ベルガリアード物語3 竜神の高僧
MAGICIAN'S GAMBIT
デイヴィッド・エディングス David Eddings
佐藤ひろみ訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)それが金《きん》だから
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ポルおばさんはそれをテン[#「テン」に傍点]――
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[#ここから4字下げ]
ドロシーへ
きみはエディングスの人々に
辛抱強く付き合ってくれた
そして、ウェインへ
きみとはお互いに理解し合いながら、
今まで一度も言葉にする機会がなかった
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
プロローグ
第一部 マラゴー
第二部 アルダー谷
第三部 ウルゴ
第四部 クトル・マーゴス
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
竜神の高僧
[#改ページ]
登場人物
ガリオン…………………………主人公の少年
ポル(ポルガラ)………………おば
ウルフ(ベルガラス)…………ポルの父
バラク……………………………チェレク人
シルク……………………………ドラスニア人
ダーニク…………………………鍛冶屋
ヘター……………………………アルガリア王の養子
マンドラレン……………………ミンブレイド人
セ・ネドラ………………………ラン・ボルーンの王女
ベルティン………………………ベルガラスの兄弟弟子
ベルキラ…………………………ベルガラスの兄弟弟子
ベルティラ………………………ベルガラスの兄弟弟子
ベルゼダー………………………ベルガラスの兄弟弟子
ゴリム……………………………ウルゴ人の指導者
レルグ……………………………ウルゴ人
ヤーブレック……………………ナドラク人
タイバ……………………………マラグ人
ブリル……………………………ファルドー農園にいた男
クトゥーチク……………………魔法使い
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プロローグ
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自分の民のために心から神を求め、ついにプロルグの聖なる山にウルの神を捜し当てたゴリムに関する記述。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――『ウルゴの書』とその他の断篇より
この世の誕生にさいし、まず七人の神々は闇の中から世界をつくりだし、次いで獣と鳥、爬虫類と魚、そして最後に人間を生ぜしめた。
さて、天界にはウルという名の霊魂が存在し、かれだけはこの創造に加わらなかった。かれがその力と知力を出し惜しんだために、創造されたものの多くは欠点を持ち、完璧とは言いかねた。体裁が悪く、目を覆いたくなるようなものも決して少なくなかった。年若の神々は、創造したものをもとに戻し、この世を美しいものだけで埋めたいと願った。
だが、ウルは「自分たちが造り出したものを抹消してはならぬ」と言って片手を突き出し、かれらを押し止めた。「おまえたちは気晴らしや慰めとなる世界を造りたいがために、天空の秩序と平和をきれぎれに引き裂いたのだ。よいか、自分たちの造ったものがどんなに奇怪なものであろうと、おまえたちは愚かなふるまいの戒めとして甘んじて我慢しなければならぬ。おまえたちの造ったもののたとえひとつでも破壊されるようなことがあれば、そのときはすべてのものが無に帰するであろう」
年若の神々はウルにひどく腹をたてた。そこでかれらは自分たちが造った奇怪な生き物や体裁の悪い生き物に向かって言った。「ウルのところへ行って、かれを神とせよ」それから神々は人間の種族の中から、それぞれ自分の好きな民を選んだ。そして神を持てない民があとに残ったとき、年若の神々はかれらを前に押しやって言った。「ウルのところへ行け。かれらがおまえたちの神になってくれるであろう」だが、ウルは口を閉ざしたままだった。
〈神なき民〉は、聞くものとていない西部の荒れ果てた原野で神の名を叫びつづけ、そのあいだに長く苛酷な年月が過ぎていった。
やがて群衆の中から、正義と徳をそなえたゴリムという名の男があらわれた。かれは目の前に群衆を集め、こう説いた。「このままでは、われわれは放浪の苦しみから木の葉のように萎れ、枯れ果ててしまう。子供と老人はすぐにも命を落とすだろう。死ぬのはひとりでじゅうぶんだ。だから、おまえたちはこの平野で休んでいてほしい。ウルという名の神はわたしが捜そう。そうすれば、われわれはその神を崇拝し、この世で安住の地を得ることができるのだ」
それから二十年、ゴリムはウルを捜しつづけたが、望みはむくわれなかった。さらに数年が過ぎるうちにかれの髪は白く染まり、ついに神を捜すことにも疲れてしまった。やけになったかれは、ある高い山の頂上にのぼり、空に向かって声をかぎりに叫んだ。「もうまっぴらだ! 捜すのはやめた。神々はわれわれをだましたのだ。この世はしょせんむなしい荒野ではないか。ウルの神などどこにもいない。苦しみばかりの呪われた人生など、もうまっぴらだ」
ウルの神はこの言葉を聞いて、かれに言った。「なぜわたしに腹を立てているのだ、ゴリム? おまえたちを造ったのも、見捨てたのも、わたしではないのだぞ」
畏敬の念にうたれたゴリムはその場に平伏した。すると、ウルがふたたびかれに声をかけた。
「立て、ゴリム。わたしはおまえの神ではない」
ゴリムは立ち上がらずに叫んだ。「おお、神よ。神に見捨てられ、寄る辺がないために茨の道を歩まされている人々がいるのです。どうかあなたの民から目をそむけないでください」
「立て、ゴリム」ウルは繰り返し言った。「そしてここから去るのだ。泣きごとなど聞きたくない。神ならべつの場所で捜すがいい。わたしの平安を乱すのはやめよ」
ゴリムはそれでも立ち上がらなかった。「おお、神よ、わたしは去りません。人々は飢えと渇きに苦しんでいます。あなたの祝福と安住の地を求めているのです」
「これ以上聞きたくない」ウルはそう言うと、去っていった。
ゴリムがそのまま山の頂上に残ると、地上の獣と空の鳥が食べ物を運んできた。かれは一年以上ものあいだ、その場で待ちつづけた。やがて神々の造りたもうた奇怪で体裁の悪い生き物がかれの足下にやってきて座り、様子をうかがいはじめた。
ウルの神の心中はおだやかではなかった。ついにかれはゴリムの前に姿をあらわした。「まだ待つつもりか?」
ゴリムは平伏したまま答えた。「おお、神よ。人々は苦しみに打ちのめされながら、ひたすらにあなたを求めているのです」
ウルの神はすぐにその場を去った。だが、ゴリムはさらに一年待ちつづけた。ドラゴンが肉を運び、ユニコーンが水を届けた。やがて、ウルの神がかれのもとに戻ってきて、訊ねた。
「まだ待つつもりか?」
ゴリムは平伏して、叫んだ。「おお、神よ。あなたの加護がなければ、わが民は滅んでしまうでしょう」またしても、ウルは正直者を残して去っていった。
名もなく、見たこともないような生き物が食べ物と飲み物を次々と運んでくるうちに、もう一年が過ぎた。ウルの神が高い山にやってきて、ふたたび命令した。「立て、ゴリムよ」
地面に平伏したまま、ゴリムは嘆願した。「おお、神よ。どうかご慈悲を」
「立つのだ、ゴリム」ウルはそう言うと、天から両腕を伸ばしてゴリムを持ち上げた。「わたしはウル――おまえの神だ。顔を上げてわたしの前に立ってみろ」
「では、わたしの神になってくださるのですか?」ゴリムは訊ねた。「われわれの神になってくださるのですか?」
「わたしはおまえの神であり、おまえたちの神でもある」とウルは言った。
ゴリムが高みの位置から見下ろしてみると、そこにはかれが忍苦の日々を送っているあいだ親切にめんどうを見てくれた体裁の悪い生き物たちの姿があった。「この生き物たちはどうです? バシリスクや、ミノタウロスやドラゴンやキマイラやユニコーンや、その他の名もない生き物、それから翼を持った蛇や見たこともない生き物。あなたはかれらの神にもなってくださるのですか? かれらも神々に見捨てられた身なのです。でも、おのおのが美点を持っています。おお、神よ、かれらから目をそむけないでください。かれらには素晴らしい取り柄があるのですから。かれらは若い神々によってあなたのもとへ差し向けられたのです。あなたが拒否なさったら、いったい誰がかれらの神になるのです?」
「わたしが望んだことではない」とウルは言った。「この生き物たちは、わたしに非難された年若の神たちがわたしへの当てつけとしてよこしたのだ。わたしは、こんな怪物どもの神になるつもりはない」
ゴリムの足下にいた生き物たちは絶望のうめき声をあげた。ゴリムは地面に腰をおろして言った。「おお、神よ。では、また待ちましょう」
「そうしたいのなら、待つがいい」ウルはそう言って去った。
同じように時がめぐった。ゴリムは神の来訪を待ちわび、醜い生き物たちはかれに食料をはこび、ウルの神はやきもきと気をもんだ。そして、ゴリムの清浄な心の前に、ついに〈偉大なる神〉は考えを改め、戻ってきた。「立て、ゴリム。立っておまえの神に仕えるのだ」ウルは両手をおろしてゴリムを抱えあげた。「おまえの前に座っている怪物たちを連れてこい。かれらのことを考えなおしてみよう。もし、おまえの言うようにかれらがそれぞれに美点を持っていたら、わたしはかれらの神になることを承諾しよう」
そこでゴリムはウルの前に怪物たちを連れてきた。かれらは神の前に平伏し、うめくようにしてその加護を嘆願した。ウルは自分が今までかれらの美点を見過ごしてきたことを知って、驚いた。ウルは両手を高く掲げてかれらに恵みをたれ、言った。「わたしはウル。おまえたちがいずれも美点と取り柄を持っていることがよくわかった。おまえたちの神になり、繁栄と平和をもたらしてやろう」
ゴリムはたいそう喜び、みんなが集まったその高い山をプロルグと名づけた。それは聖なる地≠ニいう意味だった。間もなくかれは、人々を〈神〉のもとへ呼び寄せるために、山を後にしてあの平野に戻っていった。だが、人々はかれを見ても、ゴリムだとはわからなかった。それもそのはず、ウルの手にふれたときにかれはすべての色を失い、体も髪も新雪のように真っ白になってしまっていたのだ。恐怖におののいた人々は、石を投げてかれを追い払った。
ゴリムはウルに泣きついた。「おお、神よ。あなたにふれられ、姿かたちが変わってしまったおかげで、みんなはわたしをゴリムとみなしてくれません」
そこでウルは片手を掲げ、ゴリムとおなじように人々から色を奪った。ウルの神は轟くような大声で人々に言った。「神り言葉に耳を傾けよ。おまえたちがゴリムと呼んでいたのは、その男だ。おまえたちを民として受け入れ、見守り、恵みを与え、その〈神〉となるよう、その男がわたしを説き伏せたのだ。これから先、おまえたちは神の思い出とゴリムの清らかさの証としてウル=ゴと名乗るがいい。おまえたちはかれの命令に従い、導かれるままについていくのだ。かれにそむいて従わない者がいたら、わたしは群からその者を引き離して生気をうばい、ついには亡き者にするであろう」
ゴリムは人々に荷物を持ち、家畜を連れ、山岳地帯についてくるよう命じた。だが年長者はかれを信用せず、その声がウルの声であったということも信じようとしなかった。かれらがいじわるく言うことには、「もしおまえがウルの神のしもべだと言うのなら、奇跡を起こしてそれを証明してみせろ」
ゴリムはそれに答えて、言った。「自分の肌と髪を見るがいい。おまえたちはこの奇跡だけでは満足しないと言うのか?」
言葉に窮した年長者たちは、その場を去った。だが、間もなくかれのところへもどってくると、言った。「われわれの体から色が失せてしまったのは、おまえがどこかの不潔な場所から疫病を持ち帰ったからだ。ウルの恩恵のしるしでは断じてない」
そこでゴリムは両手を掲げた。すると、かれを支えてきた怪物たちが、まるで羊飼いに群がる羊のようにかれのもとへ寄ってきた。年長者たちはブルブルと震え、いったんは姿を消した。だが、すぐに戻ってきて、言った。「その怪物どもは奇怪で見るに耐えない。おまえは偉大なるウルの神のしもべではなく、われわれを滅亡に導くためにこの世に遣わされてきた悪魔なのだ。われわれはウルの恩恵のしるしなど、まだひとつも目にしていないぞ」
さて、ゴリムはかれらとのやりとりにいい加減うんざりしてきた。かれは大声で叫んだ。
「ウルの声を聞いた民に告ぐ。わたしはこれまでおまえたちのために多くの苦労を耐えしのんできた。これからわたしは聖なる地、プロルグに帰ろうと思う。ついて来たい者はついて来い。残りたい者は残るがいい」かれはそれだけ言うときびすを返し、山に向かって歩きはじめた。
後を追う者もすこしはいた。だが、大半の人々はその場に残り、ゴリムやかれらについていった者をののしった。「さあ、ウルの恩恵を証明する奇跡はどこだ? われわれはゴリムの後を追わず、命令にもそむいたが、しおれもしなければ、枯れてもいない」
すると、ゴリムはたいそう悲しそうな顔をしてかれらを見つめ、最後の言葉をかけた。「おまえたちはわたしに奇跡を起こせと言った。さあ、その奇跡をとくと見るがいい。ウルの声が申されたように、おまえたちは切り落とされた枝のごとく萎え、枯れ果てるのだ。実を言えば、今日この日、おまえたちはすでに萎えてしまったのだ」そして、かれはついて来た数人を率いて山地に入り、プロルグをめざした。
あとに残ったひとびとはひとしきりかれをあざけったあとテントに戻り、あとを追った者の愚かさを笑った。だが、やがてかれらは笑うのをやめた。なぜなら、かれらの女たちはまったく子を生まなくなっていたのだ。かれらは衰え、枯れ果て、ついには滅んでしまった。
あとを追った人々はゴリムとともにプロルグにやってきた。そこでかれらは町をつくった。ウルの神はつねにかれらとともにあり、かれらはゴリムを支えた生き物たちと平和に暮らした。ゴリムはひとの何倍もの寿命を全うした。そしてかれの亡きあと、ウルに仕える高僧はみなゴリムの名を継ぎ、やはり長い年月を生き永らえた。一千年ものあいだ、ウルの平和はつねにかれらとともにあり、かれらはそれが永遠につづくものだと思っていた。
ところが、神アルダーがつくった〈珠〉を邪神トラクが盗むにおよんで、人間と神々の戦いがはじまった。トラクが〈珠〉をつかって大地を引き裂き、海に投げこむと、〈珠〉はこれにあらがい、かれにむごたらしい火傷を負わせた。トラクはマロリアに逃げのびた。
大地はトラクの残した傷ゆえに秩序を失い、ウルゴの民とともに平和に暮らしていた怪物たちもこの衝撃ゆえに正気を失った。かれらはウルの民との親交を忘れ、人々に反抗して立ち上がった。かれらが町を倒し、人々を殺したので、民の大多数は死に絶えてしまった。
生き残った人々はプロルグに落ちのびた。怪物たちも、ウルの怒りにふれることを恐れ、そこまでは追ってこなかったのだ。人々のあげる悲嘆の叫びは、たとえようもなく大きかった。ウルは心を砕き、プロルグの下にある洞穴の秘密をかれらにこっそり教えた。人々はウルから与えられた聖なる洞穴に入り込み、そこを定住の地とした。
やがて、魔術師ベルガラスがアローン人の王とその息子を率いてマロリアに侵入し、〈珠〉を取り返した。トラクはそのあとを追おうとしたが、〈珠〉の怒りがこれを追い払い、退けた。ベルガラスは最初のリヴァ王に〈珠〉を授け、かれの子孫が〈珠〉を持っているかぎり西部は安泰であろうと告げた。
いっぽう、散り散りになったアローン人たちは南を目指し、新たな土地に入り込んだ。神々と人間の戦争の渦中から逃げ出した他の民も同じようにして新たな土地を手に入れ、その地に奇妙な名前をつけた。だが、ウルの民はプロルグの洞穴に隠れつづけ、他の民といっさい交流を持たなかった。ウルがかれらを護り、かくまっていたので、そこにひとが住んでいることは他の民には知るよしもなかった。何世紀もの時がめぐるあいだ、ウルの民は世の中と隔離した生活を送りつづけた。最後のリヴァ王とその家族の暗殺に世界が揺れ動いているときですら、かれらは何も知らずにいた。
しかし、トラクが西部に攻め入り、さらに強大な軍勢を率いてウルの民の土地に入り込んできたとき、ウルの神はとうとうゴリムに声をかけた。ゴリムは夜分にこっそりと民を先導し、眠っていたトラクの軍勢を完膚なきまでに粉砕した。かくして、トラクの軍勢は勢いを失い、ボー・ミンブルで西部の連合軍の前に敗北を喫することとなった。
このときゴリムは勝者と懇談するために、一念発起して外界へ出ていった。そして、トラクが手酷い傷を負ったという知らせを持ち帰った。さらに、邪神トラクの体は弟子のベルゼダーの手で運び去られたが、リヴァの血筋を引く者がふたたびリヴァの王座につく日までトラクは死んだように眠りつづけるであろう、と告げた。それは、すなわちトラクが永遠に目覚めないことを意味していた。なぜなら、リヴァの血筋はすでに絶えたと言われていたのだ。
ゴリムが外の世界に出ていったのはたしかに衝撃的なことだったが、害を及ぼすほどのことはなかった。ウルの子たちはウルの加護のもとで相変わらず繁栄をつづけ、暮らしは以前とほとんど変わりなかった。ゴリムが『ウルゴの書』を学ぶ時間をさいて古くてカビ臭い予言の巻物の解読に没頭しているらしいということは、皆も気づいていた。だが、ウルの洞穴を出て他の民の世界を見てきた者なら、それぐらいの奇行はしかたのないことだったろう。
やがて、洞穴の入口の前に奇妙な老人がやってきて、ゴリムと話がしたいと告げた。かれの声には有無を言わせぬ響きがあったので、ゴリムは姿をあらわした。そして、人々がその洞穴に安全を求めて以来、はじめてウルの民でない人間がそこに足を踏み入れることを許されることとなった。ゴリムはよそ者を自分の部屋に招き入れ、ふたりきりで数日を過ごした。それからというもの、この白ひげにボロをまとった奇妙な老人は、たまにここへやってきては、そのつどゴリムの歓待を受けた。
あるとき、ひとりの少年の口から、ゴリムが灰色の大きな狼といっしょにいた、という噂が流れたこともあった。が、これはおそらく病にうなされて見た夢の中の話だったと思われる。もちろん、少年は断じて夢ではないと言い張ったのだが。
人々もしだいにゴリムの奇行に慣れ、それを受け入れるようになった。その後も季節はめぐったが、人々は自分たちが偉大なるウルの神に選ばれた民なのだと知るにつけ、神に心から感謝したという。
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第一部 マラゴー
[#改ページ]
1
ボルーン一族の宝でありトルネドラ皇室の華であるセ・ネドラ王女は、グレルディクの船のへさきの下にあるオーク材の梁を張った船室の海水箱の上で足を組み、銅色の巻き毛の先をぼんやりと噛みながら、レディ・ポルガラが魔術師ベルガラスの腕の骨折を介抱しているさまを見守っていた。丈の短い薄緑色のドリュアド風チュニックを着た王女の片方の頬には、灰のかけらがひとつ残っていた。頭上のデッキでは、規則的なドラムの音が響いている。灰に包まれたスシス・トールの町を後にして川上に漕ぎ出したグレルディクの水夫たちは、そのリズムに合わせてオールを動かしていた。
ほんとうにとんでもないことになってしまったわ、と彼女は思った。思い返せば、父であるラン・ボルーン皇帝の権力に対抗する例の謀叛ごっこのつづきとしてやった家出が、すべてのはじまりだった。そんなことは日常茶飯でべつだん珍しいことでもなかったはずなのに、それが突如として深刻な問題にすり変わってしまったのだ。遠いあの日の晩、家庭教師のジーバースとトル・ホネスの宮殿をこっそり抜け出したときには、こんなことになろうとは夢にも思わなかった。ジーバースはいとも簡単に彼女を見捨てた――しょせんかれはいっときの命綱でしかなかったのだけれど――そして、今、彼女はわけのわからない使命のために北のほうからやってきた厳めしい顔つきをした人々の中に巻き込まれてしまったのだ。その中のひとり、レディ・ポルガラの名を聞くたびに、王女は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。冷淡にも、レディ・ポルガラは〈ドリュアドの森〉で彼女にこう告げた。お遊びはもう終わり、甘言で誘おうと涙に訴えようと、あなたが十六歳の誕生日に〈リヴァ王の広間〉に立つのを免れる方法はどこにもない――必要とあらば、たとえ鎖につないででもそうさせてみせる、と。セ・ネドラは、レディ・ポルガラが冗談でそんなことを言っているのではないということをすぐに悟った。一瞬、ジャラジャラと鎖につながれて厳めしい広間に引きずられていき、ひげもじゃのアローン人の群衆にあざ笑われ、屈辱に震えながら立ちすくす自分の姿が脳裏をよぎった。それだけは、どんなことをしてでも避けなければならなかった。だからこそ、彼女はかれらについてきたのだ――もちろん心からそうしたわけではなかったが、おおっぴらに反抗するわけにはいかなかった。レディ・ポルガラのはがねのような視線を見るたびに、彼女は手錠と鎖を思い出し、おとなしく従わないわけにはいかなくなるのだ。彼女の父が持っていた帝国の力ですら、彼女を従わせることはできなかったというのに。
かれらのしていることについて、セ・ネドラにはわずかの知識しかなかった。誰か、あるいは何かを追っているうちにこの蛇の棲むニーサの湿地帯に足を踏み入れたらしいということはわかっていた。それからマーゴ人もこれに絡んでいて、かれらの行く手につぎつぎと恐ろしいわなを仕掛けているということも。サルミスラ女王もガリオンを誘拐するぐらいだから、おそらくこの追跡に興味を持っているのだろう。
セ・ネドラは船室の向こうにいる少年を見ようと思ったが、すぐに思いとどまった。どうしてニーサの女王はかれを欲しがったのかしら? あんなに平凡な少年なのに。農民で、皿洗いで、とりたてて取り柄もないじゃないの。たしかに気立てのいい少年ではあるけれど。額にくしゃくしゃとかかったあの飾り気のない砂色の髪、あれを見ると指がむずむずしてくるわ。顔だちも悪くないわね――もちろん人並みの、という意味だけど――それになにより、寂しかったり恐かったりするときに話しかけることのできるのは、かれだわ。イライラしたときに喧嘩相手になってくれるのも、やっぱりかれだ。かれはほんのすこし年上なだけだから。でも、かれはわたしを王女として扱ってくれない――もしかしたら、どうやって接していいかさえ知らないんじゃないかしら。でも、どうしてこんなにかれのことが気になるの? 彼女はそれを考えながら、意味ありげな視線をかれに向けた。
また、これじゃないの。彼女は苛立たしそうに視線をそらした。どうしていつもかれを見てしまうのかしら? 心に波風が立つたびに、目はいつのまにかかれの顔をさがしている。見てうっとりするような顔でもないのに。かれの姿が見えるところにいたくて、と自分に言い訳したこともあるじゃないの。こんなのって、馬鹿げてるわ!
セ・ネドラは髪を噛んでは考え、また髪を噛んでいたが、最後にはガリオンの姿をじっと見つめていた。
「だいじょうぶそうか?」トレルハイム伯爵ことバラクはみごとな赤ひげを引っぱりながらレディ・ポルガラがベルガラスの包帯をまきおえるのを見守っていた。
「ただの骨折よ」彼女は包帯をわきに押しやりながら、医者のような口調で言った。「単純な老人は治りも早いわ」
ベルガラスはあらたに副木を当ててもらった腕を動かすなり、傷みにたじろいだ。「ポルよ、こんな手荒いまねをする必要があったのか?」かれの赤さび色の古いチュニックには泥よごれの他に、木が倒れてきたことを物語る新しい裂け目がひとつあった。
「副木はどうしても必要だったのよ、おとうさん」と彼女は言った。「骨が曲がったまま固まってしまったら困るでしょ?」
「わしには、おまえが楽しんでいるように見えたがね」
「じゃあ、この次は自分でやることね」彼女は灰色のドレスを撫でながら、冷たく言った。
「酒だ」ベルガラスはバラクにうなった。
トレルハイム伯爵は狭い入口に行き、外にいる水夫に向かってどなった。「おい、ベルガラスにエールのタンカードを持ってきてくれないか?」
「どうです、かれは?」水夫は訊ねた。
「機嫌が悪くてね。すぐに酒を飲まなければ、さらに悪くなるだろう」
「すぐにお持ちしますよ」
「賢明だな」
これもセ・ネドラにとっては混乱の種だった。高貴な身分の持ち主たちが、この見すぼらしい老人に多大な敬意を払っている。だが彼女の知るかぎりでは、この老人には称号のひとつもないのだ。彼女は男爵と帝国軍団の将官のちがいやトルネドラの大公とアレンディアの皇太子のちがいなら、はっきりと見分けることができた。〈リヴァの番人〉とチェレクの王のちがいもぴたりと言い当てることができた。だが、魔術師をどの地位にあてはめればいいのかは、皆目見当がつかなかった。物質優先主義のトルネドラ人にとっては、魔術師が存在するという事実を認めることすらむずかしいことなのだ。西部の王国の半数から数々の称号を贈られているレディ・ポルガラが世界でもっとも立派な女性であることは紛れもない事実だった。だが、ベルガラスはただの放浪者でしかなかった――みんなの厄介者となることもしばしばあった。そういえば、ガリオンはかれの孫だといっていた。
「ねえ、そろそろ何があったか話してくれてもいいんじゃないの、おとうさん」レディ・ポルガラが辛抱つよく言っている。
「だから、その話はしたくないと言ってるだろう」かれは軽くはねつけた。
レディ・ポルガラは今度はケルダー王子に矛先を向けた。鋭い顔だちと皮肉の才覚を持ったこの不可思議なドラスニアの皇族は、小生意気な表情を浮かべながらベンチに腰をおろしていた。「ねえ、シルク?」彼女はかれにたずねた。
「わたしの立場はわかっていただけますね、ベルガラス」王子はいかにも残念だという顔をしてベルガラスに言い訳した。「わたしが秘密を守ろうとしても、彼女はきっと聞き出してしまいますよ――おそらく、あまりうれしくない方法でね」
ベルガラスは石のように無表情な顔でかれを見たかと思うと、フンと鼻を鳴らした。
「わたしだって、好きでこんなことを話すわけじゃないんですよ」
ベルガラスは今度はプイと顔をそむけた。
「じゃあ、わかってくれたんですね」
「はやく話せ、シルク!」バラクが待ちきれないとばかりに言った。
「いたって簡単な話なんだ」ケルダーはかれに言った。
「でも、おまえが面白く脚色してくれる、そうだろ?」
「事実だけを話すのよ、シルク」ポルガラが言った。
シルクはベンチの上にきちんと座ると、「ほんとうに大した話じゃないんだ」と前置きをして話しはじめた。「かれこれ三週間前、われわれはゼダーの足跡を突き止め、それを追ってニーサに入りました。ニーサ人の国境監視人にも何回かでくわしてね――その点はべつに問題はなかったんですけど。とにかく、〈珠〉の痕跡は国境を越えてすぐのところで東に曲がったんです。われわれもこれにはびっくりしました。ゼダーはそれまでただひたすらニーサに向かって進んでいたから、われわれはてっきりやつがサルミスラと裏取り引きするものと思ってたんですよ。たぶん、みんなにそう思い込ませるのがやつの望みだったんでしょうけど。やつはじつに頭がいい。サルミスラは自分にまったく関係のないことにも首を突っ込むことで有名ですからね」
「わたしもそれに気づいたところよ」レディ・ポルガラは顔をこわばらせながら言った。
「何かあったのか?」ベルガラスが訊ねた。
「その話はあとでするわ、おとうさん。つづけて、シルク」
シルクは肩をすくめ、「このつづきもたいした話じゃないんだけど。とにかく、われわれはゼダーの足跡を追って、マラグとの古い国境にちかい例の廃墟のひとつに入りました。ベルガラスがそこで訪問者に会うことになっていたもので――すくなくとも、かれはそう言ってました。わたしは誰も見ませんでしたけどね。それはさておき、かれはわれわれの計画を変えなくてはいけないようなことが起こったので、進路を変えて川を下り、スシス・トールでみんなに合流すると言い出したんです。それ以上くわしく説明している暇はかれにはありませんでした。というのも、ジャングルは突如としてマーゴ人でいっぱいになってしまったんです――われわれかゼダーのどちらかをさがしていたんだと思いますが、どっちなのかはけっきょくわからずじまいでした。それからというもの、われわれはマーゴ人とニーサ人の両方をかわさなければなりませんでした――夜のうちにこそこそ移動する、といったようなことですが。そう言えば、一度メッセンジャーを送ったんですけど、かれは無事に着いたんでしょうか?」
「ええ、一昨日ね」ポルガラが答えた。「でも、ひどい熱病にかかってしまって、メッセージを聞き出すまでにしばらくかかったわ」
ケルダーはうなずいて、「とにかく、マーゴ人にはグロリムがついていまして、やつらは知力でわれわれをさがそうとしました。ベルガラスはやつらがそうやって居所を突き止めるのを阻止するような何かをやっているようでした。どんなことをしたのかよくわかりませんが、とにかく多大な集中力を要するものだったことは確かなようです。なんたって、自分がどこに歩いていくかということすら頭に入っていないんですから。今朝はやく、われわれは馬を引いて沼の一部を通り抜けていました。ベルガラスは何か他のことに気をとられている様子で、つまずきながらよろよろと歩いていました。そのときなんですよ、木が倒れてきたのは」
「そう言われてみると、想像のつかない話じゃないわ」と、ポルガラ。「まさか誰かが故意に倒したとか?」
「それはないでしょう」シルクは答えた。「獲物を押しつぶすわなだったのかも知れませんが、それもあまり当てになりませんね。真ん中のあたりが腐っていたんですよ。注意しようと思ったんですよ。でも、かれはまっすぐその下に歩いていってしまって」
「もういい」ベルガラスが言った。
「ほんとうに注意しようとしたんですよ」
「しつこいぞ、シルク」
「だって、注意する気がなかったと思われるのは心外ですからね」シルクはそう言って反論した。
ポルガラは首を横に振り、いかにも失望したという声で、「おとうさん!」
「口をはさむな、ポル」と、ベルガラス。
「その後、わたしはかれを木の下から掘り出して副木を当て、できるかぎりの手当てをしました。それからあの小さなボートを盗み、川を下りはじめました。あの灰が降りはじめるまでは万事うまくいってたんですけど」
「馬はどうしたんです?」ヘターが聞いた。セ・ネドラは、この長身で無口なアルガーの青年をすこし恐れていた。剃りあげた頭、黒い革の服、そして頭皮に残したひと房の黒髪。かれの笑う顔などとても想像できない。しかもマーゴ≠ニいう言葉を聞いただけで、タカに似た顔に石のような冷酷な表情を見せる。かれもひとの子なのだ、と思わせる点がひとつだけあるとしたら、それは馬に対する異常なまでの思いやりだろう。
「馬なら心配ない」シルクはそう言ってかれを安心させた。「ニーサ人に見つからないようなところにつないできたから。われわれが拾いにいくまで、そこで元気にしてるだろう」
「船に乗ってきたとき、たしかクトゥーチクが〈珠〉を持っているって言ってたけど」ポルガラがベルガラスに言った。「どうしてそんなことに?」
老人は肩をすくめ、「ベルティラもそれについて詳しくは話してくれなかった。かれが教えてくれたのは、ゼダーが国境を越えてクトル・マーゴスに入ったところでクトゥーチクが待ち伏せていたということだけだ。ゼダーはなんとか逃げようとしたが、けっきょく〈珠〉を置き去りにせざるをえなかったらしい」
「ベルティラと話したの?」
「心の中でな」ベルガラスは答えた。
「なぜ〈師〉がわたしたちを〈谷〉に呼んでいるのか、かれは何か言ってた?」
「いや。かれにはそんな質問をすることさえ思いつかないだろう。ベルティラがどんな男か、おまえも知ってるだろう」
「数ヵ月はかかるわよ、おとうさん」ポルガラは心配そうに顔をしかめて反論した。「〈谷〉までは二百五十リーグもあるのよ」
「アルダーがそれをお望みなのだ。これまでの長い年月を考えれば、いまさらかれにそむくことはできない」
「そのあいだにクトゥーチクはラク・クトルに〈珠〉を持ち込むかもしれないのよ」
「そううまくはいかないさ、ポル。トラクは二千年以上にわたって〈珠〉を服従させようとしてきたが、できなかった。ラク・クトルの場所は知れているんだから、クトゥーチクは〈珠〉のありかを隠しようがない。ということは、わしが〈珠〉を取り返す気になったときも、やつは〈珠〉を持ったままそこにいるということになる。あの魔法使いをどう扱えばいいかは百も承知だ」かれは魔法使い≠ニいう言葉を並々ならぬ軽蔑の響きをこめて言った。
「ゼダーはそのあいだそうするつもりかしら?」
「ゼダーはゼダーなりに問題をかかえているのだ。ベルティラが言うには、やつは隠しておいた場所からトラクを移したらしい。おそらく、ラク・クトルからできるだけ遠いところにトラクの体を隠すつもりだろう。じっさいのところ、すべてが思いどおりになった。ゼダーを追いかけるのには、いいかげんうんざりしていたからな」
おそろしく込み入った話だわ、とセ・ネドラは思った。妙な名前を持つアンガラクのふたりの魔術師の動きや、その神秘的な〈珠〉にかれらがこれほど興味を示すのは、いったいどうしたわけなのだろう? その〈珠〉というのは、みんなが喉から手が出るほどに欲しがっているものらしい。彼女にとっては、宝石なんてどれも同じだった。子供のころからまわりに山ほどの装飾品があったから、とうのむかしに宝石の価値を見出すことなどなくなってしまっていたのだ。今のところ、彼女が身につけている装飾品は、小さなどんぐりのような形をした一対のゴールドのイアリングだけだった。これを気に入っている理由はそれが金《きん》だからではなく、頭を動かしたときにその中で響くチリンチリンという可愛らしい音が好きだったからだ。
かれらの話は、何年か前に父の中庭で、ある語り部から聞いたアローンの神話に何から何までそっくりだった。その中に魔法の宝石がでてきたことを彼女は思い出した。たしかその宝石はアンガラク人の神、トラクに盗まれたあと魔術師とアローン人の王の手で取り戻され、剣のつか頭に埋め込まれて〈リヴァの謁見の間〉に安置されたのだった。そしてそれがあるかぎり西部の平和は守られるけれども、もしなくなってしまえばひどい災いが降りかかるかもしれないとか。奇妙な話だった――その中に出てくる魔術師の名はベルガラス、この老人とまったく同じ名だ。
でも、それならかれは何千という歳になってしまうじゃないの、そんな馬鹿な! きっと神話の英雄の名にちなんで名づけられたのよ――さもなければ、ひとの気をひこうとしてそんな名前を名乗ってるだけだわ。
ふたたび彼女の視線はガリオンの顔に引きつけられた。かれは船室のひと隅に黙って座っていた。一途なまなざし、表情は真剣そのものだ。かれのことがこんなに気になってたえず目で追ってしまうのは、かれのこのひたむきさが原因なのかもしれない、とセ・ネドラはひそかに考えた。彼女が知っている少年たち――貴族や貴族の子息たち――は、彼女を喜ばすために気のきいたセリフを言おうとたえず努力していたが、ガリオンは冗談や知識をひけらかして彼女を驚かそうとはしなかった。彼女はそれをどう受け止めていいのか、はっきりとはわからなかった。かれはどう振る舞えばいいかわからないほど間抜けなのかしら? いいえ、もしかしたら気に入られる方法を知ってるけど、そんな努力するほどわたしのことを気にかけていないのかもしれない。もし、かれがご機嫌とりをする気なんかないと言ったら、わたしはいったいどうやってかれと接すればいいのだろう?
彼女は不意にかれに腹を立てていたことを思い出した。かれはサルミスラ女王は自分がいままで見たなかでいちばんうつくしい女性だったと言ったのだ。そんなひどい侮辱を口にした少年をそう簡単に許すわけにはいかなかった。いやというほど思い知らせてやろう、彼女はそう心に決めていた。彼女の指は無意識のうちに顔の片側にかかった巻き毛のひとつをくるくるともてあそんでいた。そして、視線は吸い寄せられるようにしてガリオンの顔に注がれていた。
夜が明けてみると、クトル・マーゴスのどこかにある大規模な火山の噴火がもたらした例の灰の雨はかなりおさまっており、ふたたび船のデッキに出ることができるようになった。川の堤沿いのジャングルはまだところどころ灰にかすんでいたが、空気は呼吸しても大丈夫なぐらいきれいになっていたので、セ・ネドラはさっそくデッキ下の暑苦しい船室から抜け出し、胸をなでおろした。
ガリオンは船のへさき付近にあるお決まりの隠れ場所に腰をおろし、ベルガラスと熱心に話し込んでいた。セ・ネドラは心のわだかまりのことも忘れ、あら、ガリオンったら今朝はなまけて髪をとかなかったのね≠ニ思った。彼女は櫛をとってきて髪をとかしてやりたい衝動をやっとのことで抑えた。そのかわりに彼女は何気ない顔を装いつつ、相手に気づかれずにうまく盗み聞きできる場所に向かって手すり沿いをふらりふらりと移動していった。
「――気がついたときにはもうそこにいたんだよ」ガリオンが祖父に言っていた。「前はただ話しかけてくるだけだったんだけど――つまりぼくが子供っぽいことをしたり、馬鹿な真似をしたようなときに。なんだか、頭の片隅に勝手に住みついたような感じだったな」
ベルガラスは使えるほうの手でぼんやりとひげを掻きながらうなずいた。「おまえの意志とはまったく別のものらしいな。頭の中にあるその声は実際に何かをしたことがあるのか? つまり、おまえに話しかける他に、という意味だが」
ガリオンは急に考え込むような表情を見せて、「そういうことはないみたい。そりゃあ、どうすればいいか教えてくれることはあるけど、じっさいにそれをするのはぼくだから。ただ、サルミスラの宮殿にいたときに、ポルおばさんを捜すためにそれがぼくを体から引き離したような気がした」かれはそこで顔をしかめ、今言ったことを訂正した。「いや、そうじゃない。ぼくが考えに詰まってしまって、それがどうやったらいいか教えてくれたんだけど、じっさいに行動したのはぼくだったんだ。いったん体から出てしまってみると、ぼくの隣にそれがいるのがわかったよ――一体じゃないと感じたのはそのときがはじめてだった。姿を見ることはできなかったけど。二、三分なんていう短い時間じゃなかったな、あれは。それはサルミスラをうまくなだめてぼくらのしていることを隠すために彼女にあれこれと話しかけてたよ」
「ところで、おまえはわしらと別れてからずいぶん忙しい思いをしたようじゃないか」
ガリオンはむっつりとうなずいた。「ひどいことのほうが多かったよ。ぼく、アシャラクを燃やしちゃんたんだ。知ってた?」
「ああ、おばさんに聞いたよ」
「あいつ、おばさんの頬をたたいたんだよ」ガリオンは言った。「ぼくはナイフを持って追おうとしたんだけど、あの声が別の方法でやれと教えてくれたんだ。それでぼくはアシャラクを平手でたたいて『燃えろ』って言ったんだ、それだけだよ――ただ『燃えろ』って――そしたらあいつは火だるまになっちゃって。ぼくはその火を消そうとしていたんだ。ポルおばさんが、あんたのおかあさんとおとうさんを殺したのはその男よ、って言うまでは。でも、それを聞いたとたんそんな程度の火じゃ足りなく思えてきて。あいつは消してくれってたのんだけど、ぼくは聞かなかった」かれは言葉を切って身震いした。
「わしがそれについて注意しようとしたことがあったろう」ベルガラスはやわらかな口調で以前の話を持ち出した。「そういうことのあとはきっと嫌な気がするだろう、そう言ったはずだぞ」
ガリオンは溜息をつくと、「ちゃんと聞いておけばよかったよ。ポルおばさんが言うには、いったんその――」かれは言葉をさがしあぐねて顔をしかめた。
「力か?」ベルガラスが助け船を出した。
「うん、それそれ。おばさんは、いったんそれを使ったらその方法を忘れることはぜったいにないって言うんだ。何度も何度もおなじことを繰り返すんだって。こんなことになるならナイフのほうを選べばよかった。そうすればぼくの中にある力が解き放たれることはなかったのに」
「それはちがうな」ベルガラスがきわめておだやかに言った。「おまえは何ヵ月か前にすでにその縫い目を引き裂きはじめていたんだ。わしの知るかぎり、おまえは無意識のうちにもう六回ぐらいその力を使っている」
ガリオンは信じられないといった顔でかれを見つめた。
「トルネドラに入ってすぐのところで出くわした気のふれた修道士のことを覚えてるか? おまえがあの男にふれたときの音の大きかったこと。一瞬わしはあの男が死んでしまったんじゃないかと思ったほどだ」
「だって、あれはポルおばさんがやったことだって言ったじゃないか」
「あれは嘘さ」老人は何くわぬ顔で言った。「そんな嘘なら年がら年じゅうついている。そんなことより、重要なのは、おまえが前からそういう能力を持っていたということだ。遅かれ早かれおもてに出てくる運命だったのだ。おまえがチャンダーにした仕打ちのことを聞いても、わしはそれほど嫌な気はしなかった。ちょっと意外ではあった――つまり、わしならそういう方法は使わなかっただろうということだが――しかし、なんといってもそれは当然の報いだったんだからな」
「じゃあ、これからもその力はなくならないの?」
「ああ、永遠に。おまえには気の毒だが、そういうものなのだ」
セ・ネドラ王女はこの会話を聞いてちょっとばかり誇らしい気分を味わった。ベルガラスの言葉は、いぜん彼女がガリオンに言ったことが正しかったことを証明してくれたのだ。もし、この少年がその頑固な態度を改めれば、かれのおばさんやおじいさんやもちろんわたしも含め、かれにとって何が大事で何が必要かを本人より知っている人々は、ほとんど何の苦労もなく、自分たちの満足のいくようにかれの人生を形づくることができるのに。
「ところで、おまえのもうひとつの声のことだが」ベルガラスは話題を戻した。「もうすこしよく知っておかなければ。おまえの心の中に敵が同居しているのは望ましくないからな」
「敵じゃないよ」ガリオンは反論した。「ぼくたちの味方だよ」
「たとえそう見えても、物事はいつも見かけどおりであるとはかぎらんのだ。正体がはっきりとわかるなら、それにこしたことはない。不意打ちにあうのはごめんだ」
このときセ・ネドラ王女はすでにべつの問題に心を奪われていた。くねくねと曲がりくねった小さな思考の裏側で、ひとつの考え――ひじょうに面白い可能性をひめたある考え――が、ぼんやりとではあるが形を整えはじめていたのだ。
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週の前半を思えば、〈蛇の川〉の早瀬をさかのぼる数日間の旅は比較的楽しいものだった。うだるような暑さは相変わらずだったが、かれらもわずかにではあるがこの気候に慣れはじめていた。セ・ネドラ王女はたいていはポルガラといっしょにデッキに座っていて、ガリオンのことは徹底的に無視していた。それでも、ときおり自分の態度に傷ついているかどうかを知りたくて、かれの態度をちらちらと観察してみるのだった。
自分の命がこの人々の掌にすっかり握られているのだから、どうしてもかれらを出し抜かなければならない、とセ・ネドラは感じていた。ベルガラスについては問題はなかった。かれなど、可愛い女の子が魅力的に微笑んでパチパチとまつ毛をしばたたき、くったくのないキスをひとつかふたつ振る舞えば、すっかり言いなりになってしまうだろう。この作戦なら必要だと思われたときにいつでも行動に移せる。でも、ポルガラの場合はそうはいかない。ひとつには、セ・ネドラ自身がポルガラの息をのむような美しさに畏敬の念を抱いていることが問題だった。ポルガラには一点の傷もなかった。闇夜のような黒髪に映えるひと房の白い髪でさえ、一種のアクセントにこそなれ、けっして彼女の美を損ねるものではなかった。なにより王女をどきまぎさせる部分、それは彼女の目だった。そのときの気分によって灰色から深い藍色に染まっていく彼女の瞳は、すべてを見透かしているように見える。あの静かなまなざしにじっと見つめられたら、どんなごまかしも通用しない。彼女の瞳をのぞきこむたびに、セ・ネドラはカチャカチャという鎖の音が聞こえてくるような気がしてならなかった。だから、セ・ネドラはなんとしても彼女に気に入られなければならなかった。
「レディ・ポルガラ?」王女はある日の朝、ふたりでいっしょにデッキで腰をおろしているときに彼女に話しかけてみた。両脇の川の堤に沿って、湯気をあげる灰色がかった緑のジャングルが通りすぎ、水夫たちは額に汗しながら必死にオールを動かしている。
「なあに、セ・ネドラ?」ガリオンのチュニックにボタンを縫いつけていたポルガラは、顔をあげた。今日の彼女は薄い青のドレスを着て、暑さをまぎらわすために喉もとが大きく開いている。
「魔術っていったいなんなの? わたしはずっとそんなものは存在しないって教わってきたんだけど」その話題を持ち出すにはちょうどいいタイミングのように思えた。
ポルガラは彼女に微笑んで、「トルネドラの教育はすこし偏っているようね」
「手品のようなものなの?」セ・ネドラはなおも質問した。「つまり、一方の手から何かを消してもう一方の手から何かを出すようなこと?」手はサンダルの紐をもてあそんでいる。
「いいえ、セ・ネドラ。まったくちがうことよ」
「正確にいって、それでどれぐらいのことができるものなの?」
「その限界を試したことはまだないわ」ポルガラは忙しく針を動かしたまま答えた。「何かをする必要にせまられればそれをする、それだけの話よ。できるとかできないとかはまったく考えないわ。もちろんひとによって得意不得意はあるようだけど。石を刻むのが専門という人間もいれば大工仕事が得意という人間もいるでしょ」
「ガリオンも魔術師なんでしょ? かれにはどれぐらい能力があるの?」ああ、なんでこんなことを聞いてしまったんだろう、セ・ネドラは言ってしまったあとで悔やんだ。
「何を言い出すのかと思ったら」ポルガラは射抜くような目で少女を見た。
セ・ネドラはすこしだけ顔を赤らめた。
「髪を噛むのはおよしなさい」ポルガラは彼女に言った。「枝毛になるわよ」
セ・ネドラはすぐに口の中にあった巻き毛を引き出した。
「ガリオンに何ができるのかは、わたしたちにもまだよくわからないわ」ポルガラは話をつづけた。「たぶんそれを話すにはまだ時機が早すぎると思うのよ。たしかに才能はあるようね。かれが何かをしですかたびに必ずかなりの騒音を呼び起こすでしょ、あれはかれの潜在能力を物語っているわ」
「じゃあ、かれはすごく力のある魔術師になるのね」
ポルガラは口もとにかすかな微笑みを浮かべ、「ええ、たぶんね。だからこそ、かれがすすんで自分をコントロールすることを学んでくれればといつも願っているんだけど」
「それなら、わたしたちがかれにコントロールすることを教えればいいんじゃないかしら?」セ・ネドラがいきなり提案した。
ポルガラはしばし彼女を見つめていたかと思うと、いきなり笑いだした。
セ・ネドラは一瞬気弱になったが、すぐに声を揃えて笑いだした。
そう遠くないところに立っていたガリオンは、振り向いて彼女たちを見た。「何がそんなにおかしいの?」かれは訊ねた。
「あなたには関係のないことよ、ガリオン」ポルガラは答えた。
かれは気を悪くしたらしく、背中をこわばらせ、ぶぜんとした様子で去っていった。
それを見て、セ・ネドラとポルガラはまたひとしきり笑った。
グレルディクの船が、岩と激しく渦巻く流れにはばまれてそれ以上先には進めないという場所までくると、かれらは北側の堤の大きな木にもやい綱をつなぎ、岸に上陸する準備をはじめた。鎖かたびらを着たバラクは旧友グレルディクのとなりで汗をながしつつ、馬が船からおりてゆく様子をしっかり監視しているヘターの姿をながめていた。「もし女房に会うことでもあったら、おめでとうと言っておいてくれ」
グレルディクはうなずいて、「今度の冬のあいだにはトレルハイムの近くに行くこともあるだろう」
「彼女の妊娠を知っていることを伝えるべきかどうか、おれには判断しかねるんだが。おれが帰ったときに息子を見せて驚かせたいかも知れんからな。彼女の楽しみをこわしたくないんだ」
グレルディクはいささか驚いたという顔で、「ほお、おまえは彼女の楽しみを奪うことを趣味にしてるのかと思ってたよ、バラク」
「おれたちもそろそろ互いに歩みよらなければいけないと思うんだ。たしかに若かったころはそういう小さないさかいも刺激があって面白かったが、このへんですべてを水に流すのも悪くないと思ってな――とくに子供たちのことを考えれば」
ちょうどそのときベルガラスがデッキにあがってきてひげ面のチェレク人たちに合流した。
「ヴァル・アローンに行ってくれ」かれはグレルディク船長に言った。「アンヘグにわれわれの居所とこれからの予定を伝えてくれ。それから、他の者にも伝言を送るようにと。つまり今の時点でアンガラク人と戦うことはぜったいにならんということをだ。今、クトゥーチクはラク・クトルに〈珠〉を隠し持っている。もし戦争が起こったとなると、タウル・ウルガスはクトル・マーゴスの国境をすべて封鎖してしまうだろう。そうなればわれわれはひどく厄介な問題を抱え込むことになるのだ」
「伝えることは伝えますが」グレルディクはあいまいに答えた。「でも、国王がその意見をお気に召すかどうか」
「気にいろうがいるまいが、そんなことはどうでもいい」ベルガラスはつっけんどんに言った。
「これは義務なのだ」
そう遠くないところに立っていたセ・ネドラは、みすぼらしい身なりの老人が有無をいわせぬ調子で命令したのを聞いて、すこしばかりたじろいだ。なんだってこのひとは一国の君主たちに対してこんな口をきけるのかしら? もしガリオンが魔術師だとしたら、かれもいつかはこういう権威を持つようになるのかしら? 彼女は振り向き、鍛冶屋のダーニクを手伝って興奮した馬をなだめている少年をながめた。とてもそんな権威があるようには見えないわ。彼女は唇をすぼめた。そして、ローブのようなものを着れば少しはそれらしく見えるかもしれない、と想像をはたらかせた。あるいは魔術の書を手に持つとか――あるいはひげをちょっと生やすとか。彼女は目を細め、ローブを着て本を手に持ちひげを生やしているガリオンを思い浮かべてみた。
彼女の視線にはっきりと気づいたガリオンはさっと振り向いて、物問いたげな表情を浮かべた。その姿の平凡なこと。このあたりまえで気取りのない少年が今彼女が考えていたような立派な恰好になるかと思うと、なんだか急におかしくなってきて、彼女は思わず吹き出してしまった。ガリオンは顔を赤らめ、かたくなに背中を向けた。
〈蛇の川〉の早瀬がこれより川上には航行できないように行く手をさえぎり、丘に通じる道がかなり広くなっているのは、ほとんどの旅人がここから上陸しているというしるしだった。一行は午前中の明るい日差しを浴びつつ渓谷を後にすると、今度は川沿いに密生するジャングルをすばやく通り抜け、堅材の木が立ち並ぶ森の中に入っていった。セ・ネドラにはこの森がすばらしく心地よく感じられた。最初の丘の頂上にさしかかると、驚いたことにそよ風まで吹きはじめた。うだるような暑さも、ニーサの湿地帯のうんざりするような悪臭も、この風が吹き飛ばしてくれるように思えた。セ・ネドラの気分はにわかに高揚してきた。そこでケルダー王子に話しかけてみようかと思いたったが、かれは鞍の上でまどろんでいる最中だった。それに、セ・ネドラはこのワシ鼻のドラスニア人に対してわずかながら恐怖心をいだいていた。彼女はとっさにこの皮肉っぽくて頭の回転が速い小男なら本でも読むような調子で自分の心を読んでしまうだろうということに思いあたった。それは彼女にとってあまりうれしいことではなかった。そこでシルクに話しかけるかわりに、例によってみんなのしんがりをつとめているマンドラレン男爵と馬を並べようと、彼女は列に沿ってどんどん前進していった。できるだけ早く湯気をあげている川から遠ざかりたいという気持ちから彼女の歩調はいくぶん早足になっていたが、急いでいる理由はそればかりではなかった。心にひっかかっているある事柄をこのアレンディアの貴族に訊ねてみるには、今が絶好のチャンスだということを急に思いついたのだ。
「王女さま」彼女がかれの大きな軍馬の横に自分の馬を寄せると、よろいかぶとをつけた騎士はうやうやしく声をかけた。「列の先頭にお出になるとはいささか不用心ではないですか?」
「あら、この世でもっとも勇敢な騎士を襲うほど愚かな人間なんているかしら?」彼女は無邪気を装って言った。
男爵は急に沈鬱な表情を浮かべたかと思うと、ふっと溜息をもらした。
「まあ、マンドラレンどの、そんなに大きな溜息をおつきになるなんていったいどうなさったの?」彼女はひやかすように言った。
「なんでもありません、王女さま」
ふたりはまだら模様の木陰の中を黙って進みつづけた。昆虫がブンブンと羽を鳴らしながら矢のように飛んでいったかと思えば、道端のやぶの中では小さなあわてんぼたちがぴょんぴょん跳ねたり、カサカサと音をたてたりしている。「ねえ、教えてくださらない」ついに王女が沈黙を破った。「ベルガラスとは前から知り合い?」
「ええ、ずっと前からですよ、王女さま」
「アレンディアでかれは高く評価されているの?」
「高く評価されている? 高く評価されるもなにも、聖なるベルガラスは世界でもっとも重要な人物ですよ! そのぐらいあなたもご存知でしょうに、王女さま」
「わたしはトルネドラ人よ、マンドラレン男爵」彼女はぴしゃりと言った。「わたしたちは魔術師とはあまり縁がないの。それで、アレンド人はベルガラスを高貴な生まれの人間と思っているわけ?」
マンドラレンは笑い出した。「王女さま、聖なるベルガラスの出生はわれわれには想像もつかないほど遠い昔にさかのぼるんですよ。そんな質問はまったく無意味ですね」
セ・ネドラは顔をしかめた。彼女はひとから笑われるのがとくに嫌いなのだ。「かれは貴族なの、貴族じゃないの?」彼女は急き立てるように言った。
「かれはベルガラスなんですよ」マンドラレンはそれがすべてを説明しつくしているとでもいうように言った。「世には何百人という男爵がいるし、伯爵もまたしかり、そして貴族となればその数たるや想像もつかないほどですが、ベルガラスはこの世にたったひとりしか存在しないのですよ。かれにかなう者などひとりとしていません」
王女はかれにチラッと微笑みかけた。「じゃあ、レディ・ポルガラは?」
マンドラレンが目をぱちくりさせたので、セ・ネドラは話が先走りすぎたことに気づいた。
「レディ・ポルガラは全女性の崇敬に値するおかたです」かれはしどろもどろに答えた。「王女さま、あなたの質問の意図を聞かせてくださいませんか。そうすれば、もっと的を射た答え方ができると思うのですが」
彼女は笑い声をあげた。「男爵どの、それほど重要な意味はありませんわ――ただちょっと気になったものだから。それに、旅のつれづれを紛らわすには、こういうおしゃべりもいいんじゃないかと思って」
ちょうどそのとき鍛冶屋のダーニクが、踏み固められた地面に栗毛馬のひづめの音をひびかせながら、速足でやってきた。「ミストレス・ポルがすこし待ってほしいと言ってます」かれはふたりに言った。
「何か不都合なことでも?」セ・ネドラがすかさず訊ねた。
「いいえ、ただ小道からそう遠くないところに灌木が一本あるらしいんです。彼女はその葉を採集したいようで――きっと何か医学的な用途があるんでしょうね。彼女が言うには、それはひじょうに珍しい植物で、ニーサのこのあたりでしか見られないものらしいんです」これはかれがポルガラのことを話すときの常なのだが、あけすけで正直な顔一面に尊敬の色がありありと浮かんでいる。セ・ネドラはダーニクの胸の内がどうなっているのかとひそかにいぶかしく思ったが、それは自分だけの胸にこっそりしまっておくことにした。「あっと、それから」かれはさらに付け加えた。「その灌木にはくれぐれも気をつけるようにとのことです。そのへんにもまだ別のものがあるかもしれないので。丈はだいたい一フィートでつやつやした緑色の葉と小さな紫色の花をつけているらしいですよ。なんでも、恐ろしい毒を持っていて――さわるだけでも害をおよぼすとか」
「わかった、道からそれないようにしよう」マンドラレンはかれに言った。「でも、先に行っていいという許可がおりるときに備えてこの場で待つことにするぞ」
ダーニクはうなずくと今来た道を引き返していった。
セ・ネドラとマンドラレンは手綱を引いて一本の大木の陰に入り込み、そこに腰を落ちつけた。「アレンド人はガリオンのことをどう考えているの?」セ・ネドラがだしぬけに聞いた。
「ガリオンはいい少年ですよ」マンドラレンはすこし困惑ぎみに答えた。
「でも高貴とは言いがたいわね」王女は同意をうながすように言った。
「王女さま」マンドラレンは壊れものを扱うような調子でやんわりと言った。「貴国の教育はあなたをすこしばかり間違った方向に導いたようですね。ガリオンはベルガラスとポルガラの血筋を引いているんですよ。たしかにあなたやわたしのような称号は持っていませんが、かれの血統はこの世でもっとも高貴なものなのです。もしかれが望むなら、わたしはむろんかれの前にひざまずくつもりです――かれはあのように礼儀正しい少年だから、そんなことは要求しないでしょうけど。そう言えばボー・ミンブルのコロダリン王の宮廷に滞在しているとき、若い伯爵令嬢がかれとの婚約で地位と名声を得ようとして、それは熱烈にかれを追いまわしていましたよ」
「まあ、ほんとう?」セ・ネドラは声の端にすこし険しい響きをこめて言った。
「どうしてもかれと婚約したかったんでしょう、彼女は露骨なやりかたでちょっかいを出したり甘い言葉をささやいたりして何度となくわなを仕掛けてましたよ」
「美しい方だったの?」
「王国内でも指折りの美人でした」
「へえ、そうなの」セ・ネドラの声は氷のように冷たく響いた。
「王女さま、わたしがなにかお気にさわることでも言いましたか?」
「べつに」
マンドラレンはふたたび溜息をもらした。
「今度はどうしたの?」彼女は容赦なくさぐりを入れた。
「まったくもって欠点の多い男だなと思って」
「あら、あなたは完璧な人間で通っていると思っていたのに」彼女はすかさず残念そうな声をあげた。
「いいえ、とんでもない。あなたが思っているよりはるかに欠点の多い人間ですよ」
「ひとの扱いがうまいとは言えないけど、でもそんなことは大きな欠点にはならないわ――だってあなたはアレンド人なんですもの」
「わたしは臆病なんですよ、王女さま」
彼女はこの意見を笑いとばした。「臆病? あなたが?」
「わたしはそれに気づいたんです」かれは打ち明けた。
「馬鹿なこと言わないでちょうだい」彼女は意にも介さずに言った。「もし欠点があるとしても、それはもっと別のものよ」
「信じてはもらえないかもしれません。でも、恥をしのんで白状しますが、わたしは自分の心が恐怖に支配されていることに気づいてしまったのです」
セ・ネドラは騎士の悲しげな告白を聞いてすっかり困惑してしまった。何か適当な言葉をさがそうと彼女がもがいているちょうどそのとき、二、三フィートほど離れた下生えの中から何かが突進してくるようなすさまじい物音が聞こえてきた。不意の恐怖におびえた彼女の馬はあたりをぐるぐる回ったかと思うと、いきなり駆け出した。一瞬、こちら目がけてやぶの中から突進してくる何やら大きくて黄褐色をしたものの姿が彼女の目の端をかすめて通った。大きな黄褐色、ぱっくりと開かれた口。彼女は片方の手で必死に鞍にしがみつき、もう片方の手で恐怖にとりつかれた馬を制御しようとしたが、狂ったように飛び跳ねる馬はついには低い枝の下に首を突っこみ、彼女は道の真ん中にいきなり振り落とされてしまった。彼女はくるりと回転して四つん這いになったものの、隠れ場所からぎごちなく飛び出してきた獣とちょうど顔を突き合わせ、その場ですくみあがってしまった。
彼女はそのライオンがあまり年をとっていないことを一瞬のうちに見てとった。体こそすっかり発育しているが、たてがみはまだ生え揃っていない。狩りに関してはまだ未熟にちがいない。逃げ出した馬が道の向こうに消えていくのを見て、ライオンは欲求不満の吠え声を響かせ、激しく尾を振った。その瞬間王女はちょっぴりおかしさが込みあげてくるのを感じた――なんて青臭くて愚かなライオンかしら。だがしばらくすると、そのおかしさは、自分はこんなにぎごちない若ライオンのせいで馬から振り落とされたんだという苛立ちにとってかわった。彼女はすっくと立ち上がり膝を払うと、ライオンをきっと見据えた。「シッ!」彼女は手で追い払うしぐさをしながら言った。わたしはなんと言っても王女なのよ。おまえはただのライオンじゃないの――若くて愚かなライオンよ。
すると、黄色い両眼が彼女のほうに動き、かすかに狭まった。パタパタと動いていた尻尾もにわかに静かになった。険しいほどに両眼をかっと見ひらき、同時に腹を地面に這わせるようにしてうずくまっている。上唇がめくれあがると、おそろしく長い歯が白く光った。ライオンは巨大な前足をそーっと地面におろしながら、彼女のほうに最初の一歩を踏み出した。
「そんなまねはさせないわよ」彼女は憤然として言った。
「じっとしていてください、王女さま」マンドラレンは押し殺した声で忠告した。彼女は視界のすみでマンドラレンが鞍からすべりおりるのを認めた。ライオンは煩わしそうにかれを見やった。
注意ぶかく、一歩ずつ、マンドラレンは間隔をちぢめ、ついにはよろいかぶとに包んだ体をライオンと王女のあいだに置くことに成功した。ライオンはかれをじっとながめていたが、かれが何をしようとしているのかはわかっていなかったらしく、気づいたときはすでに手遅れだった。もうひとつの獲物まで取り上げられたことを知ると、ライオンは苛立たしそうに目を細めた。マンドラレンは注意ぶかく剣を引き抜いたと思うと、驚いたことに、柄を向けてその剣をこちらによこした。「あなたがご自分の身を守ってさえくだされば、わたし自身は抵抗しおおせなくともかまいません」騎士はそう説明した。
何が何だかわからないまま、セ・ネドラは両手で巨大な柄を握った。だが、マンドラレンが刃を握っている手を放したとたん、刃先はがくんと地面に落ちてしまった。なんとか頑張ってはみたものの、セ・ネドラは剣を持ちあげることさえできなかった。
ウーッとうなりながらライオンはさらに体を低くした。怒り狂ったようにしばらく尾を振っていたが、やがてそれもぴたりと止んだ。「マンドラレン、気をつけて!」まだ剣と格闘しているセ・ネドラが叫んだ。
ライオンがぱっと飛びかかった。
マンドラレンはライオンの突撃を受けて立つために、鋼に包んだ両腕を大きく広げ、足を前に踏み出した。両者が大きな音を響かせてぶつかりあった瞬間、マンドラレンの両腕はライオンの体をがっちりとつかまえた。ライオンの大きな前肢もマンドラレンの肩をとらえており、爪が騎士のよろいかぶとを引っ掻くさいにギーギーという耳をつんざくような金属音が響きわたった。ライオンはぎしぎしと歯ぎしりの音を立てながら、かぶとをかぶったマンドラレンの頭にかぶりついている。マンドラレンはさらに力を込めてライオンを締めあげた。
セ・ネドラは這うようにしてその場を逃れた。剣をうしろに引きずり、残忍な闘いをながめる両目は恐怖に大きく見ひらかれている。
ライオンはいよいよ必死に爪をたてた。だが、マンドラレンの腕がこれでもかという具合に力づよく羽交い締めにし、よろいの表面に大きくて深いひっかき傷が浮かびあがる段になると、吠え声は悲しげな鳴き声にかわり、ライオンは闘うとか相手を殺そうとかではなく、今度はどうにか逃げ出すためにもがきはじめた。苦しそうに四肢をばたつかせ、噛みつこうとしている。ついにはうしろ足でマンドラレンの鋼の胴体をはげしく引っ掻きはじめた。鳴き声はいよいよ甲高くなり、恐怖の音色を帯びてきた。
超人的ともいうべき力を込めて、マンドラレンは両腕をぐいっとわきに引っぱった。セ・ネドラは、ライオンの骨が胸の悪くなるほどはっきりとした音をたてて折れるのを聞いた。と同時に、真っ赤な血潮がライオンの口から噴水のように噴き出した。全身がぴくぴくっと震え、頭ががくんと垂れ下がった。マンドラレンが羽交い締めにしていた腕を放すと、事切れた獣の体は彼の足もとにくたくたと崩れ落ちた。
血にまみれ、よろいを傷だらけにして眼前に立っているとてつもなく勇敢な男を、王女はしばし呆然とながめていた。たった今、目の前で信じがたいことが起こったのだ。マンドラレンはそのたくましい腕以外なんの武器も持たずに一頭のライオンを殺してしまったのだ――しかも、すべて彼女のために! 何が何だかわからないうちに、気がつくと彼女は歓喜の声をあげていた。「マンドラレン!」その名は歌声のように響きわたった。「あなたはわたしのナイトよ!」
奮闘のあとでまだ息をきらしたまま、マンドラレンは面頬を押しあげた。彼の青い瞳は大きく見ひらかれていた。まるで彼女の言葉に強い衝撃を受けたとでもいうように。やがてかれは彼女の前にひざまずいた。「王女さま」かれは声を詰まらせた。「わたくしはこの獣の屍に賭けて、自分の息のつづくかぎりあなたの忠実なナイトとなることを誓います」
セ・ネドラは魂のどこかずっと奥のほうで、何かがカチッと鳴るのをはっきり聞いたような気がした。それは、はるか昔から一緒になるべき運命にあったふたつの物が、ついに出会ったとでもいうような音だった。何か――はっきり言いあてることはできないがひじょうに重要な何かが、この陽光がまだらに差し込む林で起こったのだ。
間もなく、大きくて堂々たる体躯をしたバラクが全力で道を走ってきた。わきにはヘターが、そしてそう離れていないところに他の仲間もつづいている。「どうしたんだ?」バラクは馬から飛びおりながら訊ねた。
セ・ネドラは全員が馬の歩調をゆるめるのを待ってから発表した。「このライオンがわたしを襲ったのよ」彼女はありふれた出来事に聞こえるよう、つとめて淡々と言った。「マンドラレンがそれを素手で殺してしまったわけ」
「じっさいはこれをつけていたんですよ、王女さま」マンドラレンはひざまずいたまま、籠手《こて》をつけた拳を上げてみせた。
「こんな勇敢な行為は今まで見たことがないわ」セ・ネドラはさらにまくしたてた。
「どうしてひざをついているんだ?」バラクがマンドラレンに訊ねた。「怪我でもしたのか?」
「たった今、マンドラレン卿をわたし付きのナイトに任命したのよ」セ・ネドラが誇らしげに宣言した。「だから当然のことながら、かれはわたしにその名誉をねぎらってもらうためにひざまずいているの」彼女の目の端に、馬からすべりおりるガリオンの姿がうつった。かれはかみなり雲のように険悪な顔をしている。セ・ネドラは心の中で勝ち誇ったように笑った。それから前にかがむと、姉妹のようなしぐさでマンドラレンの額にキスした。「お立ちなさい、騎士どの」彼女に言われて、マンドラレンはガチャガチャと音をたてながら立ちあがった。
セ・ネドラは得意満面だった。
その日の残りは何事もなく過ぎていった。かれらは丘の上につづく低い尾根を渡り、やがて太陽が西の雲堤にゆっくりと沈むころ、小さな谷に出た。キラキラと光る冷たそうな小川がその谷を潤しているのを見て、かれらはそこに野営を張ることにした。王女のナイトとしてあたらしい任務を得たマンドラレンは、それに相応しい心づかいを見せ、セ・ネドラはしずしずとそれを受け入れていたが、一方では絶えずガリオンを盗み見てかれがすべてを見届けていることを確かめていた。
しばらくしてマンドラレンが自分の馬の様子を見にいき、ふくれっ面のガリオンが地面を踏み鳴らしながらいってしまうと、彼女はとりすました態度で苔におおわれた丸太に腰をおろし、今日一日の成功をしみじみとかみしめた。
すると、とつぜん、二、三フィートと離れていない場所で火を起こしていたダーニクがぶっきらぼうな口調で言った。「王女さま、あなたは残酷なゲームを楽しんでいらっしゃる」
セ・ネドラはびっくりした。彼女が記憶しているかぎり、彼女がこの一行に合流していらいダーニクがこうして直接話しかけてくるなんてことは一度もなかったのだ。かれは王族の前にいるということがいかにも居心地悪いという様子をしていたし、じっさい彼女を避けているようにさえ見えたのだ。ところが今、かれは彼女の顔をまっすぐに見て、とがめるような口調で話しかけているではないか。
「何のことだかわからないわ」彼女は言った。
「おわかりだと思いますよ」かれのあけすけで正直な顔は真剣そのもので、視線もまったくそらそうとしない。
セ・ネドラは目を伏せて、ゆっくりとまばたきした。
「これまで村の娘たちがこの手のゲームをするのを何度となく見てきました」かれは話しつづけた。「そういうことからいい結果が出たためしはありません」
「誰かを傷つけるつもりはないわ、ダーニク。マンドラレンとわたしのあいだにはそういうことは何もないのよ――それは互いに承知しているわ」
「ガリオンは承知していませんよ」
セ・ネドラはびくっとした。「ガリオン?」
「図星じゃないですか?」
「とんでもない!」彼女は憤然として言った。
ダーニクはそれでもまだ疑り深い顔つきをしている。
「そんなこと考えたこともないわ」セ・ネドラは早口でまくしたてた。「まったく馬鹿げてるわ」
「本当ですか?」
セ・ネドラの虚勢はこの言葉をきっかけにとつぜん崩れてしまった。「だって、ガリオンはすごいわからず屋なんですもの」彼女は不満そうに言った。「やるべきことを何ひとつしようとしないわ」
「かれは正直な少年なんですよ。かれの正体が何だろうと、あるいはこれから先何になろうと、かれは今でもファルドー農園の単純で平凡な少年のままなんです。上流社会のルールも知りません。あなたに嘘をついたり、こびたり、心にもないことを言ったりはしないでしょう。おそらく近い将来、何かとてつもなく重要なことがかれの身に起こるはずです――それが何なのか、わたしにはわかりません――でも、かれがそのために力と勇気を使いきってしまうだろうということだけはわかっています。子供じみたゲームでかれの心をぐらつかせないでください」
「まあ、ダーニク」彼女は大きく溜息をついて言った。「わたしがいったい何をしようとしたの?」
「素直になってください。思っていることだけを言ってください。言ってることと思ってることが違うというのはよしましょうよ。かれにはそんなことは通用しません」
「そうね。それがすべてをややこしくしてるのよ。かれとわたしはしょせん育ちがちがうんだわ。これからもふたりが仲よくなることはぜったいにないのよ」彼女はまた溜息をついた。
ダーニクはまるでおもしろがっているように、穏やかな笑顔を浮かべた。「それほどひどいことじゃありませんよ、王女さま。そりゃ最初のうちはかなり喧嘩もするでしょう。あなただって、かれに負けず劣らず頑固ですからね。ふたりは生まれた世界こそまったく違いますが、心の中はそれほど違わないんですよ。怒鳴りあい、互いの顔の前で指を振ることもあるでしょうが、やがてそういう時期は過ぎていきますよ。何が原因で怒鳴りあっていたのかさえ思い出せなくなってしまうんです。がいして良い結婚というのはそういうふうに始まるものなんですよ」
「結婚ですって!」
「あなたの考えていたのは、それじゃないんですか?」
彼女は信じられないといった顔でかれを見た。それから、急に笑いはじめた。「まあ、まあ、ダーニクったら。あなたって何もわかってないのね」
「わたしは目に見えるものを理解するまでです。わたしの目に見えたもの、それはひとりの青年を手に入れるためにあらんかぎりのことをしている娘さんの姿ですよ」
セ・ネドラはふっと溜息をもらした。「まったくの問題外だわ。たとえわたしがそう思ったとしても――もちろんそんなことは思わないけど」
「問題外、ですかね」かれはまだおもしろがっているようだった。
「ねえ、ダーニク」彼女はふたたび言った。「わたしはそんなことを考えることさえできないのよ。あなた、わたしが誰だか忘れてるわよ」
「ありえないようには見えますけどね。あなたはみんなの前ではその件を悟られまいとつねに神経を張りめぐらせているから」
「あなた、ほんとうにわかってないの?」
かれはすこし困惑した様子で、「あまりよくは」
「わたしは帝国の王女なのよ。帝国の宝、帝国の持ち物なのよ。結婚相手を決めるといっても、それに口出しする権利はまったくないの。それは父と査問委員会が決定することよ。わたしの夫となるひとはお金持ちで権力を備えていなければならないの――たぶん年はわたしよりずっと上でしょうね――そのひとと結婚することで帝国とボルーン家に利益がもたらされるようでないといけないわ。わたしは、たぶんその件に関しては意見も求められないでしょうね」
ダーニクはこの告白にショックを受けたようだった。「そんな乱暴な!」かれは抗議の叫びをあげた。
「そうとも言えないのよ。ボルーン家だって利益を守る権利があるんだもの。わたしはかれらにとってふたつとない貴重な資産なのよ」彼女はふたたび溜息をついた。哀調をおびた小さな溜息だった。「でも、素敵でしょうね――自分の相手を自分で選べるなんて。もしそんなことができたなら、あなたが考えていたような見方でガリオンを見ることだってあったかもしれないわ――たとえかれがすごく嫌なひとでも。だけど道理を考えれば、かれとわたしとはせいぜい友だちぐらいにしかなれないのよ」
「知りませんでした」かれは正直であけすけな顔に沈鬱な色をたたえながら謝まった。
「そんなに深刻にならないで、ダーニク」彼女は軽く言った。「はじめからそういうものだとわかっているんだから」
だが言葉とは裏腹に、キラキラと光る大粒の涙が目の端にあふれていた。ダーニクはなぐさめるつもりで、すりきれた手を彼女の腕にぎごちなく置いた。彼女は自分でもわからないうちにかれの首にしがみつくと、胸に顔をうずめて、すすり泣いていた。
「よしよし」かれは少女の震える肩を不器用にたたいた。「よしよし」
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3
その夜、ガリオンはなかなか眠れなかった。かれは若くて未熟だったが、けっして鈍感な少年ではなかった。それに加え、セ・ネドラ王女のやり口はあまりにも見え透いていた。彼女がこの一行に加わってからの数ヵ月というもの、ガリオンは自分に対する彼女の態度が徐々に変わってくるのをずっと観察してきた。そして、とうとう一風変わった友情を分かち合うまでにいたったのだ。かれは彼女に好意を抱いていたし、それは彼女にしても同じことだった。そこまでは万事がうまく運んでいたのだ。それなのに、どうして彼女は途中でそれを放り投げてしまうのだろう? たぶん女の子の頭の中ではいろいろな思考が働くのだろう、とガリオンは思った。友情がある地点を越えたとたん――目に見えない漠然とした境界線でもあるのだろう――女は、自分でもわからないうちに、物事を複雑にしたいという衝動にかられてしまうのだ。
マンドラレン相手に演じている彼女の見え透いたゲームが、じつは自分への当てつけなのだということを、かれはほとんど確信していた。だから、マンドラレンの心がこの先また痛手を受けることのないようにかれに忠告したものかどうか、本気で考えていた。大のおとなを相手にその気持ちをもてあそぶセ・ネドラのゲームは、甘やかされた子供の残酷な行為とほとんど変わらないものなのだ。それをマンドラレンに教えてやらなければ。アレンド人の石頭なら、見え透いたものを簡単に見落としてしまっても不思議はない。
とはいえ、マンドラレンは彼女のためにライオンを殺しているのだ。気まぐれな王女のことだから、その手の素晴らしく勇敢な行為にぼーっとなってしまったということも大いにありうる。もし、驚きと感謝の気持ちが彼女をのぼせあがらせてしまったとしたら? 夜明け前の真っ暗な時間帯にそんなことを考えたせいで、けっきょくかれはそれいじょう眠ることができなくなってしまった。翌朝、ザラザラする目をこすってむっつり起き上がったときも、かれはまだいまいましい不安にさいなまれていた。
早朝、薄青い暗がりの中で馬を歩かせるかれらの頭上にあらたな太陽がのぼり、木のてっぺんから斜めに光が射しはじめるころ、ガリオンは話し相手になってもらおうと先を行くベルガラスに合流した。だが、理由はそればかりではなかった。そのすぐ前をポルおばさんと並んでセ・ネドラがすまし顔で馬に乗っており、かれは何が何でも彼女を見張っておかなければという強迫観念にかられていたのだ。
ミスター・ウルフは不機嫌な顔をして、何も言わずに馬を走らせながら、左腕の副木の下にひんぴんと指を突っ込んでいる。
「およしなさい、おとうさん」ポルおばさんは振り向きもせずに言った。
「チクチクしてかなわん」
「治りかけている証拠よ。放っておきなさい」
かれは声をひそめて何やら、ブツブツと不満を漏らしている。
「〈谷〉へはどういうルートを使うつもり?」彼女が訊ねた。
「トル・レイン経由だ」
「季節は移り変わっているのよ、おとうさん。ぐずぐずしていると、山の中で厄介な気候にぶつかってしまうわ」
「そんなことはわかっておる。それともなにか、おまえはマラゴーをまっすぐ突っ切りたいというのか?」
「まさか」
「マラゴーってそんなに危険なところなの?」ガリオンが口をはさんだ。
セ・ネドラ王女は鞍の上で振り返り、さげすむような視線をかれに浴びせた。「そんなことも知らないの?」彼女は鬼の首でも取ったように訊ねた。
ガリオンはきりっと上体を反らせ、その場にふさわしい返答をいっぺんに十二ぐらい思い浮かべた。
ミスター・ウルフが警告するように頭を振り、「聞き流せ」と言った。「喧嘩をはじめるにはまだ時間が早すぎるぞ」
ガリオンは歯を食いしばってこらえた。
ひんやりした朝の大気の中を一時間ほど進むうちに、かれの気持ちは徐々にやわらいできた。そのとき、ヘターがやってきてミスター・ウルフに話しかけた。「馬に乗った人間がやってきます」
「何人だ?」ウルフは即座に聞いた。
「十二人かそれ以上――西の方角からです」
「トルネドラ人かもしれんな」
「見てみるわ」ポルおばさんがつぶやいた。彼女は顔を上げ、しばらく目を閉じていたかと思うと、「いいえ、トルネドラ人じゃないわ。マーゴ人よ」
ヘターの目がにわかに狭まった。「戦いますか?」すさまじい熱意を込めて聞くそばから、もうサーベルに手がかかっている。
「いや」ウルフは素っ気なく答えた。「隠れよう」
「それほどの人数ではないですよ」
「言うな、ヘター」ウルフはそう言うと、今度は前に向かって、「シルク、西の方からマーゴ人がやってくるらしい。他の者にもそう伝えて、ついでに隠れるところを見つけてくれ」
シルクはぶっきらぼうにうなずくと、ギャロップで前進した。
「マーゴ人の中にグロリムはいるのか?」老人はポルおばさんに訊ねた。
「それはないと思うわ」彼女はそう言ってからすこし顔をしかめた。「中にひとり奇妙な思考を持った男がいるけど、グロリムではなさそうよ」
シルクは急いで引き返してくると、「右側にやぶがあります。かなり大きいから隠れるにはじゅうぶんでしょう」
「よし、いくぞ」ウルフが号令をかけた。
そのやぶは林の中を五十ヤードほど戻ったところで、木に囲まれるようにして存在しており、よくよく見てみると小さな窪地を囲む雑木林の一部になっていた。窪地の表面はじっとりと湿っていて、真ん中にはわき水があった。
シルクは馬から飛びおりるなり、地面付近にびっしりと生えた小枝を短剣で切っている。
「さあ、ここに身を隠して」かれはみんなに言った。「わたしはちょっと戻って足跡を消してきますから」それだけ言い残すと、かれは小枝を拾い上げ、やぶから這い出ていった。
「馬に音を立てさせるんじゃないぞ」ウルフはヘターに言った。
ヘターはうなずいたものの、目には失望の色がありありと浮かんでいる。
ガリオンは四つん這いになってのろのろと茂みを抜け、ついにやぶの端まで行きついた。そこまで来ると、今度は地面をおおっている木の葉の上にしゃがみこみ、ふしくれだった太い幹のあいだから外を覗き見た。
シルクは小枝を振り回して今来た道を戻りながら、かれらが道からやぶに入り込むさいに林床にのこしてきた葉っぱや小枝などの痕跡を払いのけていた。動作は素早いがじつに用心深く、かれらの足跡をひとつ残さずかき消している。
後方の木の葉の中でポキッ、カサカサという音がしたかと思うと、セ・ネドラが這い出てきて、ガリオンのとなりにしゃがみこんだ。「こんなに縁に来ちゃだめじゃないか」かれは声を低くして言った。
「あなただって同じでしょ」彼女はぴしゃりとやり返した。
かれはそれ以上言わなかった。王女のあたたかくて花のような香りが、なぜかしらかれを落ち着かない気分にさせたのだ。
「かれらは今どのくらいのところにいるのかしら?」彼女がささやいた。
「そんなこと知らないよ」
「あなたは魔術師なんでしょ?」
「そういうことはあまり得意じゃないんだ」
シルクは通り道を払い終えると、しばらくその場に立って自分たちの痕跡のうちひとつでも消し忘れたところはないかどうかを丹念に調べていた。やがて、穴を掘るようにしてやぶに入り込み、ガリオンとセ・ネドラがいる場所からほんの数ヤード離れたところにかがみこんだ。
「ヘター卿は戦いたかったみたいね」セ・ネドラはガリオンにささやいた。
「ヘターはマーゴ人を見ればいつだって戦いたくなるんだ」
「どうして?」
「かれがまだ小さかったとき、マーゴ人がかれの両親を殺したんだよ。しかも、かれはその一部始終を見ていなければならなかったんだ」
彼女は息をのんだ。「なんて残酷な!」
「そこのお子さまがた」シルクが皮肉っぽく声をかけた。「邪魔をして悪いんだが、わたしは今馬の足音を聞こうとしているところなんだ」
かれらが今しがた後にした道の向こうのほうから、馬のひづめの音が早鐘のように近づいてくるのが、ガリオンにも聞きとれた。かれは木の葉の中にさらに低く沈み込み、ほとんど息もせずに来るべき瞬間を待ちかまえた。
いざマーゴ人が現われてみると、その数はざっと十五名ほどで、鎖かたびらに身を包み、頬にはかれら特有の傷痕が見られた。だが、主導者はというと、つぎを当てた汚らしいチュニックを着た粗い黒髪の男だった。ひげは伸ばし放題で、片方の目があらぬ方向を見ている。ガリオンはその顔に見覚えがあった。
シルクはシッというするどい音をたてて息を飲み込んだ。「ブリルだ」
「ブリルってだれ?」セ・ネドラは声をひそめてガリオンに聞いた。
「あとで話すよ」かれはささやき返した。「シーッ、静かに!」
「わたしに命令しないで!」彼女はかっとなって言った。
シルクがこわい顔をしてにらんだので、ふたりはそれきり黙り込んでしまった。
ブリルはごく簡単なジェスチャーをまじえながらマーゴ人たちにきつい口調で命令を下している。それがすむと今度は指を大きく広げながら両腕を高く掲げ、前方に突き出して自分の言っていることを強調した。マーゴ人は無表情な顔で一様にうなずくと、ガリオンと仲間が隠れている林の方を向いて道沿いに広がった。ブリルはさらに前に移動した。「目を大きく開いておけ。さあ、行くぞ」
マーゴ人はするどい目つきをして、並み足で前進しはじめた。そのうちの二人はやぶの目と鼻の先を通ったので、ガリオンは馬のわき腹の臭いまでかぐことができた。
「あの男にはいいかげんうんざりしてきたな」ひとりが言っている。
「そういう素振りは見せないほうがいいぞ」相棒が忠告した。
「もちろん命令はちゃんと受けるさ」また最初の男が言った。「でもな、そろそろ堪忍袋の緒が切れかかってるんだよ。やつの肩甲骨のあいだにナイフを突き刺したら、さぞかしいい眺めだろうな」
「やっこさんはそんな考えは喜ばないだろうよ。それに、そううまくはいかないぞ」
「やつが眠るまで待てばいい」
「やっこさんが眠るところなんて見たことがないぜ」
「誰だって眠るさ――遅かれ早かれな」
「おまえしだいだよ」相棒は肩をすくめて言った。「でも、おれは早まった真似はしないぞ――おまえが二度とラク・ハガに帰れなくてもいいというなら話はべつだが」
ふたりのマーゴ人はそのまま歩きつづけ、やがて話し声は聞こえなくなった。
シルクはかがみこんだまま、神経質に指の爪を噛んでいる。狭められた目はついには線のように細くなり、鋭くて小さな顔には緊迫の色が浮かんでいる。そのうちにブツブツと呪いの言葉をつぶやきはじめた。
「どうしたの、シルク?」ガリオンはかれにささやきかけた。
「失敗した」シルクは苛立たしそうに言った。「みんなのところに戻ろう」かれはそう言うとまわれ右をし、やぶの中央にある湧水めざして茂みの中を這い抜けていった。
ミスター・ウルフは丸太の上に腰をおろし、副木を当てた腕をぼんやりと掻いていた。「どうした?」かれは顔をあげて聞いた。
「マーゴ人は十五人です」シルクは短く答えた。「それと懐しい友がひとり」
「ブリルだよ」ガリオンが報告した。「あいつが指揮をとっているみたい」
「ブリルだと?」老人は驚いて目を丸くした。
「やつが命令を下し、マーゴ人がそれに従っているんです」シルクが報告をつづけた。「マーゴの連中は命令されるのを好いてはいないようですが、とりあえず言われたとおりに行動しています。ブリルを恐れているようですね。どうやら、ブリルはただの雇い人ではなかったようですよ」
「ラク・ハガっていうのはどこにあるの?」セ・ネドラがいきなり口をはさんだ。
ウルフはさっと彼女のほうを見た。
「ふたりのマーゴ人が話しているのを聞いたのよ」彼女は説明した。「かれらはラク・ハガから来たと言ってたわ。クトル・マーゴスにある町の名前ならぜんぶ知っているつもりだったけど、その名前は聞いたことがなかったから」
「そのふたりはたしかにラク・ハガと言ったんだな?」ウルフは真剣な目つきで彼女を問いただした。
「ぼくもそう言うのを聞いたよ」ガリオンが言った。「たしかに言ったんだ――ラク・ハガって」
ミスター・ウルフは急に厳めしい顔つきになって、さっと立ち上がった。「だとしたら、急がねばならん。タウル・ウルガスはもう戦争の準備をしているのだ」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」バラクが聞いた。
