マロリオン物語2 熊神教徒の逆襲
GUARDIANS OF THE WEST
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蝶番《ちょうつがい》がふきとんだ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おれなんかか弱くて[#「か弱くて」に傍点]とてもだめだ
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[#ここから4字下げ]
ジュディ=リンに――
バラはほころび、やがて色あせる。
だが記憶のなかの美しさ、かぐわしさは
いつまでもうすれない。
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
第一部 リヴァ
第二部 アロリア
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
熊神教徒の逆襲
[#改ページ]
登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ゲラン………………………………………ガリオンの世継ぎ
カイル………………………………………ガリオンの側近
ベルガラス…………………………………魔術師
ポレドラ……………………………………ベルガラスの妻
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エランド……………………………………〈珠〉を運んだ少年
ベルディン…………………………………魔術師
アンヘグ……………………………………チェレク王
バラク………………………………………チェレク王のいとこ
ヘター………………………………………アルガリア王の世継ぎ
ポレン………………………………………ドラスニア王妃
ケルダー(シルク)………………………ドラスニア王のいとこ
マンドラレン………………………………ミンブレイト人
レルドリン…………………………………アレンド人
ヤーブレック………………………………ナドラク人
ウルフガー…………………………………熊神教徒の指導者
[#改丁]
第一部 リヴァ
[#改ページ]
そのふたつはつながらなかった。ふたつの文章をどうひねくりまわしたところで、意味をひとつにする方法はなさそうだった。どちらも同じ時期のことをあらわしているらしいのだが、まるで意味がかみあわない。外は明るい金色の秋の朝だったが、ほこりっぽい書庫の中は薄暗く、ひんやりしていて、味気なかった。
ガリオンは自分を学者とは思っていなかったから、ベルガラスに与えられたその仕事にいやいや手をつけていた。気がすすまない理由のひとつは、読まなくてはならない文書がうんざりするほどたくさんあることだった。古い羊皮紙とカビのはえた革表紙のにおいとが充満したこの陰気な小部屋にいると、いつも暗い気持ちになった。だが、これまでにもいやなことをいろいろやってきたので、多少憂鬱ではあっても、毎日忠実にこの牢屋のような小部屋に最低二時間はこもって、難解な手書きの大昔の本や巻物と取り組んでいた。洗い場でなべを洗うよりましだと自分に言い聞かせつつ。
ガリオンは腹をきめると、ふたつの巻物をテーブルにならべて見くらべた。目が見落としたものを耳がすくいあげてくれるかもしれないと思い、ゆっくり声にだして読んでみた。『ダリネの書』は比較的明瞭でわかりやすかった。「『見よ。〈アルダーの珠〉が深紅の炎に燃える日に、〈闇の子〉の名が現われるであろう。〈光の子〉の息子は厳重に守られるべきである、なんとなれば、かれには兄弟がないからである。かつてはひとつであり、いまはふたつになったこれらがふたたびひとつになるとき、その再結合において、かれらのうちひとりは死ぬことになろう』」
〈珠〉が深紅にかわったとき、〈闇の子〉の名前――ザンドラマス――が現われた。そこまでは事実に合っている。〈光の子〉の息子――かれの息子――に兄弟がいないというくだりは、ガリオンをちょっと不安にさせた。最初かれはセ・ネドラとの間に子どもがひとりしか生まれないということだろうと思ったが、よく考えるにつれて、その解釈はまちがっていることに気づいた。息子はひとりだけという意味なのだ。娘についてはまったくふれていない。考えれば考えるほど、ガリオンの頭には、ぺちゃくちゃおしゃべりする小さな女の子たちに膝にまつわりつかれている図がうかんできた。
しかし最後の節――かつてはひとつだったものがふたつになるというくだり――はまだなんのことかよくわからなかった。だが最終的にはきっとわかるだろう。
ガリオンは『ムリンの書』の数行を指でたどりながら、ゆらめく黄色い蝋燭の光の中で目をこらした。もう一度ゆっくり注意しながら読んでみた。「『そして〈光の子〉は〈闇の子〉と対決し、かれに打ち勝ち――』」あきらかにトラクとの対決のことだ。「『――〈闇〉は消え失せるであろう』」〈闇の予言〉はトラクが死んだときに消えていた。「『しかし、見よ、光の中心にある石が――』」〈珠〉を指しているのはまちがいないが、つぎの言葉がよごれて見えない。ガリオンは眉をひそめて、その不定形なインクのしみの下にある言葉を読み取ろうとした。目を皿のようにしているうちに、奇妙な疲労がおそってきた。しみの下にあるものを見つけようとする努力は、まるで山を動かすようなものだった。ガリオンはあきらめて、その先を読んだ。「『――そしてこの対決はもはや存在しない場所でおこなわれ、選択がなされるであろう』」
その最後の文を読むと、ガリオンはわめきたい衝動にかられた。もはや存在しない場所で、どうして対決が――ほかのどんなことだろうと――できるのだ? それに選択≠ニいう言葉の意味はなんだろう? どんな選択なのか? だれの選択なのか? なにとなにのあいだの選択なのか?
ガリオンは毒づきながらもう一回読んだ。ページのしみのところにくると、またさっきと同じ妙な倦怠感がおそってきた。かれはそれをふりはらって読みつづけた。しみの下の言葉がどんなものだろうと、ただの一語だし、たったひとつの言葉がそんなに重大なわけはない。ガリオンはいらいらと巻物をわきへおしやって、ふたつの巻物のくいちがいを考えた。一番てっとりばやい解釈は、ほかの大部分がそうであるように、この部分にもムリンの予言者のかの有名な狂気が反映していると考えることだ。もうひとつの可能性は、ほかならぬこの写本が必ずしも正確ではないのではないかということである。これを写した筆記者が不注意からページをよごしたときに一、二行とばしてしまったのかもしれない。ガリオンは自分がそういうことをしでかしたときのことを思いだした。おだやかそのものであるはずの布告が、へまのおかげで恐ろしい宣言書に変わってしまい、すんでに〈東の崖〉のこちらがわにある王国すべてに君臨する軍事的独裁者を名乗るところだったのだ。その大しくじりに気づいたとき、かれは不快なくだりを消すだけでは物たりず、みぶるいしながらだれにも見られないようにと丸ごと燃やしてしまった。
ガリオンは立ちあがって伸びをし、こわばった筋肉をほぐすと、格子のはまった図書室の小さな窓に近づいた。秋の空はすがすがしい青だった。この数週間、夜はめっきり冷え込んで、都市上方の草原は、日が昇るころには霜がおりるようになった。しかし昼間はあたたかく、黄金色に輝いている。ガリオンは太陽の位置をたしかめて時間を推測した。正午にトルネドラ大使のヴァルゴン伯爵と会う約束をしている。時間には遅れたくなかった。ポルおばさんは時間厳守の大切さをかねがね力説していたし、ガリオンはつねに時間を守るよう最善をつくしていた。
テーブルにもどると、相反する文章に頭を悩ませながら、ぼんやりとふたつの巻物を巻きなおした。それから蝋燭を吹き消し、ドアを注意深くうしろ手にしめて書庫を出た。
ヴァルゴンは例によって退屈だった。トルネドラ人は生まれつきもったいぶった性格の民族らしい。だから、なにか発言するときでも、多方面にわたって話を潤色せずにいられないのだ。その日の話し合いの焦点は、リヴァの港における商船の荷おろしの優先順≠フことについてだった。ヴァルゴンは優先順≠ニいう言葉がいたく気に入っているらしく、なにかにつけてそれを口にした。要するに、都市のふもとにある制限つきの波止場にはいるさいは、トルネドラの商人たちに最初の入港権を与えてほしいと要請――というより、要求――しているらしかった。
「ヴァルゴン伯爵」ガリオンは外交的手段でそれを拒否しようとした。「ぼくが思うには、この問題は――」かれはしゃべるのをやめて顔をあげた。謁見の間の彫刻をほどこした堂々たるドアがバタンと内側に開いたからだ。
ガリオンが謁見の間にいるときはいつも外で見張りに立っている、灰色のマント姿の雲をつくような歩哨のひとりがはいってきて、咳払いをし、島の反対側にいても聞こえそうな大声で言った。「リヴァのベルガリオン陛下、すなわち〈神をほふる者〉、すなわち〈西海の主〉、すなわち〈西方の大君主〉の愛する奥方であられる、トルネドラ帝国の皇女にして、西方の軍勢の指揮官であるリヴァのセ・ネドラ王妃のおこしです!」
小柄なセ・ネドラが仰々しい肩書の重みをはねのけるようなすまし顔で歩哨のあとからはいってきた。せりだしたおなかの線を隠すために身頃の下にギャザーをよせた小鴨のような緑色のビロードのガウンをきて、いたずらっぽく目をきらめかせている。
ヴァルゴンがふりかえってすかさずお辞儀した。
セ・ネドラは歩哨の腕にさわると、爪先だって耳元になにごとかささやいた。歩哨はうなずき、正面の王座のほうへふたたびむきなおって、また咳払いした。「故ローダー王の甥であられ、ケヴァ王のいとこ、北の境界地方の所有者であられるドラスニアのケルダー王子のおでまし!」
ガリオンはびっくりして王座から腰をうかせた。
シルクが堂々とはいってきた。上着は贅沢なパール・グレイで、指にはいくつもの指輪がきらめき、大きなサファイアをぶらさげた重たげな金鎖のペンダントを首にかけている。「そのまま、おふたかた」シルクはガリオンとヴァルゴン伯爵にむかって片手をふってみせた。「お立ちになる必要はないですよ」かれが優雅にセ・ネドラに腕をさしだすと、ふたりは赤々と火の燃える三つの暖炉の前を通って、広い絨緞敷の通路をすすんできた。
「シルクじゃないか!」ガリオンは叫んだ。
「いかにも」シルクはふざけてちょっとお辞儀した。「陛下はご機嫌うるわしいようですな――思いのほか」
「思いのほか?」
シルクは片目をつぶった。
「かの有名な商才にたけた王子閣下にお目にかかれてじつに光栄です」ヴァルゴンが丁重につぶやいた。「この数年、閣下は伝説上の人物になられておいでですよ。東部での偉業にはトル・ホネスの裕福な商家もすっかりお手あげです」
「ほどほどの成功ですよ」シルクは左手にはめた大きなルビーの指輪に息をふきかけて、上着の前身頃で磨いた。「今度の報告書の中で、新皇帝によろしくおつたえください。ヴォードゥ問題を解決なさった手際はあっぱれでした」
ヴァルゴンはかすかな微笑をうかべた。「閣下のご意見なら陛下はきっとよろこんでお聞きになりましょう、ケルダー王子」かれはガリオンのほうを向いた。「陛下はご友人とつもる話がおありでしょうから、この件はまたの機会にいたします」ヴァルゴンはお辞儀した。「お許しがあれば、これで失礼いたしますが」
「いいとも、ヴァルゴン。ありがとう」
トルネドラ人はふたたびお辞儀して、静かに謁見の間を出ていった。
セ・ネドラは王座の足元までくると、親しげにシルクの腕に腕をからませた。
「お邪魔じゃなかったかしら、ガリオン。ヴァルゴンとはさぞ魅力的なお話ができたんでしょうね」
ガリオンは顔をしかめた。「あの仰々しさはなんのつもりだったんだ?」興味深そうにたずねた。「あの肩書は?」
シルクがにやにやした。「セ・ネドラの考えなんだ。肩書をずらりと並べたら、ヴァルゴンが圧倒されてききわけよく消えてくれると考えたんだよ。なにか重要な話をしてたのかい?」
ガリオンは皮肉っぽくシルクを見た。「かれはトルネドラの商船の荷おろし問題をしゃべっていたんだ。もう一回優先順≠ニいう言葉を口にしたら、とびあがって、首をしめてやるところだった」
「あら?」セ・ネドラが目を丸くして少女っぽく言った。「それじゃ、かれを呼び戻しましょうよ」
「ヴァルゴンがきらいらしいね」シルクがそれとなく言った。
「ホネス一族の人間ですもの」セ・ネドラは品の悪い音をたてながら答えた。「わたしはホネス一族がきらいなの」
「どこか話のできる場所へ行こう」ガリオンが堅苦しい雰囲気の部屋を見回しながら言った。
「陛下の仰せのとおりに」シルクが深々と頭をさげた。
「やめてくれったら!」ガリオンは壇からおりて、先にたって脇のドアにむかった。
静かで日当たりのいい聖域、つまり王宮につくと、ガリオンは安堵のためいきとともに冠をとり、堅苦しい王の衣服をぬいだ。「これがどんなに暑いかわからないだろうね」ガリオンはそう言いながら、ぬいだ物を隅の椅子にほうりなげた。
「しわにもなるしね、ディア」セ・ネドラは衣服をとりあげると、注意深くたたんで椅子の背にかけた。
「マロリーのサテンでつくったのをひとつ見繕おうか――適当な色で、銀糸をぬいこんだやつを」シルクが言った。「えらく豪華にみえるぞ――品もいい――あまり重くもないしな」
「それはいい考えだ」とガリオン。
「しかもきわめて魅力的値段で提供できるはずだ」
ガリオンがびっくりした顔を向けたので、シルクは笑った。
「あいかわらずね、シルク?」セ・ネドラが言った。
「そりゃそうだよ」ちびの泥棒はすすめられもしないのに、椅子にゆったりと腰をおろした。
「どうしてリヴァにきたんだ?」ガリオンはテーブルをはさんですわりながらたずねた。
「愛情のなせるわざさ――すくなくとも理由の大部分はね。きみたちふたりにもう何年も会っていなかっただろう」かれはきょろきょろした。「なにか飲み物はないだろうな?」
「さがせばなにかでてくるよ」ガリオンはにやにやした。
「おいしいワインがあるわ」セ・ネドラが磨き込まれて黒光りした戸棚に歩み寄った。「わたしたち、ガリオンをお酒から遠ざけておこうと努力しているの」
シルクの眉がかたほうつりあがった。
「お酒を飲むと、歌をうたいたくなる困った傾向があるのよ」王妃は説明した。「あれをお聞かせするのはしのびないわ」
「もういい」ガリオンがたしなめた。
「声は悪くないのよ」セ・ネドラは無情につづけた。「問題は正しいメロディをさがそうとしてそれを見つけられない点にあるの」
「耳ざわりってわけか?」ガリオンはきいた。
セ・ネドラはころころ笑うと、ふたつの銀の酒杯に血のように赤いトルネドラのワインを満たした。
「きみは飲まないのか?」シルクがたずねた。
彼女は顔をしかめた。「リヴァ王の跡継ぎはあまりワインが好きじゃないのよ」セ・ネドラはふくらんだおなかにそっと片手を置いた。「それとも、大好きなのかもしれないわ。わたしがお酒をのむと、おなかをけりはじめるのよ。肋骨を何本も折られたくないし」
「ははあ」シルクは物わかりよく言った。
セ・ネドラは酒杯をテーブルに運ぶと、「さて、失礼してよければ、そろそろお風呂にはいる時間なの」
「彼女の趣味なんだ」ガリオンが言った。「毎日午後になると最低二時間は婦人用の風呂にはいってる――どこもよごれていないときでもね」
セ・ネドラは肩をすくめた。「背骨が休まるのよ。このところ、この荷物をずっとかかえているでしょう」ふたたび彼女はおなかに手をあてた。「日に日に重くなっていくみたいなの」
「赤ん坊を産むのが女でよかったよ」シルクが言った。「おれなんかか弱くて[#「か弱くて」に傍点]とてもだめだ」
「いじわるね、ケルダーのおちびさん」セ・ネドラは辛辣に言い返した。
「そうさ」シルクはにやにやした。
こわい目でかれをにらみつけてから、セ・ネドラはいつもの風呂仲間のレディ・アレルをさがしに行った。
「彼女、咲きこぼれんばかりだね」シルクが感想を述べた。「それに思っていたほどご機嫌ななめじゃない」
「数ヵ月くるのが遅かったよ」
「そのころはひどかったか?」
「想像もつかないくらいね」
「それが普通らしい――そういう話だ」
「最近はどうしてたんだ?」ガリオンは椅子にくつろいだ。「あまり噂をきかなかったけど」
「マロリーにいたんだ」シルクはワインをすすった。「毛皮貿易ももうあまり刺激的じゃなくなったし、そっちのほうはヤーブレックが扱っているんでね。マロリーの絹や絨緞や原石のままの宝石でたっぷり稼げそうだと思ったんで、調査に行ってたのさ」
「西の商人がマロリーにいるのはちょっと危険じゃないか?」
シルクは肩をすくめた。「そのことなら、ラク・ゴスカよりはましだ――あるいはトル・ホネスよりは。なんてったって、生まれてこのかたずっと危険な場所で過ごしてきてるんだぜ、おれは、ガリオン」
「ヤー・マラクかタール・ゼリクでマロリーの船がはいったときに商品を買うわけにはいかないのか?」
「仕入れ元のほうが値が安いんだよ。人手を通すと、常に値段は倍になる」
「それもそうだね」ガリオンは友人を見ながら、行きたい場所ならどこへでも行けるその自由をうらやましく思った。「本当のところ、マロリーはどんななんだ? いろいろ話は耳にはいってくるが、実態とはちがうような気がするんだよ」
「いまは混乱のただなかにある」シルクは重々しく答えた。「カル・ザカーズはマーゴとの戦いを中断しているし、グロリムたちはトラクの死を聞いてちりぢりになってしまった。マロリーの社会はこれまでずっとマル・ゼスかマル・ヤスカ――皇帝か教会――から指示をうけていたが、いまはそういう人物がいないらしい。政府官僚が秩序を保とうと努めているが、マロリー人は強力なリーダーシップを求めている。そして目下のところそれが得られていない。ありとあらゆるたぐいの異常事態が表面化しつつある――反乱とか新興宗教とかいったことがね」
ガリオンはふと思いついて、好奇心からたずねた。「ザンドラマスという名前に出くわしたことは?」
シルクは鋭くガリオンを見た。「きみがそれをたずねるとはふしぎなこともあるもんだな。ボクトールにいたとき、ローダーが亡くなるちょっと前のことだが、おれはジャヴェリンと話していた。たまたまそこにエランドがいて、ジャヴェリンに同じ質問をしたんだよ。それはダーシヴァの名前だとジャヴェリンは答えていたが、かれが知っていたのはそれだけだった。マロリーに戻ったとき、二、三の場所で聞いてみたんだが、ザンドラマスという言葉をおれが口にするたび、どいつもこいつも口をぎゅっとむすんで、こぶしをにぎりしめるのさ。しまいにはあきらめたよ。思うに、さっき言った新興宗教のひとつと関係があるんじゃないかな」
「サルディオンか――クトラグ・サルディウスというものについて、なにか聞いたことはない?」
シルクは眉間にたてじわをよせて、考えこむように酒杯のふちで下くちびるをそっとたたいた。「聞いたことがあるような気はするんだが、どこで聞いたのか思いだせない」
「もし思いだしたら、どんなことでも教えてくれるとありがたいんだがな」
「重要なことなのか?」
「たぶんね。おじいさんとベルディンはそれをつきとめようとしてるんだ」
「マル・ゼスとメルセネに情報提供者がいるから、戻ればなにかわかるだろう」
「じゃあ、すぐ帰っちゃうの?」
シルクはうなずいた。「ここにいたいのはやまやまなんだが、ヤー・ナドラクでちょっとした危機がもちあがってね。ドロスタ王がだんだん欲深になってきたんだ。ドロスタ王の王国におけるわれわれの活動を黙認してもらうために、これまでずっとやっこさんにはきわめて健全なる袖の下を使ってきたんだ。ところが、われわれが莫大な利益をあげているのを知って、ガール・オグ・ナドラクにおけるわれわれの保有地をとりあげる考えをもてあそびはじめたのさ。そういう考えを捨てさせるために、帰ってドロスタと話しあわねばならん」
「保有地なんてどうやって手にいれたの? ドロスタはガール・オグ・ナドラクではやりたいほうだいやっているのかと思ってた」
「脅迫したのさ。おれがドラスニアの王とごく親しいことを指摘してから、カル・ザカーズと大の仲良しだとほのめかしたんだ。東からの侵入も、西からの侵入も、いただけないと思ったんだろう。ドロスタはおとなしくなった」
「ザカーズと仲良しだって?」
「会ったこともないよ――しかし、そんなことドロスタは知らん」
「嘘をついたのかい? 危険じゃないの?」
シルクは笑った。「危険なことはごまんとあるよ、ガリオン。おれたちだって前にやばいところにいたことがあるんだぞ。ラク・クトルは世界一安全な場所じゃなかったし、クトル・ミシュラクにいたときだって、おれはおっかなびっくりだったんだぜ」
ガリオンは酒杯をいじった。「じつはね、シルク、あのころがなつかしくてたまらないんだよ」
「あのころのなにが?」
「さあ――危険とか、興奮がかな。ここはぼくには整然としすぎてる。このところぼくがあじわった興奮なんて、トルネドラ大使をうまくあしらったことぐらいだ。ときどき自由が――」そこまで言ってかれは口をつぐんだ。
「なんなら、おれといっしょにマロリーへきたっていいんだぜ。きみのような才能ある人間にぴったりのおもしろい仕事を見つけてあげられるよ」
「ぼくがいま出発したらセ・ネドラがヘソを曲げる」
「おれが結婚しなかった理由のひとつは、それなんだ」シルクは言った。「おかげでそういう苦労とは縁がない」
「ボクトールには寄っていく予定?」
「ちょっとだけだがな。ヤー・ナドラクからここへくる途中、会う必要のある連中のところへ行ってきたんだ。ポレンはケヴァをもりたててうまくやっていたよ。大きくなったら、かれはいい王になるだろう。それにもちろんジャヴェリンのところにも寄った。これは予定どおりの行動でね、ジャヴェリンは諜報部にたいする諸外国の印象を聞くのが好きなのさ――おれたちが公的資格をおびて活動していない場合でもね」
「ジャヴェリンは優秀な人物なんだろうね?」
「かれにかなう者はいないな」
「トップはシルクだとばかり思ってた」
「いやいや、ガリオン」シルクはにやりとした。「おれは気まぐれすぎる――頭はきれるが、気まぐれでね。すぐわきみちにそれちまうんだ。そこへいくと、ジャヴェリンはなにかを追いだしたら、とことんやる。いまは熊神教の真相をつかもうとしてるよ」
「なにか成果は?」
「まだだ。信仰の内部評議会にだれかを潜入させようと数年間がんばっているが、まだうまくいってない。〈狩人〉を送りこむべきだとおれは言ったんだが、〈狩人〉はほかのことで忙しいらしい。よけいなお世話だとさ」
「〈狩人〉? 〈狩人〉ってだれなんだ?」
「おれにもわからん」シルクは認めた。「じっさいには、だれ、じゃない。〈狩人〉ってのは、われわれ密偵の最高秘密につけられる名前で、ときどき変わる。〈狩人〉の正体を知っているのはジャヴェリンだけで、かれはだれにも言おうとしない――ポレンにさえね。しばらくジャヴェリン自身が〈狩人〉だったこともある――十五年ほど前だ。だが、必ずしもドラスニア人でなくてもいい――男である必要もない。世界中のだれででもありうるんだ。おれたちが知っている人間の可能性だってある――バラクとかレルグとか――それともニーサにいるだれかということだってね」
「マンドラレンなんかは?」ガリオンはにやにやしながら言った。
シルクは考えこんだ。「それはないな、ガリオン。マンドラレンにはしかるべき能力がないよ。だが、おどろくな、いくつかのケースでは、マーゴが〈狩人〉だったことさえあるんだ」
「マーゴが? どうしてマーゴなんかを信用できたんだ?」
「〈狩人〉がつねに信頼できる存在だとは言わなかったぜ」
ガリオンはあきれてかぶりをふった。「密偵や密偵のすることは永久にわからないな」
「ゲームなんだ。しばらく演じていると、ゲームそれ自体のほうが、自分がどっち側にいるかということより重要になってくる。われわれの行動の理由も、ときにはかなりあいまいになることがあるのさ」
「それは気づいてたよ」ガリオンは言った。「話題になったついでに聞くけど、リヴァへきた本当の理由はなんなの?」
「それほど秘密めかしたことじゃないんだ、ガリオン」シルクは灰色の上着の袖口をなおしながら、品よく答えた。「二、三年前に気づいたんだが、旅回りの商人というのはともすると現場にうとくなるんだよ。事情通でいたかったら、現場に代理人をおくことが必要だ――とっさの事態をたくみに利用できるような人物をね。リヴァのある商品――ガラスや上質のブーツや毛織のマントとかいったものを売りさばく市場を開拓したんで、ここに代理人を置くのも悪い考えじゃなさそうだと判断したんだ」
「それはすばらしい考えだよ、シルク。都市はちょっと沈滞ムードなんだ。新しい産業が生まれたら、活気づくかもしれない」
シルクはにっこりした。
「ぼくとしても、付加的歳入を利用できるしね」
「え?」
「税金だよ、シルク――微々たる額さ、わかってくれるだろう。王国って切り回すのにすごく金がかかるものなんだ」
「ガリオン!」シルクの声はとがっていた。
「ぼくが学んだ最初のひとつが税金問題なんだよ。みんなが同じ額を払っていれば、税金なんてだれも気にしない。だから例外をつくるわけにいかないんだ――たとえ古い友人が相手でもね。カイルに紹介しよう。かれはぼくの管財人なんだ。カイルがお膳立てをととのえてくれるよ」
「きみには失望したよ、ガリオン」シルクはしょんぼりした顔で言った。
「何度も自分で言ったじゃないか、ビジネスはビジネスだって」
ドアに軽いノックがあった。
「なんだ?」ガリオンがきいた。
「リヴァの番人がおいでです、陛下」廊下で歩哨が言った。
「通してくれ」
長身で白髪頭のリヴァの番人が静かにはいってきた。「ケルダー王子」シルクに短く会釈してから、かれはガリオンのほうを向いた。「お邪魔をして申しわけありません、陛下」と謝ってから、「ですが、急な用件でして」
「かまわないよ、ブランド。かけてくれ」
「ありがとうございます、ベルガリオン」ブランドは重々しく言うと、そろそろと椅子に腰を沈めた。「脚が昔のようにいうことをきいてくれなくなりまして」
「年をとるのは楽しくないんだろうな? 心はおだやかになっても、ほかのところに問題がでてくる」
ブランドは短く微笑した。「この城塞の守備隊のあいだでちょっといさかいがあったのです、ベルガリオン」かれはすぐに本題にはいった。「いずれわたし自身が問題の若者ふたりを罰するつもりですが、陛下からお話しいただければ、流血が避けられるのではないかと思ったのです」
「流血?」
「当初かれらはじつにくだらないことで言い争っていたのですが、それがしだいにエスカレートしてとっくみあいになり、どちらも歯を二、三本へしおりました。ふつうならそこで終わるところが、ふたりとも正式な果たし合いを宣言しあうしまつです。剣が抜かれることだけは陛下もお望みではないと思いますが」
「もちろんだ」
「わたしが果たし合いをやめさせることもできるのですが、かれらが夜のうちにこっそり外へ出て、人目につかぬ場所で一騎討ちをしないともかぎりません。王から話してくだされば、そのような愚行は回避できると存じます。ふたりともよい若者ですし、わたしとしてもかれらがこまぎれになって犬の餌にされるのはしのびないのです」
ガリオンは同意のしるしにうなずいた。「まずそのふたりをぼくのところへ――」
肌身はなさずつけているメダルが、胸の上でピクリと奇妙な動きかたをし、ガリオンはおどろいてしゃべるのをやめた。その護符が不意にやけどしそうに熱くなり、耳の奥でふしぎな低いうなりが聞こえた。
「どうした、ガリオン?」シルクが妙に思ったのか、たずねた。
うなりの出所をつきとめようと片手をあげて制したとき、胸に一撃をくらったような衝撃が護符から伝わってきた。うなりがこなごなに砕け、セ・ネドラの叫びが聞こえた。
(ガリオン! 助けて!)
ガリオンがいきなり椅子から立ち上がったので、ブランドとシルクは目をみはった。「セ・ネドラ? どこにいるんだ?」
(助けて、ガリオン! お風呂よ!)
「いそげ!」ガリオンはふたりに叫んだ。「セ・ネドラが助けを求めてる――風呂場だ!」部屋からかけだす途中、隅にあった鞘におさまった普通の剣をわしづかみにした。
「なにごとだ?」シルクは外廊下にとびだしながら問いただした。
「わからない」ガリオンはさけんだ。「彼女が助けを求めてる」走りながらガリオンは剣をふって鞘からだそうとした。「風呂でなにかがおきたんだ」
城塞の地下にある風呂場までの、たいまつに照らされた階段が永遠につづくように思えた。一度に三、四段つつ階段をかけおりるガリオンのあとに、シルクとブランドがぴたりとつづいた。形相もすさまじく、抜き身の剣を手にかけおりるかれらを見て、召使いや官吏がびっくりして道をあけた。
最後の階段をおりきって、婦人用の風呂場にたどりついたが、ドアは内側から施錠されていた。ガリオンはただちに意志の力を召集し、鍵に焦点をあわせて命じた。「開け!」鉄のドアが内側にひらいて、蝶番《ちょうつがい》がふきとんだ。
おそるべき光景が目の前にあった。レディ・アレルが肩甲骨のまんなかを短剣でひとつきにされて、タイルの床の上にくたっと倒れていた。湯気のたつ湯船の中央で、黒マントの痩せて背の高い女がなにか――力なくもがくなにか――を水中におさえつけており、もがいているものの真上に茜《あかね》色の髪が大きな扇のように広がっていた。
「セ・ネドラ!」ガリオンは叫ぶが早いか、剣をかざして湯船にとびこんだ。
マントの女はぎくりとしたようにガリオンを一瞥すると、狂ったように水をはねとばしながら、怒れる王から逃げだした。
セ・ネドラの小さな体がうつぶせのまま、ぐったりと水面にうかびあがってきた。ガリオンは苦悩の叫びをあげて、剣を投げすて、腰まである温かい湯をかきわけながら、死にものぐるいで腕をのばし上下にゆれている体をつかもうとした。
ブランドは憤怒の声をあげて、剣を高く持ち上げ、湯船を囲むタイル貼りの通路を走りながらマントの女を追いかけた。女は湯船の向こう側にある狭い戸口をくぐって風呂場の外へ逃げたが、シルクはすでにブランドより早く、刃の長い剣を低くかまえて女のあとを走っていた。
ガリオンは両腕に妻の体をつかむと、必死に湯船のはじへ進もうとした。かれは恐怖とともに妻が息をしていないことに気づいた。
「どうしたらいい?」ガリオンはうちのめされて叫んだ。「ポルおばさん、どうしたらいい?」しかしポルおばさんはいなかった。かれはセ・ネドラを湯船のわきのタイルの上に横たえた。動く気配はなく、呼吸もなかった。顔は青ざめた灰色に変わっている。
「だれか、助けてくれ!」ガリオンは小さな生気のない体をひしと抱きしめて叫んだ。
なにかが胸の上でびくっとした。生の気配を死にものぐるいでさがしながら、妻の物言わぬ顔をのぞきこんだ。しかしセ・ネドラは動かなかった。小さな体はぐったりしたままだった。ガリオンはまた彼女をしっかり抱き寄せた。
またも胸がびくっとした――心臓をなぐられたような気持ちだった。もう一度セ・ネドラを体から離し、その奇怪なはげしい動きのみなもとを涙にかすむ目でさがしもとめた。風呂場の大理石の壁にかかったたいまつのゆらめくあかりが、彼女の喉もとの銀の護符のぴかぴか光る表面に反射しているようだった。もしや――? かれはふるえる手でお守りをさわってみた。指がじんとし、おどろいて手をひっこめた。つぎに護符をにぎりしめてみた。銀の心臓のように、それが手の中でたよりない鼓動をきざんでいるのが感じられた。
「セ・ネドラ!」ガリオンは鋭く言った。「目をあけてくれ。死んじゃだめだ、セ・ネドラ!」しかし妻は身じろぎもしなかった。護符をにぎりしめたまま、ガリオンは泣きだした。「ポルおばさん」かれはしゃくりあげた。「どうしたらいいんだ?」
「ガリオン?」数百マイルのかなたから、ポルおばさんのおどろいた声が聞こえた。
「ポルおばさん」ガリオンはすすり泣いた。「助けて!」
「どうしたの? なにがあったの?」
「セ・ネドラが――おぼれたんだ!」溺死の恐怖がすさまじい一撃となって襲いかかってきて、ガリオンはふたたび大声をあげてすすり泣きはじめた。
「やめなさい!」ポルおばさんの声がむちのようにひびいた。「どこで? いつ起きたの?」
「風呂場でだよ。息がとまってるんだ、ポルおばさん。死んじゃったんだよ」
「泣きごとはやめるのよ、ガリオン!」その声がガリオンの顔に平手うちをくわせた。「息がとまってからどのくらい?」
「二、三分かな――わからないよ」
「一刻もむだにできないわ。湯船からは出したの?」
「うん――でも息をしてないし、顔は灰みたいな色になってる」
「ようく聞くのよ。肺から水を出さなくちゃならないわ。セ・ネドラをうつぶせにして、背中を押しなさい。普通の息をするように、同じリズムでやってみて、強く押しすぎないように気をつけて。赤ちゃんに怪我をさせたくないでしょう」
「でも――」
「言われたとおりにするのよ、ガリオン!」
かれは物言わぬ妻をうつぶせにして、注意深く背中をおしはじめた。びっくりするほどたくさんの水が小柄な妻の口から出てきたが、あいかわらず彼女はぐったりしたままだった。
ガリオンは手をとめて、また護符をつかんだ。「なにも起こらないよ、ポルおばさん」
「つづけるのよ」
ガリオンはまたセ・ネドラの背中を押しはじめた。あきらめかけたとき、セ・ネドラが咳をし、かれは安堵のあまり泣きそうになった。ガリオンは背中を押しつづけた。セ・ネドラはまた咳こみ、そのあと弱々しく泣きはじめた。ガリオンはお守りをつかんだ。「セ・ネドラが泣いてる、ポルおばさん! 生きてるんだ!」
「よかった。もうやめていいわ。なにがあったの?」
「どこかの女が風呂場でセ・ネドラを殺そうとしたんだ。シルクとブランドが今そいつを追いかけてる」
長い沈黙があった。「わかったわ」ポルおばさんはようやく言った。「それじゃ、聞いてちょうだい、ガリオン――注意して聞いて。こんなことのあとだから、セ・ネドラの肺はとても弱ってるわ。一番の危険は充血と熱よ。温かくして、安静にしなくちゃいけないわ。セ・ネドラの命と――それに赤ちゃんの命は、それにかかってるのよ。息がしっかりしてきたら、すぐにベッドに寝かせなさい。わたしもなるべく早くそっちへ行くわ」
ガリオンはすばやく行動した。ありったけのタオルとローブを集めて、力なく泣いている妻のためにベッドを作った。マントで彼女をくるんだとき、シルクがむっつりした顔でもどってきた。すぐあとにつづくブランドは、はた目にもはっきりわかるほど息をきらしていた。
「王妃はご無事ですか?」番人は必死の面もちでたずねた。
「だいじょうぶのようだ」ガリオンは言った。「息を吹き返した。女は逃げたのか?」
「というわけでもない」シルクが答えた。「あの女、胸壁まで階段をかけあがった。胸壁にたどりついたとき、おれはすぐ背後にいたんだ。逃げ道がないと見ると、飛び降りたよ」
ガリオンはそれを聞いて満足感がこみあげてくるのをおぼえた。「よかった」考えもせずに言った。
「いや、よくはないだろう。問いただす必要があった。だれの差金でこんなことをしたのか、これでもうわからなくなってしまったんだからな」
「そうか」
ブランドは姪の死体のそばに立っていた。「かわいそうな、アレル」涙声で言うと、かたわらにひざまずき、背中からつきでている短剣をつかんだ。「死にあっても、アレルは王妃にお仕えしたのです」その声はほとんどほこらしげだった。
ガリオンはブランドを見た。
「短剣が深く刺さっています」ブランドはそれをひきぬこうとしながら、説明した。「アレルを殺した女はこれをひきぬくことができなかったのですよ。だから、セ・ネドラを溺死させようとしたのです。この短剣を使うことができていれば、われわれは間にあわなかったでしょう」
「犯人は必ず見つけ出すつもりだ」ガリオンはくいしばった歯のすきまからきっぱりと断言した。「生皮をはいでやる」
「悪くない」シルクが同意した。「もしくは、ゆでちまうか。おれは昔からゆでるのが好きなんだ」
「ガリオン」セ・ネドラが弱々しく言った。頭にうかんでいたさまざまな復讐法がたちどころに消え、ガリオンは妻のほうを向いた。セ・ネドラを抱き寄せているあいだ、シルクがブランドに話しかける静かな声がぼんやりと聞こえていた。
「暗殺未遂者の死体が回収されたら」小男はきびきびした声で言っていた。「身につけているものを残らずおれのところへ持ってきてもらいたいんだ」
「衣類を?」
「そう。女はもう口をきけないが、衣類はなにかしゃべるかもしれん。衣服を見ることで、その人間についてどんなにたくさんのことがわかるか、あんたもきっとびっくりするよ。おれたちはこの背後にだれがいるのかつきとめたい。あそこにいるあの女が唯一の手がかりなんだ。女が何者で、どこからきたのか知りたい。それが早くわかれば、それだけ早く油を煮えたぎらせることができる」
「油?」
「背後で糸をひいているやつをフライにしてやりたいのさ――細心の注意を払いながら、じわじわとね」
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ポルガラは同じ日の午後遅く到着した。数週間でなく数時間のうちに、間に横たわる何百リーグの道のりを越えてきたふしぎを問う者は、さすがにひとりもいなかった。しかしながら、胸壁のてっぺんで見張りに立っていた歩哨は、ポルガラを病室へ案内しながら、やや目を血走らせていた。まるでしゃべりたくないものをたったいま見たかのように。
彼女が到着したそのとき、ガリオンは採血の治療価値をめぐって、宮廷医のひとりと議論のまっさいちゅうだった。会話はけっきょく物別れに終わり、刺らく[#「刺らく」に傍点]針を手にベッドに近づいた医者は、ガリオンが剣をつかんで目の前にたちはだかったのにぎょっとした。「妻の血管をそれで開くつもりなら」若い王は有無をいわさぬ口調で言った。「これであんたの血管を開いてやるぞ」
「そこまで」ポルガラはてきぱきとわってはいった。「けっこうね、ガリオン」彼女はマントをぬいで、椅子の背にかけた。
「ポルおばさん」ガリオンは安堵のあえぎをもらした。
ポルガラの視線はすでに、小柄な王妃を看病している四人の医者のほうを向いていた。「ごくろうさま、みなさん。必要とあれば、お呼びするわ」行ってよろしいと言わんばかりの断定的口調に、四人はおとなしく一列になって出ていった。
「レディ・ポルガラ」セ・ネドラがベッドから弱々しい声で言った。
ポルガラはすぐにセ・ネドラのほうを向いた。「なあに、ディア」セ・ネドラの小さな手を包み込むようにした。「気分はどう?」
「胸が痛むし、目をあけていられないような気がするの」
「すぐによくしてあげるわ、ディア」ポルガラは安心させるように言うと、批判的な目つきでベッドを眺めた。「もっと枕がいるわ、ガリオン。セ・ネドラを起き上がった状態にしておきたいのよ」
ガリオンはいそいで外の廊下に通じるドアにかけよった。
「はい、陛下?」ドアをあけると、廊下に立っていた歩哨が応じた。
「枕を一ダースばかりもってきてくれないか?」
「かしこまりました、陛下」歩哨は廊下を歩き出した。
「そうだ、二ダースにしてくれ」背中によびかけて、ガリオンは病室に戻った。
「本気ですわ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラが力ない小さな声で言っていた。「どちらかを選ばなくてはならない状態になったら、赤ちゃんを助けてください。わたしのことはかまわないで」
「わかったわ」ポルガラはしかつめらしく言った。「まあせいぜいそういうたわごとでも言って気分を安めることね」
セ・ネドラは目をみはった。
「お涙ちょうだいにはいつも吐き気をもよおすのよ」
セ・ネドラの頬にゆっくりと赤味がさした。
「それそれ、とてもいい兆候だわ」ポルおばさんはセ・ネドラを元気づけた。「赤くなれるぐらいなら、くだらないことにもちゃんと気がつくはずよ」
「くだらないこと?」
「さっきのばかげたいいぐさのことよ。赤ちゃんは元気よ、セ・ネドラ。じっさい、あなたよりもずっと元気だわ。今は眠っているわよ」
セ・ネドラの目が大きく見開かれ、両手でかばうようにおなかをおさえた。「見えますの?」信じられないといった様子でたずねた。
「見る[#「見る」に傍点]、というのは正確な言い方じゃないわ、ディア」グラスの中で二種類の粉を混ぜ合わせながら、ポルガラは言った。「わたしにはかれが何をしていて、何を考えているかがわかるのよ」グラスに水を加えて中身がぶくぶく泡立つのをじっと見守ってから、「さあ、これを飲みなさい」と患者にグラスをわたした。それからガリオンのほうを向いた。「火をおこしてちょうだい、ディア。なんといってももう秋なんだし、セ・ネドラに寒い思いはさせたくないわ」
その晩ガリオンが行ってみると、ブランドとシルクは暗殺未遂者の無残な死体を調べる作業をすでに終えて、衣服に注意を移していた。「なにかもうわかったかい?」部屋にはいりながら、ガリオンはたずねた。
「女がアローン人だったことはわかりましたよ」ブランドがよくひびく声で答えた。「年齢は三十五ぐらい、生計を得るために働いてはいなかったようですね。すくなくとも、両手にたこができるような力仕事はまったくしていませんでした」
「それだけじゃ、あんまり手がかりにはならないね」
「まだはじめたばかりだ」シルクは血に染まったドレスの縁を注意深くしらべながら言った。
「やっぱり熊神教の線かな?」
「そうとも言いきれない」シルクはドレスをわきにやって、リネンの肌着を手にとった。「素性を隠そうとすれば、他の国の暗殺者を雇うよな。そういう考えかたはいささか手がこみすぎていて、熊神教には不釣合いだ」シルクは眉をひそめた。「さてと、このステッチを前に見たのはどこだったかな?」死んだ女の下着を見つめたまま、シルクはつぶやいた。
「アレルは本当に気の毒だったね」ガリオンはブランドに言った。「ぼくたちはみんなアレルが大好きだった」それだけではいかにも言いたりない感じがした。
「アレルが聞いたら喜んだでしょう、ベルガリオン」ブランドは静かに言った。「彼女はセ・ネドラを心から愛していました」
やりきれない気持ちにつき動かされて、ガリオンはシルクにむきなおった。「これからどうする? 背後の人間がつきとめられなかったら、そいつはまた同じことをやろうとするだろう」
「望むところさ」
「なんだって?」
「下手人をいけどりにできれば、時間が大いに節約できる。死人からはたいしたことはわからないからな」
「タール・マードゥで熊神教を一掃したとき、もっと徹底的にやればよかったんです」ブランドが口をはさんだ。
「熊神教が今回の黒幕だという考えには、あまり賛成できないな」シルクが言った。「ほかにも可能性はある」
「セ・ネドラを狙うものがほかにいるか?」ガリオンがきいた。
シルクは椅子にすわりこんで、額にしわをよせ、ぼんやりと頬をかいた。「狙いはセ・ネドラじゃなかったのかもしれない」
「なんだって?」
「おなかの子供が目的だった可能性だってある。世の中には〈鉄拳〉の王座の跡継ぎを望まない連中だっているんだ」
「だれだ?」
「まっさきにうかぶのは、グロリムだな」シルクが答えた。「あるいはニーサ人――それとも一部のトルネドラ人。もうちょっと事態がはっきりするまで、犯人をきめつけるのは危険だ」シルクは血でよごれた下着をもちあげた。「これからはじめるよ。明日の朝、これを町へ持っていって、見つけられるかぎりの仕立屋とお針子に見せるんだ。織りかたからなにかわかるかもしれないし、この縁のかがりかたには特徴があるからね。これがどこのものかわかれば、先に進むことができる」
ブランドは毛布でおおわれたセ・ネドラを殺そうとした女の死体を考えこむように見やりながら、ひとりごちた。「城塞にはいるには、門のひとつを通らなくてはならなかったはずだ。ということは、歩哨になんらかの言い訳をしたにちがいない。この一週間見張りについていた歩哨をひとりのこらず集めよう。いつ女がはいりこんだか正確にわかれば、女のきた道をたどることができるかもしれん。乗ってきた船がわかれば、船長と話ができる」
「ぼくはどうしたらいい?」ガリオンはせきこんでたずねた。
「きみはセ・ネドラの部屋を離れないほうがいいだろう」シルクが言った。「ポルガラはいつまでいられるかわからないから、セ・ネドラから目を離さないほうがいい。また同じような事件が起きないともかぎらないから、警備が厳重であればそれだけおれたちも安心できる」
ポルガラの注意深い看病のもと、セ・ネドラは静かな一夜を過ごし、翌日には呼吸もだいぶしっかりしてきた。飲まされる薬の味についてセ・ネドラが不平をもらすと、ポルガラは王妃の広範囲にわたる長広舌に興味しんしんで聞き入ってから、おもしろそうに同意してこう言った。「そうね、ディア、さあ、全部飲んでおしまいなさい」
「お薬って、こんなにまずくなくちゃいけませんの?」セ・ネドラはみぶるいしながら言った。
「もちろんよ。薬が甘かったら、病人は薬を飲みたいばっかりにちっともよくならないかもしれないでしょう。薬がまずければまずいだけ、回復がはやいのよ」
その日の午後遅く、シルクがうんざりした顔つきで戻ってきた。「二枚のきれをつぎあわせる方法がこうもたくさんあるとは知らなかったよ」かれはぶつぶつ言った。
「収穫ゼロみたいだね」ガリオンが言った。
「まるでだめだ」シルクはぐったりと椅子にすわりこんだ。「もっとも、経験をふまえての推測なら、あらゆるたぐいのやつを聞きこんできたがな」
「へえ?」
「ある仕立屋は、ほかでもないこの縫いかたがニーサだけで用いられていることを、名誉にかけて保証した。あるお針子は自信まんまんでこれはウルゴ人の服だとおれに言った。それにある薄のろは、この服の所有者は船乗りだとまでぬかしたよ、この縫いかたは破れた帆を繕うときの縫いかたにきまってるからってね」
「なんの話なの、シルク?」セ・ネドラの病床に戻りがてら居間を通ったポルガラが興味ありげにたずねた。
「こいつの裾の縫いかたを特定できる人間を捜そうとしてるんですよ」シルクは撫然とした口調で、血のしみた肌着をふりまわした。
「どれ。見せて」
シルクは無言のまま肌着をポルガラに渡した。
彼女はちらと一瞥しただけで、こともなげに言ってのけた。「ドラスニア北東部のものね。どこかレオンの町に近いところのものだわ」
「本当ですかい?」シルクはすばやく立ち上がった。
ポルガラはうなずいた。「こういう縫いかたは何世紀も昔にあみだされたのよ――ドラスニア北東部の衣類がみんなトナカイの毛皮でつくられていた時代にね」
「なんたるこった」シルクが言った。
「どうかして?」
「一日中こいつを持ってかけずりまわっていたんですよ――リヴァ中の階段をのぼりおりし、仕立屋をしらみつぶしにして――そのあげくがこれだ、はじめからあなたに見せさえすりゃよかったとはね」
「それはわたしの責任じゃないわ、ケルダー王子」ポルガラは肌着を返しながら言った。「こういうちょっとした問題をわたしのところへ持ち込むことに頭がまわらないようじゃ、あなたもたいしたことないわね」
「冷たいなあ、ポルガラ」
「それじゃ暗殺者はドラスニア人だったんだね」ガリオンが言った。
「北東部に住むドラスニア人だ」シルクが訂正した。「北東部のドラスニア人てのは変わり者でね――湿地帯の連中よりしまつが悪いんだ」
「変わり者って?」
「不親切で、口が堅くて、よそよそしくて、団結心が強く、秘密主義ときてる。ドラスニア北東部のやつらはどいつもこいつも、ドラスニア王国の重大な秘密をすべて袖の中に隠し持っているようにふるまう」
「かれらがセ・ネドラをこうも憎む理由はなんなんだろう?」ガリオンはとまどいぎみに眉をひそめた。
「この暗殺者がドラスニア人だったという事実はそれほど重要じゃないとおれは思うね、ガリオン」シルクが言った。「暗殺者を雇う人間はえてして他国の人間を雇うものだ――それに、世界に暗殺者ははいて捨てるほどいるが、女の暗殺者はきわめて少ない」シルクは考えこむように口をひき結んだ。「ひとつレオンまで行って、ようすを見てくるとしよう」
冬の寒さが本格化すると、ポルガラはようやくセ・ネドラが危機を脱したことを宣言した。「でも、もうしばらくここにいることにするわ」彼女はつけくわえた。「ダーニクもエランドも数ヵ月はわたしなしで大丈夫だし、今帰っても、うちに着くが早いか回れ右をしてここへ戻ってくるはめになるでしょうからね」
ガリオンはぽかんとしてポルガラを見つめた。
「あなただって、セ・ネドラの最初の赤ちゃんをわたしが他人に取り上げさせるとは思わないでしょう?」
エラスタイドの祝祭の直前になって大雪がふり、傾斜の急なリヴァの街路は文字どおり通行不能になった。セ・ネドラはめだって不機嫌になった。おなかがますます大きくなって思うように動けないのと、街路にふりつもった深い雪のために城塞から一歩も外に出られなくなったせいだった。ポルガラは小さな王妃のかんしゃくや発作的な大泣きがどんなにひどくても、表情ひとつ変えずに冷静に受け止めた。あるとき彼女は辛辣な口調でたずねた。「この赤ちゃんがほんとにほしいんでしょうね?」
「もちろんだわ」セ・ネドラはぷりぷりして答えた。
「それじゃ、がまんしなけりゃだめよ。がまんすることが保育室をむだにしないただひとつの方法なんですからね」
「わたしをなだめようなんてなさらないで、レディ・ポルガラ」セ・ネドラはいきまいた。「今のわたしはききわけよくできる気分じゃないの」
ポルガラがかすかにおもしろがっているような目を向けると、セ・ネドラは思わず吹き出した。「わたしってわがままね」
「ええ、ちょっとね」
「自分がすごく大きくて醜いような気がするせいなのよ」
「そのうちもとどおりになるわ、セ・ネドラ」
「ときどき卵を産めたらよかったと思うの――鳥がやるように」
「わたしなら昔ながらの方法で産むわね、ディア。第一、あなたは巣にすわっていられるタイプじゃなさそうよ」
エラスタイドの日がきて、平穏に過ぎた。リヴァにおけるその祝祭はあたたかみのあるものだったが、いくらかひかえめでもあった。まるで全国民が息をつめて、もっとずっと大きな祝祭のきっかけを待ち受けているかのようだった。冬は週ごとに深まって、すでに膝丈に積もった雪にさらに雪をくわえた。エラスタイドがおわって一ヵ月ほどすると、一時的に日がさしてふつかあまり晴天がつづいたが、それもつかのまふたたび凍りつくような寒気がいすわって、ぬかるんだ雪の土手を氷のかたまりに変えた。数週間がのろのろと過ぎ、だれもが首を長くして待った。
「ちょっとあれを見てよ」ある朝、目がさめてまもなくセ・ネドラが怒ったようにガリオンに言った。
「あれって、ディア?」ガリオンはおだやかにたずねた。
「あれよ!」彼女はうんざりしたように、窓を指さした。「また雪だわ」その声には非難がにじんでいた。
「ぼくのせいじゃないよ」ガリオンは弁解ぎみに言った。
「だれがあなたのせいだと言って?」セ・ネドラはぎごちなく向きを変えてガリオンをにらみつけた。小柄なせいで、ふくらんだおなかがいっそう大きく見え、彼女はそれをときどきかれひとりの責任だといわんばかりにガリオンにむかってつきだすのだった。
「たえられないわ」セ・ネドラはきっぱり言った。「どうしてあなたはわたしをこんな凍りつきそうに寒い国へ――」セ・ネドラは急にだまりこんだ。奇妙な表情が顔をよぎった。
「だいじょうぶかい、ディア?」
「ディアはよしてちょうだい、ガリオン。わたしは――」セ・ネドラはまた口をつぐんだ。「あ、ああ」彼女は息をあえがせた。
「どうした?」ガリオンはたちあがった。
「ああ」セ・ネドラは両手を背中にあてて言った。「ああ、ああ、ああ」
「セ・ネドラ、ああばっかりじゃわからないよ。どうしたんだ?」
「横になったほうがよさそうだわ」セ・ネドラはほとんどうわの空で言うと、よちよちと部屋をよこぎろうとして、たちどまった。「ああ」一段と力をこめて言った。血の気のひいた顔で椅子につかまり体をささえた。「レディ・ポルガラを呼んでくださったほうがいいと思うわ、ガリオン」
「え――? ということは、つまり――?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、ガリオン」セ・ネドラはひきつった声で言った。「そこのドアをあけて、あなたのポルおばさんを呼びにいかせればいいのよ」
「きみが言おうとしているのは――?」
「言おうとしてるんじゃないわ、ガリオン。そう言ってるのよ。いますぐ彼女をここへ呼んできて」セ・ネドラはよたよたと寝室のドアへ向かいかけてまた立ちどまり、ちいさな喘ぎをもらした。「ああ、どうしよう」
ガリオンはつんのめるようにドアにかけよって、ぐいとドアをあけた。「レディ・ポルガラを呼んでくるんだ!」仰天している歩哨に言った。「ただちにだ! 走れ!」
「はい、陛下!」歩哨は答えるなり、槍をなげだして廊下をかけだしていった。
ガリオンはばたんとドアをしめると、セ・ネドラのそばにとんで戻った。「なにかできることはないか?」両手をもみしだきながらたずねた。
「ベッドへ連れていって」
「ベッドだな! わかった!」ガリオンはセ・ネドラの腕をつかんでひっぱった。
「なにをしてるの?」
「ベッドだ」ガリオンは堂々たる四柱式寝台を指さした。
「そんなことわかってるわ、ガリオン。手を貸してって言ってるのよ。むやみにひっぱらないでちょうだい」
