マロリオン物語1 西方の守護者
GUARDIANS OF THE WEST
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)民の長《おさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)すべてをまとめるにかわ[#「にかわ」に傍点]の役
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ジュディ=リンに――
バラはほころび、やがて色あせる。
だが記憶のなかの美しさ、かぐわしさは
いつまでもうすれない。
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目 次
プロローグ
第一部 アルダー谷
第二部 リヴァ
訳者あとがき
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西方の守護者
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登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エランド……………………………………〈珠〉を運んだ少年
ベルディン…………………………………魔術師
ヘター………………………………………アルガリア王の世継ぎ
アダーラ……………………………………ヘターの妻
バラク………………………………………チェレク王のいとこ
ケルダー(シルク)………………………ドラスニア王の甥
ローダー……………………………………ドラスニア王
ポレン………………………………………ローダーの妃
ケヴァ………………………………………ドラスニアの皇太子
ラン・ボルーン二十三世…………………トルネドラ皇帝
ヴァラナ……………………………………トルネドラの将軍
マンドラレン………………………………ミンブレイト人
レルドリン…………………………………アレンド人
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プロローグ
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ベルガリオンがいかにして〈リヴァの王座〉につき、いかにして神トラクの息の根を止めたか、その顛末の記。
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[#地から2字上げ]――『アロリアの伝説』序文より
七人の神々は世界を創造したのち、みずから選んだ民とともに平穏に暮らしていたという。ところが、神の父、ウルだけは孤高を守っていた。神々を持たぬ民の長《おさ》、ゴリムが高い山に登り、ウルを執拗に求めるまでは。ウルはゴリムの強い願いに心を開き、ついにゴリムを手元へ招きよせて、ゴリムとその民ウルゴの神となることを誓った。
アルダー神もまた他の神とはまじわらず、ひとり離れてベルガラスやその他の弟子たちに〈意志〉と〈言葉〉の力を教えていた。そしてあるときアルダーは子供の心臓ほどもない、握りこぶしの形をした小石を手にとった。石は〈アルダーの珠〉と名づけられた。〈アルダーの珠〉にはとてつもない力がみなぎっていた。なぜなら、それは原初のころより存在していた〈宿命〉が形を得たものだったからである。
アンガラク人の神トラクは相対立する〈宿命〉に迫られて、あらゆるものを手中におさめようとした。〈珠〉の噂を聞きおよぶや、トラクは平静でいられなくなった。〈珠〉が自分の運命の邪魔をするのを恐れたためである。そこでトラクはアルダーのもとへ行き、〈珠〉を捨てるよう頼んだ。アルダーの反対にあったトラクはかれをうちすえ、〈珠〉を奪って逃げた。
アルダーはただちに兄弟の神を呼び集め、それぞれの民からなる強大な軍を率いて、トラクと対決した。しかしトラクはみずからの民であるアンガラク人の敗北があきらかになると、〈珠〉をかかげもち、その力を使って、世界にひびをいれ、〈東の海〉を呼び込んで敵軍の侵攻をはばんだ。
だが〈珠〉はトラクの勝手なふるまいに怒り、トラクを炎で焼いて、癒えることのない苦しみを与えた。トラクの左手は焼きつくされ、左の頬は黒こげになり、炎と化した左目には〈珠〉の憤怒の火が以後燃えつづけた。
トラクは苦しさのあまり、民を連れてマロリーの荒野に逃げ、民はクトル・ミシュラクの地にトラクの都を建てた。トラクがその都を果てしのない薄闇に隠したことから、その地は〈夜の都市〉と呼ばれた。
こうして二千年の歳月が流れた。このころ、アローン人の王〈熊の背〉チェレクはアルダー神のいる〈谷〉へおもむいて、魔術師のベルガラスに北の道には障害がないことを告げた。かれらはチェレクの三人のたくましい息子、〈猪首〉ドラス、〈駿足〉アルガー、〈鉄拳〉リヴァとともに〈谷〉を出発した。狼に姿を変えたベルガラスの先導で、一行は辺境の地をぬけ、マロリーにはいると、夜陰に乗じてトラクのいる鉄塔に忍び込んだ。そして深手を負った神が痛みにつきまとわれた浅い眠りについているすきに、〈珠〉のある部屋へはいりこんだ。〈珠〉は鍵つきの鉄の小箱にいれられていた。邪心のない〈鉄拳〉リヴァが無事〈珠〉をとりだすと、一行は西をめざしてにげだした。
めざめたトラクは〈珠〉を盗まれたことに気づくと、あとを追った。しかしリヴァが〈珠〉をかかげると、トラクはその怒りに満ちた炎に恐れをなして退散した。そのあと一行はマロリーを横断して、住みなれた領土にたどりついた。
ベルガラスはアロリアを四つの王国に分割した。そのうち三つを〈熊の背〉チェレク、〈猪首〉ドラス、〈駿足〉アルガーに治めさせた。〈鉄拳〉リヴァとかれの一族には〈アルダーの珠〉を与えて、リヴァを〈風の島〉に配した。
リヴァは、アローン人の神ベラーがふらせてくれたふたつの星から大きな剣をこしらえて、その柄頭《つかがしら》に〈珠〉をのせた。そして〈西方〉がトラクから守られることを願って、〈城塞〉の謁見の間の壁にその剣をさげた。
さて、わが家に帰ったベルガラスは妻のポレドラが留守中に双子の姉妹を産み、この世を去ったことを知った。悲嘆のうちにかれは娘たちをポルガラ、ベルダランと名づけた。ふたりが年ごろになると、ベルガラスはベルダランをリヴァ一族の母とすべく、〈鉄拳〉リヴァに嫁がせた。だがポルガラは手元から離さず、魔術のあれこれを教えこんだ。
トラクは〈珠〉を奪われた怒りにかられて、〈夜の都市〉を打ち壊し、アンガラク人を四つの民に分けた。マーゴ人、ナドラク人、タール人は〈東の海〉の西岸沿いにある荒れ野に暮らすことになった。マロリー人はかれらの住む大陸全土の監視役となった。さらにかれらすべてに目をひからせ、落伍者を懲らしめ、人間のいけにえをトラクに捧げる役割を、グロリムの僧侶たちに負わせることにした。
数世紀がすぎた。このころ、〈珠〉はリヴァの子孫ゴレクが守っていた。そこへトラクに仕える〈裏切り者〉ゼダーがあらわれて、蛇の民の女王サルミスラと謀り、〈風の島〉へ密使の一味を送り込んでゴレクとその家族全員の殺害をはかった。悪事は成功した。子供がひとり逃げたという者がいたが、さだかではなかった。
トラクは〈珠〉の守り役の死に勢いを得て、軍勢を率いて〈西方〉へ侵攻し、西の民を支配して〈珠〉を取り戻そうとした。アレンディアの平原ボー・ミンブルで、アンガラク人の軍と〈西方〉の軍はすさまじい殺しあいを展開した。そこへ〈リヴァの番人〉ブランドが〈珠〉を楯につけてあらわれ、トラクと一騎打ちのすえ、その傷のある神を打ちたおした。アンガラクの軍勢はこれを見てふるえあがり、たちまちのうちにほろぼされてしまった。ところが、〈西方〉の王たちが祝杯をあげているうちに、〈裏切り者〉ゼダーが夜陰にまぎれてトラクの死体を運びさった。そしてウルゴ人の高僧ゴリム――高僧はみなこの名前で呼ばれる――が、トラクは殺されたのではなく、眠っているだけであることをあきらかにした。リヴァ一族の王がふたたび王座にすわるまで、眠りつづけるのだと。
〈西方〉の王たちは、すなわちそれはいつまでも眠りからさめないということだと信じた。なぜなら、リヴァ一族はみな殺しにされたことになっていたからである。だがベルガラスと娘のポルガラは真実を知っていた。ゴレク一家が虐殺されたとき、たしかにひとりの子供が難を逃れたのだ。そしてベルガラスとポルガラはその子とその子孫を何代にもわたって、ひそかにかくまってきたのである。しかし大昔の予言によれば、リヴァの王が王座に返り咲くのはまだ先のことだった。
さらに何世紀もがすぎた。このころ〈裏切り者〉ゼダーは世界の果ての名もない都市で、ひとりの無垢な子供に出会い、その子をつれてこっそり〈風の島〉に向かった。純真無垢な子供ゆえ、その子ならもしかするとリヴァの王の剣の柄頭《つかがしら》から〈アルダーの珠〉を奪えるかもしれないと期待したのである。事は期待どおりにはこび、ゼダーは子供と〈珠〉を懐に〈東方〉へ逃げ帰ろうとした。
女魔術師のポルガラは当時、センダリアのとある農場に身を隠し、彼女をポルおばさんと呼ぶ小さな少年とともに暮らしていた。この少年こそがリヴァ一族の最後の子孫で孤児のガリオンなのだが、ガリオンは両親の素性を知らずにいた。
ベルガラスは〈珠〉が盗まれたことを聞きおよび、センダリアにかけつけて、ゼダーと〈珠〉の捜索に娘を協力させようとした。ポルガラが少年も同行させることを主張したため、ガリオンは事情をまったく知らないまま、ポルおばさんとベルガラスについて農場をあとにした。ベルガラスについてガリオンが知っていることといえば、かれがときおり農場へやってくる語り部であることだけで、ガリオンはベルガラスをおじいさんと呼んでいた。
農場に暮らす鍛冶屋のダーニクも一行についていった。まもなく新しい仲間が加わった。チェレクのバラク、ドラスニアのケルダーである。ケルダーはシルクとみんなから呼はれていた。しばらくすると、〈珠〉を求めるかれらの旅に新顔がふえた。アルガリアの馬の首長ヘター、ミンブレイトの騎士マンドラレン、ウルゴの狂信者レルグ。それに偶然セ・ネドラ皇女が加わったかたちになった。皇女は父親でトルネドラの皇帝ラン・ボルーン二十三世と喧嘩のすえに、宮殿を逃げだして、一行のメンバーになったのだが、探索の旅についてはなにも知らなかった。こうして、『ムリンの書』の予言どおり、一行の顔ぶれがそろったのだった。
ドリュアドの森へやってきた一行は、かねてよりひそかにガリオンをつけねらっていたマーゴのグロリム、アシャラクにでくわした。そのときガリオンの心のなかにある予言の声がガリオンに話しかけ、かれは素手と〈意志〉でアシャラクを倒した。アシャラクは炎に焼かれてあとかたもなく消えてしまった。ここにいたってようやくガリオンは自分に魔術の力がそなわっていることを知った。ポルガラはおおいに喜んで、これからは魔術師にこそふさわしい名前ベルガリオンと名乗るべきだといった。彼女はこのとき、ひたすら待ちつづけた気の遠くなるような歳月がついに終わって、予言どおりガリオンがリヴァの王座につく人物であることを確信したのだった。
さて、〈裏切り者〉ゼダーは急いでベルガラスから逃げる途中で、おろかにも西のグロリムの高僧であるクトゥーチクの領土に足をふみいれた。ゼダー同様、クトゥーチクもトラクの弟子だったが、このふたりは数世紀にわたっていがみあっていた。ゼダーがクトル・マーゴスの荒れ果てた山をこえているとき、クトゥーチクはかれを待ち伏せて〈アルダーの珠〉と、〈珠〉にふれても死なない清らかな心の持ち主である子供を奪い取った。
ベルガラスはひきつづいてゼダーを追っていたが、アルダーのもうひとりの弟子であるベルティラの知らせで、今や〈珠〉と子供がクトゥーチクの手中にあることを知った。ベルガラスをのぞく一行はニーサへ向かっていた。ニーサには蛇をあがめる民が住んでおり、かれらに君臨する女王サルミスラは、ガリオンをとらえて宮殿へ連れていった。しかしポルガラがかれを女王から解放し、サルミスラを蛇に変えてしまった。サルミスラは以後永遠に蛇の姿で民を支配することになった。
ふたたび一行と合流したベルガラスは、一行を率いて困難な旅をつづけ、マーゴの砂漠の山のてっぺんに建つラク・クトルという闇の都へついた。クトゥーチクとの対決を目的に、けわしい山をのぼったかれらだったが、クトゥーチクはこれを予期して子供と〈珠〉とともに一行を待ちかまえていた。やがてベルガラスとクトゥーチクの一騎打ちとなった。追いつめられたクトゥーチクは禁じられた呪文を使おうとして失敗し、跡形もなくほろびてしまった。かれの死んだあとには骨一本残らなかった。
クトゥーチクの敗北の衝撃で、ラク・クトルは山頂から根こそぎなだれおちた。グロリムたちの都が倒壊し、瓦礫の山となっていくあいまをぬって、ガリオンは間一髪で無垢な子供を抱き上げ、安全な場所へ連れて行った。逃げるかれらをマーゴ人の王タウル・ウルガスの軍勢が追いかけた。しかしアルガリアの領土にはいると、アルガリアの軍勢がマーゴ軍をくいとめ、撃退した。こうしてようやくベルガラスは〈珠〉を本来の場所に戻すべく、〈風の島〉へ向かったのだった。
〈風の島〉へつき、リヴァ王の広間において、エラスタイドの日に、エランドと呼ばれている例の子供が〈アルダーの珠〉をガリオンの手に渡し、ガリオンは王座を背に〈珠〉をあるべき位置、つまり、リヴァ王の大きな剣の柄頭《つかがしら》にのせた。このとき〈珠〉が炎につつまれ、剣は冷たい青い火をはなって輝いた。これをもって、ガリオンがリヴァの王座の真の継承者であることが証明され、いならぶ者たちはかれを〈リヴァの王〉、〈西方の大君主〉、〈珠の保有者〉と認めたのである。
ボー・ミンブルの戦いのあと署名された協定により、リヴァの王となるべくセンダリアのつましい農場からやってきた少年は、ほどなくセ・ネドラ王女と婚約した。だが、婚礼がおこなわれないうちに、かれの頭のなかの予言の声が、書庫へ行き、『ムリンの書』の写本を手にとるよううながした。
その大昔の予言によれば、ガリオンはリヴァの剣をとって傷のある神トラクと対決し、殺すか殺されるかの戦いを挑むことを運命づけられていた。そして世界の運命はその結果にかかっているのだった。トラクはガリオンの即位によって長い眠りからさめつつあった。この対決でふたつの相対する〈宿命〉すなわち予言の、どちらかひとつの勝利が決められるのだ。
ガリオンは軍を率いて〈東方〉へ侵攻することもできた。かれの心は恐怖でいっぱいだったが、危険にたちむかうのはひとりで十分だと決心した。ベルガラスとシルクだけがかれについていった。かれらは夜明けにリヴァの城塞をひそかに出発し、トラクのいる北方の〈夜の都市〉の廃墟めざして長い旅についた。
しかしセ・ネドラ皇女は〈西方〉の王たちに訴えて、ガリオンの無事をはかるため、アンガラク軍を攪乱した。彼女はポルガラの援助を得て、センダリア、アレンディア、トルネドラを行軍した。おびただしい数の軍勢を同行させて、〈東方〉の軍勢と戦わせるのがねらいだった。両軍はタール・マードゥの都をとりまく平原で衝突した。マロリーのザカーズ皇帝の軍とマーゴ人の狂った王タウル・ウルガスの軍にはさまれて、セ・ネドラの軍は全滅の危機にひんした。しかしアルガリアの族長の頭《かしら》、チョ・ハグがタウル・ウルガスを殺し、ナドラクの王、ドロスタ・レク・タンがセ・ネドラ側についたことによって、セ・ネドラの軍はからくも撤退した。
しかしながら、セ・ネドラ、ポルガラ、ダーニク、子供のエランドは捕虜となってザカーズにつきだされ、ザカーズはゼダーの審判を待ってかれらをクトル・ミシュラクの廃墟へおくりこんだ。ゼダーはダーニクを殺し、急遽かけつけたガリオンが見たのは、ダーニクの死体にすがって泣くポルガラの姿だった。
ベルガラスは魔術を駆使した果たし合いでゼダーを地中深く埋まった岩に封じ込めた。しかしこのころには、トラクの眠りは完全にさめていた。こうして、そもそものはじめより敵対していたふたつの宿命は、廃墟と化した〈夜の都市〉で対決した。そして〈光の子〉ガリオンが〈闇の子〉トラクをリヴァの王の剣で抹殺し、闇の予言はむせび泣きながら虚無へ逃げ込んだのである。
ウルと六人の生き神はトラクの死体をひきとりにきた。ポルガラはダーニクを生き返らせることを神たちに嘆願し、かれらはしぶしぶこれに同意した。さらに神々はダーニクに魔術の贈物をした。そうしたところで、この先ポルガラの能力がダーニクのそれに劣ることはありえないからだった。
こうして一行はリヴァの都に帰り着いた。ベルガリオンはセ・ネドラと結婚し、ポルガラはダーニクを夫にした。〈珠〉はふたたび本来の場所におさまって、〈西方〉を守った。そして七千年におよんだ神々と王たちと人々の争いに終止符が打たれたのである。
いや、そう思われた。
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第一部 アルダー谷
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1
遅い春のことだった。ふりつづいていた雨があがり、霜はとうに地面から消えていた。冬の眠りからさめたばかりのたよりない若芽が、やわらかな日差しにあたためられて青空のもとに広がるしめった茶色の野原をうっすらとおおっている。空気はまだ冷たいが、青い空は黄金色の一日のはじまりを告げていた。そんなよく晴れた早朝、センダリア王国の南沿岸にあるごみごみしたカマールの港町のなかでも比較的静かな地域にある宿屋から、エランド少年は家族とともに出発した。これまで家族というものがなかったエランドにとって、家族の一員だという感覚は、ものめずらしかった。愛情によってかたくむすばれた小さな人の輪の中に自分がいるという事実のせいで、まわりのあらゆるものが色づき、ときには色あせてさえ見えた。その春の朝、かれらが出発した旅の目的は、単純であると同時に大変意味深いものでもあった。かれらはわが家へ帰るところだったのだ。家族がなかったのとまったく同じように、エランドには家というものがなかった。旅の目的地である〈アルダー谷〉の小さな家を一度も見たことがなかったにもかかわらず、エランドは早くそこへ行きたくてうずうずしていた。まるで生まれた日から〈アルダー谷〉の石ころも木もしげみもすべて記憶と想像力にしっかりと焼きつけられているかのように。
夜半、〈風の海〉の沖合いからたたきつけるような激しい雨が一時的にカマールにふりそそぎ、きたときと同じようにまたたくまに通過した。灰色の玉石舗装の通りや、タイル屋根の高い建物はきれいに洗い上げられて、朝日をあびていた。二日前、鍛冶屋のダーニクが入念な下調べのすえに買った頑丈な荷馬車で、一行はゆっくり通りを進んでいった。荷台に満載された食料袋や道具類のあいだにもぐりこんでいるエランドは、かすかにツンとくる港の潮の匂いをかぐことができた。通りすぎていく赤い屋根の建物の日のあたらない部分にも、青みがかった朝の色がうつっていた。御者台に乗っているのはもちろんダーニクだった。万事につけ有能なダーニクがその日焼けしたたくましい両手で手綱をにぎっていると、馬車馬たちは彼にまかせておけばなにも心配することはないという安堵をおぼえた。
しかし魔術師ベルガラスが乗っている太ったおだやかな牝馬は、馬車馬たちが感じている安らかな安堵をあきらかに分かちあっていなかった。ままあることなのだが、ゆうべも宿屋の酒場でおそくまでねばっていたベルガラスは、一夜明けた今朝、鞍にどかりとすわりこんだきり、自分がどこへ行こうとしているのか、ほとんど、あるいはまるきり意に介していなかった。荷馬車と同じく購入されてまもない牝馬は、新しい所有者の奇癖に慣れる暇がまだなかったから、その積極的ともいえる無関心に神経をとがらせていた。牝馬はひんぱんに目をぎょろつかせて、背中に乗ったままぴくりともしないこの不動のかたまりは本当に自分を荷馬車に同行させるつもりなのかどうか、判断に苦しんでいるようだった。
女魔術師ポルガラとして全世界に知られているベルガラスの娘は、カマールの街をいく父親の半分眠っているようなようすをけわしい目つきでながめたが、その場で小言を言うのはやめにした。ほんの数週間前に夫となったダーニクとならんですわったポルガラは、フードつきのマントと簡素な灰色のウールの服をきていた。一行がリヴァにいたあいだは、習慣上青いビロードのガウンや宝石類やぜいたくな毛皮のふちどりのあるマントを身につけていたのだが、いまはそれをみんなしまいこんで、ほとんど肩の荷をおろしたような気持ちでこの質素な服にふたたび着替えていた。必要とあれば、ポルガラははでな装いもきらいではなかったし、そういう服をまとった彼女は、世界中のどんな女王よりも女王然として見えた。しかし適切な服装ということに関しては、彼女はきわめて鋭い感覚を持っていた。彼女がこの簡素な服を喜んできるのは、それが何世紀ものあいだ彼女がやりたかったことにぴったりの服装だったからだ。
それにひきかえ、父親のベルガラスが服装に求めるのは快適さの一語につきた。かれのブーツが左右ちぐはぐなのは、金がないしるしでも、無頓着なしるしでもなかった。それは意識的選択の結果だった。こっちのブーツは左足がぴったりなのに、右足の爪先がきつい、あっちのブーツは右足はぴったりなのに、左のかかとがこすれる、だからなのだ。服についてもまったく同じだった。ズボンの膝のつぎあてには無関心だったし、自分がやわらかいロープをベルトがわりにしている世にもめずらしい男のひとりである事実にもへいちゃらだった。さほど気むずかしくない人間ですら雑巾にするのもためらうほど、しわくちゃで、肉汁のしみだらけのチュニックでも、着ごこちさえよければ大満足だった。
カマールの大きなカシの門は開いていた。数百リーグ東のミシュラク・アク・タールの平原で荒れ狂った戦いが終わったからだった。セ・ネドラ皇女にひきいられてその戦さで戦った大軍勢は、すでに故郷へ帰り、西の諸王国にはふたたび平和が戻っていた。リヴァの王であり、〈西方の大君主〉であるベルガリオンはリヴァの謁見の間の王座にすわり、〈アルダーの珠〉はふたたび王座の上の本来の場所におさまった。傷ついたアンガラクの神は死に、かれが西方に与えつづけてきた永年の脅威は永久に消え去ったのである。
カマールの門を守る番人たちは、エランドの家族にはほとんど注意を払わなかった。一行は門をくぐりぬけてカマールをあとにし、東へまっすぐにのびる広い道を進みはじめた。道の先にはミュロスがあり、アルガリアの馬族の領土とセンダリアをへだてる雪をいただいた山脈がそびえていた。
荷馬車の一行と辛抱強い牝馬がカマール郊外の大きな丘をとぼとぼ進んでいくと、きらめく大気の中で小鳥たちがくるくる円をえがいては、矢のように飛びさっていった。小鳥たちは歓迎するようにさえずりながら、意味ありげに荷馬車の上空を羽ばたきしていきつもどりつした。ポルガラが澄んだ明るい光の中で美しい顔をあげ、耳をすました。
「なんと言っているんだね?」ダーニクがたずねた。
彼女は静かな微笑をうかべると、豊かな声で答えた。「たわいのないおしゃべりをしているだけよ。小鳥はしょっちゅうおしゃべりしているわ。朝で、太陽が照っていて、自分たちの巣がちゃんとあれば、たいてい小鳥は幸せなのよ。ほとんどの小鳥は卵の話をしたがるわ。小鳥というのはいつも卵の話をしたがるものなのよ」
「それでもちろん、きみに会えたのを喜んでいるんだろう?」
「たぶんね」
「いつか小鳥の言葉をわたしに教えてもらえるかい?」
ポルガラはダーニクを見てほほえんだ。「お望みならね。でも、あまり実用的なものではないわよ」
「実用的でないことをちょっと知っておいても害にはならないだろう」ダーニクはおおまじめで言った。
「まあ、ダーニクったら」ポルガラは笑いながら夫の手に手を重ねた。「あなたって本当におもしろいわ、自分でわかっていて?」
ダーニクがカマールで細心の注意をはらって選びだした食料袋と箱と道具類にうずまって、ふたりのすぐうしろにいたエランドは、このやりとりににっこりし、ふたりが分かちあっている深くて温かい愛情に自分もあずかっているような気がした。エランドは愛情に慣れていなかった。かれを育てたのは、育てたという表現が適当ならばだが、ベルガラスに顔形がそっくりのゼダーという背信者だった。ゼダーはどこかの忘れられた街で、たまたま幼い子供だったエランドに会い、特別の目的のためにかれを連れさったのである。少年は食べ物と服を与えられたにすぎず、陰気な顔つきの見張り役が言ったのは、「おまえにやってもらいたい使命があるんだ」という言葉だけだった。ほかの言葉は聞いたことがなかったので、ポルガラたちに見つけられたとき、少年が話せたのは使命の一言だけだった。ほかにどう呼べばいいのかわからなかったため、以来少年の名はエランドになったのである。
一行は大きな丘の頂上にたどりつくと、一息いれて馬車馬たちをひと休みさせた。エランドは荷馬車の中の居心地のいい場所から外を見渡した。斜めにさしこんでいる朝の長い日差しをあびて、四方をきれいに囲まれた薄緑色の野原がどこまでも広がっている。エランドは次にむきをかえて、カマールの方角をふりかえった。赤い屋根と、六つの王国の船でこみあう青緑のきらめく港が見えた。
「寒くない?」ポルガラがきいた。
エランドはうなずいた。「うん、ありがとう」いまではだいぶ楽に言葉が出るようになっていたが、それでもまだ彼はめったにしゃべらなかった。
ベルガラスは鞍に力なくすわったまま、ぼんやりと短い白い顎ひげをしごいていた。朝日がしみるのか、生気に乏しい目を細めている。「朝日をあびて旅に出るのは好きなほうなんだ。道中の無事をいつも太陽が予言しているような気がしてな」そこまで言ってから、かれはしかめっつらをした。「しかし、こうまでまぶしい必要があるとは知らなんだ」
「わたしたち、けさはすこし敏感になっているのかしらね、おとうさん?」ポルガラがいやみたっぷりにたずねた。
ベルガラスはぐっと顎をひいて、娘をふりかえった。「はっきり言ったらどうなんだ、ポル? 言わなきゃおまえの気がすまんことはよくわかっとるんだ」
「まあ、おとうさん」ポルガラはきらきら光る目を丸くしてわざとわからないふりをした。「わたしがなにを言おうとしているですって?」
ベルガラスはうんざりしたようにうなった。
「ゆうべ飲み過ぎたことはご自分でももう十分おわかりのはずよ。いまさらわたしから言われるまでもないでしょう?」
「そういうことを話したい気分じゃないんだよ、ポルガラ」ベルガラスはそっけなく言った。
「まあ、お気の毒」ポルガラは口先だけで言った。「気分がよくなるようなものをなにかこしらえましょうか?」
「ありがたいが、おことわりだ」ベルガラスは答えた。「おまえの調合した薬はあとあと何日も口の中から味が消えん。頭痛のほうがまだましだよ」
「まずくない薬なんか、効きゃしませんよ」ポルガラは着ているマントのフードをうしろへはらいのけた。彼女の髪は長く漆黒で、額の左のはえぎわのひとふさだけが、雪のように白かった。「警告はしたんですからね、おとうさん」ポルガラは冷たく言った。
「ポルガラ、そのだから言ったでしょう≠ヘやめてもらえんか?」ベルガラスはひるみながら言った。
「あなたはわたしが父に警告するのを聞いたわね、ダーニク?」彼女は夫にむかってたずねた。
ダーニクはあきらかに笑うまいと努力していた。
老人はためいきをついてから、チュニックの内側に手をつっこんで、小さな酒瓶をとりだした。歯で栓をぬき、長々とあおった。
「おとうさんたら」ポルガラはあきれて言った。「ゆうべあれだけ飲んだのに、まだ飲みたりないの?」
「よりによってこの問題が会話の対象であるかぎりはな」かれは娘の夫に酒瓶をつきだした。「どうだね、ダーニク?」
「ありがたいんですが、ベルガラス」ダーニクは答えた。「わたしにはちょっと早すぎますよ」
「ポルは?」ベルガラスは次に娘に酒をさしだした。
「ばかはよして」
「好きにするさ」ベルガラスは肩をすくめ、瓶に栓をしなおしてふたたびしまいこんだ。「それでは、行くとするか? 〈アルダー谷〉までは長い道のりだ」かれは馬を軽くつついて歩かせはじめた。
荷馬車が丘の反対側をおりようとしたとき、カマールをふりかえったエランドは、馬にまたがった数人の男たちが門を走り出るのを見た。日差しがなにかに反射してきらりと光った。男たちが身につけている衣服の少なくとも一部が、ぴかぴかのはがねでできていることはあきらかだった。エランドはその事実を口にだそうかと考えたが、けっきょくだまっていることにした。かれはふたたびゆったりとすわりなおして、ふわふわの白い雲がうかんだ深い青空を見あげた。エランドは朝が好きだった。朝、一日はいつも期待にみちている。失望がはじまるのはたいがいもっと遅くなってからだ。
一マイルも行かないうちに、カマールを走りでた兵士たちは一行に追いついた。分隊の指揮官は、まじめな顔つきをした片腕のセンダリア人将校だった。分隊が荷馬車のあとにぴたりとつくと、指揮官は馬を前に進め、鞍の上からぎくしゃくと会釈をして、かたくるしくポルガラによびかけた。「公爵夫人」
「ブレンディグ将軍」ポルガラは短くうなずいて答えた。「早起きなのね」
「兵隊はほとんどいつも早起きです、侯爵夫人」
「ブレンディグ」ベルガラスがしびれをきらして言った。「これは偶然の一致なのか、それともわけあってわたしたちを追っているのか?」
「センダリアはきわめて秩序正しい王国です、長老どの」ブレンディグはていねいに答えた。「われわれは偶然の一致が起きないように物事を手配するべくつとめています」
「だろうな」ベルガラスはにがにがしげに言った。「今度はフルラクはなにをたくらんでいるんだ?」
「陛下はただ、護衛があったほうが適当であろうと感じられただけです」
「道ならわかってるんだ、ブレンディグ。なんといっても、前に何度か通っているんだからな」
「もちろんですとも、ベルガラスどの」ブレンディグはうやうやしく同意した。「護衛は友情と尊敬をもっておこなわねばなりません」
「それじゃ、どうしても一緒に行くと言うんだな?」
「命令は命令です、長老どの」
「その長老≠ヘやめてくれんか?」ベルガラスは訴えた。
「けさの父は寄る年波を感じているのよ、将軍」ポルガラが意地の悪い微笑をうかべた。「七千歳ですものね」
ブレンディグはもうちょっとでにやりとするところだった。「まったくです、公爵夫人」
「けさはどうしてそんなに堅苦しいの、ブレンディグ卿? わたしたちそんな仰々しい言葉は省略できる仲のはずでしょう」
ブレンディグはいぶかしげにポルガラを見た。「わたしたちがはじめて会ったときのことをおぼえておられるんですか?」
「わたしの記憶では、あれはあなたがわたしたちを逮捕しようとしたときでしたね?」ダーニクが歯を見せて遠慮がちに笑いながら言った。
「いえ、その――」ブレンディグはきまりわるそうに咳きばらいした。「――正しくは逮捕というわけではなかったんですよ、善人ダーニク。本当はあなたがたを宮殿へお連れしろという陛下のお考えをお伝えしようとしたところだったんです。それはともかく、マダム・ポルガラ――あなたの奥方――は、おぼえておいででしょうが、エラト公爵夫人をよそおっておいででした」
ダーニクはうなずいた。「ええ、そうでした」
「最近、機会があって古い系譜学の書物を見ていて、おどろくべき発見をしたんです、善人ダーニク、知っていましたか、あなたの奥方が本当にエラト公爵夫人だということを?」
ダーニクは目をぱちくりさせ、信じられないように言った。「ポル?」
ポルガラは肩をすくめた。「ほとんど忘れてたわ。大昔のことよ」
「しかし、あなたの称号はまだ生きていますよ、公爵夫人」ブレンディグはうけあった。「エラト地方の地主はひとりのこらず毎年わずかな年貢をおさめていまして、センダリアがそれをあなたにかわって預かっているのです」
「退屈な話だこと」ポルガラは言った。
「ちょっと待った、ポル」ベルガラスがきゅうに目を輝かせて、きびきびと言った。「ブレンディグ、その預かり金はどのくらいになるんだ――おおよそのところ?」
「七百万、だと思います」ブレンディグは答えた。
「ふむ」ベルガラスは目を丸くした。「ふむ、ふむ、ふむ」
ポルガラはベルガラスをじろじろ見た。「なにをたくらんでるの、おとうさん?」しんらつにきいた。
「おまえのために喜んでいるだけさ、ポル」かれはおうように言った。「わが子が裕福だと知れば、どんな父親だってうれしくなる」ベルガラスはブレンディグにむきなおった。「教えてくれんか、将軍、娘の財産はだれが管理しているのかね?」
「王によって管理されております、ベルガラスどの」
「そりゃまた、フルラクもさぞ荷が重いだろう」ベルガラスは考えこむように言った。「ほかにもいろいろ責任を負わねばならんことがあるんだからな。ここはひとつわしがかわって――」
「おおきなお世話よ、老いぼれ狼」ポルガラはきっぱり言った。
「わしはただ――」
「そうでしょうとも、おとうさん。おとうさんがなにを考えたかはわかってます。お金の管理はいままでどおりでけっこうだわ」
ベルガラスはためいきをついた。「わしはこれまで一度も金持ちになったことがないんだよ」ものほしげに言った。
「だったら、なくたってどうってことないでしょう?」
「おまえは冷たい女だな、ポルガラ――あわれな年老いた父親にこんな貧乏をさせておくなんて」
「何千年ものあいだ、お金も物も持たずに生きてきたはずよ、おとうさん。いまさらお金が必要なもんですか」
ダーニクが妻にたずねた。「どうやってエラト公爵夫人になったんだい?」
「ボー・ワキューン公爵にあることをしてあげたのよ。ほかのだれにもできないことだったの。かれはとても感謝してたわ」
ダーニクはあぜんとした。「しかし、ボー・ワキューンは大昔に滅ぼされたんだよ」
「ええ。知ってるわ」
「どうやら、このたぐいのことになれるには苦労しそうだ」
「わたしがほかの女とちがうことは知ってたはずよ」
「ああ、しかし――」
「わたしの年齢がそんなに大問題なの? そのことでなにかが変わってくるの?」
「そうじゃない」ダーニクは即座に言った。「なにも変わらないよ」
「だったら、気をもむのはよしてちょうだい」
一行は南センダリアをゆっくりと進んでいった。日が暮れると、国道のパトロールと秩序に腐心するトルネドラの軍団が経営する、快適できちんとした宿にとまり、カマールを出発して三日めの午後、ミュロスについた。ミュロスの街の東に広がる広大な囲い地は、アルガリアからきた家畜の群れではやくも満員だった。家畜のひづめがまきあげる土ぼこりが、空をおおっていた。家畜を狩り集めるシーズン中のミュロスは、快適な街とは言いがたかった。暑くて、きたなくて、騒々しい。ベルガラスの提案で、ミュロスには寄らずに先へ進み、夜は空気が少しでもきれいで、周囲が少しでも静かな山の中で過ごすことになった。
家畜の囲い地を通過して、〈北の大街道〉を山のほうへ向かいはじめたあと、ベルガラスはブレンディグ将軍にたずねた。「〈谷〉までずっとついてくるつもりか?」
「ああ――いや、そうでもありません、ベルガラスどの」ブレンディグは道の前方からアルガーの騎手の一団が近づいてくるのをうかがいながら答えた。「じっさいのところ、そろそろ引きかえそうと思います」
アルガーの騎手たちを先導しているのは、ワシのような顔の長身の男で、革の服をまとい、漆黒の頭髪をひとふさうしろになびかせていた。「ブレンディグ将軍」男は静かな声で言うと、センダリア人の将校に会釈した。
「ヘター卿」ブレンディグは陽気に答えた。
「ここでなにをしとるんだ、ヘター?」ベルガラスは問いつめた。
ヘターの目がまんまるになった。「山をこえて家畜の群れを連れてきたんですよ、ベルガラス」その口調は純真そのものだった。「これから帰るところですが、連れがあったほうがそちらもよいのではないかと思ったのです」
「よりによってこの時間にここにいるとは、ふしぎなこともあるものだな」
「そうでもないでしょう」ヘターはブレンディグを見て、片目をつぶった。
「これはゲームかなんかなのか?」ベルガラスはふたりにきいた。「監督されるのはごめんだぞ。どこへ行くにせよ、兵隊の護衛はぜったいにおことわりだ。自分の面倒ぐらいちゃんと自分で見られる」
「それはわかっています、ベルガラス」ヘターはなだめるように言うと、荷馬車へ視線をうつして快活に声をかけた。「またお会いできてうれしいですよ、ポルガラ」それからいたずらっぽくダーニクをながめた。「結婚生活があっているんですね、あなたは二、三ポンドふとったようだ」
「あなたの奥さんこそ、あなたの皿に二、三杯は余計に料理を盛っているよ」ダーニクはともだちににやりと笑いかけた。
「もうその結果が見えてきているのかな?」
ダーニクはしかつめらしくうなずいた。「かすかにね」
ヘターは渋い顔をしたあと、エランドにこっそり片目をつぶってみせた。エランドとヘターはウマが合った。なんでもいいからしゃべって沈黙を埋める必要にかられたことが、ふたりともないせいだろう。
「わたしはこれで失礼します」ブレンディグが言った。「楽しい旅でしたよ」かれはポルガラにおじぎをし、ヘターにうなずいたあと、鎧を鳴らす分隊を率いて、ミュロスのほうへ戻っていった。
「このことについてはフルラクと話し合うつもりだ」ベルガラスは陰気にヘターに言った。
「きみの父上ともな」
「不死身であれば、しかたのない代償のひとつですよ、ベルガラス」ヘターはそっけなかった。
「人々はあなたを尊敬するようになっているんです――たとえ尊敬してくれないほうがいいとあなたが思うときでも。では行きましょうか?」
東センダリアの山並は、山越えが不愉快になるほど高くはなかった。たけだけしい容貌のアルガー一族に荷馬車の前後を守られて、一行は楽なペースで緑濃い森をぬけ、流れの急な山の小川のわきを通って、〈北の大街道〉をたどっていった。馬を休ませるためにある場所で止まっていたとき、ダーニクが荷馬車からおりて道ばたへ歩いていき、泡だちながら流れおちる小さな滝の下にできた深い水たまりをしげしげとながめた。
「この旅は特別急ぐんですか?」彼はベルガラスにたずねた。
「いや、それほどでもない。なぜだね?」
「昼食をたべるのによさそうな場所だと思ったんです」鍛冶屋はへたな言い訳をした。
ベルガラスはあたりを見まわした。「あんたがそうしたいんなら、かまわんよ」
「よかった」ダーニクはややうわの空といった例の表情で荷馬車にとってかえし、袋の中からひと巻の細い蝋びきの紐をとりだした。その紐の一端に色あざやかな織り糸を巻いたかぎ針をむすび、きょろきょろしながら、細くてよくしなう若木をさがしはじめた。五分後、ダーニクは水たまりの上にはりだした岩の上に立って、滝のすぐ下の渦巻く水に釣り糸をなげこんだ。
エランドは流れのふちまでぶらぶらおりていって、見守った。ダーニクは流れのまん中に糸をなげて、流れの急な緑の水が疑似餌を水中深くひきずりこむのを期待していた。
三十分ほどたったころ、ポルガラがふたりに呼びかけた。「エランド、ダーニク、お昼ができたわよ」
「わかった」ダーニクはうわの空で答えた。「いま行くよ」
エランドは従順に荷馬車にもどったが、目はさかまく水のほうばかり見ていた。ポルガラはむりもないわ、といった顔でちらりとエランドをながめると、少年のために切っておいた肉とチーズをパンにのせて、小川の士手へ持っていけるようにしてやった。
「ありがとう」エランドはひとこと言った。
ダーニクはまだ一心不乱に釣りをしていた。ポルガラは水のふちへおりていって、声をかけた。「ダーニク。お昼よ」
「わかった」目を水に釘づけにしたまま、ダーニクは答えた。「すぐ行くよ」また釣り糸をなげこんだ。
ポルガラはためいきをついた。「やれやれ、どんな男にも最低ひとつは悪い癖が必要らしいわね」
さらに三十分たつと、ダーニクは困惑した顔つきになった。岩からとびおりて小川の土手に立ち、頭をかきながら腑に落ちぬ表情で、渦巻く水をじっと見つめた。「魚がいるのはわかってるんだ」と、エランドにむかって言った。「感じられるほどなんだよ」
「ここだよ」エランドは土手のそばの動きののろい深い渦を指さした。
「もっと遠くにいると思うがね、エランド」ダーニクは疑わしげだった。
「ここだよ」エランドはくりかえして、また指さした。
ダーニクは肩をすくめた。「おまえがそう言うんなら」頭から信じていない態度で、疑似餌を渦に落とした。「やはり魚は流れのまんなかにいると思うね」
次の瞬間、いきなり竿がしなって、ふるえた。ダーニクはたてつづけに四匹の鱒を釣り上げた。どの鱒もよくこえてずっしりと重く、わきばらに銀色の斑点があって、湾曲した顎は針のような歯でいっぱいだった。
「ただしいスポットを見つけるのにどうしてあんなに時間がかかったんだ?」夕方近くに一行が街道へもどったとき、ベルガラスがきいた。
「そういう場所は組織的にわりださないとならないんですよ、ベルガラス」ダーニクは説明した。「片側からはじめて、餌をなげこむごとに移動していくんです」
「なるほど」
「スポットを見つけるには、くまなくあたってみるしかありません」
「そりゃまあそうだ」
「しかし、魚がいる場所はちゃんとわかっていたんです」
「当然だ」
「ただ、正しい方法でやりたかったんですよ。わかっていただけると思いますが」
「わかるとも」ベルガラスはしかつめらしく言った。
山脈を通過したあと、一行は南に曲がり、アルガリアのひろびろとした草地を通った。緑の大海が東からむらなく吹いてくる風にそよぎ、家畜や馬の群れが草をはんでいた。ヘターはアルガー一族の要塞で一泊していくことをさかんにうながしたが、ポルガラは聞きいれなかった。
「チョ・ハグとシラーには、そのうちお邪魔するとつたえてちょうだい。でもいまはどうしても〈谷〉へ行かなけりゃならないのよ。母の家をもう一度住めるようにするには、たぶん夏いっぱいかかると思うの」
ヘターは真顔でうなずいて、短く敬礼すると、家来を連れて東へ折れ、波うつ草原をよこぎって、アルガリアの族長の指導者である父のチョ・ハグが住む、山のような砦へむかっていった。
ポルガラの母親のものだった小屋は、〈アルダー谷〉北端のなだらかな丘陵のくぼ地にあった。四方を囲まれたそのくぼ地には、きらめく小川がながれ、カバノキとスギのまじった森が広がっていた。小屋は灰色と朽ち葉色と焦げ茶色の粗石をきっちりくみあわせてできていた。ひろびろとした、ひらべったい建物で、小屋≠ニいう言葉が連想させるものよりかなり大きかった。三千年以上も空き家だったために、屋根をふいてある材料やドアや窓枠は風雪にさらされてすっかりだめになり、建っているのは茨におおわれた、屋根のない家の骨組みだけになっていた。にもかかわらず、一行の到着を待っていたようなふしぎな雰囲気が、小屋にはただよっていた。まるで、かつてここで暮らしたポレドラという女性が、いつか娘がもどってくることを予期し、小屋を形づくっている石にその思いをすりこんでおいたかのように。
一行がついたのは、日ざかりの午後だった。エランドは荷馬車のきしみにさそわれて、いつしか眠りこんでいた。荷馬車がとまったとき、ポルガラはかれをそっとゆりおこした。「エランド、ついたわ」かれは目をあけて、これからずっとわが家とよぶことになるその場所をはじめて見た。背の高い緑の草地にうずくまった、無残な小屋の骨組みが見えた。深緑のスギと、その中にまじって白い幹をうかびあがらせているカバの森がむこうに見えた。小川が見えた。その場所はとほうもない可能性にみちていた。エランドはひとめでそれに気づいた。小川はいうまでもなく、おもちゃの舟をうかべたり、小石をとばしたり、それに、これといった遊びを思いつかないときには、とびこんだりするのに、もってこいだった。何本かの木は、木のぼり用に特にデザインされたように見えたし、小川の上にはりだしている白いカバの巨木は、木のぼりと飛び込みのうきうきする組合わせを同時にさしだしていた。
一行の荷馬車がとまっているところは、小屋にむかってゆるやかに傾斜した大きな丘の上だった。すいこまれそうな青空にタンポポの綿毛のような雲がうかび、そよかぜにふかれて移動していく――そんな日に、子供がかけおりるのにぴったりの丘だった。膝まである草は太陽をあびてみずみずしくしげり、足の下の芝土はしめりをおびて固くしまっているだろう。その長い坂をかけおりると、甘い空気の匂いが心を酔わせるにちがいない。
次にエランドが強く感じたのは、何世紀ものあいだ変わらずに耐えてきた深い悲しみの情だった。ベルガラスのしわ深い顔をふりかえったとき、涙がひとつぶ老人の張りのない頬をつたって、刈り込んだ白いあごひげの中に消えるのが見えた。
亡妻をしのぶベルガラスの悲嘆にもかかわらず、エランドはなにごとにも左右されない深い満足をもって、森と小川とみずみずしい草原のあるこの小さな緑のくぼ地をながめた。彼はにっこりして、「わが家」と口にだしてみた。そしてそのひびきが気にいった。
ポルガラが少年の顔をじっとのぞきこんだ。彼女の目はひどく大きく、きらめいていた。その目は気分しだいでさまざまに色を変え、明るい青から文字どおり灰色に近い水色になったり、深いすみれ色になったりした。「ええ、エランド」ポルガラは豊かにひびく声で答えた。「わが家よ」それから彼女はエランドをそっと抱きしめた。そのやさしい抱擁には、彼女が父親とともに終わりのない責務にはげんできた気も遠くなる歳月を通して、けっして消えることのなかったこの場所への激しい思いがこめられていた。
鍛冶屋のダーニクはあたたかな日差しのもとにひろがるくぼ地を考え深げにながめながら、頭の中で計画をたて、物事をならべたり、ならべなおしたりしていた。「すべてを思いどおりにするには少し時間がかかるよ、ポル」かれは新妻に言った。
「わたしたちには世界中の時間があるわ、ダーニク」ポルガラはやさしくほほえんで答えた。
「荷馬車から荷物をおろして、テントをはるのを手伝おう」ベルガラスがぼんやりひげをかきながら言った。「そしてあすは、〈谷〉へおりて――ベルディンや双子と話をし、わしの塔をのぞいてみるとするか」
ポルガラはじっと父親を見た。「そんなにいそいで行ってしまわないでよ、おとうさん。ベルディンとは先月リヴァで話しあったばかりだし、これまで何度もチャンスがあったのに、塔へは何十年も平気で行かなかったじゃないの。わかってるのよ、しなくてはならない仕事があると、いつでも急によそへ逃げだそうとするんだから」
ベルガラスは傷つけられたふうをよそおった。「ポルガラ、そりゃ――」かれは抗議しようとした。
「言いわけしようったってむだよ」ポルガラはぴしゃりとさえぎった。「二、三週間――か、ひと月かふた月――ダーニクを手伝ったところで、永久にとりかえしのつかないことになるわけじゃないでしょう。それとも、冬の雪にわたしたちを見捨てていこうというつもり?」
ベルガラスは丘のふもとにたっている骨組みだけの家をながめ、それを居住可能にするためにかかるであろう苦難の時間を想像して、うんざりした。「それもそうだな、ポル」かれはばかに早口で言った。「喜んで手をかそう」
「あてにできるのはわかってたわ、おとうさん」ポルガラは愛想たっぷりに言った。
ベルガラスはダーニクをじろじろ見ながら、鍛冶屋の頑固度をおしはかろうとした。「まさか全部手でやろうというんじゃなかろうな」と、言ってみた。「つまりだ――その、わしたちは代わりの手段をもっておるわけだからな」
ダーニクはちょっと困った顔になった。嘘のつけない率直な顔に、ほんのかすかな不満の色がうかんだ。「それは――ええと――どんなものでしょうか、ベルガラス」かれは疑わしげに言った。「そのことについては、あまりいい感じをもっていないんです。手ですれば、それが正しくできることは確かなんですが、このもうひとつのやりかたには、まだあまり気がのらないんですよ。なんだかごまかしているような気がして――わたしの言う意味がわかっていただければの話ですが」
ベルガラスはためいきをついた。「そうじゃないかと思っていたんだ」かれは首をふって、肩をいからせた。「しようがない、あそこへおりて、とりかかるとするか」