「ラク・ハガというのはラク・ゴスカの南千リーグのところにあるんだが、王が戦争をしかける寸前でもないかぎり南部マーゴ人はぜったいにこんなところへ送り込まれたりはせんのだ」
「じゃあ受けて立とう」バラクは冷たい笑いを浮かべて言った。
「もし差し支えなければ、わしはわれわれの仕事を優先させたいのだが。わしはラク・クトルに行かねばならんのだ。できるなら、マーゴ人の軍隊をくぐり抜けていくという方法は避けたい」老人は怒ったように頭を振ると、いきなり、「タウル・ウルガスはいったい何を考えておるのだ? まだそんな時期ではないのに」
バラクは肩をすくめて、「今じゃいけないってこともないでしょう」
「いや、この戦争だけはちがう。それに先だって起こるべきことがたくさんあるのだ。クトゥーチクはこんな気ちがいじみた行為をなぜ統制しないのだ?」
「予言できないことをするっていうのがタウル・ウルガスのユニークな魅力のひとつなんですよ」シルクが茶化すように言った。「今日と明日、自分が何をやるかさえわかっていないんだから」
「おぬし、マーゴ人の王を知っているのか?」マンドラレンが訊ねた。
「会ったことはあるよ」シルクは答えた。「互いに好意は持ってないがね」
「ブリルとマーゴ人の手下はもう行ってしまったはずだ」ミスター・ウルフが言った。「さあ先を急ごう。道のりは長い。それに時間もそろそろ迫ってきている」かれは自分の馬のほうにきびきびと歩いていった。
日が沈むすこし前、かれらは山間をV字形に通っている峠道を踏破すると、そこで歩みを止め、向こう側に数マイル下ったところの小さな渓谷で夜を過ごすことにした。
「ダーニク、火はできるだけ低くおさえてくれ」ミスター・ウルフは鍛冶屋に注意を与えた。
「南部マーゴ人はおろしく目がよくて、数マイル離れていても明かりを見つけることができるのだ。真夜中に客を迎えるなんて、あまりうれしいことじゃないだろう」
ダーニクは真剣な顔をしてうなずくと、いつもよりやや深めに炉床を掘った。
マンドラレンはみんなが野営の準備をしている最中も、かいがいしくセ・ネドラ王女の世話をやいていた。ガリオンはそれを苦々しくながめていた。ポルおばさんに、お供になったつもりでセ・ネドラに仕えなさいと言われるたびにはげしく抵抗してきたくせに、いざ王女が物を持ってこさせたり用を言いつけるナイトを見つけてしまうと、かれはなぜだか自分の当然の権利をうばわれたような気がしてならなかった。
「もっとペースをあげないといけないな」ベーコンとパンとチーズの食事を終えたあと、ウルフが言った。「最初の嵐がやってくる前に山を越えておかなければならんし、なるべくブリルとやつの手下を出し抜いておいたほうがいいからな」かれは片方の足で目の前の地面をこすると、小枝を一本拾って土の表面に地図を描きはじめた。「今いるのはここだ」かれは指し示して言った。「マラゴーはまっすぐ前方にある。われわれはまず西のほうに迂回する。トル・レインを抜けたら今度は〈谷〉をめざして北東に進む」
「マラゴーを通り抜けたほうが早いのでは?」大まかな地図を指しながらマンドラレンが言った。
「おそらくな。だが、よほどのことがないかぎり、その道は使いたくない。マラゴーは亡霊にとりつかれているのだ。できるなら避けたほうがいいだろう」
「われわれは子供ではないんですよ。実体のない幻影を恐がるなんて」マンドラレンはかたくなに主張した。
「誰もあなたの勇気を疑ってはいないわ、マンドラレン」ポルおばさんが言った。「でもマラゴーはじっさいにマラの亡霊がすすり泣いているのよ。かれを怒らせないほうが身のためよ」
「〈アルダー谷〉まではどのぐらいあるんですか?」ダーニクが聞いた。
「二百五十リーグだ」ウルフがそれに答えた。「最高にうまくいっても、一ヵ月以上は山の中だろうな。さあ、みんな、すこし睡眠をとったほうがいい。明日もまた大変な一日になりそうだ」
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4
翌朝、東の水平線上に薄青い光がはじめて現われるころ、かれらは目を覚ました。地面には銀色にかがやく霜の気配があり、渓谷の谷から湧き出る泉の縁あたりにはうっすらと氷が張っている。泉に顔を洗いにいったセ・ネドラは、水の中から木の葉のように薄い氷の破片をつまみあげ、じっと眺めた。
「山の上はもっと寒いよ」ガリオンは剣を佩しながら言った。
「そのぐらい知ってるわよ」彼女は高慢な口調で言った。
「あっそう」かれはそれだけ言うと、なにやらブツブツつぶやきながら地面を踏み鳴らして去っていった。
一行は明るい朝の日差しを浴びながら、着実な速さで山々を下った。やがて剥き出しになった岩肩のひとつを迂回していると、眼下にかつてはマラグ人の土地マラゴーがあった広大な盆地が広がった。草地は秋らしい灰色がかった緑色をしており、小川や湖が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。遠くからだと米粒ほどに映る廃墟が、平野のはるか向こうできらめいている。
セ・ネドラ王女がそれを見ないよう必死に目をそらしていることに、ガリオンは気づいていた。
足もとの坂をすこし下ったあたりを見ると、泡立つ小川が岩や砂利を切り裂いてできた険しい渓谷に、あばら屋と傾いたテントの集落が横たわっていた。その渓谷の両側には幾筋もの泥道が上下にくねくねと曲がりくねっており、十二人かそこらのボロをまとったような男たちがどことなく打ちしおれた様子でつるはしや根掘り鍬を手に小川の堤を切り開くうちに、みすぼらしい集落の下を流れる水はどんどん黄士色に変わっていく。
「町ですか?」最初に聞いたのはダーニクだった。「こんなところに?」
「町とは言えんな」ウルフが答えた。「あの集落の男たちは、金《きん》を求めて砂利をふるいにかけたり川の堤を掘ったりしているのだ」
「ここに金《きん》があるんですか?」シルクが急に目を輝かせた。
「ほんの少しな。探す労力に見合うほどの量ではないだろうが」
「じゃあ、なぜかれらはそんなことを?」
ウルフは肩をすくめ、「知るもんか」
マンドラレンとバラクを先頭に、かれらは集落に向かって石だらけの道をくだっていった。集落に近づくと、とつぜん小屋のひとつから二人の男が錆びた武器を手に飛び出してきた。ひとりは痩せ型の男で、ボサボサの髭に突き出た額、それに脂じみたトルネドラ式の胴着を着ていた。もうひとりの方ははるかに背が高く、横幅もあり、着ているものはアレンディアの農奴が着るボロボロのチュニックだった。
「そこまでだ」トルネドラ人が口を開いた。「用件を聞くまでは、武器を持ったやつを通すわけにはいかねえ」
「通行妨害だぜ、兄ちゃん」バラクが言った。「すこしぐらい身の危険を考えろよ」
「おれがひと声あげれば武装した男が五十人は集まるんだぜ」トルネドラ人は凄んでみせた。
「馬鹿言うな、レルド」大柄なアレンド人が相棒をいなした。「全身をはがねに包んだその方はミンブレイトの騎士だぞ。ひとたびかれがここを通ろうと決めたからには、山じゅうの男がかかったって止めることはできねえ」それから用心深くマンドラレンを見ると、敬意をこめて訊ねた。「騎士どの、何がお望みで?」
「われわれはただこの道をたどっているだけだ」マンドラレンが答えた。「おまえたちの生活には何の興味もない」
アレンド人はうーんとうなると、「それだけお聞きすればじゅうぶんです。さあ、レルド、このひとたちをお通ししよう」かれは縄のベルトの下に剣をもどした。
「そいつが嘘を言ってたらどうすんだよ?」レルドが反論した。「そいつらがおれたちの金《きん》を盗むためにきたとしたら?」
「何が金《きん》だ、この間抜け」アレンド人はあざけるように言った。「キャンプぜんぶの金《きん》を集めたって指の先ほどにもならないじゃねえか――それに、ミンブレイトの騎士は嘘は言わない。かれと戦いたいなら勝手にやるがいいさ。戦いが終わったあと、みんなでおまえの残骸をシャベルですくってどこかの穴に捨ててやるよ」
「口の減らねえやつだな、ベリグ」レルドはむっつりと言った。
「それで、どうするつもりなんだ?」
トルネドラ人はすごい顔をして相棒をにらみつけると、背中を向けて何やらブツブツつぶやきながら去っていった。
ベリグはしばらく耳障りな声で笑っていたが、やがてマンドラレンのほうに向きなおると、「騎士どの、どうぞお先へ。レルドは口先ばっかりの男ですから、気にしないでください」
マンドラレンは並み足で前進した。「同胞よ、ずいぶん遠いところまで来たものだな」
ベリグは肩をすくめ、「アレンディアには何の未練もなかったし、地主と豚の一件でいさかいを起こしちまったもんで。地主が縛り首だって言い出したとき、別の国で運を試してみようと思い立ったんです」
「かしこい選択だな」バラクは笑った。
ベリグはかれに片目をつぶってみせると、「道はまっすぐ小川に下っています。それからあのボロ屋のうしろ側から反対側にのぼります。あそこにいるのはナドラク人ですが、あなたがたにいちゃもんをつけるようなやつはひとりしかいません。しかも、そいつは昨夜大酒を食らってたから、今頃は酔いをさますために眠ってるでしょう」
そのとき、センダリアの服を着たとろんとした目付きの男がテントのひとつからよろよろと出てきた。とつぜん顔を空に向けると、その男は犬のように遠吠えをはじめた。ベリグは小石を拾ってその男に投げつけた。センダー人の男は石をうまくかわしてキャンキャンと吠えながらあばら屋のうしろに逃げていった。「あいつの望みどおり、近いうちにナイフを突き刺してやらないと」ベリグは苦い顔をして言った。「夜のあいだじゅう、月に向かって吠えてやがるんですよ」
「どうかしたのか?」バラクが訊ねた。
ベリグは肩をすくめ、「頭がいかれてるんです。あいつは、素早くやれば幽霊につかまる前にマラゴーに入って金《きん》を採ってこれると思ったんですよ。でも、それは間違いだったんです」
「幽霊はいったいかれに何をしたんだろう?」ダーニクが目を丸くして聞いた。
「そいつは誰にもわからねえ」ベリグは答えた。「酔っぱらったり、欲に支配されるたびに、必ずうまく逃れられると考えるやつが出てくるんだ。そんなことをしても何にもならねえのに。たとえ幽霊につかまらなかったとしても、そこから帰った者はすぐに仲間に身ぐるみはがれてしまうんだ。とってきた金《きん》を自分ものにしておけねえのに、誰がそんなことに骨を折りますか」
「ずいぶんと素晴らしい社会じゃないか」シルクが皮肉まじりに言った。
ベリグはほがらかに笑った。「おれには合ってるんですよ。アレンディアに帰って地主のリンゴ園で木に飾りつけをするよりはよっぽどましだ」それからわきの下を無造作にかいた。
「さあ、そろそろ穴掘りに戻らないと」かれは溜息をつくと、「お元気で」という言葉を残し、きびすを返してテントのひとつに戻っていった。
「さあ、先を急ごう」ウルフが静かな口調で言った。「日が高くなるにつれてこのあたりは騒騒しくなるからな」
「このあたりにはずいぶんとお詳しいようね、おとうさん」ポルおばさんが指摘した。
「ここは身をひそめるにはもってこいの場所でな。あれこれと詮索する者がいない。今までに一、二回ほど雲隠れしなくてはならないことがあったのだ」
「まあ、どうしてかしらね」
かれらは、ぞんざいなつくりの小屋や、つぎはぎだらけのテントの合間にあるほこりっぽい通りを、濁った水の流れに向かって下りはじめた。
「待ってくれ!」とそのとき、誰かがうしろから声をかけた。見ると、薄汚いドラスニア人が小さな革の巾着袋を振りながらかれらを追いかけてくるところだった。男はやっとのことで一行に追いつくと、ハーハーと息を切らせながら、「なんで待ってくれなかったんだい?」
「なんの用だ?」シルクが訊ねた。
「その女の子に五十ペニーウェイト分の純金を払うよ」ドラスニア人の男はふたたび革の財布を振りながら、あえぐように言った。
マンドラレンはにわかに厳めしい顔つきになって、剣の柄に手をかけた。
「ここはわたしに任せてくれないか、マンドラレン?」シルクはやわらかい口調でそう言うと、鞍からひょいと飛び下りた。
最初、セ・ネドラの顔にあったのはショックの色だけだったが、やがてそれが怒りの形相に変わった。あとすこしでその怒りが爆発するという寸前に、ガリオンが手を伸ばして彼女の腕をつかんだ。「抑えて」かれはなだめるように言った。
「よくも――」
「シッ。とにかく様子を見るんだ。シルクがどうにかしてくれるから」
「ずいぶんとシケた額だな」そう言うそばから、シルクの指はひとりでに動きはじめている。
「ほんの小娘じゃないか」ドラスニア人の男が言った。「まだ、たいして経験もないんだろ。ところで誰の女なんだい?」
「もうすぐ結論が出るところさ。それより、ほんとうはもっとたくさん持ってるんだろう」
「これが全財産さ」薄汚い男はがっくりと肩を落として、掌を振った。「ここの山賊どもの仲間になる気はないもんでね。儲かったことは今まで一度もないんだ」
シルクは首を横に振って、「悪いが、話にならん。われわれの立場も分かってもらわないとな」
セ・ネドラは押し殺したような声をあげている。
「静かに」ガリオンはぴしゃりと言った。「ほんとうは目にうつってるとおりのことじゃないんだから」
「じゃあ、年配の方はどうだい?」みすぼらしい男は絶望的な声でなおも言っている。「そのおばさんに五十ペニーウェイトじゃ、かなりいい値段だと思うぜ」
やにわにシルクの拳が飛び、薄汚いドラスニア人はよろよろとあとずさった。男はすぐに口元に手をやり、悪態をつきはじめた。
「そいつを追い払ってくれ、マンドラレン」シルクはごく軽い口調で言った。
厳めしい顔をした騎士はだんびらを抜き取ると、ブツブツと暴言を吐いているドラスニア人に向かってゆっくりと軍馬を進めた。男はかん高い叫び声をあげたかと思うと、くるりと背を向けて一目散に逃げ出した。
「それで、あいつはなんと言ってた?」ウルフがシルクに訊ねた。「おまえが前に立っていたので、よく見えなかった」
「このあたり一帯はマーゴ人がウヨウヨしているそうです」シルクは馬に乗りながら答えた。
「ケランが言うには、先週だけでも十二ほどのグループがここを通ったとか」
「あの獣を知ってるの?」セ・ネドラが驚きの声をあげた。
「ケラン? もちろん。一緒に学校に通った仲だよ」
「ドラスニア人っていうのはなんでも見張りたがる癖があってな、ローダー王はあちこちに情報網を持っているのだ」ウルフが説明した。
「じゃあ、あの野蛮な男もローダー王のスパイなの?」セ・ネドラは信じられないといった口ぶりで聞いた。
シルクはうなずき、「じつはケランは、ああ見えても侯爵なんだよ。普段はまったくもって礼儀正しい男なんだが。そうそう、きみに無礼を詫びておいてほしいと言ってたな」
セ・ネドラは何が何だかわからないという顔をしている。
「ドラスニア人は指で会話ができるんだよ」ガリオンが説明した。「誰でも知ってることだと思ってたけど」
セ・ネドラは険しく目を細めて彼を見た。
「ほんとうはケランは、赤毛のお嬢ちゃんに無礼を詫びてくれ≠ニ言ってたのさ」ガリオンは得意顔で彼女に教えた。「かれはどうしてもシルクと話したかったんで、その口実が欲しかったんだよ」
「お嬢ちゃんですって?」
「かれがそう言ったんだ、ぼくじゃないよ」ガリオンはあわてて言い訳した。
「あなた、その秘密の言葉を知ってるの?」
「もちろん」
「もういいでしょう、ガリオン」ポルおばさんがきつい口調でたしなめた。
「ケランはすぐにここを離れたほうがいいと言ってましたよ」シルクがミスター・ウルフに言った。「なんでもマーゴ人たちは誰かを捜している様子だとか――もちろんわれわれのことでしょうけど」
そのとき、とつぜん、キャンプのはずれのほうから怒りの雄叫びがあがった。と同時に何十人ものナドラク人が小屋の中から沸き出るように出現して、いましがた深い渓谷から姿をあらわしたばかりのマーゴの騎士の群れに向き合った。ナドラク人の先頭にぬーっとあらわれたのは、人間というよりは獣といったほうが近いような丸々と太った大男だった。右手にはむごたらしい鋼鉄の棍棒を握りしめている。「コルドッチ」大男は吠えるように言った。「今度ここに来たら命はないと言ったはずだぞ」
マーゴ人の馬の合間から歩み出てナドラクの大男に向き合ったのは、ブリルだった。「おまえの言ったことなどいちいち覚えていられるか、ターレック」ブリルは怒鳴り返した。
「今度こそ思い知らせてやるぞ、コルドッチ」ターレックは大股に前進して棍棒を振り回しながらもう一度吠えた。
「よるな」ブリルは馬から離れつつ、警告した。「今はこんなことをしてる暇はない」
「暇もなにも、おまえにはもう時間は残されてないんだよ、コルドッチ――どうあってもな」
バラクはにんまりと笑った。「おい、みんな、この機会にあの友人におさらばできればいいと思わないか? 間もなくあいつは長い長い旅に出ることになるぞ」
だが、ブリルは一瞬右手をチュニックの中に隠したかと思うと、目にも留まらぬ速さで一辺が六インチぐらいの三角形をした奇妙な鋼鉄の物体を抜き出し、間髪をおかずにそれに回転を加えてヒューッと放ったのだ。平らな鋼鉄の三角は太陽の光にピカピカきらめいて回転しながら飛んでいき、骨を削る気味の悪い音とともに巨大なナドラク人の胸の中に消えた。
ターレックはぽかんと口を開け、血の噴き出ている胸の穴に左手を当てながら惚けたようにブリルを見つめていた。が、やがて棍棒が右手からすべり落ちると同時に両膝を折り、どさっと前に倒れ落ちた。
「さあ、いくぞ!」ミスター・ウルフが号令をかけた。「小川を下れ! それっ!」
かれらは飛ぶようなギャロップで岩だらけの河床に分け入り、馬のひづめの下から茶色の水しぶきをあげて疾走した。数百ヤードも進んだだろうか、かれらは急に方向転換して今度は勾配のきつい砂利の堤をよじのぼりだした。
「あっちだ!」バラクがもっと平らなところを指さして叫んだ。ガリオンはみんなに遅れをとらないよう馬の背にしがみつくのに精一杯で、考える余裕などまったくなかった。はるかうしろの方で、かすかに叫び声が聞こえたような気がした。
かれらは低い丘の裏側まで馬を走らすと、ウルフの合図でしばらく足並をゆるめた。「ヘター」ウルフが言った。「やつらが来るかどうか見てきてくれ」
ヘターは馬を回転させると、丘の頂上の木立を目指して軽やかに坂をのぼりはじめた。
シルクは青黒い顔をして、呪いの言葉をブツブツとつぶやいている。
「今度はどうしたんだ?」バラクが訊ねた。
シルクは耳に入らないようすでブツブツと言いつづけている。
「なんでこんなに興奮してるんです?」バラクは今度はミスター・ウルフに聞いてみた。
「ひどいショックを受けたのさ。かれはある人物を誤解していた――じつをいうと、わしもそうだったのだが。ブリルがあのナドラクの大男に放った武器は毒蛇の牙≠ニいうものなのだ」
バラクは肩をすくめ、「おれには変なかたちをしただけの投げナイフに見えたけどね」
「それだけではすまされんのだ」ウルフはかれに説明した。「あれは三辺が三辺とも剃刀のように鋭くて、しかも角にはたいてい毒が塗ってある。ダガシだけが持つ特殊な武器だ。シルクがこんなに動揺してるのもじつはそれが原因なのだ」
「うかつだった」シルクは自分を非難するように言った。「ブリルはただのセンダリアの追いはぎにしては巧妙すぎた」
「何の話だかわかりますか?」バラクはポルガラに訊ねた。
「ダガシっていうのはクトル・マーゴスの秘密組織なのよ」彼女はかれに教えた。「プロの殺し屋――暗殺軍団ね。かれらはクトゥーチクあるいは目上の人間の命令しか聞かないの。クトゥーチクはもう何世紀ものあいだ、かれらを使って自分の邪魔をするひとびとを抹殺しつづけているの。おそろしく腕の立つ連中なのよ」
「マーゴ人がそれほど特殊な文化を持っているとはねえ」バラクは言った。「かれらが互いに忍び足で殺し合ってくれれば、これほどいいことはないのにな」かれは、ヘターが後方に何かを発見したかどうかを確かめるために丘をチラッと見上げた。「ところで、ブリルが使ったあの玩具はなかなか面白そうなしろものだったが、よろいかぶとや切れ味のいい剣にはかなうまいな」
「そう決めてかかるもんじゃないぞ、バラク」シルクはすでに平静を取り戻しはじめていた。
「毒蛇の牙≠ヘ投げようによっては鎖かたびらを貫くことだってできるんだ。やり方さえ心得ていれば、カーヴさせることもできる。それだけじゃない。ダガシは素手や素足で相手を殺すこともできるんだ。相手がよろいかぶとを着ているといないとにかかわらずな」かれは顔をしかめ、考え込んでいるような口調で、「ねえ、ベルガラス、われわれはずっと間違いを犯しつづけてきたのかもしれませんね。アシャラクがブリルを使っているものと思っていたけど、じつはその反対だったのかも。ブリルはかなり腕が立つんでしょう。そうでなければ、クトゥーチクがやつを西部に送り込んで、わざわざわれわれの見張りにつけるわけがありませんからね」ややあって、かれは血も凍るような冷たい笑いを浮かべた。「問題はやつがどれほどの腕を持っているかだ」かれはそう言って指を曲げた。「ダガシには二、三度会ったことがあるが、特別腕の立つやつにはまだお目にかかったことがない。これは面白くなりそうだぞ」
「今はそんなことを考えているときじゃない」ウルフが言った。顔つきはひどく厳めしい。かれがポルおばさんに視線を向けると、二人の間に一瞬何かが行き交ったように見えた。
「正気じゃないわよ」いきなり彼女が言った。
「選択の余地があるとは思わんがな、ポル。われわれはマーゴ人に取り囲まれているんだぞ――人数も多いし、距離が近すぎる。どうにも動きがとれん――われわれはマラゴーの南の境界線に釘付けにされてしまったのだ。遅かれ早かれ平野に押し出させることになるだろう。少なくとも、自ら決断して出ていけば、それだけ心の準備ができるというものだ」
「わたしは反対よ、おとうさん」彼女はにべもなく言った。
「わしとて好んでやるのではない。だが、ここにいるマーゴ人をすべて巻いてしまわなければ、冬が来る前に〈谷〉に着くことができなくなるのだぞ」
ヘターが丘を下ってきた。「こちらにやってきます」かれは抑えた声で報告した。「西のほうからも別のグループがまわり込んで、われわれを分断しようとしています」
ウルフは大きく息を吸い込むと、「さあ、これで決まったな、ポル。行くぞ!」
平野を縁どる丘陵地帯の最後の低い尾根にさしかかり、その上に帯状に点在する森に入り込んだとき、ガリオンは一度だけうしろを振り返った。今下ってきた広大な斜面に六つの土ぼこりが舞っているのが見えた。丘の上のほうではマーゴ人がかれらをすっかり包囲しはじめている。
かれらはギャロップで木立に突入し、地響きをたてながら浅い溝を駆け抜けた。と、先頭を走るバラクがいきなり手を挙げた。「前方に人がいるぞ」
「マーゴですか?」ヘターはサーベルに手をかけた。
「いや、そうじゃない」バラクが答えた。「あの集落にいたような男たちだ」
シルクが目を輝かせて前進してきた。「いいことを思いついた。交渉はわたしに任せろ」かれはそう言い渡すと、馬を全速力で走らせ、伏兵とおぼしき男たちをめざして突進した。「同士よ!」かれは叫んだ。「用意はいいか! やつらがやってくるぞ――金《きん》を持ってくるぞ!」
錆のついた剣や斧を持ったみすぼらしい男たちが、やぶの中や木立のうしろから飛び出してきてシルクを取り囲んだ。シルクは腕を振ったり後方にぼんやりと立ちはだかる斜面を指さしたりしてジェスチャーを交えながら早口にまくしたてている。
「あいつは何をやってるんです?」バラクが聞いた。
「どうせまた悪いことを企んでるんだろう」と、ウルフ。
シルクを囲む男たちは最初はうさんくさい顔をしていたが、小男が熱心にまくしたてているうちにだんだんと真剣な顔つきになってきた。ついにシルクは鞍の上で仲間を振り返った。頭上で来い≠ニいうふうに大きく腕を引いて、「行こう!」と叫んだ。「こいつらはわれわれの味方だ!」かれは馬をくるりと回すと砂利だらけの溝の斜面をよじのぼりはじめた。
「みんな、はぐれるなよ」バラクは鎖かたびらの下で肩をゆすりながら仲間に注意した。「シルクが何を考えてるのかはわからないが、あいつの計画は時としてとんでもない失敗に終わることがあるからな」
かれらは厳めしい顔をした山賊のあいだをおそろしい勢いで通り抜け、シルクのすぐあとから溝の斜面をのぼった。「やつらに何を言ったんだ?」バラクは馬を走らせながらシルクに聞いた。
「十五人のマーゴ人が大急ぎでマラゴーに入り、三つの袋がいっぱいになるくらいの金《きん》を持ち出してきたって教えたのさ」小男はそう言って笑った。「集落の男たちに追い返されたその連中が急きょ方向転換して今度は金《きん》を持ったままこっちの方角にやってくるとな。それで、われわれは次の溝で連中を待ち伏せるから、おまえたちはここをマークしろって言ったんだ」
「ブリルとやつの手下がここを通り抜けようとしたとたん、あの悪党どもがわっと群がるわけか」バラクが想像を働かせて言った。
「そうだ」シルクはうれしそうに笑って、「妙案だろ?」
かれらはギャロップで駆けつづけた。半マイルほど過ぎただろうか、ミスター・ウルフが手を上げ、皆は手綱をゆるめた。「もう限界だ」かれは言った。「みんな、よーく聞いてくれよ。この丘陵はマーゴ人でいっぱいだ。マラゴーに入り込むより他に道はない」
セ・ネドラ王女は息もつけないほど驚き、顔が死人のように真っ青になった。
「だいじょうぶよ、セ・ネドラ」ポルおばさんがなぐさめの言葉をかけた。
ウルフはおそろしく真面目な顔で話をつづけた。「平野に入るとすぐにある種の音が耳に入ってくるだろうが、気にしてはいけない。そのまま馬を進ませるのだ。わしが先頭を行くから、おまえたちはわしの背中だけをじっと見ていてくれ。わしが手をあげたら、ただちに止まって馬からおりてほしい。視線は地面に落としたままだ。ぜったいに顔をあげてはいかん。たとえ何が聞こえようとも。さもないと、恐ろしいものを見ることになるぞ。そのあと、ポルガラとわしはおまえたちに催眠術のようなものをかける。それに逆らおうとするな。とにかく気を楽にして、言われたとおりに行動するのだ」
「催眠術?」マンドラレンが抗議の声をあげた。「もし攻撃されたらどうするんです? 眠りながらどうして自分の身を守ることができましょう?」
「攻撃するような生物は存在せんよ、マンドラレン」ウルフはかれに言った。「もし守られる必要があるとしても、それはおまえたちの体ではない。心なのだ」
「馬はどうなるんです?」ヘターが訊ねた。
「馬なら心配はいらん。幽霊に気づくことさえないだろう」
「わたしはいやよ」セ・ネドラの声がヒステリックにこだました。「マラゴーになんか入りませんからね」
「そうはいかないのよ、セ・ネドラ」ポルおばさんはふたたびなだめるような柔らかい口調で言った。「わたしにぴったりくっついていなさい。わたしが守ってあげるわ」
ガリオンは恐怖におびえるこの少女が急に気の毒に思えてきて、彼女の横に馬を引き寄せ、言った。「ぼくもいっしょだよ」
彼女は感謝に満ちた瞳でかれを見つめたが、下唇はまだブルブルと震え、顔色は蒼白だ。
ミスター・ウルフは大きく息を吸い込むと、うしろに続く長い斜面をちらっと見た。一団となったマーゴ人たちの足もとに舞う土ぼこりが、どんどん近づいてくる。「よーし、行くぞ」かれは馬の向きを変え、前方に広がる溝の出口と平野をめざして軽い速足で駆けだした。
その音は、最初はおぼろげで、ずいぶん遠くから聞こえてくるように思われた。森の枝のあいだを吹き抜ける風のささやき、あるいは岩の上を撫でるやわらかい水音のような。それが、ひとたび平野に出てくると、徐々に大きくはっきりとした音に変わってきた。ガリオンは一度だけ、すがるような思いで後方の丘を振り返った。それから馬をセ・ネドラのすぐわきにつけると、ミスター・ウルフの背中だけに視線を注いで何も聞かないように努力した。
今やその音はうめくような叫び声に変わっており、それがときどきギャーッという悲鳴でかき消される。そのうしろから、他のすべての音を支えるかのようにおぞましいすすり泣きの声が聞こえる――じっさいは声の主はひとつだったが、すべてを包含してしまうその大音響がガリオンの頭の中で幾重にもこだまし、すべての思考をかき消しているらしかった。
ミスター・ウルフが不意に手を挙げた。ガリオンは鞍からすべりおり、ただひたすらに地面を見つめた。視界の端に何かがチラッとうつったような気がしたが、かれはそれを見ようとはしなかった。
やがて、ポルおばさんが子供をあやすようにやわらかな声で話しはじめた。「さあ、輪になってちょうだい。そして互いに手をつなぐのよ。輪の中には何物も入ることができないわ。あなたたちは安全なのよ」
ガリオンは体を震わせながら無意識のうちに、両手を広げた。すると誰かがかれの左手をとった。それが誰の手なのか、かれにはわからなかった。だが、すがりつくようにかれの右手を握りしめている小さな手がセ・ネドラの手だということはすぐにわかった。
ポルおばさんが輪の中央に立つと、ガリオンは彼女の存在そのものが大きな力となってみんなを潤していくのを感じた。どこか輪の外にはミスター・ウルフがいる。老人もまた何かをしているらしかったが、それがガリオンの頭の中にかすかなうねりを呼び、すっかり馴染みとなった例の断続的な轟きを引き起こした。
おぞましいすすり泣きの声がますます大きく、激しくなるにつれて、ガリオンは心の中に恐怖が入り込んでくるのを感じた。ポルおばさんの力が効いてない。とすると、みんなはこのまま気が狂ってしまうのだろうか。
「シッ、静かに」ポルおばさんの声が聞こえた。ガリオンは、彼女が自分の心に話しかけているのだと気づいた。するとさきほどの恐怖が薄れ、穏やかで不思議な倦怠感がかれを支配しはじめた。目蓋がだんだん重くなり、すすり泣きの声が遠ざかっていく。と、次の瞬間、かれは心地よいぬくもりに包まれて、一気に深い闇の底に落ちていった。
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眠りの底に深く沈ませて意識を奪い、身を守ってやろうというポルおばさんのやさしい思惑をいったいどこで振りきったのか、ガリオンにはよく思い出せなかった。いずれにしても、それほど時間はたっていないはずだ。ためらいがちに、水の底からゆっくりと浮きあがりでもするようにして眠りの淵から泳ぎ返ってみると、そこには仲間といっしょになってまるで木か何かのようにぎくしゃくと馬のほうに歩いている自分の姿があった。仲間にちらっと視線を送ったが、かれらの顔はどれも虚ろで、何も考えていないように見えた。「眠って、さあ眠って」というポルおばさんのささやくような命令が聞こえたような気がしたが、その声はかれを従わせるほどの力を持っていなかった。
かれの知覚には、かすかな変化が起こっていた。頭の神経は目覚めているが、感情が眠っているのだ。かれは、いつも思考をかき乱す例の感情にわれを失うこともなく、冷静な目で物事を見つめている自分を発見した。おそらく自分の身に起きていることをポルおばさんに告げなければならないのだろうが、何か漠然とした理由からかれはそうしないことに決めた。しゃべらないという選択の裏には単独の思考が働いているはずだと思ったかれは、それだけを取り出すために、この決定を取り巻いているさまざまな意志や考えを分類しはじめた。頭の中を手探りをしているうちに、もうひとつの知覚が眠っているあの静かな隅にふれた。冷やかしているような、おもしろがっているような反応があった。
「どうかした?」かれは声をたてずに言った。
「とうとう目を覚ましたな」もうひとつの知力がそれに答えた。
「ううん、ぼくの一部はまだ眠っているはずだよ」
「その部分が邪魔になっていたのさ。さあ、これでやっと話ができるな。いくつか話したいことがあるんだ」
「あなたはだれ?」ガリオンはポルおばさんの指示に従ってぼんやりと馬上に戻りながら訊ねた。
「名前はない」
「あなたはぼくとは別の人なんでしょう? つまり、ぼくの分身っていうわけじゃないんでしょう?」
「まったく異質の存在だ」
馬はすでに並み足で歩きだし、ポルおばさんとミスター・ウルフを追って草原を渡っている。
「何が目的なの?」ふたたびガリオンが訊ねた。
「本来のきまりどおりに物事を起こすことだ。わたしは長いあいだそういったことに関わっている」
ガリオンはこの言葉の意味を考えてみた。あたりですすり泣きの声がますます大きくなり、コーラスのように響くうめき声や金切り声が耳にはっきりとこだましている。おぼろげで、できそこないのボロ布のようなものが姿をあらわし、草原を横切って馬のほうにプカプカと浮遊してきた。「ぼく、このままだと気が狂うんじゃない?」かれは後悔の念にかられていた。
「みんなのように眠ってないから、ぼくは幽霊を見て気が狂うんじゃないかな?」
「そうとは限らない」声が答えた。「たしかに見たくないものを見るかもしれないが、だからといっておまえの心が狂ってしまうとは思わない。それどころか、あとあと役に立つようなことを経験できるかもしれないぞ」
「ねえ、あなたは年寄りなんでしょう?」ガリオンは思いつくままを口にした。
「わたしの場合、そういう言葉はまったく意味をなさないのだ」
「おじいさんより年上?」ガリオンはしつこく訊ねた。
「ベルガラスなら、あいつが子供のときから知っている。おまえよりベルガラスのほうがもっと強情だったと知れば、おまえの気もいくらか晴れるだろう。まともな方向に軌道修正するのに、ずいぶん時間がかかったものだ」
「それは意識の中でやったことなの?」
「もちろんだ」
ガリオンは、目の前で形を現わしつつあったおぼろげな影の中を自分の馬が文字どおり通り抜けていくのを感じた。「じゃあ、ベルガラスはあなたのことを知ってるんだね――以前頭の中にあなたがいたんだから」
「いや、わたしの存在には気づかなかったようだ」
「だってぼくはずっと気づいてたよ」
「おまえは特別だ。じつは話というのはそのことなのだ」
突然、ガリオンのすぐ目の前に女の頭が現われた。両目は風船のようにふくらみ、口は声にならない声をあげてぱっくりと開いている。ギザギザになった首の切り口から血がしたたり、どこともわからないところに吸い込まれていく。「キスして」女の頭がしわがれ声をあげた。ぎゅっと目蓋を閉じているうちに、ガリオンの顔はその頭を通り抜けていた。
「わかっただろう」内なる声がうちとけた調子で言った。「おまえが思ってるほどひどいことは起こらないのさ」
「ねえ、ぼくはどういう意味で特別なの?」ガリオンは知りたがった。
「実現の時を待っている出来事がある。それを起こすのがおまえだ。他の者はすべておまえの出方を待っているだけなのだ」
「ぼくがやらなくてはならないことって、正確に言うとどういうことなの?」
「それは時が来ればわかることだ。あまり早くわかりすぎても、いたずらにおまえを恐がらせるだけだろう」その声にはどことなく皮肉めいた響きがあった。「それでなくともおまえは扱いにくい子供なんだ」
「じゃあ、なぜ今そのことを話し合ってるわけ」
「なぜそれをしなければならないか、理由を知らせておく必要があるのだ。来るべき時にこの話がきっと役に立つ」
「わかったよ」
「はるか昔、起こるべきではないことが起こった」そう言って頭の中の声は話しはじめた。
「世界はある理由のために生まれ、その目的に向かってごく自然に動いていた。すべては起こるべくして起こっていたのだ。ところが、何かが間違った方向に進みはじめた。実際はそれほどひどい事でもなかった。だが、たまたま運のいいときに起こってしまった――いや、運の悪いときにと言うべきだな。ともかく、それができごとの方向を変えてしまったのだ。わたしの言うことがわかるか?」
「うん、なんとなく」ガリオンはいっしょうけんめい顔をしかめている。「あるものに向かって石を投げたはずが、別の物にぶつかって、思わぬ方角に飛んでしまったときのようなことかな――ほら、ドルーンがカラスに石を投げたとき、木の幹にぶつかって、跳ね返りぎわにファルドーの窓を割っちゃったときみたいにさ」
「そのとおりだ」声はかれを褒めたたえた。「それまでは可能性は常にひとつしか存在しなかった――本来の可能性だ。だが、突然それがふたつになった。もう一歩先に進んでみよう。もしドルーンが――あるいはおまえが――ファルドーの窓に届く前に、最初の石に別の石をぶつけたとしたら、最初の石がはじかれて窓ではなくカラスにぶつかることもありうるわけだ」
「まあね」ガリオンは小首をかしげながら言った。「でもドルーンはそれほど石投げはうまくなかったよ」
「わたしはドルーンよりずっとうまく投げられる」声が言った。「そもそもわたしがこの世に存在している理由というのは、そこにあるのだ。見方を変えれば、おまえはわたしの投げた石なのだ。もしおまえがもうひとつの石にうまくぶつかってくれれば、石の方向を変えて本来進むべきところに飛ばすことができる」
「もしうまくぶつからなかったら?」
「ファルドーの窓は割れてしまう」
両手を切り落とされ、剣に体を貫かれた裸身の女の姿が、ガリオンの目の前に忽然と現われた。女は悲痛なうめき声をあげ、両手の切り口から噴き出る血をガリオンの顔に浴びせかけた。ガリオンは血をぬぐおうとして両手を伸ばしたが、顔は乾いていた。そうしているあいだにも、馬はすずしい顔をして、たわごとを口走る幽霊の中をすり抜けていく。
「われわれはものごとを正しい方向に戻さなくてはならない」声は話をつづけた。「おまえがやろうとしているある事柄がすべての鍵になっているのだ。長いあいだ、起こるはずのことと実際に起こったこととが、一致せずにきた。今、そのふたつがもう一度ひとつになろうとしている。そのふたつが合わさった瞬間こそ、おまえの出番だ。おまえがうまくやれば、すべてが正しい方向に戻る。だがもし失敗すれば、間違ったまま進みつづけるだろう。宇宙の存在理由が無に帰すのだ」
「そもそものはじまりはいつなの?」
「まだ世界ができるまえのはなしだ。神々すらまだ存在していなかった」
「ぼく、うまくやれるかな?」ガリオンは訊ねた。
「それはわからない。わかっているのは起こるべきことであって、起ころうとしていることじゃない。それより、他にも知っておいてもらいたいことがある。この誤りが起こったとき、ふたとおりの可能性が生まれた。そしてひとつの可能性がひとつの目的を持った。目的を持つためには、目的を持っているという意識がなければならない。簡単に言えば、それがわたしなのだ――つまり宇宙本来の目的意識だ」
「今は意識がもうひとつあるわけでしょ?」ガリオンが訊ねた。「もうひとつの意識、つまり――もうひとつの可能性のグループに関係のある」
「おまえは思っていたより賢いな」
「それがものごとを悪い方向に進ませようとしてるんでしょ?」
「いかにも。さあ、ここからが重要な話だ。これらすべてがどちらの方向に進むか決定される瞬間が、すぐそこまで近づいている。おまえはその準備をしなければならないのだ」
「なぜぼくなの?」切断された腕が喉をつかもうとしているのをはらいのけながら、ガリオンは訊ねた。「他のひとじゃだめなの?」
「だめだ」声はかれの意見をはねつけた。「他の者ではうまくいかない。おまえには想像もできないほど長いあいだ、宇宙はおまえを待ちつづけてきたのだ。この世が生まれる前から、おまえはこのできごとに向かってまっすぐ歩みつづけてきた。他にはいない。宿願を達成することができるのはおまえだけなのだ。その宿願はいまだかつて起こったことのないほど重要なことなのだ――この世においてだけでなく、全宇宙に存在するすべての世界において。宇宙にはさまざまな種類の人間が存在している。そこを照らす太陽の光がこちらに届かないほど遠いところにだ。もしおまえが失敗すれば、かれらもまた消滅してしまう。かれらにはおまえのことを知るよしもないし、感謝することもないだろうが、その存在はおまえの肩にかかっているのだ。もう一方の可能性のラインは混沌を呼んで宇宙を崩壊に導くだろう。だが、おまえとわたしが導くのは、そういったことじゃない」
「なんなの?」
「成功すれば、そのときに自分の目で見ることができるだろう」
「わかったよ。それで、ぼくは何をすればいいの――今、できることは何なの?」
「おまえは途方もない力を持っている。それはおまえが義務を果たせるよう与えられたものだ。だが、まず使い方を学ばなければいけない。ベルガラスとポルガラはいっしょうけんめいその勉強の手伝いをしようとしている。かれらと争うのはやめろ。来るべき時に備えて、おまえはもう準備をはじめなくてはならないのだ。その時というのは、おまえが思ってるよりずっと近いところまで来ている」
首をはねられた幽霊が道に立ちふさがった。右手が髪のところで頭をぶら下げている。ガリオンが近づいていくと、幽霊は頭を上に掲げた。ねじまがった口が、呪いの言葉を叫んでいる。
その幽霊を通りぬけてしまうと、ふたたびガリオンは頭の中の意識に話しかけたが、意識はさしあたりどこかに行ってしまっているらしかった。
かれらは、荒廃した農場にころがる石のあいだをゆっくりと通り過ぎた。石の上には幽霊がうようよと群がり、手招きをしたり、誘惑の言葉を叫んだりしている。
「女のほうがずいぶん多いようね」ポルおばさんが平静な声で言った。
「それがこの民の特徴なのだ」と、ウルフ。「新生児九人のうち八人は女だった。それがあったからこそ、男女の関係にいろいろな打開策が生まれたとも言えるな」
「おとうさんはそれをうらやましがってたんじゃない」彼女は冷たく言った。
「マラグ人は他の民のように物事をきちょうめんにとらえることができなかったのだ。かれらにとって結婚は確固たるものではなかった。あちらの方に関しては、かれらはいたって自由な考えを持っていた」
「へえ? そういう言葉を使うわけ?」
「そう窮屈な考え方をするもんじゃないぞ、ポル。かれらの社会はうまくいってたのだから、そのへんは認めてやらんと」
「そう簡単に結論するわけにはいかないわ、おとうさん。かれらの共食い癖はどうなの?」
「あれは誤解だ。誰かがかれらの聖書の一説を訳し違えた、それだけの話だ。かれらは宗教的な義務感から共食いをしたのであって、食欲のためではなかった。おおかたのところ、わしはマラグ人という民が好きだった。かれらは寛大で人なつっこくて、互いに打ちとけあっていた。つまり、人生を楽しんでいたのだ。もしここに金《きん》さえなければ、そんな些細な誤りぐらいかれらはきっと解決してただろうに」
ガリオンはそのときまで金《きん》のことなどすっかり忘れていた。一筋の小さな小川を渡るとき、かれはきらめく水の中をのぞきこんでみた。川底の小石の合間にバターのような黄金色の斑点が輝いていた。
と、とつぜん裸体の亡霊がかれの眼前にあらわれた。「ねえ、わたしって美しいでしょ?」亡霊は流し目でガリオンを見たかと思うと、いきなり上半身に斜めに走っている大きな傷痕をつかんでこじ開け、堤の上に臓物のとぐろを巻いた。
ガリオンは思わず吐き気をもよおし、歯を食いしばった。
「金《きん》のことは考えるな!」頭の中の声がきつい口調でいましめた。「亡霊はおまえの欲を通してあらわれるのだ。金《きん》のことばかり考えていると、しまいには狂ってしまうぞ」
一行がどんどん馬を進めていくあいだも、ガリオンは金《きん》のことを頭の中から締めだそうとけんめいになっていた。
だがミスター・ウルフはそんなことも知らずに金《きん》の話をつづけている。「だいたい、いつも金《きん》には問題がつきまとう。金《きん》は邪悪な人間の心をひきつけるのだ――ここで言うのは、トルネドラ人のことだが」
「かれらは共食いを撲滅しようとしただけよ、おとうさん」ポルおばさんが口をはさんだ。
「誰だってあの習癖には不快感をおぼえるわ」
「マラゴーの川底に横たわる金《きん》がなかったら、果たしてかれらはそれほど真剣に取り組んだだろうか」
ポルおばさんは、トルネドラの槍に貫かれた子供の亡霊から目をそらした。「今となっては誰も金《きん》を手に入れることはできないわ。マラがしっかり見張っているんですもの」
「ああ」ウルフはそう言うと、顔をあげ、あちこちから聞こえてくる恐ろしいむせび泣きに耳を傾けた。むせび泣きの中に一段と激しい叫び声が聞こえると、ミスター・ウルフは一瞬たじろいだ。「こんな大きな声で叫ばなくてもいいだろうに」
一行が通りかかった廃墟は、どうやら寺院らしかった。白い岩がごろごろと転がり、その合間で雑草が伸び放題になっている。近くにそびえる大きな木にはロープにぶら下がった首つり死体が、ねじれながらぶらぶらと揺れていた。「おろしてくれ」死体が口々につぶやいている。
「ここからおろしてくれ」
「おとうさん!」ポルおばさんが急に叫んだ。指は朽ちた寺院のうしろに広がる草原を指さしている。「あそこ! あのひとたち、生きてるわ」
見ると、修道衣に頭巾をかぶった人間の行列がゆっくりと草原を渡ってくるところだった。肩にかついだ重々しいポールの上に鈴があり、その鈴の奏でる悲しげな音色に合わせて、斉唱している。
「マー・テリンの修道士だ」と、ウルフが言った。「トルネドラ人の罪滅さ。気にすることはない」
頭巾をかぶった男のひとりが顔をあげてかれらを見た。「去れ!」男はそう叫ぶと、仲間からわざわざ離れ、ガリオンの目には見えない何かに何度も何度も後ずさりしながらかれらのほうに走り寄ってきた。「去れ!」男はもう一度叫んだ。「恐いもの知らずめ! おまえたちは恐怖のまっただなかにいるのだぞ。その丘のすぐむこうはマー・アモンだ。呪われた丘の道のいたるところにマラの怒りがたちこめているのだぞ!」
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6
修道士の行列はそのまま歩みつづけた。草原を渡るうちに、斉唱の声もゆっくりとした鈴の音色もしだいに小さくなっていった。ミスター・ウルフは何かを考え込んでいる様子で、怪我をしていないほうの手であごひげをなでつけている。やがてかれはしかめつらしく溜息をもらした。「なあポル、やっぱり今ここでかれと取り引きしておいたほうがいいかもしれんな。そうしないと、かれはいつまでも追ってくるぞ」
「それでなくとも時間を無駄にしてるのよ、おとうさん」ポルおばさんは答えた。「かれを説得するなんて無理な話よ。前にもやったけどだめだったじゃないの」
「おまえの言うとおりかもしれん。でも、あのときはやってみないわけにはいかなかった。そうしなければ、アルダーはきっとがっかりしただろう。たぶん、何が起こっているかを知れば、かれはすくなくともわれわれと話ができるところまでやってきてくれるさ」
晴れわたった草原に耳をつんざくような泣き声が響きわたり、ミスター・ウルフは顔をしかめた。「これがかれ自身の泣き声だということぐらい、もうおまえにもわかっただろう。よし、マー・アモンに行こう」かれはそう言うと、さきほど、憑かれたような眼差しの修道士が指差した丘のほうへ馬の鼻先を向けた。目の前の宙で手足のない亡霊が切れぎれに呪いの言葉をわめいている。「いいかげんにしろ!」かれが苛立たしそうに叫ぶと、亡霊はスッと姿を消した。
いつの時代にかこの丘を越える道があったのだろう、雑草の合間にわずかにその軌跡がうかがえる。だが、最後に人間の足がふれた時点からすでに三十二世紀。年月はその名残をほとんど消し去っていた。くねくねと曲がりながら丘の頂上にたどりつくと、かれらはマー・アモンの廃墟を見下ろした。もしこれほど超然と落ち着きはらっていなかったら、ガリオンはこの町をこんなに子細にながめることもなかっただろう。町はほとんど崩壊していたが、形だけはしっかり留めていた。道は――といっても一本きりしかないのだが――らせんを描きながら廃墟の真ん中に横たわる広やかな円形の広場につづいていた。直感とでもいうのだろうか、一瞬のひらめきで、ガリオンはその町が女の手でデザインされたものであることを見てとった。男の心は直線に走るが、女の思考はどちらかというと円を描く。
先頭にポルおばさんとミスター・ウルフ、そしてぼんやりと放心したメンバーがそのあとについて、一行は町を目指して丘を下った。最後尾のガリオンは、手足のない裸の幽霊が地面から涌きでて眼前にあらわれるのを、つとめて見ないようにしていた。かれらがマラゴーに入った直後から聞こえていた例の泣き声はますます大きく鮮明になってきた。反響が音をかきまわして歪ませているため、声はときにはコーラスのように聞こえることもあった。が、今ガリオンには、それが王国じゅうにまで響きわたるほど深い悲しみに満たされたひとつの大音声であることがわかりはじめていた。町に近づくにつれ、どこからかすさまじい強風が吹いてくるように思われた。ひどく冷え冷えとして、納骨堂のような鼻を刺す異臭が充満している。思わずマントをたぐり寄せたとき、ガリオンはマントが風に少しもなびいていないことに気づいた。かれらが通り抜けてきた草原の緑もまったくたわんでいない。かれは、薄気味悪い風が運んでくる腐朽の臭いに鼻孔をつまみながら、その事実についてあれこれと考えをめぐらせた。風が草を揺らしていないのなら、それはほんとうの風ではない。さらに、もし馬が泣き声に気づいていないのなら、それもまたほんとうの泣き声ではないのだ。だが、この寒さは風や悲痛な泣き声のように心理的なものであって現実のものではないんだ、と自分に言い聞かせながらも、ガリオンはしだいに寒さを覚え、ブルブルと震えはじめていた。
最初に丘の頂上から見たとき、マー・アモンはまったく荒廃しているように見えた。だが、いざ町の中に入ってみると、ガリオンは自分を囲む家々や公共建築物の塀がどっしりしていることに驚いた。そして、さほど遠くないところで子供たちのはしゃぐ声が聞こえたかと思うと、今度は遠くのほうから歌声が響いてくるではないか。
「なぜかれはいつまでもこんなことをつづけてるのかしら?」ポルおばさんが悲しそうに言った。「こんなことをしても、何にもならないのに」
「かれにはもうこれしか残っていないのだ、ポル」ミスター・ウルフが答えた。
「でも、結末はいつも同じじゃないの」
「わかっておる。だが、ほんのすこしのあいだだけでも忘れられるじゃないか」
「誰だって忘れたいことぐらいあるわよ、おとうさん。でも、こんなことをしても始まらないわ」
ウルフはあたりに建つ威風堂々とした家々を感心したようにながめた。「素晴らしいじゃないか、なあ」
「あたりまえでしょ。なんと言ったってかれは神なのよ――だけど、かれ自身のためにはならないわ」
ふとした偶然でバラクの馬が塀の一部をするりと通り抜けたとき――どっしりとした岩の中に消えたかと思うと、馬は通りを数ヤード下ったところにふたたび姿を現わしたのだ――ガリオンははじめてポルおばさんとミスター・ウルフが何を話しているのかを理解した。塀、建物、つまり町ぜんだいが幻想――追憶なのだ。腐朽の臭いのする冷たい風はさらに激しく吹きつけ、それに煙の臭いが加わったように思えた。草原の上には依然として太陽がさんさんと降り注いでいるというのに、なぜかしら目に見えて暗くなってきたような気がする。子供たちの笑い声と遠くの歌声も今は薄れ、そのかわりに叫び声が聞こえてきた。
そのとき、ぴかぴかの胸当てと羽飾りのかぶとをつけたひとりのトルネドラ軍団兵が、あたりの塀にも負けないくらい厳めしい雰囲気を漂わせながら、長いカーブを一息に駆けおりてきた。剣にしたたる鮮血。顔は残忍な微笑みを浮かべたままピクリとも動かない。そして目にうつる凶暴な光。
今や通りには手足をめった切りにされた死体がぶざまに重なり合い、あたり一面が血に染まっている。幻想が残酷なクライマックスに近づくにつれて、すすり泣きの声は耳をつんざくような絶叫に変わった。
目の前でらせん状の道が大きく開け、ついにマー・アモンの中心にある大きな円形の広場があらわれた。身も凍りそうな冷風が吠え声をあげて炎の町を吹き抜け、ガリオンの頭の中は剣が肉と骨を切り裂くおぞましい物音でいっぱいになった。その間にもあたりはますます暗くなってくる。
一瞬のうちに、広場の石畳は虚妄の追想に包まれた。もくもくと巻きあがる煙の渦。その下に横たわっているのは、数えきれないほどのマラグ人の死体だ。けれども、広場の真ん中に立っているのは幻想でもなければ、幽霊でもなかった。すさまじいまでの威光を放ち、すっくと立ちはだかっているその姿は、傍観者の錯覚とは言いがたい現実味をそなえているのだ。両腕に抱えているのはおそらく虐殺された子供なのだろう、なにかしら呪われたマラゴーの死を象徴しているような印象を与える。子供の死体の上でキッと空を仰いでいる顔は、人間らしからぬその表情ゆえにひどく歪んで見える。やがて、男は泣き声をあげた。その瞬間、半眠状態で正気を保護されているにもかかわらず、ガリオンはうなじの毛が恐怖に逆立つのをおぼえた。
ミスター・ウルフは顔をしかめて鞍をおりた。そして、広場に散らばる死体の幻を注意ぶかくまたぎながらその巨大な存在に近づいていくと、うやうやしく頭を下げた。「マラの神よ」
マラは大きく吠えた。
「マラの神よ」ウルフは同じ言葉をくりかえした。「あなたの悲しみを軽々しく邪魔するつもりはありません。でも、どうしてもお話しなければならないことがあるのです」
恐ろしげな顔が歪んだかと思うと、大きな涙が神の頬を伝いはじめた。マラは何も言わずに子供の死体を差し出し、空を仰いで泣き声をあげた。
「マラの神よ!」ウルフはもう一度、さらに熱心に呼びかけた。
マラは目を閉じてがっくりと頭をたれ、子供の死体におおいかぶさってすすり泣いている。
「無駄よ、おとうさん」ポルおばさんはミスター・ウルフに言った。「かれがこうして悲しんでいたいと言うんだから、説得なんてできないわ」
「わたしにかまうな、ベルガラス」マラはすすり泣きながら言った。その大音声はガリオンの頭の中でゴロゴロと振動した。「わたしの悲しみを邪魔するな」
「マラの神よ、予言成就の日はすぐそこまで来ています」ウルフは話をつづけた。
「予言が何だ?」マラは子供の死体を胸に引き寄せて、すすり泣きの声をもらしている。「予言が虐殺された子供たちを返してくれるとでも言うのか? 予言などとうの昔に忘れてしまった。わたしにかまうな」
「全世界の運命は、間もなく起こるであろう出来事の結果いかんにかかっているのです、マラの神よ」ミスター・ウルフは言いつのった。「東の王国も西の王国も、すでに最後の戦争に向けて準備を始めています。あなたの呪われた弟、〈片目〉のトラクもまどろみの中でもがき始めています。目覚めの時もそう遠くはありません」
「勝手に目覚めさせるがいい」マラは腕の中の子供におおいかぶさって、新たな涙にかきくれた。
「では、あなたはかれの支配を甘んじて受けると言うのですか、マラの神よ?」今度はポルおばさんが訊ねた。
「支配など受けまいぞ、ポルガラ」マラは答えた。「子供たちが殺されたこの地を見捨ててなるものか。人間だろうと神だろうと、わたしがいるかぎりこの地に土足で入り込むことは許さぬ。トラクが世界を欲しいと言うのなら、くれてやるがいい」
「もう行ったほうがいいわ、おとうさん」ポルおばさんが言った。「何を言っても無駄よ」
「マラの神よ」ミスター・ウルフはすすり泣く神になおも訴えた。「われわれは予言の鍵をここに揃えました。ここを去る前に、かれらを祝福して下さいませんか?」
「ベルガラスよ、わたしには祝福の言葉など残っていない。あるのはネドラの残忍な子供たちに対する呪いの言葉だけだ。さあ、そのよそ者たちを連れて、この地を去るのだ」
「マラの神よ」ポルおばさんがきっぱりとした口調で言った。「予言の成就には、あなたにもひと役かっていただかなければ。わたしたちを動かしている鉄石の運命が、同様にあなたの服従を要求しているのです。この世の始まりの時から用意されていた自分の役割を各々が果たさなければならないのです。なぜなら、予言がこの険しい道筋からそれてしまったとき、世界は消滅してしまうのですよ」
「消滅してしまえ」マラはうめくように言った。「この世に未練はない、いっそのこと消えて亡くなってしまえばいいのだ。わたしの悲しみに終わりはないし、終わらせるつもりもない。たとえそのためにこの世の創造物がすべて消えてなくなろうと。さあ、予言の子供たちを連れてここを去るのだ」
断念したミスター・ウルフは、マラに頭を下げるときびすを返して仲間のところに戻ろうとした。その表情にはどうにもしようのない憤慨があらわれていた。
「待て!」とつぜん、マラの大声がこだました。町と死体の幻想がゆらゆらと揺らめいて消え失せた。「これは何のつもりだ?」神は問いただした。
ミスター・ウルフは驚いて振り返った。
「何のつもりだ、ベルガラス?」マラはふたたび厳しい口調で言うと、突如として天にも届かんほどに大きくそびえ立った。「おまえもだ、ポルガラ。わたしが悲しむのがそんなに面白いか? おまえたちはわたしの傷みにつけこもうというのか?」
「何のことでしょう?」ポルおばさんはあまりに突然な神の怒りに度胆を抜かれた様子だった。
「いまわしい!」マラが吠え声をあげた。「いまわしい!」巨大な顔面は怒りにひきつっている。そして、憤怒の形相でかれらのほうに歩み寄ると、神はセ・ネドラ王女の馬のすぐ前で立ち止まった。「おまえの体を引き裂いてやる!」神は彼女に金切り声を浴びせた。「ネドラの娘、おまえの頭を気も狂うような苦悩で満たしてくれよう。生ある限り血みどろの苦悶と恐怖を味わうがいい」
「その娘にかまわないで!」ポルおばさんが悲鳴をあげた。
「ならぬ、ポルガラ」神は声を荒げた。「この娘にわたしの怒りをぶちまけてくれる」爪を立てた恐ろしい指先が意識のない王女のほうに伸びたが、王女はぼんやりと神を見つめるだけで、なんの反応も示さなかった。
マラは苛立ってシューッと音をたてると、ミスター・ウルフのほうにくるりと向きなおった。
「だましおったな!」かれは吠えるように言った。「この娘の魂は眠っているではないか」
「マラの神、かれらはみんな眠っているのですよ」ウルフは答えて言った。「脅迫も恐怖もかれらには通じやしません。どうぞ空が落ちるまで金切り声や吠え声をあげてください。どうせ彼女には聞こえません」
「ベルガラス、この罪はきっと償わせてみせるぞ」マラは歯をむいて悔しがった。「ポルガラ、おまえもだ。身のほどをわきまえぬこの無礼の報いに、おまえたち全員に苦痛と恐怖を味わせてやろう。魂から眠りを奪われたとき、この侵入者たちはわたしの与える苦悩と狂気を目の当たりにするのだ」そう言うと、かれの姿は突然何倍も大きく膨れあがった。
「もう十分だ! マラ! やめろ!」その声はガリオンのものだったが、ガリオンはしゃべっている主が自分でないことを知っていた。
マラの霊はかれのほうに向きなおると巨大な腕を振りあげて殴りかかろうとした。だが、ガリオンは逃げ出すどころか、気がつくと馬からすべりおりて威嚇するような巨像にわざわざ近づいていた。「復讐はもうおしまいだ、マラ」その言葉は紛れもなくガリオンの口から出ていた。「その娘はわたしの自由にすることになっている。おまえには指一本ふれさせない」驚いたことに、ガリオンはいつしか怒れる神と眠れる王女のあいだに立ちはだかっていた。
「そこをどけ、小僧。さもないと息の根止めてくれるぞ」マラは威嚇した。
「マラよ、泣きわめいて頭が空になってしまったのでなければ、頭を使ってみろ。わたしが誰かはわかっているはずだぞ」
「その娘はわたしのものだ!」マラはもう一度吠えた。「数多《あまた》の命を与えて、そいつの震える肉体から命をひとつずつ引き裂いてやる」
「いや、そうはさせぬ」
マラの神はふたたびきりっと直立して、荒々しく腕を振りあげた。だが、その瞬間、かれの瞳が何か――目に見える以上の何か――を突き止めた。ガリオンはまたしてもサルミスラ女王の謁見の間でイサの魂にふれられた時のように、おそろしく巨大なものが自分の魂にふれるのを感じた。マラの潤んだ瞳は、何かに気づいたことをありありと物語っていた。高く掲げたかれの腕ががくんと落ちた。「その娘をください」マラの声は懇願に変わっていた。「他の者は連れていってもかまいません、でも、そのトルネドラ人だけはわたしにください、お願いです」
「ならぬ」
今ここで起こっているのは魔術じゃない――ガリオンは瞬時のうちにそう悟った。そこには騒音もなければ、いつも魔術が起こるときに押し寄せるあの奇妙なうねりもなかった。そのかわりに、マラの神の魂が圧倒するような勢いで向かってきたときに、おそろしい圧迫感を感じた。と同時に、頭の中の魂がそれに立ち向かった。そのエネルギーの大きさといったら、全世界をもってしても支えきれないほどだった。が、それはマラに直接跳ね返しはしなかった。それほど大きな力がぶつかりあったら、世界はおそらく粉々に砕けてしまっただろう。魂は力をぶつけるかわりに、マラのほとばしる怒りをただじっとやりすごしたのだ。つかの間、ガリオンは頭の中に住む魂と知覚を分かちあった。そして、その大きさにたじろいだ。瞬時のうちに、ガリオンは、ビロードのように真っ黒な宇宙を背景に巨大な円を描いている数えきれないほどの太陽を見た。宇宙に誕生し、やがて銀河となり、それが重々しく星雲に変わっていく一瞬のさまを。そして、その向こうに、かれは時間そのものを見たような気がした――そう、その誕生と終わりを一瞬のうちに垣間見たのだ。
マラはあとずさった。「降参するしかあるまい」かれはしゃがれ声で言うと、ゆがんだ顔を奇妙に畏まらせてガリオンに黙礼した。くるりと背を向けるや、かれは両手に顔をうずめて鳴咽をもらした。
「マラよ、これでおまえの悲しみも終わることだろう」ガリオンの声がおだやかに言った。
「いつの目にか、ふたたび喜びを見出すだろう」
「だめだ」神はしゃくりあげた。「わたしの悲しみは永遠に終わらない」
「永遠という時間は永すぎるぞ、マラ」声が言った。「その終わりを見ることができるのは、わたしだけだ」
すすり泣く神はそれ以上答えずに、かれらから遠ざかっていった。マー・アモンの廃墟にふたたびむせび泣きの声がこだました。
ミスター・ウルフとポルおばさんは、憑かれたような顔をしてガリオンを見つめていた。老人が口を開いたとき、その声は畏怖の念にうち震えていた。「こんなことがあっていいのだろうか?」
「不可能という言葉は存在しない、いつもそう言っているのはおまえではないか、ベルガラス?」
「まさか、あなたが自ら手を下すとは」ポルおばさんが言った。
「時には手を加えることもある――ちょっとした入れ知恵をして。注意して思い返してみれば、きっと二つ三つ思い当たることがあるはずだ」
「この子はこのことに気づいてるんでしょうか?」彼女は問いかけた。
「もちろん。すこし説明もしておいた」
「説明って、どの程度まで?」
「かれが理解できる範囲でだ。心配するな、ポルガラ、傷つけるようなことはしない。かれはすでにことの重大さを理解している。心の準備をしなければいけないことも、そのための時間があまり残されていないということも、ちゃんとわかっている。さあ、おまえたちはもう行ったほうがいい。そのトルネドラの娘の存在が、マラに苦痛を与えるのだ」
ポルおばさんは言いたいことがまだあるようだったが、さほど離れていないところですすり泣くぼんやりとした神の姿をちらっと見やると、こくりとうなずいた。彼女は馬のところに戻り、先頭をきって廃墟を後にした。
彼女の後を追おうと馬にまたがったところで、ミスター・ウルフはガリオンのとなりに並んだ。「馬を走らせながら話せますな」かれは言った。「聞きたいことが山ほどあるんです」
「もう行っちゃったよ、おじいさん」そう答えたのは、ガリオンだった。
「おお」ウルフはあきらかにがっかりして声をあげた。
すでに日が沈みかけていた。そこでかれらはマー・アモンから一マイルほど離れた木立で夜を過ごすことにした。廃墟を過ぎてからは、手足のない幽霊があらわれることはもうなかった。みんなに食事を与えて毛布にくるんでやったあと、ポルおばさんとガリオンとミスター・ウルフは小さな焚き火を囲んで腰をおろした。マラとの遭遇がすみ、頭の中の存在が去って以来、ガリオンは眠りの底にどんどん沈んでいくような気がしていた。すべての感情が消え失せ、もう進んでものを考えることすらできないように思えた。
「話ができるかな――その、もうひとりのほうと?」ミスター・ウルフは期待をもって訊ねた。
「今はいないよ」と、ガリオン。
「じゃあ、いつも一緒というわけじゃないのか?」
「うん、いつもじゃない。何ヵ月もいなくなることだってあるし――時にはそれ以上長くなることもあるよ。今回はずいぶん長いこといたみたいだね――アシャラクが燃えてからずっとだから」
「一緒にいるときには、いったいどのあたりにいるのだ?」老人は不思議そうな顔で訊ねた。
「この中だよ」ガリオンは頭をたたいて見せた。
「あんた、マラゴーに入ってからずっと起きてたの?」今度はポルおばさんが聞いた。
「すっかり起きてたわけじゃないよ。一部分は眠ってたんだから」
「幽霊を見たでしょ?」
「うん」
「でも、恐くなかったの?」
「うん。驚いたことも何度かあったし、一度なんか吐きそうになったこともあったけど」
ウルフはさっと顔をあげた。「でも、今ならもう気持ち悪くなることもないだろ?」
「うん。たぶんね。最初のうちはそういう気分がまだ少し残ってたけど。今は、だいじょうぶだと思う」
ウルフは次の質問を考えあぐねているかのように、思案顔で炎を見つめた。「おまえの頭にいる同居者は、おまえと話したとき何と言ってた?」
「ずっと昔、起こるべきでないことが起こったんだって。それで、ぼくはそれを直さなければいけないんだってさ」
ウルフは短く笑って、「それはまた簡潔な説明だな。それがどういうふうに終わるか、言ってなかったか?」
「それはかれもわからないって」
ウルフは溜息をついた。「どこかで出し抜くことができればと思ったが、どうやら無理らしいな。ということは、ふたつの予言はいまだに同等の可能性を秘めているということか」
ポルおばさんはガリオンをじっと見すえ、「次に目が覚めたときには、もう少し思い出せそう?」と訊ねた。
「たぶんね」
「いいわ、じゃあ、よく聞いて。予言はふたつ存在するの。その両方が同一のできごとに向かって進んでいるわ。予言の一方を支持しているのがグロリム人とその他のアンガラク人。もう一方を指示しているのがわたしたちよ。そのできごとというのは、予言によってちがった結末を見せるの」
「ふうん」
「それぞれの予言は、両方がそのできごとで合流するまでにもう一方の予言の中で起こるであろう事柄というものを、いっさい否定していないのよ」彼女は話しつづけた。「これから起こる物事の軌跡はすべて、そのできごとの結末がどうなるかということによって決定されるの。一方の予言が勝利をつかむ、するともう一方は敗れ去るわけ。すでに起こったこともこれから起こることも、その時点ですべて集結し、ひとつになるのよ。誤りは消され、宇宙は、まるでそれが最初から進むべき道であったかのように、どちらか一方向に動きだすの。ただ違う点と言えば、もしわたしたちが敗退すれば、おそろしく重要な何かが起こらずに終わるということ」
うなずいたとたん、ガリオンは倦怠感におそわれた。
「ベルディンの言葉を借りれば、相近する運命の理論ってやつだな」ミスター・ウルフが横やりを入れた。「まったく同等なふたつの可能性、ということか。だが、ベルディンは時々ひどく大袈裟になるからな」
「べつに驚くほどの欠点でもないわ、おとうさん」ポルおばさんが言い返した。
「ぼく、もう眠りたいんだけど」ガリオンがたまりかねて言った。
ウルフにちらりと視線を向けたあと、ポルおばさんは、「いいわよ」と答えた。それからかれの手をつかんで立たせ、寝床に連れていった。
ガリオンに毛布をかけ、首もとまですっぽりおおってしまうと、彼女はひんやりした手をかれの額にのせ、ささやくように言った。「おやすみ、あたしのベルガリオン」
そして、ガリオンは眠りについた。
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第二部 アルダー谷
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7
眠りから覚めたとき、かれらは互いに手をつなぎ、輪になって立っていた。セ・ネドラはガリオンの左手をにぎり、ダーニクが右手をにぎっていた。眠気が去るにつれて、ガリオンは急速に現実に引き戻されていった。風は爽やかでひんやりとしており、朝の日差しが眩しい。目の前には朽ち葉色をした山脈の前につらなる前衛の丘陵がそびえ、後方にはマラゴーの呪われた平原が横たわっていた。
シルクは目が覚めたとたん用心深いまなざしてキョロキョロとあたりを見回した。「ここはどこです?」
「マラゴーの北のはずれだ」ウルフが答えた。「トル・レインから約八十リーグ東ってところかな」
「われわれはどのぐらい眠っていたんです?」
「一週間かそこらだ」
シルクは過ぎ去った時間と距離を埋めようと、まだあたりをキョロキョロ見ていた。だが最後には観念して、「こうするしかなかったんでしょうね」と言った。
ヘターはすぐさま馬の様子を見にいった。バラクは両手で首をうしろをこすりはじめた。
「まるで岩山の上で眠っていたような気分だよ」と、不満を訴えている。
「少し散歩でもしてきたら」ポルおばさんが声をかけた。「こりがほぐれるわよ」
セ・ネドラはまだガリオンの手をにぎったままだった。かれは、もし彼女にそれを教えてやったら、いったい何て言うだろうかと思った。その手はとても温かくて小さく、とにかく嫌な気分ではなかった。そこで、かれはそのことは口にしないことに決めた。
ヘターは顔を曇らせて戻ってきた。「ベルガラス、荷馬の一頭が子供をはらんでいます」
「生まれるのはいつごろだ?」サッと視線を向けて、ベルガラスは訊ねた。
「はっきりとは言えませんが――おそらくひと月とたたないうちに。初産なんですよ」
「荷物をおろして他の馬に分散しましょう」そう提案したのは、ダーニクだった。「荷物さえなければ、だいじょうぶですよ」
「ええ、たぶん」ヘターの声はおぼつかない。
マンドレランはさきほどから前方にそびえる黄色い丘をじっと見つめていた。「見張られていますよ、ベルガラス」朝方の碧空に向かってひょろひょろと上っていく幾筋かの煙の柱を指差して、マンドラレンが言った。
ミスター・ウルフは横目でその煙を見ると、顔をしかめて、「金《きん》掘り人夫だろう。ああやって病気の牛を狙うコンドルのようにマラゴーの国境を徘徊しているのだ。ポル、ちょっと見てくれ」
だが、ポルおばさんはそう言われる前からすでに前方の丘に視線を走らせ、例の遠目で男たちの姿をとらえていた。「アレンド人、センダー人、トルネドラ人、それからドラスニア人がふたり。あまり利口そうじゃないわね」
「マーゴ人は?」
「いないわ」
「じゃあ、ただのならず者ですね」と、マンドラレン。「どうせクズを拾っているような連中だ、何か意味があってわれわれを足止めするわけじゃないんでしょう」
「できることなら争いは避けたい」ウルフが言った。「そういう偶発的な小ぜりあいというのは、とかく危険で実の少ないものだ」かれはうんざりしたように頭を振った。「でも、マラゴーから金《きん》を持ち出すわけじゃないと言ってもやつらが聞くわけがない。けっきょく戦わざるをえないだろう」
「もしやつらの目的が金《きん》だけだとしたら、少しやったらどうです?」例によってシルクがアイデアを出した。
「そんなにたくさんの金《きん》があるもんか」老人は反論した。
「べつに本物である必要はないんですよ」シルクは目を輝かせた。かれは荷馬のところに行って大きな幌布を数枚持ってくると、慣れた手付きでチョキチョキと切り刻み、一フィート四方の正方形を何枚もつくりあげた。それから正方形の布を一枚取り上げると、その真ん中に両手いっぱいの小石をのせた。四隅をつまみ、丈夫な紐でしばると、ずっしりと重そうな巾着ができあがった。彼は二、三回それを持ち上げると、「金《きん》の入った袋に見えるでしょう?」
「また何か小賢しい真似をするらしいぜ、この男は」バラクが言った。
シルクは作り笑いを浮かべると、てきぱきとした手付きで巾着をもう数個こしらえた。「わたしが先に行こう」かれは巾着をみんなの鞍に吊り下げながら言った。「みんなは後からついてきてくれ。交渉はわたしにまかせて。ポルガラ、人数はどのくらいです?」
「約二十人ってとこね」
「きっとうまくいくぞ」シルクは自信たっぷりに言った。「さあ、行きましょうか?」
かれらは馬にまたがると、平野に向かって大きな口を開けている乾いた溝の入り口を目指して地面を横切っていった。しんがりをつとめるシルクは、あちこちに視線を配っている。溝の入り口に差しかかったとたん、ガリオンの耳に甲高い笛の音が聞こえ、前方で何かがコソコソと動く気配がした。彼は両側にそびえる堤に意識を集中させた。
「ちょっと広い場所が必要だな」と、シルクの声がした。「あそこだ」かれは堤の傾斜が比較的ゆるくなっている場所をあごで示した。その場所までくると、かれは馬を急回転させた。
「今だ! のぼれ!」
みんなはかれのあとについて小石をどんどん蹴散らしながら堤をよじのぼった。馬がひづめをたてて干川から這い上がっていくにつれて、息の詰まるような黄色い土埃があがった。
溝の上方にあるイバラのやぶから狼狽したような叫び声が聞こえてきた。と、荒くれ男の集団が、先回りしてかれらの行く手をさえぎろうと膝丈ほどもある茶色い雑草の中を必死に走り抜け、空き地に飛び出してきた。いちばん近いところに陣取り、いちばん鼻息の荒い黒ひげの男がまっさきに錆穴のあいた剣を振りかざし、かれらに飛びかかってきた。マンドラレンはすこしのためらいもなく、その男を馬でつき倒した。黒ひげの男は激しく回転する巨大な軍馬のひづめの下で転げ回り、のたうち回りながらわめき声をあげた。
溝を見下ろす丘の頂上にたどりついたところで、かれらは陣を固めた。「ここがいい」シルクは円形の地面を見渡しながら言った。「とにかく、荒くれどもに身の安全を計算させる間を与えてやらないと。そう、身の安全を考えさせることが重要なんだ」
一本の矢がブンブンとうなりながら飛んできた。と、マンドレランがほとんど鼻であしらうようにあっさりと盾で払いのけた。
「止まれ!」山賊のひとりが叫んだ。ひょろりとしたあばた顔のセンダー人で、一方の足に粗雑な包帯を巻き、汚らしい緑のチュニックを着ている。
「名を名乗れ」シルクが居丈高に言った。
「クロルドーだ」包帯の男がもったいぶった口調で答えた。「盗賊のクロルドーだよ。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう」
「それがないんだな」シルクは面白そうに言った。
「金《きん》を置いていけ――女もだ」クロルドーは命令した。「命だけは助けてやろう」
「今のうちにそこをどけば、こっちも命だけは助けてやるつもりだよ」
「おれたちは五十人もいるんだぜ」クロルドーは脅迫めいた口調で言った。「おれと同じで破れかぶれなやつらよ」
「二十人のまちがいだろ。脱走した農奴、臆病な百姓、それにこそ泥かい。こっちは練達の戦士だぜ。それだけじゃない。こっちには馬があるが、おまえたちは歩きじゃないか」
「金《きん》を置いていけ」自称盗賊という男はそれでも引き下がらない。
「じゃあここまで取りに来たらどうだい?」
「野郎ども、行くぞ!」クロルドーは仲間に吠えたてるや、突進した。だが、ふたりのならず者がすこし戸惑いながらかれにつづいて茶色い草むらに入り込んだものの、あとの連中は不安そうにマンドラレンとバラクとヘターをながめ、尻込みしている。しばらく進んだところで、クロルドーは子分がついてこないことに気づいた。かれはその場に立ち止まると振り返って、「この臆病者が!」と、怒りをぶちまけた。「急がないと他の連中が来ちまうぞ。そうなったら金《きん》はおじゃんだぜ」
「いいことを教えてやろうか、クロルドー」シルクが声をかけた。「おれたちはちょっと先を急いでるんだが、金《きん》の量が多すぎて持てあましてんのよ」かれはそう言うと、小石の入った巾着をひとつはずしてこれみよがしに振った。「ほらよ」それからその袋をかたわらの草むらに無造作に投げた。次いでもうひとつの袋をそのとなりに投げた。かれが素早く合図をすると、他の者もいっせいに袋を投げて山積みにした。「どうだ、クロルドー」シルクはしゃべりつづけた。「純金十袋、戦いを交えずにくれてやると言ってるんだぜ。だがこれ以上欲を張ると、血を見ることになるぞ」
クロルドーのうしろにいる荒くれ男たちは互いに顔を見あわせると、うっそうとした草むらの中に横たわっている袋の山を物欲しそうにながめながらじりじりと両側に移動しはじめた。
「おまえの子分は身の安全を計算してるようだぞ、クロルドー」シルクが皮肉っぽく言った。
「そりゃそうさ、これだけの金《きん》があれば全員が金持ちになれるんだから。金持ちっていうのは、不必要な危険を冒さないもんだぞ」
クロルドーはかれをにらみつけると、「この借りはぜったいに忘れないぞ」と怒鳴った。
「ああ、そうだろうよ」シルクが答えた。「さあ、行くとするか。おい、道をあけたほうがいいぞ」
バラクとヘターがマンドラレンの脇を固めると、三人はそろって威圧するようにじわりじわりと動きはじめた。
盗賊のクロルドーはぎりぎりまで地面に立っていたが、ついに背中を見せると、悪態を並べながら逃げるように道をあけた。
「行くぞ」シルクの号令がとんだ。
かかとで馬の脇腹をバンと蹴り、かれらは速足で走り抜けた。後方では、ならず者が輪になったかと思うと、山積みになった幌布の袋にわっと駆け寄っていった。たちまちのうちに小競り合いが起こり、誰かが袋を開けることを思いつくころにはすでに三人が地面に倒れていた。その後に起こったわめき声は、きっとはるか彼方まではっきりと聞こえただろう。
無我夢中で二マイルを疾走したのちやっと馬の歩調をゆるめると、バラクが声をあげて笑っていた。「気の毒なクロルドー」かれはそう言うとさらに声高に笑った。「シルク、おまえはほんとうに悪魔のような男だよ」
「下層階級のことは勉強ずみなもんでね」シルクは悪びれずに答えた。「自分の得になる方法をすぐに見つけることができるんだ」
「ほんとうのことがわかったら、クロルドーの手下はかれを責めるでしょうね」ヘターが言った。
「もちろん。でも、まあ、頭《かしら》にはそういう危険がつきものなんだよ」
「殺さないともかぎりませんよ」
「望むところだよ。殺してくれなかったら、がっかりだね」
日が沈むまで、さらに黄色い丘陵を押し進んだあと、かれらは隠れ場所としては絶好の小さな峡谷で夜を過ごすことにした。そこだと、あたりを横行しているならず者に焚き火の炎を見られ、居所を知られるという心配もなかった。翌朝、かれらは早いうちに動きはじめた。そして昼ごろには山岳地帯に達していた。
かれらはごつごつした岩山のあいだをのぼり、濃緑のモミや檜が立ち並ぶうっそうとした森の中に馬を走らせた。空気は冷たく、芳しい香りがした。低地はまだ夏だというのに、山の上のほうではすでに秋の兆しがあらわれはじめていた。下生えの灌木の葉も紅葉しはじめ、大気がかすかに白く霞み、毎朝目を覚ますたびに地面に霜が下りている。だが空は相変わらずきれいに晴れわたっていたので、かれらは思ったより距離をかせぐことができた。
やがて、山に入ってかれこれ一週間を過ぎただろうかというある日の午後、西の空から重々しい雲の峰が動いてきて、湿っぽい寒気を運んできた。午後の気温がどんどん下がっていくにしたがいガリオンは寒さをおぼえて、道々鞍のうしろからマントをはずすと、肩をすっぽりと包み込んだのだった。
ダーニクは顔を上げて鼻から空気を吸い込んだあと、「この分だと夜明け前に雪になるぞ」と言った。
ガリオンもまた、大気の中に冷たくて埃っぽい雪の匂いを感じていた。かれはダーニクの言葉に黙ってうなずいた。
ミスター・ウルフは不満を隠せずに、「いつまでもこんな好天がつづくとは思ってなかったが」と言ってから、肩をすくめて、「おお、そうだった。わしらはもう冬は経験ずみだったな」
翌朝、ガリオンがテントから頭だけ突き出してみると、黒っぽいモミの木の下に真っ白な雪が一インチほど積もっているのが見えた。そうするうちにも柔らかい雪片がちらちらと舞い落ちて、音もなく積もっていく。百ヤードより先は、すっかり白く霞んで何も見えない。空気も冷たくどんよりしている。馬たちは白粉のような雪の下でいっそう黒っぽく映え、雪のかけらがふれるたびに耳をパタパタと動かしている。そして、湿っぽい冷気の中に白い息をはいている。
ポルおばさんとの共有に声をあげて喜んだそのテントから、セ・ネドラが姿をあらわした。トル・ホネスでは雪など滅多に降らないのだろう、この少女はふわふわと舞い落ちる雪の中を子供のようにはしゃぎながら飛び回っている。ガリオンは寛容な気持ちになって思わず微笑んだ。とはいえ、そうやって笑っていられたのも狙いのいい雪の玉に頭のわきを直撃されるまでのことだった。かれはすぐに彼女のあとを追って、つづけざまに雪の玉を投げつけた。彼女は彼女で笑ったりキャーキャーと歓声をあげたりしながら、木の合間を縫うようにしてうまくそれをかわしている。やっとのことで彼女を捕まえたとき、かれは雪でその顔を洗ってやろうと思った。ところが彼女はかれの首に思いっきり腕を振り上げたかと思うと、いきなりキスしてきたのだ。冷たい鼻先が彼の頬をこすり、雪の積もったまつげが固くふれた。それが彼女の罠だったと気づいたときにはもう遅く、かれは首のうしろに掌いっぱいの雪を突っ込まれていた。雪がすっかり解けてしまわないうちにチュニックのうしろから落とそうとガリオンが体を揺すっているうちに、彼女はパッとその場を離れ、おもしろそうに野次を飛ばしながらテントのほうに逃げていった。
だが、正午になるころには、地面の雪はゆるみだし、ふわふわと漂う雪片は間断なく降りつける陰気な霧雨に変わっていた。一行は、川が小石におおいかぶさるように勢いよく流れるのを横目に、モミの木から滴る雨のしずくを受けながら狭い峡谷を進んだ。
やっとのことでミスター・ウルフが休憩の号令を出した。「クトル・マーゴスの西側の境界線に近づいている」彼はみんなに言った。「そろそろ警戒をはじめないといけないようだな」
「ぼくが先頭を走りましょう」すぐにヘターが申し出た。
「いや、それはあまりいい考えとは言えんぞ。なにしろ、おまえはマーゴと見ると、見境がなくなってしまうからな」
「じゃあ、わたしが行きますか」今度はシルクが名乗りをあげた。かれは頭巾を引き寄せていたが、それでも長いワシ鼻の先からはぽたぽたと水が滴り落ちている。「だいたい半マイルほど先を行って、よーく目を光らせておきますよ」
ウルフはよしとばかりにうなずいて、「何か目に入ったらすぐに口笛を吹くんだぞ」
「了解」シルクはそう言うと、ふたたび速足で峡谷をのぼりはじめた。
午後も遅くなってくると、雨が降るそばから凍って、川や木立が灰色の氷におおわれはじめた。大きく露出した岩面をまわり込むと、そこにシルクが待っていた。小流はすでに沢に変わり、峡谷の壁は切り立った山の斜面のほうにひろがっていた。「日暮れまであと一時間ほどですよ」小男は言った。「どうします? このまま進みますか、それとも峡谷をすこし戻って野営を張りますか?」
ミスター・ウルフはちらりと空を見上げたあと、山側に目を遣った。険しい斜面は発育不良の樹木におおわれ、高木限界がすぐ上まで来ている。「ここを回って反対側に行ったほうがいいだろう。二マイルかそこらだ。さあ先を急ごう」
シルクはうなずくとふたたび先導についた。
かれらは山の肩をまわりながら、二日前に通過した山頂を隔絶するように切れ込んでいる深い地溝を覗き込んでみた。雨足は夜のおとずれとともにすっかり弱まっていたので、ガリオンは溝の対岸の様子をはっきり見ることができた。とそのとき、距離にすれば一マイルと離れていないであろうその対岸の縁の近くで、何かが動いた。「あれは何?」かれはとっさに指差した。
ミスター・ウルフはあごひげから氷を払い落とすと、「とうとう来たか」
「何?」
「アルグロスだ」
アレンディアでかれらを襲ったヤギのような顔をした恐ろしい猿のことを思いだして、ガリオンは思わず身震いした。「逃げたほうがいいんじゃない?」
「どうせこっちには来れんだろう」と、ウルフは言った。「この溝の深さはどうみても一マイルはあるからな。だが、それにもかかわらずグロリムはあの獣を放った。ここはひとつ用心することに越したことはないだろう」かれはみんなにそのまま進むよう合図した。
ぱっくりと口を開けた地溝に間断なく吹き降ろす風が音をゆがませてはいたものの、対岸で仲間と合図を送り合っているアルグロスの甲高い吠え声は、ガリオンの耳にかすかに届いていた。ほどなく、十二頭はいただろうか、いまわしい獣の群れがごつごつした地溝の縁に沿って敏捷に走り回る姿が見えた。一行が険しい山肌を回ってそのまた向こうの浅い涸れ谷に向かっていく間にも、獣たちは互いに吠え合いながら、かれらの速度にぴったりついてくる。涸れ谷を行くうちにかれらは地溝からどんどん遠ざかっていった。そして一マイルほど走ったのち、かれらは低い檜の繁った木立に隠れて一夜を過ごした。
夜が明けてみると、寒さは前の日より厳しく、空模様はいぜんとしてどんよりとしていたが、雨だけはどうにか上がっていた。かれらは涸れ谷の入り口まで引き返したあと、ふたたび地溝の縁に沿って前進した。向こう側の岩肌は、目の眩みそうな数千フィートの絶壁になっており、その底に流れる川はさながらリボンか何かのように細く見える。アルグロスは吠えたり甲高い奇声を発したり、はたまたおそろしく飢えた表情でこちらを見やりながら、しつこく歩調を合わせていた。だが、向こう側の木陰に見え隠れしているのは、アルグロスだけではなかった。そのうちの一頭は、巨大で全身が毛におおわれており、体は人間とさして変わらないように見受けられたが、頭部はまさしく獣のそれだった。敏捷な動きを見せる獣の群れは、たてがみや尻尾を激しく揺すり合いながら、向こう岸の縁沿いを速足に移動していく。
「見て」セ・ネドラが指差して言った。「野性の馬よ」
「あれは馬じゃない」ヘターが厳しい口調で言った。
「でも馬に見えるわよ」
「目にはそううつるかもしれませんが、じっさいは違うんですよ」
「フラルガか」ミスター・ウルフがぶっきらぼうに言った。
「なんなの、そのフラルガって?」
「フラルガというのは馬に似た四つ脚の獣なんだが、歯の代わりに牙を持ち、ひづめの代わりにかぎ爪の生えた脚を持っているのだ」