「そうか」ガリオンはセ・ネドラの片手をつかみ、片腕を体にまわして彼女を床から持ち上げた。目をかっと見開いて、よろめきながらベッドへ向かったが、頭の中は完全な空白だった。
「おろしてったら、この!」
「ベッドだ」ガリオンはありったけの言葉を総動員して説明しようとしながら、セ・ネドラをせきたてた。細心の注意をはらってセ・ネドラを床におろし、前方に突進した。「快適なベッドだ」勇気づけるように上掛けをたたいた。
セ・ネドラは観念したように目をつぶってためいきをついた。「そこをどいて、ガリオン」
「でも――」
「火を起こしたらどう?」
「え?」ガリオンはぼんやりとあたりを見まわした。
「暖炉があるでしょ――そこの壁の開口部にたきぎがつんであるじゃない。もっとたきぎを持ってきて。赤ちゃんのためにあたたかくしておきたいでしょう?」セ・ネドラはベッドにたどりついて、よりかかった。
ガリオンは暖炉にかけよって、つったったままばかみたいに暖炉を凝視した。
「今度はなんなの?」
「たきぎだ。たきぎがない」
「ほかの部屋からもってくればいいわ」
なんて気のきいたことを言うのだろう! ガリオンは感謝のまなざしで彼女を見つめた。
セ・ネドラはゆっくりとかんでふくめるように言った。「ほかの部屋へ行って、たきぎを持ってくるのよ、ガリオン。ここへはこんできてちょうだい。それを火にくべるの。これまでのところはわかった?」
「わかった!」ガリオンは興奮ぎみに言うなり、別室へかけこんでたきぎを一本つかみ、駆け戻ってきた。「たきぎだ」ほこらしげにそれをかかげながら言った。
「上出来よ、ガリオン」セ・ネドラは大儀そうにベッドにはいあがりながら言った。「さあ、それを火にくべたら、またとなりへ行ってもっとたくさん持ってきてちょうだい」
「もっとだな」ガリオンはたきぎを暖炉にほうりこむとふたたびドアの外へとびだしていった。
居間のたきぎ箱がからになってしまうと――一度に一本ずつ運んだ結果――ガリオンは次になにをなすべきかと、狂おしくあたりに目をこらした。かれは椅子をもちあげた。壁にぶちあてれば、椅子は壊れてちょうど手ごろのたきぎになるはずだ。
ドアがひらいて、ポルガラがはいってきた。ポルガラはたちどまって、目を血走らせたガリオンをじろりと見た。「いったい、その椅子をどうしようっていうの?」
「たきぎだよ」重い家具をふりかざしたまま、ガリオンは説明した。「たきぎがいるんだ――火をたくのに」
ポルガラは白いエプロンのしわをのばしながら、ガリオンをまじまじとながめた。「なるほどね。たきぎにはなるでしょうね。椅子をおろしなさい、ガリオン。セ・ネドラはどこ?」
「ベッドだ」磨きこまれた椅子を残念そうにおろしながら答え、次に顔を輝かせてポルガラを見た。「赤ん坊が産まれるんだよ」と教えた。
ポルガラは天井をあおいだ。「ガリオン」子どもに言い聞かせるように、注意深く言った。「セ・ネドラはまだベッドに寝るのは早すぎるわ。歩きまわることが必要なのよ――動きつづけることがね」
ガリオンは頑固にかぶりをふった。「ベッドだ。赤ん坊が産まれる」ふりかえって、かれはまた椅子を持ち上げた。
ポルガラはためいきをつくと、ドアをあけ、歩哨を手招きした。「ちょっと、陛下を厨房のすぐ外の中庭へお連れしてちょうだい。あそこには丸太の山があるのよ。たきぎが作れるように、斧をさしあげて」
きょうはみんな冴えている。ガリオンはポルおばさんの提案に感嘆した。椅子をまたおろすと、かれはあっけにとられている歩哨をしたがえてかけだした。
最初の一時間、ガリオンは猛烈なスピードで斧をふりまわした。斧はまるで空中のしみにしか見えず、木っ端のふぶきをまきちらしながら、ひものように細いたきぎを作った。それから一休みして上着をぬぐと、いよいよ本格的な仕事にとりかかった。昼ごろ、料理人ができたてのロースト・ビーフの厚切りと大きなパンのかたまり、それにエールをうやうやしく運んできた。ガリオンは三口か四口で肉とパンをむさぼり食い、エールをふた口ごくりと飲むと、斧をつかんでもうひとつの丸太を攻撃した。日が沈む直前にブランドがやってこなかったら、厨房の外の丸太の山を消化しつくして、もっと木をさがしに行ったかもしれない。
大柄なごま塩頭の番人は破顔していた。「おめでとうございます、ベルガリオン、王子がお産まれになりましたよ」
ガリオンは手をとめて、残った丸太をほとんど残念そうにながめた。斧が手からすべりおちた。「男の子か? なんともおどろいたな、しかもずいぶん早かった」かれは丸太の山に目を移した。「さっきここにきたばかりだったんだ。お産というのはもっと長くかかるものだと思っていたよ」
ブランドは注意深くガリオンを見てから、そっと腕をつかんだ。「さあ、行きましょう、ベルガリオン。王子さまを見にいきましょう」
ガリオンは腰をかがめてたきぎを腕いっぱいにかかえた。「火にくべるんだ」と説明した。「セ・ネドラがじゃんじゃん火を焚《た》いてもらいたがっているんだよ」
「きっとお喜びになりますよ、ベルガリオン」ブランドはうけあった。
王の寝室につくと、ガリオンは窓ぎわの磨きこまれたテーブルにかかえていたたきぎを用心深くおろして、足音をしのばせてベッドに近づいた。
セ・ネドラは疲れきってやつれたように見えたが、その顔には満ちたりた微笑がうかんでいた。かたわらに置かれたやわらかな毛布にくるまれているのは、小さな小さな人間だった。赤ん坊は赤い顔をして、ほとんど毛がなかった。眠っているように見えたが、ガリオンが近づくと、目をあけた。皇太子はしかつめらしく父親を見つめたあと、ためいきをついて、げっぷをし、ふたたび眠りにおちた。
「ああ、きれいな子じゃないこと、ガリオン?」セ・ネドラが驚異のにじむささやき声で言った。
「ほんとだな」ガリオンはのどもとに熱いものがこみあげてくるのを感じた。「きみもだ」ベッドわきにひざまずいて、かれは妻と子をかかえこむようにした。
「満点よ、子どもたち」ポルガラがベッドの反対側から言った。「ふたりともよくやったわ」
次の日、ガリオンと産まれたばかりの息子は大昔からつたわる儀式を受けた。すばらしい青と銀のガウンをまとったポルガラと並んで、ガリオンは国中の貴族たちが待ち受けるリヴァ王の広間へ赤ん坊を連れていった。三人が広間へはいったとき、鉄拳の剣の柄《つか》先にのっている〈アルダーの珠〉が目もくらむ青い光を放った。ガリオンはほとんど放心したように王座に歩み寄り、「これが息子のゲランだ」と宣言した――集まった人々に、でもあったが、特別な意味で、〈珠〉それ自体にたいする呼び掛けでもあった。息子の名前を選ぶのはむずかしくなかった。記憶にはなかったが、亡くなった父親を尊敬したいと思っていたガリオンにとって、父の名を息子に与えることほどそれにかなうことはないように思えたからだ。
かれは用心深く赤ん坊をポルガラにわたすと、手をのばして大きな剣をおろした。刃の部分を持って、ポルガラの腕の中の毛布にくるまれた幼子のほうへ剣をさしだした。〈珠〉の輝きが一段と強まった。そのとき、まるでその光に誘われたかのようにゲランが小さなピンク色の手をのばし、光り輝く宝石に手をのせた。その瞬間、色とりどりの光のオーラが〈珠〉から放たれ、広間全体を照らす感動的な虹で三人をつつみこんだ。大合唱がガリオンの耳を満たし、それが全世界をゆるがすほどに高まった。
「ゲランばんざい!」ブランドが大声で叫んだ。「〈鉄拳〉と、〈アルダーの珠〉を守るお世継ぎの誕生ばんざい!」
「ゲランばんざい!」群衆が大合唱した。
(ゲランばんざい!)ガリオンの心の中のかわいた声が静かにつけくわえた。
ポルガラはなにも言わなかった。なにも言う必要はなかったのだ。その目がすべてを語っていたから。
冬の〈風の海〉は嵐につぐ嵐に見舞われていたが、アローンの王たちはこぞってゲランの誕生を祝いにリヴァへやってきた。アンヘグ、チョ・ハグ、ポレン王妃。ほかにもおおぜいの友人や昔なじみが同行して、リヴァへついた。もちろんバラクがいた。妻のメレルも一緒だった。ヘターとアダーラが到着した。レルドリンとマンドラレンはアリアナとネリーナをともなってアレンディアからかけつけた。
親になって以前よりその種のことに目ざとくなったガリオンは、友人たちの子どもの数にいまさらながらおどろいた。どっちへ行っても、赤ん坊だらけだったし、陰気な城塞の廊下には小さな少年少女のかけまわる足音や笑い声が充満しているように思えた。ドラスニアの少年王ケヴァとバラクの息子のウンラクはすぐに大の仲良しになった。ネリーナの娘たちはアダーラの息子たちとくすくす笑いながら際限のないゲームに興じた。見る者を振り向かせるようなレディに成長したバラクの長女グンドレッドは、若いリヴァの貴族の一団の心をさんざんかき乱したが、陰ではつねに赤ひげの巨漢である父がにらみをきかせていた。娘にいいよる若者たちをじっさいに脅したことはなかったが、その表情ははめをはずすような真似は絶対にゆるさないとはっきり物語っていた。グンドレッドの妹のかわいいデルジィは大人になる}歩手前にいた――おさない子どもたちとはねまわっているかと思うと、次の瞬間には、いつもあたりをうろうろしているリヴァの十代の少年たちの一団を悩ましい目つきでながめたりした。
フルラク王とブレンディグ将軍は祝賀会のなかほどにセンダリアから船で到着した。ライラ王妃は心からのお祝いを述べてよこしたが、彼女自身は同行していなかった。「船に乗ることは乗ったんだよ」フルラクが言った。「ところがそのとき突風がふいて波が桟橋の岩にくだけちると、失神してしまってね。その時点で、妻は同行しないことに決めたんだ」
「それでよかったんですよ」ガリオンはうなずいた。
ダーニクとエランドはもちろん〈谷〉からやってきたし、かれらにはベルガラスがつきそっていた。
祝賀会は何週間もつづいた。宴会がもよおされ、客たちや、さまざまな友好国の大使たちによる贈物の贈与式がおこなわれた。そしていうまでもなく、旧交を温めあう昔話に花が咲き、酒樽がつぎつぎにからになった。セ・ネドラは自分と自分の産んだ幼子が注目の的であることから、すっかり気をよくしていた。
通常の国務と祭儀のおかげで、ガリオンはほとんど暇なしだった。バラクやヘター、マンドラレンやレルドリンと一、二時間でいいから話がしたかったが、どうやりくりしても時間をひねりだせなかった。
ところが、ある夜遅く、ベルガラスがかれをさがしにきた。老魔術師が書斎にはいってきたとき、ガリオンは読んでいた報告書から目をあげた。「ちょっと話をしたほうがいいんじゃないかと思ってな」老人は言った。
ガリオンは報告書をわきへおしのけた。「無視するつもりはなかったんだよ、おじいさん」とあやまった。「でも毎日いそがしくって」
ベルガラスは肩をすくめた。「さわぎはいずれおさまるもんだ。ときにおめでとうは言ったかな?」
「と思うよ」
「そうか。それじゃもう言う必要はないわけだ。赤ん坊のこととなるとだれもかれも大騒ぎだ。わし自身はあんまり赤ん坊に関心はないのさ。赤ん坊ってのはたいていぎゃあぎゃあ泣いて、おむつをぬらしているし、話しかけてもほとんど意味がないからな。飲んでもかまわんか?」ベルガラスはテーブル上の白ワインのクリスタルのデキャンターを指さした。
「もちろん。どうぞ」
「おまえも飲むか?」
「遠慮するよ、おじいさん」
ベルガラスは酒杯にワインをつぐと、ガリオンとむきあって椅子にすわった。「王の仕事はどんなぐあいだ?」
「退屈だよ」ガリオンはうらめしげに答えた。
「現実には退屈なほうがいいんだ。色めきたつようなことになれば、おそるべきことが起きているという証拠だからな」
「そうだね」
「勉強してるか?」
ガリオンはすばやく立ちあがった。「聞いてくれてよかった。祝賀会があんまり熱狂的なんで、大事なことをもうちょっとで忘れるところだったよ」
「ほう?」
「例の予言の写しをつくるとき、筆記者はどれくらい注意をはらったのかな?」
ベルガラスは肩をすくめた。「相当慎重にやっただろうな。どうしてだ?」
「『ムリンの書』のぼくの写しからなにかが抜け落ちているような気がするんだ」
「どうしてそう思う?」
「意味の通じない文があるんだよ」
「おまえに通じないだけじゃないのか、勉強をはじめてからまだいくらもたっておらんだろう」
「そういう意味じゃないんだ。ぼくが言ってるのは、意味があいまいだということじゃない。つまりね、ある文章が宙ぶらりんのままとぎれているんだ。あってしかるべき終わりがないんだよ」
「文法が気になるのか?」
ガリオンは頭をかいた。「そんなふうに中断しているのは、その文章だけなんだ。『しかし見よ、光の中心にある石が――』そのあとにインクのしみがあって、こうつづいている。『――そしてこの対決はもはや存在しない場所でおこなわれ、選択がなされるであろう』」
ベルガラスは眉をひそめた。「聞きおぼえがあるような気がするぞ」
「前後がかみあわないんだよ、おじいさん。すくなくともぼくが読んだかぎりでは、最初のところは〈珠〉について語っているし、次の部分はある対決について語っている。あいだにあるしみの下にどんな言葉があるのかわからないけど、どうあがいてもふたつの部分をつなげる方法がわからない。なにかが脱落しているんじゃないかな。だから写本するときのことをたずねたんだ。原本を写した人が何行かとばしたってことはない?」
「そういうことはないだろうな、ガリオン」ベルガラスは言った。「新しい写本はつねに筆記者以外の第三者によって、原本とつきあわされる。そういうことについては、われわれはきわめて用心深いのだ」
「それじゃしみの下にはなにがあるんだろう?」
ベルガラスは考えこむようにひげをしごいた。「はっきりと憶えておらんな。アンヘグがきとったな。かれならおぼえているかもしれん――あるいは、アンヘグがヴァル・アローンに帰ったとき、かれの写本からその部分を写して送ってくれるよう頼んだらどうだ」
「それはいい考えだね」
「わしなら気にはしないね、ガリオン。なんといってもひとつの段落の中のほんの一部分のことなんだ」
「あの古写本ではそのほんのひとつの段落にいろんな意味がこめられているんだよ。読んでみるとどれもこれも重要なことばかりなんだ」
「それほど気になるなら、とことん調べることだ。物事を知るにはそれがいいやりかたなのさ」
「全然興味ないの?」
「考えなくちゃならんことがほかにもいろいろあるんでな。このくいちがいを発見したのはおまえなんだから、それを世間に知らしめ、解決する栄誉は全部おまえにやるよ」
「あんまり頼りにならないんだな、おじいさん」
ベルガラスはにやにやした。「わざとしているのさ、ガリオン。おまえももう自分の問題は自分で解決できる齢だ」かれはデキャンターをながめた。「もうちょっとあれをもらうとしようか」
[#改ページ]
「『……民の数は異なる十二となろう、十二は神々を喜ばせる数だからである。それが真実なのをわたしは知っている。あるとき一羽の大烏が夢にあらわれて、そう言ったからだ。わたしはずっと十二という数がすきだった。神々がこの真実をすべての民にあきらかにする役にわたしをお選びになったのもそのためなのだ……』」
ガリオンはかびくさい本を読みながら顔をしかめた。読みはじめたころは多少希望が持てた――〈光〉と〈闇〉に関するあいまいな言及がところどころに見受けられたし、断片的ながらもきわめて明瞭に「もっとも聖なるものは、常に空の色をしている、ただし、大悪を感知すれば、それは深紅の炎に熱く燃えるであろう」と語っている部分があったからだ。そのくだりを見つけたとき、ガリオンは今度こそ真相を発見した、埋もれていた予言をほりあてたと確信してむさぼるように読みつづけたのだった。ところがあにはからんや、のこりは完全なたわごとだった。本の冒頭の短い自伝的覚書きによれば、書き手は第三黄金期に生きた裕福なドラスニアの商人で、この秘密の略記はかれの死後発見されたのだという。正常でない人物が正常な社会にどう適応できたのかとガリオンは首をひねるばかりだった。
うんざりして本を閉じ、前のテーブルにつみあげた駄物の山にくわえた。次にアレンディアの見捨てられた家で発見された薄い一冊を手にとった。最初の数ページはアレンディアの名もない一貴族の家族の話に捧げられていた。やがて四ページ目で世俗的内容は唐突に終わり、「〈光の子〉は剣をとり、隠されたものをさがしにでかけるであろう」という予言があらわれた。そのあとは十二頭ばかりの豚を隣人から買った退屈な話がことこまかに語られ、それからふたたび名もない書き手の話題はいきなり予言に一変していた。「〈光の子〉の探索は魂を奪われた者のためのものとなるだろう、なぜなら石の中心はからであり、赤子は片手に〈光〉を、片手に〈闇〉をもつからである」いいぞ。ガリオンは蝋のたれた蝋燭を一本そばへひきよせて、本の上にかがみこみ、一ぺージ一ぺージ丹念に目を通した。しかし、全部読んでみると、予言の部分は結局さっきのふたつだけで、あとはアレンディアの忘れられた農場の日々のいとなみが書きつらねてあるだけだった。
ガリオンはためいきをつくと、椅子に背をもたれて、薄暗い書庫を見回した。暗い棚の上には綴じられた本がほこりをかぶって並び、どの本棚のてっぺんにも亜麻布でくるんだ巻物が置かれている。二本の蝋燭の光がゆらめいて、部屋はまるで踊っているように見えた。
「こんなことをするよりもっと手っとり早い方法があるはずだ」ガリオンはつぶやいた。
(あるとも)心の中のかわいた声が言った。
「え?」
(もっと早い方法があるはずだと言ったろう。だからあると言ったのだ)
「どこにいたんですか?」
(あちこちにな)
この意識ともうすっかり仲良しになっていたガリオンは、それが話しかけてきたからには、知ってもらいたいことがあるのだと確信した。「そのもっと早い方法ってどういうのですか?」
(これまでのように一字一句を読む必要はない。心を開き、ページをぱらぱらとめくるだけでいいのだ。わたしがいろいろな本に挿入した部分がひとりでにおまえにむかってとびこんでくる)
「予言はいつでもこういうくだらない話とごちゃまぜになっているんですか?」
(たいがいはそうだ〉
「どうしてそんなふうにしたんです?」
(理由はいくつかある。一番の理由は、じっさいに書いている人間にそこに隠しているものを知られたくなかったからだ。第二に、非友好的連中の手に渡るのを避けるには、そうするのが当然だからさ)
「でも友好的人間の手に渡る見込みだってあるわけでしょう?」
(わたしに説明してもらいたいのか、それとも気のきいた発言をするためのいいわけをさがしているだけなのか?)
「わかりました」ガリオンはあきらめてためいきをついた。
(言葉は事物に意味を与える、と前にも言ったことがあるだろう。言葉はそこになくてはならんが、だれもが見つけられるところになくてもかまわんのだ)
ガリオンはけげんな顔をした。「ほんのひと握りの人間に読ませるために、ここにある本全部のなかに予言を織り込んだっていうんですか?」
(ほんのひと握りという表現は正確ではない。ひとりの人間と言うべきだ)
「ひとり? だれなんです?」
(おまえだ、わかりきっとるだろう)
「ぼく? どうしてぼくなんです?」
(またそれをむしかえすのか?)
「この全部はいわば個人的な手紙のようなものだっていうんですか――ぼくにあてた?」
(まあそうだな)
「ぼくがそれを読むようにならなかったら、どうなったんです?」
(いま読んでいるのはどうしてだ?)
「ベルガラスに言われたからですよ」
(どうしてベルガラスはそう言ったと思う?)
「それは――」ガリオンは絶句した。「あなたがそう言えと言ったんですか?」
(当然だ。もちろんベルガラスはそれについては知らなかったが、わたしがせっついたのさ。『ムリンの書』はありとあらゆる人間の目にふれる可能性がある。あれをわけのわからぬものにしたのはそのためなんだ。しかし、おまえにたいする個人的な指示はきわめて明瞭なはずだぞ――おまえが注意を払いさえすればな)
「どうすればいいかただ教えてくれればいいのに」
(そうすることは許されておらんのだ)
「許されるって?」
(われわれにはわれわれのルールがあるのだよ、わたしの敵とわたしには。われわれはきわめて慎重に均衡を保っているから、それを破るわけにはいかんのだ。文書を通じてのみ活動することでわれわれは同意したのだ。だからかりにわたしがみずから介入したりすれば――たとえば、おまえがやらなくてはならないことを直接おまえに教えるというような――敵にも同じチャンスを与えることになる。そこで、われわれはいわゆる予言を通して活動しているのだ)
「ちょっと面倒なんじゃないかな?」
(これ以外のやりかたをすれば、事態はめちゃくちゃになるだろう。敵もわたしも限度を知らないからな。われわれがまともに対決したら、世界は暗黒に包まれる)
ガリオンは身ぶるいしてごくりと唾をのみこんだ。「それは知りませんでした」そのときある考えがひらめいた。「『ムリンの書』の例のくだりについてぼくに話すことは許されるんですか――まんなかあたりに言葉がインクのしみで見えなくなっている文ですが?」
(それはおまえがどの程度それについて知りたいと思っているかによるな)
「しみの下の言葉はなんなんです?」
(あそこにはいくつかの言葉が書かれている。正しい光で見れば、ひとりでに見えてくるはずだ。ここにあるその他の本については、わたしが言った様な方法で読んでごらん。時間が大幅に節約できるはずだ――おまえにはじっさい時間がたりないようだからな)
「それはどういう意味です?」
だが、声は消えていた。
書庫のドアがひらいて、夜着とあたたかいローブをはおったセ・ネドラがはいってきた。
「ガリオン、徹夜でもするの?」
「え?」かれは顔をあげた。「ああ――いや、すぐ行くよ」
「だれかいたの?」
「だれもいないよ。どうして?」
「あなたがだれかに話しかけているのが聞こえたわ」
「本を読んでいたんだ、それだけさ」
「ベッドへきてちょうだい、ガリオン」セ・ネドラは強い口調で言った。「一晩で書庫中の本が読めるわけないでしょう」
「そうだね、ディア」ガリオンはうなずいた。
それからまもなく寒気がゆるみ、城塞の裏の斜面の低い草原が緑色にもえはじめたころ、約束の手紙がアンヘグ王からとどいた。ガリオンは即座に『ムリンの書』にでてきたあのいまいましいくだりの写しを書庫へもっていって、自分の写しとくらべてみた。ふたつをならべると、かれはののしりはじめた。アンヘグの写しも、まったく同じ個所にしみがついていた。「ちゃんと言ったはずだ!」ガリオンはいきまいた。「特にこの部分を見る必要があると強調したはずなんだ! アンヘグにしっかり見せたってのに!」すっかり腹をたて、両腕をふりまわしながら、ガリオンはいったりきたりしはじめた。
いささか意外なことに、『ムリンの書』にとりつかれている夫にたいして、セ・ネドラは寛大だった。当然ながら、小柄な王妃の注意はほぼ全面的に産まれたばかりの息子にむけられていたので、ガリオンの言動などほとんどどうでもよかったのだ。幼いゲラン皇太子は相当な過保護を受けていた。セ・ネドラはゲランが目をさましているときはほとんど抱きっぱなしだったし、眠っているときでさえしょっちゅう抱いていた。かれは気だてのいい赤ん坊で、めったに泣いたりぐずったりしなかった。母親のひっきりなしの注意をごくおだやかにうけとめ、あやしたり、すかしたり、衝動的にキスを浴びせたりするやり方も平静にうけいれていた。しかしガリオンの見たところ、セ・ネドラはちょっとやりすぎだった。たえずゲランを抱くことを主張してゆずらないので、かれが息子を抱ける時間は大幅にけずられた。一度いつになったらわが子を抱けるのかとたずねそうになったが、最後の瞬間に思いとどまった。かれが不公平だと感じたのは、セ・ネドラのタイミングのとらえかただった。彼女がゲランをゆりかごにしばらく寝かせ、ガリオンがようやくめぐってきたチャンスをつかもうとすると、きまって小柄な王妃の両手はドレスの前ボタンをはずしにかかり、お乳をやる時間だと落ち着きはらって知らせるのだった。息子に昼食を与えるのを惜しむつもりは毛頭ないが、赤ん坊はたいていの場合、それほど空腹そうには見えなかった。
しかししばらくたって、夫婦の生活におけるゲランの否定しようのない存在にやっとなれてくると、薄暗くかび臭い書庫がふたたびかれを呼びはじめた。かわいた声がほのめかしたやり方は、おどろくほどうまくいった。ちょっと練習しただけで、ガリオンは俗世間の話を書きつらねたベージをみるみる読みとばして、平凡な内容にまぎれこんでいる予言の部分に自動的に目をとめることができるようになった。どうみてもありそうにない場所にそうしたものがたくさん隠されているのを知って、ガリオンはびっくりした。たいていの場合、あきらかに作者自身、自分がなにを挿入しているか気づいてもいなかった。文章はしばしば中断して、突然予言になり、また前の話に戻っていた。本を読みなおしながら、ガリオンは予言を挿入した無意識の予言者が、自分が書いたものを見てもいないことを確信した。
しかしすべての核となるのは、やはり『ムリンの書』と、程度ではこちらのほうがやや劣るが、『ダリネの書』だった。他の書物によって意味があきらかになったり、内容がくわしくわかったりした部分もあったが、この二大予言書はすこしもそこなわれていない形で、一切を書きしるしていた。作業を進めながら、ガリオンはそれぞれの予言書を交互に参照しつつ、新しい節のひとつひとつに番号をふり、それらの番号をムリンの巻物の段落にわりあてておいた索引につないだ。ムリンの各段落には、たいがい三つか四つ他の書物から集められた確証的、説明的文章がふくまれていた――あのいまいましいしみのある一節を別にすれば。
「きょうはどのくらいはかどったの、ディア?」ある晩、ガリオンが疲れはててむっつりと王宮へひきあげると、セ・ネドラがたずねた。そのとき彼女はゲランにお乳をやっており、赤ん坊を胸にだいたその顔はやさしさに輝いていた。
「全部投げだしてしまいたいよ」ガリオンはぐったりと椅子にすわりこんだ。「あの書庫には鍵をかけて、鍵をどこかへほうり投げたらいいんじゃないかと思うくらいだ」
セ・ネドラはいとしむようにガリオンを見てほほえんだ。「そんなことをしてもむだなくせに、ガリオン。一日かそこらしたらがまんできなくなるわよ、それにあなたに壊せないほど頑丈なドアなんてありはしないわ」
「あの本や巻物はのこらず焼いてしまうべきなのかもしれないよ」ガリオンはのろのろと言った。「気になって気になってしかたがないんだ。あのしみの下になにかが隠されているのはわかってる、ただ、それがなんなのか手がかりひとつ発見できないんだ」
「あの書庫を焼いたりしたら、ベルガラスに赤かぶにされちゃうわよ」セ・ネドラは笑いながら警告した。「かれは本の虫ですものね」
「しばらく赤かぶでいるのも悪くないよ」ガリオンは答えた。
「本当はとっても簡単なことよ、ガリオン」しゃくにさわるほど落ち着きはらってセ・ネドラは言った。「どの写本にもしみがあるんなら、原本を見ればいいじゃない」
ガリオンはまじまじと妻を見つめた。
「どこかに原本があるはずだわ、そうでしょ?」
「あ、ああ――そうだろうな」
「じゃ、原本のありかをつきとめて、調べに行くか――送ってもらうようにすればいいのよ」
「それは考えつかなかった」
「むりもないわ。そのことでどなりちらしたり、わめいたり、ぷりぷりしたりするのに夢中なんですもの」
「ねえ、セ・ネドラ、それはとってもいい考えだよ」
「そりゃそうよ。あなたたち男性はいつだって物事をややこしくしたがるんだから。こんど困ったことがあったら、ディア、わたしに相談して。解決法を教えてあげる」
ガリオンはそれを聞き流した。
翌朝、ガリオンはまっさきに都市へおりていって、ベラー神殿にいるリヴァの助祭をたずねた。リヴァの助祭はきまじめな顔をしたおだやかな人物だった。大陸のおもだった神殿にいるベラーの僧侶たちは、信徒の世話より政治に首をつっこむことに熱心だが、リヴァ教会のこの指導者はかれらとちがって一般大衆の安寧――精神的肉体的――にひたすら心を砕いていた。ガリオンは以前から助祭に好意を持っていた。
「この目で原本を見たことはないのです、陛下」ガリオンの問いに答えて、助祭は言った。「ですが、ムリン川の土手にある廟に原本が保管されているとは昔から聞いておりました――湿地帯とボクトールの間を流れる川です」
「廟?」
「ムリンの予言者が鎖でつながれていた場所に、昔のドラスニア人たちが建立したのです」助祭は説明した。「そのあわれな男の死後、猪首王がなんらかの記念碑をそこに立てるよう指示したのです。ドラスニア人たちはかれの墓の真上に廟を建てました。元の巻物はその廟の中の大きなクリスタルの箱に保管されているのです。僧侶の一団がそれを守っています。たいがいの者はそれに手をふれることも許されません。ですが、あなたさまがリヴァの王であられる事実を考慮すれば、きっと僧侶たちは例外とみなしてくれるでしょう」
「すると、原本はずっとその廟にあったのか?」
「第四黄金期にアンガラクの侵入があったときをのぞけば、そうです。そのときはボクトールが焼け落ちる寸前に大事をとって、ヴァル・アローンへ船で運びだされました。トラクが原本を手に入れたがっていたため、国外へ持ち出したほうが賢明だと思われたのです」
「それはそうだ。ありがとう、役にたちましたよ、尊師」
「お役にたてて光栄です、陛下」
リヴァを抜け出すのはむずかしそうだった。翌々日に港務官との会合をひかえていたので、その週はまったく論外だったし、次の週はもっと都合が悪かった。公式な会合やら、国務がたえず目白押しだった。四六時中影のごとくつきしたがう護衛とならんで、城塞までの長い階段をのぼりながら、ガリオンはためいきをついた。まるでこの島で囚人にされてしまったような気分だった。おびただしい要求がつねに彼の時間を拘束していた。そんなに遠くない昔、くる日もくる日も馬の背にゆられ、ふた晩と同じベッドで眠ったことがなかった時期が思い出された。しかしよく考えてみると、あのときでさえやりたいことをやれるほど自由ではなかったのだ。それは認めざるをえない。そうとは知らなかったが、ガリオンがかかえるこの責任という荷物は、もう何年前になるだろう、かれとポルおばさんとベルガラスとダーニクが、ファルドー農園の門をこっそり出て、前方に待ちうける広い世界へとびこんでいったあの風の強い秋の夜に、かれの肩にしょわされていたのだ。
「まあいいや」ガリオンはつぶやいた。「こっちも重要なんだ。ここはブランドがうまくやってくれるだろう。しばらくぼくがいなくても、なんとかやってもらおう」
「なにか言われましたか、陛下?」護衛が丁重にたずねた。
「考えごとを口にだしただけだ」ガリオンはいささかどぎまぎしながら答えた。
その夜、セ・ネドラは憂鬱そうで、いつもの元気がないようだった。ゲランを抱いていながらほとんどうわの空で、胸の護符をかれが真剣な集中力を顔いっぱいにうかべていじりまわしているのに、ろくすっぽ注意を払っていなかった。
「どうかしたのかい、ディア?」ガリオンはきいた。
「頭痛がするの、それだけよ」セ・ネドラの返事はそっけなかった。「へんな耳鳴りがするわ」
「疲れているんだよ」
「そうかもしれないわね」セ・ネドラはすわっていた椅子から立ちあがって、言った。「ゲランをゆりかごにねかせて、ベッドにはいるわ。ぐっすり眠れば、よくなるでしょう」
「ぼくがゲランを寝かせるよ」
「だめよ」彼女は奇妙な顔つきで言った。「この子がゆりかごの中で安全でいることを、わたしが確認したいの」
「安全?」ガリオンは笑いだした。「セ・ネドラ、ここはリヴァなんだぞ。世界中で一番安全な場所じゃないか」
「アレルにそう言いに行ったらいかが」セ・ネドラはそう言うと、寝室のとなりの、ゲランのゆりかごのある部屋へはいっていった。
ガリオンはその夜遅くまで読み物をしていた。セ・ネドラの落ち着きのない気分が感染でもしたのか、なかなかベッドに行く気にならなかった。ようやくかれは本をおしやると、窓に近づいてはるか下方で月に照らされている〈風の海〉の水面をながめた。青白い光の中で、長いゆるやかな波が溶けた銀のように見え、ゆったりと打ち寄せるリズムが妙に眠りを誘った。ついにガリオンは蝋燭を吹き消すと、足音をしのばせて寝室にはいった。
セ・ネドラはしきりに寝返りをうっては、意味のない会話の断片をつぶやいていた。ガリオンは服をぬいで、彼女の邪魔にならないようにベッドにすべりこんだ。
「だめよ」セ・ネドラは断固たる口調で言った。「あなたにそういうことはさせないわ」それから彼女はうめき声をあげ、枕の上で頭をふり動かした。
ガリオンはやわらかな闇の中に横たわって、妻の寝ごとに耳をすました。
「ガリオン!」セ・ネドラはあえぐような声をあげて、ふいに目をさました。「あなたの足、冷たいわ!」
「あ、ごめん」
彼女はすぐにまた眠りへ戻っていき、ふたたびつぶやきはじめた。
数時間後、ガリオンを起こしたのは妻とはちがう声だった。どことなく聞き覚えのある声で、ガリオンはなかば眠ったまま、前にそれを聞いた場所を思いだそうとした。耳に心地よい低い女性の声が、なだめるような口調でしゃべっている。
次の瞬間、ガリオンはセ・ネドラがかたわらに寝ていないことに突然気づいて、がばとはねおきた。
「でも、かれらにこの子が見つからないように隠さなくちゃ」セ・ネドラが奇妙にぼんやりした声で言うのが聞こえた。ガリオンはふとんをはねのけて、ベッドからすべりでた。
子ども部屋の開け放たれたドアからかすかな明かりがもれて、声はそこから聞こえてくるようだった。ガリオンは素足のまま音もたてずに絨緞を踏んで、すばやくそのドアに近づいた。
「赤ちゃんの毛布をとりなさい、セ・ネドラ」もうひとりの女がおだやかな説得力のある声で言っている。「息ができなくなってしまうわ」
ガリオンは子ども部屋をのぞきこんだ。セ・ネドラが白いねまき姿でゆりかごのわきに立っていた。その目はうつろでなにかをじっと見ている。その横にもうひとりの人影があった。ゆりかごのあしもとにある椅子の上に、毛布と枕が山のように置かれていた。リヴァの王妃は夢でも見ているように、機械的にその毛布を赤ん坊の上にかぶせていた。
「セ・ネドラ」女が言った。「やめなさい。わたしの言うことを聞くのよ」
「この子を隠さなくちゃ」セ・ネドラは頑固に答えた。「かれらがこの子を殺したがっているのよ」
「セ・ネドラ。あなた赤ちゃんを窒息させてしまうわよ。さあ、その毛布と枕を全部とりなさい」
「だけど――」
「言われたとおりになさい、セ・ネドラ」女はきっぱりと言った。「さあ」
セ・ネドラはめそめそしながら、ゆりかごの毛布をとりのぞきはじめた。
「そのほうがいいわ。さあ、聞いてちょうだい。かれがこういうことをあなたに言ったら、かれを無視しなくちゃいけないわ。かれはあなたの友だちではないのよ」
セ・ネドラの顔に困惑がうかんだ。「ちがうの?」
「かれはあなたの敵なのよ。ゲランを傷つけたいと思っている人物がかれなのよ」
「わたしの赤ちゃんは?」
「あなたの赤ちゃんは元気よ、セ・ネドラ、でも夜になってこの声が聞こえてきたら、あなたはそれと戦わなくちゃいけないわ」
「だれだ――」ガリオンは言いかけたが、そのとき女がこちらを向いたので、びっくりぎょうてんしてあんぐり口をあけた。黄褐色の髪にあたたかい金色の目。土色に近い簡素な茶色の服。ガリオンは彼女を知っていた。ベルガラスやシルクと一緒にクトル・ミシュラクの幽霊の出そうな廃墟でのおそるべき対決へ向かっていたとき、東部ドラスニアの湿地で、一度だけ会ったことがあった。
ポルおばさんの母親は娘に酷似していた。あの同じ静かな、非のうちどころのない美しい顔、あの同じ誇り高い、毅然とした頭の動かしかた。しかしこの時を超えた顔には、尽きることのない奇妙な悔いがにじんでいて、ガリオンののどをつまらせた。「ポレドラ!」ガリオンはあえぐように言った。「どうして――」
ポルおばさんの母親はひとさし指を口にあてた。「セ・ネドラをおこさないで、ベルガリオン。ベッドに連れて帰りましょう」
「ゲランは?」
「大丈夫。間一髪でまにあったわ。セ・ネドラをそっとベッドへ連れていってちょうだい。もう何事もないから、よく眠るでしょう」
ガリオンは妻のそばへ行って、肩に手をかけた。「さあ、おいで、セ・ネドラ」やさしく話しかけた。
セ・ネドラはうつろな目つきのままこっくりうなずくと、おとなしく寝室に戻った。
「そのふとんをめくってもらえますか?」ガリオンは小声でポレドラにたずねた。
ポレドラは笑った。「あいにくだけど、できないわ。わたしが本当はここにいないことを忘れてるわよ、ベルガリオン」
「ああ、うっかりしてた。すみません、つい――」ガリオンはふとんをどけて注意深くセ・ネドラをベッドにねかせ、顎の下までふとんをひっぱりあげてやった。セ・ネドラはためいきをもらして、気持ちよさそうに眠りはじめた。
「そっとしておきましょう」ポレドラが言った。
ガリオンはうなずいて、ポレドラについてとなりの部屋へ行った。消えかけた暖炉のもえさしが部屋をぼんやりと照らしていた。「どういうことだったんですか?」ガリオンはそっとドアをしめながらたずねた。
「あなたたちの息子を憎み恐れている何者かがいるのよ、ベルガリオン」ポレドラは沈んだ声で言った。
「ほんの赤ん坊なんですよ」
「敵は将来のゲランを恐れているのよ――いまのかれではなくて。以前にもこういうことがあったのをおぼえているわ」
「アシャラクがぼくの両親を殺したときのこと?」
ポレドラはうなずいた。「かれの本当の狙いはあなただったのよ」
「しかし、ゲランをかれの母親からいったいどうやって守ったらいいんです? つまり――もしその男がさっきみたいにセ・ネドラの夢にあらわれて、あんなことをさせることができるなら、ぼくはどうしたら――?」
「あれはもう二度とおきないわ、ベルガリオン。わたしが処理したから」
「でも、どうやって? だって、あなたは――その――」
「死んでいるから? それは必ずしも正確ではないのよ、でも、心配しないで。ゲランはしばらくは安全よ、セ・ネドラは二度とさっきのようなことはしないわ。それ以外のことで、わたしたち話し合う必要があるのよ」
「わかりました」
「あなたはなにか重大なことに接近しつつあるわ。すべてを教えてあげることはできないけれど、『ムリンの書』をぜひ見る必要があるの――写しのほうではなくて、本物の原本を。そこに隠されているものを見なくてはいけないわ」
「セ・ネドラをおいていくわけにはいきません――いまはとても」
「彼女なら心配いらないわ、それにこれはあなたにしかできないことなのよ。ムリン川の廟へ行き、古写本を見てちょうだい。とっても大事なことなの」
ガリオンは肩をそびやかした。「わかりました。夜が明けたら出発します」
「もうひとつ」
「なんです?」
「〈珠〉を持っていかなくてはいけないわ」
「〈珠〉を?」
「あれがないと、見なくてはならないものを見ることができないのよ」
「よくわからないな」
「向こうへ着けばわかるわ」
「わかりましたよ、ポレドラ」ガリオンはそう答えてから、悲しそうな顔をした。「さからう理由なんてないんだ。生まれてからずっと理解できないことばかりしてきたんだから」
「いまにいっさいがあきらかになるわ」ポレドラはガリオンを元気づけた。それからとがめるような目つきになって、ガリオンをながめた。「ガリオン」その口調がポルおばさんそっくりだったので、ガリオンは反射的に答えた。
「なに?」
「ねまきも着ないで、夜走り回ったりしちゃだめじゃないの。風邪をひくわ」
コトゥで雇った船は小さかったが、川旅にはぴったりの作りだった。喫水が浅く、船幅が広い小船はときおり木っ端のように上下に揺れた。漕ぎ手である屈強な男たちは、ムリン川のゆるやかな流れにさからってさかんに櫨を漕ぎ、湿地をぬける曲がりくねった流れを進んでいった。
日が暮れるころにはコトゥから十リーグ上流に達し、船長はタールを塗ったもやい綱の一本を枯木に用心深くつないだ。「闇の中で水路を見つけようとするのは賢明じゃないんです」船長はガリオンに言った。「曲がるところをひとつまちがえば、来月いっぱい湿地帯をさまようことになりますからね」
「まかせるよ、船長」ガリオンは言った。「口出しはしないつもりだ」
「エールをジョッキ一杯いかがです、陛下?」
「いい考えだね」ガリオンは同意した。
しばらくあとで、ガリオンはジョッキを片手に手すりにもたれ、敏捷に動く蛍の光をながめながら、蛙たちの果てしないコーラスに耳をかたむけていた。暖かな春の夜で、湿地帯のじめじめした強い匂いが鼻孔を満たした。
かすかに水しぶきの音がした。魚でもいるのだろう、あるいはカワウソかもしれない。
「ベルガリオン?」笛のような奇妙な声がはっきりと言った。手すりの向こうから聞こえてくる。
ガリオンはビロードのような闇に目をこらした。
「ベルガリオン?」また声がした。足元のほうだ。
「なんだ?」ガリオンは用心して答えた。
「話したいことがあるんだ」また小さな水しぶきがあがって、船がわずかにゆれた。船を木につなぎとめているもやい綱が水にひたり、すばしこい影が綱をつたって、流れるようなふしぎな動きで手すりのほうへのぼってきた。影が直立したとき、ガリオンはそれから水がしたたる音をはっきり聞き取ることができた。影は小さく、四フィートたらずだった。奇妙なすり足で、ガリオンのほうへ近づいてきた。
「おとなになったね」それは言った。
「しかたないさ」ガリオンはそれの顔を見きわめようとしながら、影に目をこらした。そのとき月が雲の陰からすべりでて、ガリオンは自分の見つめていたのが、湿地帯に棲む沼獣の毛むくじゃらのびっくり目玉の顔なのに気づいた。「チューピクか?」ガリオンは信じられない思いできいた。「おまえなのか?」
「おぼえてたな」小さな毛むくじゃらの生き物はうれしそうだった。
「もちろん、おぼえていたとも」
船がまたゆれて、毛むくじゃらの影がもうひとつもやい綱をかけあがってきた。チューピクはいらだたしげにふりかえった。「ポッピー!」かれは叱りつけた。「うちへ戻れ!」
「いやよ」彼女はいたって冷静に答えた。
「言われたとおりにしろ!」チューピクは甲板で足をふみならしながら命令した。
「どうして?」
チューピクは憤懣やるかたないようにポッピーをにらみつけ、ガリオンにむかってたずねた。「みんなあんななのかね?」
「みんなって?」
「女さ」チューピクはうんざりしたようにその言葉を口にした。
「たいていはそうだな」
チューピクはためいきをついた。
「ヴォルダイはどうしてる?」ガリオンはかれらにたずねた。
ポッピーがせつないような声をたてた。「わたしたちのかあさんは死んだわ」悲しそうに言った。
「気の毒に」
「かあさんはとても疲れていたんだ」チューピクが言った。
「わたしたち、花でかあさんをいっぱいにしたの。それからかあさんの家をすっかり閉ざしたのよ」
「きっとヴォルダイも喜んだだろう」
「いつかあんたが戻ってくると言ってたよ」チューピクが言った。「かあさんはとても賢かったんだ」
「そうだね」
「あんたがくるまで待ってから、あんたに伝言を伝えるべきだとかあさんは言った」
「伝言?」
「あんたをやっつけようとする悪魔がいる」
「ぼくもそんな気がしはじめていたんだよ」
「かあさんはあんたにこう言うようにと言ったんだ、その悪魔はたくさんの顔を持っていて、その顔はかならずしも一致しないが、その陰にあるものは顔を持たず、あんたが考えているよりずっと遠くからやってくる、と」
「よくわからないな」
「それは星のむこうからやってくるんだ」
ガリオンは目をみはった。
「それがあなたに言うようにと、わたしたちが教えられたことなのよ」ポッピーが口をはさんだ。「チューピクの言ったことは、かあさんの教えたこととひとこともちがっていないわ」
「ベルガラスにかあさんのことを話してくれ」チューピクがそのとき言った。「かあさんが感謝していたと伝えてほしいんだ」
「伝えよう」
「さよなら、ベルガリオン」沼獣は言った。ポッピーがのどの奥で親愛をしめす小さな音をたてて、ぺたぺたとそばまでやってくると、ガリオンの手にちょっとだけ鼻をこすりつけた。
そしてかれら夫婦は手すりを越え、湿地帯の暗い水中に見えなくなった。
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そこはわびしい感じの場所だった。村が肩をよせあっている川の土手は、これといった特徴もない平地の端にあり、ごわごわした暗緑色の草が平地をおおっていた。草の下にあるのは、沖積期のぬめりのある灰色の土で、まるで腐っているように見えた。ムリン川の幅の広い曲がりめのすぐ向こうには、どこまでもつづく緑と茶色の湿地帯が広がっていた。村そのものを構成するのは焦げ茶色の家が二十数戸ばかり、くっつくようにしてかたまりながら、四角い石造りの廟を取り囲んでいる。川には白い骨のような漂木でできたぐらぐらの埠頭が、骸骨の手のように突き出していた。竿にかけられて乾燥した魚網が、蚊の蔓延するじめっとした空中でいやな臭いを放っている。
ガリオンの船は昼ごろついた。かれはただちにぎしぎし鳴る埠頭に降り、ぬかるんだわだちだらけの通りに出ると、すべらないように気をつけて歩きはじめた。ガリオンは村人たちのどんよりした視線が、自分と背中のリヴァ王の大きな剣に、好奇心もあらわにつきささってくるのを感じた。
変色した青銅の門にたどりついて、入門を求めたとき、廟を警備しているベラーの僧侶たちはいたって従順で、こびているようでさえあった。僧侶たちは板石敷の中庭ヘガリオンを通しながら、腐りかけた犬小屋と、タールをぬった頑丈な柱をほこらしげに指さした。柱にはさびた太い鎖の一部がいまもつながれていた。気のふれたムリンの予言者が、そこで晩年の日々を過ごしたのだ。
廟の内部には例によって、巨大な熊の頭を彫り込んだ石をはめた祭壇が立っていた。ガリオンは廟がよごれ放題であることや、警護にあたる僧侶たち自身、服はしわくちゃで、体も清潔とはほど遠いことに気づいた。そういえば、宗教にのめりこむと、まずその兆候として、せっけんと水にたいする極端な忌避があらわれる。どうやら聖なる場所というのは――そして場所に仕える人々も――鼻をつまみたくなるものと相場がきまっているらしい。
丸天井の至聖所にたどりついたとき、ちよっとした問題が起きた。『ムリンの書』の原本である黄ばんだ巻物は、クリスタルの箱におさめられ、人の背の高さほどもある二本の蝋燭に両側から照らされていたが、僧侶のひとりで、風に乱れた藁束のような髪とひげをした狂信者が、箱をあけてもらいたいというガリオンの丁重な求めに、目を血走らせて狂ったように異議を叫んだのだ。とはいえ、その幹部格の僧侶も、いかに聖なる物だろうと自分には調べる権利があるというリヴァ王の主張にはぐうの音《ね》も出なかった――リヴァ王が〈アルダーの珠〉を持っていればなおのことだった。ガリオンは思ってもみなかった方法で、多くのアローン人の意識のなかでは、自分が聖なる存在であることを、あらためて認識するにいたった。
狂信者は、冒涜≠フ言葉をくりかえしつぶやきながらも、とうとう異議を撤回した。クリスタルの箱はさびついた鉄の鍵であけられ、ガリオンが『ムリンの書』を調べられるようにと、小さなテーブルと椅子が蝋燭の明かりの中心に運び込まれた。
「もうひとりでなんとかできると思いますよ、尊師のみなさん」ガリオンは強調するようにはっきり言った。肩ごしにのぞきこまれるのはいやだったし、ことさら人にいてもらいたいとも感じなかったからだ。テーブルに向かい、巻物に片手をおくと、ガリオンは僧侶たちの小さな輪をまっすぐ見すえた。「必要なときは、声をかけます」
かれらの顔にいっせいに失望の色がうかんだが、リヴァ王の圧倒的存在の前にはすごすごとひきさがるしかなかった。僧侶たちはおとなしく一列になってでていき、あとにはガリオンと巻物だけが残った。
ガリオンは興奮した。この数ヵ月かれを悩ませてきた謎をとく鍵が、ついにこの手の中にあるのだ。ふるえる指で絹の紐をほどき、ひびわれた羊皮紙をひろげはじめた。字体は古めかしかったが、みごとだった。字のひとつひとつがのびのびしている。ガリオンはほとんど即座に、この原稿ひとつの創作に、ひとつの全生涯が捧げられたことを感じとった。うずうずしながら文字どおりふるえる手で、慎重に巻物をのばし、いまではすっかりなじみのある言葉や文を目で追いながら、謎をいっきょにあきらかにするあのくだりを捜した。
あった! ガリオンは信じられない気持ちでそれを凝視した。自分の目が信じられなかった。すべての写本とまったく同じところにしみがあったのだ。挫折といらだちで、ガリオンはわめきそうになった。
胸の悪くなるような敗北感を味わいながら、その致命的な箇所をもう一度読んだ。「そして〈光の子〉は〈闇の子〉と対決し、かれに打ち勝ち、〈闇〉は消え失せるであろう。しかし、見よ、〈光〉の中心にある石が――」ここにあの呪われたしみがまたついていた。
もう一度それを読んだとき、妙なことが起きた。ふしぎな無関心がガリオンをとらえたのだ。しみのついた言葉ひとつになんでそんなに大騒ぎするんだ? 言葉ひとつぐらいあってもなくてもどうってことはないじゃないか? ガリオンは巻物を箱に戻してこの臭い場所を出ていくつもりで、椅子からたちあがりかけた。次の瞬間、かれははたと動きをとめて、これまで費やしてきた時間をふりかえった。そのページについたしみの意味を解きあかそうと、何時間頭をしぼったことだろう。もう一度読んでみたからって、悪いことはあるまい。なんといっても遠路はるばるやってきたのだ。
ふたたび読みはじめたが、たえがたいほど嫌悪感が強まってきた。こんなくだらないことにどうして時間を無駄使いしているのだろう? わざわざ出かけてきたが、狂人のたわごとで目をしょぼつかせるのが関の山だ――この臭くて、腐りかけた、なめしかたもお粗末な羊の皮のきれっぱしめが。ガリオンはけがらわしげに巻物をおしやった。まったくばかな話だ。椅子をひいてたちあがり、背中にしょった鉄拳の大きな剣の位置を直した。船はまだあそこにいるだろう、ぐらぐらの埠頭につながれているはずだ。日暮れまでにはコトゥまであと半分の距離に行けるだろうし、今週中にはリヴァへ戻れる。帰ったら、書庫には永久に鍵をかけて、国務に専念しよう。なんといっても、王たるもの、こんなくだらない狂人のあてずっぽうにかかわりあっている暇はないのだ。ガリオンはきっぱりと巻物に背を向けて、ドアに向かいかけた。
ところが、巻物から目をそらしたとたん、かれは立ち止まった。ぼくはなにをしているんだ? 謎はまだそこにある。解決するための努力ひとつしていない。つきとめなくてはならないのだ。ところが、ふりかえって、巻物をふたたび目にすると、さっきと同じあの耐えがたい嫌悪がおそいかかってきた。それがあまりにも強烈だったので、気が遠くなるほどだった。回れ右をすると、嫌悪感はきれいさっぱりなくなった。巻物それ自体にガリオンを遠ざけようとするなにかがあった。
注意深く巻物から目をそらしたまま、ガリオンはいったりきたりしはじめた。心の中のあの乾いた声はなんと言っていたっけ? 「そこにはいくつかの言葉がある。正しい光で見れば、見ることができるはずだ」どんな[#「どんな」に傍点]光だろう? 丸天井の部屋にある蝋燭が、声の意味したものでないことはあきらかだった。日光か? それはありえない。ポレドラはあなたは隠された言葉を読まなくてはいけないと言っていた。しかし、目を向けるたびに『ムリンの書』が文字どおりかれを追い払ってしまうのに、どうして読むことができるだろう?
そのとき、ガリオンは立ち止まった。ほかにポレドラはなんと言っていた? あるものがなければ見えないとかなんとか……
腹がよじれるほど強い嫌悪感が襲いかかってきた。かれはすばやく回れ右をして憎むべき書物に背をむけた。その拍子に、〈鉄拳〉の剣の柄《つか》がいやというほど頭の横にぶつかった。おこって肩ごしに手をのばし、柄《つか》をつかんで剣を押しもどそうとしたが、手にふれたのは柄《つか》ではなくて〈珠〉だった。吐き気がみるみる消えて、意識が澄み、思考が明晰になった。光! そうか! 〈珠〉の光で『ムリンの書』を読まなくてはならなかったのだ。それがポレドラと乾いた声の両方がガリオンに言おうとしていたことなのだ。かれはぎごちなく手をうしろに伸ばして〈珠〉をつかんだ。「はずれろ」とつぶやいた。かすかなかちりという音とともに、〈珠〉がはずれて手に落ちた。とたんに巨大な剣の重みがのしかかってきて、ガリオンはすんでに膝をつきそうになった。おどろきながら、かれはこの剣が大きさのわりにばかに軽かったのは、〈珠〉そのものの作用だったのだと気づいた。ものすごい重みにあがきながら、胸の留め金をまさぐってはずし、とほうもない重みを背中からすべりおろした。〈鉄拳〉の剣が床に落ちて、すさまじい音をたてた。
ガリオンは〈珠〉を胸の前にもって回れ右をし、まともに巻物を見た。空中で怒りがうなり声をあげているのが聞き取れそうだったが、かれの心はあいかわらず澄んでいた。テーブルに歩み寄って、片手で巻物を開き、片手で光輝く〈珠〉をかかげもった。
とうとう、長らくかれを苦しめていたしみの意味が見えた。インクのしみは偶然そこについたのではなかった。そこにはメッセージがあった――その全文は単語が重なりあって書かれていたのだ! あのたったひとつのしみのなかに、いっさいの予言がよこたわっていたのだ!