家の四隅から積もりに積もった三千年分の岩屑を掘り出し、ドアと窓の枠組みをなおし、梁を新しくし、屋根をふくのに、約ひと月かかった。ダーニクが見ていないすきにベルガラスが盛大にもうひとつの手段を使わなかったら、ふた月はかかっただろう。鍛冶屋がいないと必ず、あらゆる種類の退屈な仕事がひとりでに完成した。たとえば、一度ダーニクが荷馬車で材木を集めに出かけたことがあった。かれの姿が見えなくなるやいなや、ベルガラスはそれまで苦心さんたんして梁をけずっていた斧をほうりだして、エランドをしかつめらしく見つめ、やおら上着の中へ手をつっこんで、ポルガラの貯蔵庫から失敬してきた士焼きの酒瓶をとりだした。長々と酒をあおってから、言うことをきかない梁に意志の力を向け、ひとことつぶやいてそれをときはなった。白い木片の吹雪があたり一面に飛び散った。梁がきちんと平らになると、老人は自己満足の笑みをうかべてエランドを見やり、いたずらっぽく片目をつぶった。エランドは真顔そのもので片目をつぶってかえした。
少年は前にも魔術がおこなわれるのを見たことがあった。〈裏切り者〉ゼダーは魔術師だったし、クトゥーチクもそうだった。じっさい、ほとんど生まれてからこのかたずっと、少年はその特異な才能を持つ者たちの世話をうけてきた。しかし、ベルガラスのように、生き生きと、なにくわぬ顔で魔術をやってのける能力は、ゼダーにもクトゥーチクにもなかった。不可能なことを、口に出して言うまでもないような簡単なことに思わせてしまう老人の無造作な手さばきこそ、真の名人のしるしだった。エランドはもちろんそのやりかたを知っていた。物心ついてからずっといろいろな魔術師たちと生活していれば、だれだって理屈くらいわかるようになる。ベルガラスがいとも簡単に魔術をやってのけるのを見ていると、エランドは自分も試したい気持ちになった。だが、そのことを考えるといつも、これほど強く何かをしたいと思ったのははじめてなのに気づくのだった。
ダーニクから学んだことはもっとありふれてはいたが、深遠であることにかけてはベルガラスの魔術に少しも劣らなかった。エランドは鍛冶屋が両手を使ってできないことはほとんどないのを、たちまち見抜いた。ダーニクは既知の道具ならほとんど全部使いこなすことができた。木も石も鉄も真鍮も、かれの手にかかると粘土のように従順だった。家も椅子もベッドも、あっけないほど簡単にできあがった。注意深く観察しているうちに、エランドは職人とへまな素人の一線を画する無数のちょっとしたコツに気がついた。
ポルガラは家事全般をとりしきった。小屋が住める状態になるまでのあいだ、かれらが寝起きするテントは、どんな家にも負けないほどこざっぱりとしていた。寝具は毎日空気にさらされたし、食事が用意され、洗濯物が干された。あるとき酒を乞いにきたのか、くすねにきたのか、ベルガラスは煮つめたばかりのせっけんを切りながら満ちたりたようすでハミングしている娘を批判的な目で見て、にがにがしげに言った。「ポル、おまえは世界中でもっとも力のある女なんだぞ。数えきれないほど称号を持っているし、どこの王もおまえを見れば機械的に頭をさげる。そんなふうにせっけんなんぞを作る必要がどこにあるのか、教えてもらえんか? 骨は折れるし、暑くてやりきれないし、だいいちひどい臭いじゃないか」
ポルガラはおちつきはらって父親を見た。「たしかにわたしは世界中でもっとも力のある女として何千年もすごしてきたわ、老いぼれ狼。王たちは何世紀もわたしに頭をさげてきたし、持っている称号はおぼえきれないわ。でもね、結婚したのはこれがはじめてなのよ。おとうさんもわたしもいそがしすぎて、それどころじゃなかったわ。だけどわたしは結婚したかったから、練習だけはずっとしてきたの。良い妻が知っている必要のあるものは全部知っているし、良い妻がする必要のあることは全部できるのよ。わたしを批判するなんておかどちがいだわ、干渉はやめてちょうだい。わたしはかつてないほど幸せなのよ」
「せっけんをつくっていてか?」
「ええ、それも幸せのひとつだわ」
「なんたる時間の浪費だ」ベルガラスはなげやりなジェスチャーで、それまでなかったせっけんをひとつ、ポルガラがすでに作ったせっけんの山にくわえた。
「おとうさん!」ポルガラは地団駄をふんで言った。「やめて、いますぐ!」
ベルガラスは自分のとポルガラのとふたつのせっけんをもちあげた。「どこがちがうというんだ、ポル?」
「わたしのは愛情で作られているんですからね、おとうさんのはただのごまかしだわ」
「これで洗っても服はちゃんときれいになる」
「わたしのはちがうわ」ポルガラはベルガラスの手からせっけんをとりあげて、てのひらにきちんとのせ、ふっと息をふきかけた。せっけんはたちどころに消えた。
「感心せんな、ポル」
「うちの家族はときどき感心できないことをする癖があるようね」彼女はおだやかに言った。「自分の仕事にもどったらいかが、おとうさん。わたしのことはほっておいてよ」
「おまえはダーニクと同じくらい始末が悪いぞ」ベルガラスは娘をとがめた。
ポルガラは満足そうにほほえんだ。「知ってるわ。だからかれと結婚したのよ」
「行こう、エランド」ベルガラスは立ち去りぎわに少年に言った。「この種のことは感染するかもしれんからな、おまえにうつったら大変だ」
「そうそう。もうひとつ言っておくことがあったわ、おとうさん。わたしの貯蔵庫に近寄らないでちょうだい。お酒がほしいなら、わたしに頼むことね」
聞こえなかったふりをしてベルガラスは返事もせずに大股に歩き去った。だが、かどを曲がるやいなや、エランドがチュニックの中から茶色のつぼをとりだして、だまって老人にわたした。
「でかしたぞ、ぼうず」ベルガラスはにたりと笑った。「コツさえおぼえてしまえば、なんでもなかろう?」
その夏と、それにつづくながい黄金色の秋がおわるまで、かれら四人は、小屋が住めるようになり、きびしい冬に耐えられるようになるまで、仕事に精をだした。エランドも手伝えるだけのことをしたが、おもにかれの手伝いは、おとなたちの邪魔にならないようにしていることだった。
雪がふると、世界中が一変したようだった。ぽつんと一軒だけ建っている小屋は、以前にもまして暖かで安全な安息所になった。食事をとったり、長い夜をみんなですごしたりする中央の部屋には、大きな石の暖炉があって、ぬくもりと明かりのふたつを提供してくれた。格別寒い日でもなければ一日中外で遊んでいるエランドは、夕食から寝るまでのあいだのそのぬくぬくしたすばらしい数時間になると、たいてい眠くなってきて、暖炉の前の毛皮の敷物の上にねそべって踊る炎をじっと見つめていると、まぶたがゆっくりさがってくるのだった。しばらくたって目がさめると、ひんやりした自分の部屋の闇のなかにいて、羽毛ぶとんをあごの下まできちんとかけており、ポルおばさんがそっとここまで運んできてベッドに寝かせてくれたことがわかった。そしてかれはしあわせそうなためいきをつき、ふたたび眠りについた。
ダーニクがソリを作ってくれたことはいうまでもない。くぼ地までの長いくだり坂は、ソリ遊びに格好の場所だった。雪はソリがもぐるほど深くはなかったから、坂をすべりおりる猛スピードの余力をかって、くぼ地の草原をびっくりするほど遠くまですべっていくことができた。
ソリ・シーズンが最大の山場に達したのは、耳がちぎれそうに寒いある夕方のことだった。西の地平線上に浮かぶむらさき色の雲のあいだに太陽が沈み、空があわい青緑に変わった。エランドはソリをひきずりながら、凍った雪の斜面をのぼっていた。てっぺんにつくと、かれはちょっとたちどまって呼吸をととのえた。下方に雪の土手に四方を囲まれてうずくまっている、草ぶき屋根の小屋が見えた。窓から金色の明かりがもれ、煙突からは水色の煙がしんと静まりかえった空気の中へ矢のようにまっすぐたちのぼっている。
エランドはにっこりしてソリに腹ばいになり、足で地面をけった。ソリ遊びには申し分のない状況だった。急滑降の邪魔になる風はそよとも吹いておらず、かれは驚異的スピードで斜面をすべりおりた。草原をとぶように通過して森にはいり、幹の白いカバの木と黒っぽいスギの木のあいだをぬって飛んでいった。行く手に小川がなかったら、もっと遠くまで行っていただろう。結局、盛大な水しぶきとともに水中に落ちたとはいえ、それは胸躍る刺激的体験だった。なぜなら、ソリごと、高さ数フィートの小川の土手をとびこえ、優雅な長い曲線をえがいて黒い水の上を飛んでいったのだから。
服にも頭にも氷が張りはじめ、寒さにふるえながら家にたどりついたエランドは、ポルガラに長々とお説教された。エランドの見るところ、ポルガラにはものごとをおおげさにする傾向があった――特に、人の欠点についてしゃべるチャンスを与えられたとき、その傾向は増大した。ポルガラはエランドをまじまじとながめたあと、ただちにひどくまずい薬をもってきて、スプーンで容赦なくそれを飲ませた。それから凍ってばりばりになった服をぬがせにかかり、ぬがせながら大々的なお説教を開始した。彼女はみごとな声と、すばらしい命令口調の持ち主だった。くわえて、ゆたかな抑揚が彼女の意見に有無を言わせぬ力強さをつけたした。だが、エランドとしては、自分の最新の失態を叱るなら、もうちょっと軽くて短い小言にしてもらいたかった――ことに、ポルガラが大きなごわごわしたタオルでかれをこすりながらしゃべっているあいだ、ベルガラスとダーニクがふたりそろって笑いをかみころすのに苦労している事実を考えれば。
ダーニクが口を開いた。「しかし、それですくなくとも今週は風呂にはいらなくてもいいな」
ポルガラは少年の体を拭く手をとめて、ゆっくりとふりむき、夫をじっと見た。ぎくりとさせられる表情ではなかったが、その目はひややかだった。「なにか言った?」ポルガラはダーニクにたずねた。
「う――いや、なんでもないよ」ダーニクはあわてた。「なんでもないんだ」ばつが悪そうにベルガラスを一瞥すると、かれは立ちあがって言った。「たきぎを持ってきたほうがよさそうだな」
ポルガラの眉が片方だけつりあがり、視線が父親に移った。「それで?」
ベルガラスは無邪気そのものといった表情で、目をぱちくりさせた。
ポルガラの表情は変わらなかったが、沈黙は険悪になった。
「わしも手つだうとするかな、ダーニク?」老人はとうとう根負けして、腰をあげた。ふたりは出ていき、エランドはポルガラとふたりだけで残された。
彼女はエランドにむきなおると、ばかに静かにたずねた。「斜面をずっとすべりおりて、草原をつっきったのね?」
エランドはうなずいた。
「そして土手をとびこえ、小川に落ちたの?」
「はい、マアム」エランドは認めた。
「小川のふちを飛びこえて水に落ちる前に、ソリからおりることを思いつかなかったの?」
エランドは寡黙な少年だったが、この出来事における自分の立場をわかってもらうには、ちょっと説明をする必要があると感じた。「あの」かれは口を開いた。「おりることは思いつかなかったんです――だけど、たとえ思いついていたとしても、おりなかったと思います」
「どういうことかしら」
エランドは熱っぽくポルガラを見た。「あのときまでは、なにもかもすごくうまくいってたんです――だから、ちょっと具合いが悪くなりかけただけで、それを途中でやめるのはよくないと思ったんです」
長い間があった。「わかったわ」ポルガラはいかめしい顔をして、ようやく言った。「すると、これはモラルの判断の問題に似ているわね――小川までずっとソリでつっこんだことは?」
「そう言ってもいいと思います、はい」
ポルガラはしばらくじっとエランドを見つめたかと思うと、ゆっくりと両手に顔をうずめた。「もう一度はじめからこれをやりとおすだけの力が、いったいわたしにあるのかしら」彼女は悲痛な声で言った。
「やりとおすって、なにを?」エランドはちょっとびっくりしてきいた。
「ガリオンを育てるのは、わたしには大変な苦労だったのよ」ポルガラは答えた。「でも、そのガリオンだってなにかをするときはもうちょっと筋の通った理由をもちだしてきたわ」ポルガラはエランドを見ると、かわいくてたまらないように笑い、かれを抱きしめ、しっかり自分のほうへ引き寄せた。「ああ、エランド」そしてすべてがまたもとどおりになった。
[#改ページ]
2
魔術師ベルガラスは欠点の多い人物だった。肉体労働が好きだったことはいまだかつてただの一度もなく、暗褐色の酒《エール》が好きなことはいささか度をこしていた。ときには真実を意に介さないこともあり、正しい所有権をめぐる一部の細かい問題になると、あっぱれなほど無頓着だった。評判のいかがわしい女たちも、かれの好色ぶりには尻尾をまき、かれの言葉の選択が物議をかもすことは跡をたたなかった。
女魔術師のポルガラは人間ばなれした意志の持ち主で、腰のすわらぬ父親の品行矯正に数千年をついやしてきたが、めぼしい成功はおさめていなかった。しかし、悲しいほどの見込み薄にもめげずに彼女はがんばっていた。幾世紀にもおよぶ歳月を通じて、彼女はベルガラスの悪癖をくいとめようと敢然と戦っていた。しかしさすがのポルガラも怠惰と身なりにかまわぬ無頓着さの二点については、匙をなげていた。罰あたりな言葉を吐くこと、嘘をつくことについても、しぶしぶ白旗をあげていた。だがたびかさなる敗北にもかかわらず、酒ののみすぎと、盗みと、女遊びの三つに関しては、いまでも鉄の意志をもって抵抗していた。ある個人的理由から、彼女はそれらの問題に戦いをいどむことが義務だと感じていたのである。
ベルガラスが翌年の春まで〈アルダー谷〉の塔に帰るのを延ばしたおかげで、エランドは、ときおり訪れる平穏な生活の余白に侵入してくる父と娘の果てしない、信じがたいほど複雑なこぜりあいを、まぢかに目撃することができた。ものぐさな老人がいずれもなにくわぬ顔で、ポルガラの台所をうろつき、彼女の暖炉からはあたたかさを、彼女の貯蔵庫からはよく冷えた酒をくすねるたびに、ポルガラは舌鋒するどく非難したが、ベルガラスは数世紀の実績を物語るたくみな技術で、のらりくらりとそれをかわした。しかしエランドはそれらの意地悪な言いぐさや、ものやわらかで軽々しい返事の奥にひそむものをちゃんと見抜いていた。ベルガラスと娘が他人には理解できないほどはげしくやりあうのは、ふたりの絆がそれだけ強いからだった。だから一見果てしない争いのようでも、その実、陰には互いへの限りない愛情がひそんでいて、かれらふたりがそれを隠しているだけのことだった。だからといって、ポルガラがいまのままのベルガラスに満足しているというわけではなかった。ただ、口で言うほど、父親に失望しているわけではないということなのだ。
ベルガラスが娘夫婦とともにポレドラの小屋で冬をすごしたのにはわけがあった。ポルガラもベルガラスもそのわけを知っていた。ひとこともしゃべったわけではなかったが、この家にまつわる老人の記憶は変えられる必要があると父娘は思っていたのである――消すのは不可能だった。この世のどんな力をもってしても、妻の思い出をベルガラスの頭から消し去ることはできなかったからだ。だが、記憶は多少変える必要があった。この草ぶき屋根の小屋によってよびさまされるものが、帰宅して愛するポレドラの死を知ったあの悲劇の日だけでなく、ここで過ごした幸福な日々ともなるように。
一週間ふりつづいたあたたかい春の雨が雪をとかし、空にふたたび青さがもどると、ついにベルガラスは延期を余儀なくされていた旅に出るしおどきだと決心した。「本当はこれといって急ぐわけではないんだが、ベルディンと双子のところへちょっとよってみたいんだ。そろそろわしの塔もきれいにしたほうがいいだろう。この数百年、うっちゃっておいたからな」
「かまわなければ、わたしたちも一緒に行くわ」ポルガラが申し出た。「なんと言っても、小屋の修繕を手伝ってくれたんですからね――熱心にではなかったにせよ、手伝ったのはたしかだわ。だからわたしたちがおとうさんの塔の掃除を手伝えば、ちょうどおあいこじゃない」
「ありがたいのはやまやまなんだが、ポル」ベルガラスはきっぱりと断わった。「しかしおまえの考える掃除は、わしにはいささか徹底的すぎるような気がするんだ。おまえが掃除すると、あとで必要になったものをほこりの山からほじくりだすはめになる。どこかまんなかあたりにすいた空間があれば、わしにとっては十分きれいな部屋なのさ」
「まあ、おとうさん」ポルは笑った。「あいかわらずだこと」
「あたりまえだ」ベルガラスは静かに朝食を食べているエランドを考え深げにながめた。「しかし、問題がなければ、この子を連れて行こうかと思う」
ポルガラはすばやくベルガラスを見た。
ベルガラスは肩をすくめた。「道中の話し相手になる。景色が変われば、エランドも楽しかろう。それにな、結婚した日からおまえもダーニクもふたりきりになるチャンスがなかったんだ。おくればせのプレゼントだと思ってくれ」
ポルガラは父親を凝視した。「ご親切に、おとうさん」そっけなく言ったかと思うと、急に目つきがなごみ、愛情がその目にあふれた。
ベルガラスは狼狽ぎみに目をそらした。「入用なものがあるか? 塔からもってきてもらいたいものがあるかということだが。ときおりあそこにおいてきた旅行鞄やら箱やらが山のようになっとるぞ」
「まあ、ずいぶん気がきくのね、おとうさん」
「そういうものにふさがれている場所をあけたいのさ」ベルガラスはにやりとした。
「その子をちゃんと見ていてくださるんでしょうね? 塔の中を歩き回りだすと、うわの空になることがあるんだから」
「わしと一緒なら大丈夫だよ、ポル」老人はうけあった。
というわけで、翌朝、ベルガラスは馬にまたがり、ダーニクがエランドを老人のうしろに押し上げた。「二、三週間で連れて帰ってくるよ」ベルガラスは言った。「でなくとも、すくなくとも真夏までには戻る」身をのりだしてダーニクと握手すると、ベルガラスは馬首を南へむけた。
空気はまだ冷たかったが、早春の太陽はまぶしいほどだった。若芽の匂いが空中にただよい、ベルガラスのうしろにゆったりまたがったエランドは、馬が〈谷〉の奥へはいっていくにつれて、アルダーの存在を感じることができた。それは穏やかな、やさしい意識であり、激しい好奇心に支配された意識だった。〈谷〉の中にいると、アルダー神の存在は、あいまいな精神浸透ではなく、ほとんど手でさわれそうなほどくっきりしていた。
冬枯れの高い草むらをふみわけて、馬はゆっくりしたペースで〈谷〉を進んでいった。ひろびろとした広がりに大木が点在していた。木々はてっぺんのこずえを空に突き出し、葉の芽ぶきだした枝の先を広げて、太陽にあたためられた空気のやさしいくちづけをうけようとしていた。
「どうだ、ぼうず?」一リーグあまり乗ったあと、ベルガラスが口をひらいた。
「塔はどこですか?」エランドは礼儀正しくたずねた。
「もうちょっと先だ。塔のことをどうして知った?」
「あなたとポルガラが話していました」
「盗み聞きは非常によくない癖だぞ、エランド」
「あれは内緒の話だったんですか?」
「いや、そうじゃない」
「じゃあ、盗み聞きじゃなかったんだ、そうでしょう?」
ベルガラスはサッとふりかえって、肩ごしにうしろの少年を見た。「おまえみたいな若いものにしては、そいつはずいぶんうまい区別のしかただな。どうしてそう考えた?」
エランドは肩をすくめた。「なんとなく。あれはいつもここであんなふうに草を食べるんですか?」かれは近くで静かに草をはんでいる十二頭あまりの赤褐色のシカを指さした。
「わしの記憶にあるかぎりではそうだな。アルダーの存在には動物たちを友好的にさせるなにかがあるんだ」
かれらは優雅な一対の塔の前をとおりすぎた。ふたつの塔のあいだには、風変わりな空気のように軽い橋が弓なりにかかっていた。これはベルティラとベルキラの塔だ、とベルガラスはエランドに教えだ。彼らは双子の魔術師だが、心が緊密につながりすぎているため、おたがいにどうしても相手の言うことを、うしろ半分は横取りせずにはいられなくなる癖があった。しばらくすると、ばら色の水晶でできた精巧な塔があらわれた。それはまるで柔らかに光る空中にうかんだピンクの宝石のように見えた。この塔はせむしのベルディンの塔だとベルガラスは言った。ベルディンは思わず息をのむほどの美しいものを、醜い自分のまわりにはりめぐらしていた。
ようやくかれらはベルガラス自身のずんぐりした、機能的な塔に到着して、馬をおりた。
「さて、ついたぞ。上にのぼろう」
塔のてっぺんの部屋はひろびろとした円形の部屋で、目を疑うちらかりようだった。部屋の中を見まわしながら、ベルガラスの目にうんざりした表情がうかんだ。「こりゃ何週間もかかるな」
エランドは室内のありとあらゆるものにひきつけられたが、いまのベルガラスにあまり期待できないことはわかっていた。老人はあれこれ見せたり、説明したりする気分ではなさそうだった。エランドは暖炉のありかを見つけ、変色した真鍮のスコップと柄の短いほうきを発見して、すすで黒くなった暖炉の開口部の前に膝をついた。
「なにをしているんだ?」ベルガラスはきいた。
「新しい家へいったら、まっさきにしなくちゃならないのはいつでも火をおこせるようにすることだって、ダーニクが言ってます」
「ほう、ダーニクが?」
「たいていそれはあんまり重要じゃない仕事なんだけど、それがとっかかりを作るんです――いったんはじめてしまえば、残りの仕事はそれほど大変じゃなく見えてくるって。ダーニクはそういうことについてはすごく賢明ですね。バケツかごみ入れのようなものはありますか?」
「どうしても暖炉を掃除するというのかね?」
「あの――さしつかえなければ。だって、すごくきたないもの、そう思いませんか?」
ベルガラスはためいきをついた。「ポルとダーニクははやくもおまえを堕落させてしまったわけだ。わしはおまえを救いだそうとしたんだが、最後はいつもそういう悪影響が勝利をおさめることになっとるんだな」
「そのようですね」エランドは同意した。「バケツはどこにあるって言いましたっけ?」
夕方までにふたりは暖炉の周囲を半円形にかたづけ、その過程で一組の寝椅子と、数脚の椅子と、がっしりしたテーブルを見つけていた。
「どこかに食料のたくわえはないでしょうね?」エランドはものほしげに言った。腹時計がそろそろ夕食の時間であることをはっきり告げていた。
ベルガラスは寝椅子の下からひっぱりだした羊皮紙の巻物から目をあげた。「なんだって? ああ、そうだな。うっかりしてた。双子のところへ行こう。きっとなにかを料理しとるにちがいない」
「ぼくたちが行くって知っているんですか?」
ベルガラスは肩をすくめた。「知っているかいないかは本当はどうでもいいんだよ、エランド。友人や家族がなんのためにあるのか、学ばなくちゃならんな――かれらはあてにするためにあるのさ。余計な努力をせずに生きていきたけりゃ、なにはともあれ、友人親戚にたよることが基本ルールのひとつなんだ」
双子の魔術師、ベルティラとベルキラはかれらを見て大喜びした。そして料理中のなにか≠ヘポルガラの台所からあらわれるものにまさるとも劣らないいい匂いのシチューであることがあきらかになった。エランドがそう言うと、ベルガラスはおもしろそうな顔をした。「ポルに料理を教えたのはだれだと思う?」
ベルディンがやっとベルガラスの塔にたちよったのは、それから数日たって、塔の掃除がだいぶはかどり、十二世紀分の汚れがはじめて床からこそぎおとされたときだった。
「なにをしているんだ、ベルガラス?」醜い小男は問いただした。ベルディンは異常に背が低く、よれよれのぼろをまとって、古いカシの切株のように体がよじれていた。髪もひげも垢でかたまり、小枝やら藁やらがそこらじゅうにくっついていた。
「なに、ちょっと掃除をな」ベルガラスはどぎまぎしたように答えた。
「なんのために?」ベルディンはたずねた。「どうせまたきたなくなるんだろう」カーブした壁ぎわにおいてあるたくさんの古い骨をベルディンはながめた。「おまえが本当にやるべきことは、床を煮とかしてスープの出し汁をつくることだぞ」
「わしに会いにきたのか、それとも文句をつけにきたのか?」
「ここの煙突から煙がでているのが見えたんだ。だれかがここにいるのか、このごみが自然発火したのか、たしかめたかっただけさ」
エランドはベルガラスとベルディンが本当は相手が大好きなのだとすぐにわかった。この言い合いも、彼ら流の楽しみかたのひとつなのだ。エランドは聞き耳をたてながら、仕事をつづけた。
「酒をどうだ?」ベルガラスがきいた。
「おまえが作った酒ならいらん」ベルディンはにべもなく答えた。「おまえのような大酒のみなら、上品な酒のつくりかたくらいいいかげんにおぼえたらどうなんだ」
「この前のはそう悪くなかったはずだぞ」ベルガラスが抗議した。
「おれが飲む水だってあれよりはましだ」
「心配するな。この樽は双子のところから借りてきたんだ」
「おまえが借りているのを連中は知ってたのか?」
「だったらどうなんだ? とにかくわしらはなんでも共有しているんだよ」
ベルディンのもじゃもじゃの眉毛が片方だけつりあがった。「双子は食べ物と飲み物をわけあい、おまえは食欲とのどの渇きをわけあうってわけか。それならうまくいくな」
「もちろんだ」ベルガラスはかすかに傷つけられた顔でふりかえった。「エランド、どうしてもそれをやる必要があるのか?」
せっせと板石をこすっていたエランドは顔をあげた。「邪魔ですか?」
「あたりまえだ。人が休んでいるときにそんなふうに働きつづけるのは非常に失礼なことなんだぞ、知らんのか?」
「忘れないようにします。どのくらい休む予定ですか?」
「いいからブラシをおくんだ、エランド」ベルガラスは命令した。「その床のしみはすくなくとも十二世紀前からあるんだ。もう一日かそこらそのままだってどうってことはない」
「ベルガリオンそっくりじゃないか、え?」ベルディンが暖炉のそばの椅子のひとつにねそべりながら、言った。
「ポルガラの影響と無縁ではなかろうな」ベルガラスは同意して樽から大ジョッキに二杯酒をすくった。「あれは会う予供ごとにしるしをつけちまう。ポルの偏見の影響をできるだけ緩和しようと努力してるんだがね」ベルガラスはしかつめらしくエランドを見つめた。「思うに、この子はガリオンよりりこうだが、ガリオンのような冒険心に欠けるようだ――ちょっと行儀がよすぎるんだよ」
「その点ならおまえを見習えば心配はないな」
ベルガラスはもうひとつの椅子にすわって、足を暖炉のほうへつきだした。「いままでなにをやっていたんだ? ガリオンの婚礼以来会っていなかったな」
「だれかがアンガラク人に目を光らせておいたほうがいいと思ったのさ」ベルディンは腋の下をぼりぼりとかきながら答えた。
「それで?」
「それでって、なにが?」
「どこでおぼえたのかしらんが、まったくいまいましい口ぐせだな。アンガラク人はなにをやってる?」
「マーゴ人はあいかわらずタウル・ウルガスの死に右往左往してるよ」ベルディンは笑った。
「やつは完全な気ちがいだったが、マーゴをちゃんと統一していた――チョ・ハグがサーベルでぐさりとやるまではな。やつの息子のウルギットは王の器じゃない。マーゴ人の注意をひくことさえできないときてる。西のグロリムたちはもう役目を果たすことさえおぼつかない。クトゥーチクが死んで、トラクが死んで、いまのグロリムにできるのは壁をにらんで指をかぞえることぐらいさ。おれの推測では、マーゴ社会は完全崩壊のせとぎわだな」
「悪くない。マーゴ人をとりのぞくことが、わしの人生のおもな目標のひとつだったんだ」
「おれはまだほくそえむ気にはなれんな」ベルディンは意地悪く言った。「ザカーズのところにベルガリオンがトラクを殺したという消息がとどいたあと、ザカーズはそれまで演じていたアンガラク統一のえせ芝居をかなぐりすてて、マロリー人たちをラク・ゴスカに進軍させた。マロリー人はそのままいすわっている」
ベルガラスは肩をすくめた。「どっちにしても、ラク・ゴスカはあまり魅力的な街ではなかったな」
「いまじゃますます魅力をなくしてる。ザカーズは拷問やくし刺しの刑が教育だと考えているらしい。ラク・ゴスカの城壁の残骸に、実習の結果を飾ったのさ。クトル・マーゴスのどこへ行っても、ザカーズが通ったあとのはりつけ台や火あぶりの柱には犠牲者がいる」
「わしにはマーゴ人の不幸に毅然と耐える能力があるらしいわい」ベルガラスは信心深げに言った。
「もっと現実的に状況をながめたほうがいいぜ、ベルガラス」ベルディンはにがにがしげだった。「必要とあらば、おれたちでマーゴたちをザカーズに立ち向かわせることは可能だろう。しかし、民衆があとからあとから湧いて出る無数のマロリー人の話をするのは、それが事実だからだ。ザカーズはものすごい大軍勢を率いているし、東の沿岸ぞいの港の大半を支配している。好きなだけの大艦隊を送りだせる。マーゴ人抹殺に成功したら、手ぐすねひいている多数の兵隊をおれたちの南の入口へ遠征させてくるだろう。その時期についても、期するところがあるにちがいないんだ」
ベルガラスはぶつぶつ言った。「いつそのときがくるか心配するとしよう」
「そうそう、ところで」ベルディンが皮肉っぽくにやにやしながら急に言った。「あいつの名前の完全な形をつきとめたぞ」
「あいつってだれだ?」
「ザカーズさ。信じられるか? ザカーズの前にはカル≠ニいう言葉がついているんだ」
「カル・ザカーズか?」ベルガラスは信じられないようにベルディンを凝視した。
「とんでもない話じゃないか?」ベルディンはけたけた笑った。「マロリーの皇帝たちはボー・ミンブルの戦い以降、内心じゃその称号をつけたくてたまらなかったらしい。しかし、トラクが目ざめて自分たちのずうずうしさに腹をたてるんじゃないかとずっと恐れていたんだな。トラクが死んだんで、大勢のマロリー人たちは自分たちの統治者をカル・ザカーズとよびはじめた――とにかく生きていたい連中はな」
「カル≠チてどういう意味なんですか?」エランドが口をはさんだ。
「王にして神という意味のアンガラクの言葉だ」ベルガラスが説明した。「五百年前、トラクはマロリーの皇帝をしりぞけて、みずから皇帝の軍隊を西方へみちびいた。アンガラクの民は――マーゴ人もナドラク人もタール人もマロリー人も――こぞってかれをカル・トラクと呼んでいたのだ」
「なにが起きたんですか?」エランドは興味しんしんでたずねた。「カル・トラクが西方へ侵入したとき?」
ベルガラスは肩をすくめた。「もう大昔の物語だ」
「それは知ってるから言えることです」
ベルディンがすばやくベルガラスを見た。「頭のいい子だな、え?」
ベルガラスは考え込むようにエランドを見つめた。「よかろう。うんと簡単に言うとな、カル・トラクはドラスニアを壊滅させ、アルガリアの砦を八年間にわたって包囲攻撃したんだ。それからウルゴの領土をよこぎってアレンディアの平原へ達した。西方の諸王国はボー・ミンブルでトラクと相対し、トラクは〈リヴァの番人〉との一騎うちで倒された」
「でも死ななかったんでしょう」
「そう。死ななかった。〈リヴァの番人〉が剣で頭を貫いたにもかかわらず、トラクは死ななかったんだ。リヴァの王座にふたたび王がすわるまで、ひたすら眠りつづけることになった」
「ベルガリオンですね」
「そのとおり。それからどうなったかは知っているな。なんと言っても、おまえはその場にいたんだから」
エランドはためいきをつき、「はい」と悲しそうに言った。
ベルガラスはまたベルディンにむきなおった。「さてと、マロリーはどんな具合いだ?」
「だいたいいつもと同じさ」ベルディンは酒を飲み、大きな音をたててげっぷをした。「官僚主義があいかわらずすべてをまとめるにかわ[#「にかわ」に傍点]の役をはたしてる。メルセネとマル・ゼスにはいまだに陰謀が渦まいているよ。カランダ、ダーシヴァ、ガンダーはいまにも謀反を起こしそうだし、グロリムたちはいまもケルの近くへ行くのを恐れている」
「それじゃ、マロリーのグロリムどもはいまでも聖職者づらをしているのか?」ベルガラスはちょっとおどろいたようだった。「てっきり市民が行動にでたと思っていたよ――ミシュラク・アク・タールではそうだったからな。たしかタール人はグロリムどもを火あぶりにしたはずだ」
「カル・ザカーズがマル・ゼスへ命令をだしたのさ。軍がふみこんでグロリム虐殺に待ったをかけたんだ。結局、王にして神になろうとしたら、どうしたって聖職者が必要になる。ザカーズはすでに確立されているきまりを利用したほうが楽だと判断したんだろう」
「ウルヴォンはその考えをどう思っている?」
「いまのところこれといった結論は出していない。軍が介入してくるまでに、マロリーの市民はグロリムたちを鉄鉤からぶらさげてさんざん楽しんでいた。ウルヴォンはマル・ヤスカにとどまって、なりをひそめている。おそらく自分がまだ生きているという事実がカル・ザカーズ陛下側の失敗になると考えているんだろう。ウルヴォンはずるがしこい悪党だが、ばかじゃない」
「わしは会ったことがないんだ」
「もっけのさいわいだな」ベルディンはいじわるく言った。かれは大ジョッキをつきだした。「こいつをいっぱいにしたいだろ?」
「わしの酒をからにするつもりか、ベルディン」
「またいつだって盗めるじゃないか。双子はぜったいにドアに鍵をかけないんだからな。とにかく、ウルヴォンはトラクの弟子だったんだ。クトゥーチクやゼダーと一緒さ。しかし、あとのふたりのすぐれた資質をまるで持ち合わせていない」
「あのふたりにはすぐれた資質などなかったぞ」ベルガラスは酒をあらたについだジョッキをわたしながら言った。
「ウルヴォンにくらべれば、あったさ。ウルヴォンは生まれつきのおべっか使いで、ごきげんとりで、いやしむべき卑劣漢だ。トラクでさえやつをきらっていた。しかし、そういうすてきな性質をもつ人間の例にもれず、わずかばかりの力を手に入れるやいなや、それを楯に悪事のかぎりを尽くしはじめた。尊敬のしるしにお辞儀をされるだけでは満足しなくなった。人々が自分の前にひれふすことを望んでいるのさ」
「ウルヴォンがきらいらしいな」ベルガラスは言った。
「あのまだらの卑怯者には虫酸が走る」
「まだら?」
「あいつの顔と両手には色素がないところがあるんだ。だからしみだらけに見える――恐ろしい病気かなにかにかかったみたいにな。おれはところによっては醜悪そのものと見られているが、ウルヴォンの醜さは山の怪物だってひきつけをおこすほどさ。それはさておき、もしもカル・ザカーズがグロリムの教会を国教にし、トラクのかわりに祭壇の表面に自分の顔を彫りつけたいなら、かれはまずウルヴォンと交渉しなくちゃならんだろう。そしてウルヴォンはマル・ヤスカにずっと隠れている。あそこはグロリムの魔術師たちに完全に包囲されているんだ。ザカーズは近づけまい。おれだって近づけん。百年かそこらごとに接近をはかって、だれかが油断しないか、運よくウルヴォンのどてっぱらに大きな鋭い鉤をひっかけられはしないかと期待しているんだが、うまくいかん。しかしおれが本当にやりたいのは、やつの顔を赤く焼けた石炭の上に二、三週間ひきたおしておくことなんだ」
ベルガラスはベルディンの憎悪の激しさに、いささかあっけにとられたようだった。「すると、ウルヴォンはひたすら身をひそめているだけなのか? マル・ヤスカの隠れ家で?」
「とんでもない! ウルヴォンは眠っていても陰謀をくわだてている。この一年半――ベルガリオンがトラクを剣で殺してからずっと――ウルヴォンは自分の教会の残骸を保存しようと忙しく動き回っていた。カランデセ山脈のアシャバというところに、古い紙魚《しみ》だらけのある予言書があるんだ――グロリムどもはそれを神託と呼んでいる。ウルヴォンはそれをひっぱりだしてきて、トラクの復活がそこにうたわれているように中身を細工した――トラクは死んでいないとか、生き返ったとか、再生したとかいうように」
ベルガラスが鼻をならした。「ばかばかしい!」
「もちろんばかばかしいかぎりだ、だがウルヴォンはなにかをしなくてはならなかった。グロリムの教会は無頭のヘビよろしくふるえていたし、ザカーズはアンガラク人がお辞儀をするたびにのどをしめあげて、お辞儀の対象が自分であることを確信しないではいられないありさまだったからな。各地に散らばったこのアシャバの神託の写しがいまではほとんど手にはいらないことを確信すると、ウルヴォンはあらゆるたぐいのことをでっちあげておいて、予言書の中にそう書いてあるのだと言い張った。いまザカーズに二の足をふませているのはそのことだけなんだ。それだってたぶん、ザカーズが出くわす木にかたっぱしからひとりかふたりのマーゴを縛りつけるようなまねにいそしんでいなかったら、うまくはいかなかっただろう」
「マロリーを動き回るのになにか不都合なことはあったか?」
ベルディンは鼻をならして露骨に不快を表明した。「あるもんか。異形の男の顔なんぞ、だれも気にもとめない。おれがアローン人なのか、マラグ人なのか、大部分の者には区別もつかなかった。みんな背中のこぶしか目にはいらないのさ」ベルディンは椅子から立ちあがって樽に歩みより、ジョッキにまたなみなみと酒をついだ。「ベルガラス」かれはひどくまじめに言った。「クトラグ・サルディウスという名はおまえにとってなにか意味があるか?」
「サルディウス? サルドニクスのことか?」
ベルディンは肩をすくめた。「マロリーのグロリムどもはそれをクトラグ・サルディウスと呼んでいる。どんなちがいがあるんだ?」
「サルドニクスは宝石だ――乳白色のすじのはいったオレンジ色のな。それほどめずらしいものではないし――それほど魅力的でもない」
「マロリー人がその宝石のことをしゃべっているのを聞いたが、まるで話がちがうな」ベルディンはけげんな顔をした。「クトラグ・サルディウスという名をもちだすときのようすだと、そいつはひとつしかないもので、なにやら重要なものらしかったぞ」
「どんなふうに重要なんだ?」
「よくはわからん。おれに推測できたのは、マロリーじゅうのグロリムがそれを手にいれるチャンスとなら魂をひきかえにしてもいいと思っているということだけだ」
「なんらかの内的シンボルかもしれんな――マロリーで進行中の権力闘争に関連したことかもしれない」
「その可能性はある。だが、そうだとしたら、どうしてそれの名前がクトラグ・サルディウスなんだ? なあ、〈アルダーの珠〉はクトラグ・ヤスカと呼ばれていただろう? クトラグ・サルディウスとクトラグ・ヤスカのあいだにはつながりがあってもおかしくない。もしつながりがあるのなら、おれたちで調べてみるべきだ」
ベルガラスはベルディンをじっと見つめたあと、ためいきをついた。「トラクが死んでしまえば、休むチャンスがあると思っていたんだが」
「一年ばかり休んだじゃないか」ベルディンは肩をすくめた。「これ以上休んだら、ぶよぶよになっちまうぞ」
「おまえはじつにいやなやつだな、わかってるのか?」
ベルディンは顔をひきつらせてにやりとした。「わかってるさ。おまえなら気がつくだろうと思ったよ」
翌朝、ベルガラスはひびわれた羊皮紙の山を用心深く分類しはじめ、数世紀の混乱になんらかの秩序をもたらそうとした。エランドはしばらく老人をだまってながめていたが、やがて窓までぶらぶら歩いていって、太陽にあたためられた谷の草原を見わたした。一マイルほどむこうに、きわだって落ち着きのある、高い尖塔が見えた。
「外へ行ってもいいですか?」エランドはベルガラスにきいた。
「え? ああ、かまわんよ。あんまり遠くへは行かないようにな」
「はい」エランドは約束して、階段に近づいた。階段は螺旋状になって下のひんやりした薄闇に消えていた。
早朝の日差しが露でぬれた草むらにななめにさし、かぐわしい匂いのする空中をヒバリがさえずりながら旋回していた。丈の高い草のかげから茶色のウサギがぴょんと出てきて、エランドを静かに見た。やがてウサギは尻をおろすと、うしろ足で長い耳をさかんにかきはじめた。
しかしエランドが塔からでてきたのは、いきあたりばったりに遊ぶためでも、ウサギを見るためでもなかった。行くところがあったからなのだ。かれは露をふくんだ緑の草むらをよこぎって、ベルガラスの窓から見た塔の方へ歩きだした。
露がおりていたのは計算外だったので、ひっそりとたたずむ塔につくころには足がぬれてしまっていた。かれは石の塔のふもとを数回ぐるぐる歩きまわった。歩くたびにびしょびしょのブーツの中で足がぐちゃぐちゃ音をたてた。
「おまえがくるまでにどのくらいかかるかと思っていた」とても静かな声がエランドに話しかけた。
「ベルガラスを手伝うのにいそがしかったんです」エランドはあやまった。
「本当に手助けを必要としていたのか?」
「はじめるのにちょっと手間取っていましたから」
「上へあがりたいかね?」
「かまわないなら」
「ドアは反対側にある」
エランドは塔をぐるりと回り、大きな石をひとつ見つけた。それが戸口だった。かれは中へはいり、階段をのぼった。
塔の部屋はどこも似たりよったりなのに、この塔の部屋はベルガラスのそれとはちょっとちがっていた。ベルガラスの塔と同じように、ここにも暖炉があって火が燃えていたが、たきぎはどこにも見あたらなかった。部屋そのものは妙にきちんと片づいていたが、それはこの塔の所有者が、羊皮紙の巻物や道具類や器具を、必要なときに呼べば出てくる、普通では想像もつかないところにしまっているためだった。
塔の所有者は暖炉のそばに腰をおろしていた。髪もひげも白く、青いゆったりしたすその長い服をきていた。「火のそばへきて、足をかわかすといい」かれはやさしい声で言った。
「ありがとう」エランドは答えた。
「ポルガラはどうしている?」
「とても元気です。それにしあわせです。結婚生活が気にいってるんです、きっと」エランドは片足をあげて火にちかづけた。
「靴をこがすな」
「気をつけます」
「朝食はどうだ?」
「うれしいな。ベルガラスはそういうことをときどき忘れるんです」
「そこのテーブルの上にある」
エランドはテーブルを見た。さっきまではなかったのに、湯気のたつポリッジのボウルがおかれていた。
「ありがとう」エランドは礼儀正しく言って、テーブルに近づき椅子をひいた。
「特に話したいことがなにかあったのかね?」
「そうでもないんです」エランドはスプーンをとってポリッジを食べはじめた。「ただくるべきだと思ったんです。なんといっても、〈谷〉はあなたのものですから」
「ふむ、ポルガラが行儀作法を教えこんだと見えるな」
エランドはほほえんだ。「ほかのこともですよ」
「彼女と一緒にいて楽しいかね、エランド?」塔の所有者はたずねた。
「はい、アルダー、とても」エランドは答えて、ポリッジを食べつづけた。
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夏が深まるにつれて、エランドはいつのまにかますますダーニクと一緒にすごすことが多くなった。エランドがすぐに見抜いたように、鍛冶屋はきわめて辛抱強い人間で、昔ながらの流儀をかたくなに守っていた。だがそれは、ベルガラスの言うわしたちにできる別のやりかた≠ヨの道義的偏見のせいではなく、むしろ、自分の手で仕事をすることに深い満足を見いだしているためだった。とはいっても、ダーニクもときには近道をした。エランドは鍛冶屋のごまかしには一定のパターンがあるのに気づいた。ポルガラやかれらの家庭のためになにかをするときは、ダーニクは絶対手抜きをしなかった。それがどんなに骨の折れる退屈なものだろうと、ダーニクは両手と筋肉をつかってそれを完了させた。
しかし戸外の活動はダーニクの倫理感にそれほどかたく結びついていなかった。たとえば、二百ヤードの柵が、ある朝ばかにすばやく出現したことがあった。そこは柵が必要な場所だった。そのことは疑いの余地がなかった。柵がないと、近くに放牧されているアルガーの家畜の群れが水を飲みにいく途中で、ポルガラの庭をさんざん荒らしてしまうからだ。じっさい、柵はおどろいている牛たちの目の前にみるみる出現しはじめた。牛たちはあっけにとられて最初の五十フィートをながめたあと、しばらく考え込み、その障害物を迂回して歩きだした。すると、次の五十フィートが彼らの行く手にあらわれた。牛たちはだんだん気むずかしくなってきて、走りだそうとさえした。のろのろしているなりに、走ればこの目に見えない柵のつくり手をだしぬけると考えたのだろう。しかしダーニクは切株の上にすわり込んで目をすえ、毅然たる表情で、いらだちをました牛たちの前に次々と柵をのばしていった。
一頭の焦げ茶色の牡牛がついにかんしゃくをおこし、頭をさげて前足で数回地面をひっかき、大きくほえながら柵に突進した。ダーニクは、片手をひねるような妙な動作をした。牡牛は突然柵からはねとばされ、そうとは知らずに半回転した。数百ヤード走ったところで、牡牛はまだ角《つの》がなににもぶつかっていないのに気づき、スピードを落としてあたふたと頭をあげた。疑わしげに肩ごしに柵をふりかえり、向き直ってふたたび突進しようとした。またもダーニクは牡牛を半回転させ、またも牡牛は見当違いの方向へ猛然と突進した。三度めに牡牛は丘の頂上へのぼりつめ、むこうがわに見えなくなり、それっきり戻ってこなかった。
ダーニクはいかめしい顔でエランドを見つめ、急に片目をつぶってみせた。ポルガラがエプロンで手ふきながら小屋からあらわれ、朝食の皿をあらっていたあいだにできあがった柵に目をとめた。ポルガラは物問いたげに夫を見やった。ダーニクは斧ではなくて魔術をつかっているところを見られて、ちょっときまりが悪そうだった。
「とてもいい柵だわ、あなた」ポルガラは勇気づけるように言った。
「そこにどうしても必要だったんだよ」ダーニクは弁解がましい口調だった。「あの牛たちが――とにかく、急いでやってしまわないと」
「ダーニク」ポルガラはやさしく言った。「この種のことにあなたの才能を使ったって、なにもいけないことはないわ――だからもっとよく練習したほうがいいんじゃないかしら」彼女はジグザグに組み合わさった柵を凝視し、一心になにかを思う表情になった。柵の継目が満開のバラのしげみで次々にしっかりと結び合わされた。「ほら」ポルガラは満足気に言うと、夫の肩をたたき小屋へひっこんだ。
「彼女はおどろくべき女性だ、おまえは知ってるかね、そのことを?」ダーニクはエランドに言った。
「はい」エランドは同意した。
しかしポルガラは常に夫の冒険を喜ぶわけではなかった。カラカラ天気の暑い夏がおわりに近づき、庭の野菜がしおれはじめたときのことだった。ポルガラは午前中の大半をついやして、ウルゴランドの山脈上空に小さな黒い雨雲がうかんでいるのをつきとめ、そのしめりけを含んだ雲を〈アルダー谷〉のほうへ、とりわけ、乾ききった自分の庭のほうへそっと連れてくることにかかりきりになっていた。
エランドが柵のそばで遊んでいたとき、丘の上に雨雲が低くたれこめ、西へ移動しはじめたと思うと、小屋と雨を待っていた庭の真上で静止した。馬具を修繕していたダーニクはちらりと目をあげて遊んでいる金髪の少年をながめ、その頭の真上の不吉な黒雲を見ると、不注意にも意志の力を働かせてしまった。なにかをはじくように片手をちょっと動かして、「しっしっ」と雲にむかって言った。
雲はしゃっくりのような奇妙なけいれんをすると、ゆっくり東のほうへただよっていった。雲がひからびたポルガラの庭を通過して数百ヤード行ったとき、雨がふりだした――なにも植わっていない数エーカーの草地を水びたしにするほどのすてきなどしゃぶりだった。
ダーニクは妻の反応に完全にふいをつかれた。小屋のドアがばたんと開き、ポルガラが目を三角にしてあらわれた。彼女は陽気に雨をふらせている雲をこわい目でにらみつけた。すると雨雲はまたあの奇妙なしゃっくりをして、うしろめたそうなようすを見せた。
次にポルガラはふりかえって、いささか血走った目で夫をまっすぐ見すえた。「あなたがやったの?」雲をゆびさしながらつめよった。
「あ――ああ」ダーニクは答えた。「わたしがやったよ、ポル」
「なぜ?」
「エランドがあそこで遊んでいたんだ」ダーニクの注意はまだもっぱら馬具に注がれていた。「エランドをびしょぬれにしたくないだろう」
ポルガラは雨を浪費している雲を見つめた。ぬれている草は十ヵ月の日照りも楽にのりこえられるくらい深い根を持っているのだ。それから彼女は自分の庭と、うなだれているカブの葉先と、いたましい豆に視線を移した。ポルガラは歯を固くくいしばって、厳格でまじめな夫が聞いたら腰をぬかすだろう悪態をのみこんだ。かわりに空を見上げ、両腕を嘆願するようにもちあげた。「どうしてなの?」ポルガラは悲痛な声をはりあげて難詰した。「どうして?」
「なあ、おまえ、いったいどうしたんだね?」ダーニクがおだやかに言った。
ポルガラはわけを説明した――長々と。
