輝き、道の両わきの灌木からたれさがる葉の先端のしずくが宝石のようにきらめいた。ゆうべ一睡もしなかったせいで疲労のあまり目がしょぼしょぼしていたガリオンは、その宝石のような緑の葉を見てあっけにとられ、この臭い湿地帯にこんな美しいものが存在することにびっくりした。
「世界はどこだって美しいんですよ、ベルガリオン」その口にはださない思いを読み取ったかのように、エリオンドが言った。「見方を知ってさえいれば」
いったん霧が晴れると、かれらはもっと早いペースで進めるようになった。その日は旅人には出会わなかった。西の地平線上に永遠にいすわっているような紫色のぶあつい雲のなかに太陽が沈みはじめたころには、かなり上流まできていた。
「マーゴの国境までどのくらいある?」ダーニクとトスが野営用のテントを張っているあいだ、ふたりでたきぎを集めていたガリオンがサディにたずねた。
「あと数日はかかりますね」宦官は答えた。「本道は源流近く川をよこぎり、それからアラガへ南下しています。浅瀬の向こう側に村があるんですが、そこに寄って二、三の物を調達しなけりゃなりません――奴隷商人らしい衣服やなにやらを」
ヴェルヴェットとセ・ネドラは少し離れたところでポルガラの料理道具をひろげていたが、蜂蜜色のドラスニアの娘はサディを見やって言った。「失礼だけど、あなたの計画にはひとつまずいところがありますわよ」
「ほう?」
「わたしたち一行のうち数人はどう見ても女なのに、どうやって奴隷商人のふりができるのかしら?」
「しかし、奴隷商人の一行にはつねに女性はいるのですよ、おじょうさん」石で囲んだ火たき穴のわきに、かかえていたたきぎをおろしながらサディは答えた。「考えれば、理由はおわかりのはずだ」
「わからないわ」セ・ネドラがきっぱり言った。
サディはそれとなく咳きばらいをした。「わたしたちは男と同様、女の奴隷も売買するのです、陛下。女性がつきそっている女奴隷のほうが高い値がつくのです」
セ・ネドラの顔にゆっくりと朱がさした。「いやな話ね」
サディは肩をすくめた。「わたしが世界をつくったわけじゃありませんのでね、陛下。わたしは世界で生きようとしているだけです」
夕食が終わると、サディは土焼きの鉢をとりだして熱湯をはり、短い毛がはえだした頭に泡をぬりたくりはじめた。
「あんたにきこうと思ってたことがあるんだよ、サディ」たきびの向こう側からシルクが言った。「いったいなにをして、サルミスラをおこらせたんだ?」
サディはシルクに用心深い視線を向けた。「女王に仕えるわたしたち宦官は、ひどく堕落しているんですよ、ケルダー。どいつもこいつもならず者のごろつきでね。昔、サルミスラはわたしたちの陰謀やたくらみを許せる範囲内におさえるためにある指針をつくったんです――政府が崩壊しないように。わたしはその範囲をいくつか踏みこえてしまった――じつは、いくつかどころか大部分なんですがね。サリスがそのことをつきとめて、女王に密告したんです」サディはためいきをついた。「サルミスラのキスを受けたときのあいつの反応を見られなくて、かえすがえす残念ですよ」かれは剃刀をとりあげた。
「どうしてニーサ人はみんな髪の毛をそるの?」セ・ネドラが興味ありげにたずねた。
「ニーサにはありとあらゆるいやらしい小さな昆虫がいるのです、女王陛下。頭髪は虫にとって恰好の巣なんですよ」
セ・ネドラはぎょっとしたように、無意識に茜《あかね》色の巻毛に手をやった。
「ご心配にはおよびません」サディはほほえんだ。「たいがいの場合、虫は冬には眠っていますから」
それから数日たった日の正午ごろ、たどっていた道がのぼり坂になり、一行はジャングルを出て丘のふもとへついた。のぼるにつれて、いつも湯気をたてているニーサの湿地帯のじめじめした冷気がやわらぎ、東の国境地帯沿いの落葉樹林にはいると、空気は快適な温かさになった。川は道端の石の上をいきおいよく流れだして、丘の奥へ馬を乗り入れるにつれて、川からたちのぼる霧が晴れてきた。
「源流はもうすぐです」サディが大きなカーヴを曲がりながら、あとにつづくみんなに言った。かつてそこの川には石橋がかかっていたのだが、歳月と威勢のいい流れが橋の基礎を崩して川底へ落としてしまっていた。その崩れ落ちた石の下で緑色の水が泡立ちながらさか巻いていた。崩れた橋の上流には、砂利底の広い浅瀬があって、さざなみをたてながら日差しにきらめいている。源流までは踏みならされた道がつづいていた。
「ヒルはどうなんだ?」シルクが疑いのまなこで水をながめながらたずねた。
「ヒルが棲むには流れが早すぎますよ、ケルダー王子」サディは答えた。「体がやわらかいから、岩にはねかえったらひとたまりもありませんからね」かれは自信たっぷりに、小さく波だっている流れにはいり、一行を先導して向こう岸に渡った。
「わたしの言った村はこのすぐ先です」みんなが岸にあがるとサディは言った。「一時間ほどでわたしたちに必要な物を取ってきます」
「ではわしらはここで待つとしよう」ベルガラスは鞍からとびおりた。「おまえさんは一緒に行くといい、シルク」
「ひとりでだいじょうぶですよ」サディがさからった。
「それはわかっとる。念のためだ」
「ドラスニア人が一緒にいるのを店番にどう説明するんです?」
「嘘をつけばいいさ。だますのはお手のものだろう」
ガリオンは馬をおりて、川土手の斜面をのぼった。かれらはガリオンが世界中でもっとも愛する人々だったが、ときどきかれらの根拠のないひやかしには耐えられなくなるときがある。悪気がないのはわかっていても、なんとなくかれの個人的な悲劇――そしてさらには、セ・ネドラの悲劇にたいするいたわりのなさや、無関心な軽率さの表われのような気がしてしまうのだ。かれは川土手のてっぺんに立って、見るともなしに蛇川の下流のほうを眺め、蛇の民が住むジャングルの濃い緑の屋根を見渡した。ニーサを出たらほっとするだろう。そんな気にさせるのは、足にからみつくぬかるみでも、湿地の悪臭でもなく、空中にたえず漂う雲霞のごとき昆虫でもない。ニーサの本当の問題は、どっちを見ても、二、三フィートしか視界がきかないということなのだ。なぜかガリオンは無性にさえぎるもののない広大な距離を見たいと思った。ニーサにきてから、視界をはばみつづける密生した木々や灌木が、しだいにかれをいらだたせていた。ジャングルを吹っとばして、長い広々とした通りを出現させたいという思いを歯をくいしばって我慢したことが何度あったかわからない。
サディと一緒にもどってきたとき、チビのドラスニア人の顔は怒っていた。
「あれは単なる扮装用ですよ、ケルダー王子」サディがおだやかに抗議している。「いずれにせよ、わたしたちはじっさいに奴隷を連れているわけじゃない、したがって、現実にあれを着る者はいやしないんです、そうでしょう?」
「おれが頭にくるのは、ああいう思いつきなんだよ」
「なにごとだ?」ベルガラスがたずねた。
サディは肩をすくめた。「足かせと奴隷用の鈴を買ったんですが、ケルダーはそれが気にいらないのです」
「鞭も気にいらないね」シルクがつけくわえた。
「それは説明したじゃありませんか、ケルダー」
「わかってる。それでもいやなんだ」
「そりゃそうでしょう。ニーサ人はいやな人間ですからね。それぐらいわかっていると思っていましたよ」
「比較倫理学ならあとで整頓すればよかろう。さあ、前進だ」ベルガラスは言った。
川から先の道は急勾配ののぼりになり、かれらを丘の裾野の奥へ奥へとつれていった。落葉樹林がいじけた常緑樹林と丈の低いピースに変わった。深い緑の木々のあいだに丸くて白い大きな石がばらまかれたようにちらばり、頭上の空は真っ青だった。その夜、かれらはねじれた低い杜松の木立で野営し、白い表面が光と熱の両方を反射してくれるようにと、大きな丸石の前で火をたいた。頭上にそびえる険しい峰が、星をちりばめた東の空にぎざぎざの稜線を浮かびあがらせている。
「あの峰を越えれば、クトル・マーゴスです」夕食後、火を囲みながらサディがみんなに言った。「国境はマーゴ人の監視の目が光っていますから、そろそろ変装しはじめたほうがいいでしょう」源流付近の村から持ってきた大きな包みをあけると、かれは暗緑色の絹の服をいっぱい取り出した。サディはセ・ネドラとトスを思案げに見つめて、つぶやいた。「ここがいささか困ったところだ。サイズにかぎりがあったんですよ」
「わたしが直すわ、サディ」ポルガラが丸めた服を受け取り、荷物のひとつをあけて裁縫道具を捜しはじめた。
ベルガラスはさきほどから大きな地図をにらんでいた。「さっきから気になっていることがあるのだ」かれはサディのほうを向いた。「サンドラマスが西海岸にあるこれらの港のひとつから船を出して、大陸の南端をまわり、ヴァーカトへ行った可能性はないのか?」
サディはかぶりをふった。剃りあげた頭がオレンジ色の火明かりのなかでてらてらと光った。「不可能ですよ、長老。何年か前に、マロリーの艦隊がマーゴ人の背後にこっそり忍び寄ったことがあって、ウルギット王はいまだにその悪夢にうなされているんです。かれは西海岸のすべての港を封鎖して、ウルガ半島の突端へいたる海域をことごとく艦隊に巡回させています。ウルギット王の特別な許可なくしては、だれもあの海岸を航行することはできません」
「ヴァーカトまではどのくらいあるんだね?」ダーニクがたずねた。
サディは目をすがめて星を見つめた。「一年のこの時期だと、三、四ヵ月というところでしょうな、善人」
ポルガラは火明かりの中でさっきから鼻歌まじりに針を動かしていた。「きてごらんなさい、セ・ネドラ」
小さな女王は立ち上がって、ポルガラのすわっているところへ行った。ポルガラは緑の絹の服をもちあげて、セ・ネドラの華奢な体にあてると、満足そうにうなずいた。
セ・ネドラは鼻にしわをよせた。「こんないやな臭いがしなきゃならないの?」と、サディにきいた。
「しなきゃならないということはないでしょうが、なぜか、いつもそういう臭いがするんですよ。奴隷にはある臭いがあるんですが、いずれこすれて取れるでしょう」
ポルおばさんは別の奴隷商人の服を両手につかんで、トスを見ていた。「このほうがちょっとはやりがいのある仕事になりそうよ」彼女はつぶやいた。
大男はつかのまはにかんだ微笑を浮かべると、立ち上がってさらにたきぎをくべた。かれが棒きれで燃えさしをつつくと、夜空に低く輝く星たちを歓迎するように赤い火花の柱がたちのぼった。山の尾根のどこからか、その火花に応じるように、低い咳きこんだ咆哮が聞こえた。
「あれはなに?」セ・ネドラが叫んだ。
「ライオンです」サディはなにくわぬ顔で答えた。「ときどき奴隷売買の道ぞいに獲物をさがしにくるんです――ともかく年老いた、足の悪いライオンたちはね」
「どうしてそんなことをするの?」
「奴隷たちが重病でこれ以上歩けないようなとき、おきざりにされることがあるんですよ。いっぽう、年をとったライオンはすばしこい獲物を追いかけることができないので、つまり……」かれは言葉をにごした。
セ・ネドラは恐怖のあまり、サディをまじまじと見た。
