ベルガリアード物語2 蛇神の女王
QUEEN OF SORCERY
デイヴィッド・エディングス David Eddings
佐藤ひろみ訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)左の空《うつろ》の眼孔
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伝説に名高い|貴婦人の《レディ》ポルガラ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)白いのろ[#「のろ」に傍点]を塗った壁
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[#ここから4字下げ]
ヘレンへ。
きみはぼくの人生にとって
いちばん大切なものを与えてくれた。
そしてマイクへ。
きみは遊ぶ術をぼくに教えてくれた。
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
プロローグ
第一部 アレンディア
第二部 トルネドラ
第三部 ニーサ
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
蛇神の女王
[#改ページ]
登場人物
ガリオン…………………………主人公の少年
ポル(ポルガラ)………………おば
ウルフ(ベルガラス)…………ポルの父
バラク……………………………チェレク人
シルク……………………………ドラスニア人
ダーニク…………………………鍛冶屋
ヘター……………………………アルガリア王の養子
レルドリン………………………アレンド人
マンドラレン……………………ミンブレイト人
グレルディク……………………船長
グリンネグ………………………バラクのいとこ
ドロブレク………………………ドラスニア人
アシャラク………………………マーゴ人
ナチャク…………………………マーゴ人
コロダリン………………………アレンディア国王
マヤセラーナ……………………コロダリンの王妃
ラン・ボルーン…………………トルネドラの皇帝
セ・ネドラ………………………ラン・ボルーンの王女
ジーバース………………………家庭教師
イーディス………………………執事
モリン……………………………侍従
チャンダー………………………グロリムの高僧
サディ……………………………宦官
ブリル……………………………ファルドー農園にいた男
ザンサ……………………………ドリュアドの女王
サルミスラ………………………ニーサの女王
[#改丁]
プロローグ
もっとも憎むべきカル=トラクの侵攻とたくらみに対抗した、
西の諸王国の戦い
[#地から2字上げ]――〈ボー・ミンブルの戦い〉より
世界がまだ若かりしころ、邪神トラクは世界を支配しようとして〈アルダーの珠〉を盗み、逃走した。〈珠〉はこれにあらがい、自らの炎をもってかれに見るも無残な火傷を負わせた。しかし、トラクはそれでも〈珠〉を手放そうとはしなかった。それほど〈珠〉はかれにとって貴重なものだったのだ。
やがて、魔術師にして神アルダーの弟子ベルガラスが、アローン人の王とその三人の息子を率いて、トラクの鉄塔から〈珠〉を取り戻した。トラクはなおも〈珠〉を追い求めようとしたが、〈珠〉の怒りはかれを追いはらい、退けた。
ベルガラスはこの世の続くかぎりトラクの来襲に備えるべく、チェレクとその三人の息子たちを王となし、四つの大王国を各人に治めさせた。そしてかれは、リヴァに〈珠〉を与えて保管させ、かれの子孫がその〈珠〉を持っているかぎり西部は安泰であることを告げた。
トラクの脅威のない数世紀が過ぎたが、四八六五年の春、ついにドラスニアはナドラク人、タール人、そしてマーゴ人の大軍に侵攻された。このアンガラク人の大海のただ中に王にして神≠意味するカル=トラクという名の巨大な鉄の大天幕が現われた。町や村は破壊され、焼きつくされた。というのも、カル=トラクの目的は破壊することであって、征服することではなかったからだ。生存者は、アンガラク人の口にするのもおぞましい儀式のいけにえとして、鉄仮面をつけたグロリム人の僧侶に引き渡された。アルガリアに逃れたり、チェレクの軍艦によってアルダー川の河口から運ばれた者以外は生き残った者は皆無であったという。
つづいて、軍勢はアルガリアの南部に矛先を向けた。ところが、そこには町がひとつもなかった。遊牧生活を営むアルガリアの騎馬戦士たちは敵の軍勢にいったんはひるんだと見せかけ、そのあとですさまじい奇襲攻撃をしかけた。アルガリアの王たちの代々の領地は城塞、すなわち三十フィートも厚さのある岩壁に囲まれた人造の山だった。アンガラク人はこれを攻略しようとしたが徒労に終わり、けっきょくその地を包囲することにした。包囲はまる八年つづいた。
これが西部側に、兵を集めて戦いに備える時間を与えることになった。将軍たちはトル・ホネスの帝国軍事大学に集まって戦略を練った。国家間の争いはひとまずわきに置かれ、〈リヴァの番人〉ブランドが総指揮官に選ばれた。ブランドに伴って、風変わりな二人の相談役もやって来た。ひとりは年老いてはいるが頑健で、アンガラク人の諸王国に関する知識まで披露する男。そしてもうひとりは、額の生えぎわにひとふさの白髪があり、振る舞いは高慢だが、目鼻立ちの端整な女だった。ブランドはこの二人の言葉に耳を傾け、並々ならぬ敬意を表した。
四八七五年の晩春、カル=トラクは包囲を解き、依然としてアルガリアの騎馬戦士に追われたまま、海を目指して西に向かった。アンガラク人の軍勢は山地に入ったところで、闇夜にまぎれてほら穴から抜け出したウルゴ人に眠っているところを情け容赦なく虐殺された。だが、それでもカル=トラクの軍勢は数えきれぬほど残っていた。小休止して再編成をすませたトラクの軍勢は、行く手にあるものすべてを破壊しながら、ボー・ミンブルの町めざしてアレンド川の谷を下っていった。初夏、アンガラク人はボー・ミンブルの町に攻撃を加えるべく、軍団を配備した。
戦いの三日目、ホルンが三たび鳴りひびいた。するとボー・ミンブルの門が開き、中からミンブレイト人の騎士団が突撃してアンガラクの軍勢を攻撃し、蹄鉄をつけた騎士団の軍馬のひづめが生者と死者をともども踏みつけた。左手からはアルガー人の騎馬隊とドラスニア人の槍兵、それに仮面をつけたウルゴ人の不正規軍が現われた。さらに、右手からはチェレク人の狂戦士とトルネドラ人の軍団が。
三方から攻撃を受けたカル=トラクは、予備軍を出動させた。とその時、灰色の服を着たリヴァ人、センダー人、アストゥリア人の射手がカル=トラクの軍勢の背後から襲いかかった。アンガラク人は収穫期の小麦のようになぎ倒され、あわてふためいた。
時を同じくして〈裏切り者〉の魔術師ゼダーは、まだカル=トラクが閉じこもったままの、不吉な鉄の天幕に急いで入っていった。そしてかれは〈呪われた者〉に向かって言った。「主よ、敵が膨大な人数であなたを取り囲んでおります。そうです、ネズミ色のリヴァ人までがあなたの御力に挑戦しようと大勢でやってきているのです」
カル=トラクは激怒して立ち上がり、言った。「わしが出向こう。わしの物たる宝石クトラグ・ヤスカのにせ番人たちめ。この姿を見て恐れをなすであろう。わしの王たちを連れてまいれ」
「偉大なる主よ」ゼダーは答えた。「あなたの王たちはもうおりません。戦場で命をおとしたのです。グロリム人の僧侶も多くが同じ目にあっております」
これを聞いたカル=トラクは怒りをますますつのらせ、右の目と左の空《うつろ》の眼孔から炎が飛び散った。かれは下僕に命じて手のない一方の腕に盾をくくりつけさせ、恐ろしげな黒い剣を取り上げて戦場に向かった。
やがてリヴァ人の群れの中から名乗りがあがった。「ベラーの御名においてきさまに挑もうぞ、トラク。アルダーの御名において、真っ向からきさまに怨みをぶちまけてくれる。これ以上血は流すまい。わたしがきさまと渡り合い、この戦いに決着をつけよう。わたしはブランド、〈リヴァの番人〉だ。さあ、剣を交えよ、さもなくばおぞましききさまの軍勢を連れ去り、二度と西部の王国に攻め入るな」
カル=トラクは軍勢の中から歩み出て叫んだ。「死すべき肉体でありながら、わざわざ〈世界の王〉に戦いを挑むやつはどこのどいつだ? しかと見よ、わしはトラク、王の中の王、神の中の神ぞ。この騒々しいリヴァ人などひねりつぶしてくれるわ。わしに歯向かう者は滅び、しこうしてクトラグ・ヤスカはふたたびわしの掌中に収まるであろう」
ブランドは前に進み出た。手には巨大な剣と布でおおわれた盾を持っている。かたわらには灰色の狼が歩を合わせ、頭上には雪のように白いふくろうが舞っている。「わたしがブランドだ。汚らわしい不具者のトラクよ、きさまと一戦交えようぞ」
トラクは狼を見て言った。「立ち去れ、ベルガラス。命が惜しくば、消え失せよ」それからふくろうに向かって、「誓って父親を見捨てるのだ、ポルガラ。そしてわしをあがめよ。わしはそなたをめとり、〈世界の女王〉にしてやる所存である」
だが狼は挑戦の遠吠えを響かせ、ふくろうも軽蔑の金切り声をあげた。
トラクは剣を持ち上げると、ブランドの盾めがけて切りつけた。ふたりは何度も何度も激しく剣を交わしながら、長いあいだ火花を散らしていた。やがて、近くでこの熾烈な闘いを見守っていた人々は、思わず息を呑んだ。トラクの怒りがしだいに激しくなり、かれの剣がブランドの盾をめった打ちにすると、ついに〈番人〉は〈呪われた者〉の猛威にしりごみしはじめたのだ。とその時、狼が吠え、それに合わせてふくろうも鳴き声をあげた。するとブランドの力がよみがえったのである。
〈リヴァの番人〉が一瞬の動作で盾のおおいを剥ぐと、その中央に子供の心臓ほどの丸い宝石が浮かびあがった。トラクが見つめていると、宝石はしだいに光を放ち、燃えあがった。〈呪われた者〉はあとずさった。そしてトラクは盾と剣を落とし、石の恐ろしい炎をさえぎろうとして両腕を顔の前にかざした。
ブランドが剣を突きたてると、その刃はトラクの仮面を刺し抜き、空《うつろ》の眼孔をぬけて〈呪われた者〉の頭蓋にまで達した。トラクはあとずさって絶叫した。それから突き刺さった剣を引き抜き、かぶとを脱ぎ捨てた。人々はおびえて飛び退いた。いくつかの大火傷を負ったその顔はあまりにもおぞましく、見るに耐えなかったのだ。トラクは宝石を目にすると、血をしたたらせながら再び絶叫した。その宝石こそトラクが自らクトラグ・ヤスカと名づけ、あまつさえ西部に戦争をしかけることになったものだった。次の瞬間トラクはくずおれ、大地をどよめかせた。
カル=トラクの身に起こったことを見てとると、アンガラク人の軍勢はすさまじい悲鳴をあげ、狂乱状態で逃げ道を求めた。だが西部の軍団は後を追ってかれらを殺したので、四日目、煙色に曇った夜明けがおとずれる頃には大群は全滅していた。
ブランドは〈呪われた者〉の死体を自分の目の前に運ばせて、世界の王になるつもりだった男の姿を見届けようとした。だが、死体は見つからなかった。夜のうちに、魔術師ゼダーが魔法で姿を消し、西部軍の間をまんまと通り抜けて、自分が主と選んだ男を運び去っていったのだ。
そこでブランドは、このことについて助言者と話しあった。するとベルガラスはかれに言った。「トラクは死んではいない。ただ眠っているだけだ。トラクは神ゆえ、いかなる人間の武器をもってしても殺すことは叶わぬ」
「では、トラクが目を覚ますのはいつでしょう?」ブランドは尋ねた。「かれの報復にそなえなければ」
ポルガラは答えた。「リヴァの血筋を継ぐ王が再び北の王座に着くとき、邪神はかれと戦うために目覚めるでしょう」
ブランドは眉をひそめて言った。「でも、そんなことはありえませんよ!」というのも、最後のリヴァの王が四〇〇二年に一族郎党をニーサの暗殺者に殺されたことは周知の事実であったからだ。
ポルガラはふたたび口を開いた。「古代の予言によれば、時が満ちたときリヴァの王が名乗りをあげることになっています。それ以上は言えません」
ブランドはその答えに納得し、アンガラク人の死体が散乱した戦場を兵士たちにかたづけさせた。それがすむと、西部の王たちはボー・ミンブルの町の正面につどって会議を開いた。
ほどなく男たちのあいだから、今後はブランドが西部全土の統治者になるべきだという声がわき起こった。ただトルネドラ帝国の大使、マーゴンだけが皇帝ラン・ボルーン四世の名にかけてそれに抗議した。ブランドがこの栄誉を辞退し、提案が流れたので会議に集まった人々のあいだに再び平穏がおとずれた。だがこの平穏に対して、トルネドラ側に返礼を求める提案が出された。
まずウルゴのゴリムが大声で言った。「予言成就の暁には、トルネドラの王女を、やがて世界を救いに現われるリヴァ王の后にすると約束していただかなければ。これは神々がわたしたちに要求なさっていることなのだ」
マーゴンは再び抗議の声をあげた。「〈リヴァ王の広間〉は人影もなく荒れ果てている。リヴァの王座には王などいないではないか。どうしてトルネドラ帝国の王女さまが幽霊などと結婚できよう?」
するとポルガラがそれに答えた。「リヴァの王はやがて復活して王座を引き継ぎ、花嫁を要求するでしょう。だから、これから先、トルネドラ帝国の王女はすべて十六歳の誕生日にリヴァの王の城に参上しなくてはなりません。ウェディング・ガウンに身を包み、王の再来を三日間そこで待つのです。もし、王が現われても王女を欲しいと言わなければ、王女は自由の身となり、父上のところに戻って、今度は父上があてがういかなる運命をも受け入れることになるのです」
マーゴンは叫んだ。「トルネドラ人はこの屈辱に対して蜂起するぞ。だめだ! そんなことはできない!」
ウルゴの賢者ゴリムが再び発言した。「貴公の皇帝に告げよ。これは神々のご意志なのだと。また、もしトルネドラがこれを怠るようなことがあれば、西部諸国は皇帝に立ち向かってネドラの民を追い散らし、帝国の勢力を挫き、ついにはトルネドラ帝国を滅亡にいたらせるであろう」
大使は眼前の軍勢の力のほどを知っていたので、要求を呑んだ。そこで全員の賛同のもとに協定が結ばれることになった。
協定が終わったとき、戦争で分裂しているアレンディアの貴族たちがブランドのところにやって来て告げた。「ミンブレイトの王はお亡くなりになり、アストゥリアの公爵も命を落としました。これから誰がわれわれを統治するのですか? 二千年以上ものあいだミンブルとアストゥリアは争ってアレンディアを引き裂いてきました。いまさらどうしてひとつの民になれるでしょう?」
ブランドは考えた。「ミンブレイトの王位継承者は誰だ?」
「コロダリンがミンブレイトの皇太子でございます」貴族は答えた。
「では、アストゥリアの血筋を引く者は?」
「マヤセラーナがアストゥリア公爵の娘でございます」貴族たちはかれに言った。
「ふたりをわたしのところへ連れてこい」とブランドは命じた。連れてこられたふたりに向かって、ブランドは言った。「ミンブルとアストゥリア間の流血の争いは終わりにしなければならない。だから、わたしとしてはあなたがたが結婚し、それによって長いこと争いつづけてきた両家が一緒になれればと思うのだが」
ふたりはこの意見に抗議の叫びをあげた。というのも、かれらの胸中には長年の怨みと、単独の血筋を誇る気持ちが満ちあふれていたからである。ともかく、ベルガラスはコロダリンをかたわらに連れてきて、かれと内々の話をした。ポルガラはポルガラでマヤセラーナを別の場所に引っぱって行き、長いこと話し合った。その時も、また後になってからも、ふたりの若者にどのような話がなされたかを知る者はいない。とにかく、ブランドの待つ場所に戻ってきたときには、マヤセラーナもコロダリンも甘んじて婚姻することに同意していたのである。そして、これがボー・ミンブルの戦いのあとで開かれた会議における幕となった。
北へ出発する前に、ブランドは最後にすべての王と貴族に声をかけた。
「この地でなされた様々の善きことは、いつまでも誉め称えられるであろう。見よ、われわれがアンガラクに対して力を合わせたおかげで、かれらは滅んだ。邪悪なトラクは鎮圧された。〈予言成就の日〉にはリヴァの王が復活し、同時にトラクが永き眠りから目覚めて帝国の領土を支配するために再び戦いをしかけるといわれているが、われわれがこの地で結んだ協定は、その時に対する西部側の備えなのだ。最後の大戦争に備えて今なすべきことはすべて終わった。もうこれ以上することはない。そして、偶然にも今日ここでアレンディアの傷が癒された。二千年以上つづいた争いがその終結を見たのだ。これまでのところ、わたしは事の成り行きにおおいに満足している。さあ、それではお別れだ!」
ブランドは人々に背を向けると、白髪のベルガラスと女王のようなポルガラに伴われて北に馬を走らせた。センダリアのカマールで一行は船に乗り、リヴァへ向かった。そして、ブランドはそれ以来西部の王国に二度と戻ることはなかった。
だが、ブランドの同伴者については、多くのことが語られている。その噂のうち、どれが真実でどれが嘘なのか、それを知る者はほとんどいない。
[#改丁]
第一部 アレンディア
[#改ページ]
1
ボー・ワキューンはもうなかった。このワサイト・アレンドの街が荒廃し、北部アレンディアの、暗く終わりのない森が廃墟を埋めつくしてから、すでに二十四世紀が過ぎている。壊れた壁は横倒しになって、林床に生息する苔や、湿った茶色のワラビに呑みこまれてしまった。木立と霧の中に朽ちていった、かつては街の誇りであった塔の残骸がかろうじてボー・ワキューンのあった場所を示しているだけである。湿った雪が霧に包まれた廃墟をおおい、大昔の岩の表面ではまるで泣いているかのように水滴がつたい落ちていく。
ガリオンは寒気をさけるために、灰色の丈夫なウール・マントをぴったりたぐり寄せながら、かれのまわりで涙を流している岩のように悲しい気分で、びっしりと木の生えた〈死の街〉の通りをひとりブラついていた。太陽の日ざしを浴びて青々とした土地が広がるファルドー農園からあまりにも遠ざかってしまったので、薄らいでいく霞の中にその地が消えてしまいそうな気がして、かれはむしょうに故郷が恋しくなった。いかにいっしょうけんめい心に留めておこうとしても、こまかなことがらは記憶からどんどんこぼれ落ちていく。ポルおばさんの台所にただようおいしそうな匂いですら、すでにボンヤリとした思い出になっていた。鍛冶場にひびくダーニクの金鎚の音も、最後の鐘の音がこだましながら消えてゆくようにだんだん小さくなっていく。そして、はっきりと覚えていた遊び友だちの顔も記憶の中で乱れはじめ、ついには会っても見分けられるかどうかあやしくなってしまった。かれの子供時代はどんどん遠ざかり、どんなに頑張ってみてもそれを止めることはできなかった。
すべてが変わりつつある。それが問題だった。かれの人生の中心にあったもの、かれの子供時代を支えていたもの、それはポルおばさんだった。ファルドー農園の単純な世界では、彼女はコックのマダム・ポルだった。でも、農園の門のこちら側の世界では、人間にはとうてい理解できないある使命のために、四千年の歴史を見守ってきた女魔術師、ポルガラなのだ。
さすらいの老語り部、ミスター・ウルフもまた変わってしまった。ガリオンは今ではこの昔からの友だちが実は自分の曾《ひい》曾おじいさん――このひい≠ヘさらにえんえんとつづく――なのだと知っていた。そして、いたずらっぽいしわだらけの顔の裏に、人間と神の愚行を観察しながら七千年ものあいだ世の中をながめ、待ちつづけてきた魔術師、ベルガラスの凝視が隠されているということも。ガリオンは溜息をつくと、霧の中をさらに歩いた。
かれらの呼び名は定まっていなかった。ガリオンは今まで呪術とか魔術とか妖術といったものを信じたいと思ったことは一度もなかった。そんなものは不自然だし、知覚できる堅固な現実という概念をおびやかすからだ。だが、慰めにしかすぎぬ懐疑心をいつまでも持ちつづけるには、かれはすでにあまりにたくさんのことを体験していた。おかげで、最後に残っていたほんの少しの懐疑心も、驚くほどあっという間に消えてしまった。かれがぼうぜんと見守るなか、ポルおばさんはひとつの動作とひとつの言葉で老婆マルテの目から乳白色の斑点を取りのぞいて視力を回復させたが、同時に容赦ない公正さをもって狂女の未来を透視する力を奪ってしまったのである。ガリオンは狂ったように泣き叫ぶマルテの声を思い出して、身震いした。ともかく、あの叫びは世界が老女にとって不確かで、とらえようもなく、計り知れないほど危険になったということを表わしていた。
自分が知っている唯一の場所から離れ、もっとも身近なふたりの人間の正体もわからなくなり、さらにありえること≠ニありえないこと≠区別する概念がすべて壊れてしまった今、ガリオンはまったく未知の人生に入り込んでしまったような気がしていた。木立に包まれたこの瓦礫の街で自分たちはいったい何をしているのだろう。ここを出発したら今度はどこに行くのか、まったく見当もつかなかった。かれに残されているただひとつの確かなことと言えば、一瞬たりともかれの脳裏に離れないおそろしい考えだった。この世のどこかにひとりの男がいる。そいつは、夜明け前の闇をくぐって忘れさられた村の小さな家に忍び寄り、ぼくの両親を殺したのだ。たとえ、これからの人生をすべて費やしても、ぼくはその男を捜し出してみせる。そしてそいつを見つけ出したあかつきには、命を奪ってやるんだ。ただひとつわかっているこの事実に、ガリオンは不思議な安堵感を覚えた。
通りにくずれ落ちた家屋の瓦礫を用心しながら上り、かれは荒廃した街をゆううつな気持ちで探検しつづけた。見るに値するものなどまったくなかった。たゆまぬ時間が、戦争が残していったものをほとんど消し去り、最後に残った痕跡でさえ、水っぽい雪と厚い霧が隠してしまっていた。ガリオンはもう一度溜息をつくと、かれら一行が昨晩過ごした、くずれかけている塔の廃墟に向かって、来た道を戻りはじめた。
かれが近づくと、ミスター・ウルフとポルおばさんは荒れ果てた塔からすこし離れたところで静かに話をしているところだった。老人の赤さび色の頭巾ははね上げられ、ポルおばさんは青いマントを身にまとっている。霧に包まれた廃墟を眺める彼女の表情には、時を超えた悔恨の色が浮かんでいた。彼女の長い黒髪は背中にこぼれ落ち、額のはえぎわにあるひとふさの白髪は足もとの雪より白く見えた。
「ガリオンが戻ってきた」ガリオンが近づいてくるのに気づいたミスター・ウルフは彼女に言った。
彼女はうなずいて厳めしい表情でガリオンを見た。「どこに行ってたの?」
「どこにも」ガリオンは答えた。「考えごとをしていただけだよ」
「それにしてはずいぶんと足を濡らしたものね」
ガリオンはびしょ濡れになった茶色のブーツの片方を持ち上げ、そこについている泥を見下ろした。「思ったより雪が湿ってたんだよ」ガリオンは言い訳した。
「そんな物を身につけて、本当に気分がいいのか?」ミスター・ウルフは、このごろガリオンがいつも身につけている剣を指した。
「アレンディアがどんなに危険な場所か、みんなが噂してるんだもの」ガリオンは弁解した。
「それに、これに慣れておく必要があると思って」かれはぎしぎしと音をたてる新品の剣帯を、針金細工をほどこした柄が見えなくなるまでわきにまわした。この剣は〈エラスタイド〉にバラクから贈られたもので、海の上で祭日を過ごしたさいにもらったいくつかの贈りもののひとつだった。
「ほんとうは、そんなものはおまえにふさわしくないんだがね」老人はすこし不満そうに言った。
「ほうっておきなさいよ、おとうさん」ポルおばさんはほとんど無関心に言った。「結局、それはこの子のものなんだから、もしこの子が身につけたければそうすればいいのよ」
「ヘターはもう着いていい頃だよね?」ガリオンは話題を変えようとして訊ねた。
「センダリア山地の深い雪に足を踏み入れてしまったのかもしれんな」ウルフは答えた。「そのうちに来るだろう。ヘターはかなり信頼のおける男だから」
「なんでカマールで馬を買わなかったの、ぼくにはわからないな」
「あそこの馬はあんまりよくないのだ」ミスター・ウルフは短くて白いひげをこすりながら答えた。「わしらの道のりは長い。途中どこかで、乗った馬が倒れてしまうなんてことで頭を悩ませたくないからな。あとになってから多くの時間を取られるより、今ここで少しの時間をさくほうがずっと賢明なのだ」
ガリオンは背に手をまわして首を掻いた。ウルフとポルおばさんが〈エラスタイド〉に贈ってくれた不思議な彫刻をほどこした銀のお守りが、そのあたりで肌をこするのだ。
「気にしないことよ、ガリオン」ポルおばさんはかれに言った。
「衣服の外に着けさせてくれればいいのに」かれは不満そうに言った。「チュニックの下じゃ誰にも見えないよ」
「地肌に着けておかなくちゃいけないのよ」
「あんまり気持ちよくないんだよ。外見は素敵だと思うよ、でも肌に冷たいこともあれば熱いときもあるし、時にはものすごく重く感じることがあるんだ。それに鎖がいつでも肌をこすってる。きっとアクセサリーに慣れてないからなんだろうね」
「それはただのアクセサリーじゃないのよ。まあ、そのうちに慣れるでしょう」
ウルフは笑い声をあげた。「おまえのおばさんがそれに慣れるのに十年かかったと知ったら、少し気分が楽になるんじゃないかね。わしはおばさんにちゃんと身につけておけ≠チていつも言い聞かせてたのだよ」
「今そんな話を持ち出さなくてもいいんじゃない、おとうさん」ポルおばさんは冷たく言った。
「おじいさんも持ってるの?」にわかにそのことが知りたくなって、ガリオンは老人に尋ねた。
「もちろんだ」
「ぼくたちはみんなこれをつけてるってこと?」
「これはわが一族の習慣なのよ」ポルおばさんは、この話題はこれでおしまい≠ニいう調子で答えた。冷たく湿った風が廃墟を駆けぬけるようにうずまいて通りぬけると、かれらのまわりに霧がたちこめた。
ガリオンは溜息をついた。「早くヘターが来てくれたらいいのに。この場所を離れたいな。ここはまるで墓地だよ」
「前はこんなじゃなかったのよ」ポルおばさんはとても静かに言った。
「どんなふうだったの?」
「ここにいた頃は幸せだったわ。壁は高く、塔もそびえ立っていた。そんな状態が永遠につづくだろうって誰もが信じてたのに」彼女は、冬枯れしたイバラの葉が朽ちた岩をびっしりとおおっているあたりを指さした。「あの辺りは花でいっぱいの庭園だったわ。淡い黄色のドレスを着た淑女たちがいつもあそこに座って、庭の壁の向こう側から若い男性が歌いかけていたものよ。かれらの歌声があまりにも心地よいので、淑女たちは溜息をついて真っ赤なバラを壁の向こうに放ってたわ。あの通りを下ったところには大理石を敷きつめた広場があって、老人はそこに集まって忘れられた戦争のことや、死んでいった仲間のことを話しあっていた。その向こうにはテラスつきの家があったわ。わたしは夜になると友だちとそこに座って星が出てくるのを眺めたものよ。その間、給仕は冷たい果物を運んでくれて、ナイチンゲールはもの悲しげな声で歌ってくれた」彼女の声は静寂の中に吸い込まれていった。「でも、やがてアストゥリア人がやってきたのよ」彼女は先をつづけたが、声の調子は変わっていた。「千年かかって築いたものが、あんなにあっという間に崩壊してしまうのを見たら、あんたもきっと驚いたでしょうね」
「いつまでもくよくよ考えるな、ポル」ウルフは彼女に言った。「そういうことも時にはあるさ。わしらにはどうしようもないことなんだ」
「わたしにはなにかできたはずよ、おとうさん」彼女は、廃墟を見やりながら答えた。「でもおとうさんはわたしになにもさせてくれなかった、そうでしょ?」
「またその話を持ち出さなくてはならんのか、ポル?」ウルフはつらそうに訊いた。「失ったものは失ったものとして受け入れるようにしなくちゃいかん。とにかく、ワサイト・アレンドは滅んだのだ。おまえが頑張ったところで、運命を二、三ヵ月遅らせるのが精一杯だったろうよ。今のわれわれは、もうそういったどうしようもないことにかかずらわってはいられないのだ」
「前にもそう言ったわね」彼女は、霧のたちこめた人通りのない道にぼんやりと並んでいる木木を見渡した。「木がこんなに早く再生するとは思わなかったわ」彼女は奇妙に声をとぎらせながら言った。「もう少し待ってくれると思ったのに」
「そろそろ二十五世紀が過ぎるんだぞ、ポル」
「ほんとうに? つい去年のことのようだわ」
「もう思いわずらうな。悲しくなるだけだ。中に入らないか? どうやら霧のおかげでわしらの気持ちは少々ゆううつになっているようだ」
驚いたことに、かれらが塔のほうに向き直ると、ポルおばさんはガリオンの肩に腕を回した。彼女の香りとその親密なしぐさに、かれは胸がいっぱいになった。彼女にふれられたことによって、ここ数ヵ月のうちに大きくなったふたりの距離が消えてしまったように思えたのだ。
塔の地下にある部屋は、時間の経過にも、静かにひげ根をはりめぐらす木の根にも動かすことのできない、ひどく頑丈な岩からできていた。巨大な浅いアーチが低い天井を支えていて、それが部屋をほら穴のように見せていた。小さな入口と向き合った部屋のはずれには、粗く刻まれたふたつのブロックのあいだに大きな裂け目があって、それが天然の煙突をつくっていた。かれらが寒気と湿気に包まれてここに到着した昨夜、ダーニクはこの裂け目のことを真剣に考慮して、すぐさま荒石を使って雑ではあるが正式に使える暖炉をこしらえた。「これでなんとかなるだろう」鍛冶屋のダーニクは言った。「あまり立派とは言えないが、二、三日ならこれで十分だ」
ウルフとガリオン、それにポルおばさんが低いほら穴のような部屋に入っていくと、暖炉の真っ赤な炎が音をたてながら燃えあがり、低いアーチのあいだにぼんやりと影をうつし、温かくかれらを出むかえてくれた。茶色の革のチュニックを着たダーニクは、壁ぎわに薪を積んでいるところだった。鎖かたびらを着た、大柄で赤ひげのバラクは自分の剣を磨いている。漂白していないリネンのシャツと黒い革のベストを着たシルクは荷物のひとつにのんびりともたれかかって、一対の骰子《サイコロ》で遊んでいる。
「ヘターはまだ戻りそうにないのか?」バラクは顔をあげて訊いた。
「まだ一日かそこら先だな」ミスター・ウルフはそう答えて、暖を取るために暖炉のところに行った。
「ブーツを取り替えたらどうなの、ガリオン?」ポルおばさんは、ダーニクが壁の隙間に打った掛け釘のひとつに自分の青いマントをかけながら言った。
ガリオンは別の掛け釘から自分の荷物を下ろすと、中をかきまわしはじめた。
「靴下もよ」おばさんはつけ加えた。
「霧は晴れそうですか?」シルクはミスター・ウルフに訊いた。
「見込みはないな」
「もしあなたがた全員を暖炉の前から追い出せたら、夕食を用意しようと思うんですけど」ポルおばさんは突然、ひどくてきぱきした調子で言った。彼女は料理をするときはいつもそうするように、軽く鼻唄を歌いながら、ハムと田舎風の黒パンを二、三かたまり、乾燥豆を一袋、それに革のように堅そうな人参を十二、三本取り出した。
翌朝、朝食がすむと、ガリオンは羊毛の裏地をつけたオーバーコートを着て、剣を帯び、ヘターを迎えるためにふたたび霧に包まれた廃墟に出かけていった。これはかれが自らに課した仕事なのだが、ありがたいことにかれの友だちの誰ひとりとしてこの日課に反対するものはいなかった。崩壊した街の西門に向かって、半溶けの雪におおわれた道を歩きながら、かれは意識して昨日みんなの気持ちを暗くしたあの憂鬱がのしかかってこないようにしていた。どうせ環境をどうにもできないのだから、くよくよ考えてみてもにがい思いが残るだけだ。西門に近い一枚の低い塀にたどり着くころには、申しぶんなく元気とまではいかないが、それほど憂鬱でもなくなった。
塀がいくらか保護の役目をしていたが、それでも湿った寒気がかれの服を吹き抜け、両足はすでに冷たくなっていた。かれは身震いをひとつすると、腰をおろしてヘターを待った。霧の中で遠くを見ようとしても無駄なことなので、かれは耳に神経を集中した。耳はやがて塀の向こうの森の音を聞き分けるようになった。木から落ちる水滴の音や、時おり雪が枝からすべり落ちるときの音、数百ヤード離れた枯れた大枝の上からは、キツツキがたてる音が聞こえる。
「あれはおいらの牛だぞ」突然、霧の中から声が聞こえてきた。
ガリオンはぎょっとして、その場にじっとうずくまったまま聞き耳をたてた。
「それなら自分の牧草地から出すんじゃねえよ」すぐに別の声が言い返した。
「ラメール、あんたか?」最初の声が訊ねた。
「そうとも。そういうおまえはデットンじゃねえか?」
「あんただってわからなかったよ。もうどのくらいたつかねえ?」
「四年か五年ってとこだろう」ラメールは言った。
「あんたの村はどんな調子だい?」デットンが聞いた。
「みんな腹をすかしてるよ。税がおれたちの食い物をみんな取り上げちまうんだ」
「おいらのとこもそうさ。ずっとゆでた木の根っこを食ってるんだから」
「そいつはまだ試してねえな。おれたちは靴を食ってるぜ」
「奥さんは元気かい?」デットンはていねいに訊いた。
「昨年死んだよ」ラメールは平坦な、感情のない声で答えた。「領主がおれたちの息子を兵隊に取ってな、息子はどこかの戦場で殺された。敵が煮えたぎった松ヤニをかけやがったのさ。そのあと女房は食べるのをやめちまったんだ。あの世にいくのにそう長くはかからなかったよ」
「気の毒に」デットンは同情して言った。「すごくきれいなひとだったのにな」
「ふたりとも死んだほうがよかったんだ」ラメールは言った。「もう寒い思いやひもじい思いをせずにすむんだから。ところで、どんな木の根っこを食ってるんだ?」
「樺が一番おいしいよ」デットンはかれに言った。「檜はヤニが多すぎるし、樫は堅すぎる。根っこといっしょに草をすこしゆでると、いくらか味がつく」
「そりゃあ、ぜひ試してみねえとな」
「もう戻らないと」デットンが言った。「領主はおいらに木をかたづけさせてるんだが、あんまり長く持ち場を離れると、おいらをムチで打たせるんだよ」
「またそのうちに逢えるだろう」
「ふたりとも生きてたらな」
「あばよ、デットン」
「じゃあな、ラメール」
ふたりの声が遠ざかっていった。ガリオンはかれらが去ったあとも、しばらくその場にじっとしていた。かれはショックでしびれ、目には同情の涙が浮かんでいた。いちばんやるせないのは、かれらふたりがすべてを当然のこととして受け入れてしまっていることだ。喉のあたりで、怒りがメラメラと燃えはじめた。かれは不意に誰かを殴りたい衝動に駆られた。
とその時、霧の中から別の物音が聞こえてきた。森のどこか近くで誰かが歌を歌っている。歌声は軽やかで澄んだテノールだ。声が近づくにつれ、ガリオンははっきりとそれを聞くことができた。その歌は昔の過ちを歌ったもので、繰り返しの部分は戦いへの呼びかけだった。いつしかガリオンの怒りは、この見知らぬ歌手《うたいて》に向けられていた。ラメールとデットンの静かな絶望を考えると、その男の机上の理論にしかすぎぬ不法に対する安直な叫びがどうにも我慢ならなかったのだ。ガリオンは剣を抜くと、崩れた塀のうしろにそっと身をかがめた。
歌声はさらに近くなり、湿った雪の中を歩く馬蹄の音が聞こえてきた。ガリオンが塀のかげからそっと頭を出すと、二十歩と離れていない霧の中から歌手が姿を現わした。黄色のズボンと真っ赤な胴着を着た若者だった。毛皮の裏打ちをしたマントを後ろにはらい、片方の肩から彫刻の入った長い弓をぶら下げ、反対側の腰にはきちっと鞘におさめた剣を携えている、羽かざりをつけたとんがり帽子の下に、赤みがかった金髪がなだらかに垂れている。残酷な歌詞を、感情をこめて声まで震わせながら歌っているのだが、その若々しい顔にはしかめっ面がよってたかっても消せないような、人なつっこい大らかさのようなものがあった。ガリオンは頭のかるそうなこの青年貴族を見つめ、こいつは木の根っこを食べたり、悲しみのあまり断食して命を絶った奥さんの死を嘆いたことなんか絶対にないんだ≠ニ思った。青年はまだ歌ったままで馬の進路を変えると、わきでガリオンが待ち伏せしている、こわれた門のアーチに向かってまっすぐ馬を進めた。
ガリオンはもともと好戦的な少年ではなかったから、こんな状況でなければもっとちがった態度で事態にのぞんだかもしれない。が、しかし、この派手で若いよそ者は、ちょうど間の悪い時にやって来たのだ。ガリオンのとっさの思いつきには、単純さ≠ニいう強みがあった。思いつきを複雑にするようなものは何も持ちあわせていなかったから、実にうまく事が運んだ――ある程度までは。歌好きな青年が門を通り抜けたとたん、ガリオンは隠れ場所から歩み出て、マントを後ろからつかみ、かれを鞍から体ごと引きずり下ろした。驚きの叫びと水しぶきがあがり、よそ者はぶざまな恰好でガリオンの足もとのぬかるみに背中から落ちた。だが、ガリオンの計画の二つめはまったくの失敗に終わった。かれが剣で威嚇しようとしたちょうどその時、まるでひとつの動作をするような調子で、若者は体を回転させて立ち上がり、自分の剣を抜いたのだ。若者の目は怒りで燃え立ち、剣は今にも襲いかからんばかりに揺れている。
ガリオンは剣士ではないが反射神経はすぐれていたし、ファルドー農園での雑用で筋肉もついていた。最初は攻撃的になるほど怒っていたが、かれはほんとうにこの若者を傷つけたいとは思っていなかった。敵は、だらりとぶらさげるぐらいに剣を軽く握っているように見えたので、ガリオンは刃を鋭く一撃すれば手から落とすことができるだろうと考えた。かれはすばやく剣を握った。だが相手の刃はガリオンの猛攻をさっとかわし、かれの鍔のあたりに一撃を加えてきた。ガリオンは飛び退いて、不器用にもうひと振りした。剣はふたたび音をたててぶつかり合った。ふたりがぶつかり合ったり、攻撃をかわしたり、牽制したりするにつれて、ガチャガチャ、ゴシゴシいう音や鐘のようなガラガラという音があたりに響きわたった。ガリオンは一瞬のうちに敵は剣にかけてはぼくよりかなり上手だが、攻撃する機会を何度か見送っている≠ニ悟った。かれは騒々しい競争に興奮して、思わず歯をむきはじめた。よそ者もそれに応えてニヤリと笑ったが、そのようすはあけっぴろげで、親しげでさえあった。
「よーし、それでおしまいだ!」ミスター・ウルフの声だった。かれはバラクとシルクをすぐうしろに従えながら、二人のほうに大股に歩いてきた。「自分たちがいったい何をしてるかわかってるのか?」
ガリオンの敵はハッとして老人を見ると、剣をおろして言った。「ベルガラス――」
「レルドリン」ウルフの声は痛烈だった。「きみはそんな初歩的な判断力もなくしてしまったのか」
ウルフにひややかな視線を向けられたとたん、ガリオンの頭の中でいくつかのことがらがぴったり一致した。「さあ、ガリオン、事情を説明してもらおうかね?」
ガリオンはとっさに嘘をつくことにした。「おじいさん」かれはわざとこの語を強調し、若者にさっと警告の視線を向けながら言った。「まさかぼくたちが本気で闘ってたと思ってるんじゃないでしょう? レルドリンは攻撃を受けた時、どうやって剣を防いだらいいか教えてくれてただけなんだよ」
「本当かね?」ウルフはいぶかしそうに訊ねた。
「もちろんだよ」ガリオンは今度はすっかり無邪気に言った。「ぼくたちがお互いに傷つけ合おうとする理由なんてある?」
レルドリンが口を開きかけたが、ガリオンはわざとかれの足を踏んだ。
「レルドリンはすごく腕がいいんだよ」かれはあわててそう言うと、親しそうに若者の肩に手をおいた。
――そのままにしておけ――シルクの指がドラスニアの謎言葉のジェスチャーでちらちらと合図を送ってきた。――嘘はさりげなくつくものだ――
「この少年はすじのいい生徒ですよ、ベルガラス」レルドリンはやっと事情を理解して、ぎごちなく言った。
「すくなくとも勘はいいな」ミスター・ウルフはそっけなく答えた。「そのけばけばしい恰好には何かわけがあるのかね?」かれはそう言ってレルドリンの派手な服を指した。「まるでメイポール([#ここから割り注]五月祭に使う飾り柱のこと[#ここで割り注終わり])じゃないか」
「ミンブレイトが尋問のために正直なアストゥリア人を拘留しはじめたんです。やつらの砦をいくつか通らなくてはならなかったので、やつらのこしぎんちゃくみたいな恰好をしてれば捕まらずにすむと思ったんです」アレンド人の若者が説明した。
「きみは意外と分別があるようだな」ウルフはしぶしぶ認めた。それからシルクとバラクのほうを向くと、「こちらはレルドリン、ワイルダンター男爵の息子だ。わしらの仲間に加わってもらう」
「ベルガラス、そのことでちょっとお話があるんですが」レルドリンがすばやく口をはさんだ。
「父にここに来るように言われて、逆らえなかったんです。でも、今ぼくはものすごく急を要する用事に関わってるんですよ」
「アストゥリアの若い貴族っていうのは誰でも、ひとつやふたつぐらいは急ぎの用事に関わっているものだ。悪いが、レルドリン、わしらが関わってる事件はもっとずっと重要で、きみがミンブレイトの収税吏のふたり組を待ち伏せしているあいだ延ばしておけるようなものではないのだ」
その時、霧の中からポルおばさんが近づいてきた。脇にはダーニクが彼女を護るようにさっそうと歩いている。「この子たちは剣を持って何をしてるの、おとうさん?」彼女は目を光らせて聞いた。
「お遊びさ」ウルフは短く答えた。「少なくとも、かれらはそう言っておる。こちらはレルドリン。かれのことは前に話したと思うが」
ポルおばさんは片方の眉をあげて、レルドリンを頭のてっぺんからつまさきまで眺めた。
「ずいぶん派手な青年だこと」
「それは偽装なのだ」ウルフは説明した。「かれはそれほど軽薄じゃない――少なくともただのお調子者じゃなさそうだ。かれはアストゥリア一の弓の名手だ。この仕事をかたづけるまでに、かれの腕が必要になる時がきっと来るだろう」
「そうね」彼女はいくらか半信半疑だった。
「もちろん理由は他にもある。だが今この場でそれを持ち出すこともなかろう?」
「まだあの一節にこだわってるの、おとうさん?」彼女はいらいらしながら聞いた。「ムリン古写本なんてまったくあてにならないわ。それに他の版も、あれに書いてあった人々のことは何も言ってないでしょ。ただの寓意物語なのよ」
「その点で賭けをはじめるには、わしはまったくの事実にうらがえった寓意物語をすこしたくさん見すぎたようだな。塔に戻らんか。ほかの版について長々と討論するにはここはちょっと寒くて湿っぽい」
ガリオンはこのやりとりにまごついてシルクを見たが、小男もまた不可解な顔で視線を返すだけだった。
「馬をつかまえるのを手伝ってくれないかな、ガリオン?」レルドリンは剣を鞘におさめながら、ていねいに言った。
「もちろんさ」ガリオンも剣をしまいながら答えた。「あっちの方に行ったと思うけど」
レルドリンが弓を拾うと、ふたりは廃墟の中へとひづめの跡を追った。
「馬から引き離しちゃって、ごめんよ」他の仲間から見えないところまで来ると、ガリオンは謝まった。
「気にするなよ」レルドリンはのんきそうに笑った。「ぼくがもっと注意しとけばよかったんだ」それから、いぶかしげにガリオンの顔を見ると、「なんでベルガラスに嘘をついたんだい?」
「まるっきり嘘でもないよ。ぼくたちはほんとうに傷つけ合おうとしてたわけじゃないんだから。それに、こういうことを説明しようとすると、何時間もかかることがあるだろ」
レルドリンはもう一度魅力的な笑顔を見せた。ガリオンも思わず一緒に笑わずにはいられなかった。
ふたりは笑いながら、樹木のおい茂る通りを歩きつづけた。通りの両側にある低い瓦礫の山には湿っぽい雪が積もっていた。
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ワイルダンターのレルドリンは十八歳だったが、無邪気な性格のおかげで子供っぽく見えた。どんな感情でもかれは少しもためらうことなく表にあらわし、おかげで率直さがあたかもかがり火のごとく顔に輝いていた。かれは感情にかられやすく、大仰なもの言いをし、ガリオンは認めたくはなかったのだが、どうやらレルドリンはさほど利口とはいえなかった。それでも、ガリオンはかれを好きにならずにはいられなかった。
翌朝、ガリオンがマントを着てひきつづきヘターを待ちに出かけようとすると、レルドリンがすかさずついてきた。レルドリンはけばけばしい服を着替え、今は茶色のズボンと緑のチュニック、それに濃い茶色の毛織りケープという恰好をしている。弓を持ち、ベルトには矢筒をたずさえ、雪の中をくずれた西門に向かって歩きながら、前方の半分ぐらいしか見えない的に矢を命中させては、自分で驚いている。
「きみはものすごく腕がいいんだね」ガリオンはほんとうに見事な一撃のあとで、感心して言った。
「アストゥリア人だからな」レルドリンは謙虚に言った。「ぼくらはもう何千年も弓を引いてるんだ。親父《おやじ》はぼくが生まれたその日にこの弓のリムを切らせたんだけど、八歳になるころにはもう引けるようになってたよ」
「きっとたくさん狩りをしただろうね」ガリオンはあたりのうっそうとした森や、雪の中で見た獲物の足跡のことを思いながら言った。
「狩りはぼくらのもっとも一般的な娯楽だからな」レルドリンは立ち止まって、木の幹から今しがた射ったばかりの矢を引き抜いた。「親父は食卓に牛肉や羊肉がのらないのをひそかに自慢してるんだ」
「一度チェレクで狩りをしたことがあるよ」
「鹿かい?」レルドリンは聞いた。
「ううん、野生の猪さ。でも弓は使わなかったな。チェレク人は槍で狩りをするんだ」
「槍だって? 槍なんかで何かを殺せるくらいまで近づけるのかい?」
ガリオンはあばら骨の打撲と頭痛のことを思い出して、ちょっぴり悲しそうに笑った。「近づくことはそれほどたいへんじゃない。難しいのは、槍で突いたあと逃げることなんだ」
レルドリンはよくわからない、といった顔をしている。
「まず猟師が隊列を組むんだ」ガリオンは説明した。「そして、できるだけ騒々しい音をたてながら、森の中を突っ走っていく。きみは槍を持って、騒音から逃れようとする猪が通りそうな場所で待ってるんだ。猪は追いかけられて気がたってるから、きみを見るなり突進してくる。その時さ、きみが槍で突くのは」
「危なくないのかい?」レルドリンは目をまるくして聞いた。
ガリオンはうなずくと、「ぼくはもうすこしであばら骨をぜんぶ折るところだったよ」かれは自慢しているつもりはまったくなかったが、実は、レルドリンが自分の話に反応してくれたことがうれしかった。
「アストゥリアには獰猛な獣はそう多くないんだ」レルドリンは羨むように言った。「熊がすこしと、時たま狼の群れがいるくらいだな」かれはちょっとのあいだ口ごもっていたが、やがてまじまじとガリオンの顔を見た。そして意味ありげに横目でかれを見ながら、「でも、中には野生の動物よりもっと面白い獲物を見つける人間がいるんだ」と言った。
「えっ?」ガリオンはなんのことだかよくわからなかった。
「アストゥリア内にミンブレイト人が多すぎる、と考えている者がいるんだ」レルドリンは重重しくアクセントをつけて説明した。
「アレンド人の内戦はもう終わったのかと思ってたよ」
「そう思っていない人間も大勢いるのさ。アストゥリアがミンブレイト王室の支配を離れるまで戦争はつづくと思ってる人間がね」レルドリンがどちらの意見に立っているのかはその声を聞けばすぐにわかった。
「この国は〈ボー・ミンブルの戦い〉のあと統一されたんじゃなかったの?」
「統一だって? そんなこと誰が信じるもんか。アストゥリアは属国のように扱われてるんだぞ。王宮はボー・ミンブルにあって、王国内の知事も、収税吏も、執行吏も、長官も、みんなミンブレイト人なんだ。権力のある地位についているアストゥリア人は、アレンディア中にただのひとりもいない。ミンブレイト人はぼくたちの称号さえ認めようとしない。ぼくの親父は千年もつづいた血筋の持ち主なのに、地主よばわりされてるんだ。親父を男爵と呼ぶくらいなら、あいつらは舌を噛み切っちまうだろうよ」レルドリンの顔は抑えつけられた憤りで、蒼白になった。
「知らなかったよ」ガリオンはレルドリンの怒りにどう対処していいのかわからず、慎重に言った。
「でも、アストゥリアの屈辱ももうすぐ終わりだ」レルドリンは熱っぽく言った。「アストゥリアの中にはまだ愛国心を失くしてない人間が何人かいるんだ。そういう人間が王室の獲物を捕らえる日もそう遠くない」かれは遠く離れた木にピシッと矢を放って、その言葉を強調した。
これでガリオンのもっとも恐れていたことが、確かになった。その計画に関わっていないにしては、レルドリンはこまかいことまで知りすぎている。
言いすぎてしまったことを悟ったらしく、レルドリンはハッとしてガリオンの顔を見た。
「馬鹿だな」かれは申し訳なさそうな顔をしながら、やぶからぼうに言った。「ぼくは舌をコントロールするってことを知らないんだ。今しゃべったことは忘れてくれ、ガリオン。きみはぼくの友だちだから、その場のはずみでぼくが言ったことを漏らしたりしないよな」
ガリオンの恐れていたのはこれだったのだ。この一言でレルドリンはガリオンの口をうまく封じてしまった。ミスター・ウルフが無謀なたくらみを警戒することはわかっていたが、レルドリンの友情宣言と信頼のおかげで、かれに知らせることができなくなったのだ。重くるしい道徳的なジレンマの矢面に立たされたガリオンは、欲求不満で歯ぎしりしたい気分だった。
二人はどちらも口を開かずに、すこし当惑したまま歩きつづけ、やっと昨日ガリオンが待ち伏せしていた塀に到着した。しばらくのあいだかれらは霧の中に視線を向けていたが、そのうちにわざとらしい沈黙がますます居心地悪く思えてきた。
「センダリアってどんなところ?」レルドリンが急に沈黙をやぶった。「ぼくは行ったことがないんだ」
「木はあまり多くないな」ガリオンは霧の中に並ぶ幹を塀こしに眺めながら答えた。「秩序正しいところだよ」
「センダリアのどこに住んでたんだい?」
「ファルドー農園さ。エラト湖の近くの」
「そのファルドーってひとは貴族?」
「ファルドーが?」ガリオンは笑った。「ちがうよ、ファルドーは腰がひくくてやさしいひとさ。ただの農夫だよ――礼儀正しくて、正直で、とっても心の温かいひとなんだ。ファルドーに会えなくなってさびしいよ」
「じゃあ、平民なのか?」その声を聞くかぎりレルドリンは、ファルドーを取るにたらない男と見なしたようだった。
「センダリアでは身分はたいした問題じゃないんだ」ガリオンはすこし語気を鋭くした。「そのひとが誰なのかということより、何をやっているかということのほうが重要なんだよ」かれは顔をしかめた。「ぼくは皿洗いだったんだ。そりゃあ、あんまり楽しくはないけど、誰かがそれをやらなくちゃいけないんだとぼくは思うよ」
「農奴じゃないんだろ?」レルドリンは驚いているようだった。
「センダリアには農奴はいないよ」
「農奴がいない?」レルドリンは理解できないといった顔で、ガリオンを眺めた。
「そうさ」ガリオンはきっぱりと言った。「センダリアのひとたちは農奴が必要だと思ったことはないんだよ」
レルドリンがこの考え方に戸惑っていることは、顔色を見れば一目瞭然だった。ガリオンは昨日霧の中から聞こえてきた声を思い出したが、農奴制のことをとやかく言うつもりはなかった。レルドリンにはきっと理解できないだろうし、それに、ふたりはもうすこしで本当の友だちになれそうなのだ。ガリオンは今友だちが必要だと感じていたので、この好青年を怒らせるようなことを言ってすべてを台無しにしたくなかった。
「きみのおとうさんはどんな仕事をしてるんだい?」レルドリンはていねいに聞いた。
「おとうさんは死んだんだ。おかあさんも」ガリオンは、こんなこともさらりと言ってしまえばあまりつらくないものだと思った。
レルドリンの目には、にわかにあわれみの色が浮かんだ。かれは慰めるようにガリオンの肩に手をおいた。「気の毒に」ほとんど涙声だった。「ずいぶんがっかりしただろうな」
「ぼくはまだ赤ん坊だったんだ」そのことにこだわっていないように聞こえるよう努力しながら、ガリオンは肩をすくめた。「両親のことさえ覚えていないんだから」問題があまりに個人的なので、かれはまだ話す気にはなれなかったのだ。
「流行病か何か?」レルドリンはやわらかく訊ねた。
「ううん」ガリオンはさっきと同じく、単調な声で答えた。「殺されたんだよ」
レルドリンは息を止めて、目をまるくした。
「夜、ひとりの男が両親の住んでいる村に忍び込んで、家に火をつけたんだ」ガリオンは冷静に話をつづけた。「ぼくのおじいさんがそいつを捕まえようとしたけど、そいつはうまく逃げたのさ。どうやら、その男はずいぶん昔からぼくの家族の敵らしいんだ」
「もちろん、そのまま放っておくつもりはないんだろう?」レルドリンは聞いた。
「うん」ガリオンは霧の中を見つめたまま、答えた。「十分な年齢になったらすぐにでも、そいつを探し出して、殺すつもりだよ」
「そうこなくっちゃ!」レルドリンはとつぜんガリオンをきつく抱きしめて、叫んだ。「ぼくたちでそいつを見つけて、めちゃめちゃに切り刻んでやろう」
「ぼくたち?」
「もちろんぼくもいっしょにやるよ」レルドリンは叫んだ。かれが感情にかられてそう言ってるのは明らかだったが、本心から言っているということも明らかだった。かれはガリオンの手をきつく握った。「本当だよ、ガリオン、きみの両親を殺したやつをきみの足もとにくたばらせるまで、ぼくの気持ちは休まらない」
この突然の宣言は予想されていたことだった。ガリオンは口をすべらせてしまった自分をひそかに責めた。この件に対するかれの気持ちはしごく個人的なことだったから、顔なき犯人をさがすのに仲間が必要なのかどうか、自分でもよくわからなかった。けれども、心のどこかでは、たしかに衝動的だが有無を言わさないレルドリンの応援をうれしく感じている。かれはこの話題を打ち切ることにした。ガリオンも今ではレルドリンのことがよくわかるようになっていたから、この若者がきっと一日に十二回くらいは心からの約束をしてしまうことは察しがついた。あっと言うまに心からの約束をして、あっと言うまに忘れてしまうのだ。
それから、かれらはくずれた塀のわきで、黒っぽい色のマントにしっかり身を包みながら、別のことを話した。
昼すこし前、森の中から馬のひづめの音がかすかに聞こえてきた。数分後、霧の中から野生とおぼしき十二頭の馬をしたがえたヘターがあらわれた。長身のアルガー人は丈の短い、羊毛の裏地をつけた革のケープを着ていた。ブーツには泥がはねあがり、服は旅の汚れが染みついているが、それ以外は馬の上で二週間も過ごしたとはとても思えなかった。
「ガリオン」かれが挨拶のつもりでおごそかに呼びかけると、ガリオンとレルドリンは前に進み出てかれを迎えた。
「ずっと待ってたんだよ」ガリオンはそう言ってからレルドリンを紹介した。「みんなが待ってる場所に案内するよ」
ヘターはうなずくと、二人の青年を追って廃墟を抜け、ミスター・ウルフと他の者が待っている塔にむかった。「山に雪が降ってたんです」ヘターは弧をえがいて馬をおりながら、弁解のつもりで手短に言った。「それで少し遅れたんです」かれは剃りあげた頭から頭巾をぬぐと、頭皮に残したひとふさの長い黒髪をさっと振った。
「べつに問題はない」ミスター・ウルフが答えた。「さあ、中に入って火にあたりながら何か食べなさい。話したいこともたくさんあるから」
ヘターは馬を見た。風雨にさらされた褐色の顔は、まるで何かに精神を集中しているようにうつろだ。どの馬も何かを警戒するような目でかれを見返し、耳を前方にピンと立たせている。やがて馬はきびすを返すと、足下に注意しながら木立の中に消えていった。
「はぐれないでしょうか?」ダーニクは訊ねた。
「ええ、よく言ってきかせましたから」
ダーニクは不思議そうな顔をしたが、そのままやり過ごした。
かれらは塔の中に入り、暖炉のそばに腰を落ち着けた。ポルおばさんはかれらのために黒パンとうす黄色のチーズを切り、ダーニクは薪を新たに火にくべた。
「チョ・ハグは氏族の長《おさ》たちに伝言を送りました」ヘターはケープを脱ぎながら報告した。かれは折り曲げ可能なよろいの役目をする、はがねの円板を鋲で打ちつけた、黒い長袖のなめし革の上着を着ていた。「かれらは〈砦〉に集まって会談することになってます」かれは彫刻の入ったサーベルをはずしてかたわらにおくと、火の近くに座って食べものを口にした。
ウルフはうなずいた。「誰かプロルグに向かおうとしている者はおるのか?」
「出発する前にぼくの隊をゴリムのところに送りました」ヘターは答えた。「もしそれをやり遂げる者がいるとしたら、それはかれらだと思います」
「そう祈るよ」ウルフは言った。「ゴリムはわしの古くからの友人だ。すべてが完了するまでに、かれの助けを必要とすることがきっとあるだろうから」
「あなたがたはウルゴ人の土地が怖くないんですか」レルドリンが礼儀正しく聞いた。「あそこには人肉を食べて生きている怪物がいるって聞いてますけど」
ヘターは肩をすくめた。「やつらは冬のあいだはほら穴の中にいるんだ。それに、騎馬隊をまるごと襲うほど、勇ましくはない」それからミスター・ウルフのほうを見ると、「南部センダリアの人がマーゴ人に取り入ってるようですよ。あるいはもうご存知でしたか?」
「残念ながら知らんな。とくに何かをさがしてるような様子はあったかね?」
「ぼくはマーゴ人とは口をききませんから」ヘターは素っ気なく言った。この瞬間、ワシ鼻と険しい目つきが、かれを獲物めがけて急降下するタカのように見せた。
「もっと遅く帰ってこなかったのが不思議なくらいだな」シルクはからかって言った。「きみのマーゴ嫌いは世界中に知れわたってるぞ」
「衝動にかられて行動したこともありますよ」ヘターは認めた。「街道で、二人きりでいるマーゴ人に出くわしたんです。たいした手間はかからなかった」
「たった二人なら、気に病むことはないさ」バラクはヘターの肩をもってうなるように言った。
「そろそろ本題に入ろうと思うんだが」ミスター・ウルフはチュニックの前のパンくずをはらった。「きみたちのほとんどが、われわれのしていることについてなんらかの考えを持ってると思う。だが、わしとしてははずみでへまをやらかす人間は必要ない。われわれはゼダーという名の男を追っている。やつはかつてわしの〈師〉の弟子だったが――やがて、トラクに寝返った。去年の秋のはじめ、やつはどうしたわけかリヴァの謁見の間に忍び込み、〈アルダーの珠〉を盗んだ。やつを追いかけて〈珠〉を取り戻すのがわれわれの使命だ」
「そいつも魔術師なんですか?」バラクは太い赤毛の三つ編みを無造作に引っぱりながら訊ねた。
「わしらはそんな言葉は使わないが、そういうことだ。やつはそのたぐいの力をかなり持っている。わしらはみんなそうだ――わしもベルティラもベルキラもベルゼダーも――その他の仲間も。そのことについてもひとつ注意しておきたいんだが」
「あなたがたはみんな同じような名前を持ってるんですね」シルクが言った。
「〈師〉がわしらを弟子に取る時、名前を変えて下さったのだ。簡単な改名だが、わしらにとっては大きな意味を持っている」
「ということは、あなた本来の名前はガラス?」シルクは抜かりなく、イタチのような目を細めた。
ミスター・ウルフは困ったような顔をしたかと思うと、急に笑い出した。「その名前はもう何千年も耳にしてないな。あんまり長いことベルガラスでいたから、ガラスのほうはほとんど忘れておった。まあ、そのほうがいいのかもしれん。ガラスは厄介な少年だった――とくに盗みと嘘に関しては」
「いくつになっても変わらないものってあるわね」ポルおばさんが感想をもらした。
「完璧な人間などおらん」ウルフはぶっきらぼうに言った。
「どうしてゼダーは〈珠〉を盗んだんです?」ヘターは皿をわきに置きながら聞いた。
「やつはかねてからあれを自分のものにしたがっていたのだ。あるいはそれが理由かもしれん――だが、あれをトラクのところに持っていこうとしてる可能性のほうが強い。〈珠〉をあの〈片目〉に持っていった者は、あいつの寵愛を受けられるからだ」
「でもトラクは死んでるんですよ」レルドリンは反論した。「〈リヴァの番人〉がボー・ミンブルで殺したんだから」
「いや、トラクは死んでない。眠ってるだけだ。ブランドの剣はあいつを殺せるような代物ではなかったのだ。戦いのあと、ゼダーはあいつを運び去ってどこかに隠した。いつかトラクは目覚めるだろう――わしの読みが正しければ、それはごく近い将来だ。それが起こる前に、われわれは〈珠〉を取り返さねばならんのだ」