ダーニクは翌週いっぱいかかってくぼ地の上端からポルガラの庭に水をひき、ポルガラはその仕事が完了するとただちに夫のあやまちを許した。
その年は冬の訪れがおそく、〈谷〉には秋がいつまでも腰をすえていた。雪がふりだす直前に双子のベルティラとベルキラがやってきて、ベルガラスとベルディンのふたりが何週間も話しあったすえに〈谷〉を出発したこと、ふたりともでかけるときは深刻な表情をうかべており、どこかで厄介事が起きたらしいことを、一同に告げた。
その冬はベルガラスがいなかったので、エランドはさみしい思いをした。たしかに老魔術師はことあるごとにエランドをポルガラとのごたごたに巻き込んだが、エランドはなぜか、起きているときなら、たまにごたごたに巻き込まれても悪くないような気がした。雪がふると、かれはまたソリ遊びに没頭した。ポルガラはエランドが丘を急滑降して草原をすべっていくのを何度か観察したあと、去年の冬の失敗がくりかえされないように、小川の土手に防壁をつくることを抜け目なくダーニクに頼んだ。エランドをずぶぬれにさせないために、編み枝の垣根をたてていたとき、ダーニクはなにげなく小川の中を見た。小川にいつもそそぎ込んでいる泥まじりの細流が凍りついているために、小川はいつになく水位が低く、水晶のように澄んでいた。砂利でできた川床のすぐ上の流れの中に、細長いものが影のようにただよっているのがはっきり見えた。
「なんともおどろいたな」つぶやきながら、ダーニクの目が例の放心したような表情になった。「いままでここに魚がいたとはまるで気がつかなかった」
「ぼく、魚がとびはねているのを見ましたよ」エランドは言った。「でもたいていは、水がにごっていたから、底のほうにいても見えなかったんだ」
「そうか、だから気づかなかったんだ」ダーニクはうなずいた。かれは編み枝の柵のはじを木に結びつけると、雪をふんで小屋の裏手に建てた物置のほうへ歩いていった。まもなくでてきたときには、蝋びきの紐をひとまき手に持っていた。五分後、彼は釣りをしていた。エランドはにっこりして、ソリをひきずりながら長い斜面をとぼとぼのぼっていった。丘のてっぺんについたとき、頭巾をかぶった見なれない若い娘がかれを待っていた。
「なにか用ですか?」エランドはていねいにたずねた。
娘は頭巾をはねのけた。彼女の目は黒いきれできつく目隠しされていた。「そなたがエランドなるものか?」その声は低く、歌うようで、古めかしいしゃべりかたは妙に音楽的だった。
「そうですけど」エランドは答えた。「目を怪我したんですか?」
「いいえ、やさしい子供よ。わたしは世俗の太陽の光以外の光によって、世界を見なければならぬのじゃ」
「ぼくたちの小屋にきたらどうですか?」エランドはたずねた。「暖炉で体を温められるし、ポルガラはお客さんを歓迎しますよ」
「レディ・ポルガラのことは尊敬しているが、いまはまだわたしたちが会うときではない」若い娘は言った。「それにわたしのいるところは寒くはない」娘は口をつぐむと、かすかに身をかがめた。それはまるでエランドの顔をのぞきこんでいるようなしぐさだったが、目を覆っているきれはとてもぶあついものだった。「では、本当なのだ」彼女はそっとつぶやいた。「あまりに遠く離れていたので、しかとはわからなかったが、こうしてそなたに面とむかってみて、まちがいではありえないことがわかった」娘は背をのばして言った。「また会うであろう」
「あなたがお望みなら、マアム」エランドは行儀作法を思いだして答えた。
娘はほほえんだ。くすんだ冬の午後を明るくするような、まばゆい微笑だった。
「わたしはシラディス」娘は言った。「そなたに好意を持っている、やさしいエランド。たとえそなたを敵にまわす決意をせねばならぬときがきても」それだけ言うと、娘は消えた。まばたきの一瞬に、かき消すように姿を消してしまった。
エランドはちょっとびっくりして、彼女が立っていた場所に目を走らせた。雪の上にはなんのしるしも、足跡もついていなかった。エランドはソリにすわって考え込んだ。見知らぬ若い娘の言ったことは、どれひとつとっても意味をなさないように思えたが、いつかはわかるときがくるにちがいなかった。ちょっと考えてから、もしポルガラがこの奇妙な訪問を聞いたら動転するだろうと思った。シラディスという娘が脅しを与えたわけでも、危害を加えるつもりでもなかったことは確実だったから、エランドはこの出来事については口をつぐんでいることにした。
そう決めると、丘のてっぺんはひどく寒くなってきたので、ソリをおしだして、長い斜面をすべりおりて草原をつっきり、釣りに集中するあまり周囲で起きていることなど眼中にないダーニクから数十ヤードのところで停止した。
ポルガラはダーニクの趣味には寛大だった。かれが持ち帰る戦利品の体長、重さ、銀色の体に応じていつも感心し、膨大な知識をひもといて、興味深い新手の料理法――フライ、網焼き、あぶり焼き、ボイル――をあみだした。ただし、内臓を出すことに関しては、頑としてダーニクにまかせていた。
ふたたび春がめぐってきたとき、ベルガラスが元気なあし毛の種馬にまたがって帰ってきた。
「あの牝馬はどうしたんです?」小屋の前庭で馬をおりた老人を迎えて、ダーニクがたずねた。
ベルガラスはしかめっつらをした。「ドラスニアまであと半分というときに、妊娠しているのがわかったんだ。それでこの血気盛んなのと交換したのさ」後足ではねまわっているあし毛にベルガラスはきびしい一瞥を与えた。
「願ってもない取引をしたように見えますがね」ダーニクはベルガラスの馬をつくづくとながめた。
「牝馬は静かだし、分別があった」老人は異議をとなえた。「こいつの頭はからっぽだよ。こいつがやりたいのは見せびらかすこと、それだけさ――走ったり、はねたり、後足で立ったり、ひづめで空中をけったり」かれはうんざりして首をふった。
ポルガラが言った。「馬を納屋にいれて、顔や手を洗ったら、おとうさん。ちょうど夕食の時間に間にあったわ。焼いた魚が食べられるわよ。じっさい、お望みなら何匹でもね」
食事がすむと、ベルガラスは椅子の向きを変えて背中をもたせかけ、足を暖炉のほうへつきだした。ぴかぴかの板石の床や、ぴかぴかのポットややかん[#「やかん」に傍点]のかかった石灰処理の白い壁や、ちろちろ燃える炎や、アーチ型の暖炉が投げかけている影をながめて、ベルガラスは満足の笑みをうかべた。「くつろぐのはいいもんだな。去年の秋にここを発ってから、動きっぱなしだったような気がするよ」
「なにがそんなに切迫していたの、おとうさん?」夕食の皿を片づけながらポルガラがきいた。
「ベルディンと長いこと話しあったんだが、マロリーで気にくわんことが進行中なんだ」
「いまさらマロリーなどどうでもいいでしょう、おとうさん? わたしたちのマロリーにおける関心は、トラクが死んだときにクトル・ミシュラクで終わったのよ。おとうさんは世界の管理人に任命されたわけじゃないわ」
「ことがそう簡単ならいいんだがね、ポル。サルディオンという名はおまえにとってなにか意味があるか? クトラグ・サルディウスという名はどうだ?」
いつもどおり、ポルガラは皿を洗う大きな鍋にやかん[#「やかん」に傍点]の熱湯をそそいでいるところだったが、手をとめてかすかに眉をひそめた。「あるグロリムがクトラグ・サルディウスについてなにか言うのを一度聞いたことがあるような気がするわ。昔のアンガラク語でうわごとみたいにしゃべっていたのよ」
「なんと言っていたか思い出せるか?」ベルガラスは熱心にたずねた。
「悪いんだけど、おとうさん、わたしは古代アンガラク語はしゃべれないのよ。一度だって教えてくれようとはしなかったでしょう?」ポルガラはエランドを見て、指を一本立てて手招きした。
エランドは悲しげなためいきをつき、立ちあがってふきんをとってきた。
「ふくれっつらしないのよ、エランド。食後の後かたづけを手伝ったって困ることになるわけじゃなし」皿洗いにとりかかりながら、彼女はベルガラスをふりかえった。「サルディオンだかなんだかがそんなに重大なことなの?」
「わからんのだ」ベルガラスは困惑ぎみにひげをかいた。「だが、ベルディンが指摘したように、トラクはわしらの師の〈珠〉をクトラグ・ヤスカと呼んでいた。クトラグ・サルディウスがそれとなんらかのつながりを持っていてもおかしくはない」
「ずいぶんあいまいな話ね、おとうさん。習慣上――というより、ただ忙しくしておくために――ありもしない噂を追いかけているんじゃないの」
「わしが忙しいのはきらいなことぐらいわかっとるだろう、ポル」ベルガラスは冷たく言った。
「そうね。ほかには世間ではなにが起きているの?」
「そうだな」ベルガラスは椅子にもたれて、梁の低い天井を思案げに見つめた。「ノラゴン大公が体に合わないなにかを食べた」
「ノラゴン大公ってだれ? かれの消化不良になぜわたしたちが興味をもつの?」
「ノラゴン大公はホネス一族のひとりで、ラン・ボルーンの跡を継いでトルネドラの皇位につく候補者だったんだ」ベルガラスはにやにやした。「救いがたいトンマだったから、かれが皇位についていたら、とんでもないことになっただろう」
「だったと言いましたね」ダーニクが口をはさんだ。
「そうなんだ。ノラゴンの消化不良は命にかかわるものだった。おおかたの見方では、ホービテの熱狂的支持者がニーサの密林から採れる異国風のある薬味をつかって、大公の最後の昼食に味つけしたらしい。症状は目をむくようなものだったそうだ。ホネス一族は大混乱をきたし、他の皇族たちは快哉を叫んでいる」
「トルネドラの政治には胸くそが悪くなるわ」ポルガラはきっぱりと言った。
「われらがケルダー王子は世界一裕福な男となる道を順調に歩んでいるらしい」ベルガラスはつづけて言った。
「シルクが?」ダーニクはいささかおどろいたようだった。「もうそんなに盗んだんですか?」
「今回かれがやっていることはまあ合法的なものらしいよ。ケルダーとあのごろつきのヤーブレックはナドラクの毛皮の全生産量を取り締まることにまんまと成功したんだ。こまかいところまではわからなかったが、ボクトールの主要な商店から苦悶の叫びが聞こえてくることからすると、われらが友人たちはかなりうまくやっているらしい」
「それはよかった」ダーニクは言った。
「最近おまえが毛皮のマントを買いに市場へ行かないのはそのせいだろう、ポル」ベルガラスはくすくす笑った。「値段がはねあがっているからな」老人は椅子をゆらした。「クトル・マーゴスではおまえの友だちのカル・ザカーズが整然と東沿岸へ殺りくの道を歩んでいる。侵略して住民を根絶やしにした都市のリストに、かれはラク・クタンとラク・ハッガを加えた。わしはマーゴ人はあまり好きではないが、ザカーズはちとやりすぎだな」
「カル・ザカーズですって?」ポルガラは片方の眉をかすかにつりあげた。
「王にして神をきどっているのさ」ベルガラスは肩をすくめた。
「いかにもやりそうなことね。アンガラクの統治者はいつもかならずあれやこれやで腰がさだまらないのね」ポルガラは父親をふりかえった。「それで?」
「それでというと?」
「リヴァからはなにか聞いたの? ガリオンやセ・ネドラはどうしていて?」
「まったく聞いとらんな――おお、公式の発表が二、三あった。リヴァの王はドラスニア王国にリヴァの大使としてなんとかいう伯爵の任命を喜んで告知する、とかそんなものだ。だが個人的なものは全然耳にはいらなかった」
「ガリオンが手紙の書き方を知っているのはたしかなのよ、そうでしょう?」ポルガラはじれったそうに言った。「この二年間、手紙一本書けないほど忙しいわけがないわ」
「かれは書いたんです」エランドは何気なく言った。手紙のことを言うつもりはなかったが、ポルガラがひどく気にしているようだったので、口をすべらせたのだ。
ポルガラはするどく彼を見た。「なんて言ったの?」
「ベルガリオンはこのあいだの冬にあなたに手紙を書いたんです。でも、かれの使者が乗っていた船が沈んで、手紙は紛失してしまいました」
「船が沈んだなら、どうしてわか――」
「ポル」ベルガラスがめずらしくきっぱりした口調で言った。「ここはわしにまかせろ」かれはエランドのほうをむいた。「ガリオンはこのあいだの冬にポルガラに手紙を書いたというのかね?」
「はい」
「しかし、その手紙は使者の船が沈んだときに紛失した?」
エランドはうなずいた。
「では、どうしてもう一度手紙を書かなかったんだ?」
「船が沈んだのを知らないんです」
「だが、おまえは知っている?」
エランドはまたうなずいた。
「ときに、その手紙になんと書いてあったのかわかるかね?」
「はい」
「わしらのためにそれを暗誦できるか?」
「できると思います、お望みなら。だけど、ベルガリオンはもう一週間もすればまた手紙をかきますよ」
ベルガラスはふしぎそうにエランドを見つめた。「最初の一通になんと書いてあったか話してくれ。そのほうがまちがいがない」
「わかりました」エランドは眉間にしわをよせて一心に意識を集中させた。「書き出しはこうです、『親愛なるポルおばさんとダーニクへ』なかなかいいと思いますけど、そう思いませんか?」
「手紙を暗誦するだけでいいんだ、エランド」ベルガラスはいらいらと言った。「感想はあとにしなさい」
「わかりました」エランドは考えをまとめるように暖炉の火をじっと見つめ、しゃべりだした。
「『もっと早く手紙を書かなくてすみません。しかしすぐれた王になるにはどうすればよいかを学ぶのに大変忙しかったのです。王になるのは簡単です――しかるべき家系に生まれるだけでよいのですから。ですが、すぐれた王になるのはむずかしいことです。ブランドができるかぎり助けてくれていますが、それでも、本当に理解していない事柄について多くの決定をくださなくてはなりません。
セ・ネドラは元気です――すくなくともそう思います。ぼくたちはたがいにもうほとんど話し合っていません。だから、はっきりしたことはわからないのです。ブランドはぼくたちにまだ子供がいないことをちよっと心配していますが、心配にはおよばないと思います。ぼくに言えるかぎりでは、子供を持つつもりはありません。そのほうがいいかもしれません。結婚する前にもうちょっとたがいをよく知るべきだったと心から思っています。延期する方法もあったはずです。でも、もう手遅れです。がまんするしかありません。互いにあまり会わなければ、たいていのところ、おたがい礼儀正しくしていられるのです――すくなくとも体裁がとりつくろえる程度には。
去年の夏はバラクが例の大きな戦艦でやってきて、おおいに楽しみました。かれはなにもかも話して――』」
「ちょっと待って、エランド」ポルガラがさえぎった。「セ・ネドラのことでもっとなにか言ってない?」
「いいえ、マアム」心の中で手紙の残りを急いでさらってから、エランドは答えた。「書いてあるのは、バラクの訪問と、アンヘグ王からのニュースのことと、マンドラレンからきた手紙のことだけです。あなたのことを愛している、会えなくてとてもさみしいと言っています。それが結びです」
ポルガラとベルガラスは長いこと視線をかわしていた。エランドには彼らの当惑が手にとるようにわかったが、そのことについてかれらをどうやって安心させたらいいのかよくわからなかった。
「たしかに手紙にはそう書いてあったのか?」ベルガラスがきいた。
エランドはうなずいた。「それがガリオンの書いた内容です」
「かれがそれを書いたそばから手紙の内容がわかったのかね?」
エランドはためらった。「そうだったかどうか正確にはわからないんです。そういうことはやらないから。考えなくちゃわからないことだし、ぼくがじっさいに考えたのは、それが話題にのぼってからだから――ポルガラがいましゃべっていたから考えたんです」
「相手との距離は問題になるのかね?」ベルガラスは興味深げにたずねた。
「いいえ」エランドは答えた。「ならないと思います。ぼくがそう望めば、目の前にあるも同然なんです」
「だれにもできないことよ、おとうさん」ポルガラが老人に言った。「それができたものはこれまでひとりもいなかったわ」
「ルールは変わったようだな」ベルガラスは考えながら言った。「これは本物と認めるべきだと思うが、どうだ?」
ポルガラはうなずいた。「エランドにはでっちあげる理由がないわ」
「おまえとはじっくり話し合わなけりゃならなくなりそうだぞ、エランド」老人は言った。
「たぶんね」ポルガラが言った。「でもいまはだめよ」彼女は少年にむきなおった。「ガリオンがセ・ネドラについて書いたことをくりかえしてくれる?」
エランドはうなずいた。「『セ・ネドラは元気です――すくなくともそう思います。ぼくたちはたがいにもうほとんど話し合っていません。だから、はっきりしたことはわからないのです。ブランドはぼくたちにまだ子供が――』」
「そこまででいいわ、エランド」ポルガラは片手をちょっとあげた。それから少年の顔をのぞきこんだ。しばらくして、彼女の片方の眉がつりあがった。「ねえ」彼女はきわめて慎重に言葉を選びながら言った。「ガリオンとセ・ネドラのあいだで、どんなまずいことがあったのかわかる?」
「はい」
「話してみてちょうだい」
「お望みなら。セ・ネドラはガリオンをすごく怒らせることをしたんです。すると今度はガリオンが公衆の面前でセ・ネドラをまごつかせることをして、それが彼女を怒らせました。セ・ネドラはガリオンが彼女に十分な注意をはらわないし、かれが仕事にかかりっきりなのは、彼女と一緒にすごさなくてすむためだと思っています。ガリオンはセ・ネドラをわがままで、甘やかされていて、自分のことしか考えないと思っています。ふたりともまちがっているんですけど、かれらはそのことでさんざん議論し、おたがいの言ったことに深く傷ついて、結婚生活に見切りをつけてしまっているんです。かれらはすごく不幸です」
「ありがとう、エランド」ポルガラは次にダーニクのほうを向いた。「わたしたち、身の回り品を詰める必要があるわ」
「ええ?」ダーニクはおどろいた顔をした。
「リヴァへ行くのよ」ポルガラはきっぱりと言った。
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カマールの波止場近くの居酒屋で、ベルガラスは昔なじみに偶然でくわした。一行が宿泊している宿屋へベルガラスがその毛皮をまとったひげづらのチェレク人を連れて行くと、ポルガラはゆらゆら揺れている船乗りに射るような視線をむけた。「いつから飲んでるの、グレルディク船長?」ぶっきらぼうにたずねた。
「きょうは何日だ?」グレルディクの返事はあいまいだった。
ポルガラは教えてやった。
「たまげたな」かれはげっぷをし、「失礼」とあやまった。「数日分の記憶をどこかでなくしちまったらしい。ときに、きょうは何週ですかい?」
「グレルディク、あなたは港にはいるたびに酔っぱらわないと気がすまないの?」
グレルディクは物思わしげに天井をあおいで、ひげをかいた。「それをおたずねなら、まあ、そうですな、ポルガラ。これまでそんなふうに考えたことはなかったが、言われてみると――」
ポルガラはひややかにグレルディクをにらんだが、かれが返してきた視線は悠然たるものだった。「おれに説教したって時間のむだですぜ、ポルガラ。おれは結婚してない。一度もしたことはないし、このさきもする気はない。浴びるほど飲むからって、そのことでどこぞの女の人生をめちゃくちゃにしているわけでもなし、おれの人生が女にめちゃくちゃにされる心配もぜんぜんない。ところで、ベルガラスの話じゃ、リヴァへおいでになりたいそうで。手下の船乗りたちを集めますから、朝には出航できますぜ」
「どうせ船乗りたちも酔っぱらっているんでしょうけど、ぶじに港を出られるの?」
グレルディクは肩をすくめた。「途中でトルネドラの商船のひとつやふたつにぶつかるかもしれんが、最終的には広い海原へ出ますよ。酔っていてもしらふでも、海の上では最高のやつらです。あさっての午後にはリヴァの桟橋に下船させてあげますって――海が凍りつきでもしないかぎりはね。凍っても二、三時間遅くなるだけですよ」かれはまたげっぷをし、「失礼」と言うと、前後にゆれながらぼんやりした目でポルガラを見た。
ベルガラスが感心したように言った。「グレルディク、おまえぐらい勇敢な人間はおらんな」
「海なんてへっちゃらですよ」
「わしが言ってるのは海のことじゃない」
翌日の正午ごろ、グレルディクの船は泡だつ白い波頭をかきわけて、さわやかな微風の中を進んでいた。比較的気分のいい数人の船乗りが甲板を千鳥足で歩き回って航路を見張ったり、グレルディクが目をしょぼつかせて吐き気をこらえながら舵輪にしがみついている船首に、まるで生気のない目をそそいだりしていた。
「帆をちぢめるつもりはないのか?」ベルガラスがたずねた。
「なんのために?」
「こういう風の中で帆をいっぱいに上げていたら、マストが根元から折れちまうだろうに」
「あんたは魔術のことだけ考えてりゃいいんですよ、ベルガラス。帆のことはまかせときなって。スピードが出てるから、マストが折れるよりは甲板の板がひんまがって割れるほうが先だね」
「いつごろそうなるんだ?」
グレルディクは肩をすくめた。「あと一、二分てとこかな――いつなんどきそうなってもおかしくないね」
ベルガラスは船長をまじまじと見てから、やっとのことで言った。「下へ行ったほうがよさそうだ」
「そりゃいい」
日が暮れるころには風はおさまっていた。グレルディクの船は夜にはいって静かになった海を進みつづけた。星はときおり垣間見える程度だったが、明かりとしてはそれで十分だった。翌朝日がのぼると、強情な船長の予言したとおり、船尾の甲板はめくれあがっていた。九時には〈風の島〉の山頂を形成するごつごつした黒い岩とぎざぎざの峰が西の地平線上につきだし、冷たい青空の下で、一行の船はふたたびいさましい馬のように白波の中へつっこんでいった。船が突進し、ぐらりとかたむき、ふるえながらさかまく波をかきわけ、波に切りこんできらめくしぶきをあげるたびに、グレルディクのひげづらがわれて白い歯がのぞいた。
「あれはまったくあてにならない男だわ」ポルガラが非難がましく船長をにらんで言った。
「本当は腕のいい船長らしいよ、ポル」ダーニクがおだやかに言った。
「わたしはちがうと言ってるのよ、ダーニク」
「そうか」
船はふたつの岩の岬のあいだをすべるようにして通過して、リヴァの都市の静かな港に入った。灰色の石造りの建物が段々状に急勾配をえがいて建ち並び、その頂上に、陰鬱で威嚇的な銃眼のついた胸壁を持つ城塞がそびえて、都市と港を見おろしていた。
「ここはいつ見てもひどくものさびしい感じがするな」ダーニクが言った。「ものさびしくて、そっけない」
「言ってみればそれがこの都市を建てたときの理想だったんだよ、ダーニク」ベルガラスが答えた。「リヴァの民は訪問者をあまり望まなかったんだ」
そうこうするうち、面舵をとっていたグレルディクが舵を逆にきったので、へさきで黒い水を切りわけて進んでいた船は、都市の基礎からつきだした石の桟橋へまっすぐ向かっていった。あわや衝突というときに、グレルディクはまた舵をきった。つぎあてだらけの帆をはためかせて、船は最後の数ヤードを航行し、塩が表皮のようにはりついた石の桟橋にやさしくぶつかった。
「だれかがわたしたちのくるのを見て、ガリオンに告げたのだと思いますか?」ダーニクがきいた。
「そうらしいな」ベルガラスはたったいま開いたアーチ型の門を指さした。リヴァの海側を守っているぶあつく高い城壁と、ひろい石の階段が奥に見えた。いかにも役人風の男たちがおおぜい門からでてきた。その一団の中央を、きまじめな表情をうかべた砂色の髪の長身の若者がおおまたに歩いてくる。
「船の向こう側へ行っていよう」ベルガラスがダーニクとエランドに耳うちした。「びっくりさせてやりたいんだ」
「リヴァへようこそ、グレルディク船長」いくらかおとなびて、一段と自信にみちていたが、エランドはすぐにガリオンの声だとわかった。
グレルディクは手すりに身をのりだして、感嘆したように目を細くした。「りっぱになったな、おい」とリヴァの王に言った。グレルディクのように権威にとらわれない人間は、敬称を使う必要性をろくに感じたことがなかった。
「だれだって成長はしますよ」ガリオンはそっけなく答えた。「ぼくぐらいの歳になればだれだってこうなるんです」
「お客さんをつれてきたぞ」グレルディクは言った。
ベルガラスがにやにやしながら桟橋側に姿をあらわし、ダーニクとエランドをすぐうしろにしたがえて手すりによりかかった。
「おじいさん?」ガリオンはあぜんとした顔になった。「そこでなにしてるんです? それにダーニク――エランドも?」
「じつはおまえのおばさんの思いつきだったのさ」ベルガラスは言った。
「ポルおばさんもいるんですか?」
「もちろんいるわ」ポルガラが船首の下の天井の低い船室からあらわれて、落ち着き払って言った。
「ポルおばさん!」ガリオンはあっけにとられて叫んだ。
「ぎょっとすることないでしょう、ガリオン」ポルガラは青いマントのえりをなおしながら言った。「失礼よ」
「でも、どうしてくるのを知らせてくれなかったんです? みんなでなにをしようって言うんですか?」
「たずねてきたのよ。人間はときどきそういうことをするものだわ」
一同が若い王のいる桟橋におりたつと、再会につきものの抱擁と握手とおたがいにじっと見つめあう光景がくりかえされた。しかしエランドはそれよりほかのことに関心があった。港を見おろす城塞をめざして、一同が灰色の都市をのぼりはじめると、エランドは一度だけガリオンの袖をひっぱって言った。「馬は?」
ガリオンはエランドを見つめた。「厩にいるよ、エランド。きみに会ったら喜ぶだろう」
エランドはにっこりしてうなずいた。
「まだあんなしゃべりかたなの?」ガリオンはダーニクにきいた。「あんなふうに一度にひとつの言葉しか言わないのかな? ぼくはてっきり――その――」
「たいていのときは普通にしゃべるよ――年齢相応にね」ダーニクは答えた。「だが、〈谷〉を出発してからはあの子馬のことしか頭になかったんだ、それに興奮するともとのしゃべりかたにもどってしまうんだよ」
「でもかれはよく言うことをきくわ」ポルガラがつけくわえた。「もうひとりの子があの年齢のときはあんなではなかったわね」
ガリオンは笑った。「ぼくってそんなに扱いにくかったのかな、ポルおばさん?」
「扱いにくかったんじゃないわ。たんに言うことをきかなかったのよ」
城塞に到着すると、正門の高くぶあついアーチ型の壁の下で、リヴァの女王がかれらを出迎えた。セ・ネドラはエランドの記憶にあるとおり、とても美しかった。茜《あかね》色の髪は金色のふたつの櫛でうしろにたばねられ、深紅の滝のように背中に流れていた。緑色の目は大きかった。小柄で、背の高さはエランドといくらもちがわなかったが、セ・ネドラは指の先まで女王だった。彼女は女王らしくかれら全員を迎え、ベルガラスとダーニクを抱擁し、ポルガラの頬にかるくくちづけた。
それからエランドに両手をさしのべた。エランドはその手をとって、セ・ネドラの目をのぞきこんだ。そこには垣根があった。苦悩を遠ざけようとするかすかな防御の色が見えた。セ・ネドラはエランドを抱きよせて、かれにくちづけた。そのしぐさにさえ、彼女自身おそらく気づいてもいない不幸な緊張が感じられた。セ・ネドラのやわらかいくちびるが頬からはなれたとき、エランドはもう一度じっと彼女の目をのぞきこんで、彼女にたいして感じているありったけの愛情と希望と慰めを視線にそそぎこんだ。そして、思わず片手をのばしてセ・ネドラの頬にそっとふれた。セ・ネドラの目が大きくなり、くちびるがふるえだした。そのかすかな接触によって、めのうのように硬い防御がくずれはじめた。大粒の涙がセ・ネドラの目にもりあがった。と思うと、悲痛な泣き声とともにくるりとエランドに背をむけ、両腕を広げて、よろめきながら叫んだ。「ああ、レディ・ポルガラ!」
ポルガラは泣きじゃくる小さな女王を冷静に抱きしめた。そしてエランドの顔をまっすぐのぞきこむと、片方の眉を物問いたげにつりあげた。エランドはポルガラを見て、そっとうなずいた。
「はてさて」ベルガラスはセ・ネドラが突然泣きだしたことにやや当惑しながら、顎ひげをかき、城塞の内側にある中庭と、堂々たるみかげ石の階段の上にある巨大な扉をながめた。「なにか飲み物はあるかね?」とガリオンにたずねた。
泣きじゃくるセ・ネドラにまだ両腕をまわしていたポルガラが、ベルガラスにあからさまな視線をむけた。「ちょっと早すぎるんじゃないの、おとうさん?」
「いや、そうでもなかろう」老人はそっけなく答えた。「船旅のあとに飲む酒は、胃の調子をととのえるのに役立つんだ」
「いつでもなんだかんだと言いのがれをするのね」
「いつもなんかしらうまいことを思いつくのさ」
エランドはりっぱな厩のうしろにある練習場で午後をすごした。くり毛の子馬はじっさいにはもう子馬というより、成長しきった若い種馬と言ったほうが正確だった。褐色の体はつややかで、大きな円をえがいて練習場をかけまわると筋肉がさざ波のように波うった。肩の上のそこだけ白いぶちが、明るい日差しをあびて輝いて見えた。
馬はどういうわけかエランドがくるのを知っていて、午前中は興奮のしどおしだった。馬丁はエランドに注意した。「気をつけたほうがいいよ。どうしたわけだか、きょうはちょっと気がたっているんだ」
「もう大丈夫ですよ」エランドは落ち着きはらって、ドアの掛けがねをはずして若い馬のいる馬房へはいろうとした。
「やめとき――」馬丁はおどろいて少年をひきもどそうとするように腕をのばしかけたが、エランドは目を血走らせた馬のいる馬房にすでにはいったあとだった。鼻を鳴らし、神経質に後足ではねて、わらにおおわれた床をひづめで蹴とばしていた馬は、動きを止めてふるえながら立った。エランドは片手をのばし、うなだれた首をなでてやった。次の瞬間からふたりのあいだはもとどおりになった。エランドは馬房のドアを大きく押しあけると、満足そうに彼の肩に鼻づらをおしつけている馬をひいて、あっけにとられている馬丁をしりめに厩を出た。
しばらくのあいだかれらは一緒にいるだけで、ふたりのあいだの絆をわかちあうだけで、満足だった――それはかれらが出会う以前から、いや、かれらのどちらもまだ生まれないうちから存在していたふしぎな絆だった。あとになったら、もっといろいろな楽しみかたがあるだろうが、さしあたっては、一緒にいるだけでふたりとも十分だった。
紫色の夕暮れが東の空にしのびよるころ、エランドは馬に干し草をやって、あしたまたくると約束し、友人たちをさがしに城塞へ戻った。一同は天井の低い食堂にすわっていた。食堂はひろびろとした宴会場にくらべると小さくて、居心地がよかった。たぶんこのものさびしい城塞のどの部屋よりも家庭に近い雰囲気をただよわせていた。
「楽しい午後だった?」ポルガラがたずねた。
エランドはうなずいた。
「馬はあなたに会って喜んだ?」
「はい」
「じゃあ、お腹がすいたでしょう?」
「ええ――ちょっと」食堂を見まわしたエランドはリヴァの女王の姿がないことに気づいた。
「セ・ネドラは?」
「すこし疲れているのよ」ポルガラが答えた。「さっきまでわたしとずっと話し合っていたの」
エランドはポルガラを見つめ、理解した。それからもういちど食堂を見まわした。「じつは腹ぺこなんです」
ポルガラがいとおしげに声をたてて笑った。「男の子ってみんな同じなのね」
「ぼくたちがちがっているほうがいいというわけ?」ガリオンがきいた。
「いいえ。そうでもないわ」
翌朝、かなり早い時刻に、ポルガラとエランドはこれまでもずっとポルガラのものだった部屋で、暖炉を前にしていた。ポルガラは香り高いお茶のカップをのせた小テーブルをかたわらに、背もたれの高い椅子に腰かけていた。深い青のビロードの化粧着をはおり、大きな象牙の櫛を持っていた。エランドは彼女のまんまえの足のせ台にすわって、朝の儀式の一部に耐えていた。顔と耳と首すじを洗うのは、簡単に終わるのに、どういうわけか、髪をとかす段になると、いつもたっぷり十五分はかかるようだった。整髪に関するエランドの個人的嗜好は、きわめて基木的なものだった。目に髪がはいらなければ、それでいいのだ。しかし、ポルガラはかれの柔らかなアッシュ・ブロンドの巻毛に櫛をいれることになみなみならぬ喜びを見いだしているらしかった。一日の思いもよらないときに、ときどきポルガラの目が妙にやさしくなって、彼女の指がまるでみずからの意志で櫛に吸いよせられるように動くのに気づくと、エランドは観念した。なにもしないでうろうろしていたら、百パーセントだまって椅子にすわり、髪をとかしてもらうはめになるのだ。
ドアに遠慮がちなノックがあった。
「はい、ガリオン?」ポルガラが返事をした。
「早すぎなかったならいいが、ポルおばさん。はいってかまわないかな?」
「もちろんよ」
ガリオンは青の上着と細いズボンとやわらかい革の靴をはいていた。エランドは前から気づいていたが、この若いリヴァの王は、選択権があるのだとしても、青以外の色をほとんど身につけなかった。
「おはよう」ポルガラは櫛を持つ手をせっせと動かしながら言った。
「おはよう、ポルおばさん」ガリオンはそう言うと、ポルガラの椅子の正面の足のせ台にすわってもじもじしている少年を見て、「おはよう、エランド」ともったいぶって言った。
「ベルガリオン」エランドは会釈した。
「頭を動かさないで、エランド」ポルガラは静かに言った。「お茶をいかが、ガリオン?」
「いや、いらない」ガリオンは別の椅子をひいてポルガラとむきあって腰をおろした。「ダーニクは?」
「胸壁のあたりを散歩しているわ。日がのぼると、うちの中にいられない性分なのよ」
「そうだね」ガリオンはほほえんだ。「ファルドー農園にいたときからそうだったような気がするよ。どこにも不都合はない? 部屋のことだけれど?」
「ここにいるといつもながらとてもくつろぐわ。ある意味ではここは、わたしが永遠のわが家というものにたいして抱いている理想にもっとも近いのよ――すくなくとも現在までのところはね」ポルガラは濃い深紅のビロードの垂れ布や、背もたれのまっすぐな黒い革張りの椅子をながめて、満ち足りたためいきをもらした。
「ここはながいことポルおばさんの部屋だったんでしょう?」
「ええ。ベルダランが〈鉄拳〉と結婚したあと、わたしのためにここをとっておいてくれたのよ」
「かれはどんな人物だった?」
「〈鉄拳〉のこと? とても背が高くて――かれの父親と同じくらいに――とても強い人だったわね」ポルガラはエランドの髪に注意をもどした。
「バラクくらいあった?」
「もっとあったわ。でもバラクほどがっしりした体格ではなかったわね。チェレク王自身は七フィートもあって、息子たちはそろって大男だったの。〈猪首〉のドラスはまるで木の幹みたいで、雲つくような大男だったわ。〈鉄拳〉は多少細身で、もじゃもじゃの黒いひげをはやし、射るような青い目をしていたわね。ベルダランと結婚したときには、すでに髪にもひげにも白いものがまじっていたわ。でもね、それだけ歳をとっていても、かれにはわたしたちだれもが感じる純粋さがあったのよ。ここにいるエランドにわたしたちみんなが感じるような純粋さがね」
「ずいぶんよくおぼえているんだね。ぼくにとっては、〈鉄拳〉はつねに伝説上の人物でしかない。かれの行動はみんなが知っているが、現実の人間としてのかれについては、だれもなんにも知らない」
「かれは特別なのよ、だれのこともこんなに正確におぼえているわけじゃないわ、ガリオン。なんといっても、わたしがかれと結婚してたかもしれないんだから」
「〈鉄拳〉と?」
「アルダーが父に言ったのよ、娘のひとりをリヴァ王のもとへ送って妻とせよとね。父はベルダランとわたしのどちらかを選ばなくてはならなかったの。老いぼれ狼の選択はまちがっていなかったと思うけど、やっぱり〈鉄拳〉のことは特別の目で見てしまうわ」ポルガラはためいきをついたあと、ちょっぴりいたずらっぽくほほえんだ。「わたしじゃいい奥さんにはなれなかったでしょうけどね。妹のベルダランはかわいくて、やさしくて、とてもきれいだったのよ。わたしはやさしくもなかったし、あまり魅力的でもなかったわ」
「でも、ポルおばさんは世界中でもっとも美しい女性だよ」ガリオンはすばやく反論した。
「やさしいのね、ガリオン、だけど十六歳のときのわたしは、世間の人がかわいいと呼ぶような娘じゃなかったわ。のっぽでひょろりとしてたの。膝はいつもすりむけていたし、顔はたいてい汚れっぱなしだったわ。あなたのおじいさんは娘たちのみだしなみに関しては、ずぼらだったのよ。何週間も髪をとかさないこともあったくらいでね。いずれにしてもわたしは自分の髪があまり好きじゃなかったの。ベルダランの髪はやわらかくて、金色をしてたけれど、わたしのは馬のたてがみそっくりで、このへんてこな白いすじがついていたから」ポルガラはなにげなく櫛で左のはえぎわの白い房をさわった。
「どうしてそこが白くなったのかな?」ガリオンは好奇心からたずねた。
「あなたのおじいさんがはじめてわたしを見たとき――わたしがほんの赤ん坊だったとき――片手でここにさわったの。一房の髪がたちまち白くなったわ。わたしたちはみんななんらかのしるしをつけられているのよ。あなたのしるしはてのひらにあるでしょう。わたしにはこの白い一房。あなたのおじいさんは心臓の真上にしるしをもっているわ。場所はそれぞれちがうけれど、意味するものは同じなのよ」
「どういう意味?」
「わたしたちであることと関係があるの」ポルガラはエランドに向きなおって口をむすんでかれをみつめた。それからエランドの耳のすぐ上の巻毛をやさしくなでた。「とにかく、いま言ったように、若いときのわたしは荒っぽくて、がんこで、ちっともきれいじゃなかったのよ。〈アルダー谷〉は少女が成長するにはあまりいいところではないわ。気まぐれな魔術師たちじゃりっぱな母親がわりというわけにもいかないしね。かれらは子供がいることをよく忘れたのよ。谷のまんなかにあるあの古い巨木をおぼえていて?」
ガリオンはうなずいた。
「あるときわたしはあの木にのぼって、二週間も木の上にいたわ。じゃまっけなわたしがいないことにそれまでだれも気づかなかったのよ。そういうことは年端のいかない娘に疎外感を与えるものだわ」
「どうやって気づいたの――ほんとうはじぶんがきれいだっていうことを?」
ポルガラは微笑した。「それはまた別の話よ」彼女はまともにガリオンを見つめた。「さぐりあいはこのへんでやめない?」
「え?」
「手紙にあったあなたとセ・ネドラの問題にはいりましょう」
「ああ、あのことか。あんなことを書いて心配させなければよかったと思ってるんだ、ポルおばさん。けっきょくぼくの問題なんだしね」ガリオンはきまりわるそうに目をそらした。
「ガリオン」ポルガラはきっぱりと言った。「わたしたちの家族にかぎっていうと、個人的問題なんてものはないのよ。もうそれぐらいわかっていると思ったわ。セ・ネドラとのごたごたは、正確にはどういうものなの?」
「かみあわないっていうことなんだ、ポルおばさん」ガリオンはわびしげに言った。「どうしてもぼくひとりでやらなくちゃならない職務があっても、セ・ネドラは目がさめているあいだは一分、一秒でもぼくと一緒にいたがるんだよ――まあ、すくなくともこの前まではそうだった。いまはもう何日も顔も合わせないですごしている。もう同じベッドでも寝ていないし、それに――」ふいにエランドに目をやって、ガリオンはあたふたと咳きこんだ。
「さあ」ポルガラはなにごともなかったかのようにエランドに言った。「これでもう見苦しくないわ。あの茶色の毛織のマントをはおってダーニクをさがしに行ったら? ふたりで厩へ行って馬に会うのも悪くないわよ」
「そうですね、ポルガラ」エランドは足のせ台からすべりおりてマントをとりに行った。
「ずいぶんききわけのいい子なんだね」ガリオンはポルガラに言った。
「たいていはね。わたしの母の家の裏にある川に、近づかないようにしておきさえすれば、ほとんど問題はないわ。だけど、どういうわけか、月に一、二度は川に落ちないと気がすまないみたいなのよ」
エランドはポルガラにキスしてドアに向かいかけた。
「ダーニクに伝えてちょうだい、けさはあなたたちふたりでぞんぶんに楽しんでかまわないってね」ポルガラはそう言ってから、ガリオンをまともに見た。「わたしは数時間ここで忙しいことになりそうだから」
「わかりました」エランドは廊下に出た。ガリオンとセ・ネドラを不幸にしている問題については、ほんのつかのま考えただけだった。すでにポルガラが引き受けたのだし、彼女なら丸くおさめてくれるにきまっている。問題それ自体はとるにたらないものだったが、それが原因でおきた口喧嘩によって、とてつもなく大きくふくれあがってしまっていた。興奮してつい言ってしまった言葉が、あやまりも、ゆるされもせずに放置されていると、ほんのちょっとした誤解が隠れた傷のように膿むこともあるのだと、エランドは気づいた。かれはまたガリオンとセ・ネドラがあまりにも深く愛し合っているために、いきづまるとついせっかちに心にもない言葉を口にしてしまうことにも気づいていた。ふたりとも相手を傷つける大きな力を持っているのだ。いったんふたりがそのことに十分気づいたら、すべては水に流されるだろう。
リヴァの城塞の廊下は、石壁からつきでた鉄の輪にはめこまれたたいまつによって照らされていた。エランドが歩いている広い廊下は城塞の東側と、屋上の胸壁に出る階段に通じていた。厚みのある東の壁につくと、足をとめて細い窓のひとつからおもてをながめた。夜明けの空からはがね色の光がひとすじさしこんでいた。都市がはるか下方に見えた。灰色の石造りの建物と玉石敷の細い通りはまだ薄闇と朝霧にまぎれていた。早起きの家々の窓がぽつりぽつりと明かりをともしている。陸に向かって吹く風に運ばれたさわやかな潮のかおりが、島の王国にただよっていた。古びた石の城塞に閉じこめられていると、心細い気がした。きっと〈鉄拳〉リヴァの時代の人々も、鉛色の海から陰気にあらわれた、この岩だらけの、嵐に痛めつけられた島をはじめて見たときは、同じ感情をいだいたことだろう。またこの城塞にいると、リヴァの人々にこれらの城塞と都市を岩から築かせ、〈アルダーの珠〉の保護に徹することを決意させた、断固たる義務感が感じられるのだった。
エランドは石の階段をのぼり、胸壁に立っているダーニクを見つけた。ダーニクは果てしなくうねっては、長い白波となって岩だらけの海岸にうちよせる〈風の海〉をながめていた。
「ポルが髪をとかしおえたんだな」ダーニクはエランドの頭に目をとめて言った。
エランドはうなずいた。「やっと」皮肉っぽく言った。
ダーニクは笑った。「ポルがよろこぶなら、われわれは多少のことはがまんできるんじゃないかね?」
「そうですね」エランドは同意した。「ポルガラはいまベルガリオンと話をしています。話がすむまでぼくたちにおもてにいてほしいようでした」
ダーニクはうなずいた。「それが一番いい方法だろう。ポルとガリオンはとてもなかよしなんだ。ガリオンはわれわれがいたらしゃべらないことでも、ポルとふたりだけならきっと話すだろう。ガリオンとセ・ネドラをポルが仲直りさせてくれるといいが」
「ポルガラなら大丈夫ですよ」エランドは確信をもって言った。
かれらのいる胸壁より上方の草原にはすでに日がさして、エメラルド色の草をあかるく照らしていた。羊の群れに歌いかける女羊飼いの声が聞こえてきた。小鳥のさえずりにも似た澄んだのびのびとした声が愛をうたっている。
「愛はああでなくちゃならないんだよ」ダーニクが言った。「素朴で、単純で、きよらかで――ちょうどあの娘のようにな」
「わかります。ポルガラは馬のところへ行ったらどうかと言ってました――あなたのここでの用事がすんだらですが」
「いいとも。ついでに台所に寄って、朝食を失敬していこう」
「それもすごくいい考えですね」
その日は申し分のない一日になった。太陽はあたたかく、まぶしくて、馬は練習場で子犬のようにたわむれた。
「あたしらはその馬を馬具に馴らそうとしたんだが、王さまがいかんといわれるんですよ」馬丁のひとりがダーニクにうちあけた。「だから端綱につなぐ訓練すらまだしていないんです。陛下のお話だと、なんでもこれは大変特別な馬だとかで――あたしにはとんとわかりませんがね。だって馬は馬でしょうが?」
「それが生まれたときに起きたことと関係があるんですよ」ダーニクは説明した。
「生まれるときはどの馬も同じですよ」馬丁は言った。
「その場にいあわせなかった人にはわからないでしょうね」ダーニクは言った。
その夜の食事の席で、ガリオンとセ・ネドラはテーブルをはさんでちらちらと互いを見ており、ポルガラは口もとに謎めいたかすかな微笑をうかべていた。
食事がすんだとき、ガリオンが伸びをして、いささかわざとらしくあくびをした。「なんだか今夜はひどく疲れたような気がするな」かれは言った。「みなさんはよろしければこのままおしゃべりを楽しんでください、ぼくは失礼して休みます」
「そのほうがいいかもしれないわ、ガリオン」ポルガラが言った。
ガリオンは立ちあがった。エランドにはガリオンがひどく神経質になっているのが手にとるようにわかった。見ていてはらはらするような何気ない態度をよそおって、ガリオンはセ・ネドラのほうをむき、仲直りの意志をこめてたずねた。「くるかい?」
セ・ネドラは顔をあげた。その目に気持ちがあらわれていた。「まあ――え――ええ、ガリオン」彼女はわずかに頬をそめて言った。「そうするわ。わたしもなんだかとてもくたびれているの」
「おやすみ、子供たち」ポルガラがあたたかい愛情のこもった口調で言った。「ぐっすりお眠りなさい」
国王夫妻が手に手をとって部屋を出ていったあと、ベルガラスは娘にたずねた。「あのふたりになんと言ったんだね?」
「いろいろなことをよ、おとうさん」ポルガラはすました顔で答えた。
「そのうちのひとつが功を奏したにちがいない。ダーニク、すまんがこれをもういっぱいたのむ」ベルガラスはからになったジョッキを、酒樽のとなりにすわっているダーニクに渡した。
ポルガラは自分の成功にすっかり気をよくしていたので、それについてはひとことも言わなかった。
真夜中をとうにすぎたころ、エランドはびくりとして目をさました。
(眠りが深いたちだな)まるで心の中にある声が話しかけているようだった。
「夢を見ていたんです」エランドは答えた。
(知っていたよ)声はそっけなく言った。(服を着るのだ。謁見の間にきてもらいたい)
エランドは言われるままにベッドから出て、チュニックと短くてやわらかいセンダリア人のブーツをはいた。
(静かに)声が命じた。(ポルガラとダーニクを起こすな)
物音ひとつたてずに部屋をでると、エランドと声は長い人気《ひとけ》のない廊下を歩いてリヴァ王の広間へ向かった。その広大な謁見の間で、エランドは三年前にガリオンの手に〈アルダーの珠〉をのせ、その若者の人生を永遠に変えたのである。
エランドがひっぱると、巨大なドアがかすかにきしみ、中から声が呼ばわるのが聞こえた。
「だれだ?」
「ぼくですよ、ベルガリオン」エランドは言った。
王座の上に切っ先を下にしてリヴァの巨大な剣がぶらさがっており、その柄《つか》にのっている〈アルダーの珠〉のやわらかい青い光輝が、広大な広間を照らしていた。
「こんな時間になにをうろうろしているんだ、エランド?」ガリオンがたずねた。リヴァの王は王座にだらしなくすわって、一方の肘掛けに片脚をのせていた。
「ここへくるように言われたんです」
ガリオンはふしぎそうにエランドを見た。「言われた? だれに?」
「知っているでしょう」エランドは広間にはいってドアをしめた。「かれです」
ガリオンは目をぱちくりさせた。「かれはきみにも話しかけるのか?」
「今度がはじめてです。でも、かれのことは知っていました」
「もしもかれが――」ガリオンはきゅうに言葉をきると、はっとしたようにすばやく〈珠〉を見上げた。〈珠〉の放つやわらかな青い光がいつのまにか怒ったような深い赤になっていた。エランドは奇妙な音をはっきりと聞き取った。〈珠〉を持っていたとき、エランドの耳はいつもそれが歌う水晶のようなきらめきに満たされていたが、いまそのきらめきは耳ざわりな鉄の音になっていた。まるではげしい怒りをかきたてる何かか何者かに〈珠〉が出会ったかのようだった。
(気をつけよ!)耳をそばだてずにはおかない口調で声が言うのをふたりははっきりと聞いた。(ザンドラマスに気をつけよ!)