「でも、それじゃあ――」王女は目を大きく見開いて、かれの言葉をさえぎった。
「そうだ。フラルガは人喰いだ」
彼女はブルブルッと体を震わして、「まあ、恐ろしい」
「地溝がだんだん狭まってきますよ、ベルガラス」ちょうどそのとき、バラクの声が低く響いた。「あいつらと合流するなんて、おれは真平御免ですよ」
「その心配はない。わしの記憶だと、この地溝はあと百ヤードほど狭まったあと、また広がりはじめる。あいつらはこっちには渡れん」
「その記憶に間違いのないことを祈りますよ」
頭上の空は突風に引き裂かれて、ボロ布のように見えた。コンドルが空高く舞い上がって溝の上を旋回したかと思うと、今度は渡りガラスが木から木へ飛び移って口々に音たかくわめきたてる。ポルおばさんは激しい非難のこもった眼差しで鳥たちを睨みつけたが、あえて何も言わなかった。
かれらは進みつづけた。地溝はますます狭くなり、間もなく対岸にいるアルグロスの野卑な顔がはっきりと見て取れるまでになった。フラルガはたてがみを風になびかせて疾走していたが、口を大きく開いて互いにいななきあったとき、その長くてとがった牙がはっきりと目に飛び込んできた。
やがて、地溝がもっとも狭まる地点までくると、鎖かたびらを着たマーゴ人の集団が対岸の断崖に躍り出てきた。馬は激しい走りで泡汗だらけになり、乗り手のマーゴ人たちもやつれた顔をして、あちこちに旅の汚れを残していた。集団はそこで立ち止まると、ガリオンとその仲間がちょうど反対側に来るのを待った。断崖ぎりぎりのところに立ってまず地溝の対岸を見渡し、次いではるか底を流れる川を見下ろしているのは、あのブリルだった。
「ずいぶんと遅かったじゃないか」シルクはからかうように言ったが、その言葉の裏には激しい皮肉がこめられていた。「てっきり迷子にでもなったかと思ってた」
「とんだ勘違いだぜ、ケルダー」ブリルが答えた。「ところで、どうやってそっちに渡ったんだ?」
「あっちの方に四日ほど逆戻りしてみな」シルクは自分たちが走ってきた方角を指差して叫んだ。「よーく注意して見てれば、ここに通じる峡谷が見つかるよ。そうさな、二日とたたないうちに見つかるだろう」
マーゴ人のひとりが左足のうしろから短い弓を引き出し、矢をつがえた。男はシルクめがけて弦を引いたかと思うと、いきなり矢を放った。シルクは、矢がヒラヒラと長いらせんを描いて溝に落ちていくさまを、落ち着き払った顔で見守った。「ナイスショット」かれは叫んだ。
「馬鹿野郎!」ブリルは弓を持ったマーゴ人を叱りつけた。それからシルクのほうを向くと、「ケルダーさんよ、あんたの評判はたっぷりと聞かせてもらったぜ」
「ひとが勝手につくりあげた噂さ」シルクは謙遜して言った。
「みんなが言うほど腕が立つのかどうか、近いうちに試させてもらおうじゃないか」
「その好奇心が命取りになるかもしれないぜ」
「少なくとも、われわれのひとりにはそういう結果になったな」
「じゃあ、また会える日を楽しみにしてるよ」と、シルクは言った。「わかってもらえると思うが――なにしろ仕事がつかえてるもんでね」
「うしろに気をつけてろよ、ケルダー」ブリルは脅迫めいたことを言った。「いつの日か振り向くとそこにおれがいるかもしれないぞ」
「いつだってうしろには気をつけてるさ」シルクはやり返した。「おまえこそ待ち伏せされて驚かないように注意しろよ。今日は楽しいおしゃべりをさせてもらったよ。いずれまたこういう機会が来るだろう――近いうちに」
弓を持ったマーゴ人がもう一度矢を放った。が、今度も前の矢と同じように地溝に吸い込まれていった。
シルクはひとしきり笑ったあと、仲間を率いて断崖の縁を離れた。「まったく素晴らしいやつだよ」かれは馬を走らせながら言った。それから頭上の陰鬱な空を見上げると、「それにこの素晴らしい天気」
時間がたつうちに、雲はますます黒くたちこめてきた。風の勢いも強くなり、ついには木立のあいだをヒューヒューと吹き抜けるようになった。ミスター・ウルフはみんなを率い、さきほどブリルや手下のマーゴ人とのあいだにはだかっていた地溝を離れ、しっかりした足取りで東北に進んだ。
その晩は高木限界のすぐ下にある小石だらけの盆地で過ごすこととなった。ポルおばさんの用意したこってりとしたシチューを食べ終わると、かれらはすぐに火を消した。「わざわざ狼煙をあげてやることもあるまい」と言った。
「まさかあの地溝を渡ってきやしないでしょう?」ダーニクが訊ねた。
「用心に越したことはない」ウルフはそう答えると、わずかに残った燃えさしを後にして暗闇を覗き込んだ。ガリオンはとっさにかれの後を追った。
「おじいさん、〈谷〉まではあとどのぐらいあるの?」
「七十リーグってとこだな。こんな山の上では、思ったより時間がかかるものだ」
「天気も悪くなってるしね」
「わかっておる」
「ほんとうの吹雪になったらいったいどうなるの?」
「風が止むまで避難するしかないだろう」
「でも、もし――」
「ガリオン、別にそんなつもりはないんだろうが、おまえは時としておばさんとまったく同じ口のきき方をするな。おばさんは十七の頃から事あるごとにでも、もし≠連発してきた。そう長いこと同じことを言われつづけてると、しまいにはうんざりしてくるよ」
「ごめんなさい」
「謝まることはないさ。ただ、もうそれを言うのはやめておくれ」
荒れ模様の空をおおう松ヤニのような暗闇の中で、とつぜん巨大な翼がバサッバサッと重々しい羽音をたてた。
「あれは何?」ガリオンはびっくりして訊ねた。
「しっ、静かに!」ウルフは空を仰いだままじっと立っている。またしても大きな羽音が聞こえた。「おお、何と痛ましい」
「何なの?」
「あの哀れな老獣はとっくの昔に死に絶えていたかと思っていたのに。なぜかれらはあれを放っておいてやらないのだ?」
「ねえ、あれは何なの?」
「名前はない。大きくて愚かで醜いけだものだ。神々はあれを三羽だけお作りになった。二羽の雄は最初の交尾期に互いの命を奪い合った。わしが覚えているかぎり、残っているのはあの雌だけだ」
「大きな音だね」ガリオンは頭上の巨大な羽音に耳をそばだて、暗闇に目をこらしながら言った。「外見はどんなふうなの?」
「家のように大きい。おまえだって、あんなものは見たくないだろう」
「危険なの?」
「ああ、たいそう危険だ。だが、夜はよく目が見えない」ウルフはそう言って溜息をついた。
「きっとグロリムがあれを洞穴から追い出して、わしらを捕まえるようにけしかけたんだろう。あいつらは時として節度というものを忘れてしまうらしい」
「みんなにこのことを伝えなくていいの?」
「そんなことを言えばいたずらに心配させるだけだ。時には何も言わないほうがいいということもあるのだ」
巨大な翼がもう一度バタバタッと羽ばたいた。それにつづいて、悲哀に満ちた鳴き声が尾を引くように響き渡った。その声があまりに寂しそうだったので、ガリオンは哀れみの情が沸き上がるのを禁じることができなかった。
ウルフはもう一度溜息をつくと、「わしらにはどうしてやることもできんのだ。さあ、テントに戻ろう」
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次の日もまた次の日も天気は湿りがちで不安定だったが、かれらは雪におおわれた頂上を目指して山脈の斜面をのぼりつづけた。高度が高くなるにつれて、木立はだんだんまばらで貧弱になり、ついには一本の木も見えなくなった。尾根道が山脈のいっぽうの斜面に這いつくばるようにして現われると、かれらは岩と氷がゴロゴロ転がり、ひときわ風の吹きすさぶ険しい斜面をのぼった。
ミスター・ウルフはいったん足を止めると、現在地点を確かめるために薄青い午後の明かりの中を見回した。やがて指をさして、「あっちだ」と言った。二つの頂きに挟まれるようにして鞍部が広がっており、その向こうでは空が風にかき乱されている。マントをしっかりと引き寄せながら、かれらは斜面をのぼった。
ヘターが、タカを思わせるその顔を心配そうにゆがめながら前方にやってきた。「子供をはらんだ例の雌馬が苦しんでるんです」かれはウルフに言った。「もうすぐ生まれるんだと思います」
ポルおばさんは何も言わずに後戻りして雌馬の様子を見にいったが、やがて厳めしい顔をして戻ってきた。「あと二、三時間のうちよ、おとうさん」
ウルフはあたりを見回すと、「こちら側には避難するような場所はないな」
「峠の反対側に行けば何かしらあるでしょう」風にあごひげをなびかせながら、バラクが言った。
ウルフは頭を振ると、「向こうもこちらも変わりはない。それよりも急がねば。こんなところで夜を過ごすことになったら大変だ」
上に行くにしたがい、刺すように痛い氷雨が時折パチパチと打ちつけるようになった。風はいっそう激しさを増して、岩の合間でヒューヒューとうなっている。斜面に達して鞍部を進みはじめたとたん、一陣の強風がかれらを襲い、目の前で氷の粒が渦巻いた。
「こっち側のほうがまだ酷いですよ、ベルガラス」バラクの叫ぶ声が風に乗ってきた。「木のあるところまでは、あとどのぐらいなんですか?」
「数マイルだ」ウルフは風になびくマントを必死に引き寄せながら答えた。
「母馬にはそんな距離は無理です」ヘターが言った。「避難する場所を捜さないと」
「それがないのだ。森にたどりつくまでは。ここにあるのは剥き出しの岩と氷だけだ」
「洞穴に隠れたら?」どうしてそんなことを言ったのか自分でもわからずに――口にしてみて初めて気がついたというふうに――ガリオンが叫んだ。
ミスター・ウルフはさっと振り向くと、険しい目付きでかれを見た。「なんだ、その洞穴というのは? どこにあるのだ?」
「山腹にある洞穴だよ。そんなに遠くない」ガリオンはたしかにその場所を知っていた。だが、どうしてそれを知っているのかは自分でもわからなかった。
「確かなのか?」
「うん、間違いない。こっちだよ」ガリオンは馬の鼻先を変えると、左手にそばだつ巨大な岩の頂きに向かって鞍部の斜面をのぼりはじめた。またしても風が容赦なくその爪をたて、吹きまくる氷雨にかれらはほとんど視界がきかなかった。だが、ガリオンはしっかりした足取りで前進をつづけた。どうしてかと聞かれても答えることはできないが、なぜかしら、自分たちを囲んでいる岩のひとつひとつがしごく懐かしいもののように思えた。かれは仲間の一歩先を行くように、歩く速さを調整していた。みんなが質問を浴びせたがっているのはわかっていたが、かれにはどうして答えていいものやらまったく見当がつかなかったのだ。頂上の肩を回り込むと、やがてかれらは広い岩棚に出た。岩棚は山腹に沿ってカーブしており、そこから先は渦巻く氷雨に包まれて何も見えなかった。
「ガリオン、おぬしはわれわれをどこに連れていこうとしているのだ?」マンドラレンが大声で訊ねた。
「あと少しだよ」ガリオンは肩ごしに叫び返した。
ぼんやりと迫る花崗岩の山肌に沿ってカーブしていくうちに、岩棚はだんだんと狭まってきた。雪庇が突出しているところなど、人ひとり通るのがやっとの広さだった。そこでガリオンは馬をおり、馬を引いて雪庇を回った。花崗岩の突出部を迂回しはじめると風がじかに顔を叩き、さすがに目の前を手で覆わなければ、氷雨で一寸先も見えなくなってしまった。そんな具合に歩いていたから、手の届くところに来るまで、そこに扉があることはわからなかった。
岩の表面にあるその扉は鉄でできていたが、錆と時間によって黒ずみが生じ、ところどころに孔があいていた。幅はファルドー農園にあった門よりも広く、上のほうは渦巻く氷雨で見えなかった。
すぐうしろをついてきたバラクが、手を伸ばして鉄の扉にふれた。大きな拳がドンドンと叩くと、扉は鈍い音を響かせた。「洞穴だ」かれは仲間に向かって肩ごしに言った。「この風でガリオンは頭がおかしくなったとばかり思ってたが」
「どうやって中に入るんです?」ヘターが叫んだが、その声は風にかき消された。
「この扉は山とおなじでびくともしないぞ」バラクは、もう一度拳で扉を叩きながら言った。
「なんとかしてこの風を逃れないと」片方の腕でセ・ネドラの肩を抱きながら、ポルおばさんが言った。
「さあどうする、ガリオン?」ミスター・ウルフが問いかけた。
「簡単だよ。どこか右の部分を探せばいいんだ」かれは何を探そうとしているのかもわからないまま、氷のように冷たい鉄面に指を這わせた。と、わずかに感触のちがう場所が見つかった。
「あった」かれはそこに右手を当てて、軽く押してみた。すると、扉はギギーッというきしるような大音響とともに動きだしたではないか。今まで見えもしなかった線が、錆孔のあいた鉄面のちょうど真ん中に、まるで剃刀で切ったようにスーッとあらわれ、その隙間から錆が粉となって降ってきたかと思うと、すぐに風に乗って舞い上がった。
扉にふれた瞬間、ガリオンは右の掌にある銀の跡がなんだか温かくなったような気がした。不思議なことに、かれが押すのをやめても、扉はそのまま弧を描いて開きつづけた。あたかも掌の存在そのものに呼応しているかのような、そんな光景だった。もうかれはふれてさえいないのに、扉は動きつづけている。かれはぎゅっと手を握ってみた。すると、扉は動くのをやめた。
かれがふたたび手を開くと、扉は岩をきしらせながらさらに大きく広がった。
「遊ばないで、ガリオン」ポルおばさんがたしなめるように言った。「開けるのよ」
巨大な扉の向こうは真っ暗な洞穴だったが、こういう場所にありがちなカビ臭さはどうやらないようだった。かれらは一歩ずつ床を踏みしめながら、恐る恐る中に入っていった。
「ちょっと待ってください」ダーニクが妙にかすれた声でつぶやいた。鞍嚢の留め金をはずす音が聞こえたかと思うと、今度は火打ち石と鋼をガリガリと擦り合わす音が聞こえた。次いで二、三度火花が散ったあと、ダーニクが火口に息を吹き込んだと同時に仄かな明かりが灯った。火口が赤い炎を出して燃えはじめると、かれはあらかじめ鞍嚢から取り出しておいた松明にその火を移した。松明は少しのあいだパチパチ音をたてていたが、やがてぱっと燃えあがった。ダーニクはそれを掲げて、洞穴の中を見渡した。
それが自然にできた洞穴でないことは、一目見ただけでわかった。壁も床も、まるで磨き上げられたかのように滑らかで、ダーニクの持つ松明の明かりが、その光沢のある表面に赤く反射している。部屋そのものは完璧な円型で、直径が百フィートぐらいあるだろうか。壁面は上にいくほど内側にカーブしており、はるか頭上にある天井は、やはり丸く見える。床のちょうど真ん中には、丸い石のテーブルがあったが、直径が二十フィート、高さがなんとバラクの背よりもある巨大なテーブルだった。そして、そのまわりを石のベンチが取り囲んでいた。入り口のちょうど真向かいの壁には、丸い暖炉のアーチがある。洞穴の中は寒かったが、思っていたほど厳しい寒さではなかった。
「馬を入れてもいいでしょうか?」ヘターがそっと訊ねた。
ミスター・ウルフはうなずいた。が、明滅する松明の明かりを受けたその顔は茫然としており、思案にふけっているのか、目も虚ろだった。
滑らかな岩の床にカタカタというひづめの音を響かせながら、馬が入ってきた。真ん丸な目であたりをキョロキョロ見回し、神経質に耳をピクピクと動かしている。
「ここに薪がありますよ」アーチ型の暖炉のところでダーニクが言った。「火を入れましょうか?」
ウルフは顔を上げると、「うん? ああ――そうだな。入れてくれ」
ダーニクが暖炉の中に松明を差し入れると、すぐに薪に火がついた。火は見るみるうちに大きく燃え上がったが、その炎はこの上もなく明るかった。
と、セ・ネドラがあっと息をのんだ。「壁が! 見て!」見ると、暖炉の炎が水晶のような石理《きめ》に反射して、丸屋根ぜんたいが刻一刻と変化する無数の彩りに照らし出され、部屋の中が絵具をちりばめたような柔らかい輝きに包まれている。
壁づたいをひとりで歩いていたヘターが、アーチ型をしたもうひとつの壁穴を見つけるなり、「泉だ」と声をあげた。「吹雪をやり過ごすには、ここは絶好の場所ですよ」
ダーニクは松明の火を吹き消し、マントを脱いだ。というのも、かれが暖炉に火を入れたと同時に、部屋はすっかり暖かくなっていたのだ。かれはミスター・ウルフのほうに目をやると、「あなたはこの場所をご存知だったんでしょう?」
「かつてこの場所を探し当てた者はひとりとしていなかった」物思わしげな目をしたまま、老人は答えた。「ここが存在することすら確かではなかったのだ」
「この奇妙な洞穴はいったい何なんです、ベルガラス?」マンドラレンが訊ねた。
ミスター・ウルフは深く息を吸い込むと、「世界をお造りになっている最中、神々はすべてのもの――山や風や季節といったもの――を調和させ、秩序正しい動きを得るために、時おり皆で集まってはそれぞれが成し遂げたこと、あるいはこれからしようとしていることを話し合う必要があったのだ」それからあたりを見まわして、「神々が集まった場所、それがこの洞穴だ」
シルクは鼻を奇妙にピクピクさせながら、すでに巨大なテーブルを囲むベンチによじのぼっていた。「ボウルがあるぞ」かれは言った。「ボウルが七つ――それからカップが七つ。おや、ボウルの中に果物のようなものがある」かれは片方の手を伸ばそうとした。
「シルク!」ミスター・ウルフが血相を変えて叫んだ。「そこにあるものに手をふれてはいかん」
手はその場で凍りついたように止まり、シルクは呆気にとられて肩ごしに老人を振り返った。
「さあ、もう下りたほうがいい」ウルフが厳めしく言った。
「扉が!」セ・ネドラが叫び声をあげた。
みんながいっせいに振り向くと、今まさにどっしりとした鉄の扉がゆっくりと弧を描きながら閉まっていくところだった。「ちくしょう」バラクはそう叫ぶと扉に突進したが、時すでに遅しだった。かれの手が届く寸前に扉はゴーンという鈍い音を響かせて閉じてしまったのだ。バラクはあきらかにがっかりして、みんなを振り返った。
「気にすることないよ、バラク」ガリオンはかれに言った。「ぼくがまた開けるから」
ウルフはとっさにガリオンを振り返ると、物問いたげなまなざしでかれを見つめた。「この洞穴のことはどうして知ったのだ?」
ガリオンはどう答えていいかわからずに顔をしかめると、「わからないよ。とにかく知ってたんだ。というより、ぼくたちが最後にはここに近づくだろうってことがわかってたと言ったほうがいいかな」
「マラに話しかけたあの声に関係があるのか?」
「そうじゃないみたい。かれは今ここにはいないし、ぼくがこの洞穴を知ってたっていうのは何かもっと別のことのような気がするよ。かれに教えてもらったんじゃなくて、ぼくの中から出てきたものなんだ。でも、それがなぜなのかはわからない。この洞穴があるということはもうずっと前から知っていた、なんだかそういう気がするんだ――と言っても、近くにくるまでは、ここのことは考えたこともなかったんだけど。うまく説明するのはむずかしいや」
ポルおばさんとミスター・ウルフは長いこと顔を見合わせていた。ようやくウルフが質問するかに見えたその瞬間、部屋のはずれで大きなうなり声がした。
「誰か助けてください」ヘターが切羽つまった声で叫んだ。見ると、一頭の馬がお腹をパンパンに膨らませ、激しくあえぎながら、これ以上体を支えきれないという様子でフラフラと立っていた。ヘターはかたわらに立って、なんとかその体を支えようとしている。「産もうとしています」かれは言った。
かれらは振り向くと、いきんでいる雌馬のもとに駆け寄った。ポルおばさんはすぐにその場を預かって、てきぱきと命令を下しはじめた。みんなが雌馬を床に休ませ、ヘターとダーニクがお腹をさすってやっているあいだに、ポルおばさんは小さなポットに水を入れて暖炉の上にそっと置いた。「広い場所が必要ね」ハーブの広口瓶が詰まっているバッグを開けながら、彼女は言った。
「おれたちは邪魔にならないように退いてましょうか?」バラクはあえいでいる雌馬を落ち着かない様子でながめながら言った。
「それがいいわね」彼女はかれの意見が気に入ったようだった。「セ・ネドラ、あなたはここにいて。手を貸してほしいのよ」
ガリオン、バラク、それにマンドラレンは二、三ヤード離れたところに腰をおろし、光を放つ壁に寄りかかった。その間に、シルクとミスター・ウルフは部屋の残りの部分を探検しにいった。母馬を介抱するダーニクとヘター、そして暖炉のそばで立ち働いているポルおばさんとセ・ネドラの姿を見ながら、ガリオンはなぜかしら心を奪われたような感じがしていた。洞穴が自分を引き寄せたことに疑問の余地はなかった。そして、今もなお洞穴はかれになんらかの特殊な力を加えつづけているのだ。母馬が緊迫した状態にあるにもかかわらず、かれはそのことに意識を集中することができなかった。これから何が起ころうとしているのか見当もつかないが、とにかくこの洞穴を見つけたことはほんの出発点に過ぎないのだ、かれは不思議とそう確信していた。まだ他にもやらなければならないことがある、今こうしてぼんやりしているのはある意味ではそのための準備なのだと。
「どうにも言いにくいことなんだが」マンドラレンが神妙な声で言っているのが聞こえた。ガリオンはちらっとかれの顔を見た。「しかし、われわれのこの追跡が危機迫るものだということを考えると」騎士は言葉をつないだ。「己の大きな弱点を率直に白状しないことには。さもないと、いざ大きな危険にさらされたときに、この疵がわたしをひるませ、みんなの命を死の危機にさらしたまま、一目散に逃げ出すようなことが起こるかもしれない」
「考え過ぎじゃないのか」バラクが言った。
「いや、バラク卿。もっとじっくりと考えて、わたしが今後この冒険をつづけていくに相応しい男かどうかを判断してくれ」かれはそう言うと、よろいをギーギーきしませて立ち上がりかけた。
「おいおい、どこに行くつもりだ?」バラクが訊ねた。
「おぬしたちがこの件を気がねなく議論できるよう、席をはずそうと思ってな」
「まあ座れよ、マンドラレン」バラクは苛立たしそうに言った。「面と向かって言えないものを、おまえの背中で言えるわけがないだろう」
暖炉の側でヘターの膝に頭をのせながら横たわっていた母馬が、またもや岬くような声をあげた。「その薬はもう出来上がるんですか、ポルガラ?」ヘターは不安そうな声で訊ねた。
「まだ出来上がってはいないわ」彼女はそう答えると、セ・ネドラに向き直った。少女は乾燥した葉っぱを小さなカップに入れ、それをスプーンの背でそーっと磨り潰しているところだった。「もうすこし細かくしてちょうだい」彼女はセ・ネドラに指示を与えた。
ダーニクは母馬の両脇に足を踏ん張り、ふくれあがったお腹に手を当てていた。「これはひょっとすると、子馬を回転させないといけないぞ」かれは深刻な顔で言った。「逆さに出ようとしているような気がする」
「子馬が自力で動きはじめるまで、手を出しちゃだめよ」ポルおばさんは灰色っぽい粉の入った陶製の瓶をポンポンと叩き、沸騰しているポットにゆっくりと粉を振り入れながら言った。そしてセ・ネドラから葉っぱの入ったカップを受け取り、ポットを掻き混ぜながらそれも加えた。
「思うに、バラク卿」マンドラレンがまた言葉を継いだ。「おぬしはわたしの言ったことがどんなに重大な意味をはらんでいるか、よく理解していないのではあるまいか」
「ちゃんと聞いてるよ。一度だけ恐怖を感じたことがあったっていうんだろ。心配するようなことじゃないぞ、そんなことは。誰でも一度や二度は経験してることなんだから」
「そんな欠点を抱えて生きていけるものか。いつ意気地がなくなるともわからずに、常に心配しながら生きるなんて」
ダーニクが母馬から顔を上げた。「あなたはこわがることを恐れてるんですか?」かれは不思議そうに訊ねた。
「おぬしにはその気持ちはわかるまい」マンドラレンが言いかえした。
「胃がぎゅっと締め付けられるんでしょう。口がカラカラに乾いて、誰かに心臓を掴まれたような圧迫感があるんじゃありませんか?」
マンドラレンは目をしばたたいた。
「わたしもしょっちゅうそういう経験をしてるから、どんな感じがするかよくわかるんですよ」
「おぬしが? おぬしはわたしが今まで見てきた中でもとくに勇敢な男ではないか」
ダーニクは自嘲するように笑うと、「マンドラレン、わたしはただの男です。凡人というのは、常に何かを恐れているものですよ。知らなかったんですか? われわれは天気を恐れ、力あるひとを恐れ、夜を恐れ、暗闇を徘徊する怪物を恐れてるんです。年をとることも死んでいくこともこわい。時には生きていくことすらこわくなるんです。普通の人間というのは、心の休まる時がないんです」
「どうしてそんな苦しみに耐えられるのだ?」
「われわれに選択権がありますか? 恐怖は人生の一部なんですよ、マンドラレン。それがわれわれの人生なんです。あなたもじきに慣れますよ。毎朝チュニックを着るように恐怖を身につけていれば、そのうち気にもならなくなりますよ。時には笑いとばして忘れることもできます――たいして足しにはなりませんけどね」
「笑う?」
「笑うことで、おまえがそこにいるのはわかってるけど、とにかく先に進んでやるべきことをやらなければならないんだということを、恐怖そのものに知らせてやるんです」ダーニクは母馬のお腹をそっと揉んでいる自分の手を見下ろした。「ひとによっては怒鳴りちらしたり、神を冒涜するような言葉を吐く者もいますけど」かれはまた話をつづけた。「それも意味は同じだと思います。ひとは誰でも恐怖とつきあう自分なりの方法を見つけ出さなければならないんですよ。わたし個人としては、笑うほうが好きですね。なんとなく性に合ってるんですよ」
マンドラレンは物思いにふけっているような真剣な表情を浮かべてダーニクの言葉をゆっくり噛みしめた。「考慮の余地がありそうだ」かれは言った。「ひょっとすると、わたしはこの先おぬしの親切な教えに一生感謝するかもしれんぞ」
ふたたび母馬が地の底を引き裂くような呻き声をあげた。ダーニクはきりっと直立して袖をまくりはじめた。「ミストレス・ポル、子馬をひっくり返すときが来たようですよ」かれはきっぱりと言った。「急がないと子馬も母馬も失うことになりますよ」
「まずこれを飲まさせてちょうだい」彼女はそう言うと、ふつふつと沸騰しているポットを水で薄めた。「頭を押さえてて」彼女はヘターに言った。ヘターはうなずくと、苦しんでいる母馬の頭にしっかり腕を巻きつけた。「ガリオン」ポルおばさんは母馬の歯のあいだにスプーンで液体を流し込みながら言った。「あんたとセ・ネドラはシルクとおじいさんのいるところへ行ってたら?」
「ダーニク、子馬を返したことは前にもあるんですか?」ヘターが心配そうに訊ねた。
「子馬は初めてたが、子牛なら何度もありますよ。馬だって牛だって、実際はそんなに変わりはないんだ」
バラクがさっと立ち上がった。どことなく顔が青ざめている。「おれもガリオンや王女といっしょに向こうに行ってようかな」かれは低い声で言った。「ここにいてもどうせ役には立たないだろうし」
「わたしも一緒に行こう」今度はマンドラレンが言った。かれの顔も目に見えて青ざめている。
「われらが友人に産婆役をつとめるに十分な場所を提供しないと」
ポルおばさんは口もとに笑いを浮かべてふたりの戦士を見たが、言葉はかけなかった。
ガリオンたちはそそくさと退散した。
シルクとミスター・ウルフは巨大な石のテーブルの向こうに立ち、輝く壁にぽっかり開いたもうひとつの穴を覗き込んでいた。「こんな果物は今まで見たことがない」と、小男が言っている。
「もしあったとしたら、驚きだよ」ウルフが答えた。
「たった今もいできたような瑞々《みずみず》しさじゃないですか」シルクの手はほとんど無意識のうちにその瑞々しい果物のほうに伸びた。
「わしは知らんぞ」ウルフが警告した。
「どんな味がするんだろう」
「想像しているぶんには害もないが、食べたらどうなるか責任は持てんからな」
「好奇心が満たされないとどうも気分が悪くてね」
「いまに忘れるさ」ウルフはガリオンたちを振り返り、「馬はどうだ?」
「ダーニクは、子馬をひっくり返さないといけないって言ってます」バラクが答えた。「おれたちは邪魔にならないようにしたほうがいいと思って」
ウルフはうなずいた。「シルク!」次の瞬間、かれは振り向きもせずに鋭い声を浴びせた。
「すみません」シルクは手をうしろに引っ込めた。
「そこから退散したらどうだ? そのうちに痛い目を見るぞ」
シルクは肩をすくめて、「痛い目には慣れてますよ」
「言われたとおりにしろ、シルク」ウルフは容赦ない声で言った。「わしとて、四六時じゅうおまえを見張ってるわけにはいかんのだ」かれは、薄汚れて今ではもうボロボロになった腕の包帯に指を滑り込ませると、じれったそうに爪を立てた。「ガリオン、これをはずしてくれ」かれは腕を差し出した。
ガリオンはあとずさり、「ぼくに頼まないで。ポルおばさんの了解なしにそんなことをしたら、いったい何て言われると思う?」
「馬鹿を言うな。シルク、じゃあおまえがやれ」
「痛い目に合わないようにって言っておきながら、今度はポルガラに逆らえと言うんですか? ちょっと話が矛盾してますよ、ベルガラス」
「ああ、ここね」セ・ネドラはそう言うと老人の腕をとり、小さな指で包帯の結び目をつまみはじめた。「こうしろって言ったのはあなただってことを忘れないでよ。ガリオン、悪いけどナイフを貸してくれない」
あまり気が進まなかったが、ガリオンはとにかく短剣を手渡した。王女は包帯に切れ目を入れ、はがしはじめた。間もなく副木がカランと音をたてて床に落ちた。
「なんてやさしい娘だろう」ミスター・ウルフは彼女に微笑みかけたかと思うと、せいせいしたという様子でさっそく腕をかきはじめた。
「わたしに借りがあることを忘れないでね」彼女は念を押した。
「やっぱりトルネドラ人ですねえ」と、シルク。
それから一時間もたっただろうか、ポルおばさんがテーブルを回ってかれらのところにやってきた。そのまなざしには深い翳りがあった。
「母馬はどう?」セ・ネドラが真先に訊ねた。
「すごく弱ってるけど、心配はないと思うわ」
「赤ちゃんのほうは?」
ポルおばさんは溜息をつくと、「手遅れだったわ。手は尽くしたけど、息をさせることはできなかったの」
セ・ネドラはえっと息をのんだ。その顔が見るみるうちに蒼白になっていく。「まだあきらめたわけじゃないんでしょう?」彼女はほとんど責めるような口調で訊ねた。
「わたしたちにできることはもうないのよ、セ・ネドラ」ポルおばさんは淋しそうに言った。
「長すぎたのよ。子馬にはもう力が残っていなかったの」
セ・ネドラは信じられないという目で彼女を見た。「なんとかしてよ! あなたは魔術師なんでしょ。だったらなんとかしてよ!」
「ごめんなさい、セ・ネドラ。でも、それだけはどうにもならないのよ。その境界を破ることはできないの」
目から涙が一粒こぼれたかと思うと、幼い王女は声をあげて泣き出した。ポルおばさんは涙にくれる王女の肩をやさしく抱き抱えてやった。
そのころガリオンはすでに行動を開始していた。洞穴が自分に望んでいるのがいったい何なのか、今それが確然とした答えとなってかれの頭に浮かんでいた。走りもせず、あわてることすらなかったが、かれは無意識のうちにその期待に答えはじめていた。かれは石のテーブルを迂回して、ゆっくりと暖炉のほうに向かった。
ヘターは床の上にあぐらをかき、動かなくなった子馬をひざに抱えていた。たてがみのようなひと房の髪を細長い足をした小さな馬の静かな顔に垂らしながら、淋しそうにうなだれている。
「その馬をかして、ヘター」ガリオンは言った。
「ガリオン! やめて!」うしろから聞こえてくるポルおばさんの声は驚愕に震えていた。
ヘターは顔をあげた。タカを思わせるその顔には深い悲しみが刻まれていた。
「ヘター、ぼくにその馬をかして」ガリオンはおそろしく静かな声で繰り返した。
ヘターはぐったりした小さな体を持ち上げると、黙ってガリオンに差し出した。子馬の体はまだ濡れており、それが暖炉の明かりを受けて光っている。ガリオンはひざまずき、仄赤い光を発している暖炉の前に子馬を横たえた。それから、その小さな胸郭に両手を置くと、そっと押しはじめた。「息をしろ」かれは囁くような声で言った。
「ぼくたちもやってみたんだよ、ガリオン」ヘターは悲しそうに言った。「できる限りのことはしたんだ」
ガリオンは自分の意志を集めはじめた。
「よしなさい、ガリオン」ポルおばさんが厳しい口調で言った。「無理よ。そんなことをすれば自分が傷つくのよ」
ガリオンは聞いていなかった。洞穴そのものの声があまりに大きかったので、それ以外の音はいっさい耳に入らなかったのだ。彼は、亡骸となった子馬の濡れた体にいっさいの思考を注ぎ込んだ。それから右手を伸ばし、クルミ色をした汚れのない子馬の亡骸の肩に掌を置いた。かれは黒くて、たとえようもないほど高い壁が目の前にがらんと立ちはだかっているのを感じていた。その壁はかれの頭ではとうてい測ることのできない神秘と静寂に包まれている。とりあえず押してみたが、びくとも動く様子はない。かれは深く息を吸い込むと、今度は体じゅうの力を振りしぼってその壁を押した。
「生き返れ」かれは声に出して言った。
「ガリオン、やめなさい」
「生き返れ」漆黒の壁に向かってさらに全精力を傾けながら、かれは唱えた。
「もう手遅れだ、ポル」ミスター・ウルフがどこかでそう言っているのが聞こえた。「ガリオンはもう心を決めてしまったのだ」
「生き返れ」ガリオンはもう一度同じ言葉を繰り返した。と同時に体の中からうねりが湧きあがった。そのうねりの大きさと言ったら、かれ自身がすっかり溺れてしまうほどだった。赤く照らされた壁が一瞬チカチカッと光ったかと思うと、突然どこか山の奥底で鐘が叩かれたような音が響き渡った。音は小刻みに震撼し、ドーム型をした部屋の中は残響でいっぱいになった。赤く光っていた壁が、にわかにメラメラと燃えあがってくるような輝きを帯び、部屋の中はまるで真昼のような明るさになった。
と、そのとき、ガリオンの手の下にあった小さな体かブルブルッと震えたかと思うと、なんと子馬が息を吹き返したではないか。小枝のような脚がピクピク動きはじめると、みんながあっと息をのむ音が聞こえた。子馬はもう一度息を吸うと、ぱっちりと目を開けた。
「奇跡だ」マンドラレンは声をつまらせた。
「おそらく奇跡以上のものだ」ミスター・ウルフはガリオンの顔をじっと見つめながらつぶやいた。
子馬は首の付け根のところで頭をぐらつかせながら、四肢をバタバタさせている。やがて脚を体の下に持ってくると、ヨタヨタと立ち上がりはじめた。本能のなせる業だろう、子馬は母親のほうを向くとよちよちと歩み寄って、その体をなめた。ガリオンがふれるまでは深い茶色の無地だったその毛皮は、今では肩のところにガリオンの掌のあざと同じくらいの大きさの斑点がひとつ、白く輝いていた。
ガリオンはやっとのことで立ち上がると、仲間を押しのけるようにしてその場を離れた。おぼつかない足取りで、壁穴に泡立つ氷のような泉にたどりつくと、かれは頭と首にピシャピシャと水を浴びせた。かれは泉の前にひざまずいたまま小刻みに体を震わて、しばらくハーハーと息をきらしていた。が、やがて何かが肘のあたりをためらいがちにチョンチョンとつっ突くのを感じた。うんざりして頭をあげると、今では足元もだいぶしっかりした子馬が、潤《うる》んだ瞳に憧憬の色を浮かべつつ、かたわらにちょこんと立っていた。
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一夜あけると、嵐は自然におさまっていた。だが、母馬が体力を回復し、生まれたばかりの子馬がもうすこししっかりするように、かれらは風がやんだあと、もう一日洞穴に残ることにした。ガリオンは子馬の視線にすこしばかり戸惑っていた。洞穴のどこに行こうと、必ず柔らかいふたつの瞳が追ってくるのだ。しかも子馬はたえずかれに鼻をすり寄せてきた。他の馬たちもやはり無言の敬意を表しながらかれを見つめていた。だいたいのところ、それはたいそう落ち着かない感じのするものだった。
出発の朝、かれらは自分たちが洞穴にいたという痕跡を残さないよう、細心の注意を払った。その作業は、自発的に行なわれた。誰かの提案やみんなの相談によって始まったのではなく、無言のうちにみんなが黙々と仕事を開始したのだ。
「暖炉はまだ燃えていますよ」いよいよ洞穴を出ようというとき、ダーニクが入り口から赤々と光るドームを振り返って心配そうに言った。
「われわれが去ったあとで自然と消えるだろう」ウルフはかれに言った。「どっちにしても、おまえには消すことができない――どんなに頑張ったところで」
ダーニクは真面目な顔でうなずくと、「そうかもしれませんね」
「扉を閉めてちょうだい、ガリオン」洞穴の外の岩棚に馬を出し終わったところでポルおばさんが言った。
ガリオンはどことなくはにかんだ様子で巨大な鉄扉の縁をつかむと、外に引いた。バラクが満身の力を込めて引っ張ってもびくとも動かなかった扉が、ガリオンがちょっとふれたとたんいとも簡単に動きだした。一度軽く引くと、扉はそのままゆっくりと弧を描いて閉じはじめた。がっしりとした二枚の扉がゴーンという鈍い音をたてて合わさると、そのあとにはほとんど目に入らないようなかすかな線だけが残った。
ミスター・ウルフは錆孔のあいた鉄の表面に軽く手を置き、どこか遠くを見るような目をしていた。やがて一度だけ溜息をつくと、くるりときびすを返し、岩棚に沿って二日前に来た道を戻りはじめた。
山の肩を回り終えてしまうとかれらはふたたび馬にのり、ゴロゴロと転がる玉石やところどころにのぞくもろい氷の破片を踏みしめながら、峠より数ヤード下ったところにある最初のやぶと発育の悪いひょろひょろとした木立を目指した。風はまだ活発に吹いていたが、時おり手が届くかと思われるほど近いところを羊のような雲が大急ぎで飛んでいくほかは、空はおおむね抜けるような青さだった。
ガリオンはミスター・ウルフに追いつくと、わきに並んで馬を走らせた。洞穴で起こったことで頭がすっかり混乱しており、どうしても疑問をはっきりさせておきたかったのだ。「おじいさん」かれは声をかけた。
「なんだ、ガリオン?」まどろんでいた老人はハッとわれに返って答えた。
「なぜポルおばさんはぼくを止めたの? あの子馬のことだけどさ」
「危険だったからさ」と、ウルフ。「ひどく危険なことだったのだ」
「危険って、なぜ?」
「不可能なことを可能にしようとすれば、それだけ多くのエネルギーが必要になるのだ。もしそのままエネルギーを注ぎつづければ、死に至ることもある」
「死?」
ウルフはうなずいた。「すっかり力を使い尽くしてしまうと、最後には自分の心臓を鼓動させる元気すらなくなってしまうのだ」
「知らなかったよ」ガリオンはショックを受けて言った。
ウルフは身をかがめて低い枝をよけながら、「そりゃそうだろう」
「でも、おじいさんは不可能なことはないっていつも言ってるじゃない?」
「場合によりけりだよ、ガリオン。場合によりけりだ」
かれらはしばらく黙りこくって馬を走らせた。どうやらひづめの音も木立の床をおおう厚い苔の絨毯に吸い込まれているようだ。
「ぼくはこういうことについてもっと知っておいたほうがいいと思うんだ」ガリオンが沈黙を破ってポツリと言った。
「たしかにそうだな。それでおまえはいったい何を知りたかったんだ?」
「たぶん全部だと思うよ」
ミスター・ウルフは笑い声をあげた。「それにはかなり時間がかかるぞ」
ガリオンはかれの言葉に意気消沈して、「そんなにむずかしいことなの?」
「いや、実を言えばしごく簡単なことだ。だが、簡単なことほど説明しがたいというのが世の常でな」
「なにを言ってるんだか、さっぱりわからないよ」ガリオンはすこしいらいらして言った。
「そうか?」ウルフは面白そうにかれの顔を見た。「じゃあひとつ簡単な質問をしてみようか。二たす二はいくつだ?」
「四だよ」ガリオンは即座に箸えた。
「なぜだ?」
ガリオンは一瞬顔をしかめ、しどろもどろに答えた。「なぜって、四だからだよ」
「でも理由があるだろう?」
「理由なんかないよ。二たす二は四なんだよ」
「何事であれ理由があるものだぞ、ガリオン」
「わかったよ、じゃあなぜ二たす二は四なの?」
「知らん」ウルフは言った。「おまえなら知ってると思ったんだが」
一行は枯木となった一本の切り株の横を通りすぎた。木肌の白さが紺碧の空にくっきりと映えている。
「ねえ、これじゃ何の解決にもならないんじゃない?」ガリオンはさっきよりさらに混乱して訊ねた。
「じっさいはかなりいい線まで行ってると思うがな。さあはっきり言ってみろ、おまえは何を聞きたかったんだ?」
ガリオンはその言葉が見つかるとすぐに口に出した。「魔術って何なの?」
「それは前にも説明しただろう。〈意志〉と〈言葉〉だ」
「それだけじゃ何のことだかわからないよ」
「よしわかった、じゃこういうふうに考えよう。魔術というのは何かをするさいに手ではなく、魂を使ってすることをいう。ほとんどの人間は手を使うほうを取るだろう。そのほうがずっと簡単だからだ」
ガリオンは顔をしかめた。「それほどむずかしいことじゃないけどね」
「それはおまえがいままでやってきたことがすべて衝動に駆られてやったことだったからだ。じっくり腰を落ち着けて、何かを通して自分の方法を考えるということを決してしなかった――おまえのはただやった≠セけだ」
「そのほうがてっとり早いんじゃない? つまりさ、考えたりしないで行動しちゃったほうが」
「なぜわしがそんなことを言うかというと、衝動で行なう魔術は三流の奇術でしかないからだ――秩序というものがまったくないのだ。たしかにおまえが力を解き放てば、できないことはないだろう。だが、魔術そのものには道徳感などありはしない。善悪の区別はおまえがするのであって、魔術がするわけではない」
「アシャラクを燃やしたのは、あれは魔術じゃなくてぼくだって言うの?」ガリオンはその考えに胸が悪くなるのを覚えた。
ウルフは厳めしい顔でうなずくと、「でも、子馬に命を吹き込んだのもおまえだぞ。そう思うと少しは気が楽になるだろう。言ってみれば、アシャラクのことも子馬のことも表裏一体なのだ」
ガリオンは肩ごしに子馬を振り返った。子馬は彼のすぐうしろで子犬のように跳ねまわっている。「魔術は良くも悪くもなりうるっていうこと?」
「いや、そうじゃない。魔術自体には良いも悪いもない。魔術をどう使うかをおまえに決定させるのは魔術ではないのだ。たしかに、やろうと思えばおまえは魔術を使ってどんなことでも――いや、ほとんどどんなことでも――することができる。お望みとあらば、山脈の頭をことごとく平らにすることもできるし、木を逆さに植えたり、すべての雲を緑色にしてしまうことも可能だ。だが、おまえが判断しなければならないのは、それをするべきかどうか、ということだ。できるかどうか、ではない」
「ほとんどすべてのこと≠チて言ったよね?」ガリオンは間髪を入れずに言った。
「今それを言おうと思ってたところだ」ウルフはそう言ったかと思うと、低く飛ぶ雲を物思わしげな顔でながめた――その様子はどう見ても、色あせたチュニックに灰色の頭巾をかぶったふつうの老人が空を見つめているようにしか見えなかった。「これだけは絶対にしてはいけないということがひとつだけある。それは物を抹消することだ――それだけは絶対にしてはならん」
ガリオンはそれを聞いて顔色を失った。「ぼくはアシャラクを消したよね?」
「いや、あれは殺したのだ。消すのと殺すのではわけがちがう。おまえがかれに火を放ち、その結果かれは焼け死んだ。何かを抹消するというのは、その存在そのものを消してしまうということだ。それだけは禁じられているのだ」
「もしやったらどうなってたの?」
「力がそのままおまえの内部に跳ね返り、一瞬のうちにおまえの体は消えてなくなっただろう」
ガリオンはパチパチと目をしばたたいた。アシャラクと遭遇したさい、自分がもう少しでその禁断のラインを越えようとしていたことを思い、急に背筋が寒くなるのを感じた。「その違いはどこにあるの?」かれはかすれた声で訊ねた。「つまり、抹消するつもりじゃなくてただ殺すつもりだってっていうのは、どうやって説明すればいいわけ?」
「そればかりは実験するわけにもいかんしな」ウルフは言った。「もしほんとうに誰かを殺したいと思ったら、そいつの胸に剣を突き立てることだ。まあ、そういう機会はこれからもそんなには来ないだろうが」
やがてかれらは、馬に水を与えるために、苔むした岩の合間からちょろちょろと水が流れているところで足を止めた。
「なあ、ガリオン」ウルフはさらに言葉をつづけた。「世界の目的は突きつめれば、創造することなのだ。たいへんな困難の中で造られたものを、おまえがそのあとからどんどん消し去っていくことは許されない。もしおまえが誰かを殺したとしても、じっさいはそいつの形を少しばかり変えたにすぎない。生きているという状態から死んでいるという状態に変えるのだ。存在そのものはなくならない。それがもし抹消するということになれば、そいつの存在そのものを消し去らなければならないのだ。失せろ≠ニかなくなれ≠ニか消えろ≠ニいうような言葉が口から出そうになった瞬間、おまえは自分自身を抹消しかけているのだ。常に気持ちをコントロールしておかなければいけないというのは、こういうことがあるからだ」
「知らなかったよ」ガリオンは素直に言った。
「今ならもうわかるだろう。小石ひとつでも消すことはならんぞ」
「小石も?」
「宇宙という大きな存在から見れば、小石も人間も変わりはないのだ」老人は厳しい顔をしてかれを見すえたかと思うと、「おばさんはここ数ヵ月、なんとかしておまえに気持ちをコントロールすることの意味を説明しようとしてきた。だが、おまえはそのたびに逆らってきたな」
ガリオンはうなだれた。「そんなことを言おうとしてるなんて思わなかったんだよ」
「それはおまえが聞く耳を持たなかったからじゃないか。おまえの悪い癖だぞ、ガリオン」
ガリオンは頬を赤らめ、「おじいさんが――その――何かをできることに気づいたきっかけは何だったの?」かれは話題を変えたくて、取ってつけたように訊ねた。
「たわいないことさ。まあ、物事の最初っていうのはがいしてそういうものだが」
「どんなことが起こったの?」
ウルフは肩をすくめ、「大きな岩を動かしたかったのだ。だが、わしの腕や背中はそれほど強くなかった。ところが、気持ちは強かったんだな。その事件のあとは、とにかくその力とともに生きるしか道はなかった。なぜなら、いったん解き放ってしまったが最後、それを元に戻すことはできないからだ。おまえの人生が変わり、自分をコントロールすることを学ばなければいけなくなったというのも、この問題があるからだ」
「最後にはいつもそこに戻るんだね」
「そうだ。じっさいは言葉で言うほど難しいことではないがな。マンドラレンを見てみろ」かれはダーニクと肩を並べている騎士を指差した。ふたりは何やら真剣に話し込んでいる。「どうだ、マンドラレンはすごくいいやつだろう――正直で誠実で、非常に礼儀正しい――だが、隠さずに言おう。かれの心はこれまでほんとうの意味で考えるということをしたことがなかった――今の今までだ。だが今かれは恐怖をコントロールすることを学ぼうとしている。コントロールの方法を学ぶには、どうしても頭を使わなければならない――おそらくかれにとっては生まれてはじめての経験だ。苦痛もあるだろうに、とにかくやろうとしている。マンドラレンがあの乏しい頭で恐怖をコントロールする法を学べるなら、おまえだってきっと自分の気持ちをコントロールする法を学べるだろう。なんといっても、マンドラレンよりはおまえのほうが数段頭の回転が速いんだからな」
そのとき前方の偵察に当たっていたシルクが引き返してきて、ふたりに合流した。「ベルガラス、約一マイル先に何かがあるんですけど、見ておいたほうがいいんじゃないかと思って」
「わかった」ウルフは答えた。「ガリオン、わしの言ったことをよく考えておけ。またあとでゆっくり話そう」それだけ言い残すと、かれとシルクは木立の合間を速足で走り去っていった。
ガリオンは老人の言ったことをもう一度じっくり考えてみた。かれを一番困惑させたのは、望んでもいない例の力の責任がじつは自分の肩に大きくのしかかっているという事実だった。
子馬はそんなことも知らずに、ガリオンのそばで跳ねまわっている。時おり森の中に突進していったかと思うと、やがて小さなひづめで湿った地面をパタパタと踏み鳴らしながらすごい勢いで戻ってくる。そして、ちょくちょく立ち止まっては、愛情と信頼の入り混じったまなざしでガリオンを見つめるのだ。
「おい、やめてくれよ」ガリオンは子馬に言った。
子馬はまたどこかに走り去っていった。
セ・ネドラ王女が歩を速めてきて、ついにガリオンに並んだ。「ベルガラスと何を話してたの?」彼女は訊ねた。
ガリオンは肩をすくめ、「何って、いろんなことさ」
それを聞いたとたん、彼女はキッと目を見張った。彼女と知り合って数ヵ月、ガリオンも今ではこういうちょっとした危険信号を見逃さないようになっていた。何かがかれに、王女は話がしたくてたまらないのだ、と耳打ちした。と同時に、自分自身も驚くような洞察力で、かれは王女の喧嘩腰な態度の原因をつきとめた。おそらく洞穴で起こった出来事が彼女をひどく脅かしたのだ。セ・ネドラは怯えることが大嫌いだ。さらに悪いことに、王女は何回か優しい言葉をかけて子馬を誘っていた。彼女がこの小さな動物を自分だけのペットにしたがっているのは間違いない。だが、子馬は彼女を完璧に無視して常にぼくだけを見ている。お腹が空いていなければ、自分の母親さえ眼中に入らないぐらいだ。セ・ネドラは怯えることより無視されることのほうがもっと嫌いだ。お定まりの口喧嘩を避けることはほとんど不可能だと思い、ガリオンは気が重くなった。
「あら、べつに他人の内緒話を詮索するつもりはなかったのよ」彼女の言葉には刺があった。
「内緒の話なんかじゃないよ。魔術の話と、どうしたら事故を防げるかっていう話をしてただけさ。もうこれ以上間違いを犯したくないからね」
彼女は、かれの言葉の中に少しでも攻撃的なところがないかどうかよく考えてみた。かれの柔らかい答えがいっそう神経を苛立たせたのだろう、彼女はにべもなく、「魔術なんか信じないわよ」と言った。だが、ほんの少し前に実際に起こったことを考えてみれば、その宣言がいかに理にあわないことか、彼女は口に出してしまったとたん気づいたようだった。彼女の目付きはさらにきつくなった。
ガリオンは溜息をつくと、諦めたように、「ああ、わかったよ」と言った。「何か気に食わないことでもあるわけ? それともただ泣きわめいてまた道々仲なおりしたいだけなの?」
「泣きわめくですって?」彼女の声は急に数オクターブも高くなった。「泣きわめく?」
「何なら金切り声≠ナもいいよ」かれは最大限の侮辱をこめて言った。喧嘩を避けることができないのなら、彼女の声が大きくなってひとの声など耳に入らなくなってしまわないうちに二つ三つあてこすりを言ってやったほうがいい、かれはそう決心したのだ。
「金切り声ですって?」彼女は文字通り金切り声をあげた。
口論は、バラクとポルおばさんが前進してきてふたりをバラバラにするまで、延々二十五分ほどもつづいた。思い返してみると、あまり満足のいく喧嘩ではなかった。ガリオンは頭にひっかかることがあって思う存分悪口を浴びせることができなかったし、セ・ネドラはセ・ネドラで苛立ちのあまり、反撃にいつもの切れ味がなかった。口論も最後のほうになると、ませガキ≠ニかバカ百姓≠ニかいう退屈な悪口が繰り返されるだけとなり、その声があたりの山山に際限なくこだましていた。
しばらくするとミスター・ウルフとシルクが戻ってきた。「あの叫び声はいったい何だったんだ?」ウルフがさっそく訊ねた。
「子供のおふざけですよ」ポルおばさんはガリオンをきつく睨みながら答えた。
「ヘターはどこだい?」シルクが訊ねた。
「すぐ後ろにいるよ」バラクはそう言って荷馬のほうを振り返った。だが、長身のアルガーの青年はどこにも見当たらなかった。「すぐそこにいたのに。たぶん馬を休ませるか何かするために止まってるんだろう」
「何も言わずに?」と、シルク。「かれらしくないな。それに、荷馬をほったらかしておくのも、かれらしくないぞ」
「何かわけがあるはずですよ」ダーニクがヘターの肩を持って言った。
「戻って見てこよう」バラクが言った。
「だめだ」ミスター・ウルフはかれを制した。「もう少し待て。こんな山の中でバラバラになるのはまずい。誰かが引き返すときは、全員が一緒に行かないと」
かれらはその場で待った。風が松の枝をかきまわし、呻きとも溜息ともつかないような音をたてている。二、三分たっただろうか、ポルおばさんが急にフーッと息をもらした。
「来たわ」鋼のように冷たい声だった。「どうやらお楽しみだったようね」
はるか後ろに、黒いなめし革の服に身を包み、頭皮に残した長い髪の房を風になびかせながら、はずむような駆け足で馬を走らせるヘターの姿が見えてきた。鞍を着けているが乗り手のいない二頭の馬を連れている。こちらに近づいてくるにつれ、みんなの耳にメロディーにならないようなかれの口笛の音が聞こえてきた。
「いったい何をやってたんだ?」まずバラクが訊ねた。
「マーゴ人がふたり、ぼくらの後をつけてたんですよ」ヘターはいかにもそれが理由だという口振りで言った。
「それならそうと言ってくれれば、おれたちも一緒に行ったのに」バラクはいささか傷ついた声で言った。
「たったの二人だったし。それにアルガーの馬に乗ってたんで、ぼくがやらなきゃと思ったんです」
「マーゴ人がからむと、あなたは必ず何か理由をつけて自分がやらなきゃと思ってしまうようね」ポルおばさんが辛辣に言った。
「そのほうがうまくいくと思いませんか?」
「ひとこと言っていくことぐらい思いつかなかったの?」
「たったの二人でしたから」ヘターは同じ言葉を繰り返した。「そんなに長くはかからないと思ったんです」
彼女は大きく息を吸い込んだかと思うと、目を険しく光らせた。
「もう言うな、ポル」ミスター・ウルフは彼女を諭した。
「でも――」
「そんなことを言ってもかれが変わるわけじゃないんだ。だったらなぜそんなにむきになる? そんなことをすればこの追跡に水を差すだけだぞ」老人はポルおばさんの睨みつけるような視線を無視してヘターに向き直った。「そいつらはブリルと一緒にいたマーゴ人じゃなかったか?」
ヘターは頭を振ると、「いいえ。ブリルの手下は南から来たマーゴ人だったし、マーゴの馬に乗ってました。そのふたりは北部マーゴ人です」
「はっきりとした違いがあるのか?」マンドラレンが不思議そうに訊ねた。
「よろいがわずかに違うし、南部マーゴ人はもっと顔がのっぺりしていてそれほど背が高くないんですよ」
「どこでアルガーの馬を手に入れたんだろう?」ガリオンが口をはさんだ。
「あいつらは牧場荒らしさ」ヘターは恐い顔をして答えた。「アルガーの馬は、クトル・マーゴスではすごく珍重されているんだ。一部のマーゴ人は馬泥棒の遠征と称して、ちょくちょくアルガリアに忍び込んでいる。できる限り阻止してはいるんだが」
「この馬はあまり調子がよくないようだな」ヘターの連れてきた二頭のぐったりした馬を見てダーニクが言った。「だいぶ乱暴に乗られたんだろう、鞭の傷がいっぱいだ」
ヘターは厳しい顔でうなずくと、「だからマーゴ人は嫌いなんだ」
「死体は埋めてきたのか?」バラクが訊ねた。
「いいえ。後から来るマーゴ人の目に入るようなところに残してきました。みせしめになると思って」
「まだ他にもここを通った者があるらしいんだ」と、シルクが言った。「この先に十二かそこらの足跡がある」
「予想しようと思えばできることだったな」ミスター・ウルフはあごひげを引っ張りながら言った。「クトゥーチクがすでにグロリムたちを大挙動員させた。タウル・ウルガスもたぶんこの辺りを偵察させるだろう。やつらはできることならわれわれを抑えたいと思っているはずだ。われわれとしては、とにかくできるだけ早く〈谷〉に入り込むことだ。〈谷〉に入ってしまえば、もう心配はいらない」
「やつらは〈谷〉まで追ってくるんじゃないですか?」ダーニクは心配そうにあたりを見ながら訊ねた。
「いや。マーゴ人は〈谷〉には入らん――たとえどんな理由があっても。〈谷〉にはアルダーの魂がある。マーゴ人はかれを死ぬほど恐れているのだ」
「〈谷〉まであとどのくらいなんです?」シルクが訊ねた。
「四日か五日ってとこだな」
「じゃあもう出発しないと」
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10[#「10」は縦中横]
山の上のほうでは冬のただなかを思わせた厳しい気候も、頂上を離れ尾根を下るにつれて穏やかになり、秋の気配を取り戻しはじめた。マラゴー側の丘陵地帯に広がる森には、モミの木や檜が立ち並び、下生えもうっそうとしていたのに、山を越えたこちら側は、松の木が主で下生えはほとんどなかった。空気はカラッとして、丘陵の斜面には背の高い黄色の草が一面になびいている。
最初のうちはところどころに点在するやぶの葉っぱも赤かったのに、それが下のほうへ行くにしたがってまず黄色に変わり、やがて緑色に戻った。ガリオンはこの季節の逆戻りに何か居心地の悪いものを感じていた。自然の秩序に対する考えを根底から覆されるような気がしたのだ。〈アルダー谷〉を見下ろす前山の丘陵地帯に達するころには、季節はふたたび夏の終わりを迎えていた。日差しは金色に輝き、大気はほこりっぽい匂いがする。マーゴ人の偵察隊がこの地方を交差した形跡は随所に見られたが、姿を見かけることはもうなかった。そして、ある時点を境に、マーゴの馬の足跡もぱったりと見えなくなった。
かれらは荒れ狂う小川に沿って下降していた。川の水はなめらかな丸い石の上をゴーゴーと泡立ちながら流れている。どうやらその小川は〈アルダー川〉の源流を成している川のひとつらしかった。〈アルダー川〉というのは、広大なアルガリアの大草原を北西に横切ってチェレク湾に注ぐ、八百リーグの大河だ。
〈アルダー谷〉は、大陸の尾根を成す二つの山脈に抱かれるようにして横たわる谷間だった。丈の高い草におおわれた地面はどこまでも青々としており、その合間に時おり大きな木がぽつんと立っている。鹿や野性の馬がそこここで草を食んでいるが、どれも子牛のようにおとなしい。空にはくるくる旋回したり急降下するヒバリの姿があり、あたりにその歌声が響きわたっている。谷間に乗り出していくうちに、ガリオンは、ポルおばさんがどこに動こうと必ず鳥がその近くに集まっていくことに気づいた。少しでも勇敢な鳥になると、それだけではすまずにポルおばさんの肩にまで止まっていく。そして、歓迎と愛情のこもった声で彼女に歌いかけるのだ。
「言い忘れてたが」ミスター・ウルフがガリオンに声をかけた。「これから二、三日の間は、ポルおばさんの気を引くのはかなりむずかしいぞ」
「えっ?」
「谷じゅうの鳥が彼女の顔を見にくるのだ。ここに来ると決まってこうだ。鳥は彼女の顔を見ると、すっかり興奮してしまう」
やがてピーチクパーチクとさえずる鳥たちの喧騒の中で、ガリオンはかすかな、ほとんど囁くようなさえずりが、「ポルガラ、ポルガラ、ポルガラ」と繰り返しているのを聞いたような気がした。
「ぼくの思い過ごしかな、それともほんとうにそう言ってるのかな?」かれは疑問を声に出してみた。
「今まで聞こえなかったとは驚きだな」ウルフは意外そうに言った。「ここ十リーグというもの、鳥は彼女の名をしきりにさえずりつづけてるのに」
「ぼくを見て、ポルガラ、ぼくを見て」一羽のツバメがそうさえずったように聞こえた。と同時にその鳥は、彼女の頭のあたりで急降下している集団の中にその身を投じた。そして彼女がにっこりと微笑みかけると、ツバメはいっそう張り切って急降下して見せるのだった。
「鳥がしゃべるのを聞くなんて初めてだよ」ガリオンは目を輝かせて言った。
「いつだって彼女に話しかけてるじゃないか。時には何時間も話しつづけることだってあるぞ。彼女が時々ぼんやりしているように見えるのは、それが原因だ。鳥の声に耳を傾けているのだよ。言ってみれば、おまえのおばさんは世界じゅうどこに行こうと、いつも鳥の話し声に包まれているわけだ」
「知らなかったよ」
「知っている人間はそう多くはないだろうな」
子馬は、丘陵地帯を抜けるまではガリオンのうしろで慎重に歩いていたが、〈谷〉の青々とした草原に出たとたん、狂ったようにはしゃぎはじめた。目にも留まらぬ速さで草むらに飛び出していったかと思うと、小枝のような脚を振り回しながら、草の上を転げまわっている。かと思えば、今度は草の波立つ低い丘の上を全力で走りながら、青い草の上に長いカーブの跡を残していく。草を食んでいる鹿の群れにわざと飛びかかっていっては、驚いて逃げまどう鹿のあとについて自分も勢いよく走っていく。「戻ってこい!」ガリオンはとうとう大声をあげた。
「聞こえやしないよ」ヘターは子馬のおどけぶりに微笑んだ。「たとえ聞こえても聞こえない振りをするさ。うれしくて仕方がないんだろう」
「早く戻ってこい!」ガリオンは自分でも驚くほど厳しい声をあげた。その瞬間、子馬の前脚はビクッと硬直し、ズズーッと滑って止まった。すぐに向きを変えると、申し訳なさそうな目をして、おずおずとガリオンのところに駆け戻ってきた。「悪いヤツだ!」ガリオンは子馬を叱りつけた。
子馬はしょぼんと頭を垂れた。
「まあ、そう叱るな」ウルフが言った。「おまえだってやんちゃな時があったんだから」
そう言われると急に悪いことをしたような気になって、ガリオンは手を伸ばし、子馬の肩をポンポンと叩いた。「気にしなくていいんだよ」かれは子馬に言った。子馬は感謝に満ちたまなざしでかれを見ると、ふたたび草の中を飛びまわった。が、今度はあまり遠くに行こうとはしなかった。
セ・ネドラ王女は先ほどからずっとかれを見ていた。かれは、なぜかしら常に彼女に見張られているような気がしていた。何か思惑のありそうな目をして、銅色の巻き毛を指に巻きつけ、それを何気なく口許に持っていっては、常にこちらを見ている。振り向いてみて、髪をかじる彼女と視線が合わなかったためしがない。なぜなのかはっきりとは言えないが、それはガリオンをたいそう落ち着かない気分にさせるのだった。「あたしだったら、あんなに残酷なことは言わないわ」彼女は歯の隙間から巻き毛の先を引っ張りながら、とがめるように言った。
ガリオンはそれにはあえて答えなかった。
谷間を突き進むうちに、かれらは朽ち果てた三つの塔のわきを通り過ぎた。かなり距離を隔てて立っているのだが、古色がにじみ出ているという点では三つとも同じだ。どれももともとは六十フィートほどの高さを誇っていたのだろうが、風雨や時の流れに少しずつ蝕まれ、今は見る影もない。一番最後に現われた塔は、よほど激しい炎にあぶられたのだろうか、真っ黒に煤けていた。
「ここで戦争か何かあったの、おじいさん?」
「いや」ウルフの声はどことなく寂しげだった。「これらはわしの兄弟の塔だったのだ。あれはベルサンバーの塔、そこに見えているのはベルマコーの塔だ。二人ともとうの昔に死んでしまったがな」
「魔術師でも死ぬことがあるんだね」
「疲れ果ててしまったんだろう――いや、希望を失ったのかもしれん。とにかく、もう生きていたくなかったのさ」
「自殺したの?」
「言葉にするとそうなるな。じっさいはそれほど生易しいものではなかったが」
老人がそれ以上詳しいことは話したくないという様子だったので、ガリオンはそのことに関してはもう聞かなかった。「あの塔はどうなの――あの焼け跡のある塔は? 誰の塔だったの?」
「ベルゼダーだ」
「かれがトラクに寝返ったあとで、おじいさんや仲間の魔術師が燃やしたの?」
「いや。あいつが自分で燃やしたのだ。そうすることによって、自分がもうわしらの兄弟ではないことを示そうとしたんだろう。ベルゼダーは常に大袈裟なことをするのが好きな男だった」
「おじいさんの塔はどこ?」
「〈谷〉をずっと行ったところだ」
「見せてくれるでしょ?」
「おまえがそう言うなら」
「ポルおばさんも自分の塔を持ってるの?」
「いや。おばさんは大きくなるまではわしの塔で暮らしていたんだが、その後は外の世界に出たからな。塔を造ってる暇などなかったのだ」
かれらは午後おそくまで前進をつづけたが、やがて広大な草原の真ん中にぽつんと立っている巨大な木の下で馬を止めた。その木は文字通りあたり一面をおおっていた。セ・ネドラはいきなり鞍から飛び降りると、茜色の髪をうしろになびかせながらその木に駆け寄っていった。
「なんて素敵な木かしら!」彼女はさも愛しそうに木肌に手をふれ、声をあげた。
ミスター・ウルフは頭を振ると、「ドリュアドはこれだからな。木を見ると見境がなくなる」
「これは何の木でしょうね」ダーニクがすこし顔をしかめた。「樫ではないようだし」
「たぶん南に生える木の一種だろう」バラクが言った。「おれもこれとまったく同じ木というのは見たことがないな」
「この木はずいぶんおじいさんね」セ・ネドラは幹に頬をすり寄せながら言った。「話し方も変わってるわ――でも、わたしのことは気に入ってるみたい」
「これはいったい何の木なんです?」ダーニクが聞いた。木の種類が分からないのがどうも不満らしく、彼はまだ顔をしかめている。
「この木は世界じゅうに一本しかないのだ」ミスター・ウルフはかれに説明した。「名前をつけた覚えはないな。ただの木≠ナ通っていたから。昔はよくみんなでここに集まったものだ」
「木の実や果物もないし、種も落としてないようですね」大きく広げた枝の下を調べながらダーニクが言った。
「そんなものは必要ない。今言ったように、これはたった一種類しかない木なのだ。昔からずっとここにいたし、これからもずっといつづけるだろう。だから、繁殖する必要はないのだ」
ダーニクはその考えに戸惑っているようだった。「種のない木なんて聞いたことないですよ」
「ダーニク、これは普通の木とは違うのよ」今度はポルおばさんが言った。「この木は世界が造られたと同時に生まれたの。世界のつづく限り、この木もここに立ちつづけるのよ。繁殖よりもっと大きな存在理由がこの木にはあるの」
「存在理由って、どんな?」
「わしらにもわからんのだ。ただわかってるのは、この木が世界じゅうで最も古い生き物だということだ。あるいは、それが存在理由かもしれん。ここにいて世界の存続を具現することが」
セ・ネドラはすでに靴を脱ぎ、優しい言葉をかけたり歓喜の声をあげたりしながら太い枝によじのぼっている。
「もしかして、ドリュアドの先祖っていうのはリスと何か繋がりがあるんじゃないかな?」と、シルク。
ミスター・ウルフはクスッと笑うと、「もし差し支えなければ、ガリオンとわしはちょっと席をはずしたいんだが」
ポルおばさんは物問いたげな視線を向けた。
「そろそろ指導をしてやらんとな、ポル」かれは説明した。
「あとは大丈夫よ、おとうさん」彼女は請け合った。「夕食までには戻る?」
「わしらの分は温めておいてくれ。じゃあ行くか、ガリオン?」
金色に輝く午後の日差しが〈谷〉ぜんたいを暖かな色に染めあげているなか、ふたりは馬に乗って青々と茂る草原を横切っていった。ガリオンは、ミスター・ウルフの雰囲気が妙に変化したことに少し戸惑いを覚えていた。今までは、老人は常に即興話のような雰囲気に包まれていた。運と自分の機知だけを頼りに、時には自分を見つめることもあるが、とにかくその場その場で自分の人生をつくりあげていくのがかれだった。ところが、この〈谷〉に足を踏み入れたとたん、にわかに落ち着きを得て、外の世界で起こっている種々雑多の出来事にはいっさい興味がないという顔をしはじめたのだ。
先ほどの木から二マイルほど離れたころ、別の塔があらわれた。ずんぐりと丸みを帯びた形で、粗い石からできている。てっぺんのあたりに四方を向いたアーチ型の窓があるものの、ドアはどこにも見当たらない。
「わしの塔が見たいと言っただろう」ウルフは馬をおりながら言った。「これがそうだ」
「他の塔みたいに壊れてないんだね」
「時たま手入れをしてるからな。どうだ、上ってみるか?」
ガリオンは馬からすべりおりると、「入り口はどこにあるの?」
「そこだ」ウルフは丸い壁面に埋まった一枚の岩を指して言った。
ガリオンはいぶかしそうな顔をした。
ミスター・ウルフはその岩の前まで歩いていくと、「わしだ、開け」と言った。
老人の言葉に呼応するかのように、ガリオンの中でいつもの――もう当たり前になっている――うねりが起こった。身近にすら感じられるそのうねりは、やはりいつもと同じ感覚を呼び起こしたが、度重なる経験に、ガリオンももうそれほど驚かなくなっていた。命令が聞こえたかのように岩が返ると、その中に狭くて不規則なかたちの廊下がうかがえた。ガリオンについてくるよう合図し、ウルフはドアの間に体を押し込むようにして奥の薄暗い部屋に入っていった。
いざ入ってみると、塔の中はガリオンの想像していたような空洞ではなく、上に通じるらせん階段の部分が抜けている他はいっさい隙間のない、大きな台座のようなものだった。
「ついて来い」ウルフはそう言って、擦り減った階段を一段一段のぼりはじめた。「そこは気をつけろ」半分ほどのぼったあたりの一段を指してかれは言った。「石がぐらついてるぞ」
「どうして直さないの?」ガリオンはぐらぐらした石をまたぎながら訊ねた。
「ずっと前からやろうとは思ってたんだが、暇がなかった。長いこと放っておいたから、いつの間にか慣れてしまって、今ではここに来ても直そうなんて気は起こらなくなってしまったのだ」
塔のてっぺんにある部屋は丸い形をしており、散らかり放題だった。何もかもが厚い埃の層におおわれている。部屋のあらゆる所にテーブルが居座っており、その上には羊皮紙の巻物や切れ端、奇妙な形をした器具や模型、石やガラスのかけら、それに鳥の巣がふたつ、隙間もなくひしめきあっていた。巣の片方には珍しい棒きれが載っていたが、あまりに複雑に曲がったり、くねったり、巻きついたりしているので、ガリオンにはその棒の構造を最後まで目で追うことができなかった。かれは棒を手に取り、ためつすがめつして、なんとか突き止めようと努力した。「これは何なの、おじいさん?」かれはついに訊ねた。
「それか。それはポルガラの玩具だ」老人は埃だらけの部屋を見回しながら、ぼんやりと答えた。
「何をするものなの?」
「彼女がまだ赤ん坊だったとき、静かにさせておくために使ったのだ。それは端がひとつしかない。おばさんはそれを突き止めるのに五年かかった」
ガリオンは、人の気を引く不思議な魅力を持ったその木の切れ端から目をそらした。「子供にこんなものを与えるなんて残酷だよ」
「止むを得なかったのさ。ポルガラは子供のくせに耳をつんざくような声を出しおった。ベルダランはおとなしくて穏やかな子供だったが、おまえのおばさんは常に欲求不満を抱えているようだった」
「ベルダラン?」
「おまえのおばさんの双子の妹だ」声がしだいに小さくなっていったかと思うと、老人はしばらくのあいだ寂しそうな目で窓の外を眺めた。やがて溜息をつくとふたたび部屋を振り返った。
「ここも少し掃除せんといかんな」かれは埃とゴミの山を見回しながら言った。
「ぼくにも手伝わせて」
「どれひとつとして壊さないよう注意するんだぞ。中には、作るのに何世紀もかかった物もあるんだからな」かれは部屋の中をウロウロと移動しはじめた。何かを拾い上げてはまた元に戻し、時々フーッと息を吹きかけてはそこに積もった埃を少しだけ払った。だが、結局は無駄な努力をしているように思われた。
やがてかれは、背に横木のついた低くて素朴な椅子を眺めたまま動かなくなった。その横木はまるで険しいかぎ爪につかまれつづけてきたかのように、傷や裂け目が入っていた。かれはふたたび溜息をもらした。
「どうかしたの?」ガリオンは訊ねた。
「ポレドラの椅子」と、ウルフは言った。「――わしの妻だ。彼女はよくここに留まってはわしを眺めていたものだ――時には何年間もそうやってわしを見ていた」
「留まる?」
「彼女はふくろうの姿が好きだったのだ」
「ああ、そういうことか」ポルおばさんや双子の妹が彼の娘だということは、もちろんかれが過去のどこかで結婚していたということにちがいないのだが、ガリオンはどういうわけかかれが結婚していたという事実をこれまで一度も考えたことがなかった。とはいえ、かれの今は亡き奥さんがふくろうを好きだったということを思えば、ポルおばさんが好んでふくろうの姿に変身することにもうなずける。ポレドラとベルダランというふたりの女性がじつは自分の背景ともかなり親密につながっているということはわかったが、ガリオンは不合理と知りつつ彼女たちを恨んだ。彼女たちは過去のある時点でおばさんやおじいさんと人生を共有していたのだ。それはかれには共有のできない――けっして経験することのできない時間なのだ。
老人は羊皮紙をどかし、一方の端にのぞきガラスをはめ込んだ奇妙な形の装置を手に取った。
「てっきりなくなったと思ってたぞ」かれはその装置を懐かしそうに撫でながら、話しかけた。
「ずっとこの羊皮紙の下にいたんだな」
「それは何?」
「昔、山の存在理由を発見しようとしていたときに作った物だ」
「理由?」
「何事にも理由がつきものだ」かれは装置を持ち上げた。「ほら、これはこうやって――」かれは急に言葉を切って装置をテーブルの上に戻した。「説明するには複雑すぎる。じっさいどうやって使うのか本人だって思い出せないかもしれんというのに。最後にこれにさわったのは、ベルゼダーがこの〈谷〉に来る前のことだ。その後はあいつを仕込むために、自分の研究はわきに置いておかなければならなかった」かれはあたりの埃とがらくたをながめ、「こんなことをしても始まらん」と言った。「どうせ埃はすぐに戻ってくるのだ」
「ベルゼダーが来る前は、おじいさんはひとりでここに住んでたの?」
「わしの〈師〉が一緒だった。あそこにあるのが師の塔だ」ウルフは一マイルほど離れたところにそびえる、すらりとした石の建物を北の窓こしに指した。
「おじいさんの先生はほんとうにここにいたの? つまり、かれの魂じゃなくって」
「ほんとうにいたのだ。まだ神々が仲違いする前のことだ」
「おじいさんはずっとここで暮らしてたの?」
「いや。わしはこそ泥のようにここへやって来たのだ。何か盗めるものはないかと思って――いや、本当の答えはそうではないかもしれんな。ここに来たとき、わしはちょうどおまえと同じぐらいの年で、死にかけていたのだ」
「死にかけてた?」ガリオンは目を丸くした。
「今にも凍え死にそうだった。わしはすでにその前年に生まれた村を後にしていた――母親が死んだ直後のことだ――そして〈神なき民〉のキャンプで最初の冬を過ごした。かれらはその頃にはかなり年老いていた」
「〈神なき民〉?」
「ウルゴ人――あるいは、ゴリムと一緒にプロルグに行くことをこばんだ連中と言ったほうがいいかもしれん。その後かれらには子供が生まれなくなっていたから、わしが来たことをたいそう喜んだ。その時にはまだわしはかれらの言葉を理解することはできなかった。かれらがあまりにわしを甘やかすので、わしはとうとう苛立って春にキャンプを飛び出した。翌秋、わしは故郷に戻る途中だったが、運が悪いことに、ここからそう遠くないところで最初の吹雪につかまってしまった。わしは〈師〉の塔にへばりつくようにして横たわり、死にかけていた――最初はそれが塔だとは知らなかった。あたりには雪が渦巻いていたので、ただの石の山にしか見えなかったのだ。今でも覚えているが、わしはその時自分がひどく情けなかった」
「わかるよ」たったひとりで死んでいくということを考えただけで、ガリオンは足がすくんだ。
「わしはかなりしゃくりあげていた。その声で〈師〉はわしに気づいたのだ。かれはわしを中に入れてくれた――おそらくわしを黙らせたい一心だったんだろう。中に入ったとたん、わしはさっそく何か盗める物はないかと目を光らせはじめた」
「それでもかれはおじいさんを魔術師にしてくれたんだね」
「いや、それは違う。かれはわしを召使いにしたのだ――奴隷みたいなものだな。五年のあいだかれに仕えつづけたが、その間、かれが一体何者なのか、わしには皆目見当もつかなかった。時々、わしはかれのことを憎んでいたんじゃないかと思うこともあるが、とにかくその時は言われたとおりにしなければならなかった――それが何故なのかはわからなかったが。最後の雑用が訪れたのは、かれにある大きな岩をどけろと命令されたときのことだ。わしは満身の力を込めてその岩を動かそうとしたが、できなかった。とうとうわしの怒りは頂点に達した。すると、あろうことか、わしは背中の力ではなく意志の力でその岩を動かすことができたのだ。もちろん、それこそかれの待っていたことだった。その後、われわれは仲良く暮らすようになった。かれはわしの名をガラスからベルガラスに変え、わしを生徒にしてくれた」
「弟子でもあったわけでしょ?」
「それはもう少しあとの話だ。学ばなければならないことが山ほどあったからな。弟子と呼ばれるようになったのは、ある星が落ちる理由を調べていたときのことだ――かれ自身は川堤の近くで拾ってきた丸くて灰色をした石にかかりきっていた」
「理由は発見できたの? その星が落ちる理由のことだけど」
「ああ。それほどむずかしいことではなかった。バランスの問題だ。世界が回りつづけるためには特定の重力を必要とする。回転が遅くなると、近くの星が二、三落ちる。重力に相違が生じるためだ」
「そんなこと考えたこともなかったよ」
「わしもだ――少なくとも、ずいぶん長いあいだ」
「さっき言ってた石のことだけど。それはもしかして――」
「〈珠〉だ」ウルフは事実を認めた。「わしの〈師〉がふれるまでは、それはただの石だった。それはともかく、わしは〈意志〉と〈言葉〉の秘密を学んだ――じつのところ、それは秘密でも何でもないんだが。それはわれわれみんなの中に存在するものだ――前にそう言わなかったか?」
「そんな気もする」
「たしか言ったはずだ。わしは同じことを繰り返して言う癖があるようだな」老人は羊皮紙の巻き紙を拾い上げてチラッと眺めたが、またすぐにわきに置いた。そして、「手をつけたまま放ってあるものの何と多いことよ」と言って溜息をついた。
「おじいさん?」
「なんだ、ガリオン?」
「その――ぼくたちが持ってるものだけど――それで一体どれぐらいのことができるわけ?」
「おまえの気持ちしだいさ、ガリオン。それがどれぐらい複雑になりうるかは、それを使うおまえ自身の気持ちの複雑さにかかっているのだ。あたりまえのことだが、焦点を合わせる側の気持ちが想像できないようなことは、実現させることができない。そこにわれわれの勉強の目的があるのだ――つまり、気持ちを大きく発展させて、力を最大限に使うということにだ」
「でも、気持ちっていうのはひとによって違うでしょ」ガリオンはひとつの結論を導き出そうと頭を振りしぼっている。
「そうだ」
「じゃあ、それは――そのことは――」かれは力≠ニいう言葉をあえて使わなかった。「つまり、それもひとによって違うの? だっておじいさんはさ、あるときは自分でやっておきながら、別の時にはポルおばさんに同じことをさせることがあるでしょ」
ウルフはうなずき、「人それぞれに違うものだ。もちろんみんなにできることもある。たとえば、物を動かすのは誰でもできる」
「ポルおばさんはそれをテン[#「テン」に傍点]――」ガリオンはその言葉を思い出せずに、口ごもった。
「転位だろう」ウルフが助け船を出した。「何かをある場所から別の場所に移すことだ。これが一番簡単だ――一番最初にやるのはたいていこれだ――そして、一番の騒音を伴うのもこれだ」
「おばさんもそう言ってたよ」ガリオンはスシス・トールの川から引き上げた奴隷――死んでしまったあの奴隷のことを思い出した。
「わしにはできないようなことでもポルガラならできる場合がある」ウルフは話をつづけた。
「だからといって彼女がわしより力を持っているということではない。ただ、わしと違った考え方をするというだけの話だ。おまえにどの程度のことができるのか、わしらにはまだわからない。おまえの心がどういう風に働くかがはっきりわからないからだ。わしが試みたことさえないようなことを、いとも簡単にやってのけるようにも見受けられる。おそらく、それはおまえがまだその困難さに気づいてないからだろう」
「なんのことだかよくわからないよ」
老人はかれを見すえて、「その辺のところはまだわからないだろう。アレンディアを出発した直後に北トルネドラのあの村でおまえを襲おうとした気のふれた修道士のことを覚えてるか?」
ガリオンは黙ってうなずいた。
「おまえはかれの狂気を治した。もし、狂気を治したあの時点で、じつは狂気の性質をすっかり把握していなければならなかったのだという事実を知らなければ、別にどうってことはないように聞こえるだろう。だが、実際、あれはおそろしく難しいことだった。おまえはほとんど考えもせずにそれをやってのけた。それから、あの子馬のことももちろん忘れてはならない」
ガリオンが窓の向こうをのぞくと、塔を囲む草むらの中で子馬が元気に跳び回っていた。
「おまえは死んでいた子馬に息を吹き返させた。だがそれをするためには、おまえは死というものを理解していなければならなかったのだ」
「壁があっただけだよ」ガリオンは説明した。「ぼくはただその向こうに手を伸ばしただけなんだよ」
「それだけではないと思うが。どうやら、おまえはおそろしく難しい概念を簡単な言葉で映像化することができるらしいな。それはたしかに稀な才能だが、同時に危険も伴うということをおぼえておかなければいけないぞ」
「危険? 危険ってどんな?」
「なんでも簡略化しすぎるのばいけない。たとえば、死人だ。死人は本来はしかるべき理由があって死んでいるのだ――たとえば胸に剣を刺されたとか。もしおまえがその死人を生き返らせたとしても、その人間はすぐにまた死んでしまうだろう。前にも言ったように、何かをできるということが必ずしも何かをすべきということには繋がらないのだ」
ガリオンは溜息を漏らし、「すごく長くかかりそうだね、おじいさん」と言った。「まず自分をコントロールすることを勉強しなくちゃいけないでしょ。それから自分にできないことを勉強しなくちゃいけないでしょ。できないことを無理にやろうとして自滅することのないようにさ。それから、自分にできることと、自分がすべきことを勉強しなくちゃいけないでしょ。ああ、なんでこんな目に遇わなけりゃいけないんだろう」
「誰でもそう思う時はあるさ」老人はかれに言った。「だが、決定したのはわしらではない。わしだってすべきことを常に好んでしてきたわけではない。ポルおばさんにしても同じことだ。だが、わしらの行動は、わしら自身よりもずっと重要なことなのだ。だから、わしらは期待に答えるのだ――好むと好まざるとにかかわらず」
「もし『やだよ、ぼくはそんなことやらないよ』って言ったらどうなるの?」
「それはつまり、できるけどやるつもりはないということかな?」
ガリオンはまた溜息をついた。「うん、そうだよ」
老人は少年の肩に腕を回し、「ベルガリオン、てっきりおまえもわしらと同じように物事を見ているものと思っていた。いいか、わしらがこれから逃れられないように、おまえも決してこれから逃れることはできないのだ」
もうひとつの秘密の名前を聞くたびに感じる例の奇妙な興奮が、ガリオンの体を走った。
「どうしてみんなぼくのことをそう呼びたがるわけ?」
「ベルガリオンのことか?」ウルフは穏やかな笑みを浮かべた。「考えてみろ。それがどういう意味なのか。たしかにわしはおまえの頭に話しかけたり言い聞かせたりは一切してこなかったが、それは単に自分の声の響きが好きだったからだ」
ガリオンはその言葉の意味をよくかみしめてみた。「おじいさんはガラスという名前だったんでしょ」彼は思案顔でつぶやいた。「でも、アルダーの神がベルガラスという名前に変えた。ゼダーは最初はゼダーだったけど、ベルゼダーになって――それからまたゼダーという名前に戻った」
「それを言うなら、わしの元の一族の間ではポルガラはさしずめただのガラだったはずだ。ポルはベルと同じようなものだ。ただ、彼女は女だから。彼女の名前はわしの名前から取った――わしの娘だからな。おまえの名前もわしの名前から取ったものだ」
「ガリオン――ガラス」少年は口に出して言った。「ベルガラス――ベルガリオン。すごく合うと思わない?」
「もちろんさ。やっとわかったな」
ガリオンはニッコリ笑いかけた。がその瞬間、ある考えが脳裏をよぎった。「でも、ぼくはまだほんとうにベルガリオンになったわけじゃないんでしょ?」
「完全ではないな。まだ先は長い」
「じゃあ、すぐに始めたほうがいいね」ガリオンはそう言いつつも、ある種の悲しみを覚えずにはいられなかった。「どうせぼくには選択権がないんだから」
「いつかはそう言い出すだろうと思ってた」と、ミスター・ウルフは言った。
「ねえ、たまにぼくが今でもただのガリオンで、おじいさんはファルドー農園にやってくる年寄りの語り部だったらいいのにと思うことはない? ポルおばさんが昔みたいに台所で夕食を作っててさ――ぼくたちはぼくがくすねてきたお酒の瓶を持って干し草の下に隠れてるんだよ」ガリオンはそう言ううちに、郷愁がこみあげてくるのを覚えた。
「たまにだよ、ガリオン。ほんのたまにだ」ウルフは遠くを見るような目で言った。
「もうあそこに戻ることはないでしょう?」
「昔のようにという意味なら、もうないだろう」
「ぼくはベルガリオンで、おじいさんはベルガラスになるからね。ぼくたちはもう元の人間に戻ることすらないんだね」
「すべては移り変わっていくのだ、ガリオン」
「ねえ、岩を見せてくれない?」ガリオンは出し抜けに言った。
「どの岩だ?」
「アルダーに動かせって言われた岩だよ――おじいさんがはじめて自分の力を発見した日にさ」
「おお、あの岩か。あれならすぐそこにある――あの白いやつだ。今子馬がひづめを研いでいるあの岩だ」
「ずいぶん大きな岩だね」
「そう言ってくれてうれしいよ」ベルガラスは遠慮がちに言った。「じつは、わしもひそかにそう思ってたのだ」
「ぼくにも動かせると思う?」
「さあ、それはやってみないことにはわからないぞ、ガリオン」
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11[#「11」は縦中横]
翌朝目を覚ますと、ガリオンは自分がひとりではないことに気づいた。
(今までどこに行ってたの?)かれは声に出さずに訊ねた。
(観察してたのさ)と、頭の中のもうひとつの意識が答えた。(やっと譲歩したようじゃないか)
(だって他に道があると思う?)
