ベルガリアード物語4 魔術師の城塞
CASTLE OF WIZARDRY
デイヴィッド・エディングス David Eddings
柿沼瑛子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)声で聾《ろう》せんばかり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いまひとつはつか[#「つか」に傍点]にするがよい
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[#ここから4字下げ]
ビビディー
ならびにチョッパー・ジャック
そしてジミーとエディー
最初からわたしを支えてくれた
特別な親友たちのために
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
プロローグ
第一部 アルガリア
第二部 リヴァ
第三部 ドラスニア
第四部 リヴァの女王
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
魔術師の城塞
[#改ページ]
登場人物
ガリオン(ベルガリオン)………………主人公の少年
セ・ネドラ…………………………………トルネドラの王女
ベルガラス(ウルフ)……………………魔術師
ポルガラ(ポルおばさん)………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………鍛冶屋
シルク………………………………………ドラスニア人
バラク………………………………………チェレク人
ヘター………………………………………アルガリア人
マンドラレン………………………………ミンブレイド人
レルドリン…………………………………アレンド人
レルグ………………………………………ウルゴ人
タイバ………………………………………マラグ人
エランド……………………………………〈珠〉をもつ少年
グレルディグ………………………………船長
アダーラ……………………………………ガリオンのいとこ
[#改丁]
プロローグ
[#ここから2字下げ]
〈鉄拳〉リヴァはいかにして〈アルダーの珠〉およびニーサの邪悪に対する〈守護者〉となりしか。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――『アローンの書』およびその補遺より
ついにチェレクとその三人の息子たちが、魔術師ベルガラスとともにマロリーに入る日が来た。かれらは不具の神トラクによって奪われた〈アルダーの珠〉を取り戻すためにあちらこちらを探し求めた。そしてトラクが〈珠〉を隠した鉄塔までやってきたとき、この強力な宝石を手に捧げ持つことができたのは一番年若い息子の〈鉄拳〉リヴァのみであった。なぜならかれだけが心のうちなる悪の意志より自由だったからである。
かれらが再び西へ向かう途中、ベルガラスはリヴァとその子孫たちを未来永劫にわたる〈珠〉の守護者とすることを定め、こう言った。「〈珠〉がおまえとその子孫たちのもとにあるかぎり、西の国々は安泰であろう」
リヴァは〈珠〉を持ち、家来ともども〈風の島〉にむけて出帆した。そして船の上陸地に適していると思われる場所に要塞を築き、そのまわりに城壁をめぐらした都市をつくった。人々はその地をリヴァと呼んだ。それはいくさのために建てられた要塞都市だった。
要塞のなかには巨大な広間があり、そこには壁にぴったりつくようにして黒い石で刻まれた玉座があった。人々はこの玉座のある部屋を〈リヴァ王の広間〉と呼んだ。
あるときリヴァが深い眠りに落ちると、その夢のなかでアローン人の熊神ベラーがあらわれてこう言った。「〈珠〉の〈守護者〉よ聞け。われは空よりふたつの星を落とす。汝はただちにそれらを拾いあげ、火にかざして鍛練せよ。ひとつは刃に、いまひとつはつか[#「つか」に傍点]にするがよい。それらはともにわが兄弟アルダーの〈珠〉を守る剣となろう」
目覚めたリヴァは空にふたつの星が落ちるのを見て、それらを探し求め、高い山の上で見いだした。そして熊神ベラーが夢のなかで教えたとおりのことを行なった。だができ上がった刃とつか[#「つか」に傍点]は何としてもぴったりあわせることができなかった。リヴァは泣き叫んで言った。「何ということだ。わたしはすべてを台無しにしてしまった。それが証拠に剣はひとつにならないではないか」
するとリヴァのかたわらに座って一部始終を見守っていた狐が言った。「いや、台無しになどなってはおらん。つか[#「つか」に傍点]を上に向け、〈珠〉がつか[#「つか」に傍点]頭の上につくように置くがいい」リヴァが狐の言うとおりにすると〈珠〉とつか[#「つか」に傍点]はひとつになった。だが依然として刃とつか[#「つか」に傍点]は一致しなかった。狐が再び助言を与えた。「刃を左手に、つか[#「つか」に傍点]を右手に持って二つを合わせるがいい」
「合いなどしませんよ。そんなことは不可能だ」とリヴァは言った。
「やってもみないうちに駄目だとわかるほどおまえさんは利口なのかね」と狐は言った。
これを聞いたリヴァはおおいに自らを恥じた。かれが刃とつか[#「つか」に傍点]を教えられたとおりに持つと、刃はまるで水の中に差しこんだかのようになめらかに入った。こうして剣は永遠にひとつのものとなった。
狐は笑って言った。「剣を持っておまえの目の前の岩を打ってみるがよい」
リヴァは刃を傷つけるのではないかと恐れたが、言われたとおりに岩に向かって振りおろした。すると岩はまっぷたつに裂け、中から水が噴き出した。水は下の町へ流れとなって落ちていった。そして東のはるかかなたのマロリーでは、不具のトラクが心を流れ落ちる冷たい不安に、床からがばとはね起きた。
狐はふたたび笑い声をあげた。そして走り去ろうとしたが、いま一度立ち止まると後ろを振り返った。リヴァはそれがもはや狐などではなく、ベルガラスが姿を変えた巨大な灰色狼であることを知った。
リヴァは玉座の後ろの黒い岩の壁に、刃を下にしてつか[#「つか」に傍点]の〈珠〉が上にくるように剣を置いた。すると剣は自然に壁にはりついた。そしてリヴァ以外のいかなる者もこれを取りはずすことはできなかったのである。
歳月がたち、人々はリヴァが玉座に座るたびに〈珠〉が冷たい炎をあげて燃えるのを見た。かれが剣をおろし、宙に差しあげるたびにその先端から青く長い炎の舌が噴き出した。
剣が鍛造されてから何年かのちのある春の初め、一そうの小さな舟が櫓も帆もつけずに黒い〈風の海〉のうえを滑っていった。舟にはこの世で一番美しいだろうと思われる乙女がひとり乗っているだけだった。乙女の名はベルダランといい、ベルガラスの愛娘で、リヴァの妻となるために来たのである。あたかも時の初めから定められていたかのようにリヴァの心は乙女への愛でいっぱいになった。
ベルダランがリヴァのもとに嫁いでから数年のち、〈エラスタイド〉祭の日にかれらのあいだに息子が生まれた。リヴァの息子の右手には〈珠〉のかたちをしたしるしがあった。リヴァはただちに赤子を〈リヴァ王の広間〉へつれていき、その小さな手を〈珠〉の上にかざした。〈珠〉はすぐに子供を認め、愛情で一段と明るく輝いた。それ以後、リヴァの子孫が必ず右手に〈珠〉のしるしを持って生まれるたびに、〈珠〉はそれを認め、かれらには何の害も及ぼさなかった。なぜならリヴァの血を引くものだけが安全に〈珠〉にふれることを許されていたからである。あらたな赤子が手をかざすたびに〈珠〉とリヴァの血統の絆は深まっていった。結びつきが強くなるにつれ、〈珠〉の光もいっそう輝きを増した。
かくして要塞都市リヴァのうえを幾千年もの歳月が通りすぎていった。時として通商を求めるよそ者の船が〈風の海〉をうろつくこともあったが、〈風の島〉を警護するチェレクの船に襲われ、たちまちのうちに撃沈された。だがやがてアローンの王たちは集まり、会議の席上でこれらのよそ者がトラクに仕えるものではなく、ネドラの神を崇める者たちだという見解に達した。そしてかれらの船を妨害することなく〈風の海〉を行き来させることで合意した。「なぜなら」とリヴァ王は仲間の王たちにこう語った。「いつの日かネドラの息子たちがわれわれとともに〈片目〉のトラクの配下のアンガラク人たちと戦う日がくることだろう。なにもその息子たちの船を沈めてネドラの感情をそこねることはない」リヴァの支配者は思慮深く語り、アローンの王たちもこれに同意した。かれらもまた世の中が変わりつつあることを知っていたのである。
そしてネドラの息子たちとのあいだに条約が取り交わされた。ネドラの息子たちはたかだか何枚かの羊皮紙に署名することに子供じみた喜びを隠さなかった。だがかれらの安っぽい装身具を山と積みこんだ船がリヴァの港に入ったとたん、リヴァ王はその愚かしさを笑い、街への門の扉を閉じさせた。
ネドラの息子たちは皇帝と呼ばれるかれらの王に、リヴァの街で商売ができるよう門を押し破ってほしいとしつこく嘆願した。皇帝はさっそくかれの軍隊を〈島〉に派遣した。たしかにトルネドラを名のるよそ者たちの海上の行き来を妨げないことにはなっていたが、何の予告もなしに軍隊をリヴァの門の前に上陸させるとなれば話は別だった。リヴァの王は街の前の岸辺や港からトルネドラの船を一掃せよと命じた。命令はそのとおりに遂行された。
トルネドラの皇帝の怒りはすさまじかった。かれは軍隊を召集して海をわたり、戦争を始めようとしていた。平和を愛するアローンの王たちは再び一堂に会し、猛り狂う皇帝になんとか理をふくめようとした。さっそくメッセージが送られ、もしこのまま戦いに固執するなら、かれらはいっせいに軍を起こして皇帝とその帝国を破壊し、すべての残骸を海に掃き捨てるだろうと伝えた。そして皇帝はこの穏やかな諌言をいれて無謀な冒険を先にのばすことにした。
何年かたつうちにトルネドラ人の商人たちに何の害意もないことを知ったリヴァ王は、街の前の浜辺に村をたて、かれらのやくたいもない品物を売ることを許可した。商売や交易に血道をあげるトルネドラ人の姿は王を楽しませ、側近にもかれらのものを少しばかり購入してやるようにと言った。それらは買っても役にたちそうもないものばかりだったが。
そして呪われたトラクが〈珠〉を盗んで世界に深い亀裂をいれてからちょうど四千二年目、ネドラの息子たちが要塞都市の外にたてた村に別のよそ者がやってきた。かれらはイサの神の息子たちだということだった。ニーサと名のるよそ者たちはかれらの支配者が女性だといったが、それを聞いた者たちは皆奇異に思った。その女王の名前はサルミスラといった。
かれらは身なりを偽り、女王よりリヴァ王とその一家あての贈り物をたずさえてきたのだと言った。これを聞いたリヴァの血筋を引く年老いた賢王ゴレクは、イサの息子たちとかれらの女王にいたく興味を覚えた。王は王妃とふたりの息子、その妻たちや孫たちを総出で引きつれて要塞から街に出て、ニーサ人の天幕を訪れた。王はかれらに丁重な挨拶の言葉を述べ、スシス・トールの遊女からのつまらない贈り物を受けとった。歓迎のほほ笑みとともに王とその家族たちはよそ者たちの天幕に招じ入れられた。
呪われた卑劣なイサの息子たちが、リヴァの血を引くあらゆる種子と果実に襲いかかった。かれらの武器には毒薬が塗られていたので、ほんのわずかなすり傷でも命取りになった。
老いたりとはいえど強力のゴレクは暗殺者たちと戦った。だがそれはかれ自身の命を救うためではなかった。すでに最初の一撃で死が血管をめぐるのを悟ったかれは、せめて孫息子のひとりでも生きのびさせてリヴァの血筋を絶やすまいとしたのである。だが、たった一人海に飛びこんで逃れた子供をのぞいて、王の一族は皆非業な最期をとげた。これを見た王はそのマントで頭をおおい、うめき声をあげ、ニーサ人の凶刃のもとに倒れ伏した。
要塞の〈番人〉ブランドにこの知らせが入ったときの怒りは凄まじかった。裏切り者の暗殺者たちはすぐに取りおさえられ、一人ずつブランドじきじきの、いかなる剛の者でも震えあがるような尋問を受けた。そのあげくかれらの口からしぼり出すことのできた事実は、次のようなものであった。ゴレク王とその一族はニーサの蛇の女王サルミスラの指示のもとにだまし討ちにあったのである。
海に身を投げた子供のゆくえはようとして知れなかった。暗殺者のひとりは白いふくろうが飛びかかって子供をさらっていったのだと言った。人々は誰も信じなかったが、どんなに厳しく責めたてられてもその言を変えることはできなかった。
やがて全アロリアはイサの息子たちと苛烈な戦いにはいり、街という街を打ち壊し、目に入る限りのあらゆる民を惨殺した。その最後の数時間のうちにサルミスラは、すべての悪事が〈片目〉のトラクとそのしもべゼダーのそそのかしによるものだということを告白した。
それ以後リヴァの王と〈珠の守護者〉は空位となったが、ブランドとその一族が不本意ながら王国を統治することとなった。それからのち何年にもわたってとりとめもない噂がささやかれた。リヴァの子孫がどこか遠い地に身をひそめているというのである。だが灰色のマントをまとったリヴァ人たちがいくら探しまわろうとそのゆくえは知れなかった。
剣はリヴァが置いたとおりのままに残り、〈珠〉は依然としてつか[#「つか」に傍点]にぴったりついていたが、その輝きはすっかり失われていた。人々はいつしかリヴァの王が空位のままでも〈珠〉がその場所にあるかぎり、西は無事なのだと思いこむようになっていた。あえて〈珠〉を動かそうとする者がいるとも思えなかった。なぜならリヴァの子孫以外の者がそれに手をふれようものなら、たちまちのうちに残らず黒焦げになってしまうからである。
だがその部下の手でリヴァ王と〈珠の守護者〉を抹殺したことに気をよくした〈片目〉のトラクは、再び西の国々の征服に乗り出した。やがてあまたの時を経た後、かれはアンガラク人の巨大な軍隊をみずから率い、従わざる者たちを滅ぼすための遠征に出た。略奪者らの群れはアルガリア中を荒れ狂い、アレンディアにむかい、ついにボー・ミンブルの街にまで迫った。
ここにいたりベルガラスとその娘である魔術師のポルガラは〈リヴァの番人〉ブランドに助言を与え、かつこれを補佐するためにその元におもむいた。二人の協力を得たブランドはその軍隊をボー・ミンブルに派遣した。そして街の前で行なわれた血みどろの戦いにおいてかれはトラクを滅ぼすために〈珠〉の力を利用した。ゼダーは主人の体を戦場から連れ去り、いずことも知れぬ場所に隠した。だが術者のわざをもってしても、その神を目覚めさせることはできなかった。かくして西の人々は〈珠〉とアルダーの神に守られ、再び安堵の胸をなでおろしたのである。
やがてリヴァの王、すなわちリヴァの血をひく者が再びあらわれ、〈リヴァ王の広間〉の玉座につくであろうという予言が流れた。そして何年かのちには王が再びあらわれる日のために、トルネドラ皇帝の娘は十六歳の誕生日をむかえるたびにその花嫁として、〈リヴァ王の広間〉を訪れなければならないと主張する者もあらわれた。だがそのような噂を気にとめるものはごくわずかだった。歳月はやがて何世紀にもなったが依然、西の国々は安泰だった。〈珠〉は剣のつか[#「つか」に傍点]の上でじっと暗い輝きをはなっていた。そして恐るべきトラクはこの世界のどこかでリヴァ王があらわれるまで眠り続けているのだと言われた――すなわち永遠に。
かくして物語はいったん終わるかに見えた。だが真の物語に終わりというものはあり得ない。またこの世に盗みや破壊を行なおうとする狡猾な者たちがいるかぎり、真の安泰は訪れることもない。
再び長い年月がたった。そしてあらたな噂がささやかれたが、それは権力の頂点にいる者たちを脅かすに足るものだった。〈珠〉が盗まれたという噂がまことしやかに流された。そして再び西の国々へ向かうベルガラスとポルガラ父娘の姿が見られた。かれらはガリオンという名の少年を同行し、少年はベルガラスを祖父と、ポルガラをおばと呼んだ。王国を遍歴するかれらのまわりには、いつしか不思議な仲間たちが集まっていた。
一堂に会したアローンの王たちの前で、ベルガラスは剣の〈珠〉を盗み出したのが〈裏切者〉ゼダーであり、依然東にむかって逃走中であり、恐らくは眠れるトラクを覚醒させるために〈珠〉を使うのだろうと告げた。ベルガラスはこれよりかれの仲間たちとともに〈珠〉を取り返しにいかねばならないのだとも。
やがてベルガラスはゼダーが〈珠〉を安全に扱うことのできる純真無垢な子供を見つけたことを知った。だがそれは、邪悪な危険きまわりないトラクに仕えるグロリム僧侶たちの本拠にわたり、〈珠〉と子供はゼダーから魔法使いクトゥーチクの手にわたっていた。
やがてベルガラスと仲間たちの〈珠〉をもとめる探索行はベルガリアード物語として知られるようになった。だがその終わりは〈予言〉の中で依然混沌としたままだった。そして〈予言〉でさえその真の結末は明らかになってはいなかったのである。
[#改丁]
第一部 アルガリア
[#改ページ]
クトゥーチクは死んだ――死などというなまやさしいものではなかった。そして大地はかれの崩壊の余波を受けて揺れ動き、うなり声をあげた。ガリオンとその仲間たちはぐらつく玄武岩の尖塔の蜂の巣のように錯綜する暗い通路を駆けおりていった。岩はかれらのまわりでぎしぎしときしみ、あるいはピシッという音をたてた。暗闇のなかを天井から粉みじんの破片が雨あられと降りそそいだ。一目散に走りながらもガリオンの心はめくら滅法にはねまわった。かれの思考はてんでんばらばらに入り乱れるばかりだった。あまりのとてつもなさにあらゆる理性が麻痺してしまったかのようだ。かれの頭にはとにかく必死で脱出することしかなかった。ガリオンは何も考えず、周囲に注意すら払うことなく、ただ心臓の鼓動と同じような機械的動作で足を交互に動かしつづけるばかりだった。
かれの耳は高らかに歌いあげる声で聾《ろう》せんばかりだった。歌はぽっかりうつろになった心の奥からわきあがり、いっぱいに響きわたった。それはかれの思考を消し、しびれるような驚異の念で満たした。おそいかかる心身の混乱にもかかわらず、ガリオンはかれを頼る小さな手の存在をいたいほど感じた。クトゥーチクの無気味な尖塔で発見された少年は、〈アルダーの珠〉を小さな胸にしっかり押しつけるようにしてすぐ横を走っていた。ガリオンにはかれの心を満たしているのが〈珠〉の歌声だということがわかっていた。それはこの尖塔の階段をかけあがるときからかれの耳にささやきかけ、それが置かれていた部屋に入ったとたん高らかに鳴り響いたのである。かれの思考を麻痺させているのは、衝撃や、クトゥーチクを破壊しベルガラスをまるで縫いぐるみの人形のように地面に転がした爆発や、それにともなう無気味な地震の震動などではなく、ほかならぬこの〈珠〉の歌だった。
ガリオンは走りながらも必死にそれと戦い、何とか心を集中させようとしたが、歌がそのたびに妨害にはいって、かれの思考を追い散らしてしまうのだった。頭のなかで気まぐれな印象やとりとめもない記憶の断片があちこちに飛び交い、理路整然とした思考などまったくできる状態ではなかった。
崩壊しつつあるラク・クトルの底に立ち並ぶ、湿っぽい奴隷の檻の悪臭がたちのぼってきた。あたかもその匂いに刺激されたかのように、他のさまざまな匂いの記憶が次から次へとガリオンの上に押し寄せた――ファルドー農園の台所でポルおばさんの焼くパンの香ばしい匂い、探索の第一歩をセンダリアの北部海岸のダリネにしるしたときの海の潮の匂い、ニーサのジャングルや沼地の悪臭、瓦礫と化したラク・クトルの壁の上になおも崩れ落ちかかるトラクの寺院で、いけにえの哀れな奴隷が焼かれるむかつくような異臭などを。だが不思議なことにかれの混乱する記憶の中でもっとも鮮明な匂いは、王女セ・ネドラの日の光に暖められた髪の甘い香りだった。
「ガリオン!」暗闇をかけぬけるガリオンのすぐ横でポルおばさんの声がした。「どこへ行くつもりなの!」かれは危うく降り積もった天井の瓦礫の山につまずく直前で、あらぬかたへさまよう心を必死に引きとめた。
地震の地鳴りと轟音に無気味な共鳴をなすようにして、じめついた小屋に閉じこめられた奴隷たちの恐怖に満ちた悲鳴がかれらのまわりに起こった。同時に暗闇の中からあらたな音が聞こえてきた――耳障りなマーゴ語の混乱した叫び声、よろめき逃げまどう足音、波打つ起伏に揺らぎ、震え、せり上がる巨大な尖塔の牢獄の鉄扉が激しく揺れてからんからん鳴る音。暗い穴にほこりがもうもうとたちこめ、目をちくちくと刺す細かい石のちりが舞いあがり、瓦礫の山を越える一行を絶え間なく咳きこませた。
ガリオンはかれを信頼しきっている子供をそっと瓦礫の山の上に乗せた。子供はガリオンの顔をじっと見つめ、むっとするような暗闇の騒音と悪臭のさなかにも落着きはらってほほ笑んでいた。ガリオンは再び子供を地面におろそうとしたが、途中で考えを変えた。むしろ抱えていった方が安全でたやすいだろう。通路を再び走ろうとしたかれは、足に何かぐにゃりとした感触を覚えてあわてて飛びのいた。床を見おろしたとたん、嫌悪のあまりむかつきを覚えた。落石の下から突き出た命なき手をかれは踏みつけていたのだ。一行は揺れ動く暗闇のなかを、マーゴ人の黒衣を足元にはためかせながら走った。ほこりは依然としてかれらのまわりにもうもうとたちこめていた。
「止まれ!」ウルゴ人の狂信者レルグは叫び、手を上げて頭を一方にかしげ、耳をそばだてた。
「こんなところで止まれるか!」バラクは気を失ったベルガラスを抱きかかえたまま、なおも下り続けた。「レルグ、行くぞ」
「静かにしてくれ!」レルグが命じた。「今、聞こうとしてるんだ」しばらくしてから男は頭を振った。「戻れ!」ひと声呼ばわると、あわただしく踵を返し、一行を押し戻した。「走れ!」
「後ろにはマーゴ人たちがいるんだぞ」バラクが異をとなえた。
「いいから走れ。山のこちら側が崩れようとしている!」レルグが繰り返した。
かれらがいっせいに向きを変えると同時に、あらたな恐ろしい轟音がまわりを取り囲んだ。岩は頑強に抵抗するかのようにぎしぎしと音をたてながら、広大な範囲にわたって引き裂け、崩れ落ちた。突然、玄武岩の尖塔の横っ腹にぽっかりあいた巨大な裂け目から光がさし込み、かれらの逃げる通廊を照らし出した。裂け目はしだいに広がり、崩れ落ちた山腹の巨大な岩がごろごろと何千フィートも下の荒れ地の床にむかって転げ落ちていった。昇り始めたばかりの太陽の深紅色の光が、暗黒の世界をあかあかと照らし出した。洞穴は荒々しくあばき出され、尖塔の横腹にあいた巨大な裂け目は上下一ダース以上もの洞穴が消え去ったあとの暗い空間をあらわにしていた。
「いたぞ!」頭上から叫ぶ声がした。ガリオンは慌ただしく首をめぐらした。恐らく五十フィートはあろうかと思われる上方に六人ばかりの黒装束のマーゴ人たちが、剣を抜き、もうもうたる土ぼこりを浴びながら洞穴の入口に立っていた。中の一人は興奮したように脱走者たちを指さしていた。次の瞬間あらたな隆起が起こり、ぺろりとはがれ落ちた一枚岩は金切り声を上げるマーゴ人の一団を乗せたまま底無しの奈落へ落ちていった。
「走れ!」レルグが再び叫び、一行はかれの後を追って揺れ動く回廊の暗闇に踵を返した。
「ちょっと待ってくれ」バラクは何百ヤードか戻ったところで出し抜けに立ちどまり、あえぎながら叫んだ。「ひと息つかせてくれ」かれはベルガラスを床におろした。巨大な胸が激しく上下している。
「よろしければお手伝いさせていただこう」マンドラレンが急ぎ申し出た。
「けっこうだ」バラクは息をつまらせながら言った。「ちゃんと自分でできるさ。ただ少しばかり息が切れただけだ」大男はあたりを見まわした。「いったいぜんたい何が起こっているんだ。そもそもの原因は何なんだ」
「ベルガラスとクトゥーチクの間で少しばかり意見が対立したのさ」シルクが控えめに表現した。「それがいささか手にあまり過ぎたってわけでね」
「クトゥーチクはどうなったんだ」バラクはあい変わらずぜいぜい息を切らしながらたずねた。
「マンドラレンとおれが部屋に入ったときには誰もいなかったぞ」
「あの男は自分自身を破壊してしまったのよ」ひざまずいたポルガラが、父の顔をのぞき込みながら言った。
「だが、遺骸とおぼしきものも見当たらぬようでしたが」巨大な広刃の剣を手にしたマンドラレンが暗闇を見すえるようにして言った。
「やつの体はたいして残っちゃいなかったのさ」とシルク。
「ここにいて大丈夫なの」ポルガラがレルグにたずねた。
ウルゴ人は通路の壁に片耳を押しつけ、じっと様子をうかがってからうなずいてみせた。
「しばらくの間は大丈夫でしょう」
「それじゃあここでしばらく休みましょう。おとうさんの具合を見たいわ。明かりをちょうだい」
レルグはベルトに吊した小袋をさぐり、二種類の異なった粉を混ぜ合わせてかすかなウルゴの光をつくり出した。
シルクは好奇心をそそられたようなまなざしを彼女に投げた。「だがいったい実際に何が起こったんですか」シルクはたずねた。「ベルガラスはクトゥーチクに例のやつをやったのかな」
彼女は首を振った。その手は父親の胸に優しくふれていた。「クトゥーチクは何らかの理由で〈珠〉を破壊しようとしたのよ。でも何かがひどくかれを怯えさせ、第一の原則を忘れさせてしまったんだわ」
少年を足もとにおろしたガリオンの脳裏に一瞬ひらめくものがあった。グロリムが「なくなれ!」の一言とともに砕け散る前にちらりと見えたクトゥーチクの心だった。かれは再び高僧の心に浮かんだひとつのイメージを捕らえた。それはかれ自身が〈珠〉を抱いている姿だった。そしてクトゥーチクをつき動かしたわけのわからない理不尽な恐怖をも。だがいったいなぜだ。なぜかれの姿がグロリムの高僧に致命的な過ちをおかさせるほどの恐怖を与えたのだろう。
「ポルおばさん、いったいやつの身に何が起こったんだ」ガリオンはなぜか理由を聞かずにはいられなかった。
「あの男はもはや存在しないわ」と彼女は答えた。「かれを形づくっていた物質さえ消えうせてしまったのよ」
「そんなことを聞きたかったんじゃない」ガリオンは反論しかけたが、すでにバラクが口を開いていた。
「やつは〈珠〉を破壊したんですかね」大男はかすかな嫌悪を声ににじませながら言った。
「この世のなにものをもってしても〈珠〉を破壊することなどできやしないわ」彼女は平静な声で答えた。
「じゃ、いったいどこにあるんですか」
男の子はガリオンの手を振りほどいて、つかつかと巨大なチェレク人に向かって歩いていった。「使命《エランド》?」少年は丸い灰色の石を取り出して言った。
バラクはさしだされた石から飛びのいた。「ベラーの神よ!」大男は神の名をとなえながらあわてて両手を背中にまわした。「この子にそんなものを振りまわさせないで下さいよ、ポルガラ。これがどんなに危険なものかわかっちゃいないんですかね」
「そうらしいわね」
「ベルガラスの具合はどうですか」シルクがたずねた。
「心臓の鼓動はしっかりしているわ」ポルガラが答えて言った。「ただかなり消耗しているのよ。あの戦いであやうく命を落とすところだったんですからね」
長く尾を引く震動を残して地震はおさまったかにみえた。静寂がかえって耳障りなほどだった。「これで終わったのかな」ダーニクは不安げにあたりを見まわしながら言った。
「いや、恐らく違うだろう」レルグの声が突然のしじまの中に消えていった。「地震というものはしばらくはおさまらないものだからな」
バラクは興味深げに少年を見つめた。「この子はいったいどこから来たんだろう」大男のがらがら声もまた先細りになって吸いこまれていった。
「この子はクトゥーチクと一緒に小塔にいたのよ」とポルガラが答えた。「〈珠〉を盗み出させるためにゼダーが育てた子供なの」
「だがちっとも泥棒らしくないじゃありませんか」
「正確には違うのよ」彼女は金髪の浮浪児を痛ましげに眺めながら言った。「誰かずっとかかりきりで見ていてやらなくてはならないわね。この子には何か独得のものがあるわ。落着いたらじっくり調べてみたいけれど、とりあえず今は当面のことだけで手一杯よ」
「本当にこれが〈珠〉なんですか」シルクがもの珍しげにたずねた。「噂によれば人にいろいろと影響を与えるそうですがね」
「たぶんそうだと思うわ」だが彼女の口調も自信ありげではなかった。「ガリオン、あなたはこの子と一緒にいてやってちょうだい。かれが〈珠〉をなくすことのないようにね」
「何でぼくが」ガリオンは思わず言い返した。
ポルガラはじっとかれを見すえた。
「いいよ、わかったよ」今さら口論してもむだなことはかれにも十分わかっていた。
「あれは何だ」バラクが皆を黙らせるかのように手をさし上げながら言った。
暗闇の彼方からいっせいにつぶやくような声が起こった。荒々しい耳ざわりな声だった。
「マーゴ人だ!」シルクはぶっきらぼうにささやきざま、腰の短剣に手を伸ばした。
「何人ですか」バラクがポルおばさんにたずねた。
「五人――いえ、六人よ。後ろからひとり遅れてくるのがいるわ」
「やつらの中にグロリムはいるかな」
彼女は首を振った。
「よし、行くぞ。マンドラレン」チェレク人の大男は荒々しく剣を抜きながら言った。
騎士はうなずき、剣を持ちあげた。
「ここで待っていてくれ」バラクは残った者たちにささやいた。「たいした時間はとらせないからな」大男とマンドラレンはマーゴ人の黒装束を暗黒に溶けこませながら闇に消えた。
残された者たちはいかなる気配も聞きのがすまいと、全身を耳にして待ち受けた。ガリオンの意識を再びあの不思議な歌がおかしはじめた。かれの心は前と同じように、そのあらがいがたい力で粉みじんに打ち砕かれた。どこかで斜面をしゅるしゅると転がり落ちてくる小石の音がした。その音がかれの記憶をいっそうの混乱におとしいれた。かれはファルドー農園でダーニクのハンマーが鉄床に打ちおろされる音を、そしてすべての発端となった、ダリネへカブを運ぶ馬車のきしむ音と馬のひづめの音を思い出していた。あたかもそれが目の前にいるかのように、かれはヴァル・アローン郊外の雪が降り積もった森で殺したイノシシのきいきいという鳴き声を思い出した。またマーゴ人のアシャラクが傷のある顔に憎悪と恐怖を浮かべてじっと見つめていた、切り株の点在する野原の空にどこまでも舞い上がるアレンド人の農奴の少年の木のフルートの音をも。
ガリオンは頭を振って雑念を追いはらおうとしたが、歌はかれを容赦なくもうろうとした白昼夢に引きずりこんだ。だしぬけに〈ドリュアドの森〉の太古の巨木の下でアシャラクが燃えあがるパチパチという音と、グロリムの「坊っちゃま、ご慈悲を!」という必死の嘆願がよみがえった。冷たい怒りの炎に燃えるポルおばさんを脇にしたがえ、恐ろしい熊に姿を変えたバラクが立ちふさがる者すべてを引き裂き、切り刻みながら謁見の間に突進するときに起こったサルミスラの宮殿の阿鼻叫喚を。
するといつもかれと共にあるあの声がした。(歌と戦うのを止めろ)
(いったいこれは何なんだ)ガリオンは必死に思考を集中させようとしながら、内なる声にたずねた。
(あの〈珠〉のせいだ)
(何をしようとしているんだろう)
(おまえを知ろうとしているのさ。これがかれの物事を知ろうとする方法なのだ)
(だったら少し後にしてもらえないのかな。今は本当にそれどころじゃないんだ)
(なんならおまえからそう言ってみたらどうだね)内なる声はおもしろがっているようだった。
(おまえなら聞き入れるかもしれんが、あやしいもんだな。〈珠〉はおまえがあらわれるのをずいぶん長いこと待っておったのだから)
(なぜ、ぼくを?)
(まったくよくも飽きずに同じせりふばかり繰り返せるものだな)
(誰にでもこんな接し方をするのかい)
(おまえほど親密にではないがな。とにかく落着いていろ。いずれにせよ〈珠〉は知りたいことを引き出すことだろうて)
そのとき、暗闇のどこからか金属がぶつかり合う音と仰天したような悲鳴があがった。ガリオンはがちゃがちゃと揉み合う音、そして誰かがうめく声を聞いた。だしぬけにあたりは静寂に包まれた。
しばらくして引きずるような足音が聞こえたかと思うと、バラクとマンドラレンが戻ってきた。「一番あとから来たやつは残念ながら逃しちまったらしい」バラクが報告した。「ベルガラスが正気に戻る見込みはありそうかい」
ポルガラは首を振って、「完全に意識を失ったままだわ」と答えた。
「じゃあおれが運んでいこう。そろそろ出発したほうがいい。下まではまだまだ遠いし、いまにこの洞穴はマーゴ人であふれかえるぞ」
「すぐに行くわ」と彼女は言った。「レルグ、わたしたちが今どこにいるかわかるわね」
「だいたいは」
「それではあの奴隷の女性を置いてきた場所まで連れていってちょうだい」その声にはいかなる反対をも容赦しない確固たる響きがあった。
レルグの顔はこわばったが、何もいわなかった。
バラクはかがみ込んで意識のないベルガラスを抱きあげた。ガリオンが手をさしのべると、少年は胸にしっかりと〈珠〉を抱きしめたままおとなしく従った。少年は驚くほど軽く、ガリオンはほとんど苦もなく抱きあげることができた。レルグがかすかな火のともる木製の鉢をかかげ行く手を照らし出すと、かれらは再び走り出した。曲がりくねり、折れ、ジグザグを切る暗い洞穴の道をひたすら底へ底へと下りていく。進むにつれ尖塔の暗闇がガリオンの肩にどっしりと重くのしかかってくるようだった。心の中であの歌が再びわきあがり、レルグの掲げた灯が再びかれの心をふらふらとさまよわせた。何が起こっているのかを知った今、それははるかにたやすく行なわれた。歌がかれの心を開き、〈珠〉はすべての想いや記憶にまといつきながらそれまでの人生を撫でるようにして探っていった。〈珠〉には特別の関心があるらしく、ガリオンがまったく感動を受けなかったような出来事に長くとどまり、逆にガリオンが切実な重大事と考えていたようなできごとはさっと通り過ぎてしまった。〈珠〉はラク・クトルへの長い旅でかれらが記した一挙手一投足を克明にたどった。それはガリオンがアシャラクを燃やしたことに対する奇妙な償いとして、マラゴーにそびえたつ山で死んで生まれた子馬をよみがえらせた水晶の部屋での一部始終をたずねた。また〈谷〉でガリオンが初めて目的をもって〈意志〉と〈言葉〉を使うことにより、巨大な白い岩をひっくり返したことも〈珠〉は丹念になぞった。それはエルドラクのグラルとの激烈な戦いや、ウルゴの洞穴にいたる旅についてはたいした関心を払わなかったが、ラク・クトルの近くへ来たとき、グロリムの読心術から逃れるためにガリオンとポルおばさんが力を合わせてはりめぐらした心のシールドに多大な関心を抱いているらしかった。〈珠〉はブリルの死やトラクの寺院で行なわれていた恐ろしい儀式についてはさっと通り過ぎ、岩からはり出したグロリム高僧の小塔におけるベルガラスとクトゥーチクの会話の上に長くとどまっていた。それはとりわけガリオンの抱くセ・ネドラ王女の記憶のひとつひとつにすみずみまで入りこんだ。太陽に照りはえる銅色の髪、そのしなやかで優雅な動作、あえやかな香り、なにげないしぐさ、この上なく美しい小さな顔をよぎる表情の動きなど。〈珠〉があまりにも長く彼女の記憶にとどまっているので、しまいにはガリオン自身が落着かなくなるほどだった。それと同時に王女の一挙手一投足をこれほどまでに鮮明に覚えていたことに対して、いささか驚きの念を感じていた。
「ガリオン」ポルおばさんの声が飛んだ。「いったいどうしたというの。この子の面倒をみなさいとあれほど言ったのに。もっと気をいれてちょうだい。白昼夢にひたってる場合じゃないのよ」
「違う、ぼくは――」だがこの事態をどうやって説明すればいいのだろう。
「何が違うというの」
「なんでもないよ」
かれらはさらに進み続けた。時おり周期的に震動が襲い、足元が不安げに揺れ動いた。大地が震えその奥底から身もだえするたびに、巨大な玄武岩の尖塔は大きく揺らぎ、ぎしぎし音をたてた。あらたな震動が起きるたびに一行はぴたりと歩みをとめ、息をすることさえはばかった。
「もうどれほど下まで来てるんだね」シルクがまわりを不安げに見まわしながらたずねた。
「一千フィートほど下までは来てると思う」レルグが答えた。
「それっぽっちしか来ていないのか。こんな調子じゃ、あと一週間はかかるぞ」
レルグはがっしりした肩をすくめてみせた。「とにかく行くしかない」かれは荒々しい口調で答えた。
その先の通路にはマーゴ人の一団がいた。再び闇の中で激烈な戦闘が起こった。戻ってきたときマンドラレンは片足を引きずっていた。
「何でおれの言ったとおりに待たなかったんだ」バラクが不機嫌な声でどなった。
マンドラレンは肩をすくめた。「バラク卿よ、敵はたかだか三人でしたぞ」
「まったくおまえさんにつける薬はないな」バラクはうんざりしたような声を出した。
「大丈夫なの」ポルガラが騎士にたずねた。
「ほんのかすり傷です」マンドラレンはさして気にかける様子もなく言った。「たいしたことではありません」
通路の岩の床が再び震えだし、ゆれ動き始めた。どかーんという炸裂音が洞穴内にとどろきわたった。一行は凍りついたように立ちすくんだが、不穏な揺れはすぐにおさまった。
かれらはなおもいくつもの通路や洞穴を通り、ひたすら下り続けた。ラク・クトルを粉みじんに破壊し、クトゥーチクの小塔をマルゴーの不毛の大地の上に崩れ落ちさせた地震の余震は間をおいて続いていた。一時間ばかりも過ぎたところで、恐らくは十二人以上はいるだろうと思われるマーゴ人の一団が、ガリオン一行からたいして離れてはいない通路を通り過ぎていくのが見えた。たいまつの光が揺れ動く影を壁に投げかけ、マーゴ人の耳ざわりな声が飛びかった。
短いささやき声のやりとりの後、バラクとマンドラレンは、この二十フィートと離れていない場所にひそむ脅威にいっさいわずらわされることなくやり過ごすことにした。かれらの気配が聞こえなくなると同時にレルグは明かりを覆う手をのけて、別の通路に入った。かれらはさらに下へと曲がりくねる、ジグザグの道を下り続けた。やがて一行は尖塔の一番下にたどりつき、揺れ動く心もとない荒野を踏んだ。
〈珠〉の歌はいっこうにやもうとはしなかったが、少年を抱きかかえてシルクの後を追って曲がりくねった道を行くガリオンにも、ようやくいくぶんか考える余裕がでてきた。恐らくわずかながらでも歌に慣れてきたためか、もしくは〈珠〉の関心が今は別のところにあるからだろう。
ついにやってのけたのだ。それは実に驚くべきことだった。およそ成功する見込みなどなかったのに、かれらは〈珠〉を取り返したのだ。ファルドー農園での平穏な生活をだしぬけにかき乱した探索行は終わった。だがそれはあらゆる面においてかれを変えてしまった。もはや風の吹く秋の夜、こっそりとファルドー農園の門を抜け出した少年はどこにもいないのだ。ガリオンはあらたに見いだした力が今でも自分の中に満ちあふれるのを感じていたし、その力には何らかの意味があるのだということもわかっていた。これまでの道中にもたびたびそれを暗示するものがあった――ぼんやりとした、まだはっきりとあらわれない、時にはわずかなほのめかしとしか思えないものが。〈珠〉がしかるべき場所に戻っても、それはさらに重大なできごとの始まりにしかすぎないのだ。ガリオンはまだこれですべてが終わったわけでないことを、はっきりと感じとっていた。
(今こそその時がきたのだ)かれの内なる乾いた声が言った。
(それはいったいどういう意味だい)
(まったく何でおまえにいちいち説明してやらねばならないのだ)
(説明するって何を)
(おまえの考えていることなどすべてわかっているということをな。わたしとおまえはまったく切り離された他人というわけではないんだ)
(わかったよ。ところでぼくたちはこれからどこへ行くんだい)
(リヴァだ)
(その後は)
(今にわかる)
(今教えてもらえないのかい)
(いや、まだ早過ぎる。おまえは自分で思っているほど目覚めてはいないのだ。まだまだ先は長いぞ)
(何も言ってくれるつもりがないんなら、なんでぼくを放っておいてくれないんだ)
(おまえにあまり長期にわたる見通しを考えてほしくないからだ。〈珠〉の奪還はほんの発端にすぎない。重要ではあるがまだ序の口なのだ)
言及されたことで再びガリオンのことを思い出したかのように、〈珠〉が声をふりしぼって歌いはじめたので、再びかれは思考を集中できなくなってしまった。
少したってからレルグがだしぬけに立ち止まり、明かりを高くかかげた。
「どうかしたのか」バラクが再びベルガラスを地面におろしながらたずねた。
「天井がすっかり崩れ落ちてしまっている」レルグはそう言いながらもうもうたるほこりのたちこめる行く手を指さした。「これ以上進むことはできません」かれはポルおばさんの顔を見た。「申しわけありません」ガリオンはレルグが本当にそう思っていることを感じとった。
「わたしたちの置いてきた奴隷女はこの落盤の向こう側にいるのです」
「では別の道を探しなさい」彼女は厳しい声で命令した。
「だが別の道などありません。あの女を見つけだした淵へ通じるのはこれひとつだけなのです」
「それではこの瓦礫を片づけなくてはならないわね」
レルグは重々しく頭を振った。「そんなことをしたら、われわれの頭の上から崩れ落ちてくるだけです。恐らくはあの女の上にも――まあわれわれとしてはそれを願うしかないでしょうが」
「レルグよ、それは少しばかり不人情というものではないかね」シルクの声はとげとげしかった。
ウルゴ人は小男に答えるために振り返った。「あそこには十分な水も空気もある。もし落盤で死んでいなければ、何週間も生きのびた末に飢え死ぬことだろう」その声には一種の悔悟のようなものが感じられた。
シルクは相手をじっと見ていたが、しばらくしてから口を開いた。「すまない、レルグ。きみを誤解していたようだ」
「洞穴に住むものたちは誰だってあんなふうに閉じ込められるのを見たくはありませんよ」
ポルガラは瓦礫に封じられた道を前にじっと考えこんでいる様子だった。「あの人をここから助け出さねばならないわ」
「しかしレルグの言ってることは当たってますよ」とバラクが言った。「見たところあのご婦人はこの瓦礫の山に、ほとんど埋もれてしまっているにちがいありません」
彼女は頭を振った。「いいえ、タイバはまだ生きてるし、彼女を置いてくわけにはいかないわ。あの人は今回のことではわたしたち一人一人と同じくらい重要な人物なのよ」彼女はレルグに向きなおった。「あなたはあの人を救い出しにいかなくてはならないわ」その口調には断固たる響きがあった。
レルグの大きな黒い目がさらに見開かれた。「それはあんまりです」
「そうする以外にないのよ」
「レルグ、きみにならできるさ」ダーニクが狂信者を励ますように言った。「きみは岩の中を通って向こう側に行き、タウル・ウルガスに捕らえられた地下牢のシルクを助けたのと同じ要領で、あのご婦人を連れてくればいい」
レルグはがたがた震え出した。「できません!」かれは締め殺されるような声を出した。
「あの女にふれなければ――手をかけなければならないじゃありませんか。それは恐ろしい罪です」
「だがレルグ、それではまことに非人情ですそ」マンドラレンが言った。「弱く力のない者を助けるのが罪などであるはずがない。不運な者を思いやるのは有徳者としての至高の義務であり、世のいかなる力とて純真な魂を堕落させることなどできはしない。あわれみの心がわいてこられないというのは、あのご婦人を救うことが、ご自分の清廉潔白さを試す機会になると考えておられないからではないかな」
「あんたたちには何もわかっちゃいないんだ」レルグの声は苦悩に満ちていた。かれは再びポルガラの方を向いた。「どうかお願いですからそんなことをさせないで下さい」
「あなたは行かねばなりません」ポルガラは静かに言った。「ごめんなさいね、レルグ。だけど他にどうしようもないのよ」
ポルおばさんの容赦なくきびしいまなざしに尻ごみする狂信者の顔を、さまざまな表情がよぎった。ついに締め殺されるような悲鳴とともにかれは向きを変え、側面の岩の壁にじっと手を押しあてた。そして非常な集中力をもって指を壁の中に沈め、見るからに固そうな岩を生身の体で通り抜けるという、あの無気味な才能を再び皆の前にひろうした。
シルクがあわてて背を向けた。「とても見ていられないよ」小男は息をつまらせて言った。やがてレルグの姿は完全に岩に溶け込んで見えなくなった。
「何だってあいつは人の体にふれるのをああも嫌がるんだろうな」バラクがたずねた。
だがガリオンにはその理由がわかっていた。アルガリアを旅するあいだこの大言壮語の狂信者と無理やりつきあわされたおかげで、かれにはレルグの心の動きが手に取るように感じとれた。レルグが声を張り上げて他人の罪を糾弾するのは、ほとんどがレルグ本人の弱さを隠すためのものなのである。狂信者の心の底から絶え間なくわきでる罪深い欲望についての、ときにはヒステリックで、支離滅裂でさえある告白をガリオンは黙って聞いてやった。タイバ、この官能的なマラグ人の奴隷女はレルグにとってこの世すべての誘惑そのものであり、かれはそれを死よりも深く恐れていたのである。
かれらは静寂の中でじっと待った。どこからか聞こえてくる水滴のたれる音だけが刻々と過ぎていく時間を知らせた。大地は絶え間なく揺れ動き、地震末期の不快な余波がかれらの足元を震わせた。時間は暗い洞穴のなかでだらだらと過ぎていった。
ようやく何かがちらりと動いたかと思うと、レルグが半裸に近い姿のタイバを抱えて岩の中から姿をあらわした。女の手は狂おしくレルグの首に巻きついていた。彼女は恐怖にすすり泣き、全身をがたがたとわななかせていた。
レルグの顔は苦悩にゆがんでいた。両の目からはとめどもなく悲痛の涙が流れ、耐えがたい苦痛をしのんでいるかのように歯を固くくいしばっていた。だがかれの両腕はしっかりと、優しささえ感じさせながら奴隷女を支えていた。そして岩から抜け出してからも、かれはしっかりと女を抱き寄せていた。あたかも永遠にそのまま彼女をかき抱いていようとするかのように。
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玄武岩の尖塔の基部にようやくたどりつき、かれらが馬を置いてきた巨大な洞穴に来たときには昼になっていた。バラクがそっとベルガラスの体を横たえているあいだ、シルクが洞穴の口で見張りにたった。「ご老体は見かけよりもかなり体重があるな」大男は顔の汗をふきながら、うなるように言った。「そろそろ意識を取り戻してもいいじゃないんですか」
「完全に正気に戻るまでには何日もかかるでしょうね」ポルガラは答えた。「それまでは暖かくくるんで寝かせておくしかないわ」
「だがどうやって馬に乗せるんですか」
「それはわたしがなんとかするわ」
「当分だれも馬には乗れそうにもないな」シルクが洞穴のせばまった入口から言った。「外にはマーゴ人どもがスズメバチみたいにうようよしているぜ」
「それでは夜まで待つことにしましょう」ポルガラが決断を下した。「どちらにせよ、わたしたちには休息が必要だわ」彼女はマーゴ人のローブの頭巾を後ろにはねのけ、昨晩立ち寄ったとき、洞穴の壁に積み上げておいた荷物のひとつに向かった。「なにか食べ物を探すわ。食べ終わったらここでみんな休みましょう」
再びガリオンのマントにくるまった奴隷女のタイバは、ほとんどレルグから視線をそらそうとしなかった。大きな紫色の瞳がかすかな当惑の入りまじった感謝の念で輝いていた。「あなたはあたしの命の恩人だわ」朗々としたしゃがれ気味の声だった。奴隷女は話しかけながら、つと身を男に寄せかけた。ガリオンはそれが無意識のしぐさなのだろうと思ったが、女の動作ははためにもはっきりわかるものだった。「本当にどうもありがとう」タイバは狂信者の腕に、自分の手をそっと重ねようとした。
レルグは身を縮めるようにして彼女から遠のいた。「さわるな」かれは息をつまらせんばかりに言った。彼女は驚いたような目をしてさしのべかけた手を途中でとめた。「いいか、おまえの手なんぞを絶対におれにさわらせたりはしないぞ」
タイバの顔に信じられないといった表情が浮かんだ。それまでの人生をほとんど暗黒のなかで過ごしてきた彼女は、感情をうちに秘めるすべを知らなかった。驚きはやがて屈辱にとってかわり、顔にはこわばったふくれっつらのような表情がはりついた。タイバは彼女を激しく拒絶した男からぷいと顔をそむけた。向きを変えた拍子に肩からマントがすべり落ち、裸を覆う役目をほとんどしていない、わずかなぼろきれがあらわれた。髪はもつれ、四肢には汚れがこびりついていたが、そこにはみずみずしい、成熟した魅惑的な女らしさがあった。レルグは女を見るなりがたがたと震え出した。次の瞬間かれはぷいと顔をそむけると、できるかぎり遠ざかってひざまずき、洞穴のごつごつした地面に顔をおしつけ、死にもの狂いで祈りはじめた。
「この人どうかしちゃったのかしら」タイバがあわててたずねた。
「まあ、やつにはちょっとした悩みがあってね」バラクが答えた。「きみもそのうちに慣れるだろうが」
「タイバ、ちょっとこっちへ来てちょうだい」ポルガラは女のわずかな着衣をじろじろ眺めて言った。「もう少しなにか上に着たほうがよさそうね。外は相当な寒さだし。もっとも理由はそれだけじゃなさそうだけれど」
「わたしが荷の中から適当なものを見つくろってくることにしましょう」ダーニクが申し出た。
「それにこの子にも何か着させてやった方がよさそうだ。上っぱり一枚じゃあんまり暖かいとはいえないだろうし」かれはもの珍しそうに馬をながめる子供を見ながら言った。
「あたしのことなら別にかまってくれなくてもいいのよ」とタイバ。「外にでたってしょうがないし、あなたたちが行ったらあたしもラク・クトルに戻るつもりだから」
「あなた何を言ってるの」ポルガラが鋭い口調でたずねた。
「あたしにはクトゥーチクと、どうしても決着をつけておかねばならないことがあるのよ」タイバは錆だらけのナイフをもてあそびながら答えた。
シルクが洞穴の入口で笑い声をあげた。「それならわれわれがかわりにやっておいたよ。ラク・クトルはいまや瓦礫と化し、クトゥーチクの体は床のしみほどにも残っちゃいないさ」
「死んだの」タイバはあえぐような声を出した。「どんなふうに」
「言ったってきみは信じないだろうな」
「あいつ、ひどく苦しんだのかしら」タイバの声には異様な熱気があった。
「ええ、およそ想像もつかないほどね」ポルガラがかわって答えた。
タイバは長い、わななくようなため息をもらしたかと思うと、泣き出した。ポルおばさんは腕を広げて、すすり泣く女を抱きしめた。幼いガリオンが泣いたときに、いつも慰めてくれたのとそっくり同じように。
ガリオンはぐったりと床に座りこんで、ごつごつした岩壁に背をもたせかけた。疲労困憊の波がすっぽりかれを覆い、どうしようもないけだるさが理路整然とした思考をさまたげた。再び〈珠〉が歌い出したが、今度はすっかり穏やかな調子になっていた。〈珠〉のかれに対する好奇心がすっかり満たされた今、歌は両者を結びつけるためだけにとどまっているかのようだった。〈珠〉がなぜそんなにまで自分に関心を抱くのか、疲れ果てたガリオンには考えることさえおっくうだった。
それまで飽くことなく馬を観察していた少年はつと向きを変え、ポルおばさんの一方の腕で肩を抱かれたままうずくまるタイバに向かって歩いていった。少年は不思議そうな表情で手を伸ばし、涙に濡れた女の顔に指をあてた。
「この子、どうしたのかしら」タイバがたずねた。
「たぶん今まで涙というものを見たことがなかったのよ」とポルおばさんは答えた。
タイバは少年のきまじめそうな顔をじっと見つめていたが、だしぬけに涙をためたまま笑いだし、少年の体をかき抱いた。
少年はほほ笑んだ。「使命《エランド》?」と言いながらかれは〈珠〉をさし出した。
「それを受け取っちゃだめよ、タイバ」ポルおばさんが押し殺したような声で言った。「さわるのもだめよ」
タイバはほほ笑みかける少年に向かって頭をふってみせた。
少年はため息をつくと、洞穴を横切るようにしてガリオンのすぐかたわらにやってきて、かれに身をもたせかけた。
かれらがやってきた道の様子を探りにいっていたバラクが戻ってきた。かれの顔には厳しい表情が浮かんでいた。「マーゴ人の声がこっちまで聞こえてくるんですよ」と大男は報告した。
「洞穴の反響でどれくらい離れているのかまでははっきりわかりませんが、どうやら連中はありとあらゆる洞穴と通路を徹底的に探りまわっている様子です」
「それではもっと敵をふせぎやすい場所へうつろうではありませんか。連中がよそを探しまわってくれるかもしれませんよ」マンドラレンが陽気な声で言った。
「そいつはなかなか興味ある発言だが」とバラク。「残念ながらたいした効果があるとは思えないね。おそかれはやかれ、連中はわれわれを見つけ出すだろう」
「それはおれが引き受けよう」レルグが祈りを中断して立ち上がった。お定まりの宗教儀式もあまり効き目はなかったらしく、目には苦悩がありありと残っていた。
「おれも一緒に行こう」バラクが申し出た。
レルグはかぶりを振った。「邪魔になるだけだ」すでに山への道を引き返しかけながら、かれはぶっきらぼうに言い捨てた。
「いったいやっこさんどうしちまったんだろうな」バラクが当惑したおももちでたずねた。
「思うにわが友人は宗教的危機にひんしているのさ」洞穴の入口で監視を続けるシルクが答えた。
「またかい」
「まあ、適当なひまつぶしにはなるんじゃないか」シルクはくったくなげに言った。
「さあ、みんな食べてちょうだい」ポルガラが荷の上にパンとチーズを切り分けたものを並べながら言った。「食べ終わったらあなたの足の傷を見せるのよ、マンドラレン」
一行が食事を終えるとポルガラはマンドラレンのひざに包帯をあて、ダーニクが荷物から取り出してきたちぐはぐな取り合わせの衣類をタイバに着せた。それが終わると彼女は少年に目を向けた。子供はポルガラのきまじめな視線にも劣らぬ真摯さで彼女をじっと見返し、つと手を伸ばすと白い前髪のひと房をもの珍しそうにふれた。突然記憶がよみがえり、ガリオンは自分が幼いころ何度おなじしぐさをしたかを思い出した。同時にこみあげてくる嫉妬《しっと》をかれはあわてて押さえつけた。
小さな男の子の顔が突然の喜びに輝いた。「使命《エランド》」かれは断固たる口調で言うと、ポルおばさんに向かって〈珠〉をさしだした。
彼女は頭を振って言った。「いいえ、ちがうのよ。残念ながらそれはわたしではないの」めいっぱいにたくしあげ、あちらこちらをぐるぐる巻きに結んだ衣類を子供に着せると、彼女は洞穴の壁に寄りかかって座り、両腕をさしだした。少年はすなおに彼女のひざにはい上がり、片腕をポルおばさんの首に巻きつけてキスをした。そして彼女に体をあずけると、ため息をついてすやすやと眠りに落ちた。ポルガラはなんとも言えぬ表情を浮かべて少年を見おろしていた。そこには驚きと愛情が奇妙に入りまじっていた。ガリオンは再び嫉妬の波と戦わねばならなかった。
突然かれらの頭の上でごろごろとこすれあうような音がした。
「いったいこれは何事だ」ダーニクが落着かなげにあたりを見まわした。
「きっとレルグだろう」とシルクは答えた。「やつはマーゴ人の注意をそらそうとしているらしい」
「あの男があんまり調子に乗りすぎないことを祈りますよ」ダーニクは岩の天井を見つめながらなおも不安げな声で言った。
「ここを抜け出して〈谷〉へ行くまでどれくらいかかると思う?」バラクがたずねた。
「二週間ばかりかかるだろうな」シルクは応えて言った。「もっともすべては現地の地形と、どれくらいの時間でマーゴ人がわれわれを追う態勢を整えられるかによるだろう。もしわれわれがやつらに先んじて偽の手がかりをばらまくことができれば、連中をトルネドラの国境へ引きつけることができる。そうなればいちいち逃げ隠れする手間をはぶいて、〈谷〉まで動けるって寸法だ」小男はここでにやっと笑った。「全マーゴ人をぺてんにかけるというのはなかなか魅力的な提案だな」
「いや、なにもそこまで小細工をろうしなくとも」とバラクが口をはさんだ。「〈谷〉でヘターがチョ・ハグ王とアルガリアの全氏族の半分をひきつれて待ちかまえているぞ。少しばかりはマーゴ人たちを連れてこないと連中もさぞかしがっかりすることだろう」
「なあに、人生には少しばかりの失望がつきものだよ」シルクが皮肉めかして言った。「だがわたしの知るかぎりでは、〈谷〉の東側の境はたいそう急峻で荒れているはずだ。あそこを切り抜けるだけで数日はかかるだろうし、そんなところをマーゴ人に追いまわされるのはまっぴらごめんだね」
レルグが戻ってきたときにはすでに午後なかばを過ぎていた。骨折り作業は心の混乱をいくらかは軽減したようだったが、その目にはまだ苦悩が色濃く残っていた。かれはタイバの紫色の瞳からなるべく視線をそらそうとしていた。「この洞穴に通じる通路の天井という天井を崩してきてやりましたよ」かれはぶっきらぼうに報告した。「これでしばらくは安全でしょう」
するとそれまで眠ったように見えたポルガラがぱっと目を開いた。「少し休むといいわ」
かれはうなずくと、ただちに毛布にすべりこんだ。
一行は一日の残りを洞穴のなかで過ごし、交替で見張りに立った。瓦礫の散乱する玄武岩の尖塔の基部のむこうに、黒い砂と風でつるつるになった岩ばかりの荒れ地が広がっていた。てんでんばらばらに慌てふためき、捜索を続けるマーゴ人の騎馬隊が右往左往しているのが見えた。
「連中は何をしたらいいのかまったくわからないみたいだ」シルクとともに見張りに立ちながらガリオンは静かに言った。太陽は空を燃えるように明るくそめながら、今まさに西の地平線の厚い雲の中へ沈もうとしていた。強い風が土ぼこりとともに運んできた寒気が洞穴の入口からも忍びこんできた。
「思うにラク・クトルは少しばかり混乱しているらしいな」シルクが言った。「もはや誰も統率する者がいないので、マーゴ人たちはどうしていいのかわからないのさ。連中は命令を下す者がいなければまったくてんでんばらばらの動きしかできやしない」
「かえってぼくらにとっては具合が悪いんじゃないのかい」ガリオンはたずねた。「そんなふうにどこへもいかないで、同じところばかりをぐるぐる動かれると、どうやってそんな中を脱出するというんだ」
シルクは肩をすくめて言った。「なあに、ただ頭巾を頭からかぶって連中と同じようにてんでんばらばらに動きまわっていればいいのさ」かれは寒さをしのぐために目の粗いマーゴ人の着衣の前をかきあわせてぴったり体に引き寄せると、洞穴の中をふりかえった。「日が暮れかけているぞ」かれは皆に向かって言った。
「それでは完全に暗くなるまで待ちましょう」とポルガラが答えた。彼女は少年をガリオンのお古の長衣でそっとくるんでいる最中だった。
「首尾よくここを抜け出したらわたしが少しばかりがらくたをばらまいておくことにしましょう」とシルクが言った。「マーゴ人はときとして少しばかり頭のめぐりが悪くなることがあるし、われわれとしては後を追ってきてもらわなければ困る」かれは振り向いて夕暮れの空をながめた。「今夜はひどく冷えこみそうだぞ」かれは誰にともなくひとりごちた。
「ガリオン」ポルおばさんは立ち上がりながらかれを呼んだ。「あなたとダーニクはタイバの近くにいてあげてちょうだい。あの人はこれまで馬に乗ったことがないので、はじめのうちは助けがいるでしょう」
「そのおちびさんはどうするんですか」ダーニクがたずねた。
「この子はわたしが一緒に連れていくわ」
「ベルガラス殿は?」マンドラレンが眠り続ける老魔術師の方をちらりと見ながら聞いた。
「そのときになったら、おとうさんを馬に乗せればいいわ」ポルガラが答えた。「わたしが鞍の上にしっかり押さえつけておくから。ただし急に方向を変えたりしなければの話だけれど。外は暗くなったかしら」
「もう少し待っていた方がよさそうです」シルクが答えた。「まだ少し明るすぎる」
かれらはじっと待った。やがて空はすみれ色に変わり、いちばん星があらわれたかと思うとはるか遠くで冷たくまたたき始めた。捜索するマーゴ人たちのたいまつの火が、あちこちに灯りはじめた。「さあ、行こうか」シルクが立ちあがりながら言った。
かれらはそっと馬を洞穴から岩くずの山にすすめ、砂地に出た。一行は数百ヤードほど離れたところでたいまつをかかげて疾駆するマーゴ人騎兵の姿に何度か立ちどまった。「ばらばらになるんじゃないぞ」一同が馬にまたがるのと同時にシルクが言った。
「この荒れ野を横断するのにどれくらいかかる」うなり声をあげて馬にまたがりながら、バラクがたずねた。
「二日ばかりの難行苦行になるだろうな」シルクが答えた。「もっともこの場合はふた晩というべきかな。太陽が出たらどこか適当な場所に隠れて待った方がいいだろう。われわれはどう見てもマーゴ人らしくはないからな」
「さあ、行きましょう」ポルガラが言った。
ゆっくり歩を進めていくうちに、タイバも馬に慣れ、ベルガラスが意思を通わせることができなくとも馬に乗っていられることがわかった。かれらはそっと馬の腹を蹴り、疲れさせることなく長い距離を進むことのできるゆるい駆け足で走らせた。
最初の尾根をわたる途中で、一行はたいまつを掲げたマーゴ人の一団のまっただ中に乗り入れるはめになった。
「そこにいるのは誰だ」シルクはマーゴ人特有のなまりをまねながら高びしゃに言った。「おまえたちの身分をあきらかにせよ」
「われわれはラク・クトルから来たものです」マーゴ人のひとりがうやうやしげに答えた。
「そんなことはわかっとる、この能なしめが」シルクはがなりたてた。「おまえたちの所属はどこかと聞いておるんだ」
「第三部隊であります」マーゴ人はしゃちほこばって答えた。
「それでよし。さっさとたいまつを消さんか。そんなものを目の前にちらつかせて十フィート先のものが見えるとでも思ってるのか」
たいまつはただちに消された。
「おまえたちは北を探せ」シルクが命じた。「この方面の捜索は第九部隊が担当する」
「ですが――」
「わたしの命令が聞けないというのか」
「いえ、ですが――」
「とっとと行け! 今すぐにだ!」
マーゴ人たちは馬の向きを変えると暗闇の中に走り去った。
「いや、お見事」バラクが感心したように言った。
シルクは肩をすくめてみせた。「なにごく初歩的なことだ」とかれは答えた。「人は混乱におちいると、少しばかり命令されることを喜ぶのさ。さて、われわれも行こうじゃないか」
長く、寒い、月のない夜を西へ向かいながらかれらは他のマーゴ人たちとも何度か遭遇した。一行を血まなこになって探しまわるマーゴ人の目にふれずに行くのは、およそできない相談だった。だがそのたびにシルクがうまくかれらをあしらい、その夜はたいした事件もなく過ぎていった。
小男はかれらの足跡をしめすさまざまな手掛かりを、夜が明けるまでばらまき続けていた。
「少しばかりやり過ぎかもしれんな」かれはひづめに踏みにじられた砂地の上に、投げ落としたばかりの古靴を見下ろしながら気むずかしげに言った。
「何をひとりでぶつぶつ言ってるんだ」バラクがたずねた。
「手がかりのことさ」とシルクは答えた。「われわれは連中に後を追わせようとしているんだよな。連中にはトルネドラの国境へ向かったと思わせるために」
「それがどうした」
「少しあからさますぎたかなと思ってるのさ」
「おまえは変なところまで心配するんだな」
「そいつがわたしの流儀だからな、親愛なるバラク殿よ」シルクはすまして言った。「みみっちい仕事がすっかり習い性になっちまったのさ」
荒涼たる冬の空に最初の青みがかった灰色の夜明けの光がさし始める頃、かれらは平坦な荒れ野をふちどる尾根の岩のあいだに隠れ場所を見つけだした。ダーニク、バラク、マンドラレンの三人が天幕を広げ、尾根の西側にある狭い峡谷の上にぴんと張りめぐらした。かれらは間に合わせの隠れ家を隠すために天幕の上に砂をまき散らした。
「どうやらここでは火を起こさない方がよさそうですね」ダーニクは天幕の下に馬を入れながら言った。「煙やもろもろのことを考えると」
彼女は同意のしるしにうなずいた。「そうね、暖かい食事がしたいところだけれど、しばらくがまんしたほうがよさそうだわ」
かれらはパンとチーズだけの冷たい朝食をとり、寝場所を探した。次の夜の長旅にそなえてまる一日を眠って過ごそうというのである。
「いやあ、風呂に入りたいもんだな」シルクが髪の中の砂を払いながら言った。
小さな少年はかすかにしかつめらしい表情を浮かべてかれを見あげた。そして小男に向かって歩いていくと、〈珠〉をさしだした。「使命《エランド》?」と少年はたずねた。
シルクはこわごわと両手を背中にまわして頭を振った。「この子は他に言葉を知らないんですかね」かれはポルガラにたずねた。
「そうらしいわね」
「どうもよくわからないんですがね」とシルク。「いったいこのおちびさんは何を言おうとしてるんですかね」
「たぶんこの子は、自分に果たすべき使命があるのだと言われ続けてきたのよ」彼女は言葉を続けた。「つまり〈珠〉を盗むことをね。ゼダーはこの子が赤ん坊のときからそれを繰り返し言い続けてきたものだからすっかり心にしみついてしまったんでしょう」
「そいつはまたいささか気色の悪い話ですな」シルクは手を後ろにまわしたまま言った。「じつに独創的な方法ではあるが」
「この子はわたしたちと考え方が違っているのよ」ポルガラは続けた。「たぶん〈珠〉を誰かに――誰でもいいから渡すことだけがこの子の生きる目的なんでしょうね」ポルガラはもの思わしげに眉をひそめた。「ダーニク、〈珠〉を入れておける小袋をみつくろってちょうだい。それをこの子の腰につけてやりましょう。いつも手の中になければそうしょっちゅう渡すことを思い出さなくてすむと思うわ」
「むろんですとも、ミストレス・ポル」ダーニクがうなずいた。「ちょうどわたしもそうしようと思っていたところです」かれは荷物のところへ行くと、焼けこげだらけの革製エプロンを取り出し、大きく切り取って袋を作った。「坊や」かれは袋を作り終えると少年を呼んだ。
「こっちへおいで」
少年は谷間の縁にはえている枯れた藪にすっかり心を奪われているらしく、鍛冶屋に呼ばれていることなどまったく気づいていないようだった。
「おい、エランドくん」ダーニクが呼びかけた。
少年はきょろきょろとあたりを見まわすと、ほほ笑みながらダーニクのもとに走り寄った。
「何だってそんな名前で呼ぶのかね」シルクが興味ありげにたずねた。
ダーニクは肩をすくめてみせた。「どうやらこの言葉がすっかり気に入ってるらしいし、この言葉にだけ反応を示すものですからね。いまにもっとふさわしい名前が見つかるまでのかわりになるんじゃないかと思うんですよ」
「使命《エランド》?」少年はダーニクに〈珠〉をさしだして言った。
ダーニクはほほ笑みを浮かべながらかがみこみ、袋の口を開けた。「エランドくん、ここに〈珠〉を入れたまえ。そうしたらこのひもを結んで、なくすことがないようにゆわえつけてあげるからね」
子供はうれしそうに革袋の中に〈珠〉を落とした。「使命《エランド》」かれは声たからかに宣言した。
「そうだね」ダーニクはうなずいた。かれは袋のひもを固くしめ、少年がベルトがわりにしている縄にゆわえつけた。「さあ、これでよし。エランドくん、もう大丈夫だよ」
エランドは袋をしげしげと眺め、しっかりとゆわえつけられているかどうかを確かめようとするかのように二、三度引っぱった。そして満足げな笑みを浮かべると、ダーニクの首に小さな腕を巻きつけてキスをした。
「よしよし、いい子だ」ダーニクは少しまごついたような声で言った。
「この子はまったくの純真無垢なのね」眠り続けるベルガラスの上にかがみこみながらポルガラは言った。「この世に善と悪が存在することを知らないんだわ。だからすべてのものがかれにとっては善なのよ」
「そんなふうにこの世の中を見ることができたらどんな気分かしらね」タイバはほほ笑む子供の顔を優しくなでながら、考えこむように言った。「悲しみもなければ、恐れもなく、苦しみもない――すべてを善きものとして受け入れて愛することができるなんて」
そのとたんレルグがきっと顔をあげた。捕らわれの奴隷女を救いだしたときからかれの顔を覆っていた苦悩が、おなじみの狂信的な表情にとって変わった。「何とおぞましい!」
タイバがさっとかれの方を向いた。彼女の瞳が怒りをおびた。「幸福になるのがなぜおぞましいのよ」彼女は少年に腕をまわしながら言い返した。
「おれたちは幸福になるために生きているのではない」かれは女の瞳を慎重に避けながら言った。
「それじゃ何のために生きてるのよ」女はいどむように言った。
「神につかえ、罪を犯さないようにするためだ」かれは依然、女の瞳を避け続けていたが、心なしかその口調は先ほどまでの確信に満ちていないように聞こえた。
「あたしには神などいないわ」タイバは反撃した。「たぶんこの子だってそうでしょう。つかえる神がなければ、あたしもこの子もただひたすら幸福になることを求めるわ。少しくらいの罪がまじっていたとしてもそれが何だっていうのよ」
「おまえには恥というものはないのか」レルグは窒息せんばかりの声を出した。
「あたしは誰のものでもないあたし自身のものよ。だからといって謝罪する気などさらさらありません。弁解することなんて何もないんだし」
「坊や」レルグは子供にむかって声をあげた。「今すぐその女から離れなさい」
タイバの体がこわばった。その顔はさらに険しくなり、挑むように相手の顔を見た。「いったい何をするつもり」
「いついかなるときも、そこに罪があれば戦うのがおれの役目だ」かれは高らかに宣言した。
「罪! 罪! 罪!」彼女の怒りが爆発した。「まったく他に考えることはないの」
「それこそがおれの不断の関心事なのだ。何が起ころうと罪から自分を守り抜くのがな」
女は笑い出した。「なんて退屈なこと! 他にもっとすることはないのかしら。ああ、そうだわ」彼女は嘲笑的につけ加えた。「お祈りざんまいがあったわよね。年がら年じゅう神さまに、自分がいかに堕落しているか泣きごとを並べるんでしょ。あなたのウルもいいかげんうんざりしてることでしょうよ」
激昂したレルグは拳を振りあげた。「二度とおれのまえでウルの名前を口に出すんじゃない」
「もしあたしがそうしたら殴るつもり? あたしはそんなことへいちゃらよ。今までさんざん殴られ続けてきたんですもの。さあやりなさいよ、レルグ。どうしてあたしを殴らないの」彼女は汚れた頭をかれに向かって上げた。
レルグの握った拳が下に落ちた。
自分の勝利を感じとったタイバは、ポルガラの与えたそまつな灰色の衣服のえりもとに手をやった。「あたしはどうやったらあなたを止められるか知ってるわ」彼女はそう言うと衣服の前をはだけ始めた。「あたしを見るのよ。何だかんだ言っても、あなたはずっとあたしを見ていたじゃないの。いやらしい目つきで見てるのを知らないとでも思ってたの。あなたはあたしをよこしまな女だというけれど、あたしから目を離すことができないんだわ。それなら存分に見ればいいでしょう。今さら隠そうとしたって無駄よ」彼女はそう言いながら、さらに衣服の前を開けた。「もしあなたが罪から自由だというのなら、あたしの体を見たって何ともないはずよ」
レルグの両目は飛び出さんばかりだった。
「あたしは自分の体を何とも思っちゃいないけれど、あなたは気になってしょうがないんでしょ。でもやましいのはあたしとあなたの心のどちらかしら。あたしはやろうと思えばいつだってあなたを滅ぼすことができるのよ。ただこうするだけで」
そう言いざま彼女はぱっと服の前を開けた。
レルグは締め殺されるような声をあげて、後ろを向いた。
「あたしを見たくはないの、レルグ」男が退却するのを見た彼女は嘲るように言った。
「いやはや、きみはとんでもない武器を持ってるんだねえ」シルクが感心するように言った。
「これが奴隷の檻でのあたしの唯一の武器だったのよ」彼女は小男に言った。「あたしは必要にせまられて使い方を覚えなければならなかったわ」タイバはゆっくりと衣服のボタンをはめ直し、何ごともなかったようにエランドのもとに戻った。
「いったい何事だ、やかましい」ベルガラスがもぐもぐつぶやきながら、わずかに身を起こした。皆はいっせいにかれの方を向いた。
「レルグとタイバが神さまをめぐってちょっとした討論をしていたんですよ」シルクが快活な口調で言った。「まあ、いろいろな点において興味深いところがありますが。ところで、具合はどうですか」
だが老人は再び深い眠りにおちていた。
「それでもいくらかは意識を回復してきたようてすね」ダーニクが言った。
「完全に意識を取り戻すまでにはまだ何日もかかるでしょう」ポルガラはベルガラスの額に手を置きながら言った。「まだとても弱っているのよ」
ガリオンはその日の残りを毛布にくるまり、ごつごつした地面の上で横になって眠った。だが、寒さと腰にあたる石が気になって眠りの途中で目がさめてしまった。時刻は午後なかばになろうとしていた。見張り役のシルクが、峡谷の入口から黒い砂と灰色がかった塩の干潟をじっと眺めていた。他の者たちは全員眠っていた。小男が座っている場所に足音を忍ばせて近づく途中で、エランドを腕に抱いて眠るポルおばさんの姿を見たガリオンは再びわき起こった嫉妬をむりやり押さえつけた。通りすがりにタイバが何事かをつぶやくのが聞こえたが、ちらりと見たかぎりでは起きているわけでもなさそうだった。彼女はレルグからさして離れていない場所に横たわり、その手は眠っているウルゴ人に向かってさしのべられているかのようだった。
シルクの尖った小さな顔には油断おこたりない表情が浮かび、いささかの疲労の跡も見られなかった。「おはよう」とかれはささやいた。「もしくは今晩は」
「あなたは疲れることがないのかい」ガリオンは他の人々を起こしてしまわないように小さな声でたずねた。
「なあに、少しばかり寝たからね」とシルクは答えた。
ダーニクがあくびをして目をこすりながら防水布の屋根の下から姿をあらわし、かれらの仲間に加わった。「さあ、交替しましょう」かれはシルクに言った。「何か変わったことは?」ダーニクは夕陽に向かって目を細めながらたずねた。
シルクは肩をすくめた。「マーゴ人が何人か、南へ数マイル離れたところにいる。まだだれもわれわれの痕跡には気づいていないようだ。もう少しはっきり連中にもわかるようにしてやらないといかんな」
その時ガリオンは首の後ろに息苦しい重みのようなものがかかるのを感じた。かれは不安げにあたりを見まわした。そのとたん何の前ぶれもなく、鋭い刃物のような力がかれの心に突き刺さった。ガリオンはあえぎ、必死に〈意志〉を集中させて攻撃を押し返そうとした。
「どうしたんだ」シルクが鋭い声で聞いた。
「グロリムだ」ガリオンは反撃にそなえて〈意志〉を固めながらうなり声をあげた。
「ガリオン!」ポルおばさんの声には切迫した響きがあった。かれはシルクとダーニクを従えて天幕に駆け戻った。
ポルガラは立ち上がり、子供を守ろうとするかのように両腕をまわしていた。
「今のはグロリムだったんだろ」ガリオンはつめ寄った。かれの声はいささかうわずって聞こえた。
「それも一人じゃないわ」その声には緊張がみなぎっていた。「クトゥーチクが死んだ今、高僧たちがグロリムをあやつっているのよ。かれらは〈意志〉を統一してエランドを殺そうとしているわ」
ポルガラの鋭い声で目をさました残りの者たちは、おぼつかない足どりで武器をとりに走った。
「何だってこんな子供をかまうんだろう」シルクがたずねた。
「あの〈珠〉にふれることができるのはこの子だけだからよ。もしかれを殺せばわたしたちが〈珠〉を持ってクトル・マーゴスから逃げることはできないと思ってるんだわ」
「どうすればいいんだろう」ガリオンはすっかり当惑しきった様子であたりを見まわしながら聞いた。
「わたしは今からこの子を守ることに専念するわ」と彼女は言った。「ガリオン、後ろに下がっていてちょうだい」
「えっ?」
「わたしから離れなさい」ポルガラはかがみこむと、彼女と子供が入るだけの円を砂の上に描きはじめた。「みんな、わたしのいうことをよく聞いてちょうだい。これが終わるまで誰一人この円より近づいてはだめよ。あなたたちまで傷つけたくはないから」そう言うなり彼女は立ち上がった。ひと房の白い髪が明るく輝き出した。
「待ってくれ」ガリオンがあわてて叫んだ。
「待っている余裕はないわ。いつまた攻撃を開始してくるかわからないのよ。いいこと、今からおじいさんと他と人たちを守るのはあなたなのよ」
「ぼくだって?」
「あなた一人しかできないことなのよ。あなたには使える力があるでしょう」彼女は片手を上げた。
「ぼくは何人を相手に戦わなければならないんだ」ガリオンはさらにたずねたが、すでに心の中にはポルおばさんの〈意志〉から生み出されるうねりにも似た感覚と、ごうごうと渦まく音が聞こえていた。彼女のまわりの空気はふるえ、夏の午後の熱気のようにゆらめいた。ガリオンは彼女の周囲にめぐらされる防壁を感じとった。「ポルおばさん」かれは再び声を張りあげた。「ポルおばさん!」
彼女は頭をふって自分の耳を指さしてみせた。それから何かを言ったようだったが、彼女が作り出したふるえる防壁ごしには聞こえてこなかった。
「な、ん、に、ん」ガリオンはそれとわかるように口を大きく開けてたずねた。
彼女は両手をあげ、片方の手の指を一本折りまげて答えた。
「く、に、ん、か、い」かれは再び口を大きく開いた。
彼女はうなずくと、マントの中に少年を包みこんだ。
「さあて、ガリオン、どうするね」シルクの目は突き刺すように鋭かった。「われわれはこれからどうすればいい」
「何でぼくに聞くんだ」
「彼女の言葉を聞いただろう。ベルガラスはまだ意識がないし、ポルガラは今それどころじゃない。われわれに指示を下すのはきみだ」
「ぼくが」
「さあ、われわれはどうすればいいんだ」シルクはさらにつめ寄った。「きみもそろそろ決断を下すことを覚えるときだぞ」
「どうしたらいいのかわからない」ガリオンはすっかりうろたえていた。
「そんなことを間違っても口にだしちゃいかん」シルクはいい聞かせるように言った。「すべてわかってるように振る舞うんだ――たとえ知らなくとも」
「ぼくたちは、その――暗くなるまで待つべきだと思う。日が落ちたら――これまでと同じように進もう」
「そうら」シルクがにやりと笑った。「やってみりゃ簡単だろう」
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身を切られるような寒さのなか、荒れ野の黒い砂を横断するかれらを、地平線近くにかかる細片のような月が照らし出していた。ガリオンはシルクから押しつけられた大任に少なからぬ困惑を感じていた。何もそんな必要はないのだ。皆それぞれ何をなすべきかをちゃんと心得ているのだから。もし実際に指揮が必要なときがあれば、その任にあたるのは当然シルクなのである。それなのにこの小男はすべての重荷をガリオンにしょわせ、かれがそれをどうこなすか高みの見物を決めこんでいるのだ。
真夜中過ぎてすぐ、マーゴ人の一隊と遭遇したときには指揮をふるうどころか、相談するひまさえなかった。相手は六人、南へ向かう低い尾根に馬を走らせているうちに、こともあろうにガリオン一行のまっただ中に突っ込んできたのだった。バラクとマンドラレンは熟練した戦士らしくすぐさま攻撃態勢をとった。空を切るような音とともに剣がさやから抜かれ、驚くマーゴ人たちの鎖かたびらに金属的な音をたててぶつかった。自分の剣を抜こうとあせるガリオンは、黒衣の侵入者がよろよろと鞍から落ちてくるのを見た。他方には驚きと苦痛の悲鳴をあげ、胸をおさえながら後ずさるマーゴ人の姿があった。暗闇のなかで戦う男たちの気配におびえる馬から、混乱と苦痛に満ちたいななきがあがった。おびえたマーゴ人兵士の一人が逃げ出そうと馬の向きを変えるのを見たガリオンは、自分でも知らぬ間に相手の行方をふさぎ、攻撃の剣を振り上げていた。死にもの狂いのマーゴ人はやみくもに剣を振りまわしたが、ガリオンは見当はずれの大振りを巧みによけ、自分の剣を鞭のようにさっと振り、相手の肩めがけて切りつけた。剣の鋭い切っ先がマーゴ人の鎖かたびらに食いこんでざくりと音をたてた。ガリオンはさらに軽々と下手な攻撃をかわすと、再び剣を振るって今度は相手の顔めがけて切りつけた。それまでかれが友人たちから教授された技術が、今ここに突然結びついてひとつの形をつくり出そうとしていた。それはチェレクとアレンドとアルガー、そしてなによりもガリオン自身のあみだした剣法だった。それでなくともおびえ切ったマーゴ人はいよいよまごつき、その攻撃はますます支離滅裂なものになった。相手の攻撃を軽々とかわしたガリオンは即座に自分の剣を鞭のように振り、あらたな血を流させた。ガリオンは戦いながら、体内の血管が歓喜でにえたぎるのを感じていた。口のなかはひりひりと焼けつくように熱かった。
突然闇の向こうからレルグが飛び出し、マーゴ人のバランスを狂わせ、そのあばら骨に深々と鉤のように折れ曲がったナイフを突きたてた。マーゴ人は体をくの字型に折ると、身震いして、鞍からすべり落ちた。
「何でそんなことをするんだ」われ知らず、ガリオンは叫んでいた。「これはぼくの[#「ぼくの」に傍点]相手だったのに」
殺戮の検分にあたっていたバラクが笑い声をあげた。かれの明るい笑いが暗闇の中に響きわたった。「おいおい、かれはずいぶん不作法になったと思わんかね」
「しかしながら剣の腕前はなかなかのものと見受けるが」マンドラレンが称賛をこめて言った。
ガリオンの心は昂揚した。かれは他に戦う相手はいないかとあたりを見まわしたが、マーゴ人たちは全員殺されていた。「こいつらだけなのかい」かれは息を切らせてたずねた。「まだ後ろにもいるかもしれない。もっと探してみるべきじゃないか」
「だがわれわれは連中に後を追いかけてきてもらわなくちゃならないんだ」シルクが思いださせるように言った。「むろん決断はきみにかかってるわけだがね、ガリオン。だがここで全員を皆殺しにしてしまったら、ラク・クトルへわれわれのことを報告にいくものがいなくなってしまうのではないかね」
「ああ」ガリオンはいささか恥じるように言った。「すっかりそれを忘れていたよ」
「もっとよく全体の計画を見通すべきだ、ガリオン。たかだか枝葉末節の冒険で、それを忘れてしまうようなことがあってはならない」
「たぶん、無我夢中だったんだ」
「よき指導者にはあるまじきことだぞ」
「わかったよ」ガリオンは穴があったら入りたいような気分だった。
「きみにはそこのところをどうしてもよく理解してほしいんだ」
ガリオンは答えなかったが、ここにいたってなぜシルクがあれほどまでにベルガラスをいらだたせたのかよく理解できるような気がした。ものごとを何でもややこしくしてしまうこのイタチ顔の小男の辛らつな批評を、次から次へと聞かされることがなくとも人の上に立つということは、十分な重荷なのだ。
「あなた、大丈夫なの」タイバの声には奇妙にレルグを心から気づかっているような響きがあった。ウルゴ人はかれの殺したマーゴ人のかたわらにひざまずいたままだった。
「おれのことはほっといてくれ」かれはぶっきらぼうに言った。
「何いってるのよ。けがをしているんじゃないの? あたしに見せてちょうだい」
「さわるんじゃない!」かれはさしのべられた女の手から身をよけるようにして言った。「ベルガリオン、お願いですからこの女を近寄らせないで下さい」
ガリオンは心の中でうんざりしながらたずねた。「今度はいったいどうしたんだ」
「わたしはこの男を殺しました。この後いろいろ――祈りをいくつかあげ、しかるのちに清めの儀式を行なわねばならないというのに、この女が邪魔だてするのです」
ガリオンは悪態をつきそうになるのを必死に押さえて言った。「さあさあ、タイバ」かれは精一杯穏やかな声で言った。「そういうわけだからかれを一人にしてやりたまえ」
「あたしはあの人がけがをしてやしないかと思っただけなのよ」タイバはいささか気分を害したように言った。「別にいやがらせしようとしたわけではないわ」その顔にはとうていガリオンには理解しがたい表情が浮かんでいた。ひざまずくウルゴ人をじっと眺める彼女の唇に、奇妙なほほ笑みが浮かんだ。いきなり何のまえぶれもなく、彼女はレルグに向かって手をのばした。
レルグは身を縮こめるようにして後ずさった。「やめろ!」タイバは豊かな声でいたずらっぽい含み笑いをもらし、小さな声でハミングしながら歩き去った。
レルグがマーゴ人の死骸を清める儀式を終えてから、一行は再び馬上の人となった。凍てつくような冷たい空の高みから、細長いかけらのような月が、黒い砂地の上にあわい光を投げかけていた。ガリオンは行く手にひそむ危険を少しでも早く見つけようと、じっと前を見つめていた。かれは時おりポルおばさんの方を眺め、彼女とこんなふうに切り離されていなければいいのにと願った。だが、ポルガラは自分の〈意志〉のシールドを維持するのに没頭しており、エランドをしっかりと胸に抱き寄せて馬に乗る彼女の目は冷ややかで、何を考えているのかまったくわからなかった。ガリオンは期待をこめてベルガラスを振り返った。老人は時おりまどろみの中から頭をもたげることもあったが、まわりのことにはいっさい無関心なようすだった。ガリオンはため息をつき、目を再び行く手に転じて監視を続けるのだった。かれらは夜の終わりに近い時間をしびれるような寒気にさらされながら、かすかな月の光と氷の針のように冷たく輝く星のもとで馬を進めた。
突然ガリオンの心のなかにごうごうと轟きわたる音が聞こえ、奇妙な反響がこだました。次の瞬間、ポルおばさんを包んでいる〈意志〉のシールドが醜いオレンジ色の炎を噴きあげ、ゆらめいた。かれはとっさに〈意志〉を集中させると、ひとつのことばを唱えながら、独特なしぐさをした。自分が何を言ったのかまったくわからなかったが、効き目は十分にあった。かれの〈意志〉はひな[#「ひな」に傍点]に餌をやる鳥の家族の巣にうっかり突っ込んだ馬のように、ポルおばさんとエランドに向けられていた激しい攻撃をけちらした。どうやら攻撃者は一人ではないらしかったが、だからといってたいした違いがあるわけではなかった。ポルおばさんに向かっていた攻撃連合軍がけちらされ、退却するとき、ガリオンの心は一瞬、攻撃者たちの無念さを察知した。そこには恐怖の念さえまじっていた。
(まあ、悪くはないな)内なる心が意見をのべた。(少しばかりぎごちなかったが、全然だめだというわけじゃない)
(ことわっておくけどぼくにとっては初体験だったんだ)ガリオンは言い返した。(練習すればもっとうまくなるさ)
(自信過剰になるんじゃない)声はそっけなく言って、聞こえなくなった。
たしかにかれの力が強くなってきていることは疑いの余地がなかった。ポルおばさんが高僧たちの集団だと言っていたグロリムの結合した〈意志〉を、あまりにもたやすくしりぞけたことにかれ自身驚いていた。ようやくポルおばさんとベルガラスが使う、才能≠ニいう言葉の意味がかすかながらわかってきたような気がした。それは一種の特別な能力のようなもので、ほとんどの魔術師には達することのできない限界を超えたものなのだ。ガリオンは自分の力が、何世紀にもわたって修業を積んできた人々のそれをすでに超えていることに驚きをおぼえていた。そしてどうやらこれはかれの才能のほんの一端にすぎないらしいのである。やがてどんな力を得るようになるのかを考えると、むしろそら恐ろしくさえあった。
だがこの考えはかれの心をいささか力づけてくれたようだった。ガリオンは鞍の上でまっすぐに背を伸ばし、前よりも少しばかり自信ありげに馬を進めた。たぶん人の上に立つというのもそれほど悪いことではないのかもしれない。慣れるまでに時間は少しばかりかかるかもしれないが、いったん自分が何をしてるのかを把握できれば、あとはそれほど難しくはなさそうに思える。
次の攻撃は東の地平線が一行のうしろでしらじらと明けそめるころにやってきた。突如としてポルおばさんや彼女の乗った馬も子供もみな、まっ黒な闇に包みこまれて見えなくなってしまった。ガリオンはただちに反撃を開始したうえ、今度は相手を侮蔑するようなひとひねりを加えた。攻撃をかけてくるかれらの結束した思念の横っ面を思いっきりたたいてやったのだ。しっぺ返しにたじろぐ相手の驚きと苦痛に、ガリオンはひとり満足を覚えていた。一瞬ではあるが、かれはどこかの部屋でテーブルを囲むようにして座っている黒衣をまとった九人の年老いた僧たちの姿を見た。壁の一方には巨大なひび割れが入り、天井はラク・クトルを震わせた大地震でその一部が崩れかけていた。邪悪な八人の老人たちはみな驚きと恐怖の表情を浮かべていた。残る一人は失神していた。ポルおばさんを覆っていた闇はたちまちのうちにかき消えた。
「いったい連中は何をやらかそうというんだ」シルクがたずねた。
「やつらはポルおばさんのシールドを崩そうとしているんだ」ガリオンは答えた。「だがぼくが連中の考えをあらためさせてやった」
シルクは目を細め、鋭い視線でかれを見た。「ガリオン、やりすぎは禁物だぞ」
「だけど、あの場面ではどうしようもなかったんだ」ガリオンは不満そうに言った。
「それは結果論にすぎない。わたしが言いたいのは、いつだって全体を通して見ることを忘れるなってことだよ」
東の空が明らむにつれ、荒れ野の西のはずれのくずれた峰の側壁がはっきりと見えるようになってきた。「あそこまであとどれぐらいあるんだろう」ガリオンはダーニクにたずねた。
鍛冶屋は目を細めて前方の山なみを見つめた。「あと二、三リーグはありそうだな」とかれは言った。「こういった光では距離感が狂わされることもあるしな」
「さてと」バラクがたずねた。「ここで隠れ家を探すか、それともあそこまで一気に行ってしまうかね」
ガリオンはしばし考えこんだ。「山に着いたらすぐにでも方向を変えた方がいいだろうか」かれはマンドラレンにたずねた。
「しばらく行くまでは、これまでの進路は変えない方がよろしかろう」騎士は、思案深げに意見を述べた。「このような自然の境界があると、敵はちらりと一瞥するだけではすまないですぞ」
「なかなか目のつけどころがいい」とシルクが言った。
ガリオンはあごをかいた。また髭が生えかかっているらしい。「それではここで止まることにしよう」とかれは言った。「日が沈んだらまた出発しよう。しばらく山路を登ってから休息をとることにする。あした太陽が昇ってきたら進路を変えることにしよう。そうすればぼくたちの残した跡を見ることもできるし、それをうまく隠すこともできる」
「それがいいだろう」バラクも賛成した。
「ではそのとおりにする」ガリオンが断を下した。
かれらはあらたな尾根と峡谷を探し出し、前と同じように防水布で覆った。体は疲れていたがガリオンは眠る気にはなれなかった。人を統率するという大任が重くのしかかっているだけではなく、もし寝ている間にまた高僧たちの攻撃があったらどうしようかという懸念があった。そこで他の者たちが巻いた毛布を開いている間もうろうろと歩きまわり、ポルおばさんのようすを見にいったりしていた。眠るエランドを抱いた彼女は巨大な岩に背をもたせかけ、ゆらめくシールドの向こうで月と同じくらい遠くに見えた。ガリオンはため息をつくと、ダーニクが馬の手入れをしている峡谷の入口に向かった。とつぜんかれらの生命がすべてこれらの動物の健康状態にかかっているのだという思いがわき起こり、かれのうちにあらたな心配を呼び起こした。
「馬の具合はどうだい」かれはダーニクに近づきながら声をかけた。
「なかなかよく頑張ってくれているよ」とダーニクは答えた。「もっともかなりの長い距離を走らされているせいで、何頭かがばてかけているがな」
「何かしてやれることはないのかい」
「いい牧草地で一週間ばかり休ませることだな」ダーニクは苦笑しながら言った。
ガリオンが笑い出した。「それだったらぼくたち人間だって同じことだよ」
「きみは本当に大人になったな、ガリオン」ダーニクは馬の後ろ足を持ち上げて、ひづめに傷や損傷がないかを調べながら言った。
ガリオンは自分の両手を見下ろして、手首がそでから一、二インチほど突き出ているのを見た。「まだまだほとんどの服は着れるんだよ」
「いやそういう意味で言ったんじゃないさ」ダーニクはいくぶんためらいがちに言った。「自分自身の思うままに力が使えるというのは、どんな気分がするものなんだろうか」
「ぼくにはそれがこわいんだよ、ダーニク」ガリオンは静かな声で言った。「ぼくはこんなものなどほしくはないが、他にどうしようもないんだ」
「自分の力におびえてはいけない」ダーニクは注意深く馬のひづめを下ろしながら言った。
「もしそれがきみの一部ならそれは自分の資質のひとつなんだから――背が高いとか金髪だといったことと同じように」
「そんなのとは違うよ、ダーニク。背が高くても金髪でも人を傷つけることはない。でもこの力は違う」
ダーニクはあらたな朝日のもとで、尾根が長い影を落とすのを見ながら言った。「その力を注意して使えばいいだけのことだよ。ちょうどきみと同じ年頃のとき、わたしは自分が村中のどの若者よりも腕力があることに気がついた。たぶん鍛冶職人をしていたせいかもしれない。だがわたしは誰ひとり傷つけたくはなかったので、友人たちとは極力あらそわないように努めていた。だがなかの一人はそれをわたしが臆病なせいだと思いこみ、半年にもわたって挑発し続けたんだ。ついにわたしの堪忍袋の緒が切れるまでね」
「きみはその友人と喧嘩したのかい」
ダーニクはうなずいた。「ほとんど喧嘩にはならなかったんだよ。まあとにかくすべてが終わって、かれはわたしが臆病者ではないことを思い知らされたというわけだ。われわれは再びいい友だちになった――もっとも折れた骨がすべてくっつき、歯が何本かないことにかれが慣れてからの話だが」
ガリオンが歯を見せて笑うと、ダーニクもいささか悲しげなほほ笑みを浮かべた。「むろんわたしはその後でひどく自分を恥じたがね」
ガリオンはこの飾り気のない、がっしりした男に限りない親しみを覚えていた。何といってもダーニクは一番古い友人なのだ――いつでも頼ることのできる。
「わたしが言おうとしてるのは」ダーニクは真顔で言葉を続けた。「そんなふうに自分自身を恐れたまま一生を過ごしてはいけないということさ。そんなことをしようものなら、いずれきみのことを誤解するやからが出てくる。そうしたらきみは自分が恐れているのは、かれではないことを証明してみせなければならなくなる。もしそうなった場合はきみにとって――また相手にとっても最悪の事態を引き起こすことになるんだ」
「たとえばアシャラクのときみたいに?」
ダーニクはうなずいた。「長い目で見ればありのままの自分でいるのが一番いいのさ。自分をそれ以上に見せるのも、またそれ以下におとしめるのもよくない。わたしの言ってることをわかってくれるかな」
「要するにすべての問題は、自分がなにものであるかを見つけだすことにあるんだね」
ダーニクは再び笑みを浮かべた。「もっともそれが時としてわれわれにとって、たいへんな頭痛のたねになるんだが」突然その顔から笑みが消えたかと思うと、かれは激しくあえいだ。次の瞬間、かれは腹を押さえ身をよじるようにして倒れた。
「ダーニク! どうしたんだ」ガリオンが叫んだ。
だがダーニクはしゃべるどころではなかった。灰色になった顔が苦痛でゆがみ、体は土の上をのたうちまわった。
ガリオンは経験したことのない異常な圧力を感じてただちに事態を悟った。エランドを殺す目的をさまたげられた高僧たちが何とかポルおばさんのシールドを破らせようと、身近なものに矛先を転じたのである。ガリオンは体の底から怒りがわき上がってくるのを感じた。体中の血がふつふつとたぎり、恐ろしい絶叫がその唇をついて出ようとしていた。
(落着け)内なる声がかれのもとに戻ってきた。
(どうすればいいんだ)
(太陽のもとに出ろ)
何のことかさっぱりわからなかったが、ガリオンは馬の間を駆け抜け、朝の淡い光の中に出た。
(自分の影の中に入るんだ)
かれは足元にのびる自分の影を見おろし、言われたとおりのことをした。自分でもどうやったのかはわからないが、かれは影に自分の〈意志〉と〈意識〉をすべてそそぎこんだ。
(敵の思念のあとを追うのだ。急げ)
ガリオンは突然自分の体が空を飛んでいるのを知った。影にすっぽりくるまれたかれは地面を転げまわるダーニクのもとに急いで戻り、臭いをかぐ猟犬のようにその体にふれ、友人を倒した激しい思念がどこからきたのかを察知した。次の瞬間、ガリオンは瓦礫と化したラク・クトルに向かって何マイルにもわたる荒野の上を飛んでいた。かれの体はまったく重さというものを感じず、また見るものすべては奇妙な紫色にいろどられていた。
かれはダーニクを殺そうと思念をこらす九人の黒衣の僧たちがつどう、ひび割れた壁の部屋に入りながら自分の体が途方もなく大きくなっているのに気づいた。老人たちの目はいっせいに丸いテーブルの中心できらめく人の頭ほどもあろうかと思われる、巨大なルビーに向けられていた。斜めにさしこむ早朝の光がガリオンの影をゆがめ、さらに大きいものに見せていた。かれは天井にあわせてわずかに身をかがめながら、部屋の隅に立ちはだかった。「やめろ!」かれは邪悪な老人たちに向かってどなった。「ダーニクから手を引け!」
老人たちは思いもかけなかった相手の出現にたじろいだ。かれはテーブル上の宝石を通してダーニクに集中していた思念が弱まり、ばらばらになるのを感じた。ガリオンが相手を威嚇するように一歩前に進むと、かれの半分曇った紫色の視界の中で僧たちがいっせいに後退するのが見えた。
僧の一人がはやくも一瞬の恐怖から立ち直った――がりがりに痩せ、長い髭はよごれ、頭はつるつるにはげていた。「しっかり立たんか!」かれは他の僧に向かって怒鳴った。「センダーに思念を集中するのだ」
「ダーニクから手を引け!」ガリオンが叫んだ。
「ほほう誰がそうしろと言うのかね」痩せた老人は侮蔑をこめた口調でたずねた。
「ぼくだ」
「そういうおまえさんはどこのどなたかね」
「ぼくはベルガリオンだ。早く友人から手を引け」
すると老人は笑い出した。クトゥーチクと同じような、ぞっとするような笑い声だった。
「だがおまえさんは単なるベルガリオンの影に過ぎないではないか。わしにはおまえさんのからくりなどすっかりお見通しじゃ。たしかにおまえはしゃべり、怒鳴り、脅すことはできるかもしれんが、できるのはそれだけではないか。おまえは何もできない影に過ぎないのじゃよ、ベルガリオン」
「ぼくたちからいいかげんに手を引け!」
「もしそうしなかったらどうするつもりだ」老人の顔には小馬鹿にしきったような満足が浮かんでいた。
(本当にやつの言うとおりなのか)ガリオンは内なる声にたずねた。
(そうであるとも、ないとも言える)声が答えた。(これまでにもごくわずかの者たちだけが限界を超えてきた。おまえもやってみないことにはわかるまい)
腹の底は怒りに煮えくりかえっていたが、ガリオンは僧たちを誰一人として傷つけたくはなかった。「氷よ!」ガリオンは心に冷気を思い描き、たたきつけるように噴出させた。だが、どこかおかしかった――それは何の実体もないもののように弱々しく、轟音はうつろでかすかにしか聞こえてこなかった。
はげた老人はせせら笑い、髭をふるわせた。
ガリオンはまぼろしの歯を食いしばり、恐るべき一徹さで精神をふりしぼった。「燃えろ!」叫びながらかれは〈意志〉を一気に駆りたてた。すると空中に何かがひらめき燃え上がった。ガリオンの〈意志〉の力は老人自身ではなくその髭に向かってほとばしった。
高僧は飛び上がり、絶叫とともに後ずさった。かれは髭にうつった火を消しとめようと必死になっていた。
他の僧たちは恐怖と驚きで這いずりまわって逃げまどい、それと同時にかれらが集中させていた思念もかき消えた。ガリオンは強大にふくれあがる〈意志〉をさらに集中させ、幻の巨大な手を精力的に動かしはじめた。かれは僧侶たちをごつごつした床の上になぎ倒し、さらに壁にたたきつけた。恐怖に金切り声をあげて逃げまどう老僧たちを、かれは一人一人つまみ上げてこらしめた。不思議な冷徹さをもってガリオンはかれらのなかの一人を頭から壁の割れ目に突っ込み、そのままぐいぐい押し込んでいった。後にはばたばたもがくひと組みの足があるだけだった。
かれらの処罰を終えたガリオンは、はげた高僧の方を向いた。老人はちょうど髭の飛び火を消し終わったところだった。「こんな馬鹿な――こんなことがありえるはずがない」高僧は顔に驚きの表情を浮かべて言った。「どうやってそんなことができたのだ」
「言っただろう――ぼくはベルガリオンだ。おまえのおよそ思いもつかないことだってできるのさ」
(宝石だ)内なる声がかれに言った。(やつらは攻撃をひとつに集中させるのにあの宝石を使っているのだ。早くそいつを破壊しろ)
(どうやって?)