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夜が明けるとすぐに、ふたりはベルガラスをさがしに行った。エランドはガリオンの困惑を感じることができた。エランド自身、自分たちのうけとった警告が他のいっさいに優先する重大事にかかわるものであることを察していた。リヴァの王の謁見の間に。緒にすわりこんて、最初の光が東の地平線にさすのを待ちながら夜の数時間をすごしたふたりは、そのことについてはほとんどしゃべらなかった。そのかわり、〈アルダーの珠〉を注意深く観察した。しかし、深紅の怒りを発したあの不思議な一瞬がすぎると、〈珠〉はいつもの青い輝きに戻っていた。
ベルガラスは王宮の台所に近い梁の低い広間で、火を起こしなおしたばかりの暖炉の前にすわっていた。かれのすわっているところからあまり遠くないところにテーブルがあり、その上に大きなパンのかたまりとぶあついチーズがひときれのっていた。エランドはパンとチーズを見ると急におなかがすいてきて、ベルガラスが朝食をちょっとわけてくれないだろうかと考えた。老魔術師は踊る炎をじっと見つめながら物思いにふけっているようだった。丈夫な灰色のマントを肩にはおっていたが、広間は寒くなかった。「ふたりとも早起きだな」ガリオンとエランドがはいってきて、暖炉のそばにすわりこむのを見てベルガラスは言った。
「おじいさんもね」ガリオンは言った。
「妙な夢を見たんだ」老人は答えた。「さっきからその夢を頭からふりはらおうとしていたのさ。どういうわけだか、〈珠〉が赤くなった夢を見たんだよ」
「じっさいになったんです」エランドが静かに告げた。
ベルガラスはするどくエランドを見た。
「そうなんだ。ぼくたちふたりとも見たんだよ、おじいさん」ガリオンは言った。「数時間前、ぼくたちは謁見の広間にいた。すると〈珠〉がいきなり赤くなった。次にここの声が――」かれは額をたたいた。「――ザンドラマスに気をつけよと言ったんだ」
「ザンドラマス?」ベルガラスはまごついた顔になった。「それは名前なのか物なのか、なんなんだ?」
「わからないんだ、おじいさん。でも、エランドもぼくも聞いた、そうだろう、エランド?」
エランドはパンとチーズに目を釘づけにしたまま、うなずいた。
「そんな時間に謁見の間でおまえたちふたりはなにをしていたんだ?」ベルガラスはじっとふたりを見つめた。
「ぼくは寝ていたんだ」ガリオンは答えてから、ちょっと顔を赤らめた。「その、寝ているようなものだった。セ・ネドラとかなりおそくまで話し合ったんだ。このところほとんど話らしい話もしていなかったから、おたがいに言うことが山ほどあった。とにかく、かれに起きて謁見の間へ行くように言われたんだよ」
ベルガラスはエランドを見た。「おまえは?」
「かれはぼくを起こしました」エランドは答えた。「それで、かれは――」
「ちょっと待った」ベルガラスはすばやく口をはさんだ。「だれがおまえを起こしたって?」
「ガリオンを起こした人です」
「かれがだれか知っているのか?」
「はい」
「かれが何者だか知っているのかね?」
エランドはうなずいた。
「前にもおまえに話しかけたことがあるのか?」
「いいえ」
「だが、すぐにそれがだれで、どういう人物かわかったのかね?」
「はい。謁見の間にきてくれというので、服を着て行きました。ぼくがつくと、〈珠〉が赤くなって、ザンドラマスに気をつけよと声が言ったんです」
ベルガラスはけげんそうだった。「ふたりともぜったいにまちがいないのか、〈珠〉の色が変わったことは?」
「たしかだよ、おじいさん」ガリオンは断言した。「それに音もちがっていた。いつもは鳴るような音をたてているんだ――鈴をゆらしたような音を。それがまったくちがう音になっていた」
「まちがいなく赤くなったんだな? つまり、黒っぽい青やなにかではなかったというんだな?」
「うん。たしかに赤だった」
ベルガラスは急にきびしい顔になって、椅子から立ちあがった。「一緒にきてくれ」それだけ言うと、ドアのほうへ向かった。
「どこに行くんだい?」ガリオンがたずねた。
「書庫だ。あることを調べる必要がある」
「なにを?」
「わしが読むまで待ってくれ。これは重大なことなんだ。わしの記憶が正しいかどうか確認したいんだよ」
エランドはテーブルの前を通ったついでにチーズをつかんで、一部をへしおり、もぐもぐやりながらベルガラスとガリオンについて部屋を出た。かれらはたいまつに照らされた薄暗い廊下を足早に歩いて、狭くて急な石の階段をのぼった。ここ二、三年で、ベルガラスの表情は多少ゆるんで、怠惰でわがままな感じになっていた。いまその痕跡はどこにもなかった。かれの目はするどく、油断なく光っていた。書庫についたとき、老人はほこりだらけのテーブルから蝋燭を二本とって、ドアの外側の鉄の輪にはめこんであるたいまつで火をつけた。それから室内にもどり蝋燭の一本をテーブルに立てた。「ドアをしめてくれ、ガリオン」もう一本の蝋燭はまだ手に持ったままだった。「邪魔をされたくない」
ガリオンはだまって頑丈なカシ材のドアをしめた。ベルガラスは壁ぎわへ行って蝋燭をかかげ、ほこりまみれの革表紙の本や、きちんと積まれた絹でくるんだ巻物の列を順々に見ていった。「あった」かれはてっぺんの棚をゆびさした。「あの巻物をとってくれ、ガリオン――青い絹でくるんであるあれだ」
ガリオンは爪さきだって巻物をおろした。祖父に渡す前に、かれは物珍しそうにそれをながめた。「ほんとにこれなのかな?」ガリオンはたずねた。「だって、これは『ムリンの書』じゃないよ」
「そう、ちがう。『ムリンの書』にばかり気をとられていると、あとを見のがすことになるぞ」ベルガラスは蝋燭を下におくと、巻物に巻かれているふさのついた銀色の紐を慎重にほどいた。青い絹のおおいをはぎ、ひびわれた羊皮紙をのばしにかかった。目が大昔の文字をすばやくさらった。「ほら、ここだ」かれはしばらくたって言った。「『見よ』」ベルガラスは読んだ。「『〈アルダーの珠〉が深紅の炎に燃える日に、〈闇の子〉の名があらわれるであろう』」
「だけどトラクが〈闇の子〉だったんだよ」ガリオンは異議をとなえた。「その巻物はなんなの?」
「『ダリネの書』だ」ベルガラスは言った。「ムリンほど信用のおけるものではないが、この出来事についてふれているのはこれしかない」
「どういうことなんだろう?」ガリオンは困惑して言った。
「ちょっと複雑でな」ベルガラスは口をぎゅっと結んで、問題の文章を凝視した。「簡単に言うと、予言はふたつあるんだ」
「ええ、それは知ってるけど、トラクが死んだ時点で、あとのひとつは――その――」
「かならずしもそうではない。ことはそれほど簡単ではなかろう。両者はこの世界が始まる前から何度も対決してきた。いつの場合も対決するのは〈光の子〉と〈闇の子〉なんだ。おまえとトラクがクトル・ミシュラクで会ったときは、おまえが〈光の子〉でトラクが〈闇の子〉だった。両者が対決したのはあれがはじめてではない。どうやら、あれが最後でもなかったらしい」
「戦いはまだ終わっていないってこと?」ガリオンは信じられずにつめよった。
「これによればそういうことになる」ベルガラスは羊皮紙をはじいた。
「それじゃ、このザンドラマスとやらが〈闇の子〉なら、〈光の子〉はだれなんだろう?」
「わしの知るかぎりではおまえだ」
「ぼく? まだぼくなの?」
「おまえではないという情報が耳にはいるまではな」
「なんでぼくなんだ?」
「こういうことは前にも話したんじゃなかったか?」ベルガラスはそっけなく答えた。
ガリオンはがっくり肩をおとした。「これでまた心配事がふえた――他にもいっぱい心配事があるっていうのに」
「自分をあわれむのはよせ、ガリオン」ベルガラスはぶっきらぼうに言った。「われわれはみんなやらねばならないことをしているんだ。悲しんでみたところで、事態が変わるわけじゃない」
「悲しんでなんかいないよ」
「どう表現しようと、きっぱりあきらめて仕事にとりかかれ」
「ぼくにどうしろっていうのさ?」ガリオンはむっつりと言った。
「ここからはじめたらいい」老人は片手をふってほこりだらけの書物や絹でくるんだ巻物のすべてをしめした。「これはおそらく世界最高の予言書のコレクションだろう――すくなくとも西方ではな。もちろん、マロリーのグロリムたちの神託や、クトゥーチクがラク・クトルで集めたコレクションや、ケルの人々の秘密の書物はここにはないが、仕事を開始するにはちょうどいい場所だ。わしとしてはおまえにこれを――残らず――読んでもらい、このザンドラマスとやらについてできるだけのことを見つけだしてもらいたいのだ。〈闇の子〉に言及している箇所は全部メモをするように。ほとんどはトラクに関するものだろうが、ひょっとするとザンドラマスを意味するものもあるかもしれん」ベルガラスはちょっと眉をつりあげた。「さらに、サルディオンかクトラグ・サルディウスというものについても見落とさないようにたのむ」
「それはなんなの?」
「わからん。ベルディンがマロリーでその言葉を小耳にはさんだのだ。重要なものかもしれんし――そうではないかもしれん」
ガリオンは心なしか青くなって書庫を見回した。「これがみんな予言書だっていうのか?」
「もちろんそうではない。多くは――たぶん大部分は――いろんな狂人のたわごとを忠実に書きしるしたものだろう」
「気ちがいの言うことを書きとめたがる人間なんているのかな?」
「というのは、『ムリンの書』が狂人のたわごとにほかならないからだ。ムリンの予言者は鎖でつながなくてはならないほどの狂人だった。かれが死んだあと、きわめて良心的なおおぜいの人々が外へ出ていって、目につく狂人という狂人のたわごとを書きとめた。万一そのどこかに予言がかくされていることをあてにしてな」
「本物の予言と偽物の予言の区別はどうやってつければいいんだろう?」
「わしにもよくわからん。全部読んだら、区別する方法を見つけられるんじゃないかね。見つかったら、われわれに知らせてくれ。時間がおおいに節約できる」
ガリオンは失望して書庫をながめた。「だけど、おじいさん、何年もかかるよ!」
「それじゃさっさとはじめたほうがいいんじゃないのか? トラクの死後起きたと思われることに焦点をしぼるようにしたらいい。そこまでのことはわれわれにはようくわかっているからな」
「おじいさん、ぼくは本物の学者じゃないんだ。なにか見落としたらどうなる?」
「見落としはせん」ベルガラスはきっぱりと言った。「好むと好まざるとにかかわらず、ガリオン、おまえはわれわれの仲間なんだ。おまえにはわれわれ同様果たさなくてはならん義務がある。全世界がおまえをたよっているという考えに慣れたほうがいい――なぜぼくなんだ?≠ニいう言葉を聞いたことも忘れたほうがいいな。あれは子供の反抗だ。おまえはもうおとなだろう」次に老人はくるりと向きを変えて、エランドをまじまじと見つめた。「で、こういうことに巻きこまれたら、おまえはどうするね?」
「わかりません」エランドはおだやかに言った。「しばらくようすを見たほうがいいんじゃないでしょうか」
その午後、エランドはポルガラとふたりきりで彼女のぬくぬくと気持ちのいい居間にいた。ポルガラはお気に入りの青の化粧着をはおり、足のせ台に足をのせて暖炉のそばにすわっていた。手には刺繍用の輪を持ち、金色の火明かりをあびて刺繍針がきらめくたびに低い声でハミングしていた。エランドはポルガラの向かい側で革張りの肘かけ椅子に腰かけ、リンゴをかじったり、彼女の手元を眺めたりした。ポルガラについてエランドが大好きなことのひとつは、単純な家事に専念しているときに一種おだやかな充足感をまきちらすことのできるその能力だった。そういうときは彼女の存在そのものが心をなごませてくれた。
ポルガラの侍女をつとめているリヴァのかわいい少女がドアをそっとノックして部屋にはいってきた。「レディ・ポルガラ」少女は膝をちょっと曲げて言った。「ブランド卿がお話をしてもかまわないかどうかとのことですが」
「かまいませんとも、ディア」ポルガラは刺繍をわきにおいて答えた。「お通ししてちょうだい」エランドの観察したところでは、ポルガラは若い者にはだれかれかまわず「ディア」と呼びかけ、たいていのときはそのことに気づいてもいなかった。
侍女は長身で灰色の髪の〈リヴァの番人〉をともなってはいってくると、また膝を曲げておじぎをし、静かに出ていった。
「ポルガラ」ブランドは太い声で挨拶した。がっしりした大男で、顔には深いしわがきざまれ、疲れたような悲しげな目をしたブランドは、最後の〈リヴァの番人〉だった。ゴレク王がサルミスラ女王の暗殺者の手にかかって死んだあとの数世紀におよぶ空位期間のあいだ、〈風の島〉とリヴァの民は、能力と義務への絶対的献身を買われて選ばれた一族の人々によって治められてきた。それぞれの〈番人〉が自分を殺し、ブランドの名を名乗ったその献身ぶりは、まことに利他的なものだった。現在はついにガリオンが王座についたことによって、数世紀にわたる守役はこれ以上必要がなくなった。だが、命があるかぎり、この悲しい目をした大男はまちがいなく王族につきそうだろう――ガリオン自身にはさほどつきそうことはなくても、王族の概念とその永続に。その静かな午後、ガリオンとかれのお妃の不和を解決してくれた礼を言いに、ポルガラのもとへやってきたブランドが、念頭においていたことはそのことだった。
「どうしてあのふたりはあんなに険悪になっていたのかしら?」ポルガラはブランドにたずねた。「結婚したときはてこ[#「てこ」に傍点]でも動かないくらいぴったりよりそっていたのよ」
「すべてがはじまったのは一年前でした」ブランドはよくひびく声で答えた。「島の北端に勢力のあるふたつの一族がいるのです。かれらは常に友好的でしたが、一族の若者と、もうひとつの一族の娘が結婚することになったとき、それにともなう財産の取り決めをめぐって論争がもちあがったのです。いっぽうの一族の人々は城塞へやってきて、セ・ネドラに訴えました。セ・ネドラはかれらを支持する判決をだしました」
「でもそのことについてガリオンに相談するのを怠ったのね?」
ブランドはうなずいた。「ガリオンはそれを知ると、烈火のごとく怒りました。セ・ネドラがやりすぎたことは疑いの余地がなかったのですが、ガリオンは彼女の判決を公然と撤回したのです」
「おやまあ。それじゃ、それが冷戦の原因なのね。ふたりともそうは言ってくれなかったわ」
「たぶんそれを認めるのがはずかしいんでしょう。ふたりはたがいを公衆の面前でけなしたのです。笑って許したり、水に流したりできるほどふたりともおとなではありませんでした。ふたりは相手を非難しつづけ、ついに事態は手のつけられないものになってしまったのです。ふたりをゆさぶるか――おしりをひっぱたいてやりたくなったときもありましたよ」
「それはおもしろい考えね」ポルガラは笑った。「かれらが問題をかかえていることをどうして手紙で知らせてくれなかったの?」
「ベルガリオンにとめられたのです」ブランドはたよりなく答えた。
「そのたぐいの命令にはそむくことも必要よ」
「申し訳ありません、ポルガラ、しかし、それはできないことです」
「ええ、そうでしょうね」彼女はエランドをふりかえった。かれは精巧な茶色のガラス細工をしげしげとながめているところだった。花がほころびかけた小枝にクリスタルのミソサザイがとまっている置物である。「それにさわらないでね、エランド」ポルガラは注意した。「こわれやすいし、とても高価なものなの」
「はい、わかってます」エランドはポルガラを安心させるために両手をうしろで組んだ。
「ところで」ポルガラはブランドにむきなおった。「愚かな仲たがいはもう過去のものになったはずよ。リヴァの王室には平和がもどると思うわ」
「そうなることを心から望みますよ」ブランドはくたびれた微笑をうかべて言った。「一刻も早く育児室がふさがることを祈ります」
「それはまだちょっとかかりそうね」
「そのことなんですが、のんきにしてもいられなくなってきたんです、ポルガラ」ブランドは深刻に言った。「われわれはみんな世継ぎが生まれないことにちょっと神経をとがらせているんですよ。わたしだけではありません。アンヘグもローダーもチョ・ハグも手紙でわたしにそう言ってきました。アロリア中がセ・ネドラの懐妊を固唾をのんで待っているんです」
「彼女はまだ十九よ、ブランド」
「アローンの娘の大半は、その歳には最低ふたりは赤ん坊を産んでいるんですよ」
「セ・ネドラはアローン人じゃないわ。完全なトルネドラ人というわけでさえないのよ。彼女はドリュアドの血をひいているの。ドリュアドとかれらの成熟の仕方には一風変わったところがあるのよ」
「それはアローン人には通用しにくい説明です」ブランドは答えた。「リヴァの王座にはどうしても世継ぎが必要なんです。リヴァは存続しなくてはなりません」
「あのふたりに少し時間をやってちょうだい、ブランド」ポルガラは冷静に言った。「やっとそこに心がまわったところなのよ。大事なのはかれらを同じベッドに戻すということだわ」
それから一日ばかりたって、太陽が〈風の海〉の水面にきらめき、陸にむかって吹くはげしい風が緑の波頭を白く泡立てていたとき、巨大なチェレクの戦艦が、リヴァの港をいだくふたつのごつごつした岬のあいだを通って進んできた。艦の艦長もなみはずれた巨漢だった。赤ひげを風になびかせて舵をにぎっているのは、トレルハイム伯爵のバラクだった。彼は神妙な顔つきで岬のひとつのすぐ内側の渦を通過してから、石の桟橋めざして港を横切った。船乗りたちが船をろくにつなぎもしないうちに、バラクは城塞にむかってみかげ石の長い階段をのぼっていた。ベルガラスとエランドは城塞の城壁のてっぺんにある胸壁にいて、バラクの船の到着を目撃していた。したがって、大男がどっしりした門にたどりついたときには、ふたりでかれを待っていた。
「ここでなにをやってるんです、ベルガラス?」大柄なチェレク人はたずねた。「〈谷〉にいたんじゃなかったんですか?」
ベルガラスは肩をすくめた。「訪ねによったのさ」
バラクはエランドに視線を移した。「よお。ポルガラとダーニクも一緒かい?」
「はい」エランドは答えた。「みんな謁見の間でベルガリオンを見守っています」
「ガリオンはなにをしてるんだ?」
「王をやってる」ベルガラスはそっけなくかわした。「おまえたちが港にはいってくるのを見たよ」
「感動的だったでしょうが?」バラクは誇らしげに言った。
「おまえの船の進みかたは、まるで身ごもったクジラだな、バラク」ベルガラスはぶっきらぼうに言った。「大きければ必ずしもいいというものではないことが、わかっとらんようだ」
バラクは傷つけられた顔になった。「おれはあなたの所有物をおちょくったりしませんよ、ベルガラス」
「わしには所有物などないよ、バラク。リヴァへはどういう用で来たんだね?」
「アンヘグがおれをつかわしたんですよ。ガリオンがいったいなにをしてるんだか知らないが、どのくらいかかりそうなんです?」
「行ってみよう」
しかしリヴァの王はすでにその朝の接見を終えてリヴァの王の謁見の間を出、セ・ネドラ、ポルガラ、ダーニクとともに薄暗い専用通路を通って王の住まいへむかっているところだった。
「バラク!」部屋のドアの前で、ガリオンは懐かしい友人にかけよって叫んだ。
バラクは神妙な目つきでガリオンを見て、うやうやしくお辞儀した。
「どうしたんだい?」ガリオンはとまどった顔をした。
「あなたはまだ冠をかぶっているのよ、ガリオン」ポルガラが思い出させた。「儀式用のローブもね。だから気楽に声をかけられない感じがするのよ」
「そうか」ガリオンはちょっときまりわるそうだった。「忘れてた。中へはいろう」かれはドアをあけて一同を招きいれた。
バラクは満面に笑みをたたえて、ポルガラを抱きしめた。
「バラク」彼女はかすかに息をきらしながら言った。「魚の薫製を食べたあとでひげを洗うのを忘れなかったら、そばに寄ったときにもっと感じがいいんだけど」
「食べたのは一匹だけですぜ」
「ふつうはそれでじゅうぶんよ」
次にバラクは向きをかえて、セ・ネドラの小さな肩に太い腕を回し、音をたててキスした。
小柄なお妃は声をたてて笑い、すべり落ちそうになった冠をあわてておさえた。「おっしゃるとおりだわ、レディ・ポルガラ、たしかに臭います」
バラクは訴えるように言った。「ガリオン、いっぱいやりたくて死にそうなんだよ」
「船に積んだ酒樽はみんなからっぽにしてしまったの?」ポルガラがたずねた。
「〈海鳥〉には酒は積んじゃいませんよ」
「まあ?」
「船乗りたちにはしらふでいてもらいたいからね」
「感心なのね」ポルガラはつぶやいた。
「主義の問題ですよ」バラクは殊勝に言った。
「そりゃ正気でいてもらわなくちゃな」ベルガラスが同意した。「バラクのあのばかでかい船は、信頼できるといえるしろものじゃない」
バラクは傷ついた目つきでベルガラスをにらんだ。
ガリオンは酒を用意させると、冠と儀式用のローブをぬぎ、はた目にもわかるほどほっとしたようすでみんなに着席をうながした。
ひとたび喉をうるおすと、バラクの表情が固くなった。かれはガリオンを見つめた。「アンヘグがおれをおくってよこしたのは、警告のためなんだ。じつは、またしても熊神教について、手元に報告がはいってくるようになったんだよ」
「熊神教をふれあるいていた連中は、タール・マードゥで全員死んだとばかり思っていましたよ」ダーニクが口をはさんだ。
「グロデグの手下どもはたしかに死んだ」バラクは言った。「あいにく、グロデクが神教のすべてじゃなかったんだ」
「よくわかりませんね」ダーニクが言った。
「ちょっとこみいっているんだよ。あのな、熊神教はずっと昔からあったものなんだ。チェレク、ドラスニア、アルガリアのへんぴな地域に浸透した宗教生活の基本的部分なんだ。しかし、よからぬ野心を持つ者が――グロデグみたいな――しょっちゅう支配権をにぎっては、都市に信仰を確立させようとする。都市というのは力に満ちた場所だ。グロデグのようなやつは機械的に熊神教を利用して都市をのっとろうとする。問題は熊神教が都市では広がらないということだ」
ダーニクのけげんそうな顔がいっそう不審げになった。
「都市に住む人々はつねに新しい人間や新しい考えに接触している。だが、都市周辺部の人々は目新しい考えにひとつもでくわすことなく、何代も過ごしてきている。熊神教は新しい考えを信用しない。だから、田舎の人々が熊神教にひかれるのは当然のなりゆきなんだ」
「新しい考えがつねによい考えというわけではありませんよ」田舎出のダーニクが固い口調で言った。
「当然だ」バラクは同意した。「しかし古い考えがかならずしもよいともかぎらない。熊神教はもう何千年も前から同じ考えをもとにうまく発展してきた。神々が去る前にベラーが最後にアローン人に言ったのは、西の諸王国を率いて、トラクの民と戦えということだった。その率いて≠ニいう言葉がすべての問題の原因になった。あいにくそれにはいろんな意味がある。熊神教の信者たちは、ほかの西の諸王国をアローンに服従させることこそ、ベラーの指示にしたがう最初の一歩なのだと解釈してきた。賢明な熊神教の信者はアンガラク人と戦おうとは考えていない。なぜなら、センダリア、アレンディア、トルネドラ、ニーサそしてマラゴーを征服することにひたすら注意を向けているからだ」
「マラゴーはもう滅びましたよ」ダーニクが反論した。
「そのニュースはまだ熊神教の耳にはいっていないんだ」バラクはそっけなく言った。「なんと言ってもかれこれ三千年にしかならない。とにかく、それが熊神教の背後にあるいささかくたびれた考えなんだ。まずアロリアを再統合すること、それが連中の第一目的だ。次が、西方の諸王国を侵略して征服することだ。それからはじめてマーゴ人とマロリー人を攻略することを考えはじめるだろう」
「熊神教の人々はちょっと遅れているんでしょう?」ダーニクがたずねた。
「一部の連中はまだ火すら発見していないよ」バラクはこばかにしたように言った。
「アンヘグがどうしてそんなに心配しているのかよくわからんな、バラク」ベルガラスが言った。「熊神教は都市周辺でじっさいにはなんの問題も起こしておらん。真夏の宵にかがり火のまわりをとびはねたり、真冬に熊の毛皮をはおって一列になってすり足で歩き回ったり、いがらっぽいほらあなの中で煙にまかれて立てなくなるまで長い祈りを唱えたりするだけだ。そのどこが危険なんだ?」
「いま、説明しますって」バラクはひげをひっぱった。「これまではずっと、田舎の熊神教はまとまりのない愚行と迷信の集団でしかなかったんです。だが、この一、二年のうちに、新しいなにかが進行しているんですよ」
「ほう?」ベルガラスは興味深げにかれを見つめた。
「新しい指導者が出現したんですよ――何者なのか、おれたちはつかんでもいませんがね。昔は、ひとつの村の熊神教の信者たちは別の村の信者たちを頭から信用しなかったもんです。だから組織化されて問題を起こすこともなかった。この新しい指導者はそれをすっかり変えてしまったんですよ。歴史上はじめて、田舎の熊神教の信者たちがひとりの人間から命令を受けはじめているんです」
ベルガラスは眉をひそめた。「たしかに問題だな」
ガリオンがとまどいぎみに言った。「じつに興味のある話だけど、バラク、どうしてアンヘグ王はわざわざあんたを送りこんでまでぼくに警告するのかな? ぼくの知るかぎりでは、熊神教は〈風の島〉にこれまではいってきたことさえないんだよ」
「アンヘグは用心のためにそうしたかったんだ、というのは、この新しい信仰の敵意がおもにきみにむけられているからだ」
「ぼくに? どういうわけで?」
「きみはトルネドラ人と結婚した」バラクは言った。「熊神教の信者にとっては、トルネドラ人はマーゴ人より悪いんだ」
「めずらしい意見ですのね」セ・ネドラが巻毛をふりたてて言った。
「それが連中の考えかたなんだよ」バラクはセ・ネドラに言った。「あのまぬけたちのほとんどは、アンガラク人がなんなのかも知らない。だがトルネドラ人ならいやというほど見てきた――たいがいは抜け目のない商人たちをね。千年のあいだ、かれらは王があらわれて〈リヴァの剣〉をとり、自分たちを聖域へみちびいて西方の諸王国を征服することを待ち望んでいたんだ。ところが、いざ王があらわれてみると、かれがまっさきにしたのはトルネドラ皇室の皇女との結婚だった。かれらの見方では、次代のリヴァの王は混血児になる。かれらはあなたを毒のように憎んでいるんだよ、かわいいお妃さま」
「なんてばからしい考えなの!」セ・ネドラは叫んだ。
「もちろんだ」大きなチェレク人は同意した。「しかし宗教に支配された精神の特徴というのは、つねにばかげているんだよ。ベラーが口をつぐんでいてくれたらよかったのにな」
ベルガラスが突然笑いだした。
「なにがそんなにおかしいんです?」バラクはきいた。
「ベラーに口をつぐんでいてくれと頼むことぐらい、むだなことはないだろうと思ってな」老魔術師はまだ笑いながら言った。「おぼえているが、あるときなんぞ、ベラーは一週間ぶっとおしでしゃべりまくったもんだ」
「なにをしゃべっていたんだろう?」ガリオンは好奇心から言った。
「初期のアローン人たちにむかって、冬のはじめに北への移住を開始するのは賢明な考えではないと説明していたんだ。当時はひとつのことを完全に理解させるにはアローン人に話すしかなかったのさ」
「それはいまもそれほど変わっていませんわ」セ・ネドラが皮肉っぽく夫をながめてから、笑い声をたてていとおしげにガリオンの手をさわった。
翌朝は雲ひとつない夜明けとなった。エランドはいつものように目がさめるとすぐ、きょうがどんな一日になるかを見に窓に近づいた。リヴァの都市をみわたし、まばゆい朝日が〈風の海〉を照らしているのを見て、にっこりした。雲の気配はどこにもない。きょうはいい天気になるぞ。ポルガラが出しておいてくれたチュニックとズボンをつけて、エランドは家族のところへ行った。ダーニクとポルガラはそれぞれ暖炉の左右に置かれた、革張りのすわりごこちのいい二脚の椅子にすわって、静かに話しながらお茶をのんでいた。エランドはいつものようにポルガラのところへ行って首に両腕をまわし、キスをした。
「寝ぼうね」ポルガラはエランドの目の上にかかっていた巻毛をはらいのけて、言った。
「ちょっと疲れたんです」かれは答えた。「あまり寝てなかったので」
「そうらしいわね」ほとんどうわの空で、ポルガラはエランドを膝へだきあげ、やわらかな青いビロードの化粧着にひきよせた。
「膝に抱くにはちょっと大きいんじゃないのかね」ダーニクが好ましげな微笑をふたりにむけながら言った。
「わかってるわ。だからできるだけしょっちゅう抱いているのよ。大きくなるのはあっというまですもの、できるあいだにこうしておかなくちゃ。子供にとって育つのは大切なことだけれど、小さな子がそばにいるすばらしさが消えていってしまうのが惜しいのよ」
ドアに短いノックがあって、ベルガラスがはいってきた。
「あら、おはよう、おとうさん」ポルガラが挨拶した。
ベルガラスはそっけなくうなずいた。「ポル、ダーニク」
「ゆうべはちゃんとバラクをベッドへはこべましたか?」ダーニクがにやにやしながらたずねた。
「真夜中ごろ、寝かせたよ。ブランドの息子たちがてつだってくれたんだ。バラクは年々重くなるようだな」
「ガリオンの酒樽のそばを一晩中はなれなかったにしては、びっくりするほど具合いがよさそうね、おとうさん」
「わしはそれほどのまなかったんだ」ベルガラスは暖炉に近よって両手を火にかざした。
ポルガラは片方の眉をつりあげて父親をながめた。
「いろいろ思うことがあってな」ベルガラスはそう言ったあと、まっすぐにポルガラを見すえた。「ガリオンとセ・ネドラのあいだは万事もとどおりになったのか?」
「ええ、そのはずよ」
「確実にしといてくれ。ここの状態がまたぐらつくようでは困るんだ。わしは〈谷〉へもどらなくてはならないことになりそうだが、おまえがここにとどまってあのふたりから目を離さないほうがいいと思うなら、ひとりで先に行くことにする」ベルガラスの声は真剣で、有無をいわせぬ雰囲気があった。
老人を見たエランドは、また例のこと――ベルガラスがときどきまるで別人のように見えるということ――に気づいた。さしせまった事態がないときのかれは怠惰のかぎりをつくし、酒をのみ、けちなコソ泥まがいのことをして楽しんでいた。しかし重大事がもちあがると、すべてをうっちゃって、問題解決のために無限の集中力とエネルギーをつぎこむことができるのだ。
ポルガラは静かにエランドをおろすと、父親を見た。「それじゃ、重大なことなのね?」
「わからんのだ、ポル。わからないことが進行しているのが気にいらんのだよ。ここへきたおまえの目的が果たせたのなら、一緒にひきかえしたほうがいいと思う。バラクを起こせたら、すぐにでもわれわれをカマールへ連れていってもらおう。カマールなら馬が調達できる。わしはベルディンと話さなくてはならん――このザンドラマスの件についてベルディンがなにか知っているかどうか確かめんと」
「出発はいつでもできてよ、おとうさん」ポルガラは断言した。
しばらくたってから、エランドは厩へ行って、はしゃいでいる若駒に別れをつげた。こんなにすぐに帰らなくてはならないのがちょっと悲しかった。エランドはガリオンとセ・ネドラが心から好きだった。リヴァの若い王はいろんな点でまるで兄のようだったし、セ・ネドラは一緒にいると楽しかった――気むずかしくなってさえいなければ。だが、なによりもつらいのは、馬との別れだった。エランドはその馬を荷物を運ぶ動物として考えていなかった。かれらはどちらも若く、互いの友だちでありたいという強い願望をわかちあっていた。
少年は明るい朝の日差しの中で、まわりをはねまわる脚の長い動物とともに練習場のまんなかに立っていた。そのとき目のすみで動くものをとらえてふりかえると、ダーニクとガリオンが近づいてくるのが見えた。
「おはよう、エランド」リヴァの王は言った。
「ベルガリオン」
「きみも馬も楽しんでいるようだね」
「ぼくたちは友だちなんです」エランドは言った。「一緒にいるのが好きなんです」
ガリオンは悲痛とも言えるまなざしで、くり毛の動物を見つめた。馬はガリオンに近よって、ものめずらしげにかれの服に鼻をすりよせた。ガリオンはぴんと立った耳をさすって、なめらかなつやつやした馬の眉間をなでおろした。それからためいきをついた。「この馬をきみのものにしたいかい?」ガリオンはエランドにきいた。
「友だちは所有するものじゃありません、ベルガリオン」
「そのとおりだ」ガリオンはうなずいた。「だが、この馬がきみと一緒に〈谷〉へ帰ったらうれしいだろう?」
「でもこの馬はあなたのことも好きなんです」
「ぼくならいつでも会いにいける」リヴァの王は言った。「ここには思うぞんぶん走りまわれる場所がないし、ぼくも忙しすぎて、ちっとも一緒にすごしてやれない。きみと一緒に行くのがこの馬にとっては一番いいと思う。どう思う?」
エランドは自分のことより、若い動物のしあわせを第一にして王の申し出を考えた。この寛大な申し出がガリオンにとってどれほどつらいものであるかは、顔を見ただけでわかった。しばらくたって答えたとき、エランドの声は静かで真剣そのものだった。「あなたの言うとおりだと思います、ベルガリオン。この馬にとっては〈谷〉にいるほうがいいでしょう。あそこなら閉じ込めておく必要はありません」
「調教しないといけないよ」ガリオンは言った。「人を乗せたことが全然ないんだ」
「ふたりでなんとかやってみます」エランドはガリオンを安心させるように言った。
「じゃ、きみと一緒に行かせよう」ガリオンはきっぱりと言った。
「ありがとう」
「どういたしまして、エランド」
(でかした!)エランドははっきりその声を聞いた。まるでかれの心の中でしゃべったかのようだった。
(なんですって?)ガリオンの無言の返事はおどろいていた。
(よくやったぞ、ガリオン。わたしはそのふたりに一緒にいてもらいたいのだ。かれらにはやらねばならないことがあり、それにはふたりが必要なのだよ)それだけ言うと、声は消えた。
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「はじめるのに一番いいやりかたは、背中にチュニックか上着をかけることだ」ヘターが持ち前の静かな声で言った。長身のこのアルガー人はエランドとともに、ポレドラの小屋の西にひろがる牧草地に立っていた。「きみのにおいがするものでなくちゃだめだよ。きみのにおいに馬をなれさせ、きみのにおいのするものが背中にあるならだいじょうぶだと思うようにさせるんだ」
「ぼくのにおいならもう知っているんじゃないかな」エランドは言った。
「これはそれとは少しちがうんだ」ヘターは言い聞かせた。「こういうことはゆっくりやらないといけない。馬をこわがらせてはだめだ。こわがったら、きみを背中から振り落とそうとするだろう」
「ぼくたちは友だちなんです」エランドは説明しようとした。「かれはぼくが傷つけるようなことはしないと知っています。だから、かれだってぼくを傷つけるようなことはしません」
ヘターはかぶりをふると、ゆるやかにうねる草地の遠くへ目をやった。「わたしが説明したとおりにしたまえ、エランド」辛抱づよく言った。「わたしを信用しろ、ちゃんとわかったうえで話しているんだ」
「どうしてもと言うなら」エランドは答えた。「でも、時間のむだ使いだと思うな」
「わたしを信用するんだ」
エランドはおとなしく着古したチュニックを数回馬の背中にかけた。馬はそのあいだなにをしているんだろうと言いたげに、しげしげとエランドを見ていた。ヘターにわかってもらえたらいいのにと思った。エランドと馬はすでに朝の大部分を費やして、ワシのように鋭い顔のアルガーの戦士から、馬を調教する際の念入りな指導をうけていた。コツさえのみこめば、こんなしちめんどうくさいことをしなくても、前方にひろがる広大な丘陵や〈谷〉をふたりで全力疾走できるにちがいないのだ。
「もういいですか?」エランドは何度か馬の背中にチュニックをかけたあとでたずねた。「もう乗ってもいいでしょう?」
ヘターはためいきをついた。「痛い目にあわないと気がすまないようだな。いいとも、乗ってごらん。だが、振り落とされてもだいじょうぶなように地面のやわらかいところを捜したまえ」
「振り落としたりしません」エランドは自信たっぷりに答えた。くり毛の首に片手をおいて、白い岩が草のあいだからつきでた場所へやさしく導いていった。
「まず手綱をかけたほうがいいんじゃないかね?」ヘターがきいた。「そうすればすくなくともそれにつかまっていられる」
「かけないほうがいいと思います。手綱なんかいやがるにきまってますから」
「好きなように。気がすむようにやりたまえ。ただし、落ちたときにどこも折らないようにしろよ」
「落ちたりしませんよ」
「教えてくれ、命しらず≠ニいう言葉の意味を知ってるか?」
エランドは笑って岩によじのぼった。「さあ、いくぞ」馬の背中にまたがった。
若駒はわずかにしりごみし、ふるえながらたちすくんだ。
「だいじょうぶだよ」エランドは落ち着いた声で馬を安心させた。
馬はふりかえって、大きなうるんだ目に軽いおどろきをうかべてエランドを見た。
「しがみついていたほうがいいぞ」ヘターが警告したが、目にはとまどった表情がうかび、声はたよりなげだった。
「おとなしくしてますよ」エランドは両脚を曲げたが、じっさいにはかかとはくり毛の脇腹にさわりもしなかった。馬はおそるおそる一歩ふみだすと、物問いたげにエランドをふりかえった。
「その調子だよ」エランドは勇気づけた。
馬はさらに何歩か進み、またうしろをふりかえった。
「いいぞ」エランドは首をたたいてやった。「すごくいい」
馬は喜びいさんではねまわった。
「気をつけろ!」ヘターが鋭く言った。
エランドは前のめりになって、数百ヤード南西にある草におおわれた小山を指さした。「あそこまで行こう」びんとたった耳にささやきかけた。
馬は武者ぶるいして筋肉を隆起させると、ありったけのスピードで小山めざして走りだした。あっというまに小山をのぼりつめてしまうと、馬はスピードをおとして誇らしげにそこらをはねまわった。
「いいぞ」エランドは純粋な喜びにひたりながら声をたてて笑った。「じゃあ今度はあっちの丘の斜面のむこうにあるあの木まで行ってみようか?」
「ふつうじゃありません」その晩一同がポレドラの小屋で、金色の火明かりを浴びてテーブルを囲んでいるとき、ヘターはむっつりと言った。
「かれらはちゃんとやっているようだよ」ダーニクがおだやかに言った。
「ですが、エランドのやりかたは全部まちがっているんですよ」ヘターは文句をつけた。「あんなふうにいきなり乗ったら、馬はぜったいにはげしく興奮したはずなんです。それに馬に行き先を教えるだなんて。馬は進めるものですよ。そのために手綱があるんです」
「エランドはふつうじゃない子供なんだよ」ベルガラスがヘターに言った。「あの馬もふつうじゃない。かれらが理解しあってなかよくやっているかぎり、それでいいんじゃないかね?」
「ふつうじゃありません」ヘターは当惑顔でくりかえした。「わたしはあの馬がパニックを起こすのをずっと待っていたんです。ところが馬の精神はまったく平静なままでした。わたしは馬が何を考えているかわかりますが、エランドがまたがったとき、あの若駒が感じていたのは好奇心だけでした。好奇心とはね! 馬なら当然やることをやりもしなければ、思いもしなかった」ヘターが力なく首をふると、頭皮に残る一房の長い黒髪がかれの憂鬱を強調するように前後にゆれた。「ふつうじゃありません」あの状況を要約する言葉はほかに思いつかないとでもいうように、うめくようにくりかえした。
「もう何度もそう言ったわよ、ヘター」ポルガラが言った。「その話はこれくらいにして――相当あなたを悩ませるようだから――アダーラの赤ちゃんのことを話したらどうなの」
ヘターのたけだけしいワシのような顔に、愚直な喜びの表情が広がった。「男の子です」その声には、父親になったばかりの圧倒的誇りがにじんでいた。
「そうじゃないかと思ってたのよ」ポルガラは落ち着いて言った。「生まれたときはどのくらい大きかったの?」
「はて――」ヘターはこまった顔をした。「このくらいでしょう」二分の一ヤードばかり両手をはなして広げた。
「だれも身長をはかる手間をかけなかったの?」
「はかりはしたんでしょうが。生まれたあとのいろいろなことは、わたしの母とそのほかの婦人たちでやってくれました」
「体重の測定は?」
「だいたい成長した野ウサギくらいでしょう――かなり大きな野ウサギですよ――それとも、あのセンダリアの赤チーズひとつぐらいかな」
「わかったわ、身長が一フィート半、体重が八、九ポンド――あなたの言おうとしてるのはこういうことね?」ポルガラの視線はけわしかった。
「そんなものでしょう」
「じゃどうしてそう言わなかったの?」ポルガラはいらだたしげに問いつめた。
ヘターはびっくりしてポルガラを見た。「それがそんなに大事なことなんですか?」
「そうよ、ヘター、そんなに大事なことなのよ。女はそういうことを知りたがるものなのよ」
「忘れないようにしますよ。わたしが本当に関心があったのは、腕や脚や耳や鼻の数が異常じゃないかどうかということと、最初に口にはいるのが、まちがいなく牝馬の乳かどうかということだけだったんです」
「当然ね」ポルガラは皮肉っぽく言った。
「これはじつに重要なことですよ、ポルガラ」ヘターはきっぱりと言った。「すべてのアルガー人が生まれてはじめて飲むのは、牝馬の乳なんです」
「それで馬に同化するってわけね」
ヘターは目をぱちくりさせた。「まさか、そんな。絆を確立させるためですよ」
「ぼうやのためにあなたが牝馬の乳をしぼったの? それともぼうやにはいずりまわらせて自分で捜させたの?」
「ずいぶんおかしなことを考えるんですね、ポルガラ」
「年のせいでしょ」ポルガラは物騒な声で言った。
ヘターはただちにその口調に気づいた。「いや、そんなことありませんよ」
「賢明な判断だな」ダーニクがつぶやいた。「ウルゴランドの山へ行くと言っていたね?」
ヘターはうなずいた。「フルルガをおぼえていますか?」
「肉食の馬だろう?」
「ちょっと試してみたいアイデアがあるんですよ。成長したフルルガはもちろん調教できませんが、子馬を何頭かつかまえられれば、もしかすると――」
「それはきわめて危険だぞ、ヘター」ベルガラスが警告した。「群れが一丸となって子馬を守ろうとするだろう」
「子馬を群れから離す方法がいくつかあるんです」
ポルガラは非難がましくヘターを見た。「うまくいったとしても、子馬をどうするつもりなの?」
「調教するんです」
「むりよ」
「試した者はだれもいません。調教はむりでも、ふつうの馬とかけあわせることはできます」
ダーニクはふしぎそうな顔をした。「牙や鋭い爪のある馬をきみがほしがる理由はなんなんだい?」
ヘターは考えこむように炎をじっと見つめた。「フルルガはふつうの馬より速いし、強い。ずっと遠くまでジャンプすることもできるし――」声が小さくなって消えた。
「姿形は馬なのに乗りこなせないのがしゃくにさわるからだろう」ベルガラスがヘターにかわって言った。
「それもあるかもしれません」ヘターは認めた。「しかし、戦いにのぞめばフルルガに乗っていることがはかりしれない利点になるんですよ」
「ヘター」ダーニクが言った。「アルガリアでもっとも大事なものは家畜だ、そうだろう?」
「ええ」
「牝牛を見れば食べ物と思うような馬を本気で飼育したいのかい?」
ヘターは額にしわをよせて顎をかいた。「そのことは考えていなかったな」
馬がいるおかげで、エランドの行動範囲は飛躍的に広がった。若駒は疲れ知らずで、ほとんど一日中でも平気で走ることができた。エランドがまだほんの少年で、はちきれんばかりに元気な動物にとってはたいした重さではなかったので、かれらは草におおわれた南アルガリアのうねる丘陵を自由気ままにかけあがったり、木が点在する広大な〈アルダー谷〉をかけおりたりした。
少年は毎朝早起きして、くり毛の若駒が小屋のすぐ外で待っているのを意識しながらそそくさと朝食をたべ、食事がすむやいなや、ふたりでおもてをかけまわった。空からななめにさす金色の朝日をあびて、露にぬれた緑豊かなきらめく草原を走りぬけ、ひんやりとかぐわしい朝の大気をきって前方によこたわる長い丘陵の斜面をかけあがった。ポルガラはかれらふたりがこれほどまでに走りたがるわけを本能的に察しているらしく、皿がからになるなり、ドアと、かれの前によこたわる一日めがけて突進できるようにと、椅子の端に申し訳程度に腰かけてがつがつと食事をするエランドにも、なにひとつ言わなかった。エランドがもう行ってもよいかとたずねるとき、かれを見つめるポルガラの目はやさしく、かれに与えるほほえみは理解にみちていた。
黄金色の実がたわわに熟した夏も終わりの、あるさわやかにまばゆい朝、小屋のドアからでてきたエランドは首をたれて待っていた友だちをやさしく愛撫するようになでた。馬は喜びにみぶるいして、待ちきれないように二、三歩はねまわった。エランドはうれしそうに笑って馬のたてがみをつかみ、流れるような一回だけの動作でたくましくつややかな馬の背中にとびのった。
馬は少年がまたがると同時に走りだした。かれらは長い斜面を猛スピードでかけあがり、たちどまって目の前の朝日をあびた草原を見渡した。それから、わらぶき屋根の石の小屋が立つ小さなくぼ地のまわりをまわって、南へむかい、〈谷〉へおりていった。
その日の遠出はこれまで何度もしてきたような、これといった目的のないいきあたりばったりのものではなかった。数日前から、エランドはふしぎなとらえどころのない意識が〈谷〉から発散して、自分に呼びかけているような気がしてならなかった。そこで、小屋のドアをくぐったとき、執拗に自分を呼ぶそれがなんなのか正確につきとめようと急に決心したのだった。
静かに草をはむシカや好奇心もあらわなウサギたちのそばを通って、ひっそりとした〈谷〉へおりていきながら、エランドはその意識がしだいに強まっていくのを感じることができた。それは信じがたい忍耐力――というより、こうした内気な、たまの応答を何千年も待つことのできる能力――によって強力に支配された、ふしぎな意識だった。
ベルガラスの塔の西数リーグの距離にある、高くて丸い丘の頂上まできたとき、風になびく草を一瞬の影がよぎった。エランドは上をちらりと見あげた。雲間から円柱のようにさしこむ日光をうけて、青い縞もようのタカが一羽、翼を静止させたまま旋回している。少年が見守るうちに、タカは体をかたむけて長い優雅な螺旋を描きながらおりてきた。実の熟したトウモロコシの黄金色の房にぶつかりそうになったとき、タカは翼をひろげて、爪のある足をのばし、朝の大気のなかでなんだか微光を放ったように見えた。つかのまの微光が消えたとき、タカの姿はなく、ベルディンがトウモロコシ畑に腰までうまって、片方の眉を興味ありげにつりあげて立っていた。「こんなところでなにをしている?」ベルディンは前置きぬきで言った。
「おはよう、ベルディン」エランドは静かに言って、馬のほうへ身をのりだし、しばらく立ちどまっていてほしいことを知らせた。
「おまえが家からこんなに離れたところまできてるのをポルは知ってるのか?」醜男は、礼儀正しくしようとするエランドの態度を無視して問いつめた。
「たぶん、はっきりとは知らないでしょう」エランドはすなおに言った。「ぼくが馬で遠出しているのは知っていますが、ここまできていることは知らないと思います」
「毎日おまえを見張るより、もっとましな過ごしかたはいくらでもあるんだぜ、おい」怒りっぽい老人はうなるように言った。
「見張る必要はないですよ」
「いや、実際問題としてあるんだ。今月はおれの役なんでな」
エランドはわけがわからず、ベルディンを見つめた。
「おまえが小屋を出るときはおれたちのひとりがたえずおまえを見張っているのを知らなかったのか?」
「どうしてそんなことをするんですか?」
「おまえだってゼダーを忘れちゃいまい?」
エランドは悲しそうにためいきをついた。「はい」
「あんなやつに同情なんかするな」ベルディンは言った。「あいつは当然の報いをうけたまでさ」
「あれが当然の報いになる人間なんかいませんよ」
ベルディンはいびきに似た醜い笑い声をもらした。「あいつをつかまえたのがベルガラスだったとは、あいつもツイてるよ。おれにつかまっていたら、固い岩の中に封じこめられるぐらいじゃすまなかっただろうさ。しかし、こんなことはどうでもいい。ゼダーがなんでおまえを見つけて一緒に連れていったか、おぼえてるか?」
「〈アルダーの珠〉を盗むためです」
「そのとおり。おれたちが知っているかぎりでは、おまえはベルガリオンを別にすると、〈珠〉にさわっても死なない唯一の人間だ。ほかにもそのことを知ってる連中がいる。だから、おまえは見張られているという考えに慣れておいたほうがいいんだ。おれたちは、おまえが何者かにつかまる可能性のある場所で、おまえをひとりでふらふらさせておくわけにはいかないのさ。さあ、おれの質問に答えるんだ」
「どの質問です?」
「〈谷〉のこんなところでなにをやってる?」
「会う必要のあるなにかがここにあるんです」
「なんなんだ、それは?」
「わかりません。どこかむこうのほうにあるんです。あっちのほうにはなにがありますか?」
「木が一本立ってるだけだ」
「じゃあ、それがそうなんだ。木がぼくに会いたがっているんです」
「会うだと?」
「言葉がへんかもしれません」
ベルディンはしかめっつらでエランドを見た。「それが木だってのは確かなのか?」
「いいえ。よくわからないんです。わかっているのはあっちのほうになにかがあって――」エランドはためらった。「ぼくにきてくれと言っているんです。これならへんじゃないですか?」
「それが話しかけてるのはおまえだ、おれじゃない。好きな言葉を使うがいいさ。わかった、じゃ、行こう」
「乗りますか?」エランドは申し出た。「二人乗っても馬はだいじょうぶですよ」
「まだ名前をつけていないのか?」
「馬でじゅうぶんなんです。かれも名前が必要だとは思っていないようだし。乗りますか?」
「空を飛べるのに、なんで馬に乗りたいもんか」
エランドは急に好奇心をかきたてられた。「どんな感じなんですか? 飛ぶっていうのは?」
ベルディンの目つきがとたんになごんで、やさしいとも言える表情になった。「想像もつかんだろう」と言った。「ようく見てろよ。その木の上へ行ったら、旋回して場所を教える」かれは背の高いトウモロコシ畑にかがみこんで両腕をおりまげ、力強くはねあがった。空中に飛び出すと、体が微光を放つ羽におおわれ、みるみる小さくなっていった。
その木はひろびろとした草原のまんなかに、ぽつんと立っていた。幹は家よりも太く、大きく広げた枝は何エーカーもの地面に蔭をつくり、てっぺんの高さは地面から数百フィートあった。信じがたいほど古い木だった。根は世界の核にまで達し、枝は空をさわっていた。だまってひとり立っているようすは、人間には理解できない目的で地面と空を結びつけているように見えた。
エランドがその広大な木蔭にたどりついたとき、上空を旋回していたベルディンは急降下して、ころげおちるように本来の姿になった。「よし」ベルディンはうめいた。「さあこれだ。それでどうする?」
「よくわからないんです」エランドは馬の背中からすべりおりて、弾力のあるやわらかい草を踏んでとてつもなく大きな幹に歩み寄った。いまや木の意識が強烈に感じられた。エランドは好奇心にかられて近づいていったが、木がなにを自分に望んでいるのかまだはっきりとはわからなかった。
木のそばまでくると、片手をだして、ごつごつした樹皮にふれた。ふれたとたんにかれは理解した。木の存在のすべてに関する知識がきゅうになだれこんできた。神々がつくった最初の混沌から世界があらわれた何億年も前の朝をふりかえることができた。人間の出現を待ちながら、地球が静寂のうちに送っていた気の遠くなるような歳月が突然理解できた。果てしのない季節の移り変わりを見、地球を歩く神々の足音を感じた。そして木が知っていたように、エランドも時の本質に関する人間の概念の奥にひそむ誤りを知るにいたった。人間は時を区切り、時を壊して扱いやすい断片にした――代、世紀、年、時間。しかしこの永遠の木は、時をひとつのものとして理解していた――たんに同じ出来事の果てしない反復ではなく、スタートから最終目的へとむかって動きつづけるものとして。人間が時を管理しやすくするために使っていた都合のいい断片は、現実にはなんの意味もなかった。木はこの単純な真実を告げるために、エランドをここへ招いたのだった。かれが事実を理解すると、木は友情と愛情をもってエランドを認めた。
エランドは樹皮からゆっくりと手をはなすと、ふりかえって、ベルディンの立っているところへひきかえした。
せむしの魔術師はきいた。「それなのか? たったそれで終わりか?」
「ええ。あれだけです。もう終わりました」
ベルディンは射るような目をむけた。「木はなんと言った?」
「言葉にできるようなことじゃないんです」
「やってみろ」
「ええと――ぼくたちは歳月に注意を払いすぎるというようなことでした」
「そいつはまたえらく有益な話だな、エランド」
たったいま知ったことをうまく表現しようと、エランドは懸命に努力した。「物事はそれなりの経過のなかで起きるんです。ぼくたちが歳月と呼んでいるものがどんなにたくさん――あるいはどんなにちょっと――物事と物事のあいだにあろうと、それは関係ないことなんです」
「いったいなんの話だ?」
「重要なことですよ。本当にぼくがうちにつくまでずっとついてこなくちゃいけないんですか?」
「おまえから目をはなさない必要があるんだ。それだけさ。もう帰るのか?」
「はい」
「おれは上にいる」ベルディンは青い丸天井のような空を身ぶりで示した。身ぶるいしたかと思うと、タカになり、翼を力強くはばたかせて舞い上がっていった。
エランドはくり毛の馬の背中にまたがった。物思いに沈んだ気分が動物につたわったのだろう、馬は疾走するかわりに向きをかえて、北のくぼ地の小屋のほうへ歩きだした。
太陽をあびた黄金色の畑をゆっくり進みながら、少年は永遠の木のメッセージを考えていた。考えることに夢中だったので、周囲にはほとんど注意していなかった。そんなわけで、ぶつかりそうになってはじめて、エランドはマントに頭巾の人影が枝を張り広げたマツの木の下に立っているのに気づいた。おどろいたいななきをあげて、かれに注意をうながしたのは馬だった。人影がわずかに動いた。
「すると、おまえなのだな」人間とも思えない声が吐きすてるように言った。
エランドはふるえている馬の首にしっかりと手をかけて馬をなだめると、目の前の黒い人影を見つめた。そのおぼろげな人型から憎悪の波がおしよせてくるのが感じられ、これまで出会ったあらゆるもののなかで、これこそもっとも恐れるべきものだということがわかった。だが、自分でもおどろいたことに、恐くもなければ、取り乱しもしなかった。
人影はいやらしい音をたてて笑った。「愚か者めが」それは言った。「わたしを恐れるがいい、まちがいなくおまえの息の根をとめてやる日がくるのだから」
「それはどうかな」エランドは平静に言った。影におおわれた人型を仔細に見たとき――雪のつもる丘の上で会ったシラディスの姿と同様に――それが見かけだけのものであることがすぐにわかった。本当にそこにいるのではなく、どこかほかの場所で、何者かがこのすさまじい憎悪を送りだしているのだ。「それに」エランドはつけくわえた。「ぼくはもう影をこわがるような子供じゃないんだ」