(ないな。さあ、もう起きたほうがいい。アルダーが来るぞ)
ガリオンはとっさに毛布の中から跳ね起きた。(ここに? それ、ほんとうなの?)
頭の中の声はそれには答えなかった。
ガリオンはきれいなチュニックとズボンをはき、ハーフブーツのほこりを丹念に払った。それがすむと、シルクとダーニクを残してテントの外に出ていった。
ちょうど東にそびえる山々の上に太陽が顔を見せはじめたところで、朝の光と夜の闇を隔てる境目が露を帯びた谷間の草むらの上を重々しい足取りでゆっくりと動いていた。ポルおばさんとベルガラスが小さな焚き火のそばに立っており、火の上ではちょうどポットがふつふつと沸騰してきたところだった。ガリオンは声を落として話をしているふたりに仲間入りした。
「今朝はずいぶん早いのね」ポルおばさんはそう言うと、手を伸ばしてかれの髪を撫でた。
「目が覚めちゃったんだ」と、かれは答えた。それからアルダーはどっちの方角から来るのだろうと思いながら、あたりを見回した。
「昨日はずいぶん長いこと話をしたんですってね」
ガリオンはうなずいた。「ほんの二つ、三つだけど前より少しわかるようになったよ。てこずらせちゃって、申し訳なかったと思ってるよ」
彼女はかれの体を引き寄せ、抱き締めた。「いいのよ、ガリオン。あんたにとっては大変な決断だったんだから」
「じゃあ、怒ってないの?」
「もちろんよ」
他の仲間もそろそろ目を覚まし、あくびをしたり伸びをしたりしながらくしゃくしゃな形相をして焚き火のところに集まりはじめていた。
「今口の予定は?」焚き火のところにやってくるなり、シルクは眠い目をこすりながら訊ねた。
「待つだけだ」と、ベルガラスは答えた。「〈師〉がここで会おうと言われたのだ」
「そいつは楽しみだな。神様に会うなんて初めてだ」
「おぬしの好奇心が満たされるのも、どうやらそう遠い未来ではないらしいぞ、ケルダー王子」と、マンドラレンが言った。「あそこを見ろ」
テントを張ったあの巨大な木からそう遠くないところで、青いローブをまとった人影が草原を横切ってこちらに近づいてくるのが見えた。その人影は淡い青色の後光に包まれており、あまりに忽然としたその出現を考えれば、今こちらに近づいているのが人間ではないということはすぐにわかった。ガリオンはこのようなかたちで突然神が現われるとは思ってもみなかった。サルミスラ女王の謁見の間でイサの魂に遭遇したときは、彼女にむりやり飲まされた麻薬のせいで何が何だかよくわからなかった。同様に、マー・アモンの廃墟でマラと遭遇したさいも意識の半分は眠っていた。ところが今回は暁の明かりの中で頭もすっきり冴えている。そして気がついたら神が目の前にいたのだ。
アルダーの顔は穏やかで、溢れんばかりの知力に満ちていた。髪とひげは新雪のように白い――それは年月の結果ではなく、かれの意志でそうしたのだろう、とガリオンは思った。なぜかしら、その顔立ちはかれに深い親近感を与えた。それもそのはず、その顔はベルガラスの顔におそろしく似ているのだ。が、そう思った瞬間、発想の転換とでも言うのだろうか、ガリオンはそれはベルガラスの顔に似ているのではなく、ベルガラスのほうが神に似ているのだという結論に達した――それは何世紀にもわたる互いの親交が、アルダーの面影を老人の顔の上に、まるで烙印か何かのように焼きつけてしまったかのように見えた。もちろん、すっかり同じというわけではなかった。アルダーの穏やかな顔には、あのいたずらっ子のような茶目っ気はなかった。それはベルガラスだけのものだし、おそらく七千年の昔、ある雪の日にアルダーが塔に招き入れた盗み癖のある少年の顔を偲ばせる最後のしるしなのだろう。
「〈師〉よ」アルダーが近づいてくると、ベルガラスはうやうやしくお辞儀をした。
「ベルガラスか」神はかれの顔を認めて言った。その声はおそろしく静かだった。「ほんとうに久し振りだな。どうだ、時の流れというのは過酷なものだっただろう」
ベルガラスは自嘲気味に肩をすくめ、「時にはひとより酷い目を見ることもあります。これだけ長いこと生きてますとね」
アルダーは愉快そうに笑うと、今度はポルガラのほうを向いた。「可愛い娘よ」彼女の生えぎわの白い髪に手をふれながらうれしそうに、「相変わらず美しい」
「〈師〉も相変わらずお優しくていらっしゃいますこと」彼女は微笑んで頭を下げた。
かれら三人の間には、再会を喜び合う心の交わりとでもいうのだろうか、何か強い連帯感のようなものが行き交っているように見えた。ガリオンはわずかにそれを感じ取ることができたが、なぜかしら仲間はずれにされたような気がしてしかたがなかった――もちろん、仲間はずれにするつもりがないことは、すぐにわかった。かれらはただ久遠の親交を確かめ合っているだけなのだ――なんといってもかれらは悠遠の思い出を分かち合う仲なのだから。
やがてアルダーは振り向いて残りの顔ぶれを眺めた。「そうか、ついに集まったか。この世のはじまりの時から予言されていたとおりに。おまえたちこそ運命の鍵なのだ。世界がひとつになる運命の日に向けておまえたちが前進していくあいだ、常にひとりひとりの上にわたしの祝福を与えよう」
ガリオンの仲間はアルダーの不思議な祝福の言葉を受けて、畏敬と困惑の入り混じった表情を浮かべた。だが、おのおのが深い尊敬と恭謙の念を胸に、頭を垂れた。
そのときポルおばさんと共有しているテントからセ・ネドラが姿を現わした。小柄な王女は奔放に伸びをして、燃え立つような赤い巻き毛に指を通した。彼女はドリュアドのチュニックとサンダルという格好をしている。
「セ・ネドラ」ポルおばさんは彼女を呼んだ。「いらっしゃい」
「はい、レディ・ポルガラ」彼女は素直に答えた。そしてほとんど地に足がついていないのではと思うほど軽やかな足取りで焚き火に近づいてきた。が、次の瞬間、みんなの隣にアルダーが立っているのを見ると、ピタッと立ち止まり、目を大きく見開いた。
「こちらはわたしたちの先生よ、セ・ネドラ」ポルおばさんは彼女に説明した。「あなたに会うのを楽しみにしてらしたのよ」
王女はどうしていいかわからないという顔で、まばゆいその姿を見つめた。こんなときが来るとは夢にも思っていなかったのだ。彼女はいったんまつげを伏せてから、恥ずかしそうに神を見上げた。自分ではそうと知らないうちに、彼女はその小さな顔にひとの心をいちばん魅きつける表情を浮かべていた。
アルダーはやさしく微笑むと、「この娘は、知らずにひとを魅了する花のようだ」それから王女の目をじっと覗き込んで、「だが、同時に鋼のような厳しさを持ち合わせている。彼女の役目にぴったりだ。娘よ、おまえにも祝福を与えよう」
セ・ネドラは天性とも言えるような優雅な物腰でお辞儀をした。ガリオンは、彼女が誰かにお辞儀をするのを初めて見た。
次にアルダーはガリオンに向き直って、かれの顔をまじまじと眺めた。かれの思考の中に住んでいるあの知覚と神のあいだに、一瞬、無言のやりとりがあった。ガリオンはその束の間の交わりの中に、相互の尊敬と信頼を感じとった。と、アルダーの大きな心がガリオンの心にフワッとふれた。ガリオンには、神が瞬時に心の中を覗き、すべての思考と感情を理解したことがわかった。
「待ってたぞ、ベルガリオン」アルダーは厳かに言った。
「師よ」ガリオンは無意識のうちに片方のひざをついた。
「われわれは世界のはじまりの時からおまえの出現を待っていた。おまえは、われわれの希望の器なのだ」アルダーは片手を掲げ、「ベルガリオンに祝福あれ。おまえに会えてほんとうにうれしいぞ」
アルダーの祝福が浸透するにつれ、ガリオンは体じゅうに愛と感謝の念が満ち溢れるのを感じた。
「よくやった、ポルガラ」アルダーはポルおばさんに言った。「おまえはかけがえのない贈り物をしてくれた。ついにベルガリオンの出現を見て、世界じゅうが喜びにうち震えているぞ」
ポルおばさんはもう一度お辞儀をした。
「そろそろ行くとしよう」アルダーはベルガラスとポルおばさんに向かって言った。「おまえたちの仕事はもう始まっている。初めてこの任務を授けたときに約束した例の道具を渡そう。雲がかかったようにぼんやりとしていたものがきれいに晴れ渡った今、われわれの前にはだかっている物もさぞかしはっきりと見えることだろう。さあ、待ちに待ったこの日を祝して杯を交わし、備えにかかろう」
かくして三人は焚き火を後にした。その後ろ姿を見ながら、ガリオンはアルダーを包んでいた後光が今ではポルおばさんやミスター・ウルフをも包んでいるような印象を受けた。何かの気配と物音に気を取られて一瞬目をそらし、もう一度振り返ってみると、すでに三人の姿はなかった。
バラクは溜めていた息を一気に吐いた。「なんてこった! すごい見物だったぜ!」
「われわれは他の人間よりも寵愛されていたわけか」と、マンドラレンが言った。
かれらは今目撃したばかりの奇跡にすっかり心を奪われ、放心したように互いの顔を見つめ合った。しかしセ・ネドラはそんなことなどお構いなしに、「さあ、さあ」と断固たる口調で命令しはじめた。「ぼーっと突っ立ってないで。焚き火から離れてちょうだい」
「何をはじめるつもり?」ガリオンは彼女に訊ねた。
「レディ・ポルガラはこれから忙しくなるのよ」少女は頭ごなしに言った。「だからわたしが朝食を作るんじゃないの」彼女はカチャカチャと物音を立てながら焚き火に近づいた。
ベーコンの焼き具合はけっして悪くなかった。だが覆いのない火の前でトーストを焼いてしまおうという彼女の試みは悲惨な結果に終わり、お粥の中には干からびた土くれのような塊がゴロゴロしていた。けれどもガリオンたちは、何か文句があるなら言ってみろとばかりに睨みつける彼女の視線を避けながら、出されたものを黙って平らげた。
「あの三人はいつになったら戻ってくるんだろう」シルクが朝食のあとで言った。
「神には時間の観念がないからな」バラクはあごひげを撫でながら、賢人ぶって答えた。「少なくとも、午後になるまでは戻ってこないだろう」
「ちょうどいい、ぼくは馬を点検してよう」と、ヘターが言った。「途中でいがを刺したのが何頭かいるんでひづめを見てやりたいんですよ――念のために」
「わたしも手伝おう」ダーニクがそう言って立ち上がった。
ヘターはうなずき、ふたりは馬がつながれている場所へ歩いていった。
「さてと、おれの剣の刃にも傷のひとつやふたつ付いてるだろう」バラクは思い出したように言って、ベルトの中から砥石を取り出し、どっしりした刃をひざの上にのせた。
マンドラレンはテントに戻ってよろいを取り出した。そして、それを地面に広げて凹みや錆の斑点がついていないかどうか子細に調べ始めた。
シルクは掌で骰子《サイコロ》をコロコロ転がし、探るような顔でバラクを見つめながらかれの出方を待っている。
「もし差し支えなければ、おれはもう少し金を手元に置いておきたいんだけどな」と、大男は言った。
「どいつもこいつも所帯じみたことばかり言いやがって」シルクはブツブツと不平を言っていたが、そのうちにあきらめて骰子《サイコロ》を脇に押しやると、針と糸、それから山の中のやぶで破いたチュニックを取りにいった。
その頃セ・ネドラはすでに巨大な木とのコミュニケーションを再開し、枝の間をすばしっこく動き回っていた。彼女が猫のように平気な顔で大枝から大枝へ飛び移っているのを見ると、ガリオンははらはらして思わず目を覆いたくなった。しばらく彼女を眺めたあと、今朝の畏敬に満ちた遭遇を思い返すうちに、いつしかかれは物思いに耽っていた。かれはすでにイサにもマラにも会ったことがあるが、アルダーには先のふたりの神にはない何か特別なものがあった。ふだんは人間から遠く隔たっているはずの神に対してベルガラスやポルおばさんがあきらかに親愛の情を表していたことが、ガリオンの胸に強く訴えかけたのだ。かれの育ったセンダリアでは、信仰はひとりの神に対してではなく、すべての神に対して行なわれていた。善良なセンダー人は分け隔てなく祈り、すべての神を尊敬しているのだ――トラクでさえも。だが、ガリオンは今、アルダーに対して一種独特の親近感と敬意を覚えていた。だが、かれの論理的な思考を理解するには、それなりの思考が必要だ。
と、頭上の木から小枝が落ちてきた。かれはわずらわしそうに上を見た。
セ・ネドラが彼の真上で腕白そうな顔をして笑っていた。「おーい」彼女は勝ち誇ったような、馬鹿にしたような声で言った。「朝食のお皿が冷たくなっちゃうわよー。放っておくとどんどん油が固まって取れにくくなるのよ」
「ぼくはきみの皿洗いじゃないよ」
「お皿を洗いなさーい、ガリオン」彼女は髪の先を噛みながら命令した。
「自分で洗えばいいじゃないか」
彼女は罪のない髪をキーッと噛みながら、かれを睨みつけた。
「なんだっていつもそうやって髪を噛んでるんだよ?」かれは苛々して訊ねた。
「何のこと?」彼女はとっさに歯の間から髪の束を放した。
「いつ見ても髪をくわえてるじゃないか」
「嘘よ」彼女は憤然として反論した。「ねえ、お皿を洗うつもりあるの?」
「ないよ」かれは横目で彼女を見上げた。彼女の身につけている丈の短いドリュアド風チュニックは、はしたないほどに脚を露出させているように見えた。「もっとちゃんとした服を着れば?」と、かれは言った。「いつもいつも半裸みたいな恰好で走り回ってるのを見て、気分を悪くしてるひとだっているんだからね」
ここまで言ってしまえば、喧嘩が始まるのはほとんど時間の問題だ。
だが、ガリオンはやっとのことで最後の言葉を飲み込むと、むかむかする気持ちを抱えたまま、ドシンドシンと音を立てて歩き去った。
「ガリオン!」彼女が後ろの方で叫んでいる。「わたしに汚いお皿を残して自分はどこかに行こうったってそうはいかないわよ!」
かれは彼女の声を無視してそのまま歩きつづけた。
それほど遠くまで行かないうちに肘のあたりにお馴染みの鼻がすり寄ってきた。かれは無意識のうちに子馬の耳を掻いてやった。子馬はうれしくて仕方がないというふうに体を揺すり、いとおしそうに体をこすりつけてきた。やがて子馬は、これ以上喜びを隠しきれないといった様子で草むらの中に飛び出していったかと思うと、例によっておとなしく草を食んでいるウサギの親子を追い立てた。ガリオンは思わず微笑んだ。あまりに美しい朝なので、王女との口喧嘩などもうどうでもいいような気さえしてきた。
〈谷〉には何か特別なものが息づいているような気配があった。外の世界は冬の到来をすぐそこに控えて冷え込みも厳しくなり、暴風や危険にさらされているというのに、ここだけはあたかもアルダーの手にそっと包まれているかのように、ぬくもりと安らぎと、乱されることのない不思議な静寂とでもいうのだろうか、そういうものに満たされているのだ。人生の試練を迎えた今、ガリオンはぬくもりと安らぎを誰よりも必要としていた。答えを出さなければいけない数々の問題を前に、かれは嵐や危険に邪魔されることなくそれだけに専念できる時間が、ほんの一瞬でもいいからほしかったのだ。
気がつくとかれはベルガラスの塔に向かってもう半分ほど来ていた。そう言えば、塔はずっとそこにあったし、かれの足は初めからこちらに向いていたのだ。背の高い草が露に濡れていたので、かれのブーツはすぐにびしょびしょになってしまったが、それでも今日という素晴らしい一日が台なしになってしまうことはなかった。
かれは二、三回塔の周りを回って、その姿を仰いだ。入り口のしるしの岩はすぐに見つかったが、開けないことにした。ひとの塔に黙って入り込むのはよくないことだし、第一その扉がベルガラス以外の声に答えるのかどうか、自信が持てなかったのだ。
そう考えたときかれははたと立ち止まり、ミスター・ウルフという考えを捨ててかれをベルガラスと認めるようになった瞬間はいったいいつだったのかと思い、記憶の糸をたぐり寄せた。なぜかしらその移り変わりが重要なことのように思えたのだ――そう、何かの転換点のように。
やがてかれはじっと考え込んだままうしろを振り返り、野原を横切ってミスター・ウルフが塔の窓から指さしたあの大きくて白い石まで歩いていった。無意識のうちに、かれは石の上に片手を置いて押していた。石はびくとも動かなかった。
ガリオンは今度は両手で押してみた。だが、石は相変わらず動く気配すらない。かれはあとずさって、頭をひねった。実際はそれほど大きな石じゃない。丸くて白くて高さはぼくのウエストほどもない――確かに重さはあるけど、だからと言って何が何でも動かないというほどはどっしりしてるわけじゃない。かれは屈み込んで石の底を覗いてみて、ははん、なるほどと思った。石の底は平らだった。これでは転がるわけがない。これを動かすただひとつの方法はどこか一ヵ所を持ち上げて、ごろんとひっくり返すことだ。かれは石の周りを回っていろいろな角度から眺めてみた。その結果、少しなら動かすこともできるという結論に達した。渾身の力を振りしぼれば、持ち上げることだってできるかもしれない。かれは地面に座って石を眺めながら、さらに頭をひねった。時々やるように、自分自身に話しかけて問題を取り出してみた。
「とりあえずは動かしてみることだ」と、かれは言った。「まったく可能性がないようには見えないし。それで駄目なら、また別の方法を考えるさ」
かれは立ち上がり、きっぱりとした足取りで石に近づいた。そして石の縁に指をはい込ませ、ウーンと持ち上げてみた。何も起こりはしなかった。
「もう少し力を入れないとだめだ」かれは自分に言い聞かせた。足を開き、体勢を整えると、かれはもう一度首に血管を浮き立たせるほどに力を振りしぼった。心臓の鼓動が十を数えるあいだ、かれはあらん限りの力を込めてその頑固な石を動かそうとした――が、ひっくり返すことはできなかった。それは持ち上げた瞬間からもうわかっていた――でも、動かしたい、自分の存在を確かめたい、その一心で頑張ったのだ。そのあたりの地面はそれほど柔らかくなかったが、それでも石の重さに対抗しているうちにほんの一インチかそこら足が埋まってしまった。
とうとうあきらめてハーハーとあえぎながら崩れ落ちるようにして石に寄りかかると、頭がくらくらして、目の前で小さな点がクルクルと回っているような感じがした。かれはしばらくのあいだ冷たくてザラザラした石の表面に寝そべって、回復を待った。
「よーし」やっとのことでかれは言った。「これで動かないことがわかったぞ」かれはふたたび数歩下がって腰をおろした。
これまでは、かれが何かをやると言えばそれは必ず迫り来る危機に対しての反応であり、衝動によるものだった。じっと座って徐々に自分を奮い起たせるということは、決してなかった。かれはほとんど一瞬のうちに、自分を取り巻くものすべてが今までとまったく違うということを感じとった。まるで世界が急に騒音だらけになってしまったように思えた。鳥の歌声。頬をなでるそよ風。手の上を横切るアリ。そういった音の数々が、意志を呼び起こそうとするたびに、必ずかれの注意をそらすのだ。
まずわかったのは、それには特別な感覚が伴うということだった。後頭部が緊張し、額のあたりには外に出よう出ようとする圧迫感のようなものがあった。目を閉じると、いくらかおさまるような気がした。やがて、それはやってきた。ゆっくりとではあるが、自分の中で意志が生まれてくるのがわかった。何か思い出すところがあって、かれはチュニックの中に手を入れ、掌のあざをお守りにあてがった。それをさわることによって、内なる力がさらに倍増し、ついにはゴーゴーというすさまじい轟きが沸き起こった。かれは目を閉じたまま立ち上がった。やがて目を開くと、かれはどっしりと居座っている白い石をキッと見すえた。「動け!」かれはつぶやいた。右手をお守りにあてがったまま左手だけを外に出し、掌を空に向けた。
「それ!」かれはきっぱりとした口調で言うなり、上がれ、上がれ≠ニいうふうに左手をゆっくりと上昇させた。内なる力が大きく波立ち、頭の中の轟音は耳をつんざくような大音響に変わった。
ゆっくりと、石の縁が草から浮き上がりはじめた。石の裏の平和で居心地のよい闇の中にひっそりと暮らしていた蠕虫や地虫は、いきなり朝日に照らされ、たじろいだ。石は容赦なく上げられるガリオンの手の動きにならって、その重い体をゆっくりと持ち上げた。そして一秒ほど縁を支点にしてぐらぐらと動いていたが、やがてごろんとひっくり返った。
張り詰めた意志を解放したあとにどっと押し寄せた、骨の髄まで砕けそうな無力感は、さきほど背中の力を振りしぼって石を持ち上げようとしたあとの疲労感などとはまったく比べようもないほど圧倒的だった。かれは草の上に肘をつき、しばしそこに頭を埋めた。
一、二拍おくれて、その奇妙な事実がかれの頭に浸透しはじめた。立っている姿勢は相変わからずなのに、腕は目の前の草の上で何の違和感もなく折り曲げられているのだ。かれは何がなんだかわからなくなって、グイッと首を伸ばし、あたりを見回した。たしかに石は動いたようだ。丸いほうが下で湿った底面が上を向いているのだから、それは間違いない。だが、起こったのはそれだけではないようだった。石にはさわらなかったものの、持ち上げていくうちにその重さはかれにもかかっており、石に向けた力がすべて石に注がれたわけではなかったのだ。
腋の下を固い地面にのせたまま、体の半分以上が土に埋まってしまったことに気づいて、ガリオンは愕然とした。
「どうしたらいいんだろう?」かれは絶望的な気持ちで自問した。自分の体を士の中から抜き出すためにもう一度意志を集めるなんて、思っただけでもゾッとした。かれはおそろしく疲れていて、物を考えることすら難しかったのだ。まわりの土をくずし、一インチずつでも上に上がれればと思ってあがいてみたが、動ける隙はまったくなかった。
「おまえのせいだぞ」かれは石に向かって言った。
石はうんともすんとも言わなかった。
とつぜん、ある考えが思い浮かんだ。「そこにいるんでしょ?」かれはいつも自分といっしょにいるらしいあの知覚に話しかけた。
だが、頭の中はしーんと静まりかえっていた。
「助けて!」かれはついに叫んだ。
石の下から現われた例の虫に引き寄せられてやって来た一羽の鳥が、片目だけでジロリとかれを見たが、すぐにまた朝食を貪りだした。
そのときうしろのほうでかすかな足音が聞こえた。ガリオンが首を伸ばして振り返ってみると、子馬がびっくりした様子でかれの顔を見ていた。子馬はためらいがちに鼻を突き出し、ガリオンの顔に押しつけた。
「よーし、いい子だ」ガリオンは、少なくともひとりぼっちではないのだと思い、いくらか気が楽になった。と同時に、ある考えが浮かんだ。「ヘターを呼んでくるんだ」かれは子馬に言った。
子馬はぴょんぴょん跳ねてから、またかれの顔に鼻をすり寄せた。
「やめろ」ガリオンはきつい口調で言った。「これは真剣な問題なんだぞ」かれは恐る恐る、子馬の思考の中に自分の心を割り込ませてみた。十二回ぐらいいろいろな方法を試したあと、全くの偶然でとうとうぴったりの組み合わせを探し出した。子馬の心はこれといった意図もパターンもなしにあっちこっちを飛び回っていた。要するに、ぼんやりとした思考しか持たず、感覚に訴えるものだけを受け入れる、赤ん坊の心なのだ。チラチラとうつろうイメージの中にガリオンが見たのは、青い草と子馬の走る姿と空に浮かぶ雲、それに温かいミルクだった。その小さな心の中には驚きもあったし、ガリオンへの変わらぬ愛情もあった。
ゆっくりと、辛抱つよく、ガリオンは子馬の散漫な心の中にヘターの像を描きはじめた。それは永遠にも感じられる時間だった。
「ヘター」と、ガリオンは何度も何度も繰り返した。「ヘターを連れてこい。ぼくが困ってると言うんだ」
子馬はひとしきり辺りを飛び回ってから、またかれのところに戻ってきてやわらかい鼻先をかれの耳に突っ込んだ。
「頼むから真剣に聞いてくれよ」ガリオンは叫んだ。「お願いだから!」
何時間にも感じられる時が流れたあと、子馬はやっと理解したような素振りを見せた。が、何歩か離れたかと思ったらすぐに戻ってきてまたガリオンに鼻をすり寄せた。
「行って――ヘターを――連れてこい」ガリオンはひとつひとつの言葉を強調しながら命令した。
子馬はしばらく土を掘っていたが、やがてくるりときびすを返し、速足で走り去った――が、方向がまったく違っていた。ガリオンは汗をかきはじめた。この一年間というもの、かれの耳は常にバラクの変化にとんだ語彙にさらされてきた。かれは思いつく限りの言い回しを六回か八回繰り返したあと、今度はアドリブで悪態を並べた。
姿を消した子馬の思考が、ガリオンの元にチラチラッと返ってきた。子馬はどうやら蝶を追っているらしかった。ガリオンは両手の拳で地面をバンバン叩きながら、欲求不満で泣きわめきたい気分だった。
太陽はだんだん高くなり、あたりは暑くなってきた。
ヘターとシルクが躍りはねる子馬のあとを追ってきてかれを発見したのは、もう昼を過ぎた頃だった。
「いったいどうやってそんなとこに入り込んだんだ?」シルクは不思議そうに訊ねた。
「その話は聞かないで」ガリオンはホッとした反面、すごく決まり悪い気がして、ブツブツとつぶやいた。
「世の中にはガリオンにできてぼくたちにできないってことが、きっと山ほどあるんですよ」ヘターは、馬からおりてダーニクの鞍からショベルをはずしながら言った。「だけど、どうしても理解できないのは、なぜかれがこんなことをしたがったかということですね」
「きっとよほどの訳があったんだろうよ」と、シルク。
「本人に聞いてみますか?」
「どうせおそろしく込み入った事情だよ。われわれのように平凡な人間にはとうてい理解できないだろう」
「ところで、やろうとしていたことは終わったんでしょうかね?」
「それは聞かないといけないな」
「でも邪魔しちゃ悪いしな」と、ヘターは言った。「すごく重要なことかもしれないですよ」
「うん、そうかもしれないな」
「頼むから、早くここから出してよ」ガリオンは懇願の声をあげた。
「ほんとうにもう終わったんだろうな?」シルクはていねいに訊ねた。「まだ終わってないなら、われわれはここで待ってたっていいんだぞ」
「頼むよ」ガリオンはほとんど泣き出さんばかりに頼んだ。
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12[#「12」は縦中横]
「なんだって持ち上げようなんて気を起こしたんだ?」次の日の朝ポルおばさんと一緒に戻ってきたベルガラスは、シルクとヘターが前日の午後少年を見つけたときの状況をまじめくさって説明するのを聞いたあとで、こう訊ねた。
「ひっくり返すのが一番いい方法に思えたんだよ」と、ガリオンは答えた。「つまり、下の方に手をかけてそれから転がす――そんなようなことさ」
「どうして押さなかったんだ――もっと上のほうを? そうすればうまく転がっただろうに」
「そうは思わなかったんだよ」
「あの柔らかい地面がそんな圧力に耐えられないことぐらいわからなかったの?」ポルおばさんが訊ねた。
「今はもうわかるよ。でも、押すのだって結局ぼくの体を後ろに戻すだけじゃない?」
「自分の体は支えておかんとな」ベルガラスは説明した。「それもコツのひとつだ。動かそうとするものにかける力と同じぐらい大きな力で自分の体をしっかりと押さえておくのだ。さもないと、体はどんどん押し戻されるぞ」
「知らなかったよ」ガリオンは素直に認めた。「緊急なことでもないのに何かをしようとしたのは今度が初めてだったから……。ねえ、ちょっとやめてくれない?」ガリオンはセ・ネドラに向かって不機嫌に言った。彼女はシルクからガリオンの大失敗を聞いたとたんドッと吹き出し、ずっと笑い転げているのだ。
かれの言葉を聞いてセ・ネドラはいっそう激しく笑った。
「いくつか説明を加えないといけないようね、おとうさん」と、ポルおばさんが言った。「力がどちらにもかかるってことが、これっぽっちもわかってないみたいだもの」彼女は批判するような目つきでガリオンを見た。「石を放り投げようと思わなかったのは不幸中の幸いだったわね。そんなことをしたらマラゴーのあたりまで飛んでいたわよ、きっと」
「ぼくはそれほどおかしいことだとは思わないけどね」これみよがしにニヤニヤ笑っている仲間に向かってガリオンは言った。「あのね、これは見た目ほど簡単なことじゃないんだよ」自分が馬鹿な真似をしたことはわかっていたが、もしこれがひとの冷やかしにもっと困惑したり傷ついたりする人間だったら、いったいどうするんだろうと思った。
「さあ来い、ガリオン」ベルガラスが有無を言わさぬ声で言った。「どうやら初歩の初歩からはじめないといけないようだな」
「知らなかったのはぼくのせいじゃないよ」ガリオンは抗議した。「おじいさんが教えてくれなかったからじゃないか」
「まさかそんなに早く訓練をはじめるつもりでいるとは思わなかったのさ」と、老人は答えた。
「手ほどきを受ける前に土地の景観を変えてしまうような良識のないやつには今までお目にかかったことがなかったからな」
「でもさ、少なくとも動かすことには成功したよ」ガリオンは老人の後から塔につづく草原を歩きながら、自分を弁護した。
「お見事だ。ところで、石は同じ方法で元に戻したんだろうな?」
「どうして? そんなことして何になるの?」
「この〈谷〉にあるものは絶対に動かしてはならんのだ。ここにあるものはそれなりの理由があってここにあるのだ。すべてが所定の位置になければいけないのだ」
「知らなかったよ」ガリオンは謝まった。
「もうわかったな。さあ、もとのところに戻そう」
かれはしばらく黙ってとぼとぼ歩きつづけた。
「おじいさん?」やがてガリオンが沈黙を破った。
「うん?」
「石を動かしたとき、まわりから力を取り入れたような気がしたんだけど。あちこちからぼくの中に流れ込んできたような。何か意味があると思う?」
「それでいいのだ。何かをするとき、われわれはそのための力をまわりから得る。たとえば、チャンダーを燃やしたとき、おまえは自分を取り囲むすべてのものから熱を得たのだ――空気や大地やそのあたりにいたすべての人間から。いろいろなものからすこしずつ熱を得て、火を起こしたのだ。石をひっくり返したときも、やはり近くにあったすべてのものから力をもらったのだ」
「ぜんぶ自分の中から湧き出たものだと思ってたよ」
「それは何かを造り出すときだけだ。その力だけは自分の中で生まれる。だが、それ以外はすべて力を借りるのだ。あちこちから少しずつ力を集め、それをひとつにして一気に対象に向けて解き放つのだ。そういう力を自分の中に抱えておけるほど大きな人間なんていやしない。たとえしごく簡単なことをするための力でもだ」
「じゃあ、誰かが何かを消滅させるときにもそういうことが起こるんだね」ガリオンは直観的に言った。「ありとあらゆる力を自分の中に引き入れたのに、それを外に出すことができないと、こうやって――」かれは両手の掌をひろげ、いきなりそれをバーンと引き離してみせた。
ベルガラスは穴の開くほどかれの顔を見つめ、「ガリオン、おまえは変な思考の持ち主だな。難解なことを簡単に理解するのに、単純なことがわからない。さあ、石だぞ」かれはやれやれというふうに頭を振った。「まったくあり得ないことだ。あったところに戻すんだ。今度はあまり騒がしい音を出すんじゃないぞ。昨日の騒音ときたら、〈谷〉じゅうにこだましてたぞ」
「何をすればいいの?」ガリオンは訊ねた。
「力を集めろ」ベルガラスはかれに言った。「そこらじゅうから力を集めてくるのだ」
ガリオンはそのとおりにしてみた。
「わしはだめだぞ!」老人はいきなり叫んだ。
ガリオンは力を取り入れる範囲からベルガラスだけ除外した。間もなく、かれは全身がピリピリして髪の毛が逆立つような感じを覚えた。「それからどうするの?」歯を食いしばって力を持ちこたえながら、かれは聞いた。
「背中で力を押し出しながら、同時に石を押せ」
「後ろで何を押すの?」
「なにもかもだ――同じように石を押せ。同時にやるんだぞ」
「ひょっとして――間に挟まれちゃうんじゃないの?」
「気を張るんだ」
「おじいさん、急いだほうがいいみたい」と、ガリオンは言った。「なんだかどこかに飛んでっちゃいそうだよ」
「頑張れ。さあ、石の上に意志をかけて言葉を唱えるんだ」
ガリオンは両手を前に押し出して、腕をぴーんと伸ばした。「押せ」そう命令したとたん、かれはうねりと轟音が沸き起こるのを覚えた。
しばらくぐらついたあと、ドシーンという反響音と共に石は昨日の朝あった場所にうまいこと転がった。ガリオンは不意に全身を打たれたような疲労感を覚え、その場にしゃがみ込んだ。
「押せ≠セって?」ベルガラスは信じられないといった顔で言った。
「おじいさんがそう言えって言ったんじゃない」
「わしは押すように言っただけだ。押せ≠ニ言えとは言わなかったぞ」
「でも、ちゃんと転がったじゃない。言葉の使い方が違うと何かあるわけ?」
「スタイルの問題だ」老人は感情を害したようだった。「押せ≠ニいうのは――ちょっと幼稚すぎる」
ガリオンは力なく笑った。
「なあガリオン、やはりわれわれはたえず威厳を保つようにせんとな」老人は気取って言った。
「もしわれわれが押せ≠ニか倒れろ≠ニいうような言葉しか使わなかったら、誰も敬意なんか払ってくれなくなるぞ」
もう笑いたくないのに、どういうわけかガリオンは笑いやむことができなかった。
ベルガラスは憤然としてブツブツと独り言を言いながら大股に歩き去った。
みんなのところに戻ってみると、テントはすでに畳まれ、荷馬も荷を載せていた。
「もうここにいる必要もないでしょ」ポルおばさんはふたりに言った。「それにあの人たちも待ってることだし。ところで、何か理解させることはできたの、おとうさん?」
ベルガラスは顔に深い失望の色を浮かべ、ただフーッとうめくだけだった。
「うまくいかなかったのね」
「あとで話す」かれは素っ気なく言った。
ガリオンがいない問にセ・ネドラは甘い言葉をたくさんかけたり、貯えの中から前掛けいっぱいのリンゴを与えたりして、すっかり子馬を自分の子分にしていた。子馬は子馬で臆面もなく彼女にまとわりつき、遠くからガリオンをチラッと見る顔には、罪を感じてるようすなどこれっぽっちもうかがえなかった。
「そんなことをしたら病気になっちゃうよ」ガリオンは彼女を非難した。
「リンゴは馬にもいいのよ」彼女はうきうきした声で答えた。
「言ってやってよ、ヘター」とガリオン。
「別に害はないだろう」ワシ鼻の青年は答えた。「子馬の信頼を得るためによく使う方法だよ」
ガリオンは他に適当ないちゃもんはないか探してみたが、見つからなかった。はっきりとした理由はなかったが、子馬がセ・ネドラに鼻をすり寄せている光景はかれの癇にさわった。
「あの人たちって誰のことですか、ベルガラス?」シルクは馬に乗りながら訊ねた。「ほら、さっきポルガラが言ってた」
「わしの兄弟分だ」と老魔術師は言った。「すでに〈師〉がわれわれの訪問を伝えている」
「魔術師の兄弟については何度か話に聞いたことがありますけど。かれらはみんなが言うほどすごい人たちなんですか?」
「ひとをがっかりさせるという点ではね」ポルおばさんがとりすまして言った。「だいたい魔術師っていうのは考えうる悪癖をすべて身につけた、かぎ針みたいな老人なのよ。わたしはそういう中で育ったから、すごくよくわかるのよ」彼女はそう言うと、肩の上であこがれの歌を歌っているツグミを見て、「ええ、ええ。わかっているわよ」と、答えた。
ガリオンはポルおばさんに近寄り、鳥の歌にじーっと耳を澄ました。最初はただの雑音にしか聞こえなかった――かわいい声だけれども、これといった意味はなかった。が、そうやって聞いているうちに、徐々にではあるが、ところどころ意味が伝わり始めた。ツグミは自分の巣と斑点のついた小さな卵のこと、日の出、そして空を飛ぶことの喜びを歌っていた。ヒバリは飛ぶことと歌うことについて語り、雀は種がいっぱいある秘密の窪みについてチュンチュンとさえずっていた。大空高く旋回するタカは、ひとりで風に舞っていることの寂しさや獲物を殺すときの獰猛な喜びを叫んでいた。にわかに鳥たちの言葉におおいつくされ、ガリオンはすっかり圧倒されてしまった。
ポルおばさんは真面目な顔でかれを見ると、たった一言、「まだ序の口よ」と言った。
ガリオンは鳥たちの言葉が織りなす世界にすっかり心を奪われていたので、最初のうち白い髪をしたふたつの人影にはまったく気づかなかった。かれらは一本の高い木の下に立って一行がやってくるのを待っていた。ふたりともまったく同じ青のローブを着ており、髪はかなり長かったが、ひげはきれいに刈ってあった。はじめてかれらを見たとき、ガリオンは一瞬自分の目がどうかしてしまったのではないかと思った。ふたりはまったく区別できないほどよく似ていたのだ。
「ベルガラス、わが兄弟よ」と、ひとりが言った。「ずいぶん長い――」
「――ご無沙汰だった」もうひとりがその後を継いだ。
「ベルティラ。ベルキラ」ベルガラスはそう言うと、馬から下りてふたりを抱き締めた。
「おお、かわいいポルガラ」とひとりが言った。
「おまえがいないと――」ともうひとりが言って、
「――〈谷〉は砂漠のようだ」と、二番手が締めくくった。かれは片われのほうを見て、「うーん、詩的だ」と賛辞を送った。
「ありがとう」最初の方が控え目に答えた。
「こちらはわしの兄弟分で、ベルティラとベルキラだ」ベルガラスは馬をおりはじめた仲間に向かって紹介した。「ふたりを区別しようなんていう気は起こすな。このふたりは誰にも区別できない」
「わしらはできるぞ」ふたりは声を揃えて言った。
「このわしですらはっきりとは区別できないのだ」ベルガラスは穏やかな笑みを浮かべて言った。「おまえたちの心はおそろしく似通っているから、思考の始まりと終わりがまったく一緒になってしまうのだ」
「難しく考え過ぎなのよ、おとうさんは。これがベルティラ」彼女は優しそうな顔の老人にキスした。それから「これがベルキラ」と言ってもうひとりにキスした。「わたしは子供の頃からちゃんと区別してたわよ」
「ポルガラにかかっちゃ――」
「――おしまいだ」双子はそう言って笑った。「ところでそこにいるのは――」
「――お仲間か?」
「紹介しなくてもわかるだろう」と、ベルガラスは言った。「ボー・マンドール男爵、マンドラレン」
「〈護衛の騎士〉」ふたりは声をそろえて言い、お辞儀をした。
「ドラスニアのケルダー王子」
「〈案内人〉」とふたりは言った。
「バラク、トレルハイム伯爵だ」
「〈恐ろしい熊〉」ふたりは訳知り顔でチェレク人をながめた。
バラクはさっと顔色を曇らせたが、何も言わなかった。
「ヘター、アルガリアのチョ・ハグの息子」
「〈馬の首長〉」
「センダリアのダーニク」
「〈二つの命を持つ男〉」ふたりは深い尊敬をこめてつぶやいた。
ダーニクはその言葉に当惑した様子だった。
「セ・ネドラ、トルネドラの王女だ」
「〈世界の女王〉」ふたりはまた深々と頭を下げた。
セ・ネドラは顔をひきつらせて微笑んだ。
「ということは――」
「――これがベルガリオン」ふたりは顔を輝かせながら言った。「〈選ばれた者〉」双子の魔術師は申し合わせたように右手を伸ばし、ガリオンの頭の上に置いた。そのとたん、ガリオンの頭の中にかれらの声がこだました。(ようこそ、ベルガリオン。比肩なき最高の君主。世界の希望よ)
ガリオンはこの奇妙な祝福にすっかり度胆を抜かれ、ぎくしゃくと頭を下げるのが精一杯だった。
「これ以上こんな顔ぶれを見せられたら、おれはへどが出そうだ」聞き覚えのない耳障りなしゃがれ声だった。ちょうど木の下から出てきた声の主は、ずんぐりとして不恰好な老人だった。汚らしくて、たとえようもなく醜い。足は折れ曲がり、オークの幹のように節くれだっている。肩幅が広く、手は膝の下までダラリと垂れている。背中の真ん中に大きな瘤があり、顔はまるでグロテスクな風刺画かなにかのようにねじ曲がっている。バラバラに広がった鉄灰色の髪とひげはぐちゃぐちゃにからみあい、あちこちに小枝や葉っぱがついている。不器量なその顔には尽きることのない侮蔑と怒りが刻まれていた。
「ベルディン」ベルガラスはおだやかに言った。「おまえが来るとは思わなかった」
「来るべきじゃなかったって言いたいんだろう、この不器用者が」醜い老人はぴしゃりとやり返した。「相変わらずへまばかりしてるようだな、ベルガラス」それから双子に向き直ると威圧的な口調で、「何か食い物を持ってこい」と言った。
「わかったよ、ベルディン」ふたりはすぐに答え、どこかに行った。
「もたもたするんじゃないぞ」かれはふたりの背中に怒鳴った。
「今日はなかなか面白いジョークを言うじゃないか、ベルディン」ベルガラスは皮肉ぬきにそう言った。「なんだってそんなに元気なんだ?」
醜い小人は嫌な顔をしてかれを見たかと思うと、吠えるような声で短く笑った。「ベルゼダーを見たんだ。乱れたベッドみたいな面をしてた。よほど酷いことでもあったんだろう。おれはそういうのを見ると、わくわくしてくるんだ」
「おひさしぶり、ベルディンおじさん」ポルおばさんは薄汚い小男に腕を回しながら、ほがらかに言った。「会いたかったわ」
「おれを誘惑しようったってそうはいかないぞ、ポルガラ」口とは裏腹に、かれの目はかすかに柔らかくなったように見えた。「これはおまえの父親の責任であると同時におまえの責任でもあるんだからな。おれはおまえたち二人がしっかりあいつを見張ってるものと思ってた。いったいベルゼダーのやつはどうやって〈師の珠〉に手をふれたんだ?」
「子供を使ったらしい」と、ベルガラスは沈鬱な面持ちで言った。「〈珠〉は邪気のない者には手を出さないからな」
小人はフンと鼻を鳴らし、「無邪気な人間なんているものか。人間は生まれたときから堕落してるんだ」かれはポルおばさんのほうに視線を移すと、値踏みするように彼女を眺めた。
「太ったんじゃないか」かれはぶしつけに言った。「まったく牛車みたいな大きな尻をしおって」
ダーニクはやにわに拳を握り、気味の悪い小男に飛びかかっていった。
小人は声高に笑い、大きな掌でダーニクのチュニックの襟首をつかんだ。そして、驚いている鍛冶屋を軽々と持ち上げると、二、三ヤード向こうに投げ飛ばした。「何なら、今ここで第二の人生を始めさせてやってもいいんだぞ」小人は恐ろしげな声をあげた。
「ここはわたしにまかせて、ダーニク」ポルおばさんは鍛冶屋に言うと、今度は冷たい声で、「ベルディン、最後にお風呂に入ったのは?」
小人は肩をすくめ、「二ヵ月ほど前雨に打たれたが」
「でも、それほど強い雨じゃなかったようね。汚い豚小屋みたいな臭いよ」
ベルディンはニヤリと笑った。「そうこなくっちゃ」それから声高に笑って、「しばらく会わないうちに毒気がなくなったのかと心配したぞ」
その後ふたりはガリオンが今まで聞いたこともないような恐ろしい罵声を浴びせはじめた。露骨で汚い言葉が、まるで空気をジリジリとこがすように両者のあいだを行き交った。バラクは驚いて目を真ん丸にし、マンドラレンの顔色も何度となく青ざめた。セ・ネドラは聞くまい聞くまいと努力しながら、顔を真っ赤にしていた。
しかしおぞましいベルディンは、侮辱の言葉が汚くなればなるほどうれしそうに笑うのだった。そしてポルおばさんが最後に耳を覆いたくなるような極めつきの毒舌を振るうと、醜い小男は轟くような笑い声をあげて転げ落ち、大きな掌でドンドンと地面を叩いた。「おまえがいなくてほんとうに淋しかったぞ、ポル!」かれはあえぎあえぎ言った。「さあ、ここに来てキスしてくれ」
彼女はにっこり微笑み、泥のついた顔に愛情のこもったキスをした。「ゴミ溜めの犬」
「バカでかい雌牛」かれは骨が鳴るほど彼女を抱き締めた。
「あばら骨がもうひと組ないと身がもたないわ、おじさん」
「そう言えばもう長いことおまえのあばら骨を折ってないな」
「これからもそうあってほしいわね」
そのとき双子が湯気の上がったシチューの大皿と馬鹿みたいに大きいタンカードを持って、小人のベルディンのところに走ってきた。かれは珍しそうに皿を見るとまったく無造作にシチューをザバッと地面にあけ、空の皿だけを投げて返した。そしてその場にしゃがみこみ、両手で食べ物を口に詰めはじめた。そして時々肉の破片についた大きめの石を吐き出す以外は、ほとんど息もつかずにシチューを貪った。やっと食べ終わると、今度はタンカードを一気に飲みほし、雷のようなげっぷをした。それからふんぞり返って肉汁のついた手でもつれた髪をボリボリと掻いた。「さてと、仕事の話を始めるとするか」と、かれは言った。
「今までどこにいたんだ?」ベルガラスはかれに訊ねた。
「クトル・マーゴスの真ん中さ。〈ボー・ミンブルの戦い〉以来、おれはずっと丘の上に座ってベルゼダーがトラクを隠した洞穴を見張ってたんだ」
「五百年も?」シルクがあきれて訊ねた。
ベルディンは肩をすくめ、他人事のように、「まあ、そんなとこだな」と答えた。「誰かがあの火傷顔を見張らなくちゃいけないところにきて、たまたまおれには余分な仕事がなかったもんでな」
「さっきベルゼダーを見たと言ったわね」と、ポルおばさんが言った。
「ひと月ほど前のことだ。あいつは悪魔に追われたような顔をして洞穴にやってくると、すぐにトラクを引っぱり出した。それからコンドルに変身し、トラクの体をつかんでどこかに飛んでいったんだ」
「きっとニーサの国境でクトゥーチクにつかまって〈珠〉を取り上げられた直後のことだろう」と、ベルガラスがつぶやいた。
「そのへんのことは知らないよ。それはおまえの分担であって、おれの分担じゃない。おれに課せられたのは、トラクを見張っておくことだけだったんだから。ところで、おまえたちもあの灰をかぶったのか?」
「灰って?」双子のひとりが訊ねた。
「ベルゼダーが洞穴からトラクを運び出したとたん、山が爆発したんだ――中身を全て噴き出すように。あれは〈片目〉の体を取り囲む力と何か関係があったんじゃないかな。おれがあそこを去るときも、まだ火を噴いてたよ」
「いったい何が噴火を引き起こしたのかと思ってたら」と、ポルおばさんが言った。「あの噴火のおかげでニーサじゅうに一インチも灰が積もったのよ」
「そりゃいい。もっと深く積もればよかったのに、残念だな」
「トラクが動き出すような――」
「――徴候はないのか?」と、双子が訊ねた。
「おまえたち、もっとすらすらと物が言えないのか?」と、ベルディン。
「申し訳ない――」
「――これは性分なんだ」
醜い小男はうんざりして頭を振った。「気にするな。答えはノーだ。トラクはこの五百年の間、一度たりとも動いたことはない。ベルゼダーに運び出されたとき、トラクは鋳型をかぶっていた」
「ベルゼダーの後を追ったのか?」ベルガラスが訊ねた。
「もちろん」
「それで、あいつはどこにトラクを連れていった?」
「間抜けのおまえにわかるかな? 当然、マロリー内のクトル・ミシュラクの廃墟さ。トラクの重力を持ちこたえることのできる場所はこの地上に数えるほどしかないが、あそこはそのうちのひとつだ。さらに、ベルゼダーはクトゥーチクと〈珠〉をトラクから遠ざけておかなければならない。となると可能性のある場所はあそこしかないんだ。マロリーのグロリム連中はクトゥーチクの権威に服従するのを嫌っている。ゆえに、そこにいればベルゼダーは安全ということになる。協力を得るためにはそれなりの代価を払わなければならないだろうが、とにかくかれらはクトゥーチクをマロリー内に入れないようにしてくるだろう――クトゥーチクが兵を挙げてなだれ込んでこないかぎり」
「われわれが当てにしてるのはそれなんだけどな」と、バラクが言った。
「おまえはたしか熊だったな。ろばじゃないはずだぞ」ベルディンはかれに言った。「あり得ないことに望みをかけるな。クトゥーチクもベルゼダーもこの期におよんで、わざわざそんな戦いは起こすまい――ベルガリオンが地震のように大地を轟かせながら世界を闊歩してるときに」かれはポルおばさんをにらみつけて、「もうすこし静かにするよう教えられないのか? それともおまえの機知はその尻と同じですっかりたるんでしまったか?」
「下品なこと言わないで、おじさん。この子は力を持ったばかりなのよ。誰だって最初はしくじるものでしょ」
「かれの場合、まだ子供だからという言い訳は通用しないぞ、ポル。今この瞬間にも、南のクトル・マーゴスでは星が毒を盛られた魚のようにばたばた落ちて、ラク・クトルからラク・ハガのあいだでは、死んだグロリムたちが墓穴の中でうめいている。われわれには時間がない。ベルガリオンはすぐ準備にかからなければならないんだ」
「すぐに始めると思うわ、おじさん」
「だろうな」薄汚い老人は厭味っぽく言った。
「おまえはクトル・ミシュラクに戻るのか?」と、ベルガラスが訊ねた。
「いや。実は〈師〉にここに残るよう言われてな。双子といっしょの仕事で、あまり時間がないんだ」
「〈師〉はわれわれにも――」
「同じことをおっしゃった」
「やめないか!」ベルディンは険しく言い放つと、ベルガラスのほうに向き直って、「これからラク・クトルに向かうのか」
「いや、まだだ。それよりまずプロルグに行かんとな。ゴリムと話しておかなければならんし、もうひとりのメンバーを捜し出さないことには」
「まだ全員揃ったわけじゃないんだな。どうしたんだ、最後のひとりは?」
ベルガラスは両手を広げ、「そこが悩みの種なんだ。彼女の足跡だけがまだつかめない――もう三千年も捜しつづけているのに」
「どうせ居酒屋を捜すのに時間をかけすぎたんだろう」
「わたしも同じことを考えたのよ、おじさん」ポルおばさんは愛らしい微笑みを浮かべて言った。
「プロルグの後はどこに行くんです?」と、バラクが訊ねた。
「ラク・クトルに向かうと思う」ベルガラスは真剣な面持ちで答えた。「なんとしてもクトゥーチクから〈珠〉を奪い返さないと。それに、もうずっと昔からあのマーゴ人の魔法使いとは一度膝を突き合わせて話し合ってみようと思ってたことだしな」
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第三部 ウルゴ
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翌朝、かれらは北西に進路を取り、太陽の光りにぎらぎらと輝きながら、青々とした〈谷〉の草原を見下ろすようにしてくっきりとそびえているウルゴ山脈の頂上を目指した。
「頂上は雪だな」と、バラクが言った。「苦しい旅になりそうだ」
「いつものことですよ」と、ヘター。
「プロルグに行ったことがあるんですか?」ダーニクが訊ねた。
「二、三回ですけど。われわれはウルゴ人と公式な付き合いがあるんです。だからかれらを訪問するときは、たいていが正式な用事ですけど」
セ・ネドラ王女はずっとポルおばさんの横を走っていたが、何か問題を抱えている様子だった。「レディ・ポルガラはどうしてあんなひとに我慢してられるの?」ついに彼女は自分の気持ちをぶちまけた。「あんな醜いひとに」
「誰のこと?」
「あのおぞましい小人のことよ」
「ああ、ベルディンおじさん?」ポルおばさんはすこし驚いた様子だった。「かれはいつでもあんな調子なのよ。あなたもそのうち慣れるわよ」
「でも、レディ・ポルガラにあんなに酷いことを言って」
「ああやって自分の本心を隠すのがかれのやり方なの。ほんとうはすごく優しいひとなのよ。でも、ひとはそんなふうには思わないでしょ――あんな風貌じゃ。かれはまだ子供のころ、家族に家を追い出されたの。不恰好でおぞましいという理由だけで。でもかれがやっとのことで〈谷〉にたどりついたとき、〈師〉はかれの醜さなどは気にかけずに心の美しさだけを見て下さったのよ」
「でもあんなに汚くする必要があるの?」
ポルおばさんは小さく肩をすくめ、「かれは自分の不恰好な体が嫌いなのよ。だからわざと構わないわけ」彼女は穏やかな目で王女を見た。「外見で物事を判断することほど簡単なことはないのよ、セ・ネドラ。でも、そういう判断に限って間違ってることが多いものよ。ベルディンおじさんとわたしは大の仲良しなの。だからこそわざわざあんな悪口を言い合うのよ。だってお世辞っていうのはけっきょく偽善でしょ――なんと言ったって、かれはあのとおり醜いんだから」
「よくわからないわ」セ・ネドラは困惑して言った。
「愛にはいろいろな表現方法があるのよ」と、ポルおばさんは言った。声は何気なかったが、少女に向けた視線はすべてを見抜いてしまいそうな鋭い視線だった。
セ・ネドラはチラッとガリオンを見たが、すぐに頬をほんのりそめて目をそらした。
ガリオンは馬に乗りながら、ポルおばさんと王女は一体何を話しているのだろうと思っていた。確かなのは、ポルおばさんが彼女に何か重要な話をしているということ。そして、それが何であれ、自分はまったく仲間はずれにされているということだった。
一行は二、三日かけて〈谷〉を渡ると、今度はウルゴの国を形成するぎざぎざに尖った山脈の腹にへばりつく前山の中に入っていった。山の中を進むうちに季節はふたたび変化しはじめた。最初の低い尾根をのぼりつめる頃には、あたりは初秋の色に染まりだし、眼下の谷間には紅い梢が燃え立つほどに広がっていた。ところが二番目のやや高い尾根の上までくると、木立はすっかり葉をむかれ、頂上からヒューヒューと吹き降ろす風も冬の到来を告げる木枯らしに変わった。空もだんだん低くなり、雲の渦がかれらの頭上の山間まで垂れ込めていた。ごつごつした岩の斜面をのぼっていくうちに、やがて雪や雨の粒がかれらの体を断続的に叩くようになった。
「そろそろブリルに注意したほうがいいんじゃないかな」ある雪の午後、シルクが期待まじりに言い出した。「もう現われてもいい頃だ」
「その可能性はないな」と、ベルガラス。「マーゴ人は〈谷〉以上にウルゴランドを恐れている。ウルゴ人がアンガラク人をひどく嫌っているからだ」
「アローン人だって嫌ってますよ」
「ウルゴ人は暗い中でも目が見えるんだぞ」と、老人は言った。「マーゴ人がひとたびこの山に入ったら、最初の晩ここで眠ったきりぜったいに目を覚ますことはないだろう。ブリルを心配するにはおよばない」
「ちぇっ」シルクは明らかにがっかりして言った。
「だが目をよく開いておくに越したことはないぞ。このウルゴの山にはマーゴ人より性質《たち》の悪いものがいるからな」
シルクは鼻先でフンと笑うと、「あの話はちょっと大袈裟じゃないですか?」
「いや。そんなことはないぞ」
「ケルダー王子、このあたりに化け物がうようよしてるというのは嘘じゃない」マンドラレンが口をはさんだ。「何年か前、わたしの知っている愚かで若い十二人の騎士が、見えない獣相手に自分たちの勇気と腕を試そうとこの山に乗りこんできた。だが、戻ってきた者はひとりもいなかった」
次の尾根にたどりついたとたん、かれらは猛烈な冬の嵐に襲われた。高度が増すにつれて徐徐に本格的になってきた雪が、遠吠えのような風に乗って真横から吹きつけてきた。
「この吹雪が過ぎるまで避難しないと」バラクはパタパタとなびく熊皮のケープを一生懸命たぐり寄せながら、風の音より大きい声で叫んだ。
「よし、次の谷に下りよう」やはりマントと格闘しながら、ベルガラスが答えた。「あそこの木立なら風を遮ってくれるだろう」
かれらは尾根を渡り、前方の盆地をおおっている松林を目指して斜めに下りていった。ガリオンはマントをさらにぴったり体に巻きつけ、頭を低くして、ヒューヒューと悲鳴をあげる風に立ち向かった。
盆地の底にうっそうと茂る松の稚樹の木立がとりあえず風の威力を食い止めてはくれたものの、雪はかれらが手網をゆるめたときもまだしつこく渦巻いていた。
「今日はそう遠くまで行けませんな、ベルガラス」バラクはひげについた雪を必死に払いながら、言った。「ここに穴を掘って朝を待ったほうがいいでしょう」
「あれは何です?」ダーニクが急に頭を傾げて、声をあげた。
「風だろう」バラクは肩をすくめた。
「いや、そうじゃない。ほら」
遠吠えのような風の音に混じって、甲高い馬のいななきのような声が聞こえてきた。
「あそこだ」ヘターが指差した。
かれらの目にぼんやりと映ったのは、背後の尾根を渡っていく十二頭かそこらの馬に似た動物の影だった。寸分の隙もなく降る雪のせいでその姿はかすんでおり、移動していく様子はまるで幽霊を見ているようだった。頭上の丘には、たてがみと尻尾を風になびかせた巨大な一頭の雄馬が立っていた。雄馬のいななきは甲高い叫び声のように聞こえた。
「フラルガだ!」ベルガラスが険しい声で言った。
「走れば逃げられるでしょう?」シルクは希望を持って訊ねた。
「わからんぞ。あいつらはもうわれわれの臭いを嗅ぎつけてるだろうからな。もし走ったりすれば、ここからプロルグまでずっとつけ回されることになるだろう」
「じゃあわれわれの跡を追うことがどんなに恐ろしいことか教えてやらないといけないな」マンドラレンは盾の紐をきつく締めながら、きっぱりと言った。かれの目はらんらんと輝いている。
「また昔の癖が戻りつつあるらしいな、マンドラレン」バラクはむっつりとした声で言った。
ヘターの顔には、馬と言葉を交わしているときに必ず見せる、奇妙な空白の表情が浮かんでいた。最後にブルブルッと怖気をふるうと、かれの目に嫌悪の色がみなぎった。
「それで?」ポルおばさんはかれに聞いた。
「あれは馬じゃありません」
「それはわかってるわ、ヘター。何か打つ手はある? 脅して退散させるとか」
かれは頭を振った。「あいつらは腹を空かせてるんですよ、ポルガラ。しかもすでにわれわれの臭いを嗅ぎつけています。あのリーダー格の雄馬ですが、あいつがフラルガの群れを統率する力と言ったら、普通の馬の集まりを統率した場合の比じゃありませんよ。弱いやつを二、三頭脅かすぐらいは訳ないんです――あいつさえいなければ」
「つまり、あいつら全部を片づけなきゃいけないということか」バラクは盾を留めながら、厳めしく言った。
「いや、そんなことはないですよ」ヘターは目を細めて答えた。「鍵はどうやらあの雄馬らしいな。あいつが群れ全体を支配している。もしあいつを倒せば、あとのやつらは尻尾を巻いて逃げ出すだろう」
「よし、じゃあその雄馬をやっつけよう」と、バラク。
「何か騒音を出せるものがあるといいんだけど」と、ヘターが言った。「挑戦の音を出すようなものが。そうすればあいつは群れの前に出てきて、その音に答えるでしょう。そうでもしなければ、われわれはあの雄馬のところにたどりつくまでに群れを一頭ずつ片づけてかなくてはならない」
「これならあいつの気を引くだろう」マンドラレンはそう言うと、ホルンを唇に当てて挑戦を意味する金属音を鳴り響かせた。その音は嵐に掻き回されてはるか彼方まで飛んでいった。
すぐに雄馬の甲高い叫び声が返ってきた。
「うまくいったようだな」と、バラク。「マンドラレン、もう一度頼む」
マンドラレンがもう一度ホルンを吹くと、雄馬もそれに応えていなないた。やがて、巨大な雄馬が尾根の上から駆け下りてきたかと思うと、群れの中を猛烈な勢いで抜けた。群れの先頭まで来ると雄馬はもう一度いなないてうしろ脚で立ち、白い雪の中に前脚のかぎ爪をギラつかせた。
「よしきた」バラクが吠えた。「行くぞ!」かれが拍車をかけると、かれの葦毛は雪を蹴散らして前方に躍り出た。ヘターとマンドラレンも飛び出してかれの脇を固め、三人は激しく降りつける雪の中を、いななきをあげるフラルガの雄馬めがけて突き進んだ。マンドラレンは驀進しながら槍を構えた。そして、大地を轟かせ、後ろに妙な音をなびかせながら、フラルガを迎え打ちにいった。よく聞くと、その音はマンドラレンの笑い声だった。
ガリオンは剣を抜き、ポルおばさんとセ・ネドラの前に回ってふたりを護った。そんなことをしても役に立たないとわかっていたが、とにかくそうせずにはいられなかったのだ。
おそらくリーダーの雄馬が無言のうちに命令したのだろう、二頭のフラルガがバラクとマンドラレンを分断するために躍り出てきた。そのあいだに雄馬は、まるで群れにとって一番危険な人物がかれであると判断したかのように、ヘターの前に出ていった。最初のフラルガがうしろ脚で立ち、猫のようにフーッと牙をむきながらかぎ爪の生えた前脚を大きく広げると、マンドラレンは槍を低く構え、うなり声をあげている怪物の胸めがけて投げつけた。フラルガは口から真っ赤な泡を吹き出し、折れたマンドラレンの槍の柄をバリバリに掻きむしりながら、後ろ向きに倒れた。
二頭目のフラルガがかぎ爪を振り回した瞬間、バラクはすかさず盾で押さえ、重い剣を上から大きく振り下ろしてその頭をかち割った。獣はその場にくずれ落ち、ぴくぴくと四脚を痙攣させながら白い雪を掻き回した。
ヘターとリーダー格の雄馬は互いに雪の中で円を描きながらじりじりと忍び寄っていた。両者ともそろそろと円を描きつつ、相手の動きを見逃すまいとして目をカッと見開いている。と、とつぜん、雄馬がうしろ脚で立ち、巨大な前脚を開き、かぎ爪をガッと広げて飛びかかってきた。だが、乗り手と心が通じ合っているヘターの馬は、猛烈な突進をひらりとかわした。フラルガはくるりと向きを変え、もう一度猛進してきたが、ヘターの馬はひょいと脇に飛んでまたもや攻撃をかわした。猛り狂った雄馬は欲求不満の金切り声をあげ、かぎ爪を振り回しながらもう一度突進した。ヘターの馬は憤怒に駆られた獣を一歩脇に寄ってよけると、不意を狙って飛び出した。その瞬間ヘターは鞍から雄馬の背中に飛び移った。かれの長くて強靱な脚はフラルガのあばらをがっしりと締め上げ、右手はたてがみをわしづかみにした。
フラルガの歴史が始まって以来、初めて背中に人間の重みを感じた雄馬はすっかり正気を失った。うしろ脚を上げて飛び上がったかと思うと、今度は前脚を上げてヒヒーンといななき、必死にヘターを振り落とそうとしている。攻撃の体勢に入っていた残りのフラルガは、雄馬が乗り手を落とそうとめちゃくちゃに暴れているのを見て、正体不明の恐怖に襲われ、思わずたじろいだ。マンドラレンとバラクも手網をゆるめると、ヘターが吹雪の中で怒り狂った雄馬をグルグルと乗り回す様子を、ただただ呆気にとられて見守った。やがてヘターは顔色ひとつ変えずに手を伸ばすと、長くて幅広の短剣をブーツの中から抜き出した。かれは馬を知りつくしており、どこを狙えばいいかは考えるまでもなかった。
かれは最初の一撃で雄馬の急所をとらえた。掻き回された雪が赤く染まった。雄馬は最後の力を振りしぼってもう一度うしろ脚で立つと、ヒヒーンといなないた。と同時に口から鮮血がほとばしり、二、三歩あとずさって、震える脚で必死に体を支えた。膝が徐々にガクガクしてきたかと思うと、雄馬は片側にひっくり返った。ヘターはとっさに脇に飛び退いた。
フラルガの群れは敵に背中を向けると、キーキーと鳴きながら、吹雪の中を一日散に逃げていった。
ヘターは厳めしい顔をしたまま雪の中で短剣を清めると、またブーツの中に戻した。少しのあいだかれは死んだ雄馬の首に片手を当てていたが、やがてきびすを返すと、雄馬の背中に飛び移るさいに捨てたサーベルを求めて踏みつけられた雪の中をまさぐった。
三人の戦士はやがて木立の陰に戻ってきた。ヘターを見つめるマンドラレンとバラクのまなざしは、深い敬意に満ちていた。
「狂ってさえいなければ」ヘターは遠くを見るような顔つきをして言った。「たしかにあの雄馬の心にふれて、理解しあえそうな瞬間があったのに。でも、次の瞬間また狂気が戻ってきて、どうしても殺さないわけにはいかなかった。もしかれらを飼い慣らすことができれば――」かれはそこで言葉を切ると、頭を振った。「まあ、仕方がない」かれはそう言って残念そうに肩をすくめた。
「好き好んであんな獣にまたがったわけじゃないんでしょう?」ダーニクはショックを受けて訊ねた。
「あんな獣に乗ったのは初めてですよ」ヘターは静かに答えた。「あの感覚は一生忘れないだろうな」かれはくるりと後ろを向くと、しばらく歩いて立ち止まり、渦巻く雪の向こうをじっと眺めていた。
その夜、かれらは松の陰に野営を張った。一夜明けると風は止んでいたが、雪はかれらがふたたび出発するときもまだ激しく降りつづいていた。すでに膝のあたりまで降り積もっており、馬たちはその雪と格闘しながら坂をのぼった。
また新しい尾根を渡ると、眼下に次の谷が見えた。シルクは、しんと静まりかえった大気の中にとめどなく降り積もっていく雪をいぶかしそうに見回した。「もしこれ以上深くなったら、動きがとれなくなりますよ、ベルガラス」かれは沈鬱な声で言った。「このままこうやって上りつづけるならなおさらのこと」
「もう心配ない」と、老人は言った。「ここから先は谷つづきだ。谷の終点がプロルグだから、頂上を通る必要はないのだ」
「ベルガラス」先頭を歩いていたバラクが肩ごしに怒鳴った。「通ったばかりの足跡がありますよ」かれはそう言って一行の行く手を横切っている足跡を指さした。
老人はすぐに前に出ていくと、足跡をじっとながめた。「アルグロスだ。みんな目をよく開いておけよ」
用心しながら谷間に下りていったところで、マンドラレンは小休止して新しい槍を伐り出した。
「ああしょっちゅう壊れるような武器はあまり信用できないな」騎士がふたたび馬に乗るのを見て、バラクが言った。
マンドラレンはよろいをきしませて肩をすくめると、「木はいつだって手に入るから」と言った。
ふたたび谷ぶところに密生する松の林に入ったとたん、ガリオンは聞き覚えのある物音を耳にした。「おじいさん」かれはベルガラスを呼んだ。
「ああ、聞こえてる」
「何頭ぐらいでしょうね?」と、シルク。
「たぶん十二頭かそこらだろう」ベルガラスが言った。
「八頭よ」ポルおばさんがきっぱりと言った。
「もしたったの八頭なら、わざわざわれわれを襲ってくるでしょうか?」マンドラレンが訊ねた。「アレンディアで出くわしたやつらは、大勢でなければ何もできないように見えましたけど」
「きっとこの谷にねぐらがあるんだろう」と、老人は言った。「自分の巣を守らない動物はいないからな。攻撃してくるのはまず間違いない」
「じゃあ何としてもそのねぐらを捜し出さねば」騎士は独り決めして言った。「待ち伏せされて不意をつかれるぐらいなら、今のうちに先手を打って叩きつぶしてしまったほうがいい」
「確実に悪習を取り戻しつつあるようだぜ、男爵は」バラクは苦々しい顔でヘターに耳打ちした。
「でも、かれの言うとおりかもしれませんよ」と、ヘターは答えた。
「おまえ酒でも飲んでいるのか?」バラクは信じられないといった様子で訊ねた。
「まあまあ、バラク卿」マンドラレンは陽気に言った。「ここはひとつ安心して旅をつづけるためにも、あいつらを捜し出してしまおうじゃないか」かれはそう言うが早いか、吠え声をあげるアルグロスの姿を求めて雪の中を横切りはじめた。
「行きますか、バラク?」ヘターは声をかけつつサーベルを抜いた。
バラクは溜息をつくと、うめくような声で、「そうするしかなさそうだな」それからベルガラスの方を向くと、「長くはかかりませんよ。血に飢えた仲間が羽目をはずさないようにしっかり見張っておきますから」
ヘターはそれを聞いて笑い声をあげた。
「おまえもあいつに負けずおとらず悪くなってるな」バラクはいまわしそうに言うと、ヘターととともに速足でマンドラレンの後を追った。
ガリオンたちはしんしんと降り積もる雪の中でかれらの帰りをじっと待っていた。しばらくすると森のどこかで吠え声がしたが、それはすぐに驚きの叫びにとって変わった。間もなく剣を振る音が木立の中に鋭く響きはじめ、三人の戦士が互いに呼びかける声に混じって苦しそうな悲鳴や叫びが聞こえてきた。十五分ほどたっただろうか、三人が深い雪を煙のように巻きあげながら、すごい勢いで戻ってきた。
「二頭逃げられた」ヘターが無念そうに報じた。
「気の毒に」とシルク。
「マンドラレン」バラクが気分を害した様子で言った。「またずいぶん性質《たち》の悪い癖を身につけたもんだな。戦いっていうのは厳粛なものなんだぞ。あのクスクス笑いや馬鹿笑いはちょっと軽率すぎるんじゃないか」
「気を悪くしたのか、バラク卿?」
「別にそんなことで腹を立てたりしないけどな、マンドラレン、気が散って仕方がないんだよ」
「よし、これからはあまり笑わないように努力しよう」
「そう願いたいね」
「ところで、どんな具合だった?」と、シルクが訊ねた。
「たいした戦いじゃなかったさ」と、バラク。「まったくの不意を襲ったからな。あまり言いたくないんだが、今回は笑い上戸の騎士の判断が正しかったようだぜ」
ガリオンは谷を進みながら、マンドラレンの態度の変わりようについて考えていた。子馬が生まれたあの洞穴で、ダーニクは確か、笑い飛ばしてしまえば恐怖を征服できるというようなことをかれに言った。もちろんダーニクは本当に笑えというつもりで言ったのではなかったのだろうが、マンドラレンは言葉どおりに受け取ってしまったのだ。バラクを苛立たせたかれの笑いは、じつは目の前の敵ではなく自分の中に住む敵に向けたものだったのだ。マンドラレンは攻撃を加えながら、自分の恐怖心を笑い飛ばしていたのだ。
「どうみても異常だぜ」バラクはしつこくシルクに耳打ちしている。「だから、こうなんていうか、落ち着かないんだよ。それだけじゃないよ、エチケット違反だぜ、あれは。真面目に戦っている最中にあんなふうにくすくす笑われたり騒がれたりしてみろよ、おそろしく気が散るぜ。ひとが見たらなんて思う?」
「気にしすぎだよ、バラク」シルクは言った。「まあ、新鮮でいいと思うけどね」
「今なんて言った?」
「新鮮って言ったんだよ。なんたってユーモアのセンスを持ったアレンド人なんて見たこともないからな――言葉をしゃべる犬と同じでさ」
バラクは話にならないといった感じで頭を振った。「おまえと真面目な話をしようとしたおれが馬鹿だった。シルク、おまえ自分で気づいてるか? おまえにかかっちゃどんな賢い発言もジョークになっちゃうんだよ」
「誰だって多少の欠点は持ってるもんさ」シルクは穏やかに言った。
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その後、雪はしだいに勢いをゆるめ、夜が訪れてかれらがこんもりと茂った檜の木立に夜営を張るころには、深まる闇の中に時折ひらりと舞い落ちる雪片が見えるだけとなった。だが夜中のうちに気温が下がりはじめ、翌朝目を覚ましてみると、凍てつくような寒さがかれらを包んでいた。
「プロルグまではあとどのくらいなんです?」シルクは焚き火の隣に立ち、かじかんだ手を炎の上にかざしながら訊ねた。
「あと二日だ」と、ベルガラスが答えた。
「まさかこの気候をどうにかしてしまおうなんて考えてませんよね?」小男は期待まじりに訊ねた。
「どうしてもやらなければならないというんでなければ、そういうことはしたくないな」と、老人は答えた。「そういうことをすると恐ろしく広い範囲に渡って物事を乱すことになる。それに、自分の山の中でわれわれがみだりに物事を変更することをゴリムが許すはずがない。ウルゴ人はそういうことにはいろいろと制限をつけたがるのだ」
「そう言うだろうと思ってましたよ」
その朝のルートはつづらおりの連続で、昼を前にしてガリオンの頭はすっかり混乱してしまった。身を切るような寒さにもかかわらず、空は雲におおわれ、平坦な鉛色がどこまでもつづいていた。まるでこの寒さが世界じゅうの彩りをすべて凍結してしまったかに見えた。空は灰色、雪はのっぺりとした鈍い白、そして木の幹は荒涼とした黒。かれらの脇を流れている川の水さえ、雪におおわれた堤の間にただ黒い色を添えているだけだった。ベルガラスは次の谷の先に別の谷が交わって見えるたびに、進行方向を指差し、しっかりした足取りで歩を進めた。