(もうその宝石はたいして持ちこたえられまい。見ろ)
ガリオンは自分がテーブルの上でまたたくルビーの内部を透視していることに気づいた。その透明な結晶にごく微細なひずみがあるのを見たかれはすべてを理解した。かれは〈意志〉を宝石に転じると、怒りのありったけを注ぎこんだ。宝石はひときわ明るく輝き、内部にはたらく力が膨れ上がるにつれびくびくと脈打った。次の瞬間、耳をつんざくような轟音とともに宝石は粉々《こなごな》に砕け散った。
「何ということを!」はげた老人は泣き叫んだ。「この宝石はかけがえのないものじゃというのに」
「いいか、ぼくのいうことをよく聞け」ガリオンはことさら恐ろしげな声を出した。「ぼくたちから手を引くんだ。これ以上ぼくたちを追いまわしたり、害を与えることは許さない」かれはまぼろしの手を伸ばすと、はげ頭の老人の胸の中へ突っ込んだ。巨大な手がずぶずぶと胸の中へめりこんでいくのを見た老人の心臓が怯える小鳥のようにばたばたともがいた。恐怖に大きくあえいだ肺の呼吸がぱったり止まった。ガリオンはさらに老人の体のなかでゆっくりと指を広げた。「わかったか」かれはなおもつめ寄った。
高僧はごぼごぼとのどを鳴らしながらガリオンの手をつかもうとしたが、その指はむなしく空気をかきむしるばかりだった。
「わかったかと聞いてるんだ」ガリオンは同じ言葉を繰り返しながら、今度は手を固く握りしめた。
高僧は悲鳴をあげた。
「ぼくたちから手を引くと約束するな」
「頼むからやめてくれ! ベルガリオン。死にそうじゃ!」
「ぼくたちから手を引くか」ガリオンはなおもつめ寄った。
「手を引く――いや、何でもいうことを聞くからやめてくれ! 頼む! 何でもするから」
ガリオンは握りしめた拳を開くと、ぜいぜいあえぐ高僧の胸からゆっくりと引き抜いた。かれは指を鉤爪のように丸めて老人の目の前につきだした。「いいか、こいつを忘れるなよ」かれは押し殺したような声でいった。「今度同じことをしたら、胸にまた手を突っ込んで心臓をつかみ出してやるぞ」
老人は後ずさりながら、恐怖に満ちた目でガリオンの手を見つめた。「約束する」かれはどもりながら言った。「約束するとも」
「おまえの命はそのひとことにかかってることを忘れるなよ」ガリオンはそう言い終えるとくるりと向きを変え、再び何マイルも離れた空を飛んで友人のもとに戻った。あっという間にかれは峡谷の入口に立ち、ゆっくりと地面に元の形を取り戻していく自分の影を見おろしていた。紫色のもやはいつの間にか消えていた。不思議なことにかれは疲労さえ感じていなかった。ダーニクはわななくように息を吸いこみ、起きあがろうともがいた。
ガリオンは急いで友人のもとへ駆け寄った。「大丈夫かい」かれは鍛冶屋の腕をとりながらたずねた。
「まるで体の中をナイフで切り裂かれているみたいだったよ」ダーニクの声は震えていた。
「いったい今のは何だったんだ」
「グロリムの高僧たちがきみを殺そうとしていたんだ」ガリオンは答えた。ダーニクはおびえた目であたりを見回した。
「もう大丈夫だよ、ダーニク。やつらは二度と来やしない」ガリオンはかれを助け起こし、二人は肩を並べて隠れ家に戻った。
ポルおばさんはガリオンが近づいてくるのをじっと見すえた。彼女の目は刺すように鋭かった。「まったく早い成長ぶりだこと」
「だって何かしないわけにはいかなかったんだよ」かれは言った。「シールドはどうしたんだい」
「もう必要ないと思うわ」
「悪くはなかった」だしぬけにベルガラスの声がした。老人はいつのまにか起きあがっていた。まだ弱々しくやつれてはいたが、その目はらんらんと輝いていた。「少しばかり怪しげなところもあったがな。まあ、全体としちゃあ悪くはない。ただし、手の一件に関してはやりすぎだな」
「ぼくはただ自分の言ったことを印象づけようと思ったまでのことさ」祖父が意識を回復したのを見たガリオンの胸中を安堵のさざ波が広がっていった。
「やつには十分よくわかったことだろうさ」ベルガラスはそっけない声で言った。「何かすぐに食べられるものはないかね」かれは娘にたずねた。
「もう大丈夫なのかい」ガリオンが聞いた。
「卵からかえりたてのひなみたいに弱々しく、九頭の乳のみ子をかかえた母狼のように飢えていることをのぞけば、気分は上々だ」ベルガラスは答えた。「ポルガラ、とにかく何でもいいから食べさせてくれないか」
「何か探してみるわ、おとうさん」彼女は荷物の方を向いた。
「いちいち料理などせんでもいいからな」老人はつけ加えた。
少年はその青い瞳にきまじめな、かすかに当惑したようなまなざしを浮かべてガリオンを見つめた。だしぬけに子供は笑い出した。かれは笑みを浮かべたままガリオンの顔をのぞきこんで言った。「ベルガリオン」
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「後悔はないのかね」その夜シルクがガリオンにたずねた。二人はくつわを並べて星空に向かってそそりたつ尖峰の下を歩いていた。
「後悔するって何を」
「指揮権をゆずりわたしたことをさ」沈みゆく夕陽がかれらの旅の再開をつげたときから、小男はガリオンをおもしろそうに見守っていたのである。
「いや、ないね」ガリオンは相手の真意をはかりかねるままに答えた。「何で後悔しなくちゃいけないんだ」
「自分のことをよく知るということは、人間にとっては大切なことなんだぞ、ガリオン」シルクはきまじめな顔で言った。「人間にとって権力というのはとてつもなく魅力的にうつるのさ。間題は実際に自分でそれを握ってみるまで、どうやっていいのかわからないことなんだ」
「何だってそんなことをいちいち気にしたりするんだい。だいたいぼくが指揮権を握ることなんて、そうしょっちゅうあることでもないのに」
「ガリオン、きみはまだわかっていない。全然わかっちゃいない」
かれらはやせた黒い砂の荒れ地を進み、やがて空高くそびえたつ山々の前に出た。一行の背後から昇ってきた上弦の月が、冷たく白い光を投げかけた。荒れ野の終わり近くになるとイバラのような背の低い茂みが白い霜をかぶって砂地を覆っているのが見えた。岩のごつごつしたところにかれらがようやくたどり着いたのは、真夜中まであと一時間あまりの時刻だった。砂の荒れ野からぬけ、登りをかせぐにつれ、馬のひづめの音がカッカッと響いた。最初の尾根を越えたかれらは後ろを振り返った。どこまでも続く広大な荒れ野の暗闇のところどころにマーゴ人の灯が見えた。そしてかれらの来た道のはるか後方でたいまつの光が動いていた。
「いいかげん心配になってきたところですよ」シルクがベルガラスに言った。「だが何とかわれわれの痕跡を見つけ出してくれたらしいですな」
「連中がそれを二度と見失うことのないように祈ろう」老人が答えて言った。
「もうそんなことはありえないでしょう。なにしろ相当めだつようにしてきましたからね」
「だがマーゴ人は時々あてにならんことがあるからな」ベルガラスはほとんど回復したようだったが、その肩ががっくり落ちていることに目ざとく気づいたガリオンは、夜どおし歩くのではなくて本当によかったと思った。
かれらは他の北の山々と同じようにごつごつした不毛の岩山を登り始めた。空にむかって断崖がそびえたち、地面はところどころアルカリ塩で覆われていた。身を切るような寒風が岩と岩の間を通ってたえまなく吹きすさび、かれらが変装のためにまとっているマーゴ人の目の粗い衣をはためかせた。一行は山のふところ深く入るまで進み続けた。そして夜明けまであと数時間のところで休息をとり、朝日が昇るのを待つことにした。
かすかな夜明けの最初の光が東の地平線よりさしこむのと同時に、シルクはふたつの断崖にはさまれた北西に向かう狭い間道の偵察に出発した。かれが戻るのを待って一行は再び馬に乗り、早足で後にしたがった。
「もうこいつを脱いでもいい頃だろう」ベルガラスがマーゴ人の衣を脱ぎながら言った。
「そいつはわたしが引き受けましょう」シルクが手綱をあやつりながら言った。「断崖の間道はほんのすぐそこですから先に行って下さい」とかれは指さした。「二時間もすればわたしも追いつきますから」
「いったいどこへ行こうというんだ」バラクがたずねた。
「なあに、少しばかりにせの手がかりをばらまいてこようかと思ってね」シルクが答えた。
「そうしたらわたしはもう一度皆の通った後を追って、痕跡がないか見ながら追いつくことにする。たいした時間はかかるまい」
「加勢はいらないのか」大男がたずねた。
シルクは首を振った。「一人の方が早く動けるからな」
「わかった、気をつけてな」
シルクはにやりと笑った。「わたしはいつだって慎重な人間さ」かれはマーゴ人の衣を皆から集めると、それを持って西へ走り去った。
一行が馬を進める小道は、かつて何千年もの昔に干あがった川底らしかった。流れのあとが岩をうがち、赤や茶色や黄色に折り重なる小石の断層をあらわにしていた。断崖にはさまれた狭苦しい空間に馬のひづめがあたる音がこだまし、風がぴゅうぴゅうという音をたてて通り抜けていった。
タイバは自分の馬をガリオンのかたわらに進めた。彼女は寒さに震えながら首のまわりにしっかりとガリオンのマントを巻きつけていた。「いつもここはこんなに寒いのかしら」彼女は大きな紫色の目をさらに見開きながらたずねた。
「冬の間だけさ」かれは答えた。「むしろ夏になればここは暑くてたまらないくらいかもしれないよ」
「奴隷の檻では一年中おんなじだったわ。今がどの季節だなんて思いもよらないことだった」
うねり曲がる川床が急に右に折れ、かれらは朝の光のまっただ中に入った。突然タイバがあえぎ声をもらした。
「どうかしたのか」ガリオンはあわてて彼女にたずねた。
「光よ」タイバは叫び、顔を両手で覆った。「目が焼けつくようだわ」
レルグはかれら二人の前にいたが、やはり目を片手で覆っていた。とっさにかれは後ろのマラグ人の女を振り返った。「これを使うがいい」かれはそう言って、いつも太陽のもとに出るときに目の上に巻きつける目隠し布を取り出して、背後の女にさしだした。「また影に入るまでこれで目を覆えばいい」その声は奇妙なまでに平板だった。
「ありがとう」タイバは礼を言って、自分の目に布を巻きつけた。「太陽がこんなにまぶしいものとは知らなかったわ」
「いずれ慣れるさ」とレルグは答えた。「それまで多少時間はかかるかもしれないが」そのまま向きを変えて先に行く途中、かれはまじまじと女の顔を見てたずねた。「本当にこれまで太陽を見たことがないのか」
「ないわ」彼女は答えた。「他の奴隷がどんなものなのか話してくれたことはあったけれど。マーゴ人たちは野外作業に女を使わないのよ。だからあたしは奴隷の檻から外へは一歩も出たことがなかったわ。あたしたちはいつも闇の中で暮らしていたのよ」
「ひどい話だな」ガリオンは身震いしながら言った。
タイバは肩をすくめた。「別に暗闇はそれほど気にならなかったわ。むしろあたしたちが恐れたのは光の方だった。光がさすのは、マーゴ人がたいまつをかざして寺院に捧げるいけにえを連れだしにくるときと決まっていたからよ」
道は再び大きく折れ、かれらはまばゆい朝の光から影の中に入った。「ありがとう」タイバはそう言いながら目隠しをはずして男にさしだした。
「返さなくともいい」レルグは言った。「おっつけまた必要になるだろうから」そう語るかれの声は驚くほどやわらぎ、目には不思議な優しささえ浮かんでいた。だが彼女の顔を見たとたん、再びあの悩ましげな表情が戻ってきた。
ラク・クトルを脱出してからというもの、ガリオンはずっとこの二人をひそかに見守り続けてきた。レルグがいかに努力しても、かれがあの生ける墳墓より救い出すことを余儀なくされたマラグ人の女から、目を引きはがすことができないでいるのもわかっていた。レルグは依然として声高に罪を糾弾し続けていたが、その声に前ほどの断固とした説得力がないのにも気づいていた。それどころかしばしばうわっつらだけの儀式の繰り返しとしか思えないときすらあった。それさえもタイバの大きな紫色の瞳がウルゴ人の方を見るたびに、しばしばとぎれるのである。一方タイバの方では、すっかり困惑しきっているようすだった。彼女は心からの感謝の意を頭ごなしに拒絶されたことで誇りを傷つけられ、激しい憤りを感じていた。だが男の熱烈な視線は、唇をついて出る罵りの言葉とはまったく別のものを語りかけていた。彼女はレルグの視線に答えるべきなのか、その言葉に答えるべきなのかすっかり戸惑っていた。
「それではおまえはこれまでの半生をずっと暗闇の中で過ごしてきたというのか」レルグが興味ありげにたずねた。
「ええ、ほとんどはね」彼女は答えた。「あたしが母の顔を見たのは後にも先にもただ一度――マーゴ人がやってきて母を寺院へ引っぱっていったときだけだったわ。あたしはそれ以来まったくの一人ぼっち。孤独って恐ろしいわね。真っ暗闇のなかを一人ぼっちで過ごすなんておよそ耐えられなかったわ」
「母親から引き離されたときはいくつだったんだ」
「よくはわからないわ。でももうたぶんほとんど大人になりかかっていたんだと思うわ。だってそれからまもなくして、マーゴ人たちはかれらの歓心を買った奴隷にあたしを与えたのだから。奴隷たちの中にはマーゴ人の言うことなら、何でもへいこらして聞くような連中もいたのよ。そういった者たちには特別に食物が――もしくは女が与えられたの。あたしだって最初は泣いたわ――でも、それを受け入れることにしたわ。だってこれで少なくとも一人ぼっちにはならなくてすむんですものね」
レルグの顔がみるみるうちにこわばっていくのをタイバは見た。「だって他にどうしろっていうのよ」彼女は男に向かって言った。「奴隷にとって自分の体は自分のものじゃないのよ。主人が意のままに売り飛ばそうと人にくれたりしようと、自分ではどうしようもないのよ」
「だが何とかやりようがあったはずだ」
「たとえばどんな? あたしには手にして戦うような――もしくは自殺に使えるような武器は何ひとつなかったし、自分自身をくびり殺すなんてことは不可能だわ」彼女はガリオンの方を見て言った。「想像がつくかしら? 何人かの奴隷が自分自身を締め殺そうとしたけれど、意識を失うだけでまた息を吹きかえしてしまうのよ。おかしいと思わない?」
「だがおまえは戦おうとしたのか?」レルグにはこの点がひどく気にかかるらしかった。
「いったいどうやって? あたしをもらった奴隷の男は、はるかに力が強かったのよ。かれはあたしが言うことを聞くまでさんざんなぐりつけたわ」
「おまえは戦うべきだったのだ」レルグはかたくなに主張した。「少しばかりの苦痛など罪の重さにくらべればものの数ではない。そのように頭からあきらめてしまうのは罪に価する」
「そうかしら。もし誰かに何かをしろと強制されて、他に方法がなかったからといって罪になるのかしら」
レルグは言い返そうとしたが、かれの顔をひたと見すえる紫色の瞳を見たとたん、舌が凍りついてしまったようだった。かれは言葉を失い、女の視線を見返すことができなかった。だしぬけにレルグは馬の方向を変え、荷馬にむかって走り去った。
「あの人はなぜあんなに自分自身に厳しいのかしらね」タイバが聞いた。
「レルグは心の底から神に身を捧げているからさ」ガリオンが説明した。「かれはウルに対する信仰心をぐらつかせるいかなるものをも恐れているんだ」
「ウルというのはそんなに嫉妬深い神さまなのかしら」
「そんなことはないと思うけれど、かれはすっかりそう思いこんでいるらしい」
タイバは官能的なしぐさで唇をとがらせて、背後の走り去る狂信者を見やった。「ねえ、あの人はあたしをこわがっているらしいわ」彼女は再びあのいたずらっぽい含み笑いをもらして、つやつやと輝く漆黒の髪に指を走らせた。「今までだれもあたしを恐れた人なんていなかったわ。でも何だか悪くない気分だわね。ちょっと失礼」彼女はガリオンの答を待たずにくるりと馬の向きを変えると、逃げ去るレルグのあとをゆっくり追っていった。
ガリオンは狭苦しい谷間の道すがらずっと二人のことを考えていた。かれはタイバの中にこれまで誰も気づかなかった強さが存在することをみとめた。レルグにとっては運が悪いとしか言いようがなかった
かれはエランドを腕に抱いたポルおばさんのもとに馬を走らせ、その話をした。
「それはよけいなお世話というものよ、ガリオン」彼女は言った。「レルグとタイバはあなたの助けを借りなくともちゃんと自分たちで解決を見つけるわ」
「ぼくはただ心配してるだけだよ。レルグは心底まいっているし、タイバはそのことですっかり途方にくれている。いったいあの二人の上に何が起こっているんだろう」
「それは何かとても重要なことよ」ポルおばさんは答えた。
「おばさんはいつも何かが起きるたびに同じことばかり言うんだね」ガリオンの口調はほとんど非難に近かった。「ぼくとセ・ネドラが年がら年中喧嘩してるのを見て、同じことを言うんじゃないのかい」
ポルおばさんの顔にかすかにおもしろがっているような表情が浮かんだ。「まったく同じというわけではないけれど」と彼女は答えた。「たしかにそれも重要なことではあるわ」
「それは馬鹿げているよ」ガリオンは嘲笑ぎみに言った。
「そうかしら。それじゃ、あなたたち二人の関係がますまく悪くなったのはなぜかしら」
ガリオンは答えることができなかったが、ポルおばさんの言葉に不安を覚えていた。セ・ネドラの名前が出たとたん、少女のおもかげがありありとかれの脳裏に浮かび上がった。ガリオンは突然自分がいかに彼女を恋しく思っているかに気づいた。かれはすっかりふさぎこんだまま、ポルおばさんのかたわらを歩み続けた。ついにかれは大きなため息をついた。
「そんなため息をついてどうしたの」
「だってもう全部終わったんだろう」
「何が終わったというの」
「今度のこと全部さ――つまりぼくたちはもう〈珠〉を取りかえしたわけだから。今度の旅はそのためのものだったんだろ」
「いいえ、ガリオン、それだけじゃすまないのよ。まだまだ――第一、わたしたちはまだクトル・マーゴスから出たわけじゃないのよ」
「本当はそんなことを気にしてるわけじゃないくせに」そう言うことでかれのうちに巣くっていた疑惑が一気に噴き出してくるのを感じたガリオンは、不安そうな目でポルガラを見た。
「もし〈珠〉を取りかえせなかったらどうなるんだろう」かれは問いたださずにはいられなかった。「もし失敗したら――ぼくたちが〈珠〉をリヴァに戻すことができなかったら、西はどうなるんだろう」
「いろいろとよくない結果を引き起こすことになるでしょうね」
「戦争になるんじゃないかい? アンガラク人が勝って、祭壇とナイフを持ったグロリムが大手を振ってのし歩くんだ」ファルドー農園に向かって行進するグロリムの姿を想像しただけで怒りがこみあげてきた。
「ガリオン、取りこし苦労は禁物よ。一度にひとつのことだけ気にかけることにしましょう」
「でも、もし――」
「ガリオン」彼女は苦々しげな表情を浮かべていった。「むだな憶測はやめなさい。そんなことをしたって、いたずらにまわりの人々をおびやかすだけのことだわ」
「でもおばさんはすぐおじいさんにもし何々だったら≠チて言うじゃないか」
「それとこれとは別よ」
続く何日かは乾いた冷たい風が吹きすさぶ難路の連続だった。寒さはかれらの上に重くどっしりとのしかかってくるようだった。シルクは追跡の手がかりを残してはいないかとしばしば馬を返して見にいったが、どうやらかれらのたくらみは見事にマーゴ人をだましおおせたらしかった。太陽も見えず、風が地平線の雲近くまでほこりを吹き上げるある寒い日の午後、かれらはようやく〈南の隊商道〉がまがりくねって走る広大な不毛の峡谷に着いた。かれらは斥候役のシルクを先頭に、低い丘で巧みに身を隠しながら馬を進めた。
「タウル・ウルガスはわれわれの捜索に加わっておるのでしょうか」再び鎧をまとったマンドラレンがベルガラスにたずねた。
「それは何ともいえん」魔術師は答えた。「やつはおよそ予測のつかん男だからな」
「マーゴ人の偵察隊が隊商道を東に向かっています」斥候から戻ったシルクが報告した。「やつらが完全に消えるまでには半時間ほどかかるでしょう」
ベルガラスがうなずいた。
「ミシュラク・アク・タールへいったん入ってしまえば大丈夫ですか」ダーニクがたずねた。
「それもあてにならんな」ベルガラスが応じた。「タールのゲセル王はタウル・ウルガスをひどく恐れておるから、やつがいったんわれわれを追うと決めた以上、国境でことを起こすことはしないだろう」
かれらはマーゴ人が低い尾根を東へ越え、遠ざかるのをじっと待った。それから、再び行動を開始した。
続く二日間、かれらはひたすら北西をめざして進んだ。タールに入ると地形はいくらかなだらかになり、はるか背後にマーゴ人の捜索隊の存在を知らせる土けむりがあがるのが見えた。ついに東の断崖に達したのはどんより曇ったある日の午後のことだった。
バラクは背後の土けむりを振り返ると、ベルガラスのかたわらに馬を走らせた。「〈谷〉へおりる道はどれくらい荒れているのですか」
「まあ、およそ筆舌に尽くしがたい難路だな」
「ベルガラス、後ろのマーゴ人たちは一日と離れてはいないところまで迫ってますよ。もしこれから先慎重に下らねばならないのなら、われわれは下へ着く前に追いつかれてしまうでしょう」
ベルガラスは南の地平線にあがる土ぼこりを眺め、唇をすぼめた。「たぶんおまえさんの言うとおりだろう」かれは答えて言った。「これからどうするか考えた方がよさそうだな」魔術師は片手をあげて皆の歩みを止めた。「さて、われわれはこれからちょっとした選択を行なわなければならない」かれは残りの者たちに言った。「マーゴ人たちはわれわれが期待していたよりもかなり近づいてきておる。〈谷〉へおりるまでにはあと二、三日ばかりを要するだろう。おまけにその道はとうてい駆けおりれるようなしろものではないのだ」
「行きに登ってきた峡谷をそのまま下ればいいんじゃないですか」シルクが言った。「半日もあれば下ることができますよ」
「だが〈谷〉ではヘター卿とチョ・ハグ王率いるアルガーの氏族軍が、われわれを待っておられるはずです」マンドラレンが異議を唱えた。「そのようなことをすれば、われわれは無防備な村にマーゴ人を連れてきてしまうことにもなりかねませんぞ」
「じゃあ、何か他に方法があるのか」シルクがたずねた。
「道すがら火をたくというのはどうかな」とバラクが言った。「ヘターならすぐに意味するところをわかってくれるだろう」
「それはマーゴ人だって同じことだ」シルクが言った。「連中は日に夜をついで追いかけてわれわれのすぐ後ろに迫るだろうよ」
ベルガラスは苦々しげな顔をして短い白髭をかいた。「恐らく最初に考えた計画はあきらめねばならんだろう」ついにかれは決断を下した。「われわれとしては一番の近道をとるしかない。ということは行きに使った峡谷を下りるということだ。いったんおりれば孤立無援になるのはわかりきっているが、このさいやむをえん」
「きっとチョ・ハグ王が崖のふもとのところどころに斥候を置いてくれていますよ」武骨な顔に心配そうな表情を浮かべたダーニクが言った。
「それは期待できるかもしれんな」とバラク。
「よし、わかった」ベルガラスは断固たる口調で言った。「われわれは峡谷の道をとることにしよう。もろ手を挙げて賛成というわけにはいかないが、選択はごく限られているのでな。さあ、出発しようじゃないか」
かれらが山あいの急な道の入口である浅い谷についたのは午後なかばになってからだった。ベルガラスは切り立った断崖にはさまれた道から下を見おろした。「暗いうちは動けんな」とかれは言った。「アルガー人がいる気配はあるか」
「残念ながらないようですな」赤髭の男は答えて言った。「こちらの所在を知らせるために火をたいてみましょうか」
「いや、だめだ」老人は答えた。「われわれの居場所をむざむざ知られるようなまねはしたくない」
「でも小さいたき火だったらほしいわ」ポルおばさんが言った。「わたしたち皆、暖かい食事をとる必要があるもの」
「ポルガラ、そいつはあまり賢明とは言えんな」老人は反対した。
「でも、あした一日は大変な強行軍になるのよ」彼女はゆずらなかった。「ダーニクなら小さな火を起こしてうまく隠す方法を知っているわ」
「わかった、わかった。おまえの好きにするがいい」老人はすっかりさじを投げたような声を出した。
「もちろんですとも、おとうさん」
その夜はことのほか冷えこみ、かれらは小さなたき火をたいて寒さをしのいだ。最初の夜明けの光が東の曇り空を白々と明けそめるころ、かれらは起き上がり、断崖の間の道を下る準備をした。
「わたしが天幕をたたもう」ダーニクが言った。
「そんなものは倒したままほうっておけばいい」ベルガラスが言った。かれは向き直ると荷物のひとつをそっと足でこづいた。「これからは本当に必要なものだけを持っていくことにしよう。こんな荷物で無駄な時間を費やすわけにはいかない」
「まさか全部置いてくというんじゃないでしょうね」ダーニクがショックを受けたような声で言った。
「これからの旅のじゃまになるだけだ。それに馬も荷がない方が動きやすかろう」
「だが、われわれの所持品はどうするんですか!」ダーニクが抗議した。
シルクもまた無念そうな表情を浮かべていた。かれは急いで毛布を広げると、荷物の中を引っかきまわし、次から次へと価値のありそうな小物を選んでは、毛布の上に山と積み上げた。
「おいおい、こんなものいったいどこで手に入れたんだい」バラクがたずねた。
「まあ、あちらこちらでね」シルクは言葉をにごした。
「さては盗んだな、そうだろ」
「いくつかはね」シルクはみとめた。「何しろこれだけ長く旅をしているといろいろとたまるんだよ」
「本気でこいつを全部かついであの峡谷をおりようってのかい」バラクは小男の戦利品をおもしろそうに眺めながら言った。
シルクは宝の山を眺め、その重さを頭の中で計算した。そして心から無念そうにため息をついた。「いや、たぶん無理だろうな」シルクはさっと立ち上がると足元の山をけちらした。
「だがみんな逸品ばかりなのになあ。また初めからやり直さにゃならん」かれはにやりと笑った。「まあ、品物よりも盗む方がおもしろいからな。さあ、出発しようじゃないか」シルクはそう言うなり、急傾斜で落ちこむ切り立った川床の道に向かった。
荷の軽くなった馬ははるかに動きやすく、何週間か前に登ったときにはとてつもない険路と思えたところでも、今回はたやすく越えることができた。昼ごろには、予定の道なかばまで全員来ていた。
だしぬけにポルガラが立ち止まって顔を上げた。「おとうさん」彼女は静かな声で言った。
「やつらが峡谷のてっぺんまで来たわ」
「連中は何人いるんだ」
「偵察隊だわ――二十人はいないわね」
はるか後方で、岩と岩のぶつかりあう音がした。しばらくおいてまた同じ音が聞こえた。
「わしはこれを恐れておったのだ」ベルガラスが苦々しげな顔で言った。
「何を?」ガリオンはたずねた。
「やつらはわれわれめがけて岩を落とそうとしているのさ」老人は気難しげにベルトを引き上げた。「よし、皆先に行ってくれ。できるだけ早く走るんだぞ」
「でも、おとうさんは大丈夫なの」ポルおばさんが気づかわしげに言った。「わかってるとは思うけれどまだ本当の体じゃないんですからね」
「おまえのいうとおりかどうかはこれからわかるさ」老人はぴしゃりと言い返した。「さあ、今すぐ全員ここから出るんだ」かれの口調にはいかなる議論をも拒絶する、断固とした響きがあった。
一行はただちに切り立った岩をわれがちに駆けおり始めたが、ガリオンだけは一人しんがりを守り、ますます他の者たちから遅れていった。ダーニクにつきそわれた最後の荷馬ががれ[#「がれ」に傍点]場を渡りきり、角を曲がって見えなくなるのと同時にガリオンは立ち止まり、じっと耳をすました。下からはひづめが岩にあたり、あるいは滑る音が聞こえ、上からは岩が峡谷にぶつかり、はね返りながら転がり落ちてくる音がした。その音は刻一刻と近づいてくるようだった。かれのうちにおなじみのうねりと轟音が感じられた。人の頭よりも大きな岩が風を切りながらさっと空中高くはね上がり、安全な方向にそれて崖の足元の岩くずの山めがけて落ちていった。ガリオンは時おり立ち止まっては耳をすましながら、慎重に狭い谷道を登り返していった。
角を曲がったとたんガリオンの目に、はるか上方で苦しそうに汗を浮かべる祖父の姿がうつった。かれはとっさに老人の視界から身を隠した。だしぬけに先ほどのよりはひとまわり大きな岩が、狭い谷あいの道を大音響とともにもんどり打って落ちてきた。岩は壁にはね返り、川床にあたるたびに空中高く飛び上がった。岩はベルガラスの頭上二十フィートのところでしたたかに何かかたいものにぶつかって宙に舞い上がった。老人が苦しげなうなり声をあげ、いらだたしげな身振りを示すのと同時に、岩は長い弧を描いてすうっと宙を舞い、峡谷を落ちていったかと思うと見えなくなった。
ガリオンは急いで川床を横切り、岩陰に身を隠しながら、祖父の目から見えないことを確かめるかのように時おり振り返ってはさらに数ヤード下った。
次の岩がもんどり打って落ちてくるのを見たガリオンは〈意志〉を集中させた。タイミングを完璧にあわせなければならないので、かれはじっと物陰から老人の姿を注視していた。そしてベルガラスが片手を上げるのと同時にガリオンは祖父の〈意志〉に自分の〈意志〉を重ねた。それとはわからぬかたちで祖父を助けたかったのだ。
ベルガラスは岩が回転しながらふもとの平原に落ちていくのを見届けると、くるりと振り向き、厳しい顔で谷あいの道を見下ろした。「さあ、ガリオン」かれの声は冷たかった。「わしの見えるところまで出てこい」
ガリオンはすごすごと川床の真ん中に出てくると、立ち止まって祖父を見あげた。
「何だっておまえはいつでも言われたことができないんだ」老人の追及はきびしかった。
「ただ手伝おうと思っただけだよ」
「わしがいつおまえに手伝ってほしいと言った? おまえはわしを病人あつかいするのか」
「また別の岩が落ちてくるよ」
「論点をすりかえるんじゃない。だいたいおまえは最近調子に乗りすぎているぞ」
「おじいさん!」ガリオンはあらたな巨岩がもんどり打って谷道を落ちてきて、老人の背中を直撃しようとしているのを見て思わず叫んだ。かれはその岩に〈意志〉を集中させると峡谷の外へ放り投げた。
「どうしようもない愚か者め」老人は不機嫌な声を出した。「何もはるばるプロルグまで投げる必要なぞないわ。いいかげんに自分の能力を見せびらかすのは止めにしたらどうだ」
「つい夢中になってしまったんだ」ガリオンはあやまった。「少し力が入りすぎた」
老人はうなり声をあげた。「まあ、いい」かれはやや不機嫌そうにつけ加えた。「どうせおまえはここにいるんだしな。ただし自分に飛んでくる岩だけに集中しろ。こちらはひとりで十分だし、さっきみたいな邪魔が入るとかえってバランスを崩してしまうんだ」
「練習しだいでうまくなるさ」
「ついでにおまえはエチケットというものも教えてもらうべきだな」ベルガラスはガリオンの立っている場所までおりてきながら言った。「助けがほしいと言われるまでは手を出すんじゃない。それはたいそう不作法なやり方だぞ、ガリオン」
「また岩が落ちてくるよ」ガリオンはいんぎんな口調で言った。「おじいさんがやるかい? それともぼくが」
「生意気を言うんじゃない、この青二才め」ベルガラスはそう言うとくるりと振り返って、峡谷を転がり落ちてくる岩をはじき飛ばした。
かれらは交互にマーゴ人の落としてくる岩をはね飛ばしながら谷あいの道を下りた。ガリオンは力を集中するたびに作業がたやすくなるのがわかったが、一方のベルガラスはふもとにたどり着いたときには汗びっしょりのありさまだった。ガリオンは再びそれとわからぬように祖父を援助しようとしたが、とたんに恐ろしい形相でにらまれ、ただちに引き下がらねばならなかった。
「まったくどこへ行ってたのよ」二人が峡谷の入口の岩を下って合流するのを待ってポルおばさんがたずねた。彼女は近寄ってベルガラスをじっと見た。「おとうさん、大丈夫なの」彼女はたずねた。
「わしはこのとおり何ともない」かれはぴしゃりと言った。「何しろこいつの助けがあったからな――むろん頼みもしないおせっかいだが」かれは再びガリオンをにらんだ。
「余裕ができたらこの子にあのひどい音を何とかする方法を教えた方がいいわね」彼女は言った。「まるで雷鳴みたいな音だったわよ」
「やつが学ばねばならんのはそれだけじゃない」なぜか老人はひどく侮辱されたような顔をした。
「さて、それでどうするんですか」バラクがたずねた。「のろしをたいてヘターとチョ・ハグがくるのを待ちますか」
「ここじゃまずいよ、バラク」シルクが指摘した。「それこそ全マーゴ人の半分がなだれを打ってわれわれの上に押し寄せてくるだろう」
「ですが、道はそれほど広いものではありませんよ、ケルダー王子」マンドラレンが意見を述べた。「必要ならバラク卿とわたしで一週間は持ちこたえてみせますぞ」
「おいおい、また昔に戻っちまったのか。マンドラレン」バラクが言った。
「そんなことをしたって連中はおまえさんに雨あられと岩を降らすだけのことさ」今度はシルクが言った。「遅からず連中がやってきて、われわれの頭上の岩棚から岩を落とし始めるだろう。そんな事態におちいる前にさっさと平原に逃げ出した方がよかろう」
ダーニクは何か考えこみながら峡谷の入口をしげしげと見つめていた。「連中の足を鈍らせるための何かをここから送りこめるといいんですがね」かれは考えながら言った。「なるべくならすぐ後ろにくっつかれるなどという事態は避けたいし」
「だが岩をここから上にあげるなんてことは不可能だぞ」とバラクが言った。
「岩ではだめです」ダーニクは答えた。「何かもっと軽いものです」
「たとえばどんなものだ」シルクが鍛冶屋にたずねた。
「煙がいいでしょう」ダーニクが答えた。「ちょうど谷あいの道が煙突の役割を果たしてくれます。入口で火を焚いて煙が上に行くようにすれば、火が消えるまで誰ひとりおりてこられないという寸法ですよ」
シルクが白い歯を見せてにやりと笑った。「ダーニク、きみみたいなやつは二人といないよ」
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崖の下には灌木やイバラの藪があちらこちらに生えていた。かれらは剣で藪をなぎ払い、たくさん煙が焚けるだけの大きな焚火の材料を集めた。「急いだ方がよさそうだ」ベルガラスはかれらの作業を見守りながら言った。「すでに十数人のマーゴ人たちが峡谷を下りかけているぞ」
乾いた小枝を集め、丸太を割っていたダーニクは急いで谷道の口に戻ると、ひざまずいて火打ち石を打ち、いつもたずさえている火口で火を起こした。すぐに小さな火が燃え始めたかと思うと、オレンジ色の炎が風雨にさらされた灰色の枝を包みはじめた。かれは慎重な手つきで大きな枝を投げ入れ、炎がかなりの大きさになるまで待った。そして煙の方向を用心深く見守りながらイバラや刺のある枝を積み上げていった。枝はばちばちと音をたてて断続的にくすぶり、そこかしこにもうもうたる煙をまき散らしたが、やがて一定方向に流れ始め、峡谷を這い上がっていった。ダーニクは満足げにうなずいた。「これなら煙突そのものだ」ほどなくして、はるか上方から動揺した叫び声や、咳きこみ息をつまらす音が聞こえてきた。
「いったい人間は窒息死するまでにどれくらいの時間がかかるものかね」シルクがたずねた。
「たいしてかかりませんよ」ダーニクが答えた。
「そんなものかね」小男はうれしそうに煙をたてて燃える火を眺めた。「いや、実にいい火だねえ」かれは炎に手をかざしながら言った。
「煙はやつらの足をにぶらせるだろうが、われわれは今すぐにでも出発すべきだと思う」ベルガラスは目を細め、西の地平線にかかる雲に隠された太陽を眺めながら言った。「いったん崖の斜面を登ると見せかけておいてから、急いでここを下る。連中を少しばかり驚かせておけば、また岩が落ちてくる前に山から脱出する時間をかせげるだろう」
「ヘターがこの近くにいそうな気配はないか」バラクが一面の草原を眺めながらたずねた。
「まだ姿は見えません」ダーニクは答えた。
「そんなことをしたらクトル・マーゴスの軍勢の半分が、下まで追いかけてくることになりますよ」バラクはベルガラスに言った。
「それもやむをえんだろう。とにかく今はここを脱出することの方が先決だ。もしタウル・ウルガスが追っ手のなかに入っていたら、やつはたとえ自分の部下を崖から蹴落とす結果になろうとあとを追ってくるぞ。さあ、出発だ」
一マイルばかりも進むうちに、落石があっても下の平地にほとんど影響を及ぼすこともないと思われる地点まで来た。「よし、ここがよかろう」ベルガラスが言った。「いったん平地へ下りたらあとは一目散に走るのみだ。崖の上から弓を射かけたらかなりの距離まで飛んでくるぞ。みんな用意はいいか」かれは一同の顔を見渡した。「よし、行くぞ」
かれらは岩の短い急斜面から下の草原へ馬をおろした。いったん平地に立つやいなやかれらはすばやく馬にまたがり、いっせいに走り出した。
「矢が飛んでくるぞ!」シルクが鋭い声をあげて、後ろを見た。
ガリオンは弧を描いて近づいてくる点に向かい、ほとんど反射的に〈意志〉を飛ばしていた。そのとたん、かれは同じようなうねりが両側から起こるのを感じた。矢は中空でこなごなに砕け散った。
「おまえたちいい加減にほうっておいてくれんか!」老人はわずかに速度を落とし、ポルおばさんとガリオンに向かって怒鳴った。
「おとうさんを疲れさせたくなかったからよ」ポルおばさんは落着きはらったようすで言った。
「ガリオンだってそう思っているはずだわ」
「ちょっと、親子げんかは後にしてくれませんか」シルクがそびえたつ断崖を不安げに振り返りながら言った。
かれらは広大な草原に突っ込んだ。茶枯れ色の草が馬の足を激しくたたいた。上から射かけられる矢との距離がますます開いていった。切り立った崖から半マイルも離れたところから振り返ってみると、追っ手の射かける矢がびゅんびゅんと空を切って、黒い雨のようにふり注いでいるのが見えた。
「まったくしつこいやつらだな」シルクが感心したように言った。
「あれは民族的習性さ」バラクが答えた。「マーゴ人たちの頑固さときたら、ほとんど白痴なみだからな」
「そんなことはいいから、急げ」ベルガラスが言った。「連中が飛距離のある石弓を持ち出すのは時間の問題だぞ」
「連中は断崖にロープをかけていますよ」じっと後方に目をこらしていたダーニクが報告した。
「先兵がロープを伝わって下り、火を消して煙を追い出したら、すぐにでも馬を下ろし始める算段でしょう」
「まあ、少なくとも連中の足を鈍らせることはできたわけだな」ベルガラスが言った。
ここ何日か空を閉ざし続けてきた厚い雲が黒ずんでいくばかりの、名前だけのたそがれがアルガリアの平野を覆いつくそうとしていた。かれらはただひたすら馬を駆り続けた。
ガリオンは走る馬上から何度か振り返りながら、崖下に小さな赤い点が動いているのをみとめた。「おじいさん、ついにやつらが下りてきたらしい」ガリオンは先頭を切って走る老人に呼びかけた。「連中のたいまつが見える」
「なあに、こうなることはわかっておったさ」魔術師は答えた。
一行がアルダー川のほとりに着いたときはすでに真夜中近かった。川は霜に覆われた岸にはさまれ、黒く油を流したように光っていた。
「こんな真っ暗闇のなかでいったいどうやって浅瀬を探すんですか」ダーニクがたずねた。
「わたしがやろう」と答えたのはレルグだった。「地底ではこんなものは暗闇とはいわないんだ。ここで待っていてくれ」
「これでわれわれも少しばかり優位にたてるというもんだ」シルクは言った。「こちらは浅瀬をすいすい渡れるが、マーゴ人は夜の大半を費やして、川のあちこちを探しまわらなきゃならない。連中が渡り終えるまでには、われわれは何リーグも先に行ってるという寸法だ」
「むろんそんなことは計算ずみさ」ベルガラスはすました顔で言った。
三十分ほどしてレルグが戻ってきた。「ここからたいして遠くないぞ」
かれらは再び馬に乗って身を切るような寒さと暗黒のなかを、岸のカーブにそって進んだ。やがてまごうことなき石の上を流れる瀬音がかれらの耳を打った。「もうほんのすぐそこだ」レルグが言った。
「だが浅瀬とはいえ、こんな暗闇の中を渡渉するのは危険じゃないか」バラクが言った。
「それほどの暗さではない」レルグは答えた。「おれのあとにぴったりついてきてくれ」かれは自信に満ちた足取りで上流にむかって百ヤードばかりを進み、馬の腹をこづいて浅瀬に乗り入れた。
川に入ったとたんガリオンは氷のような冷たい水に馬が一瞬ひるむのを感じた。かれはベルガラスのすぐ後に従った。後方で荷物から解放された荷馬をなだめすかしながら水に入れるダーニクの声がした。
川はさほど深くはなかったが、およそ半マイルにもわたる広さがあった。おかげで人も馬も渡っている間にひざまでずぶ濡れになった。
「これで夜の残りはさぞかし楽しからざるものになるだろうな」シルクはぐしょ濡れになった片足を振りながら言った。
「だが川のおかげで、少なくともタウル・ウルガスから離れていられるんだぞ」バラクがたしなめた。
「それを考えればちょっぴり気分も明るくなるな」とシルクが言った。
だが半マイルも行かないうちに、マンドラレンの馬が苦痛にいなないたかと思うと、地面にどうとくずおれた。鞍からほうり出された騎士は、がちゃがちゃと音をたてて草原に転がった。かれの馬は足をばたばたさせて起き上がろうと、空しくもがくばかりだった。
「いったいどうしたんだ」バラクが鋭い声でたずねた。
その時ふたたび背後で苦しげないななきが起こったかと思うと、荷馬の一頭が地面にくずおれた。
「何が起きたんだ」ガリオンが上ずった声でダーニクにたずねた。
「寒さのせいです」ダーニクは鞍から飛び下りながら言った。「くたくたになるまで走らせ、おまけに氷のような川を渡らせたりしたからですよ。筋肉が寒さでおかしくなってしまったに違いありません」
「どうすればいい」
「毛織の布でよくこすってやらねばなりません。それも全部の馬を」
「だがそんな時間はないぞ」シルクが反駁した。
「さもなきゃ歩くしかありません」ダーニクはかれの丈夫な毛織のマントを脱ぐと、勢いよく自分の馬の足をこすりはじめた。
「火を焚いた方がいいかもしれない」ガリオンもまた馬から下りて、動物の震える足をこすり始めた。
「ここには燃やすものがないよ」ダーニクが言った。「なにしろ一面の草原だからな」
「それにここで火を燃やしたりすれば、十マイル以内にいるマーゴ人たちの格好な目標になってしまう」バラクは灰色の愛馬の足をマッサージしながら言った。
かれらはできるかぎり作業を急いだが、マンドラレンの馬がふたたび立ち上がり、他の馬が動けるようになる頃には、すでに東側の空がほの白くなりはじめていた。
「まだ馬たちを走らせるのは無理です」ダーニクが陰鬱な口調で言った。「それどころかわれわれを乗せることすらできないでしょう」
「だがダーニク」シルクが抗議した。「タウル・ウルガスはすぐ後ろに迫っているんだぜ」
「馬たちを無理やり走らせたところで一リーグと持ちませんよ」鍛冶屋はなおも言い張った。
「もはやそんな力は残っていないのです」
とりあえずかれらは馬に乗り、並み足で岸から離れることにした。だがこれほどまで速度を落としても、ガリオンは体の下で馬が震えているのを感じた。かれらはしばしば後ろを向いては、しだいに明らんでくる空の下に広がる夜闇に覆われた対岸の平原を振り返った。最初の低い丘を登り切ったところで、それまで草原を覆っていた闇がはれ、はるか遠方の動きが見渡せるようになった。刻一刻と明るくなっていく光のもとで、かれらは川の向こうにひしめくマーゴ人たちの姿を見た。その真ん中にはためいているのは、まごうことなきタウル・ウルガスの黒い旗だった。
マーゴ人たちはなだれを打って対岸におし寄せた。馬に乗った偵察兵が浅瀬を探して動き回るのが見えた。タウル・ウルガスの率いる軍勢はまだ徒歩のままだったが、かれらの馬は次から次へと崖にはさまれた狭い間道をおり、主人を全力疾走で追いかけてくるところだった。
最初の一団がしぶきをたてて浅瀬に乗り入れ始めるのを見たシルクはベルガラスの方を向いて言った。「さあ、どうするんです」小男は心配そうな声で聞いた。
「まずはこの丘から即刻下りることだ」老人は答えた。「連中に発見されたとは思わんが、もはやそれも時間の問題だろう」
かれらは丘の下の草の生い茂る湿地におり立った。一週間以上もの長きにわたって空をどんより覆っていた雲は少しずつ吹き払われ、間にほの暗く冷たい青をのぞかせ始めていた。
「たぶんやつは軍勢のほとんどを対岸で待たせているものと思われる」一行が馬からおりるのを待ってベルガラスは口を開いた。「馬が到着しだい川を渡る心づもりなのだ。いったんこちらに渡り切ったら、分散してわれわれを探すつもりだろう」
「たしかにおれだったらそうするね」バラクも同意した。
「だれか見張りの者が必要ですね」ダーニクが言った。かれは徒歩で再び丘を登り始めた。
「やつらがおかしな動きをしたらすぐに知らせますよ」
ベルガラスは考えにふけっているようだった。かれは背中で手を組んだままゆっくりと行ったり来たりした。その顔には気難しげな表情が浮かんでいた。「どうやらことはわしの思惑どおりには行かないようだ」ようやくのことで老人は言った。「馬たちが疲労で動けなくなることまでは計算に入れてなかった」
「どこか隠れられるような場所がないでしょうか」バラクがたずねた。
ベルガラスは頭を振った。「ここはいたるところ草原地帯なのだ」かれは言った。「身を隠せるような岩も洞穴も木もありはしない、第一、われわれの足跡を隠すことすらできん」かれは丈の高い草を蹴った。「実に気にいらん」老人はむっつりした顔で言った。「疲れ果てて動けない馬とともに、この場所に閉じ込められてしまったのだ」かれは憂うつそうに下唇をかんだ。「一番近い助けは〈谷〉にある。ただちに南に転進して何としてでもそこにたどり着くしかない。かれらは目と鼻の先にいるのだからな」
「あとどのぐらいあるんですか」シルクがたずねた。
「十リーグかそこいらだろう」
「それではまる一日かかってしまいますよ、ベルガラス。とてもそんなに長くは持ちこたえられませんよ」
「少しばかり天候をいじくらねばならんだろう」ベルガラスは不承不承言った。「わしとしてもそんなことはしたくないが、他になすすべはないのだ」
そのとき、北の方角から遠い雷鳴のような轟きがかすかに聞こえてきた。男の子はぱっと顔を上げるとポルおばさんに向かって笑顔を見せた。「使命《エランド》?」かれはたずねた。
「ええ、そうね」彼女は心ここにあらずといったようすで答えた。
「近くにアルガーの者たちのいる気配は感じられないか、ポル」ベルガラスがたずねた。
彼女はかぶりを振った。「たぶんわたしは〈珠〉の近くにいすぎるんだわ。一マイルより先のものは〈珠〉の反響に妨げられて感知できないのよ」
「まったくこいつはいつだってやかましかった」老人は不機嫌なうなり声をあげた。
「おとうさんが話してみればいいでしょ」彼女は言った。「あなたのいうことなら聞くかもしれないわ」
ベルガラスは娘に険しい目を向けた。彼女は落着きはらったまなざしで父を見返した。「そいつの助けを借りんでも自分一人でできるわい」老人はそっけなく答えた。
そのとき再び遠くで轟音が起こった。今度は南の方角からだった。
「雷かい」シルクはいささか当惑気味に言った。「それにしちゃずいぶんと季節はずれだが」
「ここの草原には独特の気候があるのだ」ベルガラスが答えて言った。「何しろここからドラスニアまでの八百リーグは、だだっ広い草原以外何ひとつないんだからな」
「それでは〈谷〉へ向かいますか」バラクがたずねた。
「どうやらそうせねばならんようだな」老人は言った。
ダーニクが丘の上から駆けおりてきた。「やつらが川を渡り始めました」かれは報告した。
「だがまだ分散してはいません。恐らくもう少し多くの兵士を渡らせてから、捜索を始めるつもりでしょう」
「馬にひどい負担をかけずにどれくらい走れるかな」シルクが聞いた。
「たいして走れはしないでしょうね」ダーニクが答えた。「わずかに残った余力を使わせなければならないような事態になるまで走らせるのは止めておいた方がいいでしょう。一時間ばかり馬に乗らずに歩いていけば、普通に駆け足ができるほどには回復するでしょう――ただしそれもごく短い時間内でのことですが」
「それでは尾根の向こう側を行くことにしよう」ベルガラスが自分の馬の手綱を取って言った。
「そこなら相手に見られずにすむが、タウル・ウルガスの動きも見張っていなければならん」
いまや雲はますます分断され、ちぎれた小片は広大な草原を絶え間なく吹きすさぶ風に次々と流されていった。東側の空はピンク色にそまりかけていた。クトル・マーゴスやミシュラク・アク・タールなどの高地でかれらに牙をむいた強烈な厳しい寒気はなかったが、アルガリアの平原の寒さも相当なものだった。ガリオンは身震いするとマントを体にぴったり巻きつけ、疲労困憊した馬を引きながらとぼとぼ歩いた。
再び短い轟きが起こり、ポルおばさんの鞍にまたがっている子供を笑わせた。「使命《エランド》」かれは声高らかに言った。
「いいかげんあれをやめにしてもらえないかね」シルクがいらいらしたようすで言った。
かれらは歩きながらもしばしば長い屋根ごしに視線をはなった。アルダー川を渡るタウル・ウルガス配下のマーゴ人兵士の群れは刻一刻と数を増していった。もはや軍勢の半分はすでに西側の対岸にうつり、マーゴ王の赤と黒の旗が傲然とアルガリアの平原に打ち込まれた。
「もしこれ以上の人数を崖からおろす気でいるのなら、やつをあの場所から追い出すのは大変な作業になるぞ」バラクは低い声で毒づき、眼下のマーゴ人を眺めながら顔をしかめた。
「わかっておる」ベルガラスが言った。「それこそわしが何としても避けたいと思ってる事態なのだ。われわれはまだ戦いのできる状態ではないからな」
東の崖から巨大な赤い太陽が重たげに昇りはじめ、まわりの空をばら色に染めあげた。まだ影に閉ざされた眼下の谷間では、鋼色の朝の光を浴びながら、マーゴ人たちがしぶきをあげて川を渡り続けていた。
「タウル・ウルガスは完全に明るくなるまで、捜索の開始を見合わせるのではないかと思われますが」マンドラレンが言った。
「だがそれも後わずかのことだ」バラクはかれらが後にしてきた小高い丘にゆっくりさしこむ光の筋を眺めながら言った。「われわれに残された時間はせいぜい三十分といったところだろう。もはや事態はいちかばちか馬に賭けてみるところまできている。一マイルごとに走る速度を変えていけばもう少し長く走れるかもしれない」
だしぬけに轟きわたった大音響はあきらかに雷鳴ではなかった。大地は揺れ動き、震動が北からも南からも押し寄せた。
突然〈アルダー谷〉を囲む山なみの頂という頂からあらわれ出たアルガーの諸氏族が、まるで堰を切った巨大なダムのようになだれを打って押し寄せてきた。かれらは岸に群がるあっけに取られたマーゴ人兵士たちめがけていっせいに突撃した。天をも揺るがす勝ちどきをあげながら、かれらは川をはさんで分断されたタウル・ウルガスのマーゴ軍にむかって牙をむく狼のように襲いかかった。
アルガー軍の総攻撃のさなかから一人の騎兵が馬の方向を変えたかと思うと、ガリオンとその仲間たちのいる場所に向かって丘を駆け上がってきた。相手が近づくにつれ、ガリオンの目に風になびくひとふさの頭髪と最初の朝の光を浴びてきらめくサーベルがうつった。男はヘターだった。巨大な安堵の波がガリオンの胸をひたした。助かったのだ。
「いったい今までどこにいたんだ」バラクはどんどん近づいてくる鷹のような顔のアルガー人に向かってどなった。
「ずっと見ていましたよ」ヘターは落着きはらって言った。「われわれはマーゴ人の退路を断つために、連中が断崖の道をおりきってしばらく進むまで待機していました。父があなたがたのようすを見てこいといったのでこうして来たのです」
「そりゃまた何とも思いやり深いことで」シルクが皮肉っぽく言った。「きみたちがすぐそばにいるってことをわれわれに知らせてくれようという気は起こらなかったのかね」
ヘターは肩をすくめた。「あなたたちが無事なのはわかっていましたからね」かれは非難めいた視線をガリオンたちの馬に向けた。「馬たちの世話をあまりしてくれなかったようですね」
「少しばかり事態が切迫していたものでね」ダーニクが弁解した。
「ところで〈珠〉は手に入れられましたか」のっぽのアルガー人は、眼下に繰り広げられる川をはさんだ死闘を飢えたような目で見おろしながら、ベルガラスにたずねた。
「少しばかり手間どったが、無事手にいれたよ」老魔術師は答えた。
「それはけっこうでした」ヘターは馬の向きを変えると痩せぎすな顔に獰猛な表情を浮かべた。
「それではチョ・ハグに報告してきます。失礼」かれは二、三歩行きかけたところで何かを思い出したように振り返った。「そうだ」かれはバラクに向かって言った。「ところで、このたびはおめでとうございます」
「何がだ」大男はけげんな顔でたずねた。
「息子さんが生まれたことですよ」
「何だって」バラクは仰天したような声をあげた。「いったいどうやって」
「まあ、普通の方法で生まれたんだと思いますがね」ヘターが答えた。
「いや、いったいどうやってそれを知ったのかという意味だ」
「ああ、アンヘグ王の伝言ですよ」
「いつ生まれたんだ」
「二ヵ月ほど前ですが」ヘターは川の両側はもちろんのこと浅瀬にまで繰り広げられている戦闘を落着かなげに眺めた。「すみませんが、もう行かねばなりません」かれは言った。「今行かなければ、わたしの相手にするマーゴ人は一人も残らないでしょう」そう言うなり馬の脇腹を蹴って駆けおりていった。
「まったくあいつはちっとも変わっちゃいないな」シルクが言った。
バラクは赤い髭もじゃの顔に呆けたような笑いを浮かべて突っ立っているばかりだった。
「おめでとう、バラク卿」マンドラレンはバラクの手を握りしめて言った。
バラクのにやにや笑いはますますひどくなった。
四方八方から包囲されたマーゴ人たちの敗北は今やあきらかだった。川で軍勢を二分されたタウル・ウルガスはまっとうな撤退すらできなかった。数のうえで圧倒的にまさるチョ・ハグ王の軍勢は川を渡りきったマーゴ人兵士たちになだれを打って襲いかかった。わずかに生き残った不格好な短躯の兵隊たちは、われ先に川に飛びこんでマーゴ王の赤と黒の旗の近くに引き上げられた。浅瀬の戦闘においても、アルガー人が断然優位にたっていた。かなり離れた上流から騎兵は次々と氷のような水に飛び込み、流れにまかせて浅瀬に乗り上げ、敵の退路を断とうとしていた。川における戦闘は動きまわる馬たちの激しい水しぶきに隠されてほとんど見えなかったが、下流に流されていく死骸が戦闘の凄まじさを雄弁に物語っていた。
ほんの一瞬、タウル・ウルガスの赤と黒の旗がチョ・ハグ王の葡萄酒色と白の馬の旗と対峙したかと思うと、すぐに離れた。
「さぞかしおもしろいご対面だったろうな」シルクが言った。「なにしろチョ・ハグとタウル・ウルガスは何年にもわたって憎み合ってきた仲だからな」
マーゴ王は東岸に渡りつくやいなや、残った軍勢をかき集めると馬の向きを変え、崖地をめざして一目散に草原の上を逃げていった。すぐあとをアルガーの騎兵たちが執ように追っていた。マーゴの軍勢が多すぎたことがかえって退路を断つ結果になった。かれらの馬はまだ断崖の狭い道をおりきっていなかったので、マーゴ人たちは徒歩のまま戦わねばならなかった。アルガー軍は怒濤のようにかれらに襲いかかった。剣が朝日を受けてきらめいた。ガリオンの耳にかすかな悲鳴が聞こえてきた。かれは気分が悪くなり、顔をそむけた。これ以上、眼下の殺戮を見るのは耐えられなかった。
ポルおばさんと手をつないで立っていた少年は、きまじめな表情を浮かべてガリオンの顔を見た。「使命《エランド》」その言葉には悲しみがこもっていた。
戦闘は午前中なかばには終わっていた。対岸にいたマーゴ人は最後の一人まで掃討され、タウル・ウルガスはちりぢりになった軍勢をかき集めて崖を逃げ登った。「いや、なかなか見事な戦闘だった」川の両側に散乱し、あるいは浅瀬の下流の洲のうえを浮き沈みする死体を眺めながらバラクが専門家らしい感想をのべた。
「アルガーの諸氏族のたてられた戦略は実に素晴らしい」マンドラレンも同意した。「タウル・ウルガスが、このたびのこらしめから回復するにはかなりの時間がかかりましょう」
「まったくやっこさんの顔を見てやりたいよ」シルクは笑いながら言った。「たぶん今頃口から泡をふいてるんじゃないか」
鋼と黒革で身体をまとったチョ・ハグ王が、朝日のもとに意気揚々と馬の旗をはためかせ、まわりにぴったり護衛を従えながら丘を駆けあがってきた。「いや、なかなか有意義な朝であった」かれは立ち止まるとアルガー人特有の控えめな表現で言った。「こんなにたくさんのマーゴ人を連れてきてくれて心からのお礼を申し上げる」
「やっこさん、ヘターと大差ないな」シルクがバラクに向かって言った。
アルガー人の王はゆっくりと馬からおりて心からの笑みを浮かべた。かれの弱々しい足は体重をかけたとたん縮んでしまいそうだった。王は鞍につかまって体を支えた。
「ラク・クトルはいかがだったかな」
「ちょっとした騒ぎを引き起こしてな」ベルガラスが答えた。
「クトゥーチクは元気だったかね」
「まあまあというところだ。もっともわれわれは荒療治を施してやったが。おかげで大地震を起こしちまったぞ。あれでラク・クトルの山頂の大半は崩れ落ちただろう」
チョ・ハグはにやりと笑った。「ほう、それはまた気の毒に」
「ヘターはどこです」バラクがたずねた。
「まだマーゴ人を追いまわしているのではないかな」チョ・ハグが答えた。「連中の後衛が置いてきぼりをくってね。今頃は隠れ場所を探して血眼になっていることだろう」
「だがこんな平地では隠れようがないんじゃないかね」バラクがたずねた。
「まったくないと言ってよかろう」アルガー王は楽しげに言った。
突如近くの丘に何台も軒を連ねたアルガー製の四輪馬車があらわれ、背の高い枯れ草をぬうようにしてかれらに近づいてきた。それは四角い箱形をした乗物で、車のついた家のように見えないこともなかった。それぞれの車には屋根もあれば細長い窓もあり、その後方には戸口に通じる階段もあった。馬車が近づいてくるのを見たガリオンは、まるで街が移動しているようだと思った。
「ヘターが戻ってくるにはまだ間があろう」チョ・ハグは言った。「それまでちょっとした腹ごしらえをしておこうじゃないかね。わたしとしてもアンヘグとローダーにことのしだいを一刻もはやく知らせてやりたいとは思うが、きみたちだって言いたいことはあるだろう。一緒に食事をしながら話を聞こうじゃないか」
何台かの車が合体して横の壁を取り払うと、背の低いゆったりした食堂に早がわりした。暖かい火鉢がいくつも置かれ、ろうそくが寄せ集めの大食堂のそこかしこを照らして窓からさし込む冬の明るい日ざしを補った。
かれらはあぶり肉と芳醇なエールを囲んで食事した。ガリオンはすぐに自分が厚着しすぎていることに気づいた。かっかと燃える火鉢が心地よい熱を放出し、かれはまるで何ヵ月も暖かさというものを体験していなかったような気分になっていた。体は汚れ、疲れきっていたが安全なぬくもりがかれを包んでいた。ガリオンはベルガラスが脱出行の一部始終をアルガー王に物語るのを聞きながら、いつしか皿の上にかがみこんだままうとうとしはじめていた。
だが老人の話が進むにつれ、ガリオンはどこかおかしいことに気づいた。祖父の声にはどこか不自然な陽気さが感じられ、ときとして舌がもつれているように聞こえた。その目は依然として青く輝いていたが、ふとした拍子に焦点が定まらないことがあった。
「するとゼダーはまんまと逃げおおせたというわけか」チョ・ハグは言った。「まさに画竜点睛を欠くというところだな」
「なあに、ゼダーなんぞ問題にすることはない」ベルガラスはぼうっとした顔に笑みを浮かべながら言った。
かれの声はどことなくふらついてうつろな響きがあり、チョ・ハグ王でさえけげんな顔で老人を見たほどだった。「ベルガラス、そなたにとってずいぶんと忙しい年だったようだな」
「だが実り良き年でもあったぞ」魔術師は再び笑いを浮かべると、エールの盃を宙にかかげた。ぶるぶる震える手をかれはびっくりしたように見つめた。
「ポルおばさん!」ガリオンは叫んだ。
「大丈夫なの、おとうさん」
「気分は上々さ、ポル。最高だよ」かれは再び弱々しいほほ笑みを浮かべ、焦点のあわない目をふくろうのようにぱちぱちさせた。だしぬけに老人は立ちあがり、彼女の方に行こうとしたが、足元はふらつきほとんど倒れんばかりだった。次の瞬間、ベルガラスは目をむいたかと思うと、殺された牛のようにどうと倒れた。
「おとうさん!」ポルおばさんは悲鳴をあげて老人のそばに駆け寄った。
ガリオンも彼女に負けない敏捷さで意識のない老人のかたわらにひざまずいた。「いったいどうしたんだ」かれは思わず叫んでいた。
ポルおばさんはかれの質問には答えなかった。彼女は手をベルガラスの手首と額の上に置いて脈を探っていた。そして老人の片方のまぶたをひっくり返して、何も見ていないうつろな目をのぞき込んだ。「ダーニク!」彼女は叫んだ。「わたしの薬草袋を持ってきてちょうだい――急いで!」
鍛冶屋はドアに向かって突進した。
チョ・ハグ王も腰を浮かしかけていた。その顔は死人のように青ざめていた。「まさか、かれは――」
「いいえ」ポルおばさんは緊迫した声で答えた。「生きていますわ。でも非常に危険な状態です」
「またやつらが新手の攻撃をしかけてきたのか」シルクは立ち上がって慌ただしくあたりを見まわした。その手が知らぬまに腰の短剣にのびていた。
「いいえ、そういうことじゃないの」ポルおばさんは老人の胸に手をうつした。「もっと早く気がつくべきだったんだわ」彼女はみずからを叱りつけるように言った。「このがんこ者の、高慢ちきな年寄りのお馬鹿さん! わたしがもっとよく注意するべきだったのよ」
「おばさん、頼むから教えてくれ」ガリオンは必死に嘆願した。「いったいおじいさんはどうしたんだ」
「おとうさんはまだクトゥーチクと戦ったときの衝撃から回復していなかったのよ」彼女は答えた。「気力をふりしぼって無理をしていたんだわ。加えてあの岩の攻撃でしょ――それでも止めようとはしなかったのよ。おかげでおとうさんの生きるエネルギーと気力は完全に燃え尽きてしまったのよ。今ではかろうじて呼吸する力しか残っていないわ」
ガリオンは祖父の頭を持ちあげて、自分のひざの上に優しく置いた。
「ガリオン! 助けてちょうだい」
かれは本能的に彼女の求めているものが何であるかを悟った。ガリオンは自分の〈意志〉を集中させると、おばに向かって手をのばした。彼女が慌ただしくそれを握ったとたん、ガリオンは体内にわきあがった力が吸い取られていくのを感じた。
ポルおばさんは目を大きく見開いて、じっと老人の顔をのぞきこんだ。「もう一度!」再び彼女はガリオンのかき集めた力を吸い取っていった。
「いったい何のためにこんなことをするんだ」ガリオンの声は鋭かった。
「おとうさんの失ったものを少しでも回復するためよ。たぶん――」彼女はドアの方を向いて叫んだ。「ダーニク! 早くしてちょうだい」
ダーニクが慌ただしく馬車に戻ってきた。
「袋を開けてちょうだい!」彼女は言った。「その黒い壺をこちらにちょうだい――鉛で封のしてある壺よ――それから鉄の火ばさみを」
「わたしが開けましょうか」鍛冶屋は言った。
「いいえ、封を破るだけでいいわ――でも、注意してね。あと手袋をちょうだい――もしあれば革製のものがいいんだけれど」
シルクが黙ってベルトの下から革製の手袋を取り出すと、おばさんに渡した。彼女は手袋をはめると黒い壺を開け、火ばさみを中に突っ込んだ。そして細心の注意を払ってつやつやと輝く緑色の葉を一枚より分け、火ばさみで慎重に持ちあげた。「おとうさんの口をこじあけてちょうだい、ガリオン」
ガリオンはベルガラスの食いしばった歯の間に指を差し入れ、注意深く老人のあごを上下に開いた。ポルおばさんは老人の下唇を引っぱると、先ほどのつやつや光る葉を近づけ、その舌に一度、二度、と軽くなすりつけた。
そのとたんベルガラスの体は激しくそり返り、足がばたばたと床をたたいた。四肢の筋肉が隆起したかと思うと、腕がぐるぐるまわり出した。
「体をしっかり押さえつけてちょうだい」ポルおばさんは残りの者たちに命じた。彼女は急いでその場をしりぞき、マンドラレンとバラクが身もだえする老人の体に飛びつくまで、つやつや光る葉を持ったまま離れて立っていた。「木鉢を取ってちょうだい」彼女は言った。
ダーニクが鉢を渡すと、彼女は火ばさみと葉を中に落とした。そして慎重な手つきで手袋を脱ぐと、それらの上に重ねた。「これを持っていってちょうだい」彼女は鍛冶屋に言った。
「手袋に絶対ふれないようにしてね」
「これをどうすればいいんですか、ミストレス・ポル」
「外へ持っていって燃やしてちょうだい――鉢も何もかも――それから煙を誰にも吸わせないようにしてね」
「そんなに危険なものなんですか」シルクがたずねた。
「危険なんてなまやさしいものではないわ。でもこれはあくまでも予防処置ですからね」
ダーニクはごくりと唾を飲みこむと、まるでそれが生きている蛇ででもあるかのように、鉢を持ちあげて馬車を出ていった。
次にポルガラは小さなすり鉢とすりこぎを取り出すと、袋から取り出したいくつかの薬草を細かくすりつぶしはじめた。彼女はベルガラスの顔をじっとのぞきこみながら、アルガー王に言った。「チョ・ハグ、〈砦〉まであとどれくらいありますの」
「駿馬に乗った者で半日というところかな」
「それでは四輪馬車では――極力振動を避けてゆっくり走らせたらどれくらいかかります」
「まる二日だな」
彼女は眉をしかめたが、薬草をすりつぶす手は止めなかった。「わかりました、それではしょうがないわ。すぐにヘターをシラー王妃のところへ遣わして下さい。そして寝心地のいいベッドがあって隙きま風の吹きこまない、暖かい明るい部屋を用意するように伝言させて下さい。ダーニク、あなたには四輪馬車の運転をお願いするわ。どんな振動も禁物よ――たとえ遠まわりして時間がよけいにかかろうとね」
鍛冶屋はうなずいた。
「だがかれは助かるんでしょうね」バラクは老人が目の前で倒れたときの衝撃からまださめやらぬ表情で心配そうにたずねた。
「まだ何とも言えないわね」彼女は答えた。「恐らく倒れる危険性は何日も前からあったに違いないわ。ただそれを表に出さなかっただけのことよ。たぶん一番危ないときは過ぎ去ったとは思うけれど、まだ他にもいろいろでてくると思うわ」そう言いながら彼女は父の胸に手をあてた。「さあ、おとうさんをベッドにうつしてちょうだい――そっとね。それからベッドのまわりを何かで覆って――そうね、たぶん毛布が役にたつでしょう。とにかく安静にして風が当たらないようにしなくては。大きな音をたててもいけないわ」
あたえられた指示の深刻さに打たれ、一同はぼう然と彼女を眺めるばかりだった。
「さあ、ぼさっとしてないで」ポルおばさんは厳しい口調で言った。「父の命はわたしたちの動きひとつにかかっているのよ」
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馬車は這うようにのろのろと進んだ。高い、薄い雲がふたたび太陽の姿をかくし、重苦しい寒さが南アルガリアのどこまでも平たい大地を覆っていた。馬車に乗り込んだガリオンは疲労で重くぼんやりした頭を抱えながらも、意識のないベルガラスにかがみ込むポルおばさんを食い入るように見つめていた。眠ることなど問題外だった。いつ何どき、あらたな脅威がふりかかるか知れず、そうなったらただちにおばさんを助けて、かれの〈意志〉と護符の力を集めて加勢にくわわるつもりだった。小さな顔に悲しげな表情を浮かべたエランドはおとなしく椅子に座り、両手でダーニクが作ってやった小袋をぎゅっと握りしめていた。ガリオンの耳のなかで〈珠〉はなおも歌い続けていたが、いつしかその響きはたえまない穏やかなものになっていた。ラク・クトルを離れてから何週間もたつうちにかれはすっかりその存在に慣れてしまった。ときおり周囲が静かなときや疲れているときなど、歌はあらたな力をもってよみがえるのだった。それはどこか心慰められる調べだった。
ポルおばさんはかがみ込むとベルガラスの胸にふれた。
「どうかしたの?」ガリオンは鋭くささやいた。
「何でもないわ、ガリオン」彼女は落着きはらって言った。「お願いだからわたしが動くたびにいちいち聞くのはやめてくれない。もし何かあったら、あなたに言うわ」
「ごめんよ――ただ心配だっただけなんだ」
彼女はふり向いて、きっとガリオンを見すえた。「あなたは何でエランドを連れてシルクやダーニクと一緒に上にいないの」
「だってぼくが必要になったらどうする?」
「そのときはあなたを呼ぶわ」
「でも本当にぼくがいた方がいいんじゃないか」
「いいえ、むしろいてくれない方がありがたいわ。必要なときには呼びますからね」
「だけど――」
「今すぐ行くのよ、ガリオン」
かれにはこんなとき何を言ってもむだなことはわかっていた。ガリオンはエランドを箱馬車の戸口まで連れていき、上にあがった。
「容体はどうだい」シルクがたずねた。
「何でぼくにわかる? わかることといえば、自分が追っぱらわれたことくらいさ」ガリオンはいささかぶっきらぼうな口調で答えた。
「それはいい兆候じゃないか」
「たぶんね」ガリオンはあたりを見まわした。西側にそって長い丘が続いていた。それらを見おろすようにして巨大な石積みの塔がそびえたっていた。
「あれが〈アルガーの砦〉だ」ダーニクが指さしながらガリオンに言った。
「あんなに近いのかい」
「いや、まだまる一日はかかるな」
「どれくらいの高さがあるんだい」
「少なくとも四、五百フィートはあるね」シルクが言った。「なにしろアルガー人が数千年もかかって築きあげてきたものだからな。家畜の出産期が終わったあとのいい気晴らしさ」
バラクがあがってきた。「ベルガラスの具合はどうだ」大男は近づきながら言った。
「少しはよくなってきたんじゃないかと思う」ガリオンは答えた。「でも本当のところはぼくにもわからないんだよ」
「まあ明るい材料ではあるな」大男は行く手の溝を指さしながら言った。「あそこは迂回した方がよさそうだ」かれはダーニクに言った。「チョ・ハグ王の話ではこのあたりの道はあまりよくないとのことだったからな」
ダーニクはうなずいて、馬車の方向を変えた。
その日いちにちというもの、アルガー人の〈砦〉は西の地平線を背に、焦げ茶色の丘陵地帯にそびえ、立ちはだかるように見えた。
「あれは人目をそらすための建造物なのさ」シルクはだらしなく馬車に背をもたせかけながら言った。
「それはどういう意味ですか」ダーニクがたずねた。
「アルガー人は遊牧民だ」小男が説明した。「かれらはこんな形の箱馬車に住んで家畜を追って暮らしている。〈砦〉はマーゴ人にとっては格好の攻撃目標だ。あれはそのために建てられたのさ。まったくもって実用的だと思わんかね。そうすれば何もいちいちこの広い平原全部を見張っていなくともすむんだ。マーゴ人はいつも〈砦〉を攻撃してくるし、やつらを一掃するには実におあつらえむきの場所だ」
「だがいつかマーゴ人だって気づくんじゃありませんか」ダーニクは疑わしげに言った。
「むろん、そうだ。だがそれでも連中は〈砦〉に引き寄せられてあそこへ行かずにはいられないのさ。中がもぬけの殻だとはどうしても信じられないらしい」シルクはちらりとイタチのような笑みを見せた。「マーゴ人たちがいかに頑固かきみだってよく知ってるだろう。まあ、とにかくそうしているうち、アルガーの各氏族で一種の競争のようなものが行なわれるようになった。毎年かれらは石を積む高さを競いあい、かくして〈砦〉はますます高くなりつつあるというわけだ」
「カル=トラクは本当に八年間にもわたって包囲したのかい」ガリオンがたずねた。
シルクはうなずいた。「トラク軍が〈砦〉に押し寄せてぶつかるさまは、アンガラクの海の大波が打ち寄せて砕け散る光景を思わせたそうだ。まあ、そのまま包囲していてもよかったんだが、食糧が底を尽いてしまったんだ。大きな軍隊じゃいつも問題になることだな。軍を起こすのは簡単だが、めしの時間になるとたちまち大混乱におちいるのさ」
かれらが人工の山に近づくと同時に、門が開き、出迎えの一団があらわれた。白い乗用馬に乗りヘターを従えて先頭にたっているのはシラー王妃だった。かれらはある地点まで来ると立ち止まり、そのまま馬車が近づくのを待った。
ガリオンは箱馬車の小さな戸をはね上げた。「着いたよ、ポルおばさん」かれは小声で知らせた。
「そう」彼女は答えた。
「おじいさんの容体はどうだい」
「眠っているわ。呼吸は少ししっかりしてきたようね。チョ・ハグに一刻も早く中へ入れてもらうよう言ってちょうだい。できるかぎり早くおとうさんを暖かいベッドで寝かせたいのよ」
「わかった」ガリオンははねあげ戸をおろすと、まだゆっくり動いている馬車の後ろの踏み段をおりた。かれは自分の馬の手綱をといて飛び乗ると、正面の柱の前で穏やかに夫を迎えるアルガー王妃のもとへ走っていった。
「失礼します」かれは馬からおりながら丁重に声をかけた。「おばが一刻も早くベルガラスを収容させたいと言うのですが」
「具合はどうなんだ」ヘターがたずねた。
「呼吸はしっかりしてきたらしいけれど、ポルおばさんはまだ心配しているみたいだ」
〈砦〉で出迎える一団の後方から慌ただしいひづめの音がした。ガリオンの目の前にマラゴーの山中で生まれた小馬の姿があらわれたかと思うと、勢いよく走り寄ってきた。次の瞬間かれは小馬のあふれんばかりの歓迎を受けていた。小馬は鼻をなすりつけ、あるいは頭で突き、かれの前後をはねまわった。ガリオンが興奮を沈めようと手をのばすと、その感触に小さな体を震わせて喜びをあらわした。
「こいつはずっときみのことを待ってたんだ」ヘターが言った。「きみがいつくるのかもわかっていたらしい」
箱馬車はゆっくりと止まった。はね上げ戸があがり、ポルおばさんが顔を出した。
「用意はすべて整っていてよ、ポルガラ」シラー王妃は言った。
「ありがとう、シラー」
「もう容体はいいの?」
「よくなったとは思うけれど、今の時点ではまだ何とも言えないわね」
馬車の上から一部始終を見守っていたエランドが突然後ろの踏み段からおりてきたかと思うと、地面にすとんと飛びおり、馬の足の間をすり抜けて走ってきた。
「ガリオン、その子をつかまえて」ポルおばさんが言った。「〈砦〉の中に入るまではわたしが抱いていた方がよさそうだわ」
ガリオンがあとを追って走り出すと子馬はあわてて逃げ出し、エランドは嬉しそうに笑いながら動物の後ろを追い始めた。「エランド!」ガリオンは鋭い声で叫んだ。子馬は疾走なかばで突然向きをかえると、ひづめをかざして少年におそいかかった。エランドは何の気おくれも見せずに笑ってその前に立ちはだかった。驚いた子馬の足は中空でいったん凍りつき、横にそれて止まった。エランドは再び笑い声をあげて、手を差し出した。子馬は目を丸くしてけげんそうに手の匂いを嗅いだ。少年は動物の小さな顔にさわった。
ガリオンの心の奥底で再びあの不思議な鐘のような音が鳴り、乾いた声が言った。(終わった)そこにはどことなく満足したような響きがあった。
(それはいったいどういう意味だ)ガリオンは静かにたずねたが、返事はなかった。かれは肩をすくめ、馬と少年がそれ以上衝突しないように抱きあげた。子馬は二人の姿をじっと見つめたまま、びっくりしたように目を丸くしていた。エランドを抱いたガリオンが箱馬車に向かって歩き出すと、子馬は駆けよってきて少年に鼻面を押しつけ体をすり寄せた。ガリオンは何も言わずに子供をポルおばさんに手渡すと、じっとその顔に見入った。彼女もまた無言だったが、その顔は何か大変重要なことが起こったことを物語っていた。
再び馬に乗ろうと振り返ったガリオンは誰かにじっと見つめられているような気がして、シラー王妃とともに〈砦〉から出迎えた一団の方をすばやく見やった。王妃の後ろに鹿毛の馬に乗った背の高い少女がいた。娘は長い焦げ茶色の髪の持ち主で、ガリオンをひたと見すえる灰色の目は穏やかで、ひたすら真摯だった。馬が興奮して跳ねると娘は穏やかな言葉と優しい愛撫で鎮めてやり、再び臆することなくガリオンを見つめるのだった。かれはなぜか前からこの少女を知っているような気がしてならなかった。
ダーニクが手綱をふるうと、馬車はきしむような音をたてて動き出し、一同はチョ・ハグ王とシラー王妃の後に従って〈砦〉の狭い門をくぐった。そのとたん、ガリオンはこれほど高い建造物の中に建物がひとつもないことに気づいた。かわりに高さ十二フィートばかりの石の壁でできた迷路があちこちに一見何の脈絡もなく走っていた。
「いったい街はどこにあるのですかな、陛下」マンドラレンが当惑したようにたずねた。
「その壁の中にあるのさ」とチョ・ハグ王は答えた。「非常にぶ厚く、高く作られているので、必要な空間は全部入ってしまうのだ」
「なぜ、そのようなことをするのですか」
「単なる罠さ」王は肩をすくめた。「攻撃者に門を破らせておいてから、中で始末するのだ。それがわれわれの流儀でな」かれは一行を狭い通路へ導いた。
かれらは中庭の広大な壁のかたわらで馬をおりた。バラクとヘターが掛け金をはずして、箱馬車の横壁を開いた。バラクは眠り続けるベルガラスを見おろし、じっと考えこむかのようにあご髭を引っ張った。「このままベッドに寝かせて運んだ方が、さわりがないんじゃないかと思うがな」
「そうだな」ヘターはうなずき、二人は老人のベッドを運び出すために箱馬車の踏み段を上がった。
「お願いだから揺らさないでそっと運んでちょうだい」ポルガラが注意した。「絶対に落としたりしないでよ」
「大丈夫、ちゃんと運びますよ」バラクは安心させるように言った。「信じられないでしょうが、われわれだってあなたと同じくらい、かれのことを心配しているんです」
ベッドを運ぶ二人の大男を先頭に、一行はアーチ型の入口をくぐり、たいまつに照らされた広大な廊下を通り、階段をあがり、別の廊下を通ってまた別の階段をあがった。「まだ遠いんですか」バラクがたずねた。汗が額をつたって髭に流れ落ちた。「ご承知だとは思いますがこのベッドはいっこうに軽くならないんですよ」
「すぐそこよ」アルガーの王妃は答えた。
「かれが目覚めたあかつきには、少しでもわれわれに謝意を示してほしいもんだな」バラクがぼやいた。
ベルガラスが運ばれた部屋は広くがらんとしていた。四隅にはかっかと燃える火鉢が置かれ、窓から〈砦〉の内壁の迷路が見おろせた。一方の壁に天蓋つきのベッドが置かれ、他方には木製の桶が置かれていた。
「これなら大丈夫だわ」ポルガラは言った。「すまないわね、シラー」
「わたしたち皆もかれを愛していますもの」シラー王妃はそっと言った。
ポルガラはカーテンを引いて部屋の中を暗くした。ポルガラが上掛けをめくり、ベルガラスはそっと天蓋つきのベッドにうつされたが、老人は身じろぎひとつしなかった。
「たしかに少しよくなったような気がするな」シルクが言った。
「今なによりも必要なのは睡眠と安息と静けさなのよ」ポルガラは眠り続ける顔をじっと見つめながら言った。
「すぐにあなたたち二人だけにしてあげるわ」シラー王妃はそう言って、他の者たちを振り返った。「さあ、大広間へ行きましょう。もう少しで夕食ですけれど、その前にみなさんのためにエールを用意させておきましたわ」
バラクは目をあからさまに輝かせ、戸口に向かって歩き出した。
「バラク」ポルガラが呼びとめた。「あなたとヘターは何か忘れてやしない」そう言って彼女は担架がわりに病人を運んできたベッドを目で示した。
バラクはため息をついた。かれとヘターは再びベッドを持ち上げた。
「ポルガラ、あなたの夕食は部屋に運ばせるわね」王妃が言った。
「ありがとう、シラー」ポルおばさんはガリオンの方を向いたが、その目は重く沈んでいた。
「あなたはもう少しここにいてちょうだい」一行はかれ一人を残して静かに部屋を出ていった。
「ドアを閉めてちょうだい、ガリオン」彼女はそう言いながら、老人の眠るベッドのかたわらに椅子を引き寄せた。
かれはドアを閉めると、ポルおばさんのもとへ戻った。「おじいさんは本当によくなっているのかい」
彼女はうなずいた。「とりあえず峠は越したといえるわね。体力も戻ってきたようだわ。でもわたしが心配してるのはおとうさんの体じゃなくて――心なのよ。だから二人だけで話し合っておこうと思ったの」
ガリオンは冷たい恐怖でぎゅっとわし掴みにされるような感覚を味わった。「心だって」
「もっと小さな声で話してちょうだい」彼女は声をひそめた。「これは二人だけの秘密にしておかなくてはならないのよ」彼女の目はベルガラスの上に注がれたままだった。「こういったことはとても深刻な影響を及ぼすものだし、回復した後のことはどうなるかわからないわ。とにかく非常に弱くなることは間違いないでしょう」
「弱くなるって?」
「おとうさんの〈意志〉の力がひどく弱まってしまうということよ――普通の老人なみにね。なにしろぎりぎりまで使い果たしてしまったし、もしかして限界を超えていたらもう二度と元の力を取り戻せないかもしれないわ」
「つまりもう魔術師じゃなくなるというんだね」
「そんなにはっきり言うものじゃなくてよ、ガリオン」彼女はうんざりしたように言った。
「もしそうなったら、わたしとあなたで何としてもそれを隠さなければならないわ。アンガラク人を長年にわたって牽制できたのも、あなたのおじいさんの力が大いにあずかっていたからなのよ。もしその力に何かあったりしたら、わたしとあなたで何も起こらなかったように見せかけなければならないわ。おとうさんにさえも真実を悟らせてはならないのよ。もしできればの話だけれど」
「でもおじいさんの力なしでぼくたちに何ができるだろう」
「それでもわたしたちはやらねばならないのよ、ガリオン」彼女は静かな声でそう言うと、じっとガリオンの目をのぞきこんだ。「わたしたちのなすべきことは、仲間が路傍に倒れたからと言って、いまさらやめられないほど大切なことなのよ――たとえそれがあなたのおじいさんであっても。これは時間との競争なの。わたしたちは〈予言〉を実現させて、〈エラスタイド〉までに〈珠〉をリヴァに戻さなければならないのよ。そしてそのために一緒に行ってもらわねばならない人たちもいるわ」
「それは誰?」
「一人はセ・ネドラ王女よ」
「セ・ネドラが?」ガリオンとて小さな王女の存在を忘れたことなどなかったが、なぜ彼女までリヴァに行かせようとするのかわからなかった。
「そのときが来たらあなたにもわかるわ。これらのことすべては然るべき順番で、然るべきときに起こらなければならない一連のことがらのひとつなのよ。ほとんどの場合、現在は過去によって決定されるものなの。でもこれら一連のことがらだけは別なのよ。この場合、現在起こっていることは未来によって決定されているのよ。もしわたしたちが決められたとおりにできなければ、まったく違った終わり方になってしまうし、そうなったら誰にとっても不幸な結果をまねくことになるわ」
「ぼくはどうすればいいんだい?」ガリオンはわれ知らず、自分の手をポルおばさんのそれに重ねていた。
彼女は嬉しそうにほほ笑み、ただひとことこう言った。「ありがとう、ガリオン」そしてさらにつけ加えた。「あの人たちのところへ行ったらおじいさんの容体を聞いてくることでしょう。そうしたらできるだけ明るい顔をして、快方へ向かっていると言ってちょうだい」
「みんなに嘘をつけって言うのかい」それは質問にすらなっていなかった。
「この世のどこにもスパイのいないところなんてないのよ、ガリオン。あなただってよく知ってるはずだわ。何が起ころうとわたしたちは、おとうさんが回復してもアンガラク人と対決できないかもしれないことを絶対にもらしてはならないわ。もし必要ならば舌が真っ黒になるまで嘘をつき通しなさい。西の国々の運命は、すべてあなたがいかにうまくやりおおせるかにかかっているのよ」
ガリオンはまじまじと彼女の顔を見つめた。
「もちろんそんなことはまるっきり心配しなくてもすむかもしれないわ」彼女は安心させるように言った。「一週間か二週間、十分に休養をとればすっかり元どおりになるかもしれないし。ただ万が一を考えて、さしさわりがないようにしておきたいの」
「何かぼくらにできることはないのかい」
「わたしたちはできる限りのことをやっているわ。さあ、あの人たちのところへ戻りなさい――笑ってね。もし必要ならばあごが痛くなるまでほほ笑みを浮かべ続けるのよ」
だしぬけに部屋の隅でかすかな音がしたので、二人は急いで振り返った。青い目にきまじめな表情を浮かべたエランドがじっとかれらを見ていた。
「この子も一緒に連れていってちょうだい」ポルおばさんが言った。「この子が食べるものに気をつけて、目を離さないようにしてね」
ガリオンはうなずくと、少年をさし招いた。エランドは人なつっこいほほ笑みを浮かべると、すたすた歩いてきた。かれは手をのばして意識のないベルガラスのそれにふれた。そしてガリオンの方を向いてともに部屋を出た。
廊下で待っていたのは、〈砦〉の門でシラー王妃とともに出迎えに出ていた背の高いこげ茶色の髪の少女だった。ガリオンは彼女の肌がほとんど透きとおっているといってもいいほど白いことに気づいた。灰色の瞳はあいかわらずまっすぐにかれを見すえていた。「不死身のお方のご容体はいかがですの」
「だいぶよくなったみたいだよ」ガリオンは奮い起こせるかぎりの自信をこめて答えた。「すぐにベッドから起きれるようになるさ」
「でもとても疲れていらっしゃるようでしたわ」彼女は言った。「たいそうお年をめして、弱弱しく見えましたわ」
「弱々しいだって? あのベルガラスが」ガリオンは無理やり笑った。「おじいさんの体ときたら古い鉄と蹄鉄の釘でできてるんだよ」
「でももう七千歳なのでしょう」
「年齢なんて何の関係もないさ。おじいさんはとうの昔に年をとることを気にしなくなったんだから」
「もしかしたら、あなたガリオンじゃない?」少女はたずねた。「シラー王妃がヴァル・アローンから去年戻られたときに、あなたたちのお話をして下さったわ。でも、わたしあなたがもっと子供っぽいような気がしていたの」
「そのときはね」ガリオンは言った。「ここ一年でぼくは少しばかり成長したのさ」
「わたしの名前はアダーラよ」背の高い少女は自己紹介をした。「シラー王妃があなたたちを大広間へご案内するようにとのことです。すぐに夕食の用意ができますわ」
ガリオンは礼儀ただしく身をかがめた。心をさいなむ不安にもかかわらず、ガリオンはこのもの静かな美しい少女を知っているような気がしてならなかった。エランドが手をのばして少女のそれを握り、三人は仲よく手をつないでたいまつに照らされた廊下を歩いていった。
チョ・ハグ王の大広間は比較的下の階にあった。それは細長い部屋で、石炭の真っ赤に燃える暖房用の鉢がいくつも置かれ、まわりに椅子やつめものをした長椅子が配置されていた。巨大な手にエールの大ジョッキをかかげたバラクは、東の断崖を下ったときのようすを脚色をまじえながら物語っている最中だった。
「むろんわれわれには他にとるべき道はなかったのさ」大男はまくしたてた。「何日間というものタウル・ウルガスがすぐ後ろに迫っていたんだからな。われわれとしては一番近い道をとるしかなかった」
ヘターがうなずいた。「計画というものはしばしば思いもかけない事態で狂うものですよ。だからこそわたしたちも崖地のありとあらゆる道を見張る兵士を置いといたんです」
「それくらい教えてくれてもよかったんじゃないかい」バラクはいささか傷つけられたように言った。
ヘターは獰猛なほほ笑みを浮かべた。「だが本当に機会がなかったんですよ、バラク」かれは言った。「マーゴ人に姿を見られでもしたら、やつらの急を襲えなくなりますからね。むざむざ逃がすわけにはいかないでしょう」
「きみたちの頭にはそれしかないのかね」
ヘターはしばし考えこんだ末にこう言った。「まあ、ほとんどはそればかりですね」
そのとき夕食の用意のできたことが告げられ、一行は反対側の長いテーブルにうつった。食事どきの話題がはずんだおかげでガリオンは、ポルおばさんの告げた恐ろしい可能性についての嘘をつかずにすんだ。食事がすんだあともかれはアダーラの隣に座り、いつしかまどろみながら夢うつつに皆のおしゃべりを聞いていた。
そのとき戸口に人の気配がしたかと思うと、衛兵が入ってきた。「ベラーの僧が見えました」かれが大声で入来を告げるのと同時に、白い衣をまとった背の高い男が、ふかふかした毛皮をまとった四人の男たちをひき連れ、つかつかと入ってきた。四人の男たちの足を引きずるような独特の歩き方を見たガリオンは、即座にかれらが熊神教の信者であることを見てとった。かつてヴァル・アローンで見たチェレクの熊神教信者とほとんど見分けがつかなかった。
「国王陛下」白い衣の男が声を張りあげて言った。
「チョ・ハグ王万歳」熊神教信者たちがいっせいに節をつけて唱和した。「アルガーの全氏族の長の長にして南アロリアの守護者よ」
チョ・ハグ王はそっけなく頭を傾けた。「今日はいったい何用かね。エルヴァーよ」かれは僧にたずねた。
「わたしは陛下が暗黒の神との戦いに、偉大な勝利をもたらす機会を手に入れられたことをお祝いにまいったのです」
「それはまたご丁寧なことだな、エルヴァー」チョ・ハグ王は礼儀ただしく答えた。
「そしてまた」エルヴァーは続けた。「わたしの知るところによれば、この〈アルガーの砦〉に聖なる宝がもたらされたとのこと。安全な保管のためには、わたしども僧侶のもとにお預けになれるのが一番よろしいのではないかと思い、こうしてお伺いしたわけです」
僧の申し出に危険を察知したガリオンは自分の席から腰を浮かしかけたが、反対をとなえるすべを知らず、その場に凍りついた。一方、エランドは自信にあふれた笑みを浮かべてすたすたとエルヴァーの前に歩みよるところだった。ダーニクが細心の注意を払って結んでやったひもはいつのまにか解かれ、子供は腰にくくりつけた袋の中から〈珠〉を取り出し、仰天する僧の前に差し出した。「使命《エランド》?」
エルヴァーは目をむいて、少年の前から飛びのき、片手を頭の上にかざして〈珠〉がふれるのを防いだ。
「やめることはないわ、エルヴァー」戸口からポルガラのあざけるような声がした。「邪悪な意図など露ほども持たぬ静かな魂の持ち主は、手をのばして〈珠〉を両手で受け取るがいいわ」
「レディ・ポルガラ」僧は口ごもった。「わ、わたしは、てっきり――」
「おやおや、どうやらかれは辞退するらしい」シルクがそっけなく言った。「つまりかれは自らの魂の純潔さについてなにか根深い疑いを抱いてるということだ。それは宗教者として致命的な欠点だと思えるがね」
エルヴァーは手を頭上高く掲げたまま、絶望的なまなざしを小男に向けた。
「自分に受けるべき資格のないものを望むものじゃないわ、エルヴァー」ポルガラが言った。
「レディ・ポルガラ」エルヴァーの声は先細りになった。「わたしどもは、てっきりあなたはお父上の看病にお忙しいのではないかと思い――」かれの声がとぎれた。
「だからわたしに知られずに〈珠〉を持ち出せると思ったのかしら。そんな考えは捨てた方がいいわ。わたしはあれを熊神教の信者の手にわたすことなど絶対に許しませんからね」彼女はむしろ寛大に見える笑みを浮かべた。「もちろん、あなたが〈珠〉を支配するべく定められた者なら話は別ですけれど。父とわたしは喜んでこの途方もない重荷をあなたに差し上げますわ。さあ、試してみようじゃありませんか。あなたはただ手をのばして〈珠〉を持つだけのことですわ」
エルヴァーは真っ青になり、恐ろしげに少年から後ずさった。
「もうこれまでだぞ、エルヴァー」チョ・ハグ王の声は厳しかった。
僧は絶望的にあたりを見まわし、踵を返すと、信者を引き連れ慌ただしく退出した。
「その子に〈珠〉をしまわせてちょうだい、ダーニク」ポルガラは鍛冶屋に言った。「その結び目を解けないようにしてやって」
「鉛で封印した方がよさそうですね」ダーニクは考えこむように言った。「たぶんそうすれば袋を開けることもないでしょう」
「やってみる価値はありそうね」ポルガラは一同を見まわして言った。「さあ、ここで父が目覚めたことをお知らせするわ」彼女は言った。「あの老いぼれじいさんはわたしたちが思ってたよりもはるかに頑強だったみたいね」
ただならぬものを感じとったガリオンはとっさにおばの顔を見て、彼女が全面的に真実を語っているのかどうかを確かめようとしたが、平静な表情の下には何もうかがえなかった。
バラクは安堵のあまり笑いながらヘターの背中をどやしつけた。「なあ、おれが大丈夫だといっただろ」かれは嬉しそうに叫んだ。部屋に居合わせた者たちは、ポルガラを囲んで口々に容体をたずねていた。
「父は意識を回復したわ」彼女は語った。「今のところはそれだけしか言えないわ――もっともあいかわらず手に負えない御仁だということは除いてね。ご老体は早くもベッドがあたると文句をたれ、気つけ薬にエールを飲ませろとせっついているわ」
「すぐに運ばせるわ」シラー王妃が言った。
「いいえ、けっこうよ」ポルガラはきっぱりと言った。「父に必要なのは肉のスープで、エールじゃないわ」
「ご老体は気にいらんだろうがね」シルクが口をはさんだ。
「だからどうだっていうのかしら」彼女はほほ笑みながら言った。病室に戻りかける途中で彼女は立ち止まり、いたずらっぽい表情を浮かべてガリオンを見た。かれはいったんほっとしたものの、なおベルガラスの本当の容体を気にしながらアダーラの隣に座っていたのだ。「どうやらあなたはもう自分のいとこと仲よくなったらしいわね」
「何だって」
「そんなふうに大口あけてぼけっとするものじゃないわ、ガリオン」彼女は忠告した。「まるで馬鹿みたいに見えてよ。アダーラはあなたのおかあさんの妹の末娘なのよ。前に言わなかったかしらね」
何もかもがかれめがけてがらがらと崩れ落ちてくるような気がした。「ポルおばさん!」かれは抗議の声をあげた。「どうしてそんなに大事なことを先に言ってくれなかったんだ」
だが今の告知でガリオンに負けず劣らず仰天したアダーラは低い驚きの声をあげると、かれの首に両腕をまわして、暖かいキスをした。「わたしのいとこ殿!」彼女は叫んだ。
ガリオンは赤くなり、青くなり、また赤くなった。かれはポルおばさんを、次にいとこを眺め、しゃべることはおろか、まともに考えることすらできずにいた。
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それからあとの日々を他の者たちは骨休めに、ポルおばさんはベルガラスの看病にあてたが、ガリオンとかれのいとこは朝起きてから夜寝るまで一日中いっしょに過ごした。まだ小さな子供だったとき、かれは自分の肉親はポルおばさんだけだと思っていた。それから後になってミスター・ウルフすなわちベルガラスもそうだということがわかったが、かれとではあまりに年が離れすぎていた。だがアダーラは違っていた。彼女はガリオンとほとんど年が離れていないので、それまで肉親にたいして感じていた隙間を埋めてくれることになった。彼女はガリオンにとってそれまで自分にはいないと思っていたきょうだいであり、いとこであり、また年若いおばでもあったのだ。
彼女はガリオンを〈砦〉のてっぺんから底まで案内してまわった。かれらは長いがらんとした廊下を通りながらしばしば手をつないで歩いた。ほとんどの時間を二人はおしゃべりをして過ごした。かれらは人目につかない場所を選んでは腰をおろし、頭を寄せあってはしゃべり、笑い、ひそひそささやきあって、互いの胸のうちを明かしあった。ガリオンはいかに自分が話をすることに飢えていたかをあらためて悟った。ここ何年かの生活環境で寡黙を強いられていたものが、今ここに一気に言葉の洪水となってあふれ出てきたようだった。かれは背の高い美しいいとこを心から愛していたので、今まで誰ひとり打ち明けたことのなかったようなことでもすらすらと話す気になったのである。
アダーラはかれの愛情に同じように深い愛をもって答え、その怒濤のようなおしゃべりにもじっと耳を傾けてくれるので、ガリオンはますます自分のことをもっとよく知ってもらいたくなるのだった。
「あなた本当にそんなことができるの」ある冬の明るい午後、巨大な要塞の壁にくり抜かれた矢狭間に二人そろって座りながら突然、アダーラがたずねた。かれらの背後にはどこまでものびる冬枯れの草地を見おろす窓があった。「あなたは本当に魔術師なの」
「残念ながらそうらしいよ」かれは答えた。
「残念ですって?」
「魔術師であるということはこれでけっこう大変なんだよ、アダーラ。最初、ぼくはそんなこと信じまいとしたけれど、ぼくが望んだとおりのことが次々と起こったんだ。ついにぼくは自分でもそれを信じざるを得なくなった」
「見せてちょうだい」彼女はせがんだ。
かれはいささか不安なおももちであたりを見まわした。「悪いけれどそれはできない」かれは少女にあやまった。「ぼくがやるとひどい音を出すから、きっとポルおばさんにばれてしまうだろう。おばさんはなぜかぼくが人前で魔法を使うのをよく思っていないんだ」
「おばさんが怖いわけじゃないんでしょ」
「そうじゃないんだ。ぼくはただおばさんを二度と失望させたくないんだ」かれはしばし考えこんでから言った。「ちょっと説明させてくれるかい。ぼくらは一度ひどい言い争いをニーサでやらかしたことがあった。ぼくが言うつもりのないひどいことを言ってしまったとき、おばさんはそれまでぼくのためにどんな思いをしてきたか、初めて打ち明けたんだ」かれは憂うつな顔を窓の外に向けながら、蒸気のたちこめるグレルディクの船上でのポルおばさんの言葉を思い出していた。「彼女は数千年もの歳月をぼくのためにささげてきたんだよ、アダーラ――正確にはぼくの家族のためだけれど、とどのつまりはぼくのためなんだ。彼女はぼくのために自分のことをすべて犠牲にしてきたんだよ。それを考えればぼくがいかにおばさんに責任を感じているかわかるだろう? ぼくは彼女が望むことなら何でもするし、おばさんを再び傷つけるくらいなら自分の腕をちょん切った方がましだと思っている」
「あなたはたいそうおばさんを愛してらっしゃるのね、ガリオン」
「愛してるなんてもんじゃないよ。ぼくら二人の結びつきを表現できる言葉なんてこの世にはない」
アダーラは何も言わずかれの手をとった。彼女の瞳には不思議な愛情の暖かい光が宿っていた。
その日の午後、ガリオンはポルおばさんが手に負えない病人を看病する部屋をひとりおとずれた。ベッドで数日を過ごしたのち、ベルガラスはこの強いられた禁固状態にますます不興の意をあらわすようになっていた。天蓋つきのベッドで枕を山と積んでまどろんでいるときですら老人の顔にはいらだちのあとがあらわれていた。おなじみの灰色のドレスを着たポルおばさんは、そのかたわらに座り、ガリオンのお古の上着をエランドに仕立て直すために針を動かし続けていた。幼い少年は彼女から遠くない場所に座り、かれを実際の年齢よりも老けてみせるあのきまじめな表情を浮かべていた。
「おじいさんの容体はどう?」ガリオンは眠っている老人の顔をのぞき込みながら、小さな声で聞いた。
「快方に向かってるわ」ポルおばさんは上着をかたわらに置きながら言った。「ますます機嫌が悪くなってるけれど、これはよい兆候よ」
「例のものがもどってきたきざしはあるの」
「いいえ」彼女は答えた。「何もないわ。まだ早過ぎるのよ」
「二人でこそこそ話をするのは止めてもらえんかね」ベルガラスは目をつぶったまま言った。
「まわりでこそこそされてどうやって寝てろというのだ」
「眠るのはきらいだって、確か聞いてたはずだけれど」ポルガラが思い出させるように言った。
「それは前の話だ」かれはぶっきらぼうに言い返して、ぱっと目を開けた。かれはガリオンをにらみつけた。「今までどこに行ってたんだ」
「ガリオンはいとこのアダーラとすっかり親しくなったのよ」ポルおばさんがかわって説明した。
「それにしたって一回くらいはわしの見舞いに立ちよってくれてもよさそうなもんじゃないかね」
「おとうさんのいびきを聞かされたって、たいしておもしろくはないわ」
「わしはいびきなどかかんぞ」
「ええ、ええ、そうですとも」ポルガラはなだめすかすように言った。
「ポル、わしに向かって保護者ぶるのはやめろ!」
「もちろん、そんなことしないわよ。さあ、おとうさん、暖かい肉スープでもいかが」
「暖かい肉スープなんぞいらんわい。わしが欲しいのは肉そのものだ――それも生焼けの血がしたたるようなやつがいい。それから一杯の強いエールがな」
「でも今は肉もエールもだめよ。あなたが食べるものはわたしが決めます――とりあえず今は肉スープとミルクよ」
「ミルクだと」
「おいやならオートミールがゆの方がいいかしら」
老人は憤然として娘をにらみつけ、ガリオンはこっそりと部屋を後にした。
それ以後、老人は着々と快方に向かっていった。数日後にはポルガラの異議にもかかわらず、ベッドから離れた。ガリオンにはポルおばさんの振る舞いの底に隠された意図を両方とも察することができた。いつまでもベッドにだらだらと縛りつけておくのは彼女ごのみの治療法ではなかった。いつも可能なかぎり早く、病人を歩かせるのが常だった。およそ節制とはほど遠い父親を甘やかすとみせかけ、彼女は文字通り老人をベッドから追いたてた。細かいところまでいちいち計ったような規制を加える裏にはわざと父親を怒らせ、その心を刺激しようという意図があった。老人に力を発揮させる機会を与えずに、その肉体的な回復と歩調をあわせた心の回復をはかろうというのである。ポルガラが細心の注意を払って仕組んだ老人の回復は、その芸術ともいうべき薬物の使用によっていっそう早まった。
チョ・ハグ王の大広間にはじめて姿をあらわしたベルガラスの姿は驚くほど弱々しかった。ポルおばさんの腕にすがった老人は最初のうち足元さえおぼつかないようだったが、だんだん話に熱中しはじめるにつれ、見かけの弱々しさが必ずしも本当のものではないことがあきらかになってきた。老人の演技はあくまでもわざとらしく、ポルガラがいかにうまく演じようとしても、かれも負けてはいないことを証明しはじめた。かれらが、二人だけの手のこんだちょっとしたゲームにひそかに火花を散らすのを見ているのはなかなか楽しかった。
だが肝心な疑問だけはついに答が得られずじまいだった。ベルガラスの肉体と心の回復はいまや確実だったが、果たしてその〈意志〉を集中させて力を生み出すことができるかどうかは依然、試されてはいなかった。それを試すにはまだ時間がかかることをガリオンは知っていた。
かれらが〈砦〉に到着してから一週間ばかりがたったある早朝、アダーラはガリオンの部屋のドアをノックした。目をさましたかれは、すぐにノックの主が彼女だと悟った。「何だい」かれは慌ててシャツとタイツを身につけながらドアごしにたずねた。
「これから遠乗りに出かけない?」彼女は言った。「今日はお天気もいいし、いつもより少し暖かいみたいよ」
「むろん、行くよ」かれはヘターにもらったアルガー製の長靴に足を押しこみながら急いで答えた。「身支度する時間をもらえないかい。すぐに追いつくから」
「そんなにお急ぎにならなくても大丈夫よ。もうあなたの馬には鞍を乗せておきましたし、台所から少し食べ物ももってきたわ。レディ・ポルガラに出かけることをお知らせしておいた方がいいんじゃない。わたしは西の厩舎でお待ちしてますから」
「すぐに行くよ」かれは答えた。
ポルおばさんはベルガラスやチョ・ハグ王と一緒に大広間にいた。すぐそばではシラー王妃が巨大な織機の前に座り、指をたて糸と横糸の間にすばやく滑らせていた。杼がぴしりと鳴る音が眠気を誘うように響いた。
「冬のさなかに旅をするのはたいそう困難だぞ」とチョ・ハグ王が言った。「ウルゴの山間部はとくにひどく荒れるんだ」
「いいや、そんなことはいっさい避けて通る方法があるとわしはにらんどるのだ」ベルガラスはまのびした声で言った。かれは大きな椅子にだらしなく身を沈めていた。「われわれは来た道を戻ってプロルグへ戻るつもりだが、その前にまずレルグの話を聞いておく必要がある。すまんがかれを呼んできてくれんかな」
チョ・ハグはうなずき、召使いに身振りで合図した。かれがきびきびと指示を下すあいだ、ベルガラスは片方の足をだらしなく片方のひじ掛けに乗せ、ますます深く椅子に沈みこんだ。老人は柔らかい灰色の毛織の長い上着をまとっていた。まだ時間も早いというのに、かれの片手には蓋つきの大型ジョッキが握られていた。
「ちょっとそれはいきすぎだと思わないの」ポルおばさんは厳しい目でジョッキを眺めながら言った。
「だが、わしは体力を回復せねばならんのだ」老人はそしらぬ顔で答えた。「それに強い酒は血液を生き返らせるのにいいんだぞ。わしがまだ病弱だということを忘れちゃいないかね」
「あなたの言う病弱とやらはどれくらいチョ・ハグの酒樽から来てるのかしらね」彼女は非難がましく言った。「今朝来たときはずいぶんひどい様子だったけれど」
「だが今はきわめて気分は上々さ」と言いながらかれは別のジョッキに手を伸ばした。
「そりゃそうでしょうよ。ガリオン、どうしたの」
「アダーラが一緒に遠乗りに行こうっていうんだけれど」ガリオンは言った。「ぼくは――いや、その彼女がひとことおばさんに断った方がいいと言うんで」
シラー王妃は優しくほほ笑んだ。「わたしのお気にいりの侍女をすっかりとられちゃったみたいね」
「すみません」ガリオンは慌ててあやまった。「もし彼女にご用があるんでしたら止めにします」
「ちょっとからかってみただけよ」そう言って王妃は笑い声をあげた。「さあ、行って遠乗りを楽しんできてちょうだい」
ちょうどそのときレルグが姿をあらわし、すぐ後ろにタイバも続いた。身体を洗いきちんとした衣装を与えられたマラグ女性の姿は皆を驚かせた。彼女はもはやラク・クトルの洞穴で発見されたときのような、絶望に満ちた不潔な女性ではなかった。その姿態は豊満で、肌は抜けるように白かった。彼女の動きには内からにじみでる優雅さがあり、すれちがうチョ・ハグ王の部族の男たちはみな好奇心をあらわにし、口をすぼめて後ろ姿を見守るのだった。彼女は見られていることを十分知りつつ、不快感をおぼえるどころかかえってそれを喜び、自信を深めているようだった。紫色の瞳は輝きを増し、前よりもよく笑うようになった。彼女はなぜかレルグから離れようとしなかった。はじめのうちガリオンは彼女がわざとウルゴ人の目の届くところにいて、邪《よこしま》な喜びを抱かせることによってかれを苦しめようとしてるのだと思っていたが、今となっては自信がなかった。当のタイバはもはやそんなことなど忘れ去っているようだったが、レルグの行くところには必ず従い、ほとんど言葉を発することもなくいつも一緒にいるのだった。
「ベルガラス、お呼びですか」レルグが言った。その声からとげとげしさは消えうせていたが、目にはまだ苦悩の色が残っていた。
「おお、レルグ」ベルガラスはくったくなげに呼びかけた。「よき仲間のご入来だ。さあ、かけたまえ。エールを一杯どうかね」
「いいえ、水でけっこうです」レルグはかたくなに断った。
「では、ご自由に」ベルガラスは肩をすくめた。「ところでおまえさんは、プロルグからウルゴの洞穴を抜けて、センダーの南端へ達する道があるのを知っとるかな」
「ええ。だがたいそう時間がかかりますよ」
「馬で山越えするほどはかかるまい」ベルガラスが指摘した。「洞穴には雪も降らないし、怪物もおらん。そういう抜け道があるのは確かなんだな」
「あります」レルグは認めた。
「そういうことなら、われわれをそこへ案内してもらえるだろうな」老人はさらにたたみかけた。
「もしそうしなければならないのなら」レルグはいささか気乗りしないようすで言った。
「残念ながらそうしてもらわねばならないと思う」ベルガラスが言った。
レルグはため息をついた。「わたしたちの旅がほとんど終わりかけているのなら、そろそろ故郷へ戻らせてもらおうと思ったのですが」かれは残念そうに言った。
ベルガラスは笑った。「だが本当のことを言えば、われわれの旅はまだ始まったばかりなんだ。まだまだ先は長いぞ」
それを聞いたタイバがゆっくり満足げなほほ笑みをもらした。
小さな指が自分の手に滑りこむのを感じたガリオンは、大広間にいつのまにか入ってきた少年を見てほほ笑んだ。「ポルおばさん、いいかい」かれはたずねた。「遠乗りに出かけてもいいかという意味だけれど」
「もちろんよ」彼女は言った。「ただし気をつけて行ってね。アダーラの前で力を見せびらかしたりするんじゃないのよ。あなたが馬から落ちたり、何かをこわしたりしたらたまりませんからね」
エランドはガリオンの手をはなすとレルグに向かって歩いていった。ダーニクが入念に鉛で封印した袋の結び目は再び解かれ、小さな男の子は〈珠〉を取り出してレルグに差し出した。
「使命《エランド》?」少年はたずねた。
「受け取ってごらんなさいよ、レルグ」タイバは仰天する男に向かって言った。「だれもあなたの純潔を疑ったりしないわ」
レルグは後ずさり、頭を振った。「この〈珠〉は他の宗教の聖なる宝物だ」かれは声を張りあげた。「これはアルダーのものであってウルのものではない。わたしなどがさわらない方がいいと思う」
タイバはわけ知り顔にほほ笑んだ。彼女の紫色の瞳はじっと狂信者にそそがれていた。
「エランド」ポルおばさんが呼びかけた。「こっちへいらっしゃい」
少年はすなおに従った。彼女は少年の腰にくくりつけた小袋を開いた。「さあ、ここに戻しなさい」
エランドはため息をついて〈珠〉を袋に落とした。
「この子はどうやって袋を開けてしまうのかしらね」彼女は小袋の結びひもを子細に調べながら、なかば自分自身に問いかけるように言った。
ガリオンとアダーラは馬に乗って〈砦〉から出ると、うねり重なる丘を西に向かって走り出した。空はどこまでも青く澄みわたり、太陽はまばゆく輝いていた。朝の大気は身が引き締まるほど冷たかったが、ここ一週間ほどの寒さではなかった。ひづめの下の草は茶色に枯れ、冬の空のもとで深い眠りに入っていた。かれらは一時間あまりたがいに口をきかずに馬を走らせていたが、日当たりのよい南側の斜面の、風のこない場所に馬を止めた。二人はどこまでも続くアルガリアの平原をじっと見守った。
「ガリオン、魔法でどんなことができるの」アダーラは長い沈黙の末、口を開いた。
かれは肩をすくめた。「それは術をかける人間によって違ってくるね。ある者は何でもできるかと思えば、ある者はほとんど何にもできない場合もあるし」
「あなたは――」と言いかけて彼女はためらった。「この枯れ草に花を咲かせられるかしら」その言い方はあまりに早口だったので、ガリオンはそれが彼女が本当に聞きたかった質問ではないことを悟った。「今すぐによ。この冬の季節のまっただ中でよ」
ガリオンは枯れたハリエニシダのいじけた茂みを眺め、そのために行なわねばならない一連の手順を思い浮かべていた。「たぶんできると思うよ」かれは答えた。「だけどそんなことを季節はずれの時期にしたら、この植物は寒さに抵抗する力もなく枯れ死んでしまうだろう」
「でもこれはただの雑草なのよ、ガリオン」
「何でわざわざ殺さなきゃならない?」
彼女はガリオンの目を避けた。「それじゃ、わたしのために何かやってみせてくれない?」アダーラは言った。「ほんの少しでいいのよ。今のわたしには何でもいいから信じるものが必要なのよ」
「わかった、やってみるよ」ガリオンはなぜ少女が急に沈みこんだのかわからなかった。「それじゃ、こんなのはどうだい」かれは小枝を拾いあげると手の上でひっくり返し、入念にそれを見つめた。次にひと握りの枯れた草でそれを包むと、さらにしげしげと観察して、何をしたいかを心の中で思い定めた。ガリオンは〈意志〉を一気に放出せずに、少しずつ出していったので、変化もゆっくりしたものになった。小枝を包んだみじめな枯れ草がしだいに変わっていくのをアダーラは目を丸くして見守った。
それは花と呼べるほどのものではなかった。薄紫に近い色の花をつけたそれは見るからにかしいでいた。花は小さく、花弁もきちんとついていなかった。だがその香りはかぐわしく、輝かしい夏を約束していた。ガリオンは黙っていとこに花を手渡しながら、不思議な感情を味わっていた。かれが術を使うたびにともなう音はいつものように騒がしいものでなく、むしろ光輝く洞穴で子馬を生きかえらせたときの鐘の音によく似ていた。そしてかれが〈意志〉を集中して生み出した力は一切まわりから引き出したものではなかった。それらはすべてかれの内より出たものであり、ガリオンはそのことに深い独特の喜びを味わっていた。
「まあ、かわいらしい」アダーラは小さな花を両手で受け取り、そのかぐわしい香を味わった。その拍子に長いこげ茶色の髪が前に垂れ、彼女の顔を見えなくした。再び顔をあげたアダーラの瞳には涙が浮かんでいた。「これなら大丈夫だわ」彼女は言った。「しばらくはわたしの心を慰めてくれるでしょう」
「どうかしたのかい」
アダーラは答えず、茶色に枯れた大平原をじっと見おろした。「セ・ネドラって誰なの」だしぬけに彼女は聞いた。「他の人たちが話してるのを聞いたことがあるわ」
「セ・ネドラだって? 彼女はある帝国のお姫さまさ。トルネドラのラン・ボルーンの娘なんだ」
「どんな人かしら」
「とても小さくて――ドリュアドの血を引いてるんだ――赤毛で緑の瞳をして、ひどいお天気屋だ。どうしようもないわがまま娘で、ぼくを嫌っている」
「でも、あなたならそれを変えられるでしょ」アダーラは笑いながら涙をぬぐった。
「きみが何を言おうとしてるのかよくわからない」
「だってあなたはこれをまたやればいいんじゃない」と言いながら彼女は身ぶりで示した。
「ああ、そうか」ガリオンはやっと彼女の真意を理解した。「だめだよ、ぼくたちだって人の考えや感情までは変えられないよ。どういうことかと言えば――そう、手掛かりになるものがない。どうやって始めたらいいのかさえわからないよ」
アダーラはしばらくかれを見つめていたかと思うと、顔を両手にうずめて泣き出した。
「どうしたんだい」ガリオンはあっけにとられてたずねた。
「何でもないわ」彼女は答えた。「もう、どうでもいいのよ」
「どうでもよくなんかないだろう。何で泣いたりするんだ」
「あなたが魔法を使えるって聞いて、わたしの目の前で花を咲かせてくれたのを見たから、あなたなら何でもできないことはないんだって思ったのよ。わたしのためにその力を使ってくれるかもしれないと思ったのよ」
「きみのためなら何でもするよ。わかってるだろう」
「でも、これだけはできないのよ。あなた、たった今だめだって言ったじゃない」
「いったい何をしてほしかったんだい」
「あなたの力で、ある人がわたしを好きになるようにしてほしかったのよ。馬鹿みたいでしょ」
「誰を?」
アダーラは目にいっぱい涙をためて、穏やかな威厳を持ってかれを見つめた。「でも、もうそんなことどうでもいいのよ。あなたにできないんだったら、わたしにだってどうしようもないでしょ。本当に馬鹿なことを考えたものだわ。今わたしが言ったことは全部忘れて下さるわね」そう言って彼女は立ち上がった。「さあ、帰りましょう。思ってたほどいいお天気じゃなかったし、そろそろ寒くなってきたわ」
かれらは再び馬に乗ると、そのまま言葉をかわすことなく〈砦〉へ戻った。二人はひとこともしゃべらなかった。アダーラは何も話そうとはしなかったし、ガリオンは何と言えばよいかわからなかった。
後には打ち捨てられたガリオンの花だけが残った。斜面に風から守られ、冬の日ざしでわずかに暖められ、かつてはこの世に存在しなかった小さな花は静かに成長のきわみに達し、実を結んだ。やがてその核である小さな果実が破れると、撒き散らされた微細な種子は、冬枯れの芝草を通して凍った大地の上にまかれ、そのまま春をじっと待っていた。
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ウルゴの娘たちは、みな白い肌、淡い金髪に大きな黒い瞳をしていた。彼女たちの中央に座ったセ・ネドラ王女は、百合の花園に咲いた一輪の赤いばらのように見えた。乙女たちは突然あらわれ、あっという間に生活の中心となってしまったこの生気あふれる小さな闖入者に圧倒されてしまったかのように、穏やかな驚きをもって彼女の一挙手一投足を見守った。たしかに王女はひときわ鮮やかにうつったが、それは単なる色彩の上のことだけではなかった。元来ウルゴ人はきわめてまじめで控えめな人々で、めったに笑ったり感情を表に出したりはしなかった。それに対し、セ・ネドラは常に感情をおおっぴらに出して生きてきたのである。ウルゴ人たちは彼女の小さな美しい顔を次々によぎる感動や思いをうっとりと見つめ、すっかり心を奪われてしまった。かれらは王女のたちの悪い、しばしば意地悪な冗談に顔をあからめ、くすくす笑った。すっかり乙女たちの信頼をかちとってしまった彼女のまわりには何かといえば乙女たちが集まり、小さな王女に心を開くのだった。
むろんセ・ネドラがいらいらして、落着かず、わがままなときはそんなわけにはいかなかった。王女のひどい罵りの言葉が穏やかな目をしたウルゴの乙女を傷つけ、理不尽なかんしゃくが、彼女たちを涙にかきくれさせることもあった。恐ろしい感情の爆発を見せつけられて、二度と王女の前へ行くまいと心に誓った乙女は、それでも何事もなかったように笑いさざめく王女のもとにためらいがちに戻っていくのだった。
王女にとってもつらい時期だった。他の仲間たちがラク・クトルへ行くのに自分だけがこの洞穴に残れというウルの命令を、何のためらいもなく受け入れてはみたものの、その意味するところがいまだにわからなかったのである。それまでの人生において彼女は常にものごとの中心にいたのに、今度ばかりは地下に押しやられ、はてしなく長い退屈な時間をただひたすら待つという難行を強いられているのだ。王女はおよそ待つということのできない性格だったので、彼女の取り巻きを驚いて飛び立つ鳩のように追い散らす感情の暴発が、少なくともこの強いられた休止状態にいくらか原因があることは間違いなかった。
激しく起伏する王女の感情のはけ口は、もっぱらゴリムに向けられた。このきゃしゃな信心深い老人は、幾世紀にもわたって静かな満足にみちた生活を送っていたのに、突如その静寂を破って彗星のように炸裂したのがセ・ネドラ王女だった。ときとして忍耐の限界にまで追いつめられながらも、かれは王女の発作的な不機嫌や涙の嵐や理由のないかんしゃくによく耐えた。同じようにしてかれはけたはずれな愛情表現の不意打ちにも、たとえば王女がかれの首に手を巻きつけ、仰天した相手の顔にキスの雨をふらせるといったことにもじっと耐えた。
セ・ネドラの気分が向いたときなど、彼女はゴリムの島に取り巻きを集めて、岸辺の支柱のもとでおしゃべりをしたり、笑ったり、自分で考案したちょっとしたゲームを楽しんだ。いつもは静かなうす暗い洞穴も、このときばかりは思春期の娘たちの話し声や笑いさざめきに包まれるのだった。気分がふさぐときにはゴリムにともなわれて、うち捨てられたプロルグの街の地下に広がる回廊や洞穴や鐘乳洞などをめぐり歩いた。はた目には王女が自分自身の感情にかまけるばかり、まわりに一切目もくれないようにうつったかもしれないが、実際はそうでなかった。彼女の小さく複雑な心はいかなるかんしゃくのさなかにあっても、観察、分析、質問に鋭い才能を見せた。ゴリムも驚いたことには彼女はきわめて飲み込みが早く、しかも記憶力に優れていた。かれがウルゴ人の物語をかたるときには、いつも熱心な質問を浴びせ、その話の裏に隠された意味を探ろうとするのだった。
それらの会話を通じて王女はいろいろな発見をした。彼女はウルゴ人たちの生活の中心が宗教であり、それらの話の教訓や主題がいずれも、ウルに対する全面的服従こそが義務であることを説いたものだということを発見した。これがトルネドラ人だったら、さっそく難癖をつけるか、神に手加減してもらうことを考えるに違いない。ネドラの神はむしろかれの民と同じようにその取引きを待ち受け、喜びさえすることだろう。それに引きかえウルゴの人々は、このような打ちとけた気安さで神に対することができないらしかった。「われわれは無に等しい」ゴリムは説明した。「それどころか無よりも劣るのだよ。ウルがわれわれの神になることを承諾されるまでは、行く場所もなければ、あがめる神もなく、辺境をさまよっていたのだからね、とりわけ過激な狂信者たちの中には、もしウルゴの民のひとりが神を怒らせるようなことがあれば、きっとウルゴと縁を切られてしまうだろうなどという者もおるほどだ。わたしはウルのみ心をすべて知りつくしているというわけではないが、そこまで理不尽なことはなされないと思う。それでもわれわれの神となることがウルの本意でないのなら、なるべくそのご機嫌を損ねるようなことはしたくないのだよ」
「ウルはあなたを愛してるわ」セ・ネドラがさえぎるように言った。「もしかれがわたしたちの目の前に出てくるようなことがあれば、きっとその顔は愛情に満ちているでしょう」
ゴリムは疑わしげな顔をした。「あまりひどくウルを失望させるようなことがなければいいのだが」
「馬鹿なこと言うものじゃないわ」王女は快活な声で言った。「もちろん、かれはあなたを愛してるわよ。この世の中の人たちすべてがあなたを愛してるのよ」だしぬけに彼女はそれを証明してみせるかのように、優しく青白いほおにキスをした。
ゴリムはほほ笑んだ。「かわいいお嬢さん」かれは言った。「あなたの心はいつも開いているから、あなたが愛する人なら誰でも愛するだろうと思うのだね。だがいつもそうだとは限らないのだよ。現にこの洞穴にだって、わたしを好きでない人はたくさんいる」
「ナンセンスだわ」彼女は言った。「たまたま口論したからと言って相手が自分を嫌いだと決めつけてしまうのは。わたしは父をとても愛しているけれど、喧嘩ばかりしているわ。むしろそれを楽しんでいるのよ」セ・ネドラは馬鹿らしい≠ニかナンセンス≠ニいった程度の言葉ならゴリムの前で使ってもさしつかえないことを知っていた。彼女はいまやすっかりかれを魅了してしまったので、多少のことなら見逃してもらえたのだ。
一方、誰も信じてはくれなかったかもしれないが、セ・ネドラの振る舞いにもわずかながらはっきりした変化があらわれた。真面目で控えめなウルゴの人々にはまだ衝動的とうつったかもしれないが、彼女は何かをしようとしたり、しゃべろうとする前に、ごくわずかではあっても考えるようになっていたのである。セ・ネドラは洞穴生活の中でときおり当惑させられるような事態に直面しなければならなかったが、それこそ彼女がもっとも嫌っていたものだからである。はた目にはわからないほどゆっくりではあったが、彼女は限界ぎりぎりで自制することの価値を学び、ときとして本物の貴婦人に見えることもあった。
ここではガリオンのことをたっぷり考える時間もあった。何週間にもわたるかれの不在は、セ・ネドラに何とも形容しがたい奇妙な苦しみをもたらしていた。まるで何かを、それもひどく大事なものをどこかに置き忘れてしまったような気分だった。その喪失感が彼女をやるせない空虚な気持ちにしていたのである。本来彼女の感情はごちゃまぜの断片的なものだったので、自分自身でも完全に把握できたことはなかった。断片は次から次へと入れかわり、彼女がゆっくり吟味しようとする頃には、すでに新しいものに変わっているのだった。だがこの何かが足りないような、思慕にも似た感情はあまりに長くとどまっていたので、彼女としても直面を避けるわけにはいかなかったのである。
これが愛情であるはずはなかった。それだけは絶対にありえない。よりにもよって農家の皿洗いの少年と――いかにかれが素敵であろうと――恋をするなどということは問題外だった。彼女は何といっても一国の王女なのであり、その本分は火を見るよりもあきらかだった。セ・ネドラの心の中で、もしガリオンに対する感情が友情以上のものになりそうな兆候が露ほどでもあろうものなら、即座にそれ以上のかかわりあいを中止するのが彼女のなすべき義務だった。だがセ・ネドラはガリオンが再びどこかへ行ってしまったり、二度と会えなくなることを望んではいなかった。それを思うだけでも彼女の唇は震えた。だからこそ彼女のガリオンへの思いは愛などではない――愛などであってはならないのだ。いったん結論を出してしまうと、心がいくぶんか晴れてきたような気がした。ガリオンに対する感情が愛かもしれないと、ずっと恐れ続けていたセ・ネドラだったが、こうしてすべての論理が彼女の安泰を裏づけてくれたことでやっと安堵の息をつくことができた。たよるべき論理があるということは彼女にとっては大いなる慰めになった。
彼女に残ったのはただ待つことだけだった。はてしなく長く思える耐えがたい時間を、仲間たちが帰るのを待ってじっと待ち続けることだった。いったい皆はどこにいるのだ? いつ戻ってくるのだろう。いったいこんなに長く何をしてるというのか。待てば待つほど、王女が今になってようやく得た自制心はしばしば薄れ、王女を取り巻く白い肌の娘たちは、さしせまった爆発の危険を知らせるわずかな兆候を、すぐにそれと察知するようになった。
ついに仲間たちの帰還が近いことをゴリムから知らされた小さな王女は、嬉しさのあまり狂喜した。彼女は長い時間をかけて念入りに身支度した。むろん彼女は礼儀正しくかれらの帰還を迎えるだろう。今回はあのときのような子供じみた騒ぎはなしだ。彼女は上品に、ごく控えめに威厳をもって、大人になったことを見せつけてやるのだ。当然身支度もそれにふさわしいものでなくてはならない。
彼女はもっともふさわしいガウンのために何時間もさんざん迷ったあげく、まばゆい純白の床までとどくウルゴ製のドレスを選び出した。もっともウルゴの衣服は彼女の趣味からすればいささか地味すぎた。たしかに慎み深く見せたかったが、そこまで徹するつもりはなかった。思案のあげく、彼女はガウンの袖を取り去り、襟ぐりの部分にちょっとした手を加えた。胸とウェストにはひどく手の込んだりぼん結びをつくり、細い金色の帯でちょっとしたアクセントを加えた。努力の結果を念入りに点検した王女は大いに満足した。
だが今度は髪を何とかしなければならない。いつものくしゃくしゃに垂らしっぱなしの髪は絶対にだめだ。まず頭の上にゆるく巻きあげて、そこから優雅に肩へ垂らし、首から下の清純な白に、ひとはけ鮮やかな赤銅色を加えれば効果満点だろう。王女は腕を長く上げすぎて痛くなるまで髪をいじった。すべてを終えた王女は、純白のガウンと燃えるような髪の色がもたらす効果と上品な取り澄ました感じが出ているかをきびしく検分した。なかなか悪くはないわ、と彼女はひとりごちた。これを見たらガリオンだって目が飛び出るほど驚くにちがいない。小さな王女はすっかり悦に入った。
ついにその日がきて、前の晩ほとんど眠れなかったセ・ネドラはすっかりおなじみの場所になってしまったゴリムの書斎でいらいらと落着きなく座っていた。ゴリムは長い巻物の片方を開き、片方で巻き戻しながら王女に読んできかせた。だがかれが読んでいる間にも少女はそわそわしたようすで、ぼんやりと巻毛の端を噛んでいた。
「今日はまたずいぶんと落着きがないようだね、お嬢さん」かれは言った。
「だって長いことあの人――あの人たちに会っていないんですもの」彼女は慌てて言いわけをした。「ねえ、わたしの格好本当におかしくない?」彼女は同じ言葉をこの朝だけでも六回以上繰り返していた。
「たいそう美しくみえるよ」かれは安心させるように言った。
彼女は晴れやかな笑みを浮かべた。
そのときゴリムの書斎に下男があらわれた。「聖なるお方よ、お客さまがお着きです」男はうやうやしげに頭を下げながら言った。
セ・ネドラの心臓がどきどき波打ちはじめた。
「それではわたしたちも出迎えにいこうかね、お嬢さん」ゴリムは巻物を脇に置いて立ち上がった。
セ・ネドラは椅子から飛び出してドアへ駆け出していきたい衝動と戦った。だが、彼女は鉄のような意志で自分の心を押さえつけた。彼女はゴリムと並んで歩きながら心の中で言い聞かせていた。「威厳をもって慎み深く。王族としての気品を忘れずに」
ゴリムの洞穴に入ってきたなつかしい仲間たちは旅の垢によごれ、疲れているようすだった。そこには見知らない顔もいくつか混じっていたが、彼女はただひとつの顔だけを探し求めた。
ガリオンは最後に会ったときとくらべると大人びていた。いつもきまじめな表情を浮かべたその顔には、今までなかったような落着きが漂っている。離れている間に何かが――それも重大なことがかれの上に起こったにちがいない。そんな重大なときに自分がのけ者にされていたことを思って、王女は胸にかすかな痛みが走るのを感じた。
次の瞬間、彼女の心は凍りついた。かれのすぐそばにいるあのひょろ長い女はいったい誰なのだ。何でガリオンはあの図体ばかり大きな雌牛を、あんなに優しい目で見たりするのだ。静かな湖水の向こうにいる不実な男をにらみつけながらセ・ネドラは歯を食いしばった。こうなることは最初からわかっていたのだ。彼女が目を離したとたんに、かれが最初に出会った女の子の胸に飛び込んでいくだろうということは。よくもそんなことひどいことができるものだ。何てひどい!
