ベルガリアード物語5 勝負の終り
ENCHANTER'S END GAME
デイヴィッド・エディングス David Eddings
柿沼瑛子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)わが名の前に頭《こうべ》をたれ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎冬ごとに枝|角《つの》が抜け落ちる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そのつか[#「つか」に傍点]の上に置いた
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[#ここから4字下げ]
そして最後に
すべての頁をその手と心で触れ
この物語を作るにあたるだけでなく
すべてにおいてわたしに協力してくれた
わが最愛の妻リーへ
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
プロローグ
第一部 ガール・オグ・ナドラク
第二部 ミシュラク・アク・タール
第三部 マロリー
第四部 〈風の島〉
訳者あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
勝負の終り
[#改ページ]
登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………主人公の少年
セ・ネドラ…………………………………トルネドラの王女
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………鍛冶屋
シルク………………………………………ドラスニア人
バラク………………………………………チェレク人
ヘター………………………………………アルガリア人
マンドラレン………………………………ミンブレイド人
レルドリン…………………………………アレンド人
レルグ………………………………………ウルゴ人
タイバ………………………………………マラグ人
エランド……………………………………少年
アダーラ……………………………………ガリオンのいとこ
アリアナ……………………………………レルドリンの恋人
ブランド……………………………………リヴァの番人
オルバン……………………………………ブランドの息子
ブレンディグ………………………………センダリアの軍人
チョ・ハグ…………………………………アルガリア王
アンヘグ……………………………………チェレク王
フルラク……………………………………センダリア王
ローダー……………………………………ドラスニア王
ベルディン…………………………………魔術師
ヴァラナ……………………………………トルネドラの将軍
[#改丁]
プロローグ
この世の初め――そして終わりの物語
[#地から2字上げ]――『トラクの書』より抜粋《*》
アンガラクの民よ、わが声を聞け。わたしはトラク、主の中の主、王の中の王である。わが名の前に頭《こうべ》をたれ、祈りといけにえをもって仕えるがよい。なぜならわたしは汝らの神にして、アンガラク全土の支配者だからである。わたしを怒らせる者のうえには、大いなる天罰が下されるだろう。
わたしはこの世が始まる前よりあった。わたしは山々が細かい砂と化し、海がよどんだ水たまりとなりはて、世界が縮んで消滅した後も、依然この世にあり続けるだろう。なぜならわたしは時よりも前に存在し、また時よりも後に存在する者だからである。
ときを超えた久遠の彼方に、わたしは未来を見ることができる。そこには二つの運命があり、どちらも永遠の両極より、相手をめざして果てしなき回廊をひた走り続けている。いずれの運命も絶対不可避のものであり、互いが出会うとき、二つに分けられていたものはひとつになるだろう。その時こそ、かつてあったもの、現在あるもの、そしてこれからあらわれるものは、なべてひとつの目的のもとに合一されるのである。
透視によってこれらのことを見知ったわたしは、運命の要求するものを作り上げようと、六人の兄弟たちに働きかけた。こうしてわれわれは月を、太陽をそれぞれの軌道上に創造し、この世を作り上げた。われわれはこの世を森や草木でおおい、すでに作られていた大地や空や水をみたすために魚や鳥を放った。
だがわれわれ兄弟の父神は、わたしの提唱で作り上げた創造物にまったく興味を示されなかった。父神はきたるべき日に備えるわれわれの労働に、目もくれようとなされなかった。わたしはひとりで今はこの世にないコリムの高地に登り、わたしの作ったものを受け取られるようにと泣き叫んだ。だが父神はわたしの創造物を受け取られようとはせず、顔をそむけられた。わたしは心をこわばらせ、父神に見捨てられた気持ちで高みより下りた。
わたしは再び兄弟たちとはかり、われわれの意志の助けとなる人間を作り出すために、互いに協力しあうことにした。わたしたちはたくさんの数の人間を作り出した。そしてかれら一人一人にそれぞれの神をわれわれの中から選ばせることにした。かくして人間たちはそれぞれの神を選んだが、常に兄弟たちに反対し、われわれがその支配を認めないことを不満に思っていたアルダーを選ぶ者は誰ひとりいなかった。するとアルダーはわれわれ兄弟のもとを去り、その魔法により、われわれの民をたぶらかそうとした。だが、かれを受け入れる者はほとんどいなかった。
わたしの民は自分たちのことをアンガラク人と呼んでいた。わたしはかれらを大いに気に入り、今は亡きコリムの高地へ連れていった。そしてこの世をおこすもととなった、大いなる目的をかれらの前にあきらかにしたのである。
それ以後、かれらは祈りと焼いた供もつを捧げてわたしをうやまうようになった。わたしもまたかれらを祝福したのでアンガラクの民は栄え、その数はあまねく世に満ちた。かれらはわたしへの感謝のしるしとして祭壇を建立し、その最も美しい乙女と最も勇ましい若者の幾人かを、わたしへのいけにえとして捧げた。わたしは再び深い満足をおぼえ、かれらに祝福を与えたので、アンガラクの民は他に比べて驚くべき速度で増え続けることとなった。
いまやアルダーの心はわたしへの崇拝に対するねたみでいっぱいになり、ついにはわたしを深く恨むようにさえなった。かれは再びその心の奥深くでわたしに対する陰謀を企て、かたわらの石を取り上げるとそれに生命を吹き込み、わたしの目的を妨げようとした。そしてその石をもって、わたしを支配しようともくろんだのである。これが〈クトラグ・ヤスカ〉の由来である。その石にはわたしに対する、永遠に消えることのない敵意がこめられている。そしてアルダーはかれの弟子と呼ぶ者たちとともにわれわれ兄弟から離れて座り、石によって世界を支配することをひそかにたくらんでいたのだ。
わたしはこの呪われた石がわたしとアルダー、および兄弟たちとの間を引き裂いたことを知った。わたしはアルダーのもとにおもむき、どうか石よりその邪悪な魔法を取り除き、かれが吹き込んだ生命を消すようにと必死にいさめた。わたしがそうしたのも、これ以上アルダーを他の兄弟たちから孤立させないためだった。わたしはすすり泣き、かれの前にぬかずきさえしたのである。
だが邪悪な石はすでにアルダーの魂をもその支配下においていたので、かれは頑として心を開こうとはしなかった。その時わたしはアルダーの作り出したこの石が、永遠にかれをとりこにしてしまったことを知ったのである。加えてかれの口調はきわめて侮蔑的だったことが、わたしの心を駆りたてた。
わたしは心からの愛情と、透視によって見知った邪悪な道へ兄が引き込まれるのを防ぎたいがために、アルダーを殴り倒してその手より呪われた石を拾いあげた。わたしはクトラグ・ヤスカを離れたところに持ち去り、中に封じこまれた邪念をおさえつけ、それを生み出すもととなった敵意を鎮めるために、全精力を注ぎこんだ。わたしはこうしてアルダーの私恨が自ら作り出した重荷をかれから取り除いてやったのである。
しかるにアルダーはわたしに対して激怒した。かれは他の兄弟たちのもとへ行き、わたしのことを悪く言いふらしたのである。他の兄弟たちもまた一人ずつわたしのところへやってきては、きわめて侮蔑的な態度で、アルダーの魂をねじ曲げた石をわたしがせっかく取り上げたにもかかわらず、かれに返せと命じたのである。だがわたしは断固として拒絶した。
するとかれらは戦争の準備をはじめた。わたしの民を傷つけるための鉄の武器を鍛造する煙が黒々と空を覆い隠した。年が明けたとたん、かれらはアンガラクの地めざしていっせいに攻め入った。それぞれの軍の前には、わが兄弟らの姿がのしかかるように立ちはだかっていた。
それでもわたしはかれらに対して手を上げる気にはなれなかった。だがこのままわが民の地をむざむざ蹂躙させ、わたしを崇拝する民の血をむだに流すには忍びなかった。また、わたしと兄弟たちの戦いが、災厄しかもたらさないであろうこともわかっていた。この戦いが始まれば、わたしがかつて予見したふたつの運命が、然るべき時より早く双方から放たれ、全世界はその衝突のために引き裂かれることだろう。
そこでわたしは仕方なく、恐れていたことを行なうことにした。その方がわたしが予見した危険よりも災いが少ないと思われたからだ。わたしは呪われたクトラグ・ヤスカを手に取ると、それを地上高くかかげた。わたしの中には一方の運命の目的が、アルダーの作り出した石の中には、もう一方の運命の目的が封じこめられていたのである。過去、現在そして未来のあらゆる重みがわたしと石の上に降りかかったが、大地はその重みに耐え切れなかった。突然目の前で地面が真っぷたつに引き裂け、乾いた地表の上をまたたくまに海の波が押し寄せた。かくして人々もまたたがいに引き裂かれ、永遠に出会うことなく、血が流されることとなったのである。
だが、アルダーの石の中に封じ込められた敵意は、石を高々とかかげることによって世界を分かち、憎むべき流血を防ごうとしたわたしに炎を放った。恐ろしい石に向かって命令を与えたとたん、それは激しく燃えだしてわたしに襲いかかったのである。高くかかげていた一方の腕は焼けただれ、石を見つめていた片目は光を失った。わたしの顔の半分は火傷でそこなわれた。そして兄弟の中でもっとも美しかったわたしは、今や見るも忌まわしい者となり果てたのである。皆から避けられないために、わたしは生ける鋼の仮面で顔を覆わなければならなかった。
このような非道を受けたわたしの心は苦悶に満たされた。憎むべき石がその邪悪より解放され、かつまたその敵意を悔いあらためない限り、わたしの生より苦痛が消え去ることはない。
だがわたしの民と、かれらに敵対する者たちとの間には黒い海が横たわり、さしもの敵軍すらわたしの起こした奇跡をまのあたりにして恐怖のうちに逃げ帰ったのである。わたしの兄弟ですら、われわれの作り出した世界を見捨てて逃げ去った。かれらは二度とわたしに歯向かうことはなかった。それでも兄弟たちとその手下の霊たちは、わたしに対する陰謀をやめなかった。
やがてわたしは自分の民をマロリーの荒れ地にうつし、隔離された場所に巨大な都市を造らせた。わたしの耐え忍んだ苦痛を忘れないために、かれらはその都市をクトル・ミシュラクと名づけた。そしてわたしはその地を永遠に晴れることのない雲で覆って見えなくしたのである。
次に鉄製の樽を鍛造させ、その中にクトラグ・ヤスカを封じ込め、生あるものを破壊する力が二度と発散されることのないようにした。千年たち二千年がたったが、わたしはアルダーが石の中にこめた敵意の呪いをとこうと、けんめいに骨を折り続けていた。この頑固な石に注ぎこまれた、わたしの魔法や力の言葉は膨大な量にのぼった。それでもなおわたしが近づくたびに、石はその邪悪な炎を発し、わたしは依然その呪いが世界に満ちていることを感じた。
そうしているうちに兄弟の中でもっとも若く無分別なベラーが、いまだわたしへの妬みと憎しみの心を捨て去らないアルダーと、良からぬ陰謀をめぐらしはじめた。ベラーはその粗野な民アローン人に、わたしに対する軍を起こすよう神託で命じた。またアルダーはかれの悪意にもっとも毒された弟子ベルガラスにも、かれらに加わるよう命じた。そしてベルガラスの悪辣な助言は、アローン人の長《おさ》であるチェレクとその三人の息子たちをも抱きこんだのである。
かれらは邪悪な魔術により、わたしが作りあげた海の障壁を渡り、まるで泥棒のように夜陰に乗じてクトル・ミシュラクにやってきた。そしてこそこそと卑屈な策略をもってわたしの鉄の塔に忍び込み、邪悪な石の収められた樽の前にたどりついた。
〈鉄拳〉リヴァと呼ばれるチェレクのもっとも年若い息子は、呪術や魔法に長じ、邪悪な石を高々とかかげても、その肉体は滅びることはなかった。かくしてかれらは石と共に西へ逃げ去ったのである。
わたしは再びクトラグ・ヤスカの呪いが大地に解き放たれることのないよう、兵をひきいてかれらの後を追った。だがリヴァと呼ばれる者は高々と石をかかげ、その邪悪な炎をわが兵の上に放った。かくして盗っ人どもはまんまと逃げおおせ、邪悪を封じこめた石を西の地へ運び去ったのである。
わたしは自分の民を逃がしておいてから、クトル・ミシュラクの巨大な都を打ち壊した。そしてアンガラクの民をいくつかの部族に分けた。まず盗っ人どもが入り込んできた北を警護するためにナドラク人を置いた。巨大な重荷に耐えうる広い背中を持つタール人は真ん中に配置した。そしてわが民のなかでもっとも勇猛なマーゴ人たちを南へ置いた。残った大半の者たちは、わたしに仕え、また西に対して兵を起こす場合にそなえて日々数を増やすために、マロリーにとどめ置いた。
そしてかれらの上にわたしはグロリムを置き、魔法と妖術を教え、わたしに仕える僧侶となし、他の者たちの献身の度合いを監視させることとした。そしてまた焼いた供もつがわが祭壇に献じられ、いけにえの絶えることのないようにとの指示を与えた。
そうしている間にもベルガラスは悪辣にも、〈風の海〉にある島を支配させるためにリヴァを派遣した。そしてベラーは天よりふたつの星を地上に落とした。リヴァはこれらより剣を鍛造し、クトラグ・ヤスカをそのつか[#「つか」に傍点]の上に置いた。
そしてリヴァがそのつか[#「つか」に傍点]を握ったとき世界は再び揺れ動き、とつじょ目の前に透視があらわれ、それまで隠されていたものをあらわにしたので、わたしは叫び声をあげた。わたしはベルガラスの娘である女魔術師がわが妻になるのを見て、大いに喜んだ。だが同時にリヴァの胎より生まれでた〈光の子〉をも見た。かれはわが目的を達するための運命に敵対する、もう一方の運命の手先であった。そしていつの日か、わたしは長い眠りより目覚めて、〈光の子〉の剣と対決しなければならない。ふたつの運命が激突する日こそ、ただひとりの勝者と未来の運命が決するときなのだ。だがどちらが勝ち残るのかまでは明らかにされなかった。
わたしは長いことこの透視について考えてみたが、それ以上何も得るところはなかった。そうこうしているうちに再び幾千年が過ぎ去っていった。
ある日わたしは賢く公正な男ゼダーを呼び寄せた。すでにかれはアルダーの邪悪な教えから逃れて、わたしに仕えたい旨を申し入れていた。わたしは早速かれを西の湿原に住む蛇人たちのもとにつかわした。蛇人らの神はイサといったが怠惰で眠ってばかりいたので、かわってかれの女王がニ・イサンと名乗る蛇人たちを支配していたのである。そこでゼダーはいくつかの申し出を行ない、女王をいたく喜ばせた。彼女はただちに使者に化けた暗殺者を、リヴァの子孫の宮廷にさし向けた。かれらは首尾よくリヴァの血筋を引く者たちすべてを殺戮した。ただしたったひとりの子供だけは、海に身を投げて溺死する道を選んだ。
だがこれより先はわたしの透視も惑わされてしまうのである。かれを産む者がいないのに、どうやって〈光の子〉はこの世に現われ出るというのだろうか。
それゆえにわたしはわが目的がいずれ果たされ、さしもの邪悪なアルダーとその兄弟たちもわたしの国に何の手出しもできまいと考えた。
邪悪な神々と魔術師による邪言と偽りの勧告に耳傾けた西の王国は、いずれ灰燼と帰すだろう。そしてわたしは、わたしを否定し、おとしめようとした者たちを略奪し、かれらの苦痛を倍加させてやるのだ。かれらは皆おとろえ果て、わたしの前に頭《こうべ》を垂れて、その身をわが祭壇のいけにえとして捧げるであろう。
そしていつの日かわたしの統治と支配が全地球におよび、すべての民がわがものとなる日がくるであろう。
それゆえに人々よ、わが声を聞き、恐れるがよい。わたしの前に頭《こうべ》をたれ、わたしを崇めよ。なぜならわたしはトラク、永劫にわたる王の中の王、主の中の主であり、わたしの作り出した世界の唯一の神だからである。
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
* 編者注:ここに述べられた一文は、恐るべき『トラクの書』として、ナドラク人たちのあいだに流布しているものである。グロリムのきわめて高僧のみ持つことを許されていたものなので、ここに抜粋した一文が典拠あるものか立証することはできないが、記述のなかには多くの信ずべき内的証拠があるという。『トラクの書』の完全な写本はチェレクのアンヘグ王の図書館にあると伝えられているが、ここではその真偽をたしかめることはできなかった。
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第一部 ガール・オグ・ナドラク
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1
ラバのベルの音にはどこか悲しげな響きがあると、ガリオンは思った。もともとあまり可愛げのある動物でないうえに、その独特な歩みが首から吊りさげられたベルの音に、どことなく陰うつな響きを与えていた。これらのラバは皆、マルガーという名のドラスニアの商人のものだった。緑色の胴衣に身を包んだひょろ長い、冷酷な目つきの商人は、高い報酬につられてガリオンとシルクとベルガラスを、ガール・オグ・ナドラクに向かうかれの隊商に加えたのだった。マルガーのラバは交易品を山と積み、本人は荷物を満載したラバと同じくらいの偏見と先入観を、背負っているようだった。シルクと裕福な商人は初めて出会ったときから、たがいに相手を毛ぎらいしていた。ドラスニアとナドラクの国境の特徴となっている、ごつごつした峰峰につづく、起伏の多い荒野を東に向かう道すがら、シルクはこの同郷人をわざと意地悪くからかっては喜んでいた。二人の口論寸前のやりとりは、ラバの単調なベルの音と同じぐらい、ガリオンの神経をいらだたせた。
ガリオンのいらだちには、きわめて特別な原因があった。かれは怖かったのだ。こればかりはいくら顔をそむけようとしても無駄だった。ムリン古写本の神秘的な言葉がそれを詳細に物語っていた。かれは今、ときの始まりより決められていた対決に向かう途上にあり、それを避けることは何としても不可能だった。この対決はひとつではなく、ふたつの異なる予言の最終結果であり、たとえその一方が間違っていたと言いきかせることができたとしても、もう一方によってガリオンの感情などいっさいおかまいなく、戦いへ押しやられることになる。
「どうやらきみはわかっていないようだがね、アンバー」マルガーは、心底から嫌っている人間に見せる、とげを含んだきちょうめんさでシルクに言った。「わたしに愛国心があろうとなかろうと、そんなことはいっさい関係ない。何といってもドラスニアの繁栄は交易にかかっているのだし、きみらのような外務省の人間たちが商人を隠れみのに活動しようというのなら、真のドラスニア人は遅かれ早かれ、どこの国からも歓迎されなくなるだろうよ」マルガーはドラスニア人特有の洞察力によって、シルクの正体をたちどころに見破っていた。
「おいおい、マルガーくん」シルクはわざとらしく陽気な声を出した。「何もそう深刻ぶることもないだろう。今日び、どこの国だって同じような隠れみのを使って情報活動を行なってるんだぜ。トルネドラ人しかり、マーゴ人しかり、あのタール人だってそうだ。わたしにいったいどうしろって言うんだい。胸にスパイ≠ナございますと看板をぶらさげて歩けとでも言うのかい」
「率直に言わせてもらえば、きみが何をしようといっさい関心はない」マルガーは険しい表情でやりかえした。「ただわたしはどこへ行っても、人々からじろじろ監視されることに、いいかげんうんざりしたと言いたいのだ。それというのもきみたちが信用できるような人間ではないからだ」
シルクは無遠慮ににやりと笑って肩をすくめてみせた。「それが世のならいというものさ、マルガー。きみも早く慣れておいた方がいいぞ。これからもそいつが変わることはないだろうからな」
マルガーはどうしようもないといった表情で、ネズミのような顔の小男をにらんでいたが、ぷいと背を向けると、自分のラバの列に戻っていった。
「今のはやり過ぎではないかね」ベルガラスは乗り物の上でいつものようにまどろんでいたが、首をもたげて言った。「やっこさんをあんまり怒らせたら、しまいには国境警備兵に密告されかねん。そんなことになったらいつまでたってもガール・オグ・ナドラクへなど着かんぞ」
「マルガーは口をつぐんでいますよ、ご老人」シルクが安心させるように言った。「もしそんなことをすれば、やっこさんだって取り調べのために足止めをくらいますからね。積み荷の中に少しばかりちょいとした品物を隠していない商人なんぞ、今日びどこを向いたっていやしませんよ」
「ならば、なぜやつをほうっておいてやらんのかね」ベルガラスがたずねた。
「いい暇つぶしになるもんでね」シルクは肩をすくめながら答えた。「さもなけりゃ、おもしろくもない風景を眺めてなくちゃならない。東ドラスニアは退屈でね」
ベルガラスは不機嫌なうなり声をあげると、灰色の頭巾をかぶり、再びまどろみに落ちた。
ガリオンの心はふたたび暗然たる思いに閉ざされた。起伏の多い荒野を覆うハリエニシダの茂みが風景にいっそう陰うつな色を与え、ほこりっぽい〈北の隊商道〉が白い傷あとのようにうねりくねっていた。空はもう二週間ちかく雲で覆われていたが、いっこうに雨の降りだす気配はなかった。隊商は地平線高くそびえる険しい山々につらなる、荒涼とした影のない世界をとぼとぼと進み続けていた。
ガリオンの心をいらだたせていたのは、すべてが道理にかなっていないことだった。何ひとつとしてかれが望んだことではなかった。かれは魔術師などになりたくなかった。リヴァの王になどなりたくなかった。今となっては本当にセ・ネドラ王女と結婚したかったのかさえ、あやしかった――とはいえ、この点に関してはふたとおりの考えがあった。小さな王女は――特に彼女が何かをほしがっているときは、この上もなく魅力的だった。だがそれ以外のとき、つまり何もほしがってはいないときは、彼女の本性があらわれた。それを考えれば、ある種のあきらめをもって前途に待ち受ける運命を、おとなしく甘受した方がましなように思えた。どちらにせよ、ガリオンには逃げ道はないのだ。かくしてかれは何も知らぬげな空に向かってたずねずにはいられなかったのだ――「なぜ、ぼくが?」と。
まどろむ祖父のかたわらにくつわを並べるかれの伴侶は、つぶやくような〈アルダーの珠〉の歌しかなかった。だがそれすらも今のガリオンにとってはいらだちの種だった。背中にくくりつけられた巨大な剣のつか[#「つか」に傍点]におさまった〈珠〉は、ほとんど盲目的な熱意をもって、くり返し歌いかけていた。〈珠〉にとっては、きたるべきトラクとの戦いは喜ばしいことなのかもしれないが、アンガラクの竜神とじっさいに対決しなければならないのは、ガリオンなのだ。そしてじっさいに血を流さなければならないのもガリオンなのである。〈珠〉の変わらざる上機嫌は――これらすべてを考えあわせてみれば――控え目に言っても、たいそうさもしい精神だと言わざるを得ない。
〈北の隊商道〉をまたぐようにして、ドラスニアとガール・オグ・ナドラクの国境があった。岩のごつごつした山道の双方にドラスニアとナドラクの守備隊が、一本の横木をわたしただけの簡単な遮断機をはさんで配置されていた。遮断機それ自体は、さほどの効果があるようには見えなかった。だが象徴的な意味において、それはボー・ミンブルやトル・ホネスの城門よりも、はるかに威嚇的な効果を持っていた。国境のこちら側は西の国々であり、向こう側は東の国々だった。一歩ここをまたいだら、そこはまったく別の世界なのである。ガリオンはその一歩を踏まずにすむことを心から願わずにはいられなかった。
シルクの予言したとおり、マルガーは自分の疑念をドラスニアの槍兵にも、ナドラクの革衣の兵にもしゃべらなかった。一行はさしたる支障もなくガール・オグ・ナドラクの山地に足を踏み入れた。国境を越えるやいなや、隊商道はとうとうと流れ落ちる沢の横を走る、急峻な狭い峡谷の道に変わった。両側の切り立った岩壁は黒々としており、一行にのしかかってくるかと思われた。頭上にのぞく空は汚れた灰色のリボンのように細長くのびていた。岩壁にこだまするラバの首のベルの音が、轟音たてて流れ落ちる水音に唱和した。
ベルガラスは目を開け、油断怠りなくあたりを見まわした。老人はシルクに口をはさまぬよう、警告の視線を投げかけてから、おもむろにせき払いした。「世話になった礼を言わせてもらおう、高潔なマルガーよ。おまえたちの取引がうまくいくように祈っとるよ」
マルガーは問いただすような鋭い視線を、老魔術師に向けた。
「この小峡谷で別れようと言っておるのだよ」ベルガラスは愛想のよい表情を浮かべ、こともなげに言ってのけた。「わしらの行く先はそちらではないのでな」老人はあいまいな身振りをしてみせた。
マルガーはうなり声をあげた。「わたしにはいっさいかかわりのないことだ」
「むろん、そうだとも」ベルガラスは安心させるように言った。「それからアンバーの言ったことをあまり深刻に受け取ることはないぞ。やつは少しばかりつむじ曲がりでな、いつも考えていることとは裏腹なことをしゃべるのだ。そうやって人をいらいらさせるのが好きなのだ。だがいったん知り合えば、それほどいやなやつじゃないこともわかってくるさ」
マルガーは険を含んだ目で、シルクをじっと見つめたまま、何も言わなかった。「あんた方の仕事が何であれ、そいつがうまくいくことを祈る」商人は善意からというよりは、あきらかに社交辞令とわかる口調で言った。「あんたとその若者はなかなか悪くない旅の友だった」
「いやいやお礼を言わねばならんのはわたしたちの方さ」シルクがめいっぱい皮肉っぽく答えた。「きみのご親切はこの上もなく身にしみたよ」
マルガーは再びじろりとシルクを見た。「はっきり言ってわたしはおまえが大嫌いだ」商人はぶっきらぼうな声で言った。「だから、いいかげんやめにしようじゃないか」
「いやあ、そいつは残念だなあ」シルクはにやにやしながら言った。
「もうそれくらいにしておけ」ベルガラスが不機嫌な声を出した。
「わたしはこの男に気に入られようと、精一杯がんばったんですがね」シルクが抗議した。
ベルガラスは何も言わずに、背を向けた。
「なあ、ずいぶん努力したよな」シルクはいかにもきまじめそうな表情を目に浮かべて、ガリオンの方を向いた。
「ぼくにはそうも思えないよ」ガリオンは答えた。
シルクはため息をついた。「どうせ誰もわかっちゃくれないのさ」それから小男は笑い声をあげると、楽しげに口笛を吹きながら小峡谷をのぼり始めた。
小峡谷の頂にたどり着いたところで三人はマルガーと別れ、隊商道を左にはずれた、石ころの多いねじけた樹木のはびこる道に入った。一行はごつごつした山稜の頂上に立ち、のろのろと進んでいくラバの行列が見えなくなるまで待った。
「これからどこへ行くんですか」シルクが頭上高く飛び去る雲を、顔をしかめながら見上げた。
「てっきりヤー・グラクに向かうんだと思ってましたよ」
「そのとおりさ」ベルガラスはあご髭をかきながら答えた。「だがいったん大きく迂回して、反対側から町へ入ろうと思う。マルガーといっしょに旅するのは、いささか危なっかしいからな。やつはとんでもないときに、うっかり口をすべらしかねない。ところでその前にわしとガリオンとでやっておかねばならんことがある」老人はあたりを見まわした。「あそこがいいだろう」かれは山稜の反対側に隠された、なだらかな緑の谷間を指さした。老人は一行の先頭にたって谷間に駆けおり、馬から降りた。
シルクはかれらの荷馬をまとめ、小さな泉の水たまりに連れていき、枯れた切株につないだ。
「いったいここで何をするんだい、おじいさん」ガリオンは鞍からおりながらたずねた。
「おまえのその剣は少しばかりめだちすぎるのでな」老人はかれに言った。「道中行き交う人人に、いちいち聞かれて答えるのがいやなら、何とかしなければならん」
「それじゃ、見えないようにしようっていうんですか」シルクが胸ときめかせた声でたずねた。
「まあ、ある意味ではそうだ」ベルガラスは答えた。「おまえの心を〈珠〉に向かって開くのだ、ガリオン。やつにしゃべらせるままにしておけ」
ガリオンは顔をしかめた。「どういうことなのか、よくわからない」
「心を落ち着ければよい、あとは〈珠〉の方でやるさ。やつはおまえにたいそう夢中だから、よけいな思いつきをさせないためには、あまりかまわん方がいい。やつの現実に対する認識はひどく限られておるのだ。心をじっと落ち着けて、流れるがままにするがよい。わしがやつに話しかけるには、おまえを通すしかないのだ。やつはおまえ以外の何者にも耳を傾けんのでな」
ガリオンは木にもたれかかった。そのとたん、かれの心はあらゆる奇妙なイメージで満たされた。それらのイメージを通して見る世界は、かすかに青くもやがかかっていた。すべての物が、まるで平たい平面と水晶の尖ったかけらでできているかのように角ばって見えた。炎を吹く剣を手にして、行く手に逃げまどう顔のない兵士たちの大軍を蹴ちらしながら、全速力で疾駆するかれ自身の姿がありありと浮かんで見えた。そのときベルガラスの鋭い声が聞こえた。
「やめろ」その言葉はかれにではなく、〈珠〉に向かって発せられたものだった。老人の声はほとんどつぶやきに近いものになり、何かを教え、説明しているような口調になった。それに対して水晶の意識は、最初いくぶんかすねているようすだった。だがやがて何らかの合意に達したらしく、突然ガリオンの意識からもやが晴れた。
ベルガラスはうんざりしたように頭をふった。「ときどき、聞き分けのない子供相手にしゃべってるような気分になる」とかれは言った。「やつには数の概念というものがまったくないし、危険という言葉の意味すらわかりゃしないんだからな」
「でもまだ剣はそこにありますよ」シルクがいくぶんか失望したような声で言った。「わたしの目にはまだ見えます」
「それは、おまえがそこにあることを知っとるからだ」ベルガラスが説明した。「だが他の連中は見過ごしてしまうだろう」
「こんな大きなしろものをどうやって見過ごすというんですか」シルクが反駁した。
「説明すればひどくややこしいのだがな」ベルガラスは答えた。「〈珠〉は自分の姿、もしくは剣が見えないように、他の人々の心に働きかけるのだ。気をつけてよく見れば、確かにガリオンが何かを背負っているのはわかるかもしれないが、それが何であるかを調べる気にはならないのさ。じっさいのところ、ガリオンの姿にすら気づかない者もおるだろうて」
「つまりガリオンの姿は目に見えぬということですか」
「いいや、しばらくのあいだ人目をひかないというだけのことだ。さあ、そろそろ出発しようではないか。山では日が暮れるのが早いからな」
ヤー・グラクはガリオンがかつて目にした中で、おそらくもっとも醜い町だった。濁った黄色い小川の両側には集落が並び、水が丘陵を削りとってできた掘割りにそって、ぬかるみだらけの舗装されていない道が、急な角度で走っていた。町の下の掘割りの両側には、草木一本生えてはいなかった。山腹に向かって何本かの竪坑と、巨大な洞穴が口を開けている。掘削から涌きでた水が、濁った流れとなってちょろちょろと落ち、黄色い小川をいっそう汚していた。町全体にどことなくにわか仕立のような雰囲気があり、建物もまた間に合わせに作られたような感じがした。ほとんどの家々は、丸太と加工されていない石で建てられ、中のいくつかは防水布をかけて仕上げられていた。
通りは痩せぎすな、浅黒い顔をしたナドラク人であふれ、大部分はあきらかに酔っ払っていた。三人が町に足を踏み入れたとたん、居酒屋のドアの前でひどい喧嘩が起こった。おおよそ二十人あまりのナドラク人たちが、相手の意識を失わせ、あわよくば片端にさえしようと、いっせいにぬかるみの中で取っ組みあいをはじめ、かれらはしばらく足止めをくうはめになった。
太陽が沈む頃、一行はぬかるんだ町のはずれに宿を探しあてた。大きな四角い建物は、一階が石、二階が丸太で建てられ、後部には馬小屋がついていた。三人は馬を小屋に入れ、一夜の宿を頼むと、夕食をとるために納屋のような社交室に向かった。社交室のベンチはいささか不安定で、テーブルの上は油でぎとぎとして、パンくずやこぼれた食物が散らかっていた。鎖で吊りさげられた石油ランプはぶすぶすと燻り、キャベツを料理する匂いがむっとあたりにたちこめていた。その部屋では、あらゆる国々から来た商人たちが、いちように夕食をしたためていた――目をしょぼしょぼさせた男たちは、同国人同士で緊密なグループを作り、まわりに不信の壁をはりめぐらしていた。
ベルガラス、シルク、それにガリオンは、空いたテーブルの前に座り、油で汚れたエプロンをしたほろ酔いかげんの給仕が運んできた、木製の鉢に入ったシチューを食べた。三人が食事を終えると、シルクが騒々しい酒場につづく戸口をちらりと見て、ベルガラスにもの問いたげな視線を向けた。
老人は頭を振った。「やめておいた方がよかろう」とかれは言った。「ナドラク人は興奮しやすい性質だし、連中は今のところ西の国々と緊張関係にある。何も好きこのんで騒ぎを起こすこともあるまい」
シルクは不承不承うなずき、かれらの泊まる部屋に通じる、宿屋の後ろの階段を上りはじめた。ガリオンは流れ落ちるろうそくを高くかかげ、壁に押しつけられた、丸太で組まれた寝台を疑わしそうな目でながめた。寝台のスプリングはロープを張りめぐらしただけのもので、ごつごつして不潔そうに見えた。階下の酒場から聞こえてくる音はやかましく、喧噪に満ちていた。
「これじゃ、今晩はあまり眠れそうもないね」とガリオンは言った。
「こんな炭鉱の町じゃ、農村と同じわけにはいかないさ」とシルクが答えた。「農民たちはたとえ酔っ払っていたとしても、いくらかの礼儀は守ろうとする。だが、鉱夫は酔っ払うとおおむね、ますます乱暴になるのさ」
ベルガラスは肩をすくめた。「もう少しすれば静かになる。連中は真夜中になるよりはるか前に酔いつぶれるだろう」老人はシルクの方を向いた。「明日になって店が開いたらすぐに、別の衣服を買ってきてほしい――できれば、古着がいいだろう。金鉱探しの連中と同じ格好をしていれば、誰もわれわれにいちいち注意を払ったりしない。つるはしと、岩石用ハンマーを何個か用意するといい。予備の馬にくくりつけて、わざと目につくようにするのだ」
「前にも経験があるような口ぶりですね」
「こんなことはしょっちゅうさ。なかなか手軽な変装でな。だいたい、金鉱探しの連中は変わった手合いが多いから、変な場所に姿を見せようと人々は気にもとめないのだ」そう言って老人はくつくつと笑いをもらした。「それに一度本当に金を探しあてたこともあるぞ。おまえさんの腕の太さほどもある金脈をな」
とたんにシルクの顔がぱっと輝いた。「そいつはどこですか」
ベルガラスは肩をすくめた。「さあな、そこいらのどこかさ」老人は漠然とした方をさしながら言った。「もうはっきりとは覚えておらん」
「それはないですよ、ベルガラス」シルクの声は苦痛に満ちていた。
「よけいなことに気を取られるんじゃない」ベルガラスは小男をたしなめた。「さあ、そろそろ寝《やす》もうではないか。明日はできるかぎり早くここを発《た》ちたい」
何週間にもわたって空を覆い隠していた曇天は、夜中のうちにすっかり吹き払われたようだった。ガリオンが目覚めてみると、朝陽の黄金色の光が汚れた窓ごしにさんさんと降り注いでいた。ベルガラスは部屋の反対側にある粗末なテーブルの前に腰をおろして、羊皮紙の地図をじっとのぞきこんでいた。シルクはすでに出かけたあとだった。
「まったく、ほっておけば昼すぎまで寝てるのではないかと思ったぞ」起き上がって伸びをするガリオンを見ながら老人は言った。
「だってよく眠れなかったんだよ。階下がやかましくて」
「ナドラク人は皆そうだ」
突然、ガリオンの頭に浮かんだことがあった。「ポルおばさんは今頃どうしてるだろう」
「たぶん眠っておるだろうよ」
「こんな時間まで寝てやしないよ」
「ここは、あいつのいる場所よりも時刻が早いのだよ」
「よく意味がわからない」
「リヴァはここから千五百リーグも西にあるのだ」ベルガラスが説明した。「太陽が上るまでにはあと何時間もかかることだろう」
ガリオンは目をぱちぱちさせた。「そんなこと考えつきもしなかった」
「そんなことだろうと思ってたさ」
突然ドアが開き、いくつかの包みを抱えたシルクが憤慨した顔で入ってきた。かれは包みをその場に投げ捨てると、ぶつぶつ罵り言葉をつぶやきながら、足音も荒々しく窓辺に歩み寄った。
「いったい何をそう興奮しとるのかね」ベルガラスが穏やかにたずねた。
「とにかくこいつを見てくださいよ」そう言いながらシルクは老人に向かって、一片の羊皮紙をふり回してみせた。
「いったい何事だ」ベルガラスは羊皮紙を引ったくって、目を落とした。
「とうの昔にけりがついてたはずなんですよ」シルクはいらだたしげな声で言った。「それなのにこれはいったいどういうことなんですか。こんなものがまだ流布してるなんて」
「この人相の描写はなかなかおもしろいじゃないか」ベルガラスが言った。
「そいつを見たんですか」シルクはひどく傷ついたような声を出した。小男はガリオンの方を向いた。「わたしの顔が、イタチなんぞに似てると思うかね」
「――ぶさいくな、イタチのような顔」ベルガラスが読み上げた。「こそこそした目つき、長い尖った鼻。サイコロ賭博で名うてのイカサマ師」
「もういいかげんにやめてくださいよ」
「いったい、どういうことなんだい」
「いや、昔、その筋とちょっとした誤解があってね」シルクは小馬鹿にしたような口ぶりで説明した。「だが実際たいしたことじゃないんだよ。なのに連中はいまだに手配書を出しているらしくてね」小男は羊皮紙におもしろそうに見入っているベルガラスを、怒ったような目で見ながら言った。「おまけに賞金までかけられてしまったんだ」かれはそう言って、しばし考えているようだった。「まあ、もっとも賞金額はここのところずっと横ばい状態だが」
「わしが言ったとおりのものを全部そろえたかね」
「むろんですとも」
「それではおまえさんの思いがけない名声が人目を惹く前に、着替えようではないか」
着古したナドラク人の衣服――ぴったりした黒いズボンに、体を締めつけるベストに、短い袖の麻製の長衣だった――は、ほとんど革で作られていた。
「やつらの長靴ははかない方がいいと思うね」シルクが言った。「ナドラク人の長靴はひどくはきにくいんだ。まあ、これも連中が右足と左足の区別なぞ、生まれてこのかた考えたこともないからだろうがね」小男はフェルト製の帽子をいきにかぶってみせた。「どんなもんだね」かれは気どったポーズをつくりながらたずねた。
「それならイタチには見えんだろう、なあ?」老人はガリオンにたずねた。
シルクはむっとした視線を送ったが、何も言わなかった。
一行は階下に降り、宿屋の裏手にある馬小屋から馬を引き出して、飛び乗った。ヤー・グラクを出る頃になっても、シルクは相変わらずふくれっつらをしていた。町の北にあたる小高い丘の上にさしかかったとき、小男は馬から滑り降りた。そして石を拾いあげると、眼下に密集する建物めがけて、思いっきり投げつけた。
「少しは気が晴れたかね」ベルガラスがおもしろそうにたずねた。
シルクはふふんと鼻を鳴らすと、再び馬に乗り、先頭にたって丘の反対側を駆けおりはじめた。
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2
続く何日か、一行は石とねじけた樹木の広がる原野を歩み続けた。日を追って、陽ざしはますます暖かくなり、雪をかぶった山々の奥へわけいる三人の頭上で、空はどこまでも青く澄み切っていた。山の上には、いくつかの踏み跡があった。小径はまばゆいばかりの白い峰々の間を、そしてまたヒマワリの花が風にそよぐ淡い緑の草地を縫うようにして、勝手きままに曲がりくねっていた。空気は常緑樹の樹脂の香りに満ち、びっくりしたような大きな目をした鹿が、脇をすり抜け、あるいはじっとたたずんで見つめていることもしばしばだった。
ベルガラスは確信に満ちた足取りで、おおむね東をさして進み続けた。老人はきびきびと油断怠りなく気を配っていた。もっとはっきりした、道らしい道を通っているときの、なかば居眠りめいたようすは跡形もなかった。それどころか山に入った老人は若々しくさえ見えた。
一行は他の旅人にも出会った。ほとんどは革衣のナドラク人たちだったが、急峻な山道を苦労しながら登っていくドラスニア人の一行を見かけたことがあった。一度など、遠目にではあるが、あきらかにトルネドラ人とわかる人々を見たこともあった。旅人同士の挨拶はきわめて簡潔に、だが用心深く行なわれた。ガール・オグ・ナドラクの山中は、じつにおおざっぱな警備しかなされていなかったので、誰であれ、そこを通る者は自分の身を守る心構えが必要だった。
この不信に満ちた沈黙の唯一の例外は、ロバに乗ったおしゃべり好きな金鉱探しの老人だった。男はある朝、樹木の青みがかった影の中からこつ然とあらわれた。老人のもつれあった髪の毛は雪のように白く、着衣ときたらおよそちぐはぐで、どうやら道すがらに捨てられてあった衣服を拾ったものらしかった。その陽に焼けたしわだらけの顔は、よくなめされた古い獣皮のように風雨にさらされていたが、青い目は陽気に輝いていた。かれは一言の挨拶もしなければ、自分が迎えられることについて一片の疑いも抱いていないようすで、中断されたばかりの会話を再開するかのごとくしゃべり始めたのである。
老人の声と仕草にはどこかひょうきんなおかしさがあり、ガリオンはたちまち話に引きこまれていた。
「わしがこの道を通ったのは、かれこれ十年以上も昔のことじゃ」ロバに乗った老人は身を揺すらせながら、ガリオンの隣に並んだ。「もうこの辺の山にくることはめったにないがね。ここいらの川床は少なくとも何百回もさらわれておるからな。おまえさんたちはどこへ行くんだね」
「ぼくにはよくわからないんです」ガリオンは注意深く答えた。「ここへ来たのは初めてなので、皆のあとについてるだけですから」
「北へ行けばもっといい砂礫層があるぞ」ロバに乗った老人は言った。「モリンドランドの近くにな。むろん慎重にせねばならんだろうが、ほれ、よく言うように、危険のないところに利益はないというからな」そう言ってかれはしげしげとガリオンの顔をのぞきこんだ。「おまえさんはナドラク人ではないな?」
「センダー人です」ガリオンはそっけなく答えた。
「センダリアなんぞ行ったこともない」老金鉱探しは思いにふけっているようだった。「それどころかどこへも行ったこともないのさ。この山々以外にはな」老人は雪をかぶった峰々と、濃い緑の森を変わらぬ慈しみをこめた目で見やった。「どこかへ行こうなどという気にはおよそならなかった――ここを除いてはな。わしはこれらの山々を七十年ものあいだ、隅から隅までつつき回ったが、実入りらしきものはちっともなかったぞ。ここにいるという喜びを除いてはな。一度だけ川で金の鉱床を見つけたことがあったが、何せまじりっけなしの真っ赤な金だったので、まるで血が流れているように見えたものだ。だがそこで冬将軍に妨げられてな。凍死寸前のところを命からがら逃げてきたものさ」
「でも春になってからそこへ行かなかったんですか」ガリオンはそう聞かずにはいられなかった。
「むろん行こうとしたさ。だが、その冬わしはしこたま酔っ払っておってな――なにしろふところが暖かかったもんで。そうでなくとも飲みすぎは人の脳みそを腐らせちまう。次の年、わしは酒樽を供にまた山を登った。だがそいつがそもそものまちがいだった。山に入ると酒はけっこうきくもんでな。いつもだったら見逃さないようなことまで、見過ごしてしまうのさ」かれはロバの鞍にそっくりかえり、考え深げに腹を掻いた。「わしは北の平原に向かい、そこからモリンドランドへ行った。どうやらそのときは、平地と同じくらい簡単だとなめてかかっておったんだな。てっとり早くいえば、わしはモリンド人の一隊とでっくわして、やつらの捕虜になっちまったんだ。だがそのときわしは酒樽のおかげで、アルコール漬けも同然、やつらに捕らえられたときはほとんど酩酊状態だった。だがむしろそいつが幸いしたようだ。モリンド人は迷信深いから、魔物に取りつかれてるとでも思ったらしい。それが結局わしの命を救ったわけだ。やつらはわしを五、六年も閉じ込め、乱心の理由について頭をひねったものさ。わしはしらふにかえるやいなや、まわりの情況を見てとり、わざと暴れてやった。そのうち連中が飽きてきて、それほど監視がきびしくなくなったとたん、わしは脱走した。だがそのときにはもう、あの川がどこにあったかなぞきれいさっぱり忘れ果てていた。それ以来わしはここに来るたびに、その場所を探しまわっているというわけさ」老人のおしゃべりはとめどなく続くように思われたが、その瞳は鋭かった。「ずいぶんでかい剣をかついでいるんだねえ、お兄さん。いったいそれで誰を殺そうってんだい」
あまりにも唐突な質問に、ガリオンは驚くいとまさえなかった。
「その剣にはちとおかしなところがあるようだな」みすぼらしい老人は鋭い口調で言った。
「どうやらわざと人目を惹かないようにしてあるらしい」だしぬけにかれは、一部始終をじっと見守っていたベルガラスの方を向いた。「あんたはまったく変わっとらんようだな」
「おまえさんも相変わらずおしゃべりだな」ベルガラスもやり返した。
「何せ、何年も話し相手に飢えていたものでな」ロバに乗った老人は言った。「娘さんは元気かね」
ベルガラスはうなずいた。
「あんたの娘はなかなかのべっぴんじゃったが――いかんせん気むずかしくてな」
「その点に関しちゃ今でも変わっておらんよ」
「そんなことだろうと思ったさ」老金鉱探しはくつくつ笑ってから、一瞬口ごもった。「ちょっとした忠告をさせてもらうなら、町におりるときは十分注意した方がいい」老人は真顔になって言った。「下界はまさにふっとう寸前のありさまだ。赤い長衣を着た連中がうろつき回り、もう何年も使われたことのなかった古い祭壇から、煙が絶えずあがり続けておる。グロリム僧たちが、研ぎたてのナイフを手にまた姿をあらわしはじめた。おかげでここに来るナドラク人どもは皆うしろを振り返らずにはいられないありさまだ」かれはいったん言葉を切ると、まっこうからベルガラスの顔を見た。「だがおかしなことはこれだけじゃない」老人はさらにつけ加えた。「山の動物たちはびくびくして落ちつきがない――まるで大嵐の前のようにな。それに夜、よく耳をすますとはるかかなたから、雷鳴のような音が聞こえる。それもちょうどマロリーあたりの方角から。どうやら世界中で不穏な動きがあるようだ。わしには何かとてつもないできごとが起こるような気がしてならん。あんたの関わりあうような一大事がな。問題は、あんたがここにいることはとっくに筒抜けだということさ。誰にも気づかれずにこっそり通り抜けられるかじつに怪しいもんだ」老人はこれでおしまい、とでもいうように肩をすくめてみせた。「一応あんたの耳に入れておいた方がいいと思ったもんでね」
「すまんな」ベルガラスは言った。
「いいや、たいしたことじゃないさ」老人は再び肩をすくめた。「さて、わしは向こうへ行くとするか」そう言いながらかれは北の方角をさした。「ここ何ヵ月か、よそ者どもがやたら山に入ってきおってな。そろそろここも人でいっぱいになりそうだ。身の上話もしたことだし、わしは少しばかり一人きりにさせてもらうことにしよう」老人はロバの向きを変えて、早足で歩み去った。「幸運を祈る」老金鉱探しは、別れをつげるように肩をそびやかすと、樹木の青い影の中に姿を消した。
「前からやっこさんと知り合いだったんですね」シルクがベルガラスにたずねた。
老魔術師はうなずいた。「やつに出会ったのはかれこれ三十年も前のことだ。ポルガラが偵察のためにガール・オグ・ナドラクに入ったことがあった。必要な情報をすべて集めておいてから、ポルガラが伝言をよこし、わしはここへ来て彼女を所有していた男から買い戻した。われわれはさっそく引き返そうとしたが、山でいつもより早い吹雪に出くわすはめになった。われわれ二人がじたばたあがいているところをやつが見つけ、雪が深くなったときに掘っている雪洞に連れていってくれた。実際のところ、なかなか居心地はよかったぞ――やつがどうしてもロバを中に入れようとしたことを除けばな。やつとポルはそのことでひと冬中、言い争っておった」
「やっこさんの名前は何というのですか」シルクが興味しんしんといった様子でたずねた。
ベルガラスは肩をすくめた。「やつは一度も名乗ったことがなかった。第一そんなことをたずねるのは礼儀知らずというものだ」
一方ガリオンは、「買い戻す」という言葉に息もつまる思いだった。どうしようもない怒りがむらむらとわき上がってきた。「誰かがポルおばさんを所有してただって?」かれは信じられない思いでたずねた。
「それがナドラクの習慣なのさ」シルクが答えた。「連中の社会では、ご婦人は財産とみなされている。所有者がいないということは、ご婦人がたにとってあまり名誉なことではないのさ」
「おばさんが奴隷だったというのかい」ガリオンは拳をまっ白になるまで握りしめた。
「むろん奴隷なぞではない」ベルガラスが言った。「おまえのおばさんがそんな境遇に甘んじていると思うかね」
「だけど、さっき――」
「わしはあいつを所有していた男から買い戻したと言ったはずだ。かれらの関係は単なる形式上のものに過ぎん。ポルガラがここで動き回るためには、どうしても所有者が必要だった。相手の方だってポルガラのような素晴らしい女を手に入れたことで、十分に社会的尊敬を受けたはずだ」ベルガラスはここで苦虫をかみつぶしたような顔をしてみせた。「まったくあいつを買い戻すのにひと財産かかったぞ。わしは時おり、それほどの価値があったかどうか疑わしくてならんのだがな」
「おじいさん!」
「今の言葉を聞いたら、娘さんはさぞかし喜ぶでしょうよ」シルクがひやかすように言った。
「あいつの耳にわざわざそれを吹きこむ必要があるとは思えんがな、シルク」
「さあ、どうでしょうかね」シルクは笑いながら答えた。「しかしいつかはこいつが役にたつときが来るかもしれない」
「それは困る」
「まったくね」シルクはにやにや笑い、あたりを見まわした。「あなたの友人はここまで来るのにひと苦労だったでしょうにね」とかれは言った。「何でわざわざこんな手間をかけたんですか」
「やつはわしに警告を発しにきたのだ」
「ガール・オグ・ナドラクの緊迫状態についてですか。そんなことは、われわれだってとっくに知ってるじゃありませんか」
「やつの警告はそれよりもっと急を要するのだ」
「そんなふうには見えませんでしたがね」
「それはおまえがやつのことを知らないからだ」
「おじいさん」だしぬけにガリオンが口をはさんだ。「どうしてあの老人にはぼくの剣が見えたんだろう。誰にも見えないようにしたはずなのに」
「やつにはすべてが見えるのさ、ガリオン。木をひと目見ただけで、十年後その木に何枚の葉がついているかをぴたりと答えられるのだ」
「じゃあ、魔術師なのかい」
「わしの知る限りでは違うな。あの男は単に山を愛する変わり者の老人にすぎん。やつが世の中の動きを知らないのは、知ろうとしないからだ。もしその気になれば、世の中のあらゆるできごとを、たちどころに知ることができるだろう」
「それならスパイとしてひと財産築けるだろうに」シルクが考え深げに言った。
「やつには財産など必要ないのさ。もし金が必要になれば、例の鉱脈へ行けばいいのだ」
「だけど、もうどこを探せばいいのか忘れたって言ってたじゃないか」ガリオンが異議を唱えた。
ベルガラスはふふんと鼻を鳴らした。「やつは一度見たものを忘れることなぞないさ」老人は遠くを見る目つきになった。「世の中にはまれにあのような人間がいるものだ。世の人々の営みをまったく意に介さないですむ人物が。それもまたなかなか悪くない生き方のようにわしには思える。もしわしが限りある人生を生きる身だったら、迷わずやつと同じことをしたかもしれんな」ベルガラスは突然あたりを見まわした。目には警戒の色が浮かんでいた。「向こうの小径を行くことにしよう」老人はそう言いながら、草地を曲がりくねって進む、かすかにそれとわかる踏み跡を指さした。太陽と風雨にさらされたまっ白な丸太がそこかしこに散乱していた。「やつのいうことがそのとおりだとしたら、これからは大きな集落を避けていった方がよかろう。あの小径は、人のあまり住んでいないはるか北の地に通じておるのだ」
しばらく行くうちに、傾斜は下り気味になり、一行は山々から広大なナドラクの森をめざして、快適に馬を進めた。それまで見えていた峰々は、いつしか山腹の森林地帯に変わっていた。坂を登りつめると、一行の眼下にどこまでも樹木の海原が広がっているのが見えた。青い空のもとで、森の濃い緑が、はるか地平線のかなたまで続いていた。かすかにそよ風が吹いている。眼下に何マイルも続く樹木の回廊を吹き抜ける風のため息は、限りない悲しみを秘めていた。それは二度と帰らない春や夏へのいたましい記憶だった。
森からいくらか上がったところに村があった。山腹の赤土にぱっくり醜い口を開ける巨大な採掘坑のかたわらに、家屋がおり重なるようにして建てられていた。
「鉱山町だ」ベルガラスが言った。「さあ、少しばかり鼻を突っこんで、何が起きているのか見てみようじゃないか」
三人は慎重に坂道を下っていった。近づくにつれ、この村もまたヤー・グラクと同じような、当座しのぎの感じがすることにガリオンは気づいた。家々は同じように皮をはいでいない丸太と石から作られていた。傾斜のゆるい屋根の上には、冬の暴風雪で屋根板が吹き飛ばされないように、大きな石が置かれている。ナドラク人は家の外観についてはまったく関心がないようだった。いったん壁や屋根ができてしまえば、すぐにも移り住み、別のことに関心をふりむけることで満足しているようだった。したがってセンダー人やトルネドラ人ならばまず第一に考える、家に永続性を持たせるための、最終的な仕上げはまったく行なわれていなかったのだ。町全体にみなぎる、この住めさえすればいい≠ニいう雰囲気が、わけもなくガリオンをいらだたせた。
村に住む鉱夫が数人、よそ者が入来するのを監視するために、ぬかるんだ通りに出ていた。黒革の衣服はいちように採掘の赤土に汚れ、目は険しく不信に満ちていた。あたりには、一抹の挑戦的な敵意を含んだ、どうしようもない疲労感が漂っていた。
シルクが、大きな低い建物に向かって首をしゃくってみせた。下手くそなぶどうの房が描かれた看板が、両開きのドアの前で風に揺れていた。建物をぐるっと囲む、屋根つきの広いポーチの下にはベンチが置かれ、革衣のナドラク人たちが、道のどまん中で行なわれている喧嘩をのんびりと観戦していた。
ベルガラスはうなずいた。「よし、だが脇から入ることにしよう」とかれは言った。「いざというとき、すぐに抜け出せるようにな」
一行は建物の横にあたるポーチの前で馬をおり、てすりに馬をつないで中へ入った。
居酒屋の内部はすすけて薄暗かった。ナドラクの建物では窓があることなど、ごくまれだった。粗末な作りのテーブルやベンチが並び、唯一の明かりは天井のたるきから吊り下げられた、くすぶる石油ランプのみだった。床は泥で汚れ、そこかしこに食べかすが散らかっていた。テーブルやベンチの下を、犬たちが勝手きままに歩き回っている。気の抜けたビールと垢じみた身体の臭いがあたり一面にたちこめ、まだ昼になったばかりだというのに、人々であふれかえっていた。広大な部屋にたむろする男たちのほとんどは、すでに酔っ払っていた。テーブルに居座る者も、よろめき歩いている者も、みな一様に大きな声でがなりたてるので、内部は喧噪に満ちていた。
ベルガラスは人々を押しのけるようにして、隅っこで一人飲んでいる男のいる方へ向かった。とろんとした目つきの男は、唇をだらしなくゆるませ、じっと自分のエールに眺め入っていた。
「同席させてもらうぞ、いいな?」老人はぶっきらぼうに言いはなつと、返事を待たずにどしんと腰かけた。
「何かみかえりはあるんだろうな」エールの持ち主はたずねた。男は髭もそらず、血走った目の下をたるませていた。
「別にない」ベルガラスはにべもなく言った。
「おまえら新参者だな、そうだろ」ナドラク人は一抹の好奇心を見せながら聞いた。男は目の焦点を合わせるのにいささか苦労しているようだった。
「おまえなんぞの知ったことではない」ベルガラスはぴしゃりと言い返した。
「血気ざかりを過ぎたじいさんにしては、へらず口をたたきすぎるな」ナドラク人が不穏な仕草で指をもみ始めた。
「いいか、わたしはここに飲みにきたんだ。喧嘩をしにきたんじゃない」シルクが荒々しい声で割って入った。「あとで気が変わるかもしれんが、とりあえず今はのどが渇いてるんだ」小男は手をのばして、行き過ぎようとする給仕の腕をとらえた。「エールだ」かれは命じた。
「持ってくるのに一日もかけるなよ」
「わかったから、その手をどけてくれ」給仕が言った。「こいつもあんたらのお仲間かい」かれはテーブルのナドラク人を指さしてたずねた。
「見たとおり同席してるのさ」
「三人分持ってくればいいのか、それとも四人分かい」
「さしあたっては、わたしの分だけで結構。他の連中には飲みたい物を持ってきてやれ。最初の一杯だけはわたしが勘定を持とう」
給仕は不機嫌なうなり声を上げると、人ごみをかきわけ、立ち止まって行く手をふさぐ犬を蹴飛ばした。
シルクの申し出は同席のナドラク人のけんか腰をなだめたようだった。「おまえさん方はまたえらく悪いときに来たもんだな」男は言った。「国中、マロリー軍の新兵狩りのまっさいちゅうさ」
「われわれは山に入っておったものでな」ベルガラスが答えた。「一日かそこいらしたら、また山に戻る。下界のことにはいっさい興味はないのでな」
「興味を持っておいた方がいいかもしれないぜ――軍隊生活を送りたいなら話は別だが」
「どこかで戦争があるというのか」シルクがたずねた。
「あるらしい――もしくはあるという噂だ。ミシュラク・アク・タールのどこかでな」
シルクは馬鹿にしたように鼻をならした。「相手をするようなタール人なぞに、わたしは会ったことがないよ」
「タール人じゃないさ。アローン人だということだ。何でも連中は女王をたてて――そんなものが考えられればの話だが――タールを攻略しようとしてるんだとさ」
「女王だって?」シルクがあざけるように言った。「どうせたいした軍隊じゃあるまい。そんなものはタール人に戦わせておきゃ十分だ」
「そいつをマロリーの新兵狩りの連中に言ってやれよ」ナドラク人がそそのかすように言った。
「おいおい、まさかそいつを醸造してたんじゃあるまいな」シルクは四つの大ジョッキを抱えて戻ってきた給仕に向かって言った。
「居酒屋なら他にもあるぜ、お客さん」給仕が答えて言った。「気にいらないんなら、よそへ行っとくれ。さあ、全部で十二ペニーもらおうか」
「一杯三ペニーもするのか」シルクが驚いたような声を出した。
「こんなご時世だからな」
シルクはぶつぶつ言いながら給仕に金を払った。
「ごちそうさん」同席のナドラク人がジョッキに手を伸ばしながら言った。
「なに、礼にはおよばんよ」シルクは苦々しげに言った。
「いったいマロリー人はここで何をしておるのかね」ベルガラスがたずねた。
「二本の足で立てる者なら何だって徴集してまわってるのさ。まさに電光石火のごとしだ。連中は徴集に足かせを使うので、抵抗するのはちとむずかしいだろうな。おまけにグロリム僧まで連れてきてるんだ。あいつらは切り裂きナイフをちらつかせて、抵抗しすぎるとどんな目にあうか、それとなくほのめかしてるのさ」
「どうやらあんたの言うとおり、山をおりる時期を誤ったようだな」
ナドラク人はうなずいた。「グロリムたちはトラクが目覚めるのだと言っている」
「それもあんまりありがたくないニュースだな」
「どうやら意見が一致したようだ」ナドラク人はジョッキをかかげて言った。「ところで、山には、ひともうけできそうなものがあったかね」
シルクは首を振った。「ほんのもうしわけ程度さ。われわれは川床の遊離金を探してるんでね。岩に穴を開けたりする道具は持っていないのさ」
「だがそんなふうに川辺にしゃがみこんで、砂利をふるってたんじゃ、いつまでたっても金持ちにはなれないぞ」
「何とかやるさ」シルクは肩をすくめてみせた。「いつかでっかい鉱脈を一発あてて、道具を買う金を作るさ」
「そしてビールの雨を降らせるんだろう」
シルクが笑い出した。
「なあ、仲間をもうひとり加えてみる気はないかね」
シルクはむさくるしいナドラク人をちらりと見た。「山へ入ったことはあるのか」
ナドラク人はうなずいた。「何回行ってもちっとも好きになれん。だが、軍隊はもっと好きになれないような気がするんだ」
「それじゃ、もう一杯飲んでそのことを話し合おうじゃないか」シルクが言った。
ガリオンは後ろによりかかり、ごつごつした丸太の壁に背中をもたせかけた。いったん無礼に慣れてしまえば、ナドラク人もそれほど悪い人間たちには思えなかった。たしかにかれらはぶっきらぼうで、少しばかり愛想の悪い顔をしているかもしれないが、マーゴ人たちに感じられるような、よそ者に対する氷のような敵意は持っていないようだった。
かれはナドラク人が言った女王という言葉に思いをめぐらした。たとえいかなる情況にあっても、リヴァにそのような絶大な権力を持つ女王がいるなどという考えを、かれは即座に打ち消した。唯一いるとすればポルおばさんぐらいだろう。ナドラク人の情報はおそらく少しばかり歪められているに違いない。たしかにベルガラスのいない今となっては、すべての采配はポルおばさんがふるっているのだろう。だがこのようなやり方は、まったく彼女らしくなかった。いったい何がこのような思い切った手段に踏み切らせたのだろう。
午後も遅くなるにつれ、居酒屋にたむろする男たちの足もとは、ますます怪しくなってきた。あちこちでけんか騒ぎが起こったが、ほとんどは押し合い、突き合うだけに終わった。それというのも店内には、ねらい定めた一撃をくり出せるほどしらふの男たちは残っていなかったからである。ガリオンたちの同席者はジョッキを重ねていくうちに、しだいに舟を漕ぐ回数が増えだし、やがていびきをかき始めた。
「もう必要な情報は集め終わったと思う」ベルガラスが小声でささやいた。「そろそろずらかろう。この友人の話からすると、この町で泊まるのは賢明とは思えない」
シルクは同意のしるしにうなずき、三人はテーブルから立ち上がると、人ごみをかきわけながら脇の出口に向かった。
「食糧を少し仕入れておきましょうか」小男がたずねた。
ベルガラスはかぶりをふった。「いや、一刻も早くこの場を立ち去った方がよさそうだ」
シルクは老人にすばやい一瞥をくれた。三人は馬のたづなを解き、ぬかるんだ赤土の通りに乗り入れた。一行は住人の注意を惹かないように、ゆっくりと馬を進めていったが、ガリオンは背後の、むきだしの泥にまみれた村に、ある種の緊張感がみなぎっているのを感じとっていた。あたり一面に不穏な空気が流れ、午後おそい黄金色の太陽が、見えない雲にさえぎられたかのように、かき曇った。村を下り切って、今にも倒れそうな家々の最後の一軒にさしかかったとたん、背後の村のまん中あたりで、警告の叫びが起こった。ガリオンが急いでふり返ると、赤い衣をまとった二十人ばかりの男たちの一団が、三人が後にしたばかりの居酒屋をめがけて、猛然と突っ込んでいくところだった。赤衣の侵入者は熟練した動作でひらりと馬からおりると、ただちにすべての入口をふさいで、店内にいる者たちの退路を断った。
「マロリー人どもだ!」ベルガラスが鋭い声で言った。「森へ向かえ!」老人は馬の腹にひと蹴りをくれた。三人は安全な森めざして、村をぐるりと囲む、切り株の散乱する草ぼうぼうの空き地を駆け抜けたが、背後からの追跡の叫びは聞こえてこなかった。どうやらマロリー人は網いっぱいの収穫があったようだった。大きな枝の下の、見通しのきく安全な場所から、ガリオン、シルク、ベルガラスは、足かせの鎖につながれた、陰気な顔のナドラク人の一団が、居酒屋の外へ連れ出されるのを見た。囚人たちは赤いほこりの舞う通りに引き出され、マロリー人の新兵狩りの鋭い視線のもとにさらされた。
「どうやらわれわれの友人も、結局入隊したようですな」シルクが言った。
「われわれでなくてよかったよ」ベルガラスが答えた。「われわれがアンガラク軍のまっただ中にいたら、いささか場違いに見えるだろうからな」老人は赤く燃える夕陽にじっと目をこらした。「さあ、早くここを出よう。暗くなるまであと数時間もない。どうやらこの辺り一帯は兵役病に冒されているらしい。そんなものに感染したくないからな」
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3
ナドラクの森は、南に広がるアレンディアの森とはいささかようすが異っていた。両者の差はごく微妙なもので、ガリオンがそれに気づくには数日かかった。まず第一にかれらのたどる小径には、まったく人の入った形跡がなかった。めったに人が通らないため、森林特有のローム層の土は踏み固められていなかったのである。アレンディアの森には人の形跡があちらこちらに見られたが、ここでは人が侵入者であり、単なる通過物にすぎないのである。さらにアレンディアの森にははっきりとした境界があったが、ナドラクの樹海は大陸の端までにもおよび、この世の始まりよりそこにあったのだ。
森はあらゆる生命に満ちていた。黄褐色の鹿が樹木のあいだに見え隠れし、黒い大理石のように光る曲がった角《つの》を持つ野牛が、空き地で草を食んでいた。一度など一頭の熊が、不機嫌なうなりをあげ、のどをゴロゴロ鳴らしながら、行く手をのし歩いていたことさえあった。うさぎたちは下生えの中をちょこちょこ走りまわり、うずらが時おり心臓も止まるような羽音を轟かせて足元から飛び立った。池や小川は魚やマスクラット、かわうそやビーバーが泳ぎまわっていた。またすぐにわかったことだが、さらに小さな生物もたくさんいた。すずめとほとんど大きさの変らない蚊、動く物と見ればかみつく小さな茶色い虫などもその仲間だった。
太陽は暗い森をまだらな黄金色に染めながら、朝早い時間にのぼり、遅い時間に沈んだ。真夏にもかかわらず、暑すぎるということは決してなかった。夏が短く冬が長い北の国々と同じように、あたりの空気は急激な成長の気配に満ちていた。
いったん森へ入るやいなや、ベルガラスはまったく眠るのをやめてしまったようだった。毎晩、疲れ切ったシルクとガリオンが毛布にくるまる頃、老人は来た道をひとり引き返し、暗い森に姿を消した。日没から数時間たち、夜空が星の輝きで埋まる頃、ふと目をさましたガリオンは、落ち葉の絨毯の上を走り回る軽やかな獣の足音を聞いた。再び眠りに落ちながら、ガリオンはすべてを理解した。足音は巨大な銀色の狼に姿を変えた祖父のものであり、追跡や危険の気配がいささかでもありはしないかと、森を見まわっていたのである。
老人の夜ごとの徘徊は煙のようにひそやかだったが、他の注意を惹きつけずにはおかなかった。ある早朝のこと、まだ太陽ものぼらず、もやのかかった樹木が地表の霧になかば隠されている時間に、黒々とした幹の背後からいくつもの影があらわれ、一行からさほど離れていない場所で立ち止まった。目覚めたばかりで火を起こそうとしていたガリオンは、前かがみになりかけたまま、その場に凍りついた。ゆっくりと身を起こすあいだも、かれは自分に注がれる視線を感じ、肌がちくちくするのを感じた。十フィートほど離れたところに、巨大な森林狼の姿があった。狼の顔にはしかつめらしい表情が浮かび、その目は太陽のように黄色く燃えていた。黄金色の目には無言の問いかけが浮かび、ガリオンはただちにその質問を理解した。
「なぜ、そのようなことをするのか」
「そのようなこと、とは?」ガリオンはごく自然に、狼の言葉で丁寧に聞き返した。
「なぜそのようななりをしているのだ」
「そうする必要があるからです」
「なるほど」礼節を守って、狼はそれ以上深く追及しなかった。だが別のことをたずねてきた。
「その姿では動きづらくはないのか」
「はたで見るほどではありません――いったん慣れてしまえばですが」
狼は納得しかねる様子だった。かれは後足で座りこんだ。「おまえの別の仲間の姿を闇のなかで少なからず見かけた」狼は言葉を続けた。「なぜおまえたちがわれわれの縄張りに入ってきたのか、そのわけを聞きたい」
ガリオンは本能的に、この質問に対する答えが重要なものであることを悟った。「わたしたちはあちらこちらと渡り歩いている者です」かれは慎重に答えた。「あなた方の縄張りを犯したり、あなた方のものである獲物たちを捕らえようなどとは、毛頭思っていません」自分でもわからないままに、答えがすらすら口をついて出た。
狼はかれの答えに満足したようだった。「どうかあの霜のような毛皮の仲間に、われわれの敬意を伝えてくれ」狼はしゃちほこばった口調で言った。「どうやら、大いなる崇敬を集めておられるお方とお見受けした」
「あなたのお言葉を喜んで伝えさせていただきます」ガリオンはなぜこのような複雑な言い回しができるのか、自分でもわからなかった。
狼は天を見上げ、鼻をくんくんさせながら空気の匂いをかいだ。「狩りの時間がきたようだ」獣は言った。「おまえたちの求めるものが見つかることを祈る」
「あなた方の狩りがうまくいくよう祈ります」ガリオンもお返しに答えた。
狼はくるりと向きを変えると、仲間たちを従え、霧のなかに音もなく消えた。
「いやはや、全体的に見てなかなか見事な応対ぶりだったぞ、ガリオン」かたわらのこんもりした藪の陰からベルガラスの声が聞こえた。
ガリオンは少なからず驚いて、飛び上がった。「そこにいるとは知らなかったよ」
「知っているべきだったな」そう言いながら老人は闇の中から姿をあらわした。
「なぜ、かれらは知っていたんだろう」ガリオンが聞いた。「ぼくがときどき、狼になることを」
「連中にはわかるのさ。狼というのはきわめてそういったことに鼻がきくからな」
シルクが眠っていた木の下からあらわれた。小男の足取りはおぼつかなかったが、その鼻は好奇心にうごめいていた。「いったい今のは何だったんですか」
「狼たちはかれらの縄張りで、われわれが何をしてるのか知りたかったのさ」ベルガラスが答えた。「われわれと戦う必要があるか、調べていたのだ」
「戦うだって?」ガリオンは仰天した。
「かれらの縄張りによそ者が入り込んだときは、そうするならわしなのさ。本来狼は戦いを好まない――何たってエネルギーのむだ使いだからな。だが必要とあらば、戦うのさ」
「じゃあ、いったいどうしたというんですか」シルクがたずねた。「なぜあんなふうにすんなり引き上げたんです?」
「ガリオンが連中に、われわれが単なる通りすがりの者だということを納得させたのだ」
「そいつはすごいですな」
「さあガリオン、火を起こそうじゃないか」ベルガラスが言った。「さっさと朝めしをすませて、出発しよう。マロリーまではまだ道のりは長いし、せっかくの好天をむだにしたくないからな」
その日もおそくなって、一行は草地の端を流れるかなり大きな川のかたわらに、丸太小屋や天幕の立ちならぶ谷間に入っていった。
「毛皮商人たちだ」シルクは急ごしらえの集落を指さしながらガリオンに説明した。「ここいらの森の中で、大きな水場のあるところには、必ずこうした集落があるんだ」小男の尖った鼻がうごめき、目が輝きをおびた。「こういった小さな町では、じつにたくさんの商取引が行なわれてるのさ」
「そんなことはどうでもいい」ベルガラスが辛辣な声でいった。「おまえさんの略奪本能はしばらく抑えていてもらおう」
「そんなこと露ほども思っちゃいませんよ」
「本当かね? どこか悪いんじゃないのか」
シルクはつんとすまして老人の言葉を無視した。
「迂回していった方が安全じゃないのかい」広い草地を横切りながらガリオンがたずねた。
ベルガラスがかぶりをふった。「これから先、何が待ち受けているかを知りたいのだ。一番てっとり早いのは、そこへ行ってきた連中から聞き出すことさ。めだたないようにそっと入りこみ、一時間ばかりぐるっとまわったところで、またこっそり出ていけばいい。ただ耳だけはよくすましておくのだぞ。もし誰かに聞かれたら、われわれは金を探して北の山々へ行く途中だと言えばよい」
一行が先日出会った鉱山町の人々と、これらの集落の通りを歩いている猟師や罠師の間には、大きなへだたりがあった。かれらはもっとあけっぴろげな人々であり、前者ほど無愛想でも、ぶっきらぼうでもなかった。人里離れた場所で暮らしていかなければならないので、数少ない毛皮取引市場への来訪のたびに、人づきあいの真価を身にしみて感じるからだろうと、ガリオンは思った。鉱山町の住人たちと同じように、多くの男たちは酔っ払っていたが、それは喧嘩よりむしろ歌や笑いを引き起こしているようだった。
集落の中央にある大きな居酒屋に向かって、三人はゆっくりとほこりだらけの通りを進んだ。
「脇の入口から入るぞ」ベルガラスは、居酒屋の前で馬からおりるなり、きびきびした声で指示した。三人は建物の前をまわって、脇のポーチのてすりに馬をゆわえつけた。
居酒屋の内部は鉱山町のそれに比べると、清潔で、こみ具合も少なく、かなり明るい感じがした。じめついたかび臭い空気のかわりに、木と戸外の匂いがした。三人は入口からさほど離れていないところに席を取り、礼儀正しい給仕にエールのジョッキを注文した。エールは芳醇で、濃い茶色をして、よく冷えている上に驚くほど安かった。
「ここを経営してるのは毛皮商人なのさ」シルクが上唇の泡をぬぐいながら説明した。「猟師や罠師を、ほろ酔いかげんにさせた方が取引がしやすいことを連中は発見したんだ。だからここではエールが安くて量もたっぷりなのさ」
「なるほど、それなら話はわかるよ」ガリオンは言った。「だけど、猟師たちはそのことに気づかないんだろうか」
「むろん、気づいてるともさ」
「じゃあ何で取引の前に飲むんだい」
シルクは肩をすくめてみせた。「それは飲むのが好きだからさ」
隣のテーブルでは二人の罠師が、あきらかに十年以上も前のものと思われる旧交を温めあっていた。二人の髭には白いものが混じりかけていたが、男たちは若者たちのようにくったくない口調で話しあっていた。
「モリンド人との間に、何かやっかいなことがあったかね」一方の男が他方の男にたずねた。
たずねられた男は首をふった。「おれは罠を仕掛けた谷間の入口と出口に、それぞれ悪疫の印を置いてきたから大丈夫だった」かれは答えて言った。「モリンド人どもは、悪疫とみれば、こわがって十リーグ以上は離れて通るからな」
最初の男はうなずいた。「それが一番いい方法さ。グレッダーのやつは、呪いの印の方が効果があると言ってたが、じっさいにことが起きてみると、やっぱり間違っていたのさ」
「そういえば、ここしばらくやつの姿を見かけないが」
「見かけてる方が不思議さ。やつは三年前、モリンド人に殺されちまったよ。遺骸を――というよりは残ったものを葬ったのは、他ならぬこのおれだ」
「いや、そいつは知らなかった。むかし、やつと一度だけコルドゥー川の上流でひと冬過ごしたことがあったんだ。実にさもしい根性をしたやつだったな。それより驚いたのは、モリンド人が呪いの印をよく無視して入ってきたなってことさ」
「おれが思うに、どこかの魔法使いが連中と同行して、やつの呪いの印を破ってしまったらしいんだな。足指に三本ずつ草の茎を結びつけた、乾いたイタチの足がぶら下がってるのを見つけたよ」
「そいつは絶大な効果のあるまじないだ。わざわざそんな手間をかけるとは、連中め、よほどやっこさんを捕まえたかったらしいな」
「グレッダーがどんなやつだったか、おまえさんだってよく知ってるはずだぜ。何しろ歩いてるだけで、十リーグ離れた人間を不快にできる男だったからな」
「まさに、そのとおりさ」
「だがもはやそれもできないというわけだ。今ごろやつの頭蓋骨はモリンド人の魔法使いの戦利品を飾ってることだろう」
ガリオンは祖父に身を寄せてたずねた。「あの連中が言ってる印≠ト何のこと」
「ある種の警告だな」ベルガラスは答えた。「だいたいは地面に突きたてられた棒を、骨や羽やらで飾りたてるんだ。モリンド人にはそれが何だかわからないから、説明書きをつけるのさ」
そのとき、古光りしたつぎはぎだらけの革衣をまとった、一人の猫背ぎみの老罠師が足を引きずるようにして入ってきた。しわの多い髭づらの顔には、どこかすまなさそうな表情が浮かんでいる。その後ろからフェルト製の暑苦しそうな赤い衣をまとい、ベルト代わりの光る鎖で腰を締めつけた、若いナドラク人の女がついてきた。首にはつなぎ紐が巻きつけられ、その端は老罠師の手に固く握られていた。それにもかかわらず、若い女の顔にはほこり高く尊大な表情が浮かんでいた。彼女は、あからさまな軽蔑を隠そうともせず、居酒屋にたむろする男たちを見まわした。老罠師は部屋の中央に進み出ると、みなの関心を集めるためにせき払いをした。
「わしはこの女を売りたいのだ」かれは大声で宣言した。
女は眉ひとつ動かさずに老人に向かって唾を吐いた。
「そんなことをしては、おまえの価値が下がるだけだぞ。ヴェラや」老人はなだめるような声で言った。
「まったくあんたって何て馬鹿なの、タッショー」女は言い返した。「ここにいるような連中にあたしを買えるはずがないこと、あんただってわかってるでしょ。何であたしの言うことを聞いて、毛皮商人に売りつけないのよ」
「連中は女に興味がないのじゃよ、ヴェラや」タッショーはなだめるような口調を変えずに言った。「ここなら、高く売れるぞ。わしを信じなさい」
「たとえ太陽があした出るといわれたって、あんたの言うことなんて信じるもんですか」
「ごらんのとおり、いささか元気の良すぎる女でな」タッショーはばつが悪そうに言った。
「あいつは自分の奥さんを売ろうとしてるのか」ガリオンはエールをのどに詰まらせながらたずねた。
「あの女は妻じゃない」シルクが言いなおした。「やっこさんが彼女を所有しているだけの話さ」
ガリオンは怒りに顔をまだらにそめ、拳を固めて立ち上がりかけた。とたんにベルガラスの手がきつくかれの手首を押さえた。「座るんだ」老人は命令した。
「だけど――」
「座れと言っておるのだ、ガリオン。これはおまえの知ったことではない」
「きみがあの女を買おうというのなら、話は別だけどね」シルクが陽気な口調で言った。
「そのご婦人は丈夫かね」傷のある痩せぎすな顔をした罠師がたずねた。
「むろんじゃとも」タッショーは高らかに言った。「おまけに歯が全部そろっておるぞ。おまえの歯を見せてやりなさい、ヴェラや」
「このうすら馬鹿。こいつら、歯なんてどうだっていいのよ」女は黒い瞳に挑戦的な色気を浮かべ、顔に傷のある罠師をまっこうから見据えた。
「彼女はすばらしい料理人だぞ」タッショーはあわててつけ加えた。「それにリューマチとおこりの治療法を心得ておる。衣服を作ることもできれば、皮なめしもできるし、小食だ。息は臭くないし――ただし、タマネギを食った後は別だが――いびきもかかない。ただしこれも酒を飲んでないときだが」
「そんなにいい女なら何で手放したりするんだね」痩せぎすな顔の罠師はなおもたずねた。
「わしももう年だからな」タッショーが答えて言った。「そろそろ平穏と静けさが恋しくなったのじゃよ。たしかにヴェラがそばにいれば、毎日が楽しいが、わしはもう一生分のお楽しみは手にいれてしまったような気がするのじゃ。あとはどこかに腰を落ちつけて、鶏か山羊を育てて暮らすつもりよ」猫背ぎみの老罠師の声が、いささか湿っぽくなってきた。
「ああ、もうやってられないわ」ヴェラがかんしゃくを爆発させた。「まったく何もかも、あたしにやらせようってわけね。それならちょっと、そこをどきなさいよ」彼女は乱暴に老罠師を脇に押しのけると、黒い目をぎらぎら光らせて観衆を見まわした。「さあ」女は断固たる口調で言った。「さっさと商売の話に入ろうじゃない。このタッショーはあたしを売りたがってるわ。あたしは丈夫で健康よ。料理はもちろん、獣の皮や毛皮をなめすこともできるわ。おおかたの病気なら治せるし、おいしいビールだって醸造できてよ」彼女の目が不吉な形に細められた。「あたしは他の男と寝たりしないし、それを無理じいするようなやつらのために、いつもぴかぴかに研いだ短剣を身につけているわ。木笛を吹くこともできれば、古い話もたくさん知っている。モリンド人を死ぬほど怖がらせる呪いの印と、疫病の印と、夢の印の結びかたも知ってるし、三十歩離れたところから熊を弓矢で仕留めたこともあるわ」
「あれは二十歩だよ」タッショーが穏やかな声で訂正した。
「三十歩近かったわ」女はゆずらなかった。
「踊れるかい」顔に傷のある痩せた罠師がたずねた。
女はまっこうから男を見すえた。「本当にあたしを買う気があるんなら、見せてあげるわよ」
「そいつは踊りを見てからゆっくり話しあおうや」
「じゃあ拍子を取ってもらえるかしら」
「わかった」
「けっこう」女の手が腰に巻いた鎖におり、じゃらじゃら音をたてながらはずした。彼女は暑苦しい赤い衣服の前を開き、それを脱ぎ捨てると、かたわらのタッショーに渡した。次に慎重な手つきで首縄をはずし、ゆたかな漆黒の髪を赤いシルクのリボンできっちり後ろにたばねた。女は赤いフェルト服の下に、足元でさらさらと絹ずれの音をたてる、マロリー製のシルクの薄もの一枚をまとっているだけだった。シルクのガウンは彼女のふくらはぎに達し、その下に柔らかい革製の長靴を履いている。両長靴のへりから宝石をはめこんだ短剣のつか[#「つか」に傍点]が突きだしていた。三つめの短剣は、腰を締めつける革製のベルトにはさみ込まれていた。ガウンはのど元のカラーできっちり止められていたが、肩から先の腕はむきだしになっていた。女の両手首を五、六本もの細い腕輪が飾っている。彼女は優雅さを多分に意識しながら、かがみ込み、両方の足首に小さな鈴を結びつけた。そして、なめらかな丸い腕を上げて顔の横に持っていった。
「この拍子でお願いするわ、顔に傷のあるお方」彼女は罠師に向かって言った。「ずっとそのままの速度を保つのよ」女は手をたたき始めた。拍子は規則ただしく三拍打ったあとに、断続的な四拍が続くというものだった。ヴェラはゆっくりと気どった足取りで踊り始めた。彼女が動くたびに、ガウンの裾がなまめかしいふくらはぎとすれ合う音がした。
やがて痩せぎすな罠師が彼女の手拍子を引きついだ。ヴェラが踊り始めると同時に突然の沈黙が落ち、たこ[#「たこ」に傍点]のできた手をたたく音が、やたら大きく響きわたった。
ガリオンは顔が赤らむのを覚えた。ヴェラの動きはたいそう繊細で滑らかだった。足首に結びつけた鈴と、腕に飾った腕輪がチリンチリンと鳴って、痩せた男の手拍子に色どりを添えた。足が宙にひるがえらんばかりに複雑なステップを踏み、腕は空中にさまざまな模様を描きはじめた。だがバラ色の薄いガウンの下では、さらに注目すべき動きが行なわれていた。ガリオンはごくりと唾を飲み、いつのまにか息をひそめている自分に気がついた。
ヴェラが旋回をはじめると、宙に広がる漆黒の髪の毛が、舞い踊るガウンと完璧な調和をなした。やがて彼女の動きが遅くなってきたかと思うと、再び部屋中の男たちに挑みかかるような、あの官能的な気どった足取りに戻った。
居合わせた者たちは拍手かっさいを送り、女は神秘的なゆったりとした微笑をかえしてみせた。
「なかなかみごとな踊りだったな」顔に傷のある罠師は、心を動かされたようすもなく感想を述べた。
「当然よ」女が答えた。「あたしは何だってうまくできるのよ」
「おまえには誰か好きなやつがいるのか」男はきわめてぶしつけな質問をした。
「心にかなう男性なんていやしなかったわ」ヴェラはにべもなく答えた。「あたしにふさわしい男性にお目にかかったこともないわ」
「そいつを変えてみせるぜ」罠師が言った。「金貨一マルクでどうだ」男は確固とした口調で言った。
「冗談じゃないわ」女は鼻を鳴らした。「金貨五マルクよ」
「一マルク半だ」男がやり返した。
「まったくひどい侮辱だわ」ヴェラは両手を宙にさし上げ、嘆き悲しむ表情をしてみせた。
「四マルクよりびた一文まけませんからね」
「二マルク」罠師はさらに値をあげた。
「まったく話にならないわ!」彼女は両腕を広げながら叫んだ。「それならいっそあたしの心臓を切り裂いて、さっさと終わりにしてくれた方がましよ。三マルク半より安売りする気はありませんからね」
「お互い時間をむだにしないために、三マルクで決着をつけないか」男は断固たる口調で言った。「この取り決めを永続的なものにするという条件でどうだ」かれは思いついたようにつけ足した。
「永続的ですって」ヴェラの目が大きく見開かれた。
「おれはおまえが気にいった」男は言った。「おまえはどうだ」
「立ち上がって、あんたの全身を見せてちょうだい」ヴェラは男に命じた。
罠師はそれまで腰かけていた椅子からゆっくりと立ち上がった。男の身体は、傷のある顔と同じく痩せていたが、筋骨は引き締まっていた。ヴェラは唇をすぼめて、男の全身をくまなく眺めまわした。「かれ、悪くないわね」彼女はタッショーに小声でたずねた。
「申し分ない男じゃないか、ヴェラや」女の所有者は、奨励するように言った。
「金三マルクとあんたの言う条件つきで、申し出を考えさせてもらうわ」ヴェラが宣言した。
「あんた、名前は?」
「テックだ」背の高い罠師はわずかに身をかがめながら自己紹介した。
「それじゃ、テック」ヴェラが言った。「そのままここにいてちょうだい。タッショーとあたしはこれからあんたの申し出について、話し合わなきゃならないことがあるから」彼女は恥ずかしげな視線を男に投げた。「たぶん、あたしもあんたが好きだと思うわ」心なしか、先ほどまでの挑みかかるような口調は薄れていた。女はまだタッショーの拳に握られている、首の縄ひもを引っ張って、老人を居酒屋の外へ追いたてた。彼女は肩ごしに一、二度痩せぎすな顔のテックを振り返った。
「いやはや、たいした女だ」シルクが心から感じ入ったようすでつぶやいた。
ガリオンはようやく息がつけるようになったが、まだ耳はかっかとほてっているのが感じられた。「いったいかれらの言う条件て何のことなんだ」かれは小声でシルクにたずねた。
「テックはおうおうにして結婚に結びつく取り決めを申し出たのさ」シルクが説明した。
ガリオンはすっかり困惑してしまった。「何が何だかさっぱりわからないよ」
「男は女を所有しても、その人格までも所有する特権は与えられない」シルクが言った。「女が身につけている短剣はそれを守るためのものだ。よっぽど人生に飽き飽きしたやつでなきゃ、ナドラクの女になぞ近づかんよ。そいつを決めるのは女の方だ。結婚式は女の最初の子供が生まれたあとにだいたい行なわれるようだ」
「なぜあの女の人は自分の値段にこだわっていたんだろう」
「半分は彼女のものになるからさ」シルクが肩をすくめてみせた。
「毎回自分を売るたびに、もうけの半分をもらうのかい」ガリオンが信じられないといった声を出した。
「そうさ。でなきゃ、ひどく不公平になるじゃないか」
かれらの前に三杯分のおかわりを運んできた給仕は、その場に立ち止まってまじまじとシルクの顔をのぞきこんだ。
「どうかしたかね」シルクが穏やかな声でたずねた。
給仕はあわてて視線を床に落とした。「どうも失礼しました」男は口ごもりながら言った。
「わたしは、ただ――その、お客様のお顔に見覚えがあるような気がしたものですから。今、お顔をよく拝見したら、間違いだということがわかりました」男はそそくさとエールのジョッキを置き、シルクがテーブルの上に置いた金には見向きもせずに、立ち去った。
「どうやらずらかった方がよさそうだ」シルクが小声で言った。
「いったいどうしたというんだ」ガリオンがたずねた。
「やつはわたしの顔を知っていた――ということは、例の懸賞つきの手配書が、ここにも出まわっているということだ」
「たぶん、そのとおりだろう」ベルガラスはそう言いながら立ち上がった。
「さっきの給仕が向こうの男たちと何かしゃべっているよ」ガリオンは部屋の反対側にたむろする猟師らしき男たちと給仕が、こちらをちらちら見ながら、せきこんだ様子で話しているのを見ながら言った。
「外に出るには三十秒しかないぞ」シルクが緊張した口調で言った。「さあ、行こう」
三人はいっせいにドアに向かった。
「こら、そこの三人!」背後から叫ぶ声があった。「ちょっと、待て!」
「走れ!」ベルガラスがどなった。三人は脱兎のごとく飛び出した。鞍に飛び乗ったとたん、居酒屋のドアから五、六人の革衣の男たちがどっと飛び出してきた。
「そいつらを止めてくれ!」通りを駆け抜ける三人の背後で叫ぶ声がしたが、空しく無視された。罠師や猟師は、本来めったに他人のことにはかかわりあいにならない人々なので、ガリオン、シルク、ベルガラスは、いかなる追跡隊が結成されるよりも前に、集落を脱出し、水しぶきをあげながら浅瀬を渡っていた。
シルクは対岸の森に入ってからも口汚く罵り続けていた。小男はメロンの種を口から飛ばすように、罵詈雑言を吐き散らした。神をも恐れぬ言葉の数々は、相手の生まれから家柄、そして不道徳な習慣にまでおよび、じつに表現豊かで多岐多様にわたっていた。その対象はかれらを追いかけてくる者たちだけではなく、懸賞つきの手配書を流布させた者たちにも向けられていた。
突然、ベルガラスがたづなを引き締めて、さっと手を上げた。シルクとガリオンも老人に従って馬を止めた。シルクはなおも毒づいていた。
「いいかげんにその熱弁をやめてくれんかね」ベルガラスが言った。「今、背後の音を聞いておるのだから」
シルクはさらに二言三言、呪いの言葉を吐いたが、やがて完全に口を閉ざした。はるか背後から混乱した叫び声や、ざぶざぶと水を渡る音が聞こえてきた。
「追っ手は小川を渡っている」ベルガラスは言った。「どうやら連中は本気でことに当たるつもりらしい。少なくとも本気で追いかけてくるようだな」
「夜になればあきらめるんじゃないかな」ガリオンがたずねた。
「連中はナドラクの狩人なんだぜ」シルクが心底からうんざりしたような声で言った。「何日かかったって追いかけてくるさ――それもただ狩りを楽しむためだけにね」
「さしあたって今はどうしようもない」ベルガラスがうなるように言った。「とりあえず、連中を振り切れるかどうか、試してみよう」そう言うなり老人は、馬の腹を蹴った。
太陽に照らされた森を、全速力で馬を走らせているうちに、午後もなかばを過ぎようとしていた。下生えはまばらになり、モミやマツなどの背の高い樹木が、まるで柱のように頭上の空高くそびえたっていた。遠乗りにはもってこいの日だったが、逃げるには絶好の日とはいえなかった。逃げるのにもってこいの日など、そうそうあるものではない。
三人は登り坂のてっぺんで立ち止まり、再び耳をすました。「どうやら追っ手を出し抜いたらしいね」ガリオンが希望に満ちた声で言った。
「そいつは飲んだくれた連中だけさ」シルクが苦々しげに言った。「おそらく本気でわたしたちを狩り出そうとしているやつらはもっと近くに来ているだろう。だいたい、狩りをしているときに声を出すようなやつはいないさ。ほら、あそこを見てごらん」小男はそう言いながら指さしてみせた。
ガリオンは小男のさす方を見た。樹木の間にちらりと見え隠れするものがあった。白い馬に乗った男が三人のいる方に近づいてくるところだった。男は鞍から身を乗り出し、じっと地面に目を注ぎ続けていた。
「もしあいつが追跡者の一人だったら、完全に振り切るには一週間はかかることだろうよ」シルクはうんざりしたような声を出した。
そのとき、右側の遠く離れた樹木のかなたから、狼の遠吠えが聞こえてきた。
「このまま進むことにしよう」ベルガラスは二人に言った。
一向は馬を疾駆させ、全速力で下り坂をかけおり、樹木の間を縫うようにしてひたすら走った。ひづめの音が柔らかいローム層の大地にあたって、くぐもった音をたてた。なかば腐敗しかけた土の固まりが、逃走するかれらの足元から飛び散った。
「こんなことでは、家ほども痕跡が残りますよ」シルクが馬上のベルガラスにむかって怒鳴った。
「今のところは仕方あるまい」老人は答えた。「追いかけっこゲームを始めるためには、やつらと少し距離をあけておく必要があるのだ」
すると今度は左側から、別の遠吠えがもの悲しげに響いた。心なしか、今度のは先ほどよりも近いようだった。
さらに二十五分ほども馬を走らせたところで、突然、背後に混乱したざわめきが起こった。警告の叫びが飛びかい、馬たちは恐怖にいなないた。同時にガリオンは、獰猛なうなり声を聞いた。ベルガラスの合図に従って、一行は馬の速度をゆるめて、じっと耳をすました。恐怖におののく馬の悲鳴が樹間にこだまし、しばしば乗り手の罵り声と怯えた叫びとにさえぎられた。狼たちの吠え声はあらゆる方向から聞こえてきた。突然、森が狼でいっぱいになってしまったようだった。ナドラクの賞金稼ぎの乗った馬は恐怖の悲鳴をあげて、思い思いの方向に走りだし、追跡隊はまたたくまにばらばらになってしまった。
いささか意地の悪い満足を覚えながら、ベルガラスはしだいに遠くなっていく背後の物音に耳をすました。突然、茂みの中からだらりと舌を垂らした巨大な黒っぽい毛の狼の姿があらわれた。狼はベルガラスから三十ヤードほど離れた所で立ち止まると、後ろ足で座り、黄色い目でじっと一行を見つめた。
「馬のたづなをちゃんと引き締めておくのだぞ」老人は仰天した馬の首をそっとたたいてやりながら、穏やかな声で言った。
狼はひと言も発せず、ただじっと見つめているだけだった。
ベルガラスは狼の視線を冷静に受けとめ、やがて感謝のしるしに一回、大きくうなずいた。狼は立ち上がると、向きを変えて、森の中へ戻っていった。途中で一度だけ、肩ごしに振り返って三人の方を見た。そして鼻づらを天に向けると、中断された狩りの再開を他の仲間に告げる、深い、鐘のように響く声をはなった。身をひるがえしたかと思うと、狼の姿はすでになく、吠え声の余韻だけが残っていた。
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4
続く何日間か、一行は東をめざして進んだ。道は徐々に下り坂になり、やがて広い、沼のような谷間に出た。下生えはいっそう濃くなり、空気はさらに湿気を帯びた。ある日の午後、夏のにわか雨が森を襲った。引き裂くような雷鳴と、たたきつけるような豪雨に加えて、強風がうなり声をあげて木々の間を吹きわたった。樹木はたわみ、揺すぶられ、引きちぎられた木の葉や、下生えの小枝などが、黒い幹の間をぐるぐるまわりながら飛んでいった。だがこの嵐はすぐに通り過ぎ、後には再び太陽が姿をあらわした。それ以後は天候も崩れることなく、快適な旅が続いた。
ガリオンはその間、奇妙な喪失感にとらわれていた。かれはしばしば、ここにいない友人を目で探し求めずにはいられなかった。〈珠〉を求めて長い旅をするうちに、かれは自分なりの判断基準――何が正しく、何がまちがっているか――を持つようになっていた。それから言えば、今回の旅はまちがっているような気がした。バラクの不在も、その理由のひとつだった。赤髭の巨大なチェレク人がそばにいないことが、ガリオンを妙に不安にしていた。鷹のような顔をした無口なヘター、いつも先頭に立って、銀と青の小旗を槍先からたなびかせていたマンドラレンの鎧姿が恋しかった。かれは鍛冶屋のダーニクがいないことに、痛みにも似た淋しさを感じていた。セ・ネドラとのひどい口喧嘩すら恋しかった。リヴァでの一連のできごとは、しだいに現実のものとは思えなくなってきた。気むずかしい小さな王女と婚約式をあげたときの盛大な宴は、まるで忘れられかけた夢のように、かれの記憶から薄れつつあった。
ある晩のこと、馬はすでにつながれ、夕食は終わり、あとは毛布にくるまって眠るばかりというときに、ガリオンは焚火の燃えさしを見つめながら、かれの人生に訪れたこのぽっかり穴の開いたような孤独とようやく対面する気になった。何といってもポルおばさんがそばにいないことが最大の原因だった。もの心ついたときからガリオンは、ポルおばさんがそばにいるかぎり、彼女にできないことなどなく、すべてうまくいくものと思いこんでいた。おばさんの冷静な落ちつきはらった姿が、かれの目には頼もしかった。ガリオンは彼女の顔を、光り輝く瞳を、額の白いひと房の巻毛を、目の当たりに思い浮かべることができた。突然おそいかかってきた孤独の悲しみはナイフのように鋭く胸に突きささった。
彼女がいないと、すべてがしっくりしなかった。むろんベルガラスはかれのそばにいた。いかなる肉体的な危険におちいろうと、祖父の力で切り抜けられることはよくわかっていた。だがそれとは別の、祖父が顧みようとしない、あるいはわざと無視している種類の危機があるのだ。ガリオンが心底から恐怖を感じたときは、誰の方を向けばいいのだろう。恐怖感というのはたしかに生命や肉体に危害をおよぼしはしないだろうが、深刻な打撃であることに変わりはない。それどころか、むしろはるかに深く致命的な打撃にならないともかぎらないのである。ポルおばさんならば、必ずかれの恐怖を払いのけてくれたことだろう。だが彼女のいない今、ガリオンは恐怖にうちふるえながらも、それを認めることすらままならないのである。かれはため息をつくと、毛布をしっかりと身体に巻きつけ、不安に満ちた眠りに落ちていった。