「なんといっても、おたずねになったのは女王陛下のほうですからね」サディは念のために言った。「じっさい、わたしだってあまりいい気はしませんよ。わたしが奴隷売買を政治に持ち込んだのも、それが理由のひとつなんです」かれは立ち上がると、服の背中をはたいた。「では、失礼してよろしければ、ジスに餌《えさ》をやりにいかねばなりませんので。今夜お休みになるときは、みなさん注意なさってください。蛇というやつは餌を食べたあと、こっそり散歩にでかけることがあるんです。わたしから隠れるのがおもしろいんでしょうな。どこから現われるか、見当もつきませんよ」サディは金色の火明かりの輪から出て、自分の毛布が広げてあるところへ歩いていった。
シルクはじっとそのうしろ姿を見送っていたが、やがてくるりとたきびにむきなおってきっぱり言った。「みんなはどうだか知らないが、おれは今夜はここに寝る」
翌朝朝食をすませたあと、かれらはいやな臭いのするニーサの奴隷商人の服を着た。ベルガラスの指示で、ガリオンはふたたび〈鉄拳〉の剣の柄《つか》をおおった。「クトル・マーゴスにいるあいだは〈珠〉を厳重に隠しておいたほうがいいだろう」老人は言った。「アンガラク人がうろうろしていると、〈珠〉は興奮するきらいがあるからな」
かれは馬に乗るとぎざぎざの峰の頂上めざして大昔の街道をたどって峡谷をのぼりはじめた。ある曲がり目をまわったとき、ポルガラがいきなりハッと息をのんで馬の手綱をひいた。
「どうしたんだ。ポル?」ダーニクがたずねた。
彼女はすぐには答えなかったが、顔が青ざめていた。目が怒りに燃え上がったかと思うと、額のはえぎわの白いひと一房の髪が突然真っ赤になった。「ひとでなし!」
「どうしたんだ、ポルおばさん?」ガリオンはきいた。
「あそこを見なさい」ポルガラはふるえる片手で指さした。道から数ヤードひっこんだ岩だらけの地面に、白い骨がちらばっていた。そのなかに、眼窩もうつろな人間の頭蓋骨がころがっている。
「昨夜サディが言っていた奴隷のかな?」シルクが言った。
ポルガラは首をふった。「サリスとナラダスが結んだ協定に、数人をザンドラマスに同行させてマーゴの国境まで送り届けるというのがあったでしょう。ここまできたとき、ザンドラマスはかれらがもう不要になったのよ」
シルクの顔がけわしくなった。「ザンドラマスらしいな。用無しになると、必ず殺しちまう」
「ただ殺したんじゃないわ」ポルガラが嫌悪の色をうかべて言った。「かれらの脚を折ってライオンに食われるよう置き去りにしたのよ。かれらは一日中なすすべもなく夜を迎え、そこへライオンがやってきたんだわ」
セ・ネドラの顔から血の気がひいた。「なんてむごいことを!」
「本当にそうなのか、ポル?」そうたずねたダーニクの顔も心なしか青ざめている。
「よほどおそろしかったんでしょう、岩にかれらのもがいた跡が残っているわ」
ベルガラスはかじられた骨を厳しい顔で見つめていた。「ザンドラマスがこういうことをしたのは、これがはじめてではない。痕跡を隠す目的でただ人々を殺すだけでは物足らんのだ。むごたらしいことをせずにいられない性分らしい」
「化物だわ」セ・ネドラが言い放った。「恐怖を与えることに満足を見いだしているのよ」
「それだけではない」ベルガラスが答えた。「ザンドラマスはわれわれにメッセージを残そうとしているようだ」かれは散在する骨のほうへぐいと頭を倒した。「実際はあそこまでする必要はなかったはずだ。われわれをこわがらせて退散させようとしているのだろう」
「そうはいかない」ガリオンがばかに静かに言った。「いくらこんなことをしても、最後の報いが大きくなるばかりさ。そのときがきたら、ザンドラマスめ、受ける罰の大きさを思い知るだろう」
一行がたどっていた大昔の道は峰の頂上で唐突に終わって、くっきりとした目にもあきらかな線をしるしていた。そこから先はクトル・マーゴスだ。峰の頂上からかれらは、焼けつくような太陽の下でゆらめいているどこまでもつづく黒い砕けた岩の広がりと、幅数マイルにおよぶ焦げ茶色の砂利の地層を見渡した。
「ザンドラマスはここからどっちへ行ったんだろう?」ダーニクがガリオンにたずねた。
「南だ」〈珠〉が新たな方角へひっぱるのを感じながら、ガリオンは答えた。
「あそこをまっすぐ横切れば、時間を節約できるんじゃないかな?」
「それは論外ですぞ、善人ダーニク」サディが断言した。「あれは〈アラガの大砂漠〉です。アルガリアほどもある。あそこでは水といったら、ダガシ族の井戸があるだけですよ。ダガシの井戸で水をくんでいるところを見つかりたくはないでしょう」
「ダガシ族はあそこに住んでいるのかね?」ダーニクは片手でひさしをつくって、かまどのような不毛地帯をながめた。
「そんなことができるのはダガシ族だけですよ」サディは答えた。「かれらがこうも恐れられている理由もそれで説明がつくでしょう。わたしたちはこの稜線を百リーグほど南へたどって、あの砂漠を迂回するしかありません。それから南東へ直進してモークトを横切り、ゴラトの〈南の大森林〉にはいるんです」
ベルガラスがうなずいた。「それでは出発しよう」
かれらは南へ向かった。アラガ砂漠の西の端にそって進み、砂漠にむかって急角度で落ち込んでいる丘の内側をたえず歩くようにした。馬を進ませているうちに、ガリオンは峰のこちら側の木々が、未発達で、まばらなことに気づいた。岩だらけの地面には草一本生えておらず、ヒースもいつしかみすぼらしいイバラの灌木に変わっている。きりたった稜線がふたつのまったく異なる天候をへだてる境界線のようだった。西側では心地よく暖かかったのに、この東側では息苦しいほどの暑さになっている。川はほとんどなく、見つかったわずかな泉は小さく、しぶしぶとその水をしみださせて、赤錆色の丸石のあいだになまぬるい小さな水たまりをこしらえていた。
クトル・マーゴスにはいってから三日目の朝、トスが毛布を片方の肩にひもでくくりつけ、杖をとりあげて、かれらが一夜を過ごした峡谷の入口まで歩いていくと、下方の岩だらけの砂漠を見おろした。まだ太陽はのぼっておらず、夜明けの空から落ちてくる鋼色の弱い光が、日差しにしおれた不毛地帯のきりたった岩のひとつひとつを細部にいたるまでくっきりと浮かびあがらせていた。少したって、大男は戻ってくるとダーニクの肩に手をおいた。
「なんだい、トス?」鍛冶屋はたずねた。
大男は峡谷の入口を指さした。
「わかったよ」火をたきつけていたダーニクは立ち上がった。ふたりはたよりない光の中を峡谷まで歩いていき、たちどまってあたりを眺めた。しばらくして、ダーニクは肩ごしに大声で叫んだ。「ベルガラス、こっちへきてこれを見たほうがよさそうですよ」
老魔術師はかかとのすりへった左右ちぐはぐのブーツをはきおわると、緑の絹の服をくるぶしのあたりにまつわりつかせてふたりのほうへやってきた。ちょっとのあいだじっと目をこらしていたが、やがて悪態をつき、「まずいことになったぞ」と振り向きもしないで大声で言った。
あとのみんなが峡谷の入口につくやいなや、なにがまずいのかただちにあきらかになった。砂漠の前方で、静止した朝の大気中に巨大な土ぼこりがたちのぼっている。
「何人いたら、あれだけの土ぼこりが舞い上がると思う?」ガリオンは静かにたずねた。
「最低数百人だな」シルクが言った。
「マーゴ人だろうか?」
「マーゴ人が習慣を変えたのでないかぎり、ちがうでしょうね」ヴェルヴェットがつぶやいた。「あの連中は赤い服をきています」
土ぼこりに目をこらしたシルクがしばらくして、やっと言った。「きみは目がいいんだな」
「若さの特権のひとつよ」彼女はやんわりと答えた。
シルクはいらだたしげにすばやく彼女を見た。
「ここはマーゴのなわばりだと思っていたが」ダーニクがいぶかしげに言った。
「そうです」サディが口をはさんだ。「しかし、マロリー人はひっきりなしにパトロール隊を送り込んでいるんです。ザカーズがもう何年も前からウルギットの寝首をかく方法を模索中なんでね」
「あんな砂漠でどうやって水を見つけたんだろう?」
「きっと携帯しているんですよ」
トスが峡谷の南側に向きをかえ、ほこりっぽい茶色の砂利をけちらしてけわしいごつごつした土手をよじのぼった。
「連中を追い越せると思いますか?」シルクがベルガラスにたずねた。
「それはあまりいい考えではないだろう。あの連中が遠ざかるまでここにいたほうがいい」
たったいまよじのぼった土手の上から、トスが低い口笛をふいた。
「なんだか見てきてくれ、ダーニク」ベルガラスが言った。
鍛冶屋はうなずいて、急斜面をのぼりだした。
「ここにいるわたしたちを見つけるかしら?」セ・ネドラが緊張ぎみにたずねた。
「そういうことはないでしょう、女王陛下」サディが答えた。「この山にある峡谷や小谷をしらみつぶしにするとは思えません」
ベルガラスは日をすがめてもうもうたる砂ぼこりをながめた。「南西へ向かっているな。一日ほどじっとしていれば、だいぶ遠くへ行くだろう」
「時間をむだにしたくない」ガリオンはやきもきした。
「わしもだ。しかしこのさい仕方あるまい」
ダーニクが砂利と一緒に峡谷の土手からすべりおりてきた。「前方から別の一団がやってきます」かれは感情をまじえずに報告した。「マーゴ人のようですよ」
ベルガラスは耳をふさぎたくなるような悪態をついた。「こぜりあいのサンドイッチになっちゃたまらん。そこへのぼって目を光らせておいてくれ」老人はシルクに言った。「びっくりさせられるのはこれでおしまいにしてもらいたいもんだ」
シルクは峡谷のけわしい土手をのぼりはじめた。衝動的にガリオンはそのあとを追った。てっぺんにつくと、ふたりはもつれあったイバラのしげみのかげに隠れた。
砂漠の東からすべるように空にのぼったぎらぎらした丸い太陽が、前進するマロリー軍の縦隊がまきあげるもうもうたる砂ぼこりにおおわれて、不吉な赤に変わった。マロリーの騎兵隊も、身を潜めているマーゴの兵も、はるか下方にいるために、ミニチュアの風景に置かれたオモチャのようにちっぽけに見える。
「こうして見たかぎりでは、両軍ほぼ互角だな」シルクがふたつの部隊を見おろしながら言った。
ガリオンは考えた。「でも、マーゴ軍のほうに分がありそうだよ。マロリー軍より高い場所にいるし、不意討ちの利がある」
シルクはにやりとした。「ずいぶん戦略家になってきたじゃないか」
ガリオンはそれをうけながした。
「サディの言ったとおりだ」シルクは言った。「マロリー軍は水を携帯してる」指さすほうを見ると、砂漠をよこぎって前進する縦隊のしんがりを、大きな樽をつんだぶかっこうな荷馬車が二十数台動いている。
マロリー軍は丘のふもとへ広がって連なる浅い峡谷の最初のひとつにたどりついて、いったん停止した。斥候たちが岩だらけの地形をさぐろうと、扇形にちらばった。ほどなく、急を告げる叫びがあがった。マーゴ兵の少なくとも数人が見つかったのだ。
「どういうことなんだろう」ガリオンは言った。「マーゴ兵ときたら身を隠そうともしなかった」
「マーゴ人は知性ゆえに名高いわけじゃないからな」シルクが答えた。赤い服のマロリー軍が一挙に突撃すると、身をひそめていたマーゴ兵が隠れ場から立ち上がり敵に矢の雨をふらせはじめたが、それもつかのま、すぐに背中を見せて逃げだした。
「どうして退却するんだ?」ガリオンはうんざりした。「不意討ちをしかけておいて、逃げ出すなんてどういうことだ?」
シルクが同意を示した。「こんなバカがいるはずないな。きっと何か腹づもりがあるんだろう」