湖の向こう側の人々が土手道の上を近づいてくるにつれ、セ・ネドラの心は沈んだ。背の高い娘はたいそう美しかったのだ。そのこげ茶色の髪はつやつやと輝き、目鼻立ちは完璧だった。セ・ネドラはどこかに疵《きず》や欠点はないかと、娘の頭からつま先までをじろじろ眺めまわした。それに何という優雅な身のこなしだろう! その滑るような美しい動きにセ・ネドラは絶望の涙を浮かべかけた。
苦悩のまっただ中にある王女には、それに続く挨拶や、紹介などおよそ意味のないたわごとにしか聞こえなかった。彼女はうわのそらでアルガー人の王とその愛らしい妃にお辞儀をした。彼女はポルガラに紹介されたふくよかな美人――名前はタイバと言った――に歓迎の言葉を述べた。彼女のもっとも恐れている瞬間が訪れようとしていたが、今さら後には引き返せなかった。
「そしてこちらがアダーラよ」レディ・ポルガラはそう言いながらガリオンのかたわらに立つ美しい娘を紹介した。セ・ネドラは泣きそうになった。こんなのは不公平だ! この少女は名前まで美しいのだ。もっとみっともない名前ならよかったのに。
「アダーラ」レディ・ポルガラは、じっとセ・ネドラの顔を見すえるようにして言葉を続けた。
「こちらがセ・ネドラ王女よ」
アダーラが優雅にお辞儀をするのを、彼女は心臓にナイフを突き刺されるような思いで見守った。「以前からずっとお目にかかりたいと思っておりましたのよ」背の高い少女は言った。よく響く歌うような声だった。
「お目にかかれて嬉しいわ」セ・ネドラは高慢なよそよそしさをこめて挨拶した。心の中では今すぐにでもこの美しいライバルに罵りの言葉を投げつけたかったが、彼女は必死に押し隠し、なにも言わなかった。いったんそれを表へ出そうものなら、そして彼女の表情や声にいささかでも不快の色がまじろうものなら、それはアダーラの勝利を完璧なものにするだけのことだった。完膚なきまでに敗北を喫するということはセ・ネドラの王女として――そしてまた女としての誇りが許さなかった。彼女の心は拷問にかけられたように痛んだが、背すじをしゃんとして立ち、かき集められるかぎりの威厳をもって王族としての面目を保った。王女は心のなかで自分の身分を何度も何度もくりかえして、自分の立場がいかなるものであるかを厳しく言い聞かせていた。王女は人前で涙を見せたりはしない。ラン・ボルーンの娘はめそめそ泣いたりはしないのだ。トルネドラの花はしがない皿洗いの少年が、自分でない女を好きになったからと言って悲しんだりしてはならないのだ。
「ちょっと失礼しますわ、レディ・ポルガラ」彼女は震える片手を額に押しつけながら言った。
「急にひどい頭痛に襲われたもので。突然ですが失礼させていただきます」相手の答を待つことなく、彼女はのろのろとゴリムの家に踵を返した。彼女はガリオンの前で一度だけ足をとめた。「どうぞお幸せに」彼女は心にもないことを言った。
かれはきょとんとした顔で王女を見た。
もはや限界だった。アダーラの前では何としてでも感情を表に出すわけにはいかなかったが、相手はガリオンなのだ。彼にはこの胸の痛みを思いしらせてやらねばならない。「あなたなんて大っきらい」彼女は憎しみをあらわにしてささやきかけた。「もう二度とあなたの顔なんか見たくないわ」
ガリオンは目をぱちぱちさせるばかりだった。
「わたしがどんなにあなたを見るのがいやか、想像もつかないでしょうね」彼女はさらにこうつけ加えると、背すじをしゃんと伸ばし、頭をつんとそらせてゴリムの家へ向かった。
いったん家の中に入るやいなや、彼女は自分の部屋に駆け戻り、ベッドに身を投げると身も世もあらぬ態で泣き出した。
戸口の近くに物静かな足音が聞こえたかと思うまもなく、レディ・ポルガラが姿をあらわした。「さあさあ、セ・ネドラ」彼女は言った。「いったい、どうしたの」彼女はベッドの端に腰かけるとすすり泣く王女の髪に手をあてた。
「ああ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラは再び声をあげて泣き出し、ポルガラの両腕の中に身を投げた。「わ、わたし、ふられちゃったんだわ――あ、あの人はあの女の子が好きなのよ」
「あの人って誰のことなの」ポルガラが穏やかな声でたずねた。
「ガリオンよ。あの人はアダーラのことが好きになって、わたしのことなんて、虫けらほども眼中にないんだわ」
「かわいそうなお馬鹿さん」ポルガラは優しく彼女をなだめた。
「だってかれはあの女の子を愛してるんでしょ」セ・ネドラは激しくつめよった。
「もちろん愛してるでしょうね」
「やっぱりそうだったんだわ」セ・ネドラは泣き叫ぶと、再びあらたな涙の洪水に襲われた。
「でもかれがあの娘を愛するのは当たり前のことなのよ」ポルガラは言葉を続けた。「何といっても彼女はただ一人のいとこなんですものね」
「いとこですって」セ・ネドラは涙に汚れた顔をさっと上げた。
「アダーラはかれのおかあさんの妹の娘なのよ」ポルガラは説明した。「ガリオンのおかあさんがアルガー人だってこと知らなかったの」
セ・ネドラは黙って首を振った。
「騒ぎのもとはこのことだったの」
セ・ネドラはうなずいた。彼女の涙は突然止まってしまったようだった。
レディ・ポルガラはそでからハンカチーフを取り出し、小さな少女に差し出した。「さあ、鼻をかみなさい」彼女は言った。「そんなふうに鼻をくすんくすん鳴らすのはお行儀が悪いわ」
セ・ネドラは思いっきり鼻をかんだ。
「これであなたもやっと認めたのね」ポルガラが言った。「いったいいつになったら素直に認めるのかしらと思ったわ」
「認めるって何を?」
ポルガラは少女をじっと見すえた。セ・ネドラは赤くなってうつむいた。「それでいいのよ」ポルガラは言った。「わたしに隠しごとをしない方がいいわ。そんなことをしても何の効果もないし、下手をすればあなたがますます混乱するだけよ」
セ・ネドラはこの暗黙の了解に驚いて大きく目を見開いた。「でもそんなこと不可能だわ」彼女は恐怖にあえいだ。「そんなことできっこないわ」
「わたしの父が好んで言うことだけれど、この世の中にはどんなことだって起こり得るのよ」ポルガラは言った。
「わたし、どうすればいいのかしら」
「まず第一に顔を洗ってくることね」ポルガラは少女に言った。「世の中には顔を汚さずに泣ける女の子もいることはいるけれど、あなたのはそうじゃないわ。本当にひどい顔をしてるわよ。これからはできるかぎり、人前で泣かないことね」
「そんな意味で言ったんじゃないわ」セ・ネドラは言った。「わたしはガリオンに対してどう振る舞ったらいいのかしら」
「別に今さら何もする必要はないと思うわ。ものごとは自然になるようになるものなのよ」
「だけどわたしは王女でかれは――その、ただのガリオンにすぎないのよ。こんなことは許されやしないわ」
「いまに何もかもうまくいくようになるわよ」レディ・ポルガラは少女を安心させるように言った。「わたしを信じてちょうだい、セ・ネドラ。わたしはこういったことをずっと長く扱ってきたのよ。さあ、顔を洗ってらっしゃい」
「わたし、皆の前でずいぶんみっともないことしたわね」セ・ネドラはたずねた。
「でもとりかえしがつかないほどじゃないわ」ポルガラは優しく言った。「長いこと仲間と会っていなかったので興奮しすぎたということにでもしておけばいいでしょ。わたしたちに会えて嬉しくないの?」
「ああ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラは彼女を両手で抱きしめ、涙を流しながら同時に笑った。
セ・ネドラの顔が涙の発作で受けた損害からたち直ると、一同はおなじみのゴリムの書斎で再び顔を会わせた。
「気分は直ったかね、お嬢さん」ゴリムは老いた顔に心配そうな表情を浮かべて、優しくたずねた。
「ちょっとした神経過敏のせいですわ、聖なるお方」レディ・ポルガラが安心させるように言った。「ご存じのようにこの姫君はいささか興奮しやすいもので」
「あんなふうに出ていってごめんなさいね」セ・ネドラはアダーラにあやまった。「本当に愚かなことをしたと思ってるわ」
「王女さまは愚かではありませんわ」アダーラは答えた。
セ・ネドラは顔を上げて言った。「いいえ、そんなことないわ。わたしにだって、他の人たちと同じように愚かなことをする権利はあるわ」
アダーラは声をあげて笑い、すべては丸くおさまった。
だがもうひとつ問題が残っていた。勢いにまかせてガリオンにあまりにもひどい憎しみの言葉を投げつけてしまったことである。かれの表情はすっかり困惑していたし、少々傷ついていたようにも見えた。だがセ・ネドラはあえてかれを傷つけたことを無視することにした。彼女だって、ゴリムの島でアダーラの姿を見たとき死ぬほどの苦しみを味わったのだから、かれだって少しくらいは苦しんだっていいはずだ――むろんあまりひどく傷つけてはいけないが、ほんのちょっぴりだけ。そもそもそんな事態を引き起こしたのは、当のガリオンなのだ。王女はかれに少しばかりの苦痛――少なくとも彼女はそうあってほしいと思っていた――を味わせてやり、然るのちに優しく、先ほどの悪意に満ちた言葉などまるでなかったかのように愛情さえこめて話しかけた。ガリオンの顔がますます困惑したところで、彼女はその圧倒的な効果に十分な満足を覚えつつ、とっておきの愛くるしい微笑を投げかけた。そして後は完全にかれを無視した。
ベルガラスとレディ・ポルガラがラク・クトルへ〈珠〉を取り返しにいった旅の一部始終を語るあいだ、王女はアダーラと長椅子に並んで座り、つつましくかれらの話を聞いていた。だが頭の一方では先ほどの驚くべき発見を何度もめまぐるしく反すうするのに忙しかった。ふと視線を感じた彼女は顔を上げた。レディ・ポルガラがエランドと呼んでいる小さな金髪の男の子がきまじめな表情を浮かべて彼女を見ていた。その瞳にはなにか心をひきつけてやまないものがあった。突然、彼女は心の中を見つめられていることに気づいた。すると少年はほほ笑みかけ、セ・ネドラは心の底から喜びがわきあがってくるのを感じた。かれは笑みを浮かべたままつかつかと近より、小さな手を腰にぶら下げた袋の中に突っ込んだ。少年は灰色の丸い石を取り出して、彼女にさし出しながらたずねた。「使命《エランド》?」ほんの一瞬、セ・ネドラは石の中にかすかな青い光がきらめくのを見た。
「それにさわっちゃだめよ、セ・ネドラ」レディ・ポルガラの厳しい声に、石にのびかけていたセ・ネドラの手がぴたりと凍りついた。
「ダーニク!」ポルガラは奇妙な不満のまじった声で鍛冶屋を呼んだ。
「ミストレス・ポル」ダーニクはすっかりお手あげといったようすだった。「もうどうしていいかわかりませんよ。わたしが何度封印してもどういうわけか、すぐに開けられてしまうのです」
「とにかくそれをしまわせてちょうだい」彼女はかすかにいらだちをにじませながら言った。
ダーニクは少年の足元にひざまずくと、腰の小袋に手をかけた。かれがなにも言わず袋を開くと、男の子は石をその中に落とした。ダーニクはそれを閉じると、できるかぎりきつくひもをしめた。鍛冶屋がすべての作業を終えると、少年は愛情をこめてその首に腕を巻きつけた。ダーニクはいささか面くらったようすで連れていこうとしたがエラルドは手をふりほどくとセ・ネドラのひざに這いあがった。かれは神妙な顔で彼女にキスすると、その腕の中でたちまち眠りに落ちた。
セ・ネドラの胸にこれまで経験したことのない感情がわき起こった。なぜとは知らず、彼女はこれまで経験したことのない激しい幸福感を味わっていた。彼女は子供を抱き寄せると、小さな体をかばうように腕をまわし、その白っぽい金髪の巻毛にあごをうずめた。王女は子供を揺すって子守歌を口ずさんでやりたい衝動にかられた。
「とにかくわれわれは急ぐのだ」ベルガラスがゴリムに言った。「レルグの助けを借りても、センダリアの国境までたどり着くには一週間以上かかる。それから、今度はセンダリアを縦断しなければならないが、この時期はかなりの雪に見舞われることになろう。さらに悪いことに〈風の海〉は冬の大嵐のさなかだし、センダーからリヴァまでの船旅はかなりの距離がある」
リヴァ≠フひとことが王女の夢見心地を破った。ジーバースとともにトル・ホネスの王宮を脱出したときから彼女の心を占めているひとつの思いがあった。セ・ネドラは絶対にリヴァへ行きはしない。これまでしばしばあきらめ切ったふりをしてきながらも、その黙従は皆の目をごまかすためのものだった。だが今こそ断固たる態度を取らねばならない。ボー・ミンブルの協定に従うのを拒む理由が何だったのか、自分でもよくわからなくなっていた。あまりにもたくさんのことが起こり、彼女はもはやそれまでのセ・ネドラではなくなっていたが、いかに性格が変わろうとひとつだけ絶対に変わらないことがあった。彼女は絶対にリヴァへなど行きはしない。これだけは絶対に譲ることのできないものだった。
「センダリアに着いたら、わたしはトルネドラの駐屯部隊に行くことにするわ」彼女はすでに決まったことのようにさりげなく言った。
「どうしてそんなことをするの」レディ・ポルガラが聞いた。
「前にも言ったでしょ。わたしはリヴァへは行きませんって」セ・ネドラは答えた。「駐屯部隊へ行けば、きっとわたしをトル・ホネスに送り返してくれるわ」
「一度あなたもお父上に会っておいた方がいいわね」
「それじゃこのままわたしを行かせてくれるの」
「そうじゃありません。春の終わりか、さもなければ夏の初めにはトル・ホネスに向かう船に乗れるかもしれないって意味よ。トルネドラとリヴァの間には交易がさかんですからね」
「そんなこと言ってるんじゃないわ。わたしは何があろうと絶対にリヴァへは行きませんと言ってるのよ」
「わかってるわ。でも、それはできないわ。あなたはリヴァへ行かなければならないの。ボー・ミンブルの協定を忘れたわけじゃないでしょ」
「わたしは絶対に行きませんからね!」セ・ネドラの声がいっぺんに数オクターブあがった。
「いいえ、あなたは行くのよ」ポルガラの声は平静をよそおっていたが、鋼のような冷たい響きがあった。
「わたしは絶対に行きません」王女は声を張りあげた。彼女はさらに何かを言おうとしたが、唇に柔らかい指がふれるのを感じてやめた。腕の中で眠りかけていた子供が、手をのばして彼女の口にふれていた。王女はいらだたしげに頭を振った。「前にも言ったとおりわたしは絶対に――」子供が再び彼女の唇にふれた。少年のまなざしは眠たげだったが、そのまなざしは穏やかで安堵に満ちていた。セ・ネドラは自分が何を言おうとしたのかすっかり忘れてしまった。
「わたしは〈風の島〉へなんか行かないわ」彼女はいささかとまどいながら断言した。「いいわね」だが困ったことに、それはちっとも断定的に響かなかった。
「わたしたち何だか前にも同じような口論をしたような気がするわね」ポルガラは言った。
「あなたにそんな権利は――」途中で思考を乱されたセ・ネドラの言葉は、再び尻切れとんぼに終わった。少年の瞳は真っ青だった――あまりにも青すぎるほどに。彼女はいつのまにか少年の瞳から目を離せなくなっていた。その青い深みにどんどん吸いこまれていくような気がした。王女は頭を振った。こんなふうに議論の途中で何を言ってるかわからなくなってしまうのはまったく彼女らしくなかった。セ・ネドラは必死に心を集中させようとした。「わたしは皆の目の前で侮辱されるのなんてまっぴらごめんよ」彼女は言いつのった。「アローン人たちが袖を引きあってクスクス笑うまっただ中で、乞食みたいに〈リヴァ王の広間〉に突っ立ってるのなんか、絶対にごめんですからね」今度は何とかうまくいったようだ。彼女を突然おそった思考の混乱もおさまったかのように思えた。だがうっかり子供の目をのぞきこんだとたん、すべては消えうせた。「だってわたしはそれにふさわしいドレスも持ってないし」彼女はつけ加えた。いったい何でこんなこと口走ってしまったのだろう。
ポルガラは何も言わなかったが、混乱する王女を見つめる目は鋭かった。セ・ネドラは口ごもりながらさらに何かを言ったが、抵抗すればするほど反対する理由は弱まっていくようだった。口では抗弁していても、もはやリヴァへ行かない理由などどこにもないように思えた。彼女の拒否は取るにたらないどころか、子供じみてさえいるような気がしてきた。何だって自分はこんなことに目くじらたてて騒いでいるのだろう。腕に抱いた小さな少年が励ますようなほほ笑みを送ると、彼女もつられてほほ笑み返さずにいられなかった。そのとたん彼女の防御は粉々に崩れ落ちた。それでも何とか彼女は最後の抵抗をこころみた。「でもあんなのは単なる儀礼にしか過ぎないわ」セ・ネドラは言った。「いざ〈リヴァ王の広間〉にいっても誰もいやしないわ。だって現実にいないんですもの。リヴァ王の血統はとっくの昔に絶えたのよ」彼女は何とか少年の瞳から視線を引きはがした。「それでも行かなくちゃいけないのかしら」
レディ・ポルガラは重々しくうなずいた。
セ・ネドラは深いため息をついた。今となってはこれらの口論もまったくむだのように思えた。たかがちょっとした旅をするだけのことではないか。とくに恐ろしい危険が待ちかまえているというわけでもない。それどころか皆が幸せになれるというのに、なぜ彼女は頑固に反対しているのだろう。「わかったわ」ついに王女は降伏した。「皆にとってどうしても必要だというのなら、わたしはリヴァへ行ってもいいわ」なぜかそれを言ったとたん、すっと気が軽くなった。腕の中の子供は再びほほ笑むと、王女のほおをそっと撫で、再び眠りに落ちた。突然の不思議な喜びに満たされながら、王女は少年の巻毛にほおを寄せ、前後に体を揺すり始めた。その唇は小さな声で子守歌を口ずさんでいた。
[#改丁]
第二部 リヴァ
[#改ページ]
一行は再びレルグを先頭にして、暗黒と沈黙に満ちた地下道を進んでいった。二度目とはいえ、ガリオンはこの場所がいやでたまらなかった。かれらがプロルグを離れてから、永劫に近い時間が過ぎさったような気がした。セ・ネドラは涙ながらにいつまでも、きゃしゃな老ゴリムと別れを惜しんでいた。王女の思いがけない一面にあらためて驚かされたガリオンは、かび臭い暗闇のなかをよろめき歩くあいだも、ずっと彼女のことを考え続けていた。プロルグで何かが彼女の上に起こったことだけは確かだった。はっきりとそれとはわからなくとも、セ・ネドラは変わった――その変わりようが、なぜかガリオンの心をあやしく揺さぶった。
何日間にもわたる曲がりくねった地下道の旅の末、一行は再び光と新鮮な大気のもとに出た。そこは断崖の洞穴の入口にあたる、藪に覆われたほら穴だった。風もない空中からたえまなく雪がしんしんと降り続けていた。
「本当にここはセンダリアなんだろうな」バラクが入口の密集した藪をかきわけながら聞いた。
レルグは肩をすくめ、光から目を守るための目隠し布を再び顔に巻きつけた。「少なくともウルゴじゃないことは確かだ」
「ウルゴじゃない場所なんてごまんとあるぞ、レルグ」バラクがむっつりと言った。
「たしかにセンダリアと見えなくもないが」チョ・ハグ王が鞍から身を乗り出すようにして、静かに降りつもる雪を見ながら言った。「ところで、今何時ごろなのだろう」
「こんなにひどく雪が降っていたのではわかりませんよ、父上」とヘターが言った。「馬はどうやら昼頃だと思っているようですが、かれらの時間感覚もあまり当てにならないし」
「いや、まったくめでたいことだ」シルクが皮肉まじりにちゃかした。「どこにいるのかわからず、おまけに時刻すらわからないときている。実に幸先のいいスタートじゃありませんか」
「そんなに深刻ぶるんじゃないぞ、シルク」ベルガラスがうんざりしたように言った。「とにかく北をめざして行けばよいのだ。そのうちに〈北の大街道〉へつきあたることじゃろう」
「なるほどね」シルクが答えた。「ところで北はいったいどっちなんですか」
ガリオンは、前に出て雪の積もった峡谷をのぞきこもうとする老人をじっと見つめた。ベルガラスの顔には疲労の深いしわがきざまれ、日の下のくぼみには再び黒いくまが出ていた。〈砦〉における二週間以上の療養生活を終え、ポルおばさんもようやく旅に出ることを承諾したにもかかわらず、ベルガラスはまだ衰弱から完全にたちなおっていなかったのである。
洞穴の入口から出た一行は厚いマントをぴったり体に巻きつけ、出発するために馬の腹帯をしめなおした。
「何だか気がめいるようなところだわね」セ・ネドラは非難がましくあたりを見まわしながらアダーラに言った。
「ここは山岳地帯なんだ」ガリオンはあわてて故郷の弁護にまわった。「東トルネドラの山地とたいして変わりゃしない」
「誰もそんなこと言ってやしないわ」彼女はぷりぷりしながら言いかえした。
二、三時間ばかりも進んだところで、森のむこうから斧をふるう音が聞こえてきた。
「きこりだ」ダーニクが言った。「わたしが行って方角を聞いてきましょう」かれは音のする方にむかって馬を走らせた。やがて戻ってきたダーニクは、かすかにうんざりしたような表情を浮かべていた。「われわれは南にむかっていたらしい」
「やっぱりな」シルクが皮肉るように言った。「で、今いったい何時なんだ」
「午後遅い時間だそうだ」ダーニクが答えた。「きこりたちの話では、西へ行けば北西にむかう道に行きあたるとのことだ。そこから、ミュロスにむかって二十リーグほどで〈北の大街道〉につきあたるそうだ」
「それでは暗くなる前に道を探そうではないか」とベルガラスが言った。
山岳地帯を抜けるには数日を要した。そこから人家もまばらな東センダリアを通って、サルターン湖周辺の人口が密集する平地まで行くのにさらに数日を費やした。雪は断続的に降り続き、センダリアの南中央をつらぬく交通量の多い道路は、すっかりぬかるみと化し、純白の丘に走る一本の醜い茶色の傷のような姿を見せていた。一行は人数が多かったので、雪に覆われたこぢんまりした村々に足をとめるたびに、幾軒かの宿に分散しなくてはならなかった。セ・ネドラ王女は村と宿を評するのに、しばしば「風変わり」という表現を使ったが、ガリオンにはわずかな侮蔑の響きがこもっているように聞こえた。
今こうして旅するセンダリアは、一年あまり前に出ていったときとすっかり様相を変えていた。道すがらのあらゆる村々にも戦争の影が忍びよっていた。
村の広場では即席の防衛軍が茶色いぬかるみにまみれながら戦闘訓練をしていた。かれらは長いことほうっておいた古びた剣や曲がった槍を、ほこりくさい地下室やじめじめした物置から探し求め、きたるべき戦いに備えて武器の錆をこすり落とした。もともと平和的な農民たちや村民たちの戦争準備は、しばしば見る者に笑いをもよおさずにはいなかった。お手製の軍服は赤、青、緑などの目もあやな色彩にあふれ、旗はかれらの愛する者が大義のためにペチコートを犠牲にして作ったものだった。だがこれらの純朴な人々の顔には、真剣な表情が浮かんでいた。若い男たちが村娘たちに軍服をこれみよがしに誇示しようと、老人たちがいかに古参の強者らしくみせかけようと、村々にたちこめる雰囲気は重苦しかった。センダリアは迫りくる戦争の前に静まりかえっていた。
ポルおばさんは道すがらの村々を眺めながらもの思いにふけっていたが、サルターンに入ってから何かを決心したようだった。「おとうさん」彼女はベルガラスとくつわを並べて町に入りながら言った。「あなたとチョ・ハグだけでまっすぐセンダーにむかってちょうだい。ダーニクとガリオンとわたしはちょっと寄りたい所があるのよ」
「いったいどこへ行くのだ」
「ファルドー農園よ」
「ファルドーの所だと? いったい何のために」
「わたしたちはあそこにいろいろ置いてきたものがあるのよ。おとうさんに追い立てられるようにして出ていったおかげで、ろくな荷造りをするひまもなかったんですもの」あまりにも事務的な口調で言われたので、ガリオンは即座にそれが単なるいいわけにすぎないことを悟った。ベルガラスのきっと上がった眉も、老人が彼女のいいわけに満足していないことを語っていた。
「寄り道をするにはちと時間が足らんぞ、ポル」老人は指摘した。
「それくらいの時間は十分にあってよ、おとうさん。じっさいそれほど遠いわけじゃないわ。せいぜいあなたたちに数日遅れをとるだけよ」
「そんなに重要なことなのか、ポル」
「ええ、そう思うわ。わたしのかわりにエランドのめんどうを見てくださるわね。あの子をファルドーへ連れていく必要はないから」
「わかった、好きにしろ」
にわかづくりの防衛軍が命令どおり右を向こうとして、いっせいに武器に蹴つまずいてよろめくさまをじっと眺めていたセ・ネドラの唇から、美しい鈴のような笑い声がもれた。笑いさざめく皇帝の宝石を見るポルおばさんの表情は変わらなかった。「それにもうひとり連れていきたい人がいたわ、おとうさん」彼女はそうつけ加えた。
セ・ネドラは居心地のいいフルラク王の宮殿にまっすぐ行かないことを知るや、頑強に抵抗した。だがポルおばさん相手にはいかなる抗議もむだだった。
「あなたのおばさんは、今まで人の言うことを聞いたことなんてあるのかしら」小さな王女はポルおばさんとダーニクとともにメダリアへ向かう道すがら、ガリオンとくつわを並べながら不平を言った。
「おばさんはいつだって、人の言うことにはちゃんと耳を貸すよ」ガリオンは言いかえした。
「でもこうと決めたら絶対にゆずらないでしょ」
「そりゃ絶対にというわけじゃない。でもちゃんと人の言うことは聞いてるよ」
ポルおばさんは二人を振り返って言った。「頭巾をかぶりなさい、セ・ネドラ。また雪が降りだしたわ。濡れた頭で旅するわけにはいかないでしょう」
王女は何かを言いかえそうと、とっさに息を吸いこんだ。
「やめといた方がいい」ガリオンが小声で忠告した。
「だけど、わたし――」
「おばさんは今議論をするような気分じゃないんだよ」
セ・ネドラはガリオンをにらみつけたが、おとなしく頭巾をかぶった。
その晩、メダリアに着いたときもまだ雪がちらついていた。あてがわれた宿を見たセ・ネドラの反応はおおよそ想像がついた。彼女の怒りかたには特有のリズムがあることを、ガリオンは知っていた。決して最初から声を荒らげたりはせずに、しだいに声のオクターブをあげて印象的なクライマックスに持っていくのである。だがちょうどそれを始めようとしたとたん、彼女は突然さえぎられた。
「高貴な血筋を見せびらかすにしては、ずいぶん変わったやり方だと思わない?」ポルおばさんは落着きはらった声でダーニクに話しかけた。「ガリオンの昔の友だちがこれを見たら、さぞかしびっくりするでしょうね」
ダーニクはあやうく吹きだしそうになりながら横をむいた。「まったくおっしゃるとおりですよ、ミストレス・ポル」
セ・ネドラは口をあんぐり開けたまま、ぴたりと長広舌をやめた。ガリオンは彼女が突然静かになったのを見てあ然とした。「わたしちょっとはしたなかったみたいね」しばらくしてから王女は言った。その声はすっかり平静に戻り、しとやかささえ感じられた。
「少しばかりね」ポルおばさんが言った。
「どうか許してね、みなさん」少女の声は蜜をしたたらせたように甘やかだった。
「それはやり過ぎというものよ、セ・ネドラ」ポルおばさんがたしなめた。
かれらがエラトに向かう大きな道路をそれて、ファルドー農園に続く小道に入ったのは翌日の昼すぎだった。朝からガリオンの興奮はいやがうえにも高まり、ほとんど爆発寸前だった。目に入る道しるべも、木も、植えこみも、すべてなつかしいものばかりだった。あそこに見える鞍のない馬に乗っている男は、ファルドーの頼みで使いにいくクラルトではないか。なじみの背の高い木に囲まれた切り開きや、くもの足のように分散する排水溝を見たとたん、ついにかれはがまんできなくなった。ガリオンは馬にひと蹴りをくれると、柵をひらりと越え、雪のなかではたらく人影に向かって疾走した。
「ランドリグ!」ガリオンは馬をとめると鞍から滑りおりながら叫んだ。
「どちらさまですか」ランドリグは驚きのあまり目をぱちくりさせながら聞いた。
「ランドリグ、ぼくだよ――ガリオンだ。ぼくがわからないのかい」
「ガリオンだって」ランドリグはさらに目をぱちぱちさせながら、かれの顔にじっと見入った。やがて曇天からさしこむ弱々しい陽ざしのようにゆっくりと目に輝きが戻ってきた。「いや、間違いない」ランドリグは驚いたように言った。「おまえは確かにガリオンだ」
「そうだ、ぼくだよ。ランドリグ」ガリオンは叫び、前に出て友の手をとろうとした。
だがランドリグはあわてて手をひっこめて、後ろに飛びのいた。「だめだ、ガリオン。そんなことをしたらおまえの服が汚れちまう。おれは泥だらけなんだぞ」
「服のことなんてどうだっていい。ぼくらは友人だろう、ランドリグ」
大柄な若者はかたくなに首を振った。「いいや、汚しちゃだめだ。何たって上等な服だからな。おれが手を洗ったあとでも握手する時間ならたっぷりあるだろ」かれはじろじろとガリオンを眺めまわした。「いったいそんないいものをどこで手に入れたんだ。それに剣は? そんなものをファルドーさんの前でぶら下げたりしない方がいいぞ。あの人はそういうものをひどく嫌ってるからな」
なぜか友人との再会はガリオンが考えていたように進まなかった。「ドルーンはどうしている」かれは矢つぎばやにたずねた。「ズブレットは」
「ドルーンは去年の夏出ていったよ」ランドリグは必死に思い出そうとするかのように間をおいて言った。「何でもやつの母さんが再婚したらしい――今はウィノルドの向かいの農園に住んでるはずだ。ズブレットは――そのおまえが出ていってからはよくおれと出歩くようになったんだ」背の高い若者はここで急に顔を赤らめると、すっかり困惑したようすで下を向いた。
「おれたち二人はいっしょになる約束をしてるんだ」
「そいつはすごいじゃないか、ランドリグ!」ガリオンは失望の痛みが走るのを押さえつけながら言った。
だがランドリグはさらに言葉を続けた。「おまえたちが好きあってたことは、おれだってよく知ってるよ」かれの細長い顔にたとえようもなくみじめな表情が浮かんだ。「おれ、彼女に話してこなきゃ」顔をあげたランドリグの目には涙が光っていた。「まだ遅すぎはしないはずだ。だがおれたちゃおまえが帰ってくるとは夢にも思わなかったんだ」
「本当にそんなつもりじゃなかったんだよ」ガリオンは急いで友人を安心させるように言った。
「ぼくたちは農園に置いてきた、身のまわりのものを取りにきただけなんだ。またすぐにここを出ていかなきゃならないんだよ」
「それでズブレットを連れにきたのかい」ランドリグがあまりに悲嘆に満ちた声を出すので、ガリオンはすっかり心を揺さぶられた。
「ランドリグ」かれは静かに言った。「ぼくにはもはや家と呼べるものがないんだ。ある晩は城に寝たかと思うと、次の晩は道ばたにじかに寝るような毎日だ。ズブレットをそんな目にあわせるわけにはいかないだろう」
「だがあいつはおまえが来いといえば行くだろう」ランドリグは反駁した。「ズブレットはおまえと一緒なら、何でも喜んで耐えるに決まってる」
「だが、連れてくわけにはいかないよ。きみたちの結婚の約束は変わらないんだ」
「おれはあいつに嘘なんかつけないよ」背の高い若者はなおも言いはった。
「ぼくはできる」ガリオンはぶっきらぼうに言った。「彼女を家なしの浮浪者にするくらいならどんな嘘だってつけるさ。きみはとにかくいっさいこのことに関しては口をつぐんで、ぼくにしゃべらせてくれればいいんだ」ガリオンはここで急に歯をみせて笑った。「昔みたいにね」
ランドリグの顔にゆっくりと恥ずかしそうな笑みが広がった。
農園の門は開けはなたれ、誠実な善きファルドーが笑みを満面に浮かべ、喜びに手をこすり合わせながら、ポルおばさんやダーニクやセ・ネドラのあいだをせわしく動きまわっていた。背の高い農夫はあいかわらずほっそりやせぎすで、顎は一行が農園をあとにしたころよりもますます長くのびたようだった。こめかみにはちらほら灰色のものがまじりかけていたが、その暖かい心はまったく昔のままだった。
セ・ネドラ王女は一行から少し離れたところで慎しく立っていたが、ガリオンはその顔に危険な兆候が出ていないかと思わず探し求めずにはいられなかった。かれがひそかに行なおうとしている計画をぶちこわしてしまいそうな人物は、セ・ネドラをおいて考えられなかった。だがどんなに努力してみても、彼女の表情はまったく読みとれなかった。
そのときズブレットが中庭を囲む高い通路の階段をおりてきた。着ているドレスは田舎くさかったが、あいかわらず金髪は豊かで、前よりいっそう美しくなっていた。とたんに幾千もの記憶が脳裏によみがり、ガリオンはこれから行なわねばならないことを考えて、胸がしめつけられるような気分になった。小さいときから一緒に育った二人は、目と目を合わせただけで他人には想像できないほどの多くの思いを通わせることができた。なのにガリオンはそのまなざしで彼女をいつわろうとしているのだ。ズブレットの瞳は愛にあふれ、その柔らかい唇はかすかに開いていた。まるで、まだ言われてはいなくとも、ガリオンが当然してくるだろうと思っている問いに答えるかのように。だが友情を装ったガリオンのまなざしには親しみこそあったが、まったく愛は感じられなかった。ズブレットの瞳に信じられないといった表情が浮かび、美しい顔が徐々に赤く染まっていった。彼女の青い瞳に宿っていた希望の光が消えていくのを見守るガリオンの胸は激しく痛んだ。なお悪いのは彼女が一生の思い出にするために、かれの姿を目に焼きつけようとしているときに、こんな冷たいすました表情を取り続けなければならないことだった。ついに彼女は顔をそむけ、用があるのを口実に逃げるように去っていった。ガリオンにはこれから先、彼女がかれを避け続けるだろうことも、恐らくはもう二度と会えないこともわかっていた。
こうするのが一番よかったのだと思いながらも、ガリオンの胸は張り裂けんばかりに痛んだ。かれはすばやくランドリグと万感をこめたまなざしをかわしあい、いつの日か結婚することを夢見ていた少女の後ろ姿を悲しく見守った。ズブレットの姿が角を曲がって見えなくなると、ガリオンは重苦しいため息をついて後ろを向いた。そのとたん、セ・ネドラと目があった。彼女のまなざしは、ガリオンが今行なったことと、それによっていかに深い打撃をこうむっているかを正確に理解していた。そこには心からの同情と、もの問いたげな表情が浮かんでいた。
ファルドーのたってのすすめにもかかわらず、ポルガラは客人となることを即座に断った。彼女の指は台所のおなじみの物たちにふれたくて、うずうずしているようだった。台所に入るやいなやぶ厚いマントは釘にかけられ、いつのまにかエプロンが腰に巻きつけられたかと思うまもなく、ポルおばさんの指は精力的に動き出した。彼女の控えめな指示は最初の一分ともたず、すぐにきびきびした命令に変わり、すべては昔どおりに動き出した。ファルドーとダーニクは手を後ろに組みあわせ、中庭をぶらつきながら格納庫をのぞき、天候やその他の話題にすっかり花を咲かせていた。残されたガリオンとセ・ネドラは、台所の入口に立っていた。
「ガリオン、わたしに農園を案内してくれない?」彼女ははにかむように言った。
「いいよ」
「レディ・ポルガラは本当にあんなにお料理が好きなの?」王女は暖かい台所で、楽しそうにハミングしながらパイ皮をこねるポルおばさんを見てたずねた。
「そうらしいよ」ガリオンは答えた。「おばさんの台所は秩序だっている場所だからね。あの人は秩序正しいことが大好きなんだ。一方から材料が送られると、もう一方から料理が出てくるというわけさ」かれは低い梁をわたした部屋を見まわし、磨きぬかれた鍋や壁にぶらさがったフライパンなどにひとつひとつ目をとめた、かれの人生が一回転してここに戻ってきたような気がした。「ぼくはここで育ったんだ」かれは静かに言った。「人が育つのにあんまりいい環境とは言えないね」
セ・ネドラの小さな指がガリオンの手の中に滑りこんだ。そのしぐさにはどこかためらいが感じられた。まるで彼女の行動がどう受けとられるかを気にしているかのようだった。だがセ・ネドラに手を握られながら、ガリオンは妙な心のやすらぎを感じていた。それはたいそう小さな手だった。ときとしてかれは王女がどんなにきゃしゃだったか忘れてしまうのだった。だが今の彼女はとても小さくもろく感じられ、大事に守ってやりたいような衝動をガリオンに起こさせた。セ・ネドラの肩に腕をまわしてもいいかどうか、かれはためらった。
二人は農園中の納屋や厩舎やにわとり小屋を見てまわった。かれらはガリオンの大好きな隠れ場所だった干し草小屋の前に出た。「いつもポルおばさんが仕事を頼みそうな気配があると、ここに逃げこんだものさ」かれはどことなく悔むような口ぶりで言った。
「そんなに働くのがいやだったの」セ・ネドラはたずねた。「ここの人たちはいつも忙しそうね」
「働くのはきらいじゃないよ」ガリオンは答えた。「ただおばさんが頼む仕事が好きじゃなかっただけさ」
「鍋みがきとか?」王女はいたずらっぽく目を輝かせながら聞いた。
「うん、確かに鍋みがきはきらいだったな」
かれらはいい匂いのする柔らかい干し草の上に並んで座っていた。いまや彼女はしっかりガリオンの手を握りしめ、もう一方の手はかれの手の甲を人さし指でそっとなぞっていた。「あなたさっきはずいぶん男らしかったじゃない」セ・ネドラは真顔で言った。
「ぼくが男らしい?」
「あなたあのとき、何かとても大切にしてた大事なものをあきらめたんでしょ」
「ああ」とかれは答えた。「ズブレットのことだね。でもぼくはあれで一番よかったんだと思ってるよ。ランドリグは彼女をとても愛してるし、ぼくにはとてもできないところまで彼女のめんどうを見てやれる」
「どういうことなのか、よくわからないわ」
「ズブレットはいつも誰かが注意していてやらなきゃならないんだよ。彼女は頭もいいし、美人だけれどひどい怖がり屋なんだ。これまでにも何度か困難なことがあるたびに、逃げ出してしまうのを見てきたしね。ズブレットには四六時中注意をはらって、いつも安楽と無事を保証してくれるような男――それこそ、全生涯をかけて彼女を守ってくれるような誰かが必要なのさ。ぼくにはとてもそんなことはできないよ」
「でももしこのまま農園に残るんだったら、彼女と結婚するんでしょう」
「たぶんね」かれは答えた。「でも、ぼくはここへはもう二度と戻らないんだし」
「そんなふうにあきらめなくちゃいけないなんて、とてもつらいことじゃなくて?」
ガリオンはため息をついた。「うん、確かにきみの言うとおりだ。でもけっきょく誰にとってもこれが一番よかったんじゃないかと思う。たぶんぼくはこれからの一生をほとんど旅して過ごすことになりそうだし、ズブレットは地面の上にじかに寝たりできるような娘じゃないしね」
「わたしにそんなことさせるときは、誰も気になんかしてくれないくせに」セ・ネドラはいささか憤慨した顔で言った。
ガリオンは彼女の顔をじっと見た。「そういえば、そうだね。今までそんなこと考えてみたこともなかった。たぶんきみが勇敢な女の子だからだよ」
次の朝、長々と続くいとまごいと、数かぎりない再会の約束のすえに、四人はファルドー農園を出発してセンダーに向かった。
「どうだった? ガリオン」小高い丘を越える途中でポルおばさんがたずねた。すでにファルドー農園は、手の届かないかなたへ遠ざかりつつあった。
「何がどうだって言うのさ」
彼女はじっと静かな視線をはずさなかった。
ガリオンはため息をついた。彼女に何かを隠すなどということは、およそできない相談だった。「ぼくはもう二度とあそこへは戻れないんだね」
「ええ、そうよ」
「ぼくは全部のことが終わったら、また農園へ帰るのかと思ってた。でも、そうじゃないんだ」
「わたしたちは二度とあそこへは戻らないわ。でもあなたにどうしてもわかってほしかったのよ。この何ヵ月かあなたが引きずってきた過去を断ちきるためには、こうするしかなかったの。別にファルドー農園がよくないと言ってるわけじゃないのよ。でも、ある種の人々にとってはふさわしい住まいではないの」
「そんなことを知るだけのために、わざわざあそこへ行ったりしたのかい」
「これはとても大切なことだったのよ。もちろんわたしだってファルドーの農園を訪れるのは楽しかったわ。あそこの台所には特別な思い入れがあるのよ――いつも心の中に抱いてる、忘れたくないものがね」
突然ガリオンの脳裏にある疑問が浮かびあがった。「じゃあ、セ・ネドラはどうなんだ。何で彼女にまで来るように言ったりしたんだい」
ポルおばさんは小さな王女をちらりと振り返った。彼女は何かもの思いにふけるようすで、ガリオンたちから数ヤードほど遅れてついてくるところだった。「別に連れてきたって、何の害があるわけでもないわ。それに彼女もまたあそこで何か大事なものを見たのよ」
「おばさんが何を言いたいのか、さっぱりわからない」
「そうね」ポルおばさんは答えた。「あなたにはわからないでしょうね」
続く一日半、白い大地の上を一直線に横切ってセンダリアの首庁センダーへ向かうかれらの上に、雪が思い出したように降りつけた。特にひどく寒いわけではなかったが、空は厚く雲に覆われ、西へ向かう一行をときおり突風がおそった。海岸に近づくにつれ風は勢いを増し、ときたま姿をのぞかせる海はきわめて険悪な様相をおびていた。風にあおられた巨大な波が、泡だつ白い飛沫となって砕け散った。
フルラクの宮殿ではベルガラスが、きわめて不機嫌な顔で待ちかまえていた。〈エラスタイド〉まであと一週間ちょっとだった。老人はまるでそれが自分に対する大いなる侮辱であるかのように、窓の向こうで荒れ狂う海をにらみつけていた。「いやはや、また会えるとは思ってもみなかったぞ」
「はしたないわね、おとうさん」ポルガラは落着はらった声で父をたしなめると、青いマントを脱いでかたわらの椅子にきせかけた。
「おまえの目にはあれが見えんのかね、ポルよ」老人は怒ったように窓に向かって指を突きだした。
「わかってるわよ、おとうさん」彼女はろくに見ようともせず、とがめるような口調で言った。「ちゃんと休んでないみたいね」
「外があんな天気だってのに、何で休んでなぞいられるものか」老人はふたたび指を振りまわした。
「そんなことしたっていたずらに興奮するばかりよ。今のおとうさんにはそれが一番よくないのよ。もっと落着いてちょうだい」
「だがわれわれは〈エラスタイド〉までにリヴァへ行かねばならんのだぞ」
「ええ、よくわかっていますとも。わたしの上げた強壮剤をちゃんと飲んでるんでしょうね」
「おまえでは話にならんわ」老人はガリオンに矛先を転じた。「なああの波を見ただろう」
「ぼくがそんな質問に答えられないのを知ってるだろう、おじいさん。特にポルおばさんの目の前では」
ベルガラスはかれをにらみつけた。「この裏切り者め」老人はくやしそうにつぶやいた。
だがベルガラスの心配は決して杞憂ではなかった。〈エラスタイド〉の四日前、みぞれまじりの嵐をついて見覚えのあるグレルディク船長の船が入港した。マストとへさきにはびっしりと氷がつき、主帆はまっぷたつに引きさけていた。
宮殿に足を踏みいれるやいなや髭もじゃの船長は、ベルガラスとブレンディグ大佐の待つ部屋に通された。かつてカマールでベルガラス一行を捕らえたきまじめなブレンディグ准男爵は、連隊長から大佐になっていた。あれからブレンディグはとんとん拍子に出世して、今ではセリネ伯爵と並んでフルラク王のもっとも信頼する片腕となっていた。
「アンヘグ王の命令で来たのだ」グレルディク船長はごく簡潔に述べた。「王はリヴァでローダー王やブランド卿とともに首を長くして待っている。いったい何でこんなに時間がかかるのだろうと全員首をひねっているぞ」
「この嵐の海のなかをわざわざ船出しようなどという、きとくな船長がおらんのだよ」ベルガラスが腹だたしげに言った。
「まあ、とにかくこうしてわたしが来たわけだ。主帆を修理しなければならんが、たいした時間はかからんだろう。明日朝には出帆できる。ところでここに酒はないのかね」
「天候はどんな具合だ」ベルガラスがたずねた。
「少しばかり荒れてるようだがな」グレルディクは無関心なようすで肩をすくめた。かれは窓の外で十二フィートもの大波が凍てつく石の波止場に打ち寄せ、緑色の泡の飛沫となって飛び散るさまをじっと眺めた。「なあに、いったん防波堤の外に出てしまえば、どうってことはない」
「それでは明日の朝出発することにしよう」ベルガラスが決断を下した。「二十人ばかりが乗りこむことになるが、それだけの場所があるかね」
「それは何とかしよう。だが今回は馬を乗せるのは願い下げにしたいな。この前は船倉をきれいにするのに一週間もかかっちまった」
「今回は一頭だけだ」ベルガラスが答えた。「ガリオンにやけになついてる子馬がおってな。まあそいつだけならどうってこともないだろう。何か必要なものはあるか」
「酒を一杯もらえるとありがたいんだがな」グレルディクはものほしそうに答えた。
次の朝、センダリアの王妃はひどいヒステリー状態におちいった。リヴァへ向かう一行に自分も同行するのだと知ったとたん、ライラ王妃はほとんど半狂乱になった。フルラク王のぽってりした妻はいかに穏やかな天候のもとであろうと、船旅に非常な恐怖を抱いており、船を見たとたんぶるぶる震えだすありさまだった。ポルガラから同行を告げられたライラ王妃はその場にへなへなとくずおれた。
「だいじょうぶ、何ともないわよ」ポルガラは興奮する王妃を少しでもなだめようと、何度も同じ言葉をくり返さなければならなかった。「わたしがずっとついてて何も起こらないようにするから」
「わたしたちみんな、ねずみみたいに溺れ死ぬんだわ」ライラ王妃は激しい恐怖に泣き叫びながら言った。「ああ、わたしの子供たちはみなし子になってしまうんだわ」
「もういいかげんにおよしなさい!」ポルガラがたしなめた。
「きっと海の怪獣に全員食べられてしまうわ」王妃は沈んだ顔でつけ加えた。「恐ろしい歯で骨までばりばりとかみ砕かれるのよ」
「〈風の海〉には怪獣なんていやしないわ、ライラ」ポルガラはしんぼう強く言った。「わたしたちは行くのよ。とにかく〈エラスタイド〉までにリヴァに着かなくてはならないの」
「あの人たちにわたしは病気で行けないって――死にそうだって言ってくれないこと」ライラ王妃はなおも嘆願した。「もしそれが聞きいれられたら、わたし死んでもいいわ。本当よ、ポルガラ。今すぐこの場で死んでみせるわ。お願いだからあの恐ろしい船に乗るのだけはやめさせてちょうだい」
「まったく何てお馬鹿さんなの」ポルガラは厳しい声でたしなめた。「あなたはそうするしかないのよ――いいえ、わたしたちだって同じことだわ。あなたとフルラク王とセリネとブレンディグはわたしたちと一緒にリヴァに行かなければならない運命なのよ。すべてはわたしたちが生まれるはるか前に決められていたことなんですからね。さあ、もういいかげんに馬鹿なまねはやめて支度するのよ」
「いやよ!」王妃はすすり泣いて椅子に身を投げ出した。
ポルガラはあわれみに満ちた共感をこめて半狂乱の王妃を見つめたが、声にはそんな痕跡はみじんも残っていなかった。「ライラ、起きなさい!」彼女は鋭い声で命じた。「立ちあがってさっさと荷づくりをなさい。あなたはリヴァへ行くのよ。たとえあなたを引きずってマストに縛りつけてでも連れていきますからね」
「やめて! そんなこと」ライラ王妃は激しくあえいだ。まるでバケツ一杯の冷水につけられたように、彼女のヒステリーはおさまった。「お願いだからそんなひどいことはしないでちょうだい、ポルガラ」
「さあ、どうしようかしらね」ポルガラは言った。「とりあえずは今すぐに旅の支度をした方がいいと思うわ」
王妃は弱々しく立ち上がった。「わたしきっとひどい船酔いにかかるわ」
「それであなたの気がおさまるのなら、どうぞご自由に」ポルガラはにこやかにそう言うと、ぽってりした小さな王妃のほおをやさしくなでた。
[#改ページ]
10[#「10」は縦中横]
センダーからリヴァまでは船で二日間の行程だった。船はつぎをあてた帆にななめ後方からの風を受けて全速力で疾走し、激しくぶつかる波の飛沫はふれるものすべてを凍りつかせた。船倉はこみあっていたので、ガリオンは風と水夫の足をよけながら、ほとんどの時間を上甲板で過ごした。かれはようやく風のあたらない船首に避難所をみいだし、へさきに背をもたせかけ、マントをかたく体に巻きつけながらもの思いにふけった。船は大波を受けて上下左右に激しく揺れ動き、しばしば黒い巨大な波にまっこうからぶつかっては、あらゆる方向に飛沫をはね散らした。海は泡だつ白波にまみれ、空は重苦しい濁った灰色をしていた。
ガリオンの心もまた空と同じように陰うつだった。この十五ヵ月にわたるかれの生活はほとんど〈珠〉の行方を追うことに費やされてきたので、先のことなどまったく気にかけているひまはなかったのである。だがそれも終わりに近づいた今、かれは〈珠〉が無事〈リヴァ王の広間〉に戻された後のことを考えはじめていた。もはや仲間たちといっしょにいる理由もなくなるのだ。バラクはヴァル・アローンへ帰るだろう。シルクはまたあらたな冒険を求めてどこかへ旅立つことだろう。ヘターとマンドラレンとレルグは故郷に戻り、セ・ネドラ王女でさえ〈リヴァ王の広間〉で拝謁の儀式を終えたあとはトル・ホネスへ呼び戻されることだろう。かれらの冒険はここで終わり、再び元の世界へ戻っていくのだ。いつの日か再び会うことを固く誓いあい、その約束を忘れることは一生ないだろう。だがいったん別れたら、もう二度と全員そろって集まれはしないことをガリオンは知っていた。
またかれは自分自身の人生の行方についても思いめぐらしていた。ファルドー農園への再訪は、開かれていたかもしれない過去への扉を永遠にとざしてしまった。それまで断片的に得た知識は、かれがしばしば自分自身で決断を下せない立場にあることを教えていた。
(これから先ぼくがどうなるか教えてくれる気なんかないんだろうね)かれは満足な答が得られないことをわかっていながら、もう一人の自分自身にたずねた。
(まだそれには早過ぎる)かれの内なる乾いた声が答えた。
(だが、明日にはリヴァに着いてしまうんだよ。〈珠〉をしかるべき場所に戻したら冒険はすべて終わるんだ。今なら少しぐらい教えてくれたって不都合はないだろう?)