一行がコルドゥー川の東の支流にたどりついたのは、それから数日後の昼近くだった。広大な茶色い濁流は、藪の生い茂る谷間を南に向かって流れ、首都ヤー・ナドラクで西の支流と合流し、ヤー・トラクに達していた。腰ほどの高さのある薄緑色のシダが、川の両側数百ヤードにもわたって生い茂り、春の雪解け水がもたらす増水で泥まみれになっていた。シダの茂みの上は蒸し暑く、ブヨや蚊が群れをなして飛んでいた。
三人はむっつり顔の船頭に運ばれて対岸の村にわたった。馬を舟着き場に移し終えたところで、ベルガラスが静かに言った。「互いに行く道を変えることにしよう」老人は言った。「とりあえず、ここで別れよう。わしは食糧を調達しにいくから、おまえたち二人は町へ入って居酒屋を探せ。モリンド人の土地に抜ける、北の山中を通る道のことを聞き出してほしい。われわれは一刻も早く山の中に入りたいのだ。どうやらここでは、マロリー人どもが相当はぶりをきかせているらしい。気がつかないうちに、やつらの支配下に入っていたなんてことにもなりかねん。マロリーのグロリム僧どもに、いちいちわしの動きを説明して歩くのは、ごめんこうむりたい――シルクの行方に大勢の関心が向いていることはさておくとしても」
シルクはむっつりとうなずいた。「それについての誤解を、ぜひ解いておきたいと思いますが、時間がないようですな」
「じっさいのところないのだ。北ではたいそう夏が短い。マロリーを縦断するのは、天候に恵まれていたとしても、かなり不愉快なものになりそうなのでな。居酒屋へ行ったら、自分たちは北の山中で金の鉱脈を探し求めている者だと言えばいい。そういう場所には必ず一人や二人、地理に詳しいことをひけらかしたがるやつがいるものさ。特に何杯かおごってやればな」
「前に道を知ってると言ってたじゃありませんか」シルクが抗議するように言った。
「たしかにひとつだけなら知っておる――ただしそいつはここから百リーグも東に離れておるのだ。もう少し近い道がないか聞いてみるのも、悪くはあるまい。食糧を買いおえたら、わしも居酒屋へ立ち寄ろう」老人は馬にまたがると、荷馬を引き連れて、ほこりっぽい道を走り去った。
臭いのひどい居酒屋で、抜け道や踏み跡に詳しい者を探し出すのは、たいした手間ではなかった。それどころか、シルクとガリオンが質問をしたとたん、ちょっとした口論が巻き起こったほどだった。
「ベッシャーよ、おまえさんが言ってるのは遠まわりの道だ」ほろ酔いかげんの金鉱探しが、とくとくと山の道について述べたてるもう一方の男をさえぎるようにして言った。「小川の滝の左側を行くといい。それで三日間は稼げるぞ」
「言っとくがな、ヴァーン」ベッシャーと呼ばれた方の男が、傷だらけのテーブルを拳で叩きながら怒りっぽい口調で言った。「このおふた方におまえさんの道を教えるのは、こっちが話し終えてからにしてくれないか」
「そんなことしてたら、丸一日はかからあ――おまえさんのお気にいりの道とおんなじにな。こいつらは金を探しにいくんで、風景を眺めに行くわけじゃないんだ」ヴァーンの不精髭だらけのあごが、挑戦的に前へ突き出された。
「それで頂上の広い草原に出たら、どう行けばいいんだい」二人の間の敵意を何とかそらそうと、シルクが急いで口をはさんだ。
「右へ行くのさ」ベッシャーがヴァーンの方をにらみつけながら言った。
ヴァーンは少しでも反駁する材料はないかと考えこんでいるようすだったが、やがて不承不承うなずいた。「むろん道はそいつしかないさ」かれはさらにつけ加えた。「だが、いったんビャクシンの木立を抜けたら、左へ行くんだぞ」あらかじめ反論されることを期待しているかのような口ぶりだった。
「左だと」ベッシャーが大声で反駁した。「この大馬鹿やろうめ、右へ行くんだよ」
「だれに向かってものを言ってるんだ、このうすらとんかちめ」
ものも言わずにベッシャーはヴァーンの口をなぐりつけた。二人の男は拳骨でなぐりあいを始め、よろめきながら椅子やテーブルを倒した。
「むろん二人とも間違っている」すぐ近くのテーブルに座った鉱夫が、他人ごとのように喧嘩を眺めながら、平静な口ぶりで言った。「ビャクシンの木立を越えても、さらに真っすぐ行くのさ」
鎖かたびらの上に赤いゆったりした長衣をまとった、数人の筋骨たくましい男たちが、口論のまっ最中に誰にも気づかれることなく入ってきた。かれらは居酒屋の中につかつかと入ってくると、汚い床を転げまわるヴァーンとベッシャーを、にやにやしながら引き離した。ガリオンはシルクの身体がこわばるのを感じた。「マロリー人だ!」小男がそっとささやいた。「どうしよう」ガリオンは目で逃げ道を探しながら、小声で聞き返した。だがシルクが答えるよりも早く、黒衣のグロリム僧が入ってきた。
「戦いに熱中できる人間を見るのは楽しいものだ」グロリム僧は独特のアクセントで猫なで声を出した。「軍隊はきみたちのような男たちを求めているのだよ」
「新兵狩りだ!」ヴァーンはひと声叫ぶなり、赤衣のマロリー人を振り切って、脇のドアへ突進した。ほんの一瞬、かれの脱出は成功したかに見えたが、戸口にたどり着いたとたん、外側にいた男が、その額を太いこん棒でしたたかなぐりつけた。ヴァーンはふらふらと後ろによろめいた。足はふぬけたように弱々しく、目はうつろに見開かれていた。ヴァーンをなぐった男は居酒屋のなかへ入ってくると、犠牲者を鋭く値踏みするような目で眺め、分別ありげにもう一発、こん棒で頭をなぐった。
「さあ、きみたち」グロリム僧が楽しげな目であたりを見まわした。「これからどうするね? まだ逃げたいか、それともおとなしくわれわれに従う方を選ぶかね」
「いったい、おれたちをどこへ連れていく気だ」ベッシャーがにやにや笑う新兵狩りの腕から逃れようと必死にもがきながら聞いた。
「まずはヤー・ナドラクへ行ってもらおう」グロリム僧が答えた。「それから南をめざしてミシュラク・アク・タールへ、マロリー皇帝ザカーズ陛下のおられる幕営地へと向かうのだ。きみたちはたった今からわれわれの軍隊に入隊した。全アンガラクはきみたちの勇気と愛国心を心から歓迎する。トラク様もさぞかしおまえたちに満足することだろう」あたかもその言葉を強調するかのように、グロリム僧はベルトの鞘におさめられた、いけにえ用のナイフのつかに手をやった。
かせ[#「かせ」に傍点]をはめられたガリオンの足元で、重苦しい歩みごとに、鎖ががちゃがちゃといやな音をたてた。かれは徴集兵の陰気な長い行列に加わり、川岸のシダの茂みの中を南に向かって歩いていた。徴集された者たちはみな、武器を持っていないかどうか、手荒な身体検査を受けた。だが、ガリオンだけは別だった。どういうわけか、かれだけは見過ごされた。こうして歩きながらも、かれは背中にくくりつけてある巨大な剣の存在を痛いほど感じていたが、いつもと同じように、誰ひとり気づく者はいなかった。
全員足かせ[#「かせ」に傍点]をはめられて村を出る前に、ガリオンとシルクはドラスニアの秘密の言葉で、あわただしい短い会話をかわした。
――こんなもの、わたしの指の爪一本であいちまうさ――シルクは素早い指の動きで、あからさまな侮蔑を示した。――夜になったら、こいつをはずしてずらかることにしよう。どう考えてもわたしは軍隊生活に向いてるとは思えないし、きみがアンガラク軍の一員でいるのも、ひどく場違いだろうから――
――おじいさんはどこにいるんだろう――ガリオンがたずねた。
――どこか近くにいるんじゃないかね――
それでもガリオンは安心できなかった。かれの心にあらゆるもし……だったら≠ェ押し寄せた。それらの不吉な思いを振り切ろうと、ガリオンはかれらを護衛するマロリー人たちをひそかに観察することにした。いったん捕虜たちに足かせがはめられると、グロリム僧とその部隊のほとんどは、次の村へ兵隊狩りに出発した。したがって南に向かうこの行列をまもっているのは五、六人のマロリー人に過ぎなかった。マロリー人は他のアンガラク人たちに比べて、かなり異なっていた。かれらの目は同じようにとげとげしかったが、身体は西の諸族に見られるような統一性を欠いていた。たしかに身体つきはがっしりしていたが、マーゴ人たちの鍛え上げたたくましさはなかった。背は高かったが、ナドラク人の軽戦車のようなぜい肉のない身体つきではなかった。見かけは剛健そうだが、タール人特有のがっちりした腰つきからくり出される獣的な迫力はない。だがかれらが西アンガラク人を見る目つきには、相手を見下すような高慢さが感じられた。捕虜に対しては、ぶっきらぼうな命令口調でどやしつけ、仲間同士でしゃべる声はなまりがきつすぎて、ほとんど何を言ってるのかわからなかった。かれらは鎖かたびらの上に赤い粗織りの長衣をつけていた。あまり馬の扱いにも長じていないようだ、とガリオンは見てとった。たづなをとろうとするたびに、かれらの湾曲した刀や、巨大な丸い楯が邪魔になるらしかった。
ガリオンはシルクよりもさらにアンガラク人とかけ離れた自分の容貌を隠すために、用心深く顔を下に向けていた。だがマロリー人の護衛たちは、徴集兵一人一人よりも全体の人数に関心があるらしかった。かれらは呻吟する行列の前後を、行ったり来たりしては、人数をかぞえ、入念に、気づかわしげな気配すら漂わせながら、書類に記入していった。ヤー・ナドラクに着いたとき、徴集兵の数があわなかったりしたら、さぞかしひと騒動あるに違いない、とガリオンは思った。
そのとき、行く手のいくぶん上方の藪の中で、ちらりと何かが動くのが見えた。かれは素早くその方向に目をやった。巨大な銀灰色の狼が、音もたてずに茂みのすぐ内側を、歩調を合わせてついてくるところだった。ガリオンはあわてて頭を下げ、わざとよろめき、シルクの上に倒れかかりながらささやいた。「おじいさんが、あそこにいる」
「今ごろ気がついたのかい?」シルクが驚いたように言った。「わたしにはもう一時間以上も前からわかっていたよ」
道が川を離れて、樹林の中に入ったとたん、ガリオンは緊張感がせり上がってくるのを感じた。ベルガラスが何をしようとしているのか見当もつかなかったが、樹木の隠れみのが祖父の待つ絶好の機会を提供していることはわかっていた。シルクの後ろを歩きながら、かれは膨らむ一方の不安を必死におし隠そうとしたが、森の中から聞こえてくるちょっとした物音にも、はっとせずにはいられなかった。
道は下り坂になり、やがて背の高いシダに囲まれた、広い切り開きに出た。マロリー人たちは立ち止まって、徴集兵たちに休憩を許した。ガリオンはほっとする思いで、シルクの隣の湿った草にどさりと腰を落とした。捕虜たちをつないだ長い鎖を片足にくくりつけたまま歩くのは、並たいていのことではなく、いつのまにかかれはびっしょり汗をかいていた。「おじいさんは何を待っているんだろう」かれはシルクに小声でたずねた。
ネズミのような顔をした小男は肩をすくめた。「まだ暗くなるまでには数時間ある」かれは低い声で答えた。「たぶん、そのときを待ってるんだろうよ」
すると少し離れた上の方から、歌声が聞こえてきた。歌はひどく下品で調子っぱずれだったが、歌い手はあきらかに上機嫌らしかった。近づくにつれ、ろれつのまわらない言葉つかいから、男がかなり酩酊しているのがわかった。
マロリー人たちはにやにやしながら、互いに見交わした。「どうやらまたあらたな愛国者が増えるらしい」中の一人が笑って言った。「わざわざ自分から入隊にくるとはな。ひとまず散ってから、やつが切り開きに入ってきたところで、取り囲め」
やがて鹿毛の馬に乗った、歌を口ずさんでいるナドラク人の姿が一行の前にあらわれた。男はおなじみの黒っぽい染みだらけの黒衣に身を包み、頭の一方に危なっかしく毛皮の帽子をのせていた。もじゃもじゃの黒髭に、片方の手にぶどう酒の入った革袋を持っている。身体は馬の上でぐらぐらしていたが、男の目は見かけほど酔っていないことを示していた。ラバの群れを引き連れて切り開きに入ってきた男を、ガリオンはまともに見た。何とそれはクトル・マーゴスの〈南の隊商道〉で出会った、ナドラクの商人ヤーブレックだった。
「いよう、諸君!」ヤーブレックは大声でマロリー人たちに呼びかけた。「結構な収穫があったようじゃないか。見るからに剛健そうな新兵ばかりだぞ」
「これなら話は簡単だ」マロリー人の一人がにやにや笑いながら、馬を動かしてヤーブレックの行く手をふさいだ。
「なんだ、おれのことかい」ヤーブレックは高らかに笑った。「冗談じゃない。おれは兵隊なんぞやってる暇はないんだ」
「そいつは残念なことだな」マロリー人が答えた。
「おれの名前はヤーブレック、ヤー・トラクの商人であり、ドロスタ王の個人的な友人でもある。王みずからの委任を受けて、任務を遂行しておる最中だ。おれの邪魔をしようものなら、ヤー・ナドラクに足を踏み入れたとたん、おまえらは皮をはがれ、生きながら焼かれることになるぞ」
マロリー人は商人の言葉にいささか心もとなくなったようすだった。「われわれはザカーズ陛下の命令のみによって動いている」かれは弁護するように言った。「ドロスタ王が何といおうとわれわれには関係ない」
「だがおまえたちはガール・オグ・ナドラクにいるんだぞ」ヤーブレックは言い返した。「ドロスタ王はその気になれば何でもできる。むろんすべてことが終わった後でザカーズ皇帝に詫びることだって考えられるが、その頃にはおまえたち五人は皮をひんむかれて、ぐるぐるあぶられた後だろうな」
「おまえが公務で旅しているという証明書は持っているだろうな」
「むろんだとも」ヤーブレックはそう言いながら、頭をぼりぼりかき、愚鈍そうな当惑の表情を浮かべた。「はて、あの羊皮紙はどこへしまったけな」かれはぶつぶつひとりごちていたが、やがてぱちんと指を鳴らした。「そうだ、思い出したぞ。一番後ろのラバの荷物の中にしまったんだ。まあ、書類を探しているあいだ、これで一杯やってたらどうだ」商人はそう言いながらぶどう酒の革袋をマロリー人に手渡し、荷物用のラバの列に引き返した。そして馬を降りると防水布の荷物のひとつを引っかきまわし始めた。
「こいつの言う証明書を見てからにした方がいい」別のマロリー人が言った。「ドロスタ王はあまり敵にまわしたくない人物だからな」
「とりあえず、待っているあいだ一杯やろうじゃないか」もう一人が革袋に目をやりながら言った。
「そいつに関しては意見が一致したようだな」最初の男はそう言いながら、革袋の栓をゆるめ始めた。そして革袋を両手でかかげると、あごを上げて飲もうとした。
そのとたん、手ごたえのある音がしたかと思うと、男の赤い長衣のすぐ上の、のどの部分に羽根かざりをつけた矢が深々と突きささった。男の仰天した顔の上にぶどう酒が勢いよくほとばしった。犠牲者の仲間たちは警戒の叫び声をあげ、あわてて武器に手をのばしたが、すでに遅かった。ほとんどの男たちは、シダの茂みの陰から雨あられと放たれる矢に当たって、次々と鞍から転げ落ちた。それでも一人だけは、脇腹に深々とささった矢を握りしめながら、何とか馬の向きを変えて逃げ出そうとした。だが馬が二歩も行かないうち、マロリー人の背に矢が突き刺さった。男は一瞬身をこわばらせ、足をあぶみに引っかけたまま崩れ落ちた。驚愕した馬は飛びはね、乗り手を引きずったまま来た道の向こうに消えた。
「どうやら書類をどこかへやってしまったようだ」ヤーブレックは意地悪い笑みを浮かべながら、戻ってきた。商人は先ほどまで話していた相手を、足でひっくり返した。「だが、もともと見る気なんてなかったんだろ?」かれは死んだ男に向かって言った。
のどに矢を突きたてられたマロリー人は、うつろな目で空を見上げている。口をぽかんと開け、鼻からどくどく血を流し続けていた。
「そんなことだろうと思ったよ」ヤーブレックは野蛮な笑い声を上げた。かれは足を引くと死んだ男の顔を蹴飛ばして、再度ひっくり返した。シダの濃緑色の背後から射手が姿をあらわすのを待って、商人はシルクに向かってにやにや笑いかけた。「まったく逃げ足の速いやつだな。とっくにあのおぞましいクトル・マーゴスで、タウル・ウルガスに息の根を止められているものと思っていたぜ」
「そいつはやつの見込みちがいというものさ」シルクは無頓着な声で言った。
「それにしてもいったい、どういうめぐりあわせでマロリー軍なんぞに入隊したんだい」ヤーブレックがおもしろそうにたずねた。その顔からは、すでに酔いの兆候は消えうせていた。
シルクは肩をすくめてみせた。「ちょっと油断したものでね」
「おれは三日前からあんたたちの後を追っていたんだぞ」
「まったくおまえの心遣いには、痛みいるね」シルクはそう言いながら、かせ[#「かせ」に傍点]をはめた片足をあげて、鎖をじゃらじゃら鳴らしてみせた。「ところでついでにこれもはずしてはもらえんかね」
「まさかこれ以上悶着を起こそうってわけじゃないだろうな」
「むろん、そんなつもりはない」
「鍵を探せ」ヤーブレックは配下の射手たちに命じた。
「おれたちをいったいどうしようってんですか」ベッシャーが、いささか不安げに死んだ男たちを眺めながら言った。
ヤーブレックは笑い声をあげた。「鎖を解かれてから先のことは、おまえさんしだいさ」かれはたいした関心もなさそうに言った。「だがこんなふうにマロリー人の死体がごろごろしているそばにいるのは感心せんな。いずれ誰かが通りかかって、質問をおっ始めることだろう」
「それじゃあ、おれたちをこのまま逃がしてくれるっておっしゃるんですかい」
「おまえたちの面倒を見るつもりはないね」
射手は鎖の前にかがみこんで、足かせをはずしていった。ナドラク人たちは自由の身になるとすぐに、手近な茂みに脱兎のごとく姿を消した。
「さあて」ヤーブレックが掌をすり合わせながら言った。「こちらの方も片づいたところで、おれたちも一杯やろうじゃないか」
「おまえのぶどう酒は護衛が馬から転げ落ちるときに、全部こぼしちまっただろう」
「あれはおれのじゃない」ヤーブレックはふふんと鼻を鳴らした。「今朝盗んできたのさ。おれが、これから殺そうという相手におごってやるような人間かどうか、おまえにはわかっているはずだ」
「どうりで不思議だと思ったよ」シルクはにやりと笑いかけた。「てっきり習慣をあらためたのかと思った」
ヤーブレックは粗野な顔にかすかに傷ついたような表情を浮かべてみせた。
「いや、失礼」シルクがあわてて詫びた。「どうやらおまえのことを誤解していたようだ」
「なあに、別にどうってことはない」ヤーブレックは肩をすくめた。「おれを誤解している人間は決して少なくはないからな」かれはそう言ってため息をついた。「それが負うべき定めなんだろう」商人は先頭のラバの荷物を開けると、エールの小さな樽を取り出した。それを地面の上に置くと、慣れた動作で表面に拳を打ちつけ、口をあけた。「さあ、飲もうじゃないか」かれは二人にすすめた。
「できればご相伴したいところなんだが」シルクは丁寧に断った。「あいにく急ぎの用件を抱えているものでね」
「おれがどんなに残念に思ってるか、おまえさんには想像もつかんだろうな」ヤーブレックはそう言いながらカップを何個か取り出した。
「おまえならわかってくれるはずだがね」
「むろん、わかるとも。シルク」ヤーブレックはかがみこみ、ふたつのカップを樽の中のエールに浸した。「おれもじつに申しわけないと思ってるよ。おまえさんの用件を途中で中断してもらわねばならないことにね。そら、受け取りたまえ」かれはシルクにカップを渡し、もう一方をガリオンに渡した。そして再び向きを変えると、自分のカップをエールの樽につけた。
シルクはいぶかしげに一方の眉を上げて相手を見た。
ヤーブレックはエールの樽の横に、くつろいで座り、マロリー人の死体の上に心地よさそうに足を休めた。「なあ、シルク」商人は言った。「要はドロスタ王がおまえに会いたがってるということだ――それもひどくな。そのために王は、見過ごすにはあまりに魅力的な額の賞金をおまえさんにかけたのさ。友情も大切だが、ビジネスはビジネスだ。さあ、そうとわかったら、おまえさんもその若い友人もくつろいだらどうかね。ここは涼しい日陰だし、地面はやわらかい苔で覆われているし、昼寝にはうってつけじゃないか。こいつを飲んだら、いかにしてタウル・ウルガスの手から逃れたのかじっくり話を聞こう。それからおまえさんがクトル・マーゴスで連れていた魅力的なご婦人の行方についてもな。たぶんおれはまえさんを引き渡した金で、あの女を買うことができるかもしれない。自分が結婚にむいてるとは思わんが、トラクの威力にかけて、あれは素晴らしい女だった。おれはあの女のためなら、自由を失ってもいいとさえ思ってるんだぜ」
「それを聞いたら、さぞかし彼女は喜ぶことだろう」シルクは言った。「だが後はどうなるんだ」
「何の後だ?」
「われわれがこれを飲んだ後さ。いったいどうなるのかね」
「たぶん、気分が悪くなるだろう――いつもそうなるんだ。だが回復したら一路ヤー・ナドラクを目指す。おれは相応の賞金をもらい、おまえさんはドロスタ・レク・タン王が何でそんなにまでして会いたがっていたかを知るというわけさ」かれはおもしろそうにシルクの方を見た。
「とりあえず、腰をおろして一杯やりたまえ。さしあたってもう逃げることはできんのだからな」
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5
ヤー・ナドラクはコルドゥー川を東西に分ける分岐点にある、城壁に囲まれた都市だった。森は首都の周囲約一リーグにもわたって、焼き払うというごく単純な方法で始末されていた。そのために、街への進入路は焼け焦げた立木の残骸や、育ち過ぎたイバラのはびこる荒れ地のあいだを通っていた。市内へ入るための城門は、見るからに頑丈で、上にタールが塗られていた。その上に載せられているのは、石で作られたトラクの仮面の複製だった。美しい、人間離れした冷酷な顔が、城門を通る者すべてを見おろしていた。ガリオンはその下を通りながら身震いを禁じ得なかった。
首都ナドラクの家々は、いちように高く、屋根は急な角度で落ちていた。建物の二階の窓には鎧戸がつけられ、そのほとんどはおろされていた。むきだしの木材の部分は、保護のためにタールが塗りたくられていた。その黒いしみのような斑点のおかげで、家はまるで病んでいるような印象を見る者に与えた。
ヤー・ナドラクの狭い曲がりくねった通りにはどこか陰うつな、おびえにも似た空気が流れていた。住人たちは皆いちように目を伏せ、自分たちの目的に向かって足早に通り過ぎていった。これまでの田舎の地方と比べれば、首都の住人たちの衣服に革の占める割合は少なかった。だが、ここでもやはりほとんどの人々は黒を身につけ、ごくたまに青や黄などの明るい色が見られるだけだった。この習慣の唯一の例外は、マロリー人兵士たちのはおる赤い長衣だった。街のあらゆる場所で、玉石を敷いた通りを気ままにぶらつき、住民たちに乱暴な言葉を浴びせたり、仲間同士でなまりのきつい言葉を、声高にしゃべりあっているかれらの姿が見られた。
大多数の兵隊たちはふんぞり返っていばっていたが、それは異郷に連れてこられた若者たちが不安を押し隠すために、怒鳴りちらしたり虚勢をはっているに過ぎなかった。だがグロリム僧となると話は別だった。ガリオンがクトル・マーゴスで見かけた西方のグロリムたちとは違い、この地では磨かれた金属面をつけている者はごくまれだった。そのかわりにかれらは薄い唇を引き結び、目を細め、冷酷な仮面のような表情を浮かべていた。かれらが頭巾のついた黒いローブ姿で通りに見せるたびに、マロリー人もナドラク人もいちように道を譲った。
ぴったり護衛されたガリオンとシルクはラバに乗り、ひょろ長いヤーブレックの後に従って市中に入った。ヤーブレックとシルクは川に沿って旅を続けるあいだも、冗談を言いあっていた。二人はたわいのない悪口をかわしては、互いの古傷をつつきあっていた。ヤーブレックはすっかり打ちとけていたが、それでもなお監視の目をゆるめはしなかったし、ガリオンとシルクの一挙手一投足はかれの部下たちに見守られていた。ガリオンは三日間のあいだ、何度もひそかに森を盗み見たが、ベルガラスらしき姿を見つけることはできなかった。結局、かれは不安にびくつきながら街に入った。それなのにシルクは相変わらず、気楽そうで自信に満ちていた。かれの平素と変わらない動作や態度が、ガリオンをいらだたせた。
ひづめの音をたてながら、曲がりくねった大通りをしばらく進んだところで、ヤーブレックは川に通じる狭い小路に入った。
「宮殿はたしかあちらの方だったような気がするがね」シルクが街の中心部を指さしながらたずねた。
「そうだ」ヤーブレックは答えて言った。「だがおれたちは宮殿へ行くわけではない。ここにはドロスタ王の友人たちがいるんだ。王はここで非公式に政務をとるのを好むものでね」小路はやがて崩れかけて背の高い、狭い家々が並ぶみすぼらしい通りになった。二人のグロリム僧が角を曲がって姿をあらわしたとたん、ひょろ長いナドラク人は口をつぐんだ。僧たちが近づいてくるにつれ、ヤーブレックは露骨な敵意を浮かべて相手をにらみつけた。
片方のグロリム僧が立ち止まって、視線を返した。「おまえは何か問題を抱えているようだな」
「そいつはよけいなお世話というもんだ」ヤーブレックは言い返した。
「たしかにそのとおりだ」グロリム僧は眉ひとつ動かさずに答えた。「だがやりすぎるのはよくないぞ。僧侶に対するあからさまな不敬は、いずれおまえを深刻なもめ事に巻き込むことになろう」黒いローブをまとった僧の目つきには威嚇するような光があった。
突然の衝動に駆りたてられたガリオンは、そっとかれの意思をグロリムの方にのばし、気づかれないように探ったが、そこには特別な意識もなければ、魔術師の心から生じる霊気のようなものも感じられなかった。
(そんなことをするものではない)かれの心の中の声が警告した。(わざわざ鐘を打ち鳴らして、首から魔術師だと看板をぶら下げて歩くようなものだ)
ガリオンは慌てて自分の意思を引っ込めた。(グロリム僧というのは皆、魔術師だと思っていた)かれは声を出さずに言った。(だけどこの二人は何でもないただの人間だったよ)だがもうひとつの声はすでに去った後だった。
二人のグロリム僧の姿が見えなくなったとたん、ヤーブレックは軽蔑をこめて地面に唾を吐いた。「豚どもめ」かれは小声で毒づいた。「おれはマーゴ人と同じくらい、マロリー人が嫌いになったぜ」
「どうやら連中はおまえの祖国を乗っ取ろうとしているようだな」シルクが言った。
ヤーブレックはうなるように言った。「好きなだけ入ってくるがいい。やつらなどすぐにおれたちの足元にひれ伏すようになるさ」
「連中が入ってくるようになったそもそものきっかけは何なんだ?」シルクがなにげないふりをしてたずねた。
「いいか、シルク」ヤーブレックが乱暴にさえぎった。「おまえがスパイだということは十分承知しているし、政治について語りあうつもりもない。だから情報を嗅ぎまわろうとするのはやめてくれ」
「少しばかりおしゃべりを楽しもうとしているだけじゃないかね」シルクは無邪気な声で答えた。
「何だって自分の仕事以外のことに首を突っ込もうとするんだ」
「こいつがおれの仕事なもんでね、親友よ」
ヤーブレックは小男をにらみつけていたが、突然笑い出した。
「これからどこへ行こうってんだ」シルクがみすぼらしい町並みを見まわしながらたずねた。
「おれの覚えているかぎりでは、ここは決して上品な場所とは言えないはずだがね」
「今にわかる」ヤーブレックが言った。
一行は川に向かって進み続けた。川の上に浮いた残飯や、ふたのない下水のむっとするような悪臭があたり一面にたちこめていた。ガリオンは排水溝で餌を食べているネズミの姿をみとめた。通りの人々は皆、官憲の手を逃れる者特有の、こそこそした目つきをしていた。
だしぬけにヤーブレックは馬の向きを変えると、さらに狭く汚らしい横町に入っていった。
「ここからは歩いてもらおう」かれはラバからおりながら言った。「裏道から行くことにする」ラバをヤーブレックの部下にあずけ、一行は腐ったゴミの山を注意深くよけながら、横町を歩いていった。
「あそこだ」ヤーブレックは狭い戸口に向かっておりている、短いぐらぐらする木の階段を指さしながら言った。「いったん中へ入ったら、なるべく顔は下に向けてくれ。あんたたちがナドラク人でないことを、中の連中に知られたくないからな」
かれらはぎしぎしきしむ階段をおり、居酒屋の戸口からそっと入った。内部は暗くすすけ、汗とこぼれたビールと腐敗した嘔吐物の臭いがしみこんでいた。部屋の中央に掘り抜かれた火穴は、灰でびっしり覆われ、何本かの大きな薪がおびただしい煙と、わずかな光を発しながらくすぶっていた。正面にある二つの窓は、まわりの壁よりもわずかに明るい程度で、たるきのひとつから石油ランプが鎖で吊り下げられていた。
「ここに座っていてくれ」ヤーブレックが、背後の壁に押しつけられたベンチを小突きながら言った。「すぐに戻ってくる」かれはそう言い置いて、居酒屋の正面の方へ姿を消した。ガリオンは素早くあたりを見まわしたが、すぐにドアの両側で人目につかないように見張っているヤーブレックの部下の姿が二人、目に入った。
「これからどうするんだい」かれはひそひそ声でシルクにたずねた。
「ここでじっと待って何が起こるか見るしかないじゃないか」シルクは言った。
「何だかあんまり心配してないようだね」
「じっさいのところ、全然心配しちゃいないさ」
「だけど、ぼくらは逮捕されたんだろ」
シルクはかぶりを振った。「誰かを逮捕するときには、手足にかせをはめるものさ。ドロスタ王はわたしに話がある、ただそれだけさ」
「でも手配書には――」
「そんなもの、わたしは気にしちゃいない。あの手配書はマロリー人用に書かれたものだ。ドロスタ王の用件が何であれ、連中に気どられるようなまねはしないはずだ」
居酒屋の人ごみをかきわけながらヤーブレックが戻ってきた。商人は二人のかたわらの垢ですすけたベンチにどすんと腰を下ろした。「すぐにドロスタ王が見える」かれは言った。「待っているあいだに何か飲むかね」
シルクはかすかな嫌悪をこめてあたりを見まわした。「いや、結構だ」小男は答えた。「こういった店のエール樽には溺れ死んだネズミがよく浮いていることがあるからな――死んだハエやゴキブリは別としても」
「勝手にしろ」ヤーブレックが言った。
「王さまを探すにしてはずいぶん変わった場所なんだね」ガリオンはみすぼらしい室内をみまわしながら言った。
「それにはまずドロスタ王という人物をよく知っておくことが必要だ」シルクが説明した。
「王はいささか悪名高い嗜好があるのさ。かれにはこういった川岸のいかがわしい酒場の方が似合っている」
ヤーブレックは同意のしるしに笑った。「われらが君主はなかなか精力的な御仁なのでね」とかれは言った。「だからといって馬鹿だと思ってはいけない――少しばかり粗野かもしれんが、決して馬鹿ではない。王ならこんな場所へも平気で出入りできるし、さすがのマロリー人もここまでは追ってこない。だからザカーズに報告されて困るような政務は、ここでとることにしているわけさ」
居酒屋の正面近くでざわめきが起こったかと思うと、黒革の長衣に尖った兜をかぶった二人のがっしりしたナドラク人が人ごみをかき分けるようにして入ってきた。「道を開けろ!」一方の男が怒鳴った。「全員起立しろ!」
「ただし足腰の立つ者だけでいい」もう一方の男がそっけない口調で言った。
黄色いサテンの上衣に、毛皮のふち取りのついた緑色のマントをはおった痩せた男が入ってきたとたん、嘲笑とやじがいっせいにあがった。男の目は飛び出し、顔は一面の古いあばたに覆われていた。動作はせっかちで落着きがなく、皮肉っぽくおもしろがっているような表情と、満たされない絶望的な渇望とが奇妙に入りまじっていた。
「皆の者、ナドラク王ドロスタ・レク・タン陛下をたたえよ!」酔っ払いの一人が大声で怒鳴ると、居合わせた男たちはいっせいに下卑た笑い声をあげた。やじと口笛に、足を踏み鳴らす音が加わった。
「わが忠実なしもべたちよ」あばた面の男はにやにや笑いを浮かべて答えた。「酔っ払い、泥棒、ポン引きどもよ。そなたたちの心地よい愛にわたしはとっぷりと浸かっておるぞ」かれの嘲笑は、ぼろを着た不潔な観衆だけでなく、自分自身にも向けられたもののようだった。
居酒屋の男たちはいっせいに口笛をふき、侮蔑のしるしに足を踏み鳴らした。
「今晩は何人とやるんだい、ドロスタよ」一人の男が叫んだ。
「むろんできるかぎりお相手を務めさせていただくぞ」王は好色な目つきをした。「出会う者みなに王者の祝福を分け与えるがわたしの義務だからな」
「それがあんたの大義名分かい」別のしわがれ声がたずねた。
「まあそのようなものだ」ドロスタは肩をすくめてみせた。
「王者の閏房が陛下のおなりを待っておりますぞ」居酒屋の主人が馬鹿にしたようなお辞儀とともに呼ばわった。
「王者の閨房《とこ》にふさわしいトコジラミと共にな」ドロスタがつけ加えた。「まだ飲んだくれるほど酔いのまわっていない連中に、エールをやってくれ。忠実なるしもべにわたしの健康を祝わせるのだ」
人ごみをかきわけながら二階への階段へ向かう王に観衆は喝采をおくった。「あそこでしなければならぬ公務があるのでな」王は尊大な動作で二階の部屋を指さした。「この厳しい責務をいかにわたしが熱心に遂行しようとしているか、よく覚えておくのだぞ」階段を上っていく王に、下層民たちはいっせいに嘲笑まじりの喝采を送った。
「これからどうする?」シルクがたずねた。
「少し待つことにしよう」ヤーブレックが答えた。「今すぐ後を追って上がっていったのでは、目立ちすぎる」
ガリオンは落ちつきなくベンチの上で体を動かした。耳の後ろにかすかにうずくような感触があった。ちくちく刺すような不快感が肌を這い上がってくるような気がした。酒場にたむろする男たちのシラミかノミが、新鮮な血を求めて移動してきたのではないかという不快な思いがかすめたが、すぐにその考えを打ち消した。このちくちくする感触は外部からのものとは思えなかった。
かれらからはさほど離れていないテーブルで、すっかり泥酔したようすの、ぼろをまとった老人が腕の中に顔をうずめていびきをかいていた。いびきの途中で老人はすばやく顔をあげて片目をつぶってみせた。ベルガラスだった。老人が顔を再び腕の中にうずめるのと同時に、ガリオンはどっと安堵の波に浸された。
居酒屋の酔客はしだいに騒々しくなってきた。火穴のすぐ近くで見苦しい短い乱闘が起こった。最初のうちは喝采を送っていた人々も、やがて喧嘩に加わり、床で転げまわる二人をさんざんに蹴りつけ始めた。
「そろそろ行こう」ヤーブレックはそう言うなり立ち上がった。かれは人ごみをかきわけるようにして階段をあがり始めた。
「おじいさんが来ている」ガリオンは商人の後に従いながら、小声でシルクに言った。
「わかってるさ」シルクはそっけなく答えた。
階段は二階のうす暗い廊下に続いていた。すり切れて糸の見える汚れた絨毯が足元に敷かれていた。廊下の先にドロスタ王の二人の護衛が、所在なさそうにがんじょうなドアの両側に寄りかかっていた。
「ヤーブレックだ」シルクの友人はドアの前に立って言った。「ドロスタが待っているはずだが」
護衛は互いに視線を交わし、片方の男がドアを叩いて言った。「陛下、お待ちの客人が見えました」
「中へ通してくれ」ドロスタのくぐもった声がした。
「王はお一人じゃありませんからね」護衛が言った。
「かまわんよ」
「それではお入り下さい」そう言いながら護衛はドアの掛け金を外して、押し開けた。
ナドラクの王はしわくちゃのベッドの上にだらしなく横たわっていた。その両腕はわずかな衣類をまとっただけの、二人の汚れた若い娘の肩にまわされていた。娘たちの髪はもつれ、目はうつろに見開かれていた。「ヤーブレック」素行の悪い王が、商人を迎えて言った。「いったい何でこんなに時間がかかったんだ」
「すぐに後を追って人目につくようなことはしたくなかったのでね、ドロスタ」
「おかげで危うく本来の職務を忘れるところだったぞ」ドロスタはみだらな目つきで二人の少女の方を見た。「どうだ、なかなか魅力的だと思わんかね」
「そういったタイプが好みでしたら」ヤーブレックは肩をすくめてみせた。「わたしはもう少し成熟している方がいいですね」
「それもたしかに良いがな」ドロスタが言った。「要するにわたしはご婦人すべてを愛しているのだ。なにしろ一日に二十回は恋に落ちているのでな。さあ、かわいい娘たちよ、あっちへお行き」王は少女たちに言った。「これからやらねばならん仕事があるのでな。また後で呼びにやるぞ」
二人の少女たちはすぐに立ち去り、そっとドアをしめた。
ドロスタはベッドの上に起き上がり、ぼんやりとわきの下をかいていた。染みだらけでしわのよった黄色い上衣の前はだらしなくひらき、あばら骨の浮いた胸には黒いもじゃもじゃの毛がはえていた。かれはほとんど貧弱といえるほど痩せ細り、骨張った腕は二本の棒のように見えた。脂ぎった髪の毛はまっすぐで、髭はうすく、あごの先に生えた黒い体毛にしか見えなかった。顔のあばたの痕は深くえぐれて、赤く炎症を起こしており、首と手は汚らしい吹き出物に覆われていた。あきらかにそれとわかる異臭が、王の身体から漂っていた。「本当にこれがわたしの探していた男かね」王はヤーブレックにたずねた。ガリオンははっとして相手を見た。それまでの下卑た声音は消えうせ、鋭く、命令的な、政務を担当する人間の口調に変わっていた。ガリオンは急いで少しばかり相手に対する心証を修正することにした。ドロスタ・レク・タンは決して見かけどおりの男ではないのだ。
「わたしはもう何年にもわたって、この男をよく知っております、ドロスタ王」ヤーブレックが答えた。「この男こそドラスニアのケルダー王子にまちがいありません。かれはシルクという名で、あるいはコトゥのアンバー、ボクトールのラデクという名でも知られています。泥棒であり、ぺてん師であり、スパイを兼ねております。それをのぞけば、それほど悪いやつではありません」
「そのように有名な御仁とお目にかかれるとは光栄なことだ」ドロスタ王が言った。「ようこそ、ケルダー王子」
「お目にかかれて光栄です、陛下」
「本当ならわたしの宮殿に招きたかったのだが、あいにくとあそこにはわたしの仕事に鼻を突っ込みたがる不愉快な客人がいるのだ」かれはそっけない口調で言った。「幸い、マロリー人どもはお高くとまっている連中だということがすぐにわかったのでな。やっこさんたちはこんな場所までわたしを追ってこようとはしない。だからこそこうして自由に話もできるというわけだ」王はそう言いながら、安ぴか物の家具や赤いカーテンを、満足げな寛大さをこめて見まわした。「それを別にしても」とかれはつけ加えた。「わたしはここが気にいってるのさ」
ガリオンはドア近くの壁を背にして、なるべくめだたないように立っていた。だがドロスタ王の鋭敏な目はかれの姿を見逃さなかった。「あの少年は信用できるのかね」王はシルクにたずねた。
「その点はまったく問題ありません」シルクが安心させるように言った。「これはわたしの弟子で、わたしのあらゆる仕事を学ばせているところです」
「どっちの仕事だね。泥棒か、それともスパイの方かね」
シルクは肩をすくめた。「わたしにとっちゃ、どちらも同じようなもんでね。ヤーブレックの話ではわたしにご用があるそうですね。思うにこれは過去の誤解に関するものではなく、むしろこれからの展望についてじゃありませんか」
「きみはなかなかものわかりの早い男だな」ドロスタ王は満足げな声を出した。「きみの助けがぜひほしいのだ。むろん報酬は用意するつもりだが」
シルクはにやりと笑った。「その報酬という言葉には大いに興味がありますな」
「わたしもそう聞いておるよ。ところで、このガール・オグ・ナドラクが現在どんな状態にあるか、知っておるかね」ドロスタ王は眼光鋭く相手を見た。同時にそれまでの見せかけの下品な放縦さはみじんもなく消えうせた。
「いやしくもわたしは情報機関の人間ですよ、陛下」シルクが言った。
ドロスタはうなるような声をあげて立ち上がると、ぶどう酒のデカンターとグラスの並べられたテーブルの前に行った。「一杯やるかね」かれはたずねた。
「むろんですとも」
ドロスタ王は四つのグラスを満たし、その一つを取りあげると、怒ったような表情を浮かべて、室内をぐるぐる歩きはじめた。「好きこのんでこんな事態を望んだわけではないぞ、ケルダー」王は突然わめきはじめた。「わが一族はそれこそ何十年、いや何世紀にもわたってこのガール・オグ・ナドラクをグロリムの支配から引き離そうと努力してきたのだ。それなのにやつらは再び、この国を野蛮な残虐な土地におとしめようとしておるのだ。なのにわたしには指をくわえてそれを見ていることしかできない。わたしには領内を気ままにうろつきまわる二十五万人ものマロリー人兵士たちと、南の国々にはとうてい数のおよばない軍隊しかないのだ。ひとことでも抗議の言葉を発しようものなら、ザカーズは拳を振りあげるだけで、わが王国を崩壊させることだろう」
「しかし本当にそんなことまでしますかね」シルクはテーブルの前の椅子に座りながらたずねた。
「ハエを一匹叩きつぶした程度にしか思わないだろうさ」とドロスタ王。「やつに会ったことがあるかね」
シルクは首を振った。
「会わん方がましさ」ドロスタ王は身震いした。「タウル・ウルガスは狂人には違いないが、まだ嫌悪を抱けるだけ人間的だ。だがあのザカーズというやつは氷でできているのだ。わたしは一刻も早くローダーと連絡が取りたい」
「ほう」シルクが言った。「なるほどそういうことですか」
「ケルダー王子、たしかにきみはなかなか楽しい人物だが」ドロスタ王はひやかすように言った。「きみの知己を得るためにこのような手間をかけたりはしない。きみにローダーへのメッセージを運んでもらいたい。わたしはなんとかかれと連絡を取ろうとしたが、どうやってもつかまらないのだ。ローダーはひとつのところにじっとしてはおらんからな。まったくあんなぶくぶく太った人間が、どうしてあのように動けるのだろう」
「おじは人を欺く術にたけてますからね」シルクはそっけない声で答えた。「それでいったいどうしようというんですか」
「同盟だ」ドロスタはずばりと言った。「わたしは、もはやにっちもさっちもいかないところまで追い詰められている。ローダーと手を組むか、さもなくば完全にのみこまれてしまうまでだ」
シルクは慎重に自分のグラスをおろした。「それはまた由々しきご提案ですな、陛下。現在の時点でそれを実現させるためには、何度も迅速な検討を重ねていかねばならないでしょう」
「だからこそきみを探していたのだ、ケルダー王子。われわれは今まさにこの世の終わりに直面しようとしている。きみには何としてもローダーのところへ行き、タールの国境から軍隊を撤退するよう説得してもらわねばならない。手遅れにならないうちに、かれの狂気沙汰をやめさせるのだ」
「おじに何かをしろと言うのは、いささかわたしの手にあまる仕事ですぞ、ドロスタ王」シルクは言葉を選ぶようにして答えた。「わたしにそのような影響力があると見込んで下さったのは光栄ですが、じっさいのところわれわれの関係はむしろその逆の場合が多いのですよ」
「きみは今何が起ころうとしているかわからんのか、ケルダー王子」ドロスタ王の声は苦悩に満ち、その身振りはますます激しくなっていった。「われわれが生き残る唯一の希望は、マーゴ人とマロリー人が連帯するいかなる理由をも与えないことだ。必要なのは二国間の不和をあおりたてることであって、共通の敵を与えることではない。タウル・ウルガスとザカーズの憎みあいの凄まじさは、ほとんど信仰にまでなりかけている。マーゴ人の数ときたら砂の粒よりも多く、マロリー人のそれは星の数よりも多い。グロリム僧どもはトラクが目覚めるなどというたわごとを、舌が抜け落ちるまで並べたてることだろう。だがタウル・ウルガスとザカーズが戦いを始めるとしたら、その理由はただひとつしかない――どちらも相手を滅ぼし、アンガラクの大王になろうとしているのだ。このままにしておけばやつらは最後の一人まで殺戮しあうことだろう。われわれがよけいな邪魔さえしなければ、連中の方で自滅してくれるのだ」
「だんだんと言わんとするところがわかってきましたよ」シルクがつぶやくように言った。
「ザカーズは配下のマロリー軍を、〈東の海〉からタール・ゼリクの部隊集結地まで船で輸送している。一方タウル・ウルガスは南部マーゴ人たちをラク・ゴスカ近くに集結させている。必然的にかれらは互いをめざして進軍することだろう。われわれはかれらの行く手を防ぐことなく、かれらを戦わせればいいのだ。それにはローダーがすべてをおじゃんにしてしまう前に撤退させることだ」
「このことについてタール人とは相談しましたか」シルクがたずねた。
ドロスタ王は軽蔑するように鼻をならした。「それがどうだというのだ。むろんゲゼール王には打ち明けたさ。だがやっこさんと話してもほとんどぬかに釘だ。タール人のやつらはグロリムを死ぬほど怖がっている。トラクの名前を出しただけですくみ上がるありさまだ。ゲゼールは骨の髄までタール人なのさ。やっこさんの頭には砂しかつまっておらんのだ」
「だがこれに関しちゃ、たったひとつだけ問題があるんですよ、ドロスタ王」シルクはいきりたつ王に向かって言った。「わたしはあなたのメッセージをローダー王に伝えることはできないのです」
「何だと」ドロスタ王のかんしゃくが爆発した。「できないとは、どういう意味だ」
「わたしとおじの関係は目下のところうまくいっていないのですよ」シルクはすらすらと嘘を並べたてた。「数ヵ月前にちょっとした行き違いがありましてね。おじがわたしを見たらまず第一に、わたしを鎖につなぐことでしょうね。そうなったらますます事態は悪くなるばかりだと思いますよ」
ドロスタ王はうめいた。「それでは、もはや命運はつきたも同然だ」すっかり意気消沈した声だった。「きみはわれわれの最後の望みの綱だったのに」
「少し考えさせて下さい」シルクは言った。「まだ打開策があるかもしれませんよ」小男は爪をかんでじっと床を見おろし、頭のなかで繰り返し、問題を検討しているようだった。「やっぱりわたしが行くわけにはいきませんよ」かれは結論を出すように言った。「それだけは確かなことです。だからといって他の者ではいけないというわけではないでしょう」
「ローダー王が信用しそうな男といえば誰だ」ドロスタ王がたずねた。
シルクは先ほどから、ことの成り行きを心配そうに眉をひそめて聞き入っているヤーブレックの方を見た。「おまえは今のところ、ドラスニアでさしたるもめごとは起こしていないだろう?」
「おれの知るかぎりではないな」
「それなら結構だ」シルクはなおも続けた。「ボクトールに毛皮取引商がいる――ゲルダールというのがやつの名前なんだが」
「太った男か? やぶにらみぎみの」ヤーブレックが聞き返した。
「そいつだ。おまえはこれから毛皮を積んでボクトールへ向かう。そしてゲルダールと取引をするときに、やつに今年は鮭の遡行が遅れているというんだ」
「さぞかしやっこさん、興味をそそられることだろうな」
「いや、これは暗号なんだ」シルクの言葉には言い聞かせるような響きがあった。「おまえがひとたびその言葉を口にすれば、やつはたちどころにおまえと宮殿のポレン王妃との謁見の手はずを整えてくれるはずだ」
「確かに魅力的なご婦人だとは聞いているが」ヤーブレックは言った。「だが美人を拝みにいくだけにしては、ずいぶんと長い旅じゃないか。そんなことをしなくても、美人ならこの廊下の先にいないともかぎらんぞ」
「おいおい、そいつは見当違いだ、ヤーブレック」とシルク。「ポレンはローダー王の妃だ。そしておじはわたしよりもはるかに彼女に信任を置いている。わたしがおまえを派遣したのだと知れば、彼女はすぐにおじに伝えてくれるだろう。おまえがボクトールに入った三日後にはおじはまちがいなくドロスタ王のメッセージを読んでいるさ。わたしが保証するよ」
「このような大事に女を関与させるというのか」ドロスタ王は激しい口調で反駁した。「ケルダー、正気の沙汰とはおもえんぞ。秘密を打ち明けて安心できるのは、舌を切り取られた女だけだ」
シルクは頑固にかぶりを振った。「ですが、ドラスニアの情報機関はすべてポレン王妃が取りしきっているのですぞ。彼女はこの世の機密という機密はほとんど知りつくしているはずです。密使を出そうにも、アローン軍の目を逃れてローダー王のところへ行くことは不可能です。ローダー王のそばにはチェレク人が仕えていますし、連中はアンガラク人と見れば生かしちゃおきませんよ。もし本気でローダー王と連絡を取りたいのなら、ドラスニアの情報機関を仲介に使う以外方法はないのです。ということはつまりポレン王妃を通すということです」
ドロスタ王はなおも疑わしげな顔をしていた。「おまえの言うとおりかもしれん」しばらく考えこんだ後、かれは結論を下すように言った。「やってみることにしよう。だが、なぜヤーブレックを巻き込まなければならんのだ。なぜおまえ自身の手でドラスニア王妃にわたしのメッセージを伝えない」
シルクの顔にかすかな苦悩が浮かんだ。「残念ながら、それはあまり賢明な考えとはいえませんな」かれは答えた。「そもそもわたしとおじの不仲の原因はポレン王妃なのですから。今のわたしは宮殿にとって招かれざる客なのですよ」
ドロスタ王のもじゃもじゃの眉毛の一方がはね上がった。「なるほど、そういうわけか」王は笑い声を上げた。「その名声は当然の報いというわけだ」そう言うと王はヤーブレックの方を向いた。「ではおまえに行ってもらうよりなさそうだな。さっそくボクトールへの旅の準備に取りかかれ」
「ですが、王はすでにわたしに貸しがあるのですよ」ヤーブレックはにべもなく言った。「ケルダー王子を連れてきた懸賞金をお忘れじゃないでしょうね」
ドロスタ王は肩をすくめた。「その分も請求するときに書き加えておくがよい」
ヤーブレックはかたくなにかぶりを振った。「そうはいきませんよ。この件に関してはちゃんと精算をお願いします。王さまはいったん望みのものを手に入れるや、とたんに払いをしぶるので有名なかたですから」
「ヤーブレック」ドロスタ王は悲しげな声で言った。「わたしはいやしくも、おまえの王なのだぞ」
ヤーブレックは馬鹿にしたように首を傾げてみせた。「むろんわたしは陛下に対して敬意を払っております」かれは言った。「だが、ビジネスはビジネスです」
「わたしは今手元に多額の金を持ちあわせてはいないのだ」ドロスタ王は抗議するように言った。
「結構です、わたしはいつまででもお待ちしますよ」ヤーブレックは腕を組み、てこでも動くまいとするかのように、大きな椅子にどさりと腰かけた。
ナドラクの王は困ったように、商人を見つめた。
突然ドアが開き、相変わらず階下の居酒屋にいたときと同じぼろをまとったベルガラスが入ってきた。その挙動にはまったくこそこそしたようすはなく、重大な用件をかかえた人間のようにきびきびした動きだった。
「いったいこれはどうしたことだ!」ドロスタが驚いた叫び声を上げた。「護衛ども!」かれは大声でわめいた。「さっさとこの酔っ払いの老いぼれをつまみ出せ」
「二人ともぐっすり眠っておるぞ、ドロスタ王よ」ベルガラスが穏やかな声で言った。「だがあまり連中を責めないでやってくれ。かれらの怠慢ではないのでな」そう言いながら老人はドアを閉めた。
「いったい何者だ。なぜこんなところにいる?」ドロスタ王はなおもつめよった。「ただちにこの部屋から出ていけ!」
「もう少しちゃんと相手を見た方がいいと思いますよ」シルクは皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。「見かけというのは、ときとしてまったくあてにならないものでね。そんなふうにすぐに人をおっぽり出そうとするのはよくないことですよ。おそらくこの老人はあなたに何か重要なことを言いたいのかもしれませんよ」
「こやつを知っておるのか、ケルダー王子」ドロスタ王が聞いた。
「かれの名を知らぬ者などこの世にはおりませんよ」シルクは答えた。「もしくはかれの行なった偉業を」
ドロスタ王の顔が当惑したようなしかめ面になった。だがヤーブレックは椅子から飛び上がった。その細長い顔は真っ青になっていた。「ドロスタ王!」かれはあえぐような叫びをもらした。「こいつの顔をよく見て下さい。そして思い出すのです。あなたはこの老人が誰であるかを知っているはずだ」
ドロスタ王はぼろぼろの老人をじっと見つめた。飛び出た目がしだいに見開かれた。「あなたは!」
ヤーブレックはぽかんと口を開けたまま、ベルガラスを見ていた。「そもそもの初めからあんたがからんでいたんだ。クトル・マーゴスで気づくべきだった――老人とあの女、それに他の連中たち」
「いったいこのガール・オグ・ナドラクで何をしようというのだ」ドロスタ王は畏敬に満ちた声でたずねた。
「なに、単に通らせてもらうだけさ、ドロスタよ」ベルガラスが答えて言った。「おまえさんの方の用件が済んだようなら、この二人を返してもらいたいのだが。われわれには会見の約束があるのだが、それもいささか遅れぎみなものでな」
「あなたは伝説上の人物だと思っていたが」
「そういう噂をなるべく広めておるのだ」ベルガラスが答えた。「その方が活動がしやすいのでな」
「あなたも現在のアローン人たちの動きに関わっておられるのか」
「まあ多かれ少なかれ、わしの指示のもとに動いてるといってもいいだろう。ポルガラのやつが連中には目を光らせておる」
「それではあなたから、かれらに撤退するように言ってはもらえないだろうか」
「そんな必要はないだろうよ。もし、わしがおまえさんの立場だったらタウル・ウルガスやザカーズといった連中のことはあまり気にしないでおくね。二人の小競りあいよりも、現在もっと重要なことが行なわれようとしているのだ」
「そうか、ローダー王が動いているのはそのためだったのか」ドロスタ王は突然、すべてを理解したようだった。「だが、そんなに事態はさし迫っているのか?」
「おまえさんが思っているよりも、はるかにさし迫っておるよ」と老魔術師は答えた。かれはテーブルの前へ行き、ドロスタ王のぶどう酒をグラスに注いだ。「すでにトラクは目覚めようとしている。すべては最初の雪が降る前に決着がつくことだろう」
「だがそれはあまりにも無謀すぎる」ドロスタ王は言った。「タウル・ウルガスとザカーズの間でうまくたちまわるくらいのことはできるが、トラクに刃向かうなどとんでもない」そう言うなり王はさっさとドアの方へ向かおうとした。
「早まるでないぞ、ドロスタ」ベルガラスは椅子に座り、落着きはらったようすでぶどう酒をすすりながら言った。「グロリム僧はおよそ話のわからん連中だ。わしがヤー・ナドラクにいることを知ったら、おまえさんと何かを企んでいるとしか受けとるまい。そんなことになれば、やつらはおまえさんの身体を祭壇の上であおむけにして、心臓を石炭でじゅうじゅう焼くに違いない――たとえ相手が王であろうとなかろうと」
ドロスタ王はその場に凍りついた。あばただらけの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。しばらくかれは必死に自分自身と戦っているようだったが、やがてがっくり肩を落とした。同時にその決意もしぼんでしまったようだった。「するとわたしはすっかりあなたに首根っこを押さえられてしまったわけだな、ベルガラス」ドロスタ王は短い笑い声をあげた。
「最初にわたしを策に溺れさせておいてから、今度はアンガラクの神にたてつかせようというのだな」
「そんなにトラクのことが気に入ってるのかね」
「トラクを気にいってるやつなどいるわけがない。むしろわたしはかれを恐れているのだ。感傷的な愛着などより、その方がよっぽど味方になるのに現実的な理由ではないかね。もし、トラクが目をさませば――」ナドラクの王は身をふるわせた。
「トラクがいなければどんな世の中になるか、考えてみようとは思わないのかね」ベルガラスが言った。
「そんなことは望むことすらあたわぬことだ。やつは神だ。誰ひとりやつを打ち負かすことのできる者などいはしない。やつの力はあまりにも強大すぎる」
「神などよりも、もっと強いものがあるのだ、ドロスタ。即座に思いつくだけで、二つもあるのだぞ。そしてその二つは今や最終的な衝突へとひた走りつつある。それらの間に身を置くのはあまり賢明とは言えんぞ」
だがそのときドロスタの内に何かが起こったようだった。かれは信じられないといった驚愕の表情を浮かべ、ゆっくりと振り向いてじっとガリオンを凝視した。かれは霧を振り払おうとする者のように頭を振り、目をごしごしこすった。ガリオンは背中の巨大な剣の存在を痛いほど強く感じていた。脳が確認しないように働きかけていた〈珠〉の効力が消え、まのあたりにしているものが何であるのかを知ったドロスタ王の飛び出た目がますます大きく見開かれた。驚愕は畏敬に変わり、みにくい顔にほのかな希望の光がほのかにさし始めた。「これは陛下」かれは口ごもりながら、心からの敬意をこめてお辞儀した。
「こちらこそ、よろしく」ガリオンもまた礼儀正しく頭を下げた。
「どうやらあなたのために幸運をお祈りしておく必要がありそうだ」ドロスタ王は静かな声で言った。「ベルガラス殿が何と言われようが、あなたにはそれが必要になることだろう」
「ありがとう、ドロスタ王」ガリオンは言った。
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「ドロスタ王は信用できるんだろうね」ガリオンはベルガラスの後に続いて、ゴミの散乱する居酒屋の裏小路を歩きながらシルクにたずねた。
「どの程度、衝撃を与えられたかによるな」シルクは答えた。「だがある一点に関しちゃ、本当のことを言ってたぞ。まさに今のやっこさんはにっちもさっちも行かないところまで追いつめられているのさ。少なくとも、ローダー王と協定を結ぶ役にはたつだろう」
小路からもと来た通りに引き返したところで、ベルガラスは暮れゆく空を見あげた。「急いだ方がよさそうだ」老人は言った。「城門が閉まる前に、この街を出るのだ。壁の外一マイルほどのところに馬をつないである」
「わざわざそのために引き返したんですか」シルクはいささか驚いたような声で言った。
「むろんだとも。まさかモリンドランドまで歩いていくわけにはいかんからな」老人は川から離れた通りをすたすた歩いていった。
一行が城門にたどりついたのは、暮れゆく光の中で、衛兵たちが夜にそなえてまさに門を閉めようとしているときだった。ナドラク兵の一人が三人の行く手をさえぎるように手をあげかけた。だが途中で気が変わったらしく、小声でぶつぶつ罵りながら、行ってもいいと言わんばかりの仕草をした。タールを塗りたくった巨大な扉が、背後でドーンと音をたてて閉まった。続いて内側でかんぬきを下ろす音がして、重い鎖ががちゃがちゃ鳴った。門の上からのしかかるように見おろすトラクの彫刻面を、ガリオンは再び見あげてから、ゆっくりと背を向けた。
「追跡されている可能性はありますかね」シルクは街から続いている、ほこりまみれの街道を歩きながらベルガラスにたずねた。
「あり得ないことではないな」ベルガラスは答えた。「ドロスタ王はわれわれの行動の目的を知っているか、もしくは当たりをつけている。マロリー人のグロリムどもは実に油断のならん連中で、人の心をそれと気づかれずに探ることができるのだ。だからこそ王のちょっとした外出に、わざわざついてくる必要もないのだろう」
「何か手を打っておかなくていいんですか」しだいに暗くなってゆく空の下を歩きながら、シルクはたずねた。
「不用意な音をたてるには、いささかマロリーに近すぎるのでな」ベルガラスが言った。「遠く離れていようとゼダーにはわしの動きまわる音は聞こえるだろうし、トラクの眠りもほとんどまどろみ程度になっているだろう。よけいな物音をたててやつをうっかり起こすような危険は冒したくない」
一行は街を取りまく空き地をふちどるように続く、密集したやぶの黒い影に向かって街道を歩き続けた。川のそばの湿地で鳴くカエルのこえが、たそがれに響きわたった。
「それじゃ、トラクはもう眠っていないんだね」しばらくしてからガリオンが言った。かれはあわよくば眠っている神に忍びよって、不意打ちを食らわすことができるかもしれないという空しい希望を心のどこかで抱いていたのだ。
「眠ってなどおらん」かれの祖父は答えた。「おまえの手が〈珠〉にふれたとき、全世界を揺るがすほどの大きな音がしているのだ。あれを聞けばトラクとて、寝過ごしているわけにはいかんだろうよ。まだ本当に目覚めたわけではないが、まったく眠っているわけでもないのさ」
「そんなに大きな音がしたんですか」シルクがおもしろそうにたずねた。
「おそらく世界の反対側まで聞こえたことだろうよ。ところでわしはそこに馬を残しておいたのだが」老人はそう言いながら、数百フィート離れた道路の左側の、影に閉ざされた柳の木立を指さした。
突然、かれらの背後で重い鎖ががちゃがちゃ鳴る音がして、カエルたちの声が一瞬やんだ。
「やつら、門を開けているぞ」シルクが言った。「公務上の理由がないかぎり、あんなことをするはずがない」
「さあ、急ぐのだ」ベルガラスが言った。
にわかに濃くなっていく闇の中で、さらさら音をたてる柳を三人がかきわけていく音を聞きつけた馬が、体を振るわせていなないた。一行は木立から馬を連れだし、乗りこむと再び街道へ引き返した。
「どうやら連中はわれわれがここにいることを嗅ぎつけたようだ」ベルガラスが言った。「だとしたら、こそこそ行く必要もない」
「ちょっと待っていて下さいよ」シルクはそう言って、馬を下りると、くくりつけた荷物のひとつをかきまわした。かれは何かを取り出してから、再び馬に乗った。「さあ、行きましょう」
月のない星をちりばめた夜空の下を、三人はひづめの音を地面に響かせながら、ナドラクの首都を取り巻く貧弱な焼け野原の向こうに、黒々とした影を見せている森の闇をめざしてほこりだらけの道を疾走した。
「やつらが見えるか」しんがりをつとめ、後ろを振り返るシルクに向かって、ベルガラスが呼びかけた。
「見えますね」シルクが叫び返した。「どうやら敵は一マイルばかり後方にいるようですよ」
「それでは近すぎる」
「なあに、森へ入ったらわたしが何とかしますよ」シルクが自信ありげな声を出した。
固い地面を蹴立てて進む三人の前に、黒い森がいよいよまぢかに迫ってきた。木の匂いがガリオンにまで伝わってきた。
三人が樹木の黒い影の下に飛び込んだとたん、森の内部特有のかすかな暖かい空気がかれらを包んだ。突然シルクが馬の速度を落とした。「そのまま行って下さい」小男は鞍からひらりとおりながら行った。「すぐに追いつきますから」
ベルガラスとガリオンは、暗闇の中で道を探すためにわずかに速度を落として馬を走らせた。数分後シルクが追いついてきた。「よく耳をすましていて下さいよ」小男が馬を止めながら言った。にやりと笑うかれの歯が夜目に白く光った。
「連中が近づいてくるよ」追っ手のひづめの音を聞きつけたガリオンがせっぱつまった声で言った。「もっと急いだ方が――」
「耳をすませ」シルクが言葉少なにささやいた。
突然かれらの背後でいくつもの悲鳴があがり、人が落ちるどさりという重い音があちこちでした。馬は驚きの声をあげて走り出したようだった。
シルクは意地悪い笑い声をたてた。「さあ、これで距離をかせげるぞ」
「いったい連中に何をしたんだい」ガリオンがたずねた。
シルクは肩をすくめた。「道の上の、ちょうど人間の胸あたりの高さにロープを張りめぐらせておいたのさ。いささか古ぼけたトリックではあるが、ときとしてそういったものが最も効果的な場合もあるんだよ。これで連中も、しばらくは気をつけて走らなくてはならないから、その間にわれわれは逃げおおせるという寸法さ」
「では、出発しよう」ベルガラスが言った。
「いったいどこへ向かうんです」馬の速度を、普通の駆け足にしながらシルクがたずねた。
「このまままっすぐ北の山地へ向かう」老人が答えて言った。「われわれがここにいることを、あまりにも多くの人間に知られすぎてしまった。この上は一刻も早くモリンド人の地へ行くにかぎる」
「もし連中がぼくらを捕らえるつもりなら、どこへ行こうと追いかけてくるんじゃないのかい」ガリオンは不安げに後をふり返りながら言った。
「いいや、そんなことはないだろう」ベルガラスが言った。「われわれがたどり着くころには、連中ははるかに遅れをとっておるはずだ。わずかな痕跡を求めて、やつらがモリンド人の地までつけてくるといった危険を冒すとは考えられん」
「そんなに危険な場所なの」
「モリンド人どもは、よそ者を捕らえてはむごい扱いをするのでな」
ガリオンはしばらく祖父の言葉を考えていた。「だがぼくたちだって、モリンド人にとってはよそ者なんじゃないかい?」
「それについてはわしが何とかするさ」
三人は、すっかり用心深くなった追跡者を後にビロードのようなとばりの中を、ひたすら馬を走らせた。木々を包む暗闇の中に、青白いホタルの光が点々と瞬いた。コオロギは途切れることなくかん高い声で歌い続けている。朝の最初の光が樹木の間からさしこんでくる頃、三人は別の焼け野原の縁に出た。ベルガラスは馬の歩調をゆるめ、あちらこちらに点在する、焦げた枝の突き出た藪を用心深く眺めまわした。「この辺で食事にしよう」老人は言った。「馬も休ませる必要があるし、われわれも少しばかり睡眠を取っておこうではないか」そう言いながら老人は刻一刻と明るさを増す光の中で、あたりを見まわした。「とりあえず道からはずれた方がよいだろう」かれは馬の向きを変えると、先頭にたって焼け野原の縁を出た。数百ヤードほど入ったところで、一行は生い茂る藪の中に突き出たような、小さな空き地に出た。ちょろちょろと流れ出る水は木の根元で苔むした水たまりをつくり、空き地は、密生するイバラやもつれあう大枝にふちどられていた。「ここならよさそうだ」ベルガラスが言った。
「ちっともよくありませんよ」シルクが反対した。小男は空き地の中央に置かれた、ぞんざいな四角い祭壇を見つめた。石の横には、醜い黒っぽい筋がいくつも流れ落ちたあとがあった。
「われわれの目的にとってはという意味で言ったのだ」老人は答えた。「トラクの祭壇に人々はよりつこうとしないし、われわれとしても誰にも来てほしくないのだからな」
三人は木立の前で馬を降りた。ベルガラスはさっそくパンと干し肉を求めて、荷物のひとつをかきまわした。ガリオンは不思議な放心状態におちいっていた。くたびれ果てていたので、その疲労感が頭を鈍らせていたのかもしれなかった。ガリオンは湿った芝生の上を、のろのろと祭壇に向かって歩きはじめた。用途を考えないようにしながら、かれの目はひたすらたん念にその特徴をたどった。黒ずんだ石の塊は、空き地の中央にでんと置かれ、淡い夜明けの光に影すら落としていなかった。それはたいそう古びた祭壇で、あきらかに最近使われた気配がなかった。石の細かい穴につまった染みは歳月を経て黒ずみ、まわりに散らばる人骨はなかば地中に埋まりかけ、青緑色の苔に覆われていた。一匹のクモが、苔むした頭蓋骨の眼窩に向かってちょこちょこ走り去った。まるでうつろな暗黒の広間に避難所を求めているのようだった。骨の多くは破損し、死肉ならなんでも食らう森の腐食動物たちの小さな鋭い歯型を残していた。変色した安っぽい銀のブローチが、鎖を背骨に絡ませたまま放置され、それほど離れていないところに錆で真っ青に染まった真鍮製のバックルが、腐敗しかけた革にくっついていた。
「ガリオン、そんなものに近づくんじゃない」シルクが声に嫌悪感をにじませて言った。
「でも、ぼくにとってはこれが慰めになるんだよ」ガリオンは、祭壇と骨を依然としてみつめながら、静かな口調で答えた。「これを見ている間は恐怖のことを忘れていられるからね」背を伸ばしたとたん、巨大な剣が背中で揺れ動くのを感じた。「本当にこんなことをする必要があるとは思えない。たぶん、誰かが何かをやるべきときなのかもしれない」
振り向くと、そこに老いた鋭い目を細めたベルガラスがいた。「やっとその気になってくれたかね」魔術師は言った。「さあ食事をして少しばかり寝ることにしよう」
かれらは間にあわせの朝食をしたため、馬を杭につなぎ、空き地の縁の茂みで毛布にくるまった。グロリム僧の祭壇や、それを見たことで生まれたある決意を考える暇もなく、ガリオンは眠りに落ちていた。
次に目を覚ましたときは正午近くになっていた。頭の中で聞こえるかすかな話し声が、ガリオンを眠りから引き戻したのである。かれは慌てて起き上がり、眠りを妨げた元凶をつきとめようとしたが、森や焼け跡の枯れた藪にも何らの脅威は感じられなかった。さほど離れていないところで青い夏の空を見あげて立つベルガラスの姿があった。青い筋の入った巨大な鷹が、空中を旋回していた。
(いったいここで何をしておるのだ)老人はこの質問を口には出さず、空に向かって心でたずねかけるように言った。鷹は空き地に向かって旋回しながらおりてきた。祭壇をよけるように羽を広げ、草地の上に着地した。燃えるような黄色い目がじっとベルガラスを見ていたかと思うと、鳥の姿がゆらめき、ぼやけ始めた。ゆらめきがおさまると、そこには不格好な魔術師ベルディンの姿があった。この前会ったときと同じように、相変わらずみすぼらしく、垢じみて、不機嫌だった。
「まったくまだここまでしか来ておらんとは何ごとだ」かれはベルガラスに非難がましい声で言った。「いったいこれまで何をしていたんだ。道中の居酒屋にいちいち立ち寄っていたわけではあるまいな」
「少しばかり予定が遅れたのだ」ベルガラスは落着きはらった口調で答えた。
ベルディンは不機嫌な表情で鼻を鳴らした。「いつまでもぐずぐずしていると、クトル・ミシュラクへはあと一年かかるぞ」
「われわれはちゃんと着くさ、ベルディン。おまえは心配し過ぎるぞ」
「誰かがそいつをしなきゃならんのさ。知ってるかとは思うが、おまえたちは追跡されているぞ」
「やつらはどれくらい後ろにいる?」
「五リーグかそこいらだな」
ベルガラスは肩をすくめた。「それだけ離れていれば十分さ。われわれがモリンドランドに入る頃には連中も諦めるだろう」
「諦めなかったらどうする気だ」
「最近、ポルガラといっしょにいなかったかね」ベルガラスはそっけない口調で言った。「わしはそのもし何々だったら≠フ世界とはおさらばしたつもりだったが」
ベルディンは肩をすくめた。背中のこぶが動作をいっそう奇怪なものに見せた。「ポルガラに先週会ったが、あいつはなかなかおまえの興味を惹きそうな計画をたてていたぞ」
「〈谷〉へ来たのか?」ベルガラスは驚きの入りまじった声を出した。
「いや、通過してっただけさ。だが赤毛の娘っ子の軍隊といっしょだったぞ」
ガリオンは慌てて毛布をかなぐり捨てた。「誰の軍隊だって?」
「いったい連中は何をやっておるのだ」ベルガラスが鋭い声でたずねた。
ベルディンはもじゃもじゃの頭をかきながら答えた。「じつを言えば、おれにもよくわからないんだが」とかれは言った。「ひとつだけ確かなのは、アローンの男どもが全員あの赤毛の小さな娘っ子の後に従ってるということだ。なんでも彼女は〈リヴァの女王〉とか名乗っているそうだぞ」
「セ・ネドラが?」ガリオンはただ驚くばかりだった。だが同時に心のどこかで少しも驚いていない自分を感じていた。
「あの娘っ子はまるで疫病のように、アレンディアを駆け抜けていったぞ」ベルディンは続けた。「何しろ彼女の通った後には、ひとりの五体満足な男も残っていなかったからな。それから今度はトルネドラへ行って、父親を責めさいなんだあげくの発作を起こさせた――あの男が病気もちとは知らなかったよ」
「ボルーン家の血統に時おりあらわれるのさ」ベルガラスは言った。「命に別条があるわけではないが、連中はそれをひた隠しにしてきたのだ」
「まあ、いずれにせよ」背にこぶのある男は言葉を続けた。「ラン・ボルーンが泡を吹いてる間に、やつの娘はまんまと父親の軍隊を盗み出したのさ。今やこの世の半分もの国をまわり、武器を取って彼女に従えと演説をしてまわっている」ここでベルディンはガリオンに不思議そうな視線を向けた。「おまえはたしか彼女と結婚するはずじゃなかったかね」
ガリオンは口をきくこともできず、ただうなずいた。
ベルディンがだしぬけににやりと笑った。「結婚から逃れる方法を考えたくなったんじゃないかね」
「セ・ネドラが?」ガリオンは呆けたように繰り返すばかりだった。
「どうやらかれの知性はいささか混乱しているようだな」ベルディンが言った。
「ずっと緊張の連続だったから、少しばかり神経過敏になっているだけさ」ベルガラスが答えた。「おまえはこれから〈谷〉へ戻るのかね」
ベルディンはうなずいた。「おれと双子は軍事行動が始まりしだい、ポルガラに合流する。もしグロリム僧どもが大挙して押し寄せてくるようなことがあれば、おれたちの助けが必要になるだろうからな」
「軍事行動だと?」ベルガラスが叫んだ。「いったい何の軍事行動なのだ? わしはただ、連中に行進するところを見せて、騒ぎたててやれと言っただけだぞ。進攻だけはするなと特に念を押しておいたはずなのに」
「おまえの指示を無視する気らしい。アローン人はこの手のことに関しちゃ、自制のきかない連中だからな。どうやら連中は力を合わせて、思い切った手段に出たようだ。あのでぶ男はなかなかの切れ者だぞ。やつはチェレクの艦隊を〈東の海〉に送り、マロリーの船舶にちょっとした狼藉を働こうとしている。あとはあれこれ相手を牽制する動きに出ているようだ」
ベルガラスは悪態をつきはじめた。「まったくやつらからいっときも目を離すこともできんのか」老人は激しい口調で言った。「ポルガラがついていながら、何だってこんな愚行を見過ごしておくのだ」
「だがこの計画にはいささか利点もあるぞ、ベルガラス。連中がマロリー人を溺死させる数が多ければ多いほど、あとの戦いが楽になる」
「わしには、はなから戦う気などなかったのだ、ベルディン。アンガラク人はトラクみずからの手で合一されるか、もしくは共通の敵と対決でもしないかぎり、連帯することはない。われわれは少し前にナドラク王ドロスタ・レク・タンと会見したばかりだが、やつもいずれマーゴ人とマロリー人の間に戦いが起こるだろうと言っていた。ドロスタ王はとばっちりを避けるために、西と手を結ぶことすら考えておるのだ。戻ったらローダーとアンヘグに、少しでも道理をふきこんでやってくれ。それでなくともわしはいろいろな問題を抱えておるのだ」
「おまえの問題はまだ始まったばかりだぞ、ベルガラス。二日前、双子が訪問を受けた」
「何だって」
ベルディンは肩をすくめた。「他に何の呼びようがある? 二人は今回の件とはまったく関わりのない仕事に没頭していた。突然、二人そろって人事不省におちいったかと思うと、わけのわからないことを口走り始めたんだ。最初のうちはムリン古写本の一部分、例のムリンの予言者が錯乱におちいって、言葉が動物の鳴き声に退化してしまう箇所――おまえさんもその場所はよく知っているだろう――を繰り返してるだけだった。二人は再びそれを最初から繰り返したが、今度は人間の言葉になっていたのさ」
「いったい何と言ったのだ」ベルガラスの目は激しく燃えていた。
「本当に知りたいかね」
「むろんだ」
「よし、それはこんなふうに始まっていた。『見よ、〈珠〉の心は和らぎ、かつて破壊された美が復活される。失われた眼もまた取り戻されることだろう』」
ベルガラスはまじまじと相手を見た。「それが〈予言〉の内容か」
「そうだ」ベルディンが答えた。
「いったいどういう意味なんだい」ガリオンがたずねた。
「言ったとおりの意味だ、ベルガリオン」ベルディンが答えた。「どういうわけか、〈珠〉はトラクをよみがえらせるのさ」
ガリオンはベルディンの言葉の与えた衝撃にわなわな震え始めた。「それじゃあ、トラクが勝つに決まっている」
「勝敗については何も述べてはおらんのだ、ベルガリオン」ベルディンが訂正した。「ただトラクが世界を引き裂いたときに破壊したものを、〈珠〉が再び元に戻すとしか言っていない。なぜそうするのかについてはいっさい述べられていないのだ」
「それが〈予言〉についてまわる問題なのだ」ベルガラスが言った。「ひとつのことが十二とおりにも解釈できかねない」
「もしくは十二とおりのことが、それぞれに解釈できることがな」とベルディンがつけたした。
「だからこそ、時おりわけがわからなくなるのさ。おれたちはひとつだけに集中しようとするが、〈予言〉にはたくさんのことがらがいちどきに述べられているからな。さっそくこいつに取り組んで、何かあぶり出せるかやってみることにしよう。もし何かわかったら、すぐに知らせる。さあ、そろそろ行った方がよさそうだ」そう言うとかれはわずかに身をかがめ、腕を翼のように上下させた。「くれぐれもモリンド人には気をつけろ」かれはベルガラスに言った。
「あんたは優れた魔術師かもしれんが、魔術となると話はまったく別だからな。どうやらあんたはときどきそれを忘れるようだ」
「必要とあらば、わしが何とかやってみせるさ」ベルガラスは負けずに言い返した。
「たぶんな」ベルディンが言った。「あんたがしらふでいるならの話だが」かれの姿がゆらめき、再び鷹の姿に戻った。一、二回大きくはばたいた後、鳥は旋回しながら空へ舞いあがっていった。ガリオンはその姿が旋回する点になるまでじっと見送っていた。
「いささか変わった訪問でしたな」シルクが毛布から起きだしながら言った。「どうやらわれわれが立ち去ってからいろいろなことがあったようだ」
「そのどれひとつとして、いいことがない」ベルガラスが不機嫌な声でつけ加えた。「そうとわかったら、われわれも出発だ。今度こそ本当に急がなくてはならん。もしアンヘグ王の艦隊が〈東の海〉に入ってマロリーの輸送船に攻撃を加え始めようものなら、ザカーズはただちに北へ転進して、陸橋へ向かうだろう。われわれの方で先まわりしておかねば、さぞかし混雑することだろうよ」老人は苦々しげに顔をしかめた。「おまえのおじをこの手でとっつかまえてやりたい思いだ。ついでにやつの体重も少しばかり減らしてやるんだが」
三人は急いで馬に鞍を置き、その上に乗ると、太陽のさんさんとさしこむ森へ再び向かった。めざすのは北へ向かう道だった。
二人の魔術師のいささか不十分な確約にもかかわらず、ガリオンの心は絶望に打ちひしがれていた。かれらは戦いに勝つことはできず、トラクはかれを殺すだろう。
(いいかげんに自分を哀れむのはやめにしたらどうだ)ついに内なる声が呼びかけた。
(何だってぼくをこんなことに巻き込んだんだ)ガリオンは非難がましい口調で答えた。
(その話は前にもしたはずだがな)
(ぼくはトラクに殺されるんだ)
(いったい誰にそんな考えをふきこまれたのだ)
(予言にはそう述べられているんだ)ここで、ガリオンははたとあることに思いあたった。
(自分でそう言ったんじゃないか。きみは予言自身なんだろう)
(それはいささか誤解をまねく言い方だな――第一わたしは勝敗のことなぞいっさいふれておらんぞ)
(でもあれはぼくが負けるという意味じゃないのかい)
(違う。あれはその言葉どおりの意味だ)
(なら、それはいったいどういう意味なんだ)
(まったくおまえは日いちにちと手に負えなくなっていくな。いちいち意味に固執しないで、自分のなすべきことをやったらどうだ。これまでちゃんとやってきたではないか)
(いつまでもそんな謎めいた話し方しかできないんなら、何でこんな手間ひまをかけたりするんだ。何で誰にも理解できないようなことを、いちいち言わなければならないんだ)
(なぜならそれは言われねばならないからだ。言葉はすべてのできごとを決定する。言葉がそのできごとに限界を定め、具現化するのだ。言葉がなければこれらのできごとは、行き当たりばったりの偶発事に過ぎない。それこそがおまえたちが予言と呼ぶものに与えられた意図なのだ――行き当たりばったりのものから、真に重要なものをより分けることが)
(言ってることがよくわからないよ)
(わたしもそう思ったが、おまえがどうしても聞きたがったから言ったまでだ。いいかげんにくよくよするのはやめた方がいい。そんなことをしたって何の役にもたたないのだから)
ガリオンはなおも抗議しようとしたが、内なる声は去ったあとだった。だが今の会話のおかげで、すっかりというわけではないが、ほんのちょっぴり気分が楽になったような気がした。これ以上そのことを考えるのを避けるために、かれは祖父とくつわを並べて、焼け野原の反対側の森に入った。「モリンド人というのはどういう人々なんだい? みんな口をそろえて、さも恐ろしそうなことを言ってるけれど」
「じっさい、恐ろしいのだ」ベルガラスは答えた。「だが十分注意していけば、無事に通り抜けることができるさ」
「かれらはトラクの味方なのかい」
「モリンド人は誰の味方にもつかない。連中はわれわれとは違う世界に住んでおるからな」
「よく意味がわからないけれど」
「モリンド人はかつてのウルゴ人と同じようなものだ――ウルがかれらを受け入れる前のな。かれらは神を持たないいくつもの集団に分かれている。そしてさまざまの地に散らばって放浪しているのだ。ウルゴ人は西へ行き、モリンド人は北へ来た。南と東に向かった集団はいつの間にか姿を消した」
「何で元いた場所にそのままいなかったんだろう」
「そうしたくとも、できなかったのさ。神の意志にはある種の強制力があるのだ。ともかくウルゴ人はかれらの神を見いだした。だがモリンド人は見いだせなかった。かれらが別れて暮らさねばならない強制力はまだ続いているのだ。連中は北の山地を越えたところにある、樹木一本ない不毛の地に住んでいる。住民のほとんどは移動生活を送る小集団だ」
「ぼくたちと同じ世界に住んでいないというのは、どういう意味なんだい」
「モリンド人にとってこの世界は、たいそう恐ろしい、悪霊にとりつかれた場所なのだ。人々は悪魔を崇拝し、現実よりも夢の世界に住んでいる。かれらの社会は夢想家や魔法使いによって支配されているのだ」
「でも悪魔なんて本当にいやしないんだろう」ガリオンは疑わしそうにたずねた。
「いいや、とんでもない。悪魔はじっさいにおるのだよ」
「いったいそいつらはどこから来たんだろう」
ベルガラスは肩をすくめた。「そこまではわしも知らん。だが連中はじっさいに存在することだけは確かなんだ。それもとてつもなく邪悪だということもな。モリンド人は魔法の力でやつらをおさめているのだ」
「魔法だって? それはぼくたちが使うのとは違うのかい」
「少しばかりな。われわれは魔術師だ――少なくとも人々はそう呼びならわしている。われわれが術を行なうときには、〈意志〉と〈言葉〉を用いるが、それだけとは限らんのだよ」
「よく意味がわからないな」
「なあに、それほど複雑なことではないのだよ、ガリオン。ものごとの正常な秩序を変更するにはさまざまな方法があるのだ。あのヴォルダイは魔女だ。彼女が術を行なうときは、精霊を使う――ほとんどは温和な精霊で、たまにいたずらもするが、人に害をおよぼすほどではない。それに対して魔法使いが使うのは悪魔、すなわち邪悪な精霊なのさ」
「そんなに危険なのかい」
ベルガラスはうなずいた。「非常に危険なのだ」老人は言った。「魔法使いは呪文で悪霊を支配する――儀礼文やまじないや象徴や秘図とかいったものを使ってな。術を行なう者が使用法を誤らない限り、悪霊は完全にかれの奴隷となって、その意のままに動かねばならない。だが邪悪な悪霊とて本来、人の奴隷になることを望んではいないのだから、常にその呪文を破るすきを狙っているわけだ」
「もし呪文が破られたらどうなるの?」
「たちまち術者は頭からむさぼり食われてしまうのさ。必ずしもめずらしいことではない。精神集中がわきにそれたり、強すぎる悪霊を呼び出してしまったりすると、惨事になりかねないのだ」
「さっきベルディンのやつが、あなたがあまり魔術を得意としないようなことを言ってましたが、あれはどういう意味なんです」シルクがたずねた。
「それほど気を入れて魔術を学ぼうとしなかったからな」と老魔術師は答えた。「わしにはそれにかわる方法があるし、魔術は危険が多いうえにあまり当てにならないものでな」
「ならば、使わないで下さいよ」シルクが言った。
「はなから使うつもりはない。モリンド人が他の諸国と間を置いていられるのも、この魔術に対する脅威からなのだ。じっさい、他国がかれらと戦ったという話はきわめて少ない」
「その理由はよくわかりますよ」
「いったん北の山中に入ったら、われわれも変装をしよう。モリンド人を遠ざける印や象徴はごまんとあるのだ」
「そいつはたのもしいかぎりだ」
「むろんそこへ行くことが先決だがな」老人は指摘した。「少し先を急ぐことにしよう。まだまだ目的地は遠いからな」そう言って老人は馬を疾駆させた。
[#改ページ]
7
続く週の大半を、かれらはナドラクの森に点在する集落を避けながら、北をめざしてひたすら馬を走らせた。ガリオンはしだいに夜が短くなっていることに気づいた。一行が北の山地のふもとに着くころには、実質的な夜は消えうせていた。夜と朝は、太陽が沈んでから再び輝く姿をあらわすまでの、数時間の明るいたそがれに溶け込んでいた。
北の山地はナドラクの森の先端にあたる部分にそびえたっていた。山地というよりもむしろ峰々の連なりに近かった。それは大陸の脊柱をなす巨大な山脈から東に向かって伸びる、細長い指に似た隆起地形だった。三人はかすかにそれとわかる程度の踏み跡をたどりながら、雪をかぶった峰と峰の鞍部をめざして登っていった。高度を上げるにつれ樹木はしだいに低くなり、ついにはまったくなくなってしまった。そこから先はまったくの不毛地帯だった。ベルガラスは最後の木立の端で馬を止めると、長い若木を五、六本刈り取った。
峰から吹きおろす風は猛烈な寒気と、永遠の冬の不毛の匂いをもたらした。ようやく石のガラガラする鞍部に立ったところで、ガリオンは眼下に展開する広大な平野をはじめて見おろすことができた。木がまったく生えていない平野は、気まぐれな風に吹き流されて波打つ、一面の背の高い草に覆われていた。だだっ広い草地を川が目的もなく曲がりくねるようにして流れ、点在する幾千もの浅い湖や池が、北の太陽のもとで青く輝き、地平線に向かってどこまでも続いていた。
「この平野はどこまで続いているんだろう」ガリオンは静かにたずねた。
「ここから北極の氷までだ」ベルガラスが答えた。「数百リーグはあるだろう」
「モリンド人以外、誰も住んでいないのかい」
「というよりは住もうとは思わんのさ。一年のほとんどは、雪と暗黒に包まれておるし、六ヵ月以上も太陽の顔を見ないのだからな」
一行は岩のごつごつした斜面を下り、山と丘陵地帯の境界とおぼしき花崗岩の崖のふもとに、狭苦しい洞穴を見つけた。「ここにしばらくとどまることにしよう」ベルガラスが言った。
「少し準備もしなくてはならんし、馬にも休息が必要だからな」
続く何日か、ベルガラスが一行の外見を見分けもつかないほど変える作業に従事する間、他の者たちはそのための準備に忙しかった。シルクは草地の中を迷路のように曲がりくねるウサギの通り道に、手製の罠をいくつも仕掛けた。ガリオンはある植物の塊根と、独特な香りのする白い花を求めて、終日ふもとを歩きまわった。洞穴の前にどっかと腰をおろしたベルガラスは、刈り取った若木で必要な道具をこしらえた。老人はガリオンの集めてきた塊根をすりつぶして濃茶色の汁を抽出したものを、二人の肌に塗りつけた。「モリンド人は濃い色の肌をしているからな」ベルガラスはシルクの腕や背中に汁を塗りながら説明した。「トルネドラ人やニーサ人よりもさらに黒い。この汁の効力は数週間くらいしかもたないが、それだけあれば十分通り抜けることができる」
全員の肌が浅黒く染まったところで、老人は不思議な香りのする花をすりつぶして、まっ黒な染料をしぼり出した。「シルクの髪はそのままでいい。わしの方も何とかなるが、ガリオンだけはそうもいかん」老人は汁を水で薄め、ガリオンの砂色の髪を黒く染めた。「これでよし」老人はできあがりを見て言った。「まだ刺青の分もたっぷり残っておる」
「刺青だって」ガリオンは仰天した。
「モリンド人は身体じゅうを刺青で飾りたてているのだ」
「でも痛いんじゃないかい」
「むろん本当に身体に彫るわけではないのだ、ガリオン」ベルガラスは苦々しげな顔で答えた。
「治るまでに時間がかかりすぎる。それに一面に刺青を彫ったおまえを連れ帰ったりしたら、おまえのおばさんはヒステリーを起こすだろうからな。この染料を使えばモリンドランドを通過するぐらいは大丈夫だろう。色はそのうちに消えてしまう――ただし徐々にだが」
シルクもまた洞穴の前にあぐらをかいて座り、仕立屋そのものといった様子で、ウサギの毛皮と衣服を縫いあわせるのに忙しかった。
「後で匂うんじゃないのかい」ガリオンは鼻にしわを寄せながら言った。
「たぶんね」シルクは認めるように言った。「だが生皮をなめしている時間がないもんでね」
その後皆の顔に刺青を書き入れながら、ベルガラスはそれぞれの扮装の役割を説明した。
「ガリオンは探索者だ」
「それいったい何?」ガリオンがたずねた。
「顔を動かすんじゃない」ベルガラスはカラスの羽の先で、ガリオンの目の下に線を書き入れながら答えた。「探索というのはモリンド人特有の儀式だ。家柄のいいモリンド人の若者が、一族の権威ある地位を継ぐためには、必ずこの探索の儀式を行なわねばならない。おまえは白い毛皮の帯を額に巻き、わしの作ったこの赤い槍をかつぐのだ。ただしこれはあくまでも儀式用のものだから」老人は急に警告するような口調になった。「これで人を突こうなどと考えてはならん。それはひどく儀礼にはずれることになるからな」
「覚えておくよ」
「おまえの剣は、代々の遺宝か何かに見せかけるようにしよう。魔法使いの腕しだいによっては、剣を見えないようにしている〈珠〉の意図を見破らないともかぎらん、それからもうひとつ注意しておくが、探索者はいかなることがあってもいっさい口をきくことは禁じられている。くれぐれも口を開かんようにな。シルクがおまえの夢見師になる。かれは左腕に白い毛皮の帯を巻きつけている。夢見師は謎めいた、わけのわからないことをぺらぺら並べたてていればよい。時おり、昏倒したりひきつけを起こしたりもするな」老人はシルクの方を見た。「できるか?」
「まかせて下さいよ」シルクがにやにや笑いながら答えた。
「あてにはならんな」ベルガラスが不満げな声でうなった。「わしはガリオンの魔法使いになろう。わしは角《つの》のある骸骨杖を持っているから、モリンド人のほとんどは近づかんだろう」
「全部じゃないんですか」シルクがあわててたずねた。
「確かに人の探索を邪魔するのは、ひどく無礼なこととされているが、たまにはそういうこともあるのさ」老人はガリオンの刺青をしげしげと見た。「これでよし」老人はそう言うと、羽ペンを持って今度はシルクの方を向いた。
すべての作業が終わってみると、三人は似てもにつかぬ姿になっていた。老人がたん念に腕や顔に書きつけた刺青は、絵よりもむしろ模様に似ていた。顔は身の毛もよだつような悪魔の仮面と化し、身体の露出するあらゆる部分に、黒い染料でさまざまなシンボルが描かれていた。毛皮で覆われたズボンとベストをつけた三人の首で、骨で作った首飾りが耳障りな音をたてた。茶色に染められた裸の腕や肩にはびっしりと複雑な模様が描かれていた。
それが終わるとベルガラスは洞穴の下の谷へ降りて、しきりに何かを探し始めた。求めているものを見つけ出すのにたいした時間はかからなかった。ガリオンが嫌悪のまなざしで見守るなかを、老人はこともなげに墓を掘り起こし始めた。かれは歯をむきだして笑う骸骨を掘り出すと、土をはたき落とした。「あとは鹿の角《つの》が必要だ」老人はガリオンに言った。「あまり大きすぎず、ちょうどこいつに釣りあうくらいのものがいい」毛皮と刺青に覆われたベルガラスは厳めしい顔でしゃがみこむと、乾いた砂で頭蓋骨をごしごしこすり始めた。
高い草地のいたるところに、風雨にさらされた鹿の角《つの》が転がっていた。この地の鹿は毎冬ごとに枝|角《つの》が抜け落ちるのである。十本ばかりの角《つの》を拾い集めて洞穴に戻ってみると、老人は先ほどの頭蓋骨に穴をふたつ開けているところだった。老人はガリオンの持ってきた角《つの》をたん念に眺め、二本を選び出すと、開けたばかりの穴にねじ込んだ。骨と骨のこすれあう不快な音にガリオンは歯の浮くような気分を味わった。「どうだね」角《つの》をつけた骸骨をさし上げながらベルガラスがたずねた。
「ぞっとしないね」ガリオンは身震いしながら言った。
「そう思わせるためのものだからな」老人は答えた。かれは頭蓋骨を長い杖の先端にしっかりと固定すると、羽で飾りつけ、立ちあがった。「さあ、荷物をまとめて出発しよう」
一行は木の生えていない山麓から、腰の丈ほどまでもある草原におりていった。太陽は南西の地平線から、一行が越えてきた峰の向こうに落ちようとしていた。シルクが仕立てた衣服のなめしていない生皮の匂いが鼻についた。ガリオンは老人の杖の上で無気味に変身した頭蓋骨を極力見ないようにした。
「どうやら誰かに見られているようですよ」一時間ばかり過ぎたところで、シルクが気軽な口調で言った。
「そんなことだろうと思ったさ」ベルガラスが答えた。「このまま進め」
かれらが最初のモリンド人と出会ったのは、太陽が出たばかりの頃だった。三人は曲がりくねって流れる川にそって、ゆるやかな傾斜で落ちている砂利まじりの岸辺で立ち止まり、馬たちに水を飲ませている最中だった。突然、毛皮に身を包み、顔に悪魔の面を刺青した十人ばかりの馬に乗った男たちが、対岸に姿をあらわした。かれらはひとことも口をきかず、ベルガラスが入念に書き入れた、同族であることを証明する模様にじっと見入っていた。モリンド人たちは、ひそひそ声で会話を交わすと、いちようにくつわを返して走り去った。数分後、狐の皮でくるまれた包みを持った一人の男が、馬を走らせながら引き返してきた。男は岸で立ち止まると、包みを投げ落とし、後を振り返ることもなく走り去った。
「いったい何をしにきたんだろう」ガリオンがたずねた。
「あの包みは連中からの贈り物のようなものだ」ベルガラスは答えた。「いわばわれわれに取り憑いている悪魔への捧げ物だな。行って拾ってくるがいい」
「いったい何が入ってるんだい」
「まあ、あれやこれやいったものさ。だがわしだったら包みを開こうとは思わんね。ところでおまえは口を開いてはいけないことを忘れてはおらんか」
「誰もいやしないじゃないか」ガリオンは少しでも見られている気配がないかと、あたりを見まわしながら言った。
「そんなことで安心してはいかん」老人は言った。「この草地のなかに、ごまんと隠れていないとも限らないのだよ。さあ、贈り物を回収して先へ急ごう。礼儀正しい連中だが、早いところわれわれが悪魔を連れて、かれらの縄張りから退散した方がほっとすることだろう」
一行はのっぺりした平原を、なめしていない毛皮にたかる蝿の大群に悩まされながら、旅を続けた。
数日後の出会いは前のそれよりも非友好的なものだった。三人は草の中から巨大な白い丸石がいくつも突き出た丘陵地帯にさしかかっていた。毛むくじゃらの野生の牛が、ゆるいカーブを描く長い角《つの》を突きだして草を食んでいた。曇天が空を覆い、灰色の雲の合間からいく筋もの光がもれ出している。一日の終わりを示す短いたそがれが、かすかに暗くなるだけの夜に変わろうとしている。一行は曇天の下で、まるで鉛板のように広がる湖をめざしてゆるい斜面を下っていた。突然、まわりの高い草の間から、毛皮を身につけた刺青の戦士たちが姿をあらわした。かれらはいちように骨から作られたとおぼしき、長い槍や短い弓を手に持っていた。
ガリオンは急いでたづなを引き締め、祖父の指示をあおいだ。
「連中の顔をまともに見据えてやれ」老人は早口で指示をした。「くれぐれもおまえは口をきいちゃいけないことは忘れるな」
「まだぞろぞろ出てくるようですよ」シルクは近くの小高い丘に向かって、あごをしゃくってみせた。さまざまな色を塗りたくったロバに乗った男たちが、ゆっくりとおりてくるところだった。
「わしが相手をしよう」
「頼みますよ」
ロバに乗った男たちの先頭にひときわたくましいモリンド人がいた。男の顔一面に黒くほられた刺青は赤と青で縁取られ、一族の中でも重要な地位を占めていることを示していた。それはかれの悪魔の仮面をよりいっそう恐ろしげなものに見せていた。男の持った太い棍棒には無気味なシンボルが一面に描かれ、さまざまな動物の歯が何列にもわたってはめ込まれていた。だがその持ちかたを見れば、これが実戦用というよりも身分を示すしるしであることはあきらかだった。男は鞍を置かず、一重のたづなでロバを操っていた。三十フィートほどの距離まで近づいてから、かれはロバの動きを止めた。「なぜわがイタチ族の領土を侵すのだ」男はぶっきらぼうな口調で言った。その言葉には奇妙なアクセントがあり、目には純然たる敵意が浮かんでいた。
ベルガラスは憤慨したように身を起こした。「そこにおられるイタチ族の長《おさ》が探索の印をご存じないことはあるまい」老人はにべもない口調で答えた。「われわれはイタチ族の領土には何の興味もない。われわれはただ狼族の〈悪魔の霊〉が命じるところの探索を遂行しておるだけだ」
「狼族など聞いたこともないぞ」族長は言った。「おまえたちはどこに住んでいるのだ」
「西の方だ」ベルガラスが答えた。「〈月の霊〉が二度満ち欠けを繰り返すあいだ旅を続け、ようやくこの地に着いたのだ」
族長はベルガラスの言葉に興味を抱いたようすだった。
白髪を長い三つ編みにした、汚らしい顎ひげのモリンド人が小馬に乗ってあらわれ、族長の隣に並んだ。その右手には大きな鳥の頭蓋骨を乗せた杖が握られていた。大きく開かれたくちばしの内側には何本もの歯がかざりたてられ、いっそう獰猛な印象を与えていた。「狼族につく〈悪魔の霊〉の名前を上げてみよ」老モリンド人はつめよった。「わしがその名を知っているかもしれぬ」