〈アルダーの珠〉の青い力強い光によって、ガリオンの目は羊皮紙の表面の下へ下へと沈んでいくようだった。すると長いこと隠されてきた言葉が、巻物という形あるものから泡のようにうきあがってきた。
「しかし、見よ」決定的な文はこうだった。「〈光〉の中心にある〈石〉が赤く燃えるとき、わたしの声は〈光の子〉にむかって話しかけ、〈闇の子〉の名前を明らかにするであろう。そして〈光の子〉は〈守護者〉の剣をとり、隠されているものをさがしにでかけるであろう。探索は長きにわたり、三倍におよぶであろう。〈保有者〉の代がわりとともに、探索がはじまったことをなんじらは知るであろう。〈保有者〉の子孫を厳重に守るがよい。なぜなら子孫はほかにないからである。厳重に守るべし、なぜならその子孫が〈闇の子〉の手に落ちることがあれば、結果を下すのはやみくもの選択だけだからだ。〈保有者〉の子孫が万一奪われるようなことになれば、〈最愛なる永遠の者〉が道を先導しなくてはならない。かれは〈謎〉の中で悪魔の陵む場所へいたる道を見つけるはずである。それぞれの〈謎〉には道の一部があるだけだが、かれはそれを残らず――ひとつ残らず――見つけねばならぬ。さもなくば、道はまちがった方向へ向かい、〈闇〉が勝利するだろう。三倍の探索の終点における対決へと急ぐがよい。この対決はもはや存在しない場所でおこなわれ、選択がなされるであろう」
ガリオンはもう一度読み、三回読んだ。その文章が意識の中でこだまし、とどろいて、不吉な悪寒を禁じえなかった。ようやくかれはたちあがって、蝋燭にてらされた丸天井の部屋のドアに歩み寄った。「書くものが必要だ」ガリオンはドアのすぐ外に立っていた僧侶に告げた。「それからだれかを川へやってもらいたい。船長に出発の用意をしておくように伝えるんだ。ここの仕事をすませたらすぐにコトゥへ発たなくてはならない」
僧侶はガリオンが持っている白熱を放つ〈珠〉を、目をとびださんばかりにして見ていた。
「ぼやっとたってないで、さっさとするんだ!」ガリオンは一喝した。「全世界が今言ったことにかかっているんだぞ!」
僧侶は目をぱちくりさせてから、いそいでたちさった。
翌日、ガリオンはコトゥにいた。一日半後には北部アルガリアのアルダーフォードについた。さいわいにも、半野生のアルガリアの家畜の群れが、ミュロスへ向かおうと、流れの急な広くて浅い川のその場所を駆り立てられるようにして渡っていた。ガリオンは渡りに船とばかりに、すぐさま番人頭をさがしに行った。
「馬が二頭いるんだ」ガリオンはひごろの礼儀正しさも忘れて、いきなり言った。「この中で一番いいのがいい。今週中に〈アルダー谷〉へ行かなくてはならないんだ」
番人頭は黒い革の服をきた、猛々しい顔つきのアルガーの戦士で、思案げにガリオンをながめた。「いい馬は高くつきますぜ、陛下」目をぎらつかせてふっかけてきた。
「そんなことは問題外だ。十五分以内に乗れるようにしておいてもらいたい――それから、ぼくのために食べ物を少し鞍袋へほうりこんでおいてくれ」
「値段を協議する気もないんですかい?」番人頭はいたくがっかりした声で言った。
「とくにないね。いくらでもかまわないよ、ちゃんと払う」
番人頭はためいきをついた。「贈物として持ってってください、陛下」そう言ってから、男はうらめしげにリヴァの王を見た。「むろん、おわかりなんでしょうね、おれの午後をすっかりだいなしにしたことは」
ガリオンはわかっているというようにニヤッとしてみせた。「時間があれば、善良な番人頭くん、一日中でもきみと押し問答して、最後の一ペニーまでねばるところだが、南に緊急の用事があるんでね」
番人頭は悲しそうに頭をふった。
「そんなにがっかりするなよ、きみ。なんなら、会う人ごとにきみの名を持ち出してけちょんけちょんにけなし、どんなにふんだくられたかを訴えてあげようか」
番人頭は目を輝かせた。「それはなんともご親切なことで、陛下」かれはガリオンのおもしろがっている表情に気づいて言った。「つまるところ、だれしも失いたくない評判てものがあるんでさ。馬はいつでもお乗りになれますぜ。おれが自分でお選びしますよ」
ガリオンはとぶように南へ向かった。二、三リーグごとに馬を交代させて、馬を疲れさせないようにたえず気をくばった。〈珠〉を捜しもとめる長い旅はガリオンに良馬の体力を維持する方法をたくさん教えてくれた。ガリオンはそれらをかたっぱしから利用した。急勾配の丘が行く手にあらわれたときは、歩調を落として歩かせ、下りでロスを挽回した。可能なら、でこぼこした場所は迂回した。夜はかなりふけてから休み、朝の最初の光とともにふたたび出発した。
暖かい春のひざしのもと、豊かな緑にもえる膝まである草原の海を、着実に南へ進んだ。アルガリア砦の人工の山は避けて通った。そこを通れば、チョ・ハグ王やシラー王妃、それにへターとアダーラが一晩ぐらい泊まっていけと言い張るにちがいないからだ。残念だが同じ理由で、ポレドラの小屋も避け、わざと一リーグほど西を通った。あとでポルおばさんやダーニク、エランドに会う時間があればいいと思ったが、今はとにかくベルガラスのところへ行き、上着の内ポケットにいれてある、念には念をいれて慎重に書き写した巻物の一節を見せなくてはならなかった。
ついにベルガラスのずんぐりした円形の塔に到着した。泡のような汗をかいている馬からとびおりたとき、ガリオンの脚は疲労のあまりふるえがとまらなかった。さっそく大きなのっぺりとした岩に歩み寄った。それが塔にはいるドアなのだ。「おじいさん!」上の窓にむかって叫んだ。「おじいさん、ぼくだよ!」
返事はなかった。ずんぐりした塔は高い草むらから無言でそびえたち、空を背にくっきりと浮かびあがっている。そういえば、老人が留守かもしれないという可能性は、まったく考えてもいなかった。「おじいさん!」ガリオンはまた呼んだ。やはり返事はない。翼の赤い鶫《つぐみ》がまいおりてきて塔のてっぺんにとまり、おもしろそうにガリオンをみおろした。それから鳥は羽をつくろいはじめた。
失望のあまり気分が悪くなりながら、ガリオンは物言わぬ岩を見つめた。いつもならそれが大きく開いて、ベルガラスがでてくるのだ。重大なエチケット違反なのを承知のうえで、集中力をかきあつめ、岩を見ながら、「開け」と言った。
岩がぎょっとするようなきしみとともに、おとなしく開いた。ガリオンは中にはいると、いそいで階段をのぼり、あやうく足を踏みはずしそうになった。以前ぐらぐらしていた石段のひとつがまだなおっていなかったのだ。「おじいさん!」階段の上にむかって叫んだ。
「ガリオンか?」上から聞こえてきた老人の声はびっくりしているようだった。「おまえなのか?」
「呼んだんだよ」最上階の、とりちらかった円形の部屋にあがりながらガリオンは言った。「聞こえなかった?」
「考えごとをしていたんだ」老人は答えた。「なにごとだ? こんなところでなにをしてる?」
「ついにあの一節を見つけたんだよ」
「節というと?」
「『ムリンの書』の一節さ――欠けていたやつだよ」
ベルガラスの表情がにわかに硬く、用心深くなった。「なんの話だ、え? 『ムリンの書』には紛失している節などないぞ」
「リヴァで話し合っただろう。おぼえていないのかい? あれだよ、ぺージにしみがついてた個所だよ。ぼくが指摘したじゃないか」
ベルガラスの表情に嫌悪がはいりこんだ。「そんなことでわしの邪魔をするためにわざわざやってきたのか?」痛烈な口調だった。
ガリオンはまじまじとベルガラスを見つめた。それはかれの知っているベルガラスではなかった。老人にこんなに冷たい扱いかたをされたのは、はじめてだった。
「おじいさん、どうかしたの? これはすごく重要なことなんだよ。何者かが古写本の一部を読めなくしたんだ。読んでいくと、見えない部分があるんだよ」
「だが、おまえには見えるのか?」ベルガラスの声は軽蔑にみちていた。「おまえが? おとなになるまでろくすっぽ字も読めなかったおまえがか? わしらは何千年もあの古書を調べていたんだぞ。それを、わしらがなにかを見過ごしていたと言うのか?」
「ぼくの話をきいてほしいんだ、おじいさん。説明しようとしてるんだよ。あのくだりにくると、意識の中でなにかが変化するんだ。あそこに全然注意を向けないのは、なぜだか、注意を向けたくなくなるからなんだよ」
「ばからしい!」ベルガラスは鼻をならした。「鼻もちならん新参者に研究のしかたなぞ教えてもらうにはおよばん」
「ぼくが見つけたものをせめて見るだけでもいいから」ガリオンはすがるように言って、内ポケットから羊皮紙をとりだし、ベルガラスにさしだした。
「ごめんだな!」ベルガラスは叫ぶなり、羊皮紙をはたきおとした。「そのくだらんものをわしに近づけるな。わしの塔から出て行け、ガリオン!」
「おじいさん!」
「出て行くんだ!」老人の顔は怒りに青ざめ、目はぎらついていた。
祖父のあまりの言葉にガリオンは涙がこみあげてきた。どうしてこんなひどい口のききかたをするのだろう?
老人はますます興奮しはじめた。いらだたしげにぶつぶつとつぶやきながら、行きつ戻りつしはじめた。「わしにはやることがあるんだ――大事なことがな――いきなりここにやってきて、なにかが欠けていたとかいう根も葉もないでたらめを押しつけるとは、よくもそんなことができるな? どういうつもりだ? わしがだれだかわかってるのか?」ガリオンがひろいあげてふたたび手にした羊皮紙を手ぶりで示した。「そのいまわしいものをわしの目にはいらんところへ片づけてしまえ!」
そのとき、ふいに疑問がとけた。あの予言を奇妙なインクのしみで隠そうとしているのが何者なのかは知らないが、そいつは相当死にものぐるいになっているにちがいない。それで、その一節を読ませまいと、こんなベルガラスらしくない怒りをベルガラスにうえつけたのだ。こうなったら、見まいとするあの奇怪な衝動を打ち破る手段はひとつしかない。ガリオンは羊皮紙をテーブルにおくと、ひややかな態度で、これ見よがしに胸にたすきがけにしている重いベルトをはずし、背中から〈鉄拳〉の剣をぬいて、壁にたてかけた。そして剣の柄《つか》にのっている〈珠〉に片手をあて、「はずれろ」と言った。〈珠〉はかれの手にころがり落ちて、輝いた。
「なにをしている?」ベルガラスが問いつめた。
「ぼくの話しているものをいやでも見てもらわなくちゃならないんだ、おじいさん」ガリオンは残念そうに言った。「おじいさんをいやな目にあわせたくないけど、見てもらうしかないんだよ」かれは〈珠〉をさしだしたまま、ゆっくりとベルガラスに近づいた。
「ガリオン」ベルガラスは不安そうにあとずさった。「気をつけろよ」
「テーブルのところへ行って、おじいさん」ガリオンは有無をいわせぬ口調で言った。「テーブルに近づいて、ぼくが見つけたものを読むんだ」
「わしを脅迫するのか?」ベルガラスは信じられないようだった。
「言ったとおりにしてよ、おじいさん」
「おたがい、こんなまねはよそうじゃないか、ガリオン」老人はあいかわらず〈珠〉からあとずさりながら言った。
「テーブルへ」ガリオンはくりかえした。「そこへ行って、読んでほしい」
ベルガラスの額に汗が吹き出していた。しぶしぶと、まるでそうすることが鈍痛でももたらすかのように、老人はテーブルに近寄って羊皮紙の上にかがみこんだ。それから首をふった。「見えんよ」羊皮紙のすぐそばに赤々と蝋燭がもえているのに、ベルガラスは言った。「ここは暗すぎる」
ガリオンは輝く〈珠〉をさしだした。「さあ、照らしてあげる」〈珠〉がひらめき、青い光が羊皮紙の上に落ちて、部屋中を満たした。「読んで、おじいさん」ガリオンは容赦なく言った。
ベルガラスはほとんど嘆願するような顔つきでガリオンを見つめた。「ガリオン――」
「読んで」
ベルガラスはすぐ前のページに目をおとし、とたんに喘ぎをもらした。「どこで――? どうやってこれを手にいれた?」
「あのしみの下にあったんだ。もう見えるでしょう?」
「もちろん、見えるとも」ベルガラスは興奮ぎみに羊皮紙をつかんでもう一度読んだ。両手がふるえていた。「たしかにこう書いてあったのかね」
「一字一句ぼくが書き写したんだよ、おじいさん――元の巻物から直接」
「どうやってこれを見たんだ?」
「いまおじいさんがやってるのと同じ方法でさ――〈珠〉の光によってだよ。どうしてだか、〈珠〉の光をあてると鮮明になるんだ」
「おどろくべきことだ」老人はつぶやいた。「たしか――」かれはいそいで壁ぎわの戸棚に歩み寄ると、しばらく中を引っかきまわして、一巻の巻物を持ってテーブルに戻ってきた。老人はそそくさとそれをひろげた。「〈珠〉をもっと近づけてくれ」
ガリオンは〈珠〉をつきだして、廟のときと同じように埋もれていた予言がゆっくりと浮き上がってくるのを祖父とともに見守った。
「じつにおどろくべきことだ」ベルガラスは驚嘆した。「ぼやけているし、一部は不鮮明だが、たしかにここに予言がある。全文がここにある。どうして以前はだれひとりこれに気づかなかったのだろう――おまえはどうやって発見したんだね?」
「ぼくひとりの力じゃないんだよ、おじいさん。声が正しい光でこれを読むようにと教えてくれたんだ」ガリオンはこれから言わなくてはならないことが、どれほど老人に深い痛みを与えるかを思って、ためらった。「それに、ポレドラがぼくたちのところへやってきたんだ」
「ポレドラが?」ベルガラスはせき込んで妻の名を口にした。
「何者かがセ・ネドラの眠りの中へはいりこんできて、あることを――とても危険なことを――彼女にさせようとしていたんだ。するとポレドラがあらわれて、セ・ネドラをとめてくれた。それからぼくにむかって、ドラスニアの廟へ行き、古写本を読むようにと言った。特に、〈珠〉を持って行くのを忘れないようにと念をおしてくれたんだ。ぼくは廟へ到着して読みはじめたけど、もうちょっとで帰るところだった。なにもかもがすごくばかばかしく思えたからなんだよ。そのとき、声とポレドラに言われたことをおもいだして、はっと思ったんだ。〈珠〉の光で読みはじめると、たちまち時間を無駄にしているという気持ちはどこかにいってしまった。おじいさん、あの奇妙な気分はなんのせいなんだろう? ぼくだけに起きることかと思っていたけど、おじいさんにも起きただろう」
ベルガラスは額にしわをよせて考えこんだ。「ひとつの禁止状態だな」ようやくそう説明した。「あるとき何者かがあの部分に意志の力をすりこんで、不快感からだれにもそれが見えなくなるようにしたのだ」
「でも、予言はちゃんとそこにあるんだよ――おじいさんの写しにだってある。あれを写しとった筆記者にはちゃんと見えたのに、どうしてぼくたちには見えなかったんだろう?」
「昔の筆記者の多くは文盲だったのだ」ベルガラスは説明した。「なにかを写すためには、文字が読めなくてもかまわんのだ。当時の筆記者たちがしていたのは、ページの上の文字をそっくり写し取ることだけだったのさ」
「でもこの――なんと言ったっけ?」
「禁止状態か。おかしな言葉だろう。たしか、ベルディンが言い出した言葉でな。ときどきベルディンはおのれの賢さにほれぼれしとる」
「禁止状態の作用で筆記者たちは予言の言葉を重ね書きしたっていうの――予言がなにを意味しているのかわからないままに?」
ベルガラスは目を宙にすえてぶつぶつ言った。「何者だかわからんが、これをやったのはきわめて強力な力を持ち――しかもきわめてずる賢いやつだ。わしの意識がもてあそばれようとは思ってもみなかった」
「そのすりこみとやらをいつやったんだろう?」
「おそらくムリンの予言者が予言を口にしたのと同時におこなったのだろう」
「禁止状態はそれをつくった者が死んだあとも効力を持つのかな?」
「そうではない」
「すると――」
「そのとおり。そいつはまだどこかに生きているんだ」
「ぼくたちの耳にたえずはいってくるザンドラマスがその人物だということはある?」
「可能性はあるだろう」ベルガラスはガリオンが写し取った羊皮紙をとりあげた。「いまは普通の光でも読める。おまえがいったん禁止状態を破ってくれたんで、読めるらしい」ベルガラスはもう一度注意深く羊皮紙に目をとおした。「これはじつに重大だぞ、ガリオン」
「わかってる」ガリオンは答えた。「でも、全部が理解できたわけじゃないんだ。最初の部分はすごく簡単だ――〈珠〉が赤くなって、〈闇の子〉の名前があきらかにされるところはね。どうやらぼくはもうひとつ旅をしなくちゃならないらしいね」
「これが正しければ、それも長い旅をな」
「この次のくだりはどういう意味だろう?」
「どれ、わしにわかるかぎりでは、おまえのこの探索は――それがなんであれ――すでにはじまっているんだ。ゲランが生まれたときに、はじまったんだ」老人は眉をひそめた。「しかし、やみくもな選択が決定をくだすという部分は気にくわんな。ひどく不安な気持ちにさせられる」
「〈最愛なる永遠の者〉とはだれのことだろう?」
「たぶんわしだ」
ガリオンは思わずベルガラスを見た。
ベルガラスは肩をすくめた。「ひけらかすようだがね」老人はすなおに言った。「だが、わしは一部では〈永遠の者〉と呼ばれておるんだ――それに師がわしの名前を変えたとき、元の名にベルという言葉を加えられた。ベルは最愛なる≠ニいう意味だったのさ」ベルガラスはちょっと悲しそうにほほえんだ。「師は言葉の扱いがうまかったんだ」
「予言が語っているこの謎とはなんのことだろう?」
「それは古い表現でな。昔は予言のかわりに謎という言葉が使われたんだよ。そう考えると意味が通るはずだ」
「おーい! ガリオン! ベルガラス!」塔の外から声がした。
「だれだ? ここへくることをだれかに話したのか?」ベルガラスがきいた。
「いや」ガリオンはけげんな顔をした。窓に近よって下を見おろすと、鷲のような顔をした長身のアルガー人が弁髪をたらして、くたびれた表情で馬にまたがっていた。「ヘター! どうしたんだ?」ガリオンは呼びかけた。
「いれてくれ、ガリオン」ヘターは答えた。「話がある」
ベルガラスが窓から顔をだして言った。「ドアは反対側だ。いまあける。石段の五段めには気をつけてくれ」長身のヘターが塔の向こうがわへ向かうのをみながら、ベルガラスは警告した。「ぐらぐらしているんだ」
「いつになったらあれをなおすの、おじいさん?」ガリオンはきいた。老人がドアをあけたとき、ガリオンはなじみのあるかすかな空気を感じた。
「ああ、いずれなおすさ」
塔のてっぺんにある円形の部屋にあがってきたとき、ヘターの鷲のような顔は青ざめていた。
「なにをそんなに急いでるんだい、ヘター?」ガリオンはたずねた。「あんなに馬を酷使するなんて、きみらしくもない」
ヘターは大きく息を吸った。「すぐにリヴァへもどるんだ、ガリオン」
「なにかあったのか?」突然寒気をおぼえながら、ガリオンはたずねた。
ヘターはためいきをついた。「こんな知らせを持ってくる役はやりたくなかったが、セ・ネドラから使いがきて、なるべくはやくきみをつかまえてもらいたいと言ってきたんだ。ただちにリヴァへ帰ってくれ」
ガリオンは気をしっかり持った。頭の中をおそろしい空想がかけめぐった。「なぜだ?」冷静にたずねた。
「残念だよ、ガリオン――なんと言っていいか――ブランドが殺された」
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第二部 アロリア
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ブレディク中尉はものごとを万事きわめて慎重に考える、きまじめなあのセンダリアの若手士官のひとりだった。中尉は時間きっかりにカマールの港湾都市にある〈獅子亭〉に到着し、前掛けをしめた宿のあるじに案内されて二階へあがった。ガリオンとその他の人々が滞在している部屋は、風通しがよく、家具の手入れもゆきとどいて、港をみおろす位置にあった。ガリオンは窓辺に立って緑色のカーテンのひとつをわきによせ、何リーグもの距離をへだてたはるかかなたのリヴァで起きていることを見通すような目つきで、窓の外を見ていた。
「およびですか、陛下?」ブレディクはうやうやしく一礼してからたずねた。
「ああ、中尉、はいりたまえ」ガリオンは窓からふりかえった。「フルラク王に至急伝えたいことがあるんだ。きみはどのくらいでセンダーにたどりつけると思う?」
中尉は考えた。その真剣な顔をひとめ見て、ガリオンはその若者がつねにあらゆることをじっくり考慮するタイプであることを知った。ブレディクは口をきゅっと結び、深紅の軍服のえりをうわの空でなおした。「寄り道をしないで、途中で宿ごとに馬を取り替えていけば、あすの午後遅くには宮殿につけるはずです」
「よし」ガリオンはセンダリアの王宛のたたんで封印をした手紙を若い士官にわたした。「フルラク王に会ったら、ぼくがアルガリアのヘター卿をアローン中の王のところへ派遣して、リヴァで〈アローン会議〉を開くつもりでいることをかれらに伝えたことを告げてもらいたい。そしてフルラク王にもおいで願いたいと伝えてくれ」
「わかりました、陛下」
「リヴァの番人が殺されたと伝えてほしい」
ブレディクの目が見開かれ、顔が青ざめた。「まさか!」かれは喘ぐような声で言った。
「何者のしわざです?」
「くわしいことはまだわからない。しかし、船のつごうがつきしだい、われわれはリヴァへ渡るつもりだ」
「ガリオン、ディア」窓のそばにすわっていたポルガラが口を開いた。「手紙に全部説明してあるんでしょう。中尉にはこれから長い道のりが待っているのよ、ここで話をしている暇はないわ」
「そうだね、ポルおばさん」ガリオンはブレディクにむきなおった。「金かなにか入用なものはあるかな?」
「いいえ、陛下」
「それじゃ、すぐ発ってくれたまえ」
「ただちに出発します、陛下」中尉は敬礼をして出ていった。
ガリオンは贅沢なマロリーの絨緞の上をいったりきたりしはじめた。その間、簡素な青の旅着姿のポルガラは、窓からさしこむ日光の中で針をきらめかせてエランドのチュニックのひとつをかがりつづけた。「どうしてそんなに平静でいられるの?」ガリオンはたずねた。
「平静なもんですか、ディア。だからこうして縫物をしているのよ」
「なんでこんなに手間取るんだろう?」ガリオンはやきもきした。
「船を用意するには時間がかかるのよ、ガリオン。パンをひとつ買うようなわけにはいかないわ」
「ブランドを殺すだなんて、いったいどこのどいつなんだ?」たまりかねてガリオンはさけんだ。一週間あまりまえ、ポルガラたちと〈谷〉を出発してからずっと、ガリオンはその問いをなんどもくりかえしていた。大柄で悲しそうな顔をした番人は、自分というものを文字どおり捨ててガリオンとリヴァの王座に身を捧げつくしていた。ガリオンの知るかぎり、ブランドは世界中にひとりの敵も持たない人物だった。
「リヴァへついたら、まっさきにつきとめたいことのひとつがそれよ」ポルガラが言った。「さあ、頼むから落ち着きなさい。歩き回っていたってなんにもならないし、第一、気が散ってしょうがないわ」
あたりが暗くなりかけたころ、やっとベルガラスとダーニクとエランドが帰ってきた。同行している長身で白髪まじりのリヴァ人の服には、かれが船乗りであることを証明する潮のにおいとタールのにおいがしみついていた。
「ジャンドラ船長だ」ベルガラスが紹介した。「かれがリヴァまで船でわれわれを連れていってくれる」
「ありがとう、船長」ガリオンはひとこと言った。
「喜んで、陛下」ジャンドラはぎくしゃくと一礼しながら答えた。
「たったいまリヴァからついたの?」ポルガラがきいた。
「きのうの午後です、マダム」
「向こうで起きたことだけど、なにか思うことがあって?」
「港ではくわしいことはあまりわかりませんでした、マダム。上の城塞にいる人たちは秘密主義みたいなところがありましてね――べつにこれは文句を言っているんじゃありません、陛下。あらゆるたぐいの噂が都市をとびかっています――そのほとんどはでたらめですがね。おれが確信を持って言えるのは、番人がチェレク人の一団に襲われて殺されたってことだけです」
「チェレク人だって!」ガリオンは叫んだ。
「その点では全員の意見が一致していますよ、陛下。ある者は暗殺者たちは殺されたと言っています。逃げのびた者がいるという連中もいます。たしかなところはわからないが、一派のうち六人が殺されて埋められたのはまちがいありません」
「でかした」ベルガラスがつぶやいた。
「はじめから六人しかいなかったわけじゃないのよ、おとうさん」ポルガラは言った。「わたしたちに必要なのは答えだわ、死体じゃなくて」
「あの――かまいませんか、陛下」ジャンドラがなんとなく居心地悪そうに口をはさんだ。「こんなことをいうのはおれの立場じゃないんですが、都市の噂の中には、例のチェレク人たちはヴァル・アローンの士官で、アンヘグ王によって送りこまれた連中だという話があるんです」
「アンヘグに? そんなばかな」
「一部の人たちもそう言ってます、陛下。おれ自身はあまりよくわかりませんが、陛下もそんな噂はこれ以上お聞きになりたくないでしょう。番人はリヴァでは好かれていました。だから大勢の人間が剣を研ぎはじめています――この意味がおわかりになればですが」
「なるべくはやく帰ったほうがよさそうだ」ガリオンは言った。「リヴァまでわれわれを送りとどけるのにどのくらいかかる?」
船長は慎重に考えた。「おれの船はチェレクの戦さ船ほど速くないんです」すまなそうな口調で言った。「そうですね、三日というところかな――天気がもてば。用意ができておいでなら、朝には出発できます」
「ではそうしよう」ガリオンは言った。
〈風の海〉の上は夏も終わりかけていた。天気は快晴がつづいた。ジャンドラの船は日差しを受けてきらめく波を切り、船尾にふきつける風に船体を傾けながら、休みなく進みつづけた。航海中、ガリオンはもっぱら甲板をむっつりと行きつ戻りつして過ごした。カマールを出て三日め、前方の水平線上に重なるように〈風の島〉のぎざぎざした形があらわれ、ガリオンはいてもたってもいられない気持ちになった。答をださねばならない問いがありすぎ、やらねばならないことがありすぎて、港に入るまでの一時間ばかりが耐えがたいほどもどかしかった。
午後の三時ごろ、ジャンドラの船は港の入口の岬をぐるりとまわって、都市のふもとにある石の桟橋に向かった。「ぼくは先に行くよ」ガリオンはみんなに言った。「なるべく早くついてきてくれ」船乗りたちが手早くもやい綱を結んでいる最中に、塩がかたまってへばりついた石の桟橋にとびうつり、一度に二段ずつ城塞への石段をのぼりはじめた。
城塞の巨大な主要門の前で、黒い喪服姿のセ・ネドラがかれを待っていた。顔は血の気がなく、目には涙をいっぱいたたえている。「ああ、ガリオン」ガリオンがそばまでくると、セ・ネドラは泣き声をあげた。両腕をかれの首になげかけ、胸に顔をおしあててすすりなきはじめた。
「いつ起きたんだ、セ・ネドラ?」妻を抱きしめてたずねた。「ヘターはあまりくわしいことは知らなかったんだ」
「三週間前よ。かわいそうなブランド。かわいそうな、気の毒な人」
「カイルはどこにいるかわかるかい?」
「ブランドの机で仕事をしているわ」セ・ネドラは答えた。「カイルはあのときから一日二、三時間しか眠っていないんじゃないかしら」
「ポルおばさんやみんなもすぐにくる。ぼくはカイルと話をしてくるよ。ポルおばさんたちがここについたらすぐに連れてきてくれるかい?」
「もちろんよ、ディア」セ・ネドラは手の甲で涙をふきながら答えた。
「あとでぼくたちも話しあおう。いまはなにが起きたのかつきとめなくちゃならない」
「ガリオン」セ・ネドラがきびしい表情で言った。「犯人はチェレク人の一派だったのよ」
「そうらしいな。だからなるべく早急に事の真相をつきとめる必要があるんだよ」
城塞の廊下は妙な静けさに支配されていた。ブランドが毎日王国の国務を指揮していた西翼の一連の部屋のほうへ歩いていくと、召使いや役人たちが沈痛な顔つきで頭をさげ、ガリオンを通した。
真っ黒な服をきたカイルの顔は、疲労と深い悲しみのため灰色になっていた。だが、ブランドのどっしりとした机の上にきちんと積み上げられた書類は、苦悩にもめげずにカイルがみずからの義務だけでなく、父親の義務をも果たしていることを物語っていた。ガリオンがはいっていくと、カイルは立ち上がろうとした。
「そのまま」ガリオンは言った。「堅苦しい挨拶などしている暇はないよ」ガリオンはやつれた友を見つめた。「気の毒なことをした、カイル」沈んだ声で言った。「この気持ちは口ではいいあらわせない」
「お心遣い感謝します、陛下」
ガリオンはカイルと机をはさんで椅子にすわりこんだ。疲労が波のようにおそいかかってきた。「くわしいことを知らないんだ。なにがあったのか正確に話してくれないか」
カイルはうなずくと、椅子に背をもたれた。「一ヵ月ばかり前のことでした」と話しはじめた。「陛下がドラスニアへお発ちになってまもないころです。アンヘグ王のもとから貿易代表団が到着したのです。全員、信任状には問題ないようでしたが、訪問の正確な目的についてはどことなくあいまいでした。礼儀上われわれは便宜をはかり、かれらはほとんどわれわれが割り当てた部屋を出ませんでした。やがて、ある晩遅く、父はセ・ネドラ王妃となにかのことで話し合い、自室にひきあげる途中、陛下の住居に通じる廊下でかれらに出会ったのです。なにか用かと父がたずねると、かれらは問答無用で父に襲いかかりました」カイルは言葉をきった。ガリオンはカイルが奥歯をきつく噛みしめているのに気づいた。カイルは大きく息を吸うと、疲れたように片手で目の前をはらった。「陛下、父は武器のひとつも持っていなかったのです。精一杯の努力をはらって身を守った父は、切り倒される前に助けを呼ぶことができました。わたしは兄弟たちと加勢にかけつけました――城塞の護衛数人とともに――そして最善をつくして暗殺者どもをとらえたのです。しかしやつらは頑として降参しようとしませんでした」カイルの眉間にしわが刻まれた。「わざと命を捨てる気のようでさえありました。殺すしかなかったのです」
「ひとり残らずか?」ガリオンはみぞおちのあたりに虚脱感をおぼえながらたずねた。
「ひとりをのぞいてです」カイルは答えた。「弟のブリンが斧の柄でそいつの後頭部を殴りました。それからずっと意識がもどらないのです」
「ポルおばさんもきたんだ」ガリオンは言った。「彼女ならそいつを起こせるだろう――だれかにできることなら、彼女をおいてほかにない」その顔はひややかだった。「そしてそいつが意識を取り戻したら、ぼくとふたりでちょっと話をすることになるだろう」
「わたしもいくつか知りたいことがあります」カイルは賛成したあと、当惑した顔つきになった。「ベルガリオン、やつらはアンヘグ王の手紙を持っていたのです。われわれがやつらを城塞に通したのも、そのためでした」
「どうもよくわからないな」
「その手紙はわたしが持っています。アンヘグ王の印と署名がありました」
「〈アローン会議〉を召集したんだ。アンヘグがここについたらすぐ、その謎を解くことができるだろう」
「かれがくればですがね」カイルは陰気につけくわえた。
ドアが静かにあいて、セ・ネドラがみんなを連れてはいってきた。
ベルガラスがきびきびと言った。「さて、われわれがこの事件を解決できるかどうかやってみよう。生存者はいるのか?」
「ひとりいます、長老どの」カイルは答えた。「しかし、意識がないのです」
「どこにいるの?」ポルガラがたずねた。
「北の塔の一室にいれてあります、マダム。傷は医者たちが治療にあたってきましたが、まだ意識を回復させることはできていません」
「これからすぐそこへ行くわ」ポルガラは言った。
エランドが部屋をよこぎって、カイルのそばへ行き、若いリヴァ人の肩に無言でそっと手をおいた。ふたたび奥歯を噛みしめたカイルの目に、きゅうに涙がもりあがった。
「やつらはアンヘグからの手紙を持っていたんだ、おじいさん」ガリオンは老人に説明した。「だから城塞にはいれたんだよ」
「その手紙はあるかね?」ベルガラスはカイルにきいた。
「はい、長老どの。ここに」カイルは書類の山をめくりはじめた。
「まず、そこからはじめるのが一番いいような気がするのだ。アローン全体の同盟関係がこれにかかっている。だから早急に解決したほうがいい」
ポルガラがただひとり生き残った暗殺者の取調べを完了したころには、夜もふけていた。話し合いのつづく王宮にはいってきたとき、彼女の顔はけわしかった。「残念だけど、わたしにはどうすることもできないわ」と報告した。「後頭部全体がつぶれているのよ。かろうじて生きているにすぎないわ。起こそうものなら、その瞬間に死んでしまうでしょうよ」
「知る必要があるんだよ、ポルおばさん」ガリオンはいった。「どのくらいで意識が回復すると思う?」
ポルガラは首をふった。「回復は疑わしいわ――たとえ回復しても、支離滅裂なことをいうのが関の山よ。いま脳がばらばらにならずにすんでいるのは、ひとえに頭蓋骨のおかげなんですからね」
ガリオンはすがるようにポルガラを見つめた。「ちょっとだけでも――」
「むりよ、ガリオン。あの状態じゃ役にはたたないわ」
二日後、アルガー馬族の族長であるチョ・ハグ王が、シラー王妃と、ガリオンのいとこで長身黒髪のアダーラとともに到着した。「まったく悲しいことだ」チョ・ハグは桟橋で握手をしながら静かな声でガリオンに話しかけた。
「最近ぼくたちが集まるのは葬儀のときばかりのようですね。ヘターはどこです?」
「いまごろはヴァル・アローンだろう。アンヘグと一緒にここにくるはずだ」
「じつはそのことなんですが」
チョ・ハグは片方の眉をつりあげた。
「ブランドを殺した連中はチェレク人でした」ガリオンは声を落として説明した。「やつらはアンヘグからの手紙を持っていたんです」
「アンヘグが事件とかかわりがあるわけがない」チョ・ハグは断言した。「かれはブランドを兄のように慕っていた。陰で糸をひいている者がいるにちがいない」
「きっとそうでしょう。でも、目下リヴァには疑惑があふれているんです。戦争を口にする者もいるほどです」
チョ・ハグの顔が暗くなった。
「だからいそいで真相を究明しなければならないんですよ。手に負えない事態に発展しないうちに、そういう考えを刈り取ってしまわないと」
翌日にはセンダリアのフルラク王が港についた。頑丈な船幅の広い船に同乗してきたのは、片腕のブレンディグ将軍、老いてなお意気軒昂なセリネ伯爵、そしておどろくべきことに、ほとんど伝説ともいえる船旅恐怖症にとりつかれているライラ王妃その人だった。同じ日の午後には、あいかわらず夫のために喪服をまとっているポレン王妃が、ボクトールから彼女を運んできた黒塗りのドラスニアの船からおりたった。息子である少年王のケヴァと、ジャヴェリンの名で知られるやせたケンドン辺境伯も一緒だった。
「ああ、ガリオン」ポレンは渡り板をおりるとガリオンを抱きしめた。「なんと言ったらいいか」
「ぼくたちは最愛の友のひとりを失ったんです」ガリオンはそう言うと、ケヴァのほうを向き、「陛下」とあらたまった一礼をした。
「陛下」ケヴァも一礼しながら答えた。
「暗殺をとりまく謎のことは聞いているわ」ポレンが言った。「ここにいるケンドンは謎ときにかけては超一流なのよ」
「辺境伯」ガリオンはドラスニアの諜報部長に挨拶した。
「陛下」ジャヴェリンは答えると、ふりかえって、渡り板をおりてくる蜂蜜色の髪に柔らかい茶色の目をした娘に片手をさしのべた。「わたしの姪をおぼえておられますか?」
「リセル辺境伯令嬢」ガリオンは挨拶した。
「陛下」彼女は礼儀正しく膝を曲げてお辞儀した。本人は気づいていないのだろうが、両頬にあるかすかなえくぼがその表情にどことなくいたずらっぽい感じを与えていた。「おじは秘書にしか使ってくれませんの。視力が衰えたふりをしていますけれど、たぶん本当の任務をわたしに与えないための言いわけだと思いますわ。年配の親戚というのは、ときとして過保護になりがちだとお思いになりませんか?」
ガリオンはちょっとほほえんだ。「だれかシルクのことを聞いてないかな?」
「かれはレオンにいます」ジャヴェリンが答えた。「熊神教の活動について情報を集めようとしているんです。使いを送りましたが、簡単には見つからないかもしれません。しかしもうじきやってくるでしょう」
「アンヘグはもうついたの?」ポレン王妃がたずねた。
ガリオンは首をふった。「チョ・ハグとフルラクはついたが、アンヘグからはまだなんの連絡もない」
「かれを疑っているひとたちがいるらしいけど、それが本当のわけがないわ、ガリオン」小柄な金髪の王妃は言った。
「到着したらすぐ、アンヘグがすべてを説明してくれるはずだ」
「暗殺者の生き残りはいるんですか?」ジャヴェリンがたずねた。
「ひとりいる。だが、そいつはあまり役にたちそうもないんだ。ブランドの息子のひとりがそいつの頭をぶんなぐったんだよ。意識不明のままなんだ」
「残念だな」ジャヴェリンは短くつぶやいた。「しかし、情報提供のためには、人間はかならずしも筋道の通った話をする必要はないんですよ」
「そうだといいんだが」ガリオンは熱っぽく言った。
夕食とその夜遅くにかけておこなわれた話し合いはしめりがちだった。だれひとりはっきりとは言わなかったが、自分たちの直面している寒々しい可能性を話すことについては、全員気が進まないようだった。アンヘグが欠席のままその疑問を提起することは、疑惑を確実なものにし、会合全体に重苦しい雰囲気を与えかねなかった。
「ブランドの葬儀はいつおこなわれるの?」ポレンが静かにたずねた。
「アンヘグがついたらすぐにでも」ガリオンは答えた。
「ブランドの職務に関して決心はついたのかね?」フルラクがきいた。
「決心というと?」
「番人という立場はそもそも、ニーサ人がゴレク王とその一族を殺したあとの空席を埋めるため、大昔に定められたものなんだ。現在はきみが王座についているのだから、はたして番人は必要だろうか?」
「正直なところ、そのことは考えていなかったな。ブランドはいつもここにいたんです。かれは石の城塞それ自体と同じくらい永遠にいてくれる存在に思えました」
「かれが殺されてからはだれがかわりに仕事をしているのです、陛下?」銀髪のセリネ老伯爵がたずねた。
「次男のカイルだ」
「ベルガリオン、あなたにはほかにもやらねばならぬことがたくさんおありだ」伯爵は指摘した。「毎日のこまごました仕事をこなしてくれる人間がぜひ必要ですよ――すくなくとも現在の危機が去るまでは。しかし、番人の地位についてはいま最終的決断を下すにはおよばないでしょう。陛下が頼めば、わざわざ正式に任命しなくとも、カイルが亡き父上の義務を果たしてくれるはずです」
「そのとおりだわ、ガリオン」セ・ネドラが言った。「カイルはあなたに誠心誠意つくしているわ。あなたが頼めば、なんでもしてくれるでしょう」
「その若者が満足のいく仕事をしているのなら、かれにそのままつづけてもらうのが一番でしょうな」セリネはそう言ってちょっとだけほほえんだ。「センダリアの古いことわざにも、順調ならば変更無用≠ニいうのがあるんですよ」
翌朝、船首と船尾が凝った作りの、ぶかっこうな船が見るからに不安定な帆をあげて、港にはいってきた。城塞の胸壁の上に立ってジャヴェリンと話をしていたガリオンは、けげんそうにそれを見おろした。「あれはどういう船だろう? 見慣れない作りだ」
「アレンドの船ですよ、陛下。アレンド人はなんでもかんでも城らしく見えないと気がすまないのです」
「アレンド人が船を所有していることさえ知らなかったよ」
「多くはないはずですよ」ジャヴェリンは答えた。「強風に出くわすとすぐに転覆する傾向があるんです」
「下へ行って、だれの船かたしかめたほうがよさそうだ」
「同感です」
ぶざまなアレンドの船に乗っていたのは、懐かしい友人たちだった。ボー・マンドルのいさましい男爵、マンドラレンが鎧兜をひざしにきらめかせて手すりをつかんでいた。となりにはワイルダンターのレルドリンが並び、かれらの妻のネリーナとアリアナが黒い贅沢な錦織りの飾りたてたガウンを着てそばにたたずんでいる。
「あなたの悲劇の知らせをうけとるやいなや、飛んできたのだ、ガリオン」アレンド人の船乗りたちがぶかっこうな船をガリオンとジャヴェリンの待つ桟橋にむかってぎごちなく進めているそばから、マンドラレンが大声をはりあげた。「義務と愛情にかられて、あなたと惨殺された番人のために、しかるべき復讐に協力せんものと馳せ参じたしだい。コロダリンも同行するところだったが、病いにふせっているのでね」
「予期しておくべきだったな」ガリオンはつぶやいた。
「ややこしいことになりそうですか?」ジャヴェリンがそっとたずねた。
ガリオンは身ぶるいした。「見当もつかないよ」
バラクが舵をにぎる〈海鳥〉号が岬をまわって港にはいったのは、それから二日後だった。手すりには鎖かたびらを着た屈強なチェレクの戦士たちが鈴なりになっていた。バラクが船を桟橋に近づけるあいだも、戦士たちの顔は警戒をゆるめず、用心深く目くばりをしていた。
ガリオンが城塞から長い石段をくだって下についたとき、あたりはたいへんな人だかりだった。群衆は険悪そのもので、そこに立っている大部分の者はけわしい顔で武器を手にしていた。
「面倒なことになりそうだ」ガリオンは同行したカイルに小声で言った。「ここは精一杯なごやかな顔をしたほうがいいだろうな」
カイルは港にむかって押しあいへしあいしている町の人々の怒った顔をながめた。「そうですね、ベルガリオン」
「アンヘグを迎えるときは見かけだけでも丁重にやらないとだめだぞ」
「それはむりというものです、ベルガリオン」
「こんなことは頼みたくないんだが、がまんしてくれよ、カイル。手すりにいるあのチェレク人たちはアンヘグ付きの護衛なんだ。ここでなにかがはじまりでもしたら、流血騒ぎになる――戦争なんてぼくたちのだれも望んじゃいないだろう。さあ、笑って、チェレクの王を迎えに行こう」
可能なかぎり最高の見せ場を作るために、ガリオンはカイルをしたがえてバラクの船まで渡り板をのぼっていった。こうすれば、怒れる群衆の面前でアンヘグ王を迎えることができる。あらたまった緑色の上着を着て、最後に会ったときより一段と大きくなったようなバラクが、甲板を近づいてきた。「おれたちみんなにとってたいへんな試練のときだな」バラクはまずガリオンと握手し、つぎにカイルと握手した。「アンヘグとヘターはご婦人たちと下にいる」
「ご婦人たち?」
「イスレナとメレルだ」
「噂は聞いてるかい?」ガリオンはたずねた。
バラクはうなずいた。「おれたちが妻を連れてきたのは、その噂のせいもある」
「名案だな」ガリオンは同意した。「喧嘩を売りにくる男は、まず妻など連れてこないものだ。ここでなるべくなごやかなところを見せたいんだよ」
「下へ行ってアンヘグを連れてこよう」バラクは渡り板の向こうに集まった険悪ムードの群衆をすばやく一瞥した。
いつもの青いローブ姿で下部甲板からあらわれたとき、アンヘグ王の残忍そうな黒ひげの顔はげっそりとやつれていた。
「アンヘグ、わが友」ガリオンは群衆に聞こえるように言って、チェレクの王にかけより、荒っぽく抱擁した。「笑顔をみせたほうがいいと思うよ」ガリオンはささやいた。「ぼくたちがいまでも最良の友人同士だということをあそこにいる群衆に知らせておきたいんだ」
「ほんとか、ガリオン」アンヘグは声をつまらせた。
「なんにも変わってやしないよ、アンヘグ」ガリオンは断言した。
「それじゃ、先に進もう」アンヘグは声をはりあげた。「チェレク王室はこの苦悩のときにあるリヴァの君主に心からの哀悼を捧げる」かれは堅苦しく宣言した。
「偽善者!」群衆から罵声がとんだ。
アンヘグの顔がけわしくなったが、ガリオンはすばやく手すりに近寄り、目を怒らせて、ぞっとするほど物静かな声で言った。「友人を侮辱するのはぼくを侮辱するのと同じだ。ぼくになにか言いたい者は?」
群衆は落ちつかなげにあとずさった。
ガリオンはアンヘグに向きなおった。「疲れているみたいだね」
「なにがあったかを聞いてからずっと宮殿中を――それにヴァル・アローンの大部分を――さがしまわっていたのだ。だが、手がかりひとつ見つけることができなかった」黒ひげのチェレクの王は言葉をきって、ガリオンの顔をまっすぐのぞきこんだ。その目には懇願の色がうかんでいた。「命にかけて誓う、わしはブランドの死とはまったく無関係だ、ガリオン」
「わかってるよ、アンヘグ」ガリオンはぽつりと言った。あいかわらず腹をたてている群衆をかれはちらりとながめた。「ヘターとご婦人たちを城塞へ連れていったほうがいいな。みんなそろっているんだ、会議をはじめよう」ガリオンはカイルのほうを向いた。「城塞へついたら、何人か手配してここにいる群衆を解散させてほしいんだ。この桟橋は立入禁止にしてもらいたい。ここで厄介事がおきるのはごめんだ」
「事態はそんなに悪いのか?」アンヘグがばかに神妙にたずねた。
「単なる用心だよ」ガリオンは答えた。「ぼくたちが真相をつきとめるまで、何事もあってほしくないんだ」
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リヴァの番人、ブランドの葬儀は翌日リヴァ王の広間でおこなわれた。全身黒ずくめのガリオンはセ・ネドラと並んで玄武岩の王座にすわり、リヴァの助祭が立錐の余地もない広間で故人を讃える言葉を述べた。
その悲痛な儀式にチェレクのアンヘグ王が参列していることで、居並ぶリヴァの貴族のあいだには鬱積した怒りが広がっていた。広間の奥でささやかれる言葉があけっぴろげな非難にまで発展しなかったのは、ひとえにブランドにたいする貴族たちの尊敬と、ガリオンの冷たい凝視のためだった。ポレンとチョ・ハグのあいだにすわったアンヘグは、儀式のあいだじゅう石のような表情をくずさず、儀式が終わるとそうそうに広間をたちさった。
「あんなアンヘグを見たのははじめてだ」バラクが葬儀のあとでガリオンにそっと話しかけた。
「人殺しよばわりされたことなんかないから、どうふるまえばいいのかわからないんだよ」
「だれもそんなことは言っていないよ」ガリオンはいそいで言った。
「ふりかえって、家来たちの顔を見てみろよ、ガリオン」バラクは悲しそうだった。「どの目もはっきりそう言ってるぜ」
ガリオンはためいきをついた。「見るまでもないさ。かれらの考えていることはよくわかってる」
「会議はいつからはじめる?」
「もうすこし待とう。ベルトに短剣をはさんだ参列者たちがうろうろしているあいだは、アンヘグに城塞の廊下を歩いてほしくない」
「もっともだな」バラクが同意を示した。
一同は午後の三時ごろ、青いカーテンをひいた南の塔にある会議室に集まった。カイルがドアをしめるとすぐに、アンヘグが立ち上がってみんなのほうを向いた。「まずはじめに、ここで起きたことはわしにはなんらかかわりがないことを言っておきたい」アンヘグはきっぱりと言った。「ブランドはもっとも親しい友人のひとりだったんだ。かれを傷つけるぐらいなら、その前に自分の腕を切り落としただろう。嘘ではない――一アローン人であると同時に王として、これが本当の気持ちだ」
「だれもあんたを非難などしておらんよ、アンヘグ」チョ・ハグがおだやかに言った。
「は! わしは見かけほどばかではないぞ、チョ・ハグ――ばかだとしても、耳はある。ここリヴァの連中はわしの顔に唾を吐きかけないありさまだ」
銀髪のセリネ伯爵が椅子に背をもたれた。「思うに、この疑惑のいっさいは――事実無根であるのはいうまでもないが――暗殺者たちがリヴァへきたときにさしだした例の手紙に端を発しているようです。その手紙を調べるところからはじめるのが一番の早道ではないでしょうかな?」
「悪くない考えだ」ガリオンはカイルのほうを向いた。「手紙を見せてくれるか?」
「ええ――ベルガラスどのがお持ちです、陛下」
「おお――そうだったな」ベルガラスは言った。「忘れておった」灰色のチュニックの内側へ手をいれて、おりたたんだ羊皮紙をひっぱりだし、センダリアの老貴族に手渡した。
「おかしなところはないようですな」伯爵は一読してから考えこんだ。
「見せてくれ」アンヘグが要求した。けがらわしげに手紙をつかんで、顔をしかめて目をとおした。「これはわしの署名だ、たしかに」かれは認めた。「わしの印だ。だが、ぜったいにこんなものは書かなかった」
ガリオンはふと思いあたった。「署名を求められる文書をいつも全文読んでるかな? というのは、ぼくは署名する文書の束がもってこられると、ときどき下の署名する場所に名前を書き込むだけで、ろくに内容を読まないことがあるんだ。つまり――何者かがこれを書類の山にすべりこませて、中身を読まずに署名してしまった可能性があるんじゃないか?」
アンヘグは首をふった。「以前はわしもそういうことをしたことがあったよ。しかしいまは署名する前にすべてに目を通している。それだけじゃない、名前をいれる文書は全部自分で口述しているんだ。自分の言いたいことが正確につたわっているかどうかわかるようにな」アンヘグは手紙をガリオンのほうへつきだした。「これを見てくれ」二筋目を指さしながら、言った。「貿易はわれわれ両王国の活力であるがゆえ――うんぬん。ちくしょう! であるがゆえ≠ネんて言葉は生まれてこのかた使ったためしがない」
「すると、どう考えればよいのでしょうな?」セリネ伯爵が言った。「ここには正真正銘の署名と印がある。アンヘグ王のお話では、署名する文書はすべて目を通すのみならず、すべての手紙と宣言書はみずから口述もしている。この手紙は文字どおり矛盾しています」
「セリネ」アンヘグがにがにがしげに言った。「法律をかじったことがあるのか? まるで法律家みたいなしゃべりかただぞ」
伯爵は笑った。「簡潔に言おうとしているだけですよ、陛下」
「法律家はだいきらいなんだ」
その日は終日いまいましい手紙がもっぱら議論の的になったが、なにも解決されなかった。ガリオンは調査をはじめたときとまったく同じ混乱と疑惑をかかえたまま、疲れはててベッドに向かった。
よく眠れず、朝遅く目がさめた。天蓋つきの大きなベッドに寝たまま考えをまとめようとしていると、となりの部屋から声が聞こえてきた。それとなくかれはだれとだれの声か聞き分けはじめた。むろんセ・ネドラがいた。それに、ポルおばさん。けたたましい笑い声はライラ王妃だ。ネリーナとアリアナもミンブレイトなまりですぐにわかった。ほかにも何人かいるが、ざわついたおしゃべりにまぎれてだれの声かわからない。
ガリオンはまるで眠っていなかったような気分でゆっくり起き上がった。羽毛ふとんをはねのけていきおいよく床に足をおろした。実をいえば、きょうという日を迎えるのは気がすすまなかった。ためいきをついてたちあがり、きのう着ていた黒い上着とズボンをいっときながめて、首をふった。ひきつづき喪服を身につけることは、あいまいながら無言の非難と解釈されかねない。それだけはなんとしてでも避けたかった。アンヘグ王に関する状況は目下、一触即発の微妙な均衡を保っていた。ガリオンは部屋をつっきってどっしりした箪笥に近づき、いつもの青い上着をえらんで着はじめた。
ドアをノックする音に、隣の部屋の会話がぱたりとやんだ。
「はいってもかまわない?」イスレナ王妃が押し殺した声でたずねるのが聞こえた。
「もちろんよ」ポルおばさんが答えた。
「考えていたんですけど――」イスレナは言いよどんでから、ふたたびつづけた。「あらゆることを考慮すると、わたしはおじゃましないほうがいいんじゃないかと考えていたの」
「なにを言ってるの」ライラ王妃が言った。「おはいりなさいな、イスレナ」
賛同のざわめきが起きた。
「今度のひどい事件に夫が無関係であることはわたしがみなさんに誓いますわ」イスレナは澄んだ声で言った。
「だれもアンヘグが犯人だなんて言っていないのよ、イスレナ」ポルおばさんが静かに答えた。
「おおっぴらにはそうでしょうけど、どこもかしこもいやな疑惑でいっぱいです」
「きっとガリオンたちが真相をつきとめるわ」セ・ネドラが断言した。「そうすれば、すべてがはっきりするわよ」
「かわいそうに、アンヘグはゆうべは一睡もできなかったんです」イスレナは悲しそうだった。「残酷そうに見えますけど、本当はとても感じやすい人なんです。このことではすっかり傷ついてしまって。一度など泣いてさえいましたわ」
「この恐ろしいおこないの陰に潜んでいる悪人のために、ご主人が流された涙の仇は、きっとほかのかたがたがとってくれましょう」ネリーナ男爵婦人が言った。「そしてアンヘグ王の誠実を疑う愚か者たちは、ひとたび真実があきらかになれば、みずからの軽率さを深く恥じることでございましょう」
「ほんとうにそうだといいのだけれど」イスレナは言った。
ガリオンのいとこのアダーラが口をひらいた。「こんな話をしていたら、悲しくなってしまうわ。それにわたしたちみんながここにいるのはそういう話をするためじゃないでしょう」
「なんのためなの、アダーラ?」アリアナがたずねた。
「赤ちゃんよ、アリアナ」アダーラは答えた。「わたしたちあなたの赤ちゃんをまた見にきたのよ、セ・ネドラ。まだ眠っていないはずでしょ、ここへ赤ちゃんを連れてきてわたしたちを喜ばせてよ」
セ・ネドラは笑った。「もうそう言ってくれないのかと思ってたわ」
会議は午前九時ごろはじまった。王とそれぞれの顧問たちがふたたび青いカーテンの会議室に集まった。夏もおわりの金色の朝日が窓からさしこみ、やさしい海風がカーテンをそよがせた。こうした集まりにはとりたてて堅苦しいところはなかったので、君主たちは部屋のあちこちに置かれた背もたれのまっすぐなビロード張りの椅子にくつろいでいた。
「きょうもまた例の手紙をほじくりかえしたところで、得るところはあまりないと思う」ベルガラスが口をきった。「あれはあきらかになんらかの偽造であるということでみんなには同意してもらって、先へ進むとしよう」ベルガラスはカイルを見た。「父上はこの島に敵がいたかね? チェレクの暗殺者グループを雇えるだけの財力のある敵ということだが?」