退却するマーゴ軍はそれでも矢を射つづけた。やみくもに丘のふもとへ突進するマロリー兵がつぎつぎに矢をうけて、丘にいたる峡谷は赤い服の死体だらけになった。はるか眼下に見えるそうした兵たちのオモチャのような存在感が、ふたたび鮮明になった。近くだったら、広大な砂漠の端でくりひろげられる殺戮にガリオンは気分が悪くなっていただろう。だが、土手の上にいたので、平静な好奇心をもってながめることができた。
やがて、おびただしい数のマロリー兵が峡谷や小谷にちらばったとき、斧をふりまわしたマーゴの騎兵隊が砂漠に突き出た長い岩だけの峰の先から出現した。
「これだったのか」ガリオンは言った。「マロリー軍を誘いこんでおいて、背後から攻撃するつもりだったんだ」
「それはどうかな」シルクが異議をとなえた。「どうやら連中のねらいは荷馬車らしいぜ」
疾走するマーゴの騎兵隊は猛スピードで警護の薄いマロリー軍の食料縦隊に接近すると、斧をふりあげて水の樽をたたきわった。一撃ごとに、きらめく水がふきだして砂漠の乾ききった大地にすいこまれていった。砂ぼこりにかすんでいた太陽が顔をのぞかせ、ふきだす水を赤く染めた。戦いの場からはるか上の土手にいるガリオンには、裂けた樽からほとばしるその液体が水ではなくて血のように見えた。
いまいましげな叫びとともに、マロリー軍の動きが鈍った。と、眼下に見える赤い服の兵が数人、くるりと向きを変えて、貴重な水を守ろうと死にもの狂いで砂漠のほうへかけだした。だが、ときすでに遅し。マーゴの騎兵隊は残忍なくらい手際よく、早くもすべての樽を打ち壊して、勝ち誇った叫びをあげて引きかえしてくるところだった。
退却したと見せかけてマロリー軍に手痛い攻撃を加えていたマーゴ軍は、かけもどってふたたびもとの位置についた。そしていまや士気をくじかれたマロリー軍の頭上に、朝の空に弧を描いて飛ぶ無数の矢がふりそそいだ。その死の雨のまっただなかで、くだけた樽の底に残ったわずかな水を守ろうとマロリー軍は決死の努力をしたが、まもなく矢の嵐にそれもついえた。赤い服の兵たちは水をあきらめ、荷馬車をおきざりにして、待ち受ける砂漠へかけこんでいった。
「戦うにはむごいやりかただな」シルクが言った。
「やりすぎだよ」黒い服のマーゴ兵たちが負傷者にとどめをさそうと峡谷へはいっていくのを見ながらガリオンは言った。
「まったく」シルクの声はいまにも吐きそうだった。「戦いは完了だ。死はまだこれからだがね」
「残っている兵はうまく砂漠を横断できるかもしれないよ」
「まずむりだな」
「よし、そこまでだ」近くの露頭した岩かげから、黒装束のやせた男があらわれた。つがえた弓をかまえている。「見物は終わりだ、さあ、おまえたちの仲間がいる野営地へ行こうじゃないか?」
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10[#「10」は縦中横]
シルクは両手を見える位置において、ゆっくりと立ち上がった。「足音ひとつ立てなかったな、おい」
「そういうふうに訓練されているのさ」弓を持った男は答えた。「歩け。仲間がお待ちかねだ」
シルクはすばやくガリオンに目くばせした。(状況が把握できるまで言うとおりにしよう)かれの指が忠告した。(こいつはきっとひとりじゃないぞ)
かれらは回れ右をして峡谷の底まで土手をすべりおりた。男は弓をつがえたまま、油断なくかれらのあとにつづいた。昨夜テントを張った小谷の南端で、弓で武装した黒装束の一団がベルガラスたちを見張っていた。どの男も頬に傷があり、マーゴ人特有の角ばった目をしているが、どことなくマーゴらしくないところがあった。これまでガリオンが見たマーゴ人は肩がいかつく、傲慢な態度が特徴的だった。ところがここにいる男たちはやせぎすで、用心深いと同時に妙にゆったりした物腰をしている。
「ほらね、高潔なるタジャクさん」サディがリーダーとおぼしきやせた顔の男に向かって、こびるように言った。「わたしの言ったとおりでしょう。ほかの従者はこのふたりだけですよ」
「人数はわかってるんだ、奴隷商人」耳ざわりなアクセントでやせた顔の男は答えた。「おまえたちがクトル・マーゴスにはいったときからずっと見張っていたんだからな」
「そりゃまあ、わたしどもも隠れようとしたわけじゃありませんからね」サディはおだやかに抗議した。「ここに身をひそめていたのは、砂漠の端で起きたあの争いに巻き込まれたくなかったからですよ」かれはいったん言葉をきった。「しかし、高潔なダガシ族がどうしてニーサの奴隷商人の行動に口だしなんぞする気になったのか、そこのところがわかりませんな。わたしどもがこっちへきたのは、なにも今度がはじめてじゃないんですよ」
タジャクはそれを無視して、硬い岩石のように黒い目でガリオンとその仲間を凝視した。「おまえの名前は、奴隷商人?」ややあって、かれはサディにたずねた。
「スシス・トールのウッサでございます、ちゃんと登録してある奴隷商人ですよ。ごらんになりたいなら、しかるべき書類も全部そろっています」
「従者にニーサ人がひとりもいないのはどういうわけだ?」
サディは罪のない顔で両手を広げた。「ここ南部で戦争が絶えないせいで、たいがいのニーサ人はクトル・マーゴスへ行くのを渋っているんですよ。ですから、外国人を雇うしかないんです」
「そうかもしれん」ダガシ人は感情のこもらない平板な声で言うと、サディに射ぬくような一瞥を与えた。「おまえは金に興味があるだろうな、スシス・トールのウッサ?」いきなりたずねた。
サディの死んだような目が輝き、かれはいそいそと両手をこすりあわせた。「ええと、それでは、そのことについて話しあいませんか? どうお役にたてばよいのでしょうか? いくら払っていただけるんです?」
「それはおれの頭《かしら》と話しあう必要がある」タジャクは答えた。「おれの受けた命令は、奴隷商人の一行を見つけ、あるささいな奉仕にたんまり金をはずむ人間のところへ連れていくということだ。そういう申し出に興味があるか?」
サディはためらった。なんらかの指示を求めて、かれはベルガラスのほうへこっそり視線をすべらせた。
「どうなんだ?」タジャクがいらいらと言った。「興味あるか?」
「もちろんです」サディは慎重に答えた。「頭《かしら》とはどなたなんです、タジャクさん? わたしを金持ちにしてくださるというそのお方は?」
「おまえが会ったら、名前と、しなければならないことは、頭《かしら》の口から教えてもらえ――カーシャでな」
「カーシャ?」サディは叫んだ。「そこへ行かねばならないとはひとことも言わなかったじゃないですか」
「おれの言わなかったことはほかにもいっぱいある。どうだ? おれたちと一緒にカーシャへ行くのか?」
「選択権はあるんですか?」
「ない」
サディは力なく両手を広げた。
(カーシャってなんだい?)ガリオンの指がシルクにたずねた。
(ダガシ族の本拠地だ。悪評高い場所さ)
「よし」タジャクはきっぱり言った。「ここにあるテントをたたんで、出発の準備をしよう。カーシャまでは何時間もかかるし、午後は砂漠にいるのにふさわしい時間じゃない」
タジャク率いるダガシ族に用心深く取り囲まれて、一行が峡谷の入口から馬に乗って出てきたときには、日はすでに高くのぼっていた。砂漠では、戦いに敗れたマロリー兵が絶望的な退却を開始していた。
「連中はあなたがたの井戸を使おうとしませんかね、タジャクさん?」サディがたずねた。
「おそらくな――だが、見つかりっこない。おれたちは岩をつみあげて井戸を隠している。砂漠では岩山はどれもみんな同じに見える」
丘のふもとの作戦基地では、マーゴの部隊がとぼとぼとひきかえしていくマロリー兵を見守っていた。タジャクはマーゴの部隊に近づくと、すばやく傲慢な身振りをした。するとかれらは不承不承道をあけた。
砂漠へ通じる狭い小谷を進みながら、ガリオンはチャンスを見計らってベルガラスの馬に並んだ。「おじいさん」かれはせきこんでささやいた。「どうしたらいいんだろう?」
「これがどういうことなのかようすを見るのだ」老人は答えた。「変装を見破られるようなことをするな――とにかくいまはな」
かまどのような砂漠へはいったとき、サディが丘陵のふもとに並んで見えなくなろうとしているマーゴの兵隊たちをふりかえって、タジャクに言った。「あなたの同胞はじつに融通がききますね。それにしてもわたしどもに停止を命じて質問もしなかったのにはびっくりしましたよ」
「かれらはおれたちがだれか知っている」タジャクはそっけなかった。「干渉しないほうが身のためだということも知っているんだ」早くも汗をかいている宦官をタジャクは見た。「もうだまっていたほうがいいぞ、ウッサ。この砂漠では、太陽が人間の体からみるみる水分を吸い上げるんだ。太陽が最初に襲うのがあいた口なのさ。ここでしゃべることは死につながる」
サディはぎょっとしたようにタジャクを見ると、しっかり口を閉じあわせた。
信じられない暑さだった。砂漠の地面は大部分が赤らんだ茶色の砂利の広大で平らな広がりだった。ときどきそこに黒い岩の山や、広々したきらめく白砂が出現する。火ぶくれのできた砂利から熱波がたちのぼると、世界がゆらゆらとうねって見えた。太陽はガリオンの頭と首をなぐりつける棍棒だった。滝のような汗をかいても、たちまち蒸発するので、服はいつまでたってもかさかさに乾いている。
そのかまどの中を一時間も進んだとき、タジャクが止まれの合図をした。すばやい身振りで、かれは五人の部下を北東の方角に見える低い岩棚へ向かわせた。しばらくたって、かれらはヤギの皮でできた袋になまぬるい水をいれて戻ってきた。
「馬が先だ」タジャクはひとこと言った。それから岩棚のふもとへ大股に歩みより、かがみこんで、白砂らしきものを片手にすくいあげた。ひきかえしてくると、「右手を出せ」と言ってスプーン一杯ほどの量をみんなのてのひらにこぼした。「食べろ」タジャクは命令した。
サディはおそるおそるてのひらの白い物をなめると、すぐに吐き出した。「ゲェッ!」悪態をついた。「塩だ!」
「全部食べろ」タジャクが言った。「食べないと、死ぬぞ」
サディはまじまじとタジャクを見つめた。
「太陽が体内の塩分を吸い取っている。血液中に塩分がなくなると、死ぬ」
かれらはしぶしぶ塩を食べた。食べ終わると、ダガシ人はひとりに少しずつ水を飲ませた。それがすむと、かれらはふたたび馬にまたがり、炎熱地獄を進みつづけた。
セ・ネドラが鞍にすわったまましおれた花のようにうなだれはじめた。暑さにおしつぶされたようだった。ガリオンは手綱をひいて、妻の横に並んだ。「だいじょうぶかい?」ひびわれたくちびるのあいだから声をおしだした。
「しゃべるな!」ひとりのダガシが叱りつけた。
小さな女王は顔をあげて、ガリオンに弱々しくほほえみかけた。かれらは進みつづけた。
そのおそるべき場所では、時はいっさいの意味を失っていた。ものを考えることさえ不可能になった。ガリオンはハンマーのような太陽の殴打に頭をたれて、黙々と馬に乗っていた。数時間――それとも数年――もたったころ、かれは頭を起こして周囲のまぶしい光に目をすがめた。あんぐりと口をあけて目をこらしたあげく、自分の見ているものはまったくありえないことだという認識がゆっくり頭にしみこんできた。前方の空中にぬっと現われたのは、宙に浮かぶ広大な黒い島だった。それはあらゆる常識を無視して、太陽に痛めつけられたゆらめく砂利の上方に浮かんでいた。あんな離れ業ができるなんて、どういう魔術なんだろう? あれだけの威力を持てる人間がいるんだろうか?