「確かでしょうね?」シルクはある地点まで来るとブルブル震えながら訊ねた。「一日じゅうずっと川上に向かって進んでたのに、ここに来て突然川下に行くなんて」
「二、三マイルのうちにまた別の谷にぶつかる。心配するな、シルク。わしはここに住んでたことがあるんだからな」
シルクはずっしりとしたマントをしっかり引き寄せると、「知らない土地だから少しばかり神経質になってるだけです」と言って、脇を流れる暗い流れを見やった。
そのとき、はるか上流のほうから奇妙な音が聞こえてきた。気のふれた者が何かをあざけっているようにも聞こえるし、笑い声ととれないこともなかった。ポルおばさんとベルガラスは素早く視線を交わした。
「何なの?」ガリオンは訊ねた。
「岩狼だ」ベルガラスは手短に答えた。
「狼の声とは違うみたいだけど」
「狼ではない」老人は用心深くあたりを見回した。「あいつらはだいたい腐食動物だから、もしただの野性の群れであれば襲ってくることはまずない。まだ冬も始まったばかりだし、それほど切羽つまった状況でもあるまい。だが、もしエルドラクの率いる群れだとしたら、面倒なことになるぞ」かれはあぶみに足をかけたまま立ち上がり、前方の様子をうかがった。「少しスピードを上げよう」かれはマンドラレンに呼びかけた。「それからくれぐれもよく目を開いておくように」
マンドラレンは霜のついたよろいをきらめかせながら振り向くと、こっくりとうなずいて逆巻く山川の黒い流れに沿って疾走しはじめた。
その間にも、甲高い悲鳴のような笑い声はどんどん大きく迫ってくる。
「ついてくるわよ、おとうさん」と、ポルおばさんが言った。
「わかっておる」老人は心配そうに顔をゆがめ、谷の両脇にキョロキョロと視線を走らせている。「おまえが見てくれ、ポル。心臓を縮めるようなものは見たくない」
木深い林におおわれた谷の両端を心で透視するうちに、ポルおばさんの瞳は見るみるうちに虚ろになった。まもなく彼女はアッと息を飲み、怖気をふるった。「エルドラクがいるわ、おとうさん。こっちを見てる。あいつの心はまるで掃き溜めよ」
「あいつらはみんなそうさ。名前はわかるか?」
「グラル」
「わしが心配していたのはこれだったのだ。あいつの縄張りに近づいていることはわかっていたが」かれは唇に指を当て、ピッーと口笛を鳴らした。
バラクとマンドラレンは立ち止まってみんなが追いつくのを待った。「困ったことになった」ベルガラスは全員を前に真剣な面持ちで言った。「岩狼を率いたエルドラクだ。今もわれわれを見張っている。襲ってくるのは時間の問題だ」
「エルドラクって?」最初に疑問を口にしたのはシルクだった。
「エルドラクはアルグロスやトロールと似たようなものだが、もっと頭がいい――そしてもっと大きい」
「でもたったの一頭でしょう?」と、マンドラレン。
「一頭いれば十分だ。こいつには前にも会ったことがある。名前はグラルといってな。大きくて、すばしっこくて、偃《えん》月刀のように残忍なやつだ。動くものなら何でも食べてしまう。いったん狙ったら、死んでようが生きてようがいっさいかまわずにガツガツと貪るのだ」
あざけるような岩狼の笑い声は、ますます近づいてくる。
「広い場所を見つけて火を起こそう」と、老人は言った。「岩狼は火が苦手だ。わざわざ岩狼とグラルの両方を相手にすることもないだろう」
「あそこは?」ダーニクは、暗い川面に突き出している、雪におおわれた砂州を指差した。その砂州は小石と砂からなる細い首状部によってすぐ先の堤とつながっていた。
「敵の攻撃を防ぐには最適ですよ、ベルガラス」バラクは砂州をちらっと見て、すぐに言った。
「川がわれわれとあいつらの問を隔ててくれるし、砂州に来るにはあの細いところを渡るしか道はない」
「よし、いいだろう」ベルガラスもすぐに賛成した。「行くぞ」
かれらは雪におおわれた砂州に渡ると、一ヵ所を選んでそこの雪だけを素早く足でこすり、滑らかにした。一方ダーニクは、狭い首状の道を半分ほどもふさいでいる巨大な灰色の流木の下で火を起こしはじめた。間もなくオレンジ色の炎が巨木の周りをめらめらと走り出した。ダーニクがさらに小枝をくべると、流木は真っ赤な炎をあげて燃え上がった。「手を貸してくれ」もっと大きな木をくべはじめたところで、ダーニクは応援をたのんだ。バラクとマンドラレンはさっそく砂州の上端に行き、ごたまぜに積み重なった流木の中から大きな枝や太めの丸太を選んで焚き火のところへ引きずっていった。十五分が過ぎる頃には、焚き火はゴーゴーと音をたてて燃えさかる巨大なかがり火となっていた。その炎は細い砂の首の両端まで手を広げ、堤側の黒っぽい森からかれらをすっかり遮断してしまった。
「やっと体を温められる」シルクはにやりと笑い、炎のところに行った。
「やつらが来るよ」ガリオンが叫んだ。黒っぽい木の幹の間に、時おり何かがこそこそと動いているのが見える。
バラクは炎の向こうをじっと見つめ、「ずいぶん大きな獣ですね」と厳めしい声で言った。
「ロバぐらいの大きさだな」と、ベルガラス。
「火が嫌いだっていうのは確かなんでしょうね?」シルクは心配そうに訊ねた。
「たいていは」
「たいてい?」
「捨てばちになってかかってくることも時にはある――あるいはグラルならあいつらを駆り立てることもできるだろう。岩狼が火より恐れているのがグラルなのだ」
「ベルガラス」イタチ顔の小男は声を荒げた。「あなたは、時として大事なことを自分ひとりの胸にしまってしまうという、まったく許しがたい癖を持ってますね」
一頭の岩狼が砂州のすぐ上流の堤に飛び出してきたかと思うと、くんくんと空気の臭いを嗅ぎながら落ち着かない様子で炎をながめた。岩狼の前脚はうしろ脚にくらべきわだって長く、そのため半分立っているような奇妙な姿勢をしていた。肩には大きな筋肉のこぶがあった。鼻づらは短く、まるで猫のようなしし鼻だった。毛皮は黒と白の斑で、斑点とも縞ともつかないような模様に混ざり合っていた。そわそわと前に来たり後ろに下がったりしながらも目はかれらをじっと見たまま決してそらそうとしない。そして、そうやって凝視しながら、甲高い、あざけるような笑い声をあげているのだ。間もなくもう一頭の岩狼が出てきて最初の岩狼に合流し、さらにもう一匹が姿を現わした。かれらは堤に沿って横に広がり、足踏みをしたりあざけりの笑い声をあげたりしていたが、炎に近づく気配はまったくなかった。
「犬とは似ても似つきませんね」と言ったのはダーニクだった。
「じっさい犬とは違うのだ」と、ベルガラスは答えた。「狼と犬は親戚のようなものだが、岩狼はまったく別種の獣だ」
この頃にはすでに十頭の岩狼が堤に並び、あざけりの声は気違いじみた合唱に変わっていた。
と、そのとき、セ・ネドラが悲鳴をあげた。彼女の顔は蒼白で目は恐怖に大きく見開かれている。
見ると、エルドラクが木立の中からよろよろ出てきて、甲高い声をあげる群れの真ん中に立っているではないか。背丈が八フィートほどもあり、全身が黒いもじゃもじゃの毛におおわれている。その体を包んでいるのは大きな鎖かたびらを革ひもでつなぎ合わせたよろいで、さらにその上にやはり革ひもで結びつけてあるのは錆ついた胸当てだった。その胸当てはどうやら巨大な胸に合わせるために石で何度も打ち出したものらしかった。獣の頭にのっているのは円錐形の鋼のかぶとで、これも大きさを合わせるために後ろに裂け目が入っていた。手に持っているのは鋼に包んだ巨大な棍棒で、その表面には無数のかざり釘が打ちつけてあった。だがセ・ネドラの悲鳴を呼んだのは、他でもないその顔だった。鼻はないも同然で、下顎は突き出し、二本の巨大な牙が剥き出しになっている。両眼は重くかぶさった額の骨の下の眼窩に深く沈み、恐ろしい飢えに赤く燃えていた。
「いつまでもしつこいぞ、グラル」ベルガラスは冷たく凄味のある声で言った。
「グラトはまたグラルの山に来たか?」怪物は吠え声をあげた。地の底から響いてくるような、虚ろで冷え冷えとした声だった。
「しゃべるのか、こいつは?」シルクは意外な事実に息をのんだ。
「どうしてわれわれの後をつけるのだ、グラル?」と、ベルガラスが訊ねた。
怪物は炎のような目でかれらを見つめ、「腹減った、グラト」とうなった。
「他の獲物を捜せ」老人は怪物に言った。
「なぜ? 馬いる――男も。食べるものいっぱい」
「だが簡単には食えんぞ、グラル」
グラルは顔いっぱいに恐ろしい笑いを浮かべ、「はじめ戦う」と言った。「次食べる。来いグラト。また戦う」
「グラト?」シルクは妙な顔をした。
「わしのことだ。あいつはわしの名前をちゃんと発音できないのだ――きっと顎の形のせいだろう」
「あいつと戦ったことがあるんですか?」バラクが驚いて訊ねた。
ベルガラスは肩をすくめ、「袖のところにナイフを持っていて、つかまれた瞬間それであいつを引き裂いた。たいした戦いじゃなかった」
「戦え!」グラルはふたたび吠えた。巨大な拳で胸当てをバンバン叩き、「鉄。来いグラト。グラルの腹、もいちど裂いてみろ。今度グラル鉄着てる――人間と同じ」怪物はそう言うと、今度は鋼に包んだ棍棒で凍った地面をバンバン叩きはじめた。「来いグラト。戦え!」
「みんなでいっせいに追いかければ、ひとりぐらい運よくあいつを突き刺せるかもしれないな」バラクは品定めするように怪物を見ながら言った。
「おぬしの案には欠点があるぞ、バラク卿」とマンドラレンが言った。「あの棍棒が届く範囲まで近づいたら、われわれはきっと仲間を何人か失うことになるだろう」
バラクはびっくりしてかれの顔を見ると、「これがあのマンドラレンか? おまえがそんな慎重なことを言うのか?」
「思うに、わたしがひとりで引き受けるのが一番の方法だろう」重々しく騎士は言った。「無事に怪物の命を奪える武器は、おそらくわたしの槍だけだ」
「一理ありますね」ヘターが同意して言った。
「来い、戦え!」グラルは棍棒で地面を叩きながら吠えている。
「わかった」バラクは半信半疑で騎士の意見に賛成した。「じゃあわれわれはあいつの気を散らすことにしよう――ふた手に分かれて突進し、注意を引くんだ。そうすればマンドラレンが攻撃しやすくなる」
「岩狼はどうするの?」ガリオンが訊ねた。
「いい考えがある」ダーニクはそう言うと赤々と燃える小枝を拾い上げ、不安そうに怪物を取り囲んでいる岩狼の群れめがけてビュンと回転を加えて投げつけた。岩狼は悲鳴をあげ、くるくると回転する燃え木から逃げ回った。「よし、やっぱり火には弱いらしいな」と鍛冶屋は言った。「われわれがいっせいに燃え木を投げて、その後どんどん投げつければ、しまいにはあいつらは神経が切れてしまって退散するにちがいない」
かれらはいっせいに炎を目指した。
「今だ!」ダーニクが叫んだ。かれらは赤く燃える小枝をできるかぎり早く投げはじめた。岩狼はキャンキャンと吠えながら必死にそれをかわしていたが、それでも何頭かは転げ落ちる燃え木に毛皮を焼かれ、その痛さに悲鳴をあげた。
グラルは、岩狼の群れが突然降ってきた炎の雨をよけようと足元でオロオロと逃げ惑っているのを見て、怒りの吠え声をあげた。毛皮を焦がした一頭の岩狼が痛さと恐怖に正気を失い、グラルに飛びかかろうとした。グラルは目を見張るような身軽さでひょいと脇に飛び退くと、巨大な棍棒で岩狼を叩きのめした。
「思ったより機敏だな」と、バラクは言った。「これは用心してかからないと」
「岩狼が逃げてくぞ!」ダーニクは叫びながら、さらに燃え木を投げつけた。
燃え木の雨の下ですでにバラバラに分裂していた岩狼の群れは、吠え声をあげながら尻尾を巻いて森の中に逃げ帰っていった。川の堤には、憤怒に駆られ、雪の地面を棍棒でバンバン叩くグラルだけがとり残された。「来い、戦え!」を連発しながら大きく一歩踏み出し、また地面を叩いている。
「今すぐ行動を開始したほうがいい」シルクは気迫のこもった声で主張した。「放っておくとあいつはどんどん興奮してくる。この砂州にやってくるのも時間の問題だ」
マンドラレンは厳めしくうなずくと、きびすを返して馬の背中に向かった。
「よし、われわれはまずあいつの気を散らそう」と、バラクが言った。かれはずっしりとした剣を抜くと、「さあ行くぞ!」と叫び、炎を飛び越えていった。他の仲間もかれの後につづき、そびえ立つグラルの前を半円に取り囲んだ。
ガリオンも自分の剣に手を伸ばした。
「あんたはいいのよ」ポルおばさんがぴしゃりと言った。「ここにいなさい」
「でも――」
「言われたとおりになさい」
グラルがバラクとダーニクのほうに前進してるすきに、シルクは数ヤード離れたところから一本の短剣を巧みに投げつけた。短剣はグラルの肩にぐさりと刺さった。グラルは吠え声をあげて振り返り、今度は巨大な棍棒を振り回しながらシルクとヘターのほうに突進した。ヘターはひらりと身をかわし、シルクも跳ね回りながら棍棒をよけた。と同時に、ダーニクが怪物めがけて拳ほども大きさのある石をつづけざまに投げはじめた。いよいよ怒り狂って振り向くグラルの、その尖った牙から小さな泡がポタポタと落ちた。
「今だ、マンドラレン!」と、バラクが叫んだ。
マンドラレンは槍を斜めに構え、拍車をあてた。武装した巨大な軍馬はひづめで小石を攪拌しながら前に飛び出すと、炎を飛び越え、驚くグラルに向かって突進した。一瞬、かれらの計画は成功するかに見えた。先端に鋼をつけた槍がグラルの胸をまっすぐに狙ったところまでは、その大きな体が貫かれるのを止めるものは何もないように見えたのだ。ところが、怪物の敏速さはまたしてもかれらの度胆を抜いた。グラルは片側に飛び退くと、マンドラレンの槍めがけて釘のついた棍棒を振り下ろし、がっしりした木材を粉々に砕いてしまったのだ。
だが、それでもマンドラレンの突進の勢いを止めることはできなかった。馬とマンドラレンは耳をつんざくような大音響とともに、巨大な怪物にぶつかっていった。グラルは棍棒を落としてよろよろとあとずさり、マンドラレンと馬の下に転がった。
「今だ、押さえろ!」というバラクの号令と共に、かれらはいっせいに剣や斧を持って倒れたグラルを攻撃しにいった。ところが、怪物はもがいている軍馬の下腹に足を当てると、その大きな体をぐいと押し退けた。さらにぶんぶんと振り回した巨大な拳がマンドラレンの脇腹を直撃し、その体を数ヤードも飛ばしてしまった。バラクとヘターとシルクが倒れているグラルにワッと群がった瞬間、ダーニクもまた頭に閃光のような一撃を受け、クルクルと回転したあと、地面に倒れた。
「おとうさん!」ポルおばさんの絶叫が響き渡った。
とつぜん、ガリオンの真後ろで別の音が聞こえた――最初は雷のような低いうなり声だったが、それが間もなく髪の毛が逆立つような恐ろしい遠吠えに変わった。ガリオンがとっさに振り返ると、そこにはいつかアレンディア北部の森で見たあのおそろしく大きな狼が立っていた。灰色の老狼は炎を軽く飛び越すと、大きな歯を鋭くきらめかせながら戦いの中に入っていった。
「ガリオン、手を貸して!」ポルおばさんは動転している王女を振りほどき、胴着の中からお守りを取り出した。「メダルを出すのよ――早く!」
かれはわけがわからなかったが、とにかくチュニックの下からお守りを取り出した。ポルおばさんは片手を伸ばしてかれの右手を取り、自分のお守りの上に浮き彫りにされたふくろうの絵にかれの掌のあざをあてがった。と同時に、彼女はもう片方の手でかれのお守りを握った。
「精神を集中するのよ」と、彼女は言った。
「何に?」
「お守りによ。さあ、急いで!」
ガリオンは意志を呼びはじめた。自分の中で力がどんどんつのっていくのが感じられた。なぜかしらその力はポルおばさんとの接触と二つのお守りによって増大しているように思えた。ポルガラは目を閉じて鉛色の空に顔を向け、「おかあさん!」と叫んだ。狭い谷間に鳴るトランペットの音のように、その声は大きくこだました。
その瞬間、ガリオンは体の中からほとばしった力の大きさに圧倒されて、がっくりと膝をついたきり立ち上がることができなくなってしまった。ポルおばさんもかれの隣にひざまずいた。
セ・ネドラがアッと息をのむのが聞こえた。
ガリオンがやっとのことで頭をあげると、そこには憤怒に駆られたグラルを攻撃する二頭の狼の姿があった――ベルガラスの化身である灰色の狼、そしてわずかに小さいもう一頭の狼。その狼は不思議な青い閃光に包まれているように見えた。
グラルはすでにもがきながら立ち上がっており、攻撃にいった男たちがよろいに包まれたその体を無為に切りつけている間にも、巨大な拳をめくらめっぽうに振り回していた。バラクは戦いの最中から放り出され、地面に四つん這いになったままふらふらと頭を振っていた。グラルはすかさずヘターを払いのけると、嬉しそうに目を光らせて巨大な両腕を振りかざしながらバラクに飛びかかっていった。だが、その瞬間、青い狼がウウーッといがみながら怪物の目の前に飛び出してきた。グラルは拳を振りあげたが、その拳が狼の光る体をスーッと通り抜けたのを見ると、呆気に取られてぽかんと口をあけた。ベルガラスが狼の伝統的な戦法に則り、すかさずうしろから襲いかかって巨大な牙でその膝腱をあざやかに噛み切ると、怪物は傷みに悲鳴をあげながらそっくり返った。雲突くばかりにそびえていたグラルの体は、吠え声とともに、巨大な木か何かのようにドシーンと地面に倒れた。
「押さえつけろ!」バラクは吠えるように言って、ふらふらと立ち上がり、よろめきながら前進した。
二匹の狼が顔を引き裂きはじめると、グラルは腕を振り回して必死にそれを打ち払おうとした。だが何度やっても、腕は不思議な光を放つ青い狼の体をスッとすり抜けるばかりだった。マンドラレンはそのすきに両足を踏ん張って両手でだんびらの柄をつかむと、しっかりとした動作で一気に怪物の体に刃を振り下ろし、胸当てに長い裂け目を入れた。バラクが怪物の頭部に剣の一撃を加えると、錆びた鋼のよろいから火花が散った。片側にしゃがみこんだヘターは真剣な目をしてサーベルを構え、出番をうかがった。そして、グラルがバラクの剣をよけようとしたその瞬間、飛び出していって、むきだしになった怪物の脇の下から特大の胸部にかけてサーベルを突き刺した。サーベルがついに肺を引き裂くと、グラルの口から真っ赤な泡がほとばしった。怪物は半座りの姿勢で胸をかきむしった。
その機を狙って、戦場の端で待ち伏せていたシルクが突進し、グラルの首の後ろに短剣の先を当て、大きな石で柄頭をガンガンと叩いた。グシャッという気味の悪い音をたてて短剣は骨を貫き、怪物の頭を斜めに突き抜けた。グラルはしばらくひくひくと痙攣していたが、やがてドサッと崩れ落ちた。
その後に訪れた束の間の静けさの中で、二匹の狼は怪物の体の向こうとこちらで互いの姿を見つめ合っていた。青い狼が一度だけ片目をつぶったように見えた。と同時に、ガリオンはその声――それはたしかに女の声だった――が「お見事ね」と言ったのをはっきりと聞いた。微笑みを浮かべて最後にもう一度光を放ったかと思うと、彼女はスーッと姿を消した。
灰色の老狼は鼻先で空を仰ぎ、ウォーンと吠えた。激しい苦悩と喪失感をひめたその声に、ガリオンは胸がしめつけられる思いだった。やがて老狼の姿がかすかに光ったかと思うと、次の瞬間、ベルガラスがその場にひざまずいていた。ゆっくりと立ち上がり、かがり火の方に帰っていくかれの、白いものの混じった頬に涙がとめどもなく伝い落ちていた。
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15[#「15」は縦中横]
「大丈夫かな?」ポルおばさんがダーニクの頭の側面にできた大きな紫色の瘤を調べているそばで、バラクはいまだに意識の戻らない仲間をのぞき込んで心配そうに訊ねた。
「心配するほどのことではないわ」と、彼女は答えたが、その声はすっかり疲れきっているように聞こえた。
ガリオンは彼女の脇に座ってダーニクの頭を両手で包んでいた。かれもまた体じゅうの力が絞り取られてしまったような虚脱感に襲われていた。
急速に消えゆくかがり火の炭山の向こうでは、シラクとヘターが凹んだマンドラレンの胸当てをはずそうと四苦八苦していた。肩から腰にかけて斜めに走る深い折り目が、グラルの一撃の激しさを物語っていた。肩当ての下の革ひもはあまりに強い圧力がかかったため、ほとんど緩めることもできなかった。
「これは切らないといけないかもしれないな」と、シルクは言った。
「ケルダー王子、できることならそれは避けてもらいたいんだが」かれらが締め具をひねりはじめたとたん、マンドラレンはたじろいで言った。「そのひもはよろいをぴったり着るためにどうしても必要なもので、しかも、一度切ってしまったらうまく元には戻せない代物なんだ」
「こいつがはずれそうだぞ」ヘターは短い鉄の棒を使い、締め金のひとつをてこで上げながら言った。不意に締め金がはずれ、ピンと張った胸当てが、軽く鐘を叩いたような音をたてた。
「よし、もうだいじょうぶだ」シルクはそう言うと、もう一方の肩の留め金を手ぎわよくゆるめた。
凹んだ胸当てをはがしてもらうと、マンドラレンは安堵の溜息をもらした。それから大きく息を吸い込むと、今度は傷みにたじろいだ。
「ここが痛むんじゃないか?」シルクは騎士の胸の右側を軽く指で押さえながら訊ねた。マンドラレンは苦しそうにうなり、顔色が目に見えて青白くなった。「マンドラレンよ、ひょっとしてあばら骨を何本が折ってるんじゃないか」と、シルクは言った。「ポルガラに見てもらったほうがいい」
「ちょっと待ってくれ」マンドラレンはそう言うと、「馬は?」
「馬なら心配はいりませんよ」と、ヘターが答えた。「右の前足の腱を少し傷めただけです」
マンドラレンはほっと胸をなでおろした。「それだけが気がかりだったんだ」
「わたしはしばらくの間、全員の安全が気がかりだったよ」と、シルク。「あの馬鹿でかい遊び相手には、われわれの手にあまるものがあったぞ」
「でもいい戦いでしたよ」ヘターは思い出すように言った。
シルクはうんざりとした視線をかれに向けたあと、空をかすめて通る灰色の雲を見上げた。それから赤い燠火を飛び越し、ベルガラスが腰をおろして冷たい川をながめている場所に行った。「そろそろここを離れたほうがよさそうですよ、ベルガラス」と、かれは言った。「空模様がまたおかしくなってきてるし、こんな川の真ん中で夜を過ごしたらみんな凍え死んでしまいますよ」
「放っておいてくれ」ベルガラスは川を見つめたまま、そう答えるだけだった。
「ポルガラ?」シルクは彼女のほうを見た。
「しばらく放っておいていいわ。それより、二、三日隠れていられそうな場所を探してきてちょうだい」
「おれも行くよ」バラクはそう言うと、よろけながら馬に向かった。
「あなたは残るのよ」ポルおばさんは有無を言わさぬ口調で宣言した。「心棒の折れた荷馬車みたいにギーギー音を立ててるじゃないの。永久にびっこをひくなんてことにならないように、今のうちにちゃんと見せてちょうだい」
「わたし、いい場所を知ってるわ」セ・ネドラはそう言うと、立ち上がって肩のあたりにマントを巻きつけた。「川を下ってくる途中で見たのよ。案内するわ」
シルクは物問いたげな顔でポルおばさんを見た。
「行ってちょうだい」と、彼女は言った。「もう危険はないわ。エルドラクが一頭いたら、同じ谷に別のものが住んでる可能性はまずないわ」
シルクは笑って、「ほんとうですかね? さあ、行きますか、王女?」ふたりは馬に乗り、雪道を抜けていった。
「ダーニクは元気になるかな?」ガリオンはおばに訊ねた。
「今は眠らせてあげましょう」彼女の声は弱々しかった。「起きたときには、目のくらむような頭痛が待っているんだから」
「ポルおばさん?」
「何?」
「あの狼は誰なの?」
「わたしの母のポレドラよ」
「でも、そのひとは――」
「ええ。あれは彼女の魂よ」
「あんなことができるの?」ガリオンはその法外さに打たれて言った。
「もちろん、ひとりではできないわ。あんたの助けが必要だったのよ」
「じゃあ、ぼくがこんなに疲れてるのは――」しゃべることさえ努力が必要だった。
「あの狼を出現させるためには、わたしたちは力のすべてを出しきらなければならなかったのよ。今は質問を浴びせないでちょうだい、ガリオン。ひどく疲れてるけど、まだやらなければならないことが山ほどあるのよ」
「おじいさんは大丈夫?」
「そのうちに元気になるわ。マンドラレン、ここに来て」
騎士は砂州の首の部分の燠火をまたぎ、胸にそっと手を当てながらゆっくりとポルおばさんのほうへ歩いてきた。
「そのシャツは脱いだほうがいいわ。はい、座って」
三十分ほどすると、シルクと王女が戻ってきた。「いい場所ですよ」と、シルクは報告した。
「小さな谷の中にあるやぶです。水もあるし風も防げるし――必要なものはすべて揃ってます。誰か重傷を負ったひとは?」
「不治の怪我はないわ」ポルおばさんはバラクの毛むくじゃらの足に膏薬を塗りながら言った。
「すこし急げないかな、ポルガラ?」と、バラクが訊ねた。「半分裸で突っ立ってるには少し寒すぎるんだけど」
「子供みたいなことを言うのは止めてちょうだい」無情にも彼女は言った。
シルクとセ・ネドラが案内した小谷はほんの少し上流に戻ったところにあった。入り口からは沢の水がちょろちょろと流れ出ており、山壁と山壁のあいだにはひょろ長い松の木がほとんど隙間もないくらいにうっそうと茂っていた。沢づたいに二、三百ヤードほど奥へ入っていくと、ついに茂みの真ん中に小さな空き地が現われた。空き地を囲む一番内側の松は、うしろの大枝に押されて内側にしなだれ、枝と枝が空洞の上でほとんどふれあうほどだった。
「いい場所ですね」ヘターは感心したようにあたりを見回した。「どうやって見つけたんです?」
「彼女が見つけたのさ」シルクはセ・ネドラにうなずいて見せた。
「ここに空き地があるって木が教えてくれたのよ」と、彼女は言った。「若い松の木ってすごくおしゃべり好きなの」それから考え込むようにして空き地をながめると、「火はあそこで焚きましょう」と言って、空き地の上端の沢に近いところを指差した。「それとテントは火から少し下がったところの木立に沿わせてね。火のまわりには石を積んで、近くに落ちてる小枝をひとつ残らず片づけなくっちゃ。木っていうのは火にすごく敏感なのよ。かれらはわたしたちを風から守ってやるって約束してくれたけど、それはこちらが火をきちんとコントロールしたらという条件つきなの。そう約束したのよ」
ヘターのタカのような顔にかすかな微笑みが浮かんだ。
「真面目に言ってるのよ」彼女は地面をバンと踏み鳴らした。
「そうでしょうとも、王女さま」かれはうやうやしくお辞儀をしてみせた。
仲間が動けないので、テントを張って焚き火を起こす役は自然とシルクとヘターに回ってきた。セ・ネドラは小さな将軍さながらに、通りのよい断固たる声で次々と命令を飛ばした。彼女はその役を大いに楽しんでいるようだった。
ガリオンは暮れかかる明かりのせいとは知りながらも、炎が最初にパッと燃え上がった瞬間、木立が後ろにのけぞったような錯覚にとらわれた。もちろん、すぐに木は姿勢を戻して小さな空き地を護るようにおおいかぶさったのだが。かれは弱々しく立ち上がると、薪になる小枝や枯れた大枝を集めはじめた。
「さてと」焚き火のまわりでてきぱきと動き回っていたセ・ネドラが、出し抜けに言った。
「みなさん、夕食は何がいいかしら?」
かれらはつづく三日間を木立に囲まれたその空き地で過ごした。その間に負傷した戦士とマンドラレンの馬はエルドラクとの遭遇で受けた痛手から徐々に立ち直っていった。ポルおばさんの命令でボレドラの霊を呼ぶために全力を奮い起こしたときの脱力感は、一晩ぐっすり眠っただけでだいたい回復したが、翌日のガリオンはそれでも何かあるとすぐに疲れを感じた。おまけに、焚き火のまわりでわが物顔に振る舞うセ・ネドラの様子がどうにも我慢ならなかった。そこで、かれは一日の大半はダーニクがマンドラレンの胸当てに入った深い折り目をハンマーで打ち出すのを手伝い、それが終わると今度はできるだけ長い時間馬たちの世話をして過ごした。かれは子馬にちょっとした芸を二、三仕込むことにした。とは言っても、動物に何かを教え込むのはかれにとってはまったく初めての経験だった。それでも子馬はけっこう楽しんでいる様子だった。もちろんどこかに気が散ってしまうのはちょくちょくだった。
ダーニクやバラクやマンドラレンの動けないのは容易に理解できたけれど、じっと黙りこくってまわりのものにいっさい関心を示さないベルガラスの態度は、ガリオンにはどうしても理解できなかった。老人はあまりに深い物思いに沈んでしまって、それを振り払うことができないどころか、その意志さえないように見えた。
「ポルおばさん」三日目の午後、ガリオンはついに見かねて言った。「そろそろどうにかしたほうがいいんじゃないかな。みんなはすぐにも出発できるんだよ。でも、おじいさんが道を教えてくれないことにはさ。今の状態だと、自分がどこにいるかもわかってないんじゃないかな」
ポルおばさんは、岩の上に座って火の中を見つめている老人を見やると、きびきびした口調で、「さあ、おとうさん。もう気がすんだでしょう」と言った。
「わしにかまうな、ポルガラ」
「だめよ、おとうさん。そろそろ立ち直って現実の世界に戻ってもらわないと」
「よくもあんな残酷なことができたもんだな、ポル」かれはとがめるように言った。
「おかあさんに対して? おかあさんはべつに気にしちゃいないわ」
「どうしてそんなことがわかる? ポレドラのことなど何にも知らんくせに。ポレドラはおまえを産んだときに死んだんだぞ」
「それがどうしたっていうの?」彼女は真っこうからかれを見すえた。それから鋭い口調で、「おとうさん。おかあさんが人並み以上に強い意志の持ち主だったってことを、おとうさんたちはもっと認識するべきよ。おかあさんはいつもわたしと一緒だったわ。わたしたちはお互いをよく理解しているのよ」
かれは怪訝な顔をした。
「わたしたちがこの追跡にそれぞれ自分の役割を持っているように、おかあさんにもおかあさんの役割というものがあるのよ。ずっと昔からもっと注意してれば、おかあさんがすっかりいなくなってしまったんじゃないってことぐらいわかったのに」
老人はかすかに罪ありげな表情を浮かべてあたりを見回した。
「まさにそのとおりよ」ポルおばさんは少し刺のある声で言った。「もっと自分の振る舞いに気をつけるべきだったわね。おかあさんはたいていのことは大目に見てくれるけど、時にはおとうさんにすごく腹をたてることもあったのよ」
ベルガラスはきまり悪そうに咳込んだ。
「さあ、そうやって自分を気の毒がるのはそろそろおしまいにしてちょうだい」彼女はきびきびと話をつづけた。
かれは目を細めて、「不公平だぞ、ポルガラ」
「公平にしている暇なんてないのよ、おとうさん」
「どうしてわざわざ狼の姿を選んだのだ?」かれはちょっぴり恨みを込めて訊ねた。
「わたしが選んだわけじゃないわ。おかあさんが自分で選んだのよ。だって、あれがおかあさんの本来の姿じゃないの」
「わしはそんなことも忘れておったのか」と、かれはつぶやいた。
「おかあさんは忘れちゃいないわ」
老人は姿勢をただして胸を張ると、出し抜けに「何か食べるものはあるのか?」と訊ねた。
「ここのところ王女がずっと料理してるんだよ」ガリオンは忠告のつもりで言った。「彼女の手にかかったものを食べようと決心する前に、よく考えてみたほうがいいよ」
翌朝、依然として険悪な空模様の下でテントをたたみ、荷物を積み直すと、かれらは渓流の狭い川底に沿って馬に乗り、あの渓谷に戻っていった。
「木にお礼は言ったの?」ポルおばさんは王女に訊ねた。
「ええ、レディ・ポルガラ。出発するちょっと前に」
「それはよかったわ」
次の二日間も天気はひきつづきかれらを脅かしていたが、奇妙なピラミッド型をした峰に近づくころ、ついに暴風雪が猛威を揮いはじめた。その峰の斜面は渦巻く吹雪の中に険しく切り立ち、まわりの山々の斜面とちがって不揃いなところがまったくなかった。すぐにその考えを打ち消しはしたものの、ガリオンにはなぜか奇妙に尖ったその峰が人の手で造られた――誰かが意図してその形をデザインした、という考えをすっかり振り払うことができなかった。
「プロルグだ」ベルガラスは片方の手でその峰を指し、もう片方の手で風になびくマントを押さえながら言った。
「どうやってあんなところまで行くんです?」白く渦巻く雪の中にぼんやりと見える険しい斜面を眺めながら、シルクが訊ねた。
「道があるのだ。あそこから始まる」老人は峰の片側の、石がごちゃごちゃと重なったところを指差した。
「じゃあ急いだほうがいいですよ、ベルガラス」と、バラクが言った。「この嵐はちょっとやそっとじゃ鎮まりそうにないですからね」
老人はうなずき、馬を列の先頭に導いた。「あそこまで行くと」悲鳴のような風の音に負けじと、かれは仲間に向かって声を張り上げた。「町がある。棄てられた町だが、そのへんに何かが転がってるのが目に入るだろう――壊れたポットとか、そういう類のものが。だが、絶対にそういうものにふれてはいかん。ウルゴ人はプロルグに関しては奇妙な信心を持ってるのだ。かれらにとっては非常に神聖な場所ゆえ、そこにあるものは全てその位置を守らなければならないのだ」
「洞穴の中へはどうやって入るんです?」と、バラクが訊ねた。
「ウルゴ人が入れてくれるだろう。われわれがここにいることはもう知ってるはずだからな」
山の頂きに通ずる道は狭い岩棚になっており、険しく傾斜しながら峰の斜面を回っている。かれらはまず馬を下りると、馬を引くようにして登りはじめた。登り進むうちに風が体をぐいぐい引っ張り、片《かけら》というより石つぶてという感じの雪が怒り狂ったようにかれらの顔を打った。
かれらはくねくねと曲がりくねった道を二時間登りつづけ、やっとのことで頂上にたどりついたが、その頃にはガリオンの体は寒さですっかりかじかんでしまっていた。だが風は容赦なくその体を打ちつづけ、岩棚からひきはがそうとしていた。かれは端に寄らないよう、それだけに神経を集中して歩きつづけた。
峰の斜面でも風は猛り狂ったように吹きつづけていたが、ひとたび頂上にたどりつくと今度は何物にもさえぎられることなく、すさまじい勢いでかれらに直接吠えかけてきた。かれらは広いアーチ型の門を通って荒れ果てたプロルグの町に入っていった。その間も雪が体の回りで渦巻き、耳もとで風が狂ったように悲鳴をあげている。
がらんとした道路に沿って、見上げるように高い柱が、乱舞する雪の中に何本も重々しくそびえていた。時の流れと絶え間ない季節の変化によってすっかり屋根のなくなった建物が、奇妙な異国情緒を漂わせている。他の町で四角ばった建物ばかりを見てきたガリオンの目には、隅が斜めになったウルゴの建築物はひどく奇異に映った。四角と呼べるような建物はひとつとしてなかった。複雑にからみあった角度が、高度な知識のようなものをかすかに感じさせてはいたが、ガリオンはそれをどうとらえていいのかわからず、なぜかしら背中がむずむずするのだった。その建築様式には時をも拒みつづけるような威厳があり、風雨にさらされた石が数千年前に積まれたときのままに、しっかりと重なり合っていた。
ダーニクも奇妙な建物が気にかかるらしく、居心地の悪そうな表情を浮かべている。風のないところで少し旅の疲れを癒そうと、ある建物の裏側に入り込んだとたん、かれは斜めになった隅のあたりに手を這わせた。「かれらは下げ振り線というものがあることを知らなかったんだろうか?」
「どこに行けばウルゴ人に会えるんです?」バラクは熊皮のマントをさらにきつく巻きつけながら訊ねた。
「もうじきだ」と、ベルガラスは答えた。
かれらはふたたび馬を連れて猛吹雪の道に引き返し、奇妙なピラミッド型の建物のわきを通り過ぎていった。
「変なところだな」マンドラレンがあたりを見回しながら言った。「この町は廃れてからどのくらいたつんだろう?」
「トラクが世界を引き裂いて以来だ」と、ベルガラスが答えた。「だからおよそ五千年だな」
深まる雪をかきわけて広い通りをとぼとぼと渡り、まわりの建物よりひときわ大きい建築物まで来ると、かれらは巨大なまぐさ[#「まぐさ」に傍点]石を頂いた広い戸口をくぐった。しんと静まった大気の中に雪のかけらが二つ三つ舞い落ちてきたかと思うと、かつては屋根があったと思われるてっぺんの隙間を通り抜けて石の床にふわりと積もった。
ベルガラスはきっぱりとした足取りで床の真ん中にある大きな黒い石に向かって歩いていった。その石は町の中で見た、ピラミッドの先端を切り落としたような建物の形そっくりに刻まれ、床からの高さは四フィートほどだった。「さわるんじゃないぞ」かれは石のまわりを用心深く歩きながら注意した。
「危険なことでも?」と、バラク。
「いやそうじゃない。ただ神聖な石だから、ウルゴ人は汚されることを嫌うのだ。かれらはウルの神が自らここに石を置いたと信じている」かれはときおり足で表面の雪を払いながら、床を真剣に調べた。「待てよ」かれはかすかに顔をしかめた。それからまわりの石とわずかに色の違う一枚の板石をはがしてみた。「あったぞ。まったく、すぐに見つかったためしがないな。剣を貸してくれ、バラク」
大男は何も言わずに剣を抜き、老魔術師に差し出した。
ベルガラスは今はがした板石のわきにひざまずき、バラクの重い剣の柄頭でその表面をコツコツコツと三回叩いた。
老人はしばらく待ってから、もう一度同じ信号を送った。
だが、何も起こらない。
もう一度同じように板石を三回コツコツコツと響かせた。すると、大きな部屋の片隅で何かがゆっくりときしむ音が聞こえてきた。
「なんです、あれは?」シルクはびくびくして訊ねた。
「ウルゴ人だ」ベルガラスは立ち上がり、膝をパンと叩いた。「洞穴の入口を開けてるのだ」
さらにきしむ音がつづいたかと思うと、突然部屋の東壁に二十フィートほどの光の線が見えはじめた。線はやがて裂け目になり、床面の巨大な石が悠然と斜めに持ち上がるにつれ大きな口が広がった。下から洩れてくる光は、とても薄暗く見えた。
「ベルガラス」ゆっくりと傾く石の下から、低い声が響いてきた。「ヤドホー、グロージャ、ウル」
「ヤドホー、グロージャ、ウル。ヴァドマー、イシャム」ベルガラスはかしこまって答えた。
「ヴィードモー、ベルガラス。マー、イシャム、ウルゴ」見えない声の主が言った。
「あれは何なの?」ガリオンは困惑して訊ねた。
「洞穴の中に招いてくれたのだ」と、老人は答えた。「さあ、降りるとするか?」
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16[#「16」は縦中横]
薄暗いウルゴの洞穴に通じる、傾斜の厳しい通路の中へ馬を急き立てるには、ヘターはそれこそ全力を使わなければならなかった。馬は不安そうに目をギョロつかせながら、ぎくしゃくとした足取りで傾斜のついた廊下を歩きはじめたが、うしろで石の扉がゴーンという音をたてて閉まると、いっせいにたじろいだ。子馬はガリオンにぴったりくっついていたので途中何度も体がぶつかり合い、一歩踏み出すごとにブルブルッという子馬の震えが伝わってきた。
廊下のはずれまで来ると、顔に薄いベールのようなものをかぶった男が二人立っていた。背はシルクより低いが、黒っぽいローブに隠れた肩はかなり分厚い。かれらのすぐ後ろには、ほの赤い明かりにうっすらと照らされた、不規則な形の部屋が広がっていた。
ベルガラスが近づいていくと、二人の男はうやうやしく頭を下げた。かれが短く言葉をかけると、二人はもう一度頭を下げ、部屋のはずれに見える廊下の入口を指差した。ガリオンは、この明かりの元は一体どこにあるのだろうかと思い、あたりをキョロキョロと見回したが、どうやら天井から下がっている奇妙な尖り石の裏に隠れているらしく、見ることはできなかった。
「こっちだ」ベルガラスは静かに言うと、ベールをかぶった男たちが示した廊下を目指して部屋を横切っていった。
「どうしてかれらは顔を隠しているんですか?」と、ダーニクがささやいた。
「入口を開けたとき、光で目をやられないようにするためだ」
「でも上の建物だって、中はほとんど真っ暗だったじゃないですか」
「ウルゴ人にとってはそうではないのだ」
「われわれの言葉をしゃべる人間はひとりもいないんですか?」
「いないこともない――決して多い数ではないが。かれらは外の世界と接触する機会がほとんどないのだ。さあ、急いだほうがいい。ゴリムが待っている」
廊下を少し行くと急に視界が広がり、その先に大きな部屋があらわれた。その大きさときたら、明かりが洞穴全体に浸透しているにもかかわらず、向こう端が見えないほどだった。
「ベルガラス、この洞穴の群はいったいどこまでつづいてるんですか?」マンドラレンはいつ終わるともない洞穴の大きさに圧倒されている様子だった。
「それは誰にもわからない。ウルゴ人は地下にこもって以来ずっと洞穴を開拓してきた。それでもなお新しい穴を探しつづけているのだ」
表玄関の部屋から通じるその廊下の終点は、実はドーム型をした天井にほど近い壁面のあたりにあり、そこから壁に沿って広い岩棚が斜めに下っていることがわかった。ガリオンは一度だけ縁の向こうを覗き込んでみた。部屋の床ははるか下の方にあって、はっきりと確認することができなかった。かれはブルブルッと身震いして、それ以後は壁から絶対に離れないようにした。
岩棚を下るにつれて、かれらはその大きな部屋がただの静かな空間ではないことに気づいた。はるか彼方で、韻律的な調べを詠唱する男たちの低い声が聞こえていた。歌詞は石の壁に反響し、低くくぐもってよく聞こえないのだが、詠唱そのものは徐々に小さくなりながらも延々とつづいているらしい。ついに最後の詠唱の響きが薄れてしまうと、今度は歌声が響き渡った。その歌は、不思議な不協和音が混じり合った、悲しげな調べだった。最初の不協和音のフレーズが反響して次のフレーズに重なり合うということを繰り返しているうちに、歌声は圧倒的な奔流となって調和のとれたエンディングを迎えた。その和音の深遠さに、ガリオンは魂の底から揺さぶられるような感覚を味わった。歌が終わると同時に反響音は静寂の中に溶け込み、その後はウルゴの洞穴だけが、最後の和音を何度も何度も繰り返し歌いつづけた。
「こんな歌、生まれて初めて聞いたわ」セ・ネドラはポルおばさんにそっとつぶやいた。
「聞いたひとはほとんどいないでしょうね」ポルガラが答えた。「歌声はこういう廊下に何日も響きつづけてるけど」
「かれらは何を歌っていたの?」
「ウルへの賛歌よ。あの歌は時間ごとに繰り返されているの。だから反響音が途切れることは絶対にないのよ。ウルゴの洞穴はこうやって同じ賛歌をもう五千年も歌いつづけているの」
洞穴には歌声以外にも何やら音が響いていた。金属と金属をこすり合わせる音。とぎれとぎれに聞こえる、しわがれたウルゴ語の会話。それに、間断なくつづくチッチッという音。それらの音は方々から聞こえてくるように思えた。
「下にはたくさんの人間がいるらしいな」バラクは縁の向こうを覗きながら言った。
「いや、そうとはかぎらない」と、ベルガラス。「洞穴の中では音が何度も何度も反響して、なかなか消えないのだ」
「この明かりはどこから来てるんだろう?」ダーニクは、困惑した様子で言った。「松明はどこにも見当たらないんだが」
「ウルゴ人は種類の異なる二つの石を砕いて粉をつくっているのだ」と、ベルガラスが答えた。
「それを混ぜ合わせたとき、赤熱が生じるのだ」
「でも、ずいぶんぼんやりとした明かりですね」ダーニクは洞穴の床面を見下ろしながら、なおも言った。
「ウルゴ人にはそれほどの明かりは必要ないのだ」
結局、洞穴の床に到着するまでに、三十分ほどの時間がかかった。床のまわりの壁面には一定の間隔をおいて穴が開いており、そこから岩山の内部に向かって廊下や通路が放射状に広がっていた。ガリオンは通りすがりに、通路のひとつを見下ろしてみた。長くてほの暗いその通路には、壁沿いにいくつか穴が開いており、はるか下のほうで数人のウルゴ人が出口に向かってちょこちょこと動き回っていた。
洞穴の中央には大きな湖が静かに横たわっていた。行き先はすっかりわかっていると言わんばかりにしっかりした足取りで歩いていくベルガラスの後について、かれらは湖の端を歩いた。魚が跳ねたかあるいは上方の小石が水面に落ちたのだろう、ぼんやりと霞む湖のどこかでかすかに水しぶきの音がした。かれらがこの洞穴に入ったときに聞いたあの歌声は、ある場所では大きく、そしてある場所では小さく、いまだに響きつづけていた。
とある通路の入口で、二人のウルゴ人がかれらを待ち受けていた。二人はお辞儀をして、べルガラスにぼそぼそと何か話しかけた。入口の洞穴で出会った男たちと同様に、この二人も背が低く、分厚い肩をしていた。髪の色はひじょうに薄いが、大きな目はほとんど黒に近かった。
「馬はここに置いていくぞ」と、ベルガラスは言った。「これから階段をいくつか下らなければならんのだ。馬のめんどうはかれらが見てくれるそうだ」
いまだに震えの止まらない子馬を母親の元に留まらせるために、ガリオンは何度も何度も言って聞かせなければならなかった。やっとのことで子馬が理解したような素振りを見せると、ガリオンはすでに通路のひとつに入ってしまった仲間の後を急いで追いかけた。
かれらの入り込んだ通路の壁には、いくつものドアがあった。開け放たれたドアの向こうには四角い小部屋があったが、明らかに何かしらの作業場になっていると見える部屋があると思えば、単に家庭用に使われているような部屋もあった。部屋の中にいるウルゴ人たちは、通路を歩いていくかれらには目もくれずに、自分の仕事に専念していた。薄い髪の色をした人々の中には金属や石を扱っている者もいれば、木材や布をいじっている者もいた。ウルゴ人の女が小さな赤ん坊をあやしている姿も見えた。
かれらが最初に入ったうしろの洞穴で、また詠唱の音が響きはじめた。四角い小部屋のひとつを通り過ぎるとき、七人のウルゴ人が輪になって何やら声をそろえて唱えているのが見えた。
「かれらはほとんどの時間をこうやって宗教的な奉仕に費やしているのだ」小部屋のわきを歩きながら、ベルガラスが言った。「ウルゴ人の生活の中心にあるのは、何と言っても宗教だからな」
「退屈そうだな」バラクが不満そうにうめいた。
通路のはずれまで来ると、そこには急な階段があった。擦り減った険しい階段を、かれらは壁に手を当てて体を支えながら下っていった。
「下まで来てからぐるりと回ったほうが簡単だったのに」と、シルクが言った。「どっちの方角に向かっているのか、見当もつかなくなっちゃったよ」
「下ですよ」ヘターはかれに言った。
「ありがとうよ」シルクは皮肉っぽく答えた。
階段を下り終えると、新たな洞穴があらわれたが、かれらの出たところはまたしても壁のずっと上の方だった。だが、今回はアーチ型の細い橋が洞穴のこちら側と向こう側をつないでいた。「ここを渡るぞ」ベルガラスはそう言うと、薄暗い明かりの中、かれらを率いてアーチ型の橋を渡りはじめた。
ガリオンが一度だけ下を覗いてみると、はるか下方の壁面に無数の入口が、ぽつりぽつりと輝いているのが見えた。それらの入口は規則的に並べられたというより、適当にちりばめられたという感じだった。「ここにはすごくたくさんの人間が住んでるんだろうね」かれはベルガラスに言った。
老人はうなずき、「ここはウルゴ人の種族の中でもとくに大きい種族の本拠地だからな」
かれらが橋の向こう側にたどりつくころ、古めかしいウルへの賛美歌の不協和音が最初のフレーズを響かせはじめた。「もっと別のメロディーを考えてくれればいいものを」バラクが苦苦しい顔をしてつぶやいた。「いい加減うんざりしてきたな」
「今度ウルゴ人に会ったらそう言ってやるよ」シルクは軽口をたたいた。「かれらはうれし過ぎて、おまえのために歌など変えちゃくれないだろうけど」
「ほほう、面白いじゃないか」と、バラク。
「世界じゅうがあの歌を愛でてるわけじゃないってことが、きっとかれらにはわからないんだろうな」
「おまえでも気になるのか?」バラクは刺々しく言った。
「なんたって、かれらはもう五千年もあれを歌いつづけてるんだぜ」
「もういいでしょ、シルク」ポルおばさんは小男に言った。
「はい、仰せのとおりです、奥方さま」シルクはふざけ半分に答えた。
かれらは洞穴のはずれから別の通路に入り込み、それが枝別れするまで真っ直ぐに進んだ。そこまで来ると、ベルガラスは少しの迷いも見せずに一行を左に導いた。
「確かでしょうね?」シルクが訊ねた。「わたしの勘違いかもしれませんが、ひょっとしてわれわれは円を描いてるんじゃないですか?」
「そのとおりだ」
「わざわざその理由を説明してはくれないでしょうね」
「どうしても避けたい洞穴があるのだ。だからこうして迂回してるわけだ」
「どうして避けなければならないんです?」
「脆《もろ》いのだ。ちょっと音を立てただけで天井が落ちてくるかもしれないような場所だ」
「ほう」
「そういうことがあるから穴ぐらは危ないのだ」
「そんなに詳しく説明していただかなくてもいいですよ」シルクは頭上の屋根を心配そうに見上げた。小男はいつもより口数が多いように見えた。が、自分のまわりに石がゴロゴロ落ちてくることを想像したとたん、ガリオンも何だか重苦しい気分になってきて、かれの心中を察することができた。ある種の人間にとっては、閉じ込められているという感覚は耐えがたいものなのだ。シルクもどうやらその種の人間であるらしかった。シルクにならって屋根を見上げているうちに、ガリオンは山の重さが全部自分の上にのしかかってくるような気がしてきた。そして、頭の上にこんなにすごい量の土があったら、シルクでなくとも不安になるだろうと思った。
通路を進むうちに、今度は中央にガラスのように透明な湖がある小さな洞穴に出た。水はひじょうに浅く、底に白い小石が積もっているのが見える。湖の真ん中には島が浮かんでおり、その島の上に、はるか頭上のプロルグの廃墟で見た建物とまったく同型な、ピラミッド型の建物が立っていた。建物のまわりには、ぐるりと取り囲むような恰好で柱が何本も立っており、あちこちに白い石を刻んで作ったベンチがあった。三十フィートはあるかと思われる洞穴の天井からは、長い鎖が幾本もぶら下がっていて、その先で水晶のように透明なガラス球がキラキラと光を放っていた。かすかな光だが、それでも今まで歩いてきた通路にくらべれば、見違えるほど明るかった。島へは、白い大理石の歩道が渡してあったが、そのはずれにひじょうに年老いた老翁が立っており、静かな水面の向こうからかれらが洞穴に入ってくるのをじっと見守っていた。
「ヤドホー、ベルガラス」老翁の呼びかけが聞こえた。「グロージャ、ウル」
「ゴリム」ベルガラスは礼儀正しく頭を下げた。「ヤドホー、グロージャ、ウル」
仲間を率いて大理石の小道を渡り、湖の真ん中の島へたどりつくと、ベルガラスは老人の手を暖かく包み、喉にかかったようなウルゴ語で話しかけた。
ウルゴのゴリムはひじょうな高齢に見受けられた。長い髪とひげは銀色に輝き、身につけているローブは雪のように白かった。かれのまわりには聖人のような静かな雰囲気が漂っていた。ガリオンは一目見た瞬間、自分が聖者のような人物――おそらくこの世で一番神聖な人物――に近づいているのだということを、ほとんど無意識のうちに感じとっていた。
ゴリムがうれしそうに両腕を伸ばすと、ポルおばさんはかれを愛しそうに抱き締めて、やはり喉にかかったような声で挨拶を交わした。「ヤドホー、グロージャ、ウル」
「友よ、ここにいる仲間はウルゴ語が話せないのだ」ベルガラスはかれに言った。「外の言葉で話すことを許してもらえるだろうか?」
「もちろんだとも、ベルガラス。人間にとって一番大事なのはお互いを理解し合うことだとウルもおっしゃってる。さあ、皆の衆、中に入りなされ。食事と飲み物を用意しておいたぞ」老翁がひとりひとりの顔を見ているときに、ガリオンはかれの瞳の色が今まで会ったウルゴ人とは違う、ほとんど紫に近い深いブルーだということに気づいた。間もなくゴリムはうしろを向き、ピラミッド型の建物につづく小道にかれらを導いた。
「まだ子供は現われないのか?」ベルガラスは頑丈な石の玄関口をくぐりながら訊ねた。
ゴリムは溜息をもらすと、「まだだ、ベルガラス。わしもいいかげん疲れてきた。子供の誕生があるたびに今度こそはと思うのだが、二、三日すると、瞳の色はきまって黒いのだ。ウルはこのゴリムにまだ見切りをつけかねていらっしゃるらしい」
「ゴリムよ、希望を捨ててはいけない」ベルガラスは老翁に言った。「子供はきっと現われる――ウルがよしと思われたときに」
「そう言い伝えられてはいるが」ゴリムはふたたび溜息をついた。「しかし、各種族は日ごとに落ち着きをなくしている。さらに悪いことに、遠くの通路では小競り合いも起こりはじめているようだ。狂信者が立場もわきまえずに公然と非難するようになって、異常な行為やにせ宗教も現われはじめた。ウルゴには新しいゴリムが必要なのだ。わしは三百年ほど長生きしすぎた」
「まだ仕事が残されているからだろう」と、ベルガラスは言った。「ゴリムよ、ウルとわれわれとでは考え方が違う。ウルはウルなりの見方で時ということを見ているのだ」
かれらの入った部屋は方形をしていたが、それでも壁がかすかに傾いているところを見ると、やはりこれはウルゴの建築物の特徴らしかった。部屋の中央には両側に低いベンチを配した石のテーブルがあり、その上に果物を盛りつけたボウルがいくつも並んでいた。ボウルに混じって、細長いフラスコや丸いガラスのカップが置いてある。「山々にはもう冬が訪れているそうだが」と、ゴルムは言った。「酒を飲めば、少しは体も温まるだろう」
「外は凍えるような寒さだ」ベルガラスはかれの言葉にうなずいた。
かれらはベンチに腰をおろして食べはじめた。果物はピリッと野生の味がした。フラスコの中の透明な液体はヒリヒリするほどからくて、飲んだとたんに胃のあたりがカーッと熱くなってきた。
「奇妙にうつるかもしれないが、これがわれわれの習慣なのでお許し願いたい」バラクとヘターが明らかにげんなりした様子で果物に手を伸ばしているのを見て、ゴリムは言った。「われわれは儀式を重んじる人種でな。ウルの神を求めて荒野をさまよった日々を偲び、食事の前には必ず果物を食すことになっているのだ。間もなく食事が出てくるはずだ」
「このような洞穴に暮らしながら、いったいどこで食べ物を得ているのですか?」シルクがていねいに訊ねた。
「夜になると採集民が洞穴の外にでかけていくのだ」と、ゴリムは答えた。「かれらは果物や穀物は山の中に自生しているものだと言っているが、わしはおそらくずっと以前からどこか肥沃な谷間を耕しているのだろうとにらんでいる。肉も野性の牛を捕まえたのだと言ってきかないが、これも疑わしい話だ」彼は穏やかに微笑むと、「だが、多少の嘘には目をつむってやらないと」
おそらくゴリムの穏和な人柄に勇気づけられたのだろう、ダーニクは山頂の町に入ってからずっと気にかかっていた疑問をついに口にした。「失礼ですが」と、かれは切り出した。「どうしてあなたがたの建物はどれもこれも曲がっているのですか? きちんとした方形をしたものはひとつもなくて、必ず傾いています」
「重力を支えているせいだろう。一枚一枚の壁は放っておけば倒れてくるものだが、互いにもたれかかっているから、指一本分も動かないのだ――むろん、放浪の時代を過ごしたテントの形を偲んでということでもあるが」
その奇妙な考えを理解しかねているのか、ダーニクはまだ顔をしかめている。
「ところで〈アルダーの珠〉はもう取り戻したのか、ベルガラス?」ゴリムは急に真剣な表情になって訊ねた。
「いや、まだだ。ニーサまでゼダーを追ったんだが、クトル・マーゴスに入ったとたんクトゥーチクがやつを待ち伏せていて、まんまと〈珠〉を持ち逃げされてしまった。だから〈珠〉は今のところクトゥーチクが持っている――ラク・クトルで」
「それでゼターは?」
「クトゥーチクの待ち伏せをうまいことかわしてトラクの体をマロリアのクトル・ミシュラクに運び出したようだ。クトゥーチクが〈珠〉を使って呪われた者の眠りを覚ますことのないように」
「では、これからラク・クトルに向かうのか?」
ベルガラスがうなずいたとき、ちょうどウルゴ人の下僕が湯気の立ちのぼる大きな焼き肉を運んできた。下僕はテーブルの上に肉を置くと、うやうやしくお辞儀をして立ち去った。
「なぜゼダーが無事に〈珠〉を持ち出すことができたか、その理由はもうわかったのか?」ゴリムは質問をつづけた。
「子供を使ったのよ」と、ポルガラ。「邪心のない子供をね」
「なるほど」ゴリムは物思わしげな表情でひげをなでた。「予言によるとたしか、そしてその子供が、〈選ばれた者〉に生得権をもたらすであろう≠ニいうのではなかったか?」
「そうだ」ベルガラスはうなずいた。
「それでその子供は今どこに?」
「われわれの知るかぎりでは、クトゥーチクがラク・クトルに連れ帰っているはずだ」
「では、ラク・クトルを征服することになるのか?」
「あの砦を落とすには兵が必要だし、おそらく何年という歳月がかかるだろう。他にも方法はあるはずだ。ダリネ古写本にラク・クトルの地下の洞穴のことを述べた一節がある」
「その節なら知ってるぞ、ベルガラス。だが、確証がない。ほんとうにそういう洞穴がある可能性もあるが、もし違っていたらどうする?」
「ムリン古写本にもそれを裏づけるようなことが書いてあるのだ」ベルガラスは少し傷ついて言った。
「ムリン古写本ならなお性質《たち》が悪いぞ、ベルガラスよ。あれは戯言と同じぐらい当てにならない」
「だがわしには、後から振り返ったとき――すべてが終わったとき――ムリン古写本が一番正確な法典だったということになるような気がしてならんのだ。もちろん洞穴のことを立証するものは他にもあるぞ。マーゴ人がラク・クトルを建てている最中、脱走して西部に逃げ伸びたセンダリアの奴隷がいた。見つかったとき、その男はひどい興奮状態だったが、山の下にある洞穴のことは死ぬまで言いつづけていたそうだ。それだけじゃない。チェレクのアンヘグが『トラクの書』を一部手に入れたんだが、その中にひじょうに古いグロリムの予言が断片的に記されていたのだ。いわく、上となく下となく、心して寺院を守れ。さもなくば、クトラグ・ヤスカが頭上の空と足下の地面から敵を呼び寄せ、一度ならずその体を運び去らさせるであろう=v
「それもまたあいまいな話だな」ゴリムは反論した。
「グロリムの予言というのはだいたいがあいまいなものだ。だが、今はそれに賭けるしかないのだ。ラク・クトルの下にある洞穴を否定してしまったら、あとはあそこを包囲するしか道はない。それには西部じゅうの兵を集めなければならないし、そうなればクトゥーチクだってアンガラクの兵士を大挙させて町を守るだろう。今この瞬間もすべてが最後の大戦に向かって動いているが、わしとしては、時と場所はこちらで選びたいのだ――マーゴスの荒野などもっとも選びたくない場所だ」
「じゃあ、その話を頼りに先を進むつもりなのか?」
ベルガラスはうなずいた。「今必要なのは、ラク・クトルの下に横たわる洞穴の場所を見つけ、その上の町まで案内してくれる予言者だ」
ゴリムは頭を振った。「無理な相談だ、ベルガラス。予言者は狂信者ばかりだ――どいつもこいつも秘教にかぶれておる。プロルグの神聖な洞穴から出ていくような予言者はひとりとしていないだろう――とくに今は。ウルゴじゅうの人間が子供の誕生を今か今かと待ちわびている時だ。狂信者はわれこそはその子供を一番に見つけて民衆の前に披露してやろうと手ぐすねを引いている。わしには、一緒についていけと命令することさえかなわん。ここでは予言者は神聖と見なされている。わしの権威もかれらには通じないのだ」
「それほど難しいことではないと思うぞ、ゴリムよ」ベルガラスは皿を押しやって、カップに手を伸ばした。「わしが探しているのは、実はレルグという名の予言者なのだ」
「レルグ? 一番ひどいやつではないか。その男は信奉者を集めて、毎日決まった時間に通路のどこかで説教をしているのだ。目下のところウルゴで一番重要な人間は自分だと考えているらしい。今この洞穴から連れ出すのは、まず無理だろう」
「むりやり連れ出す必要はないだろう。レルグは選んだのはこのわしではないのだから。その決定は、わしが生まれるずっと前に下されたのだ。とにかく、かれを呼んできてくれ」
「どうしてもと言うのなら、呼びにやるが」ゴリムは半信半疑に言った。「だが、来るかどうかはわからんぞ」
「来るわ」ポルおばさんはきっぱりと言い放った。「自分の意志とは関係なく来てしまうのよ。かれはわたしたちについてくるわよ、ゴリム。わたしたちを一堂に集めた力が同じようにかれを駆り立てるのよ。わたしたちに選択権がなかったように、かれにも選択権はないのよ」
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17[#「17」は縦中横]
セ・ネドラには何もかもが退屈に思えた。プロルグに来る途中ずっと我慢してきた雪と寒さのせいで体の感覚がすっかりなくなっていたが、地下の暖かさに包まれているうちにだんだんと目蓋が重くなってきた。風変わりできゃしゃな体つきの老人とベルガラスのあいだで交わされるとりとめのない退屈な会話も、彼女が眠りに引き込まれる原因だった。あの奇妙な歌がどこかでふたたび始まると、その音が洞穴の中にいつ果てるともなくこだまし、それもまた眠気を誘った。こうして眠気にたえていられるのは、宮廷作法で長年培われてきた複雑なエチケットの訓練の賜物だった。
セ・ネドラにとって、今回の旅は耐えがたいものだった。トル・ホネスは暖かい町だったから、彼女は冷たい気候にはどうしても馴染めなかった。一時は、このまま二度と足に温もりが戻ってこないのでは、と思ったほどだ。そして、世界がショックと恐怖と不愉快な驚きに満ちているということも知った。トル・ホネスの宮殿では、彼女は常に皇帝である父の庇護を受け、いかなる危険とも無縁だった。ところが今、彼女は自分がまったくの無防備であることを実感せずにはいられなかった。ほんとうのことを言えば、ガリオンの前で意地の悪い態度に出てしまうのも、新たに芽生えた不安という感情をぶつけているのに他ならなかった。平和で居心地のよい小さな世界がもぎ取られてしまった今、危険にさらされ、守ってくれるひともなく、彼女はただただこわかった。
かわいそうなガリオン、と彼女は思った。かれに悪いところはないのに。彼女は、いつもいつもかれにばかりつらくあたっている自分が少し恥ずかしく思えてきた。近いうちに――すぐにでも――かれと一緒に腰をおろして、このことを打ち明けよう、彼女はそう心に誓った。かれは物わかりがいいから、きっと理解してくれる。そうすれば、ふたりの間にできた亀裂もすぐにふさがるに違いない。
視線を感じたガリオンは、チラッと彼女の顔を見たが、すぐに知らん顔でそっぽを向いた。そのとたん、セ・ネドラの瞳がめのう[#「めのう」に傍点]のように冷たく光った。まったくどういうつもりかしら? 彼女は心の中で叫び、さっそく数あるかれの欠点リストの中に今の分を加えた。
小枝のような老ゴリムは、奇妙な寡黙なウルゴ人に命じて、先ほどからベルガラスやレディ・ポルガラと話していた男を呼びにやった。それからみんなにもわかるような話題に変えて、「ところで、山地を抜ける途中で何か妨害はなかったかね?」とゴリムはたずねた。
「二、三回ひどい目に会いましたよ」赤ひげの大男、トレルハイム伯爵のバラクは、いつになく控え目に答えている。
「皆が無事だったのだから、ウルに感謝せねば」ゴリムはそう言って信心深いところをのぞかせた。「それにしてもこんな季節に国境を越えてうろついているとは、はて、どの怪物だろう? わしはここ数年洞穴から一歩も出ていないが、たしか雪が降り始めるころにはたいていの怪物は寝ぐらを探しているはずなのだが」
「われわれが出くわしたはフラルガですよ」と、マンドラレンが言った。「それとアルグロス。エルドラクにも会いました」
「エルドラクってやつはほんとうに始末におえない怪物ですね」シルクは皮肉をこめて言った。
「いかにも。だが幸いなことに、エルドラクの数はそれほど多くないのだ。いずれにしても、恐ろしい怪物だ」
「実感ですよ」と、シルク。
「それはどのエルドラクだったのだろう?」
「グラルだ」ベルガラスが答えた。「前にもやり合ったことがあるんで、わしに恨みを持っていたらしい。すまない、ゴリム。だが、殺すしか方法がなかったのだ」
「おお」ゴリムの声には、かすかな悲嘆の色がうかがわれた。「かわいそうなグラル」
「わたし個人としては、あいつが死んだからって別に悲しくはないですけどね」と、バラクが言った。「出すぎたことを言うようですが、いっそのことああいう物騒な獣は山から一帰してしまったほうがいいんじゃないですか?」
「かれらもわれわれと同じ、ウルの子供なのだ」
「でも、もしあいつらがいなくなれば、あなたがたも外の世界に戻れるのに」バラクは言いつのった。
ゴリムはかれの言葉に微笑むと、穏やかな口調で、「いや、ウルゴ人が洞穴を出ることはもうないだろう。五千年もの問ここで暮らしているうちに、われわれもまた変わってしまった。われわれの目はもう太陽の光に耐えられないのだ。外の怪物たちもここまでは来ないし、山にかれらがいるかぎりよそ者がウルゴに入ってくることもない。実を言うと、われわれはよそ者が来るのをあまり好まないのでな。まあ、これが一番いい状態なのかもしれん」
ゴリムは狭い石のテーブルを挟んでセ・ネドラのちょうど向こう側に座っていた。かれは見るからに怪物の話題に心を傷めている様子だった。しばらく彼女の顔を見つめていたかと思うと、かれはか細い腕をそっと伸ばして彼女の小さなあごを包み、テーブルの上に吊る下がった球の明かりの中へ顔を上向かせた。「見慣れない生き物がすべて怪物とはかぎらん」大きくて紫色をしたかれの瞳は、穏やかで、ただならぬ知力をたたえているように見えた。「このドリュアドの美しさを見るがいい」
セ・ネドラはハッとした――もちろん、こういう仕種で花のような顔を年寄りにふれられた記憶もないわけではなかったから、ふれられたこと自体はべつに何ともないことだった――ただ、はるかな時代を生きてきた老人が一目見ただけで、彼女はまったくの人間ではないという事実を見破ったことに驚いたのだ。
「教えておくれ」と、ゴリムは言った。「ドリュアドは今でもウルを敬っているのか?」
こんな質問をされるとは思ってもみなかった。「す、すみません、ゴリムさま」彼女はしどろもどろに言った。「つい最近まで、ウルという神の名は聞いたこともなかったんです。なぜかはわかりませんが、わたしの先生はあなたがたウルゴ人やウルの神についてほとんど教えてくれなかったので」
「王女はトルネドラ人として育てられたのよ」助け船を出してくれたのは、レディ・ポルガラだった。「彼女はボルーン家の出なの――ボルーン家とドリュアドの関係は聞いたことがあると思うけど。トルネドラ人の神と言えば、やっぱりネドラということになるわけね」
「実用向きの神だな。少し面白みがないような気がするが、まあそんなものだろう。でも、ドリュアドのほうはどうなんだ――彼女たちは自分たちの神をちゃんと覚えているのだろうか?」
ベルガラスは申し訳なさそうに咳き込むと、「実はそうではないのだ、ゴリム。無窮の時間が過ぎるうちに、彼女たちも少しずつ変わってきて、ウルの記憶も消えてしまったらしい。ドリュアドというのは元来気まぐれな生き物だから、宗教的なしきたりには向いていないのだ」
ゴリムは悲しそうな顔をして、「じゃあ今はどの神を崇拝しているのだ?」
「実のところ、神はないようなものなのだ」ベルガラスは告白した。「神聖な木立ならいくつかある――とくに崇められた木の根からつくった簡単な偶像がひとつ、ふたつ。その程度だ。はっきり系統づけられた理論のようなものは、彼女たちにはないのだ」
かれらのやりとりは、セ・ネドラに言わせればくだらない中傷でしかなかった。だが、事態をうまく切り抜けるために、彼女は心持ち背中をしゃんと伸ばすと、老ゴリムに向かって愛くるしく微笑んでみせた。年寄りの気を引くのは、彼女のもっとも得意とするところだった。なんといっても、長年父親を練習台にしてきたのだから。「ゴリムさま、自分の受けた教育に落ち度があることは、わたしも痛切に感じてます」彼女は心にもないことを言った。「神秘に包まれたウルという神がドリュアドの代々の神であるなら、わたしもその神のことを知らなければいけませんわ。近いうちにウルに関する教えを受けられたらいいのですけど。そうなれば――わたしでは役不足かも知れませんが――姉妹たちの忠誠心をふたたびウルの神に向けることができると思います」
なんて気のきいたスピーチだろう、セ・ネドラは心の中で自分に拍手を送った。だが驚いたことに、ゴリムはあやふやながらも神への興味を訴えた彼女の言葉にはまったく耳を貸さずに、「われわれの信仰の真髄は『ウルゴの書』に書かれていると姉妹に伝えなさい」と、真面目な顔で言ったのだ。
「『ウルゴの書』」と、彼女は繰り返した。「それはぜひとも覚えておかないと。トル・ホネスに帰ったらすぐにその本を手に入れて、わたし自身がドリュアドの森まで持っていきます」
「トル・ホネスで手に入るような本には、間違いが多い」ゴリムはなおも言った。「われわれの言葉はよその国の人間に簡単に理解できるものではない。翻訳にも無理がある」セ・ネドラには、この一見人好きのする老人がとんでもなく退屈な曲者のように思えてきた。「神典というのは、だいたいがそういうものだが」かれはまだしゃべりつづけている。「われわれの神典はわれわれの歴史と深く結びついているのだ。神々の知恵というのは誠にもって深いもので、物語の中にも様々な教えが隠されている。物語に胸を躍らせているうちに、神々のメッセージが吹き込まれていく。楽しんでいるうちに、いつの間にか教えを受けているのだ」
どこかで聞いたような論理だった。そういえば、家庭教師のジーバース先生もこんなようなことをいつもいつも言っていた。彼女は何か話題を変える方法はないものかと、すがるような顔であたりを見回した。
だが、ゴリムはそんな彼女の気持ちも知らずに容赦なくしゃべりつづける。「われわれの話はたいそう古い。聞いてみたいかね?」
いまさら如才ない態度を崩すこともできずに、セ・ネドラはただ黙ってうなずいた。
そしてゴリムの話が始まった。「気紛れな神々が闇を紡いてこの世を生ぜしめたとき、唯一ウルという名の神だけが天界の静けさの中にとどまっていた」
セ・ネドラは、かれがその奇妙な本をすっかり暗唱してみせるつもりでいることを知ってがくぜんとした。だが、しばらく悔しがっていた彼女も、不思議な魅力を持ったかれの話にいつしかぐいぐいと引き込まれていった。何より彼女の心を動かしたのは、初代のゴリムが目の前に現われた無関心な神に切々と訴える場面だった。いったいどんな人間がそんなふうにして神を非難したりするだろう?