カイルは眉をひそめた。「他人の反発をまったく買わずに生きていける者などいないでしょう、長老どの。しかし、そういう恨みをだれかが抱いていたとは思えないのです」
「しかしながら」マンドラレンがカイルに言った。「立腹すると内心ひそかに怒りをつのらせ、そしらぬ顔で敵意を隠しておいて、いきなり復讐の手段に出る者がいるのも事実でござるぞ。アレンディアの歴史はそういう行為一色といってもよい」
「それも可能性のひとつではあるな」フルラク王が同意した。「遠いところよりもまず手近なところからはじめたほうがいいかもしれん」
「リストを作るといいでしょう」ジャヴェリンが提案した。「〈風の島〉でブランドに恨みを持っていた可能性のある者の名前をもれなく書き出せば、該当しない者をさっそく削除することができます。いったんリストを縮小できれば、調査がはじめやすくなる。犯人がリヴァ人なら、その人物はチェレクを訪れたはずだし、そうでなければ、最近チェレク人と接触があったはずです」
リスト作りには午前中いっぱいかかった。カイルが文書をとりよせ、かれら全員はブランドが過去五年間におこなった決定の数々をひとつひとつ検討した。番人は王国の元首として役目を果たしていたため、くだした決定は多数あり、どのケースにもたいがい勝者と敗者がいた。
昼食後は人物のより分け作業に移って、金で雇われる暗殺者一味を雇えるだけの財力のない者がふるいおとされた。
「多少しぼられてきましたよ」ジャヴェリンがまたひとつ名前を消しながら言った。かれはリストをもちあげた。「この人数ならなんとかなりそうです」
うやうやしくドアをノックする音がした。室内に配置されている護衛のひとりが外のだれかと短く言葉をかわしてから、バラクに歩み寄ってなにごとか耳うちした。赤ひげの大男はうなずいて、立ち上がり、護衛について部屋を出ていった。
「こいつはどうです?」ジャヴェリンがもうひとりの名前を指さしながら、カイルにきいた。
カイルは頬をかいた。「問題ないと思いますが」
「土地をめぐる論争ですよ」ジャヴェリンは指摘した。「こと土地のこととなると、常軌を逸する人間もいる」
「そこで争われたのは、ただの牧草地だったんです」カイルは思いだした。「それにたいして広くもありませんでした。いずれにしても、その男は管理能力をうわまわる土地を所有しているんです」
「それじゃ、どうして訴訟を?」
「その問題を父のもとへ持ち込んできたのは他の男でした」
バラクが部屋にもどってきて、「アンヘグ」といとこに声をかけた。「グレルディクがきてる。重大な話があるそうだ」
アンヘグは立ち上がりかけて、みんなを見回した。「ここへ連れてきてくれ」短く言った。「わしに秘密があると思われたくない」
「秘密ならだれにだってあるわ、アンヘグ」ポレン王妃がささやいた。
「わしの立場はそれほど悠長じゃないんだよ、ポレン」アンヘグは片耳の上にずりおちていた、へこんだ王冠をかぶりなおした。
そのとき、毛皮をまとったひげづらのグレルディクが護衛たちをおしのけて、部屋にはいってきた。「チェレクはたいへんなことになってるぞ、アンヘグ」グレルディクはつっけんどんに言った。
「どういうことだ?」
「おれはたったいまジャーヴィクショルムからきたんだが、あそこの連中はおそろしく非友好的だな」
「いまにはじまったことではあるまい」
「おれを沈めようとしたんだぞ。石弓を持って、都市につづく入り江の両側の崖っぷちに並んでいやがった。まるであられみたいに石がふってきた」
アンヘグはうなり声をあげた。「どうしてそんなことを?」
「やつらのしていることをおれに見られたくなかったんだろうよ」
「それほどまでにして隠しておきたいことがあるとは、いったい連中はなにをやっていたんだ?」
「艦隊を建設中だったのさ」
アンヘグは肩をすくめた。「チェレクでは船をつくるのは日常茶飯事だ」
「一度に百隻でもか?」
「なんだと?」
「石をよけるのに忙しかったんで、正確な数はわからないが、入り江の上端は作業場がずらりと並んでいた。竜骨がずらっと横たえられていて、肋材にとりかかっているところだった。そうそう、都市の外壁も建設中だったな」
「外壁? ジャーヴィクショルムにはヴァル・アローンの外壁よりもっと高い壁があるんだぞ」
「今度はもっと高いやつなんだ」
アンヘグは顔をしかめた。「なにをたくらんでいるんだ?」
「アンヘグ、艦隊を作って砦を強化するといったら、ふつうは戦争の準備をすすめているということだわな。そして、王と親しいことで知られる男の船を沈めようとしたら、それはその戦争が王にたいするものだってことなんじゃないか」
「グレルディクの言うことにも一理あるよ、アンヘグ」バラクが言った。
「現在のジャーヴィクショルムはだれが支配しているんだい?」ガリオンは黙っていられなくなった。
「熊神教だ」アンヘグは吐き捨てるように言った。「この十年間、チェレク全士から連中が町に侵入してきた」
「これは深刻な問題だぞ、アンヘグ」バラクが言った。
「じつに不可解でもある」ジャヴェリンが指摘した。「熊神教はいまだかつて相対立する政治に関心を示したことは一度もなかったんです」
「どういう政治だって?」アンヘグがたずねた。
「別の言い方をすれば、君主に戦いをいどむということですよ」ドラスニアの諜報部長は説明した。
「どういうことなのか言ってくれたまえ」
「話がわかりにくいのは職業上の癖でしてね」ジャヴェリンは肩をすくめた。「これまではつねに、熊神教は内部から働きかけようとしてきた――すなわち、十分な支援を得てアローン国民の王たちに自分たちの政策を信奉させようとしてきたんです。いままでかれらはおおっぴらな謀反を考えたことさえないと思いますね」
「なにごとにも最初というものがあるんじゃないのかな」ヘターが口をはさんだ。
ジャヴェリンは脇に落ちぬようだった。「どうも熊神教らしくない」かれは首をひねった。「それにこれは過去三千年間かれらが信奉してきた政策にまっこうから対立するんですよ」
「人間はいつかは変わります」ブレンディグ将軍が言った。
「熊神教はちがうぜ」バラクが言った。「信者の頭には他の考えのはいりこむ余地はないんだ」
「早めにひとりだけヴァル・アローンへ帰ったほうがいいと思うぜ、アンヘグ」グレルディクがほのめかした。「やつらがあの船を完成したら、チェレクの西部沿岸はそっくりやつらの手に渡っちまう」
アンヘグは首をふった。「わしはここにいなければならんのだ」きっぱり言った。「いまはそれより重要な問題がある」
グレルディクは肩をすくめた。「あんたの王国だから、おれはかまわんけどね。すくなくともいまのところは」
「ありがとう、グレルディク」アンヘグはそっけなく言った。「その発言がどれだけわしの慰めになるか、思いもつかんだろうな。ヴァル・アローンにつくまでにはどのくらいかかる?」
「三日か――四日ってところだな。チェレク・ボアの大渦をどうつかまえるかによるね」
「行ってくれ。その艦隊の司令官にヴァル・アローンからとっとと出て、ハルバーグ海峡の軍港に行けとわしが言っていると伝えてもらいたい。この会議が終わったら、ちょっとジャーヴィクショルムまで足をのばすとしよう。その造船所が焼け落ちるのはあっというまだろうさ」
グレルディクは答えるかわりに、にやりとしてみせた。
夜になって会議が休会したあと、たいまつに照らされた廊下でカイルがガリオンに追いついてきて、小声で言った。「お考えになったほうがいいことがあるような気がするんです、ベルガリオン」
「え?」
「チェレクの艦隊の動きが気になるんですよ」
「艦隊と言ってもアンヘグの艦隊だよ。それに、チェレクはかれの王国だ」
「しかし、ジャーヴィクショルムの造船所については、グレルディクの不確かな確信があるだけですし、ハルバーグ海峡はリヴァからわずか三日の距離です」
「ぼくたちは神経質になりすぎているんじゃないかな、カイル?」
「陛下、わたしはアンヘグ王が父の暗殺に関する疑惑にことごとく値すると考えています。しかし、リヴァのすぐそばにチェレクの艦隊を近づけようというこの偶然は、まったくの別問題ですよ。それとわからぬように防備を整えるべきだと思います――大事をとるためだけにも」
「考えてみよう」ガリオンは短く言って、廊下を歩き出した。
翌日の昼ごろ、シルクが到着した。小男は灰色のビロードの上着で贅沢によそおっていた。最近の習慣で、指には高価な宝石がきらめいている。友人たちとの挨拶もそこそこに、シルクはジャヴェリンとふたりだけで話し合いにはいった。
その午後、会議室にはいってきたベルガラスはアンヘグ王からの手紙を片手に、自己満足の笑みをうかべていた。
「なんなの、おとうさん?」ポルガラが興味ありげにたずねた。「カナリアをつかまえたネコみたいな顔をして」
「謎を解いたときは、いつもうれしいもんさ、ポル」ベルガラスはあとの面々に向かって言った。「結局、アンヘグはたしかにこの手紙を書いたんだ」
アンヘグ王が怒りに顔をどすぐろくして、いきなり立ち上がった。
ベルガラスは片手をあげ、「しかし」とつづけた。「アンヘグが書いたことは、この手紙の内容とはちがう」ベルガラスはその羊皮紙をテーブルにひろげた。「見てごらん」みんなを手招きした。
手紙を見たとき、ガリオンはブランドの死の責任をアンヘグに負わせたとおぼしき文の下に、赤い文字が並んでいるのをはっきり見てとった。
「なんだねこれは、ベルガラス?」フルラク王がたずねた。
「じつはこれはマエローグ伯爵にあてた手紙なのだ」老人は答えた。「ニシン漁にかかる税金をひきあげるアンヘグの決断に関する手紙でな」
「その手紙なら四年前に書いたおぼえがあるぞ」アンヘグはけげんなおももちで言った。
「そのとおり」ベルガラスは言った。「わしの記憶にまちがいがなければ、マエローグ伯爵はその年の春に死んだのではないかね?」
「そうだ」アンヘグは言った。「葬儀に参列したよ」
「どうやら、伯爵の死後、何者かがかれの書類をひっかきまわしてこの手紙をちょろまかしたらしい。次に、その連中はたいへんな苦労のすえにもとの内容を漂白し――もちろん署名は残して――この貿易代表団とやらを紹介する文を書いたんだ」
「前はどうして原文が見えなかったんだろう?」バラクが言った。
「ちょっといじくったのさ」老人は認めた。
「魔術かい?」
「いや、ある塩の溶液を使ったんだ。魔術を使えば、もとの文をうきあがらせることはできても、新しい文を消してしまう可能性がある。証拠として新しい文が必要になるからな」
バラクはちょっと残念そうな顔をした。
「物事を解決するのは魔術だけではないよ、バラク」
「どうやってつきとめたの?」ガリオンは老人にたずねた。「つまり、ほかの文があるってことを?」
「使用された漂白剤のために、ページにほんのかすかだが匂いが残っていたのだ」魔術師は顔をしかめた。「今朝になるまで、わしは自分のかいでいる匂いの正体に気づかなかったんだよ」かれはアンヘグのほうを向いた。「罪をはらすのに手間どってすまなかったな」
「なんでもないさ、ベルガラス」アンヘグはおうように言った。「本当の友だちを知るいいチャンスだったよ」
カイルが立ち上がった。その顔にはさまざまな感情がせめぎあっていた。「お許しください、陛下」カイルはすなおに言った。「じつを言うと、わたしは陛下を疑っていたのです」
「むろん許すとも」アンヘグはきゅうにわらいだした。「ベラー神に笑われるな。あの手紙を読んだあと、わしは自分で自分を疑ってすらいたんだよ。立ちたまえ、きみ。ひざまずいたりしちゃいかん――たとえまちがいをしでかしてもだ」
「カイル」ガリオンは言った。「この真相をできるだけ広範囲にわたってひろめてくれないか? 下の町にいる連中に剣をとぐのをやめさせてくれ」
「すぐそうします、陛下」
「謎はまだ解決されておりませんぞ」セリネ伯爵が注意をうながした。「アンヘグ王が事件と無関係なことははっきりしましたが、それでは犯人は何者なんです?」
「その点なら、われわれはすでにとっかかりをつかんでいますよ」レルドリンが断言した。
「ブランドを憎む理由のある者をリストにしたでしょう」
「わたしたちはまちがった道をたどっているんじゃないかしら」ポレン王妃が異議をとなえた。「リヴァの番人が殺されたことと、アンヘグ王を犯人にしたてあげようとすることとは、全然別問題よ」
「どういうことだね、ポレン」アンヘグは腑に落ちないようだった。
「あなたがごく親しい友だちをひとり持っているとするわね――現に何人も友だちを持っているでしょう、ね、アンヘグ?――そしてその友だちがあなたの政府の高官で、他国の王がその友だちを殺したとしたら、あなたはどうして?」
「ただちに戦艦をだすだろう」アンヘグは答えた。
「そのとおりよ。ブランド殺害は個人的恨みの結果ではなかったのかもしれないわ。リヴァとチェレクのあいだに戦争を引き起こすためのきっかけだったのかもしれないのよ」
アンヘグは目をぱちくりさせた。「ポレン、きみはじつにおどろくべき女性だな」
「まあ、ありがとう、アンヘグ」
ドアが開いて、シルクとジャヴェリンがはいってきた。「われらがケルダー王子からわたしたちにきわめて興味深い報告があります」
シルクは進みでておおげさなお辞儀をした。「陛下ならびに友人のみなさん。これから申しあげることが、みなさんが目下話しあわれていることにどのていど関連があるか、しかとはわかりませんが、一応お話ししておくべき問題だと思います」
「もったいぶってしゃべることほど信用に欠けるってこと、気づいてたか?」バラクがヘターに言った。
「気づいてたさ」
「だと思った」
シルクはふたりの友だちに向かってちらりと歯をみせてから、もっとくだけた口調で先をつづけた。「とにかく、おれはこの数ヵ月、なつかしいドラスニア東部辺境の町レオンで過ごしたんだ。おもしろい町だよ、レオンは。じつに美しい――とりわけ、外壁が二倍の高さになった今はね」
「ケルダー」ポレン王妃がすわっている椅子の肘掛けをいらだたしげに指でたたきながら言った。「最後には要点にはいるんでしょうね?」
「そりゃもちろんですよ、おばうえ」シルクはふざけて答えた。「レオンはこれまでもずっと要塞化された町だった。なぜかというと、ナドラク国境がすぐそばにあるからなんだ。またレオンには極端に保守的な町民があふれていてね、かれらのほとんどは火の使用を認めないほどだ。熊神教にはもともとうってつけの町というわけさ。去年の夏、セ・ネドラが殺されかけたあと、ちょっと調査のためにぶらりと行ってみたんだよ」
「ずいぶん率直な言い方だな」バラクが言った。
シルクは肩をすくめた。「そういう気分なんだ。だが、ざっくばらんな話し方にもだんだん飽きてきたところだから、今のうちに楽しんでおいたほうがいいぞ。さて、熊神教だが、新しい指導者が現われたらしい――ウルフガーという男だ。グロデグがタール・マードゥで例のマーゴ人に背中を斧で一撃されたあと、熊神教のいきおいはかなり衰えていた。そこへこのウルフガーがどこからともなくあらわれて、意気阻喪していた信者たちをまとめはじめた。この男は文字どおり、鳥を説得して森から追い出すことができるのさ。これまでつねに熊神教の指導者は聖職者たちの手中にあったし、これまでつねに聖職者はチェレクに集中していた」
「もっと目新しい話をしてもらいたいね」アンヘグがにがにがしげにうなった。
「ウルフガーはベラー神につかえる僧侶ではなさそうなんだ」シルクはつづけた。「そしてかれの力の中心は東部ドラスニアのレオンにある」
「ケルダー、どうかはっきり言ってちょうだい」ポレンがせきたてた。
「ただいま、女王陛下」シルクは安心させるように言った。「この数ヵ月、われらがウルフガーは信者たちを召集していたんだ。信者たちはアルガリアから移動してきて、ドラスニア全土からレオンにはいりこんだ。町は文字どおり武装した連中ではちきれんばかりになっている。どうやら目下ウルフガーはすくなくとも全ドラスニア軍に匹敵する勢力をレオンに持っているようだ」シルクは年若いケヴァ王を見やった。「残念だが、きみの軍は今はドラスニアで二番目の規模にすぎないらしいんだよ」
「必要とあらば、その状態は訂正できますよ」ケヴァはきっぱりと答えた。
「みごとなものだ、すばらしい帝王学をほどこしているんですね、おばうえ」シルクはポレンをほめた。
「ケルダー」彼女は皮肉っぽく言った。「あなたを拷問台にのせないと、この話は聞き出せないのかしら?」
「最愛なるおばうえ、そりゃまたずいぶんじゃないですか。この謎のウルフガーは大昔の儀式や作法をたくさん復活させた――そのなかには一門の者かどうかを見分けるための、永遠の手段なるものもふくまれている。ウルフガーの命令で、アロリアじゅうの信者は右足の裏に独特のしるしを焼き付けているんだ。足をひきずっている者がいたら、熊神教に新しく帰依した者と見てまちがいない」
バラクがひるんだ。「そいつはさぞかし痛いだろうな」
「連中はしるしをつけていることをむしろ誇りに思っているんだ。とにかく、いったん傷が癒えてしまえばな」
「そのしるしはどんなものなんだ?」チョ・ハグ王がたずねた。
「熊の前足をシンボル化したものだ」シルクは説明した。「Uの字のあいている上端に、爪をあらわすしるしがふたつついている」
「ケルダーにこの話を聞いたあと」ジャヴェリンがあとをひきとった。「われわれは生き残った暗殺者のところへ足を運びました。右足にまさしくそのしるしが焼き付けられていましたよ」
「これで犯人がわかったな」ヘターが言った。
「まったくだ」ベルガラスが答えた。
マンドラレンが当惑げに眉をひそめて言った。「わたしがこれまでずっと聞いていたところによれば、この得体の知れぬ宗派の目的は、アロリアの再統一、すなわち、古代最強の統治者であった〈熊の背〉チェレク王の統治のもとに存在した、あの巨大な北の帝国を再現させることだったのだが、はてさて」
「いまもそうなのかもしれんよ」ベルガラスが言った。「しかしこのウルフガーとやらがリヴァとチェレクを争わせることに成功していたら、ドラスニアと、ひょっとするとアルガリアまでも転覆させることができたかもしれん。アンヘグとガリオンが互いを滅ぼすことに熱中していたら、ふたりの王国を奪いとることはそれほどむずかしくなかっただろう」
「そいつの信者たちがジャーヴィクショルムに建設中の艦隊を使えば、なおのこと簡単だ」アンヘグがつけくわえた。
「ウルフガーの戦略はごく単純そうに見えて、そのじつ複雑をきわめていますね」ブレンディグ将軍が考えこむように言った。「わたしの考えでは、戦略は動きだす一歩手前まできていますよ」
「うかうかしてはいられないわ」ポルガラが言った。「どうしたらいいのかしら、おとうさん?」
「なんらかの手を打たざるをえんだろうな」ベルガラスは答えた。「このウルフガーという男はいまだにアロリアの再統一を望んでいる――ただし、自分を〈熊の背〉の後継者としてだ。熊神教は三千年のあいだ転覆をねらってきた。いよいよおおっぴらな戦いをしかけようとしているらしい」
ガリオンの顔から迷いが消えて、冷酷な表情がうかびでた。「戦いを望んでいるなら、連中はうってつけの場所へきたわけだ」
「乾杯したい気分だな」アンヘグがうなずいて、しばらく考えてから言った。「ひとつ提案なんだが、レオンへ侵攻する前にジャーヴィクショルムを破壊したらどうだろう。東部ドラスニアの荒野でチェレクの信者どもに背後から接近されるのはまっぴらだし、〈風の海〉にやつらの艦隊を侵入させるのはぜったいに我慢ならんからな。グレルディクの言うことの半分でも本当なら、やつらが戦艦をうかべないうちに造船所を焼きはらわなけりゃならん。さもないと、いくらレオンを攻撃して成功をおさめても、ガリオン、帰ってみたらリヴァが敵に占領されてたなんてことになりかねないそ」
ガリオンはアンヘグの言葉を頭の中で反趨した。「よし、それじゃまずジャーヴィクショルムへ行こう。それからレオンへ向かって、このウルフガーとやらと話をする。自分を〈熊の背〉の後がまにすわれるほどの大物だと思いこんでいる男に会ってみたくなってきたよ」
[#改ページ]
「すまない、カイル」窓から金色の朝日がさしこむ書斎にならんで腰をおろしたまま、ガリオンは友人に言った。「だが、きみときみの兄弟にはどうしてもこのリヴァにいてもらわないと困るんだよ。軍勢の大部分はぼくに同行するから、信者たちの船がぼくたちの裏をかいた場合にそなえて、だれかがここに残って都市を守らなくてはならないんだ」
カイルの顔は怒っていた。「本当の理由はちがうんでしょう?」かれは非難がましく言った。
「ほかの理由もたしかにある」ガリオンは認めた。「きみがどんなに父上を愛していたかはよくわかっているし、父上を殺したやつらにどれだけきみが復讐したいかもわかっている」
「あたりまえじゃないですか」
「もちろん、当然だよ。しかし、復讐心にとらわれていると、だれしも判断に狂いが生じるんだ。先を急ぐあまり、わが身をあやうくしたりする。きみの一族はすでにじゅうぶんすぎるほど血を流している――最初にきみの弟のオルバン、次にアレル、そして父上――だから残ったきみたちの命を危険にさらすようなことはできない」
カイルは立ち上がった。押し殺した怒りのせいで、顔が赤らんでいる。「ほかにご指示はこざいますか?」こわばった声でたずねた。
ガリオンはためいきをついた。「いや、カイル、今のところはない。ここでやるべきことはきみが心得ていてくれるからね」
「はい、陛下」カイルはぞんざいに一礼して、向きをかえると部屋から出ていった。
他のドアからベルガラスが書斎にはいってきた。
「カイルは取り残されるのが気にいらないんだ」
「そうだろうと思ったよ」老人は肩をすくめてひげのはえた頬をかいた。「だが、城塞でのかれの存在はきわめて重要だ。命を危険にさらすようなまねはしてもらいたくない。しばらくは腹をたてているだろうが、いずれ機嫌もなおるさ」
「ポルおばさんもあとに残るの?」
ベルガラスは渋面を作った。「いや。どうしても行くと言い張っているんだ。すくなくともあとのご婦人たちには、戦場など女の行く場所ではないと判断するだけの分別があるんだがね。エランドもここへおいていったほうがよかろう。身体的危険というものがまるでわかっていないから、戦いがはじまるというときにはいないほうが身のためだ。そろそろ仕事を終えておいたほうがいいぞ。朝の潮流が変わろうとしているから、出発時だ」
その晴れた朝、がっしりしたリヴァの小艦隊をしたがえて〈海鳥〉号が出港したとき、ガリオンたちは天井の低い広々した後部キャビンに集まって、地図を見ながら戦略を討論していた。
「ジャーヴィクショルムに通じる入り江は非常に狭いんだ」アンヘグがみんなに忠告した。「しかもトルネドラの貿易協定にあるよりずっとねじれや曲がり目が多いから、這うように進むことになる」
「そこへ崖のてっぺんの投石器から石ころがとんできて、艦隊の半分が沈められるってわけだ」バラクがむっつりとつけくわえた。
「うしろから都市にはいる方法はないのか?」ヘターがたずねた。
「ハルバーグからつづいている道があるんだが、都市の南数リーグほどのところでいくつかの狭い道とまじわっているんだ」バラクが答えた。「それがまたふいうちをかけるのにうってつけの小道でな」
さっきから仔細に地図をながめていたブレンディグ将軍が入り江の入口の南側にある一点を指さして、たずねた。「この地形はどんなふうなんです?」
「ごつごつの岩場だ」バラクは言った。「それにけわしい」
「チェレクの大部分にあてはまる地形だな」シルクが感想をもらした。
「通れますか?」ブレンディグはなおもたずねた。
「そりゃのぼれないことはないけど、崖っぷちで投石器をかまえているやつらから丸見えだぜ」バラクは言った。「頂上によじのぼるころには、一連隊が待ち受けてるよ」
「夜ならそうでもないでしょう」ブレンディグは言った。
「夜だと?」大男はあざ笑った。「ブレンディグ、その年で本気で夜岩のぼりをやりたいのか?」
ブレンディグは肩をすくめた。「都市にはいる方法がそれしかないのならね」
マンドラレンもさきほどから地図をにらんでいた。「おお、閣下」かれはバラクに向かって言った。「この北側の斜面も努力すれば崖の上までのぼれるのでありましょうか?」
バラクはかぶりをふった。「むりだね」
「とすると、北側の投石器の攻撃を緩和させる別の手段を探さねばなりますまいな」騎士はちょっと考えこんでから、にやりとした。「ただちに使える手がありますぞ」
「お聞かせねがいたいね」フルラク王が言った。
「これほど簡単な解決法はありませんぞ、陛下」マンドラレンはにっこりした。「南の斜面を攻撃の道具をかついでのぼるのはやっかいです――夜間ともなればなおのこと。そのうえそれはまったく無用のことでもある、なんとなれば、北側の投石器を破壊する手段がすでに適当な場所にあるからでござる」
「どういうことなのかよくわからないな」ガリオンはすなおに言った。
「わかった」ヘターが言った。「われわれはただ日が落ちてから南の斜面をのぼって、頂上にある投石器を奪い、入り江をはさんだ北側の投石器に石を投げつけりゃいいってことさ」
「そしてきみたちが連中の気をそらしているあいだに、わしが船で入り江をさかのぼり造船所を焼き払うのだ」アンヘグがつけ加えた。
「しかしそれではまだ都市が無傷のままではないか?」フルラク王がうたがわしげにたずねた。
ガリオンは立ちあがっていったりきたりしながら、けんめいに考えた。「ぼくたちが入り江の南から石を投げはじめ、船が造船所に向かって進みだせば、都市の注意はすくなからずこちらに向けられることになる、そうでしょう?」
「それはほぼ確実ですな」ブレンディグが答えた。
「とすれば、町の陸側に攻撃をしかけるのに絶好のチャンスじゃないか? 町中が海側の外壁にせいぞろいするだろう。陸側の警備は手薄になる。すばやく行動すれば、感づかれずに町にはいりこめる」
「名案だ、ベルガリオン」チョ・ハグ王がつぶやいた。
「だが、慎重にタイミングをはからないとまずいことになるぞ」バラクが考えながら言った。「あちこちに合図を送る方法を考えださんことには」
「そのことなら問題ないわよ、バラク」ポルおばさんが大男に言った。「わたしたちがうまくやるわ」
「この作戦はうまくいきそうだぞ」アンヘグが言った。「ツイていれば、たったの一日でジャーヴィクショルムを落とせる」
「いずれにせよ、おれは長期の包囲戦はあんまり好きじゃないんだ」シルクが指輪のひとつをみがきながら言った。
二日後、かれらはチェレクの艦隊がハルバーグ海峡に錨をおろしているのを発見した。ハルバーグ海峡は、チェレク半島西部沿岸の海岸からつきだした岩だらけの小島群の間を通る狭い通路だった。この小群島には背の低い木々がおいしげり、内陸の高い山々をおおう雪原に緑をきわだたせている。ガリオンは〈海鳥〉号の手すりにもたれて、その荒々しい海岸の美しさにみとれていた。背後に軽い足音がして、なじみのある香りがただよった。ポルおばさんだった。
「きれいだわね、ガリオン」
「息をのむ美しさだね」
「ここはいつもこんなふうに見えるのよ」おばさんは物思いにふけりながら言った。「どういうわけか、とてもいやななにかに向かっているときにかぎって、こういう美しいものを垣間見るものなのね」彼女は重々しくガリオンを見つめた。「ジャーヴィクショルムでは気をつけるのよ」
「いつも気をつけてるよ、ポルおばさん」
「そうかしら? ずいぶんあぶないことがいろいろあったじゃないの、ついきのうのことのような気がするけど」
「そのときは子供だったんだよ」
「けっして変わらないものだってあるんじゃないかしら」おばさんはきゅうに両腕をガリオンの首にまわして、ためいきをついた。「ああ、わたしのガリオン。この数年間、あなたがいなくてさびしかったわ、そのことをわかっていて?」
「ぼくだってさびしかったよ、ポルおばさん。できればあのまま――」ガリオンは言葉尻をにごした。
「ファルドー農園にいたかった?」
「あそこは本当に悪くないところだったよね?」
「ええ。とてもすばらしいところだったわ――子供にとっては。でもいまのあなたは大人よ。あのままあそこにいて、本当に満足していたかしら? ファルドー農園の生活はあまりにも平穏すぎたわ」
「農園をでてこなかったら、ほかの生活なんて知りようがないんだから、不満を持つこともなかったんじゃないかな」
「でも、あのままだったらセ・ネドラには会っていなかったんじゃない?」
「それを忘れてた」
「下へいきましょう。風がつめたいわ」
かれらは正甲板下の主船室のすぐ外の狭い昇降階段で、アンヘグ王とバラクにでくわした。
「バラク」とアンヘグが皮肉まじりに言っていた。「おまえ、ばあさんより始末が悪くなってきてるな」
「なんとでも言うがいいさ、アンヘグ」赤ひげのバラクはうなるように言った。「投石器のやつらが一掃されないうちに、〈海鳥〉号であの入り江にはいったら承知しないぞ。おれがこの船に大金を注ぎこんだのは、だれかに崖の上から甲板へ石を落とさせるためじゃないんだ。おれの船なんだから、おれの言うことは守ってもらう」
細い顔のジャヴェリンが昇降階段を下からあがってきた。「なにか問題ですか?」
「アンヘグに二、三守ってもらいたいことを説明しているだけさ」バラクは答えた。「おれがいないあいだ、おれの船はアンヘグがみるんでね」
「どこへ行かれるんです、トレルハイム卿?」
「ガリオンが都市に攻撃をしかけるとき、いっしょに行くんだ」
「考えましたね、閣下。入り江の口まであとどのくらいかかりそうですか?」
バラクは豊かな赤いひげをひっぱった。「ガリオンの軍勢が乗っているあのリヴァの船団は、おれたちの戦艦ほど速くないからな」かれは思案した。「一日半てとこだろう。そうじゃないか、アンヘグ?」
「そんなところだろうな」
「すると、明日の夜には着きますね?」ジャヴェリンはたずねた。
「そうだ」とバラク。「そしていよいよお楽しみのはじまりだぞ」
ポルおばさんはためいきをついた。「アローン人はこれですものね!」
船から船へといくつかの指示がどなり声で伝えられたあと、一大隊を形成する艦隊は追い立てる風に船体を鋭く傾け、チェレク半島のごつごつした西部沿岸をジャーヴィクショルムに向かって北ヘジグザグに進んでいった。
翌朝、ガリオンはバラクとヘターとともに甲板へあがって、樹木におおわれ雪をいただいたチェレクの山頂に太陽がのぼるのを見守った。陰になった鬱蒼たる谷は淡い青色で、波頭に日差しがきらめいていた。
先刻からこれみよがしにロープを巻いていた鎖かたびらのチェレクの船乗りが仕事の手をとめ、手すりにもたれているガリオンの無防備な背中にいきなり短剣をつきつけようとした。
ダーニクがすかさず叫んでいなかったら、とりかえしのつかないことになっていたかもしれない。振り返りかけたガリオンの目に、甲板をすべっていく短剣が見えた。と同時に、おどろいた悲鳴と水しぶきのあがる音がした。あわてて向きなおると、むなしく空をつかむ手が、舷窓まであと三十ヤードというところで波間に沈んでいくのが見えた。ガリオンは物問いたげにポルガラを見たが、彼女は首をふった。
「鎖かたびらのことを忘れてましたよ」ダーニクがあやまるように言った。「あれを着ていたんじゃ泳ぐのはむずかしいでしょうね?」
「むずかしいどころじゃあるまい」バラクが言った。
「あいつに聞きたいことがあるでしょう。なんなら、釣り上げますよ」
「どう思う、ヘター?」バラクはたずねた。
ヘターは海面のはるか下からわきあがってくる泡を見ながら、ちょっと思案した。「ここはチェレクの海域だろう?」
バラクはうなずいた。
「だったら、アンヘグ王に相談して意見を聞くべきだと思うよ」
「アンヘグはけさはまだ寝てるんだ」バラクも泡を見ながら言った。
「起こすのは気が進まないな」ヘターは言った。「最近かれは心配事が多かったからね、休息が必要だよ」長身のアルガー人は大まじめな顔でダーニクのほうを向いた。「こうしよう、ダーニク。アンヘグ王の目がさめたら、ただちにこのことを報告する」
「これまでなにかを移動させたことはあるの、ダーニク?」ポルガラが夫にたずねた。
「いや、ないんだ。やりかたはもちろん知っていたが、自分で試してみるチャンスがなかったんでね。意図した場所よりちょっと遠くにやつを投げてしまったよ」
「練習すればもっとじょうずになるわ」ポルガラはダーニクを元気づけてから、ガリオンにむきなおった。「なんともない?」
「平気さ、ポルおばさん。あいつはぼくのそばまでくることもできなかったんだ――ダーニクのおかげだよ」
「この人はね、そばにいるといつだってとても役にたってくれるのよ」ポルおばさんはダーニクにあたたかく笑いかけた。
「あいつはどこからきたんだ、バラク?」ヘターがたずねた。
「ヴァル・アローンさ、よりによって。いいやつに見えたんだがね。仕事はちゃんとしたし、余計な口もきかなかった。あの男が宗教にのめりこんでいるとは思ってもみなかった」
「そろそろ全員の足を調べるべきなのかもしれないな」ヘターがそれとなく言った。
バラクが不審そうにヘターを見た。
「シルクの言うことが正しければ、熊神教の信者は右足の裏にしるしを焼き付けているはずだ。ガリオンの背中をこの船の上にある短剣の前にかたっぱしからさらすより、足を調べるほうが結局は簡単だろう」
「それもそうだ」バラクは賛成した。
一行がジャーヴィクショルムにいたる曲がりくねった入り江の広い口にはいったのは、日が沈もうというときだった。「すっかり暗くなってから接近したほうがいいんじゃないかな?」〈海鳥〉号の前部甲板でガリオンは他の王たちにたずねた。
アンヘグは肩をすくめた。「わしらが行くことは連中にはわかっているんだ。ハルバーグ海峡を出てからずっと見張っていたからな。おまけに、わしらがここにいることも知っているんだから、崖の上の連中は全力をあげて艦隊を見張ろうとするだろう。だから、そのときがきたら、きみとブレンディグは楽々背後から連中にしのびよることができるはずだ」
「そうか、なるほど」
バラクが片腕のブレンディグ将軍と一緒にやってきた。「綿密に計算したところでは、真夜中ごろに出発するのがよさそうだな」バラクは言った。「ガリオンと残りのおれたちがまず斜面をよじのぼって、都市の裏手にまわりこむ。ブレンディグとかれの部下たちがそのあと斜面をのぼって、投石器をうばいとる。空が白みだしたらすかさず、ブレンディグが北側に石を投げつけるんだ」
「そのすきにガリオンは所定の位置にたどりつけるのかね?」フルラク王がきいた。
「その時間はたっぷりありますよ、陛下」ブレンディグがうけあった。「バラク卿の話では、てっぺんまでのぼってしまえば、地形は平坦そのものだということですから」
「木もほうぼうに立ってる。隠れる場所は木がいくらでも提供してくれるよ」バラクは言った。
「都市を攻撃するときだが、距離はどれくらいあるんだろう?」ガリオンがたずねた。
「ええと、五百ヤードってところだな」バラクが答えた。
「かなりあるね」
「おれなら走っていきたいね」
入り江のおだやかな水面の上に夕暮れがゆっくりと訪れて、両側にそそりたつけわしい崖を紫色にそめた。ガリオンはわずか数時間後には部下たちとよじのぼる予定の急斜面を、消えようとする最後の日差しでくまなく点検した。頭上でなにかが動いたのに気づいて視線を上げると、白いぼんやりしたものが紫色の静かな空中を音もなくすべっていた。白くやわらかな羽が一枚、ゆっくりとまいおりてきて少しはなれた甲板の上に落ちた。ヘターがおごそかに歩みよってそれをひろった。
そのすぐあとに、青いマントに身をつつんだポルおばさんが甲板を歩いてきてかれらに合流した。「造船所に接近したら、じゅうぶん注意しなければだめよ」ブレンディグとそばに立っていたアンヘグにポルおばさんは言った。「敵は投石器を浜へおろして、こちらの接近をはばもうとしているわ」
「予測していたことさ」アンヘグはたいして気にしていないらしく肩をすくめた。
「彼女の言うことにはちゃんと耳をかたむけたほうがいいぜ、アンヘグ」バラクがおどかすように言った。「おれの船を沈めでもしたら、そのほおひげを一気にむしりとってやるからな」
「自分の国の王に話しかけるにしちゃ、ずいぶんと思いきった言い方だな」シルクがジャヴェリンにささやいた。
「都市の裏手の警備はどの程度なのかな?」ガリオンはポルガラにきいた。
「城壁は高いし、門は頑丈そうだけれど、兵の数は少ないわ」
「いいぞ」
ヘターが無言でポルガラに羽をわたした。
「あら、ありがとう。うっかり見落とすところだったわ」
なだらかにうねる台地につづく丘の斜面は、ガリオンが〈海鳥〉号の甲板からながめて判断していた以上にけわしかった。真夜中の暗闇のなかではほとんど見えない砕けた岩のかたまりが、足の下で意地悪くすべり、斜面に密生する背の低いしげみの枝は、必死で上へのぼろうとするガリオンの顔や胸をわざとつついてくるように思えた。鎖かたびらが重くて、かれはたちまち汗みずくになった。
「骨がおれるな」ヘターがひとこと言った。
ようやくそのけわしい斜面をのぼりきったときには、淡い銀色の月がのぼっていた。のぼりついてみると、そこに広がる台地はモミとトウヒの鬱蒼たる森におおわれていた。
「これは思っていたより時間をくいそうだな」バラクがおいしげった下生えを見ながらつぶやいた。
ガリオンはひとやすみして息をついた。「小休止しよう」友人たちに告げた。行く手にたちふさがる森をガリオンはむっつりとにらみつけた。「ぼくたち全員が森をつっきろうとすれば、崖の上の投石器のやつらに気づかれてしまうだろう。ここは斥候を送りだして小道かなにかをさがしたほうがいいと思う」
「おれにちょっと時間をくれ」シルクが言った。
「だれか連れていったほうがいいよ」
「足手まといになるだけだ。すぐに戻る」小男は森の中に見えなくなった。
「ちっともかわらないね、かれは」ヘターがつぶやいた。
バラクが短く笑った。「本気でシルクが変わると思ってたのか?」
「夜明けまであとどのくらいだと思われる、閣下?」マンドラレンが大きなチェレク人にたずねた。
「二時間――三時間ぐらいかな」バラクは答えた。「斜面に相当手間取ったからな」
弓を背中にしょったレルドリンが暗い森のはじにいたかれらのところへやってきた。「ブレンディグ将軍がのぼりだしましたよ」
「片腕だけでどうやってあそこをよじのぼるんだろう」バラクが言った。
「ブレンディグのことならそう心配することはない」ヘターが答えた。「やりだしたことはいつでもちゃんとやりとげる」
「たいした男だな」バラクは感嘆のおももちだった。
あたたかい夏の暗闇の中で待つうちに、月はゆっくりと東の空へ移動していった。はるか下方からアンヘグの部下たちの叫び声と、巻き上げ機の耳ざわりな音が聞こえてきた。やぶだらけの斜面をはいあがるブレンディグの部下たちがうっかり立てる音をかきけそうと、船乗りたちがわざとさわいでいるのだ。やっとシルクが戻ってきて、灌木の陰から音もなくあらわれた。
「ここから南へ四分の一マイルほど行ったところに道がある」声を落として報告した。「ジャーヴィクショルムへ行く道らしい」
「願ってもない」マンドラレンが陽気に言った。「先へ進みましよう、みなさん。都市はわれわれが行くのを待っていますぞ」
「冗談じゃない」ガリオンは言った。「この作戦のねらいはやつらの不意をつくことなんだ」
シルクが発見した細道はきこりの通り道であることがわかった。道はまがりくねってほぼ東の方角へつづき、かれらを内陸へとみちびいていった。周囲を木にかこまれた夜明け前の深い闇の中を、てくてくと休まずに歩く兵隊たちの鎖かたびらが、ガリオンのうしろでがちゃがちゃと音をたてて鳴った。暗がりを進むこの表情を殺した男たちの一団には、冷酷な目的ともいうべきものが感じられた。艦隊をあとにしてから、ガリオンの内部には激しい興奮がうずまいていた。攻撃を開始したいという思いはいまや抑えがたいほどに高まり、走りだしたくなるのをこらえるのが精一杯だった。
一行は大きな空き地にでた。その開けた場所の向こう側に、昼間なら人通りの多そうな本道が白いリボンのように、月光に照らされた牧草地を真北にのびている。「あれがハルバーグ道だ」バラクがみんなに言った。「もうちょっとだぞ」
「ブレンディグのようすをたしかめる」ガリオンはそう言うと、注意深く意識の手をのばして、うしろにつづく軍勢の思考を迂回し、なじみのあるダーニクの意識をさがした。(ダーニク)ガリオンは無言で言った。(聞こえるかい?)
(ガリオンか?)鍛冶屋の思考がはねかえってきた。
(そうだ。投石器はもう奪ったのか?)
(まだ十二ばかり残っている。ブレンディグが不用な物音をたてないようにゆっくり動いているんでね)
(夜が明けるまでには全部なんとかなりそうかい?)
(ぜったいまちがいないよ)
(いいぞ。最後のを奪いとったら教えてくれ)
(わかった)
「かれらの首尾はどうだい?」レルドリンがたずねた。若い弓の射手の声は興奮にうわずっていた。
「夜明けには準備万端ととのう」ガリオンは答えた。
マンドラレンがバラクにたずねた。「どうでしょう、閣下? そろそろ丈夫な木を何本か選んでおいたほうがよいのではないでしょうか、都市の門をこわすのに必要ですぞ」
「門のことはぼくにまかせてくれ」ガリオンはきっぱり言った。
バラクがガリオンを見つめた。「てことは、つまり――?」太い指のはえた片手で、バラクはそれとないジェスチャーをした。
ガリオンはうなずいた。
「それは正当じゃないような気がするがな、ガリオン」バラクは異議を唱えた。
「正当?」
「ものごとにはしかるべきやりかたがあるんだ。都市の門は破城槌でがんがんついてあけることになってるんだよ」
「押し入ろうとするぼくらの上に、中にいる連中が煮立った松やにをかけてもか?」
「それも危険の一部さ」バラクは説明した。「まるきり危険がないんじゃ、戦いはちっともおもしろくないぜ」
ヘターが静かに笑った。
「しきたりにさからうのはいやだけど、古い習慣のために大勢の人を不要な死にさらすつもりはない」
ぼんやりした地上霧が月光に光りながら、森のはずれとジャーヴィクショルムのそびえたつ外壁のあいだにひろがる広大な空き地に低くはっていた。東の方角に目をやれば、夜明けが近いことを告げる最初の青白い微光がビロードのような空にしみこんでいる。都市のどっしりした胸壁の上には、赤いたいまつが燃えていた。その明かりで、多数の武装した人々がいるのが見える。
「門に押し入るのに、どのくらいまで接近する必要があるんだ?」シルクがガリオンにささやいた。
「近ければ近いほどいい」ガリオンは答えた。
「そうか。それじゃもうちょっと前進しなけりゃならんな。霧と丈の高い草が助けてくれる」
「おれは一緒に行くぜ」バラクが言った。「相当すごい音がしそうなんだろう?」
「たぶんね」ガリオンは言った。
大男はヘターとマンドラレンのほうを向いた。「その音を合図にしろ。ガリオンが門を倒したら、攻撃開始だ」
ヘターはうなずいた。
ガリオンは大きく息を吸った。「よし、行こう」三人は腰をかがめ、都市をめざして、さえぎるもののない平原をよこぎりはじめた。門まであと百ヤードたらずまで近づくと、三人は高い草むらにしゃがみこんだ。
(ガリオン)ダーニクの思考が強まりはじめた光の中からつたわってきた。(すべての投石器をぶんどったよ)
(北の崖の上のやつらがもう見えるかい?)
(あと二、三分もすれば見えてくるだろう)
(ブレンディグに、姿が見えたらすぐにはじめるように言ってくれ)
三人は東の空が着々と明るさをましてくるのを待った。やがて都市の向こうから一連の鈍い音が起こったかと思うと、一瞬の間をおいて、大きな岩が板にぶちあたる音、おどろいた悲鳴や痛みを訴える叫びが聞こえてきた。
(攻撃開始だ)ダーニクが報告してきた。
(ガリオン)ポルガラの思考がはいりこんできた。(位置についた?)
(うん、ポルおばさん)
(わたしたちはいまから入り江をさかのぼるわ)
(都市が見えてきたら教えてよ)
(気をつけるのよ、ガリオン)
(わかってる)
「向こうのようすは?」バラクが都市の外壁の上にいる連中に目をそそいだまま、ささやいた。
「北側の崖に岩を投げつけはじめたよ」ガリオンは低い声で答えた。「アンヘグの艦隊も動きだした」
バラクは歯ぎしりした。「全部の投石器が活動をやめるまで待てと言っておいたのに」
「船のことならあんまり心配するな」シルクが小声で言った。「岩をよけてるさいちゅうに投石器で狙いをつけるのは至難のわざだ」
「たまたま命中するってこともあるじゃないか」
緊張して待つうちに、朝日はしだいに強まってきた。頑強な門をながめているガリオンの鼻孔に、塩からい海の匂いと常緑樹の重苦しい匂いがはいりこんできた。
(都市が見えてきたわ、ガリオン)ポルおばさんが知らせてきた。
都市から警戒の叫びが起こり、外壁上の武装した兵たちが胸壁を走ってジャーヴィクショルムの海側へ急ぐのが見えた。「用意はいいか?」ガリオンはふたりの友人にささやいた。
「やろう」シルクのはりつめた声が言った。
ガリオンはたちあがって、神経を集中した。流れ込む空気のようななにかを吸い込んで、意志を一点に集中した。全身がちくちくするような感覚におそわれたころ、巨大な力が内部にわきあがってきた。ガリオンは予言の青い炎を隠すためにいままで鞘におさめてあった鉄拳の剣を、表情ひとつ変えずにぬきはなった。〈珠〉が嬉々として燃え上がった。「さあ、行くぞ」くいしばった歯のすきまからかれはつぶやいた。ガリオンは剣を門にねらいさだめた。百ヤードの距離が厳然と剣と門をへだてている。「開け!」と命じると、握りしめた意志が剣にむかってなだれこみ、その燃える先端までかけあがった。
ガリオンはひとつだけ、役にたちたいという〈珠〉の願望を見落としていた。ジャーヴィクショルムの門をうちやぶった力は、控え目に言っても、ものすごかった。門を形作っていた丸太はあとかたもなく消滅し、あとになって五マイルも離れたところで、タールの臭いのする門の破片がみつかった。門の土台だった頑丈な石壁もばらばらに吹き飛び、ばかでかいごつごつしたたくさんの岩がまるで小石のように空を飛んで、都市から遠く離れた港や入り江につっこんだ。ジャーヴィクショルムの後ろの外壁は大部分が崩壊して瓦礫の山と化した。その音たるや耳がおかしくなるほどだった。
「おお!」バラクはおどろきの声をあげて、ほぼ壊滅した門をながめた。
つかのま肝をつぶしたような静寂が漂い、やがてわれにかえったように森のはずれから怒号がわきおこった。ヘターとマンドラレンがリヴァとチェレクの軍勢を率いて、呆然自失の都市になだれこんだ。
それは戦士たちの言う後味のいい戦闘ではなかった。熊神教の兵力を形成していたのは、全部が全部屈強な男たちではなかったからだ。老人、女、子供たちもふくまれていた。信仰の異常なほどの熱狂ぶりのために、都市に乱入した戦士たちは、正常な精神状態にあったならば死をまぬがれただろう人々をしばしば殺さざるをえないはめになった。夕方近くには、ごくひとにぎりの抵抗集団がジャーヴィクショルム北西の地区に残るだけとなり、残りの都市の大半は炎に包まれていた。
ガリオンは煙と殺人になかば気分が悪くなりながら、燃えさかる都市をよろめくようにひきかえして、崩れた外壁を越え、広い平地に逃げだした。疲労と吐き気でぐったりしながらしばらく歩きまわっていると、シルクにでくわした。小男は大きな岩にいごこちよく腰をおろして、崩壊する都市をなにくわぬ顔でながめていた。「ほぼ完了だな?」シルクはたずねた。
「だいたいね」ガリオンは答えた。「連中が握っている建物は数えるほどしかない」
「どうだった?」
「おぞましいよ。老人や女子供がたくさん殺された」
「そういうことも起きるさ」
「アンヘグは生存者をどうするつもりか言ってたかい? 殺すのはもういいかげんにしたほうがいいと思うんだ」
「口では言いにくいな」シルクは答えた。「しかし、われらがチェレクのいとこたちはときとして、いささか残酷になりがちだからね。一両日中に、きみなら見たくはないようなことが起こりそうだ」シルクは森のはずれを指さした。そこではチェレクの兵が集まってなにかにとりかかっていた。長い棒がもちあげられ、地面につきたてられた。棒のてっぺんに十字がとりつけられて、ひとりの男が両腕をひろげてその十字にしばりつけられた。
「やめろ!」ガリオンはさけんだ。
「おれならだまってるな、ガリオン」シルクは忠告した。「なんといってもここはアンヘグの王国なんだし、アンヘグが適当だと思ったら、どんなやりかたでも裏切り者や犯罪者をさばくことができるんだ」
「そんなの野蛮じゃないか!」
「まあそうだ。だが、言ったように、チェレク人には生まれつき野蛮なところがあるんだよ」
「しかし、捕らえた者にまず質問をすべきじゃないか?」
「そっちはジャヴェリンがやってる」
夕日の投げる最後の赤らんだ光のなかにいる一群れの兵士たちをガリオンは凝視した。こみ上げる吐き気と戦いながら、かれは言った。「それにしてもあれはやりすぎだ。いますぐやめさせてくる」
「おれならほっとくね、ガリオン」
「うわッ、なんてことを――こうしちゃいられない、女性を十字架にかけはじめた!」
「なんだって?」シルクがふりかえって兵士たちを見つめた。とたんに小男の顔から血の気がひき、かれははじかれたように立ちあがった。ガリオンは芝の上をかけだしたシルクにつづいた。「気でもちがったのか?」シルクはドラスニア諜報部のやせた部長にはげしくつめよった。ジャヴェリンは兵士の一団の中央で粗末なテーブルに平然とすわっていた。
「どうかしたのか、ケルダー?」
「たったいまだれを十字架にかけたのかわかってるのか?」
「もちろんだ。わたしが自分で尋問したんだ」ジャヴェリンの指が退屈そうに動いたが、シルクはテーブルの正面に立ってやせた男の手をガリオンの目からさえぎった。
「彼女をあそこからおろせ!」シルクの声はなぜだかいまにも爆発しそうだった。
「よけいなお世話だ、ケルダー」ジャヴェリンは言った。「口だしはしないでくれ」そばに立っているがっしりしたチェレクの兵をふりかえってそっけなく言った。「ケルダー王子とリヴァの王がお帰りになる。お送りしてくれ。ここからすくなくとも四分の一マイル離れたところにいたほうがいいだろう」
「殺してやる」その場をあとにしながら、シルクはいきまいた。「おれのこの両手であいつの息を根をとめてやる」
しかしジャヴェリンからかなり離れた場所へかれらを連れてきた兵士が冷酷な仕事をしにひきかえして行くと、小男はたちどころに落ち着きをとりもどした。
「どういうことなんだ?」ガリオンはたずねた。
「ジャヴェリンが十字架にかけた娘はかれ自身の姪のリセルなんだ」シルクはばかに静かな声で答えた。
「まさか!」
「おれはリセルを子供のときから知っていた。ジャヴェリンはあとで説明すると約束したよ。しかし納得のいく説明じゃなかったら、はらわたをえぐりだしてくれる」シルクは真珠色の上着の下から長めの短剣をとりだして、親指で切れ味を試した。
すっかり日が暮れたころ、ジャヴェリンが彼らをさがしにきた。「ああ、そんなものはしまってくれよ、ケルダー」シルクの短剣を見て、かれはうんざりしたように言った。
「すぐにでも必要になるかもしれないんだ」シルクは答えた。「話してみろよ、ジャヴェリン。じゅうぶん納得のいくように話したほうがいいぜ、さもないとその足のあいだにはらわたの山を作ることになるぞ」
「動転しているようだな」
「気がついたか。なんとも目ざといことだな」
「わたしがしたことは、きわめて特別の理由があってのことだ」
「すばらしい。おれはまたただ楽しんでいるのかと思った」
「皮肉を言うな、シルク。理由がなければわたしがなにもしないことぐらいもうわかっていてもよさそうなものじゃないか。リセルのことなら安心していい。彼女はすでに解放されただろう」
「解放された?」
「じつは逃げたんだ。あの森に数十人の信者が隠れていたのさ。見えなかったとしたら、きみの目は悪くなってきているにちがいないね。とにかく、われわれが十字架にかけた捕虜はひとりのこらず解放されて、いまごろは山の中へ無事に帰っていくところだろう」
「正確にはどういうことなんだ、ジャヴェリン?」
「きわめて単純なことさ。われわれは数年がかりで熊神教の上層部にだれかを潜入させようとしてきた。やつらはいましがた誠実なヒロインを救出した――大義の殉教者というわけだ。リセルならきっとこのチャンスを利用してやつらの上層部にはいりこむ」
「そもそもリセルはどうやってここに?」
ジャヴェリンは肩をすくめた。「鎖かたびらを着ていたんだよ、わたしがトレルハイムの船に彼女をすべりこませたんだ。戦いがほぼ終わったあと、他の捕虜たちにまぎれこませたというわけだ」
「いま救出された連中が、彼女は都市にいなかったと言わないだろうか?」ガリオンはたずねた。
「いや、陛下、そういうことはないでしょう」ジャヴェリンは答えた。「自分はジャーヴィクショルムの北東部に住んでいるとリセルは言うはずです。われわれが十字架にかけた連中は全員南西部の出身です。ジャーヴィクショルムはきわめて大きな町ですからね。彼女がいなかったなどとはだれにも断言はできません」
「あんたがリセルにあんなことをさせるとはいまだに信じられないよ」シルクが言った。
「じつをいうと、リセルがあまり自信たっぷりに説得するんで、ついに言いくるめられてしまったのさ」ジャヴェリンは認めた。
シルクはまじまじと諜報部長を見つめた。
「ああ、そうなんだ。見当がつかなかったか? これはすべてリセルの考えだったんだ」
とつぜん、ガリオンはうつろな音がおしよせてくるのを聞いた。それを追いかけるようにセ・ネドラの声がきわめてはっきりとつたわってきた。
(ガリオン!)セ・ネドラは苦悩の声をあげていた。(ガリオン、すぐに帰ってきて! だれかがわたしたちの赤ちゃんを盗んだのよ!)