だが、それは魔術ではなかった。近づくにつれて、うねりたっていた熱波がうすれはじめ、蜃気楼をおい散らして、事実をあきらかにした。かれらが近づいていたのは、宙に浮かぶ島ではなく、砂漠の地面からそそりたつひとつの岩山だった。その回りを囲むのは、固い岩から切り出されて、螺旋状に山にまきついている細い道だった。
「カーシャだ」タジャクが短く言った。「馬をおりて、各自馬をひいていけ」
その道はおそろしくけわしかった。山を二周もすると、砂漠のゆらめく砂利の地面がはるか下方に遠ざかった。かれらは焼けつくように熱い山をぐるぐるまわりながらどんどん上へのぼっていった。やがて道は、山にあいた大きな四角い入口にはいった。
「またほら穴か?」シルクがにがにがしげにささやいた。「どうしていつもほら穴なんだ?」
だがガリオンは喜んだ。耐えがたい日差しから逃れるためなら、墓にだって喜んではいっただろう。
「馬を受け取るんだ」タジャクは部下の数人に指示した。「すぐに面倒をみろよ。あとのおまえたちはおれと一緒にこい」かれは先にたって、岩山それ自体から切り出してつくった長い廊下に足をふみいれた。ガリオンは目がくらがりに慣れるまで、手さぐりで進んだ。ひんやりとしているわけではなかったが、廊下の空気は外にくらべれば格段に涼しかった。ガリオンは大きく息をすって、背筋をのばし、あたりを見回した。固い岩をけずってこの長い廊下をつくるのが、どんなにむごい肉体労働だったかは、ひとめ見ればあきらかだった。
サディも同じことに気づいたらしく、横を歩いている陰気な顔の男を見やった。
「ダガシ族が石工の専門家だったとは知りませんでした」
「おれたちじゃない。廊下をつくったのは奴隷たちだ」
「ダガシ族に奴隷を使う習慣があったとは初耳ですな」
「ないさ。要塞がいったん完成したら、奴隷は追放した」
「あそこへですか?」サディがおそるおそる言った。
「大部分は山からとびおりるほうを好んだ」
廊下が急に終わって、ガリオンがウルゴ人の国で見たのと同じくらい広々としたほら穴にはいった。だが、ここでは壁の細い高窓から日差しがさしこんでいる。上を見たかれはこれが天然の洞窟ではないのに気づいた。石板の屋根を持ち、無数の丸天井と胸壁によって支えられたとてつもなく大きな穴なのだ。床には石造りの低い家々が建ち並んで町を形成し、その町の中央に荒々しい角ばった要塞がそびえている。
「ジャハーブの家だ」案内役がひとこと言った。「お待ちかねだ。いそがなくてはならない」
シルクが鋭い音をたてて息をのんだ。
「どうしたんだ?」ガリオンはささやいた。
「じゅうぶん注意しなくちゃならないことになりそうだ。ジャハーブはダガシ族の長老で、悪評高い人物なんだ」
ダガシ族の町の家はどれも平らな屋根と細い窓をもっていた。気がつくと、西の都市につきものの喧噪がまったくない。黒装束のダガシ族はにこりともせずにだまって仕事をしている。ガリオンが見たかぎり、その奇妙な薄暗い町を動き回っている者はみんな身辺に一種のからっぽな空間をただよわせているようだった。そしてその輪のなかへは、同じ町の人間も侵入できないらしい。
ジャハーブの要塞は巨大な玄武岩でできた堅牢な建物だった。頑丈な正面の扉をかためている警護兵たちも、過剰なほどの武器をたずさえている。タジャクが短く話しかけると、扉が大きく開いた。
タジャクがかれらを通した部屋は大きく、天井からさがった鎖の先で揺れている高価なオイル・ランプに照らされていた。家具といえば、床にちらばった黄色いクッションの山と、うしろの壁ぎわにある鋳鉄製の櫃だけ。そのクッションの山の中央に、信じがたいほどしわくちゃの黒い顔をした白髪頭の老人がすわっていた。かれらがはいっていったとき、黄色い服の老人は葡萄を一粒ずつ慎重によりわけてつまらなそうにもちあげては、口にほうりこんでいるところだった。
「ニーサの奴隷商人たちでございます、尊師」タジャクが深い尊敬をにじませて告げた。
ジャハーブは葡萄の鉢をどけて身をのりだし、膝に肘をついて、すすけた、射ぬくような目でじっとかれらを見つめた。そのまばたきひとつしない凝視には、血を凍りつかせるようななにかがあった。「おまえはなんと呼ばれている?」ようやくジャハーブはサディにたずねた。声は目と同様に冷たく、ひどく物静かで、ぱさぱさしていた。
「ウッサでございます、尊師」サディは腰をかがめて答えた。
「それで? マーゴスにはどういう用だ?」歌でもうたっているかのように、老人はゆっくりと言葉をひきだした。
「奴隷の売買でして、尊師」サディはいそいで答えた。
「売るほうか、買うほうか?」
「どちらも少々。現在の混乱でいくらかチャンスがありそうですので」
「たしかにな。すると、もうけることが目的だな?」
「納得できるもうけをしたいだけでございます、ジャハーブ尊師」
表情は変わらなかったが、老人の目は、にわかに汗をかきだした宦官の顔を穴のあくほど見つめた。「具合いが悪いようだな、ウッサ」ぱさついた声がやわらかくなった。「どうした?」
「暑さのせいでございます、ジャハーブ尊師」サディは神経質に言った。「この砂漠はたいそう熱いですから」
「だろうな」すすけた目は凝視しつづけた。「マロリー人に支配された士地へはいるのが目的か?」
「はあ、まあ。じつはおっしゃるとおりです。おおぜいの奴隷がマロリー軍の侵入にともなう混乱に乗じてゴラトの森に身をひそめていると聞きました。そういう奴隷はただで手にはいりますし、ハッガやクタンの田畑や葡萄園は奴隷不足で荒れ放題になっています。そういう状態ならひともうけできます」
「逃げた奴隷たちを追いかける時間はあまりないぞ、ウッサ。おまえはいまから二ヵ月以内にラク・ハッガにいなければならん」
「ですが――」
ジャハーブは片手をあげて制した。「おまえはこの場所からラク・ウルガへ向かうのだ。そこへ行くことになっているのだ。そこで新しい従者がひとり加わる。男の名はカバチだ。カバチはラク・ウルガにいるグロリムの高僧、アガチャクの保護下にあるトラク神殿にいるはずだ。アガチャクとウルギット王はおまえとおまえの従者たちを船に乗せて、ウルガ半島の南端をまわり、ラク・クタカへ連れていくだろう。そこからおまえは直接ラク・ハッガへ上陸するのだ。わしの言ったことがすべてわかったか?」
「たしかに、ジャハーブ尊師――で、わたしにラク・ハッガでなにをしろと?」
「ラク・ハッガへついたら、カバチは立ち去り、それをもっておまえの務めは完了する。わたしにたいするおまえの奉仕は、カバチをおまえの一行にまぎれこませてラク・ハッガへ連れていくことなのだ――楽な仕事だが、報酬はたっぷりはずむ」
「たしかに船で行けば、馬にゆられて何ヵ月も困難な旅をしなくてもすみます、尊師、しかし、ラク・ハッガの市で売る奴隷がひとりもいないのでは、マロリー人にどう説明すればよいのです?」
「クタカかゴラトで奴隷を買えばよい。そうすればマロリー人に質問されることもなかろう」
「お許しください、尊師」サディはいささかどぎまぎしたように咳きばらいした。「ですが、ふところ具合いがさびしくなっているのです。逃亡した奴隷をつかまえようという計画も、じつはそのためでして。追いつめる努力さえすれば、ビタ一文かかりませんからね」
ジャハーブは答えなかった。さぐるような目はあいかわらず無表情で、なんの感情もこもっていない。かれはその目をタジャクに向けた。「突き当たりのあの櫃をあけろ」
タジャクはすばやく命令に従った。かれが櫃のふたを持ち上げたとき、ガリオンはセ・ネドラがおもわず喘ぎをもらすのを聞いた。櫃のなかには、目もさめるような金貨がふちまでぎっしりはいっていた。
「必要なだけとるがよい、ウッサ」ジャハーブは無関心に言った。次の瞬間、けぶるような目につかのまかすかにおもしろがっているような表情が浮かんだ。「だが、両手でつかめる分までだ」
サディは金貨でいっぱいの櫃に喉が鳴るような音をもらした。目つきが貪欲になり、顔とつるつるの頭に汗がふきだした。かれは金貨を見つめてから、どちらかというと華著なおのが両手を見おろした。ふいに、その顔にまぎれもない狡猾さが浮かんだ。「金は重うございます、ジャハーブ尊師さま。それにわたしの手は最近かかりました病いのために、すっかり弱くなってしまいました。従者のひとりにあなたさまの寛大な報酬を集めさせてもよろしいでしょうか?」
「もっともな要求だ、ウッサ」ジャハーブの目はいまやおおっぴらにおもしろがっていた。「だが、よいか、従者の両手につかめる分だけだぞ」
「もちろんでございます」サディは言った。「不当な報酬をいただくつもりはありません」かれはふりかえって、トスに言った。「そこのおまえ、あの櫃のところへ行って金貨をふたつかみしてこい――それ以上はいかん」
トスは表情ひとつ変えずに櫃に歩みより、バケツ半分はあろうかという輝く金貨をそのばかでかい両手にすくいあげた。
ジャハーブは冷汗をかいている宦官を無表情に長いこと見つめていた。やがてだしぬけに頭をのけぞらせて、かれはぱさぱさした笑い声をあげた。「みごとだ、ウッサ」歌うように言った。「おまえは機転がきく。わしに仕える者はそうでなくてはならん。ことによるとおまえは、巧妙きわまりない手段で手にいれたその金貨の一部を使うまで生きていられるかもしれん」
サディは間髪をいれずに答えた。「わたしをお選びになったあなたさまの目に狂いがなかったということを証明するための、ほんのデモンストレーションでございますよ、ジャハーブ尊師。お望みなら、金貨は戻させます――少しでしたら」
「いや、ウッサ。全部とっておけ。ラク・ハッガへつくころには、一枚残らずおまえのものだ」
「ダガシ族のお役に立てるとは光栄しごくでございます。たとえかような惜しみない寛大な行為がなかったとしましても、尊師とお近づきになれただけでわたしには財産です」サディはためらって、すばやくベルガラスを一瞥した。「ダガシ族は物知りだと聞いておりますが、尊師」
「世界のここにいるわれわれの目を逃れられる秘密は多くない」
「ひとつおたずねしてもよろしいでしょうか? つまらぬことですが、わたしには興味のあることでございまして」
「きくがよい、ウッサ。答えるか答えぬかは、質問を聞いてから決める」
「トル・ホネスに大金持ちの顧客がおりまして、ジャハーブ尊師、稀覯本になみなみならぬ情熱をもっているのです。ラク・クトルのグロリムの予言書の写しを見つければ、わたしに莫大な金を払ってくれそうなのです。そのような本がどこで見つかるかご存じですか?」
ジャハーブは額にしわをよせて、しわくしゃの頬をこすった。「ダガシ族は書物にはあまり関心がないのだ。おまえの求める本は、たしかラク・クトルのクトゥーチクの書庫にあったのだが、魔術師ベルガラスが都市を破壊したときになくなってしまったはずだ」かれはさらに考えた。「ラク・ウルガについたら、アガチャクにきけばよい。あそこの神殿の書庫はじつに多方面にわたる書物をかかえている。予言書は宗教がらみのものだから、アガチャクは必ず写しを持っているだろう――写しがまだあるとすれば」
「情報に心より感謝いたします、尊師」サディはふたたび腰をかがめて言った。
ジャハーブは背筋をのばした。「おまえも従者たちも休息が必要だろう。あすの朝夜明けとともにラク・ウルガへ出発するのだ。おまえたちのために部屋が用意されている」かれはふたたび葡萄の鉢に注意をむけた。
かれらが案内された部屋はすこぶる大きかった。石の壁は白く塗られて、ダガシ族の町を照らすおぼろげな光を強調していたが、家具はよく言っても原始的で、低い石のテーブルがひとつと、クッションの山があるだけだった。
黒装束のタジャクが出ていってしまうと、すぐにガリオンは緑色の奴隷商人の服を脱ぎ捨てた。「おじいさん」かれは言った。「どうするつもり? ラク・ウルガへは行けないよ。ザンドラマスをつかまえるなら、一刻も早くヴァーカトへ行かなけりゃ」
老人はクッションの山にながながと寝そべった。「ガリオン、じっさい、これ以上うまい展開はないくらいだぞ。アガチャクとウルギットがわれわれのために待機させている船にいったん乗ったら、そのままヴァーカトへ行ってしまえばいいのだ。そうすれば、数ヵ月の困難な旅をしないですむ」
「でも、ジャハーブの言った場所にぼくたちがおりなかったら、ダガシ族が――ラク・ウルガで待っているカバチとかいうのが――反対しないか?」
サディは革の箱の留め金をはずしていた。「だいじょうぶですよ、ベルガリオン」かれは濃い青の液体がはいった小さなガラス瓶をとりだして、持ち上げてみせた。「これを二滴カバチの食べ物にたらせば、すっかりいい気分になって、わたしたちがどこへ行こうと気にもしません」
「あんたはじつに多才な男だな、サディ」ベルガラスが言った。「わしが西のグロリムたちの予言書をさがしているとどうしてわかった?」
サディは肩をすくめた。「推論するのはむずかしくなかったんです、長老。サリスとナラダスのあいだの協定の一部に、スシス・トールの宮殿の書庫にあるその書物の唯一の写本を焼き捨てるというのがあったんですよ。ザンドラマスがその写本の遺棄を望んだのなら、彼女があなたにそれを手渡したくなかったことはあきらかすぎるほどですからね」