「そのゼダーっていうやつはずいぶん問題を起こしてるんだな」バラクはブツブツ言った。
「もっと前になんとかしてしまえばよかったのに」
「そうかもしれん」ウルフはうなずいた。
「腕をひと振りして、そいつを消してしまったらどうです?」太い指でジェスチャーをまじえながらバラクが言った。
ウルフは首を横に振った。「不可能だ。たとえ神でもそれはできん」
「となると、われわれはかなり大きな問題をかかえてることになるな」シルクが顔をしかめた。
「こことラク・ゴスカの間にいるマーゴ人はわれわれがゼダーを捕まえるのをことごとく止めにかかるだろう」
「そうとは限らん。たしかにゼダーは〈珠〉を手に入れたが、クトゥーチクにはグロリム僧がついている」
「クトゥーチク?」とレルドリン。
「グロリムの高僧だ。クトゥーチクとゼダーは互いに憎みあっている。ゼダーが〈珠〉を持ってトラクのもとに行くのをこの高僧が邪魔すると思っていていいだろう」
バラクは肩をすくめた。「だからどうだって言うんです? おれたちが何か厄介なことに足を突っ込んだら、あなたとポルガラは魔術を使えるんでしょう?」
「そういうことには限界があるのだ」ウルフははぐらかすように言った。
「おれにはどうもわからないな」バラクは顔をしかめた。
ミスター・ウルフは大きく息を吸うと、「よし、わかった。その話が出た以上、説明しとかなければならんな。魔術は――きみたちがそう呼びたいのなら、そう呼ぼう――事物の本来の秩序を破壊してしまうのだ。時にはまったく予想しなかった結果を生むこともある。だから、それで何をするのか、慎重に考えないといけない。そればかりではない、魔術は――」かれはにがい顔をして、「――いうなれば音のようなもの≠発するのだ。的を射た言いかたではないが、それで十分説明できるだろう。その音は同じ能力を持つ他の者たちにも聞こえるのだ。ポルガラとわしが事物を変えにかかったが最後、西部にいるすべてのグロリム僧は、わしらがどこにいて何をしているか、すっかり見抜いてしまうだろう。そして、グロリムはわしらが音《ね》をあげるまで、あの手この手を使ってくるだろう」
「ものごとを魔術でかたづけるには、あなたたちが腕と背骨を使って処理するのと同じくらいのエネルギーがかかるのよ」と、ポルおばさんは言った。「重労働よ」彼女は暖炉のかたわらに腰をおろして、ガリオンのチュニックの小さなほころびをていねいになおしているところだった。
「知らなかったな」バラクは言った。
「知ってるひとはそう多くないわね」
「ぬきさしならない場合には、わしとポルがなんとか対処しよう」ウルフはつづけた。「だが、魔術をひっきりなしに使うことはできないし、事物を単純に消してしまうということもできない。その理由はもうわかってるだろう」
「ええ、もちろんですよ」とシルクは言ったが、声の調子はわからない≠ニ言っていた。
「全体は部分に従属して存在しているのよ」ポルおばさんは静かに説明した。「ひとつを抹消しようとすれば、同時にすべてのものが消えてしまうわけ」
炎がパチンとはじけて、ガリオンはかすかに飛び上がった。丸天井の部屋がにわかに暗くなり、部屋の隅に影がひそんでいる。
「もちろん、そんなことは起こりえない」ウルフはかれらに言った。「もし何かを抹消しようとすれば、その意志があっさり自分にも跳ね返ってくるからだ。『なくなれ』と言えば、次の瞬間自分が消えてしまう。だから、わしらは自分の言葉に慎重を期さなくてはいけないのだ」
「理由はわかりました」シルクはわずかに目を丸くして言った。
「わしらがこれから出くわすものは、たいがい普通の手段で対処できるだろう」ウルフは言葉をつづけた。「きみたちを一緒に連れてきた理由はそこなのだ――少なくともそれが理由のひとつだ。きみたちなら、われわれの前にはだかるものをほとんどかたづけることができる。ただ、覚えておいてほしいのは、ポルガラとわしはゼダーが〈珠〉とともにトラクのところに着く前にやつをつかまえなくてはならないということだ。ゼダーは〈珠〉にふれる何らかの方法を見つけたのだ――どんな方法なのか、わしにはわからん。もしやつがトラクにどうやったかを教えれば、地上のどんな力も〈片目〉が全世界の〈王にして神〉になるのをとめることはできなくなる」
かれらはちらちら明滅する炎の、赤いあかりの中に座っていたが、それが有りうることだと考えたとたん、一様に真剣な顔つきになった。
「これでおおかた説明できたと思うが、どうかな、ポル?」
「だと思うわ、おとうさん」彼女は灰色の手織りガウンの前をなでつけながら言った。
やがて、霧に包まれたボー・ワキューンの廃墟の中に灰色の夜が忍び寄り、ポルおばさんが夕食のために料理している、こってりしたシチューの匂いが漂ってくるころ、塔の外ではガリオンがシルクに顔を向けていた。「あれはみんな本当のことなの?」かれは聞いた。
小男は霧の中を見やりながら、「そう信じているようにふるまおう。こんな状況のときは間違いをやらかすなんて考えちゃいけないのさ」
「あなたも怖いの、シルク?」ガリオンは訊ねた。
シルクは溜息をついた。「ああ、でも怖がってないと信じてるようにふるまうことはできるだろ?」
「できると思うよ」ガリオンがそう言うとふたりはきびすを返して、塔の地下の部屋に戻っていった。部屋の中では低い石のアーチの上に炎のあかりが揺らめき、柱と柱のあいだに霧と寒さがくぐもっていた。
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3
翌朝、シルクは立派な栗色の胴着を着て、袋のような黒いベルベットの帽子を片方の耳の上で粋に反らせながら塔を抜け出した。
「いったいどういうことなの?」ポルおばさんは訊ねた。
「荷物の中からたまたま昔なじみの品物がでてきたもので」シルクは気取ってこたえた。「わたくし、名をボクトールのラデクと申します」
「コトゥのアンバーはどうしたの?」
「アンバーはいい人間だと思うけど」シルクはすこし卑下するように言った。「でもアシャラクという名のマーゴ人はかれを知っているし、そこいらじゅうにその名前をばらまいているかもしれないからな。めんどうに巻き込まれずにすむなら、それにこしたことはない」
「悪くない偽装だな」ミスター・ウルフも賛同した。「〈西の大街道〉にドラスニアの商人がもうひとりいたからといって、気にする者はいまい――名前がなんであろうと」
「よしてくださいよ」シルクは傷ついたようすで反論した。「名前はすごく重要なんですよ。偽装はすべてこの名前にかかっているんだから」
「たいして変わりはないと思うがね」バラクはにべもなく言った。
「それが大ちがいなんだ。たしかにアンバーは道徳観念がほとんどない放浪者と思われているかもしれないが、ラデクのほうは西部の商業地区すべてで発言力を持つ資産家だ。それに、かれはいつでも従者を伴っている」
「従者?」ポルおばさんは片方の眉をつりあげた。
「単なる偽装のためですから」シルクはすかさず彼女を安心させようとした。「もちろんあなたが従者になるわけはないですよ、レディ・ポルガラ」
「それはどうも」
「誰も信じないかもしれませんが、あなたにはわたしの姉さんになっていただきます。壮麗なトル・ホネスの町を見るために弟といっしょに旅をしているんです」
「姉さんですって?」
「お望みなら、母親っていうことにしてもいいですよ」シルクは愛想よく言った。「華やかな過去の罪滅ぼしをするために、マー・テリンまで巡礼の旅をしているということで」
シルクがあつかましいニヤニヤ笑いを浮かべているあいだ、ポルおばさんは小男をしばらくにらみつけていた。「いつかそのユーモアのセンスがあなたを抜き差しならない状況に追い込むでしょうよ、ケルダー王子」
「そんなことならもう慣れっこになってますよ、レディ・ポルガラ。もしそうでなければ、身の処し方もおぼえなかったでしょうからね」
「おふたりさん、そろそろ出発してもよろしいかね?」ミスター・ウルフが訊ねた。
「ちょっと待ってください」シルクが答えた。「もし誰かに出くわして事情を説明しなければならなくなったら、きみたち、レルドリンとガリオンはポルガラの従者ということにしよう。ヘターとバラク、それからダーニクはわたしの従者だ」
「好きにするがいいさ」ウルフはうんざりして言った。
「これには理由があるんですよ」
「ああ、わかったよ」
「理由を聞きたくないんですか?」
「とくに聞きたいとは思わん」
シルクはこの言葉にいくらか傷ついたようだった。
「みんな用意はいいかね?」ウルフがたずねた。
「すべて塔から出しました」ダーニクが報告した。「あっ――ちょっと待ってください。火を消し忘れてました」かれはそう言うと塔の中にもどっていった。
ウルフはいらいらしながら鍛冶屋を目で追った。「どうでもいいことではないか。どうせここは廃墟なんだ」
「好きにさせてあげて、おとうさん」ポルおばさんは静かに言った。「あれがかれのやり方なのよ」
かれらが馬に乗る準備をしていると、バラク用の大きくてがっしりした葦毛の馬が溜息をつきながら非難するような目でヘターを見つめた。ヘターはくすくすと笑った。
「何がそんなにおかしいんだよ?」バラクはいぶかしそうにたずねた。
「その馬が何かをつぶやいたものですから。気にしないでください」
それからかれらは鞍にまたがり、霧に包まれた廃墟を抜けて、曲がりながら森の中につづいている狭い泥道を進んだ。湿った樹木の下には水っぽい雪が積もり、頭上の枝からは絶えず水がしたたり落ちてくる。かれらは寒さと湿気をさけるためにマントを体を巻きつけていた。いったん木の下に入ると、レルドリンはガリオンの馬の横に自分の馬をつけていっしょに進んだ。
「ケルダー王子っていつも、こう――なんていうか――すごく複雑なひとなのかい?」かれはガリオンに聞いた。
「シルク? うん、そうだよ。すごく悪知恵が働くんだ。かれはスパイなんだよ。変装したり上手な嘘をつくのは第二の天性なのさ」
「スパイ? ほんとうかい?」レルドリンはこの意見に想像力をかきたてられたらしく、目を輝かせた。
「かれはおじさんにあたるドラスニア王のために働いているんだ。ぼくの考えでは、ドラスニア人っていうのは何世紀ものあいだそういうことにたずさわっているらしいよ」
「途中で残りの荷物を積まなくてはなりませんよ」シルクがミスター・ウルフに言っている。
「忘れとらんよ」ウルフは答えた。
「荷物?」レルドリンが訊ねた。
「シルクはカマールで毛織り物を買ったんだよ」ガリオンはかれに説明した。「かれが言うには、それがあれば街道を通る正当な理由がつくんだって。ぼくたちは道を離れてボー・ワキューンに来るとき、ほら穴にそれを隠したんだよ」
「かれはすべてのことに気を配ってるんだね」
「うん、そう努力しているみたいだ。シルクがいっしょでほんとうによかったと思うよ」
「ひょっとすると変装について何か教えてもらえるかもしれない」レルドリンは抜け目なく提案した。「きみの敵を見つけるときに役に立つと思うな」
ガリオンはレルドリンははずみで誓ったことなど忘れてしまっただろう≠ニ思っていた。このアレンド人の青年の心はあまりに気まぐれで、ひとつの考えを長くとどめておくことはできないように見えたのだ。けれども今になってガリオンは、かれが物事を忘れているように見えるだけなのだと知った。そして、親の仇さがしという深刻な計画を、いつでも大袈裟にものを言ったり、その場の雰囲気でしゃべる浮かれやすい青年と共同で進めるということが、にわかに現実性をおびてきた。
シルクの荷を拾って予備の馬の背にそれをくくりつけた一行は、午前の中ごろにはふたたび森林地帯の中心を走るトルネドラの街道、〈西の大街道〉に出ていた。かれらは軽やかな駆け足で馬を南に走らせ、そのまま一気に数マイル進んだ。
やがて一行は、ひもで麻布の切れ端を体に巻きつけ、重そうな荷物を背負っている農奴のわきを通りかかった。その顔はやつれ、汚いぼろ布の下にある体は折れそうなほど細かった。農奴は一行が通りすぎるまで道のわきに寄って、びくびくしながらかれらをながめていた。不意に、ガリオンは農奴に対するあわれみで胸がはりさけそうになった。瞬時にラメールとデットンのことが頭をよぎり、あの人たちは最後にはいったいどうなるのだろうと思った。どういうわけか、それが重要なことに思えたのだ。「かれらをあんなに貧乏にしておくのはどうしても必要なことなの?」かれはもはや疑問を胸にしまっておくことができず、レルドリンに訊ねた。
「誰のこと?」レルドリンはあたりをキョロキョロと見まわしながら聞いた。
「あの農奴だよ」
レルドリンはぼろ布をまとった男を肩ごしにふり返った。
「きみは気づきもしなかったんだね」ガリオンはとがめるように言った。
レルドリンは肩をすくめて、「農奴は掃いて捨てるほどいるからな」
「そして、その誰もがぼろをまとって、餓死寸前のところで生きているんだろ」
「ミンブレイトの税だよ」レルドリンは、それですべてを説明しつくしたかのように言った。
「きみはいつだってお腹いっぱい食べてきたように見えるけど」
「ぼくは農奴じゃないんだよ、ガリオン」レルドリンは辛抱づよく言った。「いつだって貧乏者がいちばん辛い思いをする。それが世の中ってもんさ」
「そうとは限らないよ」ガリオンは言いかえした。
「きみにはわからないんだよ」
「ああ、わからないよ。わかりたいとも思わないさ」
「そりゃあそうだろうよ」レルドリンは苛立たしそうにうなずいて言った。「きみはアレンド人じゃないんだから」
ガリオンは露骨な言葉を吐かないように、歯を食いしばった。
日が暮れるころまでにかれらは十リーグを走り、道端には雪もほとんど見えなくなってきた。
「そろそろどこで夜を過ごすか決めたほうがいいんじゃないかしら、おとうさん?」ポルおばさんが言った。
ミスター・ウルフはあたりの木立にひそんでいる影を横目で見やりながら、思案ありげにあごひげを掻いている。
「ここからそう遠くないところに伯父が住んでいるんですけど」レルドリンが申し出た。「レルディゲン伯爵といいます。かれなら喜んでぼくたちを泊まらせてくれると思いますよ」
「痩せた人か?」ミスター・ウルフは訊ねた。「黒髪の?」
「今は灰色ですけど。伯父をご存知なのですか?」
「もう二十年も会ってないがね。わしの記憶によると、ずいぶん短気な男だ」
「レルディゲン伯父が? 誰か他の人とまちがえているんじゃないですか、ベルガラス?」
「そうかもしれん。かれの家まではどのくらいあるんだ?」
「一リーグ半も離れていません」
「よし、かれに会いにいくとするか」ウルフは腹を決めた。
レルドリンは道案内をするために、手綱を振って列の先頭に出た。
「友だちとはうまくいってるのかい?」シルクはガリオンのわきで歩を合わせながら聞いた。
「だと思うよ」ガリオンはネズミ面《づら》の小男がどういうつもりでそんな質問をしているのかわからないまま、そう答えた。「かれにものごとを説明するのは、ちょっとむずかしいと思うけどね」
「そりゃあ当然だよ。かれはなんたってアレンド人なんだから」
ガリオンは突如としてレルドリンの弁護をしたくなった。「レルドリンは正直だし、すごく勇敢だよ」
「やつらはみんなそうさ。それがまた問題の種なんだ」
「ぼくはレルドリンが好きだよ」ガリオンはきっぱりと言った。
「わたしもさ、ガリオン。でも、だからといってかれの本質に目をつぶるわけにはいかないね」
「言いたいことがあるんなら、前に行ってそう言ったらどうなの?」
「わかった、そうしよう。友情のために自分の良識をまげたりするなよ。アレンディアはひどく物騒な場所だ。おまけにアレンド人はちょくちょく厄介なことに巻き込まれる人種だからな。元気のいい友だちにのせられて、自分になんの関係もないことに首をつっこんだりするんじゃないぞ」シルクに正面から見つめられて、ガリオンはかれが本心からそう言っているのだと悟った。
「注意するよ」ガリオンは約束した。
「きみは信用できると思ってたよ」シルクは重々しく言った。
「ぼくをからかってるの?」
「わたしがそんなことをすると思うか、ガリオン?」シルクはまじめくさって聞いた。それからすぐに笑い声をあげたかと思うと、ガリオンとともにうす暗い夕暮れの中に馬を走らせた。
レルディゲン伯爵の灰色がかった石造りの家は、街道から森の中に一マイルほど入ったところにあった。四方に矢を放っても届きそうにないくらい広い開拓地の真ん中にそれは建っていた。塀こそないが、どこか砦を思わせるようなたたずまいだ。外に面した窓は狭く、鉄の格子がはめこんである。建物の四隅には胸壁を頂く小塔が厳然とそびえ立っている。屋敷の中庭に通じる門は、木の幹を手を加えずそのまま四角に刻み、鉄の帯で両扉を閉じたものだった。ガリオンは釣瓶落としの夕陽の中を屋敷に向かって歩きながら、この大建造物をながめた。屋敷には何やら高慢な醜悪さが漂い、世間を拒否しているような断固たる威厳が感じられた。「あんまり楽しそうなところじゃないね」かれはシルクに漏らした。
「アストゥリアの建造物はかれらの社会を反映してるのさ」シルクは答えた。「隣国人と絶えずやっかいなもめごとを起こすような土地では、頑丈な家を建てるのもそう悪い考えじゃないんだろうな」
「かれらはお互いをそんなに恐れているの?」
「ただの用心さ、ガリオン。ただの用心」
レルドリンは重々しい門の前で馬をおり、鉄格子こしに中の人間に話しかけた。とうとう鎖がジャラジャラと音をたて、重い鉄輪をつけたかんぬきが音をきしませて横にずらされた。
「いったん中に入ったら、わたしはめったな行動はとらないつもりだ」シルクはそっと耳打ちした。「弓の射手がわたしたちを見張ってるはずだからな」
ガリオンは険しい目つきでかれを見た。
「この地方独特の奇妙な風習ってやつさ」シルクは説明した。
かれらは玉石を敷きつめた中庭に入り、馬をおりた。
頑丈な杖の助けを借りながらみんなの前に姿をあらわしたレルディゲン伯爵は、鉄灰色の髪と髭をもつ長身の痩せた男だった。高価そうな緑の胴着と黒いズボンに身を包み、自分の家にいるというのに、わきに剣を携えている。かれは大儀そうに片足をひきずりながらも、一行を出迎えるために、建物からつづく幅の広い階段をおりてきた。
「伯父さん」レルドリンはそう言うと、うやうやしくお辞儀をした。
「甥よ」伯爵も礼儀正しくこれに答えた。
「ちょうど近くを通りかかったもので」レルドリンは説明した。「友人といっしょに一晩ご厄介になれたらと思ったんです」
「いつでも歓迎するぞ、レルドリン」レルディゲン伯爵の返事は重々しく、儀礼的に聞こえた。
「夕飯はもうすんだのか?」
「まだです」
「では、わたしと夕飯を共にしてもらおう。ところでわたしはおまえの友人と面識があったかな?」
ミスター・ウルフは頭巾を持ちあげて、前に進み出た。「わしとおぬしは顔見知りの仲ではないか、レルディゲン」
伯爵は目をまるくした。「ベルガラス? ほんとうにあんたなのか?」
ウルフはにやりと笑った。「ああ、そうとも。わしはいまだに面倒を起こしながら、世界中をさまよっているのだ」
レルディゲンは笑い声をあげると、ウルフの腕をうれしそうにつかんだ。「さあ皆の衆、中に入りたまえ。そんな寒いところに突っ立ってることもなかろう」かれはきびすを返すと、片足を引きずりながら屋敷につづく階段をのぼっていった。
「足をどうしたのかね?」ウルフは訊ねた。
「膝を矢で射られたのだ」伯爵はそう言って肩をすくめた。「古い争いの結末だ――もうとうの昔に忘れてしまったがね」
「たしか、おぬしはそういった争いごとにずいぶんかかわり合っていたと思うが。しばらく、おぬしという人間は剣を半分引き抜いたまま一生を過ごすだろうと思っていた時期があったぞ」
「わたしは血の気の多い若者だったからな」階段のてっぺんの大きな扉を開けながら、伯爵は言った。かれは一行を率いて長い廊下を進み、四隅に赤々と燃える大きな暖炉をしつらえた、堂々たる広さの部屋に案内した。彫刻をほどこした巨大な石のアーチが天井をささえている。毛皮の敷物が散らばった床は、ピカピカに磨きあげられた黒石でできており、白いのろ[#「のろ」に傍点]を塗った壁やアーチと共あざやかなコントラストをかもしだしている。こげ茶色の木で作られた重量感のある彫刻入りの椅子がそこかしこに置いてあり、部屋のひと隅には中央に燭台のついた広やかなテーブルが据えてある。そして、ピカピカに磨かれたそのテーブルの上に十二冊かそこらの革表紙の書物が散乱している。
「本かね、レルディゲン?」ミスター・ウルフは他の者といっしょにマントを脱ぎ、すみやかに現われた召使いに手渡しながら、驚きまじりに言った。「友よ、おぬしもだいぶ穏やかになったな」
伯爵は笑顔でこれに答えた。
「うっかり作法を忘れるところだった」ウルフは詫びた。「娘のポルガラだ。ポル、こちらはレルディゲン伯爵、わしの古くからの友人だ」
「これは奥方」伯爵は優美な物腰でお辞儀をしながら言った。「ご訪問いただいて光栄に存じます」
ポルおばさんがこれに答えようとしたとき、二人の若者がはげしくののしりあいながら部屋に飛び込んできた。「おまえは大馬鹿だよ、ベランテイン」まず緋色の胴着を着た黒髪の若者が言った。
「そう思えばおまえは満足するだろうよ、トラシン」緑と黄色の縞のチュニックを着た、色の薄い巻毛の若者がどなりかえした。「でもな、おまえが喜ぼうが喜ぶまいが、アストゥリアの未来はミンブレイトの手にかかっているんだ。おまえが悪意にまかせて口汚くののしったところで、事態を変えることはできないぞ」
「おまえといっしょにするな、ベランテイン」黒髪の若者はあざわらうように言った。「そのミンブレイトまがいのいんぎんな態度を見てると、胸がむかむかするぜ」
「諸君、もうそのぐらいでいいだろう!」レルディゲン伯爵が杖で床をコツコツ叩きながら、語気鋭く言った。「どうしても政治討論をつづけるというのなら、おまえたちを引き離してしまうぞ――必要とあらば力ずくでな」
ふたりの若者は互いににらみ合ったかと思うと、それぞれが反射方向の壁にスタスタと歩いていった。「息子のトラシンだ」伯爵は黒髪の若者を指しながら、弁解するように言った。
「それからそのいとこのベランテイン、亡き妻の兄の息子だ。ふたりはもう二週間もこんなふうに口げんかをしているのだ。ベランテインがここに着いた翌日には、わたしはふたりの剣をとりあげなくてはならなかった」
「政治的な口論は若者のためになると思いますよ、伯爵どの」シルクが言った。「寒いときはとくに。熱気は血液が滞るのをふせいでくれますからね」
伯爵は小男の意見にくっくっと笑った。
「ドラスニア皇室のケルダー王子だ」ミスター・ウルフはシルクを紹介した。
「これはこれは殿下」伯爵はお辞儀をしながらこれに答えた。
シルクはわずかにたじろいで、「よしてください、伯爵どの。わたしはその敬称から逃れて暮らすだけで一生を終わってしまいそうですよ。わたしと皇室の結びつきに関しては、わたしだけでなく伯父もきっと頭を痛めていることでしょう」
伯爵はもう一度ほがらかに笑った。「さあ、食卓に席を移そうではないか。台所ではまるまると太った鹿が二頭、夜明けから焼き串にささってまわっている。それに、南部トルネドラから入手したばかりの樽づめの赤ワインもあるぞ。ベルガラス、あんたはたしか美味い食事と上等なワインには目がなかったな」
「今もそうですわ、レルディゲン伯爵」ポルおばさんはかれに言った。「父という人間をご存知なら、もうお見通しでしょうけど」
伯爵は微笑むと彼女に手をさしのべ、部屋のすみの扉のほうに導いた。
「レルディゲン伯爵、お宅にバスタブはありまして?」
「冬に入浴するのは危険ですよ、レディ・ポルガラ」伯爵は彼女に忠告した。
「伯爵さま、わたくしはあなたが想像しているよりもずっと長いあいだ、冬と言わず夏と言わず入浴してきてるんですのよ」
「使わせてやってくれ、レルディゲン」ミスター・ウルフが言った。「娘は自分の体が汚れていると思うと、あからさまに機嫌が悪くなるのだ」
「入浴は老いぼれ狼にとっても害にはならないはずよ」ポルおばさんはピシャリと言いかえした。「風下からすこし嫌な臭いがしはじめてるもの」
ミスター・ウルフはこの言葉にいくらか傷ついたようだった。
それからしばらくして、全員が山ほどある鹿肉と肉汁にひたしたパン、それにサクランボの焼菓子を食べ終わると、ポルおばさんは席をはずして女中とともに浴室の用意が整っているかどうかを見にいった。男たちは食卓でワインのグラスを傾けたまま、レルディゲンの大食堂にある無数の蝋燭《ろうそく》の明かりの中で顔を黄金色に輝かせている。
「きみたちの部屋に案内しよう」トラシンはレルドリンとガリオンに向かってそう言うと、椅子をうしろに引いて食卓の向こう側にいるベランテインにそれとなく軽蔑をこめた視線を送った。
レルドリンとガリオンはかれのあとから部屋を出て、屋敷の上階に通ずる長い階段をのぼった。「おまえを怒らせるつもりはないけど、トル」レルドリンは階段をのぼりながら言った。
「おまえのいとこは妙な意見の持ち主だな」
トラシンはフンと鼻を鳴らした。「ベランテインはまぬけさ。あいつはミンブレイト人のしゃべり方を真似たりごきげんをとったりすれば、やつらの心を動かせると思ってるんだ」足もとを照らすために持ってきた蝋燭《ろうそく》の明かりの中で、かれのあさ黒い顔が怒りにゆがんで見えた。
「かれはなぜそんなことをしたがるのかな?」レルドリンは訊ねた。
「あいつは自分のものと呼べる土地が欲しくてたまらないのさ。おれのおふくろの兄さんっていうのはあいつに土地をほとんど残さなかった。あの愚かなデブは自分の地方のある男爵の娘にひと目惚れしたんだが、その男爵は土地なしの求婚者など取り合ってもくれなかったので、ベランテインのやつ、ミンブレイトの役人をだまして士地を巻き上げようと考えたんだ。もしカル=トラクの亡霊に忠誠を誓うことによって土地を得られると思えば、あいつはきっとそうするだろうよ」
「見込みがないってことがわからないのかな?」レルドリンは訊ねた。「役人のまわりには土地に飢えたミンブレイトの騎士がうようよしてるんだぜ、アストゥリア人に土地をくださいなんて頼むことさえ無理な話だよ」
「おれだって同じことを言ったさ」トラシンは痛烈な軽蔑をこめて言った。「でも、あいつを説きふせることはできなかった。あいつの行動ひとつで一族の面目が失われるというのに」
二階の廊下に着くと、レルドリンは憐れむように首を振り、それからすばやくあたりを見回した。「話があるんだ、トル」かれは、急に声を落として言った。
トラシンはさっとかれの顔を見た。
「ベルガラスが関わっているものすごく重要な事件を手伝うよう親父《おやじ》に言われたんだ」レルドリンはさきほどの押し殺したような声で先を急いだ。「どのくらい留守にするかわからない。だから、おまえと他の連中だけでコロダリンを殺してもらうことになると思う」
トラシンはぎょっとして目を見開いた。「ふたりきりじゃないんだぞ、レルドリン!」かれは声を抑えてそう言った。
「ぼくは廊下の向こうに行ってるよ」ガリオンはすかさず言った。
「いや、いいんだ」レルドリンはきっぱり言うと、ガリオンの腕をとった。「ガリオンはぼくの友だちなんだ、トル。かれに隠す必要はないよ」
「レルドリン、お願いだから」ガリオンは続けた。「ぼくはアストゥリア人じゃない――アレンド人ですらないんだ。きみたちが何を計画していようが、知りたくないんだよ」
「でもガリオン、きみには知っておいてもらわないと。ぼくがきみを信用していることを証明するために」レルドリンは言いつのった。「今度の夏、アレンド人が統一されているという夢物語を維持するためにコロダリンがボー・アスターの廃墟で六週間かけてかれの取りまきと話し合う。そのさいに、ぼくたちは街道であいつを待ち伏せするつもりなんだ」
「レルドリン!」トラシンはあえぎながら、顔を蒼白にした。
だが、レルドリンはもうせきを切ったようにしゃべりはじめていた。「これはただの待ち伏せじゃないんだ、ガリオン。この待ち伏せはきっとミンブル人の心に大きな打撃を与える。ぼくたちはトルネドラ軍の軍服を着て待ち伏せし、トルネドラ人の剣であいつを斬り倒すのさ。そうなればミンブルはトルネドラ皇帝に宣戦布告し、トルネドラは卵の殻でも砕くようにミンブルを打ち砕くだろう。ミンブルは崩壊し、アストゥリアは自由を勝ちとるんだ!」
「ナチャクがこれを知ったら、おまえを生かしちゃおかないぞ、レルドリン」トラシンが叫んだ。「おれたちは血肉にかけて秘密を守ると誓ったはずじゃないか」
「あのマーゴ人に、誓いなんかくそくらえだって言ってくれ」レルドリンはカッとなって言った。「アストゥリアの愛国者がマーゴ人の助けを必要とする理由がどこにある?」
「かれはおれたちに金貨をわけてくれてるんだぞ、この間抜け!」トラシンは逆上して、かれを怒鳴りつけた。「軍服や剣を買ったり、気の弱い仲間たちの士気を高めるにはかれが持っている良質の金貨が必要なんだ」
「ぼくは臆病者なんかいらないね」レルドリンは激しい口調で言った。「愛国者っていうのは国を愛する気持ちで行動するものなんだ――アンガラクの金のためじゃない」
今やガリオンの心は目まぐるしく変化していた。肝を潰すような瞬間はすでに過ぎ去っていた。「かつてチェレクにひとりの男がいたんだ」かれは思い返しながら言った。「ジャーヴィク伯爵という男さ。かれもマーゴ人から金を受け取って、王を殺そうと企んでいた」
レルドリンとトラシンがうつろな表情でかれを見つめている。
「自分の国の王様を殺せば、国が困るんだよ」ガリオンは説明した。「王様がどんなに悪い人間だろうと、かれを殺そうとしている人々がどんなに善良な人間だろうと、しばらくのあいだその国は混乱することになる。すべてがごちゃごちゃになってしまったら、国をひとつの方向にまとめるなんて誰にもできなくなるよ。しかも、この国とあの国に戦争を始めさせるんだとしたら、想像もつかないような混乱を招くんじゃないかな。ぼくがもしマーゴ人だったら、西部の全王国の中でいちばん起こってほしいのはそういう混乱じゃないかと思うよ」
ガリオンは半ば驚きながら、自分の声を聞いていた。かれはすぐにその声に乾いた、感情のない響きを感じとった。物覚えがついたころから、その声はいつもそこにあった――心の中に――しめやかな、秘密の片隅を占領して、かれが間違いを犯したり馬鹿なまねをしたときは忠告を与えながら。でもかれがひとと言葉を交わしているときに進んで割り込んでくることは一度もなかった。それなのに今、その声はふたりの青年に直接話しかけながら辛抱強く説得している。
「アンガラクの金貨はじっさいは目にうつっているとおりのものではないんだ」かれはつづけた。「あの中には人間を堕落させる力があるんだよ。あれが血の色をしているのはたぶんそのためだと思うけど。ぼくならそのナチャクというマーゴ人からもっとたくさんの金貨をもらうまえに、このことを考えるよ。なぜかれはきみたちに金貨をくれて、計画を助けてくれるんだろう? かれはアストゥリア人じゃないんだから、愛国心でそんなことをやってるわけはないだろ? ぼくならそのへんのところも考えるけどね」
レルドリンとかれのいとこは急に困惑した顔つきになった。
「ぼくはこのことを誰かに話すつもりはないよ」ガリオンは言った。「きみはぼくを信用して打ち明けてくれた。ぼくはほんとうは聞くつもりはなかったんだけどね。でも、世の中では今この瞬間にも、ここで起こっていることよりもっと大変なことがたくさん起こっているってことを覚えておいたほうがいいよ。さて、ぼくはちょっと眠りたいんだけど。ぼくのベッドがどこにあるか教えてもらえたら、ぼくは席をはずさせてもらうよ。お望みなら一晩じゅうでも話すがいい」
ガリオンは、おおかたのところ、思ったよりうまく処理することができたと思った。少なくともかれらの心に疑問をふたつみっつ植えつけることができた。かれはもうアレンド人を理解していたから、これしきのことでふたりの気持ちが変わることがないのはわかっていたが、とりあえずきっかけはつかんだのだ。
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4
翌朝、かれらはまだ木立のあいだに霧がたちこめているうちに、馬に乗って出発した。レルディゲン伯爵は黒いマントにしっかりと身をつつみ、門のところに立ってかれらを見送った。トラシンも父親のかたわらに立っていたが、どうやらガリオンの顔から目を離せないようだった。ガリオンはできるだけ無表情をよそおっていた。見たところ、血の気の多いアストゥリアの若者は多くの疑問を抱いているようだったが、かれが何か不吉なことにむこうみずに飛び込んでいくのを、この疑問が食い止めてくれるかもしれない。ガリオンはあれですべてが解決するわけではないと知っていたが、今の状況の中でできるかぎりの努力はしたつもりだった。
「すぐに戻ってきてくださいよ、ベルガラス」レルディゲンは言った。「いずれもっと長く滞在できるときに。ここはひどく孤立しているから、わたしは世の中がどうなっているのかむしょうに知りたくてね。ひと月かふた月したら、また暖炉のそばに座って語り合うことができるでしょう」
ミスター・ウルフは重々しくうなずいた。「わしのこの仕事が終わったときにな、レルディゲン」それから馬の向きを変えると、レルディゲンの屋敷を囲む広い開拓地を横切ってふたたび薄暗い森の中に姿を消した。
「あの伯爵はふつうのアレンド人じゃないな」シルクは道すがら無頓着に言った。「昨夜はかれの風変わりな思想をひとつ、ふたつ垣間みたような気がするよ」
「かれはだいぶ変わったよ」ウルフも同意して言った。
「豪勢な食事だったな」バラクが言った。「ヴァル・アローンを発ってからこんなに満腹になったことはなかったぜ」
「そうでしょうとも」ポルおばさんはかれに言った。「あなたは鹿肉のいちばん大きいところをひとりで食べてしまったんだから」
「そりゃあちょっと大袈裟だな」バラクは反論した。
「そうでもありませんよ」ヘターがいつもの静かな声で言った。
レルドリンはガリオンの馬のわきに自分の馬を並ばせていたが、一言も言葉を交わしていなかった。かれはいとこと同じように困惑した顔つきをしていた。かれが何か言いたがっているのは明らかだったし、どう切り出していいかわからずにいるということもすぐに読み取れた。
「言ってみなよ」ガリオンは静かに言った。「ぼくたちはもうすっかり友だちになったんだから、いい結果がでなくてもびっくりしたりしないよ」
レルドリンはすこしおどおどしながら、「ぼくってそんなに顔に出るかな?」
「根が正直なんだと思うな」ガリオンはかれに言った。「きみは感情を隠すってことを知らないだけなんだ、それだけのことさ」
「あれは本当のことなのか?」レルドリンは出し抜けに聞いた。「きみの言葉を疑ってるわけじゃないけど、チェレクにアンヘグ王を殺そうとしたマーゴ人がいたって本当の話なのか?」
「シルクに聞いてみなよ。それともバラクか、ヘターか――誰でもいいから。ぼくたちはみんなその場にいたんだから」
「でも、ナチャクはそんなことはしてないよ」レルドリンはすかさず弁護するように言った。
「確かなのかい? もともとその計画はかれが立てたものなんだろ? きみたちはどうやってかれと知り合ったの?」
「ぼくたちはみんなで〈大見本市〉に行ったんだ。トラシンとぼくと他の何人かで。ぼくたちはマーゴ人の商人から何かを買って、トルがミンブレイト人のことについて何かしゃべったんだ――トルがどんなやつかはきみも知ってるだろ。その商人はぼくたちが会いたがるような人物を知っていると言って、ぼくたちをナチャクに紹介したんだ。ぼくたちと話せば話すほど、かれはますますぼくたちの考え方に共感してくるように見えた」
「不思議はないな」
「かれは王が企んでいることを教えてくれた。きみは信じないだろうけど」
「たぶんね」
レルドリンはガリオンにちらっと戸惑ったような顔をしてみせた。「王はぼくたちの私有地を分割して土地のないミンブレイトの貴族に与えようとしているんだ」
「きみはナチャク以外の人間にそれを確かめてみた?」
「どうしてそんなことができるんだよ? その話を突きつけたってミンブレイトのやつらは認めないさ。でも、これはいかにもミンブレイトのやりそうなことだよ」
「じゃあ、それはナチャクから聞いただけなんだね? きみたちはどうやってあの計画を思いついたの?」
「ナチャクはもし自分がアストゥリア人だったら、ぜったいひとに土地を取り上げさせたりしないって言うんだ。でも、やつらが騎士や兵士を連れてきたらもう手遅れだって。だから、もし自分なら、やつらが準備を整えるまえに、誰がやったかミンブレイトにわからないような方法で襲撃するって。かれがトルネドラの軍服を提案したのはそのときなんだ」
「かれがきみたちに金貨をくれるようになったのはいつ?」
「はっきり覚えてないな。そういうことはトルが取りしきってるんだ」
「かれはきみたちに金貨をくれる理由を打ち明けたことがある?」
「友情のしるしだって言ってたよ」
「ちょっと変だと思わなかったの?」
「ぼくだって友情のしるしに金貨をやると思うよ」レルドリンは言い返した。
「きみは本当のアストゥリア人さ。友情のためなら命だってあげちゃうだろうね。でもナチャクはマーゴ人だよ。かれらがそんなに気前がいいなんて聞いたことないな。ということはつまり、赤の他人がきみに、王様が土地を取り上げようとしてる≠チて言ったことになる。そして王を殺してトルネドラと戦争を起こさせる計画をきみたちに授けたんだ。しかも、この計画をかならず成功させるために金貨をくれた。そういうことだろ?」
レルドリンは目をぱちくりさせて、無言のままうなずいた。
「誰かちょっとでも疑ってみるひとはいなかったの?」
レルドリンは今にも泣き出しそうな顔をしている。「すごくいい計画だったから」やっとのことでかれは言った。「成功しないわけはないと思ったんだ」
「それが危ないんだよ」ガリオンは言った。
「ガリオン、ぼくはどうしたらいいんだろう?」レルドリンの声は苦痛で震えていた。
「いますぐできることはないと思うよ。あとで、じゅうぶんに考える時間ができたら何か名案が浮かぶよ。もし浮かばなくても、いつだってぼくのおじいさんに相談できるんだから。おじいさんならあの計画をやめさせる方法を考えてくれるよ」
「誰にも話すわけにはいかないよ」レルドリンは念を押した。「ぼくたちは黙っている約束をしてるんだから」
「その約束を破ることになるかもしれないな」ガリオンはしぶしぶながら言った。「ぼくたちはマーゴ人に借りをつくってないとは思うけど、破るかどうかはきみしだいだよ。きみの許しがなければ、ぼくは誰にもなんにもしゃべらないからね」
「きみが決めてくれよ」レルドリンはガリオンに頼んだ。「ぼくにはできないよ、ガリオン」
「きみが決あなくちゃだめなんだよ。よく考えれば、何故だかわかるさ」
ちょうどそのとき、かれらは〈西の大街道〉にさしかかり、バラクが軽快な足取りでみんなを先導しはじめたので、それ以上話をつづけられる可能性はなくなってしまった。
街道を一リーグかそこら進むと、暗い雰囲気の村にさしかかった。わらぶき屋根と泥漆喰の編み枝の壁からなる小屋が十二かそこらある。村を囲む野原には木の切り株が点在し、森のふちのあたりで痩せこけた牛が二、三頭、草を食《は》んでいる。ガリオンは、粗末なあばらやの集まりがあんに物語っている困窮を見てとると、自分の憤りを抑えることができなくなってしまった。「レルドリン!」かれは鋭い口調で言った。「見ろよ!」
「何? どこ?」ブロンドの若者はなにか危険なことだと思ったらしく、困惑した顔をさっと真顔に戻した。
「あの村だよ」ガリオンは言った。「あれをごらんよ」
「ただの農奴の村じゃないか」レルドリンは無関心に言った。「あんな村なら何百と見てきたよ」かれはそう言うと、また自分の悩みごとに没頭しようとした。
「センダリアではね、豚だってあんなところに住まわせたりしないよ」興奮のあまりガリオンは金切り声になった。どうしてレルドリンにはあの村の惨状が目に入らないんだ!
道路のちかくでは、ぼろをまとったふたりの農奴が切り株から薪を切り出している。一行が近づくと、農奴は斧を投げ出し、身も凍らんばかりに怖がって森に逃げこんだ。
「あれが自慢できることかい、レルドリン?」ガリオンは聞いた。「同じ国の人がきみを避けて逃げるほど恐れているとわかって、いい気持ちなのかい?」
レルドリンは戸惑った表情をしている。「あれは農奴なんだぜ、ガリオン」かれはそれですべてを説明しているかのように言った。
「かれらは人間なんだよ。家畜じゃない。人間は家畜よりいい待遇を受けて当然じゃないか」
「ぼくにはどうにもできないよ。かれらはぼくの農奴じゃないんだから」レルドリンはそう言うと、ふたたび自分自身の心の中に目を向けて、ガリオンが課したジレンマと闘いはじめた。
日が沈みはじめるころにはかれらは十リーグを走破し、どんよりと曇った空は夜のおとずれとともに、ほの暗くなってきた。「どうやら森で夜を明かさなくてはならないようですね、べルガラス」シルクはあたりを見回して言った。「次のトルネドラ人の宿にたどりつける見込みはなさそうだから」
ミスター・ウルフはさきほどから鞍の上でうとうとしているところだった。かれは顔をあげると、目をかすかにしばたたいて、「そうだな。でも、道からすこし奥に入っておこう。たき火はひとの注意をひくし、そうなればわしらがすでにアレンディアにいることを大勢の人間に知られてしまうからな」
「すぐそこに杣《そま》道がありますよ」ダーニクはそう言ってすぐ目の前にある木の分かれ目を指した。「それを進めば森の中に入っていけるはずです」
「よし、そうしよう」ウルフはダーニクの意見に賛成した。
かれらは樹木のあいだに入りこんで狭い小道を進んだが、馬のひづめの音は森の床に積もった湿っぽい葉っぱに吸い込まれて聞こえなかった。物音もたてずにたっぷり一マイルほど馬を歩かせたところで、やっと目の前に空き地が現われた。
「あそこはどうですか?」ダーニクはそう言って、空き地の片側にある、苔むした岩の表面にちょろちょろ流れている小川を指さした。
「いいだろう」ウルフは答えた。
「風よけが必要ですね」鍛冶屋はさらに言った。
「カマールでテントを買っておいたよ」シルクがかれに言った。「荷物の中に入ってる」
「ずいぶん先見の明があること」ポルおばさんはかれの手柄をほめた。
「以前アレンディアにいたことがあるもんでね、奥方。ここの気候にはくわしいんですよ」
「じゃあ、わたしはガリオンといっしょに薪を拾ってきます」ダーニクはそう言うと、馬からおりて鞍に結びつけておいた斧をほどいた。
「ぼくも手伝うよ」レルドリンは申し出たが、顔にはまだ困惑の色が浮かんでいた。
ダーニクはうなずき、先頭に立って森の中に入っていった。樹木は湿っていたが、かれは乾いた薪がある場所を本能的にかぎわけることができるようだった。かれらは沈みゆく薄明かりの中でてきぱきと仕事を進め、あっという問に大小とりまぜた枝の大束を三つこしらえてしまった。かれらが空き地にもどると、シルクと他の仲間は灰褐色のテントをいくつか張っている最中だった。ダーニクは薪を下におろし、火を焚く地面を足でならした。それからその場にひざまずくと、いつも身につけている、火打ち石から火口の役目まですべてこなしてしまうナイフを使って火花を散らせた。間もなく彼は小さな火を起こし、ポルおばさんはひとり鼻唄をうたいながら、そのわきに鍋をならべた。
ヘターが馬の世話を終えてもどってくるとかれらは少し離れたところに立ち、その日の朝レルディゲン伯爵の屋敷を発つまえにかれがどうしてもと言ってよこした食料でポルおばさんが夕食の用意をするのをながめた。
夕食をすますと、かれらは火のまわりに腰をおろして静かに話をした。「今日はどのくらいまで来たんでしょう?」ダーニクが聞いた。
「十二リーグといったところです」ヘターが答えた。
「森を抜けるにはあとどのくらいかかるんですか?」
「カマールから中央の平野まで八十リーグですよ」今度はレルドリンが答えた。
ダーニクはため息をついて、「一週間かそれ以上だな。二、三日で抜けられたらどんなにいいことか」
「あんたの気持ちもわかるよ、ダーニク」バラクが同情して言った。「こんなうっそうとした木の下にずっといたんじゃ、気が滅入ってくるもんな」
そのとき、小川のそばにつながれていた馬たちがそわそわと動きだした。ヘターはさっと立ち上がった。
「どうかしたか?」バラクはそう訊ねて、自分もその場を立った。
「そんなはずは――」ヘターはそう言ったかと思うと、言葉をとぎらせた。「下がって!」その口調は険しかった。「火から離れてください。馬があたりに人がいると言っています。大勢の人間が――武器を持って」かれは焚き火からさっと飛び退くと、サーベルを引き抜いた。
レルドリンは呆気にとられた顔でかれを見たが、すぐにテントのひとつに逃げ込んだ。ガリオンはその態度を見て、まるで腹に一撃を食らったかのような失望感を覚えた。一本の矢が明かりの中に宙を切って飛び込んできたかと思うと、バラクのよろいに音をたててぶつかった。
「武器を持て!」大男はそう叫んで、自ら剣を抜いた。
ガリオンはポルおばさんの袖をつかんで彼女を明かりから遠ざけようとした。
「よしなさい!」彼女はそう言ってガリオンの手を払いのけた。矢がもう一本、霧に霞んだ木木の中から飛んできた。ポルおばさんは蝿でもはらうように手をさっと振って、ひとつの言葉を口にした。矢はなにか固いものにぶつかりでもしたかのようにはじかれて地面に落ちた。
つづいて、馬がいななくと同時に、筋骨たくましい荒くれ男の一団が森の縁から飛び出し、剣をびゅんびゅん振り回しながら水しぶきをあげて小川を渡ってきた。バラクとヘターが賊に立ち向かうために突進していくと、レルドリンはテントから抜け出し、目にも止まらぬ早さで次々と矢を放ちはじめた。その瞬間、ガリオンは友だちの勇気を疑った自分を恥ずかしく思った。
押し殺したような叫び声があがったかと思うと、賊のひとりが喉に矢を突き通したままあとずさりした。さらにもうひとりが胃をつかみながら体をくの字に曲げ、うなり声をあげて地面に倒れた。三人目はかなり若く、頬に薄い綿毛のようなひげを生やしていたが、これもまたドサッとくずれ落ち、うずくまったまま胸から突き出した矢柄の羽を引き抜こうとしていた。子供っぽい顔には恐慌の色が浮かんでいる。やがて溜息をつくと、鼻から血をしたたらせたまま、ごろりと横倒しになった。
みすぼらしい身なりの男たちがレルドリンの放つ矢の雨の下でふらふらしているのを見てとると、バラクとヘターは飛びかかっていった。バラクは重い剣を大きくひと振りして、宙をさぐっていた刃をこっぱみじんに打ち砕き、それを持っていた黒ひげの男の首と肩のあいだを斜めにザクッと斬りつけた。男はその場にドサッとたおれた。ヘターはまず素早い動作でサーベルを振るように見せかけたあと、あばた顔の悪漢の体を一息に刺し抜いた。ヘターが刃を引き抜いたとたん、その男は体を硬直させ、口から真っ赤な血を吹き出した。ダーニクは斧を片手に突進し、シルクもベストの下から短剣を抜いて、ぼさぼさの茶色のひげの男めがけてまっしぐらに走った。そしてここぞという瞬間、頭から飛び込んでくるりと回転し、両足でひげ男の胸をまともに蹴りつけた。それから間髪を入れずに起き上がると、短剣で敵の腹を引き裂いた。刃で下から上に引き裂くとき、湿っぽい、びりびりという音がした。斬られた男は自分の胃をつかみ、青っぽい色をした臓物のとぐろが出てくるのを必死におさえようとしていたが、それらは指のすきまから湧き出るようにこぼれ落ちた。
ガリオンは自分の剣を取ろうと荷物に飛びついたが、やにわにうしろから荒々しくつかまれた。かれはしばらくもがいていたが、次の瞬間頭のうしろに猛烈な一撃を食らうと、目蓋のうらにチカチカと星がまたたいて、何も見えなくなってしまった。
「おれたちがさがしてたやつはこいつだ」意識が薄れていくとちゅうで、ガリオンはしゃがれ声がそう言うのを聞いた。
どこかに運ばれていく――それだけは確かだった。かれは自分の体が屈強な腕に持ち上げられているのを感じていた。頭を殴られてからどのくらいたったのかわからない。耳はまだガンガン鳴っているし、胃も多少むかむかしていた。体はまだぐったりしていたが、かれはそっと片目を開けてみた。かすんで焦点は合わないが、暗がりの中で自分をのぞきこんでいるバラクのひげもじゃの顔を見ることができた。その顔をじっと見ているうちに、いつかの雪の積もったヴァル・アローンの森のときのように、毛むくじゃらな大熊の顔を見ているような気がしてきた。かれは目を閉じてブルッと身震いすると、かすかにもがきはじめた。
「心配するな、ガリオン」バラクの声にはどことなく絶望的な響きがあった。「おれだよ」
ガリオンがもう一度目を開けると、もう熊の顔はなかった。ほんとうに熊の顔を見たのかどうかさえ、はっきりわからなかった。
「だいじょうぶか?」バラクはガリオンを地面におろしながら聞いた。
「あいつら、ぼくの頭を打ったんだ」ガリオンはもぐもぐ言って、耳のうしろの腫れにふれようとした。
「もう二度とそんなまねはさせないさ」バラクの声にはまだ絶望的な響きがのこっていた。地面にくずれ落ちたかと思うと、かれは両手に顔をうずめた。あたりは暗く、はっきり見ることはできなかったが、その肩は押し殺された深い悲しみにうち震えているようだった――声を殺した、しぼり出すような鳴咽がとぎれとぎれに聞こえる。
「ここはどこなの?」ガリオンはあたりの暗闇を見回して訊ねた。
バラクは咳ばらいをして顔をぬぐうと、「テントからかなり離れたところだ。おまえを連れ去ろうとしていたふたり組に追いつくのにけっこう時間がかかったからな」
「何が起こったの?」ガリオンの頭の中はまだいくらか混乱していた。
「やつらは死んだよ。立てるか?」
「わからない」ガリオンは立とうとしたが、目がくらんで胃がむかついた。
「心配するな。おれが運んでやる」バラクの声はいつものいかめしい声にもどっていた。ちょうどそのとき近くの木の上で一羽のふくろうが鳴き声をあげた。幽霊のように白いそのシルエットは、かれらの目の前にある木々のあいだを漂いながら飛んでいった。バラクに持ち上げられると、ガリオンは目を閉じて、胃のむかつきを抑えることに神経を集中した。
間もなく、ふたりはさきほどの空き地に戻り、焚き火の明かりの中に足を踏み入れた。「ガリオンはだいじょうぶなの?」ポルおばさんはダーニクの腕の切り傷に包帯を巻きながら訊ねた。
「頭に一発食らっただけだよ」バラクはそう答えて、ガリオンを下におろした。「逃げられたのか?」かれの声は荒々しく、獣のような響きさえ感じられた。
「走る力の残ってるやつには逃げられた」シルクは答えた。その声はすこし上ずっていて、イタチのような目はギラギラ光っている。「やつらが残していったのはあれだけだよ」かれは、炎の明かりがとぎれるあたりにじっと横たわっている死骸を指さした。
弓をだらりとぶら下げたレルドリンが、肩ごしにうしろを振り返りながら、空き地に戻ってきた。息をきらし真っ青な顔をして、腕は震えている。「だいじょうぶか?」かれはガリオンの顔をみると、すぐに聞いた。
ガリオンは耳のうしろの腫れをそっとさわりながらうなずいた。
「きみを連れ去ったふたり組を見つけようとしたんだけど、やつらはすごく足が速くて追いつけなかったんだ。それに、あたりになにか獣がいたんだ。きみをさがしているとき、それがうなるのが聞こえたんだよ――おそろしい声だった」
「獣はもうどこかに行っちまったよ」バラクはにべもなく言った。
「おまえさん、どうかしたのか?」シルクは大男に訊ねた。
「べつに」
「あいつらは誰だったの?」ガリオンが聞いた。
「野盗ってとこかな」シルクは短剣をしまいながら言った。「あいつらを農奴制にしばりつけている社会が生んだ恩恵とでも言うべきかな。あいつらは農奴でいることに飽き飽きして、刺激と利益を求めて森に入りこんだんだ」
「ガリオンと同じようなことを言うんですね」レルドリンは不満そうに言った。「農奴制はここでは自然の秩序の一部だということが、どうしてわからないんですか? 農奴は自分のめんどうをみれないんですよ。だからもっと高い身分にあるぼくたちがかれらのめんどうを見ることを約束してやってるんです」
「むろん、そうだろうよ」シルクは皮肉っぽく言った。「あいつらはきみんとこの豚ほど腹いっぱい食わせてもらってないし、きみんとこの犬ほどいい家に住まわせてもらってない。それでも、きみたちはあいつらのめんどうをみてやってるんだろ?」
「もうそれで十分でしょ、シルク」ポルおばさんが冷やかに口をはさんだ。「仲間どうしで口喧嘩するもんじゃないわ」彼女はダーニクの包帯の端を結び終えると、ガリオンの頭を調べにきた。彼女が腫れている部分にそっと指を触れたとたん、ガリオンは痛さでちぢみあがった。
「たいしたことはなさそうね」
「それでも痛いんだよ」ガリオンはブツブツ言った。
「そうでしょうとも、ガリオン」彼女はなだめるように言った。それからバケツの冷たい水に布を浸して腫れた部分にあてがった。「自分の頭ぐらいまもれるようにならないとね、ガリオン。いつもこんなふうに殴られてたら、そのうち頭がふにゃふにゃになっちゃうわよ」
ガリオンはこれに答えようとしたが、ちょうどそのときヘターとミスター・ウルフが焚き火の明かりの中にもどってきた。「やつらはまだ逃走中です」ヘターがその後の成り行きを報告した。明滅する炎の明かりを受けて、馬革のジャケットについたはがねの円板が真っ赤に光り、サーベルには血のすじがついている。
「やつらは、こういうことにかけてはおそろしく才能がある感じだったな」今度はウルフが言った。「全員無事か?」
「頭のこぶと切り傷がすこしある程度よ」ポルおばさんはかれに説明した。「ほんとうならもっとひどいことになってたところね」
「ほんとうだったらなんて考えるのはやめようじゃないか」
「さて、あれをどかすとするか?」バラクは小川のほとりに散乱している死体を指さしながら、うなるように言った。
「土に埋めるんじゃないんですか?」ダーニクは訊ねた。その声はかすかに震え、顔はひどく青ざめている。
「手間がかかりすぎる」バラクが無愛想に言った。「そのうちにやつらの仲間が戻ってきて、どうにかするだろう――そういう気持ちがあればの話だが」
「ちょっと乱暴すぎやしませんか?」ダーニクが異議を唱えた。
バラクは肩をすぼめて、「そういう習わしなんだよ」
ミスター・ウルフは死体のひとつをごろんと転がして、その灰色がかった顔を注意ぶかく観察した。「よくいるアレンド人の無法者のようだな。はっきりと断言はできないが」
レルドリンは死体から矢をそっと引き抜いて、回収している。
「これを向こうに引っ張っていこうぜ」バラクがヘターに呼びかけた。「こいつらの死体を見るのはもううんざりだ」
ダーニクが目をそらした瞬間、ガリオンはかれの目に大粒の涙が浮かんでいるのに気づいた。
「つらいの、ダーニク?」かれは思いやるように訊ね、友だちと並んで丸太に腰かけた。
「わたしもあいつらのひとりを殺したんだよ、ガリオン」鍛冶屋は震える声で打ち明けた。
「顔に斧を振りおろしたんだ。断末魔の叫び声があがって、そいつの血がわたしの体全体にふりかかった。すぐに崩れ落ちたかと思うとそいつは爪先で地面を蹴っていたが、ついには事切れてしまった」
「そうするしかなかったんだよ、ダーニク」ガリオンはかれに言った。「あいつらはぼくたちを殺そうとしたんだから」
「ひとを殺したことなど一度もなかったのに」そう言うダーニクの顔には、今や涙がとめどなく流れ落ちている。「あいつはあんなに長いこと地面を蹴っていた――あんなに長いこと」
「もう寝たらどうなの、ガリオン?」ポルおばさんが有無を言わさぬ口調で言った。彼女の視線は、ダーニクの涙のすじがついた顔に注がれている。
ガリオンは状況を理解した。「おやすみ、ダーニク」そう言うと、立ち上がってテントに向かった。かれは一度だけ振り返った。ポルおばさんは鍛冶屋と並んで丸太に腰かけ、慰めるようにかれの肩に腕を回しながら静かに話しかけていた。
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テントの外では、焚き火の勢いがすでに衰えて小さなオレンジ色のゆらぎと化し、あたりの森はひっそりと静まりかえっている。ガリオンは疼く頭をかかえ、いっしょうけんめい眠ろうとしていた。だが真夜中をかなり回ったころ、かれはとうとうあきらめた。毛布の下からするりと抜け出すと、かれはポルおばさんをさがした。
銀色がかった霧の上にはすでに月が顔を出し、その光が薄霧を明るく見せている。物音ひとつしないテントのあいだを、足下に注意して進んでいくうちに、まわりの大気が白く光ってくるような気がした。かれはポルおばさんのテントの入口の垂れ幕を外からガリガリひっかいて、ささやいた。「ポルおばさん?」返事はない。「ポルおばさん」今度はすこし大きな声で言ってみた。「ぼくだよ、ガリオンだよ。入ってもいい?」それでも返事はなく、かすかな物音さえ聞こえない。かれは垂れ幕をそっとまくって、中をのぞいた。テントはもぬけの空だった。
困惑し、すこし恐怖感を覚えながら、かれはうしろを振り返り、空き地をぐるっと見回した。馬がつながれている場所からそう遠くないところで、ヘターが見張り番をしていた。タカのような顔を霧のたちこめた森に向けながら、ケープで体を包んでいる。ガリオンは一瞬ためらったあと、テントのうしろでそっと歩を進めた。それから、水に浸ければ頭の痛みがやわらぐかもしれないと思い、木々とおぼろげに光る霧のあいだを小川に向かって下っていった。テントから五十ヤードほど離れたとき、木のあいだで何かがかすかに動くのが見えた。かれは立ち止まった。
大きな灰色の狼が霧の中からそっと歩み出てきたかと思うと、木に囲まれた空き地の中央で足を止めた。ガリオンは大きく息を飲み、ねじれた樫の巨木のわきで身を固くした。狼はまるで何かを待っているかのように、湿った葉っぱの上にすわった。白く光る霧が狼を照らしていなかったら、こんなに細かく眺めることはできなかっただろう。その首もとの毛と肩は銀色に輝き、鼻は灰色がかっている。おそらく厳然たる態度で長い年月を生き抜いてきたのだろうが、その黄色い瞳はどことなく穏やかでいかにも賢い感じがした。
ガリオンは微動だにせずに立ちつくしていた。どんなにかすかな物音でも、狼の鋭い耳にはたちどころにとどいてしまうことをかれは知っていた。だが理由はそればかりではなかった。耳のうしろに受けた一撃で意識がもうろうとしていたし、月光を浴びた霧の不思議な輝きのせいで、この遭遇が夢のできごとのように思えたのだ。かれは息を止めている自分に気づいた。
そのとき、雪のように白い一羽のふくろうが、この世のものとも思えない軽やかな羽ばたきで、木立に囲まれた空き地の上空を旋回したかと思うと、低い枝に止まり、そこで羽を休めながら瞬きもせずに狼を見下ろした。灰色の狼も木に止まっている鳥におだやかな視線を返した。その瞬間、風はそよとも動いていないのに、きらめく霧の中で空気が小さく渦巻き、ふくろうと狼の姿をかすませたように見えた。ふたたび視界が開けたとき、空き地の中央にはミスター・ウルフが立ち、かれの頭上の大枝には灰色のガウンを羽織ったポルおばさんが危なげなくすわっていた。
「おまえといっしょに狩りをしてから、もうずいぶんたつな、ポルガラ」老人が言った。
「ええそうね、おとうさん」彼女は両手を持ち上げ、ふさふさした長い黒髪を指でといた。
「どんなものだったかさえ思い出せないほどだわ」彼女は不思議な快感にブルッと身震いした。
「狩りにはもってこいの夜ね」
「ちょっと湿っぽいな」かれは片足を振りながら答えた。
「木のてっぺんから上はきれいに晴れあがってるし、星はまぶしいくらいに光り輝いているわ。空を飛ぶには申し分ない夜よ」
「おまえが愉快にしていると、わしもうれしいよ。自分のとるべき行動を偶然思いだしたってわけか?」
「皮肉はよして、おとうさん」
「さあ、どうする?」
「このあたりにはアレンド人しかいないわ、しかもほとんどがもう眠ってる」
「たしかだろうな?」
「もちろん。周囲五リーグにグロリムはいないわ。ところで捜してた相手は見つかったの?」
「あいつらの追跡など造作ない。もう三リーグほど森の奥に入ったところのほら穴の中にいた。そこに戻る途中でもうひとり死んだらしい。あとのふたりもどうせ明日の朝までもたんだろう。残りのやつらは事態が思わぬ方向に進んだので、悲痛な顔をしておった」