[#改ページ]
ポルガラは批判的な目でガリオンをながめた。かれらが立っている広い高地の草原の下では、いまだにジャーヴィクショルムの都市が燃えており、淡い夜明けの光が空の星を洗いながしていた。「翼の羽が短すぎるわ」彼女は言った。
ガリオンは羽を長くした。
「だいぶよくなったわよ」やがて緊張した表情になったかと思うと、ポルガラも微光を放ちながらまだらもようの隼《はやぶさ》に姿を変えた。「このごわごわした羽はどうしても好きになれないわ」湾曲したくちばしをかちかち鳴らしながら、彼女はつぶやいた。それからガリオンを見た。金色の目が攻撃的だった。「わたしが言ったことをみんな忘れないようにするのよ。はじめて飛ぶんだから、高く飛びすぎないようにしましょう」翼を広げて、爪のある足で二、三歩進みでたあと、彼女は難なく空に飛びたった。
ポルガラの動作をまねようとしたガリオンは頭から芝につっこんだ。
ポルガラが急降下して戻ってきた。「尾も使わなくちゃ、ガリオン。浮力を与えるのは翼だけど、方向を決めるのは尾なのよ。もう一度やってみて」
二度目はまあまあだった。木に衝突する前に五十ヤードは飛ぶことができた。
「悪くなかったわ、ディア。ただ、自分がどこへ向かっているのかちゃんと見ていなくちゃね」
ガリオンは頭をふって、耳鳴りと、目の前にちらつく光の斑点を追い払おうとした。
「羽をなおして、ディア、もう一度やってみましょう」
「ちゃんと飛べるようになるには何ヵ月もかかるよ、ポルおばさん。〈海鳥〉号でリヴァへ行ったほうが早いんじゃないの?」
「いいえ、ディア」ポルガラは頑固だった。「もうちょっと練習すればだいじょうぶよ」
三度目はかなりうまくいった。ガリオンは翼と尾を協調させるコツがのみこめてきたが、それでもまだぎごちなくて、不要に空を爪でひっかいているような気がした。
「ガリオン、さからわないで。空気にのるのよ」
かげりのない輝く朝焼けの中で、かれらは何度も草原を旋回した。ポルガラにつづいて着実な上昇旋回をしていると、都市からたちのぼる黒い煙や、港の焼け落ちた造船所が見えた。自信がついてくると、ガリオンは気分が高揚してくるのを感じた。冷たい朝の空気に羽をなぶられるのはえもいわれぬ快感だった。いつのまにかガリオンは努力せずにどんどん高くのぼることができるようになった。太陽がすっかり顔をだすころには、空気はもう敵ではなくなり、翼のはばたきから最大の能率を引き出すのに必要な無数のこまかい筋肉の調整をマスターしはじめていた。
ベルガラスがダーニクをしたがえて舞い降りてきた。「ガリオンの調子はどうだ?」獰猛そうな隼はポルガラにたずねた。
「だいたいのところはオーケイよ、おとうさん」
「よし。もう十五分ばかり練習させて、それから出発しよう。むこうのあの湖の沖合いに暖かい空気の柱が立ちのぼっている。あれがあるといつも楽にいくんだ」ベルガラスは片側の翼を傾けると、長いなめらかな弧を描いてとびさった。
「これはじつにすばらしいね、ポル」ダーニクが言った。「もっと前に習っておくべきだったよ」
湖の暖かな水の表面からたちのぼる空気の柱にはいりこんだとき、ガリオンは飛行が楽になったわけに気づいた。翼を広げてじっとしているだけで、空気がどんどん上へ体を運んでいってくれるのだ。はるか下の地上の物体が、上昇するにつれてみるみるちぢんでいった。ジャーヴィクショルムはいまやおもちゃの村のように見え、港の船はまるでミニチュアだった。丘陵も森も朝日をあびて緑色に輝いている。紺碧の海、高い峰の雪原の白さは目が痛くなるほどだった。
「どのくらいの高さまできたんでしょう?」ダーニクがベルガラスにたずねるのが聞こえた。
「数千フィートだな」
「これは泳ぐのに似てますね。水の深さは関係ないんです、どうせ利用しているのは水の表面だけなんですから」
「そんなふうには考えたこともなかったよ」ベルガラスはポルおばさんを見やった。「これぐらいでじゅうぶんだろう。リヴァへ行こう」甲高い隼の鳴き声で言った。
四人はチェレクの海岸をあとに、〈風の海〉めざして南西へ休みなく飛びつづけた。しばらくは追風が加勢してくれたが、昼になると風がやみ、しんぼう強く飛ばなくてはならなかった。ガリオンの肩は痛み、飛ぶという慣れない努力のせいで胸の筋肉がやけつくようだった。ガリオンは荒々しく飛びつづけた。眼下に〈風の海〉の何マイルにもおよぶ波が見えてきたが、その高度からだと、午後のひざしの中で海面をさわがせるさざなみのように見えるだけだった。
太陽が西の水平線上に沈もうというころ、〈風の島〉の荒削りな海岸が見えてきた。かれらは東の海岸線にそって南へ飛び、ようやく高度をさげて、リヴァの都市を見おろす陰気な灰色の城塞のほこらしげな塔と胸壁のほうへおりていった。
一番高い胸壁のてっぺんに、見張りがひとり所在なげに槍にもたれていた。四羽のまだらもようの隼が急降下して近くにおりたつのを見てぎょっとした男は、隼がちらちら光りながら人間に変身するのを見るにおよんで、目玉をとびださんばかりにした。「へ、陛下」どもりながら言うと、見張りはぎごちなくお辞儀しながら、槍をにぎりしめた。
「なにがあったんだ?」ガリオンは問いつめた。
「何者かが王子さまを誘拐したのです、陛下。島は封鎖しましたが、犯人はまだつかまっていません」
「下へ行こう」ガリオンはみんなに言った。「セ・ネドラと話がしたい」
しかし当然ながら、それはほとんど不可能だった。青い絨緞敷きの王宮にはいったとたん、セ・ネドラが飛びついてきて、身も世もないように大声で泣きだした。ガリオンはセ・ネドラの小さな体が激しくふるえ、彼女の指が腕にくいこんでくるのを感じた。「セ・ネドラ」ガリオンはなだめた。「泣きやんで、なにがあったのか話してくれ」
「ゲランがいなくなったの、ガリオン」セ・ネドラは泣きながら言った。「だ、だれかがこ、子供部屋にはいりこんで、あの子をつ、つれていっちゃったのよ!」セ・ネドラはまた叫びだした。
少し離れて立っている、レルドリンの金髪のミンブレイトの妻アリアナも、窓際に立っている黒髪のアダーラも、いたましげな表情でセ・ネドラを見ていた。
「おまえにできることをやったらどうだ、ポル」ベルガラスが静かに言った。「セ・ネドラを落ち着かせてみてくれ。彼女と話しあう必要がある――だが、それはあとまわしだ。いますぐみんなでカイルのところへ話をしにいったほうがいい」
ポルガラはいかめしい顔でマントをぬぎ、注意深くたたんで、椅子の背にかけた。「そうね、おとうさん」彼女はすすり泣いている小柄な王妃に近づくと、やさしくガリオンからだきとって、なぐさめた。「だいじょうぶよ、セ・ネドラ。もうわたしたちがきたわ。まかせておきなさい」
セ・ネドラはポルガラにすがりついた。「ああ、レディ・ポルガラ」彼女は泣き叫んだ。
「なにか飲ませたの?」ポルおばさんはアリアナにきいた。
「いいえ、レディ・ポルガラ」金髪の女性は答えた。「この状態でお薬を飲ませては、かえって危険だと思いましたので」
「あなたの救急箱を見せてちょうだい」
「ただいま、レディ・ポルガラ」
「さあはやく」ベルガラスはガリオンとダーニクに声をかけた。その目は鋼のように光っていた。「カイルを見つけて、事件の真相を究明できるかどうかやってみよう」
カイルは父親の仕事部屋のテーブルにぐったりとすわりこんでいた。テーブルに広げられているのは島の大きな地図で、かれはそれを一心不乱に見つめていた。
最小限の挨拶をかわしたあと、カイルは沈んだ声で言った。「事件が起きたのは、きのうの明け方近くでした、ベルガリオン。日がのぼる前です。セ・ネドラ王妃は真夜中を二、三時間まわった時刻に王子を見ておられます。そのときは何も不審な点はありませんでした。それから二時間後、王子は消えてしまったのです」
「これまでにどんな手を打った?」ベルガラスがたずねた。
「島を封鎖するよう命じました」カイルは答えた。「つぎに城塞をすみからすみまで調べました。王子をうばった犯人は城塞のどこをさがしてもいませんでしたが、わたしが封鎖を命じてから発着した船はひとつもありません。港湾長の報告では、きのうの真夜中以後船を出した者はいません。わたしの知るかぎり、誘拐犯は〈風の島〉を出ていないのです」
「よくやった」ガリオンはきゅうに希望がわきあがってくるのを感じた。
「現在は都市の家をかたっぱしから兵隊に調査させていますし、海岸線は船がくまなく巡回しています。島の封鎖は完全です」
「森や山はさがしたか?」老人がきいた。
「とりあえず都市の捜索を完了させたかったんです」カイルは言った。「それがすんだら都市を封鎖して、捜索隊を周辺の田園地帯へ移動させるつもりです」
ベルガラスはうなずいて地図をにらんだ。「慎重に行動せんとな。この誘拐犯を追いつめるようなまねはよそう――すくなくとも、わしのひ孫を本来の居場所へ無事に戻すまでは」
カイルはうなずいて同意をあらわした。「王子の安全がわれわれの第一の関心事です」
ポルガラが静かに部屋にはいってきた。「セ・ネドラに薬を飲ませてきたわ、眠れるように。アリアナがセ・ネドラを診《み》ているの。彼女にあれこれたずねても無意味だと思うわ。いまのセ・ネドラに必要なのは睡眠よ」
「そうだね、ポルおばさん」ガリオンは言った。「でもぼくは眠らないよ――息子がどうなったかつきとめるまでは」
翌朝早く、かれらはふたたびカイルのきちんと整頓された書斎に集まって、もう一度地図を子細にながめた。都市の捜索についてカイルにたずねようとしたガリオンは、背中の剣にいきなりひっぱられるのを感じて、開きかけた口をとじた。カイルの机の上の黄ばんだ羊皮紙の地図を見つめたまま、ガリオンはうわの空で剣をしょっている革ひもをなおした。と、剣がまたかれをひっぱった。今度はもっと執拗に。
「ガリオン」ダーニクが興味ありげに言った。「剣を手に持っていなくても、〈珠〉があんなふうに光ることがあるのかい?」
首をねじってうしろを見ると、たしかに〈珠〉が燃え上がっている。「どうして光ってるんだろう」ガリオンは当惑してつぶやいた。
次にひっぱられたときは、すんでによろめきそうになった。「おじいさん」ガリオンはすくなからずおどろいて言った。
ベルガラスの表情が用心深くなった。かれは落ち着いた声で言った。「ガリオン、剣を鞘からだしたほうがいいぞ。〈珠〉はおまえに何か教えようとしているらしい」
ガリオンは肩ごしに手をのばして、しゅっという音とともに〈鉄拳〉の偉大な剣を鞘からひきぬいた。それがどんなにばかげて聞こえるか考えもせずに、ガリオンは柄《つか》の上で輝いている石に直接話しかけた。「ぼくはいますごく忙しいんだ。待てないのか?」
〈珠〉はガリオンをドアのほうへひっぱっていこうとした。それが返事だった。
「どうするつもりだ?」ガリオンはいらだたしげに問いつめた。
「だまってついていけ」ベルガラスが言った。
しかたなくガリオンはせきたてる力にしたがってドアをぬけ、たいまつに照らされた廊下に出た。みんなも不思議そうにぞろぞろついてきた。ガリオンは奇妙に澄んだ〈珠〉の意識と、それの圧倒的な怒りを感じ取ることができた。クトル・ミシュラクでアンガラクの傷ついた神と対決したあのおそるべき夜以来、これほどの憤怒がその生ける石から発するのは感じたことがなかった。しまいには小走りにならないと追いつかないほどの速度で、剣は廊下をひたすらつっぱしった。
「なにをしようとしているのかしら、おとうさん」ポルガラが困惑した口調でたずねた。「〈珠〉がこんなことをするのははじめてだわ」
「よくわからん」老人は答えた。「このままついていって、つきとめるしかない。だが、重要なことに相違ない」
カイルは廊下に配置されている歩哨の前でちょっと立ちどまった。「わたしの兄弟のところへ行ってくれないか? 王宮へくるよう伝えてくれ」
「わかりました」歩哨はすばやく敬礼して答えた。
ガリオンは王宮の黒い磨かれたドアの前でたちどまり、ドアをあけて、剣にひきずられるようにして中へはいった。
疲れはてて長椅子の上で眠りこんだアダーラに毛布をかけてやろうとしていたライラ王妃が、びっくりして顔をあげた。「いったい――?」
「だまって、ライラ」ポルガラが言った。「わたしたちにもよくわからないことが起きているのよ」
ガリオンは心を鬼にして寝室にはいっていった。ベッドではセ・ネドラが力ない泣き声をあげながら寝返りを打っていた。ベッドわきにはイスレナ王妃とバラクの妻のメレルがすわっていた。アリアナは窓のそばの深い椅子でうたたねをしている。しかし剣が子供部屋へ追い立てるので、ガリオンは妻に付き添ってくれている婦人たちを一瞥するので精一杯だった。からっぽの揺り籠を見ると、心臓がしめつけられる思いだった。偉大な剣が揺り籠の上に身をかたむけると、〈珠〉が燃え上がった。次に石はしばらく脈拍のように強弱の光をひらめかせた。
「わかりかけてきたぞ」ベルガラスが口を開いた。「絶対に確実というわけじゃないが、どうも〈珠〉はゲランのあとを追いたがっているらしい」
「そんなことができるんですか?」ダーニクがきいた。
「ほとんどどんなことでもできるんだ。しかも〈珠〉はリヴァの一族に心身を捧げているしな。行かせるんだ、ガリオン。それがどこへおまえを導くか見てみよう」
廊下へでると、カイルの兄弟のヴェルダンとブリンが待っていた。三人のうちで最年長のヴェルダンは雄牛のようにがっしりしており、最年少のブリンも体格の点では長兄にほんの少し劣るだけだった。ふたりはそろって鎖かたびらをきて兜をかぶり、刃渡りのひろい重い剣を腰にさげていた。
「〈珠〉が王子のところへわれわれを導こうとしているらしい」カイルは簡潔に説明した。「王子を見つけるさいに、兄さんたちふたりが必要になるかもしれないんだ」
ブリンの顔に少年ぽさの残る大きな笑いがつかのま広がった。「それじゃ、日暮れまでに誘拐犯の生首をさらしものにできそうだ」
「あんまり急いで首をはねてはならんぞ」ベルガラスが命じた。「まずいくつか質問に答えさせてからだ」
「あなたたちのひとりはつねにセ・ネドラについていてちょうだいね」ポルおばさんが、好奇心につられて廊下へでてきたライラ王妃に言った。「きょうの午後にはたぶん目をさますはずだわ。アリアナはいまは寝かせておきましょう。目がさめたらセ・ネドラがアリアナを必要とするかもしれないから」
「もちろんわかってますよ、ポルガラ」ぽっちゃりしたセンダリアの王妃は答えた。
「あなたもね」ポルおばさんはたったいま廊下をやってきたエランドに有無をいわせぬ口調で言った。「王宮に残って、ライラに言われたとおりのことをするのよ」
「でも[#「でも」に傍点]――」エランドは抗議しはじめた。
「でも、はなしよ、エランド。わたしたちがしなければならないのは危険なことかもしれないし、あなたにはまだよく理解できないことなの」
エランドはためいきをついた。「わかりました、ポルガラ」ふくれっつらで言った。
巨大な剣の柄《つか》にのっている〈珠〉にひっぱられて、ガリオンは息子を誘拐した者の目に見えない痕跡を追って、横門のひとつから城塞の外へ出た。ベルガラスたちがぴたりとあとにつづいた。
「〈珠〉は山のほうへ行きたがっているらしい」ガリオンは言った。「犯人は都市を通っていったんだとばかり思ってた」
「考えてはだめよ、ガリオン」ポルガラが言った。「〈珠〉の導くところへただついていくのよ」
臭跡は城塞裏手の急勾配の草原をよこぎって、夏の散歩でガリオンとセ・ネドラがよくぶらついたモミとエゾマツの深い森へとつづいていた。
「本当に〈珠〉は自分のしていることがわかっているのかな?」もつれあった下生えをかきわけて進みながらガリオンは言った。「ここは全然道のないところだよ。こっちへきた者がいるとは思えない」
「〈珠〉はなんらかの臭跡をたどっているんだ、ガリオン」ベルガラスが元気づけた。「だまってついていきゃいい」
かれらは一時間あまり密生した下生えをおしわけて進みつづけた。一度、雷鳥の群れが心臓を凍りつかせるようなものすごいはばたきとともに、ガリオンの足もとからとびだしてきた。
「この場所はおぼえておかなくちゃ」ブリンがカイルに言った。「狩猟にもってこいの場所だ」
「いまのわれわれは別の狩りをしているんだ。ほかのことは考えるな」
一行が森の上端にたどりついたとき、ガリオンは森林限界線の上に隆起している、けわしい、岩だらけの草地をじっと見上げた。「この山を走っている道なんかあるのか?」
「あの大きな峰の左のはずれにあります」ブリンが指さして答えた。「ぼくは野生の鹿をつかまえに行くときにその道を使っていますし、羊飼いたちもそこを通って、羊の群れを内陸の谷の牧草地へ連れていきますよ」
「羊飼いの娘たちもな」ヴェルダンがそっけなく付け加えた。「弟が追い回す獲物はときたま角《つの》を持ってないことがあるんですよ」
ブリンはポルガラのほうを気づかわしげにちらりと見た。頬にゆっくりと朱がさしてきた。
「わしは昔から羊飼いの娘が好きだったよ」ベルガラスがものやわらかに言った。「だいたいが、やさしいし、ものわかりのよい娘たちだからな――それにさみしがりやであることが多い、そうじゃないか、ブリン?」
「もういいでしょ、おとうさん」ポルおばさんがしかつめらしく言った。
その道にたどりついて、向こうの山中の隠れた谷間に横たわる緑の草原をぬけるまでに、一日の大半が費やされた。島の西側で、ほとんど溶けたように見えるきらめく海に太陽が浸りかけたころ、かれらは小石だらけの峰にのぼりついて、長い、岩の多い斜面をくだりはじめ、崖と、西部海岸にはてしなく砕け散る白波にむかって進んでいた。
「船がこっち側に上陸した可能性はあるかい?」ガリオンは斜面をくだりながらカイルにたずねた。
島を横断するきびしい山歩きで、さかんに息をきらしながら、カイルは汗みずくの顔を袖でぬぐった。「見込みのある場所は何ヵ所かあります、ベルガリオン――自分のしていることをわきまえている者にとっては、ですが。むずかしいし、危険ですが、ありえないことではありません」
ガリオンの心は沈んだ。「すると、犯人が首尾よく逃げおおせた可能性もあるわけだ」
「あそこには船を出動させました、ベルガリオン」カイルは海を指さした。「王子がつれさられたのを発見してからすぐに送りだしたのです。犯人が空を飛べでもしないかぎり、船が配備される前に島を横断して海路で逃げることはありえないでしょう」
「じゃ、つかまえたも同然だ」気の早いブリンが叫んで、剣を鞘から抜き、小石だらけの斜面と崖っぷちを、訓練された狩人の目でさがしはじめた。
「ちょっと待て」ダーニクがするどく言った。かれは頭を起こして、陸へむかって吹いてくる風の匂いをかいだ。「だれかが前方にいるぞ」
「なんだって?」ガリオンの体内ににわかに興奮がわきおこった。
「たまにしか風呂にはいっていない者の体臭がたしかにぷんと臭ったんだ」
ベルガラスの顔つきが真剣になった。「ポル、急いで見てくれんか」
ポルガラはこくりとうなずいた。ひたいに意識の集中を物語るしわが刻まれた。一見無人の前方の地形を彼女が探りだしたとき、ガリオンはささやきとうねりを感じ取った。「チェレク人だわ」ちょっと間をおいてポルガラは言った。「十二人ほどいるわね。崖っぷちのあの岩陰に隠れているのよ。わたしたちを見ながら、不意打ちの計画を練っているわ」
「チェレク人だって?」ブリンが叫んだ。「なんでチェレク人がぼくたちを攻撃するんです?」
「かれらは熊神教の信者なのよ」ポルガラが説明した。「狂人がなにかをする理由なんてだれにもわからないわ」
「どうします?」ブリンはなかばささやくようにたずねた。
「待ち伏せをする側が有利なのはきまりきったことだ」ヴェルダンが答えた。「ただし、待ち伏せされる側がする側の存在を知っているときは別さ。そういうときは、立場が逆になる」ヴェルダンは大きな手を剣のつかにかけて、冷酷そうに斜面を見おろした。
「すると、ぼくたちはあそこへおりていって、やつらの罠を逆手にとるんだね?」ブリンがうずうずしながらたずねた。
カイルはベルガラスを見た。「どう思われます、長老? いまはこちらに利があります。むこうはとびだしてわれわれをおどかすつもりでしょうが、われわれはそれを見越しています。連中がへまに気づく前に、半数はとりおさえることができるでしょう」
ベルガラスは目をすがめて夕日をながめた。「ふだんなら、ノーと言うところだ。そういうささいなごぜりあいはあまり生産的ではないのが普通なんだ。しかし、暗くなりだしてきたからな」かれはポルおばさんのほうを向いた。「ゲランはどこか近くにいるのか?」
「いいえ。かれの気配はないわ」
ベルガラスは髭をかいた。「あそこのチェレク人どもをほっておいたら、やつらはわしらをつけてくるだろう。うしろからつけられるのは気がすすまん――とりわけ、いったん暗くなったらな」しわだらけの顔がぴんとはって、狼じみたにやにや笑いがうかんだ。「よし、やろうじゃないか」
「でも二、三人は残しておいてよ、おとうさん。知りたいことがいくつかあるの。みんなも怪我をしないようにしてね。きょうはちょっとくたびれたから、治療はしてあげられないわよ」
「そんなことにはなりませんよ、レディ・ポルガラ」ブリンが快活に約束した。「葬式ならいくつかあるかもしれないけど、治療はありません」
ポルガラは空をあおいでためいきをついた。「アローン人はこれですもの」
不意打ちは、身を潜めている熊神教の信者たちが予期していたのとはまったくちがう展開になった。わめき声をあげてガリオンにとびかかった毛皮をきたチェレク人は、リヴァの王の燃える剣に空中で切りつけられ、大きな刃で胴体からほぼまっぷたつにされた。男は血でぐしょぬれの草むらに落下して、身もだえしながらかぼそい声をたてた。カイルが突っ込んできた信者の頭を平然とたたきわれば、ふたりの兄弟たちはおどろいている襲撃者たちの上にとびおりて、残忍に、だが規則正しく、かれらを切り刻んだ。
ひとりの信者が大きな岩の上にとびのって、弓矢で直接ガリオンに狙いをつけたが、ベルガラスが左手で短いジェスチャーをすると、射手は突然長い優雅な弧をえがいて後方へ投げ飛ばされ、近くの崖の外へ投げ出された。男は威力を失った弓矢を宙になげだして、絶叫しながら、五百フィート下で泡だつ荒波のほうへ落ちていった。
「忘れないでよ、二、三人は生け捕りにしてちょうだいと言ったはずよ!」殺戮がひどくエスカレートしはじめたとき、ポルガラはあわててかれらに念をおした。
カイルはそれにたいしてうなるような返事をし、死にものぐるいで突進してきたチェレク人をあざやかに避けた。大きな左のげんこつがチェレク人の側頭部にはでにふりおろされ、男は芝の上に昏倒した。
ダーニクはお気に入りの武器、長さ三フィートほどの頑丈な棍棒を使っていた。あざやかな手さばきで信者の剣をはたきおとし、頭をしたたかに殴りつけた。男は生気のうせた目つきで、くたっと地面にくずおれた。ベルガラスは戦いのようすをひとわたりながめてから、はむかってきそうな敵を選んで五十フィート空中にもちあげた。宙づりになった男ははじめ、自分の置かれた新たな位置に気づかないらしく、空にむかって無益に剣をふりまわしつづけた。
戦いはまもなく終わった。夕日が投げる最後の深紅の光線が、崖っぷち近くの血ぞめの草むらにまじりあい、地面にはこわれた剣やら、血まみれの熊の毛皮のきれはしやらがちらばっていた。「なんだか、すっきりしたよ」ガリオンは倒れている信者のひとりの死体で剣についた血をぬぐいながら言った。気がつくと、〈珠〉もまた満足げに輝いていた。
ポルガラは気絶しているふたりの生存者をひややかに調べていた。「ふたりともしばらくは目をさましそうにないわ」まぶたをめくって、その下のどんよりした目を観察しながら言った。「その男をおろしてみて、おとうさん」ポルガラはベルガラスがさきほど宙づりにした男を指さした。「できるなら、五体満足のままでね。その男に聞きたいことがあるのよ」
「いいとも、ポル」老人の目がきらめいていた。口が裂けそうなにたにた笑いがうかんだ。
「おとうさん、いつになったらおとなになるの?」
「なんだ、ポルガラ、失敬なことを言うな」かれはふざけたように言った。
宙に浮いていた信者はようやく自分の状況に気づいて、剣を落としていた。からっぽの宙にふるえながら立ち、恐怖に目を飛びださんばかりにして、手足をはげしくけいれんさせている。ベルガラスがそっと地面におろしてやると、とたんにへなへなと倒れこんだ。老人は男の毛皮のチュニックの前をむんずとつかんで、手荒にひきずりおこした。「わしがだれか知っているか?」ベルガラスはすくみあがっている捕虜の前に顔をつきだして詰問した。
「あんたは――おれは――」
「知ってるか?」ベルガラスの声がむちのようにしなった。
「はい」男は声をつまらせた。
「それなら、わかるだろう、逃げだそうとしたら、また宙づりにしてそのままおきざりにしてやるぞ。わしにそういうことができるのを知っておろう、え?」
「はい」
「その必要はないわよ、おとうさん」ポルガラが冷たく言った。「この男はとても協力的だわ」
「おれはしゃべらないぞ、魔法使いめ」捕虜はきっぱり言ったが、その目はまだおどおどしていた。
「そんなことないわ」ポルガラはひややかな笑いをうかべた。「なにもかもしゃべるわよ。わたしが要求すれば、何週間でもしゃべるわ」ポルガラは男を凝視したまま、左手で男の顔の前で小さなジェスチャーをした。「よくごらん。細大もらさず楽しむといいわ」
ひげ面の熊神教の信者は目の前の空間を見つめた。男の顔から血の気がひいた。恐怖に目が大きく見開かれ、金切り声をあげてあとずさった。ポルガラは伸ばしたままの左手で、容赦なくひっぱるような仕草をした。男の足がたちまち釘づけになったように動かなくなった。「逃げられないのよ。しゃべらなければ――いますぐ――おまえが死ぬ日までそれが顔の前に立ちつづけるわ」
「あっちへやってくれ!」男は狂ったように懇願した。「たのむ、なんでもする――どんなことでも!」
「どこでこれをおぼえたのか不思議なんだよ」ベルガラスがガリオンにささやいた。「わしにはやれたためしがないんだ――やってはみたんだがね」
「いまなら知っていることを全部あなたに話すわよ、ガリオン」ポルガラがそのとき言った。「しゃべらないとどうなるかわかったようだから」
「ぼくの息子になにをした?」ガリオンはふるえあがっている男を問いつめた。
捕虜はごくりと唾をのんでから、挑むように背すじをのばした。「かれはいまあんたの手の届かないところにいるよ、リヴァの王」
ふたたび怒りがふくれあがり、ガリオンはとっさに剣をぬこうと肩ごしに手をのばした。
「ガリオン!」ポルガラが鋭く制した。
信者はたじろいだ。顔が青ざめた。「息子は生きてる」あわてて言った。次に満足そうな表情がつかのまうかんだ。「しかし、今度あんたが息子に会うとき、息子はあんたを殺すだろう」
「なんの話だ?」
「ウルフガーは神託を調べたんだ。あんたはわれわれが何世紀ものあいだ待ちわびていたリヴァの王じゃない。アロリアを統合し、われわれを率いて南の諸王国と戦うのは、次のリヴァの王なんだ。つまりあんたの息子さ、ベルガリオン。かれはわれわれを導く。われわれの信仰を信じるように育てられるからさ」
「息子はどこだ?」ガリオンはどなった。
「あんたにはけっして見つけられないところだよ」捕虜はあざけった。「われわれがかれを育て、真の信仰でかれを養育するのだ、アローンの君主にふさわしくな。そして成長したかれは、あんたを殺しにきて、かれのものである王冠と剣と〈珠〉をあんたの手から取り戻すだろう」宗教的恍惚感にひたって、男の目はとびだし、四肢はおののき、口の端にはつばが泡のようにたまっていた。「あんたはみずからの息子の手にかかって死ぬのだ、リヴァのベルガリオン」男は甲高い声をたてた。「そしてゲラン王は全アローン人を導いて、ベラー神の命令どおり、南の不信心なやからと戦うのだ」
「尋問の線からあまりはずれんほうがいいぞ」ベルガラスが言った。「しばらくわしに質問させてくれ」かれは目を血走らせた捕虜のほうを向いた。「おまえはそのウルフガーについてどのていど知っているのだ?」
「ウルフガーは熊神で、あんたよりもっと力があるんだぞ、じじい」
「そいつはおもしろい」ベルガラスはつぶやいた。「おまえはこれまでその魔術師に会ったことがあるのか――あるいは見たことがあるのか?」
「それは――」捕虜はためらった。
「やっぱりな。それでは、ウルフガーがおまえをここに送りこんでベルガリオンの息子を誘拐させたがっていることを、どうやって知った?」
捕虜はくちびるをかんだ。
「質問に答えろ!」
「使いをよこしたんだ」男はむっつりと答えた。
ふいにある考えがガリオンの頭にうかんだ。「ぼくの妻を殺そうと、陰で糸をひいていたのも、そのウルフガーだったのか?」
「妻だって!」信者は鼻でせせら笑った。「アローン人はトルネドラのあいのこを妻になどしないぜ。〈鉄拳〉の跡継ぎであるあんたなら、だれよりもよくそのことは知っているはずだ。むろんわれわれはトルネドラのいなか娘を殺そうとしたさ。あんたがここにもたらした汚染をアロリアからとりのぞくには、それが唯一の方法だったからな」
「ぼくを怒らせるまねはやめたほうがいい」ガリオンはひややかに言った。
「その使いの話に戻ろう」ベルガラスが言った。「赤ん坊はわれわれの手の届かないところにいると言うが、おまえはまだここにいるじゃないか。実際の誘拐犯こそその使いであって、おまえとその仲間は単なる下っぱなんじゃないのか?」
信者の目が狂気じみてきて、男は罠にかかった動物のようにあちこちへ目を走らせた。手足ががたがたとふるえだした。
「答えたくない質問に近づいているようだな、え」
それはいきなりやってきた。だれかが頭蓋骨の内側に手をつっこんで、脳みそをひねりつぶしているような、残忍な感覚だった。捕虜が金切り声をあげたかと思うと、ベルガラスに狂おしい一瞥を与え、つぎにくるっと回れ右をしてすばやく三歩進み、背後の崖っぷちから身を投げた。
「聞くならいま聞いてみろ!」わめきながら、男は闇の中からたち現われてきた薄明の中へまっさかさまに落ちていった。崖のふもとの岩場には怒れる波がうねっていた。落ちていく狂信者の狂った笑いが、皮を一枚一枚はぐように遠ざかっていくのが、ガリオンの耳に聞こえた。
ポルおばさんがいそいで崖っぷちに近よろうとしたが、ベルガラスが手をのばして彼女の腕をつかんだ。「いかせてやれ、ポル。いまやつを救うのはむごいというもんだ。ある質問をされたら間髪をいれずに正気を粉みじんにするような何かを、何者かがあの男の意識に植えつけたのだ」
「そんなことがだれにできるの?」ポルガラはたずねた。
「わからん、だが必ず見つけだしてやるさ」
小さくなったヒステリックな笑いが、かれらの立っているところまでこだまのようにいつまでもたちのぼってきた。やがて、笑い声ははるか下方で唐突にやんだ。
[#改ページ]
崖の上での戦いから二日後、〈西の大海〉の沖合いから突如夏の嵐がうなりをあげて襲いかかり、島を荒らし回った。南の塔の上にある会議室の窓は突風と滝のような雨に見舞われた。その朝、他の面々と〈海鳥〉号で到着した痩身のジャヴェリンは、だらしなく椅子にすわりこんで荒れ狂う嵐をながめながら、考えこむように両手の指をつきあわせていた。「その臭跡は最後にどこで途絶えたんです?」
「ひっこんだ洞穴の水際だ」ガリオンは答えた。
「すると、この誘拐犯は王子を連れてまんまと脱出したと考えざるをえないようですね。タッチの差だったのかもしれないが、沿岸を巡視していた船上の捜索隊は海岸線に気をとられていたでしょうし、捜索隊がくる前に沖合いに船をだしていたなら、気づかれなかったはずです」
洞穴のような暖炉にひとかかえの丸太を積み上げていたバラクがきいた。「だったら、なんであいつらはあとに残ったんだ? まるで筋がとおらないぜ」
「われわれが話しているのは熊神教の信者なんだぞ、バラク」シルクが口をはさんだ。「連中のすることは筋がとおらないときまってるんだ」
「しかしまったくそうとも言いきれますまい」セリネ伯爵が指摘した。「死ぬ前に例の信者が言ったことが本当なら、このウルフガーという人物はベルガリオンに戦いを挑んだのです。その連中が特にあとに残ったのも、ベルガリオンを待ち伏せするためだったからですよ。ベルガリオンならなんとかしてその臭跡をたどったはずですからね」
「まだ納得のいかない部分があるな」ジャヴェリンは眉をしかめた。「もうちょっと考えさせてください」
「動機の解明はあとでもできる」ガリオンは言った。「いま重要なのは、やつらが息子をどこへ連れさったかということだ」
「もっともありそうなのは、レオンだ」アンヘグが言った。「ジャーヴィクショルムはわれわれが滅ぼした。レオンはやつらに残された頼みの綱なんだ」
「そうとは言いきれないわ、アンヘグ」ポレン王妃が異議をとなえた。「ゲラン王子を誘拐する計画は、あきらかにかなり前に立てられたものよ。あなたがジャーヴィクショルムを滅ぼしたのはつい先週ですもの。誘拐犯たちはそのことを知りもしないんじゃないかしら。王子がチェレクへ連れていかれた可能性を除外してはならないと思うわ」
アンヘグは立ち上がると、陰気なしかめっつらでいったりきたりしはじめた。「ポレンの言うことは的を射てる」しばらくたってからそう認めた。「なんと言っても、誘拐犯たちはチェレク人なんだ。やつらはきっとゲランをジャーヴィクショルムへ連れていこうとしただろう。だが、都市が破壊されているのを知って、ほかの場所へ行かざるをえなくなった。西海岸の漁村あたりでやつらをとっちめられるかもしれん」
「じゃ、さしあたってどうすればいいんだろう?」ガリオンはたよりなげにたずねた。
「ふた手にわかれるんだ」チョ・ハグ王が静かに言った。「アンヘグは全軍をあげてチェレク中の村と農場を捜索する。残りのわれわれはレオンへ行き、そこの信者たちを調べるんだ」
「それにはひとつだけ厄介な点がある」アンヘグが言った。「あくまでも赤ん坊は赤ん坊でしかない。ゲランを見たとしても、わしの部下にそれがガリオンの息子だとどうしてわかる?」
「それはたいした問題ではないわ」暖炉のそばの椅子でお茶を飲んでいたポルガラが言った。「ガリオン、てのひらをみんなに見せてあげなさい」
ガリオンは右手をあげて、銀色のしるしをチェレクの王に見せた。
「そのことをうっかり忘れていた」アンヘグが言った。「ゲラン王子にも同じしるしがあるのか?」
「リヴァの王座にすわる後継者には、ひとりのこらずてのひらにそれと同じしるしがあるのよ。〈鉄拳〉の最初の息子が誕生したとき以来、ずっとそうなの」
「わかった」アンヘグは言った。「部下たちもこれでなにを目印にすればいいかわかる。だが、残りの諸君はレオンに十分な人手を連れて行けるか? あそこにはアルガーとドラスニアの信者が大勢いるし、ウルフガーもかなりの軍隊をもっているぞ」
ブレンディグ将軍がたちあがって、壁の一面にはられた大きな地図のところへ歩いていった。「いますぐセンダーに向けて出発すれば、二、三日でかなりの軍勢を集められますよ。強行軍だが、一週間以内にダリネにたどりつけるでしょう」
「それでは、わしがダリネに艦隊を待機させて、あんたの部下たちをボクトールへ送ろう」
「わたしは南へ行って、馬族に決起をうながしましょう」ヘターが言った。「そしてまっすぐ北上してレオンへ向かいます」
ガリオンも地図をにらんでいた。「アンヘグの艦隊がぼくとぼくの軍を乗せてボクトールへ行ってくれれば、ドラスニアの槍兵と合流して、西からレオンへ進軍できる。艦隊はそのあとダリネへ戻ってブレンディグをひろえばいい」
「そのほうが時間の節約になるでしょう」ブレンディグも賛成した。
「リヴァとドラスニアの兵力をあわせれば、レオンを包囲するのは軽いよ」シルクが口をはさんだ。「都市を落城させるにはたりなくても、人の出入りをシャットアウトするにはじゅうぶんだ。腰をすえてブレンディグとヘターがくるのを待っていりゃいいんだ。いったんブレンディグたちが合流したら、圧倒的な軍勢になる」
「かんぺきだよ、ガリオン」バラクが賛同の意を表明した。
マンドラレンがすっくと立ち上がった。「そして東部ドラスニアの湿地に位置するその要塞都市に到着したら、拙者が攻撃用兵器なり、その他の種々雑多な手段なりで城壁をもろくしておきましょう。そうすれば、最終攻撃をするさいにたやすく中へはいれるわけです。レオンは陥落し、われわれはこの極悪なるウルフガーに、すみやかに、おそるべき正義をくだすのでござる」
「あまりすみやかすぎないほうがいいね」ヘターがつぶやいた。「わたしはもっとじわじわとやるほうを考えていたんだ」
「つかまえてからのことは、そのときゆっくり考えようぜ」バラクが言った。
ドアがひらいて、青ざめやつれたセ・ネドラがライラ王妃やほかの婦人たちにつきそわれてはいってきた。「どうしてみんなまだこんなところにいるの?」セ・ネドラはくってかかった。「どうして世界中にちらばってわたしの赤ちゃんを見つけないの?」
「そういう言い方は公平じゃないよ、セ・ネドラ」ガリオンはやさしくセ・ネドラをなだめた。
「公平なんてどうでもいいわ。わたしは赤ちゃんがほしいのよ」
「ぼくもだ。しかしやみくもにつっぱしったところでなんにもならないだろう?」
「必要なら、わたしが自分で軍を率いるわ」セ・ネドラはむきになって言った。「前にもやったことがあるし、もう一度だってちゃんとやってみせるわよ」
「それで、軍をどこへ連れていくつもり、ディア?」ポルガラがきいた。
「どこだろうと、わたしの赤ちゃんのいるところへよ」
「それはどこなの? わたしたちの知らないことを知っているんだったら、教えてくれるべきじゃなくて?」
セ・ネドラは目にいっぱい涙をためて、とほうにくれたようにポルガラを見つめた。
ベルガラスはさっきからひとことも口出しせずに、窓際のふかふかの椅子にすわったまま、外の嵐を見ながらじっと考えこんでいた。「なにかを見落としているような気がする」アダーラとネリーナががっくりしたセ・ネドラを会議テーブルのそばの椅子につれていくと、老人はつぶやいた。
「なんて言ったんだね、ベルガラス?」アンヘグがへこんだ冠をぬいで、テーブルにほうりなげながら、たずねた。
「なにかを見落としているような気がすると言ったんだ。アンヘグ、おまえの書庫の規模はどれくらいだね?」
チェレクの王は肩をすくめて、頭をかいた。「トル・ホネスにある大学の図書館に匹敵するほどではないだろうが、世界中のもっとも重要な書物ならそろっている」
「謎の分野に関する書物はどれくらいある?」
「なんの分野だって?」
「予言だ――ムリンやダリネの古写本ほどのものではなくとも――そのほかの予言の書物だ。たとえば、ケルの予言者の教え、ラク・クトルのグロリムの予言、アシャバの神託などだ」
「そのうちのひとつは持っている。アシャバのやつだ。十二年ばかり前に見つけたんだ」
「ヴァル・アローンへ行って、そいつを見たほうがよさそうだ」
「いまはそんなことをしている暇はないよ、おじいさん」ガリオンは不服だった。
「ガリオン、狂信者の一派によって暴動ではすまされないなにかが起ころうとしているんだ。おまえが『ムリンの書』の中に見つけた例の一節は、きわめて特異なものだった。あれが謎を深くほりさげるヒントを与えてくれたんだよ。正確にやらないと、わしらはあとでほぞをかむことになりそうな気がするんだ」ベルガラスはアンヘグに向きなおった。「アシャバの神託の写しはどこにある?」
「書庫だ――一番上の棚にある。読んでみたがさっぱり意味がわからなかったんで、そこにつっこんでおいたんだ。いつかもう一度読んでみるつもりだったのさ」次の瞬間、アンヘグは思いだした。「そうそう、ところでマロリーの教えの写しは、マー・テリンの僧院にある」
ベルガラスは目をぱちくりさせた。
「それも見たい本のひとつなんだろう? ケルの予言者が書いたやつだが?」
「マー・テリンの図書館になにがあるかどうして知ってるんだ?」
「数年前に聞いたことがあるのさ。稀覯本には目を光らせておくよう命じてあるんでね。とにかく、僧侶たちにその本を買い取りたいと申しでたんだが――きわめて気前のいい値でだ――交渉は失敗におわった」
「あんたは実際情報の宝庫だな、アンヘグ。ほかになにか思いつけるか?」
「ラク・クトルのグロリムの予言書に関しては、役にたてそうにない。わしが知るかぎり、クトゥーチクの書庫にあったのが唯一の写しだが、あれはおそらくあんたがラク・クトルを山頂から吹き飛ばしたときに埋まってしまっただろう。まあ、あんたなら掘り出せるだろうが」
「ありがとう、アンヘグ」ベルガラスはそっけなく言った。「あんたの情報にわしがどれだけ感謝しているか、想像もつかんだろうな」
「こんな話を聞いているなんて信じられないわ」セ・ネドラは非難がましくベルガラスに言った。「だれかがわたしの赤ちゃんを盗んだのよ――あなたのひ孫を――それなのに、かれを見つけようともせずに素性の知れない文書なんかをさがしに行こうというの」
「子供をないがしろにしているんじゃない、セ・ネドラ。ちがう場所でかれを捜しているだけだ」ベルガラスは深い同情の目でセ・ネドラを見つめた。「あんたはまだ若すぎる。だから赤ん坊が奪われた現実しか見えない。しかし、現実には二種類あるのだ。ガリオンはこの現実の中にあんたの子供を追い求めるだろう。わしはもうひとつの現実にかれを追うつもりだ。どちらも同じものをさがしているんだよ、こうやってわれわれはあらゆる可能性を網羅するんだ」
セ・ネドラはしばらくベルガラスをじっと見ていたが、ふいに両手で顔をおおって泣きだした。ガリオンはたちあがって妻に歩みより、だきよせた。「セ・ネドラ、セ・ネドラ、だいじょうぶ、うまくいくさ」
「だいじょうぶなんかじゃないわ」セ・ネドラはしゃくりあげた。「赤ちゃんのことが心配でたまらないの、ガリオン。なにもかも二度ともとどおりにはならないのよ」
マンドラレンが立ち上がった。目に涙をうかべている。「最愛なるセ・ネドラ、あなたのまことの騎士であり戦士として、悪党のウルフガーが二度とふたたび夏を迎えられないことを、わたしが命にかけて誓いましょうぞ」
「そういうことだな」ヘターがつぶやいた。「レオンへ行き、ウルフガーをどこかの柱に釘づけにしてやろうじゃないか――おそろしく長い釘で?」
アンヘグはチョ・ハグを見た。「あんたの息子はこの状況の現実をおどろくほどしっかり把握しているな」
「かれは衰えゆくわたしの喜びなんだ」チョ・ハグは誇らしげに言った。
王宮に戻るなり、セ・ネドラとの口論がはじまった。はじめガリオンは理を説こうとし、次は命令した。しまいには居丈高に脅した。
「あなたがなんと言おうとかまわないわ、ガリオン、わたしはレオンへ行きますからね」
「ならん!」
「行くわ!」
「寝室に閉じ込めさせる」
「あなたが出発したら、だれかにドアをあけさせて――でなきゃ、自分で鍵をこわして――港から次の船ででるわ」
「セ・ネドラ、危険すぎるよ」
「タール・マードゥも危険だったわ――クトル・ミシュラクでも――でもわたしはどっちの場合もひるんだりしませんでしたからね。レオンへ行くわよ、ガリオン――あなたと一緒だろうと、ひとりだろうと。わたしの赤ちゃんを取り戻すのよ――たとえ素手で都市の外壁をこわすはめになったって」
「セ・ネドラ、頼むから」
「いやよ!」彼女は叫んで、足をふみならした。「行くわ、ガリオン、どんなことを言ったって、したって、わたしが行くのはとめられないわ!」
ガリオンは両腕を宙につきあげて、弱りきった口調で言った。「女ってやつは!」
翌朝夜明けとともに艦隊は出港し、嵐のなごりのきたない漂流物の浮かぶ荒海へ出ていった。
ガリオンは大きな両手で舵をにぎっているバラクとならんで、〈海鳥〉号の船首甲板に立っていた。「またこういうことをしなくちゃならなくなるとは、思わなかったよ」かれはのろのろと言った。
「そうか、悪天候の中を航行するのはそう捨てたもんじゃないぜ」バラクは赤ひげを風になぶらせながら、肩をすくめた。
「そういうことじゃない。トラクが死んだあと、これで平和に人生を送れると思ったんだよ」
「おまえはツイてたよ」
「ふざけてるのか?」
「安穏とした暮らしをしていると人間だれしも尻に肉がついて、頭に蜘蛛の巣がはっちまうんだ」大男は聖人ぶって言った。「ちょっとした戦闘なら、いつでも歓迎するぜ」
数リーグ沖合いへ出たとき、フルラク王、ブレンディグ将軍、セリネ伯爵、それにしこたま鎮静剤を服用したライラ王妃を乗せた船の小隊が艦隊から分離して、センダーをめざし真東へ向かっていった。
「ブレンディグがダリネにくるのがおくれなけりゃいいが」手すりにもたれてアンヘグが言った。「捜索中はあの船団がきっと必要になる」
「どこからはじめる予定なの?」ポレン王妃がたずねた。
「熊神教の九割は西部沿岸に集中している」アンヘグは答えた。「ゲラン王子の誘拐犯たちがチェレクへ行ったとすれば、まずまちがいなく信仰の本拠地へ向かうだろう。したがって、西部沿岸からスタートして、内陸へはいるつもりだ」
「それは賢明な戦略だと思うわ。部隊を展開して沿岸地域を掃討するといいわ」
「ポレン」アンヘグはにがにがしげだった。「わしはあんたを妹のように愛しているが、わしに話しかけるときに軍事用語を使うのはよしてくれないか。女の口からそういう言葉を聞くとぞっとするんだよ」
チェレク・ボアを通過することで、艦隊は二日の遅れをとった。グレルディクをはじめとする恐いもの知らずの連中はすすんで――というより、むしろ嬉々として――嵐の余波の残る荒海でその大渦巻をつっきろうとしたのだが、多数派をしめていたのは、もっと冷静で、もっと慎重な人々だった。バラクは向こうにいる友人に声をはりあげた。「海はもうじき静まるはずだ。レオンはどこにも行きゃしない。不要に船を失うようなまねはよそうぜ」
「バラク」グレルディクはどなりかえした。「ばあさんみたいになってきたな」
「ジャーヴィクショルムに行く前に、アンヘグも同じことを言ったよ」
「かれは聡明な王だ」
「これはアンヘグの船じゃない」
大渦を通過して波静かなチェレク湾にはいったあと、アンヘグ王は艦隊の大部分を率いて北のヴァル・アローンへむかった。ベルガラスはアンヘグの船団のひとつに乗り移る前に、甲板に立って静かにガリオンとポルガラと話し合った。「ヴァル・アローンでの用件がかたづいたら、その足でマー・テリンへ行くつもりだ。レオンにつくまえにわしが帰ってこなかったら、じゅうぶん注意してくれ。信者たちはすこぶるつきの狂信者だし、やつらが火蓋を落としたこの戦いはおまえ個人に向けられているのだからな、ガリオン」
「ガリオンからは目をはなさないわ、おとうさん」ポルガラがうけあった。
「自分のことぐらい自分でできるよ、ポルおばさん」
「もちろんよ、ディア。でも習性はそう簡単にかわるものじゃないの」
「いくつになったら、ぼくが大人だってことがわかってもらえるの?」
「千年ばかり待ってもらえるかしら? そうしたらそのことを話し合えるかもしれないわ」
ガリオンはにやりとしてから、ためいきをついた。「ポルおばさん、愛してるよ」
「ええ、ディア」彼女はガリオンの頬をたたいた。「わかってるわ、わたしもよ」
コトゥで、ヘターとその妻と両親を乗せた船は南のアルダーフォードへ向かった。「三週間後にレオンで会おう」鷲のような顔をしたアルガー人は〈海鳥〉号の面々によびかけた。「わたしのために戦いの場をちょっと残しておいてくれ」
「遅れなければね」レルドリンが陽気に叫びかえした。
「どっちが始末が悪いんだかわからなくなってきたわ」ポルガラはセ・ネドラにささやいた。「アレンド人かアローン人か」
「ふたつの種族は血がつながっているんじゃありません?」セ・ネドラがたずねた。
ポルおばさんは笑い声をあげたあと、鼻にしわをよせてコトゥの波止場をながめた。「さあ、ディア、下へいきましょう。波止場っていつも気のめいるような臭いをただよわせているのよ」
艦隊はコトゥを通って、ムリン川の河口へ一列縦隊にはいっていった。流れはゆるく、両岸には緑の湿地帯が広がっていた。ガリオンは〈海鳥〉号の船首近くに立って、漕ぎ手たちが着着と上流をめざすなか、うしろへ流れていく灰緑色の葦のしげみや、しょぼしょぼした灌木をぼんやりながめていた。
「ああ、そこにいたの、ガリオン」ポレン王妃がうしろから近づいてきた。「ちょっと話したいことがあるのよ」
「いいですよ」深い愛情と鉄の意志を持ち、勇気と献身にあふれたこの小柄な金髪の女性にたいして、ガリオンはやや特別な感情を持っていた。
「ボクトールへついたら、ケヴァを宮殿に残していきたいのよ、あの子はいやがるでしょうけど、戦闘にはまだちょっと幼すぎるわ。強情をはるようなことがあったら、あなたが残るよう命令してくださらない?」
「ぼくが?」
「あなたは〈西方の大君主〉でしょう、ガリオン」ポレンは思い出させた。「それにひきかえ、わたしはケヴァの母親にすぎないわ」
「〈西方の大君主〉なんて、肩書がおおげさすぎるんだ」ガリオンは片方の耳をうわの空でひっぱった。「セ・ネドラもボクトールにおいていけないものかと思ってるんだけど」
「それはどうかしらね。ケヴァは大先輩としてあなたの言うことを聞き入れるでしょうけど、セ・ネドラはあなたを夫として見ているんですもの。同じじゃないわよ」
ガリオンは顔をしかめた。「そうだろうなあ。でも説得してみる価値はある。船でムリン川をどのくらいさかのぼれるのかな?」
「ボクトールの上流二十リーグほどのところが北の分岐点で、その先は数本の浅瀬にわかれているの」ポレンは答えた。「そのあたりは船をいったん陸に引き上げて進めばいいでしょうけど、あまり期待はできないわ。さらに十リーグさかのぼると、また別の浅瀬に出るけれど、流れが急なのよ。船を水から引き上げてまた水にいれるのには、おそろしく時間がかかるわ」
「すると、最初の浅瀬についたら、陸を進みだすほうがはやいんだね?」
ポレンはうなずいた。「わたしの部下たちが隊を集めて供給物資をまとめるのに数日はかかりそうなの」彼女はつけくわえた。「できるだけはやくわたしたちのあとを追うよう指示するつもりよ。かれらが加わったら、レオンへ行き、ブレンディグとヘターの到着までに都市を包囲することができるわ」
「ねえ、本当にこういうことに長《た》けているんだね、ポレン」
ボレン王妃は悲しそうにほほえんだ。「ローダーはすばらしい教師だったの」
「かれをとても愛していたんだね?」
彼女はためいきをついた。「あなたには想像もつかないほどにね、ガリオン」
艦隊は翌日の午後ボクトールに到着した。ガリオンはポレン王妃と連れだって、わずかにふくれっつらのケヴァを宮殿へ連れていった。あとにはシルクがつづいた。到着するなり、ポレンはドラスニア軍の司令部へ使いをとばした。
「待っているあいだにお茶でもいかが、みなさん?」小柄な金髪の王妃は、窓に赤いビロードのカーテンのさがった大きくて風通しのいい部屋にくつろいだ三人に言った。
「もっと強いものが見つけられないなら、お茶でがまんするよ」シルクはいたずらっぽくにやにやしながら答えた。
「飲むにはまだ早いんじゃない、ケルダー王子?」ポレンはとがめるようにたずねた。
「おれはアローン人ですよ、おばうえ。早すぎることなんかありゃしない」
「ケルダー、その呼びかたはよしてちょうだい。いっぺんに年をとったような気持ちになるわ」
「だが事実だ――おれのおばうえってことがだよ、もちろん、年をくってるということじゃなく」
「まじめになれないの、あなたって人は?」
「ふざけていられるかぎりはね」
ポレンはためいきをついたかと思うと、あたたかみのある軽やかな笑い声をたてた。
十五分ほどたったころ、けばけばしいオレンジ色の軍服をきた赤ら顔のがっしりした男が、部屋に通されてきた。「お呼びですか、女王陛下?」うやうやしく一礼してたずねた。
「ああ、ハルダー将軍。ベルガリオン王は知っているわね?」
「ちょっとだけお目にかかったことがあります――亡くなられたローダー王の葬儀で」ハルダー将軍はガリオンにむかってはでなお辞儀をした。「陛下」
「将軍」
「もちろんケルダー王子には会ったことがあるでしょう」