「われわれは生身の人間として会うのだ、小僧」影はかみつくように言った。「そのとき、おまえの息の根はとまるだろう」
「それはまだ決まってないんじゃないかな?」エランドは言った。「だから会わなくちゃならないんだろう――どっちが残り、どっちが死ぬか決めるために」
黒マントの人影は耳ざわりな音をたてて息を吸い込んだ。「せいぜい若さを楽しむことだ、小僧。それ以上は生きられないのだから。わたしが勝つのさ」それだけ言うと、黒い影はかき消えた。
エランドは大きく息を吸って、頭上を旋回しているベルディンをあおいだ。タカの鋭い目も、あの異様な頭巾の人影の上にはりだしていた枝を見すかしていなかった。ベルディンはいまの遭遇に気づいていなかった。エランドは馬のわき腹をかるくつついて、その木から離れ、ゆるい駆け足で金色の日差しの中をわが家へ向かった。
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7
それからの数年、小屋ではなにごともなくすぎた。ベルガラスとベルディンは長期にわたってたびたび家を留守にしたが、疲れはててもどってきたときのふたりの顔には、いつも、求めるものが見つからなかったいらだちの色があった。ダーニクはひっきりなしに小川の土手へ行って魚釣りに精を出し、赤い数本の毛糸の先につけた親指の爪くらいの光る金属片は、食べられるだけでなく、ほっぺたが落ちそうにうまいのだということを、用心深い鱒に信じ込ませようと心血をそそいでいた。だからといって、小屋とその周辺の掃除を怠っていたわけではなかった。それが言葉よりも如実に語っていたのは、農場の管理はセンダー人にかぎるということだった。柵というのは本来、どうしても地形に沿ってジグザグに曲がるものだが、ダーニクに言わせれば、かれの柵はぜったいに曲がっていないのだった。生まれつきかれが障害物を迂回できない性格なのは、火を見るより明らかだった。そんなわけで、大きな岩が柵の行く手をふさいでいると、ダーニクはただちに柵づくりをほうりだし、穴掘り人に一変した。
ポルガラは家事に熱中した。小屋の中はしみひとつなかった。ドアの上がり段は掃かれるだけにとどまらず、たえず水でごしごし洗われた。ポルガラの庭に植わった豆やカブやキャベツの列は、ダーニクのどの柵よりもまっすぐだったし、雑草は生えるそばから抜かれた。これらの一見きりのない仕事に精を出しているときのポルガラはうっとりとした満足感を顔にうかべており、働いているときはいつもハミングしているか、古い歌をうたっているかだった。
しかし、エランド少年はときどきさからうようになった。なまけものではないのだが、田舎の農場の雑用はだいたいが退屈だったし、同じ作業を何度もくりかえすことが多かったからむりもないかもしれない。薪割がお気に入りの娯楽のひとつという具合いにはいかなかった。雑草は一晩にして生えてくるから、庭の雑草とりも、なんとなく不毛な仕事に思えた。皿ふきはまったくばかげた行為に見えた。ほうっておけば、皿は自然と乾くものだからだ。特にこの点について、エランドはポルガラの考えかたを自分のそれに近づけようと、相当努力した。彼女はエランドの完璧な論理に真顔で耳をかたむけ、皿はじっさいにふく必要はないのだということをエランドができるかぎり雄弁に表現すると、うなずいて同意をあらわした。そしてかれがすばらしい表現で論点をまとめ、熱弁をふるい終えると、にっこりして「そうね、ディア」と言い、容赦なくふきんを渡した。
とはいっても、エランドは絶え間ない骨折り仕事におしつぶされていたわけではなかった。じっさいのところ、毎日数時間は必ず、くり毛の馬の背に乗って小屋の周囲の草地を風のように自由にさまよっていた。
時間を忘れた〈谷〉の金色のまどろみのむこうで、世界は動きつづけていた。人里離れていても、小屋を訪れる者は少なくなかった。ヘターはもちろんたえず馬でやってきたし、ときには長身の美しい妻アダーラと幼い息子を連れてくることもあった。アダーラは夫同様、鞍にすわっていることが歩くことと同じくらい自然な生粋のアルガー人だった。エランドは彼女が大好きだった。顔つきはつねにきまじめで、いかめしくさえあったが、その冷静な表情の下には皮肉めいた鋭い機知がひそんでいて、エランドを大喜びさせた。だが、エランドが好きなのはそのことだけではなかった。完璧な目鼻だちに雪のように白い肌を持つ、長身で黒髪のこの女性は、エランドの意識の外縁をたぐりよせるような、微妙な香りをただよわせていたのだ。その匂いにはなにかしらとらえどころのない、だが心をひきつけてやまないものがあった。一度、ポルガラが赤ん坊と遊んでいたとき、アダーラはエランドと一緒に馬で近くの丘のてっぺんにのぼって、彼女がつけている香水のいわれを話してくれた。
「ガリオンがわたしのいとこだということは知ってたわね?」アダーラはきいた。
「はい」
「わたしたちはあるとき馬に乗って砦をあとにしたの――すべてが霜にとざされた冬のことだったわ。草は茶色に枯れ、葉は一枚残らず落ちていたわ。わたしは魔術についてガリオンにたずねたの――それはどんなもので、かれがそれを使ってどんなことができるのかをね。本当を言うと、わたしは魔術を信用していなかったのよ――信じたかったけれど、どうしても信じられなかったの。ガリオンは小枝をひとつ拾って、乾いた葉でそれをくるんだの。それからわたしの目の前で、それを花に変えたのよ」
エランドはうなずいた。「ええ、ガリオンのやりそうなことですね。それで信じる気になったんですか?」
アダーラはほほえんだ。「すぐにというわけではなかったわ――少なくともすっかり信じるところまではいかなかったの。ほかにやってほしいことがあったのよ。でもガリオンはそれはできないと言ったわ」
「どんなことだったんですか、それは?」
アダーラは頬をそめ、次に笑いだした。「いまでも照れくさいのよ。ガリオンの力でヘターがわたしを愛するようにしむけてほしかったの」
「だけど、その必要はなかったんでしょう。ヘターはすでにあなたを愛していたんだから」
「それがね――そのことを悟らせるのに、ヘターにはちょっとした後押しが必要だったのよ。でも、その日は自分がみじめに思えてならなかった。砦へひきかえすとき、わたしはうっかりして花を丘の、霜がおりていないほうの斜面に忘れてきてしまったの。一年かそこらすると、丘の斜面全体は丈の低い茂みと、その美しいラベンダー色の小さな花でいっぱいになったわ。セ・ネドラはその花をアダーラのバラ≠ニ呼んでいるし、アリアナはそれが薬草として役にたつんじゃないかと考えたくらい。もっとも、それでなにかが治ったという話はついになかったけれどね。わたしはその花の香りが好きなの。それにちょっと特別な意味で、それはわたしの花なんですもの、だから、服をしまってあるたんすに花びらをまきちらしているのよ」アダーラはいたずらっぽくくすりと笑った。「この匂いをかぐとヘターがとってもやさしくなるの」
「それはその花のせいばかりじゃないと思うな」エランドは言った。
「まあね。でも、花びらをまくのをやめるようなことはしないつもりよ。その香りがわたしにプラスになるなら、これからも使いつづけるわ」
「それは理にかなってますね」
「まあ、エランド」アダーラは笑った。「あなたって本当に楽しい子ね」
ヘターとアダーラの訪問はじっさいは単なる社交上のものではなかった。ヘターの父チョ・ハグ王はアルガリアの族長であり、アローンの王室にもっとも近いことから、チョ・ハグ王は〈谷〉の境界のかなたの世界で起きている出来事をポルガラに逐一報告するのが務めだと感じていたからである。かれはときどきクトル・マーゴスの南部における果てしない残虐な戦いの経過を報告してきた。そこではマロリーの皇帝であるカル・ザカーズが情け容赦なくハッガの平地を行軍し、ゴルトの南にある大森林へ乱入していた。西方の王たちはマーゴのいとこたちにたいするザカーズの一見いわれなき憎悪を、どう解釈したものかとまどっていた。過去の個人的対立が原因だという噂もあったが、その対立にはタウル・ウルガスもからんでおり、タウル・ウルガスはタール・マードゥの戦いですでに死んでいた。しかしながら、マーゴ人へのザカーズの敵意はかれらを統治していた狂人ウルガスの死とともに消えたわけではなく、現在ザカーズはマロリー人を率いて、マーゴの王国絶滅と、マーゴ人が存在した事実を人間の記憶から抹殺することを目的とした、残忍な戦いを展開していた。
トルネドラでは、リヴァのセ・ネドラ妃の父である皇帝ラン・ボルーン二十三世が、健康を害していた。さらにボルーン二十三世には息子がなく、トル・ホネスの王座を継ぐ者がいないことから、帝国の皇族たちは世継ぎをめぐってあの手この手の戦いをくりひろげていた。莫大な賄賂が手渡され、夜ともなると、鋭い短剣を持つ暗殺者たちがトル・ホネスの街を徘徊し、死をもたらす毒薬のびんがニーサの蛇の民からひそかに購入されていた。しかし抜け目のないラン・ボルーンはアナディル公爵でもあるヴァラナ将軍を摂政に任命し、ホネス一族、ヴォードゥ一族、ホービテ一族の怒りと嘆きを買っていた。なぜなら、ヴァラナの軍を統率する力はほぼ絶対的であり、王座をめぐって争う皇族たちのやりすぎにも断固たる態度でのぞんだからである。
しかしながら、アンガラク人同士の血なまぐさい争いや、残忍さの点ではそれとたいして変わらないトルネドラ帝国の諸侯たちのいさかいは、アローンの王たちにとっては一時的な関心にすぎなかった。北の君主たちがもっと気にしているのは、熊神教のやっかいな復活や、ドラスニアのローダー王が目に見えて衰弱してきているという否定できない事実だった。タール・マードゥの戦いをひきおこすにいたった軍事作戦のあいだ、ローダーはその巨体にもかかわらず、驚異的な軍事能力を発揮したものだったが、チョ・ハグの悲痛な報告によれば、この肥満体のドラスニア君主はますます物忘れがひどくなり、この数年はいくつかの点で子供のようになってさえいた。体重が重すぎるあまり、もはやひとりでは立つこともできず、もっとも重要な国務のさなかにさえ眠りこんでしまうことが目だつようになった。美しく若い王妃のポレンができるだけのことをして、王であるがために果たさねばならないローダーの責務を軽減しようとつとめていたが、かれを知るものにとって、ローダー王の統治が長くないことはあきらかだった。
だれの記憶にもないほどの深い雪と氷が北部一帯を封じ込めていた。そのきびしい冬が終わりに近づいたころ、ついに、ポレン王妃は〈谷〉へ使いをやって、ポルガラにボクトールへきてドラスニア王に医術をほどこしてほしいと懇願した。使いが到着したのは、ウルゴ山脈上空にたれこめたむらさき色の雲間に、弱々しい太陽がすわりこむように沈んだ、寒いある夕方のことだった。使いはぶあつい黒テンの毛皮にくるまっていたが、すっぽりかぶった暖かい頭巾からは、あの特徴のある長いとがった鼻がつきでていた。
「シルク!」雪にうまった戸口で小柄なドラスニア人が馬からおりたとき、すぐにダーニクはさけんだ。「こんなところでいったいなにをしてるんです?」
「こごえてるんだよ、じつをいうと」シルクは答えた。「暖炉は燃えてるんだろうな」
「ポル、だれがきたか見てごらん」ダーニクが呼ぶと、ポルガラがドアをあけて顔をつきだした。
「あら、ケルダー王子」彼女はネズミ顔の小男にほほえみかけた。「ガール・オグ・ナドラクは略奪しつくしたんで、こんどはこっちに新しい略奪の舞台をさがしにきたってわけ?」
「まさか」シルクは凍りそうな足をふみかえながら言った。「ヴァル・アローンへ行くとちゅうボクトールを通るへまをしでかしたんですよ。ポレンに強制されて余計な旅をさせられちまった」
「中へはいったらどうです」ダーニクが言った。「馬はわたしが見ましょう」
黒テンの毛皮をぬいだあと、シルクはふるえながらアーチ型の暖炉の前に立って両手を火にかざした。「先週はずっとこごえそうでしたよ」かれはぶつぶつ言った。「ベルガラスは?」
「ベルディンとふたりで東のほうへ行ってるわ」こごえそうな男のために、スパイスをきかせたワインをこしらえながら、ポルガラが答えた。
「まあ、ベルガラスはこのさいどうでもいいんです。じっさい、あなたに会いにきたんだから。おれの叔父がよくないことは聞いたでしょう?」
ポルガラはうなずいて、赤く焼けた火ばしをつかみ、じゅっと音をたててワインの中につっこんだ。「去年の秋、ヘターが教えてくれたわ。ローダーの侍医たちはなんていう病気だと言っているの?」
「老衰」シルクは肩をすくめて、ありがたそうにカップをうけとった。
「ローダーはそんな歳じゃないでしょう」
「なくてもいい肉がつきすぎていますからね。ああ太ってたんじゃ、長持ちしませんよ。ポレンは懸命なんです。それでわたしを派遣してあなたに頼むことに――乞うのではなく――したんですよ、ボクトールへきて、なにができるか見てもらいたいと。あなたがきてくれなければ、ローダーはガンが北へくるのを見るまでもつまいと伝えてほしいと言っています」
「そんなに悪いの?」
「わたしは医者じゃありませんが、具合いはあんまりかんばしくなさそうです。意識も薄れがちのようだし、食欲も落ちてきています。一日七回も盛大な食事をとっていた人間としては、悪い兆候ですよ」
「もちろん行きますとも」ポルガラはすぐさま言った。
「まず体を温めさせてもらいたいな」シルクは情けなさそうに言った。
アルダーフォードの真南で、一行は数日間足止めをくった。センダリアの山脈から吹きおろす猛烈な吹雪が北部アルガリアのひろびろとした平原を襲ったからである。しかし運よく吹雪の直前に羊を追う遊牧民の野営にたどりついたので、風が耳をかみ雪がふりしきる数日を親切なアルガー人の居心地のいい荷馬車のなかでやりすごすごとができた。やっと嵐がさると、一行はひきつづきアルダーフォードをめざして、川をわたり、雪にうもれた湿地帯のむこうに広がるボクトールへの広い土手道にたどりついた。
夜もおちおち眠れないらしく目の下に黒い隈をつくってはいるものの、あいかわらず美しいポレン王妃が、ローダー王の宮殿の門で一行を出迎えた。「ああ、ポルガラ」ポレンは感謝と安堵で声をつまらせながら、女魔術師を抱きしめた。
「いとしいポレン」ポルガラはやつれた顔の小さなドラスニアの王妃を両腕に抱いた。「もっと早くつくはずだったのに、吹雪にあったのよ。ローダーはどうなの?」
「日に日に弱ってきていますわ」ポレンの声にはあきらめがにじんでいた「もうケヴァがいるだけでも疲れてしまうほどなの」
「あなたたちの息子ね?」
ポレンはうなずいた。「ドラスニアの次期国王ですわ。まだ六つなのに――王位につくにはおさなすぎます」
「そうね、それを遅らせる手がうてるかどうか見てみましょう」
しかし、ローダー王の容体は、シルクの報告からかれらが想像していたより、はるかに悪く見えた。エランドの記憶にあるドラスニアの王は太っていて、陽気で、機知にとみ、疲れ知らずのエネルギーにあふれた人物だった。ところがいまではみるからに大儀そうだった。皮膚も土気色になり、すっかりたるんでしまっている。ローダー王は起き上がることができなかった。だが、それよりもっと深刻なのは、横になるときに息がつまりそうなあえぎをもらす事実だった。眠っている一軍隊でもたたき起こしそうだった力強い声は、ぜいぜいという力ない音になってしまっていた。ほんの数分会話をかわしたあと、ふたたびうとうととしはじめた。
「ローダーとふたりきりになる必要がありそうだわ」ポルガラはきびきびとみんなに告げたが、シルクとすばやくかわした目は病気の君主を回復させる望みはあまりないことを物語っていた。
ローダーの部屋からでてきたとき、ポルガラの表情はけわしかった。
「それで?」ポレンがきいた。彼女の目は恐れでいっぱいだった。
「率直に言うわ。おたがいに長いつきあいですもの、あなたに隠しごとなんてできないわ。かれの呼吸を少し楽にして、不快をいくらか和らげてあげることは可能よ。かれをもっとしゃんとさせる――短い間だけど――薬もあるわ。でもそれはおいそれと使える薬じゃないの。使うのはたぶん、重要な決定がくだされるときということになるわね」
「でも、治すことはできないのね」ポレンの静かな声はいまにも泣き崩れそうだった。
「治せるような状態ではないのよ、ポレン。ローダーの体はすりきれてしまっているの。そんなに食べては寿命がちぢむと何年も言いつづけてきたんですけどね。かれの体重は平均的男性三人分に匹敵するわ。人間の心臓はそれだけの重さに耐えるようにできていないのよ。それにローダーはこの数年、運動らしい運動もしていなかったし、かれの食餌療法ときたら、お話にならないようなお粗末なものなの」
「いざとなったら、魔術を使うことはできるんでしょう?」ドラスニアの王妃はすがるようにたずねた。
「ポレン、魔術を使えば、かれをゼロからつくりなおさなくてはならないわ。いまのかれが持っているものはもはや機能とは呼べないものばかりなのよ。魔術でも効果はないの。ごめんなさい」
ポレン王妃の目に涙がもりあがった。「あとどのくらい?」ささやくようにたずねた。
「二、三ヵ月――せいぜい半年」
ポレンはうなずいた。それから、目は涙でうるんでいたが、けなげに顎をあげて言った。「具合いがよさそうだとお思いになったときに、意識をはっきりさせるというそのお薬を夫にのませてください。わたしはかれと話しあわなくてはなりません。わたしたちの息子のため、ドラスニアのために、きめなくてはならないことがあるんです」
「もちろんよ、ポレン」
それから二日後、長くつらかったきびしい冬がまったく唐突に終わった。夜のうちに暖かい風がチェレク湾からふきこみ、それにともなって車軸を流したような豪雨がふりだし、広いボクトールの街路をふさいでいた漂着物が茶色のぬかるみにながれこんだ。エランドとドラスニアの王位継承者であるケヴァ皇太子は、この突然の天候の変化のせいで、宮殿にとじこめられたかっこうになった。ケヴァ皇太子は黒い髪にきまじめな表情のがっちりした少年だった。父である病気のローダー王に似て、ケヴァもことのほか赤い色を好み、いつも赤い色のビロードの上着とズボンを身につけていた。エランドは皇太子より五歳ほど年上だったが、かれらはたちまち友だちになった。ふたりはそろって、長い石の階段のてっぺんから色鮮やかな木のボールをころげ落とすことに無上の楽しみを見いだしていたが、やがてこれは禁じられ、別の遊びを見つけるよう固く申し渡されることになった。あるときはねかえったボールが執事頭の手から銀のお盆をはたき落としたからだ。
真っ赤なビロードをきたケヴァと、質実剛健な農夫の茶色をきたエランドは宮殿の大理石の廊下をしばらくうろついたあげく、壮麗な舞踏室にたどりついた。話声がこだまとなってかえってくるだだっぴろいホールの片側に、上の階から深紅の絨緞を敷いた広い大理石の階段がつづいている。そのりっぱな階段の両側にはなめらかな大理石の欄干がついていた。その一対の欄干をしげしげとながめたふたりは、たちまち、そのすべりのいい大理石にとほうもない可能性が秘められているのを見抜いた。舞踏室の壁ぎわには磨きこんだ椅子がたくさん置いてあり、どの椅子にも赤いビロードのクッションがのっている。少年たちは欄干を見つめ、次にクッションを見つめた。それからふたりはあたりをうかがって、舞踏室の奥の大きな両開きドアのそばに護衛も、宮殿の職員もいないことをたしかめた。
エランドは念のためにドアをしめた。そしてケヴァ皇太子と一緒に仕事にとりかかった。椅子もクッションもたくさんあった。大理石の階段の欄干の下に積み上げられたクッションは、頼もしいふたつの山をつくっていた。
「いいかい?」用意がすべてととのうと、ケヴァが言った。
「いいと思うよ」エランドは答えた。
ふたりはてっぺんまで階段をのぼると、ひんやりしたなめらかな欄干にひとりずつまたがった。舞踏室の白い大理石の床がはるか下に見える。
「行くそ!」ケヴァが叫び、ふたりはすべりおりた。驚異的なスピードでかれらは待ちうけているクッションの山にふわりと落下した。
ふたりの少年ははしゃぎながらまた階段をかけあがり、またすべりおりた。絶好調のうちに過ぎていった午後は、クッションのひとつがはじけて、壮麗な舞踏室にやわらかいガチョウの羽毛が乱舞するにいたって、終わりとなった。そしてきわめて当然のように、まさにその瞬間、ポルガラがふたりをさがしにあらわれた。どういうわけなのか、いつもそうなのだ。なにかが壊れたり、こぼれたり、ひっくりかえったりすると、こわいだれかがあらわれる。片づけるひまもないから、いつも考えられるかぎり最悪の現場を見られてしまうことになる。
舞踏室のむこう端の両開きドアがあいて、青いビロードをまとった美しく威厳のあるポルガラが舞踏室にはいってきた。彼女はいかめしい顔をして、階段の下で山積みのクッションに埋もれている二人組をにらみつけた。ふたりのまわりでは、まぎれもないガチョウの羽毛が乱舞している。
エランドはすくみあがって、息をのんだ。
ポルガラはいやに静かにドアをうしろ手にしめると、ゆっくりかれらのほうへ歩いてきた。大理石の床を踏む足音が不吉に大きくひびいた。ポルガラは舞踏室の両側でクッションをはがれて並んでいる椅子をながめた。そして、羽毛だらけになっている少年たちをながめた。次の瞬間、いきなり彼女は笑いだした。豊かにひびく温かい声が、からっぽのホールをすみずみまで満たした。
エランドはポルガラの反応に裏切られたような気分になった。ケヴァとふたりで叱られてもしかたのないことをやったのに、笑っているだけだなんて。叱責も耳の痛い小言もなく、あるのは笑い声ばかり。エランドはこの軽はずみな行為が場ちがいなものだったことを痛感した。本当なら怒るべきところをポルガラが笑いとばしているのもそのせいなのだ。エランドはちょっとうらめしくなった。無視されることも、叱責のひとつだった。
「ふたりとも、掃除はするんでしょうね?」ポルガラはたずねた。
「もちろんです。レディ・ポルガラ」ケヴァがすかさず断言した。「きれいにしようとしてたところですよ」
「けっこうだわ、殿下」口元をまだぴくぴくさせたまま、ポルガラは言った。「羽毛を一本でも残さないようにね」彼女はきびすをかえすと、かすかな笑いのこだまをひきずったまま無踏室から出ていった。
そのあと、少年たちには厳重な監視役がついた。露骨に見張られている感じはなかったが、物事が手におえなくなりそうになると、かならずだれかが待ったをかけにくるのだった。
一週間ほどすると、ふりつづいていた雨があがって、ぬかるんでいた通りもだいたいきれいになった。エランドとケヴァは絨緞敷きの部屋の床にすわって、積木で要塞をつくっていた。窓のそばのテーブルにはぜいたくな黒のビロードの服をきこなした見違えるようなシルクが腰をおろして、仕事のためにガール・オグ・ナドラクにとどまっていた相棒のヤーブレックからその朝とどいた手紙を注意深く読んでいた。九時ごろ、ひとりの召使いが部屋にはいってきて、ネズミ顔の小男と短い言葉をかわした。シルクはうなずいてたちあがると、遊んでいる少年たちに近づいた。「新鮮な空気を吸ってくるのはどうだい?」かれはたずねた。
「行きます」エランドは立ちあがった。
「きみはどうだい、いとこのケヴァ?」
「まいります、殿下」
シルクは笑った。「そんなに堅苦しくしなくちゃならんのか、ケヴァ?」
「母上がいつもただしい言葉づかいをしたほうがいいと言うのです」ケヴァはきまじめに言った。「言い慣れていたほうが助けになるんじゃないでしょうか」
「母上はここにはいないんだぜ」シルクはずるがしこく言った。「だからちょっとぐらいずるをしたって大丈夫さ」
ケヴァは神経質にあたりを見まわした。「ほんとうにそうしたほうがいいと思いますか?」
「まちがいない。ずるをするのはためになる。ものごとをバランスよく見るのに役立つんだ」
「おじうえはよくずるをするんですか?」
「おれかい?」シルクは笑った。「しょっちゅうさ、ケヴァ。しょっちゅうだ。さあ、マントをとってきて、街へ行ってみよう。諜報部の本部に寄らなくちゃならないんだ。一日きみたちのお守りをおおせつかったからには、きみたちふたりも行ったほうがいいだろう」
外の空気はひんやりして湿気をふくみ、ボクトールの玉石敷きの通りを行くと、強い風がかれらのマントを脚にまつわりつかせた。ドラスニアの首都は世界の主要な商業中心地のひとつで、街はあらゆる人種の人々でこったがえしていた。ぜいたくなマント姿のトルネドラ人たちが、ひかえめな茶色の服をきたまじめな顔つきのセンダー人たちと街角でしゃべっていた。けばけばしい衣装に宝石をいっぱいつけたドラスニア人たちが革装束のナドラク人と押し問答していたし、商品の詰まった重い荷物をかついだタール人の人足をしたがえて、風の吹きすさぶ通りを闊歩している黒装束のマーゴ人たちさえ何人かいた。言うまでもなく、人足たちは、つねに存在する密偵たちによって慎重に尾行されていた。
「いとしの人目をしのぶボクトールよ」シルクがおおげさに言った。「他人を見たら密偵と思え、だ」
「このひとたちは密偵なの?」ケヴァがおどろいた顔で人々を見ながらたずねた。
「とうぜんだよ、殿下」シルクはまた笑った。「ドラスニアではだれもかれもが密偵なんだ――もしくは密偵になりたがってる。密偵がわれらの国家産業なんだ。知らなかったか?」
「あの――宮殿に密偵がたくさんいるのは知ってたけど、街にもいるなんて知らなかった」
「宮殿にどうして密偵がいるんだい?」エランドは好奇心からたずねた。
ケヴァは肩をすくめた。「みんなが自分以外の人がなにをしてるか知りたがるんだよ。重要な人物であればあるだけ、おおぜいの密偵に見張られるんだ」
「きみは見張られてるの?」
「知ってるだけで六人がぼくを見張ってるよ。たぶんもうちょっといると思う――それにもちろん、密偵はみんな別の密偵によって密偵されているんだ」
「ずいぶん変わった宮殿だな」エランドはつぶやいた。
ケヴァは笑った。「一度、ぼくが三つぐらいだったとき、階段の下に隠れ場を見つけて、そこで眠りこんじゃったんだ。とうとう宮殿じゅうの密偵がみんなでぼくをさがすはめになってさ、じっさいの数を知ったらきみはびっくりするよ」
このとき、シルクがけたたましい笑い声をあげた。「あのときはじっさい大騒ぎだったよ、ケヴァ。王族というのは密偵から身を隠さないことになってるからね、密偵たちのうろたえようといったらなかった。あそこの建物だ」シルクはひっそりとしたわき道に建つ大きな石の倉庫を指さした。
「本部は学園と同じ建物の中にあるんだとずっと思ってた」ケヴァが言った。
「あっちは単なる隠れみのなんだよ、ケヴァ。実務はこっちでやるのさ」
かれらは倉庫にはいり、箱や包みがうずたかくつまれた洞穴のような部屋をとおりぬけて、小さな目だたないドアにたどりついた。職人風のうわっぱりをきた屈強な体躯の男がドアの前をぶらついていた。男はシルクにすばやい視線をなげると、一礼してドアをあけた。そのいささかみすぼらしいドアのむこうにあったのは、こうこうと照らされた大きな部屋で、壁ぎわに羊皮紙のちらばったテーブルが十二かそこら並んでいた。各テーブルには四、五人の人々がすわって、目の前の書類を熱心に読んでいた。
「なにをしてるんですか?」エランドは好奇心にかられてたずねた。
「情報を分類してるのさ」シルクが答えた。「世界ではさまざまなことが起きるが、最終的にはそのほとんどはここまで届かない。しかし本当に知りたければ、八方手をつくせば、アレンディアの王がけさ何を食べたかもわかる。われわれのめざす部屋はあっちだ」シルクは部屋のむこうがわにある頑丈そうなドアを示した。
その部屋は質素で、殺風景ですらあった。テーブルがひとつと椅子が四つ――あるのはそれだけだった。黒ズボンに真珠色の上着をきた男が椅子のひとつにすわって、テーブルについていた。男は古い骨のようにやせこけていて、自国人しかいないこの建物の中にいてさえ、きつく巻かれたバネのようにぴりぴりしていた。「シルク」かれは短くうなずいた。
「ジャヴェリン。おれに用か?」
テーブルの男はふたりの少年を見て、ケヴァにむかってわずかに頭をさげた。「殿下」
「ケンドン辺境伯」皇太子は丁寧におじぎをした。
すわっている男はシルクを見つめた。所在なげに見える指がかすかに動いた。
「辺境伯」ケヴァがすまなそうに言った。「母上が秘密言葉を教えてくれているんです。あなたの言っていることはわかってしまいますよ」
ジャヴェリンと呼ばれた男はうらめしげな表情で指を動かすのをやめた。「これはしたり」男はうたがわしげにエランドを見た。
「これはエランドだ。ポルガラとダーニクがそだてている子供だよ」シルクが教えた。
「ああ、〈珠〉を運んだ例の」
「内密の話がしたいのなら、ケヴァとぼくは外で待ってますよ」エランドが申しでた。
ジャヴェリンは考えてから言った。「その必要はないだろう。ふたりとも口は固そうだからね。さあ、すわりたまえ」ジャヴェリンは残りの三つの椅子をゆびさした。
「おれは引退したようなものなんだ、ジャヴェリン」シルクが言った。「いまはほかのことが忙しくてな」
「本当はきみを個人的にまきこむつもりじゃなかったんだが、じつは、きみのやっている仕事のひとつに新顔をふたり入れてもらいたいんだ」
シルクはふしぎそうな顔をした。
「きみは〈北の隊商道〉にあるガール・オグ・ナドラクから品物を運んでいるだろう」ジャヴェリンはつづけた。「国境の近くにいくつか村があるんだが、そこの村人たちははっきりした理由もなくそこを通る人間にたいして、異常にうたぐりぶかい」
「それであんたの部下たちをおれの隊商にはいりこませて、その村に潜入させたいってわけだ」シルクがしめくくった。
ジャヴェリンは肩をすくめた。「よくある手だ」
「東部ドラスニアのいったいなにがそんなに気になるんだ?」
「周辺部で起きているのと同じことがあそこでも進行している」
「熊神教か?」シルクは信じられずに言った。「時間をむだにするつもりか?」
「信者たちの行動がこのところ妙なんだ。原因をつきとめたいのさ」
シルクは眉を片方つりあげてジャヴェリンをながめた。
「くだらない好奇心だと言いたけりゃ言うがいい」
次にシルクがジャヴェリンにむけた目はばかにきびしかった。「よしてくれ、そう簡単にはひっかからないぞ」
「そっちこそ、全然興味がないのか?」
「ない。じっさい、興味なしだ。どんなに巧みにおれをたぶらかそうとしたって、自分の仕事をないがしろにしてあんたの釣り旅行の片棒を担いだりはしないよ。おれは多忙なんだ、ジャヴェリン」シルクの目がほんのかすかに細まった。「〈狩人〉を派遣すりゃいいじゃないか」
「〈狩人〉はほかのところで忙しいんだ、シルク、それから〈狩人〉の正体をつきとめようとするのはやめてくれ」
「そっちなら努力する価値はあるが、熊神教なんて、じっさいのところ、興味ないね、ぜんぜん」シルクは腕組みして椅子によりかかった。しかしとがった鼻はぴくぴくしていた。「行動が妙だとはどういうことだ?」しばらくたってたずねた。
「興味がないんじゃなかったのか」
「ないさ」シルクはあわててくりかえした。「まるでないよ」しかし、鼻は前よりいっそうはげしくぴくぴくしていた。シルクはいらだたしげに立ちあがると、いきなり言った。「あんたが雇いたい人間の名前を教えてくれ。なにができるか考えてみよう」
「もちろんだとも、ケルダー王子」ジャヴェリンはていねいに言った。「もとの職務にたいするきみの忠誠心に感謝するよ」
エランドは外側の大きな部屋でシルクが言ったことを思いだした。「シルクの話では、ほとんどあらゆる事に関する情報が、この建物に流れ込んでくるそうですね」かれはジャヴェリンに言った。
「それは言いすぎかもしれんが、そうなるべく努力はしているよ」
「じゃあ、ザンドラマスについてなにかお聞きになったことがあるでしょう」
ジャヴェリンはぽかんとエランドを見た。
「ザンドラマスというのは、ベルガリオンとぼくが聞いた言葉なんです」エランドは説明した。
「ベルガラスもそのことには興味をもっています。あなたなら聞いたことがおありでしょう」
「あいにくだがない」ジャヴェリンは率直に言った。「もちろん、ダーシヴァからはずいぶん離れているしな」
「ダーシヴァって?」
「東マロリーの旧メルセネ帝国の公国のひとつだ。ザンドラマスというのはダーシヴァの名前だ。知らなかったかね?」
「ええ。知りませんでした」
ドアに軽いノックがあった。
「なんだ?」ジャヴェリンが応じた。
ドアがひらいて、年の頃十九か二十歳《はたち》のうら若い婦人がはいってきた。はちみつ色の髪に、あたたかい金茶色の目をして、簡素な灰色のドレスをきていた。きまじめな表情だが、両頬にはかすかにえくぼができていた。「おじさま」その声には聞く者をひきつけずにおかないひびきがあった。
ジャヴェリンのかくばったけわしい顔が目にみえてやわらいだ。「なんだね、リセル?」
「これがおちびさんのリセルか?」シルクがとんきょうな声をあげた。
「もうそれほど小さくはないぞ」ジャヴェリンが言った。
「最後に見たときは、まだ髪をおさげにしていたよ」
「数年前に編みさげをほどいたのだ」ジャヴェリンがそっけなく言った。「その下になにがかくれていたか見てみろ」
「見てる」シルクは感嘆の体《てい》だった。
「お望みの報告書ですわ、おじさま」娘は一枚の羊皮紙をテーブルにのせた。それからケヴァのほうをむき、びっくりするほど優雅に膝を曲げておじぎした。「殿下」
「リセル辺境伯令嬢」小さな皇太子はていねいに一礼した。
「ケルダー王子」娘は次に言った。
「きみが子供だったときには、そんなに堅苦しいことは言わなかったぞ」シルクが不服そうに言った。
「でも、もうわたしは子供ではありません、殿下」
シルクはジャヴェリンを見やった。「子供のころ、彼女はよくおれの鼻をひっぱったもんだ」
「でも、とっても長くておもしろい鼻なんですもの」リセルがにっこりしたので、急にえくぼがはっきり見えた。
「リセルはここで仕事を手伝ってくれているんだ」ジャヴェリンが言った。「あと数ヵ月で学園に入学することになってる」
「密偵になるつもりなのか?」シルクはまじまじとリセルを見つめた。
「一族の仕事ですもの、ケルダー王子。父も母も密偵でした。おじさまはこのとおり密偵です。お友だちも残らず密偵ですわ。ほかになにになれまして?」
シルクはちょっぴりあきれたようだった。「どうも、適当じゃないように思えるがな」
「それはわたしがかなり有能だということじゃありません? あなたはいかにも密偵らしく見えますわ、ケルダー王子。わたしはそうじゃありません、だからあなたほど苦労しなくてすむんです」
娘の返答は利発でなまいきでさえあったが、エランドは彼女のあたたかい茶色の目の中に、たぶんシルクには読みとれないあるものを見ることができた。リセル辺境伯令嬢は一人前の女性だったが、シルクはあきらかに彼女を幼い女の子――かれの鼻をひっぱっていた――だと思っていた。だがリセルがシルクを見る目は、幼ない女の子の目ではなかった。エランドには、彼女がおとな同士としてシルクに会う機会をずっと待っていたことがわかった。エランドは片手を口にあてて、笑いを隠した。抜け目のないケルダー王子も、これからかなり大変な目にあいそうだぞ。
ふたたびドアが開き、特徴のない男がはいってくると、いそいでテーブルに近づきジャヴェリンになにごとかささやいた。エランドは男の顔が青ざめ、両手がふるえているのに気づいた。
ジャヴェリンはきびしい表情になって、ためいきをついた。しかしこれといった感情はおもてに出さなかった。立ち上がってテーブルをまわりこむと、ジャヴェリンはケヴァ皇太子に堅苦しく声をかけた。「陛下、すぐに宮殿にもどられたほうがいいと思います」
シルクとリセルは呼称が変わったことにはっとして、すばやくドラスニア諜報部の指導者を見つめた。
「われわれも陛下とともに宮殿へ行ったほうがよいだろう」ジャヴェリンは悲痛な声で言った。「陛下の母上にお悔みを申し上げなくてはならないし、できるだけのことをしてお力にならなくては」
ドラスニアの王は目を大きく見開き、くちびるをふるわせて諜報部の指導者を凝視した。
エランドはそっと少年の手をとった。「ぼくたちは行ったほうがいいよ、ケヴァ。きみのおかあさんはいま心からきみを必要としているんだ」
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ローダー王の葬儀と、それにつづくケヴァ皇太子の戴冠式のために、アロリアの王たちがボクトールに集まった。そのような集まりは、もちろん、伝統的なものだった。数世紀のあいだに分散してしまったとはいえ、アローン人は五千年の昔、〈熊の背〉チェレクと呼ばれたチェレク王の単一国家が、自分たちの基盤であることを忘れたことはなかった。したがって、葬儀があると、そのつど同胞をとむらうために集まったのである。ローダー王はドラスニア人ばかりか他の民族にも愛され、尊敬されていたので、葬儀にはチェレクのアンヘグ王、アルガリアのチョ・ハグ王、リヴァのベルガリオン王のほかに、センダリアのフルラク王、アレンディアのコロダリン王、さらにはガール・オグ・ナドラクの変わり老、ドロスタ・レク・タン王までが参列した。くわえて、ラン・ボルーン二十三世皇帝の代理として、ヴァラナ将軍が、ニーサからもサルミスラ女王の官宦長であるサディが出席した。
アローン王の埋葬は重大事だったから、それにともなういくつかの儀式にはその他のアローンの君主たちだけが出席した。しかしながら、これだけおおぜいの王や高位高官が集まると、儀式だけに終始するのは不可能だった。宮殿の幕のおろされた廊下でおこなわれたひそやかな議論の中心になったのは、言うまでもなく政治だった。
葬儀がとりおこなわれた数日間、エランドはじみな服をきて、王たちのグループからグループへと渡り歩いた。王たちはみなエランドを知っていたが、どういうわけかかれの存在にはほとんど気づかなかった。というわけで、エランドはじつにさまざまな会話を聞き込んだのだが、もし王たちがエランドはもはやミュシュラク・アク・タールの開戦中にかれらが会ったあの小さな少年ではないという事実を少しでも考えていたら、多少は気をつけただろう。
アローンの王たち――いつもの青い上着とズボンのベルガリオン、しわくちゃの青い長衣とへこんだ王冠の残忍そうなアンヘグ、銀と黒をまとった静かな声のチョ・ハグ――が宮殿の広い廊下のひとつにある喪幕でおおわれた斜間に立っていた。
「ポレンが摂政をつとめなくてはならないでしょう」ガリオンが言った。「ケヴァはまだ六つだから、かれが一人前になるまではだれかがかわりをつとめるしかありません」
「女がか?」アンヘグはぎょっとしたようだった。
「アンヘグ、またその議論をむしかえさなくてはならんのかね?」チョ・ハグがおだやかにきいた。
「それしかないんですよ、アンヘグ」ガリオンが説得するように言った。「ドラスニアの王座に幼い王がすわることを予測して、ドロスタ王はよだれを流さんばかりです。ぼくたちがここをだれかの手に託さないと、ぼくたちがうちへ帰りつかないうちに、ドロスタ王の軍が国境地帯に攻めこんできますよ」
「しかし、ポレンはいかにも小さすぎる」アンヘグはつじつまのあわない反論をした。「それにきれいすぎるしな。彼女にどう王国が管理できるんだ?」
「おそらくきわめてたくみにやるだろう」萎えた足を慎重に踏みかえながら、チョ・ハグが答えた。「ローダーはポレンに全幅の信頼を寄せていたし、なんといってもグロデグを追放した計画のかげにはポレンがいたのだからな」
「ドラスニアで国をおさめられそうな人間といったら、ほかにケンドン辺境伯がいるだけです」ガリオンはチェレクの王に言った。「ジャヴェリンで通っている人物ですよ。命令をくだす王座の陰に、ドラスニア諜報部の指導者がすわっているほうがいいんですか?」
アンヘグは身ぶるいした。「考えただけでぞっとする。ケルダー王子はどうだ?」
ガリオンはまじまじとアンヘグを見た。「ふざけているんでしょう、アンヘグ」信じられないように言った。「シルクが? 摂政に?」
「そう言われりゃそうだ」アンヘグはしばし考えてから譲歩した。「かれはちょっと信頼性にかけるな」
「ちょっと?」ガリオンは笑った。
「それでは異論はないな?」チョ・ハグがたずねた。「ポレンしかいない、そうだね?」
アンヘグはぶつぶつ言ったが、しまいには同意した。
アルガー王はガリオンのほうを向いた。「きみが布告を出さねばならんだろうな」
「ぼくがですか? ぼくはドラスニアではなんの権限もないんですよ」
「きみは〈西方の大君主〉だろう」チョ・ハグは思い出させた。「ポレンの摂政を承認し、それに不服な者やこの国の国境を侵す者はきみを相手にしなくてはならない旨を発表するんだよ」
「それを聞けば、ドロスタはでしゃばるまい」アンヘグがげらげら笑った。「やつはきみをザカーズ以上に恐れているんだ。きみの燃える剣にあばら骨をつらぬかれる悪夢でも見るだろうて」
別の廊下で、エランドはヴァラナ将軍と宦官のサディにでくわした。サディはニーサ人らしいまだらの虹色の絹の長衣をきており、将軍は肩に金色のふちどりのある幅広のバンドがついた、トルネドラの銀色のマントをはおっていた。
「すると、あれは公式のものなんですな?」サディは妙にかんだかい声でいいながら、将軍のマントをじっと見た。
「なんのことです?」ヴァラナはたずねた。将軍は鉄灰色の髪とかすかにおもしろがっているような表情をした、がっちりした感じの人物だった。
「スシスでラン・ボルーンがあなたを養子にしたとの噂を聞いたことがあったのですよ」
「便宜上のはからいでしょう」ヴァラナは肩をすくめた。「トルネドラは帝国の皇族たちの王位争いで空中分解しかかっていましたからね、ラン・ボルーンは事態を鎮めるためになんらかの手を打たねばならなかった」
「ですが、かれが亡くなれば、あなたが皇位を継がれるのでしょう?」
「さあて」ヴァラナははぐらかした。「陛下がまだ何年も生きられるよう祈ろうじゃないですか」
「もちろんです」サディはつぶやいた。「それにしても、その銀色のマントはよくお似合いですな、将軍」サディは指の長い手でそりあげたつるつる頭をさすった。
「どうも」ヴァラナは軽く頭をさげた。「サルミスラの宮殿はどんな具合いです?」
サディは皮肉っぽく笑った。「いつもどおりですよ。例によってみんながみんなを蹴落とそうと計りあっているし、宮殿の厨房で用意される食べ物はすべて毒で味つけされているありさまです」
「そういう習慣だとか」ヴァラナが言った。「そんな危険な中でどうやって生き延びるんです?」
「神経をとがらせてです」サディは渋い顔をした。「わたしどもはみなきびしい食餌療法をしています。毎日のようにあらゆる既知の毒薬から身を守るために、あらゆる既知の解毒剤を服用しているのですよ。毒薬の中にはうっとりするほどいい匂いのものもあるというのに、解毒剤は総じてひどい味ですわ」
「良薬は口に苦し、ですな」
「まったく。ときに、皇帝があなたを世継ぎに任命したとき、トルネドラの皇族がたはどう反応されましたか?」
ヴァラナは笑った。「ドリュアドの森からアレンディアの国境まで、金切り声がこだまするのが聞こえたほどでね」
「即位することになれば、何人かの首ねっこをおさえつけなくてはならないかもしれませんね」
「まあね」
「軍はもちろんあなたに忠実なのでしょう」
「軍はわたしにとっておおいなるなぐさめです」
「あなたが気に入りましたよ、ヴァラナ将軍」つるつる頭のニーサ人は言った。「いつかおたがいにとって有益な和解に到達できることを確信しています」
「隣人とはつねに友好的でありたいものですよ、サディ」ヴァラナは悠然と同意した。
エランドは別の廊下で、ふしぎなとりあわせの一団を見つけた。じみで機能的な茶色の服をきたセンダリアのフルラク王が、紫色の衣装をまとったアレンディアのコロダリン王と、宝石でごてごてと飾りたてた毒々しい黄色の上着をきたあばたづらのドロスタ・レク・タンとともに静かに話しあっていた。
「摂政に関する決定について、おふたりともなにかお聞きになったかね?」やせこけたナドラクの王がきんきん声でたずねた。そわそわといっときもじっとしていないドロスタのとびだし気味の目が、あばただらけの顔からいまにもこぼれそうだった。
「ポレン王妃が年少の王を導くことになると思いますな」フルラクが推測した。
「女を摂政にしたりするものか」ドロスタはあざわらった。「わたしはアローン人を知っているが、かれらは女を一人前の人間とは見なしておらんよ」
「ポレンはほかの女性とはぜんぜんちがいますよ」センダリアの王は言った。「すばらしい才能にめぐまれた人だ」
「ドラスニアのような広大な王国の国境がどうして女ごときに守れるんだ?」
「まるでわかっておられんな、閣下」コロダリンがいつになくぞんざいな口調でナドラクの王に言った。「ほかのアローンの王たちがポレンを支えるにきまっておるではないか。とりわけ、リヴァのベルガリオンは手厚く彼女を保護するだろう。〈西方の大君主〉にはむかうようなおろかな君主は長生きできまい」
「リヴァはずいぶん遠いじゃないか」ドロスタは目を細めた。
「それほどでもないよ、ドロスタ」フルラクが言った。「ベルガリオンは長い腕を持っている」
「南からはいかなるニュースがはいっているのだね、閣下?」コロダリンがナドラクの王にたずねた。
ドロスタは下品な音をたてた。「カル・ザカーズがマーゴの血の海を渡っている」ドロスタは嫌悪の表情で言った。「ウルギットを西の山脈におしこめ、マーゴ人をかたっぱしから殺しているんだ。だれかがあいつに矢をつきたててくれることをずっと望んでいるんだが、マーゴ人はまったくあてにできないときてる」
「ゲセル王と同盟を結ぶことは考えたのかね?」フルラクがたずねた。
「タール人とか? 冗談だろう、フルラク。たとえひとりでマロリー人と対決することになっても、タール人とかかわりあいになるのはごめんだ。ゲセルはザカーズを死ぬほどこわがっている。かれの名前を口にしただけで、ズボンをぬらしちまうほどだ。タール・マードゥの戦闘のあと、ザカーズはおれのタール人のいとこに言ったのさ、今度ゲセルがザカーズの不興をかうようなことをしたら、はりつけにしてやるとね。カル・ザカーズが北上を決めたら、ゲセルは手近な馬糞の山にもぐりこんで隠れちまうよ」
「ザカーズはおぬしのことをきらっているそうではないか」コロダリンが言った。
ドロスタはかんだかいヒステリックな声で笑った。「ザカーズはおれをじわじわと火あぶりにしたがっている。おれの面の皮で靴でもつくる気だろう」
「きみたちアンガラク人が大昔にたがいを滅ぼさなかったのが不思議なくらいだな」フルラクがにやりとした。
「トラクがとめたのさ」ドロスタは肩をすくめた。「そしてグロリムどもに命じたんだ、さからう者はかまわずやっつけろとね。おれたちはトラクが好きだったためしはないが、いつもトラクに命じられたとおりのことをしてきた。したがわなかったのはばかだけさ――たいていはすくいがたいばかだがね」
翌日、魔術師ベルガラスが東から到着し、ドラスニアのローダー王は手厚くほうむられた。喪服の小柄な金髪のポレン王妃は儀式のあいだ、おさないケヴァ王のかたわらに立っていた。ケルダー王子は幼い王とその母のまうしろにたっていたが、その目には放心したような表情がうかんでいた。エランドはシルクを見たとき、その小柄なスパイが長年おじの妻である王妃を愛してきたことや、ポレンもかれに好意をもっていながらその愛に報いなかったことを、はっきりと読み取ることができた。国葬は、すべての国事の例にもれず、長かった。えんえんとつづく儀式のあいだ、ポレン王妃もおさない息子もひどく青ざめてこそいたものの、苦悩の色はまったく見せなかった。
葬儀につづいて、ただちにケヴァの即位式がおこなわれ、新たに即位したドラスニアの王は高いが毅然とした声で、母親にみちびかれてこのさきの困難な歳月をのりこえていく覚悟であることを宣言した。
儀式のしめくくりに、リヴァの王であり〈西方の大君主〉であるベルガリオンが起立し、集まった諸王たちに短い挨拶をした。かれはケヴァがすぐれた王として諸侯たちを治めることを歓迎し、また、母君を摂政に選んだ英知をほめたたえたあと、彼、ガリオンが全面的にポレン王妃を支援すること、多少なりとも王妃を侮辱するようなふるまいをしたものは必ずそれを後悔するはめになることを、全員に忠告した。その宣言をしたとき、ベルガリオンは〈鉄拳〉リヴァの巨大な剣によりかかっていたので、ドラスニアの謁見の間にいたものはみな、その話をきわめてまじめに受け取った。
数日後、客たちは全員ドラスニアをあとにした。
ポルガラ、ダーニク、エランド、ベルガラスの四人が、チョ・ハグとシラー王妃とともに馬で南へ向かう頃、アルガリアの平原には春が訪れていた。
「悲しい旅だったな」チョ・ハグが馬にゆられながらベルガラスに言った。「ローダーがいないとさみしくなる」
「みんな同じ気持ちだろう」ベルガラスは答えた。ベルガラスは前方に目をやった。アルガーの馬族の一団に注意深く見守られて、おびただしい家畜の群れがゆっくり西へむかっていた。センダリア山脈のむこうのミュロスで、大規模な家畜市が開かれるのだ。「よりによって一年のこの時期に、ヘターがガリオンとリヴァへ戻るのに同意したのはちょっと意外だったな。いつもなら、ヘターは家畜の群れを先頭に立って率いているだろう」
「アダーラが説きふせたんですわ」シラー王妃が老人に言った。「アダーラはセ・ネドラとしばらく一緒にいたかったんです。妻の望みとあれば、ヘターはたいていのことはあきらめますのよ」
ポルガラが微笑した。「かわいそうなヘター。アダーラとセ・ネドラが相手じゃ、勝ち目はないわね。あのふたりは言いだしたらあとにひかないお嬢さんたちだから」
「ヘターのためにも景色が変わったほうがいいだろう」チョ・ハグが言った。「あれはいつも夏になるとそわそわ落ち着きがなくてね、いまではマーゴ人がひとりのこらず南へひっこんだものだから、侵入してくるマーゴの一団を追いちらす楽しみも味わえないしまつだ」
南アルガリアに到着すると、チョ・ハグとシラーはかれらに別れをつげて、砦のある東へむかった。四人はそのまま南へ進み、何事もなく〈谷〉へついた。ベルガラスは数日小屋ですごしたあと、塔へ戻る用意をした。思いついたように、かれはエランドを誘った。
「わたしたちは残りますからね、おとうさん」ポルガラが言った。「わたしは庭の手入れをしなくちゃならないし、冬がおわったからダーニクにも仕事がどっさりあるわ」
「となると、この子がいないほうが助かるだろう?」
ポルガラは長いことベルガラスをにらんでいたが、とうとうあきらめて言った。「そうね、けっこうよ、おとうさん」
「わかってくれると思ったよ、ポル」
「行きっぱなしで夏じゅう帰ってこないなんていうのは困るのよ」
「わかってるとも。わしは双子としばらく話をして、ベルディンが帰ってきたかどうかようすを見たいんだ。留守にするのはひと月かそこらだ。それがすんだらちゃんと連れて帰ってくるさ」
というわけで、エランドとベルガラスはふたたび〈谷〉の中心へ向かって旅をつづけ、老人の塔に住居をさだめた。ベルディンはまだマロリーから戻っていなかったが、ベルガラスは明けても暮れてもベルティラとベルキラと話をしつづけた。おかげで、エランドとくり毛の馬は思うぞんぶんふたりだけで楽しむことができた。
ある明るい夏の朝、かれらはウルゴランドの国境にある丘陵地帯を探検しようと、〈谷〉の西端へむかった。木々におおわれたそのなだらかな丘陵を何マイルか走ったところで、広くて浅い小谷に出た。小川がいきおいよく流れて、苔むした緑の岩にぶつかりしぶきをあげていた。朝日が暑かったので、いい匂いのする高いマツの木蔭にはいると快かった。
かれらが立ちどまったとき、小川の端のしげみの中から一匹の牝狼が静かにあらわれて足をとめ、すわりこんでかれらをながめた。その牝狼のまわりにはふしぎな青い光輪がさしていた。豊かな毛皮から発しているようなやわらかな光だった。
ふつうなら狼のにおいがしただけで、馬は狂暴化するものだが、エランドの馬は青い狼の目を静かに見返しただけで、身ぶるいひとつしなかった。
少年には狼がだれかわかったが、そんな場所で出会ったことにはびっくりした。「おはようございます」エランドはていねいに言った。「気持ちのいい日ですね」
狼の体が微光を放ったようだった。ベルディンがタカになるときと同じだった。狼のまわりの空気が澄み渡ったとき、そこには、金色の目とかすかにおもしろがっているような微笑をうかべた、黄褐色の髪の女性が立っていた。身につけているのは平凡な百姓女のような質素な茶色の服だったが、その着こなしは、宝石を織り込んだ豪華な服の女王でもうらやむほど堂々としていた。「いつも狼にはそんなにていねいに挨拶するの?」彼女はエランドにきいた。
「狼に会ったことはあまりないんです。でもあなたがだれかまちがいなくわかりましたから」
「そうね、わかってくれるだろうと思ったわ」
エランドは馬の背からすべりおりた。
「あなたがけさどこにいるか、かれは知っていて?」
「ベルガラスですか? たぶん知らないでしょう。かれはベルティラとベルキラと話しこんでいるんです。それで馬とぼくはいままで行ったことのないところを探検にきたんです」
「ウルゴ山脈にはあまり深くはいらないほうがいいわ」彼女は忠告した。「この丘陵にはとても獰猛な動物がいるのよ」
エランドはうなずいた。「おぼえておきます」
「わたしのためにあることをしてもらえるかしら?」彼女は単刀直入にたずねた。
「ぼくにできることなら」
「わたしの娘に話してもらいたいの」
「いいですとも」
「ポルガラに言ってちょうだい。大きな悪と大きな危険が世界にせまっていると」
「ザンドラマスのことですか?」
「ザンドラマスもその一部だけれど、悪の中心にあるのはサルディオンよ。サルディオンは滅ぼさなくてはならないわ。夫と娘にベルガリオンに注意をうながすように言うのよ。かれの任務はまだ終わっていないわ」
「伝えます」エランドは約束した。「でも、ご自分でポルガラに言うほうが簡単なんじゃありませんか?」
黄褐色の髪の女性は涼しげな小谷に目を落とした。「いいえ。わたしがあらわれたら、娘を苦しめることになるわ」
「どうして?」
「導いてくれる母親がいないまま、成長しなくてはならなかった少女のころがよみがえって、またつらい思いをすることになるからよ。わたしを見るたびに、そのころの悲しみを思いだすはめになるわ」
「じゃあ、ポルガラには話さなかったんですか? あなたが強いられた犠牲のことを?」
彼女はエランドに射るような目を向けた。「夫やポルガラですら知らないことを、どうして知っているの?」
「わかりません。でも、知っているんです――あなたが死ななかったことを知っているように」
「そのことをポルガラに言うつもり?」
「言うなとおっしゃるなら、言いません」
彼女はためいきをついた。「いつかはね、でもまだだめよ。娘も夫も知らないのが一番いいと思うの。わたしの仕事はまだ終わっていないわ。心が乱れていてはまっこうから立ち向かえない仕事なのよ」
「おおせのとおりに」エランドはていねいに言った。