「あんたについての意見を改めなけりゃならんな、サディ。まだ全面的に信用するわけにはいかんが、その気になればあんたはたしかに役に立つ男だ」
「それはどうも、ベルガラス」宦官は小さな土焼きの瓶をとりだした。
「あの蛇に餌《えさ》をやるのか?」シルクがきいた。
「腹をすかせているんでね、ケルダー」
「じゃ、おれは外で待つ」
「ねえ、ケルダー王子」ヴェルヴェットがおもしろそうに言った。「なにが原因で、爬虫類をそう毛嫌いするの?」
「まともな人間なら蛇の好きなやつなどいないよ」
「あら、蛇ってそれほどいやな生き物じゃないわ」
「ふざけてるのか?」
ヴェルヴェットは茶色の目を見開いて、おおげさに無邪気な表情をつくった。「わたしが?」
シルクはぶつぶつ言いながら廊下へ出ていった。
ヴェルヴェットは笑って、窓のそばのクッションの山にすわっているセ・ネドラに歩みよった。ガリオンはトル・ホネスを発ってからの数週間で彼女たちふたりがすっかり親密になったのに気づいていた。ポルガラはつねにひとりでいることに満足しきって見える女性だったから、大部分の女性が女同士のつきあいを心から望んでいることが、ガリオンにはよくのみこめていなかった。サディが小さな緑色の蛇に餌《えさ》をやっているあいだ、ふたりはクッションにならんですわり、髪をとかして旅のほこりをはらっていた。
「どうしてあんなにかれをからかうの、リセル?」セ・ネドラが燃えるような髪をくしけずりながらたずねた。
「これでおあいこですのよ」ヴェルヴェットはいたずらっぽくほほえんだ。「わたしが子供だったころ、ケルダーにはいつもさんざんからかわれていましたの。今度はわたしの番ですわ」
「かれをぷりぷりさせるには、なにを言えばいいのかいつもちゃんとわかっているみたいね」
「ケルダーのことは知りぬいていますわ、セ・ネドラ。もう何年も観察してきましたもの。弱点も全部知っているし、どういうところに一番神経をぴりぴりさせるかも知っています」蜂蜜色の髪の娘は目をなごませた。「なにしろ、ドラスニアの伝説的人物でしょう。〈学園〉ではすべての研究がかれの偉業に捧げられているんです。わたしたちはこぞってかれと張り合おうとしますけれど、あの抜群の才覚にかなうものはひとりもいませんわ」
セ・ネドラは髪をとく手をとめて、思案げにじっと友だちを見つめた。
「なんですの?」ヴェルヴェットが見返した。
「ううん、なんでもないわ」セ・ネドラはふたたび髪をとかしはじめた。
砂漠の夜はおどろくほど寒かった。空気がからからに乾燥しているので、昼間の熱波は太陽が沈むと同時に蒸発してしまう。カーシャから夜明けの鋼色の光のなかへ出たとき、ガリオンは本当に体がふるえているのに気づいた。しかし、九時ともなると、焼けつく大陽がアラガの不毛地帯をふたたび炎熱地獄に変えていた。一行は正午近くに砂漠の西のへりにある丘のふもとについて、丘をのぼりはじめ、おかげでそのすさまじい暑さから逃れることができた。
「ラク・ウルガまではどのくらいあるんです?」サディはふたたび先導役をになったタジャクにたずねた。
「一週間ほどだ」
「クトル・マーゴスのこのあたりはじつに広大ですなあ」
「大きな国だからな」
「それになにもないところだ」
「よくまわりを見ればそうでもない」
サディは物問いたげにタジャクを見た。
「たとえば、あの峰」タジャクは西の空を背景にうかびあがるぎざぎざした岩石地帯を指さした。黒装束のマーゴ人がひとり、馬にまたがってかれらを見ている。
「いつからあそこにいたんでしょう?」サディはきいた。
「一時間前からだ。おまえは上を見るということをしないのか?」
「ニーサでは、わたしどもはいつも地面を見ているんですよ。蛇の民ですから」
「なるほど」
「あの男はあそこでなにをしているんでしょう?」
「おれたちを見張っているのさ。ウルギット王はよそ者の跡をつけさせるのが好きなんだ」
「面倒なことになりやしませんか?」
「おれたちはダガシだぜ、ニーサ人。ほかのマーゴ人がおれたちに面倒をかけるはずがないだろう」
「またとない案内役にめぐまれましたよ、タジャクさん」
その次の週、一行が馬で通過した地帯は岩だらけで、草木はほんの申し訳程度に生えているだけだった。ガリオンはこの南の地方がいまは夏の終わりであるという意識に慣れるのに苦労した。季節の変わり目はつねに不変だったから、気持ちの上でも、また肉体的にも、この世界の底では季節が逆行しているという考えを受け入れられなかったのだ。
南へ向かう旅の途中で、ガリオンはすっぽりくるんである剣の柄の上の〈珠〉が、背中で強く左へ動くのを感じた。かれは馬を軽く蹴ってベルガラスのとなりへ行った。「ザンドラマスはここで東へ曲がったんだ」そっと報告した。
老人はうなずいた。
「足跡を見失いたくない」ガリオンは言った。「ザンドラマスの行き先をサディが読み違えていたら、もう一度正しい道を見つけ出すのに何ヵ月かかるかわからないよ」
「われわれは熊神教のことでさんざん時間をむだにしたんだ、ガリオン。その埋め合せをせにゃならん。つまり危ない橋は渡らんほうがいいということだ」
「そりゃそうだけど、でもやっぱりここはいちかばちかでやってみるべきだ」
「わしだってそう思うさ。だが、いまのわれわれに選択権があるか?」
ウルガ半島のごつごつした背骨を進んでいくにつれ、〈西の大海〉から突風がたてつづけに吹いてきた。秋が駆け足で近づいてくるしるしだ。突風は冷たかったが、それに混じる雨はほんのわずかだったから、旅は中断されることなくつづいた。このあたりまでくると、きたない灰色の空を背に峰の頂上を巡回する馬にまたがったマーゴ兵たちの姿がたえず目につくようになった。だが、マーゴ兵たちは慎重にダガシ族とのあいだに距離を置いていた。
大海の沖合いにぶあつい雲がわきあがった、風の強いある日の正午ごろ、一行は丘の頂上にのぼって、けわしい岩の断崖に抱かれた入り江を見おろした。
「ウルガ湾だ」タジャクが簡潔に言って、鉛色の海を指さした。
遠くの浜から半島が突き出て、ごつごつした岬で湾への入口を守っている。港はカーヴした岬に抱かれていた。船体の黒い船が点々と浮かぶ港から立ち上がるようにして、かなり大きな町が広がっていた。
「あれがそうですか?」サディがたずねた。
タジャクはうなずいた。「ラク・ウルガだ」
細長い浜で、沖合いからやってくる不機嫌な波にゆれながら、一隻の渡し船がかれらを待っていた。船幅の広い大型のはしけだ。持ち場についたみるからに哀れな四十人の奴隷を、長い鞭を持ったマーゴ人の船頭が油断のない目で監視している。先に立って砂利だらけの浜を進んでいたタジャクとその部下たちは、やがてひとことも言わずに回れ右をして、いまきた道を馬でひきあげていった。
〈西の大海〉からウルガ湾に注ぎ込む水路は大きくなく、ガリオンは向こう側でくすんだ空の下にうずくまるラク・ウルガの低い石造りの建物をはっきり見分けることができた。サディが船頭のマーゴに短く話しかけ、数枚のコインが手から手へ渡されると、一行は馬をひいて船に乗り込んだ。船頭は奴隷たちを命令口調でどなりつけ、だめ押しにかれらの頭上で鞭をふりまわした。奴隷たちは残忍な顔をした船頭と鞭を恐ろしげにちらりと見て、砂利だらけの浜を必死にオールで押してはしけを出した。いったん浜を離れると、かれらは急いで本来の居場所につき、細長い水路の向こう岸にある都市めざして漕ぎはじめた。船頭ははしけの上をいったりきたりしながら、一瞬たりとも奴隷たちから目を離さず、たるんだ気配がないかと目を光らせていた。一度、半分ほどきたとき、船頭は鞭をふりあげた。ただ鞭をふるいたいだけで、これといった理由がないことはあきらかだった。
「失礼ですが、船頭さん」シルクがマーゴ人の前にたちはだかった。「船が水もれしているのをご存じでしたか?」
「水もれだ?」マーゴ人は鞭をおろして鋭く言った。「どこが?」
「しかとはわかりませんが、底に水がいっぱいたまってますよ」
マーゴ人は船尾にいる舵手に大声で呼びかけてから、いそいで木の格子戸を持ち上げ、ふたりで船の底を見おろした。「船底の汚水じゃねえか」船頭はぷりぷりしながら、舵手に持ち場へ戻るよう手ぶりで命じた。「おまえは船のことをなんにも知らねえのか?」
「あまり知りませんね」シルクはすなおに言った。「水が見えたんで、知らせたほうがいいと思ったんです。手間をかけてすみませんでした」シルクは船首にいるみんなに合流した。
「どういうつもりだったんだ?」ベルガラスがたずねた。
シルクは肩をすくめた。「ダーニクの表情がけわしくなってきたんで、かれが正義感から面倒を起こさないうちに先手を打ったんですよ」
ベルガラスは鍛冶屋を見た。
「船頭があの気の毒な人たちを鞭で打ちはじめたら、わたしはだまっていられません」ダーニクは硬い表情で断言した。「鞭をふりあげた瞬間に、船頭は海中にいる自分に気づくでしょう」
「ほらね?」とシルク。
ベルガラスはなにか言いたげに口をあけたが、そこへポルガラがわりこんできて前にたちふさがった。「ダーニクのことはほっといてちょうだい、おとうさん。それがあの人のやりかたなんだし、世界のためだってわたしはダーニクを変えるつもりはありませんからね」
ラク・ウルガの港は反対側から見て思ったほどすいてはいなかった。はしけの舵手は、停泊中のたくさんの船のあいだを慎重にぬって、鉛色の水路へ突き出している石の桟橋へ近づいていった。桟橋には船幅の広いマーゴの船が十数隻つながれて、ロープを編んだ防舷材に船体をぶつけており、大勢の奴隷たちが荷おろしに精を出していた。
はしけはいくつもある桟橋のひとつのすいている側へ接近した。海草がからみついてすべりやすくなった石の踏み段を馬たちが慎重にひかれてのぼった。セ・ネドラは残飯がぷかぷか浮かんでいる水を見おろすと、さもいやそうに鼻をうごめかせてつぶやいた。「どうして港の光景って――においも――いつも同じなのかしら?」
「たぶん港に住む人々は、目の前に水があるとつい利用せずにはいられないからでしょうね」ヴェルヴェットが答えた。
セ・ネドラは当惑した顔になった。
「便利すぎるんですわ」ドラスニアの娘は説明した。「けさ港に投げ捨てた残飯が、午後の潮流でまた港に戻ってくることを、忘れてしまうんでしょうね」
踏み段をのぼりきったところで、ぶあつい黒の服を突風にはためかせながら、もったいぶったひとりのマーゴ人がかれらを待ちかまえていた。「そこのおまえたち」マーゴ人はえらそうに言った。「用件を述べろ」
サディが進みでて、マーゴ人になめらかに一礼した。「わたしはウッサと申します。スシス・トールからまいりました登録済みの奴隷商人です。必要な書類はすべてそろっていますよ」
「ラク・ウルガには奴隷市場はないぞ」マーゴ人は疑わしげだった。「書類を見せろ」
「もちろんです」サディは緑色の服に片手を突っ込んで、おりたたんだ羊皮紙の束をとりだした。
「奴隷の売買をしないなら、ここになんの用がある?」マーゴ人は書類の束をひったくった。
「わたしは良き友人であるダガシ族の長老、ジャハーブの頼みごとをきいているだけですよ」
束を開こうとしていたマーゴ人は手をとめて、「ジャハーブ?」といささか不安げに言った。
サディはうなずいた。「どうせここを通るなら、ちょっと立ち寄ってラク・ウルガの高僧アガチャクに手紙を渡してくれないかと頼まれましてね」
マーゴ人はごくりとつばをのみこむと、急に熱いものにでもさわったように、書類をサディに突き返した。「では、行くがいい」短く言った。
「おそれいります」サディはまた一礼した。「失礼ですが、トラク神殿へはどう行けばいいのでしょう? ラク・ウルガへきたのはこれがはじめてでして」
「この桟橋からずっと行ったところの通りの入口にある」マーゴ人は答えた。
「たびたびおそれいります。お名前を教えてくだされば、あなたにどんなにお世話になったか、アガチャクに伝えますよ」
マーゴ人の顔が青ざめた。「それにはおよばん」すばやく言うと、背中を向けて歩き去った。
「ここじゃジャハーブとアガチャクの名は、かなりのショックらしいな」シルクが言った。
サディはにんまりした。「ふたつの名前をいっぺんに言ったら、町中のドアが開いて迎え入れてくれそうですな」
ラク・ウルガは魅力的な都市ではなかった。通りは狭く、建物を構成する石は不規則な四角形で、灰色の石板の屋根が通りにせりだしているために、街路は半永久的に陰気な薄闇に包まれている。だが、都市をこれほどわびしく見せているのは、その灰色の寒々としたたたずまいのせいばかりではなかった。正常な人間の感情とは無縁の冷たい雰囲気が、そこはかとない恐怖感と対になって漂っている。黒い服で通りをいきかう陰気な顔のマーゴ人たちは、口をきくのはおろか、同じ町に住む人々の存在を認めようともしなかった。
「どうしてここの人たちはお互いにあんなによそよそしいんでしょう?」エリオンドがポルガラにたずねた。
「文化的特徴なのよ」ポルガラは言った。「トラクにこの大陸への移住を命じられる以前、マーゴ人たちはクトル・ミシュラクの貴族だったの。自分たちマーゴ人は宇宙でもっとも優秀な創造物だと絶対の自信をもっているのよ――そしてだれもが自分が一番優秀なんだと確信しているわ。だからいきおい人に話しかけることをしなくなるの」