「目に浮かぶようだわ。かれらの会話が聞こえるぐらい近寄ってみたの?」
かれはうなずいた。「付近のある村に男がいて、そいつが道路を見張りながら、盗みの価値がありそうな人間を見つけるたびにやつらに知らせてるのだ」
「じゃあ、かれらはただの野盗ってこと?」
「いや、そうとも言えんな。やつらはわしらをとくによく観察していたのだ。わしらの特徴は細部にいたるまでほぼ完璧に報告されてたわけだ」
「その村人に話をしにいくわ」彼女は険しい顔でそう言うと、不快そうに、何かをほのめかすようなしぐさで指を折った。
「そんなことをしても時間を無駄にするだけだ」ウルフは、思案ありげにひげをこすりながら言った。「やつに白状できることといったら、どこぞのマーゴ人に金をもらったということぐらいだろう。グロリムは雇い人にいちいち事情を説明したりしないからな」
「その男のところに行くべきよ、おとうさん」彼女は先を続けた。「こそこそ尾行されたり、アレンディア中の山賊を買収してあとを追わせるような真似をされたくないわ」
「明日からは大金を使って何かを買うこともできなくなるさ」ウルフは短く笑った。「明日の朝、仲間がそいつを森の中に呼び出し、本人に代わって喉をかき切ることになっている」
「それはよかったわ。そのグロリムが誰なのか知りたい気もするけど」
ウルフは肩をすくめた。「それを知ったからといってなんになる? 北部アレンディアには何十人というグロリムがいて、そのひとりひとりが可能なかぎりたくさんの面倒を起こしているんだぞ。かれらは何が起こりつつあるか、われわれとおなじくらいよく知っているのだ。われわれが通り過ぎるのを黙ってながめてはいないだろう」
「処刑をやめさせなくていいの?」
「そんな暇はない。アレンド人に事情を説明しようとしたら、それこそいくら時間があってもたりない。もっとスピードをあげれば、グロリムの準備ができる前にうまく逃げることができるだろう」
「もしできなかったら?」
「そのときは別の方法を考えるさ。とにかくわしはゼダーがクトル・マーゴスに入りこむまえに、あいつを捕まえなくてはならんのだ。あんまり邪魔が入るようなら、力に訴えるしかないだろう」
「はじめからそうしていればよかったのよ。おとうさんは、時として物事に繊細すぎるんだわ」
「またそれを始めるつもりか? どんな問題にしても、常におまえの答えは同じじゃないか、ポルガラ。おまえはこれからもそうやって、そっとしておけばおのずと落ち着くものにわざわざ結論を出し、変えなくてもいいものを変えていくつもりなんだな」
「そうカッカしないでよ、おとうさん。ここからおりるのを手伝ってちょうだい」
「飛びおりたらどうだ?」
「ばかなこと言わないで」
ガリオンは苔むした木々のあいだを通って、そっとその場を立ち去った。道すがら、かれの体は激しく震えていた。
ポルおばさんとミスター・ウルフは空き地に戻ってくると、他の者たちを起こした。
「そろそろ出発したほうがよさそうだ」ウルフはかれらに言った。「ここはちょっと無防備だからな。街道のほうがまだ安全だろうし、この森林地帯だけは早く通ってしまいたいのでな」
野営施設を解体するのは一時間とかからなかった。かれらは〈西の大街道〉に向かって杣《そま》道を戻りはじめた。夜が明けるにはまだ数時間早かったが、あたりは月あかりを浴びた霧でほの白く光っていたので、まるで木々のあいだにたちこめた、光る雲のあいだに馬を進めているような感じだった。やがて街道に出ると、かれらはふたたび南に進路をとった。
「日がのぼったら、ここからはくつろいで進みたいところだが」ウルフがもの静かに話しはじめた。「へまをやりたくはないからな。目と耳をしっかり開けておいてくれ」
かれらは普通の駆け足で馬を進め、朝のおとずれとともに霧が真珠のような灰色に変わるころには、ゆうに三リーグは走破していた。やがて大きなカーブにさしかかると、ヘターは突然腕をあげて止まれの合図を送った。
「どうした?」バラクが聞いた。
「前方に馬がいるんです。こちらに向かっています」
「確かなのか? おれにはなにも聞こえないが」
「少なくとも四十頭はいます」ヘターはきっぱりと答えた。
「ほら」ダーニクが頭を片側に傾けながら言った。「あれが聞こえませんか?」
するとかすかにではあるが、全員の耳に、霧の中の少し離れたところから響くジャラジャラ、カタカタという音が聞こえてきた。
「かれらが通りすぎるまで森の中に隠れていればいいですよ」レルドリンが提案した。
「いや、このまま道にいるほうがいいだろう」ウルフはそう答えた。
「わたしにまかせてください」シルクは自信ありげにそう言って、列の先頭に出ていった。
「こういうことなら、まえにも経験したことがあるんですよ」一行は用心深く前進した。
霧の中からあらわれた騎士たちは、全身をはがねにつつんでいた。ピカピカに光ったよろいと丸いかぶと一式を身につけたその姿は、かぶとについた尖った面頬のために、どことなく巨大な昆虫を思わせた。手には先端に多彩な旗をつけた長い槍を持っている。かれらが乗っている馬は堂々として、これもまたよろいを着けていた。
「ミンブレイトの騎士だ」レルドリンはうなるようにそう言って、目をすえた。
「個人的な感情を顔に出すな」ウルフはかれを戒めた。「もしかれらのうち誰かが話しかけてきたら、おまえはミンブレイトの信奉者だというようなそぶりで返事をするんだぞ――伯父さんの屋敷でのベランテイン青年のようにな」
レルドリンは顔をこわばらせた。
「言われたとおりにするのよ、レルドリン」ポルおばさんが念を押した。「今は英雄きどりしてる場合じゃないわ」
「控え!」武装した縦隊の先導者は、槍をおろし、はがねの刃先をかれらに向けて命令した。
「話がしたい、ひとりだけ前に進みいでよ」騎士の声には有無を言わせぬ響きがあった。
シルクが愛想笑いを浮かべながら、武装した男に近づいた。「あなたさまでようございました、騎士どの」かれはペラペラと出まかせを言った。「わたくしどもはゆうべ泥棒に襲われましたもので、今も殺されるのではないかとびくびくしながら馬を進めていたところでございます」
「おぬしの名はなんと申す?」騎士は面頬を上げながら訊ねた。「おぬしと道をともにしている連中は何者だ?」
「わたくしはボクトールのラデクと申します、騎士どの」シルクは、ベルベットの帽子を脱ぎながらうやうやしくお辞儀をして答えた。「冬の市に間に合えばと思い、センダリアの毛織り物を持ってトル・ホネスに向かう途中のドラスニア商人でございます」
よろいかぶとの男はいぶかしそうに目を細めた。「そのていどの単純な商売をしようとしているわりには、仲間が多すぎるように見受けるが」
「そこの三人はわたくしの従者でございます」シルクはバラクとヘターとダーニクを指さして言った。「老人と子供はわたくしの姉のお付きでございます。姉は自分の財産で暮らしている未亡人でして、トル・ホネスを訪ねたいがためにわたくしに同行しているのです」
「あとの一名は?」騎士は追及した。「アストゥリア人か?」
「友人を訪ねるためにボー・ミンブルに向かっている青年貴族でございます。親切にもわたくしどもがこの森を抜けられるよう道案内することを引き受けてくださったのです」
騎士の疑いはすこしゆるんだように見えた。「おぬしはさきほど野盗のことを口にしておったな。どこで待ち伏せされたのだ?」
「三、四リーグもどったところです。わたくしどもが夜営を張ったあと、やつらが襲ってきたのです。撃退しようと思ったのですが、姉がすっかりおびえておりましたもので」
「アストゥリアのこの地方は謀叛や山賊行為で騒然たるありさまだ」騎士はいかめしく言った。
「部下とわしはそういう行為を鎮圧するために派遣されたのだ。こちらに参れ、そこのアストゥリア人」
レルドリンは一瞬鼻孔をふくらませたが、おとなしく前に進み出た。
「おぬしの名が知りたい」
「レルドリンと申します、騎士どの。なにかお役に立てることはありますか?」
「おぬしの友人が話していた野盗のことだが――平民だったのか、それとも貴族だったのか?」
「農奴です、騎士どの」レルドリンは答えた。「ぼろを着て、無骨な連中でした。きっと法で定められた主人への服従から逃れて、森の中で無法者になったのだと思います」
「貴族自身が王に対して憎むべき謀叛を起こしているというのに、どうして農奴に労役や本来の服従を望めようか?」騎士は主張した。
「おっしゃるとおりです、騎士どの」レルドリンは悲哀の面持ちでかれに同意したが、これはいくらか演技過剰だった。「わたしも、ミンブレイト人の圧迫と行き過ぎた横柄さばかりを論じている連中に、それとまったく同じことをずいぶん主張してきたのです。しかし、わたしの正当な主張も、貴族の長《おさ》である国王への心からの敬意も、あざけりと冷たい軽蔑の視線を受けただけに終わりました」かれはそう言って溜息をついた。
「おぬしが賢明であることはわかったぞ、レルドリン」騎士は言った。「だが遺憾ながら、こまかい供述を立証するために、おぬしと仲間を引き留めなくてはならんのだ」
「騎士どの!」シルクは猛烈な勢いで抗議した。「天候の変化が、トル・ホネスでの商いをだいなしにしてしまうかもしれません。お願いです、足止めだけは堪忍してください」
「わしとて足止めを食わせるのは忍びないのだ、善良な商人よ。だがアストゥリアには偽善者と陰謀者があふれている。すみずみまで調べないことには、誰ひとりとしてここを通すわけにはいかんのだ」
そのとき、ミンブレイトの縦隊のうしろで、ざわめきが起こった。と同時に、ピカピカに磨きあげた胸あてに羽毛でかざったヘルメット、深紅のケープという装いもあでやかに、総勢五十人のトルネドラ軍団が武装した騎士たちのわきをゆっくりと一列縦隊で通りぬけてきた。
「何かもめごとかね?」軍団の指揮者らしい、細身でなめし皮のような顔をした四十がらみの男が、シルクの馬からさほど離れていないところで馬をとめ、ていねいにたずねた。
「軍団の力添えを頼むほどのことではない」騎士は冷たく答えた。「われわれはボー・ミンブルから指令を受け、アストゥリアの秩序回復を援助するためこの地に遣わされたのだ。今もそのためにここにいる旅行者に質問をしていたところだ」
「秩序ならわたしも大きな敬意を払うところだ、騎士どの」トルネドラ人は答えた。「しかし、街道の保安責任はこのわたしにある」かれはそう言うと、物問いたげな顔でシルクを見た。
「わたくしはボクトールのラデクと申します、隊長」シルクはかれに言った。「トル・ホネスに行く途中のドラスニア商人でございます。身分証明書もあります、ごらんになりたければ」
「証明書など簡単に偽造できるわい」騎士は言った。
「たしかにそうだ」トルネドラ人は同意した。「だが、わたしは時間を節約するために、人相で判断することにしている。荷のなかに商品を積んだドラスニア商人には、〈帝国の街道〉を通る正当な理由があるのだ、騎士どの。かれを引き留ある理由はどこにもないのではないかな?」
「われわれは山賊行為と謀叛を鎮圧しようと努めておるのだぞ」騎士はカッとなって言った。
「好きに鎮圧されるがよい」隊長は言った。「ただし、もしさしつかえなければ、街道以外のところでお願いしたいですな。条約では、〈帝国の街道〉はトルネドラの領土ということになっている。ひとたび森の中に五十ヤードもどれば、何が起ころうと、それはあなたの問題だ。同様に、この道で起こったことはわたしの問題なのだ。アレンディア国王とトルネドラ皇帝のあいだに正式に交わされた条約を侵して、自国の王に恥をかかせたいと望むようなミンブレイト騎士がいるはずはないと思うが、どうかな?」
騎士は、困りはてた顔でかれを見た。
「おぬしは早く先に進むべきだと思うがね、善良な商人よ」トルネドラ人はシルクに言った。
「トル・ホネスの人々はこぞって、おぬしの到着を今や遅しと待ちわびているはずだ」
シルクはかれにニヤッと笑いかけ、鞍の上から大袈裟にお辞儀をした。それから他の者に合図を送ると、全員そろって、いきまいているミンブレイト人のわきをゆっくりと通り過ぎた。かれらが行ってしまうと、軍団は街道を横切るように列をつくり、事実上いかなる追手も通れないようにしてしまった。
「いいやつだったな」バラクが言った。「トルネドラ人をいいやつだなんて思うことはめったにないが、あいつは例外だ」
「休まず一気にいこう」ミスター・ウルフが言った。「トルネドラ人が去ったあとで、あの騎士たちがわしらのほうに引き返してきたら大変だ」
かれらは、街道の真ん中でトルネドラ軍の指揮官相手にむきになって口論している騎士を尻目に、馬を全速力で走らせ、そのまま前進した。
その夜、一行はぶ厚い壁に囲まれたトルネドラ人の宿に宿泊した。そして、おそらく生まれて初めて、ガリオンはおばさんに「入りなさい」とか「入れば」と言われずに、自分からすすんで風呂に入った。昨晩の空き地での戦いには直接参加することこそなかったが、なにかしら自分の体にひとの血、あるいはもっとひどいものが降りかかったような気がしたのだ。激しい戦いの中で人間の体がいかにグロテスクに切断されるものか、かれははじめて知った。そして、生身の人間が腹を裂かれたり、脳を打ち砕かれたりするのを見ている最中、かれは人間の体のいちばん私的な秘密がこんなにも無造作に人目にさらされてしまうのかと、いたたまれない気持ちになっていた。かれは自分の体が汚れているような気がしてならなかった。寒々とした脱衣所で衣服を脱ぎ、さらに無意識のうちに、ミスター・ウルフとポルおばさんがくれたお守りまではずしてしまうと、かれは湯気がたちのぼっているバスタブの中に入り、きめの粗いブラシと強い石鹸で、ものすごく清潔好きな人間でもここまではしないだろうと思うほど熱心に体をこすった。
その後の数日間、かれらは着実な速さで南方に進み、夜は夜で一定の距離をおいて建てられているトルネドラ人の宿に泊まった。あのいかめしい顔の隊長に会ったおかげで、旅行者がトルネドラ人の宿に保護を求めれば、トルネドラ帝国は全勢力をもってその安全を守ってくれるのだという考えが、常にかれらの頭の中にあったのだ。
しかし、森での戦いから六日後、レルドリンの馬がびっこをひくようになってしまった。ウルフがこの遅れに腹を立てているあいだ、ダーニクとヘターはポルおばさんの指導にしたがって、道ばたに起こした小さな火の上で湿布剤を煎じ、湯気の出ている湿布を馬の脚にあてがった。馬が回復して歩けるようになったころには、誰もが日暮れ前に次の宿にたどり着くのは無理だろうと思いはじめていた。
「ねえ、老いぼれ狼」みんながふたたび馬に乗ってから、ポルおばさんが口を開いた。「今度はどうするつもり? 夜のあいだ馬を走らせるの、それともまた森の中に避難所を設けるの?」
「まだ決めてない」ウルフは素っ気なく答えた。
「もしぼくの記憶に間違いがなければ、この先そう遠くないところに村があるはずなんですが」そう言ったのは、今ではアルガーの馬にまたがっているレルドリンだった。「貧しい村ですが、宿屋――のようなものが一件あったはずです」
「不吉な響きだな」シルクが言った。「そのような≠チていうのはどういう意味なんだよ?」
「そこの領主は欲の皮がつっぱってることで有名なんですよ。税の負担がものすごく重いので、領地のひとたちは手元にほとんど何も残せないんです。だから宿屋も期待はできないんですよ」
「一か八かあたってみるべきだな」ウルフはそう結論すると、みんなの先頭に立って小走りに馬を走らせた。村に近づくにつれ、重苦しくたちこめていた雲がしだいに晴れあがり、太陽が弱々しく顔をのぞかせはじめた。
その村の状態はレルドリンの説明から想像していたよりも、さらにひどかった。村のはずれのぬかるみには、ぼろをまとった六人の乞食が立っていて、懇願するように両手を伸ばし、感情をむきだしにして金切り声をあげていた。家々と言っても、それらは中で焚いているかすかな炎の煙が外ににじみ出てくるような、粗末なあばらやにすぎなかった。泥だらけの道では、痩せこけた豚が鼻の先で地面を掘って食べ物をさがしているのだが、そのあたりの悪臭はすさまじいものだった。
葬儀の列が、ぬかるみの中を村のむこう端にある墓地に向かって、重い足取りで進んでいた。板の上に載せられて運ばれていく遺体はみすぼらしい茶色の毛布にくるまれているというのに、アレンド人の神チャルダンに仕える神父たちは裕福そうな法衣と頭巾を着け、戦争や仇討ちといったものには大きな縁があっても、ひとびとの慰めにはなりえなかった古い賛美歌を詠唱している。未亡人はむずかる幼児を胸に抱いて、亡骸のあとについていく。その顔はうつろで、目は死んでいるようだった。
宿屋はビールのむっとするような臭いと食べ物が半分腐ったような臭いがした。社交室の一方の壁は火事で焼け、低い梁の天井も黒く焦げている。焼けた壁にぽっかりあいた穴には、ぼろぼろの帆布がカーテンがわりにかけてある。部屋の中央にある暖炉からはしけた煙がたちのぼり、いかめしい顔をした宿の主人はまったく愛想がない。夕食にかれが用意したものは、ボウルに入った水っぽいオートミール粥――大麦とかぶを混ぜたもの――だけだった。
「じつに素晴らしい」シルクは皮肉まじりにそう言いながら、口をつけていないボウルを押しやった。「きみにはいささか驚かされたよ、レルドリン。世の中の悪を正そうとするきみの情熱も、この場所までは届かなかったと見える。今度の改革運動にはぜひここの領主の訪問という項目を入れておいてもらいたいが、どうかな? かれはとっくに絞首刑になっていていいはずだ」
「こんなにひどいとは思わなかったんです」レルドリンは打ちのめされたような声で答えた。そして、はじめて事実を見るかのようにあたりを見回した。かれの率直な顔に、恐怖ともとれる不快な表情が浮かびはじめた。
ガリオンは胸のむかつきに耐えかねて立ち上がると、「ぼく、おもてに行ってくるよ」と言った。
「あまり遠くに行っちゃだめよ」ポルおばさんがうしろから警告した。
外の空気は少なくとも中よりはきれいだった。ガリオンはぬかるみの一番ひどいところを避けながら、村のはずれに向かって注意深く足を進めた。
「お願いです、だんなさま」大きな目をした幼い少女が物乞いをしてきた。「パンをひと切れくれませんか?」
ガリオンはなす術《すべ》もなく少女を見た。「ごめんよ」かれは何かあげられるものはないかと衣服をまさぐってみたが、少女は泣き出しながら立ち去ってしまった。
悪臭のする道のむこうには切り株がぽつぽつ並ぶ野原があり、ガリオンとおなじ年ごろのぼろをまとった少年が、体格の悪い二、三頭の牛を監視しながら木のフルートを吹いていた。かれの奏でるメロディは胸が熱くなるほど純粋で、それが誰にも気づかれることなく、傾きかけた青白い日差しの中に並ぶあばら家のあいだを漂っていく。少年はガリオンの顔を見ても、演奏を中断しようとしなかった。ふたりは互いの顔をまじまじと見つめたが、言葉は交わさなかった。
野原を越えた森のはずれのあたりで、木立の中から黒っぽいローブに頭巾をかぶり黒い馬にまたがった男が出てきたかと思うと、馬の上から村をながめた。その黒っぽい人影にはどことなく不気味な雰囲気が漂っていたが、同時にどことなく見覚えのある姿のようにも思えた。ガリオンはなぜかしら自分がその男の正体を知っているはずだという気がした。しかし、いくらその名前を思いだそうとしても、追憶の糸は焦らすようにかれをかわしていく。かれは森のはずれの人影を長いこと眺めながら、沈みゆく太陽に照らされているのに馬のうしろにも騎手のうしろにも影がないということを、ほとんど無意識のうちに感じていた。心の奥底で何かがかれに金切り声をあげさせようとしたが、頭がすっかりもうろうとしていたので、かれはただぼんやりと眺めているだけだった。言っても仕方のないことだから、森のはずれの人影のことをポルおばさんや他の仲間に言うつもりはなかった。背中を向けるとすぐに、かれは今見たことを忘れてしまった。
あたりはだんだん暗くなってきた。体がブルブル震えてきたので、かれはきびすを返し、少年のフルートが奏でる物悲しい調べが空に舞いあがっていくのを聞きながら、宿屋への道を戻っていった。
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前日のつかの間の夕焼けが晴天を約束してくれたにもかかわらず、翌日は、冷たい霧雨が木立のあいだで渦を巻きながら降るうちに、寒く陰気な夜明けをむかえ、森全体が湿っぽくゆううつな色に包まれていた。かれらはまだ早いうちに宿を出発すると、間もなく森林地帯に入ったが、そこはかれらがこれまで通ってきた不吉な道程ですら感じなかったような、いやな予感のするところだった。ここの樹木は桁はずれに大きく、中でも本数の多いふしくれだった樫の巨木が、黒っぽいもみの木や檜のあいだに裸の大枝をニョキッと突き出していた。森の床は病んでいるような灰色の苔らしきものにおおわれている。
この日の朝、レルドリンはほとんど口をきかなかった。ガリオンはまだナチャクの計画の件で頭を痛めているのだろうと思っていた。レルドリンは重々しい緑のマントを着て馬に乗っていたが、赤みがかった金髪は間断なく降りつづく霧雨に濡れ、べったりとしていた。ガリオンは友だちの横に馬を引き寄せると、しばらく黙って道を進んだ。「何を悩んでいるの、レルドリン?」かれはついに訊ねた。
「ぼくはこれまでずっと盲目だったんだよ、ガリオン」レルドリンは答えた。
「えっ? どういうこと?」ガリオンは、やっとミスター・ウルフにすべてを打ち明ける決心をしてくれたのかと期待しながら、慎重に言葉を選んだ。
「ぼくの目には、アストゥリアがミンブルに抑圧されてることしか見えていなかったんだ。ぼくたちが領民を抑圧していることには気づかなかった」
「ぼくがずっと言おうとしていたのはそれなんだよ。でも、なんだってそんなことを思いついたの?」
「昨晩すごしたあの村だよ。あんなに貧しくて汚らしいところはいままで見たことがない――それに、あんなに絶望的な苦痛を強いられている人々も。どうしてかれらはあんな生活に耐えられるんだろう?」
「かれらに選択権なんてあるかい?」
「すくなくともぼくの親父は、自分の土地にいる人々のめんどうを見てるよ」レルドリンは言い訳がましく言った。「お腹をすかしたり、風雨をしのぐ場所がない者なんていないよ――でもあのひとたちは動物よりひどい扱いを受けていた。ぼくはこれまで自分の身分を誇りに思ってきた。でも、いまはそれが恥ずかしい」そう言うかれの目には、現に涙が浮かんでいる。
ガリオンは友だちの突然の目覚めをどう扱っていいのかよくわからなかった。いっぽうでは、レルドリンがとうにわかりきっていたことをやっと理解してくれてよかったと思う気持ちがあったが、反面、この新しい発見が気の変わりやすい友だちにどんなに極端な変化をもたらすかという不安もすくなからずあった。
「ぼくは身分を放棄するよ」ガリオンの気持ちをずっと読んでいたかのように、レルドリンがだしぬけに宣言した。「そして、この任務から戻ったら農奴に混じってかれらと生活を共にする――悲しみも分かちあう」
「そんなことをしてなんになる? きみが苦痛を背負ったからって、かれらの生活が楽になるのかい?」
レルドリンはさっと顔をもたげだ。そのあけすけな顔には六つぐらいの感情がいっぺんに交差している。ついにかれは笑いだしたが、青い目からは確かな決断が感じられた。「たしかにきみの言うとおりだ。きみはいつだって正しいよ。どうしてきみはいつも物事の核心をずばりと見抜くことができるんだろうね、ガリオン」
「思ってることを正直に言ってくれない?」すこし心配そうな声でガリオンは聞いた。
「かれらを先導して反乱を起こすよ。農奴の兵隊を従えてアレンディアを一掃するんだ」その計画に想像力をかきたてられたらしく、レルドリンは声をはずませた。
ガリオンは思わずうなり声をあげた。「どうしてきみの答えはいつでも同じなんだ、レルドリン? まず第一に、農奴は武器なんて持ってないし、どういうふうに戦うかさえ知らないんだよ。どんなにいっしょうけんめい説得しても、かれらを従わせることはできない。第二に、もし農奴がついてきたとしても、アレンディアの全貴族は一致団結してきみに立ち向かってくるぞ。かれらはきみの兵隊をめった打ちにして、けっきょく事情は前より十倍も悪くなるだろうな。第三に、きみは第二の内乱をはじめようとしているだけなんだ。それこそマーゴ人の望むところだよ」
レルドリンはガリオンの言葉がとぎれると、数回瞬きした。そして、さきほどの悲しげな表情がすこしずつよみがえってきた。「そんなこと思いもしなかったよ」かれは心から言った。
「だろうと思ってた。剣とおなじ鞘の中でものを考えてるかぎり、きみはこれからもそういう間違いを犯しつづけると思うよ」
レルドリンはこの指摘に顔を赤らめたが、次の瞬間悲しそうに微笑んだ。「ずいぶん手厳しいね、ガリオン」かれはとがめるように言った。
「ごめんよ」ガリオンはすぐに謝まった。「もっと別の言い方をするべきだったね」
「いや、いいんだ。ぼくはアレンド人だからね。はっきり言ってもらわないと、間違って解釈するおそれがあるんだ」
「だからって、きみの頭が悪いってことにはならないよ、レルドリン。誰だってそのぐらいの間違いはするんだから。アレンド人は馬鹿じゃない――ただ衝動的なだけなんだよ」
「これ全部を衝動的という言葉で片づけるわけにはいかないだろうな」レルドリンは木立の下に生えている湿っぽい苔を指しながら、悲しそうに言った。
「これって?」ガリオンはきょろきょろしながら聞きかえした。
「ここは中部アレンディアの平野に出る前に通る、最後の森林地帯なんだ。ミンブルとアストゥリア間の自然の境界ってわけさ」
「他の森と変わらないように見えるけど」ガリオンはあたりを見回しながら言った。
「それが違うんだな」レルドリンは陰気な声で答えた。「ここは待ち伏せをするにはちょうどいい場所なんだ。森の床は古い骨におおわれている。そこを見てみなよ」かれは指さした。
はじめ、レルドリンの指したものは、苔の中から二本のねじれた棒きれが突き出していて、その先端の細枝がうっそうと茂る藪にからんでるとしか思えなかった。だが次の瞬間、ガリオンは激しい不快感とともに、それが緑色がかった人間の腕の骨で、断末魔の苦しみのうちに指がやぶをつかんだのだと悟った。かれは憤りを感じながら、「かれらはどうしてこれを埋めなかったの?」
「ここにある骨を千人の人間が全部集めて土に埋めたとしても千年はかかるな」レルドリンは気味が悪くなるほど抑揚をつけて言った。「アレンディアの全世代にわたる人間がここに眠っているんだ――ミンブレイト人も、ワサイト人も、アストゥリア人も。みんな倒れた場所に横たわって、苔の毛布におおわれながら永遠にまどろみ続けるのさ」
ガリオンはぶるっと身震いして、森の床に波打つ苔の海からぬっと出ている孤独な腕の無言の訴えから目をそむけた。奇妙な苔のこぶと小山は、その下で何か不気味な物が朽ち果てていることを物語っていた。視線をもどすと、でこぼこの地面が見渡すかぎりつづいていることがわかった。「平野に着くまで、あとどのくらいかかるの?」かれは物静かな声で聞いた。
「二日だろうな、たぶん」
「二日も? ずっとこんな感じで?」
レルドリンはうなずいた。
「どうしてそんなことが?」ガリオンの口調は思ったよりも、ずっと険しく、非難めいていた。
「最初はプライドのためだった――それと名誉だ。その後は悲しみと復讐のため。そして最後には、ただ単に、どうやって止めたらいいのかわからなくなってしまったという理由で。前にきみが言ったように、ぼくらアレンド人っていうのはよく頭が働かないときがあるみたいだな」
「でもいつだって勇敢じゃないか」ガリオンはすかさず言った。
「ああ、そうさ、いつだって勇敢だよ。それがこの国の呪いでもあるんだ」
「ベルガラス」うしろからヘターの物静かな声がした。「馬が何かかぎつけたようです」
ミスター・ウルフは馬の上でよくやる例の居眠りからハッと目をさました。「なんだ?」
「馬ですよ」ヘターは繰り返した。「このむこうにいる何かが馬を怯えさせているんです」
ウルフの目は一瞬細くなったかと思うと、奇妙なことに、見るみるうちに虚ろになってきた。
しばらくするとかれはブツブツと呪いの言葉を口にしながら、大きく息を吸い込んだ。「アルグロスだ」かれは言った。
「アルグロスって?」ダーニクが聞いた。
「化け物だ――トロールの遠い親戚のようなものだな」
「トロールなら前に一度見たことがある」バラクが言った。「かぎ爪と牙をもった、大きくて醜いやつだ」
「襲ってくるでしょうか?」ダーニクが聞いた。
「ほぼ間違いない」ウルフの声は緊張に震えている。「ヘター、きみは馬をどうにかして落ち着かせるようにしてくれ。わざわざみんなが離ればなれになる必要もないからな」
「あいつらはどこから来たんですか?」今度はレルドリンが質問した。「この森には化け物なんていないはずなのに」
「あいつらは腹を空かすと、ときどきこうやってウルゴの山脈から下りてくるのだ。ひとり残らず食われてしまうから、あいつらのことを報告した者はいないがな」
「何か手を打ったほうがいいんじゃない、おとうさん」ポルおばさんが言った。「すっかり包囲されてるわよ」
レルドリンは自分の立場を確認するように、キョロキョロとあたりを見回した。「エルゴンの岩山までそう遠くはない。あそこにたどりつければ、アルグロスを近寄らせずにすみますよ」
「エルゴンの岩山?」バラクが聞き返した。かれはすでに重々しい剣を抜いている。
「丸石におおわれた高い丘のことです。言ってみれば、砦のようなものですね。エルゴンという人物は一ヵ月ものあいだそこに立てこもってミンブレイト兵の攻撃を防いだんですよ」
「使えそうだな」シルクが言った。「少なくとも森から離れられる」かれは、霧雨を浴びながら気味悪く迫ってくる木立を、苛立たしそうに眺めまわした。
「よし、そこに行ってみよう」ウルフが決定を下した。「やつらはまだ襲える状態じゃないだろうし、雨で臭覚がにぶっているはずだ」
そのとき、森のうしろから不気味な吠え声が聞こえてきた。
「あれがそうなの?」ガリオンの声は、かれ自身の耳にさえかん高く響いた。
「仲間どうしで呼びあっているのだ」ウルフはかれに言った。「やつらのなかにわしらの姿を見たものがいるんだろう。すこしスピードを上げよう。だが、岩山を見るまではけっして走るんじゃないぞ」
ぬかるんだ道が低い尾根の頂上にむかって上り坂になってくると、かれらは神経過敏になっている馬の歩調を徐々に速足に変え、着実に距離をかせいだ。「半リーグです」レルドリンは緊張した声で言った。「あと半リーグで岩山が見えるはずです」
馬を御するのは容易ではなかった。どの馬もギョロギョロと目をむきながら、あたりの木立に視線を走らせている。ガリオンは胸が激しく鼓動して、口の中が突然カラカラに乾くのを感じた。雨脚がすこし強くなってきた。と、かれは視界の角で何かが動いたのを感じて、すばやくその方向に目を向けた。森の中に百歩ほど入ったところで、人間のような姿をしたものが道路と平行に跳んでいた。両手を地面につき、なかばしゃがむようなかっこうで走っている。ちょっと見たところ、胸くそ悪い灰色をしている。「あそこ!」ガリオンは叫んだ。
「いたな」バラクがうなり声をあげた。「トロールほどでかくないぞ」
シルクは顔をゆがめて、「あれだけ大きけりゃ十分だよ」
「もしあいつらが襲ってきたら、かぎ爪に注意するんだぞ」ウルフが警告した。「毒をもってるからな」
「こりゃおもしろくなってきたぞ」とシルク。
「岩山だわ」ポルおばさんが穏やかに告げた。
「よし、走れ!」ウルフが吠えた。
急に手綱をゆるめられて驚いた馬たちは、前のめりに跳びあがり、ひづめを激しく動かしながら道を駆けのぼった。とそのとき、うしろの木立でフーッといううなり声が聞こえ、あたりの吠え声がどんどん大きくなってきた。
「あと一息だぞ!」ダーニクはみんなを励ますように叫んだ。だが、その瞬間六頭のアルグロスがうなりながら眼前の道路に立ちはだかった。両腕を広げ、背筋が寒くなるほど大きな口を開けている。体は巨大で、猿のような腕と、指のかわりにかぎ爪をもっている。顔はヤギのようで、その上に短いが鋭くとがった角がある。そして、長くて黄色い牙。灰色の皮膚はうろこ状で、爬虫類のようだ。
馬はいななきながら後ろ足で立ち、逸走しようと必死になっている。ガリオンは片方の手で鞍にしがみつき、もう片方の手で手綱と戦った。
バラクは剣のひらで馬の尻をたたき、獣の脇腹を容赦なく踏みつけた。その荒々しさときたら、しまいには踏まれているアルグロスより馬のほうが怯えてしまうほどだった。バラクはそのまま突き進みながら剣を両側に大きくふた振りして、二頭の獣を殺した。三頭目はかぎ爪をひろげてかれの背中に跳びつこうとしたが、レルドリンが放った矢の一本が肩のあいだに刺さると体を硬直させ、顔を下にむけたまま泥の中にドサッと倒れ落ちた。バラクはその場で馬をくるりと回転させ、残る三頭の獣をたたき斬った。「よし、行くぞ!」かれはどなった。
ガリオンはレルドリンのあえぎを聞いてすぐに振り向いた。背中からはいあがるような恐怖を感じながらかれが見たものは、道路わきの木立からはい出てきた一匹狼のアルグロスが、今まさにかぎ爪でレルドリンを鞍から引きずりおろさんとしている光景だった。レルドリンは弓を使ってそのヤギ面をわずかにたたいている。ガリオンは無我夢中で剣を抜いたが、そのときにはもう、うしろから来たヘターがその場に着いていた。かれの彫刻入りのサーベルに体を突き抜かれると、アルグロスはギャッと悲鳴をあげ、荷馬が足踏みしている地面にもがき苦しみながらくずれ落ちた。
今やすっかり恐怖に駆られた馬たちは、玉石を散らした岩山の斜面めがけて、這うように進んでいた。ガリオンが肩ごしに振り返ると、レルドリンは出血している脇腹を手で押さえながら、鞍の上であぶなっかしく揺れていた。ガリオンは荒々しく手綱を引いて馬の向きを変えた。
「ぼくにかまうな、ガリオン!」レルドリンはそう叫んだが、顔からはすっかり血の気が引いている。
「いやだよ!」ガリオンは剣を鞘におさめると、友だちのわきに馬を引き寄せてかれの腕をとり、体が鞍の上でぐらつかないように支えた。ガリオンが負傷したレルドリンを必死に支えた状態で、ふたりは岩山めざして馬を全速力で走らせた。
岩山は土と石が入りまじった巨大なこぶで、あたりのもっとも高い木々よりさらに高くそびえていた。ふたりの馬は、濡れた石がならぶ斜面をカタカタと音をたてながらよじのぼった。かれらが岩山の頂上の小さな平地に到達すると、荷馬が雨の中で体を寄せ合い、ブルブル震えていた。ゆっくりと片側にたおれ落ちていくレルドリンを、ガリオンは鞍から乗り出し、寸前のところで受け止めた。
「こっちよ」ポルおばさんが厳しい口調で呼んだ。彼女は荷物の中から薬草の小さな包みと包帯を出しているところだった。「ダーニク、火がいるわ――いますぐ」
ダーニクは途方にくれながら、岩山の頂上で雨に濡れて転がっている数本の木切れを見回した。「やってみます」かれは不安まじりに言った。
レルドリンの呼吸は浅くて、ひどく速かった。顔色はいぜんとして死人のように白く、足はもはや自分の力で立っていられないほど震えていた。ガリオンはかれを支えながら、みぞおちのあたりが恐怖にうずくのを感じていた。ヘターが怪我人のもう一方の腕をとり、ガリオンとともに両脇で半分ずつ支えながら、ポルおばさんがひざまずいて包帯をひろげているところまでかれを連れていった。「すぐに毒を出さないと」彼女はかれらに言った。「ガリオン、あんたのナイフを貸してちょうだい」
ガリオンは短剣を抜いて彼女に渡した。彼女はレルドリンの茶色のチュニックを脇腹に沿ってすばやく引き裂き、アルグロスのかぎ爪がもたらした無残な傷をあらわにした。
「これは痛みそうね」彼女は言った。「かれを押さえていて」
ガリオンとヘターはレルドリンの腕をつかみ、かれを押さえつけた。
ポルおばさんは大きく息を吸うと、ふくれた傷口ひとつひとつを手際よく裂いた。血がほとばしり、レルドリンは絶叫した。そして、気を失った。
「ヘター!」斜面付近の丸石の上からバラクが叫んだ。「おまえの力が必要なんだ!」
「行ってちょうだい!」ポルおばさんはタカ顔のアルガー人に言った。「あとは三人でだいじょうぶ。ガリオン、あんたはここに残って」彼女は乾いた葉っぱを数枚もみくしゃにして、出血している傷口に破片を振りかけた。「火を、ダーニク」彼女は命令した。
「それがまだなんです、ミストレス・ポル」ダーニクは申し訳なさそうに言った。「湿気が多すぎて」
彼女は、鍛冶屋が集めてきた湿った木の束をチラッと見た。それから目を細めると、風を切るような速さで何かジェスチャーをした。ガリオンの耳が奇妙に鳴り響いたかと思うと、シューッという音が聞こえた。木から蒸気がたちのぼり、次いで枝からパチパチと炎が起こった。ダーニクは驚いて、飛び退いた。
「小さなポットよ、ガリオン」ポルおばさんは指図した。「それと、水。急いでね」彼女は青いマントをすばやく脱ぎ、レルドリンの上にかけた。
シルクとバラクとヘターは料面ぎりぎりのところに立って数個の大きな岩を縁まで引き上げようとしていた。ガリオンの耳に、その岩が下の丸石にぶつかるときのガタガタ、ガチャガチャという音や、アルグロスの吠え声が聞こえてきた。吠え声のほうは、痛みからくるわめき声でときどき中断された。
かれはひざの上に友人の頭をのせながら、ひどく怯えていた。「レルドリンはだいじょうぶかな?」かれはポルおばさんに哀願するように聞いた。
「まだなんとも言えないわね。今はそういう質問でわたしを悩ませないでちょうだい」
「逃げていくぞ!」バラクが叫んだ。
「あいつらはまだ腹を空《す》かせている」ウルフは冷静に言った。「また戻ってくるだろう」
森のはるか彼方から耳ざわりなホルンの音が聞こえてきた。
「あれはなんです?」シルクは、重い岩を縁に持ち上げるという重労働のせいで、息をきらしながら訊ねた。
「たぶんわしの待っていた相手だろう」ウルフは奇妙な微笑みを浮かべて答えた。それから両手を唇にあてがうと、ピーッというかん高い音を出した。
「もうわたしひとりでだいじょうぶだわ、ガリオン」ポルおばさんは、どろどろした軟膏を煮溶かし、湿ったリネンの包帯で湯気のあがった当てものをこしらえながら言った。「あんたとダーニクはあのひとたちを手伝いに行ってちょうだい」
ガリオンはあまり気がすすまなかったがレルドリンの頭を湿った芝の上におろすと、ウルフが立っているところへ走っていった。下の斜面には、バラクたちの投下した岩にぶつかって死んだアルグロスの残骸や、死にぞこないが散乱していた。
「あいつらはまたやってくるだろう」バラクはそう言うと、岩をまたひとつ持ち上げた。「うしろから攻めてくる可能性はないのか?」
シルクは首を横に振った。「ないね。調べてみたが、この丘の裏は絶壁だ」
下の森からまたもやアルグロスが姿をあらわしたかと思うと、あの半しゃがみの恰好で跳びながら吠え声やうなり声をあげた。先頭のアルグロスが道路を渡り終えたとき、また角笛が鳴り響いた。今度はかなり近いところからだった。
すると突然、よろいかぶとの男を乗せた巨大な馬が森の中から飛び出してきて、雷のような足音を立てながら手向かう獣にのしかかった。よろいかぶとの男は槍を低く下げ、慌てふためくアルグロスたちのど真ん中を一気に突き刺した。巨大な馬は突進しながら一声いななき、蹄鉄をつけたひづめでぬかるんだ大きな泥のかたまりをはね上げた。もっとも大きなアルグロスの一頭をしとめた槍は、その一撃の激しさで折れてしまった。折れた槍の先は、さらにもう一頭を正面から突き刺した。騎士は折れた槍を捨てると、今度は大きな弧を描きながらだんびらを引き抜いた。それを左右に荒々しく振り回しながら、かれは群れのあいだを突き進み、軍馬は道路の泥とおなじように生者と死者をともども踏みつけた。最後まで突き進むとかれはくるりと向きを変え、ふたたび刀で道を開けながら今来た道をもどった。アルグロスはきびすを返し、吠えながら森の中に逃げこんだ。
「マンドラレン!」ウルフは叫んだ。「こっちだ!」
よろいかぶとの騎士は、血が飛び散った面頬を上げて丘を見上げた。「まず、怪物の群れを追い散らしてしまったことをお詫びしておきますよ、長老どの」かれは陽気にそう言うと、面頬をもどし、アルグロスを追って雨に湿った森の中に飛び込んでいった。
「ヘター!」バラクはそう叫びながら、すでに行動を開始していた。
ヘターはきっぱりうなずくと、バラクといっしょに馬に駆け寄った。それから鞍に飛び乗るや、見ず知らずの男を助けるために湿った斜面をまっしぐらに下りていった。
「あなたの友だちは、分別というものがかなり欠如してますな」シルクはミスター・ウルフにそう言って、顔から雨をぬぐった。「あいつらは今にも反撃してくるでしょうに」
「自分が危険にさらされているとは思いもおよばんのだろう。かれはミンブレイト人なのだ。かれらはどうも自分を無敵だと考える傾向にある」
森の戦いは延々とつづきそうな気配だった。叫び声やバサッという剣の音に加えて、アルグロスの悲鳴が聞こえる。やがて、ヘターとバラクと見知らぬ騎士は馬に乗って森の中から抜け出し、岩山を小走りに駆けのぼった。頂上につくと、よろいかぶとの男はガチャガチャと音をたてながら馬をおりた。「ようこそ、長老どの」かれはミスター・ウルフに景気よく言った。
「下にいたあなたの仲間はすごく元気なひとたちですね」かれのよろいは雨に濡れて輝いている。
「きみに喜んでもらえてなによりだ」ウルフは素っ気なく言った。
「まだ声が聞こえてますよ」ダーニクが報告した。「まだ逃げてるんでしょうね」
「あいつらが臆病なおかげで、午後の楽しみがだいなしになってしまった」騎士はそう言うと、無念そうに剣を鞘におさめ、かぶとを脱いだ。
「わざわざいけにえをふやすこともないでしょう」シルクは気取って言った。
騎士はため息をついて、「なるほど、そのとおりだ。おぬしはなかなか冷静な男だ」かれは頭を振ってかぶとの白い羽から水を払いおとした。
「これは失敬」ウルフが言った。「こちらはマンドラレン、ボー・マンドール男爵だ。かれにはわしらの仕事を手伝ってもらう。マンドラレン、こちらはドラスニアのケルダー王子。それとバラク、チェレクのアンヘグ王のいとこにあたるトレルハイム伯爵だ。あそこにいるのはアルガー人の王、チョ・ハグの子息のヘター。そこにいる仕事のできそうな男はセンダリアの善人、ダーニク。そしてその坊主はガリオン、わしの孫だ――何世代も省略しての話だが」
マンドラレンは各人に深々とお辞儀をした。「ようこそ、わが同志」かれは例のにわか景気の声で言った。「われわれの冒険は幸先のいいスタートをきったようですな。ところで、さきほどからわたしの目を惹きつけて離さない、その美しい女性はいったいどなたです?」
「お上手ですこと、騎士どの」ポルおばさんは、ほとんど無意識に濡れた髪を手でかきあげながら、ほがらかに笑った。「わたし、この方を好きになってしまいそうだわ、おとうさん」
「すると、あなたがあの伝説に名高い|貴婦人の《レディ》ポルガラ?」マンドラレンは訊ねた。「わが生涯最高の光栄です」せっかくの優雅なお辞儀も、剣のきしる音でやや価値のないものになってしまった。
「負傷している仲間はワイルダンター男爵の子息、レルドリンだ」ウルフは紹介をつづけた。
「かれの名はきみも聞いたことがあるだろう」
マンドラレンの顔がわずかに曇った。「ええ、たしかに。時おり吠える犬のようにわれわれの前を行き交う噂がありまして、それによると、ワイルダンターのレルドリンは折りを見て王に対する卑劣な謀叛を起こすとか」
「今はそんなことはどうでもよい」ウルフは厳しく言った。「わしらをここに集めた使命は、それよりはるかに重大なことなのだ。しばらくのあいだそんな話は忘れることだ」
「仰せのとおりにします、ベルガラスどの」マンドラレンはすぐに宣言したが、視線は意識のないレルドリンにしつこく注がれている。
「おじいさん!」ガリオンは叫ぶと、ごつごつした丘の頂上のわきから突然あらわれた、馬に乗った人影を指さした。その影は黒い服を着て黒い馬にまたがっていた。頭巾を脱ぐと、顔のかたちに鋳ったはがねの仮面があらわれた。そのかたちは美しさと同時に奇妙な嫌悪を感じさせた。ガリオンの頭の奥ふかくでその見知らぬ騎手には何か重大な秘密がある≠ニいう声がした――思い出さなくてはいけない何かがある――けれども、それが何であれ、ガリオンには思い出せなかった。
「この賭けはあきらめたほうがいいぞ、ベルガラス」仮面のうしろから漏れる声はうつろだった。
「わしが引き下がるようなやつじゃないことは、おまえもよく知ってるだろう、チャンダー」ミスター・ウルフはおだやかに言った。かれがその騎手の正体を知っているのは明らかだった。
「アルグロスの稚拙ないたずらはおまえの仕業か?」
「わたしがそんな真似をするかどうか、それこそおまえがよく知っているだろう」黒衣の人物はあざけるように言った。「もしわたしがおまえの邪魔をするとしたら、もっと複雑な手を使うわ。まあ、今のところはおまえを足止めしようという下っぱがうようよいるからな。われわれもそれを望んでいるのだが。とにかくゼダーがクトラグ・ヤスカをわが〈師〉のところへ届けたら、そのときこそトラクの力と意志に挑むがいい。もしその意志があればの話だが」
「すると、おまえはゼダーの使い走りをしているのか?」ウルフは訊ねた。
「わたしは誰の使い走りもしておらん」黒衣の人物は吐き捨てるように言った。その姿は丘の上に立っている他の誰よりも存在感があったが、ガリオンはもやのような雨が、馬と男が立っている地面に直接降り注いでいるのを見逃さなかった。黒衣の男が何であれ、雨がそこを通り抜けているのはたしかだった。
「では、どうしてここにいるのだ、チャンダー?」ウルフはまた訊ねた。
「好奇心とでも呼んでもらおうか、ベルガラス。おまえがどのようにして〈予言〉を普通の言葉に訳したのか、この目で確かめたかったのだ」男は丘の頂上にいる他のメンバーを見回した。
「見事だな」その賞賛はもちろん心からのものではなかった。「どこでこれだけの人間を集めた?」
「わざわざ捜すまでもなかったさ、チャンダー」ウルフは答えた。「かれらはここに存在すべくして存在しているのだ。〈予言〉の中の一部でも満たされる部分があれば、〈予言〉すべてが満たされることになる、そうじゃないかね? そこには作意などまったくない。ここにいるひとりひとりは、おまえが想像しているよりはるかに多くの世代をへてわしの前にあらわれたのだ」
黒衣の人物はするどく息を吸いながら、やじるようにシッと音をたてた。「まだすっかり整ってはいないな、じいさん」
「じきに整うさ、チャンダー」ウルフは自信たっぷりに答えた。「もう手配ずみだ」
「二度生まれるというのはどいつだ?」騎手はだしぬけに訊いた。
ウルフは冷たく笑うだけで、質問に答えはしなかった。
「これはこれは、王妃《クイーン》さま」騎手はこんどはポルおばさんに矛先を向け、皮肉っぽく言った。
「グロリムのいんぎんな挨拶には、毎度のことながらぞっとするわ」彼女は冷やかな顔で言い返した。「わたしはあんたの女王じゃないのよ、チャンダー」
「いまにそうなるだろうよ、ポルガラ。わが〈師〉は王国を継承したとき、おまえを妻に迎えるとおっしゃっている。おまえは世界の女王《クイーン》になるのだ」
「だとしたら、あんたの立場は不利になるんじゃなくて、チャンダー? わたしが本当にあんたの女王《クイーン》になるのなら、わたしに逆らうなんてできないはずよ、そうでしょ?」
「おまえの側で働くのはべつに不可能ではないぞ、ポルガラ。おまえがひとたびトラクの花嫁になれば、かれの意志がおまえの意志になる。そのときになれば、もう昔の怨みなど忘れているはずだからな」
「もうそのぐらいでいいだろう、チャンダー」ミスター・ウルフが口をはさんだ。「そろそろおまえの話にも飽きてきた。もう幻影を戻していいぞ」かれはそう言うと、うるさい蝿でも追い払うように、なげやりに腕を振った。「失せろ」
ガリオンはふたたび、頭の中に例のうねりとうつろな轟きが起こるのを感じた。騎手は消えた。
「まさかあの男を消したんじゃないでしょうね?」シルクはあえぎながら言った。
「いや、あれはただの幻影だったのだ。グロリムたちは素晴らしいと思ってるかもしれんが、わしに言わせればあんなものは子供だましのトリックだ。苦労を惜しまなければ、かなり離れた場所に幻影を投影することもできる。わしはただその幻影を本人のところに戻したまでだ」かれはそう言うと突然唇をねじまげてずるがしこく笑った。「もちろんうんと遠回りの道を選んでやったがな。帰りつくまでに二、三日はかかるだろう。本人の身に害を及ぼすことはない。ただ少し居心地の悪い思いをするだけだ――それに、うんと人目につくぐらいだな」
「時と場所を心得ない幽霊だな」マンドラレンが言った。「あの不作法な幻影はいったい何者です?」
「チャンダーよ」ポルおばさんは、負傷したレルドリンに視線を戻しながら答えた。「グロリムの高僧のひとり。父とわたしは前に会ったことがあるの」
「頂上から下りたほうがよさそうだな」ウルフが言った。「レルドリンはあとどのぐらいで馬に乗れるようになる?」
「最低一週間はかかるわね」ポルおばさんは答えた。「最低でよ」
「冗談じゃない。もうここにいることはできないんだぞ」
「かれは馬に乗れないのよ」ポルおばさんはきっぱりと言った。
「担架のようなものを作ったらどうでしょう?」ダーニクが提案した。「馬のあいだにかれを吊るせるような物を作ってみます。そうすればかれの体を傷めずに移動させることができますよ」
「どうだ、ポル?」ウルフは訊ねた。
「たぶんうまくいくと思うわ」彼女は半信半疑に答えた。
「じゃあ、すぐに取りかかろう。ここには隠れる場所がないし、距離もかせがないといけないからな」
ダーニクはうなずくと、担架を作るのに使うロープを取りに荷物のところに行った。
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ボー・マンドール男爵、マンドラレン卿は平均をやや上まわる身長の持ち主だった。髪は黒い巻毛で、目は深い青、そして確固たる意見を表現するにふさわしいよく通る声をしていた。ガリオンはどうもかれを好きになれなかった。かれの人並みはずれた自己中心癖はあまりにあからさまだったので、大人気ないという印象さえ与えた。そしてかれの自惚れを見るにつけ、レルドリンがミンブレイトについて語った話のもっともひどい部分でさえうなずける気がするのだった。さらに、ポルおばさんに対するマンドラレンの大袈裟な丁重さには、単なる礼儀を超えたものがあった。しかも悪いことに、ポルおばさんはかれのこびへつらいを気持ちよく受け入れているように見えた。
降りつづく霧雨の中、〈西の大街道〉沿いに馬を走らせているうちに、ガリオンは他の仲間も自分と同じ気持ちでいるらしいことを察して思わず顔がほころんだ。バラクの表情は言葉より雄弁にかれの気持ちを物語っていたし、シルクは騎士が何か言うたびに小馬鹿にした態度で眉を吊りあげた。ダーニクも顔をしかめている。
とはいえ、ガリオンにはこのミンブレイト人に対する感情を整理している暇はほとんどなかった。かれは担架にぴったり寄り添って馬を走らせていたが、その上に乗ったレルドリンはアルグロスの毒が傷にふれるたびに激しくのたうっていたのだ。かれは友だちを精一杯励ましながら、時おり、近くで馬を走らせているポルおばさんと心配そうに顔を見合わせた。レルドリンがとくに激しい発作に襲われているあいだ、ガリオンはどうしたら傷みをやわらげてやれるのかわからずに、ただおろおろとかれの手を握っていた。
「毅然として痛みに立ち向かいたまえ、いい若い者が」とりわけ激しい痛みのあとで息をきらし、うめいているレルドリンに向かって、マンドラレンは意気揚々とアドバイスした。「この苦痛はただの幻想にすぎない。そう念じれば痛みも吹き飛ぶであろう」
「ミンブレイト人の言いそうな台詞だな」レルドリンは食いしばった歯のすきまからしぼり出すように言った。「こんな近くで馬を走らせないでほしいよ。あんたの言葉はそのよろいとおなじぐらい嫌な臭いがするよ」
マンドラレンはわずかに顔を赤らめた。「傷ついた体でそんな悪態をつくとは、われらが同胞は怪我で良識ばかりか礼儀まで失ってしまったと見える」かれは冷やかに言った。
レルドリンは応戦しようとして担架の上でなかば体を起こしたが、急な動きがさらに傷を悪化させたのだろう、そのまま気を失ってしまった。
「傷がかなり深いらしい」マンドラレンは言った。「あなたの湿布をもってしてもかれの命を救うことはかなわぬかもしれませんな、レディ・ポルガラ」
「かれには休養が必要なのよ。あんまりかれを興奮させないでくださいな」
「では、かれの目が届かないところに退散するといたそう」マンドラレンは答えた。「わたしに非はなくとも、この顔がかれに不快感を与え、かんしゃくを起こさせてしまうようだから」かれはそう言うと、他の仲間との距離がかなりひらくまで、軍馬を速足で走らせた。
「あのひとたちってみんなあんなふうに話すの?」ガリオンは悪意をこめて訊ねた。「貴公とかあなたとか、いたそうとか?」
「ミンブレイト人は礼儀作法にうるさいのよ」ポルおばさんは説明した。「あんたもそのうちに慣れるわ」
「ばかばかしいよ」ガリオンは騎士のうしろ姿をながめながら、怒ったようにつぶやいた。
「礼儀作法のよいお手本を見るのは、あなたのためにもなるはずよ、ガリオン」
雨垂れの落ちる森の中を進んでいるうちに、木立の中には夜の気配が忍び寄ってきた。
「ポルおばさん?」ガリオンは思いあまって訊ねた。
「なあに、ガリオン?」
「あのグロリムがおばさんとトラクのことについて言ってたのは、どういうことなの?」
「トラクがうわごとを言ってるときにうっかり漏らしたことよ。それをグロリムたちが真に受けた、それだけのこと」彼女は青いマントをさらにきつく体に巻きつけた。
「嫌な気はしない?」
「べつに」
「あのグロリムが言ってた〈予言〉ってなんなの? ぼくにはさっぱりわからなかったけど」
予言≠ニいう言葉がどういうわけかかれの心の奥底にある何かを揺すぶったのだ。
「ムリン古写本のことよ」彼女は答えた。「ほとんど判読できないぐらいに古い版なの。その中に書かれているのよ――熊とネズミ、それに二度生まれるという男のことが。そのことについて言及しているのはこの版だけなの。これが本当に何かを意味しているのかどうかをはっきり知っている者はいないわ」
「おじいさんは意味があると思ってるんでしょ?」
「あんたのおじいさんは奇妙な見解をたくさん持っているのよ。かれは古いものに魅かれるみたいね――たぶん本人がものすごく年をとっているからでしょうけど」
ガリオンはこの〈予言〉がもっと他の版にも書かれているような気がして、それについて訊ねようとしたが、ちょうどそのときレルドリンがうめき声をあげたので、ふたりはとっさにかれの方を見た。
一行はその後間もなく、厚い白塗りの壁に赤い瓦屋根を載せたトルネドラ人の宿にたどり着いた。ポルおばさんはレルドリンを暖かい部屋に寝かせるように取り計らい、一晩中かれのベッドのわきにすわってかれの看病をした。ガリオンは友人の容体を確かめるために朝になるまでに六回ほど靴下をはいた足で暗い廊下を忍び歩いたが、なんの変化もないようだった。
夜が明けるころにはすでに雨はあがっていた。かれらは薄暗いあかつきの中を出発した。相変わらずマンドラレンが他の仲間のかなり先を行きながら、やがて暗い森のふちにさしかかると、目の前に果てることのないアレンディアの中央の平野が広がった。平野はここ数週間の冬の訪れですっかり冬枯れしたと見えて、灰褐色に色を変えていた。騎士はそこで足を止めると、みんなが来るのを待った。かれの表情は暗かった。
「どうかしたのか?」シルクがかれに訊ねた。
マンドラレンは沈鬱な面持ちで平野の二、三マイル先に立ちのぼっている一筋の黒煙を指さした。
「なんだあれは?」シルクがまた訊ねた。ネズミのような顔にも困惑の色が浮かんでいる。
「アレンディアで狼煙《のろし》と言えば、意味するものはたったひとつ」騎士はそう答えると、羽飾りのついたかぶとをかぶった。「ここで待たれよ、同志諸君。わたしが調べてこよう。最悪の事態でなければよいが」かれは軍馬のわき腹に拍車をあてると、雷のような大音をあげながら飛び出していった。
「待て!」バラクはうしろから叫んだが、マンドラレンの耳には届かず、かれはそのまま走りつづけた。「あの馬鹿が」バラクはいきまいた。「何か面倒があるといけないから、おれも行ったほうがいいな」
「その必要はありませんよ」担架の上からレルドリンが弱々しく言った。「軍隊だってあの男に逆らったりしませんよ」
「おまえはあいつを嫌ってるんだな」バラクはすこし驚いたように言った。
「ええ」レルドリンは素直に認めた。「かれはアレンディアでもっとも恐れられている男なんです。アストゥリアでさえ、マンドラレンの名は知れ渡っている。かれに逆らうなんて正気な人間のやることじゃないですよ」
かれらは森の陰に戻って騎士が帰ってくるのを待った。やがてかれが戻ってくると、その顔は怒りにゆがんでいた。「いやな予感が的中した」かれは言った。「われわれの行く手で争いが起こっている――ばかばかしい争いだ。争いの渦中にいるふたりの男爵は同族で親友でもあるというのに」
「迂回するわけにはいかないのか?」シルクが訊ねた。
「ええ、ケルダー王子。争いはかなり広範囲に及んでいるので、三リーグと進まないうちに要撃されてしまう。ひょっとすると、通行権利を買うことになるかもしれない」
「金を払えば通してもらえるって言うんですか?」ダーニクはいぶかしそうに聞いた。
「アレンディアではそういうことに金を払うのもひとつの方法なのだ、善人よ」マンドラレンはかれに言った。「すまんがおぬし、長さ二十フィート、太さがわたしの手首ぐらいある頑丈な棒を六本か八本用意してくれないか?」
「もちろんですとも」ダーニクはすぐに斧を取りあげた。
「おいおい、いったい何を企んでいるんだ?」バラクはどら声で聞いた。
「やつらに挑戦するのだ」マンドラレンは静かに宣言した。「一か八か。わたしの挑戦を拒んだが最後、どんな騎士でも臆病者の烙印を逃れることはできない。わたしの後押しをして、挑戦の名乗りをあげてもらえぬか、バラク卿?」
「もし負けたらどうする?」シルクが訊ねた。
「負ける?」マンドラレンはかれの言葉にショックを受けたようだった。「このわたしが? 負ける?」
「いや今のは忘れてくれ」シルクは言った。
ダーニクが棒を持って戻ってくるころには、マンドラレンはよろいの下に様々な紐を結び終えていた。かれは棒を一本つかむと、鞍に飛び乗り、バラクとともに地面をころげるような速足で煙の方向に走っていった。
「そこまでする必要があるのかしら、おとうさん?」ポルおばさんが訊ねた。
「乗りかかった船だ、ポル」ミスター・ウルフは彼女に言った。「心配にはおよばん。マンドラレンも自分が何をしているかぐらいはわかっているだろう」
そこから二マイルほど進むと、かれらは丘の頂上に着いた。そこから眼下の戦いを眺めることができた。大きな谷間をはさんで両側に黒い城が二つ厳めしくそびえていた。道の両側の平野には村落がいくつか点在している。道に一番近い村からは赤々と炎があがっていて、鉛色の空に黒煙がもくもくと立ちのぼっていた。道の上では、鎌や熊手で武装した農奴たちが前後の見境もなく凶暴に戦っている。そこから少し離れたところでは、突撃のために槍兵が集まりはじめていた。無数の矢が宙を飛びかっている。向かい合った丘の上ではよろいかぶとに身をかためた騎士の集団が、先端に鮮やかな旗をつけた槍を手に、戦いの様子をながめていた。攻城砲は空中に丸石を発砲して、逃げ惑う人間を容赦なく粉砕している。ガリオンの目には、敵味方の見境なく、ただやみくもに殺しているように見えてしかたがなかった。谷間には死人や今にも死にそうな人間がひしめきあっている。
「愚かしいことよ」ウルフの声は暗かった。
「わたしはいまだかつてアレンド人を賢いと言った人間にお目にかかったことがありませんよ」シルクが同調して言った。
マンドラレンはホルンを口にくわえると、耳をつんざくような音を鳴り響かせた。兵士も農奴もひとり残らず動作を止めてかれを見上げ、戦いは一瞬中断された。かれはさらに二回、挑戦を意味するホルンを鋭く鳴り響かせた。敵対する二つの騎士団が音の出所を確かめようと膝丈ほどの冬枯れた草原の中を全速力で走りだすと、マンドラレンはバラクの方に向き直った。