(おまえの楽しみをわざわざそぐようなことはしたくない)
(ときどきぼくをわざといらだたせるために何もかも秘密にしてるんじゃないかと思うときがあるよ)
(それはなかなかおもしろい考えかただな)
対話はそこでぶつりととぎれてしまった。
うっすらと氷に覆われたグレルディクの船が、要塞都市リヴァめざしてジグザグと針路を変えながら入港したのは〈エラスタイド〉前日の昼ごろだった。港は〈風の島〉の東岸にあり、波から頑丈に護られていた。海につき出た突堤の風雨にさらされた石積みが、船の停泊所とリヴァの街を保護していた。ひと目見たとたん、ガリオンにはそれが要塞都市だということがわかった。波止場の背後には巨大なぶ厚い壁がはりめぐらされ、両側に細長く続く、雪に覆われた海岸もまた都市への進入を断たれていた。海辺にはにわかづくりの建物や、背の低い色とりどりの天幕が都市外壁に面して軒をつらね、雪になかば埋もれかかっていた。ガリオンは狭苦しい居留地でうすら寒い風のなかをせわしなく動きまわる、トルネドラや少数のドラスニアの商人たちの姿を見たような気がした。
街は急斜面にそって鋭角にそびえるように建てられていた。横一列にずらりと並ぶ灰色の石造りの家に次の一列が覆いかぶさるように並び、えんえんと頂上まで続いていた。港に面した窓はみな小さく、家の高いところに作られていた。ガリオンにはその戦略的な利点がすぐに理解できた。この段丘状の都市は、いわば次々に連続するバリアのようなものなのだ。これでは外壁の門を破っても、何の意味もないわけだ。段丘のひとつひとつが都市の外壁と同じぐらい、難攻不落なのである。街の一番上にはそれらを見おろすようにして最後の要塞がたっていたが、その胸壁や塔も寒々しいリヴァの街と同じように、灰色一色にいろどられていた。要塞の上には青と白のリヴァの旗が傲然とひるがえり、冬の空を疾走する暗い灰色の雲を背景にくっきりと浮かびあがって見えた。
都市の門の前には毛皮に身を包んだチェレク王アンヘグ、灰色のマントをまとった〈リヴァの番人〉ブランドらの姿があった。グレルディクの水夫たちは波止場に向かって、すばやく船を漕ぎ寄せた。二人のかたわらに立っているのは、赤みがかった金髪をふさふさと緑色のマントの肩まで垂らしたワイルダンターのレルドリンだった。アストゥリアの若者は顔に満面の笑みを浮かべていた。ガリオンは信じられない思いで友人を見やった。が、次の瞬間喜びの声をあげて船の手すりを飛び越え、石の波止場にむかって駆け出していた。二人はかたい抱擁をかわし、笑いながら互いの肩を拳骨でたたきあった。
「本当にもう大丈夫なのかい」ガリオンはたずねた。「もう完全に傷はなおったんだろうね」
「これまでになく健康さ」レルドリンは安心させるように笑った。
ガリオンは疑わしげに友人の顔をのぞきこんだ。「きみは出血多量で死にそうなときだって同じことを言うんだからな」
「いや、今度こそ本当だ」アストゥリアの若者は言った。「オルトレイン男爵の妹さんがアルグロスの毒をひる[#「ひる」に傍点]で吸い出し、湿布と苦い飲み薬とでぼくの体をなおしてくれたんだ。じっさい彼女はすばらしい人だ」娘の話題になったとたんかれの目はいきいきと輝いた。
「きみは何でリヴァにいるんだ」ガリオンがたずねた。
「先週、レディ・ポルガラの伝言を受け取ったんだ」レルドリンは言った。「ぼくはそのときはまだオルトレイン男爵の城にいたんだけれどね」かれはいささかきまり悪げに咳ばらいした。
「まあ何だかんだあって出発がのびていたんだ。そうしたら、できるだけ早くリヴァへ来いという伝言だろ。だからぼくもすぐに出発したんだ。むろん伝言のことは知ってるだろう?」
「いや、初耳だ」ガリオンはシラー王妃やライラ王妃とともに船をおりるポルおばさんを見やった。
「ローダーはどこにいるんだ」チョ・ハグがアンヘグ王にたずねていた。
「〈要塞〉に居座っているよ」アンヘグ王は肩をすくめながら答えた。「あの太鼓腹で波止場への階段の登りおりはちときついからな」
「かれはどうしてる?」フルラク王がたずねた。
「少しばかり体重が減ったようだな」アンヘグは答えた。「父親になる日が近いことがかれの食欲に影響を及ぼしているとみえる」
「いつお生まれになるのかしら」ライラ王妃が好奇心もあらわにたずねた。
「そこまでは知らん」チェレクの王は彼女に言った。「知ってのとおり、わたしはそういったことまで覚えていられんのでな。おかげでポレンはボクトールに残らねばならなかったのさ。もはや旅のできる体ではないからな。だがイスレナは来ておるぞ」
「ガリオン、ちょっと二人だけで話がしたいんだが」レルドリンが落着かなげに言った。
「いいよ」かれは上陸でにぎわう雪の波止場から少し離れた場所に友人を連れていった。
「ガリオン、ぼくはレディ・ポルガラに怒られるようなことをやらかしてしまったんだ」レルドリンは小声で打ち明けた。
「何で怒られるんだい」ガリオンはけげんな顔でたずねた。
「実は――」と言いかけてレルドリンはためらった。「その何というかいろいろなことがうまくいかなくってね」
「そのいろいろなことというのは具体的に何なんだ」
「ぼくはオルトレイン男爵の城にいた」レルドリンが話しはじめた。
「それはさっき聞いたよ」
「アリアナ――いや、レディ・アリアナはかれの妹なんだ」
「きみを元の体にもどしてくれた金髪のミンブレイトの女性だな」
「覚えていてくれたのかい」レルドリンはひどく嬉しそうだった。「なあ彼女がどんなに美しかったか、きみだって覚えているだろ? 彼女が――」
「レルドリン、話が少し脱線しているようだが」ガリオンはたしなめるように言った。「ぼくらはきみが何でポルおばさんを怒らせるのかについて話していたはずだよ」
「だから今から言おうとしてるのさ。その、ひとことで言うと、アリアナとぼくは――何というか、とても親密な友人になったんだ」
「なるほどね」
「むろんぼくらは世間に顔向けできなくなるようなことはやってないよ」レルドリンはあわてて言った。「ただぼくら二人の友情というのは、その、お互いに離れていたくないような性質のものなんだ」アストゥリアの若者はガリオンにわからせようと必死だった。「離れたくないというよりは、離れられないというべきかもしれない。じっさいアリアナは、もし彼女を捨てるようなことがあったら死んでしまうと言ってるしね」
「ちょっと大げさに言ってみただけだろう」ガリオンは言った。
「だが、そんな危険をおかすわけにはいかないだろ?」レルドリンが抗議した。「女性というのは、われわれ男どもよりもはるかに精神的にもろいからね。まあ、アリアナは医者だから死ぬときは自分でわかるかもしれないが」
「たしかにね」ガリオンはため息をついた。「さあ、早く先を続けろよ。もう何を言われても驚きゃしないから」
「ぼくだって最初から害意があったわけじゃないんだ」レルドリンは悲しげに言った。
「むろん、そうだとも」
「とにかくアリアナとぼくはある晩おそく、城を脱けだしたんだ。つり橋のところに夜警がいるのはわかっていたから、やつを傷つけないためにぼくは頭をなぐった」
ガリオンは目をぱちくりさせた。
「夜警は何としてでもぼくらの行く手をはばむだろうが、人を殺したりするようなことになると困ると思ったから、いきなり頭をなぐったのさ」
「それなら話はわかるよ」ガリオンは疑わしそうに言った。
「アリアナは絶対に死んじゃいないから大丈夫だって言うんだが」
「死んだ?」
「どうも少しばかり強くなぐりつけたらしいんだ」
波止場に着いた人々はブランドやアンヘグ王のあとに従って、街の上方にむかう雪に覆われた急な階段を登りはじめるところだった。
「それでポルおばさんに怒られるかもしれないのか」ガリオンはレルドリンとともに一行のしんがりにつきながら言った。
「いや、実はそれだけじゃないんだよ、ガリオン」若者は言葉を続けた。「まだ他にもちょっとしたことがあるんだ」
「たとえばどんなことだい」
「その、連中が少しばかりぼくたちを追いかけてきたので、やつらの馬を何頭か殺さなきゃならなかった」
「なるほど」
「むろんぼくは人を狙わず、やつらの馬に向かって射かけたんだ。オルトレイン男爵の足があぶみ[#「あぶみ」に傍点]から抜けなかったからといってぼくの責任じゃないだろ?」
「怪我はどの程度だったんだい」ガリオンはほとんどさじを投げかけていた。
「たいしたことないよ――たぶん、大丈夫だと思う。せいぜい足を折った程度だ――前にマンドラレン卿が馬から振り落としたときと同じところを」
「それで」ガリオンは先をうながした。
「なのにあの司祭のせいでまたやってしまったんだ」
「何の司祭だ」
「チャルダンの小さな教会の司祭さ。やつはアリアナが彼女の両親の承諾書を持ってないからと言って、われわれを結婚させようとしなかったんだ。ずいぶん失敬な男だったな」
「今度は何をこわしたんだ」
「そいつの歯を二、三本。だけど相手が結婚式をすることを承知したときは、なぐるのをやめたんだよ」
「それで結婚したというのか。おめでとう、さぞかし幸せなことだろうね――きみたちが監獄行きを逃れたらの話だが」
レルドリンは怒ったように居ずまいをただした。「結婚といっても、単なる名前だけのものにしか過ぎない。だからといってこの機につけこむようなことはしないぞ。きみだってそこのところはよくわかっているはずだ、ガリオン。もし駆け落ち同然のままうろついていたら、アリアナの名誉に傷がつくと思ったんだ。この結婚は体裁をつくろうためだけのものなんだよ」
アレンディアにおけるレルドリンの悪戦苦闘を聞きながら、ガリオンはリヴァの街をめずらしそうに見まわしていた。雪に覆われた通りは明暗に欠け、単調な感じがした。家々は一様に高く、灰色一色にぬられていた。わずかに〈エラスタイド〉を祝うための大枝や輪飾りや明るい色の旗などの装飾が、陰うつな街の色彩にいろどりを与えていた。だが家々からは何ともいえない香ばしい匂いが漂っていた。それぞれの台所では〈エラスタイド〉のごちそうが、リヴァの女たちの監視のもとにぐつぐつ煮え、あるいは火であぶられていた。
「じゃあ、それで終わりなんだな」ガリオンは言った。「きみはオルトレイン男爵の妹を奪い、かれの許しなく結婚した上に相手の足を折り、その家来とチャルダンの祭司に傷を負わせた。これで間違いなく全部なんだね」
「いや――実はそれだけじゃないんだ」レルドリンはつらそうに言った。
「まだあるのか」
「トラシンにまで怪我をさせるつもりはなかったんだが」
「きみのいとこの?」
レルドリンは憂うつそうにうなずいた。「アリアナとぼくは、とりあえずレルディゲン伯父のもとに身を寄せることにしたんだ。だがトラシンのやつが彼女にけちをつけはじめた。何といってもアリアナはきっすいのミンブレイトだし、やつときたら偏見のかたまりだからな。ぼくはきわめて丁重に抗議した――自分ではそのつもりだったんだが、トラシンを階段の下まで殴り倒した後は、やつは決闘するといって聞かなかった」
「かれを殺したのかい」ガリオンはショックを受けたような声で聞いた。
「むろん殺しゃしないよ。ただやつの足を刺し貫いてやっただけさ――それもほんのちょっぴりね」
「足を刺してちょっぴりも何もあったもんじゃないよ、レルドリン」ガリオンは思わず怒りを含んだ声を出した。
「ぼくのこと見損なっただろう? そうなんだな、ガリオン」アストゥリアの若者は今にも泣きださんばかりだった。
ガリオンは目を上に向けてどうしようもない、といったしぐさをした。「違うよ、レルドリン。決してきみを見損なったわけじゃない。ただ、何というか――少しばかり驚いてるだけだ。ほかに覚えていることはないのかい。言い忘れたことなんてないだろうね」
「噂によればアレンディアで、ぼくはおたずね者のようなことになってるらしい」
「おたずね者のようなことというのは?」
「王はぼくの首に賞金をかけたんだ――少なくともぼくはそう聞いている」
ガリオンは力なく笑った。
「おい、本当の親友というのは友の不幸を笑ったりしないもんだぞ」若者は傷ついたような表情を浮かべてこぼした。
「それだけのもめごとをたった一週間で引き起こしたのかい」
「だが何ひとつぼくのせいで起こったわけじゃないぞ。ただ事態が手におえなくなってしまっただけだ。それでもレディ・ポルガラがこれを聞いたら怒るだろうな?」
「ぼくから話してみるよ」ガリオンは血の気の多い友人を安心させるように言った。「おばさんとマンドラレンからコロダリン王に頼んで、きみの首にかかっている賞金だけは取り消してもらえるようにしよう」
「きみとマンドラレン卿の二人だけで、マーゴ人のナチャクと手下どもを一人残らず、ボー・ミンブルの謁見の間で倒したというのは本当かい」レルドリンはだしぬけにたずねた。
「どうも事実とはだいぶ違った話が伝わってるらしいね」ガリオンが答えて言った。「ぼくがナチャクを告発して、マンドラレンがぼくの話が本当だということを証明するために戦いを挑んだだけのことだよ。ナチャクの手下がマンドラレンに襲いかかりそうになったところに、バラクとヘターが首尾よく駆けつけたというわけなんだ。だから、じっさいにナチャクを倒したのはヘターなんだよ。むろんぼくらはきみとトラシンの名前が出てこないようにしておいたけれどね」
「きみこそ真の親友だよ、ガリオン」
「ここに来てるだと?」バラクの声がした。「いったいここへ何しに来たんだ」
「わたしやイスレナと一緒に来たのだ」アンヘグ王がこたえた。
「彼女は――」
アンヘグ王はさらに言葉を続けた。「きみの息子もいっしょだよ――むろん娘たちも」
「息子はどんなようすですか」バラクはせきこむようにたずねた。
「でっかい赤毛の獣のような男の子だよ」アンヘグは笑いながら言った。「おまけに空腹になると、一マイル四方に聞こえそうな声で泣きわめくのさ」
バラクはしまりのない顔でにやにや笑うばかりだった。
階段を登りきり、大広間の前の狭い控え室にさしかかったところで、おそろいの緑色のマントを着てばら色のほおをした少女が二人、そわそわと一行の到着を待っていた。赤みがかった金髪をみつ編みにした少女たちはエランドよりもわずかに年上のようだった。「おとうさま!」小さい方の少女が金切り声をあげてバラクに駆けよってきた。大男は少女を抱き上げると音をたててキスをした。一、二歳年上らしいもう一人の少女はいくらか威厳のようなものを漂わせて近づいていったが、あっと言う間に父親の腕にさし上げられた。
「おれの娘たちだ」バラクは残りの者たちにむかって言った。「こちらがグンドレッド」かれは赤いあご髭に姉妹を押しつけるようにして言った。少女は父親のちくちくする髭の感触にくすくす笑った。「こっちのおちびさんはテルジーだ」かれは妹娘に愛情のこもったまなざしを送った。
「あたしたちにちっちゃな弟が生まれたのよ、おとうさま」年上の娘はしかつめらしい顔で言った。
「ほほう、そいつはすばらしい」バラクはせいいっぱい驚いたふりをしてみせた。
「おとうさまったらもう知ってたのね!」グンドレッドが非難するような声を出した。「あたしたちが一番はじめに教えるはずだったのに」
「弟の名前はウンラクというのよ。おとうさまとおんなじ真っ赤な髪の毛をしているわ」テルジーが言った。「でもまだお髭がないの」
「今に生えるから大丈夫だよ」バラクは娘を安心させるように言った。
「ものすごくおっきな声で泣くの」グンドレッドが報告した。「それに歯が一本もないの」
そのときリヴァの〈要塞〉の巨大な扉が勢いよく開き、赤いマントをまとったイスレナ王妃が、愛らしい金髪のアレンド人の娘とバラクの妻メレルを引きつれて姿をあらわした。メレルは全身緑色の衣服をまとい、腕に毛布でくるまれた包みを抱いていた。彼女の顔は誇らしさにあふれていた。
「わが夫にしてトレルハイム伯爵たるバラク卿よ」彼女は固苦しく儀式ばった口調で言った。
「わたくしは無事お役目を果たしました」メレルは毛布でくるまれたものをさし出した。「どうかトレルハイムの後継ぎたるあなたさまの息子をごらん下さいませ」
バラクは何ともいえない不思議な表情を浮かべて、娘を床におろした。かれは妻のもとに近づくと、毛布にくるまれた包みを受け取った。大男は無骨な指をぶるぶる震わせながら、初めての息子の顔を見るために毛布をそっとめくった。ガリオンの方からは赤ん坊の髪しか見えなかったが、それが父親とそっくり同じ赤色だということだけはわかった。
「ウンラク、トレルハイムの後継ぎにしてわが息子よ」バラクはがらがら声で赤ん坊に話しかけた。そしてかがみこむと手の中の小さな息子にキスをした。髭のちくちくする感触に赤ん坊はくっくっと笑い声をたてた。かれは小さな二本の手をのばして父親の髭をつかむと、子犬のように頭をすり寄せた。
「こいつはなかなかの腕力の持ち主だぞ」赤ん坊に髭をひっぱられて顔をしかめながら、バラクはかたわらの妻に話しかけた。
メレルの瞳に驚いたような色が浮かんだが、あいかわらず顔は無表情のままだった。
「そしてこれがおれの息子のウンラクだ」バラクは皆に見えるように赤ん坊を高々とさし上げながら言った。「まだ断定するには早すぎるかもしれんが、こいつは将来見込みがあるぞ」
バラクの妻は誇らしげにきっと身をそらした。「わが殿よ、わたくしは妻たる義務を十分果たしましたのね」
「おまえは期待以上の大仕事をしてくれたのだ、メレル」大男は片腕に赤ん坊を抱えたまま、空いた手で妻を抱きよせると情熱的なキスをした。彼女の瞳にますます驚いたような表情が浮かんだ。
「さあ、いい加減で中へ入ろうではないか」獰猛な顔をしたアンヘグ王が言った。「いつまでもここにいるには寒すぎるし、わたしは涙もろい人間なのでな。涙で髭が凍ってはかなわん」
アレンド人の娘はレルドリンのかたわらにやってくると、ともに〈要塞〉の中へ入った。
「そしてこちらがアリアナだ」レルドリンが満面に熱愛の表情を浮かべて紹介した。
ほんの一瞬ではあるが、ガリオンはこの無鉄砲な友人の前途に希望を見たような気がした。レディ・アリアナはきゃしゃな体つきのしっかりした感じの娘で、長年医学の勉強にたずさわってきたことが顔にある種の落着きを与えていた。だがレルドリンにむける彼女のまなざしを見たとたん、ガリオンの希望は潰え去った。二人のかわす視線には理性のかけらすら感じられず、ガリオンは内心身震いした。アリアナは若者が次から次へと災難にまっしぐらに突き進んでいくのを見ても制止するどころか、声援を送って励ますことだろう。
「主人はあなたさまが来る日をそれは楽しみにしておりましたのよ」一行のあとから広い石廊下を進みながら、娘はガリオンに話しかけた。主人≠ニいう言葉に対するかすかな強調は、レルドリンがいくらかれらの結婚を名前だけのものと主張しようと、彼女はそう思ってはいないことを雄弁に物語っていた。
「ぼくたちはいい友だちなんだ」ガリオンは二人のかわす視線の熱烈さに目のやり場を失って、あたりを見まわした。「ここが〈リヴァ王の広間〉なのかい?」
「一般にはそう呼ばれておりますわ」アリアナが答えた。「でもリヴァの人々はもっと特定の場所をさしておられるようです。建物の中をご案内下さった〈リヴァの番人〉ブランド卿の一番年若いご子息のお話では、ここは要塞と呼ぶのだそうです。本当の〈リヴァ王の広間〉とは玉座のある部屋そのものをさすのだそうですわ」
「なるほど、よくわかりました」彼女がレルドリンへ熱烈なまなざしをむけたとたん、あらゆる知性の光が瞳から消えていくのを見るに忍びず、ガリオンはあわてて顔をそむけた。
低い梁をはりめぐらした広大な食堂では、おなじみの赤い長衣をまとったドラスニアのローダー王が食卓に座って一行を待っていた。洞穴のような暖炉では火がぱちぱちと音をたてて燃え、幾千というろうそくが暖かい黄金色の光を部屋に投げかけていた。ローダー王は食事の食べ残しを前に長大なテーブルの一方にどっしりと座りこんでいた。かれの王冠は無造作に椅子の背にかけられ、まん丸い赤ら顔は汗でてらてら光っていた。「やっと来たか」王はうなるように言うと、かれらを出迎えるために重たいよたよたした足取りで近づいてきた。かれは愛情をこめてポルガラを抱きしめ、シラー王妃とライラ王妃に接吻し、チョ・ハグ王とフルラク王の手を握った。「いや、まったく長い年月だったな」そう言ってから王はベルガラスの方を向いた。「まったく何だってこんなに時間がかかったんだね」
「われわれは長い道のりを旅して来なければならなかったのだ」老魔術師はマントを脱ぎ捨て、巨大なアーチを描く暖炉に向かって後ずさりながら言った。「ここからラク・クトルまで一週間やそこらで行けないことはおまえさんだってよく知っとるはずだ」
「聞いた話によれば、ついにクトゥーチクと決着をつけたそうだな」
「あの再会はなかなかの見ものでしたよ」シルクが冗談めかして言った。
「その場に立ちあえなかったのは、かえすがえすも残念だな」ローダー王は目にあからさまな賛美を浮かべてセ・ネドラ王女とアダーラをしげしげと見つめた。「そこのお嬢さんがた」かれは少女たちにむかってていねいに身をかがめながら言った。「もし誰かが紹介してくれれば、この上ない喜びをもってお二人に王者のキスをさしあげたいのだが」
「もしそのお嬢さんがたにキスしているところをポレン王妃が見たら、たちまちきみの腹わたを切り裂くだろうよ」アンヘグ王はいささか無遠慮な笑い声をあげた。
ポルおばさんが娘たちを紹介するあいだ、ガリオンは一行から少し離れて、レルドリンが一週間あまりで引き起こした大混乱について思いめぐらしていた。すべての紛糾を直すだけでも何ヵ月もかかる上、もう二度とそれが起こらないという保証はないのだ――特に若者が血気にはやって何かをやらすことがないという保証は。
「あなたのお友だちはどうかしたの」気がついてみるとセ・ネドラ王女がガリオンの袖を引っぱっていた。
「どういうことだい」
「あなたのお友だちはいつもあんなふうなの」
「レルドリンは――」と言いかけてガリオンはためらった。「かれはものごとに熱中しやすい性格なんだ。だからときとして、考えるより前に口走ったり、行動したりすることがあるんだよ」友人に対する忠誠心からガリオンはあまりレルドリンの悪口を言いたくなかった。
「ガリオン」セ・ネドラはかれの心を見すかすような視線を送った。「わたしにはアレンド人がどういう人たちかよくわかっているし、かれはこれまで会ったなかでももっともアレンド人そのものの人間だわ。あまりにもアレンド人すぎて、ほとんど馬鹿みたいよ」
ガリオンは急いで友人の弁護にまわった。「あいつはそんなにひどくはないよ」
「そうかしら。じゃあレディ・アリアナはどう? あの人は美人で、腕のたつお医者さまだわ――それなのに、およそひとかけらの理性も残っちゃいないのよ」
「二人は愛しあってるんだ」ガリオンはあたかもそのひとことですべてが片づくような口ぶりで言った。
「それがいったい何の関係があるのよ」
「愛というものは人を変えてしまうのさ」ガリオンは説明した。「理性的な判断とかそういったものに穴をあけてしまうんだ」
「たいしたご意見ですこと」セ・ネドラが言った。「先を聞かせてちょうだい」
ガリオンは自分自身のことですっかり頭がいっぱいだったので、彼女の声がとがってきた兆候に気づかなかった。「恋におちたとたん、あらゆる知性は頭の中から漏れだしてしまうらしい」かれは憂うつな声で続けた。
「あなたの表現ってずいぶん個性的なのね」セ・ネドラが言った。
ガリオンはまたしても警告を見落としてしまった。「恋というのは一種の病気のようなものだからね」
「ガリオン、いいことを教えてあげましょうか」王女の声は落着きはらい、ほとんどそっけなくさえあった。「あなたを見てるとときどき本当に腹がたつわ」そう言うなり彼女はくるりと向きを変えて、あっけにとられて口をあんぐり開けたままのガリオンを残して立ち去った。
「ぼくがいったい何をしたっていうんだ」かれは追いかけるように呼びかけたが、王女に黙殺された。
一同が晩餐を終えたのち、ローダー王はベルガラスの方をむいて言った。「いつになったら〈珠〉を見ることができるのかね」
「明日だ」老人はきっぱりと言った。「明日正午、〈リヴァ王の広間〉のしかるべき場所に戻してからだ」
「だがわれわれとても以前に〈珠〉を見ておるのだぞ」アンヘグ王は非難するように言った。
「なぜ今見てはいけないのだ」
ベルガラスはかたくなに頭を振った。「それにはちゃんとした理由があるのだ、アンヘグ」老人は続けた。「あしたになればおまえさんは実に驚くべき体験をすることになる。その楽しみを今から台無しにしたくはないのでな」
「ダーニク、その子を止めてちょうだい」椅子から滑りおりたエランドがテーブルごしにローダー王に近づいていくのを見たポルおばさんが叫んだ。子供は腰にくくりつけた革袋のひもをまさぐっていた。
「こらこら、だめだ」ダーニクは少年を捕まえて、抱きあげながら言った。
「まあ、何てかわいらしい子供でしょう」イスレナ王妃が言った。「いったいどこの子なの」
「こやつが〈珠〉盗人なのさ」ベルガラスが答えた。「ゼダーがどこかから拾ってきて、完全に無垢のまま育てたのだ。今のところこの世で〈珠〉にふれることができるのは、かれ一人らしい」
「その革袋の中に入ってるのか」アンヘグ王がたずねた。
ベルガラスはうなずいた。「まったくおかげで道中ひやひやしどおしだったぞ。こいつは出会う人間すべてに〈珠〉を渡そうとするのだ。もし何かさし出されても受け取らない方が賢明だな」
「とんでもない、そんなこと思ってみたこともないよ」アンヘグは言った。
いつものように関心がよそにうつったとたん、エランドはすっかり〈珠〉のことを忘れてしまった。少年の視線はバラクの腕の中にいる赤ん坊にむけられた。ダーニクが床におろしてやると、少年は赤ん坊のもとに近づき、じっと顔をのぞきこんだ。幼い者たちのあいだに何かが生まれ、ウンラクも少年をじっと見返した。エランドがバラクの腕の中の赤ん坊に優しくキスすると、ウンラクは小さな手で少年の指を握りしめた。グンドレッドとテルジーがかれらを取り囲み、群がる子供たちの上からバラクの巨大な顔だけがにょっこり突き出していた。ガリオンはかたわらの妻を見やる大男の友人の目に涙が光るのを見た。メレルが夫に返した視線は驚くほど愛情に満ちていた。そしてガリオンはかれが覚えているかぎり初めて、彼女が夫にほほ笑みかけるのを見た。
[#改ページ]
11[#「11」は縦中横]
その夜突如、北西方向からまき起こった強大な嵐は、うなり声をあげて〈風の島〉の堅牢な岩に襲いかかった。海岸には巨大な波が叩きつけ、大きな音をたてて砕け散った。突風が金切り声をあげて〈鉄拳〉の〈要塞〉の古びた胸壁の間を通りすぎていった。さかまく嵐のたび重なる壁への攻撃のために、さしもの砦の頑強な石積みも揺れ動くかに思えた。
ガリオンはたびたび眠りを中断された。吠えたて、金切り声をあげながら吹きつのる風の音や、ぴったり閉められた鎧戸に叩きつけるみぞれの音、突発的なすきま風にあおられる鍵のかかってない扉の音などがかれの眠りをさまたげた。だがその間の押しつぶされるような静寂の瞬間はさらに耐えがたかった。かれの眠りは不思議な夢にかき乱された。何かきわめて重要な説明のできない儀式がやがて行なわれることになっており、そのためにいろいろな準備をしなければならないということはわかっていた。だがそれをどうやればいいのかまったくわからなかったし、かれのやり方があっているのかどうかを教えてくれる人もいないのだ。全員ひどく急いでいるらしく、ひとつのことが終わったかどうか確かめる前にかれは次のことへと駆りたてられた。
おまけに嵐までが騒ぎに加わっているらしかった。まるで吠えたてる敵が騒音や突風や大波を使って、ひとつの仕事をなしとげるのに必要な完璧な集中力を妨げようとしているかのようだった。
「用意はいいわね?」いつの間にかポルおばさんがいて、柄の長いやかんを兜のようにかれにかぶせ、鍋ぶたの楯と木の棒でできた剣を手渡した。
「ぼくはこれから何をすればいいんだ」かれはたずねた。
「あなたにはわかっているはずよ」と彼女は答えた。「さあ、急いで。もう時間がないわ」
「でもポルおばさん、ぼくには何のことだか――」
「わかっているはずだと言ったでしょ。さあ時間をむだにしないでちょうだい」
まったくわけがわからなかったが、同時に何もかもわかっているような気がしてガリオンはあたりを見まわした。さして離れていないところに、ランドリグがおなじみの間の抜けた表情を浮かべて突っ立っていた。かれもまた頭にやかんをかぶり、鍋ぶたの楯と、木の棒の剣をたずさえていた。あきらかにガリオンとランドリグとで何かを行なうことになっているらしかった。ガリオンが友人にむかってほほ笑むと、相手もにやにや笑いを返した。
「それでいいのよ」ポルおばさんが励ますように言った。「さあ、かれを殺しなさい。急ぐのよ、ガリオン。夕食までには終わらせなければならないわ」
かれは驚いておばさんを振り返った。ランドリグを殺せだって? だが顔を戻すと相手はもはやランドリグではなかった。やかんの下からのぞく顔は見るもおぞましい崩れた顔だった。
「だめだ、だめだ」バラクがいらだたしげな顔で言った。「そんなふうに握るのではない。両手でしっかり握りしめて、相手の胸元をねらうんだ。剣の先はなるべく下に向け、相手が攻撃をかけてきたとき、牙で槍をはじき飛ばされないようにするんだ。さあ、もう一度やってみろ。今度はしそんじるんじゃないぞ。急ぐんだ、ガリオン。一日中こんなことをやってるわけにはいかないんだぞ」大男が死んだイノシシをつま先でつつくと、イノシシは再び起き上がって雪を前足でかき始めた。「用意はいいか」
突然ガリオンは奇怪な色のない平原にいた。かれのまわりをぐるりと彫像が囲んでいた。だがよく見るとそれは彫像ではなくて人影だった。アンヘグ王――もしくはそれらしき人影がいた。コロダリン王、イスレナ王妃、ジャーヴィク伯、それにボー・ミンブルのマーゴ大使ナチャクの姿もあった。
(さあ、おまえはどの駒を動かすのだ)内なる乾いた声が聞いた。
(ぼくはルールを知らないんだ)ガリオンは抗議した。
(そんなことはどうでもいい。ともかくおまえは動かねばならん。おまえの番だからな)
ガリオンが振り向くと、人影のひとつがかれに向かって突進してくるところだった。修道士のような頭巾の下から光る目は狂気に飛び出ていた。思わずガリオンは攻撃をかわそうと、片手をあげていた。
(それがおまえの動きなのか)乾いた声はたずねた。
(わからない)
(今さら変えてももう遅いぞ。おまえはすでにかれにさわってしまったのだ。今からただちに自分自身で行動を決めねばならん)
(それがルールなのか)
(それが然るべきやり方なのだ。さあ用意はいいか)
そのとたん、肥沃な黒土と樫の古木が燃える匂いがした。「おまえもいいかげん口を慎むことを覚えたらどうだ、ポルガラ」マーゴ人のアシャラクが柔和な微笑を浮かべて、ポルおばさんのほおをぴしゃりと打った。
(さあ、またおまえの動く番だ)乾いた声が言った。(おまえは一回だけ動くことができる)(どうしてもやらなければならないんだな。他に何か方法はないんだね)
(残念ながらないのだ。さあ、急げ)
ガリオンは深い後悔のため息とともに腕を伸ばすと、アシャラクにむかって掌から火を放った。
突風がかれらの部屋のドアを勢いよく開けた。バタンという大きな音にガリオンとレルドリンは仰天してベッドの上に起き上がった。
「ぼくが行って掛け金をかけ直してくるよ」レルドリンは上掛けをはねのけると、冷たい石の床を踏みしめるようにして歩いていった。
「いったい、いつになったら吹きやむんだ」ガリオンは不機嫌な声で言った。「こんなにうるさくちゃ、ろくに眠れやしない」
レルドリンはドアを閉めなおすと暗闇のなかで何かをがさごそ探しているようだった。やがてカチリと石をこする音とともに火花が飛び散った。火花はすぐに消え、レルドリンは再度火打石をすった。今度はうまく火がついた。アストゥリアの若者が息を吹きかけると火はさらに明るくなり、やがて小さな炎になった。
「今何時ごろなんだろう」ガリオンは友人がろうそくをつけるのを見ながら言った。
「夜明け少し前だと思うよ」レルドリンが答えた。
ガリオンは不満げなうめき声をもらした。「まるで夜が十年以上も続いているような気分だよ」
「じゃあ少しばかり話をしようじゃないか」レルドリンが言った。「この嵐だって夜明けまでにはおさまるさ」
「暗闇のなかでじっと横たわって、物音がするたびに飛び上がっているよりはましかもしれないな」ガリオンはベッドの上に起き上がると、毛布を肩のところまで巻きつけた。
「ぼくたち二人が最後におたがいを見たときから、ずいぶんいろいろなことがあったみたいだね」再びベッドに上がりながらレルドリンがたずねた。
「たしかにいろんなことが起こったよ」ガリオンは言った。「でも全部が全部いいことだったわけじゃない」
「でもきみは本当に変わったね」
「変わらざるをえなかったんだ。それはずいぶんな違いだよ。ほとんどはぼくの意志とはまったく関係ないところで行なわれたのさ。そう言うきみだって変わったじゃないか」
「ぼくが?」レルドリンは悲しげに笑った。「ぼくはちっとも変わっちゃいないよ。この一週間に引き起こした騒ぎだって、まったく変わってない証拠じゃないか」
「そう言われてみればそんな気もするけれど」ガリオンは言った。「おかしいのは、今回の一連のできごとの裏には、何かひねくれた論理が働いてるとしか思えないことなんだ。きみがやったことには何ひとつ気違いじみたところはない。それなのにこれを一連のできごととして眺めてみると、とたんに大破壊の様相を呈してくるんだ」
レルドリンはため息をついた。「そしてぼくとアリアナは、一生追放されたまま終わる運命なんだ」
「それは何とかなると思うよ」ガリオンは安心させるように言った。「きみのおじさんは許してくれるだろうし、トラシンだって同じさ。かれはきみが好きなんだから、そういつまでも怒ってやしないさ。むろんオルトレイン男爵の機嫌はちょっとやそっとじゃ直らないだろうが、何といってもアレンド人のミンブレイト騎士だ。すべて愛のためにしたこととわかれば、許してくれるよ。だけどまず傷がなおるのを待たなきゃだめだろうね。これが今回のきみの犯した最大のへまだよ。足を折らせたりしなければよかったのに」
「今度はちゃんとやってみせるよ」レルドリンはあわてて言った。
「今度だって?」
二人はいっせいに声をあげて笑い、荒れ狂う外の嵐にかき乱されたすきま風がろうそくの光を揺らめかすなかで夢中で話しあった。やがて一時間ばかりもたつと、荒れ狂う嵐も峠をこし、二人のまぶたは再び重くなった。
「また寝なおそうじゃないか」ガリオンが提案した。
「じゃあ、ぼくがろうそくを消すよ」レルドリンはベッドからおりて、テーブルに向かった。「いいかい」かれはガリオンにたずねた。
ガリオンはただちに眠りに落ちた。そのとたん、かれの耳元でしゅうしゅうという音がして、乾いた冷たいものがふれた。「用意はできたこと?」ささやく声に起き上がり、寝ぼけまなこで声のする方をふり返ったガリオンはそこにサルミスラ女王の顔を見た。女王の頭は蛇とも人間のものともつかない体の上を行ったり来たりしていた。
するとガリオンはきらきら瞬く神の岩屋の丸天井の下にいた。かれの手はいつのまにか、死の沈黙のうちに前足をたかだかと掲げて凍りついている子馬の赤茶色の背にさわっていた。
「用意はいいか」ベルガラスが静かにたずねた。
「うん、大丈夫だ」
「よし、それではおまえの〈意志〉を集中して動かしてみろ」
「これじゃあ重すぎるよ」
「持ち上げなくともいい。ただ押すのだ。おまえがちゃんとやりさえすれば動き出すぞ。さあ、早くするんだ。われわれにはまだたくさんやることがあるのだ」
ガリオンは〈意志〉を集中した。
かれはいとこのアダーラとともに丘のふもとに座っていた。かれの手には枯れた小枝とひと握りの枯れ草があった。
(用意はいいか)かれの内なる声が言った。
(こんなことをして何の意味があるんだ)ガリオンは内なる声にたずねた。(こんなことが本当に重要なのかい)
(それはおまえがいかにうまくやってのけるかによる)
(あんまりいい答とは思えないな)
(質問がよくなかったのだ。さあ、用意ができたらこの小枝を花に変えてみろ)
ガリオンは批判的な目で作品を見つめていた。(あんまりいい花じゃなかったね)かれは弁解するように言った。
(だが必要なのだ)
(もう一回やらせてほしい)
(この花をどうするつもりだ)
(ただこうやって――)ガリオンはそう言いながら、今作ったばかりのでき損ないの花を消そうと腕を上げた。
(それが禁じられているのはおまえだって知っているはずだが)
(でも作ることはできたんだ)
(それとこれとは関係ない。この世にあるものは一切消すことはできないのだ。この花でも十分役にたつだろう。さあ、来い。われわれは急ぐのだ)
(でもまだぼくには用意ができていない)
(それは困ったことだ。もはや一刻の猶予もないのだぞ)
そのとたん、ガリオンは目が覚めた。頭がひどくもうろうとしていた。睡眠は体を休めるどころか、かえって疲れをひどくしたようだった。レルドリンはまだぐっすり眠っていたので、ガリオンは暗闇のなかで自分の衣服を探しだし、身につけてからそっと部屋を後にした。奇怪な夢のなごりが〈鉄拳〉の〈要塞〉のうす暗い廊下をひとり歩くかれの心を苦しめた。かれはいまだにあののしかかるような緊迫感と、人々のかれに対する焦燥感のようなものを心の中に感じていた。吹きさらしの中庭の片すみに雪が吹きよせられ、露出した岩々が黒く凍りついているのが見えた。ちょうど夜明けがはじまったばかりで、中庭を囲む胸壁が走り去る雲を背景に、くっきりと浮かび上がっていた。
中庭の向こうがわには厩舎があった。中は暖かく、馬と干し草の匂いに満ちていた。ダーニクはすでにここで自分の天職を見いだしていた。かれは高貴な人々に囲まれてしばしば息苦しい思いをしていたので、馬たちといっしょにいた方が気が楽だった。「やあ、きみも眠れなかったのかい」鍛冶屋はガリオンが入ってくるのを見て呼びかけた。
ガリオンは肩をすくめてみせた。「なぜだかわからないけれど、眠るとかえって疲れてしまうんだ。まるで頭のなかにわらが詰まったような気分だよ」
「〈エラスタイド〉おめでとう、ガリオン」ダーニクがだしぬけに言った。
「ああ、本当にそうだ」今日が祝祭の日だという実感がガリオンの心に迫ってきた。「〈エラスタイド〉おめでとう、ダーニク」
後ろの方の厩舎で眠っていた子馬がガリオンの匂いを嗅ぎつけて、小さな声でいなないた。二人は子馬のいる裏手の厩舎へ行った。
「〈エラスタイド〉おめでとう、子馬くん」ガリオンはいたずらっけを起こしてよびかけた。子馬がかれに鼻を押しつけてきた。「もう嵐は完全におさまったのかい」ガリオンは子馬の耳をなでてやりながらたずねた。「それともまたくるだろうか」
「空気の匂いからすると、もう完全におさまったようだな」ダーニクが答えた。「だがこの島では空気の匂いが違うってこともありえるからな」
ガリオンはうなずき、子馬の首を軽くたたいてから出口に向かった。「そろそろポルおばさんを探しにいった方がよさそうだ」かれは言った。「おばさんはきのうの夜からぼくの今日着る服を点検しておきたいと言ってたんだ。もし逆におばさんがぼくを探すようなことになったら、絶対に後悔するはめになるだろうからね」
「きみも年をとってだいぶ賢くなったようだね」ダーニクはにやりと笑いながら言った。「もし用があったら、わたしはここにいると言ってくれ」
ガリオンは鍛冶屋の肩をぽんとたたくと、厩舎を出てポルおばさんを探した。
彼女は何人かの女性たちといっしょに、あきらかに昔から彼女のために用意されていたらしい一室にいた。アダーラとタイバ、ライラ王妃とミンブレイトの少女アリアナ、そして彼女たちの中心にセ・ネドラ王女がいた。
「まあ、ずいぶん早起きだこと」ポルおばさんはセ・ネドラのクリーム色のガウンに手を加えるために、忙しく針を動かしている最中だった。
「ちょっと眠れなくてね」ガリオンは驚嘆のおももちでセ・ネドラ王女を見つめながら言った。彼女はまったく別人のようだった。
「あんまりじろじろ見ないでちょうだい、ガリオン」王女は唇をとがらした。
セ・ネドラの燃えるような髪はすばらしく入念に結われていた。額とこめかみの髪は上げられ、より合わせた樫の葉をかたどった金冠でとめられていた。入り組んだみつ編みが頭の後ろでらせん状に巻きつけられ、さらに残った赤銅色の髪がふんわりと小さな肩を覆っていた。
「どう、気に入って?」王女はガリオンにたずねた。
「何だかいつもとずいぶん違って見えるね」
「そんなことわかってるわよ」王女はつんとして言った。彼女はふり向くと鏡にうつった姿を入念に点検した。「やっぱりこのみつ編みは気にいらないわ、レディ・ポルガラ」王女はいらだたしげな声を出した。「トルネドラの女性はこんなふうに髪をみつ編みにしたりしないわ。これじゃまるでアローン人みたいよ」
「そんなことなくてよ、セ・ネドラ」アダーラが小さな声で言った。
「アダーラ、あなただって知ってるでしょう――胸ばかり大きくて、金髪をみつ編みにして、乳しぼり女みたいな顔をしてる娘たちのことを言ってるのよ」
「準備にしちゃ早すぎるんじゃないのかい」ガリオンが言った。「昼になるまで〈珠〉を広間へは持っていかないとおじいさんが言ってたはずだけど」
「それほど遠い先のことじゃないでしょ、ガリオン」ポルおばさんは糸をかみ切ると、後ろにさがってセ・ネドラのガウンを子細にながめた。「どうかしらね、ライラ」
「まあ、まるでお姫さまみたいよ」ライラ王妃が感激したような声で言った。
「彼女はほんもののお姫さまなんですからね、ライラ」ポルおばさんはガリオンの方を向いて言った。「朝ごはんを食べて、誰かに浴場まで案内してもらいなさい。お風呂に入ったら、髭をそった方がよさそうだわ。間違えて自分の肌まで切ってしまわないようにね。せっかくのいっちょうらを血で汚してほしくないから」
「あんなものを着なくちゃいけないのかい」
彼女は即座に、これまで何回となくかれの質問に答えるときに見せた、あの視線を投げかけてきた。
「じゃあシルクを探してみるよ」かれはあわてて言った。「かれなら浴場がどこにあるか知ってるだろうから」
「そうなさい」彼女はきっぱりした口調で言った。「くれぐれも途中で迷子にならないでちょうだい。いざというときにはちゃんと準備ができてるようにしてほしいのよ」
ガリオンはうなずいて、部屋を出た。彼女の最後の言葉があの奇怪な夢を思い起こさせた。かれはしきりにいぶかりながらシルクを探しに出かけた。
小男は建物の西翼にあるたいまつに照らされた大きな部屋で、仲間たちとともにゆったりくつろいでいた。王たちをはじめとしてブランドやベルガラス、それにガリオンの仲間たちも一堂に会していた。かれらはビスケットと香料入りの暖めたワインで朝食をとっている最中だった。
「いったいどこへ行ってたんだい」レルドリンが言った。「朝起きてみたらもういないんだからな」
「あれから全然眠れなかったんだよ」ガリオンは弁解するように言った。
「だったらぼくも起こしてくれればいいのに」
「ぼくが眠れないで悶々としてるからといって、きみまでつきあうことはないだろう」他の男たちはすっかり討論に夢中だったので、ガリオンはそっと座ってシルクと話す機会を待っていた。
「思うにおれたちはこの何ヵ月かで、相当タウル・ウルガスの機嫌を損ねたらしいぞ」今しゃべっているのはバラクだった。大男は背の高い椅子にだらしなくもたれかかっていた。その顔は背後のたいまつの光の影に隠れてよく見えなかった。「まずレルグがやつの鼻先からシルクをかっさらってきただろ。次にベルガラスが〈珠〉を奪う途中でラク・クトルをばらばらに分解しちまうし、おれたちを追ってきたらチョ・ハグ王とヘターに軍勢の大部分をみな殺しにされちまうし。マーゴ王にとっちゃさんざんな年だったな」たいまつの影から大男の低い含み笑いが聞こえてきた。一瞬、ほんのつかの間だったが、ガリオンは椅子の上にだらしなくもたれかかっている別のものを見たように思った。ゆらめく光と躍る影のいたずらで、いっときバラクのいる場所に大きな毛むくじゃらの熊が座っているように見えたのだ。だがもう一度よく見てみると、そこにはやはりバラクがいるだけだった。ガリオンは目をごしごしこすって、朝からずっとかれを悩ませている、ぼんやりとした妄想を何とか追いはらおうとした。
「レルグが岩を通ってケルダー王子を助けた話がどうもよく飲みこめないのだがね」フルラク王が顔をしかめながら聞いた。「かれは穴かなにかを掘っていったのかね」
「フルラク王よ、こればかりは見てもらわねばわからないだろう」ベルガラスは狂信者に命じた。「レルグ、あれをやってみろ」
ウルゴ人はしばし老人の顔を見つめていたが、やがて巨大な窓の横の石の壁にむかって歩いていった。シルクは即座に後ろをむくと身震いした。「わたしはいまだにあれを見るのが耐えられないんだ」小男はガリオンの方をむいて言った。
「ポルおばさんがきみに浴場の場所を教えてもらうようにと言ってるんだ」ガリオンは小声で言った。「からだをよく洗って、髭をそってこいってさ。その後はいっちょうらを着てこいというんだ」
「それならわたしもいっしょに行くよ」シルクが申し出た。「思うにみんな絶対にレルグの実演に感心して、次はわたしにどうだったかと聞いてくるに決まってるんだ。ところでやつは今何をしてる?」
「石の壁に手を入れて、窓の外で指をひらひらさせているよ」
シルクはちらりとふり返ると再び身を震わせ、あわてて目をそむけた。「まったく血も凍るような思いだよ」かれは嫌悪をこめて言った。「さあ、さっさと風呂へ行こうぜ」
「ぼくもいっしょに行くよ」とレルドリンが言い、三人はこっそり部屋を抜け出した。
浴場は〈要塞〉の西翼の洞窟のような地下室にあった。岩の底からは暖かい温泉がわき出し、タイル張りの部屋をもうもうたる湯気とかすかな硫黄の臭いで満たしていた。浴室はわずかなたいまつの光で照らされ、一人しかいない係員は黙ってかれらにタオルを渡すと、湯温を調節する弁を動かすために出ていった。
「この大浴槽は端へいけばいくほど温度が高くなっているんだ」シルクは服を脱ぎながらガリオンとレルドリンに説明した。「がまんできなくなるまで、熱い方へ移動していく方がおもしろいというやつもいるが、わたしは好みの温度のところでじっと浸かってる方がいいね」かれはしぶきをあげながら湯の中に入った。
「本当にここにいるのはぼくたちだけなんだろうね」ガリオンが落着かなげに言った。「つまりぼくたちが入ってる間に、ご婦人たちが大挙してやってくるなんてことにはならないだろうね」
「ご婦人がたの浴室はまた別にあるんだ」シルクが言った。「リヴァ人はそういったことにはきわめて厳格だからな。まだトルネドラ人ほど進んじゃいないのさ」
「本当にこんな真冬に風呂に入ってかぜをひいたりしないだろうね」レルドリンは湯気をたてる水面を疑わしげにのぞきこみながら言った。
ガリオンはお湯の中に飛びこむと、すぐに縁近くのなまぬるい場所から奥の熱い場所へと移動した。お湯をかきわけて進むうちに湯気はますますもうもうとたちこめ、壁の輪に二個ずつ固定されたたいまつは、赤みがかった暗い光にしか見えなくなった。かれらの話し声や湯音がタイル張りの壁にはねかえり、まるで洞窟の中のように反響した。湯気はゆらゆらと渦を巻いてたちのぼり、突然ガリオンはもうもうたる蒸気のなかで友人と切り離されてしまったことに気づいた。熱い湯がかれの体をゆったりとくつろがせた。ガリオンはこのまま体を浮かべて、なかばぼうっとしながら、すべての記憶を――過去も未来もひっくるめてお湯の上に出しきってしまいたいような気分になった。かれは夢見ごこちで体を浮かべていたが、突然自分でもわからないまま、湯気をたてる黒い湯の中に体を沈めた。どれほど長いあいだ目をつぶり、あらゆる感覚を停止させたまま湯の中に沈んでいたのかガリオンにはわからなかった。だが再び顔が浮きでたとたん、かれは髪から肩にかけて湯気のたつ湯を滴らせて一気に立ちあがった。今の浸礼でかれの心は不思議なほどすっきりしていた。次の瞬間、ちぎれ雲の間から太陽が顔を出した。格子のはまった窓ごしにひと筋の陽光がさしこみ、ガリオンの上に降りそそいだ。光は湯気に乱反射して、乳白色の炎をはなって今にも燃えたつかに見えた。
(ベルガリオン万歳)内なる声が語りかけた。(わが心の底より〈エラスタイド〉の祝福を送る)そこにはいつものからかうような口調は跡かたもなく、ひどく意味ありげな厳粛さがこめられていた。
(ありがとう)ガリオンもまたおごそかに答えた。それ以上どちらも口をきかなかった。
ガリオンが浴槽のぬるい場所へ移動すると、水面からもうもうとたちのぼる湯気がかれの体を包んだ。シルクとレルドリンは首までお湯につかって、小声で何やら話しあっていた。
正午まであと三十分になったところで、ガリオンはポルおばさんに呼ばれ、長い石の廊下を足早に急いでいた。かれは〈リヴァ王の広間〉に通じる、彫刻をほどこした巨大なドアの前の部屋で止まった。いっちょうらの胴衣とタイツを身につけ、革製の半長靴はぴかぴかに光るまで磨かれていた。ポルおばさんは深い青色のローブをまとい、同じ色の頭巾をかぶって腰をベルトでとめていた。ベルガラスのローブもやはり同じ青色だったが、しみや汚れがひとつもないのを見るのはこれが初めてだった。老人の顔はひどくいかめしく、ポルおばさんと話すときのいつものようなふざけ半分の口調はみじんも残ってはいなかった。狭い部屋のすみに白い麻の服を着せられたエランドが、おなじみのきまじめな表情を浮かべてちょこんと座っていた。
「まあ、ガリオン。見違えるようだわ」ポルおばさんは手をのばして、額にたれたかれの砂色の髪をかき上げながら言った。
「まだ中へ入らないのかい」ガリオンはたずねた。すでに灰色の衣をまとったリヴァ人や、もっと派手な衣をまとったよその国の来賓が、次々と〈リヴァ王の広間〉に入っていくところだった。
「そのときが来たら、わたしたちも入るわ」ポルおばさんはベルガラスを振り返った。「あとどれぐらいかしら」
「十五分かそこいらだろう」
「もうすべて用意はできたかしら?」
「それはガリオンに聞いてくれ」老人は答えた。「わしはできるかぎりのことをした。あとはやつ自身の問題だ」
ガリオンをふり返ったポルおばさんの目には真剣な色が浮かんでいた。白いひと房の巻毛が黒い髪のなかでひときわ輝きだすように見えた。「ガリオン、用意はいいわね」
ガリオンは驚いた顔で彼女を見た。「きのうの夜変な夢を見たんだ。みんながぼくにそっくり同じ質問をするんだよ。いったいこれはどういう意味なんだい。何の用意ができたというんだ」
「もう少しすればわかる」ベルガラスが言った。「おまえの護符を出せ。今日は服の外にかけておくんだ」
「でもこれは人目にふれさせちゃいけないはずだよ」
「今日は特別の日なのさ」老人は言った。「じつのところを言えば、今日は生をうけてから幾世紀にもなろうというこのわしでさえ、めったに経験したことのないような日になるのだ」
「〈エラスタイド〉だからかい」
「まあ、それもあるがな」ベルガラスはガウンの下から自分の護符を取り出して、ちらりと一瞥をくれた。「だいぶすり切れているようだ」老人は笑った。「もっともわし自身もかなりすり切れちまったがな」
ポルおばさんも自分の護符を取り出した。彼女とベルガラスはともに手をのばし、ガリオンの手に重ねた。
「ずいぶんと長い道のりだったな、ポルよ」
「ええ、おとうさん」
「後悔はしてないかね」
「むろんよ、老いぼれ狼」
「それでは行こうか」
つられてガリオンもドアに向かいかけた。
「あなたはまだよ、ガリオン」ポルおばさんが言った。「ここでエランドといっしょに待っていてちょうだい。あなたが入るのはもう少し後になるわ」
「誰か呼びにきてくれるのかい」ガリオンはたずねた。「でなきゃ、どうやってぼくの出番だとわかるんだい」
「大丈夫、おまえにはわかるはずだ」とベルガラスは言って、二人は立ち去った。あとにはガリオンとエランドだけが残された。
「ちゃんとした説明になってなかったと思わないかい」ガリオンは小さな少年にたずねた。
「へまをしなければいいんだけれどな」
エランドは自信ありげににっこり笑うと、小さな手をのばしてガリオンのそれにふれた。かれの手がふれたとたん、ガリオンの頭のなかで〈珠〉の歌がわき起こり、あらゆる心配や懸念を吸い取ってしまった。子供の手を握り、歌に耳を傾けたままどれくらいその場に立ちつくしていたのかかれにはわからなかった。
(ついにそのときが来たぞ、ベルガリオン)乾いた声はもはや心のうちからではなく、外から響いてくるようだった。エランドの顔に浮かんだ表情はかれもまた同じ声を聞いたことを物語っていた。
(ぼくがやらねばならないことというのはこれなのか)
(その一部だな)
(みんなは向こうで何をしているんだろう)ガリオンは好奇心に駆られてたずねた。
(人々は〈リヴァ王の広間〉に集まり、これから起こることを待ちうけているのだ)
(もうみんな用意はできているんだろうな)
(おまえはどうなのだ)ひとときの間を置いて声は続けた。(用意はできたか、ベルガリオン)
(うん)ガリオンは答えた。(たとえそれが何であろうと、ぼくには用意ができている)
(それでは行こうか)
(ぼくがどうすればいいか教えてくれるかい)
(必要なときにはな)
エランドの手を引いたままガリオンはドアに向かって歩き出した。かれが一方の手を差しあげるとドアはふれもしないのに前にぱっと開いた。
廊下の向こう側の彫刻をほどこした巨大なドアの前には二人の衛兵が立っていたが、ガリオンとエランドが近づいていくのを見ても微動だにしなかった。再びガリオンが手を上げると、〈リヴァ王の広間〉へ通じるドアはかれに答えるかのように静かに開いた。
ドアの向こう、〈リヴァ王の広間〉はアーチ型天井を持つ広大な謁見の間だった。凝った彫刻をほどこした重たげな控え壁が天井の梁を支えていた。壁のいたるところに飾り旗や緑色の枝飾りをつけた花綱が垂れ下がり、固定された燭台には幾千ものろうそくが灯されていた。床には間をおいて大きな穴が三つ開けられ、なかで火が燃えていた。燃料には薪のかわりに泥炭が使われ、芳香と心地よい熱を発散していた。広間は人々であふれんばかりだったが、ドアから玉座にむかって青いじゅうたんの道がのびていた。だがガリオンは人々の顔をろくに見てはいなかった。いまやかれの心をすっかり独占した〈珠〉の歌の前にすべての思考は停止していた。あらゆる恐怖の念や自意識から解きはなたれたガリオンは、ほとんど夢見心地でエランドの手をひいたまま歩いていった。正面には玉座の両側に控えるベルガラスとポルガラの姿があった。
リヴァ王の玉座は一枚の玄武岩を彫って作られたものだった。背もたれとひじ掛けは同じ高さでつながり、その壮大さは山よりも揺るぎないものに見えた。ぴったりと壁につけられた玉座の背には切っ先を下にした巨大な剣がかかっていた。
要塞のどこかで鳴り始めた鐘の音が〈珠〉の歌と唱和するなかを、ガリオンとエランドは王の広間の入口から玉座に通じるじゅうたんの道を歩いていった。かれらが進むたびに両側の壁のろうそくは次々に点ほどの炎になっていった。風はそよとも吹かず、炎も揺らめかないのにろうそくは一本また一本暗くなり、しだいに広間は深い影に閉ざされていった。
玉座の前に立った二人を、謎めいた表情を浮かべたベルガラスはおごそかな目で迎えたが、やがて〈リヴァ王の広間〉を埋める観衆の方を向いた。「さあ、〈アルダーの珠〉を見るがいい」老人は厳粛な声で言った。
するとエランドはガリオンの手を離して、小袋のひもをほどいて中に手を入れた。そして暗い広間に顔をむけたかれは、灰色の丸い石を取り出すと両手で持ちあげて、観衆の前にひろうした。
〈珠〉の歌はいまや最高潮に達していた。同時にどこからともなくわき起こった大きな振動音が、それに加わった。子供のかたわらに立ち、観衆の方を向いたガリオンのなかで音はますます大きく高くなり、どこまでもふくれあがっていくようだった。するとエランドの掲げた灰色の石に強烈な青い光が瞬いた。光が明るくなるにつれ、内なる音はいっそう高まっていった。ガリオンの前にはおなじみの顔が並んでいた。バラクをはじめとしてレルドリン、ヘター、ダーニク、シルク、それにマンドラレンがいた。貴賓席でアダーラとアリアナを後ろに従え、トルネドラ大使の横に座っているのはまこうことなきセ・ネドラだった。こうして見る彼女は頭のてっぺんからつま先まで完璧なお姫さまだった。だがよく目をこらしてみると、見慣れた顔に重なる別の顔があった。それらの幻影はあまりにも圧倒的な存在感があり、まるで仮面のように見えた。バラクと重なっているのは〈恐ろしい熊〉、ヘターのそれは〈馬の首長〉だった。シルクの上には〈案内人〉、レルグの上には〈盲目の男〉の顔があった。レルドリンは〈弓師〉、マンドラレンは〈護衛の騎士〉だった。タイバの上に漂っているのは〈絶えた種族の母〉で、その悲嘆はマラ神の悲しみのようでもあった。そしてセ・ネドラはもはや王女ではなく、かつてクトゥーチクが口にした〈世界の女王〉そのものに見えた。もっとも不思議なのはダーニクだった。賢明な善人の顔の上にもうひとつの同じ顔が重なっていたのである。〈珠〉の発する焼きつくさんばかりの強烈な青い光と、ますます大きくなる不思議な振動音の中で、ガリオンは驚嘆する思いで仲間たちの顔を見渡した。ベルガラスとポルおばさんには見えていたものを今初めて自分も見ているのだという認識がかれを打った。
ガリオンは背後でポルおばさんが話す声を聞いた。彼女の声は穏やかで落着いていた。「あなたの務めは終わったのよ。かれに〈珠〉を渡しなさい」
少年は喜びの声を上げ、ガリオンに向かって〈珠〉をさし出した。ガリオンはぼう然と〈珠〉を眺めるばかりだった。かれには受け取ることはできない。〈珠〉にふれることはそのまま死を意味するのである。
(汝の手を伸ばすがよい、ベルガリオン。子供のさし出す王家の財産を受け取るのだ)それはなじみの声のようにも、またまったく聞き覚えのない声のようでもあった。だがいったんこの声に命じられたらさからうことは許されないのだ。ガリオンの手はそれとは知らぬうちに前へのびていた。
「使命《エランド》!」子供は声高らかに叫ぶと、さしのべられたガリオンの手の上にしっかりと〈珠〉を置いた。手のしるしにそれがふれたとたん、何ともいえないうねるような感覚が生じた。この〈珠〉は生きているのだ! かれはむき出しの手の上で燃える青い火をぼう然と見つめながら、そこに脈打つ生命を感じ取っていた。
(〈珠〉をリヴァ王の剣のつか[#「つか」に傍点]頭に戻すのだ)ガリオンは考えることなく即座に〈珠〉の声に従い、体の向きを変えた。かれは玄武岩の玉座に上がると、背もたれとひじ掛けの縁の上に登った。ガリオンは背を伸ばして巨大な剣のつか[#「つか」に傍点]で体を支えながら、そのつか[#「つか」に傍点]頭の上に玉を置いた。〈珠〉と剣がひとつとなったカチリというかすかな音が聞こえた。そのとたんガリオンは片手に握ったつか[#「つか」に傍点]を通して、〈珠〉の生ける力がおりていくのをはっきりと感じた。広大な刃はしだいに輝きはじめ、不思議な振動音はさらに一オクターブ高くなった。突然巨大な剣が何世紀にもわたって付着していた壁から離れはじめた。居あわせた人々はいっせいに息をのんだ。剣が離れるのを見たガリオンは、体を半分ひねるようにしてつか[#「つか」に傍点]を両手で握りしめ、広大な刃を落とすまいとした。
かれがバランスを崩しかけたのは、ほとんど剣が重さを感じさせなかったからである。巨大な剣は持ちあげることはおろか、持っていることすら不可能に見えた。だが両足を踏んばり、背中を壁に押しつけるようにして体を支えると、剣の切っ先はたやすく持ち上がった。かれは広大な刃を目の前にまっすぐたてた。ガリオンはつか[#「つか」に傍点]を握りしめる手に不思議な律動を感じながら、驚嘆のおももちで剣を眺めていた。青い光は燃えあがらんばかりに輝き、どくどくと脈打ちはじめた。いまや振動音は歓喜の声となって最高潮に達しようとしていた。次の瞬間、リヴァ王の剣は青い炎に包まれた。ガリオンは燃える剣をさらに頭上高くかかげ、息をのんでじっと見つめた。
「全アロリアよ祝福せよ!」ベルガラスの声は雷鳴のように轟いた。「リヴァの王が帰ってきたぞ! 万歳、ベルガリオン! リヴァの王にして〈西の支配者〉よ」
それに続く喧噪と、世界の一方の端からもう一方の端まで届きそうな、何万という歓喜の声のさなかに、ガリオンははっきりと別の音を聞いていた。それはまるで暗闇に閉ざされた墓の錆びた扉が突然開いたような、陰うつな金属音だった。その陰惨な響きはガリオンの心を恐怖で凍りつかせた。開けられた墓からうつろな声が起こった。それは全世界の歓喜の声には決して唱和しようとしなかった。何世紀にもわたる眠りを破られた声の主は怒りとともに目覚め、血を求めて咆哮をあげた。
驚きのあまり考えることすらできずに、ガリオンは頭上高く燃える剣を掲げ続けていた。金属のかすかにふれ合う音とともに、アローン人たちはいっせいにかれらの剣を抜き、新王に敬礼の意をあらわした。
「万歳、ベルガリオン。わが主君よ」〈リヴァの番人〉ブランドは朗々たる声で叫ぶと、剣を一方の手に掲げたまま片ひざをついた。背後に控える四人の息子たちも同様に片ひざをついて剣を掲げた。「万歳ベルガリオン、リヴァの王よ!」かれらはいっせいに唱和した。
「ベルガリオン万歳!」歓喜の声が〈リヴァ王の広間〉を揺さぶらんばかりに轟いた。林立する無数の剣が、ガリオンの手中にある青い炎を発して燃える剣の光を受けていっせいにきらめいた。砦のどこからか鐘の音が響きはじめた。またたく間によき知らせは静かな街をかけめぐり、あちらこちらからもあらたな鐘の音が起こった。その歓喜の響きは岩山にあたってはね返り、凍てついた海にリヴァ王の帰還を告げた。
だが〈リヴァ王の広間〉でたった一人だけ歓呼に加わらない人物がいた。炎を吹く剣がいやおうなしにガリオンの正体を暴露したとたん、王女セ・ネドラは立ち上がった。その顔は死人のように青ざめ、瞳はろうばいで大きく開かれていた。彼女は突然ガリオンを避けねばならない理由に思いあたったのである。あまりに心かき乱された王女は血の気が失せた顔で突然立ちあがり、絶望感に打ちひしがれたまなざしをじっとガリオンに向けた。だしぬけにセ・ネドラ王女の唇から怒りと抗議の叫び声がもれた。
垂木も揺るがさんばかりの声で彼女は泣き叫んだ。「こんなの絶対にいやよ!」
[#改ページ]
12[#「12」は縦中横]
何といっても一番困るのは、行きあう人々がみなかれにお辞儀することだった。ガリオンにはまったくどうしていいかわからなかった。自分もお辞儀をかえした方がいいのだろうか。それともわかったというしるしにうなずいてみせればいいのか。さもなければまったくそ知らぬふりをしていた方がいいのだろうか。だが相手に陛下≠ニいわれたときにはどうすればいいのだろう。
昨日のできごとはまだ混沌とした記憶のかなたにかすんでいた。かれは〈要塞〉の胸壁から群衆の歓呼にこたえた。この期に及んでもほとんど重さを感じさせない巨大な剣は、あいかわらずかれの手のなかで燃え続けていた。たしかにそれは途方もないことには違いなかったが、そういった表面的なことがらは、日常的な生活面での大変化に比べれば問題にならなかった。リヴァ王の帰還の瞬間に向けて膨大な力を一気に集中しなければならなかったため、はじめて自分の正体を知った目くるめくような体験のなかで見聞したできごとが、いまだにガリオンの頭をすっかりぼうっとさせていたのだ。
次から次へと届けられる祝賀の言葉も、戴冠式に備えてのもろもろの用意も、かれの頭のなかでぼうっとかすんでいた。間違いなくかれ自身の生活だというのに、一日のできごとを筋道たてて論理的に説明することすらできなかった。
そして今日は恐らく昨日よりもひどい一日になりそうな気配だった。かれはほとんど眠れなかったのだ。かれが昨晩案内された宮廷の巨大なベッドはひどく寝心地が悪かった。四隅からがっしりした四本の柱がそびえたつ天蓋つきのそれは、紫色のビロードのカーテンが引かれ、あまりにも広く柔らかすぎた。というのもここ一年あまり、かれはほとんど地面に野宿する生活を送ってきたので、羽根ぶとんのマットレスの敷かれた王のベッドはあまりにふわふわしすぎていたのである。それにベッドから一歩でようものなら、人々の関心の的になってしまうことはわかりきっていた。
どうやらこのままベッドの中にいた方が楽そうだ、とガリオンはひとりごちた。考えれば考えるほどそれは最善の方策のように思えた。だがかれの寝室には鍵がかけられていなかった。日の出からまもなくしてぱっとドアが開き、誰かが入ってくる音がした。けげんに思ったガリオンは、ベッドを囲む紫色のカーテンごしにこっそり外をうかがった。いかめしい顔つきをした召使いが忙しげに窓のカーテンを引き、暖炉に火を起こしていた。だがガリオンの関心はすぐにその上に置かれた蓋つきの銀製の盆の上にうつった。かれの鼻はソーセージと焼きたての暖かいパン、そして盆のなかからぷんぷん芳香を漂わせるバターなどの匂いをすばやく嗅ぎとった。とたんにかれの胃が猛然と自己主張を始めた。
召使いは準備万端ととのったことを確認するかのようにあたりを見まわすと、今度はしかつめらしくベッドに近づいてきた。ガリオンは慌てて上掛けの中にもぐりこんだ。
「陛下、朝食の用意が整いました」召使いはおごそかな声で言うと、四方のカーテンを次々に引いて柱にくくりつけ始めた。
ガリオンはため息をついた。ここではベッドに入ってることすら意のままにならないのだ。
「わかった、ありがとう」ガリオンは答えた。
「他に何かお望みのものはございますか、陛下」召使いは気づかわしげな声でたずねながら、ガリオンにローブを着せかけようと待ちかまえていた。
「ああ、いや、今すぐには別にないよ、ありがとう」ガリオンはベッドから抜け出すと、じゅうたんの敷きつめられた台座の階段を三歩おりた。召使いはかれにローブを着せかけると、一礼して部屋を出ていった。ガリオンはテーブルの前に座ると盆の蓋をあけて、猛然と朝食をたいらげはじめた。
食事を終えると、かれは窓に面した青い革ばりのひじかけ椅子でしばしときを過ごした。窓の外には、街を見おろすようにして雪をかぶった岩山がそびえたっていた。まる一日、海辺に猛威をふるった嵐もすっかりおさまった――もしくは鳴りをひそめているように思えた。冬の太陽はさんさんと輝き、朝の空は青く澄みきっていた。若きリヴァ王は窓の外をじっと見つめたまま、もの思いにふけっていた。
何かが記憶の底に引っかかっていた――前にいったん聞いたまま忘れてしまっていた何かが。それはセ・ネドラ王女に関して、どうしてもかれが知っておかねばならないはずのことだった。昨日、燃え上がる剣があれほどまでに華々しくかれの正体をあきらかにしたとたん、彼女が逃げるように出ていったのもそれに関係があるに違いなかった。ガリオンはこれらがすべて関連しあったものだということを理解していた。かれが思い出そうとしていることは、昨日の彼女の振る舞いと関連する何かなのだ。人によってはすべての疑念が氷解するまでそっとしておいた方がいい場合もあるが、セ・ネドラに関しては賢いやり方とはいえなかった。彼女の場合は決して心にわだかまりを残してはいけないのだ。それはむしろ事態を悪くするばかりだろう。ガリオンはため息をつくと、着替えはじめた。
決然たる足どりで廊下を歩くかれを見て、人々はいちように驚いたような目をして、そそくさとお辞儀した。しばらく行くうちにかれは昨日のできごとが、人に知られない自由を永遠に奪ってしまったことを悟った。そればかりかガリオンの背後からも――一度たりとも顔を見せることはなかったが――何者かがぴったり尾行している気配があった。恐らくはこれも何らかの職務にたずさわる者なのだろう。男は常に一定の距離を保ち続けていたが、ガリオンはしばしば廊下の後方で音もなくついてくる灰色のマント姿を目にしていた。いかなる理由があろうと、こっそり後をつけられるのはいい気分のものではない。ガリオンは振りかえって、尾行にやめろ≠ニ言いたい衝動をじっとこらえていた。
セ・ネドラ王女はポルおばさんと廊下をへだてた向かい側の幾部屋かを割りあてられていた。ガリオンは意を決してドアをノックしようと手を上げた。
「陛下」仰天したセ・ネドラの侍女はあわててお辞儀をした。
「王女に話をしたいと伝えてくれないか」
「かしこまりました、陛下」少女はあわててとなりの部屋へ走った。
短い言葉のやりとりがあったかと思うと、すぐにセ・ネドラが姿をあらわした。彼女は簡素なガウンをまとい、顔色はきのうと同じように青ざめていた。「陛下」彼女は氷のような冷たい声で言ってからお辞儀をした。そのぎごちないかすかなお辞儀がすべてを物語っていた。
「何かあったのかい」ガリオンはいささかつっけんどんにたずねた。「もし悩んでることがあるんなら、ぼくに打ち明けてみないか」
「何事も陛下のみ心のままに」彼女は答えた。
「何だってこんなふうにいがみあわなくちゃいけないんだ」
「陛下が何をおっしゃっているのか、わたくしにはわかりませんわ」
「ぼくたちは腹の底をわって話しあえる仲じゃなかったのかい」
「むろんでございますとも。少しでも早く陛下の仰せに従うようにいたしますわ」
「それはいったいどういう意味だ」
「知ってるくせに、なによ!」ついにセ・ネドラのかんしゃくが爆発した。
「セ・ネドラ、ぼくにはきみの言ってることがさっぱりわからない」
彼女は疑い深げにじっとガリオンを見つめた。やがてその表情がいくらかやわらいだ。「たぶんあなたは本当に知らないのね」彼女はひとりごちた。「〈ボー・ミンブルの協定〉を読んだことないの?」
「半年前、読みかたを教えてくれたのはきみじゃないか。ぼくが読んだものなら全部知ってるはずだよ。きみが選んでくれたんだから」
「そういえば、そうだったわね」彼女は言った。「ちょっと待っていてちょうだい。すぐに戻ってきますから」王女は隣の部屋へ行ったかと思うと、羊皮紙の巻物を手にすぐ戻ってきた。
「わたしが読むわ。ちょっと難しい言葉があるから」
「ぼくはそれほど馬鹿じゃないよ」
だが彼女はすでに読みはじめていた。「――やがてリヴァ王が帰還したあかつきには、すべての統治と主権とを掌握することになろう。われわれはかれを〈西の大君主〉となし、忠誠を尽くすことを誓うものである。なお、かれはトルネドラの王女を妻として娶り――」
「ちょっと待ってくれ」ガリオンがのどを詰まらせるような声でさえぎった。
「どこかわからないことでもあって? わたしには一目瞭然だけれど」
「さっきの言葉の最後のところをもう一度読んでみてくれないか」
「なお、かれはトルネドラの王女を妻として娶り――」
「トルネドラにはきみの他に王女はいるのかい」
「わたしの知るかぎりではいないわ」
「ということはつまり――」かれはあ然として王女を見つめた。
「そうよ」彼女は鉄製の罠がかちりとはねたような口調で言った。
「だからきみはきのう広間から逃げ出したのか」
「逃げたりなんかしてないわ」
「じゃあ、ぼくと結婚するのが嫌だと言うんだな」思わず詰問するような声になった。
「そんなこと言ってないわ」
「じゃあ、ぼくと結婚してくれるかい」
「それもちがうわ――だけど、どっちだってたいして変わりゃしないわよね。わたしたちには選択する自由なんてないんだから」
「それで機嫌が悪かったのかい」
セ・ネドラは傲然と顔を上げた。「そんなことじゃないわ。いずれはわたしの夫が決められることはわかっていたんだから」
「じゃあ、いったい何が気に入らないんだ」
「いいこと、わたしは王女なのよ」
「そんなこと知ってるさ」
「わたしは誰かの下になるということには耐えられないの」
「下になるって、誰の?」
「〈ボー・ミンブルの協定〉ではあなたが〈西の大君主〉だということになってるわ」
「だからどうなんだ」
「つまり、あなたはわたしよりも位が高いということよ、陛下」
「そんなことで怒っていたのかい」
セ・ネドラはガリオンをにらみつけた。「陛下、もしよろしければわたしは失礼させていただきますわ」そう言うなり彼女は返事も待たずに部屋から退出した。
ガリオンは彼女の後ろ姿を眺めたまま立ちつくしていた。事態は思いもかけない方向に発展しようとしていた。かれはすぐにポルおばさんのところへ抗議に行こうとしたが、考えれば考えるほど、彼女には言ってもむだなような気がしてきた。これまでのこまごました断片が突然、はっきりしたかたちをとってあらわれたのだ。ポルおばさんはたぶん、セ・ネドラの馬鹿げた言い分にはくみしないだろう。彼女はガリオンをどうにも逃げ場のない立場まで追いこむために、その絶大な力を発揮してどんなことでもやってきたのだから。ガリオンには相談相手が必要だった。この難局を打開する方法を思いつける、悪知恵のはたらきそうな、あつかましい人物が。かれはセ・ネドラの部屋から出るとすぐにシルクを探した。
小男は部屋におらず、ベッドを直していた召使いは口ごもりながら、部屋の主の行方を知らないことをわび、ぺこぺこお辞儀するばかりだった。ガリオンはすぐにシルクの部屋を後にした。
さいわいバラクと妻子たちの居室がさして離れていない場所にあったので、ガリオンはそちらへ行くことにした。かれはなおも後をつけてくる灰色マントの男を、できるだけ振り返らないようにした。「バラク」ガリオンは巨大なチェレク人の居室のドアをたたいた。「ガリオンだよ、入ってもいいかい」
すぐにレディ・メレルがドアを開け、うやうやしくお辞儀した。
「お願いですから、それはやめて下さい」ガリオンは頼むように言った。
「どうかしたのかね、ガリオン」バラクは緑色の革をはった椅子に座って、赤ん坊をひざの上で飛びはねさせている最中だった。
「シルクを探してるんだ」ガリオンは衣服や子供のおもちゃで散らかった、居心地のよさそうな部屋に足を踏み入れた。
「何だか殺気だった顔をしてるな」大男は言った。「何かあったのか」
「ちょっと困ったことになったんだ」ガリオンは思わず身震いしながら言った。「どうしてもそのことでシルクと話がしたいんだ。かれなら何とか解決方法を見つけてくれると思う」
「もう朝食はおすみになりまして?」レディ・メレルがたずねた。
「もう食べました、ありがとう」ガリオンは答えながら、彼女のようすをさらによく観察した。彼女はいつものきつい感じを与えるみつ編みをやめて、美しい金髪をふわりと顔のまわりに垂らしていた。見慣れた緑色のガウンをまとっていたが、その立ちいふるまいには前のように堅苦しいところはなかった。バラクもまた妻の前にいるときの身構えているような感じをいくらか和らげているようだった。
バラクの二人の娘がエランドの手を両側から握りながら入ってきた。三人は部屋の片すみに座りこむと、手のこんだ小さなゲームを始めた。どうやらそれは子供たちにたくさんの笑いを呼び起こすようなたぐいのものらしかった。
「どうやら娘たちはかれを独占する気らしいな」バラクはにやにや笑いながら言った。「ある日突然気づいてみると、おれは妻や子供たちですっかり身動きが取れなくなってたってわけさ。だが不思議なことにそれがちっとも嫌じゃないんだな」
メレルがすばやく、ほとんど内気といってもいいほどのほほ笑みを送った。それから彼女は子供たちを振り返った。「娘たちはすっかりかれがお気に入りみたいですわ」彼女は視線をガリオンに戻しながら言った。「あの子の瞳をずっと見続けていられないことにお気がつかれまして? まるで心の奥底までのぞかれているような感じがしますわ」
ガリオンはうなずいた。「かれがまったく人を疑うことを知らないことに関係があるのかもしれませんね」そう言ってからかれはバラクを向いた。「シルクがいそうな心あたりはないかい」
バラクは笑った。「廊下を歩いていってサイコロの音に耳をすますのさ。あの小泥棒はここへ来てからずっとサイコロを振り続けているんだ。ダーニクなら知ってるだろう。やつは厩舎のどこかに隠れているよ。王族に囲まれていると落着かないんだとさ」
「ぼくだってそうだ」ガリオンは言った。
「でも、あなただって王族のお一人でいらっしゃるのよ」メレルが思い出させるように言った。
「それを言われるとますます落着かなくなりますよ」
厩舎へは裏廊下がいくつも通じていたので、ガリオンは立派な方の廊下で他の貴族たちと鉢合わせしないですむよう、あえてそちらを取ることにした。これらの狭い廊下は、もっぱら下働きたちが台所へ行き来するのに使われていた。下働きならばまだ顔を知られてはいないだろう、というのがかれの考えだった。だが顔が見えないように下をむいて狭い廊下を急ぐガリオンは、今朝自室を出たときから執ようにつけてくる灰色マントの男の姿がここでも見え隠れするのに気がついていた。ついに堪忍袋の緒を切らしたガリオンは身分がばれるのも構わず、尾行者と対決するためにさっと振り返った。「そこにいるのはわかってるんだぞ」かれは怒鳴った。「ぼくの見えるところまで出てこい」かれはいらだたしげに片足を踏み鳴らしながら待った。
だが背後の廊下はしんと静まりかえっていた。
「今すぐ出てくるんだ」ガリオンの声が不慣れな命令口調を帯びた。だが依然として何の動きも、音も聞こえてこなかった。一瞬かれは引き返して、この執ような従者がこっそりつけまわしている現場を引っ捕らえてやろうという気になった。だがその時、ガリオンの来た方向から汚れた皿を盆に山と積み上げた召使いがやってくるのが見えた。
「途中で誰か見かけなかったかい」ガリオンはたずねた。
「どこの話をしてるんだ」召使いはあきらかにガリオンが王だとは気づいていないようだった。
「廊下の途中でだよ」
召使いはかぶりを振った。「ドラスニア王の部屋を出てから誰ひとり出会っちゃいないね」男はさらに続けた。「おい、これで三回目の朝食だなんて信じられるかい。あんな大食い見たこともないぜ」ここで召使いはガリオンの顔をしげしげと見た。「おまえこそ、こんなところでぼやぼやしてていいのかい。コック長に見つかったらただじゃすまないぜ。やっこさん、使用人がぼけっと突っ立ってるのを見るのが大嫌いときてるからね」
「ぼくは厩舎へ行こうとしてたんだ」
「おれだったら、とっとと行くね。コック長はひどくおかんむりだからな」
「気をつけるよ」ガリオンは男に言った。
ちょうど厩舎から出てきたレルドリンは、雪の降りつもる庭を歩いてくるガリオンを見て、目を丸くしながら近づいてきた。「どうやって廷臣どもの目を盗んできたんだい」それから慌てたようにお辞儀をした。
「頼むからそれだけは止めてくれよ、レルドリン」ガリオンは言った。
「急なことだったからまだぴんと来ないだろ」とレルドリン。
「ぼくたちは前と変わりなくつき合ってくことにしよう」ガリオンはきっぱりと言った。「まわりの連中がだめだと言うまではね。ところでシルクがどこにいるか知らないか」
「そういえば今朝早く見かけたな」レルドリンは答えた。「浴場へ行くとか言ってたよ。何だかひどく具合が悪そうだったな。たぶん夕べしこたま飲んだんだろうな」
「じゃあ、かれを探しにいこう」ガリオンは言った。「どうしても話があるんだ」
シルクは湯気がもうもうと立ちこめる石張りの浴室にいた。小男は腰にタオルを巻きつけ、おびただしい汗をかいていた。
「本当にこんなことをしてなおるのかい」ガリオンは渦巻く湯気を手でふり払いながらたずねた。
「何をしたって今朝のわたしにゃ同じことさ、ガリオン」シルクは悲しげに言った。かれはひざの上でほおづえをつき、つらそうに両手に顔をうずめた。
「気分が悪いのかい」
「死にそうだよ」
「こうなるとわかっているのに、何でそんなに飲んだりしたんだ」
「そのときはなかなか悪くない考えに思えたのさ――じっさいそのとおりだったと思うんだ。何せそれから後のことはさっぱり覚えていないんでね」苦しむ小男のもとに従者が泡立つエールのジョッキを運んできた。シルクはごくごくと飲みほした。
「そんなことして大丈夫なのか」レルドリンがたずねた。
「さあな」シルクは身震いしながら答えた。「だが今のところ他に何も思いつかないのさ」かれは再び身震いした。「ああ、まったくひどい気分だ。ところで、わたしに何か用かね」
「実はちょっと問題があってね」ガリオンは急いでレルドリンの顔を見た。「これから話すことは三人だけの秘密にしておいてほしいんだ」
「神かけて誓うよ」レルドリンが勢いこんだように言った。
「ありがとう、レルドリン」このさい相手の誓いをすなおに受けた方が、そんなものが必要ない理由を説明するより楽そうに思えた。「ぼくはさっき〈ボー・ミンブルの協定〉を初めて見たんだ」かれは続けた。「本当のことを言えば、読んできかせてもらったんだが。ぼくがセ・ネドラと結婚するようになってたのを知ってるかい」
「まだそこまでは見ちゃいないが」とシルクは言った。「だが〈ボー・ミンブルの協定〉にそんなようなことが載っていたような気がする」
「ガリオン、おめでとう!」レルドリンが友人の肩をたたきながら叫んだ。「彼女はすごい美人じゃないか」
ガリオンはレルドリンの祝福を無視した。「何とかこれを免れる方法はないだろうか」
「ガリオン、悪いが今はどんなにひどい気分かということしか考えられないんだ。だがわたしの勘では、どうにもならないと思うね。何といっても西のすべての国々がこの協定に調印しているし、たぶんこれは〈予言〉にも関係あることじゃないかと思うんだ」
「そのことをすっかり忘れていたよ」ガリオンは憂うつそうに言った。
「たぶんお互いに慣れるようになるまで、猶予をくれるよ」レルドリンが言った。
「だがセ・ネドラにはどのくらいの時間の猶予が与えられるんだろう。今朝話をしてみたかぎりではまったく望みがないような気がしたんだけれど」
「だが王女はきみのことを悪く思っちゃいないはずだぜ」
「問題はそんなことじゃないんだ。彼女はぼくの方が位が高くなるというんですっかりおかんむりなんだよ」
シルクは弱々しく笑った。
「本当の友だちは人の不幸を笑ったりしないものだぞ」
「位の違いというのが王女にはそんなに大事なことなのかな」レルドリンがたずねた。
「彼女はそのためには右腕を切り落としたっていいと思ってるのさ」ガリオンは苦々しげに言った。「きっと一時間ごとに六回から八回は、自分が王女だということを言い聞かせているんだよ。彼女はそのことにひどくこだわっているんだ。そこへ今まで何でもなかったぼくが突然、彼女よりも偉くなってしまったんだからね。セ・ネドラにしてみればいくら歯ぎしりしても悔みたりないんだろう――たぶん一生かかっても」かれはそこで口をつぐむと、シルクの顔をしげしげとのぞきこんだ。「今日中に二日酔いがなおりそうかい」
「何をしようってんだ」
「きみはリヴァの街のことなら何でも知ってるだろ」
「そりゃね」
「一度は街を見ておこうと思うんだよ。にぎにぎしいファンファーレとかはいっさい抜きで、みんなと同じ普通の服を着てね。ぼくはリヴァの人たちのことを何ひとつ知らないまま――」かれは途中で言葉を失った。
「かれらの王さまになったわけだからね」レルドリンがかわって言った。
「それも悪くないかもしれんな」シルクが同意した。「だが今のわたしには何とも言えない。何しろ脳みそがいつもどおり働いてくれないんでね。だがむろん今日じゃなくちゃだめだろうな。あしたはおまえさんの戴冠式だし、いったん王冠をかぶってしまったら、かなり行動が制限されることになるからな」
ガリオンは考えたくもなかった。
「そこのお二人さん、申しわけないが、わたしがもう少ししゃんとするまで待っていてもらえないかね」シルクはジョッキの中身を飲みながら言った。「もっともどちらかといえば、待ってもらうしかないんだがね」
ねずみ顔の小男が回復するまでには、それから一時間ほどを要した。その治療法はきわめて荒っぽかった。まずかれは蒸気につかっては冷たいエールを飲むということを繰り返した。次に蒸気のたちこめる部屋から出ると、ただちに氷のような冷たい水に飛びこんだ。水から上がてきた小男は、真っ青でぶるぶる震えていたが、二日酔いの一番ひどい時期は過ぎていた。かれはめだたない衣装を慎重に選びだし、要塞のめだたぬ通用門に向かって一行を案内した。建物の外に出たガリオンは何度も後ろを振り返ったが、どうやら朝からかれをつけまわしていた尾行者をようやくまくことができたようだった。
ガリオンはあらためて、街の味気ない単調さに打たれた。家々の外装はみな一様に灰色で、まったく飾り気がなかった。がっしりした方形の家にはまったく特徴らしいものが見当たらなかった。リヴァ人の国民的な衣装ともいえる灰色のマントは、狭い通りにあふれる人々に同じような陰うつさを与えていた。ガリオンはこれから一生、この味気ない場所で暮らしていくのかと思うといささかげんなりした。
冬の弱い陽ざしに照らされた長い通りをかれらは歩いていった。港から漂う強い潮の香りが鼻を打ち、通り過ぎる家々から子供たちの歌声が流れてきた。その澄み切った美しい歌声は微妙なハーモニーとなってすっかりひとつに溶けこんでいた。ガリオンは子供たちの合唱の複雑さに驚いた。
「国民的娯楽というやつだな」シルクが言った。「リヴァ人は熱狂的な音楽ファンなのさ。たぶん退屈の格好な気ばらしになるからだろう。陛下には申しわけないが、この国での暮らしはけっこう退屈なもんでね」かれはあたりを見まわした。「ところでここからあまり遠くないところに、わたしの旧友が住んでいるんだ。ちょっとたずねてみようじゃないか」
シルクはさらに下の通りへ向かう長い階段を先にたって歩いていった。通りを入ってさほど離れていないところに、がっしりした大きな建物が下り斜面に面して建っていた。シルクはつかつかとドアに歩みよると、ノックをした。しばらくすると、焼けこげだらけの上っぱりを着たリヴァ人が戸口に姿をあらわした。「おおラデク、わが旧友よ」男は驚いたように叫んだ。
「ずいぶんひさしぶりだなあ」
シルクはにやりとした。「よう、トーガン。どうしてるかと思ってちょっと立ち寄ってみたのさ」
「さあさあ、入りたまえ」トーガンがさらにドアを開きながら言った。
「見たところ、商売を広げたらしいな」シルクは周囲を見まわして言った。
「いや、ここのところけっこう繁盛していてね」トーガンが遠慮がちに答えた。「トル・ボルーンの香水製造者たちが香水をいれるびんなら何でも買っていくもんで」がっしりしたリヴァ人は鉄灰色の髪と、まん丸いばら色のほおの持ち主だった。かれは誰かを思い出そうとするかのように顔をしかめて、ガリオンの顔をしげしげ見つめた。ガリオンは後ろを向くと、近くのテーブルに並べられた優美なガラス細工の小びんに目をやったまま、なるべく振り向かないようにした。
「それじゃもうガラスびんしか作っていないのかい」シルクがたずねた。
「いや、とんでもない。今だって芸術品に値するものを、わずかだが作り続けているぞ」トーガンは遺憾なおももちで言った。「わたしのところには、まさに大天才ともいうべき男がいるんだ。かれには自分自身の作品をつくる時間をかなり与えてやっている。香水びんばかりつくらしていたら、いつか逃げ出されかねないんでね」ガラス職人は戸棚を開くと、ビロードに包まれた小さな包みを大切そうに取り出した。「これがそいつの作品なんだ」男はそう言いながら包みをといた。
中に入っていたのは、なかば羽根を広げかけたガラス製のミソサザイだった。それは先端につぼみをつけた葉の生い茂る小枝の上にちょこんと止まっていた。各部分ともきわめて精巧につくられており、羽根の一枚一枚までが肉眼でもはっきり見分けられるほどだった。「こいつは素晴らしい」シルクは驚嘆の声をあげてガラス細工に見入った。「これはとんでもない傑作だぞ、トーガン。いったい作者はどうやってここまで微妙な色を出したんだろうな」
「実を言えばわたしにもわからないんだ」トーガンは正直に言った。「やつはガラスの材料を混ぜるときでさえ、ろくに分量をはかりもしない。なのに必ず思ったとおりの色が出てくるのだ。だから大天才なんだ」かれは慎重にガラス細工を包みなおすと、戸棚のなかに戻した。
工房の奥は住居になっていた。それぞれの部屋は暖かさと愛情と色彩に満ちあふれていた。あちらこちらに明るい色のクッションが置かれ、どの部屋の壁にも絵がかけられている。トーガンの徒弟たちは使用人というよりは、ほとんど家族も同然だった。トーガンの一番上の娘は、熱したガラスに息を吹きこむかれらのためにハープを演奏していた。その指が弦にふれるたびに、えもいわれぬ音が滝のように流れ落ちた。
「外から見た感じと全然違うんだな」レルドリンがすっかり当惑したような顔で言った。
「それはまたどういう意味かね」シルクがたずねた。
「外見はまったく無味乾燥で冷たい灰色をしているのに、いったん中へ入ると暖かみと色彩にあふれているという意味だよ」
トーガンがほほ笑みながら言った。「たしかによその国の人間が見たら奇異に思うかもしれないが、ここの家は住んでいる人々そのものさ。外見が寒々としているのは必要に迫られてのことなのだ。リヴァの街はそもそも〈珠〉を守るために作られているので、家のひとつひとつが巨大な砦の一部になっているんだ。だから外見を変えるわけにはいかないが、いったん中へ入れば美術と詩と音楽がある。またわれわれはみな灰色のマントを着用しているが、これはなかなか優れた衣服なのだ。山羊の毛から織られ、軽く、暖かく、ほとんど水を通さないときてる。だが染めることだけはできないので、いつも灰色をしているのだ。だが着ているものが灰色だからといって、われわれに美を愛する心がないということにはならないのさ」
ガリオンは考えれば考えるほど、この一見無愛想に見える島の人々のことがしだいにわかってくるような気がした。灰色の衣をまとうリヴァ人のかたくなな寡黙さは、いわばよその世界に対する仮面なのだ。その裏には外見とはまったく正反対の素顔があったのだ。
ほとんどの徒弟たちは、トル・ボルーンの香水製造者との主要な取引き品である優美な香水びんを作る作業に没頭していた。だが中に一人だけ、さかまく波に乗るガラスの船を仕上げている若者がいた。砂色の髪の若者はすっかり熱中した表情を顔に浮かべていた。ふと作品から目を上げたかれはガリオンを見て一瞬驚いた目をしたが、すぐに下を向いて作業に戻った。
店先に戻っていとまごいを告げようというときになって、ガリオンはもう一度きらめく小枝に止まる優美な小鳥のガラス細工を見せてほしいと頼んだ。再び見るそれはやはり美しく、ガリオンは胸の痛みすら覚えた。
「その小鳥がお気に召しましたか、陛下」振り返るとそこにはいつの間に来たのか、先ほどの若者が立っていた。かれは小さな声で話しかけてきた。「ブランド卿があなたを国民の前に紹介されたとき、わたしも広場にいたのです。さっきもひとめ見ただけで、あなただとわかりました」
「きみの名前はなんていうの」ガリオンは好奇心に駆られてたずねた。
「ジョランと申します、陛下」ガラス職人は答えた。
「その陛下というのは止めてくれないか」ガリオンはきっぱりと言った。「ぼくはまだそう呼ばれることに慣れてないんだ。今度のことだってぼくにはまったく思いもよらないことだったんだ」
ジョランはかれに向かってほほ笑みながら言った。「この街はいまやあなたの噂でもちきりですよ。何でも〈アルダー谷〉の塔で魔術師ベルガラスに育てられたとか」
「正確に言えば、ぼくはセンダリアでベルガラスの娘のポルおばさんに育てられたんだよ」
「あの女魔術師のポルガラですか?」ジョランはひどく興味をそそられたようだった。「あの方はやはり皆が言うようにお美しいのですか」
「おばさんはいつだって美人だよ」
「本当に竜に化けたりするんですか」
「やればできないことはないと思うけれどね」ガリオンは答えた。「おばさんはふくろうに姿を変えるのが好きなんだ。なぜだかわからないけれど彼女は鳥たちをとても愛している――それに鳥たちもおばさんの姿を見ただけでひどく喜ぶんだ。いつも何か話しかけているよ」
「なんて素晴らしいんだろう」ジョランは驚嘆するような表情を浮かべた。「できることなら一度、ぜひお会いしてみたいものですね」ジョランは何かを考えこむように口をすぼめて、しばしためらった。「こういったものはお好きでしょうか」かれはガラス細工の小鳥に手をふれながら言った。
「好きかだって?」ガリオンは叫んだ。「絶対に気に入るよ」
「それではわたしの代わりにあの方にさしあげていただけますか」
「ジョラン!」ガリオンは仰天した。「これをもらうわけにはいかないよ。とてつもなく高価なものだし、今のぼくには払うお金もない」
ジョランは恥ずかしげに微笑した。「でも、たかがガラスですから」とかれは言った。「材料といえば溶かした砂にすぎません。そして砂はたぶんこの世でもっとも安いものでしょう。もしあの方のお気に召すなら、どうかさしあげてください。わたしの代わりにお持ちになって、ガラス職人ジョランからの贈り物だと伝えていただけますか」
「絶対に伝えるとも」ガリオンは思わず若者の手を握りしめていた。「きみの代わりにおばさんに持っていくことを本当に光栄に思うよ」
「それではわたしが包装しましょう」ジョランが言った。「暖かい部屋から急に冷たい戸外に出すのはガラスによくないのです」かれはビロードの小片に手をのばしかけて、途中でやめた。
「実を言えば今申し上げたこと以外にも理由があるのです」ガラス職人はいささかやましげな顔になった。「この小鳥はかなりのできばえだと自分でも思っています。ですからもし〈要塞〉におられる高貴な方々がこれをご覧になったら、きっと同じものをつくれとご注文なされると思うのです。独立して自分の店を開くためには少なからぬ手数料が必要なのです。それに――」かれは目をあげると、まごころのこもったまなざしでトーガンの娘を見つめた。
「きみは自分自身の事業を軌道にのせるまでは、彼女と結婚できないというわけだね」ガリオンが代わってつけたした。
「陛下はたいそう賢明な王さまでいらっしゃる」ジョランが静かな声で言った。
「もしぼくが何とか最初の何週間かのへまを切りぬければの話だけれどね」ガリオンは悲しげにつけ加えた。
その日の午後、ガリオンはポルおばさんの私室にガラス細工の小鳥を届けにいった。
「まあ、いったい何なの」ポルおばさんは布で厳重にくるまれた包みを手に取りながら言った。
「今朝ぼくが街で会った若いガラス職人からの贈り物だよ。ジョランという名前なんだ。たぶんこわれ物だと思うから気をつけて開けてくれるかい」
ポルおばさんはそっと包みを開けていった。この上もなく見事なガラス細工の小鳥を見る彼女の目はゆっくりと見開かれた。「まあ、ガリオン」彼女はつぶやくように言った。「こんな美しいもの見たことがないわ」
「うん、なにしろすごい腕前なんだ」ガリオンは続けた。「かれは今ガラス職人のトーガンのところで働いているんだけど、トーガンもかれのことを天才だと言ってたよ。ジョランはとてもおばさんに会いたがっていた」
「わたしもかれに会いたいわ」ポルおばさんはささやくように言った。彼女の目は精巧なガラス細工の、光り輝く細部にすっかり釘づけになっていた。それからガラスの小鳥をそっとテーブルの上に置いた。彼女の手はぶるぶる震え、きらきら輝く瞳は涙でいっぱいになっていた。
「どうかしたの」ガリオンはいささか動揺しながらたずねた。
「何でもないわ、ガリオン」おばさんは言った。「本当に何でもないのよ」
「じゃあ、なぜ泣いたりするの」
「あなたにはわからないことよ、ガリオン」そう言うなり彼女はガリオンに腕をまわして、思いきり抱きしめた。
戴冠式は次の日の午後に行なわれた。〈リヴァ王の広間〉は貴族や王族たちであふれ、下の街では鐘がにぎやかに鳴り響いた。
ガリオンは戴冠式のことをほとんど覚えてはいなかった。白い毛皮で縁どりされたケープが暑かったのと、リヴァの助祭がかれの頭においた王冠がやたらに重く感じられたことだけは記憶に残っていた。だがもっとも印象的だったのは、広間を青い光で満たす〈アルダーの珠〉の輝きだった。それはガリオンが玉座に近づくにつれ、ますます輝きを増していった。これまで近づくたびに聞こえていた不思議な歓喜の歌は、最高潮に達しようとしていた。ケープをまとい王冠をかぶったガリオンが〈リヴァ王の広間〉にいならぶ人々の方を向いたとたん、大喝采が起こった。だがそれすら耳を聾するばかりの〈珠〉の歌に妨げられ、ろくに耳には入らなかった。
だがかれははっきりとひとつの声を聞いていた。
(万歳、ベルガリオン)内なる声が静かに言った。
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13[#「13」は縦中横]
〈リヴァ王の広間〉で、ベルガリオン王はむっつりした表情を顔に浮かべ、トルネドラ大使ヴァルゴンのいつ果てるとも知れない長広舌に耳を傾けていた。何もかも、かれにはとまどうようなことばかりだった。かれはどうやって命令を出したらいいのかわからなかった。四六時中つきまとう召使いたちをどうやって追いはらえばいいのかわからないため、まったく自分自身の時間というものがないありさまだった。あいかわらず背後からはつけまわされ、今ではこの常にかれの背後につきまとう職務熱心な護衛、従者、もしくは使い走りを捕まえようという気力すら失せていた。
友人たちは皆ガリオンの前に出ると居心地悪そうにもじもじし、いくらやめてほしいと言っても、「陛下」と呼ぶことに固執した。かれ自身はまったく変わったと思っていなかったし、鏡にうつる外見もさして変化していないというのに、人々はまるでかれがすっかり変わってしまったかのように振る舞うのである。かれが立ち去るときに人々が見せる安堵の表情がガリオンをいたく傷つけていた。そんなときは自分の殻に閉じこもり、じっと孤独をかみしめるしかなかった。
ポルおばさんは常にかれのかたわらにいたが、彼女との関係も前とは異なったものになりつつあった。王になる前はかれの方が添え物だったのに、今ではまったく逆転してしまった。この新しい関係もかれにとってはきわめて不自然なものだった。
「わが方のこのたびの申し出は、きわめて寛大な譲歩を示したものであると言わねばなりますまい、陛下」ラン・ボルーンからことづかった最新の条約案を読み終えたヴァルゴンは最後にこうつけ加えた。人を小馬鹿にしたような表情を浮かべたこのトルネドラ大使は、鉤鼻の尊大な男だった。ホネサイトのかれは帝国の創設に貢献し、三つの名家を起こした名門の出であり、ひそかにアローン人を軽蔑していた。このヴァルゴンはガリオンの悩みのたねだった。皇帝から新しい条約だの商業協定だのが届かない日は一日とてなかった。かれらトルネドラ人が何が何でも羊皮紙に王の署名をほしがっていること、そして何度も何度もそれを突きつけていれば、しまいにはかれの方で音をあげて相手を追いはらいたいばかりに署名するに違いないと踏んでいることはあきらかだった。
それに対するかれの対抗策は実に単純なものだった。かれは何ものにも署名することを拒否したのである。
(それはかれらが先週持ってきたものとまったく同じよ)かれは心の中でポルおばさんの声を聞いていた。(条項をいれかえて、いくつかの字句をいじくっただけにすぎないわ。これでは受け取れないと言いなさい)
ガリオンはおつに澄ました大使にほとんど嫌悪の入りまじった視線を送った。「それではまったく話にならない」かれはぶっきらぼうに言った。
抗議しようとするヴァルゴンをかれはすばやくさえぎった。「先週持ってきたものとまったく変わっていないではないか。それならばこちらの答だって先週と同じく否だ。わたしはトルネドラに優先的な通商権を与えるつもりはないし、他の国々と協定を結ぶたびにいちいちラン・ボルーン殿の承諾を得ることにも同意できない。そしてなによりも、わたしは〈ボー・ミンブルの協定〉の改変を一字一句たりとも認めるつもりはない。どうかラン・ボルーン殿にまともに話をするつもりがないのなら、これ以上無駄なことでわたしを悩ませないでほしいと伝えてくれ」
「陛下!」ヴァルゴンは衝撃を受けたような声を出した。「いやしくもトルネドラ皇帝に対してそのような口をきかれるとは」
「わたしは自分の言いたいように言うまでのことだ」ガリオンは言った。「もう退がってよいぞ」
「陛下――」
「退がってよいと言ったのだぞ、ヴァルゴン」ガリオンはさえぎった。
大使はさっと立ち上がり、よそよそしくお辞儀するとつかつかと歩み去った。
「まあ、悪くはないな」アンヘグ王が他の王たちといつもたむろしている奥部屋からまのびした声で言った。これらの高貴な見物人に見られていることも悩みのたねだった。ガリオンはかれらが自分の一挙手一投足を見守り、判断し、さらにはその決断や態度や言葉遣いまでをじっくり値ぶみしているのを知っていた。恐らくこの数ヵ月はへまばかり重ねるに違いない。だからこそ見られたくないと思っているのだが、居並ぶ王たちに向かってかれらの注目のまとにするのはやめてくれなどとどうして言えよう。
「だが少しばかり直截的すぎたんじゃないかね」フルラク王が言った。
「なあに、今に人あしらいもうまくなるさ」とローダー王。「むしろラン・ボルーンにとっちゃこの直截的なところがかえって新鮮でいいと思うかもしれん。むろんやっこさんが卒倒せんばかりの怒りの発作から回復してからの話だが」
いならぶ王たちや貴族たちは、皆ローダー王の皮肉に声をあわせて笑った。ガリオンもいっしょになって笑おうとしたが、赤面を隠しおおせることはできなかった。「何でこんなことまでされなくちゃならないんだ」かれはポルおばさんに激しい口調でささやいた。「しゃっくりひとつするたびに、みんなで批評するんだ」
「そんなことでいちいち腹をたてるのはおよしなさい」彼女は穏やかな声で答えた。「それにしてもさっきのは少し不作法すぎたようだわ。末来の義理の父親になる人にまであの調子でずけずけものを言うわけじゃないでしょうね」
それこそガリオンが一番思い出したくないことがらだった。セ・ネドラはいまだにかれの急激な出世を許していなかった。ガリオンは彼女との結婚の可能性を真剣に危ぶみはじめていた。たしかに彼女のことを好いてはいたが――というよりも本気で好きだったが、たぶんセ・ネドラはよき妻にはならないだろうという憂うつな結論を、かれは下していた。彼女は頭もよく、わがままいっぱいに育ち、しかもとてつもなく頑固なところがあった。彼女がガリオンの結婚生活をできる限り惨めなものにすることに、ひねくれた喜びを見いだすことは必至だった。こうして玉座に座ってアローンの王たちの冗談めかした批評を聞きながら、ガリオンは〈珠〉のことなど知らなければよかったとさえ思いはじめていた。
〈珠〉のことを考えたとたん、ガリオンはほとんど習慣的に、玉座の上に掲げられた剣のつか[#「つか」に傍点]頭に輝く宝石に目をやった。玉座に座るたびにいっそう輝きを増すわざとらしさが、ガリオンをいらだたせた。そんなとき〈珠〉はまるで自分自身を祝福しているように思えた――まるでリヴァ王ベルガリオンは自分の創造物なのだとでもいいたげに。ガリオンにはいまだに〈珠〉のことがよくわからなかった。〈珠〉の中に意識に近いものが存在するのはたしかだった。ガリオンの心はためらいがちに〈珠〉の意識にふれてはそっと引き返した。これまでに何回も神の心の意志と接触したことはあったが、この〈珠〉はまったくそれらと違っていた。およそガリオンには及びもつかないような力がひそんでいるのはあきらかだった。それに加え、〈珠〉の接触方法はきわめて特異なものだった。ガリオンは自分があまり好かれていないらしいことを感じ取っていた。だがそれでもかれが近づくたびに、〈珠〉は嬉しくてたまらないと言いたげに明るく輝くのだった。そしてクトゥーチクの小塔で初めて聞いた、あの空高く舞い上がるような不思議な歌がかれの心を満たした。この歌はガリオンにとってなかば強引な誘惑のようなものだった。ガリオンがいったん〈珠〉を手に取り、その〈意志〉とかれの〈意志〉とを融合すれば、この世には何ひとつ不可能なことはなくなるだろう。現にトラクはこの〈珠〉を掲げて、世界に巨大な裂け目を入れたのではなかったか。かれがいったん決心しさえすれば、〈珠〉の力を借りてその裂け目を修復することだってできるのだ。さらに危険なのは、ガリオンの心にその考えが芽生えた瞬間から、〈珠〉が絶えまなくそのための指示を送りはじめたことだった。
(ガリオン、ちゃんと話を聞きなさい)もの思いにふけるガリオンの心にポルおばさんの声が響いた。
午前中の行事はこれでほぼ終わりだった。後に残ったのは何件かの陳情と、ニーサより今朝届いた奇妙な祝辞だけだった。ニーサの祝辞は相手の機嫌をおそるおそるうかがうような文面で、最後に宦官サディの署名があった。ガリオンは返答を起草する前によく検討してみることにした。サルミスラの謁見の間で起こったできごとの記憶がいまだにガリオンの心を悩ませていた。今すぐこの蛇人間たちとの関係を修復すべきかどうか、判断がつきかねた。
すべての政務が片づいたところで、かれは人々に断って退出した。白い毛皮に縁どられたケープはもはや耐えがたく暑かったし、王冠のおかげで頭はずきずき痛んだ。かれは一刻も早く自室へ戻って着替えたかった。
広間のドアの両側に控えていた衛兵たちはかれにうやうやしくお辞儀し、すぐさま随行の姿勢をとった。「別にどこかへ行こうというわけじゃない」かれは職務熱心な衛兵たちに言った。
「ただ自分の部屋へ戻るだけだし、道はよくわかっている。ぼくのことはいいからきみたちはもう昼食に行きたまえ」
「ご親切にありがとうございます、陛下」衛兵は答えた。「後でわたしどもにご用がありますでしょうか」
「まだわからないな、そのときは誰かに伝えるから」
再びお辞儀をする衛兵を後に残し、ガリオンはうす暗い廊下に入った。かれがこの通路を見つけたのは戴冠式の二日後のことだった。それは謁見の間から王族の私室に通じるもっとも近い通路だったが、比較的使われていなかった。仰々しい儀式ぬきで広間への行き来ができるこの近道をガリオンは非常に気にいっていた。途中にはわずかなドアがあるだけで、壁の燭台は廊下を適度な暗さに保つよう間をおいて設置されていた。顔を知られていなかった頃をほんのわずかだけ思い出せるこの暗さはむしろ好もしいものだった。
廊下を歩くガリオンは深いもの思いにふけっていた。あまりにも考えなければならないことが多すぎた。まずは何をおいても、目前にせまったアンガラクと西の国々との戦争に対処しなくてはならない。〈西の大君主〉であるガリオンは当然それらの国々を率いる立場にあるのだ。いまや長年の眠りから目覚めたカル=トラクは、アンガラクの大軍を率いて襲いかかってくるだろう。そのような恐ろしい敵にどうやって対抗すればいいのだ。トラクの名前を思い浮かべるだけでガリオンは身震いを禁じえなかった。軍隊のことも戦争のことも何も知らないかれにどうやって戦うことができるだろう。絶対にへまをやらかすに決まってる。そうなったらトラクは金属製の義手をひとふりするだけで、西の連合軍を粉砕してしまうことだろう。