都市の上空に脂っぽい黒煙の柱がたちのぼって、胸の悪くなるような臭いを運んできた。
「このひどい臭いはなにかしら?」ヴェルヴェットが鼻にしわをよせてたずねた。
「本当に知りたいわけじゃないんだろうな」シルクが硬い表情で言った。
「まさかいまだに――」ガリオンは言葉を濁した。
「そうらしい」小男は答えた。
「だが、トラクは死んだんだぞ。なんの意味があるんだ?」
「グロリムというのは自分たちが無意味なことをしているとはこれっぽっちも思わない連中なんだよ、ガリオン」ベルガラスが言った。「かれらの力の源はつねに恐怖だった。その力を維持したければ、恐怖を持続しなくてはならんのさ」
一行が角をまがると、前方に巨大な黒い建物が見えた。その石板の屋根から突き出た大きな煙突から濃い煙の柱がたちのぼって、港からふきつける突風にこっちへたなびいたり、あっちへたなびいたりしている。
「あれが神殿か?」ダーニクがたずねた。
「ええ」ポルガラが答えた。彼女は特徴のない黒い壁にある唯一のきれめである、飾りびょうを打ったふたつのばかでかいドアを指さした。ドアの真上に、磨き込んだ鋼で作ったトラクの顔がかかっている。その考えこんだような敵の顔を見たとき、ガリオンは血も凍るような、あのおなじみの気持ちに襲われた。〈永遠の夜の都市〉でいっさいのけりがついた今でさえ、トラクの顔はガリオンを恐怖でいっぱいにした。半身不具のアンガラクの神の神殿の入口に近づいたとき、ガリオンはじっさいに体がふるえているのに気づいても別段おどろかなかった。
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サディは鞍からすべりおりて、飾りびょうを打ったドアに近づき、錆びついた鉄のノッカーをドアに打ちつけた。うつろな音がひびいて神殿の奥へ消えていった。
「トラクの家にくるのは何者だ?」くぐもった声が内側から問いつめた。
「カーシャ山の長老ジャハーブから、ラク・ウルガの高僧アガチャクさまへのメッセージを持ってまいりました」
一瞬間があいてから、ドアのひとつがギィーと開き、あばた面のグロリムが警戒するようにかれらをながめた。「おまえはダガシ族ではないではないか」グロリムは非難がましくサディに言った。
「はあ、じつはおっしゃるとおりです。ジャハーブとアガチャクさまのあいだに取り決めがありまして、わたしはその一端をになっているのです」
「そのような取り決めなど聞いておらんぞ」
サディはそのグロリムの服についている簡素な頭巾をじろりと見た。なんの飾りもない頭巾は、その僧の階級が低いことを端的にあらわしていた。「失礼だが、トラクの召使いさん」サディは冷たく言った。「あんたのお仕えする高僧はドア番を信用する習慣がおありですかな?」
グロリムは顔をどす黒くして、宦官をにらみつけていたが、しばらくたって言った。「頭を隠せ、ニーサ人。ここは聖なる場所だ」
「もちろんですよ」サディは剃りあげた頭に緑の服についている頭巾をかぶせた。「わたしどもの馬をだれかに見ていてもらえますか?」
「よかろう。あれはおまえの従者たちか?」グロリムは、馬にまたがったまままだ玉石敷の通りにいるベルガラスたちを、サディの肩ごしに見やった。
「さようで、僧侶どの」
「われわれと一緒にくるよう伝えろ。チャバトのところへおまえたちを連れていく」
「失礼だが、竜神の僧侶どの、わたしの預かったメッセージはアガチャクさまあてのものですよ」
「まずチャバトに会わなければ、だれもアガチャクさまにはお目にかかれないのだ。従者たちを連れてわたしについてこい」
みんなは馬をおりて、陰気なドアをくぐり、たいまつが照らす廊下にはいった。都市にしみこんでいる吐き気をもよおしそうなあの肉を焼くにおいが、この神殿ではいっそう強烈ににおっていた。グロリムとサディのあとからいがらっぽい廊下を通って、神殿へ向かいながら、ガリオンはしだいに恐ろしくなってきた。その場所は根深い悪のにおいを放っていた。廊下ですれちがううつろな顔つきの僧侶たちが、露骨な悪意と激しい猜疑のまなこを向けてきた。
そのとき建物のどこからか苦悩の絶叫が聞こえ、どらが鳴る大きな音がひびきわたった。それらの音の意味に気づいて、ガリオンはみぶるいした。
「いけにえを捧げる昔の儀式がまだ行なわれているんですか?」サディはいささかおどろいたようにグロリムにたずねた。「てっきり廃止されたものと思っていましたよ――いろんなことを考慮にいれますとね」
「われわれのもっとも聖なる義務の遂行をやめさせるようなことはなにひとつ起きなかったのだ、ニーサ人」グロリムは冷たく答えた。「一時間ごとに、われわれは人間の心臓をトラク神にお捧げしている」
「しかしトラクはもういやしないでしょう」
グロリムは顔を真っ赤にしてたちどまった。「二度とそれを口にするな!」たたきつけるように言った。「神殿の壁の内側は、よそ者がそのような罰あたりな言葉を吐く場所ではない。トラクの魂は生きつづけていらっしゃるのだ。いつかふたたびお生まれになり、世界を征服なさる。トラクみずからが剣をふるわれるとき、宿敵、リヴァのベルガリオンは悲鳴をあげながら祭壇の上に横たわるのだ」
「調子のいい考えですね」シルクがベルガラスにささやいた。「そんなことにでもなったら、おれたち、はじめから全部やりなおしじゃないですか」
「だまってろ、シルク」ベルガラスは小さな声で叱った。
下級僧侶のグロリムがかれらを連れていった部屋は、大きくて、数個のオイル・ランプによってぼんやりと照らされていた。壁には黒い垂れ幕がずらりとかけられ、香の匂いが濃厚にたちこめている。頭巾をかぶったやせた人影が大きなテーブルの向こうにすわっていた。肘のあたりに蝋のたれた黒い蝋燭があり、前には黒表紙の本が置かれている。その人影から発している力を感じて、ガリオンの頭に警戒警報がひびいた。すばやくポルガラを一瞥すると、彼女は重々しくうなずいた。
「お許しください、聖なるチャバトさま」あばた面のグロリムはかすかにふるえる声で言いながら、テーブルの前にひざまずいた。「ですが、暗殺者ジャハーブからの使いの者を連れてまいったのです」
テーブルの人影が顔をあげた。ガリオンはあっと声をあげそうになった。女だった。女の顔には輝くような美しさがあったが、かれの目を奪ったのはそのことではなかった。白い両の頬に残忍な深紅の傷痕が彫り込まれている。それは装飾的なもようを描いて、こめかみからあごにかけて走っていた。炎をあらわすもようのようだ。女の目は煙るように黒く、ふっくらしたくちびるは薄くのびて軽蔑の冷笑を浮かべている。黒い頭巾は濃紫の飾りでふちどられていた。
「それで?」女はやすりをかけたような耳ざわりな声で言った。「あのダガシがどうしてよそ者にメッセージをたくすのだい?」
「そ――それはききませんでした、聖なるチャバトさま」グロリムは口ごもった。「この者はジャハーブの友だちだと主張しております」
「で、おまえはそれ以上は質問しなかったのかい?」耳ざわりな声が脅しをひめたささやきになり、にわかにがたがたとふるえだした下級僧侶を目がねめつけた。やがて、女の凝視がゆっくりとサディに移った。「名前をお言い」
「スシス・トールのウッサでございます、聖なる尼僧さま」サディは答えた。「ジャハーブの指示で、こちらの高僧にお目にかかり、メッセージを伝えるよう申しつかりました」
「そのメッセージはどういうものだ?」
「ああ――それはこかんべんください、聖なる尼僧さま。アガチャクさまのお耳にだけいれるようにと言われたのです」
「わたしがアガチャクの耳だよ」チャバトはぞっとするほど静かな声で言った。「まずわたしが聞いてからでないと、どんなこともアガチャクさまの耳には届かない」ガリオンをそうかと思わせたのは、その口調だった。このむごい傷痕のある女はどうにかこの地位まではいあがったものの、まだ自信がないのだ。チャバトはひらいた傷のような不安感をかかえている。だから、自分の権威を少しでも疑われると、相手かまわず執拗な憎悪をぶつけてくるのだ。ガリオンはサディがチャバトの危険性を悟ってくれるようにと願わずにいられなかった。「ああ」サディは泰然として丁重に言った。「ここの状況をよく知らなかったのです。ジャハーブとアガチャクさまとウルギット王が、わけあって、カバチという人物を無事にラク・ハッガまで送り届けたいらしいのです。その護送をひきうけたのがわたしでございまして」
チャバトの目がうたがわしげに細まった。「メッセージはそれだけではあるまい」
「これだけでございます、高貴なる尼僧さま。アガチャクさまならこの意味がおわかりになろうかと思います」
「ジャハーブはほかになにも言わなかったのか?」
「ほかには、このカバチという人物がアガチャクさまの保護のもとで神殿にいるということだけでございます」
「ありえないよ」チャバトはぴしゃりと言った。「カバチがいるなら、わたしが知っているはず。アガチャクさまはわたしに隠しごとはなさらない」
サディはなだめるような仕草で両手を広げた。「わたしはジャハーブに言われたことをくりかえしただけです、聖なる尼僧さま」
チャバトは指の関節をかんでいたが、ふいにその目が疑惑でいっぱいになった。「もしもわたしに嘘をついていたら、ウッサ――あるいはなにかを隠そうとしたら――おまえの心臓をえぐりださせてやるよ」彼女は脅した。
「メッセージはこれで全部でございます、聖なる尼僧さま。もう高僧にお伝えしてよろしいでしょうか?」
「高僧はドロジム宮殿で王さまと協議中だよ。真夜中まで戻りそうにないね」
「それでは、お帰りを従者たちとわたしが待てるところがどこかございますか?」
「まだ話は終わっていないよ、スシス・トールのウッサ。このカバチとやらはラク・ハッガでなにをするんだい?」
「ジャハーブはそこまでは教えてくれませんでした」
「嘘をついているね、ウッサ」チャバトは指の爪でいらいらとテーブルの表面をたたいた。
「あなたに嘘をつく理由はありませんよ、聖なるチャバトさま」サディは抗議した。
「これが事実なら、アガチャクさまがこの件についてわたしにお話しになったはずだ。わたしにはなにひとつ隠しごとはなさらないのだから――なにひとつ」
「見過ごしたのかもしれません。たいして重要なことではないのかもしれません」
チャバトは次に黒い眉の下に隠れた目で、一同をひとりずつながめた。まだふるえているグロリムに彼女は冷たい目を向けると、ほとんどささやくような声で問いただした。「ちょっと、あそこの者はどういうわけで剣を持ってわたしの前にでることを許されたのだい?」彼女はガリオンを指さした。
僧侶の顔がこわばった。「お許しください、チャバトさま」どもりながら言った。「剣に気――気づかなかったのです」
「気づかなかった? あんなに大きな武器をどうして見落とすことができるのだね? 説明できるんだろうね?」
グロリムは前にもまして激しくふるえはじめた。
「あの剣は見えないのかもしれないね? それとも、わたしの安全などどうでもいいというのかい?」傷痕のある顔が一段と冷酷になった。「それともわたしになにか悪意を持っていて、このよそ者がわたしを切り殺せばいいとでも思ったのか?」
グロリムの顔が土気色になった。
「この件はアガチャクさまがお戻りになったらお話ししたほうがよさそうだね。きっとこの見えない剣について、おまえと話しあいたいと思われるだろうよ――じっくりとね」
部屋のドアが開いて、ひとりのやせこけたグロリムがはいってきた。黒い服をきているが、服からつながる緑のふちどりのある頭巾は、うしろにはねのけている。脂じみた黒い髪が肩のあたりでもつれあい、狂信的な飛び出た目をして、長いこと体を洗っていないツンとくる臭いをただよわせている。「もう時間です、チャバトさま」男は甲高い声で知らせた。
チャバトの煙るような目が男を見てやわらいだ。「ありがとう、ソーチャク」彼女は妙にコケティッシュな仕草で、まつげをふせた。立ちあがって、テーブルの引出しをあけ、黒い革の箱をとりだした。チャバトは箱をあけると、いとおしむように長いきらめくナイフをもちあげた。それから、たったいまいたぶったグロリムをひややかに見た。「わたしはこれから聖所へ行って、いけにえの儀式をしてくる」刃の厚いナイフの切れ味をうわの空で試しながら言った。「ここであったことがおまえの口からひとことでももれたら、次のどらの音とともに、おまえに死んでもらうからね。さあ、この奴隷商人たちを、高僧のお帰りを待つのに適当な部屋へ連れておゆき」それだけ言うと、チャバトはふいに待ちきれないように目をぎらぎらさせて、脂じみた髪のソーチャクに向きなおった。「聖所までわたしと一緒にくるかい? そうすればわたしが儀式を行なうのを見ることができるよ」
「光栄です、チャバトさま」かれはパッとお辞儀をしたが、尼僧がよそを向いたとたんに、口もとに軽蔑の笑いを浮かべた。
「おまえたちのことはこの愚か者にまかせよう」彼女は通りしなにサディに言った。「おまえとの話しあいはまだ終わっていないが、わたしはいけにえの用意をしに行かねばならない」ソーチャクをしたがえて、チャバトは部屋を出ていった。