「もし差し支えなければ、バラク卿」かれはていねいに切り出した。「かれらが近づいてきたらすぐに名乗りをあげてもらいたいのだが」
バラクは肩をすくめ、「おれの命じゃないからな」と言った。それから突進してくる騎士たちをしかと捉え、とどろくような大声で、「ここに到着せしは、ボー・マンドール男爵、マンドラレン卿であられるぞ。男爵さまは暇つぶしにそのほうたちと一戦を交えたいと申しておられる。そのほうたちの群れの中から、勇者を一名ずつ選んでもらえたら、男爵さまもさぞ喜ばしく思われるであろう。だが、そのほうたちがただの臆病な犬畜生で、戦いを拒もうと言うのなら、ただちにこのどんちゃん騒ぎを終わらせ、強者に道をゆずるがよいぞ」
「お見事だ、バラク卿」マンドラレンは感心して言った。
「こういう語りには慣れておるからな」バラクは控え目に答えた。
二つの騎士団は用心深い足取りで徐々に近づいてきた。
「みっともないぞ、諸君」マンドラレンはかれらをたしなめた。「こんなくだらん争いをしたところで、なんの名誉も得られんだろうに。デリゲン卿、争いの原因はいったいなんだ?」
「侮辱です、マンドラレン卿」貴族は答えた。かれは大柄な男で、ぴかぴかに磨きあげられたかぶとの面頬には金の飾り輪が鋲打ちされている。「あまりにひどい侮辱だったので、放っておくわけにはいかなかったのだ」
「侮辱されたのはわたしのほうだ」相手の騎士が激しく主張した。
「その侮辱というのはどういう性質のものだったのだ、オルトレイン卿?」マンドラレンは追及した。
両人はぎごちなく目をそらし、どちらも口を開こうとしない。
「思い出すこともできない侮辱のために、おぬしらは戦争をはじめたのか?」マンドラレンは疑うような顔つきで言った。「諸君、わたしはおぬしらを思慮深い人間だと思っていたが、どうやらわたしの目は節穴だったようだ」
「アレンディアの貴族というのは、こんなことしか他にすることがないのか?」バラクは野太い声でせせら笑うように訊ねた。
「マンドラレン卿は私生児だと聞いているが」黒いエナメル塗りのよろいをつけた浅黒い男が皮肉っぽく切り出した。「長上を長上とも思わないこの赤ひげの猿男はいったい何者だ」
「おい、あんなことを言われて黙っているのか?」バラクはマンドラレンに言った。
「まんざら間違いとも言えないのだ」マンドラレンは苦しそうな顔で事実を認めた。「わたしの出生には当時の規則をはずれる点があったので、いまだに嫡出についてあれこれと取り沙汰されている。この騎士はハルドリン卿といって、わたしの親類にあたる――かなり遠い親類だが。アレンディアでは同族の血を流すのはよからぬこととされているので、この男はこうしてひとの秘密を口にだすことで、安易に豪傑という名声を得ているのだ」
「くだらん習わしだ」バラクは不満そうに言った。「チェレクでは他人を殺すより同族を殺すときのほうがよっぽど熱が入るぞ」
マンドラレンは「ああ」と溜息をもらした。「ここはチェレクではないのだ」
「おれがこいつを片づけてはまずいだろうか?」バラクはていねいに訊ねた。
「いや、少しも」
バラクは色黒の騎士に近づくと、大声で、「おれの名はバラク、トレルハイム伯爵だ。チェレクのアンヘグ王のいとこにあたる。アレンディアの貴族は脳みそが少ないと思っていたが、それどころか礼儀さえ知らぬやつがいるようだな」
「アレンディアの貴族は、北方の豚舎のような国の、しかも自分で授けた称号など聞いても驚いたりはせん」ハルドリン卿はこともなげに言い返した。
「おれはおまえの言葉を挑戦と見たぞ」バラクは何かを暗示するように言った。
「わたしはおぬしの猿顔ともじゃもじゃのひげをなかなか面白いと見たぞ」ハルドリン卿はやり返した。
バラクは一瞬のためらいもなくすばやく剣を抜くと、大きな腕をぶるんと振り回し、色黒の騎士のかぶとの横つらにすさまじい一撃を加えた。ハルドリン卿はどろんとした目をして鞍からすべり落ちた。地面に落ちた瞬間、大きな地響きが起こった。
「誰か他におれのひげに文句のあるやつはいるか?」バラクは聞いた。
「おてやわらかに、バラク卿」とマンドラレンは言った。が、丈の長い草の中でひきつけを起こしている人事不省の親戚を見下ろす目はいかにも満足そうだった。
「われらが勇者を打ち倒されて黙っているのか?」デリゲン男爵陣営の騎士が耳ざわりなアクセントで言った。「殺《や》ってしまえ!」かれはそう言って剣を手にかけた。
「剣を抜いたとたん、おまえは命を落とすぞ」マンドラレンは冷やかに言った。
騎士の手は剣のつかの上で凍てついた。
「恥を知れ、おのおの方」マンドラレンは非難をこめてさらに言った。「わたしが挑戦した以上、それが応えられるまで、わたしの安全と仲間の安全が保障されるということは、ここにおわす方々も慣習と騎士道から承知しているはずではあるまいか。代表を選びたまえ、さもなくば退散することだ。何度も同じことを言うのは飽きた。そろそろ我慢の限界だぞ」
二つの陣営は協議のためにいくらか後退した。時をおなじくして数人の重騎兵がハルドリン卿を運ぶために丘にのぼってきた。
「剣を抜こうとした男はマーゴ人だったよ」ガリオンはそっと言った。
「ぼくもそう思っていた」ヘターは黒い瞳をぎらりと光らせてつぶやいた。
「あいつらが戻ってきますよ」ダーニクは警告するように言った。
「わたしがおぬしと戦おう、マンドラレン卿」デリゲン男爵が近づきながら宣言した。「おぬしの素晴らしい評判を断じて疑いはしないが、わたしとて少なからぬ試合で勝利をおさめた経験を持っている。おぬしと槍を交えられるとは、身に余る光栄だ」
「わたしもおぬしと手合わせがしたい、騎士どの」今度はオルトレイン男爵が告げた。「わたしの腕もまたアレンディアのあちこちで恐れられているぞ」
「結構」とマンドラレンは答えた。「平らな地面を見つけしだい始めよう。今日はだいぶ時間を無駄にしたが、わたしたちはこれから南に赴く用事があるのでな」
丘をおりて平野に着くと、二陣営の騎士は、今しがた丈高な黄色の草を疾風のように踏みつけたときにできた道をはさんで、両側に整列した。デリゲンは道の彼方まで速足で馬を走らせると、そこでくるりと向きを変え、決戦の時を待った。あぶみ金《がね》の中には先の丸い槍がおさまっている。
「見上げた勇気だ、デリゲン卿」マンドラレンはそう言って、ダーニクが切ってきた棒のひとつを取りあげた。「それほど手酷い目にはあわせんからな。さあ、用意はいいか?」
男爵は「おう」と答え、面頬をおろした。
マンドラレンもまたぴしゃりと面頬をおろすと、槍を低く下げ、軍馬に拍車をあてた。
「こんな時にこんなことを言うべきじゃないだろうが」シルクがつぶやいた。「あの横柄なマンドラレンが敗北して面目を失うことを願わずにはいられないな」
ミスター・ウルフは恐ろしい顔をしてかれを見た。「口をつつしめ!」
「かれはそんなに強いんですかね?」シルクはもの足りなそうに言った。
「まあ、見ておれ」ウルフは言った。
大音響とともに、ふたりの騎士は道の中央ですれちがった。その瞬間かれらの槍はひび割れ、踏みつけられた草の上にその裂片が飛び散った。ふたりはそのまま地響きをたてながら通過したが、やがて向きを変えるとそれぞれのスタートした地点に戻った。ガリオンの目には、鞍の上のデリゲンが心なしかふらついているように見えた。
ふたりの騎士はふたたび猛進し、新しい槍はさきほどと同じように砕け散った。
「もっと棒を切っておけばよかった」ダーニクは先のことを心配して言った。
だが、二度目に戻っていくデリゲン男爵の姿はさきほどよりさらにふらついているようだった。そして三度目の突撃の際、かれのよろめく槍はついにマンドラレンの楯をかすめた。一方マンドラレンの槍は敵の真正面を突いた。デリゲン男爵はすれちがう時の衝撃で鞍から転げ落ちた。
マンドラレンは軍馬の足を止め、かれを見下ろして、「まだ続けられるか、デリゲン卿?」丁重にきいた。
デリゲンはよろよろと立ち上がった。「なんの、これしき」かれはあえぎながら言うと、剣を抜いた。
「よくぞ言った。おぬしに怪我をさせたのではないかと心配していたのだ」マンドラレンは馬からすべり下りると、剣を抜き、デリゲンの頭めがけて振り回した。この一撃はとっさに持ち上げられた男爵の楯をかすったが、かれは間髪を入れずにもう一度斬りつけた。デリゲンも一、二度弱々しく剣を振っていたが、ついにはマンドラレンのだんびらがそのかぶとの真横をとらえた。デリゲンはその場でいったんぐるっと回転したあと、うつぶせに倒れた。
「デリゲン卿?」マンドラレンはかれの身を案じて呼びかけた。それからひざまずくと、倒れている敵の体を仰向けてへこんだ面頬を開けた。「気分が悪いのか、デリゲン卿?」かれは訊ねた。「まだつづける気はあるか?」
デリゲンは答えなかった。鼻からだらだらと血が流れ、目は白目をむいている。顔色は真っ青で、体の右半分が発作的にぶるぶる震えている。
「この勇敢な騎士が自分で答えることができないのなら、負けたと見なしていいのだな」マンドラレンは剣を持ったまま、陣営の顔をぐるりと見回した。「わたしの意見に反論する者はいるか?」
あたりはしーんと静まりかえっている。
「では、誰か男爵をどかしてくれまいか? 傷はそう深くないようだ。一、二ヵ月も養生すればすっかり回復するだろう」マンドラレンはオルトレイン男爵に向きなおった。かれの顔は目に見えて青ざめている。「さあ、オルトレイン卿」マンドラレンは威勢よく言った。「試合をつづけるとするか? わたしたちは旅をつづけたくてうずうずしているのだ」
オルトレイン男爵は最初の一撃で、馬から落とされ、その拍子に足を折った。
「残念だな、オルトレイン卿」マンドラレンは剣を手にしたまま歩み寄って言った。「降参か?」
「立ち上がれんのだ」オルトレインは歯を食いしばって答えた。「屈伏するより仕方があるまい」
「ではわたしたちは旅をつづけていいのだな?」
「好きに出発するがいい」地面に屈した男は悔しそうに答えた。
「いや、まだだ」ぜいぜいした声が割り込んだ。よろいかぶとのマーゴ人が、馬に乗った別の騎士団を押し分けるように自分の馬を進めてきたかと思うと、やがてマンドラレンに真っ向うから向き合った。
「あいつがきっと邪魔に入ると思ってたわ」ポルおばさんは静かに言った。彼女は馬をおりると、ひづめに踏み荒らされた道に進み出た。「そこをどきなさい、マンドラレン」彼女は騎士に言った。
「なりません」マンドラレンは反論した。
ウルフが恐ろしい声で、「どけ、マンドラレン」と命令した。
マンドラレンは困惑した顔をして、わきに退いた。
「さあ、グロリム?」ポルは挑戦するように言って、頭巾を脱いだ。
馬上の男は彼女の髪の白い房を見ると、目を大きく見ひらいた。次いでかれはなげやりともとれる動作で片腕を上げ、早口で何やらブツブツとつぶやいた。
ガリオンは、またしても頭の中があの奇妙なうねりとうつろな叫びでいっぱいになるのを感じた。
一瞬、ポルおばさんの姿が緑がかった光に包まれたように見えた。だが、彼女が何気なく腕を振ったとたん、光は消え失せた。「修行が足りないわね」彼女は言った。「もう一度やってみる?」
グロリムは今度は両腕を上げたが、それ以上のことはしなかった。そのとき、ダーニクは武装した男たちのうしろにうまく馬を誘導し、すでにかれに近づいていた。鍛冶屋は両手で斧を掲げると、グロリムのかぶとのてっぺんを狙って振りおろした。
「ダーニク」ポルおばさんが叫んだ。「逃げて!」
だが、鍛冶屋は恐ろしい形相のまま、もう一度斧を振った。意識をなくしたグロリムはガラガラと音をたてて、馬からすべり落ちた。
「馬鹿!」ポルおばさんは激怒して言った。「自分が何をしているかわかってるの?」
「あいつはあなたを襲おうとしていたんですよ、ミストレス・ポル」そう説明している最中もかれの目はまだ怒りで爛々と光っていた。
「馬から下りなさい」
かれは言われたとおりにした。
「あんなことをするのがどんなに危険なことか、わかっているの? あの男はあなたを殺すことだってできたのよ」
「お言葉を返すようですが、ミストレス・ポル」ダーニクは屈せずに言った。「わたしは戦士でもないし魔術師でもないが、いかなるやつにもあなたを傷つけさせるわけにはいかない」
彼女の目は一瞬驚いたように大きくふくらんだかと思うと、やがて細くなり、最後には穏やかさを取り戻した。子供のころから彼女を見てきたガリオンには、彼女の急速な心の変化が手にとるようにわかった。彼女はぎょっとしているダーニクをいきなり抱きしめた。
「勇敢で、不器用で、愛すべきお馬鹿さんよ、あなたは。もう二度とこんな真似はしないでちょうだい――二度と。心臓が止まるかと思ったわ」
ガリオンが喉のあたりに奇妙なわだかまりを感じて目をそらした瞬間、ウルフの顔にずる賢い笑みがかすかに浮かぶのが見えた。
道の両脇に整列している騎士たちのあいだには奇妙な変化が起こっていた。たった今悪い夢から覚めたばかりという顔をしている者もいれば、突如記憶をなくしてしまったように見える者もいる。オルトレイン卿が立ち上がろうともがいている。
「やめたまえ、オルトレイン卿」マンドラレンはかれを静かに押しもどしながら言った。「怪我がひどくなるぞ」
「われわれはいったいどうしたのだ?」男爵は苦悶の表情で、うめくように言った。
ミスター・ウルフは馬から下りると、負傷した男爵のわきにひざまずいて、「おぬしらの責任ではなかったのだ。この戦争はあのマーゴ人の仕業だった。あいつがおぬしらの心をゆがめて、お互いを攻撃させたのだ」
「魔法か?」オルトレインは顔を青くして、あえぎながら聞いた。
ウルフはうなずいた。「あいつは実際はマーゴ人ではなかった。グロリムの僧侶だったのだ」
「それで、もう呪文は解けたのか?」
ウルフはふたたびうなずいて、気を失ったグロリムをちらっと見た。
「そのマーゴ人に鎖をかけるのだ」男爵は整列している騎士に向かって命令した。かれは視線をウルフにもどすと、「魔術にどう対処したらいいかぐらいはわれわれも心得ている。この機に乗じて、まちがった戦争の終わりを祝おうと思う。このグロリムの魔術師はこれを最後にもう魔術は使えまい」
「それはけっこうだな」ウルフはわびしそうに笑いながら言った。
「マンドラレン卿」オルトレイン男爵は、足の位置を変え、その痛みにたじろぎながら言った。
「どうしたらおぬしとおぬしの仲間に、目を覚まさせてもらったお礼ができるだろうか?」
「この地に平和が戻ったことがなによりの褒美だ」マンドラレンは気取って答えた。「みんなも知ってのとおり、わたしはこの王国内でもとりわけ平和を愛でる男なのでな」かれは近くの地面で担架に横たわっているレルドリンをちらっと見ると、何か思いついたように、「だが、おぬしにひとつだけ頼みがある。われわれの仲間の中にアストゥリア人の青年貴族がいるのだが、かれがひどい怪我を負っているのだ。できれば、かれをおぬしの手にゆだねて、ここに残していきたいのだが」
「喜んでお迎えしよう、マンドラレン卿」オルトレインはすぐに快い返事をした。「わたしの家の女たちがきっと手厚く世話をするはずだ」かれが二言、三言話しかけると、家臣は馬に乗って近隣の城のひとつへと急いだ。
「置き去りにしようたってそうはさせないぞ」レルドリンは弱々しく反抗した。「ぼくは一日かそこらで馬に乗れるようになる」そう言ったとたん、かれは激しく咳き込んだ。
「そうは思わんな」マンドラレンは冷淡な顔をして、レルドリンの意見を退けた。「おぬしの怪我はまだ快方には向かっていない」
「ミンブレイト人とは一緒にいられない」レルドリンは食い下がった。「運を天にまかせて先に進むほうがどんなにいいことか」
「お若いの」マンドラレンはぶしつけに、残酷とも聞こえる口調で言った。「おぬしがミンブルの人間を嫌っているのは知っている。だが、おぬしの怪我はすぐに膿瘍《のうよう》し始めて化膿を引き起こし、ついには高熱を出して錯乱状態に陥るだろう。そうなれば、おぬしの存在がわれわれの重荷になる。われわれにはおぬしの面倒をみている暇はない。おぬしの怪我がわれわれの探究を遅らすこともありうるわけだ」
ガリオンは情け容赦ない騎士の指摘に思わず息をのんだ。かれはほとんど憎悪に近い感情を抱いてマンドラレンを見つめた。
レルドリンの顔からすーっと血の気がひいた。「ご指摘くださってありがとうございました、マンドラレン卿」かれは堅苦しく言った。「そんなことぐらい自分で気づくべきでした。もし馬のところまで手を貸していただければ、すぐにここを去ります」
「ここにいるのよ」ポルおばさんが感情のない声で言った。
オルトレイン男爵の家臣は、数人の召使いと、十七くらいの金髪の少女をひとり連れて戻ってきた。少女は、目のつんだバラ色のブロケード織りガウンに青緑のマントを羽織っている。
「妹のアリアナだ」オルトレインは彼女を紹介した。「元気のよい娘で、まだ若いが病人の看護に熟達している」
「そんなに長く彼女の手をわずらわすつもりはありませんから、男爵さま」レルドリンは言った。「一週間のうちにアストゥリアに戻ります」
アリアナは慣れた手つきでかれの額にふれると、「いいえ、あなたの滞在は長くなりそうよ」
「一週間以内にお暇《いとま》するつもりです」レルドリンは頑固に繰り返した。
彼女は肩をすくめて、「どうぞご自由に。きちんとした埋葬をするために、兄が家来を数人使ってあなたの後を追わせてくれると思うわ。わたしの目に間違いがなければ、十リーグと行かないうちにその必要が出てくるはずよ」
レルドリンは目をぱちくりさせた。
ポルおばさんはアリアナをわきに連れていき、しばらく話をしたあと薬草の束を渡してこまかい指示を与えた。レルドリンはガリオンに身振りで合図を送った。ガリオンはすぐにかれのところに行って担架の横にひざまずいた。
「というわけで、もうお別れだ」レルドリンはもごもご言った。「きみと一緒に行きたかったけど」
「すぐによくなるさ」ガリオンはありえないことと知りながら、そう言ってかれを安心させた。
「あとからぼくたちに追いつけばいいよ」
レルドリンは首を振った。「いや、無理だと思うよ」かれはそう言うとふたたび咳き込んだ。発作が肺を破いてしまうのではないかと思うほどに。「もう時間がないんだ、ガリオン」彼は弱々しくあえぎながら言った。「だからよく聞いてほしい」
ガリオンは今にも泣きそうになりながら友人の手を握った。
「あの朝伯父さんの家を出たあとで話したことを覚えてるかい?」
ガリオンはうなずいた。
「きみは、トラシンや他の仲間との誓いを破って秘密を打ち明けるかどうかを決めるのはぼくだって言ったね」
「うん、覚えてるよ」
「よし、ぼくは決めた。きみを誓いから解放してやるよ。きみは自分のすべきことをすればいい」
「きみの口から直接おじいさんに言ったほうがいいと思うよ」
「ぼくにはできないよ、ガリオン」レルドリンは苦しそうに言った。「言葉が喉につかえて出てこないんだ。悪いけど、そこまではできない。ナチャクがぼくらを利用しただけだと知っていても、仲間に誓ってしまった以上は。間違いとはわかっていても誓いを破ることはできないんだ。だから、この問題はきみにかかってるんだよ。ナチャクがぼくらの国を滅ぼすのを止めるのはきみしかいないんだ。王のところに行ってくれ」
「王様のところに? 王様はぼくの言葉なんて信じないよ」
「信じさせるんだよ。すべてを話すんだ」
ガリオンはきっぱりと頭を振った。「きみの名前を出すわけにはいかないよ。トラシンの名前も。もしそんなことをしたら、王様がきみたちにどんなことをするか、きみだって知ってるはずだよ」
「ぼくらはどうでもいいんだ」レルドリンはそう言って、ふたたび咳き込んだ。
「ナチャクのことは話してみるよ。でもきみたちのことは言わない。そのマーゴ人はどこにいると言えばいいのかな?」
「王がご存知だよ」レルドリンは蚊の鳴くような声で言った。「ナチャクはボー・ミンブルの宮廷にいる大使なんだ。マーゴ人の王、タウル・ウルガスの代理人なんだよ」
ガリオンはこの背景に呆然とした。
「ナチャクの金貨はすべて王の命令でクトル・マーゴスの無尽蔵の金山から掘ったものなのさ」レルドリンは説明をつづけた。「かれがぼくと仲間に授けた計略は、ひょっとすると、アレンディアを崩壊させるための一ダース、いやそれ以上ある計画のひとつにすぎないのかもしれない。きみがそれを食い止めてくれないと、ガリオン。約束してくれ」青白い顔をした青年は熱っぽい目をして、ガリオンの手をきつく握った。
「止めてみせるよ、レルドリン」ガリオンは約束した。「方法はまだわからないけど、どうにかやってみる」
レルドリンは力尽きて担架にそっと沈みこんだ。まるでこの約束を取りつける使命感だけが気力を支えていたかのように。
「さよなら、レルドリン」ガリオンは目に涙をいっぱい浮かべながら、静かに言った。
「さよなら、ぼくの友だち」レルドリンはわずかにささやくと、目を閉じた。ガリオンの手を握る力がだんだん弱くなっていく。ガリオンは激しい恐怖に駆られてかれを見た。が、やがて喉のくぼみのあたりがドキドキと波打っているのに気づいた。レルドリンはまだ生きている。たとえぎりぎりの状態でも。ガリオンはかれの手をそっと下ろし、粗い灰色の毛布を肩のあたりまで掛けた。それから立ち上がると、頬に涙を伝わせながら速やかにその場を離れた。
別れは簡単だった。かれらはふたたび馬にまたがると、速足で〈西の大街道〉に向かった。道すがら農奴や槍兵からわずかばかりの喝采を受けたが、遠くの方からそれとは別の音が聞こえてきた。村の女たちが、戦場に散乱した死体の中に夫や息子を捜そうと外に飛び出してきたのだ。彼女たちのむせび泣きやかん高い悲鳴の前では、喝采の声など何にもなりはしなかった。
ガリオンはよくよく考えたすえ、馬を前に急がせてマンドラレンの横に並んだ。「あなたに言いたいことがあるんです」かれは興奮ぎみに言った。「あなたが気を悪くしても、ぼくの知ったこっちゃない」
「ほう?」
「あそこで、あなたがレルドリンに言った言葉はすごく残酷で、思わず胸がむかむかしたよ。あなたは自分を世の中で一番偉大な騎士だと思ってるかもしれないけど、ぼくに言わせれば、煉瓦や石と同じでこれっぽっちも感情のない、声だけ大きい自慢屋だ。さあ、文句があるなら、なんとでも言うがいいさ」
「ああ、そのことか! どうやらきみは誤解しているようだな。かれの命を救うためにはああするより仕方がなかったのだ。あのアストゥリアの若者は大変勇敢だが、自分自身への配慮というものがまったくない。もしわたしがああ言わなければ、かれはみんなと一緒に旅をつづけると言い張って、すぐに死んでしまっただろう」
「死ぬ?」ガリオンは鼻で笑った。「ポルおばさんならかれを治せたはずだよ」
「かれの命が危ないと教えてくれたのは、何を隠そうレディ・ポルガラ自身なのだ。きちんとした治療を請うのはかれのプライドが許さなかった。だが、その同じプライドが、われわれの足を引っ張らないようにとの理由から、あそこに残ることをかれに決心させたのだ」騎士は皮肉っぽく笑った。「こんなことを言っても、きみと同じでかれもわたしを好きになりはしまいが、とりあえずかれは生きのびるだろう。重要なのはそれだ、違うかね?」
急に怒りの対象を失ってしまったガリオンは、横柄そうに見えるミンブレイトの騎士を見つめた。馬鹿なことを言ってしまった。今、ガリオンにはそれが痛いほどはっきりとわかった。
「ごめんなさい」かれは不承不承に謝まった。「あなたを誤解していたみたいです」
マンドラレンは肩をすくめて、「気にするな。わたしはしょっちゅう誤解されているのだ。思うに、動機そのものは正しいのだが、ひとの意見に耳を傾けるという点でわたしには欠けるところがあるようだな。ともあれ、きみに事実を打ち明けることができてよかった。きみはわたしの仲間になるわけだ。お互いに思い違いをしていたんでは結束にひびが入る」
かれらはそのまま黙って馬を走らせた。その間、ガリオンは必死に頭を切り換えようとしていた。マンドラレンはぼくが思っていたより、もっと奥のある人間らしい。
街道に入ると、かれらは悪天候を暗示している空をあおぎながら、ふたたび南に向かった。
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アレンディア平野は見渡すかぎり草が波打っている大草原で、うねりのない湯所はところどころしかなかった。黄色く乾燥した草をなでつけていく風は身を切るように冷たく、道すがら上空に黒っぽい雲がかすめ飛んでいく。怪我をしたレルドリンを後に残してきたことが、みんなを憂うつな気分にさせていた。二、三日のあいだ、かれらはほとんど言葉を交わさずに馬を走らせた。ガリオンはヘターや荷馬といっしょに列のうしろを走り、できるだけマンドラレンに近づかないようにしていた。
ヘターはおとなしい青年で、たとえ数時間のあいだ口をきかずに馬にまたがっていても、さして苦痛に思わない様子だった。だが、こんなふうに二日間を過ごしたのち、ガリオンはこのタカ顔のアルガー人の気持ちをどうにか引き出してみようという気になった。
「どうしてあなたはそんなにマーゴ人を憎むの、ヘター?」かれは他にいい話題を思いつかなかったので、こう切り出してみた。
「アローン人なら誰でもマーゴを憎むさ」ヘターは物静かに答えた。
「うん、でもあなたの場合、何か個人的な理由があるような気がするんだけど。なぜなんだろう?」
ヘターは鞍の上で体をずらし、革の衣服をきしませたかと思うと、「やつらはわたしの両親を殺したのだ」と答えた。
これが質問に対する答えだと知ったとたん、ガリオンは激しいショックに打たれた。「どうしてそんなことに?」ヘターにとっては気の進まない話かもしれないなどとは考えもおよばずに、ガリオンは質問していた。
「ぼくは七歳だった」ヘターは感情のない声で言った。「ぼくたちは母の家を訪ねる途中だった――母は別の種族の出だったので。やむをえず東の断崖の近くをとおっているときにマーゴの暴漢たちがぼくたちを襲ってきた。母の馬がつまずき、母は投げ出された。父とわたしが母を馬に戻そうとしたが、それができないうちにマーゴ人が襲いかかってきた。やつらは長い時間をかけて両親をなぶり殺した。死ぬ間際に母が一度だけ悲鳴をあげたのをおぼえている」ヘターの顔は岩のように荒涼としていて、抑揚のない静かな声が話をよけいにおそろしいものにしていた。
「両親が死んだあと、マーゴ人はぼくの足をロープで縛り、一頭の馬に引きずらせた。そしてロープがついに切れたとき、やつらはぼくが死んだものと思ってそのまま走り去ったんだ。たしかやつらはそのことで笑い合っていた。その二日後、チョ・ハグがぼくを発見してくれたんだ」
一瞬ガリオンのまぶたに、ボロボロに傷つき、たった一人でアルガリア東部の荒野をさまよっている子供の姿が、あたかもその場に居合わせたかのようにはっきりと浮かんだ。悲しみと激しい憎悪だけでかろうじて生きのびている子供の姿が。
「最初にマーゴ人を殺したのは十のときだった」ヘターは先ほどと変わらぬ抑揚のない声で話をつづけた。「やつは逃げようとしたが、ぼくは馬で追い詰め、肩のあいだに投げ槍を命中させた。槍に貫かれた瞬間、そいつは叫び声をあげた。チョ・ハグは、マーゴ人が死ぬところを見せればぼくの憎しみが癒えると思っていたらしい。その点では、かれの予想は間違っていたようだが」ヘターの顔に表情と呼べるものは見えず、ただ頭皮に残っているひと房の毛が、風に打たれてかき乱れながらなびいているだけだ。激しい強迫感の他には何の感情も持ち合わせていないかのように、空虚さのようなものが漂っている。
一瞬、ガリオンはミスター・ウルフが復讐心に支配されるようになるのは危険だと注意したときに何を言おうとしていたのかがぼんやりとわかったような気がしたが、すぐにその考えを振り切った。ヘターが復讐心を持ちながら生きていけるのなら、ぼくだって生きていけるはずだ。にわかにかれの心は黒い革に身を包んだこの一匹狼のハンターに対する敬意でいっぱいになった。
ミスター・ウルフはマンドラレンと話に熱中して歩みがのろくなっていたので、ついにはヘターとガリオンに追いつかれた。しばらくのあいだ、かれらは一緒に馬を進めた。
「これはわれわれの性分なんでしょうな」ぴかぴかのよろいに身を包んだ騎士が憂うつな声で言っている。「われわれは誇りが高すぎる。そしてその誇りがアレンディアを内戦に導いているのですよ」
「いずれよくなるだろう」ミスター・ウルフが言った。
「どうやって? これはわれわれの血の問題なのですよ。わたしはとくに平和を愛する人間ですが、このわたしでさえ国の病に支配されている。さらに言うなら、すべてを白紙に戻すには、われわれの溝はあまりに数が多く、歴史や魂の中に深く入り込みすぎているのです。今この瞬間にも、あちこちの森でアストゥリア人の放つ弓がミンブレイト人の標的を求めてビュンビュンうなり、ミンブレイト人はその仕返しにアストゥリア人の家に火を放ち、人質を虐殺しているはずです。戦争を避けるなぞ、しょせん無理な話だと思いますよ」
「いや、そんなことはない」
「どうして防ぐことができますか? われわれの狂気を治せる人間がどこにいるのです?」
「必要とあらば、わしがその役をかってでよう」ウルフは灰色の頭巾をうしろに押しやりながら静かな口調で言った。
マンドラレンは力なく笑って、「あなたのお気持ちには感謝しますよ、ベルガラス。でも、たとえあなたでもこればかりは無理です」
「世の中にはまったく不可能なものなど存在しないのだ、マンドラレン」ウルフは感情をまじえない声で答えた。「わしはだいたいが他人の楽しみを邪魔するのは好まんのだが、アレンディアが火の海になるのを黙って見過ごすわけにはいかん。必要とあらば、戦いに介入して愚かな行為に終止符を打ってやるつもりだ」
「あなたにそんな力があるのですか?」マンドラレンはどうも話を信じられないらしく、いぶかしそうに訊ねた。
「ああ」ウルフは短く刈り込んだ白い髭をこすりながらあっさりと答えた。「実を言うとそういう力があるのだ」
マンドラレンの顔には見るみるうちに困惑の表情が浮かんできたが、それでも老人のつつましやかな告白に、いくらか畏敬の念を抱いたらしかった。が、ガリオンはかれの宣言を聞いて困ったことになったと思っていた。もしそんなに簡単に戦争を終わらせることができるのなら、ガリオンの復讐計画を邪魔することなど訳はないはずだ。となると、またひとつ問題が出てきたことになる。
ちょうどそのとき、シルクがかれらの方に引き返してきた。「この先で〈大見本市〉が開かれてますよ。寄っていきますか、それとも迂回しますか?」
「寄ることにしよう」ウルフは言った。「そろそろ夕暮れだし、買いたいものもあるからな」
「じゃあ馬たちも足を休めることができますね」とヘターが言った。「そろそろ文句を言い始めてるんですよ」
「それならそうと言ってくれればよかったのに」ウルフは荷馬の列を振り返りながら言った。
「いえ、まだすっかり不調というわけじゃないんです。ただ、元気がなくなってきているんですよ。もちろん大袈裟にそう表現してるんですが、少し休ませてやればかれらも悪い気はしないでしょう」
「大袈裟に表現する?」シルクはびっくりして聞き返した。「まさか馬に嘘をつく才能があると言うんじゃないだろうな?」
ヘターは肩をすくめ、「そのまさかなんです。かれらは始終嘘のつきどおしですよ。嘘が得意なんです」
しばらくのあいだシルクは憤慨してこの概念にこだわっていたかと思うと、急に笑いだして、
「とにかく、これでまた天地万物の摂理を信じられるようになった」
ウルフは顔をしかめて、「シルク、おまえって男はたいした悪党だよ。自分でそれに気づいていたか?」
「なんじ、最善をつくすべし」シルクは茶化すように言った。
〈アレンディアの市〉は〈西の大街道〉とウルゴランドからおりてくる山道が交差するあたりに広がっていた。周囲一リーグ、あるいはそれ以上に渡って青、黄色、赤のテントや太い縞模様の大天幕が星の数ほど並んでいる。灰褐色の平野の中に忽然とあらわれたにぎやかな色合いの街とでも表現したいような光景だ。今にも降り出しそうな空の下で間断なく吹きつける風が、鮮やかな色の旗を勢いよくはためかせている。
「すこし商売をする時間があるといいんだが」長い丘を下って〈市〉に向かうとちゅうでシルクが言った。鋭い鼻がぴくぴく動いている。「商売の勘がにぶり始めてるかもしれないな」
泥にまみれた六人の乞食が道端でわびしそうにしゃがみこんで、両手を伸ばしていた。マンドラレンは立ち止まると、乞食たちにコインを数枚ばらまいた。
「乞食を甘やかすな」バラクがうなった。
「慈善は義務であり、特権でもあるのですぞ、バラク卿」マンドラレンは言った。
「どうしてこのひとたちはここに家を建てないのかな?」ガリオンは〈市〉の中心部に近づきながらシルクに質問した。
「それほど長く滞在する者はいないからさ」シルクは説明した。「たしかにいつでも〈市〉は開かれているが、中の人間はしょっちゅう入れ替わってるんだ。それに、家を建てるとなると税を取られる。テントなら無税だ」
商人たちは一行が通りすぎるのを見ようとテントから出てきたが、たいていの者はシルクを知っているようだった。そのうちの何人かは抜かりなく歓迎の言葉を述べたが、かれの来訪を不審に思っていることは顔を見ればすぐにわかった。
「本人よりも名前が先行しているようだな、シルク」バラクはぶっきらぼうに言った。
シルクは肩をすくめて言った。「有名税ってやつさ」
「誰かがあなたを別の商人だと見破る危険はないんですか?」ダーニクが訊ねた。「マーゴ人が捜しているという例の商人と?」
「アンバーのことか? その可能性はないな。アンバーはそうちょくちょくアレンディアに来ないし、かれとラデクはちっとも似たところがないんだから」
「でもふたりは同一人物でしょ?」ダーニクは食い下がった。「ふたりともあなたなんでしょ?」
「うーん」シルクは指を一本立てながら、「あんたもわたしもそれを知っている。でも、やつらは知らない。あんたの目にはいつでも本来のわたしがうつっているが、かれらの目にはまったく違った人物がうつっているんだ」
ダーニクはどうにも信じられないという顔をしている。
「ラデクじゃないか、懐かしいな」禿げ頭のドラスニア商人が近くのテントから呼びかけた。
「デルヴォー」シルクは顔を輝かせて答えた。「久しぶりだな」
「景気がいいようじゃないか」禿げ頭の男は言った。
「まあまあってとこだ」シルクはひかえめに答えた。「最近は何を扱ってるんだ?」
「マロリーンのじゅうたんを少し手に入れた。地方貴族の中にはこれに興味を示してくれるひともいるんだが、いかんせん値段がお気に召さないらしい」口ではそう言っているが、すでにかれの指は他のことを話しはじめている。――あんたの伯父上からもしその必要があればあんたを助けるようにとの伝言を受けている。何か必要なものはあるか?――「そう言うあんたは何を積んできた?」これは声に出して言った。
「センダリアの毛織り物だ。それと雑貨をすこし」――〈市〉でマーゴ人を見かけなかったか?――
――ひとりだけ。だがそいつはもう一週間前にボー・ミンブルに出発した。ナドラク人なら〈市〉のはずれに何人かいるが――
――ずいぶん遠くまで来たもんだな。ほんとうに商売が目的なのか?――
――なんとも言えんな――
――一日かそこらわたしたちを泊めてくれないか?――
――礼は期待できるんだろうな――デルヴォーは目をキラッと光らせながら言った。
シルクはこの誘いにいささかショックを受け、それがうっかり指に表われてしまった。
――商売は商売さ――デルヴォーはジェスチャーでそう言うと、「さあ、中に入れよ」こんどは声に出して言った。「ワインを飲んで夕飯を食うとしよう。ずいぶん空白があったからな」
「ああ、楽しみだ」シルクはどことなく苦い表情で答えた。
「どうやら因縁の相手に会ってしまったようね、ケルダー王子?」ポルおばさんは、デルヴォーの派手な縞模様の天幕の前でシルクに馬からおりるのを手伝ってもらいながら、うすら笑いを浮かべ、やんわりと言った。
「デルヴォーが? とんでもない。そりゃ、あいつはもう長いことわたしを怒らせようとやっきになってますよ――ヤー・グラクでのある駆け引きでわたしにひどい目に合わされて以来。ま、とりあえずしばらくはわたしを降参させたと思わせておきましょう。そうすればあいつは気がすむだろうし、わたしとしても計画を狂わせてやるときにうんと楽しめますからね」
彼女は笑って、「救いがたいひとね」
シルクは彼女にウィンクをして見せた。
デルヴォーの一番大きな天幕の内部はパチパチと燃える数個の火鉢の炎で赤く染まり、一行を暖かく迎えてくれた。床には深い青のじゅうたんが敷きつめてあり、腰掛け用として大きな赤のクッションがあちこちに散らばっている。かれらが中に入ると、シルクは手短にみんなの紹介をした。
「お目にかかれて光栄です、長老さま」デルヴォーはまずミスター・ウルフ、ついでポルおばさんに深ぶかと頭を下げながらもごもごと挨拶した。「何かわたくしにできることは?」
「今のところ何をおいても必要なのは情報だ」ウルフは重いマントを脱ぎながら言った。「われわれはここから二、三日ほど北に戻ったところで、グロリムが民衆を煽動している場面に出くわした。こことボー・ミンブルのあいだで何が起こっているか突き止めることができるか? できることなら、これ以上近くでもめごとが起こるのを避けたいのだ」
「調べてみましょう」デルヴォーは約束した。
「わたしもあたりを見てきますよ」シルクが言った。「デルヴォーとわたしなら〈市〉の中のどんなくだらない情報も嗅ぎだしてみせますよ」
ウルフは不思議そうな顔でかれを見た。
「ボクトールのラデクは商売のチャンスを逃すような男じゃないんです」小男は少し早口で説明した。「デルヴォーのテントにこもっていたら、ひとから変に思われますからね」
「なるほど」ウルフは言った。
「みんなだって偽装をだいなしにするようなことはしたくないはずですよ、そうでしょう?」シルクは無邪気に言った。が、かれの長い鼻はいっそう激しくぴくついている。
ウルフはとうとう降参して、「わかった。だが、妙な真似をするんじゃないぞ。明日の朝になってカンカンに怒った客の集団に『こいつの親分はどこだ』とわめかれるのはごめんだ」
デルヴォーのポーターたちは荷馬から荷物を降ろし、さらにそのなかのひとりがヘターを〈市〉のはずれにある厩舎に案内した。シルクは荷物をかきまわし始めた。毛織り物の隅やひだに素早く腕を突っ込むたびに、デルヴォーのじゅうたんの上に高価な小物が山のように積み重なっていった。
「カマールでずいぶん金がかかったと思ってたが、なるほど」ウルフはぶっきらぼうに言った。
「これも偽装の一部ですよ。ラデクは途中どこかで交換しようと常に骨董品を少し持ち歩いているんです」
「ずいぶんと都合のいい話じゃないか」バラクが口をはさんだ。「おれだったら腐るほどたくさんは集めないけどな」
「この一時間のうちにウルフの金を倍にできなかったら、わたしはこの仕事から永久に足を洗うよ。おっと、忘れるところだった。ガリオンにわたしのポーター役をつとめてもらわないと。ラデクは常に最低ひとりはポーターを雇っているから」
「かれを堕落させないでちょうだいよ」ポルおばさんが言った。
シルクは大袈裟にお辞儀をして、黒いベルベットの帽子を粋な角度にかぶった。それから宝物のぎっしり詰まった袋を持つと、ガリオンを従え、まるで戦場に乗り込むような勇み足で〈アレンディアの大見本市〉の只中に入っていった。
テントを三つほど行ったところの太ったトルネドラ人は手強い相手で、宝石をちりばめた短剣を実際の価値のたった三分の一の値段でシルクから巻き上げてしまった。が、つづく二人のアレンディアの商人はまったく同じ銀のゴブレットを、値段のつけ方はかなり違っていたが、とにかく前の儲け損ないを充分取り戻せる値段で買ってくれた。
「だからアレンド人と商売するのは好きなんだよ」シルクは天幕のあいだの泥道を進みながらほくそえんだ。
かれはこのように市の中を立ち回り、あちこちで一悶着を起こしていった。売れないときは買い手にまわり、買えないときは交換し、交換もできないときはゴシップや情報をあさる、といった具合に。少しでも賢い商人は、かれを見るなり身を隠した。ガリオンは、小男の意気込みにすっかり圧倒されていたが、しだいにかれが利益よりも敵の鼻をあかすことにこのゲームの魅力を見出しているのだということがわかってきた。
シルクの商売はじつに国際性豊かだった。商売の相手は選ばないし、取り引きはかならず相手の得意とする分野で応じた。トルネドラ人、アレンド人、チェレク人、同郷のドラスニア人、そしてセンダー人――その誰もがかれの前ではかぶとを脱いだ。そして午後も半ばになるころには、かれはカマールで買った品物を全部売りつくしてしまっていた。かれの財布には今やぎっしりと中身が詰まって、ジャラジャラと音をたてており、ガリオンが肩に負っている袋は相変わらず重かったが、中に入っているのはすべて新しい品物だった。
ところが、当のシルクは浮かない顔をしていた。すばらしく美しい、小さな茶色のガラス瓶を掌でポンポンはずませている。象牙の表紙をつけたワサイト詩の本二冊と引き換えに、あるリヴァ人からこの香水の小瓶を受け取ったのだ。「どうかしたの?」ガリオンはデルヴォーの天幕へと歩きながら聞いた。
「けっきょく誰が勝ったのかわからないな」シルクは不機嫌そうに言った。
「え?」
「これにどれほど価値があるのかわからないんだよ」
「じゃあなんで交換したの?」
「価値がわからないと思われたくなかったのさ」
「誰かに売ればいいじゃない」
「どれくらい価値があるかもわからないのにどうやって売れるんだよ? あんまり高い値段をつけたら誰も乗ってこないだろし、安くつけすぎたら〈市〉中の笑い者になる」
ガリオンはクスクス笑い出した。
「そんなにおかしいことだとは思わないがね、ガリオン」シルクはムッとして言った。天幕に入ったときも、かれはまだ不機嫌で神経をカリカリととがらせていた。「はい、約束しておいた金ですよ」かれはミスター・ウルフの手のひらにジャラジャラとコインを注ぎながら、ぶしつけに言った。
「何をそう苛立っている?」ウルフはかれのしかめ面を見て訊ねた。
「べつに」シルクはにべもなく答えた。が、ポルおばさんの姿が目に入ったとたん、ニッコリ微笑んだ。すぐに彼女に近づくと、お辞儀をして、「親愛なるレディ・ポルガラ、たいした物ではございませんが、あなたへの敬意のしるしとしてこれをお受け取りください」かれは麗々しく香水の瓶を差し出した。
ポルおばさんは嬉しさと疑惑の入り混じった奇妙な顔をしていた。彼女は小さな瓶を受け取り、ぴったり閉まった栓を用心深く抜いた。それから、優雅な動作で手首の内側を栓にあてがうと、その手首を顔のところに持っていき香りをかいだ。「まあ、ケルダー」彼女はうれしそうに声をあげた。「王子にふさわしい贈り物だこと」
シルクは笑顔をわずかに曇らせると、彼女が本気なのか、あるいはふざけているのかを見極めようと、じっと彼女を見つめた。やがて溜息をもらすと、かれはリヴァ人の二枚舌について陰気に独り言をつぶやきながら外に出ていった。
それから間もなくデルヴォーが戻ってきた。かれは縞模様のマントを部屋の隅に落とし、赤赤と燃える火鉢に両手をかざした。「わたしが調査したかぎりでは、こことボー・ミンブルのあいだはいたって平穏です」かれはミスター・ウルフに報告した。「しかし、今しがた五人のマーゴ人が二ダースほどのタール人を従えてこの〈市〉に乗り込んできました」
ヘターはすばやく顔をあげた。表情がこわばっている。
ウルフも顔をしかめ、「そいつらは北から来たのか、それとも南か?」
「ボー・ミンブルから来たと言ってますが、タール人のブーツに粘土がついてました。こことボー・ミンブルのあいだに粘土はなかったと思うんですが、どうです?」
「ない」マンドラレンがきっぱりと言った。「この地方で粘土があるのは北のほうだけです」
ウルフはかれの言葉にうなずくと、バラクに、「シルクを呼び戻してくれ」と言った。
バラクはテントの垂れ扉にむかった。
「偶然の一致じゃないでしょうか?」ダーニクが口をはさんだ。
「その可能性に賭けてる暇はない。夜になって〈市〉が静まったらこっそり抜け出そう」
シルクはテントに戻ってくると、デルヴォーとちょっとした言葉を交わした。
「そのマーゴ人はわれわれの居所をすぐに突き止めるだろうな」バラクは低い声を響かせて思案ありげに赤ひげを引っ張った。「つまり、ここからボー・ミンブルに行くあいだ、ことごとく尾行されるってわけか。だが待てよ、ヘターとマンドラレンとおれがそいつらと戦ってしまえば、ことはもっと簡単に運ぶんじゃないか? 死んでしまえば、マーゴ人も尾行なんて真似はできないだろ」
ヘターは真剣な顔をしてうなずいた。
「そんなことをしたら、〈市〉を警備しているトルネドラ軍団の機嫌を損ねるんじゃないですかね」シルクは気取って言った。「正体不明の死体を見つければ憲兵は不審に思う。かれらの潔癖な性格がそれを見過ごすわけがない」
バラクは肩をすくめて、「ただ思っただけだよ」
「いい考えがある」デルヴォーはそう言うと、もう一度マントを羽織った。「連中はナドラク人の天幕の近くにテントを張っているんです。ナドラク商人相手に一商売してきますよ」かれはテントの垂れ扉に向かったが、はたと立ち止まると、「こんなことを言っても役に立つかどうかわかりませんが、リーダー格の男はアシャラクという名のマーゴ人です」
ガリオンはその名前を聞いて、にわかに背筋が寒くなるのを感じた。
バラクはヒューッと口笛を鳴らしたかと思うと、すぐに厳めしい顔つきになって、「遅かれ早かれ、そいつには会わなきゃいけないようですね、ベルガラス」
「知り合いですか?」デルヴォーはたいして驚いている風でもなかった。
「一、二度会ったことがあってね」シルクは素っ気なく答えた。
「あの男、また厄介なことを始めるつもりらしいわね」と、ポルおばさん。
「じゃあ、行ってきます」デルヴォーが言った。
ガリオンはデルヴォーのためにテントの垂れ扉を上げてやった。が、外を見たとたん、思わず喉を詰まらせて扉をぴしゃりと閉じた。
「どうした?」シルクが聞いた。
「ブリルの姿が見えたような気がする」
「どれ」ダーニクはそう言うと、扉をかすかに開き、ガリオンと一緒に外を見た。だらしない身なりの人影が外の泥道をぶらついていた。ブリルはかれらがファルドー農園を離れたころと少しも変わっていなかった。チュニックとズボンは相変わらず継ぎはぎと染みだらけ。ひげは伸ばし放題で、やぶにらみの目玉が不健康そうな白目と一緒に光っている。
「ブリルです、間違いない」とダーニクは言った。「臭いが届くぐらい近くにいますよ」
デルヴォーはきょとんとした顔で鍛冶屋を見た。
「ブリルはめったに風呂に入らない」ダーニクは説明した。「だから、いい臭いがするんですよ」
「ちょっと失礼」デルヴォーは礼儀正しく断ってからダーニクの肩ごしに外を見た。「ああ、あいつか。ナドラク人のところで働いている男だ。ちょっとおかしいと思ったけど、たいして重要な男には見えなかったのでわざわざ調べもしなかったんですよ」
「ダーニク」ウルフはすかさず言った。「しばらく外を歩いてきてくれ。ブリルにおまえの姿を見せるんだ。だが、おまえがやつのことを気づいていると悟られるんじゃないぞ。やつに見られたら戻ってこい。さあ、急げ。逃げられたら大変だ」
ダーニクは困惑していたが、扉を上げると外に出ていった。
「いったい何をたくらんでるの、おとうさん?」ポルおばさんの声はかなり厳しかった。「こんなときにニヤニヤと作り笑いするのはやめなさいよ、この老いぼれ。まったくイライラするわ」
「辛らつだな」ウルフは両手を擦り合わせながら声高に笑った。
ダーニクは顔をこわばらせて戻ってきた。「わたしを見ました。でも、こんなことをしてほんとうに役に立つんでしょうか?」
「もちろんさ」ウルフは言った。「アシャラクがここに来たのは、もちろんわれわれがいるからだ。やつは〈市〉じゅうをくまなく捜すつもりでいる」
「なぜアシャラクの手間をはぶいてやるの?」ポルおばさんが聞いた。
「はぶきはしないさ。アシャラクは前にもブリルを使っている――マーゴ人のところで。覚えてるか? やつはブリルならおまえやわしやダーニクやガリオン――ひょっとしてバラク、いやシルクまで見分けることができるだろうと思って、やつをここに連れてきたのだ。ブリルはまだ外にいるか?」
ガリオンは扉の隙間から外を覗いた。しばらくすると、筋向かいのふたつのテントのあいだに、ブリルのだらしない姿が見えた。「まだそこにいるよ」
「やつにはずっとそこにいてもらわないと」ウルフは言った。「やつがまだ見張りに退屈せず、したがってアシャラクのところにわれわれのことを報告しにいっていないということを常に確かめておく必要があるのだ」
シルクはデルヴォーの顔を見たかと思うと、声をそろえて笑いはじめた。
「何がおかしいんだよ?」バラクはいぶかしそうに訊ねた。
「ドラスニア人じゃないと、このおかしさは理解できないだろうな」シルクは言った。かれは尊敬のまなざしでウルフを見ると、「あなたにはときどき驚嘆させられますよ、ベルガラス」
ミスター・ウルフはかれにウィンクして見せた。
「いいですね?」シルクはウルフに断ると、騎士のほうを向いて、「こういうことだ、マンドラレン。アシャラクはブリルがわれわれを見つけてくれるものと思っている。だが、われわれがブリルの関心を引いているかぎり、あいつがアシャラクに居所を報告するのが遅れる。われわれはアシャラクの目を釘づけにしているも同然、つまりアシャラクはかなり不利な立場に置かれるわけだ」
「でも、われわれがテントを出れば、すぐにあの奇妙なセンダー人があとを尾けてくるのでは?」マンドラレンは聞いた。「とすると、〈市〉を離れたとたんマーゴ人が追ってくる」
「このテントの奥の壁は帆布だよ、マンドラレン」シルクはやんわりと説いた。「切れ味の鋭いナイフがあれば好きなだけドアをつくれる」
デルヴォーは一瞬たじろいだが、溜息をついて言った。「マーゴ人の様子を見てこよう。やつらの行動をもっと遅らすことができるような気がする」
「ダーニクとわたしが一緒に行こう」シルクは禿げ頭の友人に言った。「おまえはこっちの方向へ行け。わたしたちは反対に行く。ブリルはわたしたちの後を追うだろう。わたしたちはやつを連れてここに戻ってくる」
デルヴォーがうなずき、三人は外に出ていった。
「わざわざこんなことをする必要があるんだろうか?」バラクは苦い顔をして言った。「ブリルはヘターの顔を知らない。ヘターが裏からこっそり出て、ブリルのうしろにまわりこみ、やつのあばら骨のあいだにナイフを突き刺せばいいじゃないか? それからやつを袋に詰めて、〈市〉を離れたあとでどこかの溝に捨ててしまえばいいんだ」
ウルフは頭を振って、「アシャラクはやつがいなくなったことに気づくだろう。それよりブリルにわれわれがこのテントにいると報告させたほうがいい。運がよければ、連中はわれわれが行ってしまったと気づくまでに二、三日外に座っていてくれるだろう」
つづく数時間のあいだ、かれらはあたりをうろついているブリルの注意を引きつけておくために、ちょっとした見せかけばかりの使い走りで入れ替わり立ち替わりテントの前の通りに出ていった。ガリオンは忍びよる夕闇の中に出たさい、肌にブリルの視線を痛いほど感じたが、何気ないふうを装った。かれはデルヴォーの貯蔵テントに入り、数分間じっとしていた。暗い貯蔵テントの中でそわそわしながら待っているあいだ、数列先の酒場の天幕から騒がしい音が聞こえてきたが、深まる〈市〉の静けさの中ではその音はことのほかうるさく感じられた。かれは最後に大きく息を吸い込むと、何かを持っているような仕種で腕を折りながらふたたび外に出た。「あったよ、ダーニク」かれはもとの天幕に入りながら報告した。
「即興の演技なんかしなくていいのよ、ガリオン」ポルおばさんが言った。
「このほうが自然に聞こえると思ったんだよ」かれは無邪気に答えた。
デルヴォーはそのすぐあとに戻ってきた。かれらは外がしだいに暗くなり、通りにひとがいなくなるまで暖かいテントの中でじっと待った。やがてあたりがすっかり暗くなると、デルヴォーのポーターたちはテント後部の隙間から荷物を運び出した。シルクとデルヴォー、それにヘターはポーターといっしょに〈市〉のはずれにある厩舎に行き、あとのメンバーはブリルの注意をそらさないためにしばらくそこに残った。ブリルの目をくらます最後の企みとして、ミスター・ウルフとバラクが外に出て、ウルゴランドのプロルグに向かう道の状態をああだこうだと声に出して予想し合った。
「うまくいかないかもしれんな」ウルフは大男といっしょに中に入ってくるなり、そう漏らした。「アシャラクはきっとわれわれがゼダーを追って南に行くのを知っている。だが、もしブリルがわれわれがプロルグに向かうと報告すれば、やつは両方の道を監視しようとして戦力を二分するかもしれない」かれはテントの中をぐるっと見回して言った。「よし、出発だ」
かれらはテント後部の隙間からひとりひとり外に出ると、次の通りまで這うように進んだ。通りにつくと、今度は真っ当な商売をしている堅気の人間≠轤オい普通の速度で歩きながら、厩舎に向かった。酒場の天幕の前を通ると、数人の男が歌をうたっていた。このころになると、通りにはほとんど人影がなく、夜風が旗やのぼりをはためかせながらテントの町を撫でていた。
やがて〈市〉のはずれに着くと、そこにはシルクとデルヴォーとヘターが馬といっしょに待っていた。
「幸運を祈りますよ」かれらが馬に乗ろうとしたとき、デルヴォーが言った。「できるだけマーゴ人たちを引き止めておきますから」
シルクは友だちの手を握ると、「おまえがあの鉛の硬貨をどこで手に入れたのか、今もってわからないんだが」
デルヴォーはかれに片目をつぶってみせた。
「なんのことだ?」ウルフが訊ねた。
「デルヴォーは鉛を打ち抜いて金めっきしたトルネドラのクラウン硬貨を数枚持ってたんですよ。かれはマーゴ人のテントにそのうちの何枚かを隠したんです。明日の朝、憲兵のところにあとの数枚を持っていってマーゴ人から受け取ったと告げ口するつもりでいます。憲兵がマーゴ人のテントを捜査したさい、あとの数枚がかならず見つかるという算段なんですけど」
「トルネドラ人にとって、金貨は何よりも重要なものだからな」バラクが言った。「もし憲兵がその硬貨のことで頭から火が出るほど怒ったとしたら、連中を絞首刑にしないとも限らんぞ」
デルヴォーはつくり笑いを浮かべながら、「それほどひどい侮辱ですかね?」
かれらは馬に乗ると、厩舎を離れて街道に向かった。雲の多い晩だった。いったん広々とした場所に出ると、風が目立って激しくなった。かれらの後方では、夜空の下、〈市〉がまるで大きな町のようにチラチラと光を放っている。ガリオンはマントを体にぴったり巻きつけた。自分たちをのぞく世界じゅうの人々が、火を焚いてベッドにもぐり、壁に護られて眠っているこんな寒い晩に、暗い夜道を行くのはひどく淋しいものだった。やがて暗く波打つアレンディアの平野の上で青白い線を描きながらひっそりと横切る〈西の大街道〉にさしかかると、かれらはふたたび南に進路を取った。
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風は夜が明けるすこし前にふたたび吹きはじめ、東方の低い丘陵地帯の上で空が明るくなるころには、さらにはげしく吹きつけるようになっていた。ガリオンはそのころには疲労で意識がもうろうとなり、心は忘我の境地をさまよいはじめていた。さらに青白い光が強まるにつれ、仲間の顔がどれもまったく見覚えのない顔に見えてきた。時おり自分たちがなぜこうして馬に乗っているのかさえわからなくなった。やがて、自分がこの連中――頭上を低くかすめ飛んでいく暗い雲のように黒っぽいマントを風になびかせながら、荒涼とした、得体の知れない風景のなかを、どこへ行くとも知れずに突き進んでいくいかめしい顔の見知らぬ人間――に捕らえられているのだ、という錯覚が頭の中を占領しはじめた。そして、ある奇妙な考えがかれの心をつかみはじめた。このひとたちはぼくを捕まえて、本当の友だちから引き離そうとしている。距離を進めば進むほど、この考えが紛れのない事実になるように思えて、ガリオンは恐ろしくなってきた。
突然、自分でもなぜだかわからないまま馬を方向転換させると、かれは道からサッとそれてすぐわきの平野の中に突進した。
「ガリオン!」背後で鋭い女の声がしたが、かれは馬のわき腹をかかとで蹴り、さらに速度を増して荒野を横切っていった。
連中のひとりが追ってきた。黒い革の服に剃りあげた頭、そのてっぺんに残したひと房の黒髪を風になびかせている恐ろしげな男。ガリオンは何がなんだかわからないうちに馬を蹴り、もっと速く走らせようとした。だが、うしろの恐ろしい騎手はすぐに追いつき、かれの手から手綱を奪った。「いったいどうしたっていうんだ?」騎手はきびしく追及した。
ガリオンは返事もできずにただかれの顔を見つめた。
やがて青いマントを着た女もやってきた。他の連中も彼女からそう遠くないところにいる。彼女は素早く馬からおりると、おそろしい形相でガリオンを見た。彼女は女にしては背が高く、冷たくて高慢そうな顔をしていた。髪は漆黒で、額のあたりに白い髪がひと房ある。
ガリオンはぶるぶる震えた。その女が怖くてしかたがなかったのだ。
「馬からおりなさい」彼女は命令した。
「もっと優しく、ポル」邪悪な顔だちをした銀髪の老人が言った。
赤ひげの大男が馬に乗って威嚇するように近寄ってくると、ガリオンはあまりの恐怖にほとんどすすり泣きながら馬をおりた。
「ここへいらっしゃい」黒髪の女が命令した。ガリオンはよろけながら彼女に近づいた。「手を出して」彼女は言った。
かれがためらいながら手を出すと、彼女はその手首を力一杯つかんだ。そして五本の指を広げ、ガリオンがかねてから嫌っていたような気がする、掌の醜いあざをあらわにして、それを自分の白い髪にあてがった。
「ポルおばさん」かれがあえぐように言った瞬間、悪夢はこつぜんと消え去った。彼女はかれの体に腕をきつく回し、しばらくのあいだ抱きしめていた。不思議なことに、みんなの前でこんなふうに愛情を表現されても、かれはどぎまぎしなかった。
「これは深刻だわ、おとうさん」彼女はミスター・ウルフに言った。
「何があった、ガリオン?」ウルフは優しく聞いた。
「わからない。この中にひとりも知っているひとがいないように思えたんだ。みんなが敵に見えたんだよ。ただここから逃げ出してほんとうの友だちのところに帰りたいってことしか頭になかったんだ」
「おまえは、わしが与えたあのお守りをまだ身につけてるか?」
「うん」
「それをもらってからはずしたことは一度もないか?」
「一度だけ。トレネドラ人の宿でお風呂に入ったときに」
ウルフは溜息をもらした。「はずすんじゃない、ぜったいに――どんなことがあっても。チュニックの下から出してみろ」
ガリオンは風変わりなデザインをほどこした銀のペンダントを引っ張り出した。
老人は自分のチュニックからメダルを取り出した。そのメダルはまばゆいばかりに光り輝き、表面にはいまにも駆け出すのではないかと思うほど真に迫った狼の姿が浮き彫りにされている。
ポルおばさんも、片手をガリオンの肩においたまま、胴着から似たようなお守りを引っ張り出した。彼女のメダルの表面にはふくろうの姿が浮かんでいる。「右手でそれを握るのよ、ガリオン」彼女はそう言って、かれの指にペンダントをしっかりつかませた。次に彼女は自分のお守りを右手で握り、左手をガリオンの握りこぶしの上にかぶせた。ウルフもまた自分のお守りを握り、ふたりの手の上にのせた。
にわかにペンダントに生命が宿ったかのように、ガリオンの掌はチクチクしてきた。
ミスター・ウルフとポルおばさんが一瞬見つめ合うと、ガリオンの手のうずきは一段と激しくなった。ガリオンは、心の窓が開いたような気がした。と同時に、目の前で奇妙な像がチカチカと光った。かれが見たもの、それはどこか非常に高いところにある円形の部屋だった。暖炉が燃えているのに、その中に薪はない。テーブルにひとりの老人が座っている。どことなくミスター・ウルフに似てはいるが、あきらかに他の人間だ。老人はガリオンの顔をじっと見ているように思えた。そのまなざしはやさしく、愛情さえ感じられた。突然、ガリオンの心はその老人へのとめどない愛情ではちきれそうになった。