「むろんです」将軍は答えた。「閣下」
「将軍」シルクはしげしげと将軍をながめた。「それはあたらしい飾りじゃないか、ハルダー」
赤ら顔の将軍はややうらめしげに胸につけているひとかたまりのメダルをさわった。「これは将軍が平和時につけるものです、ケルダー王子。互いにメダルを与えあうんですよ」
「どうやら平和時は終わったようだわ、ハルダー将軍」ポレンはきびきびと言った。「チェレクのジャーヴィクショルムで起きたことはもう耳にしていると思うけど」
「はい、陛下。あれはみごとな戦いでした」
「いまからわたしたちはレオンを攻撃に向かうのよ。熊神教の信者たちがベルガリオン王の息子を誘拐したの」
「誘拐?」ハルダーは信じられないという顔をした。
「残念ながらそうなのよ。どうやら熊神教を根絶するときがきたらしいわ。だからこのままレオンへ向かうつもりなの。あす、浅瀬まで行って上陸し、陸路レオンへ向かうわ。あなたはできるだけいそいで兵を集め、わたしたちのあとを追ってもらいたいのよ」
ハルダーはいま聞いたことのどこかがひっかかるようすで、眉をよせていたが、やがてたずねた。「リヴァの王子が誘拐されたのはたしかですか、女王陛下? 殺されたのではなくて?」
「まちがいない」ガリオンは断言した。「あきらかに誘拐だった」
ハルダーは興奮ぎみにいったりきたりしはじめた。「それでは意味がとおらん」ひとりごとのようにつぶやいた。
「指示はわかったの、将軍?」ポレンがきいた。
「は? あ、はい。ただちに兵を集めて、レオンに着かれる前にベルガリオン王の率いるリヴァ軍においつきます」
「けっこうだわ。残りの兵力が到着するまで、わたしたちで町を包囲するのよ。アルガーの軍勢やセンダリア軍の小部隊がレオンでわたしたちに合流することになっているわ」
「ただちにとりかかります、女王陛下」そう言ったものの、ハルダーの表情はまだどこかうわの空で、すっきりしなかった。
「なにか気になることでもあるの、将軍?」ポレンはたずねた。
「は? ああ、いえ。これから司令部へ行って、すぐに必要な命令をだしてまいります」
「ありがとう、ハルダー将軍。これで全部よ」
「なにか気にくわんことを聞いたんだな」将軍がたちさったあと、シルクがもらした。
「ぼくたちが最近聞いたのは、気にくわないことばっかりだよ」ガリオンは言った。
「しかし、そういうことじゃなさそうだった」シルクはつぶやいた。「ちょっと失礼。二、三質問してくる」かれは立ちあがって、そっと部屋を出ていった。
翌朝早く、艦隊は錨をあげてボクトールからゆっくり川をさかのぼりはじめた。夜明けは雲ひとつなく晴れていたのに、昼までにはチェレク湾は重苦しい雲におおわれて、ドラスニアの田園地帯は気のめいるような灰色に変わっていた。
「雨がふらなきゃいいが」バラクが舵をにぎりながらうなるように言った。「ぬかるみの中を戦いにいくのはいやだからな」
ムリン川の浅瀬は予想以上に広々としており、水が砂利の帯にさざなみをたてていた。
「ここの川底をさらうことを考えたことは?」ガリオンはドラスニアの王妃にたずねた。
「いいえ。政策上の問題として、わたしはムリン川がこの地点から先航行可能になってほしくないの。トルネドラの商人たちにボクトールを迂回させたくないのよ」ポレンはセ・ネドラににっこり笑いかけた。「失礼なことを言うつもりはないんだけれど、トルネドラの人々はいつも関税を払うのを避けたがっているようなの。現状では、〈北の隊商道〉を支配しているのはわたしだし、関税が国家歳入として必要なのよ」
「わかりますわ、ポレン」セ・ネドラはポレンを安心させた。「わたしだってそう思いますもの」
艦隊は川の北側の土手にのりあげた。ガリオンの軍勢が下船を開始した。「それじゃ、おまえは艦隊を率いて川をくだり、ダリネへ向かうんだな?」バラクがひげづらのグレルディクに言った。
「そうさ。一週間以内にブレンディグとかれのセンダー軍を乗せてここへもどってくる」
「よし。できるだけいそいでレオンまでおれたちをおいかけてくるようブレンディグに言ってくれ。包囲戦が長びくかと思うと、げんなりする」
「〈海鳥〉号をおれといっしょに送り返すつもりかい?」
バラクは考えながらひげをひっかいていたが、ようやく言った。「いや。〈海鳥〉号はここにおいておく」
「信用しろよ、沈めたりしないからさ、バラク」
「わかってる、だがここにあったほうが安心なんだ、万が一必要になったときのためにな。おまえもブレンディグといっしょにレオンへくるんだろう? すごい戦いがくりひろげられることまちがいなしだぞ」
グレルディクはうらめしそうな顔をした。「だめなんだ。アンヘグの命令でセンダー兵をここへ届けたら、ヴァル・アローンへもどらなけりゃならない」
「そうか。そりゃ残念だな」
グレルディクは皮肉まじりに言った。「せいぜいレオンで楽しむがいいさ。殺されないようにしろよ」
「その点には特に気をつけるって」
軍勢と供給物資がすべて陸におりたときには、日が暮れかけていた。雨はまだふらないものの、雲はどんどん厚くなっていた。「ここで野営したほうがいいと思う」ガリオンは勾配のなだらかな川の土手に立っている兵隊たちに言った。「どうせ暗くなるまでいくらも進めないし、たっぷり眠っておけば、朝早く出発できる」
「もっともだ」シルクが賛成した。
「ハルダーについてなにかわかったの?」ポレン王妃がネズミ顔の小男にたずねた。「ハルダーのことでなにか気にしていたじゃないの」
シルクは肩をすくめた。「これといってなにもわからなかった。しかし、かれは最近ずいぶんあちこち旅をしていたらしい」
「ハルダーは将軍なのよ、ケルダー、しかも参謀長よ。将軍というのはときどき視察旅行をしなければならないものだわ」
「だがふつうはひとりじゃない。ハルダーは視察の旅をするさい、副官すら同行させていないんだ」
「それは勘ぐりすぎじゃないかしら」
「疑い深いのはおれの性分なんですよ、おばうえ」
ポレンは地団駄をふんだ。「その呼びかたはやめてもらえない?」
シルクはおだやかにポレンをながめた。「そんなに気にさわるかい、ポレン?」
「前にもそう言ったじゃないの」
「じゃ、忘れないようにしないとな」
「あなたってほんとうに始末に負えない人ね、わかってるの?」
「もちろんですよ、おばうえ」
次の二日間、リヴァ軍は着々と東へ進軍した。灰緑色の荒涼たる湿地や不毛の荒れ地をよこぎり、木々もまばらな丘陵を越えて行った。どす黒い淀みのまわりにはいやらしいイバラのしげみが散在していて、兵隊たちを悩ませた。空はあいかわらず灰色でいまにも泣きだしそうだったが、まだ雨は落ちてこなかった。
ガリオンはけわしい顔で馬にまたがり、縦隊の先頭に立っていたが、命令を発する以外はめったに口をきかなかった。斥候たちがときどき報告にきては、前方に信者軍の気配がないことを告げ、それと同じくらい確信をこめて、ハルダー将軍率いるドラスニアの槍兵がまだ後方からやってきていないことを大声で伝えた。
二日目、一行が休止して昼食をかきこんでいるとき、ポルガラがいかめしい顔でガリオンに近づいてきた。彼女の歩みにつれて青いマントが丈の高い草にこすれてさらさらと鳴り、おなじみの芳香が方向のさだまらない風に乗ってガリオンのところへ運ばれてきた。「ちょっと歩きましょう、ガリオン」ポルガラは静かに言った。「話し合わなくてはならないことがあるのよ」
「わかった」ガリオンの返事は短く、そっけなくさえあった。
するとポルガラはここ数年めったにしなかったことをした。おごそかな愛情とでも言うのだろうか、腕をガリオンの腕にからませて、兵隊たちや残りの友人たちから離れ、草深い小山をのぼりだしたのだ。
「この二、三週間、ずいぶん顔つきがけわしくなっているわね、ディア」小山のてっぺんで立ちどまると、ポルガラは言った。
「それだけの理由はじゅうぶんあるはずだ、ポルおばさん」
「このことがあなたを深く傷つけたのはわかっているわ、ガリオン、あなたが激しい怒りにとらわれていることもね。でもね、だからといって残酷になってはいけないわ」
「ポルおばさん、これをはじめたのはぼくじゃない」ガリオンはポルガラに思い出させた。
「やつらはぼくの妻を殺そうとした。次はぼくのもっとも親しい友だちのひとりを惨殺し、ぼくとアンヘグのあいだに戦争をひきおこそうとした。そして今度は息子を盗んだんだ。ちょっとこらしめてやってもあたりまえだろう?」
「たぶんね」ポルガラはガリオンの顔をじかにのぞきこんだ。「でも、その怒りを好き勝手にさせて、血の海を渡るつもりになってはだめよ。ガリオン、あなたはとほうもない力を持っているのよ。それを使えば、口では言えないような仕打ちをわけなく敵に与えられるわ。そういうことをすれば、その力があなたをトラクにまさるともおとらない悪辣な暴君に変えてしまうの。あなたは自分のもたらす恐怖に喜びを見いだすようになり、やがてその喜びに自分を見失ってしまうわ」
ガリオンはその真剣な声と、ポルガラのはえぎわの白い一房の髪が突然赤くなったことにおどろいて、ポルガラをじっと見つめた。
「それはおそろしく危険なことなのよ、ガリオン。ある特別な意味で、いまのあなたは、あなたが対決したときのトラク以上に危険な存在なのよ」
「やつらのしたことのつぐないはさせてやる」ガリオンはかたくなに言った。「むざむざ逃がすつもりはない」
「それはそれでかまわないわ、ディア。もうすぐレオンにつくし、そうしたら戦闘になるでしょう。あなたはアローン人だから、熱にうかされたようになって戦うにちがいないわ。だから約束してほしいの、熱狂的になったあまり、むやみやたらと人の命を奪うようなことはしないで」
「やつらが降伏すればそんなことはしない」ガリオンは硬い声で答えた。
「そのあとは? 捕虜をどうするつもり?」
ガリオンは困惑した。そこまでは考えていなかった。
「だいたい熊神教というのは、無知な人たちや誤り導かれた人たちで成り立っているのよ。自分たちのしでかしたことの重大さを理解することもできないほど、かれらはただひとつの考えにこりかたまっているわ。その愚かさゆえに、かれらを虐殺するの? 愚かであることは不幸だわ、でも、そういう罰を与えたところでなんにもならないのよ」
「ウルフガーはどうなんだ?」ガリオンはつめよった。
ポルガラはひややかに微笑した。「それは別の問題だわ」
青い縞もようの大きな鷹がどんよりした空から螺旋をえがきながらおりてきた。「一族郎党集まってるのか?」ベルディンが本来の姿に戻りながら、しわがれ声でたずねた。
「どこにいたの、おじさん?」ポルおばさんは冷静にたずねた。「わたしたちの後を追ってくれるよう双子に伝言を頼んでおいたのよ」
「いましがたマロリーから戻ってきたんだ」ベルディンは腹をかきながら、不服そうに言った。「ベルガラスは?」
「ヴァル・アローンにいるわ。そのあとマー・テリンに向かうはずよ。謎に隠されているはずの臭跡をたどろうとしているの。なにが起きたか聞いたでしょう?」
「だいたいのところはな。『ムリンの書』に隠されていた例の部分を双子が見せてくれた。リヴァの番人とベルガリオンの息子のことは聞いた。おまえたちはレオンを攻撃するつもりでいる。そうだろう?」
「当然でしょう。レオンが諸悪の根源なのよ」
ベルディンは思案げにガリオンを見つめた。「ベルガリオン、おまえが戦略にたけているのはたしかだが、今回はおまえの考えがよくわからんね」
ガリオンはあっけにとられてベルディンを見た。
「多数の軍勢を率いて、要塞都市を攻撃する予定なんだろう、え?」
「そう言っていいと思う」
「じゃ、おまえの軍勢の半分以上が二日たってもムリン川の浅瀬で野営しているのはどういうことなんだ? かれらは必要ないと考えているのか?」
「なんのこと、おじさん?」ポルおばさんが鋭くたずねた。
「きわめてわかりやすく話しているつもりだぞ。ドラスニア軍が浅瀬で野営しているんだ。いっかな動き出す気配がない。自分たちのいるところを要塞化さえしている」
「そんなはずはないわ」
ベルディンは肩をすくめた。「その目で飛んで見てきたらいい」
ポルおばさんはおもおもしく言った。「みんなに言いにいったほうがいいわ、ガリオン。なにかがどこかで大きく狂ってきているのよ」
[#改ページ]
10[#「10」は縦中横]
「あの男、なにを考えているのかしら?」ポレン王妃は柄になく猛り狂った。「わたしたちに追いつくようにと特別に命令したのよ」
シルクの顔はひややかだった。「うさんくさいハルダー将軍の足を調べて、例のしるしをさがしておくべきだったんだ」
「じょうだんじゃないわ!」ポレンは叫んだ。
「ハルダーは故意にあなたの命令にそむいているんだよ、ポレン、しかも、あなたと残りのわれわれ全員を危機にさらすような方法でだ」
「わたしを信用して。ボクトールに戻りしだいすぐにことの真相をつきとめるわ」
「あいにく、われわれはいまそっちの方角へは向かっていないんだ」
「それじゃわたしがひとりで浅瀬へひきかえすわ」ポレンは宣言した。「必要なら、ハルダーを指揮官の地位からはずすわ」
「いや、だめだ」シルクは頑として言った。
ポレン王妃は信じられないようにシルクを見つめた。「ケルダー、だれにものを言っているかわかってるの?」
「完全にね、ポレン、だがそれは危険すぎる」
「わたしの義務よ」
「義務なもんか。きみの義務はケヴァが一人前の王になるまで生きていることだ」
ポレンはくちびるをかんだ。「そんなのずるいわ、ケルダー」
「人生はきびしいんだよ、ポレン」
「かれの言うとおりですよ、女王陛下」ジャヴェリンが言った。「ハルダー将軍はあなたにさからうことですでに謀反をおかしています。その罪に王妃殺害を加えることに、かれがちゅうちょするとは思えません」
「人手が必要だな」バラクが野太い声で言った。「とにかく数名は。さもないと、ここでブレンディグの到着を待たなけりゃならなくなる」
シルクは首をふった。「ハルダーは浅瀬で野営しているんだぜ。おれたちが疑っていることが真実なら、やつはいつまでもブレンディグの軍を足止めするだろう」
セ・ネドラがいらだたしげにといつめた。「じゃ、この先どうしたらいいの?」
「選択の余地はあまりないと思うね」バラクが言った。「Uターンして浅瀬へひきかえし、ハルダーを反逆罪で逮捕するんだ。それからまたUターンして槍兵と一緒にここへ戻ってくる」
「それじゃ一週間近くかかってしまうわ」
「ほかにどんな手がある? 槍兵はぜったい必要なんだ」
「なにか見落としちゃいないか、バラク」シルクが言った。「この二日間、空気がちょっと冷たくなったのに気づいたか?」
「朝はちょっとな」
「われわれはドラスニア北東部にいるんだぜ。ここは冬の訪れが早いんだ」
「冬? しかしまだ秋になったばかりじゃないか」
「われわれはずっと北上してきているんだ、友よ。いつなんどき雪がふってくるかわからないぞ」
バラクは悪態をつきはじめた。
シルクはジャヴェリンを手招きし、ふたことみこと言葉をかわした。
「なにもかもおじゃんなのね、ガリオン?」セ・ネドラが下くちびるをふるわせた。
「ぼくたちがなんとかする、セ・ネドラ」ガリオンは彼女を両腕で囲った。
「でも、どうやって?」
「それはまだわからない」
「まずいぞ、ガリオン」バラクが深刻な口調で言った。「劣勢もはなはだしい兵力を率いて、信仰の領土へはいっていこうっていうんだからな。奇襲されたらひとたまりもないぜ」
「だれかを偵察に行かせる必要があるな」冷肉をかみちぎっていたベルディンが顔をあげて言った。残りの肉片を口におしこむと、かれはきたないチュニックの前で指をぬぐった。「その気になりゃ、おれは空気みたいに人目につかずにいられる」
「それはわたしが引き受けるわ、おじさん」ポルガラが言った。「ヘターがアルガー一族を連れて南からやってくることになってるのよ。かれのところへ行って、ここの状勢を教えてもらえないかしら? できるだけ早くヘターにここへ着いてもらいたいの」
ベルディンは肉のかたまりをまだくちゃくちゃやりながら、ほれぼれしたようにポルガラを見た。「悪くない考えだ、ポル。結婚生活でおまえの頭の働きも鈍ったかと思ったが、どうやら締まりがなくなったのはお尻だけのようだな」
「よけいなお世話だわ、おじさん」ポルガラは吐き捨てるように言った。
「出発したほうがよさそうだ」ベルディンはかがみこんで両腕を広げ、微光を放ちながら鷹に姿を変えた。
「おれは二、三日留守にする」シルクが一行のところへ戻ってきた。「この状況を打開する手はまだありそうだ」それだけ言うと、きびすをかえしてまっすぐ馬に歩み寄った。
「どこへ行くんだろう?」ガリオンはジャヴェリンにたずねた。
「人手が必要なので、救援を求めに行ったんですよ」
「ポレン」ポルガラは首をねじってお尻を見ようとしながら言った。「この数ヵ月でわたしちょっと太ったと思う?」
ポレンはやさしくほほえんだ。「もちろんそんなことないわ、ポルガラ。ベルディンはからかっていただけよ」
それでもポルガラは釈然としない顔つきで青いマントを脱ぎながら、ガリオンに言った。「それじゃわたしが見てくるわ。部隊をこのまま進ませてちょうだい、ただし、走らないで。警告する前にあなたたちが困った事態になったらことだわ」ポルガラの姿がぼやけたかと思うと、雪のように白い大きな梟《ふくろう》がやわらかな羽をはばたかせて、音もなく飛び立った。
そのあとガリオンはできるかぎり最善の防御体勢に部隊を展開させて、慎重に進軍を開始した。斥候を倍にふやし、丘をのぼるときはみずから先頭に立って前方の地形を確かめた。ペースは大幅に落ち、一日五リーグたらずしか進めなかった。遅れはガリオンをいらだたせたが、こうするしかないのだとあきらめた。
ポルガラは毎朝ひきかえしてきて前方にこれといった危険がないことを知らせると、すぐまた音もなく飛び立っていった。
「よくあんなことができるわね」セ・ネドラが言った。「一睡もしていないんじゃないかしら」
「ポルは何週間も眠らずにいられるんだ」ダーニクがセ・ネドラに言った。「だいじょうぶだろう――これがあまり長くつづきさえしなければ」
「ベルガリオン」エランドがくり毛の馬をガリオンの馬に近づけて、持ち前の明るい声で言った。「ぼくたちが監視されているのは知ってたんでしょう?」
「なんだって?」
「ぼくたちを監視してる者がいるんです」
「どこに?」
「数ヵ所にいますよ。すごくうまく隠れてるんです。それに、ぼくたちが向かっている町と、川で野営している軍のあいだを馬でいったりきたりしている連中もいます」
「気にくわんな」バラクが言った。「なにかを共同でもくろんでるみたいじゃないか」
ガリオンは肩ごしにセ・ネドラとならんで馬に乗っているポレン王妃をふりかえった。「ハルダーが命令したら、ドラスニア軍はぼくたちを攻撃するだろうか?」
「とんでもない」ポレンはきっぱり断言した。「軍はわたしに絶対忠実よ。そんな命令、拒否するはずだわ」
「あなたを救っているのだと考えているとしたら、どうですか?」エランドがたずねた。
「救っている?」
「それがウルフガーの手なんです」少年は答えた。「将軍はぼくたちの部隊があなたを捕虜にしていると、部下たちに話しているはずです」
「そういう状況なら、ドラスニア軍は攻撃してきますよ、女王陛下」ジャヴェリンが言った。「熊神教徒と軍の両方にはさみ討ちにされたら、われわれは進退きわまってしまう」
「ほかにまずいことは?」ガリオンは憤懣やるかたないようすで言った。
「すくなくとも、雪はふっていないよ」レルドリンが言った。「とにかく、いまのところは」
部隊が荒涼たる景色をはうように横断しているあいだ、雲はますます厚みをまして重苦しく頭上にたれこめた。世界がどんよりつめたい灰色の中にとじこめられてしまったようで、よどんだ水たまりにうかぶ氷は朝ごとに厚くなっていった。
「この進みかたじゃいつまでたってもレオンにつかないわ、ガリオン」ある陰気な昼、ガリオンとくつわをならべていたセ・ネドラがたまりかねて言った。
「待ち伏せされたら、一巻の終わりなんだ、セ・ネドラ。こんなにのろのろ進むのはぼくだってきみ以上にいやなんだが、ほかにどうしようもないんだよ」
「わたしは赤ちゃんがほしいのよ」
「ぼくだって同じだ」
「じゃ、なんとかして」
「提案があるのなら言ってくれ」
「あれはだめなの――?」セ・ネドラは片手であいまいなしぐさをした。
ガリオンは首をふった。「そういうことに限界があるのはわかってるだろう、セ・ネドラ」
「じゃ、魔法のいいところってなんなのよ?」セ・ネドラはにがにがしげにリヴァの灰色のマントをいっそうしっかり体にまきつけて、寒気をしめだそうとした。
次ののぼりにさしかかったとき、大きな白い梟《ふくろう》がかれらを待っていた。立ち枯れた白い大木の折れた枝にとまって、まばたきひとつせず、金色の目でかれらを眺めている。
「レディ・ポルガラ」セ・ネドラは小首をかしげてポルガラに挨拶した。
白い梟はおもおもしく、ぎごちない態度でちょっとお辞儀をかえした。ガリオンはふきだした。
梟の姿がにじんで、そのまわりの空気がいっときゆれた。ポルガラが足首を交差させて静かに枝にこしかけていた。「なにがそんなにおもしろいの、ガリオン?」
「鳥がお辞儀するのなんてはじめて見たよ。それがおかしかっただけさ」
「笑い死にしないようにすることね」ポルガラはしかつめらしく言った。「こっちへ来て、おろしてちょうだい」
「うん、ポルおばさん」
ガリオンに手伝ってもらって地面へおりると、ポルガラは真顔でガリオンを見つめた。「二リーグ前方に大規模な信仰勢力がまちぶせしているわ」
「どのくらいの規模?」
「こっちの一倍半よ」
「みんなに言いにいったほうがいいな」ガリオンはけわしい表情で馬首をめぐらした。
「連中を迂回する方法があるんじゃないか?」信者の軍勢が前方でまちぶせしていることをポルガラが全員に話したあと、ダーニクがたずねた。
「そうは思わないわ、ダーニク。敵はわたしたちがここにいるのを知っているのよ。わたしたちはまちがいなく監視されているわ」
「では、攻撃するよりほかはない」マンドラレンが主張した。「われわれの大義は正しいのであるからして、勝利するにきまっておる」
「そりゃおもしろい迷信だな、マンドラレン」バラクが言った。「だが、おれはその兵力がこっちの味方だったらよかったのにと思うぜ」大男はポルガラに向きなおった。「やつらはどう展開している? つまり――」
「その言葉の意味なら知ってるわ、バラク」ポルガラは足で地面をきれいにし、棒をとりあげた。「すぐ前方に丘陵があって、その裾野部分に峡谷があるの、わたしたちがたどっているこの道はその峡谷を通っているわ。峡谷がもっとも深くなるあたりに雨溝が数本走っているの。信者グループは四つにわかれていて、グループごとに雨溝に潜んでいるのよ」ポルガラは棒で前方の地形をおおざっぱに描いた。「あきらかに、わたしたちをまっすぐ進軍させておいて、四方八方から一度に襲いかかる計画だわ」
ダーニクは眉をよせてポルガラのスケッチに目をこらしていたが、考えこむように頬をさすりながら言った。「グループのひとつをやっつけるのは簡単なはずだ。残る三グループにこっちの動きが見えさえしなければ問題はないんだが」
「まあ、そういうことになるな」バラクが言った。「しかし、誘われないからって、そいつらがじっと隠れているはずはないわな」
「そうなんだ」鍛冶屋は同意した。「したがって、残りのグループの接近を阻止する障害物のようなものを作らなくてはならない」
「なにか思いついたのね、ダーニク?」ポレン王妃が言った。
「同志の援助にかけつけようとする悪党どもを阻止するとは、いったいいかなる障害物なのだ?」マンドラレンがたずねた。
ダーニクは肩をすくめた。「火ならうまくいくだろう」
ジャヴェリンがかぶりをふって、かたわらに広がるハリエニシダの低いしげみを指さした。
「ここにあるのはまだ緑のものばかりだ。これじゃよく燃えない」
ダーニクは微笑した。「本物の火である必要はない」
「あんたならできるかい、ポルガラ?」バラクがたずねた。目が輝きをおびている。
彼女はちょっと考えた。「一度に三ヵ所はむりだわね」
「しかしわれわれは三人いるじゃないか、ポル」鍛冶屋は思い出させた。「きみが一つのグループを幻の火で足止めする。わたしが二つめのグループを、ガリオンが三つめのグループを足止めするんだ。三つのグループをそれぞれの雨溝にとじこめておいて、あとの一つを片づける。それがすんだら次に移ればいい」ダーニクの眉間にかすかなしわがよった。「唯一の問題は、わたしが幻のつくりかたをよく知らないということだ」
「そんなにむずかしくないわ、ディア」ポルおばさんはダーニクを安心させた。「あなたもガリオンもすぐにコツをのみこむわよ」
「どう思って?」ポレン王妃はジャヴェリンの意見をただした。
「危険です。きわめて危険です」
「ほかに方法があって?」
「といって、これといった安全策は思いつけません」
「じゃあ、きまりだ」ガリオンは言った。「ぼくたちの計画をきみたちが部隊に伝えてくれるなら、ダーニクとぼくはこれから空想上のかがり火のおこしかたを習いはじめる」
それから一時間ばかりたったころ、リヴァの部隊は緊張ぎみに行動を開始した。全員がいつでも武器をとれる体勢で、灰緑色のハリエニシダのしげみを歩いていった。前方に丘陵の裾野が黒々と横たわり、一行のたどる草深い道は、熊神教の信者たちのひそむ石ころだらけの峡谷へまっすぐつづいていた。その峡谷に足をふみいれたとき、ガリオンははやる気持ちをおさえ、意志の力を働かせて、ポルおばさんに教わったことをひとつのこらず慎重に思いおこした。
計画はびっくりするほどうまくいった。最初のグループが武器を高々とかざし、勝利の叫びを発しながら隠れ場所からとびだしてきたとき、ガリオン、ダーニク、ポルガラは間髪をいれず残る三つの雨溝の入口を封鎖した。突撃してきた信者の面々は、突然仲間の戦闘参加をさまたげた炎の出現に驚愕した。かれらはひるみ、勝利の声は無念の呻きに変わった。ガリオン率いるリヴァの兵士たちは、一瞬のためらいをすかさず利用した。最初のグループはじわじわと撃退され、さきほどまで潜んでいた雨溝に閉じ込められた。
ガリオンは戦いの経過にはほとんど注意をはらうゆとりがなかった。レルドリンとならんで馬にまたがっていたかれは、戦いがくりひろげられている雨溝の向かいにある、もうひとつの雨溝の入口に、火のイメージと、熱さの感覚と、火の燃えさかる音を投影するのに全神経を集中していたのだ。おどる炎をすかして、信者たちが実際には存在しない強烈な熱気から顔を守ろうとしているのがぼんやりと見えた。そのとき、だれひとり思いもしなかったことが起きた。ガリオンに封じ込められた信者たちが、あたふたとよどんだ池の水をバケツいっぱい、空想の火にかけはじめたのだ。むろんジュッと音がするわけでもなく、幻影を消そうとするその試みは目に見えるいかなる効果ももたらさなかった。少ししてから、ひとりの信者がへっぴり腰でおそるおそる火をくぐりぬけた。「これは偽物だ!」かれは肩ごしにうしろへ叫んだ。「この火は偽物だぞ!」
「だが、これは本物だ」レルドリンが不気味につぶやいて、その男の胸を矢で射抜いた。信者は両手をあげて、火のなかにあおむけにたおれた――男の死体は焼けなかった。それがいっさいを暴露してしまったことは言うまでもない。最初は数人だったのがしだいにふえ、信者たちはなだれをうってガリオンの幻からとびだしてきた。レルドリンの両手が猛スピードで動いて、雨溝の入口の信者たちに次々に矢を射ち込んだ。「数が多すぎるよ、ガリオン」レルドリンは叫んだ。「ひとりじゃくいとめられない。退却だ」
「ポルおばさん!」ガリオンはどなった。「やつらが火をくぐってでてきた!」
「押し戻すのよ」ポルガラが声をはりあげた。「意志の力を使うのよ」
ガリオンはさらに神経を集中させて、雨溝からあらわれる群衆に堅固な意志の壁をつきつけた。はじめのうちはうまくいくかに思えたが、並たいていの努力ではないので、すぐに疲れてきた。あわてて立てた壁のはじがすりきれだして、ガリオンが死にものぐるいで撃退しようとした連中がその弱い部分に気づきはじめた。
ありったけの集中力で壁を維持しようとしているとき、遠雷に似た不機嫌なとどろきがかすかに聞こえてきた。
「ガリオン!」レルドリンが叫んだ。「騎馬戦士だ――何百といるぞ!」
ガリオンは暗澹たる思いですばやく峡谷を見あげた。騎馬戦士の一群が東からにわかにあらわれて、けわしい横断路をおりてくる。「ポルおばさん!」ガリオンはさけぶなり、〈鉄拳〉の大剣をぬこうと背中に手をのばした。
ところが、騎馬戦士の波はガリオンの目の前まで来るとくるりと向きを変え、ガリオンの壁をいまにも破ろうとしている最前列の信者たちにつっこんだ。この新たな兵力を構成しているのは、革のように丈夫でしなやかな黒ずくめの男たちだった。どの男の目も一様に奇妙に角ばっている。
「ナドラク人だ! まちがいない、ナドラク人だ!」バラクが峡谷の向こうから叫ぶのが聞こえた。
「ナドラク軍がこんなところでなにをしているんだ?」ガリオンはひとりごとのようにつぶやいた。
「ガリオン!」レルドリンが大声をあげた。「騎馬戦士のまんなかにいるあの人――ケルダー王子じゃないか?」
すさまじい乱闘の中へ突進する新たな軍団は、戦いの流れをみるまに変えた。かれらは雨溝の入口からでてくる信者たちの正面につっこみ、おどろいている信者たちにおそるべき痛手を加えた。
騎馬戦士たちに戦いをまかせると、シルクは戦列をはずれて、峡谷の中央にいたガリオンとレルドリンのところへやってきた。「こんにちは、おふたかた」悠然と挨拶し、「待たせすぎなかっただろうね」
「どこでナドラク人を召集したんだ?」ガリオンはきゅうに気がぬけて、ふるえながらたずねた。
「そりゃ、ガール・オグ・ナドラクにきまってるさ」
「なんでかれらはぼくたちを助けたんだろう?」
「金を払ったからだよ」シルクは肩をすくめた。「きみには多額の貸しができたぞ、ガリオン」
「こんなに大勢のナドラク人をこんなに短時間にどうやって見つけたんです?」レルドリンがきいた。
「ヤーブレックとおれは国境のすぐ向こうに毛皮貿易の根拠地を持ってるんだ。去年の春、毛皮をもちこんできた猟師たちがそのすぐ先で酒をのんでばくちを打っていたんで、雇ったのさ」
「あぶないところだったんだ」ガリオンは言った。
「わかってたよ、なにせ、さわりごこちのいい火だったもんな」
「やつらが水をかけはじめるまでは、うまくいってたんだ。そのあとさ、事態が苦しくなりだしたのは」
進退きわまった数百人の信者は、雨溝の急斜面をよじのぼり、その上の荒れはてた湿原へのがれることで全滅をまぬがれた。しかし、大多数の信者は逃げられなかった。
大襲撃のひとにぎりの生き残りをリヴァの軍が掃討している雨溝から、バラクが馬にまたがってでてきた。「降伏のチャンスを与えてやるかい?」と、ガリオンにたずねた。
ガリオンは数日前のポルガラとの会話を思いだし、一瞬考えこんでから言った。「そうすべきだろう」
「むりをすることはないんだぜ」バラクは言った。「この状況だ、最後のひとりにいたるまであの世へ送りこんだからって、だれもおまえをとがめはしない」
「いや。そこまではやりたくない。生存者たちに、武器を捨てれば命は助けてやると言ってくれ」
バラクは肩をすくめた。「そう言うんならな」
「シルク、この悪党!」フェルトの上着に目をむきたくなるような毛皮の帽子をかぶった、長身のナドラク人がわめいた。「こいつらはみんな金を持ってて、金の鎖や腕輪をしていると言ったろう。こいつの体についてるのはノミだけだぞ」
「ちょっと誇張したんだよ、ヤーブレック」シルクはいんぎんに仕事の相棒に言った。
「はらわたをひきずりだしてやりたいよ、わかってるのか?」
「なんと、ヤーブレック」シルクはおどろいたふりをした。「それが兄弟分にたいする口のききかたか?」
「兄弟分がきいてあきれらあ!」ナドラク人は鼻をならしてたちあがると、かれをいたく失望させた死体のわき腹をこっぴどくけとばした。
「パートナーをくむときにそれで意見が一致したじゃないか――たがいを兄弟みたいに扱うことにしようってな」
「こじつけるんじゃないよ、このイタチ野郎が。それにな、おれは二十年前に兄貴をナイフで刺してるんだ――おれに嘘をついたみせしめに」
数の上ではまさっていた信者たちの最後のひとりが武器をなげ捨てて降伏したころ、ポルガラ、セ・ネドラ、エランドが薄ぎたない小男のベルディンにともなわれて、用心深く峡谷をやってきた。
「アルガーの援軍の到着までには、まだ数日かかる」背中の曲がった醜い魔術師はガリオンに言った。「せきたてようとしたんだが、連中は馬にたいしてえらくやさしいんだ。どこでナドラク人を調達したんだ?」
「シルクが雇ったんだよ」
ベルディンはよしよしというようにうなずいた。「傭兵はつねに最高の兵になる」
品のない顔つきのヤーブレックはポルガラに気づいてさっきから目をぎらつかせてじっと見ていたが、やがてこう言った。「あいかわらずきれいだな、あんたは。おれにあんたを買わせるって話だが、気は変わったかい?」
「いいえ、ヤーブレック。まだよ。それにしても絶妙のタイミングで到着したわね」
「どっかの嘘つきこそ泥が戦利品があると言ったからさ」ヤーブレックはシルクをにらみつけると、足もとの死体をこづいた。「はっきり言って、死んだニワトリの羽根でもむしってたほうがよっぽど金になった」
ベルディンがガリオンを見た。「息子にひげが生える前に会う気があるんなら、出発したほうがいい」
「捕虜のことでちょっと決めなくちゃならないことがあったんだ」
「なにを決めるってんだ?」ヤーブレックが肩をすくめた。「一列に並ばせて、首を切っちまいなよ」
「絶対にだめだ!」
「戦いおわって捕虜を殺せないんなら、なんのために戦ったんだ?」
「いつか暇なときにでも説明してやるよ」シルクがヤーブレックに言った。
「アローン人はこれだもんな」ヤーブレックはためいきをつくと、どんよりした空をふりあおいだ。
「ヤーブレック、このげすな犬!」それは革の半ズボンにぴったりした革のチョッキをきた漆黒の髪の女だった。すさまじい怒りと見る者を圧倒するような肉体的存在感をただよわせている。「死人を調べりゃひともうけできるって言ったじゃないのさ。この悪党どもはなんにも身につけちゃいないよ」
「おれたちはだまされたんだ、ヴェラ」ヤーブレックは陰気に答えて、シルクに冷たい視線を投げた。
「そのネズミ面のこそ泥を信用するなってあたしが言ったろう。ヤーブレック、あんたは不細工なだけじゃなくて、頭も悪いんだね」
ガリオンは怒った女を興味深げにながめていた。「あのとき、ガール・オグ・ナドラクの居酒屋で踊っていた娘じゃないか?」道端の飲み屋の男たちを色めきたたせたその女のむせかえるような色気を思いだして、シルクにたずねた。
小男はうなずいた。「あの猟師――テック――と結婚したんだが、数年前にそいつが熊とやりあって負けると、女の兄貴が女をヤーブレックに売ったんだ」
「おれの犯した最大のあやまちさ」ヤーブレックは嘆いた。「口が早いのと同じくらいに喧嘩っぱやくてな」ヤーブレックは片方の袖をまくりあげると、みんなに炎症をおこしている赤い傷を見せた。「おれは仲良くしようとしていただけなのによ」
女は笑った。「は! ルールはわかってるね、ヤーブレック、はらわたをかきだされたくなけりゃ、むやみに手を出すんじゃないよ」
ベルディンは妙な目つきで女を見ていた。「威勢のいい娘っ子だな」ヤーブレックにささやいた。「おれは頭の回転が早くて、口の達者な女にほれぼれしちまうんだ」
ヤーブレックの目ににわかに狂おしい希望が燃え上がった。「なんなら、売ってやってもいい」
「気でも狂ったんじゃないの、ヤーブレック」ヴェラは腹だたしげにつめよった。
「だまっててくれ、ヴェラ、おれは商売の話をしてるんだ」
「このみすぼらしい老いぼれトロールにゃ、ジョッキ一杯の安いエールだって買えやしないよ、ましてあたしを買えるわけないだろ」ヴェラはベルディンに向きなおった。「これまでこすりあわせるコインの二枚も持ってたことがあるのかい、じいさん?」
「いいからおまえはあっちへ行ってろ、交渉をぶちこわすんじゃない」ヤーブレックは哀願口調でヴェラをとがめた。
だがベルディンは黒髪の女を見て、邪悪なゆがんだ笑いをうかべた。「おもしろい。おれをおもしろがらせる人間に会ったのは、じつに久しぶりだ。だが、脅し文句と悪態はもうちょいと練習したほうがいい。リズムがずれてる」ベルディンはポルガラのほうを向いた。「おれはあと戻りしてドラスニアの槍兵たちがなにをたくらんでいるのか見てくる。こっそり背後から忍びよられちゃたまらんからな」それだけ言うと、ベルディンは両腕をひろげ、うずくまって、鷹になった。
ヴェラは目を丸くして、舞い上がっていくベルディンを見つめた。「どうやってやったの?」あえぐように言った。
「多才な男なんだ」シルクが答えた。
「まったくだね」ヴェラは目をぎらつかせてヤーブレックのほうをくるりと向いた。「なんだって、あたしにあんな口をきかせたのさ? 第一印象がどんなに重要かわかってるだろう。これでもう絶対に色よい申し出なんかしてくれないよ」
「あいつは文無しなんだぜ」
「金より価値のあるものだってあるんだよ、ヤーブレック」
ヤーブレックは首をふってぶつぶつつぶやきながら歩き去った。
セ・ネドラの目は緑のめのうのように硬かった。「ガリオン」内心とは裏腹の静かな声で言った。「ちかぢかその居酒屋――と、踊っていた娘たち――と、その他二、三の問題について話しあいたいわ」
「昔のことだよ、ディア」ガリオンはいそいで言った。
「そうでもないでしょ」
「だれか食べ物を持ってないかい?」ヴェラがまわりを見回しながら言った。「十匹の子持ちの雌狼ぐらい腹ぺこなんだよ」
「なにか見つけてあげられるわ」ポルガラが答えた。
ポルガラを見たヴェラの目がゆっくりと見開かれた。「あんた、あたしが考えているとおりの人かい?」畏怖に満ちた声でヴェラはたずねた。
「それはあなたがわたしをだれと思っているかによるわね、ディア」
「あなたは踊り子ってわけね」セ・ネドラが氷のような声で言った。
ヴェラは肩をすくめた。「女ならみんな踊るさ。あたしは一番うまいけどね、それだけのことだよ」
「ひどく自信がおありのようね、ヴェラさんとやら」
「あたしは事実を認めているだけさ」ヴェラは好奇心まるだしでセ・ネドラを見つめた。「へえ、あんたってチビなんだね。ほんとに大人なのかい?」
「わたしはリヴァの王妃よ」セ・ネドラは精一杯背筋をのばした。
「がんばったね、あんた」ヴェラは温かく言うと、セ・ネドラの肩をぽんとたたいた。「出世した女を見ると、きまってうきうきしてくるんだよ」
ガリオンが丘の頂上をきわめ、大きなレオンの町を置く浅い谷を見渡したのは、灰色にくもった日の午前九時ごろだった。町は急斜面の上に建っており、斜面を埋め尽くすハリエニシダのしげみから町の外壁が鋭く立ち上がっている。
「やれやれ、ついたな」バラクがかたわらにきて、ぽつりと言った。
「外壁がこんなに高いとは知らなかった」ガリオンは率直に言った。
「やつらはこれにかかりきりだったのさ」バラクが指さした。「ほら、胸壁の上に新しい石組の部分が見えるだろう」
都市の上には熊神教の深紅の旗があたりをへいげいするようにひるがえっていた。中央によろめき歩く熊の黒い絵を配した血のように赤い旗が、寒風にちぎれんばかりに揺れている。なぜかその旗がガリオンの内部に説明のつかない怒りをかきたてた。「あれをひきずりおろしてやる」かれはくいしばった歯のすきまから押し出すように言った。
「おれたちはそのためにきたんだ」バラクが言った。
光る鎧兜に身をかためたマンドラレンがふたりに加わった。
「これは簡単ではなさそうだな」ガリオンはバラクとマンドラレンに言った。
「それほどでもないさ、いったんヘターがここに着けば」バラクは答えた。
マンドラレンは要塞化した町を専門家の目で値踏みしていたが、自信ありげに宣言した。「拙者の見るところ、克服できない困難はないもようだ。数リーグ南の森へ丸太の調達に派遣した数百名の部下が戻ってき次第、包囲攻撃の道具作りにかかるといたそう」
「あれだけぶあつい外壁に穴をあけられるほど大きな岩を、じっさいに投げられるだろうか?」ガリオンはうたがわしげにたずねた。
「外壁を崩すのはたったの一撃ではござらん、ガリオン」騎士は答えた。「一撃また一撃のくりかえしでござる。投石器で町を取り囲み、外壁に石の雨をふらせてやるといたそう。いくらもたたぬうちにヘター卿も到着されるに相違ない」
「壊すそばから中の連中が修理するんじゃないか?」
「べつの投石器で火をつけた松やにを投げつければ、そんな心配は無用だ」バラクが言った。「体に火がついた状態で、なにかに神経を集中するのはすごくむずかしいからな」
ガリオンはひるんだ。「火をつかうのはいやだな」つかのまマーゴ人アシャラクの記憶がよみがえった。
「それしか方法がないんだ、ガリオン」バラクは真顔で言った。「さもないと、味方を大勢失うことになる」
ガリオンはためいきをついた。「いいだろう。それじゃ、はじめようか」
ヤーブレックを頭とする猟師たちの増援隊を得て、リヴァ軍は大きな輪をえがいてゆっくりと要塞都市に接近していった。この混成部隊は数からいうと、陰気な高い外壁を襲撃して首尾よく越えるには不十分だったが、効果的に町を封じ込めるには十分だった。マンドラレンの投石器はわずか二日でできあがった。ひとたびそれが完成して、所定の位置に配備されると、きつくねじられた綱がすさまじい力とともにびんとほどける音が次から次に鳴りひびいて、重い岩が休むことなくレオンの外壁に当たってはこなごなになった。
ガリオンは近くの丘のてっぺんの有利な場所から、岩がつぎつぎに宙高く飛び出しては、一見難攻不落の外壁に体当たりするのを見守った。
「見守るのはつらいことね」ポレン王妃がとなりにならんで、そんな感想をもらした。強風に黒いガウンをひっぱられ、亜麻色の髪を乱されながら、彼女は憂鬱そうに、マンドラレンの投石器がたえまなく外壁をたたくのを見守った。「レオンがここに建ったのは三千年ちかく昔なのよ。国境を守る岩のような存在だったの。自分の治める都市のひとつを攻撃するなんて、ひどく奇妙な気がするわ――味方の兵力の半分がナドラク人であることを考えるとなおのことよ。そもそもレオンはナドラク人の侵入を防ぐために建てられたんですもの」
「戦争というのはいつだって多少はばかげたものなんだ、ポレン」
「多少じゃすまないわよ。そうそう、ポルガラに頼まれたんだったわ、ベルディンがもどってきたのをあなたに伝えるようにって。なにか話すことがあるそうよ」
「わかった。それじゃもどろうか?」ガリオンはドラスニアの王妃に片腕をさしだした。
ベルディンはテントの近くの草むらにねそべって、スープのだし用の骨についていた肉片をくちゃくちゃ噛みながら、ヴェラとなにげない侮辱の応酬をしていた。「ちょいと困ったことになったぞ、ベルガリオン」ベルディンはガリオンを見ると言った。「浅瀬で野営していたドラスニアの槍兵たちがこっちへむかっているんだ」
ガリオンは眉をひそめた。「ヘターはどのへんにいるんだい?」
「遠すぎて槍兵たちとは競争にならん」醜い小男は答えた。「全体のなりゆきがどうなるかは、どっちの軍がさきにここに到着するかによるだろうな」
「ドラスニア軍はまさかわたしたちを攻撃するんじゃないでしょうね?」セ・ネドラがたずねた。
「それが断言できないのよ」ポレンは答えた。「ハルダーに言いくるめられて、ガリオンがわたしを捕虜にしていると軍が信じていれば、襲ってくるかもしれないわ。ジャヴェリンが真相をつきとめに馬をとばしていったところよ」
ガリオンは指の爪を心配そうに噛みながら、いったりきたりしはじめた。
「爪を噛むのはよしなさい、ディア」ポルガラが言った。
「はい、マアム」考えこんだまま、ガリオンはうわの空で答えた。「ヘターは可能なかぎりの速さでやってくるのかい?」ベルディンにきいた。
「馬に無理がいかない程度の速さではある」
「槍兵の進行速度をおくらせる方法がひとつでもあればな」
「おれにふたつの考えがある」ベルディンがポルガラを見た。「ちょっと飛ぶのはどうだい、ポル? これには助けが必要になるかもしれん」
「槍兵たちに怪我をさせないでほしいの」ポレン王妃は強い口調で言った。「わたしの国民なんですから――たとえまちがって導かれているとしても」
「おれの考えがうまくいけば、だれも怪我はしないさ」ベルディンはポレンを安心させた。かれは立ちあがると、きたならしいチュニックの背中についた草をはらった。「おまえさんとしゃべってるのは楽しかったよ」ベルディンはヴェラに言った。
ヴェラはセ・ネドラを青ざめさせるような悪態をやつぎばやにベルディンに投げつけた。
「だんだんよくなってきたぞ」ベルディンはほめた。「コツがのみこめてきたらしいな。行こうか、ポル?」
螺旋状に空へ舞い上がっていく青い縞の鷹と雪のように白い梟《ふくろう》を見ながらヴェラがなにを考えていたのか、その表情からは読み取れなかった。
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11[#「11」は縦中横]
同じ日の夕方近く、ガリオンが馬を走らせてレオンの町の包囲攻撃の進捗状況を見に行ってみると、バラクとマンドラレンとダーニクが議論のまっさいちゅうだった。「それは外壁のつくられかたに関連しているんですよ、マンドラレン」ダーニクが説明しようとしていた。「都市の外壁というのは、まさにあなたがやろうとしていることに耐えられるように組み合わされているんです」
マンドラレンは肩をすくめた。「ではいい試験になりましょうぞ、善人どの、やつらの外壁と拙者の武器のいずれが強いか確かめる試験に」
「そういうテストの結果がでるには何ヵ月もかかりますよ」ダーニクは指摘した。「ただし、外壁の外側に岩を投げるかわりに、ゆるく高く投げて、向こう側の外壁の内側に当たるようにすれば、外壁をそとに倒す見込みはがぜん高くなります」
マンドラレンは額にしわをよせて、ダーニクの説明をはんすうした。
「かれの言うとおりかもしれんぞ、マンドラレン」バラクが言った。「都市の外壁はふつう内側から控え壁で支えられているんだ。外壁というのは人をいれるんじゃなく、出すように造られている。あんたが外壁の内側に岩をぶつければ、控え壁はひとたまりもなく壊れるだろう。それだけじゃない――外壁が外側に崩れれば、都市へ侵入する格好の傾斜道になる。梯子なんかおよびじゃない」
毛皮の帽子を危なっかしい角度で頭にのせたヤーブレックがぶらぶらとやってきて、議論にくわわった。ダーニクがその考えを説明したあと、痩せこけたナドラク人の目が考え深げに細まった。「やつはいいところをついてるぜ、アレンド人よ」ヤーブレックはマンドラレンに言った。「あんたが外壁を内側からしばらくたたいたら、そのあとおれたちが外壁のてっぺんに引っかけ鉤を投げるんだ。外壁がすでにもろくなっていりゃ、ひき倒すことができるはずよ」
「包囲攻撃の方法といたしては、まことに珍奇なやりかただが、可能性は認めなくてはなるまいな」マンドラレンは言った。「どちらも長い伝統にそむく手段ではあるが、外壁を破壊する退屈な手続きを短縮する見込みを示しておる」かれは興味ありげにヤーブレックを見た。「引っかけ鉤を使用するという考えも、以前は考えたことがなかった」
ヤーブレックはしゃがれ声で笑った。「それはあんたがナドラク人じゃないからだろう。おれたちゃ気が短いから、そんなに頑丈な外壁なんか造らないんだ。おれが威勢のいいころにゃ、みるからにがっしりした家を何軒も引っかけ鉤でぶっこわしたもんよ――なんのかんのと理由をつけてな」
「だが、あんまり短時間で外壁をひきたおすのはよくないと思うぜ」バラクが警告した。「いまのところ、都市の人間のほうがおれたちより数が多いんだ。あそこからやつらがうようよ出てくるような原因は作りたくない――自分の造った外壁を壊されたら、ふつうはだれだって気むずかしくなるしな」
レオンの包囲攻撃がそのあとさらに二日つづいたころ、ジャヴェリンが消耗しきった馬にまたがって戻ってきた。「ハルダーは直属の部下たちを軍の中でもっぱらにらみのきく地位につけています」包囲攻撃軍の司令部として使っている焦げ茶色の大テントに一同が集まると、ジャヴェリンはそう報告した。「その連中がベルガリオンがポレン王妃を人質にしていると言いふらしているんですよ。兵士たちは言いくるめられて半分は王妃救出にむかう気になっています」
「ブレンディグとセンダー軍の気配はまだなかったのか?」ガリオンはたずねた。
「わたしは見ませんでしたが、ハルダーは部隊をせきたてていますし、偵察兵を大勢後方に放っています。おそらくブレンディグはハルダーの背後まできているんでしょう。こちらへひきかえす途中で、レディ・ポルガラと魔術師ベルディンに出会いました。なにか計画があるようだったが、くわしいことまで聞いている暇はありませんでした」ジャヴェリンは疲れきった顔で椅子にすわりこんだ。
「疲れているのね、ケンドン」ポレン王妃が言った。「二、三時間眠ったらどう、今夜またここに集まりましょう」
「わたしならなんともありません、女王陛下」ジャヴェリンはすばやく言った。
「休むのよ、ジャヴェリン」ポレンはきっぱり言った。「椅子にすわったまま眠りこんだりしたら、わたしたちの話し合いにたいするあなたの貢献も筋道のとおったものではなくなってしまうわ」
「彼女の言うとおりにしたほうがいいよ、ジャヴェリン」シルクが忠告した。「相手の気持ちなんかおかまいなしに、ポレンは母親を演じるつもりなんだ」
「いいかげんになさい、シルク」
「でもそうでしょうが、おばうえ。ドラスニアの小さな母として、あなたはひろく世界に知れ渡っておいでだ」
「いいかげんにして、と言ったのよ」
「はい、母上」
「おまえもずいぶん大胆だな、シルク」ヤーブレックが言った。
「おれはつねに大胆なんだ。それが生活に張りを与えてくれるのさ」
憂鬱な昼はゆっくりと憂鬱な夜になり、ガリオンと仲間はもう一度野営地の中心に近い大テントに集まった。ヤーブレックが丸めたたくさんの敷物と鉄の火ばちを数個持ってきて、司令部に寄付したので、テントの中はけばけばしい、はでな感じにさえなった。
「シルクは?」ガリオンは一同が赤く燃える火ばちを囲んで腰をおろすと、きょろきょろしながらたずねた。
「偵察にでも行ったんだろう」バラクが答えた。
ガリオンは渋面を作った。「一度ぐらいいるべきところにいてもらいたいな」
ジャヴェリンは二、三時間眠ったせいで、ずっと敏捷に見えた。だが、表情は険しかった。「ぐずぐずしてはいられませんよ。三つの軍がこの場所に集結するわけでしょう。ヘター卿は南から、ブレンディグ将軍は西からこちらへ向かっています。だが、あいにく、一番先にここへつくのはドラスニアの槍兵になりそうです」
「ポルとベルディンがかれらの歩みを遅らせることができればいいんだが」ダーニクが言った。
「レディ・ポルガラとマスター・ベルディンには全幅の信頼をおいていますが、しかし、ふたりが失敗した場合のことも決めておくべきだと思うのです。備えあれば、といいますからね」
「賢明なる発言ですな、閣下」マンドラレンがつぶやいた。
「そこでです」ドラスニア諜報部長はつづけた。「われわれの本心は槍兵たちと戦いたいわけではない。第一に、かれらはじっさいはわれわれの敵ではないし、第二に、かれらと戦えばこちらの兵力は消耗し、都市からの突撃攻撃にうち負かされてしまう危険があるからです」
「だからなんなの、ジャヴェリン?」ポレンがたずねた。
「都市へ侵入するしかないと思いますね」
「これじゃ多勢に無勢だ」バラクがそっけなく言った。
「しかも、外壁を壊すのにさらに数日はかかる」マンドラレンがつけたした。
ジャヴェリンは片手をあげて制した。「外壁の一ヵ所を集中的に攻撃すれば、一日で破壊できます」
「しかしそれじゃどこからぼくらが攻撃するかを相手に教えるようなものだ」レルドリンが抗議した。「都市の兵力はそこに集中してぼくらを撃退しようとするだろう」