魔法ですら今のかれを救うことはできなかった。かれの力はトラクの巨大なそれに対抗するにはあまりに経験が少なすぎた。もちろんポルおばさんが助けてくれるだろうが、ベルガラス抜きでは成功の見込みはきわめて薄かった。数ヵ月前の転倒がベルガラスの力を何ら損なっていないことを証明するきざしはまだ見られなかった。
あまりふれたくなかったが、ガリオン自身の問題もそれに負けず劣らず深刻だった。仲なおりを拒み続けるセ・ネドラ王女とやがては何らかの決着をつけなくてはならない。王女の方にもう少し聞き分けがあれば、二人の位の違いなどほとんど問題にはならないはずだった。ガリオンはセ・ネドラ王女が好きだった――それどころか好意以上のものを抱いていると言ってもよかった。特に何かをねだるときの彼女の顔はこの上もなく美しかった。この唯一の障害さえ取りのぞくことができれば、何もかもうまく行くことだろう。この可能性がかれの心を少なからず明るくした。ガリオンはすっかりもの思いにふけったまま廊下を歩き続けた。
いつものひそやかな足音が背後から聞こえてきたのは、さらに数ヤードほど行ってからだった。ガリオンはため息をつきながら、この職務熱心な従者が何か他に楽しみを見つけてくれないかと願わずにはいられなかった。ガリオンは肩をすくめると、今度はニーサの問題を考えることにした。
その警告はきわめて唐突に、まさに間一髪のところで発せられた。(危ない!)内なる声が叫んだ。一瞬何が起こったのかもわからないまま、無我夢中でガリオンはぱっと前に倒れ伏した。そのとたんどこからともなく飛んできた短剣が石の壁に激突し、火花を散らしながら、敷石の上をはね返っていった。はずみで頭の王冠が床の上をころころと転がった。ガリオンは罵りの言葉とともに自分の短剣を抜いて立ちあがった。突然の攻撃にすっかり動転し、激怒したかれは廊下を駆け戻った。毛皮に縁どられた重たいケープが足元ではためき、絡みついた。
短剣を投げた犯人の灰色のマントが一、二回ちらりとガリオンの目に入った。暗殺者は奥まった戸口にひらりと姿を消したかと思うと、重たげなドアがばたんと閉められる音がした。自分の短剣を片手に握りしめたまま、ドアの取っ手をがちゃがちゃいわせながらようやく開けると、同じようなうす暗い廊下がどこまでも続いているだけだった。そこには人っ子ひとり見当たらなかった。
かれの手はまだぶるぶる震えていたが、それは怒りのためというよりはむしろ恐怖のためだった。かれは即刻衛兵たちを呼びよせようとしたが、すぐにその考えを捨てた。考えれば考えるほど、このまま襲撃者の後を追うのは賢明でないように思えてきた。かれの武器は短剣一本しかないのに、もし剣を持った者に襲いかかられたりしてはたまらない。複数の人間が陰謀に加担していたとしたら、このように人通りのないうす暗い廊下は防戦に適した場所とはとても言えまい。
あきらめてドアを閉めようとしたかれの目を何かがとらえた。ドア枠の床にあたる部分に灰色の毛織物の切れはしが落ちていた。ガリオンはかがみこむと、それを拾いあげて、ろうそくの光のもとでしげしげと観察した。二本の指の間ほどの大きさもない布きれは、あきらかにリヴァ人特有の灰色のマントから引きちぎられたものだった。暗殺者は逃亡するさいに、うっかり自分のマントをはさんだままドアを閉めてしまったのだ。マントはその拍子にちぎれたのだろう。ガリオンは顔をしかめると急いで廊下を戻り、床にかがみこんで王冠と暗殺者の短剣とを拾いあげた。もし襲撃者が仲間を連れて引き返してきたらと思うと心もとなかった。どうやらここは一刻も早く自室に引き返し、中からしっかりとドアの鍵をおろすのが一番の得策だろう。ガリオンは誰も見ていないのをいいことに、ケープのすそを持ち上げると脱兎のごとく逃げ出した。
かれは自室の前にたどり着くと、ドアを勢いよく開けて中へ飛び込み、ばたんと音をたてて閉めた上に鍵をおろした。そしてドアにぴったり耳をつけて、追っ手の気配がないかどうかをうかがった。
「どうかなさったのですか、陛下」
ガリオンは背後の声に飛び上がらんばかりに驚いた。あわてて振り向いたとたん、かれは従者と顔をつき合わせていた。王の手に握られた短剣を見た従者の顔に驚きの表情が浮かんだ。
「ああ、いや何でもないんだ」かれは懸命に内心の動揺をおし隠そうとした。「これをはずすのを手伝ってくれないか」ガリオンはケープの結び目を苦心しながらまさぐった。かれの手は短剣と王冠ですっかりふさがっていたのだ。王冠を近くの椅子に無造作に投げ捨て、自分の短剣をさやに戻すと、ガリオンは襲撃者の残していった短剣と灰色の布きれを磨きぬかれたテーブルの上に並べた。
従者はケープをはずすのを手伝うと、ていねいにたたんで腕の上にかけた。「これを捨ててまいりましょうか、陛下」かれはテーブルの上に置かれた短剣と布きれを、嫌悪の入りまじった表情で見つめながら言った。
「いや、いい」そのときガリオンはあることを思いついた。「ぼくの剣はどこにある?」
「陛下の剣は謁見の間の壁にかかっておりますが」
「そっちの方じゃない」ガリオンは言った。「ぼくが初めてここへ来たときに持っていたやつだ」
「さっそく探してみましょう」従者は自信のなさそうな声で言った。
「頼むぞ」とガリオン。「ぼくはいつもあれを手の届くところに置いておきたいんだ。それからワイルダンターのレルドリン卿を呼んできてくれないか。かれと話がしたい」
「ただちに行ってまいります、陛下」従者は一礼してすぐに立ち去った。
ガリオンは問題の短剣と布きれを手に取ってさらによく検分した。短剣の方はごくありふれた既製品で、重く頑丈につくられ、つか[#「つか」に傍点]は針金でとめられていた。そこには何の飾りも特徴もなかった。刃の先端部分が石の壁に激突した衝撃でかすかに曲がっていた。襲撃者はよほどの力をこめて投げたに違いなかった。ガリオンは肩こう骨の間に不愉快な感覚が広がっていくのを覚えた。だがこの短剣はあまり役にたちそうになかった。こんなものは要塞中を探せばごまんと出てくることだろう。それに比べると灰色の布きれの方はおおいに役にたちそうだった。この建物のどこかに端のちぎれたマントを着た男がいるに違いない。切れた箇所とこの布きれを合わせればぴたりと符合することだろう。
レルドリンが姿をあらわしたのはそれから三十分ほどたってからのことだった。「ぼくに用があるんだって?」
「とりあえず、座ってくれよ。レルドリン」ガリオンは友人にそう言うと、従者が部屋から出ていくのをいらいらと待った。「実はちょっとした問題があるんだ」かれはテーブルの前の椅子にぐったりもたれながら言った。「それできみの助けをかりたいと思ってね」
「かりるなんて水くさい言いかたはよせよ、ガリオン」アストゥリア人の若き熱血漢は答えて言った。
「これは二人の間だけの話にしておいてほしい」ガリオンは警告するように言った。「絶対に外にもらすわけにはいかないんだ」
「神かけて誓うよ」レルドリンは即座に言った。
ガリオンは短剣を取り出すと、友人の前に置いた。「実はほんの少し前、部屋に戻るぼくの背後からこれを投げつけたやつがいる」
レルドリンは息を飲んで、驚いたように言った。「反逆か」
「もしくはもっと個人的な恨みによるものかもしれない」とガリオン。「ぼくにはさっぱりわからないんだ」
「じゃあ、すぐに衛兵たちに警戒させなくちゃだめだよ」レルドリンはさっと立ち上がった。
「やめてくれ」ガリオンはきっぱりと言った。「そんなことをしたら、ぼくはここでかごの鳥同然になってしまう。それでなくとも制限されている自由を完全に失うようなことはしたくないんだ」
「やつの姿は見たかい」レルドリンは再び座りながら、じっと短剣を見つめた。
「後ろ姿しか見えなかった。やつは灰色のマントを着ていたよ」
「ガリオン、この国の人々はみんな同じものを着ているんだぞ」
「でもここに役に立ちそうなものがあるんだ」そう言いながらかれは長衣の下から例の布きれを取り出した。「ぼくに短剣を投げつけた犯人はすぐにドアのひとつを開けて逃げ出した。だがそのときうっかり、マントをドアにはさみこんでしまったらしいんだ」
レルドリンは灰色の布の切れ端を手にとって眺めながら言った。「どうやらこれは端の一部分らしいな」
「ぼくもそう思う」ガリオンは答えた。「二人で目を皿のようにして探せば、きっとマントの端が欠けているやつを見つけだせる。そうしたらその部分とこの切れ端を照合してみればいいんだ」
レルドリンはうなずいたが、すぐに顔をこわばらせた。「もし首尾よくそいつを見つけたら、あとの処分はぼくに任せてもらいたい。いやしくも一国の王さまがこの手のことに心を煩わす必要はない」
「ならば今回だけはその規則を曲げることにする」ガリオンは厳しい声で言った。「ぼくは二度と背後から短剣を投げられたくはないからね。だが、まずは犯人が誰なのかを突きとめなければならない」
「じゃあ、今すぐはじめよう」レルドリンが慌ただしく立ち上がった。「もし必要とあらば全リヴァの人々のマントの端を調べたっていい。何としてでも反逆者を探し出してみせるよ。ガリオン、約束するよ」
ガリオンはいくらか心が軽くなったような気がした。だがその日の午後、仰々しく護衛を引き連れて〈リヴァの番人〉の居室をたずねたときには、やはり不安げな若い王に戻っていた。かれは歩きながら落着きなくあたりを見まわし、手は腰に下げた剣から離れることはなかった。
ブランドは巨大なハープの前に座っていた。〈番人〉の大きな手がまるで愛撫するように楽器の弦をなでると、さざ波のように美しい調べがこぼれ落ちた。ハープを奏でる大男の厳めしい顔には穏やかな慈しみ深い表情が浮かんでいた。〈番人〉と音楽の結びつきがあまりにも思いがけないだけに、いっそうその美しさが心にしみた。
「本当に素晴らしかったよ」最後の調べの余韻が弦をふるわすのを聞きながら、ガリオンは尊敬をこめて言った。
「わたしはしばしば演奏せずにはいられないのだよ、陛下」ブランドは答えた。「これを弾いていると、わたしの妻がもはやこの世にいないのだということすら忘れることもあるのだ」そう言ってかれは肩を怒らせるようにしてハープの前から立ち上がった。それと同時に柔和な表情も消え去った。「ところで、わたしに何のご用かな、ベルガリオン王」
ガリオンはぎごちなく咳ばらいをした。「たぶん、うまく言えないとは思うけれど」とかれは続けた。「どうかぼくの口から出る言葉でなく、ぼくの真意をくみとってほしい」
「むろんですとも、陛下」
「そもそもこれはまったくぼく自身が望んだことではないんだ」ガリオンは漠然とまわりをさし示しながら言った。「この王冠だって――王になることだって少しも望んじゃいなかった。ぼくは前の自分自身で十分満足だったんだ」
「なるほど、それで?」
「ぼくが言おうとしてるのは、その――ぼくが来る前はきみがリヴァの支配者だったわけだよね」
ブランドは重々しくうなずいた。
「ぼくは本当に王になりたくなどなかった」ガリオンは慌てて言った。「きみを前の地位から追い立てるつもりなんて、まったくなかったんだ」
ブランドはかれをじっと見つめていたが、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。「何でわたしが部屋に入るたびに不安そうな顔をするのか、やっとこれでわかったよ。それが原因で落着きがなかったんだね」
ガリオンは無言でうなずいた。
「ベルガリオン、あなたはまだわたしどもをよくご存じないようだ」ブランドは言った。「まだここに来られて一ヵ月ちょっとでは無理もない。だが、わたしたちはきわめて特異な国民なのだよ。〈鉄拳〉がはじめてこの地を踏んでいらい、われわれの祖先は三千年にもわたって〈珠〉を守り続けてきた。わたしたちが今あるのはまさにその目的のためなのだ。そして長年の歳月のあいだにわたしたちは他の人々がもっとも重きをおく自我の観念をすっかり失ってしまった。なぜわたしがただブランドとだけ呼ばれているのか、わかるかね」
「今までそんなこと考えてもみなかった」ガリオンは白状した。
「むろんわたしにはちゃんとした名前がある」ブランドは続けた。「だが人前でそれを使うことはできないのだ。代々の〈番人〉はみなブランドと呼ばれてきたので、その職務における個人的栄誉などというものはありえなかった。われわれ〈番人〉は〈珠〉に仕えるものであり、そのためだけに生きているのだ。それに実のところを言えば、きみが来てくれたときはほっとしたんだ。わたしはそろそろ後継者を選ばなければならない時期にきていた。むろん〈珠〉の助けを借りながらだが、わたしには誰を選んでいいものやらまったくわからなかったのだ。きみはその手間をすっかりはぶいてくれたのだよ」
「じゃあ、ぼくたちは友人になれるんだね」
「もうすでにそうなっているんじゃないかね、ベルガリオン」ブランドは静かな声で言った。
「わたしたちは共に同じ主人に仕えている。そういったことは人と人を強く結びつけるものなのだよ」
ガリオンはためらいがちにたずねた。「ぼくは王としてうまくやっているだろうか」
ブランドはしばらく考えてから言った。「わたしだったらやらないだろうと思えることもいくつかはあったが、それは当然だろう。ローダー王とアンヘグ王でさえいつも同じことをやるとは限らない。まあ、人それぞれのやり方というものもあるからな」
「でもみんなぼくのことをおもしろがっているんだよ――アンヘグもローダーも、それから他の人たちも。ぼくが何かやるたびに、横からみんなで口を出すんだ」
「わたしだったらあまり気にしないでおくね、ベルガリオン。なにしろかれらはアローン人だ。連中はあまり王というものを重んじていないのだよ。またそのことで互いをからかいあっては楽しんでいるのだ。だから、かれらにからかわれている限りは大丈夫だと思っていい。だがもし、かれらの態度がまじめな堅苦しいものになったらそれは危険信号だと考えた方がいいだろう」
「そんなこと、今まで考えてもみなかったよ」ガリオンは素直にみとめた。
「まあ、そのうちに慣れるさ」ブランドは力づけるように言った。
ブランドとの会話はガリオンの心をすっかり軽くしてくれたようだった。かれは護衛を引き連れて自室に戻ろうとしたが、途中で決心を変えてポルおばさんをたずねることにした。ポルおばさんはガリオンの古い長衣を入念に縫い直していた。そのすぐ横にじっと彼女を見守るアダーラの姿があった。娘はガリオンを見ると慌てて立ち上がり、ぎごちなくお辞儀した。
「お願いだ、アダーラ」かれはつらそうな声で言った。「ぼくらだけでいるときはそれをやめてくれないか。もういいかげんあっちで見飽きているんだから」そう言いながらかれは公務の部屋のある方をさし示した。
「陛下のお望みとあれば、そういたしますわ」アダーラは答えた。
「その陛下というのもやめてくれ。ぼくはただのガリオンなんだから」
彼女はその静かな美しい目でじっとガリオンを見つめた。「いいえ、違うわ」彼女は答えた。
「あなたはもうただのガリオン≠ナはないのよ」
いとこの言葉に現実を思い知らされたガリオンは思わずため息をついた。
「よろしければ、失礼させていただきますわ」アダーラが言った。「これからシラー王妃のもとへ行かなければなりませんの。何でもご気分がすぐれないとかいうことなんですけれど、わたしがそばにいた方が落着かれるそうなので」
「きみがそばにいれば誰だって心が落着くさ」ガリオンは思わずそう口走っていた。
彼女は愛情のこもった微笑を浮かべた。
「少なくともこれであなたも一縷の望みができたわけね」ポルおばさんは忙しく針を動かしながら言った。
アダーラはガリオンを見やった。「わたしのいとこ殿はそれほどお困りになってるわけではありませんわ、レディ・ポルガラ」彼女は二人に向かって身をかがめると、静かに部屋を出ていった。
ガリオンはしばらくあたりを歩きまわっていたかと思うと、椅子にどさりと腰をおろした。今日一日だけであまりにも多くのことが起こりすぎた。かれは突然、世の中にたいして激しい憎しみを覚えた。
ポルおばさんはそんなかれを見ようともせず、針を動かし続けていた。
「何でそんなことをやってるんだよ」ガリオンはついにかんしゃくを起こした。「もうぼくはそんなもの着やしないのに」
「でも、ちゃんと繕っておかなくちゃいけないのよ」彼女は穏やかな声で答えた。
「ここには使用人がごまんといるのに、何でおばさんがそんなことまでしなくちゃいけないんだ」
「わたしは自分の手でやりたいのよ」
「そんなものどっかへやって、ぼくの話を聞いてくれよ」
彼女は繕いものを脇へ押しやると、かれの顔をじっとのぞきこんだ。「それでわたしに何を話されたいというのですか、陛下」
「ポルおばさん!」ガリオンはショックを受けたような声を出した。「おばさんまでそんな言いかたをするのは止めてくれ」
「それならわたしに命令しないことね」そう言いながら彼女は再びひざの上に繕いものを置いた。
ガリオンはしばらくぼう然と彼女の手元を見ていた。とたんにある疑問がわきあがった。
「でも本当に何でそんなことをしてるんだい」今度は純粋な好奇心からかれはたずねた。「たぶんもう誰もそんなもの着やしないんだろ。だとしたら時間のむだじゃないか」
「でも、わたしの時間ですからね」そう言って目を上げた彼女の表情からは何も読み取れなかった。おばさんは何も言わずに長衣を目の高さまで持ちあげると、裂け目にそって人さし指をそっと走らせた。ガリオンはかすかにいつものうねりを感じた。その音はほとんどささやきに近かった。すると裂け目はあっという間に繕われ、まるで最初からなかったかのように消えうせた。「これで繕いものがいかにわたしにとってむだなことか、よくわかったでしょう」ポルおばさんはかれに言った。
「じゃあ、何でわざわざ手間をかけたりするんだい」
「わたしは手を動かすのが好きだからよ」と彼女は答え、びりっという鋭い音とともに再び布地を引き裂いた。そして針を持つと再び裂け目を縫いはじめた。「縫いものをしてると目と手はふさがれるけれど、その間にいろいろと考えごとができるわ。わたしにとってはとてもいい気休めになるのよ」
「ときどき本当におばさんのことがわからなくなるよ」
「ええ、わかってるわ」
ガリオンはしばらく歩きまわっていたかと思うと突然、彼女の足元に座りこみ、縫いものをはらいのけて、すがりついた。「ああ、ポルおばさん」今にも泣きだしそうな声で訴えた。
「どうかしたの、ガリオン」ポルおばさんはガリオンの髪をやさしくすきながら言った。
「淋しくてたまらないんだ」
「それだけ?」
かれは顔をあげると信じられないといったまなざしでおばさんを見つめた。かれが求めていたのはそんな言葉ではなかった。
「誰だってみんな淋しいのよ」おばさんはガリオンを引き寄せながら言った。「わたしたちはほんの一瞬ふれあっては、またすぐに離れていくのよ。今にあなたにもわかるわ」
「誰もぼくに前のようには話しかけてくれない。みんなお辞儀をしては陛下≠ニいうだけなんだ」
「あなたは王さまなのだからしかたないでしょ」
「でも、なりたくてなったわけじゃない」
「そう、困ったわね。でもそれはあなたの一族の運命なのだから、どうしようもないのよ。あなたはガレド王子のことを聞いたことがあるかしら」
「知らないよ。それはいったい誰なんだい」
「王子はニーサの暗殺者たちが、ゴレク王とその一族を皆殺しにしたときの唯一の生存者だったのよ。かれは海に身を投げて助かったの」
「王子はそのときいくつだったんだい」
「六歳よ。でもとても勇敢な子供だったわ。みんなはてっきり王子が溺れ死んで海に流されたと思いこんでいたのよ。あなたのおじいさんとわたしもその噂を広めるのにひと役かったわ。そして千三百年にもわたってひそかにガレド王子の末裔たちを守り続けてきたのよ。かれらは何世紀にもわたって、世に知られることなくひっそりと一生を終えていったわ――それもあなた一人に王座を与えるだけのために。それでもまだあなたは王になりたくなかったというつもり?」
「そんなこと言われたって、直接会ったわけじゃないからわかりゃしないよ」ガリオンは不機嫌な声で言った。かれは自分の振る舞いが子供じみていると思ったが、もはや押さえようがなかった。
「もしその人たちを少しでも知ってたら、あなたの考えも変わるかしら」
ポルおばさんの言葉はガリオンを仰天させた。
「そうね、たぶんその方がいいかもしれないわ」彼女は繕いものを脇へ押しやると身を起こし、ガリオンを立たせた。「わたしといっしょに来てちょうだい」おばさんはそう言うと、街を見おろす背の高い窓にかれを連れていった。そこには小さなバルコニーがついていた。雨どいの一部がこわれ、そこからもれ出た水が、秋から冬の間に黒いぴかぴか光る氷と化し、手すりを伝って、バルコニーの床の上に広がっていた。
ポルおばさんは窓の鍵をはずすと思いきり開けはなった。冷たい風がさっと流れこんでろうそくをゆらめかせた。「あの氷だけを見るのよ、ガリオン」彼女は黒く輝く氷を指さしながら言った。「じっとよく見ているのよ」
氷のなかにゆらめくものがあった――最初のうちはもやもやしていたが、しだいにせり上がり、はっきりと形をとりはじめた。それはやがて白金のような髪をして、愛情のこもった微笑を浮かべた美しい女の姿になった。まだうら若い女性はガリオンの顔をじっと見つめていた。
「いとしい子」ささやくような声がガリオンに呼びかけていた。「わたしのかわいいベルガリオン」
ガリオンの体が激しく震えだした。「おかあさん?」かれはあえぐような声でたずねた。
「ずいぶん大きくなったこと」声はささやき続けていた。「もうすっかり大人になったのね」
「それにもうかれは王さまになったのよ、イルデラ」ポルおばさんは幻影に優しく話しかけた。
「まあ、それじゃやっぱりこの子が〈選ばれた者〉だったのね」ガリオンの母の幽霊はうれしそうに言った。「そうじゃないかと思っていたわ。この子をみごもったときからわたしにはわかっていたのよ」
そのかたわらにまた別の人影が形をとりはじめた。それはやがて黒い髪をした若い男の姿になったが、その顔は驚くほど見覚えのあるものだった。突然、ガリオンはその男と自分がそっくりだということに気がついた。「ベルガリオン、わが息子よ」男の幽霊がかれに呼びかけた。
「おとうさん!」ガリオンは叫んだ。他に何を言えばいいのかわからなかった。
「わたしたちの祝福を、ガリオン」しだいに薄れていく姿のなかから、男の幽霊が叫んだ。
「おとうさん、かたきはぼくが討ったからね」ガリオンは父の姿にむかって呼びかけた。なぜかそのことを伝えるのがひどく重要に思えた。だが果たしてかれらにガリオンの声が届いたかどうかはわからなかった。
ポルおばさんはひどく疲れたような顔で、ぐったりと窓枠にもたれかかっていた。
「大丈夫かい」ガリオンは気づかわしげにたずねた。
「これはかなり体力を使うのよ」そう言いながら彼女はものうげに手で顔を覆った。
だが氷の底にぴかりと何かがひらめいたかと思うと、今度は前に見たことのある青い狼の姿があらわれた。それはウルゴの山中で、かれがエルドラクのグラルと戦ったとき、ベルガラスと力をあわせて活躍した狼だった。狼はしばらくその場に座っていたが、すぐに真っ白いふくろうの姿になり、次に黄褐色の髪をした金色の目の女性に変わった。彼女の顔は驚くほどよくポルおばさんに似ていたので、ガリオンは思わず交互に見較べずにはいられなかった。
「ポルガラ、まだ開けたままよ」女性の声は暖かく、夏の宵の風のように心地よかった。
「わかってるわ、おかあさん」ポルおばさんは答えた。「今すぐに閉めますから」
「いいのよ、ポルガラ」狼婦人は娘に話しかけていた。
「おかげでかれの顔を見ることができたのですもの」そう言うと金色の瞳の婦人はじっとガリオンの顔に見入った。「やはり、少し面影が残っているわね。目とあごのあたりがよく似ているわ。この子はもう知ってるのかしら」
「まだ全部というわけではないわ、おかあさん」
「たぶん、そのうちにわかるでしょうね」ポレドラが答えた
再び氷の黒い深みより、別の姿が浮かびあがった。二番目にあらわれた太陽のような黄金色の髪をした女性は、最初の狼婦人よりもさらにポルおばさんによく似ていた。「ポルガラ、わたしの大好きなお姉さま」
「ベルダラン」ポルおばさんの声は愛情に満ちあふれていた。
「ベルガリオン」ガリオンの遠い祖母が呼びかけた。「わたしの愛、リヴァの最後の花よ」
「わたしたちの祝福を、ベルガリオン」ポレデラが続けた。「もうお別れしなければならないけれど、いつもわたしたちが愛していることを忘れないで」そして二人の姿はかき消えた。
「どう、これでわかったかしら」ポルおばさんは言った。その声は深い感動にあふれ、目には涙が光っていた。
ガリオンはたった今見聞したできごとにぼう然としたまま、返事をすることすらままならなかった。かれは無言でうなずいた。
「それならわたしの苦労もむだじゃなかったわね」彼女は言った。「さあ、窓を閉めてちょうだい。冬の風がどんどん入ってきてたまらないわ」
[#改ページ]
14[#「14」は縦中横]
春の最初の日、リヴァ王ベルガリオンはたいそう落着きのない様子で玉座に座っていた。かれはセ・ネドラ王女の十六歳の誕生日が近づくのをつのる不安の中で見守り、ついにその日がやってきたときは、ほとんど恐慌状態におちいっていた。六人の裁縫師が一週間がかりで縫いあげた深い青色の胴衣はいまだに体にしっくりこなかった。肩はきつすぎ、固いカラーがかれの首をこすった。そればかりか黄金の王冠でさえいつもより重く感じられ、玉座はますます座り心地が悪いような気がした。
〈リヴァ王の広間〉はこの日のために盛大な飾りつけがなされていたが、旗や花輪や淡い色の春の花々をもってしても広大な部屋のがらんとした壁を完全に覆うことは不可能だった。いならぶ貴賓たちは、今日という日の重要性にほとんど注意を払うこともなく談笑しあっていた。ガリオンは自分がこれから重大事に直面しようというのに人々があまりに無関心な顔をしているので、いささか気分を害していた。
ポルおばさんは新しい銀色のガウンをまとい、髪に小冠をつけてかれの左側に控えていた。ベルガラスもまた新品の緑色の胴衣をつけてだらしなく右側にもたれかかっていたが、すでに着衣はしわくちゃになっていた。
「そんなにもじもじするのはおよしなさい」ポルおばさんが静かに言った。
「自分のことじゃなければ何とでも言えるさ」ガリオンは恨めしげに言い返した。
「なるべくそのことを考えなければいいのだ」ベルガラスが忠告した。「なあに、すぐに済んじまうさ」
そこへ普段よりもいっそう険しい表情を浮かべたブランドが入ってきた。脇のドアから入ってきたかれはつかつかと玉座に歩み寄った。「〈要塞〉の門の前にニーサ人が来ております、陛下」ブランドは静かな声で言った。「サルミスラ女王の使者として、式典に臨席したいと申しておりますが」
「信じられないよ」ガリオンは〈番人〉の思いがけない告知にすっかり驚きながらたずねた。
「それほどでもないわ」彼女は答えた。「むしろおおいに考えられることよ。これは一種の外交上のはったりのようなものね。ニーサ人はかれらの女王の現状をあまり口外したくないんでしょう」
「どうしよう」ガリオンはたずねた。
「そいつも入れてやればいい」とベルガラス。
「ここにですか」ブランドはショックを受けたような声を出した。「よりによってニーサ人をこの広間に入れろというのですか。まさか本気でおっしゃってるんじゃないでしょうね」
「ブランドよ、ガリオンはいまや〈西の大君主〉なのだぞ」老人は言った。「西の国々といえば当然ニーサも含まれるではないか。別に連中と友好を結んで何の益があるわけではないが、最小限の礼はつくしておこうじゃないか」
ブランドの顔が不賛成の意でこわばった。「陛下のご決断は?」かれは直接ガリオンにたずねた。
「そうだな――」ガリオンはしばしためらった。「たぶん入れた方がいいと思うけれど」
「人前で口ごもるんじゃありません」ポルおばさんが厳しい口調で言った。
「ごめんよ」ガリオンは慌てて言った。
「それに謝るのも禁物よ」彼女はつけ加えた。「王さまは決して謝ったりしないものよ」
ガリオンは困ったような顔でポルおばさんを見た。そしてブランドの方を振り返った。「ニーサの使節に臨席するよう伝えてくれ」かれはどことなく相手をなだめるような口調で言った。
「ところでブランド」ベルガラスが脇から口を出した。「ことをあまり波立てないようにしてほしい。大使の資格で来ているニーサ人が不慮の死などとげようものなら、重大な外交問題になりかねんからな」
ブランドはいささか堅苦しく一礼すると、くるりと向きを変えて立ち去った。
「あそこまで言わなくてもよかったんじゃない、おとうさん」ポルおばさんがたずねた。
「積年の恨みというものはなかなか消えんものでね」ベルガラスが答えた。「ずばりと言ってやった方が、あとあとの誤解がなくていい場合もあるのさ」
蛇女王の大使が入ってきたとたん、ガリオンはあっと驚いた。何とそれはサルミスラの宮殿の宦官長、サディだった。どろんとした目の痩せぎすな男は頭を剃り、ニーサ人の慣例である青緑色に輝く長衣をまとっていた。宦官は玉座に進み寄ると、しなやかな動作で一礼した。
「リヴァのベルガリオン王へ、蛇人の女王にして永遠なるサルミスラよりご挨拶を申し上げます」かれは独特の低いものうげな女声であいさつした。
「よく来た、サディ」ガリオンはとおり一ぺんの返答をした。
「わたしどもの女王より、このよき日に心からのお祝いを申し上げたいとのことです」
「だが本当は喜んでなどいないんだろう?」ガリオンの口調がかすかにきつくなった。
「正確にはそうではありません」サディはいささかの動揺も見せずに答えた。「恐らくはきっと心からお喜びになったであろうという意味です。ただし女王にそれをわからせることができればの話ですが」
「女王はどうしているんだ」サルミスラ女王から受けた恐ろしい仕打ちを思い出しながらガリオンはたずねた。
「気難しくなりましたね」サディは穏やかに答えた。「別にさして変わったこともありません。幸いなことにいったん食欲が満たされれば一、二週間は寝ていますし。ただし先月脱皮したときは、ひどく不機嫌になりましたが」そう言ってかれは天をあおいだ。「いや、あれはひどいものでした」宦官は小声になった。「何しろそれが終わるまでの間、彼女は召使いを三人も噛んだのですから。むろん三人とも、即死しましたがね」
「そんなに凄い毒だったのか」ガリオンは仰天してたずねた。
「女王はいつだって毒のあるお方ですよ、陛下」
「ぼくが言ったのはそういう意味ではない」
「どうか、わたしのちょっとした冗談をお許し下さい」サディが言った。「まあ、噛まれた者たちのようすから見ると、なみのコブラの十倍は毒がありますね」
「女王はひどく不幸なのかい」ガリオンは恐ろしい姿に変身した女王に奇妙な同情を覚えた。
「それは何とも言いがたいですな、陛下」サディはきわめて客観的な口調で答えた。「蛇が何を考えているか、わたしどもにはわかりませんからね。それでも意思を伝えるすべを会得なされてからは、新しい姿にもすっかり満足されたようです。わたしたちは彼女の食欲を満たし、新しい体を清潔に保つよう常に気を配っております。女王も、機嫌の悪いときに噛みつく人間と鏡さえあれば、きわめて満足されているようですし」
「彼女はまだ鏡に自分の姿をうつしているのかい? もう自分の姿なんか見たくもないだろうに」
「わたしどもは蛇の姿に対しては、あなたがたといささか見方が違うのです」サディは説明した。「わたしたちはそれがむしろ魅力的な姿と思っていますし、ことに女王はこの上なく見事な蛇ですからね。新しい肌はきわめて美しく、彼女もそれを自慢にしているようです」かれはそう言うとポルおばさんの方を見てお辞儀した。「おひさしぶりです、レディ・ポルガラ」
「ひさしぶりね、サディ」彼女はそっけなくうなずいた。
「わが女王の国より心からの御礼を申し上げたいと思います」
ポルおばさんの片方の眉がけげんそうに上がった。
「女王自身ではなく、わたしどもの国よりの御礼です。あなた方の――何というか適切な内政干渉のおかげで、われわれの宮廷における職務はきわめて簡素化されたのです。もはや女王の気まぐれや、特別の食欲に悩まされることもなくなりました。わたしどもは現在、委員会によって国を統治しているので、もはや互いに毒を盛る必要もなくなりました。げんにこのわたしも、この何ヵ月というものまったく毒を盛られた形跡はありません。スシス・トールではすべて円滑に文明化が進みつつあります」かれは言葉を切ると、ちらりとガリオンの方を見て言った。「あわせてベルガリオン王のご即位に対してもお祝いを述べさせていただきたいと思います。しかし本当にご成長なされましたな。この前お会いしたときはまだほんの少年でいらしたのに」
「イサスはどうなったのだ」ガリオンは後の方の言葉を無視するように言った。
サディは肩をすくめた。「イサスですか? 相変わらず暗殺をなりわいとしているようですよ。まあ、いつの日かうつぶせの死体となって川に浮かぶのがおちでしょうな。ああいった輩の最期とはそういうものと相場が決まっておりますから」
そのとき広間のドアの向こうからいっせいにトランペットが鳴り渡った。ガリオンは思わず立ち上がった。口の中がからからに乾いていた。
重いドアが両側にさっと開き、トルネドラの近衛兵が二列縦隊になって入場してきた。鎧の胸当ては鏡のようにぴかぴかに磨かれ、兜につけられた長い深紅の羽根かざりがかれらの行進とともに揺れ動いていた。式典にトルネドラの近衛兵を参加させたことにブランドは激しい怒りを覚えていた。ヴァルゴンの要請でセ・ネドラ王女に護衛をつけることをガリオンが承知したことを知ってからというもの〈リヴァの番人〉はむっつり黙りこんだまま、いらいらと歩きまわっていた。ブランドはトルネドラ人に好意を持っていなかったので、セ・ネドラ王女を一人ぼっちで惨めたらしく入場させることで、皇帝の鼻をへし折ってやろうと待ちかまえていたのである。近衛兵の参列にその楽しみを台無しにされたかれの失望と不満は誰の目にもあきらかだった。いくらブランドに気に入られたくとも、公衆の面前で皇帝の娘を侮辱してかれと未来の花嫁の結婚の約束まで破ってしまう気はガリオンにはなかった。たしかにかれは経験不足の王かもしれないが、そこまで愚かではない。
ヴァルゴンに腕をとられて姿をあらわしたセ・ネドラは、頭のてっぺんからつま先まで皇帝の娘としての威厳を漂わせていた。ガリオンはあっけにとられて彼女を見守るばかりだった。たしかに〈ボー・ミンブルの協定〉では皇帝の娘は花嫁衣装で入場することになってはいたが、このように帝国の壮麗さを見せつけられようとはまったく予期していなかった。純白と金の糸で織られたガウンには小粒の真珠がちりばめられ、床に長くすそを引いていた。燃えるような髪は入念にカールされて、左側の肩に深紅色の滝のように流れ落ちていた。金色の頭飾りにつけられた短いベールは彼女の顔を完全に隠す役には立っていなかったが、柔らかい輝きを与えていた。彼女はきゃしゃで完璧で、この世のものとは思えないほど美しかったが、その目は緑色の瑪瑙《めのう》のように冷たかった。
セ・ネドラとヴァルゴンは連れ立って、威風堂々たる近衛兵の列の間をおごそかな足取りで近づいてきた。二人は玉座の前まで来るとぴたりと止まった。
落着きはらった顔のブランドは負けず劣らず堂々としたしぐさで、長子のブラロンより儀礼用の杖を受け取ると、その先で三回石の床を叩いた。「トルネドラ皇帝の娘御、セ・ネドラ王女のおなり」かれは轟きわたるような声で言った。「王女の拝謁を許されますか、陛下」
「王女の拝謁をみとめる」ガリオンは玉座の中でかすかに背筋をのばした。
「セ・ネドラ王女は玉座に近づいてよろしい」ブランドは高らかに言った。一見儀式めいた堅苦しさをよそおいながらも、かれは慎重に言葉を選び、いかにもトルネドラ帝国がリヴァ王のもとに請願にきたような印象を作り出していた。セ・ネドラの瞳が怒りの炎に燃え、ガリオンは心の中でうなり声をあげた。小さな王女はそれでも玉座の前の指定された場所まで歩み出ると、優雅にお辞儀をした。そのようすにはみじんの屈服も感じられなかった。
「王女に発言の許可を与える」ブランドは再び部屋中に聞こえる声で言った。一瞬、かっとなったガリオンはブランドを締め殺してやりたい衝動に駆られた。
頭をあげて立ちあがったセ・ネドラの顔は冬の海のように冷たかった。「ラン・ボルーン二十三世の娘にしてトルネドラ帝国の王女、わたくしセ・ネドラは条約と法の定めるところによりリヴァの王ベルガリオン陛下の御前に参上いたしました」彼女は高らかに述べた。「そしてわがトルネドラ帝国は〈ボー・ミンブルの協定〉において定められた義務をここに進んで果たすため拝謁を賜るものでございます。どうか他の諸国がトルネドラの周到な振る舞いを見習い、その義務を果たすさまを鑑となされますように。わたくしはここに自分が適齢期に達した未婚の処女であることを公言いたします。国王陛下におかれましては、わたくしを妻となさることに同意なされますでしょうか」
ガリオンの返答は入念に考え抜かれたものだった。かれの内なる声が結婚生活の不和を避けるための方法を伝授してくれていた。かれは立ち上がって宣言した。「リヴァの王ベルガリオンはセ・ネドラ王女を妻としてまた女王として迎えることをここに承諾する。加えて彼女がわたしとともに玉座の力の及ぶ全リヴァ領土における統治者であることもここに宣言するものである」
観衆のなかからいっせいに驚きのあえぎが起こり、同時にブランドの顔が紙のように真っ白になった。セ・ネドラはいぶかしげにガリオンを見つめていたが、こころなしか瞳の色が和らいだようだった。「陛下のご好意、まことに恐れ多く存じます」彼女は優雅なお辞儀で答えたが、その声からもいくぶんかとげとげしさが失われたようだった。王女は横目で素早く脇でぶつぶつ言うブランドを見やった。「よろしければ退がらせていただきたいのですが」彼女はにこやかな声で言った。
「退がってよろしい」ガリオンは玉座にどしんと腰かけながら言った。かれはいつのまにかびっしょり汗をかいていた。
王女はいたずらっぽいまなざしを浮かべて腰をかがめると、再び近衛兵を二列に従えて広間から退場した。
巨大なドアが彼女の背後で閉まったとたん、居合わせた人々の間に怒りのざわめきが広がった。もっとも多くささやかれたのは狂気の沙汰≠ニいう言葉だった。
「このような途方もない話は聞いたこともない」ブランドが抗議した。
「まったく例がないというわけじゃないよ」ガリオンは弁解するように言った。「現にアレンディアではコロダリン王とマヤセラーナ王妃の二人で統治を共有しているという話だ」
ガリオンはぴかぴかの鎧に身を包んだマンドラレンに助け舟をもとめるような視線を送った。
「陛下のおっしゃることはまことであります、ブランド卿」マンドラレンが言った。「わが国において王権が単一の人間の手にないからと言って、何らさしさわりのないことはわたしが保証いたします」
「それはアレンディアの話だ」ブランドはなおも異議を唱えた。「ここはリヴァなのだ。情況がまったく違う。いかなるアローンの国々といえど女性が統治するなどという例は聞いたことがない」
「だが、もしそこになんらかの利点があるようならば、しばらく様子を見てみても害はあるまい」ローダー王が言った。「現にわたしの妻を例にとれば、しばしばドラスニアの慣習が定めるよりもはるかに国事にたずさわっておる」
ブランドは非常な努力の末に冷静さをいくぶんか取り戻したようだった。「陛下、よろしければ退がらせていただきたいのですが」
「退がってよろしい」ガリオンは静かに言った。どうやら事態はガリオンが考えたとおりにいかないようだった。ブランドの頑迷さはかれにとって思ってもみなかった障害だった。
「なかなか興味深い意見だったわ」ポルおばさんはそっとかれに言った。「でもあんなふうに人前で公言する前に、なぜ誰かに相談しなかったの」
「トルネドラとの関係を強固なものにしておいた方がよかったんじゃないのかい」
「たしかにそのとおりよ」ポルおばさんは言った。「あの声明がよくなかったと言ってるわけじゃないのよ、ガリオン。ただああいうことをする前には、何人かの人たちにあらかじめ断っておいた方がいいわ。おとうさんたら、何を笑っているのよ」玉座にもたれたまま、とりつかれたようにげらげら笑う老人へ、彼女は非難するような目を向けた。
「いや、熊神教の信者がさぞかしかんかんになって怒ってるだろうと思ってな」老人はしゃべりながらもなお笑い続けていた。
彼女の目がかすかに見開かれた。「まあ、すっかりそのことを忘れていたわ」
「連中はこの声明をこころよく思わないだろうね」ガリオンは言った。「特にセ・ネドラはトルネドラ人だし」
「間違いなく、烈火のごとく怒り狂っておるだろうて」魔術師は笑いにむせびながら言った。
続く何日間かは、〈要塞〉の殺風景な広間も来賓や各国の使節などで、賑やかな色彩にあふれかえった。かれらは談笑し、噂話を交わし、人目につかない片すみで駆け引きに忙しかった。人々がたずさえてきた豪華なさまざまの贈り物が、巨大な謁見の間の一方の壁にそって置かれたテーブルの上にずらっと並んでいた。だが当のガリオンにはそれを見にいったり、あけたりする暇はなかった。かれは相談役とともに、トルネドラ大使とその一行を相手に婚約の細かい取り決めをつめる作業のために、一日中自室にこもっていた。
ヴァルゴンはかれの流儀に従って、ガリオンの言葉じりをとらえては、最大限の譲歩を引き出そうとしていた。一方ブランドはセ・ネドラの権利を少しでも削りとろうと、あれこれ条項や規定をつけ加えようと躍起になっていた。二人が押し問答するのをじっと傍観するだけのガリオンはしだいに窓の外を見る回数が増えていった。リヴァの空はどこまでも青く、風に流されたふわふわの白い雲が、足早に通り過ぎていくのが見えた。島の殺風景な岩山の上にも春の最初の緑が芽吹いていた。開いた窓から風に乗ってかすかに羊飼いの娘が群れを呼ぶ歌が流れてきた。娘の声には生のままの純粋さがあり、その歌い方はまるで百リーグ以内に誰も聞いている者がいないかのように屈託がなかった。最後の調べが消えていくと同時にガリオンは深いため息をついて退屈な交渉の世界に注意を戻すのだった。
だがこの春浅い日々、かれはさまざまなことがらに注意を奪われていた。ちぎれたマントの男をかれ自身で探すことは不可能なので、かれはレルドリンに調査を依頼せざるを得なかった。だがそのレルドリンも常に当てになるとはかぎらず、暗殺容疑者の捜索という仕事は血の気の多いアストゥリアの若者の想像力にすっかり火を注ぐ結果になっていた。若者はこそこそと疑わしげな目つきで〈要塞〉を忍び歩いては、何の収穫もなかったことを陰謀めかして耳打ちするのだった。レルドリンに打ち明けたのは恐らく失敗だったのかもしれないが、他に頼れる人物がいなかった。もしこれを他の友人たちに打ち明けようものなら、かれらは一様に驚きの悲鳴をあげずにはいられないだろう。そうなったらすべてが表沙汰になってしまう。かれは何としてもそれだけは避けたかった。誰が何の目的で短剣を投げたのかがわかるまで、かれは暗殺者に対する処遇を決めることができなかった。恐らくは単なる私怨以上の理由があるとも考えられる。レルドリンなら口の固さにおいては絶対に信用ができるのだ。もっとも〈要塞〉中の追跡の許可を与えられた若者が、職務を逸脱する危険が多少あることは否めないが。レルドリンの手にかかるとほんのささいなできごとでもたちまち大災害を引き起こしてしまうので、ガリオンはいつの日か暗闇から友人の無防備な首に別の短剣が投げつけられるのではないかと本気で心配せざるを得なかった。
婚約の儀式を祝うために島を訪れた来賓のなかには、ザンサ女王の代理として参列するセ・ネドラのいとこのゼラがいた。はじめは内気だったドリュアドの乙女も、自分が若い貴族たちの関心のまとになっていることを知ったとたん恥じらいを捨てた。
ザンサ女王からの結婚の贈り物は、ガリオンの目にはいささか奇妙にうつった。ゼラの手から渡されたのは、一見何のへんてつもない葉に包んだ、芽を出しかけた二個の木の実だった。だがセ・ネドラはこの贈り物をひどく喜んだ。彼女はただちに二個の木の実を土に埋めるのだといって聞かず、私室に隣接する小さな彼女の庭園に走っていった。
「なかなかすてきな贈り物だね」じめじめした黒土にひざをついて、ザンサ女王の贈り物を埋めるための穴をせっせと掘る小さな王女を見守りながらガリオンは疑わしそうに言った。
セ・ネドラはきっとかれを見上げた。「失礼ですが陛下にこの贈り物の意味がおわかりになるとは思いませんわ」彼女はガリオンをなじるときの、あのわざとらしく丁寧な言葉遣いをした。
「やめてくれ」ガリオンは不機嫌な声で言った。「陛下なんて呼びかたじゃなく、ぼくにはまだちゃんとした名前があるんだからね。きみがそれを忘れるはずがない」
「陛下がどうしてもとおっしゃるのなら」彼女はつんとして言った。
「国王の名において命じる。ところで、こんな木の実が何でそんなに大事なものなんだい」
彼女は哀れむようなまなざしでかれを見た。「話したってどうせあなたにはわかりはしないわよ」
「きみがちゃんと話してくれなければわからないよ」
「あら、そう」彼女の口調は腹だたしくなるほど高慢だった。「片方ばわたし自身の木のもので、もう一方はザンサ女王からよ」
「それで?」
「ねえ、まったくどうしようもないお馬鹿さんだと思わない?」王女はいとこに向かって言った。
「セ・ネドラ、かれはドリュアドじゃないのよ」
「たしかにそのようだわ」
ゼラはガリオンの方を向いて言った。「正確に言えば、これはわたしの母から贈られたものではありません。これは木自身からの贈り物なのです」
「何でそれを最初に言ってくれなかったんだ」ガリオンは非難がましい口調でセ・ネドラに言った。
王女はふふんと鼻を鳴らし、土を掘ることに再び没頭した。
「まだ若木のうちにセ・ネドラが二つをたがいに巻きつけさせるのです」ゼラはさらに説明を続けた。「若木はからみあったまま成長して、たがいに抱きあうようにして大きな一本の木に成長します。これはいわばドリュアドにとっての結婚の象徴なのです。二つのものがやがてひとつになる――ちょうどあなたとセ・ネドラのように」
「そればかりはまだわからないわね」セ・ネドラは移植こてを忙しく動かしながら再び鼻を鳴らした。
ガリオンはため息をついた。「そこまで木が忍耐強いといいんだけれどね」
「木というものは、たいそう忍耐強いものですわ、ガリオン殿」ゼラはそう言ってから、セ・ネドラにわからないようにそっと手招きした。ガリオンは彼女のあとについて庭園の片すみへ行った。
「口ではあんなこと言ってますけれど、いとこはあなたを愛しているのですわ」ゼラは静かな声で言った。「あの人は絶対に認めないでしょうけれど、本当にあなたが大好きなんです。わたしにはよくわかるんです」
「だったら何であんなに突っかかってくるんだろう」
「セ・ネドラは人に強制されるのが大嫌いだからですわ」
「別にぼくが強制してるわけじゃないのに、どうしてぼくにばかり当たるんだ」
「それはあなたしか当たる人がいないからじゃありません?」
ガリオンは今までそんなことを思ってもみなかった。かれはそっと庭園を後にした。ゼラの言葉は、かれの抱えこんでいる問題のひとつがやがて解決されるかもしれない可能性を与えてくれるものだった。むろん最初のうちはふくれ面をしたり怒ったりするだろうが、やがて打ちとけてくれる日がくるだろう――十分にかれを悩ませたことがわかれば。もしかしたらそれは、ガリオンが悩んでいることをもっとあからさまに示せばなお早まるかもしれない。
だがその他の問題については何らの重要な進展もみられなかった。かれはやはり軍を率いてカル=トラクと戦わなければならないし、ベルガラスはいまだに力が回復した兆しは見せていなかった。そしてガリオンが知るかぎり、今も〈要塞〉のどこかで暗殺者が刃をといでいるかもしれないのだ。かれはため息をつくと、ひとり心ゆくまで悩むことのできる自室に引き返すことにした。
それからしばらくしてポルおばさんの部屋へ来るようにとの伝言があった。ガリオンがすぐに部屋に向かうと、そこには火のそばで相変わらず針を動かし続けているポルおばさんの姿があった。その向かい側ではおなじみの着古した衣服をまとったベルガラスが、座り心地のよい深い椅子にゆったりと腰をおろしていた。老人は足を台座に乗せ、片手にエールのジョッキを握っていた。
「ポルおばさん、ぼくに用があるんだって?」かれは部屋に入るなりそう言った。
「ええ」彼女は答えた。「まあ、お掛けなさい」そう言ってからおばさんはガリオンをじろじろ見まわした。「まだ、あんまり王さまらしく見えないわね。どう? おとうさん」
「もう少しやつに時間をやった方がいいぞ、ポルよ」老人は答えた。「何といってもまだ王になってから間がないのだからな」
「二人ともずっと知ってたんだろう?」ガリオンは非難するように言った。「ぼくが誰だってことを」
「もちろんよ」ポルおばさんはあの腹だたしくなるほど落着きはらった口調で答えた。
「王さまらしくしてほしかったんなら、何でもっと早く教えてくれなかったんだい。そうしてくれればぼくだってもう少し心の用意ができたのに」
「だがそれは前にも話しあったはずだぞ」ベルガラスが言った。「それもかなり前のことじゃなかったかね。じっくり考えてみさえすれば、なぜそれを秘密にしなければならなかったかおまえにだってわかるはずだ」
「そりゃ、そうかもしれないけれど」ガリオンはいささか疑わしげな声で言った。「あまりにも多くのことがいっぺんに起こり過ぎたんだ。まだ魔術師だということにも慣れていないというのに、今度は王さまだというんだから。おかげでぼくもすっかり調子が狂ってしまった」
「今に慣れるわよ、ガリオン」ポルおばさんは針を動かす手をとめることなく言った。
「早くこいつに護符を渡しておいた方がいいぞ。ポル」とベルガラス。「でないと今にも王女がやってくるぞ」
「今そうするつもりだったのよ、おとうさん」彼女は繕いものを脇に置きながら言った。
「いったい何のことを言ってるんだい」ガリオンはたずねた。
「今に王女があなたに贈り物を持ってくるわ」ポルおばさんが言った。「指輪よ。少しばかりけばけばしいかもしれないけれど、適当に喜んだふりをしてちょうだいね」
「ぼくから何かお返しをしなくていいのかい」
「それだったらもうここに用意してあるわ」彼女は脇のテーブルから小さなビロードの箱を手に取った。「これを王女にあげてちょうだい」そう言っておばさんはガリオンに箱を手渡した。
箱のなかにはガリオンのものと比べてやや小ぶりな銀製の護符が入っていた。その表面には〈アルダー谷〉に生えている巨大な木を模したきわめて精巧な彫りものがほどこされていた。木の枝々のなかに王冠の図案が織りこまれていた。ガリオンは右手に護符を持って、かれのものと同じような力があるのかどうかを見きわめようとした。たしかに何かが感じられるのだが、かれのそれとはまったく異なった感じがした。
「ぼくらの持っているのとは違うようだね」かれは考えた末、こう言った。
「そうだ」ベルガラスが答えた。「もっともまったく違うというわけではないがな。セ・ネドラは魔術師ではないので、われわれと同じものを持つことはできないのだ」
「まったく違うわけじゃないと言ったけれど、じゃあやっぱりこれにも何らかの力があるのかい」
「まあ、ある種の洞察力を与えるとでも言っておこうか」老人は答えた。「ただし使い方を覚えるまで辛抱強ければの話だが」
「ぼくたちが話している洞察力というのは具体的になにをさすの」
「普通だったら見ることも聞くこともできないものが知覚できるようになるということさ」
「王女が来る前にぼくが知っておいた方がいいことはあるかい」
「単に先祖伝来の家宝だといえばいいわ」ポルおばさんが言った。「じっさい、それは妹のベルダランのものだったんですもの」
「そんな大事なもの受け取れないよ」ガリオンは反対した。「セ・ネドラには何か別のものをやることにする」
「いいえ、ベルダランがぜひとも彼女に受け取ってほしいと言ってるのよ」
ガリオンはとうの昔に死んだ人間を、まるで生きている者のように言うおばさんの口ぐせにいささか当惑して、それ以上何もいわなかった。
そのときドアに軽いノックの音がした。
「お入りなさい、セ・ネドラ」ポルおばさんが言った。
小さな王女は首の部分をあけた緑色の質素なガウンをまとい、顔にはいくぶん慎み深い表情を浮かべていた。
「もっと火のそばにお寄りなさいな、セ・ネドラ」とポルおばさん。「この時期は夜になるとけっこう冷えるのよ」
「リヴァではいつもこんなに寒くてじめじめしているのかしら」セ・ネドラは火に近づきながらたずねた。
「ここはトル・ホネスよりはるかに北なんだからね」ガリオンがいささか辛らつな口調で言った。
「そんなことわかってるわよ」彼女の声にはかすかにとげがあった。
「普通、口げんかを始めるのは結婚してから後と相場が決まっておったもんだが」ベルガラスがおもしろそうに言った。「最近ではしきたりも変わったというわけか」
「あら、今から練習をしているだけですわ」セ・ネドラはいたずらっぽく答えた。「結婚してから後のために」
老人は笑い出した。「いやはや、きみだってなろうと思えばなかなか魅力的なかわいいお嬢さんになれるんじゃないか」
セ・ネドラはわざとらしく一礼した。それからガリオンの方を向いた。
「トルネドラの娘はみな未来の夫に価値のある婚約の贈り物をすることになってるのよ」そう言って彼女は光り輝く宝石で飾りたてた、重そうな指輪をガリオンに見せた。「これはトルネドラ歴代皇帝のなかでももっとも偉大なラン・ホルブ二世のものだったのよ。この指輪をはめればあなたも少しは王さまらしく見えると思うわ」
ガリオンはため息をついた。またいつもの調子の会話になりそうな気配があった。「喜んで指輪を受け取るよ」かれはなるべくあたりさわりのない口調で言った。「それからきみにはこれを上げたい」そう言いながらかれはセ・ネドラにビロードの小箱を手渡した。「これはポルおばさんの妹で、〈鉄拳〉リヴァ王の王妃だった人が身につけていたものなんだ」
セ・ネドラは箱を受け取り、ふたを開けた。「まあ、ガリオン」彼女は感嘆の声をあげた。
「何てすばらしいんでしょう」彼女は護符を手に取ると、炎の光にあてて一回転させた。「この木なんてまるで本物みたい。今にも葉の香りがしてきそうよ」
「それはどうも」ベルガラスが控えめな声で答えた。
「あなたが作ったの?」小さな王女はびっくりしたように言った。
老人はうなずいた。「ポルガラとベルダランがまだ幼かったころ、われわれは〈谷〉に住んでおった。だが〈谷〉には銀細工師があまりいなかったので、わたしがこの手で作ってやらねばならなかったのさ。まあ、細かい部分についちゃ、多少アルダーの助けを借りたがね」
「何てすてきな贈り物なんでしょう、ガリオン」少女が心の底から喜んでいるのを見たガリオンは、再び未来に明るい希望を見たような気がした。
「つけるのを手伝ってちょうだい」セ・ネドラは一方の手で深紅色の髪をたくし上げ、もう一方の手で鎖の開いた両端を持ってかれに渡した。
「あなたはこの贈り物を受け取るわね、セ・ネドラ」ポルおばさんが声に妙な強調をこめて言った。
「ええ、もちろんよ」小さな王女は答えた。
「すなおにあなた自身の意志から受け取るのね」ポルおばさんはじっと王女の瞳をのぞきこむようにして再度たずねた。
「わたしは喜んでこの贈り物を受け取るわ」セ・ネドラは答えた。「早くつけてちょうだいガリオン。しっかりとめてね。途中で落っこったりしたらことだから」
「そんな心配はまずないと思うがね」ベルガラスは言った。
奇妙な形の溜め金をしめたとたん、ガリオンの指はかすかに震えた。かすかなかちりという音がして留め金がとまると同時に、びりびりするような感触が指先に伝わってきたのだ。
「その護符を手に取るのよ、ガリオン」ポルおばさんが命じた。小さな王女は顔をあげ、ガリオンは言われたとおりに右手で護符を持った。ただちにポルおばさんとベルガラスの手がその上に重ねられた。ガリオンはかれらの手を通じて奇妙な感触がセ・ネドラの首の護符に流れていくのを感じた。
「さあ、これであなたはわたしたちと結ばれたのよ」ポルおばさんは静かに言った。「永遠に切れることのない絆でね」
セ・ネドラはきょとんとした表情で彼女を見つめていたが、やがてその瞳が恐ろしい疑惑にゆっくりと見開かれていった。「今すぐにこれをとってちょうだい」王女は鋭い口調でガリオンに命じた。
「ガリオンにやらせたってできやしないさ」老人はそう言うと、再びどっかと椅子に腰をおろしてエールのジョッキを持ちあげた。
セ・ネドラは満身の力をこめて両手で鎖をひっぱった。
「そんなことをしても首を傷つけるだけよ」ポルおばさんがやんわりと忠告した。「その鎖は壊すことも切ることも抜くこともできないのよ。これでもう落とす心配はしなくてもすむでしょう」
「あなたがやったのね」王女はガリオンに怒りをぶつけた。
「ぼくが何をしたっていうんだ」
「こんな奴隷の鎖をわたしにつけたりしたことよ。お辞儀するだけじゃ満足できなくてこんな鎖でつないだりしたんでしょ」
「ぼくは知らなかったんだ」
「嘘つき!」王女は叫んだ。そしてすぐに踵を返すと激しく泣きじゃくりながら自分の部屋へ走り去った。
[#改ページ]
15[#「15」は縦中横]
ガリオンはすっかりふさぎこんでいた。儀式と退屈な会議にあけくれる一日を考えるだけでかれの心はすっかり憂うつになった。そこでかれは早く起きて、腹だたしいほど馬鹿ていねいな秘書官がかれの新たな一日を束縛する長々しいリストを持って登場する前に、ひそかに寝室から抜け出そうともくろんだ。秘書官が単に自分の職務を忠実に行なっているだけだと知りながらも、ガリオンはこの毒にも薬にもならない人物をひどくきらっていた。王の一日は分刻みの予定から成り立っており、それを担当するのが秘書官の仕事だった。毎朝、朝食のあとにうやうやしいノックの音とともに秘書官があらわれ、一礼すると、若い王の分刻みの予定表をえんえんと読みあげるのだった。かれ自身の葬式をも含めた日々の予定のもとになる一生涯の大予定表が、この建物のどこかに厳重に鍵をかけられて、保管されているのではないかとガリオンは苦々しく考えていた。
だが、その朝は堅苦しい儀式やうんざりする会議を考えるにはもったいないような、見事な夜明けだった。〈風の海〉からのぼった太陽が、切りたった岩山の雪原をほんのりピンク色に染め上げ、街をのぞむ深い谷はもやのかかった青い影に閉ざされていた。小さな庭園から漂ってくる心を駆りたてるような春の匂いに、かれはたとえ一時間でもいいから脱出しようと決心した。かれは急いで長衣とタイツを身につけ、柔らかいリヴァ製の長靴に足を突っこんだ。そして手持ちの衣装のなかから一番王者にふさわしくないと思えるものを慎重に選び出した。剣を腰につけるために一回立ち止まっただけで、かれはそそくさと部屋を抜け出した。できれば護衛もつけたくなかったが、それだけは用心のために思いとどまった。
暗い廊下でかれを暗殺しようとした犯人についての捜査はすっかり暗礁に乗り上げていた。レルドリンとガリオンはリヴァ人のほとんどがマントの修理を必要としていることを知った。灰色のマントは儀礼用のものというよりは、寒さをふせぐためにはおるたぐいのものなのである。それは頑丈かつ実用的なふだん着であり、そのほとんどは修復しようもないほどひどい状態で放置されているのが常だった。さらに悪いことに、人々が次々に重いマントを脱ぎ捨てる春となった今、狙撃者の正体を知る唯一の手がかりは、どこかの衣装戸棚にしまいこまれたまま忘れ去られている可能性が強かった。
ガリオンは背後に適度な距離をおいて二人の鎧姿の護衛をしたがえ、むっつりと考えこみながら〈要塞〉のまだ静かな廊下を歩いていった。この暗殺計画がグロリムによるものではないことはあきらかだ。もしそうだったら、かれらの思念を感じることのできるポルおばさんの特殊な能力がただちにそう告げていたに違いない。あらゆる可能性を考えあわせてみても、これが外国人の手によるものでないこともたしかである。島にいる外国人でそれらしい人物といえばほとんど皆無にひとしかった。従ってこれは間違いなくリヴァ人の手によるものなのだ。だが、なぜ千三百年も待ち続けた王をわざわざ殺さねばならないのか。
考えれば考えるほどわけがわからず、かれはため息をつくと思いを他に転ずることにした。かれはもう一度もとのガリオンに戻りたかった。それこそかれが願ってやまないものだった。どこかの安宿で目覚め、夜明けの鋼色の光のなかをたった一人で丘の上に馬を走らせ、頂から下に広がる風景を心ゆくまで楽しむことができたらどんなにいいだろう。ガリオンは再びため息をついた。一国を代表する人間になったかれにそんな自由が許されるはずがなかった。もう二度と自分の時間というものがありえないことをガリオンは痛いほどよくわかっていた。
開いた戸口をまたごうとしたとたん、かれの耳に聞き覚えのある声が飛びこんできた。「罪は人の心に迷いが生じたとたんに忍びこんでくるのだ」それはレルグだった。ガリオンは身振りでそっと護衛を押しとどめた。
「どうして何でもかんでも罪にしなくてはならないの」タイバのたずねる声がした。二人はどういうわけか、いつもいっしょだった。ラク・クトルの洞穴の生ける墳墓からレルグが彼女を救い出したときから、二人はずっと行動をともにしていた。だがレルグもタイバもそのことにまったく気づいていないらしかった。どちらか一方が引き離されたりすることがあれば、タイバだけでなくレルグの顔にも不幸せそうな表情が浮かぶのにガリオンは気がついていた。二人は何かうかがい知れない力で引かれあっているようだった。
「この世は罪に満ちている」レルグは声を張りあげた。「だからこそわれわれは常にそれらから身を護らねばならない。いかなる誘惑に対しても魂の純潔を護るために油断を怠ってはならないのだ」
「ずいぶん退屈なことでしょうね」タイバの声はおもしろがっているようすだった。
「おまえは教えを受けにきたのではないのか」レルグは非難するように言った。「もしあざ笑うためだけにきたというのなら、おれはただちにこの場から立ち去るぞ」
「まあ、とにかく座って下さらないこと。レルグ」彼女は言った。「そんなふうにあたしの言うことにいちいち腹をたてていたって始まらないでしょ」
「おまえは宗教というものについて考えたことはないのか」しばらくしてからレルグが口を開いた。その声には純粋な関心がこもっていた。
「奴隷の身では、宗教といえば死を意味する言葉だったの。それは自分の心臓を切り裂かれることなのよ」
「それはグロリムの悪習に過ぎない。おまえたちの神はいないのかと聞いているんだ」
「奴隷の檻にはそれこそあらゆる国々の人々がいて、みんなでそれぞれの神に祈っていたわ――死ぬことをね」
「おまえの国ではどうだったんだ? おまえ自身の神は誰なのだ」
「マラという名前の神だそうよ。もっともかれがあたしたちを見放してからは、祈ることもなくなったけれど」
「神を非難するなどというのは人間にあるまじき行為だ」レルグはしかつめらしく言った。
「人の義務はその神を崇め、祈ることにある――たとえそれが聞きいれられなくとも」
「それなら神の人間に対する義務はどうなのかしら」彼女は辛らつな口調で切りかえした。
「神だって人間と同じように怠慢だということはあり得ないのかしら。自分の息子が奴隷にされたり虐殺されたりするのを何もいわずに眺め、自分の娘たちが主人の歓心を買った人物に与えられるのを――ちょうどあたしのように――黙って許しているのは神の怠慢というべきじゃなくて?」
レルグはこの苦痛に満ちた質問に答えようと必死にあがいた。
「あなたはこれまでずいぶん庇護された人生を送ってきたんだと思うの、レルグ」彼女は言った。「あなたは受難ということに対してとても狭い考えを持っているわ。神の名前のもとに、人が人にどんなにひどいことができるかわかっていないのよ」
「おまえは自殺するべきだったんだ」かれはなおも言いはった。
「いったい何のために」
「むろん堕落しないためにだ」
「あなたって何もわかっていないのね。あたしが自殺しなかったのは、死にたくなかったからよ。たとえ奴隷であろうと生きているのは楽しいし、死ぬのはつらいのよ。あなたの言う堕落なんて取るに足りないものだわ――それに全部が全部不愉快なものとはかぎらないのよ」
「この罪深い女め!」かれは激しくあえいだ。
「あなたはそのことを気にしすぎるわ、レルグ」彼女は言った。「たしかに残虐は大いなる罪だわ。無慈悲もそうだわ。でもその他の小さなものについても罪だといいきれるのかしら。あたしにはそうは思えないのよ。あたし、あなたのことが不思議でならないわ。本当にウルはあなたの考えているような厳しく容赦ない神なのかしら。本当にあんなに祈ったり、おはらいをしたり、はいつくばったりすることを望んでいるのかしら。それともあれはすべて神から隠れるためのまやかしなの? 声高に祈りを唱えて、頭を地面にすりつけていれば心のうちを見透かされることがないと思っているのかしら」
レルグは締め殺されるようなうめき声をもらした。
「もし神が本当に民を愛しているのなら、かれらの生活を喜びに満ちたものにしようとするはずよ」タイバは容赦なく続けた。「でもあなたはその喜びを否定するんだわ――それはたぶんあなたが恐れているからじゃないかしら。レルグ、喜びは罪とは違うわ。喜びは愛のひとつの形なのよ。神さまだって認めて下さるはずだわ――たとえあなたがどんなに否定しようと」
「おまえは骨の髄から堕落しきっているんだ」
「ええ、そうかもしれないわ」彼女はあっさり言ってのけた。「でも少なくともあたしは人生をまっこうから見つめているつもりよ。怖いとも思わなければ、逃げ隠れしようとも思っていないわ」
「何でこんなことをするんだ」レルグの声には痛ましい響きさえあった。「何でおまえはこうやっておれにつきまとっては、そんなあざけるような目で見たりするのだ」
「あたしにもわからないのよ」途方にくれたような声だった。「本当のことを言ってあなたがそんなに魅力的だとは思わないわ。ラク・クトルを脱出してから、あなたよりももっと魅力的な殿方にだってごまんとお目にかかっているわ。たしかに最初のうちはわざとあなたをいらいらさせたり、怖がらせたりするのがおもしろかったの。あたしはそれを楽しんでいたけれど、やがてそれだけじゃないことがわかったのよ。もちろんあたしの言ってることはむちゃくちゃだわ。あなたにはあなたの、あたしにはあたしの生き方というものがあるわ。それでもあたしはあなたといっしょにいたくてたまらないの」彼女はここで言葉をとぎらせた。「レルグ、どうしても答えてほしいことがあるの――どうか嘘を言わないでね。あなた本当にあたしがどこかへ行ってしまって二度と戻ってこなければいいと思ってるの」
長く、苦悩に満ちた沈黙が流れた。「ウルよ、どうかわたしを許したまえ!」かれはしぼり出すようなうめき声をあげた。
「むろん神はお許しになるわよ、レルグ」彼女は男を安心させるように優しく言った。
ガリオンは急いで戸口から身をひくと、そっと廊下を急いだ。前にはわからなかったものが、今ようやくはっきりした形をとり始めようとしていた。(これもきみの仕組んだことなんだろう?)かれは心のなかでたずねた。
(もちろん、そうだ)乾いた声が答えた。
(でも何でよりによってあの二人を?)
(それが宿命だからだ、ベルガリオン。何も気まぐれでやってるわけではない。われわれはみな宿命のままに動かされているのだ――このわたしとても同じことだ。本当のことをいえば、レルグとタイバのことはあまりおまえに知らせたくなかったのだ)
ガリオンは胸にちくりと痛みが走るのを感じた。(そうだったのか。ぼくは――)
(わたしの関心がおまえだけの上にあると、自分だけが世界の中心だと思っていたのだろう? むろんそうではない。おまえのことと同じように重要なものが他にもこの世にはあるのだ。そしてレルグもタイバもその中のひとつに深くかかわり合っているのだ。だがこの件に関してはおまえの役割など微々たるものに過ぎない)
(でもあの二人がいっしょになったら不幸になることは目に見えているじゃないか)ガリオンは非難するように言った。
(そんなことは問題にもならん。あの二人がいっしょになることは宿命なのだ。もっともこの件に関してはおまえの見込み違いだぞ。たしかに初めのうちはいろいろ葛藤があるかもしれないが、それさえ克服すれば二人は幸せになるだろう。宿命に従えば、必ずそれなりの応報はあるのだ)
ガリオンはしばらくそのことにこだわっていたが、やがてあきらめた。かれ自身の問題がふたたび思考に割りこんできた。かれはいつも悩みを抱えているときにそうするように、ポルおばさんをたずねることにした。彼女は自室の居心地のいい暖炉の火の前で、香りのよいお茶をすすりながら窓の外を見つめていた。ばら色の曙光が、街を見おろす雪原をあかあかと染め上げていた。「まあ、ずいぶん早いのね」彼女は部屋に入ってきたガリオンを見ながら言った。
「相談したいことがあったんだ」ガリオンは言った。「でもおばさんと話すには、予定表を持った秘書官が来る前にこうして部屋を抜け出すしかなかったのさ」かれはどしんと椅子に腰を落とした。「まったくぼく自身の時間なんて一分もありゃしないんだから」
「あなたがそれだけ重要な人間になったからでしょ」
「ぼくが頼みもしなかったのに」そう言いながらガリオンは憂うつそうに窓の外を見やった。
「ところで、おじいさんの具合はもう良くなったんだね?」だしぬけにかれは聞いた。
「誰がそんなことを言ったのかしら」
「だってあの日、セ・ネドラに護符を贈ったときにぼくはおじいさんの力のようなものを感じたんだ」
「あれはほとんどあなたの力によるものだったのよ」彼女は答えた。
「でも確かに何かを感じたんだよ」
「じゃあ、わたしのものでしょう。おじいさんの力は本当に微々たるもので、果たして役にたったかも怪しいものだわ」
「でも何か確かめる方法があるはずだ」
「その方法はただひとつしかないわ、ガリオン。それは実際力を出させることよ」
「じゃあ、おじいさんをどこかへ連れていって試させてみたらどうだろう――たとえば何か小さなもので」
「でもどうやってそれを説明するの」
「それじゃ、おじいさんはまだ知らないの」ガリオンは慌てて座り直した。
「もしかしたら気づいてるかもしれないけど、怪しいもんだわね」
「まだ話してなかったのかい」
「当然でしょう。もしおとうさんが自分の力に疑いを持つようなことがあったら、すっかり気落ちしてしまうわ。そんなことになったらもうおとうさんは魔術師としておしまいよ」
「どういうことかよくわからない」
「大切なのは自分に力があることを自覚していることなのよ。もしそれに疑いを抱こうものなら、もう力を出すことはできなくなるの」
ガリオンはしばらく考えてから言った。「よくわかったよ。でもそれは少し危険すぎるんじゃないか。もし本当に緊急事態が起こって、おじいさんが力を出そうとしたらだめだったなんてことになるかもしれない」
「そうなったらわたしとあなたとで何とかするしかないわ」
「おばさんはずいぶん冷静なんだね」
「むやみやたらにあせってもどうにもなりはしないわよ、ガリオン」
突然ドアがばたんと勢いよく開き、ライラ王妃が足音も荒く飛び込んできた。彼女の髪の毛は一方にかしぎ、王冠は片耳までずり落ちていた。「もう、わたし我慢できないわ、ポルガラ」彼女は怒りに燃えていた。「もう絶対に許せないわ。あなたから何とか言ってやってちょうだい。あら、陛下どうも失礼いたしました」ぽってりした王妃はようやくガリオンの姿に気づいた。「ちっとも気がつきませんでしたわ」そう言うと彼女は優雅にお辞儀した。
「おはようございます、妃殿下」ガリオンはあわてて立ち上がって一礼した。
「いったい誰に何を言ってほしいの、ライラ」ポルおばさんがたずねた。
「アンヘグよ。あの人ったらわたしの哀れな夫をつかまえて、毎晩のように二人で酒盛りしてるのよ。おかげでわたしのフルラクは次の朝、枕から頭すら上げられないありさまよ。あのチェレクの野蛮人はわたしの夫を殺す気なんだわ」
「アンヘグ王はあなたのご主人が好きなのよ。あの酒盛りはかれなりの友情の表現なのよ」
「だったらお酒抜きでやってほしいわ」
「わたしからアンヘグ王に話しておくわ」ポルおばさんは王妃に約束した。
ようやく怒りの鎮まった王妃は、ガリオンにお辞儀して出ていった。
ガリオンがベルガラスの衰弱を再び問題にしようとしたとたん、ポルおばさんの侍女がレディ・メレルの来訪をつげた。
バラクの妻は憂うつそうな顔で部屋に入ってきた。「おはようございます、陛下」彼女はおざなりに挨拶した。
ガリオンは再び立ち上がって礼儀正しく一礼した。かれはいいかげんこのやりとりにうんざりしてきた。
「どうしてもあなたとご相談したいことがありますの、ポルガラ」
「いいわよ」ポルおばさんはガリオンの方を向いて言った。「ちょっと席をはずしていてくれないこと、ガリオン」
「ぼくは隣の部屋で待ってるよ」かれはドアを開けたが、わざと完全には閉めないでおいた。ふたたび好奇心が礼儀正しさに打ち勝った。
「あの人たちったら、こそこそと陰でわたくしを侮辱しているのです」メレルはガリオンの姿が見えなくなったとたん、口を切った。
「いったい何事なの」
「それは――」彼女はしばらくためらっていたが、やがて決然とした口調で言った。「ご存じだとは思うけれど、主人とわたくしはそんなに仲のいい夫婦ではありませんでした」
「まあ、そんなこと誰だって知ってるわ、メレル」ポルおばさんはやさしく先をうながした。
「だからこそ困っているんです」メレルはこぼした。「あの人たちはみんな陰でくすくす笑いながら、わたくしが昔のように戻る日を今か今かと待っているんですわ」彼女の口調がここで鋼のように鋭くなった。「でも、そんな日は二度とやってきやしません。ですから皆さんでお好きなだけ噂をすればよろしいんだわ」
「それを聞いて安心したわ、メレル」ポルおばさんが言った。
「ああ、ポルガラ」メレルは力ない笑い声を上げた。「あの人はまるで毛むくじゃらの熊みたいですけれど、心の中はとても優しいのです。どうして今まで気づかなかったんでしょうね。こんなに何年もたってから気づくなんて」
「そうやって人は大人になっていくものなのよ、メレル」ポルおばさんは言った。「だけど少しばかり時間がかかる人もいるの」
メレルが出ていくのを待ってガリオンは再び部屋に入って、当惑したようにポルおばさんを見た。「いつもこんななのかい」かれはたずねた。「いつもこんなふうにみんな悩み事があるとポルおばさんに相談しにくるのかい」
「よくあることなのよ」彼女は答えた。「どうやらわたしは知恵があると思われているらしいわ。でもだいたい、みんな打ち明ける前からどうすればいいのかわかっているから、わたしはただ黙ってかれらの話を聞いてあげたり、あたりさわりのない助言をするだけですんでいるのよ。でもそれだけでみんなはずいぶん喜んでくれるわ。だからわたしも朝のこの時分はいつも時間をあけておくことにしているの。もし何かわたしに相談したいことがあれば、いつどこにわたしがいるかわかるでしょ。さあ、お茶を一杯いかが」
かれはあきれたように頭を振った。「でも、それは途方もなく責任の重いことじゃないかい――そんなふうに人々の悩みを全部しょいこむというのは」
「じっさいは、それほど大変なことじゃないのよ、ガリオン」彼女は言った。「あの人たちの抱えている問題は、どちらかといえば家庭内の小さなことに限られているのよ。国事を揺るがすほどじゃない問題に頭を悩ますのはなかなか楽しいことよ。どちらにせよお客さまは歓迎するわ――たとえ理由が何にせよ」
だが次の来訪者であるイスレナ王妃の悩みはいささか深刻なものだった。チェレクの王妃がポルガラと二人きりで内密の話がしたい旨を女中が告げるのを聞いたガリオンは、再び隣の部屋に引っ込んだ。だが今回もかれの好奇心はドアごしに隣室の密談を盗み聞きすることをガリオンに強いた。
「わたしだって考えつくかぎりのことはしたのよ、ポルガラ」イスレナ王妃は言った。「でもグロデグがどうしても手を切ってくれないの」
「熊神ベラーに仕える高僧ね」
「あの男はわたしのことを何でも知ってるのよ」イスレナ王妃はみとめた。「かれの配下がわたしの軽はずみな行動を逐一報告しているの。熊神教との縁を切るなら全部アンヘグにばらすといってわたしを脅すのよ。ああ、わたし何て馬鹿だったんでしょう。おかげでわたしの首根っこはあの男に完全に押さえられてしまっているんだわ」
「いったいどの程度の軽はずみな行動をしたの」ポルおばさんが厳しい口調でたずねた。
「熊神教の儀式に何回か参加したわ」イスレナ王妃は告白した。「かれらの何人かを宮廷の役職につけてやったの。それからグロデグにいくつかの情報を流したわ」
「あなたが参加したというのはどんな種類の儀式なの」
「あなたの思ってらっしゃるようなものには出てなんかいないわ」イスレナ王妃はショックを受けたような声を出した。「いくら何でもあそこまで堕落してないわよ」
「それじゃ、じっさいにあなたがしたことは、人々が熊の毛皮をかぶって行なうやくたいもない儀式に何回か参加して、何人かの熊神教信者を宮廷の役職に――もっともその頃までにはもうとっくに何十人といたんでしょうけれど――つけて、毒にも薬にもならないような噂話を教えただけのことなのね。本当に毒にも薬にもならないような話だったんでしょうね」
「わたしは絶対に国の秘密をもらしたりなんてしないわよ、ポルガラ。もしあなたがそんな意味で言ってるんなら」王妃はかたくなに言った。
「それじゃ、グロデグは何ひとつあなたの弱みなんか握ったりはしていないわ」
「わたし、どうすればいいのかしら」王妃は苦悩に満ちた声でたずねた。
「アンヘグ王のところへすぐに行きなさい。かれにいっさいがっさい打ち明けるのよ」
「そんなことできやしないわ」
「でもあなたはそうしなければならないのよ。さもないとグロデグはもっと具合の悪いことをあなたに押しつけるようになるわ。これはもしかしたらかえってアンヘグ王の役にたつことかもしれないのよ。熊神教信者たちの実際の動きについて知ってるかぎり話してみてくれないこと?」
「そうね。まず、かれらは農民の中に入り込んで支部を広げつつあるわ」
「それは今までになかったことだわ」ポルおばさんは考えこむように言った。「今までは貴族や僧職者に限られていたのに」
「はっきりとはわからないんだけれど」イスレナ王妃は続けた。「かれらは何かもっと大きなことを起こそうとしているみたい――例えば反抗勢力を作り出すようなことを」
「さっそく父に知らせなくては」ポルおばさんは言った。「いよいよ熊神教の信者が本格的に動き始めたのね。熊神教が僧職者や一部の貴族たちの慰みものである間はまだ見逃せたけれど、農民まで巻き込んだとなると話は別だわ」
「それからあとこんな話もあったわ」イスレナ王妃はさらに言葉を続けた。「どうやらあの人たちは、信者をローダー王の情報機関にもぐりこませようとしているらしいわ。もしボクトールの然るべき地位にかれらの手先を何人か送りこめれば、西の国々の機密にもっとも近づけることになるからよ」
「なるほどね」ポルおばさんの声は氷のように冷たかった。
「前にグロデグから聞いた話があるの」王妃は嫌悪の入りまじった声で言った。「むろんわたしが熊神教に協力するつもりのないことをかれが知る前のことだけれど。グロデグは占いをしたり、空にあらわれたしるしを見たりして、リヴァ王が帰還する話をしていたの。熊神教は特に〈西の大君主〉という一節を重くみなしていたわ。わたしはかれらの最終的な目的はたぶんガリオンをすべての西の諸国の皇帝に祭りあげることなんじゃないかと思うの、アロリア――センダリア、アレンディア、トルネドラ、はてはニーサさえも」
「あの一節はそんなふうに解釈するべきじゃないわ」ポルおばさんが異議を唱えた。
「わかってるわ」イスレナ王妃は答えた。「でもグロデグは自分の思うとおりに解釈をねじまげようとしてるわ。あの男はどうしようもない狂信者よ。そしてかれの望みは西の諸国をすべて熊神ベラーの配下に置くことなのよ――必要なら武力だって辞さないつもりだわ」
「何と許しがたい愚か者でしょう!」ポルおばさんの怒りが爆発した。「もしそんなことをしようものなら、西の諸国のあいだでたちまち戦争が起こるでしょうよ。それどころか神々同士の争いにまでなりかねないわ。いったい何でアローン人は南にまで手を伸ばしたがるのかしら。これらの国境はすべて神々自身が定められたというのに。もうそろそろ誰かがグロデグをぎゃふんと言わせてもいいころだわ――それもこっぴどくね。さあ、すぐにアンヘグのところへ行ってちょうだい。すべてを打ち明けて、わたしがすぐに会いたがっていると伝えるのよ。たぶん父もかれとこの件について話したがると思うわ」
「そんなことをしたらアンヘグがひどく怒るわ、ポルガラ」イスレナは口ごもった。
「いいえ、大丈夫だと思うわ」ポルおばさんが安心させるように言った。「むしろあなたがグロデグの計画をばらしたことを知れば、かえって喜ぶかもしれなくてよ。あなたがグロデグに近づいたのは、その秘密をさぐるためだったとかれに思わせておけばいいわ。これなら立派な理由になるでしょう――良き妻なら誰だって考えつきそうなことだわ」
「まあ、そんなこと思いつきもしなかったわ」イスレナの声はすっかり自信を取り戻していた。
「それはたいそう勇敢なことよね」
「それこそ本当に英雄的な行為だわ」ポルおばさんは言った。「さあ、早くアンヘグのもとへ行くといいわ」
「ええ、すぐに行きますとも」きっぱりとした急ぎ足が聞こえたと思うまもなくドアの閉まる音がした。
「ガリオン、出ていらっしゃい」ポルおばさんの声は厳しかった。
かれは隣室のドアを開けた。
「今の話を聞いてたわね」それは質問というよりは断定に近かった。
「ぼくは――」
「そのことについてはまた後で話しあった方がよさそうね」彼女は言った。「でも今回はとりあえずいいわ。すぐにおとうさんを探して、わたしが大至急会いたがってると伝えてちょうだい。何をしてようとかまやしないわ。とにかく今すぐここに連れてくるのよ」
「でも今のおじいさんに何ができるかなんて、どうやったらわかるんだ?」ガリオンはなおも言いはった。「もしおじいさんの力が失われていたとしたら――」
「力にはいろいろあるのよ。魔法なんてほんの一部に過ぎないわ。さあ、今すぐおとうさんを連れてきてちょうだい」
「わかった、ポルおばさん」そう言いながらガリオンはすでにドアへ向かっていた。
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16[#「16」は縦中横]
ベラーの高僧は七フィート近くもある威風堂々とした大男だった。長い灰色のあご髭を垂らした顔のもじゃもじゃの黒い眉毛の下で、眼窩の奥底からぎらつく両目を光らせていた。かれは見かけだけは果てしない交渉を重ねて作成したようにみえる婚約の文書をたずさえ、一週間前にヴァル・アローンを出発したのだった。高僧は随行と称する熊の毛皮を身につけた厳めしい顔の戦士たちを二十数人引き連れていた。
「熊神教の信者たちだ」バラクが苦々しげにいった。バラクとガリオン、それにシルクの三人は〈要塞〉の一番上の壁から、明るい春の陽ざしのもと、港から階段を上がってくる高僧とその一行を見おろしていた。
「あんな兵士を引き連れてこいなんて言った覚えはないぞ」ガリオンは憤然とした表情で言った。
「いいや、やっこさん自身の判断で連れてきたんだろうよ」シルクが言った。「なにしろあいつは自分勝手に判断することにかけちゃ実に有能だからね」
「思いきって地下牢に投げこんでやったら、どんな顔をするだろう」ガリオンは熱っぽい口調で言った。「ところでここには地下牢なんてあったかな」
「たぶん急いで作らなきゃならんだろうな」バラクはにやにやしながら答えた。「それからねずみも輸入しなけりゃならないぞ。何しろこの島はねずみがいないことで有名なんだからな」
「ぼくをからかっていたんだね」ガリオンはかすかに顔を赤らめながら、友人を非難した。
「おれだったらそんな考えは捨てるということさ、ガリオン」バラクはあご髭を引っぱりながら言った。
「わたしだったら、グロデグを鉄格子に閉じこめる前にベルガラスに相談するね」とシルク。
「きみが考えるよりもはるかにことは政治と密接な関連を持っているんだよ。まあ、何にせよ、グロデグにやつの兵隊たちを島に置いてくような話は絶対にさせない方がいいぜ。なにしろやっこさんはこの二十年間というもの、〈風の島〉に足がかりを築こうと躍起になってるからな。あのブランドでさえやつを防ぐまでの度胸はなかったんだからな」
「ブランドが?」
「そんなこと明白じゃないかね。何も熊神教信者だとまでは決めつける気はないが、かれの共感は明らかにベラー側にあるといって間違いないね」
ガリオンはショックを感じると同時に、嫌な気分になった。「ぼくはいったいどうすればいいんだ」
「連中と政治の話をいっさいしないことだ」バラクが答えた。「グロデグは婚約の儀式をとり行なうために来たのだから、あくまでもそれに専念させればいい」
「だがあいつは絶対にぼくに話しかけてくるに決まってる」ガリオンはいらいらしながら言った。「ぼくに南の国々を侵略させて、アレンド人やトルネドラ人はおろかニーサ人までベラーを信奉させようと説きつけるにちがいないんだ」
「いったいそんな話をどこから聞いてきたんだい」シルクが興味深げにたずねた。
「それはちょっと言うわけにはいかないんだ」ガリオンは巧みにはぐらかした。
「ベルガラスはそのことを知ってるのか」
ガリオンはうなずいた。「ポルおばさんが話しているはずだ」
シルクは考え深げに爪を噛んでいたが、やがてぽつりと言った。「馬鹿になりきることだ」
「何だって」
「何にも知らない純朴な田舎者のふりをするのさ。グロデグは何としてでもきみを一人きりにして譲歩を迫ってくるだろう。そうしたらにやにや笑って、馬鹿みたいにうなずき、やつが何か提案してくるたびにベルガラスを呼びにやればいい。きみ一人では何ひとつ決断できないと相手に思わせるわけさ」
「でもそんなことをしたら、ぼくのことを何と思うだろう」
「やつにどう思われるかが気になるのかね」
「別にそういうわけじゃないけれど、ただ――」
「きっと気狂いみたいになるぞ」バラクは意地悪い笑みを浮かべて言った。「やつはきみが完璧な馬鹿者だと思いこむに違いない――まさに格好のかもというわけだ。だが、きみを意のままに従わせようとすれば、ベルガラスと戦わねばならないことを知るだろう。グロデグめ、帰るまでに欲求不満で髭を全部引っこぬいちまうぞ」そう言いながら大男はシルクを称賛の目で見やった。「やつのような男にはそれが一番こたえるんだ」
シルクはわざとらしい笑みを浮かべて言った。「まあ、そうだろうな」
三人はしばらくにやにやしながら顔を見合わせていたが、やがていっせいに吹き出した。
婚約の儀式は次の日にとり行なわれることになっていた。ガリオンとセ・ネドラのどちらが先に〈リヴァ王の広間〉に入るかでひと悶着あったが、いっそのこと二人で腕を組んで入場してはどうかというベルガラスの提案で落着した。「いずれにせよ、これは単なる結婚準備に過ぎんのだから」と老人は言った。「せめて見せかけだけでも両国間の友情を誇示しといた方がいいんじゃないかね」
刻一刻とその時間が近づくにつれ、ガリオンは落着きをなくしていった。例の護符の一件以来、王女はすっかりご機嫌ななめだったので、もめごとが起こるのは必至だった。だが、来賓が次々と広間に入っていくあいだ、隣の小さな控え室でガリオンと入場を待つセ・ネドラの顔は驚くほど晴れやかだった。ガリオンはそわそわと落着きなく、やたらに歩きまわったり、衣装を直したりするのに忙しかったが、セ・ネドラはおとなしく座ったまま、かれらの入場を知らせるトランペットの音をじっと待っていた。
「ねえ、ガリオン」しばらくしてからセ・ネドラが言った。
「何だい」
「わたしたちが一緒に〈ドリュアドの森〉で水浴びをしたときのこと覚えている?」
「一緒になんか入っちゃいない」ガリオンは髪の毛のつけ根までまっ赤にしながら、慌てて否定した。
「あら、似たようなものじゃない」彼女はあっさりとかれの異議をしりぞけた。「レディ・ポルガラが旅のあいだずっと、わたしたちをくっつけようとしてたことに気づいていた? あの人にはこうなることがわかってたのね。そうじゃなくて?」
「うん」ガリオンはみとめた。
「だからずっとわたしたちが一緒になるようにしてたのね。あなたとわたしの間に何かが起こるかもしれないと思って」
ガリオンはその可能性を考えてみた。「たぶん、きみの言うとおりだと思う」ようやくかれは口を開いた。「おばさんは人と人の仲をとりもつのが好きらしいから」
セ・ネドラはため息をついた。「そうとわかっていれば、あんなに時間をむだにはしなかったのに」彼女の口調にはかすかな後悔さえ感じられた。
「何をいうんだ、セ・ネドラ!」彼女の言葉にショックを受けたガリオンは、あえぐような声を出した。
彼女はいたずらっぽく笑った。そして再びため息をついた。「もうこれからは、何でもかんでもしかつめらしくなっちゃうのね――きっと前ほどおもしろくはないでしょうね」
ガリオンの顔は今にも火を吹かんばかりだった。
「まあ、それはおくとして」彼女は続けた。「二人で水浴びしたときに、わたしにキスしたいってあなたに聞いたこと覚えてる?」
ガリオンはもはやしゃべることもできず、黙ってうなずくばかりだった。
「まだあのときのキスをわたしはもらってないわ」彼女は茶目っ気たっぷりに言うと、立ち上がって、つかつかとかれに近づいてきた。「あのときのキスを今いただきたいわ」彼女は小さな手でガリオンの胴着をしっかり握った。「リヴァのベルガリオン、あなたはわたしにキスする義務があるわ。トルネドラ人はもらうべきものは必ずもらうのよ」まつげの下からかれを見上げる瞳にはあやしい炎がくすぶっていた。
そのとき、外でファンファーレが鳴り響いた。
「もう行かなくちゃだめだ」ガリオンは必死のおももちで異議を唱えた。
「待たせておけばいいじゃない」そうささやきながら、王女はガリオンの首に両腕を巻きつけた。
ガリオンはごく短い、儀礼的だけのキスですますつもりだったが、セ・ネドラはあきらかにそんなつもりはないようだった。彼女のきゃしゃな腕は驚くほど力強く、その指はしっかりとガリオンの髪の毛をはさんでいた。キスは驚くほど長く、ガリオンのひざはがたがたと震えだした。
「やっとキスしてくれたわね」セ・ネドラはようやくかれを離しながらささやいた。
「もう行った方がいいと思うよ」再びトランペットが鳴り響くのを聞きながら、ガリオンがうながした。
「すぐに行くわよ。わたしの服装、おかしくなってないかしら」そう言いながら彼女はガリオンに見えるように一回転してみせた。
「いいや」かれは答えた。「何ともなっていないよ」
すると王女は不満そうに頭を振りながら言った。「今度はもう少しうまくやってちょうだいね。さもないとわたし、あなたが真剣に愛してないんじゃないかと思うようになるわ」
「ぼくにはきみという人がまったくわからないよ、セ・ネドラ」
「ええ、わかってるわ」彼女は謎めいたほほ笑みを浮かべて言った。そしてかれのほおを優しくたたいた。「でもわたしはこのやり方を変えるつもりはまったくないわ。さあ、もう行きましょうよ。あんまりお客さまをお待たせするわけにはいかないわ」
「ぼくは最初からそう言ってるじゃないか」
「さっきはそれどころじゃなかったでしょ」彼女は王者らしい無頓着さで言った。「ちょっと待って、ガリオン」王女はやさしくかれの髪をなでつけた。「これでいいわ。さあ、あなたの腕を貸してちょうだい」
ガリオンが腕をさし出すと、王女はきゃしゃな手をそえた。トランペットが三回目の吹奏を繰り返すなか、かれは広間のドアを開けた。二人が広間に入場したとたん、いあわせた列席者たちのなかからいっせいに興奮のどよめきが起こった。セ・ネドラに歩調をあわせながら、ガリオンは威厳のある足取りで、王者にふさわしい落着きはらった表情を浮かべながら歩いていった。
「そんなふうにむっつりしてるものじゃないわ」彼女が小声で忠告した。「少し笑みを浮かべて――それからときどきうなずいてみせるの。そうやるものなのよ」
「きみがそういうのなら」かれも小声で答えた。「実のことをいえば、ぼくはこういったことにまったく慣れてはいないんだ」
「大丈夫よ」彼女は安心させるように言った。
列席者に向かってほほ笑み、あるいはうなずきながら若い婚約者たちは大広間を進み、王女のために玉座のそばに用意された席の前へ来た。ガリオンは彼女のために椅子を引いてやってから、自分は玉座の階段を登りはじめた。いつものように〈アルダーの珠〉はかれが着席すると同時に青い光を放ちはじめた。だが今回はどういうわけかほのかにピンク色をおびていた。
婚約の儀式は雷鳴のように轟きわたるベラーの高僧の祈りの言葉で始まった。グロデグは状況をいかして最大限に劇的な効果を高めていた。
「まったくうんざりするようなおしゃべり男じゃないかね」ベルガラスは玉座の右側のおなじみの場所からぶつぶつ文句を言った。
「セ・ネドラとあそこでいったい何をしていたの」ポルおばさんがガリオンにたずねた。
「何でもないよ」ガリオンはまっ赤になりながら答えた。
「本当かしら。じゃあ何であんなに時間がかかったんでしょうね。不思議だこと」
グロデグは婚約合意書の最初の条項を読み上げはじめた。ガリオンにはまったくわけのわからないたわごととしか聞こえなかった。途切れめごとにグロデグは読み上げるのをやめ、ガリオンを厳めしい目で見た。「リヴァ国王ベルガリオン陛下は、この条項に同意するや否や?」高僧はそのたびにいちいちガリオンにたずねた。
「同意する」ガリオンは答えた。
「トルネドラ国王女セ・ネドラ殿は、この条項に同意するや否や?」グロデグは今度は王女にたずねた。
「同意します」セ・ネドラははっきりした声で言った。
「どうだね、二人はうまくやっていけそうかね」ベルガラスは眠気を催すような聖職者の声を無視してたずねた。
「そんなことぼくにわかるもんか」ガリオンは情けない声で言った。「彼女ときたら、次の瞬間にも何をやらかすかわかりゃしないんだから」
「女性はみんなそうよ」ポルおばさんが言った。
「へえ、そうかい。だったらなぜぼくにも説明してくれないんだ」
「いいえ、だめよ」ポルおばさんはセ・ネドラと同じような謎めいたほほ笑みを浮かべた。
「どうせ、そうだと思ったよ」ガリオンはぶつぶつ言った。
ガリオンはこれから残りの生涯にわたり、かれを束縛することになる長たらしい文書がえんえんと読み上げられるあいだ、セ・ネドラのちょっとした混乱への誘いについてずっと考えていた。考えれば考えるほど、ちょっとした混乱というものがひどく魅力的に思えてきた。かれはこの儀式のあとも王女がしばらく残っていてくれて、どこか人目につかない場所で続きを話しあえればいいと思った。だがグロデグのもったいぶった最後の祝福が終わると、セ・ネドラはあっという間に宮廷の年若い少女たちに囲まれ、彼女たちだけの私的なお祝いの席に連れ去られてしまった。少女たちのくすくす笑いとかれに投げかけられるいたずらっぽい視線から見て、彼女たちの小さな集まりにおける会話は非常にあけすけで、かなりお行儀の悪いものになりそうな気配だったので、ガリオンは聞かない方が得策だろうと一人ぎめした。
シルクとバラクの予言どおり、ベラーの高僧は何度もガリオンと個人的に話をしようと接近してきた。そのたびにガリオンはまったくの無知をよそおっては、ベルガラスを呼びにやった。結局グロデグは式の翌日に、戦士たちを全員引き連れて〈風の島〉を退去した。だがガリオンは総仕上げとして最後の侮辱を加えるために、ベルガラスをともない、怒り狂う高僧を船まで見送るといって聞かなかった。一人の熊神教信者もうっかり船に乗り損なうことのないようにとの配慮だった。
「いったい全体これは誰が考えだしたことなんだ」〈要塞〉への階段を戻りながら、ベルガラスがただした。
「シルクとぼくとで考えだしたのさ」ガリオンはいささか得意げに答えた。
「ひとことわしにも断っておいてほしかったな」
「でもすべてうまくいったじゃないか」ガリオンはすっかり悦に入っていた。
「だがこれでおまえは途方もなく危険な敵をつくりだしちまったんだぞ」
「ぼくたちで何とかするさ」
「おまえはずいぶん軽々しくぼくたち≠ネどと言うんだな」ベルガラスは非難するように言った。
「でもぼくたちみんなひとつ穴のむじなじゃないか、おじいさん」
ベルガラスはどうしようもないといった顔でしばらくかれを見つめていたが、やがて笑い出した。
だがグロデグの退去に続く日々は、ほとんど笑う機会もなかった。婚約の儀式が終わったとたん、アローンの王たち、フルラク王、それにあまたの相談役や将軍を加えた面々はただちに本来の仕事にとりかかった。議題は迫りくる戦争のことだった。
「クトル・マーゴスから最近受けた報告によれば、タウル・ウルガスは東海岸地方の氷が溶けるのを待って、南方のマーゴ軍をラク・ハガに移す準備をしているとのことだ」ローダー王が報告した。
「ナドラクの様子はどうなっている?」アンヘグ王がたずねた。
「むろんナドラクも戦争にむけて準備をすすめてはいるが、かれらに関してはいつもあまり当てにはならない。連中は自分たちの益になることを優先するから、かれらを戦列にたたせるにはグロリムたちも相当尻を叩かねばならないだろう。一方、タール人ときたらただ命令に服従するだけしか能がないときてる」
「このさい、タール人のことは考えなくともいいと思う」ブランドが意見をのべた。「すべての鍵はマロリー軍が戦闘にさいして、どれくらいの兵力を動員できるかにあると思う」
「タール・ゼリクには部隊集結地域がつくられているぞ」ローダー王が言った。「だがかれらも〈東の海〉の気候の好転待ちというところだ」
アンヘグ王はじっと考えこみ、眉をしかめた。「マロリー人たちはあまり航海術にたけているとはいえない。恐らくことを起こすのは夏になってからだろう。その場合も北部の海岸ぞいにタール・ゼリクへ向かうことだろう。そうなったときにそなえて、われわれは大至急〈東の海〉に艦隊を派遣しておくべきだ。ある程度かれらの船を沈め、兵力を失せておけば、連中を今回の戦争から完全に締め出すことができる。ここは一挙にガール・オグ・ナドラクに攻めこむべきだと思う。森に入ったらただちにわたしの部下たちに船を造らせることができる。その船でコルドゥ川を下り、〈東の海〉に出ればいい」
「それはなかなか利点の多い案と思われますぞ、陛下」マンドラレンが壁に広げられた大きな地図を見ながら言った。「ナドラク人は数においてもっとも劣り、なおかつクトル・マーゴスの南方の軍隊からはもっとも遠い場所にあるのですからな」
だがローダー王はかたくなに首を振った。「アンヘグ、きみの一刻も早く〈東の海〉に出たい気持ちはわかるが、そんなことをしたらナドラクの森で軍事行動を起こさなくてはならなくなる。わたしとしてはもっと開けた場所で戦闘する方が望ましいと思う。それよりもタールを叩いておけば、マードゥ川の上流地域へ一気にすすむことができる。そこから船で〈東の海〉に出ればいいではないか」
「だがミシュラク・アク・タールにはそんなにたくさんの木は生えちゃいないぞ」アンヘグ王が異議を唱えた。
「なんだって必要もないのに森林の木を切って船を造らなくちゃならんのだ」ローダー王が言った。「アルダーまで航行してそこから陸送すればいいではないか」
「あの東の崖地にどうやって船を引っぱりあげるというんだ。ローダー、冗談も休み休み言え」
「だがわが方には技術者がいるぞ、アンヘグ。連中ならきみの船を崖のてっぺんまで引きあげる方法を考えつくことだろう」
ガリオンは会議の席上で自分の無知をさらけ出すつもりはなかったが、考える前に質問が飛び出していた。「それで最終の戦いはどこで行なわれる予定なんだ」
「どの最後の戦いのことを言ってるのかね、ガリオン」ローダー王が礼儀正しくたずねた。
「正面きって相手と対決するような戦いだよ――たとえばボー・ミンブルのような」
「今回の戦争ではボー・ミンブルのようなことは起こり得ないのだ、ガリオン」アンヘグが言った。「どうしても防げない場合をのぞいてはな」
「ボー・ミンブルの戦いは失敗だったのさ、ガリオン」ベルガラスは静かに言った。「われわれにもそれはわかっていたが、どうしようもなかった」
「だけどぼくたちは勝ったんだろう?」
「あれはまったくの幸運だったのだ。だがじっさいに作戦をたてるときには幸運をあてにしてはいけない。誰一人としてボー・ミンブルで戦うことを望んでいた者などいなかった。われわれはむろんのこと、カル=トラクでさえもな。しかし他にどうしようもなかったのだ。われわれとしてはアンガラクの第二軍が西に到着する前に攻め入らねばならなかった。一方カル=トラクがラク・ハガに駐留させておいた南マーゴと東マロリーの軍隊は、かれが〈砦〉の囲みを解いて西へ転進するのと歩調を合わせて動き出そうとしていた。もしかれらがカル=トラクと合流しようものなら、およそ西の連合軍だけでは太刀うちできないような数にふくれ上がることは目に見えていたから、われわれは何としても戦わねばならなかった。そもそもボー・ミンブルなどおよそ戦場に向いているとはいえない場所なのだ」
「なぜカル=トラクは合流するまで待っていなかったんだろう」ガリオンはたずねた。
「敵対国で軍を停滞させることはできないのです、ベルガリオン王殿」ブレンディグ大佐が説明した。「常に移動を続けていなければ、たちまち現地の住民に食糧を略奪されたり、夜中に寝首をかかれることにもなりかねません。そんなことをすれば、軍勢の半分を失う結果になるのです」
「カル=トラクにしても、われわれと同様ボー・ミンブルでの戦いを望んではいなかったのだ」ベルガラスはなおも続けた。「だがラク・ハッガからの援軍は山中で春の暴風雪に見舞われ、何週間も身動きがとれなくなってしまった。結局援軍はそこから退却せざるを得ず、トラクは数のうえで圧倒することもできず、そのような戦いが不利だと教える者もないままに戦わざるを得なくなったというわけだ」
「そういった場合には自分の軍勢が相手のそれより四分の一以上、数においてまさっていなければ、勝ち目があるとは言えないのです」マンドラレンが言った。
「いや、三分の一以上だな」バラクが低いがよくとおる声でつけ加えた。「もし事情が許せば半分以上まさっていることが望ましい」
「それじゃ、ぼくたちは東の大陸の半分に散らばって、あちこちで小さな戦闘を繰り返していくしかないのかい」ガリオンは信じがたい思いでたずねた。「そんなことをしたら何年、いや、何十年、ことによったら一世紀近くかかるかもしれないじゃないか」
「必要ならそうせねばならんだろう」ベルガラスがにべもない声で言った。「おまえはいったいどんなことを期待していたのだ、ガリオン。太陽の光を浴びてちょっとした遠乗りをして、いとも簡単に敵をたいらげ、冬が来る前に戻れるとでも思っていたのか。残念ながら本物の戦争は違うぞ。おまえも今から鎧と剣の生活に慣れておいた方がいい。下手すればそれをつけたまま残りの人生をずっと過ごすことになるかもしれん。いいか、これはかなり長い戦争になるんだぞ」
ガリオンはそれまでの幻想ががらがらと音をたてて崩れていくのを感じた。
そのとき、突然会議室のドアが開き、ブランドの末息子のオルバンが入ってくると、父親と何やら会話をかわした。天候は再び荒れ模様に逆戻りして、春の嵐が島じゅうを吹き荒れている最中だった。部屋に入ってきたオルバンの灰色いマントも、ぐっしょり濡れて滴をたらしていた。
これから何年も東の大陸をめぐって戦わなければならない見通しに、すっかり落胆したガリオンは、静かな声で父親と話をかわす若者の足元にできた小さな水たまりをぼんやりと眺めていた。かれはつい今までの習慣から、オルバンのマントの縁に目をあげた。若者のマントの左端は小さくちぎれ、布の一部が失われていた。
ガリオンは何とはなしに手元の証拠の布とちぎれた箇所を見較べていた。次の瞬間、かれの体は凍りついた。ガリオンは気づかれないように、そっとオルバンの顔に視線をあげた。ブランドの末息子はガリオンと同じくらいの年で、かれより背は低かったがもっとがっしりした体格をしていた。白っぽい金髪の下の若い顔は、きまじめな表情を浮かべ、すでにリヴァ人特有の謹直さを反映していた。かれはつとめてガリオンの視線を避けているようだったが、特にやましげなようすも見られなかった。だが何かの拍子でうっかり若い王を見てしまったかれの目が、かすかにたじろぐのをガリオンは見逃さなかった。ガリオンはようやくかれを殺そうとした犯人を見つけだしたのだ。
会議はなおもえんえんと続いたが、もはやガリオンの耳には何も入ってはこなかった。これからいったいどうすればいいのだろう。果たしてこれはオルバンひとりの犯行なのか、それともまだ共犯者がいるのだろうか。ブランドまでがこの陰謀に加担してるなどということはあり得るだろうか。この忠実なリヴァ人の心中をおしはかるのは困難だった。ガリオンはむろんブランドを信頼してはいたが、〈番人〉と熊神教の結びつきはその忠節にある程度影響を及ぼしているとも考えられる。この事件の背後にはグロデグがひそんでいるのだろうか。あるいはグロリムだろうか。ガリオンはアシャラクに魂を売り渡してヴァル・アローンで謀反をたくらんだジャーヴィク伯爵のことを思い出していた。オルバンもまたジャーヴィクのようにアンガラクの血の色の金貨に心を奪われてしまったのだろうか。だがこのリヴァは島国なので、およそグロリムの侵入には不向きな場所のはずである。ガリオンはなおも買収の可能性を考えてみた。だがこれはまったくリヴァ人らしくないやり方である。それにオルバンがグロリムと接触するような機会があるとも思えなかった。ガリオンは憂うつな思いで善後策を考え始めた。
まずレルドリンには絶対に伏せておかねばならない。すぐにかっとしやすいアストゥリアの若者は、こういった慎重な取り扱いを要することがらにはまったく不向きだった。レルドリンがいったん剣のつか[#「つか」に傍点]に手をかけようものなら、まっしぐらに破局へ突き進んでいくのは目に見えている。
ようやくその日の午後遅く会議が終わると、ガリオンはオルバンの姿を探した。さすがに護衛をつけることまではしなかったが、剣だけはしっかり身につけていた。
ガリオンがようやくブランドの末息子を見つけたのは、暗殺未遂が起こった場所と同じようなうす暗い廊下でのことだった。廊下を行くガリオンの反対方向からオルバンが近づいてきた。王の姿を見たオルバンはかすかに青ざめ、表情を隠すために深々と一礼した。ガリオンはうなずいたまま行き過ぎると見せかけ、すれ違いざまにくるりと振り向いた。「オルバン」かれは静かに呼びかけた。