話に耳を傾けているうちに、目の端で何かがチカッと光ったような気がした。そちらに目をやると、部屋の壁を構成しているどっしりとした岩のひとつのどこかずっと深いところに柔らかな光のようなものが見えた。その光は天井から下がっているガラス球の放つ鈍い光とはまったく異質のものだった。
「かくてゴリムの心は喜びに満たされた」老人は暗唱をつづけている。「そしてすべてが起こったその高い山を聖なる地≠ニいう意味でプロルグと名づけた。やがてかれはプロルグを後にして――」
「ヤ! ガラチテック、ゴリム!」突然ののしるようなウルゴ語が聞こえてきた。かすれたその声は激しい怒気を含んでいた。
セ・ネドラは侵入者の顔を見るために、頭をひねった。今まで見たウルゴ人と同じでその男も背が低かった。だが、腕と肩が人並み以上にがっしりと発達していて、そのため一見するとほとんど奇形のように見えた。色のない髪はもじゃもじゃにからみあい、頭巾のついた革のスモックにはあちこちに泥汚れのようなしみがついている。そして、大きくて黒い目が狂気にらんらんと輝いている。かれのうしろには十二人、あるいはそれ以上のウルゴ人が群がっており、どれもショックと義憤の入り混じった顔をしていた。革のスモックを着た狂信者は次から次へと悪口を吐きつづけている。
ゴリムは顔をこわばらせたが、ドアのところに立つ狂気じみた目をした男の悪態をじっと我慢して聞いていた。だがついに狂信者がひと息つくと、ベルガラスの方を向いて、「これがレルグだ」と、弁解するような口調で言った。「なあ、わしの言う意味がわかっただろう? こいつに何かを納得させるなど不可能なことだ」
「こいつが何の役に立つっていうんです?」バラクは新参者の態度にあきらかに苛立っている様子だった。「教養のある言葉だって話せやしないのに」
レルグはかれをにらみつけると、強烈な侮辱を込めて、「おまえたちの言葉ぐらい話せるぞ、よそ者め、不浄な言葉でこの神聖な洞穴を汚したくないだけだ」それからゴリムの方を向き、「何の権利があって信仰のない外国人に神聖な書物の話を聞かせているんだ?」
穏和な老ゴリムの目付きがかすかに険しくなった。「もうじゅうぶんだろう」かれはきっぱりとした口調で言った。「人里離れた通路でそういうだまされやすい人間を相手に戯言を並べるのはおまえの勝手だ。しかし、一歩わしの家に入ったら勝手なことは言わせん。おまえがどう思っているかは知らんが、わしはまだウルゴのゴリムなのだ。おまえに答える義務はない」かれはレルグを通り越して、信徒たちの憤慨した顔をながめた。「これはいつもの会見とはわけが違うのだ」かれはレルグに言った。「おまえを呼びはしたが、そいつらを呼んだ覚えはない。さあ、そいつらを帰すのだ」
「こいつらは、あんたがおれに危害を加えないかどうか確かめにきたんだ」レルグは頑固に主張した。「おれはあんたの真実を暴いてきた。権力者というのは真実を恐れるものだからな」
「レルグ」ゴリムは氷のように冷やかな声で言った。「おまえが何を言いふらそうと、わしは何とも思っていない。おまえにはまだそれがわかっていないようだな。さあ、そいつらを帰すのだ――それとも、どうしてもわしの手をわずらわせたいか?」
「こいつらはあんたの言うことには従わない」レルグはせせら笑った。「こいつらの主導者はおれなんだ」
ゴリムは目を狭めたかと思うと、すっくと立ち上がった。それからレルグの信奉者に向かってウルゴ語を浴びせた。セ・ネドラにはかれの言葉は理解できなかったが、その権威に満ちた声の調子を聞けば、内容は推して知るべしだった。気高い老ゴリムがこんなふうに権力を行使するなんて。彼女はその事実に驚いた。おとうさまだって、こんな権威的なしゃべり方はしないだろうに。
レルグのうしろに控えていた男たちは互いに顔を見合わせたかと思うと、顔色を青くしてじりじりと後退しはじめた。そしてゴリムが最後にもうひと声吠えると、尻尾を巻いて逃げ出した。
レルグはかれらのうしろ姿をにらみつけた。もう少しで戻ってこい≠ニ声を張り上げるかに見えたが、すぐにそれは得策ではないと考えたらしい。「やり過ぎだぞ、ゴリム。あの権力は世俗的なことには使ってはいけないことになってるはずじゃないか」
「わしの権力についてとやかく言われる覚えはないぞ、レルグ。わしが必要と判断したときに使うまでだ。第一、おまえがここに召喚されたのは神学的な理由があったからで、おまえの信者に――そしておまえ自身にも――わしが誰であるかを思い出させる必要があったのだからな」
「じゃあ聞くが、どうしておれをここに呼んだんだ? こんな不浄な人間に引き合わせて、よくもおれの純潔を侮辱してくれたな」
「レルグ、おまえの協力が必要なのだ。ここにいる訪問者はわれらの宿敵、この世で最も呪われた者に戦いを挑もうとしている。世界の運命はかれらの追求にかかっている。おまえの助けが必要なのだ」
「世界がどうなろうとおれの知ったことか」レルグの声は侮辱に満ちていた。「不具のトラクが何だって? ウルの膝元にいるかぎりおれは安全だ。ウルはおれを必要として下さっている。異教徒と怪物の集まった下劣な集団の中で自分を堕落させるために、わざわざこの神聖な洞穴を離れたりするもんか」
「もしトラクが支配権を握れば、全世界が汚されるのだぞ」ベルガラスが指摘した。「われわれが失敗すれば、トラクが世界の王になることはまず間違いないだろう」
「たとえトラクでもウルゴだけは支配できない」と、レルグは反論した。
「何もわかっちゃいないのね」ポルガラがつぶやいた。
「とにかく絶対に洞穴から出ないぞ」レルグはきっぱりと宣言した。「子供の誕生はすぐそこまで来てるんだ。おれはその子供の正体を明らかにして一人前のゴリムとなるその日まで教え導く役を仰せつかったんだ」
「ほお、それは面白い」ゴリムは皮肉っぽく言った。「いったい誰がおまえを選んだのかね?」
「ウルがおっしゃったんだ」
「変だな。ウルが何かおっしゃれば、洞穴は隅々までその声に呼応する。それなら、すべてのウルゴ人がその声を聞いたはずだろうに」
「おれの心に直接話しかけられたんだ」レルグはすぐに言い返した。
「ウルの神がそんなことをされるとは不思議だな」ゴリムは穏やかな口調で答えた。
「そんな見当はずれなことを論じていても始まらん」ベルガラスがぶっきらぼうに口をはさんだ。「できることなら自主的に仲間入りしてもらいたいところだが、自主的だろうとなかろうと、おまえはわれわれに仲間入りするだろう。どれだけわめこうが抵抗しようがおまえの勝手だ。しかし、いざわれわれがここに発つときには、おまえは必ずついてくる」
レルグは唾を吐いた。「行くもんか! おれはここに残ってウルと次のゴリムとなる子供に仕えるんだ。もし無理におれを連れ出そうとしたら、信奉者たちが黙っちゃいないからな」
「どうしてこんな道理のわからないもぐらが必要なんです、ベルガラス?」と、バラクが訊ねた。「こんなやつを連れていっても苛立つだけじゃないですか。神に一生を捧げるのがいちばんの喜びだなんていう人間はろくな道連れになりませんよ。それに、おれにできないことでこいつにできることなんてありますか?」
レルグは赤ひげの大男を蔑むように見て、「大きな図体をして大言壮言を吐くやつに限って脳みそが小さいときてる。よーく見ておけよ。毛むくじゃら」それから斜めに傾いた部屋の壁に歩いていった。「おまえにこんなことができるか?」かれはそう言うと、まるで水の中に沈めるように片手を岩の中に押し沈めた。
シルクはびっくりしてヒューッと口笛を鳴らし、すかさず狂信者のとなりに歩み寄った。レルグが岩の中から手を抜くと、シルクは手を伸ばしてその場所に当てがってみた。「どうやったんだ?」かれは岩を押しながら訊ねた。
レルグは耳障りな笑い声をあげて、そっぽを向いた。
「その能力がわれわれの役に立つのだ、シルク」ベルガラスは説明した。「レルグは予言者だ。洞穴を探すことができる。そして、われわれはラク・クトルの下に眠る洞穴をどうしても突き止めなくてはならないのだ。必要とあらば、レルグは固い岩の間を通り抜けて、それを探し当ててくれるだろう」
「なんだってそんなことが?」シルクは、レルグが手を突っ込んだ場所を眺めたまま訊ねた。
「物の本質の問題だろう。われわれが固いと思い込んでいるものでも、実際には絶対に突き通せないものではないのだ」
「だって物は固いか固くないかのどちらかなのに」シルクは困惑した顔でブツブツと言いつのった。
「固いということ自体が幻想なのだ。レルグは自分の体を構成している原子を、岩を構成している原子のあいだにすべり込ませることができるのだ」
「あなたにもできるんですか?」シルクはいぶかしそうに訊ねた。
ベルガラスは肩をすくめ、「わからん。今までそんな機会はなかったからな。とにかく、レルグは洞穴をかぎ出すことができる。回り道をせずにだ。おそらく自分でもどうしてそんなことができるかはわかってないのだろうが」
「自分の高潔さに導かれるのさ」レルグは自信満々に宣言した。
「そうかもしれん」ベルガラスは我慢づよく微笑んだ。
「洞穴の神聖さがおれを引きつけるんだ。おれは神聖なものにはことごとく引かれる性質を持っているからな」レルグはしゃがれ声でしゃべりつづけた。「おれにとってこのウルゴの洞穴を去ることは、神聖さに背を向けて不浄さに歩み寄ることを意味するんだ」
「それはどうかな」ベルガラスはかれに言った。
さきほどセ・ネドラの視線をとらえた壁岩の中の光が、またもやチラチラと震えはじめた。と同時に、岩の中にかすかな影が見えたような気がした。次の瞬間、まるで岩が空気と化してしまったかのように、その影がくっきりと浮かび上がり、部屋の中に歩み出てきた。ほんの一瞬だが、その影は老人の姿をしているように見えた。ゴリムのようなひげを生やし、ローブを着ているが、体つきはずっとしっかりした老人の姿。セ・ネドラは、人間を超えたその強烈な存在感に圧倒された。畏敬の念に震えながら、彼女は自分が神力を前にしているのだということを悟った。
レルグはひげを生やしたその影を見るなりあっと息をのみ、ブルブルと震えはじめた。そして喉に詰まったような叫び声と共に、床に平伏した。
影は平伏している狂信者を穏やかに見おろした。「立て、レルグ」永遠の響きをひめたその声に、外の洞穴がこだました。「立て、レルグ。そしておまえの神に仕えるのだ」
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18[#「18」は縦中横]
セ・ネドラは超一流の教育を受けてきた。徹底的なしつけのおかげで、皇帝や国王の前に出たときにいかに上品で礼儀正しい振る舞いをすればいいかは考えなくともわかった。けれども、神の姿を目のあたりにした彼女はいまだに困惑がおさまらず、恐怖の念さえ覚えていた。彼女は自分が無知な農場の娘みたいにぎごちなくて無骨な人間になってしまったような気がしてならなかった。気がつくと彼女は震えていた。震えるなんて、生まれてから数えるほどしかないことだった。彼女はどうしていいか、まったくわからなかった。
ウルは、畏敬の念にうたれたレルグの顔をじっと覗き込んだままだ。「息子よ、おまえの心はわたしの言ったことをねじ曲げて解釈したようだな」神は厳かに言った。「おまえはわたしの意志ではなく、自分の希望に沿うようにわたしの言葉を歪曲したのだ」
レルグはたじろいで目を見張った。
「たしかにゴリムとなる子供はおまえを通してウルゴに現われるであろうと言った」ウルはなおも話しつづけた。「おまえはかれを保護し、育てる準備をしなくてはならないのだとも言った。だが、そのことをひとに威張れと言ったか?」
レルグは激しく震えはじめた。
「説教で民衆を煽動しろと言ったか? わたしが指導者に選んだゴリムにそむいてウルゴを掻き回せと言ったか?」
レルグはその場にくずれ落ちた。「お許しください、神よ」かれはふたたび床に平伏して謝まった。
「立て、レルグ」ウルの声は厳しかった。「そんなことをされてもうれしくはない。それどころかその服従がわたしの怒りを誘うのだ。なぜなら、おまえの心は自尊心に満ち溢れているからだ。いいかレルグ、わたしの言葉に服従しなければ、おまえは任務を奪われるのだ。その自己満足の信仰心ゆえに、わたしはおまえを追放しようと思う。やがて、わたしの与えた任務にふさわしい人間となる日が来るだろう」
レルグはよろよろと立ち上がった。その顔には深い自責の念が刻まれていた。「おお、神よ」かれは声を詰まらせた。
「わたしの言葉に耳を傾け、ひたすらに従うのだ。アルダーの弟子、ベルガラスに同行して、あらん限りの助力をかれに捧げよ。わたしの声に従うように、かれの言葉に従うのだ。わかったか?」
「はい」レルグは恐れ入って答えた。
「では従うのだな?」
「神よ、仰せのとおりにいたします――たとえ自分の命を犠牲にしようとも」
「レルグよ、おまえの命を犠牲にはせん――なぜなら、わたしはまだおまえを必要としているのだ。この褒美として、おまえは想像だにつかないものを得るであろう」
レルグは黙ってうなずいた。
神は次にゴリムの方を見ると、「息子よ、今しばらくの辛抱だ。年月の重さに耐えかねているやもしれないが、肩の荷を降ろせる日はすぐそこまできている。おまえは、ほんとうによくやってくれているぞ」
ゴリムはうなずいた。
「ベルガラスよ」ウルは魔術師に歓迎の言葉をかけた。「仕事ぶりはいつも見せてもらっているぞ。わたしもアルダーに負けないぐらいおまえを誇りに思っている。予言はおまえと娘のポルガラを通して着々と成就の瞬間に近づいているようだが」
ベルガラスもうなずくと、「お久し振りでございます、聖なるウルよ。事態は当初の予想とはまったく違った方向に展開しました」
「いかにも」ウルはかれの言葉にうなずいた。「われわれもそのつどずいぶん驚かされてきた。ところでアルダーの世界への贈り物はもう生得権を受け継いだのか?」
「聖なるウルよ、まだ完全ではございません」ポルガラが神妙に答えた。「ただ徴候はすでに覗かせはじめています。その様子を見るかぎり、成功はまず間違いないと思われますが」
「ようこそ、ベルガリオン」ウルは目をぱちくりさせている青年に向かって言った。「おまえに祝福を与えよう。ひとたび大業が始まれば、アルダーばかりでなくわたしもまたおまえと共にあることを覚えておくがいい」
ガリオンがお辞儀をした瞬間、なんて無様なのかしら、とセ・ネドラは思った。近いうちに――今すぐにでも――こういう作法について教育してやらないと。もちろん抵抗するでしょうけど――かれって信じられないぐらい頑固だもの――でも、何度もしつこく言いつづければ、しまいには折れるはずよ。何と言ったって、それはかれ自身のためになることなんだから。
ウルはじっとガリオンの顔を眺めつづけているかに見えたが、その表情にはどことなく変化があった。セ・ネドラの目には、まるで無言のうちに何か別の存在――ガリオンの一部であって、まだ一部になりきっていない何か――と意志を通じさせているように見えた。神はやがてうなずき、セ・ネドラの顔をじっと見つめた。
「まだほんの子供のようだが」神はポルガラに言った。
「年齢的には十分かと存じます、ウルの神よ」と、ポルガラは答えた。「彼女はドリュアドです。ドリュアドというのはきわめて小柄なものですから」
ウルは王女にやさしく微笑みかけた。彼女はその微笑みに体じゅうが温まるような気がした。
「見よ、まるで花のようではないか」と、かれは言った。
「それが、いささか刺の残る花でして」ベルガラスは皮肉っぽく答えた。「気性の方にも少しイバラがあるのでございます」
「願ってもない気性ではないか、ベルガラスよ。その燃えるような気性が外見の美しさ以上にわれわれの役に立つときが、今にきっと来るだろう」ウルはチラッとガリオンの顔を見やり、意味ありげな微笑みを浮かべた。なぜかしら、セ・ネドラは急に頬が熱くなるのを感じた。だがすぐに、赤くなるなら勝手に赤くなればいいというふうに、きりっとあごをしゃくり上げた。
「娘よ、わたしがここへ来たのは、おまえと話をするためだ」やがてウルは声音と顔つきを一段と厳しくして、彼女にじかに話しはじめた。「よいか、仲間が出発するときも、おまえはここで待つのだ。おまえは決してマーゴ人の王国に入り込んではならぬ。もしラク・クトルに行くようなことがあれば、おまえは間違いなく亡き者になってしまうからだ。そして、おまえを失ったら、われわれの暗中飛躍は必ずやむなしい終わりを見ることになるであろう。よいか、おまえはウルゴの安全に守られながら、仲間の帰りを待つのだ」
こういうことなら、彼女は完璧に理解することができた。王女として、彼女は権力にはすぐに服従しなければならないということを知っていた。たしかに自分の意志を通すために、小さい頃から父親を甘言でだましたり、ご機嫌を取ったり、しつこくせがんだりしてきた彼女だが、真っこうから反発することはほとんどなかったのだ。彼女は頭を下げると、神の言葉があんに示していることを考えもせずに、「聖なるウルよ、仰せのとおりにいたします」と、答えた。
ウルは満足そうにうなずき、「これで予言は守られた」と言った。「おまえたちはそれぞれがこの仕事の中に自分の役割を持っている――わたしにもわたしの役割がある。さあ、子供たちよ、これ以上おまえたちの足を止めるつもりはない。ひとまずお別れだ。また会おう」そして、神は姿を消した。
神の最後の言葉は、ウルゴじゅうの洞穴にこだました。水を打ったような静寂がしばしつづいたあと、神の訪れに我を忘れたウルゴじゅうの人間が申し合わせたように声をあげ、あの賛美歌が力づよく響きはじめた。
「フーッ!」バラクは勢いよく息を吐いた。「どうです、あの存在感?」
「ウルは犯しがたい威厳を持っているからな」ベルガラスもかれの意見にうなずいた。それからレルグの方を見ると、気紛れに片方の眉を吊り上げて、「これでおまえも改心しただろう」と言った。
レルグは顔面を蒼白にし、体をブルブルと震わせて、「神のお言葉に従います。神に命じられた場所なら、どこにでも参ります」
「それを聞いて安心した」と、ベルガラスは言った。「さっそくだが、ウルの神が命じられている行き先はラク・クトルだ。その後も何かおまえに計画を用意されているかもしれないが、今はとにかくラク・クトルのことだけを考えることだ」
「神に命じられたとおり、あなたの言うことには無条件に従います」
「よろしい」ベルガラスはそう言うと、いきなり本題に入った。「地上の気候と危険を避ける道はないか?」
「ひとつだけあります」と、レルグは答えた。「長くてわかりにくい道ですが、その道を行けば馬族の領土を見下ろす丘陵地帯に出られるはずです」
「ほら見ろ」シルクはバラクに言った。「もう有能なところを見せてるじゃないか」
バラクはまだすっかりは信じられないという顔で、フーッとうめいた。
「もしよろしければ、ラク・クトルに行かなければならない理由を教えていただけませんか?」と、レルグは訊ねた。かれの態度は神との遭遇によってがらりと変わってしまったようだった。
「〈アルダーの珠〉を取り返さねばならんのだ」ベルガラスは答えた。
「その話なら聞いたことがあります」
シルクはしかめっ面をして、「ほんとうにラク・クトルの下にある洞穴を見つけられるんだろうね? あそこの洞穴はウルの洞穴とは違うんだぜ。クトル・マーゴスの洞穴と言えば、神聖とは言いかねる――それどころかたいていはその正反対のものなんだ」
「洞穴に変わりはありません――たとえどこの洞穴であろうと」レルグは自信ありげに答えた。
「よし、じゃあ、すべてがうまくいくとしよう」ベルガラスは話をつづけた。「われわれは洞穴を抜け、誰にも見られずに町に入る。次にクトゥーチクを見つけ、〈珠〉を取り返す」
「クトゥーチクは抵抗するんじゃないですか?」と、ダーニクが訊ねた。
「望むところだ」ベルガラスは熱っぽく言った。
バラクはハハハと笑うと、「だんだんアローン人に似てきたようですよ、ベルガラス」
「あながち悪徳とも言えないようね」と、ポルガラ。
「時が来たら、わしはラク・クトルの魔法使いと取り引きをするつもりだ」かれは厳めしく言った。「とにかく、〈珠〉を見つけしだい、洞穴を抜けて逃げるのだ」
「クトル・マーゴスじゅうの人間がすごい勢いで追ってくるなかをね」と、シルクは付けたした。「マーゴ人とは何度か商売をしたことがあるけど、とにかくしぶとい連中ですよ」
「それはいかんな」ベルガラスが言った。「かれらの追跡があまり激しくなると困ったことになる。われわれを追ってきたマーゴ兵のひとりがうっかり西部に入り込みでもしたら、それは侵略と見なされる。そんなことになれば、われわれは準備もととのわないうちに戦争を始めなければならなくなる。何かいい案はないか?」
「マーゴ兵をぜんぶ蛙に変えてしまったら?」バラクは肩をすくめて言った。
ベルガラスはすごい形相でかれをにらみつけた。
「ただの思いつきですよ」バラクはびっくりして弁解した。
「かれらが追跡をあきらめるまで町の下の洞穴に隠れていたらどうです?」今度はダーニクが言った。
ポルガラは断固として頭を横に振り、「だめよ」と言った。「しかるべき時にここにいなければならないという場所があるの。実を言えば、それを成功させる可能性はわずかしかないのよ。クトル・マーゴスの洞穴に隠れて一ヵ月かそれ以上の時間を無駄にするわけにはいかないわ」
「いなければならないところって?」ガリオンが訊ねた。
「あとで話すわ」彼女は質問をはぐらかして、ちらっとセ・ネドラを見た。王女は即座に彼女の言っているその予定というのは自分に関係のあることなのだと悟った。と同時に好奇心が頭をもたげはじめた。
グラルとの遭遇で折ったあばら骨に軽く指を当て、むずかしい顔をしていたマンドラレンは、軽く咳払いをすると、「聖なるゴリムさま、ひょっとしてわれわれが逃げこみそうなクトル・マーゴス付近の地方の地図をお持ちでは?」
ゴリムはしばらく考えこんでから、「たしかひとつあったような気がする」と、答えた。かれがカップでコツコツとテーブルを叩くと、ウルゴ人の召使いがすぐに部屋に入ってきた。ゴリムの短い説明を聞いたあと、召使いはふたたび出ていった。「わしの記憶にある地図はひどく古いものだぞ」ゴリムはマンドラレンに言った。「正確さは保証できん。ウルゴの地図学者というのは、地上の距離感をつかむことが不得手でな」
「距離はそれほど重要ではありません」と、マンドラレン。「ただ他の王国とクトル・マーゴスが国境を接しているあたりの記憶を洗い直せればと思いまして。わたしの地理的素養など、せいぜい不勉強な生徒程度のものです」
やがて召使いが戻ってきて、大きな羊皮紙の巻物をゴリムに手渡した。その巻物は次にゴリムからマンドラレンに手渡された。
マンドラレンは用心深く地図を開くと、しばらくのあいだじっと見入っていた。「わたしの記憶していたとおりです」かれはそう言ってベルガラスの方を見た。「ベルガラス、あなたは確か、いかなるマーゴ人も〈アルダー谷〉に足を踏み入れることはないとおっしゃいましたね?」
「いかにも」
マンドラレンは地図を指して、「ラク・クトルに一番近い境界線はトルネドラとの国境です。道理からすれば、われわれの逃げる道はこっちの方角ということになります――つまり、一番近い国境地方です」
「たしかにそうだな」と、ベルガラス。
「では、トルネドラに逃走するように見せかけましょう。足跡を山ほど残して。そしてわれわれが方向転換したという痕跡を岩地がうまく隠してくれるような場所まで来たら〈谷〉を目指して北西に進むんです。こうすればかれらは混乱すると思いませんか? われわれの思惑どおりの方向に追跡をつづけるのはまず間違いないのではないでしょうか? もちろん、やがてはかれらも己の間違いに気づくことでしょう。でも、その頃にはわれわれはかなりの距離を先行しているわけです。そこまでわざわざ迫ってきた上に、この先さらに禁断の〈谷〉に入らなければならないとしたら、かれらは追跡をすっかり断念するんじゃないでしょうか?」
皆は地図を覗き込んだ。
「気に入ったぞ」感極まったバラクは、大きな手で騎士の肩をバンバン叩いた。
マンドラレンは傷みにたじろいで、負傷したあばら骨を押さえた。
「すまん、マンドラレン」バラクはすぐに謝まった。「すっかり忘れてた」
シルクは熱心に地図を眺めていたかと思うと、「これはなかなかいけますよ、ベルガラス」と言った。「もしここで方向転換をすれば――」かれはそこを示して、「――東の崖の頂上に出ますよ。われわれには下る時間が十分あるからいいけど、かれらは間違いなく二の足を踏むでしょうね。なんたって、そこからまっすぐ下りようと思ったら優に一マイルはありますからね」
「チョ・ハグに伝言を送ればいいですよ」と、ヘターが言った。「もしその崖の麓に二、三氏族を集めることができれば、マーゴのやつらはそこを下る前に、二の足どころか三の足を踏みますよ」
ベルガラスはしばらくひげを掻いていたが、ついに決心したと見えて、「よし、わかった」と言った。「その作戦でやってみよう。ヘター、レルグの案内でウルゴを出たら、おまえはすぐに父上のところに行ってくれ。われわれのやろうとしていることを説明して、数千人の戦士を〈谷〉に待機させるように伝えるのだ」
細身のアルガー人は黒い髪の房を揺らしてうなずいた。だが、かれの表情には失望感が漂っていた。
「もう考えるな、ヘター」老人は、にべもなく言った。「もともとおまえをクトル・マーゴスに連れていくつもりはなかったのだ。あそこにはおまえを面倒に巻き込む機会がわんさとあるからな」
ヘターは悲しそうに溜息をついた。
「そう深刻に考えるなよ、ヘター」シルクはからかい半分に言った。「マーゴ人っていうのは気ちがいじみた人種だぜ。少なくとも二、三人は崖を下りてくると思っていいんじゃないかな――たとえ麓で何が待っていようと、そうなれば、きみは見せしめのためにそいつらを殺さなければいけないだろう?」
ヘターはその考えに顔を輝かせた。
「シルク」レディ・ポルガラがとがめるように言った。
小男は無邪気な顔を彼女に向けて、「だってやつらに追跡を思いとどまらせなくちゃいけないんですよ、ポルガラ」と言った。
「もちろんよ」彼女は刺々しく答えた。
「マーゴ人が〈谷〉に蔓延したら困るでしょう?」
「あなたでも気になるの?」
「わたしは本当は血を見るのがそんなに好きじゃないんですよ」
彼女はくるりと背を向けた。
シルクはいかにもつらそうな顔をして溜息をつくと、「いつもわたしの悪いところばかり見ようとするんだから」
セ・ネドラもその頃になると、一も二もなく請け合ったウルとの約束が実はどんな意味を持っていたのか、徐々にわかりかけてきた。間もなくみんなはここを出発する。でもわたしはここに残らなければならない。みんなが自分と関係のない計画について話し合っているのを聞いているうちに、彼女は早くも取り残されたような気分になりはじめていた。そのことを思えば思うほど、彼女は孤独な気分になってきた。いつしか彼女の下唇は震えはじめていた。
ウルゴのゴリムは、賢者の顔に同情の色を浮かべつつ、先ほどからずっと彼女の顔を眺めていた。「後に残されるのはつらかろう」その大きな瞳で彼女の心をすっかり見抜いているかのように、かれは言った。「しかもこの洞穴は見知らぬところだ――暗くて見るからに陰気だと思うだろう」
彼女は黙ってうなずいた。
「だが一日かそこらのうちに、おまえの目もやわらかな光に慣れてくるだろう。ここには外の人間がいまだかつて見たこともないような美しいものがある。本物の花こそ咲かないが、その代わり、壁や床面に宝石の花がまるで野性の花のように咲き乱れる秘密の洞穴があるのだ。太陽のない世界だから木も生えないし葉も育たないが、実を言うと、わしは純金の蔓がくるくると巻きながら天上から床までびっしりと這っている洞穴の壁を知っている」
「ご用心下さい、聖なるゴリムさま」シルクが言った。「王女はトルネドラ人ですよ。そんな富を見せたら、あなたの目の前でヒステリーを起こさないともかぎりません」
「つまらない冗談ね、ケルダー王子」セ・ネドラは氷のように冷たい声で言った。
「王女さま、何とお詫びしていいものやら」かれは心にもないことを言って、大袈裟に頭を下げた。
王女はついつい笑ってしまった。このネズミ顔をした小さなドラスニア人の徹底的な悪人ぶりにいつも腹を立てていたらそれこそきりがない、と思ったのだ。
「ウルゴにいるあいだは、わしの可愛い孫娘にでもなったつもりでいればいい」ゴリムは彼女に言った。「静かな湖畔を一緒に散歩してもいいし、長いこと忘れられている洞穴を探検してもいい。おしゃべりするのもいいだろう。外の人間はウルゴのことをまったく知らない。おまえはおそらくわれわれを理解する最初の訪問者になるだろう」
セ・ネドラはとっさに手を伸ばしてかれの萎びた手を握った。なんて優しい老翁かしら。
「光栄です、聖なるゴリムさま」彼女は心の底から言った。
かれらはその夜、ピラミッド型をしたゴリムの家の快適な部屋の中で眠った――と言っても、夜とか昼とかいう言葉はこの地下の奇妙な世界ではまったく意味をなさなかったのだが。翌朝、数人のウルゴ人がゴリムの洞穴に馬を連れてきた。わたしたちが通ってきた道よりずっと遠回りをしてきたんだわ、とセ・ネドラは思った。みんなはもう旅支度を整えている。セ・ネドラは片側に腰をおろしながら、すでにどうしようもなく淋しい気分になっていた。脳裏に焼きつけようとしているのか、目はひとりひとりの顔を次々と追っている。ついにガリオンのところまでくると、その目から涙が溢れそうになった。
道理に合わないとは知りながら、彼女はもうかれの身を案じ始めていた。かれは感情に駆られやすいからわたしの目の届かないところに行ったとたん、きっと自分の身を危険にさらすようなことをするに違いない。もちろんレディ・ポルガラが見張ってはくれるでしょうけど、それはまた別の話だ。かれがこれからしでかそうとしている愚かな行ないのことや、かれの不注意な態度のせいで自分がこんなに心配していることを思うと、セ・ネドラは急にかれに対して腹が立ってきた。彼女は、何か難癖をつけられるようなことをやってくれればいいのにと思いながらかれをにらみつけた。
彼女は、ゴリムの家の外まで皆を見送るのはやめようと心に決めていた――湖のほとりで皆のうしろ姿を眺めながら、ひとりぽつんと立ってるなんてまっぴらだと思ったのだ――だが、かれらが重々しいアーチ型の門をぞろぞろとくぐっていくのを見たとたん、その決心はもろくも崩れ去った。彼女は無我夢中でガリオンの後を追いかけ、かれの腕をつかんだ。
かれが驚いて振り向くと、彼女は背伸びしてかれの顔を小さな両手で包み、そっとキスした。
「不注意なことしたら、許さないわよ」もう一度キスすると、彼女は呆気にとられているガリオンを残し、泣きながら家の中に駆け込んだ。
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第四部 クトル・マーゴス
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かれらは来る日も来る日も闇の中にいた。レルグが持ってきた薄暗いたったひとつの明かりは、どこについていったらいいかを示してくれるに過ぎなかった。顔を圧迫するような暗闇の中、ガリオンは片手を突き出して見えない石に頭をぶつけないようにしながら、でこぼこの床をよろよろと歩き進んだ。けれども、そこはただのかび臭い暗闇ではなかった。頭上から、そして四方からのしかかってくる山の重みをかれは感じていた。まるで岩がにじり寄ってきて、数マイルにおよぶ堅い岩の中に自分がぴったりと閉じ込められてしまうような気さえする。かれはちらちらと顔をのぞかせる恐怖と常に闘いながら、叫び声をあげそうになるたびにギュッと歯をくいしばるのだった。
レルグの選ぶくねくねと曲がりくねった道には、これといった意図がないように見えた。通路の分岐点が来るたびに、あてずっぽうで道を選んでいるようにも見えた。だがかれは、古い歌声の名残が闇の中にいつまでもささやきつづけている暗い洞穴を、常に自信に満ちた足取りで歩きつづけた。ガリオンが得体の知れない恐怖に屈せずにいられたのは、レルグのその自信に満ちた態度があったからだ。
ある地点まで来ると、レルグは立ち止まった。
「どうかしたのか?」シルクが鋭い声をあげた。その声は、かれもまたガリオンの知覚を脅かしている例の見え隠れする恐怖に悩まされているのだということを物語っていた。
「今のうちに目隠しをしないといけないんだ」と、レルグは答えた。かれは風変わりな形の薄い鎖かたびらを着ていた。金属のうろこが重なり合ったその長衣はウエストの部分にベルトがあり、ぴったりとした頭巾は顔以外の部分をすっかりおおい隠していた。ベルトには、先端がかぎの手になった重々しいナイフが下がっていた。ガリオンはそれを見ただけで背筋が寒くなった。レルグは鎖かたびらの下から一枚の布を取り出すと、用心深く顔に巻きつけた。
「何でそんなことを?」ダーニクが訊ねた。
「すぐ先の洞穴に石英の鉱脈がある」と、レルグは答えた。「そのせいで外の日差しが地下にも反射する。おそろしくまぶしい光だ」
「目隠しをしてしまったら、どうやって道を探すんだよ?」シルクが抗議の声をあげた。
「そんなに厚い布じゃない。これを通してだってじゅうぶんに見える。さあ、行こう」
かれらはそのまま通路を歩きつづけ、角を曲がった。そのとたん、前方の光がガリオンの目に飛び込んできた。かれは一目散に駆けていきたい衝動を必死に抑えた。かれらは黙々と歩きつづけた。ヘターの率いる馬が、石の床の上にカタカタとひづめの音を響かせている。明るいその洞穴はおそろしく大きく、ピカピカした透明な光に満たされていた。きらめく石英の柱が、燃えるような光で洞穴を照らしながら、まっすぐ天井に伸びていた。巨大な岩の尖端が氷柱のように天井からいくつも下がっており、それを抑えるように床からも巨大な尖端が突き出している。洞穴の真ん中には、またしても地下の湖が横たわっていた。はるか向こうでポツポツと滴る小さな滝が水面にさざなみを立てており、小さな銀の鈴のようなその音が洞穴にいつ果てるともなくチリンチリンとこだまして、何マイルも後ろから聞こえてくる溜息にも似たウルゴ人の歌声の余韻とすばらしいハーモニーをつくりあげていた。洞穴じゅうに溢れる色彩に、ガリオンは目がくらみそうになった。透明な石英の柱が光を屈折させて様々な色のかけらに変え、洞穴を七色の光で満たしているのだ。ガリオンは不意に、この目もくらむような洞穴をセ・ネドラにも見せてやることができたらいいのにと思った。そして、その考えがかれを戸惑わせた。
「急げ」目隠しした目をさらに光から守ろうとしているのだろうか、レルグは片手を目の上にかざしながら言った。
「ここで休もうじゃないか?」と、バラクが言った。「どうせそろそろ休まなくちゃいけないんだし、ここなら申し分ないぜ」
「ここはウルゴの洞穴で一番ひどい場所なんだぞ」レルグは言った。「さあ、急げ」
「どうせおまえは暗闇が好きなんだろうよ。でも、おれたちはそれほど闇が好きじゃないもんでね」バラクはそう言って洞穴を見回した。
「目を守れ、この馬鹿が」レルグ。が容赦なく言った。
「おい、その言い方はないだろう」
「目を守っておかないと、ここを離れたとたん何も見えなくなってしまうんだ。そうなったら目が闇になれるまで二日はかかる。ここで長居をすれば、今までの苦労が水の泡になるんだ」
バラクはしばらくレルグの顔をにらみつけていたが、やがてフーッとうめくと、短くうなずいた。「おれが悪かった。そんなこととは知らなかったんだ」かれは手を伸ばし、謝まるつもりでレルグの肩にふれた。
「さわるな!」レルグは大男の手から身を引いて叫んだ。
「どうかしたのか?」
「とにかくおれにさわるな――二度と」レルグはそう言って前方に急いだ。
「どうしたっていうんだよ?」
「純潔を傷つけられたくないんだろう」ベルガラスが言った。
「純潔を傷つける? おれが?」
「かれは自分の純潔に関してはひどく神経質なのだ。かれに言わせれば、どんなものがふれようと、それは自分を汚すことになるのだ」
「汚す? てめえなんか水溜りの豚とたいして変わらないじゃないか」
「その汚れとはわけが違うのだ。さあ、先を急ごう」
バラクはみんなの後ろを歩きながら、なおもブツブツと言いつづけた。ふたたび暗い通路に入り込むと、ガリオンは肩ごしに振り返って、後方の明るい洞穴から漏れる光がしだいに消えかかってゆくのをなごり惜しそうに眺めた。やがて角を曲がると、その光も見えなくなった。
さざめく闇の中では、時間の感覚を持ちつづけることは不可能だった。かれらは食事や睡眠のために時折休憩しながら、よろよろと歩きつづけたが、ガリオンの眠りは山が崩れかかってくる悪夢に何度も何度も乱された。だが、もう二度と空を見ることはないのでは、と諦めかけていた矢先、かれはかすかな空気の動きが頬を撫でるのを感じた。できるだけ正確に判断したところによると、薄明かりに照らされたウルゴの最後の通路を離れ、この永久の暗夜に足を踏み入れてから、もう五日が過ぎていた。だから、最初なま温かい風を感じたときも、これはただの想像に違いないと信じて疑わなかった。だが、間もなく洞穴のカビの臭いに混じって木や草の香りが漂ってきた。どこか先の方に穴があるのだ――そう、外界への出口が。
温かな外の空気の気配は次第に強くなり、かれらがよろよろと歩き進んでいる通路にも、草の匂いが充満してきた。床はだんだん上り坂になり、わずかに闇も薄らいできた。かれらはまるで永久の暗夜を抜け出し、有史以来初めて迎える朝の光に向かって進んでいる者のような気持ちだった。後ろをとぼとぼ歩いていた馬たちの鼻にも爽やかな空気の匂いが届いたのだろう、急に歩みが軽快になった。しかし、レルグの速度だけはだんだんと遅くなり、さらに足取りが重くなった。鎖かたびらが擦れ合う時のキーキーというかすかな音さえ、かれの耳には大きく響いていた。行く手に待ち受けているものに対して気を引き締めながらも、体はブルブルと震えている。かれはほとんど祈りにも似た熱心さで、うなるような調子のウルゴ語を何度も何度もブツブツとつぶやきながら、ふたたび薄布を顔に巻いた。目がおおわれると、かれはほとんど足を引きずるようにして、不承不承に歩き出した。
やがて目の前に金色の光が広がった。通路の出口はぎざぎざと不規則な形をしており、固い木の幹がもつれ合うようにして正面をくっきりと縁取っていた。突然、子馬がヘターの厳しい命令も聞かずに、カタカタとひづめの音を響かせながら出口に突進し、光の中に飛び出していった。
ベルガラスは子馬の後ろ姿をちらっと見やり、頬ひげを掻いた。「あいつは、別れるときにおまえが母馬と一緒に連れていった方がいいかもしれんな」かれはヘターに言った。「あいつには物事を真剣に考えるということができないらしい。クトル・マーゴスは容易ならない場所だ」
ヘターは真面目な顔でうなずいた。
「だめだ」レルグは出し抜けに叫ぶと、光に背中を向け、通路の壁面に体を押しつけた。「おれにはできない」
「できるわよ」ポルおばさんがなだめるように言った。「わたしたちもゆっくりと出て行くようにするから。そうすればあなたも少しずつ光に慣れることができるわ」
「おれにさわらないでくれ」レルグはほとんど無意識のうちにこう答えていた。
「いい加減うんざりしてくるぜ」バラクが吠えた。
ガリオンたちは、まるで光に吸い寄せられるように、どんどん前進した。洞穴の出口にからまるやぶをがむしゃらにくぐり抜け、太陽の光の中へ出たとたん、かれらはパチパチと瞬きして目をおおった。最初のうち、光がチクチクと目を刺すように感じられたが、しばらくすると視力が戻ってきた。ところどころやぶにおおわれた洞穴の入口は、岩山の斜面のちょうど中程にあった。後方には雪化粧をしたウルゴの山脈が、朝日にキラキラと輝きながら青い空にくっきりとそびえていた。そして前方には広大な平野が海のように広がっていた。秋の訪れと共に黄金色を帯びた丈の高い草々が、朝のそよ風を受けてどこまでも緩やかにうねっている。地平線まで届く草原を見た瞬間、ガリオンは今やっと悪夢から覚めたような錯覚に陥った。
洞穴の出口付近では、レルグが光に背を向けて祈りの言葉を唱えながら、拳で肩や胸を叩いていた。
「今度は何だ?」と、バラク。
「一種のおはらいだ」ベルガラスが説明した。「不浄な物を自分の中から一掃し、洞穴の精髄を魂に取り込もうとしているのだ。そうすれば外界にいる間も挫けずにいられると信じてるんだろう」
「それで、どのぐらいつづくんです?」
「一時間ぐらいだろう。おそろしく複雑な儀式だからな」
レルグは少しの間だけ祈祷を中断して最初の薄布の上にもう一枚薄布を巻きつけた。
「あれ以上布を巻いたら、窒息しかねないぜ」と、シルク。
「ぼくはもう行ったほうがよさそうですね」ヘターは鞍の紐を締めながら言った。「他に何かチョ・ハグに伝えておくことはありますか?」
「これまで起こったことを他の者にも伝えるように言ってくれ」と、ベルガラスは答えた。
「そろそろ皆に警戒を促してもいい頃だ」
ヘターはうなずいた。
「自分がどこにいるかわかっているのか?」バラクはかれに訊ねた。
「もちろん」長身の若者は、眼前に広がるこれといった特長のない平野を見渡した。
「ラク・クトルに行って戻ってくるには、少なくとも一ヵ月はかかるだろう」ベルガラスは言った。「機会があれば、東の崖を下りる前に狼煙をあげる。崖の下で待機するのがいかに重要なことか、チョ・ハグにくれぐれも説明しておいてくれ。アルガリアにマーゴ人を蔓延《はびこ》らせるわけにはいかんのだ。まだ戦いの準備はできていないからな」
「必ず待ってます」ヘターはそう答えると、鞍に飛び乗った。「クトル・マーゴスにはくれぐれも注意して下さい」かれは馬を方向転換させ、母馬と子馬を引っ張りながら平野に向かって丘を下りはじめた。子馬は一度だけガリオンの顔を振り返り、淋しそうにいなないた。が、やがて後ろを向いて母馬の後を追った。
バラクはがっくりした様子で頭を振ると、どら声で、「ヘターがいないと淋しくなるな」と言った。
「ヘターをクトル・マーゴスに連れていくわけにはいかないさ」と、シルク。「そんなことをしたら、われわれは常にかれの首を紐でつないでおかなきゃならないぞ」
「わかってるよ」バラクは溜息をついた。「でも淋しいことに変わりはないんだよ」
「これからどっちの方角に行くんです?」マンドラレンは草原を見渡しながら訊ねた。
ベルガラスは南東の方角を指差して、「あっちだ。まず〈谷〉の北端を抜けて崖に向かう。それからミシュラク・アク・タールの南の先端をかすめて通ろうと思う。タール人はマーゴ人ほどは頻繁に偵察をしないからな」
「タール人っていうのは何事であれ、必要に迫られなければやらないんですよ」と、シルクは言った。「どうやってグロリムを寄せつけないようにするか、そのことで頭が一杯なんでしょう」
「いつになったら出発するんですか?」今度はダーニクが訊ねた。
「レルグの祈りが終わりしだいだ」と、ベルガラス。
「じゃあその間に朝食にありつけるな」バラクは薄情にも言った。
紺碧の空の下、かれらは何の変哲もない南アルガリアの草原をその日一日進みつづけた。鎖かたびらの上にダーニクの古い頭巾付きチュニックを重ね着したレルグは、棒のように両脚を突き出し、ひどい恰好で馬に乗っていた。行く手に目を配るというよりは、顔を上に向けないことに意識を集中させているように見えた。
バラクは明らかに気に食わないといった顔で苦々しげにその様子を見守っていたが、二、三時間するとついにたまりかねて、「あなたに口出しするつもりはないんですけどね、ベルガラス。あの男は今にきっとわれわれのお荷物になりますよ」
「光が目に刺さるのよ、バラク」ポルおばさんは大男に言った。「馬にも慣れていないことだし。そう簡単にひとを批判するもんじゃないわ」
バラクはぎゅっと口を結んだが、その顔はまだ納得がいかない様子だった。
「少なくとも酔っぱらう可能性がない分、かれは当てになるわよ」ポルおばさんはとりすまして言った。「この小さな集まりの誰かさんたちよりはよっぽどましだわ」
バラクはきまり悪そうに咳き込んだ。
その夜、かれらはくねくねと流れる小川の、木のない堤に野営を張った。太陽が沈んでしまうと、レルグのそわそわも少しは収まったように見えた。それでも、流木の焚き火には絶対に目を向けようとはしなかった。やがてかれが夜空を見上げると、そこには宵の星が輝いていた。ぽかんと口を開けて星を見つめるかれの目に恐怖の色が浮かび、薄布を取った顔に汗の粒が光った。かれは両手で頭を抱え込み、押し殺したような叫び声をあげて地面に顔を埋めた。
「レルグ!」叫ぶが早いか、ガリオンは怯える男のわきに飛んでいき、無意識のうちに手をかけた。
「さわらないでくれ」レルグは反射的にあえぐような声を出した。
「馬鹿なこと言わないでよ。どうしたのさ? 具合でも悪いの?」
「空だ」レルグは絶望のうめき声を漏らした。「空なんだ! あれがおれを怯えさせるんだ」
「空? 空がどうしたの?」ガリオンは見慣れた夜空の星を仰いだ。
「終わりがない」レルグはうめいた。「果てしなくつづいている」
突如として、ガリオンはその言葉の意味を理解した。かれ自身も洞穴の中では怯えつづけていた――わけもなく怖かった――それは、山の中に閉じこめられていたからだ。この果てしない空の下で、レルグもまたかれの感じた見えない恐怖に襲われているのだ。レルグは生まれてからウルゴの洞穴を出たことが一度もなかったんだろう、そう思うとガリオンは胸がしめつけられるような気がした。「だいじょうぶだよ」かれは慰めるように言った。「空は襲ってきたりしないから。ただ上にあるだけなんだよ。気にしなければいいじゃないか」
「おれには耐えられない」
「見なけりゃいいんだよ」
「でもそこにあるのはわかってるんだ――あの果てしない空洞が」
ガリオンは困り果ててポルおばさんの顔を見た。彼女は話をつづけるよう、短く合図した。
「空洞なんかじゃないよ」かれはもがきながら言った。「空にはいろんなものがあるんだよ――ありとあらゆるものが――雲、鳥、太陽の光、星――」
「何だって?」レルグは両手の中から顔を上げた。「それは何だ?」
「雲のこと? 雲なんか誰だって――」ガリオンはそこまで言って口をつぐんだ。レルグは雲がどんなものか知らないのだ。これは頭に入れておかなくちゃいけないな、とガリオンは思った。だが、説明するのは容易なことではなさそうだ。かれは大きく息を吸い込んだ。「わかったよ。じゃあ、まず雲から始めよう」
雲の説明にはかなりの時間がかかった。だが、レルグが本当に雲を理解したのか、それとも空のことを頭から追い払うためにその言葉にしがみついていたのか、ガリオンには見当がつかなかった。雲が終わって鳥の番になると、説明も少しは楽になった。と言っても、羽を説明するときはまたひどく苦労したのだが。
「そう言えば、おまえはウルに声をかけていただいたな」レルグは翼を描写するガリオンの言葉をさえぎった。「たしかウルはおまえのことをベルガリオンとお呼びになったが。それがおまえの名前なのか?」
「うーん――」ガリオンは気まずそうに答えた。「そうとも言えないんだな。本当の名前はガリオンって言うんだ。ベルガリオンっていうのもやがてはぼくの名前になるのかもしれないけど――そのうちに――もう少し大人になったら」
「ウルは何もかもご存知だ」レルグは言い放った。「ウルにベルガリオンと呼ばれたのなら、それがおまえの名前だ。おれもおまえをベルガリオンと呼ぶことにしよう」
「それだけはよしてもらいたいんだけど」
「神はおれに罰をお下しになった」レルグは自己嫌悪に満ちた声でうめいた。「おれは神の期待を裏切ったんだ」
ガリオンはどう答えたらいいものやら、まったくわからなかった。恐怖の中にあってなお、レルグの心は神学の危機という恐怖にさいなまれつづけているのだ。炎に顔をそむけ、失意のどん底という感じでがっくりと肩を落としながら、かれは地面に座っていた。
「おれは屑だ」かれは今にも泣き出しそうな声で言った。「魂の沈黙のうちにウルが話しかけて下さったとき、おれは誰よりも出世したような気になっていた。だが今のおれは、泥より劣ってる」かれは苦悩の顔をゆがめながら、頭のわきを拳でガンガン叩きはじめた。
「やめてよ!」ガリオンは叫んだ。「そんなことをしたら、怪我するよ。いったいどうしちゃったのさ?」
「ウルは、このおれがウルゴの子供の正体を明かすだろうとおっしゃったんだ。それを聞いて、おれはついに神の寵愛を賜ったのだと思った」
「その子供って、いったい誰なの?」
「子宝だ。新しいゴリムとなる。それは民を導き護るためにウルがお考えになった手段なんだ。先代のゴリムの任務が終わると、ウルは次のゴリムとなる子供の目に特別な印をお付けになる。おまえがウルゴに子供をもたらすことになるであろうとウルに言われたとき、おれはつい皆にしゃべってしまったんだ。すると皆はおれを崇め奉り、ウルのお言葉を聞かせてくれと懇願した。そこでおれは自分のまわりにひしめく罪と腐敗を暴き、非難した。皆はおれの言葉に熱心に耳を傾けた――だが、それはおれが勝手にしゃべったことであって、ウルの言葉などではなかったんだ。おれはすっかり自惚れて、ウルの代弁をしているつもりになっていた。おれは自分の罪を棚に上げて、他人の罪を責めていたんだ」激しい自己批判がつづくうちに、レルグの声はかすれてきた。「おれは堕落している。こんな自分が忌まわしい。こんな男は、ウルの御手で破壊されるべきだったんだ」
「それは禁じられてるんだよ」ガリオンは考えるより先にそう言っていた。
「ウルに何かを禁じるような力を持ってるやつがどこにいるって言うんだ?」
「知らないよ。ただぼくにわかってるのは、抹消は禁じられてるってことだよ――たとえ神だろうと。それだけは覚えておかなくちゃいけないんだ」
レルグはさっと視線を上げた。その瞬間、ガリオンはたいへんな失敗を犯してしまったことを知った。「おまえは神の秘密を知っていると言うのか?」狂信者はまさかという口ぶりで訊ねた。
「神だろうと何だろうと、これには関係ないんだよ。誰もが守らなくちゃならないきまりなんだ」
にわかに降って湧いた希望に、レルグは瞳を輝かせた。その場にひざまずくと、かれは地面に顔がつくまで深々と頭を下げた。「己の罪を許したまえ」かれは節をつけて言った。
「えっ?」
「わたしはたいした人間でもないのに、自惚れていました」
「ちょっと間違っただけだよ。もうやらなきゃ、それでいいじゃないか。ねえ、頭を上げてよ、レルグ」
「わたしは邪気で、汚れています」
「あなたが?」
「女に対していやらしい想像と働かせたこともあります」
ガリオンはどぎまぎして顔を赤らめた。「誰だってたまにはそんなことぐらい考えるものだよ」かれはきまり悪そうにコホンと咳ばらいをして言った。
「わたしの考えは淫らです――淫らなんです」罪の意識にレルグはうめいた。「淫らな考えがこの胸を焦がすのです」
「ウルはわかってらっしゃるはずだよ。さあ、立ってよ、レルグ。ここまでする必要はないよ」
「わたしは心ではなく、口先だけで祈りを唱えてきました」
「レルグ――」
「洞穴を見つけ出したのも、ウルに捧げるためではなく、自分の喜びのためでした。わたしはそうやって、神から賜った才能を汚してきたのです」
「レルグ、お願いだから――」
レルグは地面に頭をガンガン打ちつけはじめた。「ある時、わたしはウルの声がこだまする洞穴を見つけました。でも、ひとにはそのことを知らせずに、ウルの声を独り占めしたのです」
ガリオンはだんだん恐ろしくなってきた。レルグは自分で自分を狂乱状態に追い込もうとしている。
「ベルガリオンさま、どうかわたしを罰して下さい」レルグは懇願した。「この邪悪な男に罰をお与え下さい」
ガリオンは、少しの迷いもなく答えた。何を言うべきか、かれにははっきりとわかっていたのだ。「ぼくにはできないよ、レルグ」かれはきっぱりと言った。「あなたを罰するなんて、ぼくにはできない――あなたを許すことができないようにね。たとえあなたがするべきではないことをしてしまったとしても、それはあなたとウルの問題なんだよ。もし、どうしても罰を受ける必要があると思うなら、自分で自分を罰するしかないよ。ぼくにはできないし、する気もないよ」
レルグは苦しみに歪んだ顔を地面から上げ、ガリオンの顔をじっと見つめた。それから喉に詰まったような叫び声をあげたかと思うと、よろよろと立ち上がり、泣きながら闇の中に走り去った。
「ガリオン!」耳慣れたポルおばさんの声が響き渡った。
「ぼく、何もしてないよ」かれはほとんど無意識のうちに弁解していた。
「かれに何を言ったのだ?」今度はベルガラスが訊ねた。
「かれはいろんな罪を犯してきたって告白したんだ」ガリオンは説明した。「だから、罰を与えて許してもらいたいって」
「それで?」
「おじいさん、ぼくにはそんなことはできないよ」
「そんなに難しいことか?」
ガリオンはびっくりしてかれの顔を見た。
「少し嘘をついてやるだけでよかったのに。それがそんなに難しいことなのか?」
「嘘? こんなことに嘘をつけって言うの?」ガリオンはその考えにぞっとした。
「いいかガリオン、わしにはあの男が必要なのだ。宗教的な興奮がかれの力を失わせてしまったら、使いものにならなくなってしまう。少しは頭を使ったらどうだ、坊主」
「できないものはできないよ」ガリオンは頑なに繰り返した。「かれにとってはすごく重要なことなんだよ、だまらせられるわけないじゃないか」
「おとうさん、それよりかれを捜しにいったほうがいいわ」と、ポルおばさん。
ベルガラスはガリオンをにらみつけると、かれの顔に指をつきつけて、「この決着はまだついてないんだからな」と言った。そして、苛立たしそうに独り言をつぶやきながら、レルグを探しに出かけた。
この分だとクトル・マーゴスへの道のりは長くて苦しいものになりそうだ、ガリオンは即座にそう確信した。
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20[#「20」は縦中横]
この年、アルガリア平野の低地地方では夏がぐずぐずと居残ったものの、秋はあっという間に過ぎ去っていった。マラゴー、そしてつづくウルゴの山頂で遭遇した吹雪や突風は、早い冬の到来と厳しい寒さを暗示していたが、案の定、東の崖を目指して連日広やかな草原に馬を走らせるあいだに、夜ごとに寒さが厳しくなってきた。
罪悪感に苛まれたレルグにうまく対応できなかったことで、ベルガラスは一時ガリオンに腹を立てていたが、やがてその怒りも鎮まったかに見えた。ところが、かれは有無を言わせぬ論法で、ガリオンにとんでもない重荷を押しつけてきたのだ。「なぜだか知らんが、あいつはおまえを信じきっている」と、老人は言った。「だから、あいつのことはおまえに一任することにした。おまえが何をしようと勝手だが、二度とあいつを逃がさないように見張っておけ」
ガリオンが何とか心を開かせようとしても、最初のうちレルグはまったく反応を示さなかった。だが、頭上に広がる空のことを考えて再び恐怖にとりつかれたかれは、それをきっかけに重い口を開いた――最初はためらいがちに、だが最後には言葉が堰を切ったように次から次へと飛び出した。ガリオンが恐れていたとおり、レルグの好きな話題はもっぱら罪に関するものだった。レルグが罪深いと考えていることがじつに些細なことばかりなのを知って、ガリオンは少なからず驚いた。たとえば食事前の祈りを忘れることは、かれに言わせれば大きな罪だった。気の滅入るような罪の告白がつづくうちに、ガリオンはかれの罪の大半は行動ではなく、精神的なものだということに気づき始めた。中でも再三話題にのぼったのは、女性に対して抱く好色な想像という問題だった。ひどく困ったことに、レルグはどうしてもその好色な想像を詳細にわたって説明しようとするのだった。
「もちろん女というのは、おれたちとは違う」ある日の午後、一緒に馬を並べている時に、狂信者はまたしても打ち明け話を始めた。「女の頭と心は男のように神聖なものに引かれたりはしない。その体でいかにうまく男を誘惑し、罪に引き込むかということに思考をめぐらしているんだ」
「どうしてそう思うわけ?」ガリオンが慎重に言葉を選びながら訊ねた。
「女の心は肉欲に支配されてるからだ」レルグは断固たる口調で言った。「女というのは清廉潔白の男をたぶらかすことに特別な喜びを感じる生き物なんだ。実を言うとな、ベルガリオン、女っていうのはおまえなんかにはとうてい想像がつかないほどずるい生き物なんだ。どんなにまじめな婦人でも邪悪さを持っているんだということを、おれはこの目で確かめてきた――とりわけ熱心な信者たちの妻でさえそうなんだ。彼女たちは常に男にふれたがる――たまたまふれ合ったような顔をして――そして、あつかましくもローブの袖をするりと滑らせてその豊満な腕をあらわにすることに最大の努力を払うんだ――そればかりじゃない、女たちは常に長衣の裾を引き上げて、くるぶしを見せようとする」
「そんなに嫌なら、見なければいいじゃない」
レルグはその言葉を無視して、「女たちをおれの前から追放してしまおうと思ったこともある。だが、女たちを見張って、信者をその邪悪さから守ってやったほうがいいかもしれないと思い直した。一時、信者間での結婚を禁止してしまおうと思ったこともあった。だが、年寄りの何人かが、そんなことをしたら若い信者を失うだろうと助言してくれた。おれは今でも、悪くない考えだと思ってるんだが」
「そんなことをしたら、信者もいなくなっちゃうんじゃない? つまり、あんまり長いことそんなことをつづけてたら。結婚しなければ、子供だって生まれないよ。ぼくの言ってることわかるでしょ?」
「そのへんのところはまだ考えてない」
「それに子供はどうなるのさ――新しいゴリムは? もし結婚して子供を授かるはずの二人がいて――もちろん、その特別な子供のことだけど――あなたがそれを許さなかったとしたら、ウルがお望みになってる出来事を邪魔することになるんじゃないの?」
レルグはそんなことは思いもしなかったというふうに、激しく息をのんだ。それから、フーッとうめくと、「わかっただろう? 自分では一生懸命やっているつもりでも、必ず罪を犯してしまうんだ。ベルガリオン、おれは呪われてるんだ、呪われてるんだよ。ウルはなぜ子供の発見者におれをお選びになったんだろう? おれはこんなにも堕落しているというのに」
ガリオンはかれにそれ以上考えさせないよう、とっさに話題を変えた。
それから九日間、一行は東の崖を円指して果てしない草の海を渡りつづけた。そして、その九日間、ガリオンの胸を傷めたのは、わめきちらす狂信者とかれをわざと二人きりにさせようとする仲間たちの冷淡な態度だった。かれはしだいにむっつりふさぎこむようになり、時折恨めしそうな目で仲間を見た。が、かれらは知らん顔を決め込んだ。
やがて平野の東端に近い長い丘をのぼった瞬間、かれらは東の崖地帯の全貌を初めて目の当たりにした。そこには、土台の荒岩から優に一マイルの高さがあると思われる険しい玄武岩の崖が、果てしない両翼を広げてそびえていた。
「無理だ」バラクはさえない声で言った。「あんなもの登れやしないよ」
「あれを登る必要はないさ」シルクが自信たっぷりに答えた。「いいコースがあるんだ」
「秘密のコースってことか?」
「秘密っていうほどのコースじゃないな。知ってる者はそう多くないだろうけど、簡単に見つかるところにあるんだよ――目の付け所さえ心得ていれば。いつだったかミシュラク・アク・タールを大急ぎで離れなくちゃならないことがあって、その時にたまたま見つけたんだ」
「おまえはどんなところでも一度や二度大急ぎで逃げ出した経験があるらしいな」
シルクは肩をすくめて、「わたしのような職業についているかぎり、逃げるタイミングを見計らうっていうのは、常に頭に入れておくべき重要事項なもんでね」
「あの川が難関になるんではないだろうか?」厳めしくそびえる黒い崖の手前でキラキラときらめいているアルダー川の水面を見ながら、マンドラレンが訊ねた。かれは、脇腹に軽く指先を当てて、傷の様子を探っている。
「マンドラレン、やめてちょうだい」ポルおばさんはかれに言った。「そうやっていつもいつもつっ突いていたら、治るものも治らないわよ」
「もうほとんど治っていると思うんですが」と、マンドラレン。「ただ、一ヵ所だけ痛むところがあるんです」
「そっとしておきなさい」
「二、三マイル上流に行くと、浅瀬がある」ベルガラスはかれの質問に答えて言った。「この時期川の水位は低くなってるから、なんなく渡れるだろう」かれはふたたび皆の先頭に立って、アルダー川めざしてなだらかな傾斜面を下りはじめた。その日の午後遅く、かれらは浅瀬を渡り、向こう岸に野営を張った。そして翌朝、かれらは崖のふもとに向かった。
「そのルートは二、三マイル南にあるんです」シルクはそう言って、不気味に立ちはだかる黒い崖沿いに皆を導いた。
「この表面を登らなくっちゃいけないの?」ガリオンはのしかかるようにそびえる壁を仰ぎ見ながら、心配顔に訊ねた。
シルクは首を振って、「そこは河床になってるんだ。崖に切れ込むように通っている。少し険しくて狭いかもしれないが、それを行けば無事頂上にたどりつくだろう」
ガリオンはそれを聞いていくらか勇気が湧いてきた。
だがそのルートは、実際は巨大な崖の間の裂け目でしかなかった。開口部から滴る水は、崖の底辺に積もった岩の合間に吸い込まれ、どこへともなく消えている。「本当にこれが頂上までつづいてるのか?」バラクは狭い裂け目を疑い深そうにながめた。
「信用しろって」シルクは胸を叩いた。
「それができれば苦労しないよ」
まったくひどいルートだった。傾斜が険しく、そこらじゅうに岩が散らばっている。時折ひどく幅が狭まるため、かれらはそこを通り抜ける前に荷馬から荷物を下ろし、四角く砕けて巨大な階段のようになった玄武岩の上で馬の体を文字通り人力で後押ししなければならなかった。裂け目をちょろちょろと流れる水のせいで、河床はどこもかしこもヌルヌルして滑りやすくなっていた。さらに悪いことに、西の空から流れてきたおぼろ雲が冷たい風を運んできて、はるか頭上に横たわるミシュラク・アク・タールの荒野からその狭い裂け目に向かって激しく吹きおろしてくるのだ。
結局頂上にたどりつくまでに二日かかった。崖の縁から一マイルほど奥まった頂上に立った頃には、かれらはすっかり疲れ果てていた。
「誰かに棒で叩きつけられたような気分だぜ」バラクは、裂け目の頂上にあるやぶにおおわれた溝でぐったりと腰を下ろしながら、うめくように言った。「汚くて、馬鹿でかい棒でな」
かれらはイバラのやぶに囲まれた溝の地面に腰を下ろして、過酷な岩登りの疲れが回復するのを待った。「ちょっとそのへんを見てこようかな」まだほんの数分しかたっていないというのに、シルクはもう立ち上がった。この小男は軽業師の体を持っているのだ――しなやかで、たくましくて、すぐに回復する。溝の縁をよじのぼると、かれは体をかがめてやぶの下を通り抜け、最後の数フィートを腹這いで進み、頂上の向こう側の様子をそっとうかがった。数分後、かれは低く口笛を鳴らし、素早い動作で仲間に手招きした。
バラクはふたたびフーッとうめいて立ち上がった。ダーニク、マンドラレン、そしてガリオンもよろよろと立ち上がった。
「用件を聞いてきてくれ」ベルガラスはかれらに言った。「わしはまだ動けそうにない」
四人は、シルクが腹這いになって様子をうかがっているやぶの下を目指し、まず不安定な岩の斜面を上ると、かれがやったように最後の数フィートを這うように進んだ。
「どうかしたのか?」小男の隣にたどりつくなり、バラクが訊ねた。
「仲間だよ」シルクはそれだけ言うと、どんよりとした鉛色の雲の下に広がる、茶色くかすんだ岩だらけの荒野を指差した。
冷たい強風に舞い上げられた黄色い土ぼこりが、馬の通過を物語っていた。
「巡察ですか?」ダーニクはかすれた声で訊ねた。
「いや、それはないだろう」と、シルク。「タール人は馬に乗るのはあまり好きじゃない。だから、巡察はたいてい歩きなんだ」
ガリオンは荒野を見渡すと、「あの前にいるのは人間じゃない?」と言って、騎手たちの前方約半マイルほどのところを移動していく小さな点を指差した。
「ああ」シルクは妙に哀しげな声を出した。
「何なんだ?」バラクが訊ねた。「秘密はなしだぞ、シルク。今はそんな気分じゃないからな」
「あいつらはグロリムだよ。餌食になるまいとして逃げてるのは、タール人だ。よくあることさ」
「ベルガラスに知らせたほうがいいのでは?」マンドラレンが口をはさんだ。
「いや、その必要はないだろう」と、シルク。「このへんにいるグロリムは、たいてい位《くらい》の低い連中だ。魔術を使えるようなやつは、まずいないだろう」
「とにかく知らせたほうがいい」ダーニクが言った。かれは溝の縁から後ずさると、すっと立ち上がって、老人がポルおばさんやレルグと一緒に休んでいる場所に戻っていった。
「目撃されないかぎり、心配はないさ」シルクはかれらに言った。「ほんの三人しかいないようだし、今のところはタール人を捕まえようと必死になってる」
やがて男がこちらに逃げてきた。頭を垂れ、胸を上下に振り回しながら走ってくる。
「もしあの男がこの溝に逃げ込もうとしたら、どうなるだろう?」と、バラクが訊ねた。
シルクは肩をすくめて、「そりゃ、グロリムは追ってくるだろうな」
「そうなったら、片づけないわけにはいかないよな?」
シルクは邪悪な薄笑いを浮かべてうなずいた。
「なんだったら、あの男を呼んでやってもいいな」バラクは、鞘の剣をゆるめながら言った。
「わたしもそれと同じことを考えてたとこだよ」
やがてダーニクがザクザクと小石を踏みながら斜面を上ってきた。「ウルフはかれらをしっかり見張っておくようにと言ってますよ。でも、溝に入ってくるような気配を見せるまでは、何もしないようにと」
「ちぇっ、がっかりだな!」シルクは残念そうに溜息をついた。
逃げまどうタール人はもうはっきりと見えるほどに近づいていた。ずんぐりした体つきをして、ウエストにベルトのついた粗末なチュニックを着ている。髪はボサボサで泥のような色をしており、顔は恐怖に駆られた獣のようにゆがんでいる。やがて男は、かれらが隠れている場所の正面、約三十歩ほどのところを通り過ぎた。駆け抜ける瞬間、ヒューヒューと喉で呼吸をしているのが、ガリオンの耳にも聞こえた。男は走りながらすすり泣いていた――その声は、まるで絶望のどん底にいる獣の鳴き声のようだった。
「かれらは絶対に隠れようとしないんだ」シルクは哀れむような声で言った。「ただ、がむしゃらに走るだけ」かれはやるせなさそうに頭を振った。
「あいつらはすぐにあの男を捕まえるだろう」と、マンドラレンも言った。追う側のグロリムは頭巾のついた黒いローブと、ピカピカに磨かれた鋼の面をつけていた。
「下がった方がいいみたいだぜ」バラクは仲間に言った。
かれらは溝の縁に頭を引っ込めた。やがて固い地面をドシンドシンと踏み鳴らしながら、三頭の馬が速足で通り過ぎていった。
「もうすぐ捕まっちゃうよ」ガリオンはたまりかねて言った。「あのひと、縁の方にまっすぐ逃げていったもの。今に追い詰められちゃうよ」
「それはどうかな」シルクの声は哀しげだった。
間もなく、絶望に満ちた叫び声が長く響き渡ったかと思うと、溝の下のほうへ尾を引くように消えていった。
「いずれはこうなると思ってたんだ」シルクはぽつりと漏らした。
不気味なほど高くそびえていた崖のことを思い出して、ガリオンは胃をしぼられるような気持ちだった。
「あいつらが戻ってくるぞ」バラクがふたたび警告した。「下がれ」
三人組のグロリムが、溝の縁沿いを戻ってきた。ひとりが何やら聞き取れないようなことを言い、あとの二人が笑うのが聞こえた。
「グロリムが三人でも少なくなれば、世の中はもっと明るくなるだろうに」マンドラレンがぞっとするような声でささやいた。
「素晴らしい発想だな」と、シルク。「でもベルガラスはうんと言わないだろう。ここは放っておいたほうがいいかもしれないな。誰かがあの三人を探したりしたら大変だ」
バラクは物欲しそうな顔でグロリムの後ろ姿を眺めていたが、やがて残念そうに溜息をついた。
「さあ、下に戻ろう」シルクが言った。
かれらはきびすを返し、ふたたびやぶにおおわれた溝を這い進んだ。
ベルガラスはかれらが戻ってきたのを知って顔を上げた。「もう、行ったか?」
「馬に乗って去っていきました」シルクはかれに報告した。
「あの叫び声は?」レルグが訊ねた。
「三人組のグロリムがタール人を崖の縁まで追い詰めたんだよ」シルクが答えた。
「なぜ?」
「ある宗教的な儀式に出席するよう選抜されたのに、その男が参加を拒んだからだよ」
「拒んだのか?」レルグはショックを受けた様子だった。「じゃあ、命を落としても仕方がないな」
「グロリムの儀式の性質を知ったら、そうは言えないと思うがね」と、シルクは言った。
「人間は神のご意志には絶対に服従しなければいけないんだ」レルグは主張した。かれの口調はいかにも神聖ぶっているように聞こえた。「宗教的な義務は絶対に果たさなければならない」
シルクは瞳をギラギラと輝かせて、ウルゴの狂信者を見つめた。「おまえがアンガラクの宗教についてどれほどのことを知ってるっていうんだ、レルグ?」
「おれはウルゴの宗教にしか興味はない」
「話の内容もわからないのに、決めつける法はないだろう」
「それぐらいにしてちょうだい、シルク」ポルおばさんが割って入った。
「そうはいきませんよ、ポルガラ。今回だけは。この信心深い友人のためにも、少し事実を教えてやったほうがいいんです。かれはどうも物の見方に偏りがあるようですからね」シルクはレルグの方に向き直って、「アンガラク人の宗教の核となっているのは、誰もがいまわしいと感じるある儀式なんだ。タール人は自分の一生を賭けてもその儀式を拒もうとしている。実際、タール人はそのために生きているようなものなんだ」
「罰当たりな連中だ」レルグは耳ざわりな声で非難した。
「違う。たしかにタール人は愚かだ――野卑なところもある――だが、罰当たりな連中なんかじゃない。よく聞けよ、レルグ、われわれが今話しているその儀式っていうのは人間のいけにえのことなんだ」
レルグは目から薄布を取り、信じられないといった表情でネズミ顔の男を見つめた。
「毎年、二千人のタール人がいけにえとしてトラクに供えられている」ショックに打たれたレルグの顔をじっと見すえつつ、シルクは先をつづけた。「グロリムは奴隷を身代わりにすることも認めている。だからタール人は、運悪く選ばれてしまった時に代わりに祭壇に載せる奴隷を買うために、一生働きつづけるんだ。だが、時には奴隷が死んでしまうこともある――あるいは脱走することも。奴隷を持っていないタール人が選ばれたら、たいていは逃げようとする。もちろんグロリムは追いかける――経験が豊富だから、捕まえるのはうまいもんだ。タール人が逃げおおせたなんてことは、いまだかつて耳にしたことがないよ」
「従うのはかれらの義務じゃないか」レルグは頑固に主張するが、だんだんと自信が持てなくなっている様子だ。
「そのいけにえっていうのはどうやって行なわれるんです?」ダーニクは低い声で訊ねた。タール人が自ら崖に身を投げたことが、かれの心を脅かしているのだ。
「簡単なことさ」シルクはレルグをじっと見据えながら答えた。「まず二人のグロリムがタール人を祭壇の上にのけぞらせて、三人目のグロリムが心臓をえぐり取るんだ。それから、その心臓を小さな炎で燃やす。トラクはタール人の全身に興味があるわけじゃない。かれが欲しいのは心臓だけだ」
レルグはそれを聞いてたじろいだ。
「もちろん女たちもいけにえになる」シルクは容赦なくつづけた。「だが、女にはもっと簡単な逃げ道がある。グロリムは身重の女はいけにえにしないことにしている――計算が面倒になるからだ――そこで、タール人の女たちは常に身重の状態でいようとする。タール人の人口が異常に多いのも、タール人の女が何でもガツガツと食べることで有名なのも、これが原因なんだよ」
「おぞましい」レルグはあえいだ。「そんなに堕落するくらいなら、死んだほうがまだましだ」
「死っていうのは永遠につづくんだぞ、レルグ」シルクは冷たい薄笑いを浮かべて言った。
「ちょっとした堕落なら、本人さえその気になれば簡単に忘れられる。自分の命がかかってるとしたら、なおさらのことさ」
シルクがタール人の無残な生活を容赦なく説くうちに、レルグの顔はだんだんとこわばってきた。「おまえは邪悪な男だ」かれはシルクを非難したが、その声には今ひとつ説得力がなかった。
「わかってるよ」シルクは素直に認めた。
レルグは今度はベルガラスに助けを求めた。「かれの言ってることは本当ですか?」
魔術師は物思わしげにひげをかいて、「だいたい言い得ているようだな。宗教という言葉の持つ意味は、民によって異なるのだ。つまり、その民の神がどのような性質を持っているかによるわけだ。これだけは、きちんと割り切るようにしないといけないぞ。そうすれば、これからの仕事が少しはらくに進むようになるだろう」
「こういう話をつづけるには、ちょっと疲れ過ぎてるような気がするわ、おとうさん」ポルおばさんが口をはさんだ。「道中もまだ長いことだし」
「そうだな」かれはすぐに同意して立ち上がった。
一行は、タール人の辺境に広がる乾燥した岩場とむさくるしいやぶの中に馬を走らせた。どんよりとした曇り空の下では、ところどころうっすらと雪が積もっているだけなのに、崖を絶え間なく吹き抜ける風は身を切るように冷たかった。
どうやらレルグの目は光に慣れてきたようだった。広々とした空が引き起こした発作も、雲の存在によって少しおさまったように見えた。だがこの時期は、かれにとっては明らかに試練の時だった。かれにとってこの地上の世界はまったくの別世界で、何かに出会うたびに今までの概念が打ち砕かれていくように思えた。それはまた、かれ自身の宗教的な迷いの時期でもあった。そして、その宗教的な危機がかれの発言や行動をかき乱した。義人然とした厳しい表情で他人の罪深さを公然と非難したかと思うと、次の瞬間には、耳を貸してくれるひとなら誰でもかまわずに捕まえて、自分の犯した罪を延々と告白し、自己嫌悪にもだえ苦しむといった具合だった。鎖かたびらの頭巾に縁どられたその青白い顔、そしてその大きな黒い瞳は、感情的な混乱が訪れるたびに激しくゆがんだ。かくして仲間はふたたび――辛抱づよくて、心の温かいダーニクですら――かれから遠ざかり、すべてをガリオンに押しつけたのだった。その後もレルグは祈りや訳のわからない儀式のために頻繁に立ち止まったが、かれらの目にはそれもただやたらと地面に平伏しているようにしか見えなかった。
「そんなペースじゃ一年かかったってラク・クトルに着かないぜ」ある時、またもや儀式が始まったさい、バラクは道端の砂にひざまずいて大声を張り上げている狂信者を明らかに嫌悪した様子でにらみつけながら、苦々しげに言った。
「われわれにはかれが必要なのだ」ベルガラスは穏やかに答えた。「そしてかれにはこれが必要なのだ。背に腹はかえられないだろう」
「そろそろクトル・マーゴスの北端に近づいてますよ」シルクは前方に横たわる低い丘陵地帯を指差した。「ひとたび国境を越えたら、こんなふうに止まってはいられなくなりますよ。〈南の隊商道〉にたどり着くまでは、とにかく全速力で走らないと。マーゴ人はかなり広い範囲を巡察しているし、脇道を通ることを認めていないから、隊商道に着けば心配はないけど、その前に止められることだけは避けないといけませんよ」
「隊商道に入ってから尋問されることはないのかね、ケルダー王子?」と、マンドラレンが訊ねた。「われわれの組み合わせは奇妙だから、マーゴ人が疑わしく思うんじゃないだろうか」
「確かに注目はされるだろうが、道からそれないかぎり進行を妨害されることはないだろう。タウル・ウルガスとラン・ボルーンの間に交わされた条約が隊商道の通行の自由を保障しているんだ。その条約を侵して自国の王に迷惑をかけるようなマーゴ人はいないだろう。タウル・ウルガスは面倒を起こす人間を容赦しないからな」
寒くてどんよりしたある日の午後、かれらはクトル・マーゴスに入った。と同時に、かれらは全速力で疾走した。ところが、一リーグかそこら進んだとき、レルグが馬を手綱をゆるめはじめた。
「今はだめだ、レルグ」ベルガラスの厳しい声が飛んだ。「後にしろ」
「でも――」
「ウルは我慢強い神だ。きっと待ってくださる。今は走りつづけろ」
身を切るようなふうにマントをなびかせながら、かれらは隊商道を目指して不毛の高地を全速力で走り抜けた。道路にたどりついて手綱をゆるめたのは、午後も半ばになってからだった。
〈南の隊商道〉は正確には道路ではなかった。しかし、何世紀にも渡る人の往来がはっきりとその道筋を残していた。シルクは満足そうにあたりを見回した。「うまくいったな。さあ、ここからはまた元の商人だ。どんなマーゴ人もわれわれの行く手を阻むことはできないぞ」かれは馬を東に向けると、自信満々の顔つきで皆を先導しはじめた。肩をいからせすっかり得意になっているように見えるが、ガリオンには、かれがそうやって新しい役を装うための心理的な準備をしているのだということがわかっていた。やがて、護衛つきで西に向かうトルネドラ商人の隊商に出会うと、シルクは商人に変貌して、同業者のよしみといった感じで気軽に声をかけた。
「こんにちは、上等商人の旦那」かれはトルネドラ商人の風格をすばやく見抜いて、言った。
「もしお時間があれば、道路に関する情報を交換したいんですが。あなたがたは東から、そして手前どもは西から来たことですし、情報交換はお互いのために損にはならないのでは」
「なるほど、いい考えだ」トルネドラ人はすぐに同意した。この上等商人は額の出っ張ったずんぐりとした男で、毛皮で裏打ちしたマントをしっかりと体に巻きつけて冷たい風を防いでいる。
「手前はアンバーと申します」と、シルクは言った。「コトゥから参りました」
トルネドラ人は礼儀正しくうなずくと、「カルヴォーだ。トル・ホーブから来た。東へ旅するにはずいぶんとひどい季節を選んだものだな、アンバー」
「やむをえませんで」と、シルク。「手前どもの資金には限りがあります。冬にトル・ホネスの宿に泊まったら、それだけで底をついてしまうでしょう」
「ホネス家は強欲だからな」カルヴォーはシルクの意見にうなずいた。「ところで、ラン・ボルーンはまだ生きているのか?」
「手前どもが発つ頃にはまだ」
カルヴォーは嫌な顔をした。「それで継承問題のいざこざはまだつづいてるわけか?」
シルクは笑いながら、「ええ、ええ」
「あのカドールとかいう野郎がいまだに最有力候補なのか?」
「カドールは運に見放されたようですよ。なんでも、セ・ネドラ王女の暗殺を試みたとか。おそらく皇帝が手を回して、戦列から引き下ろすでしょう」
「これは素晴らしいニュースだ」カルヴォーはにわかに顔を輝かせた。
「ところで東の道路はどんな具合です?」
「雪はあまりない。まあ、クトル・マーゴスでは当たり前のことだが、なにせ、おそろしく乾燥した国だから。しかし寒さは厳しいぞ。山道の寒さはさらに厳しい。東トルネドラの道はどうだ?」
「手前どもが通ってきたときは雪が降ってました」
「やはりそうか」カルヴォーは顔色を曇らせた。
「春まで待つべきでしたね、カルヴォーさん。旅の難関はこれからですよ」
「ラク・ゴスカを出ないわけにはいかなかったのだ」カルヴォーは誰かに聞かれるのを心配するように、キョロキョロとあたりを見回した。「この先おそろしい災いがおぬしたちを待ち受けているぞ」
「ほう?」
「こんな時にラク・ゴスカへ行くべきじゃない。あそこのマーゴ人は狂ってるぞ」
「狂ってる?」シルクは驚いて聞き返した。
「それしか言いようがない。聞いたこともないようなくだらない罪状で正直な商人をどんどん逮捕しているんだ。西から来た者はひとり残らず追われている。悪いことは言わない、あんなところへご婦人を連れてくのはよしたまえ」
「姉です」シルクはポルおばさんの顔をちらりと見て答えた。「この事業に投資してくれたのはいいんですが、どうも手前を信用していないようで。だまされないために一緒についていくと言って聞かないんです」
「わしならラク・ゴスカには行かないな」カルヴォーは忠告した。
「弱ったな」シルクは途方に暮れた顔で言った。「でも、他にどんな方法があるって言うんです?」
「正直に言おう、アンバー、今ラク・ゴスカに行くのは命を落としにいくようなもんだぞ。事実、わしの知ってる善良な商人はあるマーゴ人家庭の女の部屋に押し入ったと訴えられたんだ」
「その手のことはよくあるんじゃないですか。マーゴ人の女は器量がいいことで有名だから」
「アンバー」カルヴォーは心痛の面持ちで言った。「その男は七十三歳だったんだ」
「じゃあ、息子さんたちは父親の体力をさぞ自慢に思ったことでしょうね」シルクはそう言って笑った。「それでその商人はどうなったんです?」
「有罪判決を受けて串刺しの刑に処せられた」カルヴォーは思い出したようにブルブルッと体を震わせた。「兵士がわれわれを集めてわざわざそれを目撃させたんだ。恐ろしい光景だった」
シルクは顔をゆがめた。「その告発が本当だという証拠はないんでしょう?」
「七十三歳だぞ、アンバー」カルヴォーは繰り返した。「告発はもちろんでっち上げさ。わしだってもし事情をよく知らなければ、タウル・ウルガスがクトル・マーゴスにいる西部の商人をひとり残らず追い出す魂胆でいると勘違いしただろう。ともかく、ラク・ゴスカはもう安全な場所ではなくなってしまった」
シルクは顔をしかめ、「タウル・ウルガスの考えていることなんていったい誰にわかると言うんです?」
「ラク・ゴスカで取り引きがあるたびに自分の懐に金が入るんだ。わざとわれわれを追い出そうとしているとしたら、狂ってるとしか言いようがないな」
「タウル・ウルガスには会ったことがありますけど、正気というのは大きな欠点の中には含まれていないようでしたよ」シルクは絶望的な顔であたりを見回すと、「カルヴォーさん、手前はこの事業に全財産だけじゃなく可能なかぎりの借金を注ぎ込んだんです。このまま帰ったら、身の破滅ですよ」
「山地を抜けてから北に行けばいい。川を渡ってミシュラク・アク・タールに入り、タール・マードゥに行くんだよ」
シルクは渋い顔をして、「タール人と取り引きをするのはどうもね」
「他にも方法はあるぞ。トル・ホネスとラク・ゴスカの中間地点に何があるかはおぬしも知ってるだろう?」
シルクはうなずいた。
「あそこにはたいていマーゴ人の供給基地がある――食料品や予備の馬やその他の日常品、何でも売っている。とにかく、ラク・ゴスカがそんな状態だから、人より進取の気性に富んだマーゴ人はもう町を出て隊商道の荷を買い占めている――馬も何もかもだ。かれらの言い値はラク・ゴスカの値段ほど魅力はないが多少の儲けにはなるし、わざわざ自分の身を危険にさらす必要もなくなるじゃないか」
「でもそうすると、帰りの荷物がなくなってしまいますよ」シルクは反論した。「トル・ホネスで売る物を何も持たずに帰ったら、儲けの半分はパーになってしまうでしょう」
「命あっての物種だよ、アンバー」カルヴォーは厳しく指摘した。それから、まるで逮捕されることを恐れているかのようにもう一度そわそわとあたりの様子をうかがうと、「実を言うとな、わしはもうクトル・マーゴスに戻ってくるつもりはないんだ」かれはきっぱりと言った。
「もちろん、大儲けするためなら危険を冒してでもという気持は人一倍あるが、もう一度ラク・ゴスカに行くのだけは、たとえ世界じゅうの金をもらっても断るよ」
「その中間地点まではどのくらいかかるんです?」シルクは困り果てた様子で訊ねた。
「そこを発ってから三日ほど馬を走らせてきたところだ」と、カルヴォーは答えた。「幸運を祈るよ、アンバー――どっちを選ぶにしても」かれは手綱を集めると、「夜が来る前にもう少し距離を稼いでおきたいんだ。トルネドラの山地では雪が降ってるだろうが、少なくともクトル・マーゴスからは離れられるし、タウル・ウルガスの支配圏から逃れられる」かれは軽く会釈すると、護衛と荷馬の列を従え、速足で西の方に去っていった。
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21[#「21」は縦中横]
〈南の隊商道〉は高地に連なる荒れ果てた谷間を曲がりくねりながらも、だいたい東西の方向に伸びていた。まわりにそびえる山々の頂きはかなり高かった――おそらく西部の山よりも高かったが、頂上付近の斜面にはほんの少し雪が見えるだけだった。空を見上げると、一面に汚いネズミ色の雲が広がっていたが、その中に含まれているはずの水分も、砂と岩と刺の多い低木しかないこの乾燥しきった荒野までは届かない様子だった。雪こそ降らないが、寒さはおそろしく厳しかった。風が間断なく吹きつけ、その激しさたるや、まるでナイフの刃のようだった。
かれらは予定どおりの速度で東に進んだ。
「ベルガラス」バラクが肩越しに叫んだ。「前方の尾根の上にマーゴ人がひとり立ってますよ――道のちょうど南に」
「わかってる」
「何をしてるんだろう?」
「われわれを見張ってるんだろう。だが隊商道にいるかぎり、手は出すまい」
「あいつらはいつもああやって見張ってるんだよ」シルクが言った。「マーゴのやつらは自分たちの王国にいる人間を誰彼かまわずしつこく見張るのが好きなのさ」
「あのカルヴォーっていうトルネドラ人の言ってたことは誇張だったと思いますか?」と、バラクが聞いた。
「いや」ベルガラスが答えた。「おそらくタウル・ウルガスは、隊商道を閉鎖して西部の人間をクトル・マーゴスから追放する口実を探しているんだろう」
「どうしてです?」と、ダーニク。
ベルガラスは肩をすくめ、「戦争が近づいているからだろう。この道を通ってラク・ゴスカに向かう商人の相当数がスパイだということを、タウル・ウルガスは知っているのだ。間もなく彼は南から兵を集めるだろうが、そのときに軍隊の規模や動きが外部に漏れないようにしたいんだろう」
「この荒涼とした無人の王国のいったいどこから兵を集めるんですか?」と、マンドラレンが訊ねた。
ベルガラスは荒れ果てた吹きさらしの高地を見回しながら、「われわれが見ることを許されているのは、クトル・マーゴスのほんの一部だけだ。この王国は一千リーグ以上も南に伸びている。そこには西部の人間が見たこともないような――いや、名前さえ聞いたことがないような町がいくつもある。マーゴ人がこの北部で繰り広げている手の込んだゲームは、真のクトル・マーゴスを隠すための陽動作戦なのだ」
「じゃあ、戦争はすぐに始まると?」