「いやいや、それは疑わしいぞ。イタチ族の魔法使いよ」ベルガラスは丁重に答えた。「われらが悪霊はめったにわれわれのもとから離れたことはないのだ。いずれにせよ、ここでその名をあげるわけにはいかない。なぜならその名を口にすることは、夢見師以外禁じられておるからだ」
「それではおまえたちの悪霊の容姿と特徴とを上げてみよ」
突然シルクがのどの奥でごぼごぼという音をたてたかと思うと、鞍の上で身体を硬直させた。かれはうす気味悪く目玉をむき、白い部分しか見えなくなるまで引っくり返した。両手がひきつけを起こしたようにさっと前に突き出された。
「者どもよ、人の目に見えることなく背後に忍び寄る悪魔アグリンジャに注意するがよい」小男はうつろな神がかった口調で、歌うように言った。「わたしは夢の中で三つの眼を持ったその顔と、百の牙を生やした口とを見た。その姿は死を免れえない人の目にうつることはないが、七つの鉤爪のあるその手は、選ばれたる探索者、狼族の槍を持ちたる男の行方をはばむ者を、一人残らず引き裂かんと待ち受けている。わたしはかつて悪夢の中でかのものが食する姿を見た。飢えたる黒きものが人の肉を求めて近づきつつある。どうかそのものの飢えを退散させたまえ」シルクは身震いすると、両手をばたんと下に落とし、あたかも疲れ切ったようにがっくりと鞍の上で頭を垂れた。
「どうやらおまえはこういったことにすっかり慣れているらしいが」ベルガラスが小声で言った。「少しその想像力を抑えてもらえんかね。わしがおまえの夢を実現させねばならんことを忘れないでくれ」
シルクは横目でウィンクをしてみせた。悪魔アグリンジャの描写は、モリンド人たちに強い印象を与えたらしかった。馬に乗った男たちは不安げに顔を見交わし、腰の丈まで草に埋まった男たちは、無意識のうちに近づきあい、武器をその震える手に握りしめた。
そのとき白い毛皮の帯を左腕を巻きつけた痩せぎすなモリンド人が、怯える兵士たちをかき分けるようにして近づいてきた。男の右足はひどく曲がっており、歩くたびにその身体が無気味に揺れた。かれは心底憎しみのこもった目でシルクをにらみつけ、突如両手を投げだしたかと思うと、ぴくぴく身震いを始めた。背を弓なりにそらし、ばたりと地面に倒れ、ひきつけを起こしたかのように身もだえしながら草地の上を転げまわった。そして身体をこわばらせたかと思うと急にしゃべり始めた。「イタチ族の〈悪魔の霊〉、おそるべきホージャよりの言葉だ。ホージャはなぜわがイタチ族の領土に悪魔アグリンジャがその探索者をよこしたのかとたずねている。悪魔ホージャの姿はあまりに恐ろしく、見ることすらかなわない。かれは四つの目と、百と十本の牙を持ち、六本の手には八つの鉤爪が生えている。ホージャは人のはらわたを食らい、その空腹はとどまるところがない」
「人まねをしやがって」シルクが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「自分のものすら思い浮かべられないのか」
イタチ族の魔法使いは、草地に仰向けに倒れている夢見師を軽蔑するような目つきで眺め、次にベルガラスの方を向いた。「〈悪魔の霊〉ホージャは〈悪魔の霊〉アグリンジャに戦いを挑んでいる」男は言った。「ただちに立ち去るか、さもなくばアグリンジャの探索者のはらわたを引き裂くとのことだ」
ベルガラスは小声で罵った。
「それでどうするんですか」シルクがささやき声でたずねた。
「わしはやつと戦わねばならんということさ」ベルガラスは苦々しげに答えた。「そもそもこうなる筋書きだったのだ。あの白髪の三つ編み男は、何とか名をあげようという魂胆なのさ。おそらく行く手に現われるすべての魔法使いにこうして喧嘩をふっかけてきたんだろう」
「やつを何とか料理できますか」
「これからやってみるところだ」ベルガラスはそう言いながら鞍からおり立った。
「脇に退けてわれわれを通すよう警告する」老人は轟きわたるような声で叫んだ。「さもなくばわれらが〈悪魔の霊〉の飢渇をおまえたちのもとに解き放つぞ」ベルガラスは骸骨杖の先で、地面の上に円を描き、その中に五芒線形を書き入れた。厳めしい表情を浮かべたまま、老人は自ら描いた図形の中に入った。
イタチ族の白髪を三つ編みにした魔法使いはせせら笑い、小馬から滑りおりた。そして急いで地面に同じような図形を描くと、やはりその中に入った。
「そら、始まるぞ」シルクがガリオンにささやいた。「いったんシンボルを描いてしまったら、どちらも引き返せなくなるんだ」
ベルガラスと白い三つ編みの魔法使いは、ガリオンのこれまで耳にしたことのない不思議な言葉で呪文を唱え、互いに頭蓋骨杖を振りまわしあった。自分がこれから始まろうという戦いのまっ只中にいることに突如気づいたイタチ族の夢見師は、奇跡的にわれにかえった。かれはあわてて立ちあがると、恐怖を顔に浮かべてよろめき去った。
族長は何とか威厳を保ちながら、呪文をつぶやく二老人のきたるべき接近にそなえて、用心深くロバと共に後ずさった。
二人の魔法使いから二十ヤードほど離れた場所で、空気がかげろうのようにゆらめいた。それは暑い日に屋根瓦からたちのぼる熱波のようだった。ガリオンは空気の変化に気づき、当惑したおももちでこの怪現象を見つめていた。そうしているうちに、空気の動きはますます激しくなり、粉みじんになった虹の破片を含んでいるかのように、きらめき、躍り、大きな波となってうねり始めた。それは見えない火から立ちのぼる極彩色の炎のようだった。夢中になって見守るうちに、すぐ右側の高い草地の上にも、別のかげろうが発生した。二番目のそれも同じように内部から極彩色の細片のうねりを生じ始めた。最初のかげろうに、次に二番目のそれに目をやったガリオンは、中心部に何かの形ができ始めているのを見た――あるいは見たと思った。最初のうち、それはかげろうの中できらきら光る色とりどりの細片が、ふわふわと変化しながら集まってできたぼんやりとした形にすぎなかった。それはやがて一定量に達すると、突然、今度は一ヵ所に殺到しはじめ、あっという間にはっきりした形になった。そこには歯をむいてよだれをたらし、理不尽な憎しみに燃える、二つの巨大な怪物の姿があった。どちらも背が家ほどの高さもあり、肩は大きく両側に張り出していた。極彩色の肌は、さまざまな色がさざ波のようにうねっていた。
草地にそびえたつ怪物の両目のあいだに輝く第三の目が、敵意をこめてにらみつけていた。二本の巨大な腕から、七つの鉤爪のある手が伸び、今にもつかみかからんばかりに曲げられている。馬の鼻面のような突き出た、口をぱっくりと開け、憎しみと果てしないの飢えの叫びを雷鳴のように轟かせるたびに、針山のような牙がのぞいた。
大きな岩の上にうずくまるようにしてもう一つの怪物がいた。胴体の上にはいくつもの肩があり、そこから蛇のようにうねりくねる、うろこの生えた無数の腕が、群れをなして伸びていた。それぞれの腕の先には、おびただしい鉤爪を広げた手がついていた。平行に並んだふた組の目が、突き出た額の下で、気違いじみた憎しみに燃えていた。鼻面のような口の中にはもう一方の怪物と同じように、おびただしい数の牙が並んでいた。怪物はそのおぞましい顔を上げると、顎から泡を吹きながら咆哮を上げた。
二つの怪物はにらみあっていた。だが、そうしている間にもそれぞれの身体の中で、葛藤が行なわれているようすだった。肌にさざ波のようにしわがより、胸や腹につぎつぎと大きなこぶができては消えた。ガリオンは怪物たちの皮膚の下に何か――外見とはまったく異なるさらに邪悪なもの――が閉じ込められているような奇妙な印象を受けた。二匹の魔物は互いにうなり声をあげて近づいたが、そのむきだしの戦意もやむなく駆り立てられているような印象があった。自分の意志に反して働かされているとでもいうように、かれらのグロテスクな頭は、目の前の敵と、自分を支配する魔法使いとのあいだを行ったりきたりした。ガリオンにはその不本意さが怪物の内部から生じているもののように思えた。それは奴隷の身におとしめられ、人間の命令に従うことを強制されていることに対する憎悪だった。ベルガラスと白髪を三つ編みにした魔法使いの口から漏れる、怪物を縛りつけるためのまじないの呪文は、耐えがたい苦痛だった。したがって二つの怪物の咆哮には哀れっぽい響きが混じっていたのである。
ベルガラスは汗を流し始めていた。汗の玉が黒色に染めた顔からしたたり落ちた。自ら作り出した怪物の姿に悪霊アグリンジャを閉じ込めるための呪文が、老人の口から絶え間なくもれ続けていた。ほんのわずかでもその言葉や、作り出したイメージが揺らぐようなことがあれば、呼び出した怪物に対する支配力は失われ、たちまち逆襲されてしまうのである。
かれら自身の身体を内側から突き破ろうとするかのように激しく身をくねらせ、アグリンジャとホージャはがっぷりと四つに組むと、たがいに鉤爪でかきむしりあい、恐ろしげな顎で相手の肉をかみちぎった。かれらが動くたびに大地は鳴動した。
恐怖よりも驚きが先にたってガリオンは、はげしい闘いをじっと見つめるばかりだった。よく見ると二つの怪物にはあきらかな違いがあった。アグリンジャは傷口から血を流していた――無気味な濃い色の血で、暗赤色というよりはほとんど黒に近かった。一方ホージャはまったく血を流してはいなかった。かみちぎられた腕や肩の肉はまるで木片のように、はがれ落ちた。白髪を三つ編みにした魔法使いもその違いに気づいたらしく、目に恐怖の色を突然浮かべた。悪魔を支配下に置くために、一心不乱に呪文を唱える魔法使いの声がしだいにうわずってきた。同時にホージャの皮膚の下のこぶの動きはますます激しく大きなものになっていった。突然かれはアグリンジャから身を引きはがした。ホージャの胸は大きく波打ち、目は激しい期待にらんらんと輝いていた。
白髪で三つ編みの魔法使いの声はほとんど悲鳴に近くなっていた。呪文の口調はしどろもどろで、どもり、つかえがちになった。そしてついに、発音の難しい一節がかれの舌をもつれさせた。死に物狂いで魔法使いは呪文を繰り返したが、言葉は再びかれの舌の上で凍りついた。
ホージャは勝利のおたけびを上げ、身体を伸ばし、次の瞬間爆発したように見えた。怪物が身震いとともにそれまでの幻の姿から自由になると同時に、肌を覆っていたうろこの断片が四方八方に飛び散った。巨大な二本の腕がのび、人間そっくりの頭部からは先端が針のようにとがった角《つの》がカーブを描いていた。足首から先にはひづめが生え、灰色っぽい肌から絶えず粘液がしたたり落ちていた。
「ホージャ!」白髪を三つ編みにした魔法使いが金切り声をあげた。「ホージャ! わしの命令を――」だが、その言葉は支配を逃れた悪魔の姿をまのあたりにして凍りついた。「ホージャ! わしはおまえの主人だぞ!」だがホージャはすでに悠々と歩きはじめていた。巨大なひづめの下で草を踏みにじりながら、元の主人に向かって一歩一歩近づいていった。
恐怖に大きく目を見開きながら、白髪を三つ編みにしたモリンド人は後ずさった。その足が知らず知らずのうちに、地面に描かれた円と星の安全地帯から踏み出たことが、かれの命運を決した。
ホージャは血も凍るような笑みを受かべ、頭や肩に打ちおろされる頭蓋骨杖をものともせずに、金切り声をあげる魔法使いの両足首をつかんだ。そして死に物狂いで暴れる男を逆さづりにしたまま立ち上がった。巨大な肩がすさまじい力で波打ち、恐ろしげな嘲笑を浮かべた悪魔は、冷酷なまでにゆっくりと、魔法使いをまっぷたつに引き裂いた。
とたんにモリンド人たちがクモの子を散らすように逃げ去った。
巨大な悪魔は肉塊と化した元主人を、かれらの上にぽいと放り投げた。草の上に血とさらに無気味なものがまき散らされた。悪魔は獰猛な追跡の声を上げると、モリンド人たちの後を追いはじめた。
三つ目のアグリンジャはなかばうずくまったままの姿勢で、白髪を三つ編みにした魔法使いが殺されるのを、ほとんど人ごとのように眺めていた。惨劇がひととおり終わったところで、かれはベルガラスを憎しみに燃える目でねめつけた。
いまや汗でぐっしょり濡れた老魔術師は、超人的な精神集中に顔をこわばらせながら、頭蓋骨杖を目の前に持ち上げた。怪物の肌の下でこぶはなおも激しく波打っていたが、やがてベルガラスの意志が、怪物を制してその容姿を落着かせることに成功した。アグリンジャは不満の叫び声をあげ、空中を鉤爪でかきむしっていたが、それもかれの姿が完全に固定するまでのことだった。やがて二本の腕をがっくりと落とし、怪物は敗北をみとめるように首を垂れた。
「立ち去れ」ベルガラスがぶっきらぼうな声で命じると、アグリンジャはかき消えるようにいなくなった。
ガリオンは突然激しく震えはじめた。かれは激しいむかつきを覚えた。あわてて後ろを向くと、二、三歩よろけ、がっくりひざをつくとその場に嘔吐しはじめた。
「いったい何が起こったんですか」シルクが声を震わせながらたずねた。
「ホージャがやつの支配を逃れたのだ」ベルガラスは冷静な声で答えた。「たぶん血を見たせいだろう。アグリンジャが血を流しているのに、ホージャがそうでないことを見たやっこさんは、自分の術に何かが足りなかったことに気がついた。それが自信を喪失させ、精神統一を妨げたというわけさ。おい、ガリオンもういい加減にしろ」
「とまらないんだ」ガリオンはうめくように答えた。再びひどいむかつきに襲われた。
「ホージャはいつまで連中を追っかけているんですか」シルクがたずねた。
「太陽が落ちるまでだ。どうやらイタチ族にとってはさんざんな午後になりそうだな」
「急に気を変えてわれわれを追いかけてくるなんてことはないでしょうね」
「やつには追いかける理由がないのさ。やつを奴隷にしていたわけではないからな。さてガリオンの腹具合がおさまりしだい、出発するぞ。これ以上行く手を邪魔されることもないだろう」
ガリオンは弱々しげに口をぬぐいながら、よろよろと立ちあがった。
「気分はおさまったかね」ベルガラスがたずねた。
「まだだけど」とガリオンは答えた。「もう胃の中に吐くものが残っていないんだ」
「水を飲んで、今見たものを思い出さないようにするんだな」
「しかしこの先、また今のようなことが起こるんですかね」シルクはいささか目に興奮の色を浮かべてたずねた。
「いいや」ベルガラスはそう言いながらかなたを指さした。約一マイルほど離れた丘の上に馬に乗った数人のモリンド人がいた。「あのモリンド人たちは一部始終を見ていたのだ。連中が見聞きしたことはたちまち伝わることだろう。そうなれば誰もわれわれの邪魔をする者はいなくなる。さあ出発しよう。海岸まではまだまだ遠いからな」
続く何日か、道を急ぐ一行の耳にいくつかの噂が入ってきたが、ガリオンは自分の目撃した恐ろしい戦いについてはいっさい耳を貸そうとはしなかった。
「要するに姿かたちをとどめておくことが肝心なのだ」ベルガラスが結論づけるように言った。
「モリンド人が〈悪魔の霊〉と呼ぶものは、本来それほど人間と違わない姿をしている。それを自分の想像力で思い描いて、霊をその姿かたちの中に押しこめるのだ。仮のかたちにそれを閉じ込めているうちは、意のままに動かすことができる。だがいかなる理由にせよ、それが崩れるようなことがあれば、霊はたちまち本来の姿に戻ってしまうのだ。そうなったらどんなことをしても、二度と支配することはできなくなる。わしはこの点に関してはいささか分があったといえよう。人間の姿と狼の姿のあいだを往復しているうちに、想像力が少しばかり研ぎ澄まされたのだろうな」
「ベルディンは何であなたのことを未熟な魔術師だなどと言ったんでしょうね」シルクが興味しんしんといった顔つきでたずねた。
「あいつは完全主義者だからな」老人は肩をすくめた。「何でもかんでもきっちり型に入れないとおさまらないのさ――それこそ最後の一ミリから足指のつま先までな。じっさいはそこまで行かなくともいいのに、そうしないとおさまらないらしい」
「もうその話はやめにしないかい」ガリオンが言った。
それから一日あまりで一行は海岸に出た。空はあいかわらず雲に覆われ、〈東の海〉は汚れた灰色の雲の下で陰うつなうねりを繰り返していた。そこは広大な砂利浜で、風雨にさらされた流木の断片が黒っぽい丸石の上に転がっていた。泡立つ波が岸に寄せては、悲哀に満ちた永遠のため息のような音とともに退いた。海鳥は悲鳴のような鳴き声をあげながら強風にじっと漂っている。
「これからどちらへ行きますか」シルクがたずねた。
ベルガラスはあたりを見まわした。「北だ」
「あとどれ位ですか」
「それがわからんのだ。なにしろ前に来てからだいぶ歳月もたっておる。わしは今どこにいるかもよくわからんのだよ」
「あなたの知らない場所なんてないかと思っていましたよ、ご老人」
「そう何もかもというわけにはいかないさ」
一行はそれから二日後に陸橋にたどり着いたが、ガリオンは目の前の眺めに落胆を覚えずにはいられなかった。それはかれの想像していたのとはまったく違う、暗い海から突き出た波に洗われる白っぽい丸石の連続にすぎなかった。石は灰色の水平線に向かって不規則な列をなしてどこまでも続いていた。北から吹きつけてくる風は、身を切るほどの寒気と、北極の氷の匂いとを運んできた。水中の岩礁にたたきつけられた波が白い泡の断片となって、石と石をつなぐように漂っていた。
「いったいこれをどうやって行こうってんです」シルクが異をとなえた。
「引き潮まで待つのさ」ベルガラスが説明するように言った。「そのときになれば、これらの岩礁はほとんど海中から顔を出す」
「ほとんど、というと?」
「四六時中、海中に浸かって歩かねばならんということさ。さて出発する前にこの毛皮を衣服からはぎ落とそうではないか。引き潮までの時間つぶしには十分なるし、いささか臭いが鼻につきはじめたからな」
三人は岸辺から離れた流木の折り重なった陰に避難して、こわばり臭気を放ちはじめたウサギの皮をめいめいの衣服からはぎ取った。それから荷物の中を探し、食物を出して食べた。ガリオンは黒に染められた自分の腕の色がしだいに薄れてきたことに気がついた。同時に他の二人の顔に描かれた刺青も、それとわかるほど薄くなってきていた。
あたりはますます暗くなりはじめた。昼から夜へと移り変わるその短いたそがれは、一週間前とまったく変わらないようだった。
「夏の終わりが近いのだ」ベルガラスは暗鬱な光の下で、しだいに引いていく海水から姿を現わしはじめた丸石を眺めながらそう言った。
「引き潮まで、あとどれぐらいですか」シルクがたずねた。
「一時間かそこいらだろう」
かれらはさらに待った。ときおり突風が山積みになった流木を揺るがし、海岸の上部に生えている草を揺さぶり、あるいは翻弄した。
ようやくベルガラスが立ちあがった。「よし、出発だ」老人はそっけなく言った。「われわれで馬を誘導していくことにしよう。岩礁は滑りやすいから、足の置き方に気をつけてな」
最初の踏み石へ続く岩礁の道は思ったより歩きやすかった。だがいったん海に出るや、吹きつける風がかれらの行く手をはばんだ。三人はしばしば氷のような飛沫をかぶった。何度も大きな波が岩礁のてっぺんに打ち寄せては、かれらの足もとで渦を巻き、一行の足を引きずりこもうとした。水は凍りそうに冷たかった。
「次の満ち潮までにこれを渡り切れると思いますか」シルクが轟音の中から大声で叫んだ。
「いや」ベルガラスが叫び返した。「途中の大きい石でとどまって、待機しなければならんだろう」
「そいつはぞっとしませんね」
「泳ぐよりはましだろう」
潮が戻り始めたのは行程のおよそなかば近くになってからだった。波が岩礁のてっぺんに打ち寄せる回数がますますひんぱんになった。中でもひときわ大きな波が、ガリオンの乗った馬の足を底からすくい上げた。ガリオンは怯える馬を引き上げようと必死にたづなをあやつった。ひづめがスリップしやすい岩の上を、よじのぼっては滑り落ちた。「どこか止まる場所を探した方がよさそうだ、おじいさん」かれは波の砕ける音に負けまいと声を張り上げた。「さもないと今に首まで浸かってしまうよ」
「あと二つの我慢だ」とベルガラスが答えた。「すぐ先に大きな岩がある」
岩礁の最後の部分は完全に水没していた。氷のような海水に足を入れたとたん、ガリオンはすくみあがった。波の砕け散った泡で表面が覆われているために、ほとんど水中を見ることができなかった。かれは寒さに痺れた足で、見えない道を探りながら、めくらめっぽうに進んだ。ひときわ大きな波が膨れあがったかと思うと、わきの下の高さまでに達し、強力なうねりでかれを足もとからさらい上げた。ガリオンは必死に馬の手綱にしがみつき、手をばたばたさせてもがきながら必死に態勢をたてなおした。
だが最悪の難所はそこで終わりだった。いまやかれらは足首ほどまでしか水のない、岩礁の上を歩いていた。すぐに三人は無事に大きな岩にあがることができた。ようやく安全な場所にたどりついたガリオンは一気にため息を吐き出した。濡れた衣服に吹きつける風のために、骨の髄まで凍りそうだったが、とりあえず波からは解放されたのだ。
それからしばらくして、風下で身体を寄せあうようにしてうずくまりながら、ガリオンは陰うつな暗い海の先に広がる、人気のない低い海岸をじっと見つめていた。それは背後のモリンドの浜辺と同じように黒っぽい砂利で覆われていた。背後に連なる丘陵が、疾走する灰色の雲の下で重苦しい姿を見せていた。生命のしるしはどこにも見られなかったが、陸地の姿そのものにどことなく暗黙の脅威のようなものが漂っていた。
「あれがそうなんだね」ガリオンはやっとの思いでささやいた。
かなたの海岸に続く広大な海を見つめるベルガラスの表情はうかがい知れなかった。「そうだ」老人は答えた。「あれがマロリーだ」
[#改丁]
第二部 ミシュラク・アク・タール
[#改ページ]
8
イスレナ王妃の最初の誤算は王冠だった。王冠は重く、かぶるといつも頭痛を起こした。そもそも彼女が王冠をかぶる気になったのは、くじけそうになる気持ちを支えるためだった。アンヘグ王の玉座にいならぶ髭づらの戦士たちは、彼女に畏怖の念を起こさせた。王妃には目に見える権威の象徴が必要だったのである。今では王冠をかぶらないと、たまらなく不安になるありさまだった。不快な気分で王冠をかぶり、不安なおももちで宮殿の主広間に入るのが日課となっていた。
悲しむべきことに、チェレク王妃イスレナには人を統率する心がまえがまったくなかった。王者にふさわしい深紅のビロードの服をつけ、頭にしっかりと黄金の冠をかぶり、夫の不在中は自分が王国の支配者であると宣言するために、円天井をいただくヴァル・アローンの謁見の間に座ったその日まで、彼女が決断を下すことといえば今日は何を着ようか、髪をどんなかたちにしようかといった程度の問題だった。それなのに今では決断を下す立場にたつたびに、チェレク人の運命が左右されているように思えるのだった。
エールの盃を手に、巨大な火穴のまわりにくつろぎ、あるいはイグサの敷かれた床をぶらぶら歩いている戦士たちは、何の助けにもならなかった。王妃が謁見の間に姿をあらわすたびに、戦士たちはぴたりと談笑をやめ、いっせいに立ち上がって王旗の下がる玉座に向かう彼女を見守っていたが、何を考えているのかまったくわからなかった。彼女はすべての原因は髭にあるのだとかたくなに信じこむようになっていた。耳まで髭に埋まっている人間の表情をどうやって読みとれるだろう。トレルハイム伯の妻、金髪の落ち着き払ったレディ・メレルの助言がなければ、王妃は髭の禁止令を出しているところだった。
「いけません、イスレナ王妃」メレルは、今まさに髭を禁止する文書に署名しようとしていた王妃の手からペンを取り上げた。「殿方にとって、髭は子供のお気にいりのおもちゃのように強く結びついているものなのよ。髭をそらせることなんて、できやしませんわ」
「でも、わたくしは王妃なのよ」
「それもかれらが認めてくれているからよ。戦士たちはアンヘグ王への尊敬の念から、あなたを受け入れているにすぎないわ。もしかれらのプライドを傷つけるようなことがあれば、たちどころに王座から追い落とされるでしょうよ」メレルの恐ろしい威嚇に、問題はたちどころに解決した。
それ以後、イスレナ王妃はますますバラクの妻を頼るようになった。緑の服を着た女性と、王者の深紅の服を着た女性はやがていつも一緒にいるようになった。イスレナ王妃がひるんでも、メレルの冷たい視線は、いささかの無礼のきざしがあろうものなら――ほとんどエールが少しばかりふるまわれ過ぎた場合だったが――たちどころにそれを鎮めてしまう効果があった。やがてメレルは日々の政務にまで決断を下すようになった。イスレナ王妃が玉座に座れば、メレルは金髪を王冠のように結いあげ、自信なくためらいがちの王妃から見える場所に立っていた。チェレクは彼女の表情によって支配されているも同然だった。かすかなほほ笑みは肯定を、眉をひそめる仕草は否定を、そしてわずかにすくめた肩はその中間をあらわしていた。この方法は非常にうまくいった。
しかしメレルの冷ややかな凝視に屈しない者もいた。白い髭をたくわえた、巨大なベラーの高僧グロデグは王妃との私的な謁見を強引に願い出た。だがメレルが評議の間を出るやいなや、王妃はすっかり途方にくれた。
アンヘグ王が国民総動員令によって呼びかけたにもかかわらず、熊神教信者たちはまだ何らの軍事行動も起こしてはいなかった。後からチェレク艦隊に加わることを、かれらはもっともらしく約束したが、しばらくするとその弁解や引きのばし工作はますますあからさまになってきた。それらの背後で動いているのがグロデグだということを、王妃はよく承知していた。強壮な男たちのほとんどは軍艦に乗りこみ、アルガリアの中心部に陣どったアンヘグ王に合流するために、長い列をなしてアルダー川をさかのぼっている最中だった。したがってヴァル・アローンの宮廷を守る近衛兵は、白髪まじりの老人や、髭も生えていないような少年ばかりだった。そんな中で熊神教信者だけはいすわり、グロデグはその勢力を最大限にのばそうとしていた。
グロデグは王妃に拝謁するときはあくまでも丁重な態度で接し、彼女の熊神教との過去のかかわりを口にすることはなかったが、その申し出はしだいに強制的な色をおびてきた。イスレナ王妃が申し出に気の進まないようすを見せれば、それがあたかも肯定のしるしであるかのように、勝手にことを進めるのだった。しだいにイスレナ王妃の支配力はうすれ、武装した熊神教信者の力をたてにしたグロデグが勢力をのばしはじめた。熊教徒たちは宮殿をがわもの顔にのし歩き、勝手に命令を下し、傍若無人に玉座のまわりをうろつきまわっては、必死に国をおさめようとする彼女の努力をあからさまにあざ笑った。
「いくらこれは何でもひどすぎるわ、イスレナ」王妃の私室で二人きりになった夜、たまりかねたようにメレルが言った。彼女は、じゅうたんの上を怒ったように歩きまわっていた。ろうそくの光がその髪を柔らかな金色に輝かせていたが、その顔に浮かんだ表情は決して柔らかとはいえなかった。
「だって、どうすればいいの」イスレナ王妃は両手をもむようにして嘆願した。「あの男は人前では決してわたしを軽んじているそぶりなど見せないわ。それにかれの判断はいつもチェレクにとっては最善のもののように思えるのよ」
「あなたには助けが必要だわ」メレルが言った。
「でも誰に頼めばいいの」イスレナ王妃は泣き出さんばかりの声を出した。
レディ・メレルは緑のビロードのガウンの前をなでつけながら答えた。「今こそポレン王妃に手紙を書くべきときよ」
「何て書けばいいのかしら」
メレルは部屋の隅のテーブルを指さした。そこには書きものをするための羊皮紙とインクが用意されていた。「まずはお座りになって。そしてわたくしが言うとおりに書いてちょうだい」
トルネドラ大使、ブラドー伯爵はさぞかしうんざりしているに違いないわ、とライラ王妃はひとりごちた。小柄な太った王妃は、書類で膨れあがったかばんを抱えた大使を待たせて謁見用の部屋に、決然とした足取りで向かっていた。冠をかすかにかしがせ、磨きあげられた樫の木の床にこつこつ足音を響かせる王妃の姿に、廷臣たちはいっせいに頭を下げたが、彼女はすべて無視した。もはや上品な挨拶や、むだ話をしている場合ではなかった。なんとかこのトルネドラ人との問題を処理しなければならなかった。しかもこれまで彼女はずっとそれを引きのばしてきたのだ。
オリーブ色の肌の持ち主である大使は、わし鼻で、頭髪はだいぶ後退しているようだった。金で縁どられたマントがボルーン家との関わりをあらわしていた。ライラ王妃との謁見にあてられたサン・ルームの窓辺に置かれた、クッションのある長椅子に、大使はぐったりともたれていた。王妃の姿を見たとたん、かれは立ちあがり、優雅なしぐさで一礼した。「これは、妃殿下」かれは恭しく声をかけた。
「まあ、ブラドー伯爵」ライラ王妃はできるだけ、当惑げで軽薄そうな表情をとりつくろった。
「おかけになってちょうだい。堅苦しい挨拶は抜きでよろしいわね」彼女は椅子にどしんと腰をおろすと、風を起こすために片手でぱたぱたあおいだ。「暑くなってきましたわね」
「センダリアの夏はじつに快適ですな、妃殿下」伯爵は再び椅子に腰をおろしながら言った。
「ところで、この前お目にかかったときにお渡しした提案をご検討いただけたでしょうか」
ライラ王妃はけげんな表情で大使を見つめた。「何のご提案でしたかしら、伯爵」王妃は恥ずかしそうにくすくす笑ってみせた。「お許し下さいね。この数日はまったく心ここにあらずといった状態でしたの。こまごましたことがいろいろとありましてね。本当に夫はどうやって処理していたのかしら」
「わたしどもは、カマール港の管理の件をお話ししていたのです」伯爵は穏やかな声で言った。
「まあ、そうでしたかしら」王妃はまったくわけがわからないといった表情を浮かべてみせたが、瞬間大使の顔をよぎったいらだちに、ひそかな満足をおぼえていた。これが彼女のもっとも得意とする策略だった。毎回、王妃は前に会ったときの話し合いをすっかり忘れてしまったふりをして、伯爵に一からやり直させた。伯爵が一歩一歩話しあいを押しすすめながら最終提案に持ちこもうとしていることを彼女は知っていた。王妃は健忘症をよそおいながら、巧妙に相手の意図をくじいていた。「でも何でまたそんな退屈なお話をしたんでしょうね」
「どうやら、思い出していただけたようですね」伯爵の顔には、わずかな困惑があらわれているだけだった。「わがトルネドラの商船、〈スター・オブ・トル・ホープ〉号は係留場所が見つからないために、もう一週間半も港に錨をおろしたままになっています。荷揚げの遅れによる損害はすでに膨大な額にのぼっております」
「このところ、とても忙しかったのよ」センダリアの王妃はため息をついた。「人手不足なのです。お分かりでしょう。戦争へ行かなかった者たちも、戦地へ物資を運ぶのにたいそう忙しい思いをしているのです。でもこの件についてはさっそく当局にきびしく言うことにいたしましょう。他に何かありましたかしら」
ブラドーは気まずそうに咳ばらいした。「妃殿下におかれましては、すでにそのような覚え書を送られたはずですが」
「まあ、わたしが?」ライラ王妃はおおげさに驚いてみせた。「何てすばらしいんでしょう。それでは何もかもうまくいったのね。それであなたはお礼を言うためにお立ち寄り下さったのでしょう」王妃は少女のようなほほ笑みを浮かべて言った。「何てご親切な方」そして衝動に駆られたように身を乗り出して、片手で伯爵の手首をにぎりしめ、わざと揺すって羊皮紙の巻物を取り落とさせた。「まあ、わたしったら何て失礼なことを」彼女はそう叫ぶなり、身をかがめ、伯爵が拾いあげるより前に巻物をさらった。それから椅子に座り直すと、まるで物思いにふけっているように、巻物でこつこつと頬を叩く動作をした。
「おそれながら妃殿下、お話が先ほどの当局への覚え書の件からそれたようですが」ブラドーは王妃の手にうつった巻物を不安そうに眺めながら言った。「港の管理にあたって、わがトルネドラがお手伝いを申し出ていた件は、思い出していただけましたでしょうか。おっしゃるような人手不足もこれで解消されるということで、わたしたちは合意に達したものと思っていたのですが」
「何てすばらしいお考えだこと」ライラ王妃は叫んだ。彼女は感きわまったかのように、丸まるとした小さな握りこぶしで、椅子のひじ掛けをぽんとたたいた。前もって決められていた合図にしたがって、二人の子供が大声で口喧嘩しながら乱入してきた。
「おかあさま!」ゲルダ王女は泣きじゃくっていた。「フェルナがあたしの赤いリボンを盗ったの!」
「盗ったんじゃないわ!」フェルナ王女は憤然と否定した。「あたしの青いビーズ玉と取りかえたんじゃないの」
「うそっ!」とゲルダ。
「取りかえたのよ!」フェルナ王女も負けずに言い返した。
「まあまあ、おまえたちったら」ライラ王妃は子供たちを叱りつけた。「おかあさまは忙しいのがわからないの。伯爵はおまえたちのことを何と思っておいでかしら」
「でも、おかあさま。フェルナが盗ったのよ!」ゲルダは抗議した。「あたしの赤いリボンを盗ったんだから」
「盗ったりなんかしてないわよ」フェルナはゲルダにむかって舌を突きだした。
そこへ二人を追うようにして、好奇心に目を大きく見開いた末っ子のメルディグ王子が入ってきた。王子は片手にジャムの壺を持ち、顔をその中身でぬりたくっていた。「まあ、何てことでしょう」ライラ王妃は飛びあがった。「おまえたち、この子の面倒を見てくれているはずだったでしょう」王妃は慌てふためき、ジャムだらけの王子に駆けより、手にした羊皮紙を丸めて王子の顔をふき始めた。そしてはっと手を止めた。「まあ」彼女は自分が何をしているかたった今気づいたとでも言うように、小さな叫び声をあげた。「伯爵、これは何か重要な書類だったのでないですか」王妃はくしゃくしゃになり、ジャムがべっとりついた書類をトルネドラ人の前にさし出した。
ブラドー伯爵の肩ががっくりと落ちた。「いいえ、妃殿下」かれは諦めのにじんだ声で言った。「たいしたものではございません。まったくセンダリアの宮殿はじつににぎやかなところですな」そう言いながらかれは立ち上がった。「この件につきましては、またいずれ別の機会に」伯爵は挨拶の言葉をつぶやいた。「よろしければ、失礼させていただきます」そして出て行こうとした。
「あら、お忘れものですわ、ブラドー伯爵」ライラ王妃はたじろぐ伯爵の手に羊皮紙を押しつけた。
伯爵はかすかに殉教者めいた表情を浮かべて辞去した。かれが十分遠ざかったと思われるまで、王妃は声高に子供たちを叱りつけていた。だしぬけに彼女はひざまずくと、子供たちをかき抱いて、笑いはじめた。
「あたしたち、うまくやったかしら」ゲルダ王女がたずねた。
「とっても上手だったわ」ライラ王妃はなおも笑いながら答えた。
宦官サディはここ数年来、スシス・トールの宮殿に行きわたった礼儀正しい如才なさに慣れ、注意がいささか散漫になっていた。それを見抜いた同僚の一人が機会に乗じて、毒を盛った。それはサディにとってはまったく不愉快な体験だった。解毒剤は皆ひどい味がして、後遺症のために頭の働きが鈍りがちになった。かすかないらだちを押し隠しながら、鎖かたびらをつけたタウル・ウルガス王の勅使をむかえたのは、そんなときだった。
「マーゴ王タウル・ウルガスは永遠なるサルミスラ女王の侍従長サディ殿に謹んでご挨拶を申し上げます」サディが国務の大半を処理する薄暗い、ひんやりした執務室に入ってくるなり、マーゴ勅使は深々と頭を下げて、とうとうと挨拶をのべた。
「蛇神の女王の侍従長より、アンガラクの竜神の右腕に、謹んで返礼申し上げます」サディはそっけなく決まりきった挨拶を返した。「ご用件をうがかいましょうか? わたしは今日気分がすぐれないもので」
「すっかりご回復なされたようで、まことに喜ばしいことです」顔に傷のある勅使は、無表情を取りつくろいながら、嘘を言った。「それで、毒殺者は逮捕されたのでしょうね」男は椅子を引き寄せると、サディが書き物机に使っている磨かれたテーブルの向かい側に腰を下ろした。
「むろんですとも」サディは何とはなしに剃髪した頭をかきながら答えた。
「もう処刑なさったのですか」
「なぜ処刑しなければならないのでしょう。かれは毒殺の専門家で、なすべきことをしただけのことです」
マーゴ人はいささかおどろいたようだった。
「優秀な毒殺者は国の役にたつものです。誰かに毒を盛るたびに犯人を処刑していたのでは、すぐに毒殺者はいなくなってしまいます。そんなことになったら、もしわたしが誰かに毒を盛りたいときは誰に頼めばよいのでしょう」
マーゴ勅使は信じがたいといったおももちでかぶりをふった。「いや、あなた方はじつに驚くべき抱擁力の持ち主ですな」かれは耳ざわりな声で続けた。「それではかれの雇い主の方はどうしたのですか」
「それはまた別の問題ですな。かれの雇い主は今ごろ川の底でヒルを喜ばせていることでしょう。ところであなたのご訪問は公式のものですかな、それとも単にわたしの健康を気づかってお立ち寄り下さったのですか」
「その両方です、閣下」
「あなた方はなかなか実利的でいらっしゃるようだ」サディはひややかに言った。「それでタウル・ウルガス王は何をお望みなのですか」
「アローン人どもが、ミシュラク・アク・タールに侵入しようと、軍備を整えております」
「そんな噂も聞いてますね。それがニーサといかような関係があるのでしょう」
「ニーサがアローン人を好いているとは思えませんが」
「マーゴ人を好いているとも思えませんがね」
「リヴァ王亡きあと、ニーサを侵略したのはアロリアですぞ。それにニーサにとっての主要な交易相手はクトル・マーゴスではありませんか」
「どうか本題に入っていただけませんか」サディはうんざりしたように頭を撫でた。「わたしどもは長年の怨恨にも友好にも、もはや左右されることはありません。奴隷取引はさほど重要なものではなくなっていますし、アローン人による侵略の傷痕はもはや数世紀も前に回復されているのです。タウル・ウルガス王はいったい何をお望みなのですかな」
「わが国王はむだな流血を避けたいと願っておられるのです」マーゴ勅使は述べたてた。「トルネドラ軍は、現在アルガリアに集結している軍隊のなかでも重要な役割を果たしております。もし無防備になっているニーサとの南の国境で、何らかの脅威が――むろん、あくまでも脅しだけですが――生じれば、ラン・ボルーンは自分の軍隊を呼び戻さねばならないでしょう。トルネドラ軍が戦線を離脱すれば、アローン人も無謀な行動には踏み切れなくなるでしょう」
「トルネドラを侵略しろとおっしゃるのですか」サディは疑い深げに聞き返した。
「とんでもありません、サディ殿。わたしどもの王は、トルネドラとの南の国境で牽制行動を起こすさいに、いくばくかのマーゴ軍をそちらの領土内に派遣するお許しをいただきたいと願っておるだけです。血など一滴も流れはしませんよ」
「ニーサ人以外の血は流れないかもしれません。ですがマーゴ軍が撤退すれば、トルネドラ軍は怒ったスズメバチのように〈森の川〉にどっと押し寄せることでしょう」
「そうなった場合に備えて、わたしどもはニーサへの友好のあかしとして、国境駐屯兵の一隊をニーサの領土内に喜んで置かせていただきたいと思います」
「むろん、そうでしょうよ」サディはひややかに言った。「しかし、特に今のような時期ではウルガス王のご提案は受け入れがたいとお伝え下さいませんか」
「クトル・マーゴスの王は強力なお方ですぞ」マーゴ人はかたくなに言った。「友人よりも、その行く手をふさぐ者をよりよく覚えておられるのです」
「タウル・ウルガス王が正気だとは思えませんね」サディはぶっきらぼうな口調で言い返した。
「要するにご自分がザカーズとの戦いに集中されたいがために、アローン人とのいさかいを避けるご意向なのでしょう。まあたいした案とはいえませんが、呼ばれもしないニーサにいきなり軍隊を送られるよりは賢明ですね。軍隊は食べなければなりません。歴史の証明するとおり、ニーサは食糧を調達するのに良い国とはいえませんからね。美味そうな果実の汁はえてして苦いものです」
「マーゴ軍は食糧を持参いたしますよ」勅使はややむっとした口調で言った。
「それは結構なことです。では飲料水はどうするつもりですか。これ以上ここでお話ししていてもらちがあきません。取りあえず、ご提案を女王に伝えることにいたしましょう。最終決断をなされるのはむろん女王さまですからね。ですが女王から有利な決定を得るためには、マーゴ軍の永久的な駐留よりは魅力的なご提案でなければ、無理だと思いますよ。ご用件はそれで終わりですか?」
マーゴ人は傷のある顔に怒りを浮かべ、さっと立ちあがった。男は形ばかりのお辞儀をすると、それ以上何も言わずに出ていった。
サディはしばらく考えこんでいた。この事態をうまく処理できれば、最小の犠牲で最大限の利益を引きだすことができよう。よく言い含めた急使をアルガリアにいるローダー王のもとに何回か送れば、ニーサが西の国々に対して友好的であることを納得させることができる。ローダー王の軍が勝てば、ニーサにとっては利益になる。また逆にもし西の連合軍の敗色が濃ければ、タウル・ウルガスの提案を受け入れればいい。どちらに転んでもニーサは勝者側につくことになる。サディにはすばらしい判断のように思えた。かれは真珠のような光沢のローブをさらさらいわせながら立ち上がり、かたわらの戸棚にむかった。そこから藍色の液体の入った水晶製のデカンターを取り出すと、どろりとした液体を決められた量だけついで、一気にあおった。薬の効果ですぐに気分は落ち着き、一、二分後にはすっかり女王の前に出る用意ができていた。執務室から、玉座の間にむかううす暗い廊下に出たとき、かれはほほ笑みさえ浮かべていた。
サルミスラが座している部屋はいつものように、うす暗い天井から銀の鎖で吊り下げられた石油ランプで、ぼんやりと明るかった。宦官たちは恭しげにひざまずいて、女王に仕えていたが、もはや称賛の唱和はしていなかった。今ではいかなる音もサルミスラの神経をいらだたせた。したがってよけいな音をたてない方が賢明だった。長椅子のような形をした玉座に寝そべる蛇神の女王をうしろには、堂々たるイサの像がそびえたっていた。彼女はまだら模様のとぐろを震わせ、うろことうろこのすれるしゅうしゅうと乾いた音をたてながら、一日中まどろんでいた。だが不安なまどろみのさなかにも、彼女の舌はちろちろと見え隠れしていた。サディは玉座に近づくと、磨きあげられた床に機械的にひれふし、じっと待っていた。かれの仕える、頭巾をかぶった蛇人は、空気中に漂う人のかおりで、相手を判断するのである。
「サディね」ようやく女王はしゅうしゅうという乾いた音をたてながらささやいた。
「女王陛下、マーゴスが同盟を求めてまいりました。タウル・ウルガスはタールとの国境からラン・ボルーンの軍隊を引きあげさせるために、南でトルネドラに脅しをかけようとしているのです」
「そうなの」女王はたいした関心もなさそうに答えた。生気のない目がかれの方に向けられ、とぐろがこすれる音がした。「おまえはどう思う」
「中立の状態がよろしいでしょうな、神聖なるサルミスラさま。どちらの陣営と同盟を結ぶにせよ、まだ時期尚早と思われます」
サルミスラは身体を動かした。玉座のかたわらの鏡にうつった、彼女の縞模様の頭巾がきらりと輝いた。その頭上にはうろこと同じくらいぴかぴかに磨かれた王冠が置かれている。彼女は舌をちろちろさせながら、ガラスのようにうつろな目で、鏡にうつった姿を見つめていた。
「それではおまえのよいようになさい、サディ」女王は関心なさそうな声で言った。
「それではわたくしがこの問題を処理させていだたきます」サディは辞去するために、再び頭を床にすりつけながら言った。
「今のわたしにはトラクなど必要ではないわ」女王は鏡にうつった自分の姿をつくづく眺めた。
「ポルガラにはわかっていたのね」
「そのようですな、女王さま」サディはあいまいに答え、立ちあがりかけた。
そのとたん女王はふり返ってかれの方を見た。「サディ、しばらくここにいてちょうだい。わたし淋しいのよ」
サディは慌てて頭を床につけた。
「ときどきおかしな夢を見るのよ、サディ」彼女はしゅうしゅう音を立てながら言った。「とても奇妙な夢なの。わたしの血が温かくて、まだ人間の女だったときのことを覚えているのかもしれないわ。奇妙な考えが夢の中でわきあがり、不思議な飢えを感じるのよ」そう言って女王はまっ正面からかれを見すえた。尖った顔が伸ばされると同時に、頭巾があやしくきらめいた。「わたしは本当にあんな女だったのかしら? まるですべてが霧の中のできごとのように思えるわ」
「非常につらい時代でした」サディは率直に答えた。「われわれすべてにとって」
「ポルガラは正しかったのね」女王は相変わらず消え入りそうな声で続けた。「前に飲んでいた毒は、人を怒りっぽくさせるのよ。たぶんこの方がよかったのかもしれない――今のわたしには情熱も、飢えも、恐れもないのですもの」彼女は再び鏡の方を向いた。「もう下がってもいいわ、サディ」
かれは立ち上がり、出口に向かいかけた。
「ああ、ちょっとお待ち」
「何でございますか、女王さま」
「これまでおまえに迷惑をかけていたのなら、謝るわ」
サディはまじまじと女王の顔を見た。
「むろんそんなに迷惑をかけた覚えはないわ――でも、ほんの少しだけね」女王は再び鏡の方をむいた。
背後で女王の部屋の扉を閉めながら、サディは身震いした。しばらくしてから、かれはイサスを呼びにやった。金のためなら何でもする、みすぼらしい片目の男が、ためらいがちに宦官がしらの執務室に入ってきた。その顔にはどことなく不安そうな表情が浮かんでいる。
「入りたまえ、イサス」サディは穏やかな口調で呼びかけた。
「もう、おれのことを怒っちゃいないでしょう、サディさま」イサスは二人きりかどうかを確かめるように、部屋の中を落ちつきなく見まわした。「別にあなたに恨みがあってやったわけじゃないんでさあ」
「そうだよ、イサス。おまえは報酬を受け取り、そのとおりの仕事をしただけだ」
「ですが、いったいどうしてわかったんで?」イサスは専門家的な好奇心をあらわにしてたずねた。「たいていの場合は気づくのが遅すぎて、解毒剤がきかないんですがね」
「おまえの調合した毒薬にはほんのわずかレモンの香りがした。わたしは前にその味を見分ける訓練を受けたことがあるのでね」
「そうだったんですかい。そいつは考えないといけない。それを除けばあれは非常に優れた毒薬なんですがね」
「あれはじつにすばらしい毒薬だよ、イサス。だからこそおまえをここに呼んだのだ。さっそく一人ばかり取り除きたい男がいるのだが」
イサスは片目を輝かせ、もみ手を始めた。「それで、十分な見返りはいただけるんでしょうな」
「むろんだとも」
「で、相手は誰ですかい」
「マーゴの大使だ」
イサスの表情がいっとき曇った。「そいつは難しいな」そう言いながら頭をかいた。
「だか、おまえならやれるだろう。わたしはおまえの腕に全面的な信頼を寄せているのだ」
「むろん、おれの腕前は最高ですからね」うわべだけのためらいは、みじんも残っていなかった。
「その大使はある取り決めを迫るために勅使として来たのだが、わたしとしてはこの交渉を長引かせる必要があるのだ。かれがここで急死してくれれば、しばらく中断できる」
「別に説明して下さらなくても結構でさあ。あなたさまがなぜそいつを殺したいかなんぞ、おれにとっちゃどうでもいいことなんだ」
「だが知っておいてもらわねば困るのだ。さまざまな理由から、かれが自然死したように思わせたいのだ。大使とその家族の何人かを、熱病にかかった状態にしてほしい。何か適当な毒はあるかね」
イサスは眉をひそめた。「なかなか手のこんだ方法ですな。ただちに仰せのものを探してみましょう。取りあえず、本人が死に、病気をうつされた家族も死に、生存者はごくわずかということで」
サディは肩をすくめた。「ときとして犠牲も必要さ。やってくれるかね」
イサスは真顔でうなずいた。
「それではすぐに手配にかかれ。わたしはタウル・ウルガス王に出すお悔やみの手紙の文句を考えることにしよう」
シラー王妃は〈アルガーの砦〉の大広間で、はた織り機の前に座っていた。カタカタと眠気を誘う単調な音をたてながら、縦糸の間に杼《ひ》を走らせつつ、彼女は歌を口ずさんでいた。壁の高いところにある細長い窓から、太陽の光がさしこみ、巨大な方形の部屋を黄金色の光で満たした。チョ・ハグ王もヘターもいまや〈砦〉を遠く離れていた。二人は東の崖地のふもとに、西から合流するチェレク軍、アレンディア軍、センダリア軍、そしてトルネドラ軍のために、大規模な野営地の準備をととのえていた。チョ・ハグ王はまだ自分の領土内にいたが、諸族にかれの王妃を支援するむねの誓いをたてさせ、すでに全権を彼女にゆずっていた。
アルガリア王妃は寡黙な女性で、めったに感情を顔に出すことはなかった。彼女はその生涯を人目につかないところで送り、あまりに奥ゆかしいので、しばしば人々はその存在に気づかないほどだった。だが王妃はしっかりと目を見開き、耳を傾けていたのである。身体の不自由な夫は妻に全面的な信頼を寄せていた。黒髪の、寡黙な王妃は何が起こりつつあるかを正確に理解していた。
白いローブをはおったアルガリアの大司祭エルヴァーは、得意満面の色を浮かべ、すべての権利をかれに委ねるよう巧妙に作られた宣言書を、王妃に読んできかせていた。かれは恩着せがましい口調で内容を説明した。
「それですべてですか」ようやく語り終えるのを待って、王妃はたずねた。
「これが最善の方法かと考えられます、妃殿下」大司祭は傲慢な口調で答えた。「女性はそもそも政治にむいていないというのは周知の事実です。さあ、ペンとインクをご用意しましょうか?」
「まだその時期ではありませんわ、エルヴァー」はた織りの手を休めることなく、王妃は静かに言った。
「しかし――」
「それにね、わたくしちょっとした考えがあるのですけれど」そう言いながら王妃は大司祭をまっこうから見つめた。「あなたはこのアルガリアのベラー神に仕える大司祭でありながら、〈砦〉から一歩たりとも外へは出たことがありませんね。少しおかしいと思いませんか」
「それがわたしの務めだからです、妃殿下。だからこそ――」
「でもあなたにとって一番大切な務めは、ベラーの子供たちである民衆に接することなのでしょう。本来ならばさまざまな諸族のなかに入りこみ、子供たちに教えを広めることを望んでいらっしゃるあなたを、長いあいだこの〈砦〉にお留めしたのは、たいそう利己的な考えだったと思っているのですよ」
かれはあんぐり口を開けたまま、王妃を見つめていた。
「他の僧の方々にしても同じことですわ。この〈砦〉に集まりすぎていますし、みな机の上での事務を余儀なくさせられているのです。このような仕事で僧の方々をしばりつけているのは、もったいないですわ。さっそくこれを改めねばなりません」
「ですが――」
「いいのよ、エルヴァー。王妃としてわたくしのなすべきことはわかっています。まずアルガリアの子供たちのことを第一に考えなければならないわ。この〈砦〉におけるあなたの職務すべてから解放してあげましょう。あなたが選んだ天職に戻ることができるのですよ」そう言って彼女はほほ笑んだ。「よろしければ、わたくしがあなたの巡回の計画を立ててさしあげてよ」しばらく王妃は考えこんでいるようすだった。「こんなご時世ですから、護衛もつけてあげた方がよろしいわね。旅の途中で邪魔されたり、あなたの布教活動が諸外国からの騒がしい情報などで妨げられることのないよう、わたくしの一族から信用できる男たちを選びましょう」王妃は再び大司祭をひたと見すえた。「これぐらいで十分だわね、エルヴァー。さあ、早く荷造りを始めた方がよろしいわ。この次お会いするときまで、さぞかしたくさんの季節が過ぎ去っていることでしょうね」
ベラーの大司祭はしめ殺されたような声を発した。
「そうそう、もうひとつあったわ」王妃は織り糸の新しい束を注意深く手にとり、太陽の光にかざした。「この前、国内の家畜の調査を行なってからだいぶ年月がたっています。あなたが国内中をまわって下さるなら、ついでにアルガリアの子牛や子馬の数を正確に調べていただけないかしら。そうすれば退屈しなくてすむでしょう。報告をたやさず定期的に入れて下さいね」そう言うと彼女は再びはた織り機の方にむいた。「もう下がってよろしいわ」王妃は大司祭の方に顔を上げようともしないで、にこやかに言った。大司教は怒りにわなわなと身をふるわせながら、放浪という名の牢獄に出る支度を整えるために、よろめきながら部屋を退出した。
ラン・ボルーン二十三世皇帝に仕える侍従長モリン卿は、宮殿の私庭に入ったとたん、ため息をついた。どうやらまた長広舌が始まりそうな気配だった。モリンはどの話も少なくとも十数回は聞かされていた。皇帝は時として同じことを何度も繰り返すという異常な才能があった。
だがラン・ボルーンの気分は最近ふさぎがちだった。はげ頭でかぎ鼻の小柄な皇帝は、あずまやに座り、カナリアの震える鳴き声に耳を傾けながら、もの思いにふけっていた。
「このカナリアはあれから一度もしゃべらんのだよ、モリン」きちんと刈り込まれた芝生を踏みながら近づいてくる侍従長にむかって皇帝は言った。「ポルガラがここへ来たとき一回きりだ」皇帝はもう一度、淋しそうな目で黄金色の小鳥を見た。かれは深いため息をついた。「どうやらわしは損な取引をしたようだ。ポルガラはカナリアを置いていったが、その代わりにセ・ネドラを連れて行ってしまった」皇帝は強い陽ざしに照らされた庭と、それを取り囲む冷たい大理石の壁を見まわした。「たんなる気のせいだろうか、モリン。宮廷はこんなに冷たくてがらんとしておったかな」皇帝はふたたび憂鬱な沈黙に落ち、深紅のばらが一面に咲きほこる庭を見るともなく眺めた。
突然、奇妙な音がした。モリン侍従長は、皇帝がまたあらたな発作を起こしたのではないかとなかば恐れながら、急いで音のした方を見た。だがそんなようすは露ほどもなかった。それどころかラン・ボルーンはくすくす含み笑いしていたのである。「あいつがどうやってわしに一杯くわしたか見ただろう、モリン」皇帝は笑い出した。「あいつはわざとわしに発作を起こさせたんだ。まったく男だったらどうなっていただろうな。おそらくはトルネドラ史上もっとも偉大な皇帝になっていたに違いない」ラン・ボルーンは今や晴ればれと笑っていた。セ・ネドラの賢さに対するひそかな喜びが突如わきあがってきたかのようだった。
「何と申しましても、陛下のお嬢さまでいらっしゃいますからな」
「たかだが十六の小娘があんなでかい軍隊を起こすとはな」皇帝は驚嘆するように言った。
「いや、まったくたいした娘だ」皇帝はトル・ホネスに戻って以来とりつかれていたふさぎの虫から、突然解放されたようだった。しばらく笑い続けたのち、かれは光る目を抜けめなく細めた。
「あいつがわしからかすめ取りおった軍団は、強力な統率者がいなければ、ばらばらになってしまうかもしれんな」
「ですが、それはセ・ネドラさまの問題でございましょう」モリンは答えた。「もしくはポルガラ殿の」
「そうだな――」皇帝は片方の耳をかいた。「わしには何ともいえん。なにしろ向こうの情況がまったくわからんのだからな」そう言ってかれは侍従長の方を見た。「おまえはヴァラナ将軍を知っておるな?」
「アナディル公爵ですか? むろんですとも、陛下。かれこそまさに統率者としてはうってつけの人物と言えましょう。意志堅固で謙虚で、しかも非常に優れた知性をお持ちです」
「あの男はわが一族の古くからの友人なのだ」ラン・ボルーンは言った。「セ・ネドラもよく知っておるし、かれの忠告なら聞きいれることだろう。どうだ、モリン、やつのところへ行って、休みをとって、アルガリアの近辺へ物見遊山にでも行く気はないか、それとなく勧めてみてもらえんか」
「かれならこの休暇の話を大歓迎しますとも。何しろ夏場の駐屯兵の生活はひどく退屈ですからね」
「これは単なる勧めだからな」皇帝は言った。「戦地へおもむくのは、あくまでも非公式でなければならん」
「もちろんですとも、陛下」
「したがって、もし将軍が戦地でたまたま有意義な提言を――もしくは統率力を発揮するようなことがあっても、われわれにはあずかり知らぬことだな、モリン。休暇中の民間人が何をしようと当人の勝手だろう?」
「さようでございますな、陛下」
皇帝はにやりと笑ってみせた。「それではわれわれはこの線にあくまでも固執することにしよう」
「まさに糊のごとくですな」モリンはおごそかに答えた。
ドラスニアの皇太子は母親の耳に大きなげっぷの音を響かせると、ため息をつき、すぐにその肩にもたれてすやすやと眠ってしまった。ポレン王妃は赤ん坊にほほ笑みかけ、ゆりかごの中にそっと寝かしつけると、得体のしれない服を着て、そばの椅子にだらしなく手足をのばしている筋骨たくましい男の方を見た。このやつれた男は、単にジャヴェリンというだけの名前で知られていた。ジャヴェリンはドラスニアの情報部の長《おさ》であり、ポレン王妃にとってはもっとも近しい相談相手のひとりだった。
「ともあれ」男は報告を続けた。「トルネドラの娘に率いられた軍は、〈砦〉から二日の行程のところを進軍中です。工兵は本隊に先まわりして、崖地の上に巻き上げ機を設置しており、一方チェレク軍は、アルダー川の東岸から輸送をはじめました」
「それでは何もかも計画どおりにことは運んでいるわけですね」王妃は窓近くの磨きぬかれたテーブルの前に座りながら言った。
「アレンディアには若干の問題が起こっているようですな。だがいつもの小競りあいや口喧嘩程度のものですので、そんなに深刻な問題ではないと思います。ライラ王妃はトルネドラのブラドー伯爵を実に見事に手玉にとっておられるので、センダリアまでかまっている余裕はなさそうですな」そう言ってジャヴェリンは独特の長いあごをかいた。「ところでスシス・トールから妙な情報が入ってきましたよ。マーゴスではニーサと同盟を結ぶために密使を送ったようなのですが、その男が死にかけているそうです。さっそくサディに誰かを近づけて真相を探り出すことにしましょう。あとは何かあったかな――、そうそうホネス一族がついに候補者を一人にしぼったようです――尊大かつ傲慢な田舎者でトル・ホネス中の嫌われ者ですがね。ホネス家ではかれに王冠を買い与えるつもりらしいが、皇帝としての能力は皆無でしょうな。全財産をつぎこんでもかれを玉座に座らせるのはまず困難でしょう。お伝えすることはこれで全部と思われます、妃殿下」
「ヴァル・アローンのイスレナ王妃から手紙が届いたわ」
「存じておりますよ、妃殿下」ジャヴェリンは丁重に答えた。
「ジャヴェリン、またわたしの手紙を黙って読んだわね」王妃は突然いらだちを覚えたようだった。
「世界で何が起こっているのか、いつでも知っておきたいだけですよ、ポレンさま」
「こういうことはやめてほしいと前々から言ってるはずです」
「わたしが仰せにしたがうと、本気で信じていらっしゃったわけではないでしょう」
王妃は笑い出した。「まったく、あなたってどうしようもない人ね」
「そうですとも。常にそうありたいと思っておりますよ」
「イスレナを何とか助けてあげられないかしら」
「誰か人をやりましょう」とジャヴェリンは言った。「トレルハイム伯の妻メレルに働きかけるのがよろしいかと思います。彼女は最近めきめきと才覚をあらわしていますし、イスレナ王妃とも親しい間柄ですからね」
「わたしたちの情報部の見直しもはかった方がよさそうね」ポレン王妃は示唆した。「熊神信者と関わりのある者すべてを洗いだしましょう。いずれ次の手段に踏み切るときが来るかもしれません」
ジャヴェリンはうなずいた。
そのとき、ドアを軽くたたく音がした。
「はい?」ポレンが答えた。
ドアが開いて、召使いが顔をのぞかせた。
「申しわけありません、妃殿下。ナドラクの商人ヤーブレックと申す者が参っております。何でも鮭の遡上のことでお話があるとか」召使いは当惑したような声で言った。
ポレン王妃は椅子の上で姿勢をただした。「その者を召しなさい。ただちにです」
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9
遊説の旅は終わった。セ・ネドラにとって苦痛の種だった演説はその役目を終え、彼女の存在はしだいに薄れていった。はじめのうちは、日々が素晴らしい自由で輝いているように見えた。一日に二、三回も大勢を相手に演説をしなければならないという恐ろしい不安は今や消え去っていた。神経のひどい疲れは癒え、不安と恐怖にさいなまれて夜とび起きることもなくなった。最初の一週間は浮き浮きしながら、存分に解放感にひたっていた。だがそれを過ぎると、当然のことながら、彼女はひどく退屈をおぼえはじめた。
王女がアレンディアと北トルネドラから召集した軍隊は、ウルゴランドの山々のふもとを、大海のように埋め尽くしながら進んでいた。ミンブレイトの騎士たちは鎧を陽光にきらめかせ、色とりどりの槍旗をはためかせながら、先頭を切っていた。そのうしろにはセ・ネドラの歩兵、センダー人、アストゥリア人、リヴァ人、そして少数のチェレク人が、起伏の多い緑の丘陵地帯の上をえんえんと連なって行進していた。そしてその中央で鎧をきらめかせながら行軍しているのがトルネドラ帝国の軍団だった。深紅の旗は空高くひるがえり、兜の白い羽飾りが、規則正しい一歩を踏み出すごとに左右に揺れた。行軍が始まった当初は彼女の命令のもとに東に向かう大軍団を率いるのは、ひどく痛快だったが、やがてその感激もうすれてきた。
セ・ネドラがしだいに指揮の中枢からはずれていった原因は、おもに彼女自身にあった。今では決定事項といえば、野営地の決定だの、料理の献立などといった兵站学に関する、ごく瑣末な問題ばかりになっていた。セ・ネドラはたちまちそのような討議にうんざりした。だがこういった瑣末なことがらこそが、進軍の速度にもっとも大きな影響を与えるものなのである。
まったく唐突に、センダリアのフルラク王が、みなの驚きをよそに連合軍の実質的な指揮者になっていた。一日にどれくらいの距離を行軍し、いつ休み、どこで野営するかを決定するのはかれの役目だった。フルラク王の指揮権は、食糧物資の輸送を担当していることに基づくものだった。一行が北アレンディアに出発してまもなく、このずんぐりむっくりしたセンダリアの支配者は、アローンの王たちがたてた大ざっぱな食糧計画に目を通したとたん、即座に首をふって、自分自身で計画を立て始めたのである。もともとセンダリアは農業国なので倉庫は食糧で満杯だった。そのうえ、収穫期になればセンダリアのありとあらゆる道は荷馬車であふれ返るのである。フルラク王がてきぱきと二、三の簡潔な指示を示すと、食糧を満載した荷馬車の一隊がアレンディアからトルネドラを経由し、東進して連合軍に合流した。今や連合軍の進軍する速度は、荷馬車のきしみ具合でわかるまでになっていた。
フルラク王の影響力が完全に発揮されたのは、あと数日でウルゴの山岳地帯に達しようというときだった。
「フルラク王よ」ドラスニア王ローダーは、センダリア王が休憩のためにまたもや軍の前進を止めるのを見て、異議を唱えた。「こんなところでぐずぐずしていたのでは、東の崖地に着くまでに夏が終わってしまうぞ」
「大げさなことを言うものではない」フルラク王は穏やかな口調で答えた。「これぐらいでちょうどいいのだよ。荷物が重いので、荷馬車の馬は一時間ごとに休ませる必要があるのだ」
「そんな馬鹿なことがあってたまるか。わたしはもっと速度を上げさせるからな」
「どうぞご自由に」茶色いあご髭をたくわえたセンダリア王は肩をすくめ、相手の太鼓腹を冷ややかな目で眺めた。「だがここできみがわたしの荷馬車を疲れさせてしまったら、明日から食うものはないと思え」
それですべての決着がついた。
ウルゴランドの険路にさしかかると、進軍の速度はさらに遅くなった。セ・ネドラは不安なおももちで、うっそうとした森と険しい岩山の土地を進んでいった。王女はエルドラクのグラルの襲撃や、アルグロスやフラルガの攻撃などの、昨冬経験した身の毛もよだつようなできごとを、まざまざと思い出した。だが今回はウルゴ山中に潜む怪物たちと出くわすことはあまりなかった。あまりにも膨大な人数に、獰猛な怪物でさえ避けているらしかった。ボー・マンドール男爵、マンドラレンはものたりなそうな顔で、怪物たちとの遭遇を報告した。
「本隊よりも一日早い行程を進めば、もっとおもしろい怪物に出あえるかもしれませんな」ある夜、マンドラレンは燃えさかる炎をじっと見つめながら、そうもらした。
「きみという男は満足することを知らないんだな」バラクが辛辣な口調で言った。
「大丈夫よ、マンドラレン」偉大な騎士にむかってポルガラは言った。「怪物たちに害意があるわけではないし、わたしたちが手出ししない方が、ウルゴのゴリムも喜ぶでしょう」
マンドラレンは深くため息をついた。
「やっこさんは、いつもあんな調子なのか」アンヘグ王がバラクにたずねた。
「まったくいかんともしがたいね」バラクは答えた。
軍団はローダー王、ブランド、アンヘグ王らのいらだちにはおかまいなくゆっくりと進んだが、おかげで十分に体力を温存することができた。ようやく一行は、目を見張るように美しいアルガリアの平原に出た。
「これから〈アルガリアの砦〉に向かうことにする」連合軍の最後部が平原に入り、扇型に広がるのを見届けたローダー王は言った。「少し隊を編成し直す必要があるようだし、工兵たちがわれわれを引きあげる準備ができる前に、崖地のふもとに着いたところで仕方がないからな。それに万が一、崖の下をのぞきこんだタール人に、われわれの規模の大きさを知られてもこまる」
そこで連合軍は幅一マイルほどの長い列をつくって、生い茂った草を踏み分けながら、ゆったりした速度で進んでいった。膨大な数の牛はいっせいに草を食むのをやめ、びっくりしたような目で傍らを通りすぎていく大軍を眺めていたが、やがて馬に乗ったアルガー族の番人の見守るなか、食事を再開した。
野営地はアルガリア中南部にそびえたつ〈砦〉を取り囲むようにして、数マイルほども広がっていた。夜闇のなかでかがり火が星々のようにまたたいた。〈砦〉の一室をあてがわれたセ・ネドラはいつのまにか、毎日の瑣末な軍務からも遠ざけられていた。王女はひどく退屈だった。だからといって、まったく何も知らされていなかったわけではない。兵士たちの大部分が職業的な軍人ではないこと、また何よりも風紀を左右する怠けぐせをつけさせないために、きびしい訓練計画が組まれていた。そして毎朝、ユーモアなどかけらもなさそうなセンダリアの准男爵ブレンディグ大佐がセ・ネドラのもとへやってきては、逐一昨日の訓練ぶりを報告していくのだったが、あまりのくどさに王女は音をあげかけていた。
ある朝、いつものようにブレンディグが恭しく退出したとたん、セ・ネドラはかんしゃくを爆発させた。「今度あの男が公衆衛生≠ニいう言葉を使ったら、わたし、叫びだしてやるわ」彼女はアダーラとポルガラにむかって宣言した。王女は怒りのあまり腕をふりながら、部屋の中をぐるぐると歩きまわった。
「でも、このような大規模な軍隊ではとても大切なことよ、セ・ネドラ」アダーラは穏やかな口調でさとした。
「だからといって何だってわたしにいちいち聞かせたりするのよ。まったくうんざりだわ」
小さな金髪のみなし児、エランドに靴ひもの結び方を根気よく教えていたポルガラは、つと頭をあげ、セ・ネドラの方を見た。「若いご婦人方だけで、遠乗りにでかけたらどう? 新鮮な空気とちょっとした運動は気分を落ちつかせるわ」
金髪のミンブレイト娘アリアナの居場所をつきとめるのはたやすかった。彼女がいる場所はいつも決まっていたのである。だが娘のうっとりした視線を、ワイルダンターのレルドリンから引き離すのには、いささか時間がかかった。レルドリンはいとこのトラシンとともに、アレンド人の農奴相手に弓術の基本を教えていた。アストゥリアの熱狂的な愛国者であるトラシンが一行に加わったのは比較的あとになってからだった。セ・ネドラの見たところ、どうやらこの二人の若者の間には何らかのわだかまりがあったようだったが、戦いと栄光に加担できることへの誘惑がトラシンの敵意をすっかり封じこめてしまったらしかった。かれは疲労のあまり半死半生になった馬を飛ばし、ウルゴランドの西山麓で軍団に追いついたのである。それ以来かれはレルドリンと心から和解し、今では前よりも親密な仲になっていた。だがアリアナの視線は依然レルドリンだけを追いかけていた。はたの者がたじろぐほどひたむきに、尊敬のまなざしを浮かべる娘の瞳は輝いていた。
柔らかい革で仕立てられたアルガー製の乗馬服を着た三人の娘たちは、輝く朝の光の中を、〈リヴァの番人〉の末息子オルバンと護衛の兵士を従えて、野営地の外へ馬を走らせた。セ・ネドラにはオルバンの真意がわからなかった。アレンディアの森で、マーゴ人に待ち伏せされ、命を危うく落としそうになった一件以来、このリヴァ人の若者は王女の第一の護衛者をもって任じ、ひとときたりともその任務を怠ることはなかった。どういうわけか、かれは王女に仕えることに心から誇りを持っているようだった。セ・ネドラはうんざりしながら、若者を止めることのできるのは、死以外にはないのかしらと考えていた。
暖かい、雲のない一日で、広々としたアルガリアの平原の上を青い空がどこまでも続いていた。背の高い草は、気まぐれな風が吹くたびに、ゆるやかに波打った。いったん野営地の外に出るや、セ・ネドラの気分は高揚した。彼女はチョ・ハグ王から与えられ、|高貴なるもの《ノーブル》と名づけた、辛抱強くおとなしい白馬に乗っていた。だがなまけものの馬にその名前が似つかわしいとは思えなかった。馬ば新しい主人が小柄で、まるで空気のように軽いことに大いなる喜びを感じていた。その上、セ・ネドラはかれを猫かわいがりし、暇さえあればリンゴや甘いものを与えていた。運動不足と過食の結果として、ノーブルは、かなり肥満した馬となっていた。
こうして二人の友だちと、若者オルバンをしたがえた王女は、恰幅のいい馬にまたがり、解放感にひたりながら草原を駆け抜けていった。
一行は、馬を休ませるために、ゆるやかな丘のふもとに止まった。ノーブルはふいごのように息を切らしながら、とがめるような視線で小柄な女主人をふり返った。だがその暗黙の抗議は、無慈悲にも見過ごされた。「乗馬にはもってこいの日だわ」セ・ネドラは感きわまったような声を上げた。
アリアナはため息をついた。
セ・ネドラは笑った。「どうしたの。まるでレルドリンがどこかへ行ってしまったみたいな顔をしているのね、アリアナ。たまには殿方にもやきもきさせてやりましょうよ」
アリアナはかすかにほほ笑み、さらにため息をついた。
「でも、それは殿方を思ってやきもきするほどおもしろくはないわ」アダーラはにこりともせずつぶやいた。
「ねえ、あのよい香りは何かしら」セ・ネドラが突然きいた。
アダーラは陶器のようになめらかな顔を上げ、軽いそよ風の香りを嗅いでいたが、だしぬけにその元を探し求めるかのように、あたりを見まわした。「こっちよ」彼女は常日ごろの冷静さには似合わない強い口調でそう言うと、丘のふもとに沿って反対側に馬を進めた。草の斜面を半分くらい上がったところに、一面、薄紫色の花で覆われた背の低い濃い茂みがあった。その朝孵化したばかりの青い蝶が、うっとりしたように花の上をひらひらと飛んでいた。アダーラはいっときも馬を止めることなく、斜面を上っていき、あわただしく鞍から飛びおりた。彼女は低い叫び声を上げると、崇めるようにひざますぎ、抱きかかえるようにして両手を茂みにまわした。
近づいたセ・ネドラは、穏やかな友人の灰色の瞳にわき上がった涙を見て驚いた。だがアダーラはほほ笑んでいたのである。「いったい、どうしたの、アダーラ」
「わたしの花なの」アダーラは震える声で言った。「こんなふうに育っていたなんて思いもよらなかったわ」
「どういうことなの」
「この前の冬に、ガリオンがこの花を作ってくれたのよ――それもわたしだけのために。この世でただひとつしかないの。わたしはこの花がガリオンの手の中から生まれるのを見たの。でも今のいままですっかり忘れていたわ。それがこんなに咲きほこっているなんて」
セ・ネドラは突然、嫉妬をおぼえた。ガリオンは今まで彼女に花を作ってくれたことなんてなかった。彼女は身をかがめると、必要以上に力をこめて、ちぎるように薄紫色の花を摘んだ。匂いをかぐと、批判的な目で花をじろじろ見まわした。「いびつな形ね」そして言わなければよかったと唇をかんだ。
アダーラは抗議するような視線をむけた。
「ちょっとからかっただけじゃない」セ・ネドラはあわてて作り笑いを浮かべて言いわけした。なおも難癖をつけたい気持ちでいっぱいだったが、彼女は手の中の小さな不格好な花に顔を近づけた。その花は彼女の思惑など吹き飛ばすほどのふくいくたる香りに満ち、晴れやかな気分にしてくれた。
アリアナもまた馬からおりた。彼女も柔らかな香りをかいでいたが、かすかに眉をしかめた。
「レディ・アダーラ、あなたの花を少しばかり採集させていただいてよろしいかしら」アリアナはたずねた。「このほんのりと赤い花びらに、何か不思議な成分があるような気がしますの。もしやレディ・ポルガラの興味を惹くかもしれませんし。わたくしには、軟こうや薬草になる草を完全に見分けることはできませんが、何か薬効成分が隠されているようですわ」
セ・ネドラは待っていましたといわんばかりに、反撃に転じた。「素晴らしいわ!」彼女は手をたたきながら叫んだ。「あなたの花が良く効く薬になったら素晴らしいでしょうね、アダーラ。奇跡の特効薬だわ。わたしたちはこの花を〈アダーラのばら〉と名づけるのよ。そうすれば、病人はみなあなたの名前を永遠に祝福することでしょうよ」
「でもこれは全然ばらには似ていなくてよ、セ・ネドラ」アダーラが言った。
「そんなことどうだっていいわ」セ・ネドラは友だちの反論をにべもなくはね返した。「わたしはいずれ女王になるのよ。わたしがばらだと言えば、その花はばらになるの。さあ、早くその花をレディ・ポルガラに見せましょうよ」王女はまるでその花が食べられるかどうか考えているかのように、のんびりと眺めている、ずんぐりした馬のところに戻った。「行くわよ、ノーブル」セ・ネドラは必要以上にきつい口調で命じた。「〈砦〉まで全速力で走るのよ」
ノーブルは「全速力」という言葉にたじろいだような顔をした。
ポルガラは注意深く花を検分したが、なにがしの薬効があるとは明言しなかったので、王女と友人たちはがっかりした。少し不満を抱きながら、小さな王女は黙って、朝の任務の待つ自分の部屋へ戻った。
部屋ではブレンディグ大佐が待ちかまえていた。よく考えてみるとブレンディグ大佐は、これまで会った中では一番実際的な人間だわ、とセ・ネドラは思った。かれはどんなささいなことでも見逃すことはできないのだった。そのようなことがらを切り捨ててしまえるのは、かれより無能な人間だった。大佐は、ささいなことがらが積み重なってこそ、大きなものになると信じており、詳細なことまで注意を払う姿には、一種の威厳さえ漂っていた。かれの姿は野営地のいたるところに見られた。かれが目覚めているあいだは、天幕のロープはしっかりと張られ、雑多な機器類はきちんと整頓され、だらしなく開いた兵士たちの胴着にはあわててボタンがかけられた。
「女王さまにおかれましては、遠乗りをお楽しみになられたようでございますね」セ・ネドラが部屋に入ると同時に、大佐は頭を下げ、礼儀ただしく挨拶した。
「ありがとう、ブレンディグ大佐。あなたの女王さまにおかれましては、十分に楽しまれましたことよ」彼女の胸に、突然いたずらっぽい気分が浮かんだ。彼女はかねがねこの謹厳実直なセンダー人を笑わせたいと思っていたのだ。
ブレンディグの口もとにかすかに笑みが浮かんだが、すぐに真面目な顔に戻ると、中間報告を述べ始めた。「ドラスニアの工兵による、崖上の巻きあげ機の設置作業がほぼ完了いたしましたことを、お伝え申し上げます。あとはチェレク艦隊を引きあげるためのロープに錘をつける作業が残っているだけでございます」
「まあ、すてき」セ・ネドラはいかにも軽薄そうなほほ笑みを浮かべた。彼女はそれが大佐を一番いらだたせることを承知していた。
ブレンディグのあごがかすかにこわばったが、その顔にはみじんのいらだちも見られなかった。「チェレク軍は船のマストをはずしはじめ、荷上げの準備のために装備をととのえております。また、崖上の要塞建設工事は、数日先の予定まで進んでおります」
「わあ、すごい」セ・ネドラは少女が喜ぶように手をたたいてみせた。
「女王さま、お願いですから」ブレンディグはたしなめた。
「あら、ごめんなさいね。ブレンディグ大佐」セ・ネドラは、かれの手をとると、軽く叩きながらあやまった。「たまたま虫のいどころが悪かっただけなのよ。あなたって本当にほほ笑んだことがないの?」
かれは真面目な表情でじっと王女を見た。「これでも今、ほほ笑んでいるつもりですよ、女王さま。ところで、トルネドラから客人がお見えです」
「客人ですって。誰かしら?」
「アナディル公爵のヴァラナ将軍です」
「ヴァラナですって? アルガリアに何の用があるのかしら。一人で来ているの?」
「トルネドラの紳士方がおおぜいご一緒です。みなさま私服を召しておられますが、ひととおりの武器はお持ちなようです。何でも私的な参観者として訪問なされたとのことですが。お時間がよろしいときでけっこうですから、ぜひお目にかかりたいとヴァラナ将軍がおっしゃっておいでです」
「もちろん、会いたいわ。すぐにここに来るように伝えて」セ・ネドラは嘘いつわりのない感激をこめて言った。
セ・ネドラは幼い頃からヴァラナ将軍を知っていた。灰色の目と巻き毛のがっしりした男だったが、左ひざが不自由なために、足を引きずっていた。そしてアナディル家特有のひねくれた、乾いたユーモア感覚の持ち主だった。トルネドラの名門の中でもボルーン家はアナディル家と特に親密だった。両家とも南部の出身で、北の有力な一族相手に対決するようなことがあれば、アナディル家は常にボルーン家側についた。アナディル一族は公爵家にすぎなかったが、家同士で同盟しているとはいえ、大公家のボルーン一族に従属しているようなそぶりはみじんも見せなかった。それどころかアナディル公爵家の存在は、しばしば周囲の有力な一族の穏やかな好奇心をかきたてた。真面目な歴史家や政治家たちは、有能なアナディル家に富がないばかりに、帝国の王座を競り落とすことかできないのは、トルネドラの不幸であるとさえみなしていた。
待ち切れないようすのセ・ネドラの部屋へ、優雅なものごしで片足を引きずりながら入ってきたヴァラナ将軍は、口もとにかすかな笑みを浮かべ、からかうように片力の眉を上げてみせた。「久しぶりですな、女王さま」将軍は腰をかがめて一礼した。
「ヴァラナおじさま」セ・ネドラはそう叫ぶやいなや、将軍に駆け寄って抱きついた。将軍はセ・ネドラの実のおじというわけではなかったが、彼女はいつも本当の血縁のように思っていた。
「かわいいセ・ネドラや」かれは厚い筋肉質の腕で彼女を抱きしめながら笑った。「おまえは、世界じゅうを転覆させるようなことをやってのけたのだよ。ボルーン家の者がアルガリアのどまん中で、アローン軍を従えて何をやろうと言うのだね」
「ミシュラク・アク・タールを侵略するのよ」セ・ネドラはいたずらっぽく答えた。
「本当かい。いったい何でまた? タール国のゲゼール王がボルーン家を侮辱したとでもいうのかい。そんな話は聞いておらんが」
「これはアローンの問題なの」セ・ネドラは快活な口調で言った。
「そうだったのか。それで合点がいったよ。アローン人がことを起こすのに理由なんぞいらんからな」
「おじさまったら、わたしをからかってるんでしょ」
「もちろんだとも、セ・ネドラ。わがアナディル一族は何千年もの昔からボルーン一族をからかってきたのだからね」
セ・ネドラは唇をとがらした。「でもこれはとても真面目なことなのよ」
「そうだな」将軍は、不満げに突きだされた彼女の下唇に、無骨な指でそっとふれた。「だからと言って、からかっちゃいけないというわけでもあるまい」
「ひどい人ね」セ・ネドラはあきれたような声を出したが、笑い出さずにはいられなかった。
「そういうおじさまこそ、何しにいらっしゃったの」
「参観だよ」かれは答えた。「将軍は、しばしばそれをやるのさ。おまえは目先の戦争のことしか考えていない。だからわれわれはちょっと立ち寄ってようすを見ておこうと思ったのさ。モリンも勧めていたしね」
「おとうさまの侍従の?」
「かれの職業のことを言ってるのだったら、そうだよ」
「モリンは言わないわ――自分の口から、そんなこと」
「そうかね。これは驚いた」
セ・ネドラは眉をひそめると、巻き毛の先を無意識にかみ始めた。ヴァラナ将軍は手をのばして、彼女の歯のあいだから巻き毛を抜いた。「おとうさまが言ったんじゃなければ、モリンは絶対にそんなことしないわ」セ・ネドラは考えこみ、再び巻き毛の先を唇に持っていきかけた。
ヴァラナは彼女の指のあいだから巻き毛を抜き取った。
「そんなことしないで」
「何でだね。わたしはこうやっておまえが指をしゃぶるのをやめさせたのだよ」
「これは違うの。わたしは今考えごとをしているのよ」
「ならば口を閉じて考えなさい」
「これはみんなおとうさまのさしがねでしょ?」
「はて、わたしには皇帝陛下のお考えなど、うかがい知れないが」
「わたしにはわかるわ。それで、あの古狐は何と言ったの」
「とてもお行儀よい言葉とはいえないな」
「おとうさまがここへ来て参観するように言ったの?」
かれはうなずいた。
「それでちょっとした提言もしろと?」
将軍は肩をすくめた。「もし聞く者がいればな。わたしはここを非公式に訪問しているのだということを忘れないでほしい。帝国では公式な訪問を禁じているのだ。リヴァの王権に対するおまえの主張は、公式にはトル・ホネスでは認められていないのだ」
セ・ネドラは長いまつげの下から、将軍に一瞥をくれた。「あなたのその助言だけれど――たとえばあなたが偶然、トルネドラ軍団のそばにいて、ちょっとした指揮が必要だった場合、その提言のひとつが『進軍せよ』という言葉だということもあり得るのかしら」
「そういう事態も、あり得るな」将軍は重々しく言った。
「だから他の将校や武官たちを連れてきたのね?」
「まあ何人かは、そういう役目をする者もいるだろうな」将軍の目が、おかしさをこらえ切れないと言いたげに、きらりと光った。
セ・ネドラが髪をつまむと、ヴァラナ将軍は再びそれを彼女の手からどけた。
「ドラスニアのローダー王に会ってみたくない?」
「お目にかかれれば光栄だね」
「それならば、行ってらっしゃればいいじゃないの」
「なぜ、一緒にと言ってくれないのかね」
「大好きよ、おじさま」セ・ネドラは笑い声をあげて、再び抱きついた。
ローダー王は他の諸侯とともに、チョ・ハグ王の用意した広い風通しのよい部屋で、軍議の最中だった。もはや最初のころのよそよそしさは消え、かれらは馬のなめし革を張った椅子に手足をのばしてくつろぎ、深紅のローブをまとったローダー王が、壁一面に広げられた地図で糸を使って距離を測っているのを眺めていた。「わたしにはそんなに遠くは思えんがね」ローダー王がチョ・ハグ王に言った。
「それはきみの地図が平面だからさ、ローダー」チョ・ハグ王は答えた。「そのあたりは非常に起伏が激しい地形なのだ。賭けてもいいが、三日はかかるな」
ローダー王はいささかぶしつけな音をたてた。「それじゃあ、この計画は諦めなければならん。わたしはこれらの砦を攻め落としたいが、自殺行為とわかっている命令を下すわけにはいかない。馬で三日というのはあまりにも遠すぎる」
「国王陛下」セ・ネドラは恭しく声をかけた。
「何だね、お嬢さん」ローダー王は相変わらずしかめ面をして、地図を眺めていた。
「ご紹介したい者がおりますの」
ローダー王はふり向いた。
「陛下、アナディル公爵をご紹介いたしますわ。ヴァラナ将軍、こちらがドラスニアのローダー国王陛下よ」
二人は礼儀正しく身をかがめたが、目はたがいを探りあい、値踏みしあっていた。
「将軍の名声だけはつとに聞いておるぞ」ローダー王が言った。
「ですが陛下の軍人としての技量は、秘密に包まれたままのようですな」
「はて、こういう会話は礼儀作法にかなっておるのかな」
「われわれがいかに素晴らしく紳士的であったかについては、後で何とでも言えるでしょう」
ローダー王はにやっと笑った。「なるほどな。それでトルネドラ一の戦略家が、このアルガリアで何をしておるのだ?」
「単なる参観ですよ、陛下」
「本気でそう言っているのか?」
「むろんですとも。政治的な理由からトルネドラは中立の立場にありますからな。ドラスニアの情報機関が、わが国の現状を陛下にご報告しておるはずですよ。わが宮廷内に放たれた五人のスパイはなかなか優秀な連中ですな」
「正確には六人だ」ローダー王が訂正した。
ヴァラナ将軍の片方の眉が上がった。「それは知りませんでしたな」
「なに、数なぞ年じゅう変わっておるさ」ローダー王は肩をすくめた。「ところで、われわれの戦略については承知していることと思うが」
「一応、聞いておりますが」
「それできみの意見はどんなところかね――参観者として」
「どうやらだいぶお困りのようですな」
「まあな」ローダー王はひややかに言った。
「その日数では、防御隊形をとらざるを得ないでしょう」
ローダーは首をふった。「タウル・ウルガスと南マーゴスだけを相手にするのなら、それもいいだろう。だがザカーズは毎日のように軍隊をタール・ゼリクに集結させている。もしわれわれが防御策をとって、腰を落ちつけてしまったところへ、ザカーズに攻めこまれたりしたら、秋までにマロリー軍にせん滅されることだろう。やつらの船団を阻止するために、アンヘグ王の艦隊が〈東の海〉に行けるかどうかが戦況を握る鍵となる。われわれは勝利を得るために、いちかばちかの賭けに出ようとしているのだ」
ヴァラナは子細に地図を眺めた。「もしマードゥ川を下るつもりなら、タールの首都を無力化しておかねばなりません」そう言いながらかれはタール・マードゥを指さした。「ここはトル・ホネスと同様に島ですな。まさに川のどまん中にあるわけです。敵対する勢力がここにいるかぎり、艦隊を通過させることはできないでしょう。この街を占領せねばなりません」
「そんなことは先刻ご承知さ」片時も手離したことのないエールの杯をもち、だらしなく椅子に手足をのばしていたアンヘグ王が言った。
「アンヘグは知ってるな?」ローダーが将軍にたずねた。
ヴァラナはうなずいた。「お噂はかねがね聞いております」将軍はアンヘグ王にむかって一礼した。「はじめてお目にかかります、陛下」
「なに、こちらこそ」アンヘグは頭をかしげてみせた。
「もしタール・マードゥが厳重に警護されているとしたら、三分の一の兵力が失われるでしょう」ヴァラナは続けた。
「駐屯兵をおびき出すつもりだ」ローダーがいった。
「はて、いかように?」
「それはわたしとコロダリンでやる」チョ・ハグ王が穏やかな声で口をはさんだ。「いったん、崖地を登り切ったら、ミンブレイト騎士団が攻め入って、その上のあらゆる町や都市を破壊する。そしてわたしの一族は穀倉地帯に進んで、あらゆる作物を焼き払うつもりだ」
「ですが、相手は牽制策だと気づくでしょう、陛下」ヴァラナが反論した。
「むろんだ」ブランドがしわがれ声であいだに入った。「だが何のための牽制策かどうかまでは、わかるまい。われわれの主目的がタール・マードゥにあることは気づかれずにすむと思う。われわれはできるだけ略奪行為らしく見せるようにしよう。最初のうちは町や農作物の被害も見過ごされるかもしれないが、いずれはかれらとて防御手段を講じる必要にかられるに違いない」
「かれらは、それでタール・マードゥの駐屯兵を出兵させるだろうとお考えですか」
「そのとおりだ」ローダー王が答えた。
ヴァラナは首をふった。「ラク・ゴスカのマーゴ人や、タール・ゼリクのマロリー人がやって来やしませんか? そうなればタール・マードゥを迅速に占領するどころか、全面戦争を抱えこむことになるかもしれませんよ」
「そりゃ、きみだったらそうするだろうよ、将軍」ローダー王は言った。「だがきみはザカーズでもなければ、タウル・ウルガスでもない。われわれの戦略はこの二人の敵対しあっている立場に基づいて作られている。どちらの部隊も、われわれが大きな脅威とならない限りは、むだな兵力を割くとは思えない。両者とも自分の軍隊だけは温存したいと考えているのだからな。二人にとっては、われわれなど、ちょっとした煩わしい存在に過ぎん――それと、出兵の大義名分だ。かれらにとっての真の戦争とは、お互いが攻撃をはじめたときから始まる。かれらはお互いに牽制しあい、タールのゲゼール王はマーゴスやマロリーの名ばかりの協力のもとに、単身、われわれと対決せねばならないだろう。もしこの計画が迅速に進めば、アンヘグの艦隊は無事に〈東の海〉へ出て、残った歩兵は連中に気づかれる前に崖地まで撤退することができる」
「それから先は、どうなるのですか」
「タウル・ウルガスは足に根が生えてしまったようにラク・ゴスカに釘づけになるというわけさ」アンヘグ王がくすくす笑いながら言った。「そしてわれわれの艦隊は、〈東の海〉でマロリー船団を撃沈させるのだ。やっこさんは、さぞかし歓迎してくれることだろう」
「ザカーズは、すでにタール・ゼリクに集結させた兵力を、われわれとの戦いでむざむざ失いたいとは思わないはずだ」ブランドがつけ足した。「もしここで大きな損害を被るようなことがあれば、タウル・ウルガスに優位にたたれてしまうからな」
ヴァラナ将軍は考えこんだ。「三すくみですか。ひとつの国に三国の軍隊、だがどれもあえて先に動こうとはしない」
「非常に優れた戦法だ」ローダー王はにやりと笑った。「われわれは誰も傷つかずにすむ」
「戦略的に見て、あなた方の問題は、タール・マードゥを攻撃する前に行なう奇襲をどの程度のものに設定するかということにあるわけですな」ヴァラナ将軍は言った。「駐屯兵を街の外に出動させるほどの損害を与えなければならないが、ザカーズやタウル・ウルガスに脅威を与えるほど深刻なものであってもならない」
ローダーはうなずいた。「だからこそ、われわれはトルネドラきっての戦略家に助言いただけることを、心から歓迎するというわけさ」王はおおげさなお辞儀をしてみせた。
「お待ち下さい、陛下」ヴァラナ将軍は制した。「助言ではなく、提言です。参観者に許されるのは、提言だけです。助言というのは、帝国の厳然とした中立とは一線を画した、協力関係においてなされるものです」
「ほう」ローダー王は、チョ・ハグ王の方を向いた。「それでは皇帝の参観者とそのご一行に、快適に過ごしていただけるよう、われわれは最善をつくさねばならんようだな」
セ・ネドラは二人の賢明な男のあいだに、緊密な友情のめばえらしきものが生じるのを、ひそやかな喜びとともに見守っていた。「殿方のお楽しみには、もうつきあってはいられませんわ」彼女は一同に言った。「戦争の話しあいを聞いてると頭が痛くなるの。どうかあとはわたしぬきでやって下さいね」彼女はにこやかなほほ笑みを浮かべて、お辞儀をすると部屋を出た。
二日後、ゴリムから派遣されたレルグが、迷彩色の鎖かたびらをつけた同郷人の一隊を引き連れ、ウルゴランドより到着した。連合軍が〈砦〉に着いてから、隠れるようにして過ごしていたタイバは、車輪をきしませながら表門めざして丘を登ってくる一行を乗せた馬車を、セ・ネドラやポルガラとともに出迎えた。この美しいマラグ人の女性は、粗末に見えるくらい質素な麻の服を着ていたが、そのすみれ色の瞳は燃えるように輝いていた。
頭から迷彩色の鎖かたびらに身を包み、まるでトカゲのような姿をしたレルグは、先頭の馬車からおりると、バラクやマンドラレンの出迎えにお座なりの挨拶を返した。かれの大きな目はタイバを求めて門の近くに集う人々に向けられていた。彼女を見つけたとたん、男の身体に緊張が走ったようだった。何も言わずにかれはタイバに近づいていった。二人は沈黙のまま顔を見合わせた。何度かタイバは腕を伸ばしかけたが、二人はふれあおうとはしなかった。黄金色の光の中でともに見つめあったまま、他の人々の存在をすっかり忘れ果ててしまったかのように、二人は立ちつくしていた。タイバはじっとレルグの顔を見つめていたが、そこにはアリアナがレルドリンを見つめるときのような、穏やかな尊敬の念はまるで感じられなかった。問いかけるようなまなざしは、むしろ挑戦的でさえあった。レルグの返す視線は、二つの抑えがたい欲望にはさまれ苦悩している男のそれだった。セ・ネドラはしばらくじっと二人のようすを見守っていたが、耐え切れずに目をそらした。
ウルゴ人たちは〈砦〉の士台に作られた、うす暗い穴蔵のような部屋を宿舎に割り当てられていた。ここでレルグはかれの仲間たちに、陽光に目をならす苦痛に満ちた訓練を行ない、ウルゴ人が戸外にさらされたときの、とほうもない恐怖を克服させることになっていた。
その夜、思いもかけず、南から到着した別の小集団があった。白いローブを着た男が二人、それに汚いぼろをまとった男がひとり、門の前で入城をせまった。門を守っていたアルガー人はただちにかれらが誰であるかを知り、その到着を知らせに、衛兵を明かりに照らされたポルガラの部屋に走らせた。
「ここに来るように伝えてちょうだい」ポルガラは灰のように白い顔をして、ぶるぶる震えている哀れな男に言った。「あの人たちは長いあいだ、他の人間たちと接触したことがなかったから、人込みの中では落ち着かないかもしれないわ」
「ただちにお連れ申し上げます、レディ・ポルガラ」震えるアルガー人は、頭を下げた。かれはしばらく口ごもっているようすだったが、意を決したようにいった。「あのう、わたしは本当にあんなことをされるんでしょうか」
「いったい誰が何をすると言ったの?」
「あの汚らしい方の男です。かれが言うにはわたしを――」男は突然、誰にむかって話しているのかを思い出したようだった。その顔が真っ赤に染まった。「あの方がおっしゃったことを繰り返すには忍びません、レディ・ポルガラ。とにかくわたしを脅かすには十分なことをおっしゃられたのです」
「あなたの言いたいことはよくわかるわ。かれはああいうことが好きなのよ。あなたには別段何のさわりもないでしょう。ただ単に人の注意を惹きつけたかっただけなのよ。それにそんなことを言っておきながら、あなたがまだ生きている方がおかしいわ」
「それでは、すぐにお連れ申し上げます、レディ・ポルガラ」
女魔術師は夕食をとるために集まっていたセ・ネドラ、アダーラ、アリアナの方を振り返った。「ねえ、あなたたち」ポルガラは重々しい口調で言った。「これからお客さまをお迎えするわ。かれらの中の二人は、世界中でもっともすてきな人たちだわ。でも残りの一人は、言葉をうまく自制するすべを知らないの。そんな人物とつき合う自信のない方は、すぐにこの部屋から出ていった方がいいわ」
セ・ネドラはすぐに〈アルダー谷〉で出会った三人のことを思い出し、立ち上がった。
「あなたはだめよ。セ・ネドラ。悪いけれどここに残ってもらわなければならないわ」
セ・ネドラはぐっとつばを飲みこんだ。「もしわたしが、あなたたちだったら、即刻出ていくわね」彼女は友人たちに忠告した。
「そんなにひどいの?」アダーラがたずねた。「わたしだって、前に殿方が悪い言葉を使われるのを聞いたことがあってよ」
「そんななまやさしいものじゃないのよ」セ・ネドラは警告した。
「そう言われると、ますますお会いしてみたくなるわ」アダーラはほほ笑んだ。「わたしは残ることにするわ」
「あとでわたしが警告しなかったなんて言わないでちょうだいね」セ・ネドラはつぶやいた。
ベルティラとベルキラはセ・ネドラが覚えていたとおり、神々しかった。だが奇形のベルディンは覚えていたよりも、はるかに醜悪で口が悪かった。ベルディンがレディ・ポルガラに挨拶し終えないうちに、アリアナは逃げ出してしまった。アダーラは死人のように青ざめていたが、まだ気丈にも座り続けていた。見るもおぞましい男は今度はセ・ネドラの方を向くと、挨拶とともに彼女が耳のつけ根から赤面するような質問をした。そのとき賢明にも、アダーラは席を立った。
「あのお嬢さん方はどうかしたのかい、ポル」ベルディンはくしゃくしゃにもつれた髪をかきながら、無とんちゃくな声でたずねた。「霞のように消えてしまったようだが」
「みんな育ちのいいお嬢さんばかりですからね。おじさんの話は聞くに耐えないのよ」
「そんなもんかね?」かれは下品な笑い声をたてた。「だが、この赤毛っ子だけは神経が図太くできておるようだな」
「わたしだって、友人と同じくらい、あなたの口のきき方には、嫌気を催しているわ、ベルディン」セ・ネドラは硬い口調でやり返した。「でも育ちの悪い男の汚い口なんかには負けやしませんからね」
「そいつは、悪くないな」だらしなく椅子に沈みこんでいたベルディンがおべんちゃらを言った。「だが、もう少し気を楽に持たなきゃいかん。侮辱するにも一定のリズムと流れというものがある。おまえさんはまだそのこつをつかんでいるとは言えんな」
「この子はまだ若いんですからね」ポルガラがさとすように言った。
ベルディンはみだらな目を王女に向けた。「だがこいつはもう――」
「そこまでよ」ポルガラがぴしゃりと言った。
「われわれは――」
「――おまえたちの遠征に合流するためにやってきたのだ」双子がいった。「ベルディンは――」
「――グロリム僧と遭遇するようなことがあれば――」
「――われわれの助けが必要になるのではないか、と考えているのだ」
「ずいぶんともったいぶった言い草じゃないか」ベルディンが異議を唱えた。「まだもっと率直なものの言い方を学ぶ必要がありそうだ」かれはポルガラの方を向いた。「これで全部兵力はそろったのかね」
「チェレク軍が川で合流するわ」
「もっと早く言えばよかったんだ」今度はセ・ネドラに言った。「まだまだ十分な兵力があるとは言えないぞ。南マーゴ人ときたら、死肉にわくウジムシのように増殖しおるし、マロリー人はクロバエのようにわっと増えるからな」