「もう十分だろう」ウルフはそう言ってガリオンの手を離した。
「あのおじいさんは誰?」ガリオンは聞いた。
「わしの〈師〉だ」
「いったい何が起こったんです?」ダーニクは心配そうに聞いた。
「聞かないほうがいいと思うわ」ポルおばさんは言った。「火を起こせるかしら? そろそろ朝食の時間なんだけど」
「むこうにちょっとした木立があるんです。あそこなら風を防げると思いますよ」ダーニクは提案した。
かれらはまた馬に乗り、木立に向かった。
食事がすんだあとも、かれらはしばらく小さな焚き火のそばに座っていた。みんなすっかり疲れていて、風の吹きすさぶ朝≠ニいう現実に直面しようとする者はひとりもいなかったのだ。ガリオンはとりわけぐったりと疲れていたので、自分がまだずっと若ければ、ポルおばさんにぴったり寄り添って、子供のころのようにひざの上に頭をのせて眠れるのにと思ったりした。さきほどの奇妙な出来事のせいで、かれはすっかり孤独な気分になり、かなりびくびくしていた。「ダーニク」かれは純粋な疑問というよりは、この憂うつな気分を追い払いたいという気持ちで友だちに声をかけた。「あの鳥はなんだろうね?」かれはそう言って指さした。
「たぶん渡りガラスだろう」ダーニクは頭上で輪を描いている鳥を見ながら答えた。
「ぼくもそう思ったんだ。だけど、渡りガラスはふつう円を描いたりしないよね?」
ダーニクは顔をしかめ、「たぶん地上にいる何かを見てるんだろう」
「あの鳥はどのくらいここにいる?」ウルフは大きな鳥をチラッと見上げながら訊ねた。
「最初に見たのは、野原を横切ってるときだったと思うよ」ガリオンはかれに言った。
ミスター・ウルフはポルおばさんを見やった。「どう思う?」
彼女は繕ってる最中のガリオンの靴下から顔を上げた。「見てみるわ」彼女の顔に、奇妙な、何かを探るような表情が浮かんだ。
ガリオンはまたしても、あの刺すような痛みを感じた。かれは衝動に駆られるまま、自分の魂を鳥に向けて浮遊させようとした。
「ガリオン」ポルおばさんはかれの顔を見ずに言った。「だめよ」
「ごめんなさい」かれはすぐに謝まって、魂をあるべき場所に呼び戻した。
ミスター・ウルフは変な顔をしてかれを見たかと思うと、片目をつぶってみせた。
「あれはチャンダーよ」ポルおばさんは落ち着いた声で言った。彼女は靴下にそっと針を刺してわきに置いた。それから、すっと立ち上がり、青いマントのごみを振り落とした。
「おまえは何を企んでいるのだ?」ウルフは訊ねた。
「ちょっとかれと話をしてくるわ」彼女はかぎ爪のように指を曲げながら答えた。
「おまえじゃ、あいつには追いつけまい。こんな風の中を飛ぶには、おまえの羽は柔らかすぎる。それよりもっといい方法がある」老人は何かを透視するようなまなざしで、空を仰いだ。
「あそこだ」かれは西の丘の上にわずかに見える小さな斑点を指さした。「おまえがやったほうがいいだろう、ポル。わしと鳥じゃうまくいかんからな」
「そりゃそうよ、おとうさん」彼女は父親に同意した。そして斑点をじっと見据えた。彼女が魂を遊離させているあいだ、ガリオンはあの刺すような痛みを感じていた。斑点はくるくると円を描いてしだいに空高く舞い上がり、やがて見えなくなった。
渡りガラスが急降下してくるワシの存在に気づいたのは、自分より大きな鳥のかぎ爪に背中を掴まれる直前のことだった。突然、黒い羽が飛び散ったかと思うと、渡りガラスはワシに追われながら狂ったように羽をばたつかせた。
「いいぞ、ポル」ウルフは満足そうに言った。
「これでかれも少しは考えるでしょう」彼女は笑った。「そんなに見つめないで、ダーニク」
ダーニクはぽかんと口を開けて彼女に見とれながら、「どうやってあんなことをしたんです?」
「ほんとうに知りたい?」
ダーニクはぶるぶるっと身震いして、目をそむけた。
「さあ、どうやら片づいたようだな」ウルフが言った。「今となってはもう変装の必要もあるまい。チャンダーの目的が何だったのかはわからないが、われわれの道程の一部始終を見張るつもりだったらしい。それなら武装してまっすぐボー・ミンブルを目指したほうがいいかもしれないな」
「じゃあ、もう足跡を追うのはやめるんですか?」
「足跡は南に向かっている。トルネドラに入ればまたつかめるようになるだろう。それよりまず、コロダリン王のところに立ち寄って、かれと話がしたい。王の耳に入れておきたいことがあるのでな」
「コロダリン?」ダーニクは戸惑いの表情を浮かべた。「それはアレンディアの初代国王の名前じゃなかったですか? 前に誰かからそう聞いたような気がするけど」
「アレンディアの国王は代々コロダリンを名乗ることになっているのさ」シルクが説明した。
「そして王妃は代々マヤセラーナを名乗る。と言っても、これは王国が分散するのを防ぐために王室が語り継いでいるおとぎ話の一部にすぎないがね。かれらは、ミンブルとアストゥリア両家の統一という夢物語を維持するために、できるだけ血筋の近いものと結婚しなくてはならないんだ。かれらはこの伝統にしばられてうんざりしているが、他に道はないだろうな――アレンディア政治の特異な性質を考えれば」
「もういいわ、シルク」ポルおばさんはとがめるような口調で言った。
マンドラレンは何やら考え込んでいたかと思うと、「われわれの跡を追ってきたあのチャンダーというやつは、暗黒のグロリム社会における要人のひとりということになるんですかね?」
「本人はなりたがっているが」ウルフは答えた。「ゼダーとクトゥーチクはトラクの弟子だ。チャンダーも弟子になりたがっている。かれはずっとクトゥーチクのスパイをしているが、それもグロリムの階層制の中で昇格するチャンスと思ってのことだろう。クトゥーチクはかなりの老齢で、ほとんどの時間をラク・クトルにあるトラクの寺院で過ごしている。おそらくチャンダーはそろそろ他の者が高僧になる時期だと思っているはずだ」
「トラクの体はラク・クトルにあるんですか?」シルクはすかさず訊ねた。
ミスター・ウルフは肩をすくめ、「ほんとうのところは誰にもわからん。ただそう思っただけだ。ゼダーがボー・ミンブルの戦場からトラクを運び去ったあと、そのままクトゥーチクの手に引き渡したとは思えん。マロリーか、あるいはクトル・マーゴスに近い南の土地にいるかもしれんが、それがどこかはわからんな」
「とにかく、今ここで考えなくちゃいけないのはチャンダーですよ」シルクがきっぱりと言った。
「このまま前進すればその心配はいらないな」
「じゃあ、前進しよう」バラクはそう言うと、すっくと立ち上がった。
午前の中頃には重苦しい雲が切れ、そこここに青空がのぞきはじめた。冷たい風に揺れながら春の訪れをじっと待ちわびている草原の上を、太陽の放射する巨大な光の柱が、ゆっくりと重々しく通りすぎていく。マンドラレンを先頭にかれらはただひたすら馬を走らせ、すでに六リーグあまりの距離をかせいでいた。そこでやっと速度を並み足に落とし、白い湯気を立てている馬たちを休ませることにした。
「ボー・ミンブルまではあとどのくらいなの、おじいさん?」ガリオンは馬をミスター・ウルフの横につけながら聞いた。
「少なく見積もっても六十リーグはあるな」ウルフは答えた。「八十リーグちかくあるかもしれん」
「ずいぶん遠いんだね」ガリオンは鞍の上で体重を移動させながら、溜息まじりに言った。
「そうさ」
「あそこであんなふうに逃げ出して悪かったと思ってるよ」
「おまえのせいじゃないさ。チャンダーが悪戯をしていたんだから」
「かれはどうしてぼくを選んだのかな? 同じことをダーニクやバラクにしてもよかったんじゃない?」
ミスター・ウルフはかれの顔を見て、「おまえのほうが若いし、影響を受けやすいからさ」
「ほんとうはそうじゃないんでしょ?」
「ああ。でもこれだって答えのようなものだ」
「ぼくには言わないいろいろな答えの中のひとつ、そういうことでしょ?」
「そう言えんこともないな」ウルフは穏やかに言った。
ガリオンはこの件でしばらく機嫌を損ねていたが、ミスター・ウルフはかれの非難をこめた沈黙など別に気にしていないという顔でそのまま馬を走らせた。
その晩、かれらはトルネドラ人の宿に泊まった。それは他のトルネドラ人の宿と同様に、簡素でまあまあのレベルを保ち、値段が高かった。翌朝は、綿菓子のような白いちぎれ雲が強い風を受けて飛んでいくことを除けば、空はきれいに晴れわたっていた。太陽のある風景でみんなの心は明るくなり、道すがらシルクとバラクのあいだで冗談が交わされるほどだった――これはここ数週間、北部アレンディアの重苦しい空の下を旅しているあいだ、ガリオンがついぞ耳にしたことのないものだった。
しかし、マンドラレンはこの朝もほとんど口をきかず、道を進むごとに表情が暗くなっていった。今日はよろいかぶとを着けていないが、その代わりに揃いの鎖かたびらと深い青のサーコートを着ていた。頭には何もかぶらず、巻毛が風に引っ張られている。
近くの丘の頂上で、荒涼とした城郭が、前進するかれらの上にのしかかるようにそびえていた。いかめしい塀は天まで届くかと思うほど高く、威圧的な雰囲気が漂っている。マンドラレンは顔をそむけ、それを見ないようにしていたが、そのあいだも顔色は暗くなる一方だった。
ガリオンは、マンドラレンのことを受け入れるのはかなり困難だ、という結論に達していた。それでも、自分の心の大部分はまだレルドリンの偏見によって曇らされている、と認めるだけの正直さは持ち合わせていた。かれはほんとうにマンドラレンを好きになりたいとは思っていなかった。が、アレンド人ならだれもが持っているらしい例の陰気な雰囲気や、かれの言葉の端々に見られるわざとらしいもってまわった言い回し、それに人並みはずれた自尊心を除けば、かれを嫌う理由は実際はほとんどなかった。
城郭から道に沿って半リーグほど進むと、細長い丘の上に廃墟が横たわっていた。といっても、中央にアーチ道がそびえ、両端にくずれた柱を持つ一枚つづきの塀がある他は何もなかった。その廃墟のちかくで、ひとりの女が馬にまたがり、くすんだ赤のケープを風になびかせていた。
マンドラレンは一言の断りもなく、というより断ることなど思いつきもしないといった様子で軍馬の向きをくるりと変え、道をはずれると、その女に向かって丘を駆けのぼっていった。女はかれが近づいてくるのを、驚きもしなければ、とくに喜んでいるふうもなくただじっと見守っていた。
「あいつはいったいどこに行くつもりだ?」バラクが言った。
「彼女はかれの知りあいなのだ」ミスター・ウルフは素っ気なく言った。
「それで、われわれはあいつを待っているんですか?」
「じきに追いつくだろう」ウルフは答えた。
マンドラレンはすでに女のちかくで馬の足を止め、地面に下り立っていた。かれは女にお辞儀をすると両手を差しのべ、彼女が馬から下りるのを助けた。それからふたりは廃墟に向かって一緒に歩いていった。肌こそ触れ合わないが、かなり接近しながら歩いていく。やがてアーチ道の下まで来ると、やっとふたりは言葉を交わした。廃墟の下では、雲が風を受けて飛ぶように移動し、物憂げなアレンディアの平野の上に大きな影を落としている。
「他の道を選べばよかった」とウルフは言った。「わしもそこまでは頭が回らなかったらしい」
「何か問題でも?」ダーニクが聞いた。
「よくあることだ――アレンディアでは」ウルフは答えた。「わしの責任だ。わしは、若者に起こりがちなことを時として忘れてしまうのだ」
「秘密めいた言い方はよして、おとうさん」ポルおばさんが言った。「まったくイライラするわ。わたしたちが知っておくべきことなの?」
ウルフは肩をすくめて、「これは秘密でもなんでもない。アレンディア人の半数はこのことを知っている。アレンディアじゅうの乙女たちが毎晩この話を思い出しては涙を流しているのだ」
「おとうさんってば」ポルおばさんは苛立たしそうに言った。
「わかった、わかった」ウルフは言った。「マンドラレンが今のガリオンの年の頃には、その将来が大いに期待されたものだった――強くて、勇敢で、あまり賢くない――つまり優秀な騎士になるための要素を備えていた。かれの父親がアドバイスを求めてきたので、わしは青年がしばらくのあいだボー・エボール男爵のもとで修行するように取り計らった――うしろにあったのはかれの城だ。男爵はすこぶる評判のいい男で、マンドラレンにも必要と思われる教えをきちんと授けてくれた。男爵はマンドラレンよりかなり年上だったので、ふたりはほとんど父と息子のようだった。万事はうまく運んでいた。男爵が結婚するまでは。かれの花嫁はしかし、だいぶ若かった――ちょうどマンドラレンの年頃だ」
「その先は想像がつきますよ」ダーニクはもう聞きたくない、と言わんばかりに口をはさんだ。
「それはどうかわからんぞ。ハネムーンのあと、男爵はいつもの騎士の勤めに戻り、残された若い花嫁は退屈しきって城のまわりをうろうろと歩き回った。何か興味深いことが起こるときは、概してこういう設定があるものだ。とにかく、マンドラレンと花嫁は視線を交わし――次いで言葉を交わした――よくある話だ」
「センダリアでもそういうことはありますよ」ダーニクが口をはさんだ。「でも、わたしたちがそれを言うときは、きっとこことは違う言葉を使うはずです」かれの口調は批判的で、怒っているようにさえ聞こえた。
「まあ、そう結論を急ぐな、ダーニク。ことはそれ以上進展しなかった。進展していたら、まだよかったのかもしれん。姦通というのは実際はそれほど真剣なものではないから、そのうちに本人同士が飽きてしまっただろう。だが、ふたりは男爵を心から愛し、尊敬していたから、かれを侮辱することができなかった。そこでマンドラレンはことが自分の手に負えなくなるまえに、城を後にした。今もふたりは実らぬ恋を耐え忍んでいるわけだ。いじらしい話だが、わしの目には時間を無駄にしているように見える。そりゃあ、わしのほうが年上だからな」
「おとうさんは誰とくらべても年上じゃないの」ポルおばさんが言った。
シルクは茶化すように笑いながら、「非のうちどころがないと思っていた友人が、他人の妻と恋に落ちるなんていう悪い趣味を持っているとわかって、ホッとしましたよ。かれのとりすました態度にいいかげんうんざりしていたもんでね」小男の顔には、ヴァル・アローンでかれらがポレン王妃と話しているときにガリオンがはじめて目撃した、あの苦々しい、自嘲的な表情が浮かんでいた。
「男爵はそのことを知っているんですか?」ダーニクが聞いた。
「もちろん。そこがまたかれらを感傷的にしてしまう原因なのだ。かつて、平均的なアレンド人よりもさらに愚かな騎士がいて、その男がこの三角関係のことで悪い冗談を言った。男爵はすぐにその男に決闘を申し込み、槍で刺し殺してしまったそうだ。それからというもの、この恋愛のもつれを茶化すような者はほとんどいなくなったということだ」
「それでも不名誉なことに変わりはありませんよ」ダーニクが言った。
「かれらの行動を責めるわけにはいかないわ、ダーニク」ポルおばさんはきっぱりと言った。
「それ以上のことがなかったのなら、恥ずべきことはないはずよ」
「高貴なひとびとは、そもそもそういう感情を抱くこと自体許せないはずですよ」ダーニクは食い下がった。
「彼女を言い負かそうとしても無駄だぞ、ダーニク」ミスター・ウルフは鍛冶屋に言った。
「ポルガラはかなり長いあいだワサイト・アレンド人とつき合っていたんだから。かれらはミンブレイト人と同じくらい、いやそれ以上に始末が悪い。あんな感傷につき合っていたらそれこそ体がむずがゆくなりそうだ。幸運にもその感傷癖とて彼女の良識を完全に駄目にしてしまうまでにはいたらなかったらしい。ポルが少女趣味や感傷にふけったりするのは、ごくたまのことだ。そういう発作の時期をのぞけば、ほとんど言うところはないのだが」
「おとうさんの発作にくらべれば、わたしのなんてまだ有益なものよ」ポルおばさんは刺々しく言った。「わたしの記憶によると、おとうさんはあの何年間というもの、カマールの波止場にあるいかがわしい酒場で飲んだくれてたわ。それからマラゴーの堕落した女たちとよろしくやって浮かれていた時期もあったわね。まあ、ああいう経験がおとうさんの道徳観念の幅を大いに広げてくれたんでしょうけど」
ミスター・ウルフは居心地悪そうに咳き込むと、目をそらした。
かれらの後方では、マンドラレンがふたたび馬に乗り、丘を駆けおりはじめていた。婦人はアーチ道に立ち、赤いマントを風にはためかせながらかれが去っていくのをながめていた。
五日間におよぶ旅のあと、かれらはアレンディアとトルネドラの境界線であるアレンド川にたどり着いた。南に行くにしたがって天気はよくなり、この日の朝かれらが川を見下ろす丘に着くころには、ほとんど春のような暖かさになっていた。太陽はポカポカと輝き、ふわふわした綿雲が、さわやかな風に乗って飛んでいく。
「ボー・ミンブルにいく公道はそこの左側で枝別れするんです」マンドラレンが言った。
「ああ、そうだな」ウルフはそれに答えた。「さあ、川べりの木立に下りて、もうすこし身だしなみを整えるとしよう。ボー・ミンブルでは身なりが大いに重要視されるから、浮浪者と間違われないようにしないと」
岐路には茶色の服に頭巾をかぶった三人の男がひっそりと立っていた。顔を伏せ、懇願するように両手を差し出している。ミスター・ウルフは馬の歩調をゆるめ、かれらに近づいた。それから短く言葉を交わすと、三人に一枚ずつコインを与えた。
「あのひとたちは誰?」ガリオンが聞いた。
「マー・テリンから来た修道士さ」シルクが答えた。
「マー・テリンって何なの?」
「かつてマラゴーがあった、トルネドラ南東部の修道院のことさ。修道士たちはマラグ人の魂を慰めようとしているんだ」
ミスター・ウルフの合図を受け、かれらは慎ましい三人の修道士のわきをそのまま通りすぎた。「かれらの話では、ここ二週間マーゴ人はここを通っていないということだ」
「かれらの話を信じていいんですか?」ヘターが聞いた。
「たぶん。修道士は何人にも嘘はつかない」
「じゃあ、かれらはあそこを通る誰にでも、われわれが通ったことをしゃべるわけですか?」バラクが質問した。
ウルフはうなずいて、「相手が誰であれ、質問を受ければ答えるだろうな」
「融通のきかない習性だな」バラクは不機嫌に言った。
ミスター・ウルフは肩をすくめると、川べりの木立の中に入っていった。「ここがいいだろう」かれは草の生えた空き地で馬を下りながら言った。他の仲間が馬から下りるあいだ、かれはその場でじっと待っていた。「よし、これからボー・ミンブルに向かう。あそこでは言葉づかいに十分注意するように。ミンブレイト人は非常に感じやすい。ちょっとした言葉が侮辱として受け取られることがままある」
「フルラクにもらった白いローブを着たほうがいいと思うけど、おとうさん」ポルおばさんは荷物のひとつを開けながら口をはさんだ。
「ポル、頼むから邪魔をしないでくれ、わしは今説明をしている最中なんだぞ」
「みんなもう十分聞いてるわよ。おとうさんの説明はだいたいしつこすぎるのよ」彼女は白いローブを取り出し、批判的な目でそれを眺めた。「もっとていねいに畳んでくれなきゃ。しわが入っちゃったじゃないの」
「わしはそんなものを着るつもりはないぞ」かれはきっぱりと言った。
「いいえ、着るのよ、おとうさん」彼女は今度は優しく言った。「そのことで口論したら、一時間も二時間もかかるでしょうけど、どうせ最後には着ることになるんだから。時間とエネルギーを節約したほうがいいんじゃない?」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」かれはブツブツと言った。
「たいていのことは馬鹿馬鹿しいものよ、おとうさん。アレンド人のことはわたしのほうがよく知ってるわ。それらしく振る舞えば、より多くの敬意を受けられるのよ。マンドラレンとヘターとバラクはよろいかぶとをつけるでしょ、ダーニクとシルクとガリオンはセンダリアでフルラクにもらった胴着を着ればいいわね。わたしは青のガウンを着るわ。そしておとうさんは白いローブ。これは命令よ」
「なんだと? わしの話も聞け、ポルガラ――」
「騒がないで、おとうさん」彼女はガリオンの青い胴着を調べながら、無関心に言った。
ウルフは顔色を曇らせ、けわしく目をむいている。
「まだ他に言いたいことでも?」彼女はまっすぐにかれの顔を見ながら聞いた。
ミスター・ウルフはこれ以上言っても無駄だと悟った。
「なかなか賢明ですな」それを見てシルクが言った。
一時間後、かれらは明るい空の下、公道をボー・ミンブルをめざしていた。しんがりのマンドラレンは、ふたたびよろいかぶと一式を身につけ、槍の先に青と銀のまざった旗をなびかせている。そのすぐあとであくせくと馬を走らせているのは、ピカピカの鎖かたびらと黒い熊革のケープをまとったバラクだ。ポルおばさんの指示で、もつれた赤髭をきれいにとかしつけ、髪の毛まで編みなおしている。白いローブを着たミスター・ウルフは苦々しい顔で馬に乗り、何やらブツブツとつぶやいている。そのわきでは、ポルおばさんが毛皮で裏打ちした短いケープを着て、豊かな黒髪に青いサテンの頭飾りを戴きながらとりすました顔で馬に揺られている。ガリオンとダーニクは美しい服装が居心地悪そうだが、シルクは胴着と黒いベルベットの帽子を着て意気揚々としている。ヘターは最終的な正装の妥協案として、いつも頭髪につけている革ひもを銀箔の輪に変えていた。
かれらが道を進んでいくと、農奴ばかりか、たまたま居合わせた騎士までがわきに寄ってうやうやしく会釈した。気候は温暖で、道路の状態も良く、馬たちもすこぶる調子がいい。こうして、午後の半ばには、かれらはボー・ミンブルの門に向かって傾斜する平野を眼下にのぞみながら高い丘の上に立っていた。
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10[#「10」は縦中横]
ミンブレイト・アレンドの都は、きらきらと波光きらめく川沿いに山のようにそびえ立っていた。高くて重厚な城壁。その上に載った堂々たる狭間胸壁。城壁の内側には巨大な塔、細長い尖塔が顔をのぞかせている。塔のてっぺんには鮮やかな旗が翻り、これらすべてのものが午後の日差しを浴びて黄金色に輝いていた。
「見よ、これがボー・ミンブルぞ」マンドラレンは誇らしげに言った。「都の中の都ぞ。あの岩の上でアンガラクの軍勢が打ち砕かれ、後退し、また引き返しては打ち砕かれた。あの要塞都市の中にこそアレンディアの魂と名誉があるのだ。〈邪悪な者〉の力をもってしてもこれに打ち勝つことはかなうまい」
「わしらは前にもここに来たことがあるのだよ、マンドラレン」ミスター・ウルフは不機嫌そうに言った。
「失礼よ、おとうさん」ポルおばさんは父親に言うと、次いでマンドラレンのほうを向き、なんと驚いたことに、ガリオンが今まで彼女の口から聞いたことがないような言葉使いで話しかけた。「マンドラレンどの、さっそく国王のところに案内してくださいませぬか? ある緊急切実な用件で、陛下と相談しなくてはならぬゆえ」彼女は少しもはにかむことなく、まるで古風な儀礼の言葉が自然に口から出てくるかのようにしゃべった。「貴公は剛勇無双の騎士ゆえ、わたくしたちの身は貴公の保護にゆだねましょう」
一瞬、マンドラレンは呆気に取られていたが、すぐにガチャガチャと音をたてながら軍馬からおりると、彼女の前にひざまずいた。「親愛なるレディ・ポルガラ」かれはポルに対する敬愛――いや崇拝と言ったほうがいいかもしれない――に声を震わせた。「承知いたしました。コロダリン王のところまで無事お連れいたしましょう。王に謁見するあなたの権利に口出しする者がいれば、わたしめが力をもってその者に自分の愚かさを思い知らさせてみせましょう」
ポルおばさんが励ますように笑いかけると、かれはカンと大きな音を立てながら鞍に飛び乗り、滑るような速足で馬を走らせた。これから戦いに臨むという意欲が、きびきびした一挙一動にはっきりと現われていた。
「あの元気は一体どういうことだ?」ウルフが言った。
「マンドラレンは気分を紛らわしてくれるものが欲しかったのよ。この二、三日というもの、かれはいつもの元気がなかったでしょ」
都に近づくにつれ、ガリオンは巨大な塀の表面に、アンガラクのいしゆみがその堅い岩肌に向けて重い石を放ったときの傷がまだ無数に残っているのを発見した。その上にそびえる狭間胸壁も、雨と降るはがね尻の弓矢の攻撃で、削られたり、穴をあけられたりしていた。都に通じる岩のアーチ道に達すると、その想像を絶する壁の厚みが明らかになった。鉄張りの門もまたすばらしく堂々とした構えを見せている。かれらはカタカタと音をたてながらアーチ道を抜け、細い曲がりくねった道に入っていった。道行くひとびとの大半は平民らしく、かれらが通ると素早くわきに退いた。男は灰褐色のチュニックを着て、女はつぎ当てのついたドレスを着ているが、表情はどれも生気がなく、無関心だ。
「このひとたちはぼくたちにあんまり興味がないみたいだね」ガリオンはダーニクにそっと言った。
「平民と高貴なひとびともお互いに関心を持ち合っているようには見えないな」ダーニクが言った。「隣り合わせに暮らしていながら、お互いのことは何も知らない。たぶんそのあたりにアレンディアの問題があるんだろうな」
ガリオンは真剣な顔でうなずいた。
平民はたしかに無関心だったが、王宮の貴族たちは大いに好奇心をかきたてられているようだった。かれらが都入りしたという知らせは、あきらかにかれらより先に細い路地を通り抜けたらしく、窓という窓、欄干という欄干から鮮やかな色の服を着たひとびとが顔をのぞかせてかれらを迎えた。
「歩をゆるめたまえ、騎士どの」かれらがカタカタと音をたてながら王宮の前の大きな広場に入ろうとしたとき、ピカピカの鎖かたびらの上に黒いベルベットの上衣を羽織った黒髪、黒髭の男が欄干からマンドラレンに向かって呼びかけた。「顔を確かめたい、面頬を上げられよ」
マンドラレンは閉まった門の前で驚いたように立ち止まると、面頬を上げた。「この無礼な行為はどういうわけだ?」かれは聞いた。「わたしは、世に名だたるボー・マンドール男爵、マンドラレンであるぞ。楯にある紋章が目に入らぬか」
「他人の紋章をつけることなど、誰にもできよう」頭上の男は蔑むように言った。
マンドラレンは険しい顔をした。「あえてわたしの真似をしようとした者など誓っていないと言っても、おぬしは耳を貸さないというのだな?」かれは凄味のある声で聞いた。
「アンドリグ卿」欄干にいるもうひとりの騎士が黒髪の男に言った。「これはほんとうにマンドラレン卿ですぞ。去年わたしは大馬上試合でかれと会ったのです。かれと遣り合ったさいにわたしは片方の肩を骨折し、おまけに耳鳴りという代償まで支払わされ、今も治っていないというありさまだ」
「そうか。ヘルバージン卿、おぬしがそう言うのなら、この者がボー・マンドールの私生児であることを認めてもよかろう」
「ここ数日中に、この落としまえをつけないといけないな」バラクはマンドラレンにそっと耳打ちした。
「いかにも」マンドラレンが答えた。
「それはそうと、おぬしといっしょに入城しようとしているこの者たちはいったい何者だ、騎士どの?」アンドリグはたずねた。「わたしはよそ者に門を開くつもりはないぞ」
マンドラレンは鞍の上できりっと姿勢を正した。「控え!」かれは都じゅうに響きわたるような声で言った。「おぬしにこの上ない栄誉をもたらしてやろうというのがわからぬか。宮廷の門戸を大きく開き、皆に頭を下げる準備をさせるのだ。おぬしが目にしているのは永遠のひと=A魔術師ベルガラスのやんごとなきお顔であるぞ。そしてここにいらっしゃる高貴な顔貌のお方は、師の娘ご、レディ・ポルガラぞ。おふたりはアレンディア国王と諸問題を検討されるためにここボー・ミンブルにお出でになったのだ」
「ちょっとやり過ぎじゃない?」ガリオンはポルおばさんにそっとつぶやいた。
「そういう習慣なのよ。かれらの注意を惹きたかったら、すこし大袈裟にしないと」
「いったい誰がこの男がベルガラスだと言ったのだ?」アンドリグは口もとにかすかな冷笑を浮かべながら聞いた。「どこの馬の骨ともわからない浮浪者の前にひざをつくつもりなど毛頭ないわい」
「わたしの言葉が信用できぬと言うのだな、騎士どの?」マンドラレンの声は気味が悪いほど静かだった。「では、ここに来てその疑問が正しいかどうか自分の目で確かめたらどうだ? それとも、犬のように欄干のうしろに尻込みしたまま、高貴な方たちにキャンキャン吠えたてるほうがお好みか?」
「いいぞ、マンドラレン」バラクは感心して言った。
マンドラレンは口を閉じたまま大男にニヤリと笑いかけた。
「このままではどうにも身動きが取れないな」ミスター・ウルフがブツブツと言った。「コロダリンに会いにいくためには、まずこの懐疑論者に何か証拠を見せてやらんといけないらしい」かれは鞍からすべり下りると、どこか旅の途中で拾ってきた一本の小枝を馬の尻尾から用心深くはがした。それから大股で広場の中央まで歩いていくと、白いローブを輝かせながらその場にすっくと立った。「騎士どの」かれはアンドリグに向かって静かに呼びかけた。「おまえは用心深い人間らしい。それは確かに大切な素質だが、おまえの場合はすこし度が過ぎるようだな」
「わたしは子供ではないぞ、ご老人」黒髪の騎士は、侮辱ともとれる口調で言った。「わたしはこの目にうつるものだけを信じる」
「そんなに疑い深い心を持っていては、さぞかしわびしいことだろう」ウルフはそう言うとその場にかがみ、手に持っていた小枝を足もとの大きなみかげ石の敷石のあいだに差し込んだ。それから一歩後退し、不思議と穏やかな顔で枝の上に手をかざした。「おまえの目を楽しませてやろう、アンドリグ卿。ものを信じる心を取り戻させてやる。しかと見ておけよ」かれはそう言うと、あいまいな言葉を一言つぶやいた。ガリオンの耳にははっきりと聞こえなかったが、その言葉はすっかり馴染みとなった例のうねりとかすかな轟音をひき起こした。
最初は何事も起こらないように見えた。だが、次の瞬間、二枚の敷石が音を立てて盛り上がってきたかと思うと、小枝は見るみるうちに太くなり、ミスター・ウルフが差し出した手に向かって伸びはじめたのだ。小枝が伸び、さらにそこから細い枝が出てくると、宮廷の塀付近にいたひとびとはいっせいに息をのんだ。ウルフが手をさらに高く上げると、枝はかれの手の動きにしたがってだんだんと大きくなり、細枝もがぜん広がりはじめた。そして今、小枝は一本の若木となり、なおも伸びつづけている。一枚の敷石が音をたてて砕けた。
ひとびとが畏敬の念に打たれて食い入るようにその木を見つめると、あたりは完全な静寂に包まれた。ミスター・ウルフは両腕を差し出し、掌が上を向くまでその腕をひねった。もう一度かれがつぶやくと、今度は細枝の先がふくらみ、つぼみをつけはじめた。やがて若木は花を咲かせた。やわらかなピンクと白がまざった花を。
「リンゴ、だったな、ポル?」ウルフは肩ごしに聞いた。
「そうらしいわ、おとうさん」
かれはポンポンとやさしく若木をたたくと、すでに顔面を蒼白にし、ガクガク震えながらひざまずいている黒髪の男を振り返った。「さあ、アンドリグ卿、これで信じられるようになったかな?」
「どうかお許しを、聖なるベルガラスさま」アンドリグは声を詰まらせながら謝罪した。
ミスター・ウルフはきりっと直立したかと思うと、突然、さきほどのポルおばさんと同じくらい自然に、ミンブレイト独特のゆったりしたリズムで厳かに話しはじめた。「騎士どの、そのほうにこの木の手入れを命じよう。この木はそのほうの心に信頼と信仰を回復させた。この恩は真心をこめ、手厚く世話することで返すがいい。やがてこの木も実をつけるであろう。そのほうは実を集め、それを欲する者すべてに惜しむことなく与えるがいい。何人をも決して拒んではならぬ。それがいかに卑しい身分の者であろうとも。その木が惜しみなく与えるよう、そのほうも与えるのだ」
「お見事」ポルおばさんはそう言って賞賛した。
ウルフは彼女に片目をつぶってみせた。
「仰せのとおりにいたします、聖なるベルガラスさま」アンドリグは声を詰まらせた。「誓ってそういたします」
ミスター・ウルフは自分の馬にもどると、「あの男もこれで生涯のうちにひとつぐらいひとの役に立つことができることだろう」とつぶやいた。
この後はもう口論の必要はなかった。王宮の門がきしんだ音をたてながら開くと、かれらは宮廷の中に入り、馬からおりた。マンドラレンに率いられた一行は、ひざまずき、すすり泣きの声さえもらしている貴族たちのわきを通りすぎていった。ミスター・ウルフが通ると貴族たちはローブにふれようと手を伸ばした。ぞくぞくと集まってくる群衆を尻目に、かれらはマンドラレンの後からタペストリーを敷きつめた広い廊下を進んだ。謁見の間に通ずるドアが開かれ、かれらは中に入った。
アレンディアの謁見の間は、彫刻をほどこした控え壁が壁面にそびえる、丸天井造りの素晴らしく大きな部屋だった。控え壁のあいだには細くて丈の高い窓が並んでいる。窓枠にはまったステンドグラスから流れ込む太陽の光は、さながら宝石のようだった。床は光沢のある大理石。はるか向こうに見える、じゅうたんを敷いた石台の上に、アレンディアの二人がけの王座が深い紫のドレープを背景にどっしりと横たわっている。ドレープをかけた壁には、二十代にわたってアレンディア王室に受け継がれてきた重々しい武器の数々がずらりと並んでいる。槍、棍棒、そして人間よりも丈のある巨大な剣といった品々が、はるか昔の王たちの、ズタズタになった戦旗のあいだにかかっていた。
アレンディアのコロダリンは病弱そうな若者で、金の刺繍が入った紫のローブをまとい、重くてしようがないといった様子で大きな黄金の冠を頭に載せていた。二人がけ王座のかれのとなりには、色白の美しい王妃が座っていた。二人は、ミスター・ウルフを囲む群衆が王座への広い階段にたどりつく様子を、気遣わしげに見守っていた。
「国王陛下」マンドラレンは片方の膝をつきながら言った。「アルダーの弟子にして西部王国が有史以来の指示を仰いできた補佐役、聖なるベルガラスさまをお連れいたしました」
「王はわしが誰なのかご存知だよ、マンドラレン」ミスター・ウルフは言った。
かれは前に進み出ると、簡単にお辞儀をして、「やあ、コロダリンにマヤセラーナ」と挨拶した。「もっと早く面識を得る機会をつくればよかったのだが」
「お目にかかれて光栄です、ベルガラスさま」若い王はか弱い体に似合わず、朗々とした声で答えた。
「父から常々あなたさまのお噂を聞かされておりました」次に王妃が言った。
「父上とは仲のいい友人だった。ところで、娘のポルガラを紹介しよう」
「おお、偉大なるレディ・ポルガラ」王はうやうやしく会釈しながらこれに答えた。「あなたのお力のほどは世界中の知るところですが、男たちはあなたの美しさを讃えるのをうっかり忘れているようですね」
「あなたとは仲よくなれそうだわ」ポルおばさんはかれにやさしく微笑みかけながら答えた。
「全女性の鑑《かがみ》を目《ま》の当たりにして、わたくしの心はうち震えていますわ」王妃が言った。
ポルおばさんは思いやり深く王妃を見つめると、深刻な調子で、「ふたりだけで、しかも今すぐ話しておかなければならないことがあるのよ、マヤセラーナ」
王妃は困惑の表情を浮かべた。
ミスター・ウルフが他のメンバーを紹介すると、かれらはひとりひとり王に頭を下げた。
「ようこそ、皆さん」コロダリンは言った。「このように立派なひとたちをお迎えして、わたしのちっぱけな宮廷はすっかり輝きが失せてしまったようだ」
「時間があまりないのだ、コロダリン」ミスター・ウルフが口をはさんだ。「アレンディア君主の礼儀作法には世界中が驚嘆している。わしとて、宮廷の誇りである伝統的なしきたりを省略することで、きみや美しい后の気持ちを傷つけたりしたくはないのだが、きみにおりいって話しておかなければならない情報があるのでな。ことは急を要している」
「では、あなたの言われるままにいたしましょう」王はそう言うと王座から立ち上がった。
「無礼とは思うが、諸君」かれは勢揃いしている貴族に向かって言った。「アレンディア王室代々にわたるわれらが友人は、内密かつ緊急の知らせをお持ちだ。師の指示を仰ぐあいだ、しばらく席をはずさせてくれたまえ。さして時間は取らぬと思う」
「ポルガラ」ミスター・ウルフは娘を呼んだ。
「先に行っててちょうだい、おとうさん。今すぐマヤセラーナと話しておかなければならないことがあるのよ。彼女にとってはとても重要な問題なの」
「あとに回せないのか?」
「ええ、おとうさん、できないわ」彼女はそう言うと、王妃の手をとり、ふたり一緒にその場を離れた。ミスター・ウルフはしばらく彼女を見送っていたが、すぐに肩をすくめると、自分もコロダリンと連れだって謁見の間を辞した。
「まったくもって無礼な」貧弱な白ひげを生やした老廷臣が不満をぶちまけた。
「急がざるをえないのです、大臣閣下」マンドラレンはかれに言った。「偉大なるベルガラスどのがほのめかしておられたように、西部諸王国の存命はわれらが使命を全うするかどうかにかかっているのです。間もなくわれらの〈宿敵〉がどこかで復活するかもしれません。恐らく、そう遠くない将来、ミンブレイトの騎士はふたたび巨大な戦争の矢面《やおもて》に立たされるはずです」
「そういう知らせを伝える話し合いなら大歓迎だ」白髪の老人は言った。「わしはこれから先、もう戦争に参加することもなく、老いさらばえて死んでいくのではないかと不安に思っていたのだ。まだ活気を失わず、八十年という歳月をへても腕が衰えずにいることを偉大なる神、チャルダンに感謝しなくては」
ガリオンはある問題と格闘するために、自ら部屋の隅に退いた。あれやこれやと事件が続いたせいで、気がつくと、かれは気の進まない任務への心構えもすまないうちにコロダリン王の宮廷に入廷してしまっていた。例の事を王の耳に入れるとレルドリンに約束したものの、どうやって切り出していいものやら、かれにはまったくわからなかった。かれはアレンディア王室の大袈裟な礼儀作法に、すっかり萎縮していた。ここはヴァル・アローンにあるアンヘグ王の素朴で親しみやすい王室とはまったく違っていたし、センダーにあるフルラク王の気のおけない王室とも違っていた。ここはボー・ミンブルなのだ。チェレクでジャーヴィク卿のことを密告したような具合に、アストゥリアの煽動者のグループが謀叛を起こそうとしていることを密告するなど、まったく不可能なように思えた。
突然、チェレクでの事件がかれの脳裏に鮮明によみがえった。あのときの状況と今回の状況があまりにも似通っているので、ふたつの事件が実は精巧につくりあげられたゲームなのではないか、という気がしてきた。ボード上の駒の動きはほとんど瓜ふたつ、そしてどちらの事件においてもかれは過激な謀叛が一国の王の命を奪い、王国を滅ぼしてしまうのを食い止めなくてはならない、という非常に困難な立場におかれているのだ。かれは自分の人生のすべてが、巨大なゲーム・ボードの上でまったく同じパターンを繰り返しながら、おそらく永遠に駒を操りつづけるであろう顔のないふたりのプレーヤーの手中におさめられているような気がして、自分がひどく無力に感じられた。プレーヤーはしかし、わざと問題を投げかけておいて、かれに解答を見つけ出させるのを楽しんでいるようにさえ見える。
それから三十分後、ミスター・ウルフとともに謁見の間にもどってきたコロダリン王は、ガクガクと震え、顔色をコントロールするのもままならないといった様子だった。「待たせたな、諸君。わたしは今しがた大変気がかりな知らせを受けたところだ。がしかし、今のところは心配ごとはわきに置き、この歴史に残る訪問を祝おうと思う。音楽家たちを召集し、宴の用意を整えてくれ」
ちょうどそのとき、ドア付近がざわざわと騒がしくなったかと思うと、黒いローブをきた男がよろいかぶとに身を固めた六人のミンブレイト騎士をすぐうしろに従えながら部屋に入ってきた。騎士たちはいぶかしそうに目をそばめ、隊長の行く手をさえぎる者があれば誰とでも戦うぞといわんばかりに、剣の柄に手をかけている。ローブを着た男が近づいてくるにつれ、かど立った目と傷あとのある頬がガリオンの目に飛び込んできた。男はマーゴ人だった。
バラクはヘターの腕をがっしりとつかんだ。
そのマーゴ人が慌てて身仕度を整えてきたのは誰の目にもあきらかで、謁見の間まで大急ぎで来たためか、かすかに息をきらしているようだった。「国王陛下」かれはコロダリンに深々とお辞儀をしながら、しゃがれ声で言った。「宮廷に来客があったということをたった今耳にしたもので、わが国王、タウル・ウルガスに代わって客人に挨拶申し上げようと、慌てて参上したしだいでございます」
コロダリンの顔は見るみるうちにこわばってきた。「予はそのほうを招んだおぼえはないぞ、ナチャク」
「やはり、心配していたとおりだ」マーゴ人は言った。「ここにいる使者たちがアレンディア王室とクトル・マーゴス王室の友好にひびを入れようとして、わが民族の悪口を言ったのですね。陛下がわたくしに弁解の余地も与えずに、そのような中傷に耳をお貸しになられるとは、まことに遺憾です。どうしてこれが公正な行為と言えましょう、陛下?」
「この男は?」ミスター・ウルフはコロダリンに訊ねた。
「ナチャクです。クトル・マーゴス大使の。紹介しましょうか、長老どの?」
「その必要はあるまい」ミスター・ウルフは冷たく言った。「この世にいるマーゴ人でわしの名を知らぬ者などいない。クトル・マーゴスの母親たちは泣いている子供をおとなしくさせるために、わしの名を口にするというぐらいだからな」
「あいにくだが、わたしは子供ではないのだ、ご老人」ナチャクはせせら笑った。「きさまのことなど怖くもなんともない」
「そんなことを言うとあとで後悔するぞ」シルクが言った。
ガリオンはそのマーゴ人の名前を聞くと、まるで頭に一撃を食らったようなショックを受けた。だが、レルドリンとその仲間を悪の道に引き入れた男の、傷跡のある顔を見ているうちに、ガリオンはプレーヤーがいまいちど難しい位置に駒を進め、この勝負の勝敗を決定する鍵がふたたびその掌中に握られたことを理解した。
「きさま、陛下にどんな嘘をついた?」ナチャクがミスター・ウルフに聞いている。
「嘘ではない、ナチャク」ウルフは答えた。「事実を言ったまでだ。それで十分こと足りる」
「とんでもない、陛下」ナチャクは王に宣言した。「わたしは断固抗議しますよ。この男がマーゴ人を嫌っていることは周知の事実じゃないですか。どうしてこの男がわが民族に対する偏見を植えつけるのを許すんですか?」
「かれは『ありませぬか』とか『お許しになる』という敬語を忘れてしまったらしいな」シルクは意地わるく言った。
「興奮してるのさ」と、バラク。「マーゴ人は興奮すると見境がなくなるからな。悪い癖だよ」
「きさま、アローン人だな!」ナチャクが声をあげた。
「そのとおりだ、マーゴ野郎」バラクは冷たく言った。かれはまだヘターの腕をつかんでいる。
ナチャクはかれらの顔を眺めていたが、ヘターを見ると、まるでその顔がはじめて視界に入ったかのように目を大きく見開いた。かれがヘターの憎悪に満ちた視線からじりじりとあとずさると、六人の騎士がかばうようにそのまわりを囲んだ。「陛下」かれはあえぎながら言った。
「この男はアルガリアの人殺し、ヘターですよ。こいつを逮捕することを要望します」
「要望だと、ナチャク?」国王は怒りに目をぎらつかせながら聞いた。「きさまはアレンディアの宮廷でこのわたしに命令しようと言うのか?」
「どうかお許しを、陛下」ナチャクは即座に陳謝した。「この獣の姿に動転してわれを忘れてしまったのです」
「今のうちに退散したほうが身のためだぞ、ナチャク」ミスター・ウルフが言った。「マーゴ人がこんなに大勢のアローン人に囲まれながら、たったひとりでいるなんてあまり得策とは言えないだろう。こういう状況のもとでは概してもめごとが起こるものだ」
「おじいさん」ガリオンは切羽つまって言った。なぜだかはっきりとはわからないが、打ち明けるのは今だと悟ったのだ。ナチャクを謁見の間から出してはいけない。顔のないプレーヤーはすでに最後の駒を動かした。ここでゲームを終わらせなければ。「おじいさん」かれはおなじ言葉を繰り返した。「どうしても話さなくちゃならないことがあるんだ」
「あとでだ、ガリオン」ウルフはまだ険しい目つきでマーゴ人を見ている。
「大事なことなんだよ、おじいさん。すごく大事なことなんだ」
ミスター・ウルフはぴしゃりとはねつけようとして振り向いたが、その瞬間なにかを見てとった――この部屋にいる他の人間にはけっして見えない何かを。かれは驚いて目を見開いた。
「わかった、ガリオン」かれは不思議と静かな声で言った。「言ってみろ」
「ある男たちがアレンディア国王を殺そうとしてるんだ。ナチャクもその一味だよ」ガリオンが自分でも驚くほど大きな声でそう言うと、謁見の間は大きな静寂に包まれた。
ナチャクは顔を青くして思わず剣の柄に手を伸ばしたが、すぐにその場に凍りついた。ガリオンは、自分のうしろにバラクがぬーっと現われ、死神のように革の黒衣をまとったヘターがしっかりとわきをかためたことを一瞬のうちに悟った。ナチャクはあとずさると、はがねに身を包んだ騎士たちにすばやく合図を送った。騎士はすぐにナチャクをかばうように円陣をつくり、武器に手をかけた。「これ以上こんな中傷を聞くのはごめんだ」ナチャクは叫んだ。
「わたしはそのほうに退いていいと言ったおぼえはないぞ、ナチャク」コロダリンは厳しい口調で言った。「今しばらくここにいてもらおう」年若の王は険しい顔でマーゴ人をにらみつけている。かれはやがてガリオンの方を向くと、「話のつづきを聞くとしよう。正直に話してみなさい。それを言うと誰かから仕返しを受けるのではなどという心配はしなくてもよろしい」
ガリオンは大きく息を吸い込むと、用心深く話しはじめた。「細かいことまでは知りません、陛下。ぼくもたまたま知ったのです」
「話せることだけ話すがいい」王はかれに言った。
「くわしく言うとつまりこういうことなんです、陛下。今度の夏、陛下がボー・アスターへ旅行なさるとき、ある男たちのグループが街道のどこかで陛下を殺そうとしているんです」
「アストゥリアの反逆者に違いありません」白髪の廷臣が王に提言した。
「かれらは自分たちのことを愛国者と呼んでいます」ガリオンは答えた。
「それはそうだろう」廷臣はフンと鼻を鳴らした。
「そのような企てはさして珍しくもないのだ」王は言った。「とりあえず、そやつらの謀叛に備えるよう取り計らおう。よく報告してくれた、礼を言うぞ」
「まだつづきがあるんです、陛下」ガリオンは言った。「陛下を襲うとき、かれらはトルネドラ軍の軍服を着るつもりです」
シルクがヒューッと口笛を鳴らした。
「それもこれも陛下の家来に陛下がトルネドラ人に殺されたと信じこませるためです」ガリオンはなおも言いつのった。「かれらはミンブルがすぐに帝国に宣戦布告するだろうと思っています。そして布告が出されたとたんに軍隊が突撃してくるはずだと。やがて国じゅうが戦争に巻き込まれたとき、かれらはアストゥリアはもうアレンディアの属国ではないと宣言するつもりなのです。そうなれば他のアストゥリア人たちも自分たちに従うはずだとかれらは信じています」
「なるほど」王は思案ありげに言った。「よくできた計画だ。血走った目のアストゥリア人にしては、いささか巧妙すぎるような感じもするが、ところで、タウル・ウルガスの使者とこの反逆にどんなつながりがあるのかまだ一言の説明もないようだが」
「すべてはかれの計画です、陛下。詳しい指示も、トルネドラの軍服を買ったり他の仲間を引き入れるための金貨もかれが与えたのです」
「嘘だ!」ナチャクは叫んだ。
「弁解ならあとで聞くぞ、ナチャク」王はかれに言った。それからガリオンの顔を見て、「もっと詳しい話を聞くとしよう。どうしておぬしはこのことを知ったのだ?」
「言えません、陛下」ガリオンはつらそうに答えた。「言わないと約束したんです。かれらのひとりが友情の証《あかし》としてぼくにそのことを話してくれました。どれほどぼくを信用しているかを示すためにぼくの手に自分の命をゆだねたんです。かれを裏切るわけにはいきません」
「おぬしが誠実な少年だということはよくわかったぞ、ガリオン」王はそう言ってかれを褒めた。「だが、このマーゴ人の使者に関する告発は、それよりもっと重大なことなのだ。約束を破らずにどうしておぬしはこれを実証することができよう?」
ガリオンはもどかしそうに頭を振った。
「これは深刻な問題ですよ、陛下」ナチャクが言った。「わたしはタウル・ウルガスの代理人です。そしてこの嘘つきの小僧はベルガラスの手先。かれがこのように突飛な、根拠のない証言をしたのも、わたしの信用を傷つけ、アレンディア王室とクトル・マーゴス王室を仲たがいさせようという魂胆があるからに違いありません。こんな非難を受け入れてはいけません。この小僧に想像上の反逆者の身元を明かさせるべきです。さもなくば、嘘をついたと白状させるべきです」
「かれは誓いをたてたのだ、ナチャク」王は言った。
「それは当人の弁ですよ、陛下」ナチャクは鼻を鳴らした。「かれを試してみましょう。一時間も拷問にかければ、ペラペラと白状するでしょう」
「わたしは拷問によって得た自白は信用しないことにしている」コロダリンは言った。
「もしさしつかえないようでしたら、国王陛下」マンドラレンが口をはさんだ。「このわたくしに問題を解くお手伝いができるかもしれません」
ガリオンはびくっとしてかれの顔を見た。マンドラレンはレルドリンを知っている。かれなら難なく真相を見抜いてしまうだろう。しかもマンドラレンはミンブレイト人で、コロダリンはかれの王なのだ。かれには沈黙を守らなくてはいけない理由がないどころか、話す義務があるのだ。
「マンドラレン卿」国王は厳めしく言った。「おぬしの忠誠心と責任感はつとに知られている。あるいはおぬしならその反逆者の正体を明らかにできるのではないか?」
その問いは宙に浮いてしまった。
「いいえ、陛下」マンドラレンはきっぱりと答えた。「しかし、わたしはガリオンが正直な、信用に値する少年だということを知っています。わたしがかれの言葉を保証します」
「疑わしいもんだ」ナチャクが言った。「あの小僧は嘘をついてるに違いありません、さあ、どうやって決着をつけるんですか?」
「この少年はわたしの仲間です」マンドラレンは先をつづけた。「かれの誓いを破らせるようなことを言うわけにはいきません。わたしにとってかれの名誉は自分の名誉とおなじぐらい尊いものですから。しかしながら、わが国の法によれば、証明することのできない問題は武力で審理することになっているはず。わたしがこの少年の代わりに戦いましょう。皆さんの前で、わたしは声を大にして言いたい。このナチャクという男はいろいろな人間を仲間に引き入れてわが国王を殺害しようとしている薄汚い悪党です」かれははがねの籠手《こて》をはずすと床にほうり投げた。それがぴかぴかに磨きあげられた床に衝突した瞬間、部屋の中に雷のような大音が響きわたった。「わたしの挑戦を受けてみよ、ナチャク」マンドラレンは冷静に言った。「さもなくば、取り巻きの騎士の中からおぬしの代わりをひとり出せ。おぬしの身か代理の身にその悪事のほどを思い知らせてやろう」
ナチャクはまずはがねの籠手を、次いで目の前で居丈高に立ちはだかっている大柄な騎士をながめた。かれはそわそわと唇をなめながら謁見の間をぐるりと見回した。マンドラレンをのぞけば、部屋にいるミンブル人の貴族で武装をしている者はひとりもいない。ナチャクはにわかにすてばちな気分になって目をそばめた。「そいつを殺せ!」自分を取り囲んでいる六人の騎士に向かってどなった。
騎士たちは突然のことに驚き、一瞬ためらいの表情を見せた。
「殺すんだ!」ナチャクはなおも言った。「そいつの命を取った者には金貨を千枚やるぞ!」
この言葉を聞いたとたん、六人の騎士はふだんの顔色をとり戻した。かれらは一糸乱れぬ動作で剣を抜くと、マンドラレンに向けて楯を掲げながら素早く広がった。貴族やその夫人は突然の事態に驚きのあえぎや叫び声をあげながら、われ先に部屋の隅に退いた。
「これはいったいなんの真似だ?」マンドラレンは騎士たちに言った。「法にそむいて陛下の前で剣を抜いてしまうほど、きさまたちはこのマーゴ人と金貨に夢中になっているのか?」
だが騎士たちはかれの言葉などものともせずに、じりじりと威圧するように前進してくる。
「己が身を守るのだ、マンドラレン」コロダリンは王座から半ば立ち上がりながら言った。
「法のことなど気にしなくてよい」
その言葉を聞くまでもなく、バラクはすでに行動を開始していた。マンドラレンが謁見の間に楯を持ってこなかったことを見てとると、この赤ひげの大男は台座の片側にずらりと並んでいる戦旗と武器の中から両手効きのだんびらを力まかせに引っぱった。「マンドラレン!」かれはそう叫ぶと、満身の力をこめ、マンドラレンの足もとめがけて石の床面にその巨大な刀身を勢いよくすべらせた。マンドラレンはよろいをつけた一方の足でその刀を止めると、かがんでそれを拾いあげた。
マンドラレンが刃渡り六フィートもある刀を両手で持ち上げたのを見ると、六人の騎士の顔色はかすかに青くなった。
バラクはニヤリと笑って一方の腰から剣を、もう一方の腰から戦闘用の斧を引き抜いた。ヘターは引き抜いたサーベルを低めにたもちながら猫のような足どりで、どぎまぎしている騎士たちのまわりをまわっている。ガリオンも無我夢中で自分の剣を抜いたが、すぐにミスター・ウルフに手首をつかまれた。「手を出すな」老人はそう言うと戦いの邪魔にならないようにかれを退かせた。
とっさに掲げられた楯にマンドラレンの最初の一撃がぶつかると、よろいの上に深紅のサーコートを着た騎士はそれ以上持ちこたえることができずにカタカタと音をたてながら十フィートも後退した。バラクはたくましい騎士の剣を斧でかわすと、こんどは逆にどっしりと重い自分の剣でその男の楯を乱打した。ヘターは緑のエナメル塗りの鎧を着た騎士を巧みにもてあそび、敵の甘い攻撃を軽くかわしながら面頬をつけたその顔の前にサーベルの刃先をちらつかせている。
はがねの柄と柄がぶつかるごとにコロダリンの謁見の問には金属音が響きわたり、刃先と刃先が合わさるごとに火花が散る。マンドラレンは二番目の敵めがけて、刀を大きく振った。かれの両手効きのだんびらは大きな弧を描きながら敵の楯をくぐり抜けた。その大きな刃先がよろいを貫通して脇腹に達した瞬間、悲鳴があがった。男は体の中心まで達した裂け目から血を噴き出しながら、くずれ落ちた。
バラクは鮮やかな動作で斧を引き戻すと、たくましい騎士のかぶとをわきからえぐった。騎士はもんどり打って倒れた。ヘターは素早い動きで牽制していたかと思うと、いきなり緑のよろいをつけた騎士の面頬の隙間にサーベルの刃先を突き刺した。サーベルが脳に達すると、騎士は体をびくっと硬直させた。
磨かれた床の上で戦闘が波のように行ったり来たりするにつれ、貴族と夫人たちはもみあう男たちに踏みつけられないよう四方八方に逃げ道を求めた。ナチャクは騎士たちが目の前で次次と倒されていくのを、愕然とした様子で眺めていた。が、いきなりきびすを返すと一目散に逃げ出した。
「ナチャクが逃げるよ!」ガリオンが叫んだが、そのときにはヘターがもうあとを追っていた。ヘターがナチャクの逃走を食い止めようと突進していくと、その殺気だった顔と血まみれのサーベルを見て廷臣と悲鳴をあげるその夫人たちは、かれのためにさっと道を開けた。ヘターが人込みの中をバタバタと走り抜けて出口を封じたときには、ナチャクはもう部屋のむこう端に到達しかけていた。かれが絶望の叫び声をあげて鞘から剣を抜いたとたん、ガリオンはかれに対して奇妙な、一抹の哀れみを覚えた。
ナチャクが剣を振り上げると、ヘターは疾風のような素早さでサーベルを動かし、相手の両肩を一回ずつ打ちつけた。ナチャクは傷ついた両腕を必死に持ちあげ、頭をかばおうとしたが、ヘターの刃先は逆をついて下方に移動した。次の瞬間、険しい顔をしたアルガー人は優雅な身のこなしでマーゴ人の体をゆっくりと突き通した。ガリオンは、サーベルの刃がほとんど真上を向きながらナチャクの肩のあいだに出てくるのを見た。ナチャクはゼイゼイとあえぎながら剣を落とし、両手でヘターの手首をつかんだが、タカ顔の男は情け容赦なく手を返し、マーゴ人の体を貫いている鋭い湾曲した刃を回転させた。ナチャクはうめき声を漏らし、激しく体を震わせた。やがて両手がヘターの手首からすべり落ち、同時にがくっと膝をついた。それから耳ざわりな溜息を漏らしたかと思うと、ヘターの刃からずるずると抜け落ちて仰向けにひっくり返った。
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ナチャクの息が絶えると、謁見の間は一瞬水を打ったような静寂に包まれた。やがて呆然と立ちつくしていたふたりの護衛が血塗られた床に武器を落として音をたてた。マンドラレンは面頬をあげると、王座の方に向き直った。「陛下」かれはうやうやしく呼びかけた。「ナチャクの魂胆はこの戦いによって証明されたものと存じます」
「いかにも」王はかれの意見に同意した。「ただ悔やまれるのは、そのほうの熱心な追及によって、われらにナチャクの策略をくわしく調べる手立てがなくなってしまったことだ」
「ここで起こったことが世間に伝われば、ナチャクの企んだ陰謀も立ち消えになるだろう」ミスター・ウルフが言った。
「おそらく」王は言った。「だがしかし、もうすこし事件の真相を追及しておけばよかった。せめて、これがナチャク自身の陰謀なのか、あるいはその背後にタウル・ウルガスが控えているのかがわかれば」かれは思案ありげに顔をしかめると、次いでその暗い思惑を振り払うかのように首を振った。「ベルガラスどの、あなたのおかげでアレンディアは危機を免れました。あなたの勇敢な仲間は長らく忘れ去られていた戦争が再発するのを防いでくれた」かれはそう言うと悲しそうな顔をして血まみれの床とそこに散らばっている死体に目を向けた。「これでは謁見の間ではなく戦場だ。アレンディアの呪いがこんなところまでに及ぶとは」かれは溜息をつくとすぐに「かたづけてくれ」と命令し、その様子を目の当たりにしなくてもいいように目をそむげた。
死体が運ばれ、磨きあげられた床の上のねばつく血だまりが速やかに拭き取られていくと、貴族やその夫人たちはヒソヒソと声をたてはじめた。
「みごとな戦いぶりだった」バラクは斧の刃をそっとこすりながらつぶやいた。
「おぬしのおかげだ、バラク卿」マンドラレンは心からそう言った。「おぬしが刀を貸してくれなければ今ごろは……」
バラクは肩をすくめて、「あれがちょうどよさそうに見えたんでな」
ヘターもまたいかにも満足そうに頬を紅潮させて仲間に加わった。
「ナチャクを殺ったときはすごかったな」バラクはそう言ってかれを褒めた。
「ずいぶん経験を積みましたからね。マーゴ人はひとたび戦いになるといつも同じ間違いを犯すんですよ。やつらの訓練方法にはどこか欠陥があるんでしょうね」
「ずいぶんと気の毒な話じゃないか、えっ?」バラクはひどく不真面目に言った。
ガリオンはかれらのそばを離れた。今しがた目撃した虐殺を自分のせいにするのは不合理だとわかっていたが、それでもなお責任を感じずにはいられなかった。かれらが壮絶な最期を遂げたのも、もとはと言えば自分の言ったことが原因なのだ。もし自分があんなことを言わなければ、かれらは今もまだ生きていられただろうに。自分の言ったことがどんなに正当なものでも――いかに必要に迫られていたとしても――罪の意識から逃れることはできなかった。今はまだ仲間と話す気にもなれない、とかれは思った。それよりなによりかれはポルおばさんと話がしたかった。だが、彼女はまだ謁見の間に戻っていなかったので、かれはたったひとりで良心の呵責とたたかわなければならなかった。
謁見の間の南側の壁に沿った控え壁のつくりだす狭間まで行くと、かれは淋しそうな顔でそこにぽつんと立ちすくした。やがて、かれより二歳くらい年上と思われる少女が堅い深紅のブロケードのガウンをサラサラ揺るがしながら、床を滑るように横切ってかれのところにやってきた。少女の髪は闇のように黒く、皮膚はクリーム色をしている。彼女の胴着は襟ぐりがひじょうに深かったので、ガリオンは彼女がおおいかぶさるように近づいてきたとき、どこに目をやっていいかわからずに当惑した。