「都市の残りの部分が火事になれば、そうはならんでしょう」ジャヴェリンは答えた。
「問題外だ」ガリオンはにべもなく言った。「息子があの町にいるかもしれないんだ、町中に火を放って息子の命を危険にさらすようなことはできない」
「おれはやっぱり都市を攻略するには兵が足りないと思うぜ」バラクは主張した。
「都市をまるごと落とすにはおよびませんよ、トレルハイム卿」ジャヴェリンは言った。「部隊を中にいれさえすればいい。町の四分の一をおさえれば、内部の信者を撃退できるし、外部のハルダーを寄せつけずにすむ。そうやっておいて、ヘター卿とブレンディグ将軍をじっと待てばいいんです」
「見込みはあるぜ」ヤーブレックが言った。「このままじゃ、おれたちゃクルミ割り器にはさまれたクルミも同じだ。その槍兵どもが先にここへきたら、あんたの仲間たちが到着してできることは、くだけたクルミを拾うぐらいのもんだぜ」
「火はだめだ」ガリオンは頑としてゆずらなかった。
「いかに事を進めようとも、外壁が突破されたところから都市へ入るのはむりではなかろうか」マンドラレンが言った。
「外壁は本当は問題ではない」ダーニクがぽつりと言った。「肝心なのは外壁よりも基礎なんだ」
「それはまず不可能でござるぞ、善人」マンドラレンが言った。「外壁の基礎には全重量がかかっておるのだ。世界広しといえども、かようなものを動かせる道具などありはせぬ」
「わたしが話しているのは道具のことではないんです」
「なにを考えているんだい、ダーニク?」ガリオンはたずねた。
「それほど困難ではないはずなんだよ、ガリオン」ダーニクは言った。「ちょっと観察してみたんだが、外壁がのっているのは岩の上じゃないんだ。踏み固められた土の上なんだよ。その土をすこしゆるめてやりさえすればいい。このあたりにはいくらでも地下水がある。みんなで知恵をしぼれば、きみとわたしとで都市のだれにも気づかれずに、外壁のある部分の下に水をひけるはずだ。地面がひとたびやわらかくなれば、ヤーブレックの引っかけ鉤が二十もあれば楽に外壁をひっくりかえせる」
「そんなことできるかな、ガリオン?」レルドリンがうたがわしげにたずねた。ガリオンはよくよく考えた。「できそうだな。おおいに期待が持てる」
「夜のうちにそれをやれば、外壁が倒れるやいなや都市に突入できるぜ」バラクが言った。
「味方を一人も失うことなく内側にはいれるわけだ」
「奇抜な解決法だな」シルクがテントの入口から感想を述べた。「いささか常道をはずれるが、奇抜であることにかわりはない」
「どこに行ってたんだよ、コソ泥?」ヤーブレックが問いつめた。
「ちょいとレオンにな」
「なかにはいったのか?」バラクがおどろいてきいた。
シルクは肩をすくめた。「もちろん。あそこをめちゃくちゃにする前にわれわれの仲間をひとり連れだすべきだと思ったのさ」シルクはふざけたように一礼してわきへ一歩どき、蜂蜜色の髪をしたリセル辺境伯令嬢を中へ通した。
「ほう、こりゃほれぼれするような美人だな」ヤーブレックが感嘆の声をもらした。
リセルがヤーブレックにむかってにっこりすると、えくぼができた。
「どうやってなかにはいったんだい?」ガリオンはネズミ顔の小男にたずねた。
「本気で知りたいわけじゃないだろう、ガリオン。都市にはいつだって出入りする方法はあるものさ、その気になればね」
「ふたりともあんましいいにおいじゃないな」ヤーブレックが気づいた。
「わたしたちのとった道順に関係があるの」リセルは鼻にしわをよせた。
「いろいろなことを考えあわせると、元気そうだな」ジャヴェリンはなにげない調子で姪に言った。
「ご心配かけました、おじさま」リセルはガリオンのほうを向いた。「都市にひろまっている噂は本当ですの、陛下? 王子さまが誘拐されたんですか?」
ガリオンは暗い顔でうなずいた。「われわれがジャーヴィクショルムを破った直後に起きたんだ。だからわれわれはここにいるんだよ」
「でも、ゲラン王子はレオンにはおいでにならないようですわ」
「確かなの?」セ・ネドラがつめよった。
「そう思います、女王陛下。都市の信者たちは当惑しています。だれが王子さまを奪ったのか、見当もつかないようです」
「ウルフガーが内密にしているのかもしれんぞ」ジャヴェリンが言った。「ひとにぎりの人間だけが知っているのかもしれない」
「そうかもしれません、でもそんな感じじゃないんです。確信できるほどウルフガーに接近できたわけじゃありませんけど、かれの計画はすっかり狂ってしまったらしいんです。このレオン攻撃だって予想外のことなんです。都市の要塞化にしたって、外から見てもわかるようにまだ中途半端ですしね。なかでも、北の外壁はもろいんです。外壁の強化はやけっぱちの行動らしいですわ。包囲攻撃なんてウルフガーは予期していませんでした。もしかれが誘拐の背後にいたのなら、攻撃に備えていたはずです――絶対に追跡されないと考えていたのならいざ知らず」
「これはじつにすばらしいニュースですぞ、お嬢さん」マンドラレンはリセルをほめたたえた。「北の外壁が弱いことがわかったのだから、われわれはもっぱらそこを攻撃すればよいわけだ。善人ダーニクの計画がうまくいき、北の外壁の基礎をゆるくできれば、外壁を倒すのは時間の問題だ」
「ウルフガーってどんなやつなんだ?」バラクは娘にたずねた。
「遠くからちょっと見たことがあるだけなんです。一日中ほとんど家にこもりっきりで、一番親密な関係にある兵士たちしか近づくことを許されていません。でも、あなたがたを攻撃する軍勢を送り出す直前に、演説をしましたわ。とても情熱的な話しっぷりで、群衆を完全に掌握していました。ウルフガーについてひとつだけ断言できることがあります。かれはアローン人じゃありません」
「ちがうのか?」バラクはおどろいたようだった。
「顔つきからは何人とも言えませんけど、あのしゃべりかたはアローン人じゃありません」
「どうして信者たちは部外者を指導者としてうけいれたんだ?」ガリオンは問いつめた。
「ウルフガーが部外者であることに気づいていないんですわ。かれはいくつかおかしな発音をするんです――じっさいにはほんの二つか三つの言葉にすぎませんし、訓練されていない耳なら聞きのがしてしまいます。もっと接近できていれば、素性を暴露する言葉をしゃべらせることもできましたのに。お役にたてなくて申しわけありません」
「熊神教におけるウルフガーの支配力はどの程度なんだね?」ジャヴェリンがたずねた。
「絶対的です。かれの命令なら信者たちはどんなことでもするでしょう。信者はウルフガーをほとんど神とあがめています」
「ウルフガーは生け捕りにしなければならないな」ガリオンはすごみのある声で言った。「聞きたいことがある」
「それはきわめて困難だと思われます、陛下」リセルは重々しく言った。「レオンで広く信じられているところによれば、ウルフガーは魔術師なんです。この目でその証拠を見たわけじゃありませんけど、現に証拠を見た、あるいは見たと主張するおおぜいの人たちと話をしたんです」
「本当によくやってくれたわ、辺境伯令嬢」ポレン王妃がねぎらった。「その努力は忘れませんよ」
「おそれいります、女王陛下」リセルは軽く膝をおりまげて答えた。それからガリオンに向きなおった。「わたしの収集できた情報によれば、外壁の内側の信者勢力はわたしたちが思っているほど強大ではありません。人数こそかなりのものですが、少年や老人もたくさん含まれています。信者たちはむしろ、隠れた熊神教のメンバーに率いられて町へ向かっている兵力を死に物狂いであてにしているようです」
「ハルダーだな」バラクが言った。
リセルはうなずいた。
「となると、われわれはなんとしてでもあの外壁の内側へはいる必要がありますな」ジャヴェリンは一同に言った。かれはダーニクに目を向けた。「北の外壁の地面がやわらかくなって、外壁をわけなくひき倒せるようになるまで、どのくらいかかると思いますか?」
ダーニクはすわりなおして、テントの天井をにらんだ。「敵の不意をうつわけだから、水がいきなり噴き出すのはまずい――とにかく、最初は。じわじわとしみだすほうがはるかに目だたないでしょう。地面がたっぷり水を吸い込むまでにはしばらくかかりそうです」
「しかも、われわれは細心の注意を払わなくてはならない」ガリオンがつけくわえた。「ウルフガーが本当に魔術師なら、必要以上の音を立てればすぐ気づかれてしまう」
「外壁が倒れるときは相当すごい音がするぜ」バラクが言った。「ジャーヴィクショルムの裏手の外壁をやったときみたいに、吹き飛ばしたらどうなんだ」
ガリオンは首をふった。「意志の力をとき放ったあと、完全に無防備になる瞬間があるんだ。そのすきに同じような能力の持ち主に攻撃されちゃたまらない。生きて、正気のまま息子を見つけたいからな」
「外壁の下の地面がびしょぬれになるまでどのくらいかかるでしょうな?」ジャヴェリンはたずねた。
ダーニクは頬をかいた。「今夜とあす丸一日。あすの真夜中には、外壁はぐらぐらになっているはずです。そうしたら、攻撃の寸前にガリオンとわたしが水を一気に噴き出させて泥の大半を押し流してしまいましょう。泥はすでにたっぷり水を吸ってやわらかくなっているだろうから、大量の水とともに外壁の下から流れだすはずです。そこへ向こう側から岩をぶつけ、引っかけ鉤の数十もあれば、あっというまに外壁をひき倒せるでしょう」
「投石器を使いはじめといたほうがいいぜ」ヤーブレックがマンドラレンに言った。「岩が空からふってくるという考えに敵を慣らしとくのさ。そうすりゃあすの夜外壁に岩ががんがんあたっても、なんとも思わないだろうからな」
「それじゃ、あすの真夜中だな?」バラクが言った。
「そうだ」ガリオンはきっぱり言った。
ジャヴェリンは姪を見た。「都市の北の地区の配置をおぼえているかね?」
リセルはうなずいた。
「ざっと描いてみてくれ。いったん中へはいったら、どこに砦をおくか知っておく必要があるんだ」
「お風呂にはいったらすぐに描きますわ、おじさま」
「そのスケッチが必要なんだよ、リセル」
「わたしがお風呂を必要としているほどではないでしょう」
「あなたもよ、ケルダー」ポレン王妃が有無を言わせぬ口調で言った。
シルクはリセルに意味ありげな一瞥をくれた。
「おかまいなく、ケルダー」リセルは言った。「わたしの背中はわたしが洗います、ご親切に」
「水を見つけにいこう、ダーニク」ガリオンはたちあがった。「地下にってことだが」
「そうだな」鍛冶屋は言った。
言うまでもなく、月は出ていなかった。雲がこの一週間付近一帯にたれこめて、ますます空をぼんやり見せていた。夜気は冷たく、ガリオンとダーニクは包囲された都市のほうへむけて、浅い峡谷を慎重に移動していった。
「冷え込む夜だな」ハリエニシダのしげみを歩きながらダーニクがつぶやいた。
「うん。水はどのくらいの深さにあると思う?」
「そう深くないところにあるだろう。リセルにレオンの井戸の深さをたずねたら、どれもごく浅いと言っていた。二十五フィートもさがれば水が出ると思う」
「それにしても、どこからこんなことを思いついたんだい?」
ダーニクは闇の中で低い笑い声をたてた。「若かったころ、えらくいばった農場主のところで働いていたことがあってね。そいつは家の中に井戸があったら、隣人たちが感心するだろうと考えた。われわれは一冬井戸掘りに精をだし、ついに掘り抜き井戸に水をひいた。三日後、農場主の家は崩壊した。やつはひどく動転していたよ」
「そりゃそうだろうね」
ダーニクはぬっとそびえている外壁を見上げた。「これ以上近寄る必要はないだろう。もし姿を見られて、われわれに矢を放ってきても、これだけ距離があれば命中させるのはむずかしいからな。このまま北側へまわろう」
「そうだな」
ふたりは物音ひとつたてまいと、念には念をいれて風にざわめくハリエニシダのしげみを慎重に進んでいった。
「ここでいいだろう」ダーニクがささやいた。「この地下になにがあるか見てみよう」
ガリオンは都市の北の外壁のふもとにあるかちかちの地面の奥へ、静かに思考を沈めた。最初の数フィートはわかりづらかった。モグラやミミズにやたらにでくわしたからだ。いらだたしげなキイキイ声がして、穴熊の邪魔をしたとわかったこともあった。しばらくたって岩の層にぶつかり、ガリオンは思考をその平らな表面をすべらせて裂け目をさがした。
「その左」ダーニクがつぶやいた。「割れ目じゃないか?」
ガリオンはそれを見つけて、思考を下へはわせていった。深くなるにつれて、裂け目はじっとりしめりだしたようだった。「この下に水がある」ガリオンは小声で言った。「だが、裂け目が狭すぎてしみだしてくる水はほんのちょっとだ」
「裂け目を広げよう――だが、あまり広げすぎてはだめだ。ちょろちょろと水が流れる程度にな」
ガリオンは意志の力をそそいだ。ダーニクの意志が後押ししているのがわかった。かれらは苦心して岩の裂け目をほんの少し大きくした。岩層の下から水がほとばしりでた。ふたりは後退した。水が外壁の下の凍土にしみこんで、表面下の闇にひろがっていくのが感じられた。
「このままつづけよう」ダーニクがささやいた。「地面を徹底的にしめらせるには、外壁の下を六ヵ所か八ヵ所掘らないとだめだ。そうすれば、あすの夜裂け目を大きく広げることができる」
「それだとこの丘陵全体が流されやしないか?」ガリオンもひそひそ声でたずねた。
「たぶんな」
「突撃するのにちょっと具合いが悪いぞ」
「足がぬれるぐらいどうってことはない。煮えたぎる油を頭からかけられながら外壁をよじのぼるよりましだよ、そうじゃないか?」
「はるかにましだね」ガリオンはあいづちを打った。
ふたりはひえびえした夜のなかで活動をつづけた。と、なにかがガリオンの頬をかすめた。はじめかれはそれを無視したが、それはふたたびやってきた――やわらかくて、冷たくて、湿ったもの。ガリオンは落胆した。「ダーニク、雪がふりだした」
「そうじゃないかと思ったよ。どうやらこの仕事はわれわれにとってやっかいなものになりそうだ」
雪は夜を徹してふりつづけ、翌朝になってもやまなかった。ときどき突風が吹いて荒涼たる要塞のまわりで渦巻いたが、雪はほとんど休みなくふりしきった。水分の多い湿った雪で、地面はたちまちぬかるみと化した。
正午少し前、ガリオンとレルドリンは厚手の毛織のマントに頑丈なブーツといういでたちで、雪にふさがれた野営地からレオンの北の外壁へ向かった。都市の建つ丘のふもとまであと二百歩ほどのところまでくると、かれらはふたりの兵士が巡回しているだけでなにも物騒なことはないというように、なるべくなにげない態度でぶらぶら歩きはじめた。要塞都市に視線を向け、あの黒い熊を描いた赤い旗をふたたび目にしたとたん、ガリオンの体内に説明のつかない怒りがわいてきた。「闇のなかでも本当に自分の矢を見わけられるのか?」ガリオンは友だちにたずねた。「あっちの地面には数えきれないほどたくさんの矢が突き刺さっているんだぞ」
レルドリンは弓をひいて、矢を放った。矢は長い弧を描いて都市のほうへ飛んでいった。羽根のついた矢がらは空高くのぼって、斜面のはじまりから五十歩ばかりむこうの雪にうもれた芝にささった。「あの矢はぼくが自分で作ったんだ、ガリオン」背中の矢筒からもう一本矢をぬきながらレルドリンは言った。「ぼくを信用しろよ、さわればすぐに自分の矢とわかる」かれは身を反らせてまた矢をつがえた。「外壁の下の地面はやわらかくなってきたかい?」
ガリオンは丘の斜面のほうへ思考を送りだして、雪の下の冷たくじっとりした地面を感じた。「じわじわとね。だが、まだかなり固い」
「もう正午だぜ、ガリオン」レルドリンはまた矢をぬきながら深刻そうに言った。「善人ダーニクがぬかりがないのはわかっているが、これは本当にうまくいくんだろうか?」
「そうすぐにはいかないさ。まず地面の一番下の層を湿らせなくてはならない。そうすれば水は上昇しはじめて、外壁そのものの真下の土にしみとおる。時間がかかるんだ。だがもしも水が兎穴から噴き出しはじめたら、外壁の上で見張っている連中に怪しまれる」
「兎たちもかわいそうに」レルドリンはにやりとしてまた一本矢を放った。
ぶらぶら歩きながら、レルドリンはなにくわぬ顔で今夜の襲撃の出発ラインを作りつづけた。
「よし、きみがきみの矢を見わけられるのはいいとして、あとのわれわれはどうなんだ? ぼくにはどの矢も同じに見える」
「簡単さ」若い射手は答えた。「ぼくが斜面をはいあがっていって自分の矢を見つけ、ひもを張りわたしておく。そのひもに行き当たったら、その場で外壁が倒れるのを待てばいい。そして突撃する。ぼくたちはアストゥリアのミンブレイトの家に夜襲をかけるときは、何世紀もそうやってきたんだ」
その雪の日、ガリオンとダーニクは終日レオンの都市が建つ急勾配の丘を定期的にチェックした。「あと少しで水がしみわたるぞ、ガリオン」日が暮れはじめたころ、ダーニクが言った。「斜面の裾の数ヵ所で、水が雪にしみだしている」
「暗くなってきたところでよかった」重い鎖かたびらをきたガリオンは神経質に体を動かした。鎧兜のたぐいは、いつでもかれを居心地の悪い気分にさせた。きたるべき都市攻撃の予想が、不安と期待のいりまじったいつにない感情でガリオンをいっぱいにした。
一番古い友人であるダーニクは、どんな隠しごとも見抜く理解をもってガリオンを見つめた。かれは心もち口元をゆがめた。「分別のあるセンダリアの田舎者ふたりが、雪のふる東部ドラスニアで戦争をするなんてなんのためだろうな?」
「勝つためだ――そうあってほしい」
「われわれは勝つよ、ガリオン」ダーニクは元気づけるように言うと、若者の肩に愛情をこめて片手をおいた。「センダー人は常に勝つんだ――最後には」
真夜中まであと一時間に迫ったとき、東と西の両側に間断なく投石をつづける陽動作戦用の兵を残して、マンドラレンが投石部隊の前進を開始した。その一時間のうちに、ガリオン、レルドリン、ダーニク、シルクは身を低くして雪原に突き刺さった見えない矢の列をめざして出発した。
「ここに一本ある」両手をのばして進んでいたダーニクが矢柄にでくわしてささやいた。
「どれ、ぼくにさわらせて」レルドリンが鍛冶屋のそばに行き、ふたりでぬかるみに膝をついた。「うん、ぼくのだ」レルドリンは聞き取れないほどの声で言った。「十歩ぐらいの間隔でぼくの矢があるはずだよ、ガリオン」
ふたりがしゃがんで矢を見ているところへ、シルクがすばやく近寄ってきた。「どうやって見わけるのか教えてくれ」
「矢羽根に特徴があるんです」レルドリンは答えた。「ぼくはいつも羽根をつけるのによじった腸線を使ってるんです」
シルクは矢の羽根の部分をさわった。「わかった。おれにも見わけられる」
「本当ですか?」レルドリンはうたがわしげだった。
「おれの指先が一対のサイコロのきずを見つけられるなら、腸線と亜麻糸の違いだってわかるさ」
「なるほど。それじゃここからはじめましょう」レルドリンは糸玉の先端をいま見つけた矢にむすびつけた。「ぼくはこっちへ行くから、あなたはあっちへ行ってください」
「よしきた」シルクは持ってきた糸玉の先を同じ矢にむすびつけた。かれはガリオンとダーニクのほうを向いた。「水の件だが、やりすぎるなよ、おふたりさん。土砂くずれに埋まりたくないからな」それだけ言うと、シルクは腰をかがめて次の矢をさぐりに行った。レルドリンがガリオンの肩にちょっと手を置き、反対方向に姿を消した。
「地面はもう完全にびしょぬれだ」ダーニクはつぶやいた。「あそこの裂け日を一フィートばかり広げたら、外壁の下の支えはあらかた押し流されるだろう」
「よし」
ふたたびかれらは丘の斜面のぬれそぼった地面に思考をさぐりいれ、岩層を見つけてからその不規則な表面をいきつもどりつして最初の裂け目をつきとめた。はるか下方から水の噴き出してくるその細い裂け目の奥へゆっくり思考をおろしていくうちに、ガリオンは奇妙な感覚にとらわれた。まるで先端に細くてしなやかな指のついたとてつもなく長い、見えない腕を裂け目の奥へのばしているような気がする。「さがしあてたかい?」かれはダーニクにささやいた。
「だいじょぶそうだ」
「それじゃこじあけよう」ガリオンは意志に力をこめた。
少しずつふたりは裂け目を押し広げた。かれらの額に汗の玉がういた。ふたつの意志の力で岩が割れたとき、鋭くくぐもった破裂音がたっぷり水を吸った斜面の底からひびいてきた。
「だれだ、そこにいるのは?」都市の外壁の上から声が難詰した。
「広さはこれでじゅうぶんか?」その警戒をふくんだ誰何《すいか》を無視してガリオンはささやいた。
「水が猛スピードであがってくる」一瞬さぐりをいれてからダーニクは答えた。「あの岩層の下には相当な圧力がかかってるぞ。次の場所へ移動しよう」
後方のどこからかブーンとうなる音がして、奇妙なざらざらした口笛が頭上を通過し、ヤーブレックの投石器からとびだした引っかけ鉤のひとつが半円状に空を飛んでいくのが見えた。鉤は外壁の内側にがちゃんとぶつかり、やすりがこすれるような音をたてて先端を外壁にくいこませた。
ガリオンとダーニクは這うようにして慎重に左へ進み、最小限の音をたててぬかるみを歩きながら次の割れ目を地面の下に捜し求めた。レルドリンが戻ってきたときには、水のしみわたった斜面の下に隠れた割れ目を、すでに二ヵ所大きくしていた。頭上と後方では、斜面のぬかるみがごぼごぼと音をたてて茶色の川のように流れだしていた。「矢の列は最後の一本までさがしあてたよ」レルドリンが報告した。「こっちの用意は万全だ」
「よし」意志の力を発揮していたガリオンはちょっと荒い息をついた。「もどって、バラクに部隊を所定の位置まで移動させるよう伝えてくれ」
「がってんだ」レルドリンはきびすをかえすと、にわかに吹きはじめた雪まじりの突風のなかへ見えなくなった。
「このひとつは気をつけなくちゃならないぞ」土の下をさぐっていたダーニクがつぶやいた。「この岩はひびわれだらけだ。裂け目を大きくしすぎると、層全体がめちゃくちゃになって水が奔流のようにあふれてしまう」
意志の指でひびわれをさわったガリオンは同意のしるしにうなった。
ふたりが最後の地中の井戸にたどりついたとき、シルクがうしろの闇からあらわれた。そのはしっこい足はぬかるみを移動しても物音ひとつたてなかった。
「どうしてこんなところにいるんです?」ダーニクは小男にささやいた。「とっくの昔に立ち去っているはずでしょう」
「斜面を点検していたのさ」シルクは答えた。「あらゆるものが冷たい肉汁みたいに雪の上にしみだしてきたんで、上までいって外壁の基礎になってる石をひとつ足で押してみたんだ。まるでぐらぐらの歯だよ」
「やれやれ、結局うまくいったか」ダーニクは自己満足の口調で言った。
雪の闇の中で、一瞬の間があった。「確信はなかったというのか?」シルクの声は首をしめられているみたいだった。
「理論的にはかんぺきでしたよ」鍛冶屋はむぞうさに言った。「しかし理論が絶対正しいかどうかはやってみるまでわかりませんからね」
「ダーニク、おれはこの種のことには年をとりすぎたらしいよ」
またひとつ引っかけ鉤が頭上を飛んでいった。
「もうひとつ裂け目が残ってるな」ガリオンはつぶやいた。「バラクは部隊を移動させてる。ひきかえして、ヤーブレックにマンドラレンへ合図を送るよう伝えてくれないかな?」
「いいともさ」シルクは答えた。「いずれにせよ、尻までぬかるみにつからないうちにここからぬけだしたいと思ってたんだ」かれはくるりと向きを変えると闇にまぎれこんだ。
十分ばかりたっただろうか、最後の裂け目が広げられて、丘の北側斜面全域がぐずぐずのぬかるみと化し、水がどんどん流れだしたころ、オレンジ色の火の玉が空高く弧を描いて都市の上へ飛んでいった。あらかじめ決めてあったその合図に応えて、南に配置されたマンドラレンの投石部隊が連続攻撃を開始し、重い岩がつぎつぎとレオンの屋根屋根をこえて北の外壁の内側に衝突した。ときを同じくして、外壁に引っかかってぴんと張った引っかけ鉤をナドラク人の傭兵たちが馬にひかせはじめた。丘の頂上を不吉なきしみが走り、もろくなった外壁がぐらぐらと揺れはじめた。
「どのくらいもつと思う?」レルドリンとともに闇のなかからあらわれたバラクがきいた。
「そう長くはないだろう」ダーニクは答えた。「下の地面がくずれだしているからね」
頭上のきしみが一段と高まる中、鋭い衝突音が絶え間なくひびいた。マンドラレンの投石器がペースを早めて外壁の内側に死の雨をふりそそいでいるのだ。次の瞬間、なだれのような轟音もろとも外壁の一部が奇妙にねじれた動きで崩壊し、上部が外側に倒れ、下部がぬかるみに沈みこんだ。斜面のぬかるみに石組の外壁がばらばらとふりそそいで大きな水しぶきがあがった。
「泥の上にのっかっているだけの石組なんか建てるもんじゃないな」ダーニクが批判的意見を述べた。
「この状況では、やつらがそうしてくれてよかったんだぜ」バラクが言った。
「まあ、そうだ。しかし、ものごとをするには正しい方法というものがあるんですよ」
大きなチェレク人はおかしそうに笑った。「ダーニク、あんたはじつにめずらしい男だな、わかってるかい?」
外壁の別の部分が外側に倒壊して斜面に泥水をはねとばした。驚愕の叫びと鐘の音が要塞都市の街路にこだましはじめた。
「部隊を前進させるか?」バラクはガリオンの指示をあおいだ。声が興奮でうわずっている。
「外壁が全部倒れるまで待とう。斜面をかけあがる部隊があの外壁の下敷きになっては困る」
「それいけ」レルドリンが最後まで残っていた外壁の一部が倒れるのを指さして、うれしそうに笑った。
「攻撃開始だ」ひとこと言うと、ガリオンは背中にかけた大きな剣に手をのばした。
バラクが大きく息を吸い、われがねのような声で叫んだ。「突撃!」
リヴァ軍とナドラク人の援軍は一斉にときの声をあげると、ぬかるんだ斜面をかけあがり、倒れた北の外壁の残骸をよじのぼって、都市へ乱入した。
「行こうぜ!」バラクが叫んだ。「ぐずぐずしてると、戦いそびれちまう!」
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12[#「12」は縦中横]
戦いはあっというまに終わり、多くの場合辛酸をきわめた。ガリオンの軍の各小隊はジャヴェリンとその姪によって徹底した指示を与えられており、明確な任務を割り当てられていた。かれらは灯のともる雪の街路を的確に移動して、指定の家々を占拠した。他の小隊は北の外壁の破れ目から侵入し、ジャヴェリンがリセルの地図に記入した防御地帯を迂回して、家々を破壊し、瓦礫《がれき》でバリケードを築いた。
最初の反撃があったのは、夜が明ける直前だった。防御地帯の向こうの細い街路からもじゃもじゃの毛皮をまとった熊神教の信者たちが罵声とともに突っ込んできて、崩壊した家々のバリケードを越えようとした。けっきょく信者たちは屋根や高窓からふってくる矢の雨にさらされることになり、おそるべき痛手をこうむって退却した。
雪のふりしきる東の地平線が淡い灰色に明けるころ、防御地帯で最後まで戦った抵抗部隊が壊滅し、レオンの北部地区はガリオンたちの手に落ちた。ガリオンは沈痛な表情で、とある家の破れた高窓から外を見おろした。敵の一掃された地帯が、彼の支配下にはいった町の北部の外側の境界線を示している。ねじれたグロテスクな格好で地面に横たわる信者たちの死体は、早くもうっすらと雪におおわれていた。
「悪くないこぜりあいだったな」バラクが血のついた剣をまだつかんだまま部屋にはいってきた。くぼんだ楯を片隅にほうりだすと、バラクは窓際に近づいた。
「ああいうことはあまりしたくなかった」ガリオンは窓の下にころがる累々たる死体を指さした。「殺人は相手の心を変えるには、じつにおそまつな方法だよ」
「やつらがこの戦いに火をつけたんだぜ、ガリオン。おまえじゃない」
「そうじゃない」ガリオンは訂正した。「はじめたのはウルフガーだ。ぼくが本当に殺したいのはやつだけさ」
「そんなら、おまえのためにウルフガーをつかまえんとな」バラクはぼろきれで注意深く剣の血をふきとった。
その日はそれからさらに数回、猛然たる反撃が都市の内部からあったが、結果は最初の場合と似たりよったりだった。ガリオンの陣地は射手たちによってきわめて厳重に守られていたため、これらの散発的攻撃隊はまるで歯がたたなかった。
「群れをなしていては敵はじゅうぶんに戦えないんじゃないでしょうかね?」半ば廃墟と化した家の二階という有利な場所からダーニクが言った。
「連中はそういう訓練を受けていないのさ」シルクが答えた。小男は部屋の片隅にある壊れた寝椅子にだらしなく手足をのばして、小さな鋭いナイフで注意深くリンゴの皮をむいているところだった。「ひとりひとりは獅子みたいに勇敢なんだが、団体行動という概念がまだよく頭にしみこんでいないんだ」
「いまのはじつにみごとだったな」バラクがレルドリンをたたえた。レルドリンはガラスの砕けた窓からいましがた矢を放ったところだった。
レルドリンは肩をすくめた。「子供の遊びですよ、あんなの。ほら、通りを数本へだてた向こうの家の部屋を這っているあいつ――あのほうが闘志をかきたてられるな」かれは矢をつがえてひきしぼり、なめらかな動きで放った。
「やった」バラクが言った。
「当然ですよ」
夜が近づいたとき、ポルガラとベルディンが都市の外の野営地に戻ってきた。背中にこぶのある魔術師は満足そうに言った。「やれやれ、これで槍兵については当分心配しなくてすむぞ」ベルディンはよじれた両手をヤーブレックの持ち込んだ火ばちのひとつにかざした。
「兵たちに怪我はさせなかったのでしょう?」ポレンがせきこんでたずねた。
「ああ」ベルディンはにやにやした。「動けなくしてやっただけだ。沼地みたいな谷を進んでいたんで、ポルとふたりで川をそこへ注ぎこんだのさ。いまや谷中泥沼だ。みんな岩のでっぱりや木の枝にしがみついて水がひくのを待ってるよ」
「それじゃブレンディグも足止めをくうんじゃないか?」ガリオンがきいた。
「ブレンディグはその谷を迂回して進んでいるわ」お茶のカップを手に火ばちのそばにすわったポルガラがガリオンを安心させた。「あと二、三日でここまでくるはずよ」彼女はヴェラを見た。「このお茶、本当にすばらしいわ」
「ありがとう、レディ・ポルガラ」黒髪の踊り子は答えた。その目は金色の蝋燭の明かりを受けて輝くセ・ネドラの茜色の巻毛に釘づけになっていた。ヴェラはうらやましげにためいきをついた。「あたしがあんな髪だったら、ヤーブレックは倍の値であたしを売れるのにね」
「なにかにつけてナイフをふりまわされる危険を避けるためなら、半額だって手を打つぜ」ヤーブレックがぶつぶつ言った。
「なにをすねてんのさ、ヤーブレック。そんなにあんたをひどい目にあわせちゃいないじゃないのよ」
「血を流したのはおまえじゃないんだからな」
「悪態の練習はしてたか、ヴェラ?」ベルディンがきいた。
彼女は成果を披露した――かなり延々と。
「よくなってきた」ベルディンはほめた。
次の二日間、ガリオンの軍勢はレオンの北部地区の瓦礫《がれき》に埋まった防御地帯にそってバリケードを築いた。敵の陣地とのあいだにある一帯からの反撃を防ぐためだ。ガリオンとその仲間は司令部に仕立てた家の大きな高窓から一部始終を見守った。
「敵の指揮官は基本的戦略がどうもよくわかってねえみたいだな」ヤーブレックが言った。
「あの空白地帯の自分の側をしっかり守って、残りの都市におれたちを侵入させないようにしなきゃならんのに、そういう努力をまるでしてないぜ」
バラクが額にしわをよせた。「なあ、ヤーブレック、おまえの言うとおりだよ。おれたちが町のこの部分を確保したあと、敵がまっさきにやるべきことはそれなんだ」
「ひょっとするとぼくたちをみくびっていて、これ以上のことはできないだろうとたかをくくってるのかもしれませんよ」レルドリンが言った。
「あるいは、見えないところに罠をしかけているかだ」ダーニクはつけくわえた。
「その可能性もあるな」バラクがうなずいた。「おおいにありうるぜ、さらに攻撃を開始するまえにちょいと計画をねったほうがいいかもしれん」
「計画をねる前に、ウルフガーがどんな罠をしかけているのか正確につきとめなくてはなりませんな」ジャヴェリンが言った。
シルクはためいきをもらしてしかめっつらをした。「わかったよ。暗くなったら、おれが見にいこう」
「そんなつもりじゃなかったんだ、ケルダー」
「むろんそうじゃなかっただろうさ」
「だが、いい考えだ。きみが思いついてくれてよかったよ」
シルクが火明かりのともるガリオンの司令部に戻ってきたのは、真夜中をまわったころだった。「まったくひどい夜だよ」小男はふるえながら両手をこすりあわせた。かれは火のそばに近づいて、真ん前に立った。
「で、やつらはおれたちをあっと驚かせる計略をたててるのか?」真鍮のジョッキをもちあげながらバラクがきいた。
「そうなんだ。こっちの防御地帯から数軒先の通りの向こうに防壁を築いてる。しかもそれが角を曲がったところにあるんで、その上にのぼりでもしないと見えないときてる」
「近くの家という家には射手と煮えたぎった松やにのたらいが待機してるわけか?」バラクがむっつりとたずねた。
「そんなとこだろうな」シルクは肩をすくめた。「もっとエールあるかい? 骨まで凍りつきそうなんだ」
「これはちょっと考えなくてはなりませんな」ジャヴェリンが思案げにもらした。
「せいぜい考えてくれや」バラクは皮肉っぽく言ってエールの樽に歩みよった。「おれは町中の戦闘はきらいなんだ。ひろびろした野っぱらでやらしてくれよ」
「だが、町には戦利品があるぜ」ヤーブレックが言った。
「おまえの頭にはそのことしかないのか?」
「おれたちゃひともうけするためにこの世にいるんだぜ、友だち」やせこけたナドラク人は肩をすくめて答えた。
「シルクそっくりだな」
「そうよ。だからつるんでるんだ」
翌日も雪はふりつづけた。レオンの市民はガリオンの防御地区をさらに何度か攻撃したが、もっぱら動くものに矢を射るだけで満足していた。
次の日の午前九時ごろ、エランドが倒壊した北の外壁の残骸をふみこえて、ガリオンが指揮をとっている家へ直接やってきた。部屋にはいってきたとき、エランドのおさない顔は緊張にこわばり、肩が大きく上下していた。「ぞくぞくしちゃった」エランドは言った。
「なんのことだ?」ガリオンはたずねた。
「矢をよけることですよ」
「ポルおばさんはきみがここにいるのを知ってるのか?」
「知らないと思います。ぼくは都市を見たかったんです。だからきたんです」
「きみはぼくとポルおばさんの両方を困らせることになるんだぞ、わかってるのか?」
エランドは肩をすくめた。「叱られるのには慣れてます。そうだ、知らせといたほうがいいと思って。ヘターがきましたよ――あと一時間くらいでつきます。数マイル南まできてますから」
「やっときたか!」ガリオンは大きく息を吐き出した。「どうしてわかった?」
「馬とぼくとで遠乗りに出かけたんです。とじこめておくと、落ちつきがなくなるから。で、とにかく、南にあるあの大きな丘にのぼったら、アルガー人たちがくるのが見えたんです」
「じゃ、迎えにいこう」
「そうですね」
ガリオンと若い友だちがレオンの南に位置する丘の頂上についたとき、アルガー一族が雪のふる湿原をきびきびした緩い駆け足でぞくぞくとこちらへむかってくるのが見えた。ひとりの騎馬戦士がその人馬の波の最前列から離れ、長いひと房の黒髪をなびかせて、丘へかけあがってきた。「おはよう、ガリオン」ヘターは手綱をひくと、さっきまで一緒にいたようななにげない口調で言った。「元気そうだな」
「まあまあさ」ガリオンは歯を見せて笑った。
「こっちは雪がふったんだな」
ガリオンはおどろいたふりをしてあたりをみまわした。「あれ、そうらしいね。気づきもしなかった」
もうひとり、みすぼらしい頭巾つきのマントをきた男が馬にまたがって丘をのぼってきた。「おばさんはどこにいる、ガリオン?」丘をのぼりかけて、男は呼びかけた。
「おじいさん?」ガリオンはあっけにとられて叫んだ。「マー・テリンへ行くんじゃなかったの?」
ベルガラスははしたない音をたてた。「行ったさ」手綱をひきながら老人は答えた。「まったく無駄な旅だった。そのことはあとで話してやる。こっちはどうなってるんだ?」
ガリオンはこの数週間のできごとをかいつまんで話した。
「忙しかったんだな」ヘターが言った。
「忙しいと時間のたつのも早いよ」
「すると、ポルは都市にいるんだな?」ベルガラスはたずねた。
「いや、ポルおばさんやセ・ネドラたち女性は、ぼくたちが最初にここへ着いたときにたてた野営地にとどまっているんだ。都市内部のこっちの陣地には信者たちが反撃をしかけてくるから、あぶないと思って」
「なるほど。全員を集めて、野営地に連れてきてくれんか。いくつか話し合っておいたほうがよさそうなことがあるんだ」
「わかった、おじいさん」
正午を少しまわったころ、かれらは都市の外のリヴァ軍野営地にある大テントに集まった。
「役にたつものでも見つけたの、おとうさん?」老人がテントにはいってきたとき、ポルガラはたずねた。
ベルガラスは椅子にすわると、手足を投げ出した。「じれったくなるような、それとない暗示があっただけでな。アンヘグの持っているアシャバの神託の写しは途中のどこかで体よく省略されたらしい――途中というよりそもそものはじめからそうだったんだろう。原本からして部分的に修正されているようだ」
「予言者はふつう自分の予言をいじりまわしたりしないわよ」ポルガラが言った。
「この予言者ならやりかねん――とりわけ、予言のなかに信じたくないくだりがあればな」
「だれのこと?」
「トラクさ。かれの語調と独特の言葉使いにはすぐ気づいた」
「トラクだって?」ガリオンは急に背筋がぞっとするのをおぼえた。
ベルガラスはうなずいた。「トラクがクトル・ミシュラクを滅ぼしたあとのことが、あるマロリーの古い言い伝えに残っている。それによると、トラクはカランデセ山脈のアシャバに城を築かせ、ひとたびそこへはいるなり陶酔感におそわれてアシャバの神託を書いたというんだ。とにかく、その言い伝えによれば、陶酔感がさったあと、トラクは大いなる怒りにとらわれた。どうやらその予言にはトラクの気にいらない部分があったらしい。わしが見つけた不正な変更は、それでじゅうぶん説明がつく。言葉は出来事に意味を与えるとは常々いわれてきたことだ」
「でも、そんなことができるの?」
「わしにはできんよ。しかしトラクは傲慢きわまりないやつだったから、できると思ったかもしれん」
「だけど、それじゃけっきょくぼくたちは袋小路にぶつかっちゃうじゃないか」ガリオンは落胆した。「だってさ――『ムリンの書』にはすべての謎を見なければならないと書いてあったのに、アシャバの神託が正確じゃないとしたら――」ガリオンはどうしようもないというように両手をあげた。
「どこかに本当の写しがあるんだ」ベルガラスは自信たっぷりだった。「なくてはならないんだ――そうでなければ、『ムリンの書』はわしに異なる指示を与えていただろう」
「純粋な信仰を利用していらっしゃるのね、ベルガラス」セ・ネドラは老人をとがめた。
「わかっている」ベルガラスは認めた。「ほかにたよるものがなければしかたがないんだ」
「マー・テリンでなにを見つけたの?」ポルガラがたずねた。
ベルガラスは品のない音をたてた。「あそこの修道士たちは殺されたマラグ人の魂を慰めるのはうまいかもしれんが、原稿を保護するのはからきしだめでな。書庫の屋根は雨もりしていて、マロリーの教えは、よりによって雨もりの真下の棚にあったんだ。ぺージもめくれないほどびしょびしょで、流れたインクでぺージというページはしみだらけさ。ほとんど判読不可能だった。そのことについて修道士たちとえんえん話しあった」ベルガラスはひげだらけの頬をかいた。「われわれが必要としているものを手にいれるには、わしはもうちょっと遠くまで行かなくてはならんらしい」
「それじゃなんにも見つからなかったのか?」ベルディンがきいた。
ベルガラスはぶつぶつ言った。「神託のあるくだりに、〈闇の神〉はふたたびあらわれるだろうとあった」
ガリオンはみぞおちのあたりがふいに冷たくなるのを感じた。「トラクが? そんなことがありうるのかな?」
「そうとれんこともないが、本当にそういう意味なら、なぜトラクはわざわざほかの部分をいじったりしたんだろう? 神託の目的全体がトラク自身の再生を予言することにあったなら、やつは嬉々として、修正をくわえるような真似はしなかったはずなんだ」
「おまえはあの火傷顔のおいぼれを理性的だと思ってるらしいが、おれはやつにそんな資質があるとは気づかなかったぜ」ベルディンがうなるように言った。
「いや、そうじゃない」ベルガラスは反論した。「トラクのしたことはすべてきわめて理性的だった――自分こそ万物における唯一の理知だというやつの基本的考えを受け入れるかぎりはな。だから、わしはそのくだりにはほかの意味があるのだと思う」
「マロリーの教義はすこしでも読めたの、おとうさん?」ポルおばさんがたずねた。
「ほんの断片だけな。〈光〉と〈闇〉のあいだの選択とやらについて書いてあったよ」
ベルディンは鼻を鳴らした。「そりゃまたひどくめずらしいことだな。ケルの予言者たちは世界が創られてからなにひとつ選択などしなかったんだぞ。連中は何千年もすわってようすをみていただけなんだ」
翌日の午後遅く、センダリアの軍団が西の雪をかぶった丘の頂上に見えてきた。常日頃からセンダリア人を同国人と考えているガリオンは、質実剛健な人々が、運命の都市レオンをめざして雪の中を果断に進んでくるのを見て、奇妙な誇りがうずくのをおぼえた。
「もっと早く着けたかもしれないんだが」ブレンディグ将軍は馬を進めてくると謝った。「ドラスニアの槍兵たちが立ち往生しているあの泥沼を迂回してこなくてはならなかったんでね」
「かれらはだいじょうぶかしら?」ポレン王妃がせかせかとたずねた。
「なんともありませんよ、女王陛下」片腕の男は答えた。「ただどこにも行けない、それだけです」
「どのくらい休憩すれば、攻撃に参加する準備ができる、ブレンディグ?」ベルガラスはたずねた。
ブレンディグは肩をすくめた。「一日あればたりますよ、長老」
「それじゃ計画を練る時間はたっぷりあるな」老人は言った。「部隊を露営させて食事をしたらいい、そのあとガリオンがここの状況を説明するよ」
その夜けばけばしい絨緞敷きの大テントでおこなわれた戦略会議では、比較的単純な攻撃計画のなかのおおざっばな部分が緻密に検討された。マンドラレンの投石部隊は翌日の夜にかけてひきつづき都市に石を打ち込むことになった。夜が明けたら南門を襲撃すると見せかけて、なるべく多数の信者を都市内部に築かれたにわか作りの要塞からおびきだす。別の部隊はレオンの北地区にある安全な飛び地から進軍して、防御地帯に面した建物を一軒一軒占拠する。もうひとつの部隊はブレンディグ将軍のアイディアにもとづいて行動し、よじのぼり梯子を橋がわりにして家の屋根屋根を渡り、都市内部に築かれたばかりの外壁の中へ飛び降りる。
「一番重要なのは、ウルフガーを生け捕りにすることだ」ガリオンは注意をうながした。「ぼくたちはやつに質問しなくてはならないことがある。やつが息子の誘拐にどんな役割を演じたのか、さらに、やつが知っているなら、ゲランの居所をつきとめる必要がある」
「わたしの軍の将校を何人抱き込んだのかも知りたいわ」ポレン王妃がつけくわえた。
「やつはたっぷりしゃべらされることになりそうだな」ヤーブレックが意地の悪い笑いをうかべた。「ガール・オグ・ナドラクにゃ、罪人の舌をゆるめる楽しい方法がごまんとあるんだ」
「それはポルがうけもつ」ベルガラスはきっぱり言い渡した。「そういうことをせんでも、ポルはわれわれに必要な答えを引き出せるんだ」
「弱気になってきたんじゃないですか、ベルガラス?」バラクがきいた。
「そうでもないさ」老人は答えた。「だがこのヤーブレックが夢中になったら、やりすぎてしまうかもしれん。死なれちまったら、元も子もない」
「しかしそのあとは?」ヤーブレックは舌なめずりをせんばかりだった。
「そのあとはおまえがやつをどうしようとかまわん」
翌日、ガリオンは大テントの垂れ幕でしきられた小さな場所で、地図と、慎重に作成したリストを見ながら、見落としたものがないかどうか検討していた。このところかれは全軍が自分の双肩に直接乗っているような気持ちをおぼえはじめていた。
「ガリオン」セ・ネドラが小部屋にはいってきて言った。「お友だちが到着したわよ」
ガリオンは顔をあげた。
「ブランドの三人の息子と、ガラス職人のジョランよ」
ガリオンは眉をひそめた。「こんなところでなにをしているんだろう? リヴァにとどまるよう命じておいたんだが」
「なにか重要な話があると言っているわ」
かれはためいきをついた。「じゃ、通してくれ」
灰色のマントをまとったブランドの息子三人と、まじめな顔つきのジョランがはいってきて一礼した。四人とも服は泥まみれで、疲れきった顔をしている。
「ご命令に故意にそむいているわけではないんです、ベルガリオン」カイルが急いで口をひらいた。「しかし、どうしてもお知らせしなければならない重大事を発見したんです」
「ほう? 何事だ?」
「陛下が軍勢を率いてリヴァを出発なさったあと」カイルの兄のヴェルダンが説明した。「われわれは島の西部沿岸をくまなく調べる決心をしました。最初の捜索で見落としていた手がかりがあるかもしれないと考えたからです」
「それに」弟のブリンがつけくわえた。「これといってほかにすることもなかったんです」
「とにかく」ヴェルダンはつづけた。「われわれはついに問題のチェレク人たちが島へくるのに使った船を発見しました」
「船をか?」ガリオンは急にいずまいを正した。「息子を誘拐した者がだれだろうと、そいつは島を去ったものと思っていたが」
ヴェルダンはかぶりをふった。「船はわざと沈められていたんです、陛下。岩が満載され、底に穴があけられていました。少なくとも五回は行っていた場所ですが、波のないおだやかな日に行くまではわれわれも気づかなかったのです。船は深さ三十フィートほどの海底に横たわっていました」
「それじゃ、誘拐犯はどうやって島を出たんだ?」
「われわれも同じことを考えました、ベルガリオン」ジョランが言った。「それで、あらゆる状況にもかかわらず、ことによると誘拐犯はまだ〈風の島〉にいるのかもしれないと思ったんです。われわれは捜査を開始し、羊飼いを見つけました」
「羊飼い?」
「島の西側の牧草地帯で、ひとりで群れを追っていた羊飼いです」カイルが説明した。「かれは都市でなにがあったかまるで知りませんでした。とにかく、われわれはゲラン王子が城塞から拉致《らち》されたころに不審なものを見なかったかとたずねました。すると羊飼いはそのころ船が一隻西部沿岸の入り江にはいり、だれかが毛布にくるんだ何かを船に乗せるのを見たと言ったのです。それから船はほかの者たちを残して海へ出ていったそうです。ベルガリオン、そこは〈珠〉がたどっていた臭跡がとだえたのと同じ入り江なんです」
「船はどっちへ行ったんだ?」
「南です」
「もうひとつあるんです、ベルガリオン」ジョランがつけたした。「羊飼いはその船はまちがいなくニーサのものだったと断言しました」
「ニーサだって?」
「羊飼いは絶対の確信を持っていました。ひるがえっていた旗が蛇の模様だったとさえ説明しました」
ガリオンはすばやく立ち上がった。「ここで待っててくれ」かれは仕切りの垂れ幕をはねあげた。「おじいさん、ポルおばさん、ちょっと入ってくれないかな?」
「なんなの、ディア?」ポルガラは老魔術師とガリオンのにわか作りの執務室にはいってきてたずねた。シルクが好奇心からあとについてきた。
「話してくれないか」ガリオンはカイルに言った。
ブランドの次男はいましがたガリオンにした話を口早にくりかえした。
「サルミスラのさしがねかしら?」ポルガラは父親に言った。
「そうともかぎらんだろう、ポル。ニーサは陰謀だらけの国だ、女王がそのすべての糸をあやつっているわけじゃない――おまえがサルミスラにああいうことをしたあとじゃなおのことだ」ベルガラスはけげんそうだった。「どうしてチェレク人は船を一隻捨てて、ニーサのだるま船に乗ったんだろう? どうもすじがとおらん」
「ウルフガーをつかまえたら、そのこともきかなけりゃならないな」シルクは言った。
次の日の明け方、包囲攻撃のために集まった軍全体のなかからいくつかの小隊が選ばれ、それをひとつにした大隊が、谷を越え、けわしい丘とレオンをめざして、都市の南へ進みはじめた。彼らはよじのぼり梯子と破城槌を持っていたが、これは受けて立つ敵軍にこれが主要な襲撃隊だと思いこませるための偽装だった。
しかし、ガリオンの部隊が占める都市の一角では、シルクがかなり大規模の分隊を率いて夜明けの薄闇をぬうように屋根から屋根へと飛び移りながら、信者側の射手や、松やにで武装した信者たちをつぎつぎに片づけていた。残りの都市への侵入をはばむためにあわてて作られた外壁の両側の家々は、煮えたぎった松やにのつぼで足の踏み場もないほどだった。
ガリオンはバラクとマンドラレンを両側にしたがえて、占拠地区の防御地帯に近い雪の通りで待機していた。「これがいやなんだ」ガリオンは緊張した声で言った。「待つっていうのが」
「じつを申せば、拙者も戦闘直前のこの小休止はきらいですな」マンドラレンが答えた。
「アレンド人は戦闘に目がないと思ってたがね」バラクは友だちににやりと笑いかけた。
「戦いはわれわれの好きな娯楽だ」大柄な騎士は認めた。「しかしながら、敵にまみえる前のこの時間は好かんね。沈痛で、陰鬱ですらあるし、間近な主目的から意識がよそへそれてしまう」
「マンドラレン」バラクは笑った。「おれはあんたを読み違えてたよ」
ヤーブレックの幽霊じみた姿が通りをやってきて、彼らに合流した。フェルトの外套をぬいで、いまは重いはがねの胸当てをつけ、残忍そうな斧をかかえている。「すべて準備できたぜ」ヤーブレックは静かに告げた。「チビの泥棒が合図してきたらすぐにはじめられる」
「ほんとにおまえの手下はあの外壁を引き倒せるのか?」バラクがきいた。
ヤーブレックはうなずいた。「敵は漆喰に石をまぜる十分な時間がなかったんだ。おれたちの引っかけ鉤ならものの数分で外壁をひっぺがせるさ」
「おまえは特にその道具が大好きらしいな」バラクが言った。
ヤーブレックは肩をすくめた。「長年の経験からいって、壁を破る最善の方法は引き倒すことなんだ」
「アレンディアでは、破城槌が好まれる」マンドラレンが口をはさんだ。
「あれもいいけどよ、槌の厄介な点は、倒れてくる壁の下敷きになっちまうことなんだ。頭のてっぺんに壁石が落ちてくるのはいただけないぜ」
かれらは待った。
「だれかレルドリンを見たか?」ガリオンはたずねた。
「シルクといっしょに行ったよ」バラクが答えた。「屋根の上からのほうが標的をたくさん見つけられると思ったらしい」
「あいかわらず熱心だな」マンドラレンは微笑した。「しかしながら、打ち明けると、長弓にかけてはかれに匹敵する者に会ったことがない」
「そらでた」バラクが屋根の上空高く火のついた矢が弧を描くのを指さした。「あれが合図だ」
ガリオンは深呼吸をして肩をそびやかした。「ようし。角笛を鳴らして、マンドラレン。出発だ」
マンドラレンのやかましい角笛の音がしじまを破った。通りという通り、路地という路地からガリオンの軍がぞくぞくとあらわれて、レオンへの最終攻撃を開始した。リヴァ人、アルガー人、ナドラク人、そしてセンダリアの実直な男たちが手に手に武器を持ち、雪を踏んで、防御地帯へ向かった。革の服をきたヤーブレックの手下六十人が、引っかけ鉤をぶらぶらさせながら先頭を走っている。
ガリオンはバラクとともに、防御地帯を築くために取り壊された家々のすべりやすい残骸をよじのぼり、矢が命中して死んでいる信者たち六人の死体をまたいだ。シルクの部下たちが防御地帯に面した家をいそいで階ごとに捜索したとき、何人かの信者が――大勢ではないが――すきをみて逃げだし、進軍してくる部隊めがけて必死で矢の雨をふらせた。ブレンディグの鋭い命令でセンダー兵の分隊が方向を変え、家のひとつひとつに踏み込んで、残っていた敵をてきぱきと骨ぬきにした。