「また会いましょう。サルディオンのことを彼らに警告して。ザンドラマスをさがすのに夢中になって、サルディオンを見失わないようにと。悪のみなもとはサルディオンよ。それから、次に会うときはシラディスにちょっとだけ注意なさい。あなたに危害を加えるつもりはなくても、彼女にも彼女のつとめがあるし、それを完了させるためなら、どんなことでもやるわ」
「わかりました、ポレドラ」エランドは約束した。
「あら」ポレドラは思いついたように言った。「だれかあそこであなたを待っているわ」草深い谷にむかってつきでた岩だらけの長い舌のような隆起を身ぶりで示した。「かれにはまだあなたは見えないけれど、待っているわ」それからふっとほほえむと、微光を放ちながら青い狼の姿にもどり、ふりかえらずにゆったりと走り去った。
エランドは好奇心をかきたてられて、ふたたび馬にのり、小谷を出、南へ進んで、ウルゴの領土の輝く白い山頂にむけてなだらかに起伏する高い丘陵を迂回しながら、ポレドラの示した隆起へ急いだ。岩だらけの斜面を目でさがしていたとき、斜面なかほどに露出した地表がやぶにおおわれた箇所があり、そのまんなかで光っているなにかが日光を受けてつかのまきらめくのが見えた。エランドはためらうことなくその方向へ馬を走らせた。
こんもりしたやぶのまんなかにすわっているその男は、金属のうろこを幾重にも重ねた奇妙な鎖かたびらを着ていた。背は低かったが、肩はたくましくもりあがり、まぶしい日差しをさえぎるために薄い布きれで目隠しをしていた。
「おまえか、エランド」ベールをした男は押し殺したような声でたずねた。
「はい」エランドは答えた。「ずいぶんひさしぶりですね、レルグ」
「おまえと話す必要があるのだ」押し殺した声の狂信者は言った。「まぶしくないところへ行けるかね?」
「いいですよ」エランドは馬からすべりおりて、そのウルゴ人のあとからざわざわ音をたてるやぶをぬけ、斜面にできたほらあなへ向かった。ひさしのようにつきでた岩の下で、レルグはちょっと身をかがめ、そのまま中へはいった。エランドがつづいてひんやり薄暗いほらあなにはいると、レルグは言った。「おまえを見つけられると思ったんだが、むこうがあんまりまぶしくてよく見えなかったんだよ」かれは目の上の布きれをはずして少年をのぞきこんだ。「大きくなったな」
エランドはにっこりした。「もう、二、三年たちますからね。タイバは元気ですか?」
「息子を産んでくれてな」レルグはほとんど信じられないように言った。「じつに特別な息子なんだ」
「よかったですね」
「わたしがもっと若くて、自分自身の清浄な能力に満ちていたとき、ウルがわたしの魂に話しかけてくださってな、新たなゴリムとなる子供がわたしたちを通じてウルゴへくると言ったのだ。なまいきざかりだったわたしは、これはわたしがその子供をさがしだしてウルにその子を見せるという意味なのだろうと思った。もっとずっと簡単なことだとは夢にも考えなかった。ウルが話したのはわたしの息子のことなんだよ。しるしがわたしの息子にあるんだ――わたしの息子に!」狂信者の声には畏敬にも似た誇りがにじんでいた。
「ウルのやりかたは人間とはちがうんですよ」
「まさにおまえの言うとおりだ」
「それじゃ、しあわせなんですね?」
「わたしの人生は満たされている」レルグはあっさり言った。「しかし、いまわたしには別の仕事があるのだ。われらの高齢のゴリムがベルガラスを見つけるようわたしを送りだしたのだよ。わたしとともに一刻も早くプロルグにきてもらわねばならない」
「ベルガラスならこの近くにいますよ」エランドはレルグを見て、この薄暗いほらあなにいてさえ、狂信者が光から目を守るためにほとんど目をすがめるようにしていることに気づいた。「ぼくは馬を持っていますから、よかったら、数時間でベルガラスをここへ連れてきてあげます。そうすれば日光の中へ出ていかなくてもすむでしょう」
レルグはエランドにすばやく感謝の目をむけてうなずいた。「きてくれなくては困るとベルガラスに言ってくれ。ゴリムがかれと話しあわなくてはならないのだ」
「わかりました」エランドは約束すると、ほらあなをあとにした。
「わしになにをしてほしいと言うんだ?」レルグが会いたがっていることを話すと、ベルガラスはいらだたしげに問いただした。
「一緒にプロルグに行ってもらいたがっています」エランドは答えた。「ゴリムがあなたに会いたがっているんです――古いほうのゴリムが」
「古いほう? すると新しいゴリムがいるのか?」
エランドはうなずいた。「レルグの息子です」
ベルガラスはしばらくまじまじとエランドを見つめていたが、やがてはじけるように笑いだした。
「なにがそんなにおかしいんですか?」
「ウルにはユーモアのセンスがあるらしい」老人は笑いころげた。「思ってもみなかったよ」
「なんのことかさっぱりわからないや」
「長い話でな」ベルガラスはまだ笑いながら言った。「ゴリムがわしに会いたがっているなら、行ったほうがよかろう」
「ぼくも一緒に行ったほうがいいですか?」
「おまえをここにひとりおきざりにしたら、ポルガラに生きたまま皮をはがれちまうよ。出発だ」
エランドは老人を導いて〈谷〉へ引き返し、丘陵地帯の隆起を渡って、レルグの待つほらあなへ向かった。若駒にベルガラスの塔へひとりで帰ることを納得させるには数分かかった。エランドがじっくり話してやると、やっとのことで馬は少なくともその指示の概略をのみこんだようだった。
プロルグまでの旅は暗い地下道を通って数日かかった。エランドにはその大部分がやみくもに手探りで進んでいるように思えた。だが、さえぎるもののない日差しの中ではほとんど役にたたないレルグの目は、この光のない通路をわが家同然に見分けたし、レルグの方向感覚は狂いがなかった。そんなわけで、かれらはついにほのかに照らされたほらあなにたどりついた。そばには浅い、ガラスのように澄んだ湖があり、その中央に隆起した島で老齢のゴリムがかれらを待っていた。
「ヤド・ホー、ベルガラス」かれらが地中の湖の岸につくと、白い長衣をまとった聖なる老人が呼びかけた。「グロージャ、ウル」
「ゴリム」ベルガラスはうやうやしく一礼して答えた。「ヤド・ホー、グロージャ、ウル」それからかれらは大理石の土手道をよこぎってゴリムに合流した。ベルガラスと老人はたがいの腕をしみじみと握りあった。「数年になるかな?」魔術師は言った。「変わりないかね?」
「若がえった気分だよ」ゴリムは微笑した。「レルグがわしの跡継ぎを見つけてくれたのでな。ようやく仕事に先が見えてきた」
「見つけた?」ベルガラスが不審そうにたずねた。
「結局そういうことなんだ」ゴリムは好ましげにレルグを見た。「わしらは仲たがいしていたんだよ、そうだな、息子? だが、あとになって見れば同じ目的にむかって進んでいたのだ」
「それに気づくのにわたしはかなり手間取りましたよ、聖なるゴリム」レルグが皮肉っぽく答えた。「わたしは並以上に頑固なんです。ウルがよくもかんしゃく玉を破裂させなかったものだと思いますよ。では失礼して、妻と息子のところへ行かなくてはなりません。何日も離れていましたから」レルグはきびすをかえしてそそくさと土手道をひきかえしていった。
ベルガラスはにやにやした。「変われば変わるものだ」
「レルグの妻はおどろくべき女性だよ」ゴリムも同意した。
「かれらの子供が選ばれた者だというのは確かなのかね?」
ゴリムはうなずいた。「ウルが確認なさった。反論する者もいたよ。タイバがウルゴの娘でなくマラグ人だからだが、ウルの声がかれらをだまらせた」
「そりゃそうだろう、ウルの声はじつによく通るからね。わしに用があったのか?」
ゴリムの表情がきびしくなった。かれはピラミッド型の家を身ぶりでしめした。「うちにはいろう。早急に話しあわねばならない問題がある」
エランドはふたりの老人のあとから家にはいった。光る水晶球が天井から鎖でぶらさがり、室内をぼんやり照らしていた。低い石の腰掛けとテーブルがあり、彼らがそのテーブルにつくと、老ゴリムは真剣な顔でベルガラスを見た。「友よ、われわれは地上の太陽の光の中で暮らしている人間とはちがう。かれらにとって、音は、木立を渡る風であり、小川のせせらぎであり、大気を歌で満たす小鳥たちのさえずりだ。しかし、ここ地下にいるわれわれには、大地そのものの音しか聞こえない」
ベルガラスはうなずいた。
「大地や岩は特別な方法でウルゴの人々に話しかける」ゴリムはつづけた。「ある音は世界をまわりきらないうちにわれわれのもとへ届く。そのような音が何年も岩の中でつぶやきつづけ、ひと月ごとに大きく、より明瞭になってきたのだ」
「聞きちがいではないのか?」ベルガラスはそれとなく言った。「大陸のどこかの石の層が動いているんじゃないのかね?」
「わしはそうは思わない。われわれが聞いている音は大地の動く音ではない。一個の石が目覚めたことによって生じた音なのだ」
「どうもよくわからんな」ベルガラスはけげんな顔をした。
「われわれが聞いている石は生きているのだ、ベルガラス」
老魔術師は友を凝視した。「生きている石はひとつしかないのだぞ、ゴリム」
「わしもずっとそう信じてきた。〈アルダーの珠〉が世界を動き回る音を聞いたことがあるが、この新しい音も生きた石の音なのだ。ベルガラス、その石は目をさまし、みずからの威力を感じている。それは悪なのだ、友よ――大地それ自体がその重みにうめくほどの悪なのだ」
「その音が聞こえるようになってどのくらいになる?」
「最初に聞こえたのは、呪われたトラクが死んでからまもなくだった」
ベルガラスは口を固くひきむすんだ。「マロリーでなにかが起きようとしているのは知っていたが、こうも深刻な問題だとは思っていなかった。その石のことをもっと話してくれないか?」
「わかっているのは名前だけだ。ほらあなや地下道や地面の割れ目から石のささやきがつたわってくるのだ。それはサルディウスと呼ばれている」
ベルガラスははっと顔をあげた。「クトラグ・サルディウスか? サルディオンというあれか?」
「聞いたことがあるのか?」
「ベルディンがマロリーで聞きこんだのだ。ザンドラマスというものに関連のあることだった」
ゴリムは息をのんだ。顔がまっさおになった。「ベルガラス!」かれはおののきながら叫んだ。
「どうした?」
「ザンドラマスとは、われわれの言葉でもっともおそるべき呪いなのだ」
ベルガラスはゴリムをまじまじと見つめた。「ウルゴ語の言葉はほとんど知っているつもりだったが、どうしていままで一度も聞いたことがなかったのだろう?」
「頼まれてもあんたの面前でくりかえすような言葉ではない」
「ウルゴ人が呪いかたを知っていることさえ意外だったよ。ザンドラマスとはどういう意味なんだ――一般的に?」
「混乱だ――混沌――絶対の無だ。恐ろしい言葉だ」
ベルガラスは眉をひそめた。「なぜウルゴの呪いの言葉が、人か物の名前としてダーシヴァにあらわれるのだろう? なぜサルディオンと関連があるのだろう?」
「ふたつの言葉が同じ物を意味するのに使われているのではないか?」
「それは思いつかなかった」ベルガラスは認めた。「ありうることだな。感じが似ているような気もする」
エランドは目上の人の話には口出しをしてはいけないとポルガラにきびしく教えられていたが、これはとても重要なことに思えたので、教えを破ることにした。「同じものじゃありません」エランドはふたりの老人に言った。
ベルガラスがふしぎそうに少年を見た。
「サルディオンは石でしょう?」
「そうだ」ゴリムが答えた。
「ザンドラマスは石じゃありません。人です」
「どうしてわかるんだね?」
「会ったことがあるんです」エランドは静かに言った。「正確には面とむかってじゃないけど、でも――その――」説明するのはむずかしかった。「それは影みたいなものでした――その影を投げている人物はどこかほかのところにいたんです」
「投影だ」ベルガラスがゴリムに説明した。「グロリムどもの好きな簡単なトリックさ」ベルガラスは少年にむきなおった。「その影はおまえになにか言ったか?」
エランドはうなずいた。「ぼくを殺すつもりだと言いました」
ベルガラスはするどく息を吸い込んだ。「ポルガラには言ったのか?」
「いいえ、言うべきでしたか?」
「重大なことだとは思わなかったのかね?」
「ただの脅しだと思ったんです――ぼくをこわがらせるための」
「そうだったか?」
「こわがらせたかってことですか? いいえ、それほどでも」
「おまえはちょっと慣れすぎているんじゃないかね、エランド?」ベルガラスはきいた。「殺してやると脅されることが多すぎて、うんざりしているのとちがうか?」
「いいえ。脅されたのはそのときだけです。でも、それはただの影だったんですよ。影には本当に相手を傷つける力はありません、そうでしょう?」
「ほかにもたくさんそういう影と出くわしたことがあるのか?」
「あとはシラディスだけです」
「何者なんだ、シラディスとは?」
「よくわかりません。彼女はマンドラレンのような口のききかたをします――そなたとかなんとか――それから目隠しをつけてます」
「女予言者だな」ベルガラスはうなるように言った。「その女はおまえになんと言ったのだ?」
「また会うだろうということと、ぼくが好きだというようなことを」
「それは慰めになるな」ベルガラスはそっけなく言った。「そういうことはだまっていてはいけない、エランド。ふつうじゃないことが起きたら、だれかに話せ」
「ごめんなさい」エランドはあやまった。「ぼくはただ――その――あなたもポルガラもダーニクもほかのことを考えていたようだったので、遠慮しただけなんです」
「わしらは邪魔されたっていっこうにかまわんのだ。そういう出来事は隠さず話してくれ」
「そうしてほしいとおっしゃるなら」
ベルガラスはゴリムにむきなおった。「われらが無口な若い友人のおかげで、どうやら糸口はつかめたようだ。その言葉を口にするのを許してもらえば、ザンドラマスが人間であることがわかった――アンガラク人がクトラグ・サルディウスと呼ぶその生きた石に関係のある人間だ。われわれが前にザンドラマスについて警告をうけたことから判断して、サルディオンも直接的脅威と推測しなくてはならんだろう」
「では、いまわれわれのやるべきことは?」ゴリムがベルガラスにきいた。
「マロリーでなにが進行中か、正確につきとめることが必要だろう――石をひとつひとつひっくりかえしてでも。これまでのところ、わしは興味を感じていただけだった。しかし、どうやらまじめにとりくんだほうがよさそうに思えてきたよ。もしサルディオンが生きた石なら、〈珠〉と同じようなものということになる。そういう力を秘めたものを悪人たちの手に渡したくない――推測できるかぎりでは、このザンドラマスというやつ、まちがいなく相当の悪人だからな」次にエランドのほうを見たとき、ベルガラスの顔にとまどいがうかんでいた。「このこと全体とおまえとはどうかかわってくるんだね? このすべてにかかわる人間がこぞっておまえの前にあらわれるとは、どういうことなんだ?」
「わかりません、ベルガラス」エランドは本当のことを言った。
「そこから始めたほうがいいのかもしれんな。いつかおまえとじっくり話しあおうと考えていたのだ。そろそろそのときがきたのかもしれん」
「お望みなら」エランドは言った。「でも、それがどのくらい役にたつのかなあ」
「話してみればそれもわかるさ、エランド。話してみればな」
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第二部 リヴァ
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じつをいえば、リヴァのベルガリオンは自分が王位を継ぐとは考えてもいなかった。かれはセンダリアの農場育ちで、子供のころはありふれた農場の少年にすぎなかった。リヴァ王の広間にある玄武岩の王座にはじめてすわったとき、かれの知識を占めていたのは謁見の間や会議室のことより、農場の台所や厩のほうだった。政策はなぞなぞのようなものだったし、外交については代数以上に知らなかった。
さいわいなことに、〈風の島〉は治めにくい王国ではなかった。リヴァの人々は秩序正しく、きまじめで、義務と市民の責任に対し強い関心を持っていた。このことは、長身で砂色の髪をした君主にとって、正しい統治という困難な仕事を学ぶべく試行錯誤に明け暮れた最初の数年間、おおいなる救いとなった。当然あやまちもおかしたが、そうした慣れないしくじりや過失が惨憺たる結果を招いたことは一度もなかった。家臣たちは、人々をあっといわせた王位継承者である、熱心で誠意ある若者が、同じあやまちを二度とくりかえさないことに気づいて喜んだ。いったん王であることに慣れてしまい、任務が板についたあとは、ベルガリオン――または、かれの好きな呼び方でいうとガリオンは――リヴァの王として、さしたる難問にはぶつからなかった。
しかし、ガリオンが持っている称号はほかにもあった。純然たる名誉職もあれば、多少実務をともなうものもあった。たとえば〈神をほふる者〉という称号を得てはいたものの、実際に神を殺す機会などめったにあるものではなかった。〈西海の主〉については、ガリオンはほとんど無関心だった。というのは、波や潮には監視は不要であり、魚はたいがい自分のことは自分でできると早くから結論づけていたからだ。ガリオンの頭痛の種は、もっぱら〈西方の大君主〉という大仰なひびきの称号だった。アンガラク人との戦いが終わったこともあって、最初はこの称号もその他もろもろの称号と同じで、単なる形式であり、いわば残りの称号の総仕上げともいうべきあまり意味のないつけたしだろうとたかをくくっていた。なんといっても、それのために税収入があるわけではなし、特別な王冠や王座があるわけでもなく、毎日の問題を処理する大臣がひかえているわけでもなかったからだ。
ところが、すぐにガリオンはいまいましい事実に気づいた。人間の特徴のひとつに、難問を責任者におしつけたがる傾向があるという事実である。〈西方の大君主〉がいなかったら、仲間の君主たちは複雑な難事件を自分たちで処理する方法をちゃんと見つけただろう。しかしそのおおげさな地位をガリオンが占めているかぎり、かれらはそろいもそろって、ことさら難解で、ことさら解決不可能な問題を、嬉々として持ち込んできては、四苦八苦するガリオンを尻目に、信頼の笑みをうかべて太平楽をきめこんでいるのだ。
そのいい例が、ガリオンの二十三歳の夏に、アレンディアでもちあがった出来事だった。そのときまでは、その年はきわめて順調に経過していた。セ・ネドラとの関係をだいなしにした誤解もとけ、ガリオンとかれの気むずかしやで小柄な妻は、家庭の幸福として形容されうる最高のときをともに送っていた。マロリーのカル・ザカーズ皇帝の戦争も――一時はこの大陸にカル・ザカーズがいるということが大きな不安の種となったものだが――クトル・マーゴス西部の山中でいきづまり、西方の諸王国の国境には遠くおよばないところで何十年も足踏みしそうな気配を見せていた。ラン・ボルーン二十三世の摂政役をつとめるアナディル公爵であるヴァラナ将軍は、帝国の王座を狙って争奪戦をくりひろげるトルネドラの皇族たちの目にあまる行為を、しっかりとおさえこんでいた。こんなわけで、ガリオンはそのあたたかい初夏の日までは、平和と静寂の時期が訪れることを期待していたのである。そこへ、アレンディアのコロダリン王から手紙が届いたのだ。
ガリオンとセ・ネドラは居心地のよい王宮で、とりとめのない話をしながら静かな午後を一緒に過ごしていた――ふたりにとって本当に関心があるのは手近な話題そのものよりも相手がいるという喜びのほうだった。ガリオンは窓際のおおきな青いビロードの肘かけ椅子にねそべり、セ・ネドラは金縁の鏡の前にすわって、長い茜《あかね》色の髪をとかしていた。ガリオンはセ・ネドラの髪が大好きだった。その色には心をかきたてるものがあった。匂いはかぐわしく、気まぐれなひとふさの巻毛がいつも、なめらかな白いうなじにゆれていた。召使いがアレンディアの王からの手紙を銀の盆にのせて優雅に運んできたとき、ガリオンはしぶしぶ美しい妻から目を離した。かれはごてごてした蝋の封印をはがしてひびわれた羊皮紙を開いた。
「だれからなの、ガリオン?」セ・ネドラは鏡の中で髪をとかしている自分の姿をうっとりとながめながらたずねた。
「コロダリンだ」ガリオンは答えて、読みはじめた。
「リヴァのベルガリオン王であり、〈西方の大君主〉である陛下に」と手紙ははじまっていた。
「これをお読みの陛下ならびに女王陛下が、健康かつ安らかな御心であられんことを心よりお祈りいたします。本来であれば、わが妃とわたしからの敬意と愛情をここにながながと書き記すところでありますが、当地アレンディアにて危機がもちあがったのでございます。陛下のあるご友人の行為がその直接の原因でありますれば、陛下のご助力をあおぎたく、ここにペンをとった次第であります。
まことに嘆かわしいことに、われわれの親愛なる友、ボー・エボール男爵はタール・マードゥの戦場で受けた傷がもとで、ついに落命いたしました。この春、男爵が逝去いたしましたことは、口では言いあらわせぬ悲しみをわれわれに与えたのでございます。男爵は忠実な良き騎士でありました。ネリーナ男爵夫人とのあいだに子供がなかったことから、遠縁の甥、エンブリグ卿なる者が跡継ぎとなりましたが、このいささか無分別な騎士は、わたしの見るところ、悲嘆にくれる男爵夫人の迷惑もそっちのけで、相続した称号と土地のことにばかりかまけているのであります。かれは高貴の生まれの者には似つかわしからぬ態度で、新たな領地をわがものにせんと、まっすぐボー・エボールへやってきました。しかも知り合いの騎士だの、友人だの、飲み仲間だのをぞろぞろ引き連れてです。ボー・エボールへ到着すると、エンブリグ卿とその一団は見苦しいどんちゃん騒ぎをくりひろげました。そして全員にすっかり酔いがまわったころ、無作法な騎士のひとりが未亡人となったばかりのほかならぬネリーナ夫人に讃嘆の情をあらわしたのであります。エンブリグ卿は夫と死別した夫人の悲しみを一顧だにせず、さっさとその酔っぱらい仲間と夫人を婚約させてしまいました。現在のアレンディアにおいては、法律上のある理由により、エンブリグ卿にはたしかにそうする権利があるのです。しかし真の騎士であれば、喪に服している親類の女性にかくも無作法におのれの意志をおしつけたりはしないでありましょう。
この無礼きわまるニュースはただちにボー・マンドルの有力な男爵であるマンドラレン卿につたえられ、その偉大な騎士は即刻馬上の人となりました。マンドラレン卿の勇敢さと、ネリーナ男爵夫人への卿の深い尊敬を思えば、マンドラレンのボー・エボール到着により、いかなる事態がもちあがったか容易に察しはおつきになりましょう。エンブリグ卿とその一団は軽率にもマンドラレン卿の行く手をふさごうとし、その結果数名の死者とおびただしい数の重傷者を出すことになったのであります。陛下のご友人は男爵夫人をボー・マンドルに移し、手厚く保護しておいでです。エンブリグ卿は負傷しましたが、遺憾ながら、回復のきざしがあり、エボールとマンドルのあいだに戦争状態が存在することを宣言したうえ、ありとあらゆる貴族に召集をかけたのであります。その他の貴族はマンドラレン卿の旗のもとに集まり、アレンディア南西部は全面戦争のせとぎわに立たされております。むこうみずな若者であるウィルダントルのレルドリンがアストゥリアの射手の一隊を率いて、昔なじみの同志を支援すべく、この瞬間にも南に進軍しているという情報さえはいってまいりました。
かようなしだいであります。この件につきまして、わたしがアレンドの王の力を行使したくないのはおわかりいただけると思います。なんとなれば、わたしが判断をくだすよう強いられた場合、わが国の法律によりエンブリグ卿に味方せざるをえないからであります。
ベルガリオン王、どうかアレンディアへおこしくだされて、そのお力をもって以前のお仲間やご友人を危機からお救いくださるよう、お願い申しあげるしだいであります。この差し迫った災難をかわすことのできるのは、あなたの仲裁をおいてほかにありません。
[#地から2字上げ]希望と友情において
[#地から1字上げ]コロダリン」
ガリオンは力なく手紙を見つめた。「なぜ、ぼくなんだ?」思わずその言葉が口をついて出た。
「なんて言ってきたの、あなた?」セ・ネドラがブラシを置き、象牙の櫛をとって言った。
「かれが言うには――」ガリオンは言葉につまった。「マンドラレンとレルドリンが――」かれは立ちあがって、悪態をつきはじめた。「ほら、読んでごらん」セ・ネドラに手紙をつきだすと、うしろに組んだ両手でこぶしをにぎり、ぶつぶつ言いながら行ったりきたりしはじめた。
セ・ネドラが手紙を読んでいるあいだ、ガリオンはずっと行きつもどりつしていた。「まあ、なんてこと」彼女はがっかりしたように言った。「まあ、なんてこと」
「まったくだよ」ガリオンはあらたに悪態をつきはじめた。
「ガリオン、そういう言葉は使わないでちょうだい。なんだか海賊みたいだわ。これをどうなさるつもり?」
「見当もつかないよ」
「でも、なにかしなくちゃならないでしょ」
「なんでぼくなんだ?」ガリオンはたまりかねたようにわめいた。「どうしていつもこういうことをぼくのところにもちこんでくるんだ?」
「あなたならほかのだれよりもうまくこうした問題を処理できると、みんなが知っているからよ」
「ありがたくて涙がでる」
「ふくれないで」セ・ネドラはそう言うと、考えこむようにくちびるをむすんで、象牙の櫛で頬をぴたぴた叩いた。「冠はもちろん必要だわ――それと青と銀の上着、あれがいいんじゃないかしら」
「なんの話をしてるんだ?」
「このごたごたを解決するために、あなたはアレンディアへ行かなくちゃならないわ。だから一番見映えのする格好をと思ってるのよ――アレンド人は見かけをとっても気にする人たちですもの。船の用意をさせに行ったらいかが? 身の回り品をつめておきますわ」セ・ネドラは窓から金色の午後の日差しをながめた。「あの白テンの毛皮じゃ暑いとお思いになる?」
「白テンは着ないよ、セ・ネドラ。鎧兜に剣を持って行く」
「まあ、そんなにおおげさにしないで、ガリオン。あなたはむこうへ行って停戦を命じるだけでいいのよ」
「たぶんね、しかしまずかれらの注意をひかなくてはならない。なんと言っても相手はマンドラレンだからね――それにレルドリンだ。物わかりのいい連中とはわけがちがうんだ、そうだろう?」
セ・ネドラの額にうっすらとしわがきざまれた。「それもそうね」いったんは認めたものの、またすぐ彼女は元気づけるような微笑をうかべてみせた。「でも、あなたなら調停できるにきまっているわ。わたしあなたには全幅の信頼をおいているの」
「きみもほかのみんなとおなじように始末が悪いな」ガリオンはふてくされぎみに言った。
「でもあなたならできるわ、ガリオン。みんながそう言っているんですもの」
「ブランドに話をしにいったほうがよさそうだ」ガリオンはむっつりと言った。「いくつか留意すべきことがあるし、数週間は帰ってこられそうにないからね」
「わたしがあなたにかわって処理します」セ・ネドラは安心させるように言って、ガリオンの頬を軽くたたいた。「もう行ったほうがよくてよ。お留守のあいだ、ここのことはわたしが引き受けるから大丈夫」
ガリオンは胸に一抹のさびしさを感じながら、セ・ネドラを見つめた。
それから数日後の曇った朝にガリオンがボー・マンドルに到着したとき、状況はさらに悪化していた。エンブリグ卿の軍勢はマンドラレンの城から三リーグたらずの平原で野営しており、マンドラレンとレルドリンはそれを迎え撃たんと都市から進軍していた。ガリオンはアレンディアに着いたときに親切なある男爵から借りた軍馬にまたがって、友人の頑丈な城塞の門へ駆けつけた。かれはコロダリン王から贈られた鋼鉄の鎧を身につけ、鞘におさめた〈鉄拳〉リヴァの巨大な剣を背中に斜めにかけていた。門が大きくあけられると、ガリオンは中庭へはいって、ぎごちなく鞍からおり、ただちにネリーナ男爵夫人に面会を申し入れた。
ネリーナ男爵夫人は黒い喪服に身をつつみ、青ざめた顔で城塞の胸壁に立ち、雲におおわれた東の空に目をこらしていた。戦闘の開始をつげる煙の柱が見えはしないかと捜しているのだった。「わたくしの責任ですわ、ベルガリオン王」夫人はほとんど病的に言いきった。「亡くなった男爵とはじめて結婚したその日以来、さまざまな争いや不和や怒りが生じましたが、それはすべてわたくしが原因なのです」
「ご自分を責めることはない」ガリオンは言った。「マンドラレンはほっておいても勝手に厄介事をひきおこす人なんだ。かれとレルドリンが発ったのはいつですか?」
「きのうのお昼すぎですわ」ネリーナ男爵夫人は答えた。「戦いは長びきそうです」はるか下方の板石敷の中庭をやるせなく見おろして、夫人はためいきをついた。
「ではもう行ったほうがよさそうだ」ガリオンは陰気に言った。「戦いがはじまる前に着けば、思いとどまらせることができるかもしれない」
「たったいますばらしいことを思いつきました、陛下」男爵夫人はたからかに言った。青白い顔がかすかなほほえみで少しだけあかるくなった。「あなたのお仕事をずっと簡単にしてさしあげられますわ」
「だれかにそうしてもらえるならありがたい。いまのようすでは、あすの朝はひどいことになりそうだ」
「ではお急ぎになってください、陛下、わたくしたちの愛する友人たちにとりつこうとしている悪しき戦いの場へお着きになったら、みなさんにこうお伝えください、さしせまった戦いの原因がこの悲しき世界から消え去ったと」
「どういうことです」
「これ以上簡単なことはございませんわ、陛下。この戦いの原因はわたくしなのですから、戦いを終わらせるのはわたくしの責任です」
ガリオンはうたがわしげに男爵夫人を見た。「なんの話をしているんだ、ネリーナ? どうやってあのばかものたちを正気に返らせるというんです?」
男爵夫人はこぼれんばかりの笑みをうかべた。「この高い胸壁からわたくしが身を投げるのですわ、そして夫とともに静かなお墓にはいり、戦いがはじまる前にこのおそろしい流血にけりをつけるのです。早くおいでなさいまし、陛下。ずっと下に見えるあの中庭にお降りになって、馬にお乗りください。わたくしはこちらのもっと短い、幸福な道を行って、あの板石の上で陛下をお待ちいたします。それから陛下はわたくしが死んだことを戦場へ知らせてくださればよいのです。いったんわたくしが死んでしまえば、それ以上の血が流される必要はなくなりますわ」夫人は手すりのざらざらした石のひとつに手をかけた。
「おい、やめるんだ」ガリオンはうんざりして言った。「そこからはなれて」
「いいえ、そうはまいりません、陛下」彼女は頑固だった。「これがあらゆる可能性のある答えのなかで一番見込みがあるのです。一度でこのいまわしい戦いを避け、このつらい人生に別れをつげることができるのですから」
「ネリーナ」ガリオンは抑揚のない声で言った。「それはぼくが許さない、それだけだ」
「まさかわたくしの体に手をかけてわたくしの邪魔をするようなまねはなさいませんわね」男爵夫人はショックをうけた口調で言った。
「手をかけるまでもない」夫人のぼんやりと青ざめた顔を見たとき、ガリオンは彼女が自分の話をまるで理解していないことに気づいた。「しかしよく考えてみれば、それもあながち悪い考えではないかもしれないな。あの中庭まで落ちるには一日半ばかりかかりそうだから、このことをはじめからじっくり考える時間があるだろう――そうすればぼくがいないあいだあなたもいたずらはできないわけだし」
ガリオンの言っていることがゆっくりと頭にしみこんでいくにつれて、男爵夫人の目が大きく見開かれた。「わたくしのすばらしい解決法を魔術でだいなしになさるおつもりですの?」あえぐように言った。
「試してみたらどうです」
夫人は目をうるませて力なくガリオンを見つめた。「騎士道にもとるふるまいですわ、陛下」彼女はガリオンを責めた。
「ぼくはセンダリアの農場育ちですからね」ガリオンは男爵夫人に思い出させた。「高尚な教育は受けられなかったから、ときどきこういうちょっとした行きすぎをやるんですよ。しかし、あなたの身投げを許さなかったことに関しては、いつかきっと許してもらえると思う。さて、失礼してむこうのばか騒ぎを止めに行かなくては」ガリオンはきびすをかえして鎧を鳴らしながら階段へ向かった。「そうそう」かれは男爵夫人をふりかえった。「ぼくが背をむけたとたんに飛び降りようなんてしないように。ぼくの腕は長いんだ、ネリーナ――とてもね」
男爵夫人はくちびるをふるわせてガリオンを見つめた。
「そのほうがいい」ガリオンは階段をおりていった。
マンドラレン城の召使いたちは下の中庭へ大股にでてきたガリオンのけわしい顔をひとめ見るなり、こそこそと道をあけた。ガリオンは城まで乗ってきた軍馬にやっとの思いではいあがり、背中にさげたリヴァの王の巨大な剣の位置を正すと、まわりを見まわして命じた。「だれか槍をもってきてくれ」
人々はわれ先にと何本かの槍を持ってきた。ガリオンは一本を中から選んで、ひづめの音も高く急いで出発した。
マンドラレンの城塞のすぐ外に広がるボー・マンドルの町の住民は、城塞の内側の召使い同様分別があった。怒ったリヴァ王が通過したとき、玉石敷の通りは人っ子ひとりなく、町の門は大きく開け放たれていた。
ガリオンはこれからアレンド人の注意をひきつけなくてはならなかったが、開戦のせとぎわにいるアレンド人ほど気をそらしにくい人々もなかった。何かでかれらをびっくりさせる必要がある。緑豊かなアレンドの田園地帯を走りぬけ、かやぶき屋根のこざっぱりした村々やブナやカエデの木立を通過しながら、ガリオンは頭上をかすめ飛ぶ灰色の雲を値踏みするようにながめた。計画とも言えないようなもやもやしたものが、そのとき頭にうかびはじめた。
到着してみると、ひろびろとした草原のむこうとこちらに、両軍が整列してにらみあっていた。アレンドには多数の兵がひとりずつ鬨《とき》の声をあげるという昔ながらのならわしがあるが、それはすでに終わっていた。それは言うならば、それにつづく乱闘の序幕戦として定着したならわしだった。両軍が満足そうに見守る中、戦場のまんなかで鎧兜に身を固めた数人の騎士たちの槍攻撃がはじまった。血気にはやる愚かな若い貴族たちが双方から突進し、砕けた槍の残骸が芝にちらばった。
ガリオンはひとめで状況を見て取ると、そのまままっすぐ争いのまっただなかへのりこんでいった。このさい多少のずるは許されなくてはならない。かれが持っている槍は、相手を殺すか不具にしようとしているミンブレイトの騎士たちの槍と少しも変わらないように見えた。だがひとつだけ大きな違いがあった。ガリオンの槍は彼らの槍とちがって、どんなことをしても絶対に折れないのだ。さらに、それは絶対的な力という後光にも似たもので包まれていた。ガリオンはその槍の鋭い切っ先でだれかを刺そうとはこれっぽっちも思っていなかった。かれが望んでいるのは、ひたすら、騎士たちに馬からおりてもらうことだった。あっけにとられている騎士たちのまんなかをくぐりぬけて、まず三人をたてつづけに鞍から投げおとした。次に向かってきた二人をあっというまに下へつきおとした。あまり手際があざやかだったので、ふたりの騎士が落下する騒々しい音も、ひとつの音としてしか聞こえないほどだった。
しかしながら、アレンド人が頭として使っている硬い骨をやわらかくするには、もうすこし適当な見せ場が必要だった。ガリオンは無敵の槍をあっさり捨てて、背中へ手をのばし、リヴァ王の剣を抜いた。〈アルダーの珠〉がまばゆい青い光を放ち、剣自体がたちまち炎に包まれた。いつものことだが、剣はその並はずれた大きさにもかかわらず、ほとんど重さを感じさせなかった。ガリオンは目が回るほどの速度で剣をふりまわした。おどろいているひとりの騎士めがけて突進し、持っていた槍を柄までこまぎれにしてしまった。残りが柄だけになると、ガリオンは燃える剣の平たい部分で騎士を鞍からはたきおとした。それからすばやく向きを変え、つきだされた鎚矛をまっぷたつにしたあと、それを持っていた騎士を馬もろとも地面につきたおした。
ガリオンのすさまじい攻撃にミンブレイトの騎士たちはおそれをなしてあとずさった。しかしかれらをふるえあがらせたのは、ガリオンの圧倒的な強さばかりではなかった。リヴァの王はくいしばった歯のすきまから強者たちを青ざめさせる選りすぐりの呪いを吐き出していた。ガリオンは燃えるような目をしてあたりを睥睨すると、意志の力を結集させた。赤々と輝く剣をかざすと、頭上の曇天を剣でゆびさした。「いまだ!」鞭がしなうような声で叫んだ。
ベルガリオンの意志の力が届いたとき、雲はふるえ、ほとんどすくみあがったように見えた。大木の幹ほどもある太い稲妻が落ちて、鼓膜をふるわす大音響が生じ、四方の地面を数マイルにわたってゆるがした。雷が落ちた草原に大きな穴がぽっかりあいた。ガリオンは何度もくりかえし稲妻を呼んだ。雷の音が空中に充満し、大地が焦げて煙がたちこめた。軍団は急におじけついた。
やがてすさまじい強風が襲いかかった。それと同時に雲が裂けてバケツの水をひっくりかえしたような雨が両軍を水びたしにし、騎士たちはその衝撃で文字どおり馬からころげおちた。強風がうなりをあげ、どしゃぶりがかれらをずぶぬれにしているあいだにも、稲妻はひきつづき両軍をへだてている草原をゆるがし、焦がし、湯気と煙で空中を満たした。草原を横切るのはとうていむりだった。
ガリオンはそのおそるべき光景のどまんなかで、おじけついた軍馬にむっつりとまたがっていた。かれのまわりでは稲光が踊っていた。両軍の上にさらに何分か雨をふらせ、かれらの注意を十分にひけると確信すると、燃える剣をなにげなくひとふりして、どしゃぶりをとめた。
「こういう愚行はもうたくさんだ!」雷もかくやと思われる大声でガリオンは言った。「ただちに武器をおろせ!」
騎士たちはガリオンを見つめ、次にうたがわしげにたがいに見つめあった。
「いますぐにだ!」ガリオンはさけぶと、命令を強調するためにもういちど稲妻をおこした。
あわてて武器を捨てる騒々しい音がひびいた。
「いまここで、エンブリグ卿とマンドラレン卿に会いたい」ガリオンは剣の先端で馬の正面をさした。「ただちにだ!」
ふてくされた学校の生徒のように、鎧兜に身を固めた二人の騎士がしぶしぶガリオンの前へ進みでた。
「きみたちふたりは自分たちのしていることをどう思っているんだ?」ガリオンは問いつめた。
「名誉からしたまでのことです、陛下」エンブリグ卿が口ごもりながら言った。エンブリグ卿は四十がらみのがっしりした赤ら顔の男で、酒のみに特有の紫色の鼻をしていた。「マンドラレン卿がわたしの縁つづきの女性を誘拐したのです」
「あの女性についてのおぬしの関心は彼女に権力をふるうことだけではないか」マンドラレンが熱っぽく反論した。「おぬしは彼女の気持ちを無視して、士地と家財を奪い、さらに――」
「もういい」ガリオンはぴしゃりと言った。「それで十分だ。きみたちの個人的けんかがアレンディアの半分を戦争のせとぎわへ追いこんだ。それがきみたちのしたかったことか? 我を通すことができたら、自分の国がめちゃくちゃになってもいいのか? きみたちはそれほどわからずやなのか?」
「しかし――」マンドラレンは反論しようとした。
「しかしもくそもない」ガリオンはかれらをどう思っているかについて話しつづけた――えんえんと。その口調は軽蔑にみち、言葉の選択は多岐にわたった。ガリオンが話すにつれて、ふたりの顔は青くなった。やがてガリオンはレルドリンが注意深く耳をかたむけているのを見つけた。
「そしてきみだ!」ガリオンは若いアストゥリア人に注意の矛先を転じた。「きみはミンブルでいったいなにをしている?」
「ぼくですか? でも――マンドラレンはぼくの友だちですよ、ガリオン」
「かれが助けを求めたのか?」
「その――」
「そうではあるまい。きみが勝手にそう思ったのだ」それからガリオンはレルドリンを非難の対象に含め、かれらをいましめながらさかんに右手で燃える剣をふりまわした。三人はガリオンが彼らの面前で剣をふりまわすたびに、目を大きく見開いて不安げに剣を見守った。
「よろしい。それでは」空気中の稲妻を一掃したあと、ガリオンは言った。「これがわれわれのしようとしていることだ」とエンブリグ卿にいどむような目を向けた。「わたしと戦いたいかね?」好戦的に顎をつきだしてきいた。
エンブリグ卿の顔が真っ青になり、目がとびだしそうになった。「わたしがですか、陛下?」かれはあえぐように言った。「このわたしを〈神をほふる者〉と戦わせようとおっしゃるのですか?」彼はがたがたとふるえはじめた。
「だめだろうな」ガリオンはぶつぶつ言った。「そうすると、きみはネリーナ男爵夫人について要求したものいっさいをただちに放棄してわたしにゆずることになる」
「喜んで、陛下」エンブリグの口から言葉が我先にこぼれでた。
「マンドラレン、きみはわたしと戦いたいか?」
「あなたは拙者の友だちです、ガリオン」マンドラレンは抗議した。「あなたに手をあげるくらいなら死んだほうがましです」
「よろしい。それでは男爵夫人にかわって、領地に関する所有権の主張をわたしに一任せよ――ただちにだ。いまからわたしが夫人の保護者になる」
「わかりました」マンドラレンは神妙に答えた。
「エンブリグ卿、ボー・エボールの男爵領のすべてをきみに授ける――通常ならネリーナのものとなる土地をふくめてだ。これを受け入れるか?」
「はい、陛下」
「マンドラレン卿、わたしの被保護者であるボー・エボールのネリーナとの結婚をここに申し渡す。彼女を受け入れるか?」
「心から、陛下」マンドラレンは目に涙をうかべ、押し殺した声で言った。
「すごい」レルドリンが感心したように言った。
「だまれ、レルドリン」ガリオンは命じた。「それでは紳士諸君、戦争は終わりだ。軍を率いて帰りたまえ――もし戦いが再燃するようなことがあれば、わたしが戻ってくるぞ。またここへこなくてはならないようなことになれば、わたしの腹だちはひととおりではないからな。わかったか?」
三人はだまってうなずいた。
それをもって戦いはおわった。
しかしながらネリーナ男爵夫人は、ガリオンの決定によってマンドラレンの軍がボー・マンドルへひきあげることを知らされると、激しく異議を唱えた。「わたくしは陛下を喜ばせる殿方であればだれにでも与えられるいやしい奴隷なのでございますか?」彼女は芝居がかった口調で問いつめた。
「あなたの保護者としてのぼくの権限に疑問でもあるのかね?」ガリオンはずばりとたずねた。
「いいえ、陛下。エンブリグ卿はこのことに同意しました。いまはあなたがわたくしの保護者ですわ。ご命令どおりにしなくてはなりません」
「マンドラレンを愛しているか?」
夫人はすぐれた騎士をすばやく見てから、顔を赤らめた。
「質問に答えなさい!」
「はい、陛下」夫人は消え入りそうな声で告白した。
「それじゃなにが問題なんだ? かれを前から愛していたというのに、ぼくがかれとの結婚を命じたら、反対するのか」
「陛下」男爵夫人は硬い口調で答えた。「守られねばならぬたしなみというものがございます。淑女たるもの、尻尾をふってとびついたりはいたしません」それだけ言うと、彼女はくるりと背を向けて歩みさった。
マンドラレンはうめいた。その口から鳴咽がもれた。
「今度はなんなんだ?」ガリオンは問いただした。
「ネリーナとわたしはけっして結婚しないでしょう」マンドラレンはとぎれとぎれに言った。
「なにをばかなことを。レルドリン、これがいったいどういうことなのかわかるか?」
レルドリンは顔をしかめた。「だいたいのところは、ガリオン。いささかデリケートな交渉と形式がひとそろいあるところを、あなたが全部とばしてしまったんですよ。婚姻持参金の問題とか、保護者の――もちろんあなたです――正式な同意書とかがね。それから一番重要なのは、正式な求婚――立会人のもとでの――がおこなわれることなんです」
「ネリーナが拒否しているのはそういう専門的手続きがないからなのか?」ガリオンは信じられずにたずねた。
「女性には専門的手続きがこのうえなく重要なんですよ、ガリオン」
ガリオンはあきらめてためいきをついた。この件はかれが考えていた以上に長くかかりそうだった。「一緒にきてくれ」かれはふたりに命令した。
ネリーナはドアに鍵をかけており、ガリオンの礼儀正しいノックに答えようとしなかった。たまりかねて、ガリオンは行く手をはばむ頑丈なカシの板をにらみつけた。「開け!」そのひとことで、ドアはぱっと内側に開き、ベッドの上でぎょっとしている女性に木っ端が降り注いだ。「さあ」ガリオンはドアの残骸をまたいで部屋にはいった。「仕事にとりかかろう。どのくらいの持参金が適当だと思う?」
マンドラレンは喜んで――いそいそと――しるしばかりのものを受け取ることを同意したが、ネリーナはもっと価値あるものにすると頑固に主張した。ガリオンはちょっとばかりひるみながら、夫人にとっても納得のいく申し出をした。次にペンとインクを所望し――レルドリンの助けをかりて――適当な同意書を書きあげた。「これでよしと」ガリオンはマンドラレンに言った。「求婚したまえ」
「そのような求婚はかように性急にするものではありませんわ、陛下」ネリーナが抗議した。「時間をかけておたがいに知り合うことがふさわしいと考えられております」
「きみたちはとっくに知り合いじゃないか、ネリーナ」ガリオンは思い出させた。「いいからやりたまえ」
マンドラレンはネリーナの前にひざまずいた。鎧が床にあたって音をたてた。「わたしを夫としてくれるか、ネリーナ?」かれは哀願した。
彼女はとほうにくれてマンドラレンを見つめた。「適当なお返事をするだけの時間がありませんわ、閣下」
「はい≠ニ言うんだ、ネリーナ」ガリオンは言った。
「それはご命令ですの、陛下?」
「そう言いたいなら」
「では、したがわねばなりません。はい、マンドラレン卿――心から」
「上出来だ」ガリオンはきびきびと両手をこすりあわせた。「立って、マンドラレン、下の教会へ行こう。牧師を見つけて、夕飯までにこれを正式なものにしてしまうんだ」
「まさかそのようにお急ぎになるのではありますまいね、陛下」ネリーナがあえぐように言った。
「じつは、そうなのだ。リヴァへ戻らなくてはならないし、きみたちふたりが無事結婚するまではここを発つつもりはないからな。だれか見張るものがいないと、アレンディアではすぐ状況がおかしくなる」
「このような格好では困りますわ、陛下」ネリーナは黒い喪服をみおろした。「黒い服のままわたくしを結婚させるようなことはなさらないでくださいませ」
「それにわたしもです」マンドラレンも抗議した。「まだ鎧兜をつけたままだ。こんななりで結婚すべきではありません」
「ぼくはきみたちがなにを着ていようといっこうにかまわない」ガリオンは言った。「肝心なのは中身であって、外側じゃない」
「でも――」ネリーナはためらった。「ベールさえつけておりませんわ」
ガリオンは彼女を長々と凝視した。それから、さっと部屋を見まわし、そばのテーブルからレースの花瓶敷をとりあげ、ネリーナの頭にかぶせた。「とてもいい。これ以上のものは思いつけないくらいだ」
「指輪は?」レルドリンがためらいがちに言った。
ガリオンはふりかえってレルドリンをにらんだ。「きみまでそういうことを言うのか?」
「指輪はどうしたって必要ですよ、ガリオン」レルドリンは弁解ぎみに言った。
ガリオンはしばらく考えてから、意識を集中して、宙から飾りけのない金の指輪をとりだした。「これでいいか?」ふたりにそれをさしだしながらたずねた。
「付き添いはありませんの?」ネリーナが小さく声をふるわせてきいた。「貴族の女が勇気とはげましを与えてくれる適当な地位の介添え役もなしに結婚するなんて聞いたこともございませんわ」
「だれかをつかまえてこい」ガリオンはレルドリンに命じた。
「だれを選べばいいんです?」レルドリンはとほうにくれてきいた。
「だれでもかまわないよ。高貴な生まれの淑女を教会まで連れてくるんだ――髪の毛をひっぱってでもだ」
レルドリンはあわててとびだしていった。
「ほかになにか?」ガリオンは忍耐がつきかけていることを示す険悪な口調でマンドラレンとネリーナにたずねた。
「花婿には親しい友人が付き添うことが習慣なんですが、ガリオン」マンドラレンが言った。
「レルドリンがいるじゃないか。ぼくもいる。ぼくたちがいるからには、気絶することも逃げ出すこともゆるさないからな」
「小さな花束を持てないでしょうか?」ネリーナが訴えるように言った。
ガリオンは彼女を見て、「いいとも」と心とは裏腹のおだやかな口調で言った。「片手をだして」かれはユリをつくりだした――あっというまになにもない空中からユリをとりだして、びっくりしている女性の手につぎつぎにのせていった。「この色でいいかな、ネリーナ? よかったら、色を変えることもできるよ――紫だろうと、薄緑だろうと、きみに似合う明るい青だろうと」
しばらくしてからようやくガリオンはきりがないことに気づいた。かれらはできるかぎり、次から次に異議をとなえつづけた。ふたりそろっておおいなる悲劇のまっただなかの生活に慣れきってしまっていたので、その悲嘆にくれた娯楽をおいそれとあきらめる気にならなかった――なれなかった――のだ。当然、その解決はひとえにガリオンにかかっていた。それがいささかオーバーであるのはわかっていたが、ふたりの精神的能力を考慮して、ガリオンは剣を抜いた。「これからみんなで教会へ行く」かれは宣言した。「そしてきみたちふたりは結婚するんだ」こっぱみじんになったドアを剣で示し、「さあ、行くぞ!」と命令した。
というわけで、大悲恋の物語のひとつはついにハッピー・エンドにこぎつけた。マンドラレンとネリーナはその日の午後に結婚し、ガリオンは文字どおりふたりの上に立って、土壇場で支障が起きないように燃える剣をふりかざした。
ガリオンは自分自身にも、物事を処理したやりかたにも、おおむね満足だった。かれは自己満足にひたりながら、翌朝リヴァへひきかえした。
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10[#「10」は縦中横]
リヴァへ戻った日の夜、青い絨緞敷の居間でセ・ネドラとくつろぎながら、ガリオンは話していた。「とにかく、ぼくたちがマンドラレンの城へひきあげて、ネリーナに安心して結婚していいと言ったら、彼女はありとあらゆるたぐいの反対をもちだしてきたんだ」
「ずっと前からネリーナはマンドラレンを愛していたんじゃなかったの」セ・ネドラは言った。
「そうさ、だが、何年もあの悲劇的状況のまっただなかにいたせいで、おいそれとそれをあきらめたくなかったんだよ。ネリーナはあの高貴な苦しみをまだ全部体から吐き出していなかったのさ」
「意地悪なことを言うのはおよしなさいよ、ガリオン」
「アレンド人には頭が痛くなるよ。最初に、ネリーナは持参金が必要だと主張した――莫大なやつをね」
「妥当なことだと思うわ」
「それを払うのがぼくだという事実を考慮したら、妥当なもんか」
「あなたが? どうしてあなたが払わなくちゃならないの?」
「ぼくはネリーナの保護者なんだぜ、だろう? あそばせだのございますだの、憂鬱そうな風情をよそおっているくせに、ドラスニアの仲買人みたいに、金のこととなると絶対にあとへはひかないんだ。ネリーナが納得したときには、ぼくの財布はすっからかんさ。それに正式な同意書がないとだめだとか――やれベールだ、やれ付き添い役の淑女だ、やれ花束だと大変な騒ぎだ。ぼくはしだいにいらいらしてきた」
「なにか忘れていない?」
「そんなことはない」
「マンドラレンはネリーナにプロポーズしなかったの?」セ・ネドラは身をのりだした。小作りの顔は真剣そのものだった。「ネリーナがだまっているはずないわ」
「そうそう、もうちょっとで忘れるところだったよ」
セ・ネドラは悲しげに首をふった。「まあ、ガリオン」落胆の口調で言った。
「プロポーズはもっと早かったんだ――持参金の件のすぐあとだった。とにかくマンドラレンが求婚し、ぼくがネリーナにイエスと言わせて、それから――」
「ちょっと待ってよ」セ・ネドラは断固として言うと、片手をあげた。「そこのところを急がないで。プロポーズの言葉は正確にはなんだったの?」
ガリオンは耳をかいた。「よくおぼえてないな」
「思いだして。お願い」
「ええと」ガリオンは美しい装飾彫りの天井の梁を見あげて考えこんだ。「最初ネリーナが、近づきになる手続きもふんでいないのに求婚されたことに文句をつけた。ありゃきっと邪魔のはいらない場所でふたりきりになるという意味だったんだろうな――愛の詩とか花とかうっとりした目つきなんかを贈られたかったんだ」
セ・ネドラがガリオンをにらみつけた。「ねえ、ときどきあなたってほんとに鼻もちならなくなるのね。丸太ほどの繊細さしかないんだから」
「どういう意味だ?」
「おかまいなく。それでどうなったか話してちょうだい」
「それで、そんなたわごとを聞いている暇はないとネリーナにずばりと言ってやった。きみたちはとっくに知り合いの仲だと言ったのさ」
「あなたってほんとに魅力的ね」セ・ネドラは皮肉っぽく言った。
「セ・ネドラ、なにをぷりぷりしているんだ?」
「おかまいなく。話をつづけてよ。こういう話をしているといつもあなたってわき道にそれるのね」
「ぼくが? 邪魔ばかりしているのはそっちじゃないか」
「いいからつづけて、ガリオン」
ガリオンは肩をすくめた。「もうあんまり話すことはない。マンドラレンが求婚し、ネリーナがイエスと言った。そこでぼくはかれらと一緒に教会へ行ったんだ」
「言葉が知りたいのよ、ガリオン」セ・ネドラは言い張った。「言葉が。正確にマンドラレンはなんて言ったの?」
「あっとおどろくようなことじゃないさ。わたしを夫としてくれますか、ネリーナ≠ニかいうようなことだったな」
「まあ」セ・ネドラは声をつまらせた。ガリオンは彼女が目に涙をうかべているのを見てびっくりした。
「どうしたんだ?」
「なんでもないわ」セ・ネドラは薄手のハンカチで目をふいた。「それで、ネリーナはなんて言って?」
「それにふさわしい返事をするゆとりがないと言ったんで、ぼくがイエスと言うよう命じたんだ」
「それで?」
「彼女は言った、はい、マンドラレン卿――心から=v
「まあ」セ・ネドラは繰り返し、ふたたびハンカチを目元にあてた。「すてきだわ」
「そうかなあ。ぼくにはまのびして聞こえたけどね」
「あなたってときどきどうしようもなくなるのね」そう言ってから、わびしげなためいきをついた。「わたしは正式に求婚されなかったわ」
「したとも」ガリオンは憤慨した。「きみとトルネドラ大使が謁見の間へはいってきたときのあの儀式をおぼえていないのか?」
「プロポーズはわたしがしたのよ、ガリオン」赤い巻毛をふりたててセ・ネドラが言った。「わたしがあなたの王座の前に出て、わたしを妻とすることに同意してくれるかを聞いたんだわ。あなたが同意し、それで儀式は終わったのよ。あなたは一度だってわたしに求婚しなかったわ」
ガリオンは眉をしかめて記憶をたどった。「したはずだぞ」
「いいえ」
「そうかな、とにかく、こうして結婚しているんだから、そんなことどうでもいいじゃないか」
セ・ネドラの表情が一変してひややかになった。
ガリオンはそれに気づいてたずねた。「本当にそれがそんなに重要なのか、セ・ネドラ?」
「ええ、ガリオン。そうよ」
彼はためいきをついた。「わかった、それじゃやったほうがよさそうだな」
「やるってなにを?」