振り返ったブランドの息子の顔には恐怖が浮かんでいた。
「きみのマントの端がやぶれているようだが」ガリオンはほとんど感情をこめずに言った。
「修理したければきっとこれが役立つと思う」そう言いながらかれは胴着の下から一片の布きれを取り出すと、まっ青な顔をしたリヴァ人の若者に手渡した。
オルバンはじっと目を見開いたまま、微動だにしなかった。
「ついでにまだ渡すものがあった」ガリオンはなおも続けた。「これも持っていくがいい。たぶんどこかで落っことしたんだろうと思うが」かれは再び胴着の下に手をいれて、今度は先の曲がった短剣を取り出した。
オルバンは激しく震え出したかと思う間もなく、がっくりとひざをついた。「陛下、お願いです」若者は嘆願した。「どうかわたしをこのまま死なせて下さい。父がこれを知ったら悲しみのあまり胸が張り裂けてしまいます」
「では聞くが、何でぼくを殺そうとしたんだ」ガリオンは詰問した。
「すべては父を愛するあまりのことです」ブランドの息子は告白した。その目には涙が浮かんでいた。「あなたが来るまでは父がリヴァの支配者でした。父はあなたの出現で退任を余儀なくされました。わたしにはそれが我慢できなかったのです。どうかお願いです、わたしを他の犯罪人のように絞首刑にするのだけはやめて下さい。その短剣を返していただければ、すぐにこの場で胸に突き立ててみせましょう。どうかこの不面目から父だけはお救い下さいますように」
「馬鹿なことを言うんじゃない」ガリオンは厳しい声で言った。「いいから早く立ち上がれ。そんなふうにひざまずいているとまるで間抜けみたいに見えるぞ」
「ですが、陛下――」オルバンが何かを言いかけた。
「頼むから黙っていてくれ」ガリオンはいらいらしながら言った。「少し考えさせてくれ」ようやくかすかに解決らしきものがほの見えてきたような気がした。
「よし」かれはやっと口を切った。「それではこうしよう。今すぐにこの短剣と布切れを持って港へ行き、ただちにその二つを海に投げ捨ててこい。それが終わったら、なにごともなかったように振る舞うんだ」
「ですが、陛下――」
「最後までよく聞くんだ。いいか、ぼくもきみももう二度とこの話はしない。きみの涙ながらの罪の告白も聞きたくはない。そして絶対に自殺することは許さない。いいな、オルバン」
若者は無言でうなずいた。
「ぼくにはきみのおとうさんの助けが何としても必要なんだ。こんなことが露見して、かれが個人的な不幸に悩むようなことがあっては絶対に困る。今回の事件はいっさいなかったことにする。これでこの件に関してはおしまいだ。さあ、これを持ってさっさと行ってくれ」そう言ってガリオンは短剣と布きれを若者の手に押しつけた。とたんにむらむらと怒りがわきあがってきた。肩ごしにびくびく視線を送った何週間かはまったくの徒労――もしくは無用の日々だったのである。「もうひとつ言っておくことがある、オルバン」かれは踵を返しかけた失意の若者に向かって言った。「これ以上ぼくに短剣を投げるのは止めてくれ。もしどうしても決着をつけたければ、ぼくに面と向かって言うがいい。どこか人目につかない場所で互いの体を切り刻むまで相手をしてやるから」
オルバンはすすり泣きながら逃げ去った。
(なかなかみごとな手際だったぞ、ベルガリオン)内なる乾いた声が称賛するように言った。
「ああ、もうやめてくれ」ガリオンは言った。
その夜、かれはほとんど眠れなかった。いくつかの点で、オルバンに対して下した判断が果たして妥当なものだったか、ガリオンには自信がなかった。だが総体的において、かれは自分の取った行動に満足していた。オルバンの行為は父親の失脚の原因になったと思いこんだものを抹殺しようという、きわめて衝動的な犯行に過ぎなかった。その裏には何らの陰謀も隠されていないことは明らかだった。オルバンはガリオンの寛大めかしたそぶりを恨むかもしれないが、もはや背後から短剣を投げたりはしないだろう。ガリオンが一晩中悶々として眠れなかったのは、これから始まる戦争に対するベルガラスの憂うつな見通しだった。ようやく明け方近くになって眠りに落ちたかれは、額に汗をびっしょりかいて恐ろしい悪夢から目覚めた。年老い疲れ切ったガリオンが、白髪まじりのくたびれた男たちを率いて勝ち目のない戦いに出発する夢だった。
(むろん他にも方法はある――ただしおまえがわたしの言うことにいちいち駄々をこねることをやめればの話だが)ベッドの上にとび起きてがたがた震えるかれに内なる声が呼びかけた。
「何だって」ガリオンは思わず声に出して叫んでいた。「ああ、ごめんよ。こんな言いかたするつもりじゃなかった。ちょっといらいらしてたもんでね」
(まったくおまえはいろいろな点においてベルガラスによく似ているな。その短気なところはどうやら血統らしい)
「たぶんこれは生まれつきのものなんだ」ガリオンはみとめた。「それよりさっき他に方法があると言ったね。いったい何に対する方法なんだい」
(おまえに悪夢をもたらす戦争に対してだ。さあ、早く着替えるんだ。おまえに見せたいものがある)
ガリオンはベッドから出ると、急いで衣服を身につけた。「いったいどこへ行こうというんだ」かれは相変わらず声に出して聞いていた。
(なに、それほど遠くはない)
内なる声が連れていったのは、もう使われなくなってからひさしいと思われるかび臭い部屋だった。壁に沿った棚に並べられた本や巻物はびっしりほこりをかぶり、片すみはくもの巣に覆われていた。一本しかないろうそくが、投げかけるひょろ長い影が、壁の上に躍っていた。
(その一番上の棚だ)声がかれに教えた。(黄色い麻布につつまれた巻物があるだろう。それを下におろすのだ)
ガリオンは椅子の上に立って巻物を棚の上からおろした。「これはいったい何なんだい」かれは内なる声にたずねた。
(ムリン古写本だ。麻布をとって、わたしがいいと言うところまで巻物を開け)
片手で開き、もう一方の手で巻き戻すこつを飲みこむまでしばらく時間がかかった。
(そこだ)声が言った。(その一節を声に出して読んでみろ)
ガリオンは苦労しながら言葉を読もうとした。巻物の文字はみみずがのたくったような字で書かれているので非常に読みづらかった。「あんまりよく意味がわからないな」
(これを書いた男は狂人だったからな)声が謝るように言った。(おまけに少々知能が足りなかったのだ。だが他に誰も頼めるものがいなかったのでな。もう一度読んでみろ――もっとはっきり声に出して)
ガリオンは読み上げた。「見よ、やがて然るべき時が来て、あるべき者とあってはならぬ者とが出会うだろう。その出会いにおいてそれまで起こったこと、並びにこれから起こることがらはすべて決定される。そして〈光の子〉が〈闇の子〉と壊れた墓において対決するとき、星星は震え、輝きを失うであろう」ガリオンの声はそこで途切れた。「やっぱり何のことかよくわからないよ」
(たしかに少々わかりにくいかも知れん)と声は言った。(前にも言ったとおりこれを書いた男は狂人だったのでな。たしかに知識を与えたのはわたしだが、書いた人物はそれを自分の知っている言葉で表現しようとしたのさ)
「この〈光の子〉というのは誰のことだい」ガリオンはたずねた。
(それはおまえのことだ――少なくとも今のところは。時代によってそれは変わるのだ)
「ぼくだって」
(そうだ)
「じゃあ、ぼくが出会うことになる〈闇の子〉というのは?」
(トラクだ)
「トラクだって!」
(もういいかげんおまえにもわかっているだろうと思ってたがな。わたしはふた通りの運命が最後に出会うと前にも言ったはずだぞ。おまえとトラク、すなわち〈光の子〉と〈闇の子〉はそれぞれの運命を代表しているのだ)
「でもトラクは眠っているはずだ」
(もう眠ってはいない。おまえが初めて〈珠〉に手をふれた瞬間に、トラクの目覚めが促されたのだ。たとえ今かれが目覚めのまどろみの中にいようと、その手はクスゥレク・ゴルすなわち黒い剣を手探りしているにちがいない)
ガリオンはぞっとした。「つまりぼくはトラクと戦わなくちゃいけないというのか。それも一人で」
(避けられない運命なのだ、ベルガリオン。すでに森羅万象はそのときに向かって突き進んでいるのだ。もしそうしたければ軍を集めてもよい。だがおまえの軍隊も――トラクの軍隊でさえも何の意味もない。なぜならムリン古写本にあるとおり、おまえたち二人が出会ったときに初めてすべてが決定されるのだから。とどのつまり、おまえはトラクと一対一で対決しなければならないのだ。わたしがまだもうひとつ方法があると言ったのはまさにこのことなのだ)「つまりぼくにただ一人でトラクを探して戦えというのかい」ガリオンは信じられないといったおももちでたずねた。
(まあ、そういうことだ)
「そんなことできっこない」
(それはおまえしだいだ)
ガリオンは必死に他の可能性を探し求めた。「つまりぼくが軍を率いたところで、それは意味もなくたくさんの人たちを殺すだけのことで、結局最後は同じことになるというんだな」
(まさにそのとおりだ。結局最後にはおまえとトラク、そしてクスゥレク・ゴルとリヴァ王の剣だけの戦いになるのだ)
「他に何か方法はないのかい」
(残念ながらまったくない)
「一人で行かなければならないんだろうか」
(そうとは言ってない)
「それなら仲間を一人か二人連れていくぶんにはかまわないね」
(それはおまえの判断しだいだ。ただし剣だけは絶対に忘れんようにな)
ガリオンはその日いちにち、そのことを考え続けた。日が暮れるまでにはかれの考えは固まっていた。リヴァの灰色の街の上に夜のとばりがおりるころ、かれはベルガラスとシルクを呼びにやった。まったく申し分のない二人とはいえなかったが、ガリオンには他に頼れる人物がいなかった。たとえその力が衰えていたとしても、老人の叡知はガリオンの今回の使命にはなくてはならないものだった。むろんシルクも今のかれにとって必要不可欠な人物だった。もしベルガラスの力が失われていれば、ガリオンは日いちにちと強くなっていくかれ自身の魔法の力によって難局を切り抜けていかねばならないだろう。だがそばにシルクがいればそのような重大な局面を少しでも避ける方法を思いつくに違いない。この三人がいれば道中何があってもまず切り抜けられるとガリオンは確信していた。少なくともトラクに出会うまでは。それから後のことはまだ考えたくなかった。
ガリオンに呼ばれた二人の人物が入ってきたとき、若き王は憂うつの色を目に浮かべてじっと窓の外を眺めていた。
「わたしたちに用があるそうだが」シルクがたずねた。
「ぼくはこれから旅に出なければならなくなった」かれはかろうじて聞き取れるほどの声で答えた。
「いったいどうしたというんだ」ベルガラスが言った。「何やら悩みがありそうだが」
「ぼくは今はじめて自分がやらなければならないことを知ったんだ、おじいさん」
「誰が教えたんだ」
「かれ[#「かれ」に傍点]だよ」
ベルガラスは眉をひそめた。「まだすこし早過ぎるな」かれは言った。「わしとしてはもう少し待つつもりだったが、たぶんあいつのことだから十分承知の上だろうが」
「いったい誰の話をしてるんですか」シルクがたずねた。
「ガリオンの頭の中にときどき客がたずねてくるのさ」老人は答えた。「それもかなり特殊な友人がね」
「それはまたわけのわからない不思議な答ですな、ご老人」
「本当に知りたいかね」
「ええ」と小男は答えた。「ぜひ知りたいと思いますね。どうやらわたしにも関係のありそうなことのような気がするんですよ」
「〈予言〉のことは知ってるな」
「むろんですとも」
「この〈予言〉は単なる文字による未来の記述ということではないのだ。どうやらそいつは人や物に直接関与する力を持っているらしい。そいつがときおりガリオンの頭の中で話しかけるんだ」
シルクは目を細めてしばらく考えこんでいたが、ようやく口を開いた。「なるほどね」
「さほど驚いたようにも見えんな」
ねずみのような顔をした小男は笑った。「ベルガラス、もうこの世にはわたしを驚かすものなんて、そうそうありゃしませんよ」
ベルガラスはガリオンの方を向いて言った。「正確にはやつはなんと言ったのだ」
「ムリン古写本をぼくに見せたよ。おじいさんは読んだことあるかい」
「それこそ最初から最後、表から裏、端から端まで何百回と読んださ。やつが見せたのはどの部分だった?」
「〈光の子〉と〈闇の子〉が対決する部分だよ」
「なるほど」老人は言った。「やっぱりその部分だったか。それでやつはその意味を説明したんだな」
ガリオンは無言のままうなずいた。
「そうか」老人はガリオンの心を見透かすような鋭い視線を送った。「それではおまえも最悪の部分を知ってしまったわけだ。さあ、これからどうするつもりなんだ」
「かれは二種類の選択が与えられていると言った」ガリオンは言った。「兵を集めて、アンガラクと何世紀にもわたってえんえんと戦争を繰り返すか。これがひとつ目の選択だろう?」
ベルガラスがうなずいた。
「でもそれは結果的に多くの人々を無為に殺すことになるんだ。そうだね?」
老人は再びうなずいた。
ガリオンは深く息を吸い込んだ。「そうでなければ」かれは続けた。「ぼく一人で行って、トラクを――たとえどこにいようと探し出して、この手で殺すか」
シルクは目を丸くして口笛をふいた。
「でも必ずしもぼく一人でなくてもいいんだそうだ」ガリオンは希望をこめて言った。「ぼくはかれに聞いてみたんだ」
「それはどうも」ベルガラスはそっけない声で言った。
シルクはかたわらの椅子にどさりと腰かけると、すっかり考えこんだようすで尖った鼻の先をこすっていた。やがてかれはベルガラスの方を向いて言った。「もしかれを一人で行かせたことを知ったら、ポルガラは一寸刻みにわれわれの皮をはぎますぜ」
ベルガラスはうなり声をあげた。
「トラクはどこにいると言いました?」
「クトル・ミシュラクだ――マロリーのな」
「わたしはまだ行ったことはないですね」
「わたしは何度か行ったことがある。実におもしろくない場所だ」
「時間がたってれば多少変わってるかもしれませんよ」
「それはあり得んよ」
シルクは肩をすくめた。「たぶん、わたしたちはかれと一緒に行くべきだと思います――道案内をしたり、その他にもいろいろとやることがあるでしょう。いずれにせよわたしはもうリヴァを出ようと思ってたんですよ。いろいろとつまらない噂が飛びかっているもんでね」
「まあ、旅をするには悪い時期ではないな」そう言いながらベルガラスはひやかすように横目でガリオンを見た。
ガリオンはすでにほっとしはじめていた。冗談まじりのやりとりが始まったときから、すでに二人が心を決めていることがわかったからである。かれは一人ぼっちでトラクを探しにいかなくてもいいのだ。少なくとも今はそれだけで十分だった。心配するのはその後でいい。「わかったよ」かれは言った。「これからどうすればいい?」
「われわれは朝早くにそっとリヴァを脱出することにしよう」ベルガラスが言った。「この件に関してはポルと長々話したところでらちがあかないからな」
「さすがだてに年はとっていませんね」シルクが感嘆したように言った。「ところでいつ出発しますか」
「早ければ早いに越したことはない」ベルガラスは肩をすくめた。「今晩は何か予定があるか」
「先に延ばせないほどのものはないよ」
「よし。それでは皆が寝静まるまで待ってから、ガリオンの剣を持ってただちに出発しよう」
「どこを通っていくんだい」ガリオンがたずねた。
「まずセンダリアへ行こう」ベルガラスは答えた。「それからドラスニアを横断してガール・オグ・ナドラクへ向かう。そしてマロリーに通じる隊商路を北へ進む。クトル・ミシュラクや〈片目〉の神の墓へはたいそう長い道のりだぞ」
「それから?」
「それからわれわれは最終的な決着をつけるのだよ、ガリオン」
[#改丁]
第三部 ドラスニア
[#改ページ]
17[#「17」は縦中横]
「親愛なるポルおばさん」ガリオンの手紙の書き出しはこう始まっていた。「たぶんこんなふうに出ていってしまうことでおばさんはぼくたちに腹をたてるかもしれませんが、他にどうしようもなかったのです。ぼくはムリン古写本を読んで、自分のなすべきことを知りました」ガリオンはそこで筆を止めて顔をしかめた。「よげん、てどんな字だっけ」
ベルガラスはかれに書き方を教えながら言った。「あんまりだらだら長くするもんじゃない、ガリオン」老人が忠告した。「何を言ったってどうせ不機嫌になるだけなんだから、要点だけでいい」
「何で出ていくのか、ちゃんとした理由を書かなくていいのかな」ガリオンが不安げにたずねた。
「彼女だってムリン古写本は読んでいる」とベルガラス。「おまえがいちいち説明しなくとも理由はわかるさ」
「セ・ネドラにも何かひとこと書いておかなくちゃ」ガリオンは考えながら言った。
「ポルガラが必要なことは全部説明するさ」ベルガラスが言った。「われわれにはやらなければならないことがまだいっぱいあるし、文面を考えてるだけでひと晩も使うわけにはいかないんだぞ」
「ぼくはこれまで手紙なんて書いたことなかったんだからね」ガリオンは抗議した。「はたで見るほど簡単なことじゃないんだよ」
「だったら言わなければならないことだけ書いてそこでやめるんだな」老人は忠告した。「あんまりいじくらない方がいい」
そのときドアが開いてシルクが入ってきた。かれは旅のときにいつも身につけている特徴のないふだん着をきて、衣類の包みをふたつ抱えていた。「これなら体に合うだろう」そう言いながらかれはひとつをベルガラスに、もう一方をガリオンに渡した。
「金はどうした?」老人は小男にたずねた。
「バラクから少しばかり借りてきましたよ」
「そいつは驚いた」ベルガラスが言った。「あの男がそんなに気前がいいとは聞いていなかったがな」
「いや、別に借りるなんて断っちゃいませんよ」小男はあからさまに片目をつぶってみせた。
「いちいち長たらしい説明をするよりは黙ってた方が早いと思ったんでね」
ベルガラスの片方の眉がぴんとはね上がった。
「でもわれわれは先を急いでるんじゃありませんか」シルクは無邪気な表情をよそおって言った。「バラクのやつはこと金に関することになるとしつこいんですよ」
「ちょっと失礼」と言いながらベルガラスはガリオンを振り返った。「さあ、そっちはもう終わったのか」
「これでいいかい」ガリオンは老人に手紙を渡しながらたずねた。
老人はちらりと一瞥をくれ、「これで十分だ」と言った。「さあ手紙に署名をするんだ。あとは明日の朝誰かが見つけだすような場所に置いておけばいい」
「もっと遅い方がいいですよ」シルクが言った。「ポルガラに知れる前に十分遠くへ行っておきたいですからな」
ガリオンは署名をしてから手紙をたたみ、おもてに〈レディ・ポルガラへ〉としたためた。
「これは玉座の上に置いておけばよい」とベルガラス。「さあ、早く着替えてガリオンの剣を取りにいこう」
「しかしあれは少々かさばりやしませんかね」ガリオンとベルガラスが着替え終わるのを待ってシルクが言った。
「控えの間にあの剣専用のさやが置いてあるはずだ」ベルガラスはそう言いながら慎重にドアを開けて、静まりかえった廊下をのぞきこんだ。「背中に斜めにさすしかあるまい」
「あの〈珠〉の光は少しばかり仰々しすぎやしませんか」シルクが言った。
「何かで覆えばいいだろう」ベルガラスは答えた。「さあ、行くぞ」
三人はこっそりとうす暗い廊下に出ると、静まりかえった夜のしじまの中を忍び足で謁見の間に向かった。一度だけ台所に向かう眠たげな下働きの姿が三人を仰天させたが、空の部屋が格好な隠れ場所を提供してくれた。下働きが行きすぎるのを待って三人は再び廊下に出た。
「鍵がかかっているのかな」〈リヴァ王の広間〉のドアの前でシルクがひそひそ声でたずねた。
大きな取っ手を掴んでまわしたガリオンは、夜のしじまに響きわたるかちりという音に一瞬たじろいだ。ドアを前に押すと大きな音をたててきしんだ。
「こいつは誰かにいって直させるべきだな」シルクがささやいた。
三人が広間に入ると同時に〈アルダーの珠〉はかすかに輝きはじめた。
「きみだということがわかるらしいな」とシルク。
ガリオンが剣をおろすと同時に、〈珠〉は深みのある青い光を〈リヴァ王の広間〉いっぱいにはなった。ガリオンは誰か外を通りかかった者が、漏れでる光を怪しんでのぞきに来はしないかと気が気でなかった。「光るのをやめろ」ガリオンは思わず石に向かって命令した。〈珠〉は驚いたようにひときわ輝くと、すぐにかすかな瞬きに光を落とした。同時に〈珠〉の勝ちほこるような歌もつぶやきに変わった。
ベルガラスはけげんそうな表情を浮かべて孫息子を見つめたが、何も言わなかった。老人は控え室へ行き、装飾のない長いさやを壁にたてられていた箱から取り出した。さやに取りつけられたベルトはかなり使いこまれたあとがあった。老人はベルトをガリオンの右肩にまわし、胸を斜めに横切るようにかけて尾錠を締めた。二ヵ所で固定されたさやは、若者の背中を斜めに横切るかたちになった。さやの入っていた箱の中には、毛糸で編まれた細長い靴下のような形の袋が入っていた。「これをつか[#「つか」に傍点]束頭にかけるがいい」ベルガラスが言った。
ガリオンは毛糸の袋をつか[#「つか」に傍点]頭にかぶせると、巨大な剣を持ち上げ、そろそろと切っ先を背中のさやに差し込んだ。かれの動作はいささかぎごちなかったが、シルクもベルガラスもあえて手を出そうとしなかった。三人とも理由はよくわかっていた。剣はすうっとさやに収まり、ほとんど重さというものを感じさせなかったので、それほど不都合はなかったのである。ただつか[#「つか」に傍点]の横の部分がガリオンの頭に当たっているので、急な動作をするたびにぶつかるのが不便といえば不便だった。
「まあ、そもそも身につけるためのものじゃないからな」ベルガラスが言った。「当座はそれで間に合わせるしかあるまい」
再び三人は寝静まった〈要塞〉のうす暗い廊下を忍び歩き、目立たない脇の入口から外に出た。シルクが先頭にたって、猫のように音もたてずに影のなかを進んでいった。ベルガラスとガリオンはかれからの合図をじっと待っていた。中庭に面して、二十フィートほどの高さに開いた窓があった。二人がその下に立つと同時にかすかな光がきらめき、静かな声が呼びかけた。
「使命《エランド》?」
「そうだよ」ガリオンはほとんど考えずに答えていた。「きみは気にしなくともいいんだよ。早くお休み」
「ベルガリオン」子供は奇妙に満足そうな声で言った。それからひとこと、「さよなら」となごりおしそうにつけ加えると中へ消えた。
「あのままポルガラのところへ告げ口にいかないことを祈ろう」ベルガラスがつぶやくように言った。
「あの子は大丈夫だよ、おじいさん。ただぼくたちがどこかへ行こうとしてるのを見て、さようならを言いたかっただけなんだよ」
「ほう、何でそんなことまでわかるんだね」
「知らないよ」ガリオンは肩をすくめた。「ただ何となくわかったのさ」
そのとき中庭の門の方角からシルクの口笛が聞こえてきた。ベルガラスとガリオンは小男のあとに従って寝静まった街に出ていった。
まだ春は浅く、夜はかなり冷え込んでいたが我慢できないというほどではなかった。リヴァの山々の草地からえもいわれぬ芳香が街の上にまで漂い、泥炭の燃える匂いやつんとする塩の香りなどとまざりあっていた。頭上には星々が明るく瞬いていた。水平線近く昇ったばかりの月はしだいに輝きを増していくように見え、〈風の海〉の湾に向かって幾すじもの黄金色の道のような光を投げかけていた。ガリオンは夜出発するときのあのなつかしい胸のときめきが心のうちによみがえるのを感じた。あまりにも長くひとつ所に閉じ込められていたので、約束ごとや儀式の繰り返しの世界からひと足ごとに遠ざかっていくことを考えるだけで、胸がわくわくした。
「また旅に出るというのも悪くないもんだ」ベルガラスがかれの心を読みとったかのようにつぶやいた。
「やっぱりそうなのかい」ガリオンは小声でたずね返した。「今までこんなようなことを何百回と繰り返してきたあとでもやっぱりそう思う?」
「いつだってそうさ」ベルガラスは答えた。「何でわしが好きこのんで放浪者のような生活をしてると思うのかね」
かれらは暗く静まりかえった街を下り、都市外壁の小さな非常門から出て、月の光でまだらに染まる海面に突き出た波止場に向かった。
グレルディク船長はいささか酩酊ぎみで三人を迎えた。さすらいの船乗りは安全なリヴァの港に退避して厳しい冬をやり過ごしていたのである。かれらは船を岸辺につなぐと、底をぴかぴかに磨き、傷跡をすべて修服した。センダリアからの航海の最中、無気味な音をたててきしんだ主マストをすっかり補強した上、新しい帆を張った。それからグレルディク船長とその乗組員たちは毎日をほとんど飲み騒いで過ごした。三ヵ月にもわたる放蕩の結果は、ガリオンたちが叩き起こした船長の顔の上にありありと残っていた。船乗りの目はぼんやりとかすみ、その下には黒いくまができていた。髭もじゃの顔はむくみ、いかにも不健康そうだった。「あしたにしてくれ」大至急島を発ってほしいというベルガラスの頼みに、船長は不機嫌な声で答えた。「でなければ明後日だ。そうだ、明後日なら絶対大丈夫だと思う」
ベルガラスはさらに厳しい口調で話した。
「だがおれの乗組員たちはオールの位置にさえつけないぞ」グレルディクが異議を唱えた。
「そんなことをしようものなら、甲板じゅう吐き散らされて掃除するのに一週間はかかるだろう」
ベルガラスはさらに痛烈な最後通牒をつきつけると、グレルディク船長はしぶしぶしわくちゃになった寝台から起き上がった。かれはよろめきながら乗組員の宿所に向かい、途中で一回手すりにつかまってげえげえ吐くために立ち止まった。それから船倉におりていくと、罵り声とともに眠りこけている乗組員を蹴りつけて起こした。
ようやくグレルディクの船がひっそりと港を出て、〈風の海〉の長いうねりに身をまかせるころにはすでに月は空高く上がり、夜明けまでいくばくもない時刻になっていた。それでも太陽が出たときにははるか沖合に出ていた。
天候はすばらしく、風は順調とはいえなかったが、二日後にはグレルディク船長はガリオン、シルク、ベルガラスの三人をセンダリアの北西部の海岸におろしていた。そこはセリネ川の河口部の北側にあたる人気のない海岸だった。
「われわれは何もそう急いでリヴァに帰る必要もないのだ」ベルガラスは小さなボートから砂浜に足をおろして言った。老人は髭もじゃのチェレク人にじゃらじゃら鳴る硬貨のはいった小袋を渡した。「その間、おまえと部下たちはどこかで気晴らしをしていればいいんじゃないかね」
「いやあ、この時期のカマールときたら最高でね」グレルディクは値ぶみするように手の上で小袋を放り上げながら言った。「あそこにはおれが行くといつも親切にしてくれる若い後家さんがいるんだ」
「それはぜひともたずねてやらねばならんよ」ベルガラスが言った。「もうかなりのご無沙汰のはずだから、さぞかし彼女もきみがいなくてさみしい思いをしていることだろう」
「あんたの言うとおりだな」グレルディク船長は目を輝かせた。「それじゃあ気をつけてな」船長は乗組員に身振りで合図して、再び小さなボートに乗り込むと、百ヤードほど沖合に停泊中の小ざっぱりした船に向かって漕ぎ出していった。
「今のはいったいどういうことなんだい」ガリオンがたずねた。
「ポルガラがグレルディクを捕まえる前に少し距離をつけておきたいのさ」老人は答えた。
「と言うより、われわれのあとを追いかけてもらいたくないのさ」そう言ってかれはあたりを見まわした。「さあ、誰かセリネの上流までボートで運んでいってくれるやつを探そう。そこへ行けば馬や食糧も調達できるぞ」
北西の川岸であてにならない獲物を待つよりは、渡し船の船頭に早がわりした方がもうけになるといち早く見てとった漁師が、かれらを上流へ運ぶことを承知した。一行は日の暮れる頃、セリネの街に入った。居心地のいい宿で一泊したのち、翌朝かれらは中央市場に向かった。シルクが馬の購入にあたっての交渉役をつとめた。ガリオンには小男が必要性というよりも習慣から最後の一ペニーまで値切ろうとしているような気がしてならなかった。それから今度は食糧を買い込んだ。太陽が高くのぼる頃には一行はすでに馬に揺られながら四十リーグほど先のダリネに向かっている最中だった。
北センダリアの原野ではすでに春の最初の緑が湿った大地の上に芽吹いていた。ひすい色のもやのように見えるそれは、春が来たことを声高らかに宣言しているようだった。青い空をふわふわした雲が滑るように横切っていく。風は強かったが、太陽の熱で暖められていた。かれらの行く手は緑色のじゅうたんの間をぬってどこまでも続いていた。ガリオンは課せられた使命の重さを忘れ、思わず歓喜の声をあげたいような気分になった。
かれらがダリネに着いたのはそれから二日後のことだった。「ここから船にしますか」何ヵ月かまえに荷馬車三台分のカブを積んで通った同じ丘の頂を目指しながら、シルクが聞いた。
「それなら一週間以内にコトゥへ行けますよ」
ベルガラスはあご髭をかきながら、午後の陽ざしを浴びて眼下に広がる広大なチェレク湾を眺めていた。「いや、やめておこう」そう言いながら老人はセンダリア領海の外を巡視にまわるチェレクの軍艦を指さした。
「連中はいつもああやって巡回してるんですよ」シルクは答えた。「わたしたちの動きには別に何の影響もありゃしませんよ」
「ポルガラはたいそうしつこい女だからな」ベルガラスは言った。「目下のところは、あれやこれやでリヴァを離れはしないだろうが、追っ手を送るくらいのことはできる。このさい極力もめごとは避けた方がよい。北の海岸沿いに進み、そこから湿地を横切ってボクトールへ向かおう」
シルクは心底いやそうな表情をしてみせた。「そんなことをしたら、ひどく時間をくいますよ」
「別段それほど急ぐ旅でもあるまい」ベルガラスは落着きはらった口調で言った。「アローン人は軍隊を召集しはじめているが、まだしばらく時間がかかるに違いない。アレンド人が足並みをそろえるのはもっとあとになるだろう」
「それがいったい何の関係があるんですか」シルクがたずねた。
「いやなに、かれらの動きに関して少しばかり含むところがあるのでな。もしできればかれらにはわれわれがガール・オグ・ナドラクを横断する前に出発してほしいんだ。むろんマロリーに入る前でなくては困るが。そうすればポルガラがわれわれを捜索するために派遣してきた連中との不愉快な遭遇を避ける時間の余裕ができる」
そこで一行はダリネを迂回して、海を見おろす絶壁につけられた、岩のごつごつした狭い道を進むことにした。波は凄まじい轟音とともに打ち寄せては、北の海岸の巨大な岩に激突してこなごなに砕け散った。
急崖となってチェレク湾に落ちこむセンダリア東部の山々をぬって曲がりくねり、あるいは急に上下する道は決して歩きやすいものではなかった。シルクは何度も悪態をついた。
だがガリオンには他の心配があった。ムリン古写本を読んだのちにかれが下した決断は、きわめて論理的に思えたが、今となってはそれも自信がなかった。こうしている間にもかれはトラクと果たし合いをするために、着々とマロリーに近づきつつあるのだ。考えれば考えるほど、それは正気の沙汰とは思えなくなってきた。どうしてかれに神を打ち負かすことなどできよう。ガリオンは岩だらけの海岸に馬を走らせ、東に進みながらそのことばかり考えていた。かれの気分もシルクのそれに負けず劣らず憂うつなものになってきた。
やがて一週間ほどすると、崖は低くなり、道もいくらかなだらかになった。東の最後の丘陵地帯からかれらは広大な深い緑色をした、いかにもじめついていそうな平坦地を見おろしていた。「ついに着いちまったらしい」シルクはむっつりした口調でベルガラスに言った。
「いったいおまえは何をすねておるのだ」老人は小男にたずねた。
「そもそもわたしがドラスニアを脱出したのは、まちがっても沼地のそばに近寄るようなはめにならずにすむだろうと思ったからなんですからね」シルクはずけずけと言った。「それなのにこんなうっとおしい悪臭ふんぷんたる場所へ引きずってこられるとは。まったくあなたを見損ないましたよ、ご老人。この恨みは一生忘れませんからね」
ガリオンは眉をひそめたまま眼下の湿地帯を眺めていた。「あれは本当にドラスニアなのかい」かれはたずねた。「もっとずっと北だと思ってたけれど」
「じつのところを言えばアルガリアなのだ」ベルガラスが答えて言った。「アルダーの沼地の入り口だな。ここをさらに北上してアルダー川の河口を越えたところがドラスニアとの国境だ。連中はムリンの沼地と呼んでいるが、同じ地続きだ。沼地はさらにムリン川河口にあるコトゥを越えて三十リーグばかりも続いているんだ」
「あんなもの地元じゃただの沼と呼んでますよ」シルクは言った。「まっとうな人間なら近よらないだけの良識は持ち合わせていると思いますがね」かれは辛らつな口調でつけ加えた。
「こんなところでぶつぶつ不平をたれるんじゃない」ベルガラスは厳しい声で言った。「あそこの海岸に漁師がいる。ボートを買おう」
シルクの目が輝いた。「それじゃ、海岸にそって行くんですね」
「そいつはあんまり賢明ではないな」とベルガラス。「アンヘグの艦隊がわれわれを探すためにチェレク湾をうろうろしているうちはな」
「だがかれらが探しているかどうかなんてわかりゃしませんよ」
「わしにはポルガラの性格がよくわかっておるのだ」
「まったくもって今回はひどい旅になりそうだ」シルクはぼやいた。
じくじくした海岸にいた漁師たちは、アルガー人とドラスニア人の血が奇妙に入りまじった、よそ者に心を許さない寡黙な人々だった。かれらの村はどろどろした地面の上に打ち込まれた杭を組み合わせたものの上に建てられていた。あたり一面にはどこの漁村にも特有の、死んだ魚の匂いが漂っていた。ボートを売る意志のある漁師を探すのはひと苦労だった。だがボート一台とかれらの馬三頭、さらに何枚かの銀貨を加えたものが十分に見合うものだということを説得するのはもっと大変だった。
「もれてるじゃありませんか」シルクがボートの底に一インチばかり溜まった水を指さしながら大声で言った。かれらは流れにさおさして悪臭ふんぷんたる村から遠ざかりつつあった。
「どんなボートだって水はもるのだぞ、シルク」ベルガラスがさとすような声で言った。「そういうふうにできているものなのだ。さっさとくみ出せばいい」
「だが、また水が溜まりますよ」
「そのときはまたくみ出せばよい。そんなことでいらいらするんじゃない」
沼地はどこまでも果てしなく続くと思われる、生い茂るガマやイグサのあいだをぬってゆっくり流れる黒い水の世界だった。行く手には狭い水路や小川や、しばしば航行の楽な小さい湖があらわれた。空気は湿っぽく、夜になると蚊や羽虫の大群が飛びかった。蛙たちは夜通し求愛の歌をうたい、春の到来を興奮にみちた熱狂で祝っていた――小さな蛙はかん高い声で、皿ほどもある巨大な蛙は牛のように太い声で。小さな池や湖では魚が飛びはね、じめじめした小島ではビーバーやマスクラットなどの小動物がねぐらに引きこもっていた。
かれらはアルダー川河口特有の入りくんだ迷路のような水上の道をたどり、ゆっくりとした北国の春のなかを北東に向かって進んだ。一週間ほど流れをたどったところで、かれらのボートははっきりしない国境を越えて、アルガリアを後にした。
一度など誤った水路に導かれてボートを座礁させてしまったこともあった。かれらはボートの外に出て、ぬかるんだ岸の上からありったけの力をこめて持ち上げ、押し出してやらねばならなかった。再び動き出したボートの上で、シルクは憂うつなおももちで船縁に腰かけて、ねとねとした泥を水面に滴らせ台無しになった長靴を眺めていた。再び口を開いたとき、かれの声には心からの嫌悪があふれていた。「いやはや、何ともいえないね。なつかしのわが故郷、泥んこのドラスニアに再び帰ってくるなんて実にすばらしいことだ」
[#改ページ]
18[#「18」は縦中横]
すべて巨大な湿地帯の一部とはいえ、ガリオンはこのドラスニアの沼地が南方のそれとはわずかに違うことに気づいていた。ここでは水路はさらに狭く、うねりくねり、しばしば折れ曲がった。何日か進み続けるうちに、道に迷ったのではないかという確信が徐々にかれの心のなかでふくれあがっていった。「ぼくたちが本当にどこへ向かってるのかわかっているのかい」かれはシルクにたずねた。
「はっきり言って皆目見当がつかないね」シルクは単刀直入に言ってのけた。
「きみは自分には知らない道はないと豪語していたじゃないか」ガリオンは非難するように言った。
「だがね、沼地には決まった道なんてないのさ、ガリオン」とシルク。「できることといえば、流れにさからいながら、幸運を祈るだけのことさ」
「でも何らかの順路ぐらいはあるはずだ」ガリオンは異議を唱えた。「なんで標識かしるしをたてておかないんだろう」
「ここじゃ、そんなことしたってむだなのさ、見てごらん」そう言いながら小男はボートの横に突き出している一見堅固そうな小島をさおで押しやった。すると小島はゆっくりと水の上を動いた。ガリオンはあ然としてただ眺めるばかりだった。
「浮き島だ」ベルガラスがさおを動かす手を止めて、額の汗をふきながら説明した。「植物の種が落ちてその上で繁殖するので一見ふつうの堅固な地面のようにみえるが、実はそうじゃないのさ。浮き島は風や流れのままにどこへでも移動する。だからここには決まった水路もなければ、はっきりした道もないというわけだ」
「別に風や流ればかりとも限りませんがね」シルクがむっつりと言った。かれは暮れていく夕日にちらりと目をやった。「夜がくる前に何かしっかりしたものに、つなぎ止めておいた方がいいですよ」
「あれはどうだ」ベルガラスは周囲からひときわ高い、木立に覆われた浮き島を指さして言った。
かれらは水面から盛り上がる小島にボートを近づけた。シルクは何度も確かめるように地面を踏みつけた。「どうやらこいつは大丈夫そうだ」小男はそう言ってボートから島におり、小島の頂に登って何度も足元を確かめた。地面は十分にたしかな音でこたえた。
「ここに乾いた場所があります」かれは報告した。「向こうに流木のひと山もある。どうやら今晩は固い地面の上で寝て、おまけに暖かい食事までとれそうですよ」
かれらはボートを小島の斜面に引きあげた。シルクはボートをしっかり係留しておくためにいささか風がわりな予防手段を講じた。
「そんなことまでする必要があるのかい」ガリオンはたずねた。
「そりゃボートといえるような代物じゃないかもしれんがね」シルクは答えた。「われわれにはこれしかないんでね。むざむざ危険をおかすことはないだろ」
夕陽が沼地を血の色に染めながらゆっくり地平線近くの雲に沈んでいくなか、三人は火を焚き、天幕をたてた。シルクは調理道具を引っぱりだして夕食の準備を始めた。
「それじゃ温度が高すぎるよ」ねずみ顔の小男が煙をあげるフライパンにベーコンをいく切れか並べようとするのを見たガリオンは批判的に言った。
「そんならきみがやるかね」
「ぼくはただ注意しただけだよ」
「残念ながらきみとは違うんでね」シルクは辛らつな口調で言い返した。「わたしはポルガラの台所で育ったわけじゃないんだ。自分でできるかぎりのことをするしかないのさ」
「何もそんなにかっかすることないだろう」とガリオン。「ぼくはただフライパンの温度が高すぎることを教えてやろうとしただけなのに」
「それなら何もいちいちきみに教えてもらわなくたって十分わかる」
「どうぞご勝手に。でもそのままじゃベーコンを焦がすよ」
シルクはガリオンにいらいらした視線を投げ、フライパンにベーコンの細切りを乱暴に投げこみ始めた。ベーコンはじゅうじゅう音をたてて煙り、たちまちのうちに端が焦げてそり返った。
「だから言ったじゃないか」ガリオンがつぶやいた。
「ベルガラス」シルクが訴えた。「頼むからわたしを一人で調理させて下さいよ」
「こっちへ来るんだ、ガリオン」老人が言った。「シルクはおまえの助けがなくとも立派に夕食を焦がせるとさ」
「それは、どうも」シルクはすねたように答えた。
だが夕食は思ったほどひどいものではなかった。焚火が消え、まわりの沼地が紫色の闇に閉ざされていくのを、満腹した三人はじっと見守った。アシの茂みのなかから蛙たちがいっせいに合唱をはじめた。鳥たちは頭をたれるガマの茎にとまって眠たげなさえずりをかわした。ときおり茶色い水面からぴしゃりとはねる音や、せせらぎの音が聞こえてきた。沼の底から涌き出るガスのごぼごぼいう音が思い出したように聞こえてきた。シルクは苦いため息をついた。
「わたしはこんな場所は大きらいだ」かれは言った。「心の底から大っきらいだ」
その夜ガリオンは悪夢にうなされた。リヴァを出てから初めてではなかった。こんなふうに冷や汗をぐっしょりかいて、がたがた震えながら目覚めるのは今晩だけではないことをガリオンはうすうす感じていた。それは決して新しい悪夢ではなく、少年時代からかれを周期的に苦しめてきたものだった。ふつうの悪夢とは違い、何かに追いかけられたり、脅かされたりすることはなかった。それには昔から決まったひとつのイメージがあった――醜く焼けただれた恐ろしい顔。じっさいにその顔の持ち主に会ったことはなくとも、ガリオンにはそれが誰なのか、またなぜかれのもっとも陰うつな夢に登場するのかもよくわかっていた。
翌朝は雨の近いことを知らせるような、どんよりした曇り空だった。ベルガラスが火を起こし、シルクが荷物のなかから朝食になるものを漁りまわっているあいだ、ガリオンはまわりの沼地をじっと眺めながら立ちつくしていた。頭の上を雁の群れがふぞろいなV字型を描いて飛んでいった。鳥たちのはばたきと無言の鳴き声が、遠くもの悲しく漂ってきた。小島の縁からそう離れてはいない場所で魚が跳びはねる音がした。ガリオンは岸辺にむかって広がっていく水の輪をじっと見つめていた。かれはしばらくずっと岸辺を眺めていたが、やがてどこかおかしいことに気づいた。初めのうちはけげんそうに、次にいくらか不安を感じながら、かれは岸辺をためつすがめつ眺めた。
「おじいさん!」かれは叫んだ。「あれを見て」
「どうかしたのか」
「まわりのようすがまったく変わっているんだ。水路なんかもうどこにもありゃしない。ぼくらは出口のない大きな池に閉じ込められてしまったんだ」そう言いながらガリオンは狂おしくあたりを見まわしたが、かれらのいる小島を囲む水面にはどこにも切れ目がなかった。水路は一本も見当たらず、よどんだ茶色い水はそよとも流れる気配がなかった。
突然、池の真ん中に丸い毛むくじゃらの頭がさざ波もたてずに浮上した。まん丸に見開かれた目がきらきら輝いていた。耳らしきものは見当たらず、小さな鼻はまるで黒いボタンのように見えた。動物がひと声かん高く鳴くと、かれらから数フィートと離れていないところに別の頭が浮かび上がった。
「沼獣だ!」シルクはあえぐような声で叫ぶと、耳ざわりな金属音とともに腰の短剣を抜いた。
「そんなものはしまっておけ」ベルガラスがうんざりしたように言った。「やつらは人を傷つけたりはしない」
「でもわれわれは連中の罠にひっかかったんですよ」
「いったいどうしようというんだろう」ガリオンが聞いた。
「むろん、朝めしにしようっていうのさ」シルクはなおも短剣を握りしめたまま言った。
「馬鹿なことを言うんじゃない」老人がたしなめた。「まわりに新鮮な魚がごまんといるのに、何でうまくもないドラスニア人の肉を食わなきゃならんのだ。さあ、その短剣をいいかげんにしまえ」
すると最初に頭を出した沼獣が、水かきのある前足を上げて意味ありげな動作をした。それはまるで人間の手のようだった。
「どうやらついてこいと言ってるらしいな」ベルガラスが静かに言った。
「それでおめおめと後をついてくというんですか」シルクが仰天したような声を出した。「気でも狂ったんじゃありませんか」
「だが他にどうしろというのかね」
ベルガラスはそれだけ言うと、天幕をたたみはじめた。
「あれは化け物なの、おじいさん」ガリオンは祖父を手伝いながら心配そうにたずねた。「アルグロスやトロールみたいな」
「いや、かれらはれっきとした動物だ――まあ、あざらしとかビーバーのたぐいだと思えばいい。利口で好奇心おうせいな、たいそう遊び好きな連中さ」
「だがその遊びというのがなかなかたちが悪いときてる」シルクがつけ加えた。
再び荷物をボートに積み込むと、かれらはボートを押して再び沼の上に浮かべた。沼獣は三人のようすをじっと眺めていたが、そのまなざしには何の脅威も悪意も浮かんではいなかった。だがその毛むくじゃらの小さな顔にははっきりとした意志があらわれていた。するとどこにも切れ目がないように見えた池の一部が開いて、夜のあいだ隠されていた水路があらわれた。先ほど合図をした沼獣が先に立ち、奇妙な丸い頭を浮かべて泳ぎ始めた。かれはときどき三人がちゃんとついてきてるかを確かめるように後ろをふりかえった。もう一匹は大きな目を警戒するように見開いて、ボートの後にぴったりついてきた。
やがて空からぽつりぽつりと降り始めた雨は、間断ないこぬか雨に変わり、両側に果てしなく続くアシやガマの群落の上にベールのように降りそそいだ。
「いったいどこへ連れていく気だろう」シルクがさおを動かす手をとめて、顔から雨をぬぐいながら言った。だが後ろからついてきた沼獣の怒ったような声に、再びさおをぬかるみの底に突いてボートを動かし始めた。
「行ってみるしかあるまい」ベルガラスが答えた。
水路はどこまでもかれらの前に広がっているようだった。三人は初めに姿をあらわした沼獣の丸い頭のあとに従ってボートを操っていった。
「前に見えるのは木ですかね」もやのかかったこぬか雨に目をこらすようにしてシルクが言った。
「そのようだな」ベルガラスが答えた。「どうやらわれわれはそこへ向かっているらしいぞ」
霧のかなたから大きな木立ちの影がゆっくりと浮かびあがってきた。近づくにつれ、アシの群落からなだらかにせりあがった陸地が見えてきた。島を覆う樹木のほとんどは長い枝をなびかせる柳の木だった。
先頭をいく沼獣は島に向かって泳ぎつづけた。やがて陸地にたどりつくと、それは体の半分を水から出して口笛をふくような不思議な声で鳴いた。ほどなくして木立ちのなかから茶色のマントに頭巾をかぶった人影があらわれたかと思うと、岸辺にゆっくりとおりてきた。別に何かを予期していたわけではなかったが、頭巾をはねのけた女性の顔を見たガリオンは少なからず驚いた。その顔は年老いてこそいたが、若い日々の美しさをまだ十分にとどめていた。
「ようこそ、ベルガラス」彼女は奇妙に平板な声で老人をむかえた。
「やあ、ヴォルダイ」老人は打ちとけた声で答えた。「ずいぶんひさしぶりじゃないか」
かれらのボートを案内してきた小さな獣は水からあがると、茶色のマントの老婦人のまわりにまとわりついた。かれらはかん高い声で女主人に何やら話しかけた。彼女は愛情をこめたまなざしを向け、濡れた毛皮をやさしく撫でてやった。沼獣は中位の大きさの、小さな丸まる太った腹に短い足を持った動物だった。かれらは前足を毛むくじゃらの胸にちょこんとつけ、後ろ足で立って小刻みなすり足でちょこちょこ歩いた。
「さあ、いつまでも雨の中に立っていないでこちらへいらっしゃい」老婦人が言った。「お友だちもごいっしょにね」彼女は踵を返し、まわりで飛びはねる沼獣を連れて、柳の木立ちのあいだの小道を歩き始めた。
「どうするんだい」ガリオンが小声でたずねた。
「いっしょに行くことにしよう」ベルガラスはボートから島に足をおろしながら言った。
ガリオンは先に何が待ち受けているかもわからないまま、シルクとともに老人の後に従って柳からしたたり落ちる雨に濡れた小道を歩いていった。眼の前に小さな庭園のついた、わらぶきの小ぎれいな家があらわれたときはさすがのかれも仰天した。家は乾いた丸太を組み合わせて作られたもので、すき間はびっしりとコケでふさがれ、煙突からはひと筋の細い煙があがっていた。
戸口に立った老婦人は、注意深くイグサの靴ふきで足をぬぐい、マントについた雨のしずくを振りはらった。そしてドアを開けると後ろも見ずに、さっさと中へ入っていった。
シルクは家の前で立ち止まって、うさんくさそうな表情を浮かべた。「本当に大丈夫なんでしょうね、ベルガラス」かれは小さな声でたずねた。「ヴォルダイについちゃ、いろいろとよくない噂を聞いてますよ」
「だが彼女が何を望んでいるかを知るにはこれしか方法がない」ベルガラスは言った。「それにヴォルダイと話をしなければ、これ以上先に進むこともできないような気がしてな。さあ、入ろう。よく足をふくのを忘れずにな」
ヴォルダイの家の内部はすみずみまできれいに手入れされていた。天井は低く、がっしりした梁に支えられていた。木の床は真っ白になるまで磨きこまれ、アーチ型の暖炉の前にはテーブルと何組かの椅子が置かれている。暖炉の鉄鉤には鍋がかけられていた。テーブルの上にはヒマワリをいけた花瓶が置かれ、庭を見おろす窓にはカーテンが吊されていた。
「あなたのお友だちを紹介してくださいな、ベルガラス」老婦人はマントを釘にかけながら言った。彼女は茶色の簡素なドレスの正面のしわを手でのばした。
「むろんだとも、ヴォルダイ」老人は礼儀正しく答えた。「こちらはケルダー王子。きみの同郷人だ。そしてこちらがリヴァの王ベルガリオンだ」
「高貴な方々ばかりね」老婦人はあいかわらず平板な声で言った。「ヴォルダイの家にようこそいらっしゃいました」
「失礼ながら、マダム」シルクはめいっぱい宮廷風の丁重さをよそおった声で言った。「いろいろと芳しくないお噂を聞いているのですが」
「〈湿原の魔女ヴォルダイ〉ですか」老婦人は面白がっているような表情だった。「あの人たちはまだわたしのことをそう呼んでいるのかしら」
シルクはほほ笑みを返しながら言った。「残念ながら連中の表現は何というかもっと誤解を与えるようなたぐいのものでしてね」
「〈沼の鬼婆〉」彼女は愚直な百姓の口調をまねて言った。「〈旅人を沼に引きずり込んで溺れ死にさせるもの〉または、〈沼の女王〉」老婦人の唇が苦々しげにゆがんだ。
「まあ、そんなようなものです」シルクは言った。「わたしはてっきりあなたが聞きわけの悪い子供を脅かすために作られた寓話だとばかり思っていましたよ」
「そんなことをしてるとヴォルダイに捕まって食べられちまうよ!=vそう言って彼女は笑ったが、その声にはまったくおかしみが感じられなかった。「わたしは何十年と同じせりふを聞かされ続けてきましたわ。さあマントをお脱ぎなさいな。みなさんにはしばらくこの家にいていただくことになりますから」
するとそこへ沼獣がやってきて――かれらをこの島まで案内してきた方だろうとガリオンは見当をつけた――暖炉にかけられた鍋をふり返りながら、小さなかん高い声で老婦人に何ごとかを話しかけた。
「ええ」老婦人はやさしい穏やかな声で答えた。「もう十分煮えているのはわかってるわ、チューピク。でもよく煮なくちゃお料理ができないのよ」彼女は一行をふりかえった。「もうすぐ朝食の用意ができますわ。チューピクの話では皆さん朝食がまだだそうですから」
「かれらと話ができるんですか」シルクは驚いた声で言った。
「そのようですわね、ケルダー王子。さあ、皆さんのマントを暖炉の火で乾かしましょう」老婦人は立ちどまると、ガリオンの顔をじっと見つめた。「お若いのにずいぶん大きな剣をお持ちなのね」彼女はガリオンの肩から突き出している剣の巨大なつか[#「つか」に傍点]を見ながら言った。「それは部屋のすみにたてかけておいたらいかが、ベルガリオン王。ここには戦う相手など誰ひとりおりませんわ」
ガリオンは礼儀正しくお辞儀すると剣のベルトの尾錠をはずしてマントといっしょに老婦人に渡した。
すると前よりも小さめな沼獣が雑巾をもって飛び出してきたかと思うと、かれらのマントからしたたり落ちた水滴をせっせとふきながら、非難するような声で何やらしゃべりだした。
「ポッピーの無礼をお許しくださいな」ヴォルダイはほほ笑みながら言った。「この子は異常なほどきれい好きなのです。ほうっておいたら穴があくまで床を磨き続けるんじゃないかと思うことさえありますわ」
「ヴォルダイ、こいつらは前と違うようだがな」ベルガラスはテーブルに腰かけながら重々しい声で言った。
「ええ、わかってるわ」彼女は暖炉へ行って、煮えたぎる鍋の中身をかきまわした。「わたしはもう何年もこの子たちの面倒を見てきたんですもの。たしかにわたしがここへ来たときとは違っているわ」
「かれらの生活をみだりに変えたりしてはいかん」ベルガラスは言った。
「前にもそう言ったわね――あなたとポルガラとで。そういえば、ポルガラはどうしているかしら」
「今ごろ頭から湯気をたてて怒っているだろうよ。じつを言えばわれわれは彼女にだまってリヴァの要塞を抜け出してきたのさ。あれはそういったことをひどく嫌うからな」
「あの人は生まれつき怒りっぽいのよ」
「ふむ、少なくともその一点においては意見が一致したな」
「さあ、朝食の用意ができましたよ」彼女はそう言いながら鍋を鉄の鉤に引っかけて持ち上げ、テーブルの上に置いた。するとポッピーは向かい側の食器戸棚までよちよち歩いて、木製の鉢をひとかかえ運んできた。そしてスプーンを取るために引き返した。彼女はまん丸い目を明るく輝かせ、三人にむかってしかつめらしい表情でなにごとかをまくしたてた。
「この子はきれいな床にパンくずを落とさないでと言ってるのよ」ヴォルダイは暖炉のわきのオーブンから湯気をたてている焼きたてのパンを取り出しながら言った。「彼女はパンくずを見ると我慢できないの」
「気をつけることにしよう」ベルガラスは約束した。
朝食にしてはずいぶん変わった献立だな、とガリオンは思った。鍋からつがれたほかほかのシチューはこってり濃厚で、見慣れない野菜や魚の大きなぶつ切りが浮かんでいた。だがその味つけはことのほかすばらしく、シチューはおいしかった。食事を終えるころには、老婦人がポルガラと肩を並べる位の名料理人だということをガリオンはしぶしぶ認めざるを得なかった。
「いや、すばらしかった」ベルガラスは彼女の腕前を称賛しながら、鉢をわきに押しやった。
「さあ、用件に入ろうじゃないか。なぜわれわれをここへ連れてきたのだ」
「お話がしたかったからよ、ベルガラス」老婦人は言った。「ここにはあんまりお友だちがいないし、こんな雨の朝にはおしゃべりをして過ごすのが一番でしょう。どうしてあなた方はこの沼地へいらしたの」
「こうしている間にも〈予言〉のとおりにことが進行しているのだ。リヴァ王が帰還し、トラクがまどろみから目覚めつつある」
「まあ」彼女はたいした関心もなさそうにあいづちをうった。
「〈アルダーの珠〉は、いまそこにあるベルガリオンの剣のつか[#「つか」に傍点]頭についている。〈光の子〉と〈闇の子〉が対決する日はもうそんなに遠い先のことではない。われわれはその対決をするためにやってきたのだ。全世界の人々がその結果を固唾をのんで見守っている」
「わたしは違うわ、ベルガラス」老婦人は突き刺すような視線をベルガラスに向けた。「人間の運命になんてわたしは露ほどの関心もありません。かれらはわたしを三百年前に拒んだのよ、あなただってご存じのはずだわ」
「だが連中はとっくの昔に死んでいるのだぞ、ヴォルダイ」
「かれらの子孫だって大差ないわ。現に今だってわたしが石を投げられたり、火あぶりにならずに善良な村人と話ができるような場所がこのドラスニアのどこにあって?」
「村人というのはドラスニアにかぎらず、えてしてそういうものですよ」シルクが割って入った。「粗野で愚かで迷信深いのです。だが全部の人間がそうだというわけじゃありませんよ」
「いいえ、人間なんてみな同じですわ、ケルダー王子」彼女は反駁した。「わたしも若い頃はこの村のできごとに積極的にかかわろうと思いました。わたしはただ助けてあげたいと思っただけなのに、いつのまにか牛が死んだり赤ん坊が病気になったりするとみんなわたしのせいになっていましたわ。村人たちはわたしに石を投げ、最後にはわたしを村のはずれまで引きずっていって火あぶりにしようとしたのです。かれらはそれを祝おうとさえしたのですよ。でもわたしは辛くもかれらの手から逃げ、この沼地に身を隠したのです。それ以来わたしは人間がどうなろうとまったく気にするのはやめました」
「あんたは人前で自分の才能をひけらかしたりしなければよかったんだよ」ベルガラスが言った。「人間というものはそういったことを信じたがらないのだ。連中の心には小さな邪悪がいっぱいつまっていて、少しでも並外れたものを見せつけられると、ただちに報復を与えようと考えるのだ」
「その件に関してはわたしの村は十分思い知ったはずだわ」彼女は無気味な満足を顔に浮かべて言った。
「何が起こったんですか」ガリオンが好奇心にかられてたずねた。
「わたしは雨を降らせたのよ」ヴォルダイはほほ笑みを浮かべて答えた。
「それだけですか」
「それだけで十分だったのよ。何といっても五年間も降り続けたのですものね――それも同じ村にですよ。この村の一番端の家から百ヤードと離れてはいない隣の村では晴れているというのに、この場所だけは雨が降っているのです。村人は二度ほど近くに引っ越そうとしましたけれど、そのたびに雨もいっしょについていったわ。ついにかれらはすべてをあきらめ、村を捨てました。わたしの知る限りではかれらの子孫はいまだに世界中をさまよっているはずよ」
「まさか、ご冗談でしょう」シルクが冷笑するように言った。
「いいえ、冗談などではありません」彼女のまなざしはおもしろがっているようだった。「それにしてもあなたの浮薄な信頼はずいぶん気まぐれですのね、ケルダー王子。あなたはこうして魔術師ベルガラスについて世界中を旅していらっしゃるのでしょう。かれの力を信じていらっしゃるあなたが、どうして沼地の魔女にも同じ力があることを認めないのかしら」
シルクはぼう然と彼女を見つめるばかりだった。
「わたしは本当に魔女ですのよ、ケルダー王子。もしお望みならわたしの力をご披露いたしますが、たぶんお気に召さないでしょう。ふつうの人たちは皆そうですわ」
「そんな必要はない、ヴォルダイ」ベルガラスが言った。「それでおまえの望みはいったい何なのだ」
「これから申し上げようと思っていたところよ」彼女は答えた。「沼地に隠れすむようになったわたしは、ここで小さな友人たちを見つけました」老婦人がかたわらのポッピーの小さな毛むくじゃらの顔をやさしく撫でてやると、ポッピーも嬉しくてたまらないといったようすで鼻を彼女の手になすりつけた。「この子たちも最初のうちはわたしを怖がっていたけれど、すぐに慣れてくれるようになったわ。かれらはわたしに友情のしるしとして魚や花を運んでくれるようになったのですよ。わたしが一番友人がほしくてたまらない時期にね。だからわたしは感謝のしるしとして、かれらに少し違う能力を与えてやることにしたの」
「あんたはそんなことをしてはいけなかったんだ」老人は悲しげな表情で言った。
「何をしていいか悪いかなんて、わたしにはもうどうでもいいことですわ」
「だが神でさえ、あんたのしたようなことはやらんだろう」
「神には他にも慰めがいろいろありますもの」老婦人はここでかれを真っすぐに見すえた。
「わたしはあなたが来るのをずっと待っていたのよ、ベルガラス――もう何年も前からね。あなたがいずれこの沼地に帰ってくることはわかっていたわ。これから行なう対決はあなたにとってとても重要なことなのでしょう」
「われわれがかかわろうとしているのは、この世の歴史が始まって以来のもっとも重大なできごとだ」
「それはあなたの立場からみればそうなのでしょうね。でも、あなたにはわたしの助けが必要になるはずよ」
「われわれだけの力で切り抜けてみせるさ」
「そうね。でも、どうやってこの沼地から抜け出すのかしら」
ベルガラスは彼女に鋭い視線を向けた。
「わたしならあなたのために沼地の端の乾いた土地に道を開いてあげることもできるわ。さもなければあなたを一生この沼地でさまよわせることもできるわ――でもそうなったら、あなたの言う対決は永久に行なわれないことになるわね。わたしの立場はとても微妙なものになると思わないこと?」
ベルガラスは眉をしかめた。
「わたしは人間が他の人間とかかわりを持つときには、互いに何かを交換しあうものだということを知っているわ」彼女は謎めいた小さな微笑を浮かべた。「あげるものがあればお返しをする。あげるものがなければ何も返さない。なかなか実利的な取り決めだと思わない?」
「いったい何を考えているのかはっきり言ってもらえんかね」
「ここの沼獣たちはわたしの大切な友人なのよ」彼女は言った。「ある意味じゃわたしの子供たちといってもいいかもしれないわ。それなのに人間たちはかれらを毛皮を取るための動物としか見ていないのよ。あの人たちはわたしの沼獣たちを罠にかけ、毛皮をはぐために殺すのよ。ボクトールやコトゥの貴婦人たちはわたしの子供たちの毛皮をまとって、母であるわたしの悲しみになんかまったく気づこうともしない。人間たちはわたしの子供たちを動物と呼び、かれらを狩るために沼地に入ってくるのよ」
「だがあれはじっさい動物なのだよ」老人はやさしくさとすように言った。
「でも、今はちがうわ」ヴォルダイの手は無意識のうちにポッピーの肩にまわされていた。
「あなたの言うとおり、この子たちの生活を変えたことは間違いだったかもしれない。でも、もう後もどりするには遅すぎるのよ、ベルガラス」老婦人はここでため息をついた。「ご存じのようにわたしは魔女だわ」彼女は続けた。「魔術師とは違うわ。わたしの人生はそろそろ終わりに近づいているの。たぶんそれも遠い日のことじゃないと思うわ。わたしはあなたやポルガラのように永遠に生きることはできないの。もう何百年も生きてきたし、そろそろ人生にもだいぶ疲れてきたわ。わたしが生きてる間は、人間を沼地から遠ざけておくことはできるけれど、もしわたしがいなくなったら、この子たちを守る人は誰もいなくなってしまうのよ」
「わたしに代わって面倒を見てほしいというのかね」
「いいえ、そうじゃないわ。あなたはたいそう忙しい人だし、覚えておくほど重要でもない約束をよく忘れるでしょ。わたしがしてほしいのはただひとつ、人間たちが二度とこの子たちを動物だとは思わないようにしていただくことなのよ」
しだいに彼女が言おうとしていることがわかり始めた老人は目を大きく見開いた。
「わたしの子供たちをしゃべれるようにしてほしいのよ、ベルガラス」ヴォルダイは言った。
「わたしではだめなの。わたしの魔力ではそこまでできないのよ。この子たちをしゃべれるようにできるのは魔術師の力をおいて他にはないわ」
「ヴォルダイ!」
「これがわたしの代価よ、ベルガラス」彼女は言った。「わたしの助けのために支払うべき代金なの。承知するか拒絶するかのどちらかしかないわ」
[#改ページ]
19[#「19」は縦中横]
その夜かれらはヴォルダイの家に泊まったが、ガリオンはほとんど眠れなかった。沼地の魔女の最後の言葉がかれの心をおおいに悩ませていた。自然に干渉するということは途方もない作用を及ぼすことであり、ヴォルダイの望みをかなえるということは人間と動物の境を永遠になくしてしまうことである。そのための手段たるや哲学にも神学にも深くかかわってくる大問題になるだろう。だがガリオンの心配はさらに別のところにあった。ベルガラスがヴォルダイの望みをかなえられない可能性はきわめて高かった。老人が倒れてから意図的に自分の〈意志〉を使わないようにしていることはもはやあきらかだった。それなのにヴォルダイはかれに実現不可能な要求をつきつけたのである。
もしベルガラスが〈意志〉を行使しようとして失敗したらどうなるだろう。それは祖父の身にいったいどんな効果を及ぼすのだろう。〈意志〉に対する疑念がいったん魔術師の心に生じたら、もう再び回復する望みはまったくないのだろうか。ガリオンはなんとかこの致命的な疑惑を生じさせることなく、老人に警告する方法はないかと必死に模索していた。
だがこの沼地から一刻もはやく出なければならないこともたしかである。いかに不承不承の決心ではあっても、もはやトラクとの対決を避けるわけにはいかないのだ。だがその時期もいつまでも引きのばせるものではない。もしあまりにも先になってしまえば、その間にも世界の情勢は刻々と変化し、かれらが懸命に阻止しようとしている全面的な戦争に突入することになるだろう。ベルガラスがその代価をのまなければ沼地に永遠に足止めするという魔女の脅迫はかれらだけでなく、全世界に対する脅迫でもあるのだ。ある意味においては、すべての人類の運命はヴォルダイのきわめて不注意な手に握られていることになる。だがいくら考えてもベルガラスの〈意志〉を試さずにすむ方法は思いつかなかった。やむをえず老人の代わりに自分でヴォルダイの望みをかなえようにも、どうやっていいのか皆目わからなかった。そのようなことを成し遂げられるのはやはりかれの祖父しかいないだろう――それも病気が〈意志〉の力を弱めていなければの話だが。
霧にけぶる沼地に夜明けが訪れると、ベルガラスは起きて暖炉の前に座り、憂うつな顔でぱちぱちとはぜる炎をじっと眺めていた。
「どう?」ヴォルダイがたずねた。「決心はついて」
「おまえさんのやろうとしていることは間違っている」ベルガラスは言った。「自然だって大声で反対を唱えるだろうよ」
「残念ながらわたしはあなたよりももっとよく自然を知ってるわ」彼女は答えた。「魔女は魔術師よりもはるかに自然に密着して暮らしていますからね。わたしは四季のうつり変わりを自分の血で感じとることができるし、足の下で大地が生きているのも感じとれるわ。でも反対の声なんて聞こえてこないわよ。自然はその子供たちを愛しているから、わたしと同じように沼獣が絶滅してしまうことを悲しむでしょう。でもこんなことはどうでもいいのよ。たとえそのために世界中の岩が揺れ動こうとわたしの決心は変わらないわ」
シルクは慌ただしくガリオンと視線をかわした。小男のとがった顔にもベルガラスと同じような不安の表情が浮かんでいた。
「それに沼獣は本当にただの動物かしら」そう言いながらヴォルダイは眠っているポッピーを指さした。彼女はきゃしゃな前足を小さな手のように広げて眠っていた。するとそこへ、朝露にぬれた沼地の花を手にいっぱい抱えたチューピクがこっそり足音を忍ばせて戻ってきた。かれは細心の注意をはらって花を眠る恋人の前に並べ、最後の一輪を彼女の開いた手に忍ばせた。それからじっと待つような表情を浮かべて、後ろ足でたったまま、じっと彼女の目覚めを見守った。
ポッピーはかすかに身動きすると、体をのばしてあくびした。彼女は小さな黒い鼻面に花を押しつけて香りをかいだ。そしてわくわくして待つチューピクに愛情のこもったまなざしを送った。そして小さな喜びの声をあげると、彼女とチューピクは朝の冷たい沼で水浴びをするためにちょこちょこと走り去った。
「あれはかれらの求愛の儀式なのよ」ヴォルダイが説明した。「チューピクはポッピーに結婚してほしいのよ。彼女が贈り物を受け取るかぎりは、かれを好きだということを知ってるのね。それがしばらく続くと、やがて二人は一週間かそこいらいっしょに沼地へ泳ぎに出るわ。そして戻ってきたときは互いに生涯の伴侶になっているというわけなの。人間の若者たちとまったく変わらない振る舞いだとは思わないこと?」
彼女の言葉はどういうわけかガリオンの心にはっきりと思い出せない漠然とした何かを呼び起こした。
「あれをごらんなさい」ヴォルダイはそう言いながら今度は窓の外を指さした。そこでは赤ん坊の域を脱したばかりの幼い沼獣たちが遊んでいた。輪になって、コケで作ったボール玉を投げあうかれらのまん丸い目は、ゲームの興奮で輝いていた。「あのなかに人間の子供がまざっていたとしても、少しもおかしくないと思わないこと?」
かれらのゲームからそう遠く離れていないところでは成人した雌の沼獣がほおを押しつけるようにして、小さな赤ん坊を抱いてあやしていた。「どんな生き物にも母性はあるのだと思わない?」ヴォルダイは聞いた。「いったいわたしの子供たちと人間たちの間にどんな違いがあるというのかしら――あの子たちがはるかに礼儀正しく、正直で、深く愛しあっていることをのぞけば」
ベルガラスはため息をついた。「わかったよ、ヴォルダイ」かれは言った。「たしかにおまえさんのいうことは筋が通っている。沼獣の方が人間よりも性格がいいことは認めよう。ただし連中にしゃべる能力を与えたからといってそれがどう変わるかは保証できないが、おまえさんがどうしてもというのなら」そう言って老人は肩をすくめてみせた。
「じゃあ、やって下さるのね」
「自然の理に反したことだとは思うが、望みどおりにやってみよう。どのみちそうするしかないのだろう?」
「ええ」彼女は答えた。「そうよ。なにか必要なものはあるかしら。道具や調合薬ならわたしのところにそろっているわ」
老人は頭を振った。「魔法はそういったものとは違うのさ。魔術を行なうためにはさまざまの霊を呼び出さなきゃならんが、魔法はそれだけで何でもできるのさ。いつか暇があったら違いを説明してやるんだが」そう言って老人は立ち上がった。「この期におよんでも決心を変える気はないかね」
老婦人は顔をこわばらせた。「ええ、ベルガラス」
かれは再びため息をついた。「わかった。しばらくそこで待っていてくれ」老人は静かに向きを変えると、霧にけぶる朝の大気のなかへ出ていった。
老人の出ていったあとの沈黙のなかで、ガリオンはヴォルダイの決意が見かけほど強くないことを示す兆候が少しでもありはしないかと、じっと老婦人を観察しつづけていた。もし彼女の心がそれほどまでにかたくなでなければ、情況を説明してわかってもらえるかもしれない。沼地の魔女は落着きなくあちこちと歩きまわり、心ここにあらずといったようすで、必要もないものを持ち上げたり、また下に置いたりしていた。老婦人は一瞬たりとも、ひとつのことに集中していられないようだった。
「あんなことをしたら祖父は死んでしまうでしょう」ガリオンは静かな声で言った。いかなる説得も失敗に終わった今、むしろ直截的な言葉の方が効果があるように思えた。
「何ですって」老婦人は険しい声で言った。
「祖父はこの冬ひどい病気をしたんです」ガリオンは答えた。「〈珠〉の所有をめぐってクトゥーチクと戦ったのです。その結果クトゥーチクは粉々に吹き飛びましたが、祖父もまた危うく死にかけました。そのときのショックで〈意志〉の力も失われているかもしれないのです」
シルクのあえぐ声がした。「何だってそいつを初めから言ってくれなかったんだ」
「ポルおばさんがみんなに黙っていうって言ったんだ」ガリオンは答えた。「万が一にもアンガラクにもれるようなことがあってはならないんだ。ここ何年にもわたってかれらの侵入をはばんできたのは、おじいさんの力がおおいに与かっているからさ。もしその力が失われて、それが他にもれたりしたら、アンガラクは遠慮なく西に侵入してくるだろう」
「かれはそのことを知っているの」ヴォルダイが急いでたずねた。
「たぶん知らないでしょう。ぼくもポルおばさんも何も言ってませんから。ぼくらは祖父に一瞬たりとも疑いを持たせるわけにはいかないんです。もしほんのわずかでも魔術師が自分の能力について疑いを抱いたらもうおしまいですから。それが魔法にとっては一番大事なことなんです。必ず自分の思ったとおりになると思いこまなきゃだめなんです。それができなければ何にも起こらないでしょう――そして失敗を繰りかえすたびにだんだんだめになっていくんです」
「あの人が死んでしまうかもしれないというのはどういう意味なの」ヴォルダイの顔に浮かんだ表情を見て、ガリオンはかすかな希望をいだいた。
「祖父の〈意志〉はまだ残っています――あるいはいくらかは」かれは説明を続けた。「でもいずれにせよ、あなたの望みをかなえるほどではありません。簡単なことを行なうだけでもかなりの力が要求される上、あなたの望みは途方もなく困難なことなのです。たぶん今の祖父には荷が重すぎるかもしれません。その上いったん、はじめてしまったら途中でやめることは許されないのです。〈意志〉を集中させる努力でおそらく祖父の生命力は二度と回復できないまでに――もしくは死ぬまで使い果たされてしまうでしょう」
「なぜそれをもっと早く教えてくれなかったの」ヴォルダイの顔には苦悩が浮かんでいた。
「できなかったんです。祖父の聞いているところでは」
彼女は慌ただしくドアに向かって走り出した。「ベルガラス! 待ってちょうだい」彼女はガリオンの方を振り返って叫んだ。「早く追いかけて! あの人をやめさせて!」
それこそガリオンが待っていた言葉だった。かれはすぐに立ち上がり、ドアに向かって突進した。ドアを勢いよくあけて雨のそぼ降る庭に向かって叫ぼうとした瞬間、かれはこれから何かが起こるような――何かが始まりつつあるがまだはっきりとはしない――不思議な圧迫感を感じた。叫びはそのままかれの唇に凍りついた。
「早くしろ、ガリオン」シルクがうながした。
「それがだめなんだ」ガリオンはうなるように言った。「もうすでに〈意志〉を吸い寄せはじめている。もうぼくが呼んでるのにも気づかないだろう」
「かれを助けられないのか」
「だけどおじいさんが何をしようとしているのかさえ、わからないんだよ、シルク」ガリオンは絶望的な声を出した。「今ここでぼくが下手に手出しをしたら、ますます悪くなるだけだ」
二人はびっくり仰天したようすでガリオンの顔を見た。
ガリオンは不思議な共鳴するうねりを感じていた。それはまったく予想したものと違うので、かれはすっかり面くらってしまった。かれの祖父は何ひとつ動かしたり変えようとはしなかった――かわりに途方もない遠くに向かって心のなかの声で呼びかけていた。何を言ってるのかはまったくわからなかったが、ただひとこと「〈師〉よ」という言葉だけははっきりと聞こえてきた。ベルガラスはアルダーを呼び求めていたのだ。
ガリオンは思わず息をのんだ。
するとどこか果てしない遠くからアルダーの声が聞こえてきた。師弟はしばらく静かな声で話をかわしていたが、その間にも祖父の〈意志〉の力は衰えなかった。アルダーの〈意志〉を注ぎこまれ、大きくふくれあがったそれはますます強大になっていくようだった。
「いったい何が起こってるんだ」シルクの声には怯えに近いものが感じられた。
「おじいさんはアルダーと話しているんだ。でも何といってるのかは聞こえないんだ」
「アルダーがかれを助けているの?」ヴォルダイがたずねた。
「わかりません。アルダーがもはや自分の〈意志〉を使ってるのかもよくわからないんです。でも、どうやら限界のようなものがあるようです――かれと他の神々とのあいだで取り決めた何かが」
不思議な会話が終わるのと同時に、ガリオンは祖父の〈意志〉がますます高まり、寄り集まってくるのを感じた。「始まったぞ」ガリオンはなかばささやくような声でふたりに言った。
「ベルガラスの力はまだ続いてるのか」シルクがたずねた。
ガリオンはうなずいた。
「前とくらべて衰えたりはしていないかね」
「わからない。力がどれくらいの強さかを測ることはできないんだ」
ふくれあがった緊張状態はいまや耐えがたいまでになった。ベルガラスが今行なっていることは、とてつもなく深遠でいわく言いがたいものだった。今回はわきあがるうねりも、うつろな反響も感じられなかった。そのかわりにガリオンは老人の〈意志〉がいらいらするほどゆっくりと放出されていく、ちくちく刺すような不思議なささやき声を聞いていた。それは何かを繰り返し語っているようだった――意味がほとんどわかっているのに、直前のところでかわされているようなじれったさをガリオンは感じていた。
家の外で遊んでいた沼獣たちの動きがぴたりとやんだ。立ちつくしたまま一心に耳をすますかれらの足元で忘れさられたコケのボールがむなしく転がった。朝のひと泳ぎから戻る途中のポッピーとチューピクもまた凍りついたように動きを止め、水面から頭を出してベルガラスがやさしくささやく声にじっと聞き入った。それはかれらの心に直接ふれながら、話しかけ、説明し、教えた。動物たちの目がいっせいにすべてを理解したかのように見開かれた。
ようやくベルガラスが霧にけぶる柳の木々のあいだから姿をあらわした。老人の足取りは重くよろよろしていた。かれはゆっくりと家にむかって歩き出したが、途中で一回だけ足をとめて、戸口のまわりにたたずむ沼獣たちの驚いた顔をじっとのぞきこんだ。そして深くうなずいて家の中に戻ってきた。かれの両肩は疲労にがっくりと落ち込み、白い髭を生やした顔には血の気がなかった。
「あなた大丈夫なの」ヴォルダイの声からもはや奇妙な平板さは失われていた。
老人はうなずくとテーブルの椅子にぐったりと沈みこんだ。「終わったよ」かれはただひとことそう言った。
ヴォルダイはじっとかれを見つめた。その目が疑惑で細められた。
「ぺてんなんかじゃない」老人は言った。「第一うそをつくほどの気力も残っちゃいないさ。さあおまえさんのいう代価は払ったぞ。そちらの都合さえよければ、われわれは朝食後すぐ出発したいのだがね。まだまだ先は長いのだ」
「言葉だけじゃ満足できないわ、ベルガラス。あなたは信用できないわ――あなただけでなく、すべての人間もね。わたしは代価の支払われた確かなあかしがほしいのよ」
だがそのとき戸口から別の不思議な声がした。ポッピーが毛むくじゃらの顔をしかめて必死に何かを言おうとしていた。「お、お、お」彼女はひどく口ごもった。唇をゆがめながらふたたび試みた。「お、お、お」それはポッピーにとって非常に困難な作業のようだった。彼女は深く息を吸いこむと再び口を開いた。「お、お、お、おかーさん」
ヴォルダイは低い叫び声をあげた。彼女は小さな獣の前に駆けより、ひざまずいて抱きしめた。
「おかあさん」ポッピーが言った。今度ははっきりした声だった。
すると家の外からいっせいに小さなかん高い声が起こった。それは次々に広がり、同じ言葉を繰り返した。「おかあさん、おかあさん、おかあさん」興奮した沼獣が続々と家のまわりに集まってきた。次々に水から上がってくるかれらの声が沼池にあふれかえった。
ヴォルダイが泣き出した。
「むろん、後はあんたで教えてやってくれ」ベルガラスが疲れた声で言った。「連中にしゃべる能力は与えたが、まだそれほど言葉を知らないのでな」
ヴォルダイは涙の流れ落ちる目で老人を見つめた。「本当にありがとう、ベルガラス」彼女の声は震えていた。
老人は肩をすくめた。「あげる物があればお返しをする、そういう取り決めじゃなかったかね」
三人を沼地から連れ出したのはチューピクだった。かれは仲間たちとあいかわらずかん高い鳴き声をかわしていたが、そのなかには人間の言葉がまざっていた。口ごもりがちで、しばしば発音は間違っていたが、たしかにそれは言葉になっていた。
ガリオンはさおを動かしながら、ある考えと必死に戦っていた。「おじいさん」ついにかれは口を切った。
「なんだね、ガリオン」老人はボートのへさきで体を休めながら言った。
「おじいさんは全部知ってたんだね」
「何をだ?」
「もしかしたら二度と魔法が使えなくなるかもしれないってことを」
ベルガラスはじっとかれの顔を見た。「いったい何だってそんなことを考えついたりしたんだ」
「おじいさんがこの冬倒れたときに、ポルおばさんがそう言ったんだよ」
「ポルが何と言ったんだと」
「だから、おばさんは――」
「それは聞いた」そう言いながらベルガラスは顔をしかめた。老人の顔は考えこんだせいでしわくちゃになっていた。「いやはや、そんなことは考えてもみなかったわい」突如かれは目をぱちぱちさせて大きく見開いた。「だがあいつのいうとおりだったかもしれんな。あの病気はたしかにそういった影響を及ぼしたかもしれないぞ。まったく何ともたまげたな」
「おじいさんは何ともないのかい――その、たとえば力が弱まったとか」
「何だって。いいや、むろんそんなことはない」ベルガラスはまだ眉をしかめていた。「いや、まったくたまげたな」老人は同じ言葉を繰り返すと、突然笑い出した。
「いったい何がおかしいんだよ」
「おまえとポルがここ何ヵ月か思い悩んでいたのはそれだったのか。おまえたち二人はまるでわしが薄いガラスでできてるみたいにまわりでこそこそ忍び歩いておったな」
「アンガラク人に知られやしないかと思ったんだよ。それにぼくらがおじいさんにも言わなかったのは――」
「わしが自分の力に疑いを抱かないようにするためか」
ガリオンはうなずいた。
「まあ長い目でみればそれでよかったのかもしれないな。今朝のようなときには一切よけいな疑惑に苦しめられるのは禁物だからな」
「そんなに大変だったのかい」
「控えめにいってもそうだな。あんなもの毎朝やってた日には体がもたんよ」
「でも本当はあんなことする必要はなかったんだろう?」
「何をだ」
「沼獣に言葉を教えたりしたことさ。もしおじいさんにまだ力が残っていたなら、ぼくと力を合わせれば、たとえヴォルダイや沼獣たちがどんなに阻止しようと、二人で沼地のはてまで水路を切り開くことができたはずだ」
「まったくいつになったらそれに気づいてくれるのかと思ったよ」老人は平然とした声で言った。
ガリオンはいらだちのまじった視線を老人に投げかけた。「いいよ、わかったよ。それじゃ聞くけど、なんでやる必要のないことまでやったりしたんだ」
「その質問はいささか無礼だぞ、ガリオン」ベルガラスはたしなめるように言った。「魔術師の間にも守られるべき仁義というのがある。他の魔術師にむかってなぜそんなことをしたかなどと聞くのは礼儀に反するぞ」
ガリオンはさらにいらだたしげに祖父を見た。「おじいさんは質問をはぐらかしているよ。いいよ、それならぼくが無礼だったと認めればいいんだろう。そう言えば先に進んでぼくの質問に答えてもらえるんだろうね」
ベルガラスはわずかに気分を害したような顔になった。「おまえやポルが心配したからといって、わしのせいではないぞ。何だってそんなに腹をたてるんだ」かれはしばらく言葉を切って、ガリオンの顔をじっと見つめた。「本当に知りたいというんだな」
「本当に心の底から知りたいと思ってるよ。なんで彼女の望みを聞いてやったんだい」
ベルガラスはため息をついた。「知ってのとおり、あの女はずっと一人ぼっちだった」老人は言った。「おまけに決して楽な人生ではなかったんだ。このわしでさえ、もうちょっと彼女が幸せになってもいいんじゃないかと思うよ。たぶんこれでいくらかはその埋め合わせがしてやれるんじゃないかと思ったんだ――ほんのちょっぴりだがな」
「それでアルダーはいいと言ったのかい」ガリオンはなおも追及した。「おじいさんと話してる声が聞こえたよ」
「盗み聞きはたいそうよくないことだぞ、ガリオン」
「どうせぼくは不作法のかたまりだからね」
「まったく何だってそんなにいちいち突っかかるんだね」老人はぼやいた。「よし、おまえがあくまでそう言うのなら、確かにわしは〈師〉を呼び出した。じっさいアルダーの了承を得るためにはかなり強力に説得しなければならなかったがね」
「それは彼女がかわいそうだと思ったからかい」
「その言いかたは妥当ではないな。まあ、何というか公正な報いが与えられるところを見たかったとでも言っておこうか」
「初めからそうすることがわかっていたのに、何でわざわざ彼女と口論してみせたりしたんだい」
ベルガラスは肩をすくめた。「彼女が本当にそれを望んでいるかどうかをたしかめたかったのさ。誰かに何かを頼まれたからといって、いちいちかなえてやるのはいいことではないからな」
シルクは驚いたように老人を見つめた。「ベルガラス、あなたは彼女に同情したんですか」かれは信じられないといった口調でたずねた。「あなたがですか。もしこれが他にもれたりしたら、あなたの評判はがた落ちになるでしょうよ」
ベルガラスは痛ましいほど当惑した表情になった。「何もそんなことをいちいちふれまわる必要もあるまい、シルク」かれは言った。「別に人が知らなくともいいことだからな」
ガリオンは突然ドアが開かれたような気がした。シルクの言ってることは当たっていた。かれ自身はそんなふうに考えたことはなかったが、たしかにベルガラスには冷酷な男という風評がつきまとっていた。人々はこの永遠なる男にある種の冷徹さを感じとっていた。余人には理解しがたい目的のために、すべてを犠牲にしてまい進する姿がそういった印象を与えていたのである。だが今回の同情にもとづく行為は、かれの別の顔、すなわち柔和な性格をあらわにした。魔術師ベルガラスは人間の心や感情の動きに決して無関心なわけではなかったのである。七千年にもわたって見聞きし、耐え忍んできた恐怖や苦痛が、いかに老人の感情を傷つけてきたかを思ってガリオンの胸は激しく痛んだ。かれはあらたな心からの尊敬の念をもって祖父を見つめていた。
沼地の終わりはしっかりした土手の道になっていた。それは霧にかすむ両側に果てしなく続いていた。
「土手道だ」シルクが指さしながらガリオンに言った。「あれはトルネドラ街道の一部なんだ」
「ベル、ガラス、さん」チューピクがボートの脇から頭をぴょこんと出して言った。「あり、が、とう」
「おまえもそのうちにちゃんとしゃべれるようになるぞ、チューピク」老人は言った。「あとひと息だ」
「そう、かも、しれま、せんが」チューピクは苦労しながら答えた。「いいたい、こと、と、しゃべる、こと、ちがいます」
「なあに、今にきみもうそをつくことを覚えるさ」シルクが皮肉っぽく言った。「そうなれば人間とまったく変わりなくぺらぺらしゃべれるようになる」
「どうして、うそ、つくと、しゃべれる、の、ですか」チューピクが不思議な顔でたずねた。
「今にきみにもわかるようになるさ」
チューピクはかすかに顔をしかめると、水の中にもぐりこんだ。ボートから少し離れたところで、かれは再び頭を出した。「さようなら」かれは三人に呼びかけた。「チューピクは、おかあさんのために、ありがとうを、いいます」かれは水面を乱すこともなく、姿を消した。
「まったくもって不思議な連中だな」ベルガラスはほほ笑みを浮かべた。
突然シルクが仰天したような悲鳴をあげると、狂ったようにポケットを探った。何か淡い緑色をしたものがかれの手から跳びはねたかと思うと、水のなかに飛びこんだ。
「いったいどうしたんだ」ガリオンがたずねた。
シルクは身震いした。「あの小さな化け物がわたしのポケットに蛙を入れやがった」
「たぶん、お礼のつもりだろう」ベルガラスが言った。
「蛙がですか」
「ではやはり違うな」ベルガラスはにやりと笑った。「多少荒削りかもしれんが、恐らくはこれは連中のユーモアのセンスの始まりに違いない」
沼地の東側を南北に走る土手道を数マイルほどいったところにトルネドラの宿屋があった。午後おそく到着した一行は、シルクが目玉が飛び出るほどの値段で馬を購入した。そして次の朝にはボクトールに向かって馬を走らせていた。
沼地でのできごとはガリオンにいろいろと考えるきっかけを与えた。かれは同情もまた愛の一部なのだということを知り始めていた――愛というものはこれまで考えていたような狭い意味のものではなく、もっと広く深いものだったのである。よく考えてみれば愛という言葉は、ひとめ見ただけでは、およそ関係ないと思えるようなさまざまなことがらを含んでいたのだ。これらのことを理解するにつれ、かれの心のなかにひとつの考えが芽生えた。人々が不老不死の男と呼びならわしているかれの祖父は、その七千年にも及ぶ生涯のなかでほとんど人知の及ばないところまで、愛する能力を発達させてしまったのだ。ぶっきらぼうで怒りっぽい外見にもかかわらず、ベルガラスの全生涯はとてつもなく並はずれた愛の発露に満ちていた。ガリオンは馬上からしばしばこの不思議な老人を振り返らずにはいられなかった。すべての人間の上に厳然とそびえたつ万能の魔術師というイメージはいつしか消え、かれはその裏にひそむ真の顔を見いだしていた――非常に複雑ではあるが、人間らしい男の顔を。
晴れ渡った空のもとで二日後にかれらはボクトールに着いた。
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20[#「20」は縦中横]
ボクトールにはどこか他の都とは違う解放感があるようだ。ガリオンは広々とした道に馬を乗り入れたとたん、そう思った。ほとんどの家々は二階だてより高くなく、また他の街のように家が折り重なって密集しているといった光景も見られなかった。通りはすべて広々としてまっすぐに走り、ほんのわずかなちり[#「ちり」に傍点]さえ落ちてはいなかった。
ガリオンは両側に樹木の立ち並ぶ、ゆったりした大通りを進みながらそんな感想をのべた。
「ボクトールは新しい街だからな」シルクが説明した。「まあ、比較的に見ての話だが」
「ぼくは〈猪首〉ドラスの時代からあったのかと思っていたよ」
「たしかに、そのとおりだ」シルクは答えた。「だが以前の街は五百年ほどまえにアンガラク人たちが侵入したときに一度壊されているんだよ」
「そうか、すっかり忘れていたよ」
「ボー・ミンブルの戦いが終わって再建が始まったとき、かれらはこの機に乗じてあらたな街を作り出したわけさ」とシルクは言った。だが街を見まわすかれの視線にはどちらかといえば、嫌悪がこもっていた。「本当のことを言えば、わたしはボクトールが大嫌いなんだ」とかれは言った。「ここには路地もなければ裏通りもない。これでは人に見られずに動きまわることはおよそ不可能だ」小男はここでベルガラスの方を振り返った。「おかげであることを思いだしましたよ。たぶん中央市場は避けて通った方がいいかもしれません。何しろわたしの顔はここではちょいと知られてますし、何もわれわれが到着したことを大々的に知らせる必要もないでしょう」
「誰にも知られずに通り過ぎることができるだろうか」ガリオンがたずねた。
「このボクトールで?」小男は笑いだした。「むろん無理に決まってるさ。もうすでにわれわれは六回以上確認されてることだろうよ。ここではスパイが主要な産業なんだ。ポレン王妃はおそらくわれわれが街に入る前からわれわれの到着を知っているはずさ」かれは建物の二階の窓に鋭い視線をやると、素早くドラスニアの指文字でけん責の言葉をちらつかせた。すると窓のカーテンがかすかに恥じ入るように揺れた。「まったく下手くそで見ちゃいられん」小男は心底からうんざりしたような声を出した。「思うにあれはスパイ学校の一年坊主にちがいない」
「なに、有名人を見てすっかりあがっちまったのさ」ベルガラスが言った。「何しろここじゃおまえさんはちょっとした伝説らしいからな」
「だからと言って下手な仕事の弁解にはなりませんよ」シルクは言い返した。「もし時間さえあれば、学校に立ち寄って校長にひとこと言ってやるのに」ここでかれはため息をついた。
「まったく連中が鞭打ち台を廃止してからの、生徒の仕事の質の低下には目にあまるものがある」
「何だって」ガリオンは驚いたように答えた。
「わたしの若い頃は、尾行している相手に姿を見られた者は、鞭打ちの罰と決まっていたのさ。鞭打ちというのはなかなか効果のある教育方法でね」
突然、目の前の大きな家のドアが開いて、なかから十二人の槍兵が行進してきたかと思うと一行の前で停止した。隊長が進み出るとかれらの前に一礼して言った。「ケルダー王子、おそれながら妃殿下がぜひとも宮殿にお立ち寄り下さるようにとの仰せです」
「そうらね」シルクがガリオンに言った。「彼女はとっくにわれわれの到着を知ってるといっただろ」小男は隊長の方に向きなおった。「一応参考までに聞いておきたいんだがね、隊長さん。もしわれわれが宮廷に立ち寄る気はないと言ったらどうするつもりかね」
「その場合は力ずくでもお連れせねばならないでしょうな」隊長は答えた。
「たぶんそう言うと思ったよ」
「ぼくたちは逮捕されるのかい」ガリオンは不安そうにたずねた。
「いいえ、そうではありません。ただポレン王妃さまはひどく皆さまとお話がしたいとおっしゃられるのです」そしてかれはベルガラスの方を向いた。「いにしえのお方よ」かれは老人にうやうやしげなお辞儀をした。「おそれながら、脇の入口から入っていただいた方が人目を引かなくてよろしいかと存じます」隊長はそれだけ言うと踵を返して、部下たちに再び行進を命じた。
「かれはぼくたちの正体を知ってるよ」ガリオンは小声でシルクに言った。
「当然さ」シルクが答えた。
「いったいどうやってここから逃げ出すんだい。ポレン王妃はきっとぼくらを船でリヴァに送り返すに決まってるよ」
「彼女と話してみることにしよう」ベルガラスが言った。「ポレンはなかなかもののわかった女性だからな。恐らくわけを話せばわかってくれるだろう」
「ポルガラが最後通牒をよこしてなければの話ですがね」シルクがつけ加えた。「あの人は怒るとよくそれをやるんですよ。わたしにはよくわかっています」
「まあ、そのとおりかどうか見てみようじゃないか」
ポレン王妃はかつてないほど美しく輝いてみえた。ほっそりした体型が初めての子供がすでに生まれたことをあらわに示していた。母となった喜びが彼女の顔に輝きを与え、まなざしにも満足げな光が感じられた。王妃は心からの優しさをこめて一行を迎え、ただちに彼女の私室に案内した。家具にたくさんのひだ飾りをつけ、窓に柔らかなピンク色のカーテンが引かれた王妃の部屋は女らしいこまやかさにあふれていた。「いったい今までどこにいらしたの」かれらだけになったとたん、王妃が待ちかねたようにたずねた。「ポルガラがかんかんに怒ってるわよ」
ベルガラスは肩をすくめた。「なに、すぐおさまるさ。リヴァはどんなようすだ?」
「もちろん国をあげてあなたたちを探してるわよ」ポレン王妃は答えた。「いったいどうやってここまで来たの? あらゆる道という道は遮断されているはずなのに」
「それはわれわれの方が一歩先んじていたからですよ、親愛なるおば上」シルクは無遠慮なにやにや笑いを浮かべて言った。「みんながあわてて道路を遮断するときには、すでにわれわれはそこを過ぎていたというわけです」
「その呼びかたは止めてちょうだいと言ったでしょう、ケルダー」彼女は警告するように言った。
「それはどうも失礼いたしました、妃殿下」かれはお辞儀しながら言ったが、あいかわらずにやにや笑いを浮かべていた。
「本当にあなたってどうしようもない人ね」王妃はあきれたように言った。
「ええ、そうですとも」かれは答えた。「それがまたわたしの魅力の一部なんですよ」
王妃は深いため息をついた。「さあ、あなたたちをいったいどうすればいいんでしょうね」
「むろん旅を続けさせてくれるのだろう」ベルガラスが穏やかに言った。「いろいろと議論はするだろうが、最後はそうなるのさ」
王妃は老人をにらんだ。
「おまえさんが聞いたから答えたんだぞ。そっちだって知っておいた方がすっきりするだろう」
「あなたってケルダーよりもっとあくどい人だったのね」
「そりゃ、かれよりは修練を積んでおるからな」
「とにかくそんなこと話になりません」彼女は厳しい口調で言った。「わたしがポルガラから三人をリヴァに送り返すように、厳重な命令を受けているんですからね」
ベルガラスは肩をすくめてみせた。
「本当に戻るの?」王妃は驚いたような表情をみせた。
「いいや」老人は答えた。「戻りゃせんよ。おまえさんはポルガラからわれわれを送り返すよう厳重な命令を受けてるといったな。それならわしも送り返すなと厳重に命令する。さあ、どうするね」
「ひどいわ、ベルガラス」
「いろいろと厳しい御時世だからな」
「お二人で口げんかを始める前に、まず次期の王座の後継者に拝謁させていただきたいですね」シルクが口をはさんだ。それは実にたくみな問いかけだった。自分の子供を見せたいという誘惑に打ち勝てる新しい母親はまずいない。ポレン王妃がうまく引っかけられたと気づいたときにはすでに部屋の片すみに置かれた揺りかごに向かう途中だった。「本当にあなたって悪い人ね、ケルダー」王妃は責めるような口調で言いながら、サテンのおおいをはずして、今やすっかり彼女の人生の中心になってしまった赤ん坊を見せた。
ドラスニアの皇太子は自分の足指を口にくわえようと奮闘の最中だった。小さな喜びの声とともに王妃は赤ん坊を腕に抱きしめた。そして一行を振り向くと、よく見えるように高々とさしあげた。「ねえ、かわいらしいでしょう」
「お初にお目にかかります、わがいとこ殿よ」シルクは赤ん坊にむかって言った。「きみがちょうどいいときに生まれてくれたおかげで、わたしは最大の不面目から逃れることができた」
「それはいったいどういう意味なの」ポレン王妃がけげんな顔でたずねた。
「いやなに、このピンク色をした小さな殿下のおかげで、わたしが永遠に王座にのぼる可能性がなくなったってことさ」シルクは答えた。「わたしが即位したらひどいことになっていたよ。万が一そんなことがあろうものなら、このドラスニアはわたし同様ひどい災害をこうむっていただろう。たまたま王になってしまったこのガリオンだって、すでにわたしがなるよりははるかにましな王さまになりつつあるよ」
「まあ、なんてことでしょう」ポレン王妃はかすかに赤面した。「すっかり忘れていたわ」彼女は赤ん坊をかき抱いたまま、いささかぎごちなくお辞儀した。「ようこそ、国王陛下」彼女は儀式ばったあいさつをした。
「ありがとう、妃殿下」ガリオンはポルおばさんから何時間もかかって教えこまれたお辞儀をした。
ポレン王妃は鈴をふるわすような美しい声で笑った。「なんだか、お互いにしっくりこないわね」そう言うと彼女はガリオンの首に片手をやり、頭を引き寄せて優しくキスをした。もう一方の腕に抱かれた赤ん坊がくっくっと笑った。「まあ、ガリオン。ずいぶん背が高くなったわね」
ガリオンには返す言葉がなかった。
王妃はしばしかれの顔に見入った。「ずいぶんいろいろな体験をしたようね。ヴァル・アローンで会った少年とは別人のようだわ」
「やつもどんどん大人になっていくのさ」ベルガラスはどしんと椅子に腰をおろしながら言った。「ところで今この部屋にスパイは何人位いるんだ」
「わたしの知るかぎりでは二人ね」彼女は赤ん坊を揺りかごに戻しながら答えた。
シルクが笑った。「それでそいつらをスパイしてるのは何人いるんだ」
「数人はいると思うわ」ポレン王妃は答えた。「でもここでわたしが何人スパイがいるかをばらしては、仕事にならないの」
「むろん、口の固さは信用できるんだろうな」ベルガラスはひだ飾りや壁に意味ありげな視線を投げかけながら言った。
「まあ、あたりまえでしょう」彼女はわずかに気分を害したような声を出した。「あなたもご存じだとは思うけれど、わたしたちにはちゃんとした基準があるのよ。しろうとスパイは宮殿のなかには入らせません」
「わかった、それではさっそく本題に入ろうではないか。ところで本当にわれわれをリヴァに送り返すかどうかで、長々しいわけのわからん議論をせねばならないのかね」
王妃はため息をつくと力ない笑い声をあげた。「たぶん、そんな必要はないでしょう」ついに彼女の方が折れた。「でもそのかわりにポルガラへの言いわけを考えてちょうだいね」
「われわれがムリン古写本の書の教示に従って行動しているのだと言ってやればいい」
「ムリン古写本に教示なんてあるんですの?」彼女は驚いたようにたずねた。
「あるはずなんだ」老人は答えた。「もっともほとんどわけのわからないたわごとばかりで、誰がみても確かにそうだとは言い切れないのだがな」
「わたしに彼女をだませとおっしゃるのね」
「いいや、そうではなくて、われわれがおまえさんをだましたことにするのだ。これなら情況はだいぶ違ってくるはずだ」
「たいして変わらないと思いますけれど」
「いいや、大丈夫だ」老人は安心させるように言った。「あいつはいつもわたしに煮え湯をのまされることに慣れているからな。まあ、いずれにせよわれわれはこれからナドラクに向かうつもりだ。それに当たって注意をよそへそらしてほしいと彼女に伝えてくれ。われわれを探すことにむだな労力などかけず、どこか南の方へ軍隊を集めてできるだけ騒ぎたててほしい。アンガラクが彼女の方にすっかり注意を奪われて、われわれの動きまで気がまわらないようにしたいのさ」
「いったいガール・オグ・ナドラクなんかに何の用があるの」ポレン王妃はすっかり興味をそそられたようすでたずねた。
ベルガラスは意味ありげな視線を公認のスパイ――非公式も含めて――のひそむ壁に向けた。
「ポルガラにはわれわれの行動の意味はわかるはずだ。ところで、ナドラクの国境地帯はどんなあんばいだ」
「だいぶ緊迫してるわね」彼女は答えた。「まだ敵対するところまではいってないけれど、友好的とはとてもいいがたいわ。でもナドラクは本当は戦争をしたくないのよ。グロリムのことさえなければ、中立を保つように説得できたと思うわ。あの人たちはドラスニア人を殺すよりはマーゴ人を殺す方を選ぶことでしょう」
ベルガラスはうなずいた。「それからおまえさんの夫にしっかりアンヘグ王の手綱を引き締めるように言っていたと伝えてくれ。やつはたしかに賢明な男だが、ときどきはめをはずしすぎることがあるからな。くれぐれも南で起こしてほしいのは目くらましであって、本物の戦争ではないと伝えてくれ。アローン人はえてしてものごとに熱中しやすいのでな」
「ぜひ伝えるわ」ポレン王妃は言った。「それでいつ出発なさるつもり?」
「そいつはちょいとお預けにしておこうじゃないかね」老人は再度王妃の部屋の壁に視線をめぐらしながら言った。
「でもひと晩ぐらいは泊まっていって下さるわね」
「どうしてわれわれに拒むことができましょう」シルクが皮肉っぽく言った。
ポレン王妃は小男の顔をじっと見つめていた。そして深いため息をついた。「やっぱりお知らせしておいた方がいいと思うわ、ケルダー」彼女は低く静かな声で言った。「おかあさまがいらしてるのよ」
突然シルクの顔が蒼白になった。「ここに、この宮殿のなかにいるのか」
王妃はうなずいた。「西の翼にいらっしゃるわ。あのお方が好きだったお庭に一番近いお部屋をさしあげたの」
シルクはがたがた震えだした。顔はあいかわらず灰のように真っ白だった。「いつからいるんだ」その声には緊張がみなぎっていた。
「もう数週間になるわね。わたしの赤ちゃんが生まれる直前にいらしたのだから」
「彼女のようすはどうなんだ」
「あいかわらずよ」小さな金髪の王妃の顔が悲しみで曇った。「でも会ってあげなくちゃいけないわ」
シルクは深く息を吸いこんで、肩を怒らせた。だがその顔にはあいかわらず打ちのめされたような表情が浮かんでいた。「そうだな、会うしかないだろうな」かれは自分自身に言い聞かせるように言った。「どうせやらねばならないのなら、さっさとすませてしまうにかぎる。ちょっと失礼するよ」
「ええ、どうぞ」
シルクは踵を返して部屋を出ていった。顔には陰うつな表情が浮かんでいた。
「かれはおかあさんが嫌いなんですか」ガリオンがたずねた。
「いいえ、とても愛してるわ」王妃は答えた。「だからかれはとてもつらい思いをしているのよ。あの方は目がご不自由なの――幸いなことにね」
「どうして幸いなんですか」
「二十年ほど前に西ドラスニアでひどい疫病がはやったの」ポレン王妃は説明した。「それはたいそう恐ろしい病気で、運よく生き残っても顔にひどい跡が残ったのよ。ケルダー王子のおかあさまはドラスニア一、二を争う美しい方だったのに。でもわたしたちはそのことをおかあさまには隠しているの。だからご自分の顔がどれほど病み崩れてしまったかをご存じないのよ――少なくともわたしたちはそう願っているわ。ケルダーがおかあさまと対面するときのようすは見ているだけでも心が痛むわ。かれは自分の目にうつるものを露ほども声に出しはしないけれど、その目は――」彼女は思わず言葉をつまらせた。「ときどきあの人がドラスニアに居つこうとしないのは、そのせいじゃないかと思えるの」彼女は姿勢をただして言った。「お夕食の用意をさせましょうね。それからお酒もたくさん。ケルダーはいつもおかあさまと会ったあとは飲まずにはいられないの」
一時間ほどして戻ってくるなりシルクはすぐに酒を飲み始めた。かれはまるで一刻も早く正体をなくそうと決心したかのようにぐいぐいと杯をあおった。
その夜はガリオンにとっても気づまりなものだった。ポレン王妃は赤ん坊の面倒を見ながら、まんべんなくシルクにも目を配っていた。ベルガラスは椅子に座ったまま黙りこくり、シルクは依然として浴びるように酒を飲み続けていた。ついにガリオンはまったく感じていない疲労を理由に寝室に引き下がった。
知り合ってから一年半あまり、自分がいかにシルクに頼ってきたかをガリオンは今さらながら痛感した。ねずみのような顔をした小柄なドラスニア人の、皮肉にみちたユーモアとぬきんでた独立独歩の精神を、つねにガリオンは頼もしく思ってきた。たしかにシルクは気まぐれで、奇癖も多かった。かれは神経質で複雑な小男だったが、そのたゆまざるユーモアの感覚と精神的な敏捷さは、何度かこれまで不愉快な情況を切り抜けるのに役立ってきたのである。だがいまやそのユーモアと機知はどこかへ消えうせ、小男はまさに崩壊寸前だった。
前途に待ち受けるおそるべき対決がいよいよ困難なものに思えてきた。むろん最終的にトラクと対決するときにはあてにできなくとも、そこにいたるまでの危険にみちた日々のあいだ、かれを助けてくれるだろうとガリオンはひそかに思っていたのである。もはやこのわずかな慰めすら取りあげられてしまった。かれは眠れないままに何度も寝返りをうった。ついに真夜中すぎ、かれは起きあがるとマントをはおり、友人が寝ついたかどうかを確かめにタイツをはいただけの素足で廊下を忍んでいった。
シルクは眠っていなかった。かれは先ほどと同じ椅子に座っていた。忘れ去られたジョッキからこぼれた液体にひじをつけ、顔を両手でおおっていた。さほど離れてはいないところに、ドラスニアの小柄な金髪の王妃がおしはかりがたい表情を浮かべて座っていた。戸口からのぞきこんだガリオンは、シルクの両手の間からくぐもったすすり泣きの音が漏れでるのを聞いた。ポレン王妃は立ち上がり、優しく、愛情さえ感じさせる表情を浮かべて小男に近づいてきた。そしてかれの頭に腕をまわして彼女の胸に引き寄せた。悲しみにみちた叫びとともにシルクは王妃にしがみつき、傷つけられた子供のように声をあげて泣き出した。
ポレン王妃は泣きじゃくる小男の頭ごしにガリオンの方へ目をやった。その表情はシルクの彼女に対する気持ちを知っていることを物語っていた。彼女のまなざしは愛する小男への――ただしシルクが望んだものとは異なる――どうしようもない哀れみにあふれていた。それは母親との面会に深く傷ついたかれへの心からの思いやりと結びついていた。
ガリオンとドラスニア王妃は無言のまま向かいあった。もはや言葉はいらなかった。言わなくても二人にはよくわかっていた。しばらくしてポレン王妃が口を開いたとき、その声は奇妙に平板だった。「もう寝室に連れていっても大丈夫だと思うわ。一度泣いてしまえば、最悪のときは過ぎさっているのよ」
次の朝、三人は宮殿を出ると東へ向かう隊商の一行に加わった。ボクトール郊外のドラスニアの原野は住む人もなく荒涼としていた。〈北の隊商道〉はまばらな樹木とわずかな草に覆われた低い起伏の間をうねりくねって続いていた。春のさなかだというのに原野はいまだに冬枯れ一色に包まれていた。まるで春が表面をかすっただけで通りすぎていってしまったようだった。極地から吹きつける風にはまだ冬の気配が残っていた。