「いずれわたしたちの戦略をお話しするわ、おじさん」ポルガラが言った。「わたしたちは別にアンガラクの軍隊と正面きって対決するつもりはありませんからね。これは単なる陽動作戦にすぎないのよ」
ベルディンはにやりと邪悪な笑みを浮かべてみせた。「ベルガラスがずらかって以来、おれは何度もおまえさんの顔を見てきたつもりだぞ」
「それ以上言うのはよしておいた方がいいわよ」セ・ネドラが口をはさんだ。「レディ・ポルガラは今でもベルガラスが黙って出ていったことを怒っているのよ。今さらむし返すのは賢いやり方ではないわ」
「ポルガラがちょっとしたかんしゃくを起こすのを、前にも見たことがあるからな」かれは肩をすくめた。「ところで人をやって豚か羊でも運ばせたらどうだ、ポル。おれは腹ぺこなんだ」
「ふつうは、料理してから出すものなのよ、おじさん」
ベルディンはきょとんとした顔をした。「何のために?」
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三日後、連合軍はアルガー〈砦〉を発ち、あらかじめアルガー人側で決めておいた、アルダー川東岸の臨時野営地にむかった。一行は国別に集団をつくり、はば広い隊列を組んで、ひざ丈までの草を踏みしだきながら平原を進んだ。連合軍の中央ではトルネドラ軍団が、軍旗を誇らしげにかかげ、閲兵式さながらに堂々と行進していた。ヴァラナ将軍とかれの部下が加わってから、トルネドラ軍団の外見には著しい変化が起きていた。トル・ヴォードゥ近くの平原でセ・ネドラがそそのかした反乱軍は数こそ多かったが、上級将校は含まれていなかった。したがって抜きうち検査の危険が去った後は、一種のたるみが生じていた。ヴァラナ将軍は兵士たちの胸当てに赤錆が吹き出ているとか、不精髭が生えているとか、口に出して注意はしなかった。かすかに不愉快そうな顔をするだけで十分だった。軍団を指揮している百戦錬磨の軍曹たちが、将軍の顔つきを読みとるやいなや、ただちに行動にうつったからである。赤錆は落とされ、髭をそった顔が再びあたり前のことになった。髭をそったばかりの顔には殴られた跡がしばしば見られ、休暇が終わったことを、鉄拳軍曹たちが納得させるために活を入れたあとを無言のうちにあらわしていた。
トルネドラ軍団の一方の端には、鎧をきらめかせたミンブレイト騎士団が行進していた。かれらの槍の穂先にそびえる森から吹いてくる風が、色とりどりの槍旗をはためかせていた。若者たちの顔は熱狂に輝いていたが、それ以外には何もなかった。ミンブレイト人にまつわる恐るべき定評は、かれらに思考らしきものがまったく欠如していることが原因ではないかと、セ・ネドラはひそかに思っていた。ほんの少し激励するだけで、ミンブレイト軍は極寒季に山へも登れば、潮の流れだって変えかねないのだ。
トルネドラ軍団のもう一方の端に行軍しているのは、緑と茶色の軍服を着たアストゥリアの弓射兵だった。この配置はわざと考えられたものだった。アストゥリア人とて、民族的にいとこにあたるミンブレイト人よりも知性に恵まれているわけではない。だがこのアレンディアの不仲な勢力を引き離すために、他の国の軍隊があいだに入るのが賢明とされていたのである。
アストゥリア人の前には、いかめしい顔つきをしたリヴァ人たちが、艦隊とともに行動していない少数のチェレク人を引き連れるようにして行軍していた。チェレクの艦隊につき従う者たちは、現在崖地のふもとで船を引きあげるための準備にまわっていた。ミンブレイト軍の側面を固めるのは、色とりどりの手製の軍服に身を固めたセンダリアの民兵だった。そして列のしんがりには軍事物資を山と積みこんだフルラク王の荷馬車隊の列が、わだちをきしませながら、地平線のかなたまでえんえんと続いていた。一方アルガーの諸氏族は、大きな集団を組まず、小集団ごとに予備の馬やなかば野生化した家畜を引き連れて、軍勢のわきにつき従っていた。
鎧兜をつけ白馬にまたがったセ・ネドラは、ヴァラナ将軍とくつわを並べていた。彼女は自分の大義名分をわからせようとしていたが、うまくいかなかった。
「いいかね、お嬢さん」将軍はやれやれといったようすで言った。「わたしはトルネドラ人で、しかも軍人だ。どちらの立場をとっても、あいまいなものには心惹かれないのだよ。今のところ一番の気がかりは、この大軍を食べさせなければならないということだ。きみたちの物資供給路は山々を越えてアレンディアまで達している。供給路としては長すぎやしないかね、セ・ネドラ」
「そのことだったら、フルラク王が考えていてくれるわ、おじさま」セ・ネドラはいくらかすました口調で言った。「わたしたちが行軍している間は、センダー人が〈北の大街道〉を通ってアルダー城館に物資を輸送してくれているわ。そこから荷をはしけに積み替えて、川を上り、野営地に運んでいるのよ。わたしたちの行く先には何エーカーもの物資集積所が設けられているはずよ」
ヴァラナ将軍はうなずいた。「センダー人なら補給要員としては最適だ。だがかれらは十分な兵器を持っているのかな」
「そういえば、誰かがそんなことを言っていたわ」セ・ネドラは答えた。「騎士のための予備の矢だとか、槍のことだとか。でも、あの人たちは専門家だから、わたしもそんなに聞こうとは思わなかったの」
「それはいかんね、セ・ネドラ」ヴァラナはきびしい口調で言った。「軍隊を動かす者は、どんなささいなことでもきちんと把握しておくべきだ」
「でも、わたしが軍隊を動かしているわけじゃないわ。わたしはかれらを率いてるだけで、実質的に動かしているのはローダー王よ」
「では、かれの身に何かが起きたらどうするんだね」
セ・ネドラは青ざめた。
「おまえは戦争をするのだよ、セ・ネドラ。戦争では誰が傷つけられたり、殺されたりするかわからないのだ。おまえもそろそろ自分のまわりで何が起こっているのか、注意をはらった方がいいね。枕で耳をふさいだまま、戦争に参加したのでは、むざむざ勝利の機会を逃すようなものだぞ」そう言って将軍は彼女の顔を見た。「指をしゃぶるんじゃないよ、セ・ネドラ。形が悪くなるからね」
川にそって設営された野営地はとてつもなく広大で、その中央にはずらりと並んだ天幕と、きちんと積み上げられた装備類が林立する、フルラク王の物資集積場がもうけられていた。川の土手にそって、平底のはしけが長い列になって係留され、荷物のおろされる日をじっと待っていた。
「きみの部下たちはずいぶん奮闘したようじゃないか」防水布に覆われた物資の山や、きっちり箱詰めされた装備類のあいだの狭い通路を縫うようにしてローダー王は、ずんぐり太ったセンダリア国王に呼びかけた。「よく何を運べばいいかわかったな」
「アレンディアにいるときに、全部記録しておいた。だいたいなにが必要なのかは見当がつく――長靴や、矢、予備の剣その他もろもろといったものだ。取りあえず今運びこんでいるのは、ほとんど食べ物だ。アルガーの家畜たちは新鮮な肉を供給してくれるだろうが、肉ばかり食べていては兵士たちが病気になるからな」
「まるで兵士たちを一年分食べさせるぐらいもありそうじゃないか」アンヘグ王が言った。
フルラク王はかぶりをふって訂正した。「四十五日分だよ。ここには三十日分の食糧を確保し、ドラスニアが崖地の上に築いている砦にも二週間分置いておきたい。それが安全策のぎりぎりの線だ。荷船で食物が毎日補給されるかぎり、いつも十分な量は確保できるものと思う。いったん数字をはじきだせば、あとは簡単な計算だけだ」
「一日にひとりの人間がどれくらい食べるのか、どうやって計算するのかね」ローダーはうず高く積み上げられた食物の荷を見やりながら言った。「わたしは、ときとしてやけに食が進むことがあるんだが」
フルラクは肩をすくめた。「平均で計算することにしている。なにしろ大食漢もいれば、小食の者もいる。だが結局ならしてみれば、いつもだいたい同じ量が消費されているものだよ」
「フルラクよ、きみはときどき鼻持ちならないほど、現実的すぎるぞ」アンヘグが言った。
「誰かがやらねばならんことだ」
「センダー人には冒険心というものがないのか。計画をたてずに成り行きまかせにしたことはないのかね」
「まずあり得ないだろうな」センダリアの王がおだやかに答えた。
物資集積所の中央近くに、連合軍やその支援部隊の各指導者のために、大天幕が数多く張られていた。午後なかば、入浴して服を着替えたセ・ネドラ王女は、現在の情況を知るために主天幕に入った。
「かれらは現在一マイルほど下流の地点で停泊中だ」バラクがいとこに報告している最中だった。「錨を下ろしてからもう四日にもなる。一応グレルディクが指揮にあたっているが」
「グレルディクだと」アンヘグ王は驚いたような顔をした。「やつには何の公式な権限も与えられてはいないはずだが」
「だがやつは川を知っている」バラクは肩をすくめた。「長年にわたり、水があって金もうけのできる場所ならどこへだって船を出してきたんだからな。船が錨を下ろしてからというもの、水夫たちは酒を飲む量を控えているそうだ。連中も事態をよく承知しているのだ」
アンヘグ王は含み笑いをした。「それでは連中の期待にぜひともそわなければな。ローダー、崖の上にわたしの船を引きあげる作業は、いつ頃から開始できるのかね」
「一週間ぐらい先には」ローダー王は午後の軽食をぱくつきながら言った。
「それぐらいあれば何とかなるな」アンヘグはバラクの方を向いた。「あしたから船の陸送にかかるとグレルディクに伝えてくれ。それまでに水夫たちの酔いをさませておけとな」
セ・ネドラは、翌朝、河岸に行ってチェレク人たちが汗水たらしながら、川から船を引きあげ、丸太を並べた道を上を人手だけでひいているのを見て、陸送≠ニいう言葉の本当の意味をはじめて知った。船を数インチ動かすだけでもどんなに大変か、彼女はすっかり驚いてしまった。
驚いたのは王女だけではなかった。鍛冶屋のダーニクは船と人間の行進をひと目みるなり、驚いてアンヘグ王を探しにいった。「おそれながら、陛下」かれは恭しく声をかけた。「あのような輸送方法は人間だけでなく、艇にとっても悪い影響を及ぼすのではないですか」
「船だ」アンヘグはただした。「あれは船と呼ぶのだ。艇とは違う」
「どう呼ぼうとかまいませんが、あれではつなぎ目がゆるんでしまいませんか」
アンヘグは肩をすくめた。「どうやったって、多少の漏れは仕方がないのさ。それにわれわれは長年この方法をとってきたのだ」
ダーニクはこれ以上チェレク王と話しても、らちがあかないことを知った。そこでかれはバラクを探した。バラクはむっつり考えこむような顔をして、川を上ってくるかれの巨大な船を眺めていた。「水の上に浮かんでいるさまはなかなか壮観だが」と赤い髭をたくわえた男は、友人のグレルディク船長に話しかけていた。「陸にあげて運ばなければならないかと思うと、そうも言ってられんな」
「だが一番大きな戦艦がほしいと言ったのは、おまえさんだからな」グレルディクはにやりと笑ってみせた。「水夫たちがあの巨体を運ぶ気を起こすまで、さぞかしたくさんのエールをおごってやらねばならんだろうな。陸送にあたっては船長も参加するしきたりは別としても」
「馬鹿げた習慣だ」バラクがうなるように言った。
「どうやら今週はついておらんようだな、バラク」グレルディクの笑みがますます大きくなった。
ダーニクはこの二人の海の男を相手に、小枝で土手の砂地の上に図案をかいて、熱心に説明をはじめた。話が進むにつれて、二人はいっそう熱心に耳を傾けているようすだった。
三人が話しあってから、まる一日後、二十数個の車輪をつけた、車体の低い船架がふたつ用意された。他のチェレク人が馬鹿にしたようすで眺めるなかを、二隻の船は川から船架の上に慎重に載せられ、紐でしっかり固定された。両船の水夫たちが平原に向かって船架を引きはじめると、馬鹿にしきった笑いはしだいに消えていった。馬上からそのようすを見ていたヘターは、少し考えこんだ後、かれらにたずねた。「何で人手に頼るのですか。ここには世界でもっとも多くの馬が集められているというのに」
バラクは大きく目を見開き、神の啓示を受けたようなほほ笑みを浮かべた。
バラクとグレルディクの船が、車輪のついた船架に載せられたときに発せられた嘲りの笑いは、アルガー産の馬に引かせたそれが、全力をふりしぼって数インチずつ船を引きずっていく人間たちを尻目にすいすい崖地に近づいていくのを見たとたん、怒りを含んだ不満の声に変わった。バラクとグレルディクはさらに効果を高めるために、かれらの水夫に甲板の上でエールを飲んだり、サイコロをふるったりして、存分にくつろいでよいと命令した。
アンヘグ王は馬に引かせた巨大な船に乗ったいとこが、これみよがしに笑いかけながら通り過ぎていくのを、冷たい目で眺めていた。王の表情には心底からの怒りが浮かんでいた。「いくら何でもこれはやりすぎだ!」かれはかんしゃくを起こして、王冠をつかみ、地面に投げ捨てた。
ローダー王は落着きはらった顔で言った。「わたしにはこれまでの人力で運ぶ方法がそれほどよいとは思えなくなってきたよ。汗水たらしてうんうん言うことに、何らかの深遠な理由があるにせよ、何といってもこちらの方が早い。それにわれわれは一刻も早く作業を終わらせたいのだ」
「だが不自然だ」すでに数百ヤードほど先に行ってしまった二隻の船に、怒りの視線を向けたまま、アンヘグはうなり声をあげた。
ローダーは肩をすくめてみせた。「何だって最初は不自然なものさ」
「考えておくことにしよう」アンヘグはむっつりした声で言った。
「だが、あまり考えこまない方がよさそうだぞ。一マイル進むごとにきみの君主としての名声は下がっていくばかりだろう。バラクのことだから、崖地にたどりつくまで、きみの水夫たちにあの工夫を見せびらかしかねん」
「まさかそこまでは、せんだろう」
「さあ、どうかね」
アンヘグ王は苦々しげにため息をついた。「あの鼻持ちならぬ利口ものの鍛冶屋を呼んでこい」かれは部下に命じた。「さっそく検討を始めよう」
その日の遅く、連合軍の各指導者たちが戦略会議のために主天幕に集まった。「われわれにとって当面の大きな問題は、いかにしてこの軍勢の規模を知られずに行くかということだ」ローダー王が出席者一同にむかって言った。「一度にこの大人数を崖まで進軍させて、崖下に集結させるよりも、小集団ずつで出発して、到着した順に一気に崖上の砦まで行かせる方が良いと思われる」
「そのように行軍を分散させたのでは、進む速度が遅くなりはしませんか」コロダリン王がたずねた。
「それほどのことはないだろう」ローダーは答えた。「まず、きみの騎士団やチョ・ハグ王の諸氏族から先に上げて、あらかじめ町や田畑を焼きはらってもらう。そうすれば、後から多くの歩兵が上がってきても、タール人はそれどころではないから、連中に人数を気どられる心配はない」
「余分にかがり火をたけば、大勢の人数がいるように見えますよ」レルドリンがほがらかな声で言った。
「軍勢をいかに少なく見せるかが、われわれの日的であって、多く見せることではないのだよ」ブランドが深い声で穏やかにさとした。「タウル・ウルガスやザカーズに警戒心を抱かせて、かれらの軍隊を出動させるようなことはしたくない。ゲゼール王が率いるタール軍だけを相手にする分には楽だろうが、マーゴ軍やマロリー軍が介人してきたのでは、大変な戦いになってしまう」
「われわれとしてもそれだけは、絶対に避けたいのだ」ローダー王がつけ足した。
レルドリンはいささか恥じ入ったようすだった。「そんなことは考えてもみませんでした」かれの頬をゆっくりと血がのぼっていった。
「レルドリン」セ・ネドラは気まずい思いをしている若者を助けるために声をかけた。「ちょっと、兵士たちのようすを見てまわりたいの。一緒につきあって下さるでしょう?」
「もちろんですとも、王女さま」若いアストゥリア人はすぐに立ちあがった。
「それは悪くない考えだな」ローダーが言った。「兵上たちは長時間歩き続けてきたので、いささか士気が低下しておるかもしれん」
いつものように黒い胴着とタイツを身につけた、レルドリンのいとこのトラシンが立ち上がった。「よかったら、ぼくもお供させてくれないか」若者はコロダリン王に、あつかましい笑みをむけた。「われらアストゥリア人は陰謀にはすぐれていても、戦略家には向いていないようです。わたしがこれ以上おそばにいても、会議のお役にはたてないでしょう」
アレンディアの王は、若者の言葉に笑みを浮かべて言った。「なかなか威勢のよい若者だ。しかしそなたが口で言うほど、アレンディアの王冠の強力な敵であるとは、信じがたいのだがな」
トラシンは笑みを浮かべたまま大げさにお辞儀をした。そして天幕を出るとすぐにレルドリンの方を向いていった。「あの、汝だのそなただのがなければ、ぼくだってそれらしい馬鹿ていねいな言葉使いを覚えたんだがな」
「慣れてしまえば、それほど厄介なものでもないさ」レルドリンが答えた。
トラシンは笑った。「そりゃ、レディ・アリアナのような美しい友人に言われれば本望だろうさ」かれは茶目っ気たっぷりにセ・ネドラの方を見た。「さてと、どの部隊を激励にいかれるのですかな、女王さま」
「とりあえずはあなたの国の人々からたずねることにするわ」彼女は言った。「あなたたち二人をミンブレイト騎士団へ連れていく気はありませんからね。剣を捨てて、口をしっかり閉じていない限りは」
「われわれを信用していらっしゃらないのですか」とレルドリンがたずねた。
「あなたという人間をよく知ってますからね」セ・ネドラはつんとあごを出した。「アストゥリアの隊はどの辺に野営しているの」
「あちらですよ」トラシンは物資集積所の南端を指しながら答えた。
そよ風にのって、センダリアの炊事場からうまそうな匂いが漂ってきた。そのとたん、王女はあることを思い出した。そしてアストゥリア隊の天幕を見てまわるのをやめ、ある人間たちの姿を探し求めた。
かつてボー・ワキューンのはずれで入隊させた二人の農奴、ラメールとデットンをセ・ネドラはようやく見つけだした。二人はつぎの当たった天幕の前で昼食を終えたところだった。かれらは最初に出会ったときよりも栄養状態がよく、もはやぼろも着ていなかった。彼女が近づいてくるのを見た二人は、あわてて立ち上がった。
「こんにちは」セ・ネドラはかれらの気持ちを楽にさせようと、気さくな口調で呼びかけた。
「軍隊生活のようすはいかが?」
「何の不満もありませんです、お嬢さま」とデットンが恭しく答えた。
「歩くことを除けばでございます。世界がこんなに大きなものとは知りませんでした」ラメールがつけ加えた。
「でも長靴をもらいましたんで」デットンは片足を上げて、それを見せた。「最初は少しきついみたいでしたが、もう靴ずれも治りました」
「ちゃんと、食事はしているわね?」
「たんといただいております」ラメールが答えた。「センダー人があっしたちのために、食事まで作ってくれるんです。センダリア王国には農奴がいないんだそうですね。あっしは驚きました。いろいろと考えさせられます」
「そのとおりで」デットンが同意した。「センダー人はみんなで働き、誰もが十分な食べ物と衣類と、自分の家を持ってるんだそうです。農奴なんてひとりもいないんだって言ってます」
「武器も配給されたようね」王女は二人が革製の兜をかぶり、堅い革のベストをつけていることに気づいた。
ラメールはうなずくと、自分の兜をぬいだ。「この中には、頭をたたかれても脳みそがぶっ飛ばないよう、鋼の板が入ってんだそうです。あっしたちはここに着いたとたん、一列に並ばされ、この兜とベストを全員もらったんでさあ」
「槍と短剣もです」デットンがつけ加えた。
「使い方は教えてもらったの」
「まだです」デットンが答えた。「わしらは弓を射る訓練だけをずっとやってきたんで」
セ・ネドラは随行している二人をふり返った。「さっそく訓練のために、誰かを派遣してあげてちょうだい。少なくとも全員が自分の身を守れるようにだけはしなくちゃ」
「かしこまりました」レルドリンが答えた。
すぐ近くの天幕の前に若い農奴があぐらをかいて座っていた。かれは手製のフルートを取り出すと、唇にあて、吹きはじめた。セ・ネドラはトル・ホネスの宮殿で、名人といわれる音楽家の演奏を数多く聞いていたが、この農奴のフルートはすっかり彼女の心をとらえてしまった。いつのまにか瞳には涙さえ浮かんでいた。かれの奏でる調べは、鳥籠からはなたれたヒバリのように紺碧の空に広がっていった。
「なんてすばらしいんでしょう」王女は思わず叫び声をあげた。
ラメールはうなずいた。「あっしには、音楽のことはよくわかりませんが、とてもうまいような気がします。あの演奏が本人に聞こえればいいんですが」
セ・ネドラはさっとラメールの方を向いた。「どういう意味なの」
「あいつはアレンディアの森の南部にある村の出身なんでさあ。なにしろ貧しい村で、領主は農奴をそれはひどく働かせるんですよ。あの少年は孤児で小さい頃は牛の番をしておりました。ある日、牛が一頭はぐれてしまい、死ぬほどなぐられましてね。口もきけなくなっちまったんですよ」
「あの子の名前を知ってるの?」
「誰も知りやせんでしょう」とデットン。「わしらも食べ物をやったり、寝るところを見つけてやったり、交替でめんどうを見てやってますが、たいしたことはしてやれません」
レルドリンが背後でかすかな音をたてたので、セ・ネドラはふり返り、仰天した。きまじめな若者は臆面もなく涙を流していたのである。
少年はなおも心をえぐるような痛ましい調べを吹きつづけていた。かれはセ・ネドラの視線に気がつくと、沈んだ視線を返した。
あまり長居をするわけにはいかなかった。セ・ネドラは彼女の身分や立場が二人の農奴にどれだけ窮屈な思いをさせているかよくわかっていた。ともかくかれらがうまくやっていて、彼女が約束したことが守られていれば、それでいいのだ。
セ・ネドラとレルドリンとトラシンはセンダー人の野営地にむかっていたが、突然、大きな天幕の一角から口論が聞こえてきた。
「おれが置きたいところへ置いて、何が悪い」男がけんか腰で叫んでいた。
「通りをふさぐ気か」別の男の声がきいた。
「通りだと」最初の男は鼻を鳴らした。「何をたわけたことを。ここは町じゃないんだ。通りなんてどこにあるんだ」
「なあ、おい」別の男は相手にかんで含めるように言った。「荷車はここを通らなきゃ中央集積場へいけないんだ。頼むからそいつをどけてくれないか。そうでなくともやらなきゃならんことは、山ほどあるんだ」
「喧嘩もできないセンダリアの御者ふぜいに命令を受けるおぼえはないな。おれは兵士だからな」
「ほう、そうかね」センダー人は冷ややかに言った。「それじゃ、今まで何回戦ったことがある?」
「今はなくとも、ときがくれば戦うさ」
「そこの荷物をどけないと、もっと早く戦うことになるだろうよ。馬車からおりておれに荷物どけさせるようなことになったら、ただじゃすまんぞ」
「こりゃ、恐ろしい」兵士は皮肉っぽく言い返した。
「じゃあ、どけるか」
「やだね」
「おれは警告したんだからな」御者は声の調子を落とした。
「おれの荷物に指一本でもふれてみろ、頭がぶっとぶぞ」
「おまえが勝手にそう思っているだけだ」
突然、もみあい、何発か殴打する音が聞こえた。
「さあ、さっさと起き上がって、おれの言ったとおり荷物をどけるんだ」御者の声だった。
「一日中ここに突っ立って論議している暇はない」
「おれの見ていないときに殴ったな」兵士が不平を言った。
「ならもう一発、自分の目で見たいか」
「わかったよ。そうかっかしなさんなって。今どける」
「おたがい了解しあえて嬉しいよ」
「あんなことは、よく起きるの?」セ・ネドラは声を落としてたずねた。
トラシンはにやりと笑ってうなずいた。「軍隊にはああやって、わめきちらしたがる輩がいるものですよ。ところがセンダリアの御者連中ときたら聞く耳なんざ持ってません。殴り合いや口喧嘩はいわば、かれらの第二の天性なのです。兵士たちの口論ときたら日常茶飯事、おまけにいつもあんな具合に終わるんです。なかなか教育的だと思いませんか」
「まあ!」セ・ネドラは思わず声を出した。
センダー人の野営地で三人はダーニクに会った。かれは奇妙な風体の若者を連れていた。
「古い友人たちですよ」ダーニクはかれらを紹介した。「二人とも物資の輸送船で着いたばかりです。ランドリグには会ったことがありますね。昨年の冬、ファルドー農園をたずねたときに、かれを見ているでしょう」
セ・ネドラはランドリグのことを覚えていた。背の高い体格のよい若者で、ガリオンの幼なじみズブレットと結婚することになっているはずだった。彼女は温かくかれを迎え、前に会ったことを思い出させた。若者の動作はアレンド人と較べるといくぶんか緩慢に見えた。だがその連れはもはやのろまとしかいいようがなかった。ダーニクはかれを、やはりガリオンの幼なじみのドルーンだと紹介した。ドルーンは小柄ながら屈強そうな若者で、のどぼとけが突き出し、目も少し飛び出していた。初対面のぎごちなさがとれてくると、かれの舌は滑らかに回転はじめた。ドルーンの話について行くのはなかなか骨が折れた。次から次へと思考が飛び、それに追いつくために息つく間もなくしゃべりまくるからだ。
「山を越えるのはそれは大変でしたよ」センダリアからの旅についてセ・ネドラからたずねられたドルーンはしゃべり始めた。「なにしろ道が険しいの何のって。もしトルネドラ人が道をつけるのだったら、緩い斜面にそって作りますよね。それなのにあの道を作った連中は一直線に上がりたがることしか考えないので、時おりとんでもない険路に出くわしたりするんです。何でああなんでしょうね」セ・ネドラがトルネドラ人だということはドルーンの念頭にはないようだった。
「〈北の大街道〉を通ってきたの?」彼女はたずねた。
「アルダーフォードという場所までは、そうでした。変な名前だと思いませんか。でもよく考えてみれば、アルダーの渡し≠セと意味がわかるんですよね。山を出たとたん、マーゴ人に襲われたんです。まったくあんなすごい戦い見たことありませんよ」
「マーゴ人ですって?」セ・ネドラはあちらこちらに飛ぶかれの話を、ひとつところに押さえようと試みた。
若者は何度もうなずいた。「荷馬車隊の指揮官が、そう言いました。その人が――大男でミュロスから来た人なんです――おい、ランドリグ、ミュロスだったよな。それともカマールだったかな。いつもこのふたつがごっちゃになるんです、あれ、なんの話をしていたんでしたっけ」
「マーゴ人のことだろう?」横からダーニクが助け舟を出した。
「ああ、そうでした。ともかく荷馬車隊の指揮官が、戦争前にはセンダリアにもマーゴ人がたくさんいたと言ったんです。連中は商人のふりをしているけれど、そうではなくて、じつはスパイなんです。戦争がはじまってから、山に逃げ込んで、今度は軍事物資を運ぶ荷馬車を襲うようになったんですが、むろんこちらではすっかりやつらを迎え撃つ準備はできていました。そうだったよな、ランドリグ。マーゴ人が馬車に乗りうつろうとした瞬間、ランドリグがでっかい棍棒でそいつを殴り倒したんです。ボカッと一発、てな具合に、やつを馬から払い落としちまったんです。やっこさん、さぞかし驚いたんじゃないかな」そう言ってドルーンは短い笑いをもらしたが、すぐにまたセンダリアからの道中のできごとを、思いつくままにまくしたて始めた。
セ・ネドラ王女は、ガリオンの二人の幼なじみと出会ったことで、不思議な感動を覚えていた。自分の徴兵活動が西の国々のあらゆる人間の生命にかかわっていることをあらためて痛感し、途方もなく重い責任を感じていた。彼女は夫と妻を、父親と子供を引き離し、隣村より遠くへ行ったことのない純朴な男たちを引き連れて、かれらにとってなんのためかわからない戦争のために、何千リーグも遠く離れたところまで連れてきたのだった。
翌日、連合軍の各指導者たちは、あと数リーグのところまで近づいた、崖地の巻き上げ機にむかって馬を走らせた。ふもとを登り切り、初めて断崖を目にしたセ・ネドラは驚きに口をぽかんと開けたまま、思わずノーブルのたづなを引いた。信じられない! 何もかもがあまりにも広大だった。えんえんと続く巨大な黒い断崖は、まるで巨大な岩の波のようにそびえたち、東と西を永遠にへだて、どんな往来をも妨げようとしているかのようだった。それはいかに傾斜が緩くなろうと決してひとつになることのない、二つに分かれた世界をあらわす厳然たる象徴だった。
近づくにつれ、断崖の上と下で、大勢の人々がやっきになってたち働いているのが見えてきた。丈夫な太綱が崖上から垂らされ、ふもとにむかって複雑に滑車と絡みあっていた。
「何で崖下にまで滑車があるんだ」アンヘグ王が疑わしそうにたずねた。
ローダー王は肩をすくめた。「そんなこと、わたしにわかるものかね。技術者でもないのに」
「そうかね。そういう気なら、なぜ滑車が崖の上でなくて下にあるのか説明を受けるまで、わたしの船には指一本さわらせないからな」
ローダー王はため息をつくと、一連の滑車にこまめに油をさしている一人の工兵を呼び寄せた。
「装置の図面を持っておらんか」恰幅のいい王は、機械油にまみれた男にたずねた。
工兵はうなずくと、上着の下からうす汚れた羊皮紙を巻いた図面を取り出して、王に手渡した。ローダーはちらりと目を走らせてから、アンヘグに渡した。
アンヘグは食い入るように複雑な図面をのぞきこみ、滑車の接続や荷を持ちあげるしくみを、必死に突きとめようとした。「これでは何が何だかわからんではないか」
「わたしにだってわからんよ」ローダーは愉快そうに言った。「だが、なぜ滑車が崖の上でなくて下にあるのか知りたがったのは、きみだぞ。この図面を見ればそれはわかるはずだ」
「だが、わたしにはこの図がさっぱりわからんのだ」
「それはわたしのせいではない」
さほど離れていないところで歓声があがった。ロープにがんじがらめになった家の半分ほどもある巨大な石が、太い索綱をきしらせながら、断崖の壁面にそってゆっくりあがり始めたところだった。
「なかなか効果的な装置じゃないか、アンヘグ」ローダーが言った。「たかだか馬八頭であんな石を持ち上げてしまうんだぞ――あの平均を取るための錘を使って」かれは崖の上からゆっくり下りてくる別の岩を指さした。
アンヘグはしかめ面をしてふたつの岩を眺めていたが、後ろをふりむいた。「ダーニク、おまえにはあの仕組みがわかるか」
「はい、アンヘグ王」鍛冶屋は答えた。「ご存じのように、平衡をとっている錘が――」
「説明せんでもいい」アンヘグはあわてて言った。「わたしがよく知り、かつ信頼している人物が理解してくれているのなら、それでいいのだ」
その日の遅くに、チェレク人の最初の船が崖の上に引きあげられた。アンヘグ王はしばらくその作業を眺めていたが、へき易したようすで背を向けた。「おかしい、不自然だ」かれはバラクにむかってぼやくように言った。
「最近、やたらによくその言葉を使うようになったな」とバラク。
アンヘグはいとこをにらみつけた。
「ちょっと言ってみただけさ」
「わたしは変化が嫌いなんだ、バラク。不安になるからな」
「世界は動いているのだよ、アンヘグ。毎日、刻一刻と変化しているのだ」
「だからといって、好きになる必要もあるまい」チェレクの王はうなり声をあげた。「天幕に戻って酒の一、二杯もあおりたい気分だ」
「仲間はいらないかね」バラクが声をかけた。
「おまえはここにずっといて、世界が変化するのを見守るんじゃなかったのか」
「別にわたしが見ていなくたって、世界は変化していくのさ」
「そうかもしれんな」アンヘグはものうげにつけ加えた。「よし、ならばもう行こうじゃないか。これ以上、こんなものを見ていたくもない」二人はその場を離れると、酒を探しにいった。
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11[#「11」は縦中横]
アレンディアの王妃マラセヤーナは物思いにふけっていた。彼女はボー・ミンブルの宮殿内の高いところにある日当たりのよい育児室で、刺しゅう台を前にして座っていた。アレンディアの皇太子である幼い息子は、揺りかごの中で色鮮やかなビーズ紐をもてあそびながら、のどを鳴らしくつくつと笑っていた。このビーズ紐はドラスニア皇太子からの公式的な贈り物だった。マラセヤーナはポレン王妃に会ったことはなかったが、同じ母親としてこのはるか北の国に住む、小柄でこの上もなく美しいといわれる金髪の王妃に親近感を覚えていた。
王妃の近くにはボー・エボールの男爵夫人ネリーナが座っていた。二人ともビロードの服を着ていたが、王妃は濃い紫色、男爵夫人は淡い青色で、ともにミンブレイトの貴族たちの畏敬のしるしである、白い円錐形の頭飾りをかぶっていた。育児室の片すみでは、年老いたリュート奏者が、短調のもの哀しい曲を奏でていた。
ネリーナ男爵夫人は王妃よりもさらに憂うつそうだった。ミンブレイトの騎士たちが出発してからというもの、日がたつにつれ、目の下のくまはますます濃くなり、めったに笑わなくなった。とうとう、彼女はため息をつくと、手にしていた刺しゅうをかたわらに置いた。
「ため息をつくたびに心の淋しさはいや増すばかりですよ、ネリーナ」王妃は優しく言った。
「不安なことや淋しいことは、あまり考えない方がよいのです。そなたの方が参ってしまうではありませんか」
「このような思いをせずにすむ方法があるのなら、どうぞお教え下さい、妃殿下」ネリーナは言った。「わたくしの心は重い悩みで押しつぶされてしまいそうです。これではいけないと思っても、まるで手に負えない子供のように、遠く離れた夫や親しい友人に何か恐ろしいことが起こっているのではないかという思いに駆られてしまうのです」
「そのような思いはミンブルの女たちなら誰もが抱いているのよ。そう思えば少しは気が楽にならないこと、ネリーナ」
ネリーナは再びため息をついた。「ですが、わたくしには他の人以上に深い気がかりがあるのです。他のご婦人がたは、ただひとりの愛する人が恐ろしい戦いから、つつがなく戻られることだけを願っていればよろしいのでしょう。でも愛する方が二人いるわたくしには、とてもそのような楽観主義を信じる気にはなれません。もしどちらかひとりでも失うようなことがあれば、わたくしの心は張り裂けてしまうでしょう」
ネリーナには、もはや引き離しがたいほど、しっかりと心に絡みつく二つの愛があった。だがその事実を公然と受けとめる彼女には、穏やかな威厳さえ漂っていた。マヤセラーナはその深い理解力に基づく鋭い直感で、ふたつに引き裂かれた心が、ネリーナとその夫とマンドラレン卿の悲しい伝説を生み出したことを悟っていた。もしネリーナがどちらか一方をより深く愛していれば、悲劇は防げただろう。だが夫とマンドラレン卿への愛があまりにも等しいため、彼女は二人のあいだで永遠に同じ位置に凍りついたままなのである。
王妃はため息をついた。男爵夫人の引き裂かれた心は、そのままふたつに分裂したアレンディアを象徴しているのだった。ネリーナの優しい心は決してひとつになることはなかったが、アレンディアはマヤセラーナ王妃の努力によって、あとひと息でミンブルとアストゥリアのあいだの溝が埋まるところまできていた。その仕上げとして、彼女はもっとも反抗心の強い北部の指導者たちの代表を宮殿に召喚した。それはめったに使うことのなかったアストゥリア公国の女性元首の名前のもとに行なわれた。それに対してアストゥリア人たちは、さっそく彼女に奏上する不平不満の一覧を作り始めていた。
同じ明るい日の午後、もう一方の空白を痛いほど意識しながら、マヤセラーナはふたつ並んだ玉座のひとつに腰かけていた。
アストゥリアの貴族たちの指導者であり、代弁者でもあるレルディゲン伯爵は、鉄灰色の髪と髭をたくわえた長身の痩せた男で、がんじょうな杖の助けを借りて歩いていた。かれは濃い緑色の胴着に黒いタイツを履いて、他の代表者と同じように腰から剣を下げていた。王妃に謁見するのに武器を携行してきたアストゥリア人を見て、憤慨したようなわざめきが起こったが、マヤセラーナはそのような抗議をいっさい却下した。
「ようこそ、レルディゲン卿」王妃は、足を引きずりながら玉座の前にやってきたアストゥリア人に挨拶した。
「これは猊下」そう言ってかれは頭を下げた。
「妃殿下でございますよ」ミンブレイトの廷臣があわててたしなめた。
「だがアストゥリア公国の女性元首として召喚なされたのであれば、そうお呼びしてよろしいのではないかね」レルディゲンはひややかに言った。「少なくとも最近のもったいぶった呼び方よりは、こちらの方がわれわれにとっては尊敬すべきものなのだ」
「皆さまがた、どうかお静かに」王妃は断固とした口調で言った。「お願いですから、これ以上いがみあうのはおやめ下さい。ここに集まっていただいたのも、平和の可能性を探るためなのです。どうかこれからわたくしの申し上げることに対して、腹蔵ないご意見をお聞かせ下さい。レルディゲン卿、これほどまでに深い憎しみが心に棲みついてしまった原因はいったい何なのですか。あとでご迷惑がかかるようなことはいたしませんから、胸のうちを忌憚なくお話し下さい」王妃はかたわらの顧問たちを厳しい表情で見た。「この方が何をおっしゃろうと、それをとがめだてしないよう、命じます」
ミンブレイト人がアストゥリア人をにらみつけると、アストゥリア人も負けずににらみ返した。
「おそれながら、猊下」レルディゲン卿は語り始めた。「われわれの抱いておる最大の不満は、ミンブレイトの大領主たちが、われわれの爵位を認めることを拒否しておることであります。たしかにそういった肩書きは空しいものかもしれませんが、そういったことでわれわれの責任まで拒否されるのは由々しきことです。ここに参上した者たちは、いずれも地位のもたらす特権にこそ関心はあらねど、われわれの義務を果たす機会を拒否されたという不満を強く感じております。才能のある者が無為に日々を過ごしており、わたしはあえてこのような事態が、われわれの損失というよりもアレンディアの損失であると、申し上げたいと思います」
「けっこうでした、伯爵」王妃は言った。
「殿下、発言をお許しいただけますか」白髭をたくわえたボー・セリンの老男爵が言った。
「むろんですとも、男爵」マラセヤーナは答えた。「お互い自由に話しあうことにしましょう」
「ただ今のアストゥリア人の求めている爵位についての発言でございますが」男爵は決めつけるように言った。「この五世紀にもわたり、王室はアストゥリア人の忠誠の誓さえ行なわれれば、しかるべき爵位を用意して待ち受けておるのです。いかなる爵位も王冠に忠誠を誓わなければ、認められることも与えられることもあり得ません」
「残念ながら男爵、われわれは宣誓をすることはできない」レルディゲンは言った。「われわれの先祖がかつてアストゥリア公国の元首に行なった宣誓が今でも生きているのだ。われわれの忠誠はアストゥリア公爵に捧げられておる」
「だが、そなたの言うアストゥリア公爵は五百年も前に亡くなっておられるではないか」老男爵は言った。
「だが公の血筋は今に伝えられておるのだ。われわれの忠誠は、その末裔におわすマラセヤーナさまにこそ、捧げられるべきものなのだ」
王妃は一方の顔から他方へと目をうつした。「どうかわたくしの見かたにおかしなところがあれば、ご遠慮なくただして下さいね。あなたの今のお話によれば、アレンディアを半世紀にもわたって引き裂いた元々の原因は、古代の慣例によるものだとおっしゃるのですね」
レルディゲンは眉をひそめた。「むろん、それだけというわけではありませんが、確かにもっとも大きな原因であると思われます」
「するとたかだか慣例のために、五百年も争い、血を流してきたのですか」
レルディゲン伯爵は反論しようとやっきになった。かれは何回か口を開きかけては、そのつど困惑したような表情を浮かべて口ごもった。そしてついに吹きだした。「これではアレンディアそのものだ。そうじゃありませんか」かれはむしろ茶目っけたっぷりの口調で言った。
ボー・セリン老男爵は、伯爵の方にちらりと目をむけると、含み笑いをした。「レルディゲン卿、われわれが世間の笑いものにならぬためにも、どうかこのこ発見はご内密に願いたいですな。このような見下げはてた愚行が、アレンディア国民の特性だと思われては由々しきことだ」
「本当にどうして、こんな馬鹿げたことがもっと前にわからなかったのでしょう」マラセヤーナが言った。
レルディゲン伯爵は悲しげに肩をすくめた。「これまでアストゥリア人と、ミンブレイト人はお互いに話しあうことがなかったからでございましょう。むしろいつも争いたがっていたようです」
「なるほど、そういうわけでしたのね」王妃は明るい口調で言った。「この悲しむべき混乱を解決するにはどうしたらよろしいのかしら」
レルディゲン伯爵は老男爵の方を見やった。「声明を出すのがよろしいですかな」
老人は考え深げにうなずいた。「妃殿下ならば、あなた方の過去の宣誓を無効にされることができる。非常にめずらしいことではあるが、先例がないというわけではないし」
「それからわれわれはあらためて、アレンディア王妃に忠誠を誓うことになるわけか」
「それならば、道義的にも作法的にもすべてが適う」
「ですけれど、わたくしは同じ人間ですよ」王妃が反論した。
「形式的に申し上げれば、そうではありません」男爵は説明した。「アストゥリアの女性元首とアレンディア王妃は明らかに異なっております。王妃さまはいわば、ひとつのお体に二つの人格を持っておられるわけです」
「それこそ混乱の最たるものではありませんか」とマラセヤーナ。
「だからこそ、誰ひとりこれまで気づく者がいなかったのです。猊下」レルディゲンは言った。
「あなたさまも、その夫たる方も、二つの肩書きと、二つの人格をお持ちなのです」かれは短く笑った。「そのようにたくさんの栄誉をお持ちになりながら、まだ玉座に余裕があるのは驚くべきことですぞ」そして伯爵は真顔に戻った。「ですがそれですべて解決というわけにはいかないでしょう、猊下。ミンブレイトとアストゥリアのあいだにある溝は根が深く、すっかり解消するまでには何十年もかかることと思われます」
「それでわたくしの夫に対しても忠誠の誓いをしていただけるのですか」
「アレンディア王に対しては忠誠を誓います。だが、ミンブルの公爵に対しては絶対にいたしません」
「手はじめとしては、そこからいきましょうか。さっそくこの声明を検討しましょう。インクと羊皮紙によってアレンディアのもっとも深い傷を癒すのです」
「じつに素晴らしいことでございます、猊下」レルディゲン伯爵は恭しげに言った。
ラン・ボルーン二十三世は、その人生のほとんどを、トル・ホネスの宮廷の敷地内で過ごしてきた。たまにはトルネドラの主要都市へ旅することもあったが、ほとんど閉じた御輿に乗ったままだった。ラン・ボルーンが自分の足で何マイルも歩くことなどおよそ考えられなかった。そもそも歩いたことのない人間にとって、距離という単位が理解できるわけがない。したがって宮廷の顧問たちは、皇帝に距離感を理解させることに絶望をおぼえかけていた。
ところが意外なところから、この問題は解決を見ることになった。かつての家庭教師であり、去年の夏、あやういところで投獄もしくはそれより悪い事態を免れた、ジーバースという男の遠慮がちな提案によるものだった。ジーバースは今では何をするにも遠慮がちだった。皇帝の不興を危うく買いかけたかれは、かつてその最大の欠点だった、鼻持ちならない尊大な態度をすっかり失っていた。以前からの友人たちは、いつのまにかこの痩せぎすなはげた男を好きになっていることに気づき、驚きをおぼえるのだった。
ジーバースは、皇帝が自分の目で距離を確認できるようなものを作ればいいのではないかと提案したのである。それまでトルネドラ国内で生まれたいくたの妙案と同じように、かれの案はすぐ実行にうつされた。宮廷内の敷地は、東アルガリアの国境地帯や、反対側のミシュラク・アク・タールの縮小された模型に覆われた。皇帝がより戦況を把握できるよう、数インチ大の鉛の人形がいくつも配置された。
大規模な軍隊の動きをより精確に把握するためには、もっと人形が必要だという皇帝のひと声で、一夜にしてトル・ホネスに新しい産業が生まれた。翌日の朝が明けると、鉛は著しく供給不足を起こしていた。
より現実に近い戦況を見渡すために、皇帝は毎朝その目的のために急ごしらえされた三十フィートの塔に登った。そこから声の大きい近衛の軍曹を使って、アルガリアからの最新報告に基づき、鉛でできた歩兵や騎兵の連隊を配置させて、戦況を検分した。
将校たちは自分たちの任務をほとんど放りかけていた。かれらのほとんどはすでに中年を過ぎており、毎朝塔に登る皇帝に同行するのはかなりの難行苦行だった。かれらはときにふれて、このかぎ鼻の小男に、地上から見ても同じであることを説明しようとしたが、ラン・ボルーンは頑として聞き入れなかった。
「モリン、皇帝はわたしたちを殺すつもりだ」ある肥満した大将が、皇帝の侍従長に苦々しげにぶちまけた。二日に四回もあのはしごを登るくらいなら、戦場に出ている方がましだ」
「ドラスニア軍の槍兵を左に四歩移動せよ!」塔の上から近衛の軍曹が大声でどなった。地上にいた十数人の兵士たちが、いっせいに鉛の人形を移動し始めた。
「皇帝陛下がわれわれに下された命令には、最大限の努力をもって仕えなくてはなりません」モリン卿はおごそかに答えた。
「それにしては、きみがはしごを登っている姿を見たことがないが」大将は非難するように言った。
「わたくしは別の命令をたまわっておりますので」モリンはいささかとりすました顔で答えた。
その夜、疲れ切った小柄な皇帝は自分の寝台にむかった。「非常におもしろいが、疲れるものだな、モリン」かれは唯一金色に塗られたセ・ネドラの人形とローダー王やその他の指導者たちの人形の入った、ビロードで裏打ちされた箱を胸にかかえながら、ものうげにつぶやいた。
「さようでございますな、陛下」
「いつでも、何かやらねばならないことが次から次へと出てくるのだ」
「それが指揮官の使命でございますよ、陛下」モリンが答えた。
しかし、皇帝はすでに眠りに落ちていた。
モリン卿は皇帝の手から箱を取り上げると、そっと肩まで上掛けをかけた。「おやすみなさいませ、ラン・ボルーンさま」かれは優しく言った。「あしたもこの小さな兵隊で遊ぶことができますよ」
宦官のサディは、奴隷たちの宿舎の裏手から、うす汚い裏通りに通じる秘密の通路を抜けて、スシス・トールの宮廷をひそかに離れた。通りは曲がりくねった末に、港へつながっていた。かれはわざわざ暴風雨の日を待って、沖仲仕のみすぼらしい姿に身をやつしたのである。同行する片目の暗殺者イサスは、ごく地味めないでたちをしていた。常に警戒をおこたらないのはかれの習性だったが、イサスを同行したのは、そのためではなかった。イサスは宮廷の衛兵ではないし、サディの私的な随員でもなかった。だがこの日の外出は身なりだの礼儀作法とは関係なかった、イサスは宮廷内部の勢力争いにはほとんど関与していなかったし、金を払う者への忠誠心の篤さには定評があった。
二人は雨に濡れた通りを歩き、下層労働者の行き来するいかがわしい一画に入った。そして騒々しい酒場のドアを開け、さらに裏手にある、その他のお楽しみに用意された個室の迷路にむかった。悪臭の漂う廊下の奥に、ひじから手首まで安ぴか物の腕輪をじゃらじゃらさせた、目つきの悪い痩せぎすな女がいた。彼女は無言で傷だらけのドアを指さすと、不意に背中をみせて、別のドアのむこうに消えた。
ドアを開けると、そこは寝台があるだけの汚い部屋だった。寝台の上にはタールと塩の臭いがしみ込んだ二組の衣類が置かれていた。なまぬるいエールの入った大ジョッキが、やはり二個床の上にじかに置いてあった。サディとイサスは無言で服を着替えた。垢じみた枕の下から、イサスはかつら[#「かつら」に傍点]とつけ髭をふた組取り出した。
「こんなものを本当に連中は飲むのかね」サディは大ジョッキに顔を寄せ、鼻にしわを寄せてくんくん嗅いだ。
イサスは肩をすくめた。「アローン人の味覚は独特なんでさあ。一気に飲んじゃいけませんよ。ほとんどは服にこぼして下さい。ドラスニアの水夫たちは、お楽しみに出歩くときは、いつも服にエールをこぼしちまうんでね。さて、あたしの方はどうです」
サディはイサスの方をちらりの見た。「こっけいだ。かつらも髭もまったく似合っていないよ」
イサスは笑った。「あんたの方だってけっこう場違いですぜ」かれは肩をすくめ、タールで汚れた上着に注意深くエールをたらしはじめた。「まちがいなくドラスニア人らしく見える上に、臭いまでドラスニア人でさあ。つけ髭をもう少ししっかり留めておいた方がいいですよ。雨がやむ前に出かけましょう」
「裏から出るのかね」
イサスは首をふった。「もし後をつけられてるとしたら、裏口はまず見張られてますぜ。われわれはふつうのドラスニア人らしく表から出ましょうぜ」
「どんなふうに?」
「おっぽりだされるんでさあ」
サディはこれまでどんな場所にいってもおっぽり出されたことなどなかった。その体験はあまり心楽しいものではなかった。二人を外にほうり投げた体格のいいごろつきは、少しばかり力をいれすぎたので、かれは軽いすり傷を負うはめになった。
イサスはよろよろと立ちあがると、閉じられた扉にむかって罵詈雑言を吐きちらしたが、やがてよろめきながら、サディをぬかるみから助け起こした。二人は酔っ払いのふりを装いながら、千鳥足でドラスニアの包領にむかった。サディは投げ出されたとき、向かい側のドアに二人の男がいたことに気がついていた。だがかれらは追ってこなかった。
ドラスニアの包領に入った二人はイサスの先導でドラスニアの波止場を取りしきるドロブレクの家にむかった。かれらは直ちにうす暗く居心地のよい部屋に通された。ドロブレクは非常に太った男で、汗を流しながら二人を待っていた。部屋にはトルネドラ大使の貴族メルゴン伯爵もいた。
「これはまたずいぶん変わった盛装ですな。とてもサルミスラの宮殿を護る宦官にはみえませんよ」かつらとつけ髭を取るサディを眺めながら、メルゴン伯爵は言った。
「なに、人の目をごまかすためですよ、大使閣下。この会合が人に知られてはならないのです」とサディは答えた。
「そこの男は信用できるのか」ドロブレクがイサスを指さしながら、ぶっきらぼうにたずねた。
サディの真面目くさった顔がいたずらっぽい表情になった。「イサス、おまえは信用できるのかな」
「今月末まで代金をいただいておりますんでね」イサスは肩をすくめた。「その後は知りませんな。もっといい話があるかもしれませんし」
「おわかりになりましたかな」サディは椅子に座った二人の男に言った。「今月末まではイサスは信用できます――少なくともスシス・トールに住む者と同じぐらいには。わたしがかれについて知っていることといえば、ひじょうに単純な人間だということです。いったんかれを買えば、その間だけは裏切りません。おそらくはかれの職業倫理よりくるものだと思われますな」
ドロブレクが渋い表情でうなった。「いいから、さっさと用件をすませようじゃないか。そもそもこの会合を開くのに、何でこんな手間ひまをかけなきゃならんのだ。われわれを宮廷に呼べばすむことではないか」
「ドロブレク、宮廷には権謀術策がうず巻いているのですよ。わたしたちの交渉は多かれ少なかれ、内密にしておいた方がよろしい。問題自体はそれほどややこしいものではないのです。じつはこのところタウル・ウルガスからの誘いを受けておりましてね」
二人は驚いたようすもなかった。
「それではもうご存じでしたか」
「われわれとて子供ではないですからな。サディ殿」メルゴン伯爵は言った。
「目下ラク・ゴスカからやってきた新大使と交渉を始めております」とサディ。
「今年の夏にはいってから三人目ですな」
サディはうなずいた。「かれらは沼沢地帯特有の熱病にかかったものと思われます」
「それは知っている」ドロブレクはそっけなく言った。「それで、今度の大使は健康を維持できそうなのかね」
「かれが同国の人間以上に免疫があるとは思えないですな。すでにからだの不調を感じているかもしれませんよ」
「だが運よく助かるかもしれない」ドロブレクが指摘した。
「まあ、むずかしいだろうな」イサスが不快な笑いをもらした。
「マーゴ大使が次々と不慮の死を遂げたために、交渉は非常に遅々としたものになっております」とサディ。「ローダー王とラン・ボルーン皇帝に、交渉は今後も遅れるでしょうとお伝えいただきたいのです」
「それはまた、なぜだ」ドロブレクがたずねた。
「アンガラクへの軍事行動に対するわたしどもなりの努力をご理解いただき、認めていただきたいからです」
「トルネドラは今回の軍事行動にはいっさい関わってはおりませんぞ」メルゴン伯爵が素早く訂正した。
「それは、むろん存じ上げておりますよ」サディはほほ笑んだ。
「それではいつまで遅らせるつもりかね、サディ」ドロブレクが興味ありげにたずねた。
「しかるべきときがきて、どちらが有利かはっきりするまでですね」サディはすまして答えた。
「もしリヴァの女王の軍隊が東で困難な情況におちいり始めた場合には、疫病はおさまり、マーゴ人の密使も次から次へと死ぬようなことはなくなるでしょう。そのときにはタウル・ウルガスと信頼関係を結ぶことになると思われます」
「少し卑劣すぎやしないかね、サディ」ドロブレクが辛辣に言った。
サディは肩をすくめた。「たしかにわたしたちは卑劣な人間です。だが生き延びるのはわたしたちです。二つの強大な国にはさまれた弱小国に、礼儀作法など無意味です。どうかローダー王とラン・ボルーン皇帝に、戦局が有利に進んでいるうちは、わたしも時間かせぎを続けるつもりだとお伝え下さい」
「心変わりするようなときには、教えていただけますかな」メルゴン伯爵はたずねた。
「むろん、そんなことはいたしませんよ」サディは答えた。「わたしは卑劣な人間です。だが馬鹿ではありません」
「おまえには仲間意識というものはないんだな」ドロブレクが言った。
「そう思われるようなことは極力避けております。わたしは自分のために気をつけているだけです。今のところ、わたしの利益とあなたがたのそれが一致しているだけのことなのです。ですがわたしがご支援申しあげていることは、忘れないでいただきたいですな」
「おまえはふたまたをかけようというんだな、サディ」ドロブレクが非難するように言った。
「わかっておりますよ」サディはほほ笑んだ。「じつに卑劣だと思いませんか?」
チェレク王妃イスレナは、絶体絶命のパニックにおちいっていた。いくら何でも今回のメレルのやり方はいきすぎだった。ポレン王妃から届いた助言はなかなか有益そうに思えた。それはグロデグを無力化し、熊神信者に致命的な打撃を与える可能性をもたらすものだった。特に雲のように高いところにいる聖職者をまっさかさまに失墜させるときの、手も足も出ない怒りを思うと、それだけで溜飲が下がる思いがした。だが多くの人々と同じように、王妃には現実に問題が多ければ多いほど、頭のなかで勝利を夢見る傾向があった。想像上の勝利には何の危険もつきまとうことはなかったし、敵との争いは白昼夢から生まれた話しあいによって進められるので、いつも満足のいく結果となった。もしすべてがイスレナ王妃の思うがままに任されていればそれだけで十分満足していたことだろう。
だがメレルはそう簡単に満足しなかった。ドラスニアの小柄な王妃の計画は万全なように思えたが、たったひとつだけ欠点があった。それを実行するための必要な男手が不足していたのである。だがメレルはさっそく何ヵ所かから協力をとりつけ、王妃の陣営に組み入れた。チェレク人の中には水夫に向いていないという理由で、アンヘグ王やアルガリアに向かう艦隊に参加しなかった男たちがいた。厳しい表情のメレルにうながされ、突如、チェレク王妃は狩りに非常な熱中を見せるようになった。森の中なら耳をそばだてられる心配もなく、詳細な計画をたてることができた。
「蛇を殺すにはその頭をちょん切ればよいのです」狩人のトーヴィクは森の空き地に座り、メレルとイスレナ王妃をまえに話していた。その間にもトーヴィクの部下たちが、血に飢えたイスレナ王妃が森で一日を過ごしたように見せかけるための獲物狩りにせい出していた。「別に全部をばらばらに切り刻む必要はありません」肩はばの広い狩人はさらに続けた。「熊神信者たちは、じっさいひとところに集まっているわけではない。だがうまく行けばヴァル・アローンにいる幹部たちを一網打尽に捕らえることができるでしょう。そうすればわれらが蛇めは、頭を突き出さざるを得なくなる。そうしたら、やつの首をちょん切ればいいというわけです」
トーヴィクの言葉使いは、王妃をたじろがせた。この無骨で気難しそうな森の男が、単なるたとえ話をしているだけなのかどうか、彼女にはわかりかねた。
そして今や、ことは実行にうつされた。トーヴィクとかれの部下の狩人たちは、闇夜に乗じてヴァル・アローンの暗い通りを徘徊して、寝ぼけまなこの熊神信者たちを叩き起こし、港に狩り集め、停泊していた船に閉じ込めた。長年の経験から、かれらは狙った獲物を逃すようなことはなかった。朝までには、ベラーの高僧と寺院に寝泊まりしていた十数人の下級僧を残すのみになっていた。
王妃イスレナは青ざめた顔で身体を震わせながら、チェレクの玉座に座っていた。彼女は、紫色のガウンをまとい、黄金の冠をかぶり、手には笏を握りしめていた。笏には頼もしい重さがあり、いざとなれば武器としても使えそうだった。そのような事態が持ちあがることを王妃は確信していた。
「何もかもあなたのせいよ、メレル」王妃は金髪の友人を非難するように言った。「あなたがよけいな口だしをしなければ、こんな面倒なことにはならなかったのに」
「そうなったら、もっと面倒なことになりますわ」メレルは冷ややかな口調で答えた。「どうか落ちついてちょうだい。もうすんでしまったことは、どうしようもないのよ」
「だってグロデグが怖いんですもの」イスレナ王妃は叫んだ。
「でもかれは武装していないわ。あなたを傷つけることなど、できなくてよ」
「わたしはかよわい女なのよ」イスレナは泣き叫んだ。「あの恐ろしい声で吠えかけられたら、わたし死んでしまうわ」
「弱音を吐くのはおやめなさい、イスレナ」メレルは厳しい口調で言った。「そもそもあなたの臆病な心が、チェレクをのっぴきならないところまで追いつめたのよ。グロデグが声を荒らげれば、いつだってかれの要求をのんできたんじゃありませんか。たかだか大きな声が恐ろしいだけで。あなたは子供なの? 大きな声がそんなに恐ろしいのかしら」
「まあ、なんて身のほど知らずなことを」イスレナ王妃はかっとなった。「わたしは王妃なのよ」
「それなら王妃らしくなさい! 恐れおののく愚かな召使いの小娘のようなふるまいはやめることね。背骨が鉄でできているみたいに、背筋をぴんと伸ばして玉座に座るのよ。頬をつねるといいわ。まるで寝台のシーツのようにまっ白よ」メレルの表情が厳しくなった。「よくお聞きなさい。もしあなたが弱みを見せるようなことがあったら、ただちにトーヴィクに、この場でグロデグを槍で突くように命じますからね」
「そんな無茶な!」イスレナは息をのんだ。「僧侶を殺すことなんてできやしないわ」
「かれは普通の人間よ。他の男たちと同じにね」メレルはきっぱりとした口調で言った。「槍で腹を突けば死ぬわ」
「アンヘグだってそんなことはしないでしょう」
「わたしはアンヘグじゃありませんからね」
「あなたなんか呪われればいいんだわ」
「呪いなんて怖くないわ」
はば広いきっ先の槍を、こともなげに片方の巨大な手に握ったトーヴィクが謁見の間に入ってきた。「やっこさんが来ましたよ」
「まあ、どうしましょう」イスレナは震えあがった。
「おやめなさい!」メレルが叱りつけるように言った。
グロデグは猛り狂ったようすでつかつかと謁見の間に入ってきた。白いローブはあわてて着こんだようによれよれで、白髪も髭もぼさぼさだった。「わたしは王妃さまと内密に話をしたい!」かれは大声でどなりながら、イグサの敷かれた床の上を近づいてきた。
「それは王妃さまの判断なさることであって、あなたの権限ではないはずですよ」メレルがひややかにたしなめた。
「トレルハイム伯爵の妻が何だって王権に口をはさんだりするのです」グロデグは激しくつめ寄った。
イスレナは口ごもった。すると背の高い高僧のまうしろに立つトーヴィクの姿が目に入った。その槍はもはや何げなく握られてなどいなかった。「まあ、落ちついてくださいな、グロデグ殿」そう口に出したとたん、目の前の激怒するグロデグの死命を握るのは、自分の言葉だけでなく、声色にもかかっていることを王妃は悟った。彼女の声がほんのわずかでも震えようものなら、すぐにメレルが合図を出し、トーヴィクが蝿たたきで蝿を叩くような無関心さで、はばの広い鋭いきっ先をグロデグの背中に突き刺すことだろう。
「王妃さまお一人とお話ししたいと、申し上げておるのです」グロデグが頑固に繰り返した。
「だめです」
「何ですと」グロデグは声を荒らげかけた。
「だめだと言ったのですわ、グロデグ殿」王妃は言った。「それからわたしにむかって怒鳴るのはやめていただきたいわ、これでも耳は良いほうですのよ」
グロデグはあぜんとしたようすで王妃を見たが、すぐに態勢をたて直した。「それでは、なぜわたしの友人たちを逮捕なされたのですか」
「逮捕などしておりませんわ。自ら志願して夫の艦隊に加わっていただいたのですよ」
「そんな馬鹿な」かれは鼻をならした。
「もう少し注意して言葉を選ばれた方が、よろしゅうございますわ、グロデグ殿」メレルが言った。「あなたの不遜な口のきき方に対する王妃さまの忍耐にも限りがありましてよ」
「不遜だと」かれは叫んだ。「おまえの口の聞きかたこそよほど不遜ではないか」グロデグは王妃をまっこうからにらみつけた。「わたしは断固として王妃さまとわたしだけの会見を要求する」かれは雷のような大声で言った。
いつもならば脅かされる声に、イスレナは突然いらだちを覚えた。彼女はこのどうしようもない愚か者の命を救済しようとしているのに、なぜ怒鳴られねばならないのだ。「グロデグ殿」彼女の声には今までにない堅い響きがあった。「これ以上わたしを怒鳴り続けられるおつもりでしたら、口輪をはめていただきますよ」
かれの目は驚きに大きく開かれた。
「わたしたちの間には、話しあわなければならないことなどないはずよ。あなたのやるべきことは、これからわたしの言う指示を一字一句もたがえず守っていただくことです。まず港に直行して、ただちにアルガリア行きの船に乗るよう命じます。あなたにはチェレクの艦隊に合流して、アンガラクとの戦いに参加していただきます」
「断固、拒否する」グロデグは反発した。
「よくお考えになった方がよろしいのではないですか、グロデグ殿」メレルが猫なで声で言った。「王妃さまの出された命令は王の命令ですよ。拒否することは反逆を意味しますわ」
「わたしは、いやしくもベラーの高僧ですそ」グロデグは食いしばった歯のあいだから、あきらかに凄みをきかせようと苦心しているようだった。「まさか農民あがりの徴集兵のように、船で送られようとおっしゃるのではないでしょうな」
「そうなるかどうか、賭けをなさってみたらいかがですか」トーヴィクが表面的には穏やかな口調で言った。狩人は槍の柄の一方を床につけ、ベルトに着けた小袋から小石を取り出し、すでに研ぎすましてある槍の穂先を研ぎはじめた。その冷酷な音はグロデグを震えあがらせた。
「さあ、ただちに港にお行きなさい、グロデグ」イスレナ王妃は命じた。「そして乗船なさい。拒否されるのでしたら、地下牢送りになりますよ。夫が戻るまでネズミたちとともに、待っていただくことになります。アンヘグと一緒がよいか、ネズミと一緒がよいか、選ぶのはあなたですよ。さあ、早く決断しなさい。あなたにはいいかげんうんざりしてきたところよ。率直に言って、あなたの顔を見ているだけでも不愉快だわ」
ドラスニアの王妃ポレンは、息子に食事を与えるという名目で育児室にいた。母親としての人格を尊重して授乳中には護衛をつけないことになっていた。だが今、王妃は一人ではなかった。ドラスニアの情報部の長《おさ》である、きゃしゃな身体つきのジャヴェリンが同室していた。かれは人目をごまかすために、女召使いのガウンと帽子をつけていたが、変装したかれは格別意識しなくても驚くほど女性らしく見えた。
「ずいぶん多くの熊神信者たちが情報部にもぐりこんでいたのね」王妃は少し驚いたようにたずねた。
ジャヴェリンは礼儀正しく後ろをむいて座りながら言った。「おそれながらそのようですね、妃殿下。もっと警戒を強化すべきだったかもしれませんが、つい他のことに気をとられていたもので」
ポレンは乳を飲んでいる赤ん坊を、知らず知らずのうちに揺すりながら、考えにふけっていた。「イスレナがもう行動を起こしたようね。そうでしょう?」
「はい、今朝ほど報告が入っております」ジャヴェリンは答えた。「グロデグはすでにアルダー河口へ向かう途中にあり、イスレナ王妃の部下が現在、地方で信者たちを徴集してまわっているそうです」
「ボクトールから、熊神信者たちを追い出す件についてはどうなっているの?」
「それについては何とかなりそうです」ジャヴェリンは言った。「それにあたってはスパイ養成学校の卒業を早めて、実地の任務で研修をさせるようなかたちにしなければなりませんが、ともかく処理できそうです」
「そう、ならばけっこうだわ、ジャヴェリン」ポレン王妃は決然とした口調で言った。「さっそく全員を船に乗せてしまいましょう。ボクトールの熊神信者すべてを集め、分散させるのです。かれらをあなたの管轄下でもっとも厳しい任務につけていただきたいわ。各自、最低五十リーグ以上は近づけないようにしてね。言いわけや、突然の病気や、辞職などはいっさい認めません。各自に仕事を与え、必ず行なわせるようにするのです。日暮れまでには情報部にもぐりこんだ信者たちが全員ボクトールを発つようにしてもらいたいわ」
「かしこまりました、ポレン王妃」ジャヴェリンは言った。「そうだ、ナドラクの商人ヤーブレックがまたヤー・ナドラクに戻っております。また王妃に鮭の遡上のことをお伝えしたいとか言うことです。よくよく魚のことが頭を離れないようですね」
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12[#「12」は縦中横]
チェレクの艦隊を東の崖にあげ終わるまでにはまる二週間を要した。その間ローダー王はいらいらしながら作業の進行状態を見守っていた。
「これが時間のかかる作業だということはご存じのはずよ」セ・ネドラは、頭から湯気をたて汗を浮かべ、そびえたつ断崖に何回となく不機嫌な視線を投げかけながら、同じ場所を行ったり来たりしているローダー王に声をかけた。「なぜ、そんなにいらいらなさっているの」
「船が白日のもとにさらされておるからだ」王はかみつくような口調で言った。「引きあげ作業をしている間は、船は隠すことも偽装することもできん。船は今回の作戦のかなめなんだぞ。もし崖の上のやつらがよけいな詮索でも始めれば、われわれはタール人どころか全アンガラクを相手にしなくてはならん」
「心配のしすぎよ」王女は言った。「チョ・ハグとコロダリンが、崖の向こうに見える限りの土地を焼きはらっているわ。ザカーズもタウル・ウルガスも、わたしたちが崖を上ってることに気づくほど暇じゃないはずよ」
「きみのようにものを考えずにすんだら、さぞかし気が楽だろうな」ローダー王は皮肉っぽく言った。
「失礼なこと言うものじゃなくてよ、ローダー王」
そこへトルネドラ製のマントを一分のすきもなく着込んだヴァラナ将軍が、足を引きずりながらやってきた。かれは何かを勧めるときの、わざとらしいためらいの表情を浮かべていた。
「ヴァラナ将軍、なぜおまえはトルネドラの軍服を着ようとせんのだ」ローダー王がいらだたしげに怒鳴った。
「わたしは非公式な立場でここに来ておりますから」将軍は落着きはらったようすで答えた。
「トルネドラはあくまでも中立を守っておりますのでな」
「たわごとだ。みんな知っていることだ」
「だが重要なことです。皇帝はまだタウル・ウルガスやザカーズにも外交経路を持っておられますからな。もしトルネドラの将軍が軍服を着ているところを見られたら、外交関係が悪化するでしょう」かれはここで、言葉をとぎらせた。「ところで、少しばかり提言してもよろしいですかな」
「その提言とやらの内容によりけりだ」ローダーは乱暴な口調で答え、それから顔をしかめて謝った。「すまん、ヴァラナ。作業が遅れていらいらしているものでな。それで今度はいったい何かな」
「そろそろ崖の上に司令部を移すことを考えられた方がよいと思われます。そうすれば歩兵の大集団が崖上に集結したあとの行動が円滑に進むでしょうし、態勢が完全に再び整うまでには二、三日を要するからです」
ローダー王は崖面に沿ってゆっくりと引き上げられていくチェレクの船をじっと見つめていた。「わたしには絶対にあんなものに乗りはせんからな」かれは断固たる口調で言った。
「ですがまったく危険はありませんよ、陛下」ヴァラナは安心させるように言った。「すでにわたし自身、数回崖上にのぼっております。レディ・ポルガラも今朝あがられたばかりですぞ」
「ポルガラなら何かあったときには、飛びおりることができるではないか。わたしにはそんなまねはできん。あんな高さからわたしが落ちたらどんな穴ができるか想像してみろ」
「だが他の方法ではかなりたいへんなことになりますぞ。崖のいただきから、いくつか岩溝が走っているのですが、わずかに傾斜がゆるくなっているようなので、何とか馬なら通れるでしょう。だが急な勾配には変わりありませんな」
「少しぐらいつらかろうと、かまわんよ」
ヴァラナ将軍は肩をすくめた。「それではどうぞ、ご随意に」
「わたしたちはお仲間ね」セ・ネドラが快活な口調で言った。
王は疑わしげな目で王女を見た。
「わたしも機械は苦手なのよ。それじゃ服を着替えてくるから、すぐに出発しましょうよ」
「今日やろうというのかね」王は悲しげな声を出した。
「別に遅らせる理由もないでしょ」
「わたしには十以上思いつけるがな」
急な勾配≠ニいう言葉はなまやさしいことがすぐにわかった。それはむしろ断崖絶壁≠ニ言った方がふさわしかった。むろん馬で登るなどということは論外だったが、岩壁の特に険しいところには、登るのを助けるためのロープが張られていた。ドリュアドの丈の短い服を着たセ・ネドラは、りすのような身軽さでロープをたぐりながら、すいすいと崖を登っていった。ローダー王はそれからかなり遅れていた。
「頼むからうなるのはやめて下さらないこと?」一時間ばかりも登ったところでセ・ネドラが言った。「まるで病気の牛みたいに聞こえるわ」
「だがこれではあまりに不公平だ、セ・ネドラ」ローダー王は立ち止まって、滝のような汗をぬぐいながら、ぜいぜいと荒い息をした。
「公平だと言った覚えはなくてよ」セ・ネドラは茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。「さあ、行きましょう。先は長いわ」そう言うやいなや、彼女は再び次の五十ヤードを登り始めていた。
「その服は少しくだけすぎていないかね」王はあえぎながら非難がましく言った。「高貴なご婦人はそのように脚を見せるものではない」
「何がいけないの」
「素足ではないか。それがいけないのだ」
「そんなことでお上品ぶらないでよ。わたしにとっては、これが快適なの。それが一番かんじんなことなのよ。さあ来るの、それとも来ないの?」
ローダー王は再びうなった。「そろそろ昼食の時間ではないかね」
「お昼ごはんは食べたばかりじゃないの」
「そうだったかな? 覚えていないぞ」
「最後のパン屑をはらったとたん、もう前の食事のことを忘れてしまうのね」
「それが太った人間の性《さが》なのだよ、セ・ネドラ」そう言ってかれはため息をついた。「前の食事はもう過去だ。わたしにとっては次に来る食事の方が重要なのだ」王はこれから先の、なさけ容赦ない斜面を悲しそうに見あげ、再びうなり声をあげた。
「ご自分が望んだことなんですからね」セ・ネドラは無情にも言いはなった。
ようやく二人が崖の上に到達したとき、太陽は西に沈もうとしていた。ローダー王は地面にくずおれたが、セ・ネドラはもの珍しそうにあたりを見まわした。崖上にそって築かれた長大な要塞が、威圧的にそびえたっていた。土と石で作られた壁は、ゆうに三十フィートの高さがあった。開かれた門のむこうにはさらに壁がめぐらされ、その前には先を尖らせた杭や、刺のあるイバラの林立する溝が掘られていた。主壁にそうようにして要所要所に小要塞があり、壁の中には兵士たちの宿舎がずらりと並んでいた。
砦は人々であふれかえり、それぞれの場所でたち働いているために、絶え間なくほこりが舞いあがっていた。そこへ、煤に汚れ、疲れた馬にまたがったアルガーの氏族の一団がゆっくりと入ってきた。数分後、ミンブレイトの騎士たちが、槍旗をはためかせ、ひづめの音も高らかに、あらたな町を破壊するために砦を出ていった。
崖の縁に設置された巨大な巻きあげ機が、下の平原から引き上げられるチェレク船の重みで、ぎしぎしきしみ、うなり声を上げていた。少し離れた要塞の壁の内側では、そうして引きあげられた戦艦が、五十リーグ離れたマードゥ川上流まで運ばれる日を待ち受けるようにして置かれていた。
ポルガラはダーニクとバラクを従えて、王女と疲労困憊したドラスニア国王をむかえた。
「登りの道はいかがでした」バラクがたずねた。
「身の毛もよだつ思いだ」ローダー王は息もたえだえに言った。「何か食べるものはないか。十ポンドは体重が減ったような気分だ」
「そんなふうには見えないが」とバラク。
「こんな過激な運動は体によくないのよ」ポルガラがあえぎ続ける王にむかって言った。「いったい何で、あんなに頑固に拒否したの」
「じつはわたしは高所恐怖症なのだ」とローダー王は答えた。「あんな機械仕掛けで崖をあがるくらいなら、十回だって登ってやるさ。まったく足の下に何もないというのは、身の毛もよだつような思いがする」
バラクはにやりと笑った。「さぞかしスリルがあったことだろう」
「頼むから何か食べ物を持ってきてくれ」ローダーは哀れっぽい声を出した。
「冷たい鶏肉ならありますが」ダーニクは気づかうように申し出ると、こんがり狐色に焼けた鶏の脚をかれにさし出した。
「どこでこんなものを見つけた」ローダーは肉をもぎとるように奪いながら叫んだ。
「タール人が持ってきたのです」ダーニクが答えた。
「タール人ですって」セ・ネドラは驚きの声をもらした。「何でタール人がここにいるの?」
「降伏したのです」ダーニクは答えた。「この一週間ばかりで、すべての村落の人々がここへ来ました。かれらは要塞まで歩いてくると溝の前に座りこんで、捕らえられるのを待っていたのです。タール人はじつに辛抱強く待ちました。まる一日かそれ以上、要塞の中からかれらを捕らえる者たちが出てこないこともあったのですが、いっこうに平気なようすでした」
「なぜ捕まりにきたのかしら」セ・ネドラがたずねた。
「ここにはグロリムたちがいないからです」ダーニクが説明した。「トラクの祭壇もなければ、いけにえを捧げるための刀剣もありません。タール人はそのようなものから逃げられるのなら、捕虜としての不自由さも耐え忍ぼうと考えたようです。わたしたちはかれらを集め、要塞の中で働かせています。きちんとした監督さえしてやれば、じつに勤勉に働く者たちです」
「だがそんなに信用して大丈夫なのか」ローダーは口いっぱいに鶏をほおばりながらたずねた。
「スパイがまじっているかもしれんぞ」
ダーニクはうなずいた。「わかっています。しかしそのようなスパイはみなグロリムです。タール人にはスパイとしての資質がないので、グロリムは自分たちでやらねばならないのですよ」
ローダー王は思わず鶏の肉をのみこんだ。「グロリムのスパイを要塞の中に入れたというのか」
「それほど深刻なことではありません」ダーニクは言った。「タール人は誰がグロリムかを見分けることができるので、かれらに問題を一任してあります。かれらはグロリムを見つけ出すたびに、崖にそって一マイルほど離れたところへ行き、そこから突き落としています。最初のうちはここから突き落としたがっていましたが、タール人の長老たちは、作業が行なわれているところにグロリムを落とすのは失礼であると考え、邪魔にならないところまで連れていくようになったのです。じっさいかれらはなかなか思慮深い連中ですよ。信用しても大丈夫でしょう」
「鼻が日に焼けたようね。セ・ネドラ」ポルガラが小さな王女に言った。「帽子はかぶらなかったの」
「だって、あれをかぶると頭が痛くなるんですもの」セ・ネドラは肩をすくめた。「少しぐらい日焼けしたって病気になるわけでもないし」
「あなたは自分の顔をもっと大切にしなくてはいけないのよ」ポルガラは言った。「鼻の頭がむけていては、あまり女王らしく見えないでしょう」
「あら、別に心配することないじゃない。いざとなれば、あなたがあれで治してくれれば――」そう言いながらセ・ネドラは魔術を使うような仕草をしてみせた。
ポルガラは冷ややかな目でセ・ネドラをじっと見た。
チェレクのアンヘグ王が、がっしりした〈リヴァの番人〉をともなってやってきた。「やあ、崖登りは楽しかったかね」かれはローダーに愉快そうにたずねた。
「鼻にパンチを食らいたいのか」ローダーが言った。
「おやおや、今日はご機嫌が悪いようだな。だがきみの気分を少しは明るくするようなニュースが届いたんだがな」
「急な要件か」ローダーは大儀そうに身を起こしながら言った。
アンヘグはうなずいた。「きみが崖登りしているあいだに下から届けられたんだ。信じられないようなことが起こったぞ」
「ともかく内容を教えてくれ」
「きみは絶対に信じないぞ」
「アンヘグ、さっさと言ってくれ」
「われわれはあらたなる戦力を得ることになる。イスレナとポレンはそのために、先週はずいぶん忙しかったようだ」
ポルガラが鋭い目つきでアンヘグを見た。
「なあ、おい」アンヘグ王は、折りたたまれた紙を取り出しながら言った。「わたしはあのイスレナが読み書きできるとは夢にも思ってはいなかったが、こんなものが来たのだ」
「もったいぶるのはおよしなさい、アンヘグ」ポルガラがたしなめた。「ご婦人方がいったい何をしたというの」
「どうやらわれわれが出発したあと、態神信者がのさばり出したようだ。グロデグは男たちが留守のあいだに天下を握ろうと考えたにちがいない。やつがヴァル・アローンで権力をふるい始めるのと、ときを同じくしてそれまでボクトールのドラスニア情報部本部にもぐりこんでいた信者どもの動きも活発になった。連中はここ数年来、この日のために着々と準備をしていたようだな。とにかくイスレナとポレンは情報を交換し、グロデグの力がどれほどまで両国間に浸透しているかを知り、ついに最終行動に踏みきったのだ。ポレンは熊神信者たち全員をボクトールから追い出し、かれらをもっとも過酷な任務につけた。一方、イスレナはヴァル・アローンの信者たちを一人残らず狩りだして、戦地にむかわせた」
「信じられん」ローダーは、びっくりしてあえぐように言った。
「驚くべきことだとは思わんか」アンヘグ王は粗野な顔をゆっくりとほころばせた。「何といってもすごいのは、わたしにすらできなかったことを、あのイスレナがやってのけたことだ。女性は聖職者や貴族を捕らえることに――たとえば対決する証拠を集めたりするとかいった配慮などにまったく無とんちゃくらしいな。彼女たちに対するわたしの過小評価は、彼女たちの無知と同じように一笑にふされることだろう。むろんグロデクには詫びのひとつも言わねばならんだろうが、ことはもう起きてしまった後なのでな、熊神信者たちはやってくるのだし、かれらを戻らせるもっともな理由もない」
ローダーもアンヘグと同じように人の悪い笑みを浮かべた。「グロデグをどうするつもりだ」
「やつはさぞかしかんかんに怒っているだろう。イスレナはすっかりかれの面目をつぶしてしまったのだ。われわれと合流するか地下牢へ行くかとせまったらしい」とアンヘグ王。
「ベラーの高僧を地下牢へ送りこむなんてできるわけがない」ローダーが大声を出した。
「だがイスレナはそのことを知らなかったし、グロデグにもそれがわかったのさ。誰かがやってきてそれが違法だということを教える前に、彼女はあいつを一番深いあなぐらの壁に鎖で縛りつけていただろうな。イスレナがあの老いぼれふいごに最後通牒をつきつけたところが目に浮かぶようではないか」その声はひどく得意気だった。
ローダー王がずる賢い笑みを浮かべて言った。「この作戦は、遅かれ早かれ大激戦になるだろうな」
アンヘグ王はうなずいた。
「熊神信者は常日ごろからその闘争能力を自慢していたな」
アンヘグ王は再びうなずくと、にやりと歯を見せた。
「攻撃の最先端にはうってつけだと思わんか」
アンヘグ王の笑みに悪意がこもった。
「さぞかしかれらの犠牲は大きくなることだろうな」とドラスニアの王。
「これもみな、大義のためだ」アンヘグ王がいかにも敬虔そうに答えた。
「さあ、お二人でにやにや笑うのがすんだら、王女を日陰に連れていきましょう」ポルガラが言った。
それから一週間というもの、崖上の要塞は目まぐるしい忙しさだった。最後のチェレク船が引きあげられると、アルガーの氏族とミンブレイト騎士団は、タール側の村落にまで攻撃の手を伸ばしはじめた。「ここから五十リーグ内外には草木一本残ってはおりません」ヘターが報告した。「焼くのでしたら、もっと遠くまで行かねばなりません」
「マーゴ人はたくさんいたかね」バラクは鷹のような顔をした若者にたずねた。
「少しですけれどね」ヘターは肩をすくめた。「まだ注意を惹くほどの数ではないですが、しばしば出くわします」
「マンドラレンはどうしている」
「この数日は顔を合わせていませんが、かれのむかった方向におびただしい煙が立ちのぼるのが見えました。どうやらせっせと働き続けているようですよ」
「この先の土地はどんなぐあいかね」アンヘグ王がたずねた。
「この高地を抜けてしまえばそんなに悪くはありません。この断崖の先のタール国の地域は相当なものですからね」
「相当なものとはどういうことだ。われわれは船を引きずって通り抜けねばならんのだぞ」
「一面の岩と砂、刺のある茂みが少し、水はまったくありません」ヘターは答えた。「おまけにかまどの焚口にいるよりも暑いのです」
「そりゃあ、結構なことだな」アンヘグ王が言った。
「王のご要請でご説明したのですよ」とヘター。「失礼します。馬を換えなければなりませんし、松明ももっと用意しなければならないので」
「またでかけるのかね」バラクがたずねた。
「それしかやることがありませんからね」
船の引きあげが終わるやいなや、ドラスニア製の巻きあげ機は、大量の食べ物や武器を上げ始め、砦内にあるフルラク王の物資集結場はまたたくまに満杯になってしまった。タール人の捕虜たちは、文句を言わずにすぐ荷を運ぶので、非常に貴重な戦力となった。顔立ちは粗野だったが、素朴な感謝と勤勉さに輝き、敵方の人間でありながらセ・ネドラは好感を抱かずにはいられなかった。タール人の生活が、なぜあのような終わりなき恐怖に満たされているのか、王女は少しずつしだいに理解し始めていた。タール人の家族の中で、グロリムの凶刃に家人を殺された経験のないものは皆無だった。夫、妻、子供、両親を次々といけにえにとられたタール人の最大の望みは何としてでも、かれらの二の舞いを踏まないようにすることだった。この絶えざる恐怖がいつのまにか、タール人の顔から愛情らしきものを奪ってしまったのである。かれらは恐るべき孤独のままに愛もなく、友情もなく、絶えざる恐怖と苦悩以外のものを感じることもなく、ただ生きていたのである。タール人女性の悪名高い好色さは、社会道徳とは何らかかわりを持たなかった。それは単純に生き延びるための手段だったのである。グロリムの刀剣から逃れるために、タール人の女性は常に妊娠していなくてはならなかった。彼女たちは決して欲望に駆られていたのではなく、恐れのためにそうせざるをえなかったのだ。そしてついには完全に人間性を喪失してしまった。
「どうしておめおめとあんな生き方に甘んじていられるのかしら」セ・ネドラはポルガラにむかってぶちまけるように言った。「なぜ、グロリムに反逆して、追い出そうとしないの」
「いったい誰がその指揮をとることができるのか、考えてごらんなさい、セ・ネドラ」ポルガラが穏やかに言った。「グロリムの中には、果樹園から果物をもぎとるように、やすやすと人の心が読める者がいるということを、タール人たちは知っているのよ。もしかれらがそんな反逆を企てようものなら、たちまち祭壇に引きずっていかれるでしょうよ」
「でもあれじゃあまりに悲惨すぎるわ」
「たぶん、わたしたちはそれを変えることができるかもしれないわ」ポルガラは言った。「わたしたちが行なおうとしていることは、西の国々のためだけではなくて、アンガラク人のためにもなることなのよ。わたしたちが勝てば、かれらはグロリムから解放されるわ。最初はわたしたちに感謝しないでしょうけれど、ときがたてばわかってくれるわ」
「なぜ、わたしたちに感謝しないの」
「もしわたしたちが勝てば、かれらの神を殺すことになるからよ。それを考えればとうてい感謝する気にはなれないでしょう」
「でもトラクは怪物だわ」
「怪物でもかれらの神なのよ。自分たちの神を失うということはとてつもなく恐ろしいことなのよ。ウルゴ人に神のない生活がどんなものなのか聞いてみるといいわ。ウルがかれらの神になってからもう五千年になるけれど、かれらはまだ神のいなかった時代を忘れてはいないはずだから」
「わたしたちは勝てるわよね?」セ・ネドラは急に恐怖がこみあげてきたようだった。
「わからないわ、セ・ネドラ」ポルガラは静かに答えた。「わたしも、ベルディンも、父も、アルダーにさえわからないの。ただやってみるしかないのよ」
「もし負けたらどうなるの」王女は怯えたように小さな声でたずねた。
「タール人のように奴隷になるでしょう」ポルガラは静かに答えた。「トラクが全世界を支配する神となり王となるわ。他の神は永遠に追放され、グロリムがわたしたちを支配するでしょうね」
「そんな世界で生きていたくないわ」セ・ネドラは強い口調で言った。
「誰だってそう思っているわ」
「トラクに会ったことがあるの?」だしぬけに王女はたずねた。
ポルガラはうなずいた。「一、二度会ったことがあるわ。かれがブランドと決闘する少し前にボー・ミンブルで会ったのが最後だわ」
「かれはいったいどんなようすをしているの」
「神だわ。かれの心の力は圧倒的よ。かれに話しかけられたら、聞かざるをえないの。命令されれば従わざるをえないのよ」
「むろんあなたは別よね」
「あなたにはわからないようね」ポルガラの表情は重々しく、その燃えるような瞳は、今では月と同じくらい遠くにあり、近寄りがたかった。彼女はそれ以上関心はないといったようすで、エランドを抱きあげると、ひざの上に乗せた。子供はいつものように彼女に笑いかけると、手を伸ばし、額に垂れ下がる白い巻毛に触れた。「トラクの声にはほとんど抵抗を許さない強制力があるのよ。かれがいかにゆがんで邪悪かはよくわかっているのに、話しかけられると、それだけで抵抗心はこなごなに砕け、突然自分がもろくなったような気がして恐ろしくなるの」
「でも、もちろんあなたは怖くなんかないでしょ」
「まだわかっていないようね。むろんわたしだって怖いわ。わたしたちはみんな――あの父でさえトラクを恐れているわ。あなたがトラクに会わないことを祈りましょう。かれはチャンダーのように取るに足らないグロリムや、クトゥーチクのような策謀家の魔法使いとも違うわ。かれは神なの。見るもおぞましい不具のうえ、心がひどくねじけているのよ。かれはのどから手がでるほど欲しがっている何か――人知では推し測ることのできない深遠な何かに拒否されたために、狂気に駆りたてられているの。その狂気は、いくら凶悪とはいえタウル・ウルガスのような人間のそれとはまったく異なっているものだわ。トラクの狂気は、神の――自分の病んだ考えを実行にうつすことのできる者――の狂気なのよ。本当に抵抗できるのはあの〈珠〉しかないでしょう。わたしはたぶん、いくらかは抵抗できると思うわ。でもトラクが全力でかかってきたときには、結局かれの言いなりになってしまうでしょう。かれがわたしに望んでいるのは考えるだけでもおぞましいことなのよ」
「あなたのおっしゃることがよくわからないわ、レディ・ポルガラ」
ガリオンのおばは、小さな王女をじっと沈んだ目で見つめた。「あなたは知らなかったのね。それはトルネドラ歴史学会では無視されている、ある過去のできごとに関係することなのよ。お座りなさい、セ・ネドラ。これから説明するわ」
王女は急ごしらえの居室におかれた粗末なベンチに腰かけた。ポルガラのようすはいつもと違ってみえた――非常に静かで、もの思わしげでさえあった。彼女はエランドに腕をまわすと、しっかりと抱き締め、頬をその金色の巻毛にすり寄せた。まるでこの小さな子供にふれることで、大きな安心感を得ているかのようだった。「この世には二つの〈予言〉があるのよ、セ・ネドラ」ポルガラは豊かな声で説明した。「そのうちひとつが選ばれる日が刻々と近づいているわ。過去も現在も未来もすべて〈予言〉の中にあらわされているのよ。あらゆる男も女も子供も二とおりの運命を持っていることになるわ。ある人々にとってはどちらもさほど違わないでしょうけれど、わたしにとっては雲泥の差があるの」
「やっぱりよくわからないわ」
「わたしたちが従っている〈予言〉、わたしたちをここへ連れてきた〈予言〉においては、わたしはベルガラスの娘であり、ベルガリオンの守護者である女魔術師ポルガラだわ」
「それじゃ、もうひとつ何なの?」
「もうひとつの〈予言〉によれば、わたしはトラクの花嫁なのよ」
セ・ネドラは思わず息をのんだ。
「これで、なぜわたしが恐れてるのかわかったでしょう。今のあなたと同じくらいの年に、父からこのことを教えてもらって以来、わたしはずっとトラクを恐れ続けてきたのよ。でもわたしが恐れているのは自分自身のためだけではなくて、もしわたしが負けたら――トラクの意志がわたしを圧倒するようなことがあれば、わたしたちの従ってきた〈予言〉もまた打ち砕かれてしまうことよ。ボー・ミンブルでトラクに呼ばれたとき、ほんの一瞬だったけれど、かれのもとに駆けよりたいという強い衝動を感じたのよ。でもわたしはトラクを拒み通したの。あとにも先にも、あれほど苦しかったことはなかったわ。そのときわたしが拒否したことが、トラクをブランドとの決闘にうながす結果になったのよ。そうでなければ〈珠〉の力を再びかれに向かって放出するのは不可能だったことでしょう。父はわたしの意志の強さにすべてを賭けていたのね。あの老いぼれ狼は、ときとして優秀な賭博師になることがあるわ」
「それじゃ、もし――」セ・ネドラは後を続けることができなかった。
「もしガリオンが負けたら」ポルガラの声は非常に落ちついていた。すでにこれまで何回となく彼女がこの可能性について考えていたことはあきらかだった。「そのときはトラクがわたしを花嫁にめとることになるわ。そしてかれの行動を妨げるものはもはや何ひとつ地上になくなるでしょう」
「そんなことになったら、わたしは死ぬわ」王女は思わず口走っていた。
「できればわたしだってそうしたいわ。でもわたしにはその可能性は許されないでしょう。トラクの意思はわたしのそれより格段に強いから、わたしからあらゆる能力を、ことによっては死にたいという願望さえ奪い取ることでしょう。もしそういう事態になれば、かれに選ばれ愛されることで、わたしは幸福の絶頂にあるように見えるかもしれないけれど、心の奥底では恐怖の悲鳴をあげ続けていることになるのよ。未来永劫、すべての終わりの日がくるまで」
想像しただけでも身の毛がよだつことだった。ついに王女はこらえ切れずにポルガラのひざに身を投げ、女魔術師と子供を抱きしめて、わっと泣き出した。
「泣くことなんてないのよ、セ・ネドラ」ポルガラは泣きじゃくる少女の髪を撫でながら優しく言った。「ガリオンはまだあの〈永遠の夜の都市〉には着いていないし、トラクだってまだ眠っているのよ。まだ少しだけ時間はあるわ。それに先のことなんて誰にもわからないわ。もしかしたらわたしたちが勝つことだってあり得るでしょう?」
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13[#「13」は縦中横]
チェレクの艦隊が全部引き揚げられると、要塞内の動きは一段と活発になった。ローダー王の歩兵団が、アルダー川岸の野営地から岩壁の岩溝をよじ登って、崖上に続々と到着し始めた。食糧や武器を満載した荷車が崖下に運ばれ、そこからは巨大な巻きあげ機で一マイルも上の玄武岩の崖上まで引き上げられた。ミンブレイトとアルガーの略奪部隊は、夜明け前に要塞を発ち、まだ襲撃していない村や町を求めて遠出した。かれらの、短く残忍な攻撃は、形ばかりの外壁に囲まれたタール人の町や村に向けられ、豊かに実った畑を一面に焼き払い、ついに士気のあがらないタール軍を出動させるにいたった。かれらはミンブレイトの攻撃があるたびに一時間、ひどいときは丸一日遅れて駆けつけるために、残っているのは、廃墟と化した町、兵士たちの死体、路頭にさまようおびえきった人々というありさまだった。素早い攻撃をしかけるアルガー人の行く手をはばもうとするタール人もいないわけではなかったが、かれらの前に広がるのは見渡すかぎり黒く焼け焦げた畑だった。襲撃者の動きは迅速で、タール人は死にものぐるいになって追いかけたが、かれらに捕まるような相手ではなかった。
タール人には、略奪者の巣である要塞を攻めることすら思い浮かばないようだった。たとえその気になったとしても、計画はすぐに中止になっていただろう。堅固な要塞を攻撃するなどというのは、およそタール人に向かない仕事だった。かれらはむしろあわてて出撃したり、火を追いかけたり、マーゴスやマロリーの国々から何の支援もないことに文句をつけている方が向いていた。マロリーの皇帝ザカーズは、タール・ゼリクから兵を送ることを断固として拒否していた。マーゴスのタウル・ウルガスは南タールに向けて、少しばかりの兵を出撃させたが、これは形ばかりのアンガラクへの連帯を示すものというよりはむしろより優位にたとうとする作戦行動の一部である。ときおり、要塞の近くでマーゴの斥候たちが発見されることがあった。これらようすをうかがうマーゴ人を探しだすために、要塞から、乾燥した丘陵地帯に向けて、毎日巡視が送られた。要塞近くの岩がごろごろしている谷には、ドラスニアの槍兵とトルネドラ軍団の歩兵が多数出向き、くまなく探索を行なった。アルガーの諸氏族は、襲撃に出てないときは、〈マーゴ狩り〉と称する即席ゲームを楽しんだ。かれらはしばしばそのために遠出をしたが、要塞の安全のために休みを犠牲にしているのだとま顔で主張した。むろんアルガーの諸氏族は本気でそう思っていたのである。
「だが、あの地域は巡回が必要なのだ、ローダー」チョ・ハグ王は主張した。「わが氏族のものたちは必要な任務についているだけではないか」
「任務だと」ローダーは不満げに鼻をならした。「きみたちアルガー人を馬にのせ、反対側に何があるかわからない丘でも見せようものなら、たちまち口実を作って出かけたがるんだからな」
「それは誤解だ」チョ・ハグは傷ついた表情で言った。
「いいや、わたしにはきみという人間がよくわかっている」
アルガーの陽気な騎馬兵の定期的な出撃を見守るセ・ネドラと女友だちの表情はしだいに気むずかしいものになっていった。ミンブレイト人の女性の例にもれなく、アリアナはじっとしているのが好きで、男たちが外で活動している間、おとなしく待ち続けていた。一方、ガリオンのいとこであるアダーラは、閉じこもっていることには我慢できなかった。アルガー人である彼女は馬の背にまたがり、風を顔に受け、ひづめの音を耳にしていなければ気がすまなかった。時間がたつにつれ、彼女は不機嫌になり、何度もため息をつくようになった。
「さて、今日は何をしましょうか」朝食後、セ・ネドラは快活な口調で二人の友人にきいた。
「お昼まで、何をして楽しむ?」彼女はすでにその日の計画をたてていたので、少しわざとらしい言い方になった。
「いつものように刺繍をいたしませんこと」アリアナは肩をすくめた。「手と目を使っていても、心と口はあいているからおしゃべりができますわ」
アダーラは大きなため息をついた。
「それとも外に出て、農奴たちを訓練しているわたくしのご主人を見に行きません?」アリアナは少なくとも一日の半分はレルドリンをみつめて過していた。
「かがり火を持って人殺しに出かける人たちをまた見送る気になれないわ」アダーラは少し気むずかしそうに言った。
セ・ネドラは、口論になりかけそうな気配をさえぎるようにして言った。「見まわりに行きましょうよ」彼女はいたずらっぽく提案した。
「セ・ネドラ、もう十数回は小要塞や兵舎を見てまわったじゃないの」アダーラは少し声を荒げた。「今度、あの年老いた軍曹から馬鹿ていねいな石弓の説明をきかされたら、わたし絶対悲鳴をあげてやるわ」
「でも、要塞の外はまだ見ていないでしょう」王女は抜け目なく訊いた。「それもわたしたちの任務だと思わない」
アダーラは素早く王女を見た。ゆっくりと、その顔に微笑みが浮かんだ。「たしかにそうね。今まで思いつかなかったのが不思議だわ。わたしたちって、本当に不注意ね」
アリアナは心配そうな顔をしていた。「ローダー王は、きっとそんな計画に反対なさいますわ」
「ローダーはここにいないわ」セ・ネドラは言った。「フラルク王と一緒に、物資集積所の在庫を調べに出かけているわ」
「それにレディ・ポルガラも賛成なさらないでしょう」反対する自分の声音が弱くなっているのに気づきながらも、アリアナは主張した。
「レディ・ポルガラは魔術師のベルディンと打ち合わせ中よ」アダーラの目がいたずらっぽく踊った。
セ・ネドラはわざとらしいほほ笑みを浮かべた。「それなら決めるのはわたしたちよね」
「戻ってきたときにきっと叱られますわ」アリアナは言った。