「プロポーズをさ。ぼくと結婚してくれるかい、セ・ネドラ?」
「それが考えつく最高のプロポーズなの?」
ガリオンは長々と妻を見た。彼女がじつに魅力的であることは認めないわけにはいかなかった。セ・ネドラはあちこちにレースのついたフリルでいっぱいの薄緑のドレスをきて、不満げな顔をして、しかつめらしく椅子にすわっていた。ガリオンは椅子から立ってセ・ネドラのそばへ行き、おおげさにひざまずいた。ちいさな片手をとって両手につつみこみ、哀願するように彼女の顔をのぞきこみ、マンドラレンがうかべていた間の抜けた讃美の表情をまねしようとした。「女王陛下はわたしを夫とすることに同意なさいますか? わたしは誠実さと愛情にあふれた心とかわらぬ献身をささげることができます」
「わたしをからかってるの?」セ・ネドラはうたがわしげにたずねた。
「とんでもない。正式な求婚をしてもらいたがったから、したんだよ。それで?」
「それでって?」
「ぼくとの結婚に同意するかい?」
セ・ネドラは目をきらめかせて値踏みするようにガリオンを見つめた。それから片手をのばしてガリオンの髪をくしゃくしゃにした。「考えておくわ」
「どういう意味だ、考えておくとは?」
「さあね」セ・ネドラはにんまりした。「もっといい申し出があるかもしれないもの。お立ちなさいよ、ガリオン。そんなふうに床にひざまずいているとズボンの膝がぬけてしまうわ」
ガリオンは立ち上がった。「女ってやつは!」両腕を絶望的なしぐさで宙につきだして言った。
セ・ネドラは例の目を大きく見開いたたよりなげな表情でかれを見た。それがまったくの目くらましだということを知らなかったとき、ガリオンはその表情を見るたびにふぬけのようになったものだ。「もうわたしを愛していないの?」あの小娘のような口先だけのふるえ声でセ・ネドラはきいた。
「それはおたがいにもうやらないことに決めたんじゃなかったか?」
「今度だけは特別よ、あなた」彼女はそう答えてからはじけるように笑いだして、椅子からとびあがり両腕をガリオンの首になげかけた。「ああ、ガリオン」まだ笑いながら言った。「愛してるわ」
「そう願いたいね」ガリオンはセ・ネドラの肩をだきよせて、ふくみ笑いしているくちびるにキスした。
翌朝、ガリオンはくだけた服装でセ・ネドラ専用の居間のドアを軽くたたいた。
「はい?」
「ガリオンだ。はいってもいいかい?」センダリア流の礼儀正しさがしみこんでいるせいで、たとえ王でも、かれはかならずだれかの部屋のドアを開ける前に許可をもとめた。
「もちろんよ」セ・ネドラが言った。
かれは掛けがねをはずして妻のフリルだらけの個室にはいった。ピンクと薄緑のひだ飾りと、さらさらと音をたてるサテンと錦織りの垂れ幕が部屋中を占拠していた。セ・ネドラお気に入りの侍女のアレルがあわてて立ちあがり、膝を曲げてお辞儀した。アレルはブランドの姪だった。かれの一番末の妹の娘で、お妃に仕える高貴な生まれのリヴァの淑女のひとりだった。アレルはアローン女性の原型といってよかった。長身、金髪、豊満で、金色のおさげ髪を頭のまわりにまきつけ、深い青い目としぼりたてのミルクのような肌をしている。アレルとセ・ネドラはかたときも離れたことがなく、いつも頭をよせあってささやきあったり、くすくす笑ったりしていた。アレルはガリオンが部屋にはいって行くと、なぜだかきまってほんのり赤くなった。ガリオンはそれがどういうことなのかわからなかったが、どうせセ・ネドラが本当なら秘密にしておくべきこと――かれを見るたびにリヴァの乙女の頬をそめさせるようなこと――を侍女にしゃべったのだろうぐらいに考えていた。
「町へ行くんだが、なにかほしいものがあるかな?」ガリオンは妻にきいた。
「自分の買物は自分でするほうがいいわ、ガリオン」セ・ネドラはサテンの化粧着の前のしわをのばしながら言った。「わかってらっしゃらないのね」
ガリオンはもうすこしでそれに答えそうになったが、なにも言わないことにした。「お好きなように。じゃ昼食のときに会おう」
「陛下の仰せのとおりに」セ・ネドラは膝を折り曲げるまねをした。
「やめるんだ」
いーっという顔をしてみせてから、セ・ネドラはガリオンのそばまできてキスをした。
ガリオンはアレルのほうをむき、「失礼」とていねいに一礼した。
アレルの青い目はひかえめな快活さに満ちていたが、どことなくもの思わしげでもあった。彼女は赤くなって、ふたたび膝を折り曲げ、「陛下」とうやうやしく言った。
王宮を出たあと、ガリオンはなんとはなしに考えた。セ・ネドラはアレルがあんなふうに赤くなったり妙な目つきをしたりするような、どんな話をしているのだろう。だが金髪の娘がいてくれるのはありがたかった。彼女がセ・ネドラの相手をしてくれるおかげで、心おきなくいろんなことができるのだ。ポルおばさんが調停役になって、かれらふたりをいらだたせていた反目をとりのぞいてくれて以来、セ・ネドラはガリオンの余暇にまで積極的にはいりこんでくるようになっていた。結婚は悪くないというのが、ガリオンのおおざっぱな感想だったが、セ・ネドラはちょっと度がすぎるきらいがあった。
外の廊下でブランドの次男のカイルが一枚の羊皮紙を持って待っていた。「ただちにこれに目を通されたほうがよいと思います、陛下」カイルは堅苦しく言った。
カイルは父のブランドや兄弟同様、長身で肩幅の広い戦士だったが、そのいっぽうで学問好きでもあり、知的で思慮深い人物だった。リヴァとその国民についても知らぬことはないほどで、王に直接回されるおびただしい数の陳情書や嘆願書や申し出をよりわけ、重要なものとそうでないものとに分ける仕事も、かれの手にかかるとあっというまにかたついた。ガリオンがはじめて王座についたとき、行政官を管理する者が必要なことはだれの目にも明らかだった。そしてカイルほどの適役はほかになかったのである。かれは二十四歳で、きれいに刈り込んだ茶色のひげをはやしていた。書斎にいりびたりの生活をしていたために、目はわずかにやぶにらみで、眉間には消えることのないしわが刻まれている。カイルとガリオンは一日数時間は一緒にすごしていたので、たちまち友だちになり、ガリオンはカイルの判断力と忠告を高く評価していた。「重大なことかい?」ガリオンは受け取った羊皮紙をちらりと見ながらたずねた。
「そうです、陛下。ある谷の所有権をめぐって争いがおきているのです。当事者である双方の家族はどちらも非常に有力な一族ですから、ことがこれ以上深刻にならないうちに丸くおさめたほうがよろしいかと思います」
「どちらかの所有物だという明白な証拠があるのか?」
カイルは首をふった。「ふたつの家族は何世紀ものあいだその土地を共有していたのです。しかし、最近になってかれらのあいだになんらかの不和が生じたのでしょう」
「わかった」ガリオンはしばらく考えた。「ぼくがどのような決定をくだしても、どちらかにうらまれることになるな、だろう?」
「そう思われます、陛下」
「よろしい。それじゃ両方ともがっかりさせてやろう。かれらのその谷が今はぼくのものだという、一見公式的な文を書いてくれ。一週間ばかりかれらを大騒ぎさせておいて、そのあと問題の士地をきっちり二分し、かれらに半分ずつ与えるんだ。かれらはきっとぼくに腹をたてて、たがいに憎みあっていたことを忘れてしまうだろう。この島がもうひとつのアレンディアになるのはごめんだからな」
カイルは笑った。「たいへん実用的ですね、ベルガリオン」
ガリオンはにやにやした。「ぼくはセンダリア育ちだからね。そうそう、その谷の一部を確保しておいてくれ――中心部分の幅百ヤードほどの細長い土地がいい。そこを王の土地とかなんとか称して、立ち入りを禁じるんだ。そうすれば谷を二分する柵沿いに角をつきあわせることもなくなる」ガリオンは羊皮紙をカイルに返すと、われながら満足して廊下を歩いていった。
その朝ガリオンが足をむけたのは町の若いガラス職人の店だった。腕のいい職人で名前はジョランといった。表面上、その訪問の目的はセ・ネドラへのプレゼントとして注文しておいたクリスタルの酒杯の下見だった。だが、本当の目的はもっと重要なものだった。育ちがいやしかったために、ガリオンは平民の意見や問題が王の耳に届く機会がめったにないことをたいがいの君主よりはよく知っていた。かれは情報提供者の必要性を痛感していた――好ましくない意見をさぐらせるためではなく、国民がかかえている本当の問題について、偏見のない明瞭な知識を聞きたいからだった。ジョランはそのためにガリオンが選んだ人間だったのである。
体裁上、一応酒杯を見たあと、ふたりはジョランの店の奥にある小さな個室にはいった。
「アレンディアからもどるとすぐきみのメモをうけとったんだ」ガリオンは言った。「その問題だが、本当にそんなに深刻なのかい?」
「そう思います、陛下」ジョランは答えた。「税金のとりたてについて配慮がなさすぎるんです。そのことが原因で不満がたかまっています」
「すべてぼくにたいする不満なんだろうな?」
「なんといっても、王様はあなたですから」
「ありがたいね」ガリオンはそっけなく言った。「おもな不満の原因はなんなんだ?」
「税金はどれも腹立たしいものです。しかしみんなが均等にはらわなくてはならないのなら、それも我慢できます。みんなを怒らせているのは除外なんです」
「除外? なんだい、それは?」
「貴族は商品税を払わなくていいんですよ。ご存じなかったんですか?」
「ああ、知らなかった」
「貴族にはほかの負担――軍隊やなにかの徴集やら維持やら――があるからという考えなんです。しかしそれは昔のことです。今では国王が兵を募集なさるわけですからね。それなのに、貴族は商売をはじめても商品税をはらわなくてもいいんです。貴族と他の商売人の本当の違いは、称号があるかないかの違いにすぎません。貴族の店はわたしの店と少しもちがわないし、わたしと同じように時間をすごしているというのに――わたしは税金を払わなくてはならず、貴族は払わなくていいんです」
「それはじつに不公平だな」ガリオンは同意した。
「さらに悪いのは、その税金を払うためにわたしが商品に高い値段をつけなくてはならないのにひきかえ、貴族はその必要がないので安い値をつけて、わたしの客を横取りしてしまうんです」
「それはなんとかしなくちゃならないな。その除外を廃止しよう」
「貴族がだまっていませんよ」ジョランは警告した。
「だまっていないだろうね」ガリオンは平然と言った。
「あなたはまったく公平な王さまでいらっしゃる、陛下」
「公平であることとそれとは関係ないよ。この町に商売をしている貴族は何人いる?」
ジョランは肩をすくめた。「二十四人です」
「貴族以外の商売人は?」
「何百人も」
「数百人に憎まれるよりは二十四人から憎まれたほうがましだ」
「そういうことは思いつきませんでした」
「思いつかずにいられないのさ」ガリオンは皮肉っぽく言った。
次の週になると、雨をともなった突風が〈風の海〉の沖あいからふきつけ、冷たい強風と横なぐりの激しい雨が岩だらけの島をかきまわした。リヴァでは長期間快適な天候がつづくことはありえなかったし、この夏の嵐もごくありふれたものだったので、リヴァの人々はこれも自然のなせるわざとして、平然と受け入れていた。しかし、もっと南の陽光あふれるトル・ホネスで育ったセ・ネドラは、空が鉛色になって湿り気をおびはじめ、じっとりした冷気が城塞に侵入してくると、ふさぎこんでいらいらし、いつもの元気をなくすのだった。こういう悪天候をやりすごす方法として、彼女はいつも暖炉のそばの大きな緑色のビロードの肘かけ椅子に暖かい毛布と、一杯のお茶と、特大の本といっしょにおさまった――本はたいていアレンド風の恋愛物で、現実にはありえないほどすばらしい騎士と、半永久的に不幸の瀬戸際にいる嘆きの乙女たちがうんざりするほど登場する内容だった。しかし、外に出られない状態が長くつづくと、セ・ネドラはいつも最後には本をほうりだし、ほかの気晴らしをさがしにいった。
煙突の中で風がうなり、雨が窓をたたいているある朝のこと、セ・ネドラは書斎に足を踏みいれた。中ではガリオンが北の領土における羊毛の生産量についての徹底的な報告書を注意深く読んでいた。小柄な王妃は白テンの毛皮でふちどりした緑のビロードのガウンをきて、退屈そうな顔をしていた。「なにをしているの?」彼女はたずねた。
「羊毛について読んでいるんだ」
「どうして?」
「知っていて当然のことらしいからさ。だれもかれもが立ちどまっては真顔で羊毛の話をしている。みんなにとってはすごく大事なことらしいんだ」
「本当にそのことがそんなに気になるの?」
ガリオンは肩をすくめた。「請求書をはらうときに役立つからね」
セ・ネドラはぶらぶらと窓に近づいて、ふりしきる雨を見つめた。「永遠にやまないのかしら?」たまりかねたように言った。
「やむさ、そのうち」
「アレルを呼びに行かせるわ。ふたりで町へ行ってお店を見て回れるかもしれないもの」
「外は大降りだよ、セ・ネドラ」
「マントをきて行けばだいじょうぶよ。ちょっとぐらいの雨で溶けたりしないわ。お金を少しいただける?」
「先週あげたばかりだろう」
「あれは使っちゃったの。もうちょっといるのよ」
ガリオンは報告書をわきにおいて、壁ぎわのどっしりした飾り棚に歩み寄った。上着のポケットから鍵をとりだして飾り棚の鍵をあけ、一番上の引出しをあけた。セ・ネドラが寄ってきて、興味ありげに引出しをのぞきこんだ。金銀銅の硬貨がごちゃまぜの状態で、半分ほどはいっていた。
「これみんなどうしたの?」セ・ネドラは声をあげた。
「ときどき渡されるんだよ」ガリオンは答えた。「持ち歩きたくないから、ここへほうりこんでおくんだ。知っているとばかり思ってたよ」
「どうしてわたしが知るはずがあって? なにも教えてくださらないじゃないの。そこにいくらあるの?」
ガリオンは肩をすくめた。「さあ」
「ガリオン!」セ・ネドラはあぜんとしたようだった。「勘定もしていないの?」
「ああ。勘定すべきかい?」
「あなたがトルネドラ人じゃないいい証拠ね。王室のお金はこれ全部じゃないんでしょう?」
「うん。ほかのところに保管されてる。これは個人的な支出用だろう、たぶん」
「勘定しなくちゃだめよ、ガリオン」
「時間がないんだよ、セ・ネドラ」
「いいわ、わたしが勘定します。その引出しをだしてテーブルにのせてちょうだい」
ガリオンは重みにぶつぶつ言いながら引出しを運び、セ・ネドラが腰をおろしてうれしそうにお金を数えはじめたのを見て、いとおしそうに微笑した。硬貨を扱ったり積み上げたりすることをセ・ネドラがそれほど喜ぶとは思ってもみなかった。お金のたてる陽気なチリンという音が耳を満たすと、彼女の顔は文字どおり輝いた。中に何枚か変色した硬貨があった。セ・ネドラは不服そうにそれを見ると、勘定を中断してガウンのへりで注意深く磨きはじめた。
「町へ行くんじゃなかったのかい?」テーブルの反対側にふたたび腰かけると、ガリオンはきいた。
「きょうはやめるわ」セ・ネドラは硬貨を数えつづけた。髪がひとふさ顔にかかると、うわの空でそれをときどきかき上げながら、一心に仕事をした。引出しからもうひとつかみ硬貨をとりだすと、目の前のテーブルに用心深く積みはじめた。その顔つきがあまりにも真剣なので、ガリオンはふきだした。
セ・ネドラはきっと顔をあげた。「なにがそんなにおかしいの?」
「なんでもないよ」ガリオンはセ・ネドラのたてるチリンという音を聞きながら、仕事に戻った。
夏が深まるにつれ南方からつぎつぎに入ってくる知らせはよいものばかりだった。クトル・マーゴスのウルギット王は山中深く撤退していたし、マロリーのカル・ザカーズ皇帝の進軍は一段とペースが鈍っていた。マロリー軍は岩だらけの辺境地帯でマーゴを追跡する最初の試みで手痛い損失をこうむったために、今では行動が極端に用心深くなっていた。南方がほぼ膠着状態にある知らせをうけとって、ガリオンは大いに満足だった。
夏の終わり近くにアルガリアから届いた知らせは、ガリオンのいとこのアダーラがヘターとのあいだに次男をもうけたというものだった。セ・ネドラは狂喜して、ガリオンの書斎の引出しの中身をたっぷりつかみとり、母親と赤ん坊の両方にふさわしい贈物を買うことにした。
しかし秋のはじめに届いた知らせは、喜ばしいものではなかった。悲痛な手紙の中で、ヴァラナ将軍がセ・ネドラの父であるラン・ボルーン二十三世皇帝の衰弱が激しいこと、早急にトル・ホネスへきてもらいたいことをしたためていた。さいわい秋の空は晴れた状態がつづき、リヴァ王と取り乱した小柄なその妻を乗せた船は追風を受けて南へ向かった。一週間とたたないうちにかれらはネドレイン川の広い河口にあるトル・ホープにつき、トル・ホネスの帝都めざして川をさかのぼりはじめた。
数リーグと行かないうちにかれらの船は白と金のはしけの一団に迎えられ、それらにとりまかれてトル・ホネスへ向かった。はしけの上にはトルネドラの若い娘たちの合唱隊が乗っていて、ネドレイン川の広い水面に花びらをまきちらしながら、皇女のために歓迎の歌をうたっていた。
セ・ネドラと並んで船の甲板に立っていたガリオンは、この歓迎の合唱に心もち眉をひそめた。「ちょっと変じゃないかなあ」
「習慣なのよ」セ・ネドラは言った。「皇帝の家族はいつも都市まではしけにつきそわれていくの」
ガリオンは歌詞に耳をかたむけた。「彼女たちはきみが結婚したことをまだ聞いていないのかな? リヴァ王妃じゃなくて皇女を歓迎しているぜ」
「わたしたちトルネドラ人は偏屈なのよ。ガリオン。トルネドラ人の目には、遠いどこかの島の王妃より皇女のほうがずっと大事なの」
かれらが川上へ進むあいだじゅう歌声はつづいた。トル・ホネスの白く輝く都市が見えてきたとき、城壁から鼓膜が破れそうなファンファーレがかれらを迎えた。大理石の桟橋の上で、ぴかぴかの鎧兜の軍団兵が深紅の三角旗を風にはためかせ、兜の羽飾りをそよがせながら彼らを待ち受けており、かれらにつきしたがって広い街路をぬけ、帝国の宮殿へ案内した。
ちぢれ毛を短く刈りあげ、ずんぐりした感じのプロの兵士ヴァラナ将軍が、片足をひきずって宮殿の門で彼らを迎えた。将軍の表情は暗かった。
「まにあいまして、おじさま?」セ・ネドラが恐れのにじんだ声でたずねた。
将軍はうなずくと、小柄な王妃を抱きしめた。「取り乱してはいけないよ、セ・ネドラ。父上の状態はきわめて深刻だ」
「望みはありますの?」セ・ネドラは小さな声できいた。
「希望を捨てたことはない」ヴァラナは答えたが、その口調は沈痛だった。
「いま会えますの?」
「もちろんだよ」将軍はおごそかにガリオンを見つめると、会釈した。「陛下」
ガリオンは「将軍閣下」と答えたあと、セ・ネドラの抜け目のない父が数年前にヴァラナを養子にしたこと、したがって将軍が明白な皇帝の跡継ぎであることを思いだした。
ヴァラナは足をひきずりながら先に立って広大な宮殿の大理石の廊下を進み、しんとした翼にあるドアの前へふたりをみちびいた。ドアの両側には、ぴかぴかの胸当てをつけたふたりの軍団兵が立っていた。かれらが近づいたとき、どっしりしたドアが音もなく開いて、茶色のマントに身をつつんだ家令のモリン卿があらわれた。ガリオンが最後に会って以来モリンはめっきり老け込み、死の床にある皇帝を気づかう心がその顔にはっきりきざまれていた。
「モリン」セ・ネドラは父のもっとも親しい友を衝動的に抱きしめた。
「かわいいセ・ネドラ」モリンはいとおしげに答えた。「まにあってよかった。父上がおききになるのはあなたのことばかりだ。あなたがくることだけが陛下の命のよりどころなのだよ」
「父は起きていますの?」
モリンはうなずいた。「うとうとすることが大変多くなられたが、たいていはまだはっきりしておられる」
セ・ネドラは勇気をふるいおこし、肩をそびやかして、慎重に明るい楽天的な笑顔をつくった。「いいわ。はいりましょう」
ラン・ボルーンは金色のうわがけをかけた天蓋のある巨大なベッドに横たわっていた。もともと大きくなかった体は、病いのために骸骨のように痩せおとろえていた。顔色は青というより灰色に近く、鳥のくちばしのような鼻がやつれた顔から船のへさきのようにつきでていた。目はとじており、薄い胸は息をしようともがくたびに壊れそうに見えた。
「おとうさま?」セ・ネドラはつぶやくように言った。
皇帝は片目をあけた。「ふむ」かれは短気に言った。「やっとここについたとみえるな」
「どんなことがあってもおそばを離れませんわ」セ・ネドラはベッドの上にかがみこんで、父親のたるんだ頬にくちづけた。
「それはあまり心強いことではないな」ラン・ボルーンはぶつぶつ言った。
「わたしがこうしてきたのですから、またお元気になられるところをぜひ見せていただかなくちゃなりません」
「恩きせがましいことを言うな、セ・ネドラ。侍医たちは完全に匙を投げておるのだぞ」
「かれらになにがわかりまして? わたしたちボルーン家の人間はそう簡単にはまいりませんわ」
「わしが見ていないすきにだれかがその法律を承認したのか?」皇帝は娘の肩ごしに義理の息子を見つめた。「元気そうだな、ガリオン。わしがどんなに元気そうに見えるかなどという決まり文句で時間を無駄にせんように頼むぞ。わしは見るも無残なのだ、そうだろう?」
「え、まあ」ガリオンは答えた。
ラン・ボルーンはつかのまにやりとして見せてから、娘のほうを向き、陽気に言った。「さて、セ・ネドラ、きょうはなにについて喧嘩する?」
「喧嘩ですって? わたしたちが喧嘩するだなんてだれが言いましたの?」
「わしたちはいつも喧嘩しておるではないか。それを楽しみにしておったんだ。あの日おまえがわしの軍隊を盗んで以来、ましな喧嘩をしたことがない」
「盗んだんじゃありません、借りただけですわ、おとうさま」セ・ネドラは思わずきっとなって訂正した。
「あれが借りたと言えるか?」ラン・ボルーンはガリオンに大きく片目をつぶってみせた。「きみはあそこにいあわせるべきだったぞ。娘はわしを責めたててわしにひきつけをおこさせておいて、わしが泡をふいているすきに全軍隊を奪い取ったのだ」
「奪い取ったですって!」セ・ネドラは叫んだ。
ラン・ボルーンはおかしそうに吹きだしたが、やがてひどく咳きこみはじめ、息もきれぎれになって頭を起こすこともできないほどぐったりしてしまった。かれは目をつぶると、しばらくうとうとした。そのあいだセ・ネドラは心配そうにのぞきこんでいた。
十五分ほどたったとき、モリン卿が小さな瓶と銀の匙をもってそっとはいってきた。「薬の時間なんだ」かれは小声でセ・ネドラに言った。「あまり役にはたちそうにないが、ともかくひととおりのことはするつもりだよ」
「おまえか、モリン」皇帝は目をとじたままたずねた。
「そうです。ラン・ボルーン」
「トル・レインからもう返事はあったのか?」
「はい、陛下」
「なんと言ってきた?」
「残念ながら、むこうでももうその季節は終わったそうです」
「まだ実をつけている木が世界のどこかに一本はあるはずだ」皇帝のベッドの中の衰弱した小さな人物は、必死のおももちで言った。
「陛下はなにか新鮮な果物をほしがっておいでなのだ」モリンはセ・ネドラとガリオンに説明した。
「果物ならなんでもいいというものではないぞ、モリン」ラン・ボルーンはぜいぜい言った。「サクランボだ。わしはサクランボがほしいのだ。よく熟れたサクランボを持ってきた者にはいますぐ大公国をひとつ授ける」
「そんなききわけのないことをおっしゃらないで、おとうさま」セ・ネドラがなだめた。「サクランボの季節は数ヵ月前に終わりましたわ。よく熟れた桃はいかがですの?」
「桃はいやだ。サクランボがほしい!」
「それはむりです」
「おまえはつれない娘だな、セ・ネドラ」ラン・ボルーンは非難した。
ガリオンは身をのりだしてセ・ネドラの耳もとにささやいた。「すぐ戻るよ」ガリオンはモリンをともなって部屋を出た。外の廊下でヴァラナ将軍に会った。
「ごようすはどうです?」将軍はきいた。
「だだをこねておられる。サクランボをほしがっておいでだ」ガリオンは答えた。
「知っています」ヴァラナは困ったように言った。「何週間も前からでしてね。まったく、ボルーンの人間は不可能なことばかり要求する」
「宮殿の庭にサクランボの木はあるかな?」
「陛下専用の庭に二本あります。なぜです?」
「木と話してみようかと思って」ガリオンはなにくわぬ顔で言った。「事情を説明して、ちょっと木を元気づけてみたい」
ヴァラナは強い非難のまなざしを向けた。
「少しも不道徳なことじゃない」ガリオンはうけあった。
ヴァラナは片手をあげると、顔をそむけた。「どうか、説明するのはやめていただきたい、ベルガリオン。聞きたくもない。もしそれをなさるのならやってもかまわないが、それが自然だとか健全だとか言ってわたしを言いくるめようとするのはよしてください」
「わかった」ガリオンは同意した。「その庭はどっちにあるんでしたっけ?」
それはじっさいにはむずかしくもなんともなかった。魔術師ベルガラスが何度となくそれをするのを見てきたからである。十分とたたないうちにガリオンは暗紫色のサクランボのはいった小さな籠を持って、病室の外の廊下にもどった。
ヴァラナはじろじろ籠をながめたが、なにも言わなかった。ガリオンは静かにドアをあけて中にはいった。
ラン・ボルーンは枕にもたれていた。やつれた顔が激しい消耗のためにしぼんでいた。「どうもわからんな」かれはセ・ネドラに言っていた。「父を尊敬する娘ならもうとっくに孫の五、六人も見せていてくれるはずだぞ」
「まあ、またですの、おとうさま」セ・ネドラは答えた。「どうしてだれもかれもそのことをそんなに心配するのかしら?」
「重要なことだからだ、セ・ネドラ。いくらおまえがのんきでも――」皇帝はしゃべるのをやめて、ガリオンの手の中の籠を信じられないように見つめた。「どこでそれを?」
「ほんとうはお知りになりたくないんでしょう、ラン・ボルーン。なぜかトルネドラの人たちはそのことに動転するようですからね」
「ただ作ったわけではあるまい?」皇帝はうたがわしげにたずねた。
「ええ。そのほうがよほどむずかしいんです。ぼくはただ陛下の庭の木をちょっと元気づけてやっただけですよ。木はたいへん協力的でした」
「おまえはまったくすばらしい男と結婚したな、セ・ネドラ」ラン・ボルーンはくいいるようにサクランボを見つめながら叫んだ。「それをここへおいてくれ、息子」かれはかたわらのベッドの上をたたいた。
セ・ネドラは感謝の笑みを夫に向けると、籠をとって父親の横においた。ほとんどうわの空で彼女はサクランボをひとつつまみ、口にほうりこんだ。
「セ・ネドラ! わしのサクランボを食べるんじゃない!」
「熟しているかどうか調べただけですわ、おとうさま」
「そんなことはばかでもわかる」ラン・ボルーンは籠をだきよせた。「ほしいのなら、自分のを持っておいで」つややかにふくらんだサクランボのひとつを慎重に選んで、かれは口にふくんだ。「うまい」しあわせそうに果肉をかみながら言った。
「そんなふうに種を床に吐き出すのはおやめになって、おとうさま」セ・ネドラが叱った。
「わしの床だ。よけいなことは言わんでよろしい。種を吐き出すのも楽しみのひとつなのだ」皇帝はさらに数粒食べた。「きみがこれをどのように手にいれたかはどうでもいいことだよ、ガリオン」寛容に言った。「技術的には帝国のどこでだろうと魔術を実行するのは法律に反するのだが、大目にみよう――今度だけは」
「おそれいります、ラン・ボルーン。感謝しますよ」
サクランボを半分ほど食べてしまうと、皇帝はほほえんで、満足げにためいきをついた。
「さっきよりずっと気分がよくなった。セ・ヴァンヌはいつもそれと同じような籠に新鮮なサクランボを持ってきてくれたものだよ」
「母のことよ」セ・ネドラがガリオンに言った。
ラン・ボルーンの目がくもった。「妻が恋しい」とても静かに言った。「生活をともにするのは骨のおれる女だったが、最近は日増しに妻が恋しくてならない」
「おかあさまのこと、わたしはほとんどおぼえてもいないわ」セ・ネドラはうらめしげだった。
「わしはよくおぼえている」父親は言った。「もう一度妻の顔を見ることができたら、帝国をそっくりやってもいい」
セ・ネドラは枯木のような父の手を握りしめて、懇願するようにガリオンを見た。「できて?」たずねた目に大粒の涙がもりあがっていた。
「どうかな」ガリオンは困惑ぎみに答えた。「やりかたはわかるんだが、きみの母上には会ったことがないから、やるとすると――」心の中で問題を解決しようとしながら、言葉をきった。「ポルおばさんならやれるんだが、しかし――」かれはベッドのかたわらに歩み寄った。「やってみよう」セ・ネドラの片手をとり、ラン・ボルーンの片手をつかんで、ガリオンは三人が輪になるようにした。
それは至難のわざだった。ラン・ボルーンの記憶は寄る年波と長い病気のせいでぼやけていたし、セ・ネドラの記憶はないも同然の不完全なものだった。ガリオンは意志の力を総動員して、意識を集中した。はかない記憶をかきあつめてひとつのイメージを作る作業に、額に汗がふきだした。
窓の薄いカーテンからさしこんでいた光が、まるで雲に太陽を隠されたかのようにかげり、小さな金色の鈴の音を思わせるかすかなチリチリという音が聞こえてきた。室内がにわかに森の香りに満たされた――苔と葉と緑の木のえもいわれぬ匂いだ。光がわずかにまた薄れ、チリチリという音と匂いが強まった。
そのとき、瀕死の皇帝のベッドの足元にぼんやりした雲のような光があらわれた。光が強くなったとき、彼女がそこにいた。セ・ヴァンヌは娘よりほんの少し背が高かったが、ガリオンはラン・ボルーンがひとり娘を溺愛する理由が即座にわかった。髪はセ・ネドラとまったく同じふかい茜《あかね》色だった。顔色もおなじ金色がかったオリーブ色で、目は寸分たがわぬ緑色だった。顔はたしかにわがままそうではあったが、その目は愛情にあふれていた。
その姿は音もなくベッドの頭のほうへまわりこむと、つかのま腕をのばして透明な指先でセ・ネドラの顔をかすめた。ガリオンはとつぜんちいさな鈴の音の出所に気づいた。セ・ネドラの母は娘がこよなく愛する金のドングリをかたどったイヤリングをつけており、イヤリングの中にしこまれた棒が頭を動かすたびにあのかすかな妙なるチリチリという音を立てていたのだ。これといった理由もなく、ガリオンはリヴァの妻の化粧台にのっている同じイヤリングを思いだした。
セ・ヴァンヌは片手を夫のほうへさしのべた。ラン・ボルーンの顔に驚嘆が満ち、目に涙があふれた。「セ・ヴァンヌ」かれはふるえ声で言うと、懸命に枕から身を起こそうとした。ラン・ボルーンはガリオンの手をもぎはなして、ふるえる手を妻のほうへのばした。つかのまふたりの手がふれあったかに見えた。次の瞬間、ラン・ボルーンはおののくようなためいきを長長ともらすと、枕にふたたび沈みこみ、息絶えた。
セ・ネドラは長いこと父親の手を握ったまますわっていた。かすかな森の匂いと小さな金の鈴のひびきは、そのあいだにゆっくりと部屋から退いてゆき、ふたたび窓から光がさしこんできた。ようやくやせおとろえた片手をそっとふとんの上にもどすと、セ・ネドラは立ちあがって、ほとんどなにげないとも言えるしぐさで部屋を見まわした。「空気をいれかえなくちゃいけないわね、もちろん」うわの空で言った。「切り花で空気の匂いをよくしたほうがいいかもしれないわ」セ・ネドラはベッドのかたがわのふとんのしわをのばすと、いかめしい顔で父親の亡骸を見つめた。それからくるりと向きをかえ、「ああ、ガリオン」と泣きながらかれの両腕の中にとびこんできた。
ガリオンはセ・ネドラをだきしめ、髪をなで、押し付けられている小さな体のふるえを感じながら、その間ずっとトルネドラ皇帝の安らかな死顔を見つづけていた。光のいたずらだったかもしれないが、ラン・ボルーンのくちびるには微笑がうかんでいるように見えた。
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11[#「11」は縦中横]
ボルーン第三王朝皇帝、ラン・ボルーン二十三世の国葬は、それから数日後、帝国の獅子神がまつられたネドラ神殿でおこなわれた。神殿は宮殿にほど近い巨大な大理石の建物だった。中央に獅子の頭を配した祭壇のうしろには、純金の金箔を塗った巨大な扇が立っていた。セ・ネドラの父の大理石の棺台は、祭壇の真正面に安置されていた。故皇帝は金色の布に首から下をくるまれて、静かに横たわっていた。両側に円柱のならぶ神殿の内側の広間は、たがいに張り合う皇族たちであふれかえっていた。かれらはラン・ボルーンもそっちのけで自分たちの贅沢な衣服や、装飾品の目方を誇示することにかまけてばかりいた。
ガリオンとセ・ネドラはそろって黒一色の喪服に身をつつみ、広大な広間の正面にヴァラナ将軍とならんで腰かけていた。故人を讃える言葉が読み上げられた。トルネドラの政治では、こういう悲しい機会には由緒ある家柄の代表がそれぞれ讃辞をとなえるきまりになっている。ガリオンの推測どおり、演説はあらかじめ準備されていた。どの演説も装飾過剰で退屈だったが、要点は、ラン・ボルーンは亡くなっても帝国は存続するということであるらしかった。
讃辞がやっと終了したとき、白い長衣をまとい、ぬらぬらした肉感的なくちびるをした汗かきのネドラの高僧が起立して祭壇の前に進み、みずからの原稿をつけくわえた。高僧はラン・ボルーンの生涯におけるさまざまな出来事をひきあいに、富を得てそれを賢明に使うことの利点を長々と説教した。はじめガリオンは高僧がそういう話題を選んだことにショックをうけたが、神殿にいならぶ人々の熱心な顔を見て納得した。金にまつわる説教のほうがトルネドラの会衆には刺激的なのだ。セ・ネドラの父を讃える言葉をさしはさむためには、こういう話題を選ばないと、人々の耳目を集められないにちがいない。
冗漫な演説がすべて完了すると、小柄な皇帝は神殿の地下にあるボルーン家の埋葬所に亡き妻とならんで安置された。次にいわゆる嘆き悲しむ会葬者たちは神殿にひきかえし、遺族に哀悼の意を表した。セ・ネドラは冷静そのものだったが、顔はひどく青ざめていた。あるときセ・ネドラの体がかすかにかしぎ、ガリオンはとっさに手をのばして彼女を支えようとした。
「わたしにさわらないで!」セ・ネドラは押し殺した声でするどく言うと、顎をぐいと上向けた。
「なんだって?」ガリオンはびっくりした。
「敵の面前では絶対に弱みを見せてはならないのよ。ホネス一族やホービテ一族やヴォードゥ一族を喜ばせるまねをしてなるものですか。そんなことをしたら、おとうさまが怒ってお墓から起き上がるわ」
皇族たちは一列にならんでつぎつぎに喪服姿の小柄なリヴァ王妃に形ばかりの同情を提示した。かれらの隠しきれないにやにや笑いや、とげのある嘲笑にガリオンははらわたの煮えくりかえる思いをした。時間がたつにつれ、かれの顔はますますけわしく、非難がましくなっていった。その威嚇的な存在はたちまち大公や淑女、その追従者たちのうわついた態度に水をさした。トルネドラ人たちはどこからともなくあらわれてリヴァの王位を継承し、その足音で大地をゆるがしているこの長身で謎めいたアローンの君主を心底恐れていた。毒のある哀悼をのべようとセ・ネドラに近づくときでさえ、そのひややかなきびしい顔を見ると、かれらは口ごもり、念入りに用意した無作法な言葉をのみこんでしまうのだった。
ついにガリオンはたまりかねて立ち上がった。あまりの無礼さ、無作法さにセンダリア仕込みの行儀のよさも消え失せて、妻の肘をつかみ言った。「もう行こう」だだっぴろい神殿中の全員に聞こえるような声だった。「ここの空気は腐ったような臭いがする」
セ・ネドラはおどろいたようにガリオンを一瞥したが、すぐに王妃らしく毅然として顎をあげ、夫の腕に軽く手をかけると、巨大な青銅の扉にむかって夫とともに歩きだした。かれらが堂々たる歩調で人ごみを進むにつれて、神殿の中は異様に静まりかえり、人々は大きく道をあけた。
「すてきだったわ、あなた」金をちりばめた皇帝の馬車で宮殿へ帰る道すがら、セ・ネドラは温かくガリオンをほめた。
「あたりまえのことを言ったまでさ。なにかちくりと言ってやるか、さもなければ連中全員をヒキガエルに変えるかでもしないと気がすまなかったんだよ」
「まあ、なんて魅力的な考えなの」セ・ネドラは大声で言った。「なんなら、ひきかえしてもいいのよ」
一時間ほどおくれて宮殿に戻ってきたヴァラナは、笑いがとまらなかった。「ベルガリオン」かれはにやにやしながら言った。「あなたは見上げたお方だ、それを知っておられるかね? あの一言で、北部トルネドラの全皇族を文字どおり救いがたいほど怒らせたのだから」
「どの言葉かな?」
「腐ったような臭いというあれですよ」
「悪いことをした」
「悪いものですか。まったくどんぴしゃりだ」
「しかし、いささか荒っぽかった」
「あの状況では当然です。しかし、生涯の敵が何人かできてしまいましたぞ」
「それこそぼくに必要なものだ」ガリオンは皮肉っぽく答えた。「もう二、三年あれば、世界中敵だらけになる」
「敵がいないような王は本当の王ではありませんよ、ベルガリオン。民を怒らせることなく一生をまっとうするのはばかだけだ」
「どうも」
ラン・ボルーンが亡きあと、ヴァラナがどんな道をたどるかについては多少の不安があった。故皇帝がヴァラナを養子にしたのは明らかにひとつの策略だったが、合法という点でははなはだ頼りなかったからである。皇位継承の候補者たちは皇帝の座を渇望するあまり、ヴァラナのことを継承問題がふつうの流儀でおさまるまでの一時しのぎとしてしか考えていなかった。
結論は、ラン・ボルーンの葬儀の二日後におこなわれたヴァラナの正式な即位の日まであいまいなままだった。その日将軍がネドラ神殿に足をひきずってはいってきたとき、身につけていたのが、皇帝だけに着用を許された伝統的な金色のマントではなく、いつもの軍服であるとわかると、皇位継承を争う者たちのあいだにひろがった狂喜の表情はほとんど耳で聞きとれそうだった。この男が昇進をまじめに考えるつもりがないことは目に見えていた。金で抱き込むにはちょっと高くつくかもしれないが、帝国の宮殿への道はまだひらいている。にやにや笑いが広がる中、金をちりばめた胸当てをつけたヴァラナは祭壇に近づいた。
太った高僧が身をのりだし、しばらくひそひそ声で諮問した。ヴァラナがそれに答えると、その聖職者の顔がにわかに青ざめた。高僧ははげしくふるえながら祭壇上の金と水晶の箱をあけ、宝石をちりばめた王冠をとりだした。ヴァラナの短く刈り込まれた髪は伝統にのっとって聖油で清められており、高僧はふるえる両手で冠をかかげた。「汝を」動揺のあまり高僧はきしるような声で宣言した。「――汝を全トルネドラの君主、ラン・ボルーン二十四世皇帝にするものなり」
それが理解されるまでに一瞬の間があった。それがすぎると、ラン・ボルーン二十四世に選ばれたことによって、ヴァラナがみずから冠をかぶる意志を明白に宣言した事実をさとったトルネドラの皇族たちのあいだから、猛り狂った抗議の叫びがわきあがって、神殿を満たした。それらの叫びはトルネドラの軍団兵たちにいきなり中断された。彼らは神殿の大広間を囲む円柱にそって、一列縦隊になって静かにはいってくるなり、しゅっと音をたててばかでかい剣をぬきはなった。
「ラン・ボルーン万歳!」軍団兵たちの声がとどろいた。「トルネドラ皇帝万歳!」
そういうわけだった。
その夜、ガリオンとセ・ネドラと新しい皇帝の三人が、無数の蝋燭の金色の光に満ちた深紅の幕をひいた私室にすわっていたとき、ヴァラナは大声で言った。「政治の世界では軍事上の戦略と同じぐらいびっくりさせるということが重要なんですよ、ベルガリオン。こちらのたくらみを知らなければ、敵は反撃しようにもできませんからね」将軍はいまやおおっぴらに皇帝の金色のマントを着ていた。
「なるほど」ガリオンは酒杯からトルネドラのワインをすすった。「皇帝のマントではなくて胸当てをつけていたことによって、かれらは土壇場までたかをくくっていたわけだ」
「あれにはもっと実際的な理由があったんです」ヴァラナは笑った。「若い皇族たちの多くは軍事訓練を受けているし、われわれは軍団兵たちに短剣の投げ方を教えている。皇族たちに背中を向けることになっていたから、肩甲骨のあいだを守るしっかりしたものがほしかったんですよ」
「トルネドラの政治はひどく神経を使うものなんですね」
ヴァラナはそのとおりと言うようにうなずいた。「しかし、おもしろくもある」
「それがおもしろいと言えるのかなあ。短剣を投げつけられたりしたら、ぼくならちっともおもしろくありませんね」
「われわれアナディルの者は昔から一風変わったユーモアの持ち主なんですよ」
「ボルーンですわ、おじさま」セ・ネドラがとりすまして訂正した。
「なんだって?」
「おじさまはもうボルーンです、アナディルじゃなく――だからボルーンの者らしくふるまっていただかなくては」
「不機嫌に、ということかね? わたしの性格に反するんだよ」
「なんなら、セ・ネドラに教えてもらったらどうです」ガリオンが妻を見てにやにやしながら言った。
「なんのこと?」セ・ネドラはぷりぷりしながら叫んだ。声が一オクターブ高くなった。
「セ・ネドラならできるだろうな」ヴァラナが物柔らかに同意した。「昔からお手のものだからね」
セ・ネドラはなげかわしげにためいきをついて、にやにやしているふたりの君主をにらみつけた。次にわざと悲劇的な表情をつくり、声をふるわせてたずねた。「かわいそうな女の子はどうすればいいの? 夫と兄のふたりからいじめられ、非難されるなんて」
ヴァラナが目をぱちくりさせた。「そうか、うっかりしていたぞ。きみはいまやわたしの妹なんだな」
「わたしが考えていたほどおりこうじゃないようですわね、兄上は」セ・ネドラは満足そうだった。「ガリオンがあまり賢くないのは知ってますけど、兄上よりはましですわ」
ガリオンとヴァラナはうらめしげに視線をかわした。
「もっとふざけていたいの、おふたりさん?」セ・ネドラは目をきらきらさせ、口もとにすました笑いをただよわせて言った。
ドアをそっとたたく音がした。
「なんだ?」ヴァラナが言った。
「モリン卿がお目にかかりたいとのことです、陛下」ドアの外で警護兵が言った。
「通してくれ」
家令は静かにはいってきた。長年忠実に仕えてきた人物に先立たれた悲しみで、その顔は沈んでいたが、けっして失ったことのないあの穏やかで、有能な物腰で、モリンはいまも義務を遂行していた。
「なんだね、モリン?」ヴァラナは言った。
「外であるお方が待っておられるのです、陛下。評判の女性ですので、ここへ通す前に陛下にお話ししておいたほうがよいと思ったのです」
「評判の?」
「高級娼婦のベスラです、陛下」モリンは困惑ぎみにセ・ネドラを見た。「ベスラは――ええ――その、亡くなられた国王の役にたっておりまして。職業上の行動の結果として、おびただしい情報を入手する手段をもっているのです。彼女はラン・ボルーンの長年の友だちでして、ときどき非友好的な皇族たちの行動を故陛下に忠告していたのです。故陛下はそういうわけで、ベスラがだれにも気づかれずに宮殿にはいれるような手段をこうじておいででした。とりわけ、ふたりきりで――その――話ができるように」
「ほう、ぬけめがないな」
「彼女の情報が不正確だったことは一度もありませんでした、陛下」モリンはつづけた。「陛下にお話ししたいたいへん重要なことがあると申しております」
「では、つれてまいれ、モリン」ヴァラナは言った。「もちろん、きみの許しがあればだがね、妹よ」かれはセ・ネドラにむかって付け加えた。
「もちろんかまいませんわ」セ・ネドラは好奇心に目を輝かせて言った。
モリンに連れられてはいってきたとき、くだんの女は頭巾のついた軽いマントをはおっていたが、なめらかでふくよかな片腕がのびて頭巾をはらいのけたとき、ガリオンはわずかに目をみはった。知っている女だった。ポルおばさんやみんなと一緒に、背信者のゼダーと盗まれた〈珠〉を追ってトル・ホネスを通過していたとき、この女がシルクに声をかけ、からかいぎみに言葉をかわしたことがあったのだ。彼女がマントの襟元をゆるめ、ほとんど挑発するようになめらかな肩をあらわにしたとき、ガリオンは彼女が十年近く前に見たときとまったく変わっていないのに気づいた。つやのある濃い藍色の髪は、白髪の気配さえなかった。息をのむほど美しい顔は娘のようにまだすべらかで、重たげなまぶたの目はあいかわらず情熱的で茶めっけにあふれていた。淡いラベンダー色のドレスは、豊満な熟れた肉体を隠すというより誇張するように仕立てられていた。それは会う男すべてをストレートに挑発する肉体だった。あからさまに彼女をながめていたガリオンは、セ・ネドラのめのう[#「めのう」に傍点]のように硬い緑色の目ににらまれているのに気づいて、あわてて視線をそらした。
「陛下」ベスラは新しい皇帝にむかって優雅にお辞儀をしながら、しわがれた低音で言った。「本当ならこのように性急にうかがったりはしなかったのですが、いくつか耳にはいったことがあり、すぐお知らせしたほうがよいと考えましたの」
「心遣いに感謝しますよ、レディ・ベスラ」ヴァラナはばかていねいに答えた。
ベスラはいたずらっぽく笑った。「レディではありませんわよ、陛下。どうかんがえてもちがいますわ」彼女はセ・ネドラにちょっと膝を曲げてみせ、「皇女さま」と小声でつぶやいた。
「マダム」セ・ネドラの返事はいささかひややかで、会釈もいたってそっけなかった。
「ああ」ベスラはまるで悲しんでいるような声をもらしてから、ヴァラナに向きなおった。「きょうの午後おそく、自宅でエルゴン伯爵とケルボー男爵をおもてなししていたんです」
「ホネス一族の有力なふたりの皇族ですよ」ヴァラナはガリオンに説明した。
「ホネス家のその殿方たちは陛下が国王におなりあそばしたことに不服を感じているのです」ベスラはつづけた。「ふたりとも興奮ぎみに早口で話していましたが、あの人たちの言ったことは真剣にお考えになられたほうがよろしいと思いますわ。エルゴンはお話にならないまぬけで、ただのいばりんぼですけど、ケルボー男爵を甘くみてはなりません。とにかく、宮殿は軍団兵に取り囲まれているから、暗殺者を送り込むのは不可能だと彼らは結論づけました。ところが、そのときケルボーがこう言いました。蛇を殺したかったら、尻尾をきればいい――頭のすぐうしろからな。ヴァラナには手が届かないが、やつの息子になら手が届く。跡継ぎがいなくなれば、ヴァラナの家系は一代でおわりだ」
「息子に?」ヴァラナはするどく言った。
「ご子息の命があぶないのです、陛下。それでこうして参りました」
「ありがとう、ベスラ」ヴァラナはいかめしい表情で答えた。それからモリンのほうを向いた。「第三軍団の部隊を息子の家へ派遣するんだ。ほかの手はずがととのうまで、だれも出入りさせてはならぬ」
「ただいま、陛下」
「ホネス家のそのふたりとも話がしたい。そっちへも部隊をやって、宮殿へ連れてこさせろ。話しあう時間ができるまで、地下牢の拷問室のとなりの小部屋で待たせておけ」
「まさか拷問をなさるんじゃないでしょうね」セ・ネドラがあえぐように言った。
「そういうことはないだろう。だが、かれらにはその可能性もあることを教えてやらなければならない。一、二時間、不安がらせてやろうじゃないか」
「さっそく仰せのとおりにいたします、陛下」モリンは言って一礼すると、静かに部屋をあとにした。
セ・ネドラは部屋の隅に立っている豊満な曲線美の女に言った。「わたしの父を知っていたということですけれど」
「はい、皇女さま」ベスラは答えた。「じつのところ、たいへんよく存じあげておりました。わたしたちは長いおつきあいでしたの」
セ・ネドラの目が細くなった。
「お父上は精力的なお方でした、皇女さま」ベスラは平然と言った。「たいていの人は自分の両親に関するその種のことを信じたがらないそうですが、そういうことはときどき起きるんですよ。わたしはお父上が大好きでした。これからずいぶんさみしくなりますわ」
「信じないわ」セ・ネドラはぶっきらぼうに言った。
「信じるかどうかは、もちろん皇女さましだいですわ」
「父がそんなことをするはずがありません」
「なんとでもおっしゃってください、皇女さま」ベスラは薄笑いをうかべて言った。
「嘘つき!」セ・ネドラはかみつくように言った。
ベスラの目が一瞬光った。「いいえ、皇女さま。わたしは嘘はつきません。真実を隠すことはときたまあっても、嘘はけっしてつきませんのよ。嘘はすぐに知れてしまいます。ラン・ボルーンとわたしは親しい友人でしたし、さまざまな方法で友だちづきあいを楽しみましたわ」ベスラはちょっとおもしろがっているような顔をした。「あなたはしつけ上、特定の事実から隔離されていらしたんですよ、セ・ネドラ皇女さま。トル・ホネスは極端に堕落した都市なんです。だからわたしには居心地がいいんですわ。率直な事実から顔をそむけるのはやめましょう。わたしは売春婦ですが、卑屈になるつもりはありません。仕事は楽だし――楽しいことさえありますわ――実入りはたいそういいのです。世界一の金持ちや世界一の有力者とも、とても仲良しですわ。お客さまとは話もしますし、わたしの会話は高く買われていますが、お客さまがわたしの家にくるときは、かれらの興味の対象は会話じゃありません。会話はあとでするんです。わたしがお父上を訪ねるときもまったく同じでした。たしかに話はしましたわ、皇女さま、でも、たいがい話すのはあとでした」
セ・ネドラの顔は真っ赤で、目はショックに大きく見開かれていた。「これまでわたしにそんな口のききかたをした者はひとりもいなかったわ」
「遅すぎたくらいですわ」ベスラはすまして言った。「これで皇女さまはずっと賢くなられたんですよ――しあわせにはなられなかったかもしれませんけど、賢くなられたのはまちがいありません。では、よろしければわたしはもう失礼します。ホネス一族はそこらじゅうに密偵をもっていますから、この訪問をかれらに知られるのは賢明じゃありませんものね」
「情報提供感謝するよ、ベスラ」ヴァラナが言った。「労に報いて、何かとらせよう」
「その必要はございません、陛下」ベスラはいたずらっぽくほほえんだ。「情報はわたしの売るものではありませんもの。では失礼いたします――もちろん、仕事の話をなさりたいのでなければですが」マントをきる手をとめて、彼女はヴァラナにあからさまな視線を向けた。
「ああ――いまは適当でないようだな、ベスラ」ヴァラナはわずかに無念そうな口調で言うと、すばやくセ・ネドラを横目で見た。
「それではまた別の機会にでも」彼女はまた一礼すると、じゃこうの香りを残して静かに部屋を出ていった。
セ・ネドラはまだ頬をそめたまま、目をいからせていた。ガリオンとヴァラナのほうをくるりとむくと、ぴしゃりと言った。「ふたりともだまってて。ひとことでも言ったらしょうちしないわ」
トル・ホネスへの悲しい訪問はそれから数日後におわり、ガリオンとセ・ネドラはふたたび船にのって〈風の島〉へ帰った。セ・ネドラはめったに悲しみをおもてに出さなかったが、セ・ネドラを知り抜いているガリオンは、父親の死が彼女にとって深い痛手であることを知っていた。ガリオンは妻を愛していたし、彼女の気持ちに敏感だったので、それから数ヵ月は特に彼女をいたわり、思慮深く彼女に接した。
その年の秋のなかば、アローンの王たちとドラスニアの摂政であるポレン王妃が、伝統的な会合である〈アローン会議〉のためにリヴァに到着した。今回の会合は以前のような切迫したものではなかった。トラクは死に、アンガラク人たちは戦争で騒然としており、リヴァの王座には王がすわっていたからである。主たる関心事はほとんどと言っていいほど社交上のものだったが、王たちは城塞の南塔の上にある青い幕のおりた会議室で、職務上の会議をしているふりをよそおっていた。クトル・マーゴス南部における膠着化した戦争や、北部トルネドラのヴォードゥ一族に手をやいているヴァラナのことについて、かれらはものものしく話し合った。
ホネス一族の暗殺計画が失敗におわったことから、ヴォードゥ一族は警戒を強め、皇位略奪をはかる一派からの脱退を決断していた。ヴァラナがラン・ボルーン二十四世として即位してまもなく、ヴォードゥ一族はかれらの公国はもはやトルネドラの一部ではなく、独立した一個の王国であると宣言した――もっとも、一族のうちだれが王位につくかはまだ決めていなかったが。
「ヴァラナは軍団兵をヴォードゥ一族のところへ派遣しなけりゃならんだろうな」アンヘグ王が口もとについたエールの泡を袖口でぬぐいながら大声で言った。「さもないと、ほかの一族も脱退するだろうし、そうなったらトルネドラはこわれたバネよろしく空中分解してしまう」
「現実はそれほど単純ではありませんわ、アンヘグ」はるか下の港を出入りする船の動きを見ていたポレン王妃が、窓からふりかえってよどみなく言った。ドラスニア王妃はまだ喪服をきていたが、黒いドレスはかえって美しい色白の肌をひきたてていた。「軍団兵は外敵となら喜んで戦うでしょうが、ヴァラナが同胞を攻撃させるはずはありません」
アンヘグは肩をすくめた。「南から軍団兵を連れてくることもできるさ。南の連中はみんなボルーンかアナディルかラニテの一族だ。かれならヴォードゥ一族を平気で倒すだろう」
「でもそうなったら、北の軍団兵が阻止するでしょう。軍団兵同士がいったん戦いはじめたら、帝国は本当に崩壊してしまいます」
「そういうことはまったく考えつかなかったよ」アンヘグは認めた。「なあ、ポレン、きみはまことに聡明だ――女にしてはな」
「そういうあなたはまことに明敏ですわ――男にしては」彼女はやさしく微笑した。
「一木とられたな」チョ・ハグ王がおだやかに言った。
「ぼくたちスコアをつけていましたっけ?」ガリオンがやんわりときいた。
「スコア表があれば、これまでの勝敗をたどる役には、まあ、たつだろうね」アルガリアの族長は真顔で答えた。
それから数日後、ヴォードゥ一族とのごたごたにヴァラナが奇抜な策をとったという知らせが、リヴァに届いた。ある朝、ドラスニアの船が港にはいり、ドラスニア諜報局の代理人がポレン王妃宛の報告書を持ってきた。それを読んだあと、王妃は会心の微笑をうかべて会議室にはいった。「みなさん、ヴァラナの能力をめぐるわたしたちの評価はこれではっきりしましたわ」彼女はアローンの王たちにつげた。「かれはヴォードゥ問題の解決策を見つけたようです」
「ほう?」ブランドがよくひびく太い声で言った。「どんな解決策です?」
「わたしの情報提供者によると、ヴァラナはアレンディアのコロダリン王と内密の協定を結んだようですわ。このいわゆるヴォードゥ王国はにわかにアレンドの盗賊たちに荒らされはじめたのです――奇妙にも、盗賊のほとんどが武装しているそうです」
「ちょっとまってくれ、ポレン」アンヘグが口をはさんだ。「それが内密の協定なら、どうしてきみはそのことを知っているんだ?」
金髪で色白の小柄なドラスニア王妃は奥ゆかしげにまぶたをふせた。「まあ、アンヘグ、わたしはなんでも知っているのよ、その事実をご存じなかった?」
「また一本とられた」チョ・ハグ王がガリオンに言った。
「そのようですね」