防御地帯の向こうの光景は混乱のきわみだった。ガリオンの軍勢は楯を壁のように押し立てて、いまや死に物狂いの信者たちを街路から一掃した。空中には矢と罵声がとびかい、数軒の家の屋根からは早くも火の手があがっていた。
ヤーブレックの予想にたがわず、都市への侵入を防ぐために築かれた粗雑な防壁は、味方の部隊の上を飛び越えて壁面にくいこんだ数十の引っかけ鉤の前にあえなく倒壊した。
前進は容赦なくつづき、剣のぶつかりあう金属音が空気をふるわせた。混乱の中でガリオンはいつしかバラクとはぐれ、気がつくと狭い路地でダーニクと肩をならべて戦っていた。鍛冶屋は剣も斧も持っておらず、大きな重い棍棒を武器がわりにしていた。「人に切りつけるのは好きじゃないんだよ」かれは面目なさそうに言って、ばかでかい敵に手堅い一撃を加えた。
「棍棒なら相手が死ぬ見込みは少ないし、そんなに血もでないからね」
かれらは士気の阻喪した住民をおいちらしながら、都市の奥へと侵攻した。町の南端から熾烈な戦闘の気配が伝わってきた。シルクとその部隊が南の外壁にたどりついて門をあけ、陽動作戦で信者側の軍勢を分裂させた味方の混成部隊が中へ入ったのだ。
ガリオンとダーニクは細い路地からレオンの雪の舞う広い中央広場にとびだした。広場のいたるところで戦いが荒れ狂っていた。だが、東側では車輪の大きな手押し車の周囲に信者の大集団がびっしり群がっていた。その手押し車の上に、錆色のにしき織りの上着をきた黒ひげの男が立っている。
細い槍を持ったやせたナドラク人が身をそらせて狙いをさだめ、手押し車の上の男めがけて武器を投げつけた。黒ひげの男は妙なしぐさで片手をあげた。するとナドラク人の槍はきゅうに右へそれて、雪ですべりやすくなった玉石の上に音をたてて落下した。ガリオンははっきりと胸さわぎを感じた。「ダーニク!」かれは叫んだ。「あの手押し車の上の男。あいつがウルフガーだ!」
ダーニクの目が細まった。「やつをしまつしよう、ガリオン」
この戦闘と殺戮と破壊の原因を作った見知らぬ男にたいする怒りがにわかに膨張して、剣の柄《つか》の上の〈珠〉に怒りが乗り移った。〈珠〉は燃え上がり、〈鉄拳〉の剣がいきなり焼けつくような青い炎を吐いた。
「あそこだ! あれがリヴァの王だ!」手押し車の上の黒ひげの男が絶叫した。「やつを殺せ!」
一瞬ガリオンの目と手押し車の上に乗った男の目がからみあった。男の目には憎悪と、畏怖と、はげしい恐怖がうかんでいた。だが、数十人の信者は指導者の命令に盲目的にしたがって、剣を高くあげ、ぬかるみの中をガリオンのほうへつっこんできた。広場にさしかかったとき、信者たちはふいによろめいてぬかるんだ雪の上に折り重なるように倒れた。矢がつぎつぎに信者の列に刺さったのだ。
「おーい、ガリオン!」近くの家の屋根からレルドリンがうれしそうに叫んだ。その両手はめまぐるしく動いて、突進してくる信者たちにたてつづけに矢を放っていた。
「おーい、レルドリン!」ガリオンは叫び返して、燃える剣をふりまわしながら毛皮の男たちの中へつっこんだ。手押し車をとりまく群衆の注意は、怒れるリヴァの王と、かの有名な剣がくりひろげるおそるべき光景に釘づけになった。したがって、鍛冶屋のダーニクが猫のように体を丸めて、そばの家の壁づたいに近づいてきたのにだれも気づかなかった。
手押し車の上の男は片手を高々とあげて、まじりけなしの火の玉をつかむと、それを狂ったようにガリオンめがけて投げつけた。ガリオンは燃える剣で火の玉をはたきおとし、死にものぐるいで立ち向かってくる熊の毛皮をきた連中をなぎたおしたが、その間、青ざめた顔の黒ひげの男からは一度も目をはなさなかった。ウルフガーはしだいに焦りの色を濃くしながら、ふたたび片手をあげたが、とつぜん前方にとびだすような格好で手押し車から茶色のぬかるみの中へ倒れた。ダーニクの棍棒が後頭部をしたたか殴りつけたのだ。
熊神教の指導者が倒れると、無念の叫びが起きた。数人の信者が必死で動かない指導者の体を抱き起こそうとしたが、ダーニクの棍棒を見舞われてその場に昏倒した。他の信者たちは体で人垣を作って、雪の上にうつぶせに倒れたウルフガーにガリオンを近づけまいとしたが、レルドリンの矢の雨に蹴ちらされてしまった。ガリオンは人を殺すことに不思議となんの痛痒もおぼえずに、巨大な剣をふりまわしながら、あわてふためく生存者たちのなかへ平然と歩いていった。剣が骨を斬り、肉をそぐ瞬間の、胸の悪くなるような手ごたえもろくに意識しなかった。六人ほど斬り殺したあと、残った敵は命からがら逃げていった。
「まだ生きてるか?」ガリオンは荒い息をつきながら、鍛冶屋にきいた。
ダーニクはぐったりしたウルフガーを仰向けにして、手なれたようすでまぶたをめくった。「まだ生きてる。かなり慎重に殴ったんだ」
「よし。そいつをしばりあげよう――目隠しもするんだ」
「どうして目隠しを?」
「ぼくたちはそいつが魔術を使うのを見た。だからその疑問の答えは得たわけだ。しかし、そいつだって自分のねらっているものが見えなければ、そういうことをやるのはちょっとむずかしいだろう」
ダーニクは気絶している男の両手をしばりながら、ちょっと考えた。「なるほどそのとおりだ。むずかしいだろうね」
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13[#「13」は縦中横]
ウルフガーが敗れたことで、信者側は抗戦の意志を失った。数人の熱狂的信者は戦いつづけたが、大半は武器を捨てて降伏した。ガリオンの軍が情け容赦なくかれらをかり集め、血にそまった雪の街路をひったてて町の中央広場へ連行した。
シルクとジャヴェリンは頭に血だらけの包帯をまいた不機嫌なひとりの捕虜に短い質問をしたあと、まだ意識のもどらない男を立って見ているガリオンとダーニクのそばへやってきた。
「こいつがそうなのか?」シルクは好奇心まるだしでたずねると、灰色の上着の前で指輪のひとつをうわの空でみがいた。
ガリオンはうなずいた。
「そんなにカリスマ的には見えないな」
「むこうの大きな石造りの家がこの男の家です」ジャヴェリンが屋根に赤いタイルを張った四角い建物を指さした。
「もうちがう」ガリオンは答えた。「いまはぼくの家だ」
ジャヴェリンは短く微笑した。「徹底的に捜索したいんですよ。人間はときどき重要なものを処分するのを忘れることがありますからね」
「ウルフガーもあそこへ連れていったほうがいいだろう。質問の必要があるし、あの家ならどの家にくらべても劣らない」
「わたしはみんなを連れてこよう」ダーニクが鍋そっくりの兜を脱ぎながら言った。「ポルやほかのご婦人たちを都市に連れてきてももう大丈夫でしょうね?」
「そのはずです」ジャヴェリンが答えた。「小規模の抗戦がまだつづいているのは都市の南東地区ですから」
ダーニクはうなずいて、鎖かたびらを鳴らしながら広場を横ぎっていった。
ガリオン、シルク、ジャヴェリンは力のぬけた黒ひげの体をもちあげると、堂々たる家のほうへ運んでいった。家の正面の竿には熊の旗がひるがえっていた。階段をのぼりはじめたとき、ガリオンはぬかるみでみじめに肩をよせあっている捕虜たちを見張っているリヴァの兵士を一瞥した。「頼みたいことがあるんだが」かれは灰色のマントの兵に声をかけた。
「なんなりと、陛下」兵士は敬礼した。
「あれを切り倒してくれ」ガリオンは旗竿のほうへ顎をしゃくった。
「ただちにそうします、陛下」兵土はにやりとした。「陛下が言われなくても、自分で思いつくべきでしたよ」
かれらはウルフガーを家の中へ運びこんで、磨かれたドアをくぐった。はいった部屋は贅沢な調度がそろっていたが、椅子はあらかたひっくりかえって、そこらじゅうに羊皮紙がちらばっていた。奥の壁に組み込まれた大きな石の暖炉には、くしゃくしゃに丸められた羊皮紙の山がおしこめられていたが、火はついていなかった。
「いいぞ」ジャヴェリンがひとりごちた。「なにかを燃やそうとしたときに邪魔がはいったんだ」
シルクは部屋じゅうを見回した。壁には豪華な暗色のタペストリーがかけられ、緑色の絨緞はぶあつくて、ふかふかだった。椅子はすべて深紅のビロード張りで、壁に取り付けた銀製の燭台には火の消えた蝋燭が立っている。「けっこうな暮らしをしてたようじゃないか」錆色の上着の捕虜をみんながむぞうさに片隅にほうりだしたとき、小男はつぶやいた。
「あの書類を集めよう」ジャヴェリンが言った。「じっくり調べてみたい」
ガリオンは背中から剣をはずして兜を床になげだし、肩をすくめるようにして鎖かたびらを脱いだ。それからぐったりとやわらかな寝椅子に身を沈めた。「もうくたくただ。一週間眠らなかったみたいな気分だよ」
シルクが肩をすくめた。「司令官の特権のひとつさ」
ドアが開いて、ベルガラスが部屋にはいってきた。「ダーニクがおまえはここにいると言ったんでな」老人はみすぼらしい古びたマントについている頭巾をうしろへはねのけた。部屋をつっきって、片隅の動かない体を爪先でつついた。「死んでおらんだろうな?」
「だいじょうぶだ」ガリオンが答えた。「ダーニクの棍棒で眠っているだけだよ」
「なぜ目隠しをしとるんだ?」老人は捕虜の目をおおっている青い布きれを指さした。
「ぼくたちが捕まえる前に魔術を使っていたんだ。目をおおうのも悪い考えじゃないと思ったんだよ」
「それはこの男の腕しだいだ。ダーニクはみんなを集めるために兵たちをさきに野営地へ行かせてから、ポルやほかの女性を連れにでかけていった」
「こいつを起こせますかい?」シルクがきいた。
「それはポルにやらせよう。あれの触れ方のほうがわしのよりいくらか軽いんだ。まちがってどこかをめちゃくちゃにしたくないからな」
それから四十五分ほどたったころ、ようやく緑の絨緞の部屋に全員の顔ぶれがそろった。ベルガラスがあたりをきょろきょろしてから、捕虜の前に背もたれのまっすぐな椅子をもってきて、それにまたがった。「よし、ポル」老人は冷たく言った。「こいつを起こしてくれ」
ポルガラは青いマントの前をゆるめると、捕虜のわきに膝をつき、捕虜の側頭部に片手をあてた。ガリオンはかすかなざわめきと、やさしいうねりを感じた。ウルフガーがうめいた。
「二、三分与えてやって」ポルガラは言いながら立ち上がった。「それからなら質問をはじめてかまわないわ」
「たぶん口を割ろうとしないだろうな」ブリンがにんまりしながら予測を立てた。
「べらべらしゃべったりしたら、おれはこいつに失望するね」シルクがぴかぴかの大きな飾り棚のひきだしの中身をあさりながら言った。
「わたしに目隠ししたのは、おまえたち野蛮人のしわざか?」ウルフガーがおきあがり、弱々しい声で言った。
「いいえ」ポルガラが言った。「あんたに目隠しをしたのは、いたずらをさせないためよ」
「すると、わたしを捕まえたのは女どもか?」黒ひげの男の声に軽蔑がにじんだ。
「わたしはたしかに女よ」セ・ネドラが暗緑色のマントを片方へわずかによじった。その声にはガリオンを警戒させ、捕虜の命を脅かすひびきがあった。彼女は燃えるような目でヴェラのベルトから短剣の一本をぬきとると、ぎらつく剣を高くかざして目隠しされた男にとびかかった。間一髪で、ふりあげた腕をガリオンがつかみ、短剣をもぎとった。
「返してよ!」セ・ネドラは泣き叫んだ。
「やめるんだ、セ・ネドラ」
「こいつはわたしの赤ちゃんを盗んだのよ!」彼女は金切り声で言った。「殺してやるわ!」
「だめだ、よせ。きみがこいつの喉を切りさいたら、息子の行方は永久に謎のままだ」片腕をセ・ネドラに回したまま、ガリオンはヴェラに短剣を返した。
「われわれはおまえのためにいくつか質問を用意しているんだ、ウルフガー」ベルガラスが捕虜に言った。
「返事を聞くまでにはそうとう長く待つはめになるぞ」
「おもしろくなってきたな」ヘターがつぶやいた。「最初に切りつけたいのはだれだい?」
「なんなりと好きなようにやるがいい」ウルフガーはせせら笑った。「肉体などわたしにはどうでもよいのだ」
「ありとあらゆる手を使って、その気持ちを変えてやるよ」ヴェラが親指で短剣の切れ味を試しながら、ぞっとするような甘い声で言った。
「知りたいことってどんなことなんですか、ベルガラス?」隅にある青銅の彫像をしげしげと眺めていたエランドが、ふりかえってたずねた。「よかったら、ぼくが答えてあげられますよ」
ベルガラスはすばやく金髪の少年を見た。「こいつの心が読めるのか?」老人はおどろいてたずねた。
「だいたいは」
「息子はどこにいるんだ?」ガリオンはすかさずたずねた。
「それはかれの知らないことなんです」エランドは答えた。「かれは誘拐とは無関係です」
「じゃ、だれのしわざなんだ?」
「かれもよく知りませんが、ザンドラマスではないかと思っています」
「ザンドラマス?」
「しょっちゅう出てくる名前じゃないか」シルクが言った。
「こいつはザンドラマスが何者か知っているのか?」
「いいえ。ザンドラマスというのはかれがマスターから聞いた名前にすぎません」
「マスターってだれだ?」
「かれはその名前を考えることすらこわがっています」エランドは言った。「でも、それは汚れた顔の人物です」
捕虜は必死にもがいて体をしばりつけている縄から自由になろうとしていた。「でたらめだ!」ウルフガーは叫んだ。「みんなでたらめだ!」
「この男はマスターによってここへ送りこまれたんです、あなたとセ・ネドラのあいだに子供がいないことを確認するために」エランドは捕虜のわめき声を無視してつづけた。「あるいは、もしいた場合は、子供が生きていないことを見届けるために。かれが誘拐を手びきしたはずはありません、ベルガリオン。リヴァで子供部屋に侵入したのがこの男なら、連れ去るのではなく、あなたの息子を殺したはずです」
「この男の出身はどこなの?」深紅のマントをぬいだリセルが興味しんしんでたずねた。「どうしてもかれのアクセントが特定できなかったの」
「それはたぶんかれが本当は人間じゃないからでしょう」エランドはリセルに言った。「少なくとも完全な人間じゃありません。かれの記憶にはなんらかの動物だった意識がしみこんでいます」
かれらはいっせいに少年を見つめ、次にウルフガーを見つめた。
そのときドアがふたたび開いて、魔術師のベルディンが部屋にはいってきた。ベルディンはなにか言いかけたが、口をとじて、縛られ目隠しされた捕虜をじっと見つめた。かれはべたべたと床をよこぎって身をかがめ、男の目から青い布きれをはぎとって顔をのぞきこんだ。「ほう、犬か。どうして犬小屋からでてきた?」
「きさまは!」ウルフガーはきゅうに青くなってあえいだ。
「おまえが事態をめちゃくちゃにしたと知ったら、ウルヴォンのやつ、おまえの心臓を朝飯がわりにするぜ」ベルディンは楽しそうに言った。
「この男を知っているのか?」ガリオンは鋭くたずねた。
「こいつとは長いつきあいでな、そうだろう、ハラカン?」
捕虜はベルディンに唾を吐きかけた。
「押し込み強盗でもしてりゃいいものを」ベルディンはにやにやした。
「何者なんだ?」ガリオンは問いつめた。
「名前はハラカンだ。マロリーのグロリムさ――ウルヴォンの犬のひとりだ。おれが最後に見たとき、こいつはクンクン鳴きながらウルヴォンの足元にじゃれついてた」
次の瞬間、捕虜はかき消えてしまった。
ベルディンはたてつづけにひわいな悪態をつくと、同じように姿を消した。
「どういうことなの?」セ・ネドラが喘ぐようにたずねた。「いったいふたりともどこへ行ったの?」
「ベルディンはわしが思っていたほど利口じゃないのかもしれんな」ベルガラスは言った。「目隠しを取るべきじゃなかったんだ。捕虜はこの家の外へ転位してしまったよ」
「そんなことができるの?」ガリオンは信じられなかった。「自分がなにをやろうとしているかわからないのに?」
「きわめて危険なことなんだが、ハラカンは死にものぐるいだったんだろう。ベルディンが追いかけているから心配はいらん」
「つかまえられるかな?」
「断言はできん」
「聞きだしたいことがまだあったんだ」
「ぼくが答えてあげますよ、ベルガリオン」エランドが落ち着きはらって言った。
「あいつがここにいなくても、心が読めるっていうのか?」
エランドはうなずいた。
「最初からはじめてくれない、エランド?」ポルガラが言った。
「いいですよ。このハラカンという男は、これは本名だと思うけど、マスターの命令でここへきたんです。ベルディンがウルヴォンと呼んだマスターが、ベルガリオンとセ・ネドラに子供がいないことを確認するためにハラカンを送りこんだんです。ハラカンはここ、レオンへやってくると、熊神教を支配下に治めました。最初かれはいろんなセ・ネドラの悪口をでっちあげて、ベルガリオンがセ・ネドラを捨ててほかのだれかと結婚するように仕向けようとしました。やがて、セ・ネドラの妊娠を耳にすると、誰かを送りこんでセ・ネドラを殺そうとしました。当然のことながらそのくわだてが失敗すると、ハラカンはあせりはじめたんです。失敗したらウルヴォンにどんな仕打ちを受けるか、恐ろしくてたまらなかったんです。そこで、セ・ネドラが眠っているときに、セ・ネドラをいいなりにさせて赤ん坊を窒息させようとしました。ところがだれかが――それがだれなのかハラカンは知りません――邪魔をして、ハラカンをくいとめたんです」
「ポレドラだったんだ」ガリオンはつぶやいた。「あの夜、ぼくはそこにいたんだよ」
「そのときなのかね、ハラカンがブランド殺害を思いつき、その罪をアンヘグ王になすりつけようと考えたのは?」ブレンディグ将軍がたずねた。
エランドはちょっと眉をよせた。「ブランドを殺したのは偶然のなりゆきだったんです。ハラカンのたくらみがもう少しでうまくいきそうになったとき、たまたまブランドが通りかかって、城塞の廊下にいた信者たちをとらえたんです。信者たちはハラカンにリヴァへ送り込まれて、命じられた目的をはたそうとしていたところでした」
「その目的はなんだったの?」セ・ネドラがたずねた。
「かれらは王宮へ行って、あなたと赤ちゃんを殺すところだったんです」
セ・ネドラは青ざめた。
「使命を果たしたら、かれは自殺することになっていました。それが原因でベルガリオンとアンヘグ王のあいだに戦争が持ち上がる予定だったんです。いずれにせよ、手ちがいが生じました。あなたと赤ちゃんのかわりにブランドが死に、ぼくたちはアンヘグではなくて熊神教に責任があることをつきとめました。ウルヴォンのもとへ帰って失敗を認める勇気はハラカンにはありませんでした。そのとき、ザンドラマスがあなたの赤ちゃんをさらって〈風の島〉を脱出したんです。ハラカンは追いかけることができませんでした。それを知ったとき、すでにベルガリオンがレオンへ進軍していたからです。ハラカンはここに足どめをくい、ザンドラマスがあなたの赤ちゃんをつれさったんです」
「あのニーサの船だ!」カイルが叫んだ。「ベルガリオン、ザンドラマスは王子をさらって南へ船で逃げ、ドラスニアでまごまごしているわれわれを笑っているんです」
「誘拐の直後にわれわれがあのチェレクの信者から聞いた話はどうなるんだ?」ブリンがたずねた。
「熊神教の信者はだいたいあまり利口じゃない」カイルは答えた。「このザンドラマスというやつがあのチェレク人たちを丸めこんで、誘拐がハラカンの命令だと信じ込ませるのはそうむずかしくなかっただろう。それに王子がいつかリヴァの王座を要求するように育てるなどというたわごとにしても、ああいう狂信者ならころりと信用してしまうさ」
「だから連中はおきざりにされたんだな」ガリオンは言った。「われわれは少なくとも連中のひとりをつかまえて、巧妙に仕組まれた話を聞かされ、レオンへ侵攻することになっていたんだ、ザンドラマスが息子を連れて南へ逃げていくあいだに」
「どうやらわれわれは攪乱されていたようですな」磨かれたテーブルに積み上げた羊皮紙をめくりながら、ジャヴェリンが言った。「ハラカンもわれわれと同じなんでしょう」
「だしぬくことも不可能ではないぞ」ベルガラスが言った。「ザンドラマスは〈珠〉がゲランの跡をたどっているとは知らんだろう。速やかに行動すれば、背後からしのびよって、この利口な攪乱者の不意をつけるだろう」
(〈珠〉は海の上では働かない)ガリオンの心の中で乾いた声がそっけなく言った。
(なんだって?)
(〈珠〉は海を渡っておまえの息子を追跡することはできないのだ。地面は一ヵ所にじっとしている。海は動きつづけている――風、潮、その種のことだ)
(本当ですか?)
だが、声はもう聞こえなかった。
「ひとつ問題があるんだ、おじいさん」ガリオンは言った。「〈珠〉は海上では臭跡を見つけられないんだよ」
「どうしてそんなことがわかる?」
ガリオンは額をたたいた。「かれがいまそう教えてくれた」
「すると、事態はいささかこみいってくるな」
「そうでもないでしょう」シルクが言った。「ニーサの船が徹底的に調べられずに上陸できる場所はごくかぎられています。ほとんどの君主は薬や毒薬が王国に持ち込まれるのを好みませんからね。ザンドラマスだってどこかの港に入って、リヴァの王座の後継者を乗せているところを見られたくはありませんよ」
「アレンディアの海岸には隠れた入り江がたくさんありますよ」レルドリンが口をはさんだ。
シルクはかぶりをふった。「入り江には入らないだろう。船は陸地には近づかないと思うね。ザンドラマスはアローンの諸王国からなるべく遠くへ行きたいはずだ――しかもできるだけ早く。われわれをここレオンへ送りこんだこの計略がうまくいかなかったら、ガリオンが西方中の人間と船を総動員して息子を捜索させるのは目に見えている」
「南のクトル・マーゴスはどうでしょう?」ブレンディグ将軍がほのめかした。
ジャヴェリンは眉間にしわをよせた。「いや、あそこでは戦いがつづいているし、西部沿岸一帯はマーゴの船が巡回しています。ニーサの船が上陸できる安全な場所はニーサしかないでしょう」
「それじゃ、またサルミスラのところへ行くことになるの?」ポルガラが言った。
「もしこれがなんらかの公的色合いをおびているものだとしたら、わたしの部下がつきとめていたはずです、レディ・ポルガラ」ジャヴェリンは言った。「サルミスラの宮殿にはくまなく部下を配置してありますからね。実際の命令はサルミスラの宦官長であるサディから出るはずだし、われわれはかれを四六時中見張っているんです。これは宮殿とは無関係だと思いますよ」
ドアがあいて雷雲のように陰気な顔のベルディンがはいってきた。「ちくしょう! 見失った!」
「見失った?」ベルガラスが聞きかえした。「どうしてだ?」
「あいつは通りに出ると、鷹に姿を変えた。おれはさっそく跡を追ったが、雲間にはいると、あいつはまた姿を変えたんだ。でてきたときには、南へ飛ぶ鴨《かも》の群れにまぎれこんでいた。鴨たちはおれを見ると、当然、やかましく鳴きながら四方八方にちりぢりに飛んでいっちまった。どれがやつなのかわからなかったんだ」
「おまえさん、もうろくしたな」
「だまれ、ベルガラス」
「どのみち、あいつはもうどうでもいいのさ」ベルガラスは肩をすくめた。「もう用はない」
「おれはやつにちゃんと死んでもらいたいんだ。ほかに何事もなけりゃ、目をかけてた犬の一匹がいなくなってウルヴォンはさぞいらだつこったろう。今週のうちに片をつけてやるさ」
「どうしてハラカンをずっと犬呼ばわりしているんです?」ヘターがたずねた。
「やつがチャンディムのひとりだからさ――それがやつらの正体なんだ――つまりトラクの猟犬てことだ」
「説明していただけるかしら?」ポレン王妃がたずねた。
ベルディンは大きく息を吸って、いらだちを抑えた。「そうこみいった話じゃない。マロリーにクトル・ミシュラクが建てられたとき、トラクはあるグロリムたちにその都市を守る仕事を与えた。それをするために、連中は猟犬になったんだ」
ガリオンは身ぶるいした。〈夜の都市〉で遭遇した巨大な犬の姿がまざまざとよみがえったのだ。
「とにかく」ベルディンはつづけた。「ボー・ミンブルの戦いでトラクが長い眠りについたあと、ウルヴォンは廃墟周辺のその立入禁止区域にはいって、猟犬の群れを丸め込み、自分が火傷顔にかわって行動しているのだと信じ込ませたんだ。ウルヴォンは連中をマル・ヤスカに連れて帰り、徐々に連中をもとのグロリムに戻していった。たとえ、その途中で連中の約半分を殺さなくちゃならなかったにせよだ。とにかく、連中はみずからをチャンディムと称した――これはグロリムの教会内における秘密の聖職みたいなもんでな。ウルヴォンに絶対の忠誠を誓っている。まずまずの魔術師たちだし、魔法にも多少手を染めている。だが、本当のところはやっぱりまだ犬さ――じつによく言うことをきくし、ひとりでいるよりは群れをなしたほうがずっと危険なんだ」
「なんとも興味深い情報だな」シルクが戸棚のひとつに見つけた羊皮紙から目をあげて、言った。
「口の達者なやつだな、おまえさんは、ケルダー」ベルディンはいらだたしげだった。「れんがをその口につっこんでやろうか?」
「いや、それにはおよばないよ、ベルディン」
「それで、これからどうしますの、ベルガラス?」ポレン王妃がたずねた。
「これから? ザンドラマスのあとを追うにきまっているじゃないか。いっぱいくわされてだいぶ遅れをとったが、なあに、おいつくさ」
「それならだいじょうぶだよ」ガリオンは言った。「前に一度〈闇の子〉を相手にしたことがあるんだ。必要なら、もう一度そのときの手が使える」かれはエランドに向きなおった。「なぜウルヴォンがぼくの息子の命を奪いたがったのか見当がつくか?」
「なにかの本で見つけたことのせいなんです。その本に、あなたの息子がザンドラマスの手に落ちたら、ザンドラマスはかれを利用してなにかをすることができると書いてあったんですよ。それがどんなことだろうと、それを妨害するためなら、ウルヴォンは喜んで世界を破壊したでしょう」
「ザンドラマスができることとはいったい何なのだ?」ベルガラスが真剣な目つきでたずねた。
「ハラカンは知りません。かれにわかっているのは、ウルヴォンに課せられた使命に失敗したということだけです」
ベルガラスの顔にゆっくりと笑いが広がった。ひややかな冬を思わせる笑いだった。「ハラカンごときを追跡して時間を無駄にすることはないな」
「追跡しないですって?」セ・ネドラが叫んだ。「さんざんな目に会わされたのに?」
「われわれにかわってウルヴォンがやってくれるさ。ウルヴォンならわれわれが思いもつかん仕打ちをするだろう」
「そのウルヴォンとは何者なんです?」ブレンディグ将軍がたずねた。
「トラクの三番弟子だ」ベルガラスは答えた。「昔は三人いた――クトゥーチク、ゼダー、そしてウルヴォン。だが、いまはウルヴォンしか残っておらん」
「ザンドラマスのことがまださっぱりわからないな」シルクが言った。
「二、三のことはわかっているぞ。たとえば、現在の〈闇の子〉とは、ザンドラマスのことなんだ」
「それだとつじつまがあわないぜ、ベルガラス」バラクが野太い声をあげた。「なんでウルヴォンは〈闇の子〉の邪魔をしたがるんだ? ふたりは同じ側にいるんだろう?」
「そうではないようだ。あちら側の階級をめぐる意見には、食い違いがあるらしい」
「それはありがたいね」
「だが、ほくそえむのはまだ早いぞ。もう少し知りたいことがある」
午後三時ごろ、レオンの南東部で最後までつづいていた狂気の抵抗が壊滅され、うなだれた捕虜たちが焼け落ちた町の街路を先導されて広場にいるその他の捕虜のもとへ連れてこられた。
ガリオンとブレンディグ将軍はハラカンが住まいとしていた家の二階バルコニーに立って、喪服姿の小柄なドラスニア王妃と静かに話し合っていた。「捕虜たちをどうします、女王陛下?」ブレンディグ将軍は広場でおびえている捕虜たちを見おろした。
「真実を話して、自由の身にしてやるわ、ブレンディグ」
「自由の身に?」
「もちろんよ」
「わかりかねますね」
「マロリーのグロリムにだまされてアロリアを裏切ろうとしていたのだと聞かされたら、かれらも少しはうろたえるでしょう」
「かれらがあなたの話を信じるとは思えませんな」
「全員が信じなくてもいいのよ」ポレン王妃は落ち着いて答えると、黒い服のえりもとを直した。「すくなくとも一部の者には真実を悟らせることができるでしょう。そうすればかれらがそれを広めてくれるわ。熊神教がこのハラカンというグロリムにいいように利用されていたのだということが、知識として広く浸透すれば、新たな改宗者を得ることはずっと困難になるはずよ、そう思わない?」
ブレンディグは考えこんだ。「おっしゃるとおりです」かれは認めた。「しかし、聞き入れようとしない者は罰するのでしょうな?」
「そんなことをすれば、専制政治になってしまうわ、将軍、統治者はつねに専制政治の出現を避けることに務めるべきなのよ――とりわけ、それが不要な場合には。真実が広まれば、南の諸王国を服従させるとかいうアロリアの聖なる使命をまくしたてるような者は、石つぶてをもって迎えられることになるでしょう」
「わかりました、それでは、ハルダー将軍はどうなさるおつもりです?」ブレンディグは真剣にたずねた。「ハルダーも逃がしてやるおつもりじゃないでしょうな?」
「ハルダーはまったく別の問題だわ。かれは反逆者よ、その種のことを野放しにしておくわけにはいかないわ」
「ここで起きたことを知ったら、やつは逃げようとするでしょう」
「見かけは当てにならないものよ、ブレンディグ将軍」ポレン王妃はぞっとするような微笑をうかべた。「わたしはかよわい女に見えるでしょうけど、おそろしく長い腕を持っているの。ハルダーは遠くへは行けないわ、つまりわたしの腕からは逃げられないということよ。部下たちにつかまれば、かれはボクトールへ連れ戻されて、鎖につながれ、裁判にかけられるでしょう。その裁判の判決がどう出るか、いまから容易に想像がつくわ」
「失礼していいかな?」ガリオンはていねいにたずねた。「おじいさんと話しにいかなくちゃならないんだ」
「もちろんだわ、ガリオン」ポレン王妃はあたたかい微笑をうかべて言った。
ガリオンが下へおりていくと、シルクとジャヴェリンはまだ緑の絨緞敷きの部屋で箪笥や戸棚をさがしまわっていた。「なにか役にたつものを見つけたかい?」ガリオンはたずねた。
「ええ、じつのところ相当ありましたよ」ジャヴェリンが答えた。「捜索が終わるころには、アロリア中の信者の名前がわかるでしょう」
「おれがつねづね言っていたことの正しさがこれで証明されるよ」書類に目を通しつづけながら、シルクが感想を述べた。「どんなことも文字に残しちゃならないってことさ」
「ベルガラスがどこにいるか知らないかな?」
「家の奥の台所を探してみるといい」シルクが言った。「腹がへったとか言ってたからな。たしかベルディンも一緒だった」
ハラカンの家の台所は、ヤーブレックの手下どもが食べ物よりも戦利品に関心が強いおかげで、徹底的捜索をまぬがれており、ふたりの老魔術師が半円形の低い窓のそばのテーブルに心地よげにすわって、ロースト・チキンの残骸をつついていた。「ああ、ガリオン、ぼうず」ベルガラスがのんびりと言った。「こっちへおいで」
「ここに何か飲む物があると思うか?」ベルディンがチュニックの前で指を拭きながらたずねた。
「あるはずだ」ベルガラスは答えた。「なんてったって、台所なんだからな。あの食料室をのぞいたらどうだ?」
ベルディンは腰をあげると、台所の床をよこぎって食料室のほうへ歩いていった。
ガリオンはわずかに身をかがめて、低い窓の外の通りで燃えている家々をながめた。「また雪がふってきた」
ベルガラスはぶつぶつこぼした。「できるだけ早くここを出たいもんだ。ここで冬を過ごすのなんかまっぴらだよ」
「わはは!」ベルディンが食料室から出てきた。勝ち誇ったにやにや笑いを浮かべて、小さな木の樽をかかえている。
「最初に味を見たほうがいいぞ」ベルガラスが言った。「酢かもしれん」
ベルディンは樽を床におろすと、拳骨で樽のてっぺんをうちぬいた。次に手をなめてみて口をならした。「いいや、まちがっても酢なんかじゃない」かれは近くの戸棚をひっかきまわして、土焼きのカップを三つひっぱりだした。
「それで、兄弟」ベルガラスが言った。「おまえの計画は?」
ベルディンはひとつめのカップを樽の中へつっこんだ。「ハラカンの跡をたどれるかどうかやってみる。マロリーへ引き返す前に、始末をつけたいんだ。ああいう奴が、行く先々で背後の路地に潜んでいちゃたまらんからな」
「それじゃ、マロリーへ行くつもりなのか?」ベルガラスはテーブルの上のチキンから手羽の部分をむしりとった。
「ザンドラマスとやらに関する確実な情報が入手できるのは、マロリーぐらいのもんだろう」ベルディンはげっぷをした。
「ジャヴェリンの話だと、ザンドラマスというのはダーシヴァの名前らしいよ」ガリオンはふたりに言った。
ベルディンはうなった。「ちょっと役にたちそうだな。今度はそこから始めるとするか。マル・ゼスじゃなにもわからなかったんだ。カランダの薄らばかどもはおれがザンドラマスの名を出すたんびに泡をふいてぶったおれちまうんだから」
「マル・ヤスカは試してみたか?」ベルガラスがきいた。
「むりってもんさ。ウルヴォンの奴が、おれの人相書きをマル・ヤスカの壁という壁にはりだしやがったんだ。どういうわけだか、ウルヴォンはいつかおれが現われて、奴のはらわたを数ヤード引きだすんじゃないかとこわがっている」
「どうしてなんだ」
「おれが奴にそう言ったんだ、だからさ」
「すると、おまえはダーシヴァに行くのか?」
「さしあたってはな――少なくとも、ハラカンをちゃんと葬りさったあとはそのつもりだ。ザンドラマスのことでなにかわかったら、知らせる」
「マロリーの教えとアシャバの神託の鮮明な写しにも目を光らせておいてくれ」ベルガラスが言った。「『ムリンの書』によると、わしはその二つの中に手がかりを発見することになっているのだ」
「で、おまえはどうするんだ?」
「われわれはニーサへ行って、〈珠〉がわしのひ孫の臭跡を拾えるかどうか見てみる」
「リヴァの羊飼いがニーサの船を見たというだけじゃたよりないな、ベルガラス」
「わかってる、だが、いまのところそれしか手がかりがないんだ」
ガリオンはあちこちむしりとられたチキンからうわの空で肉片をはがして口にほうりこんだ。そしてにわかに猛烈な空腹をおぼえた。
「ポルガラも一緒に連れていくのか?」ベルディンがたずねた。
「そのつもりはない。ガリオンとわしは外部との接触が少なくなりそうだから、だれかが北で見張り役をつとめる必要がある。アローン人は目下血気にはやっているから、まちがいをしでかさんようにだれかがしっかり手綱をしめておかんとならん」
「それがアローン人の常態なんだよ。わかってるのか、ポルガラはおいてけぼりをくわされたと知ったらおこりだすぞ」
「わかってるさ」ベルガラスは陰気な顔で答えた。「メモを残して行くだけにしよう。この前はそれでうまくいったんだ」
「ポルガラがメモを見つけたときに、近くに壊れやすいものがないようにしておけよ」ベルディンは笑った。「大都市とか、山脈とかがな。この前おまえが残していったメモを彼女が読んだとき、どんなことが起きたか噂で聞いたぜ」
ドアが開いて、バラクが台所に首をつっこんだ。「おう、ここにいたのか。おまえに会いたいってふたり連れがきてるんだ。マンドラレンが町のはずれにいるところを見つけたんだが――ひどく風変わりなやつらなんだ」
「風変わりってどういう意味だい?」ガリオンはたずねた。
「男は家みたいにでかいんだ。腕ときたらまるで木の幹だが、しゃべれない。女のほうはじゅうぶんきれいだが、目が見えない」
ベルガラスとベルディンがすばやく視線をかわした。「目が見えないとどうしてわかる?」ベルガラスはたずねた。
「目をきれでしばっておおっているんだ」バラクは肩をすくめた。「だから目が見えないんだろうと思っただけさ」
「その女と話をしに行ったほうがよさそうだ」ベルディンが椅子から立ちあがった。「よっぽど重要な用件でもないかぎり、世界のこのあたりに女予言者があらわれるわけがない」
「女予言者?」ガリオンは聞き返した。
「ケルに住む人々のひとりでな」ベルガラスが説明した。「いつも目隠しをしていて、いつも口のきけぬ者が案内役なんだ。どういう用件なのか確かめに行こう」
広々とした主室にはいっていくと、みんなが好奇の目で見知らぬふたり連れをながめていた。目隠しをした女予言者は白いゆったりした服を着た、やせぎすの娘だった。髪は濃い金色で、口もとにおだやかな微笑をうかべている。部屋の中央にひっそりと立って、娘は辛抱強く待っていた。かたわらに立っているのは、ガリオンがこれまで見たこともないような大男だった。ごわごわの染めていないきれでできた、ベルトつきの袖なしの短い上着のようなものを着ている。頑丈な、ぴかぴかに磨き込んだ杖のほか、武器は持っていない。男はヘターが小さく見えるほどの長身で、筋肉りゅうりゅうのむきだしの腕は、こちらがたじろぐほどだった。あまり大きいので、ほっそりした女主人を踏みつぶしそうに見えたが、その目は用心深い保護者の目だった。
「その娘は自分がだれか名乗ったのか?」ベルガラスは部屋にはいっていくと、ポルガラにそっとたずねた。
「いいえ。おとうさんとガリオンに話をしなくてはならないと言うだけなのよ」
「彼女の名前はシラディスですよ」そばにいたエランドが言った、
「彼女を知っているのか?」ガリオンはたずねた。
「一度会ったことがあるんです――谷で。ぼくについてなにかをつきとめたかったので、谷へきたんです。それでぼくと話をしました」
「なにをつきとめたかったんだ?」
「それは言いませんでした」
「たずねなかったのか?」
「ぼくに知ってほしいのなら、彼女が教えてくれたでしょう」
「わたしはそなたと話がしたい、長老ベルガラス」そのとき、女予言者が明るい澄んだ声で言った。「そしてそなたとも、ベルガリオン」
かれらはそばに近づいた。
「そなたたちにある真実を告げるため、わたしは短い時間ここにいることを許されている。第一に、そなたたちの仕事がまだ完了していないことを知るがよい。〈光の子〉と〈闇の子〉のあいだに今一度戦いが起きる。よく聞くがよいぞ――そしてこの戦いは最後のものとなろう、なぜなら、この戦いのさなかに〈光〉と〈闇〉のあいだで最後の選択がおこなわれるからである」
「で、その戦いはどこでおこなわれるのだ、シラディス?」ベルガラスは熱っぽくたずねた。
「サルディオンの前で――もはや存在しない場所で」
「それはどこにあるんだ?」
「そのおそるべき場所への道は、謎のなかにあるのじゃ、長老。そなたはそれを探さねばならぬ」シラディスはガリオンのほうへ顔をむけ、ほっそりした片手を伸ばしかけた。「そなたの心は痛んでおろう、ベルガリオン」彼女は同情をこめた声で言った。「なぜなら、ザンドラマス、すなわち〈闇の子〉がそなたの息子を奪い、その子とともに今この瞬間にもサルディオンのもとへ逃げているのだから。ザンドラマスをその石に近づけないのはそなたしだいじゃ――運勢と大地の声の宣言によれば、〈光〉の力が〈アルダーの珠〉にあるように、〈闇〉の力はサルディオンにある。ザンドラマスが赤子とともに、〈闇の石〉をつかめば、〈闇〉が勝利をおさめ、その勝利が永遠となるであろう」
「わたしの赤ちゃんは無事なの?」セ・ネドラが問いつめた。その顔は青ざめて、目には言い知れぬ恐怖がうかんでいる。
「そなたの子は無事で元気にしている、セ・ネドラ」シラディスは言った。「ザンドラマスはあらゆる害悪から赤子を守るであろう――愛情からではなく、必要から」女予言者の顔が無表情になった。「だが、そなたは心を鬼にせねばならぬ」彼女はつづけた。「ザンドラマスがそなたの幼い息子とともにサルディオンのもとへたどりつくのを防ぐ方法がほかになければ、そなたは――あるいはそなたの夫は――その子を殺すことになるからじゃ」
「殺す?」セ・ネドラは叫んだ。「殺すもんですか!」
「では〈闇〉が勝つであろう」シラディスはぽつりと言った。彼女はガリオンに向きなおった。「時間がない。わたしの言うことに心せよ。この仕事において助けとなる仲間を選ぶときは、そなた自身の好みではなく必要≠ノよって選ばねばならぬ。選択を誤れば、そなたの仕事は失敗し、ザンドラマスがそなたを負かすであろう。そなたの息子は永久に戻らず、そなたの知る世界はもはや存在しなくなる」
ガリオンの顔はひややかだった。「つづけろ」ガリオンはそっけなく言った。「言うべきことを言ってしまえ」いかなる状況のもとだろうと、かれかセ・ネドラがわが子を殺すだろうというシラディスの言葉が、ガリオンの中に怒りをかきたてていた。
「そなたは長老ベルガラスと尊敬すべきその娘を道連れにここを発つのじゃ。〈珠かつぎ〉とそなたの妻も連れていかねばならぬ」
「ばかげてる!」ガリオンはまくしたてた。「そんな危険にセ・ネドラを――エランドも――さらすつもりはない」
「ではそなたはまちがいなく失敗するであろう」
ガリオンはうろたえてシラディスを見つめた。
「そなたは〈案内人〉と〈ふたつの命を持つ者〉も連れて行かねばならぬ――そしてもうひとり、それはのちに知らせよう。しばらくあとで他の者たちがそなたの一行に加わるはずじゃ――〈女狩人〉、〈人間ではない者〉、〈からっぽの者〉、そして〈見張り女〉」
「典型的な予言だな、まるでちんぷんかんぷんだ」ベルディンがにがにがしげにつぶやいた。
「言葉はわたしのものではない、ベルディン」シラディスは言った。「これらは運勢に書かれている名前なのじゃ――そして予言書に。かれらが生まれたときに与えられた付随的な言葉の名前は、今存在し、この先も存在するいっさいの中心でたがいに満たしあうふたつの〈宿命〉という時のない領域においては、とるにたらぬものなのだ。これらの仲間のひとりひとりがある仕事を持っている。そしてすべての仕事はきたるべき戦いの場で完了されねばならぬ。さもなくば、そなたの道をずっと導いてきた予言は果たされずに終わるであろう」
「わたしの仕事とはなんなの、シラディス?」ポルガラは落ち着きはらってたずねた。
「これまでと同じじゃ、聖なるポルガラ。そなたは導き、はぐくみ、守らねばならぬ。そなたは母なのだから――長老ベルガラスが父であるのと同じように」目隠しをした娘のくちびるにあるかなきかの微笑がのぼった。「他にも折りにふれ、そなたの探索の旅を助ける者たちがおろう、ベルガリオン。だが、その最後の戦いの場にそなたとともに臨むのは、わたしが名をあげた者たちでなければならぬ」
「おれたちはどうなるんだ?」バラクがつめよった。「ヘターとマンドラレンとレルドリンとおれは?」
「おまえたちの仕事は終わっている。〈おそろしい熊〉よ、それらの責任はおまえたちの息子にゆずられたのじゃ。そなたや〈弓師〉や〈馬の首長〉や〈騎士〉がベルガリオンとともにこの探索に加われば、そなたたちの存在がベルガリオンの失敗の原因となるであろう」
「ばかばかしい!」大男は唾をとばさんばかりだった。「おれは絶対についていく」
「その選択をするのはそなたではない」シラディスはふたたびガリオンのほうを向くと、物言わぬ保護者の大きな片腕に手をおいた。「これはトス」言いながらシラディスは、激しい疲労に襲われたかのようにがっくり膝をついた。「別の光景がわたしにあらわれ、もっとよく見えるようにとわたしが目を覆った日から、トスはわたしのおぼつかない足どりを助け、導いてくれた。胸をかきむしられる思いだが、わたしはしばしトスと別れねばならぬ。そなたの捜索を助けるよう、トスに教えこんでおいた。かれは〈物言わぬ男〉と呼ばれている。そなたの仲間のひとりとなるのがかれの運命なのじゃ」シラディスは燃え尽きたようにふるえだした。「最後にもうひとこと、ベルガリオン」ふるえる声で言った。「そなたの探索は大きな危険をはらんでおり、そなたの仲間のひとりは途中で命を落とすであろう。それゆえ、覚悟しておくことじゃ、その不運が起きてもくじけることなく、そなたに課せられた仕事をなしとげることに精進せねばならぬ」
「だれなんだ?」ガリオンはすばやく口をはさんだ。「死ぬことになるのはだれなんだ?」
「それはわたしには教えられなかった」シラディスはそう言うと、はた目にもわかるほどの努力をして、しゃんと背をのばした。「わたしを忘れぬように。なぜなら、わたしたちはやがて会うのだから」言い終えると、シラディスは消えた。
「どこへ行ったんだ?」ブレンディグ将軍が叫んだ。
「彼女は本当はここにはいなかったんです」エランドが答えた。
「あれは投影だったのさ、ブレンディグ」ベルガラスが言った。「だが、その男――トス――は生身の人間だ。はて、どうやってやったのだろう? おまえはわかるか、エランド?」
エランドは肩をすくめた。「わかりません、ベルガラス。でも、これにはケル中の予言者たちの力が働いていましたよ」
「たわごともいいところだ!」バラクがいらだたしげにわめいて、巨大な拳骨をテーブルにふりおろした。「どんなことがあっても、おれはついていくぞ!」マンドラレン、ヘター、レルドリンが力をこめてうなずいた。
ガリオンはポルガラを見た。「彼女がでたらめを言っていた見込みはある?」
「シラディスが? いいえ。女予言者は嘘はつけないのよ。隠しごとはしていたかもしれないけれど、彼女が嘘をついたことはないわ。シラディスがわたしたちに言ったことは、運勢で見たことなのよ」
「目隠しをしていて、どうして運勢が見えるんです?」レルドリンが反論した。
ポルガラは両手を広げた。「知らないわ。予言者というのは、わたしたちには理解できない方法で物事を知覚するのよ」
「彼女が読みちがえた可能性もありますよ」ヘターが言った。
「ケルの予言者はたいがい正しいんだ」ベルディンがうなるように言った。「必ずしも絶対だと考えたいわけじゃないがね」
「それで結論はでたな」ガリオンは言った。「ぼくがひとりで行くべきなんだ」
「ひとりでですって?」セ・ネドラがあえぐように言った。
「シラディスの言ったことを聞いたろう。ぼくと一緒に行けば、だれかが死ぬことになる」
「それはこれまでだってありえたことですぞ、ガリオン」マンドラレンが真顔で言った。
「だが、確実だったことはない」
「おれは絶対おまえをひとりじゃ行かせないぜ」バラクが宣言した。
ガリオンはどこかがねじれるような奇妙な感覚をおぼえた。まるでぞんざいにわきへおしのけられたみたいだった。力がぬけていったとき、かれのものではない声が口から出た。「みんなくだらん話はやめにしたらどうだ?」声は言った。「おまえたちは指示を与えられたのだ。いまはそれにしたがうことだ」
かれらはみんなびっくりしてガリオンを見つめた。かれはしかたなく両手を広げて、ひとりでに口から言葉がでてきてしまうのだと知らせようとした。
ベルガラスが目をぱちくりさせた。「あなたを直接介入させることができるとは、これはよほど重要なことにちがいない」ガリオンの声をいきなり取り上げた意識に向かって、ベルガラスは言った。
「こんなところにすわって問題を論じている暇はないぞ、ベルガラス。長い道のりが待っているのだ。時間もそうあるわけではない」
「それじゃ、シラディスの言ったことは本当でしたの?」ポルガラがたずねた。
「これまでのところはな。しかしあれはまだこちらの味方ではない」
「すると、どういうわけでやってきたんです?」ベルディンがきいた。
「あれにはあれの仕事があるのだ。これもその一部だったのさ。シラディスはザンドラマスにも指示を与えるはずだ」
「われわれが見つけることになっている場所とやらについて、ヒントかなにか与えていただけないかね」ベルガラスが期待をこめて言った。
「ベルガラス、そういうまねはよせ。もっと分別があってもよさそうなものを。おまえは南へ向かう途中、プロルグに立ち寄らねばならぬ」
「プロルグに?」
「必ずや生じるなにかが、そこで起きるのだ。時間がなくなってきているぞ、ベルガラス、時間を浪費するのはやめるのだ」
「時間のことばかり話しつづけておられる。もうちょっと具体的にはできないのか?」
「かれは行っちゃったよ、おじいさん」自分の声を取りもどしたガリオンが言った。
「いつもこれだ」ベルガラスは文句を言った。「会話が佳境にはいってくると、いなくなっちまう」
「どうしてだか知ってるだろう、ベルガラス」ベルディンが言った。
ベルガラスはためいきをついた。「ああ、知ってる」かれはみんなのほうを向いた。「では、そういうことだ。シラディスが言ったとおりのことをするんだ」
「まさかセ・ネドラを連れていらっしゃるんじゃないでしょうね?」ポレンが反対した。
「もちろんわたしは行きますわ、ポレン」セ・ネドラはちょっぴり頭をそびやかして高らかに言った。「どっちみち行ったでしょう――あの盲目の娘が言ったことには関係なくね」
「でも、彼女はガリオンの仲間のひとりが死ぬと言ったのよ」
「わたしは仲間じゃないわ、ポレン。妻よ」
バラクの目には本物の涙が浮かんでいた。「なにを言ってもおまえの気持ちを変えることはできないのか?」かれはすがるようにたずねた。
ガリオンも目頭が熱くなるのを感じた。バラクはつねにかれの人生を支えてきた堅固な岩のひとつだった。いつもかたわらにいたこの赤ひげの巨漢をぬきにして、探索の旅をはじめるのかと思うと、心にぽっかり大きな穴があいたような気持ちがした。「残念だけど、どうすることもできないんだよ、バラク」かれは悲しそうに言った。「それがぼくの義務だとしたら――」あとは言葉にならなかった。
「拙者は胸がはりさけそうです、親愛なるセ・ネドラ」マンドラレンは王妃の前にひざまずいた。「あなたのまことの騎士であり、闘士であり、擁護者でありながら、危険にみちた探索の旅であなたのお供ができないとは、なんたることでありましょう」
おおつぶのきらめく涙がふいにセ・ネドラの頬につたわった。彼女は大柄な騎士の首に両腕をまわし、「いとしいマンドラレン」ととぎれとぎれに言うと、頬にキスをした。
「マロリーである連中にちょいとやらせていることがあるんだ」シルクがヤーブレックに言った。「その連中がおまえにたえず忠告できるよう、連中宛の手紙をおまえに渡しとこう。決定を急ぐな、だが、チャンスを逃してもだめだ」
「商売のやりかたぐらいわかってるぜ、シルク」ヤーブレックは言い返した。「すくなくともおまえ程度にはな」
「そりゃそうだろう、だがな、おまえはすぐカッとなる。おれはただ頭をいつも冷やしておくようにと言ってるんだ」小男はなんだか悲しげに、ビロードの上着や、身につけている宝石類を見おろして、ためいきをついた。「あーあ、まあいいか、以前はこんなものなしで生きていたんだから」シルクはダーニクのほうを向いた。「荷造りにかかったほうがよさそうだな」
ガリオンはけげんそうにシルクを見つめた。
「聞いてなかったのか、ガリオン? だれとだれを連れていくことになっているか、シラディスが言っただろう。〈ふたつの命を持つ者〉はダーニクのことだし、〈珠かつぎ〉はエランドのことだ。忘れてるといけないから言っておくが、〈案内人〉とはおれのことさ」
ガリオンの目が丸くなった。
「おれが一緒にいくのは当然だろう」シルクはニカッと笑った。「おれが道案内をしてやらなかったら、おまえはたぶん迷子になっちまうよ」
底本:「マロリオン物語2 熊神教徒の逆襲」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1990(平成2)年 6月30日 発行
1997(平成9)年11月15日 三刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年2月8日作成
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語2 熊神教徒の逆襲.zip iWbp3iMHRN 96,527,473 bda3428d9a8b04e61f1f049424252468
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本45頁14行 シルクは撫然とした口調で
憮然
底本211頁18行 ボレン王妃
ポレン