「そしてわたしたちは深く反省すればいいのよ」セ・ネドラはクスクス笑った。
十五分ほどして、黒い柔らかい革製のアルガーの乗馬服を着た王女と二人の友人は、馬に乗り、大要塞の中央門から外に出た。彼女たちには、〈リヴァの番人〉の末っ子オルバンが随行した。オルバンはこの計画に賛成しなかったが、セ・ネドラは反対する時間も、彼女の計画をつぶしそうな人物にうかがいをたてる暇も与えなかった。オルバンは不満げだったが、結局いつものように黙々と小さなリヴァの女王の後に従った。
外壁の前に据られた、杭で補強された塹壕はたしかに興味深いものではあったが、どれもこれもみな同じように見えた。それにいくら見事なできばえとはいえ、穴掘りだけでは娘たちの興味を惹けるものではなかった。
「すごいわね」セ・ネドラは、土盛りの上で見張りをしているドラスニアの槍兵に向かって言った。「素晴らしい塹壕だわ。鋭い杭も役だちそうね」彼女は要塞の前に広がる荒れ地に目をやった。「どこからこんな見事な杭を見つけてきたの」
「センダー人たちが運んできたのでございます。女王さま」かれは答えた。「たぶん、北のあたりだと思います。タール人が木を切り、尖らせております。きちんとした指示さえ与えれば、なかなか器用な連中です」
「馬に乗った巡視隊が三十分くらい前にここを通らなかったかしら」彼女は訊いた。
「はい、女王さま。アルガリアのヘター卿と部下の方々です。あちらの方に向かわれました」見張りは南を指さした。
「そう」セ・ネドラは言った。「もしだれかに訊かれたら、かれと合流するつもりだと伝えてね。二、三時間したら戻ってくるわ」
見張りの兵は疑わしそうな顔をしたが、セ・ネドラは反対意見を述べさせるいとまもあたえず口を開いた。「ヘター卿とは要塞の南の先で待ち合わせする約束になっているの」兵士にそう言うと、彼女は友人たちの方を見た。「かれを待たせてはいけないわね。あなたたちったら着替えに時間がかかりすぎるのですもの」彼女は見張りの兵に向かって愛くるしくほほ笑んでみせた。「どうしてだかご存じ? 乗馬服を着るのは時間がかかるのよ。それに髪をすっかりとかし直さなければならないわ。永遠に終わらないんじゃないかと思うほどよ。さあ、皆さん行きましょう。急がなければ、ヘター卿をいらいらさせてしまうわ」セ・ネドラは軽薄な少女のような笑みを浮かべ、ノーブルにまたがり南へ向かった。
「セ・ネドラ」アリアナはショックを隠しきれない声で叫んだ。「嘘をおつきになったのね」
「そうよ」
「恐ろしいことですわ」
「ペチコートに好きでもないひなぎくの刺繍をしながら一日を過すよりはましよ」王女は答えた。
一行は要塞を離れ、焼き払われた茶褐色の起伏が続くゆるやかな丘陵地帯を越えていった。やがて広大な谷間の入口に出た。灰褐色がかった茶色の不毛な岩と土の山が、ゆうに二十マイル先の奥にそびえたっていた。かれらは巨大な風景にすっかり威圧されながら、広大な空間に向かっておりていった。ここでは馬も山にたかるアリほどにしか見えない。
「なにもかもが大きいのね。こんなの見たことがないわ」セ・ネドラは遠くの山々を見つめて目を細めた。
谷底はテーブルの表面のように平たんで、ところどころに丈の低い刺のある灌木の茂みがあるだけだった。地面にはこぶし大の丸石がごろごろ転がり、馬が歩を進めるたびに黄色い粉のような土ぼこりが舞いあがった。昼までにはまだ時間があるにもかかわらず、太陽はじりじりと照りつけ、かまどの中のように熱かった。前方の谷底から熱波が陽炎のようにたちのぼり、ほこりにまみれた灰緑色の茂みが風もないのにゆらゆらと踊っているように見えた。
暑さは焼けつくばかりになっていた。どこにも水場はみあたらなかった。馬はあえぎ、腹部に汗をかいたが、それもすぐに乾いてしまった。
「戻ったほうがいいと思うわ」アダーラは手綱を操りながら言った。「谷のむこうにあるあの丘まで行けるとは思えないもの」
「そのとおりです」オルバンは王女に言った。「どうやら遠くまで来過ぎてしまったようです」
セ・ネドラはノーブルの手綱をひいた。馬は今にも倒れんばかりに頭を下げた。「そんなに大げさにすることないでしょう」彼女はいらいらしながら馬をたしなめた。何もかも彼女の思惑どおりに進んでいなかった。「どこかに日陰はないかしら」彼女の唇は乾き、太陽は帽子をかぶっていない頭を容赦なく照らしていた。
「そのような場所は見あたりませんわ、王女さま」アリアナが岩がごろごろしている谷をみまわしながら言った。
「水を持ってきた人はいないの」セ・ネドラはスカーフでひたいの汗を拭きながらたずねた。
だれも持っていなかった。
「戻ったほうがいいわね」彼女は残念そうにあたりを見まわした。「それにここには見るべきものは何にもないわ」
「馬が来るわ」アダーラが指差して言った。一マイルほど先の、丸い丘陵地帯のわきをしわのように走るぎざぎざの峡谷から、馬に乗った一団が近づいてくるところだった。
「マーゴ人ですか?」オルバンは、はっと息をのんで、剣を抜いた。
アダーラは手をかざして近づいてくる騎馬兵たちをみつめた。「ちがうわ、アルガー人よ。乗り方でわかるわ」
「きっと水を持ってるわよ」セ・ネドラが言った。
十数人のアルガー騎馬隊が、まるで雲を背負っているかのように黄色い土ぼこりをたてながら近づいてきた。アダーラは突然息をのんだ。顔がまっ青だった。
「どうしたの」セ・ネドラが訊いた。
「ヘター卿だわ」アダーラは押し殺した声で言った。
「あんなに離れているのに、どうしてわかるの」
アダーラは何か言いかけようとしたが、口をつぐんだ。
汗をかく馬のたづなを思いっきり引いたヘターの顔には容赦ない怒りが浮かんでいた。「こんなところで何をしていらっしゃるのです」鷹のような顔と黒ずんだ頭皮がかれを野生的で恐ろしげな形相に見せていた。
「遠乗りしてみようと思っただけよ」セ・ネドラはなるべく顔を見ないようにして、明るく答えた。
ヘターは王女を無視した。「おまえがついていながら何ということだ、オルバン」かれは若いリヴァ人を問いつめた。「なぜ、ご婦人方を要塞の外に出したんだ」
「わたしは女王殿下に命令できる立場にありません」かれは顔を赤くし、かたい口調で答えた。
「ねえ、ヘター、ちょっとした乗馬なのにどうしてとがめるの」
「昨日、ここから一マイルも離れていないところでマーゴ人を殺したのです」ヘターは王女に言った。「運動をなさりたいのでしたら、要塞の中を何時間でも走られるとよいでしょう。何の武装もしないで敵の領地に入るなどとんでもないことです。あなたのやったことは非常に愚かな行為ですそ、セ・ネドラ。すぐに戻りましょう」かれの目は冬の海のように冷やかだった。その口調には有無をいわせないものがあった。
「わたしたちもそうするつもりでしたのよ」アダーラは目を伏せたまま、つぶやいた。
ヘターはかれらの馬の状態をみてとった。「きみはアルガー人だろう、レディ・アダーラ。水を持たないで遠出をするとどうなるのか知らないはずはないと思うが。何の準備もなしにこの暑さの中を出かけたらどうなるのか、よくわかっているはずだ」
青ざめたアダーラの顔はこわばった。
ヘターは首をふった。「馬に水をやれ」かれはそっけなく部下に命じた。「それから、ご婦人方を護衛して要塞に戻る。さあ遠出はおしまいですよ」
アダーラは耐えがたい恥辱にさっと顔を赤らめた。彼女は、容赦ない厳しいヘターの視線を避けようとして、馬上で身体をよじった。そのために、水を与えられたばかりの馬の手綱をぐいっと引く結果になってしまった。驚いた馬は、砂利を蹴り、飛び跳ね、彼女たちが通ってきたばかりの岩だらけの谷底を走り抜けて行った。
ヘターはののしり声をあげ、アダーラの後を追った。
「いったいどうなったの」セ・ネドラが訊いた。
「ヘター卿が心優しいわたくしたちの友人を強く叱りすぎたので、彼女は耐えられなくなったのです」アリアナは説明した。「あの方の言葉は、アダーラさまにとって人生よりも大切なんですわ」
「ヘターが」セ・ネドラはあ然とした。
「わたくしたちの友人がヘター殿をどんな目で見つめおられていたか、お気づきにならなかったのですか」アリアナは少し驚いたようにきいた。
「ヘターが」セ・ネドラは繰り返した。「知らなかったわ」
「たぶん、それはわたくしがミンブレイト人だからですわ」と、アリアナ。「わたくしたちは、そのような愛情の気配に敏感なのです」
ヘターは百ヤード行ったところで暴れ出したアダーラの馬に追いついた。かれは彼女の手綱を掴むと、乱暴に引き止め、鋭い口調で叱責した。アダーラは身をよじらせるようにして、彼女を叱りつける顔を見まいとした。
突然、十二フィートも離れた場所で何ものかがセ・ネドラの目をかすめた。だしぬけに、二つの貧相な茂みのかげから、茶色の防水布をかなぐりすてるようにして、鎖かたびらを着たマーゴ人が立ち上がった。その手の弓にはすでに矢がつがえられていた。
マーゴ人が狙いを定めるのを見た。「ヘター!」セ・ネドラは叫んだ。
ヘターはマーゴ人に背を向けていたが、アダーラは無防備なアルガー人の背中が弓で狙われているのを見た。アダーラは無我夢中でヘターの手から自分の手綱を奪い返すと、かれの馬にぶつかって行った。かれの馬は大きく前脚を上げてよろめき、ヘターを振り落としながら倒れた。アダーラは手綱の端で思いっきり馬のわき腹をたたき、マーゴ人の方に向かって突っ込んでいった。
マーゴ人の顔に一瞬のためらいが走ったが、すぐに娘に向けて矢を放った。
矢がアダーラを射たとき、かなり遠くにいたにもかかわらず、彼女の悲鳴はセ・ネドラの耳をつんざいた。彼女は後になっても恐怖とともにその悲鳴をしばしば思い出した。アダーラは身体を二つに折ると、空いていた手で胸にささった矢を掴んだ。馬は速度を落とすことなくマーゴ人につっ込み、かれを踏みつけた。マーゴ人は脚踏みする馬の下で転げまわった。馬が通り過ぎると、男はよろめきながらたち上がり、刀を抜いた。しかし、すでにヘターがサーベルを抜いていた。刃が陽光にギラギラと輝き、振りおろされた。マーゴ人は倒れる前に一度だけ悲鳴を上げた。
ヘターは血のしたたるサーベルを握ったまま、怒りに駆られながらアダーラのほうに取って返した。「なんて馬鹿なことを」かれはわめいたが、急に息をのんだ。彼女の馬はマーゴ人から数ヤード離れたところに止まっていたが、娘はうなだれるようにして鞍の上に倒れていた。黒髪が青白い顔をヴェールのように覆いながら流れ、その両手は胸のところで押さえつけられていた。娘は、ゆっくりと落ちていった。
ヘターは言葉にならない叫び声を上げると、サーベルを落とし、アダーラのかたわらにかけよった。
「アダーラ!」王女は叫び、両手で顔を覆った。ヘターが矢で射られた娘をそっと抱き起こした。矢は、アダーラの下胸部に突きささり、弱々しい心臓の鼓動とともに上下していた。
二人の傍に走り寄ったとき、ヘターはアダーラを抱きかかえ、傷つき青ざめた顔をじっと見まもっていた。「馬鹿だ」かれはしわがれた声でつぶやいた。「本当に馬鹿だよ」
アリアナは馬が止まるのももどかしく飛びおりると、ヘターの傍に駆けよった。「どうか彼女を動かさないで下さい」彼女は鋭く言った。「矢は肺までたっしています。もし動かしたりすれば、鋭い矢じりが傷を深くし、命とりになります」
「抜いてやってくれ」ヘターは歯をくいしばりながら言った。
「無理ですわ、ヘターさま。矢を抜けばもっと傷が深くなります」
「このような彼女を見るには忍びないのだ」かれは泣き出しそうだった。
「それでは見ないほうがよろしゅうございます」アリアナはアダーラのかたわらにひざをつき、専門家らしい仕種で傷ついた娘ののどに手をあてた。
「死んではいないだろうな」ヘターは懇願するように言った。
アリアナはかぶりを振った。「傷は深いですけれど、心臓はしっかり鼓動しています。即席の担架を急いで作らせて下さい、ヘターさま。友人を要塞に連れて戻り、すぐにレディ・ポルガラの治療を受けさせなければ、わずかに残されている命の火も消えてしまいますわ」
「何か手当はできないのか」かれは恨みがましく言った。
「このような太陽が照りつける荒れ地では無理ですわ、殿下。道具も薬もありませんし、彼女の傷はわたしの手にあまるくらい深いのです。頼みの綱はレディ・ポルガラだけですわ。担架を、どうか、早く!」
ポルガラがアダーラの病室から出てきたのは午後も遅くなってからだった。彼女の瞳には憂うつな表情が浮かび、その視線は石のように固かった。
「彼女はどうですか」ヘターがきいた。かれは何時間も小要塞の主廊下を行ったり来たりしていたが、ときどき立ちどまっては、抑えきれない気持をぶつけるように、むき出しの石壁を拳で乱暴にたたきつけていた。
「少しは良くなったようね」ポルガラは答えた。「峠は越えたけれど、非常に衰弱しているわ。あなたに会いたがっていてよ」
「彼女は、回復するのでしょうね」ヘターは恐る恐るたずねた。
「たぶん――傷が悪化しないかぎりはね。彼女は若いし、傷は見た目ほど深くはなかったから。今は話をしたがるような作用を与えているけれど、あまりしゃべらせてはいけないわ。彼女には休息が必要よ」ポルガラの視線が涙に濡れたセ・ネドラの方に向けられた。「アダーラを見舞ったら、わたしの部屋に来てちょうだい」ポルガラの口調はかたかった。「少し話しあわなければいけないわね」
アダーラの焦げ茶色の髪が陶磁器のようななめらかな顔を囲むようにして、枕の上に広がっていた。顔色は青白く、うっすらとあけられた目に光をたたえ、かれらのあいだをぼんやりとさまよっていた。アリアナは黙って寝台のかたわらに座った。
「具合はどう、アダーラ」セ・ネドラは、病気見舞いをするときに使う、つとめて明るい調子でたずねた。
アダーラはセ・ネドラを見つめ、かすかにほほ笑んだ。
「どこか痛いの」
「いいえ」と、アダーラ。「痛くないわ。でも、頭がふらふらして、変な気分」
「なぜ、あんなことをしたんだ」ヘターの質問は単刀直入だった。「何もマーゴ人の正面から突っ込む必要はなかったんだ」
「いつも馬とばかりいらっしゃるんですもの、ヘター卿」アダーラはかれにかすかにほほ笑みかけながら言った。「ご自分と同じ種族のものが何を考えているか、おわかりにならないんだわ」
「どういうことだ」かれはけげんそうだった。
「言葉どおりですわ、ヘター卿。成熟した雌馬が素晴らしい牡馬に惹かれることにたとえれば、わかっていただけるかしら。でもそれが人間に起きたときには、何もおわかりにならないんだわ」彼女は弱々しく咳をした。
「大丈夫か」かれは鋭くきいた。
「これから死ぬことを思えば――信じられないくらい元気ですわ」
「何を言っているんだ。死にはしないよ」
彼女は弱々しく微笑んだ。「嘘はいわないで。胸に矢がささったらどうなるのかくらいわかっていますわ。だからあなたにお会いしたかったの。もう一度あなたの顔が見たかったのです。今までわたしはずっとあなたのお顔を見続けてきたのですもの」
「疲れているんだ」かれはぞんざいに言った。「眠れば気分も良くなるさ」
「ええ、眠りますわ」彼女は悲しげに言った。「でも、眠ってしまったらもう何も感じなくなるでしょうね。わたしの眠りは二度と目を覚まさない眠りなのよ」
「馬鹿なことをいうんじゃない」
「そうね、でも本当なのよ。わたしはついにあなたの心を捕らえることができなかったのね。でも、わたしもずいぶん頑張ったでしょう。わたし、あなたに魔法をかけてほしいとガリオンに頼んだことさえあるのよ」
「ガリオンに?」
彼女はかすかにうなずいた。「わたしがどんなに必死だったかわかるでしょう? でも、かれはできないって言ったの」彼女は少し悲しそうな顔をした。「だれかを愛するように魔法をかけることができないのなら、いったい何のための魔法かしら」
「愛だって」かれは驚いたような声で繰り返した。
「いやだわ。今まで何の話をしていたと思っていらっしゃるの、ヘター卿」彼女は優しくほほ笑みかけた。「ときどき、あなたって本当に鈍感になられるのね」
かれはあ然として彼女を見つめた。
「でも気になさらないでね。もう少ししたら、わたしは永遠に追うのをやめるわ。そうしたら、あなたも自由になれてよ」
「もっと良くなったときに、そのことについては話しあおう」かれは沈痛なおももちで言った。
「わたしは良くならないの。聞いていなかったの? わたしは死ぬのよ、ヘター」
「違う、死にはしない。ポルガラが良くなると請けあってくれた」
アダーラはアリアナを見た。
「あなたの傷は致命傷ではないわ」アリアナは力づけるように言った。「ですから本当に死ぬようなことはありません」
アダーラは目を閉じた。「何てことなの」彼女はつぶやいた。頬に少し赤味がさした。そしてふたたび目をあけて言った。「あなたに謝らなくては、ヘター。あのおせっかいな女魔術師が命を助けてくれたのを知ってたなら、何も言わなかったのに。元気になったら、すぐに国に戻るわ。もう二度とわたしの馬鹿げた片思いであなたを悩ますようなことはしません」
ヘターは鷹のような顔に終始こわばった表情を浮かべて娘を見おろしていた。「そんなことはしなくていい」そして優しく彼女の手をとると、言った。「わたしたちの間には話しあわなければならないことがある。今はそのときではないが、それでもわたしの手の届かないところには行ってほしくない」
「ご親切にありがとう」彼女はため息をついた。
「ちがう。わたしは本気なんだ。きみは、マーゴ人を殺す以外に大切な何かをわたしに与えてくれた。慣れるまでにはしばらく時間がかかるかもしれないが、わたしがそれを乗り越えたら、ぜひ話しあいたい」
彼女は唇を噛み、顔を隠そうとした。「まったく、自分で墓穴を掘ってこの始末なんだから。これが他人の話だったら、大笑いしているところだわ。わたしたちもう二度とお会いしない方がいいわ」
「だめだね」かれは手を握ったまま、かたい口調で言った。「そんなことはさせない。逃げても無駄だよ。わたしはみつけてしまうからね。アルガリアの馬を全部使ってきみを探すつもりだ」
アダーラはけげんそうにかれを見た。
「わたしはヘターだよ。馬と話をすることができる」
「そんなの不公平だわ」彼女は反論した。
かれはからかうように彼女にほほ笑んだ。「じゃあ、ガリオンに頼んでわたしに魔法をかけようとしたことは」
「まあ!」彼女は顔を赤らめた。
「そろそろ休ませなければいけません」アリアナはみんなに言った。「でも、明日になれば、もっと話ができますわ」
廊下に出ると、セ・ネドラは長身のヘターに向かって言った。「もっと希望を持てるようなことを言ってあげればいいのに」
「まだ時期尚早かもしれません」かれは答えた。「でも、わたしたちは定められた二人なんです、王女。口にしなくても、アダーラは情況を理解してくれます」巻毛を馬のたて髪のように革の鎧の肩までのばしたヘターは今までになく厳しい表情を浮かべ、鋭い顔をこわばらせていた。しかし、その目はいくぶん和らぎ、眉間にはかすかに困惑したようなしわが浮かんでいた。
「ポルガラ殿とお会いになるはずではなかったのですか」かれの言い方は丁寧だったが、有無をいわせぬところがあった。
男性の大多数に特徴的な察しの悪さについて一人ごちながら、王女は女魔術師のもとへ向かった。
レディ・ポルガラは自室で静かに彼女を待っていた。「さて」王女が入ってくると彼女は声をかけた。「説明してもらいましょうか」
「何の説明?」
「アダーラに命を落とさせかけた白痴的行為の理由よ」
「わたしの過失だとは思っていらっしゃらないわよね」
「じゃあ、だれの過失なの。そもそも、あんなところで何をしていたの」
「ちょっと馬を走らせていただけなのに。ずっとこんなところに閉じこめられていて退屈していたのよ」
「退屈。それが友人を殺すに値するもっともな理由になると思う?」
セ・ネドラはあ然としてポルガラをみつめていたが、急に青ざめた。
「なぜ、この要塞を築いたのか考えたことはあるの、セ・ネドラ。わたしたちの身を護るためなのよ」
「あんなところにマーゴ人がいるなんて知らなかったのよ」王女は泣き叫んだ。
「ちゃんと見たわけじゃないでしょう」
突然、自分のしたことの意味を知って、セ・ネドラはうちのめされた。彼女はわなわな震え、唇に手をやった。わたしの過失! いくらのたうちあがき、責任をまぬがれようとしても、彼女の愚かさのために親友の一人が命を落としかけたのは、間違いもない事実だった。アダーラはセ・ネドラの子供じみた無思慮な行為のために死ぬところだったのだ。彼女は両手に顔をうずめると、激しく泣き始めた。
セ・ネドラが落着いて自分の罪を認められるようになるまで、ポルガラは泣かせておくことにした。やがて頃合いをみて口を開いた。
「涙は血を洗い流してくれないわ、セ・ネドラ。少なくともあなたの判断を信じてもいいと思うようになっていたのに、どうやらわたしが間違っていたようね。もう出て行ってもいいわ。これ以上話すことは何もありません」
すすり泣きながら、王女は部屋を出た。
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「どこもこんなようすなのかね」と、アンヘグ王はきいた。連合軍は砂利まじりの平坦な谷底を行軍していた。谷を囲むようにそびえ立つむきだしの山々は、じりじりと照りつける太陽の光の中でゆらめいていた。「砦を出てから木をまだ一本も見ていないぞ」
「ここから二十リーグ行ったあたりから、景色が変わってきます、陛下」強い日ざしの中、馬の背にゆっくりゆられながら、ヘターは丁重な口調で答えた。「この高原地帯が終わるあたりになると、木々が見え始めます。貧弱なトウヒの灌木ですが、単調な景色に変化を与えてくれるでしょう」
かれらの後ろには何マイルもの列が続き、その後部は細い線となって広大な空虚の向こうに消えていた。目に見える人馬よりも、何千組もの足がまき起こす黄色い土ぼこりがことさらその規模を強調していた。防水布でしっかりと包み隠されたチェレクの船は、車輪のついた船架にのせられ、石がごろごろしている大地をガタガタと揺れながら進んでいた。まるで砂まじりの毛布をかぶっているようで、窒息しそうなくらい暑かった。
「そよりとでも風が吹いてくれれば、大金を払っても惜しくない」アンヘグ王は顔を拭いながら、もの欲しそうに言った。
「やめておいた方がいいぞ、アンヘグ」バラクがたしなめた。「今に砂嵐を起こしてくれと言い出しかねないからな」
「川までどのくらいあるのだね」かわりばえしない景色に目をやりながら、ローダー王は悲しげに言った。炎暑は、太った国王にも容赦なく襲いかかっていた。かれの顔は砂糖大根のようにまっ赤で、汗がしたたり落ちていた。
「四十リーグはあると思います」ヘターが答えた。
先鋒部隊のようすを見に行っていたヴァラナ将軍が、かす毛の雄馬に乗って、戻ってきた。将軍は丈の短い革のキルトを着て、略式の胸あてをつけていた。その兜には、地位を示すようなものは何もついていなかった。「ミンブレイトの騎士たちがマーゴ人の一団を撃退したもようです」かれは報告した。
「何人くらいだ」ローダー王がたずねた。
「二十人くらいですな。三、四人逃げたようですが、アルガー人が追いかけております」
「巡視隊はやりすぎじゃないか」アンヘグ王が顔をぬぐいながら苛立たしそうに言った。「これらの船だって、とても荷車には見えないぞ。何とか早くわたしなりの戦いかたをしたいものだ――ただし、マードゥ川につけたらの話だが」
「むこうに人をやって探らせている最中だ、アンヘグ」チョ・ハグ王が言った。
「マロリー人には会った者はいるのかね」アンヘグがたずねた。
「今のところはまだだ」とチョ・ハグ。「われわれが出くわしたのはマーゴ人かタール人だ」
「どうやら、ザカーズはタール・ゼリクに居すわっているつもりのようですな」ヴァラナが口をはさんだ。
「かれはどんな人物なんだ」ローダーがきいた。
「皇帝からの使者によれば、非常に民主的で、文化的かつ洗練され、礼儀正しい人物だそうです」と、ヴァラナが答えた。
「まったく反対の人物のようだな」ローダーは反論した。「ナドラク人はかれを恐れている。ナドラク人を恐れさせるだけでも大変なのに」
「かれがタール・ゼリクに留まっているかぎり、どんな人物であろうと構わないさ」アンヘグが断言した。
かれらの後ろに延々と続いている歩兵と荷車の列から、ブレンディグ大佐が馬を走らせてきた。「フルラク王が隊を休憩させたいとおっしゃってます」
「またか」アンヘグはいらだった。
「もう二時間も行軍しております、陛下」ブレンディグは指摘した。「このような暑さと埃の中を行軍するのは、歩兵にとっては非常に酷なことです。もし、行軍によってすっかり疲弊することになれば、よい戦いはできないでしょう」
「隊を休ませなさい、大佐」ポルガラはセンダリアの准男爵に命じた。「この件に関してはフルラクの判断を支持するわ」そしてチェレク王の方を見た。「そんな不満そうな顔をするのはおよしなさい」彼女はたしなめた。
「わしだって生きながらあぶられているような気分だ、ポルガラ」かれは苦情を述べた。
「あなたも数マイル歩いてごらんなさい」ポルガラはやさしく言った。「歩兵たちがどんなに苦しいかわかるでしょう」
アンヘグは顔をしかめたが、それ以上は文句を言わなかった。
隊が休憩のために停止したので、セ・ネドラ王女は汗みどろの馬のたづなを引いた。アダーラが傷ついて以来、王女は口数が少なくなっていた。友人を死にいたらしめたかもしれないという責任を痛感した彼女は、すっかり沈みこんで、彼女らしからぬ殻の奥に引きこもっていたのである。王女は、強い日ざしを防ぐためにタールの捕虜が編んでくれたざっくりした麦藁帽子をぬいだ。
「帽子をかぶりなさい、セ・ネドラ」レディ・ポルガラは言った。「あなたを日ざしにさらしたくないわ」
彼女はすなおに帽子をかぶった。「かれが戻ってくるわ」彼女は空の一角を指さして言った。
「ちょっと失礼します」と言いながら、ヴァラナ将軍は馬の向きをかえて立ち去ろうとした。
「馬鹿な真似をするんじゃない、ヴァラナ」ローダー王はトルネドラ人に言った。「あの魔術師がきみの信じられないことをするからといって、なぜ頑強に拒否するのかね」
「信条の問題ですな、陛下」将軍は答えた。「トルネドラ人は魔法を信じていません。わたしはトルネドラ人です。したがって、わたしは魔法の存在を認めることはできません」かれは恥じ入るように言った。「入手方法はともあれ、かれの情報は恐ろしく正確であることは認めますが」
突然、石がふってきたように、焼けつくような暑さの中を青い縞をつけた鷹が急降下してきた。鳥は翼をひとふりすると、かれらの前に着地した。
ヴァラナ将軍は、決然として背中を向けると、五マイル先にあるありふれた丘を興味深そうに眺め始めた。鷹は翼を抱くようにたたむと、身体を小刻みに震わせ変身を始めた。「また止まったのかい」ベルディンはいらだっていた。
「隊を休ませなければならないのよ、おじさん」ポルガラが答えた。
「日曜の散歩ではないんだぞ、ポル」ベルディンが言い返した。かれは脇の下をかき始め、聞くにたえない冒涜的な雑言を撒きちらした。
「どうしたの」ポルガラが優しくきいた。
「シラミだ」かれはうなった。
「どこでそんなものうつされてきたの」
「鳥たちを訪ねて、何か見なかったか訊いてまわった。ハゲワシの巣の中であいつらを拾ったのだと思う」
「よくハゲワシと友だちになれたものね」
「ハゲワシはそんなに悪いやつじゃないよ、ポル。あいつらは必要上あんな姿をしているんだし、ひななんか可愛いもんだ。雌ハゲワシがここから南に二十リーグ行ったところから、死んだ馬の肉を運んできた。そのことを聞いたあと、わしはその場所に行ってみたら、マーゴの軍隊が行軍しているのに出くわした」
「何人くらいです」かたくなに背中を向けたまま、ヴァラナ将軍がきいた。
「千人くらいかな」ベルディンは肩をすくめた。「やつらは先を急いでおったから、明朝あたり、出会うんじゃないかな」
「千人くらいのマーゴ人ならたいしたことはない」ローダー王は眉をひそめた。「およそわれわれの敵ではない。それにしても、何故、千人ぽっちの兵を投入したのだろう。タウル・ウルガスはいったい何を考えておるのだ」かれはヘターを見た。「すまんが、コロダリンやボー・マンドール男爵のところに行って、ここに来てくれるように伝えて欲しい。軍議を開かなければならない」
ヘターはうなずくと、隊の先頭にいるミンブレイト騎士団の方に馬を走らせた。
「マーゴの隊の中にグロリムはいた?」ポルガラは不潔で背にこぶのある男にたずねた。
「いいや、いたとしてもうまく隠しただろう。それ以上は観察できなかった。わしの正体がばれても困るんでね」
ヴァラナ将軍は、突然、まわりの丘の観察を中止すると、馬首をめぐらして一行に加わった。
「そのマーゴ人の隊は、タウル・ウルガスが申しわけのためによこしたのだと思われます。たぶん、ゲゼール王の歓心を買うためでしょう。マロリー軍がいまだにタール・ゼリクを離れようとしないので、われわれが破壊しているタール人の村や町の防衛を支援することで少しでも優位にたとうという魂胆だと思われます」
「それならわかるな、どうだね、ローダー」アンヘグが同意を求めた。
「そうかもしれん」ローダーは疑わしげに言った。「だが、タウル・ウルガスがそのような理性ある人物のような考え方をするとは思えない」
マンドラレンとボー・エボール男爵を両側に従え、ひづめの音を轟かせながらコロダリン王がやってきた。かれらの鎧兜は陽光に輝いていたが、鋼鉄に包まれている姿は見ているだけで暑くなりそうだった。
「よくそんな格好をしてられるな」ローダー王が言った。
「習慣ですから、陛下」コロダリンは答えた。「鎧兜は決して快適とはいえないときもありますが、信頼はできます」
ヴァラナ将軍が簡単に情況を説明した。
マンドラレンは肩をすくめた。「あまり時間がありませんな。数十人の部下を連れて、その南の脅威を粉砕してまいりましょう」
バラクはアンヘグ王を見た。「わかっただろう? こういうやつなんだ。おかげでクトル・マーゴスにいたときは気がきじゃなかったぞ」
馬に乗ったフルラク王も、軍議に加わり、ためらいがちに咳ばらいした。「意見を述べさせてもらえるかな」
「センダリア王の現実的なお知恵をぜひ拝借したいと思っていたところです」コロダリンは大仰に答えた。
「マーゴの隊はそれほど脅威のあるものではないだろう?」フルラクは同意を求めるように言った。
「そうです、陛下」ヴァラナが答えた。「今のところわかっているのは、かれらが近くにいるということだけです。たぶん、タール人の要請を無視していないという言いわけとして送られてきた部隊でしょう。われわれに近づいてきているのは、まったくの偶然と思われます」
「だが船を運んでいることを気づかれるほど接近されたくはない」アンヘグは断固として言った。
「そうするように、われわれで何とかするさ」ローダーが言った。
「われわれのどの部隊でも、あの程度の人数なら簡単に撃破できるだろう。しかし、士気という面においては、全員で一斉に攻撃するほうがよいのではないだろうか」と、フルラクは言った。
「その意見は支持しかねるな、フルラク」とアンヘグ。
「マンドラレン卿の騎士団で、この千人あまりのマーゴ軍を全滅させるよりも、各部隊から兵を集めて特別軍を編成したほうが効果的ではないかと言っておるのだ。実戦の経験を積むことができるし、各隊も誇りを持つことができる。将来、困難な情況に遭遇したとき、今回の勝利で得られる自信は、強い支えになるだろう」
「フルラク、きみには本当によく驚かされる」と、ローダー。「問題はきみの外見が知性を裏切っていることだ」
フルラク王の提案により、接近してくるマーゴ軍を攻撃するために南に向かう特別部隊が編成された。人選はこれまたフルラク王の提案によってくじで決められた。「かれらだけが優秀な兵士たちというわけではないことがこれで全員にもわかってもらえる」と、王はつけ加えた。
残りの本隊がマードゥ川に向かっている間、バラク、ヘター、マンドラレンの指揮下にある特別部隊が敵を攻撃するために南に向かった。
「かれらは大丈夫かしら」不毛の谷を行く分隊がだんだん小さくなり南の山々の向こうに消えるのを見ながら、セ・ネドラは気づかわしげな顔でポルガラにたずねた。
「大丈夫よ」ポルガラは自信ありげに言った。
しかしその夜、王女は眠ることができなかった。彼女の兵が初めて本当の戦いに行くのかと思うと、悪いことばかり思い浮かび、一晩中まんじりともできなかった。
特別部隊が戻ってきたのは翌日の午前中なかばだった。包帯を巻いている者もちらほらおり、乗り手のいない馬も十数頭あったが、どの顔も勝利に輝いていた。
「なかなかの戦いだった」バラクは報告した。この大男は顔中でニヤニヤ笑っていた。「日没前にやつらをとらえた。連中は何が起こったかすらわからなかっただろう」
観戦という名目で従軍しているヴァラナ将軍は、居並ぶ王たちを前に、バラクのよりもさらに詳細な報告をした。「全般的な戦略は計画どおりに進みました。まず、アストゥリアの弓射兵が嵐のように矢を放ち、その間に、歩兵隊が丘の長い斜面の頂きをめざして進軍しました。次に、ドラスニアの槍兵、センダリア兵及びアレンディアの農奴部隊をそれぞれ均等に攻撃の前面に配置して、さらに背後からは弓射兵が矢を射かけて敵軍を悩ましたのです。われわれの思惑どおり、マーゴ人は攻撃をしかけてきました。やつらが反撃に出るとすぐに、チェレク人とリヴァ人が、後部から一気にくり出し、アルガーの諸氏族が側面から攻撃に加わりました。相手の攻撃が鈍ったところで、ミンブレイト騎士団が一気に攻めこんだのです」
「それは凄かったんです!」レルドリンは目を輝かしながら叫んだ。この若いアストゥリア人は上腕部に包帯を巻いていたが、大きな身振り手振りで話しているうちに、すっかり痛みを忘れてしまったようだった。「マーゴ人がすっかり混乱したところをついて、雷の轟きのような音がしたかと思うと、丘のふもとをぐるっとまわるようにしてミンブレイトの騎士たちが、槍を掲げ、槍旗をはためかせあらわれたのです。かれらはマーゴ人に鋼の波のように襲いかかり、馬たちのひづめの音で大地を震わせました。次の瞬間いっせいに騎士たちが槍を低く構えました。そして一気にマーゴ人を突きさしたまま、速度を落とすことなく駆け抜けていきました。まるでさえぎるものひとつないように駆け抜けていったのです! 連中がマーゴ軍を完璧に粉砕したところで、われわれ全軍でマーゴ軍にとどめをさしました。まさに偉大なる勝利です」
「あいつはマンドラレンと同じくらいどうしようもないやつだな」レルドリンのようすをみていたバラクがヘターに言った。
「たぶん、かれらの血のなせるわざでしょう」と、ヘターはすました口調で答えた。
「逃げた者はいるのかね」アンヘグがきいた。
バラクはいとこに残虐そうな笑みを投げかけた。「日が暮れてから、逃げ出そうと這いずりまわっている物音がしたな。レルグと部下のウルゴ人が、そいつらを片づけに出かけたよ。心配することはない。誰もタウル・ウルガスに知らせに戻ることはできはしまいよ」
「だが、やつは報告を待っとるのではなかったかな」アンヘグがニヤリとした。
「やつが辛抱人であればいいんだがね」バラクは答えた。「さぞかし長いこと待たされるだろうよ」
アリアナは、傷の手当てをしながら、沈痛なおももちでレルドリンの無分別な行動をしかりつけた。彼女の諌めは、単なる叱責よりも効果があった。彼女の口調はしだいに熱を帯び、その長々しくいんぎんな言葉に、若者は涙を浮かべるほどだった。軽いかすり傷でも、アリアナには、不如意の結果としか思えなかったのだ。セ・ネドラは若者の下手な言いわけをアリアナが個人的中傷のようにすりかえていく手ぎわを見つめ、将来のためにしっかりと頭にしまいこんでおくことにした。ガリオンはレルドリンよりも賢いかもしれないが、この戦術はかれのときにも使えると、セ・ネドラは思っていた。
一方、レルグとタイバは何の言葉も交わさなかった。かつてはラク・クトルの地下の奴隷の檻にいたこともあるこの美しいマラグ人女性は、奴隷よりもさらに悄然とした面持ちで部屋に入ってくると、狂信的なウルゴ人の傍らにかけ寄った。彼女は低い叫び声をもらし、われ知らずの相手にむかって両手をさし出していた。レルグは一瞬ひるんだが、おなじみの「さわらないでくれ」というせりふはなぜか口をついて出てこなかった。女の抱擁に狂信者の目は大きく見開かれていた。とたんにかれの戒律を思い出したタイバは、力なく腕を落とした。しかし、大きく目を見開いた青白い顔をみつめるスミレ色の瞳は、燃えるように輝いていた。ゆっくりと、まるで火に手をかざすように、レルグはタイバの手をとった。彼女の顔は一瞬当惑したような表情を浮かべ、すぐにゆっくりと赤らんできた。手に手をとって二人は歩き始めた。タイバは控え目にうつむきかげんに歩いていたが、ふくよかで官能的な唇の端には勝ち誇ったような笑みがかすかに浮かんでいた。
マーゴ軍との戦いに勝利したことで、大いに士気は高まった。要塞を出発した最初の数日、かれらを悩ましていた暑さと埃も、もはや軍団の士気をおとろえさせはしなかった。そして東に進むにつれ、国ごとに分かれていた隊の間に仲間意識が強まってきた。
マードゥ川の源流に到着したのは、それから四日後で、船を浮かべるのに適した流れまで運んでいくのに、もう一日かかった。ヘターとアルガーの諸氏族の巡視隊が、遠くまで偵察にでかけ、十リーグほど先の早瀬を越えてしまえば、あとは穏やかな流れになるむねを報告した。
「では、輸送を早めることができるな」アンヘグ王は言った。「さっそく船を着水させよう。ずいぶん時間を無駄にしたからな」
川岸はかなり高い土手になっていたが、兵たちがシャベルやつるはしで勢いよく崩し始めたので、すぐに川まで平板な斜面になった。船は一隻また一隻と斜面を下って川に運ばれていった。
「マストをたてるのに時間がかかるな」アンヘグが言った。
「あとでいいじゃないか」とローダー。
アンヘグはきっと相手をにらみつけた。
「どちらにしても帆をあげることなぞできやせんよ、アンヘグ。それにマストは背が高すぎる。いくら世界で一番ぼんくらなタール人だって、森のようにマストを林立させて船が川を下ってくるのを見れば何が起きているのか、わかるだろうよ」
全艦船が川に浮かんだのは夕方だった。ポルガラは王女とアリアナとタイバとともにバラクの船に乗った。上流から微風が吹き、川面を優しく撫で、船をゆるやかに揺らした。かがり火の向こう、紫色の空の下にどこまでも続くタールの草原が広がっていた。星が一つまた一つまたたき始めた。
「タール・マードゥまでどのくらいかかるの」セ・ネドラはバラクにきいた。
大男は髭をしごきながら、川下をみつめていた。「早瀬まで一日、それを迂回するために一日、着くのはそれから二日後だな」
「四日もかかるの」セ・ネドラは小さな声で言った。
かれはうなずいた。
「早く終わるといいわね」彼女はため息をついた。
「うまく行くとも、セ・ネドラ」かれは言った。「大丈夫だとも」
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15[#「15」は縦中横]
船はどれも非常に混雑していた。身を寄せあうようにしても船に乗れたのは半数にすぎなかった。チェレクの艦隊が早瀬に向かって川を下っている間、アルガーの諸氏族とミンブレイトの騎士団は川岸に沿って巡視を続け、乗船できなかった歩兵部隊は、予備の馬に乗って隊列を組み、陸路を行進した。
川の両岸に広がるタールの草原は、ゆるやかに起伏する丘陵地帯で、太陽に焼けた濃い茶褐色の草でおおわれていた。川向こうの丘の麓には、トウヒに似たひねこびた木々がまばらにはえ、川岸には柳の茂みや木いちごの藪が生い茂っていた。空は晴れわたり、相変わらず暑かったが、砂漠のような岩だらけの高原地帯ですっかり渇ききってしまった兵士や馬に、川は充分な潤いを与えてくれた。だが何といっても異邦の地なので、騎兵たちは武器に手をかけ、油断おこたりなく巡視を行なった。
やがて、川が大きく曲がっている地点に来た。流れが早くなり、水は白く泡だちながら逆巻いている。バラクは船の舵柄を大きく傾けると、船を岸辺に乗り上げさせた。「さあ、またおりて歩いてもらうぞ」
船首の近くで口論が起きた。茶色い髭のフルラク王が、早瀬の前で荷車を置いていくことに激しく抗議していた。「こんなところに置いていくために、わざわざ持ってきたんじゃない」かれにしては珍しく激した口調だった。
「積み下ろしに時間がかかってしまう」アンヘグが言った。「急がなければならないんだ、フルラク。マーゴスやマロリーに気づかれるまえにタール・マードゥを通り過ぎなければならない」
「のどを渇かせ、腹を空かせて高地を進軍するときには賛成したじゃないか」フルラクは怒っていた。
「それはそのときの話だ。今は船のことを考えなければならない」
「わたしだって荷車のことを考えたい」
「大丈夫さ、フルラク」ローダーがなだめた。「とにかく急がなければならないんだ。荷車があっては足手まといになる」
「だれかがやって来て荷車に火をつけたらどうするんだ。要塞に戻る前に飢え死にするかもしれないぞ、ローダー」
「警備の者を残して行くつもりだ、フルラク。それでいいだろう。心配のしすぎだ」
「これが心配しないでいられるか。アローン人は何でも戦えばいいと思っている」
「ばあさんみたいな繰り言はやめろよ、フルラク」アンヘグはぶしつけに言った。
フルラクの顔が冷やかになった。「今の言葉は忘れないぞ、アンヘグ」かれはかたい口調で言うと、きびすをかえし、おおまたで歩み去った。
「まったく、かれはどうしちまったんだろう」チェレクの王は無とんちゃくにたずねた。
「アンヘグ、口をつつしむ気がないのなら、口輪をはめてもらうことになるぞ」ローダーが言った。
「わたしたちはアンガラク人と戦うためにここまでやって来たと思っていたが、いつのまに変わったのかね」ブランドがおだやかに言った。
セ・ネドラは二人の間に起きた口喧嘩を気に病み、ポルガラに相談した。
「たいして重要なことではないわ」ポルガラはエランドの首をごしごし洗ってやりながら答えた。「戦いが近づいているので、みんなは少しいらいらしているだけよ」
「でも、あの人たちは訓練を受けた勇者たちだわ」セ・ネドラは反論した。
「だからどうだというの」ポルガラはタオルに手を伸ばしながらきいた。
王女は答えることができなかった。
艦隊は無事に早瀬を迂回して、午後の遅くには、白く泡だち逆巻く流れの下流へ再び出た。セ・ネドラは、耐え切れないほどの緊張感にむかつきすらおぼえていた。何ヵ月も軍を率いて東へ行軍してきたが、いよいよ大詰めに近づいていたのである。あと二日もすれば、軍はタール・マードゥの城壁に突撃しているだろう。はたしてそれで間に合うのだろうか。それよりも本当に突撃する必要があるのだろうか。都市のかたわらを通過するだけで、戦いを回避することはできないのだろうか。アローンの王たちは、タール・マードゥを無力化する必要があると口をそろえて主張したが、近づくにつれ、それもあやしく思えてきた。もし、この作戦が間違っていたらどうしよう。セ・ネドラはバラクの船のへさきにたち、タールの草原を蛇行しながら流れる川面を見つめながら、不安のあまり、神経がすり減るような思いだった。
早瀬を越えて二日目に、ヘターが戻ってきた。かれは北側の土手に駆けあがり、馬の速度を落とした。手を振って合図するのに応え、バラクは舵柄を傾け、船は川岸に接近した。
「都市はここから二リーグ先です」背の高いアルガー人は呼びかけた。「あまり近づくと都市の城壁から船が見えるようになりますよ」
「では、もう十分だな」ローダーは決定した。「暗くなるまでここで待つと、後ろの船隊に伝えてくれ」
バラクはうなずき、傍らに待機していた水夫に身ぶりで示した。水夫は先端に赤い旗印をとめたさおを掲げ、合図を送った。後続の艦船はそれに応えて速度をおとした。揚錨機をきしませながら錨がおろされ、船は流れにただよい、ゆらゆらと揺られた。
「どうも気に入らんな」不機嫌そうにアンヘグが言った。「闇の中で行動するのは問題がありすぎる」
「だがそれはやつらにとっても同じことだ」ブランドが言った。
「この件については十数回討議したではないか」とローダー。「最善の計画であるということで全員一致したはずだぞ」
「だがこれまで、こんな作戦はとったことがない」
「そこが鍵なんです」ヴァラナが示唆した。「都市の連中だって夢にも思っていないでしょう」
「本当におまえたちはこの闇の中でも大丈夫だというんだな」アンヘグはレルグにだめ押しするように言った。
狂信者がうなずいた。木の葉の鎖かたびらを頭からすっぽりかぶっているレルグは、ナイフの刃先を注意深く調べていた。「われわれにとって闇は普通の明るさなんです」
アンヘグは顔をしかめて紫色に暮れていく空を見つめた。「わたしは、初めてというやつが大嫌いなんだ」
平原がすっかり暮れるまで、かれらは待った。川辺の茂みでは小鳥が眠たげに鳴き、カエルたちが夜の交響楽を奏で始めた。しだいにたれこめる闇の中で、騎兵部隊が土手に沿って集まり始めた。たくましい軍馬にまたがったミンブレイトの騎士たちが幾重にも列をつくり、その後ろにアルガーの諸氏族が闇の海のように続いていた。南側の土手に集合している隊の指揮者はチョ・ハグとコロダリンで、北側の隊の指揮者はヘターとマンドラレンだった。
マーゴ軍との戦いで負傷した若いミンブレイトの騎士が、馬を囲っている柵にもたれ、日暮れていく景色をものおもいにふけりながら眺めていた。黒い巻き毛の若者は娘のような色白の肌をしていたが、がっしりした首と広い肩をもつ頑丈そうな体躯で、その瞳には何の曇りもなかった。しかし少し、憂うつそうな表情をしていた。
待つことがしだいに耐えられなくなったセ・ネドラは、だれかと話がしたくてたまらなかった。彼女は柵にもたれている若者のかたわらに寄った。「どうしてそんな淋しそうな顔をしているの」彼女は静かにたずねた。
「ちょっと怪我をしたからということで今夜の作戦からはずされたのです」かれは副木があてられている腕にふれながら言った。王女がやってきて話しかけていることに、格別驚いてはいないようだった。
「憎いアンガラク人を殺す機会がなくなったことがそんなにつらいの」セ・ネドラは軽くからかうような口調でたずねた。
「いいえ、レディ」かれはこたえた。「わたしは人種に関係なく、どんな人間も憎んでおりません。ただ能力を競う機会がなくなったことが悲しいのです」
「競う? そう思っているの」
「はい、女王さま。そういう見方をなさったことはないのですか。個人的にはアンガラク人には何の恨みもありませんし、腕くらべをするのに相手を憎むのはおかしいでしょう。わたしもこれまで参加者のうち何人かを槍や刀で倒してきましたが、かれらを嫌ってはいませんでした。それどころか好敵手として好意を抱いていたくらいです」
「でも、かれらを不具にしようという気はあったんでしょう」セ・ネドラは若者の考え方に驚いていた。
「競技ではよくあることです、女王さま。本当に自分の腕を知るためには、相手が傷つくことや死を気にかけるわけにはゆきません」
「あなたの名前は」と、彼女は訊ねた。
「ベリデルと申します」かれは答えた。「ボー・エンデリグ男爵のアンドリグ卿の息子です」
「りんごの木の男爵ね」
「そのとおりです、女王さま」若者は彼女が、父の名前と、ベルガラスがかれの父親に課した奇妙な仕事のことを知っているのを聞いて喜んでいるようだった。「父はコロダリン王の側近として従軍するでしょう。この怪我さえなければ、父とともに今夜の戦いに参加できたのですが」かれは淋しそうに折れた腕を見た。
「別の夜があるわ、ベリデル」王女は請け合った。「別の競技がね」
「そうですね、女王さま」かれは同意した。若者は一瞬顔を輝かせたが、また憂うつな表清に戻ってしまった。
セ・ネドラは、若者をそのままにして離れた。
「本当は連中に話しかけてはいかんのだぞ」薄闇の中から耳ざわりな声がした。みにくい男のベルディンだった。
「かれは何も恐れていないようだわ」セ・ネドラは少しいらだたしそうに言った。この口ぎたない魔術師はいつも彼女をいらだたせるのだった。
「あいつはアレンディアのミンブレイトだからな」ベルディンは鼻をならした。「恐がるだけの脳みそもないさ」
「兵士たちはみんなかれのようなの」
「いいや、大部分は恐れておる。だが、ともかく攻撃あるのみだ――その理由はともあれ」
「では、あなたは」彼女はどうしても訊いてみたくなった。「あなたも恐ろしいの」
「おれの恐怖は一風変わってるんだ」
「どんなふうに」
「ベルガラス、ポル、双子、そしておれは、長く生きてきたからな、自分の命のことを気にかけるよりも、もっと他の何かが悪くなることが気にかかる」
「何かが悪くなるってどういうこと?」
「〈予言〉は非常に難解なんだ。それにすべてが書かれてるわけじゃない。おれが知るかぎり二つの可能性があり、ほんのちょっとのさじ加減で、まだどっちにころぶかわからんときている。もしや何か見逃しておるものがあるかもしれん。そう思うと恐ろしいんだ」
「わたしたちは最善をつくすだけだわ」
「それで十分かな」
「では、どうすればいいの」
「わからん。おれにはそれが気がかりなのさ」
「自分ではどうしようもないこととわかっていることが、なぜ気になるの」
「まるでベルガラスだな。あいつは肩をすくめて、運を天にまかせるところがあるからな。だが、おれはもう少しきちんとしているぞ」かれは闇の中を見すえた。「今夜はポルのかたわらを離れないようにな」それからしばらくして続けた。「彼女から離れてはいかん。思わんところに連れて行かれるかもしれんが、彼女のそばにいれば大丈夫だ」
「どういうこと」
「おれにもわからんよ」ベルディンはいらいらしながら言い返した。「ただわかっていることは、おまえと、彼女と、鍛冶屋と、おまえが連れとる浮浪児は、一緒にいなきゃならんということだ。何か予想もしなかったことが起きるかもしれん」
「それは悪いことなの? みんなに伝えなければ」
「惨事かどうかはまだわからん」かれは答えた。「そいつが問題なのさ。それは必要から起きるのだから、起きたとしてもおれには手出しができん。ここでいつまでも話しあっていてもきりがないから、ポルガラを見つけて一緒にいるんだな」
「わかったわ、ベルディン」セ・ネドラは素直にしたがった。
星がまたたき始めると、錨が巻きあげられ、チェレクの船はタール・マードゥに向かって静かに進み始めた。都市までまだ何マイルもあったが、指揮官たちは小声で命令を下し、音をたてないように注意を払いながら、武器や道具を調べ、ベルトを締め直し、よろいの最終点検を素早く行ない、兜をしっかりかぶった。船中のレルグと部下のウルゴ人たちは、かれら独特のしわがれた発声法で、ほとんど聞きとれないつぶやきを発しながら祈りの儀式を行なった。青白い顔はすすが塗られていたので、ひざまずき神に祈る姿は影のようにしか見えなかった。
「すべてがかれらの働きにかかっているのだ」ウルゴ人の祈祷を眺めていたローダーがポルガラに言った。「はたしてレルグにつとまるのだろうか。やつは少し情緒不安定なような気もするが」
「大丈夫よ」ポルガラは答えた。「ウルゴ人は、あなたがたアローン人よりトラクを嫌っているわ」
船はゆっくりと川にそってカーブを切りながら進んだ。半マイルも行くと、川のまん中に浮かぶ壁に囲まれた都市タール・マードゥがみえてきた。壁の上にはかがり火がいくつか見え、内部からほのかに光が見えていた。バラクは振り返ると、身体をかぶせるようにしてランタンの覆いをとり、一回点滅させて合図を送った。錨が非常にゆっくりと下ろされた。かすかにロープがきしむ音がして、船は停まった。
都市のどこかで犬が激しく吠え始めた。扉が開く音がして、鳴き声が止んだかと思うと、突如、犬が悲鳴をあげた。
「自分の犬を蹴るやつには我慢ならん」バラクはぶつぶつ言った。
レルグとかれの部下は、船の手すりまで静かに移動すると、川面に浮かんでいるボートに移るためにロープを滑り下りた。
セ・ネドラは息をこらし目を大きく見ひらいて闇をみつめていた。かすかな星明りのなかを、いくつかの影が都市に向かって滑るように進んでいるのが見えた。やがて影は見えなくなった。その後、かすかにオールが水をたたく音がして、怒りっぽいささやき声が続いた。錨を下ろした戦艦から次々に小さなボートが離れていくのが見えた。攻撃隊の先鋒がレルグやウルゴ人の後に続いて、タールの要塞島都市に向かっていくところだった。
「あれだけで十分なのか」アンヘグはローダーにささやいた。
丸々太ったドラスニアの王はうなずいた。「かれらの仕事は上陸地点を確保し、自分たちで開けた門を護ることだ。あれだけで十分さ」
夜風がかすかに吹き抜け、川面にさざ波がたち、船が揺れた。もはやこれ以上の緊張に耐え切れず、セ・ネドラは何ヵ月も前にガリオンが渡してくれた護符にふれた。いつものようにいろいろな会話が聞こえてきた。
「ヤガ、トル、ゴーク、ヴィルタ」レルグのかすれた声がささやいている。「カ、タク、ヴェード!」
「何ですって?」眉を少し上げてポルガラがたずねた。
「何を言っているのかわからないわ」セ・ネドラはあきらめたように答えた。「ウルゴ語で話しているんですもの」
護符から奇妙なうめき声が突然聞こえ始めたかと思うと、ぶっつり止んだ。
「だ、だれかを殺したみたい」セ・ネドラは震える声で言った。
「いよいよ始まったな」アンヘグは満足げに言った。
セ・ネドラは指先を離した。闇の中で人が死ぬのを聞くのはもうたえられそうにもなかった。
かれらは待った。
誰かが叫んだ。苦痛に満ちた悲鳴だった。
「あれだ!」バラクが叫んだ。「合図だ。錨を上げろ!」かれは命令した。
突然、目の前のタール・マードゥの暗い壁の上に、二つの灯火がまたたき、何人かの影がうごめくのが見えた。都市の中からカラカラと重い鎖が巻き揚げられる音がしたかと思うと、ギぎいっと重くきしむ音がして門が開き、都市を囲む北側の流れに橋がかけられた。
「位置につけ!」バラクは部下たちに怒鳴った。舵柄を思いっきり傾けると、橋に向けて船を全力で走らせた。
壁の上のたいまつの数が増え、叫び声があちこちで聞こえた。どこかで急を告げる半鐘がけたたましく鳴り始めた。
「やったぞ」アンヘグは上機嫌でローダーの背中をたたいた。「本当にうまくいったぞ」
「もちろん、うまくいくさ」ローダーの声もまた歓喜にあふれていた。「そんなにたたかないでくれ、アンヘグ。あざになりやすいんだ」
もう沈黙を保つ必要はなかった。バラクのあとに続いた船からどっと歓声が湧き上がった。たいまつの数が増し、明りの中に並んだ一団の顔は赤く輝いていた。
突然、バラクの船の右二十ヤードのところで水柱がたった。甲板にいたものは全員びしょぬれになった。
「投石機だ!」目の前のぼんやりとそびえる壁を指さし、バラクが叫んだ。壁の上には、まるで巨大な捕食性の昆虫にも似た重たげな枠組が見えた。長い腕には近づく艦船を狙って、すぐに次の丸石が乗せられている。次の瞬間矢が嵐のように降り注ぎ、壁の上を一掃した。長い槍を持っているのですぐにドラスニア人の部隊とわかる一団が、投石機のある場所を制覇した。
「気をつけろ」だれかが壁の下にいる一団に向かって叫んだ。次の瞬間、投石機は土台からはずされ、大音響とともに落ちていった。
ミンブレイト騎士団がひづめの音で大地を震わせながら、下ろされた橋を渡り、いっせいに都市になだれこんだ。
「われわれが橋に到達したら、あなたと王女や他のご婦人がたは北の土手に行ってもらおう」ローダー王はきびきびした口調でポルガラに言った。「危険のないところに避難していてほしい。この戦いは夜いっぱいかかるものと思われる。ここでは絶対に事故にあわないと保証できんのでね」
「わかったわ、ローダー」ポルガラは同意した。「くれぐれも愚かな真似は慎しんでちょうだい。他の人より大きな的になるのだから、あなたも気をつけてね」
「わたしは大丈夫だよ、ポルガラ――さあ行かなくては、戦いを逃してしまう」かれは笑った。少年のように甲高い奇妙な笑い声だった。「こんな愉快なことは、近年なかったな」
ポルガラはローダーを一瞥した。「どうしようもない人!」その口調がすべてをものがたっていた。
ミンブレイトの騎士たちは、女性たちとエランドを護衛して、千ヤードあまり上流にのぼり、北の土手の小さな入江に向かった。騎馬兵が押し寄せている都市ははるか遠くに見えていた。その入江には平たんな砂浜があり、草で覆われたゆるやかな傾斜の土手が三方を取り囲んでいた。鍛冶屋のダーニクとオルバンは砂浜に天幕をはり、火をおこし、それから戦いのようすを見るために土手にあがった。
「計画は順調に進んでいるようだ」見晴らしの良い場所にたったダーニクが伝えた。「チェレクの船は横一列になって南の流れを進んでいる。船と船の間に板が渡されているが、兵士たちはそれをつたって進軍するのだろう」
「南門からの進攻はどうなっていますか」都市の方に目をこらしていたオルバンが訊いた。
「よくみえないが、そのあたりで戦いが行なわれているようだ」ダーニクが言った。
「わたしもあそこに行ければなあ」オルバンは嘆いた。
「あなたはここにいなくてはなりません」ポルガラは確固とした口調で言った。「あなたは自ら志願してリヴァの女王の護衛を申し出たのでしょう。他の任務がおもしろいからといって、与えられた職務をおろそかにしてはいけないわ」
「わかりました、レディ・ポルガラ」若いリヴァ人は答えたが、突然恥じいると、「ただ――」と、口ごもった。
「なに」
「何が起きているのか知りたかっただけです。それだけです。父や兄弟があそこで戦っているのに、ここで指をくわえて見ていなくてはならないのですから」
突然、壁の中から火柱がたち、川面を赤黒く照らし出した。
ポルガラはため息をついた。「どうしてああやって何もかも燃やさなければならないのかしら」彼女はもの哀しげに訊ねた。
「たぶん、相手の混乱を広げるためでしょう」ダーニクが言った。
「そうかもしれないわ。でも、もううんざりするくらい見てきたわ。いつも同じだわ。いつも焼きつくされてしまうのよ。もうこれ以上見る必要はないわね」彼女は燃えさかる都市に背を向けて、ゆっくりと土手を下った。
夜は限りなく続くように思われたが、やがて星の光が鈍くなり、空が白み、夜明けが近いことをつげた。疲れきったセ・ネドラは、入江近くの土手の草地にたち、滅びつつあるタール・マードゥを魅せられたように見入っていた。いたるところで炎が上がり、舞い上がるオレンジ色の火の粉を空に向かって噴きあげていった。建物や屋根がその中でゆっくりと陥没していった。当初のわくわくするような輝かしい期待は、現実にはまったく別のものに変わろうとしていた。彼女は自分のしたことに嫌気をおぼえ始めていた。それでも、首にかけた護符についつい指先がいってしまうのだった。何が起きているのか知らなければならない。そこでどんなに恐ろしいことが起きていようが、知らないでいるよりはましだった。
「なかなかの戦いだったな」と、アンヘグ王が言っているのが聞こえた。チェレクの王はどこか高い場所、おそらく、壁の上にいるものと思われた。
「うまくいった」トレルハイム伯爵バラクが答えた。「マーゴの駐屯兵もなかなかよく戦ったが、タール人が降伏しようとしたために、総くずれになってしまった」
「やつらをどうする」チョ・ハグ王が訊ねた。
「中央広場に集めておいた」バラクが答えた。「やつらは、寺院から追い出されたグロリムたちを殺すのに夢中だ」
突然、アンヘグが悪意のこもった含み笑いを始めた。「グロデグはどうした」
「命びろいしたようだ」バラクが言った。
「それはそれは――。だれかがやつの後ろから斧を振り上げているのを見たときには、これで問題が解決すると思ったんだが」
「低すぎたのさ」バラクは悲しそうに言った。「背骨を打ち砕いたが、致命傷ではない。一生歩けないかもしれんが、息はし続けることだろう」
「そもそもマーゴ人にちゃんとした仕事をしろという方が無理だ」アンヘグがわざとらしく言った。
「だが結果的には、熊神教信者をずいぶん間引いてくれたぞ」バラクの口調は明るかった。
「残っている者は二十人あまりだ。しかし、かれらもよく戦ったな」
「あいつらはそのためにここに来たんだ。夜明けまで後どのくらいだ」
「三十分くらいだろう」
「ローダーはどこだ」
「かれとフルラクは倉庫を襲っている」チョ・ハグ王が答えた。「マーゴ人の物資集積場がここにあるので、フルラクはそれを没収しようとしている」
「そうか」アンヘグが答えた。「もっと軍勢を送ってやったほうがいいな。そろそろ引き上げなければならない。日がのぼれば、この煙で二十リーグ以内にいる連中は何が起きたか知るだろう。艦隊を出発させなければならない。残りの者たちは崖上の要塞に引き返させる」
「〈東の海〉までどのくらいかかるのかな」チョ・ハグ王がきいた。
「二、三日だ」アンヘグが言った。「流れに乗れば船の速度は速くなる。早ければ、一週間で要塞に戻ることができるだろう」
「なるほど」とチョ・ハグ。「だが、歩兵も同じというわけには行かないだろう。おお、ブレンディグだ! かれにローダーを連れてくるように言おう」かれはセンダー人の大佐に命令した。「ブレンディグ大佐、ローダーを見つけて、ここに来るように伝えてくれ」
「あれはなんだ」バラクが突然声をあげた。
「どうした?」アンヘグがたずねた。
「いま、南の方に何か動いているのが見えた。あの丘にかろうじて見えるていどだが」
「何も見えないが」
「ちらりと見えたのだ――動いているものが」
「マーゴ人の斥候がこそこそ這いまわっているだけだろう」アンヘグは短く笑った。「ともあれ、ここであったことはいつまでも秘密にはしておけないからな」
「また見えたぞ」バラクが言った。
「わたしにも見えた」チョ・ハグ王が言った。
空がわずかに明るくなり、しばらくは何も聞こえなくなった。セ・ネドラはかたずをのんで耳をそばだてた。
「何ということだ!」アンヘグが驚愕したように叫んだ。「やつらが何マイルも埋めつくしている」
「レルドリン!」バラクが壁の上から叫んだ。「ブレンディグに早くローダーを探すように言ってくれ。すぐここに来るようにとな。南の平原はマーゴ人で埋めつくされている」
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16[#「16」は縦中横]
「レディ・ポルガラ!」セ・ネドラは天幕のたれ布にむかってあわてて戻った。
「どうかしたの、セ・ネドラ」ポルガラの声が天幕の暗がりから聞こえてきた。
「バラクとアンヘグが街の城壁の上にいるのよ」王女は震え声で言った。「ふたりとも、南から進軍してくるマーゴ軍を見たんですって」
ポルガラが眠たそうなエランドを抱きかかえたまま、焚火の明かりの中に姿をあらわした。
「ベルディンはどこにいるの」彼女はききただした。
「きのうの夜から姿を見かけないわ」
ポルガラは顔をあげて、両目をつぶった。いくばくもたたないうちに、あわただしい翼の音がしたかと思う間もなく、巨大な鷹がゆらめく炎からさほど遠くはない砂地に着地した。
鷹の姿がゆらめき、本来の姿に戻るあいだも、ベルディンは罵り言葉を吐き続けていた。
「いったいやつらはどうやって、あなたの目をすり抜けたの」ポルガラがきいた。
「連中にはグロリムがついておるのさ」ベルディンは相変わらず耳ざわりな罵詈雑言を吐き散らしながら言った。「グロリムどもには、おれが監視しているのがわかるからな。連中は夜に行軍して、その間グロリムが障壁を張っていたらしい」
「じゃあ、昼間はいったいどこに隠れていたというの」
「タールの村々だろうな、恐らく。あそこにはごまんと集落があるからな。さすがにおれもそこまでは気づかなかった」かれは再びマーゴ軍の動きを見落とした自らの過失を、口汚くののしりはじめた。
「そんなふうに自分を責めたってしょうがないわ、おじさん」ポルガラは冷ややかな声で言った。「もうすんでしまったことよ」
「残念ながら、まだすんじゃおらんのだ、ポルガラ」魔術師は言った。「同じように膨大な軍隊が北から近づいている――マロリー人、ナドラク人、それにタール人たちだ。このままではやつらにはさみ撃ちにされてしまうぞ」
「連中がここへ来るまでどのくらい時間がかかるかしら」
ベルディンは肩をすくめた。「たいした時間はかかるまい。マーゴ軍の方はこれから険路を通過しなければならないから、たぶん一時間ぐらいだろうな。マロリー軍はもう少し早いだろう」
ポルガラは低い声でののしり言葉をもらしはじめた。「ローダーのところへ行ってちょうだい」彼女は醜い魔術師に言った。「すぐにアンヘグの艦隊を脱出させるように言うのよ。アンガラク人たちが投石機を運びこんで、停泊している船を沈める前に」
不格好な魔術師はうなずき、わずかに身をかがめると、翼のように腕を曲げ、ばたばた上下させながら姿を変え始めた。
「オルバン」ポルガラはリヴァ人の若者に呼びかけた。「マンドラレン卿と、ヘター卿を探してきてちょうだい。二人に、わたしのところへすぐに来るように言うのよ。大至急よ」
オルバンは一瞬、驚いたような目をしたが、すぐに馬のところへ走り去った。
鍛冶屋のダーニクが、女たちのいる小さな砂浜に向かって、草地を滑りおりてきた。かれの顔には深刻な表情が浮かんでいた。「いますぐご婦人方はここから出て下さい、ミストレス・ポル」かれは言った。「いずれここでも戦いが始まるでしょう。そうなったらどこへも逃げ場所がなくなります」
「わたしはどこへも逃げるつもりはないわよ、ダーニク」ポルガラの声にはかすかないらだちが混じっていた。「わたしがこれを始めたのよ。こうなったら最後まで見届けるわ」
情況をさとったアリアナは、ただちに天幕に飛んで帰った。再び姿をあらわした彼女は医療品を詰めたがんじょうな防水布の袋をかついでいた。「よろしければ、ここを失礼させていただきますわ。レディ・ポルガラ」娘はきびきびした専門家らしい声で言った。「戦いで殿方が傷つかれるようなことがあれば、行って手当をするのがわたくしの勤めですわ。ここでは怪我人を運ぶには遠すぎますし、場所も狭すぎます」
ポルガラは娘にすばやい一瞥を与えた。「わかったわ」彼女はうなずいた。「でも気をつけて、なるべく戦いの場所には近よりすぎないようにね」
タイバはマントを身にまとった。「あたしも行くわ」彼女はアリアナに言った。「やり方は知らないけれど、教えてもらえれば何とかなるでしょう」
「二人がここから出るのを助けてあげてちょうだい、ダーニク」ポルガラは鍛冶屋に言った。
「それが終わったら、すぐにここへ戻ってきて」
ダーニクは重々しくうなずくと、女性たちが急な土手を上るのを手伝いに行った。
そこへマンドラレンがヘターを脇にしたがえて、ひづめの音も高らかに飛び込んできた。
「何が起こったかはわかっているわね」ポルガラが聞いた。
マンドラレンはうなずいた。
「敵の軍隊がここへ押し寄せる前に、全員脱出できる可能性はあるかしら」
「残念ながらありません、レディ・ポルガラ」偉大なる騎士は答えた。「あまりにも距離が近すぎます。そもそも当初の目的は、チェレクの艦隊を〈東の海〉へ導くための通路を開くことにありました。われわれはアンガラクの投石機が届かない距離に逃れるまで、時間を稼がねばならないでしょう」
「こんなはずではなかったのに」ポルガラは怒ったように吐き捨てると、再びののしり始めた。
灰色のマントに身を包んだ〈リヴァの番人〉ブランドが、ヴァラナ将軍とともに土手のうえに姿をあらわし、マンドラレンとヘターに加わった。四人は馬をおりると、いっせいに砂地にむかって駆けおりてきた。「われわれは街から撤退を始めた」大柄なリヴァ人が低い声で報告した。「すでに艦隊のほとんどは錨を引きあげた。あとは南の流れにかかる橋を護るだけの船が残してあるだけだ」
「わたしたちの軍隊を、全員どちらか一方の川岸にうつすことはできるかしら」
〈番人〉は首を振った。「残念ながらその時間はないのだ、ポルガラ」
「それではわたしたちは川をはさんで二分されてしまうことになるわ」彼女は言った。「アンガラク軍が攻めてきたら、どちらも持ちこたえられないわ」
「戦略上の必要性から言わせていただくならば」ヴァラナ将軍がポルガラに言った。「われわれは全艦隊が引き上げるまで、双方の川岸を死守せねばなりません」
「ローダーは、アンガラク軍の意図を見誤ったのだ」ブランドが言った。「かれはタウル・ウルガスとザカーズがともにむだな流血を避けることを確信するあまり、この可能性に気づかなかったのだ」
ヴァラナ将軍はがっしりした両手を背の後ろで組み、足を引きずりながら小さな岸辺を行ったりきたりした。「これでようやくわれわれがあの高地で壊滅させた、マーゴ軍の存在の意味がよめてきましたぞ」
「と申されますと?」マンドラレンが当惑げにたずねた。
「あれはわれわれの出方をためすためのものだったのです」ヴァラナが説明した。「アンガラク軍はわれわれの本来の動きを探り出す必要がありました。戦争における基本的な原則は、単なる牽制活動を行なっているときは、決して大きな戦いに巻き込まれてはならないということです。あのマーゴ軍はわれわれをおびきよせるための罠だったに違いありません。残念ながらわれわれはまんまとそれに引っかかってしまったというわけです」
「それではあのマーゴ軍を攻撃するべきではなかったというのですか」ヘターがたずねた。
ヴァラナは悔しそうな表情をした。「どうやら、そのようです。そのためにわれわれの意図が――この遠征が決して牽制行動などではないことを見破られてしまったのですから。どうやらわたしはタウル・ウルガスを見くびっていたようだ。やつはわれわれの意図を知るためなら、何千もの犠牲さえいとわない男なのです」
「では、どうすればいいのでしょう?」ヘターがたずねた。
「すでに戦う用意はできています」ヴァラナは答えた。「できればもう少し有利な場所がほしかったが、あるもので戦うしかないでしょう」
ヘターは鷹のような顔に渇えた表情を浮かべて、川の向こう側を見つめた。「何とか南側の河岸へ渡れないものでしょうか」
「どちらか一方を取るしかあるまい」ブランドが不思議そうな顔でたずねた。「いったいそれがどうだというのだ」
「あそこにはマーゴ人たちがいますから」ヘターは答えた。「わたしはマロリー人にはこれといった恨みを持ってません」
「これは個人的な戦いではないのですぞ、ヘター卿よ」ヴァラナが聞きとがめるように言った。
「だが、わたしにとってはそうなのです」ヘターは頑としてゆずらなかった。
「われわれはまずレディ・ポルガラと王女さまの安全を第一に考えるべきですぞ」マンドラレンが言った。「崖地の上までお二人をお連れするための、護衛も必要になりましょう」
ブランドは頭をふった。「あの一帯は厳重な警戒が置かれているだろう」かれは反対した。
「そうなったらさほど安全とも言えないぞ」
「かれの言うとおりだわ、マンドラレン」ポルガラは騎士に言った。「それにここにいる人たちはすでに手一杯のはずよ」そう言いながら彼女は北東の空を見あげた。「それに、あれがあるわ」ポルガラは、地平線近くからもくもくと空を覆い始めた雲堤を指さした。雲はインクを流したように真っ黒で、ごろごろ鳴りながら逆巻いていた。ときおり内部から断続的な閃光がひらめくのが見えた。
「嵐ですか」ヴァラナ将軍はいささか驚いたように言った。
「それにしては時期はずれだし、方角もおかしいわ」ポルガラは答えた。「たぶんグロリムが何かをたくらんでいるに違いないわ。どうやらこれはわたしの戦いになりそうね。さあ、殿方、戦闘の準備はよくて。どうせ戦わねばならないのなら、その心づもりだけはしておきましょう」
「艦隊は移動しつつあります」オルバンとともに、奥まった洞穴に戻ってきたダーニクが報告した。「騎兵隊も街から出ていくところです」
そこへローダー王が馬で乗りつけた。かれの大きな顔は煤と汗で汚れていた。「アンヘグも移動を始めたぞ」王はうなり声をあげながら、鞍から滑り降りた。
「フルラクはどこだ」ブランドがたずねた。
「やっこさんは今、軍団の大半を南から渡しているところだ」
「失礼ながら、それではあまりにこちら側が手薄になりすぎませんかな」ヴァラナ将軍が丁重に聞き返した。
「あの橋は狭すぎるのだ」ローダーは答えた。「必要な人数を運びこむまでに何時間もかかってしまう。アンガラク軍が着く前に取り除けるように、ブレンディグがすでに橋の支柱を掘り起こし始めているところだ」
「何のためにそんなことをするの」セ・ネドラがたずねた。
「タール・マードゥは軍事的に価値があるからですよ」ヴァラナ将軍が説明した。「できることなら、一人のアンガラク人も上陸させたくありませんのでね」かれはローダー王の方を向いて言った。「何かよいお考えはありますかな」
「われわれとしては、できればアンヘグのために半日は時間を稼いでやりたい」ローダー王は答えた。「ここから二十リーグほど下流へ行くと、道がぬかるんでどうしようもなくなる。そこまで行けばアンガラク軍どもも、かれを悩ますほど近づけなくなる。われわれは通常の歩兵戦列をとることにしよう。槍兵、歩兵隊、センダー人その他の順番でいく。弓射兵の援護をつけて、アルガー一族に敵の側面を攻撃させよう。ミンブレイトの騎士団はマロリーの一回目の攻撃にそなえて集合するまで使わないでおくことにしたい」
「非礼をかえりみずに言わせていただければ、それは勝つための戦略とはいえませんな」ヴァラナ将軍が口をはさんだ。
「だがわれわれは勝つつもりはないのだ。ヴァラナ」ローダーは言った。「われわれはアンガラク軍の到着を六時間ばかりも遅らせてやってから撤退するためにここにいるのだ。勝ち目のない戦いのために無駄な命を捨てるつもりはない」そう言って、かれはヘターの方を向いた。
「きみの氏族の部隊を下流に派遣してほしいのだ。川岸に陣取るマロリー人を見つけたら、一人残らず追い立てるように命ずるのだ。そうすれば艦隊の大部分は、ザカーズとタウル・ウルガスの手からなんとか逃げおおせることができる。アンガラク人はよい漕ぎ手ではないから、いったん〈東の海〉に出てしまえば、アンヘグが何をするかなど見当もつかんだろう」
「たびたび失礼ですが、陛下」ヴァラナはなおも反対した。「あなたのおっしゃる戦略は、艦隊をも含めて、ただ時間を稼いでいるだけに過ぎません」
「それこそが肝心な点なのだ、ヴァラナ」ローダー王はぴしゃりと言った。「われわれが行なっていることは、すべてそれほど重要でないことなのだ。マロリーで本当に重要なことが起こるのは、ベルガリオンがクトル・ミシュラクに入ってからのことだ。さあ、われわれも行動を開始しようではないか、諸君。マロリー軍がやってくるまでたいした時間は残されていない。それまでにやつらを迎え撃つ準備をしておこう」
ポルガラの指さした雲堤は、その間にも驚くべき速度でかれらの頭上に広がりつつあった。さかまく紫色の雲は、黒くうねり、折れ曲った稲妻の足をひらめかせながら、忍びよってきた。熱い風が起こり、草を倒し、馬のたて髪と尻尾を激しく揺り動かした。ローダー王と他の者たちが、近づきつつあるマロリー軍を迎え撃つためにその場を去ると、ポルガラは青ざめた顔で髪を乱しながら、ダーニクとセ・ネドラをしたがえて、土手の草地をのぼり、近づいてくる黒雲をじっとにらみつけた。「この子を連れていってちょうだい。セ・ネドラ」彼女は冷静な声で言った。「何があろうと、絶対に手を離さないようにね」
「わかったわ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラはそう言いながらエランドにむかって手をさしのべた。子供はすぐにやってきたが、その顔にはまったく恐れるようすはなかった。彼女はエランドを抱き上げると、ほっぺたをくっつけるようにして、ぎゅっと抱き寄せた。
「使命《エランド》?」子供は近づいてくる嵐を指さしながら言った。
すると、突然、連合軍の列のあいだから、影のような姿がゆらゆらと立ちのぼった。それらはいちように黒い衣をまとい、ぴかぴか光る鋼の仮面をかぶり、手に切っ先の鋭い短槍を持っていた。相手の正体を考えるいとまもなく、馬に乗った若いミンブレイトの騎士が、広刃の剣をさっとふり払い、びゅっという音とともに鋼の仮面に向かって切りつけた。が、騎士の剣はむなしく相手をつき抜けた。そのとたん、騎士のかぶとにジュッという音をたてて稲妻が落ちた。雷に撃たれた騎士は、かぶとのてっぺんにくっついて離れない激烈な光に、蛇のようにのたうちながら、身体を硬直させて痙攣した。かぶとの面頬のすきまから、若者が鎧の中で焼け焦げる煙がふきだした。かれの馬もまた無気味な閃光に包まれ、がっくりと前足を折った。次の瞬間、稲妻が消えうせると同時に、人と馬は地面に崩れ落ちて動かなくなった。
ポルガラは怒ったような音をたてると、声を張りあげた。決して怒鳴っているわけではないのだが、彼女の声は全軍にはっきりと響きわたった。「その影にふれてはなりません」彼女は警告した。「これはみんなグロリムのつくりあげた幻で、ふれないかぎり皆さんを傷つけることはありません。あなた方を感電させるために出てきたのだから、なるべく離れていた方がいいわ」
「ですが、ミストレス・ポル」ダーニクが抗議した。「いちいち影から身をよけていたのでは、軍隊は整列していることができませんよ」
「影のことはわたしが何とかするわ」彼女は断固とした口調で言った。そして両手を頭の上にさし上げて、拳を握りしめた。その顔に激しい精神集中の色を浮かべ、彼女はひとことつぶやくと同時にぱっと両手を開いた。それまでかれらの方向に向かって、嵐の前のなま暖かい風に吹き流されていた草は、ポルガラの意思の力が放出されると同時に、さっと逆方向に流れ始めた。力がグロリムの作り出した幻をつき抜けたとたん、影は一瞬ひるんだように見えた。そして次々にしぼみ始めたかと思うと、音をたてることなく、影は爆発して黒い破片となって飛び散った。
一番遠い兵隊たちのあいだで最後の影が消える頃には、ポルガラは激しくあえいでいた。地面にくずおれれかけた彼女を、間一髪のところでダーニクが支えた。「だいじょうぶですか」鍛冶屋は心配そうな声でたずねた。
「ちょっとだけ、休ませてちょうだい」彼女は相手に身をあずけるようにして言った。「あれをするには、もの凄く体力がいるのよ」ポルガラはかすかなほほ笑みを浮かべ、頭をがっくりと垂れた。
「戻ってきやしないかしら」セ・ネドラが聞いた。「つまり、じっさいにグロリムを傷つけたわけじゃないんでしょ? かれらの影だけで」
ポルガラは弱々しい笑い声をたてた。「いいえ、十分な痛手は与えたわよ」彼女は答えた。
「グロリムたちはもう影を作ることはできないわ。誰ひとりとして二度とあれを作り出すことはできないでしょう」
「絶対に?」
「ええ、絶対に」
そこへベルディンが翼で風を切るようにして急降下してきた。「ポルガラ、やらねばならぬ仕事ができたぞ」かれは元の姿に戻りながら言った。「やつらが西から運んできたこの嵐をぶち破らねばならん。おれは双子と相談した。連中は南側から、われわれはこちら側から力を合わせるのだ」
彼女はいぶかしげな顔でおじを見た。
「やつらの軍隊は嵐の背後から近づいている」かれは説明した。「もはや嵐を押し戻すことはできない。すでに勢いがつきすぎてしまったからな。われわれは嵐の最後部を押し破り、そいつをアンガラク軍に吹き戻してやるのさ」
「いったいこの嵐には何人ぐらいのグロリムがかかわっているの」ポルガラがたずねた。
「そんなこと、知るもんかね」かれは肩をすくめてみせた。「だが、やつらもそのために最後の一滴まで力をふるい起こしているのだ。われわれ四人で力を合わせて、いっせいに後ろを攻撃すれば、嵐の猛威だけであとの仕事をやってくれるさ」
「なぜ、そのまま通過させないんです?」ダーニクがたずねた。「われわれの軍隊とて子供じゃありません。たかがスコールぐらいでちりぢりになったりはしませんよ」
「あいにくと、これはたかがスコールではないのだ、鍛冶屋」ベルディンがとげとげしい口調で言った。何か大きな白いものが数フィート先の地面にどさりと落ちる音がした。「こんな雹が四、五個も頭の上に降ってきた日にゃ、戦いのことなどかまっちゃおれなくなるぞ」
「まるでめんどりの卵ほどもある」ダーニクが仰天したような声で言った。
「たぶん、ますます大きくなるだろうよ」ベルディンはポルガラの方に向き直った。「さあ、手を貸してくれ」かれは言った。「おれがベルティラに合図を送ったら、四人でいっせいに攻撃を開始する。用意はいいか」
さらに何個かの雹が湿った草地の上に落ち、中でも特に大きいものが、驚くべき力で岩に激突して、何千もの細かい氷片となって砕け散った。連合軍のいる方角から、断続的に落ちる雹がミンブレイト騎士団の鎧や、歩兵軍の慌ただしくかざされた楯に激突する金属的な音が聞こえてきた。
そして雹とともに激しい豪雨が襲いかかった――風にあおられた水のカーテンが、荒れ狂う波のようにわきたった。もはや目を開くことはおろか、呼吸することさえ困難だった。オルバンはセ・ネドラとエランドを守るために楯をかかげて、前に一歩躍り出た。巨大な雹が肩にあたり、若者は顔をしかめたが、楯は揺るぎもしなかった。
「もう少しで破れそうだぞ、ポル!」ベルディンが叫んだ。「さあ、もう一度やるんだ。連中の嵐を、やつらにお見舞いしてやろうじゃないか」
ポルガラの顔は精神集中の苦痛のために歪み、ベルディンが四人の力を逆巻く空に向かって放出すると同時に、あやうく前につんのめりかけた。巨大な力が衝突する音は信じがたいほど凄まじかった。突然空はふたつに裂けたかと思うと、蒸気をあげる空気の中で稲妻が弱々しく明滅した。空の高みのあちらこちらで、巨大な白熱光が次々にぶつかりあって、地上に火の玉をいくつも降らせた。兵士たちは次々に真っ黒に焼け焦げ、激しい豪雨のもとでじゅうじゅうと蒸気を上げた。だが犠牲者は西の人間だけではなかった。
さしもの恐るべき猛威をふるった嵐も、北岸のポルガラとベルディン、南岸の双子たちの結合した力でその背後を切り裂かれると同時に退却した。背後にいたマロリー軍はまともに退却の反動をくらうかたちになった。稲妻のカーテンが、巨大な目に見えないほうきのように、びっしり並んだかれらの列をさっとなぎ払い、地面に累々たる丸焦げ死体をきずきあげた。嵐の前線をすでに川まで押し進めていたグロリムの魔法の効力が破られると同時に、疾風は向きを変えて吹き戻された。風は金切り声をあげ、吠えながら、前進するアンガラク軍に雨と雹をたたきつけた。
頭上のおぞましい雲の中から、いくつものどす黒い渦巻きの指がぴくぴくと飛び出したかと思うと、すさまじい轟音とともに地面にそのきっ先を下ろし始めた。ほとんど発作的な痙攣とともにひときわ巨大な渦巻く漏斗の先が赤い衣をまとったマロリー軍のまっただなかに落ちた。恐るべきたつまきの切っ先でえぐられた岩くずが、広大な範囲にわたって飛び散った。それは敵軍のまっただなかを二百ヤードにもわたって、狂ったように突っ切っていった。兵士たちも馬たちも皆渦巻く分厚い雲の中で吹き荒れる烈風に、こなごなに引き裂かれた。鎧の一部や赤い衣の断片、そしてさらにうす気味悪いものが、容赦ない破壊の行なわれている両側に列をなす、仰天して怖じけついたマロリー軍の上に雨あられと降り注いだ。
「やったぞ!」ベルディンは小躍りして、グロテスクな歓喜をあらわした。
突然、荘厳なホルンの音が鳴り響くと同時に、たじろぐマロリー軍に面して、ぴったりと列をなしていたドラスニアの槍兵部隊とトルネドラの部隊がぱっと散開した。鎧から滝のように水をしたたらせたマンドラレンが、ミンブレイト騎士団をひきいて、その背後に姿をあらわした。かれらはいっせいになだれをうって、混乱し意気阻喪したマロリー軍に襲いかかった。両者がぶつかりあう凄まじい、耳をつんざくような音に、ときおり悲鳴が混じった。次々と自軍が突撃隊によって打ち破られていくのをまのあたりにして、おびえきったマロリー軍は列を乱し、雲をかすみと逃げ出した。突じょ、逃亡者の両脇からアルガーの諸氏族が、サーベルを雨にきらめかせながら、襲いかかってきた。
マンドラレンの二度目のホルンの音と同時に、ミンブレイトの突撃隊はぴたりと歩みをとめ、馬の向きを変えて、あとに累々たる死骸を残して走り去った。
雨足はいまや断続的に弱まり、不規則な通り雨に変わっていた。頭上に走り去る雲のあいだから、青い空の断片が顔をのぞかせ始めた。グロリムの起こした嵐は完全に打ち破られ、ミシュラク・アク・タールの平原に追い払われた。
セ・ネドラが南岸に目をやると、そこでも嵐は追いやられ、チョ・ハグ王とコロダリン王の命令を受けた兵士たちが、すっかり士気をくじかれたマーゴ軍の正面を襲撃しているのが見えた。王女は急いで川の南側の水路を見やった。最後に残っていたチェレク艦隊への渡し橋は、猛烈な嵐のために壊され、島とのあいだには川面が広がっているばかりだった。市街に残っていた最後の歩兵隊は、北の流れにかけられた橋をいっせいに渡り始めていた。背の高いセンダー人の若者がしんがりをつとめていた。かれは橋を渡り切ると同時に、ただちに川上へ向かった。近づいてくるにつれ、それがガリオンのファルドー農園以来の幼ななじみであるランドリグだということがわかった。若者は人目もはばからずに涙を流していた。
「ダーニクさん」ランドリグは一行に出会うやいなや、すすり泣いた。「ドルーンが死んだ」
「何ですって」レディ・ポルガラは疲れ切った顔をさっとあげた。
「ドルーンが死んだんです、ミス・ポル」ランドリグはふたたび涙にむせんだ。「やつは溺れ死んだんです。おれたちが南の岸に向かって渡っている最中に、嵐で船を係留していたロープが切れたんだ。ドルーンは川に落ちたけど、泳ぎ方を知らなかった。おれは必死になってやつを助けようとしたけれど、手が届かなかった」背の高い若者はそう言うやいなや、両手で顔を覆った。
ポルガラの頭から血の気が消えうせ、瞳には涙があふれた。「かれの面倒を見てやってちょうだい、ダーニク」彼女は鍛冶屋にそう命じると、踵を返して歩き去った。その頭は悲しみのために低く垂れていた。
「おれはやつを助けようとしたんだよ、ダーニクさん」ランドリグはなおもすすり泣きながら言った。「何とか捕まえようとしたんだけれど、人がいっぱいいすぎてできなかった。やつのもとに駆けつけたときにはもう遅かった。おれはただドルーンが沈んでいくのを黙って見ているしかなかったんだ」
泣きじゃくる青年の肩に腕を回したダーニクの顔もまた悲しみに沈んでいた。その目には涙が浮かんでいたが、何も言わなかった。
だがセ・ネドラは泣くことができなかった。彼女は自ら手をさしのべて、これらの戦争未体験の若者たちを故郷から引き離し、世界のなかばまで引きずりまわしたあげく、ガリオンの幼なじみをマードゥ川の冷たい水の中で死なせたのだ。彼女は頭で若者の死を理解してはいたが、涙は出てこなかった。突然、激しい怒りが彼女のうちを満たした。セ・ネドラはオルバンの方をさっとふり向いた。「殺してちょうだい!」彼女はくいしばった歯の間から言った。
「何と申されたのですか、女王陛下」オルバンがあっけにとられたような顔で彼女を見た。
「行きなさい!」セ・ネドラは命令した。「剣を取って、今すぐ行くのよ。できるかぎりたくさんのアンガラク人を殺してきなさい――わたしのために。オルバン、わたしのためにやつらを殺してきて!」そして彼女はようやく泣くことができた。
オルバンはすすり泣く小さな王女を見て、次に大混乱におちいったマロリー軍の方を見た。かれらは依然ミンブレイト騎士の情け容赦ない攻撃にさらされて、すっかり浮足だっていた。若者は歓喜に顔を輝かせると同時に、さっと剣を引き抜いた。「何ごとも女王陛下のみ心のままに」かれはこう叫ぶなり、馬のもとに走り去った。
マロリー軍の最前列の大多数は、アルガー人の振りまわすサーベルにせきたてられるようにして、逃げ去ったとはいえ、なおも続々とその数をふやし続け、やがて北に向かう低い丘陵地帯を覆いつくすまでになった。兵士たちの上着の赤色で覆われた地面はまるで血を流しているように見えた。だが次なる攻撃の主力はマロリー軍ではなかった。代わって泥色のうわっぱりを着たずんぐりしたタール人たちが、不承不承位置についた。タール人のすぐ後ろでは、馬に乗ったマロリー人たちが鞭でかれらを急きたてていた。
「あれがマロリー人どもの基本的な戦闘配置さ」ベルディンが苦々しげな声を出した。「ザカーズは死者をほとんどタール人でまかなうつもりなのさ。やっこさんの軍隊はタウル・ウルガスとの戦闘に備えて温存しておく気なのだ」
セ・ネドラは涙に汚れた顔を上げた。「わたしたち、いったいどうすればいいの?」王女はみにくい魔術師に聞いた。
「タール人を殺すまでのことだ」かれはぶっきらぼうに答えた。「ミンブレイト騎士団が一、二回攻撃してやって、連中の士気をくじいてやらねばならん。タール人は優秀な兵士ではないから、チャンスさえ与えてやれば、喜んで逃げ出すだろうよ」
ミシュラク・アク・タールの鈍重な軍勢が、ドラスニア槍兵やトルネドラ軍団の緊密な列の上に、ゆっくりと地すべりのように落ちかかるのと同時に、歩兵隊の後尾についていたアストゥリアの射手たちはいっせいに弓をかかげ、一ヤードもの長さのある矢を、空中に曲線に描くようにして、いっせいに放った。タール人は降り注ぐ矢の雨におじけついて、次々と隊列を崩していった。背後に控えるマロリー人の声はますますかん高くなり、宙を引き裂く鞭の音が戦場を満たした。
そして再びマンドラレンのホルンが鳴りわたると同時に、歩兵隊がいっせいに道をあけ、鎧をまとったミンブレイトの騎士たちが再びタール人に襲いかかった。鋼をまとう兵士たちと蹄の音もたからかに迫る馬の姿を見たとたん、かれらは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。背後で鞭をふるっていたマロリー人は、あわてふためいて逃げまどうタール人兵士たちにたちまち蹴散らされた。
「タール人なんぞあのていどさ」ベルディンは総崩れになった敵を見ながら満足げなうなり声をあげた。その顔に意地の悪い笑みが浮かんだ。「ゲゼール王はあとでさぞかしザカーズに油をしぼられることだろうて」
マンドラレンの率いる騎士団が、ひづめの音をとどろかしながら歩兵隊の背後に引きあげると、両軍はアンガラク人兵士の死体の山をはさんでにらみあう形になった。
突然、戦場に流れはじめた冷気にセ・ネドラは震えあがった。グロリムの嵐が急速におとろえ、ちぎれた雲のあいだから太陽が顔をのぞかせ始めたというのに、いっこうに暖かくはならなかった。あらゆる風の気配はぴたりと止んだのに、いっそう寒くなるばかりだった。すると地面から、暗い川面から、霧がゆげのようにたちのぼり始めた。
ベルディンは耳ざわりな悪態をついた。「ポルガラ」かれは悲しみに沈む女魔術師を呼んだ。
「手を貸してくれ」
「一人にしておいてちょうだい、おじさん」彼女は悲しみに声をつまらせながら言った。
「泣くのは後でもできる」かれは厳しい口調で言った。「グロリムどもが、大気中から熱を奪おうとしている。われわれが風を起こしてやらねば、この霧では歩くこともままならなくなるぞ」
ふり向いたポルガラの顔には冷たい表情が浮かんでいた。「おじさんには人の命なんてどうだっていいのね」
「そうかもしれんな」かれは言った。「だがそんなことは後だ。このままやつらの霧で河岸を覆われたら、相手の動きも見えないうちに、あのいやったらしいマロリー軍が頭上にいたなんてことにもなりかねん。さあ、ポル、始めよう。確かに人は死ぬかもしれない。だがめそめそするのは後でいい」かれはそう言ってふしだらけのごつごつした手をさしのべた。
ゆげのような霧はしだいに濃くなり、あちらこちらの小さな窪みにたまり始めていた。歩兵隊の前の戦場に横たわる累々たる死骸の山はうすれはじめ、やがて白い壁のように動かなくなった霧の中にまったく見えなくなった。
「風だ、ポル」ベルディンはそう言いながら彼女の手を握った。「起こせるかぎりの風をな」
それにともなう苦闘は、むしろ静かなものだった。ポルガラとベルディンは互いの手をとり、合一された意思の手を伸ばしていった。二人は岸辺を覆い尽くした霧を閉じ込めている、死んだように動かない空気のすきまを探し求めた。ときおり一陣の突風が起こっては、霧をかきまわしたが、すぐにあらわれたときと同じように消えた。
「もっと強くしろ、ポル」ベルディンがせきたてた。頑として動こうとしない空気との格闘で、その醜い顔にはいく筋もの汗が流れ落ちていた。
「こんなことをやっていても無駄だわ、おじさん」彼女はそう言うなり、手を離した。彼女の顔にも非常な努力のあとがうかがわれた。「まったくつかみどころがないのですもの。双子たちは何をしているの?」
「ラク・クトルの高僧たちがタウル・ウルガスに同行しているのだ」ベルディンが答えた。
「ふたりは今それだけで手一杯だ。われわれの手助けまではできまい」
ポルガラは強い決意を顔にひめて、すっくと身を起こした。「何かをやるにしても、グロリムの近くにいすぎるわ」と彼女は言った。「わたしたちが局地的な風を起こすたびに、何十人もの連中がよってたかって覆い消してしまうのですもの」
「そうだな」ベルディンもうなずいた。
「もっと遠くまで意思をのばさなくちゃだめよ」彼女は続けた。「かれらの勢力範囲からずっと離れたところから空気を動かせば、干渉しようにもどうしようもないほどの強力な風になるわ」
ベルディンの目が細められた。「だがそいつは危険だぞ、ポル」かれは言った。「かりにそれができたとしても、われわれは二人ともへとへとになってしまうぞ。もし連中が何かをしかけてきても、もはや戦う力も残っていないことだろう」
「いちかばちかの賭けだわ」彼女はみとめた。「でもグロリムは頑固な連中だわ。恐らく維持するあらゆるチャンスを失っても、かれらは霧を死守するでしょう。そうなれば、むこうだってへとへとになるわ。おそらく何もできなくなるほどに」
「おそらくというのが気にくわんな」
「それじゃ、他に何かよい考えはあって?」
「今のところはないな」
「それじゃあ、やりましょうよ」
二人はふたたび手を合わせた。
王女にとってはまるで永劫のときが過ぎ去ったかのようだった。彼女は心臓がのど元までせりあがってくるような思いで、二人がたがいの手を取り、目をつぶって、その意思を西の熱く乾いた不毛の高原に伸ばし、あらゆる力をふりしぼって、その熱い空気をマードゥ川の広大な谷間に動かそうとするのを見守っていた。セ・ネドラはグロリムの意思によって作りだされた厳しい冷気が、よどんだ空気にどっかと腰をおろし、微動だにせず、息づまるような霧を追い払おうとするあらゆる試みをはねつけているような気がしてならなかった。
ポルガラの呼吸はいまやせわしないあえぎに変わっていた。胸は激しく上下し、顔は超人的な苦闘のために歪んでいた。ベルディンはこぶのある背中を丸めて、まるで山を持ち上げようとする者のように力んでいた。
突然、セ・ネドラはかすかにほこりと、太陽に焼かれた乾いた草の匂いをかいだような気がした。それはほんのわずかのできごとだったので、王女は一瞬、自分がそう錯覚しただけなのかと思った。すると再び、今度は前よりも強くそれが起こり、霧がゆっくりと渦巻いた。だが再びかすかな匂いは、それを運んできた風とともにぴたりとやんだ。
ポルガラがまるで絞め殺されるようなうめき声をあげた。すると霧がふたたび渦を巻いて流れはじめた。霧の露でしっとり濡れたセ・ネドラの足元の草がかすかに揺らぎ、タールの高地のほこりっぽい匂いはますます強くなった。
ますます勢力を強めながら、西の炎熱地帯から谷をわたって吹いてくる風を何とか阻止しようとグロリムが格闘しているうちに、霧を閉じ込めていた意思の幕がしだいに乱れはじめてきた。幕はあちらこちらで裂けはじめ、力を果たしつくした弱いグロリムが疲労に倒れたところから、落ちはじめた。
風はますます強くなり、川面を波立てる熱風になった。草はその前に頭を垂れ、霧は乾いた風に身をくねらせる巨大な生き物のようにわきたった。
セ・ネドラの前に、依然燃え続けるタール・マードゥの街と、川にそった平野にずらりと並んだ歩兵部隊の列があらわれた。
熱い、ほこりっぽい風はいよいよ吹きつのり、地面からそれをわき上がらせた意思と同じように実体のない霧を蹴散らした。突然、朝の太陽が黄金の光を降らした。
「ポルガラ!」ダーニクが驚愕の声をあげた。
あわててふりかえったセ・ネドラは、死人のようにまっ白な顔をしたポルガラが、ゆっくりとその場にくずおれていくのを見た。
[#改ページ]
17[#「17」は縦中横]
ワイルダンターのレルドリンは、ずらりと整列した射手たちの前を、落ちつきなく行ったり来たりしていた。そしてしばしば立ち止まっては、歩兵隊の集結する平原をさえぎる霧の中から何か聞こえはしないかと耳をそばだてた。「何か聞こえなかったか」かれはそばに立っているトルネドラ軍団の男にたずねた。
トルネドラ人は首を横にふった。
同じような質問が霧の中のあちこちでささやかれていた。
「今、何か聞こえなかったか」
「何か音がしなかったか」
「いったい向こうはどうなっているんだ」
どこか先の方でカチリという音がした。
「始まったぞ!」兵士たちは合唱するように声をあげた。
「まだだ!」レルドリンは早くも弓を構えようとする同郷人をたしなめた。「手傷を負ったタール人がいるだけかもしれないぞ。矢を無駄にするな」
「これは風だろうか?」ドラスニアの槍兵がたずねた。「神よ、どうか風でありますように」
レルドリンはいらだたしげに弓の弦を鳴らし、じっと霧の中をのぞきこんだ。
そのとき、かれの頬をかすかに撫でるものがあった。
「風だ」誰かが勝ちほこったように言った。
「風だぞ」同じ言葉はたちまち全軍中を駆けめぐった。
するとかすかなそよぎはぴたりとやみ、あたりは前よりもいっそう濃い霧に閉ざされた。
苦々しげなうなり声があがった。
突然、霧がかき乱されたかと思うまもなく、ゆっくりと渦を巻きはじめた。風が吹いてきたのだ!