「全アレンド人の礼に重ねて、さらにお礼を申しあげますわ、ガリオンさま」彼女はそう言ってガリオンに息をふきかけた。彼女はありとあらゆる感情を込めて声を震わせたが、どれをとってもガリオンには縁のないものだった。「あなたさまが折よくマーゴ人の企みを露呈してくださらなければ、実際わたくしたちの国王の命はどうなっていたことか」
ガリオンはそれを聞いて胸の中がぽっと暖かくなるのを感じた。「ぼくはそれほどたいしたことはしてません、お嬢さま」かれは謙遜してそう答えた。「戦ったのはぼくの仲間です」
「でも邪悪な企みが明らかになったのは、あなたの勇気ある告発があったからこそですわ。乙女たちは、どこぞの誤り導かれた友をかばって決して名を明かそうとしなかったあなたの高潔さを歌に歌うことでしょう」
乙女≠ニいう言葉はガリオンをどぎまぎさせた。かれはどうしていいかわからずに、ただ頬を赤らめ、もじもじするだけだった。
「ところでガリオンさま、あなたはほんとうに永遠なるお方、ベルガラスさまのお孫さんですの?」
「おじいさんと孫の関係より、もうすこし遠い関係だけど、でも便宜上そういうことにしているんです」
「でも直系であることには変わりないんでしょう?」彼女はスミレ色の瞳を見ひらいてなおも言った。
「おじいさんはそう言ってるけど」
「ひょっとしてレディ・ポルガラはあなたのおかあさまなのかしら?」
「おばです」
「それでもすごく近い血縁にはちがいないわ」彼女はガリオンの手首にそっと手を置きながら、熱心にそう言った。「ガリオンさま、あなたはこの世でもっとも高貴な血を受け継いでいらっしゃるのね。ああ、どうかお答えください、あなたはまだ婚約してらっしゃらないのでしょう?」
ガリオンは目をぱちくりさせて、耳を真っ赤に染めた。
「あー、ガリオン」わざわざこの瞬間を選んだかのように、突然マンドラレンの上機嫌な声が割り込んできた。「ずっときみを探していたのだ。失礼します、伯爵令嬢」
年若の貴婦人は憎悪をあからさまにしてマンドラレンを見たが、かれのがっしりとした腕がすでにガリオンをその場から連れ去ろうとしていた。
「ガリオンさま、いずれまたお話しましょう」彼女はうしろからそう呼びかけた。
「ええ、そうですね、お嬢さま」ガリオンは肩ごしに答えた。やがてかれとマンドラレンは謁見の間の中央付近に群がっている廷臣たちに合流した。
「どうもありがとう、マンドラレン」ガリオンはすこし言いあぐねていたが、最後にやっと礼を言った。
「なんのことだい?」
「王にナチャクのことを話したとき、ぼくが誰をかばっていたかあなたは知ってたんでしょう?」
「むろん」マンドラレンは何気なく答えた。
「あなたは、王に話すことだってできたのに――というより、王に話すのはあなたの義務だったんじゃないの?」
「でもきみは誓いをたてていた」
「あなたが誓ったわけじゃないのに」
「ガリオン、きみはわたしの仲間だ。きみが誓いを守らなくてはいけないのと同様に、わたしもその誓いを守らなくてはいけないのだ。きみはそんなこともわからなかったのか?」
ガリオンはマンドラレンの言葉に驚いた。アレンド人の道徳観念の複雑さは、かれにはとうてい理解できないものだった。「それでぼくのために戦ってくれたんだね」
マンドラレンは軽く笑いとばした。「もちろん。だが正直に白状すると、きみの代理として立ち上がったときのあの熱情は、友情だけが原因ではないのだ。実際のところは、あのナチャクというマーゴ人の態度が鼻についたのと、やつの雇い人たちの冷静な横柄さが気にくわなかったのだ。きみの代理を努める必要が出てくる前から、わたしはもう戦う気になっていた。わたしこそきみに礼を言うべきかもしれんな。戦う機会を与えてもらったのだから」
「ぼくにはあなたってひとがよくわからない」ガリオンは言った。「ときどきこんな複雑なひとは見たことがない≠チて思うんだ」
「わたしが?」マンドラレンは驚いたような顔をした。「わたしはいたって単純な男だ」かれはそう言ってあたりを見回すと、かすかにガリオンにもたれかかって、「ヴァスラーナ伯爵令嬢と話すときは言葉に注意したほうがいいぞ。きみをここに引っ張ってきたのも、じつはそれを言うためだったのだ」
「誰のこと?」
「さっききみが話してた若くて美しいご婦人のことだ。彼女は自分をこの王国一の美人だと思っている。それゆえ自分にふさわしい夫をさがしているのだ」
「お婿さんを?」ガリオンは口ごもりながら訊ねた。
「きみは恰好の獲物なのだ、ガリオン。きみはベルガラスと同じ血を引いている。つまり、類まれなる高貴な血の持ち主だ。伯爵令嬢にとってはこのうえなく素晴らしい存在というわけだ」
「お婿さん?」ガリオンはもう一度声を震わせた。膝もガクガクと震えはじめている。「ぼくが?」
「センダリアではどうなのか知らないが、アレンディアではきみはもう結婚できる年齢だ。言葉には注意したまえ、ガリオン。何気なく言ったつもりでも、約束と見なされることがある。貴族ならそう受け取ると思って間違いない」
ガリオンは音を立てて唾を飲み込むと、あたりを見回して様子をうかがった。そしてその後は身をひそめることに専念した。ぼくの神経はもうこれ以上の衝撃には耐えられそうにない、とかれは思った。
だが、やがてヴァスラーナ伯爵令嬢はじつに鼻の効く狩人だということが判明した。彼女は驚くべき判断力をもってかれの居所を突き止めると、からみつくような視線と豊かに盛り上がった胸でさっきとは別の狭間にかれを釘づけにしてしまった。「さあ、面白いお話のつづきをしましょうよ、ガリオンさま」彼女はゴロゴロと喉を鳴らした。
ガリオンは逃げ出すことに神経を集中させた。と、そのときポルおばさんが、さきほどとは打って変わってうれしそうに顔を輝かせているマヤセラーナ王妃を伴って謁見の間に戻ってきた。マンドラレンが軽く耳打ちすると、ポルおばさんはスミレ色の目をした伯爵令嬢がガリオンを拘束している場所につかつかと歩いてきた。「さあ、ガリオン」彼女はガリオンに近づきながら言った。「お薬の時間ですよ」
「薬?」かれはわけがわからずに聞き返した。
「この子ったらほんとうに忘れっぽくて」彼女は伯爵令嬢に向かってそう言った。「たぶんずいぶん楽しい思いをしたんでしょうね。でも三時間ごとに薬を飲まなければ錯乱状態になるってことは、自分でも承知のはずなのに」
「錯乱状態ですって?」ヴァスラーナ伯爵令嬢は険しい口調で訊ねた。
「この子の家系の呪いですわ」ポルおばさんは溜息をついてみせた。「みんなそうですの――男の子供はみんな。いっときなら薬で抑えることもできますけど、もちろん薬なんて一時的なものですから。とにかくわたしたちはこの子に一日も早く辛抱強くて献身的な娘を見つけてやらなければいけないと思ってますの。頭が狂ってしまわないうちに、この子が結婚して父親となれるように。でも、そうなるとその気の毒な娘はこの子の面倒をみるために残りの人生を捧げることになるでしょうね」彼女はそう言うと、伯爵令嬢を品定めするようにながめた。「ところで、あなたはまだ婚約していらっしゃらないのかしら? この子にちょうど似合いの年頃とお見受けしたけれど」彼女は手を伸ばしてヴァスラーナのまるい腕に軽くふれた。「まあ、しっかりしてること」彼女は満足そうに言った。「ベルガラス卿、わたしの父のことですけど、かれにすぐにこのことを話さないといけないわ」
伯爵令嬢は目をまんまるくして後ずさりをはじめた。
「あら、お戻りになって」ポルおばさんは彼女を呼びとめた。「この子の発作は今しばらくはだいじょうぶなのよ」
ヴァスラーナは逃げだした。
「あなたは何度問題を起こせば気がすむの?」ポルおばさんはガリオンの手をぐいぐいと引っ張ってその場を離れながら訊ねた。
「でも、ぼくは何も言ってないんだよ」ガリオンは反論した。
マンドラレンがニヤニヤと笑いながら仲間に入ってきた。「どうやら男あさりの好きな伯爵令嬢を追い払ったようですね、レディ・ポルガラ。わたしもうかつだったのです、彼女がさらにしつこく追いかけることぐらい予想すればよかったのに」
「彼女には心配の種をつくってあげたわ。あれでどうしても結婚したいという情熱は冷めてしまったはずよ」
「王妃さまと何を話してらしたんですか?」かれは訊ねた。「王妃さまがあのようにお笑いになるなんて、ここ何年もなかったことですよ」
「マヤセラーナには女としての悩みがあったのよ。殿方にはわからないでしょうけど」
「跡継ぎを産めないということですか?」
「アレンド人は他人のことを詮索するぐらいしか他にやることがないのかしらね? 立ち入ったことを聞いているひまがあったら、どこかにもうひとつ戦いが転がっていないか探してらしたらどうかしら?」
「この問題はわれわれ国民にとって大変な関心事なもので、レディ・ポルガラ」マンドラレンはそう言って謝まった。「もし王妃さまが王室の跡継ぎをお産みにならなければ、われわれは王位継承戦争という危機を迎えることになるのです。そうなればアレンディア全体が炎の海と化してしまうでしょう」
「炎の海なんてことにはならないわ、マンドラレン。幸運なことに、わたしは手遅れにならないうちに到着できたようだから――といっても、ぎりぎりのところだったみたいね。冬が訪れる前に、あなたがたの皇太子が誕生するはずよ」
「そんなことがあり得るんでしょうか?」
「もっと詳しいことが知りたいの?」彼女は険しい口調で訊ねた。「ふつう殿方っていうのは出産のしくみについてはあまり知りたがらないものだと思ってたけど」
マンドラレンの顔は見るみるうちに赤らんだ。「あなたの言葉を信じます、レディ・ポルガラ」かれは急いでそう言った。
「それはどうもありがとう」
「早く国王にお知らせしないと」かれは言った。
「よけいな口出しをしないでちょうだい、マンドラレン卿。必要なことは王妃さまがじきじきにコロダリンに話すわ。それよりよろいをきれいにしてきたらどう? たった今屠所から出てきたところです、っていう恰好をしてるわよ」
かれは顔を赤くしたままお辞儀をすると、その場を離れた。
「まったく!」退却していくかれのうしろ姿に向かって彼女は言った。それからガリオンの方を向くと、「ずいぶんと忙しい思いをしたようね」
「どうしても王様に警告しなければならなかったんだ」かれは答えた。
「あんたってひとは、こういうことに巻き込まれる天才のようね。どうしてわたしに話さなかったの――あるいはおじいさんにでも」
「一言もしゃべらないって約束したんだよ」
「ガリオン」彼女は断固たる態度で言った。「わたしたちが今おかれているような状況では、秘密を持つっていうことはすごく危険なことなのよ。レルドリンに打ち明けられたことがすごく重要だってことぐらい、あんたにだってわかってたはずでしょ?」
「ぼくはレルドリンに聞いたなんて一言も言ってないよ」
ポルおばさんはひとをひるませるような目つきでガリオンを見ると、「ガリオン、わたしの目を節穴だと思うような間違いは二度とおかさないことね」
「そんなこと思ってないよ」かれは苦しそうに言った。「ちがうよ。ぼくは――ポルおばさん、ぼくはただ誰にも話さないって約束したから」
彼女は溜息をもらした。「あんたの良識はその場の状況に左右されてしまうようね。今度みんなのいる前で重大な発言をしたくなったら、まずわたしに話してちょうだい、わかったわね?」
「はい、奥方さま」かれは気恥ずかしそうにもぐもぐと言った。
「まあ、ガリオン、そんなふうに言われたらこれからあんたをどう扱ったらいいのかわからなくなってしまうわ」彼女はそう言うと、優しく笑いながらかれの肩に手をかけ、すべてはまるくおさまった。
このあとは、何事もなく夜が更けていった。宴は単調で退屈だった。その後もアレンディアの貴族たちが代わる代わる席を立っては、形式ばった美辞麗句でミスター・ウルフとポルおばさんを賞賛し、えんえんと祝杯を重ねた。というわけでかれらがベッドに入ったのはだいぶ遅くなってからだった。その夜ガリオンは、熱いまなざしの伯爵令嬢が花を敷きつめた廊下をどこまでもどこまでも追ってくる悪夢に悩まされて、なかなか寝つかれなかった。
翌朝、かれらは早い時間に目を覚ました。朝食をすませると、ポルおばさんとミスター・ウルフはふたたび王と王妃とともに内密の話をした。ガリオンはまたヴァスラーナ伯爵令嬢と会うのではないかとビクビクしていて、マンドラレンのそばを離れなかった。あんな目にあわないようにするには、かれのそばにいるのが一番いい方法のように思えたのだ。謁見の間の控え室で待っているあいだ、マンドラレンは片側の壁をすっかりおおっている複雑なタペストリーについてくどくどと説明を加えた。
午前の中ごろ、アンドリグ卿がマンドラレンをさがしにやってきた。ミスター・ウルフに生涯を通して広場の木を世話するように言われた、あの黒髪の騎士だ。「騎士どの」かれはマンドラレンに向かってうやうやしく言った。「ボー・エボール男爵が奥様を伴ってただいま北方からご到着された。男爵はおぬしに会いたいと申され、自分たちに代わってぜひともおぬしを探し出してほしいと懇願されたのだ」
「慎んで礼を言うぞ、アンドリグ卿」マンドラレンは座っていたベンチからさっと立ち上がりながら言った。「おぬしはまったくもって礼儀正しい男だ」
アンドリグは溜息をつくと、「ああ、今までのわたしはそうではなかった。じつは昨晩、わたしは聖なるベルガラスさまに面倒をみるよう命じられたあの奇跡の木の前で寝ずの番をしたのだ。そして、そのときはじめて自分の人生を振り返る余裕ができた。今までのわたしは賞賛に値するような人間ではなかった。大変なことではあるが、わたしはこれから過去の過ちを悔い改め、心を入れ替えるよう努力するつもりだ」
マンドラレンは何も言わずに騎士の手を握ると、かれのあとから訪問者の待つ部屋に向かって長い廊下を歩いていった。
かれらといっしょに太陽の光が降り注ぐ部屋に足を踏み入れたとき、ガリオンはようやくボー・エボール男爵の奥さんというのは、数日前〈西の大街道〉沿いの風の吹きすさぶ丘の上でマンドラレンと話をしていた女性だということに気づいた。
男爵はいかにも気骨のありそうな人物で、緑色のサーコートを身につけ、髪の毛とひげには白いものが混じっていた。目は落ちくぼんでいて、その中に深い悲しみをたたえているように見える。「マンドラレン」かれは年若の騎士を暖かく抱きしめながら言った。
「こんなに長いことわれわれに顔を見せないとは、おまえも冷たい男だな」
「勤めですよ、男爵」マンドラレンは静かに答えた。
「さあ、ネリーナ」男爵は妻に言った。「友だちに挨拶をしなさい」
ネリーナ男爵夫人は夫君よりもだいぶ年下だった。髪は黒くて、ひじょうに長く、バラ色のガウンを着たその姿はたいへん美しかった――といってもガリオンの目にはアレンディアの宮廷で会った六人の女性と同程度の美しさにしか映らなかったのだが。
「お懐かしや、マンドラレン」彼女はそう言うと短く上品な抱擁とともに、騎士にキスをした。
「わたくしたちはボー・エボールであなたのことを偲んでましたのよ」
「あのように愛情に満ちた城を後にしてみると、世の中のなんとわびしいことか」
アンドリグ卿はお辞儀をしてそっと部屋を抜け出してしまったので、ガリオンはドアのそばにひとり取り残され、気づまりそうに立っていた。
「ところで、息子よ、おまえといっしょに来た賢そうな少年はいったい誰なのかね?」男爵が訊ねた。
「センダリアの少年です」マンドラレンが答えて言った。「名はガリオンと言います。この少年の他にあと数人の仲間がいて、わたしはかれらといっしょにある危険な追跡を行っているのです」
「そうか、では喜んで息子の仲間に挨拶するとしよう」
ガリオンはお辞儀をしたが、頭の中はその場を辞する正当な理由を見つけることでいっぱいだった。ガリオンはひどくばつの悪い思いをしていたので、できることならこれ以上ここにいたくなかったのだ。
「わたしは陛下のご機嫌を伺いにいかないと」男爵が言った。「宮廷に到着したらなるべく早い時機に陛下のところに参上するのがしきたりであり、礼儀でもあるからな。マンドラレン、わたしが戻ってくるまで、妻といっしょにここにいてくれるかね?」
「ええ、男爵」
「王様がぼくのおばと祖父と会談している場所にご案内しましょう」ガリオンはすかさず申し出た。
「いや。きみもここにいてくれたまえ。わたしは、妻も親友も貞節を守る人間だということはよく知っているし、べつに心配しているわけではないが、ふたりだけで残しておくと、また暇な人間が変な噂をするかもしれぬ。賢明な人間は、間違った噂や下劣なあてこすりを招くような状況をつくらないものだ」
「じゃあ、ここに残ることにします」ガリオンは即座に答えた。
「物分かりがいいな」男爵はそう言ってガリオンをほめた。それから、言葉とは裏腹な、苦悩にさいなまれたような目をしてそっと部屋を出ていった。
「座ったらいかがです、ネリーナ?」マンドラレンは、窓際に置かれた彫刻入りのベンチを指さして言った。
「ええ、そうね。長旅で疲れてしまったわ」
「ボー・エボールからここまでじゃ、かなりの道のりですからね」マンドラレンはもうひとつのベンチに腰掛けながら言った。「道の状態はどうでした?」
「まだ楽しい旅を約束できるほどには乾いていないようね」
ふたりはそうやってしばらく道路や天気のことを話し合っていた。ふたりの間はそう離れていなかったが、それでもたまたま通りかかったひとが見たときに、他愛ないおしゃべり以上のことを話しているという印象を与えない程度の距離をとっていた。が、実際に口をつく言葉とは裏腹に、かれらの瞳はもっと熱い言葉を交わしていた。ガリオンはいたたまれなくなって、ドアから自分の姿がよく見えるような場所を選び、窓の外を眺めていた。
会話が進むにつれ、長い沈黙が多くなってきた。ガリオンは気まずい沈黙がおとずれるたびに、マンドラレンかネリーナ夫人のどちらかが叶わぬ恋に耐えかねて、無言のうちに越えてはいけない領域を越え、ふたりの自制心と道義心を打ち砕いてその運命を破壊に導くような一言を、あるいはセリフを言ってしまうのではないかと、内心ハラハラしていた。だが、それでも心のどこかでは、ふたりの恋をたとえ一瞬でも燃え上がらせるような言葉、あるいはセリフを言ってくれることを期待していた。
そして、まさにその静かな、太陽の光が差し込む応接室で、ガリオンは小さな岐路を渡った。ここにきてレルドリンの浅はかな党派心によって植えつけられたマンドラレンへの先入観が、ついに粉々になってガリオンの心の中から消え失せたのだ。かれは感情が波のように押し寄せてくるのを感じた――もちろん憐れみではなかった。マンドラレンとネリーナは憐れみを受け入れないばかりか、同情さえ受け入れないだろう。それよりかれは、はるか昔からアレンディアに存在してきたこのような悲劇の根底には、かれらの道義心と崇高な自尊心――もちろんそこには私欲などというものはいっさい存在しない――があるのだということをわずかながら理解しはじめていた。
あるいは三十分ぐらいたったのだろうか、マンドラレンとネリーナ夫人はその場に座ったまま今はもうほとんど言葉も交わさずに相手の顔をじっと見つめていた。そのあいだガリオンは涙をこらえながら監視の任務を果たしていた。やがてダーニクが、ポルおばさんとミスター・ウルフの出発の準備が整ったという知らせをもってやってきた。
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第二部 トルネドラ
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12[#「12」は縦中横]
二十人二列の武装騎士とコロダリン王自身に伴われて一行がボー・ミンブルの街を出ていくと、町の狭間胸壁からホルンの甲高い音がいっせいに鳴り響いて、かれらを見送ってくれた。ガリオンは一度だけ振り向いたときに、アーチ型の門の上方にある塀にネリーナ夫人が立っているのを見たような気がした。もちろん、はっきり見たという自信はなかったのだが。夫人は手を振っていなかった。マンドラレンは一度たりとも振り向きはしなかった。それでもガリオンはボー・ミンブルの街が見えなくなるまで、ほとんど息を押し殺していた。
かれらがトルネドラとの国境にあたるアレンド川の浅瀬に着いたころは、すでに午後も半ばを過ぎようとしていた。明るい太陽が川の上でキラキラと輝いている。頭上の空は抜けるような青さで、エスコートしてきた騎士たちの槍についた鮮やかな色の戦旗がそよ風に吹かれ、はためいている。ガリオンははせる気持ちを抑えかねていた。一刻もはやく川を渡ってアレンディアを離れ、この地で起こった忌まわしい出来事を置き去りにしてしまいたい、かれは切実にそう願っていた。
「聖なるベルガラスどの、別れのときが訪れたようです」水際まで来るとコロダリンはそう言った。「あなたから忠告されたよう、わたしは準備をはじめることにしましょう。アレンディア中に背水の陣を敷きましょう。命を賭けてそうすることを誓います」
「わしのほうも時々こちらの進行状況を伝えるからな」ミスター・ウルフは約束した。
「それから、王国内にいるマーゴ人たちの動向も調べてみましょう」コロダリンは言った。
「もしあなたのおっしゃったことが本当だとわかれば、べつに疑っているわけではありませんが、わたしはかれらをアレンディアから追放するつもりです。ひとり残らず探し出してこの国から追い出してみせます。わが臣民のあいだに闘争の種をまきちらした報酬として、そやつらに一生悲嘆と苦悩を背負わせてみせましょう」
ウルフはニヤリと笑って、「気に入った、なかなかいい考えだ。マーゴ人は横柄な国民だから、謙虚さを学ぶためには時々そうやって苦痛を味わったほうがいいのだ」かれは手を伸ばして王の手をにぎった。「さらば、コロダリン。今度会うときは、もっと平和な世の中になってるといいな」
「わたしたちもそう祈ることにします」年若の王は答えた。
やがてミスター・ウルフは先頭をきってさざなみ立った浅瀬に水しぶきを立てて入っていった。川のむこうではトルネドラ帝国がかれらを待ち受けている。一方、うしろの河岸ではミンブレイトの騎士たちがホルンで盛大なファンファーレを吹き鳴らしながらかれらを見送っている。
川の向こう岸にたどり着くと、ガリオンはアレンディアとトルネドラの差を実感したくて、地形や木の葉の違いを見つけようとしたが、なんの変化も見られなかった。自然の国境は人間のそれと違って、これといった変化を受けないものらしい。
川から半マイルほど進むと、かれらはヴォードゥの森に入った。海から東の山のふもとまでつづく、管理の行き届いた広大な森林地帯だ。森に入ったところでかれらはもとの旅用の服に着替えた。「商人の恰好のほうがわしらの性に合ってるようだな」ミスター・ウルフは、見るからに安堵した様子でつぎあてのついた赤さび色のチュニックを着、靴もあの不釣り合いな靴に取り替えながら言った。「もちろんこんな偽装じゃグロリムをだますことはできないが、この先で行き交うトルネドラ人ならこの程度で十分だ。グロリムと渡り合うときは、また別の方法を使えばいい」
「このあたりに〈珠〉の痕跡はないんですかね?」バラクは熊皮のマントとかぶとを荷物のひとつに詰め込みながら聞いた。
「一つか二つ、痕跡があるようだな」ウルフはあたりを見回して言った。「おそらく二、三週間前ゼダーはここを通ったはずだ」
「じゃあ、まだそれほどやつに迫ってはいないんですね」革のベストを着込みながらシルクが言った。
「すくなくとも進むべき距離はかせいでいるぞ。さあ、行こうか」
かれらはふたたび馬にまたがるとトルネドラの街道沿いに走りつづけた。街道は午後の日差しを浴びながら森の中をまっすぐに進んでいる。一リーグかそこらまで行ったところで、道の途中に広々とした場所が開けた。道のわきには白塗りの石の建物が一軒だけ、どっしりと横たわっていた。屋根は赤くて低い。数人の兵士が建物のまわりをぶらぶらと回っていたが、かれらのよろいや装備はガリオンが以前出くわした軍団のそれよりも手入れが行き届いていないように見えた。
「税関だ」シルクが言った。「トルネドラ人は合法的な密輸と衝突しないようにわざわざ国境から離れたところに税関を置くようにしているんだ」
「あそこにいるのはずいぶんだらしない軍団だな」ダーニクは非難をこめて言った。
「軍団じゃない」シルクが説明した。「あれは税関の兵隊なんだ――言ってみれば地元の私設部隊だな。軍団とじゃ大違いさ」
「なるほど」
錆びた胸当てをつけ、短い槍を持った兵士がひとり道路に進み出てきて、手でかれらを制した。「通関検査だ」男はだるそうな声で言った。「一、二分で閣下がいらっしゃる。馬はあそこに連れていくがいい」かれは建物のわきにある庭のようなところを指さした。
「なにか問題があるのだろうか?」マンドラレンが聞いた。かれはよろいかぶとを脱いで、今は鎖かたびらと旅の時にいつも着るサーコートを着ている。
「いや」シルクが答えた。「税官吏が二、三質問をしてくるから、われわれはかれに袖の下をつかませて旅をつづけるって寸法だ」
「袖の下?」ダーニクが聞いた。
シルクは肩をすくめて、「もちろんさ。トルネドラでは一事が万事それなんだ。交渉はわたしに任せてもらったほうがいいだろうな。経験があるから」
礼帯つきの制服を着た頑丈そうな、禿げ頭の税官吏が、服の前の屑を払いながら石の建物から出てきた。「やあ、ごきげんよう」かれは事務的な挨拶をした。
「こんにちは、閣下」シルクは軽くお辞儀をした。
「さて、ここにあるのはなんだね?」官吏は値踏みするように荷物を見て訊ねた。
「わたくしはボクトールのラデクと申します」シルクは答えた。「ドラスニアの商人でございます。これからセンダリアの毛織り物をトル・ホネスまで持っていこうと思いまして」かれは一番上に積まれた荷物をひとつ開いてグレーの織物の端を引っ張り出した。
「いいところに目をつけたな、これはなかなか価値のある商品だ」税官吏は布地をさわりながら言った。「今年の冬はかなり寒くなりそうだ。毛織り物はいい値段で売れるだろう」
チャリン、チャリンと短い音がして、コイン数枚の受け渡しが行われた。税官吏はニヤリと笑い、態度がぐっと穏やかになった。「ぜんぶの荷物を開く必要もないだろう。ラデクさん、あんたは間違いなく立派な人物だ。これ以上時間をとらせるのはしのびない」
シルクはもう一度お辞儀をした。「この先の道路のことで何か情報はありませんか、閣下?」かれは荷物を縛りなおしながら聞いた。「税関のアドバイスは信頼できますからね」
「道路なら心配はいらん」官吏は肩をすくめて言った。「そのために軍団がいるのだ」
「いかにも。じゃあ、どこかにいつもと変わったところはないですか?」
「南に行くなら、途中なるべくひとと関わらないほうが利口かもしれないな」官吏は忠告した。
「今、トルネドラのあちらこちらで政治的な混乱が起こってるから。だが商売のことしか頭にないという顔をしていれば、面倒に巻き込まれることはないだろう」
「混乱ですか?」シルクはいくらか心配そうに聞き返した。「そんな話は聞いてませんけど」
「皇位継承だよ。目下のところ状況は揺れ動いているんだが」
「ラン・ボルーン皇帝が病気とか?」シルクは驚いて訊ねた。
「いや、ただ年をとったというだけだ。こればかりは治すことのできない病だからな。ラン・ボルーン皇帝には跡継ぎがいないから、ボルーン王朝は皇帝の虫の息にしがみついているところだ。有力な家柄の人間たちは皇帝の地位を求めてすでに作戦を開始している。もちろん金もずいぶん動いている。トルネドラ人っていうのは金がからむと真剣になるからな」
シルクはくすっと笑った。「人間はみんなそうじゃないですか? あるいは、要所要所で二、三人の人間と接触を持ったほうがうまく事が運ぶかもしれませんね。ところで今のところ形勢が有利なのはどこの家なんでしょう?」
「たぶんよそにくらべるとうちが有利だろうな」
「うち、と言いますと?」
「ヴォードゥ家だ。わたしの母方の遠縁にあたる。論理的に考えても、次期皇帝の候補はトル・ヴォードゥのカドール大公しかいないだろう」
「その方の名は初めて聞きますが」シルクが言った。
「たいそう立派なお方だよ」官吏は大袈裟に言った。「権力と活力と洞察力を併せ持っている。優秀さだけを基準に選挙を行えば、カドール大公が満場一致で皇位につくことになるだろう。だが、気の毒なことに、選択権は諮問委員会が握ってるんだ」
「なるほど!」
「実際、選挙のためにかれらが払う賄賂の規模といったら、あんただって耳を疑うだろう、ラデクさん」
「一生に一度のチャンスだからでしょうね」シルクは言った。
「きちんとした理由があってのことなら、わたしは誰が賄賂を受け取ろうとそいつの権利についてとやかく言うつもりはないが、諮問委員会の中には金、金、金って金のことしか目のない人間がいるんだよ」税官吏は不満そうに言った。「新しい政府で自分がどういう地位につくかわからないが、たとえどんな地位についても、今まで支払った寄付金を取り戻すには何年もかかるだろうな。おなじことがトルネドラじゅうに言えるんだが。家柄のすぐれた人間は、税や今回のように急な寄付金があると窮地に追い込まれてしまうんだ。そんなわけだから、誰も好んで自分の名前が載ってない寄付金名簿を通過させたりはしないだろう。しかも毎日一冊は新しい名簿が出来上がっているんだ。ひとびとはたびかさなる出費で絶望的になっている。トル・ホネスの道ではかれらが殺し合いをしている光景が見られるだろうよ」
「そんなにひどいんですか?」シルクは訊ねた。
「あんたが想像している以上だな。ホーバイト家は選挙戦を指揮できるほどの金を持ち合わせていないもんだから、委員会のメンバーに毒を盛りはじめた。高い金を払って選挙を買う、ところが次の日になってみると買収した相手が真っ黒な顔をして死んでいるのが発見されるんだから。そうなるとわれわれは今度はかれの後釜にまた金を注ぎ込まなければならない。まったくわが身が滅んじまうよ。わたしの神経は細くて政治向きではないようだな」
「お気の毒に」シルクは同情して言った。
「ああ、もしラン・ボルーン皇帝が死んでくれてたら」官吏は絶望的な声で言った。「今のところはうちに分があるが、ホネス家はうちよりもっと金持ちだ。もしかれらがひとりの候補の後押しをすることにでもなれば、金にものを言わせてあっさり皇位を奪ってしまうだろう。だけど相変わらずラン・ボルーンはかれが娘と呼んでいるあの小さな化け物を溺愛しながら宮廷にどっしりと腰を下ろし、まわりにそれはたくさんの護衛を置いているから、どんなに勇敢な刺客だってかれを殺す気にはなってくれないんだ。ときどき、わたしは皇帝が永遠に生き続けるつもりなんじゃないかと思うよ」
「辛抱ですよ、閣下」シルクは言った。「苦労が多ければ多いほど、あとの褒美も大きくなるってもんです」
トルネドラ人は溜息をついて、「もしそれが本当なら、わたしはそのうちすごい大金持ちになれるだろう。それはともかく、ずいぶんと長いこと引き留めてしまったようだな、ラデクさん。幸運を祈るよ。トル・ホネスの寒い冬があんたの毛織り物にいい値をつけてくれるように」
シルクはていねいにお辞儀をしてふたたび馬にまたがると、先頭に立って速足で馬を走らせ、税関を後にした。「やっぱりトルネドラはいいな」声が届かないところまできたとたん、シルクはゆったりした声で言った。「わたしはペテンと買収と陰謀の入り混じったこの臭いが大好きなんだ」
「おまえってやつは根っからの悪党だな、シルク」バラクが言った。「ここはまるで汚水溜めだよ」
「いかにも」シルクは笑った。「でも、ここには退屈ってものがないのさ、バラク。トルネドラには退屈なんて言葉は存在しないんだ」
夜の気配が忍び寄るころかれらは小奇麗なトルネドラの村のそばを通りかかり、がっしりした、手入れの行きとどいた宿屋で一晩を過ごすことにした。食事は申し分なく、ベッドも清潔だった。翌朝、かれらは早めに目を覚ました。そして朝食をすませるとカタカタと音をたてながら宿屋の敷地を出て、夜が明ける少し前にあらわれる、あの不思議な銀色の光を見ながら砂利道を歩きはじめた。
「小奇麗なところだなあ」ダーニクは、赤い瓦で屋根を葺いた白い石造りの家を見回しながら、溜息まじりに言った。「なにもかも清潔で、整然としている」
「トルネドラ人の精神のあらわれだ」ミスター・ウルフが説明した。「かれらはいちいち細かいところにまで注意を払いたがるからな」
「悪くない性質だと思いますがね」とダーニク。
ウルフがそれに答えようとしたとき、突然暗いわき道から茶色の僧服を着たふたりの男が飛び出してきた。「気をつけろ!」うしろの方の男がどなっている。「そいつは頭が狂ってるんだ」
前の方を走ってくる男は頭をかきむしり、ゆがんだその顔にはなんとも表現しがたい恐怖の色を浮かべている。狂人がまっすぐに突進してくると、ガリオンの馬は逃げ出さんばかりにはげしくおびえた。ガリオンは目の玉をひんむいたこの狂人を追い払おうと右手を振り上げた。そしてその手が男の額にふれた瞬間、ガリオンは手と腕に電流が走ったような気がした。突如として右腕にとてつもない力が宿ったかのようなうずきを感じ、頭の中にはゴーゴーという大きな轟音が渦巻いた。狂人はまるでガリオンが途方もない一撃を加えたかのように、白目をむいて砂利の上にくずれ落ちた。
バラクがガリオンと倒れている男のあいだに入ってきた。「いったいどういうことなんだ?」かれは、やっとその場にたどりついて息をきらしているもうひとりの男に訊ねた。
「わたしたちはマー・テリンから来ました。ブラザー・オーボーがもうこんな狂人を見るのはいやだと言うので、わたしはこの男を家に送りとどけ、正気が戻るまでそこに置いておくことを許可してもらったんです」かれはそう言うと倒れている男の上にかがみこんだ。「こんなに強く殴らなくてもよかったのに」
「殴ってなんかいない」ガリオンは抗議した。「たださわっただけなんだ。演技をしてるんだよ、きっと」
「いいや、殴ったはずだ」修道士はなおも言った。「かれの顔についた跡をごらんなさい」
気絶している男の額には醜いみみず腫れがあった。
「ガリオン」ポルおばさんが言った。「わたしが今から言うことを、わけを聞かずにちゃんとできる?」
ガリオンはうなずいて、「うん、できると思うよ」
「馬を降りなさい。降りて地面に倒れている修道士の額に掌を当てるのよ。それから、殴り倒してしまったことを謝まりなさい」
「そんなことをして危なくないかな、ポルガラ?」バラクが聞いた。
「心配ないわ。ガリオン、言われたとおりになさい」
ガリオンは失神している男におずおずと近づくと、腕を伸ばして醜いみみず腫れを掌でおおった。「ごめんなさい」かれは言った。「どうかすぐによくなりますように」かれはふたたび腕に電流が走るのを感じたが、それはさっき感じたものとはまったく違うものだった。
狂人の目が焦点を取り戻し、パチパチと瞬いた。「ここはどこだ?」かれは訊ねた。「いったい何が起こったんだ?」その声は正常そのものだった。額のみみず腫れはもう消えていた。
「もうだいじょうぶだよ」ガリオンは思わず知らずかれにそんな言葉をかけていた。「あなたは病気にかかってたんだ。でも、もうよくなったからね」
「戻ってらっしゃい、ガリオン」ポルおばさんが言った。「あとはそのひとの友だちが面倒をみてくれるわ」
ガリオンは馬にもどったが、気持ちはまだ昂《たかぶ》っていた。
「奇跡だ!」連れの修道士が言った。
「それはどうかしら」ポルおばさんが言った。「あの一撃があなたの友だちの正気を呼び覚ました、それだけのことよ。珍しいことじゃないわ」だが、彼女とミスター・ウルフのあいだに交わされた意味ありげな視線のやりとりが、何かそれ以外のこと――予期せぬ何か――が起こったということをはっきりと物語っていた。
かれらはふたりの修道士を道に残したまま、ふたたび馬を走らせた。
「あれはいったいなんだったんです?」ダーニクは不思議そうな顔で訊ねた。
ミスター・ウルフは肩をすくめ、「ポルガラはガリオンを使わざるをえなかったんだよ。他の方法では間に合わなかったんだ」
ダーニクはまだ途方に暮れていた。
「あんなことはめったにしないんだが」ウルフはさらに説明した。「あんなふうに他の人間の体を使うとなると、すこしばかり事がやっかいになるからな。でもときにはそれしか方法がないこともあるんだ」
「でもあの男を治したのはガリオンですよ」ダーニクは食い下がった。
「あの場合は倒した手と同じ手じゃなきゃだめだったのよ、ダーニク」ポルおばさんが言った。
「そんなに次から次へと質問しないでちょうだい」
だが、ガリオンの頭の中の乾いた声は、ミスター・ウルフやポルおばさんの説明をまったく受け入れようとしなかった。あれは外からの影響ではない、乾いた声はそう言っていた。かれは当惑した顔で、掌にある白い跡をじっと見つめた。どういうわけか、かれの目にはそれがいつもと違ってるように見えた。
「もう考えるのはやめなさい、ガリオン」村をうしろに見ながらひきつづき街道を南に進んでいく途中で、ポルおばさんがおだやかに言った。「悩むほどのことじゃないのよ。そのうちにすべてを説明してあげるから」彼女はそう言うと、喜びの歌をうたいながら太陽の訪れを歓迎している鳥たちのほうにぐーっと手を伸ばし、こぶしを固くにぎりしめた。
[#改ページ]
13[#「13」は縦中横]
ヴォードゥの森を通り抜けるには三日を要した。ガリオンは危険なアレンディアの森のことを忘れることができず、はじめは木の下にうつる影にも神経をとがらせていたが、一日二日過ぎてもべつだん変わったことが起こらないのを見てとると、だんだんとリラックスしはじめた。だがミスター・ウルフの場合は、南に行くにしたがって、ますます苛立ちがつのってくるようだった。「あいつらが何かを企んでいるのはわかってる」かれはブツブツとひとり言を言った。「そっちのほうにだけかまってくれたらありがたいんだがね。まったくいつもいつも肩に視線を感じながら馬に乗ってると、むしゃくしゃしてくるよ」
ガリオンは、道ゆく途中でポルおばさんとマー・テリンから来たあの狂った修道士の身に起こったことを話そうと思っていたが、その機会はほとんどなかった。ガリオンには、おばさんがわざと自分を避けているようにさえ思えた。やっとのことで彼女のすぐとなりに並んで事件について話しかけても、ポルおばさんの答えは漠然としていて、事件に対するかれの困惑をすこしも鎮めてはくれなかった。
一行がうっそうとした木立を抜け出して、広々とした田園地帯に馬を乗り出したのは、三日目の午前を半分くらい過ぎたころだった。見渡す限りの田畑がぜんぶ休耕中に見えるアレンディアの平野とちがい、ここの士地はどこもかしこもすっかり耕され、ひとつひとつの畑が低い石垣で区切られていた。まだ暖かいというにはほど遠いが太陽の光はかなりまぶしく、じゅうぶんに鋤を入れられ、蒔きつけの時期を今か今かと待ちわびている田畑の土も、心なしか黒々と輝いているように見える。街道は広々として、どこまでも真っすぐに続いている。かれらはその街道沿いで旅人たちと行き交った。一行と旅人たちのあいだに交わされる挨拶は控え目ながら礼儀のこもったものだったので、ガリオンはますます気分がよくなってきた。この国はとても礼儀正しい国だから、アレンディアで遭遇したような危険に出くわすことはないだろう、という気がしたのだ。
午後のなかばころ、かれらはかなり大きな町に馬を乗り入れた。そこにはさまざまな色のマントを着た商人たちがいて、是が非でも足を止めて品物を見てもらおうと、道沿いの売店や屋台からかれらに声をかけてきた。「死にもの狂いっていう感じですね」ダーニクが言った。
「トルネドラ人は客に逃げられるのを死ぬほど嫌うんだよ」シルクが説明した。「欲の皮が突っ張ってるんだ」
そのとき、前方の小さな広場がにわかにざわざわと動きはじめた。どうやら身なりのだらしない、無精ひげを生やした六人の兵士が、緑のマントを着た横柄そうな男に近寄って臆面もなく声をかけたらしい。「寄るな」横柄な男はとげとげしい口調で言った。
「おれたちはあんたとちょっとばかりお話がしたいだけなんだよ、レンバーさん」兵士のひとりがすごい顔でにらみつけながら言った。その体は鞭のように細く、顔の片側に長い傷跡がある。
「馬鹿なやつだよ」通行人のひとりが冷やかな笑いを浮かべて言った。「レンバーは日頃丁重に扱われてるもんだから、用心するってことを知らない」
「あのひとは捕まってしまうんですかねえ?」ダーニクはていねいに訊ねてみた。
「ほんのちょっとの間さ」通行人はあっさりと答えた。
「あのひとをどうするつもりなんでしょう?」
「いつものやつさ」
「いつものやつって?」
「まあ見ててごらん。ボディガードをつけないで外を歩くなんて、まったく馬鹿としか言いようがないよ」
兵士はすでに緑色のマントを着た男をとり囲み、そのうちのふたりがかれの腕を荒々しくつかんでいる。
「通してくれ」レンバーが抗議をしている。「いったいなんのつもりだね?」
「おとなしくこっちに来るんだ、レンバー」顔に傷のある兵士が命令した。「そうすればずっと簡単にことが運ぶんだよ」兵士たちは狭い路地のほうに男を引っぱっていった。
「助けてくれ!」レンバーはやみくもに手足をバタバタさせながら叫んだ。
兵士のひとりがこぶしでレンバーの口を殴りつけ、六人組が路地に引っぱり込んだ。一回だけ悲鳴が聞こえ、その後すこしのあいだ乱闘の音がつづいた。他にもいろいろな音が聞こえてきた。うめき声が二、三回。鋼鉄が骨に食い込んでいるようなきしみ音。そのあと溜息のようにかすかなうめき声が聞こえた。しばらくすると路地の入口から真っ赤な血が川のように流れ出し、溝の中に吸い込まれていった。一分かそこらたっただろうか、兵士たちがニヤニヤと笑って、自分の武器を撫でながら空き地に戻ってきた。
「なんとかしなくっちゃ」ガリオンは怒りと恐怖に青ざめながら言った。
「よせ」シルクは冷淡に言った。「他人のことには首を突っ込まないことだよ。わたしたちは、なにも地元の政治に巻き込まれるためにここに来たわけじゃないんだから」
「政治だって?」ガリオンは食い下がった。「これはれっきとした殺人だよ。あのひとが生きてるかどうか確かめるぐらいのことはしてもいいんじゃない?」
「その可能性はほとんどないよ」今度はバラクが言った。「武器を持った男が六人も揃っていれば、しくじることはまずない」
やがて最初のグループとおなじくらいみすぼらしい恰好をした兵士が十二人、腰に剣をぶら下げて広場に駆け込んできた。
「遅かったようだな、ラバス」顔に傷のある兵士は耳障りな声であとから来たグループのリーダーらしき男を笑った。「レンバーはもうおまえたちを必要としちゃいねえよ。あいつはわざわざ殺られに来たんだ。おまえたち、仕事にあぶれちまったようだな」
ラバスと呼ばれた兵士は顔色を曇らせてその場に立ちつくした。が、やがて顔一面に残忍でずるがしこい表情を浮かべると、「ああ、そうらしいな。だけど、おれたちはエルゴンさんとこの駐屯兵に空きをつくれるかもしれないんだぜ。こんなに優秀な代わりが来たら、かれもさぞかし喜ぶだろうよ」かれはふたたび前進をつづけた。剣が下のほうで危なっかしく弧を描きながら揺れている。
そのときジャッジャッジャッという駆け足の音とともに、二十人の軍団が二列縦隊で広場に入ってきた。砂利を踏みつけるその足には一糸の乱れもない。手には短い槍を持っている。かれらは二つのグループの間に入って足を止めた。そして槍を水平に構えて一列ずつ各グループに向かい合った。軍団の胸当てはぴかぴかに磨きあげられ、装備には一点の曇りもない。
「ラバス、クラガー、もうそのへんでやめておけ」軍曹が険しい口調で言った。「両方とも、ただちに道をあけるんだ」
「この汚らしい豚野郎たちがレンバーさんを殺しちまったんですよ」ラバスが言い返した。
「それは気の毒にな」軍曹はこれっぽっちも感情をまじえずに言った。「さあ、道をあけろ。わたしが勤務についているあいだはいかなる騒ぎも起こしてはならん」
「何かするためにここに来てくれたんじゃないんですか?」ラバスが訊ねた。
「ああ。道の清掃をしに来たんだ。さあ、とっとと消えろ」
ラバスは不満そうにきびすを返すと、仲間を率いて広場から出ていった。
「おまえもだ、クラガー」
「もちろんですよ、軍曹」クラガーは愛想よく作り笑いを浮かべた。「今すぐここを出ていきますから」
このころにはすでに大きな人だかりができていて、軍団がだらしのない身なりの兵士たちを広場から追い立てると、いっせいに不満の声があがった。
だが軍曹がすごい形相であたりを見回したとたん、ブーブーという声はぴたりと止まった。
突然ダーニクがシーッと音をたてた。「広場のはずれを見てください」かれは低いしゃがれ声でミスター・ウルフにささやいた。「あそこにいるのはブリルじゃないですか?」
「またか?」ウルフの声には激しい苛立ちが込められていた。「なんだってあいつはいつもいつもこんなふうにわしらの先回りをするのだ?」
「あいつが何を企んでいるのか探ってみましょう」シルクはキラリと目を輝かせて言った。
「尾行するっていっても、あいつはおれたちみんなの顔を知っているんだぜ」バラクが言った。
「わたしに考えがあるんだ」シルクはそう言うと馬からすべりおりた。
「ブリルはぼくたちに気づいたの?」ガリオンが聞いた。
「いや、気づいてないと思う」ダーニクが答えた。「やつは今あそこにいる男たちと話をしている。こっちの方は見てないはずだ」
「町の南端あたりに宿がある」シルクはチョッキを脱いで鞍にくくりつけながら、てきぱきと言った。「約一時間以内にそこで落ち合おう」きびすを返したかと思うと、かれは群衆の中に消えていった。
「よし、みんな馬からおりるんだ」ミスター・ウルフはきびきびと命令した。「馬を引いていくぞ」
かれらは地面におり立つと、建物にぴったり寄り添い、さらにできるだけ自分たちとブリルのあいだに馬をおくようにしながら、広場の縁に沿ってゆっくりと歩いた。
ガリオンは、さきほどクラガーたちが抵抗するレンバーを押し込めた細い路地のところにくると、一度だけ顔をあげた。が、身震いしてすぐに顔をそむけた。薄汚い路地の隅に緑色のマントにくるまった塊がごろんと転がっていて、そのまわりの壁とすすけた砂利の上に血のりがべっとりついていたのだ。
いったん広場を後にしてしまうと、かれらは町じゅうが興奮と不安で騒然となっていることに気づいた。「レンバーが?」青いマントを着た顔面蒼白の商人がブルブルと震えている相棒に向かって叫んでいる。「まさか」
「おれの弟が今しがたその場にいたやつから話を聞いてきたんだよ。エルゴンのとこの兵士四十人が寄ってたかって、みんなの見ている前でレンバーをめった斬りにしたらしい」
「おれたちはいったいどうなるんだ?」青いマントの商人は声を震わせた。
「おまえはどうするか知らないが、おれは隠れるぜ。すでにレンバーが殺されたんだ、たぶんエルゴンの兵士はおれたちをみな殺しにするつもりだよ」
「まさかそこまではしないだろう」
「誰があいつらを止めてくれるんだよ? おれは家に帰るぜ」
「ああ、おれたちはなんでレンバーの言葉に耳を貸したりしたんだ?」青いマントの商人は泣き叫んだ。「こんな仕事に首を突っ込まなければよかった」
「もう手遅れさ」相棒が言った。「おれは家に帰ってかんぬきを掛けるよ」かれはそれだけ言うと背中を向けて走り去った。
青マントの男は相棒のうしろ姿を眺めていたが、やがてきびすを返すと、相棒とおなじように逃げ出した。
「やつらは本当に殺るつもりだろうな」バラクが言った。
「どうして軍団は見て見ぬふりをするんだろう?」とマンドラレン。
「軍団はこういう事件に関しては中立の立場をとることになっている」ウルフが答えた。「それも軍団の誓約の一部だからな」
シルクの指定した宿は、低い塀に囲まれた四角い小奇麗な建物だった。かれらは中庭に馬をつなぐと宿の中に入った。「何かお腹に入れておいたほうがよさそうね、おとうさん」ポルおばさんは、日当たりの良い休憩室にある磨きぬかれたオーク材のテーブルに席を確保しながら言った。
「わしはちょっと――」ウルフは酒場に通じるドアのほうをチラッと見た。
「知ってるわ。でも食事が先よ」
ウルフは溜息をつくと、「わかったよ、ポル」と言った。
給仕係が湯気のたったカツレツの大皿とバターのしみ込んだ黒パンの厚切りを運んできた。広場であんな光景を見たあとだったからガリオンの胃はまだいくらかむかついていたが、おいしそうなカツレツの匂いの誘惑にそう長いこと逆らうことはできなかった。かれらがそろそろ食事を終えようというときに、突然リネンのシャツに革のエプロン、ボロボロの帽子という恰好のみすぼらしい小男がやってきて、かれらが座っているテーブルの端に無遠慮に腰かけた。
「ワイン!」男は給仕係に向かってどなった。「それと食い物だ」それから休憩室の黄色い窓ガラスごしに入ってくる金色の光の帯の中であたりを横目づかいに見回した。
「他にもテーブルはありますよ」マンドラレンは冷たく言った。
「わしはここが好きなんだよ」男は言い返した。そしてみんなの顔をかわるがわる見つめていたかと思うと、突然笑いだした。まるで皮膚の下の筋肉が本来の位置に戻っていくかのように男の顔が和らいでいくのを、ガリオンは呆気にとられて眺めていた。小男はシルクだった。
「いったいどうやって?」バラクは仰天して訊ねた。
シルクはニヤッと笑うと腕を伸ばし、指先で頬をマッサージした。「集中力だよ、バラク君。集中力と日頃の訓練さ。すこし顎が痛いがね」
「すごく便利な技ですね――こういう場合には」ヘターが穏やかに言った。
「とくにスパイにとってはね」バラクがつけたした。
シルクはいたずらっぽくお辞儀をした。
「その服はどこで手に入れたんですか?」とダーニク。
「盗んだのさ」シルクはエプロンを剥ぎ取りながら肩をすくめた。
「ブリルは何をしていた?」ウルフが訊ねた。
「例によって問題を起こしてましたよ。われわれに関する情報ならどんなものにでもアシャラクという名のマーゴ人が報酬を支払う、そう言いふらしてました。あなたの特徴をことこまかに説明してましたよ、ベルガラス――あんまりうれしがらせるようなことは言ってませんでしたが、かなり特徴をつかんでましたね」
「近いうちにそのアシャラクとかいうマーゴ人をどうにかしないといけないわね」ポルおばさんが言った。「そろそろ堪忍袋の緒が切れてきたわ」
「それともうひとつ」シルクはカツレツに手をつけながら言った。「ブリルのやつ、みんなにガリオンはアシャラクの息子だと言いふらしてますよ――われわれに息子をさらわれたアシャラクが、息子を取り戻してくれた者に莫大な賞金を用意していると」
「ガリオンですって?」ポルおばさんは険しい顔で聞き返した。
シルクはうなずいて、「やつが口にした額を聞けば、きっとトルネドラじゅうの人間が目を皿のようにしてガリオンを捜すでしょうね」かれはパンに手を伸ばした。
ガリオンは不安で胸がしめつけられるのを感じた。「どうしてぼくが?」かれは聞いた。
「そうすればわれわれの足を遅らせることができるからだ」ウルフが言った。「アシャラクという男は――どんなやつなのかわからないが――ポルガラが追跡の足を止めてでもおまえを捜すだろうということを承知しているらしい。もちろん、他の仲間もそうするだろうが。そうすればゼダーに逃げる時間ができる」
「アシャラクという男はいったい誰なんです?」ヘターは険しく目を細めながら聞いた。
「グロリムだろう。ただのマーゴ人にしては手口が広範囲に及び過ぎている」ウルフが言った。
「グロリムとマーゴの違いはどうやって見分ければいいんですか?」ダーニクが訊ねた。
「おまえには見分けられん。ひどく似通っているからな。両者は種族こそ異なるが、他のアンガラク人とのへだたりを考えれば、かなり密接な関係にあると言える。ナドラク人とタール人の違いや、タール人とマロリー人との違いなら誰にでもわかる。だが、マーゴ人とグロリム人はあまりに似ていてとても区別することはできないのだ」
「わたしはかれらを混同したことは一度もないわよ」ポルおばさんが口をはさんだ。「だって、頭の中身はまったく違うもの」
「それで区別したほうが簡単かもしれないな」バラクが皮肉っぽく言った。「今度マーゴ人を見たら頭を叩き割ってみるから、違いを説明してくださいよ」
「このところシルクと過ごす時間が多すぎたのね、あなた」ポルおばさんは刺々しく言った。
「しゃべり方がかれそっくりになってきてるわよ」
バラクはシルクの方を見てウィンクした。
「さあ軽口はそれくらいにして、こっそりと町を抜け出せるかどうか検討しようじゃないか」とウルフが言った。「ここから抜け出す裏道はあるのか?」かれはシルクに聞いた。
「もちろん、ありますよ」シルクはもぐもぐと口を動かしながら答えた。
「知ってるのか?」
「よしてくださいよ! 知ってるに決まってるでしょう」
「今のは失言だった」
シルクが案内した路地は狭くて人通りもなく、ひどく嫌な臭いのするところだったが、その道が町の南門まで導いてくれたおかげで、かれらは間もなく街道に戻ることができた。
「この時間ならもうすこし走れるだろう」ウルフはそう言うとかかとで馬の脇腹をバンと叩き、風を切るような勢いで走りだした。すっかり宵闇が迫るころまでかれらは走り通した。青白い、真ん丸の月が地平線に顔を出し、ゆっくりと天にのぼっていくにつれ、彩りあるものすべての輪郭が次々と青白い光に包まれていくのが見えた。ウルフはついに手綱を引いて馬を止めた。
「一晩じゅう走ったところで何の益にもならん。道からそれて、しばらく睡眠をとるとしよう。明日の朝はまた早い時間に出発するぞ。できることなら今回はブリルを出し抜いてやりたいからな」
「あそこはどうです?」ダーニクは、道からそう離れていないところで月明かりを受けながら黒くぼやけている低い林を指さした。
「そうしよう」ウルフが決定を下した。「火を起こす必要はまずないだろう」かれらは馬を木立の中に連れていき、荷物の中から毛布を取り出した。木立の隙間から入ってくる青白い月の明かりが、葉っぱに埋めつくされた地面にまだら模様を映しだしている。ガリオンは足の裏で平らな場所を見つけるとその場で毛布にくるまりすこしのあいだもじもじと動いていたが、間もなく眠りに落ちた。
不意にかれは目を覚ました。六本の松明に照らされて一瞬目がくらんだ。大きな足がかれの胸をぐいぐい踏みつけ、喉もとに剣の先が危なっかしく突きつけられている。
「動くな!」ザラザラした声が命令した。「動いたやつは殺すぞ」
ガリオンは恐怖におびえて身を固くした。剣の先はますます鋭く喉もとに迫ってくる。頭を転がして左右を見ると、仲間もみんなかれと同じように地面に押さえつけられていた。見張りに立っていたダーニクは二人の荒っぽい兵士に両腕をつかまれ、口の中にぼろ布を詰め込まれている。
「これはいったいなんの真似だ?」シルクが兵士に言った。
「すぐにわかるさ」中心人物らしき男がしゃがれ声で答えた。「武器を取り上げろ」男が手で合図を送った瞬間、ガリオンは男の右手の指が二本足りないことに気づいた。
「何かの間違いだろう」シルクはなおも言った。「わたしはボクトールのラデクと言って、ただの商人なんだ。仲間もわたしも悪いことは何もしてないぞ」
「さあ、立つんだ」三本指の兵士はシルクの抗議を無視して命令した。「もしひとりでも逃げようとするやつがいれば、あとの仲間も皆殺しにするからな」
シルクは立ち上がって帽子をかぶると、「こんな真似をしてあとで後悔しても知らないぞ、隊長さん。わたしはトルネドラにかなり権力のある友だちがたくさんいるんだからな」
兵士は肩をすくめて、「おれにそんなことを言っても無駄だぜ。おれはドラヴォー伯爵の使いで来ただけさ。おまえたちを連れてくるよう命令したのは伯爵なんだ」
「わかったよ」シルクは言った。「そのドラヴォー伯爵とやらにお会いするとしよう。すぐに片がつくことなんだ、そんなに剣を振り回す必要はないぞ。黙ってついていってやるよ。あんたを怒らすようなことは誰もしやしないから安心しな」
三本指の兵士は松明の光の中でさっと顔を曇らせた。「商人、おまえの口調はどうも癇にさわるぜ」
「わたしの口調を気に入らなくちゃ報酬をもらえないわけでもないだろうに、隊長さんよ」シルクは軽くいなした。「わたしたちをドラヴォー伯爵のところまで無事に案内しなければ金はもらえないんだろう。その場に着く時間が早ければ早いほど、おまえの態度をひとつのこらず報告する機会も早まるんだがな」
「こいつらの馬を連れてこい」兵士は大声で怒鳴った。
ガリオンはいつの間にかじわじわとポルおばさんのところに近寄っていた。「何か手立てはないの? かれは声をひそめて聞いた。
「しゃべるな!」彼を捕まえた兵士が吠えるように言った。
ガリオンは胸に突きつけられた剣を見ながら、なす術もなく立ちつくした。
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14[#「14」は縦中横]
ドラヴォー伯爵の屋敷は、刈り込んだ生垣と幾何学式庭園を左右に配した広々とした芝生の真ん中に立つ、大きな白い建物だった。すでに天空に達した月が、地上の隅々にまで採光を添えている。かれらはその様子を見ながら屋敷に通じる白砂利の曲がりくねった道をゆっくりと上っていった。
屋敷と西側の庭園とのあいだにある中庭に着くと、兵士はかれらに馬を下りるよう命令した。かれらは急き立てられるようにして屋敷の中に入り、長い廊下を進み、やがて重々しい光沢のあるドアにたどりついた。
ドラヴォー伯爵は目の下に肉のたるみがある、痩せこけた影のうすい男だった。かれは高価そうな調度品の並ぶ部屋の真ん中で両手足を伸ばしながら椅子に座っていた。かれらが部屋に入ると、かれは嬉しそうな、まるで夢でも見ているような微笑みを浮かべて顔をあげた。かれのマントは淡いバラ色で、階級を誇示するために縁に銀の飾りをつけていたが、いたるところにしわが入っていて、とても清潔とは言いかねるような代物だった。「で、このお客人はどなたかな?」早口で不明瞭で、ほとんど聞き取れないような声だった。
「囚人です、伯爵」三本指の兵士が説明した。「あなたが捕まえてくるように命令したやつらですよ」
「はて、わしは誰かを捕まえて来いなどと命令したかな?」伯爵はさっきと同じ聞き取りにくい声で訊ねた。「わしがそんなことをするとは珍しい。あんたたちに迷惑がかかったのでなければよいがな」
「わたしたちはちょっとばかり驚いただけですよ」シルクは言葉を選んで言った。
「わしはどうしてそんなことをしたんだろう」伯爵はあれこれと考えている。「きっと理由があったはずなんだが――わしは理由もなく何かをする人間ではないのだ。あんたたちはいったいどんな悪事を働いたんだね?」
「わたしたちはなんにも悪いことはしてません、伯爵」シルクは言った。
「じゃあ、あんたたちを捕らえる理由はどこにもないではないか? きっとどこかで話が食い違ったんだな」
「わたしたちもそうじゃないかと思っていたんですよ、伯爵」シルクは言った。
「そうか、疑問が解けてよかった」伯爵はうれしそうに言った。「ところで、夕食を一緒にどうかな?」
「それがもうすませてしまったんですよ、伯爵」
「おお」伯爵はがっかりして顔色を曇らせた。「家にはめったに客人が来ないのだよ」
「あなたの執事のイーディスならこの連中を捕まえることになった理由を覚えてると思いますよ、伯爵」三本指の兵士が口をはさんだ。
「そりゃそうだ」伯爵は言った。「どうしてそのことを思いつかなかったんだろう? イーディスなら何もかも覚えているはずだ。すぐにかれを連れてきてくれ」
「承知しました、伯爵」兵士は伯爵にお辞儀をすると、手下のひとりに向かって軽くあごをしゃくって見せた。
かれらが待ちぼうけを食っているあいだ、ドラヴォー伯爵は無音の鼻唄を歌いながら、まるで夢でも見ているような調子でマントのしわのひとつをなぞりはじめた。
しばらくすると部屋の隅のドアが開き、複雑な玉虫色の刺繍入りローブに身を包んだ男が入ってきた。男の顔はかなり肉感的で、頭は剃りあがっている。「お呼びですか、伯爵?」その声はかすれていて、息がただシューシューともれているだけのように聞こえた。
「ああ、イーディスか」ドラヴォー伯爵はうれしそうに言った。「おまえが来てくれてよかった」
「あなたに仕えるのはわたしの喜びです、伯爵」執事はわざとらしく身をくねらして頭を下げた。
「どうしてこの人たちを足止めするように言ったのか、その理由を考えていたのだが」伯爵は言った。「どうやら忘れてしまったらしいのだ。あるいはおまえなら思い出せるかな?」
「お安いご用ですよ、伯爵。このわたしがあなたに代わって速やかに解決してさしあげましょう。もうお休みになったほうがいい。あまり無理をなさっては体にさわりますよ」