シルクはじっと下を向いたまま馬を走らせていたが、それが悲しみによるものか、はたまた昨晩飲みすぎたエールの後遺症によるものなのかガリオンにははかりかねた。ベルガラスもまたひとことも発しなかったので、三人はドラスニア商人のらばの鈴の音を聞きながらじっと黙りこくっていた。
昼近くになって、シルクはぶるっと身を震わせてあたりを見まわした。目はまだ血走っていたが、再び機敏な光がやどっていた。「誰か酒を持ってこようなんてことを思いついたやつはいないかね」
「夕べあんなにきこしめしたんじゃなかったかね」ベルガラスが答えた。
「あれは慰みものとしての酒です。わたしが今求めているのは治療用の分ですよ」
「水の方がいいんじゃないのかい」ガリオンが言った。
「わたしはのどが乾いているんだ。体を洗いたいわけじゃない」
「そら、これをやろう」ベルガラスは二日酔いの男にむかって葡萄酒の革袋をさしだした。
「ただし飲みすぎないようにな」
「信用してくださいよ」と言いながら小男はごくごくと中身を飲んだ。かれは身震いしながら顔をしかめた。「いったいこんなものどこで仕入れたんですか。まるで中で古靴を煮たようなひどい味じゃありませんか」
「いやなら飲まなくともいいんだぞ」
「どうやらその方がよさそうだ」シルクはもう一口飲んでから革袋の栓をしめて老人に返した。かれは不機嫌そうにまわりの原野を見渡した。「たいして変わっちゃいないな」小男は言った。
「残念ながらドラスニアにはあんまり人に自慢できるようなものがないんですよ。いつも極端に湿っているか乾いているかのどちらかなんでね」かれは冷たい風にぶるっと身を震わせた。
「われわれと極地のあいだで風をふせぐものといったら、道に迷ったトナカイぐらいでしょうよ」
ガリオンはしだいに安堵を覚えはじめていた。シルクのしゃれやへらず口はときを追ってますます突拍子もないものになってきた。そして夜、隊商が宿泊のために停止するころにはほとんどいつもどおりのかれに戻っていた。
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21[#「21」は縦中横]
隊商は東ドラスニアの荒涼とした原野をゆっくりと曲がりくねって進んだ。らばの鈴の音がかれらの後から悲しげについてきた。ようやく小さなピンク色のつぼみをつけ始めたまばらなヒースの茂みが、起伏の少ない丘を点々といろどっていた。空は陰うつな灰色におおわれ、冷たい風が北からたえまなく吹きつけた。
ガリオンはいつのまにかまわりの原野と同じように憂うつなもの悲しい気分になっていた。いくら考えまいとしても避けようのない明白な事実がかれの前にあった。それはこうしている間にも着々とマロリーへ、トラクとの対決の瞬間に近づきつつあるということだった。かれの背中にくくりつけられた巨大な剣のつか[#「つか」に傍点]頭から間断なくささやきかける〈珠〉の歌も慰めにはならなかった。何といってもトラクは神なのだ――打ち勝ちがたい不死身の敵だった。そしてガリオンはまだ大人になってすらいないのに、神を探しだし、対決して死ぬためにマロリーへ向かっているのだ。ガリオンは死という言葉を心から締めだそうと必死になった。それはゼダーと〈珠〉の長い追跡行のときには一、二回の可能性に過ぎなかった。だが今回は動かぬ事実のように思えた。かれは一人ぼっちでトラクと対決しなければならないのだ。マンドラレンやバラクやヘターはその素晴らしい剣の腕前でかれを助けにこれないのだ。ベルガラスやポルおばさんも魔法を使って介入することはできないのだ。シルクとてうまく逃げおおせるようなうまい策略を考え出すことは不可能だ。猛り狂う無敵の暗黒の神はかれの血をもとめて襲いかかってくることだろう。ガリオンはしだいに眠ることが恐ろしくなってきた。眠りはいつまでも消えることなくつきまとう悪夢をもたらし、しかもそれは日いちにちと恐ろしいものになっていくのだった。
かれは怖かった。刻一刻とつのりくる恐怖のせいで、口の中がいつも不快な味がした。何よりもかれは逃げ出したかった。だがそれが許されないことはガリオン自身がよく知っていた。第一逃げ出せるような場所がなかった。世界中広しといえども、かれの隠れられるような場所などありえないのだ。万が一そんなことをしようものなら、たちまち神々が探しだし、ときの初めより定められていたあの恐ろしい対決へ容赦なくかれを連れ戻すことだろう。それゆえにガリオンはすっかり恐怖に怯えながら、かれ自身の死に着実に近づこうとしていたのである。
一見鞍の上でまどろんでいるように見えて、そのじつ眠っていないベルガラスは、ガリオンの恐怖がその頂点に達するまで、鋭いまなざしで見守りながらも口出しはしなかった。そして鉛色の空が、まわりの風景と同じように陰うつに垂れこめたある朝、老人はガリオンのそばに自分の馬を寄せながら静かな声で言った。「あのことについて話したいか?」
「そんなことしたって何にもならないよ」
「少しは助けになるかもしれないぞ」
「ぼくを助けられるものなんて何ひとつないよ。ぼくはかれに殺されるんだ」
「もしそんなことになるとわかっていれば、はじめからおまえを旅立たせたりはしないぞ」
「そんなこと言ったって、いったいどうやって神と戦うんだ」
「勇気を出すことだ」不親切な答がかえってきた。「おまえはこれまでにもどうでもいいときにとんでもない勇気を出したじゃないか。あの頃と今とそんなに変わっているようには思えんがね」
「ぼくは怖いんだよ、おじいさん」ガリオンはついに告白した。その声は苦悩に満ちていた。
「今になってやっとマンドラレンの気持ちがわかったよ。恐怖がこれほどひどいものだとは思わなかった。とてもぼくには耐えられそうもない」
「おまえは自分で思っているよりはるかに強いんだぞ。必要ならどこまでも耐えられるさ」
ガリオンはしばらく考えこんだ。だがあまり心の助けになったとは思えなかった。「かれはいったいどんなやつなんだい」ガリオンは突然病的な好奇心に駆られてたずねた。
「誰がだ」
「トラクだよ」
「傲慢のひとことにつきる。何としても虫の好かんやつだったな」
「たとえばクトゥーチクとか、アシャラクみたいなやつかい」
「違う。やつらはトラクのようになろうとしただけだ。むろん成功するわけがなかったが、それでもなろうと努めたのさ。もしおまえの助けになるなら言っておくが、トラクだって同じようにおまえを恐れているんだぞ。やつはおまえが誰なのかを知っている。やつと対決するのはしがないセンダリアの皿洗いガリオン少年などではない、リヴァ王ベルガリオンだ。かたわらにはトラクの血を求めてやまぬリヴァの剣がある。そしてやつは〈アルダーの珠〉を見るだろう。それこそトラクがもっとも恐れてやまないものなのだ」
「おじいさんが初めてトラクに会ったのはいつ頃のことなんだい」ガリオンは突然、老人の話を聞きたくなった――それもはるかかなたの昔のことを。昔話はこれまでもかれの救いになってきた。話にすっかり没頭しているあいだは、ほんのいっときだけでも嫌なことを忘れることができた。
ベルガラスは短く刈りこんだ白い髭をかいた。「そうだな」老人はしばし考えこんだ。「初めてやつに会ったのはわたしがまだ〈谷〉にいた頃だったな。かなり大昔の話だぞ。そこにはベルゼダーやベルディンなどの仲間たちもいて、みなそれぞれの修業にはげんでおった。われわれの〈師〉は〈珠〉とともに塔へ引きこもり、一ヵ月以上姿を見せないこともしばしばだった。
ある日のこと〈谷〉に見知らぬ客人が訪れた。身長はわしとさほど変わらないのに、歩くとまるで何千フィートもあるように見えたな。髪は真っ黒で、肌は抜けるように白く、瞳は覚えているかぎりでは緑色がかっていたような気がする。やつの顔は美男子といっていいほど整っていて、髪は何べんも櫛をいれているかのようにつややかだった。何というか、年がら年じゅう鏡をポケットに忍ばせてはしょっちゅう見ているような輩に見えたな」
「かれはおじいさんに何か言ったのかい」ガリオンはたずねた。
「ああ、言ったよ」ベルガラスは答えた。「やつはわれわれのところに来てこう言った。『わたしは兄、すなわちそなたらの〈師〉に話があって来たのだ』わしはそいつのしゃべり方がまったくもって気にくわなかった。まるでわれわれが召使いか何かのように見下げた口調でしゃべるんだ――まあ、それがやつの欠点だったんだがね。わしの場合は〈師〉がさんざんてこずった末に、最低限の礼儀をたたきこんでくれていたから、できるだけ礼儀正しく答えたのさ。
『おいでになったことを〈師〉に伝えてまいりましょう』とね。
そうしたらやつは例の腹立たしいほど尊大な口調で言ったね。『その必要はない、ベルガラス。兄はわたしが来たことを先刻ご存じのはずだ』」
「どうしておじいさんの名前を知っていたんだろう」
ベルガラスは肩をすくめた。「そればかりは今でもわからんのだ。恐らくわが〈師〉はかれや他の神々とつねに独自の連絡をとりあい、わしらのことを伝えていたんだろう。まあ何はともあれ、わしはこのやけにめかしこんだ客人を〈師〉の塔に案内した。わざわざ道すがら話しかけてやる必要もあるまいと思ったのでずっと黙っていたよ。そこに着いたとたん、やつはわしの顔をまっこうからにらみつけてこう言った。『そなたの奉仕にめんじてひとつ忠告をくれてやろう。身分をよくわきまえ、思い上がりもほどほどにするがよい。わたしに対して好き嫌いを云々するなどとは僭越もはなはだしい。願わくはわたしの忠告をすなおに受け入れ、次に会うときは然るべき振る舞いを見せてもらいたいものだ』
『それはまた結構なご忠告をありがとうございます』わしも負けずに辛らつな口調で言ってやった。『それで、他になにかご注文はありますか』とな。
『何というこしゃくなやつめ。いつの日か手ずからしかるべき振る舞いをたたきこんでやるからな』あいつはそれだけいうとさっさと塔を登っていっちまったよ。そんなわけでわれわれは最初の出会いからしてうまくいかなかったのさ。わしはやつの態度が気にくわなかったし、やつもわしの態度が気にくわなかったんだ」
「それからどうなったんだい」いつしか好奇心がガリオンの恐怖をやわらげはじめていた。
「後のことはおまえだって知ってるはずだ」ベルガラスが言った。「トラクは〈師〉アルダーと話をするために塔を登っていった。あれやこれやの末に、やつは〈師〉をなぐり倒して〈珠〉を奪った」老人は憮然たる表情で言った。「もっともその次に会ったときにはそれほど美男子ではなくなっていたがな」かれは無気味な満足を顔に浮かべた。「やつは〈珠〉の炎に顔半分を焼きつくされ、その醜さを隠すために鋼の仮面をつけなければならなかったのさ」
いつのまにかシルクがくつわ[#「くつわ」に傍点]を並べてかれらの話に聞きいっていた。「それであなたはどうしたんですか。トラクに〈珠〉を盗まれたあとは?」
「〈師〉はわれわれを他の神々のもとにつかわされた」ベルガラスは答えた。「わしの役目はベラー神を探すことだった。当時かれは北のどこかにいてアローン人らとともに浮かれ騒いでおったのでな。何といってもベラーはまだ年若かったので、若者らしい無分別を楽しんでいたのさ。年頃のアローン人の娘たちはみなひそかに、夢のなかに熊神が訪れはしないかとわくわくして待ち受けたものさ。むろんベラーもその期待にことごとく応えようとしたとわしは聞いておる」
「そいつは初耳ですな」シルクが驚いたように言った。
「まあ、単なる噂にすぎないかもしれんが」ベルガラスは言った。
「それでかれは見つかったのかい」ガリオンがたずねた。
「そりゃしばらくかかったな。何しろその頃は地形が今と多少違っておったのでな。今アルガリアになっている部分はずっと東に伸びていて――それこそ何千リーグという草原が続いていたものさ。そこでわしはまず最初に鷲に姿を変えることにしたが、うまくいかなかった」
「なかなかお似合いだと思いますがね」シルクが言った。
「あまり高いところにいるとめまいがしてな」老人は続けた。「なのにずっと地面に目を釘づけにしなくてはならんのだから。空から舞いおりては獲物を殺すという本能はなかなかあらがいがたいものでな。そのうち、だんだん姿を借りているものの思考がわしにまで影響を及ぼしはじめたのだ。鷲は見てくれこそいいが、たいそう頭の悪い動物なのさ。そこで鷲をあきらめ狼の姿にしてみた。今度はうまくいったようだった。目を釘づけにするものといったら、若い陽気な雌の狼だけだったしな」老人のまなざしがかすかにこわばり、声が妙に引きつった。
「ベルガラス!」シルクがショックを受けたような声で言った。
「そんなふうに一足とびに結論に飛びつくんじゃないぞ、シルク。それが許されることかどうかぐらい、わしとて考えたさ。父親になるのはまったく問題ないし、悪くもなかろうとは思ったが、生まれてくる子狼たちのことを考えると、あとあと面倒なことになりそうな気がしてな。彼女はベラーがアローン人たちとともに住まう北の地までついてくると言いはったが、わしはそれを拒んだ」かれはここで言葉をとぎらせると、灰緑色の原野に目をやった。その顔からは何の表情もうかがえなかった。ガリオンは老人が言わなかったことがあるのに気づいた。それは何かとても重要なことだった。
「とにかく」ベルガラスは続けた。「ベラーはわれわれとともに他の神々の集う〈谷〉へ戻った。かれらは話し合いの末、トラクとアンガラクに対し宣戦布告することを決めた。これが長い戦いのそもそもの始まりだ。それ以後世界は二度と前と同じではなくなった」
「その狼はどうなったんだい」ガリオンは祖父が意図的に話をとばした部分を容赦なく追及しした。
「あれはわしとずっといっしょにおった」ベルガラスは静かに言った。「彼女は何日も塔の上に座ってわしをじっと眺めていた。あいつはいっぷう変わった考えの持ち主で、彼女の発言はいつも少なからずわしを面くらわせたものだ」
「発言ですって」シルクがたずねた。「その狼はしゃべれたんですか」
「むろん狼なりのやり方でだがな。わしは彼女とともに旅するあいだにかれらのしゃべり方をすっかり習得したのさ。あれはなかなか簡潔明瞭で、聞きようによっちゃ非常に美しい言語だぞ。一度言葉を使わずに話すことを覚えてしまえば狼たちは雄弁にもなるし、詩人にさえもなる」
「彼女はどれくらいおじいさんといっしょにいたんだい」ガリオンはたずねた。
「かなり長い間だな」ベルガラスは答えた。「かつてそのことで彼女にたずねてみたことがあるよ。そうしたらあいつは別の質問で答えおった。それが彼女のいらいらさせる癖のひとつでな。『時間なんて狼にとって何の意味があるのかしら』などとあいつは抜かした。しかたなくわしが自分で計算してみたところによれば、なんと一千年を越えていたのさ。わしは少なからず驚いたが、あいつはまったく気にしてはいないようだった。『狼というものは生きたいと思うだけ寿命があるのよ』と言うだけだった。ある日のこと、わしは何らかの理由があって――今ではすっかり忘れちまったがな――彼女の前で変身しなければならないはめになった。あいつにそれを見られたのが運のつきだった。彼女は『そうやっていたのね』とひとこと言うなり、自分もまっ白いふくろうに変身した。どうやらあいつはわしを驚かせることがおもしろいらしくて、わしが振り返るたびに違う姿に変身してみせたりした。だがあいつが一番気にいってたのはまっ白いふくろうの姿だったな。だがそれから数年後、突然彼女はわしのもとを去った。あれがいなくなった寂しさは自分でも驚くほどだった。何しろ今まであまりにも長くいっしょに生活を共にしてきたのだからな」老人はここで再び言葉をとぎらせ、目をそらした。
「それからまた彼女と出会うことはあったの」ガリオンはどうしてもそれが聞きたくてたまらなかった。
ベルガラスはうなずいた。「彼女はその日のためにひそかな準備をしていたのさ――もっともわしはすぐそうと気づくことはできなかったがね。わしは〈師〉の用事かなにかで北の谷を訪れた。そして、たまたま木立に囲まれた小川のほとりにたつ一軒の小さなわらぶきの家に行きあたった。そこにはポレドラという名の黄褐色の髪をした金色の瞳の女性が住んでいた。わたしたちは親しくなり、やがて結婚した。その女性がポルガラと――今は亡きベルダランの母親だ」
「でもさっき雌狼と再会したと行ったじゃないか」ガリオンが言った。
「どうやらわしの話をよく聞いてなかったらしいな、ガリオン」老人はそう言いながら孫息子の顔をまっこうから見た。ガリオンはかれの瞳に昔の消えやらぬ奥深い傷が浮かぶのを見た。その傷はあまりに深く、老人が生きている間は決して癒えることがないように思えた。
「だって、まさか――」
「そりゃ、わしだって事実を受け入れられるようになるまではしばらくかかったさ。ポレドラは辛抱づよく、意志の強い女性だった。狼の姿でいるかぎりわしが結婚を承知しないことを知った彼女は即座に別の姿を選んだのさ。結局あれは望みどおりのものを手に入れたってわけだ」
「ポルおばさんのおかあさんは狼だったって言うのかい」ガリオンは仰天して叫んだ。
「それは違うぞ、ガリオン」ベルガラスは静かな声で言った。「彼女は人間の女性だった――しかもたいそう魅力的な。彼女の変身はそこまで完璧だったわけさ」
「だけど、最初は狼だったんだろう」
「だから何だ」
「だって、そんな――」かれにとってはあまりにも衝撃的すぎる話だった。
「偏見でものを見てはいかんぞ」ベルガラスは言った。
ガリオンは必死に心のなかで戦った。だがどうみてもかれには奇怪なこととしか思えなかった。「ごめんよ」かれはようやくのことで口を開いた。「でも何といわれてもぼくには不自然なこととしか思えない」
「ガリオン」老人は傷ついたようなまなざしを浮かべた。「そもそもわれわれのなすことすべてが不自然なものなのだ。よく考えてみれば〈意志〉で岩を動かすなどということはその最たるものだ」
「それとこれとじゃわけが違うよ」ガリオンも負けてはいなかった。「おじいさんは狼と結婚して、狼に子供を産ませたんだよ。何でそんな恐ろしいことができるんだ」
ベルガラスはため息をついて、頭を振った。「まったくどうしようもない頑固者だな。どうやらおまえは自分で経験してみなければ、何ごとも承服できないらしい。よし、それではあの丘の向こう側へ行って、実際にどういうことなのかわしがやってみせることにしよう。何もここでやって隊商の人々を驚かすこともあるまい」
「よろしければ、わたしもお供させてもらえませんかね」シルクが好奇心に鼻をうごめかせながらたずねた。
「それも悪くないかもしれんな」ベルガラスは同意した。「おまえさんには馬どもを押さえつける役を頼む。連中は狼を見るとすっかり興奮するだろうからな」
かれらは隊商道をはずれると、鉛色の空のもと、ヒースに覆われた低い丘の反対側を駆けめぐった。「よし、ここでいいだろう」ベルガラスは丘のすぐ後ろの浅い草地で馬からおりた。草の生い茂る湿地は春の新しい草に覆われていた。
「要は、自分の頭のなかにこれから姿を変えようとする動物の姿を思い描くことだ」ベルガラスが説明した。「ありとあらゆる細部にわたってな。それから今度は〈意志〉をすべて自分の心のなかに注ぎこんで、頭のなかの動物の姿とあわせるのだ」
ガリオンは老人の言葉を理解できず、けげんそうな表情をした。
「いちいち言葉で教えていたのでは時間がいくらあっても足らん」ベルガラスは言った。「いいか、今からわしがやることをよく見ていろよ。目だけでなく心でもよく見てるんだぞ」
すると前にも見たことのある、灰色の巨大な狼の姿がガリオンの心のなかにひとりでに浮かびあがった。かれには灰色い鼻面や、銀色の毛の一本一本まで見えるような気がした。心のなかにうねりが起きるのと同時にうつろな音がごうごうと鳴り響いた。そのとたん、かれは狼の姿がベルガラスと奇妙にまざりあうのを見たように思った――まるで両者でひとつの場所をとりあってるようだった。だが次の瞬間、ベルガラスの姿は消えうせて狼の姿だけが残った。
シルクは驚いたような口笛をふくと、驚く馬たちの手綱をぎゅっと引き締めた。
ベルガラスは再び元どおりの茶錆色の長衣に灰色の頭巾をつけたマント姿に戻った。「これでわかっただろう」
「たぶんね」ガリオンはいささか心もとない声で答えた。
「それでは自分でやってみろ。そのつど、わしが教えてやるから」
ガリオンは頭のなかに狼の姿を思い浮かべた。
「足指の爪を忘れちゃいかん」ベルガラスがいった。「たいしたことには思えないかもしれないが、じつは重要なことなのだ」
ガリオンは足爪をつけ加えた。
「尻尾が短すぎる」
ガリオンは尻尾の長さをなおした。
「それくらいでいいだろう。さあ、今度は自分自身をそのなかへ入れてみろ」
ガリオンは自分の〈意志〉を注ぎこんで言った。「変われ」
そのとたん、かれは自分の体が心に思い浮かべた狼の姿にむかって、溶けだし、移動し、変化し、注ぎこまれていくのを感じた。うねりが去ってみるとかれは後ろ足でちょこんと座っていた。何ともいえない奇妙な感じがした。
「さあ、立ってよく姿を見せてみろ」ベルガラスの声がした。
ガリオンは四つ足で立ち上がった。尻尾がひどく不自然な感じがした。
「後ろ足が少し長すぎるぞ」ベルガラスが批判するように言った。
ガリオンはまだ初めての経験だということを抗議しようとしたが、出てきたのはくんくんと鼻を鳴らす、哀れっぽい鳴き声だけだった。
「やめろ」ベルガラスがうなるように言った。「まるで小犬がなきたてているような声だぞ。さあ、後ろ足を直すんだ」
ガリオンは老人の言葉どおりにした。
「いったい着物はどこへいっちまったんだろう」シルクが不思議そうにたずねた。
「あいかわらず身につけてはいるが」ベルガラスが答えた。「同時に身につけてはいないのだ。じっさいこれを説明するのはひどく難しくてな。ベルディンがかつてわれわれの着衣がどこへ行くのかをじっさいに調べたことがあった。かれはついに解答を見いだしたらしかったが、わしにはちっともその理屈が理解できなかった。ベルディンはわしなどよりも頭のよい男だし、やつの説明は難しすぎてわからんこともしょっちゅうだったしな。まあ、何はともあれ、われわれが人間の姿に戻るときはちゃんと元どおりの服を着ているというわけさ」
「ガリオンの剣もですか」シルクがたずねた。「それにあの〈珠〉も?」
老人はうなずいた。
「ですが、そんなふうにふらふらと――何というか野放しの状態で、ほうっておくのは危険じゃありませんか」
「別に野放しになってるわけではない。あいかわらずそこにあるが、また同時に存在しないのだ」
「まあ、あなたの言うことだから信用しておきますがね」シルクは疑わしそうに言った。
「よし、もう一度やってみろ、ガリオン」ベルガラスが命じた。
ガリオンは祖父の望みどおりの姿になるまで何度か変身を繰り返した。
「おまえはここに残って馬を見ていてくれ」老人はシルクに命じた。「われわれはしばらくしたら戻ってくる」ベルガラスの姿がかすかに揺らいだかと思うと狼になった。「さあ、少しばかり走ってみようじゃないか」老人の言葉はガリオンの心のなかに直接伝わってきた。それはわずかな表情の動きと、頭と耳のかしげ具合と、数回の吠え声をともなうものだった。なぜ狼たちの結束があれほどまでに強いのか、だしぬけにガリオンは理解した。かれらは文字どおり互いの心のなかに住んでいるのだ。一人の見たものを全員が見て、一人の感じたものを全員で感じていたのである。
「これからどこへ行くんだい」ガリオンはすなおに狼の言葉が出てきたことに、ほとんど驚きを感じなかった。
「別にこれといって決まった場所があるわけじゃない。ただちょっと手足を伸ばしたかっただけさ」そう言うなり灰色の狼はあっという間に飛び去った。
問題は尻尾だった。ガリオンはついついその存在を忘れてしまい、そのたびに前後に揺れる尻尾でバランスを崩しそうになった。ようやくそのこつを飲みこむ頃には、灰色の老狼はとっくに灰緑色の原野のかなたへ飛び去ったあとだった。だがしばらくするとガリオンは文字通り、宙を舞うようにして原野を走っていた。長い跳躍に身をおどらせるかれの四肢は、ほとんど地面についていないようだった。ガリオンは狼の走りかたの効率よさにあらためて舌を巻いた。かれは足だけでなく、体全体をつかって走っていた。必要なら何日だって疲れずに走り続けることができるに違いない。
ゆるやかな丘の起伏もまったく様相を変えていた。それまで頭上の鉛色の空と同じように殺風景で空虚と思えた原野は突如として生命に満ちあふれた。野ねずみや穴のなかに隠れたりす[#「りす」に傍点]がいた。茶色いいじけた茂みの下には恐怖にすくむうさぎが隠れていた。柔らかい湿った土に爪を食いこませながら軽やかに疾走するガリオンをかれらはじっと見つめていた。ガリオンはこのあらたに得た体の力強さと軽やかさに静かな歓喜を覚えはじめていた。かれこそは原野の主であり、いかなる動物といえどかれの前には道を譲るのである。
突然かれはもはや一人でないことに気づいた。すぐかたわらにもう一頭の狼が並んで走っていた。それはまるで幻のように実体がなく、青いちらちらする光に包まれていた。「どちらまでいらっしゃるの」彼女は狼同士の話し方でたずねてきた。
「もしよければここで止まってもいいですよ」ガリオンは礼儀正しく答えると、速度をゆるめ、やがて小走りになった。
「たしかに走っていない方が話がしやすいわね」雌狼はそう言って止まり、後ろ足で座った。
ガリオンもまた足をとめた。「あなたはポレドラでしょう」まだ狼言葉の緻密さに慣れないガリオンはぶしつけにたずねた。
「狼に名前なんて必要ないのよ」彼女は鼻を鳴らした。「かれもずいぶんそのことを気にしていたようだけど」それは子供時代からかれに話しかけてきた内なる声とはまた違った話し方だった。ガリオンには実際の声は聞こえてはいなかったが、彼女が何を言おうとしてるのかはっきりと理解できるのだ。
「おじいさんのことですか」
「他に誰がいて? どうも人間たちはすぐものごとを分類して名前をつけたがるらしいわね。でもいちいちそんなことをしてたら肝心のものを見失ってしまう場合もあるのよ」
「でも何でこんなところにいるんですか。あなたは、その、昔――」
「死んだはずだとおっしゃりたいんでしょう。死ぬなんて言葉を恐れちゃいけないわ。それは単なる言葉にすぎないんですからね。でもたしかにあなたの言うとおりなの。でも生きていた頃とたいした違いはないのよ」
「あなたを呼び出すためには、いつも何か術を行なわなければならないんですか」ガリオンはたずねた。「たとえばぼくらがウルゴの山中でグラルと戦ったとき、ポルおばさんがやったみたいに」
「いいえ、まったくその必要はないわ。たしかにわたしを呼び出すにはそうしてもらった方がいいけれど、必要なときには自分から出ていくこともできるの」彼女はそう言うと、冷やかすような視線でかれを見た。「あなた今度のことですっかりとまどっているようね」
「今度のことって?」
「何もかも全部よ。あなたが誰であるか、わたしたちが何であるか、あなたが何をしなければならないか」
「ええ、少し」かれはみとめた。
「それじゃわたしの方から説明させてちょうだい。たとえば、かれのことから始めてみましょうか。わたしは今まであの人を人間だと思ったことはなかったわ。あの人にはとても狼によく似たところがあるのよ。わたしはいつもかれが何かの間違いで人間に生まれついたんだと思ったものよ。でもそれはたぶん、そうでなくてはならなかったからでしょう。どんな形に生まれつくかなんて本当はどうでもいいことなのよ」
「本当にそう思うんですか」
「あなたはそう思わないの?」彼女は今にも笑いだしそうな声で言った。「じゃあ、いいわ。その証拠を見せてあげましょう。さあ、姿を変えるのよ」彼女の姿がかすかに揺らいだかと思うと、目の前に黄褐色の髪をした金色の瞳の女性が立っていた。彼女は簡素な茶色のガウンをまとっていた。
ガリオンは肩をすくめると元の姿に戻った。
「さあ、今のわたしにあなたとどれほどの違いがあって?」彼女は言った。「わたしは狼でもなければ、ふくろうでもなく、人間の女でもないわたし自身じゃなくて?」
そしてガリオンは突然すべてを理解した。「あなたのことをおばあさんと呼んでもいいですか」かれはいささか戸惑いながら聞いた。
「もしそれであなたの気がすむのならね」彼女は答えた。「正確にいうとちょっと違うのよ」
「わかってます」とガリオン。「でも、そう呼びたいんです」
「それじゃ、自分が誰であるかを素直に認める決心はついて?」
「だって他にどうしようもないでしょう?」
「でもあなたはそれがいやで、これから自分がやらなければならないことを恐れている、というわけね」
かれは黙ってうなずいた。
「でもあなたは一人ぼっちではないのよ」
ガリオンはすばやく彼女を見やった。「でも、ムリン古写本では――」
「ムリン古写本にはかかわりあいのあることすべてが書かれているわけではないわ」彼女は言った。「あなたとトラクが対決するということは、じつは二つの大きな対立する勢力の戦いでもあるわけなの。あなたたちはその勢力の代表者にすぎないのよ。この対決にはありとあらゆる膨大な力が巻き込まれているので、あなたもトラクも本当はそれほど重要な役割を果たしているわけではないの」
「だったら何でぼくでなくてはならないんだろう」かれは飛びつくように言った。「もっと他にふさわしい人物がいるはずでしょう」
「わたしはそれほど≠ニ断ったはずよ」彼女はきっぱりした口調で言った。「それはやはりあなたでなくてはならないし、またトラクでなくてはならないの。あなたはいわばこの二つの勢力を衝突に導く水路のようなものなのよ。でもじっさいにそのときになってみれば、あまりのたやすさにきっと驚くわ」
「ぼくは勝てるんでしょうか」
「わからないわ。全世界もその行方をしらないのよ。だからこそあなたはかれと対決しなければならないの。もしその結果がわかってたら、そんなふうに対決する必要もないでしょう」彼女は急にあたりを見まわした。「ベルガラスが戻ってくるわ。わたしは行かなくては」
「なぜ」
「わたしの存在がかれを苦しめるからよ――あなたにはとても想像もつかないほどね」
「だって、そんな――」かれは何といっていいかわからず、言葉をつまらせた。
「わたしたちは他の人が及ばないほど固く結ばれ、それは長いときをすごしてきたのよ。二人が本当に引き離されているわけではないことを、かれが理解してくれればと思うこともあるけど、たぶんまだ時期が早すぎるわ」
「でももう三千年もたっているんですよ、おばあさん」
「時間なんて狼にとって何の意味があるのかしら?」彼女は謎めいた表情を浮かべて言った。
「狼の男女の結びつきは永遠なのよ。そして別れたときの悲しみもまた永遠に続くものなの。きっと、いつかは――」彼女は思いこがれるように声をとぎらせ、深いため息をついた。「わたしが行ったらすぐに狼の姿に戻りなさい。ベルガラスはあなたと狩りがしたいのよ。まあ、一種の形式的なしきたりみたいなものね。もう一度狼の姿に戻ればあなたにもそれがわかるわ」
ガリオンはうなずくと再び心の中に狼の姿を思い浮かべた。
「もうひとつ言っておくことがあったわ、ベルガリオン」
「何ですか」
「わたしはあなたを愛していますよ」
「ぼくもです、おばあさん」
そして彼女はいずこへともなく消えた。ガリオンはため息をつくと再び狼に変身した。かれはベルガラスの狩りに加わるために、ただちにその場を後にした。
[#改丁]
第四部 リヴァの女王
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22[#「22」は縦中横]
セ・ネドラ王女はすっかりもの思いにふけり、憂いに沈んでさえいた。周期的なかんしゃくの爆発によって引き起こされる混乱を楽しみながらも、彼女はそろそろ矛先をおさめてガリオンと仲よくしなければならない時期だとしぶしぶ認めざるをえなかった。いずれ二人は結婚するのだし、もはや必要以上にかれをろうばいさせても意味がない。結婚してもかれより身分が下になるわけではないことがわかってからは彼女の不機嫌もすっかりおさまっていた。それこそ王女がなにより望んでいたことだったのである。それにガリオンと結婚するという見通しは、うわべで見せかけているほど不快なことではなかった。何といっても彼女はガリオンを愛しているのだし、かれが二人のあいだを妨げていたものを知った今、すべては順調に進んでいくように思えた。そしてまさに今日、彼女はガリオンをたずねて仲なおりしようと決心していたのである。
その日の朝、セ・ネドラの心をしめていたのは儀典集と、彼女自身の手によって入念に記された一枚の図表だった。皇帝の娘として、リヴァの王妃として彼女はいかなるトルネドラ王家の公妃よりも上位にたったのである。そればかりかチェレクのイスレナ王妃やアルガリアのシラー王妃よりもまさっているはずだ。問題があるとすればマヤセラーナ王妃が、ほぼ彼女と対等な位置にあることである。セ・ネドラはさっそくヴァルゴンに命じて、この件をトル・ホネスの外務長官に調べさせることを忘れないように、手元の羊皮紙に書きつけた。彼女は自分で書いた図表を見てひとり悦に入った。レディ・ポルガラと、その愛らしさのために皆の崇敬を集めているライラ王妃をのぞけば、彼女はすべての西の高貴な婦人にまさるか、少なくとも同等になるはずだった。
突然、〈要塞〉の壁をふるわさんばかりの凄まじい雷鳴がとどろいた。驚いたセ・ネドラは慌てて窓の外をのぞきこんだ。外は明るく晴れわたっていた。どうしてこんなときに雷鳴が起きたりするのだろう。次の瞬間、朝の静けさを引き裂くような雷鳴が再び起こり、人々のおびえたようなざわめきが廊下から聞こえてきた。セ・ネドラはいらだたしい思いで小さな銀の鈴を振り、侍女を呼びよせた。
「いったい何が起きたのか見てきてちょうだい」彼女はそう命じると再び図表の検討にもどった。そのとたんあらたな雷鳴が轟きわたり、さらに多くの悲鳴と騒乱が廊下から聞こえてきた。まったく何てことだろう! こんなに騒がしくては集中して検討することもできやしない。彼女はいらいらと立ちあがると、ドアに向かった。
ドアの外では人々が走っていた――というよりは逃げまどっていた。ちょうどそのときポルガラの私室からセンダリアのライラ王妃が文字どおり飛び出してきた。彼女の目は恐怖に大きく見開かれ、王冠はずり落ちかけていた。
「どうかなさったの」セ・ネドラは小さなぽっちゃりした王妃を呼びとめた。
「ポルガラよ!」王妃はあえぎながら答え、慌てふためいて逃げようとした。「あの人は目に入るかぎりのものを壊しているのよ」
「レディ・ポルガラが?」
またしても起こった耳をつんざかんばかりの雷鳴に小さな王妃はよろめいて、セ・ネドラに恐怖のあまりしがみついた。「お願いよ、セ・ネドラ。あなたから彼女になぜ怒っているのか聞いてちょうだい。あの人がこの建物を壊してしまう前に何とかやめさせなくちゃ」
「わたしが?」
「あなたのいうことならきっと聞くわ。あなたは彼女のお気にいりですもの」
わが身にふりかかる危険も忘れ、セ・ネドラはレディ・ポルガラの部屋へ急ぎ、ドアから中をのぞきこんだ。部屋のなかはまさに修羅場と化していた。あらゆる家具がひっくりかえっていた。壁飾りはずたずたに引き裂かれ、窓という窓はこなごなに打ち砕かれ、部屋の中はもうもうたる煙に包まれていた。セ・ネドラ自身、これまでにもかんしゃくを起こすたびに、自分の芸術的手腕に満足を覚えてきたが、ポルガラのそれはあまりにも効果的すぎて、ほとんど自然の災害にしか見えなかった。当のレディ・ポルガラは髪を乱し、かっと目を見開いて部屋のまん中に立ちはだかっていた。その唇から支離滅裂な数種類の罵り言葉が同時に吐き出された。片方の手にはしわくちゃになった羊皮紙が握りしめられ、もう一方の手は鉤爪のように前に突き出されている。その中にはポルガラによって空中より呼び出され、今や彼女自身の怒りを注ぎこまれて燃えさかる白いエネルギーの光が、なかば握るような形に丸められていた。小さな王女はすっかり畏怖に打たれて、ポルガラが長々しい弾劾演説を始めるのを見守った。低いコントラルトで始まった恐ろしい罵りは徐々に調子をあげ、やがて声域の極限にまでたっした。声が限界にたっするやいなや、彼女はひとつひとつの罵り言葉を発するたびに、手のなかでしゅうしゅう音をたてる光の塊をばちばち炸裂させながら、宙を切り裂き始めた。目に入るものすべては指の間から発せられる稲妻の前に粉々に砕けちった。彼女は悪罵とともに一列に並べられたコーヒー茶碗を次々に爆発させ、釣りあいをとるかのように下に置かれていた受け皿の列をも吹き飛ばした。そしてあとから思いついたようにテーブルを粉みじんに撃破した。
セ・ネドラは背後に締め殺されるようなあえぎ声を聞いた。振り返るとそこには血の気のうせた顔をしたアンヘグ王がいた。王はちらりと見るなり、踵を返して逃げ出した。
「お願い、レディ・ポルガラ」王女は被害を小さくしようという意図はおくびにも出さずに、こわごわ呼びかけた。
ポルガラはマントルピースの上に並べられた四個の花瓶を正確にひとつずつ爆破していった。窓の外の明るく晴れていた空がにわかにかき曇ったかと思うまもなく、ごろごろと雷の不吉な音がした。セ・ネドラはこれが本物の天変地異であるようにと願わずにはいられなかった。
「いったいどうなさったの」猛り狂う女魔術師の口からほとばしる罵りの言葉を何とか説明にまで持ってこようとセ・ネドラは努めた。それにはまずこの罵詈雑言をやめさせなければならない。どうやらポルガラは彼女の言葉をいちいち爆発で強調せずにはいられないらしかった。
セ・ネドラの問いかけにポルガラは答えなかった。そうするかわりに彼女は王女に向かってしわくちゃになった羊皮紙をぽいと投げ捨てた。そして踵を返すと、今度は大理石の彫像をみごとな白い砂利の粒に吹き飛ばした。ポルガラはなおも凶暴な光を目に浮かべたまま、何か壊すものはないかと歩きまわったが、もはや煙った部屋のなかで粉砕を免れたものはほとんど残っていなかった。
「だめよ!」怒り狂うポルガラの目が、かつてガリオンが贈った素晴らしい小鳥のガラス細工に注がれるのを見たセ・ネドラは思わず叫んだ。女魔術師が他の何ものにもましてこの小鳥を大切にしていることを知っている王女は、繊細な細工を守ろうと急いで飛びついた。
「持っていきなさい」ポルガラは王女をにらみつけ、食いしばった歯の間からしぼりだすように言った。「どこでもいいから、わたしの目の届かないところへ」彼女の目はなおも執ように壊すものを探し求めた。彼女はくるりと向きを変えると指の間から作り出した白熱するエネルギーの塊を壊れた窓の外に放り投げた。うす暗い空のもとで突然、無気味な爆発音が轟いた。ポルガラは両の拳を腰に押しつけると、怒りに歪んだ顔を天にむけ、凄まじい悪罵を浴びせかけた。するといずこからともなく黒い雲がもくもくとわき起こり、稲妻とともに激しい雷雨が島中に降り注いだ。局地的な破壊行為だけでは満足できなくなったポルガラは、燃えさかる炎と耳をつんざく雷鳴とで彼女の怒りを〈風の島〉に浴びせかけた。次に彼女は一方のこぶしをさっと振りあげ、空中でぱっと開いた。ポルガラの呼び起こした豪雨は信じられないほど凄まじかった。彼女はぎらぎら光る目を細めると、もう一方のこぶしを振りあげた。突然、それまでの雨が雹に変わった。凄まじい音をたてて石の壁にぶつかり砕け散る氷の塊は、たちまちのうちに空気を氷の破片ともうもうたる水蒸気で満たした。
セ・ネドラはガラスの小鳥を引っつかみ、床から羊皮紙を拾いあげると、急いで逃げ出した。
アンヘグ王がこわごわと物陰から顔を突き出した。「彼女を何とかなだめられないかね」王は震える声でセ・ネドラにたずねた。
「だれだってとめられやしませんわ、陛下」
「アンヘグ! こっちへ来なさい!」建物を揺るがさんばかりの雷鳴と雹の大洪水のさなかからポルガラの声が響きわたった。
「おお、ベラーよ」アンヘグ王は天をあおぎ、すがるようにつぶやくとポルガラの部屋に急いだ。
「今すぐにヴァル・アローンに使いをやりなさい!」彼女は厳しい声で命令した。
「わたしの父とシルクとガリオンが昨晩、〈要塞〉からこっそり逃げ出したわ。さっさとあなたの艦隊を出動させて三人を連れ戻すのよ。たとえそのために敷石を一枚一枚はがすことになろうとかまやしないわ。とにかく三人を探して、即刻ここへ連れてきなさい!」
「だがポルガラ――」チェレクの王は口ごもった。
「馬鹿みたいに口を開けて突っ立っているんじゃないのよ。さっさといきなさい!」
セ・ネドラ王女は心とはうらはらの沈着さでそっとガラス細工の小鳥を怯え切った侍女に渡した。「これをどこか安全なところにしまっておいてちょうだい」そう言うなり彼女は振り返って、嵐の中心にむかって歩いていった。「今なんとおっしゃったの」王女は平板な声でたずねた。
「わたしのろくでなし親爺と、ガリオンと、あのいけずうずうしいこそ泥が共謀して昨晩、要塞から逃げ出したのよ」ポルガラの氷のような声はその人間ばなれした抑制のせいでなおさら脅威的に響いた。
「三人がどうしたんですって」セ・ネドラは気の抜けたような声でたずねた。
「三人は出ていったのよ。夜中に、それも泥棒みたいにこそこそとね」
「じゃあ、後を追いかけなくちゃ」
「それができないのよ、セ・ネドラ」ポルガラは幼い子供に噛んで含めるような口調で言った。
「誰かがここに残っていなくてはならないわ。目を離せないことばかりなのよ。かれはそのことがわかっていてわざとやったのよ。わたしをここに釘づけにしておく気なんだわ」
「ガリオンが?」
「違うわよ! 馬鹿ね。父に決まってるでしょ!」そう言うなりポルガラは再び一語一語を雷で強調しながら罵りの言葉をわめき始めた。
しかしセ・ネドラの耳にはもはや何も聞こえなかった。彼女はゆっくり当たりを見まわした。だがもはや壊すほどのものは残っていなかった。「失礼させていただきますわ」と王女は言った。それから踵を返して自分の部屋に戻ると、カマールの漁師のおかみさんのような金切り声をあげ手当たりしだいにものを投げ壊しはじめた。
二人の怒りの発作はそれからしばらく続いたが、この間だけは互いに用心深く顔をあわせないようにした。お互いに分かちあった方がいい感情もあるが、気狂いじみたヒステリーは別だった。やがてかんしゃくを爆発しつくしたセ・ネドラはひどく侮辱された者特有の、氷のような沈黙に閉じこもった。ガリオンがいかに下手くそな手紙でしらを切り通そうと、一週間もすれば全世界は彼女が捨てられたことを知るだろう。気のない花婿の逃走はあらゆる人々の冗談のたねになるに違いない。そんなことがどうして彼女に耐えられるだろう。
だが彼女は傲然と顔をあげ、尊大な目つきで世界を見返してやるのだ。人の見ていないところではいかに泣きわめき、どなり散らし、怒り狂おうと、世界に向ける顔には彼女が深く傷ついていることなど露ほどもうかがわせてはならない。自尊心こそは彼女に唯一残されたものであり、これだけは何としても譲るわけにはいかなかった。
だがレディ・ポルガラはそのように尊大さを取りつくろうことの必要を、まったく感じていないようだった。最初の怒りが個人的に引き起こした嵐をしずめる程度におさまったのを見て、数人の命知らずの者たちが、最悪の時期は通り過ぎたものと早合点した。トレルハイム伯バラクがまず彼女のご機嫌をなだめすかそうと部屋に入っていった。だがすぐにぱちぱち鳴る罵り言葉とともに、しゅうしゅう鳴る雲を耳のあたりに漂わせながら部屋を飛び出してきた。大男はまっ青になって震えながら皆に報告した。「今は彼女に近づかない方がいい」かれは怯え切った声で忠告した。「彼女に何か頼まれたらただちに従い、なるべく目を合わせないようにすることだ」
「まだ彼女の機嫌はなおらないのかい」ローダー王がたずねた。
「もうありとあらゆる家具は壊しつくしてしまった」バラクは答えた。「残るのは人間だけなのさ」
それ以後ポルガラが自室から出るたびに、警告のささやきがまたたくまに広がり、〈鉄拳〉の要塞の廊下という廊下は空っぽになった。彼女の命令はほとんど侍女を通じて伝えられたが、その内容は多かれ少なかれ、アンヘグ王に下した最初のものと変わらなかった。即刻行方不明の三人組を引っ捕らえ、彼女の面前に連れてくること。
続く何日間のうちに、セ・ネドラの当初の怒りは一種の気難しさに変わっていった。人々はポルガラを避けるように彼女のことも避けるようになった――ただ一人優しいアダーラを除いては。彼女は小さい王女のかんしゃくを穏やかな我慢強さでよく耐えた。二人はほとんどの時間を彼女たちの居室に面した庭で過ごした。そこなら人に聞かれることなくセ・ネドラは胸のうっぷんを心おきなくぶちまけることができるからである。
暖かい一日だった。殺風景なリヴァにも春は訪れていた。そして庭園の真ん中のわずかな芝生も今では青々とした緑に覆われていた。花壇に咲きほこるピンクや青や炎のようにまっ赤な花弁は、花から花へとキスを運ぶのに忙しい明るい黄色い蜂たちの訪問を受けて揺れていた。だが今のセ・ネドラはキスのことなど思い出したくもなかった。お気にいりのドリュアドのうす緑色の長衣をまとった小さな王女は、罪のない巻毛をぎりぎり噛みしめながら、忍耐強いアダーラに世の男の不実さについてとうとうとまくしたてるのだった。
センダリアのライラ王妃が庭にいる二人を見つけたのは、その日の午後なかばになってからだった。「まあ、あなたたちそこにいらしたのね」ぽっちゃりした小さな王妃がにこにこ笑いながら近づいてきた。いつものようにその王冠は少し片方に傾いていた。
「わたしたち、あなたを探していたのよ」
「何で?」セ・ネドラの受け答えはいささか不作法だった。
ライラ王妃は立ちどまると、とがめるような目で王女を見た。
「まあ、ご機嫌ななめみたいね。セ・ネドラ、いったいどうしたというの。ここのところずっとお行儀が悪いのね」
アダーラが王妃に警告するような視線を送るのを見たことが、セ・ネドラのいらだちに火を注ぐ結果となった。彼女は氷のようにひややかな声で言った。「わたしは捨てられた女という体験が、少々不愉快なものだと思ってるだけですわ」
ライラ王妃の陽気な顔がこわばった。「アダーラ、ちょっと席をはずしてくれないこと」彼女は言った。
「もちろんですとも、妃殿下」アダーラはすぐに立ち上がった。「お部屋に戻っているわね、セ・ネドラ」そう言って彼女は優雅な足取りで庭園をあとにした。
ライラ王妃は声の届かない距離までアダーラが遠ざかるのを待って大理石のベンチに腰かけた。「こっちへいらっしゃい、セ・ネドラ」
王妃の口調に思いもよらない厳しさを感じ取ったセ・ネドラは、驚いたように慈しみ深い女性の顔を見た。そしてすごすご彼女の言葉に従い、並んで腰かけた。
「何でもかんでも自分への侮辱みたいに思いこむようなそぶりは、いいかげんにやめた方がいいわ」ライラ王妃は言った。「それはたいそう見苦しい行為だわ。今回のガリオンとベルガラスとシルクの行動はいっさいあなたには関係のないことなのよ」彼女は厳しい口調で言った。
「あなた、〈予言〉のことを何かご存じかしら」
「知ってるわよ」セ・ネドラはすねたように言った。「でもわたしたちトルネドラ人はそんなもの信じちゃいないわ」
「たぶんそれが問題なのよ」王妃は言った。「これからわたしの言うことをよく聞いてほしいの。たとえ信じられなくとも、理解することはできると思うわ」そう言って王妃はしばらく考えこんだ。「〈予言〉にはリヴァ王の帰還とともにトラクが目覚めるとはっきり述べられているわ」
「トラクですって。馬鹿らしい。トラクなんてとっくの昔に死んでるわ」
「いいから黙っていてちょうだい」ライラ王妃は言った。「あんなに長い間かれらと旅をしてきたのにまだわからないの。あなたはお利口さんなのにずいぶん鈍いのね」
セ・ネドラは王妃の言葉にまっ赤になった。
「トラクは神なのよ、セ・ネドラ」ライラ王妃はなおも続けた。「深い眠りについているだけで、決して死んだわけじゃないわ。かれは皆が思っているようにボー・ミンブルの戦いで死にはしなかったの。ガリオンがあの〈珠〉にふれたとたん、トラクもまたどこかで目覚めたのよ。なぜポルガラがラク・クトルからエランドに〈珠〉を運ばせたかあなたにはわかるかしら。運ぼうと思えばガリオンだってたやすくできたことでしょうに」
セ・ネドラはそんなことを考えてみたこともなかった。
「ガリオンがまだ剣も持たずにアンガラクにいるあいだにふれようものなら、トラクはただちに目覚めて後を追い、かれを殺していたかもしれないからよ」
「殺す?」セ・ネドラは息をつまらせた。
「もちろんよ。今度のことも実はそれが理由なの。〈予言〉にはトラクとリヴァの王が最後に出会うだろうと述べられているわ。そしてこの二人の対決が人類の運命を決めるのだとも」
「ガリオン[#「ガリオン」に傍点]が」セ・ネドラは仰天して信じられないといった叫び声をあげた。「嘘よ、本気でおっしゃってるんじゃないでしょう?」
「わたしはこれまでにないほど本気よ、セ・ネドラ。ガリオンはどちらか一方が死ぬまで、トラクと戦わねばならないのよ――それも全世界の運命を決めるために。さあ、もうわかったでしょう。だからあの三人はあんなに慌ただしく出ていったのよ。あの人たちはガリオンをトラクと戦わせるためにマロリーへ向かったの。もちろんやろうと思えば軍隊を率いていくことだってできたけれど、そんなことをしても人の命をいたずらに落とすだけだとわかっていたのね。だからかれらはたった三人で出発したのよ。もういいかげんに大人げない振るまいをやめるべきだと思わないこと、セ・ネドラ」
セ・ネドラのかんしゃくはライラ王妃の話を聞いたとたん、すっかりおさまった。生まれてはじめて、彼女は自分のことよりも他人のことを深く気にかけるようになったのである。彼女は四六時中ガリオンの身を案じ、何か恐ろしいことがかれの身に起こる悪夢に夜な夜なうなされた。
さらに悪いことに、彼女はしばしば耳鳴りに悩まされ、じつに不快な思いを味わった。それはまるで彼方から聞こえてくる声のようだった――何を言ってるのかわかりそうで、わからない人間の声だった。しつこいざわざわという耳鳴りは、ガリオンへの心配ともあいまって彼女をますます気難しく、怒りっぽくさせた。あの優しいアダーラでさえも彼女を避けはじめたほどだった。
数日後、この耳のなかのいらいらする音が、じつは大変重要なものだということを知ったのはほんの偶然からだった。〈風の島〉の天候は一年を通して決していいものとは言えず、特に中でも春はもっとも変わりやすい時期なのである。一連の嵐が次から次へと押し寄せては発達し、海岸の岩に激しく打ち当たった。そうでないときは小雨まじりの嫌らしい疾風《はやて》が街や島を吹き荒れた。同じように陰うつな雨の朝、王女は窓から水浸しになった庭をむっつり眺めていた。炉のなかでぱちぱち燃えさかる炎も彼女の心を暖める役にはあまりたっていないようだった。しばらくしてため息をついた王女は、もう少しましなことをしようと化粧テーブルの前に座り、髪をとかし始めた。
鏡に映ったえりもとの銀色のきらめきが彼女の目をとらえた。それはガリオンから十六歳の誕生日に贈られた護符だった。今ではその存在にもすっかり慣れてはいたが、思い通りにはずせないことが、かんしゃくのたねになることもしばしばだった。何とはなしに彼女はブラシを動かす手をとめて、護符に指をやった。
「――だがアレンディアとトルネドラの戦争態勢が完全に整うまでは、われわれとしてもことを起こすわけにはいかないのだ」それはドラスニアの王、ローダーの声だった。セ・ネドラは、かっぷくのよい王がいつのまに部屋にはいってきたのだろうといぶかりながら、急いで立ち上がって後ろをむいた。その拍子に護符から指を離したとたん、声が聞こえなくなった。セ・ネドラは狐につままれた思いであたりを見まわした。そして眉をしかめながら、再び護符に指でふれた。「だめだ、だめだ」今度は別の声がした。「完全に煮たつまで調味料を入れてはいかん」セ・ネドラが護符から手を離すと同時に声もだしぬけにやんだ。すっかり魅了された王女は護符に三度目の手をふれた。「あんたはベッドを直して。あたしはまわりを片づけるから。いそがなきゃだめだよ。いつチェレク王妃が戻ってくるかわかりゃしないからね」
けげんなおももちで王女が護符に何度もふれるたびに、彼女の耳に要塞中のあちこちから会話が飛び込んできた。
「火が強すぎる。これじゃ火のしで焼けこげだらけにしてしまうぞ」
次に飛びこんできたのは一連のささやき声だった。「もし誰かきたらどうするのよ」それは若い女性のものらしい声だった。
「誰も来やしないさ」相手の若い男の口調には甘い言葉で誘いこむような響きがあった。「ここなら安全だし、清潔だし、ぼくはきみを愛してるんだぜ」
セ・ネドラはあわてて護符から指を離して、顔をまっ赤に染めた。
初めのうち、会話はめちゃくちゃに飛び込んでくるようだった。だが何度も試みるにつれ、しだいに彼女はこの特殊な現象の方向を定めることができるようになってきた。何時間かの集中的な練習の末、彼女は割り当てられた自室から〈要塞〉内の聞きたい会話だけを即座に拾い出せるまでになった。その途中でセ・ネドラは〈要塞〉中のいろいろな秘密を知ってしまった。たいそう興味深いものもあれば、かえって不快になるたぐいのものもあった。こそこそ盗み聞きすることは恥ずべき行為かもしれないが、どういうわけか罪悪感はまったく感じなかった。
「それはまことに当を得た推論と思われますぞ、国王陛下」それはマンドラレンの声だった。
「コロダリン王は大義に応じて兵力を投入するでしょうが、アレンディア軍に合流するために軍を召集するためには数週間ほどを要することでしょう。従ってわれわれの主なる関心はトルネドラ皇帝がいかなる立場をとるかにあると思われます。トルネドラの援軍なしではきわめてわれわれは不利になることでしょう」
「だがラン・ボルーンはそうするしかないのだ」アンヘグ王が言った。「ボー・ミンブルの協定にはやつだって従わないわけにはいくまい」
〈リヴァの番人〉ブランドが咳ばらいをした。「残念ながらそう簡単にことが運ぶとは思えないですな、陛下」かれはいつもの深い沈着な声で言った。「協定の規定ではすべての西の国々はリヴァ王の召集に応えなければならないことになっています。だが肝心の命令を発する立場にあるベルガリオン王がいないのですからな」
「だがわれわれがその代行としてここにいるではないか」チョ・ハグ王が反駁した。
「問題は果たしてそれでラン・ボルーンが納得するかどうかだ」ローダー王が指摘した。「わたしはトルネドラ人の性格をよく知っている。連中はボー・ミンブルの協定に関する法律上の専門家をごまんと抱え込んでいるんだ。ベルガリオン王みずから皇帝と対面して直接かれの口から命じないかぎり、ラン・ボルーンは協力する法的な根拠がないことをたてに、われわれに協力することを拒むだろう。やつに召集を発することのできるのはリヴァ王ただ一人なのだ」
セ・ネドラはのど元の護符から指を離した。心のなかである考えが形をとりつつあった。それは考えるだけでわくわくしてくるような計画だったが、果たして実行できるかどうかについては心もとなかった。アローン人は保守的でなかなか新しい考えを受け入れようとはしないからだ。彼女は急いでヘアブラシを置くと、窓のかたわらの壁に押しつけられた大だんすの前に行った。そして引き出しを開けて中身をかきまわしはじめた。しばらくして彼女はきつく巻かれた羊皮紙を見つけだした。それこそ彼女が探し求めていたものだった。王女はただちに羊皮紙を解き、慌ただしく求める一節を探した。彼女はその箇所を何度も繰り返して読んだ。彼女が言おうとすることはまさしくそのなかに著されているようだった。
彼女は一日中、そのことだけを考えてすごした。ガリオンと仲間たちに追いついてかれらを足どめする可能性はきわめて低いどころか、皆無にさえ思えた。ベルガラスとケルダー王子は、そう簡単に尻尾をつかませるような連中ではない。三人を追いかけるのはまったく時間の無駄にしかならないだろう。ポルガラの理性がこの件にかかわるまでに回復していない今、アンガラクの地を踏んだガリオン一行が遭遇する危険を最小限にとどめる手段をただちに講じるのは、セ・ネドラしかいなかった。これからやらなければならないのは、いかに彼女にそれを行なう正当な権利があるかをアローンの王たちに納得させることだった。
次の朝になっても雨はまだ降り続いていたが、セ・ネドラは早く起きると入念に身支度を整えた。むろん彼女は王者にふさわしい身なりをしていかなければならない。彼女がエメラルド色のガウンとそれにあうケープを選び出したのも意図があってのことだった。緑色は彼女を飛びきりひきたてるだろうし、樫の葉を組み合わせた金色の頭飾りは王冠の役割をまちがいなく果たしてくれることだろう。彼女は朝まで待っていてよかったと思った。男性を相手にするのは朝にかぎるのだ。むろんかれらは反対してくるだろうから、まだ十分目覚めていないうちに彼女の考えを男たちの頭に吹き込んでおく方が得策にちがいない。化粧室の背の高い鏡で最後の入念な点検をすませると、彼女はありったけの意志をかき集め、言おうとすることの順番を心の中で組み立てた。いかなる反対にたいしても即座に防戦しなければならないのだ。彼女は慎重に王者らしい尊厳を顔に浮かべ、巻かれた羊皮紙を持ってドアに向かった。
アローンの王たちがいつも集まる会議室は、〈要塞〉の巨大な塔の高いところにある広大な部屋だった。天井はがっちりした梁で支えられ、床には栗色のじゅうたんが敷きつめられていた。部屋の反対側にある暖炉は人ひとりが立てるほど大きかった。栗色のカーテンが掛けられた窓の外では打ち砕かれた雨粒が塔の石積みを激しく叩きつけていた。壁のほとんどは地図に覆われ、大きなテーブルの上は幾枚もの羊皮紙や、エールのジョッキで散乱していた。青いローブにへこんだ王冠をかぶったアンヘグ王は一番近くの椅子にだらしなくもたれかかり、あいかわらず毛むくじゃらな野蛮人といったようすをしていた。ローダー王は巨躯を深紅のマントに包んでいたが、他の王や軍人たちはもっと簡素な服装をしていた。
セ・ネドラはわざとノックしないで入り、王女の突然の入来にあわてて居ずまいをただす男たちを尊大な目で眺めた。
「これはこれは王女さま」ローダー王は巨大な体躯をかがめて言った。「ようこそおいで下さった。いったい――」
「国王陛下」セ・ネドラも小さなお辞儀で応えた。「並びにこちらにおいでの紳士方、じつは国事に関する用件でどうしても皆さま方のお知恵をお借りしたいのです」
「もちろん喜んでうかがわせてもらいますよ、王女」ローダー王はかすかにいたずらっぽい輝きを浮かべて答えた。
「ベルガリオン王が不在の今、わたしが国事を代行しなければならない立場にあると思われるのですけれど」とセ・ネドラは告げた。「それをいかに行なうかについて、皆さんのご助言をいただきたいのですわ。わたしはできるかぎり速やかに、主権の移行をいたしたいと思っております」
男たちはいっせいに信じられないといったようすで顔を見あわせた。
一番最初にたちなおったのはローダー王だった。「たしかになかなか興味深いご提案ではあるが」王は礼儀正しく答えた。「われわれはすでに他の方法を考えだしておるのですよ。その件に関しては従来からの慣例がありましてね。だが、王女のご親切な申し出には心から感謝いたしますよ」
「正確に申しあげれば申し出などではないのです、国王陛下」とセ・ネドラは言った。「それにいかなる慣例といえども取って替わることのできないものですわ」
アンヘグ王がぶつぶつ言い始めたが、ローダー王はすばやく彼女に近づいてきた。セ・ネドラはこの肥満したドラスニアの王が、最大の敵対者となるか最高の協力者となるかのどちらかだろうとすばやく見てとった。「王女のおっしゃるような権限を証明できるような文書を拝見させてもらえればありがたいのだが」とかれは言った。「察するに今お手にもっておられる羊皮紙がそうなのではないかな」
「ええ、そうですわ」セ・ネドラは答えた。「この書類にはわたしの義務について明確に記載しておりますわ」
「それを見せていただこう」そう言いながらローダーは手をのばした。
セ・ネドラが羊皮紙を渡すと、かれは慌ただしくそれを開いた。「しかし――王女、これはあなたの婚約文書ですぞ。間違って持ってこられたのではないかな」
「この件に関する記述は文書の第四条目に述べられておりますわ、陛下」
ローダーはかすかに眉をひそめながら、文書に目を落とした。
「ローダーよ、いったい何と書いてあるのだ」アンヘグ王がいらいらしながらたずねた。
「実に興味深い」ローダーは耳をかきながらつぶやいた。
「ローダーよ」アンヘグが業を煮やしたような声を出した。「何と書いてあるのかと聞いてるのだ」
ローダー王は咳ばらいしてから声に出して読み始めた。「ベルガリオン王とその王妃はともに王国の支配にあたり、もし王不在のときは王妃がすべてを代行することをここに同意する」
「わたしにも見せてくれ」アンヘグがローダーの手から羊皮紙をひったくるようにしてもぎ取った。
「だがそれは現時点においては何の意味もないはずだ」ブランドが言った。「彼女はまだ王妃ではない。結婚式が行なわれるまではその条項は無効だ」
「でもそれは単なる形式上の問題ですわ、〈番人〉卿」セ・ネドラが言った。
「だが重要な違いだ」ブランドも負けてはいなかった。
「ですがこのような慣例は広く行なわれているところのものですわ」セ・ネドラは落着きはらった声で言った。「王が亡くなった場合、その後継者はたとえ戴冠式の前でも王の政務を引き継ぐではありませんか」
「だがそれとこれとは違う」ブランドはうなるように言った。
「申しわけありませんが、どう違うのかわたしにはわかりかねますわ、卿。わたしはベルガリオン王の共同統治者とここに記されております。王が不在、もしくは緊急の場合にはわたしがすべての指揮をとるよう義務づけられているのです。これはわたしの権利でもあると同時に義務なのですわ。そしてたとえ形式上ではまだでもわたしは実質的なリヴァ王妃なのです。これはベルガリオン王のご意志でもありご意向でもあるのですわ。あなたは王のご意志をないがしろにされるのですか」
「たしかに彼女の言うことにも一理あるのではないかね、〈番人〉卿」と言ったのはセリネ伯爵だった。「この文書にはたしかにそのとおり記載されているのだし」
「いいや、これを見てくれ」アンヘグが勝ちほこったような声を出した。「第二条ではこの婚礼が行なわれない場合にはすべての贈り物を返さねばならないとある」
「だが王権というものは贈り物とは違うんじゃないかね、アンヘグよ」フルラク王が言った。
「一度やったものを返すというわけにはいかんだろう」
「彼女に一国を統治することなどできるはずがない」アンヘグはなおも言い張った。「彼女はアローン人のことを何ひとつ知っちゃいないじゃないか」
「だがガリオンだってそうだったはずだ」チョ・ハグ王は独特の穏やかな声で言った。「彼女だってだんだん覚えていくさ」
セ・ネドラ王女は注意深く情況のなりゆきを見守っていた。どうやらほとんどの者たちは彼女の提案を考慮するくらいの余地はありそうだった。実質的な反対者といえばアンヘグ王とブランド卿の二人しかいないのだ。そろそろ和解の申し出とともに威厳ある退場をすべき潮時だろう。「あとは殿方のご判断にお任せいたしますわ」彼女はいくらか尊大な口調で言った。
「ただわたしが西の国々の現在直面する危機を皆さまと同じくらいに憂慮していることを忘れないでいただきたいと思いますわ」そこで彼女はできるだけ愛らしい少女のほほ笑みを浮かべた。「なにぶんにもわたしは何も知らない若輩者ですので」と彼女は告白するような口調で言った。「こみいった戦略や駆き引きなどまったく存じませんの。皆さま方の全面的なご協力がなければ、何ひとつ決めることなどできはしませんわ」
そう言ってセ・ネドラはわざとローダー王をえらんでお辞儀した。「陛下」彼女は言った。
「ご決断をお待ちいたしておりますわ」
お辞儀を返したローダー王の顔がわずかに赤面した。「喜んで、王女」かれはいたずらっぽいウィンクとともに答えた。
セ・ネドラは部屋を退出すると、彼女の部屋にむかって急いで駆け戻った。そして息を切らしながらドアを後ろ手に閉めると、震える指で胸元の護符にふれた。飛び込んでくる雑多な会話をすばやくより分けて彼女は求めていた会話を探しだした。
「――愚か者の仲間いりするのはごめんこうむる」アンヘグの声だった。
「アンヘグ、わが友よ」センダリアのフルラク王が驚くほど厳しい声でたしなめた。「たしかにきみはわたしの兄弟分だが、いささか短絡的すぎるぞ。政治家なら政治家らしく、もっと冷静に情況の利点と欠点を考慮してみたらどうだね」
「アローン人は絶対に彼女に従ったりするものか」アンヘグが主張した。「それこそが最大の欠点だ」
「だがわれわれには従うだろう」チョ・ハグ王の穏やかな声がした。「彼女はいわばお飾りのようなものに過ぎないのだから――いわば連帯の象徴というわけだ」
「いまのチョ・ハグの発言こそ、もっとも真剣に検討すべき点にふれたものだとわたしは思う」ローダー王が力をこめて言った。「マンドラレン卿には申し訳ないが、アレンディアは現在まったく統一を欠いているような状態だ。アストゥリアとミンブルが再び敵対をはじめるような気配すらある。コロダリン王がいくら呼びかけようと北アストゥリアは応じてこないだろう。つまりミンブルもまたアストゥリアの蜂起に備え、ほとんどの騎士たちが釘づけになってしまうということだ。そうならないためにも、かれらの内輪もめを忘れさせ、われわれに加勢するよう説得できる人物が必要なのだ。われわれの戦いにはアストゥリアの射手とミンブレイトの騎士の双方とも必要なのだ」
「残念ながらわたしも同意せざるをえません、陛下」マンドラレンが同意するように言った。
「哀れなわがアレンディアがひとつになるには他国から呼びかけをいただかねばならないでしょう。われわれは自分たちの手でひとつになれるほど賢明ではないのです」
「セ・ネドラ王女ならガリオンが果たすべき役割を立派に務めることができるだろう」バラクの声がした。「第一、われわれはガリオンに将軍となってもらうことを望んでいたわけじゃない。ただかれの頭に王冠をかぶせ、軍隊の先頭にたってもらうことを期待していただけじゃないか。それにアレンド人は美しい女性とみれば絶対に感激してのぼせあがるぞ。あの婚約文書は彼女の主張を少なくとも半分は裏づけるものと思われる。われわれとしては彼女を王の代理として認めたように振る舞い、早口でまくしたてるだけでいい。それにあとちょっとした戦争の可能性をちらつかせりゃ、アレンド人たちは喜んでわれわれのあとについてくるだろう」
「そして何よりも考慮すべき点は」ローダー王がさらに力説した。「彼女の存在がトルネドラに与える影響だ。何といってもラン・ボルーンは娘を溺愛しているから、かれの軍隊を全部とはいわないまでも供出することに同意するだろう――われわれが頼んだのでは、まず断られることは間違いない。やつは自分の娘が指揮権を握ることの政治的利点に、たちどころに気づくことだろう。われわれにはトルネドラの援軍が何としても必要だ。個人的にはわたしはトルネドラ人を好いてはいないが、かれらの軍隊は世界でも屈指の戦闘力をほこることは認める。もし必要ならわたしはセ・ネドラの前にひざまずいてもいいと思っているくらいだ。彼女がそうしたいというのなら女王をやらせてやればいいではないか」
セ・ネドラはほほ笑んだ。どうやらことは彼女が思っていた以上に好転しつつあるらしい。すっかり悦に入った彼女は化粧テーブルの前に座ると、髪にブラシをあてながらそっと歌を口ずさみ始めていた。
[#改ページ]
23[#「23」は縦中横]
具足師のデルバンは、はげ頭のぶっきらぼうな男だった。肩幅は広く、手はたこだらけで。ごま塩のあご髭をたくわえていた。根っからの職人であり鎧作りの名人とうたわれるかれは、およそ誰に対しても敬意をはらおうとはしなかった。まったく箸にも棒にもかからない男だわ、とセ・ネドラは一人ごちた。
「おれは女の鎧なんぞ作らん」というのが鍛冶屋のダーニクをお供に、かれの工房を訪れたセ・ネドラの要請にたいする第一声だった。具足師はそう言い捨てると二人に背を向けて、再びまっ赤に熱した鉄板にハンマーをやかましく振りおろしはじめた。話だけでも聞くことを説得するのにそれから小一時間ほどを要した。燃えさかる炉から発散する凄まじい熱が赤レンガの壁に反射して、よりいっそう熱さを耐えがたいものにしているようだった。セ・ネドラはいつのまにか滝のような汗をかいていた。セ・ネドラは自分で考案した鎧のデザイン画を何枚か用意してきていた。彼女としてはいささか自信があったのだが、デルバンはそれを見るなりしわがれ声で笑い出した。
「何がおかしいのよ」セ・ネドラは非難するように言った。
「こんなものを着た日にゃ、亀みたいになっちまうぞ」具足師は答えた。「これじゃ一歩も動けやしない」
「この絵はだいたいこんなものがほしいという意味で書いたのよ」セ・ネドラはかんしゃくを押さえながら言った。
「女の子なら女の子らしくこいつを洋装店へでも持っていくがいい」かれは言った。「おれの商売は鉄をつかうんだ――ブロケードやサテンだのじゃない。こんな鎧はおよそものの役にたたんし、着心地が悪くて一分たりとも着ちゃいられないだろうさ」
「じゃあ、悪いところを直してちょうだい」王女は食いしばった歯のあいだから言った。
かれは再度デザイン画に目をやると、それを拳でくしゃくしゃに丸めて隅へ放り投げた。
「話にならん」
セ・ネドラは叫びだしそうになるのをぐっとこらえた。彼女は丸められたデザイン画を拾いあげた。「どこがいけないって言うのよ」
「まずここが大きすぎる」そう言いながらかれは無骨な指でデザイン画の肩のあたりをさした。「これじゃ腕を上げることすらできんぞ。それからここだ」デルバンは鎧の胸当ての袖ぐりの部分を指さした。「こんなにきつくしたら、腕が棒みたいに突っぱっちまう。自分の鼻すらかけないだろうよ。それにだいいちこの絵は何を念頭において書いたのかね。胸当てかい、それとも鎖かたびらかい。両方いっぺんは無理というものだ」
「何でよ」
「重さのせいだ。とても着て歩けやしないさ」
「じゃあ、軽くすればいいでしょ。そんなこともできないの」
「やろうと思えばくもの巣のように軽くすることだってできる。だがそんなことをして何になるというんだ。そんな薄い鎧では果物ナイフでも切られちまうぞ」
セ・ネドラはふかく息を吸いこんだ。「ねえ、親方」彼女は感情を押し殺した声で言った。
「よくわたしを見てちょうだい。いったいどこにこのわたしより小さい戦士がいると思うの」
かれは王女のきゃしゃな体格をじっと見つめ、はげ頭を掻きながら下まで見おろした。「ふうむ、ちっとばかし発育不足のようだな」かれは言った。「実際に戦うんでなけりゃ、何だって鎧なんぞ必要なんだ」
「実際に鎧として使うわけじゃないのよ」彼女はいらいらしながら説明した。「でも鎧らしく見えなくちゃいけないのよ。まあ、一種の扮装みたいなものね」そう言ってから彼女はただちに言葉の選択を誤ったことを悟った。デルバンの顔がみるみる険しくなったかと思うと、再び彼女のデザイン画を投げ捨てた。さらにかれの機嫌をなだめるのに十分ほどかかった。甘言をろうし、さんざんおべっかを使ったあげく、ようやく彼女はこの鎧が何か芸術的な目的で使われるものだということを納得させた。
「わかったよ」かれはむっつりした顔でようやく降参した。「じゃあ、着ているものを脱ぎな」
「何ですって」
「着ているものを脱げといったんだよ」具足師は繰り返した。「正確なサイズが必要なんだ」
「あなた自分の言ってることがわかってるの」
「いいかい、お嬢さん」男はぶっきらぼうな声で言った。「おれは既婚者だ。それにあんたよりも大きな娘が二人いる。ちゃんと下にペチコートを着てるんだろう?」
「ええ、でも――」
「それなら必要最小限の慎みは守れるというものだ。さあ、さっさと服を脱ぐんだ」
セ・ネドラは顔をまっ赤に染めながら服を脱いだ。二人のやりとりをにやにやしながら戸口から見守っていた鍛冶屋のダーニクは、礼儀正しく後ろをむいた。
「もっとたんと食わなけりゃだめだぞ」デルバンは言った。「まるで鳥がらみたいに痩せているじゃないか」
「そんなこといちいち言われなくたってわかってるわ」セ・ネドラはぴしゃりと言った。「いいからさっさと始めてちょうだい。いつまでもシュミーズ姿で立ってるわけにいかないでしょ」
デルバンは規則的な間隔をあけて結び目のつけられた丈夫な一本のひもを取り上げた。かれはそのひもで何度もサイズを計っては、いちいち一枚の板の上に記入していった。「よし」ようやくのことで具足師は言った。「これならいいだろう。さあ、服を着てもいいぞ」
セ・ネドラは慌ただしくドレスを身につけた。「それでいったいどれくらいかかるの」彼女はたずねた。
「二、三週間はかかるな」
「それじゃ困るわ。どうしても来週には必要なのよ」
「二週間だ」デルバンはなおも言い張った。
「十日間」セ・ネドラは負けじと反駁した。
すると彼女が工房へ入ってから初めて、無骨な男は笑った。「このお嬢さんはなかなか自分の思い通りにやる術を心得ているじゃないかね」かれはダーニクにむかって言った。
「そりゃ、何といってもお姫さまだからな」ダーニクが答えた。「いつだって最後には自分の思いどおりにしちまうのさ」
「わかったよ、痩せっぽちのお姫さま」デルバンはなおも笑いながら言った。「十日間でやろう」
セ・ネドラはにっこりほほ笑んだ。「きっとわかって下さると思っていたわ」
かっきり十日後、セ・ネドラは再びダーニクをお供にデルバンの工房にむかった。具足師がこしらえた鎖かたびらは驚くほど軽く、ほとんど繊細といってもいいほどのできばえだった。薄い鋼鉄を叩いてつくられた兜の上には白い羽根飾りがつけられ、金色の王冠がまわりを取り囲んでいた。セ・ネドラの足を守るためのすね当てはぴったり体にあっていた。おまけに浮き出し模様をほどこし真鍮で縁取りされた盾と、柄に装飾をほどこした軽い剣とそのさやまでついていた。
だがセ・ネドラ王女はデルバンが彼女のために作った胸当てを不満げに見つめていた。むろんそれもまた体にぴったり合わせて作られていた――というよりぴったりし過ぎていたのだ。
「ねえ、何か忘れちゃいないこと」彼女はたずねた。
デルバンは大きな両手で胸当てをむんずとつかみ上げ、しげしげと眺めた。「ちゃんとそろってるぞ」かれは言った。「前と、後ろ、それに両方をつなぎ合わせるひも。この上何がいるというのだ」
「ちょっと何というか――あそこが少なすぎやしない?」セ・ネドラは微妙な表現をした。
「あれは体に合わせて作られているのだ」かれは答えた。「ぺちゃんこなのはおれのせいじゃない」
「だからもう少し――」彼女はそう言いながら両手で胸の上に曲線を描くような手つきをしてみせた。
「何のために」
「何だっていいでしょ。とにかくわたしの言ったとおりにしてちょうだい」
「いったい何のためにそんな余計なものをつけにゃならんのだ」
「あなたには関係ないわ。いいからわたしの言ったとおりにするのよ」
かれは重いハンマーを鉄床の上に投げ出しながら言った。「なら、自分でやれ」具足師はぶっきらぼうに言った。
「ダーニク、何とかしてちょうだい」王女は鍛冶屋に訴えかけるように言った。
「こればかりは、ご勘弁ねがいますよ」ダーニクは丁重に断った。「わたしは他の同業者の道具に手をふれるわけにいかないのです。それは職人同士の礼儀に反することになりますからね」
「デルバン、お願いよ」王女は相手の機嫌をとるような口調で言った。
「話にならんね」かれは顔をこわばらせたままはねつけた。
「とっても大事なことなのよ」彼女はなだめすかすような甘ったるい声を出した。「このままじゃ、まるで男の子にしか見えないわ。誰が見てもわたしが女性だということがわからなければ困るのよ。これはとても、とても大切なことなのよ。だからお願い――ほんのちょっぴりでいいから」そう言いながら王女は両手で胸の前をわずかに覆うようなしぐさをしてみせた。
デルバンはダーニクにうんざりしたような視線をむけた。「何だって彼女をおれのところに連れてきたりしたんだ」
「みんながきみの腕前が一番だと言ったからさ」ダーニクは愛想よく答えた。
「ねえ、ほんのちょっぴりでいいのよ。お願い」セ・ネドラがすがるように言った。
デルバンはついにあきらめた。「わかった、わかった」かれはうなり声をあげながらハンマーを持ち上げた。「あんたたちを力ずくで追い出す以外の方法といったらそれしかなさそうだからな」
「あなたの眼力にすべてお任せするわ」セ・ネドラは相手のほおに優しく手をあてながら、愛情のこもった小さな笑みを送った。「それじゃあ、あしたの朝でいかがかしら」
次の朝、鏡にうつったわが姿を眺めながらセ・ネドラは鎧のできにすっかりご満悦だった。
「アダーラ、どうかしら」王女は親友にたずねた。
「とてもよくお似合いよ」背の高い少女は答えたが、その口調にはかすかに疑わしげな響きがあった。
「本当に寸分たがわずぴったりよ」そう言いながらセ・ネドラは胸板の肩当てに留められた青いケープを芝居がかったしぐさでふわりと舞わせてみせた。胸板の下のぴかぴか光る鎖かたびらは、彼女の手首とひざまでを覆っていた。ふくらはぎを隠すすね当てと、ひじまでの長さの籠手《こて》は真鍮で作られていた。デルバンは金を使えというセ・ネドラの意向を頑強にはねつけたのである。じつのところを言えば、彼女の厚い麻製の肌着を通して鎧はわずかにすれたが、セ・ネドラはあえて気にしなかった。彼女は剣を振りかざし、鏡のなかであれこれポーズを試した。
「持ちかたが間違っていてよ」アダーラが慎み深く注意した。
「じゃあ、やってみせてちょうだい」セ・ネドラはそう言いながら少女に剣を渡した。
アダーラは剣を受け取ると、しっかり握りしめて切っ先を下にむけた。その姿はじつにしっくりして見えた。
「いったいどうしてそんなことを知ってるの」セ・ネドラはたずねた。
「わたしたちはみな訓練を受けているわ」アダーラは王女に剣を返しながら答えた。「それが国のならわしなのよ」
「それじゃ、この盾はどうすればいいの」二人は苦労しながらいろいろな武器を王女につけていった。
「これを足に引っかけず歩くにはどうすればいいのかしら」セ・ネドラは腰に下げた長いさやをまさぐりながらたずねた。
「つか[#「つか」に傍点]の部分を握ればよろしいのよ」アダーラは言った。「わたしもいっしょにお供しましょうか」
セ・ネドラは髪をなでつけ、羽根飾りのついた兜をしっかりと頭にかぶりながら、その可能性を考えた。「いいえ、いいわ」彼女はしぶしぶ言った。「たぶんわたし一人で行った方がよさそうだわ。ねえ、わたし本当におかしくなくて?」
「大丈夫よ」アダーラは安心させるように言った。
突然、王女は新たな心配に襲われた。「もし笑われたらどうすればいいのかしら」彼女は怯えたような声でたずねた。
「殿方の前で剣を抜いてみせればよろしいんじゃないこと?」少女はおごそかな声で答えた。
「あなた、わたしをからかってるの」
「いいえ、とんでもありませんわ、王女さま」アダーラは心底まじめな顔で答えた。
再び会議室のドアの前にたったセ・ネドラは深く息を吸い込んで、またもやノックをせずに入っていった。ノックなどすれば、彼女が当然そこにいるべき権利に疑いを持っているように思われる恐れがあった。
「皆さま方、いかがかしら」セ・ネドラは居並ぶ王や軍人たちにもっとよく見えるように、部屋の中央まで行って立ち止まった。
ローダー王が礼儀正しく立ち上がった。「これは王女さま」かれは一礼して王女をむかえた。
「いったいここ数日どこにおいでだろうと噂していたのですが、これでやっとわかりましたよ」
「どう、いかがかしら」彼女はそう聞かずにはいられなかった。そしてさらによく見えるよう一回転してみせた。
ローダー王は考え深げな目をしてじっと彼女の姿を眺めた。「いやはや、なかなかのものじゃないかね」かれは他の男たちに向かって言った。「ちゃんと出るべきところは、出ているし。これならアレンド人は彼女に群れをなしてついてくるぞ。トルネドラ人も――まあ、かれらに関してはそのときになってみなければわからんが」
アンヘグ王は自分自身と必死に戦っているようすだった。「何だってわたしがこんなことにかかずり合わなくちゃならんのだ」かれは非難するように言った。「まったくもって考えただけでもぞっとするが、別にとりたてて反駁するような理由もないしな」かれはさらにじろじろとセ・ネドラを眺めた。「まあ、それほど悪くもないな」ついにアンヘグ王はしぶしぶ認めた。
「むろん非常識には違いないが、その鎧姿で十分埋め合わせがつくだろう。いや、ことによるとそれ以上の効果があるかもしれん」
「陛下にご賛同いただけるなんて、何という光栄でしょう」セ・ネドラ王女は涙にかきくれんばかりに言った。彼女はお辞儀をしようとしたが、鎧に妨げられてできなかった。王女は困惑したようなほほ笑みを浮かべると、野蛮人のようなチェレクの王に向かって長いまつ毛をぱちぱちさせた。
「頼むからそいつをやめてくれ、セ・ネドラ」王はいらいらしたような口調で言った。「わたしはそいつのおかげでさんざんひどい目にあってきたんだ」かれはじっと王女をねめつけていたが、ようやくこう言った。「よし、わかった。わたしも皆の考えに賛同することにしよう。わたしとしてはどうにも気にくわんが、このさいそれは抜きにしておいた方がよさそうだ」アンヘグ王は立ち上がると王女に向かって一礼した。「妃殿下」かれは自分の言葉に息をつまらさんばかりに言った。
セ・ネドラは晴れやかな笑みを浮かべ、つられてお辞儀を返そうとした。
「お辞儀などせんでよい、セ・ネドラ」アンヘグ王は苦々しげに忠告した。「〈西の大君主〉は誰に対しても頭を下げたりしないものだ」かれは憤激したようにドラスニアの王の方を振り返って言った。「やっぱりどう考えたってうまく行くわけがないぞ、ローダー。われわれはいったい彼女を何と呼べばいいのだ。〈西の大君女〉か? そんなことをしたら十二の王国から笑い物になるだけだぞ」
「単純に〈リヴァの女王〉と呼べばいいではないか、わが友アンヘグよ」ローダー王が優雅な口調で言った。「われわれは彼女の前に頭を下げない連中の頭を叩き割るだけのことさ」
「いやそのような心配はいらん」アンヘグはしかめっ面をして言った。「わたしが彼女に頭を下げれば、みんな後に従うさ」
「それで一件落着というわけね」会議室の片すみの暗がりのなかから聞き覚えのある声がした。
「レディ・ポルガラ」セ・ネドラは驚きのあまり息をつまらせた。「そんなところにいらしたなんて、ちっとも気がつきませんでしたわ」
「それは無理もないわね」ポルガラが答えた。「だってあなたずいぶん忙しそうだったもの」
「わたし――」セ・ネドラは口ごもった。
ポルガラは注意深く紅茶茶碗をおろすと明るい場所に進み出た。その顔はしかつめらしい表情を浮かべていたが、鎧に包まれた王女を見る目にはかすかにおもしろがっているような光があった。「なかなかおもしろいじゃないの」彼女が言ったのはそれだけだった。
セ・ネドラはたちまちぺしゃんこになった。
「皆さま方」ポルガラは一同にむかって言った。「むろんまだまだ論議がおありでしょうけれど、わたしと王女はこれから少しばかり内密の話をしたいと思うの。申しわけないけれど、失礼させていただくわ」そう言うなり彼女はドアにむかって歩き出した。「いらっしゃい、セ・ネドラ」ポルガラは後ろをろくに振り返ろうともせずに言った。
セ・ネドラはおののきながら後に従った。
ポルガラは自室に戻り、背後でドアを閉めるまでひとことも口を聞かなかった。それから振り返ると鎧姿の王女を厳しい目で見た。「あなたが何をしていたか、すっかり聞いているわ。さあ、いったいどういうことなのか説明してちょうだい」
「だってあの人たち、そのことで言い争っていたんですもの」セ・ネドラはしどろもどろになった。「誰かみんなを統一する人が必要だって」
「それであなたがその役を引き受けようと思い立ったってわけ?」
「あの――」
「だいたいどうしてかれらが言い争っていることがわかったの」
セ・ネドラは恥じ入るように赤面した。
「わかったわ」ポルガラがつぶやくようにいった。「どうやら妹の護符の使いかたをもう覚えてしまったらしいわね。まったく何てお利口さんなんでしょう」
「お願いよ、やらせてちょうだい!」セ・ネドラはだしぬけに叫んだ。「わたしにかれらを率いさせてよ。わたしにだってきっとできると思うわ。わたしがガリオンの奥方にふさわしいことを証明させてちょうだい」
ポルガラはしばらく考え深げに王女を見守っていたが、ついに口を開いて言った。「ずいぶん急に大人らしくなったこと」
「じゃあ、やらせてくれるのね」
「それはこれから考えることにしましょう。それよりさっさと兜や盾だのをはずしなさい。剣はそこの片すみにでもたてかけておけばいいわ。わたしはおいしいお茶をいれるから、あなたが何を考えているのか聞かせてちょうだい。いったん始めてしまったからには、もう何を言われてもわたしは驚かないことにするわ」
「あなたも協力して下さるとおっしゃるの」どういうわけか、その言葉はひどくセ・ネドラを驚かせたようだった。
「もちろんですとも」そう言ってからポルガラはほほ笑んだ。「たぶんあなたをよけいな災難から救い出すことくらいはできると思うわ。ガリオンに関してはうまくいかなかったようだけれど」彼女はふと言葉をとぎらせると、辛らつな目つきでセ・ネドラの胸当てを見やった。
「それは少しばかりやり過ぎではなくて」
セ・ネドラはまっ赤になった。「だって、この方がもっと、その――」彼女は弁解するように口ごもった。
「セ・ネドラ」ポルガラは言った。「そんなこと気にしなくともいいのよ。あなたはまだ女の子なんですからね。もう少しお待ちなさい。そんなことは時間が解決してくれるわ」
「でもあんまりぺしゃんこなんですもの」王女はほとんど絶望したような声で叫んだ。とたんにある考えが彼女の脳裏にひらめいた。「ねえ、もしかしたらあなたの力で、そのう、こういうふうに――」そう言いながらセ・ネドラは胸の前である種のしぐさをしてみせた。
「いいえ、だめよ」ポルガラはきつい口調で言った。「それはあまりいい考えとはいえないわ。そんなことをしたらあなたの体内の必要なバランスを崩してしまうことになるし、そういったことは魔法で変えてはいけないのよ。いいからこのままじっとお待ちなさい。もしだめでも、何人かの子供を産めばきっとあなたの胸も大きくなってよ」
「ああ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラは当惑したような声で小さく笑った。「本当にあなたには何もかもわかっているのね。まるでわたしにはいないお母さんみたいに」思わず彼女はポルガラの首に腕を巻きつけた。
ポルガラは鼻にしわを寄せて言った。「セ・ネドラ、いいかげんにその鎧を脱いでくれないこと。まるで鉄瓶みたいに臭うわ」
セ・ネドラは笑い声をあげた。
それから数日後、何人かの人々が重要な使命をおびてリヴァを離れた。バラクはチェレクの艦隊に合流するためヴァル・アローンに向けて出帆した。ガリオンのとりなしで許しを得た若き熱血漢レルドリンは、かの地における準備のためにアストゥリアへ船出した。ヘター、レルグ、ブレンディグ大佐はカマールへ向けて発ち、そこから各々の故国へそれぞれの最終的な動員準備の監督をするために帰っていった。それぞれの速度で進んでいたさまざまな成り行きは、西の国々が戦争へと容赦なく突き進んでいく今、ひとつになってますますその速度を早めつつあった。
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24[#「24」は縦中横]
しばらくたつうちにセ・ネドラ王女は、アローン人が驚くほど感情豊かな人々だということを知った。かれら北の人々は文明のさいはての地で略奪にあけくれる残虐な野蛮人だというトルネドラ人独特の固定観念を彼女は捨てざるをえなかった。それどころかきわめて複雑な人々であり、ときとして非常に微妙な範囲にまでわたる感情を表現しうることを知ったのである。
だがそれから数日後、顔をまっ赤にして目をむきだし、猛り狂って会議室に飛び込んできたチェレクの王アンヘグの怒りには何ら微妙なところは感じられなかった。「いったい自分が何をしたかわかってるのか」かれはセ・ネドラ王女にむかって吠えたてた。
「誰に何をしたとおっしゃるのですか、陛下」彼女は落着きはらって答えた。
「わたしのチェレクにだ!」王はどなった。でこぼこだらけの王冠は片耳までずり落ちていた。「おまえさんのとんでもないゲームのおかげで妻は、わたしがいない間、かわって国をおさめるなどという呆けた考えを起こしおったのだ」
「まあ、でも王妃はあなたの奥さまなのでしょう」セ・ネドラは平然とした口調で言った。
「だんなさまがおいでにならないときの国のことで、頭を悩まされるのは当然ではありませんの」
「頭だと」かれはほとんど叫びださんばかりだった。「イスレナに頭なんぞないわ。あいつの耳の間には空気しかつまっておらんのだ」
「じゃあ、なぜ結婚なさったの」
「少なくともあいつの頭にひかれてじゃないことは確かだ」
「それじゃ、彼女はさぞかしきみを驚かすことだろうよ」ローダー王は愉快そうな表情を浮かべて言った。
「国に戻ったときに何ひとつでも無事に残っているものがあったらさぞかしわたしは驚くだろうよ」アンヘグ王はそう吐き捨てると、ぐったりと椅子に崩れ落ちた。「おまけにもはやあいつを止めるすべはないのだ。今ここで何と言おうと、わたしがいなくなったとたん、彼女は王座を引き継ぐに違いない。そうなったらチェレクはおしまいだ。女に政治のことが務まるわけがない。そもそも女には脳みそなんかないのだからな」
「今のきみの意見はここにおられる、さるお方にはあまり歓迎されないと思うね、アンヘグ」ローダー王が含み笑いをもらしながら、ポルガラの方をむいた。かれはアンヘグ王の最後のひとことに彼女の一方の眉がぴくりと上がったのに目ざとく気づいていたのだ。
「おお、これは失礼。ポルガラ」アンヘグはうろたえたような声で謝った。「むろん、あなたのことではないぞ。わたしはそもそもあなたを女だと思ったことなど一度もない」
「もうそこまででよした方がいい、アンヘグ」ローダー王が忠告した。「もはや一日にしては十分な失言を犯しているぞ」
「別に気にしなくてもいいのよ、ローダー」ポルガラは冷ややかな声で言った。「チェレク王の意見はじつに興味深く聞かせてもらったわ」
アンヘグが嫌な顔をした。
「まったくもってわたしには理解しがたい」ローダー王がアンヘグに言った。「きみは北でも最高水準の教育を受けているはずだぞ。美術も詩も歴史も哲学をも学んだはずのきみが、何でこの件に関してだけはまるで無学な百姓なみに頑迷になってしまうんだ。なぜ女性が権力を握ることがそんなにいやなのかね」
「それは――不自然だからだ」アンヘグは不用意に言った。「だいたい女は政治には向いとらんのだ。そんなことをしたら全世界の秩序が根本からくつがえされてしまう」
「これ以上議論してもあまり意味はないようね」ポルガラが言った。「よろしければ失礼させていただくわ。わたしと王女とでまだいろいろと準備を整えなければならないことがありますので」彼女は立ち上がるとセ・ネドラをともなって会議室から退出した。
「あの人ってずいぶん興奮しやすいと思わない?」セ・ネドラがたずねた。二人はレディ・ポルガラの私室にむかって〈鉄拳〉の要塞の廊下を歩いていた。
「アンヘグ王はときどき芝居がかったことをするのよ」ポルガラが言った。「あの人の怒りは全部が全部ほんものとは限らないの。かれは他の人たちの期待にこたえるためにわざとあんなふうに振る舞ってみたりするのよ」ここで彼女はかすかに眉をしかめた。「かれの言ったことでひとつだけ正しいことがあるわ。イスレナ王妃はたしかに政治には向いているとは言えないわね。わたしから少し話をしてみることにしましょう――むろん他のご婦人がたにもね」ポルガラは部屋のドアを開けて中へ入った。
ポルガラの大いなる怒りによって引き起こされた被害のほとんどは修復され、石の壁に残された焼き焦げのあとだけがわずかに憤怒の凄まじさのなごりをとどめていた。彼女はテーブルの前に座ると、その朝ドラスニアのポレン王妃より届いた書簡を再び取り上げた。「どうやら父や他の連中を捕まえるのはあきらめた方がよさそうだわ」彼女はじつに残念そうな表情で言った。「でも少なくともひとつだけ心配することが減ったらしいわ」
「それはいったい何なの」セ・ネドラもまたポルガラの反対側に腰かけながらたずねた。
「父が去年倒れたときの打撃から本当に回復したのかどうか、いささか疑問があったのよ。でもこのポレンの報告によれば完全に回復してるそうよ――もっともわたしとしては素直に喜べないけれど」そう言って彼女は書簡をわきへ押しやった。「そろそろ二人だけでじっくり話しあうべきときが来たと思うわ。この数週間、あなたはさまざまの策をろうして、巧みに人々を動かしてきたわね。あなたの真意を今この場で聞かせてもらうわ。まずはなぜあなたが自分の新しい地位を躍起になって皆に押しつけようとしているのか、本当のところを教えてちょうだい」
セ・ネドラはまっ赤になった。「だって、とどのつまりわたしはリヴァの王妃なんですもの」彼女はぎごちなく答えた。
「馬鹿を言うものじゃないわ。あなたが架空の王冠を抱いていられるのは、ローダーがあなたにそうさせようと決めたからよ。そうしたところで何ら差しさわりがないことを、かれがアンヘグやブランドやチョ・ハグに納得させたからなのよ。さあいったい何を考えているのか正直に言ってごらんなさい」ポルガラの視線がまっこうから王女を見すえた。セ・ネドラはきまり悪げに体をもじもじさせていた。
「だってアレンディア軍と父の軍隊を味方に引き入れなくちゃいけなかったんですもの」彼女はそれですべて説明がつくと言わんばかりの弁明をした。
「たしかにそのとおりだわ」
「でもアローンの王さまたちにはそれができないの」
「なぜ」
「だって代行の寄り集まりじゃ人々はついてこないからよ」すべてが明るみになった今、セ・ネドラはまくしたてた。「ガリオンならそれができるの。西の国々はリヴァ王の呼び掛けがあればいっせいに兵を起こすでしょう。でもかれは今ここにいないのだから、誰かが代わりを務めなくちゃならないわ。わたしは歴史を勉強したのよ、レディ・ポルガラ。いかなる例においても複数の指導者によって導かれた軍隊が成功したためしはないわ。軍隊が成功するか否かはそれを構成する兵士たちの戦意によるところが大きいのよ。そしてかれらはただ一人の指導者を必要としているの――かれらの想像力を駆り立てる誰かをね」
「それであなたは自分がなろうとしたというわけね」
「だって別に賢明であったり何であったりする必要はないんですもの。ただとにかく見栄えがして、普通でないものなら何だってよかったのよ」
「それであなたは女性だったら十分見栄えして普通じゃないと考えたのね。ついでにタウル・ウルガスとマロリー皇帝ザカーズの関心を振り向かせる程度には脅しにもなると」
「だってこれまで誰もやってこなかったんですもの」セ・ネドラは弁解するように言った。
「これまでに行なわれてこなかったことはいっぱいあるわ。だからといってそれが推薦の理由になるとは思えないわね。それに何であなたはわたしにはその資格がないと判断したわけ?」
セ・ネドラはごくりとつばを飲みこんだ。「だってあなたはひどく怒っていたんですもの」彼女は口ごもりながら言った。「それにあなたの怒りがいつおさまるかもわからなかったし。誰かが緊急にその役を引き受けなくちゃならなかったのよ。それに――」
「それに何なの」
「それに、わたしの父はあなたを嫌っているわ」セ・ネドラは言った。「間違ってもあなたのもとに自分の軍隊を行かせたりはしないわ。あの人に従うように説得できるのはわたししかいないわ。ごめんなさい、悪気があって言ってるわけじゃないのよ」
ポルガラは手を振ってかまわないわ、と言った。彼女は慎重にセ・ネドラの言い分を検討しているようすだった。「どうやらあなたもあなたなりに考えているらしいわね」ようやく彼女は口を開いた。「いいわ、セ・ネドラ。あなたの言うとおりにやってみることにしましょう――少なくとも今のところは。ただしあんまり突飛なことはしないでちょうだいね。さあ、そろそろご婦人がたとも話しあっておいた方がよさそうだわ」
国政をめぐる女性だけの会議は、その日の午後ポルガラの私室で行なわれた。彼女は小さなグループが全員そろうまでじっと待っていた。一同にむかって話しかける声はひどく真剣味を帯びていた。「お集まりの皆さん」彼女は口を切った。「やがてまもなく、アローンや他の国国はきわめて重要な遠征に出かけるものと思われます」
「戦争があるというの、ポル?」ライラ王妃が沈んだ声でたずねた。
「わたしたちはできるかぎりそれを防ごうといているのよ」ポルガラが答えた。「いずれにせよ、あなたがたの夫やアローンの王たちが出かけてしまえば、すべての国政はあなたがたの肩にかかってくることになるわ。そしてそれは皆さんすべてにも当てはまることよ。わたしたちが離れ離れに別れてしまう前に、いくつかのことを話しあっておきたかったの」そう言いながらポルガラは目もあやな赤いビロードのガウンに身を包んだイスレナ王妃の方へ向き直った。
「あなたの夫は、チェレクの国事をあなたにゆだねるためのいかなる方法にもおよそ非協力的なようだわ、イスレナ」
イスレナ王妃はふふんと鼻を鳴らした。「あの人はときどきとても聞き分けが悪くなるのよ」
「だったらあんまりかれを刺激しないほうが得策だわ。アンヘグが信を置く助言者の指導に従うことを、ふたことみことのほのめかせておけばいいわ。そうすればかれも少しは落着くでしょうよ」ポルガラは居並ぶ女性たちを見まわした。「戦闘が行われるといっても、わたしたちが連絡を取れなくなるほどの事態にはならないと思うわ――少なくとも最初のうちはね。もし何か重大な事態が持ち上がったら、すぐにあなた方のだんなさまと連絡を取るようにしてちょうだい。あなたたちは日々の日常的なことがらだけたずさわるようにしてね。そしてあなた方のだんなさまがいったん国を出ていってしまったら、ここにいる皆さん同士でお互い密に連絡を取り合えるようにしておきましょう――むろんボクトールのポレン王妃とボー・ミンブルのマヤセラーナ王妃も一緒にね。皆さんにはそれぞれの長所も欠点もあるけれど、もし互いに助言を求めあうことを怠らなければ、すべてうまく行くわ」
「何か連絡網のようなものを考えておいたらどうかしら」ライラ王妃が提案した。「早馬や伝令や快速船を使って中継網をつくっておくのよ。トルネドラ人のあいだではもう何世紀も前から行なわれてきたことだわ」
「ええ、きっとうまくいくと思うわ、ライラ」ポルガラはほほ笑みながら言った。「皆さんに忘れないでおいていただきたいのは、ポレン王妃の言うことには細心の注意をはらって耳を傾けてほしいということなの。彼女はまだとても若いし、自分からあまり前に出ようとする人じゃないわ。でもドラスニア情報網の機密はただちにあの人のもとにもたらされるので、どんな情報でも皆さんより一歩先んじて知っているのよ。それから特にトルネドラに関しては注意を怠らないようにしてね。あの国の人たちは騒乱に乗じてすぐつけ込もうとするから。トルネドラ人の申し出るどんな提案にも署名を絶対にしないでちょうだい――たとえそれがどんなに魅力的なものであってもね。ラン・ボルーンは鳥小屋にはなした狐と同じくらい信用できない人だから。これは別に悪気があって言ってるわけじゃないのよ、セ・ネドラ」
「いいのよ、わたしだって父のことはよくわかってるわ」セ・ネドラ王女はほほ笑みながら答えた。
「あなたたちにお願いしたいのは」ポルガラはきつい口調になった。「わたしがいない間、決してむこうみずなことをしないでほしいということなの。とにかくすべてがよどみなく行なわれるように心がけ、遠慮せずにお互いに相談するといいわ。それからザンサ女王とも連絡をとっておいた方がいいわね。ドリュアドは南の情勢に関する情報を入手する経路をたくさん持っているはずだから。もし何か本当に重大なことが持ち上がったらすぐわたしに知らせるのよ」
「あの小さな男の子はわたくしが預かりましょうか」メレルがたずねた。「わたくしはイスレナ王妃とご一緒してヴァル・アローンへまいりますから。あそこなら安全だと思いますわ。それにわたくしの娘たちは、あの子をひどく気に入ってますし、あの子もわたくしたちと一緒にいるのが好きなようですわ」
ポルガラはしばらく考えこんでいたが、ようやく口を開いた。「いいえ、いいわ。エランドはわたしが連れていくことにします。ガリオンを除いて〈珠〉にふれることのできるのはあの子だけしかいないわ。恐らくアンガラク人もそれに気づいてかれを誘拐しようとするでしょう」
「それならばあたしが面倒を見ますわ」タイバが豊かな声で申し出た。「あの子はあたしによくなついているし、あたしたちはお互いに一緒にいるのが好きなんですもの。これであたしも手持ち無沙汰なこともなくなるわ」
「まさかあなたまでいっしょに行軍に加わるというんじゃないでしょうね、タイバ」ライラ王妃が異議をとなえた。
タイバは肩をすくめてみせた。「いけませんかしら?」彼女は答えた。「あたしには守るべき家も、みなければならない国もないのですもの。それにまだ他にも理由があるのよ」
皆はたちどころに彼女の言葉を理解した。タイバとレルグの間に存在する絆はあまりに深く、ときとして人間同士の愛情の範囲を越えてさえいるように見えた。ウルゴ人の不在は、この神秘的な女性にほとんど苦痛に近いものを与えているらしかった。彼女がかれのあとをどこまでも追っていこうとしているのはあきらかだった。必要ならば戦争のさなかにすら飛び込もうとしていることも。
ワイルダンターのレルドリンがリヴァにともなってきたミンブレイトの金髪娘アリアナが、微妙な話題をほのめかすように咳ばらいした。「わたくしたち女性の生活は、本来慎み深くあるべきはずのものです。野蛮な戦いに身を置かねばならないときは、淑女はその評判を汚さないためにも付添いが必要となりましょう。レディ・アダーラとわたくしはこの件を二人で話しあった結果、わたくしたちもセ・ネドラ王女にお供することにいたしました。これは義務というよりは、わたくしたちの親愛の情から、申し上げているのですわ」
「みごとなご説明ですわ、アリアナ」アダーラが露ほどの微笑の気配も見せずに言った。
「まあ、何てことでしょう」ライラ王妃がため息をついた。「心配しなければいけない人がまた二人増えてしまったわ」
「だいたいこんなところでいいと思うわ」ポルガラが言った。「一国の政治を取りしきるのは、家庭を取りしきるのとたいした違いはないのよ。それだったら皆さんよくご存じのことと思うわ。根本的な方針をやたらに変えないで、どんな条約にも署名は絶対にしないでちょうだい。それ以外のことは皆さんの常識の判断内で行なえばいいでしょう。さあ、そろそろ殿方のところへ戻った方がよさそうだわ。もうそろそろ夕飯どきだし、男の人たちは定刻どおりに食べさせてあげないと、ひどく腹をたてるものなのよ」
数日後、バラクが痩せぎすな顔をしたドラスニア人をともなってリヴァに戻ってきた。二人の男たちはただちに王たちの前で報告するため会議室に通された。セ・ネドラ王女もかれらの会談に加わろうとしたが、思い直してあきらめた。彼女がいたのでは内容もおのずからかぎられたものになってしまうし、何もそこにいなくとも会議を聞くことができるのだ。彼女はすぐに退出すると部屋に戻り、のどもとの護符に指をふれた。
「――に関してはすべて順調に進んでいる」求める会話を探し当てた王女の耳に、バラクの会話が飛び込んできた。「すでに艦隊はいつでもヴァル・アローンから出港できる態勢になっているし、ポレン王妃は槍兵をボクトールのすぐ南に集結させているとのことだ。もはや戦闘準備はすっかり整ったといっていいだろう。だがここにいたっていくつかの問題が生じたのだ。こちらにおられるカーレル伯爵はちょうどタール・マードゥから戻られたばかりだが、北クトル・マーゴスに関するあらゆる情報はかれの元に送られてくるので、現地における正確な情況を皆の前で報告してもらえると思う」
ローダー王が咳ばらいした。「カーレルは情報部の最古参のメンバーなのだ」かれは他の者たちに説明するように言った。「かれの報告がいつも正確無比なことはわたしが保証する」
「ありがたいお言葉ありがとうございます」聞き慣れない声がした。
「南マーゴ軍はもう北上を始めたのか」アンヘグ王がたずねる声がした。
「残念ながら事態はさらに進んでおります、陛下」カーレルが答えた。「わたしのもとに集まった報告はすべてかれらの行軍がほとんど完了しつつあることを示しています。すでにかれらは四百万人以上もの大軍を、ラク・ゴスカ付近に野営させているとのことです」
「何だと!」アンヘグが叫び声をあげた。
「どうやらタウル・ウルガスは去年の秋頃から行軍を始めたらしい形跡があります」ドラスニア人は言った。
「あの冬のさなかにか」
「そのようです、陛下」
「それではさぞかし多大な犠牲を払ったことだろう」チョ・ハグ王が言った。
「恐らく十万人はくだらないと思われます」カーレルは答えた。「だがタウル・ウルガスは人命にたいして重きをおいてはおりませんからな」
「だがこれですべてが変わってきてしまうぞ、ローダー」アンヘグがせきこむような口調で言った。「われわれの利点は連中が行軍にてまどることを勘定にいれてのことだったんだぞ。だがいまやそれは失われてしまったんだ」
「残念ながらまだご報告しなければならないことがあるのです、陛下」カーレルは続けた。
「西マロリー軍はタール・ゼリクに続々到着しつつあります。むろんその数はまだたいしたことはないのですが、毎日数千人ずつもの人員を渡し舟でどんどん補給し続けています」
「そいつらの動きをできる限り早く分断せねば」アンヘグがうなり声をあげた。「ローダー、さっそくきみのところの技術者を一ヵ月以内に東の断崖まで差し向けてもらえんかね。わたしは艦隊をマードゥ川上流に派遣することにしよう。とにかくできるかぎり早く〈東の海〉へ艦隊を向けなければならん。もしここでやつらを阻止できなければ、ザカーズのマロリー軍はわれわれにアリのように群がってくるぞ」
「さっそくポレンに使いを送ろう」ローダーも同意するように言った。
「こちらの貴人は何ひとつよいニュースを持ってきていないとおっしゃるのかな」セリネ伯爵が冷淡な声でいった。
「敵方の部隊がそれぞれ対立しそうな可能性が大いにあります」カーレルは答えて言った。