レルドリンは息をのんだ。
霧は動きはじめ、灰色の流れとなって地面の上をはい出した。
「向こう側で何か動いてるぞ!」トルネドラ人が叫んだ。「戦闘用意!」
そうしている間にも霧はますます早く流れだし、薄れ、谷間を吹く熱いほこりっぽい風に溶けていった。レルドリンはじっと前方に目をこらした。かれらの歩兵隊から七十歩と離れていないところに動くものがあった。
まるでそれまでの執拗な抵抗が一気に破られたかのように、霧はゆらめきながら消失し、一面に太陽の光が広がった。平原は一面のマロリー軍で覆われていた。それまでこっそり進軍していたかれらの動きが突然の太陽の光に一瞬たじろぎ、凍りついた。
「今だ!」レルドリンは叫び、弓を高々とかまえた。配下の射手たちがその背後でいちように同じ動作をした。何千もの弓の弦がいっせいに解き放たれる音が、まるで巨大なつま弾きのように響きわたった。矢の雨はひゅうひゅうと音をたてながら、微動だにしない歩兵隊の上を通り過ぎ、一瞬空中で停止しているかのように見えたかと思うまもなく、びっしり並んだマロリー人の列に降り注いだ。
マロリー軍の忍びやかな動きは乱れることもなければ、立ちどまることもなかった。それはいともあっさりと消滅したのである。膨大なため息のようなうめき声をもらし、兵士たちはアストゥリアの矢の嵐のもとに、ばたばたと倒れていった。
レルドリンの手が目にも止まらぬ早さで、足元の草地に先端を突きさした矢の集団にのびた。かれは滑らかな動作で次の矢をつがえ、ひきしぼり、放った。そしてあらたな矢が、さらに次次とはなたれた。矢の雨は、歩兵隊の頭上にかかる巨大なのたうつ橋のように列をなし、いっせいになだれ落ちて、マロリー人を蜂の巣のように突き刺した。
アストゥリア人の矢の嵐はなさけ容赦なく平原を突っ切り、まるで大草刈りがまでなぎ払った干し草のようにマロリー人の累々たる死骸を残していった。
そしてマンドラレン卿の真鍮製のホルンが、総攻撃の合図を吹き鳴らすと同時に、射手と歩兵の列がさっと道をあけ、地面を揺るがさんばかりのミンブレイト騎士団のひづめの音がとどろいた。
矢の嵐と、押し寄せるなさけ容赦ない攻撃を前にして、すっかり士気をくじかれたマロリー軍は、総崩れとなり逃げ去った。
歓喜の笑いとともに、レルドリンのいとこトラシンは弓をおろし、退却するアンガラク人をあざけった。「おい、やったぞ、レルドリン」かれは笑いながら叫んだ。「やつらを打ち負かしてやった」かれは死骸の積み重なる戦場を背にして、なかばレルドリンの方を向きかけていた。片手に弓をかかげ、黒い髪をうしろになびかせ、顔は歓喜に輝いていた。レルドリンはこのときのいとこの顔を二度と忘れることはなかった。
「トル! 気をつけろ!」レルドリンが叫んだときは、すでに遅かった。アストゥリア人の矢の嵐に対するマロリー人の返礼は、かれら自身の武器の嵐だった。北に向かう丘のふもとに隠された何百という投石機からいっせいに、雲霞のごとく石が空中にはなたれ、川岸にびっしり並んだ列の上に落ちかかった。人の頭ほどもある石のひとつがトラシンの胸にまともに当たり、若者の身体を地面にたたき落とした。
「トール!」レルドリンは悲痛な声をあげて、傷ついたいとこのもとに駆けよった。トラシンの瞳は閉じられ、鼻からどくどく血が流れだしていた。かれの胸はぐちゃぐちゃに打ち砕かれていた。
「手伝ってくれ!」レルドリンはそばにたたずむ農奴たちの一団にむかって叫んだ。農奴たちは何を言わずにかれに手をかしたが、かれらの目は何よりも雄弁にトラシンがすでに死んでいることを物語っていた。
バラクはむっつりした表情で、巨大な船の舵柄の前に立ちはだかっていた。漕ぎ手たちは、低くした太鼓の音にあわせてせっせと漕ぎ、船は下流にむかって全速力で走っていた。
チェレク王アンヘグは船のてすりにもたれかかっていた。王はしみついた硝煙の臭いを吹きとばそうと、兜をぬいで、冷たい川の風に髪をさらしていた。その野卑な顔には、いとこと同じような難しい表情が浮かんでいた。「残った連中の助かる見こみはどのぐらいだろうな」かれはたずねた。
「あまり高いとは言えないだろうな」バラクは吐きすてるように言った。「マーゴ人とマロリー人が協力してタール・マードゥを攻撃するなど思いもよらなかった。わが軍は川で二分されてしまい、どちらも数の上では圧倒的に不利ときている。さぞかし連中は苦戦することだろう」バラクは肩ごしに、かれの船についてくる、六隻ばかりの小さな船を見やった。「もっと近寄れ!」かれは小さな船の水夫たちに向かってどなった。
「前方にマロリー軍発見! 北の川岸半マイルほど先のところにいます」マストに登っていた見張りが叫んだ。
「甲板を水で濡らせ!」バラクは命じた。
水夫たちは、長蛇の列になって次々とバケツを運び、水をかけては木製の甲板を濡らした。
「背後の船に合図を送れ」アンヘグ王は船尾に立つ顎髭の水夫に命じた。男はうなずくと、長いさおに留められた大きな旗を高々とかかげた。かれはそれを背後の船団に向かって激しくうち振った。
「その火に気をつけろ!」バラクは熱した石炭に覆われた、砂利のつまった台座のまわりに集まる男たちにどなった。「もしここで船に火をつけたりしたら、おまえたちは〈東の海〉まで泳いでいかねばならんぞ」
台座の前には、発射準備の整った、どっしりした投石機が三台置かれていた。
アンヘグ王は、前方の北岸にすえつけられた十二台ばかりの投石機に群がるマロリー人の方を見た。「弓船を出すなら今だな」
バラクはうなり声をあげると、背後にしたがう六隻の小船にむかって、大きく腕を振りおろした。それに答えて、小さな船はいっせいに前に飛び出し、波を切って走り出した。それぞれの船のへさきには、ゆるく結ばれた矢の束を装填した、長身の投石機が置かれていた。急流に助けられ、小さな船は速度をいっそう上げて、懸命にかいを漕いだ。
「武器を装填しろ!」バラクは砂利を敷いた火台を囲む男たちに叫んだ。「一滴たりとも甲板に落としてはならんぞ」
長いかぎの手を持った水夫たちは、三つの大きな陶器製のつぼを、熱した石炭の中から取り出した。壺の中には煮えたぎるタールとピッチとナフサの混合物が入れられていた。それらはいったんタールの樽につけられ、すぐに引きあげられて、ナフサをしみこませたぼろ布でくるまれた。壺はそれぞれ用意の整った発動機の火かごの中に入れられた。
弓船は猟犬のように速度を上げつつ、照準をさだめようと岸辺で四苦八苦するマロリー軍のすぐ近くにおどり出た。激しくゆれ動くチェレクの投石機から、矢の束が宙高く発射された。矢の束はあっという間にアーチを描いて舞いあがり、頂点近くでいったん速度をゆるめ、ばらばらにほどけて飛び散った。次の瞬間、それらは死の雨となって赤い衣のマロリー人たちの上に降り注いだ。
弓船のすぐ後に控えたバラクの船は、藪に覆われた川岸に近づいた。赤い髭の男は巨大な両手で舵柄を握りしめ、砲撃親方をじっと見つめていた。親方は灰色い髭の老水夫で、その両腕は樫の幹ほどもあった。かれは発動機能の前にある手すりに並ぶ、くさび形の刻み目からじっと前方をうかがっていた。白く長い司令杖を頭上にかかげ、左右に振りながら親方は船の方向を指示した。バラクはその司令杖の動きにしたがって、舵柄を手際よく操作していった。司令杖がさっと振りおろされた瞬間、バラクは舵柄をがっちりと握りしめた。陶器をくるむぼろ布にたいまつが点火されて勢いよく燃えあがった。
「撃て!」親方がどなった。重たげな砲声とともに閃光が発射され、燃える陶器とその破壊的な内容物は石弓と格闘するマロリー軍にむかって大きなアーチを描きながら飛んでいった。次の瞬間、陶器は衝撃で破裂し、火の玉をかれらの目の前にまき散らした。マロリーの投石機はたちまち炎に包まれた。
「みごとな射撃だ」アンヘグがいかにも専門家らしい口ぶりで言った。
「赤子の手をひねるようなものさ」バラクは肩をすくめた。「じっさい、沿岸にそった砲列を攻撃するのはたいして難しくはないんだ」そう言いながらかれは背後をふりかえった。すばやく動きまわるグレルティグの弓船が、さらに多くの矢をはなってマロリー軍をかく乱しているところだった。髭面の友人の投石機には、さらに次の矢の束が装填されていた。「こうしてみるとマロリー人どもは、マーゴ人と大差ないな。われわれが反撃するだろうとは考えもしなかったのかね」
「そいつはアンガラク人全体の欠点だな」アンヘグが答えた。「連中の書いたものを読めばわかるさ。どうやらトラクは独創的な思考というものをあまり奨励しなかったようだ」
バラクはいとこに問いかけるような視線を送った。「今わたしが何を考えているかわかるかね、アンヘグ。きみがリヴァで起こしたあのひどい騒ぎ――例のセ・ネドラが軍隊を率いる件だが――は本心からじゃないね。きみはあんな取るにたらないことにこだわるほど、物のわからない人間じゃないはずだ」
アンヘグは大げさに片目をつぶってみせた。
「きみは老獪アンヘグなどと呼ばれるのも無理はないな」バラクは含み笑いをもらした。「いったいあれはどういうことだったんだ?」
「わたしはブランドの言い分を封じこめておきたかったのさ」チェレクの王はにやりと笑った。
「やつは機会さえあれば、セ・ネドラの計画に水をさすことのできた唯一の人物だからな。リヴァ人というのはとにかく保守的なんだ、バラク。わたしは最初のうちはブランドの肩をもっていちゃもんをつけた。そのあとで急に折れてしまったものだから、やっこさんもそれ以上反対する根拠を失ってしまったというわけだ」
「あれはなかなか真にせまっていたぞ。このわたしでさえ、一瞬、きみの理性が吹っ飛んだのかと思ったよ」
「そいつは光栄だ」チェレク王はおどけた身振りで身をかがめた。「わたしのようなご面相は、悪い印象を人々に与えやすい。だがかえってそれが役に立つことを、これまでにもさんざん体験してきたもんでね。おや、アルガー軍のこ到来だ」そう言いながら王は、燃えあがるマロリーの砲門の背後の丘を指さした。膨大な数の騎馬兵が、混乱するマロリー人めがけて、丘の上から怒濤のように押し寄せてくるところだった。
アンヘグがため息をもらした。「タール・マードゥにのこった者たちの様子を知りたいものだ」かれは言った。「もっとも永遠に知ることもないだろうがな」
「たぶん、無理だろうな」バラクが答えた。「〈東の海〉に出るころにはわれわれ全員海のもくずと消えていることだろう」
「むろん、そのときにはマロリー人もごっそり道連れにしてやるんだろうな」
バラクは邪悪なほほ笑みで答えた。
「まあ、別にそれほど溺れ死ぬのがいやなわけじゃないがな」アンヘグは顔をしかめた。
「たぶんその前に運よく、腹に矢を受けておだぶつさ」
「そいつはありがたいな」アンヘグは苦々しげな声で言った。
それから一時間ばかりで、さらに三ヵ所ほどアンガラクの砲台を破壊したのちに、マードゥ川の両岸はぬかるみにかわり、アシやガマが一面にしげる平たい湿地になった。アンヘグの命令で、一行は薪を積み上げたいかだを作り、水から突き出た枯れ枝に結びつけたのちに、火をつけた。炎が十分燃えあがるのを待って、緑色の結晶がバケツで何杯も放りこまれた。たちまち緑色の煙が、青空にむかってたちのぼりはじめた。
「これがローダーに見えればいいが」チェレク王は顔をしかめながら言った。
「かれに見えなくとも、アルガー人たちには見えるだろう」バラクが言った。「連中がローダーに伝えてくれるさ」
「やっこさんたちが退却する時間があればいいが」
「そうだな」バラクは言った。「だがさっきもきみが言ったとおり、永遠にそいつを知ることはないだろう」
アルガリアの諸氏族の長チョ・ハグ王は、アレンディアのコロダリン王とくつわを並べて馬を進めていた。霧はほとんどはらわれ、今ではわずかな薄もやが残っているだけだった。二人とさほど離れていないところに、双子の魔術師ベルティラとベルキラが、先ほどまでの奮闘に疲れ切ったようすで、肩を並べて座りこんでいた。双子の頭はがっくりと下に落ち、胸は激しく上下していた。もしこれらの聖人なる老人たちがいなかったら、自分たちの運命はどうなっていただろうと考えると、さすがのチョ・ハグも、内心身ぶるいせずにはいられなかった。嵐の直前、グロリムが地から呼び起こしたおぞましい幻影は、もっとも勇猛な戦士の胸にも、恐怖をまき起こしていた。それに加えて、耳をつんざかんばかりの猛烈な嵐が、一行に襲いかかった。だが二人の柔和な顔つきの魔術師が、グロリムの二回にわたる攻撃にも冷静な決断をもってのぞみ、これをしりぞけたのだ。そしてマーゴ軍が迫りつつある今、戦いは魔法の世界から鋼の世界にうつったのである。
「もう少し近くに引きつけておいてからの方がよかろう」チョ・ハグ王は、ドラスニアの槍兵とトルネドラ軍団の配備された列にむかって、怒濤の波のように押し寄せるマーゴ軍を見ながら冷静な声でいった。
「失礼ながらそのような戦法は納得しかねるのですが、チョ・ハグ王よ」若きアレンディアの王は憂いに顔をゆがませた。「いかなるときもま正面から敵を受けよというのがミンブレイト騎士団の鉄則なのです。おっしゃるような側面からの攻撃は納得しかねるのですが」
「その方がより多くのマーゴ人を殺せるからだ、コロダリン王」チョ・ハグ王は萎えた足をあぶみの中で動かしながら答えた。「騎士団が両面から攻撃を加えれば、敵の大多数を分断することができる。そうなればわれわれの歩兵隊に行く手をさえぎられたやつらを、たたきつぶせるというわけだ」
「どうもわたしには歩兵を動かすということが、奇異に感じられてなりません」コロダリン王は告白した。「わたしは馬に乗らない戦闘に関してはひどく無知なのです」
「それは、きみだけではないぞ」チョ・ハグが言った。「わたしにとってもやはり不慣れなことには変わりはない。だが歩兵隊にも少しばかりマーゴ人と戦わせてやらねば、不公平というものだ。なにしろこれだけの距離を歩き続けてきたのだからな」
アレンディアの王は真剣に考えているようすだった。若い王がいささかのユーモアも持ち合わせていないのはあきらかだった。「それは考えてみたこともありませんでした」かれは言った。「たしかにかれらを参戦させないというのは、たいへん不公平です。かれらにどれぐらいのマーゴ兵を分けてやればいいでしょうか」
「さあ、それはわたしにもわからんよ」チョ・ハグはまじめくさった顔で答えた。「たぶん数千人かそこいらだろうな。むろん、けちけちしていると思われたくはないが、だからといって、あまり気前がよすぎてもいけない」
コロダリンはため息をついた。「極度の物惜しみと馬鹿げたむだ使いのあいだで、うまく処するのはたいそう難しいことですね、チョ・ハグ王」
「これもまた王者たる者のつとめなのだ」
「まったくもって、おっしゃるとおりです。チョ・ハグ王」若きアレンディアの王は再びため息をつくと、目前に迫りつつあるマーゴ軍を、どれぐらい分配してやればよいかという問題に全精力を傾けているようすだった。「歩兵ひとりにつきマーゴ人ふたりというのはどうでしょうか」かれはためらいがちにたずねた。
「それぐらいが妥当な数だろう」
コロダリンはほっとした顔でうれしそうにほほ笑んだ。「それではこの割当てでいくことにしましょう」かれは決然とした口調で言った。「これまでわたしはマーゴ軍を分割したことなどありませんでしたが、いざやってみると思ったほど難しいものではありませんね」
ついにチョ・ハグ王は笑いだした。
レディ・アリアナはレルドリンの震える肩に腕をまわし、いとこの亡骸が乗せられた担架からそっと引き離した。
「きみの力で何とかならないのか、アリアナ」若者はとめどなく涙を流し続けながら懇願した。
「包帯をするなり――湿布をするなりして」
「残念ですがもはや手の施しようがありませんわ、だんなさま」アリアナは静かな声で答えた。
「いとこ殿のご逝去を心からお悔み申しあげます」
「その言葉を言ってくれるな、アリアナ。トラシンが死ぬはずはない」
「失礼いたしました」彼女はあっさりした口調で言った。「あの方は遠いところへ行かれたのです。もはやわたくしの治療や技量ではあの方を呼び戻すことはできません」
「ポルガラならできるかもしれない」だしぬけにレルドリンが叫んだ。その目には不可能な希望の火が燃え上がった。「ポルガラを呼びにやってくれ」
「呼びにやらせる人手などここにはありませんわ、だんなさま」アリアナは、彼女とタイバと数人の者たちが怪我人の手当に飛びまわっている、急ごしらえの天幕を見まわしながら言った。
「ここにおられる人々は、皆わたくしたちの介護やお世話が必要な方ばかりです」
「ならば、自分で探しにいく」レルドリンは叫んだ。その目から依然として涙が流れ続けていた。若者はさっと踵を返し、天幕から飛び出した。
アリアナは悲しげなため息をつきながら、トラシンの青白い顔の上に毛布をかけた。そして相変わらず続々と運びこまれてくる怪我人のところへ戻った。
「こいつのことはかまわんで下さい、お嬢さま」痩せぎすな顔のアレンド人の農奴が、友人の上にかがみこもうとするアリアナに言った。
アリアナは問いかけるような目で男を見た。
「こいつはもうおっ死《ち》んでます」男は言った。「マロリー人の矢をまともに右胸に受けたんでさあ」かれはそう言いながら死人の顔を見下ろした。「哀れなデットン」男はため息をついた。
「こいつはあっしの腕の中で死んでいったんだ。死にぎわにやつが何て言ったかわかりますか?」
アリアナは首を横にふった。
「『少なくともたらふく朝飯は食えたなあ』と言って死んだんですよ」
「もう死んでいるとわかっているのに、なぜこのお友だちをここまで連れてきたのですか」アリアナは優しくたずねた。
痩せぎすな、むっつり顔の農奴は肩をすくめた。「友人を死んだ犬ころみたいにどぶの中に転がしておくことはできなかったんでね」かれは答えて言った。「こいつが生きてるあいだは、誰ひとりやつのことをかまっちゃくれなかった。だがこいつはあっしの友人だ。ごみの山かなにかのように、ほっぽっておくわけにゃいかない」男はそう言って短い、苦々しげな笑い声をあげた。「やつにとっちゃ、もうそんなことはどうでもいいかもしれんが、これで少しは人間らしいことをしてやれたしな」そう言いながらかれは無骨な手つきで死んだ相棒の肩をたたいた。「すまんな、デットン」とかれは言った。「だがそろそろ戦場に戻らなきゃならん」
「あなたのお名前は何というの」アリアナがたずねた。
「あっしはラメールって呼ばれてるもんでさあ、お嬢さま」
「そんなに急いで戦場に戻らねばならないのですか?」
「そうとも思えんのですよ、お嬢さま。マロリー人に矢を射かけるのがあっしの役目なんですがね。ちっともうまくはないが、さしあたってそいつをやれと言われたんで」
「それではわたくしの方がもっとあなたを必要としていますわ」彼女はきっぱりした口調で言った。「ここにはたくさんの怪我人がいるのに、人手が少なくて困っているのです。あなたは見かけはぶっきらぼうでも、たいへん優しい心の持ち主と見受けたわ。わたくしを助けてもらえないかしら」
男はしばらく彼女をじっと見つめていた。「あっしはいったい何をすればいいんで?」かれはたずねた。
「タイバが包帯にするための布を火にかけています」彼女は答えた。「まず、火のかげんを見て下さい。それから、外に毛布を積んだ荷車が置いてあります。どうかその毛布を運んできて下さいな、ラメールさん。それからあとにもまだやってもらわねばならない仕事があります」
「承知しました」ラメールはきびきびした口調で答えると、火のそばへ向かった。
「何かわたしたちにできることがあるかしら」セ・ネドラはベルディンに聞いた。王女は鍛冶屋のダーニクの腕にぐったりと抱かれたポルガラの青白い、意識のない顔をじっと見つめていた。
「そのまま休ませておけ」ベルディンはうなるように言った。「一日かそこいらで回復するさ」
「いったいこの人の身に何が起こったのですか」ダーニクが心配そうな声でたずねた。
「疲労困憊したのさ」ベルディンがたたきつけるような口調で言った。「一目瞭然じゃないかね」
「たかだか風を起こすだけのことでですか? わたしはこの人がもっとたいへんなことをするのを見てきましたよ」
「おまえさんは、自分が何を言ってるのかまったくわかっちゃおらんのだな」ベルディンは不機嫌な声を出した。背にこぶのある魔術師自身もまた青い顔をして震えていた。「天候を変えるには、この世でもっとも大きな力を必要とするのだぞ。ぴくとも動かない空気に風を起こすぐらいなら、山を持ち上げるか、潮の流れをとめる方がまだ楽だ」
「ですがグロリムたちは、嵐をもたらしたではありませんか」とダーニク。
「あれはすでに空気の流れがあったからだ。死んだように動かない空気とはまったく条件が違う。たとえほんのそよ風だろうと、どれほどの空気を動かさねばならないか、おまえたちには想像もつかんだろうよ。どれほどの圧力が必要か――動かさねばならない空気がいかに重いものか」
「空気には重さなんてないじゃないの」セ・ネドラが抗議するように言った。
「ほう、そうかね」ベルディンが精一杯の皮肉をこめて答えた。「わざわざ教えてくれてありがとうよ。さあ、いいかげんに二人とも口をつぐんで、おれに息をつかせてくれんかね」
「でもなぜこの人が倒れてあなたは平気なのよ」セ・ネドラはなおもくいさがった。
「おれの方が体力があるからだ」ベルディンは答えた。「それにずるがしこいからな。ポルは興奮するとつい夢中になりすぎるのだ。いつもそうだった。力を限界以上に使いすぎて、精も根もつきはてたのさ」体のねじ曲がった小男は、すっくと身を起こすと、水から出てきた犬のように身を震わせ、厳しい顔つきであたりを見まわした。「おれにはまだやることが残っている」とかれは言った。「グロリムのやつらにいいかげん痛手を与えたとは思うが、いちおう万全を期して、目を離さずにいることにしよう。おまえたち二人はポルといっしょにいて、この子供から目を離さないようにな」小さな顔にきまじめな表情を浮かべて、砂地にたたずむエランドを指さしながら魔術師は言った。
背を丸めたベルディンの姿はすでにぼやけ始め、鷹のかたちに変わったかと思うと、まだ翼の羽根もそろわないうちに飛び立った。
セ・ネドラは鳥が旋回しながら戦場たかく舞い上がっていくのをじっと見つめていたが、やがて再び意識のないポルガラに注意をもどした。
コロダリン王のミンブレイト騎士団の攻撃は、いまや最高潮にたっしようとしていた。巨大な馬に乗った鎧武者たちは、ひづめの音をけたてて、まるで二本の大草刈りがまのように、両側から槍を狙いさだめて、待ちかまえる槍兵隊と軍団めがけて押し寄せるマーゴ軍のあいだをなぎ払うように突撃した。その戦果はめざましかった。たちまちのうちに空気は悲鳴と、鋼のぶつかりあう凄まじい衝撃音で満ちた。突撃隊の通ったあとには、百ヤードものはばにわたって、累々たる死骸の山が築かれていた。
戦場から少し離れた西の小高い場所で、馬に乗ったまま戦況を見守っていたチョ・ハグ王は承認のしるしに大きくうなずいた。「よし」とかれは言い、飢えたような表情を浮かべて、まわりに集うアルガー諸氏族の顔を見わたした。「さあ、ものどもよ」かれは静かな口調で言った。
「われわれの手でマーゴ人の予備軍を根絶やしにしてやろうではないか」そう言いざま、王は一行の先頭にたって丘を駆けおり、両軍がくんずほぐれつ戦闘するかたわらをすばやく迂回して、背後についていた無防備なマーゴ軍の分隊に切りかかっていった。
アルガー諸氏族のかく乱戦法は、かれらが切りこんでさっと引くたびに、切り刻まれた死体の山を築きあげていった。チョ・ハグ王自らも何度か突撃の先頭にたった。かれのサーベルの腕前はアルガリアではすでに伝説となっているほどで、その鞭のような一撃がマーゴ人の頭や肩に浴びせられるたびに、見る者は畏怖のまじった誇りを感じるのだった。アルガー流の突撃はひとえにそのスピードにかかっていた。足の速い馬で速攻をかけ、電光石火のごとくサーベルをひらめかせ、敵が分別を取り戻す前にさっと引きあげるというものだった。そしてチョ・ハグ王のサーベルの腕前はアルガリアで一番早いとされていた。
「陛下!」部下の一人が、数百ヤードほど先の浅い谷にむらがるマーゴ人の中央を指さした。
「あそこに黒い旗が見えます」
チョ・ハグ王の日に狂おしい希望の火がやどった。「わたしの旗を持ってこい!」かれの声に応じて、部下のひとりがアルガー諸氏族の長を表わすぶどう酒色と白の旗を頭上になびかせながら疾駆してきた。「ものどもよ、行くぞ!」チョ・ハグはそう叫ぶなり、馬の向きを変えて、谷間のマーゴ軍めざして突進した。片手に高々とサーベルをかかげ、不具のアルガー王は戦士をしたがえてマーゴ軍のまっただなかに飛びこんでいった。かれの部下たちは、左に、右に、切りつけたが、ひとりチョ・ハグだけは、マーゴ王タウル・ウルガスの黒い軍旗をひたと見すえ、まっすぐに突き進んだ。
そしてついに、チョ・ハグは近衛兵の中央に、タウル・ウルガスの血のように赤い鎖かたびらを見いだした。王はその血にまみれたサーベルを高くかかげ、鳴り響くような大声で呼ばわった。「こちらを向いてわたしと戦え! マーゴの犬め」
呼び声に驚いてタウル・ウルガスは馬の向きを変え、突進してくるアルガリアの王を信じがたい顔で見つめた。その目が飛び出し、狂気に激しく燃え出した。唇は泡を吹き、憎悪のかたちにねじ曲げられた。「やつを通せ!」かれは耳ざわりな声でどなった。「やつに道をあけてやれ!」
近衛兵はいっせいに驚いたような顔でマーゴ王を見た。
「アルガリアの王に道をあけろと言っておるのだ!」タウル・ウルガスが金切り声をあげた。
「やつはおれが殺《や》る!」かれはぞっとするような声で言った。
マーゴ軍はチョ・ハグのために道をあけた。
アルガリア王は馬の歩調をゆるめた。「ついに、このときが来たようだな、タウル・ウルガス」かれは冷たい声で言った。
「そうとも、チョ・ハグよ」タウル・ウルガスは答えた。「おれはこのときを、ずっと待っていたのだ」
「そうと知っていれば、もっと早く来てやったのにな」
「今日こそ、おまえの最後の日だぞ、チョ・ハグ」いまやマーゴ王の目は狂気に満ち、唇の端からは泡が吹きだしていた。
「そのようなむなしい言葉で威嚇するだけで戦おうというのか、タウル・ウルガス。それとも剣の抜き方を忘れてしまったのかな」
狂人のような金切り声とともに、タウル・ウルガスは広刃の剣をさやから払い、黒い馬の鼻先をアルガー王に向けた。「死ね!」かれは剣をふりまわしながら突進した。「死ね、チョ・ハグ!」
それは決闘ではなかった。決闘にはある種の礼儀作法が存在する。だが二人の王は、獣的な本能に身をまかせ何千年にもわたる鬱積した憎しみに血をたぎらせていた。いまや完全に正気を失ったタウル・ウルガスは、すすり泣き、わけのわからない言葉を口走りながら、力まかせに剣をふりまわしていた。氷のように冷静なチョ・ハグ王は、ちろちろと動く蛇の舌のように素早い腕で、マーゴ王の猛攻をかわし、相手の剣をさっと受けとめ、サーベルを鞭のように操り、しばしばマーゴ王の顔や肩に傷を負わせた。
たがいの王の戦いぶりの凄まじさにすっかりどぎもを抜かれた両軍は、しだいに後ずさり、馬に乗って戦う二人に死闘の場所をあけた。
泡を吹き、わけのわからない言葉を口走りながら、タウル・ウルガスは、動きをつかめない相手に向かって刃をふりまわした。一方、相変わらず冷静さを失わないチョ・ハグは、相手を突くと見せかけ、その攻撃をかわし、サーベルでぴゅっという音をたてながらマーゴ王の血まみれの顔に切りつけた。
もはや正気のかけらすらとどめないタウル・ウルガスは、獣じみた叫びを上げながら、馬ごとチョ・ハグにおどりかかった。あぶみに立ち、つかを両手で握りしめたマーゴ王は、あたかも斧で相手の息を永遠にとめようとするかのように、剣を振りあげた。だがチョ・ハグ王はすばやく馬を片側へ寄せ、タウル・ウルガスが勢いよく剣を振りおろすのと同時に、渾身の力をこめて剣を前に突き出した。耳障りな金属音とともに、かれのサーベルは、マーゴ王の血のように赤い鎖かたびらを通してこわばった肉体を貫き、背中から同じ色の液体を噴きださせた。
狂気のあまり自分が致命傷を負ったことにも気づかず、タウル・ウルガスは再び剣を振りあげたが、腕から力が抜けおち、剣はその手からするりと滑り落ちた。タウル・ウルガスは信じられないという顔で、胸から突き出たサーベルを眺めていたが、やがて唇のあいだから血の泡を噴きだした。かれは相手の顔を引き裂こうとするかのように、手をかぎ爪の形に突きだした。チョ・ハグは小馬鹿にした顔でその手を払いのけ、細身の湾曲した刃をマーゴ王の身体からずるずると音をたてて引き抜いた。
「おまえもこれで年貢をおさめるんだな、タウル・ウルガス」かれは氷のように冷たい声で言った。
「うるさい!」タウル・ウルガスはしわがれ声で答え、腰のベルトから重たげな短剣を引き抜こうとした。
チョ・ハグは、相手の弱々しい抵抗を冷たい目で見下ろしていた。マーゴ王の開いた口から突然、黒っぽい血があふれ出したかと思うと、その姿がへなへなと鞍から崩れ落ちた。よろめき、血にむせびながらも、タウル・ウルガスは致命傷を与えた相手を口汚くののしった。
「だが、なかなか良い戦いだったぞ」チョ・ハグは冷酷なほほ笑みを残し、馬の向きを変えて、走り去ろうとした。
タウル・ウルガスは倒れ、草地を力なくかきむしった。「戻ってきて相手をしろ」かれはすすり泣きながら言った。「戻ってこい」
チョ・ハグは肩ごしにふり返った。「王よ、申しわけないが、わたしには急を要する仕事がいくつもあるものでね。むろんわかってくれるだろうが」そう言い残してかれは走り去った。
「戻ってこい!」タウル・ウルガスは、血と呪いの言葉を吐きながら泣き叫び、その爪を地面にくいこませた。「戻ってこい!」次の瞬間、かれは血まみれの草地の上に、うつぶせに倒れこんだ。「戻ってきて、おれと戦え、チョ・ハグ!」かれは弱々しげな声であえいだ。
チョ・ハグが最後に見たのは、死にゆくクトル・マーゴスの王が草を噛み、震える指を地面につきたてているところだった。
悲しげなうめき声が折り重なるように並んだマーゴ軍のあいだからいっせいに上がった。それと同時に、チョ・ハグの勝利の帰還にアルガー軍のあいだから歓声がわき起こった。
「やつらがまたやってきますぞ」押し寄せてくるマロリー軍を見下ろしながら、ヴァラナ将軍は専門家らしい冷徹さで報告した。
「合図はどうしたんだ」ローダーが、じっと下流の方を見ながら言った。「いったいアンヘグはなにをやっているのだ」
侵攻するマロリー軍の最前列が、凄まじい音をたてて激突した。ドラスニア槍兵がいっせいにその長く広い穂先を突き出すと同時に、たちまち赤い衣の襲撃者たちのあいだに阿鼻叫喚が起こった。トルネドラ軍団は楯をかかげてつなぎ合わせ、強固な壁をつくりあげ、マロリー人の攻撃をしりぞけた。鋭い声で命令が飛ぶと同時に、軍団はわずかに楯をななめにして、隙間からいっせいに槍を突き出した。トルネドラの槍はドラスニアのそれほど長くはなかったが、十分役にたった。巨大なおののくような悲鳴が最前列のマロリー人たちに広がり、ばたばたと背後に続く兵士たちの足元に倒れていった。
「やつらはここを突破するだろうか」ローダーは息を切らしながら言った。戦いに直接加わっていないとはいえ、ドラスニア国王はマロリー軍の攻撃があるたびに、つらそうに息をあえがせるのだった。
ヴァラナ将軍は攻撃の規模を注意深く見定めた。「いいや」かれは言った。「まだ大丈夫なようですな。ところで、ここを引き上げる方法についてはもうお考えでしょうな。自軍が戦っている最中に撤退するというのはなかなか難しいことですぞ」
「だからミンブレイト騎士団を使わずに取ってあるのだ」ローダーは答えた。「かれらは今最後の攻撃にそなえて馬を休ませている最中だ。アンヘグからの合図がありしだい、マンドラレンとかれの部下たちがマロリー軍を押し返し、そのあいだに残りの者たちは脱兎のごとく逃げるという戦法だ」
「ですが、騎兵隊はそれほど長く敵を食いとめられやしませんよ」ヴァラナが指摘した。「そうなったらまた連中はあなた方を追いかけてくることでしょう」
「そうなったら、また途中で態勢を立て直すさ」ローダーは答えた。
「しかし、いちいち戦うために半マイルごとに止まっていたのでは、いつまでたっても崖地まで行けやしませんよ」
「そんなことぐらい、わかっておる」ローダーは気むずかしげに答えた。「ならば他に何かいい方法があるかね」
「ありません」ヴァラナは答えた。「いちおう問題点を述べてみただけのことですよ」
「それにしても合図はまだか」ローダーは苛立たしげに繰り返した。
北岸で行なわれている戦闘からいくらか離れた静かな丘のふもとで、アレンディシュの森からやってきた無邪気な少年が、フルートを吹いていた。かれの奏でる旋律は死者への哀悼に満ちていたが、そこにこめられた悲しみにもかかわらず、音色は空高く響きわたった。少年には戦争というものが理解できなかったので、誰にも見とがめられずに抜け出してきた。そして草のはえた丘のふもとに一人ぼっちで座り、暖かい午前の陽ざしを浴びながら、全身全霊をこめてフルートを吹いているのだった。
だがかれの背後に剣を手にしてそっと忍び寄ったマロリーの兵士には、歌ごころなどなかった。兵士は少年の奏でている音楽が、いかなる人間も耳にしたことのないような美しいものだということを、わかりもしなければ、気にもかけなかった。
歌は唐突に終わり、二度と始まることはなかった。
アリアナの急ごしらえの野戦病院に運ばれてくる負傷者の数は、増え続ける一方だった。ついに患者をさばききれなくなったミンブレイトの娘は、過酷な決断をしなければならなかった。生き残る見込みのある者だけは手当をする。だが、もはや助からない重傷を負った者には、薬草から作られた苦痛を少なくする苦い味の飲み物をすぐに与え、そのまま死なせた。決断をせまられるたびにアリアナの心は激しく痛み、娘はじっと涙を浮かべたまま手当を続けるのだった。
そこへ〈リヴァの番人〉ブランドが、打ちのめされた表情で天幕に入ってきた。番人の鎖かたびらは血で汚れ、その巨大な丸い楯のへりには、いくつもの荒々しい傷がついていた。背後にはかれの息子たちが、末っ子のオルバンのぐったりした血まみれの身体を支えながらしたがっていた。
「かれを診ていただけないか」ブランドはしわがれ声で訴えた。
だがひとめ見ただけで、背の高い金髪の少女には、オルバンの胸の傷が致命的だということがわかった。「すぐに痛みを少なくしてさしあげますわ」彼女はあたりさわりのない口調で言った。そして血まみれの若者の脇にひざまずくと、かれの唇にカップをあてがった。
「父上」オルバンは薬を飲んでから弱々しい声で言った。「お話ししたいことがあります」
「話など後でいくらでもできる」ブランドはしわがれ声で息子に答えた。「後になればもっと気分がよくなるだろう」
「わたしはもう助からないでしょう、父上」オルバンの声はほとんどささやきに近かった。
「馬鹿をいうのではない」ブランドの声には、さほど自信がなさそうだった。
「もうあまり時間がありません、父上」オルバンは弱々しく咳こみながら言った。「どうかわたしの話を聞いてください」
「わかった、オルバン」ブランドはそう言って、息子の言葉を聞くために顔を近づけた。
「リヴァで――ベルガリオンが帰還してからというものの、わたしは父上が退けられたことで、ひどく屈辱を感じていたのです。わたしにはそれが耐えられませんでした」オルバンは咳こみ、唇から血のまじった泡をふいた。
「おまえにはよくわかっていたはずだぞ、オルバン」ブランドは優しく言った。
「今は――よくわかっています」オルバンはため息をついた。「ですが、わたしは若く、おごりたかぶっていました。そこへベルガリオンが――センダリアの何でもない少年がやってきて、父上をしかるべき地位から追いはらったのです」
「だがそもそもあの地位はわたしのものではなかったのだよ、オルバン」ブランドは言った。
「あれはかれのものだ。ベルガリオンはリヴァの王なのだから。地位だの身分などとは何の関係もない。あれは義務なのだ――それもかれ自身のであって、わたしのではない」
「わたしはかれを憎みました」オルバンはささやいた。「そしてかれの後をつけ始めたのです。ベルガリオンがどこへ行こうと、ぴったりくっついていました」
「いったい何のために?」ブランドがたずねた。
「初めのうちは自分でもよくわかりませんでした。ですが、ある日のこと、ベルガリオンがローブと王冠をまとって謁見の間から出てくるところを見たのです。かれは自分の地位にすっかりのぼせ上がっているようでした。まるで自分がセンダリアの一介の皿洗いでなく、本物の王でもあるかのように。そのとき、わたしは自分のなすべきことを悟ったのです。わたしは自分の短剣を抜き、その背中めがけて投げつけました」
ブランドの顔が突然、凍りついた。
「それからわたしは長いことかれを避けようとつとめてきました」オルバンは続けた。「短剣が手を離れたときから、自分が間違っていることはわかっていました。だからなるべく離れてさえいれば、わたしが襲撃者だとは気づかれないだろうと思ったのです。だがかれには不思議な力があるのです、父上。かれは普通の人間ではわからないようなことまで、理解できるのです。ベルガリオンはついにある日、わたしを見つけだし、わたしが投げつけた短剣を返し、誰にもわたしのやったことを口外してはならないと言いました。それもこれもすべて父上のために――わたしの不名誉を父上に知らせないためだと、かれは言ったのです」
ブランドはいかめしい顔をして立ち上がった。「行こう」かれは残った三人の息子に言った。
「われわれにはまだ戦いが残っている――これ以上裏切り者に耳を貸している暇はない」〈番人〉はゆっくりと、死に行く息子に背をむけた。
「わたしはかれの慈悲に報いようとつとめたのです」オルバンは必死に言った。「わたしはベルガリオンの妃を一生お守りしようと誓いました。これでいくらか借りは返せたのではないでしょうか」
ブランドの顔は相変わらず石のように固く、背を向けてかたくなに沈黙を守っていた。
「ベルガリオンはわたしを許してくれました。父上にもどうかお許しをいただけないでしょうか」
「だめだ」ブランドはしわがれ声で言った。「わたしにはできん」
「お願いです、父上」オルバンは哀願した。「わたしのために涙を流してはいただけないのですか」
「一滴たりともごめんだ」ブランドはそう言ったが、アリアナにはかれの言葉が嘘だということがわかっていた。灰色の衣をまとった、むっつり顔の男の瞳は涙であふれていたのである。だがその表情は大理石のように変わらなかった。それ以上何も言わずに、かれは大股で天幕から歩み去った。
オルバンの兄弟たちは、やはり無言のままかわるがわる弟の手を握りしめ、父の後を追って出ていった。
オルバンは静かにすすり泣いていたが、体力の消耗とアリアナの与えた薬が、しだいに悲しみを奪い去っていった。かれはなかば意識を失いかけながら寝台に横たわっていたが、最後の力をふりしぼって身を起こし、ミンブレイトの娘を手招きした。彼女は怪我人のかたわらにひざまずき、片方の肩に腕をまわしてささえ、不明瞭な言葉を聞き取ろうと顔を近づけた。「お願いがある」かれはつぶやくように言った。「どうか女王陛下にわたしが今父上に言ったことと、わたしがいかに申しわけなく思っているかを伝えてはもらえないか」そのとたん、かれの頭はがっくりとアリアナの方に垂れ、若者は娘の腕の中で静かに死んでいった。
だがアリアナには悲しんでいる暇はなかった。ちょうどそのとき、ブレンディグ大佐が三人のセンダー人に運ばれて、天幕の中に入ってきたからである。大佐の腕はまったく回復の見込みがのぞめないほど、潰されていた。
「われわれは、街へ通じる橋を壊していたのです」センダー人のひとりが簡潔に報告した。
「どうしても倒れない支柱が一本あったので、大佐殿自らその柱を切り倒そうとなされたのです。ようやくそれを倒したとき、大佐殿がその下敷きになられました」
アリアナは憂いの色を浮かべてブレンディグの潰れた腕を調べた。「残念ですが、もはや手の施しようがありません」彼女は言った。「壊疽を起こしているので、命を救うためには、切り落とさなければならないでしょう」
ブレンディグは落ち着きはらった顔でうなずいた。「たぶん、そんなところだろうと思っていた」とかれは言った。「ならば、それを受け入れるしかあるまいな」
「見えたぞ!」ローダー王が下流を指さしながら叫んだ。「煙だ――それも緑色の! あれこそ合図だ。われわれは撤退を開始できるぞ」
ヴァラナ将軍は上流の河岸をじっとながめていた。「残念ながらもはや遅すぎるようですな、陛下」かれは静かな声で言った。「マロリーとナドラクの大軍が、ちょうど西方の河岸に到着しました。どうやらすっかり退路を断たれたもようですな」
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18[#「18」は縦中横]
タウル・ウルガスの死の知らせは、巨大なうめき声となって伝わり、黒衣の兵士たちの士気を著しくそぐ結果となった。部下はみなタウル・ウルガスを恐れてこそいたが、その残忍な凶暴性のために、かれが無敵であるかのような印象を抱いていた。タウル・ウルガスの行く手をさえぎる者などこの世にはなく、その残忍な意志の手足となってはたらくことで、自分たちも不死身のおすそわけにあずかっているような気になっていたのである。そのかれが死んだことによって、マーゴ人たちは突然不死身の者でさえ死ぬのだという冷たい恐怖にとらわれた。おかげで南岸の連合軍に対する攻撃も、尻すぼみになってしまった
チョ・ハグ王は、意地の悪い満足感をもって、腰くだけになったマーゴ軍を眺めていたが、やがて向き直り、他の指揮者たちと協議するために、歩兵隊とミンブレイト騎士団の列に馬を走らせた。センダー軍の列からフルラク王が、大股に歩み出てきた。茶色の髭をはやした不格好な王がぴかぴかの胸当てをつけている姿には、ほとんど笑いを誘うものさえあった。だが、その剣には最近使われたばかりの跡が歴然と残り、兜は数ヵ所にわたってくぼみ、センダリアの王が戦闘に参加したことを無言のうちに物語っていた。
「アンヘグの合図はまだか」チョ・ハグ王が近づいてくるのを見て、フルラク王がたずねた。
チョ・ハグは首を横にふった。「だが、そろそろあってもいい頃だ」かれは答えた。「ここで少しばかり戦略をたてておいた方がいいだろう。コロダリンの姿を見てはいないか」
「医者が今みているところだ」フルラクは答えた。
「怪我をしたのか」チョ・ハグ王が驚いたように言った。
「たいした怪我じゃないようだがな。やっこさんは友人のボー・エボール男爵を助けにいったところを、マーゴ人の棍棒にたたかれたのさ。もっとも打撃のほとんどは兜で吸収したがな。耳から少しばかり血を流しておるが、医者どもは大丈夫だと言っておるよ。だが男爵の方が容態は悪いようだ」
「それでは誰がミンブレト騎士団の指揮をとっているのだ」
「アンドリグ卿だ。たしかにやつこさんは戦士としてはいいが、どうも把握力に欠けるところがあってな」
チョ・ハグは短い笑いをあげた。「きみが今言ったことはアレンディア人全体にあてはまることさ。かれらは皆よき戦士ではあるが、把握力に欠けてるのだ」ほとんど湾曲している足をかばい、鞍にしがみつくようにして、かれは慎重に馬からおりた。「アンドリグなしでも、決断を下すことはできると思うが」チョ・ハグは退却するマーゴ軍に目をやった。「アンヘグからの合図がありしだい、一刻も早くここを立ち去りたい。マーゴ軍も今でこそ動揺しているが、衝撃から立ち直りしだい、また結束することだろう」
フルラクはうなずいた。「ところで、きみがタウル・ウルガスと決闘して、やつを殺したというのは本当かい」
チョ・ハグもまたうなずいた。「じっさいは決闘と呼ぶほどのものではなかったがね。なにしろすっかり逆上していたものだから、やつには自分を防御する余裕すらなかったのさ。アンヘグの合図があったら、まずミンブレイト騎士団をマーゴ軍の最前列に突撃させる。恐らくやつらは列を崩して逃げ出すことだろう。わたしはその後から一族を率いて、もっとそいつを急がせるようにする。そうすればきみたちの歩兵隊も十分、上流に向かって出発する余裕ができるはずだ。アンドリグとわたしはきみたちが完全に撤退するまで、マーゴ軍を近づけないようにする。これでどうだろう?」
フルラクはうなずいた。「それなら何とかできそうだな」かれは同意した。「やつらはわれわれのあとを追ってくるだろうか」
チョ・ハグはにやりと笑った。「そんな気を起こさせないようにしてやるさ」かれは答えた。
「川のむこう側のようすはわかるかね?」
「はっきりしたことは言えないが、どうもあまりかんばしくないようだ」
「かれらに援軍を送ることは可能だろうか」
「まずもって、無理だろうな」フルラクは答えた。
「わたしもそう思う」チョ・ハグは言った。かれは再び鞍によじのぼろうとしていた。「アンドリグへ指示を与えにいくのはわたしがやろう。きみはアンヘグの合図に注意していてくれたまえ」
「ベルガラス!」セ・ネドラはのどもとの護符を両手できつく握りしめながら、小さな声で呼びかけた。「ベルガラス、わたしの声が聞こえて?」彼女は、意識のないポルガラの身体を少しでも楽にしようと骨折るダーニクから数ヤードと離れていない場所に立っていた。王女は両目をぎゅっとつむり、全身全霊をこめて思いを空にむかって注ぎ、いにしえの魔術師を捜し出すことに、ありったけの精神をかたむけた。
「セ・ネドラか?」老人の声はまるでそばに立っているかのように鮮明だった。「いったいそこで何をしておるのだ。ポルガラはどうした?」
「ああ、ベルガラス!」王女は安堵のあまり、あやうく泣き出すところだった。「助けてちょうだい。レディ・ポルガラは気を失ったままだし、マロリー軍がまた攻めてこようとしているわ。このままじゃ、わたしたち殺されるわ。どうか、助けてちょうだい」
「まあ、落ちつけ」老人はそっけない声で言った。「いったいポルがどうしたというのだね。おまえさんたちは今どこにいるのだ」
「わたしたちはタール・マードゥにいるの」セ・ネドラは答えた。「チェレクの艦隊を下流へ逃がすために、この街を攻め落としたの。でもマロリー軍とマーゴ軍がいつのまにか忍び寄っていたのよ。この朝からずっと攻撃が続いているわ」
ベルガラスはののしり言葉を吐いた。「それでポルはどうした?」
「グロリムたちがもの凄い嵐を呼んできて、その後で霧を発生させたのよ。レディ・ポルガラとベルディンで力を合わせて風を起こしたあと、急に倒れたのよ。ベルディンが言うには彼女がとても疲れているので、そのまま寝かせておかなければならないんですって」
「ベルディンはどこにいる」
「グロリムを監視しなくちゃならないと言ってたわ。わたしたちを助けて下さるわね?」
「セ・ネドラ、わしはおまえさんたちから千リーグ以上離れた場所におるのだ。ガリオンとシルクとわしは今マロリーにいる――文字どおりトラクの敷居をまたいだところなのだ。もしわしがここでおまえさんたちを助けたりしたら、トラクが目覚めてしまうだろう。ガリオンにはまだその用意ができてはいないのだ」
「それじゃ、わたしたちみんな死ぬんだわ」セ・ネドラは泣き出した。
「泣いたりするでない」老人は叱りつけるように言った。「ヒステリーを起こしている場合ではないぞ。早くポルガラの目を覚まさせてやらにゃならん」
「わたしたちもそうしようとしたのよ――でもベルディンが休ませておかなければならないと言うんですもの」
「休むことならあとでもできる」ベルガラスは言い返した。「そこにポルガラがいつも持ち歩いている袋があるか? あのこが薬草を入れている袋だが」
「ええ、あると思うわ。ダーニクが担いでいるのを、少し前に見たわ」
「ダーニクもいっしょなのか? そいつはよかった。ならばこれからわしの言うことをよく聞いてくれ。まず袋を開くのだ。必要なものは絹製の小袋に入っておる。他の壺やびんを開けてはならん。あいつはいつもそういったものに毒を入れておるからな。絹製の小袋のなかに黄色い粉末が入っているやつがある。ひどく鼻につんとくる臭いがするはずだ。鉢で水をわかし、その中に粉末をさじに一杯分入れるのだ。それをポルガラの頭のすぐそばに置き、彼女の顔をマントで覆って、その香りを吸い込むようにすればよい」
「いったい何の効果があるの」
「ポルガラの目を覚まさせるのさ」
「本当に大丈夫でしょうね」
「いちいち逆らうんじゃない。彼女は必ず目覚めるから、わしを信用しろ。この香りは枯れ木だってよみがえらすのだ。ポルガラが目覚めれば、あとはあのこが何とかするだろう」
セ・ネドラは口ごもった。「ガリオンはそこにいるかしら」やっとの思いでそう言った。
「やっこさんは今熟睡しているよ。昨晩はなかなかしんどい目に会ったものでな」
「それじゃ、かれが起きたら、わたしが愛しているっていうことを伝えて下さらない」セ・ネドラは急きこんだ口調で言った。まるでちゃんと考えていたら、言えなくなってしまうとでもいうように。
「いまさらやつを混乱させてどうするのだ?」老人は言った。
「ひどいわ、ベルガラス!」セ・ネドラはショックを受けたような声を出した。
「冗談さ。むろんやつに伝えるとも。さあ、やるべきことを始めるがいい。それから、もう二度とこんなことをするんじゃないぞ。これからトラクのもとに忍び寄ろうというのに、何千リーグも離れたかなたからわめきたてられたんじゃ、仕事にならんからな」
「わめいてなんかいないわ」
「いいや、特殊な方法かもしれんが、悲鳴にはちがいない。さあ、護符から手をはなして、行動に移るのだ」そう言って声は聞こえなくなった。
むろんダーニクには理解してもらえないだろうと思ったセ・ネドラは自分でなすべき作業をすることにした。まず彼女は荷物をひっかきまわして、小さな鉢を見つけた。彼女はそれに水を満たすと、ダーニクが前の晩に起こした小さな焚火にかけた。それから今度はポルガラの薬草袋を開けた。金髪の子供は、じっと彼女の横にたたずんだまま、興味深げに見守っていた。
「いったい何をしているんですか、王女さま?」相変わらず心配そうに、ポルガラにつきそっているダーニクがたずねた。
「彼女がよくなる薬を調合するのよ」セ・ネドラは嘘をついた。
「本当にわかって探してるんでしょうね? 中にはたいそう危険な薬もあるんですよ」
「探すべきものはわかっているわ」彼女は答えた。「わたしにまかせておいてちょうだい、ダーニク」
ようやく探しあてた粉末は、凄まじい刺激臭がして、王女は涙ぐまずにはいられなかった。彼女は慎重に量をはかって鉢の中に入れた。蒸気の煙の異臭はさらに猛烈で、ポルガラの横たわる場所まで顔をそむけて運ばなければならないほどだった。彼女はそれをポルガラの青白い意識のない顔のすぐ横に置き、マントをその身体の上にかけた。「棒を貸してちょうだい」王女は鍛冶屋に言った。
不安そうな顔でダーニクは折れた矢の柄を渡した。
セ・ネドラは慎重にマントにつっかい棒をたてて、ポルガラの顔と鉢の上を覆うようにした。
「それからどうするんですか?」ダーニクがたずねた。
「後は待つだけよ」とセ・ネドラは言った。
そのとき、戦場の方から、あきらかに傷を負っているらしいセンダリア兵の一団がやってきて、奥まった小さな入江を囲む、草地の騎士の上に姿をあらわした。かれらの袖なし胴着は血で染まり、ある者は包帯を巻いていた。だが、朝から運ばれている怪我人と違うのは、みな武器を持っていることだった。
マントの覆いの下でポルガラが咳きこみはじめた。
「いったい何をやってるんですか!」ダーニクがマントを引きはがしながら叫んだ。
「だって、こうしなければならないんですもの」と彼女は答えた。「わたしはさっきベルガラスと話をしたのよ。かれはポルガラを起こすように言ったわ。それからその起こし方も」
「こんなことをしたら、かえって悪くなりますよ」ダーニクは非難するように言い、突然、ダーニクらしからぬ怒りにかられて、煙をあげる鉢を蹴飛ばした。鉢はごろごろと入江の水辺まで転がり落ちた。
ポルガラはあいかわらず咳きこんでいたが、まぶたをぴくぴく動かしはじめた。ようやく彼女は眼を開けたが、その瞳はうつろで、ぼんやりとしていた。
「水を分けていただけませんかね」傷ついたセンダー人のひとりが近づきながら言った。
「水ならそこの川にいっぱいあるわ」ポルガラの目をのぞき込むのに夢中なセ・ネドラは、うわの空で、あたりを指さした。
ダーニクは男たちを見たとたん、驚いた表情を浮かべて、自分の武器に飛びついた。
だがすでにセンダリアの胴着をつけた兵上たちは、続々と岸から飛びおりて、近づいてくるところだった。かれらは三人がかりで屈強な鍛冶屋の武器を取り上げ、押さえつけた。
「おまえたちはセンダー人じゃないな」ダーニクは、かれを捕らえた男たちと、もみ合いながら叫んだ。
「それに気づくとは、おまえもなかなか利口だな」兵士たちのひとりが言った。その声はひどくざらつき、およそ知性というものが感じられなかった。別の兵士は剣を引き抜いて、ぼんやりしたままのポルガラに突きつけた。「いいかげんにじたばたするのをやめろ」男はにやりと笑って言った。「さもないと、この女を殺すぞ」
「いったい、あなたたちは誰なの」セ・ネドラが食ってかかるような口調で言った。「ここで何をしようというのよ」
「われわれは、マロリー帝国精鋭近衛兵団の者です」剣を抜いた男は丁重に答えた。「そしてわれわれがここに来たのは、あなたがたをお招きするようにとの、わがマロリー皇帝ザカーズ陛下のお達しがあったからです。皇帝陛下はぜひともご自分の大天幕に、皆さんをお呼びしたいと申されております」男の表情が突然険しくなり、かたわらの兵士をふり返った。「こいつらを連れていけ」かれは命令した。「よけいな者が来てわれわれに質問をはじめる前に、ここから出るのだ」
「連中が塹壕線を築き始めました」ヘターは、西のすでにふさがれた退路を指さしながら、ローダー王に報告した。「すでに川から半マイルのところまで塹壕線を進めています」
「何とかそいつらを迂回していく方法はないか」ローダーはたずねた。
ヘターはかぶりをふった。「両脇ともナドラク軍であふれかえっています」
「ではそこを抜けていくしかあるまい」ドラスニア王は決断した。
「ですが騎兵で塹壕を攻めるのは不利です」ヘターが指摘した。
「では、歩兵隊で一気に突撃しよう。われわれにはいくらかの利点がある。アストゥリア製の弓はマロリー人の使うそれと比べて長い射程距離を持っている。弓射兵を先頭において進軍するのだ。まず塹壕内に弓をいっせいに放ち、背後のマロリー弓射兵を苦しめる。それから槍兵隊が突っ込む」太った汗みずくのローダーはヴァラナ将軍の方をふり向いた。「われわれが前線に穴を開けたら、トルネドラ軍団で塹壕を一掃してもらえんかね」
ヴァラナ将軍はうなずいた。「われわれはこのような塹壕戦については日々研鑽を積んでおりますからな」かれは自信たっぷりに言った。「わがトルネドラ軍団が喜んでお引き受けしましょう」
「負傷者はわが軍の主力がつれていこう」ローダーが言った。「だれかポルガラと王女をさがしてこい。引き上げる時間だ」
「ヘター卿とわたしめはいかような働きをいたしますか」マンドラレンがたずねた。偉大なる騎士の鎧には無数の傷痕があったが、その口調はあくまでも穏やかで、とても朝から激しい戦闘をしてきた人間のそれとは思えなかった。
「ミンブレイト騎士団にはしんがりを守ってもらいたい」ローダーが言った。「敵軍をわれわれの背後で食いとめてほしいのだ」そして今後はヘターの方を向いた。「アルガーの諸氏族には、ナドラク軍の相手を頼む。われわれが塹壕を攻撃しているあいだ、連中が押しかけてくるようなことがないようにしてほしい」
「これは決死的な行軍になりますぞ、ローダー王」ヴァラナ将軍が沈着なおももちで言った。
「そのようにして防御物を短時間で攻撃するのはしばしば大きな犠牲をともなう上、背後からの援軍なしでやろうというのですから。もしこちら側の攻撃が撃退された場合には、ふたつのよりまさる戦力にはさまれることになります。そうなったらわれわれはその場で八つ裂きにされるでしょう」
「わかっておる」ローダーは不機嫌な声を出した。「だがわれわれの撤退の一抹の望みは、行く手をはばむこれらの戦線を突破していくしかないのだ。何が何でも上流に戻らねばならん。きみたちの部下たちにも、一回の攻撃で必ずこれらの塹壕を叩きつぶすことを徹底してほしい。さもなければわれわれは全員ここで討ち死にすることになるとな。さあ、行ってくれ。幸運を祈る」
再度マンドラレンはその鋼の騎士たちを率いて凄まじい突撃を開始した。襲いかかるミンブレイト騎兵団の熾烈な攻撃にたじろいだマロリー軍は再度後退した。だが今回、ドラスニア槍兵とトルネドラ軍団は敵との距離があくやいなや、それまでの守備位置を捨ててただちに左に転じて、すでに西にむかって撤退をはじめたセンダリア軍とアストゥリア軍のあとを追った。
ミンブレイト騎士団によるこの引き伸ばし工作は高いものについた。戦場のあちらこちらを乗り手のない馬が駆け回り、マロリー軍の隊列をそのひづめで踏みにじっては、敵側の大混乱を誘っていた。大地を埋めつくした赤い上着のじゅうたんのあちらこちらに、倒れている鎧姿が目立つようになった。ミンブレイト騎士団は押し寄せる波にむかって何度も体当たりをくらわせ、マロリー人の歩みを遅らせたが、もはやくいとめることはできなかった。
「これはかなり厳しい情況になりましたぞ、陛下」ローダー王とともにかれらの行方をはばむ戦線にむかって馬を走らせながらヴァラナ将軍は言った。「たとえこの塹壕線を破ったとしても、すぐにマロリーの大軍を背に受けることになるでしょう」
「まったくわかりきったことばかり言いおって」ローダーは答えた。「塹壕線を破ったところで弓射兵をしんがりに置いて、マロリー人どもに矢の雨を降らせてやるのだと言ったばかりではないか。それで何とか背後は守れるはずだ」
「ええ、矢が尽きるまでは」ヴァラナがつけ加えた。
「塹壕線を越えたらアルガー人を前にやればいい。フルラクの物資を積んだ荷車が早瀬に停めてある」
「二日かかる場所にですな」
「まったくどうしておまえはものごとを悲観的にしか見れないのだ」
「わたしはただ案じておるだけですよ、陛下」
「ならば、どこか別の場所でやってくれ」
アルガーの諸氏族は撤退する軍の右側にまわり、かれら独特の小集団に別れ、川の上の丘陵を埋め尽くすナドラク軍への攻撃にむかった。ヘターはひと房の巻毛をうしろになびかせ、手にはサーベル、目には石のような非情さを浮かべて、軽快に馬を飛ばした。当初、ナドラク軍はかれらの攻撃を丘の上で待ち構えているかのように見えたが、驚いたことに川にむかっていっせいに斜面を下り始めた。
怒濤のごとく押し寄せる大部隊のなかから、ナドラクの軍旗を囲む十人ばかりの一団が、前進するアルガーの諸氏族めざして駆け寄ってきた。なかの一人は短い棒に白い布切れをつけたものをふりまわしていた。一行はヘターの馬の鼻先から百ヤードほど離れた先で突然停止した。
「ローダー王に話がある」ナドラク人のひとりがかん高い声で呼ばわった。ひょろ長い痩せぎすな身体つきで、あばた面にまばらな髭を生やした男だったが、その頭には王冠がのっていた。
「これはいったい何のぺてんだ」ヘターは叫び返した。
「むろん、そうだとも。この大まぬけ」痩せた男は答えた。「だが今回の相手はおまえじゃない。すぐにローダー王に会わせてくれ」
「やつらから目を話さないでくれ」ヘターはナドラク軍の本隊を指さしながら首長に言った。ナドラク軍はいまや退路をふさぐ塹壕線にむかって押し寄せようとしていた。「わたしはこの狂人をローダーのところへ連れていく」かれは馬の向きを変えると、ナドラク戦士の一団を率いて、近づいてくる歩兵隊にむかった。
「ローダー!」王冠をかぶった痩せぎすな男はドラスニア国王に近づくなり金切り声をあげた。
「なぜわたしの手紙に答えてくれん」
「こんなところで何をしておるんだ、ドロスタ」ローダー王も負けじとどなり返した。
「きみたちの方に寝返ることにしたのさ」ドロスタ・レク・タン王はヒステリックな笑い声とともに叫んだ。「わたしの軍隊は今からきみたちと合流する。きみの奥方と何度も連絡を取っていたんだぞ。なぜ手紙に返事をくれなかった?」
「てっきり新手のゲームか何かと思っていた」
「むろん、これはゲームだ」ナドラクの王は笑った。「わたしはいつだって奥の手を隠し持っているのさ。さてこれからわが軍はきみたちの退路を切り開くことにする。むろん撤退したいのだろう?」
「もちろんだ」
「わたしもそうさ。わが軍はこれから塹壕にこもるマロリー人をぶち殺す。そうして全員逃げ出すという寸法だ」
「おまえさんは信用できん、ドロスタ」ローダー王はぶっきらぼうな口調で言った。
「おいおい、ローダー」ドロスタはわざとらしく悲しげな表情を浮かべてみせた。「それが古い友人に対する言いぐさかい」そう言って再びかれは下品な笑い声を上げた。その声はかん高く耳ざわりだった。
「おまえがなぜ戦いのまっただなかで、しかも勝ちいくさだというのに、なぜ突然寝返るのかその理由を聞かせてほしいものだ」
「ローダー、わが王国はいまやマロリー人であっぷあっぷしているのさ。もしここできみたちを助けてやつらを撃退しなければ、ザカーズはいともたやすくガール・オグ・ナドラクを飲みこんでしまうころだろう。とにかくここで話すにはあまり長く事情がこみ入りすぎている。とりあえず援助を受けるかね?」
「援助ならなんだって大歓迎だ」
「けっこう。またあとで酒でもくみかわしながら話すとして、とりあえずザカーズがこれを聞きつけて、わたしの後を追ってくる前にずらかろうじゃないか」ガール・オグ・ナドラクの王は、再びかん高い、ヒステリックな声をあげて笑った。「ついにやったぞ、ローダー」かれは勝ち誇ったように叫んだ。「ついにあのザカーズの裏をかいて、やつの鼻をあかしてやったのだ」
「まだ完全にあかしたかどうかはわからんよ」ローダー王がそっけなく言った。
「なあに逃げ足さえ早ければ大丈夫さ。それに今わたしは本当に駆け出したい気分なんだ」
広大なるマロリー帝国の恐ろしき皇帝ザカーズは、中肉中背でつややかな黒い髪の、オリーブがかった肌の持ち主だった。その目鼻だちはごくふつうで、ハンサムでさえあったが、瞳は深い憂うつに閉ざされていた。年齢は三十五歳くらいで、その高貴な身分を示す装飾のいっさいない無地の麻のローブに身を包んでいた。
ミシュラク・アク・タールの平原を埋め尽くすマロリー人の天幕の大海の真ん中に、かれの大天幕はあった。天幕の土間はとてつもない高価なマロリー製のじゅうたんで覆われ、金や真珠をはめこんだ磨きぬかれたテーブルや椅子が置かれていた。ろうそくの光が大天幕の中を明るく照らし、どこかで音楽家の小集団が低く沈んだ調べを奏でている。
皇帝の唯一の友は何のへんてつもない青灰色の若い縞猫だった。ひょろ長いぎくしゃくした長い脚の動きがまだ幼さを残していた。ザカーズが沈んだ瞳におもしろがっているような表情を浮かべて見守るなか、若い猫は丸められた羊皮紙の玉にむかってそっと忍びよっていくところだった。動物の視線はひたすら獲物に注がれ、その脚は音もなくじゅうたんの上を横切っていった。
王女セ・ネドラとその仲間たちが、大天幕に招じ入れられたとたん、クッションの並べられた低い長椅子に座していた皇帝は、手をあげて一行を制した。皇帝は目をじっと猫に注いだまま沈んだ声でつぶやいた。「今からこの猫が狩りを始める」
猫はねらった獲物の近くまで忍び寄ると、姿勢を低くして後ろ脚をせわしなく動かし始めた。腹がぴくぴくと動き、尻尾が激しく左右にふられた。次の瞬間、猫は丸めた羊皮紙に飛びかかった。そのとたん紙玉がかさこそと音をたて、仰天した猫は飛び上がった。猫はこわごわと前足で紙玉を突いた。突然新しい遊びを発見した猫は、柔らかい前足で紙玉を小突きながら転がし、ぎごちない足取りでその後を追い始めた。
ザカーズは悲しげなほほ笑みを浮かべた。「あれはまだ幼なすぎるのだ。学ばねばならぬことが山ほどある」そして優雅なものごしで椅子から立ち上がると、セ・ネドラにむかって一礼した。「ようこそ、王女さま」その格式ばった挨拶の言葉は、よく響きわたったが、まったく感情らしきものが感じられなかった。
「はじめまして、皇帝陛下」セ・ネドラもまた頭を傾けて挨拶を返した。
ザカーズはいまだに意識の朦朧としたポルガラを支えるダーニクの方をむいて言った。「善人よ、どうかそのご婦人をここに横たわらせるがいい」かれは長椅子を指さした。「すぐに医者を連れてきて、病を診させよう」
「ご親切、ありがとうございます」口では儀礼的な言葉を述べながらも、セ・ネドラの目はザカーズの顔からいささかでも真意が読みとれはしないかと、忙しく動き続けていた。「このような情況での、てあついおもてなしにわたくしはいささか驚いておりますわ」
皇帝は再びほほ笑んだが、どこか面白がっているようだった。「マーゴ人と同じように野蛮で頭のおかしいマロリー人に、礼儀作法など似つかわしくないと思っておられるのだろう」
「マロリーの人々の情報はほとんどわたくしどもには入ってきませんので、別段何も予想してはおりませんでしたわ」
「それは驚くべきことだ。われわれはあなたのお父上やアローン人の友人たちについて、実に多大な情報を持っているというのに」
「皇帝陛下はグロリムを使って情報を集めていらっしゃいますが、わたくしたちはあくまでも人の力に頼らねばならないからですわ」
「あなたはグロリムを過大評価なさっているようだ。かれらの忠節は第一にトラクに捧げられているのだ。二番目はかれらの仲間たちだ。グロリムはかれらにとって都合のいいことしか、わたしに聞かせようとしない。もっともときおり連中の一人からいささか手荒い手段で残りの情報も聞き出してはいる。そうすれば他の連中もわたしに対しては正直になる」
そのとき大天幕に従者が入ってきた。かれはザカーズの前でひざまずくと、じゅうたんに頭をすりつけた。
「何用だ?」ザカーズがたずねた。
「皇帝陛下の仰せにより、タール国王殿をお連れしたのでございます」
「そうか、あやうく忘れるところだった。それではしばらく失礼させていただこう。緊急に片づけねばならない用件があるのでな。どうか王女さまもその友人がたもくつろいでいてくれたまえ」かれはセ・ネドラの鎧を批判するような目で眺めた。「食事を終えたら、あなたとレディ・ポルガラに、もっとふさわしい衣服を見つくろわせることにしよう。この少年には何かいるかね」皇帝は、すっかり猫に夢中になっているエランドの方を見ながら言った。
「いいえ、けっこうですわ、皇帝陛下」セ・ネドラは答えた。彼女はめまぐるしく頭を働かせていた。この洗練された礼儀正しい紳士を相手にするのは思っていたよりもうまくいきそうだった。
「タール国王をここへ呼べ」ザカーズはうんざりしたように手を目の上にあてて命じた。
「かしこまりました。ただちにお連れいたします」従者は立ち上がり、大天幕を出るまぎわに、もう一度深々と頭を下げた。
ミシュラク・アク・タールのゲゼール王は、つやのない濃茶色の髪のずんぐりした男だった。大天幕に案内されてきたかれの顔は死人のようにまっ白で、身体は激しく震えていた。「し、失礼いたします、皇帝陛下」耳ざわりな声でゲゼールは口ごもった。
「お辞儀を忘れておるぞ、ゲゼール」ザカーズが穏やかな口調でとがめた。ただちにマロリーの近衛兵が、ゲゼールの腹に固めた拳をめりこませた。タール国王は身体をふたつに折った。
「それでよい」ザカーズは満足げに言った。「さてここへ来てもらったのは、戦地からじつに不愉快なニュースが届いたからだ。わが軍の指揮官からの報告によれば、おまえたちの隊は戦場であまりかんばしい働きをしなかったようだな。わたしは兵士ではないが、おまえたちは逃げ去る前にあと一回はミンブレイト騎士団の攻撃に耐えるべきだったと思われる。だが報告によればおまえたちはそうしなかったそうだな。これについて何か弁明があるか?」
ゲゼール王はわけのわからない言葉を口走り始めた。
「むろん、ないだろうな」ザカーズは言った。「わたしの経験によれば、人々が課せられた義務を果たせなかった場合、その原因はひとえに統率力の欠如によるものだということがわかっている。どうやらおまえは部下たちに勇敢であれと激励することを怠っていたようだ。これはおまえの著しい落ち度だぞ、ゲゼール」
「どうかお許し下さい、恐ろしきザカーズさま」タールの王は恐怖にひざまずき、泣き叫んだ。
「むろん、わたしはおまえを許そう」ザカーズは言った。「わたしがおまえを許さないはずがないだろう。ただ少しばかりの譴責は当然受けなければならない。そうは思わんかね」
「むろん、いかなるおとがめとて受ける覚悟でございます」ゲゼール王はひざまずいたまま言った。
「すばらしい、ゲゼール。何というあっぱれな心がけだ。この会見がしごく順調にいったことはじつに喜ばしいことだ。われわれはこれで互いにいかなるわだかまりも残さずにすむ」そう言ってかれは従者の方をむいて言った。「さあ、それではゲゼール王をここから連れ出し、鞭打ちをくれてやれ」
「ただちに、陛下」
二人の兵士に両側から引きずり起こされたゲゼール王の目玉は今にも飛び出さんばかりだった。
「さてと、鞭打ちの後はどのようにしたらいいだろうかな」ザカーズはしばらく考えこんでいた。「おお、そうだ。この近辺にしっかりした立ち木はあるか?」
「残念ながら、この近辺はすべて草原でございます、陛下」
「それは何とも残念なことだ」ザカーズはため息をついた。「せっかくおまえをはりつけにしてやろうと思っていたのにな、ゲゼール。どうやらそれはあきらめねばならないようだ。とりあえずは鞭打ちを五十回追加で間に合わせることにしよう」
ゲゼール王はおいおい泣き出した
「さあ、さあ、そのようなめめしいまねはよせ。いやしくもおまえは国王なのだ。国王はその民に常によき手本を示さねばならないのだぞ。おまえが公衆の面前で鞭打たれる姿を見て、かれらがやる気を起こしてくれることを切に望む。兵隊たちも、おまえがこれだけの目に会えば、わたしがかれらに対してどんな処置をとるか察するだろう。刑が終わったら、おまえもそのことだけは頭にたたきこんで、兵隊たちを鼓舞してほしい。なぜなら、もし再びこのようなことがあれば、わたしは必ず手近に立ち木を用意させるからな。さあ、こいつを連れていけ」皇帝はふり向くことすらせずに、兵士たちに命じた。
「どうもお話を中断して失礼しましたな、王女。こういった細々とした事務処理にどうも時間を取られましてね」ザカーズは王女に言った。
タール人の王は泣きながら引きずられるようにして、大天幕から出ていった。
「あなたがたのために、ちょっとした夕食を用意させてある。どれもすばらしい珍味ばかりですぞ。それからあなたとお仲間に快適に過ごしていただくための手はずを整えることにしよう」
「どうかお気を悪くなさらずに聞いていただきたいんですが」セ・ネドラは勇気をふるって言った。「皇帝陛下がわたくしたちの身柄をどうしようと考えておられるか聞かせていただけませんでしょうか」
「どうかその点はご安心いただきたい、王女さま」ザカーズは相変わらず感情のない声で答えた。「むろん、あの狂人タウル・ウルガスをあなたがたが倒された報告は受けている。だからといってあなた方に報復しようなどとは、露ほども考えてはいないし、いかなる悪意も抱いてはいないと申し上げておこう」そう言いながら、かれは大天幕の片すみで、エランドのひざに抱かれた猫に目をやった。ほほ笑みを浮かべるエランドに腹を撫でられた猫は、仰向けになってうっとりとのどを鳴らしていた。「何という心暖まる眺めだろう」ザカーズはいくらか沈んだ声でつぶやいた。
広大なるマロリー帝国の皇帝は立ちあがると、ダーニクがポルガラを支えている長椅子に近づいた。「われらが女王陛下」かれは心からの敬意をこめて一礼した。「あなたのお美しさは、はたでお聞きしていたよりも、はるかに勝っておられる」
ポルガラは目を開くと、まっすぐにかれを見た。セ・ネドラの心に狂おしい希望が灯った。ポルガラは正気を取り戻していたのだ。
「それは、どうもありがとう」レディ・ポルガラは弱々しい声で答えた。
「あなたはわたしどもの女王ですからな、ポルガラ殿」ザカーズは言った。「われわれの神が何千年にもわたって、待ち望まれていたわけが今わかりましたよ」ため息をつくと同時に、かれはまたおなじみのふさぎの虫にとりつかれたようだった。
「われわれをいったいどうしようというのです」ダーニクがポルガラを守るように腕をまわしたままたずねた。
ザカーズは再びため息をついた。「残念ながらわれわれの神はさほど善い方でも優しい方でもないのだ。もしすべての手はずがわたしに任せられていたら、このようなことはしなかったのだが。しかしことはすべてわたしに相談なく決められたのでな。わたしとてアンガラクの民、トラクの前には頭を垂れねばならぬ。いまや竜神はときおり目覚められるまでになっており、わたしはその命令に従うしかないのだ。きみたちとそのお仲間をグロリムの手に引き渡さねばならないことは、わたしにとってもまことに遺憾だ。グロリムはきみたちを〈夜の都市〉クトル・ミシュラクに送り届ける。そこで竜神トラクに仕えるゼダーが、きみたちの運命を決めることになろう」
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第三部 マロリー
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19[#「19」は縦中横]
一行はザカーズ皇帝の賓客としてマロリー軍野営地で約一週間ほどを過ごした。どういうわけか皇帝はセ・ネドラ王女らといることに、ものうい喜びを抱いているらしかった。皇帝の一族だけが住まう、絹製の大天幕や天幕の迷路のなかにかれらは居室を与えられ、さまざまな生活の便宜は他ならぬザカーズ自身より与えられていた。
セ・ネドラはこの不思議な、憂うつな目をした人物がよくわからなかった。ふだんのザカーズは丁重そのものの礼儀正しい人間だったが、ゲゼール王との会見のもようが彼女を怯えさせていた。どんなときでも平静を失わないことが、その冷酷さをいっそう恐ろしく見せていた。かれは決して眠らないようだったし、しばしばま夜中に話し相手が欲しくなると、セ・ネドラを呼びにやった。だが皇帝は王女の眠りを乱したことを決して詫びることはなかった。深夜の呼び出しが、相手にとって迷惑かどうかすらも念頭に浮かばないらしかった。
「ローダー王はいったいどこで軍事的な教育を受けたのかね」ある晩、いつもの深夜の会見でザカーズがこうたずねた。「わたしの集めたいかなる情報でも、かれが軍事的才能に恵まれていることを示すものはないのだ」柔かい椅子の紫色のクッションに身を沈めた皇帝の顔に、ろうそくの黄金色の光がおどり、猫はかれのひざの上でまどろんでいた。
「わたしにもわかりませんわ」セ・ネドラ王女は、到着後まもなく与えられた白っぽいシルクのガウンのすそを何げなくもてあそびながら答えた。「わたしがローダーに初めて会ったのは、去年の冬ですもの」
「じつに不思議だ」ザカーズは考えこむように言った。「われわれはこれまで、かれのことを若い妻を溺愛しているだけの愚かな老人だと思っていた。まさかあれほどまでの脅威になるとは夢にも思わなかったのだ。われわれの関心はもっぱらブランドとアンヘグにあった。ブランドは良き指導者となるには控え目すぎるし、アンヘグにいたっては突飛すぎて、いずれもさほどの懸念にはなるまいと考えていた。それなのに突然、降ってわいたごとくローダーがあらわれ、すべてを牛耳ってしまったのだ。まったくもってアローン人というのは、不可解な連中だ。感じやすいトルネドラの少女が、よくあんな連中に耐えられるものだな」
王女は短くほほ笑み、「あの人たちなりに良さはありましてよ、陛下」とさかしらな口調で答えた。
「ベルガリオンはどこにいるのだ」何のまえぶれもなく、皇帝はたずねた。
「わたしたちにも、わからないのです」セ・ネドラはあたりさわりのない言葉を返した。「レディ・ポルガラはベルガリオンが黙って行ってしまったのでひどく怒っていましたわ」
「ベルガラスとケルダーが同行している」ザカーズがつけ加えた。「かれらが何らかの探索の旅に出たのだという噂だ。ところで教えていただきたいのだが、ベルガリオンがクトラグ・ヤスカを携行している可能性はあり得るかな」
「クトラグ・ヤスカですって?」
「あの燃える石のことだ――きみたちは〈アルダーの珠〉と呼んでいる」
「それについては、わたしの一存で話すことはできません」王女はつんとして答えた。「陛下はわたしから無理やりそれを聞き出すほど失礼な方ではないと思いますけれど」
「セ・ネドラ王女」ザカーズは非難するように言った。
「ごめんなさい、陛下」王女はすぐに謝ると、とっておきの少女らしいほほ笑みを浮かべた。
ザカーズは優しくほほ笑んだ。「まったく油断のならないお嬢さんだ」
「ええ、そうですわ」彼女は言った。「ところで陛下は、なぜ積年の恨みを捨てて、タウル・ウルガス王と手を組む気になられたのですか」セ・ネドラは自分だって相手を驚かせる質問ができることを見せつけてやりたかった。
「別に手なぞ組んでなどおらんよ」かれは答えた。「わたしは単にタウル・ウルガスの動きに応えただけのことだ」
「よく意味がわかりませんわ」
「かれがラク・ゴスカにとどまっている限り、わたしもタール・ゼリクにとどまっているつもりだった。だがかれが北へ兵を出したとわかった以上、わたしとしても応えざるを得なかった。タールの地は西の諸国にあけわたすには、あまりに戦略的に重要性の高い土地だったからな」
「それで今はどうなの?」セ・ネドラはいささかぶしつけにたずねた。「タウル・ウルガスは死んで、今度は何を敵にまわすおつもり?」
かれは冷たいほほ笑みを浮かべた。「どうも、あなたはわたしたちのことを理解していないようだ、セ・ネドラ。タウル・ウルガスはマーゴ人の狂気の象徴にすぎない。クトゥーチクが死に、タウル・ウルガスが死んでも、マーゴ国は生き続けるのだ。ちょうどわたしが死んでもマロリーが続いていくように。われわれ二国間の対立は永却の昔より続いてきたのだよ。そして今、ようやくマロリー皇帝が最終的にアンガラクの大君主となる日がきたというわけだ」
「それじゃ、すべて権力のためだとおっしゃるの」
「他になにがある」皇帝は悲しげに言った。「わたしとて若い頃は、まだ何かがあると信じていた。だがその後、さまざまな経験をしてそれが間違いだということを知ったのだ」ザカーズは顔にかすかな苦痛を浮かべ、ため息をついた。「いずれときがくれば、あなたがたにもわかるようになる。ベルガリオンとて年を経るにつれ、しだいに冷ややかになり、権力の身震いするほどの誘惑に惹きつけられていくことだろう。かれの心が完全にとらえられ、権力への愛だけが残ったとき、わたしとかれははじめて二つの大きな勢力として対決することになる。わたしはかれの教育がすむまでは、手を出すつもりはない。現実をまだ完全に理解できない人間を攻撃しても何の面白みもないからな。かれの抱くあらゆる夢が消え、権力への愛だけが残ったとき、はじめてわたしにふさわしい敵となるのだ」皇帝の顔はしだいに陰うつさを帯びてきた。かれはふとセ・ネドラを見た。その目は死人のように無表情で氷のように冷たかった。「どうやらあなたの睡眠を著しく妨げてしまったようだな。さあ、もうベッドに戻って、愛だのその他のたわいない夢を見るがいい。夢が消えるのはあまりに早いから、見れるうちに見ておくことだ」
次の日の朝はやく、セ・ネドラはポルガラの大天幕を訪れた。彼女はタール・マードゥでのグロリムとの戦いに疲れた身体をそこで休めていたのだ。意識こそ戻っていたが、まだ非常に弱っていた。
「あの男はタウル・ウルガスと同じ狂人だわ」セ・ネドラは報告した。「ザカーズの頭はアンガラクの大君主になることで一杯だから、わたしたちのやってることに露ほどの関心もないのよ」
「アンヘグの艦隊がかれの船を沈めはじめたら、そうも言ってられないでしょうよ」ポルガラが答えた。「今のところはわたしたちに何もできることはないわ。とりあえずはかれの話を聞いてやってお行儀よくしていてね」
「わたしたち何とか逃げられないかしら」
「だめよ」
セ・ネドラはいささか驚いて彼女の顔を見た。
「こうなることは前から決まっていたのよ。わたしとあなたとダーニクとエランドは、絶対にマロリーに行かなければならないの。だったら、あえてそれを妨げない方がいいでしょう」
「わたしたちが捕まることがわかってらしたの?」
ポルガラは疲れた笑みを浮かべた。「マロリーへ行くことはわかっていたけれど、その方法までは知らなかったわ。ザカーズは別にわたしたちの邪魔をしてるわけじゃないから、なるべく怒らせない方がよくてよ」
セ・ネドラはあきらめのため息をついた。「あなたのおっしゃるとおりにするわ、レディ・ポルガラ」
〈東の海〉に出た、アンヘグ王率いる艦隊の活躍の第一報は、同じ日の午後過ぎにもたらされた。急使が通されてきたときその場にいあわせたセ・ネドラは、この氷のような男の顔に初めていらだちらしきものが走るのを見て、ひそやかな喜びをかみしめた。
「本当に確かなことなのだな」皇帝はぶるぶる震えながら羊皮紙を捧げ持つ急使につめよった。
「わたくしはただお知らせをお持ちしただけでございます。恐ろしきお方よ」使いは皇帝の怒りに、思わず後ずさりしながら答えた。
「船が戻ってきたときおまえもタール・ゼリクにいたのか」
「恐れながら、戻ってきた船は一隻だけでございました、陛下」
「五十隻のうち一隻しか戻らなかったというのか」ザカーズは信じられないといった声を出した。「他にもいないのか――まだ沿岸部あたりに」
「水夫たちは一隻もいないと申しておりました、陛下」
「まったくこのチェレクのアンヘグというやつは何という野蛮人なのだ」ザカーズはセ・ネドラにむかって叫んだ。「どの船にも二百人からの兵士を乗せていたのだぞ」
「アンヘグ王はアローン人ですわ、陛下」セ・ネドラは冷ややかに答えた。「不可解な連中は何をやらかすかわかりませんからね」
ザカーズは平静を失いそうになるのを必死に抑えているようだった。「なるほど」かれはしばし考えこんだ後に言った。「これが当初からの策略だったのではないかね。タール・マードゥへの攻撃はまったくの擬装だったんだな」
「いいえ、そういうわけではありませんわ。わたしは艦隊を通過させるために、タール・マードゥを無力化しなければならないのだと聞いています」
「それなら、なぜわたしの兵士たちを海に沈めなければならないのだ。わたしはアローン人に何らの敵意も抱いてはおらんぞ」
「トラクがわたしたちに敵意を抱いているからです。アンガラク全土の連合軍に命令しているのもトラクです。わたしたちはあなたの兵士たちを上陸させるわけにはいきません。トラクを優位にたたせるようなことは、許されないのです」
「だがトラクは眠っているはずだ――それもまだ当分のあいだは」
「わたしたちの得た情報では、それほど先のことではないようですわ。ベルガラスはもう時間の問題だと言っておりました」
皇帝の目がかすかに細められた。「それではきみたちを今すぐグロリムに引き渡さねばならない。せめてポルガラ殿が完全に回復して、旅に耐えられるようになるまではと思ったが、あなたの言うことが本当であれば、もはや一刻の猶予も許されん。お仲間たちに、すぐに旅立ちの支度をするように伝えなさい。あなた方はあしたの朝タール・ゼリクに向けて出立する」
「かしこまりました、陛下」セ・ネドラは背筋から寒気がはい上がってくるのを感じながら、不承不承お辞儀した。
「わたしは世俗の人間だ」ザカーズは説明するように言った。「必要なときはトラクの裁断に頭も下げるが、必要以上に信心を見せびらかすようなまねはしない。したがってベルガラスとゼダーの宗教上の抗争に巻きこまれるつもりはないし、ましてやトラクとアルダーの対決の邪魔をする気もない。あなたがたもなるべく同じ道を歩まれることを忠告しておく」
「でもわたしたちでどうこうできる問題ではないのです、陛下。わたしの役目はわたしが生まれるはるか前より決められているのですわ」
かれはおもしろがるような表情をした。「〈予言〉のことかね。たしかわれわれアンガラク人にもそのようなものがあったが、きみたちのそれと信憑性においては大差ないだろう。〈予言〉なぞ僧侶たちが愚かな民衆の心を捕らえるためのトリックに過ぎん」
「それでは、あなたは何も信じていないとおっしゃるの?」
「わたしに信じられるのは自分の力だけだ。それ以外のものには何の意味もない」
ミシュラク・アク・タールの夏枯れた、起伏のゆるやかな平原を北のタール・ゼリクにむかって旅するセ・ネドラ一行につきそうグロリムたちはよそよそしく丁重だった。はたしてそれがマロリー皇帝の警告によるものか、それともポルガラへの畏敬によるものかセ・ネドラにはわからなかった。息づまるような炎暑は過ぎさり、空気にはかすかに夏の終わりの気配が感じられた。タールの平野に点在する集落には、いずれも不ぞろいなわらぶきの家々とほこりまみれの通りがあるだけだった。これらの小さな集落を、高慢なよそよそしい表情を浮かべたトラクの僧たちの一行が通過するたびに、住人はいちようにむっつりと恐怖のこもった視線で見送るのだった。
タール・ゼリク西部の平野は、一面の赤い天幕で覆われた、マロリー軍のために設営された広大な集結地になっていた。だがごくわずかの見張り隊を残して、野営地はほとんどもぬけの空だった。すでにミシュラク・アク・タールに来ている軍団はタール・マードゥ近くのザカーズのもとにとどまっており、その後に到着するはずの後続部隊が突然打ち切られたためであった。
タール・ゼリクは、塩水と魚とタールと腐りかけた海藻の香りに満ちた、どこにでも見られるような港町だった。住人たちと同じように背の低いずんぐりした灰色い石の家々が並び、小石を敷きつめた通りが港にむかって四方八方から下りていた。港は広い入り江の湾曲部に位置しており、海をはさんだ向かい側にも同じような港が見えている。
「あそこはいったい何という町なの?」セ・ネドラは汚い水辺からはるかな沖の方を眺めながらそばにいたグロリムにたずねた。
「ヤー・マラクです」黒衣の僧侶がそっけなく答えた。
「ああ、そう」彼女は答えながら、退屈な地理の授業を思い出していた。一方はタール、もう一方はナドラクに属するふたつの町は、コルドゥー川の入り江をはさんで向かいあい、両国の国境線は川のまん中にあるのだ。
「皇帝がタール・マードゥより戻られたあかつきには、あの町を根絶やしにされると聞いています」別のグロリムが答えた。「皇帝は戦場におけるドロスタ王の振る舞いに気に入らないところがあったのでしかるべき懲罰を与えられるとのことでした」
一行はただちに小石の通りを下って港へ向かったが、そこには数隻の船しか係留されていなかった。
「水夫たちが船出を拒否しておるのです」一行が乗りこむ予定の船の前で、マロリー人の船長が言った。「なにしろチェレク人どもが船と見れば、狼の群れのように襲いかかり、燃やして沈めてしまうというのでな」
「チェレク艦隊がいるのはもっと南のはずだ」護送役のグロリムが言った。
「ですがチェレクの艦隊ときたら神出鬼没なんですよ、尊いお坊さま」船長は反論した。「二日前にはここから二百リーグ南の海辺の町を四つも焼きはらったかと思えば、きのうはここから百リーグ北で十数隻の船を沈めるといった具合でね。連中のすばしっこさときたら、とても人間わざとは思えませんよ。焼きはらった町の略奪すらしないんですからね」そう言って男は身震いした。「まったくやつらときたら人間じゃありませんよ! あれは天災です!」
「われわれは今から一時間後に出航する」グロリムは頑なに言った。
「お坊さまたちでオールを漕いで、マストをあげようというなら話は別ですがね」船長は言った。「水夫たちはすっかり怖じけついています。出航なんてしやしませんよ」
「それはわれわれが説得しよう」グロリムが無気味な口調で答えた。かれは部下に二、三の命令を下した。すぐに船の最後部に祭壇がしつらえられ、まっ赤に熱した石炭を詰めた火鉢がかたわらに置かれた。
グロリムの長《おさ》が祭壇のかたわらに立ち、天に腕をさしのべたかと思うと、うつろに響きわたる声で呪文を唱えはじめた。その右手にはナイフがきらめいていた。そのあいだに部下のグロリムは水夫の一人を行きあたりばったりに選び出すと、激しく抵抗しながら叫び続ける男を船尾まで引きずっていった。セ・ネドラは血も凍る思いで、男が祭壇の上に仰向けに寝かされ、手際よく殺されていくのを見守った。ナイフをふるったグロリムが、男の血のしたたる心臓を宙にかかげた。「アンガラクの竜神よ! とくとわれらが犠牲を見たまえ」かれは大声で呼ばわると、横を向いて煙を上げて燃える火鉢に心臓を投げこんだ。心臓はじゅっという音とともに凄まじい蒸気を発したが、やがて火に焼かれて黒ずみ、縮んでいった。突然船のへさきからいけにえを祝福するどらの音が鳴り響いた。
祭壇のグロリムは手から血を滴らせながら、灰のように白い顔をして甲板にいならぶ船員たちをまっこうから見すえた。「船が出航するまで、われわれの儀式は続く。われらが敬愛する神に心臓を捧げる次なる者は誰だ?」
ただちに船は出航準備を始めた。
セ・ネドラはむかつきを覚えて、思わず顔をそむけてポルガラを見た。女魔術師は瞳に憎悪の炎を宿しながらも、鋼のような意志で心中の葛藤を必死に押さえつけているようすだった。彼女をよく知る王女は、ポルガラが祭壇の血にまみれたグロリムにむかって恐ろしい報復をしないのは、ひとえにその超人的な自制心のたまものだということがよくわかっていた。そのかたわらにはポルガラの片腕で守られるようにしてエランドが立っていた。少年の顔にはこれまでセ・ネドラが見たこともなかった表情が浮かんでいた。その目には悲しげな哀れみと同時に、鉄のように不屈な意志が宿っていた。あたかもかれに力が与えられたなら、世界中のトラクの祭壇をぶち壊してやるとでも言いたげな顔だった。
「さあ、もう船室に入られるがいい」一行を護送するグロリムのひとりが言った。「広大なるマロリー帝国の海辺に近づくまで数日はかかるでしょうから」
一行はいつ何時チェレクの船が現われても逃げこめるように、ナドラクの海岸に沿うようにして北に向かった。そしてある地点に達したとき、マロリー人船長はじっと何もない海をにらみ、ごくりと唾を飲みこむと、一気に舵柄の向きを変え、恐怖にうち震えながら東へ突進した。
ナドラクの海岸から離れて一日あまりしてから、一行は南の空に黒々とたちのぼる煙を目にした。さらに一日あまりたったところで、かれらは黒焦げの船の残骸の前に出た。まわりには白く膨れあがった死体が、黒ずんだ〈東の海〉の波のはざまにぷかぷか浮いていた。すっかり震え上がった水夫たちは死にもの狂いでオールを漕ぎ、今さら鞭で激励する必要もないほどだった。
そしてついにあるどんよりした朝、一行の前方に広がる水平線の上に、低く汚れたしみのようなものがかかるのが見えた。空は大雨の気配をはらみ、空気は近づきつつある嵐にどんよりと垂れこめていた。水夫たちは目の前にせまった安全地帯をめざして、それまでの倍の速度でマロリーの海岸に向けて突進した。
小さな舟に乗り移った一行が上陸した海岸は、塩がこびりついた一面の砂利に覆われ、黒っぽい色をしたゆるい傾斜の浜辺だった。打ち寄せては返す波が悲しげなため息のような音をたてていた。水際から少し上がったところに、黒いローブに深紅の腰帯をしめたグロリムたちの一団が、馬に乗って一行を待ちかまえていた。
「グロリムの高僧たちだわ」ポルガラが冷ややかな口調で言った。「どうやらわたしたちは何かの儀式に連れていかれるらしいわね」
四人を護送してきたグロリムの一人が急いで砂利浜を上がり、待ち構えている僧侶たちの前にふれ伏し、うやうやしげな声で何事かをささやいた。すると顔に深いしわを刻み、目が落ちくぼんだ高僧が馬からぎごちなくおり立つと、ちょうど小舟から上陸したばかりのセ・ネドラ一行にむかって近づいてきた。
「ようこそ、女王陛下」グロリムはポルガラにむかって丁重な挨拶をした。「わたしの名はウルタグ、カマートの司祭を勤めております。はらからともども、あなた方を〈夜の都市〉へお連れするために参りました」
「ここにゼダーがいなくてじつに残念だわ」ポルガラは冷たい声で答えた。「まさか今さら気が変わったなんていうんじゃないでしょうね」
ウルタグは彼女にいらだたしげな視線を向けた。「いやしくもアンガラクの女王が、定められた運命にけちをつけられるようなことは謹まれた方がよろしいですよ」
「わたしにはふたつの運命があるのよ、ウルタグ。まだどちらに従うかは決まっていませんからね」
「わたしはもう決まったものと思っておりますよ」ウルタグは断言するような口調で言った。
「それはあなたがあえて、もうひとつを無視しようとしているからでしょう」ポルガラが切り返した。「さあ、もう出発しないこと? こんな吹きっさらしの海岸で哲学的な問題を論じてもはじまらないわ」
グロリム僧の一団は馬を連れてきており、それにまたがった一行は、北東をめざしながら樹木の茂る丘にむかった。ゆるく傾斜する砂利浜の上縁部は黒ずんだ大ぶりの枝を持ったトウヒが茂っていたが、いったん最初の丘を越えるやいなや、まわりは白い樹皮に覆われたポプラの森に変わった。白いむきだしの幹が死体のように浮かびあがり、森一帯にどこか陰うつな暗さが漂っていた。
「ミストレス・ポル」ダーニクはかろうじてそれとわかるささやき声で呼びかけた。「何かいい方法を考えた方がよろしくはありませんか」
「いったい、何のために?」
「むろんここから逃げ出すためのですよ」
「でもわたしたちは逃げないのよ、ダーニク」
「何ですって」
「グロリムはわたしたちが行きたいところへ、連れていってくれるからよ」
「なぜわれわれまでクトル・ミシュラクに行かなくてはならないんですか」
「やらなければならないことがあるからよ」
「ですが、わたしの聞いたかぎりでは、相当ひどい場所らしいですよ。本当に何かのまちがいじゃないんでしょうね?」
ポルガラは手を伸ばしてダーニクの腕に置いた。「わたしのダーニク」彼女は言った。「どうかわたしを信用してちょうだい」
「むろんですとも、ミストレス・ポル」ダーニクはあわてて答えた。「せめて何が起こるかだけでも教えてもらえませんか。あなたを守らねばならないような場合に備えておきたいのです」
「わかっていれば、あなたに知らせるわ、ダーニク」彼女は言った。「でもわたしにもこれから先、何が起こるか見当がつかないのよ。わかっているのは、この四人がクトル・ミシュラクへ行かなければならないことだけ。そこで起きることは予言が満たされるために、どうしても必要なことなのよ。わたしたちひとりずつ、何らかの役割を果たすことになるわ」
「わたしもですか?」
「特にあなたはそうよ、ダーニク。最初はわたしもあなたがどういう人かわからなかったの。だからはじめのうちはこの旅に同行させたくなかった。でも今はわかっているわ。あなたはあそこへ行って、何か大きな結果を左右するような重要な役目を果たすのよ」
「それはいったい何なのですか?」
「それがわからないのよ」
ダーニクの目が大きく見開かれた。「もし、しくじったりしたらどうしましょう」かれは心配そうな声でたずねた
「いいえ、大丈夫。あなたはうまくやるわ」彼女は勇気づけるように言った。「わかっているかぎりでは、あなたのやることは、あなた自身の人となりから自然に出てくることなの」ポルガラはいたずらっぽい笑みをもらした。「あなたが間違えることなんて考えられないわ――あなたが嘘をついたり、人をあざむいたり盗んだりできないのと同じようにね。それはあなたの中に自然に築かれてきたものなのだから、あまり心配することはないわ」
「あなたはそうでも、わたしはやはり心配せずにはいられないのです――むろんわたし個人の問題ですが」
ポルガラはかすかに愛情のこもったほほ笑みを浮かべた。「わたしのいとしい人」そして突然衝動にかられたようにかれの手を取った。「あなたがいなかったら、わたしたちはどうなっていたことかしら」
ダーニクはまっ赤になって目をそむけようとしたが、彼女の燃えるような瞳から逃れることができず、ますます顔を赤らめる結果になった。
ポプラの森を抜けると、無気味に荒れ果てた風景が広がっていた。絡みあった灌木からにょっきりとそびえる白い石が、まるで長年打ち捨てられた墓石のような姿をさらしていた。枯れ木はそのねじ曲がった枝を、嘆願する手のように曇天にむかって突きだしていた。前方に広がる地平線は黒ずんだ雲に厚く覆われていたが、あまりにも色が濃いためにほとんど紫色に見えた。不思議なことにそれらの雲はまったく動くようすがなかった。人の住んでいる形跡はまったくなく、かれらのたどる行路は道ですらなかった。
「ここには誰も住んでいないの?」王女はポルガラにたずねた。
「少数のグロリム以外、クトル・ミシュラクには誰も住んではいないわ」女魔術師は答えた。
「父とチェレク王とその息子たちが鉄の塔から〈珠〉を盗み出した日に、トラクはこの都市を破壊して、その民を外へ連れていったのよ」
「それはいつの話なの?」
「ずいぶん昔のことよ、セ・ネドラ。わたしの知るかぎりでは、それはわたしとベルダランが生まれた日――そしておかあさんが亡くなった日なの。はっきり何年というのは難しいわ。わたしたちはその頃のことは、あまり正確に覚えていないのよ」
「おかあさまが亡くなられて、ベルガラスがここにいたのなら、いったい誰があなた方を育てたの」
「むろん、ベルディンよ」ポルガラはほほ笑んだ。「たしかにあまりいい母親とは言えないかもしれないけれど、父が帰ってくるまでできるだけのことはしてくれたわ」
「だから、あなたはあの人が好きなのね」
「たしかにそれも理由のひとつではあるわね」
無気味な雲堤はその間も微動だにしなかった。じっと静止したまま、連なる山なみのように両側に広がっていた。一行が近づくにつれ、それはますます高く立ちはだかるように見えた。
「あの雲はどうも変ですね」ダーニクは目の前にそびえる紫色のカーテンをじっと見つめたまま言った。「背後から嵐が近づいているというのに、ぴくりとも動かない」
「あの雲は動かないのよ、ダーニク」ポルガラが答えた。「いまだかつて動いたこともないわ。アンガラク人がクトル・ミシュラクを立てたときに、トラクが街を隠すために雲で覆ったのよ。そのときからあそこにあるの」
「どれくらい前からあるんですか?」
「五千年くらいも昔になるかしら」
「ずっとその間、日がささなかったんですか」
「ええ、一度たりともね」
グロリムの僧たちがしだいにおびえ始めてあたりを見まわす回数が増え、ついにウルタグが全員に停止を命じた。「われわれはここから身の明かしをたてねばならん。監視人たちに侵入者とまちがえられたくないからな」
他の僧たちは不安そうにうなずき、衣の下から磨かれた鋼の仮面を取り出し顔につけた。そして鞍から太いたいまつをはずすと、呪文をつぶやいていっせいに点火した。たいまつは奇妙な緑色の炎を出し、硫黄性の悪臭をはなって燃えた。
「もしわたしがこれを吹き消したらどうなるのかしら」ポルガラがかすかにいたずらっぽい笑みを浮かべてたずねた。「やろうと思えばわたしにはできるのよ、ご存じだとは思うけれど」
ウルタグは心配そうに彼女を見た。「そのような愚かなまねをされては困ります」かれは警告するように言った。「われわれの監視人はたいそう侵略者に対して残忍なのです。お願いですから災厄をもたらすようなまねは慎んで下さい」
彼女はくすりと笑い、それ以上何も言わなかった。
一行が雲の下に入るにつれ、あたりはしだいに暗くなってきた。それは夜のすっきりした闇とは異なり、深い影に閉ざされ、濁ったような暗黒に近かった。小高い斜面を登り切ると、眼下に雲に閉ざされた盆地が横たわっているのが見えた。その中央に、邪悪な薄闇になかば覆われるようにして、破壊された〈夜の都市〉が広がっていた。周辺の樹木はまばらな雑草や、発育不良のねじけた茂みと化し、いずれも日照不足のために白っぽく弱々しい姿をさらしていた。大地から突き出た岩は、どれもびっしりと表面に食いこんだ苔の斑点に覆われている。いびつに節くれだったキノコの群落が、こぶのように地面を隠し、まるで大地そのものが病んでいるように見えた。
パチパチはぜるたいまつを高くかざし、ゆっくりと注意深い足取りで、グロリムの高僧たちは薄闇に包まれた盆地に入り、クトル・ミシュラクの崩壊した城壁をめざして、無気味な平坦地を進んだ。
街に一歩踏みこんだとたん、セ・ネドラは崩れ落ちた石のあいだで、ひそやかにうごめくものの気配を感じとった。廃墟のあちこちで影のような姿がちょこちょこと動きまわり、中のあるものは鈎爪を持つ動物特有のかさこそという音をたてていた。直立しているものもあれば、そうでないものもいた。セ・ネドラはぞっとするような恐怖を覚えた。クトル・ミシュラクの監視人は獣でもなければ人間でもなく、いちように他の生きとし生ける物に対する憎悪をその全身からにじませていた。なかの一匹がもし突然ふり向いて、そのおぞましい顔を見せたりしたら、彼女の正気はこなごなに打ち砕かれてしまうことだろう。それがセ・ネドラを死ぬほど脅かしていた。
一行が崩壊した通りにさしかかると、ウルタグは身震いしながら、よく響きわたる声でトラクへのいにしえの祈りを唱えはじめた。湿っぽい空気はしだいに冷気を帯び、病気の斑点のような苔がここでもまた、崩れた石や家々の廃墟をびっしりと覆い尽くしていた。カビがあらゆるものに染みつき、いびつな節くれだったキノコの群落が、隅っこや割れ目に生えていた。あたりにはむっとするような湿っぽい腐敗の空気がたちこめ、廃墟の床にはどろどろした淀み水がたまっていた。
街の中心に巨大な鉄塔の倒れた跡があった。折れてむきだしになった鉄骨は人間の腰まわりほどもあろうかという太さだった。その南側には塔が倒れたときの、衝撃で押しつぶされた凄まじい破壊の跡が錆ついた姿をさらしていた。永劫の歳月のあいだに、鉄は赤ちゃけたどろどろの錆と化して、倒れた塔の広大な廃墟を縁どっていた。
残った塔の基部もまた長い年月のあいだに腐食し、むきだしの鉄骨はすっかり丸みを帯びていた。鉄錆とじくじくと滲み出る黒っぽい水がまざりあった、凝固した血の塊のような液体が鉄板をつたって流れ落ちていた。
もはや震えを隠そうともせず、ウルタグは広大なアーチを描く墓所の前で馬を下り、なかば開いた鉄の扉の中へ入っていった。一行が足を踏みいれた、がらんとした広大な前室はトル・ホネスの謁見の間ほどの大きさがあった。ウルタグは無言でたいまつを高くかかげ、一行を一段低くなった階に導き、先ほどと同じような鉄製のアーチを描く入口をくぐり、さらに下の暗闇にむかって伸びる鉄の階段を、金属的な足音を響かせながらおりていった。廃墟の入口から五十フィートほど下った階段の一番底には、丸い鋲の打ちこまれた黒い鉄製の扉があった。ウルタグがためらいがちにノックする音が、そのむこう側の部屋にうつろに響きわたった。
「アンガラクの竜神のまどろみを破るのは何者ぞ」扉の向こう側からくぐもった声がした。
「カマートの司祭、ウルタグでございます」グロリムの声は恐怖に震えていた。「ご命令どおりに、囚人たちをトラクの使徒のもとにお連れいたしました」
しばし間があいてから、重々しい鎖がじゃらじゃら鳴る音と、巨大なかんぬきをまわす金属音が聞こえた。そしてゆっくりときしみながら扉が開いた。
セ・ネドラは思わず息をのんだ。扉のむこうに立っているのはベルガラスではないか! 仰天した王女の目が、ようやく微妙な違いを識別して、目の前の白髪の老人がベルガラスではないことを悟るまで、多少時間がかかった。それはベルガラスの兄弟といって通用するほどよく似た老人だった。二人のあいだにはわずかだが、決定的な違いがあった。扉の向こうに立つ老人の視線には激しい苦悩の色があった。それは恐ろしき神にすべてを捧げた男の絶望的な崇拝に押しつぶされた、悲しみと恐怖とひどい自己嫌悪の入りまじった目の色だった。
「隻眼の神の墓所へようこそ、ポルガラ」老人は女魔術師に挨拶した。
「ずいぶん久しぶりね、ベルゼダー」彼女は何の感情もまじえずに言った。
「わしにはその名前で呼ばれる権利はもはやない」老人はかすかに悔やむような口調で言った。
「でもあなたが選んだ道だわ、ゼダー」
老人は肩をすくめた。「そうであるとも、そうでないとも言える。恐らくわしがこれからやろうとしていることもまた必然性があるのだろう」ゼダーは扉をさらに開いた。「さあ、どうぞ中へ入りたまえ。この地下墓所だって住めば都だ。ただし質素に暮らせばの話だが」そう言ってかれはウルタグの方を見た。「トラクの高僧ウルタグよ、このたびの勤めまことにご苦労だった。おまえの勤めにぜひ報いたいと思う。一緒に入るがいい」老人は脇によって一行を丸天井のある部屋に招じ入れた。壁は巨大な石を接着剤を使わずに積みあげたもので、天井のもっとも高いところには太い鉄骨のアーチがボルトで固定され、上部の廃墟を支えていた。冷たい石と鉄のかもしだす冷気は、部屋の各隅にしつらえられた火鉢でいくぶんか和らげられていた。中央には数個の椅子とテーブルが置かれ、一方の壁にはぞんざいに丸められたわらぶとんと、きちんとたたまれた灰色い毛布が寄せられている。テーブルの上には二本のろうそくが、墓所の死んだように動かない空気に、またたきもせずに燃えていた。
ゼダーはろうそくを一本取り上げるために立ち止まると、さらに奥のアーチ型の小部屋に一行を案内した。「さあ、これがおまえの勤めに対する恩賞だ」老人はグロリムの僧にむかって言った。「おまえの神の御姿をとくと見るがいい」
小部屋の中央に棺台が置かれ、その上に頭の先からつま先まで黒づくめの巨大な姿が横たわっていた。磨きぬかれた鋼の仮面が、顔を覆っている。仮面の目は閉じられていた。
ウルタグは怯えた視線をちらりと投げ、床にひれ伏した。
突然、深いきしむようなため息が聞こえたかと思うと、横臥した姿がかすかに動いた。恐怖に射すくめられたセ・ネドラが見守るうちに、鋼に覆われた巨大な顔がぎごちなく、こちらを向いた。ほんの一瞬左側の光るまぶたが開けられた。その奥には凄まじい勢いで燃えさかる、あるはずのない瞳があった。鋼の顔がまるで生きている者のように動き、石の床に這いつくばる高僧にむかって、嘲笑するような表情にゆがめられた。同時にその光る唇からうつろなつぶやきが漏れた。
ウルタグは仰天した顔をあわてて上げ、神の顔を凝視した。その耳はこの暗い穴蔵でかろうじてかれ一人が聞こえるほどの、うつろなつぶやきに傾けられていた。神のつぶやきはとぎれることなく高僧の耳に吹きこまれ続けた。ウルタグの顔からしだいに血の気が引きはじめ、言語に絶する恐怖がその表情をひきつらせた。うなるようなつぶやきはなおも続いた。言葉こそ聞こえなかったが、その無気味な抑揚は容赦なく他のものの耳の中に入ってきた。ついにたまりかねたセ・ネドラは、自分の耳を覆った。
突然、ウルタグが悲鳴を上げたかと思うと、よろよろと立ち上がった。その顔はまったく血の気を失い、目玉は眼窩から飛び出していた。わけのわからない言葉を口走りながら、かれは部屋から飛び出した。恐慌にとらわれ廃墟から走りでるかれの悲鳴が、鉄の階段にはね返ってどこまでもこだました。
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20[#「20」は縦中横]
不思議なささやき声はベルガラス、シルク、ガリオンがマロリーの海岸に到着したときから始まった。最初はガリオンの頭の中のざわめきよりもわずかに聞き取れる程度だったが、南に近づくにつれ、しだいにはっきりとした言葉があらわれるようになった。それは、家、母、愛、死などといった意味の言葉だった。それが聞こえるやいなや、ガリオンの注意はたちどころに引きつけられるのだった。
かれらが後にしてきたモリンド人の土地とは違い、北マロリーは起伏の多い、一面の茎の太い濃緑色の草で覆われた土地だった。それらの起伏を縫うようにして流れる名前のない川が、鉛色の空の下でうねりくねっていた。三人が太陽を見なくなってからもう数週間がたっていた。乾いた曇天は〈東の海〉に去り、極氷の香りを含んだ凍えるような烈風が、南へむかう一行の背中に激しく吹き続けていた。
ベルガラスはいまやすみずみまで注意力を働かせていた。馬にゆられながら居眠りする、これまでの旅でおなじみの姿はもう跡形もなかった。ガリオンはときおり、隠れた危険を探し求める老人の微妙な気配を感じることさえあった。魔術師の探索はごくひそやかで、ゆっくりとした吐息のように軽くためらいがちだった。それは草のあいだを吹きわたる風の音にたくみに隠されていた。
一方シルクもまた油断なく馬を進め、耳をすますために立ち止まっては、ときおり空気の匂いを嗅いでいるようだった。ときおりかれは馬をおりて、ほんのわずかなひづめの音でも聞き逃すまいとばかりに草地に耳をあてさえした。
「まったく面倒くさいことですな」小男はふたたび馬にまたがりながら言った。
「うっかり何かに足を突っ込むよりは、少し注意過剰ぎみくらいの方がいい」ベルガラスは答えた。「ところで何か聞こえたかね」
「ミミズが土の中で這いまわっている音が聞こえたようでしたが」シルクは快活な口調で言った。「何せ、やっこさんときたら無口なもんでね」
「それがどうだというんだ」
「別に聞かれたから答えたまでですよ」
「まったく、いいかげんにしてくれ」
「でもわたしは確かにそう聞かれたよな、ガリオン」
「まったくおまえさんの性癖ときたら、わしがこれまで出会ったなかで一番悪質だぞ」
「わかってますよ」シルクは答えた。「だからこそやめられないんじゃありませんか。まったくわれながらどうしようもない性癖でね。ところでいつ頃になったら森らしきものに出会えるんですか?」
「あと数日はかかるだろう。われわれはまだ森林限界から離れたところにおるのでな。この場所は木が育つには夏が短く、冬が長すぎるのだ」
「それにしても恐ろしく退屈な場所じゃありませんか」シルクはどこまでも同じように続く草の起伏を眺めながら言った。
「このような情況なら多少の退屈さには耐える方をわしは選ぶな。もう一方の可能性はさほど愉快なものでもないぞ」
「確かにそうですね」
一行はなおもひざ丈ほどもある灰緑色の草を踏み分けるようにして進んだ。
再びガリオンの内部でささやきが始まった。「わが声を聞くがいい。〈光の子〉よ」そのひとことは、これまでのはっきりしないざわめきの中でひときわ鮮明に聞こえた。そこには有無をいわせないような一種の強制力があった。ガリオンはさらによく聞くために耳をすました。
(やめておいた方がいい)おなじみの乾いた声がした。
(何だって?)