ドアがしまると、あばた面の下級僧侶はチャバトがいままで立っていた床に、ペッとつばを吐いた。
「尼僧がトラク神殿の高位に就くことができるとは知りませんでしたよ」サディはグロリムに言った。
「チャバトはアガチャクさまのお気に入りなのさ」グロリムは陰気につぶやいた。「魔術の能力なんかたかがしれてるから、チャバトの出世はアガチャクさまのひきなんだ。高僧は醜悪なものが異常にお好きでな。チャバトが喉をかき切られずにすんでいるのは、ひとえにアガチャクさまの権力のせいさ」
「政治ってやつは」サディはためいきをついた。「いずこも同じですね。それにしても、彼女は宗教的義務の遂行に関しては、ひどく熱心なようですな」
「いけにえの儀式をいそいそと行なうのは、宗教とはあまり関係ない。チャバトは血を見るのが好きなんだ。わたし自身、いけにえの胸から吹きでる血をチャバトが飲み、顔と腕を血に浸すのを見たことがある」僧侶は立ち聞きを恐れているかのように、すばやくあたりを見回した。「だが、いつかはトラクの家で魔法を行なっているところをアガチャクさまに発見されるだろうよ。神殿中のみんなが寝静まったあとで、ソーチャクとふたりで忌まわしい儀式を行ない、黒い安息日を祝っている現場をおさえられるにちがいない。高僧がやつらの堕落を発見なされば、チャバトはナイフをふるわれて悲鳴をあげることになるだろう。そして神殿中のグロリムが祭壇に横たえられたチャバトを我先にかき切るのだ」僧侶は背筋をのばした。「一緒にこい」かれはみんなに命令した。
案内された部屋は狭くて薄暗い独房も同然の部屋だった。部屋ごとに低い寝台がひとつあり、壁からつきでた掛け釘には、黒いグロリムの服がかかっていた。僧侶は短くうなずくと、だまって立ちさった。シルクはいくらか広い中央の部屋を見回した。ランプがひとつ、まん中に粗末なテーブルがひとつと椅子がいくつかあるだけだった。「おれが贅沢と呼ぶものとはほど遠いな」シルクはフンと鼻を鳴らした。
「なんならみんなで不満をこぼしてもいいのよ」ヴェルヴェットが言った。
「あの人の顔はどうしたの?」セ・ネドラがおそろしげな声でたずねた。「おそろしかったわ」
「あれはハッガにあるグロリムの一部の神殿の習慣なのよ」ポルガラが答えた。「魔術の心得がある尼僧は、トラクに永遠に身を捧げるしるしに顔に彫物をするの。あの習慣はもうおおかたなくなったはずだけれどね」
「でも、とてもきれいな顔をしているのに、どうしてあんなことをしたのかしら?」
「宗教的ヒステリーにとりつかれた人間は、ときに奇妙なことをするものなのよ」
「あのグロリムはどうしてガリオンの剣を見落としたんでしょう?」シルクがベルガラスにきいた。
「剣が見えなくなるように〈珠〉が手段を講じているのさ」
「そうしろとあなたが言ったんですか?」
「いや。ときどき〈珠〉が自分でそういうことを思いつくのだ」
「どうです、うまく行きそうじゃありませんか?」サディが自画自賛の体で両手をこすりあわせた。「すこぶるお役にたちますよと言ったでしょう」
「まったく役にたつよ、サディ」シルクが皮肉たっぷりに答えた。「これまでのところ、あんたはおれたちを戦いのまっただなかへ連れ込んでダガシ族の本拠地へひっぱりこんだ、そして今度はクトル・マーゴスのグロリム勢力の中心へやってきた。次はおれたちのためになにをするつもりだい――夜明けまでにあのへんてこりんな顔のご婦人があんたのはらわたをひきずりださないとしてだがね?」
「船を手にいれるんですよ、ケルダー」サディは言った。「いくらチャバトでもアガチャクの要望にさからうような真似はしますまい――たとえプライドを傷つけられてもです。船に乗ってしまえば、数ヵ月の得になります」
「ほかにガリオンとわしがやらねばならんことがあるのだ」ベルガラスが言った。「ダーニク、あの廊下をのぞいてわれわれを見張っている監視がいるかどうかたしかめてくれ」
「どこへ行くんです?」シルクがたずねた。
「書庫を見つける必要があるのだ。ジャハーブの言ったとおり、本当にここにあの本があるかどうか知りたい」
「今夜まで待ったほうがいいんじゃないですか――みんなが寝てしまうまで?」
老人はかぶりをふった。「めざすものを見つけるにはしばらくかかるだろう。アガチャクは真夜中まで宮殿から戻らん。したがってかれの書庫を捜しまわるには今が絶好のチャンスなのだ」ベルガラスは小柄なドラスニア人にふっと笑いかけた。「おまけに、おまえさんの考えには反するかもしれんが、真夜中をまわった頃にこそこそとうろつきまわるより、昼間のほうが堂々と行動ができることもあるんだよ」
「それはえらく不自然な考えですよ、ベルガラス」
「廊下はだれもいません」ダーニクが戸口から報告した。
「よし」ベルガラスは小部屋にいったんひっこんでから、グロリムの服をふたつ持ってでてきた。「そら」と、ひとつをガリオンに差しだし、「これを着るのだ」ふたりが緑の服をぬいで、黒い服に着がえるあいだ、ダーニクがドアを見張った。
「あいかわらず、廊下は無人ですよ、ベルガラス」ダーニクは言った。「でも急いだほうがいいでしょうね。むこうのほうで人が動き回る気配がします」
老人はうなずいて、服の頭巾をかぶった。「行こう」かれはガリオンに言った。
石壁から突き出た鉄の輪にいがらっぽいたいまつがさしてある。明かりといえばそれだけなので、廊下は薄暗かった。廊下で数人の黒装束のグロリムの僧侶たちとすれちがった。手を袖のなかにひっこめて組み、頭をたれて、ゆれるような妙な歩きかたをしている。顔は頭巾にかくれて見えない。ガリオンはあのぎくしゃくした歩きかたにはなにか意味があるのだろうと思い、それを真似ようとしながら、ぽうっと暗い廊下を祖父について歩いていった。
ベルガラスはめざす場所を正確に知っているかのように、自信たっぷりに行動していた。多少幅の広い廊下へつくと、老人はそのつきあたりへちらりと目をやった。一対のがっしりしたドアがあけっぱなしになっている。そのドアの向こうの部屋はゆらめく炎の明かりに満ちていた。「あっちじゃないな」かれはガリオンにささやいた。
「あそこはなんだろう?」
「聖所だ。祭壇がある」ベルガラスはそそくさと廊下をよこぎって、交差する別の廊下へはいった。
「これじゃ何時間もかかるよ、おじいさん」ガリオンはひそひそ声で言った。
ベルガラスは首をふった。「グロリムの建築物はどこになにがあるか容易に見当がつくのだ。このあたりでまちがいない。おまえはあっち側のドアを調べてくれ、わしはこっち側を調べる」
かれらは廊下づたいに用心深くドアをひとつひとつあけていった。
「ガリオン」老人がささやいた。「こっちだ」
ふたりが足を踏み入れた部屋は広大で、古い羊皮紙のにおいと、かび臭い革表紙のにおいがした。背の高いパンクしそうな本棚が何列も並んでいる。壁にそって小さなくぼみがいくつもあり、そこにおかれたテーブルにはそれぞれ木の腰掛けが二脚と、長い鎖の先からぶらさがったオイル・ランプが力ない光を投げていた。
「本を取るのだ――どの本でもいい」ベルガラスが言った。「あそこのテーブルにすわって、調べ物をしているふりをしろ。頭巾をかぶったまま、目をドアから離すな。わしはひとまわりしてくる。だれかがはいってきたら咳をするんだ」
ガリオンはうなずいて、棚のひとつからぶあつい本を一冊とり、テーブルについた。はうように数分がすぎていくあいだ、ガリオンは本のページに目を落としたまま、どんなかすかな物音も聞きもらすまいと耳をそばだてていた。そうこうするうち、あの聞き慣れたぞっとするような悲鳴がして、鉄のどらが鳴る陰鬱な大きな音がひびきわたった。聖所でグロリムたちが無言の儀式をとりおこなっているのだ。ひとりでにあるイメージが頭に浮かび上がってきた――顔に傷のあるチャバトが舌なめずりをしながら犠牲者を殺している。ガリオンは歯をくいしばって、とびあがらないように努めながら、その忌まわしい想像を打ち消そうとした。
そのとき、高いふたつの本棚のあいだの狭い通路からベルガラスが低い口笛をふいた。「あったぞ。ドアから目を離すなよ。そっちへ戻る」
ガリオンは神経質に目と耳をそばだてた。こういうことは苦手だった。だれかがあのドアをあけないかと耳をすまし、目をこらして待っているうちに、神経がしだいにきつく巻かれていくような気がした。黒装束の僧侶がはいってきたらどうしよう? 話しかけようか、それともただ本にかがみこんでじっとだまっていようか? ここの習慣はどうだったっけ? かれは異なる戦略を六つ立てた。が、じっさいにドアの掛けがねがカチリと大きな音をたてたとき、ガリオンは考えてもいなかった戦略に出た――逃げだしたのだ。すわっていた腰掛けから両足をふりおろすと、足音ひとつたてずに高くて暗い本棚のあいだにはいってベルガラスをさがした。
「ここでしゃべって安全か?」だれかが言うのが聞こえた。
もうひとりの男がつぶやいた。「だれももうここへははいってこないさ。話とはなんだ?」
「あの女にまだ耐えられるのか? あいつをどうにかする用意はできたのか?」
「声が大きいぞ、ばか。だれかに聞かれて、あの女に告げ口されたら、次のどらの音でおまえの心臓は石炭のなかであぶられちまうぜ」
「顔に傷のあるあの売女には虫酢が走るんだ」最初のグロリムが吐きすてるように言った。
「だれだってそうさ、だが、それを知られちゃ命がなくなる。アガチャクさまのお気に入りであるかぎり、あいつの力は絶対だからな」
「この神殿でやっている魔法を見つかったら、もうお気に入りじゃなくなるさ」
「どうやってアガチャクさまが見つけるんだ? おまえが言いつけるのか? チャバトは否定するにきまっている。そうしたら、アガチャクさまはおまえをあの女のいいようにさせるぞ」
長い恐怖にみちた沈黙があった。
「それにだな」二番めのグロリムがつづけた。「チャバトのくだらん娯楽をアガチャクさまが気にするとは思えん。目下アガチャクさまはクトラグ・サルディウスを見つけることで頭がいっぱいなんだ。アガチャクさまをはじめとする高僧たちはそれのありかをつきとめることに心血を注いでいる。チャバトがソーチャクといちゃついて、真夜中に悪魔を呼び出したがっているなら、勝手にやらせておけばいいさ。われわれの知ったことか」
「けがらわしい!」ひとりめの僧侶が怒りで声を詰まらせた。「あの女はわれわれの神殿を冒涜しているのだぞ」
「おれは聞く耳を持たんよ。心臓をえぐりだされたくないからな」
「いいだろう」ひとりめのグロリムの口調がずるがしこくなった。「おまえの言うとおりかもしれない。しかしおまえもおれも下っ端だ。おれたちの出世はチャバトのような不純な出世とはちがう。まわりにだれもいないときにチャバトに出くわしたら、おまえはその力を使ってあいつの筋肉をまひさせ、おれがこのナイフを心臓につきたてるんだ。そうすれば、チャバトはトラクの前に立って、魔法を禁じる命令にそむいた裁きを聞くことができる」
「もうこれ以上聞くのはごめんだな」せわしない足音がして、ドアがばたんとしまった。
「臆病者が」ひとりめの僧侶がつぶやいた。やがてかれも出ていき、ドアをうしろ手にしめた。
「おじいさん」ガリオンはしわがれ声でささやいた。「どこだい?」
「奥だ。立ち去ったか?」
「行ってしまったよ」
「興味深い会話だったな」
老人は書庫の奥にいた。「チャバトは本当に悪魔を呼び出すことができるんだと思う?――モリンディム人がやるように」
「ここにいるグロリムの大多数がそう思っているようだな。もしそれが事実なら、チャバトは非常に危険な橋を渡っていることになるぞ。トラクは魔法の実践を固く禁じていた。お気に入りだかなんだか知らんが、そのことを知ったら、アガチャクはチャバトを非難せざるをえんだろう」
「なにか見つかった?」ガリオンは老人が前のテーブルにおいた本に目をやった。
「これが役にたちそうなんだ。まあ聞いてくれ、『失われし道は、南の島でふたたび見つかるであろう』」
「ヴァーカトのことかい?」
「まずまちがいない。クトル・マーゴス南部にある島はヴァーカトだけだ。これでサディの言ったことが裏づけられたよ。わしは確認をとらないと気がすまんたちなんだ」
「でも、これじゃ結局ぼくたちはザンドラマスの跡を追っているだけだ。先回りする方法を教えてくれるようなものは見つからなかったのかい?」
「いまのところはな」ベルガラスはページをめくった。「これはなんだ?」かれはおどろいた声をあげた。
「なに?」
「聞け」老人はランプの光がページを照らすように、本をもちあげた。「『見よ、〈闇の神〉の昇天のあと、〈東の王〉と〈南の王〉が戦をするであろう。そしてこれが対決の日が間近であることのしるしとなるであろう。したがって、南の平原にて戦闘が荒れ狂うときがきたら、もはや存在しない場所へと急がねばならぬ。選ばれしいけにえとアンガラクの王を同行し、事態を目撃させるがよい。なぜならば、見よ、いけにえとアンガラクの王とともにクトラグ・サルディウスの前にあらわれる者は、ほかのあらゆる者に勝り、かれらを征服するからである。そしていけにえを捧げる瞬間に〈闇の神〉が再生し、〈光の子〉に勝利をおさめることを知っておくがよい』」
ガリオンは顔から血の気がひいていくのを感じながら、ベルガラスをまじまじと見つめた。「いけにえだって?」かれは叫んだ。「ザンドラマスはぼくの息子をいけにえにするつもりなのか?」