「とにかく」ドラスニア王妃はつづけた。「いまやヴォードゥでは、おろかなミンブレイトの若い騎士の大部隊が、こぞって盗賊をきどり、略奪や放火をほしいままにしています。ヴォードゥ一族は軍隊と呼べるものをもっていないため、声をからして軍団兵の援助を求めているんです。わたしの家来の者たちはヴァラナの返事の写しを首尾よく手にいれました」王妃は一枚の文書をひろげた。「『ヴォードゥ王国政府宛。拝啓。このたび助けを求める貴殿の訴えに接し、おおいにおどろいております。ひとにぎりのアレンドの盗賊ごときを扱うために、トルネドラの軍団兵を派遣するなどもってのほかと言えましょう。それによって新たに確立された王国の主権を乱されることほど、トル・ヴォードゥの高名な紳士たちが望まないことはありますまい。公的秩序の維持は政府の主要責任であり、かような根本的領域に小生の兵力を侵入させるつもりは毛頭ありません。そのようなことをすれば、貴殿の新国家の生存能力に関し、世界中の理性ある人々の心に大いなる疑念をもたらすこととなりましょう。しかしながら、この、結局は、まったくの国内問題を処理する貴殿の努力には最大の讃辞をささげるしだいであります』」
アンヘグが吹き出し、げらげら笑いながら大きなにぎりこぶしでテーブルをたたいた。「こいつはのまずにいられないな」
「ぼくもですよ」ガリオンは同意した。「ヴォードゥ一族の秩序維持の努力に乾杯しましょう」
「それではわたしは失礼しますわ」ポレン王妃が言った。「本気でのみはじめたら、アロリアの王たちにかなう女はそうそういませんものね」
「そりゃそうさ、ポレン」アンヘグが度量の大きいところを見せて同意した。「きみの分も飲んであげよう」
「ごしんせつに」ポレンは会議室をでていった。
ガリオンはそのあとのことはよくおぼえていない。すべてがエールの臭いのするかすみの中にまぎれこんでいた。アンヘグとブランドを両側に廊下をふらふら歩いたことはどうやらおぼえている。三人は肩をくみあい、奇妙に足取りをあわせてよろめいていた。歌をうたっていたような記憶もあった。ガリオンはしらふのときはけっしてうたわなかった。しかし、その晩は歌をうたうのが世界中で一番自然で楽しいことに思えたのだ。
ガリオンはこれまで酔っぱらったことがなかった。ポルおばさんは酒をのむことにつねに否定的だったし、たいていのことは彼女にしたがっていたガリオンは、その件についても、ポルおばさんに同感だったのである。というわけで、翌朝どういう目にあうかについては、まったく無防備だった。
セ・ネドラはひかえめにいっても、冷たかった。女というものがみなそうであるように、彼女も夫の苦しみをひそかに楽しんでいた。「だから飲み過ぎだと言ったでしょう」セ・ネドラは追い打ちをかけた。
「やめてくれ」ガリオンは両手で頭をかかえて言った。
「自分が悪いのよ」
「ほっといてくれよ。死にそうなんだ」
「まあ、死ぬもんですか、ガリオン。死ねればいいと思うでしょうけど、死にはしないわよ」
「そんな大声で話さなくちゃならないのか?」
「あなたの歌声、とてもよかったわ」セ・ネドラは陽気に夫をほめた。「これまで存在もしなかったメロディを発明したんじゃないかしら」
ガリオンはうめき声をあげると、もう一度ふるえる両手で頭をかかえた。
〈アローン会議〉はさらに一週間つづいた。猛烈な秋の嵐が強風をうならせながら、集まった訪問客たちに〈風の海〉が航行可能なうちに本土へひきかえしたほうがいいと告げなかったら、会議はさらに長びいたかもしれない。
客たちが帰途について何日もたたないころ、長身の年をとった〈リヴァの番人〉ブランドがガリオンに内密の面会を求めてきた。おもては突風まじりの雨がふっていて、ガリオンの書斎の窓はたえまない水の幕におおわれていた。ふたりはテーブルをはさんで坐りごこちのいい椅子に腰をおろした。「率直にお話ししてかまいませんか、ベルガリオン?」悲しい目をした大柄な男はたずねた。
「そんなこときくまでもないよ」
「立ち入った問題なので、ご立腹なさらないでいただきたいのです」
「言う必要があると思うことは遠慮なく言ってくれ。怒らないと約束する」
ブランドは窓外の鉛色の空と風まじりの雨をちらりと見た。「ベルガリオン、あなたがセ・ネドラ王妃と結婚されてからほぼ八年になります」
ガリオンはうなずいた。
「立ち入ったことには口出しすまいと努めておりますが、奥方が跡継ぎをいまだお産みになっていない事実は、なんと申しましても、国家にかかわる問題でございます」
ガリオンは口もとをひきしめた。「アンヘグやほかのみんながひどく心配しているのは知っている。だが、心配するのは早いと思う」
「八年は長い歳月です、ベルガリオン。われわれはあなたがどれほど奥方を愛しておられるか知っていますし、われわれだって奥方が好きです」ブランドはふっとほほえんだ。「たとえときに少しばかり気むずかしくなられることはあっても」
「わかってるね」
「タール・マードゥではわれわれは進んでお妃さまに従い、戦場へ向かいました――お妃さまの頼みなら、もう一度でも行くでしょう――しかし、あの方が子供ができない体である可能性は直視したほうがいいと思うのです」
「セ・ネドラにかぎってそんなはずはない」ガリオンはきっぱりと言った。
「では、どうしてご懐妊なさらないのです?」
ガリオンは答えられなかった。
「ベルガリオン、この王国の運命――アロリア全土の運命――があなたひとりにかかっているのです。北の諸王国では話題といえば文字どおりこれひとつといっても過言ではないほどです」
「それは知らなかったな」
「グロデグとその一派は事実上タール・マードゥで一掃されましたが、チェレクやドラスニアやアルガリアの辺境地帯では熊神教が勢力をもりかえしています。そのことはご存じでしたか?」
ガリオンはうなずいた。
「都市部でも熊神教の目的と信条に同調する向きがあらわれています。それらの連中はあなたがトルネドラの王女をお妃に迎えられたことをよく思っていません。セ・ネドラに子供ができないのは、彼女をお妃にしたあなたへの熊神の不満のあらわれだという噂がすでに広まっているのです」
「迷信じみたたわごとだよ」ガリオンはあざ笑った。
「もちろんそうです、しかし、そういう考えが広まれば、最後にはきわめて不愉快な結果をうむことになるでしょう。アローン社交界の他の人々――あなたに友好的な――はそのことを非常に懸念しています。単刀直入に申しあげて時期的にもセ・ネドラを離婚すべきだという意見が広く浸透しているのです」
「なんだって?」
「あなたにはそれだけの力がおありです。そういう連中の目から見れば、あなたにとって最善の解決法は、子供を授からないトルネドラの王妃をお払い箱にして、一ダースの赤ん坊を産みそうなアローンの娘を妻にすることなんですよ」
「まったく話にもならん」ガリオンはぷりぷりして言った。「じょうだんじゃない。そういうばかな連中はボー・ミンブルの条約を聞いたことがないのか? たとえぼくがセ・ネドラと離婚したくても、できないんだ。ぼくたちの結婚は五百年前から定められていたんだから」
「熊神教はその条約はベルガラスとポルガラによってアローン人に押し付けられたものだと解釈しています」ブランドは答えた。「あのおふたりがアルダーに忠実なので、ベラーの承諾なしに条約を結んだのだと考えているのですよ」
「ばかばかしい」
「どんな宗教にもばかげた部分はあります、ベルガリオン。しかし、まだ問題があるのですよ、セ・ネドラにアローンの社交界にほとんど友人がいないことです。あなたに好意的な者でさえ、奥方にはあまりよい感情をもっていません。あなたの敵と友人の両方が、セ・ネドラを離婚することを望んでいるのです。かれらはあなたのセ・ネドラへの愛情を知っていますから、けっしてあなたにそういう話はもちかけないでしょう。かわりに、もっと直接的行動に出るおそれがあります」
「どんな?」
「あなたが離婚の説得に応じられるはずがないのは明らかですから、何者かがセ・ネドラを永久追放しようとするかもしれません」
「そんなことはさせないぞ!」
「アローン人はアレンド人とおなじくらい感情的なんです、ベルガリオン――しかも一度思いこんだらてこでも動かないところがあります。だれもが知っていることですよ。アンヘグとチョ・ハグのおふたりから、この可能性についてあなたに警告するようにとうながされました。ポレンは王妃の身が危うくなった場合にそなえて、せめて事前の忠告ができるようにと密偵の一団を丸ごとその仕事にあたらせています」
「それで、きみはこの問題でどっちの側についているんだ、ブランド?」ガリオンは静かにたずねた。
「ベルガリオン」大柄な男はきっぱりと言った。「わたしはあなたを息子のように愛していますし、セ・ネドラは持ったことのない娘のようでかわいくてなりません。おふたりの寝室の隣りにあるあの育児室の床で、子供たちが遊んでいるのを見ることができたら、こんなにうれしいことはないのです。しかし、もう八年です。事態はなにか手をうたなくてはならないところまできているのですよ――しかし、こうなったら、わたしたちふたりの愛するあの小さくて勇敢な女性をお守りしましょう」
「どうすればいいんだろう?」ガリオンはたよりなげにたずねた。
「あなたもわたしもただの男です、ガリオン。女が子供を産む産まないの理由などわかるはずがないんです。そしてそれがすべての状況のかなめなんです。どうかお願いしますよ、ガリオン――このとおりです――ポルガラを呼んでください。われわれにはあの方の忠告と助けが必要です――それもいますぐに」
〈番人〉がそっと出ていったあと、ガリオンはながいことすわったまま雨を見つめていた。セ・ネドラにはだまっていたほうが賢明だろう。薄暗い廊下にひそむ暗殺者の話で妻をこわがらせたくなかったし、政治的方便から離婚を考えざるをえないというような話をほのめかしでもしたら、大騒ぎになる。慎重な考慮のすえ、なにもいわずにポルおばさんに使いをだすのが最善の道だとガリオンは結論づけた。しかしあいにくなことに、かれは重要なあることをすっかり忘れていたのだった。その晩、ガリオンは何事もなく一日がすぎたようななにげない笑顔をつくって、蝋燭のともった明るい王宮へはいっていった。
かれを迎えたひえびえとした沈黙に、ガリオンは当然警戒すべきだった。その危険な兆候を見逃したとしても、ドア枠の傷や、ヒステリーがおさまってからあわててかたづけたために、隅に残っている花瓶や各種の陶の小像のこなごなになった破片には、気づくべきだった。しかし、リヴァの王はときとしていささか不注意になる傾向があった。「やあ」ひややかな小柄な妻にむかって、陽気に声をかけた。
「こんばんは」
「きみのほうはどんな一日だった?」
セ・ネドラは険悪な目つきでガリオンを見つめた。「よくもそんな無神経なことがきけるわね」
ガリオンは目をぱちくりさせた。
「さあ、教えて。いつわたしはお払い箱にされて、金髪の牝豚が後がまにすわり、はなたれのアローンのガキどもが城塞全体にみちあふれることになるの?」
「いったい――?」
「陛下はお忘れのようね、わたしたちが婚約したとき、わたしの首にかけてくれた贈物のことを。ベルダランの護符にどんな力があるかもお忘れのようだわ」
ガリオンは急に思いだした。「あ、そうだった」
「おあいにくさま、護符ははずれませんからね」セ・ネドラはかみつくように言った。「次の奥さんにあげることはできないわよ――わたしの首をきりおとしでもしないかぎりはね」
「やめないか」
「おおせのとおりに。わたしを船でトルネドラに送り返すつもりだったの――それとも正門から雨のなかへ追い出されて、自分のことは自分でやれというわけ?」
「それじゃ、ぼくとブランドの話し合いをきいたんだね」
「あたりまえよ」
「一部をきいたのなら、全部最後まできいたんだろうな。ブランドはくだらない狂信者グループのばかげた考えによって、きみに危険がおよぶことを報告していただけじゃないか」
「かれの言うことに耳をかすべきじゃなかったんだわ」
「だれかがきみを殺そうとしているかもしれないと警告しようとしているのにか? セ・ネドラ、ふざけちゃいけない」
「つまりはこういうことでしょ、ガリオン」セ・ネドラは非難がましく言った。「いまやあなたはいつでも好きなときにわたしを追い出せるとわかったわけよ。長い金髪のおさげ髪に発育しすぎの胸をした、頭のからっぽなアローンの娘たちにあなたが色目をつかっているのを見たことがあるのよ。さあ、チャンス到来じゃない、ガリオン。どの子を選ぶの?」
「つっかかるのはそれでおしまいかい?」
セ・ネドラの目が細まった。「わかったわ、わたしは子供ができないだけじゃなく、ヒステリーでもあるのよ」
「そうじゃないさ、きみはただときどき聞きわけがなくなるだけだ」
「聞きわけがなくなる?」
「だれでもたまにはそうなる」ガリオンは落ち着いて付け加えた。「それが人間というものだ。きみが物を投げつけていないのにはちょっとおどろいたくらいだよ」
セ・ネドラは隅にちらばっているこわれた破片のほうを、うしろめたそうにすばやくながめた。
「そうか」ガリオンはその視線をたどった。「それはもうすんだんだ。ここにいなくてよかったよ。飛んでくる瀬戸物をよけたり、相手が金切り声で悪態をついたりしているときに、相手をなだめようとするのはむずかしいからね」
セ・ネドラはちょっと赤くなった。
「悪態もついたんだな? あんな言葉をどこでおぼえたのかとときどきふしぎに思うよ。どうやってああいう言葉の意味をつきとめた?」
「あなたはしょっちゅう悪態をついてるじゃないの」
「わかってる」ガリオンはすなおに言った。「たしかに不公平だ。ぼくはいいのに、きみはいけないというのはね」
「だれがそんなルールをつくったのか知りたいもんだわ」セ・ネドラは言いかけて、目を細めた。「話題を変えようとしているわね」
「いや、セ・ネドラ、ほかの話をしてもはじまらない。きみは不妊症じゃないし、ぼくはきみと離婚するつもりはない、ほかのだれかのおさげがどんなに長くても、どんなに胸が――いや、なんでもない」
セ・ネドラはガリオンを見た。「ああ、ガリオン、もしそうだったら?」彼女は小さな声で言った。「つまり、子供のできない体だったら?」
「ばかばかしい、セ・ネドラ。その話はもうよそう」
しかしリヴァの王妃の目に浮かんでいる疑念は、たとえかれらがその話をしなくても、彼女がそれを気にしつづけることをきわめて明瞭に物語っていた。
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12[#「12」は縦中横]
季節がら〈風の海〉が荒れに荒れたので、ガリオンが〈アルダー谷〉へ使者を派遣できたのは、それからたっぷりひと月たってからだった。そのころには東部センダリアの山道は晩秋の吹雪で寸断されており、王の使者はアルガリアの平原を文字どおり歩いて渡らなくてはならなかった。こうした遅れにもかかわらず、ポルおばさん、ダーニク、エランドの三人はそろそろエラスタイドがはじまるころ、雪にうもれたリヴァの港の桟橋に到着した。ダーニクがガリオンに打ち明けたところによると、かれらが気まぐれなグレルディク船長に会えたのはまったくの偶然で、船長がどんな嵐も平気な人物であるおかげでこうしてリヴァまでこられたのだった。ポルガラは城塞への長い登り坂を歩き始める前に、放浪癖のある船長とふたことみこと話をした。ガリオンはグレルディクがただちに錨をあげて、ふたたび沖へ出て行くのに気づいて少なからずびっくりした。
ポルガラは進退きわまったガリオンが助けを求めた原因の重大さについては、いたって楽天的なようだった。彼女がそのことについてガリオンと話をしたのは二度だけだった。ガリオンはかなりつっこんだことを何度かきかれて、耳まで赤くなった。セ・ネドラとポルガラの話し合いはもうちょっと長かったが、それもほんのすこし長いだけだった。ガリオンはポルおばさんがとりあえず誰かか何かを待っているような、はっきりした印象を受けた。
その年のリヴァにおけるエラスタイドの祝い事は、なぜか沈みがちだった。ポルガラやダーニクやエランドをその祝祭に迎えられたのは大いに喜ばしいことだったが、ブランドから打ち明けられた問題が気になって、ガリオンは気分がしめりがちだった。
数週間後のある雪の午後、王宮にガリオンがはいっていくと、ポルガラとセ・ネドラが暖炉のそばにすわって、お茶をのみながら静かにおしゃべりしていた。ポルガラの訪問以来、かれの中でふくれあがっていた好奇心がついにおさえきれなくなった。
「ポルおばさん」
「なあに?」
「ここへきてそろそろひと月だよ」
「もうそんなになる? 愛する人たちと一緒にいると、時のたつのは早いわね」
「例のあの問題だけど」ガリオンは思い出させた。
「ええ、わかってるわ、ガリオン」ポルガラは辛抱強く答えた。
「なにかやっているの?」
「いいえ、まだよ」静かにポルガラは言った。
「大事なことなんだよ、ポルおばさん。せきたてるようなことはしたくないけど、でも――」ガリオンは力なく口をつぐんだ。
ポルガラは椅子から立って窓に歩みよると、すぐ外にある小さなめだたない庭を見つめた。庭は雪におおわれ、セ・ネドラがガリオンと婚約したときに植えた二本のからみあったカシの木が雪の重みにかすかにうなだれていた。「年をとればわかることのひとつに、忍耐というものがあるの」ポルガラは雪の庭をおもおもしくながめながら、ガリオンに言った。「どんなものにも時期というものがあるわ。あなたの問題を解決するのはそうむずかしいわけじゃないのよ、でも、まだその時期がきていないの」
「なんのことだかさっぱりだよ、ポルおばさん」
「それじゃわたしを信用するしかないわ」
「もちろん信用するさ、ポルおばさん。ただ――」
「ただなんなの、ディア?」
「なんでもない」
冬も終わりに近づいたころ、グレルディク船長が南からもどってきた。嵐のために船の継目のひとつが裂け、船は水びたしになりながらやっとのことで岬をまわり桟橋へ向かってきた。
「こりゃ泳がなくちゃならんかと思ったよ」ひげづらのチェレク人はぶつぶつ言いながら桟橋にとびおりた。「このかわいそうなおれのばあさんをひきあげるには、どこが一番いいかな? 尻の裂け目をなおさなくちゃならん」
「たいがいの船乗りはあそこの入り江を利用しているよ」ガリオンが指さしながら答えた。
「冬に船を陸にひきあげるのは大嫌いなんだ」グレルディクはにがにがしげに言った。「どこか一杯やれる場所はあるかい?」
「城塞で飲んだらいい」ガリオンは申し出た。
「ありがとよ。そうそう、ポルガラがお望みの客人を連れてきたぜ」
「客人?」
グレルディクはあとずさって、目をすがめ、船尾の客室の位置をたしかめると、船に近寄って数回船の外板をけとばした。「つきましたぜ!」大声で叫んだ。かれはガリオンにむきなおると、「女を乗せて航海するのはほんとはいやなんだ。おれは迷信深いたちじゃないが、女はどうもときどき不運をもたらすことがあるんでね――それにいつも礼儀作法に気をつけなけりゃならん」
「女を乗せているのか?」ガリオンは好奇心にかられた。
グレルディクはいまいましげにぶつぶつ言った。「きれいな小娘だが、うやうやしくあつかわれるものと思い込んでいたふしがあってな。乗組員全員が船底から水をかきだすのに忙しいときに、そんな暇があるかい」
「こんにちは、ガリオン」甲板から明るい声がした。
「クセラ?」ガリオンは妻のいとこの小作りな顔を見あげた。「本当にきみなのか?」
「ええ、ガリオン」赤毛のドリュアドの娘は落ち着き払って答えた。彼女はあたたかそうなぶあつい毛皮に耳までくるまっており、凍てついた空気の中で吐く息が白く見えた。「レディ・ポルガラのお呼びがかかってから、できるだけ早くここへきましたのよ」クセラは渋い顔のグレルディクにやさしく笑いかけた。「船長、手下の方たちに言って、わたしにかわってあの荷物をおろしていただけるかしら?」
「泥なんだ」グレルディクは鼻を鳴らした。「真冬に二千リーグも船を走らせたのが、小娘ひとりと樽ふたつぶんの水と泥を四包運ぶためときたもんだ」
「壌土よ、船長」クセラが抜け目なく訂正した。「壌土。ただの泥じゃないわ」
「おれは船乗りですぜ。おれにとっちゃ、泥は泥だ」
「どうとでもお好きなように、船長」クセラは愛敬たっぷりに言った。「それじゃ城塞まで荷物を運んでくださいね――樽もお願い」
グレルディク船長はぶつぶつこぼしながら命令を与えた。
セ・ネドラはいとこがリヴァに着いたのを知ると、おおはしゃぎだった。ふたりはたがいの腕の中へとびこんで、おおいそぎでポルガラを見つけにいった。
「大の仲良しらしいね、あのふたりは?」ダーニクが言った。鍛冶屋は毛皮を着て、タールをたっぷり塗りこんだブーツをはいていた。リヴァにきてまもなく、ダーニクは冬のさなかだというのに、山中から都市北部に注ぎ込む川におおきな渦巻くよどみがあるのを発見していた。驚異的な自己抑制をはたらかせて、丸十ヵ月のあいだ、その氷のはったよどみを見つめてすごしたかれは、ようやく晴れて釣り糸を手に、毎日嬉々としてその黒く泡だつよどみをさぐっていた。蝋びきの糸と色あざやかな疑似餌で、渦巻く水面の下にひそむ銀色の腹の鮭をさがそうというのだ。ポルおばさんはしばしば夫の熱中ぶりをたしなめていたが、一番最近ガリオンが見た例でいうと、ダーニクがもろにポルおばさんに叱られたのは、釣り竿をかついで城塞からすさまじい吹雪の中へ出ていこうとした日のことだった。
「これを全部どうしろっていうんだ?」クセラの荷物や樽をかついで、都市を見おろす陰気な城塞へ長い階段をのぼっていくがっしりした六人の船乗りたちを指さしながら、グレルディクが言った。
「ああ、それね」ガリオンは言った。「あそこへ置かせておけばいいよ」一緒に控えの間にはいりながら、部屋の隅を示した。「あとでご婦人方がなんとかするだろう」
グレルディクは「よし」とぶつぶつ言ってから、両手をもみあわせた。「さて、いっぱいやるか――」
ガリオンは妻といとことポルガラがなにをするつもりなのかさっぱりわからなかった。ガリオンが部屋にはいっていくと、たいてい彼女たちがすぐ口をつぐんでしまうからだ。おどろいたことに、壌土の四包と、水らしきものを入れた樽ふたつは、無造作に王の寝室の片隅に積み上げられていた。セ・ネドラは頑として説明をこばんだが、なぜベッドのすぐそばにそんなものを置かなくてはならないのかという問いかけにたいし、彼女が見せた目つきは、謎めいているばかりでなく、かすかに傲慢でさえあった。
クセラがきてから一週間ほどたったとき、にわかに天気が変化して、太陽がのぞき、気温がほぼ零度まで急上昇した。正午少し前、ガリオンがドラスニア大使と協議をしていると、目を丸くした召使いがためらいがちに王の書斎にはいってきた。召使いはどもりながら言った。「陛下、ど、どうかご無礼をお許しください。じつはレディ・ポルガラがいますぐ陛下におこしいただくようにとのことでございまして。陛下のお仕事中はお邪魔をしてはいけないことになっていると申しあげたのですが、その――どうしてもとおっしゃって」
「おいでになったほうがいいですよ、陛下」ドラスニア大使がほのめかした。「わたしならレディ・ポルガラに呼ばれたら、とっくに走りだしています」
「彼女をこわがる必要はないよ、マーグレイヴ」ガリオンは言った。「とって食ったりしないから」
「そういう危険は冒したくないですな、陛下。この件についてはまたの機会に話し合うとしましょう」
ガリオンは眉をひそめて廊下を歩きながら、ポルおばさんの部屋のドアの前まできた。そっとノックしてから中にはいった。
「ああ、きたわね」ポルガラはきびきびと言った。「別の召使いをさしむけようかと思っていたところよ」彼女は毛皮で裏打ちしたマントをきて、頭巾を深々とかぶっていた。セ・ネドラとクセラもおなじような服装で、すぐうしろに立っている。「ダーニクをさがしてきてもらいたいの。たぶん釣りをしているわ。見つけたら、城塞へ連れて帰ってきて。どこかでシャベルと鍬を見つけて、あなたの部屋の窓のすぐ外にあるあの小さな庭へ、ダーニクと一緒にきてちょうだい、道具を忘れずにね」
ガリオンはまじまじとポルガラを見つめた。
彼女は片手で追い払うようなしぐさをした。「いそいで、いそいで、ガリオン。日が暮れてしまうわ」
「わかったよ、ポルおばさん」ガリオンは質問も忘れてくるりと向きをかえ、小走りに部屋を出た。廊下のつきあたりへきたところで、自分が王であることを思いだした。ぼくをこんなに走らせるのは、ポルおばさんぐらいのもんだな。
ダーニクは言うまでもなく、妻の召集にただちに応じた――まあ、ただちにと言っていいだろう。じつを言うと、なごりおしげに最後のひと投げをしてから、釣り糸を注意深く巻き上げ、ガリオンについて城塞へ戻ったのだ。王宮に接する小さな庭にふたりの男がついてみると、ポルおばさんとセ・ネドラとクセラはすでにからみあったカシの木の下に立っていた。
「それじゃとりかかりましょうか」ポルおばさんがてきぱきと言った。「この木の幹のまわりを二フィートばかり掘り起こしてもらいたいの」
「あの――ポルおばさん」ガリオンは口をはさんだ。「地面はかちかちに凍ってるんだよ。掘るのはちょっとむずかしいんじゃないかな」
「だから鍬を持ってきてもらったのよ、ディア」おばさんは言いきかせるように言った。
「地面がやわらかくなるまで待ったほうが楽なんじゃない?」
「たぶんね、でもいまやる必要があるの。掘ってちょうだい、ガリオン」
「庭師がいるんだ、ポルおばさん。ふたりほど連れてくるよ」ガリオンは気が進まぬようすで鍬とシャベルをながめた。
「身内のことにしておいたほうがいいのよ、ディア。ここから掘るといいわ」ポルガラは指さした。
ガリオンはためいきをつくと、鍬をつかんだ。
そのあと起きたことはナンセンスもいいところだった。ガリオンとダーニクは夕方近くまで凍てついた地面を掘りつづけ、ポルおばさんの示した場所を掘り起こした。それから、掘った穴に四包の壌土を投げ込み、黒い土に樽ふたつぶんの水をたっぷりそそいだ。それがすむと、ポルおばさんの指示でふたたびその場所全体を雪でおおった。
「どういうことかわかった?」ガリオンは厩のそばの中庭にある庭師の小屋へ道具を戻しにいきながら、ダーニクにたずねた。
「いや」ダーニクはすなおに言った。「しかし、ポルは自分がなにをしているかちゃんとわかっているんだよ」ダーニクは夕暮れの空をちらりと見上げて、ためいきをついた。「あのよどみへ引きかえすにはちと遅いだろうな」残念そうに言った。
ポルおばさんとふたりの女性は毎日庭へ出て行ったが、ガリオンには三人がなにをしているのかさっぱりわからなかった。翌週になると、祖父の魔術師ベルガラスがひょっこりあらわれ、庭にたいするガリオンの注意はそらされた。若い王はエランドと一緒に書斎にすわって、数年前ガリオンが与えた馬をどう調教したかについて、少年からくわしい話を聞いているところだった。いきなりドアがばたんとあいて、旅やつれしたベルガラスがけわしい顔でつかつかとはいってきた。
「おじいさん!」ガリオンは叫んで、腰をうかした。「いったい――」
「だまって、すわれ!」ベルガラスは一喝した。
「え?」
「言われたとおりにしろ。話がある、ガリオン――わしが話すから、おまえは聞いてろ」ベルガラスは一息ついた。こみあげる怒りをなだめようとしているようだった。「自分のしたことがわかってるのか?」ようやく口がきけるようになると、老人は問いつめた。
「ぼくが? なんのことです、おじいさん?」
「ミンブル平原でおまえがやってのけたけちな花火のことさ」ベルガラスは冷たく答えた。「あの即席の雷雨のことだ」
「おじいさん」ガリオンはできるだけおだやかに説明した。「かれらは戦争のせとぎわにいたんだよ。アレンディア全土が巻き込まれたかもしれないんだ。それだけは起こしたくないと自分で言ったじゃないか。ぼくはかれらをとめなくちゃならなかったんだ」
「動機はどうでもいい、ガリオン。問題なのは、おまえのやりかただ。なんで雷雨を使おうなんて考えた?」
「かれらの気をひくのにそれが一番いいと思ったからだよ」
「ほかのやりかたは思いつかなかったのか?」
「すでに戦闘がはじまっていたんだよ、おじいさん。代案を考えている暇はなかった」
「天候をむやみにいじってはならんと口をすっぱくして言わなかったか?」
「でも――あれは緊急事態だったんだ」
「あれを緊急事態だと思うのなら、おまえのばかなふるまいが〈谷〉に引き起こした吹雪を見るべきだったな――それに、〈東の海〉に生じたハリケーンを。おまえが世界中に巻き起こした日でりや竜巻は言うにおよばずだ。おまえには責任感というものがないのか?」
「そんなことになるなんて知らなかった」ガリオンは愕然とした。
「おい、知らないでどうする!」ベルガラスはいきなりガリオンをどやしつけた。怒りで顔がまだらになっていた。「ベルディンとわしとで半年間、たえず巡回してまわったが、事態が鎮静するのにどれだけの労力がかかるか見当もつかんのだ。おまえがよく考えもせんで起こしたあの嵐一つが、地球全体の天候パターンを変えかねないのだぞ、わかってるのか? その変化が宇宙的災害になるかもしれんことがわかってるのか?」
「たったひとつのささいな嵐が?」
「そうだ、たったひとつのささいな嵐がだ」ベルガラスは手きびしかった。「おまえのたったひとつのささいな嵐が、タイミングと場所をわきまえなかったおかげで、今後数世紀にわたる天候を変えてしまいかねんのだ――世界中の天候をな――このまぬけ!」
「おじいさん」ガリオンは抗議した。
「氷河期という言葉が何を意味するか知ってるか?」
ガリオンはぽかんとして首をふった。
「平均気温が低下する――大幅に――時代だ。北極では、夏でも雪がとけない。年々雪はつもりつづける。それが氷河を形成し、氷河が南へ南へと移動しはじめる。わずか数世紀で、おまえのちょっとした見せ物のおかげで、高さ二百フィートの氷壁がドラスニアの入り江を閉じこめてしまうかもしれんのだ。ボクトールとヴァル・アローンを硬い氷の下に埋めてしまうのだぞ、この愚か者。それがおまえの望んだことか?」
「もちろんちがうよ。おじいさん、本当に知らなかったんだよ。知ってたら、あんなことをはじめたりしなかった」
「おまえのせいで氷に閉じこめられたも同然になる数百万の者たちも、それを聞けばおおいに慰められるだろうよ」ベルガラスは痛烈な皮肉をこめて言い返した。「あんなことは二度とするな! 知るべきことはすべて知っていると確信できるまでは、なにもするんじゃない、考えるのもだめだ。すべて知っていても、危険な真似はしないにこしたことはない」
「でも――でも――おじいさんとポルおばさんはドリュアドの森で豪雨を呼び起こしたじゃないか」ガリオンは弁解口調で指摘した。
「わしらは自分たちのしていることを知っておった」ベルガラスはいまにもわめきそうだった。「あの場合、危険はなかったんだ」なみなみならぬ努力のすえに、老人は爆発寸前の自分を抑えた。「二度と天気をいじるな、ガリオン――最低千年の修行をつむまではいかん」
「千年!」
「最低だ。おまえの場合は、二千年が妥当かもしれん。相当凶運の持ち主らしいからな。いつだってまずいときにまずい場所にいあわせる」
「二度としないよ、おじいさん」ガリオンはそびえたつ氷壁が容赦なく世界を閉ざしていくようすを考えて、ぞっとしながら熱っぽく約束した。
きびしい目で長々とガリオンをにらみつけたあと、ベルガラスは話題を変えた。しばらくして、ふたたび落ち着きをとりもどしたベルガラスは、エールのジョッキを片手に暖炉のそばの椅子にくつろいですわっていた。エールが老人の機嫌をよくする事実を知っていたガリオンは、大爆発が鎮静するとすぐに抜け目なくエールをとりにいかせたのだ。「勉強ははかどってるか?」老魔術師はたずねた。
「このところしばらくいそがしかったんだ、おじいさん」ガリオンはうしろめたそうに答えた。
ベルガラスにひややかな目でじっとにらまれたとき、ガリオンは老人の首がまだらにそまるのをはっきり見た。再噴火の前触れだった。
「ごめんなさい、おじいさん」ガリオンはいそいで謝った。「これから、勉強の時間をつくるから」
ベルガラスの目がわずかに大きくなった。「よせ」かれはすばやく言った。「天候をいじりまわすような真似をしてさんざんな目にあったんだ。時間どおりにはじめたりしたら、結果がどうなるか神々にさえ予測がつかんじゃないか」
「そんな意味で言ったんじゃないよ、おじいさん」
「じゃあ、どんな意味で言ったのか話してみろ。これは誤解していいような問題じゃないからな」そう言ってから、ベルガラスはエランドに注意を移した。「おまえはここでなにをしているんだ?」
「ダーニクとポルガラもいるんです」エランドは答えた。「ぼくも一緒にきたほうがいいとふたりが考えたんですよ」
「ポルガラがきとるのか?」ベルガラスはびっくりしたようだった。
「ぼくがたのんできてもらったんだ」ガリオンが言った。「ちょっとした問題を解決してもらおうと思って――すくなくとも解決してくれるとぼくは思ってるんだけど、なんだかやってることがわけがわからなくって」
「あれはときどきすることがおおげさなんだ。その問題とは正確にはどういうものなんだ?」
「その――」ガリオンはエランドを一瞥した。エランドは礼儀正しい興味を浮かべてふたりを見守っている。ガリオンはちょっと赤くなった。「つまり――その――ええ――〈リヴァの王座〉の跡継ぎに関することで」遠回しに説明した。
「そこにどんな問題があるんだ?」ベルガラスはわかっていなかった。「おまえが跡継ぎだろうが」
「いや、ぼくが言うのは、次の跡継ぎのことなんだ」
「まだわからんな」
「おじいさん、跡継ぎがいないんだよ――すくなくともまだ」
「いないだ? なにをしとるんだ、おまえは?」
「おかまいなく」ガリオンはあきらめて言った。
ようやく春が訪れると、からみあった二本のカシの木に向けるポルガラの注意は異常なまでに高まった。一日最低十二回は庭に出て、若芽のでる気配はないかと枝という枝を仔細に調べた。やっとのことで小枝の先がふくらみはじめると、彼女の顔にふしぎな満足の色があらわれるようになった。ふたたび、ポルガラとふたりの若い女性、セ・ネドラとクセラは庭でぶらぶらしはじめた。この植物をめぐる娯楽は、ガリオンには困惑でしかなかった――いささかいらだたしくさえあった。なんと言ってもポルおばさんにリヴァへきてもらったのは、もっと重要な問題を解決してもらうためだったのだから。
クセラは春がきてはじめて晴れた日に、ドリュアドの森へ帰っていった。それからほどなく、ポルおばさんは自分とダーニクとエランドもまもなくリヴァを去るつもりであると平然と宣言した。「父も連れて行くわ」彼女はそう言って、老魔術師を非難がましく見やった。かれはエールを飲みながら、ブランドの姪で頬を赤らめているレディ・アレルをさかんにからかっていた。
「ポルおばさん」ガリオンは文句を言った。「例のちょっとした――その――セ・ネドラとぼくのかかえている困難はどうなるのさ?」
「それがどうかして、ディア?」
「なにかしてくれるんじゃないの?」
「したわ、ガリオン」ものやわらかにポルおばさんは答えた。
「ポルおばさんはあの庭にいりびたってただけじゃないか」
「ええ、ディア。わかってるわ」
かれらが去ったあとの数週間、ガリオンは問題全体についてよく考えてみた。そして、十分に問題を説明しきっていなかったのではないか、ポルおばさんが誤解をしたのではないかとまで思いはじめた。
春もたけなわとなり、花が咲きほころんで、都市の裏手の急勾配の草原があざやかな緑に萌え、目のさめるような野花があちこちにちらばるころ、セ・ネドラが奇妙な行動をとりはじめた。セ・ネドラはたえず庭にすわって、例のカシの木をふしぎにやさしい表情でながめ、さらに、城塞を一日留守にしては、夕方近くレディ・アレルをともなって野花で全身を飾りたてて帰ってくることが多くなった。食事の前には毎回、銀の小瓶からなにかを一口飲んで、まずそうに顔をしかめた。
「なにを飲んでいるんだい?」ある朝、ガリオンは好奇心からたずねた。
「強壮剤みたいなものよ」セ・ネドラは身ぶるいしながら答えた。「カシの若芽がはいっていて、猛烈にまずいの」
「ポルおばさんがつくってくれたんだろ」
「どうしてわかったの?」
「おばさんのつくる薬はいつもひどい味がするんだ」
「へえ」うわの空でそう言ってから、セ・ネドラはじっとガリオンを見つめた。「きょうはすごく忙しい?」
「そうでもない。どうして?」
「厨房へ寄って、肉とパンとチーズを持って森で一日を過ごしたらどうかしらと思ったのよ」
「森で? なんのために?」
「ガリオン」セ・ネドラはわがままそうに言った。「冬中、このわびしい古いお城の中にとじこめられていたんですからね。新鮮な空気や日光が恋しいのよ――じめじめした石なんかじゃなくて、木や野花の匂いをかぎたいわ」
「アレルを誘ったら? ぼくが一日城を留守にしたらまずいだろう」
セ・ネドラは絶望的な目を向けた。「たいした仕事はないって、たったいま自分で言ったでしょう」
「そりゃたんなる推測さ。なにかが起きるかもしれない」
「待たせておけばいいのよ」セ・ネドラはくいしばった歯のすきまから言った。
すばやく妻を一瞥したガリオンは、危険な兆候を認めてできるだけおだやかに答えた。「それもそうだな、ディア。ちょっと外出するのも悪くなさそうだ。なんなら、アレルと――カイルにも声をかけてみようか」
「だめよ、ガリオン」セ・ネドラは頑として言った。
「だめ?」
「ぜったいにだめ」
というわけで、朝食後まもなく、リヴァ王は小柄な王妃と手に手をとって、食料をたっぷりつめたバスケットを持ち、城塞をあとにして、都市の裏の広い草原をよこぎり、ひざしがまだらにさしこむ常緑樹の蔭にぶらぶらとはいっていった。常緑樹のうわっている山の急斜面はそのまま上へのびて、内陸の背骨を形成する雪をかぶったきらめく峰々につづいている。
いったん森に足を踏み入れると、セ・ネドラの顔から不満の色が跡形もなく消えた。高いマツやモミの木立のあいだをさまよいながら、彼女は野花をつんで、自分のために花輪を編んだ。頭上の梢から斜めにさしこむ朝日が、苔むした森の床を金色と青のまだらにそめた。背の高い常緑樹の樹脂がむせかえるようににおい、小鳥たちが高い円柱のような幹のあいだを急上昇したり旋回したりして、さえずりながら太陽を歓迎している。
しばらくしてかれらは木々に抱かれるように開けた、苔むした空き地を発見した。きらめく小石の上を小川がさらさらながれ、ちいさな池でやさしい目をしたシカが一頭水を飲んでいた。シカはすらりとした茶色の脚にまといつく水から頭をあげると、こわがるようすもなくかれらを見つめ、やがて尻尾をふって森の奥へもどっていった。
「まあ、ここなら申し分ないわ」セ・ネドラはやさしい微笑をうかべて、丸石に腰をおろし、靴ひもをほどきはじめた。
ガリオンはバスケットをおろして伸びをした。この数週間の疲労がゆっくりとはがれおちていくような気分だった。「きみが思いついてくれてよかったよ」太陽にあたためられた苔の上に気持ちよさそうに大の字になってガリオンは言った。「じつにすてきなアイデアだ」
「当然よ。わたしのアイデアはみんなそうですもの」
「そこまではどうかな」そのときふとガリオンはあることを思いついた。「セ・ネドラ」
「なあに?」
「ききたいことがあったんだ。ドリュアド一族の名前はみんなク≠ナはじまるのかい? クセラとかクサンサとかいうように」
「それがわたしたちの習慣なのよ」セ・ネドラはあいかわらず靴ひもをほどきながら答えた。
「じゃあ、どうしてきみはちがうんだ? クではじまらないだろ?」
「はじまってるわ」セ・ネドラは片方の靴を脱いだ。「トルネドラ人はクの発音がちょっとちがうだけよ。だからつづるときはああいうふうにするの。ドリュアド人はあまり読み書きをしないから、つづりについては無頓着なのよ」
「クセネドラっていうのか?」
「近いわ。でもクをもうちょっとそっと発音するの」
「ねえ、ぼくはそのことをずっと前からふしぎに思ってたんだよ」
「じゃあ、どうしてきかなかったの?」
「どうしてかな。きくところまでいかなかったんだ」
「ガリオン、どんなことにも理由があるわ。でもきかなければ、わからずじまいになってしまうのよ」
「ポルおばさんそっくりだ」
「ええ、ディア。わかってるわ」セ・ネドラはほほえむと、もう一方の靴を脱いで、満足そうに爪先をうごめかした。
「どうしてはだしなんかに?」ガリオンはぼんやりたずねた。
「苔の感触を味わいたいのよ――それに泳こうかなとも思って」
「寒すぎるよ。あの小川は氷がとけたばかりだぜ」
「水がちょっと冷たいぐらいで死にはしないわ」セ・ネドラは肩をすくめた。それから、挑戦に応じるかのように、立ち上がって服をぬぎはじめた。
「セ・ネドラ! だれかがきたらどうする?」
彼女はすずしい笑い声をあげた。「どうしようかしら? でも、服のまま泳ぐほどわたしはつつしみ深くないわ。そんなに紳士ぶらないでよ、ガリオン」
「そういうことじゃない。ただ――」
「ただなあに?」
「なんでもない」
セ・ネドラは足取りも軽く池にかけこむと、黄色い声をあげて冷たい水をはねかえした。次にきれいな線をえがいて飛び込み、水中にもぐったまま、大きな苔むした丸太が、澄み渡った水につきささっている向こう岸まで泳ぎ、いたずらっぽく笑いながら顔をだした。髪が水中でなびいていた。「どう?」
「どうって?」
「はいらない?」
「はいるものか」
「〈西方の大君主〉は冷たい水がこわいの?」
「〈西方の大君主〉は水しぶきをあげて風邪をひくようなばかな真似はしないのさ」
「ガリオン、そんなことばかり言ってると、まちがいなく太ってくるわよ。冠をとってリラックスなさいよ」
「冠はかぶってない」
「それじゃ、なにかほかのものを脱いだら」
「セ・ネドラ!」
彼女はまたすずやかに笑うと、はだしの足を蹴って、きらめく水しぶきをあげた。朝のひざしの中で、水滴が宝石のように輝いた。それからあおむけになり、水面に深い茜色の扇のように髪をひろげた。さっき編んだ花飾りが泳いだはずみにばらばらになって、水面にうかんだ花びらがひとつひとつ上下にゆれている。
ガリオンは木の幹に気持ちよくもたれて、ふかふかの苔の上にすわっていた。太陽はあたたかく、木や草や野花の匂いが鼻孔をみたした。ツンとくる海の匂いを運んでくるそよかぜが、ちいさな空き地を囲む高いモミ木立の緑の枝のあいだでためいきをつき、金色の日光が森の床にまだらもようを落としている。
気の早い蝶が一匹、青と金の玉虫色の翅をはばたかせて、高い木の幹からひざしの中へ飛んでいった。色か匂いかそれともほかのもっと謎めいた誘いにひきよせられて、蝶は透明な空気の中をひらひらと飛んで、花弁の浮き沈みする池へ近づいていった。おもしろそうに蝶は花びらから花びらへと移り、そのひとつひとつに翅をそっとふれた。セ・ネドラは息を殺した表情でゆっくりと水中に頭を沈め、顔の部分だけを水からだした。蝶は興味ありげに飛び回っていたが、だんだん待ちかまえる王妃のほうへ近づいていった。やがて蝶はセ・ネドラの顔の上をうろうろし、そのやわらかな翅でくちびるをかすめた。
「やあ、愉快」ガリオンは笑った。「ぼくの奥さんが蝶と接吻してる」
「キスしてもらうためなら、どんなことでもするわ」セ・ネドラは皮肉めかしてガリオンを見ながら答えた。
「それがきみのお望みのキスなら、ぼくがしてあげるよ」
「それはおもしろい考えだわ。いますぐお願い。もうひとりの恋人はもう興味をなくしちゃったようだから」彼女は蝶を指さした。蝶は池の岸のそばのしげみにふるえる翅を休めていた。
「キスしにきて、ガリオン」
「きみは水の一番深いところにいるんだぜ」
「だから?」
「出てくる気はなさそうだな」
「キスしてくれると言ったでしょ、ガリオン。なんにも条件はつけなかったくせに」
ガリオンはためいきとともにたちあがり、服をぬぎはじめた。「ふたりとも後悔することになるぞ」予言めかして言った。「夏風邪は数ヵ月はなおらないんだ」
「風邪なんかひかないわよ、ガリオン。さあ、いらっしゃい」
ガリオンはうめいてから、男らしく氷のような水にはいった。「きみは残酷な女だな、セ・ネドラ」あまりの冷たさにひるみながら、かれは妻を非難した。
「だらしないこと言わないで。こっちよ」
ガリオンは歯をくいしばって、大きな岩の上を爪先だって進みながら、セ・ネドラのほうへ水をかきわけていった。彼女のところにたどりつくと、セ・ネドラはつめたいぬれた両腕をかれの首にまきつけて、くちびるをおしつけてきた。それはためらうようなキスで、ガリオンはちょっと虚をつかれた。ガリオンはセ・ネドラのくちびるがぴんとはるのを感じた。キスの最中だというのに、どうやら彼女はにやりとしたらしい。そう思ったとたん、いきなり彼女が両足をうかせたので、ガリオンは重みで水中に沈みそうになった。
かれは悪態をつきながら水をはねかえした。
「おもしろかったでしょ?」
「そうでもないね」ガリオンはぶつぶつ言った。「おぼれるのはぼくの好きな遊びじゃないんだ」
彼女はそれを無視した。「もうずぶぬれなんだから、わたしと一緒に泳いだほうがいいわ」
かれらはそれから十五分ばかり一緒に泳ぎ、くちびるを紫色にしてふるえながら水からあがった。
「火をおこして、ガリオン」セ・ネドラが歯をカチカチ鳴らしながら言った。
「ほくち[#「ほくち」に傍点]も火打ち石も持ってこなかったよ」
「じゃあ、べつの方法でやって」
「べつの方法って?」ガリオンはぼんやり問い返した。
「ほら――」セ・ネドラは謎めかしたジェスチャーをした。
「あれか。忘れてたよ」
「いそいで、ガリオン。こごえそうだわ」
彼は小枝や落ちた枝を集めて、苔の上にスペースをつくると、たきぎの山に意志の力を集中した。最初に小さな巻ひげ状の煙があがり、やがてあかるいオレンジ色の炎が舌をのぞかせた。ものの数分とたたないうちに、セ・ネドラが肩をすぼめてふるえている苔におおわれた小山のすぐわきに、火がいきおいよく燃えはじめた。
「ああ、これでずっとよくなったわ」セ・ネドラは両手を火のほうへのばした。「あなたってそばにおいておくと役にたつひとね、閣下」
「恐縮です、レディ。服をお召しになったらいかがです?」
「体がかわくまでは遠慮しますわ。ぬれた肌の上にかわいた服をきるのは大嫌いなの」
「それじゃ、だれもこないように祈ろう。人に見られていい格好じゃないからね」
「あなたってずいぶん形式的なのね、ガリオン」
「そうらしいな」
「わたしの横にこない?」セ・ネドラは誘いをかけた。「こっちのほうがずっとあたたかいわよ」
さからう理由もこれといってなかったので、ガリオンは温かい苔の上にセ・ネドラとならんでねそべった。
「ね?」彼女は両腕をガリオンの首にまきつけた。「このほうがずっといいでしょう?」セ・ネドラはキスした――ガリオンの呼吸をとめ、心臓を高鳴らせるようなまじめなキスだった。
やっとのことで彼女が両腕をほどいたとき、ガリオンは神経質に空き地を見回した。水たまりの岸のそばでなにかが羽ばたいた。ガリオンは咳きばらいをして、ちょっとどぎまぎした顔になった。
「どうしたの?」
「あの蝶が見ているような気がしたんだよ」ガリオンはかすかに顔を赤らめて言った。
「だいじょうぶ」セ・ネドラはにっこりすると、両腕をかれの首に回して、またキスをした。
その年の春から夏にかけて、世界はいつになく静かに思えた。ヴォードゥ一族の脱退は、武装したミンブレイトの盗賊≠フ猛襲にあえなく失敗し、ヴォードゥ一族は最後には屈服して、平身低頭のすえに帝国への復帰を果たした。ヴァラナの税集金人を嫌っていたくせに、復帰後は通りへかけだして行って軍団兵を迎えるほどになった。
クトル・マーゴスからのニュースはよく言っても穴だらけだったが、どうやらそのはるか南の地域における事態は依然行きづまっているらしく、カル・ザカーズの率いるマロリー軍は平原を掌握し、ウルギットのマーゴ軍は山中深くこもっているようだった。
ドラスニア諜報局によってガリオンに回されてくる定期的報告によれば、ふたたび台頭しはじめた熊神教も、田舎をほっつきあるく程度のことしかしていないようだった。
ガリオンは危機が一時的に遠のいたのを喜んだ。さしせまった職務もなかったので、朝寝坊が好きになり、ときには日の出から二、三時間たつまで贅沢にベッドの中でうとうとしていることもあった。
真夏のそんなある朝、ガリオンはすばらしい夢を見ていた。セ・ネドラと一緒にファルドー農園の納屋の二階から、下に積まれたふかふかの干し草めがけて飛び降りる夢だ。妻がいきなりベッドからはねおきて隣りの部屋へかけこんだとき、ガリオンは目をさまされていささかぶぜんとした。隣りから激しく吐く音が聞こえてきた。
「セ・ネドラ!」ガリオンはベッドからとびおきて妻のあとを追った。「どうしたんだ?」
「吐いてるのよ」彼女は膝の上にかかえた洗面器から、青ざめた顔をあげて答えた。
「気分が悪いのか?」
「いいえ」彼女は皮肉っぽく言った。「楽しんでやってるの」
「医者を呼んでくる」ガリオンは部屋着をつかんだ。
「ほっといて」
「しかし吐いてるじゃないか」
「もちろんよ。でもお医者はいらないわ」
「それはおかしいだろう、セ・ネドラ。気持ちが悪いなら、医者が必要だ」
「気持ちが悪くなることになってるのよ」
「なんのことだ?」
「なんにも知らないの、ガリオン? 今後二、三ヵ月は毎朝気持ちが悪くなるはずなのよ」
「なんのことだかさっぱりわからないな、セ・ネドラ」
「どうしようもないほどにぶいのね。わたしみたいな状態の女性は朝気分が悪くなると相場がきまってるの」
「状態って? どういう状態?」
セ・ネドラはあきれかえったように目をぎょろりと上向け、かんでふくめるように言った。「ガリオン、去年の秋わたしたちがかかえていたあのちょっとした問題をおぼえていて? レディ・ポルガラを呼びよせる原因となった問題を?」
「ええと――ああ」
「やれやれ。でね、わたしたちのあの問題はもう解決したってわけ」
ようやく事の次第がのみこめたガリオンはまじまじとセ・ネドラを見つめた。「すると――?」
「そうなの、ディア」彼女は力なく微笑した。「あなたはおとうさんになるのよ。さあ、失礼するわ、また吐きそうなの」
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訳者あとがき
〈マロリオン物語〉の第一巻、いかがでしたか。すでに出版されている〈ベルガリアード物語〉全五巻にひきつづき、ふたたび波乱に富むストーリーをたっぷり堪能していただけたと思います。前シリーズ同様、このシリーズにも巻頭に懇切丁寧なプロローグがついていますから、はじめての方でもおおよその流れはおわかりになるでしょう。懇切丁寧と書きましたが、むろんこのプロローグ、どれもちょっとずつちがっています。同じ話を視点を変えて語っているあたり、どことなく新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を連想させて興味深いところです。
終わりそうで終わらないこの物語も、いよいよこのシリーズで大団円を迎えます。そのいわば序章とも言える本書のハイライトは、なんといってもセ・ネドラの懐妊でしょう。シリーズ当初はほんの少年だった主人公ガリオンがいよいよ父親になるわけで、月日の経つのは本当に早いものだと感心してしまいます。ところで、このガリオン、いったい何歳ぐらいになったとお思いですか。年齢が明示されているわけではないので、しかとはわかりませんが、本書の時点では二十五歳ぐらいではないか、とこれは訳者の想像です。ベルガラスは七千歳、ポルガラもそれと五十歩百歩として、それ以外のメンバーの年齢を想像するのも一興かもしれませんね。
さて、すでにお気づきのように、これは探索の物語です。〈ベルガリアード物語〉の第一巻から、終始主人公たちは何かを求めて旅をつづけます。ひとところに長居することはめったにありません。その間、さかんに風景や季節の移り変わりが描写されますが、これが一行を待ち受ける数々の試練を反映してか、雨、風、雪、みぞれ、はては暴風雨と、厳しい自然のオンパレード、旅に明け暮れるかれらが気の毒になってきます。
めでたくリヴァの王におさまり、セ・ネドラ皇女と結婚したガリオン(ベルガリオン)ですが、次の巻ではある悲劇的事件のためにふたたび探索の旅に出ます。かれに付き添うのはもちろんベルガラスをはじめとするおなじみの面々。ときおり変わる顔ぶれをのぞいて、物語の中核を成すこの人々の魅力なくしては、この長大なストーリーは気の抜けたビールも同然でしょう。挿入されるさまざまなエピソードのおもしろさも忘れてはなりません。ベストセラーの惹句ではないけれど、恋あり冒険ありで、あらゆるたぐいの寓話がそこに生きています。本書でセ・ネドラがようやく懐妊にこぎつけるまでの過程もなかなかに興味深いものでした。凍てついた庭に植えられた婚礼記念の二本の木、それをガリオンとセ・ネドラのふたりに見立てて、土をたがやし、特別の水をやる――生命の存続なくしては成立しない内容の物語だけに、この比喩的シーンは大変印象的です。
それにしても登場する女性たちは意気盛んです。ポルガラを筆頭に、意地っぱりのセ・ネドラ、冷静なリセル、前シリーズにも出てきたポレン王妃やアダーラなども、けっして男たちに唯々諾々と従うタイプではありません。ポルガラとベルガラス、ポルガラとダーニク、セ・ネドラとガリオン、リセルとケルダー、どの組合わせをとっても男たちは押され気味ですし、ガリオンが早くも尻に敷かれている事実は、みなさんお気づきのとおりです。悲劇によって幕をあけたこのシリーズがしめっぽくならずにいるのには、こうしたユーモラスな男女の描きかたも一役買っているようですね。
さて、このシリーズでは『予言書』の内容が俄然クローズ・アップされてきます。不倶戴天の敵であった竜神トラクを倒したことで、予言を現実のものとしたガリオンは、驚くべき別の予言を知って愕然とします。さらに、謎の少年エランドはふしぎな力を発揮して、いよいよもって謎めいた存在になってきます。ガリオンの味方であることだけはまちがいなさそうですが、その正体はなかなかあきらかになりません。熊神教をめぐる戦いや、トラク神を盲信するグロリムたちの暗躍、さらには悲劇的殺人や予言者たちの登場など、巻を追って興味の尽きない事件が続々登場します。どうぞご期待ください。
作者のデイヴィッド・エディングスは一九三一年生まれの五十九歳、四十二歳で作家としてデビューし、一九八二年に〈ベルガリアード物語〉の第一巻を書きました。邦訳では全十五巻にもなるこの長丁場をやすやすとのりきって、早くも、得意の魔術や騎士道精神を織り込んだ新作冒険ファンタジー The Diamond Throne を八九年に書き上げ、これもまたベストセラーとなりました。
底本:「マロリオン物語1 西方の守護者」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1990(平成2)年3月31日 発行
1993(平成5)年3月31日 四刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年2月 8日作成
2009年2月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語1 西方の守護者.zip iWbp3iMHRN 104,638,486 0d9b9a7c9f836ae1abe38c326041b484
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本130頁9行 グロデク
グロデグ
底本171頁2行 無踏室
舞踏室
底本182頁11行 官宦長
宦官長
底本183頁5行 ミュシュラク・アク・タール
ミシュラク