(やつの言うことなど聞く必要はない)
(やつって誰だ?)
(むろん、トラクだ。いったい誰だと思っていたのかね)
(それじゃ、もう目覚めたのかい?)
(まだだ。完全に目覚めたわけではない――だが、もう眠っているわけでもない)
(いったいかれは何をしようというんだろう)
(おまえに働きかけて、やつを殺すのをやめさせようとしているのだ)
(でもトラクはぼくのことなんか恐れちゃいないはずだ)
(むろんやつだって恐ろしいのさ。トラクといえど、これから何が起こるのかまったくわからないのだ。おまえがやつを恐れているのと同じくらい、やつも恐れているのだ)
そのひとことでガリオンの心はたちまち軽くなった。(今度あれが聞こえてきたらどうすればいい?)
(別にたいしたことはできん。ただやつの命令に従うことだけは避けた方がいい)
三人はいつものように、二つの丘に囲まれた人目につきにくい窪地に野営した。そしていつものように居場所を知られないために、火を焚かなかった。
「そろそろ冷たい夕食は飽きてきたな」シルクは干し肉のひと切れを噛みしめ、ぐちをこぼした。「この牛肉ときたら、おんぼろの革を噛んでいるみたいだ」
「あごを丈夫にするにはうってつけだろうが」ベルガラスが言った。
「ときおり、あなたがじつに鼻持ちならない老いぼれに思えるときがありますよ」
「夜が長くなってきたと思わないかい」ガリオンはそれ以上の口論を封じるために口をはさんだ。
「夏が少しずつ退いているのだ」ベルガラスは答えた。「あと数週間もすれば、ここも秋になり、すぐに冬がやってくる」
「冬がくる頃にはぼくらは一体どうなっているんだろうね」ガリオンがしんみりした口調で言った。
「わたしだったらそんなことはほうっておくね」とシルク。「あれこれ考えたところで、何の足しにもならんし、よけい不安になるばかりだ」
「超不安だよ」ガリオンが訂正した。「今だって十分不安なんだ」
「超不安なんて言葉がありましたかね」シルクがおもしろそうな口ぶりでベルガラスにたずねた。
「今できたのさ」ベルガラスが答えた。「たった今ガリオンが発明したんだ」
「ほう、わたしにもそんな才能が欲しいものだ」シルクはうらやましそうに言ったが、その目にはいたずらっぽい輝きが浮かんでいた。
「頼むからこれ以上ぼくを冗談の種にするのはやめてくれ、シルク。そうでなくとも自分のことでいっぱいなんだから」
「それじゃ、寝るとするか」ベルガラスがとりなすように言った。「これ以上話していても切りがないし、明日はまた長旅になりそうだからな」
その夜、ささやき声はガリオンの眠りに忍びこんだ。今度は言葉よりもイメージの方が鮮明だった。友情への呼びかけが、さしのべられた愛の手となってあらわれた。自分が孤児だとわかったときからかれを悩ませていた少年時代の孤独は、この手を見たとたんどこかへ消え去ったような気がした。かれは矢も楯もたまらず、さし出された手にむかって走り出したい気持ちでいっぱいになった。
突然ガリオンの目の前に、二人の人物の姿がくっきりとあらわれた。一方の男性は背が高く力強さにあふれ、もう一方の女性はきわめてなじみのある人物だったので、たちまちガリオンの心を捕らえてしまった。背の高い男の方は初めて見る顔であると同時にそうではなかった。その顔は人間にはとうていおよばない美しさに輝いていた。それはガリオンがこれまで見てきたなかでも、もっとも美しい顔だった。むろん女性の方はガリオンの知らない人間ではなかった。額のひと房の巻き毛と、燃えるような瞳はガリオンの人生でもっとも近しいものだった。見知らぬ美しい男性と、ポルおばさんは両側からかれにむかって手をさしのべた。
「わが息子に迎えよう」ささやき声がそそのかすように言った。「おまえはわれわれのいとしい息子になるのだ。わたしはおまえの父に、そしてポルガラは母になろう。これは決して幻なぞでない、〈光の子〉よ。なぜならわたしの力をもってすれば、不可能なことなどないからだ。ポルガラは本当におまえの母になり、おまえは彼女の愛をひとりじめすることができよう。そしてわたしは父としておまえを愛しいつくしむことだろう。われらに背を向けて、ふたたびあのつらい孤児の孤独を味わいたいか。あの心も凍えるような空虚と、両親の暖かい愛とが比べものになるだろうか? われらのもとに来たれ、ベルガリオン。そしてわれらの愛を受けるがよい」
ガリオンははっと目を覚まし、あわてて起き上がった。がたがた震え、すっかり汗をかいていた。(助けてほしいんだ)かれは心の中で叫んで、もう一人の名もなき存在を探し求めた。
(いったい今度はどうしたというんだ)乾いた声がたずねた。
(あいつがいかさまをするんだ)ガリオンは憤慨した口調で言った。
(いかさまだと? わたしの見ていないところで、誰かが新しい規則を作り出したとでも言うのかね)
(そんなことじゃないことくらいわかっているだろう。あいつはポルおばさんを母親にしてやるから、かれに従えと言うんだ)
(やつは嘘をついているのだ。かれには過去など変える力はない。無視するにかぎる)
(一体どうやって? あいつは人の心に勝手に入りこんで、もっとも弱い部分に働きかけてくるんだ)
(セ・ネドラのことを考えるがいい。やつは混乱するだろう)
(セ・ネドラのことだって?)
(やつがポルガラを使っておまえを誘惑しようとするたびに、あの気まぐれな王女のことを考えればよい。〈ドリュアドの森〉でおまえが水浴する彼女をのぞき見たときのことを逐一思い浮かべるのだ)
(のぞき見なんてしていない!)
(そうかね。それにしてはずいぶん細かいところまでよく覚えているな)
ガリオンは赤くなった。かれは自分の白昼夢が、決してかれ一人のものではないことを思い出した。
(ただひたすらセ・ネドラのことだけを考えるがいい。恐らくはわたしだけでなく、やつをもいらだたせることだろう)声がわずかの間とぎれた。(おまえが真剣に考えられることが他にあるか?)
ガリオンはあえて答えようとはしなかった。
一行はさらにすっきりしない曇天の下をさらに南へ向かい、二日後ついに草地の端をまばらにいろどる最初の樹木に出会った。草地には家畜のように穏やかで人を怖がらない、角《つの》のある動物の大群が草を食んでいた。三人がさらに南へ向かうにつれ、まばらな樹木の間隔はしだいに狭まり、やがて黒っぽい黒い大枝を広げる常緑樹の森に変わった。
トラクの甘いささやきはなおも続いたが、そのたびごとにガリオンはかれの赤毛の小さな王女を思い浮かべることで対抗した。トラクが徐々に心に植えつけようと周到に作り上げたイメージが、セ・ネドラの白昼夢で乱されるたびに、ガリオンは相手のいらだちを感じとった。トラクはガリオンに恐怖と孤独を味わわせて、愛情あふれる家族に加わるよう誘いかけていた。だがそこにセ・ネドラのイメージがまざると、たちどころに混乱してへきえきしてしまうのだった。やがてガリオンはトラクの人間に対する理解が、きわめてかぎられたものであることを知った。それまでトラクが関心を抱いてきたことといえば、永劫の昔より胸に燃やし続けてきた遠大な欲望と野心に基づく事物ばかりだったので、普通の人間を駆りたてる、雑多な無秩序や背反した欲望などを理解することができなかったのだ。ガリオンはこの弱みを知るやいなや、かれをたぶらかして目的を果たさせまいとする、トラクの、狡猾な有無を言わせぬささやきに反撃を開始した。
ガリオンには今回のことを前にも経験したような気がしてならなかった。たしか以前にもこんなようなことがあったはずだった。まったく同じというわけではないが、とてもよく似た体験が。かれは必死に記憶をたぐりながら、この再体験をもたらさせた原因を突き止めようとした。雷で焼け焦げ、ひん曲がった切り株に目がいったとたん、かれの脳裏にあることがまざまざと蘇った。その切り株は見ようによっては、いつもかれらにつきまとっていた馬にのった黒い男の姿ととれなくもなかった。空を覆う雲のために切り株には影がなかった。それを見た瞬間、かれの頭の中でイメージの最後の一片がかちりと音をたててはまった。どんなに太陽が明るく輝いていようと、決して影を作ることのない、この威嚇的な黒マント姿の馬に乗った男は、ガリオンがまだ子供の頃からかれの視界をかすめ、まとわりついてきたのだ。むろんそれはマーゴ人のアシャラク、ガリオンが生まれて初めて魔法の力を使って焼き殺したグロリムには違いなかった。だが果たして本当にそうだったのだろうか? ガリオンと、かれの子供時代につきまとって離れなかった黒い姿のあいだには不思議な絆があった。むろんかれらは敵同士であり、ガリオンはそれを忘れたことはなかった。だがそれにもかかわらず、かれらの間には不思議な親近感があった。まるで互いに惹かれあってさえいるようだった。ガリオンはこの驚くべき可能性について、慎重に検討を加えていった。もしあの黒い姿がじつはアシャラクではなかったとしたら――もしくは実際にアシャラクだったとしても、何か大きな力に操られていたのだとしたら。
考えれば考えるほど、ガリオンはついに真相に達したのだと確信せざるを得なかった。トラクはたとえ自分の身体は眠っていても、その意識は依然として世界を動かし、自分の思いどおりにできごとをねじ曲げることができるのだと公言していたではないか。むろんアシャラク自身の意志もかかわっていたのかもしれないが、優位を占めていたのはトラク自身の意識だったに違いない。こうして黒い神はガリオンが幼い少年だった頃から、ずっとかれを見守ってきたのだ。少年時代の記憶のすみにへばりついていた黒い姿からガリオンが感じとっていた恐怖はアシャラクのではなく、トラクのそれだったのだ。トラクには最初からかれの正体がわかっていたのだ。いつの日かガリオンがリヴァ王の剣を取り、この世の始まりから決まっていた対決へと導かれてくるだろうことも。
突然かれはやみくもな衝動に駆られ、左手を上着の中に突っ込んで護符を握りしめた。そしてわずかに身をよじると、背中にくくりつけられた巨大な剣の束におさまる玉に、自分の右掌のしるしを押しつけた、
(おまえの正体はわかっているぞ)かれは無言で呼ばわり、うす暗い空にむかって自分の意思を投げつけた。(もうこれ以上、ぼくをおまえの思いどおりにしようとしても無駄だ。ぼくには決心を変えるつもりはない。ポルおばさんはぼくの母親にはならないし、ぼくもおまえの息子にならない。いいかげんにぼくの心をもてあそぶのはやめて、用意をした方が身のためだぞ。なぜならこれからぼくはおまえを殺しにいくからだ)
ガリオンが〈暗黒の竜神〉に公然と挑戦をたたきつけた瞬間、掌の下の〈珠〉は狂喜に燃え上がり、背中に背負った剣はさやに包まれたまま青い炎をはなった。
しばらく死のような沈黙が落ちたのち、突然それまでのささやき声が大音声に変わった。
(ならば来るがよい、〈光の子〉、ベルガリオンよ)トラクが逆に挑戦してきた。(わたしは〈夜の都市〉で待っている。そなたの持てるあらゆる意志と勇気とを動員してくるがよい。わたしの対決の用意はすでに整った)
「七人の神の名前にかけて、おまえさんは何と馬鹿なことをしてくれたのだ」ベルガラスがわめき出さんばかりの声でガリオンにつめ寄った。その顔は怒りでまだら色になっていた。
「トラクはもう一週間も前からぼくにささやきかけていたんだ」ガリオンは〈珠〉から手を離しながら、穏やかな声で説明した。「あいつはぼくに対決をやめさせようと、あらゆる手段で働きかけてきた。ぼくもいいかげんうんざりしたから、やめるように言っただけさ」
ベルガラスはののしり言葉を吐き散らしながら、ガリオンにむかって腕を振りまわした。
「だってトラクにはぼくが行くことがわかっていたんだよ」ガリオンは猛り狂う老人を何とかなだめようとした。「やつはぼくが生まれたときから、ぼくの正体を知っていたんだ。あいつはぼくが成長するのをずっと見守ってきたんだ。今さらトラクを驚かすことなんてできやしないよ。だったら何もこそこそする必要はないじゃないか。ぼくはあいつにこれから行くということを知らせたかったんだ。そろそろやつだって心配したり怖がったりすることを覚えたっていい頃だ」
シルクはあきれたようにガリオンを見つめていた。「まったくこの坊やは正真正銘のアローン人ですな」
「こいつは単なる大馬鹿者だ!」ベルガラスが怒ったように叫んだ。老人はガリオンの方を向いて言った。「トラク以外にも気にかけなければならんものがあるとは、夢にも思っちゃおらんのだろう」
ガリオンはわけがわからず目をぱちぱちさせた。
「クトル・ミシュラクは無防備だとでも思っているのか、この大間抜けめ。おまえさんは百リーグ以内の全グロリムにわざわざわれわれの所在を公言したんだぞ」
「そんなこと考えてもみなかった」
「むろん、そうだろうよ。わしにはときおり、おまえが考え方というものをまったく知らないのではないかと思えるときがある」
シルクは不安そうにあたりを見まわした。「とりあえず、われわれはどうすればいいんでしょう」
「こうなったら馬の走れるかぎり、急いでここを離れるしかないだろうな」ベルガラスはそう言ってガリオンをにらみつけた。「まさか服の下にトランペットなんぞ隠し持っちゃおらんだろうな」老人の声には辛らつな皮肉がこもっていた。「たぶんおまえはファンファーレを鳴らしながら行きたいんだろうがな」そしてうんざりしたような表情でかぶりをふると、手綱を握った。「さあ、馬に乗れ」と老人は言った。
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21[#「21」は縦中横]
死んだような空の下で、ポプラの森が白くむきだしの姿をさらけだしていた。まっすぐに伸びた細長い幹は、まるで果てしなき檻の格子を思わせた。ベルガラスはどこまでも続く沈黙に包まれた広大な森の中を、注意深く縫うようにして先頭を進んでいった。
「あとどれくらいあるんですか」シルクが緊迫したおももちでたずねた。
「もうあと一日かそこいらだろう」ベルガラスは答えた。「雲がだいぶ厚くなってきたからな」
「あの雲は動かないんですか?」
「そうだ。トラクがあそこに置いて以来、あれはまったく動いたことがない」
「でも風が吹いてきたらどうなるんです。それでも動かないというんですか?」
ベルガラスはかぶりをふった。「あの国では普通の自然法則なぞ通用せんのだ。わしが思うにあれはじっさいは雲でないのかもしれん。たぶん何かまったく違うものだろう」
「たとえばどんなものです?」
「幻影か何かだろう。神はそう言ったものを作り出すのは得意だからな」
「こうしている間にもやつら――グロリムたちはわれわれを探しているんでしょうかね」
ベルガラスはうなずいた。
「むろんわれわれが見つからないように、何かの手段は講じてあるんでしょうね」
「もちろんさ」老人はそう言って小男の顔を見た。「いったい何だって急におしゃべりになったのかね。おまえさんはもう一時間もしゃべりっぱなしじゃないか」
「少しばかり落ちつかないんでね」とシルク。「こういった勝手知らぬ土地へ来ると不安になるんですよ。あらかじめ逃走経路が決まっているような場所だったら、もっと気楽なんですがね」
「いつもそうやって逃げ出せる用意をしているのかね」
「わたしのような職業の者だったら当然のことですよ。ところで、今の鳴き声は何ですか?」
ガリオンもまた同じ鳴き声を聞いた。背後のかなたから、よく響く太いうなり声がかすかに聞こえた。最初は一匹だけだったが、すぐに何匹も加わった。「狼かな?」かれは言った。
ベルガラスの顔が険しくなった。「いいや、狼ではない」老人は手綱をひとふりして、不安そうな馬を急がせた。ひづめの音がポプラの木の下に厚く積った腐葉土に吸い込まれていく。
「それじゃ、いったい何なんだい?」ガリオンもまた馬の足を早めながらたずねた。
「グロリムの猟犬だ」老人はぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、犬?」
「いいや、そうじゃない。あいつらもまたグロリムなのだ――それもかなり特殊なかたちのな。アンガラク人どもがこの都市を作ったときに、トラクは周辺を守る必要があると考えた。何人かのグロリムたちが、人ではない形を取ることを買ってでたのさ。だが連中は二度と人間に戻ることはなかった」
「番犬なら前にもやりあったことがありますよ」シルクが自信ありげに言った。
「番犬とはわけが違うのだ。とりあえず、連中をだし抜けるかどうかやってみよう」
三人は馬を全力疾走させ、幹のあいだを縫うようにして走った。枝が容赦なくかれらの顔を鞭打ち、ガリオンはそれを避けるために手で顔を守らなければならなかった。
一行は低い尾根の頂に登ると、すぐにそこを駆けおりた。背後のうなり声はだいぶ近づいているようすだった。
突然シルクの馬がよろめき、危うく小男を鞍から放り出しそうになった。「これではとても無理ですよ」老人とガリオンが急いで馬の速度をゆるめるのと同時に、小男が言った。「この地面は柔らかすぎて足を取られてしまう」
ベルガラスは耳に手をあてて、あたりのようすをうかがった。よく響く太いうなり声は、もうすぐそこまで迫っていた。「これではいずれ追いつかれてしまうな」
「それなら、何とかして下さいよ」シルクは心配そうな顔であたりを見まわした。
「今、考えておるところだ」ベルガラスは顔をあげて、空気の匂いを嗅いだ。「このまま進め。よどんだ水の匂いがする。ここは沼地の多いところでな。大きな沼に行きあたれば、われわれの匂いを消すことができるかもしれん」
三人はさらに斜面を下って、谷底に向かった。よどんだ水の汚臭がしだいに濃くなってきた。
「すぐそこだ」ガリオンは白い幹の間からどこまでも顔をのぞかせている茶色い水を指さしながら言った。
それは密集した木立に水がたまってできた、比較的大きな沼だった。見るからにどろどろした汚水が悪臭を放っている。枯れた立ち木の枝が、まるで無情な空に向かって嘆願しているような形に突き出されていた。
シルクが鼻にしわを寄せて言った。「これだけ臭けりゃ、何だって寄ってきやしませんよ」
「やってみないことにはわからん」ベルガラスが言った。「恐らく普通の犬ならこれでまけるだろうが、相手はグロリムだということを忘れるな。連中は頭を働かせることができるから、臭いだけではだませんぞ」
三人はいやがる馬を駆って濁った水に飛びこんだ。三人は凄まじい水しぶきを上げながら、枯れ木のあいだを右に左に縫うようにして走った。底にたまっていた腐った汚物が馬のひづめでかきまわされて、いっそうひどい悪臭を放った。
猟犬のうなり声がすぐ近くに迫ってきた。今やその声は興奮と凄まじいばかりの貪欲にあふれていた。
「どうやら沼地の端まできたようです」シルクが耳を傾けながら言った。
しばし、まごついたようなうなり声がした。
「おじいさん!」ガリオンはあわてて馬をとめて叫んだ。
一行の目の前に、犬の形をした動物が、ひざまで茶色い水に浸かりながら、よだれをたらしていた。それはとてつもなく巨大で、馬ほどの大きさがあり、目には憎悪の緑色の炎を宿していた。その前肩と胸は筋肉で盛り上がり、地面にむかって弧を描くように伸びた、ゆうに一フィートはありそうな牙の先から泡を吹き出していた。
「もはや、おまえたちは袋のねずみも同然だ」犬はまるで咀嚼するように、鼻面を歪ませながら、言葉を発音した。その声は耳ざわりで荒々しかった。
シルクの手が、さっと懐中の短剣に伸ばされた。
「気にすることはない」ベルガラスが言った。「これは単なる幻で、いわば影のようなものだ」
「そんなことまでできるんですか」シルクが驚いたような声を出した。
「連中はグロリムだと言っただろう」
「われわれは飢えている」燃えるような目をした猟犬が言った。「今すぐ仲間たちがくる。今日はひさしぶりに人肉のごちそうにありつけそうだ」そして犬の姿はゆらめき、消えた。
「われわれの居場所を知られてしまいましたよ」シルクの声には不安げな響きがあった。「何とかして下さいよ、ベルガラス。魔法を使うわけにはいかないんですか?」
「そんなことをしたら、なおのことわれわれの居場所を知らせるようなものだ。ここには猟犬以外のものだっているんだぞ」
「一か八がやってみるしかないじゃありませんか。とりあえず、目先のことだけを考えましょうよ。あの牙を見たでしょう?」
「やつらが来たよ」ガリオンが切迫した声で叫んだ。沼地の背後から、ばちゃばちゃという水音がはっきりと聞こえてきた。
「何とかして下さいよ、ベルガラス!」
そうしている間にも空はますます暗くなり、突然あたりは重苦しい空気に包まれた。どこか遠くで雷鳴の怒ったようなざわめきが聞こえた。巨大な吐息が森を吹きぬけていった。
「このまま逃げるんだ」ベルガラスの指示にしたがって、一行はぬるぬるした茶色い水を蹴散らしながらさらに奥へ逃げた。前方に見える、向こう岸のポプラの木の葉がいっせいに銀色の腹を見せてひっくり返った。まるで巨大な白い波が森を震わせているようだった。
猟犬はいまやほとんどかれらの背後に迫っていた。ぬるぬるした悪臭を放つ沼水をはね散らしながら、追跡者は勝ちほこったような声をあげ始めた。
突然、目もくらむばかりの青白い閃光がひらめいたかと思うと、バリバリと凄まじい雷鳴がとどろいた。だしぬけに頭上の空が引き裂けた。雷鳴のような音をたてて吹きつける豪雨がたちまち三人の身体を包んだ。吹きすさぶ突風がポプラの葉という葉を引きちぎり、いっせいに空にむかって吹き飛ばした。一陣の疾風が豪雨をほとんど水平に吹き上げ、沼地を泡立て、数フィート内外のものを覆い隠した。
「あなたがやったんですか?」シルクが嵐にむかって声を張り上げた。
だがベルガラスの仰天した表情は、やはりシルクと同じように驚いていることを物語っていた。二人の顔がいっせいにガリオンの方に向けられた。「おまえがやったのか」ベルガラスが問いつめるように言った。
「かれではない、わたしがやったのだ」ガリオンの口から出てきた声は、かれ自身のものではなかった。「せっかくここまでおまえたちを連れてきたのに、こんな犬どもに邪魔されてはたまらないからな」
「まったく音がしなかった」ベルガラスがびしょ濡れの額をぬぐいながら、驚嘆するように言った。「ささやき声すらも聞こえませんでした」
「それは聞くときを違えていたからだ」ガリオンの口から出る声が答えた。「わたしは去年の春早く、これを仕掛けた。それが今ようやく届いたというわけだ」
「わたしたちに必要になることがわかっていらしたのですか」
「むろん、そうだ。さあ、おまえたちはこれから東へ進むがよい。猟犬はもはやこの嵐では追いかけてこれまい。大きく迂回して都市の東から入れ。そこなら警備が比較的手薄だからな」
その間も、ときおり雷鳴や稲妻の閃光を交え、豪雨はさらに降り続けていた。
「この雨はいつまで続くのですか」ベルガラスが轟音に負けまいとするかのように、声を張り上げた。
「おまえたちにとっては十分なだけ降り続けるだろう。この嵐は先週〈東の海〉で発生したもので、けさマロリー沿岸に達したのだ。さあ、東へ行け」
「このまま少し話をさせていただけませんか」ベルガラスがたずねた。「お聞きしたいことが、山ほどあるのです」
「残念ながら、話しあっている場合ではないのだ。おまえたちはもっと急がねばならん。他の者たちはすでにこの朝、ちょうど嵐の前にクトル・ミシュラクに到着した。すでに準備はととのっている。あとは行くだけだ」
「それでは、今夜がそのときなのですか」
「たぶん、そうだろう。おまえたちが間に合えばの話だが。トラクはほとんど目覚めかけている。かれが目を開ける前に着いた方がいいだろう」
ベルガラスは再度、額を流れ落ちる雨水をぬぐった。その目には当惑したような表情が浮かんでいた。「さあ、行こう」そう言うなり老人は、吹きつける雨の中を、水を蹴散らしながら岸にむかった。
豪雨は吠えたてる風に追いたてられるようにして数時間も続いた。びしょ濡れになった三人はみじめな思いで、風に飛ばされた葉や枝になかば目をふさがれながら、東に向かって馬を走らせた。沼地に釘づけにされた猟犬たちは、嵐のような豪雨が沼と森のあらゆる臭跡をかき消してしまったことに、当惑したような欲求不満のうなり声を上げていたが、それもしだいに遠ざかっていった。
夜のとばりがおりるころ、一行ははるか東の一連の低い丘陵地帯にたどり着いた。嵐のような豪雨は、しとしと降り続ける不快なこぬか雨に変わっていた。ときおり、〈東の海〉を不定期的に襲う冷たい突風と驟雨《しゅう》が断続的にかれらに吹きつけた。
「本当に道をご存じなんでしょうね」シルクがベルガラスにたずねた。
「大丈夫だ」ベルガラスはむっつりと言った。「クトル・ミシュラクには独特の臭いがあるからな」
雨はすでにパラパラと頭上の葉に落ちかかる程度に弱まり、一行が森のはずれに近づく頃にはほとんど上がっていた。ベルガラスの言っていた臭いは、鼻をつくような異臭ではなく、むしろいくつかの穏やかな湿っぽい臭いの混合物だった。水分を含んだ鉄錆の臭いがそのほとんどをしめ、よどんだ水の異臭や、菌糸類のかび臭いにおいがそれに続いていた。それらが入り交じって独特の腐敗臭をかもし出していたのである。一行が森の最後の木にさしかかったところで、ベルガラスが鋭く手綱を引いた。「さあ、着いたぞ」老人は穏やかな声で言った。
一行の目の前に広がる盆地は、かすかに青白い無気味な光を発していた。まるで地面そのものから発光しているかのようだった。その中央に、破壊のあともあらわな廃墟が横たわっていた。
「あの不思議な光はいったい何だい」ガリオンがこわばった声でたずねた。
「燐光だ。あの都市一帯に生えているキノコが光っているのさ。クトル・ミシュラクではまったく日がささないから、暗闇に棲む不健全なものたちが繁殖しているのだ。さあ、馬はここに置いていくことにしよう」そう言ってベルガラスは馬からおりた。
「こんなところでいいんですか?」シルクもまた鞍から滑りおりながら言った。「急いで逃げ出すことになるかもしれないのに」
「いいや」ベルガラスは静かに言った。「すべてうまく行けば、連中はわれわれに危害を与えることもなくなる。もしうまく行かなかったとしたら、逃げる心配にはおよばない」
「そういう変更のきかないことには、あまり関わりたくありませんな」
「だとしたらおまえは選択をあやまったのだ」ベルガラスは答えた。「これから行なおうとしていることは、およそ変更のきかないことだからな。いったん出発したら、途中で引き返すことは許されないのだ」
「やっぱり気にくわないな。それで、どうするんですか?」
「ガリオンとわしはもう少し人目を引かない姿に化けることにする。おまえさんは闇の中でだれにも気づかれずに、こそこそ動きまわるのはお得意だろうが、われわれはそうもいかないのでな」
「よりによってこんなトラクの目と鼻の先で魔法をやろうっていうんですか?」シルクは信じられないといった声でたずねた。
「できるだけ音を抑えるようにしよう」ベルガラスが安心させるように言った。「姿かたちを変える魔法は、内にむけて行なわれるものだから、たいした音はたてないのだ」老人はそう言ってガリオンの方をむいた。「今回はごくゆっくり変身するぞ。そうすれば漏れ出る音は拡散され、さらに聞き取りにくくなるからだ、わかったな?」
「たぶん、大丈夫だと思うけれど」
「わしが先に手本を見せよう。よく見るがいい」老人は一行を乗せてきた馬の方を見やった。
「少し離れた方がよさそうだ。馬が狼の姿を見て怖がるからな。こんなところで連中にヒステリックに暴れまわられたのではかなわん」
一行は樹木にまぎれるようにして、馬から離れた場所に進んだ。
「この辺でよかろう」ベルガラスが言った。「さあ、よく見てるんだぞ」老人は精神を集中していたようだったが、しばらくするとその姿はぼやけ、変わりはじめた。変化は非常にゆっくりと進み、いっとき老人と狼の顔が重なって見えるほどだった。変身にともなう音は、かすかなささやきにしか聞こえなかった。すべてが終わると、そこには銀色の巨大な狼が後ろ脚で座っていた。
「さあ、やってみろ」老人は狼独特の、かすかに表情を動かすだけの言語を使ってガリオンに命じた。
ガリオンは狼の形を強く思い浮かべながら、一心に精神を集中させた。かれの変化もまたゆっくりと行なわれたので、身体のまわりに毛が生えていくのがわかるほどだった。
シルクは手と顔に泥を塗りつけて、肌を目立たせないようにしているところだった。小男は二匹の狼にむかって問いかけるような表情をしてみせた。
ベルガラスはうなずくと、一行の先頭にたってクルト・ミシュラクの朽ち果てた廃墟にむかう、むきだしの大地を下りはじめた。
かすかな光にかれらの他にも、うろつき、鼻をうごめかせているものの気配が感じられた。犬のような形と臭いを持つものもいれば、かすかに爬虫類の臭いを漂わせているものもいた。いたるところの岩や高台の上に、ローブをまとい頭巾をかぶったグロリムが、目と心とで油断なく侵入者を探し求めていた。
ガリオンの足の下の大地には生命のしるしがまったく感じられなかった。この荒れ果てた地には、成長もなければ生命のきざしもないのだ。露岩や浸食された割れ目に巧みに身を隠しながら、あいだに中腰のシルクをはさんだ二匹の狼は、腹を地面にすりつけるようにして、廃墟に近づいていった。一行の速度はガリオンにはじれったくなるほどゆっくりに思えたが、ベルガラスは時間のことなどまったく気にかけていないようすだった。見張りのグロリムのすぐわきを通過するときなど、一度に一歩ずつしか足をつけずに進んだことさえあった。足音を忍ばせ、徐々に廃墟と化した〈夜の都市〉にむかって近づいていくかれらの上に、時間は果てしなくのろのろと進んでいくようだった。
壊れた壁の近くで、頭巾をかぶった二人のグロリムが、ひそひそ話を交わしていた。ガリオンのぴんと研ぎすまされた耳は、克明に会話をとらえていた。
「猟犬たちが今晩は騒いでいるようだな」一人が言った。
「嵐のせいさ」もう一方が答えた。「連中は天候が崩れると、やけに神経質になる」
「猟犬になったらどんな気分がするもんだろうな」と最初の僧。
「何ならおまえも連中の仲間に加わってみたらどうだ」
「いや、そこまではちょっとな」
シルクと二匹の狼は、煙のようにひそやかな足取りで、むだ話をしているグロリムから十フィートとは離れていないかたわらをすり抜け、転がる岩に身を隠しながら〈夜の都市〉の廃墟にもぐり込んだ。いったん廃墟の中に入ってしまえば、動きまわるのは楽だった。一行は夜陰に乗じて、雷に打たれた石の間を軽やかに飛びまわりながら、ベルガラスの後を追って街の中心部にむかった。濁った空に高く黒い姿を浮かびあがらせている鉄搭を、かれらはひたすらめざした。
錆とよどんだ水と腐敗の臭いはますます強くなり、ガリオンの狼なみに研ぎすまされた嗅覚に襲いかかってくるような気がした。息も詰まらんばかりの臭いに圧倒されたガリオンは、鼻孔を閉じて、ひたすら無視しようと努めた。
「そこにいるのは誰だ」突然、一行の前方から鋭い声が響いた。剣を引き抜いたグロリムが瓦礫の道に飛び出してきた。三人がじっと凍りついたように身をひそめている暗闇に男はじっと目を凝らした。ガリオンはシルクの手がゆっくりと背中に隠したナイフに伸びる気配を感じ取った。小男の腕がさっと振りおろされた、正確無比なナイフが風を切るような音とともに、回転しながら飛んでいった。
グロリムがうなり声をあげて、まっぷたつに身体を折ったかと思うと、ため息とともに前のめりに倒れた。同時に剣が凄まじい音をたてて地面に落ちた。
「急げ!」シルクは瓦礫の上に長々とのびた死体を飛び越えながら言った。
同じように死体を飛び越えながら、ガリオンは新鮮な血の匂いを嗅いだ。そのとたん、口の中につばがわき起こった。
一行はようやく、ねじまがった鉄骨やへこんだ鉄板の塊と化した鉄塔の残骸にたどり着いた。開かれた扉から中へ入り、さらに奥まった部屋の墨を流したような暗闇に足を踏み入れた。どこもかしこも鉄錆の臭いが充満していた。それは暗闇にひそむいにしえの邪悪の香でもあった。ガリオンは立ち止まると、鼻をくんくん言わせながら不快な空気を嗅いだ。うなじの毛皮がいっせいに逆立った。かれは必死にのどの奥から自然に漏れでるうなり声をおさえつけた。
ガリオンは祖父の肩が促すようにふれるのを感じ、真っ暗闇の中を臭いだけに導かれるようにして、老狼のあとを追っていった。がらんとした巨大な鉄の部屋の端にはもうひとつの扉があった。
ベルガラスは立ち止まった。ガリオンは老人がささやきのような音とともに元の姿に戻るのを見守った。ガリオンは自分の意志にしがみつくようにして、ゆっくりと元の姿に戻っていった。
ほとんど聞き取れないばかりの小さな声でシルクが毒づきはじめた。
「いったいどうしたというのだ?」ベルガラスが小声でたずねた。
「ナイフを回収するのを忘れちまったんですよ」シルクは歯ぎしりしながら言った。「あれはお気に入りだったのに」
「これからどうするんだい」ガリオンはしわがれ声でささやいた。
「この扉の向こうへ行くだけさ。地下へおりるのだ」
「そこには何があるの?」
「地下室だ。ゼダーがトラクを安置した一種の墓所のようなものだ。さあ、下へ行こうじゃないか」
ガリオンはため息をついたが、やがて背をのばして言った。「そのためにぼくらはここへ来たんだしね」
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22[#「22」は縦中横]
「まさか本気でわたしがそれを受け入れると思っているんじゃないでしょうね、ゼダー」
鉄の扉に伸ばしかけたガリオンの手が途中で凍りついた。
「宿命だったからと言って、自分のしたことに対する責任逃れにはならないわよ」扉のむこうの声はなおも続いた。
「だがわれわれはみな宿命に動かされているのではないかね、ポルガラ」聞き覚えのない男の声には、あきらめきった悲しみのようなものがにじんでいた。「むろん責任がわたしにないと言うつもりはないが、わたしの背信はあらかじめ決まっていたのではないのだろうか。ときの初めより世界はふたつに分けられ、今やふたつの〈予言〉が最終の対決にむかって互いにひた走りつつあるのだ。わたしの行為がこの最終の対決のためでないと誰に言えよう?」
「それは逃げ口上というものよ、ゼダー」ポルおばさんが言った。
「いったい何でおばさんがここにいるんだ?」ガリオンはベルガラスに小声でたずねた。
「あいつもまたここに来なければならなかったのだ」老人のささやき声には不思議な満足感がこもっていた。「そのまま聞くがいい」
「これ以上無益な議論を繰り返してもむだだ、ポルガラ」〈裏切者〉ゼダーの声がした。「われわれはともに自分のなしたことが正しいことだと思っている。どちらも互いを説得することもできなければ、自分の立場を変える気もないのだから。これについては、棚上げにしておこうではないか」
「それは結構だこと」ポルおばさんは冷ややかに答えた。
「これからどうしますか?」シルクがたずねた。
「たぶん、他の者たちもそろっているはずだ」ベルガラスがささやき声で言った。「なだれこむ前にそれを確かめておきたい」
三人の目の前にある鉄製の扉はかまちにぴったり閉まっていなかったので、そのまわりから微かな光がもれていた。ガリオンはほのかな光の中に祖父の真剣な顔を見た。
「おとうさんはどうしているかね」ゼダーがはっきりしない口調でたずねた。
「あの人は相変わらずよ。あなたのことをひどく怒っているわ」
「そんなことだろうと思っていたよ」
「この子の食事が終わったわ、レディ・ポルガラ」ガリオンはセ・ネドラの声を聞いた。かれはさっとベルガラスの方をふり向いたが、老人は黙っていろという仕草をした。
「そこにあるわらぶとんを敷いてやってちょうだい」ポルおばさんの指示する声がした。「それから毛布でくるんでやってね。もう時間が遅いから眠いのよ」
「わたしがやりましょう」ダーニクが申し出た。
「よし」ベルガラスが満足そうに息をついた。「全員そろっているぞ」
「いったいどうやってここへ来たんでしょうね?」シルクがたずねた。
「わしにだって見当もつかんよ。別にわかろうとも思わないが。肝心なことはかれらがここにいるということなのさ」
「きみたちがこの子をクトゥーチクの手から救い出してくれて嬉しいよ」ゼダーは言った。
「いっしょにいるうちに、わたしもつい情がうつってな」
「いったいどこからこの子を見つけ出してきたの?」ポルおばさんがたずねた。「どこの国の子どもかさえ、どうしてもわからなかったわ」
「じつを言えば、わたしもよくは覚えていないのだ」ゼダーの声には心なしか困惑が感じられた。「たぶんカマールかトル・ホネス、それともマロリーのどこか別の都市だったかもしれない。だがその辺の事情は記憶からすっかり抜け落ちてしまっているのだ――まるでそれ以上の詮索をさせまいとしているかのように」
「思い出してみてくれない? これはとても大切なことなのよ」
ゼダーはため息をついた。「きみがどうしてもというのなら」そう言ってかれは思い出そうとしているかのように沈黙した。「あの頃、わたしはひどく不安定だった。あれは今から五、六十年も前のころになるだろうか。もはや研究はわたしの心を楽しませず、グロリム同士の口喧嘩にもいいかげんうんざりし始めた頃だった。わたしはぶらぶら出歩くようになった。別にどこへ行くかは、これというあてもなかった。わたしは西の諸国とアンガラク王国一帯を何回も言ったりきたりしていた。
突然すばらしい考えを思いついたのは、そのような旅でどこかの都市をまわっていたときのことだった。ほんのわずかでも邪心を抱く者がふれれば、たちどころに〈珠〉に滅ぼされることは誰でもよく知っている。それならば、まったく邪心のない者がふれればよいのではないか? わたしはあまりの簡単さにいささか驚いていた。ちょうどそこは喧噪に満ちた通りだったので、もう少し静かなところでゆっくり考えようと、名前すら覚えていない路地に曲がったとたん、この子供がいたのだ――まるでわたしの来るのを待っていたかのように。当時子供はまだふたつかそこいらで、ようやく歩けるようになった程度だった。わたしはその子供にむかって手をさしのべてこう言った。『おいで、きみにちょっとした使命《エランド》をあげよう』とね。子供はわたしのもとにやってくると、ひとこと『使命《エランド》』と言った。以来、わたしはそれ以外の言葉をこの子供の口から聞いたことはない」
「子供に初めてふれられたとき、〈珠〉はどう反応したの?」
「一瞬、閃光が走った。〈珠〉はどうやら独自の方法で子供を確認したようだ。かれが手をのせたとたん、両者のあいだで何らかの意志の疎通があったらしい」そう言ってかれはため息をついた。「ポルガラ、残念だがわたしには子供が何者なのか、いやその正体すらわからない。もしかしたら幻なのかとすら思うこともある。幼い子供を使おうという考えにしても、あまりにだしぬけに思い浮かんできたので、誰かがわたしの心に植えつけたのではないかという気がする。もしわたしが子供を見つけられなくとも、子供の方でわたしを見つけたかもしれないのだ」かれは再び黙った。
鉄の扉の向こうはしばし長い沈黙に包まれた。
「なぜなの、ゼダー」やがてポルおばさんが静かな声で言った。「なぜわたしたちの〈師〉を裏切ったりしたの?」その声には不思議な同情さえこもっていた。
「〈珠〉を救うためだ」相手は悲しげに答えた。「少なくとも、最初はそのつもりだった。初めて〈珠〉をみたときから、あれはわたしを支配した。トラクが〈師〉の手から〈珠〉を奪い去ったのち、ベルガラスを始めとする者たちは力づくで奪還しようとしたが、他ならぬアルダー自身が手を貸して、トラクを倒さないかぎり、かれらが失敗するのは目に見えていた。またアルダーもそのようなことに手を貸したりはしないだろうと思ったのだ。力づくで奪うことができないのなら、策略を用いればいいとわたしは思った。そこでトラクに忠誠を払うふりをして、その信任を得たところで、盗み返そうと考えたのだ」
「それでどうなったの、ゼダー」ポルガラが単刀直入に聞いた。
「ああ、ポルガラ」ゼダーの声が締め殺されるようなすすり泣きに変わった。「きみには想像もつかんだろう! わたしだって自分だけは大丈夫だと思っていた。トラクに心を支配されることなどないと思い上がっていたのだ。だが、わたしは間違っていた。やつの心と意思はわたしをはるかに圧倒していた。あいつはわたしを頭から押さえつけ、あらゆる反抗心を粉々に打ち砕いたのだ。ああ、やつの手の感触ときたら!」ゼダーの声に恐怖がまじった。「あいつは人の魂の奥底まで手を突っ込んでくるのだ。わたしだってトラクがどんな神だかよくわかっている。いかにかれが忌まわしく、ひねくれ、言語に絶するほど邪悪だとわかってはいても、いったん名を呼ばれれば、わたしは行くしかないのだ。やれと言われたことをやるしかないのだ。たとえわたしの魂が金切り声をあげて泣き叫んでも、わたしは従うしかないのだ。今こうして眠ってさえいても、やつはわたしの心臓を握りしめているのだ」そして再びすすり泣きが聞こえた。
「神に対抗するなんてことができると思っていたの?」ポルおばさんの声には相変わらずいたわりが感じられた。「それがあなたのプライドだったの、ゼダー? 神に真意を悟られずに裏をかくことができるほど、自分の力が強いと思っていたの?」
ゼダーはため息をついた。「そうかもしれん」かれは認めた。「アルダーは優しい〈師〉だった。かれはそれまで弟子の魂を押しつぶすようなことはしなかったから、トラクが何をするかについてまったく準備ができていなかった。トラクは優しくなどない。かれは欲しいものがあれば、遠慮せずにそれを取る――たとえそのために弟子の魂が引き裂かれようと、露ほども気にはかけない。いずれきみもトラクの力の強大さを思い知ることだろう、ポルガラ。やがてかれは起き上がり、ベルガリオンを滅ぼすのだ。たとえリヴァ王といえど、やつの力の前には敵ではない。そしてトラクはきみを花嫁にすることだろう――これまで何度もそうすると言ってきたとおりに。やつにさからうのはやめた方がいい、ポルガラ。そんなことをしても無駄に苦しむだけだ。結局最後はやつの思うとおりになるのだから。きみは進んで、いやそれどころか熱望して神の胸に飛びこんでいくことだろう」
突然、鉄の扉のむこうで衣ずれの音が起こったかと思うと、床を走る足音が聞こえた。
「ダーニク!」ポルおばさんが叫んだ。「だめよ!」
「いったい何が起こったんだろう」ガリオンはベルガラスにたずねた。
「聞いたとおりのことだ!」ベルガラスがあえいだ。「急いでこの扉を開けるのだ!」
「戻るんだ、この大馬鹿者め!」ゼダーは叫んだ。
だしぬけに鈍い衝突音がして、複数の人間が取っ組みあいながら家具にぶつかる音が聞こえてきた。
「いいか、わたしに近づくんじゃない」ゼダーが再び叫び声を上げた。
鋭い一撃とともに、拳が固い骨に当たる音がした。
「ゼダー!」ベルガラスは扉の取っ手を狂おしく引っぱりながら、絶叫した。
次の瞬間、扉のむこうで爆発音が響きわたった。
「ダーニク!」ポルおばさんが悲鳴を上げた。
突然の憤激に駆られたベルガラスは、握りしめた拳をあげ、燃え上がった意志をこめて、鉄の扉に叩きつけた。凄まじい一撃は、鉄の扉を紙のようにらくらくと蝶番から引きちぎった。
扉の向こう側には、歳月で黒ずんだ鉄骨に支えられた、丸天井のある部屋が広がっていた。ガリオンの目にいっぺんに部屋の光景が飛びこんできた。かれはそれを、まるで身体からあらゆる感情が抜け落ちてしまったかのような奇妙な離脱感をもって眺めていた。セ・ネドラとエランドが恐怖に抱きあうようにして、壁に寄りそっていた。ポルおばさんはその場に凍りついたように立ちすくみ、不信と驚愕に大きく目を見開きながらダーニクの動かなくなった姿に見入っていた。鍛冶屋は床の上に身をよじるようにして倒れており、死人のようにまっ白な顔はまぎれもないある事実を示していた。次の瞬間、女魔術師の顔の上に恐ろしい実感の波が怒涛のように押し寄せた。それは失ったもののかけがいのなさに対する実感だった。「いやよ!」彼女は悲鳴をあげた。「死なないで、わたしのダーニク」ポルガラは倒れた男のもとに駆けより、ひざまずいて、動かなくなった身体を両腕でかき抱き、悲しみと絶望で心も張り裂けんばかりに泣き叫んだ。
そしてガリオンは初めて〈裏切者〉ゼダーと対面した。ゼダーもまたダーニクの死体を見おろしていた。その顔には激しい後悔が浮かんでいた。まるで最後の救いのチャンスを、たった一度の過失で永遠に失ってしまったような表情だった。「この愚か者め」かれはつぶやくように言った。「なぜわたしにこのようなまねをさせたのだ。人を殺すことだけは絶対にやりたくなかったのに」
次の瞬間、死と同じように動かしがたいベルガラスは、扉の残骸を越えて、かつて兄弟と呼びならわしていた男にむかって飛びかかった。
ゼダーは老魔術師の怒りに思わず一歩下がった。「殺すつもりではなかったのだ、ベルガラス」かれは声を震わせながら、ベルガラスの急襲を避けようと、腕を上げかけた。「この愚か者はわたしを攻撃しようとしたのだ。こいつは――」
「おまえは――」ベルガラスは憎しみに食いしばった歯のあいだから、しぼり出すような声を出した。「おまえは何という――」だが、それ以上は言葉にならなかった。いかなる言葉ももはや老人の怒りを押さえることはできなかった。ベルガラスは両手をふり上げると、拳でゼダーの顔をなぐりつけた。ゼダーはよろめいたが、老人は胸元を引っつかんでなおもなぐり続けた。
ガリオンは二人の意志がときおり相手にむかってひらめくのを感じたが、双方ともやみくもな激情に駆られているために、力を集中することができないのだった。二人の魔術師はまるで居酒屋の喧嘩のように床をごろごろ転げまわり、蹴り、引っつかみ、殴りあった。ベルガラスは激しい怒りに、ゼダーは恐怖と後悔にすっかりわれを忘れていた。
〈裏切者〉ゼダーは死にもの狂いで、腰につけた短剣を抜いたが、すぐにベルガラスはその手首をつかみ、床に何度も叩きつけた。短剣ははね返りながら床の上を飛んでいった。二人は短剣をつかもうと激しくもみあった。引っかきあい、押し合い、相手より先に短剣をつかもうと、どちらも激しいしかめ面に顔を歪めていた。
三人がいっせいに部屋になだれこんだ狂おしい瞬間に、ガリオンはわれ知らず、背中にくくりつけた剣を抜いていたが、今こうして二人の魔術師の死闘を前にしても、〈珠〉と剣は冷たく、何の反応も示さなかった。
ベルガラスの手はいまやゼダーののどをぐいぐい締めつけ、一方、窒息しかかったゼダーは必死でベルガラスの腕に爪をたてていた。仇敵の首をしめる老人は獣のように歯をむきだし、唇をめくりあげていた。ついにベルガラスは狂気に駆りたてられたかのように、ゼダーを引きずり起こしながら立ちあがった。そして一方の手でゼダーの首をしめ上げたまま、もう一方の拳を雨あられと相手の上に打ちおろし始めた。打撃のあいまに老人の腕が足もとの床にむかってさっと降りおろされた。そのとたん、恐ろしいきしみと共に、巨大な裂け目があらわれ、床を雷形に引き裂いた。裂け目が広がるにつれ、石が抗議するように悲鳴をあげた。二人の男たちは相変わらず争ったまま、よろめき、ぱっくり口を開けた裂け目の中に落ちていった。とたんに大地が揺れ動きはじめた。そして凄まじい音とともに引き裂けた床が閉じた。
ガリオンは信じられない思いで口をぽかんと開けたまま、二人の魔術師を飲み込んだ裂け目をじっと見つめているばかりだった。
セ・ネドラが恐怖の悲鳴をあげ、両手で顔を覆った。
「おい、何とかしてくれ!」シルクが怒鳴ったが、ガリオンはただぼう然と小男の顔を見つめるばかりだった。
「ポルガラ!」シルクは懇願するように女魔術師の名を呼んだ。だが突然にふりかかってきた大きな悲しみにすっかり麻痺したポルガラは、ダーニクの亡骸を両腕にかき抱き、胸に押しつけるようにして身を揺すりながら、泣き続けるばかりだった。
はるかな地底より鈍い爆発音が轟いたかと思うと、さらにもう一発続いた。地球のはらわたの中でもまだ死闘は行なわれていたのだ。
ガリオンの目は引きつけられるように、正面の壁のさらに奥の小部屋を見た。かすかな明かりの中に、かれは横たわるカル=トラクの姿を見いだした。ガリオンは不思議なほど冷静な目で、仇敵の姿をすみからすみまで検分した。黒いローブと磨かれた仮面、そのかたわらにはトラクの巨大な剣、クスゥレク・ゴルの姿があった。
相変わらずぼう然としたまま、思考も感覚も封じこめられていたが、ガリオンは身内から激しい闘志がわき上がってくるのを感じていた。それはベルガラスとゼダーを地の底に投げ込んだ怒りよりもはるかに凄まじいものだった。ふたつに引き裂かれた強大な力が、いまや永劫の時間の回廊を、たがいにひた走りつつ、かれの中で衝突しようとしているのだ。ふたつの〈予言〉に最終決着をつけるはずの一大事は目前に迫っていた。それに先だつ最初の小競りあいがすでにガリオンの心の中で始まっていたのだ。かれのもっとも深いところにある精神や感覚にもまたごく微妙な補正が行なわれようとしていた。
トラクの内部で同じように二つの力が出会うと同時に、トラクもまた落ち着きなく身じろぎを始めた。一瞬、眠れる神の凄まじいひらめきがガリオンを襲い、友情と愛の申し出の裏に隠された恐ろしいごまかしをあきらかにした。もしガリオンが決闘を恐れてトラクに恭順する道を選んでいたら、この世の半分以上の生きとし生けるものは滅ぼされていたに違いない。そして何よりもトラクが申し出たのは愛でなくて、想像するだにおぞましい隷属なのである。
だがガリオンは屈したりはしなかった。辛くもトラクのうち勝ちがたい意志を逃れ、かれ自身をここまで連れてきた〈予言〉の手に身をゆだねたのである。ここに至り、かれは自我を完全に否定することによって、〈予言〉の媒介者になった。もはや恐れることは何もなかった。剣を手にした〈光の子〉は、〈予言〉がかれを〈暗黒の神〉との死闘へとき放つ瞬間を待つばかりだった。
シルクがガリオンやポルガラを揺り起こそうと悪戦苦闘するさなかに、突然、床が盛り上がったかと思うと、ベルガラスが再び地上に姿をあらわした。
相変らずうつつをさまようガリオンの目がとらえたのは、これまでずっとなじんできた愚かな老人などではなかった。つまみ食いの好きな老語り部はもうどこにもいなかった。それどころか、かれを〈珠〉の探索行へと駆りたてた口やかましい老人の痕跡すら消えうせていた。そのかわり、そこには全身から発散される力の霊気に包まれた〈永遠なる男〉、魔術師ベルガラスの姿があった。
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23[#「23」は縦中横]
「ゼダーはどこにいるの?」ポルおばさんはダーニクの亡骸から涙に濡れた顔を上げ、強烈なまなざしで老人をにらみつけた。
「下へ残してきたよ」ベルガラスがそっけなく言った。
「死んだの?」
「いいや」
「それじゃ、ここに連れ戻してちょうだい」
「何のために?」
「わたしと対決させるためよ」彼女の瞳が燃えあがった。
老人は頭を振った。「いいや、ポル。おまえはこれまで人を殺したことなどないのだぞ。ならばそのままにしておこうではないか」
彼女はそっとダーニクの身体を床に横たえて、立ち上がった。青白い顔は悲しみと渇望に歪められていた。「それなら、わたしが行くわ」女魔術師はそう言い捨てると、足もとの床を打とうとするかのように両腕を振りあげた。
「だめだ」ベルガラスもまた自分の腕をあげながら言った。「そんなことをしてはいかん」
二人はにらみあったまま、すさまじい沈黙の死闘を続けた。ポルおばさんの顔に父親の妨害に対するいらだちの色が浮かんだ。彼女は一方の腕をあげて、意志の力で大地を叩き割ろうとしたが、再度ベルガラスは自分の腕を振りあげた。
「行かせてちょうだい、おとうさん」
「だめだ」
彼女は見えない妨害から逃れるように身をくねらせ、意志の力を倍加した。「行かせてよ、この老いぼれ」
「だめだ、こんなことをしてはいかん。わしはおまえを傷つけたくないのだ」
彼女は再度、死にものぐるいで意志をぶつけようとしたが、ふたたびベルガラスによって阻止された。老人の表情が固くなり、あごがこわばった。
ポルガラはついに体中の意志の力をふりしぼって、老人の作り出した障壁に叩きつけた。だが老人の姿はまるで不動の岩のように動かなかった。彼女はがっくりと肩を落とし、顔をそむけると、再びダーニクのかたわらにひざまずいてすすり泣きはじめた。
「すまなかった、ポル」老人は優しい声で言った。「できるなら、こんなことはしたくなかったのだ。大丈夫か?」
「よくもそんなことが言えるわね」彼女はダーニクのもの言わぬ身体に腕を巻きつけ、とぎれとぎれに言った。
「まさかこんなことになるとは思わなかったのだ」
彼女は父親に背をむけて、両手で顔を覆った。
「それにおまえが下へ行っても、もはややつには会えんだろう、ポル」老人は言った。「われわれがいったん行なったことを、他人が元に戻すことができないことくらい、おまえも知っているはずだ」
シルクはイタチのような顔に衝撃を浮かべながら小声でたずねた。「いったいやつに何をしたんですか?」
「わしはゼダーを地中深く、固い岩のあるところまで連れていった。そしてやつをそこに閉じ込めたのだ」
「あなたのように、再び地上に出てくることはないんですか?」
「いいや、もはやそれはできない。魔法というのは思考のようなものだ。他人の思考をそっくり複製することなど不可能だからな。ゼダーは岩の中に永遠に閉じ込められたままだ――わしがやつを出そうとしないかぎりは」老人は痛ましげにダーニクの身体を見やった。「もっともその気になることはないだろうがな」
「それじゃ、やつは死ぬんですね?」シルクがたずねた。
ベルガラスは頭をふった。「いいや、そんなことはさせない。やつはこの世が終わるまでずっと岩の中に閉じ込められたままさ」
「そいつはあんまりじゃありませんか」シルクが気色悪そうな声を出した。
「これだって同じことではないかね」ベルガラスは、むっつりとダーニクを指さした。
ガリオンには二人の姿がはっきり見え、何を言ってるかもわかっていたが、どういうわけかそれがまったく別世界のことに思えてならなかった。この地下墓所に集う人々の存在はかれの注意の上っ面をなでていくだけのように思えた。今のかれにとって、この丸天井の下にいるのはただ一人、他ならぬ仇敵のカル=トラクのみだった。
目覚めかけている神の身じろぎがますます激しくなってきた。ガリオンの三重の意識――ひとつはかれ自身、それから〈珠〉、そして常変わらずかれとともにある乾いた声と呼びならわしてきたもの――はこの不具の神の動きの下に横たわる非常な苦痛を見てとった。半ば目覚めかけているトラクはじっさい、苦痛のあまりのたうちまわっていたのである。人間の負う傷はやがて癒え、その苦痛もいずれは薄くなり、最後には完全に消えてしまう。それは人間がそもそも傷ついてもいいようにできているからである。かよわい人間は次から次へと怪我をするために、癒える本能がもとから備わっているのである。だが神というものは本来傷つかないものなので、そのような本能は備わっていない。トラクの場合も同じである。かつてトラクが世界を二つに引き裂いたときに〈珠〉が吹きつけた炎はいまだにかれの膚を焼きつづけ、その苦痛はかれが傷を負って以来、いっときたりとも薄らぐことはなかったのである。その鋼の面のむこうで、竜神の顔は依然としてくすぶり続け、焼けた目は眼窩の中で永遠に煮えくりかえっていたのである。ガリオンは身震いしながら、この終わることのない苦しみに哀れみのようなものさえ覚えかけていた。
そのとき、エランドがセ・ネドラの震える腕から身をふり離して、きまじめな表情を浮かべて墓所の石の床をすたすた歩きはじめた。かれは立ちどまると、身をかがめ、ダーニクの肩に手を伸ばした。眠っている人間を起こそうとするかのように、少年はそっとその身体を揺すった。鍛冶屋が動かないのを見て、かれは不思議そうな顔をした。そして解せない表情を浮かべてさらに強く揺すった。
「エランド」セ・ネドラは声を振るわせながら呼びかけた。「戻っていらっしゃい。わたしたちにできることは何もないわ」
エランドは彼女の顔を見て、それからダーニクの方をふり返った。そして鍛冶屋の肩を小さな仕草でやさしくなでると、ため息をついて、王女のもとに戻ってきた。セ・ネドラは突然、少年を抱き締め、その小さな身体に顔を埋めて泣き出した。エランドは再度同じような仕草で王女の燃えたつような髪の毛をそっとなでた。
すると奥まった小部屋の方から長い、耳ざわりな息を吐く音がした。ためていた息が震えながら吐き出されるような音だった。ガリオンはさっと奥の部屋を向き、冷たい剣のつかに手をかけた。トラクの頭がこちらを向き、目を開けた。その目覚めと同時に、あるはずのない目に、邪悪な炎が宿った。
まるで眠気の残りを振りはらおうとするかのように、トラクが焼け焦げた切り株のような左手を上げ、右手でかれの黒い剣クスゥレク・ゴルの巨大なつか[#「つか」に傍点]のありかを探るのを見たベルガラスははっと息を飲んだ。「ガリオン!」老人は鋭い声をあげた。
だが相変わらず内部に集結された力に閉じ込められ、身動きならないガリオンは、目覚める神を眺めているのがやっとだった。かれの心の一部は、呪縛をふり払おうと必死にもがき、その手は剣を抜こうとする努力のためにぶるぶる震えていた。
(まだだ)乾いた声がささやいた。
「ガリオン!」老人は怒鳴っていた。業を煮やした老魔術師は、ぼうっとしたままのガリオンの脇をすり抜けて、まだ横臥したままの〈暗黒の神〉に身を躍らせた。トラクはいったん右手を剣のつか[#「つか」に傍点]から離すと、ほとんど小馬鹿にしたようにその胸元をつかみ、暴れる老人をまるで子供を扱うようにらくらくと持ち上げた。無力な老人の身体を引きはがした神の鋼の仮面が、おぞましい冷笑を形作った。次の瞬間、まるで一陣の突風のようにトラクの意志の力がはなたれ、ベルガラスの衣の胸元をひきちぎり、老人を部屋の反対側に投げ出した。トラクの拳に光るものを見たガリオンは、ただちにそれがベルガラスの護符の銀の鎖だということを悟った。祖父の護符には狼の姿が磨かれた表面に描かれているはずだった。この護符は常にベルガラスの力の中心だったのである。だが今それはかれの仇敵の手に握られていた。
恐ろしいほどゆったりとした動作で〈暗黒の神〉は棺台から起き上がり、クスゥレク・ゴルを手に一行の前にそびえるようなその姿をあらわした。
「ガリオン!」セ・ネドラが叫んだ。「何とかしてよ!」
トラクはおおまたで、まだ気を失っているベルガラスに近づき、手にした剣をふり上げた。ポルおばさんははじかれたように立ち上がると、両者の間に身を投げ出した。
ゆっくりとトラクは剣をおろし、忌まわしいほほ笑みを浮かべた。「わが花嫁よ」神はきしるような不快な声で呼びかけた。
「誰があなたなんかと」彼女は言い返した。
トラクは彼女の反抗をまったく意に介していなかった。「ついにわたしのもとに来たのだな」かれは満足げにほくそえんだ。
「わたしが来たのはあなたが死ぬのを見るためよ」
「死ぬだと? このわたしが? いいや、そなたがわたしのもとに来たのはそのような目的ではあるまい。わたしの意志がかつて予言されたとおりそなたを呼びよせたのだ。そして今やそのときが来た。さあ、愛する者よ。わがもとへ来るのだ」
「いやよ!」
「いやだというのかね、ポルガラ」トラクの耳ざわりな声には、恐ろしいほどの説得力があった。「そなたはわたしに服従する運命にあるのだ、花嫁殿。わたしはそなたを思うがままに屈服させてみせる。少々の抵抗があった方が、勝利もより甘美になろうというものだ。いずれ最後にはそなたはわたしのものになるのだから。さあ、来るがよい」
トラクの意志のあまりに圧倒的な凄まじさに、ポルガラは巨大な風にほんろうされる樹木のように、激しく揺らいだ。「いやよ」ポルガラは目をつむり、鋭く顔をそむけた。
「わたしを見るがいい、ポルガラ」かれは命じた。その声はほとんど愛撫のようだった。「わたしこそはそなたの運命なのだ。そなたが愛したいかなる者とて、わたしの前には色あせることだろう。かくてそなたはわたしだけを愛するようになるのだ。さあ、わたしを見るがいい」
力なくポルガラはふり向くと、目を開いてじっとかれを見つめた。憎しみと抵抗は彼女の中ですっかり溶けてしまったかのようだった。その顔には激しい恐怖の表情が浮かんでいた。
「愛する者よ、そなたの意志は潰え去るであろう」神は言った。「さあ、わたしのもとに来るのだ」
ポルおばさんを負けさせるわけにはいかない! いまやすべての混乱は吹きはらわれ、ガリオンはすべてを理解した。これこそが本当の戦いだったのだ。もしここでポルおばさんが屈服したら、すべてが終わるのだ。すべてはこのためにあったのだ。
(彼女を助けるのだ)かれの内なる声が言った。
(ポルおばさん!)ガリオンは無我夢中で、彼女に思いを投げつけた。(ダーニクのことを思い出して!)これこそがポルおばさんの死闘を支えるひとことだということが、かれには本能的にわかっていた。ガリオンは必死に記憶をたどりながら、ダーニクの姿かたちを彼女に送り続けた――鍛冶場で働く鍛冶職人のたくましい手を、そのきまじめな表情を浮かべた目を、話すときの穏やかな声を、そして何よりこの善き男の彼女に対する無言の愛情を。それこそはダーニクの全人生の中心だったのである。
ポルガラはわれ知らず、体重をわずかに片方の足に移しかけ、トラクの圧倒的な命令に応じて破滅への第一歩を踏み出そうとしていた。もしここで一方でも踏み出そうものなら、彼女は屈服してしまうのだ。だがガリオンの投げかけたダーニクの記憶は、彼女に鋭い一撃を与えた。敗北にがっくり落ちかけていた肩は突然しゃんと張り、瞳はあらたな反抗の炎に燃え上がった。
「いやよ!」ポルガラは今やおそしと待ち構える神にむかって叫んだ。「絶対にいやよ!」
トラクの顔がゆっくりとこわばった。かれは瞳を燃え上がらせ、その破壊的な力をふりしぼって意志を投げつけたが、何としてもポルガラを動かすことはできなかった。彼女は、〈暗黒の神〉の意志ですら引きはがすことのできない堅固な岩のように、ダーニクの思い出にしがみついていた。
彼女がもはや絶対に服従しないことを理解したトラクの顔が困惑した挫折にゆがめられた。これで永遠に彼女の愛を得ることはできなくなったのである。ポルガラの勝利は、ナイフでゆっくりえぐられていくような苦痛をかれにもたらした。いまや動かしようのない拒絶に目的を妨げられ、猛り狂ったトラクは顔を上げて、突然咆哮をあげた。それは果てしない不満をあらわす、ぞっとするような獣じみた叫びだった。
「ならば二人とも滅ぼしてくれるわ!」トラクはわめいた。「父娘《おやこ》して死ぬがいい!」そして巨大な剣をふり上げた。
ポルおばさんは身じろぎもせずに、怒り狂う神をじっと見返した。
(今だ! ベルガリオン!)内なる声が叫んだ。
ポルおばさんと不具の神との死闘のあいだ、冷たく沈黙していた〈珠〉が突然炎を吐きだし、同時にリヴァ王の剣もまた炎に包まれ、墓所を強烈な青い光で満たした。ガリオンは一歩踏み出し、いまやポルおばさんの無防備な顔に振りおろされようとしている、破壊的な一撃を受け止めるために、剣を前に突き出した。
刃と刃が激突したとたん、巨大な鐘を鳴らすような大音響が起こった。音は墓所いっぱいに響きわたり、壁にあたってはね返った。炎の剣ではねのけられたトラクの剣が、床石にあたって激しい火花の雨を散らした。炎に包まれた剣と燃え上がる〈アルダーの珠〉、そしてリヴァ王の姿をみとめたとたん、神のひとつしかない目が見開かれた。ガリオンはもはや神の念頭からポルおばさんは忘れ去られ、そのあらゆる関心が自分にむけられていることを見てとった。
「よくぞ、ここまで来たな、ベルガリオン」トラクがおごそかな口調でむかえた。「わたしはそなたが来る日をこの世の初めから待っていた。そなたの運命はここで決まるのだ。万歳、そしてさらばだ、ベルガリオン」そう言うなりトラクは腕をさっと上げ、再び巨大な一撃を振りおろした。ガリオンは考えるよりも早く自らの剣を振りあげていた。再度墓所いっぱいに刃と刃のぶつかりあう鐘を打ち鳴らすような音が響きわたった。
「そなたはたかだか小僧っ子ではないか、ベルガリオン」トラクが言った。「なのに神の無敵の意志に勝てるなどと思っているのか。さっさとわたしに従うがよい。命だけは助けてやろう」
アンガラクの神の意志がかれに注がれたとたん、ガリオンはポルおばさんの戦いがいかに大変なものだったかを知った。かれは激しい恭順に駆りたてられ、身体中の抵抗力を奪い取られていくのを感じていた。次の瞬間、ときをへだてた幾千もの声がいっせいにわきおこり、かれのうちでただひとつの言葉を合唱した。「いやだ!」かれに先だつあらゆるリヴァ王の血を引く者たちの生命がこの一瞬に集まり、かれのうちに注ぎこまれた。〈鉄拳〉の剣を握っているのはガリオン一人だったが、かれは決してひとりぼっちではなかった。もはやトラクとてかれを殺すことはできない。
公然と挑戦的な構えをみせて、ガリオンは炎の剣をふり上げた。
「それならば仕方がない」トラクが叫んだ。「死ね! ベルガリオン」
最初は墓所にゆらめく光のいたずらのように見えたが、ガリオンがそう思ったとたん、トラクの身体はみるみるうちに巨大化し、空にむかってどこまでも伸びはじめた。すさまじい轟音をたてながら、トラクの身体は肩で墓所の錆びた鉄天井を押しやぶり、さらに上にむかって伸び続けた。
再度ガリオンは考えるいとまさえなく、同じように巨大化し、またたくまに岩くずを飛び散らしながら天井を突き破った。
〈夜の都市〉の朽ち果てた廃墟の大気の中で、ふたりの敵対する巨人は向かいあった。かれらの頭上には半永久的に空を覆う雲がどこまでも広がっていた。
「どうやら条件は整ったようだな」ガリオンの口から乾いた声がもれた。
「そのようだ」トラクの鋼の顔からも同じように無表情な声がもれた。
「他の者たちも巻きこむ必要があると思うか」ガリオンの乾いた声がたずねた。
「その必要はないだろう。この二人にはわれわれが結集するだけの十分な容量がある」
「それではこの場で決めることにしよう」
「承知した」
そのとたんにガリオンは今までの拘束が解きはなたれるのを感じた。同じように解放されたらしいトラクもまた憎しみに歯をむき出して、クスゥレク・ゴルをふりかざした。
二人の戦いは大規模なものだった。巨大な力が互いの一撃をかわしあうたびに、周囲の岩は粉みじんに砕けた。リヴァ王の剣がひと振りされるたびに青い炎がはなたれ、トラクのクスゥレク・ゴルの刃がはらわれるたびに黒い影があらわれた。もはや思考や感情などいっさい関係なくひたすら憎悪につき動かされるまま、二人は激しく剣を交わし、相手の切っ先をなぎ払った。両者がよろめくたびに足元の廃墟が次々に崩れ落ちていった。闘争が続くにつれ、さまざまな自然現象もまた一気に噴出した。風は崩壊しかけた街の上を吹きすさび、朽ち果てた岩々を揺るがした。二人のまわりを稲妻が飛びかい、鋭い閃光を発しながらまたたいた。大地はかれらの巨大な足の下でうなり声をあげて揺れ動いた。〈夜の都市〉を五千年もの長きにわたってその黒いマントで隠し続けてきた雲は、わきたち、流れはじめた。波打つ雲のあいまに巨大な星空の一片があらわれては消えていった。人間やそれ以外の姿のグロリムたちは、突如としてかれらのどまん中に出現した巨人たちの闘争に、恐怖の悲鳴をあげて逃げ去った。
ガリオンの攻撃はもっぱらトラクの視力のおよばぬ方に向けられた。炎に包まれた剣が振りおろされるたびに、〈暗黒の神〉は燃え上がる〈珠〉の威力にたじろいだ。だがクスゥレク・ゴルの闇をかわすたびに、ガリオンの血管には凍るような冷気が送りこまれるのだった。
ガリオンが思っていたよりも、両者の力は互角だった。体格に勝るトラクの利点は二人が巨大化したことで消えていたし、ガリオンの経験不足はトラクの肉体的欠陥で補われていた。
ガリオンをあざむいたのは足元のでこぼこした地面だった。突如相手が連続してくり出してきた攻撃を避けようと、一歩しりぞいたとたん、かれの一方のかかとが積み重なった石に当たるのを感じた。そのとたんもろい石はこなごなに砕けてかれの足元に崩れ落ちた。足を取られまいと必死に態勢をたてなおしたかいもなく、かれはどうと倒れた。
トラクはひとつしかない目を輝かせて黒い剣をふり上げた。だがガリオンはとっさに両手でつか[#「つか」に傍点]を握りしめ、相手の巨大な攻撃を受けとめるために炎の剣を構えた。ふたつの剣の刃と刃が激しく衝突した拍子に火花がガリオンの上に雨あられと降りかかった。
トラクは再びクスゥレク・ゴルを振りあげた。とたんに鋼の仮面に奇妙な渇えた表情が浮かんだ。「わたしに従え!」神が吠えるような声をあげた。
ガリオンは立ちはだかる巨大な姿を見つめながら、必死に頭をはたらかせていた。
「小僧っ子、おまえを殺す気はないのだ」トラクはほとんど嘆願するように言った。「わたしに従えば、命だけは助けてやるぞ」
突然ガリオンはすべてを理解した。かれの仇敵は相手を殺すためでなく、屈服させるために戦っているのだ。トラクを駆りたてているのは支配への欲望だったのである! これこそが二人にとっての真の闘争だったのだ。
「剣を捨てよ。そしてわがもとに頭《こうべ》を垂れるがよい、〈光の子〉よ」トラクの思念はいまや凄まじい力でのしかかってきた。
「おまえになんか従わないぞ」ガリオンは恐ろしい強制力から身をよじるようにして、あえぎながら言った。「おまえにはぼくを殺すことはできても、服従させることなんてできやしない」
あたかもガリオンの言葉が永遠の苦痛を倍加したかのようにトラクは顔を歪めた。「いいや、従わねばならぬ」その声はほとんどすすり泣きに近かった。「おまえなど到底わたしにかなうはずはない。服従するのだ」
「いやだ!」ガリオンは叫び、強い拒絶に悔しがる相手の隙をついて、クスゥレク・ゴルの影のもとから転がり出ると、ぱっと起き上がった。すべてがあきらかになった今、相手を打ち負かす方法はわかっていた。
「聞くがいい、不具にして忌み嫌われたる神よ」かれは食いしばった歯のあいだから言った。
「おまえなど何の価値もないのだ。おまえの民はおまえを恐れてはいるかもしれないが、愛してなぞいない。おまえはまやかしを使ってぼくに愛させようとした。ポルおばさんにも強制して愛させようとした。だがぼくもおばさんもおまえを愛してなどいないんだ。たしかにおまえは神かもしれないが、おまえには何の価値もないのだ。世界中で人間だろうがそれ以外のものであろうが、何ひとつとしておまえを愛するものなどいやしない。孤独でうつろなおまえはたとえぼくを殺したとしても、ぼくには勝てない。おまえは誰からも愛されず、忌み嫌われながらこの世の終わるまで惨めに吠えたて続けるのだ」
ガリオンの言葉のひとつひとつが、強打のように不具の神を襲った。〈珠〉がそれに呼応するかのように言葉の区切りごとに燃え上がり、竜神に向かって焼き尽くさんばかりの憎悪の炎をときはなった。これこそが全世界がこの世の初めから待っていた一大事だった。このためにこそガリオンははるばるこの朽ち果てた廃墟まで旅してきたのである――トラクと戦うためでなく、拒絶するために。
苦痛と怒りのために獣じみた咆哮をあげながら、〈闇の子〉はクスゥレク・ゴルを振りかざして、リヴァ王めがけて突進した。ガリオンは攻撃をかわすことなど念頭になかった。かれは炎の剣を両手で固く握りしめると、そのまま刃を前に出し、突進してくる相手にむかって突っこんでいったのである。
それはひどくたやすかった。リヴァ王の剣は水に棒を刺しこむように、易々と相手の胸に吸いこまれていった。突如硬直した神の身体に刃が入ったとたん、〈珠〉の力が一気に炎の剣に注ぎこまれた。
トラクの巨大な手がぴくぴくと開き、クスゥレク・ゴルが力なく指のあいだから滑り落ちた。かれが悲鳴をあげようとして口を開けたとたん、青い炎がまるで血のように噴き出した。トラクは顔をかきむしって、鋼の仮面を引きはがし、その下のおぞましく焼きただれた膚をあらわにした。残った目とあるはずのない目の両方から涙が流れ落ちたが、それもまた青い炎だった。胸に深々と突きささったリヴァ王の刃が神の身体を炎で満たしていたのである。
トラクは後ろによろめいた。金属的な音をたてて、刃は神の胸から抜けた。だが剣が体内にはなった炎は消えなかった。トラクがぱっくり口を開けた傷を手で覆うあいだにも、指からもれ出る青い火が飛び散り、まわりの崩れた岩の上に小さな炎をあげていた。
なおも炎の涙を流し続ける、焼けただれた顔が苦痛に歪んだ。トラクは波だつ空に向かって燃える顔をあげ、巨大な両腕をさしあげた。その断末魔の苦しみのなかで、傷ついた神は天に向かって叫んだ。「母上!」その声は地球からもっとも遠い星にあたってはね返った。
トラクはその場に凍りついたまま、嘆願するように両手をさしのべたが、やがてぐらりとよろめき、ガリオンの足もとに崩れ落ちた。
一瞬、あたりを沈黙が支配した。次の瞬間、トラクの死んだ唇から吠えるような叫びがほとばしった。叫びは暗黒の〈予言〉とクスゥレク・ゴルの黒い影を道連れに、永劫の彼方へと消えていった。
しばしの静寂がおとずれた。狂おしく空を走る雲は突然動きを止め、雲が去ったところどころに星空の断片があらわれた。大地はなお揺れ動いていたが、それもびたりと止まった。あらゆる光が消え、あらゆる動きは止まり、すべてが完璧な暗闇に飲みこまれてしまったかのようだった。その恐ろしい一瞬に、過去に存在したもの、現在あるもの、そして未来に存在するであろうあらゆる事物が、〈予言〉の方向にむかって修正された。それまでふたつあったものは、今やひとつになったのである。
やがてごくかすかではあったが、風が吹きはじめ、〈夜の都市〉の腐敗の臭いを追い散らしはじめた。星々は光を取り戻した宝石のように、再びビロードの空に輝きはじめた。ガリオンは回復した光のなかで、かれが殺したばかりの神の死体の前にぼんやりとたっていた。その剣は依然としてかれの手の中で青い光をはなち、〈珠〉はかれの頭のなかで凱歌をあげていた。あのすべての光が消えた恐ろしい瞬間に、かれは自分とトラクの体が元の大きさに戻ったことをぼんやりと意識していたが、もはやそれをいぶかしく思うことさえわずらわしかった。
さほど遠からぬ墓所の残骸からベルガラスが姿をあらわした。老人の体は震え、やつれ果てていた。固く握りしめた拳からちぎれた護符の鎖をのぞかせながら、ベルガラスは立ち止まり、ガリオンと死んだ神とをじっと見つめた。
風が嘆き悲しむような音をたてて吹きすさび、どこか遠いかなたから主人の死を悼むトラクの猟犬の咆哮が響いてきた。
ベルガラスはしゃんと背筋を伸ばした。そしてトラクの最後の瞬間と不思議に似たしぐさで、天に向かって両腕をさしのべた。
「〈師〉よ!」老人は大声で呼ばわった。「ついに終わりましたぞ!」
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24[#「24」は縦中横]
すべては終わった。だが勝利の後味は決していいものではなかった。いかにひねくれ、邪悪だからといって、人がたやすく神を殺していいわけはない。かすかに夜明けの気配を感じさせる風が、〈夜の都市〉の廃墟の上を吹きわたっていくなか、リヴァのベルガリオンは殺した仇敵を前に悄然と立ちつくしていた。
「後悔しておるのかね、ガリオン?」孫息子の肩に手を置きながらベルガラスが静かにたずねた。
ガリオンはため息をついた。「いいや、おじいさん。そんなこと思っちゃいないよ。だってこれはやらなければならなかったんだろう?」
ベルガラスは重々しくうなずいた。
「ただトラクの最期の瞬間があまりにも孤独すぎたような気がするんだ。結局ぼくはやつを殺す前にすべてを取りあげてしまったわけだから。そのことを考えると素直に喜べないんだ」
「だがさっきもおまえが言ったように、これはやらなければならなかったことなのだ。それ以外にやつを打ち負かす方法はなかった」
「何かひとつでも残してやれればよかったと思うよ」
破壊された鉄の塔から悲しみに満ちた小さな行列があらわれた。ポルおばさん、シルク、セ・ネドラの手で運ばれてくるのは鍛冶屋のダーニクの亡骸だった。きまじめな表情を浮かべたエランドがそのかたわらにつきそっていた。
突然、耐えがたい悲しみがガリオンを襲った。ダーニク、このもっとも古い友人が冷たく横たわっているのに、トラクとの決闘を前にして異常な昂揚状態にあったガリオンは、ゆっくりその死を悲しんでいる暇さえなかったのだ。
「わかってくれ、これもまた必要なことだったのだ」ベルガラスが痛ましげに言った。
「なぜだい? なぜダーニクが死ななきゃならなかったんだ?」ガリオンの声もまた苦悶に満ちていた。突然涙が目にわきあがってきた。
「なぜならかれの死によって、おまえのおばさんはトラクの〈意志〉に太刀打ちできたのだ。これだけが〈予言〉の唯一の弱点だったのだ――すなわち、ポルがやつに屈服してしまうかもしれんということがな。トラクに必要だったのは、心底から愛してくれるたった一人の人物だったのさ。それさえあればやつは無敵だったはずだ」
「もしおばさんがトラクに屈服していたらどうなったんだろう」
「おまえは当然負けていたはずだ。だからこそダーニクは死ななければならなかったのだ」老人は悔やむようにため息をついた。「わしとてもっと他に方法がなかったかとは思うが、これだけはどうしようもなかったのだ」
ダーニクを崩れた墓所から運び出した三人は、男の動かない体をそっと地面におろした。セ・ネドラが、悲しげな顔でベルガラスとガリオンに加わった。小さな王女は無言でガリオンの手を握り、そのまま三人で涙もかれ果てたポルおばさんが、ダーニクの腕を体のわきにそろえ、その上に優しくマントをかける姿を見守った。女魔術師は地面に腰をおろすと、男の頭をひざに乗せ、悲しみに頭を垂れながら、ほとんど無意識のうちにその髪を撫でていた。
「わたし、もう耐えられない」セ・ネドラは突然、ガリオンの肩に顔をうずめて泣き出した。
するとそれまで闇しかなかったところに、光がさし始めた。ガリオンが見守るうちに、頭上のちぎれて逆巻く雲の渦のなかから、一筋の青い光がおりてきた。その強烈な輝きはたちまち廃墟を青い光で満たした。光はまるで巨大な円柱のように夜空から地上におり、さらに赤、黄、緑やガリオンがこれまでに見たこともないような色と結びついた。突然あらわれた虹を切り取ったような極彩色の光の柱は、次々にトラクの倒れた体のまわりに並びはじめた。ガリオンはそれぞれの光の柱の中心にぼんやりと白く輝く姿があらわれるのを見た。神々が兄弟の死を悼んでこの世に戻ってきたのである。ガリオンはすぐにアルダーの姿をみとめた。他の神々を見分けるのはたやすかった。依然として涙を流し続けるマラ、そして緑色の光のなかで蛇のように身をくねらす死んだような目をしたイサ。抜け目ない表情を浮かべるネドラに、誇り高い表情のチャルダン。年若いアローンの神、やんちゃな顔をした金髪のベラーも、他の兄弟たちと同じようにトラクの死を悲しんでいるようすだった。神々の帰還がもたらしたのは音楽だけではなかった。クトル・ミシュラクの悪臭ふんぷんたる空気は、突如、六本の光の柱から発せられた六つの異なった音に満ちあふれた。それぞれの音は絶妙に調和しあい、そのたえなる音色は、いまだかつてたずねられたことのない質問に答えるかのようだった。
やがて光の柱がより集まると、さらに一本の目もくらむような白い光が天井からゆっくりとおりてきた。その中央には、ガリオンがかつてプロルグで出会った不思議な神、白い衣をまとったウルの姿があった。
依然として青い後光に包まれたアルダーの姿が、ウルゴの太古の神に近づいていった。「父上」アルダーは痛ましげに言った。「われらが兄弟にしてあなたの息子であるトラクが殺されました」
依然白く光輝きながら、神々の父ウルの姿は、石の散らばる大地を横ぎり、もの言わぬトラクのかたわらに立った。「息子よ、何としてもそなたにこの道だけは歩かせたくなかった」静かに語る神の聖なる頬に一筋の涙が流れ落ちた。かれはアルダーの方を向いて言った。「息子たちよ、そなたの兄弟の亡骸を運び出し、もっとふさわしい場所へ移すがよい。このような大地に打ち捨てられた姿を見るのは心が痛む」
アルダーは他の兄弟たちとともにトラクの体を抱きあげ、太古の廃墟の中央に座する巨石の上に横たえた。にわか作りの棺台のまわりに光輝く円を形づくるようにして、一同はアンガラクの神の死を悼んだ。
そこへいつものように何ものをも恐れず、空からおりてきた光輝く姿が人間でないことも意に介さないエランドが、ウルに向かってすたすたと歩いていった。かれは小さな手をのばすと神の裾を執ように引いて言った。「父上」
ウルは小さな顔を見おろした。
「父上」恐らくはアルダーの呼ぶ声をまねたのだろう。だが同時にそれはついにウルゴの神の正体をあきらかにしたのである。「父上」少年は再度繰り返した。そして今度はダーニクの動かぬ体を指さした。「使命《エランド》!」それは願いというよりは命令に近かった。
ウルの顔に困ったような表情が浮かんだ。「だがそれはできないのだ、子供よ」とかれは答えた。
「父上」エランドはなおも言いはった。「使命《エランド》」
ウルはたずねるようにガリオンの顔を見た。その目には心からの動揺が浮かんでいた。「この少年の要求は聞き捨てならぬもののようだ」かれはガリオンだけでなく他の者たちにむかって話しかけていた。「どうやらわたしにはなすべき義務があるようだが、それでは不可侵の境界を犯すことになってしまう」
「境界は守られねばならぬ」乾いた声がガリオンの唇を通じて答えた。「汝の息子たちは極めて感情に支配されやすい、聖なるウルよ。かれらは一度境界を超えてしまえば、再びそれを超えたくなるだろう。そうして超えてはならぬものを超えているうちに、いつしか変えてはならないものまで変えてしまうことになるやもしれぬ。〈運命〉がふたたび二分されるようなきっかけを作るようなことはしない方がいい」
ウルはため息をついた。
「だが汝とその息子たちとで、わたしの媒介者に境界を超えさせる手伝いをしてもらえないだろうか」
ウルはその言葉に驚いたようすだった。
「されば境界は守られ、汝の義務もまっとうされることだろう。それ以外に方法は考えられない」
「おっしゃるようにいたしましょう」ウルもまた同意した。そして振り向きざま、かれは年長の息子アルダーと意味ありげな視線を交わした。
青い光に包まれたアルダーは兄弟の死を悼む悲しげな顔を、あいかわらずダーニクの上で頭《こうべ》を垂れているポルおばさんに向けた。
「そのように、悲しむものではない、娘よ」かれは言った。「かれはおまえと全人類のために命を犠牲にしたのだから」
「そのようなお言葉では慰めにもなりませんわ、〈師〉よ」彼女は目に涙を浮かべたまま答えた。「この人は世界中で一番すばらしい人間でした」
「だがいかにすばらしかろうがなかろうが、人間はやがては死なねばならぬのだよ、娘や。おまえもそれまでの生涯で何度も体験してきたことではないか」
「ええ、でも今回だけは違うのです」
「どのように違うというのかね、愛するポルガラや」アルダーは執ようにその理由をたずねた。
ポルおばさんは唇を噛んだ。が、ようやく口を開いた。「わたしはかれを愛していたからです」
アルダーの唇にかすかなほほ笑みが浮かんだ。「それを言うのがそんなに大変なことかね、娘や?」
ポルガラは何も言わずに、再びダーニクの亡骸の上に頭《こうべ》を垂れた。
「おまえはこの男を生き返らせてほしいかね?」アルダーがたずねた。
彼女はきっと顔をあげた。「〈師〉よ、そんなこと不可能ですわ。どうかわたしの悲しみをもてあそぶのはやめて下さい」
「それではもしそれが可能だとしよう」アルダーはなおも続けた。「おまえはこの男を生き返らせたいと思うかね」
「ええ、わたしは心からそれを望むでしょう」
「だがいったい何のためにだね? 何の目的でこの男を生き返らせてほしいのかね」
彼女は再び唇を噛んだ。「わたしの夫にするためですわ、〈師〉よ」ようやくのことで彼女は答えたが、そこにはかすかに挑戦的な響きがこもっていた。
「それを言うのもまたたいへんなことかね。この男に対するおまえの愛が悲しみから来るものではないことはたしかだろうな? いったん男をよみがえらせておいてから、後で気を変えるなどということはないのかね。おまえにもわかっているだろうが、この男はごく当たり前の人間なのだからな」
「ダーニクは当たり前の人間などではありません」ポルガラは突然の怒りに駆られて言い返した。「かれはこの世でもっとも優れた勇敢な男でした」
「わたしは何もかれを軽んじているわけではない。だがかれには何の力も秘められてはいないのだよ。〈意志〉と〈言葉〉の力はかれにはないのだ」
「それが重要なことでしょうか、〈師〉よ」
「結婚とは同じもの同士が結ばれることに他ならない。おまえに力があるかぎり、この良き勇敢な男がどうしておまえの夫になり得ようか?」
ポルガラは絶望的なまなざしで神を見た。
「それではポルガラよ、自分の力を制限することはできるかね? この男と同等のものになるのだよ。かれと同じ力しか持たなくなるが、いいのだね?」
彼女は神を見上げ、一瞬ためらったのちに答えた。「はい」
ガリオンはショックを受けていた――それはポルおばさんの受諾よりも、むしろアルダーの要求に対してだった。ポルおばさんの力というのはこれまで彼女の存在の中心を占めてきた。それを取りあげるということは、ほとんど何も残らないも同然ではないか。その力を失ったポルおばさんはどうなるのだろう。いったいそれなしにどうやって生きていけるというのだろうか。アルダーが寛大な神と信じこんでいたガリオンにとって、それはあまりに過酷な要求に思えた。
「わかった、おまえの犠牲を受け入れよう」アルダーは言った。「父上や兄弟たちにわたしから話してみることにしよう。われわれは然るべき理由があって境界を超えることを禁じているのだ。ものごとの自然な秩序を破るからには、全員の賛同が必要だからな」そしてかれはトラクの棺台を囲む、悲しみにみちた輪に戻っていった。
「何であんなことが言えるんだ」ガリオンはあいかわらずセ・ネドラの腕をとったまま、祖父につめ寄った。
「何がだね」
「おばさんに力を捨てろなんて言ったじゃないか。そんなことをしたら生きていけないよ」
「なあに、あいつはおまえが思っておるよりも、はるかに強い女さ」ベルガラスは安心させるように言った。「それにたしかにアルダーの言うことにも一理あるぞ。いかなる結婚といえど、そのような不釣り合いがあってはうまくいくはずがない」
光輝く神々の輪のなかから、怒ったような声が飛んだ。「だめだ!」それはすでにこの世にはないマラグ人の神、泣き続けるマラの声だった。「わたしの民が無残に殺され、いまだに冷たく横たわっているというのに、なぜたった一人の人間を助けなければならない? そもそもアルダー兄上はわたしの嘆願を聞き入れなかったではないか。わたしの子供たちが殺されたときに助けになど来てくれただろうか? わたしは断固反対する」
「これは予想外の展開だ」ベルガラスがつぶやいた。「これ以上事態が悪くなる前に何とか手を打たねば」老人は崩れた石の散らばる廃墟をつかつかと歩き、神々の前でうやうやしく一礼した。「どうかわたしの不遜な割りこみをお許し下さい」老人は言った。「ですが、わが〈師〉の弟神におかれましては、マラグ人の女性をさしあげる見返りに、この男をよみがえらせるご助力をいただけませんでしょうか」
永遠に流れ続けるマラの涙が一瞬とまり、驚いたような表情にかわった。「マラグの女性だと?」かれは鋭く聞き返した。「そのようなものが存在するはずはない。マラゴーで生きのびたわが子一人でもいようものなら、わたしがそれを知らぬはずはない」
「むろんおっしゃるとおりでございましょう、マラの神よ」ベルガラスは急いで答えた。「ですが、マラゴーから連れ去られ、永遠の奴隷におとしめられた者たちについてはご存じですかな?」
「そのような者を知っておると申すのか、ベルガラス」マラの声はわらにもすがらんばかりだった。
老人はうなずいた。「われわれは彼女をラク・クトルの奴隷の檻で発見いたしました。名前はタイバと申します。今のところ生きのびた者は彼女一人しかおりませんが、神の慈愛をいただければ、種族の血は必ず保持されるものと確信いたしております」
「して、わが娘タイバは今どこにおるのだ?」
「ウルゴ人のレルグのもとに庇護されております」ベルガラスは答え、さらにさりげなくつけ加えた。「どうやら双方とも深く心ひかれあっているようですが」
マラは考え深げに老人の顔を見た。「いかに神が慈愛を注いだとて、種族は一人だけで維持することはできない。最低二人は必要だ」そう言うとかれはウルの方を振り向いた。「そのウルゴ人をわたしにいただけませんでしょうか、父上。かれはわたしの民の父祖となることでしょう」
ウルはベルガラスに見透かすような視線を送った。「レルグには他の義務があることをおまえは先刻承知しておるはずだが」
ベルガラスはほとんどちゃめっけたっぷりな表情を浮かべてみせた。「それについてはわたしとゴリムとで何とか調整いたしましょう、もっとも聖なるお方よ」老人は最大限の自信をこめて言った。
「ですが、何かお忘れじゃありませんか。ベルガラス」シルクがさも邪魔するのを恐れるようにおずおずと口をはさんだ。「レルグにはちょっとした問題があるんですよ」
ベルガラスはきっと小男をにらんだ。
「いや、いちおう言っておいた方がいいと思っただけですよ」シルクは無邪気に言った。
マラが鋭い視線で二人を見た。「いったいそれはどういうことだ」
「いや、なに、ほんのちょっとした問題がありまして」ベルガラスは急いで言った。「ですがタイバは必ずや克服できると思います。この件に関してはわたしは絶大な自信を持っております」
「いいや、わたしとしてはぜひ真相を聞いておきたい」マラはかたくなに言った。
ベルガラスはため息をつき、再度シルクをにらみつけた。「レルグは狂信者なのです、マラ殿。宗教的な理由により、ある種の――何というか人間的接触を断っておるのです」
「だが父親になることはかれの運命なのだ」ウルは言った。「かれから生まれるのは特別な子供になるのだから。その点についてはわたしからよく説明しておこう。レルグは恭順な人間だから必ずやわたしの命令とあらば従うことだろう」
「それならば、かれをくださるのですね、父上」マラがせきこむようにたずねた。
「あの男はおまえのものだ。ただしひとつだけ条件がある――だがそれについては後で語ることにしよう」
「それではこの勇敢なセンダー人を何とかいたしましょう」そう答えたマラの顔にはすでに涙の後は見られなかった。
(ベルガリオン)ガリオンの内なる声が呼びかけた。
(何だい)
(友人の蘇生はすべておまえの肩にかかっている)
(ぼくにだって? なぜぼくなんだ?)