「たぶん来年の夏。その翌夏ということもありえるが」
「われわれも準備にかかるんですか?」バラクが訊ねた。
「そのつもりだ」
そのとき、ポルおばさんが不快そうに声をあげた。
「どうかしたの?」ガリオンがすかさず訊ねた。
「コンドル。汚らわしい猛鳥よ」
隊商道の傍らを見ると、大きな十二羽の鳥がパタパタと羽音をたて、ギャーギャーと声をあげながら地面の上の何物かに群がっていた。
「何を食べてるんだろう?」ダーニクが不思議そうに言った。「崖の頂上を離れてから生き物なんて一匹も見てないけど」
「たぶん馬だろう――あるいは人間か」と、シルク。「ここにはそれしかいないからな」
「人間が埋められずに放っておかれることなんてありますかね?」ダーニクが訊いた。
「一部分だけならね」と、シルクは答えた。「隊商道なららくに金品を巻き上げられると考える山賊が時々いてね。マーゴのやつらはその考えが間違っていることを思い知らせるためにそいつらにたっぷりと時間を与えてやるんだ」
ダーニクは物問いたげな顔でかれを見た。
「マーゴはまず山賊を捕まえるんだ」シルクは説明した。「そして首のところまで埋めて置き去りにするんだ。そういう状態の人間が何もできないことをコンドルはよく知っている。すっかり死んでしまうまで待ちきれずに食べはじめてしまうこともよくあるんだよ」
「山賊を始末するにはいい方法かもしれないな」バラクは、賛同するように言った。「マーゴ人でもたまにはいい考えを思いつくもんだな」
「残念なことに、マーゴのやつらは道路からはずれたところにいる者はすべて山賊と見なすんだ」
一行が羽ばたくコンドルの集まりから二十ヤードと離れていないところを通るときも、猛鳥は残忍な獲物から離れようともせずに図々しくむさぼりつづけていた。食べているものが何であれ、それはコンドルの羽と体に隠れて見えなかった。ガリオンはそのことを心からうれしく思った。が、それが何であれ、あまり大きいものでないということだけは確かだった。
「じゃあ、夜になって休むときもできるだけ道路から離れないようにしたほうがいいですね」ダーニクはブルブルッと怖気をふるって目をそらした。
「賢明な心がけだな」と、シルク。
トルネドラ商人から聞いた中間地点にある仮市場の情報は、間違っていなかった。三日目の午後、ある丘までやってくると、隊商道わきのどっしりとした石の建物を囲むようにしてテントがひしめきあっているのが見えた。遠くから見たテントは小さく、谷に絶え間なく吹き下ろす風を受けて大きくうねっていた。
「どう思います?」シルクがベルガラスに意見を求めた。
「もう時間も遅い。どうせすぐに夜営の準備をしないといけないし、立ち寄らないと変に思われるだろう」
シルクはうなずいた。
「だが、レルグだけは人目につかないようにしないといけないぞ」ベルガラスは話をつづけた。
「もしウルゴ人を一緒に連れているところを見られたら、誰もわれわれを普通の商人とは思わないだろうからな」
シルクはしばらく考えてから、「毛布に包みましょう」と言った。「聞かれたら、病気だと言えばいい。誰だって病気の人間には近寄りませんからね」
ベルガラスはうなずくと、レルグに向かって、「病気のふりができるか?」
「おれは病気です」レルグは大真面目な顔で答えた。「ここはいつもこんなに寒いんですか?」かれはそう言うなりくしゃみをした。
ポルおばさんは馬をかれのとなりに寄せて、かれの額に手を伸ばした。
「さわらないでくれ」レルグは彼女の手を避けようとした。
「そんな場合じゃないのよ」彼女はちょっと額にふれたあと、じっと顔をのぞきこんだ。「風邪で倒れる寸前よ、おとうさん。一段落したら、何か手を打たないと。どうして今まで黙っていたの?」彼女は狂信者に訊いた。
「ウルに与えられたものなら、おれは何でも耐えてみせる」レルグは言い張った。「これは神の罰なんだ」
「違うわ」彼女はにべもなく言った。「これは罪とか罰とかそういうことじゃないのよ。これは風邪なの――それだけよ」
「おれはこのまま死んでしまうんだろうか?」レルグは少し落ち着いて訊ねた。
「まさか。あなた、これまでに病気にかかったことはなかったの?」
「ない。生まれてからただの一度も」
「もうそのセリフは使えなくなったな」シルクは軽口をたたくと、荷物のひとつから毛布を抜き出して、かれに手渡した。「肩をくるんで頭まですっぽりかぶるんだ。つらそうな顔をしてるんだぞ」
「実際、つらいんだ」レルグはそう言うと、咳をしはじめた。
「でも、それらしく見せてもらわなくちゃ困るぜ」シルクはしつこく言った。「罪のことでも考えてろよ――そうすれば少しは哀れに見えるだろう」
「罪のことなら言われなくても常に考えてる」レルグは咳き込んだまま答えた。
「わかってるよ。でも、いつもより少し真剣に考えるようにしてくれ」
かれらは氷のような空っ風を受けながら、テントの群れに向かって丘を下っていった。集合した商人のうちテントの外に出ているのはほんとうにわずかだったが、それらの商人は身を切るような寒さの中でてきぱきと働いていた。
「まず供給基地に寄らないといけませんね」シルクはテントの群れの真ん中にどっしりと立つ石の建物を指差した。「そのほうが自然に見えるでしょう。とにかくここはわたしに任せて下さい」
「シルク、この汚ないドラスニアの盗人が!」突然、近くのテントの中で荒っぽい声が轟いた。
シルクはかすかに目を丸くしたかと思うと、すぐにニヤリと笑った。「はて、ナドラクの豚野郎がどこかでブーブー鳴いているようだが」かれはテントの中の男に聞こえるように大きな声で言った。
くるぶしほども長さのあるベルト付きの黒いフェルトの外套に、ぴったりとした毛皮の帽子をかぶった足のひょろ長いナドラク人が、テントの中から大股に歩み出てきた。ボサボサの黒い髪に、薄くてもじゃもじゃした口ひげを生やしている。目にはすべてのアンガラク人に共通の奇妙な険しさがあったが、生気のないマーゴ人の目とちがって、このナドラク人の目には、油断のない人なつっこさのようなものがあった。「なんだ、まだ捕まってなかったのか、シルク?」男はしわがれ声で訊いた。「てっきり誰かが化けの皮を剥がしただろうと期待してたのに」
「相変わらず酔ってるらしいな」シルクは意地悪く笑った。「今度はどのぐらいつづいてるんだ、ヤーブレック?」
「そんなもの誰が教えるか?」ナドラク人はわずかにふらつきながら笑った。「クトル・マーゴスに何の用だ、シルク? おまえんとこの太った王様がガール・オグ・ナドラクでおまえを必要としてるんじゃないのか」
「ヤー・ナドラクの道路では少しばかり顔が知られ過ぎてしまったもんでね。この頃じゃ、誰も相手にしてくれないんだ」
「怪しいもんだな」ヤーブレックは激しい皮肉をこめて言った。「いかさま商売はするし、骰子《サイコロ》はすり替えるし、他人の女房と逃亡はするし、おまけにスパイだっていうんだから。ひとがおまえの取り柄を買わない理由はないだろう――それがどんなもんだろうと」
「相変わらずたいしたユーモアのセンスだな、ヤーブレック」
「それがおれの唯一の欠点さ」ほろ酔いかげんのナドラク人はそう言うと、「さあ馬から下りろよ、シルク。おれのテントで一緒に飲もうじゃないか。おまえの仲間も一緒にさ」かれはよろよろとした足どりでテントの中に戻っていった。
「古い知り合いでね」シルクは馬からすべり下りながら、簡単に言い訳した。
「信用できるのか?」バラクは訝しそうに訊ねた。
「すっかり信用するわけにはいかないが、心配はないさ。悪いやつじゃないよ――ナドラク人にしては。あいつなら何が起こっているのかよく知ってるだろう。もしうまい具合に酔っぱらってれば、役に立つ情報を聞き出せるかもしれないぞ」
「入ってこいよ、シルク」灰色のフェルトのテントの中からヤーブレックの吠えるような声が聞こえてきた。
「よし、かれの話を聞くとするか」ベルガラスが言った。
かれらは馬を下りてヤーブレックのテントわきの繋馬索につなぎ、ぞろぞろと中に入っていった。テントはかなり大きく、床と壁には厚い深紅のじゅうたんが敷きつめてあった。テントの背索からはオイル・ランプが吊る下がっており、鉄の火鉢が暖かい空気を発散している。
ヤーブレックはテント奥のじゅうたんの上にあぐらをかき、手の届くところに黒い小さな樽を置いていた。「さあ、入った入った」かれはぶっきらぼうに言った。「垂れ蓋を閉めてくれ。暖かい空気がみんな外に出ちまうよ」
「こちらはヤーブレック」シルクはかれを紹介した。「商売の腕はそこそこだが、大酒飲みとしてはかなり有名だ。われわれは古くからの知り合いでね」
「自分のテントだと思ってくつろいでくれ」ヤーブレックは無頓着にしゃっくりしながら言った。「たいしたテントじゃないが、とにかく楽にしてくれよ。鞍の横の山積みん中にカップがあるだろう――きれいなやつがまだ少しあるはすだ。さあ、みんな飲んでくれ」
「ヤーブレック、こちらはミストレス・ポルだ」シルクは紹介をつづけた。
「いい女だな」ヤーブレックは臆面もなく彼女を眺めながら言った。「座ったままで失礼しますよ、ミストレス。今はちょっと目がくらくらしてるもんでね――何か悪い物でも食ったのかもしれないな」
「そうでしょうとも」彼女はさり気なく微笑みながら答えた。「殿方はご自分の胃袋に入るものには常に気を配らないといけませんわ」
「それとまったく同じことを、おれももう一千回も自分に言い聞かせてきたんだけどな」ヤーブレックは、彼女が頭巾を脱いでケープの紐をほどくのを横目で見ながら、「それにしてもおそろしく綺麗な女だな、シルク。売ってほしいと言っても、やっぱり無理だろうな」
「あなたには払いきれないでしょうね、ヤーブレックさん」彼女は気を悪くした素振りも見せずに言った。
ヤーブレックはびっくりして彼女を眺めたが、やがて大きな笑い声をあげた。「神賭けて払えないと誓うよ――それに、どうせあんたはどこか服の下に短剣でも隠してるんだろう。連れて逃げでもしたら、おれの腹をかき切るつもりなんだろう、違うか?」
「もちろんですわ」
「なんて女だ!」ヤーブレックは声高に笑った。「踊りもできるのか?」
「あなたがいまだかつてごらんになったことがないような素晴らしい踊りを、ヤーブレックさん。骨が溶けてしまうかもしれなくてよ」
ヤーブレックは目をらんらんと輝かせて、「皆が酔っぱらったら、踊りを披露してくれるんだろうな」
「それは後のお楽しみ」彼女は思わせぶりに答えた。この得体の知れない大胆な振る舞いに、ガリオンはただただ呆気にとられるばかりだった。ヤーブレックは明らかに女のこういう振る舞いが好みのようだったが、少しも戸惑うことなくこんなふうに受け答えができるなんて、いったいポルおばさんはどこでナドラク人の風習を覚えたのだろうか。
「こちらはミスター・ウルフ」シルクはベルガラスを指して言った。
「名前なんてどうでもいい」ヤーブレックは手を振った。「どうせ忘れてしまうんだ」そう言いながらも、かれはひとりひとりの顔を抜け目なく観察している。と、突然見た目の泥酔状態とはうってかわったしっかりした声で、「ほんとうのことを言うとな、名前なんか知らないでいたほうが都合がいいんだよ。知らないことは隠しようがないだろ。この悪臭に満ちたクトル・マーゴスに商いにきているにしては、この集団はちょっと毛並みの変わったのが多すぎるよ。さあ、そんなことはいいから、カップを取ってきてくれ。この樽はほとんど満杯だし、テントの裏にもうひとつ冷やしてるからな」
シルクの合図とともに、かれらは擦り切れた鞍のわきに山積みになった食器の中からそれぞれカップを取ってきて、樽の近くに陣取っているヤーブレックに仲間入りした。
「まともな主人よろしく皆に酒を注いでやりたいとこだが、おれがやると注ぎすぎてしまいそうだからな。まあ、自分で注いでくれや」
ヤーブレックのエールはひじょうに濃い褐色をしており、芳醇な、まるで果物のような風味があった。
「変わった味ですね」バラクは丁寧に言った。
「うちのエール造りは乾燥したリンゴを刻んで桶の中に入れるんだ」と、ナドラク人は答えた。
「それが苦みを和らげるんだな」かれはシルクの方を向くと、「おまえはマーゴ人を嫌ってると思ってたが」
「そうさ」
「じゃあ、クトル・マーゴスで何をしてるんだよ?」
シルクは肩をすくめ、「商売さ」
「誰の? おまえのか、それともローダーのか?」
シルクはかれにウインクしてみせた。
「そんなことだろうと思ったぜ。じゃあ、幸運を祈るよ。手を貸してやりたいとこだが、おれは鼻を突っ込まないほうがいいだろう。マーゴのやつらはアローン人と同じくらいナドラク人を信用していないからな――それに別に責めるわけにもいかないが。なんたって、ナドラク人と名乗るに足る人間なら、もしマーゴ人の喉をかき切るチャンスがあると聞いたら、たとえ十リーグ離れたところからでも飛んでいくっていうんだから」
「いとこに対するおまえの愛情には、まったく頭が下がるよ」シルクはニヤリと笑った。
ヤーブレックは嫌な顔をして、「いとこだって! グロリムさえいなければ、おれたちはとっくの昔にあの血も涙もない連中を皆殺しにしてるだろうよ」かれはもう一杯エールを注ぐと、カップを持ち上げて言った。「マーゴに混乱あれ」
「どうやら、一緒に酒を飲む理由が見つかったようだな」バラクは、にんまりと笑った。「マーゴに混乱あれ」
「タウル・ウルガスの背中におでき[#「おでき」に傍点]よ増えろ」ヤーブレックは付けたした。それからグッと一息にカップを空けると、広口の樽からもう一杯エールをすくって、ふたたび飲みほし、「少し酔っぱらった」と言った。
「あら、全然気づきませんでしたわ」ポルおばさんは言った。
「気に入ったぜ、あんた」ヤーブレックは彼女に笑いかけた。「おれにあんたを買えるだけの金があったらいいのにな。逃げてきてはくれまいな?」
彼女は悪戯っぽく溜息をつくと、「ええ。そんなことをしたら、悪い女だと評判がたちますもの」
「まったくそのとおりだ」ヤーブレックはしかつめらしい顔で答えた。それから悲しそうに頭を振ると、「今も言ったように、おれは少し酔ってるんだ。本当はこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、でも、こういう時に西部の人間がクトル・マーゴスにいるべきじゃないぜ――アローン人ならなおさらのこと。ここのところ、奇妙な噂を耳にしてるんだよ。クトル・マーゴスからよそ者が追放されるという噂が、ラク・クトルからじわじわと外に漏れてきている。タウル・ウルガスはラク・ゴスカで王冠を頭に王様気取りを楽しんでるが、その心臓はラク・クトルの老グロリムにしっかりと握られている。クトゥーチクがその気になれば王座など一握りにされてしまうことは、タウル・ウルガスも知ってるだろうが」
「ここから二、三リーグ西でトルネドラ人に会ったんだが、そいつも同じようなことを言ってたな」シルクは真面目な顔で言った。「罪を犯してもいない西部の商人がラク・ゴスカのいたる所で逮捕されてるらしいな」
ヤーブレックはうなずいた。「そんなのはまだ序の口だ。マーゴ人のやることなんて、だいたい予想がつくよ――あいつらには想像力ってものがないからな。タウル・ウルガスには、王国じゅうの西部商人を捕まえてラン・ボルーンに公然と楯つくほどの準備はまだできていない。でも、それも時間の問題だろう。ラク・ゴスカも今頃はもう閉鎖されているはずだ。タウル・ウルガスは今度は辺境に目を向けることができる。ここにやってくるのも、それが理由だろう」
「タウル・ウルガスが何だって?」シルクの顔は目に見えて青くなった。
「なんだ、知らなかったのか。タウル・ウルガスは軍隊を従えて国境地方に向かってるんだよ。おれの想像では、やつは国境を閉鎖するつもりだと思うぜ」
「それで今はどのへんにいるんだ?」
「今朝、ここから五リーグも離れていないところで見たって話を聞いたけど。どうかしたのか?」
「いや、タウル・ウルガスとは何度か激しくやり合ってるもんでね」シルクは軽く答えたが、狼狽の色は隠せなかった。「あいつが来たときにここにいるわけにはいかないんだ」かれは慌てて立ち上がった。
「どこに行く?」ベルガラスはとっさに訊ねた。
「どこか安全な場所へ。後から追いつきますよ」かれはくるりと背中を向けると、テントから飛び出していった。と、間もなく、かれの馬がドシンドシンと地面を踏み鳴らして走り去っていくのが聞こえた。
「一緒に行ったほうがいいですかね?」バラクはベルガラスに訊ねた。
「いや、どうせ追いつけないだろう」
「あいつはタウル・ウルガスに何をしたんだろう?」ヤーブレックは頭をひねった。が、すぐにクスクスと笑って、「あの逃げ方からすると、どうせとんでもないことをしたんだろう」
「隊商道からはずれて大丈夫なのかな?」道路脇で恐ろしげな獲物に群がっていたコンドルのことを思い出して、ガリオンは訊ねた。
「シルクのことなら心配はないさ」ヤーブレックは自信たっぷりに言った。
やがて、ドシンドシンという連打の音がはるか彼方からゆっくりと聞こえてきた。ヤーブレックは厭わしそうに目を細めると、「シルクは寸前のところを逃げ出したようだな」
ドシンドシンという音は徐々に大きくなり、やがてそれが鈍い轟きに変わった。その轟きの後ろのほうからかすかに聞こえてくるのは、低くて暗い調べをうめくように歌う何百という人間の声だった。
「何だろう?」ダーニクが言った。
「タウル・ウルガスさ」ヤーブレックはそう答えるなり、ペッと唾を吐いて、「あれがマーゴ人の王の戦争の歌だ」
「戦争?」マンドラレンは鋭い声で訊ねた。
「タウル・ウルガスにとっては毎日が戦争なんだよ」ヤーブレックは痛烈な皮肉を込めて言った。「戦う相手がいないときでさえ。あいつは自分の宮殿の中でも、よろいかぶとを着て眠るそうだ。それでいつも嫌な臭いがするんだな。でも、マーゴ人っていうのはもともと臭い人種だから、着ても着なくても大して変わりはないが。どれ、何が起こってるのか見てきたほうがいいかな」かれはよっこらしょと立ち上がると、「ここで待っててくれ。これはナドラクのテントだ。アンガラク人同士のよしみで優遇してもらえるだろう。タウル・ウルガスの軍隊もこの中までは入ってこない。ここにいるかぎりあんたたちは安全だ」かれは激しい憎悪の色を浮かべて、テントの入口によろよろと歩いた。
歌声と規則正しいドラムの音はますます大きくなってくる。甲高い横笛が不協和な、ほとんど調子はずれに近いお囃しを奏でたかと思うと、間もなく低くて太い雄叫びのようなホルンの音が響き渡った。
「どう思います、ベルガラス?」バラクがどら声で訊ねた。「あのヤーブレックという男はなかなかいいやつらしいけど、しょせんはアンガラク人ですからね。かれが一言漏らしたら、百人のマーゴ人がここに雪崩《なだれ》込んできますよ」
「かれの言うとおりだわ、おとうさん」ポルおばさんもバラクの肩を持った。「ナドラク人のことはよく知ってるけど、ヤーブレックはああ見えても、そんなに酔ってないわよ」
ベルガラスは唇をすぼめ、「ナドラク人がマーゴ人を忌み嫌ってるってことをあまり当てにしないほうがいいかもしれんな」と言った。「ヤーブレックの親切を裏切ることになるかもしれないが、とにかくタウル・ウルガスがこの辺一帯を包囲する前にこっそり抜け出したほうがいいだろう。かれがどのぐらいここに滞在するつもりかしらないが、ひとたび腰を落ち着けることになったら、そうそう簡単には抜け出せなくなるからな」
ダーニクは後ろの壁に下がっている赤いじゅうたんをはぐと、手を伸ばしてテントのペグを数本抜いた。それから帆布をまくって、「ここから抜け出せそうですよ」
「よし、行こう」ベルガラスが号令をかけた。
かれらはひとりずつテントを抜け、冷たい風の中に出ていった。
「馬を連れてこい」ベルガラスは声をひそめた。それから目を細めてあたりを見回し、「あそこの溝だ」かれは、テントの最終列の向こうに見える水のない川床を指した。「隊商道の本道とわれわれのあいだにテントがくれば、誰にも見られずにあの中に逃げこめるぞ。市じゅうの人間がタウル・ウルガスの到着を見守ろうとしている今なら、なおさら見込みがある」
「ベルガラス、マーゴの王はあなたの顔を知ってるんですか?」マンドラレンは訊ねた。
「たぶん。面識はないが、わしの人相についてはクトル・マーゴスのいたるところで長年噂されてるようだし。まあ、危ない橋は渡らないほうがいいだろう」
かれらは馬を引いてテントの裏手に回り、無事溝の中に隠れることに成功した。
「この川床はあの丘から来ているようだな」バラクは指差して言った。「このまま上っていけば、向こうからはまったく見えなくなりますよ。丘の裏手に回ってしまえば、ひとに見られずに逃げ出すこともできますね」
「夜はすぐそこまで来ている」ベルガラスは低い空を見上げた。「少し上に行って暗くなるのを待つとしよう」
かれらは溝を上がり、やがて丘の肩を回り込んだ。
「様子を見守っておいたほうがいいかもしれんな」ベルガラスが言った。
バラクとガリオンは溝をよじのぼると、今度は腰を低く屈めて丘の頂上に移動した。そこまで来ると、ふたりは低木のやぶのうしろに腹ばいになった。「さあ、おでましだ」バラクがつぶやいた。
大きなドラムのリズミカルな拍子に合わせて、厳めしい顔をしたマーゴの軍隊が八列編隊で臨時の市場に乗り込んできた。隊列中央にはためく黒旗の下で黒馬にまたがっているのは、どうやらタウル・ウルガスらしい。タウル・ウルガスは厚みのある撫で肩をした長身の男で、険のある残忍な顔をしていた。重々しい鎖かたびらはギラギラと輝く純金でできており、そのため全身が黄金におおわれているように見えた。ウエストには厚みのある金属のベルトを巻いており、左の腰に吊るした剣の鞘には宝石がびっしりと埋め込まれている。目深にかぶった円錐型の鋼のかぶとには、血の色をしたクトル・マーゴスの王冠章が打ちつけられていた。鎖かたびらの頭巾に似たものが首の両脇とうなじをおおい、そのまま滝のように肩にかかっている。
供給基地である四角い石の建物の正面広場に到着するなり、タウル・ウルガスは手綱をゆるめた。「ワインだ!」かれの命令の声は、氷のような風に運ばれて、驚くほど近くに聞こえた。ガリオンはもぞもぞと動いて、やぶの中にさらに深く体を埋めた。
供給基地を管理しているマーゴ人はあわてて建物の中に入っていったかと思うと、だるま瓶と金属のゴブレットを持って戻ってきた。タウル・ウルガスはゴブレットを受け取って一息にワインを飲みほすと、大きな拳にゆっくりと力を入れてゴブレットを握りつぶした。バラクは軽蔑しきったように鼻を鳴らした。
「なんなの、あれは?」ガリオンが囁いた。
「タウル・ウルガスが一度でも口をつけたら、そのカップは誰も使えないって意味だよ。もしアンヘグがあんなことをしたら、かれの戦士たちはアンヘグをヴァル・アローンの湾に浸してしまうだろうよ」赤ひげのチェレク人が答えた。
「外国人の名前は控えてあるだろうな?」王はマーゴ人の補給係を問いただした。その声は風に運ばれて、ガリオンの耳にもはっきりと届いた。
「仰せのとおりに、恐れ多き王よ」補給係はぺこぺこと頭を下げると、片袖から羊皮紙の巻物を取り出し、王に差し出した。
タウル・ウルガスは羊皮紙を広げ、ざっと目を通すと、「このヤーブレックというナドラク人を連れてこい」と命じた。
「ガール・オグ・ナドラクのヤーブレック、前に出てこい」王の側近が吠えるように言った。
ヤーブレックはフェルトの外套を風になびかせながら、前に進み出た。
「北方のいとこよ」タウル・ウルガスは冷淡にかれを迎えた。
「国王陛下」ヤーブレックは軽く頭を下げた。
「早く去っていればよかったものを、ヤーブレック」王はかれに言った。「実は軍隊にしかるべき命令を下したのだが、中にはその命に忠実であろうとするあまり、アンガラク人の仲間を見分けられない者がいるかもしれん。おまえがここに残るかぎりその安全は保障できないぞ。その身に何か災難が降りかからないといいのだが」
ヤーブレックはふたたびお辞儀をすると、「すぐに使用人を連れてここを出ていきます、陛下」
「使用人がナドラク人なら問題はないが、もし外国人であれば、ここを出ることは許さぬぞ。ヤーブレック、もう下がってよい」
「危ないところでテントを抜け出したようだな」と、バラクはつぶやいた。
と、そのとき、錆ついた鎖かたびらの上に茶色のチョッキを着た男が供給基地から出てきた。ひげは伸ばし放題で、白目の部分が不健康に光っている。
「ブリルだ!」ガリオンは思わず叫んだ。
バラクは目を眇《すが》めた。
ブリルは驚くほど上品な物腰でタウル・ウルガスにお辞儀をした。「ようこそ、無敵の王様」それは崇拝とも恐れともつかない声だった。
「こんなところで何をしている、コルドッチ?」タウル・ウルガスは冷やかに訊ねた。
「わが師の用事です、恐れ多き王よ」
「クトゥーチクがこんなところでなんの用事だ?」
「個人的なことです、強大なる王よ」ブリルはそう言ってはぐらかした。
「おまえたちダガシの動きは常につかんでおきたい。いつクトル・マーゴスに戻ってきたのだ?」
「二、三ヵ月前です、トラクの強力なる右腕よ。もし王が関心をお持ちだと知っていたら、言伝を頼みましたのに。師に始末するよう命じられた連中は追われていることに気づいてますから、わたしの動向は秘密でも何でもないのです」
タウル・ウルガスは短く笑ったが、その声には温かさの微塵も感じられなかった。「おまえもそろそろ年だな、コルドッチ。本来ならとっくに引退している年頃だ」
「今度の相手はちょっと特別なもので」ブリルは肩をすくめた。「と言っても、それほど時間はかからないと思います。ゲームはそろそろ終盤を迎えてますので。ところで偉大なる王よ、あなたに贈り物があるのですが」かれがパチンと指を鳴らすと、腹心と思われる二人の男が、別の男を両脇から引きずりつつ建物から出てきた。捕虜はチュニックの正面を血に染め、半分意識を失っているのか、がっくりと頭を垂れている。バラクはそれを見るなり、歯の間でシュッと音をたてた。
「陛下は気晴らしがお好きかと思いまして」と、ブリルは言った。
「わしはクトル・マーゴスの王だぞ、コルドッチ」タウル・ウルガスは冷やかに答えた。「そんな贈り物はうれしくも何ともない。ダガシに代わって雑用をするほど暇ではないのだ。もし殺したいのなら、自分で殺すがいい」
「雑用とは思いませんが、陛下」ブリルは邪悪な微笑みを浮かべて言った。「この男は陛下の古い友人ですよ」そう言うが早いか、ブリルは腕を伸ばして捕虜の髪を乱暴につかみ、王に見えるよう顔をぐいっと引き上げた。
捕虜はシルクだった。顔面は蒼白で、ひたいに深く切れ込んだ傷口から頬にかけて真っ赤な血が滴っている。
「ドラスニアのスパイ、ケルダーをお納め下さい」ブリルは作り笑いを浮かべた。「贈り物として陛下に捧げます」
タウル・ウルガスはにわかに笑顔を浮かべ、残酷な喜びに目を輝かせた。「これは素晴らしい。コルドッチよ、王の感謝を受けるがいい。おまえの贈り物は値段のつけようがないほど価値のあるものだ」かれはさらに口許をゆるめると、ゴロゴロ喉を鳴らすような声で、「ようこそ、ケルダー王子。こうして再会できる日をどんなに心待ちにしていたことか。まだあの時の決着はついていなかったと思うが、どうだったかな?」
シルクはマーゴの王を見返したようにも見えたが、かれが自分の身に起こっていることを理解しているのかどうか、ガリオンにはわからなかった。
「今しばらくお待ちを、ドラスニアの王子どの」タウル・ウルガスはほくそ笑んだ。「殿下を歓待するのはおそらくこれが最後、ぜひとも素晴らしい趣向を凝らさないと。それに、はっきりと目を覚まして楽しんでもらわないことには意味がない。殿下はそれだけの歓待を受けるにたる人間だ――ゆっくりと名残を惜しむような歓待を――だから、事を急《せ》いて失望させたくないのですよ」
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22[#「22」は縦中横]
バラクとガリオンはゴロゴロと小石を転がしながら、険しい溝の堤を滑り落ちるように下りた。
「シルクが捕まりました」バラクは声をひそめて報告した。「あそこにブリルがいるんです。シルクはここを去ろうとした矢先に、ブリルたちに捕まったようですよ。あいつらはシルクをタウル・ウルガスに引き渡しました」
ベルガラスは顔面を蒼白にしてゆっくりと立ち上がった。「それでシルクは――」
「いいえ、まだ生きてます。すこし傷めつけられたようだけど、死んではいません」
ベルガラスはフーッと長く息を吐き出すと、「それを聞いて安心した」
「タウル・ウルガスはシルクを知ってるようですね」バラクは話をつづけた。「シルクは過去に王をひどく怒らせるようなことをしてるみたいですよ。それでタウル・ウルガスという男が、またひどく根に持つタイプらしくて」
「それでシルクが軟禁されている場所っているのは、われわれが近づけるようなところなんですか?」ダーニクが訊ねた。
「わからないんだよ」と、ガリオンが答えた。「しばらく皆で相談してたと思ったら、そのうちに兵士たちがあの建物のうしろの方に連れてったんだ」
「そう言えば、供給基地を管理しているマーゴ人が穴蔵がどうのこうのと言ってたけど」バラクが付けたすように言った。
「何か手を打たなくちゃ、おとうさん」ポルおばさんが言った。
「わかってるさ、ポル。そのうちにいい考えが浮かぶだろう」かれはふたたびバラクに向き直ると、「タウル・ウルガスはどのくらいの兵士を率いてる?」
「少なくとも二連隊はいますね。そこらじゅうに兵士がひしめいてますよ」
「転位することもできるわよ、おとうさん」ポルおばさんが口を挟んだ。
「空から運ぶには距離がありすぎる。それに、軟禁されている場所がはっきりとわからんことには」
「あたしが見つけるわ」彼女はマントの紐に手をかけた。
「暗くなるまで待ったほうがいい」かれは娘を制止した。「ふくろうはこのクトル・マーゴスでは珍しい。日の光が残ってるうちは人目につき過ぎる。それで、タウル・ウルガスはグロリムを連れてるのか?」かれはガリオンに訊ねた。
「二人ぐらいいたような気がする」
「じゃあ、なおさら面倒なことになる。転位の術はけたたましい騒音を伴うからな。せっかく逃げても、タウル・ウルガスがすぐに後を追ってくることになるだろう」
「他にいい考えはないの、おとうさん?」ポルおばさんはかれを急《せ》かした。
「わしにまかせてくれ。とにかく、暗くならないことにはどうにもしようがない」
そのとき、溝を少し下ったあたりで低い口笛の音がした。
「誰だろう?」バラクはすぐに剣に手を伸ばした。
「おお、アローン人か」耳ざわりな囁きが聞こえた。
「ナドラク人のヤーブレックじゃないだろうか」マンドラレンは言った。
「どうしてわれわれがここにいるとわかったんだ?」と、バラク。
ザクザクと砂利を踏む音が聞こえたかと思うと、ヤーブレックが溝の曲がり目に姿を現わした。毛皮の帽子を目深にかぶり、フェルトの外套の襟を耳まで立てている。「やっぱりいたか」かれはホッとしたように言った。
「ひとりか?」バラクは疑心たっぷりに訊ねた。
「もちろんさ」ヤーブレックは鼻を鳴らした。「召使いは先に行かせたんだ。それよりあんたたち、すごい早業だったじゃないか」
「あそこに残ってタウル・ウルガスを歓迎する気にはなれなくてね」と、バラク。
「それが正解だったらしいな。あの騒ぎの中からあんたたちを脱出させるのは、きっと至難の業だったに違いない。マーゴ人の兵士はおれたちを追い払う前に、召使いが全員ナドラク人かどうか、ひとりひとり調べやがった。それより、タウル・ウルガスがシルクを捕まえたよ」
「知ってるよ」と、バラク。「どうしてわれわれがここにいるとわかった?」
「テントの裏にペグを抜きっぱなしにしてっただろ。市のこちら側で一番近い隠れ場所って言ったら、この丘しかない。逃げた方角は想像がついたし、それを裏づけるように足跡があちこちに残ってたからな」ナドラク人の荒っぽい面相は真剣そのもので、ここ数日酒浸りの生活を送っていたことなど、これっぽっちも感じさせなかった。「とにかく、あんたたちをここから脱出させてやらないといけないと思ってさ」と、かれは言った。「タウル・ウルガスはもうすぐ探察隊を出すだろう。あんたたちはあいつの膝の上にいるも同然だからな」
「その前にまず仲間を救い出さないことには」マンドラレンはかれの言葉を制して言った。
「シルクのことか! あいつのことは忘れたほうがいい。残念だが、あいつは最後の骰子《サイコロ》をすり替えちまったらしい」かれは溜息をつくと、「おれもあいつのことは好きだったんだが」
「まだ死んだわけじゃないんでしょう?」ダーニクは声を震わせた。
「ああ、だが、朝になって日が昇れば、タウル・ウルガスが答えを出すだろう。自害できるよう穴蔵に短剣を放り込んでやりたかったが、近づくことさえできなかった。この分だと最後の朝はむごたらしいものになりそうだな」
「どうしてわざわざわれわれを助けにきたんだ?」バラクはぶっきらぼうに訊ねた。
「説明が必要みたいよ、ヤーブレックさん」ポルおばさんが言った。「かれはナドラクの翌慣には馴染みがないのよ」それからバラクの方を向くと、「かれはあなたをテントに招き入れてエールを勧めたでしょ。それは、明日の日の出まであなたは兄弟同然だということを意味するの」
ヤーブレックは彼女にニヤリと笑いかけると、「あんたはナドラク人のことをよくわかってるようだね、ねえさん。ところで、あんたが踊るところはまだ見せてもらってなかっただろ?」
「またの機会に」
「そうだな」かれはその場にしゃがみこむと、外套の下から弓形の短剣を抜き出した。それから片手で砂の表面を滑らかにして、短剣の先で素早くスケッチを始めた。「おそらくマーゴの連中はおれたちを見張ってるだろう」と、かれは言った。「だから六人もの人間をこっそり仲間に加えるわけにはいかないんだ。あんたたちにとって一番いい方法は、暗くなるまでここで待つことだ。おれは東に向かい、隊商道を一リーグかそこら行ったところで待っている。あんたたちは暗くなりしだいこっそりここを抜け出しておれたちに追いついてくれ。その後は、何かまたいい方法が見つかるだろう」
「タウル・ウルガスはなぜあんたにここを出るよう命じたんだろう?」バラクは訊ねた。
ヤーブレックは怖い顔をして、「明日になると大事件が起こるぞ。タウル・ウルガスはラン・ボルーン宛にすぐに詫び状を送るだろう――山賊の一味を追っていた不慣れな連隊が山賊と正直な商人を間違ってしまった、という内容の詫び状を。けっきょくかれが賠償金を申し出て、すべては丸く収まる。トルネドラ人と取引する場合、金というのは魔法の言葉だからな」
「タウル・ウルガスはこのキャンプを全滅させるつもりなのか?」バラクはぎょっとして訊ねた。
「それがあいつの目論見だ。あいつはクトル・マーゴスから西部人を一掃したいんだ。そういう事故を二つ三つ起こせば、うまくいくと思ってるらしい」
レルグは先ほどから何か考え事をしているような顔で傍らに立っていたが、突然ヤーブレックがスケッチをしている方に歩み寄ると、「われわれの友人が拘留されてる穴蔵の正確な位置を説明してくれないか?」
「そんなことを聞いてもなんの役にも立たないぜ」ヤーブレックはかれに言った。「十二人もの見張りがついてるんだから。シルクは世に聞こえた男だから、タウル・ウルガスも逃がすまいと躍起になってるさ」
「いいから教えてくれ」レルグはしつこく言った。
ヤーブレックは諦めたように肩をすくめると、「今われわれはこの北側にいる」と言って、市の隊商道をざっと描き込んだ。「供給基地はここだ」かれは短剣で示した。「穴蔵はこの裏手、南側の大きな丘の麓にある」
「その穴蔵の壁はどうなってる?」
「頑丈な岩だ」
「それは岩の中に自然にできた裂け目なのか、それとも掘り出したものなのか?」
「そんなことを聞いて何になるんだよ?」
「知りたいんだ」
「道具を使って掘ったようには見えなかったな。てっぺんの入り口もでこぼこしてたし。きっと自然の穴蔵だろう」
レルグは納得したようにうなずくと、「その後ろの丘だが――岩の丘か、それとも土の丘か?」
「ほとんど岩だね。この悪臭漂うクトル・マーゴスっていう国はだいたいが岩でできてるんだよ」
レルグはすっくと立ち上がると、「ありがとう」と礼を言った。
「もしかれのとこまで岩を掘って進もうと考えてるなら、それは無理だよ」ヤーブレックも立ち上がり、外套の裾から砂を払い落としながら言った。「時間がないよ」
ベルガラスは何かを思案しているように目を細めた。「礼を言うよ、ヤーブレック」と、かれは言った。「あんたは実によくしてくれた」
「マーゴ人を苛立たせることなら何だってするよ」と、ナドラク人は答えた。「おれもシルクのために何かしてやれたらいいんだがな」
「まだあきらめるのは早い」
「でも、あまり望みはないよ。さあ、もう行かないと。おれがちゃんと見てやらないと召使いたちが道に迷っちまう」
「ヤーブレック」バラクはスッと手を差し出した。「いつの日かあんたと再会して酒のつづきをやらないといけないな」
ヤーブレックはニヤッと笑ってかれの手を握りしめた。それからポルおばさんの方に向き直ると、彼女を荒々しく抱きしめた。「このアローンの連中に嫌気がさしたらな、ねえさん、おれのテントの蓋はいつもあんたのために開けてあるからな」
「覚えておくわ、ヤーブレックさん」彼女はとりすまして答えた。
「幸運を祈ってるよ」ヤーブレックは今度は皆に言った。「おれは夜中まであんたたちを待ってるから」それだけ言うとかれはきびすを返し、大股で溝を下りていった。
「いいやつだな」バラクはポツリと言った。「本当に好きになりそうだぜ」
「さあ、ケルダー王子救出の作戦をたてないと」マンドラレンはそう言うと、一頭の馬に結びつけた荷物からよろいを取り出し始めた。「他に方法がないのなら、武力に頼るしかないだろう」
「また悪い癖が出てきたみたいだぜ、マンドラレン」と、バラク。
「そのことなら、もう答えは出てる」ベルガラスはかれらに言った。
バラクとマンドラレンはびっくりしてかれの顔を見つめた。
「よろいをしまえ、マンドラレン」老人は騎士に指図した。「その必要はない」
「じゃあ、誰がシルクを救いにいくんです?」と、バラクが訊ねた。
「おれだ」レルグが静かに答えた。「暗くなるまであとどのくらい間がある?」
「だいたい一時間ってとこだが、なぜだ?」
「自分自身の準備があるんだ」
「ちゃんとした計画があるんですか?」ダーニクが聞いた。
レルグは肩をすくめ、「計画も何も、とにかくぐるっと迂回して野営の向こう側の丘の後ろに行くだけだ。そこでおれが友人を連れ出して、皆で逃げる」
「それだけか?」
「だいたいな。じゃあ、おれは失礼するよ」レルグはそう言って背を向けた。
「ちょっと待てよ。マンドラレンとおれがついて行かなくてもいいのか?」
「どうせついて来れやしない」と、レルグは答えた。それから溝をしばらく上っていった。と、ほどなくブツブツと祈りをあげるかれの声が聞こえてきた。
「祈ればシルクを救い出せると思ってるんじゃないだろうな?」バラクはうんざりした様子で言った。
「いや」ベルガラスがそれに答えた。「かれなら丘をくぐり抜けてシルクを連れ出すことができるだろう。ヤーブレックにあれこれ質問してたのも、そのためだ」
「かれが何をするって?」
「おまえもかれがプロルグでやったことを見ただろう――腕を壁に埋めこんだ場面を?」
「ええ、見ましたけど、でも――」
「かれにとってはあんなことは朝飯前なのだ、バラク」
「でもシクルは? どうやって岩の中を通り抜けさせるんです?」
「わしにはわからん。だが、レルグはできると確信しているようだ」
「もしうまくいかなかったら、シクルは明日の朝一番にタウル・ウルガスの手でこんがり火あぶりにされてしまうんですよ。それはわかってるんでしょうね?」
ベルガラスは深刻な面持ちでうなずいた。
バラクはやるせなさそうに頭を振ると、「まったく、こんなことってあるかよ」
「そう興奮するな」ベルガラスはかれを諭《さと》した。
日の光は徐々に薄れてきたが、レルグはお決まりの抑揚で声を上げたり下げたりしながら、まだ祈りつづけている。やがてあたりがすっかり暗くなると、かれは皆が待っている場所に戻ってきた。「準備はできた」かれは静かに言った。「いつでも出発できる」
「よし、じゃあ西の方に回りこむぞ」ベルガラスはかれらに言った。「馬を引いて、できるだけ陰に隠れるようにしろ」
「二時間ぐらいかかりそうですね」ダーニクが言った。
「それはかまわん。そのぐらいかかったほうが兵士も落ち着くだろう。ポル、ガリオンの見たグロリムが何をやってるか見てくれ」
彼女はうなずいた。と同時に、何かを透視する心がガリオンを軽く圧迫した。やがて彼女は「大丈夫よ、おとうさん」と、報告した。「頭の中はいっぱいだわ。タウル・ウルガスが自分の代わりに軍隊を指揮させてるのよ」
「よし、出発しよう」と、老人は言った。
かれらは馬を引いて用心深く溝を下っていった。囲いとなっていた砂利の堤から抜け出すと、あたりはすっかり闇に包まれ、冷たい風が吹きつけてきた。市の東側の平野を見ると、無数のかがり火が風を受けて揺らめいており、そこにタウル・ウルガスの巨大な野営があることを物語っていた。
レルグはウーッと呻いて両手で目をおおった。
「どうかしたの?」ガリオンは訊ねた。
「あのかがり火だ」と、レルグは言った。「あれが日を刺すんだ」
「なるべく見ないようにしなよ」
「神はとんでもない重荷をお与え下さったもんだよ、ベルガリオン」レルグはくしゃみをして、袖で鼻を拭った。「本当はこんな吹きさらしに出てくるべきじゃないのに」
「ポルおばさんに何か風邪にきくものをもらったほうがいいよ。ひどい味がするけど、それを飲めばきっと気分がよくなるよ」
「そうだな」レルグはチラチラと明滅するマーゴのかがり火から目を隠したまま答えた。
市の南側の丘は、花崗岩が低く露出してできたものだった。遙か昔から間断なく吹きつづけてきた風のせいで、大部分は茶色の砂や土の層にびっしりとおおわれており、岩そのものはそういう衣の下にどっしりと横たわっていた。丘のうしろで立ち止まると、レルグは花崗岩の傾斜面の土を用心深く払い始めた。
「あそこから入ったほうが近いんじゃないか?」バラクは声をひそめて訊ねた。
「土が多すぎる」と、レルグは答えた。
「土と岩――どんな違いがあるって言うんだよ?」
「大きな違いだ。おまえにはわかりっこないだろうが」かれは前屈みになると、本当に味見をするかのように花崗岩に舌をつけた。「これは少し時間がかかりそうだ」かれはそう言うと、ゆっくりと立ち上がって祈りの言葉を唱え、同時にゆっくりと自分の体を岩に押し当て始めた。
バラクはブルブルッと怖気をふるって目をそむけた。
「どうかしたのか、バラク卿?」マンドラレンが心配顔で言った。
「見てるだけで体じゅうが寒くなるんだよ」
「われわれの新しい仲間はたしかに最良の道連れではないかもしれない。でも、かれの才能がケルダー王子を無事に救い出してくれるなら、わたしは喜んでかれを抱き締め、兄弟と呼ぶつもりだ」と、マンドラレンは言った。
「もしここで手間取ってみろ、朝になってタウル・ウルガスがシルクの脱出に気づいたとき、おれたちはまだこのへんをうろついてることになるんだぜ」バラクは言った。
「とにかく今は待って様子を見るしかないだろう」ベルガラスはかれに言った。
夜は果てしなくつづくように思われた。ごつごつした丘の側面に転がる岩の回りでは、風がヒューヒューと悲しげな音をあげ、あたりに散在するイバラのやぶの葉っぱをカサカサと擦り合わせている。かれらはじっと待っていた。一時間、二時間と過ぎるうちに、不安がしだいに膨らんでガリオンの胸に重くのしかかってきた。シルクばかりでなくレルグまで失ってしまったのではという思いが、だんだんと確信に変わってきた。かれは、負傷したレルドリンをアレンディアに置いてこなければならなくなったときの、あの胸が潰れそうな虚しさを感じていた。一抹の罪悪感とともに、かれはこの数ヵ月間レルドリンのことを思い出しもしなかったことに気づいた。あの短気な若者はもう怪我から回復しただろうか――いや、それより命をとりとめたのだろうか、今度はそのことが心配になってきた。それから数分のうちに、ガリオンの気持ちはどんどん落ち込んでいった。
そのとき、何の前触れもなく――物音ひとつたてずに――数時間前入っていったその岩の表面からレルグが歩み出てきた。かれの広い背中にしがみつくようにしてまたがっているのは、紛れもないあのシルクだった。ネズミ顔の小男は恐怖に目を見開き、毛は本当に逆立っているかのように見えた。
マーゴ軍の頭上にいるも同然という状況を意識して、歓喜の声を必死に抑えつつ、皆は二人の回りにわっと群がった。
「申し訳ない、かなり時間がかかってしまって」レルグはそう言うと、煩わしそうにぐいと肩を下げて背中のシルクを滑り下ろした。「丘の真ん中あたりに種類の違う岩が混じってたもんで、適合しなければならなくて」
シルクは地面に立つと、ハアハアと喘ぎながら抑えきれずに体を震わせた。やがてレルグの方を向くと、出しぬけに、「金輪際あんなことはしないでくれ。絶対に」
「どうかしたのか?」と、バラク。
「口にするのもおぞましい」
「もう会えないかと思ったぞ」マンドラレンはシルクの手をがっしりとつかんだ。
「どうしてブリルに捕まったんだ?」バラクは訊ねた。
「迂闊だったんだ。まさかこんなところにいるとは思ってもみなかったから。峡谷を抜けようとしたところへ、あいつの部下が網を投げてきたんだ。馬は転倒して首の骨を折っちまった」
「ヘターが聞いたら悲しむだろう」
「いつかブリルの皮膚からあの馬の値段分を切り取ってみせるぞ――どこか骨に近いところをな」
「ところで、タウル・ウルガスはなんでおまえのことをそんなに憎んでるんだ?」バラクは不思議そうに訊ねた。
「二、三年前、わたしはラク・ゴスカにいたんだ。そのとき、あるトルネドラのスパイがわたしに対して偽の訴訟を起こしてね――その理由はいまだにわからないが。もちろん、そんなことで捕まるなんて冗談じゃない。そこで、兵士とちょっとした口論になった。口論の最中に数人の兵士が死んだ――そんなことはよくあることさ。だが、運が悪いことに、死んだ兵士の中にタウル・ウルガスの長男がいたんだ。マーゴの王はそれを自分への挑戦ととったわけだ。時としてひどく偏狭になる男だからな」
バラクはニヤリと笑うと、「朝になっておまえが逃げたことを知ったら、さぞかしがっかりするだろうな」
「ああ、この一帯をしらみつぶしに探すだろう」
「さあ、そろそろ出発の時間だ」ベルガラスが声をかけた。
「助けにくる時間はないとあきらめてましたよ」シルクは最後に言った。
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23[#「23」は縦中横]
かれらはその夜の残りと次の日一日を徹して馬を走らせた。夜が訪れる頃には、馬の脚は疲労でよたよたになり、ガリオンは凍てつく寒さと疲れで全身の感覚がなくなっていた。
「風を防ぐようなものを探さないといけませんね」一行が夜を過ごす場所を求めて手綱をゆるめると、真先にダーニクが言った。かれらはすでに〈南の隊商道〉がくねくねと蛇行している一連の谷間を抜け出し、中央クトル・マーゴスの山地に広がるごつごつとした不毛の原野に入り込んでいた。ダーニクの顔はすでに疲労で皺だらけになっていたが、風が運んでくる砂埃が積もるせいで、よけいに深い皺が刻まれているように見えた。「こんな広いところで夜を過ごすわけにはいきません」と、かれは言った。「この風じゃとても」
「あっちだ」レルグは、今上っている険しい斜面に転がった落石を指して言った。空は相変わらず雲におおわれ日暮れ時の光は薄暗いほどなのに、レルグは閉じてるかと思うほど目を細めている。「あそこに隠れ場所がある――洞穴だ」
シルクの救出以来、かれらのレルグを見る目は少しずつ変わりつつあった。いざとなれば決定的な力を発揮できるのだということをかれが身をもって証明したことによって、厄介物というよりは仲間の一員という心証が強くなったのだ。また、もうひとつには、祈りは膝をつかなくとも馬の背でもできるのだというベルガラスの説得が成功し、その頻繁な信仰活動がかれらの旅を妨げなくなったという事情もあった。かれの祈りは迷惑というよりは、マンドラレンの古風な話し方やシルクの人を馬鹿にしたような洒落と同じ、かれ独特の性癖と見なされるにいたったのだ。
「洞穴があるって、確かなのか?」バラクはかれに訊ねた。
レルグはうなずくと、「確かに感じる」
かれらは方向転換をすると、その落石に向かった。そこに近づくにつれて、レルグの意気は傍目にもはっきりとわかるほど高揚してきた。かれは馬を先頭に押し進めると、まずは速足、次いで駆け足という具合に、疲れた馬を駆り立てていった。くずれ落ちた岩の端まで来ると、かれは馬から飛び落りて巨礫の裏に歩いていき、やがて姿を消した。
「ちゃんと根拠があったようですね」と、ダーニクが言った。「よかった。これで風を防ぐことができる」
洞穴への入り口は狭く、馬を通り抜けさせるためには何度も押したり引っ張ったりしなければならなかった。だが、ひとたび中に入ってしまうと、そこは天井の低い大きな洞穴であることがわかった。
ダーニクは感心したようにあたりを眺めた。「これはいい」かれはそう言うと、鞍の後ろから斧をはずした。「さて、薪が必要だな」
「ぼく、手伝うよ」ガリオンが言った。
「わたしも行こう」シルクもすかさず申し出た。かれは先ほどから石の壁や天井をそわそわと見回していたが、ダーニクやガリオンと一緒にふたたび外に出ると、とたんにホッとした表情を浮かべた。
「どうかしたんですか?」ダーニクはかれに訊ねた。
「昨晩の一件があるから、閉じ込められた状態がどうも落ち着かなくてね」
「ねえ、どんな感じだったの?」ガリオンは好奇心まじりに訊ねた。「石の中を通り抜けるって」
シルクはブルブルッと怖気をふるって、「恐ろしいなんてもんじゃないよ。本当に岩の中にしみ込むんだから。石が自分の体をするすると通り抜けてくのがわかるんだ」
「でも、そのお蔭で脱出できたんじゃないですか」と、ダーニクは言った。
「あんな思いをするぐらいなら、あそこに残っていたほうがよかったよ」シルクはもう一度身震いした。「なあ、もうこんな話はよそうじゃないか」
こんな荒涼とした山地で薪を見つけるのは容易なことではなかった。切り出すのは、それに輪をかけて難しいことだった。強くて弾力のあるイバラのやぶはダーニクの斧にもなかなか屈しようとしなかったのだ。一時間が過ぎ、あたりに夕闇が忍び寄る頃、かれらの腕に集まったのはほんのわずかな小枝だけだった。
「誰か見かけたか?」かれらが洞穴の中に戻ると、バラクはさっそく訊ねた。
「いや」と、シルク。
「今頃タウル・ウルガスはおまえを探してるだろうな」
「ああ、間違いなく」シルクはあたりを見回すと、「レルグは?」
「洞穴の中に目を休めにいったようだ」ベルガラスが答えた。「レルグが水を探してくれたぞ――実際は氷だが。馬にやるなら溶かしてからにしないといけないな」
ダーニクの起こした焚き火はささやかなものだった。乏しい燃料を節約しようと、かれは細枝や薪の切れ端を少しずつ火にくべた。結局その晩、かれらはひじょうに寒い思いをしいられることとなった。
夜が明けるとポルおばさんは真先に品定めするような目でレルグを見た。「咳はもう出てないようね。気分はどう?」
「いいようです」レルグは彼女の顔をまともに見ないように気をつけながら答えた。彼女が女であるという事実にどぎまぎしているのか、かれはできるだけ彼女を避けようとしていた。
「風邪はどこに行っちゃったのかしら?」
「たぶん岩の中を通り抜けることができなかったんだと思います。昨夜、かれを丘から連れ出した時点でもう治ってたようですから」
彼女は感慨深げにかれを眺め、「考えてもみなかったわ」とつぶやいた。「今まで自分で風邪を治したひとなんてひとりもいなかったもの」
「風邪なんて取るにたらないことですよ、ポルガラ」シルクはいかにもつらそうな顔で言った。
「これだけは言っておきますけど、岩を通り抜けるのは、決して一般的な治療法にはなりませんよ」
山地を抜けてベルガラスの言う〈マーゴスの荒野〉にたどりつくのに四日、険しい玄武岩の斜面を下って黒い砂地を踏むのにさらに半日かかった。
「一体何がこの巨大な地盤沈下を引き起こしたんですか?」溶岩と黒砂と暗い灰色の塩が堆積する広大な荒野を見渡しながら、マンドラレンが訊ねた。
「かつてここには内海があったのだ」ベルガラスは答えた。「だがトラクが世界を引き裂いたとき、地殻の変動が内海の東端を崩壊させ、水をすべて流出させてしまったのだ」
「見物だったでしょうね」と、バラクが言った。
「当時のわれわれはそれどころではなかった」
「あれは何?」ガリオンは前方の砂の中から突き出している物を指して、驚きの声をあげた。鋭い牙のある長い鼻づらに巨大な頭。バケツほども大きさのある眼窩は、こちらに敵意のまなざしを向けているように見える。
「名前はなかったと思う」ベルガラスは穏やかに答えた。「水がなくなる前はこの海に住んでいたが、もう数千年も昔に絶滅してしまった」
ガリオンは脇を通り過ぎるときになって初めて、その海獣の死体がただの骸骨であることに気づいた。海獣の肋骨は納屋の垂木ほども長さがあり、漂白された頭蓋骨は馬よりも大きかった。その虚ろな眼窩は、かれらが通り過ぎていくのをじっと見守っているように見えた。
ふたたびよろいかぶとに身を包んだマンドラレンは、頭蓋骨を眺めながら、しみじみとした口調で、「恐ろしい獣だ」と漏らした。
「見ろよ、あの牙の大きさ」バラクも恐れ入ったように言った。「一回バリッと噛んだだけで、人間の体なんか真っ二つだぜ」
荒野に出てまだほんの二、三リーグというところで、風がまた勢力を盛り返し、ネズミ色の空の下に広がる黒い砂丘を駆け抜けはじめた。砂が少し動きはじめたかと思うと、風の勢いがますます激しくなり、砂丘の表面をまくってかれらの顔をチクチクと刺すようになった。
「避難した方がよさそうだな」ベルガラスはヒューヒューと吹きすさぶ風の中で声を張り上げた。「この砂嵐は山から遠ざかるほど激しくなりそうだ」
「このあたりに洞穴は?」ダーニクはレルグに訊ねた。
レルグは頭を振ると、「使えそうなものはない。どれも砂がいっぱいだ」
「よし、あそこだ」バラクは塩の層のはずれに積み重なっている溶岩の山を指差した。「風下に行けば、風を防ぐことができるぞ」
「いかん」ベルガラスが叫んだ。「風上にいなければだめだ。後ろから砂が積もってきたら、生き埋めになるぞ」
石の山にたどりつくと、かれらは馬を下りた。風が衣服をかきむしり、荒野の上では砂が巨大なひとかたまりの雲のように大きくうねっている。
「頼りない避難場所ですね、ベルガラス」バラクは肩のあたりにあごひげをなびかせながら、吠えるように言った。「これはどのくらいつづきそうです?」
「一日――いや、二日――時には一週間つづくこともある」
ダーニクは早くもしゃがみこんで砕けた溶岩を拾っている。両手の中で転がしながら丹念に観察したあと、目の高さに持ち上げて、「四角く砕けているな。これならうまく重なる。風避けの壁をつくれるかもしれないぞ」
「時間がかかるだろう」バラクは反論した。
「他に何かすることでもあるんですか?」
夜が訪れるころには、かれらは肩の高さまで壁を積み重ねていた。そして、壁のてっぺんとさらに高い石の山にテントをつなぎ留めることによって、最悪の風から逃れることに成功したのだった。人間ばかりでなく馬も避難させなければならなかったので、テントの中はぎゅうぎゅう詰めの状態だったが、それでもとにかく嵐を避けることだけはできた。
それから二日間、風がヒューヒューと吹き荒れ、頭上にピンと張られたテントがドラムさながらの音をたてる中、かれらは窮屈なテントの中で体を丸めて過ごした。やがて風が鎮まり、黒い砂がゆっくりと地表に積もりはじめると、あたりは圧倒的な静寂に包まれた。
テントから出てきたレルグは、チラッと空を仰ぐとすぐに顔をおおってひざまずき、一心不乱に祈りを唱えはじめた。雲の切れた空は、寒々しいほど真っ青に輝いている。ガリオンは祈りをあげる狂信者の横まで来ると、「大丈夫だよ、レルグ」と言って、何気なく手を伸ばした。
「さわらないでくれ」レルグはそう言って、黙々と祈りをつづけた。
シルクは突っ立ったまま服についた泥と砂を落としながら、「こういう嵐はよく起こるんですか?」
「ちょうどそういう季節なのだ」と、ベルガラスは答えた。
「まったく喜ばしいかぎりですね」シルクは皮肉っぽく言った。
と、そのとき、大地の奥底から深い轟音が聞こえたかと思うと、急に地面がうねりはじめた。
「地震だ!」ベルガラスがとっさに叫んだ。「あそこから馬を出せ!」
ダーニクとバラクは急いで避難場所に駆け込み、グラグラと揺れる壁の下から塩の沈積の上に馬を連れ出した。
間もなくうねりはおさまった。「クトゥーチクの仕業ですかね?」最初に口を開いたのは、シルクだった。「地震や砂嵐でわれわれに対抗するつもりでしょうか?」
ベルガラスは頭を振った。「いや。人間にはそれほどの力はない。地震の原因はあれだ」かれは南の方を指差した。荒野のはるか向こうに黒っぽい頂きが連なっているのが見えた。そのひとつから、太い煙が立ちのぼり、上にいくにつれて巨大な黒い波と化している。「火山だ」老人は言った。「夏に噴火してスシス・トールに灰の雨を降らせたのもおそらくあれだろう」
「火山?」バラクは山頂からもくもくと沸き上がる巨大な雲をながめながら、低くうめいた。「火山なんて見るのは初めてだ」
「五十リーグは離れてますよ、ベルガラス」と、シルクが言った。「あれがここの地面まで揺るがすんですか?」
老人はうなずくと、「大地はひとつづきなのだ、シルク。しかもあの噴火を引き起こしている力はとてつもなく大きい。まだ二、三回小さな波が来るはずだ。動きつづけたほうがいい。もう砂嵐もおさまったことだし、そろそろタウル・ウルガスの探察隊がわれわれの捜索を再開するだろう」
「どっちに行けばいいんです?」ダーニクはキョロキョロとあたりを見回し、自分の今いる場所を一生懸命確認しようとしている。
「あっちだ」ベルガラスは煙のあがっている山を指さした。
「そう言うんじゃないかと思ったよ」バラクはぼやいた。
残りの一日、かれらは馬を休める以外はほとんど脇目もふらずに前進をつづけた。ものさびしいマーゴスの荒野は果てしなくつづくように思われた。砂嵐のあいだに黒砂が移動して新たな砂丘をつくりあげ、分厚く凝固した塩の堆積はほとんど真っ白になるまで風に磨かれた。かれらは、かつてこの内海に生息していた海獣の巨大な白骨体の脇を何度となく通り過ぎた。その骨だらけの体は、まるで黒砂の中から泳ぎ出てきたように見えた。冷たく虚ろな眼窩は、疾走していくかれらを貪欲に眺めているようだった。
その晩、かれらはまたしても溶岩の破片が積み重なった脇で夜を過ごした。風はおさまっていたが、寒さは相変わらず厳しく、薪も乏しかった。
次の朝、ふたたび出発した矢先に、ガリオンは妙な悪臭を感じはじめた。「この臭いは何だろう?」
「クトーク湖だ。本当ならとっくの昔に干上がっていてもいいはずが、地下水のせいでまだ潤っているのだ」
「腐った卵みたいな臭いだな」と、バラク。
「このあたりの地下水には硫黄がかなり含まれているのだ。あの湖の水を飲むのはわしも勘弁願いたいな」
「考えるだけでもおぞましい」バラクは鼻に皺を寄せた。
クトーク湖は浅瀬がどこまでもつづく広漠とした池で、世界じゅうの魚の死体が集まったような悪臭を放つ、どろどろとした水に満たされていた。池の表面からは白い湯気が立ちのぼっており、冷たい空気中に漂うその湯気のすじがかれらの胸をむかつかせる原因だった。湖の南端に差しかかると、ベルガラスは皆に止まれの合図を送った。「ここから先が危険な地帯だ」かれは真面目な顔で言った。「馬を脇道にそらすんじゃないぞ。固い岩の上だけを歩け。しっかりしてるように見える地面でも、その期待を裏切ることがよくある。それだけじゃない。ここには用心しなければならないものがいくつもあるのだ。わしだけを見て、わしと同じように動くのだ。わしが止まったら、おまえたちも止まれ。わしが走ったら、おまえたちも走れ」かれは難しい顔をしてレルグを見た。このウルゴ人は、光を防ぐと同時に頭上の空の広がりを見ないようにするために、すでに目の上に一枚余分に布を巻いていた。
「ぼくがレルグの馬を先導するよ、おじいさん」ガリオンは察しよく申し出た。
ベルガラスはうなずくと、「それしか方法はないな」
「どうせいつかは克服しなくちゃいけないことじゃないですか」バラクは不満そうに言った。
「たしかに。だが、今はその時じゃない。さあ、行くぞ」老人は用心深い足取りで先頭に移動した。
前方に広がる一帯は、近づくにつれて、湯気と煙に包まれていることがわかった。やがて灰色の泥がグツグツと燻っている大きなぬかるみにさしかかった。後ろには透明な泉がキラキラときらめきながら、まるで笑いさざめくような音をたてて湧き出ており、火傷しそうな熱湯の小川が滝のように泥の中に流れ込んでいた。「少なくとも、少しは暖かくはなったな」と、シルクは言った。
重いかぶとをかぶったマンドラレンは顔から湯気を上げながら、「少しどころか、かなり暖かい」
ベルガラスは先ほどからわずかに頭を傾け、じっと耳を澄ましながら、ゆっくりと馬を進ませていた。と、とつぜん、「止まれ!」という警告の声が飛んだ。
かれらはいっせいに手綱をゆるめた。
すぐ前のぬかるみからとつぜん飛沫が上がったかと思うと、汚らしい灰色をした泥水の間欠泉が三十フィートの高さに噴き出した。泉は数分間噴きつづけたのち、ゆっくりとおさまっていった。
「よし!」ベルガラスが号令をかけた。「走れ!」老人が馬の脇腹を蹴りあげたのを合図に、行く手に飛び散った熱い泥をバチャバチャと撥ね上げながら、かれらはいまだうねりのおさまらないぬかるみの脇を全速力で走り抜けた。無事通過すると、老人はふたたび速度を落とし、耳を地面に傾けながら前進した。
「何を聞いてるんです?」バラクはポルガラに訊ねた。
「間欠泉は噴き出す直前に音を出すのよ」
「おれには何も聞こえなかったけどな」
「あなたは何を聞けばいいか知らないからよ」
かれらの後方であの間欠泉がふたたび飛沫をあげた。
「ガリオン!」ぬかるみから上がる泥の水柱を振り返ったガリオンに、ポルおばさんの叱責が飛んだ。「前を見なさい!」
かれは急いで視線を戻した。目の前の地面はこれといって変わったところがないように見えた。
「さがりなさい!」彼女は命令した。「ダーニク、レルグの馬の手綱を取って」
ダーニクが手綱を取ると、ガリオンは馬の向きを変えはじめた。
「そのまま下がるのよ」彼女は命令を繰り返した。
見た目には固そうな地面に前足を踏み出したとたん、ガリオンの馬のひづめは視界から消えた。体を震わしながらよろよろと後ずさった馬を、ガリオンは必死に抑えつけた。そして、一歩ずつ用心しながら、皆が進んでいる固い岩の道に戻った。
「流砂か」シルクは激しく息をのんだ。
「あたり一帯がそうよ」ポルおばさんは言った。「皆も道から絶対にはずれないでちょうだい」
シルクは、馬の足跡が流砂の表面からスーッと消えていくのを気味悪そうに見つめた。「深さはどのぐらいです?」
「かなりあるわよ」
かれらはぬかるみと流砂を注意深くかわしながら先を進んだ。そして間欠泉が空中に水柱を上げるたびに――泥が噴き出すこともあれば、沸騰した熱湯が噴き出すこともあった――その場に立ち止まった。日暮れが近づき、泥地の向こうに低く横たわる固い岩の尾根にたどりつく頃、かれらは難所を切り抜けることに集中力を使い果たして、すっかり疲労困憊していた。
「これから先もこんな所を通らなくちゃいけないの?」ガリオンが訊ねた。
「いや。これは湖の南端だけだ」と、ベルガラスは答えた。
「じゃあ、迂回するわけにはいかないんですか?」今度はマンドラレンが訊ねた。
「できないことはないが、おそろしく遠回りになる。それに、沼地が追跡者の意欲を挫くだろうと思ってな」
「あれは何だ?」不意にレルグが叫んだ。
「なんだ、どうした?」バラクはかれに聞いた。
「向こうから何か聞こえたような気がしたんだ――小石を打ち合わせたような、カチッという音が」
ガリオンに顔面は素早い波のようなものを感じた。まるで、空気中に見えないさざなみが立ったような。そして、ポルおばさんが前方を透視していることを知った。
「マーゴ人だわ!」
「何人だ?」ベルガラスは彼女に聞いた。
「六人――それからグロリムがひとり。あの尾根のすぐ後ろで待ち伏せてるわ」
「たったの六人?」マンドラレンは少しがっかりしたように言った。
バラクはニッと笑うと、「軽い気晴らしってとこだな」
「おまえだってかれと同じでどんどんひどくなってくじゃないか」シルクはチェレクの大男に言った。
「何か戦術を考える必要があると思うか、バラク卿?」マンドラレンはバラクに意見を求めた。
「そこまでする必要はないだろう。相手はたったの六人だ。一息に罠を蹴散らしてやろうぜ」
二人の戦士は鞘の中でそっと剣をゆるめながら、先頭に進み出た。
「日はまだ消えないのか?」レルグはガリオンに訊ねた。
「まだ沈みはじめたばかりだよ」
レルグは目のまわりから包帯を引きはがし、黒っぽい薄布を下にずらした。それからパチパチと瞬きをして、ほとんと閉じるほどに目を細めた。
「そんなことをしたら目が痛くなるよ」ガリオンはかれに言った。「暗くなるまで巻いたままにしておいたほうがいいよ」
「出番が来るかもしれないからな」レルグがそう言うと同時に、かれらは待ち伏せしているマーゴ人に向かって尾根を上り出した。
マーゴ人は大きく積み重なった黒石の山の向こうから何の前触れもなく飛び出してきた。そして、剣をぶんぶん振り回しながらマンドラレンとバラクめがけて一直線に突進してきた。だが、二人の戦士はひるむどころか、待ってましたとばかりに反撃に出た。マンドラレンは鞘から剣を抜くが早いか、襲撃してくるマーゴ人のひとりを狙って軍馬を猛進させた。あぶみがねに足を踏ん張って立ち上がり、力強く剣をひと振りすると、その猛烈な刃の下でマーゴ人の頭が砕け散った。その衝撃で足元をすくわれた馬は、瀕死の騎手の上に後ろ向きにどーんと倒れ落ちた。同じようにして襲撃者に向かっていったバラクは、もうひとりのマーゴ人めがけて剣を強烈に三度振り下ろした。まわりの砂や岩の上に真っ赤な鮮血が飛び散った。
三人目のマーゴ人は横へ一歩寄ってマンドラレンの猛襲をかわし、騎士の背中を狙ったが、剣の刃ははがねのよろいを空しくカンと鳴らしただけだった。マーゴ人は必死に剣を振り上げ、もう一度騎士の背中を撃ちつけたが、シルクの絶妙な投げナイフが耳のすぐ下に刺さると、ビクッと体を硬直させて鞍からすべり落ちた。
そのとき、黒いローブにピカピカのはがねの仮面をつけたグロリムが岩の後ろから姿を現わした。バラクとマンドラレンが鮮やかな手付きで自分の戦士を次々と切り刻んでいくのを見ているうちに僧侶の勝利の喜びが絶望に変わっていくのが、ガリオンには手にとるようにわかった。グロリムがきりっと背筋を伸ばしたとたん、ガリオンは攻撃するための意志を集めようとしているのだと直観した。だが、もう手遅れだった。レルグがいつの間にかかれに近づいていたのだ。狂信者は頑強な肩を大きくうねらせ、ふしくれだった両手でグロリムの胸元をつかんだ。と、次の瞬間、僧侶を軽々と持ち上げて、家ほども大きさのある平らな丸石の表面にその体を押しつけた。
最初は、グロリムを石の上に釘付けにして、もがく獲物を仲間が始末しにきてくれるのを待っているだけのように見えた。が、そこにはわずかな違いがあった。かれの肩の恰好は、グロリムを持ち上げた動作にまだつづきがあることを物語っていた。グロリムはレルグの頭と肩を拳で叩いたが、レルグは腕の力を弱めようとしなかった。グロリムが釘付けにされている石が、かすかにゆらめいたように見えた。
「レルグ――やめろ!」シルクが声をつまらせた。
レルグがおそろしくゆっくりとした動作で押しつけると、黒いローブのグロリムは腕を殻竿のように振り回しながら、徐々に石の表面に沈みはじめた。体が深く入り込んでいくにつれて、石の表面は滑らかにかれを包み隠していった。レルグは自分の腕を石の中にすべり込ませながら、グロリムをますます深く押し込めた。突き出した僧侶の手は、体がすべて沈んでしまった後も、くねくねと動きつづけている。レルグはグロリムの体を石の中に残したまま、自分の腕だけを抜き出した。石から突き出た二つの手は、一度だけ懇願するように組み合わさったかと思うと、間もなく爪を立てた恰好のまま動かなくなった。
ガリオンの背中の方で、シルクは「ひっく、ひっく」という声を必死に抑えているのが聞こえた。
バラクとマンドラレンはこの頃にはもうマーゴ人の残党二人と剣を交えており、冷たい空気中に剣の力がぶつかり合う音が鳴り響いていた。最後に残ったマーゴ人は恐怖に目を見開き、大慌てで馬を走らせて逃げ出した。ダーニクは黙って鞍から斧をはずすと、全速力でその後を追いかけた。マーゴ人を斬り落とす代わりに、ダーニクは敵の馬の前にはだかってむりやり方向転換させ、後ろに追い返した。恐慌に襲われたマーゴ人は、剣のひらで馬の脇腹に狂ったように拍車をあてると、厳めしい顔の鍛冶屋をかわし、すぐ後ろに追手を従えたまま尾根の向こうに一目散に逃げていった。
残った二人のマーゴ人を倒し終えたバラクとマンドラレンは、勝利の喜びにぎらぎらと目を輝かせながら、次なる獲物を求めてあたりを見回した。「最後のやつはどこに行った?」と、バラクが訊ねた。
「ダーニクが追っかけていったよ」と、ガリオン。
「あいつを逃がすわけにはいかないぞ。仲間をひき連れてきたらたいへんだ」
「ダーニクが始末するだろう」ベルガラスはかれらに言った。
バラクはじれったそうに、「ダーニクは確かに腕はたつけど、本当の戦士じゃないんですよ。手伝いに行ったほうがいい」
とそのとき、尾根のはるか向こうで恐怖の絶叫が一度、そしてもう一度響き渡った。三度目の叫び声は、途中でぱったりと跡絶え、その後には静寂だけが残った。
数分後、陰鬱な面持ちのダーニクが、ひとり戻ってきた。
「何があったんだ?」バラクはすかさず訊ねた。「まさか、逃げられたんじゃないだろうな?」
ダーニクは頭を振って、「沼に追い詰めていったら、敵はどこかの流砂にはまり込んだんです」
「どうして斧ではねてしまわなかったんだ?」
「ひとを殺すのはあまり好きじゃないもんで」
シルクは青白い顔をしたまま、ダーニクをまじまじと見つめると、「それで流砂に追い詰めて、そいつが沈んでいくのを黙って見てたっていうのか? ダーニク、そりゃ残忍ってもんだぜ!」
「死にかわりはありませんよ」ダーニクはかれに似合わず無遠慮に答えた。「死んでしまえば、それがどういう死に方だったかなんて関係ないんです、そうでしょう?」かれは一瞬考え込むような顔をしたかと思うと、「でも、あの馬は可哀相なことをしたな」
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24[#「24」は縦中横]
翌朝、かれらは東に伸びる尾根づたいに馬を進めた。冬の空は冷え冷えとした青色を帯び、太陽の温もりもかれらのところまでは届かなかった。レルグは薄布を目に巻いて光を避け、パニックから逃れるために道中も祈りの言葉をブツブツとつぶやきつづけた。砂と塩の堆積からなる南の荒野に、ときおり埃が舞い上がるのが見えたが、それがマーゴ人の巡察隊のあげたものなのか、それとも突風によるものなのか、はっきりと見極めることはできなかった。
正午頃になると風向きが変わり、南の方から絶え間なく吹きつけてくるようになった。そしてインクのように黒い暗雲が、南の地平線に横たわる連峰をおおいはじめた。不吉な暗雲は腹部のあたりに稲妻をチラチラと光らせながら、かれらの方にぐんぐんと押し寄せてくる。
「すごい嵐が来そうですよ、ベルガラス」バラクは雲を見ながら、どら声で言った。
ベルガラスは頭を振ると、「嵐ではない。灰の雨だ。あの火山がまた噴火して、風がその灰をこちらに運んでくるのだ」
バラクは顔をしかめ、それから肩をすくめると、「少なくとも、灰の雨が降ってくれば、見られる心配をしないですみますけどね」
「グロリムは目でわたしたちを探すわけじゃないのよ、バラク」ポルおばさんはバラクに念を押した。
ベルガラスはあごひげを掻きながら、「それもなんとかしないといけないな」
「シールドで隠すには、このグループは大きすぎるわ、おとうさん」ポルおばさんはすぐに指摘した。「馬を勘定に入れたらなおさらのこと」
「おまえならきっとうまくやれるさ。これは昔からおまえの十八番だったじゃないか」
「おとうさんが半分受け持ってくれてこそ、わたしも自分の方を頑張れるんじゃないの、この老いぼれ狼」
「悪いが、わしは手伝えそうにないぞ。今頃はクトゥーチク自らわれわれを探しているはずだ。すでに何度かその徴候があった。わしはかれに神経を集中しておかなければならん。クトゥーチクがその気になったら、その攻撃の速さたるや凄まじいものがある。わしはそれに備えなければならんのだ。シールドにかかずらっていたら、それが出来なくなってしまう」
「一人ではできっこないわ、おとうさん」彼女は異議を唱えた。「一人きりでこれだけの人間と馬を隠すなんて不可能よ」
「ガリオンが手を貸してくれるさ」
「ぼくが?」ガリオンは陰鬱な雲からさっと目を離して祖父の顔を見た。
「かれには経験がないのよ、おとうさん」ポルおばさんは反論した。
「いつかは覚えねばならんことだ」
「でも、今この場所で試すことはないじゃないの」
「ガリオンならきっとうまくやるさ。一、二回練習すれば、しまいにはコツをつかむだろう」
「ねえ、ぼくは何をやればいいわけ?」ガリオンは心配顔で訊ねた。
ポルおばさんはベルガラスに険しい一瞥を送ると、ガリオンの方を向いて、「今から教えるわ。まずは気持ちを楽にすること。実際はそれほど難しいことじゃないのよ」
「でも今言ってたじゃない――」
「わたしが言ったことは忘れて。今はとにかく説明を聞きなさい」
「ぼくは何をすればいいの?」かれは怪訝そうに訊ねた。
「まず力を抜いてちょうだい。それから砂と石のことを思い浮かべて」
「それだけ?」
「まずそれだけやってごらんなさい。気持ちを集中するのよ」
かれは砂と石のことを考えた。
「だめよ、ガリオン、白い砂じゃないわ。黒い砂よ――このまわりの砂のような」
「教えてくれなかったじゃないか」
「言わなくてもわかると思ったのよ」
ベルガラスはクスクスと笑いだした。
「じゃあ、おとうさんが教える?」彼女は不機嫌に言った。それからガリオンの方に向き直ると、「もう一度やってみて。今度は間違わないようにね」
かれは砂と石を思い浮かべてみた。
「よくなったわ。頭の中で砂と石をしっかり思い浮かべたら今度はすぐに自分の右側をおおうような半円のイメージを外に向けて押し出すようにしてもらいたいの。左側はわたしが受け持つわ」
かれは神経を集中させた。それは今まで経験したことのないほど難しいことだった。
「そんなに強く押しちゃだめよ、ガリオン。皺が寄ってるじゃないの。そんなふうにしたら、わたしが継ぎ目を合わせる時に苦労するのよ。滑らかでしっかりとした円をたもってちょうだい」
「ごめんなさい」かれはそう言って皺を伸ばした。
「どうかしら、おとうさん?」彼女は父親に意見を求めた。
ガリオンは自分の抱いているイメージを何かがチョン、チョンと突いたような気がした。
「悪くないぞ、ポル」と、ベルガラスが答えた。「悪くないどころか、すごくいいじゃないか。やっぱりこの坊主には才能がある」
「ねえ、ぼくたちは何をやってるの?」ガリオンは訊ねた。大気の寒さとは裏腹に、かれは額から汗が吹き出てくるのを感じていた。
「シールドをつくっているのだ」ベルガラスはかれに言った。「自分の体を砂と石のイメージの中に閉じ込め、それがまわりを取り巻いている本当の砂や石に溶け込む。グロリムが透視力で何かを探すとき、かれらは人間と馬を思い浮かべるだろう。かれらの透視はわれわれの脇をすっと通り過ぎていく。なぜなら、かれらに見えるのはどこまでもつづく砂と石だけだからだ」
「これでおしまいなの?」ガリオンはあまりの簡単さに喜びの声をあげた。
「まだつづきがあるのよ、ガリオン。今度はシールドを大きくして皆をおおえるようにしないと。ゆっくりやるのよ。一度に少しずつ」
今度は簡単とは言いかねた。かれは紡いだイメージを何度となく破いた後、やっとのことでポルおばさんの望む大きさにまで伸ばすことに成功した。つづいてかれは、自分のイメージとポルおばさんのイメージが出合うあたりが不思議と融合していくのを感じた。
「うまくいったみたいだわ、おとうさん」ポルおばさんは言った。
「だからガリオンならできると言っただろう」
暗紫色の雲は不気味に渦巻きながらかれらのほうに向かっていた。先端に沿って雷がゴロゴロと轟いている。
「ベルガラス、もしあの灰の雨がニーサで降ってきたようなやつだとしたら、われわれは盲目状態で彷徨《さまよ》い歩くことになりますよ」バラクが言った。
「そのことなら心配はいらん。ここまで来ればラク・クトルへの錠をつかんだも同然だ。ああやって物事の場所を突き止めることができるのは、グロリムだけじゃない。さあ、先を急ごう」
かれらがふたたび尾根に沿って歩きはじめる頃、雲が上空をおおいはじめた。雷の衝撃は絶え間ない轟音を呼び、もくもくと沸き上がった雲の合間に稲妻が渦巻いた。小さな無数の粒子が沸き返り、激しく逆巻きながら巨大な静電気の放電を繰り広げるたびに、稲妻はパチパチと乾いた音をたてた。やがて灰の雨の最初のひとひらが冷たい空気中に舞い降りてくる頃、ベルガラスは一行を率いて尾根を下り、砂の平野に足を踏み出した。
最初の一時間が過ぎようとする頃、ガリオンは前よりずっと楽にイメージを保てるようになっていた。初めのように常に意識を集中しておく必要もなくなった。さらに二時間がたつと、それは単調で退屈な行為以外の何物でもなくなっていた。退屈さを紛らすために、かれはどんどん濃くなる灰の雨の中を歩きながら、最初にこの荒野に入り込んだ時に出くわしたあの巨大な白骨体のことを思い出した。入念にその姿を思い浮かべると、今度は今抱いているイメージの真ん中にそれを置いてみた。全体的にはなかなかの出来だったし、何よりそれが暇つぶしになった。
「ガリオン」ポルおばさんのきびきびした声が聞こえた。「そんなに創造に夢中にならないで」
「えっ?」
「砂のことだけ考えてちょうだい。白骨体もいいけど、片側だけじゃおかしいわよ」
「片側?」
「わたしのイメージの方には白骨体はないの――あなたの方だけ。ややこしいことはしないで、ガリオン。装飾は禁止よ」
むせかえるような灰が口や鼻に入らないよう顔をおおいながら、かれらは先を進んだ。ガリオンは何かが時折自分のイメージを押してくるのを感じた。それは、いつかファルドー農園の池で捕まえたおたまじゃくしのような感触で、かれの心にくねくねとふれてくるようだった。
「しっかり、ガリオン」ポルおばさんの警告が聞こえた。「グロリムよ」
「見つかったの?」
「いいえ。ほら――通り過ぎてくわ」すると、くねくねした感触は消え去った。
かれらは荒野に点在する砕けた石の山の中で夜を過ごした。ダーニクはまたしても石の山とテントの布を使って低い洞穴のような隠れ家をつくり出した。かれらは火を焚かずに、パンと干し肉だけの冷たい夕食をすませた。ガリオンとポルおばさんは空洞になった砂のイメージを交代に抱き、傘のように皆の上をおおった。ガリオンは、動いていないときはイメージを保つのがずっと楽なことに気づいた。
翌朝目を覚ますと、灰はまだ降りつづけていたが、空は前日のように真っ暗ではなくなっていた。「すこし薄くなってきたようですね、ベルガラス」馬に鞍をつけながらシルクが言った。
「もし灰が吹き飛ばされてしまえば、また巡察隊をかわさなくちゃいけませんね」
老人はうなずいた。「うむ、急いだほうがいいだろう。実は隠れ場所にしようと思っているところがあるのだ――町の北約五マイルのあたりに。この灰がおさまる前に、そこに着いておきたい。ラク・クトルの防壁からは、東西南北十リーグは見渡せるからな」
「そんなに高いわけですか?」マンドラレンが聞いた。
「想像を絶する高さだ」
「では、ボー・ミンブルの城壁よりも高いと?」
「十倍――いや、五十倍はあるかもしれん。それは頭に入れておかなければいかんぞ」
かれらは一日じゅう脇目もふらずに走りつづけた。ガリオンとポルおばさんは相変わらずイメージのシールドを保っていたが、グロリムの探るような感触は前よりも頻繁になっていた。時にはおそろしく強い力で、何の前ぶれもなくガリオンの心を押してくることもあった。
「わたしたちの行動を見抜いているみたいよ、おとうさん」ポルおばさんは老人に言った。
「膜を突き破ろうとしてるわ」
「耐えるのだ。どちらかが破けたら、どうすればいいかわかってるな」
彼女は真剣な面持ちでうなずいた。
「坊主にも伝えておけ」
彼女はもう一度うなずくと、ガリオンの方を向いて、「よく聞くのよ、ガリオン。グロリムが不意を襲おうとしてるわ。素早く強い一突きを受けたら、どんなによくできたシールドでも貫かれてしまうのよ。もしどちらか一方のシールドが破かれるようなことがあったら、止めてと合図するわ。わたしが止めてと言ったら、イメージをすぐに消して、そのことから思考を離すようにしてちょうだい」
「よくわからないな」
「わからなくてもいいのよ。とにかく言われたとおりにして。止めてと言われたら、わたしの思考から自分の思考をすぐに切り離してちょうだい。すごく危険なことをするから、あんたまで巻き添えにしたくないのよ」
「ぼくには手伝えないの?」
「ええ、今度はね」
かれらは前進した。灰の雨はさらにまばらになり、空はぼんやりとした黄色っぽい青に変わりつつあった。太陽の輪が、満月のように白い円を描きながら、南西の地平線のすぐ上に姿をあらわした。
「ガリオン、止めて!」
襲ってきたのは押す力ではなく、激しく突き刺す力だった。ガリオンはハッと息をのむと、砂のイメージを放り出して、自分の心を急いで引き戻した。ポルおばさんは、目をメラメラと燃えたたせて体をこわばらせている。彼女がひとたび意志を解き放つと、ガリオンは洪水のようなうねりを覚えた。次の瞬間、かれは自分の心がまだ彼女の心に繋がっていることを知って、茫然とした。ふたりのイメージを繋いでいた力は、あまりに強く、あまりに複雑すぎて、簡単に断ち切ることはできなかったのだ。いまだ繋がっている二つの心が鞭のように飛び出した瞬間、かれは彼女と共に引っ張られていくのを感じた。二人は、シールドを突き刺した思考のかすかな道筋を一瞬のうちに遡って、その出所を突き止めた。ふれてみると、その思考は発見の喜びに満ちあふれていた。標的がはっきりわかると、ポルおばさんは今度はあらんかぎりの意志を込めて、攻撃にかかった。二人のふれた思考は一瞬ひるんで接触を断とうとしたが、もう手遅れだった。ガリオンはその思考が耐えがたいほど大きく膨らんでいくのを感じた。と、次の瞬間、破裂が起こった。圧倒的な恐怖にとらわれ、わけのわからない言葉を矢継ぎ早に口走りながら、その思考は破片となって飛び散った。破片は甲高い音をたてて黒い石のようなものの間を飛び抜け、最後の脱出を試みた。石の間を通り過ぎると、破片は今度は計り知れないほど高いところから、まっさかさまに落ちていった。ガリオンは必死の思いでそこから自分の心を引き離した。
「だから離れてなさいって言ったでしょ」ポルおばさんの叱責が聞こえた。
「できなかったんだよ。逃げられなかったんだ」
「どうかしたんですか?」シルクは驚いた顔で聞いた。
「グロリムが膜を破ってきたのよ」
「それで見られたんですか?」
「一瞬ね。気にする必要はないわ。もう死んでしまったから」
「あなたが殺したんですか? どうやって?」
「相手は自分を守ることを忘れてたのよ。だから、逆に思考を追ってやったの」
「狂っちゃったんだよ」ガリオンは遭遇の恐怖からまだ醒めやらぬ様子で、声をつまらせた。
「それで、何かすごく高いところから飛び下りたんだ。自分から望んで飛び下りたんだよ。起こってしまったことから逃れるには、それしか方法がなかったんだろうね」ガリオンは背筋が寒くなるのを感じた。
「ひどい騒音だったぞ、ポル」ベルガラスは困り顔で言った。「あんな失敗をするなんて久し振りじゃないか」
「足手まといがいたからよ」彼女はガリオンに冷たい一瞥を送った。
「ぼくのせいじゃないよ」ガリオンは抗議した。「あんまり強くつかまれてたんで逃げられなかったんだ。結びつけたのはポルおばさんじゃないか」
「時々それをやるな、ポル」ベルガラスが言った。「結びつきに私情が入り込み過ぎて、永遠に繋ぎ止めておきたくなるらしい。たぶん愛情がそうさせるのだろうが」
「何の話だかわかるか?」バラクはシルクに訊ねた。
「わかりたいとも思わないね」
ポルおばさんは物思わしげな顔でガリオンを見ていたかと思うと、最後にひとこと、「わたしが悪かったわ」と言った。
「いずれは手放さなくてはならんのだぞ、ポル」ベルガラスは真面目な顔で言った。
「そうね――でも、まだ時間はあるわ」
「さあ、シールドを作り直したほうがいい。われわれがここにいることはわかってる以上、また別のやつが探しにくるだろう」
彼女はうなずいた。「もう一度砂のことを思い浮かべて、ガリオン」
灰は午後の間じゅう積もりつづけたものの、一マイル進むごとにだんだんと薄れつつあった。あたりに積み重なっている石の山の輪郭や、砂の中から二、三突き出している先の丸い玄武岩の峰もわずかに見えるようになってきた。荒野の合間にほぼ等間隔で横たわっている低い岩の尾根がまたひとつ見えた頃、ガリオンは前方のもやの中に何か黒っぽくておそろしく高いものがそびえているのを認めた。
「暗くなるまでここで待つぞ」尾根の後ろまで来ると、ベルガラスは馬を下りて言った。
「もう着いたんですか?」ダーニクはあたりをキョロキョロと見回した。
「あれがラク・クトルだ」老人は不気味な影を指差した。
バラクは目を細めてそれを見た。「なんだ、ただの山かと思ったら」
「たしかに山だ。ラク・クトルはその頂上に立っているのだ」
「じゃあプロルグのようなものですね?」
「立地は似ているが、ここには魔法使いのクトゥーチクが住んでいる。そこがプロルグとの大きな違いだ」
「クトゥーチクは魔術師でしょ」ガリオンは困惑して言った。「どうして、魔法使いって呼ぶわけ?」