「タウル・ウルガスはあたかも自分こそアンガラク軍の大将軍にふさわしい人物であるかのように振る舞っております。たしかに現在のところ数の上においてはかれが有利だということは否めないでしょう。だがそれもマロリー軍がそれ以上の数を上陸させるまでの話と思われます。またザカーズがタウル・ウルガスと指導者の地位を争おうとしているとの噂もありますが、現在のところは四百万人もの軍勢を前に躊躇しているとか」
「ならばかれらに争わせておけばよい」ローダーが言っだ。「タウル・ウルガスは狂人だからな。狂人というものはえてして間違いを犯しやすいものさ。ザカーズについちゃいろいろ聞いているが戦場ではあまり顔を合わせたくない相手だな」
チョ・ハグ王の苦々しげな声がした。「マロリーの話は別としてもわれわれはやつらの半分の軍勢で出陣しなければならないわけだ。もっともそれもアレンド人やトルネドラ人にわれわれと合流するよう説得できればの話だが」
「そいつはあんまり賢い戦争の始めかたとは言えんよ、ローダー」アンヘグが非難するように言った。
「われわれとしては戦術を変えるしかあるまい」ローダーは言った。「とにかく少しでも人員を失わなくてすむように、できる限り大衝突は避けていかなければならないんだ」
「だが、われわれは戦争まで考えてはいなかったはずじゃないか」バラクが異議を唱えた。
「ベルガラスから言われているのは単に陽動作戦を取れということだったはずだぞ」
「だが情況がまったく変わってしまったのだ、バラク」ローダー王が断言するように言った。
「われわれは南マーゴ軍やマロリー軍がこれほどまでに早く進軍してくるとは思っていなかった。これからは目前の効果だけを狙う小規模な攻撃などというみみっちい作戦は捨てて、もっと大局的なことを考えねばならないのだ。今や圧倒的に数でまさるアンガラク軍は、もはや小競りあいだの奇襲などという手段はまったく無視してかかるものと思われる。もしここで――それも今すぐにがつんと一発食らわせておかないと、やつらはまたたく問に大陸の東全部を覆いつくしてしまうことだろう」
「だが当初の計画をむやみに変えたりしたらベルガラスはおもしろく思わないだろうな」アンヘグが思い出させるように言った。
「だがベルガラスはここにいないし、じっさいの情況がどうなっているかも知らないのだ。もしわれわれがここできっぱりと手を打っておかなければ、かれもベルガリオンもケルダーも目的地に着くことすらおぼつかなくなるのだ」
「だがそれはわれわれに勝ち目のないいくさをしろということなんだぞ、ローダー」アンヘグはぶっきらぼうな声で言った。
「それは十分わかっている」ローダー王はみとめた。
長い沈黙が続いた。ついにブランドが口を切った。「それしかないと言われるのだな」
「残念ながらそうだとしか言いようがない」ローダーは陰うつな口調で言った。「むろん陽動作戦は行なわなければならない。さもなくばベルガリオンもかれの剣も永遠にトラクに出会うことはできないだろう。真に重要なのはまさに二人を対決させることにあるのだから、必要とあればわれわれは命を投げ打ってでも実現させなければならないのだ」
「きみはわれわれを殺す気なのか」アンヘグが非難するような口調で言った。「われわれとその軍隊全員を」
「必要ならやむをえまい、アンヘグ」ローダーは冷酷な声で答えた。
「もしベルガリオンがトラクに出会うことがなければ、どちらにせよわれわれの命はないも同然なのだ。同じ死ぬにしても、まだかれをトラクに会わせるために命を落とす方が意味がある」
セ・ネドラの指が感覚を失ったように護符から滑り落ちると同時に、彼女は椅子に崩れ落ちた。突然彼女はすすり泣きはじめた。「わたしにはできないわ」王女は泣きじゃくった。「できやしないわ」目の前に大勢の人々の姿が浮かんでくるような気がした――未亡人とみなし児たちがじっと恨めしげに彼女をねめつけている。そしてセ・ネドラはなすすべもなく立ちすくむばかりなのだ。もしそのような致命的な大失策を犯そうものなら、彼女はひどい自己嫌悪と憂悶のうちに残る一生をすごすことになるだろう。彼女はなおも泣きじゃくりながらよろよろと立ち上がった。このまま会議室に駆け込んで、こんな不毛な戦争にこれ以上かかわりあうのは嫌だと皆の前で宣告するつもりだった。だしぬけに彼女の脳裏にガリオンの顔がよみがえった――セ・ネドラがいつも直してやりたいと思っていた乱れた髪の下のきまじめな顔が。彼女は足をとめた。かれの運命は彼女の心ひとつにかかっているのだ。もしここで彼女がひるんだりしたら、アンガラク人は容赦なくかれを追いつめることだろう。ガリオンの命は、そして全世界の未来はまさに今の彼女の手に握られているのだ。やり続けるしか彼女には道がなかった。もしこの戦争の行く末さえ知らなかったらどんなによかったろう。かれらの先に待ち受けているのが死だと知ってしまった今、すべてが恐ろしく思えた。
むだとは知りつつ、彼女は胸もとの護符の鎖をめちゃくちゃに引っぱりはじめた。これさえなければ彼女は前途に横たわる運命も知らない、笑いさざめく無邪気な少女でいられたのに。すすり泣きながらなおも彼女は狂ったように鎖を引っぱり続けた。柔らかい肌に鎖が食いこむ痛みすら忘れて。「あんたなんか大っきらいよ!」彼女は王冠の木を刻みこんだ銀色の護符にむかってわけのわからぬ怒りをたたきつけた。
だがそんなことをしてもむだなことはわかっていた。彼女が生きている限り護符は決してはずれることはないだろう。蒼白な顔でセ・ネドラは手をおろした。護符をはずしたとしても何の変わりがあるというのか。この衝撃的な事実を心の奥深く隠しとおさなければならないことはわかっていた。もしほんのわずかでもそれが顔や声にあらわれようものなら、彼女は失敗するだろう。そうなったらガリオンは彼女のせいで死ぬほどの苦しみを味わうことになるのだ。彼女は心を鬼にして、あたかも勝利が確実なもののように見せかけなくてはならないのだ。
かくして〈リヴァの女王〉は雄々しく顔をあげ、傲然と胸を張って立ち上がった――たとえその心は鉛のように重かったにせよ。
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25[#「25」は縦中横]
バラクの新しい船は大多数のチェレクの戦艦に比べて一倍半ほど大きかったが、まるで水面ぎりぎりに飛ぶカモメのように軽々と春風をかき分けて進んでいった。ふわふわした白い雲が青い空を行きすぎ、巨体をかしげた船が波を押し分けるようにして進む〈風の海〉は、大陽の光を受けて燦然ときらめいていた。水平線のかなたにアレンディアの湾曲した岬の緑色が浮かんでいた。バラク一行がリヴァを発って二日間がたち、かれらは折り重なるように帆を連ねた膨大なチェレク艦隊を率いて海の上を走っていた。どの船もセンダリアのフルラク王に合流する灰色のマント姿のリヴァの戦士を満載していた。
セ・ネドラ王女は落着かないようすでへさき近くを行ったり来たりしていた。その青いマントは風にひるがえり、鎧はぴかぴか光っていた。心の底では依然恐ろしい秘密を隠していたが、王女は今回の船旅にわくわくするような興奮を覚えていた。おびただしい数の人々、剣、船がひとつの目的のもとに風を切って進んでいく。それらは互いに相まって彼女の血をわきたたせ、これまで経験したことのないような浮き浮きした気分を王女に味わせていた。
目の前の海岸がますます大きく迫ってきた――それはアレンディアの濃い緑色の森をしたがえた白い砂地の海岸だった。一行の船が海岸線に近づくと同時に、森のなかから大きな糟毛の馬に乗った一人の鎧姿の騎士があらわれた。かれは湿った砂に白い波が打ち寄せる水際に向かって馬を走らせ、近づいてきた。王女は片方の目を覆い、もう一方できらめく鎧の人物にむかって目をこらした。男がそのままついてこいというようにさっと腕をあげたとたん、盾の三日月のしるしが目に入った。彼女の心は嬉しさに躍り上がった。「マンドラレン!」セ・ネドラはバラクの船のへさきのローブにしがみつき、髪の毛を風になびかせながら、トランペットのように響き渡る声で叫んだ。
威風堂々たる騎士は片手で敬礼すると、馬に拍車をあて泡立つ波打ちぎわにそって走り出した。槍の先につけられた銀と青の長三角旗が騎士の頭上でひらひらとひるがえった。バラクが舵をさっとまわすと船は大きくかしいだ。船と海辺の騎士は泡立つ波打ちぎわをはさみ、百ヤードほど離れて並走した。
セ・ネドラはこの情景を一生忘れることはないだろうと思った。その一瞬の光景はあまりに完璧で王女の心にそのまま凍りついてしまいそうに思えた。白い帆をぱんぱんにはらませた巨大な船が風を受けて、きらめく青い水をかきわけていく。すぐ横では素晴らしい駿馬が巨大なひづめで水しぶきを上げながらきらめく白い波打ちぎわを走っていく。船と騎手は永遠の瞬間に閉じ込められたまま、ともに暖かい春の陽ざしのなかを緑の岬にむかってひた走った。セ・ネドラは意気揚々とへさきに立ち、燃えたつような髪をまるで旗のように風になびかせていた。
岬の背後は保護された入り江になっており、海岸には灰褐色の天幕が整然と列をなして並ぶセンダリア軍の野営地が設営されていた。バラクは再び舵をまわすと、背後にチェレクの艦隊を従え、帆をばたばたいわせながら入り江にそって航行した。
「よう、マンドラレン!」錨のロープがびゅんとうなり声をたて、透きとおった水から海底の砂地に投げ込まれるのと同時に大男は呼ばわった。
「バラク卿!」マンドラレンも負けじと大声で怒鳴り返した。「アレンディアへようこそ。ブレンディグ卿があなた方の上陸を早めるための方法を考案して下さいましたぞ」かれはそう言いながら忙しげにいかだを漕ぐ、百人あまりのセンダリア兵士たちの方を指さしながら言った。かれらは何台もの巨大ないかだを整列させ、入り江の海面上に突き出した長い浮き波止場に似たものを作り上げつつあった。
バラクは笑い声をあげた。「まったくああいった実用的なものを考えだすのはセンダー人をおいてないな」
「おい、もう上陸してもいいんだろう」船室から姿をあらわしたローダー王が哀れっぽい声でたずねた。船に不慣れなドラスニアの王の太った丸い顔は白っぽい緑色を呈していた。兜に鎖かたびらといういでたちは、どことなくおかしみを誘うものがあった。船酔いで見苦しくなった顔は、ほとんどかれの権威を回復する役にたってはいなかった。およそ非好戦的な外見にもかかわらず、他の王たちはかれの知性に敬意を払うようになっていた。そのぶくぶく肥満した体の下には戦術上の駆け引きや全体的な戦略を見通すことのできる真の叡知がひそんでいた。何かあると他の王たちはほとんど自然にかれの方を向き、暗黙のうちにその指揮権をみとめていた。
錨がおろされるのとほとんど時を同じくして、渡し舟がわりの小さな漁船がバラクの船に横づけされた。三十分もしないうちに王や将軍やその助言者たちは海岸に運ばれていた。
「腹が減ったぞ」ローダーは大地に足を一歩おろすなりそう言った。
アンヘグが笑った。「まったく年がら年中腹をすかせているんだな」かれは鎖かたびらに広大な剣帯をつけていた。いつもの蛮人のような顔もこうしていくさの格好をするとそれほど場違いにみえなかった。
「だが二日間、何も食べられなかったのだぞ」ローダーはうなり声をあげた。「おかげでわたしの哀れな胃袋はすっかり見捨てられたと思っているらしい」
「食事ならたっぷり用意させていただいております」マンドラレンが安心させるように言った。
「わがアストゥリアの同胞たちが王室の鹿をふんだんに提供してくれました。むろん法にかなったものに決まっていますが、あまり深くは追及されない方がよいでしょう」
マンドラレンの背後の集団で笑い声がした。王女の瞳が緑色の胴衣に長弓をつった赤みがかった金髪のハンサムな若者を捕らえた。セ・ネドラはリヴァでワイルダンターのレルドリンと知り合う機会がほとんどなかった。だが若者がガリオンの親しい友人だということを知っていた彼女は、ただちにかれの信任を得ることが必要だと見てとった。若者のあけっぴろげな、ほとんど無邪気ともいえる顔を見るかぎりではそう難しいこととも思えなかった。かれはどきりとするほど直截的なまなざしを返してきたが、その視線は途方もない誠実さとごくわずかな知性を物語っていた。
「ベルガラスと連絡が取れたぞ」バラクはマンドラレンとアストゥリアの若者にむかって言った。
「いったい今どこにいるんですか」レルドリンがせきこむようにたずねた。
「かれらはボクトールにおったのだ」ローダー王が代わって答えた。かれの顔はまだ船酔いのなごりで緑色がかっていた。「どういうわけかわたしの妻は三人をそのまま行かせてしまったのでな。たぶん今ごろはガール・オグ・ナドラクのどこかにいるだろう」
レルドリンの目が輝いた。「それなら急げばすぐに追いつけるかもしれない」そう言うなりかれは踵を返して自分の馬を探しにいこうとした。
「おいおい、千五百リーグもあるんだぞ」バラクが穏やかな声でさとした。
「そうか――」レルドリンは少しばかり意気阻喪したようだった。「たぶんあなたのおっしゃるとおりだ。今から行ってもかれらに追いつくのは無理でしょうね」
バラクは重々しくうなずいた。
すると金髪のミンブレイト娘アリアナが進み出て、瞳にまごころを浮かべてかれを見つめた。
「ご主人さま」彼女のレルドリンを呼ぶ声を聞いたセ・ネドラは二人が結婚していることを――少なくとも法的には――思い出した。「あなたさまがおいでにならなくて、わたしはとても寂しい思いをいたしておりました」
若者はたちまち衝撃を受けたような目になった。「愛しいアリアナ」かれはむせばんばかりに言った。「もう二度ときみを一人にしないことを誓うよ」レルドリンは彼女の両手を握りしめ、ほれぼれとその瞳をのぞきこんだ。視線を返した彼女の目は愛にみちあふれ、もはや知性のかけらすらとどめてはいなかった。セ・ネドラは二人の見交わす視線にひそむ災難の可能性に、内心思わず身震いした。
「誰かわたしが今にもここで飢え死にしそうなのに気づいてくれる者はおらんのか」ローダーが言った。
森からさほど離れていない海辺の、はなやかな縞模様のあずまやに設けられた長いテーブルの上に、ご馳走がところ狭しと並べられていた。テーブルは山と積まれたあぶり肉の重さで文字通りきしみ、ローダー王の恐るべき食欲をも十分に満たすほどの量があった。一行は食事を終えてからもまだその場に残って会話を続けていた。
「アルガー軍が〈砦〉のまわりに集結しはじめているとの報告が、ご子息のヘター卿より届いております、陛下」マンドラレンがチョ・ハグ王に報告した。
チョ・ハグはうなずいた。
「それからウルゴのレルグからも報告が入っていますが」ブレンディグ大佐がつけ加えた。
「かれは洞穴の人々を集めて、戦士たちの小さなグループを作ったそうです。アルガリア側の山中の洞穴で待機するとのことでした。王がその場所をご存じのはずだと申しておりましたが」
バラクはうなり声をあげた。「ウルゴ人たちはあれでなかなか心強い味方になるぞ。連中は屋外が苦手なうえ、太陽に目を開けていられないという欠点があるが、まるで猫のように暗闇のなかを見通すことができるんだ。場所によっちゃかなり役立つこともあろう」
「レルグ殿から何か――その、個人的な伝言のようなものをことづかりませんでしたか」タイバがかすかに声をこわばらせてたずねた。
センダー人はしかつめらしく長衣の下から折り畳んだ羊皮紙を取り出して彼女に手渡した。彼女はなぜか当惑したような表情を浮かべて、手紙をあちこち引っくり返した。
「どうなさったの」アダーラが静かに聞いた。
「あの人ったらあたしが字が読めないことを知っているくせに」タイバは手紙をひしと胸に抱きしめたまま、憤慨するような声を出した。
「わたしが読んでさしあげるわ」アダーラが申し出た。
「でも、たぶん――とても個人的なものかもしれないわ」
「絶対に聞いたりしませんからご安心なさって」アダーラはにこりともせずに言った。
セ・ネドラは笑いを隠すためあわてて自分の掌で口を押さえた。アダーラのまじめな落着きはらった顔から思いがけなく発せられる機知こそ、王女がもっとも愛してやまない特質のひとつだった。だがこうして笑う間にもセ・ネドラは人々の視線を感じとっていた。彼女たちに合流したアレンド人――アストゥリアとミンブレイト双方の若者たちが、好奇心もあらわに王女をじろじろ眺め回していた。なかでもレルドリンはすっかり王女から目が離せなくなってしまったらしかった。ハンサムな若者は金髪のミンブレイト娘アリアナに寄り添うようにして座りながら、セ・ネドラに対するあからさまな視線を隠そうともしなかった。そうする間にもかれの手は――たぶん無意識のうちにだろうが――アリアナのそれにしっかりと重ね合わされていた。セ・ネドラは落着かない思いで、かれの詮索するようなまなざしにじっと耐えた。おかしなことに彼女はこのいささか頭の足りない若者に好かれたい気持ちになっていた。
「教えて下さらないこと」彼女はいきなりレルドリンに話しかけた。「このアストゥリアの国民感情はどうなっているのかしら――わたしたちの参戦の呼びかけに対してという意味も含めて」
レルドリンの目が曇った。「残念ながらほとんど乗り気ではないようですね」若者は答えた。
「一部ではこれもすべてミンブレイト側の陰謀なのだという者たちもいるくらいです」
「そんな馬鹿なこと」セ・ネドラは抗議の叫びをあげた。
レルドリンは肩をすくめた。「アストゥリア人はどうしてもそう考えてしまうのですよ。ですが、これが陰謀などではないと考える者たちは、ミンブレイト騎士団と結束して東と対抗する義勇軍を結成する方向に関心がむいているようです。こちらの方がある程度希望が持てるかもしれません」
マンドラレンが後を続けた。「同じような感情がミンブルの一部同胞のなかにもあることは確かです。ご存じのようにアレンディアは痛ましくふたつに引き裂かれた国なのです。積年の憎しみや疑惑は容易に消えるものではありません」
セ・ネドラは激しいろうばいに襲われた。彼女はそのようなことまで考えてはいなかった。ローダー王はアレンド人を相手にするだけでいいと言明したはずである。なのにミンブルとアストゥリアの間の愚かな憎しみと疑惑のために、すべての計画が彼女の耳元でがらがら音をたてて崩れようとしていた。王女はすっかり当惑したようなまなざしで、かたわらのポルガラを見やった。
だが女魔術師はアレンド人が呼び掛けに乗り気でないというニュースにも、まったく表情を崩さなかった。「レルドリン、お願いがあるわ」彼女は落着きはらって言った。「それほど疑い深くないあなたの友人たちを、どこか一ヵ所に集めてもらえないかしら。わたしたちが待ち伏せして襲おうとしているなどと思わせないような安全な場所にね」
「ポルガラ、いったい全体何をやらかそうというんだ」ローダー王が不思議そうな目をして彼女にたずねた。
「誰かがかれらを説得しなければならないわ」ポルガラは答えた。「誰か特別な人間がね」彼女は再びレルドリンの方を向いた。「そんなにたくさんの観衆は必要ないわ――少なくとも最初のうちはね。四、五十人位がいいでしょう――むろんわたしたちの呼びかけに対する強硬な反対者は一人もいれちゃだめよ」
「今すぐかき集めてきます」そう言うなり若者は即座に立ちあがった。
「レルドリン、少し時間が遅すぎやしないこと」ポルガラは地平線近くに沈もうとする太陽を指さしながら言った。
「早くはじめれば、それだけ早く人も集められるってことですよ」レルドリンは熱したような口調で答えた。「友情と血の絆が存在するかぎり、わたしは決して失敗することはないでしょう」若者はセ・ネドラに深々と一礼した。「失礼いたします、王妃さま」かれはいとまごいを告げると慌ただしく馬のつないである方向にむかって走り出した。
アリアナは若き熱血漢を見送りながら深いため息をついた。
「いつもあんなふうなの?」セ・ネドラは興味に駆られてたずねた。
ミンブレイト人の娘はうなずいた。「いつもそうですわ。あの方は考えと行動をごいっしょに起こされるのです。たぶん熟考≠ネどという言葉の意味などご存じないのでしょう。確かにそれも魅力のひとつではありますけれど、ひどく驚かせられることもしばしばなのです」
「わかるわ」セ・ネドラは同意するように言った。
しばらくしてポルガラとともに彼女たちの天幕に戻ったセ・ネドラ王女は、不思議そうな顔をしてガリオンのおばを見やった。「いったいわたしたち何をしようというの」彼女はたずねた。
「わたしたちじゃないわ。セ・ネドラ、あなたよ。あなたがかれらを説得するのよ」
「でもわたしは人前で話をするのが苦手なのよ」彼女は口がからからに乾くのを感じた。「大勢の人たちを見たとたん、舌が動かなくなってしまうの」
「大丈夫、そのうち慣れるわよ」ポルガラはかすかにおもしろがっているような表情を浮かべていた。「軍隊の先頭にたって、かれらを率いたいと言い出したのはあなたなのよ。ただ鎧を着て、鞍に飛び乗って、わたしについて来なさい≠ニひとこと言うだけで、全世界中が列をなしてあなたに従うとでも思っていたの」
「でも――」
「あなたは歴史の勉強に時間を費やしたと言うけれど、すべての偉大な指導者に共通するあることをすっかり見落としているわ。あなたにしてはずいぶん不注意なことね、セ・ネドラ」
王女はしだいにこみ上げてくる恐怖を感じながら、まじまじと彼女を見つめた。
「兵を起こすのなんてたいしたことではないのよ、セ・ネドラ。別に賢明である必要もなければ戦士である必要もないわ。目的にしたって別に崇高で偉大なものでなくともいいの。ただひとつ雄弁でありさえすれば」
「わたしにはそんなことできないわ、レディ・ポルガラ」
「だったらもっと早くそのことを考えておくべきだったわ、セ・ネドラ。もう今さら引き返すには遅すぎるのよ。確かにローダーは軍隊を指揮して、責任をもってかれらの面倒を見るでしょう。でもかれらについてくる気を起こさせるのはあなたの役目なのよ」
「そんなこといわれたって何を話せばいいのかわからないわ」セ・ネドラはなおも抵抗した。
「ちゃんと思いつけるわよ。あなたは自分のやることを正しいと信じているのでしょう?」
「ええ、でも――」
「これをしようと決めたのはあなたでしょ。全部一人でやろうとしたのもあなたよ。もうここまで来てしまったのなら最後まであなたの手でやり抜きなさい」
「お願いよ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラは必死で訴えた。「人前でしゃべると気持ちが悪くなるのよ。わたしきっと吐いちゃうかもしれないわ」
「たしかにそういうことはたびたびあるでしょうね」ポルガラは穏やかな声で言った。「でも人前でやらなきゃ大丈夫よ」
それから三日後、ポルガラと王女、それにアローンの王たちを加えた一行は、深い静けさに包まれたアレンディアの森を、廃墟と化したボー・アスターに向かって旅していた。陽のあたる森に馬を走らせるセ・ネドラの心はほとんどパニック状態におちいっていた。いかなる議論をもってしても、ポルガラを承服させることはできなかった。あらゆる涙も役にたたず、ヒステリーすらまったくの徒労に終わった。たとえ王女が死にかけていようと、ポルガラは彼女に突っかい棒をしてでも観衆の前に立たせ、かれらを説得するという苦役を強いるに違いない。セ・ネドラはむっつりとそんなことを考えていた。すっかり絶望した王女は、今や前途に待ち受ける恐ろしい運命に向かって刻一刻と近づきつつあった。
ボー・ワキューンと同じようにこのボー・アスターもまたアレンディアの内乱の暗黒のなかで荒廃したまま何世紀も放置されてきたのである。あちらこちらに転がる石は緑色の苔でびっしり覆われ、アストゥリアの栄光と誇りと哀しみをいたむかのような樹木の深い影の下にうち捨てられていた。すでにレルドリンが一行を待っていた。かれの集めてきた五十人ばかりの華美な服装をした高貴な若者たちが、一抹の疑いを浮かべながらいっせいに好奇心にみちた視線を王女に送った。
「申しわけありません、短い期間で集められるのはこの程度しかなかったのです」レルドリンは一行が馬からおりるのを待ってポルガラに詫びた。「むろんもっとたくさんいるのですが、皆ミンブレイトの陰謀だといってきかないのです」
「いいえ、これで十分よ。レルドリン」ポルガラは答えた。「後はこの人たちがたちどころに何があったかを広めてくれることでしょう」彼女は太陽がまだらにさしこむ苔むした廃墟を見まわした。「どうやらあそこが良さそうだわ」そう言いながらポルガラは壊れた壁の一部を指さした。「さあ、いらっしゃい。セ・ネドラ」
鎧をつけた王女は、チョ・ハグ王が彼女のためにアルガリアから運んできた白馬に兜と盾を取りつけると、辛抱強い動物をひいて震えながら女魔術師のあとに従った。
「あなたの声だけでなく姿も全員に見えるようにしたいのよ」ポルガラの指図はなおも続いた。
「あの一段高い石の上から話しかければいいわ。あの場所は今でこそ日陰になっているけれど、太陽は動き続けているから、ちょうどあなたが演説を終わる頃いっぱいにさしこむようになるでしょう。素晴らしい仕上げになること間違いなしよ」
空を見上げたセ・ネドラは、太陽がそこへ行くまでにどれほどの時間がかかるかを思って愕然とした。「わたし、気分が悪くなりそうだわ」彼女は震え声でささやいた。
「それは後にしましょうね。とにかく今は時間がないわ」女魔術師はレルドリンの方を向いた。
「さあ、そろそろ王妃を紹介してもいいわ」
レルドリンは崩れた壁の上に飛び乗ると、手をあげて観衆を黙らせた。「わが同胞よ」かれは大きな声で呼びかけた。「前回の〈エラスタイド〉で、われわれは世界を根底から揺るがすようなできごとに遭遇した。それこそはわれわれが千年以上にもわたって待ち続けていた瞬間だった。諸君、リヴァの王が帰還したのだ!」
観衆はいっせいに身動きし、興奮したようなざわめきがさざ波のように広がった。
何ごとにおいても大げさなレルドリンは、いまや熱にうかされたようにしゃべっていた。若者は炎を吐く剣がガリオンの真の身分を明かしたときのようすや、アローンの王たちによるリヴァ王への忠節の誓いのさまなどを次から次へとまくしたてた。だが不安のあまり気も遠くなりそうなセ・ネドラの耳には何も聞こえなかった。彼女は心のなかで必死に演説を復唱しようとしたが、もはやそれはごちゃまぜになって元の形をとどめてはいなかった。ほとんどパニック状態におちいりかけた彼女の耳に若者の言葉が飛び込んできた。「諸君、ここで帝国の王女セ・ネドラ殿をご紹介する。彼女こそはリヴァの女王その人だ!」
体中をがたがた震わせながらセ・ネドラは崩れた壁の上に登り、彼女の前に並んだ顔を見わたした。用意周到な下準備も、入念に稽古してきたせりふも皆きれいさっぱり頭から抜け落ちていた。王女は体をわななかせ、何から切り出せばよいかもわからず、蒼白な顔をして立ちすくむばかりだった。しんとした沈黙は耐えがたいほど恐ろしかった。
たまたま最前列の観衆のなかに、前夜飲みすぎたか、その朝はかくべつに機嫌の悪かった一人のアストゥリアの若者がいた。「おいおい、どうやら女王さまはすっかり演説を忘れちまったらしいぜ」かれはクスクス笑いながらわざと大きな声で友人に話しかけた。
セ・ネドラの反応はすばやかった。「どうやらそこにおられる殿方もすっかり礼儀を忘れておしまいになったようね」彼女はかっとなって答えた。青年の不作法がセ・ネドラの怒りに火をつけた。
「こんなもの聞く気も起こらんね」ほろ酔いかげんの青年はわざとうんざりしたような声で言った。「だいたい時間のむださ。ぼくはリヴァ人じゃないし、みんなだってそうだ。よその国の女王が何を言おうがアストゥリアの愛国者となんの関係があるというんだ」
「アストゥリアの愛国者は、世界がこの森だけではないことを忘れてしまうほど頭がワイン漬けになってしまったのかしら」セ・ネドラはむきになってやり返した。「それとも何が起こってるかわからないほど無学なのかしら」彼女は青年に向かって威嚇するように指を突きつけた。
「聞いてちょうだい。愛国者のみなさん」王女の美しい声が響きわたった。「あなた方はわたしがここで気のきいた演説でもぶつのかと思ってらっしゃるかもしれないけれど、わたしはかつてない重要なことを皆さんにお伝えするために来たのです。わたしの話を聞くのも背を向けるのもあなたたちの自由です。でもそのような人たちは、今より一年後にアストゥリアという国が消え去り、あなた方の家々はくすぶる廃墟と化し、グロリムたちが炎と血まみれのナイフとで愛する家族をトラクの墓へといけにえに狩りたてるときになって初めてこの日を振り返り、わたしの話を聞かなかったことを心から後悔することになるでしょう」
あたかも一人の不作法な青年への怒りが、心の堰を突き破らせたかのように、セ・ネドラの唇からあふれ出した。彼女はきわめて率直に話した。それは入念に考え抜かれたせりふなどではない、心の底からほとばしる言葉だった。しゃべるに従って彼女はしだいに興奮してきた。王女はかれらに訴えかけ、なだめすかし、最後に命令した。何を言ったかはまったく覚えていなくても、そのときのわくわくするような高揚感を一生忘れることはないだろうと彼女は思った。これまで感情の暴発やかんしゃくとなって少女時代をいろどってきた覇気や情熱が今や渾然一体となって彼女をつき動かしていた。王女はすっかりわれを忘れ、自分の趣旨に対する盲目的な信念だけで熱に浮かされたようにしゃべっていた。
突然、太陽の光がセ・ネドラの上に降りそそぎ、彼女の鎧を燦然と輝かせ、髪の毛を炎のように燃え立たせた。「〈西の大君主〉、リヴァ王ベルガリオンより共に戦おうとの仰せです!」彼女は宣言するように叫んだ。「そして今、王妃たるわたしセ・ネドラはリヴァの生ける旗印としてここにまいりました。ベルガリオン王の呼び掛けに馳せ参じる勇士はどなたかしら。われと思わん者は、わたしの後についてきなさい!」
真っ先に剣を掲げたのは最初に彼女を笑った青年だった。かれは剣で敬礼の姿勢をとると、大声で呼ばわった。「わたしは従います!」それを合図にしたかのように五十本の敬礼と誓いの剣がいっせいに上がり、太陽の光を受けてきらめいた。同時に五十の声がいっせいに轟いた。
「わたしは従います!」
セ・ネドラは剣を握った手をさっと天に差しあげた。「では、わたしについていらっしゃい!」彼女は歌うように言った。「わたしたちはこれから呪うべきアンガラクの大軍と対決に向かうのです。さあ、わたしたちの進軍で全世界を震えあがらせてやろうではありませんか!」かっきり三歩で彼女は愛馬の鞍に飛び乗った。そして躍りあがる馬の向きを変えると廃墟から全速力で走り去った。剣を握った一方の手は高く差しあげられ、燃え立つような髪が風になびいた。アウトゥリア人の若者たちは一丸となって彼女の後を追いかけてきた。
森のなかに入ってから王女は一度だけ後ろを振り返り、勇ましくも愚かな青年たちの熱に浮かされたような顔を見やった。彼女はついにやってのけたのだ。果たして戦争が終わったときこれらの無分別な青年のうち何人を再び連れ帰ることができるだろう。いったいこの中の何人が東の荒野で命を落とすのだろうか。突然目に浮かんだ涙を即座に振りはらい、リヴァの女王は走り続けた。彼女の軍隊に合流させるアストゥリアの若者たちを背後に従えながら。
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26[#「26」は縦中横]
アローンの王たちはこぞってセ・ネドラをほめそやし、百戦錬磨の戦士たちは心からの尊敬のまなざしで彼女を見た。王女は男性たちのこころよいお世辞を満喫し、幸福な子猫のようにのどを鳴らした。彼女の勝利を不満足なものにしているただひとつの要因は、ポルガラの不思議な沈黙だった。セ・ネドラの心はそのことでいくぶんか傷つけられていた。たしかに彼女の演説は不完全だったかもしれないが、結果的にはレルドリンの友人たちの心をかちえたのだ。これなら多少の欠点を補ってあまりあるものといえるだろう。
その夜、ポルガラから呼び出しを受けるにおよんで、ようやく王女はその理由がわかったような気がした。女魔術師は二人だけでセ・ネドラを祝おうというのだ。王女は陽気に歌を口ずさみ、白い砂に打ち寄せる波の音を聞きながらポルガラの天幕にむかった。
ポルガラは化粧テーブルに座っていた。そばにはエランドが眠たげな顔で控えていた。ろうそくが彼女の深い青色のローブに柔らかい光を投げかけ、たん念に髪にブラシをかけるその完璧な目鼻だちを照らし出していた。「お入りなさい、セ・ネドラ」彼女は呼びかけた。「そこへ掛けてちょうだい。どうやら話しておかなければならないことがいろいろありそうだわ」
「ねえ、驚いた?」王女はもはや我慢できずにたずねた。「ねえ、そうなんでしょ。わたしだって驚いているくらいなんですもの」
ポルガラは厳めしい顔で王女を見た。「あんなふうに興奮をむきだしにするものじゃないわ。もっと自分の力を調節して、ヒステリックな自己満足の発散でむだ使いしないようにすることを覚えなければ」
セ・ネドラはぼう然と彼女を見つめるばかりだった。「でも、わたしうまくやったでしょう?」心の底から傷ついたような声で王女はたずねた。
「たしかにみごとな演説だったわ」ポルガラは勝利の喜びをすっかり奪ってしまうような口調で言った。
突然、途方もない考えがセ・ネドラ王女の頭に浮かんだ。「あなた、知っていたのね」彼女は思わず口に出していた。「前からこうなることを知っていたんでしょ」
ポルガラの唇にかすかにおもしろがっているような表情が浮かんだ。「わたしにはいろいろと強みがあるのをあなたはいつも忘れるようね」彼女は答えて言った。「そのひとつは、わたしが物ごとの未来をある程度まで見通すことができるということなのよ」
「いったいどうやってそんなこと――」
「世の中にはただ漠然と起きるわけじゃないできごともあるのよ。それらはこの世が始まったときから歴史の下にひそんでいるの。今日あなたの上に起きたのもそういったできごとのひとつなのよ」ポルガラは手を伸ばすと、古びて黒ずんだ巻物をテーブルの上から取り上げた。
「〈予言〉にあなたのことが何と書いてあるか教えてあげましょうか」
セ・ネドラは冷たいものが流れるのを感じた。
ポルガラはひびの入った羊皮紙に目を走らせた。「あったわ」そう言いながら彼女はろうそくの光のもとに巻物をさし上げた。「そして(光の子の花嫁〉の声があまねく世の王国で聞かれることになろう。その言葉はあたかも枯れ野をわたる火のように広がり、多くのものたちが蜂起して彼女の輝く旗じるしのもとに前進することだろう」
「そんなもの何の意味もないわ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラは言った。「まったくお話にならないたわごとよ」
「それじゃ、この〈光の子〉というのがガリオンを指しているのだとしたらどうかしら」
「何ですって」セ・ネドラは羊皮紙をのぞきこんだ。「いったいこんなものどこで手に入れたの」
「これはムリン古写本と呼ばれるものなのよ。わたしの父が原本から書き写してくれたものなの。文章がわかりづらいのは、この予言者ムリンがどうしようもない狂人でまっとうなものの言いかたを知らなかったためよ。結局、〈猪首〉ドラスはかれを犬みたいに鎖で柱につないでおかなければならなかったわ」
「ドラス王ですって。レディ・ポルガラ、そんなの三千年も昔の話じゃないの」
「そうね、それ位になるかしら」
セ・ネドラはがたがたと震えはじめた。「そんな馬鹿なことありえないわ!」彼女は思わず叫んでいた。
ポルガラはほほ笑んだ。「あなたはときどきガリオンそっくりの言いかたをするのね。まったくどうして今の若い人たちはその言葉を使いたがるのかしら」
「でも、もしあの男の人がひどく失礼なことをいわなかったら、わたしはきっと何もしゃべれなかったはずだわ」そう言ってから王女は唇をかんだ。彼女はそこまで告白する気はなかった。
「その男の人があなたにひどいことを言ったのも、たぶんそのためだったのよ。かれがあのとき、あなたにひどいことを言うためだけに生まれてきたのだとしても何の不思議はないわ。
〈予言〉にはひとつとして成り行きまかせのできごとなんてないのよ。この次演説するときにもかれの助けが必要かしら。もしそうなら最前列に座る人にあらかじめお酒を飲ませておかなくちゃね」
「この次ですって」
「あたりまえでしょう。あれっぽちの人々を前に一回演説するだけですむとでも思っているの。セ・ネドラ、あなたはもっとまわりで起こっていることに注意をはらうべきよ。あなたはこれから何ヵ月かのあいだ、最低毎日一回は人々の前で話すことになるでしょう」
王女は恐怖にみちたまなざしで彼女を見た。「そんなこと、できやしないわ!」
「いいえ、ちゃんとあなたにはできるわ。あなたの声はあまねく世の王国で聞かれ、言葉は枯れ野をわたる火のように広がり、西の人々はいっせいに立ち上がってあなたの輝く旗じるしのもとに従うことでしょう。これまでの何世紀にもわたってムリン古写本に記された予測がはずれたことはただの一度もなかったのよ。とりあえず、今のあなたに必要なのはゆっくり休養してきちんと食べることだわ。これからはわたしがあなたの食事を用意することにしましょう」そう言いながら彼女は非難するような目つきで王女の小さな体を眺めた。「もう少し肉づきがよければいいんだけれど。とりあえずはあるもので我慢しなくちゃいけないわね。さあ、あなたの荷物を取っていらっしゃい。今日からはわたしといっしょに暮らすのよ。これからはずっとあなたから目を離さないでおいた方がよさそうだわ」
それから数週間後、一行はアレンディアの森のしっとりした緑のなかを移動していった。かれらの到来の噂はいまやアストゥリア一帯に広まっていた。ポルガラが観衆の人数や構成を細心の注意をはらって管理していることを、王女はうすうす気づいていた。哀れなレルドリンはほとんど馬からおりるひまもなく、慎重に選ばれたその友人たちの一団とともに、セ・ネドラの軍隊が行く先々で人集めの手配を整えて待っていた。
ついに彼女の義務を受けいれたセ・ネドラは、回数さえ重ねていけば人前で話すこともそれほど苦にはならなくなるだろうと期待した。不幸なことにその見通しは間違っていた。人々の前に出るたびに彼女はパニックに襲われ、終わったあとで気分が悪くなることさえあった。演説が上達したとポルガラに慰められても、少しも楽にはならないことでしばしば彼女は不平をもらした。やがて彼女の肉体的、精神的消耗は目に見えてあきらかになってきた。彼女と同世代の少女たちの常としてセ・ネドラはいくらでもしゃべり続けていることができたが、こと演説となると行きあたりばったりのおしゃべりとは勝手がちがった。人前で演説するということは、途方もないコントロールと多大な精神的エネルギーを要求するものなのである。しかも誰ひとり彼女を助けられる者はいないのだ。
観衆の数がふくれ上がるにつれ、ポルガラはようやく純粋に技術的なことだけは助言するようになった。「ふつうにしゃべるような調子でいいのよ、セ・ネドラ。叫んだりしてむだなエネルギーを消耗しないようにね。それくらいの声で十分みんなに聞こえるようにしてあげるわ」だがそれらの助言をのぞけばやはり王女一人でやらなければならなかった。彼女の疲労はしだいに誰の目から見てもあきらかになってきた。背後に大軍を従え先頭を切って走る彼女の姿はものうげで、ときとしてまったく夢うつつに見えることさえあった。
友人たちはそんな彼女をじっと見守り、しきりにその身を案じた。
「このままの調子じゃいつまでもつかわからんぞ」フルラク王はすっかり萎れた小さな王妃のすぐ後ろを走りながらローダー王に言った。かれらはボー・ワキューンの廃境にむかっていたが、そこでもセ・ネドラは演説をすることになっていたのである。「どうやらわれわれは彼女がいかに小さくて繊細かをしばしば忘れてしまうらしい」
「ポルガラと相談した方がよさそうだな」ローダー王も同意した。「思うに一週間は休養が必要だぞ」
だがセ・ネドラは今やめるわけにいかないことを知っていた。ちょうどすべてが勢いづいてきたところだった。そこには絶対に途中で崩すことの許されない、加速的に高まりつつあるリズムのようなものがあった。初めのうち、王女が来るという噂はきわめてゆっくりした速度で広がっていったが、今では彼女に先行して走っているありさまだった。彼女たちはそれに追いつくためにますます先を急がなければならなくなっていた。観衆のセ・ネドラに対する好奇心が満たされる決定的な呼吸のようなものがあり、これを逃したらすべては水の泡と化し、彼女は再び初めからやり直さなくてはならなくなるのだ。
ボー・ワキューンの聴衆はこれまで相手にしてきた中ではもっとも人数が多かった。すでにその気になりかけている人々を燃え上がらせるにはわずかの火花でことたりた。再度わけのわからないパニックにむかつきを覚えながら王女はありったけの気力をかき集め、彼女の戦争への呼びかけに応じるよう人々を説得するために演壇に登った。
すべてが終わり、集められた若い貴族たちが軍隊の列に次々と加えられていくあいだ、セ・ネドラは一人で心を落着かせるわずかな時間をもとめて野営地の周辺を散歩した。これは今や彼女にとってなくてはならない儀式になっていた。演説が終わったあと気分が悪くなることもあれば、さめざめと泣くこともあった。またあるときは樹木に目もくれず、もの憂げに森のなかをさまよっているだけのこともあった。ポルガラの指示によりダーニクがつねに彼女につきそっていた。この誠実で純朴な男の存在はこの上もない慰めだった。
二人は廃墟からさほど離れていない場所をぶらぶら歩いた。よく晴れた明るい午後で、樹木では小鳥がさえずっていた。セ・ネドラは憂いを含んだ表情で、森の静けさに身をゆだねて動揺する心をいやそうとしていた。
「そりゃ、お偉いさんはいいよなあ、デットン」突然、反対側の藪で人声がした。「だがおれたちに何の関係があるっていうんだ」
「あんたのいうとおりさ、ラメール」恨めしそうなため息とともに別の声が答えた。「けどけっこうわくわくさせられたぜ」
「おれたち農奴をわくわくさせるものといったら目の前にある食い物ぐらいなもんだ」最初の男は苦々しげに言った。「あの娘っ子はさんざん義務だのなんだのがなりたてていたが、おれが目下のところ義務を感じてるのは自分の胃袋だけさね」ふいにかれは話を中断した。「おい、あの草は食えるかな」
「たぶん毒があるんじゃないかね」デットンが答えた。
「だがおまえさんだって確かなわけじゃないだろ? 食えるものをみすみす見逃す手はないぜ。そいつで死なない限りはな」
セ・ネドラは二人の農奴の会話を聞きながら足がすくむような思いにとらわれていた。いったい人間はここまで惨めになれるものだろうか。彼女は衝動の命ずるまま藪の向こう側へ足を踏み入れていた。むろん忠実なダーニクもあとに従った。
二人の男は泥によごれたぼろをまとっているだけだった。双方とも中年すぎの男だったが、これまで幸せというものを一度も味わったことのないような顔つきをしていた。痩せた方の男は葉の多い雑草を吟味するのに夢中だったが、もう一方は近づいてくるセ・ネドラの姿を見て恐怖の表情もあらわに立ち上がった。「おい、ラメール」かれはあえぐように言った。「今朝しゃべっていた娘っ子だぜ」
ラメールは慌てて居ずまいをただしたが、泥の汚れの下の顔がみるみるうちに青ざめていくのがわかった。「これは、お嬢さま」かれはこっけいなしぐさで身をかがめた。「あっしたちは村へ帰ろうとしただけです。この森がお嬢さま方のものだなんて知らなかったんです。何ひとつ取っちゃおりません」かれは証明するように空っぽの両手をさし出してみせた。
「いったいいつからちゃんとしたものを食べていないの」王女がたずねた。
「今朝はそこら辺の雑草を食べました。きのうはカブの根っこを少しです。多少虫がついてましたが、食べられないというほどではありませんでした」
突然、セ・ネドラの目に涙が浮かんだ。「いったい誰がそんなひどいことをしたの」
男は彼女の質問にいささか面くらっているようだった。やがてかれは肩をすくめた。「たぶん世の中でしょう。あっしたちの育てた作物の大部分は領主さまとそのご主人のところへ納めなくてはなりません。残ったものも王さまや王侯の方々にほとんど取り上げられてしまいます。おまけにあっしたちは数年前にご主人の行なわれた戦争の税金もまだはらい続けているんでさあ。それだけ取られてしまえば、あっしたちの分などほとんど残りゃあしません」
セ・ネドラは背筋が凍りつく思いだった。「わたしは今、東の国々と戦争をするための軍隊を集めているのよ」
「存じております、お嬢さま」もう一人の農奴デットンが答えた。「わしらも今朝あなたさまのお話を聞かせていただきました」
「もし戦争になったらあなたたちはどうなるの」
デットンは肩をすくめた。「そうなったらもっと税金が重くなるだけのことでさあ。それにご主人が従軍を決意されたら、わしらの息子たちの何人かをとられることになるでしょう。農奴はあまりいい兵隊ではありませんが、荷物のかつぎ手にはなりますんで。それに敵の城に襲いかかるときには、しばしば偉い方々はたくさんの農奴の犠牲を望まれるようですし」
「じゃあ、あなたたちは戦争に行くときに何の愛国心も感じないの」
「農奴にとって愛国心がどれほどのものでしょう。現にこのあっしでさえ数ヵ月前には自分の住む国の名前さえ知りませんでした。ここには何ひとつあっしのものなどないのです。それなのに何で愛着など覚えるでしょうか」ラマールが言った。
セ・ネドラは何も言うことができなかった。かれらの人生はあまりに冷酷でむなしいものだった。彼女の戦争への呼びかけはさらに重荷の苦痛を与えるものでしかなかった。「じゃあ、あなた方の家族はどうなの」彼女はたずねた。「もしトラクが勝つようなことがあれば、あなた方の家族は皆グロリムに連れていかれて、いけにえにされてしまうかもしれないのよ」
「残念ながらもはやあっしには家族はおりません」ラメールがうつろな声で答えた。「あっしの息子は数年前になくなりました。領主さまがどこか戦いに出たときに従軍したんでさあ。どこかの城を攻撃する最中で、はしごを掛けようとした農奴たちの上に相手方が煮えたぎった松ヤニをぶちまけました。妻はそれを知ったとたん、何も食わずに死んでしまいました。もうグロリムだって家族を傷つけることはできませんし、あっしを殺すというのならむしろ歓迎したいくらいでさあ」
「それじゃ、あなたには戦う目的というものはないの?」
「あるとすれば食べ物だけです」ラメールはしばらく考えた後に言った。「もういいかげん空腹にはうんざりしましたからね」
セ・ネドラはもう一人の農奴の方を向いた。「あなたはどうなの」
「食べ物をくれるというなら火の中だって飛びこんでみせますよ」デットンは勢いこんだように言った。
「じゃあ、わたしについていらっしゃい」セ・ネドラは二人に命令するなり踵を返して野営地にむかった。彼女はセンダリアの倉庫から運ばれてきた大量の食料を満載した何台もの巨大な兵糧馬車の前へ行った。「この人たちに何か食べるものをあげてちょうだい」彼女は目を丸くする料理長に命令した。「食べたいだけあげるのよ」すでに目に涙を浮かべた善良なダーニクは早くも荷馬車のひとつからひと塊のパンをつかんでいた。かれはそれをふたつに割ると一方をラメールに、残る片方をデットンにさしだした。
ラメールは手の中の大きなパンの塊を見てがたがた震え出した。「あっしらもあなたに従います」かれは震える声で言った。「これまでは自分の靴や、草や木の根をゆでて食べる毎日でした」農奴は誰かに取られやしないかと恐れるようにパンの塊をひしと抱きしめた。「これのためならたとえ世界の果てまでもお供しましょう」そう言うなりかれは歯でパンをかみちぎり始めた。
セ・ネドラはしばらくじっとかれの姿を見つめていたが、突然背を向けて走り出した。彼女は激しく泣きじゃくりながら自分の天幕に戻った。アダーラとタイバが必死になだめようとしたが、ついにあきらめてポルガラを呼びにやった。
女魔術師は天幕のなかを一瞥すると、タイバとアダーラに泣きじゃくる少女と二人だけにしてほしいむねを伝えた。「さあさあ、セ・ネドラ」彼女はベッドに腰かけ、小さな王女をかき抱いた。「いったいどうしたというの」
「レディ・ポルガラ、わたしもうこれ以上できないわ」セ・ネドラは泣き叫んだ。「もう嫌よ」
「でもこれはそもそもあなたの考えだしたことだったのよ」ポルガラが思いださせるように言った。
「わたしが間違ってたわ」セ・ネドラは泣きじゃくった。「わたしが間違ってたのよ! あのままリヴァに残っていればよかったんだわ」
「いいえ、それは違うわ」ポルガラは言った。「あなたは誰にもできないことをやってのけたのよ。あなたはアレンド人を味方につけてくれたわ。ガリオンだってそこまではできなかったでしょう」
「でもみんな死ぬんだわ!」セ・ネドラは泣きわめいた。
「何だってそんなことを言うの」
「アンガラクの軍隊はわたしたちの二倍もいるのよ。わたしの軍隊は一人残らず殺されてしまうわ」
「誰がそんなことを言ったの」
「わたし――わたし、聞いてしまったの」セ・ネドラはのどもとの護符をまさぐりながら答えた。「ローダーとアンヘグと他の人たちが南マーゴの報告を受けているところを」
「なるほどね」ポルガラが重々しく言った。
「わたしたちはむざむざ死ににいくんですって。誰もわたしたちを助けられないのよ。おまけにわたしは農奴たちまで味方につける方法を見つけたのよ。あの人たちの生活はあまりに惨めなので、ちゃんと食べられさえすればどこへでもついてくるんですって。でもわたしはやるしかないの。かれらの協力を得るということは、かれらを故郷の地から連れだして、わざわざ死地におもむかせることなのよ。もうどうにも止めようがないんだわ」
ポルガラはかたわらのテーブルからコップを取り上げると、小さな薬瓶の液体をあけた。
「セ・ネドラ、まだ戦争は終わったわけじゃないわ。それどころか始まってさえいないのよ」彼女はそう言いながらコップの底の濃いこはく色の液体をかきまぜた。「わたしはこれまでにももっと不利な戦争が勝つのを見てきたわ。始まる前から悲観していたのでは、どうしようもないでしょう。ローダーはあのとおりの優れた策士だし、あなたの軍隊にはたいそう勇敢な兵士がそろっているわ。むろんわたしたちはどうしても必要なとき以外、むやみに戦いを始めたりはしないわ。その前にガリオンがトラクに出会ってかれを倒すことができれば、アンガラクは総崩れになるでしょうから、まったく戦争をする必要もなくなるのよ。さあ、これをお飲みなさい」そう言いながら彼女はセ・ネドラにコップをさしだした。
王女はのろのろとコップを受け取り、飲みほした。こはく色の液体は苦く、ぴりっとした不思議な後味を残した。「それじゃ、全部ガリオンの肩にかかっていたのね」
「いつだってかれの肩にかかっていたのよ」ポルガラが言った。
セ・ネドラはため息をついた。「わたし――」と言いかけて彼女は言葉をとぎらせた。
「なあに、セ・ネドラ」
「ああ、レディ・ポルガラ。わたしはまだガリオンに愛してるって言ってないのよ。一回でもいいから愛してるって言うためなら、わたし何だってするのに」
「かれはちゃんとわかってるわよ、セ・ネドラ」
「でも言葉に出していうのとは違うわ」彼女は再びため息をついた。不思議なけだるさが体をみたし始めていた。彼女は泣くのをやめた。もはや自分が何のために泣いていたのかさえ覚えてはいなかった。突然、彼女は誰かに見つめられているような気がして振り返った。天幕の片すみにエランドが静かに座って彼女を見つめていた。その深い青色の目には心からの慰めと奇妙な希望が入りまじっていた。ポルガラは再び王女を胸に抱きしめるとゆっくり前後に体を揺すりはじめた。彼女はかすかに心をいやすようなメロディーを口ずさんだ。セ・ネドラはいつしか夢も見ずに深い眠りにおちいっていた。
セ・ネドラの生命を脅かす企てが行なわれたのは翌日の朝のことだった。一行はボー・ワキューンから南に向かい、陽がさんさんとさしこむ〈北の大街道〉の森を進軍していた。王女は軍隊の先頭にたってバラクやマンドラレンとおしゃべりをしていた。突然、森の彼方からぶーんという不吉な音とともに矢が飛んできた。音に気づいたバラクはとっさに警告を発した。
「危ない!」かれは叫ぶと巨大な盾で王女をかばった。次の瞬間、矢が盾に激突した。バラクは罵り声をあげて剣を抜いた。
だがそれより早くブランドの末子、オルバンが一直線に森の中に突っ込んでいった。若者の顔は死人のように蒼白で、剣はまるでさやから飛び出てきたようにかれの手にあらわれた。疾走する馬のひづめの音が次第に遠くなり、森の中に消えた。しばらくしてから恐ろしい悲鳴が響いた。
背後から次々に警告の叫び声が起こり、動揺したざわめきが広がった。ポルガラが蒼白な顔をして駆けつけた。
「わたしは大丈夫よ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラは急いで言った。「バラクがわたしを助けてくれたの」
「いったい何があったの」ポルガラが聞きただした。
「何者かが王女に矢を射かけたんですよ」バラクが怒ったような口調で答えた。「もしおれが音に気づかなければ大変なことになるところだった」
レルドリンは折れた矢を拾いあげると、しげしげと観察した。「矢羽がゆるんでいる」そう言いながらかれは指先で羽をなでた。「だからあんな音がしたんだな」
そこへオルバンが血まみれの剣を掲げたまま馬を走らせてきた。「王妃はご無事か」かれの声はヒステリー寸前だった。
「大丈夫だ」バラクは若者にもの問いたげな視線をおくった。「犯人の正体は?」
「マーゴ人ですね、たぶん」かれは答えた。「ほおに傷あとがありましたから」
「殺したのかい」
オルバンはうなずいた。「本当に何ともないのですか、女王さま」白っぽい金髪を乱した若者はたいそう若く、真摯に見えた。
「大丈夫よ、オルバン。あなたはとても勇敢な方ね。でもあんなふうに一人で飛び出す前に少し待った方がよかったんじゃなくって。相手は一人とは限らないのよ」
「だったらそいつら全員を殺してやりますよ」オルバンは殺気だった口調で言った。「あなたに指一本でもたてるようなやつがいたら絶対に容赦しません」若者は怒りにわなわな震えていた。
「若きオルバン卿よ、まことに似つかわしき献身ですそ」マンドラレンが言った。
「何人か斥候を出した方がいいかもしれんな」バラクがローダー王に提案した。「少なくともこの森を抜け出すまでは。コロダリンはアレンディアのマーゴ人を全員狩り出すと言っていたが、どうやら何人か横取りすることになりそうだ」
「ぜひ、わたしに斥候部隊の長をやらせて下さい」オルバンが訴えるように言った。
「きみの息子はなかなか覇気があるじゃないか」ローダーはブランドに向かって言った。「わたしはそういう若い人を見るのは大好きだ」かれはオルバンに向きなおった。「よし。必要なだけの人数を連れていくがいい。王女から五マイル以内にはマーゴ人を近づけないようにしてほしい」
「誓ってそのようにいたします」オルバンは高らかに宣言すると、馬の向きを変えて森の中に飛び込んでいった。
それ以後、一行は前よりも慎重に進軍するようになった。セ・ネドラが演説するときには要所要所に射手が配置された。オルバンはにこりともせず、かれらの行く手の森から数人のマーゴ人を狩り出したと報告した。だがその他にはたいした事件もなく過ぎた。
一行がようやく森を抜けてアレンディアの大平原のまっただ中に出たのは、もう夏に近いある日のことだった。その頃までにはセ・ネドラはアレンディア中の壮健者たちのほとんどを彼女の軍隊に組み入れていた。先頭を切って大平原を進む彼女の背後には、人間の海を思わせる大集団が広がっていた。森を背後にしたかれらの頭上で空は抜けるように澄みわたり、ひづめの下の春草はどこまでも青々と続いていた。
「さてこれからどこへ行かれますか、妃殿下」マンドラレンがたずねた。
「ボー・ミンブルよ」セ・ネドラは答えた。「そこでミンブレイト騎士団を説得して、今度はトルネドラに行こうと思うの」
「お父上がまだきみを愛していることを祈ろう」ローダー王が言った。「軍隊を引き連れてトルネドラに戻った娘を許すにはたいそう愛が必要だろうからな」
「父はわたしに目がないのよ」セ・ネドラは保証するように言った。
それでもローダー王の疑わしげな表情は消えなかった。
かれらはコロダリン王がミンブレイト騎士団とその家来たちを従えて待つボー・ミンブルに向かって中央アレンディアの大平原を横切っていった。天候はすばらしく、太陽の光は一行の上にもさんさんと降り注いでいた。
ある晴れた朝、出発して間もなくポルガラが背後から一人馬を走らせ、先頭を進む王女のかたわらに並んだ。「お父上をどう説得するかもう考えは決まっていて?」女魔術師はたずねた。
「じつを言えばまだなの」王女は打ち明けた。「あの人を説得するのは相当たいへんなことになりそうだわ」
「ボルーン一族は皆そうよ」
「わたしだってボルーン一族のひとりよ」
「わかっていてよ」ポルガラはじっと見透かすようなまなざしで少女を見た。「ここ何ヵ月かであなたは本当に大人になったわね」
「だって、そうするしかなかったんですもの。全部のことがいっぺんに押し寄せてきたような気がするわ」急に何かを思いついたようにセ・ネドラはクスクス笑った。「かわいそうなガリオン」
「なぜかれがかわいそうなの」
「わたし、かれにずいぶんひどいことをしてきたわね」
「控えめにいってもそのとおりだと思うわ」
「どうして皆わたしに我慢できたのかしら」
「四六時中歯を食いしばっていたのよ」
「あの人は喜んでくれるかしら――もしわたしのやってることを知ったらという意味だけど」
「ええ」ポルガラは言った。「きっと喜ぶと思うわ」
「わたしこれから今までの埋めあわせをするわ」セ・ネドラは言った。「世界中で一番いい奥さんになってみせるの」
「それは素敵だこと」
「もう二度と口げんかをしたり怒鳴ったりしないわ」
「あまり守れないような約束はしない方がよくてよ、セ・ネドラ」ポルガラが忠告した。
「そうね」小さな王女は言い直した。「なるべく口げんかしたり怒鳴ったりしないようにするわ」
ポルガラはほほ笑んだ。「楽しみにしてるわ」
ミンブレイト騎士団はボー・ミンブルの手前の大平原に野営していた。重騎兵の一団を加えたかれらの膨大な軍隊は、太陽の光を反射してまばゆく輝いた。
「まあ、何てことかしら」アローンの王たちとともに街を一望する丘の頂から見おろしたセ・ネドラは膨大な集団を見て絶句した。
「どうかしたのかね」ローダーがたずねた。
「だってあんなにたくさんいるんですもの」
「それこそ望むところじゃないかね」
黒い髪に髭を生やし、ぴかぴかの鎧の上に黒いビロードの外衣をつけた、背の高いミンブレイト騎士が丘を駆け上がってきたかと思うと、一行より数ヤード手前で馬をとめた。騎士は次次と一同の顔を見わたし、礼儀正しく身をかがめた。それから今度はマンドラレンに向きなおった。「アレンディア王コロダリンより、ボー・マンドールのならず者に心からの挨拶を送るとのことだ」
「まだ例の件は解決してなかったのか」バラクがそっとマンドラレンにささやいた。
「そのような暇がありませんでしたからな」マンドラレンは騎士の方に向きなおった。「親愛なるアンドリグ卿よ、どうかわが国王陛下に心からのご挨拶を申し上げていただきたい。また陛下にわれわれが平和的な趣旨のもとにまいったとお伝えいただきたい――恐らくはすでにご存じであろうが」
「しかと承った。マンドラレン殿」アンドリグは答えた。
「よう、きみのりんごの木はどうしたかね、アンドリグ」バラクがにやにやしながらたずねた。
「むろんみごとに成育いたしておりますぞ、トレルハイム伯爵」アンドリグは得意げに答えた。
「細心の注意をもって育てたおかげで、今年はたくさんの収穫が期待されます。聖なるベルガラス殿も決して失望はなされますまい」かれは再び背を向けると百ヤードばかりの間隔をおいてホルンを吹きならしながら去っていった。
「いったい今の話はどういうことなんだ」アンヘグ王がけげんそうな表情で赤髭のいとこにたずねた。
「いや、前にここへ来たことがあってね」とバラクが答えた。「あいつはわれわれがいくらベルガラスだといっても信じなかったんだ。そこでベルガラスは中庭の石からりんごの木を生やしてみせ、かれを納得させたのさ」
「申し訳ありませんが」マンドラレンの目が突然苦痛に曇った。「あれに見えるのはわたしの友人たちのようです。すぐに戻ってまいりますので失礼を」そう言うとかれはボー・ミンブルの街から走り出てきた騎士と貴婦人に向かって馬を走らせた。
「まったくもっていいやつなんだが」バラクが考え深げに言った。「やつと話すたびにおれの言葉がみんな固い芯にはね返されるような気がするのはなぜなんだろう」
「マンドラレンはわたしの騎士ですからね」セ・ネドラは突然自分の勇士をかばいたい衝動に駆られながら言った。「あの人は考える必要なんかないのよ。かれの代わりにわたしが考えるわ」彼女はだしぬけに口ごもった。「そうなったら大変なことになるわね」
ローダー王が笑った。「まったくきみはたいしたお嬢さんだよ」かれは愛情深げに言った。
「だがときどき不遠慮に口をすべらせることがあるな」
「あの人たちはいったい誰なの」ボー・ミンブルの門から出てきた男女に向かって馬を走らせるマンドラレンの後ろ姿を興味深げに眺めていたセ・ネドラがたずねた。
「あれはボー・エボール男爵ですよ」ダーニクは静かな声で言った。「そしてあのご婦人は奥方のネリーナ男爵夫人です。マンドラレンはあの方を愛しているのですよ」
「何ですって」
「いや、別に不道徳でも何でもありません」かれは慌てて言った。「最初のうちはわたしにも理解できませんでしたが、どうやらアレンディアではこの種のことがざらに起こるらしいのです。むろん悲劇には違いありません。あの三人はひどく苦しんでいるはずです」善良な男はため息をついた。
「何てことでしょう」セ・ネドラは唇をかんだ。「わたし、全然知らなかったわ――なのにずいぶんひどいことをしてきたのね」
「むろんかれは許してくれますとも」ダーニクが彼女に言った。「あの男はたいそう寛大な心の持ち主ですからね」
しばらくしてから、マンドラレンと二十人ばかりの鎧姿の騎士にともなわれたコロダリン王が姿をあらわした。セ・ネドラはすでにこの若き王に数年前に会っており、そのときは青白く痩せぎすな声の美しい青年という印象を受けていた。こうしてまのあたりに見る青年王は上から下までを完全に鎧で固め、深紅の外衣をはおっていた。かれはセ・ネドラに近づきながら兜の面頬を上げた。「妃殿下」かれは重々しい声で挨拶した。「われわれ一同、殿下のおなりを心からお待ちいたしておりました」
「ご親切にありがとうございます、陛下」セ・ネドラも挨拶を返した。
「われわれは皆アストゥリアの同胞たちを召集なさったことに深い驚嘆の念を抱いております」王は言った。「あなたさまのこ演説は、かれらの積年の反目を忘れさせるほど素晴らしいものであるとか」
「コロダリン王よ、あまり時間がないのだ」ローダー王が口をはさんだ。「妃殿下はきみの騎士たちの前で演説をしたいとおっしゃっている――むろんきみの許可あってのことだが。いったんその演説を聞きさえすれば、彼女がいかにわれわれの呼びかけにとって必要な人物なのかきみにもわかるはずだ」
「ただちに、おっしゃるとおりにいたします」コロダリンは、さっそく部下に命令を下した。
「ミンブルのすべての騎士並びに兵士たちに、リヴァの女王より重大な発表があると伝えよ」
そうしている間にセ・ネドラに率いられてアレンディアの平原を行軍してきた兵馬が次々に到着し、ボー・ミンブルの前の平坦地に集結しはじめていた。かれらに向かいあうようにして整列したミンブレイト騎士団が、鎧をきらめかせながら立ちはだかっていた。にらみあう両者の間で疑惑の火花がぱちぱちとはじけ散った。
「どうやらなるべく早く始めた方がよさそうだぞ」チョ・ハグ王が言った。「どんなきっかけでわれわれが一番避けたい事態がはじまらないとも限らないからな」
セ・ネドラの胃はすでにむかつきを覚えはじめていた。だがその感覚はすっかりおなじみのものになっていたので、今さら彼女を不安がらせることもなかった。演壇がセ・ネドラの軍隊とコロダリン王の騎士団の間に置かれた。友人やミンブレイトの儀仗兵につきそわれた王女は演壇まで進むと不安なおももちで馬をおりた。
「好きなだけたっぷりしゃべっていいわ」レディ・ポルガラが小さな声で忠告した。「ミンブレイトは格式ばったことが大好きだし、何か儀式めいたものを演じてみせれば何時間も石のように座っていることでしょう。ちょうど日没まであと二時間あるわ。しめくくりのクライマックスと日没がちょうど重なるようにすればいいわ」
セ・ネドラはあえいだ。「二時間ですって」
「もしそれだけじゃ足りないのならかがり火を焚いてもいいですよ」ダーニクが協力を申し出た。
「いいえ、二時間でちょうどいいでしょう」レディ・ポルガラが言った。
セ・ネドラは急いで頭の中で演説を復唱した。「ちゃんと一人残らず聞こえるようにして下さるわよね」彼女はポルガラに言った。
「大丈夫、ちゃんと聞こえるようにするわ」
セ・ネドラは深く息を吸いこんだ。「いいわ。さあ、行くわよ」そして彼女は助けられながら演壇にあがった。
それは決して楽なものではなかった。いつだって楽だったことはなかったが、北アレンディアにおける経験が、彼女に観衆の雰囲気をつかみ、話しぶりをそれにあわせて変えていくことを覚えさせていた。ポルガラがあらかじめ言ったとおり、ミンブレイトは嬉々として長い話にじっと聞き入っているようだった。それに加えて彼女がボー・ミンブルに立っているということが、より劇的な効果を生み出していた。かつて他ならぬトラク自身がこの地を踏み、アンガラク軍はこの地から、平原の外れに光る堅牢な都市外壁に向かって人間の海のようになだれを打って押し寄せたのだ。セ・ネドラの唇から漏れでる言葉は、波のようにうねり彼女の熱烈な主張を伝えた。ポルガラがいかなる魔法を用いているにせよ、リヴァの女王の声は観衆の一番はじにまで届いていた。セ・ネドラは彼女の言葉の効果が観衆の間にさざ波のように広がっていくのを見てとった。それはまるで頭を垂れた小麦畑をわたるそよ風のようだった。
そして太陽が西の地平線近くの黄金色の雲のなかに浮かぶころ、セ・ネドラはいよいよ自然現象を利用して総仕上げにかかった。誇り∞名誉∞勇気≠サして義務≠ニいった言葉がすっかり心を奪われた人々の血管に注ぎこまれた。そして太陽の最後の燃えるような光が平原をまっ赤に染め上げた瞬間と同時に、彼女の最後の呼びかけが発せられた。「わたしの後についてきなさい!」そのとたん、耳をつんざくようなどよめきとともにミンブレイト騎士団の剣がいっせいに上がった。
太陽で暖められた鎧の下でぐっしょり汗をかきながら、セ・ネドラはいつものようにさっと自分の剣を差しあげてかれらに応えた。そして馬に飛び乗ると、背後に膨大な軍勢を従えて走り去った。
「みごとだ!」コロダリン王がセ・ネドラのあとにしたがいながら、感嘆したように言った。
「さあ、これでわれわれがなぜ彼女のあとについてきたのか合点がいっただろう?」アンヘグ王がたずねた。
「いや、これは何とも素晴らしい」コロダリン王は興奮したようなおももちで言った。「あのような雄弁は神よりの賜物以外の何ものでもありません。じつのところを申しあげれば、今回の企てにはいささか疑念を抱いておりました。だがこれならばわたしも心安んじてアンガラクの大軍にあたることができるというものです。天みずから遺わされたこの素晴らしい御子が共にあるかぎり、われわれは決して負けることはないでしょう」
「わたしだったらトルネドラ軍が彼女にどう反応するかを見てから喜ぶことにするね」ローダー王が言った。「連中は何といっても百戦錬磨の戦士たちだ。かれらを動かすには愛国心をくすぐる以上の何かが必要だろうからね」
だがセ・ネドラはすでにそれにとりかかっていた。彼女は夜、天幕で一人髪をとかしながらあらゆる角度から問題を検討した。トルネドラの同郷人の心をひきつけるには特別な何かが必要である。そして彼女には本能的にそれが何であるかわかっていた。
突然、護符が小きざみに震えはじめた。こんな不思議なことが起こったのは初めてだった。セ・ネドラはブラシをおろして、指先で銀色の護符にふれた。
「おとうさん、聞こえているんでしょう」だしぬけにポルガラの声がした。同時にセ・ネドラの脳裏に、夜の風に髪をなびかせながら丘の上にたたずむ女魔術師の姿が浮かび上がった。
「もうおまえさんの機嫌はおさまったかな」ベルガラスの声は用心深かった。
「それはまた後で話しあうことにしましょう。今いったい何をしているの」
「ナドラクの酔っぱらいたちに囲まれて往生しておる。われわれは今ヤー・ナドラクの居酒屋にいるのだ」
「そんなことだろうと思ったわ。ガリオンは元気かしら」
「むろんだとも。あいつには指一本ふれさせないさ。おまえたちは今どこにいるんだ」
「ボー・ミンブルよ。わたしたちはアレンド人を召集して、あすの朝トルネドラに向かうわ」
「ラン・ボルーンは一筋縄にはいくまい」
「でもわたしたちにはなかなか有利な条件があるのよ。セ・ネドラが軍隊を率いているの」
「セ・ネドラが?」ベルガラスはいささか驚いたようだった。
「たぶんムリン古写本に出てたのはこのことだったんだわ。あの子はアレンド人を説得してまわり、まるでわが物のようにかれらを森から追いたてたのよ」
「そいつはまた何とも素晴らしいことだ」
「南マーゴ軍がすでにラク・ゴスカに集結している話はご存じ?」
「そんな話を聞いてはいるがな」
「これですべてが変わってしまうわね。そうでしょう?」
「たぶんな。軍隊の責任者は誰だ」
「ローダーよ」
「よし、やつにあんまり表だった動きをしないように言ってくれ。ただしわれわれからアンガラク人の目を引き離しておくことは忘れんでほしい」
「ええ、できるかぎりそうするわ」ポルガラはしばらく次の言葉をためらっているようだった。
「おとうさんは元気なの?」その口調はきわめて用心深かった。なぜか彼女はその質問にひどくこだわっているようだった。
「わしがまだ自分の力を完全に使いこなせるという意味かね」老人はどこかおもしろがってるような口調で言った。「おまえさんが心配してたとガリオンが言っておったぞ」
「あれほど口外してはだめだと言ったのに」
「だがあいつがその質問をしたときには、すでにそんな心配は過去のものになっていたのさ」
「おとうさんは――まだ、大丈夫なの」
「何もかも前とまったく変わりゃしないぞ、ポル」老人は安心させるように言った。
「わたしの愛をガリオンに伝えてね」
「むろんだとも。あんまりしょっちゅう呼び出されちゃかなわんが、連絡は絶やさんようにしてくれ」
「わかったわ、おとうさん」
セ・ネドラの指の下で護符が再び震えた。突然、ポルガラの厳しい声が聞こえた。「さあ、もう盗聴をやめてもいいわよ、セ・ネドラ」
王女はきまり悪げに護符から指を離した。
翌朝、まだ暗いうちから彼女はバラクとダーニクを呼びだした。
「全軍にアンガラクの金貨が行きわたるようにしてほしいの」彼女は言った。「一人一人にね。もし必要ならば人から買いとってもいいわ。とにかく手に入る限りの赤い金貨をかき集めてちょうだい」
「理由ぐらい教えてもらえるんだろうな」バラクがむっつりした声で言った。かれは日の出より早くベッドからたたき出されたことで不機嫌になっていた。
「わたしはトルネドラ人よ」王女は答えた。「自分の国民の性格はよくわかっているつもりだわ。わたしにはちょっとした餌が必要なのよ」
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トルネドラ皇帝ラン・ボルーン二十三世は、怒りのあまり顔を土気色にそめていた。セ・ネドラは、父親が彼女のいないうちにすっかり老け込んでしまったのを見て、鋭い心の痛みをおぼえた。きたるべき再会がもっと愛情にみちたものであればいいのにと願わずにいられなかった。
軍団を引き連れて北トルネドラの平坦地にやってきた皇帝は、そこでヴォードゥの森からあらわれたセ・ネドラの軍隊と出会った。太陽は空気を暖め、きらめく鋼の広大な海からそびえたつようにして深紅の軍団旗が、威風堂々と夏のそよ風の中にひるがえっていた。低い丘の頂の要所要所ごとに配置されたトルネドラ軍は、地形的な優位を利用して、不規則に広がるセ・ネドラの軍隊を見おろした。
皇帝に謁見するために馬をおりるのを見はからって、ローダー王は若い王女にやんわりと忠告した。「われわれはここに戦争をしに来たんではないのだからね。せいぜいお行儀をよくしてくれたまえよ」
「陛下に言われなくともそれぐらいわかってますわ」彼女はつんと澄ましたようすで兜を脱ぐと、ていねいに髪をなでつけた。
「セ・ネドラ」ローダーは少女の腕をむんずとつかみ、厳しい声で言った。「きみはアレンディアに上陸したときから、気まぐれ放題を押し通してきた。およそ自分が何をやらかそうとしているのか皆目わかっておらん。いいか、わたしは頭上のトルネドラ軍といっさい悶着を起こすつもりはない。だからきみも、せいぜいお父上に礼儀正しく接することだ。さもなきゃこの場できみをひざの上に載せてお尻をぶつからな。わかったか」
「ローダー!」セ・ネドラはあえいだ。「何てひどいことおっしゃるの」
「わたしは本気だぞ。ちゃんとお行儀よくするんだ、お嬢さん」
「ええ、約束するわ」セ・ネドラははにかむ子供のような微笑を浮かべ、まつ毛をぱちぱちさせながらローダー王を見た。「ねえ、まだわたしを愛して下さってるでしょ」彼女は小さな声で言った。
ローダー王がやれやれという顔をするのを見たセ・ネドラは、丸まる太った男のほおを優しく撫でた。「大丈夫、きっとうまく行くわよ」彼女は安心させるように言った。「ほら、おとうさまが来るわ」
「セ・ネドラ」ラン・ボルーンはつかつかと大股で歩み寄りながら、怒気を含んだ声で言った。
「いったい全体、おまえは自分が何をしてるのかわかっているのか」皇帝は金に浮き彫りをほどこした鎧を着ていたが、セ・ネドラには悪趣味としかうつらなかった。
「あら、ちょっと通させてもらうだけよ」王女はつとめてさりげない声で言った。「お元気だった? おとうさま」
「おまえがわしの国境を侵犯するまではな。いったいこんな軍隊をどこから集めてきたんだ」
「あちらこちらからよ」そう言うと彼女は肩をすくめてみせた。「ねえ、どこかでお話したいわ――二人だけで」
「おまえと話すことなんぞないわい」はげ頭の小男はにべもなく答えた。「この軍隊がわしの国の上を踏んでいるかぎり、わしはいっさい話などせんからな」
「まあ、おとうさまたら」彼女は叱責するような声を出した。「大人げないまねは、やめてちょうだい」
「大人げない!」皇帝の怒りが爆発した。「大人げないだと!」
「王女さまはたぶん言葉を間違えられたのでしょう」ローダー王はセ・ネドラをにらみつけながら、二人の間に割って入った。「ご存じのように、彼女はときどき不用意な発言をなさるので」
「ローダー、おまえこそここで何をしてるんだ」皇帝はかみつくように言った。かれは慌ただしく諸王の顔を見渡した。「アローン人がトルネドラを侵略するとは、いったいどういう料簡なんだ」
「われわれは侵略なんぞしとらんぞ、ラン・ボルーン」アンヘグ王が言った。「もしそうならわれわれの後には、街や村を焼きはらう煙があがっとる。アローン人の戦争の仕方は、おまえさんだってよく知っとるはずだ」
「じゃあ、ここでいったい何をしようというんだ」
チョ・ハグ王が穏やかな声で言った。「さきほど妃殿下のおっしゃられたように、東へ向かっているだけですよ」
「東へ何の用がある?」
「おまえさんの知ったことじゃない」アンヘグがぶっきらぼうな声で答えた。
「もっと礼儀正しくしてちょうだい」レディ・ポルガラはチェレク王にそう言い捨てると、皇帝の方を向いた。「去年の夏、父とわたしで説明したでしょう。あなたも聞いていたはずよ」
「そいつはおまえらがわしの娘を誘拐する前の話だ。いったいあいつに何をしたんだ。前だっていいかげん手を焼いていたのに、いまや完全に手におえんありさまだ」
「子供というのは成長するものじゃなくて、陛下」ポルガラが落着きはらって言った。「それに女王の言ってることは、たしかに正鵠《せいこく》を射ているわ。わたしたちは確かに話し合うことが必要よ。それもごく内密にね」
「どこの女王のことを言っとるんだね」皇帝は辛らつな声で言い返した。「そんなもの見当たらないが」
セ・ネドラの顔がこわばった。「おとうさまったら」彼女はぴしゃりと言った。「何があったか、よくご存じのはずよ。冗談を言うのもいい加減にして、まじめに話してちょうだい。とっても大切なことなのよ」
「わしが冗談を言うような人間かどうか、王女の方がよく知っとるはずだ」皇帝は氷のように冷たい声で言った。
「女王よ」娘が訂正した。
「王女だ」父が言い返した。
「女王よ」セ・ネドラの声が一オクターブあがった。
「王女だ」皇帝が食いしばった歯のあいだから言った。
「そんなふうにお互いの軍隊の前で、聞きわけのない子供のようにいがみ合う必要があるのかしら」ポルガラが穏やかに言った。
「ポルガラの言うとおりだ」ローダーはラン・ボルーンに向かって言った。「このままではもの笑いのたねになるぞ。せいぜい最低限の威厳を保つぐらいの努力は、した方がいいんじゃないかね」
さほど離れていない丘の頂上に陣取る、ぴかぴかした鎧の列を、皇帝は心ならずもちらりと振り返った。「よし、わかった」かれは不承不承みとめた。「ただしはっきり言っとくが、あくまでも話しあうのはおまえたちのトルネドラからの撤退についてだぞ。よろしければわが方の大天幕に案内しよう」
「どうせおまえたちの軍隊のまっただ中にあるんだろう」アンヘグ王が言った。「申し訳ないがわれわれとて、のこのこついていくような馬鹿ではないのでな。かわりにわれわれの大天幕にそっちが来るというのはどうだね」
「わしだってそれほど馬鹿ではないぞ」皇帝がやり返した。
「失礼だが」フルラク王が穏やかに割って入った。「お互いの便宜を考えれば、ここで話しあうのが一番よろしいのではないですかな」かれはブレンディグ大佐の方を向いて言った。「大佐、この場所に大きな天幕を張ってはもらえんかな」
「かしこまりました、国王陛下」ブレンディグ大佐はきまじめな顔で答えた。
ローダー王がにやにやしながら言った。「見てのとおり、センダリア人の有能さは単なる伝説ではないのだ」
皇帝は嫌な顔をしたが、それでも礼儀は忘れなかった。「ひさしぶりだな、フルラクよ。ライラは元気だろうな」
「妻からよろしくとのことだ」センダリアの王がうやうやしく言った。
「フルラク、おまえだけはまっとうな男だと思っていたのに」皇帝は突然怒り始めた。「なんだってこんな気狂いじみた企ての片棒をかついだりするのだ」
「そのことについても、内密に話しあった方がいいんじゃないかしら」ポルガラがさりげなく言った。
「ところで、きみのところの王位継承のごたごたはどうなってるんだ」ローダーが打ちとけた口調でたずねた。
「あいかわらず宙に浮いたままだ」ラン・ボルーンも普通の声に戻りながら答えた。「ホネス家は軍隊に合流しはじめているようだがな」
「そいつはまた気の毒なことだ」とローダー。「ホネス家の噂は、あまり芳しいものとはいえないからな」
そうしている間にもさほど離れてはいない草地の上で、ブレンディグ大佐の指揮のもとにセンダリアの一分隊がすみやかに鮮やかな色の大天幕を組み立て始めていた。
「カドール大公は処罰したの」セ・ネドラはたずねた。
「大公は生きていくことにすっかり絶望してな」皇帝は短い笑いをもらした。「誰かがやつの独房に、うっかり毒物を置き忘れたのだ。むろんわれわれは盛大に弔ってやったさ」
セ・ネドラはほほ笑んだ。「その場面を見逃して残念だったわ」
「大天幕の用意が整いましたぞ」フルラク王が一同に伝えた。「なかへ入ろうではないか」
一同はなかへ入るとセンダリアの兵隊が用意したテーブルの前についた。セ・ネドラのために椅子を引いたのは、皇帝つき侍従のモリン卿だった。
「おとうさまの具合はどうなの」彼女は茶色のマント姿の式部官にそっとたずねた。
「じつのところを申し上げれば、あまりよくないのです」モリンは小さな声で答えた。「王女さまが行ってしまわれたことを、ご自分でお認めになられるよりもはるかに悲しんでいらっしゃるのです」
「ちゃんと、食べているのかしら。睡眠もたっぷりとってるの?」
「なるべくそうしていただくように努力はいたしておりますが」モリンは肩をすくめた。「いかんせん、お父上はなかなか人の言うことを聞かれる方ではないので」
「おとうさまのお薬は持っているの」
「むろんこのわたしが肌身離さず持っておりますよ」
「それでは本題に入りたいと思う」ローダーが言った。「現在タウル・ウルガスは西の国境を封鎖して、南マーゴ軍をラク・ゴスカの要所要所に集結させている。一方マロリー皇帝ザカーズはタール・ゼリク郊外の平原に足がかりを築いて、船で輸送してくるかれらの軍隊を受け入れる態勢を着々と進めつつある。もはや一刻の猶予もならんのだぞ、ラン・ボルーン殿よ」
「タウル・ウルガスとは目下交渉中だ」皇帝は答えた。「それにザカーズ皇帝にはただちに急使を派遣する予定でいる」
「タウル・ウルガスに何を言っても馬の耳に念仏さ」アンヘグが鼻息荒く言った。「それにザカーズは、きみのことなど鼻にも引っかけんだろう。連中は兵力が整うやいなや、進軍を開始してくるに決まっておる。そうなればむろん戦争は避けられないだろうが、わたしとしちゃむしろ大歓迎したいね。このさいアンガラク人を、最後の一人までこの世から一掃してやろうじゃないか」
「そいつは少しばかり行きすぎではないかね、アンヘグよ」ラン・ボルーンが言った。
「失礼ながら皇帝陛下」コロダリン王が格式ばった口調で言った。「ただ今のこ発言は少々性急すぎたかもしれませんが、チェレクの王のお言葉にも一理あると思われますぞ。われわれとていつまでも東側の脅威の前に、むざむざ指をくわえているわけにはいきませぬ。このさい一気にたたきつぶしてやった方がよいでしょう」
「皆さんのお話もたいそうおもしろうございますけれど」セ・ネドラが冷ややかな口調で割ってはいった。「いささか本題とは離れていらっしゃるようですわ。わたしたちが今問題にしなければならないのは、リヴァ王が帰還なされた今、トルネドラはボー・ミンブルの協定の条項に従って、かれの指揮下に入らねばならないということですわ」
「むろんそのとおりだ」彼女の父親は答えた。「だがお見受けしたところ、肝心の若きベルガリオン王がおられないようだが。いったいどこかに置き忘れてきたというのかね。それとも王は、リヴァの台所で鍋を磨くのにお忙しくて来れないのかね」
「卑しいまねはおよしになって、おとうさま」セ・ネドラは蔑むように言った。「〈西の大君主〉があなたに兵を出せと命じているのよ。協定を破棄して、トルネドラのボルーン家の名に泥を塗るつもりなの」
「いやいやとんでもないぞ、娘よ」かれは両手を上げながら言った。「トルネドラはいつだって、いったん署名した条約の一字一句にいたるまで忠実に遵守しますぞ。協定ではベルガリオン王に従えとある。むろんわしとてただちに従うつもりだ――王みずからわしの前におこしいただいて、命じていただく限りは」
「だからわたしが王の代行として来たのよ」セ・ネドラが高らかに言った。
「はて、王権がそのようにたやすく譲り渡せるとは、どこにも述べられていなかったような気がするが」
「わたしはリヴァの女王なのよ」セ・ネドラは気色ばんだ。「わたしはベルガリオン王みずから認めている共同統治者なんですからね」
「ほほう、だとしたらさぞかしひっそりした結婚式だったに違いない。仲間はずれにされるとは何とも寂しいことだ」
「結婚式はいずれ然るべきときになったらちゃんと行ないます。わたしは今、ベルガリオンとリヴァの意志を代表して話しているのよ」
「好きなだけしゃべるがよい、娘よ」皇帝は肩をすくめてみせた。「わたしにはおまえのたわごとに耳を貸す義務などないのだからな。今の時点では、おまえはリヴァ王の婚約者にしか過ぎん。厳密に法に照らし合わせてみれば、結婚するときまでおまえはわしの支配下にあるのだ。素直にわび、その馬鹿らしい鎧を脱いできちんとした服を着れば、許してやらんこともない。さもなければおまえにお仕置きしなければならん」
「お仕置きですって。笑わせないでよ!」
「わしに向かってきんきん声を上げるのはやめろ!」皇帝はむきになってやり返した。
「どうやら事態は急速に悪化の一途をたどっているようだな」バラクがそっけない口調でアンヘグに言った。
「そのようだ」アンヘグがあいづちを打った。
「わたしはリヴァの女王です!」セ・ネドラは父親にわめきたてた。
「おまえは単なる馬鹿娘にすぎん!」かれも負けずに怒鳴りかえした。
「もうたくさんだわ!」彼女はすっくと立ち上がった。「さっさと軍の指揮権をわたしに譲り渡して、トル・ホネスに帰って、召使いに肩掛けをかけてもらっておかゆでもすすってなさいよ。あなたみたいな老いぼれとじゃ話になりゃしないわ」
「老いぼれと言ったな!」皇帝もまた怒りにまかせて立ち上がった。「とっととわしの目の前から消えうせろ! ただちにおまえのいやったらしいアローン人の軍隊をつれて、トルネドラから出ていけ。さもなければわしの軍隊に命じておっぽり出すそ!」
セ・ネドラはすでに天幕の出口にむかってつかつかと歩み去るところだった。
「こら、待て! まだ話はすんじゃいないぞ」
「あなたに話すことなんてないわ!」彼女は怒鳴り返した。「わたしはこれから他の人たちのところへ話に行くわ。バラク、あなたの鞍にくくりつけた例の袋をちょうだい」彼女は罵りの言葉を吐き散らしながら、天幕から駆け出して馬に飛び乗った。
「本当にあんなことをして大丈夫なのかい」バラクはアンガラク金貨の袋を彼女の馬の鞍に取りつけながら言った。
「いいのよ」セ・ネドラは落着いた声で答えた。
バラクは眉をしかめながら王女を見やった。「ずいぶんとまた早くご機嫌がなおったもんだな」
「あら、一度だって悪くなってなんかいないわよ、バラク」
「それじゃ、あれはわざとやったのかい」
「もちろんよ。というより部分的にはそうよ。おとうさまが正気を取り戻すまで、一時間かそこいらはかかるでしょう。でもそのときにはもう遅すぎるというわけよ。ローダーたちに軍隊を進軍させる準備をしてと伝えてちょうだい。トルネドラ軍団が合流するわ」
「なぜ、そんなことがわかるんだい」
「今からわたしがかれらを引っさらってくるからよ」そう言いながら彼女は天幕から出てきたマンドラレンの方を向いた。「いったい今までどこに行ってたの。いっしょに来てちょうだい。わたしには付き添いが必要なのよ」
「どこへ行かれるのですか」騎士はたずねた。
「今にわかるわよ」彼女は馬の向きを変えると、ひしめきあう軍団めがけて、山腹を駆け登っていった。マンドラレンはやれやれといったおももちで、バラクと視線を交わし、鎧をがちゃがちゃいわせながら鞍にまたがり、後に従った。
先頭にたつセ・ネドラは注意深く胸元の護符に指先をあてた。「レディ・ポルガラ」彼女はそっと呼びかけた。「わたしの声が聞こえて?」果たして護符が思うとおりの働きをしてくれるかどうか、彼女にはわからなかったが、今はこれに賭けるしかないのだ。「レディ・ポルガラ」彼女はいくらか前よりも緊迫した声で呼びかけた。
「いったい何をしようというの、セ・ネドラ?」小さな王女の頭の中に、ポルガラの声がはっきりと聞こえた。
「わたしはこれからトルネドラ軍を説得するのよ」セ・ネドラは答えた。「かれら全員に、わたしの声が聞こえるようにしてくださる?」
「いいわよ。でもあなたのお国の人たちは、愛国的な演説に見向きもしないと思うわ」
「わたしには別の考えがあるのよ」セ・ネドラは自信ありげに答えた。
「あなたのお父上が発作を起こしてるわよ。口から泡をふいていらしてよ」
セ・ネドラは悲しげなため息をついた。「わかってるわ」彼女は答えた。「興奮するとよくそうなるのよ。モリン卿がお薬を持っているわ。お願いだから父が舌を噛まないようにしてあげてちょうだい」
「あなた、わざとかれを怒らせたのね? セ・ネドラ」
「どうしても軍団を説得する時間がほしかったのよ」王女は答えた。「発作はそれほど深刻なものじゃないわ。これまでもしょっちゅうあったのよ。終わると鼻から血を流して、ひどい頭痛を起こすわ。お願いだからおとうさまの面倒をみてあげてね。わたし、おとうさまを愛しているのですもの」
「わたしがやるべきことはわかったわ。でもこのことについては、後であなたとよく話しあった方がよさそうね。世の中にはやってはいけないこともあるのよ」
「でも他にどうしようもなかったのよ、レディ・ポルガラ。これもみなガリオンのためなのですもの。わたしの声が、トルネドラ軍に一人残らず聞こえるようにして下さるわね。これはとっても大切なことなのよ」
「わかったわ、セ・ネドラ。でも、くれぐれも軽はずみは慎んでちょうだい」そして声は聞こえなくなった。
セ・ネドラは目の前にずらりと並んだ軍勢をさっと一瞥し、そこになじみの第八三軍団の紋章を見つけると、その前に乗り入れた。彼女の顔を知り、その身分を他の軍団に知らしめてくれるような人物の前に行くことが、どうしても必要だったからである。もともとこの第八三軍団というのは、儀礼用の軍隊であり、伝統的にかれらの兵舎はトル・ホネスの王宮内にあった。かれらは選ばれた者たちの集まりであり、代々世襲され、宮殿で近衛兵を務めてきたのである。セ・ネドラ自身、第八三軍団の兵士たちすべての顔を見知っていたし、ほとんどの名前も知っていた。彼女は自信たっぷりに近づいていった。
「アルボー大佐」彼女は第八三軍団の隊長に向かって、優雅なものごしで挨拶した。かっぷくのいい、赤ら顔の、こみかめのところに灰色のものを混じえた男だった。
「これは王女さま」大佐もまたうやうやしげに頭を傾けてみせた。「あなたさまのお姿がないので、ずいぶんさびしい思いをいたしておりましたぞ」
だがセ・ネドラにはそれが嘘だということがわかっていた。彼女の護衛をする任務は、兵舎内のサイコロばくちの賭けの対象になっていたのだ。護衛の栄誉は常に敗者に与えられていた。
「大佐、あなたにちょっとしたお願いがあるのよ」彼女はあらんかぎりの愛嬌をこめて言った。
「わたくしにできますことならば、何なりと」かれは用心するように答えた。
「おとうさまの軍隊に、ぜひ言わねばならないことがあるの」彼女は説明した。「だからわたしが誰であるかを皆に知ってもらいたいのよね」セ・ネドラは男にほほ笑みかけた――優しく、だが不信をこめて。ホルバイトのアルボーを、彼女は心ひそかにきらっていた。「あなたがた第八三軍団の人たちがわたしを礼賛してくれれば、残りの兵士たちもわたしが誰かがわかってくれると思うのよ」
「たしかにおっしゃるとおりですな、王女」アルボーは同意した。
「それじゃ、今すぐ他の軍団にも走り使いを飛ばして、わたしが誰であるかを伝えて下さる?」
「ただちに仰せに従いますとも」アルボーはうなずいた。かれは明らかに王女の頼みに何の疑念も抱いてはいないようだった。ほんの一瞬だったが、セ・ネドラは心から相手を気の毒に思った。
ただちに使い走りが――もっとも第八三軍団の兵士たちはあまりいい走者ではないので、ほとんど急ぎ足に近かった――群れ集う軍団のあいだをぬってまわり始めた。セ・ネドラはしばしアルボー大佐やその部下と談笑していたが、その間にも用心おこたりなく、発作から回復しつつある父親のいる天幕に、あるいはトルネドラの将軍が結集する黄金の天蓋に目をやるのを忘れなかった。好奇心を起こした将校たちの一人に、何をしているのかたずねにこられるのは、彼女の望むところではなかった。
ついにこれ以上行動を引きのばすのは危険と思われるときになって、彼女は礼儀正しくアルボーの前を辞去した。そしてマンドラレンをすぐ横に従え、馬の向きを変えると、どこからでも王女の姿が見えるとおぼしき地点まで引き返した。
「さあ、ここでホルンを吹いてちょうだい、マンドラレン」彼女は騎士にむかって言った。
「ですが、ここではわたしどもの軍隊より離れすぎておりますぞ、王妃さま」マンドラレンは答えた。「人々を前に演説なさるのなら、もっと慎重にされた方がよいと思われますが。このわたしでさえも、こうして全トルネドラ軍を前にすれば、いささか不安を感じることでしょう」
「わたしがそんなもの平ちゃらなことくらい、わかってるでしょ、マンドラレン」
「むろんですとも、王妃さま」そう言うと騎士はホルンを唇の高さに持ち上げた。
ホルンの最後の響きが鳴りやむと同時に、セ・ネドラはすっかりおなじみになった吐き気で、胃腸がかきまわされるような気分を味わいながら、あぶみの上に立ち上がった。「全トルネドラ軍の皆さん!」彼女は呼びかけた。「わたしはセ・ネドラ。あなた方の皇帝ラン・ボルーンの娘です」この呼びかけは決していいものではなかったが、何とかきっかけを作らなければならなかった。今回の演説は、説得よりもむしろ見世物の要素が強いものになりそうなので、少しぐらいのぎごちなさは見逃してもらえることだろう。
「わたしがここに来たのは、皆さんを安心させるためです」彼女は続けた。「あなた方の前にいる軍隊は、きわめて平和のうちに行軍してきたものです。この美しい緑の野、神聖なるトルネドラの土を戦火のもとにさらしてはなりません。少なくとも、今日、帝国を守るために皆さんの軍団の血を流させるようなことはいたしません」
ほっとしたようなさざめきがおびただしい軍団の間をぬって流れた。いかに職分に徹した兵士とはいえ、戦いが回避されるということはいいニュースに違いなかった。セ・ネドラはここで深く、震える息を吸い込んだ。彼女が真に言わんとするところへ論理を導いていくには、ここからひとひねりが必要なのだ。「さしあたって、あなた方は半クラウン真鍮貨のために命をさし出す必要はありません」半クラウン真鍮貨というのは、トルネドラ軍の平均的な日給だった。「でも明日がどうかは保証はできません」彼女はなおも続けた。「いつ何どき帝国に変事が起きて、皆さんに命を投げ出していただくような事態になるともかぎりません。どこかの有力な商人が、その利益を守るために軍団の血を流させるような事態だって起こり得るのです」王女はここで手を上げて、痛ましげなしぐさをしてみせた。「でもそれはいつもの習わしですから仕方がありませんわね。この国の兵士たちは、他の国だったら金貨のところを真鍮貨のために死んでいくのです」
王女の言葉は同意の苦笑をもってむかえられた。セ・ネドラは父の兵士たちのむだ話から、この不満こそが万国の兵士たちの共通する意見であることを知っていた。「血と金貨――血はわれわれのもの、だが金貨は他人のもの」という言葉がほとんどかれらの座右の銘にさえなっていた。兵士たちの心はいまや彼女のものになろうとしていた。セ・ネドラの胃腸の震えがほんのちょっぴりおさまり、そのぶん声が大きくなった。
彼女はかれらにある昔話をした。幼い頃からさまざまに姿を変えて、聞かされてきたものだった。それは義務をまっとうして、金をもうけた良き兵士の話だった。かれの妻は兵士と結婚したばかりに、さまざまの苦難や別離の悲しみを味わなければならなかった。だが兵士が軍を除隊すると、二人は故郷へ帰り、小さな店を買い、これまでの苦難の日々も報われたのである。
「ところが、あるときこの妻が重い病にかかりました」セ・ネドラはなおも話を続けた。「ですが治療費はたいそう高かったのです」彼女は口を開いている間にも、鞍にしっかりとくくりつけられた袋のひもを解いていった。「医者はこれだけ必要だといいました」彼女はそう言いながら血のように赤いアンガラク金貨を三個取り出して、皆に見えるようにさし上げた。「そこで兵士は有力な商人のもとへ行き、医者に払うだけの金を借りました。だがその医者とは、ご多分にもれずぺてん師だったので、その金はどぶに投げ捨てたも同然だったのです」セ・ネドラは無造作に背後の草むらに三個の金貨を投げ込んだ。「こうして兵士の良き妻は死んでしまいました。兵士がまだ悲しみに頭を垂れているうちに、有力な商人がやってきてこう言いました。『はてさて、わたくしのお貸しした金はどうなりましたかな』」王女はそう言いながら、あらたに三個の金貨を取り出し、皆の前にさし上げた。「『わたくしが医者への治療代としてお貸しした、正真正銘のあの赤い金貨はどこですかな』。でも兵士のもとには金貨などあろうはずがありません。かれの手の中は空っぽだったのです」セ・ネドラはぱっと指を開いて、金貨が地面に落ちるにまかせた。「そこで商人は兵士の店を借金のかたに取り上げました。金持ちはますます豊かになりました。一方、兵士はどうなったのでしょう? かれはまだ剣を失ってはいませんでした。かれはたいそう優秀な兵士だったので、それはいつもぴかぴかに磨かれ、とがっていたのです。妻の葬式を終えた兵士は剣を取り上げ、町からさほど離れていない野原に行くと、それでわが身をさし貫きました。これがこの物語の結末です」
彼女はいまや完全に兵士たちを掌握していた。それは男たちの顔にはっきりと表われ出ていた。彼女の物語はこれまでに語りつくされてきたものだったが、彼女があまりにも無造作に投げ捨てた金貨が、これまでにない効果を発揮していた。王女はさらに何枚かのアンガラク金貨を取り出すと、まるでこれが初めてというように兵士たちの顔をしげしげと見つめた。「どうして最近見かける金貨は、こんな赤い色をしているのかしら」彼女は男たちに問いかけた。
「わたしはてっきり、金貨というのは黄金色をしているのかと思っていたけれど。この赤い金貨はいったいどこから来たんでしょうね」
「クトル・マーゴスからです」何人かの兵士たちが答えた。
「まあ、そうなの」王女は見るのもいやだといった顔で金貨を見つめた。「そのマーゴ人たちがいったいトルネドラで何をやってるのかしらね」そう言いざま、彼女は再び金貨を投げ捨てた。
さしもの鉄壁の軍紀もゆるぎ、人々はわれ知らず前に一歩踏み出していた。
「もちろん、普通の兵士の人たちの目には、そうそう赤い金貨を見る機会もないでしょうよ。マーゴ人たちは将校たちを買収できるのに、わざわざ普通の兵士を買収したりしないわ。皆さんたちの軍隊がどこへ行って血を流し、命を落とすかを決めるような偉い人たちのもとへ行くのよ」彼女は金貨を一枚つまみ出すとしげしげとそれを見つめた。「この中にあるのは全部クトル・マーゴスから来たものだということをご存じかしら」セ・ネドラは再度、無造作にそれを投げ捨てた。「マーゴ人たちはトルネドラを買い切ってしまうつもりかしらね」
ただちに怒ったようなざわめきが広がった。
「もしかれらがそのつもりなら、アンガラクにはこんな赤い金貨がざくざくあるんじゃないかしら。わたしもそんな噂を耳にしたことがあるわ。クトル・マーゴスには無尽蔵の金鉱があるし、ガール・オグ・ナドラクの川は純金の砂利が流れているので、血のようにまっ赤なんですってね。きっとあそこでは金など、東の国々の塵芥ほどの価値しかないに違いないわ」彼女はまた金貨を一枚取り出して、しげしげと眺めたのち、投げ捨てた。
兵士たちは知らず知らずのうちにまた一歩、前に踏み出していた。将校たちはこぞって、気をつけの命令を下したが、そういう本人たちも、セ・ネドラが無造作に金貨を投げ捨てた背の高い草地を、飢えたような目で見つめているありさまだった。
「でもわたしの率いる軍隊なら、アンガラクの地にどれだけの金貨があるか確かめられると思うのよ」セ・ネドラは打ち明けるように言った。「マーゴ人やグロリム僧たちは、アレンディアやセンダリアやアローンの国々で同じようなぺてんを働いているわ。わたしたちはやつらをこらしめてやりに行く途中なのよ」そこで王女は、あたかもたった今思いついたように言葉を切った。「わたしたちの軍隊はいつだって良い兵隊さんを受け入れる用意があってよ」彼女は吟味するように言った。「むろんあなた方のほとんどが、最後まで自国の軍隊での任務を忠実に務めあげようとしているのは知っています。だけど一日半クラウン真鍮貨だけじゃ、満足できない人だっているんじゃないかしら。もちろんそういった方々は、わたしの軍隊で大歓迎してよ」そういいながら彼女は徐々に減りつつある貯えの中から、もう一枚の赤い金貨を取り上げた。「マーゴに行けば金貨がもっとあるなんて信じられる?」彼女はそう言いながら、指の間から金貨を落とした。
居あわせた集団のなかから、ほとんどうめき声に近い音がもれた。
王女はここでため息をついた。「そうそう、忘れていたわ」彼女は残念そうに言った。「わたしの軍隊は今すぐここを発つけれど、あなた方が除隊するには一週間ばかりかかるんだったわね」
「何で除隊する必要があるんです」誰かが叫んだ。
「まあ、だってあなた方の軍隊を置いていくわけにはいかないでしょう?」セ・ネドラは疑わしげに言った。
「だが王女さまは金貨を下さるというんだ!」別の男がうなるように言った。「ラン・ボルーンはせっせと自分の真鍮貨をためこむがいいさ」
セ・ネドラはもうほとんど残ってはいない袋に手を入れて、わずかに残った金貨をつかみ出した。「皆さんわたしの後についてきて下さるとおっしゃるのかしら」王女は一番幼く聞こえる声を出した。「こんなもののために?」そう言いながら彼女は指の間から金貨をぽろぽろと落としてみせた。
皇帝の将校たちはここで致命的なあやまちを犯した。かれらは騎兵の一隊を遺わして、王女を捕らえようとしたのである。セ・ネドラが金貨を気前よくばらまいた地面めがけて突進してくる騎兵の姿をみとめたとたん、軍団の統制が破れた。将校たちは、草地の金貨めがけて突進し、地面をはい回るラン・ボルーンの軍隊にもみくちゃにされ、踏みつけられた。
「王妃さま」マンドラレンが剣を引き抜きながら、セ・ネドラをうながした。「どうかこの場は一刻も早くお引き上げ下さい」
「もう少ししたらね、マンドラレン卿」セ・ネドラは落着きはらった声で言った。彼女は欲望に駆られ、死に物狂いで突進してくる兵士たちをまっこうから見すえた。「わたしの軍隊はこれから直ちに出発します」セ・ネドラは高らかに宣言した。「もし帝国軍の中でわたしたちに加わりたいという人があれば、喜んでむかえます」そう言うなり彼女は馬の腹を蹴って、マンドラレンを脇に従え、自分自身の軍隊めがけて走り出した。
彼女の背後に何千、何万もの足音が轟いた。群衆の中の一人がふしをつけて唱えた言葉は、またたく間に全兵士たちのあいだに広がった。「セ・ネドラ! セ・ネドラ」かれらはいっせいに声を張り上げ、重い足音が合唱に加わった。
セ・ネドラ王女は、太陽に焼けた髪を風になびかせて、反乱者たちの大集団の先頭を切って走っていた。馬を走らせながら、セ・ネドラは自分の言葉がまったくの欺瞞だということを自覚していた。アストゥリアの森やミンブルの平地で集めたアレンド人たちに約束した栄誉やたやすい勝利などと同じように、トルネドラ軍のための富などありはしない。彼女は見込みのない戦争のために、軍隊を召集しているのだ。
だがこれもすべてはガリオンへの愛のため、もしくはそれ以上の何かのためなのだ。もし人人の運命を牛耳るあの〈予言〉が、彼女にこれを要求しているのだったら、そこから逃れるすべはないのである。いかなる苦難が前途に待ちかまえていようと、彼女はやり抜くことだろう。生まれて初めて、セ・ネドラは自分が自分の運命の主ではないという事実を受け入れた。彼女自身よりもはるかに強力な何かが命じているのなら、彼女はそれに従うしかないのである。
ポルガラやベルガラスのように久遠のときを生きてきた者ならば、ひとつの信念、ひとつの概念に身を捧げることだってできるかもしれない。だがセ・ネドラはまだわずか十六歳だった。彼女が身を捧げるには何かもっと人間的な目的が必要なのだ。今、この瞬間にもガール・オグ・ナドラクの森のどこかにいるはずの、きまじめな顔をした砂色の髪の若い青年の安全が――生命が彼女の努力いかんにかかっているのだ。王女はついに恋の前に屈したのである。彼女はもう二度とガリオンを失うまいと誓った。もしそのためにこの軍勢では足りないというのなら、もっと多くの軍勢を集めてみせる――たとえどんな犠牲をはらうことになろうとも。
セ・ネドラは深いため息をつくと、きっと肩を怒らせ、トルネドラ軍団を彼女の軍列に加えるべく、太陽のさんさんとふり注ぐ野原の上を駆け抜けていった。
底本:「ベルガリアード物語4 魔術師の城塞」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1988(昭和63)年10月31日 発行
1997(平成9) 年11月15日 五刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年08月09日作成
2009年01月31日校正
2009年02月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] ベルガリアード物語 4 魔術師の城塞.zip iWbp3iMHRN 122,391,378 f0a4f602106d4d275f1cc4ed84b06270
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ19行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するしかないでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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注意点、気になった点など
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底本124頁10行 鍛冶屋はうなずいた
鉢を燃やしに外に行ったはずなのに、いつの間に戻ってきたんだ…
底本457頁16行 「わたしたち、あなたを探して〜
ライラ一人だから、「わたしたち」はおかしい気がするが…複数人で手分けして探していたということだろうか?
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本10頁10行 ミンブレイド人
ド→ト
底本10頁15行 グレルディグ
グレルディク
底本63頁8行 おじいさんと他と人たちを守る
他の人たち
底本175頁6行 エラルド
エランド。相変わらず人の名前の間違いが多い…
底本262頁10行 水から上がてきた
上がってきた
底本277頁3行 好もしい
好ましい
底本293頁12行 ポレデラ
ポレドラ
底本469頁2行 戦略や駆き引きなど
駆け引き
底本472頁2行 手はたこだらけで。
「。」ではなく、「、」だと思う。
底本526頁18行 ラマール
ラメール