(またしても他に言うことはないのか? おまえは友人を生き返らせたくはないのかね)
(もちろん生き返らせたいけれど、そんなことできやしないよ。ぼくにはその方法がわからない)
(おまえは前にもやったことがあるはずだぞ。神々の洞窟で小馬を生き返らせたことを忘れたのか)
ガリオンはすっかり忘れかけていたのである。
(おまえはわたしの媒介者なのだ、ガリオン。もし間違いを犯しそうになっても、わたしがそれを防いでやる――まあ、たいていの場合はだが。気持ちを楽に持て。これからおまえのやるべきことを指示していこう)
ガリオンはすでに自分でも意識しないうちに行動に移っていた。かれはセ・ネドラの肩から腕をはずし、剣をその手に握りしめたまま、ポルおばさんと動かぬダーニクのもとに近づいていった。ガリオンは死んだ男をひざに抱いた女魔術師と一度だけ目をかわし、そのかたわらにひざまずいた。
「わたしのために、お願いよ、ガリオン」彼女は小さな声で言った。
「ぼくにできればね」そして自分でも気づかないうちにリヴァ王の剣を地面に横たえ、つか頭の〈珠〉をつかんでいた。かすかなかちりという音とともに、〈珠〉ははずれて、かれの手のなかに転がった。満面にほほ笑みを浮かべたエランドがやってくると、同じようにひざまずいて命なきダーニクの手を握った。ガリオンは両手で〈珠〉をつかむと、腕を伸ばして死んだ男の胸の上に置いた。いつのまにか自分のまわりに神々がより集まり、それぞれの腕をさしのべ、掌を合わせて緊密な輪を作り出していることを、かれはかすかに意識していた。輪の中央で突然、強烈な光がぴくぴくと脈打ちはじめると〈珠〉はそれに答えるかのようにかれの手の間で輝きだした。
前にも見たことのある黒い、がらんとした頑強な高い壁が静寂に包まれて立ちはだかっていた。ガリオンはかつて神々の洞窟でしたように、死の壁をためらいがちに押しはじめた。そして手を伸ばして友人を生の世界に引き戻そうとした。
だが今度はそう簡単にはいかなかった。かつてガリオンが洞窟でよみがえらせた小馬は、母親の胎内で生きていて、出たとたんに死んだのだ。したがってその死は生と同じようにかすかなものであり、障壁からすぐ手の届くところにあった。だがダーニクは立派に成人した男性であり、その死もまたはるかに強固なものだった。ガリオンは体中の力をふりしぼって意志を集中させた。かれはまた神々の意志が沈黙のうちに結集された巨大な力をも感じとっていた。だがそれでも障壁は崩れようとしなかった。
(〈珠〉を使え!)内なる声が指示した。
ガリオンはすぐに自分の力と神々のそれとをあわせ、手のあいだの石に向かって集中させた。
〈珠〉はまたたき、輝きだしたかと思うと、再度またたいた。
(助けてくれ!)ガリオンは命じた。
するとただちにその命令を了解したかのように、〈珠〉は目もくらまんばかりの光を発射した。障壁はしだいに弱まっていくようだった。
エランドが励ますようなほほ笑みを浮かべながら、自分の手を〈珠〉の上に置いた。
次の瞬間、障壁が破れた。ダーニクの胸が大きく隆起したかと思うと、一度だけ咳をした。
永遠の顔にいんぎんな表情を浮かべた神々は一歩下がった。ポルおばさんは安堵の叫びをあげると、ダーニクに腕をまわし、固く抱き寄せた。
「使命《エランド》」少年は不思議な満足をにじませながらガリオンに言った。ようやく立ちあがったガリオンは、精も根もつき果て、足元もさだまらないありさまだった。
「大丈夫?」セ・ネドラはガリオンの腕の下にさっと身をくぐらすと、相手の体を支えるように肩をぴったり押しつけた。
かれはうなずいたが、ひざがふるえていた。
「わたしに寄りかかって」セ・ネドラが言った。
かれは抗議しようとしたが、彼女の手はしっかり相手の唇を押さえていた。「ごちゃごちゃ言うのはやめてちょうだい、ガリオン。わたしはあなたを愛しているのだし、あなたはこうやって一生わたしに寄りかかっていくことになるんだから、今から慣れておいた方がよくてよ」
「どうやらこれでわたしの人生も変わらざるをえないようですな、〈師〉よ」ベルガラスがアルダーに向かって言った。「これまではいつでもポルがそばにおりました。離れていても呼べばすぐに――まあ、いつも喜んでというわけではないでしょうが――わたしのもとへ飛んできました。だがこれで彼女にも別の関心事ができてしまったわけですからな」老人はため息をついた。「どうやら子供たちはみないつのまにか成人して結婚してしまうようですな」
「そのような態度はおよそおまえには似つかわしくないぞ、わが息子よ」アルダーは言った。
ベルガラスはにやりと笑った。「まったくわが〈師〉は何もかもお見通しですな」そう言ってかれは再びま顔に戻った。「今までポルガラはわたしにとって息子のようなものでした。だがどうやらあれを女性に戻してやるときが来たようですな。わたしはあまりにも長くそれを禁じていたようだ」
「それがおまえにとっても一番よいのだ、息子よ」アルダーは答えた。「ところでおまえたち、すまんが少し離れて、われわれに一族の追悼をさせてもらうことにしよう」そう言って神は棺台の上に横たわるトラクの体を見て、次にベルガリオンを見た。「そなたにもうひとつ頼みたい仕事があるのだ、ベルガリオン。その〈珠〉をわが弟の胸の上に置いてはくれまいか」
「かしこまりました、〈師〉よ」ガリオンは即座に答えた。かれはセ・ネドラの肩から腕をおろすと、死んだ神の焼けただれ、ひきつれた顔を見ないようにしながら、棺台に向かって歩いていった。かれは手を伸ばすと、カル=トラクの動かぬ胸の上に青い球体を置いた。そして後ろにしりぞいた。すると再びいつのまにか背後から忍びよった小さな王女が、かれの腕をかいくぐり、ガリオンの腰にきゃしゃな腕を巻きつけた。それは決して不快ではなかったが、このように一生となりにぴったりとくっついていられたのではかなわないといった思いがちらりとガリオンの脳裏をかすめた。
再度神々は輪をつくり、〈珠〉は再び輝きはじめた。しだいに焼けただれた顔に変化が起こり、ゆっくりともとの形に戻りはじめた。神々と棺台を包む光はいよいよ輝きを増し、〈珠〉はいまやまばゆいばかりの光をはなっていた。ガリオンが最後に見たトラクの顔は、穏やかで傷ひとつなく整っていた。それは世にもまれな美しい顔だったが、死んだ顔であることに変わりはなかった。
そして光はいよいよ強烈になり、もはやガリオンはそれも見ていることすらできなくなった。光が弱まり、再びガリオンが棺台に目をやったときには、神々の姿もトラクの死体も消え去った後だった。ただひとつ残された〈珠〉だけが、でこぼこした岩の上でかすかな輝きをはなっていた。
再度あの自信に満ちたほほ笑みを浮かべたエランドは、棺台だった岩に向かって近づいていった。かれはつま先だって岩の上に手をのばすと、輝く〈珠〉を取った。そしてそれをガリオンのもとに運んできた。「使命《エランド》、ベルガリオン」かれは〈珠〉をガリオンに手渡しながら、断固とした口調で言った。そして二人のあいだで〈珠〉が手渡された瞬間、ガリオンはこれまで経験したことのなかった不思議な感覚をおぼえた。
一夜の体験に引きよせられるようにして、一行は静かにポルおばさんとダーニクのまわりに集まってきた。東の空はしだいに白みはじめ、ばら色を帯びた最初の朝の光がクトル・ミシュラクを覆っていた雲の最後の切れ端を染めあげた。昨夜の恐ろしいできごとは巨大な爪跡を残していたが、一行は静かに立ちつくしたまま、じっと夜が明けるのを見守っていた。
長い夜を吹き荒れた嵐はもはや跡形もなく消えさっていた。数えることもあたわぬような太古より二つに引き裂かれた世界は、今再びひとつになった。もしこの世の始まりがあるとすれば、それはこの瞬間にほかならなかった。ちぎれた雲のあいだから、最初の一日を告げる太陽が今まさに昇ってこようとしていた。
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第四部 〈風の島〉
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結婚式の前夜、リヴァ王ベルガリオンはとぎれがちな睡眠に悩まされていた。かれがトラクとの対決のすぐ後に、内輪だけの簡素な結婚式をあげていれば、こんなことにはならなかったはずだった。あのときならガリオンも気まぐれな王女も、世紀の一大事の前にすっかり圧倒され、心底疲れきっていたので互いに素直に心を開くより他になかったのだ。続く数日間というもの、ガリオンはまったく別人のようなセ・ネドラの一面を見いだしていた。彼女は恭しげな敬慕をもったまなざしでガリオンの一挙手一投足を見つめていた。その優しいせんさく好きな指は常にかれの体のどこか――髪の毛、顔、腕などにふれていた。そばに誰がいようと、ガリオンが何をしていようとお構いなしに、つかつかとやってきては、かれの腕の中に巧みにすべりこむ彼女のやり方は、おおむね悪い気分のものではなかった。
だがこれらの日々は長く続かなかった。ガリオンがいつ何どき取りあげられてしまうかわからない妄想の産物などではなく、その心が決して彼女から離れないことを悟った王女の態度はしだいに変化を見せはじめた。かれは何となく所有されているような感じを抱きはじめていた。人生の第一の喜びは所有することにあると信ずるかれの王女が、徐々にガリオンの改造計画に乗り出そうとしていたのである。
その所有がおおやけに認められる日が、いよいよ明日に迫ろうとしていた。まるで水面をかいくぐっては顔を出す海鳥のように、かれは眠りにおちいってはすぐに目覚めるということを繰り返していた。眠りに落ちるたびに、過去の記憶が入りまじった奇妙な夢が始まった。
ガリオンは再びファルドー農園にいた。夢うつつながらも、かれはダーニクの鎚が打ちおろされる音を聞き、ポルおばさんの台所から流れてくるかぐわしい匂いを嗅いでいた。ランドリグが、ズブレットが、ドルーンが、そしていつも片隅からこそこそあたりをうかがうブリルがいた。ガリオンはなかば目覚めかけ、ベッドの上で落ち着きなく寝返りをうった。だが、こんなことはありえない。ドルーンはマードゥ川で溺れ死に、ブリルはラク・クトルの地上から数マイル上の胸壁で、永遠に消えてなくなったはずだった。
すると今度はスシス・トールの宮殿になっていた。薄く透けたガウンの下で裸身を輝かせたサルミスラが、冷たい指でかれの顔を撫でていた。
だがサルミスラはもはや人間ではないはずだった。かれは女王が蛇に変身するのを自分自身の目で見ていた。
エルドラクのグラルが、先端に鉄を打ったこん棒で凍りついた大地をたたきながらわめいていた。「来い、グラト。戦え!」どこかでセ・ネドラが悲鳴をあげた。
過去の記憶とごっちゃになった夢の中で、かれはクトゥーチクの姿を見ていた。ラク・クトルの小塔の一室で、魔法使いの顔が恐怖に歪んだかと思うと、粉々に砕け散った。
すると風景は一変してクトル・ミシュラクの廃墟になっていた。かれは燃え上がる剣を手に持ち、トラクが渦巻く雲にむかって両腕をさしのべ、炎の涙を流しながら悲嘆にみちた断末魔の叫びをあげるのを聞いた。「母上!」
ガリオンはベッドのなかで身じろぎした。この夢を見るたびにかれはいつも震えながらはっと目覚めるのである。そして再びすぐに眠りに落ちた。
今度はマロリーの沿岸を離れたばかりのバラクの船の上だった。アンヘグ王がなぜバラクを鎖でマストに縛りつけたかを説明しているところだった。
「やむをえなかったのだ、ベルガラス」野蛮な顔をした王は痛ましげに言った。「あの嵐のさなかに、何とこいつは熊に変身したのだ! やつは熊の姿で、ひと晩中水夫たちをマロリーの海岸めざして追いたてたあげく、夜明けの直前にやっと人間の姿に戻ったというわけなのだ」
「いいからやつを解放してやれ、アンヘグ」ベルガラスがうんざりしたように言った。「やつはもう二度と熊になったりはせんよ――ガリオンの身が危機にさらされることのないかぎりはな」
ガリオンは寝返りを打って、起きあがった。これは実に驚くべき真相だった。バラクの周期的な変身には重大な意味があったのである。
「おまえはガリオンの守護者なのだ」ベルガラスは大男に説明していた。「おまえはそのために生まれてきたのだからな。ガリオンの身に危害が加えられるようなことがあるたびに、おまえは熊に変身してかれの身を守るのさ」
「おれは魔術師だったんですか?」バラクが信じられないといった口調で聞き返した。
「そうではない。姿形を変えることはさほど難しいことではないし、別におまえさんだって意識してやったわけじゃないだろう。それをさせたのは〈予言〉の力なのさ」
それ以降、バラクはことあるごとに自分の紋章の示すあらたな意味を、控えめな口調で人々に披露するようになった。
ガリオンは天蓋のあるベッドから身を起こし、窓にむかって歩いていった。春の夜空に輝く星々が、寝静まったリヴァの街や、港の先に続く〈風の海〉の暗い水面を照らし出していた。まだ夜明けの気配はどこにも感じられなかった。ガリオンはため息をつくと、テーブルに置かれた水差しからコップ一杯の水を注いで飲みほすと、再びベッドに戻り、不安な眠りに落ちた。
かれはタール・ゼリクにいて、へターとマンドラレンがマロリー皇帝ザカーズの動静について報告しているのを聞いていた。「やつは現在、ラク・ゴスカに包囲軍を送りこんでいる」鷹のような顔をしたヘターが言った。ガリオンが最後に会ったときから比べると、若者の顔は不思議にやわらいだ表情を浮かべていた。何かとてつもなく重大なことが若者の身の上に起きたようだった。のっぽのアルガー人はガリオンの方を向いた。「いずれザカーズを何とかしなければならないな。きみだってやつに大手を振ってうろつかれたくはないだろう」
「何でぼくがそんな心配をしなくちゃいけない」ガリオンは思わず聞き返していた。
「だって、きみは〈西の大君主〉なんだよ、忘れたのかい?」
再びガリオンは目覚めた。遅かれ早かれザカーズを相手にしなければならないのはわかっていた。たぶん結婚式が終われば、その問題を考える余裕もできるかもしれない。だがかれはそこではたと思いとどまった。不思議なことにそれまで結婚式の後のことなど考えてもいなかったのである。それはまるで未知への世界に誘うドアのようにかれの目前に立ちはだかっていた。取りあえず、ザカーズについては後まわしにしよう。ガリオンはその前に何とか結婚式を切り抜けなければならないのだ。
なかば夢うつつのうちに、かれはトルネドラ帝国の王女とのあいだに交わされた重要な会話を思い出していた。
「それは馬鹿げているよ、セ・ネドラ」ガリオンは抗議した。「別に戦いに行くわけでもないのに、なぜ剣を振りまわしながら馬に乗らなければならないんだ?」
「みんながそれを見たがっているからよ、ガリオン」王女は子供に噛んで含めるような口調で言った。「あの人たちはあなたの呼びかけに応じて、故郷を捨ててはるばる戦場までやってきたんですからね」
「ぼくは誰にも呼びかけたりはしないよ」
「だから、わたしが代わりにやったんじゃない。かれらは本当に素晴らしい軍隊だわ。みんなわたしが集めたのよ。あなた嬉しくないの?」
「ぼくはそんなことをきみに頼んだりはしなかった」
「あなたはお高くとまり過ぎていて、人にものを頼むということができないのよ。それがあなたの欠点のひとつだわね。あなたを愛して助けてくれる人たちにつんけんするのはよくないわ。みんなあなたを愛しているのよ。あなただからこそ、ついてきたんじゃない。忠実な兵隊たちにちょっとした感謝を表明してみせるのが、〈西の大君主〉にとってそんなにたいへんなことなの? それともそんなことはくだらないと思うほど思いあがっているのかしら」
「きみはものごとをなんでも歪めてしまうんだ。いつだってそうじゃないか」
だがセ・ネドラはあたかもすべては解決されたと言わんばかりに次の段階に踏みだしていた。
「もちろん王冠はかぶらなくちゃいけないわね――それからすてきな鎧も必要だわ。そうね、きっと鎖かたびらなんかいいんじゃないかしら」
「ぼくはきみの安っぽい芝居心を満足させるために、道化を演じるのはごめんだからね」
とたんに彼女の瞳に涙がわきあがった。唇がわなないた。「もう、わたしを愛していないのね」彼女は震える声でガリオンをなじった。
かれは夢の中でさえうなり声をあげていた。いつもこれなのだ。セ・ネドラはちょっとした手練手管を用いて、どんな議論にも勝利をおさめてしまうのだった。彼女の態度が本物ではないことはガリオンだって百も承知していた。それは彼女なりのやり方を押し通すための方便だとはわかっていても、ガリオンには何の手の打ちようもなかった。議論に値しないようなことがらでさえ、彼女の手にかかれば、たちまちねじ曲げられ、痛烈な非難のきっかけとなるのだった。そうなれば、ガリオンにはいかなる勝ち目も残されてはいなかった。いったい彼女はどこでこのような情け容赦ない不誠実を身につけたのだろうか?
結局ガリオンは鎖かたびらをまとい、王冠をかぶって、気恥ずかしげに炎の剣を振りかざしながら東の崖地の要塞に入城して、居あわせるセ・ネドラの兵士たちの万雷の拍手喝采を受けるはめになった。
昨年の春、ガリオンとシルクとベルガラスがひそかに〈リヴァ王の要塞〉を抜け出してから、実にさまざまなことが起こっていた。若き王は高い天蓋つきのベッドでほとんど眠るのをあきらめ、あれこれ思いをめぐらした。実際のところ、セ・ネドラは一人で軍隊を集めてしまったのだ。詳細を聞けば聞くほど、かれは驚異を覚えずにはいられなかった――それは彼女の大胆不敵さだけでなく、そこに至るまでに注ぎこんだ膨大なエネルギーと意志にたいしてであった。まわりの指導や助言はあったにせよ、そもそもの発案者は彼女なのだ。ガリオンの彼女に対する賞賛のなかには一抹の不安が混じっていた。かれはとてつもなく意志の強い――しかもおよそ躊躇するということを知らない娘と結婚しようとしているのである。
かれは再度寝返りをうって、枕をなぐりつけた。なじみの動作をすることで少しでもまともな眠りが訪れることを期待してのことだったが、再び不安な眠りに落ちていた。レルグとタイバがかれに向かって歩いてくる。しかも二人の手は握られていたのだ!
すると場面は〈砦〉の内部に変わり、かれはアダーラのベッドの脇にいた。娘はガリオンが思っていたよりもはるかに青白く、しばしば激しく咳きこんだ。二人がこうして話しているあいだも、ポルおばさんは危うく娘の命を奪いかけるまでに悪化した傷の治療に忙しかった。
「むろんわたしはひどい屈辱を受けたわ」とアダーラは語った。「せっかくそれまで必死に隠し通してきたのに、あの人にぺらぺらしゃべったあげく、こうして生きながらえているんですもの」
「ヘターだって?」ガリオンは繰り返した。かれはすでに同じ言葉を三回発していたのである。
「いいかげんにそれをやめないと、わたし本気で怒るわよ、ガリオン」アダーラは厳しい口調で言った。
「ごめんよ」かれは慌ててあやまった。「ただこれまでかれのことをそんなふうに考えたことがなかったものだから。たしかにかれはいい友人だが、とりたてて愛想がいいわけじゃないだろう。何ていうか、とっつきにくい感じがするんだ」
「たぶんその点については、これから変わっていくと思うわ」そう言いながらアダーラは顔を赤くした。とたんに激しい咳の発作に襲われた。
「これをお飲みなさい」湯気をたてるカップを片手にポルおばさんがベッドの脇にやってきた。
「きっとひどい味がするよ」ガリオンはいとこに警告するように言った。
「それでたくさんよ、ガリオン」ポルおばさんが言った。「いちいち注釈してもらう必要はないわ」
いつのまにか情景はプロルグの地下洞穴に変わっていた。ガリオンはレルグのかたわらに立ち、狂信者とかれの人生を百八十度変えてしまったマラグの婦人を結びつける儀式がゴリムの手でとりおこなわれるのを眺めていた。この地下の部屋にかれら以外の存在がいることにガリオンは気づいていた。そしてクトル・ミシュラクで神々とのあいだにかわされた協定について、レルグは知っているのだろうかといぶかった。かれは一度自分自身の口からそれを告げようとしたが、思いとどまった。すべてを考慮してみても、レルグには一度にひとつずつのことを慣らさせていった方がよさそうに思えた。狂信者にとっては、タイバとの結婚だけでもかなりの衝撃に違いない。式が終わると同時にガリオンはマラの満足げなうなり声を聞いた。泣き続けていた神の目にもはや涙はなかった。
何をしたってもうむだだ、とガリオンは思った。かれはもうこれ以上眠ることはできないだろう――少なくともかれが望んでいるような眠りは。上掛けをはねのけ、ローブをはおった。夜のために灰をかけられていた暖炉の火を起こす。そして暖炉の向かい側の椅子にどさりと腰をおろしたガリオンはむっつりと炎に見入った。
せめてリヴァに帰還してからすぐにでも結婚式をあげていればこんなことにはならなかったはずだ。だが王の結婚式ともなると規模が大きすぎて一朝一夕のことではすまされない。それに招待客のほとんどはタール・マードゥで受けた痛手からまだ回復していなかった。
その隙をねらってセ・ネドラは猛然とガリオンの改造計画に着手したのである。彼女には、かくあるべしという一種の理想が――それとて完全に彼女の一人よがりにすぎないのだが――があるらしかった。セ・ネドラはガリオンをその鋳型にぴったりおさめようと固く決心し、かれのいかなる反対や抗議にも耳を貸そうとしなかった。何をもってしても、彼女の一方的な思いこみを打ち砕くことはできなかった。だがこれではあまりに不公平だ。ガリオンはあるがままの彼女で十分満足しているのだ。たしかに欠点は少なからずあるが、それも彼女の長所で十分補われていると思っていた。それなのになぜ彼女は自分に対しても、同じような寛容さを持ってくれないのだろう。かれが少しでもその気まぐれに水をさすようなことを言ったり、毅然とした態度を取ろうとするたびに、たちまち彼女は涙を浮かべ、唇をわななかせ、とどめの一撃ともいえる、「もう、わたしを愛していないのね」の震え声を浴びせかけるのである。その長い冬のあいだ、リヴァ王ベルガリオンは何度本気で逃げ出すことを考えたかしれなかった。
そして今、季節は春をむかえて、冬のあいだ〈風の島〉を孤立させていた嵐はすでに通り過ぎていた。ガリオンが決して来ないのではないかと危ぶんでいた日はいまや目前に迫りつつあった。今日こそはかれが帝国の王女セ・ネドラを妻として娶る日であり、もはや逃げも隠れもできなかった。
これ以上ぐずぐず考えていたところで、パニックに追いつめられるだけだと判断したガリオンはさっと立ち上がると、かれの従者が用意しておいた――それとてセ・ネドラが指示したものに違いない――けばけばしい衣装を無視して、かたわらの簡素な上着とタイツを身につけた。
若きリヴァ王が私室のドアを開けて、寝静まったうす暗い廊下にそっと身を忍ばせたのは、夜明けの一時間前だった。
かれはしばし〈要塞〉のうす暗い無人の廊下をあてもなくさまよっていたが、やがてその足はいつのまにかポルおばさんのドアの方にむかっていた。彼女はいい香りのするお茶のカップを手に、すでに起きていた。深い青色の化粧着をまとったおばさんは、その黒髪を光輝く波のように肩に垂らしていた。
「ずいぶん早起きだこと」
「眠れなかったんだ」
「寝ておくべきだったわね。今日はとても忙しい一日になるわよ」
「わかってるよ。だから眠れなかったんだ」
「お茶はいかが?」
「ありがとう、でもいらないよ」そう言いながらかれは暖炉の向かい側の彫刻をほどこした椅子に腰かけた。「何もかも変わってしまうんだね、ポルおばさん」かれはしばらく考えた後に言った。「今日を過ぎれば、ぼくたちは二度と同じところへは戻れなくなるんだろう?」
「たぶん、そうでしょうね」ポルおばさんは答えた。「だからといって前よりも悪くなるとは、かぎらないでしょう」
「結婚するってどんな気分だい?」
「そうね、少し落ちつかない気分だわ」彼女は穏やかな声で言った。
「おばさんが?」
「わたしだって結婚するのは初めてなのよ、ガリオン」
かれは心にずっと引っ掛かっていたあることをたずねた。「本当にこれでよかったのかい――こんな風にぼくらの結婚式とおばさんたちの結婚式を同じ日にしちゃって? つまりぼくの言いたいのは、おばさんこそ世界で一番重要な女性なんだから、もっとちゃんとした日取りを選ぶべきじゃなかったのかということさ」
「でも、それこそわたしたちが一番避けたかったことなのよ。ダーニクとわたしは結婚式をごく内輪だけのものにしたかったの。それには何年も続くような大きな騒ぎに取り紛れるのが一番だろうと思ったのよ」
「ダーニクはどうしている? ここ何日かずっと姿を見かけないけれど」
「まだ少しおかしな感じがするわね。たぶんわたしたちの知っていたダーニクに戻ることは二度とないかもしれないわ」
「大丈夫なんだろうね?」ガリオンは心配そうにたずねた。
「むろん大丈夫よ、ガリオン。ただ少しどこかが変わっただけ。およそ普通の人間ではできないような経験をしたことが、かれを変えたのよ。現実的な面はまったく変わっていないけれど、ものごとをもっと別の面から見るようになっているわ。わたしとしても、その方が気に入ってるのよ」
「どうしてもリヴァを出ていかなくちゃならないのかい?」ガリオンはだしぬけにたずねた。
「おばさんとダーニクはここにいてくれてもいいんだよ」
「わたしたちは、わたしたちだけの場所がほしいのよ、ガリオン。二人きりになれる場所が必要なの。第一わたしがここにいたら、セ・ネドラとあなたが喧嘩するたびに、どちらか一人がわたしのドアをたたくことになるでしょう。わたしはこれまであなたたち二人を一生懸命育てあげてきたわ。これからは自分たちで何とかする方法を考えるべきよ」
「じゃあ、いったいどこへ行くんだい?」
「〈谷〉よ。わたしのおかあさんの家がまだあそこにあるわ。あそこはとても頑丈にできているの。屋根のわらをふいて、新しいドアや窓をつけ変えるだけで十分よ。ダーニクがそういったことはよく知っているでしょうし、エランドを育てるにはうってつけの場所だわ」
「エランドだって? あの子まで連れていくのかい?」
「誰かがかれの面倒を見てやらなければならないし、小さな子供の扱いには慣れているわ。それに父とわたしはあの子を〈珠〉から引き離しておくことにしたの。あなたを除けばあれにふれることのできるのは、かれ一人しかいないわ。もしいつか誰かがよからぬことを考えて、ゼダーと同じようにあの子を使うことを思いつかないともかぎらないでしょ」
「何のためにそんなことをする必要があるんだい? つまり、もうトラクはこの世にいないのに、誰が〈珠〉をほしがったりするんだろうという意味だけど」
ポルガラはじっとガリオンを見つめた。朝の柔らかい光の中で、ひときわ白く巻毛が輝き出したようだった。「わたしにはそれだけが〈珠〉の存在する理由だとは思えないのよ、ガリオン」彼女は真剣な口調で言った。「たぶん、まだ何か知られていないことがあるに違いないわ」
「これ以上いったいどんな意味が隠されているというんだい?」
「それはまだわからないわ。でもムリン古写本は〈光の子〉と〈闇の子〉の対決で終わってるわけではないのよ。あなたはこれで〈珠の番人〉になったわけだし、〈珠〉が重要なものであることには変わりがないのだから、どこかの棚や戸棚にしまったまま忘れてしまうなんてことのないようにしてね。いつも注意深くして、つまらない日常のことに慣らされないようにしてちょうだい。〈珠〉を守ることがあなたの第一の義務なのよ。これからはわたしがいちいちそれを注意するわけにはいかないんですからね」
それこそかれがもっとも考えたくないことだった。「だけどもし誰かが〈谷〉へ忍びこんで、エランドをさらうようなことがあったらどうするんだい? おばさんだってもうかれを守れはしないだろう? だって――」そう言ってガリオンは口ごもった。これまで彼女の前でこの話題を持ち出したことはなかったのだ。
「かまわないから、先を続けてごらんなさい、ガリオン」彼女ははっきりした口調で言った。
「このことについてちゃんと話しあってみましょうよ。あなたはわたしがもうこれ以上力を使えないと言うつもりだったんでしょう?」
「どんな気持ちがする? 何かとてつもなく大きなものを失ったような感じかい?」
「わたしはいつもどおり変わらないわ。もちろん力を取りあげられることに同意してから、あえて使おうとはしないけれど。もしやろうとしてできなかったら、やっぱり辛い思いをするでしょうからね。わたしにはそれが恐ろしいの。だから単純に使うまいと割り切っているのよ」ポルガラは肩をすくめた。「魔術師としてのわたしはもう終わったわ。だからもうそのことは忘れなければ。でもエランドに関しては大丈夫よ。〈谷〉にはベルディンや双子たちがいるわ。誰かがエランドに危害を加えようとしても、それだけひとつところに力がそろっていれば十分よ」
「ダーニクは何でおじいさんとばかり一緒にいるんだい?」出し抜けにガリオンはたずねた。
「このリヴァに帰ってきてからというもの、二人は朝から晩まで離れようともしないじゃないか」
彼女は心得たようなほほ笑みを浮かべた。「どうやらあの人たちはわたしをびっくりさせようとしているらしいわ。何かふさわしい結婚の贈り物をね。だって二人ともそぶりがみえみえなんですもの」
「それは一体何だろうね?」ガリオンは興味深げにたずねた。
「さあね、見当もつかないわ――それに知ろうという気もないの。それが何であれ、あの人たちの働きぶりを見ていると、わざわざせんさくして楽しみを台なしにすることもないような気がするわ」そう言いながら彼女はまるで夜明けの最初の光を見いだしたように、窓の外に目を向けた。「さあ、そろそろ行った方がよくてよ。わたしも支度を始めなければ。知ってのとおり、今日はわたしにとって特別な日だから、なるべく美しく見せたいのよ」
「何もしなくたっておばさんは美しいよ」ガリオンは心からそう言った。
「まあ、どうもありがとう」彼女はまるで少女のようにほほ笑みかけた。「でもこればかりは最善をつくしたいのよ」ポルおばさんは値踏みするようにガリオンを見た。「さあ、あなたも浴室に行ってらっしゃい。そして髪を洗って、誰かに髭をそらせるといいわ」
「そんなこと自分でできるよ、おばさん」
「それはよした方がいいわね。今日のあなたは少し落ちつきがないようだから、震える手で剃刀をいじらない方がよくてよ」
ガリオンは悲しげに笑うと、彼女にキスしてドアに向かった。途中で一回だけ立ち止まり、おばさんの方を振り返った。「おばさん、愛しているよ」
「ええ、わかっているわ。わたしもあなたを愛していてよ、ガリオン」
浴室から出たガリオンはその足でレルドリンを探した。すったもんだのあげく、ようやくアストゥリアの若者とその非公式な妻との婚姻関係は落着した。アリアナはついに一人で突っ走りたがるレルドリンの機先を制して、かれのもとに移り住むことですべての問題をあっさり解決した。彼女はこの点に関しては頑として譲らなかった。だがガリオンの見るところ、レルドリンの抵抗は急速に衰えていくようだった。若者の表情はますます白痴じみ、アリアナもまた晴れやかな顔をしていたが、そこにはそこはかとない満悦の表情が浮かんでいた。ある意味ではこの二人はレルグとタイバのカップルによく似ていた。結婚式以来、レルグの顔は永遠の驚きの表情がはりついたままになり、一方のタイバはアリアナと同じようなしてやったりといった表情を浮かべていた。ガリオンは明日の朝起きたとたん、セ・ネドラの唇に同じような満悦の笑みが浮かぶのを見ることになるのではないかといぶかった。
ガリオンがこうしてアストゥリアの友人を探しているのにはわけがあった。例によってセ・ネドラが結婚式の後で大舞踏会を開きたいと言い出したのである。ガリオンはその日のために、レルドリンからダンスを習うはめになった。
舞踏会の提案は、すべての女性から熱狂的な支持を得た。だが男性たちはもろ手をあげて賛成というわけではなかった。とりわけバラクは猛烈な反対を表明した。「公衆の面前で大の男にダンスしろというのか」大男は激しい口調で王女につめ寄った。「いつもどおりに皆で飲んで騒いでどこが悪いというのだ。それが普通の結婚の祝いかたというものだぞ」
「大丈夫よ」セ・ネドラはあの相手を激怒させるやり方で、大男の頬を優しく撫でた。「むろんあなたはやってくださるわね――このわたしのために」王女はわざとらしくまつ毛をぱちぱちさせてみせた。
バラクはさまざまな罵り言葉を吐きながら、足音も荒くその場を去った。
ガリオンは朝食のテーブルをはさんで、互いにうっとり見とれあっているレルドリンとアリアナを見つけだした。
「陛下、わたしどもとご一緒に朝食を召し上がりませんこと?」アリアナが丁重にたずねた。
「ご親切、どうもありがとう。でも今朝はちょっと食欲がなくてね」
「そいつは興奮しているせいさ」レルドリンが賢人ぶった口調で言った。
「もうほとんど覚えたと思うんだ」ガリオンは急いでかれ自身の問題に話題を移した。「だけど相手との位置を変えるステップだけがどうしてもわからない」
レルドリンがただちにギターを手に取ると、ガリオンはアリアナの助けを借りて複雑なステップの練習に取りかかった。
「陛下はたいへんお上手になられましたわ」レッスンがひととおり終わったところで、アリアナがほめそやした。
「とにかく途中でつまずいて床に顔をぶつけずにさえすめば、後はどうでもいいんだ」
「そのようなときにはセ・ネドラさまが助けて下さいますわ」
「さあ、それはどうかな。彼女はぼくが笑い者になるのをかえって喜ぶかもしれないよ」
「陛下は本当に女性というものをご存じないのですね」そう言いながらアリアナはレルドリンに敬慕のまなざしを送り、レルドリンもすぐにそれを返した。
「頼むからそれをやめてくれないか」ガリオンはいらいらしながら言った。「いちゃつくのは二人きりになってからにしてくれよ」
「でもぼくの心はいつだってアリアナへの愛でいっぱいなんだよ、ガリオン」若者は大げさな口調で言った。
「それはごちそうさま」ガリオンは冷ややかに言った。「ぼくはこれからシルクを探しにいくから、きみたちは好きなだけいちゃつくがいいさ」
アリアナは顔を赤く染め、ほほ笑んだ。「それは陛下のご命令として受けとってよろしいのでしょうね?」いたずらっぽい声で彼女は言った。
ガリオンは逃げ出した。
シルクは昨晩遅く、東の国々から到着したところだった。ガリオンは小男のもたらすニュースを待ちわびていた。小柄なドラスニア人はうずらの肉と香料入りワインの朝食をのんびりとたいらげている最中だった。
「朝っぱらからそんなものを食べて、胃にもたれやしないかい?」ガリオンはたずねた。
「朝一番にはオートミールが最適だなどという意見には賛成できんね」シルクが答えた。「そんなものは食欲のない人間が食うものだ」
ガリオンはすぐに本題に入った。「クトル・マーゴスの情勢はどうなっている?」
「ザカーズが相変わらずラク・ゴスカを包囲しているよ。もっともやつはさらに兵力を送りこんでいるようだが。どうやらやつは軍隊を動かせるほど地面が固まったら、ただちに南マーゴスを攻略するらしい」
「タール人も同行するのかい?」
「たいした数じゃないね。連中は国に残っているグロリムを狩り出すのに全力を注ぎこんでいるのさ。わたしはこれまでタール人というのは愚鈍な国民だと思っていたが、連中のグロリムを死にいたらしめる方法の独創性にはいささか舌をまくね」
「ザカーズから目を離さないようにしよう」とガリオン。「南からこっそり忍びこまれたりしてはかなわないからね」
「こっそり忍びこむなんてことは、考えないでもいいと思うよ。そう言えばやっこさんからお祝いのメッセージが送られてきたそうだ」
「何だって」
「あいつはあれでなかなか洗練された男だ――おまけにやり手の政治家ときてる。今のところ、トラクが倒されたことにひどい衝撃を受けているらしい。実際のところ、やつはきみを恐れているんだと思うよ。とりあえず南クトル・マーゴスを掌中におさめるまでは、きみの側につく心づもりだろう」
「タウル・ウルガスが死んだ後のマーゴスの指導者は誰なんだ?」
「ウルギット――やっこさんの二人目の妻の三番目の息子さ。どうやらタウル・ウルガスの何人もの妻から生まれた息子たちのあいだで、跡目をめぐってひと騒動あったらしい。かなりの数の死傷者も出ているようだ」
「ウルギットというのはどんな男なんだい」
「なかなかの策謀家だ。むろんザカーズの前にはものの数ではないが、これでマロリーも二十年ばかりは忙しくなることだろう。その頃にはザカーズも年老い、戦争に疲れ果て、もはやたいした脅威にはならないというわけだ」
「そう願いたいね」
「おっと、肝心なことを言い忘れるところだった。ヘターが先週きみのいとこと結婚したよ」
「アダーラと? 彼女はまだ具合がよくないはずなのに」
「それほどでもなかったようだね。かれらもチョ・ハグとシラーに同行してきみの結婚式に参列するそうだ」
「何だって誰もかれも結婚したがるんだ」
シルクは笑った。「わたしだけは別だよ。まわりがいっせいに結婚に突入しようと、わたしの正気だけは毒されたりはしないさ。もし最悪の場合になっても逃げ足には自信がある。アルガーの諸氏族も今朝到着する予定だ。連中は途中でコロダリン王一行と合流して、一緒にやってくるらしい。わたしがカマールを発ったとき、連中の船が後ろについていたからね」
「マンドラレンも来るのかい?」
シルクはうなずいた。「ボー・エボール男爵婦人と一緒にね。どうやら男爵の方はまだ旅をするまでには回復していないらしい。やっこさんは自分の妻とマンドラレンに道を譲るためにこのまま死ねばいいと思っているようだ」
ガリオンはため息をついた。
「おいおい、きみが気にすることはないさ。アレンド人はこの手の不幸が大好きなんだ。マンドラレンだって雄々しく耐え忍ぶことに生きがいを見いだしているはずさ」
「それはちょっとひどすぎる言いかただよ」
シルクは肩をすくめてみせた。「どうせわたしはひどい人間さ」
「これからどうするつもりなんだい。ぼくが――」と言いかけてガリオンは口ごもった。
「無事に結婚するのを見届けたらという意味かね」シルクは面白そうな口調で答えた。「とりあえず、今夜の二日酔いから回復したら、ガール・オグ・ナドラクへ向かうよ。あそこには今いろいろと新しいチャンスがあってね。わたしはずっとヤーブレックと連絡を取りあっていたんだ。かれとわたしは今後手を組むことになったのさ」
「ヤーブレックと?」
「つき合ってみれば、それほど悪いやつでもないさ。それにあれで目から鼻に抜けるようなところもある。たぶんこの組みあわせはうまくいくと思うね」
「たしかにそうだね」ガリオンは笑いながら言った。「きみたちはそろいもそろってひどい悪党だし、おまけに二人たばになってかかられたんじゃ、どんな正直な商人だって無事じゃすまされないだろう」
シルクはにやりと笑った。「それこそわれわれの狙いめなのさ」
「さぞかし金持ちになることだろうね」
「まあ、それがどんなものかは体験できるだろうがね」そう言ってシルクは遠くを見るような目つきをした。「だが実際のところそんなことはどうでもいいのさ。これはあくまでもゲームだ。金なんてものは単なる得点がわりに過ぎん。大事なのはそれがゲームであるということなんだ」
「そんな話を前にも聞いたことがあるような気がするけど」
「わたしはそのときからちっとも変わっちゃいないということさ、ガリオン」シルクは笑いながら言った。
ポルおばさんとダーニクの結婚式は、その朝、〈要塞〉の西翼にある人目につかない、小さな礼拝堂で行なわれた。列席した人々はごくわずかだった。ベルガラスと、双子のベルティラとベルキラはもちろん、シルクとバラクの姿もそこにはあった。深い青色のビロードで仕立てたガウンで美しく装ったポルおばさんには、ライラ王妃が付き添っていた。ダーニクの付き添いはガリオンがつとめた。式は醜男のベルディンの手で行なわれた。初めて見苦しくない服装をした魔術師の醜い顔には不思議な厳粛さが漂っていた。
式が行なわれている最中、ガリオンの心は千々に乱れた。もうこれでポルおばさんは自分だけのものではなくなるのだという実感が、刺すようにかれの胸をつらぬいた。ガリオンの中の子供じみた部分が、ずっと抗議の声をあげ続けていた。だがかれは同時におばさんの結婚する相手がダーニクであることに深い満足を覚えていた。この世にもしおばさんに値する男がいるとすれば、それはダーニク以外にありえなかった。純朴な善人の瞳はかぎりない愛であふれていた。どうやらかれはその視線をポルおばさんから引き離せないらしかった。ダーニクのかたわらに控えるポルおばさんの顔もまた、厳粛な晴れやかさに輝いていた。
二人が列席者に挨拶するために、一歩退いたガリオンは背後に衣ずれの音を聞いた。振り返ると礼拝堂の入口に、頭巾のある外套をすっぽりまとい、顔を厚いベールで隠したセ・ネドラが立っていた。王女は結婚式の日に花婿に顔を見せてはいけないというトルネドラ古来の慣習にひどくこだわっていたので、ガリオンは彼女は出席しないものと思っていたのである。こうして外套とベールに身を隠せば、それとはわからないだろうという苦肉の策だった。王女がこの問題の解決を思いつくまで、いかに悪戦苦闘したか目に浮かぶようだった。むろん彼女は何としてでもポルガラの結婚式に出席したかっただろうが、慎みと慣習は守られねばならないというわけだ。ガリオンはかすかにほほ笑むと、再び式に注意を戻した。
かれが二度目にさっと後ろを振り返ったのは、ベルディンの顔に浮かんだ表情を見たからだった。魔術師の醜い顔に驚愕が浮かび、やがて穏やかな確認の表情に変わった。最初は何も見えなかったが、やがてたるきの付近にかすかに動くものがみとめられた。雪のようにまっ白なふくろうの姿が、暗い梁の上にぼんやりと浮かびあがった。鳥はポルおばさんとダーニクの結婚式をじっと見おろしているようだった。
式が終わり、ダーニクが恭しく、だが不安げに花嫁にキスすると、白いふくろうはその羽根を広げて、静かに礼拝堂の天井を旋回した。鳥はあたかも幸福なカップルを祝福するかのように、宙を舞っていたが、やがて大きく二回はばたくと、まっすぐにベルガラスに向かって飛んできた。老人は決然とした表情でそっぽを向いた。
「彼女の方を見てあげた方がよくてよ」ポルおばさんが言った。「おとうさんがそうしないかぎり、あの人はいつまでも離れないわよ」
ベルガラスはため息をつくと、目の前で飛びまわる不思議な輝く鳥をまっこうから見すえた。
「おまえがいなくて寂しいよ」老人はぽつりと言った。「これほどの歳月がたったというのにな」
白いふくろうは黄金色の瞳でまばたきひとつせずにベルガラスを見つめていたが、やがて身をひるがえして飛び去った。
「まあ、何て不思議な生物でしょう」ライラ王妃があえぐように言った。
「わたしたちは不思議な種族なのよ、ライラ」ポルおばさんが答えた。「それに一風変わった友だちも――親戚も多いのよ」彼女はダーニクの腕に固く自分のそれを巻きつけながらほほ笑んだ。「それに、母親の列席なしに娘が結婚するなんておかしいでしょう?」
結婚式を終えた一行は、〈要塞〉の廊下を歩いて主翼の建物に戻り、ポルおばさんの私室の前で立ち止まった。ガリオンはふたことみこと祝いの言葉をのべ、シルクやバラクと一緒に立ち去ろうとしたが、ベルガラスに腕をつかまれた。「おまえはちょっと待て」
「二人の邪魔をしちゃいけないよ、おじいさん」ガリオンは落ちつかなげに言った。
「なあに、ほんのちょっとだけ邪魔するだけさ」ベルガラスは安心させるように言った。老人の唇は笑みをこらえているかのようにひきつっていた。「おまえに見せたいものがある」
私室に入ってきた老人とガリオンの姿を見て、ポルガラの一方の眉毛が問いかけるようにはねあがった。「これは何かの古い習慣か何かなのかしら、おとうさん」
「いいや、ポル」老人は無邪気な顔で答えた。「ガリオンとわしとでお祝いの乾杯をしようと思ってな」
「いったい何をたくらんでいるの、老いぼれ狼?」彼女の目にはおもしろがっているような色が浮かんでいた。
「わしが何かたくらんでいるように見えるかね」
「いつだって、そうじゃないの。おとうさん」そう言いながらも彼女は四個の水晶製のゴブレットと年代物のトルネドラ製ワインのデカンターを取りあげた。
「考えてみればわれわれ四人はずいぶん古くからのつきあいじゃないか」老人は思い起こすように言った。「みんなが散り散りになる前に、これまでの長い歳月や、われわれの上に起こったできごとを立ち止まって振り返るのも悪くはなかろう。多かれ少なかれ、われわれは変わったのだ」
「そういうおとうさんはまったく変わっていないようだけれど」ポルおばさんは意味ありげに言った。「さあ、早く要点にかからないこと?」
今や老人の目は、必死に笑いを抑えつけようとするかのように、激しいまばたきを繰り返していた。「ダーニクからおまえに何かやるものがあるんだそうだ」
ダーニクがごくりと唾を飲みこんだ。「今、やれとおっしゃるのですか」かれは不安そうな声でたずねた。
ベルガラスはうなずいた。
「あなたがどんなに美しいものを愛しているか、わたしは知っているつもりです――たとえばあの小鳥のような」ダーニクは去年ガリオンがもらってきたガラス製の小鳥の方を向きながら言った。「そこでわたしも同じように美しいものを贈りたいと思いました。ただしわたしは水晶だの宝石だのを扱う方法を知りません。わたしは鍛冶屋だから、金属しか扱い方を知らないのです」そう言いながらかれは何かを包んだ無地の布地を開けはじめた。かれが取り出してみせたのは、今まさに咲こうとしている見事な金属製のばらの花だった。花は細部にわたって精巧に作られており、金属自体のつやで光輝いていた。
「まあ、ダーニク」ポルおばさんは心から嬉しそうな声を出した。「何てすばらしいんでしょう」
だがダーニクはすぐには花をおばさんに渡そうとしなかった。「でもこの花には色がありません」かれは気難しげに言った。「それに香りもしない」そして鍛冶屋は不安げなまなざしをベルガラスに送った。
「やってみるがいい」老人は言った。「わたしの教えたとおりにな」
ダーニクは光輝くばらの花を手にしたまま、ポルおばさんを振り返った。「あなたに贈ることのできるものなんて、何もありはしないのです」かれはけんそんするように言った。「わたしの真心と、これ以外には」そう言いながらダーニクはばらの花を手の上にのせ、必死に精神を統一するような表情を浮かべた。
ガリオンの耳ははっきりとその音を捕らえた。それはあのおなじみの、ざわめきに似たうねりの高まりで、うち震える鐘の音にも似た独特の響きをともなっていた。ダーニクの伸ばされた掌に置かれた金属の花がかすかにぴくりと動いたかと思うと、徐々に変化しはじめた。花弁の外側は新雪のようにまっ白だったが、ちょうど開きかけたその内側は深紅色に染まっていた。すべてを終えてダーニクが手渡した花にはうっすらと露さえ光っていた。
ポルおばさんはあえぎ声をもらし、信じられないおももちで、ばらの花を眺めていた。それはこの世に存在するいかなる花とも異なっていた。震える手で花を受け取ったおばさんの目にたちまち涙が浮かびあがった。「いったいどうしてこんなことが?」彼女はおののく声でたずねた。
「ダーニクは今や普通の人間ではないからな」ベルガラスが説明した。「わしの知るかぎり、一度死んでから生き返った唯一の人間だ。それがかれ自身に何らかの影響を及ぼさないはずがない――それがいかにささいなものであろうとな。だが思うにこの善き現実的な男のうちには、ずっと詩人の心が存在していたものと見える。以前のダーニクとの差は、この詩人の心を表に出すことができるようになったことくらいのものさ」
ダーニクはいささか困惑したような表情で、ばらの花をためらいがちにさわった。「この花にはひとつだけ特長があるのです。中身はやはり金属でできているので、色あせることもしぼむこともありません。たとえ冬のさなかでも、一輪だけは生花を手元に置くことができるのです」
「まあ、ダーニク!」彼女は叫び声をあげながら、鍛冶屋を抱きしめた。
ダーニクはいささか面食らったようすで、抱擁を返した。「もし気にいってもらえたのでしたら、もっとたくさんこの花を作りますよ。そうだ、いっそのこと花園を作りましょう。いったんこつを飲みこんでしまえば、それほどたいへんなことではないのです」
突然ポルおばさんの目が大きく見開かれた。片手をダーニクにまわしたまま、彼女はわずかに振り向いて、ガラス製の枝にとまった小鳥の方を見た。「飛びなさい」彼女が命ずると同時に、光輝く鳥は羽根を広げ、差しのべられた手に向かって飛んできた。小鳥は興味深げに花を眺め、新しい露にくちばしをつけ、再び頭をあげると震えるような声で歌いはじめた。ポルおばさんがそっと手を差しあげると、ガラスの小鳥は再びそのとまっていた枝に戻った。歌の残響はなおも部屋にうつろっていた。
「さて、そろそろわれわれは失礼した方がよさそうだな」ベルガラスが言った。老人の顔はどことなく悲しげに曇っていた。
だがポルおばさんは突然何か重大なことを悟ったようだった。彼女の目が細められたかと思うと、大きく見ひらかれた。「ちょっと、待ちなさい。この老いぼれ狼」老人にむかって呼びかける声には一抹の冷たさがひそんでいた。「あなたは最初からこのことを知っていたんでしょ」
「何をだね? ポルや」老人はむとんちゃくな声でたずねた。
「ダーニクが――つまりわたしが……」ガリオンは生まれて初めておばさんが言葉につまるのを見た。「知っていたのね!」彼女は憤激の声をあげた。
「むろんだとも。ダーニクが再び起きあがった瞬間から、わしにはかれの変化がわかっていたよ。おまえさんがそれを知らなかったとは実に意外なことだ。まあ、たしかにかれの力を引き出してやるのを手伝ってやりはしたがな」
「どうしてわたしに教えてくれなかったのよ」
「おまえがたずねなかったからさ」
「まったく、わたしがどんな――」彼女は必死の努力で自分自身を取り戻そうとしていた。
「この数ヵ月間、あなたはわたしに力がなくなったと思いこませようとしたけれど、本当は失われていなかったのね。よくもわたしをそんな目にあわせて平気な顔ができたわね」
「おいおい、ポルや、落着いて考えてみれば、そんな簡単に消せるものかどうかよくわかるはずだぞ。いったん備わった力は永久にそこにあり続けるのだ」
「でも〈師〉が――」
ベルガラスが片方の手をあげて制した。「よく思い出してみるんだ。あのとき〈師〉が言ったのは、おまえが自分の力を制限して、ダーニクと同じ能力の範囲で暮らしていく覚悟があるかということだ。いかにアルダーでもおまえの力を取り去ることなどできはしないから、一計を案じたというわけさ」
「でもおとうさんはわたしにそう信じこませたわ」
「おまえが何を信じようが、わしの知ったことではないからな」ベルガラスはもっとも落着きはらった口調で言った。
「わたしを引っかけたのね!」
「いいや違うな、ポル。おまえは自分で引っかかったのさ」老人は優しくほほ笑んだ。「がみがみわめき出す前に少し考えてみたらどうかね。とどのつまりおまえに何かさしさわりがあったわけじゃないだろう? それにこんなふうに真相を知るのも、なかなかおつなもんじゃないかね」老人の微笑は今やにやにや笑いに変わっていた。「何ならこれがわしからの結婚の贈物ということにしてくれてもいいんだよ」
ポルガラはじっと相手をにらみつけ、反論したそうな顔をしたが、老人の返した視線にはちゃめっけがあふれていた。二人の対決の結果はいつもうやむやのうちに終わっていたが、今回ばかりはベルガラスが勝ちをおさめたようだった。怒るふりをそれ以上続けられなくなったポルおばさんは、どうしようもないという顔で笑い、老人に優しく腕をまきつけた。「本当にあなたってどうしようもない老いぼれだわ」
「わかってるさ」老人は答えた。「ガリオン、失礼しようじゃないか」
廊下に出たとたん、老人は再びくすくす笑いはじめた。
「何がそんなにおかしいんだい?」ガリオンがたずねた。
「わたしは何ヵ月間もこのときを待っておったのだ」老人は実に愉快そうな顔で笑っていた。
「ことの次第がわかったときのあいつの顔を見ただろ、ガリオン。彼女はこの数ヵ月というもの、さんざん殉教者ぶった顔をしておきながら、突然それが不必要なものだと思い知らされたのだ」老人の笑いが意地悪そうな表情に変わった。「だいたいおまえのおばさんは、これまで自信過剰ぎみだったんだ。一度ここらで自分が普通の人間だと思わせたのはいい薬だったかもしれんぞ。これであいつも少しは視野が広がったことだろう」
「おばさんの言ったとおりだ」ガリオンは笑いながら言った。「おじいさんて、本当にどうしようもない老いぼれだね」
ベルガラスはにやにやした。「人は常におのれのベストを尽くすべきなのさ」
二人は廊下を戻り、すでに結婚式のために整えられたガリオンの衣装の置かれている部屋へ向かった。
「おじいさん」ガリオンは腰をかけて自分の長靴を脱ぎながら、老人にたずねた。「ひとつ聞いておきたいことがあったんだ。トラクが死ぬ前に『母上』と叫んだことなんだけれど」
ベルガラスはジョッキを片手にうなずいた。
「トラクの母親っていったい誰なんだい」
「世界だ」老人は答えた。
「よく意味がわからないけれど」
ベルガラスは考え込むような顔つきで白く短いあご髭をかいた。「わしの知るかぎりでは、それぞれの神を発案したのは、かれらの父神ウルだったが、実際に作り上げたのは世界だったのさ。話せば非常に複雑で、わたしにも実のところよくわからないのだ。まあ何にせよトラクは死の間際に、かれを唯一愛してくれていると思いこんでいたものの名前を呼んだのさ。だがむろんやつは間違っていた。ウルも他の兄弟たちもみなかれを――いかにその性格がねじけて、邪悪であろうとも愛していたのだ。そして世界もまたかれの死を悼んだ」
「世界が?」
「おまえは感じなかったのか? やつが死んですべての光が消えうせたあの瞬間だよ」
「あれはぼくのせいだと思っていたよ」
「いいや、それは違う。あの瞬間、全世界から光が消えうせ、あらゆる場所であらゆるものたちの動きが止まったのだ。それというのも世界が死んだ息子を悼んでいたからさ」
ガリオンはしばらく考えこんでいた後に言った。「でも、トラクは死ななければならなかったんだろう?」
ベルガラスはうなずいた。「ものごとを正しい道へ戻すには他に方法がなかったのだ。トラクが死んでこそ、はじめて世の中は定められたとおりに動きはじめる。もしそうしなかった場合には、すべては深い混沌の中に沈んでしまっていたことだろう」
突然ガリオンの脳裏に奇妙な質問が浮かんだ。「おじいさん」かれは思わず口に出した。
「エランドはいったい何者なんだろう」
「わしにもわからんよ。何のへんてつもない普通の男の子かもしれないし、あるいはまったく違うのかもしれない。さて、そろそろおまえも支度を始めた方がよさそうだぞ」
「そのことは考えないようにしていたんだ」
「ぐずぐずするのはいいかげんにしたらどうだ。今日はおまえの生涯でもっとも幸福な一日なんだぞ」
「本当かい?」
「ひたすらそれを念じていれば大丈夫さ」
大方の賛同のもとに、ガリオンとセ・ネドラの結婚式はウルゴのゴリムの手によって行なわれることになった。きゃしゃな聖人はプロルグからセンダリアまで輿で担がれてゆっくりと進み、センダーからはフルラク王専用の馬車に乗り、さらにリヴァまで船で運ばれた。ウルゴの神が神々の父だったという事実は聖職界に大きな衝撃を呼び起こしていた。従来の哲学的考察を記した膨大な書物はまったくの紙屑となりはて、僧侶たちはショックのあまり右往左往しているありさまだった。特に熊神ベラーに仕えるプロデグはそれを聞いたとたん、死んだように失神してしまった。タール・マードゥでの痛手で不具者となり、まだ十分に回復していなかったこの巨人の聖職者は、今回の致命的な一撃を持ちこたえることができなかった。かれがようやく目覚めたとき、その従者たちは高僧の心が子供のそれに退化してしまったことを知った。今やかれは玩具やさまざまな色の遊びひもに囲まれて日々を過ごしていた。
ガリオンの結婚式はむろん〈リヴァ王の広間〉で行なわれることになっており、すでにほとんどの列席者たちが集まっていた。ローダー王は深紅色、アンヘグ王は青色、フルラク王は茶色、そしてチョ・ハグ王はアルガーの諸氏族の伝統にのっとって黒をまとっていた。末息子の戦死以来、ますますその表情がいかめしくなった〈リヴァの番人〉は、リヴァ特有の灰色の衣を身につけていた。王室関係の賓客はそれだけではなかった。黄金色のマントをつけたラン・ボルーン二十三世は異様なまでに陽気で、頭をそった宦官のサディと何やら談笑しあっていた。不思議なことにこの二人はすっかり意気投合したようすだった。西の諸国の新情勢がもたらす可能性が両者をひきつけ、何らかの了解をもたらしたようだった。コロダリン王は青紫色の衣をまとって他の諸王らと一緒にいたが、あまり口を開くことはなかった。タール・マードゥの戦いで受けた頭の傷がもとで聴力に異常をきたしたアレンディアの若い王は、あきらかに居心地の悪い思いをしているようだった。
王族たちの集う中央にガール・オグ・ナドラクのドロスタ・レク・タン王の姿があった。王はおよそ似合わない奇妙な黄色の胴衣を身につけていた。ひょろ長い神経質なナドラク王は、わめき散らすようにしゃべり、笑うたびに金切り声をあげた。ドロスタ王はその午後だけで多くの申し合わせを行なったようだった。そのなかのいくつかは、かれが特に強く望んだものだった。
むろんリヴァ王ベルガリオンはかれらの談笑に加わることはなかった。だがこれはむしろかれにとっては幸いだったかもしれない。それというのもリヴァ王の精神状態はいささか普通ではなかったからである。上から下まで青ずくめの格好をしたガリオンは、控え室でうろうろと歩きまわっていた。かれとレルドリンは二人を大広間に召喚するファンファーレを今か今かと待ち受けていたのである。「さっさと終わってくれればいいのに」ガリオンがその言葉を発するのはこれで六回目だった。
「いいから、落ちつきたまえ、ガリオン」レルドリンもまた同じ慰め言葉を繰り返していた。
「いったいみんな、何をやっているんだ」
「たぶん、王女の支度が整うまで待っているんだろう。何といってもこういった場所では花嫁の方が主役だからね。結婚式とはそういうものさ」
「きみは本当に幸運な男だよ。きみとアリアナは駆け落ちして、こんな騒ぎを味わわずにすんだのだから」
レルドリンは悲しげに笑った。「それがそうもいかないんだよ、ガリオン。われわれは単にそれを延期しただけのことさ。ここでの結婚準備の騒ぎにアリアナもすっかり感化を受けてしまってね。アレンディアに戻りしだい、ちゃんとした式をあげたいと言い出したのさ」
「まったく何で女性は結婚式というものに影響を受けるんだろうね」
「さあね」レルドリンは肩をすくめてみせた。「女心というのは不思議なものさ。きみもすぐにわかるだろうがね」
ガリオンはむっつりと友人をにらみ、再び王冠の位置をなおした。「とにかくさっさと終わってくれればいいのに」かれは同じ言葉を繰り返した。
ファンファーレが〈リヴァ王の広間〉いっぱいに響きわたると同時にドアが開いた。ガリオンははた目から見てもわかるほど震える手で、王冠を再度なおすと、かれの花嫁となる女性に会うために一歩を踏み出した。まわりにいるのは見知った顔ばかりだというのに、ガリオンのぼうっとした目はほとんど見分けがつかなかった。かれとレルドリンは火穴で燃えさかる泥炭の炎のわきをとおり、玉座に向かって歩いていった。玉座の壁には再びかれの巨大な剣がかかり、そのつか[#「つか」に傍点]頭には〈アルダーの珠〉が輝いていた。
装飾用の垂れ布や旗が広間を飾り、あたり一面は春の花の香りに満ちあふれていた。絹やサテンや色とりどりのブロケードなどをまとった列席者がいっせいに花婿の姿を見ようと身をよじる姿はそれだけで春の花園のようにきらびやかだった。
玉座の前で二人を待ち受けているのは、穏やかな顔にほほ笑みを浮かべたウルゴのゴリムだった。「おめでとう、ガリオン」ゴリムは玉座へ続く階段をのぼり始めたガリオンに呼びかけた。
「ありがとうございます、聖なるゴリム」ガリオンは不安げなおももちで身をかがめた。
「落ちつきなさい、わが息子よ」ガリオンの震える手に気づいたゴリムが忠告した。
「自分でもそうしているつもりなんです、聖なるお方よ」
すると真鍮のホルンが再びファンファーレを轟かせた。そして広間のドアがさっと大きく開かれた。帝国の王女セ・ネドラが真珠をちりばめたクリーム色の花嫁衣装をまとい、いとこのゼラにつき添われて立っていた。彼女は驚くほど美しかった。燃えるような髪をガウンの肩に波打たせ、お気にいりの極彩色の入った黄金色の頭飾りをはめていた。その顔には取り澄ましたような表情が浮かび、かすかに頬を赤く染めていた。彼女は終始目を伏せていたが、何かの拍子で二人の目があった瞬間、ガリオンは長いまつ毛の下の瞳がいたずらっぽくきらめくのを見た。そのとたんかれは彼女の取り澄ました表情が作り物であることを確信した。彼女は列席者に自分の美しさを存分に鑑賞させるためにしばらく立ち止まった後、滝のように流れ落ちる優しいハープの調べとともに、がたがた震える花婿に向かって通路を進んできた。バラクの二人の幼い娘たちが、花嫁のすぐ前を歩いて、通路に花をまき散らすのを見たガリオンはいささかやりすぎではないかと思った。
台座の前に近づいたセ・ネドラは、衝動的ともいえる動作で優しいゴリムのほおにキスすると、ガリオンのかたわらに座った。彼女の体から花のようなよい匂いが漂ってきた。どういうわけかガリオンはそれを嗅いだとたん、ひざが震え出した。
ゴリムが列席者を前にして話しはじめた。「今日ここにお集まりいただいたのは、ひとえにわれわれをいくたの恐るべき危険から救い、この幸せな日へと導いてきた〈予言〉の最後の部分が明らかになるのをご一緒に目撃するためであります。かつて語られたとおり、リヴァ王の帰還は果たされました。かれはいにしえの仇敵と対決し、勝利をおさめたのです。今、かれの横で美しく光輝いておりますのがその褒賞であります」
褒賞だって? かれは今まで一度もそんなふうに考えたことはなかった。かれはゴリムの声を聞きながら、そのことについて思い巡らしたが、たいした助けにはならなかった。そのとたん、かれは脇腹を小突かれた。
「ちゃんと聞いてらっしゃいよ」セ・ネドラが小声で注意した。
それからすぐに式は質問と答えのやりとりにうつった。ガリオンの声はかすかにしわがれていたが、それは当然のことと言えた。だがセ・ネドラの声はよどみなくしっかりしていた。せめて不安そうなふりをすることくらいできないのだろうかとガリオンは思わずにいられなかった。
二人が交換する指輪を載せた小さなビロードのクッションをエランドが運んできた。子供は真剣に自分の務めを果たしていたようだが、その小さな顔にさえかすかにおもしろがっているような表情が浮かんでいた。ガリオンは心ひそかに憤慨した。まったく誰もかれもがかれをこっそり笑っているのではないか?
結婚式はゴリムの祝福で終わったが、ガリオンの耳にはまったく入らなかった。かれが祝福を受けているあいだ、〈アルダーの珠〉が耐えがたい押しつけがましさで、かれの耳を歓喜の凱歌で満たし独自の祝福をしていたのである。
セ・ネドラがかれの方を向いた。「さあ、早く」彼女は小声でうながした。
「何をするんだい?」かれもまた小声で聞き返した。
「わたしにキスしてくれないの?」
「ここで? こんな公衆の面前でやれというのかい」
「それが習慣なのよ」
「馬鹿げた習慣だ」
「いいから、早くやってちょうだい、ガリオン」彼女ははげますような暖かい微笑を送った。
「それについてはまた後で話しあいましょう」
ガリオンはキスのさなかにも何とか威厳を保とうと努力した。かれはそれを祝いの席にふさわしく、ある種の純潔さを感じさせる形式的なものにするつもりだった。だがセ・ネドラにはそんな気は毛頭ないらしかった。彼女はすっかりキスに没頭し、その熱烈さたるやガリオンがひるむほどのものだった。彼女の両腕はがっちりとガリオンの首を押さえこみ、その唇は糊づけしたように離れなかった。かれはすっかり取り乱しながら、いったい彼女はいつまでこれを続けるのだろうといぶかった。すでにかれのひざはがくがくし始めていた。
〈広間〉いっぱいの喝采がかれを危ういところで救った。公衆の面前でキスするときに困るのは、何といってもそれをいつまで続けていいものか見当がまったくつかないことである。短すぎれば誠意が足りないと受け取られ、長すぎれば人々の失笑を買うはめになる。リヴァ王ベルガリオンは、いささか間の抜けた笑みを浮かべて、列席者の方に顔を向けた。
式のあとには大舞踏会と晩餐会が引き続いてもよおされることになっていた。人々は楽しげに談笑しながら、長い廊下をぞろぞろ歩いて、大広間に向かった。きらびやかな飾りつけがほどこされた大広間は舞踏場に模様がえされ、ろうそくの光に明るく照らし出されていた。リヴァ人の演奏家からなる楽団は、気難しげなアレンド人の指揮者のもとに演奏していたが、しばしば独立独歩のリヴァ人たちは自分たちの好きなように即興演奏をしては、指揮者をひどく悩ませていた。
これこそガリオンがもっとも恐れていた瞬間だった。最初のダンスはまず新婚カップルだけで踊らなければならない。かれはセ・ネドラをともなって会場の中央へ行き、列席者の前でダンスすることになっていた。光輝く花嫁とともにフロアの中央に進み出たとたん、突然の恐怖とともにかれはあることを悟った。レルドリンに習ったことをかれはきれいさっぱり忘れ去っていたのだ。
南の宮廷でこの時期にはやっていた踊りは、優雅で複雑この上ないものだった。パートナー同士は同じ方向に顔を向け、男性は女性のかたわらの少し後ろに控えていなければならない。そして双方とも腕をのばして、相手の手を握りあうのだった。この動作に関しては比較的スムーズに行なえたが、問題は音楽にあわせて素早く踏まれるステップだった。
だがさんざん心配したわりには、ガリオンは何とかうまく切り抜けた。セ・ネドラの甘い髪の香りは相変わらずかれをぼうっとさせていた。踊っているあいだも、自分の手がぶるぶる震えているのがわかった。やがて一曲目が終わると、列席者から熱狂的な拍手喝采がわき起こった。楽団が二番目の曲に移ったところで、列席者たちも踊りに加わり、たちまち会場は色とりどりの輪でいっぱいになった。
「ぼくたちは何とかやりおおせたようだね」ガリオンが小声でたずねた。
「とても素晴らしかったわよ」セ・ネドラが勇気づけるように言った。
二人はなおも踊り続けた。
「ガリオン」しばらくしてから彼女が口を切った。
「何だい」
「本当にわたしを愛してるわよね?」
「もちろんだとも。何だってそんな馬鹿げたことを聞くんだい」
「馬鹿げてるですって?」
「ぼくの言いかたが悪かった」ガリオンはあわてて訂正した。「ごめんよ」
「ガリオン」しばらく間を置いてから彼女が言った。
「何だい」
「わたしもあなたを愛してるわ」
「そんなことわかってるよ」
「そんなことですって? これはとても大事なことなのよ」
「何でこんなところで口喧嘩をしなくちゃいけないんだい」かれは悲しげな口調で言った。
「あら、別に口喧嘩してるわけじゃないわ」セ・ネドラはつんとしたようすで答えた。「これは議論なのよ」
「なるほどね。それなら構わないよ」
それから二人は当初の打ちあわせどおり、列席者たちと踊らなければならなかった。セ・ネドラは高貴な宝物か何かのように、諸王の手から手へと渡された。一方ガリオンはいささか義務的に王妃たちをフロアの中央へ連れていってはダンスした。ドラスニアの小柄な金髪の王妃ポレンと、気品あふれたチェレク王妃イスレナはガリオンに有益な忠告を与えた。ぽっちゃりした小さなライラ王妃は母親のようにはしゃいでいた。シラー王妃はおごそかに祝福を与え、アレンディア王妃のマラセヤーナは、体を緊張させなければもっとうまく踊れることを助言した。深い緑色のブロケードで身を包んだバラクの妻メレルは、もっとも役に立つと思われる忠告をした。「むろん、たびたび喧嘩することもあるでしょうけれど」彼女は踊りながら言った。
「互いに怒ったまま眠ってしまってはいけません。わたくしもよくそれで失敗いたしましたわ」
最後にガリオンはいとこのアダーラと踊った。
「幸せかい?」
「あなたが思っているよりも、はるかに幸福よ」彼女は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「それじゃ、結局すべてがうまく行ったわけだね」
「ええ。まるですべてが前世から決められていたみたいな気がするわ。起こることすべてが必然のように思えるの」
「たしかにそれはあるかもしれないよ」ガリオンは考えこむように言った。「ときおり、ぼくたちが人生を支配できるのはごくわずかだと思えることがある。ぼくはそれに抵抗することができない」
アダーラは微笑んだ。「結婚式の花婿にしてはずいぶんしかつめらしいことを考えているのね」それから彼女はひどく真剣な表情になった。「セ・ネドラのすることに、いちいち目くじらをたてたりしちゃだめよ。それからいつも彼女に屈服してばかりいちゃいけないわ」
「きみはぼくたちのいきさつを知っているんだね」
彼女はうなずいた。「とにかく深刻に受けとめることはないわ。あの人はあなたを試しているだけなのよ」
「この上、まだ彼女に証をたてなければならないと言うのかい」
「セ・ネドラの場合だったら、たぶん毎日必要かもしれないわ。あなたの小さな王女さまのことなら、わたし十分わかっているつもりよ。彼女があなたにしてほしいことはただひとつ――あなたの愛の証なの。それを表明するのを恐れてはいけないわ。もしあなたがひとこと『愛してる』って――それもしばしば繰り返せば、どんなに彼女のご機嫌がよくなるかきっと驚くことよ」
「だってそんなこと彼女は百も承知のはずだ」
「でもあの人には言ってあげなくちゃだめなのよ」
「どれくらいそれを言えばいいんだい」
「そうね、一時間に一回というところかしら」
かれはアダーラが冗談を言っているのだと危うく信じこむところだった。
「センダー人が慎み深い国民だということはよく知っているわ。でも相手がセ・ネドラじゃ、通用しなくてよ。このさい、なじみの習慣は忘れて、ちゃんと言葉に出した方がいいわ。やっただけの価値はあるはずよ。わたしを信じてちょうだい」
「わかった、やってみるよ」ガリオンは約束した。
彼女は笑い、かれの頬にそっとキスをした。「気の毒なガリオン」
「何でぼくが気の毒なんだ」
「あなたにはまだまだ覚えなければならないことがたくさんあるからよ」
そして舞踏会はなおも続いた。
くたくたに疲れ、すっかり腹をすかせたガリオンと花嫁は、人々のあいだをすり抜けて、豪華な料理の並べられた食卓の前に腰をおろした。今日の晩餐は特別なものだった。結婚式のかっきり二日前、突然ポルおばさんが静かに台所にやってきたかと思うと、矢つぎばやに指示を下しはじめたのである。そのできばえは完璧だった。テーブルの上にずらりと並んだごちそうが素晴らしい匂いをはなっていた。おかげでローダー王はその前を通るたびにつまみ食いせずにはいられないようすだった。
ようやく務めから解放されたガリオンは、なおも続けられる音楽とダンスをほっとする思いで見守っていた。かれの目はなじみの友人たちを探し求めた。大男のバラクはひどくかしこまったようすで、妻のメレルと踊っていた。こうして見ると実に似合いの二人だった。一方レルドリンはアリアナと踊っていたが、すでに互いの顔をぼうっとしたようすで見つめあっていた。レルグとタイバは踊りの輪には加わらず、人目につきにくい隅に腰かけていた。だがガリオンは二人が手をつないでいるのを見た。レルグは相変わらず鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、もはや不幸の影は消えていた。
中央近いフロアでは、ヘターとアダーラが馬上で生活する人々特有の優雅なものごしを見せて踊っていた。ヘターの鷹のような顔は別人のようにやわらぎ、アダーラは幸福に頬を染めていた。ガリオンはアダーラの忠告を実行するには今がいいだろうと判断した。かれはセ・ネドラのピンク色をした小さな耳に口を寄せ、咳ばらいしてからささやいた。「愛してるよ」一回目はうまくいかなかったので、かれは慣れるためにもう一度試してみることにした。「愛してるよ」かれはもう一度ささやいた。今度は一回目よりずっとたやすかった。
そのひとことのもたらした効果は驚くべきものだった。彼女はさっと頬をばら色に染めた。その瞳は大きく見開かれ、まったく無防備でさえあった。セ・ネドラは一瞬言葉を失ったようすだったが、その代わりに手を伸ばすとそっとかれの顔にふれた。彼女に視線を返したガリオンは、例のひとことがもたらした絶大な効果に目を見はる思いだった。どうやらアダーラの言ったことは正しかったようだ。かれは頭の片すみに用心深くこの忠告をしまいこみ、ここ数ヵ月失われていた自信がよみがえるのを感じていた。
広間は結婚を祝う列席者の踊りの輪で、さまざまな色彩に満ちあふれていた。だがそのなかには周囲の幸せと切り離された人々がわずかながらいた。中央フロアの近くではマンドラレンがボー・エボール男爵夫人ネリーナと踊っていたが、かれらの人生に重くのしかかる不幸が相変わらず二人の顔を曇らせていた。二人からさほど離れていないところでシルクがポレン王妃と踊っていた。小男の顔にはガリオンがヴァル・アローンのアンヘグ王の宮殿で初めて見た、あの苦々しげな自嘲の表情が浮かんでいた。
ガリオンはため息をついた。
「もうふさぎの虫に取りつかれたの、だんなさま?」セ・ネドラがいたずらっぽい目をしてたずねた。彼女は席に着いたとたんかれの腕の下をかいくぐり、彼女らしいやり方で自分にぴったり引き寄せた。セ・ネドラの体からは相変わらず花のような香りがたちのぼり、ガリオンはその肉体がとても柔らかくて暖かいことを意識した。
「ちょっと昔のことを思い出していただけさ」
「そう、それならばなるべく今のうちに片づけてしまった方がいいわよ。後になってそんなものに邪魔されたくないから」
ガリオンが顔をまっ赤に染めると、セ・ネドラはいたずらっぽくほほ笑んだ。「それにどうやらそんな先のことじゃなさそうよ。あなた、レディ・ポルガラと踊らなくてはいけないわ。わたしはあなたのおじいさんと踊ることにするわ。それが終わったらわたしたちは引きあげましょう。今日はずいぶん忙しい一日だったし」
「そうだね、ぼくも少しばかり疲れたよ」
「あら、あなたの一日はまだ終わるわけじゃないのよ、ガリオン」セ・ネドラはつんとした口調で言った。
セ・ネドラの言葉にいささか当惑しながら、ガリオンはダーニクとともに座ってダンスを眺めているポルおばさんのところへ行った。「ぼくと踊ってくれる? ポルガラおばさん」かれはしゃちほこばったお辞儀をしながら申し出た。
彼女はからかうようなまなざしでガリオンを見た。「ついに認める気になったのね」
「認めるって何を?」
「わたしが誰であるかをよ」
「そんなこととっくに知ってるよ」
「でもこれまでちゃんとした名前で呼んでくれたことはなかったじゃない、ガリオン」彼女はそう言いながら手をあげて、かれの髪を後ろに撫でつけた。「これはとても重要な成長じゃなくて?」
二人はろうそくの光に照らされながら、ギターや笛で奏でられる調べにあわせて踊った。ポルガラのステップは、レルドリンが苦心惨憺して教えこんだそれに比べると、だいぶゆったりしていた。恐らく女魔術師ははるかな過去に思いをはせ、大昔にワサイト・アレンドで習い覚えた、優雅なダンスへとかれを誘っていたのだろう。二人はゆったりと典雅なステップを踏みながら、今ではポルガラの記憶にのみ姿をとどめる、どこか悲しげな二十五世紀前の失われたダンスを踊り続けた。
最後のダンスのためにベルガラスの手から戻されたセ・ネドラは、まっ赤に顔を染めていた。老人はいたずらっぽく笑いながら娘に一礼して、その手をとった。四人は互いにあまり遠くはないところで踊っていたので、ガリオンにはおばの声がはっきりと聞き取れた。「どう、わたしたちうまくやったかしら、おとうさん」
ベルガラスの微笑は心底からのものだった。「実際のところ、わしは上出来すぎると思っているくらいさ」
「それじゃ、わたしたちのやってきたことはむだじゃなかったのね」
「むろんだとも、ポルや」
四人は踊り続けた。
「おじいさんはいったい何て言ったんだい」ガリオンは小声でたずねた。
セ・ネドラの頬が再び赤く染まった。「別にたいしたことじゃないのよ――そう、後でね」
この謎めいた言葉を聞くのは二回目だった。
最後のダンスが終わると、居合わせる人々のあいだに期待に満ちた沈黙が広がった。セ・ネドラは父親のところへ行くと、軽くキスして戻ってきた。「さあ、どうするの」
「どうするって、何を?」
セ・ネドラは笑い出した。「まったくあなたってどうしようもない人ね」彼女はガリオンの手を固く握りしめると、断固とした足取りで広間を後にした。
それはたいそう遅い時刻だった――恐らくはま夜中を二時間ばかりも過ぎていたことだろう。気まぐれを起こした魔術師ベルガラスは、〈リヴァ王の要塞〉の人っ子ひとり見あたらない廊下をジョッキ片手にうろつきまわっていた。老人は少しばかり祝杯をあげすぎたので、すっかりほろ酔い気分だった。とはいえ、すでに前後不覚に酔いつぶれた他の列席者ほどではなかった。
ベルガラスは立ち止まって、戸口にこぼれたエールの水溜まりに長々とのびている衛兵の姿を見やった。ときに調子っぱずれの歌を口ずさみ、あるいはスキップを交えながら、白いあご髭を生やした魔術師は舞踏会場へと廊下を急いだ。そこならばまだエールのおこぼれにあずかれるかもしれないからである。
ちょうど〈リヴァ王の広間〉の前にさしかかったとたん、かれはかすかに開いてたドアから、内部の光が漏れ出ていることに気がついた。好奇心に駆られた老人は、誰がいるのか確かめようとドアの隙間に頭を突っこんだ。〈広間〉には誰もおらず、光はリヴァ王の剣のつか頭に安置された〈アルダーの珠〉から発せられたものだった。
「何だ」ベルガラスは石に話しかけた。「おまえさんだったのか」老人はいささかおぼつかない足取りで台座に向かう通路を歩いていった。「なあ、旧友よ」かれは目を細めて〈珠〉を見あげた。「どうやらおまえさんも、みんなに取り残されて一人ぼっちらしいな」
〈珠〉が老人を確認するようにまたたいた。
ベルガラスは台座の角にどさっと腰をおろすと、エールをひと口飲んだ。「なあ、われわれは苦楽を長年ともにしてきた仲じゃないかね」老人は〈珠〉に向かって話しかけるように言った。
〈珠〉は何も答えなかった。
「まったく年がら年中そんなふうに堅苦しくしていなくたってよさそうなものだ。おまえさんは実に退屈な仲間だよ」そう言って老人はもうひと口エールをあけた。
双方ともしばらくは無言だった。ベルガラスは長靴の片方を脱ぐと、ため息をついて気持ちよさそうに足指を動かした。
「おまえさんには何が何だかわからんのだろう」しばらくしてから老人が言った。「おまえは憎しみだの忠義だの義務だのといったことは理解できても、あわれみや友情、愛といった感情――まあ、わしにいわせればほとんどは愛だが――を理解できないのさ。おまえさんがこれらを理解できないというのは実に残念なことだと言わねばなるまい。なぜならすべての事態を解決したのは、ひとえにそういった力によるものだからさ。それはこの世のはじめから存在していたのだ――だが、おまえさんは気づかなかった。そうじゃないかね?」
〈珠〉は相変わらず答えようとしなかった。その関心はあきらかに別のものに向けられているようだった。
「いったい何にそんなに一生懸命になっておるのかね」
青く輝く〈珠〉は再度光をまたたかせた。すると突然どこからともなくうすいピンクがかった色があらわれ、しだいにその濃さを増していった。まるで〈珠〉全体が赤面しているようだった。
ベルガラスは好奇心に輝く目で王の私室の方を見やった。「なるほど」すべてを了解した老人はくすくす笑い出した。
〈珠〉はますます赤くなった。
ベルガラスは笑いながら長靴を履きなおして立ちあがった。「たぶん、おまえさんはわしが思っていたよりも、はるかにものわかりがよかったのかもしれんな」老人はそう言って、ジョッキに残った最後のひと口を飲みほした。「ひと晩中ここにいて、そのことを話しあいたいのはやまやまだが、あいにくエールが切れてしまった。申しわけないが、これで失礼させてもらうよ」そして老人は通廊を引き返した。
ドアの戸口にさしかかったところで、相変わらずまっ赤に染まった〈珠〉に、老人は今一度おもしろがっているような視線を送った。そしてくすくす笑いながら廊下に出ると、そっと背後のドアを閉めた。
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かくて『予言の守護者』より始まる
一連のベルガリアード物語はここに終わる。
だが死を免れえぬ筆者とは別に
歴史がいつまでも続くように
これより先の記録はまだあきらかにされていない。
[#ここで字下げ終わり]
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訳者あとがき
皆さま大変お待たせいたしました。〈ベルガリアード物語〉最終巻をここにお届けいたします。センダリア国の農園で皿洗いをしていたガリオン少年は、ついに邪神トラクを倒し、名実ともにリヴァの王様になって、美しいお姫様をお嫁さんにもらいました。めでたし、めでたし……といきたいところなのですが、まだまだ前途は険しいようです。
本書の魅力はストーリー・テリングの面白さもさることながら、何といっても登場人物の魅力にあるのではないかと思います。魔法使いベルガラス、その娘のポルガラの破天荒なキャラクター。漫才のようなやりとりをする王様たち。シルク、バラクといった重要な脇役たち。それに何といっても強烈な印象を与えるセ・ネドラ姫。こう考えてみると、主人公のガリオンが一番精彩がないようにさえ思えるのですが、これはこれで主人公の成長ぶりを描いていくためにはやむをえないことなのでしょう。とにかくキャラクターが作者の手を離れてはつらつと動きまわっているようなイキの良さが、この作品の一番大きな魅力です。それだけにいわゆるエピック・ファンタジー特有のくさみがなく、それこそ子供から大人まで楽しめる物語になっているといえましょう。ファンタジーにアレルギーを示す方にも、ぜひ御一読をおすすめしたいと思います。
すでに第一巻の解説でも触れられていますが、作者のデイヴィッド・エディングスは一九三一年ワシントン州スポケインの生まれといいますから、当年とって五八歳のおじさまになるわけです。何となく映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』のピーター・フォーク演ずるところの、孫息子にお話を聞かせるおじいさんを連想してしまうのは私だけでしょうか。
さて、これまた第一巻に触れられているとおり、物語はまだこれで終わったわけではありません。早くも続篇〈マロリオン物語〉五部作の構想が発表されていますので、ファンの方に少しばかりご紹介しておくことにいたしましょう。
1 Guardians of the West (1987)
2 King of the Murgos (1988)
3 Demon Load of Karanda (1988)
4 Sorceress of Darshiva (未刊)
5 The Seeress of Kell (未刊)
この続篇では、ベルガリアード最終巻になっても、ついにその正体がわからなかったエランド少年の存在がにわかにクローズ・アップされてきます。物語はガリオンとセ・ネドラの婚儀を終えたベルガラス、ポルガラとダーニク、そしてエランド少年が一家(?)そろって〈アルダー谷〉へ戻るところから始まります。娘と泣く泣く別れるはずのベルガラスは、新婚夫婦にちょっかいを出してはポルガラを悩ませ、普通の女性(?)に戻るはずのポルガラは、エランド少年の不思議な能力を目にして、前途の多難さにため息をつき、ガリオンとセ・ネドラは早くも夫婦喧嘩をして子供は作らないと宣言するなど、あいかわらず賑やかです。カル・トラク亡き後、カル・ザカーズと名乗り始めたマロリー帝国皇帝や、一時は衰退したはずの熊神信者などの不穏な動きはありましたが、ガリオンもようやく王様らしくなり、セ・ネドラとの間にめでたく王子も誕生します。そんなさなかにある日突然、ガリオンとエランドは「ザンドラマスに注意せよ!」という不思議な警告を〈珠〉から受けるのです。そういえばガリオンとエランドの不思議な結びつきは、〈ベルガリアード物語〉第四巻でもほのめかされていましたね。この後、ガリオンは彼にとって非常に大切なあるもの[#「あるもの」に傍点]のために、仲間たちと再び探索の旅に出ることになるのですが、これ以上紹介すると読者の興味をそいでしまうのでやめにしておきましょう。むろん続篇もすべてハヤカワ文庫FTから邦訳が予定されていますので、お楽しみに。
最後になりましたが、原稿を遅らせていろいろとご迷惑をおかけした編集部の引田直巳氏と、首を長くして全巻完結を辛抱強く待ってくださったファンの皆さま方に、心からのお礼を申し上げたいと思います。
底本:「ベルガリアード物語5 勝負の終り」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1989(平成元)年02月28日 発行
1998(平成10)年06月15日 五刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年08月09日作成
2009年01月31日校正
2009年02月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] ベルガリアード物語 5 勝負の終り.zip iWbp3iMHRN 118,416,602 d9b10df1d77bb4e1bc625eadba39d520
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ19行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するしかないでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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注意点、気になった点など
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120行 * 編者注:ここに述べられた一文は〜
底本ではこの文のフォントは通常文のより小さい。
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本10頁10行 ミンブレイド人
ド→ト
底本98頁13行 王者の閏房が
閨房
底本124頁10行 命に別条がある
別状
底本162頁3行 がわもの顔にのし歩き
わがもの顔
底本162頁6行 いくらこれは何でも
いくら何でもこれは
底本172頁4行 蛇神の女王をうしろには
女王のうしろ
底本192頁1行 崇めるようにひざますぎ
ひざまずき
底本232頁2行他、計7箇所 マラセヤーナ
マヤセラーナ
底本263頁10行 態神信者
熊神信者
底本264頁4行 グロデク
グロデグ
底本276頁9行 フラルク王
フルラク王
底本250頁12行 グレルティグ
グレルディク
底本374頁9行 ミンブレト騎士団
ミンブレイト騎士団
底本447頁17行 言ったりきたりしていた。
行ったりきたり
底本522頁3行 プロデグ
グロデグ