「侮蔑の言葉だ。われわれの社会では、魔法使いという言葉はひどい侮辱と見なされているのだ」
かれらは尾根の裏側にある大きな岩の合間に馬をつなぐと、四十フィートほどの高さを登って頂上にたどりついた。そしてそこに隠れて様子を見ながら、夜の訪れを待った。
灰の雨がさらに薄くなってくると、もやの中に峰が浮かび上がった。それは山というよりは、荒野の中にそびえる岩の高峰だった。優に五マイルはあると思われる麓の周囲には、砕けた石がゴロゴロと積み重なり、斜面は夜のように黒く切り立っていた。
「高さはどのぐらいあるんですか?」マンドラレンの声は自分でも気づかないうちに囁くほどの小声になっていた。
「一マイル以上はあるだろう」と、ベルガラス。
荒野の地面から始まる急な坂道が、千フィートもあるかと思われる黒い塔をぐるりと取り巻いていた。「これだけのものを造るには、相当の年月がかかっただろうな」バラクがぽつりと言った。
「およそ千年だ」ベルガラスがそれに答えて言った。「これを建設している間、マーゴ人はニーサ人の見つける奴隷を次から次へと連れてきたのだ」
「いまわしい商売ですね」マンドラレンが言った。
「いまわしい場所だ」ベルガラスはかれの言葉にうなずいた。
氷のような風が最後のもやを吹き飛ばしてしまうと、岩山の頂上に横たわる町がその全貌を現わしはじめた。防壁は高峰の側面と同じ黒色で、そこからほとんど無作為に黒い見張り小塔が突き出ていた。壁の内側には、空を突き刺す槍のように黒っぽい尖塔がそびえていた。黒く閉ざされたこのグロリムの町には、何かしら不吉な雰囲気が漂っていた。峰の頂上にどっかりと腰を下ろし、岩と悪臭の沼地からなる周囲の荒野を見渡しているような印象がこの町にはあった。ぎざぎざした荒野の西端に沿って雲と灰の峰がかかり、その中に沈んでゆく太陽が黒っぽい茜色でその厳めしい要塞を照らし出すと、ラク・クトルの防壁はまるで血を流しているようにうつった。それは、この世の始まり以来トラクの祭壇の上に流されたすべての血が大きな奔流となって、世界じゅうの海水を集めても決して洗い流すことのできないしみを、この頭上の死の町に残しているような光景だった。
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25[#「25」は縦中横]
夕暮れの名残が空からスーッと消えてしまうと、かれらは用心深く尾根を下って灰におおわれた砂地を抜け、頭上にぽっかりと立ちはだかっている岩の塔に向かった。やがて麓に積み重なる岩屑のところまで来ると、かれらは馬を下りた。ダーニクと馬を後に残し、かれらは満天の空をおおい隠す玄武岩の高峰の岩肌を目指して、険しく傾斜した荒石をよじのぼった。先ほどまでブルブルと体を震わせ、目隠しをしたレルグが、今では熱心なほど生き生きと動いていた。かれは途中で立ち止まると、冷たい岩の表面に手と額をそっと当てた。
「どうだ?」しばらく待ってから、ベルガラスが訊ねた。声は静かだったが、そこにはただならぬ懸念がうかがえた。「わしの言うことは正しかったか? 洞穴はあるのか?」
「空洞はいくつかあります」レルグは答えた。「ずっと中の方ですけど」
「入れそうか?」
「入っても無駄です。どこにも行きようがありません。出口のないただの穴ですよ」
「どうするんです?」シルクが聞いた。
「わからん」ベルガラスはがっくりと肩を落として言った。
「もう少しこのへんを当たってみましょう」そう言い出したのはレルグだった。「こだまが聞こえるような気がする。ひょっとすると、あっちに何かあるかもしれない」
「今のうちにはっきりさせておきたいんですけど」シルクが足を踏ん張って宣言した。「わたしはもう岩の中を通るのはごめんですからね。もしそういう場面があっても、わたしは残ります」
「そのうちに何かいい方法が見つかるさ」バラクはかれに言った。
シルクは頑なに頭を振った。「岩を通るのだけは絶対に嫌だ」
そんな会話をよそに、レルグはすでに玄武岩の岩肌に軽く指をふれながら、移動し始めていた。「だんだん強くなってくる」かれは皆に言った。「これは大きいぞ。上の方につづいている」かれはそのまま百ヤードほど移動しつづけた。かれらはその様子をじっと見守りつつ、後を追った。「この中だ」岩肌を片手でパンパンと叩きながら、ついにかれは宣言した。「われわれの探している洞穴かもしれない。ちょっと待ってて下さい」かれは玄武岩に両手をつき、ゆっくりと押し込んだ。
「見ちゃいられない」シルクはいそいで背中を向けた。「すっかり入ってしまったら教えてくれ」
レルグは一瞬の怯みも見せずに、岩の中に体を押し込んでいった。
「もう消えたか?」シルクが途中で訊ねた。
「いや、今入っている最中だ」バラクは冷静に報告した。「まだ半分はこっちに飛び出してるよ」
「お願いだ、バラク、それだけは言わないでくれ」
「そんなにひどかったのか?」
「おまえにはわからないよ。絶対にわかるもんか」ネズミ顔の小男は、抑えきれずにわなわなと体を震わせた。
かれらは凍てつく寒さの中で三十分以上も待ちつづけた。どこか上の方で、絶叫が聞こえた。
「あの叫び声は何です?」マンドラレンが訊ねた。
「グロリムは今頃は大忙しだ」ベルガラスは顔をこわばらせた。「今はトラクが〈珠〉に手と顔を焼かれた、いわば受難の季節だからな。この時期、夥しい数の生贄が集められる――たいていは奴隷だが。トラクはアンガラク人の血に固執してないらしい。人間でさえあれば、文句はないんだろう」
絶壁沿いのどこかから、かすかな足音のようなものが聞こえた。と、間もなくレルグが戻ってきた。「見つけました。半マイルほど行ったところに入り口があります。部分的に塞がってますが」
「ずっと上まで通じているのか?」ベルガラスが訊ねた。
レルグは肩をすくめ、「上には伸びてます。どのぐらいまで伸びているかはわかりませんが。確かめる方法はただひとつ、辿ってみることです。でも、洞穴はおそろしいほど長くつづいてますよ」
「他に方法があって、おとうさん?」ポルおばさんが言った。
「ああ。ないだろうな」
「ダーニクを連れてきます」シルクはすぐさまきびすを返して、闇の中に姿を消した。
残りのメンバーはレルグの後についていった。と、ゴロゴロと転がった石の山からちょっと上がった岩肌に小さな穴が現われた。「馬を中に入れるつもりなら、まずこの荒石をどかさないと」かれは皆に言った。
バラクは腰を曲げて大きな石の塊を持ち上げた。が、あまりの重さに二、三歩よろよろと動いた後、ガチャッと音をたてて傍らに石を落とした。
「静かに!」ベルガラスの叱責が飛んだ。
「すみません」バラクはもぐもぐと謝まった。
全体的にはそれほど大きい石はなかったが、数は相当なものだった。シルクとダーニクが合流すると、かれらは屈み込んで洞穴の入り口から荒石を取り除きはじめた。馬が通れるぐらいの穴が開くまで、かれらは一時間近く石をどかしつづけた。
「こんな時にヘターがいてくれたらなあ」バラクは、強情な荷馬の臀部を肩で押しながら、ブーブー不平を鳴らした。
「言い聞かせるんだよ、バラク」シルクが言った。
「やってるよ」
「悪態をまぜないでやってみろよ」
「この先、よじのぼらなければならない場所がいくつかありそうだ」やっとのことで最後の馬を押し込み、洞穴の暗闇の中に立ったところで、レルグが言った。「おれの勘では、通路は垂直に走っている。つまり、平面から平面へよじ登っていかなければならないということだ」
マンドラレンが壁によりかかると、よろいがカチャカチャと音をたてた。
「よろいの出番はないだろう」ベルガラスはかれに言った。「どうせそれを着たまま壁を登ることはできないのだし。馬と一緒にここへ置いていくんだな、マンドラレン」
騎士は溜息をつくと、よろいを脱ぎはじめた。
レルグが二つの革袋に入れて鎖かたびらの中に忍ばせてきた粉末を木のボウルの中で混ぜ合わせると、小さな炎が浮かび上がった。
「少しは明るくなったな」バラクは満足そうに言った。「でも、松明のほうが明るいんじゃないか?」
「ああ、かなり明るいだろう」と、レルグ。「だが、そうしたらおれの目が見えなくなる。道を照らすなら、これで十分だろう」
レルグは仄かに輝くボウルをバラクに手渡すと、くるりときびすを返し、先頭に立って暗い通路を進みはじめた。
数百ヤードほど進むと、荒石が険しく傾斜して暗闇の中に消えている場所に出た。「見てこよう」レルグはそう言うと、坂をよじのぼって皆の前から姿を消した。しばらくすると、パチンという奇妙な音がして、上の方から細い岩のかけらが落ちてきた。つづいて、「上がってこい」というレルグの声が聞こえた。
足元に注意しながら荒石をのぼっていくと、やがて険しい壁にぶつかった。「右を見ろ」レルグの声はもっと上の方から聞こえてくるようだった。「いくつか穴が開いてるだろう。それを使って登ってきてくれ」
かれらの見つけた穴は、ほとんど真ん丸で六インチぐらいの深さのものだった。「どうやってこんなことを?」ダーニクは穴のひとつをじっと観察しながら言った。
「説明すると長くなる」と、レルグは答えた。「ここに岩棚がある。また新しい通路が始まっているようだ」
かれらはひとりずつ岩をよじ登り、岩棚にいるレルグに合流した。かれの言うとおり、岩棚は険しく上昇する新たな通路に通じていた。かれらは壁に開いた別の通路の入り口を横目に見ながら、峰の中央に向かってその通路を進んだ。
「こういう脇道がどこに通じてるか見なくていいのか?」三つ目か四つ目の脇道を通り過ぎたあとで、ついにバラクが言った。
「行き止まりだ」レルグはかれらに言った。
「どうしてそんなことがわかるんだよ?」
「どこかに通じている通路は、気配が違う。今通り過ぎた通路は百フィートほど行くと、ただの壁にぶつかるよ」
バラクは怪訝そうな顔でフーッと呻いた。
切り立った第二の岩壁に出くわすと、レルグは立ち止まって頭上の闇をじっと覗き込んだ。
「かなり高そうですか?」と、ダーニクが訊ねた。
「三十フィートかそこらだ。足がかりにまたいくつか穴を開けよう」レルグはその場にひざまずいて、岩肌に片手をゆっくりと押し入れた。そして肩の筋肉をこわばらせてわずかに腕をひねった。と、岩は小さな破裂音をたててはじけた。レルグが手を抜くと同時に、岩の粉がパラパラと落ちてきた。かれは穴の中から残りの岩屑を払い落とすと、立ち上がって今度は最初の穴の二フィートぐらい上のところにもう片方の手を押し込んだ。
「お見事」シルクはそう言ってかれをほめた。
「こんなものは使い古しの術だ」と、レルグは言った。
かれらはレルグにならって岩壁をよじ登り、てっぺんの裂け目に体をねじ込んだ。バラクは体の大部分を後ろに残したままバタバタとあがき、例によって悪態を並べた。
「どのぐらい来たんだろうな?」シルクの声にはある種の不安感が漂っており、まわりから迫ってくるような岩を眺める目もそわそわしていた。
「峰の麓からだいたい八百フィート登ったところだ」と、レルグ。「さあ、今度はあっちだ」かれはまたしても傾斜のついた通路を指差した。
「そっちに行ったら今来た方に戻るんじゃないですか?」ダーニクが訊ねた。
「洞穴はジグザグに進んでいるんだ」レルグはかれに言った。「とにかく上に向かっている通路を進むしかない」
「通路はてっぺんまで通じてるんですかね?」
「そのうちに大きな広がりがあるはずだ。今はそれしか言えない」
「なんだ、あれは?」シルクが急に叫んだ。
耳を澄ますと、暗い通路のどこかから歌声が漂ってくるのがわかった。何かしら深い悲しみを感じさせるメロディーだが、反響しているため歌詞は聞き取れない。かれらにわかったのは、それが女の歌声らしいということだけだった。
やがてベルガラスがアッと叫んだ。
「どうかしたの?」ポルおばさんがかれに言った。
「マラグ人だ!」老人が言った。
「まさか」
「この歌には聞き覚えがあるのだ、ポル。これはマラグの弔いの歌だ。だが、歌声の主が誰であれ、死期が近づいていることは間違いない」
歌声は曲がりくねった通路にこだましているため、声の主の居所を突き止めるのは難しかった。だが、先に行くにしたがって、音はだんだんと近づいてきた。
「この下だ」頭を傾けながらある穴の前に立ち止まったシルクが、ついに言った。
歌声はとたんに止んだ。「近寄らないで」女の声が険しく響いたが、姿は見えない。「あたしはナイフを持ってるのよ」
「われわれは仲間だ」ダーニクは彼女に呼びかけた。
彼女はその言葉を冷たく笑い飛ばすと、「あたしには仲間なんていない。連れ戻そうったって無理よ。このナイフはあたしの心臓に届くぐらい長いんだから」
「われわれをマーゴ人だと思っているらしい」シルクは声をひそめて言った。
すると、ベルガラスは大きな声で、ガリオンが聞いたこともないような言葉を話しはじめた。しばらくすると、女は何年も使っていなかった言葉を思いだそうとするかのように、たどたどしい口調で答えはじめた。
「罠だと思ってるらしい」老人は皆にそっと伝えた。「胸にナイフを突きつけていると言っている。慎重にいかないと」かれがもう一度暗い通路に向かって話しかけると、女の返事が聞こえた。二人の交わしている言葉は流麗で、まるで歌を聞いているようだった。
「ひとりだけなら来てもいいと言っている。まだわれわれを疑っているようだ」
「わたしが行くわ」ポルおばさんはかれに言った。
「気をつけろ、ポル。最後の瞬間に決心を翻して、自分ではなくおまえの胸にナイフを刺すかもしれんからな」
「大丈夫よ、おとうさん」ポルおばさんはバラクから明かりを受け取ると、穏やかに言葉をかけながらゆっくりと通路を下りていった。
残った仲間は暗闇の中に立って、通路から漏れてくる囁き声にじっと耳を澄ました。ポルおばさんがマラグ人の女にそっと話しかけている。やがて、「もう来てもいいわよ」という彼女の声が聞こえると、かれらは声のする方に向かって通路を下っていった。
女は小さな水溜りの脇に横たわっていた。彼女が身につけているのは小さなボロ布だけで、体はおそろしく汚なかった。髪は黒く輝いているがぐしゃぐしゃにもつれ、顔には諦め切ったような表情が浮かんでいる。大きな頬骨にふっくらとした唇、そして真っ黒な睫に縁どられたスミレ色の瞳。悲しいぐらい小さな数枚の布は、透き通るような彼女の体をほとんど露出させていた。レルグはハッと息をのんで、急いで後ろを向いた。
「彼女の名前はタイバよ」ポルおばさんは静かな声で言った。「何日か前、ラク・クトルの地下にある奴隷の檻から逃げ出したんですって」
ベルガラスは衰弱した女の脇にひざまずいた。「おまえはマラグ人だな?」かれは熱心に話しかけた。
「おかあさんがそう言ってたわ。古い言葉を教えてくれたのもおかあさんよ」彼女の青白い頬の片側に、もつれた黒髪がはらりと落ちた。
「その奴隷の檻には、他にもマラグ人がいるのか?」
「少しいるんじゃないかしら。よくはわからないけど。だって、奴隷のほとんどは舌を切られてるのよ」
「何か食べさせないと」ポルおばさんが言った。「誰か、食べ物を持ってきてる人はいない?」
ダーニクはベルトから袋をはずし、彼女に手渡した。「チーズが少し入ってます。それと、干し肉がひとかけ」
ポルおばさんは袋を開いた。
「おまえたちマラグ人がどうしてここに来たのか、その理由を知らんか?」ベルガラスは奴隷の女に訊ねた。「よく考えてみてくれ。重要な事実が隠されてるかもしれん」
タイバは肩をすくめ、「あたしたちは、ずっと昔からここにいるから」と答えた。そしてポルおばさんの差し出した食べ物を受け取ると、がつがつと食べ始めた。
「そんなにあわてないで」ポルおばさんは注意した。
「マラグ人がマーゴの奴隷牢に連れてこられた経緯《いきさつ》について、何か聞いたことはないか?」ベルガラスはしつこく訊ねた。
「いつか母から、何千年も昔マラグ人は広い空の元で暮らしていて、その頃は奴隷ではなかったって聞いたけど。でも、あたしには信じられなかった。だって、まるでお伽噺みたいな話じゃない」
「マラゴーにおけるトルネドラ人の軍事行動については、古い話がいろいろあるんですよ」シルクが横から口を挟んだ。「ここ数年流れている噂によると、捕虜を殺さないでニーサの奴隷商人に売り渡した司令官がかなりいたとか。トルネドラ人のやりそうなことですよ」
「ありうるな」ベルガラスは顔をしかめて言った。
「まだここにいなくちゃいけないんですか?」レルグが耳障りな声で訊ねた。かれはまだ背中を向けていたが、そのこわばり具合がかれの憤激を言葉より雄弁に物語っていた。
「そのひとはなんであたしに腹を立ててるの?」タイバの唇からほとんど囁きに近いような弱弱しい声が漏れた。
「肌を隠せ、女」レルグは彼女に言った。「おまえの姿は見るにたえない」
「なんだ、そんなこと?」彼女は喉の奥から出てくるような豊かな声で笑った。「仕方ないじゃないの、これしか服がないんだから」彼女は自分の官能的な姿態を見下ろした。「それに、あたしの体に悪いところはないわよ。ゆがんでもいないし、醜くもないでしょ。どうして隠す必要があるの?」
「淫らな女め!」レルグは彼女を非難した。
「そんなに嫌なら見なければいいでしょ」
「こいつは宗教的な問題を抱えてるのさ」シルクは皮肉っぽい口調で彼女に言った。
「よしてよ、宗教なんて」彼女は肩をすくめた。
「ほら見ろ」レルグはフンと鼻を鳴らした。「この女は堕落しきってるんだ」
「それはどうかな」ベルガラスはかれに言った。「ラク・クトルで宗教と言えば、それは祭壇とナイフを意味するのだ」
「ガリオン」ポルおばさんは思い出したように言った。「あんたのマントを貸して」
かれはずっしりとしたウールのマントの紐をほどき、彼女に渡した。彼女は衰弱した奴隷の女にそれを掛けはじめたが、突然手を止めると、女の顔をじっと覗き込んで、「子供はどこ?」と訊ねた。
「マーゴが連れていったわ」タイバは重苦しい声で答えた。「二人とも女の赤ちゃんだった――すごく綺麗な――でも、もういない」
「ぼくたちがきっと連れ戻してあげるよ」ガリオンはとっさにそう宣言した。
彼女は苦々しい笑い声を漏らすと、「無理よ。マーゴがグロリムに引き渡して、トラクの祭壇の上で生贄にされてしまったんだから。クトゥーチクのナイフでね」
ガリオンは血が凍るような戦慄を覚えた。
「このマントはあったかいわ」タイバはざらざらした布を両手で撫でながら、嬉しそうに言った。「長いあいだ寒くてしようがなかったのよ」少しは心が満たされたのか、彼女は溜息を漏らした。
ベルガラスとポルおばさんはタイバの体を挟んで顔を見合わせた。「やはりわしの行動は間違っていなかった」やがて老人が謎めいたことを言った。「長いこと探しつづけた末に、こんなふうにして彼女に出くわすとは!」
「彼女に間違いないの、おとうさん?」
「たぶん間違いない。何もかもがぴったりと当てはまる――最後のひとこままで」かれは大きく息を吸い込み、フーッと一息に吐き出した。「一千年の間、どんなにこのことを気にかけてきたことか」かれは今までとうってかわって、すっかり満悦した様子で、「どうやって奴隷の檻から逃げてきたのだ、タイバ?」と、やさしく訊ねた。
「マーゴ人のひとりがドアに鍵をかけるのを忘れたのよ」彼女は眠そうな声で答えた。「そっと抜け出したあとでこのナイフを見つけたの。本当はクトゥーチクを見つけて殺してやるつもりだったんだけど、途中で道に迷ってしまって。だって地下にはあまりにたくさんの洞穴があるんだもの――数えきれないぐらいたくさんの洞穴が。死ぬ前にクトゥーチクを殺してやりたかったんだけど、でも、もうその望みはないみたいね」彼女は無念そうに溜息をついた。「なんだが眠りたい気分。すごく疲れたわ」
「ここで待ってられる?」ポルおばさんは彼女に訊ねた。「わたしたちはもう行かなくちゃならないけど、また戻ってくるわ。何か必要なものは?」
「できたら小さな明かりを」タイバはまた溜息をついた。「生まれてからずっと暗いところで暮らしてきたのよ。死ぬ時ぐらいは明るいところで死にたいわ」
「レルグ」ポルおばさんはかれを呼んだ。「明かりを点けてあげて」
「われわれには火が必要だ」レルグの声には、いまだ冷めぬ怒りが感じられた。
「彼女にはもっと必要なのよ」
「点けてやれ、レルグ」ベルガラスは有無を言わせぬ口調で言った。
レルグは一瞬顔をこわばらせたが、平らな石の上で二つの袋の中身を少しずつ混ぜ合わせ、水を何滴かたらした。間もなく糊状の物質が輝きはじめた。
「ありがとう」タイバは飾らない言葉で礼を言った。
レルグはそれには答えず、彼女の顔を見ることすらしなかった。
かれらは小さな明かりと一緒に彼女を水溜まりの脇に残し、ふたたび通路に戻った。間もなく彼女の歌声がまた通路に響きはじめた。だが、今度は眠りに落ちる寸前のやわらかな歌声だった。
レルグは皆の先頭に立って暗い通路を歩きつづけた。通路は、くねくねと曲がりくねり、頻繁に道筋が変わったが、ほとんどが急な登り坂だった。この永遠の闇の中では時間という概念は何の意味も持たなかったが、それでも時はだらだらと流れているように思われた。かれらは切り立った岩肌を登り、巨大な岩の柱の中央に向かってどんどん上昇している通路を進んだ。ガリオンは岩を何度も登るうちにすっかり方角がわからなくなり、ついには、レルグは本当に自分がどこに進んでいるかわかってるんだろうかと心配する始末だった。やがて同じような通路の同じような角を曲がると、かれらはかすかなそよ風が顔にふれるのを感じた。その風はおそろしく嫌な臭いを運んできた。
「この臭いは何だ?」シルクは尖った鼻に皺を寄せた。
「たぶん奴隷の檻だろう」と、ベルガラス。「マーゴという人種は公衆衛生に対する関心がまるでないのだ」
「その檻っていうのはラク・クトルの地下にあるんでしょう?」バラクは訊ねた。
ベルガラスはうなずいた。
「じゃあ、そこを行けば町に出られるわけですか?」
「わしの記憶では、そうだ」
「やったぜ、レルグ」バラクはウルゴ人の肩をポンと叩いた。
「さわらないでくれ」レルグはにべもなく言った。
「悪かったよ、レルグ」
「奴隷の檻には監視がついてるはずだ」ベルガラスはかれらに言った。「ここから先は物音を立てないように注意してくれ」
かれらは足場に注意しながら通路をそっと進んだ。いつ頃から通路に人工建築の気配が見え始めたのか、ガリオンにははっきりと見分けがつかなかった。が、ついにかれらは半開きになったドアを通り過ぎた。「中に誰かいるの?」かれはシルクに囁いた。
小男は短剣を低く構えてドアににじり寄った。それから投げ矢のような素早さでさっと中を覗き込んだ。「骨が何本かあるだけだ」かれは陰気な声で報告した。
ベルガラスが止まれの合図を出した。「下の階の通路はもう棄てられてるらしい」かれは声を低くして話した。「このへんの道が使われなくなったということは、マーゴ人が何千という奴隷を集める必要がなくなったということだろうな。これから上に向かうが、物音を立てないように注意して、よく目を開いておくんだぞ」
かれらは少しずつ登り坂になっている通路を忍び足で歩いた。途中、錆びた鉄のドアの脇を何度も通り過ぎたが、ドアは決まって半開きになっていた。坂のてっぺんまで来ると、通路は今来た方に急角度に曲がって、その先にまた登り坂がつづいていた。壁にぞんざいな文字がいくつか並んでいるのが見えたが、ガリオンには何と書いてあるのかさっぱりわからなかった。
「おじいさん」かれはその文字を指差して囁いた。
ベルガラスは文字を見て、フーッと呻き声を漏らした。「九階か。町はまだずっと上の方だ」
「あとどのぐらい行けば、マーゴ人に出くわすんだろう?」バラクは剣の柄に手をかけてあたりをキョロキョロと見回した。
ベルガラスは軽く肩をすくめて見せると、「わからん。やつらがいるのは、おそらく上の二、三階だけだろう」
そのまま通路を突き進むと、やがて急な曲がり角が現われ、その壁面にまたしても見慣れない書体の文字が書かれていた。「八階」ベルガラスはその文字を読んだ。「さあ、先を急ごう」
そうやって階数を順に追いながら上昇していくうちに、檻の臭いがしだいに強くなってきた。
「前方に光が見えますよ」角を曲がって四階に入る寸前に、ダーニクが警告した。
「よし、ここで待っててくれ」シルクは一呼吸すると、短剣を脚の脇にぴったりと当てたまま曲がり角の向こうに姿を消した。
薄暗いその明かりは、よく見ると上下にかすかに揺れており、ゆっくりと時が流れていくうちに、徐々に明るさを増してくるようだった。「誰かが松明を持ってるんだ」と、バラクが囁いた。
不意にその松明が螺旋状の影を落としながらチカチカと揺らめいた。が、すぐに明かりは静止して、上下の揺れもなくなった。間もなく短剣を丹念に拭いながらシルクが戻ってきた。
「マーゴがひとり」かれは皆に報告した。「何か探し物をしてたらしい。上の牢屋はまだ空っぽだ」
「おまえ、そのマーゴをどうしたんだ?」と、バラク。
「牢屋の中に引きずり入れたよ。誰かが探しでもしなけりゃ、見つかりっこないさ」
レルグは念入りに目隠しをしている。
「こんな小さな明かりなのに?」ダーニクはかれに言った。
「この色だ」レルグは説明した。
かれらは角を曲がって四階に入り、また坂を上りはじめた。通路を百ヤードほど行くと、壁の裂け目に一本の松明が差し込んであり、炎が静かに燃えていた。そこに近づくと、ごみの散らかったでこぼこの床に、長い鮮血のしみがついているのが見えた。
ベルガラスは牢屋のドアの脇に立ち止まり、あごひげを掻いた。「そいつはどんな服を着ていた?」かれはシルクに訊ねた。
「頭巾のついた例のローブですけど。それが何か?」
「取ってこい」
シルクは一瞬かれの顔を見たが、すぐにうなずいた。かれは牢屋の中に戻ると、間もなく黒いマーゴのローブを持ってきた。かれは老人にそれを手渡した。
ベルガラスはローブを持ち上げ、背中に走る長い裂け目を批判的に眺めると、「これからはこんな大きな穴を開けないよう注意してくれ」
シルクはニヤッと笑って、「すみませんでした。つい興奮してしまって。これからはもっと注意を払うようにしますよ」それからバラクにチラッと視線を送り、「おまえも一緒に来るか?」
「もちろんさ。おまえも来るか、マンドラレン?」
騎士は厳めしくうなずき、鞘の剣をゆるめた。
「じゃあ、われわれはここで待ってるぞ」ベルガラスはかれらに言った。「慎重にやるのはもちろんだが、あまり長くかからないようにしろよ」
三人は三階に向かってこっそりと通路を進んでいった。
「何時ぐらいかわかる、おとうさん?」三人の姿が見えなくなると、ポルおばさんは低い声で訊ねた。
「おそらく夜中の二時か三時ぐらいだろう」
「夜明け前にここを離れられるかしら?」
「急げばな」
「たぶん昼の間ここで待って、暗くなってからもう一度上に出ることになると思うわ」
かれは顔をしかめた。「それはどうかな、ポル。クトゥーチクも何か企んでいるはずだ。わしが来ることはあいつも知っている――わしは先週ずっとそれを感じていた――だが、あいつはまだ何の動きも見せていない。出来るだけ無駄な時間を与えないようにしたほうがいい」
「かれはおとうさんに挑んでくるわよ」
「いずれにしても、とっくに実現されてしかるべき戦いだ」と、かれは答えた。「クトゥーチクとわしはもう何千年もの昔から互いを牽制し合っている。それというのも、決定的な瞬間が訪れないからだ。だが、とうとうその時が来た」かれはきびしい表情で闇の彼方を見やると、「もし戦いが始まっても、おまえは手を出さないでくれ」と言った。
彼女は厳然たる顔つきの老人をしばらく眺めたあと、こっくりとうなずいた。「言うとおりにするわ、おとうさん」
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26[#「26」は縦中横]
マーゴのローブはざらざらとした黒い布でできており、ガリオンのちょうど胸のあたりに奇妙な赤い紋章が織り込まれていた。煙の臭いと、何かもっと不快な臭いが染み込んでいた。左の脇のすぐ下にぎざぎざした小さな穴があり、そのまわりの布は湿ってべとべとになっていた。そこに皮膚がふれたとたん、ガリオンは思わず体をすくめた。
かれらは深い僧帽の形をしたマーゴの頭巾で顔を隠しつつ、奴隷の檻のある残り三階分の通路を足早に上がった。通路は煤けた松明に照らされていたが、監視は見当たらず、錆びついたドアの向こうにいる奴隷たちはかれらが通り過ぎても物音ひとつ立てなかった。ガリオンは、それらのドアの向こうに限りない恐怖心がひそんでいるのを感じた。
「町へはどうやって出るんです?」ダーニクは囁き声で訊ねた。
「てっぺんの通路のはずれに階段があるんだよ」シルクも声を落として答えた。
「監視は?」
「もういない」
階段を上りつめると、鉄の閂に鎖と錠のついた門が行く手をどっしりと阻んでいた。だが、シルクは腰を屈めて片方のブーツから細い金属の道具を取り出すと、それで錠の中をちょこちょこと探り始めた。しばらくすると手の中で錠がカチッと音をたて、かれは満足そうにフーッと呻いた。「見てきます」かれはそう囁くと、門をすりぬけていった。
門の向こうには星が輝いており、ちょうど真向かいにラク・クトルの建物が不気味にそびえているのが見えた。と、そのとき、苦悩に満ちた絶望の叫びが町の中に響き渡った。それにつづいて、想像もつかないような大きな鉄のどらがゴーンと響くのが聞こえた。ガリオンは思わず背筋が寒くなるのを覚えた。
やがてシルクが門をするりと抜けて戻ってきた。「あたりには誰もいないようですよ」かれはそっと囁いた。「どっちに行きます?」
ベルガラスは指差しながら、「あっちだ。壁に沿って寺院に向かう」
「寺院?」レルグは驚いて聞き返した。
「クトゥーチクのところへ行くにはどうしてもそこを抜けなければならんのだ。さあ、急ごう。夜明けはすぐそこまで来ている」
ラク・クトルは他のどの町とも違っていた。余所の町で見受けられる建物の個性というものが、ここの巨大な建築物にはまったくなかった。その様子は、ここに住むマーゴ人やグロリム人に個人の所有物という観念がないため、建物にも西部の町々で見られる個人の家のような孤立感が欠落しているのだ、ということをあんに物語っているようだった。そこにはまた、普通の意味での道というものがまったく存在しなかった。あるのは、互いに連結した中庭のようなものと、その間や建物の間を通る廊下のようなものだけだった。
中庭や暗い廊下を忍び足で歩いていくうちに、町が荒廃していることがわかってきた。だが、かれらを取り囲んでいる不気味に静まりかえった黒い防壁だけは、依然として警戒の目を光らせてこちらを威嚇しているように見えた。そういった壁の思いがけない場所から奇怪な形の小塔が突き出しており、それが中庭の方まで乗り出して、通り過ぎるかれらの頭上に重くのしかかってくるように見えた。狭い覗き窓は咎めるようにかれらを見つめ、アーチ型のドアには暗い影がひそんでいた。このラク・クトルには、古代から受け継がれた不吉な雰囲気が重くたちこめており、暗い砦の迷路に深く入り込むにつれて、岩までがほくそ笑んでいるように見えてきた。
「自分がどこに向かっているかわかってるんでしょうね?」バラクはベルガラスに向かって不安そうに囁いた。
「前にも来たことがあるのだ。同じように中庭を通って」老人は静かに答えた。「クトゥーチクの動向は常につかんでおきたいからな。さあ、次はあの階段を上がるぞ。あれを上がれば、町のてっぺんに着く」
その階段は狭く急で、両側をがっしりとした壁に挟まれ、頭上には丸天井が載っていた。長年の使用で石段はすっかり擦り減っていた。かれらは階段を静かに上った。すると、町の中にまた叫び声が反響し、つづいて巨大などらが鉄の音を鳴り響かせた。
階段の上に出ると、そこは外壁のてっぺんだった。壁は街道ほども広さがあり、町全体をぐるりと取り囲んでいた。外側の端には手すり壁がめぐらしてあり、そこが、一マイル以上も下方に横たわるごつごつした岩の荒野まで一直線に下る恐ろしい崖の縁となっていた。ひとたび建物の陰を離れると、冷たい風が吹きつけ、手すり壁の黒い板石や粗削りなブロックに降りた霜が冷たい星の光を受けてキラキラと光るのが見えた。
ベルガラスは前方の壁の上に横たわる大きな広がりと、数百ヤードほど先にぼんやりとそびえる黒っぽい建物を眺めた。「広がったほうがいい」かれは小声で言った。「ひと所にたくさんの人間が集まると、このラク・クトルでは人目につく。一度にふたりずつここを横切ることにしよう。いいか、歩いていくんだぞ――走ったり変に屈み込んだりするな。ここの人間のような振りをするのだ。さあ、行こう」かれはバラクと並んで壁のてっぺんを歩き始めた。何か目的があって歩いているのだが急いではいない、そんな歩き方だった。しばらくすると、今度はポルおばさんとマンドラレンがかれらの後を追った。
「ダーニク」シルクが囁いた。「次はガリオンとわたしが行く。あんたとレルグは一、二分してから出発してくれ」それから、マーゴの頭巾の陰に隠れたレルグの顔を覗き込むと、「大丈夫か?」と聞いた。
「ああ、空を見なければ」レルグは緊張気味に答えた。まるで食いしばった歯の隙間から出てくるような声だった。
「じゃあ行くぞ、ガリオン」シルクは呟いた。
霜の降りた石の上を当たり前の速さで歩くのは、まさに自己との闘いだった。ドラスニアの小男と一緒に壁の上の広がりを歩いている最中も、ガリオンは暗い建物や塔のいたるところから見張られているような気がしてならなかった。しんと静まりかえった大気は骨身に染みるような冷たさで、手すり壁のブロック石の表面はまるで透かし細工のような霜におおわれていた。
どこか前方に横たわっているらしい寺院から、またしても悲鳴が響いた。
広やかな外壁のはずれから大きな塔の端が突き出しており、それが下の歩道に黒い影を投げかけていた。「ちょっとここで待っててくれ」うまい具合に陰の中に入り込んだとたん、シルクはそう囁き、突き出した端を曲がってどこかに消えてしまった。
ガリオンは冷たい暗がりにぽつんと立って、じっと耳を澄ましていた。一度だけチラッと手すり壁を見やった。はるか下の荒野で小さな炎が燃えているのが見えた。炎は暗闇の中で、まるで赤い星のようにチカチカと光っていた。ここからあそこまでどのぐらいあるんだろう、ガリオンはそんなことを想像してみた。
そのとき、どこか上の方で何かをこするような音がした。かれは剣に手をかけ、急いで振り向いた。数ヤード上にある塔の側面の出っ張りから黒っぽい人影が飛び下りたかと思うと、猫かと思うような静かな身のこなしで目の前の敷石の上に着地した。もうすっかりお馴染みとなった、むせかえるような酸っぱい汗の臭いがガリオンの鼻をついた。
「久しぶりだな、ガリオン」ブリルは下品な笑い声を漏らしながら、低い声で言った。
「ぼくに近寄るな」ガリオンはバラクに教わったように剣の先を低く構えて警告した。
「おまえひとりのところを捕まえられる日がいつか来ると思ってたんだ」ブリルは剣には目もくれずに言った。大きく広げた両手、わずかに屈めた腰、やぶにらみの目は星明かりを受けてぎらぎらと光っている。
ガリオンは威嚇するように剣を振り回しながら、じりじりと後ずさった。ブリルが片側に飛びのくと、ガリオンは本能的に剣の先でかれを追った。だが、ブリルは目にもとまらぬ速さで身をかわし、素手でガリオンの前腕を激しく打ちつけた。ガリオンの剣はあっという前に敷石の上をすべっていった。窮地に追い込まれたガリオンは、短剣に手を伸ばした。
そのとき、塔の端の暗闇にもうひとつの人影がチラッと動いた。ブリルは脇腹を激しく蹴りつけられ、ウーッと呻き声を漏らした。いったんは倒れたものの、素早く石の上を転がると、すぐに立ち上がって両足を大きく開き、目の前の宙で両手をゆっくりと動かした。
シルクはマーゴのローブを後ろに落とし、どこかに蹴りやると、腰を低く構えて、ブリルと同じように両手を大きく広げた。
ブリルはニヤリと笑った。「おまえが近くにいることを忘れてたとは、おれも迂闊だったぜ、ケルダー王子」
「おれもおまえがここにいることぐらい気づくべきだったよ、コルドッチ。おまえって男は本当に神出鬼没だな」
ブリルはシルクの顔めがけて素早く手を動かしたが、小男は軽々とそれをかわした。「いったいどうやっておれたちを出し抜きつづけてきたんだ?」まるで会話を楽しんでいるかのように、かれは訊ねた。「ベルガラスを苛立たせるのは、おまえの専売特許らしいな」かれはそう言いながら、ブリルの股間に素早く足を振り上げた。が、やぶにらみの男はひらりとそれをかわした。
ブリルはフッフッと短く笑い、「おまえたちは馬を休ませるってことを知らないらしいな」と言った。「おかげで、追跡の途中で何頭か馬を駄目にしたぜ。それはそうと、どうやってあの穴蔵を抜け出した? 翌朝のタウル・ウルガスはそりゃひどい怒りようだったぞ」
「気の毒に」
「監視は皮膚を剥がされちまったよ」
「皮膚のないマーゴなんて、さぞかし見物だったろうな」
不意に、ブリルが両手を伸ばして突進してきた。だがシルクは脇に一歩寄ってそれをかわし、ブリルの背中のど真ん中を激しく打ちつけた。ブリルはふたたび呻き声をあげ、外壁の敷石の上をくるくる転がって、安全なところへ逃げのびた。「噂に違わぬスゴ腕の持ち主らしいな」かれはしぶしぶ認めた。
「試してみろよ、コルドッチ」シルクは邪悪な笑みを浮かべて、ブリルを煽った。目まぐるしく手を動かしながら、ブリルが塔の壁際から出てきた。ガリオンは二人が円を描きながら牽制するさまを、ハラハラしながら見守った。
ふたたびブリルが一足飛びに飛びかかってきたが、シルクはその下にするりと滑り込んだ。二人は同時にくるっと回転して立ち上がった。立ち上がるが早いか、シルクはブリルの頭のてっぺんを左手で打ちつけた。ブリルはその一撃によろめいたものの、転がって逃げるさいにシルクの膝をうまく蹴りつけた。「おまえの技は守り専門だな、ケルダー」ブリルは頭を振って今の衝撃をさましながら、耳障りな声で言った。「それが弱点だ」
「スタイルの問題だよ、コルドッチ」
ブリルは今度はシルクの目に指を突っ込もうとしたが、シルクは巧みにそれを避けると、間髪を入れずに敵の鳩尾《みぞおち》に一撃を加えた。ブリルは倒れながら脚を交差させ、シルクの脚をすくった。二人は霜の降りた石の上を転げ回ると、ふたたびパッと起き上がって目まぐるしく手を振り回した。その動きの素早さときたら、ガリオンは目で追うことすらできなかった。
それはあまりに単純で些細なミスだったので、ガリオンはそれがミスだということすら気づかなかった。ブリルは拳でシルクの顔面を素早く突いた。が、そのジャブは理想より一、二オンス強めで、一インチばかり深追いしすぎたのだ。シルクは両手をサッと振り上げて敵の手首をつかむと、手すり壁の方に上向けて思いっきり捻じりあげた。そして、両脚を巻きつけて、ブリルと共にその場に倒れた。ブリルはバランスを失い、そのまま前に突っ込むかに見えた。が、その瞬間、シルクはぐんと脚を伸ばし、おそろしい馬鹿力でブリルの体を持ち上げると、そのまま前に押し出したのだ。手すり壁を飛び越える瞬間、ブリルは押し殺したような悲鳴をあげて必死にブロック石をつかもうとした。だが、かれの体はあまりに高く、あまりに勢いがつき過ぎていた。かれは手すり壁の向こうに投げ出され、壁の下の闇の中へまっさかさまに落ちていった。胸の悪くなるような悲鳴が尾を引くように小さくなっていくのが聞こえたが、間もなくそれもトラクの寺院から響いてくる別の悲鳴にかき消された。
シルクは立ち上がり、一度だけ縁の向こうを覗き見ると、塔の壁の陰でブルブルと震えているガリオンのところへ戻ってきた。
「シルク!」ガリオンは心底ほっとして小男の腕をつかんだ。
「今のは何だ?」ベルガラスが曲がり角を戻ってきた。
「ブリルですよ」シルクはふたたびマーゴのローブに袖を通しながら、淡々と言った。
「またか?」ベルガラスは激昂した。「それで、今度は何をしてた?」
「最後に見たときは、空を飛ぼうとしてましたよ」シルクは作り笑いを浮かべた。
老人は訳がわからないといった顔をしている。
「あまりうまくいかなかったようですけど」シルクは付けたした。
ベルガラスは肩をすくめると、「あいつもそのうち自覚するだろう」
「それだけの時間があるかどうか」シルクは手すりの向こうを覗き込んだ。
はるか下の方で――想像を絶するほど遠いところで――ドンというくぐもった音が聞こえた。そして数秒後、もう一度同じような音が。「よく弾むっていうのも点数のうちですか?」
ベルガラスは顔をゆがめると、「まさか」
「じゃあ、あいつは最後まで自覚できなかったわけだ」シルクは楽しそうに言った。それからにんまり笑ってあたりを見回すと、誰に言うともなしに、「なんて素敵な夜だろう」と言った。
「さあ、先を急ごう」ベルガラスは東の地平線をチラッと見やりながら、言った。「じきに明るくなってくる」
かれらは壁づたいにさらに数百ヤードほど進んで、寺院の高壁の影で仲間に合流すると、今度はレルグとダーニクが追いつくのをじっと待った。
「どうしてこんなに遅くなったんだよ?」二人を待ちながら、バラクが聞いた。
「われらの古い友人と会ったもんでね」シルクは声をひそめて答えた。かれがニヤッと笑うと、暗がりの中で白い歯が光った。
「ブリルのことだよ」ガリオンはしわがれ声で皆に囁いた。「ブリルとシルクで戦いになったんだけど、シルクが最後にあいつを手すりの向こうに投げ飛ばしちゃったんだ」
マンドラレンは霜におおわれた手すり壁に目をやり、「かなりの距離だったろうな」と呟いた。
「やっぱりそう思うだろ?」と、シルク。
バラクはクスクスと笑って、何も言わずにシルクの肩に手をかけた。
やがてダーニクとレルグが壁のてっぺんを通って、影の中に隠れている仲間のところへやってきた。
「さあ、いよいよ寺院の中を抜けるぞ」ベルガラスは低い声で言った。「頭巾をできるだけ顔の方へ引っ張って、頭を下に向けておけ。常に一列に並び、祈りを唱えているような振りをしてブツブツと独り言を呟くのだ。もし誰かが話しかけてきたら、返答はわしにまかせろ。それから、どらが鳴ったら、毎回トラクの祭壇の方を向いて、頭を下げるのを忘れないように」かれはそれだけ言うと、皆を率いて、風雨に擦り磨かれた鉄の閂のかかった重々しいドアに向かった。かれは一度だけ振り向いて皆が一列に並んでいることを確かめると、閂に手をかけてドアを押し開けた。
寺院の内部は煙まじりの赤い光に包まれ、納骨堂のような異臭が充満していた。かれらの入ったドアは屋根つきのバルコニーに通じており、そのバルコニーは寺院の丸屋根の裏側をぐるりと取り囲んでいた。バルコニーの縁には石の手すりがめぐらされ、一定の間隙をおいて太い柱が立っていた。柱と柱の合間には、マーゴのローブに使っているのと同じ、粗くてずっしりとした生地のカーテンがかかっている。バルコニーの後ろの壁には、岩に埋まるようにしてドアがいくつも並んでいた。さまざまな使命を帯びた寺の僧侶たちが方々へ出向いていく時にこのバルコニーを使うのだろう、とガリオンは思った。
バルコニーに入ったとたん、ベルガラスは胸の前で手を交差し、ゆったりとした歩調で皆の先頭を歩きながら、低音のよく通る声で歌を歌いはじめた。
下の方から恐怖と苦悩に満ちた甲高い悲鳴が聞こえてきた。ガリオンは思わずカーテンの隙間から祭壇の方を覗き込んだ。その瞬間、かれは見なければよかったと思ったが、もう遅かった。
寺院の円形の壁はぴかぴか光る黒い石からできており、祭壇のすぐ後ろには鋼を鍛え、鏡のようにぴかぴかに磨き抜かれた巨大な顔の像があった――それはトラクの顔であり、グロリムの鋼の面の原型だった。その顔は非常に美しかった――そのことに関しては疑問の余地がなかった――だが、それにもかかわらず、そこには根深い邪悪さのようなものが漂っていた。その残酷な雰囲気は、言葉で表わそうとしてもとうてい表わすことができなかった。神の偶像に面する床はマーゴやグロリムの僧侶にぎっしりと埋めつくされていた。かれらは一様にひざまずき、たくさんの方言が入り混じった何やら訳のわからない歌を低い声で歌っていた。祭壇はピカピカ光るトラクの顔に見下ろされるようにして、一段高い台座の上に置かれていた。血塗られた祭壇の正面の両端には鉄の柱が立っており、その上では火鉢が煙をあげている。台座のすぐ前の床に開けられた穴からは、不気味な赤い炎がめらめらと這い出し、はるか上方の円蓋に向かって黒い煙がもくもくと立ちのぼっている。
祭壇のまわりには黒いローブに鋼の面をつけた六人のグロリムが集まって、奴隷の裸体を持ち上げていた。奴隷はすでに息絶えており、胸部は屠殺された豚の胸のようにぱっくりと口を開けている。祭壇の前では、ひとりのグロリムがトラクの偶像に向かって両手を掲げていた。その右手には長い曲線状の剣、そして左手には血の滴る人間の心臓が。「アンガラクの竜神よ、われらの供物をご覧下され!」かれは大声で叫ぶと、振り向いて煙のあがった火鉢のひとつに心臓を置いた。燃えさかる石炭の中に心臓が落ちると、ジューッという音と共に火鉢から蒸気と煙が上がり、ジリジリという恐ろしい音が聞こえた。寺院のどこか下の方で巨大な鉄のどらが鳴り、空気が小刻みに震えた。集まったマーゴ人とグロリムの僧侶たちはいっせいに呻くような声を上げて床に顔を押しつけた。
誰かがガリオンの肩をそっと突いた。見ると、すでに血塗られた祭壇の方を向いてシルクが頭を下げていた。眼下のおぞましい光景に吐き気を覚えながら、ガリオンもまたたどたどしくお辞儀をした。
六人のグロリムは汚ない物でも持ち上げるように事切れた奴隷の体を持ち上げると、台座の前の穴に投げ込んだ。死体が燃えさかる火の中に落ちたとたん、炎が噴き出し、もくもくとした煙の中に火花が上がった。
ガリオンの心の中に、凄まじい怒りが沸き上がった。無意識のうちにかれは意志を呼び集めていた。そして、剥き出しになったその力を一息に解き放って、汚らわしい祭壇とその上に浮かぶ残酷な偶像が木端微塵に砕けてしまうよう念じた。
(ベルガリオン!)心の中の声が急に叫んだ。(手を出すな。まだその時じゃない)
(我慢できないよ)ガリオンは心の中で怒りをぶちまけた。(手をこまねいて見てるなんてぼくにはできない)
(だめだ。今は止めておけ。そんなことをしたら町じゅうが目を覚ましてしまう。意志をゆるめるんだ、ベルガリオン)
(言われたとおりにするのよ、ガリオン)頭の中でポルおばさんの声がやさしく響いた。ガリオンが仕方なしに怒りと意志を吐き出すのを見て、ポルおばさんの心ともうひとつの不思議な心との間に無言の了解が交わされた。
(この憎悪はそう長くはつづかないぞ、ベルガリオン)もうひとつの声はかれに約束した。
(今この瞬間にも、それを排斥するためにこの世の力が結集されているのだ)それだけ言うと、声は消えた。
「こんなところで何をしてる?」突然耳元でしわがれ声が聞こえた。おぞましい光景からサッと視線を戻すと、面とローブをつけたグロリムが道をふさぐような恰好でベルガラスの前に立っていた。
「われわれはトラクの僕《しもべ》です」老人は喉から出るマーゴ語にぴったり合ったアクセントで答えた。
「ラク・クトルにいる者は皆トラクの僕《しもべ》だ」と、グロリムは言った。「おまえたちは生贄の儀式に出ていない。なぜだ?」
「われわれはラク・ハガから来た巡礼の者で、たった今この恐れ多き町に着いたところです。ラク・ハガの高僧からここに着きしだい顔を見せるよう命じられているので、儀式には出席できないのです」
グロリムは疑わしそうに呻き声をあげた。
「竜神トラクの高僧さま、もしよろしければわれわれの高僧の部屋を教えて頂けませんか? なにぶんこの暗い寺院は初めてなもので」
下の方でまた悲鳴が聞こえた。鉄のどらが鳴ると、グロリムは祭壇の方を向いて深々と頭を下げた。ベルガラスは頭をぐいっと引いて皆に合図を送ると、祭壇の方を向き、お辞儀をした。
「最後から二番目のドアだ」グロリムはかれらの敬虔な態度にすっかり満足したと見えて、部屋の場所を教えてくれた。「そこを行けばおまえたちの高僧の部屋に着くだろう」
「高僧さま、なんとお礼を申し上げればいいものやら」ベルガラスはそう言って、頭を下げた。かれらは頭を垂れて両手を胸の前で交差させ、祈りをあげているようにブツブツと呟きながら、一列になってグロリムの脇を通り過ぎた。
「汚らわしい!」レルグが声を噛み殺しながら言っている。「いまわしい! おぞましい!」
「頭を上げるなよ!」シルクが囁いた。「まわりはグロリムだらけなんだからな」
「ウルがせっかく力をお与え下さったんだ、おれはラク・クトルが崩壊するまで絶対にあきらめないぞ」レルグは熱っぽく呟きながら、頭を垂れた。
すでにベルガラスはバルコニーの終わりに近い彫刻の飾りがついたドアのところに着き、そのドアをそっと押し開けていた。「あのグロリムはまだこっちを見ているか?」かれはシルクに訊ねた。
小男はかれらから少し離れた所に立っている高僧をちらっと振り返ると、「ええ。あ、ちょっと待って――行きました。バルコニーにはもう誰もいませんよ」
魔術師は開きかけたドアを閉じ、代わりにバルコニーのはずれのドアに歩み寄った。掛け金を強く引くと、ドアはなんなくひらいた。かれは顔をしかめ、「前は必ず鍵がかかっていたのに」と呟いた。
「罠でしょうか?」バラクはマーゴのローブの下に手を入れて剣の柄を探った。
「かもしれんな。だが、他に方法はない」ベルガラスが最後までドアを引き、かれらがその中に滑り込んだとたん、ふたたび祭壇から悲鳴が聞こえてきた。どらが寺院の岩を震わせると同時に、かれらの後ろでドアがゆっくりと閉まった。かれらはドアの先にある擦り減った石の階段を下り始めた。階段は狭くて薄暗く、おまけにおそろしく急で、ほとんど右方向にカーブしていた。
「これは外壁じゃないですか?」シルクは左側の黒い石をさわりながら聞いた。
ベルガラスはうなずいた。「この階段はクトゥーチクの私室に通じているのだ」そのまま階段を下りていくと、やがて壁がブロックから頑丈な岩に変わった。
「クトゥーチクは町の下に住んでるわけですか?」シルクはびっくりして訊ねた。
「そうだ」ベルガラスが答えた。「やつは峰の岩からぶら下がる見張り小塔のようなものを自ら築いたのだ」
「変わった趣味ですね」と、ダーニク。
「そもそもクトゥーチクという人間が変わってるのよ」ポルおばさんは厳めしい顔でかれに説明した。
やがてベルガラスはかれらを制止して、「この階段はあと百フィートほど下りつづける」と囁いた。「見張り小塔の入り口には二人の護衛がいるはずだ。その習慣ばかりは、たとえクトゥーチクでも変えることはできないのだ――やつが何を企んでいようと」
「魔術師ですか?」バラクは小声で訊ねた。
「いや、護衛は見張りのためというより、儀式のためにいるようなものだ。二人ともただのグロリムだ」
「じゃあ不意を襲いましょう」
「その必要はない。おまえたちは十分な距離まで近づくことができる。だが、速やかに静かにすませてくれ」老人はマーゴ人のローブに手を入れ、黒いリボンで留められた羊皮紙の巻物を取り出した。それからバラクとマンドラレンをすぐ後ろに従えてふたたび階段を下り始めた。
カーブした階段を下っていくと、やがて前方に光が見えてきた。松明が石段の底と、固い岩をくり抜いた控えの間のような所を照らしていた。ごく普通の黒いドアの正面に、二人のグロリム人が腕組みをして立っていた。「もっとも尊きお方に近づくおまえたちは一体何者だ?」グロリムの一人が剣の柄に手をかけて訊ねた。
「使いの者です」ベルガラスはもったいぶって答えた。「クトゥーチクさまにラク・ゴスカの高僧からメッセージを預かってまいりました」かれは羊皮紙の巻物を頭上に掲げた。
「使いの者、こちらに参れ」
「アンガラクの竜神の弟子、クトゥーチクの御名に感謝します」ベルガラスはマンドラレンとバラクを両脇に従え、堂々と階段を下りながら、声高に言った。階段の下まで来ると、かれは鋼の面をつけた護衛の前で立ち止まった。「これにてわたしの役目を終わります」かれは羊皮紙を差し出し、言った。
護衛のひとりがそれを受け取ろうと手を伸ばした。が、その瞬間、バラクが大きな握り拳でその腕を殴りつけた。大男はもう一方の手で驚愕しているグロリムの喉元を締め上げた。
もうひとりの護衛はすかさず剣の柄に手を掛けたが、マンドラレンが針のように尖った細長い短剣の先を臀部に突き刺したとたん、ウーッと呻いて体を二つに折った。騎士はおそろしい集中力で短剣の柄をひねり、先端をグロリムの体に深く食い込ませた。ついに刃先が心臓に達すると、護衛はブルブルッと体を震わせ、ゴボゴボと長い息を漏らして床に崩れ落ちた。
バラクの大きな肩がうねったかと思うと、その恐ろしい握力の中で、最初のグロリムの首の骨が耳障りな音を立てて二つに折れた。護衛の足はしばらく床の上をヒクヒクと掻いていたが、やがて力尽きたとみえてグニャリとなった。「だいぶ調子が出てきたぞ」バラクはそう言って護衛の体を下に落とした。
「おまえとマンドラレンはここに残ってくれ」ベルガラスはかれに言った。「わしが中に入ったら、決して邪魔をしないでほしいのだ」
「わかりました」バラクは請け合うと、護衛の死体を指して、「これはどうしましょう?」
「レルグ、こいつらを始末してくれ」ベルガラスはウルゴ人に短く声をかけた。
レルグが二つの死体の真ん中にひざまずき、両脇にその死体をつかむと、シルクは急いで背中を向けた。かれが死体を石の床に押し込むと、ズルズルというくぐもった音があたりに響いた。
「まだ足が一本突き出してるぞ」バラクは超然とした声で言った。
「わざわざ言う必要があるのか?」とシルク。
ベルガラスは大きく息を吸い込むと、鉄のドアの把手に手をかけた。「よし、行くとするか」そして、ドアを押し開けた。
[#改ページ]
27[#「27」は縦中横]
黒いドアの向こうには富の帝国が横たわっていた。床の上に積み重なっているのは、黄色く光るコインの山――数えきれないほどの金貨の山だ。コインのまわりには指輪や腕輪や鎖、そして冠が無造作に散らばり、眩しいほどの光を放っている。壁沿いには、アンガラクの金鉱から掘り出した金の延べ棒が山と積まれ、その合間に散らばった蓋の開いた箱の中には、拳ほどの大きさのダイヤモンドが溢れんばかりに詰まり、氷のようにキラキラと光っている。さらに部屋の中央には、卵ほどの大きさのあるルビーやサファイアやエメラルドをちりばめた大きなテーブルが。そして、窓の前で重々しく波打っている深紅のカーテンは、数珠つなぎの真珠に埋めつくされている。ピンク、バラ色がかった灰色、中には黒玉の真珠も見える。
ベルガラスはあちこちに視線を配りながら、年寄りとは思えないしなやかな足取りで、まるで獲物に忍びよる獣のように部屋の中を歩いている。かれはまわりを埋めつくす金銀宝石には目もくれずに、毛足の長い絨毯の上をまっすぐ進み、学問の匂いのする部屋に入った。天井まで届く棚には、きっちりと丸めた巻物が積み重なり、黒っぽい木の書棚には革の背表紙が歩兵大隊のようにずらりと並んでいる。初めの部屋と違い、ここのテーブルには化学実験に使うような奇妙なガラスの装置と、真鍮と鉄でできた歯車と滑車と鎖を組み合わせた不可思議な機械が載っていた。
さらに三番目の部屋まで来ると、そこには黒いベルベットのカーテンを背景に大きな金の聖座が置かれていた。聖座の一方の肘掛けには、アーミン毛皮のケープがかけられ、座の部分には笏と重々しい金の冠が載っていた。そして、ピカピカ光る石の床には、地図がちりばめられていた。ガリオンの見たところ、それは全世界の地図らしかった。
「まったくなんという場所だろう」ダーニクは畏敬の念に打たれて囁いた。
「クトゥーチクはここで独り悦に入っているのよ」ポルおばさんは嫌悪をあらわにして言った。
「かれの悪徳と言ったら、それこそ数えきれないほどあるけど、ひとつひとつは常にこうやって分散しておきたいのよ」
「ここにはいないようだ」ベルガラスが呟いた。「次の階へ行こう」かれは皆を率いて今来た道を戻り、丸い塔の壁に沿ってカーブしている石の階段を上った。
階段の上の部屋は恐怖に満ち溢れていた。部屋の中央には拷問台が据えられ、壁際には鞭と殻竿がかかっていた。さらに、壁に近いテーブルの上には、ピカピカの鋼でできた残酷な道具の数々が整然と並んでいた――かぎ針、鋭く尖った大釘、そして鋸のような刃をつけた恐ろしげな道具。その刃の隙間にまだ骨と肉の破片が少し残っている。そして、何より、その部屋は血の臭いに包まれていた。
「この先はおとうさんとシルクで行ってちょうだい」ポルおばさんが言った。「この階にはガリオンやダーニクやレルグの目にふれさせたくない部屋がまだいくつもあるわ」
ベルガラスはうなずき、シルクだけを後ろに従えてドアを抜けていった。数分後、二人は同じドアを通って戻ってきた。シルクの顔は心なしか青ざめて見えた。「クトゥーチクってやつは、かなりの倒錯症みたいですね」かれはブルブルッと怖気をふるった。
ベルガラスは厳しい表情を浮かべ、静かな声で、「さあ、また上に行くぞ」と言った。「クトゥーチクは最上階にいるはずだ。わしの勘に間違いはないと思うが、確かめないことには何とも言えん」かれらはまた階段を上った。
階上に近づくにつれて、ガリオンはどこか胸の奥の方が奇妙にうずき始め、終わりのない歌声のようなものに誘い込まれていくのを感じた。そして、右の掌が焼けるように熱くなった。
塔の最上階の最初の部屋には黒い石の祭壇が横たわっていた。そして、背後の壁から鋼で造ったトラクの顔の像がのしかかるように下がっていた。祭壇の上には、柄に乾いた血糊のついたピカピカの剣が置いてあり、血痕が石の孔にまで染み込んでいた。ベルガラスの表情には余念がなく、すでに猫のような忍び足で動きはじめている。かれは祭壇の後ろのドアをチラッと覗き見て頭を振り、今度は奥の壁の閉じたドアに歩み寄った。そして木肌に軽く手をふれるなり、しっかりとうなずいた。「この中だ」かれはわが意を得たりとばかりに囁いた。それから大きく息を吸い込むと、急に不敵な笑いを浮かべ、「この瞬間をどんなに待ちつづけたことか」と言った。
「ぐずぐずしないで、おとうさん」ポルおばさんがたまりかねて言った。彼女の目は鋼のように冷たく、生え際の白い髪の房は霜のように輝いている。
「わしが中に入ったら、くれぐれも手出しはしないでくれよ、ポル」かれは念を押した。「おまえもだ、ガリオン。これはわしとクトゥーチクの問題なのだ」
「わかったわ、おとうさん」
ベルガラスはドアを押し開けた。ドアの向こうの部屋には何の飾りもなく、がらんとした印象さえ与えた。石の床に絨毯はなく、暗闇を見渡す丸窓にもカーテンは見えなかった。壁から突き出した蝋燭《ろうそく》台の上で炎を上げている蝋燭もきわめて簡素で、部屋の中央にすわっているテーブルもなんの変哲もないものだった。そのテーブルに、頭巾付きの黒いローブを着た男がドアに背を向けるようにして座っていた。男は鉄の樽を覗き込んでいるようだった。ガリオンは、樽の中に入っている何物かに呼応して全身がドキンドキンと脈打ち、頭の中があの歌声でいっぱいになるのを覚えた。
テーブルの前には青みがかった金髪の少年が立っており、同じように樽を見つめていた。少年はしみのついたリネンのスモックに泥だらけの小さな靴を覆いていた。少年の表情には思考のかけらも見えなかったが、そこには人の心を惹きつける無邪気さがあった。少年は青くて大きくて清らかな瞳を持っており、ガリオンがこれまで見たどの子供よりも美しかった。
「ずいぶん遅かったな、ベルガラス」テーブルの男は振り向きもせずに言った。聞き取りにくい声だった。男はカチッと小さな音をたてて鉄の箱を閉じると、「どうしたのかと心配し始めていたところだ」
「二、三度つまらんことで進行を妨げられたもんでな」と、ベルガラスは答えた。「あまり長いこと待たせたのでなければいいが」
「他のことで気を紛らせていた。さあ、入れ。入りたまえ――諸君」クトゥーチクは振り返ってかれらの顔を見た。かれの髪とひげは黄ばんだ白色で、かなり長かった。顔には深い皺が刻まれ、眼窩の奥で目がギラギラと光っている。それは、年輪を重ねた根深い悪に満たされた顔だった。残虐で傲慢な性格が品位と慈愛の表情をむしばみ、さらに輪をかけた凄まじい自惚れがそれをゆがめ、ついには自分以外の生き物を常に嘲笑しているような表情だけが残った、そういう顔だった。かれの視線がポルおばさんの方に移った。「これはポルガラ」かれは小馬鹿にしたように頭を下げた。「相変わらず美しい。とうとうわが〈師〉の意志に服従する決心がついたというわけか?」かれは意地の悪い流し目で彼女を見た。
「いいえ、クトゥーチク」彼女は冷やかに答えた。「あんたに罰が下されるのを見にきたのよ」
「罰?」かれは蔑むように笑った。「そんなものは存在しないぞ、ポルガラ。力ある者が思いどおりのことをして、弱い者がそれに従う。わしの〈師〉がそれを教えて下さったのだ」
「かれの爛れた顔を見て、あんたは何も学ばなかったの?」
高僧は一瞬顔を曇らせたが、すぐに苛立ちを追い払うかのように肩をすくめた。「諸君、腰を下ろして軽い食事でもどうだ」かれは例の聞き取りにくい声でしゃべりつづけた。「いや、しかしそんなに長居はできんのだろうな」かれはひとりひとりの顔を確かめるように残りのメンバーを眺めた。「人数がたりないようだが、ベルガラス。まさか道の途中で死んでしまったわけではあるまいな」
「一人残らず元気だ」ベルガラスはかれに言った。「もっとも、おまえの心遣いを知ったら感謝するだろうが」
「一人残らず?」クトゥーチクは物憂げに言った。「〈すばしこい盗人〉と〈二つの命を持つ男〉それに、〈盲目の男〉は見えるが、他の者が見当たらんな。〈恐ろしい熊〉と〈護衛の騎士〉はどこだ? 〈馬の首長〉と〈弓師〉は? それと女たちはどこにいる? 女たち――〈世界の女王〉と〈絶えた種族の母〉はどこだ?」
「皆元気だ、クトゥーチク」ベルガラスは言った。「一人残らず」
「そいつは驚きだ。今頃はまだ一人か二人たりないのではないかと思っていたが。見事な献身ぶりだな、老人――たったひとりの先祖が予定外の時に死んでしまうだけですべてが壊れてしまうという予言の内容を、こんなに長い間無傷のまま保ちつづけてきたとは」かれは一瞬遠くを見るような目をしたかと思うと、「そうか、かれらは見張りに置いてきたんだな。その必要はなかったのに。誰も中に入らないよう命令を出しておいたのだ」
やがて高僧の目はガリオンの顔に止まった。「ベルガリオン」かれは慇懃ともとれる口調で言った。頭の中の歌声がいまだに血管を火照らせているにもかかわらず、高僧の心を支配する邪悪な力にふれたとたん、ガリオンは背筋がぞくぞくするのを覚えた。「思ったより若いな」
ガリオンは挑戦的な目でテーブルの老人を見ると、不意を襲われないように意志を呼び集めた。
「わしの意志と競争するつもりか、ベルガリオン?」クトゥーチクは面白がっているようだった。「たしかにおまえはチャンダーを燃やしたが、あいつは愚かだった。わしは少々手強いぞ。どうだ、坊主、あれは楽しかったか?」
「いいえ」ガリオンは身構えたまま答えた。
「そのうちに楽しむことを覚えるだろう」クトゥーチクは不吉な笑みを浮かべて言った。「自分の心の掌の中で敵が悶えたり悲鳴をあげたりするのを見たとき、力はもっとも心躍る褒美を得るのだ」かれはベルガラスに視線を戻すと、「それで、ついにわしを滅ぼしにきたわけか?」と言って茶化すように笑った。
「そのことなら、答えはイエスだ。どんなにこの時を待ったことか、クトゥーチク」
「やはり、そうか。わしらの考えることはよく似ているな、ベルガラス。わしもおまえと同じぐらい長いことこの日を心待ちにしていた。ああ、本当によく似ている。境遇さえ違っていれば、わしらはいい友達になっていたかもしれないな」
「それはどうかな。わしは平凡な人間だ。おまえの趣味は複雑すぎて、わしにはついていけん」
「それぐらいは大目に見てくれ。わしらが普通の人間の範疇にないことは、おまえもわしと同じぐらいよく知ってるはずだろう」
「そうかも知れんが、できれば友達はもう少し慎重に選びたいと思ってな」
「おまえも面白みがなくなったな、ベルガラス。他の者を呼びにやったらどうだ」クトゥーチクは小馬鹿にしたように片方の眉をつりあげた。「わしを滅ぼすところを、かれらにも見せたくないか? きっと手放しの賞賛を得られるぞ」
「かれらはあのままでいい」ベルガラスはかれに言った。
「退屈なことを言うな。まさか〈世界の女王〉に敬意を表する機会をわしに与えないつもりではないだろうな」クトゥーチクは茶化すように言った。「おまえに殺される前に、素晴らしく麗しい彼女の姿を一目見ておきたい」
「彼女がおまえに関心を示すかどうかわからんぞ、クトゥーチク。おまえの敬意だけは伝えておくが」
「頼む、ベルガラス。ほんの些細な願い事だ――難しいことじゃない。どうしても呼びに行かないと言うのなら、わしが行く」
ベルガラスは目を細めたかと思うと、急にニヤリと笑った。「そういうわけだったのか。どうりでわれわれが先を進みやすいように骨を折ってくれると思ったら」
「そんなことは、今となってはもうどうでもいいことだ」クトゥーチクは猫がゴロゴロと喉を鳴らすように言った。「おまえは決定的な間違いを犯したな、ベルガラス。おまえは彼女をラク・クトルに連れてきた、それこそわしの望んでいたことだ。ベルガラス、おまえの予言は今ここで終わるのだ――そして、おまえの命も」高僧の目は勝ち誇ったようにキラリと光った。ガリオンはクトゥーチクの心を支配する邪悪な力が獲物を求めて彷徨《さまよ》い始めるのを感じた。
ベルガラスはポルおばさんとチラッと視線を交わし、ひそかに片目をつぶった。
厳めしい小塔の下の階をくまなく透かし見て、そこが空だと知ると、クトゥーチクは急に目を大きく開いた。「彼女はどこだ?」ほとんど叫びに近い荒々しい声でかれは聞いた。
「王女はわれわれに同行できなかったのだ」ベルガラスはもの柔らかに答えた。「くれぐれもお詫びしておいてほしいとのことだ」
「ベルガラス、おまえは嘘をついている! 彼女を置いてこれるはずがない。彼女が安全でいられる場所などこの世にはひとつもない」
「ウルゴの洞穴の中でもか?」
クトゥーチクの顔からすーっと血の気が引いた。「ウルゴ?」かれはあえいだ。
「気の毒に、老クトゥーチク」ベルガラスはいかにも残念そうに頭を振った。「めっきり腕が落ちてきてるようだな。計画は悪くなかった。だが、どうしてわしをこんなに近づける前に王女が本当に一緒にいるかどうかを確かめることを考えなかった?」
「王女でなくても、他の者でも同じことだ」クトゥーチクは目をメラメラと燃えたたせて言い張った。
「いや、他の者には攻撃の隙がない。セ・ネドラは無防備な唯一の人間だが、彼女はプロルグだ――ウルの加護のもとにいる。それでも攻撃したいのなら好きにすればいい。だが、わしは勧めはせんぞ」
「畜生、ベルガラスめ!」
「さあ、おとなしく〈珠〉をよこしたらどうだ、クトゥーチク? わしがその気になれば、難なく奪い取れるのはわかってるだろう」
クトゥーチクは気持ちを静めようとあがいた。「あわてるのはよそうじゃないか、ベルガラス」ややあって、かれは言った。「互いを滅ぼしあったからって、一体何になる? クトラグ・ヤスカはわしらの掌中にあるのだ。二人でこの世界を分けようじゃないか」
「世界を半分もらっても仕方ない」
「全部独り占めしたいというのか?」短い、悟ったような微笑みがクトゥーチクの顔をよぎった。「わしもそう思った――最初は――だが、半分で我慢しようというと言ってるんじゃないか」
「本当のことを言えば、わしはそんなものはこれっぽっちも欲しくないのだ」
クトゥーチクの表情は失望に変わった。「じゃあ、おまえの望みは何だ、ベルガラス?」
「〈珠〉だ」ベルガラスはすげなく答えた。「〈珠〉をくれ、クトゥーチク」
「二人で力を併せ、〈珠〉を使ってゼダーを滅ぼそうじゃないか?」
「なんのために?」
「おまえもわしと同じぐらいあいつを憎んでいるだろう。あいつはおまえの〈師〉を裏切った。そしてクトラグ・ヤスカをおまえから盗んだ」
「クトゥーチクよ、あいつは自分自身を裏切ったのだ。その事実は今でもあいつの脳裏から離れないはずだ。それはともかく、〈珠〉を盗む計画は見事だったな」ベルガラスはテーブルの前に立っている幼い少年をしげしげと眺めた。少年は大きな瞳で鉄の樽を一心に見つめている。
「こんな子供を一体どこで見つけたんだろう」かれは感慨深そうに言った。「もちろん無邪気さと純粋さはすっかり同じものではないが、非常に似通ったものだ。まったく邪気のない者を育てるのに、ゼダーはそれこそ死ぬほどの努力を払ったに違いない。かれが抑えなければならなかった衝動の数々を考えてもみろ」
「だからあいつにやらせたのだ」と、クトゥーチクは言った。
かれらが自分の話をしていることに気づいたのか、金髪の少年はすっかり信じきったような目で二人の老人を見た。
「とにかく要は、クトラグ・ヤスカが――〈珠〉が、まだわしの掌中にあるということだ」椅子の背にもたれ、片手を樽の上に置きながらクトゥーチクが言った。「もし力づくで奪い取るというなら、受けて立とう。どういう結果が出るかは、わしにもおまえにもわからない。どうだ、いちかばちか賭けてみるか?」
「〈珠〉がおまえに何をしてくれるというのだ? かりに〈珠〉がおまえに従ったとして、その後はどうする? トラクの目を覚まして、〈珠〉を手渡すか?」
「そのことも考えた。だが、トラクが眠りに落ちてもう五世紀になる。かれがいなくとも世界はうまく動いている。今彼を起こしたところで、何にもなりはしないだろう」
「ということは、おまえの手元に置いておくということになるな」
クトゥーチクは肩をすくめ、「どうせ誰かが所有するのだ。それがわしでなぜ悪い?」
かれはまだ椅子の背にもたれたままで、すっかりくつろいでいるように見えた。そしてそんな折り、何の前触れもなく、感情の変化をまったく顔にも表わさず、かれは不意に攻撃してきたのだ。
その衝撃はあまりに急だったので、うねりが起こるというよりは激しい一撃を食らったようで、すでに馴染みとなったあの頭の中の轟きではなく、雷鳴のような大音響を呼び起こした。ガリオンは瞬時のうちに、もしそれが自分に向けられたものだったらおそらく自分は死んでいただろうと悟った。だが、それはかれに向けられたものではなかった。それはかれではなく、ベルガラスを襲ったのだ。一瞬、ガリオンはかれが夜の闇より暗い影の中に吸い込まれていくのを見た。だが、次の瞬間、その影は華奢なクリスタルのゴブレットのように粉々に砕け散った。今や厳然たる表情になったベルガラスは、まだ宿敵と向かい合ったまま、「これで精一杯か、クトゥーチク?」と言うなり、自分の意志を解き放った。
燃えるような青い光が一瞬のうちにグロリムを取り巻いたかと思うと、さらに迫ってかれの体を激しく押しつぶした。かれの座っていた椅子は、急におそろしい重力がかかりでもしたかのように、ぺしゃんこにつぶれ、粉々にさけた。木切れの中に転がったクトゥーチクは両手で青白い光を押し返すと、よろよろと立ち上がり、炎をもって応酬しようとした。一瞬、〈ドリュアドの森〉で焼け死んだアシャラクの姿がガリオンの脳裏をよぎった。だが、ベルガラスは炎を払い退けると、いつか「〈意志〉と〈言葉〉があればジェスチャーは必要ない」と断言したにもかかわらず、片手を掲げ、光でクトゥーチクを打ちつけた。
燃えるような光、うねる炎、そして闇に包まれながら、魔術師と魔法使いは部屋の中央で互いに向き合った。むきだしになったエネルギーを何度も何度も爆発させて死闘を繰り広げる二人の姿を見ているうちに、ガリオンの心はしだいに感覚がなくなってきた。かれは、自分の見ているのは戦いのほんの一部で、実は目に見えない――想像すらできない攻撃が交わされているのだということを感じていた。その証拠に、小塔の部屋の空気はパチパチ、あるいはシューシューと音をたてているように見えた。奇妙な映像が目に見えるか見えないかの早さでチカチカと現われては消えた――巨大な顔と顔、大きな手と手、そして名づけることさえできないような数々のもの。二人の強力な老人が想像と倒錯の武器をつかむために現実を布のように引き裂くと、それに答えて小塔全体が大きく揺れた。
ガリオンは自分でもわからないうちに意志を集め、心を一つにしぼっていた。やめさせなくちゃ、かれの頭の中にはそのことしかなかった。その間にも、激しい攻撃がかれとかれの仲間をかすめている。憎悪を焼きつくしてしまったベルガラスとクトゥーチクが、今度は思考を超え、部屋にいる全員を殺せるほどの力を解き放っているのだ。
「ガリオン! 離れて!」ポルおばさんの声はひどくしわがれていて、ガリオンにはそれが彼女の声だとは信じられなかった。「二人はもう限界に来てるわ。もしあんたが何か別のものを投げかけたら、二人とも死んでしまうわ」彼女は他の者にサッと合図を送った。「皆、下がって。かれらを取り囲む空気は生きてるのよ」
かれらは小塔の部屋の奥に恐る恐る後ずさった。
魔術師と魔法使いは今では互いに二、三フィートと離れていないところに立っていた。目をメラメラと燃え立たせ、力を波のように噴き出したり、引っ込めたりしている。空気がジリジリと音を立て、かれらのローブから煙が出た。
ガリオンの視線が少年に留まった。少年は穏やかな、何もわからないような目でその様子を見守っていた。恐ろしい大音響を聞いても、まわりで繰り広げられる壮絶な光景を見ても、驚きもしなければ怯みもしなかった。ガリオンは今まさに飛び出していって安全なところに引っ張ってこようとした瞬間、子供はテーブルの方を向いた。そして目の前に突然立ちふさがった緑色の炎の壁を、事もなげに通り抜けた。炎を見ることもなければ、恐れることもなかった。彼は爪先立ちでテーブルに手を伸ばし、先ほどクトゥーチクが満足そうに眺めていた鉄の樽の中に手を入れた。そして、丸くてピカピカ光った灰色の石を取り出した。ガリオンは不意にあの奇妙なうずきが始まるのを感じた。だが今度のうずきはあまりにも強く、あまりに圧倒的で、絶えず思いだされるあの歌声が耳から離れなくなった。
と、ポルおばさんのあえぐ声が聞こえた。
灰色の石をボールのように両手につかんだ子供が、こちらを振り向き、ガリオンの方にまっすぐ歩いてきたのだ。目には信頼の色が浮かび、小さな顔には自信の表情が満ち溢れている。滑らかな石は部屋の真ん中で繰り広げられている恐ろしい戦いの光が上がるたびにチカチカと光ったが、よく見ると、石の中には別の光があった。どこか奥の方で薄青い強烈な炎が燃えていた――その光はチカチカと揺らめきもせず、子供がガリオンに近づくほどにいよいよ激しくなってきた。子供はやがて立ち止まると、石を掲げてガリオンに差し出した。そしてにっこり笑うと、一言、「使命《しめい》」と言った。
ガリオンの頭の中にひとつのイメージが浮かんだ。言語を絶する恐怖のイメージが。かれは自分がクトゥーチクの心を見ていることをすぐに察した。クトゥーチクの心の中には、ひとつの映像が浮かんでいた――光る石を手にしたガリオンの映像が――そして、その映像がグロリムを震え上がらせていた。ガリオンは恐怖のうねりが自分に向かって溢れ出てくるのを感じた。ゆっくりと、かれは子供の差し出している石の方に右手を伸ばした。掌のあざが待ちこがれていたように石の方に伸びると、例の歌声が大きくふくれてついに力強いクライマックスに入った。手を伸ばすと同時に、かれはクトゥーチクの中で野蛮な、獣のような恐怖が起こるのを感じた。
グロリムはしゃがれ声で悲鳴をあげた。「なくなれ!」子供の手の中の石にあらんかぎりの力を向け、かれは死にもの狂いで叫んだ。
一瞬、塔の中は恐ろしい静寂に包まれた。死闘でやつれ果てたベルガラスでさえ、ビクッと顔をこわばらせ、信じられないといった表情を浮かべた。
石の真ん中の青い炎は、一瞬小さくなったように見えた。が、次の瞬間、ふたたび燃え上がった。
長い髪とひげをくしゃくしゃに乱れさせたクトゥーチクは、目を大きく見開き、恐怖にぽかんと口を開けたまま立ちつくしていた。「そんなつもりじゃなかったんだ!」かれは泣きわめいた。「そんな――そんなつもりじゃ――」
だが、丸い部屋の中にはすでに新たな、途方もない力が入り込んでいた。その力は光を放つこともなければ、ガリオンの心を圧迫することもなかった。押す代わりに、それはガリオンの心から力を引き出しながら、恐怖に打たれたクトゥーチクを囲んでいくように見えた。
グロリムの高僧は狂ったように金切り声をあげた。と同時に、かれの体は大きく伸びたように見えた。そして、それがまた小さくなり、もう一度大きく伸びた。すると、次には、体が突然固まって石となり、その石が体の中にわき起こる激しい力で崩壊してしまったかのように、顔面がひび割れはじめた。その恐ろしいひびの中にガリオンが見たのは、肉でも血でも骨でもなく、燃えさかるひとつのエネルギーだった。クトゥーチクの体が眩しいほどに光りはじめた。かれは懇願するように両手を上げて叫んだ。「助けてくれ!」そしてさらに長い絶望的な悲鳴をあげた。「やめてくれ!」同時に音とも思えないような音をたててトラクの弟子は砕け、無に帰した。
恐ろしい爆風の勢いで床に投げつけられたガリオンは、ゴロゴロと転がって壁にぶつかった。かれは、ぬいぐるみの人形のように飛んできた子供の体を、とっさに受け止めた。丸い石は床の石に跳ね返ってカタカタと音をたてた。ガリオンが石を捨おうと手を伸ばした瞬間、ポルおばさんの手がかれの手首をつかんだ。「だめ! それは〈珠〉なのよ」
ガリオンの手はその場に凍りついた。
子供は身をくねらせてガリオンの腕の中から抜け出すと、転がる〈珠〉を追いかけた。「使命《しめい》」彼は〈珠〉をつかむと、うれしそうに笑い声をあげた。
「何があったんだ?」シルクはよろよろと立ち上がり、頭を振った。
「クトゥーチクが自らを滅ぼしたのよ」ポルおばさんも立ち上がりながら答えた。「かれは〈珠〉を消そうとしたの。〈神々の母〉が抹消をけっしてお許しにならないということも忘れて」彼女はすぐにガリオンを見て、「おじいさんを起こすのを手伝ってちょうだい」と言った。
ベルガラスは、クトゥーチクを崩壊した爆発が起こったとき、そのほぼ真ん中に立っていた。爆風で部屋の端まで飛ばされたかれは、髪とひげの先を焦がし、死んだような目をして塊のように茫然と横たわっていた。
「起きて、おとうさん」ポルおばさんはかれの上に屈み込むと、急き立てるように言った。
と、そのとき、塔がぐらぐらと揺れはじめ、それを支えている玄武岩の高峰が震えた。そして、大地の底からドカーンという巨大な音が響いてきた。クトゥーチクの破壊の余震で大地が揺れると同時に、部屋の壁から石やモルタルの破片が雨のように降ってきた。
階下の部屋で重々しいドアがバンと開く音がしたかと思うと、ドシンドシンという足音が聞こえてきた。「どこだ?」バラクの声が鳴り響いた。
「上だ」シルクは階段の下に向かって叫んだ。
バラクとマンドラレンが石の階段を駆け上がってきた。「早く出るんだ!」バラクが吠え声をあげた。「塔が岩から離れるぞ。もう上の寺院も壊れはじめてる。塔が岩にくっついているあたりの天井に、幅が二フィートもありそうな大きな裂け目が入ってるぞ」
「おとうさん!」ポルおばさんは叫んだ。「起きなきゃだめよ!」
ベルガラスは放心したように彼女を見つめた。
「抱き上げてちょうだい」彼女はバラクに言った。
峰の側面と小塔をつないでいた岩が、激動する大地の圧力に耐えかねて、突然バリバリという大音響とともにはがれはじめた。
「あっちだ!」レルグの声が響きわたった。かれはすでに石が割れて粉々に砕けはじめている塔の後ろの壁を指差していた。「あれを開けられないか? あの後ろに洞穴がある」
ポルおばさんはサッと視線を上げると、その壁をじっと見つめて指の先を向け、「砕け散れ!」と唱えた。暴風を受けた麦わらの壁のように、石の壁は反響する洞穴の中に吹き飛んだ。
「ああっ、離れる!」シルクが甲高い悲鳴をあげた。かれの指先は、どんどん大きくなっていく、峰の固い岩肌と塔の間の裂け目を指していた。
「飛ぶんだ!」バラクが叫んだ。「急げ!」
シルクは裂け目を飛び越すとすぐに振り向き、かれを手探りで追ってきたレルグを受け止めた。ダーニクとマンドラレンはポルおばさんを真ん中に挟み、ギーギーと音をあげてますます大きくなっていく裂け目を飛び越した。「行くぞ、坊主!」バラクはガリオンに言った。チェレクの大男は、まだ眩惑状態にあるベルガラスを抱え、岩の穴に向かってドシンドシンと歩いていく。
(子供だ)ガリオンの心の中で声が叫んだ。それはもういつもの冷淡で無関心な声ではなかった。(子供を救え。さもないと今まで起こったことはすべて水の泡になるぞ!)
ガリオンは子供を忘れていたことに気づいて、あっと息をのんだ。かれは振り返ると、ゆっくりと倒れていく塔の中へ急いで引き返した。子供を腕の中に抱えると、かれはポルおばさんが吹き飛ばした岩の穴に向かって走った。
裂け目を飛んだバラクの足が、対岸の縁ぎりぎりのところで一瞬ぐらついた。必死に走っていたガリオンは、その状態で力を呼び集めた。そして自分がジャンプする瞬間、あらんかぎりの意志を押し出した。腕に子供を抱えたまま、かれは恐ろしい裂け目を文字通り飛び越え、バラクの大きな背中にもろに激突した。
〈アルダーの珠〉を大事そうに抱えた子供は、ガリオンの腕の中でかれを見上げると、「使命《しめい》?」と聞いた。
ガリオンは後ろを振り返った。塔はすでに玄武岩の壁から大きく離れ、基礎の石が砕けて険しい岩肌からはがれていくところだった。間もなく、塔は重々しいほどにゆっくりと向こう側にひっくり返った。折りしも、トラクの寺院の残骸が猛烈な勢いで降り始め、塔は砕けた石の雨を受けながら峰の壁を離れ、恐ろしい淵の底に落ちていった。
大地が震え、衝撃に次ぐ衝撃が玄武岩の峰の中に反響すると、かれらの入り込んだ洞穴の床も大きく波打った。ラク・クトルの防壁の巨大な塊がいくつもはがれ、今しがた昇ったばかりの太陽に赤く照らされながら、洞穴の入り口すれすれのところを落ちていった。
「皆いるか?」シルクは素早くあたりを見回して言った。そして、皆が無事だったことを知って安心すると、「入り口からもう少し下がったほうがいい。峰のこの辺りはあまり頑丈そうじゃないからな」と付け加えた。
「すぐに下りますか?」レルグはポルおばさんに訊ねた。「それとも、揺れがおさまるまで待ちますか?」
「もう行ったほうがいいですよ」バラクがすかさず提言した。「揺れがおさまれば、マーゴ人がこの洞穴にどっと押し寄せてきますよ」
ポルおばさんは半分失神状態にあるベルガラスを心配そうに見やった。が、やがて勇気を揮い起こしたのか、きっぱりとした口調で「下りましょう」と言った。「でも、途中あの奴隷の女のひとを拾うことを忘れないでね」
「今頃はもう死んでますよ」レルグはすぐに断言した。「この地震じゃ、あの洞穴の天井だってきっと落ちてるはずだ」
ポルおばさんは氷のように冷たい目でかれの顔を見すえた。
彼女のその視線にそれほど長く耐えられる人間がいるはずはなかった。レルグは目を伏せると、不機嫌な声で、「わかりました」と言った。それからきびすを返すと、皆を率いて暗い洞穴の中に入っていった。その間にも、地震はかれらの足元を揺るがしていた。
底本:「ベルガリアード物語3 竜神の高僧」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1988(昭和63)年 6月15日 発行
1997(平成9) 年11月15日 五刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年08月09日作成
2009年01月31日校正
2009年02月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] ベルガリアード物語 3 竜神の高僧.zip iWbp3iMHRN 107,467,551 fd45ccfb10edbd9bda1e1b62a4201693
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ19行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するしかないでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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注意点、気になった点など
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底本65頁10行 ギャロップで前進した
ギャロップとは馬の歩法の一つ。日本語では「襲歩《しゅうほ》」。人間の歩法は大別すると「歩行」と「走行」の二つだが、馬は「常歩《なみあし》(ウォーク)」「速歩《はやあし》(トロット)」「駈歩《かけあし》(キャンター)」「襲歩《しゅうほ》(ギャロップ)」などと分けることができるらしい。乗馬や競馬をやってる人には当たり前の言葉なのかもしれない。
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本10頁8行 ミンブレイド人
ド→ト
底本43頁11行 かれが何かをしですかたびに
何かを「しでかす」たびに、かな?
底本74頁17行 南部マーゴ人はおろしく目がよくて
おそろしく、かな?
底本86頁1行 平野に押し出させることになるだろう
押し「出される」ことになるだろう、じゃないかと
底本106頁6行 つまり町ぜんだいが幻想
ぜん「た」いが、だと思う
底本121頁7行 用心深いまなざしてキョロキョロとあたりを見回した
まなざし「で」、だと思う
底本122頁14行、125頁6行 マンドレラン
マンドラレン。
底本177頁8行 そこに見えているのはベルマコーの塔だ。
地図だと「ベルマユー」になってる。地図がおかしいのか?
底本264頁17行 ボレドラの霊を呼ぶために
ポレドラ
底本282頁15行 ゴルムは言った
ゴリム
底本284頁6行 それでゼターは?
ゼダー
底本332頁3行 いやらしい想像と働かせたこともあります
想像「を」働かせた、だと思われ
底本377頁13行 シルクが軟禁されている場所っているのは
場所ってい「う」のは、だと思われ
底本385頁8行、10行 シクル
シルク ……名前の間違え多すぎです
底本403頁7行 ガリオンに顔面は素早い波のようなものを
「ガリオンは顔面に」あるいは「ガリオンの顔面は」、じゃないかな?
底本472頁9行 クトゥーチクを崩壊した爆発が起こったとき
崩壊「させた」、じゃないかな?