伯爵は片手で顔をなでた。「そう言われてみると、たしかにすこし疲れてきたような気がするよ、イーディス。すこし休むから、おまえがこのお客人をおもてなししておくれ」
「かしこまりました、伯爵」イーディスはもう一度お辞儀をして言った。
伯爵は椅子の上で体の向きを変えたかと思うと、ほどなく寝息をたてはじめた。
「伯爵は微妙な健康状態にあられるもんでね」イーディスはおもねるような微笑みを浮かべて言った。「最近はほとんどこの椅子に座ったきりなんですよ。さあ、伯爵の安眠を妨げないようにしばらく席をはずすことにしましょう」
「執事さん、わたしは一介のドラスニア商人なんですよ」シルクは言った。「そしてここにいるのはわたしの従者――ひとりはわたしの姉ですけど。こんなことになってしまってわたしたちはほんとうに困っているんですよ」
イーディスは高笑いをした。「あくまでその茶番をつづけるつもりか、ケルダー王子? もう正体は割れているというのに。おれはおまえたちの正体も、使命も知ってるんだぞ」
「何が目的だ、ニーサ人?」ミスター・ウルフがぶっきらぼうに訊ねた。
「わたしが仕えている女主人は永遠なるサルミスラ様だ」イーディスは言った。
「ということは、あの蛇女はグロリムの人質になったわけ?」ポルおばさんが訊ねた。「それとも彼女、ゼダーの意志に屈伏したのかしら?」
「女王さまはどんな男にも屈伏したりしない、ポルガラ」イーディスはあざ笑うように言った。
「あらそうかしら?」彼女は片方の眉をぴくっと上げた。「もしそうなら、彼女の召使いが突然グロリムに寝返るなんてずいぶんとおかしな話じゃない」
「グロリムとはなんの関係もない」イーディスは言った。「連中はトルネドラじゅうの人間を使っておまえたちを捜しまわっているが、見つけたのはこのおれだ」
「見つけるのと拘束するのとは訳がちがうぞ、イーディス」ミスター・ウルフは遠回しに非難した。「さあ、どういうことなのか説明してもらおうか」
「おれが何を言うかはおれの意志に任せてもらおうか、ベルガラス」
「もうこのぐらいでいいんじゃないの、おとうさん」ポルおばさんが言った。「ニーサ人の謎解きにつきあってるような暇はないはずよ、そうでしょ?」
「そうはさせないぞ、ポルガラ」イーディスが警告した。「おまえたちの力についてはよく知っている。もしその手を上げたら、おれの兵士がただちにおまえの仲間を殺すからな」
ガリオンは自分の体がうしろから荒々しく押さえつけられているのを感じた。喉もとには剣の刃がぴったり当たっている。
ポルおばさんの目の中で突然炎がゆらめいた。「あんたはずいぶん危ない橋を渡っているのよ!」
「こうやって威嚇し合っていても始まらんだろう」ミスター・ウルフが言った。「つまり、おまえはグロリムにわれわれを引き渡すつもりはないと言うんだな?」
「グロリムに興味はない。おれは女王さまからおまえたちをスシス・トールに連れてくるよう命令されたんだ」
「サルミスラはなんでわれわれの使命に興味を持ったのだ? あの女にはなんの関係もないはずだが」
「それはスシス・トールに着いたときに、女王さまの口から説明していただくことにする。ところで、おまえたちに聞いておきたいことが二、三あるんだが」
「おぬしの思いどおりにはさせないぞ」マンドラレンが断固とした口調で言った。「われわれはあいにく赤の他人に個人的なことを打ち明けるような習慣は持ち合わせていないのでな」
「それはどうかな、男爵さん」イーディスは冷たいうすら笑いを浮かべて言った。「この家の地下室はうんと深いんだ。そこで想像もつかないような恐ろしいことが起こるかもしれないぞ。おれは、拷問でむりやり口を割らせることにかけては超一流の部下を揃えているからな」
「おぬしの拷問など怖くもなんともないわい、ニーサ人」マンドラレンは馬鹿にしたように言い返した。
「ああ、たしかにおまえは怖がってはいない。恐怖を味わうには想像力が必要だ。おまえたちアレンド人はものを想像できるほど賢くはないからな。だが、いったん拷問にかかってしまえばおまえの意志は徐々にすり減っていく。そして、おれの部下に楽しみを与えてくれるわけだ。満足のいく拷問を追求するのは難しいことだから、かれらは練習ができないとだんだんと不機嫌になってくるんだ。おれの言う意味はわかるだろう。それから、おまえたち全員がかれらと一、二度おしゃべりする機会をもったあとで、他のことも試そうと思っているんだ。ニーサには不思議な性質を持つ木の根や葉っぱや珍しい小さなベリーがたくさんある。まったく妙なことだが、ほとんどの人間はおれの作るささやかな混合薬を飲むよりは、拷問台や刑車のほうがましだと言うんだ」イーディスはそう言うと声をあげて笑った。その声はひどく残忍で、陽気さは微塵もなかった。「詳しい話は、おれが伯爵をベッドに寝かしつけてからだ。今はとりあえず、階下に特別に用意しておいた場所へ護衛たちが案内するから」
そのときドラヴォー伯爵が目を覚まし、あたりをキョロキョロと見回した。「おや、お客人はもうお帰りになってしまうのか?」かれは訊ねた。
「ええ、伯爵」イーディスは答えた。
「そうか、では」伯爵はかすかに微笑みながら、「ごきげんよう、諸君。いつかあんたたちがまたこの地に戻ってきて、楽しいおしゃべりのつづきができるといいな」
ガリオンが連れていかれた独房はじめじめと湿っぽく、下水と腐った食べ物の臭いがした。だがなにより不快なのは、漆黒の闇だった。かれは自分の体が闇に押しつぶされていくのを感じながら、鉄のドアのわきにうずくまっていた。と、小室のひと隅からカリカリ、スススーという小さな音が聞こえてきた。かれはきっとネズミだろうと思い、できるだけドアの近くにへばりつくよう努力した。どこからともなくチョロチョロと水の流れる音が聞こえてくると、かれの喉は渇きでヒリヒリしてきた。
たしかにあたりは真っ暗だったが、しーんと静まりかえっているわけではなかった。近くの独房では鎖の音がしているし、誰かのうめき声も聞こえる。もっと遠くのほうでは狂ったような笑い声があがっている。途切れることなく延々とつづく狂気の高笑い。それが暗闇の中でいつまでもいつまでもこだましているのだ。誰かが耳をつんざくようなけたたましい声で一度、さらにもう一度と絶叫した。この叫びは断末魔の叫びではないかと思うと、すぐさまガリオンの頭の中では拷問の光景が浮かび上がり、思わずヌルヌルした岩壁にあとずさりした。
このような場所では、時間は存在しないに等しい。だからドアそのものから出ているようなガリガリ、カチカチというかすかな金属音が聞こえてきたとき、いったいどのくらい長いあいだこの独房でひとり恐怖に震えながらうずくまっていたのかガリオンにはまったく見当もつかなかった。かれはその音を聞くと、よろよろとつまずきながら独房のでこぼこした床を這うようにして一番遠くの壁まで後ずさった。「来るな!」かれは叫んだ。
「しっ、声を低くしろ!」シルクがドアのところでささやいた。
「シルク、あなたなの?」ガリオンは安堵して、ほとんどすすり泣きながら言った。
「誰だと思った?」
「どうやって逃げたの?」
「あまりしゃべるな」シルクは食いしばった歯の隙間から言った。「ちくしょう、いまいましい赤錆め!」かれは悪態をついて、ブーブーと不平を漏らしていたが、やがてドアのところでガチャという耳障りな音がした。「いいぞ!」独房のドアがきしみながら開くと、どこかの松明が放つかすかな光が部屋の中に漏れてきた。「さあ、来るんだ」シルクがささやいた。「急がないと」
ガリオンはほとんど走るようにして独房を抜けだした。ポルおばさんは薄暗い石の廊下を二、三段下ったところでかれを待っていた。ガリオンは黙って彼女に歩み寄った。ポルおばさんはしばらく思いつめた様子でガリオンの顔を見ていたかと思うと、やがて両手でかれの体を包んだ。ふたりとも無言のままだった。
シルクは顔一面に汗の粒を光らせながら、もうひとつのドアに取りかかっていた。鍵がガチャッと音を立て、ギギーというきしみとともにドアが開いた。中から出てきたのはヘターだった。「どうしてこんなに時間がかかったんです?」かれはシルクに訊ねた。
「錆だよ!」シルクは低い声で言い返した。「まったくここの鍵をこんな状態にしてくれた看守を全員ムチで打ってやりたいね」
「もう少し急いでくれないか?」バラクが見張りに立っている場所から肩ごしに言った。
「じゃあ、おまえがやるか?」シルクが言いかえした。
「いいから、できるだけ早く仕事をすましてちょうだい」ポルおばさんが言った。「今は口喧嘩してる場合じゃないでしょ」彼女は毅然とした態度で青いマントをたたみ、一方の腕にかけた。
シルクは苦々しい顔で不平を言ってから、次のドアに取りかかった。
「まったくこんなに雄弁をふるう必要がどこにあるのかね?」最後に釈放されたミスター・ウルフは独房から出てくるなり、てきぱきした口調で言った。「おまえたちのおしゃべりときたら、まるで蛙の群れみたいだったぞ」
「ケルダー王子はここの鍵の状態について感想を述べておく必要があると感じたようですよ」マンドラレンが軽口をたたいた。
シルクはかれをにらみつけると、廊下の隅のほうに歩きだした。そこでは松明がすすけた天井に向けて黒っぽい煙をもくもくとあげていた。
「気をつけろ」マンドラレンは急いでささやいた。「見張りがおるぞ」汚らしい革の胴着を着たひげの男が、廊下の壁に寄りかかって座りながらガーガーといびきをかいていた。
「あいつを起こさずにあそこを通り過ぎることができるんでしょうか?」ダーニクが声をひそめて言った。
「あと二、三時間は目を覚まさないだろう」バラクが自信ありげに言った。見張りの顔の片側に紫色の腫れがあり、これがかれの言葉をはっきり裏づけしていた。
「他にも見張りがいるのでは?」マンドラレンは両手を曲げながら訊ねた。
「何人かいたよ」バラクが答えた。「そいつらも今は夢の中さ」
「じゃあ、脱出するとしよう」ウルフが言った。
「イーディスも一緒に連れていくでしょ?」ポルおばさんが訊ねた。
「なんのために?」
「かれと話がしたいのよ。たっぷりと時間をかけて」
「時間の無駄だな。サルミスラがこの件に首を突っ込んできた。それが分かっただけで十分じゃないか。彼女の動機がなんであれ、わしにはたいして興味はない。そんなことより、できるだけ静かにここを抜け出すんだ」
かれらはいびきをかいている見張りの前を忍び足で通り過ぎると、角を曲がってもうひとつの廊下をそっと進んだ。
「死んじまったか?」ビクッとするほど大きな声が、かんぬきをしたドアの向こうから聞こえてきた。くすんだ赤い光がそこから漏れている。
「いいや」別の声が答えた。「気を失っているだけだ。おまえがレバーを強く引きすぎたんだよ。圧力はしっかり保っておかないと。もし気を失ってるんでなきゃ、一からやりなおさなければならないところだったぞ」
「こいつは思ったより難しい仕事のようだな」最初の声がブツブツと言った。
「頑張ってると思うぜ。だいたい拷問台っていうのは精巧にできてるんだよ。ただ、圧力をしっかり保って、レバーを急にぐっと引かないということだけ覚えておくんだな。アームをソケットから抜いてしまうと、連中はたいてい死んじまうから」
ポルおばさんの顔がこわばり、目の中でカッと炎が揺らめいた。彼女は小さなジェスチャーをして何かをつぶやいた。歯から漏れるような短い音がガリオンの頭の中にも響いた。
「なあ」最初の声がボソボソと小さい声で言った。「なんだか急に気分が悪くなってきたような気がするんだが」
「そう言われてみると、おれもなんだか気分が悪くなってきたな」二番目の声が答えた。「夕食に食べた肉だけど、変じゃなかったか?」
「べつに変なところはなかったと思うけど」長い沈黙のあと、「本当に気分が悪くなってきたぜ」
かれらはかんぬきのドアを爪先歩きで通り過ぎた。ガリオンは意識的に中を覗かないようにした。廊下の突き当たりには、鉄張りした頑丈そうなオーク材のドアがあった。シルクは把手のあたりに指を這わせた。「外から鍵がかかっている」
「誰か来ますよ」ヘターが言った。
ささやき声と耳障りな笑い声とともに、ドアの向こうの石階段から重々しい足音が聞こえてきた。
ウルフはとっさに近くの独房のドアに目をつけた。かれが指先でさわると、錆びた鉄の鍵はすぐにカチッと音を立てた。「ここに入れ」かれはささやいた。全員がその独房の中に入り込むと、かれは最後にドアを閉じた。
「暇ができたら、今の技についてぜひあなたとお話がしたいですな」とシルクが言った。
「鍵にかけてはおまえの方がずっと先輩だ。お株を奪うつもりはないよ」ウルフは穏やかに笑った。「さあ、耳を貸してくれ。この男たちがわれわれの独房が空っぽになっていることを発見して、屋敷じゅうが大騒ぎになるまえに、こいつらを始末してしまわないと」
「簡単ですよ」バラクが自信ありげに言った。
みんなは次の言葉を待った。
「あいつら、ドアを開けてるぞ」ダーニクがささやいた。
「何人いる?」マンドラレンが訊ねた。
「わからない」
「八人よ」ポルおばさんがきっぱりと言った。
「よし、わかった」バラクが意を決したように言った。「まずここを通過させて、後ろから襲いかかるんだ。こんな場所だから叫び声のひとつやふたつあがっても別に問題はないだろうが、なるべく速やかにぶちのめすんだ」
かれらは独房の暗闇の中でじっと息をひそめていた。
「イーディスは、あいつらの何人かが拷問の最中に死んでしまってもかまうことはないと言ってるぞ」外の男たちのひとりが言った。「生かしておかなくちゃいけないのは、じじいと女と小僧だ」
「じゃあ、赤ひげの大男を殺っちまおうぜ」もうひとりの男が提案した。「あいつは何か厄介なことを起こしそうな面をしてるし、生かしておいても頭が弱すぎてなんの役にも立たないだろう」
「おれはこいつを殺るぞ」バラクは声を押し殺して言った。
廊下の男たちが独房の前を通り過ぎた。
「よし、今だ」バラクの号令がとんだ。
さして時間のかからない、残忍な戦いだった。かれらは猛烈な勢いで、呆気にとられている看守たちを取り巻いた。そして何が起こったかを看守たちがすっかり理解したときには、すでに三人が倒れていた。ひとりが叫び声をあげ、戦いをうまく避けながら階段に向かって走りだした。ガリオンは一も二も考えずに逃げる男の前に飛び込んだ。そしてくるりと一回転して、男の足をもつれさせ、つまずかせた。男は立ち上がろうとしたが、その瞬間耳のすぐ下にシルクの絶妙なキックを受けると、ぐにゃぐにゃした肉のかたまりのように床に沈み込んだ。
「だいじょうぶか?」シルクが聞いた。
ガリオンは失神した看守の下からのそのそと抜け出し、急いで立ち上がったが、戦いはすでにほとんど片がついていた。ダーニクは頑強そうな男の頭を壁にガンガン打ちつけ、バラクは別の男の顔をこぶしで殴りつけている。マンドラレンは三人目の首を締めているし、ヘターは両手を出して四人目の看守に忍び寄っている。ヘターの両手が近づいたとたん、まんまるい目をした看守は悲鳴をあげた。ヘターはまっすぐに胸を張ると、その場でぐるぐるっと回り、満身の力をこめて男を壁に投げつけた。骨が折れるときの耳障りな音があたりに響き渡り、男はくたくたっと崩れ落ちた。
「小気味いい戦いだな」バラクはそう言って指の関節をなでた。
「ええ、爽快ですよ」ヘターはぐにゃぐにゃの体を床にすべらせながら答えた。
「終わりそうか?」階段ちかくのドアからシルクのしゃがれ声が聞こえた。
「もうほとんど終わってる」バラクが答えた。「手を貸そうか、シルク?」
ダーニクは頑強そうな男のあごを持ち上げて虚ろな瞳をまじまじと眺めた。それから念のためにもう一度その看守の頭を壁に打ちつけて、そのまま床に転がした。
「行きましょうか?」ヘターが言った。
「それがいいようだな」バラクは散らかった廊下を調べながら言った。
「階段の上のドアは鍵がかかってないぞ」かれらが合流するとシルクが報告した。「しかもその向こうの廊下は空っぽだ。屋敷じゅうが寝静まっているようだが、物音はたてないように注意していこう」
かれらはシルクの後について静かに階段をのぼっていった。ドアのところまで来るとシルクはいったん立ち止まった。「ちょっとここで待っててくれ」かれはそうささやくと足音をまったく立てずに姿を消した。かなりの時間が過ぎたように思われた。とそのとき、兵士に取り上げられた武器を持ってかれが戻ってきた。「これを持っていたほうがいいと思ったんだ」
ガリオンは剣を帯するとがぜん元気がでてきたような気がした。
「さあ、行くぞ」シルクはみんなの先頭に立って廊下のはずれの曲がり角に向かった。
「わしは少し緑を飲みたいのだが、どうだろうイーディス」わずかなドアの隙間からドラヴォー伯爵の声が聞こえてきた。
「もちろんですとも、伯爵」歯の隙間から漏れるような耳障りな声でイーディスが答えた。
「緑はあまり美味しくないが、あれを飲むとじつに楽しい夢を見れる。赤いのは味はいいけど夢があまりよくないようだな」
「すぐに青の用意をしますから、伯爵」イーディスが言った。カチャッというかすかな音につづいて、グラスに液体を注ぐ音が聞こえてきた。「次は黄色、そして最後が黒。なんといっても最高なのはこの黒ですよ」
シルクは爪先歩きでみんなを先導し、半開きのドアを通り過ぎた。外に通じるドアはシルクの腕にかかると難なく開き、かれらはひんやりした月夜の世界に体をすべり込ませた。頭上ではキラキラと星が輝き、風は甘い香りを含んでいる。「馬を連れてきます」ヘターが言った。
「一緒に行ってやれ、マンドラレン。わしらは向こうで待っている」ウルフは闇に沈んでいる庭を指さした。ヘターとマンドラレンは角のあたりで姿を消し、残った者はミスター・ウルフのあとについてドラヴォー伯爵家の庭を囲むぼんやりとした生垣の陰の中に入っていった。
かれらはふたりの帰りを待った。夜気は冷たく、ガリオンはいつのまにかブルブルと震えていた。やがてひづめと石がぶつかる音がして、ヘターとマンドラレンが馬を率いて戻ってきた。
「急いだほうがいいな」ウルフが言った。「ドラヴォーが眠りに落ちたらイーディスはすぐに牢屋に下りていく。そしてわれわれがいなくなっていることに気づくはずだ。馬の先に立って歩け。屋敷から離れるまでは物音を立てないようにしよう」
かれらは馬を従えながら月明かりに照らされた庭の中を進んだ。やっとのことで庭の向こうの広い芝生に出ると、かれらは音をたてないように注意しながら馬に乗った。
「急いだほうがいいわ」ポルおばさんが屋敷を振り返って言った。
「あそこを出る前に、時間稼ぎの種をつくっておきましたよ」シルクが短く笑いながら言った。
「そんなことをする暇がどこにあったんだよ?」バラクが訊ねた。
「武器を取り返しに行ったとき、ついでに台所に火をつけてきたのさ。あれでしばらくあいつらの注意を惹くことができるだろう」
屋敷の裏手から、巻ひげのようなひと筋の煙が夜空にのぼっていた。
「まったく悪知恵がはたらくわね」ポルおばさんは不承不承にかれの手柄をほめた。
「ありがとうございます、奥方さま」シルクは茶目っ気たっぷりにちょこっとお辞儀をした。
ミスター・ウルフはクスクスと笑いながら軽い速足でみんなを先導した。
かれらが遠ざかるにつれて屋敷の裏手からあがる煙の筋はしだいに密度を増し、黒いもくもくとしたかたまりが何も知らずに輝いている星のほうにのぼっていった。
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15[#「15」は縦中横]
かれらはその後の何日かのあいだ、馬を休ませたり数時間の睡眠をとるために時たま立ち止まる以外は、ほとんど脇目もふらずに走りつづけた。いつしかガリオンは馬が歩いているときには必ず鞍の上でうとうとと居眠りができるようになっていた。実際、かれはくたくたに疲れているときはどんなところでも眠れるようになっていたのだ。ある日の午後、ウルフが決めた速度で馬を歩かせながらみんなが休養をとっているとき、ガリオンの耳にシルクとミスター・ウルフとポルおばさんの話し声が入ってきた。体は疲れていたが、しまいには好奇心に動かされて、話を聞けるぐらいに目を覚ました。
「どうしてサルミスラがこの件に首を突っ込んできたのか、もっとくわしく知りたいんですよ」そう言っているのはシルクだ。
「あの女は抜け目がないからな」とウルフ。「混乱が起こると必ずその機に乗じて得することを考える」
「ということは、われわれはマーゴ人と同様にニーサ人もかわさなければいけないということですか」
ガリオンはぱっと目を開いた。「どうしてかれらはそのひとのことを永遠なるサルミスラ様って呼ぶの?」かれはポルおばさんに聞いた。「そんなに年をとってるわけ?」
「いいえ」ポルおばさんが答えた。「ニーサの女王は必ずサルミスラを名乗るの、それだけの話よ」
「今の女王を知ってるの?」
「その必要はないわ。彼女たちはいつの時代もまったく変わらないの。外見も一緒ならやることも一緒。ひとりを知っていれば、代々の女王を知ったも同然なのよ」
「イーディスの失態を知ったらサルミスラはさぞかしがっかりするだろうな」シルクはそう言ってニヤニヤと笑った。
「イーディスも今頃は安らかで、苦痛を伴わない逃げ道を考え出しているさ」ウルフが言った。
「サルミスラはイライラすると見境がなくなるからな」
「そんなに残酷なの?」ガリオンは訊ねた。
「それほど残酷というわけでもない」ウルフは説明した。「ニーサ人は蛇を崇拝している。蛇を怒らせたら、噛みつかれるのはおまえも知っているだろう。蛇は単純な生き物だが、論理的だ。一度噛みついたら、それ以上怨みは抱かない」
「なんでここで蛇の話をしなくちゃならないんですか?」シルクは苦しそうな声で聞いた。
「馬たちはもう疲れがとれたようですよ」ヘターがうしろから声をかけた。「もう出発できます」
かれらはふたたび馬の歩調を全力疾走に戻し、ネドレイン川とトル・ホネスを含む広い谷間に向けて南下した。日差しはしだいに暖かさを増し、道沿いの木々も早春の光の中で芽を吹きはじめている。
威厳に満ちた帝国の都は川の中州の上にあり、すべての道はそこに通じていた。最後の尾根の頂上に達して実り豊かな谷間を見下ろすと、遠目にもその様子がはっきりと見てとれた。そして一マイル、また一マイルと馬を進めるごとに、その巨大な全容が目の前に迫ってきた。都はすべて白い大理石からできていて、まばゆい午前の日差しを受けたその姿は見る者の目をチカチカさせた。塀は高くて厚みがあり、都の内側の塔がその上から顔をのぞかせている。
小さく波うつネドレインの川面の上を優雅なアーチを描きながら、またいでいる橋の向こうには、青銅色の北門が広がっている。そこにはピカピカの鎧をつけて絶え間なく見張りの行進をつづけるトルネドラ軍の分遣隊の姿が見える。
シルクは地味なマントと帽子を身につけ、居ずまいを正し、例の生真面目で事務的な表情を装った。こうやって内面的にも変身をはかっているのだが、ともするとふりをしているはずのドラスニア商人になりきってしまっているようにも見えた。
「トル・ホネスで商売を?」分遣隊のひとりがていねいに訊ねた。
「ボクトールのラデクと申します」シルクは、頭の中には商売のことしかないといった雰囲気を漂わせながら答えた。「センダリアの上質な毛織り物を持っているんです」
「それなら中央市場の責任者と話をするがいい」軍人はかれの気持ちを察してそう言った。
「ありがとうございます」シルクはうなずいて合図をすると、みんなの先に立って門をくぐり、その向こうの広くて騒がしい通りに入っていった。
「宮殿に立ち寄ってラン・ボルーンと話をしておいたほうがよさそうだな」ミスター・ウルフが言った。「ボルーン家はお世辞にもつきあいやすい帝族とは言えないが、じつに聡明な連中だ。あまり騒ぎを起こして、状況が深刻だということを悟られないようにしないと」
「どうやってかれらに会うつもり?」ポルおばさんが聞いた。「謁見の約束を取りつけるのに何週間もかかるわよ。あのひとたちがどんな連中か、おとうさんも知ってるでしょ?」
ミスター・ウルフは苦い顔をした。「お祝いごとの名目で訪問しようと思うんだが」人込みをかきわけて馬を歩かせながらかれは言った。
「自分の存在を都じゅうに知らせるつもり?」
「他に方法があるか? とにかくあの連中に本音を吐かせなければならないのだ。中立の立場をとらせるわけにはいかないからな」
「提案したいことがあるんですが」バラクが口をはさんだ。
「今ならなんでも聞くぞ」
「グリンネグのところに行ってみたらどうです? かれはチェレクの大使としてここにいるんだけど。かれなら、そんな騒ぎを起こさずに宮殿の中に案内してくれるはずですよ」
「悪くない話じゃないですか、ベルガラス」シルクもこの意見に賛成した。「グリンネグなら宮殿に知り合いも多いからすぐに中に通してくれますよ。それにラン・ボルーンはかれに敬意を払ってますから」
「あとはどうやって大使に会うかということだけですね」かれらが立ち止まって重そうな荷馬車をわき道に通してやっているときに、ダーニクが口を開いた。
「かれはおれのいとこなんだよ」バラクが言った。「あいつとアンヘグとおれは子供の頃いっしょに遊んだ仲なんだ」かれはそう言うとあたりをキョロキョロと見回した。「帝国第三軍団の駐屯地のちかくに家を構えているはずなんだが。誰かに道を聞けばいいだろう」
「その必要はないぞ」シルクが言った。「そこなら知ってる」
「ああ、そうだったな」バラクはニヤリと笑った。
「北の市場をくぐり抜けていけばいいのさ」シルクは説明した。「駐屯地は中州の下流にある一番重要な波止場付近に位置してるんだ」
「はやく案内してくれ」ウルフが言った。「こんなところで時間を無駄にするのはごめんだ」
トル・ホネスの通りは世界じゅうから集まったひとびとでごった返していた。ドラスニア人、リヴァ人がニーサ人やタール人と肩と肩をすりあわせている光景も見られる。人込みの中にはナドラク人の姿もちらほらあったし、マーゴ人もガリオンの目には必要以上に多いように見えた。ポルおばさんはヘターのわきに馬を近づけ、ときどきかれの利き腕に軽く手をかけては何やら話しかけている。顔に傷を持つマーゴ人を見るたびに、かれの目は赤く燃え、小鼻が険悪な様子でひくついているのだ。
広い通り沿いに並ぶ家々は堂々たるたたずまいを見せていた。白い大理石の正面に重々しいドア。個人で雇った傭兵が道ゆくひとを血の気の多い顔でにらみつけているという家もけっして少なくなかった。
「帝国の都は疑惑に満ちているらしい」マンドラレンが感想をもらした。「かれらはそんなに隣人が怖いのだろうか?」
「動乱の時期なのさ」シルクが説明した。「トル・ホネスの豪商たちは世界じゅうから集まる巨額の富を執事部屋に蓄えている。この通りには、その気になればアレンディアの大部分を買い占められるような人間が住んでいるんだ」
「アレンディアは売りものではないぞ」マンドラレンは顔をこわばらせた。
「男爵どの、このトル・ホネスでは金で買えないものは何ひとつない」シルクはマンドラレンに言った。「名誉、功徳、友情、愛。ここは邪悪な人間がうようよしている邪悪の都。すべては金なんだ」
「じゃあ、おまえにぴったりの場所じゃないか」バラクが口をはさんだ。
シルクは快活に笑って、「トル・ホネスは好きだよ。ここの人間は幻想を追わない。その徹底した腐敗ぶりを見ていると胸がすっとする」
「シルク、おまえは筋金入りの悪党だよ」バラクは無遠慮に言った。
「そのセリフなら前にも聞いたよ」ネズミ顔のドラスニア人はいたずらっぽく笑いながら言い返した。
大使官邸の門にそびえるポールには碧空を背景に白い戦船《いくさぶね》をかたどったチェレクの国旗がはためいていた。バラクはいくらかぎくしゃくした感じで馬を下りると、門をさえぎっている鉄格子に向かって大股に歩いていった。「グリンネグにいとこのバラクが会いにきたと伝えてくれ」かれは中にいるひげ面の護衛に言った。
「あなたがいとこだという証拠は?」護衛のひとりがぶしつけに聞いた。
バラクはほとんど無意識に格子に腕を突っこみ、その護衛の鎖かたびらを正面からぐいとつかんだ。そしてその体をかんぬきにぴったりと引き寄せた。「もう一度おなじセリフを言ってみたいか?」
「すみません、バラク卿」護衛はすぐに謝まった。「近くでお顔を拝見してみると、たしかにどこかでお会いしたような気がします」
「そうだろうと思ってたよ」
「すぐに門を開けますから」
「物分かりがいいな」バラクは鎖かたびらを放しながら言った。護衛が急いで門を開けると、かれらは広々とした中庭に馬を乗り入れた。
アンヘグ王の命でトル・ホネスの帝室に遣わされているグリンネグ大使は、バラクと同じぐらい大柄な、がっしりとした体格の男だった。あごひげは短く刈り込まれていて、トルネドラ式の青いマントを身につけている。かれは一段あかしで階段を飛びおりてくると、大きな熊のようにバラクに抱きついた。「この海賊が!」かれは吠えるように言った。「なんだってトル・ホネスなんかにいるんだ?」
「アンヘグがここを侵攻することに決めたんだよ」バラクはジョークを飛ばした。「金と女を集めたら、おまえたちはただちに都に火を放つんだ」
グリンネグはその言葉に一瞬目を輝かせた。
「そんなことをしたら帝国が黙っちゃいないだろう?」かれは邪悪な笑みを浮かべながら言った。
「ところでそのひげはどうしたんだ?」バラクはだしぬけに聞いた。
グリンネグは咳き込んで、きまりわるそうな顔をした。「そんなことはどうでもいいじゃないか」かれは慌ててとりつくろった。
「今までおれたちは一度でも秘密を持ったことがあるか?」バラクは非難がましく言った。
グリンネグは恥ずかしそうな様子でいとこにボソボソと耳打ちした。と、いきなりバラクがあたりにとどろくような大声で笑いだした。「どうして彼女にそんな真似を?」
「酔ってたんだ。とにかく中に入ってくれ。地下室にとっておきの樽入りエールがあるんだ」
あとの仲間もふたりの大男のあとから屋敷の中に足を踏み入れ、広い廊下を通ってやがてチェレクの調度品が並ぶ部屋に入った。革張りの重々しい椅子やベンチ、イグサ編みの床、大きな暖炉の中では大きな丸太の端がくすぶっている。脂を塗った数本の松明が岩壁の鉄の輪の中で黒い煙をあげている。「ここにいると落ち着くんだ」グリンネグが言った。
召使いがひとり、タンカードに注いだこげ茶色のエールを人数分運んでくると、すみやかに立ち去った。ガリオンはポルおばさんに「あんたはもっと刺激の少ないものを」と言われないうちに急いでタンカードを手に取り、苦い液体をガブガブと喉に流しこんだ。ポルおばさんは何も言わずに、無表情な目でその様子を見守っていた。
グリンネグは手足を気持ちよさそうに投げ出して、熊皮を無造作に掛けた大きな手彫りの椅子にすわった。「バラク、トル・ホネスに来たほんとうの理由はなんなんだ?」
「グリンネグ」バラクは真剣な顔で言った。「こちらはベルガラス。おまえも名前を聞いたことはあると思うが」
グリンネグ大使は目を丸くしてこっくりとうなずいた。「心ゆくまでお寛ぎください」かれはうやうやしく言った。
「ラン・ボルーンに会わせてもらえないだろうか?」ミスター・ウルフは暖炉に近い粗削りのベンチにすわったまま訊ねた。
「それぐらい造作のないことですよ」
「それはありがたい。じつはかれと話さなければいけないことがあるんだが、面会にこぎつける前にへたな騒ぎを起こしたくないと思っていたのだ」
バラクが他の仲間の紹介をすると、グリンネグはひとりひとりに丁寧にお辞儀をした。
「それにしても、えらいときにトル・ホネスにいらしたものですね」交歓が終わったところでかれは言った。「トルネドラじゅうの貴族が、牛の死骸に群がるカラスのように、この都に集まってきているんですよ」
「北から来る途中で一、二度そういう話を耳にしましたけど」シルクはかれに言った。「それほどひどい状況なんですか?」
「おそらく噂以上だと思いますよ」グリンネグは片方の耳をなでながら答えた。「帝国支配者の継承が行われるのは、十億年にほんの数回ですからね。ボルーン家がこの国を統治するようになってからもう六百年以上の年月がたっています。他の家の連中はそりゃあもう血道を上げて君主交代の時期を待ちわびているんです」
「ラン・ボルーンの後を継ぐ可能性がもっとも高いのは誰かね?」ミスター・ウルフが訊ねた。
「今のところトル・ヴォードゥのカドール大公が一番優勢でしょう。かれは他の誰よりも金を持ってますし。もちろんホネス家のほうが金持ちですが、あっちには候補者が七人もいるので、金が分散してしまうんですよ。正直申しあげて、他の家には勝ち目はありません。ボルーン家には皇帝にふさわしい候補者はいないし、ラナイト家のことを真剣に考える人間もまずいないでしょう」
ガリオンは自分がすわっているスツールのわきの床にタンカードをそっと置いた。苦いエールは実際はそれほど美味しいものではなかったので、かれはなんとなくだまされたような気がした。もっとも、タンカード半杯分のエールを飲んだだけでもう耳がほてり、鼻の先がかすかにしびれているような感じがしていたのだが。
「わたしたちが会ったヴォードゥ派の人間は、ホーバイト家が毒を盛っていると言ってましたけど」シルクが言った。
「他だって同じようなものですよ」グリンネグはいささかうんざりしたような様子で言った。
「ホーバイト家が他より少しおおっぴらにやっているというだけの話です。いずれにせよ、もしラン・ボルーンが今日にでも死んでしまえば、次の皇帝はカドールということになるでしょう」
ミスター・ウルフは顔をしかめて、「わしはヴォードゥ派の人間とうまくいったためしがないのだ。だいたいからして皇帝の器に合うような家柄じゃない」
「老皇帝はまだすこぶる健康なんですよ」グリンネグが説明した。「もしかれがあと一、二年生きながらえたら、ホネス家はひとりの候補者のうしろに力を結集させるでしょう――生存競争に勝ち残った者なら誰でもかまわずに――そうなれば、かれらはすべての金を使って事態を乗り切ることができるわけです。といっても、それを実現するにはかなりの時間を要しますけどね。候補者たちはどうかと言えば、たいていは都の外にいて異常なくらいに警戒しているから、刺客はかれらに近づくことさえできないというのが現状なんです」かれはそう言って笑うと、つづけざまにエールを飲んだ。「まったく変な民族ですよ」
「すぐに宮殿に行けるかね?」ミスター・ウルフが訊ねた。
「それよりもまず服を替えないと」ポルおばさんが断固たる調子で言った。
「またか、ポルガラ?」ウルフはがまん強いまなざしで彼女を見た。
「言われたとおりにして、おとうさん。宮殿にボロを着ていってわたしたちにまで恥をかかせるのはやめてほしいわ」
「またあのローブを着るのはごめんだぞ」ウルフは頑とした態度で言った。
「ええ、あれはふさわしくないもの。たぶん大使がマントを貸してくださると思うわ。それならあれほど仰々しくはならないはずよ」
「おまえの言うとおりにすればいいんだろ、ポル」ウルフは根負けして溜息をもらした。
グリンネグはかれらが着替えをすませると厳めしい顔のチェレク戦士ばかりで構成された儀仗兵を整列させ、一行はしっかり護衛されながら宮殿をめざしてトル・ホネスの大通りを進んだ。ガリオンは都のけんらんさにすっかり度胆を抜かれ、おまけにタンカード半分のエールの影響ですこし目がくらむような気もしたので、なるべく巨大な建物や威厳のある礼儀正しい身のこなしで白日の街をぶらついているぜいたくな服装のトルネドラ人に見惚れないようにしながら、シルクのわきで黙々と馬を歩かせた。
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16[#「16」は縦中横]
帝国の宮殿はトル・ホネスの中央にある小高い丘の上にそびえ立っていた。宮殿を構成しているのはひとつづきの建物ではなく、大小さまざまな無数の建物だった。いずれの建物も大理石でできていて、庭園や芝生に囲まれ、イトスギの木がここちよい木陰をつくりだしている。宮殿ぜんたいは、てっぺんに一定の間隔をおいて彫刻を戴いた見上げるような高い塀に囲まれている。宮殿の門を守っている近衛兵はチェレクの大使を認めると、すぐに皇帝の侍従のひとりである茶色のマントを着た白髪の役人を呼びにやった。
「ラン・ボルーン皇帝にお会いしたいのですが、モリン卿」一行が宮殿の門のすぐ内側にある大理石の前庭に降りたつと、グリンネグはさっそく役人に申し出た。「急を要することなのです」
「もちろん結構ですよ、グリンネグ卿」白髪の男はこころよく答えた。「アンヘグ王の勅使であられるあなたならラン・ボルーン皇帝はいつでも喜んでお話しになりますよ。ただ、あいにく皇帝は今お休みの最中なのです。午後になればきっとご面会の手はずを整えることができると思うのですが。最悪でも明日の午前中には」
「それでは困るのですよ、モリン。われわれは今すぐ皇帝にお会いしなければならないのです。できれば皇帝を起こしていただきたいのだが」
モリン卿はびっくりしたようだった。「それほど急な用事なわけはないでしょう」かれはたしなめるように言った。
「残念ながら、それほど急な用事なんです」
モリンはグリンネグたちの顔をひとつひとつ眺めながら、考えこむような様子で唇をすぼめた。
「わたしがこんなことを軽々しく頼むような人間じゃないということは、あなたもよくご存知のはずでしょう、モリン」グリンネグはなおも言った。
モリンは溜息をつくと、「あなたのことは心から信頼していますよ、グリンネグ。いいでしょう。ついてきてください。ただしあなたの護衛にはここで待ってもらってくださいよ」
グリンネグが護衛に素っ気ない合図を送ったあと、一行はモリン卿のあとについて広々とした前庭を抜け、一棟の建物にめぐらされている円柱の回廊に向かった。
「最近の皇帝はどんなご様子ですか?」グリンネグは日の当たらない回廊を歩きながら訊ねた。
「健康状態は良好ですよ。でも気力のほうは最近とみに衰えてきているようですね。ボルーン一族の人間は申し合わせたように今の地位をなげうって、続々とトル・ボルーンに帰っています」
「こんな状況のときはそうするのが賢明でしょう」グリンネグは言った。「おそらく今回の継承問題に絡んで数えきれないほど大勢の死者が出るでしょうね」
「ええ、たぶん。でも皇帝ご自身は一族の人間に見捨てられることをたいへん嘆いていらっしゃるようです」かれはアーチ型をした大理石の門の近くまで来ると足を止めた。そこには、金の装飾の胸当てをつけたふたりの近衛兵が、こわい顔をして立っていた。「武器はここに置いていってください。皇帝はそういうことにひどく敏感になっていらっしゃるので――おわかりいただけますね」
「もちろんですよ」グリンネグはそう言うとマントの下から重々しい剣を抜き出して、壁に立てかけた。
他の仲間もかれにならった。シルクが三種類の短剣を衣服のそれぞれ違う場所から抜き出すと、モリン卿はびっくりして目を瞬いた。――なんとまあ恐ろしい装備だろう――かれの手が謎言葉のジェスチャーでチラチラと動いた。
――動乱の時期ですからね――シルクの指がすまなそうに言い訳した。
モリン卿はかすかに微笑むと、先頭に立って門をくぐり、内側の庭園にみんなを招き入れた。庭園の芝生は短く平均に刈り込まれていた。穏やかに水しぶきをあげている噴水、きれいに刈り込まれたバラのしげみも見える。かなりの老齢と思われる果物の木々が暖かい日差しを受けて今にも花を咲かせんとばかりに芽吹いている。ねじれた大枝に点在する巣の上で雀がさえずっている。グリンネグたちはモリンのあとからカーヴした大理石の歩道を歩き、庭園の中央に向かった。
トルネドラ皇帝、ラン・ボルーン二十三世は小柄な老翁で、頭はすっかり禿げあがり、金色のマントを羽織っていた。かれは、つぼみをつけた葡萄をはわせたあずまやの中にあるどっしりした椅子にのんびりと腰を下ろし、椅子の袖で羽を休めている鮮やかな色のカナリアに小さな実を与えているところだった。鼻はくちばしのようなかぎ鼻で、目は好奇心に爛々と輝いている。「ひとりにしておいてほしいと言ったはずだぞ、モリン」かれはカナリアから目をあげて苛立たしそうに言った。
「まことに申し訳ございません、陛下」モリン卿は深々と頭を下げながら言った。「チェレク大使のグリンネグ卿が至急の用件で殿下に面会したいと申されましたもので。一刻の猶予もならないという卿の言葉に説得されたしだいです」
皇帝は鋭い目つきでグリンネグを見た。その目がしだいにずるがしこい、意地の悪いまなざしに変わった。「ひげがまた生え始めているようだな、グリンネグ」
グリンネグの顔は見るみるうちに紅潮してきた。「殿下がわたくしの些細な不運までご存知だったとは」
「グリンネグ、トル・ホネスで起こったことでわしの知らないことはない」皇帝はピシャリとやり返した。「たとえわしのいとこや甥たちが燃えている家から逃げ出すネズミのように逃げ出そうとも、わしのまわりにはまだひとにぎりの忠実な僕《しもべ》が残っているのだ。いったいなんだってあんなナドラクの女に魅かれたんだね? わしはきみたちアローン人はアンガラク人を忌み嫌っているものとばかり思っていたが」
グリンネグはぶざまに咳き込んで、ポルおばさんの顔をちらっと見た。「ほんのジョークですよ、陛下。ナドラクの大使を慌てさせてやろうと思ったんです――なんといってもかれの夫人は非常に美しい女性ですから。まさか彼女がベッドの下にはさみを隠していようとは」
「あの女はきみのひげを金色の小箱に入れているそうじゃないか」皇帝は作り笑いをした。
「それを友だちみんなに見せているとか」
「ひどい女ですよ」グリンネグは悲しそうに言った。
「そこにいるのは?」皇帝は一本指をひらひらさせてグリンネグ大使のやや後ろの芝生に立っている仲間を示しながら訊ねた。
「わたしのいとこのバラクとその仲間です。じつは陛下とお話がしたいと言っているのはかれらなのです」
「トレルハイム伯爵か? きみはトル・ホネスでいったい何をしているんだね?」
「通り抜けるだけです、陛下」バラクは頭を下げながら言った。
ラン・ボルーンはまるで初めてあとの仲間の顔を見るかのように、するどい目つきでひとりひとりの顔を見すえた。「じゃあ、そこにいるのがドラスニアのケルダー王子だな――前回トル・ホネスに滞在したときは早々にお帰りあそばしたという――たしかサーカスの軽業師を装って警察に一歩ほど先んじたと記憶しているが」
シルクもていねいにお辞儀をした。
「それからアルガリアのヘター」皇帝は言葉をつないだ。「クトル・マーゴスの住民を絶やそうと孤軍奮闘しているのはきみだな」
ヘターが頭を下げた。
「モリン」皇帝はきつい口調で言った。「なぜわしのまわりにアローン人を連れてきたりしたのだ? わしはアローン人が嫌いなんだぞ」
「緊急の用事だと言うものですから、陛下」モリンは弁解するように言った。
「それにアレンド人か?」皇帝はマンドラレンの顔を見ながら言った。「いや、ミンブレイト人と言うべきだな」かれは目を細めた。「わしの耳に入った情報から判断すると、おそらくその男がボー・マンドール男爵だな」
マンドラレンのお辞儀は優雅で礼節をわきまえていた。「ヒントもなしにわれわれの正体をつぎつぎに解いておしまいになるとは、まことに鋭い眼力をお持ちでいらっしゃいますな、陛下」
「全員を正確に把握しているわけではない」皇帝は言った。「そのセンダー人とリヴァ人の子供は正体がわからん」
ガリオンはびくっとした。以前バラクに、「おまえは他のどの人種よりもリヴァ人に似ている」と言われたことがあったが、その後次から次へと事件が続いたため、いつしかその思いがけない意見は忘却のかなたに消えてしまっていた。ところが今、物事の本質を見抜くことにかけて神秘的な目を持っていると思われるトルネドラ皇帝がまたしてもかれをリヴァ人と見なしたのだ。ガリオンはポルおばさんの顔をチラリと見たが、彼女はバラの木のつぼみを眺めることに心を奪われているようだった。
「このセンダー人はダーニク」ミスター・ウルフがはじめて口を開いた。「鍛冶職人だ。センダリアでは貴族にも似た扱いを受けるほど立派な職業だが。この坊主はわしの孫のガリオン」
皇帝は老人の顔を見た。「あんたのことは知っているような気がするんだが。あんたのその――」かれは考え込むようにして言葉をとぎらせた。
皇帝の椅子の袖にとまっていたカナリアが急に歌いはじめた。そして大空に羽を広げたかと思うと、脇目もふらずにポルおばさんのところに飛んでいった。彼女が指を差し出すと鮮やかな小鳥はそこに止まって首をうしろにもたげ、彼女へのあこがれで小さな胸が張り裂けそうだと言わんばかりにうっとりした調子で歌った。彼女は小鳥の歌にじっと耳を傾けた。今日の彼女は身ごろにぜいたくなレースをあしらった紺青色のドレスに短いクロテン皮のケープという装いをしている。
「わしのカナリアをどうしようというのだ?」皇帝が言った。
「歌を聞いているだけですわ」
「いったいどうやってかれに歌を歌わせたのだ? わしはもう何ヵ月ものあいだ、どうにかなだめすかして歌わせようとしてきたのに」
「きっとカナリアの身になってあげなかったんでしょう」
「誰だ、この女は?」
「わしの娘のポルガラだ」ミスター・ウルフが答えた。「娘は鳥の心を読む特種な能力を持ってるものでな」
皇帝はとつぜん疑心に満ちた耳障りな声で笑いだした。「おいおい、きみ。まさかわしがそんなことを本気にすると思っているわけじゃないだろうね?」
ウルフはかれの顔をまじまじと見つめた。「あんたは本当にわしのことを知らないのかね、ラン・ボルーン?」かれは穏やかに訊ねた。グリンネグが貸してくれた薄緑のマントがかれをトルネドラ人そっくりに見せていた――ほとんど本物に近かったが、それでも完璧とは言いかねた。
「なかなかうまい芝居だな」皇帝は言った。「あんたはもっともらしく振る舞っている。その女も。だが、わしは子供ではない。お伽噺などとうの昔に忘れてしまったわ」
「気の毒に。それ以後の人生はさぞかし虚しいものだったろう」ウルフはきれいに刈り込まれた芝生を見回した。召使い、噴水、そして花壇のあいだのそこここに人目につかないよう配置された皇帝付きの護衛の姿が見える。「いくらこんなものに囲まれていても、驚きのない人生というのは退屈で気の抜けたものだろう、ラン・ボルーン」そう言うかれの声はどことなく寂しげだった。「思うに、あんたは多くのことを諦めすぎたんだな」
「モリン」ラン・ボルーンは有無を言わさぬ調子で言った。「ゼリールを呼びにやってくれ。こんな用事はすぐにすませてしまうぞ」
「はい、ただいま、陛下」モリンはそう言うと召使いのひとりに合図を送った。
「ところで、わしのカナリアを返してもらえんかね?」皇帝は悲しそうな声でポルおばさんに言った。
「もちろんですわ」喉を震わせて歌っている小鳥をびっくりさせないように、彼女は芝生の上をゆっくりとした足取りで椅子にむかった。
「ときどき、小鳥たちが歌を歌っているときに、かれらはいったいどんなことを言っているんだろうと思うことがある」ラン・ボルーンがぽつりと言った。
「今は、はじめて飛べるようになった日のことを話してくれてるんです。鳥にとってはたいへん重要な日ですわね」彼女が手を伸ばすと、カナリアは歌を歌ったまま美しい目で皇帝に目配せしてかれの指に飛び移った。
「なかなか面白い発想だな」小柄な老翁はそう言って笑うと、噴水の水面に反射している太陽の光に視線を向けた。「だが、残念ながらわしにはそんなことに耳を貸している暇はないのだ。今この瞬間にもトルネドラじゅうの人間がわしが死ぬのを心待ちにしている。わしがトルネドラのためにできる一番すばらしいことは速やかに死ぬことだと言わんばかりに。なかにはわざわざわしに手を貸そうとやってくるやつもいる。われわれは宮殿内で先週だけでも四人の暗殺者をつかまえた。わしの一族であるボルーン家の連中ですら、わしにはもう宮殿を支配するだけの家来が残っていない、ましてや帝国を支配できるわけがないと言ってわしを見限っていく。おお、ゼリールが来たようだな」
ボサボサ眉毛の痩せた男が不思議なシンボルをちりばめた赤マントに身を包んで、急ぎ足に芝生を渡ってきたかと思うと、皇帝にむかってうやうやしくお辞儀をした。「お呼びですか、陛下?」
「この婦人が、女魔術師のポルガラで、そこにいる老人がベルガラスだというのだが。ゼリール、悪いがかれらの信任状を調べてみてはくれまいか」
「ベルガラスにポルガラですって?」眉の濃い男はあざけるように言った。「ご冗談でしょう。それは神話上の名前ですよ。そんな人間が存在するわけがありません!」
「おわかりかな」皇帝はポルおばさんに言った。「あんたは存在しない。わしはこの意見を大いに信頼するぞ。ゼリール自身も魔術師なものでな」
「ほんとうに?」
「しかも最高の魔術師だ。もちろん魔術なんていうものはただのまやかしだから、かれのやるトリックもたいていはただの奇術なんだが。それでもわしを大いに楽しませてくれる――本人は大まじめのつもりでいるようだが。ゼリール、さっそく仕事に取りかかっていいぞ。だが、いつもみたいに大騒ぎを起こさないようにな」
「その必要はありませんよ、陛下」ゼリールはぶっきらぼうに言った。「もしかれらがなんらかの魔力を持っていれば、すぐにそうとわかるはずです。われわれは意志を伝達する特殊な方法を持っているんですよ」
ポルおばさんは片方の眉をかすかに上げて魔術師の顔を見た。「もっと近くに来て見たほうがいいんじゃなくて、ゼリールさん。見落とすってこともときにはあるものよ」彼女はそう言うとほとんど目に見えないジェスチャーをした。ガリオンはかすかな音を聞いたような気がした。
魔術師は目の前の宙をじっと見据えていた。その目が徐々にふくれ上がってきて、顔色が死人のように青白くなってきたかと思うと、まるで脚を切り落とされたかのようにガクッとひざをついた。「お許しください、レディ・ポルガラ」かれは平伏しながら、低いしゃがれ声で言った。
「これでわしの心が動くと思ったらしいが」皇帝が言った。「あいにくひとが気圧される場面は見慣れているのでな。だいたいからして、このゼリールは精神的にそれほど強くはないのだ」
「いいかげんうんざりしてきたわ、ラン・ボルーン」彼女は辛らつに言った。
「彼女の言うことを信じるべきだぞ」カナリアが小さなさえずりのような声で言った。「ぼくにはすぐに彼女だとわかったのに――そりゃもちろんぼくたちは地面にはいつくばっているきみたち人間よりずっと敏感だからね――きみたちはなんだってそんなことをしてるんだろうね? やろうと思えば、きみたちだってきっと飛べるはずだよ。それから、あんまりたくさんニンニクを食べるのはよしてほしいな――ひどい臭いだよ」
「シーッ、今は黙ってて」ポルおばさんはやさしくたしなめた。「あとでいくらでも話せるから」
皇帝はブルブルと震えながら、まるで蛇でも見るような目つきで小鳥を見つめた。
「とりあえず、わしらが言っているように、わしと彼女がベルガラスとポルガラということにしておいたらどうだろう?」ミスター・ウルフが提案した。「あとの一日をかけてあんたを説得してもいいんだが、なにせわれわれには時間がないのだ。あんたにどうしても話しておかなければならない重大な話がある――わしの正体が誰であろうとこれだけは聞いてもらわないと」
「それはかまわんが」ラン・ボルーンはまだ震えたまま、すでに口をつぐんでしまったカナリアを見つめた。
ミスター・ウルフは背中のうしろで両手をパンと叩き、近くの木の大枝で口げんかをしている雀の群れをキッと見上げた。「去年の秋のことだ」かれは話しはじめた。「背教者ゼダーが〈リヴァ王の広間〉に忍び込んで〈アルダーの珠〉を持ち去った」
「ゼダーが何をしたって?」ラン・ボルーンはいきなり椅子から立ち上がった。「いったいどうやって?」
「わからん。やつに追いついたときに聞いてみるつもりだ。とにかく、これが重大事だということはわかってくれるな?」
「もちろんだ」
「アローン人とセンダー人は戦争に備えて密かに準備を進めている」
「戦争だって?」ラン・ボルーンはびっくりして聞き返した。「誰と?」
「アンガラク人に決まってるではないか」
「どうしてゼダーとアンガラク人が結びつくのだ? それはかれが自分ひとりでやっていることじゃないのかね?」
「あら、思ったより思考力があるのね」ポルおばさんが口をはさんだ。
「レディ、口が過ぎるぞ」ラン・ボルーンはぴしゃりと言った。「それでゼダーは今どこにいるのだ?」
「二週間ほど前にトル・ホネスを通過した」ウルフは話をつづけた。「もしわしが阻止する前にやつがアンガラク人の王国のいずれかの境界線をまたいでしまえば、アローン人の軍隊が進撃することになるだろう」
「アレンディアも一緒です」マンドラレンがきっぱり言った。「コロダリン王もそれと同じ助言を受けていますから」
「そんなことをしたら世界が二分されてしまうぞ」皇帝は抗議の声をあげた。
「おそらく、そうなるだろう」ウルフは認めた。「しかし、〈珠〉を手にしたゼダーをトラクのところに行かせるわけにはいかんのだ」
「わしはただちに密使を送るぞ。事態が手に負えなくなるまえに、先回りして阻止してみせる」
「もう手遅れですよ」バラクが冷たく言った。「今ではアンヘグも他国の王もトルネドラの外交を快くは思っていませんから」
「北方ではあなたの部下はあまり評判がよくないのですよ、陛下」シルクが指摘した。「かれらは常にふたつみっつ貿易協定を隠し持っているという印象があるので。トルネドラが論争をもちかけてくるたびに大きな代償を払わされるとでも申しましょうか。これ以上トルネドラの世話をする余裕はありませんよ」
ひときれの雲が太陽のすぐ前を通りすぎたため、庭園はその影でにわかに寒々しい感じになった。
「これじゃ、話し合いもなにもあったもんじゃない」皇帝はそう言って抗議した。「アローン人とアンガラク人はつまらない石のためにもう何千年もああだこうだと口論をつづけてきた。ずっとぶつかり合う機会を待っていたんだ。それがここにきて口実が見つかった。さあ、好きにやり合ってくれ。だがわしが皇帝であるかぎり、トルネドラはぜったいにそんなことには巻き込まれんからな」
「知らぬ存ぜぬじゃすまされないのよ、ラン・ボルーン」ポルおばさんが言った。
「なぜだ? いずれにしても〈珠〉はわしには関係のないことだ。やりたいなら勝手に殺し合うがいい。戦争が終わってもなおトルネドラは健在だ」
「それはどうかね」ウルフが言った。「あんたの国にはマーゴ人がウヨウヨしている。一週間とたたないうちに、あいつらに占領されてしまうぞ」
「かれらはまともな商人だ――正規の商売をするために帝国に来ているのだ」
「マーゴ人は正規の商売なんかしてないわ」ポルおばさんが言った。「トルネドラにいるマーゴ人はひとり残らずグロリムの高僧の手先よ」
「大袈裟な。あんたとあんたの父上がすべてのアンガラク人を異常なまでに嫌っていることは世界じゅうが知っている。だが、時代は変わっているんだ」ラン・ボルーンは頑強に言った。
「クトル・マーゴスはいまだにラク・クトルからの指令で動いているんだぞ」ウルフが言った。
「そこを支配しているのはクトゥーチクだ。たとえ世界は変わろうとも、クトゥーチクは変わらない。ラク・ゴスカから来た商人は、あんたの目には礼儀正しくうつるかもしれんが、クトゥーチクの合図があればすぐにも飛びかかってくるだろう。しかもクトゥーチクはトラクの弟子だ」
「トラクは死んだ」
「そうかしら?」ポルおばさんが言った。「トラクの墓を見たことがあって? 墓を開いてトラクの骨を確かめたことがあって?」
「この帝国を統治するには莫大な金がかかる」皇帝が言った。「マーゴ人がもたらしてくれる収益はわしにはなくてはならないものなのだ。わしはラク・ゴスカや〈南の隊商道〉沿いにも官吏を置いている。だから、もしマーゴ人がすこしでもわしに挑むような動きを見せれば、すぐにそれとわかるはずだ。それより、わしにはこの件が魔術師どうしの内輪もめに端を発しているような気がしてならないのだが。あんたたちにはあんたたちの動機ってものがあるのだろうが、この帝国をあんたたちの勢力争いの質として利用させるわけにはいかない」
「でも、もしアンガラクが勝ったら?」ポルおばさんが聞いた。「あなたはトラクをどうするつもり?」
「トラクなど怖くない」
「かれに会ったことでもあるのか?」ウルフが訊ねた。
「もちろんない。なあ、ベルガラスよ、あんたたち親子は今までに一度でもトルネドラに好意をもってくれたことがあるかね。〈ボー・ミンブル〉のあとは、まるで敗北した敵方でも見るようにわれわれを見てきたではないか。たしかにあんたが持ってきた情報は興味深いし、わしも公平な目で考慮しようとは思っている。だが、トルネドラの政策はアローン人の先入観などには断じて左右されんぞ。わしらの経済はその大半を〈南の隊商道〉に頼っている。あんたたちがたまたまマーゴ人を嫌っているというだけの理由で、わしの帝国を崩壊させるわけにはいかん」
「やっぱりあんたもただの愚か者か」ウルフはぶっきらぼうに言った。
「どれほど多くの連中がそう思っているかを知ったらあんたもびっくりするさ。ひょっとすると、あんたもわしなんかより後継者に相談したほうがいい結果を得られるかもしれんな。ヴォードゥ派やホネス家の人間なら買収することもできるだろう。だが、ボルーン家には賄賂は通用せんぞ」
「忠告もね」ポルおばさんが付け足した。
「われわれの意向にかなえばの話だ、レディ・ポルガラ」ラン・ボルーンは言った。
「さて、もうこれ以上わしらにできることは残されていないようだな」ウルフが結論した。
そのとき、庭園裏手の青銅の扉が音を立てて開き、燃えたつような赤い髪をした少女が殺気だった目をして駆け込んできた。最初、ガリオンの目には子供のようにうつったが、だんだん近づいてくるにつれて、それよりはいくらか年かさがいっていることがわかった。かなり小柄な少女だったが、緑の袖なしチュニックからのぞいている腕は成熟した女の腕に近かった。ガリオンは彼女の姿を見たとたん、奇妙な衝撃を受けた――まるで彼女を知っているかのように。長くて細かなカールがくしゃくしゃに乱れて首や肩に滝のようにかぶさっている彼女の髪は、ガリオンが見たこともないような色をしていた。まるで髪の内側から燃えあがっているような深い、炎のような赤。肌の色は黄金色に輝き、門の近くの木陰を急ぎ足にやってくると、それがほとんど緑がかって見えた。彼女の怒りは爆発寸前だった。「どうしてわたしはここに監禁されてなくちゃいけないの?」彼女は皇帝に食ってかかった。
「なんのことだ?」ラン・ボルーンが聞き返した。
「近衛兵はわたしを宮殿から出してくれないのよ!」
「おお、そのことか」
「そうよ。そのことよ」
「かれらはわしの命令でそうしているのだ、セ・ネドラ」
「近衛兵もそう言ってたわ。そんなことをしないように言ってちょうだい」
「だめだ」
「だめですって?」彼女は信じられないといった声で言った。「だめですって?」声がさらに数オクターブ上がった。「だめってどういうことよ?」
「こんなときに町中に出るなんて、危険すぎる」皇帝はなだめるように言った。
「ナンセンスだわ」彼女はピシャリとやり返した。「おとうさまがご自分の影を怖がっているからといって、わたしまでこの退屈な宮殿に閉じこもっているなんてまっぴらですからね。市場で買いたいものがあるのよ」
「誰かを使いにやりなさい」
「使いなんかいやだわ!」彼女はわめきたてた。「自分で行きたいのよ」
「それはできん」かれはにべもなく言った。「そんなことをする暇があったら勉強でもしてなさい」
「勉強なんていや」彼女は叫んだ。「ジーバースは取るに足らない大馬鹿者だわ。わたしを退屈させてばかり。歴史や政治やその他もろもろについて話しながら机に座っているだけなんてもうイヤ。わたしは自分だけの午後が欲しいのよ」
「気の毒だが」
「お願い、おとうさま」彼女は泣き落としにかかった。父親のマントの折り目をひとつつまみ、指のまわりにくねくねと巻きつけながら、もう一度「お願い」と言った。彼女は長いまつげの下から、岩をも溶かしてしまいそうなまなざしで皇帝を見つめた。
「ぜったいにならん」皇帝は彼女の顔を見ずに言った。「わしの命令に変わりはない。宮殿を離れることはぜったいにならん」
「大嫌い!」彼女はそう叫ぶと、泣きながら庭を走り去った。
「わしの娘だ」皇帝は弁解するような調子で言った。「あんな娘を持った親の気持ちなんて、あんたたちにはわからんだろうな」
「わしにはわかるぞ、心配するな」ミスター・ウルフはそう言ってからポルおばさんの顔をちらっと一瞥した。