「そうらしい」ベルガラスはつぶやいて、しばらく考えこんだ。「いくつかのことはこれで説明がつくが、アンガラクの王を対決の場に連れて行く必然性がまだよくわからん。シラディスはそんなことはひとことも言わなかったし、予言書にもそんなことは書いてなかった」
「そこに持ってるのはグロリムの本だろう、おじいさん。それがまちがっているのかもしれないよ」
「そうかもしれん。だが、すくなくともこれで、ザンドラマスがこそこそと動き回っている理由はわかった。アガチャクはあきらかにこれを知っているようだが、ウルヴォンもこれを知れば、ふたりともありったけの力を使って、おまえの息子をザンドラマスから引き離そうとするだろう。ふたりのうちどちらか、ゲランとアンガラクの王とともにサルディオンにたどりついた者が、グロリム教会の掌握権を手にすることになるのだ」
「どうしてぼくの息子が?」ガリオンは問いつめた。「どうしてゲランがいけにえに選ばれなくちゃならなかったんだ?」
「わしにはわからん、ガリオン。それにたいする説明はまだ見つかっていないからな」
「このことはセ・ネドラには言わないほうがいいと思う。そうでなくとも悩んでいるんだ」
ドアがふたたび開き、ガリオンはすばやくふりかえって肩ごしに剣の柄《つか》を握ろうとした。
「ベルガラス? いますか?」シルクの声だった。
「こっちだ」ベルガラスは答えた。「大声をださんでくれ」
「困ったことになったんです」小男は書庫の奥へやってきた。「エリオンドがいなくなっちまったんですよ」
「なんだって?」ガリオンは叫んだ。
「おれたちがだれも見ていないすきに、こっそり出ていったんだよ」
ベルガラスがテーブルにこぶしをふりおろして、ののしり声をあげた。「どういうつもりなんだ?」
シルクは着ているグロリムの服の頭巾をはらいのけた。「ポルガラがエリオンドを捜しにいこうとしたんですが、ダーニクとおれが説得してやめてもらったんですよ。それでおれがあなたがたを見つけてくると言ったんです」
「われわれで見つけたほうがいいだろう」老人は立ち上がった。「ぐずぐずしていると、ポルが自分で行動を開始しかねん。別々に行動したほうがいいな。そのほうが効率がいい」ベルガラスはふたりの先に立って、書庫のドアに近づき、すばやく廊下をのぞいてから外に出た。「普通でないことはするなよ」かれは小声でガリオンに注意した。「この場所には有能なグロリムたちがいる、さわがしい音をたてたらすぐに感づかれるぞ」
ガリオンはうなずいた。
「それから、ときどきみんなのところへ顔をだすのだ。われわれのどちらかがエリオンドを見つけても、あとのふたりを捜しに行かねばならんようではろくなことにならん。行こう」老人は足早に薄暗い廊下を遠ざかっていった。
「エリオンドはどうやってポルおばさんのわきをすりぬけたんだろう?」シルクとふたりできたほうへひきかえしながら、ガリオンはささやいた。
「セ・ネドラがヒステリーの発作を起こしたんだ。いけにえのことで気が動転したんだよ。ポルガラは小部屋のひとつにセ・ネドラを連れていって、なだめようとしたんだ。そのすきに出ていっちまったのさ」
「セ・ネドラはだいじょうぶなのか?」プロルグを発ってからおさまっていた不安が突然頭をもたげた。
「だと思う。ポルガラがなにか飲ませたから、眠っている」シルクは角までくると慎重にまわりを見回した。「おれはこっちへ行くよ。気をつけてな」かれは足音ひとつたてずに歩き去った。
ガリオンは友だちが見えなくなるまで待ってから、両手を胸の前で組み、頭巾をかぶった頭を垂れてグロリムの敬虔な態度をまねて、警戒しながら次の廊下へはいった。いったいエリオンドはなにを考えているのだろう? 無責任きわまりない少年の行動に、こぶしを壁にたたきつけたい気持ちだった。怪しまれるようなことをしないように、細心の注意をはらいながら、用心深くひとつひとつドアを細目にあけていった。
「なんだ?」とあるドアをあけたとき、暗い部屋のなかから耳ざわりなアクセントのある声が言った。
「失礼、兄弟」ガリオンはアンガラク人のアクセントの強いしゃべりかたをまねようと努めながらつぶやいた。「ドアをまちがえた」あわててドアをしめ、できるだけ急いで廊下を歩きだした。
ふいに背後でドアがばたんと開き、下着姿のグロリムが怒った顔で出てきた。
「おい」グロリムはガリオンにどなった。「とまれ!」
ガリオンは肩ごしにちらりとふりかえって、角をまがり、二歩で神殿の広い中央廊下にはいった。
「ここへもどってこい!」グロリムが叫んでいる。裸足の足が板石の廊下をぴたぴた踏んで追いかけてくるのが聞こえた。ガリオンは毒づいて、いちかばちかの賭をした。最初に目にはいったドアをぐいとひきあけて、なかへ飛び込んだのだ。すばやく見たところでは、部屋はからっぽだった。かれはドアをしめて、ドアの板に耳をおしあてた。
「どうかしたのか?」だれかが外の廊下できいているのが聞こえた。
「だれかがわたしの部屋へはいろうとしたんだ」さっきの怒ったグロリムの声がした。
こずるそうなくすくす笑いが聞こえた。「彼女の望みがなんだったのか、つきとめるべきだったのかもしれないぞ」
「男だった」
間があった。「ふむ」最初の声が言った。「ふむ、そうか、そうか」
「それはどういう意味だ?」
「別に。なんでもない。服をきたほうがいいぞ。下着で廊下にいるところをチャバトに見つかったら、妙なことを考えるかもしれないからな」
「おれはこの侵入者をさがしに行く。どうも変だ。手伝ってくれるか?」
「いいとも。どうせほかにやることはないんだ」
廊下の向こうからうめくような低い詠唱と、たくさんの足をひきずる音が聞こえてきた。
「いそげ」ドアの外の声が警告した。「こっちの通路へ隠れよう。連中に見られたら、参加しろと言い張るにちがいない」
ふたりがそそくさと通路へひっこむ足音がした。ガリオンはそろそろとドアを細目にあけて、外をのぞいた。すり足ののろのろした行進と、低い詠唱が近づいてくる。頭巾をかぶり、両手を前で組み合わせたグロリムたちの列が見えてきた。たいまつの照らす廊下を神殿の心臓部へ向かって、儀式ばった歩調で歩いてくる。ガリオンは首をひっこめると、暗い部屋でグロリムたちの通過を待った。次の瞬間、突然の衝動にかられて、大胆にもドアをあけ、廊下へ忍びでると、列の最後にくわわった。
ゆっくりしたリズミカルな行進は広い廊下を進みつづけた。列が聖所へ近づくにつれ、肉の焼けるにおいがしだいに強まってきた。やがて詠唱の声を一段と高めながら、グロリムたちはアーチ形の戸口をくぐって丸天井の聖所へはいっていった。
天井はとてつもなく高く、すすけた闇にまぎれていた。ドアに面した壁にぴかぴかの鋼の仮面がかかっている――おだやかで美しい、傷ひとつないトラク神の顔の複製だ。闇に浮かぶその仮面の下には黒い祭壇が置かれ、その両側からは鮮血がたらたらとしたたっていた。白熱した火ばちが死んで久しい神に捧げられる次なるふるえる心臓を待ち受けている。そして火たき穴が惨殺された次の犠牲者の体をいまかいまかと待っていた。
ガリオンはふるえながらいそいで戸口の片側の柱の陰にかくれ、必死で平静を失うまいとした。汗がふきだし、体ががたがたとふるえた。生きた人間として、かれほどこのおそるべき場所の意味を知っている者はいなかった。トラクは死んだのだ。〈鉄拳〉の燃える刃をその胸に深々と突き立てたとき、傷ついた神の心臓の力ない鼓動を感じたのは、ほかならぬガリオンだった。あのおそろしい夜は何年も前のことだというのに、以来ずっと虐殺が行なわれ、この忌まわしい場所を血に染めている。つれない宿命を呪いつつ絶叫しながら死んでいった、半身不具の錯乱した神に敬意を捧げる――それは無意味な、むなしいことだった。ガリオンの胸の奥で怒りの炎がゆっくりと燃えはじめ、意志の力が爆発しそうになった。仮面と祭壇がこっぱみじんになって、このおぞましい場所が音をたててくずれるシーンが、目の前に浮かんだ。
(おまえはそのためにここにいるのではないぞ、ベルガリオン!)頭のなかの声が叱った。
ガリオンはゆっくりと意志の力をゆるめた。いきなり力をゆるめたりしたら、都市全体が崩壊しかねなかった。この恐怖を粉砕する時間はたっぷりある。いまはエリオンドを見つけなくてはならない。ガリオンは柱の陰からそうっと頭をつきだした。紫のふちどりのある頭巾をぬいだひとりの僧侶が、聖所の向こう側からはいってきたところだった。両手に捧げもった深紅のクッションの上で、長い、残忍そうなナイフがぎらぎらと光っている。僧侶は死んだ神の仮面に向きあうと、クッションとナイフをうやうやしく持ち上げて、祈りを捧げた。「あなたさまの意志なる道具をごらんください、アンガラクの竜神さま」歌うような口調だった。「そしてあなたさまに心臓を捧げる者をごらんくださいませ」
四人のグロリムが裸の奴隷を聖所へひきずってきた。男は泣き叫びながら無益に抵抗し、恐怖にひきつった声で慈悲を求めたが、いっさい聞き入れられなかった。ガリオンは思わず背中の剣に手をのばした。
(やめろ!)声が命じた。
(いやだ! あんなことをさせるわけにいかない!)
(なにも起きはせん。さあ、剣から手をどけるのだ!)
「あれじゃ殺される!」ガリオンは声に出して言うと、剣をぬいて柱の陰からとびだした。次の瞬間、石になったかのように、まつげにいたるまで体が動けなくなった。(はなしてくれ!)ガリオンは歯ぎしりした。
(だめだ! 今回はここで見るだけにしろ、行動してはならん。さあ、そこに立って目を見開いておけ)
ガリオンは目を疑った。神殿の冷酷な光に白っぽい金髪の巻毛をきらめかせて、エリオンドが、いましがた奴隷がひきずられてきたドアからはいってきたのだ。ほとんど残念がっているような決然たる表情を浮かべて、若者は仰天している僧侶のほうへまっすぐ歩いていった。「悪いけど」かれは静かだがきっぱりした口調で言った。「もうこういうことはできないよ」
「この冒涜者をとらえろ」祭壇の前にいる僧侶は叫んだ。「石炭に焼かれるのはこやつの心臓だ!」
十二人のグロリムがはじかれたように立ち上がったが、ガリオンの筋肉を固まらせたのとまったく同じ停止状態にとらわれて、凍りついたように動かなくなった。
「こういうことがつづいてはならないんだ」エリオンドはさっきと同じ決然たる声で言った。「あんたたち全員にとって、これがおおいに意味のあることなのは知ってるけど、このままつづけるわけにはいかないよ。いつかは――もうすぐだと思うけど――あんたたちもわかるさ」
ガリオンは空気が騒ぎ、大きな音がひびくのを予期したが、そういうことはなにひとつ起きなかった。かわりに、祭壇の前でいけにえを渇望していた火たき穴がにわかに荒れ狂い、炎や火花がとびちって丸天井をなめはじめた。窒息しそうな暑さになった聖所がふいに、涼風が吹き渡ったかのように、涼しくなった。すると、天井を焦がす火が風前のともしびよろしく、つかのまゆらめいて消えた。祭壇わきの白熱した火ばちもやみくもに輝いたかと思うと、鋼が突然やわらかくなり、くたっとうなだれてみずからの重みに耐えかねたようにくずれはじめた。そして、火ばちの火もまた消えてしまった。
僧侶は恐怖のあまりナイフを落として、まだ熱い火ばちにとびつき、キツネにつままれたように、両手をさしのべ、ぐにゃぐにゃになった金属をもとの形に戻そうとした。が、赤く焼けた鋼が手にジュッとくいこみ、激痛の叫びをあげた。
エリオンドは消えた火を満足そうにながめてから、まだ裸の奴隷をつかんだまま肝をつぶしているグロリムたちのほうを向いて、命じた。「その男を放してやるんだ」
グロリムたちはエリオンドをまじまじと見つめた。
「放したほうがいいよ」エリオンドの口調は世間話でもしているようだった。「火がなければいけにえを捧げることはできないし、火はもう燃えないんだ。逆立ちしたって、二度と火を燃やすことはできない」
(でかした!)ガリオンの頭のなかの声が言った。ガリオンの膝頭をがくがく揺するほど、はしゃいだ口調だった。
火傷した僧侶はまだうめきながら、赤黒くなった両手を胸にだいていたが、土気色の顔をあげ、片手をエリオンドにつきつけてわめいた。「そいつをとらえろ! つかまえてチャバトのところへ連れていけ!」
底本:「マロリオン物語3 マーゴスの王」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1990(平成 2)年9月30日 発行
1999(平成11)年8月15日 三刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年2月 8日作成
2009年2月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語3 マーゴスの王.zip iWbp3iMHRN 93,113,314 2295b11265fdcbc2ee1b9dbc2b0ced0e
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本55頁1行 グロリムの折れそうな肩に
ゴリム