彼女は挑戦的なまなざしでかれを見つめ返した。「先を続けてちょうだい、おとうさん。言ってしまうまでは胸のつかえが取れないでしょう」
ウルフは肩をすくめて、「いや、今のは忘れてくれ」
ラン・ボルーンは思案ありげにふたりの顔を見た。「急に思いついたんだが、この場でちょっとした交渉ができるかもしれん」かれは目をそばめながら言った。
「いったい何を考えたんだ?」ウルフが訊ねた。
「あんたはアローン人のあいだでは絶大なる権威を誇っている」
「まあな」ウルフは慎重に答えた。
「もしあんたが頼んでくれれば、かれらは〈ボー・ミンブル協定〉における不合理な約款のひとつぐらい喜んで見逃してくれるはずだ」
「どの約款のことだ?」
「なあ、セ・ネドラがリヴァまで行く必要はどこにもないだろう? わしはボルーン朝最後の皇帝だ。もしわしが死んでしまえば、セ・ネドラはもう皇帝の娘でもなんでもなくなる。こんな状況下であの要求を娘に適用するのはおかしい。どのみちそんなことをしても意味がないのだ。リヴァ王の血筋はもう千三百年も前に絶えてしまっているのだから、花婿が〈リヴァ王の広間〉で娘を待っているわけがないではないか。ごらんのように、トルネドラは今のところひどく治安が悪い。セ・ネドラはあと一年ほどで十六になるが、その日にちは広く皆に知れわたっている。万が一リヴァに行かせるようなことになれば、トルネドラの刺客の半分が宮殿の門の外で娘を待ち伏せするだろう。わざわざそんな危険を冒したくない。もしあんたがアローン人に口添えするという態度をはっきりさせてくれれば、わしもマーゴ人に関していくつか譲歩できるかもしれない――商人や闇市の数を制限するといった類のことだが」
「それはできないわ、ラン・ボルーン」ポルおばさんが素っ気なく言った。「セ・ネドラはリヴァに行くのよ。あなたは協定をただの形式的な行為と勘違いしているようだけど、もしあなたの娘がリヴァ王の花嫁になる運命にあるとしたら、いかなる力をもってしても彼女が約束の日にリヴァ王の謁見の間にいることを妨害することはできないのよ。父があなたに言ったことはただの忠告よ――あなたのためにと思って。あなたがどういう態度でこの事態に臨もうと、それはあなた個人の問題だわ」
「これでもう話し合うことは何ひとつなくなったようだな」皇帝は冷たい口調で言った。
もったいぶった顔をしたふたりの役人が庭園に入ってきて、モリン卿の耳に二言三言ささやいた。
「陛下」モリン卿がうやうやしく言った。「貿易大臣からラク・ゴスカの貿易代表団との交渉で大きな成功をおさめたという報告が入りました。クトル・マーゴスからきた紳士たちは、たいへん協調的だったそうで」
「それはうれしい知らせだな」ラン・ボルーンはそう言うと、ミスター・ウルフに意味ありげな視線を投げかけた。
「ラク・ゴスカの派遣団は帰国する前に陛下に挨拶をしたいと申しておりますが」モリンは言い添えた。
「ぜひそうしてくれ。喜んで迎えよう」
モリンはふり向き、門の近くにいるふたりの役人に軽くうなずいてみせた。役人がうしろを振り返って外にいる何者かに声をかけると、門が大きく開いた。
五人のマーゴ人がつかつかと庭園に入り込んできた。かれらの粗末な黒いローブには頭巾がついているが、今はうしろに押しやられている。ローブの前ははだけていて、揃って身につけている鎖かたびらが太陽の光を受けてピカピカと光った。一番先頭のマーゴ人は他の四人よりもやや背が高く、かれがリーダーだということはその態度を見ればすぐにわかった。はるか昔から知っている傷跡のある敵の顔を見たとたん、ガリオンの心の中にいくつものイメージと記憶が逆巻くように押し寄せてきた。ふたりの間にある暗黙のきずなが不思議な引力のようにかれの心を魅きつけた。アシャラクだ。
何かがほんの一瞬ガリオンの心をかすめ通った――が、ヴァル・アローンにあるアンヘグの宮廷の薄暗い廊下でそのマーゴ人がかれに与えたほどの大きな影響力はなかった。チュニックの下のお守りが氷のように冷たくなったが、同時に燃えているようにも感じられた。
「陛下」アシャラクは冷淡な微笑みを浮かべながら前に進み出た。「宮殿への入場をお許しいただき、まことに光栄に存じます」かれがお辞儀をすると、鎖かたびらがカチャカチャと音をたてた。
バラクはヘターの右腕をしっかりつかんでいる。マンドラレンが寄ってきてもう一方の腕をつかんだ。
「また会えてうれしいぞ、善良なアシャラクよ」皇帝が言った。「契約がまとまったと聞いたが」
「双方にとって有益な取り決めだと思われます、陛下」
「もっとも望ましい契約だな」ラン・ボルーンはみとめた。
「マーゴ人の王、タウル・ウルガスから陛下によろしくお伝えくださいとのことです。国王はクトル・マーゴスとトルネドラ両国が水魚の交わりを結ぶことをせつに願っております。いつかは陛下と兄弟づきあいをしたいというのが国王の希望なのです」
「タウル・ウルガスの平和主義と伝説的な賢人ぶりにはわれわれも一目おいている」皇帝は自己満足にひたって顔をほころばせた。
アシャラクは黒い目を細めながらあたりを見回した。「やあ、アンバー」かれはシルクに言った。「この前ダリネのミンガンの執務部屋で会ったときにくらべて、だいぶ羽振りがよくなったようだな」
シルクは両手を広げてなんのことだか?≠ニいったジェスチャーをした。「神々が寛大だったものでね――神はたいていは寛大なものだが」
アシャラクはニヤッと笑った。
「知り合いか?」皇帝はいくらか驚いて訊ねた。
「ええ、前に会ったことがありまして」シルクが答えた。
「別の王国で」アシャラクが付け加えた。それからミスター・ウルフの顔をまっすぐに見ると、「やあ、ベルガラス」かれは軽く会釈しながらていねいに声をかけた。
「チャンダーか」ウルフはそれに答えた。
「お元気そうで」
「ありがとう」
「ここではわしだけがよそ者みたいだな」皇帝が言った。
「チャンダーとわしは昔からの知り合いなのだ」ミスター・ウルフはかれに説明した。それから、目にやや意地の悪い光を浮かべながらマーゴ人の顔を見た。「この前の軽い病はどうにか回復したらしいな」
アシャラクは不快そうに顔色を曇らせ、まるで存在を確認するかのように芝生に写っている自分の影を見下ろした。
ガリオンは、アルグロスの来襲のあとウルフが岩山の頂上で言ったことを思い出した――たしか影を間違った方向≠ノ返したとのどうのということだった。どういうわけかガリオンはマーゴ人のアシャラクとグロリム人のチャンダーが同一人物だと知っても、それほど驚きはしなかった。ふたりの男がにわかにひとりの人間に溶けこんだとしても、それは調子はずれに聞こえていたものが実はひとつの複雑なメロディだったというようなもので、ごくあたりまえに思えたのだ。この事実は鍵穴に鍵が入るようにガリオンの心にカチッとおさまった。
「いつかあの種明かしを教えてもらわないと」アシャラクが言っている。「面白い経験をさせてもらったよ。わたしの馬はおかげでヒステリックになってしまったけど」
「馬に謝まっておいてくれ」
「あんたたちの話していることが半分も飲み込めんというのは、いったいどうしたわけだろう?」ラン・ボルーンが訊ねた。
「お許しください、陛下」アシャラクは言った。「永遠なるベルガラスとわたしは古い恨みを蒸し返していたんですよ。ていねいな言葉で議論する機会というのがわれわれにはほとんどないもので」かれはうしろを向き、ポルおばさんにうやうやしくお辞儀をした。
「これはこれはレディ・ポルガラ。相変わらずお美しくていらっしゃる」かれはわざと挑発するような目で彼女を見つめた。
「あなたもちっとも変わらないわね、チャンダー」彼女の声は柔らかく、穏和にさえ聞こえたが、彼女をよく知っているガリオンには、彼女がこのグロリムに最大の侮辱を加えたのだとすぐにわかった。
「楽しい方《かた》だ」アシャラクはかすかに微笑みながら言った。
「劇を見るよりずっと面白い」皇帝が喜々として叫んだ。「なるほどあんたたちは互いにあふれんばかりの敵意を持っているらしい。第一幕を見れなくて残念だ」
「第一幕はかなり長いですよ、陛下」アシャラクが言った。「しかも、あくびの出るような場面がひんぱんにあります。陛下もご存知のように、ベルガラスという男は自分の才気にものを言わせて調子に乗り過ぎるところがあるものですから」
「その埋め合わせはきっとしてみせるよ」ウルフはニヤッと笑いながら言った。「最終幕の幕切れは驚くほどあっけないと約束しておこう、チャンダー」
「脅迫するつもりか、ベルガラス? 互いに礼儀を守る約束をしたはずじゃなかったのか」
「おまえと何かを約束した覚えはないぞ」ウルフはそう言うと、皇帝の方を向いて、「ラン・ボルーン、われわれはこのへんで失礼する。もちろん、あんたの許しを得てからだが」
「どうぞおかまいなく」皇帝は答えた。「あんたたちと会見できてよかった――もちろん、あんたたちのことは今も信じてはいないが。とは言え、わしの懐疑主義は神学的なものであって、個人的な感情によるもので断じてない」
「それを聞いて安心した」ウルフはそう言うと、まったく不意に悪戯小僧のような笑顔を皇帝に見せた。
ラン・ボルーンは声をあげて笑った。
「また会う日を楽しみにしているよ、ベルガラス」とアシャラクが言った。
「わしがおまえなら、決してそんなことは望まないがね」ウルフはそう言うと、きびすを返して皇帝の庭園を後にした。
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17[#「17」は縦中横]
かれらが宮殿の門から出たときには、すでに日が傾きはじめていた。広々とした芝生は太陽の光を受けて緑色に輝き、イトスギの木がそよ風に揺れている。
「トル・ホネスにはあまり長く滞在したくないな」ウルフが口を開いた。
「じゃあ、すぐに出発するんですか?」とマンドラレン。
「いや、その前にしておかなければならないことがある」ウルフは目を細くして太陽の光を見ながら答えた。「バラクとかれのいとこはわしと一緒に来てもらう。あとの者はグリンネグ邸に帰ってそこで待っていてくれ」
「わたしたちは帰り道に中央市場に寄ることにするわ」ポルおばさんが言った。「二、三必要なものがあるから」
「これは買い物旅行じゃないんだぞ、ポル」
「グロリムはわたしたちがここにいることをもう知っているのよ、おとうさん。だったら、なにもこそ泥みたいにこそこそ歩く必要はないでしょ?」
かれは溜息をもらして言った。「わかったよ、ポル」
「そう言ってくれると思ったわ」
ミスター・ウルフは力なく頭を振り、バラクとグリンネグを伴って馬を出した。残りのメンバーはチラチラ輝いている眼下の町を目指して宮殿の丘を下った。丘のふもとの通りはどれも広く、両脇には風格のある屋敷が立ち並んでいた――じっさいどの家も宮殿のように見えた。
「金持ちと貴族」シルクが言った。「トル・ホネスでは住居が宮殿に近ければ近いほど、その人物は要人ということになるんだ」
「ケルダー王子、それはここにかぎったことではないぞ」マンドラレンが言った。「金持ちや地位のある者は自分たちが権力の近くにいるということをちょくちょく確認しなおす必要があるのだ。王座の近くにいることを誇示していれば、おのれの無力を振り返らずにすむからだろう」
「どうせわたしはあんたみたいにうまくは説明できないよ」シルクは言った。
トル・ホネスの中央市場は鮮やかな色の屋台や露店が所狭しとひしめき合う巨大な広場だった。世界じゅうの品物がほとんどここに並べられている。ポルおばさんは馬からおりるとチェレク人の護衛のひとりにその馬を預けて屋台から屋台を駆け回り、目につくものを手あたりしだいに買いあさった。彼女の買った物を見るたびに、シルクの顔は青ざめた。というのも、その代金を払うのはかれだったのだ。「何か言ってやってくれないか?」かれはガリオンに泣きついた。「彼女はわたしを破産させるつもりだよ」
「なんでおばさんがぼくの言うことを聞くと思うの?」ガリオンは聞いた。
「やってみることぐらいはできるだろう」シルクはすがるように言った。
市場の中ほどで高価そうなマントに身を包んだ三人の男が、口角に泡を飛ばしながら議論していた。
「おまえは頭がおかしいんだ、ハルドー」しし鼻の痩せた男が興奮ぎみに言った。「ホネス家は自分たちの利益のために帝国を奪い取ろうとしているんだぞ」かれの顔には血がのぼり、目玉は見ているほうがハラハラするほどふくれあがっている。
「じゃあ、ヴォードゥ派のカドールはまだましだと言うのか?」ハルドーと呼ばれた体格のいい男が聞いた。「頭がおかしいのはおまえのほうだ、ラダン。もしカドールを王座につかせたりしたら、あいつはきっとおれたちを踏みつぶすぞ。権力を持ち過ぎるってこともありうるんだからな」
「よくもそんなことが言えるな」ラダンは汗の浮かんだ顔をサッと曇らせ、ほとんど絶叫するように言った。「皇帝になるのはカドール大公しかいない。たとえかれがおれを雇ってくれないとしても、おれはかれに投票するぞ」かれはしどろもどろになりながら、両腕を乱暴に振り回して熱弁をふるった。
「カドールはただの豚さ」ハルドーは事もなげにそう言うと、その言葉が与えた影響を計るようにラダンの顔をじっと見た。「横柄で残忍な豚野郎だよ。雑種の犬には皇帝になる権利がないんだから、あいつにもそんな権利はないはずだ。なんでもあいつの曾曾じいさんは金の力でヴォードゥ家に入りこんだっていうじゃないか。トル・ヴォードゥの船だまりから出てきたこそ泥の子孫に頭を下げるくらいなら、静脈をかき切ったほうがましだよ」
ハルドーの計算された侮辱の言葉を聞いて、ラダンは怒りで目が飛び出さんばかりだった。かれは何かをしゃべろうとして何度かパクパクと口を開けたが、あまりの怒りにろれつが回らなくなってしまったらしい。顔色は今では紫色に変わっていた。かれは目の前の空を必死につかんでいたかと思うと、急に体を硬直させて、うしろにのけぞりはじめた。
ハルドーは顔色ひとつ変えずにその様子を眺めている。
ラダンは首を締められたような短い叫び声をあげて、手足をバタバタさせながら砂利の上にあおむけに倒れた。発作がさらに激しくなると、かれは白目をむいて口から泡を吹きはじめた。頭を右にガンガンぶつけ、ひきつった指で喉をかきむしっている。
「すごい効き目だ」三番目のマントの男がハルドーに言った。「どこでこんなものを見つけたんだ?」
「おれの友だちが最近スシス・トールに旅行してきたんだ」ハルドーはラダンの発作を面白そうに眺あながら言った。「これのすごい点は、興奮しないかぎりとりわけなんの害もないってところさ。おれが最初に毒味をして、安心だってことが証明されなきゃ、ラダンはワインも飲まないからな」
「おまえの胃の中にもそれと同じ毒が入ってるんだろう?」
「おれなら大丈夫さ。おれはわれを失うことは絶対にないから」
ラダンの発作はしだいに弱くなってきていた。かれのかかとは小刻みに小石を蹴っている。やがて体が硬直し、長いゴボゴボいうような吐息をはいたかと思うと、かれはその場で事切れてしまった。
「もうこの薬は残ってないよな?」ハルドーの友だちはあれこれと考えをめぐらせながらきいた。「こんな薬にだったら、いくらだって払うんだけど」
ハルドーは声をあげて笑うと、「おれの家にいって、その相談をしようじゃないか。ワインでも傾けながら」
もうひとりの男はびっくりしてハルドーを見つめかえした。が、自分も声をあげて笑い出すと、小石の上で大の字に倒れている死体を残し、ハルドーといっしょにその場を離れた。
ガリオンは足をガクガクさせて二人の男を見つめ、つづいてグロテスクに身をよじりながら市場の中央に横たわっている黒い顔の死体に目を向けた。死体のそばにいるトルネドラ人たちはその死体をまったく無視しているように見える。「どうして何もするひとがいないの?」
「かれらも怖いのさ」シルクが言った。「もし少しでも関心のある態度を示せば、ラダンの徒党と間違われるから。トル・ホネスの警官は市民にものすごく恐れられている」
「誰かが権力者に届け出ればいいのに」ダーニクが青い顔をして、声を震わせた。
「たぶん、もう誰かが通告しているだろう」シルクは何食わぬ顔で答えた。「じろじろ見ながらつっ立ってるのはやめよう。こんなことに巻き込まれるのはごめんだ」
かれらの立っている場所にポルおばさんが戻ってきた。彼女のお供をしていたグリンネグの家の二人のチェレク戦士は山のような荷物を抱え、そのことを少し気まずく感じている様子だった。
「こんなところで何をしてるの?」彼女はシルクにきいた。
「トルネドラ政治の現場を観察していたところですよ」シルクは広場の中央の死体を指さして言った。
「毒なの?」彼女は、ラダンの手足が歪んでいるのを目ざとく見つけて聞いた。
シルクはうなずいて、「それが奇妙な毒なんですよ。犠牲者が興奮しなければ効き目が現われないんです」
「アスサットだわ」彼女は厳めしくうなずいて言った。
「知ってるんですか?」シルクは驚いて聞いた。
彼女はもう一度うなずきながら、「めったに手に入らないし、値段もすごく高いのよ。まさかニーサ人がこれを売るとは思ってもみなかったわ」
「ここから遠ざかったほうがいいみたいですよ」ヘターが口をはさんだ。「そのうちに憲兵隊が来たら、証人に質問したがるでしょうから」
「そりゃそうだ」シルクはそう言うと、市場の向こう端にみんなを導いた。
広場のまわりを縁取る家並みに近づくと、八人の頑丈な男が、ベールを掛けた重そうな輿を運んできた。輿がだんだん近づいてくると、細い、宝石類をたくさんつけた手がベールの中から伸びて、かつぎ人夫の肩をポンポンと叩いた。八人の男はすぐに立ち止まり、輿を地面におろした。
「シルク」輿の中から女の声が呼びかけた。「またトル・ホネスで何かを仕出かすおつもり?」
「ベスラ?」シルクが言った。「きみか?」
ベールが開くと、輿の中から深紅のクッションにもたれかかっている官能的な、魅力あふれる女性の姿が現われた。彼女の髪は念入りにカールされていて、数珠つなぎの真珠が一緒に編みこまれていた。ピンク色の絹のガウンは彼女の体をぴったり包み、腕と指には金の指輪やブレスレットが巻きついている。彼女の顔ははっと息をのむほど美しいが、長いまつ毛にふちどられた瞳にはよこしまな光が宿っている。彼女の姿にはどことなく熱しすぎた雰囲気があり、放縦な性格がそのまま容姿に投影されていると言っても言い過ぎではなかった。ガリオンは自分でもどうしてだかわからないが、顔が火照るのを感じた。
「てっきり、まだ逃走中かと思っていたわ」輿の女はいたずらっぽく言った。「あなたの後を追わせた男たちはプロ中のプロだったのよ」
シルクは皮肉まじりにわざと麗々しい態度でお辞儀をした。「ほんとうに有能な連中だったよ、ベスラ」かれは歪んだ微笑みを浮かべながら言った。「完ぺきではないがかなり有能だったと言ったほうが正確かもしれないが。願わくば、きみがもう一度連中を使うことのないように」
「どうしてかれらが戻ってこないのか、ずっと考えてたのよ」彼女はそう言って笑った。「わたしも読みが甘かったわ。でも、あれはあなたが憎くてやったわけじゃなかったのよ、どうか誤解しないで」
「もちろんさ、ベスラ。しょせん、これはプロ同士の問題なんだから」
「わかってくれると思ったわ。あの時はあなたを始末しなければならなかったのよ。だって、あなたがわたしの計画全体を粉々にしようとしていたから」
シルクは邪悪な微笑みを浮かべ、「ああ。きみは何がなんでもそれをやり遂げなければならなかった――タールの大使といっしょに」
彼女は嫌悪をあらわにした。
「ところでかれはどうなった?」シルクは聞いた。
「ネドレインに泳ぎにいったわ」
「タール人がそんなに泳ぎがうまいとは初耳だな」
「うまくないわ――足に大きな岩をくくりつけられていたら、なおさらのこと。あなたにすべてをぶちこわされてしまったので、あの男はもう必要じゃなくなったのよ。そこらで吹聴してもらいたくないこともいろいろあったし」
「ベスラ、いつもながら、きみは本当に抜け目がない」
「ところで今度は何を企んでいるの?」彼女はいぶかしそうに訊ねた。
シルクは肩をすくめ、「取るに足りないことをあれこれと」
「継承問題のこと?」
「とんでもない」かれは笑った。「そんなことに首を突っ込むほど馬鹿じゃないよ。ところできみはどっちを支持してるんだ?」
「ほんとうにそれが聞きたいわけじゃないでしょうに?」
シルクはあたりをキョロキョロと見回すと、目を細めて、「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、ベスラ――もちろんきみにその気があればの話だが」
「なんのことなの、シルク?」
「この町にはマーゴ人がウヨウヨしているようだが」シルクは話を切り出した。「もしきみが今のところかれらと関わりあっていないようなら、どんな情報だろうと大歓迎なんだが」
彼女はいたずらっぽく笑うと、「その代償に何をくださるのかしら?」
「プロ同士の取り引きというわけにはいかないか?」
彼女は邪悪な微笑みを浮かべたかと思うと、声をあげて笑いだした。「いいわよ。あなたって好きだわ。もしわたしのお願いをきいてくれたら、もっと好きになるんだけど」
「奴隷にでも何にでもなるよ」
「この嘘つき」彼女はしばらく何かを考えていた。「マーゴ人は以前は商売のことにはそれほど関心を示さなかったわ」彼女は話しはじめた。「ところが二、三年前からちらほらこの国にやってくるようになったの。そして去年の夏、ラク・ゴスカから大商隊が訪れるようになったのよ」
「かれらは継承問題になんらかの影響を与えたがっているんだろうか?」シルクは訊ねた。
「たぶん、そうでしょうね。ここに来てとつぜん、トル・ホネスの純金が大量に出回りはじめているのよ。わたしの硬貨箱にもたくさん入ってるわ」
シルクはニヤリと笑った。「どうせすぐになくなるさ」
「ええ、そうね」
「かれらはひとりの候補者にしぼってるのか?」
「わたしの観察したところによると、ひとりではないわ。かれらは二つの派閥に分かれているみたい。両者のあいだには並々ならぬ敵対心があるわ」
「もちろん、それも計画のうちだろう」
「わたしはそうは思わないわ。かれらの敵対心はゼダーとクトゥーチクの争いと関係があるはずよ。そして、両方の派閥が次の皇帝を牛耳ろうとしている。かれらは湯水のように金を使っているわよ」
「アシャラクという男を知らないか?」
「ああ、あの男ね。反対派閥の連中はみんなその男のことを恐れているわ。今のところかれはクトゥーチクのために働いているように見えるけど、ほんとうは自分なりの計画があるんだと思うわ。かれはカドール大公をおおっぴらに擁護しているんだけど、カドールは今のところ王座にいちばん近いわ。だからアシャラクはすごく有利な立場にいるのよ。わたしが知ってるのはこんなところね」
「恩にきるよ、ベスラ」シルクは心から礼を言った。
「トル・ホネスには長いこと滞在するつもり?」彼女は訊ねた。
「残念ながら」
「まあ、お気の毒。わたしの家を訪問してもらってもいいと思ってたのに。昔の話でもしながら。最近は仲のいい友だちもいなくなってしまって――あなたのような愛すべき敵もね」
シルクは素っ気なく笑った。「本気にしていいものやら。タールの大使よりうまく泳げる自信はわたしにはないからね。きみは危険な女性だよ、ベスラ」
「いろいろな意味でね」彼女はそう言うと、物憂げに手足を伸ばした。「でも、わたしがあなたの命を脅かすことはないわ、シルク――これから先は」
「あのときわたしが心配してたのは、自分の命じゃないよ」シルクはニヤッと笑った。
「もちろん、それはまた別の問題よ。でも、わたしのお願いを聞くって約束は忘れないでちょうだいね」
「ああ、きみに借りを返せる日が一日も早くめぐってくるといいな」かれはずけずけと言った。
「そうはいかないわ」彼女はそう言って笑うと、かつぎ人に合図した。かれらは輿を肩にかついだ。「ごきげんよう、シルク」彼女は言った。
「ごきげんよう、ベスラ」かれは深々と頭を下げた。
「まったくもっていまいましい」かつぎ人が輿をかついでいってしまうと、ダーニクは憤激に声を詰まらせて言った。「どうしてこの町はあんな女が存在することを許しておくんです?」
「ベスラのことか?」シルクは驚いて聞き返した。「彼女はトル・ホネスで最も才気縦横で、魅力的な女だよ。たった一、二時間のあいだ彼女と過ごすために、世界じゅうから男がやってくるんだ」
「もちろん、商品としてでしょう」ダーニクが言った。
「彼女を誤解するなよ、ダーニク。彼女の会話はおそらくあれよりもっと価値がある――」かれはポルおばさんの顔をちらっと見て軽く咳き込んだ。
「ほんとうですかね?」ダーニクは皮肉たっぷりな声で聞き返した。
シルクは快活に笑って、「ダーニク、わたしはあんたを兄弟のように思ってるよ。だが、ちょっと紳士気取りが過ぎるようだな、自分でそれに気づいてるか?」
「いらぬ世話よ、シルク」ポルおばさんがきっぱりと言った。「わたしは今のままのかれが好きだわ」
「わたしはただかれの殻を破ってやろうとしただけですよ、ポルガラ」シルクは悪びれずに言い訳した。
「バラクの言うとおりだわ、ケルダー王子」彼女は言った。「あなたは根っからの悪人よ」
「すべては任務のせいですよ。わたしは国のために自分の繊細な心を犠牲にしているんです」
「そうでしょうとも!」
「まさか、わたしがあんなことを喜んでしていると思ってるんじゃないでしょうね?」
「もうよしましょうよ、こんな話」
一行がグリンネグの屋敷に到着して間もなく、グリンネグとバラクとミスター・ウルフの三人も戻ってきた。
「どう?」みんなの待っている部屋にウルフが入ってくると、ポルおばさんが真っ先にきいた。
「南に向かったらしい」ウルフが答えた。
「南? 東に進路をとってクトル・マーゴスに向かったんじゃなかったの?」
「それが、ちがうのだ。おそらくクトゥーチクの手先に出会うのを避けたのだろう。静かに国境を越えられる場所を探すつもりらしい。さもなくば、ニーサに向かうのかもしれんな。サルミスラとなんらかの取り決めをするのかもしれない。ともかく真相を突き止めるにはやつの後を追わなければ」
「市場で古い知り合いに会ったんですけど」シルクは椅子の上でくつろいだまま言った。「彼女の話だと、アシャラクは継承問題に絡んでいるようですよ。なんでも、カドール大公を買収しにかかっているとか。ヴォードゥ家が選挙に勝てば、アシャラクはトルネドラを掌中にしたも同然ですよ」
ミスター・ウルフは考え込みながらひげをこすった。「あいつに関しては、遅かれ早かれ何か手を打たなければいけないようだな。わしも、いい加減うんざりしてきた」
「一日かそこらなら滞在を延ばすこともできてよ」ポルおばさんが言った。「今度という今度はすっかり始末してしまいましょうよ」
「それはできん」ウルフは断言した。「ここではそういうことは慎んだほうが賢明のようだ。この仕事はかなりの騒動になりそうだし、そうなればトルネドラ人は事情もよくのみ込めないまま、とにかく興奮するだろう。きっとアシャラクはまた機会を与えてくれるさ――どこか、もっと人の少ないところで」
「じゃあ、もう出発ですか?」シルクがきいた。
「明け方まで待とう」ウルフが言った。「どうせ尾行されることになるだろうが、道路に人通りがなければ、あいつらも仕事がやりにくくなるだろうから」
「じゃあコックに話してきます」グリンネグが言った。「わたしにできることといったら、道中に必要な食べ物を用意して、あなたがたの旅を助けることぐらいですから。もちろん、あの樽入りのエールも差し上げますよ」
ミスター・ウルフはそれを聞くとうれしそうに笑ったが、すぐにポルおばさんの非難めいたしかめ面に気づいた。「気が抜けてしまうんだよ、ポル」かれは弁解した。「だから栓を抜いてしまったら、すぐに飲んでしまわないといけないんだ。わざわざ無駄にすることもなかろう?」
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18[#「18」は縦中横]
翌朝、かれらはふたたび旅の身仕度をして、まだ夜が明けないうちにグリンネグの屋敷を出発した。裏門をそっと抜け、シルクがいつでも見つけてくる例の狭い横町や路地裏のあいだを進んだ。中州の南端にある頑丈な青銅の門に着くころには、東の空が明るみはじめていた。
「門はあとどのくらいで開くかね?」ミスター・ウルフは近衛兵のひとりに訊ねた。
「間もなくです」近衛兵は答えた。「向こうの士手がはっきりと見えてきたらすぐ開きますよ」
ウルフは不満の声をもらした。昨晩のかれは酒を飲んですっかりいい気分になっていたが、今朝はどうやら頭痛に悩まされているようだった。かれは馬をおりると、一頭の荷馬のところに行き、革の水袋から水を飲んだ。
「そんなことをしても無駄よ」ポルおばさんはそれ見たことか、という顔で言った。
かれはあえてそれには答えなかった。
「今日はいい天気になりそうよ」彼女はまず空を、次いですっかり意気消沈して鞍にだらしなくまたがっているまわりの男たちをながめてから、快活な声で言った。
「ポルガラ、あなたは残酷なひとだ」バラクが力なく言った。
「おまえはグリンネグにあの船のことを話したのか?」ミスター・ウルフが聞いた。
「ええ、たぶん」バラクはそれに答えた。「何かそれらしいことを話したような気がするな」
「重大なことなんだぞ」ウルフは言った。
「なんのこと?」ポルおばさんが聞いた。
「〈森の川〉の河口に船を待たせておくのも悪くないと思ってな」ウルフは説明した。「スシス・トールに行かなければならないのなら、北ニーサの湿原を骨を折って進むより、水路で行ったほうがいいだろう」
「なるほど、いい考えだわ」彼女は同意した。「でも、よくそんなことを思いついたわね――昨晩のあの状態で」
「まだ他に話したいことでもあるのか?」かれの声は哀調に満ちていた。
あたりがわずかに明るんでくると、上方の塀の見張り塔から門を開けろという命令が下された。近衛兵は鉄のかんぬきをずらし、重々しい門を開いた。シルクはわきにマンドラレンを伴いながら、みんなの先頭にたって堂々とした入口を抜け、ネドレインの黒い流れにかかっている橋を渡った。
昼までには、かれらはトル・ホネスから南に八リーグほどのところにきていた。ミスター・ウルフは明るい春の日差しに目をしばたたき、小鳥が耳もとで歌をうたったりするたびにたじろいでいたが、なんとか平静を取り戻したようだった。
「うしろから馬に乗った人間が来ます」ヘターが報告した。
「何人だ?」バラクがすかさず聞いた。
「二人です」
「きっとただの旅人でしょう」とポルおばさん。
馬の背中にのった二つの人影が後方の曲がり目のあたりに現われたかと思うと、その場で立ち止まった。かれらは一分かそこら話をしていたが、やがてどことなく警戒しているような様子でそのまま前進してきた。奇妙なふたり連れだった。大人のほうはトルネドラ式の緑のマントを着ていたが、その生地は馬に乗るには似つかわしくないものだった。かれの額はかなりせり出していて、髪は後退しつつある生え際を隠すためにていねいに撫でつけられていた。体はほっそりしていて、耳は頭のわきから垂れぶたのように飛び出している。かれの連れはどうやら子供のようだった。頭巾のついた旅行用のマントを着て、ほこりをふせぐために顔にスカーフを当てている。
「こんにちは」一行のわきを通りすぎるとき、痩せた男が声をかけてきた。
「やあ」シルクがそれに答えた。
「まだ年のはじめだというのに、ずいぶん暖かですね」
「わたしたちもそう思ってたとこです」シルクは男に同意した。
「恐れ入りますが、わたしどもに水を少し分けていただけないでしょうか?」痩せた男はシルクに頼んだ。
「もちろんですよ」シルクはそう言うと、ガリオンの顔を見て荷馬を指し示した。ガリオンは後戻りして荷馬から革の水袋をはずした。トルネドラ人は木の栓を抜き、革の飲み口をていねいに拭った。かれは連れの少女に袋を差し出した。彼女はスカーフをはがすと、困惑した顔でその革をながめた。
「こうするんです、おうじょ――じゃない――お嬢さま」男は革袋を取り返し、両手で持ち上げて水を飲みながら説明した。
「わかったわ」少女は言った。
ガリオンはさらにじっくりと彼女を見つめた。その声にはなんとなく聞き覚えがあったし、顔もどこかで見たような気がした。かなり小柄だが子供ではない。ちんまりした顔の表情からは奔放で短気な性格がうかがえる。この少女には前にどこかで会ったことがある。ガリオンはほとんどそう確信していた。
トルネドラ人が水袋を手渡すと、彼女は樹脂の味に顔をしかめながら水を飲んだ。彼女の髪は紫がかった黒だったが、旅行用のマントの襟にかすかな黒っぽい染みがついているところを見ると、どうやらこの髪の色は天然の色ではないようだ。
「ありがとう、ジーバース」彼女は水を飲んだあとでそう言った。「ありがとうございました」彼女はシルクにも礼を言った。
頭の中にとんでもない疑惑が浮かぶにつれて、ガリオンの目はだんだんと狭まった。
「遠くまでいらっしゃるんですか?」痩せた男がシルクに訊ねた。
「ええ、かなり」シルクはそれに答えて言った。「わたしはボクトールのラデク、ドラスニアの商人です。センダリアの毛織り物を持って南に向かうところです。この陽気の変化でトル・ホネス市場での商売がだいなしになってしまいましてね、今度はトル・レインを当たろうと思ってるんですよ。あそこは山の中だから、おそらくまだ冷え込んでるだろうと思いまして」
「だとしたら、道を間違えてますよ」見知らぬ男は指摘した。「トル・レインに行く道は東のほうを通ってるんです」
「前にその道でさんざんな目に遇いましてね」シルクは口から出まかせに言った。「泥棒ですよ。だから、トル・ボルーンを抜けたほうが安全だと思ったんです」
「これは奇遇ですな」痩身のかれは彼に言った。「わたしと生徒もトル・ボルーンに向かうところなんです」
「ほう、それは奇遇ですね」シルクは調子を合わせた。
「じゃあ、みなさんにご同行できますね」
シルクは怪訝な顔をした。
「断る理由はべつにないものね」かれが断る前にポルおばさんが決断をくだした。
「ありがとうございます、奥さま」見知らぬ男は言った。「わたしの名はジーバース。帝国社交界の特別会員で、家庭教師に従事しています。おそらく名前ぐらいは耳にされたことがあるかと思いますが」
「残念ながら初耳です」シルクは言った。「でも、だからと言ってびっくりなさらないでいただきたい。わたしたちはトルネドラの人間ではありませんから」
ジーバースはいくらか落胆したようだった。「確かに、そのとおりですね」とかれは言った。
「こちらはわたしの生徒で、シャレル嬢。彼女の父上は豪商の元締、レルドン男爵でいらっしゃいます。わたしはトル・ボルーンの親戚を訪問する彼女のお供をしているのです」
この話は本当じゃない。ガリオンにはそれがわかった。この家庭教師の名前を聞いてから、かれの疑惑はいよいよ動かしがたいものになっていたのだ。
かれらはさらに数マイル先に進んだが、ジーバースはその間シルクに向かってのべつ幕なしにしゃべりつづけた。かれは自分に学識があるということをしきりに話したがった。そして自分の意見を言う前に、かれの判断に一目おいているらしい要人たちの褒め言葉を必ずひっぱり出すのだった。退屈な男だが、どうやら害はなさそうだ。かれの生徒はポルおばさんの横にいたが、ほとんど何もしゃべらなかった。
「このへんで休憩して何か食べましょう」ポルおばさんがみんなに声をかけた。「もしよろしければ、あなたがたもいかが、ジーバース先生? 食料はたくさんありますから」
「寛大なご配慮まことに痛み入ります」家庭教師は言った。「では、お言葉に甘えて」
かれらは小さな橋のそばで馬を止めた。小川をまたぐその橋は、道からそう遠くない柳の木立にみんなを導いた。ダーニクは火を起こし、ポルおばさんは積み荷から鍋とやかんをおろした。
ジーバースの生徒は、家庭教師がさっと歩み寄っておりるのを手伝うまで、鞍の上に座っていた。彼女は、小川付近のどことなく湿っぽい野原を冷やかに見つめた。それから居丈高にガリオンの顔を見た。「あなた――そこの男の子」彼女は呼びかけた。「水を一杯もってきてちょうだい」
「小川はすぐそこだよ」ガリオンは指で示しながら言った。
彼女は驚いてかれを見ると、「だって、地面はぬかるみだらけよ」
「ああ、そうみたいだね」かれはそれだけ言うと、彼女にゆっくり背を向けてわざわざポルおばさんを手伝いにいった。
「ポルおばさん」かれはしばらく考え込んだあとでおばさんに声をかけた。
「なあに、ガリオン?」
「シャレル嬢はじっさいは本人が言っているようなひとじゃないと思うんだけど」
「そう?」
「確信があるわけじゃないんだけど、彼女はセ・ネドラ王女じゃないかな――ぼくたちが宮殿にいるときに庭園に入ってきた」
「そうよ、ガリオン。わたしも気づいてたわ」
「知ってたの?」
「もちろんよ。塩を取ってくれない?」
「彼女と一緒にいると危険じゃないかな?」
「そんなことはないわ。なんとかなるでしょう」
「彼女、かなり世話が焼けるんじゃない?」
「帝国の王女っていうのは世話が焼けるものなのよ、ガリオン」
塩味のシチューを食べたあと――ガリオンにはこれがとても美味しく感じられたが、小さなお客人の口には合わなかったらしい――ジーバースはかれらに会ったときから言おう言おうと思っていた話題にふれた。「軍と警備隊がどんなに努力しても、道路はまったく安全というわけにはいきません」話好きの教師は切り出した。「独りきりで旅をするのはあまりに無謀すぎるので、このわたしがシャレル嬢の世話をまかされているわけです。彼女が安全に旅することができるかどうかはわたしの責任です。だから、あなたがたにご同行することができれば、と思ったわけです。あなたがたにご迷惑をおかけするつもりはありませんし、できたらわたしどもが食べたものに関してはすべて代金を受け取っていただければ、もっとうれしいのですか」
シルクはポルおばさんの顔をちらっと見た。
「結構よ」彼女は言った。
シルクは驚きの色を浮かべた。
「一緒に旅をすることができない理由はどこにもないもの」彼女はさらにつづけた。「それに、どうせ行く先は同じなんだから」
シルクは肩をすくめて、「どうぞお好きなように」と言った。
ガリオンには、この思いつきが大失敗と言えるほど深刻な間違いだということがわかっていた。ジーバースはいっしょに旅をする相手としてはあまり望ましくなかったし、かれの生徒は遠からずみんなの神経を苛立たせそうな徴候をいたるところで見せていた。彼女は見るからに過保護な扱いに慣れていて、よく考えもせずに何かを要求するようだった。それでもかれらはおとなしく言うことを聞いていた。ガリオンは、いちばん頼みごとをされるのが誰なのかをすぐに悟った。かれは立ち上がると、柳の木立のむこう端まで歩いていった。
木立の向こうの野原は、春の日差しを受けて淡い緑色に輝いていた。小さな白い雲が青い空をのんびりと横切っていく。ガリオンは一本の木に寄りかかって見るともなしに野原を眺めていた。ぼくは家来になんかならないぞ――あの女の子の正体がなんであろうと。最初にはっきりとぼくの立場を確立する方法があればいいのに――いろいろなことが手に負えなくなるまえに。
「おまえは頭がどうかしてしまったのか、ポル?」どこか後方の木立の中から、ミスター・ウルフの声が聞こえてきた。「ラン・ボルーンはもうトルネドラじゅうの軍隊を集めて娘を捜索させているはずだぞ」
「これはわたしの領分よ、老いぼれ狼」ポルおばさんはかれに言った。「口出ししないで。軍隊に煩わされないようにうまくやってみせるわ」
「彼女のお守りをしてる暇はないんだぞ」かれはなおも言った。「残念だが、ポル、あの子供は今に頭痛の種になる。おまえも、父親に対するあの態度を見ただろう」
「悪い習慣を打ち破るなんて訳ないわ」彼女は何食わぬ顔で言い返した。
「彼女をトル・ホネスに返したほうがもっと簡単に事が運ぶんじゃないか?」
「彼女は前にも一度家出してるのよ。送り返したって、どうせまた逃げ出すに決まってるわ。それより、必要なときに帝国の幼い王女が手のとどくところにいてくれたほうが、わたしとしてはずっと気が楽だわ。しかるべき時が訪れたときに、彼女を探すことで世界をバラバラにしたくはないもの」
ウルフはふっと溜息をついた。「好きなようにするがいいさ、ポル」
「当然よ」
「ただあのガキをわしに近づけないでくれ」かれは言った。「あいつを見てるとムカムカしてくる。ところで他の連中は彼女が誰だか知ってるのか?」
「ガリオンは気づいてるわ」
「ガリオンが? こいつは驚きだな」
「驚くことはないでしょ。かれは見かけよりずっと賢いわよ」
新たに芽生えた感情で、すでにガリオンの頭の中は混乱していた。ポルおばさんは、ぼくに苦痛を与えるあのセ・ネドラにあきらかに興味を持っている。ガリオンは激しい屈辱を覚えながらも、自分が少女に向けられている関心に嫉妬しているという事実を認めた。
何日か過ぎるうちに、ガリオンの懸念がただの思い過ごしではなかったということが明らかになってきた。かれは、ふと濡らしたファルドー農園の話がきっかけで、もとは皿洗いの少年だったことをセ・ネドラに知られ、今ではこの事実を逆手に取った彼女に毎日数えきれないほどのくだらない用を言いつけられていた。さらに悪いことに、かれが抵抗しようとするたびに、ポルおばさんは「もっと態度に気をつけなさい」と厳しい口調でかれに言い渡すのだった。その結果、かれは何もかもが嫌になってしまった。
南に向かう道中、王女はトル・ホネスを出るにいたったいきさつを詳しく話した。が、その内容は毎日変わり、距離を追うごとにでたらめで信じがたいものになっていった。最初は彼女も親戚を訪ねるための旅という設定に満足しているようだったが、やがて醜い老商人と結婚させられそうになり、それが嫌で逃げ出してきたのだという暗い事情をほのめかしはじめた。次いでもっと暗い事情、つまり彼女を監禁して身代金を要求する企みがあったのだと告白した。さらに苦心惨たんのあげく、ついにはその誘拐計画には政治的な動機が絡んでいる、つまりトルネドラの権力を手に入れるための巨大な陰謀の一部だという話をでっちあげた。
「セ・ネドラってとんでもない嘘つきだね」ある晩ポルおばさんとふたりきりになったとき、ガリオンは言った。
「ええ、ガリオン」ポルおばさんはかれの意見にうなずいた。「嘘も芸のうちだけど、うまい嘘っていうのはあまりごてごてと飾りつけないものよ。彼女もその道を究めたいなら、もっともっと修行しないといけないわね」
トル・ホネスを出発して十日ほどたったある日、ついに午後の日差しに照らされたトル・ボルーンの町が視界に入ってきた。「どうやらここでお別れのようですね」シルクは心底ほっとしてジーバースに言った。
「町には入らないのですか?」ジーバースは訊ねた。
「ええ」シルクは答えた。「ここで売れるような商品は持ってないし、またあれこれと説明したり客を捜したりしてたら時間の無駄になるから――賄賂のことは言うまでもないと思いますが。トル・ボルーンを迂回して、反対側のトル・レインにつづく道へ向かうことにしますよ」
「じゃあ、もう少し一緒に行けるわね」セ・ネドラがすかさず言った。「わたしの親戚は町の南の土地に住んでるのよ」
ジーバースはぽかんと口を開けて彼女の顔を見た。
ポルおばさんは手綱を控えると、片手の眉をピクリと上げて少女を見つめた。「みんなのためにも、今この場で二つ、三つ話をつけておいたほうがよさそうね」
シルクは彼女をちらりと一瞥し、うなずいた。
「セ・ネドラ」みんなが馬から下りると、ポルおばさんは口を開いた。「そろそろわたしたちに本当のことを打ち明けるべきだと思うけど」
「でも、わたしは……」セ・ネドラはそれに対抗するように言った。
「あらまあ、お嬢さん」ポルおばさんは言った。「あなたが話してくれたお話はとても面白かったけど、まさかそれを真に受ける人間がいるなんて本気で思っていたわけじゃないでしょうね? わたしたちの何人かはもうあなたの正体を見抜いているけど、ここでもう一度この問題をおおやけにする必要があると思うのよ」
「知ってるの?」セ・ネドラは声を震わせた。
「もちろんよ。あなたが自分で話す? それともわたしの口から説明しましょうか?」
セ・ネドラは小さな肩をがっくり落とすと、「ジーバース先生、このひとたちにわたしが誰なのか話してやってちょうだい」彼女は家庭教師に向かって静かに命令した。
「本気でそうすべきだと思ってるんですか、お嬢さま?」ジーバースはそわそわしながら聞いた。
「どうせこのひとたちはもう気づいてるのよ。もしわたしたちをどうにかするつもりなら、とっくの昔にそうしてるでしょうよ。信用しても大丈夫だと思うわ」
ジーバースは大きく息を吸い込むと、ややかしこまった口調で話しはじめた。「慎んでご紹介申し上げます。こちらにいらっしゃるお方はラン・ボルーン二十三世のご令嬢にしてボルーン家の宝であられる、セ・ネドラ王女さまでございます」
シルクは一瞬目をまるくして、ヒューッと口笛を鳴らした。他の仲間もかれとおなじように驚きを表わした。
「トル・ホネスの政局は日に日に一触即発の色が濃くなり、王女さまがそのまま首都に留まるにはあまりに危険な状態だったのです」ジーバースは説明をつづけた。「陛下はトル・ボルーンに行けばボルーン朝の人間がヴォードゥ家やホネス家やホーバイト家の陰謀からお嬢さまを護ってくれるだろうとお考えになり、お嬢さまをここにお連れするよう、わたくしに命じられたのです。こうして立派に使命を果たすことができた旨を報告できることはわたくしとしましても、光栄のいたりだと思っています――もちろん、これも皆さんの力添えがあったからこそです。報告書の中でかならずあなたがたの協力について触れるつもりです――脚注、あるいは補遺として」
バラクはあごひげを引っ張り、頭を捻っていたかと思うと、口をひらいた。「帝国の王女さまが、たったひとりの家庭教師を護衛につけただけで、トルネドラの半分ほどもある距離を旅するわけかい? 民衆がナイフで切り合ったり、毒を盛ったりしている時に?」
「たしかにちょっと危険ですね」ヘターもかれの意見に賛成した。
「陛下は自らおぬしにこの任務を命じられたのかね?」マンドラレンがジーバースに訊ねた。
「その必要はなかったはずです」ジーバースはかたくなに言った。「陛下はわたくしの判断力と慎重な態度に多大なる信頼をお寄せくださっています。ジーバースなら安全な変装と旅仕度を整えられるだろうとご承知なさったのでしょう。王女さまも、父上がわたくしに多大なる信用をお寄せくださっているとおっしゃって元気づけてくださいましたし。もちろん、この旅はなんが何でも内密に行われなければなりませんでした。夜の夜中に王女さまがわたくしの寝室にいらして陛下の命令をお伝えになったのも、わたくしたちが誰にも言わずに宮殿を抜け出したのも、ひとえに――」かれはここまで言うと言葉をとぎらせ、恐怖に顔をひきつらせてセ・ネドラを見た。
「かれに本当のことを教えてあげなさい」ポルおばさんは小さな王女に言った。「もう気づいてるとは思うけど」
セ・ネドラは高慢な態度であごをしゃくり上げた。「命令を出したのはわたしよ、ジーバース。おとうさまはこのことにはなんの関係もないの」
ジーバースは見るみるうちに血の気を失い、今にもその場に崩れ落ちそうに見えた。
「いったいどこの白痴にそそのかされて自分の父親の宮殿から逃げ出そうなんてことを決心したんだ?」バラクは少女に訊ねた。「おそらく今ごろはトルネドラじゅうの人間がきみを捜しているぞ。われわれは四方を囲まれたも同然だ」
「まあ落ち着け」ウルフは図体の大きいチェレク人に声をかけた。「王女と言えども、まだほんの子供だ。そうすごむな」
「でも、かれの質問は的を射ていると思いますが」ヘターが口をはさんだ。「もし帝国の王女と一緒のところを捕らえられたら、われわれはトルネドラの地下牢の中をこの目で見ることになるんですよ」かれは次にセ・ネドラのほうを向くと、「ちゃんとした理由があるんですか、それともただゲームを楽しんでいただけなんですか?」
彼女は偉そうに居ずまいを正すと、「わたしは自分のやったことをいちいち召使いに説明しないことにしてるの」
「近いうちにそういう間違った考えをいくつか直さないといかんようだな」ウルフは言った。
「質問に答えなさい、セ・ネドラ」ポルおばさんは王女に言った。「質問をした人間が誰だろうと、そんなことは問題じゃないのよ」
「おとうさまはわたしを宮殿に閉じ込めてきたのよ」セ・ネドラはそれが答えだとでも言わんばかりに、ぶっきらぼうに言った。「しゃくにさわるから飛び出してやったの。他にも理由はあるけど、それは政治に関することなの。あなたたちには理解できないと思うわ」
「われわれの頭の中身を知ったら、きみはさぞかしびっくりするだろうよ」ミスター・ウルフは彼女に言った。
「わたしはお嬢さま≠ニしか呼ばれたことはないのよ」彼女は手厳しく非難した。「それともみんなは王女さま≠チて呼ぶわ」
「わしだってひとに嘘をつかれたことはない」
「あなたがボスかと思ってたわ」セ・ネドラはシルクの顔を見て言った。
「ひとを外観で判断するなかれ」シルクは穏やかに言った。「わたしならさっさと質問に答えてしまうんだがな」
「古い協定のことよ」彼女は言った。「でもわたしがサインしたわけじゃないのよ。なんでそんなものに縛られなきゃならないのかしら。わたしは十六歳の誕生日にリヴァの謁見の間にいなくてはいけないんですって」
「ああ、そのことか」バラクは辛抱強く言った。「それがどうかしたのか?」
「行くつもりはないの、それだけよ」セ・ネドラは宣言した。「わたしはリヴァに行くつもりはないし、誰もわたしを行かせることはできないわ。〈ドリュアドの森〉の女王はわたしの親族だから、きっとかくまってくれるはずよ」
ジーバースはすでにわずかながら正気を取り戻していた。「なんてことをしてくれたんだ?」かれは声をうわずらせた。「褒美をもらえると思って――あわよくば昇進できると思ってこの仕事を引き受けたのに。こんな危険な目にあわせやがって、この知能犯!」
「ジーバース」彼女は教師の言葉にショックを受けて叫んだ。
「すこし道をそれましょう」シルクが言った。「まだまだ山のように話があるけど、街道にいたんじゃ、いつ邪魔が入るとも限らないから」
「それもそうだな」ウルフもかれの意見に納得した。「じゃあ静かな場所を捜して野営の用意をしよう。これからどうするかをきちんと決めてしまえば、明日の朝すっきりと出発することができる」
かれらはもう一度馬に乗り、一マイルほど先に見える、曲がりくねった田舎道の道筋どおりに並ぶ木々を目指して、波打つ草原の中を進んだ。
「あのへんはどうでしょう?」小道のわきに立っている大きな樫の木を指さしながらダーニクが言った。樫の木の枝は日暮れ前の光の中で青々とした葉を出しはじめていた。
「うん、あそこがいいだろう」ウルフも賛成した。
大きく枝を広げた樫の木の下はまだら模様の影ができていて、心地よかった。苔むしてひんやりする低い石の塀が、小道に沿ってつづいていた。すぐ近くの塀の上に踏み段が渡してあるのだが、そこから一本の畦道が始まっていて、草原の中をくねくねと這うように進みながら、太陽の光を受けてきらきらと輝いている近くの池に向かっていた。
「塀の陰で火を起こせますね」ダーニクが言った。「街道からこっちの方角は見えないでしょう」
「薪はぼくが集めるよ」ガリオンは、木の下の草地に散らばっている枯れ枝を見ながら、自発的に言った。
かれらは、この頃にはすでに野営の準備を整えるおきまりの手順のようなものを確立していた。ものの一時間とたたないうちにかれらはテントを張り、馬に水をやって杭につなぎ、火を起こしてしまった。先ほどから池の表面にいくつかの水紋が現われていることに目をつけていたダーニクは、これらの仕事がすむと火の中で鉄のピンを熱し、注意深く槌で打って鉤針をこしらえた。
「なんのためにそんなものを作ったの?」ガリオンはかれに聞いた。
「夕食のメニューに魚はどうかと思ってな」鍛冶屋は革のチュニックの裾で鉤針をぬぐいながら答えた。それからその針をわきに置くと、火箸でふたつめの針を取り出した。「おまえも運をためしてみるか?」
ガリオンはダーニクの顔を見てニヤッと笑った。
近くであごひげのもつれをといていたバラクは、その会話を聞くと物欲しそうに顔をあげた。
「その針をもう一本作ってる暇なんか、ないよな?」かれは訊ねた。
ダーニクはくすくすと笑って、「二分もあれば充分ですよ」
「餌が必要だな」バラクはそう言うと、素早く立ち上がった。「あんたの鋤はどこだったっけ?」
それから数分のうちに、三人は池をめざして草原を横切り、竿用に若木を切って真剣に釣りをはじめた。
池の魚は見るからにがつがつしていて、ミミズをつけた鉤針に群れをなして向かってきた。一時間とたたないうちに、草におおわれた池の堤の上には二ダースちかい立派な大きさの鱒が銀色に輝きながらずらりと頭を並べていた。
太陽が西に沈んで空がバラ色に変わってきたころ、ようやくかれらが戻ってくると、ポルおばさんはかれらの収穫物をしげしげと眺めた。「素晴らしいわ」彼女は言った。「でも、洗うのを忘れてるわよ」
「ええっ」とバラクは声を詰まらせた。かれはいくらか気を悪くした様子だった。「でもおれたちは――つまり、どう言えばいいのかな――おれたちはこの魚を釣ってきたんだから――」かれはそこで言葉をきった。
「それで?」彼女はまっすぐにかれを見すえながら言った。
バラクは溜息をついた。「洗ってきたほうがいいようだな」かれはダーニクとガリオンに向かって無念そうに言った。
「そのようですね」ダーニクもかれの意見にうなずいた。
かれらが腰をおろして夕食にありつくころには、空は夜の訪れとともに紫色に変わり、星が見え始めていた。ポルおばさんは鱒をこんがりと狐色に揚げていた。日頃なにかと不平をもらす王女もこのときばかりはひとことの不満ももらさずに食事に専念した。
食事をすませるとかれらは皿をわきに置き、ふたたびセ・ネドラの逃亡問題に関する相談をはじめた。ジーバースは絶望的なまでにふさぎ込んでいたので、話し合いにはほとんど参加できなかった。セ・ネドラは、たとえかれらが帝都のボルーン家のところに自分を送り返したとしても、もう一度逃げるつもりだ、と頑強に主張した。結局、かれらはいかなる解決案も見出すことはできなかった。
「どんな行動をとっても、結局は面倒に巻き込まれるってことだな」シルクが悲しげな顔をしてそうしめくくった。「たとえ彼女を家族のもとへ送り返そうとしても、そこにはかならず面倒な問題が残る。彼女はありとあらゆる話をでっちあげて、われわれをのっぴきならない状況に追い込むだろうから」
「このつづきは朝になってから話すことにしましょう」ポルおばさんが言った。穏やかなその口調は、彼女がすでに自分なりの結論を出したことを物語っていた。が、彼女はそれ以上のことは何も言わなかった。
そろそろ真夜中になろうかというとき、ジーバースが脱出をはかった。かれらが地響きを立てる馬のひづめの音に目を覚ますと、パニックに襲われた家庭教師がちょうどトル・ボルーンの塀に向かって全力疾走で逃げていくところだった。
シルクは消えかかる炎のゆらめきの中に立ちつくし、怒りに顔をこわばらせた。「どうして止めなかった?」かれは見張りにあたっていたヘターを問いただした。
「止めてはいけないと言われたんです」革に身を包んだアルガー人はポルおばさんの顔をちらっと見ながら答えた。
「これでわたしたちが抱えていた唯一の問題が解決したのよ」ポルおばさんが説明した。「もしあの家庭教師がいたら、後々わたしたちのお荷物になったと思うわ」
「あなたはかれが逃げることを知っていたんですね?」シルクが聞いた。
「もちろん。そう結論するようにわたしが仕向けてあげたのですもの。たぶんかれは、まっすぐトル・ボルーンに向かうわ。そして王女が自分で宮殿を逃げ出したことや、今はわたしたちが彼女の身柄を預かっていることを報告して、なんとか自分の身を守ろうとするでしょうね」
「そうとわかってるんなら、止めなくちゃ」セ・ネドラはけたたましい声で言った。「かれを追って! 連れ戻してちょうだい!」
「せっかくかれが去るように仕向けたのに?」ポルおばさんが言った。「馬鹿なこと言わないでよ」
「なんだってそんな口をきけるわけ? わたしが誰だか忘れてしまったみたいね」
「お嬢さん」シルクが丁重な言葉づかいで言った。「あなたが誰であるかということがポルガラにとってどれほどちっぽけな問題かを知ったら、あなたはさぞかし驚かれるでしょうね」
「ポルガラですって?」セ・ネドラはもごもごと言った。「あのポルガラ? たしか、あなたのお姉さんだって聞いたと思うけど」
「嘘をついたんですよ」シルクは打ち明けた。「それがわたしの悪徳でしてね」
「じゃあ、あなたもただの商人じゃないのね」少女はとがめるように言った。
「かれはドラスニアのケルダー王子」ポルおばさんが言った。「他の仲間も似たような高貴な身分の持ち主よ。これで、あなたの肩書なんてわたしたちにとってはなんでもないということがわかったでしょ。わたしたちも肩書を持つ身だから、それがどんなに意味のないものかを知っているのよ」
「あなたがポルガラなら、このひとは――」王女は振り返って、ミスター・ウルフの顔を見つめた。かれは靴をはくために踏み段のいちばん下の段に腰をおろしていた。
「ええ」ポルおばさんは答えた。「それらしくは見えないでしょ?」
「あなたたちはトルネドラでいったい何をしているの?」セ・ネドラは声をうわずらせて聞いた。「魔法のようなものを使って継承問題の成り行きを左右するつもり?」
「なんでわしらが?」ミスター・ウルフは立ち上がりながら言った。「トルネドラ人は常に自分たちの政治問題が世界を揺るがしていると思っているようだが、他の国は誰がトル・ホネスの実権を握ろうと、そんなことにはなんの関心も持っとらん。わしらはそれよりはるかに緊急を要するある事情のためにここにいるのだ」かれは闇の中を透かすようにトル・ボルーンの方角を見やった。「ジーバースが、自分は狂ってはいないということを町の人間に確信させるには、まだまだかなりの時間がかかるだろう。しかし、このあたりに長居は無用だ。街道から離れていたほうがいいだろうな」
「まかせてください」シルクが言った。
「わたしはどうなるの?」セ・ネドラが口をはさんだ。
「あなたは〈ドリュアドの森〉に行きたいって言ってたわね」ポルおばさんは彼女に言った。
「どっちにしろわたしたちはそっちの方角に行くから、一緒に来るといいわ。わたしたちがあなたを届けたときにザンサ女王がなんと言うか、きちんと確かめることにしましょう」
「じゃあわたしは囚われの身っていうこと?」王女は顔をこわばらせた。
「あなたがどうしてもって言うなら、そういうことにしてもいいわよ、セ・ネドラ」ポルおばさんは言いながら、チラチラと明滅する炎の中で少女の顔をまじまじと見つめた。「それより、その髪をなんとかしないといけないわね。いったい何で染めたの? ひどい出来よ」
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つづく数日のあいだ、かれらは一気に南に向かった。セ・ネドラを捜し当てようと血相を変えて地方を歩き回っている軍団と騎馬パトロールを避けるために、夜中に馬を走らせることもしばしばあった。
「こんなことならジーバースを手放さなければよかった」危うく兵士とすれ違いそうになったあとで、バラクが苦々しく言った。「どうやらあいつはここと国境のあいだにいるすべての駐屯兵を奮起させてしまったらしいぜ。人里離れた場所かどこかに捨ててきたほうがまだましだったな」
「この場合は、そのかどこか≠ニいうところに決定的な響きがあるのさ、バラク」シルクはそう言ってニッと笑った。
バラクは肩をすくめた。「そうとも言えるな」
シルクは声をあげて笑いながら、「頭を使わずにナイフで物を考えるのはやめたほうがいいぞ。チェレクのいとこに共通の特質らしいが、あまり感心できるものではないからな」
「ちょくちょくドラスニアの兄弟を感きわまらせて、小生意気な発言をさせてしまうらしいその強迫観念もあまり感心できたものではないけどな」バラクは冷たく言った。
「なかなか言うね」シルクはわざとらしく感心してみせた。
かれらは、いつでも隠れたり逃げたりできるよう心の準備をしながら、そのまま前進した。いまでは、ヘターの不思議な才能はかれらの頼みの綱となっていた。かれらを捜しているパトロール隊が馬に乗っていることはわかっていたので、タカ顔のアルガー人は馬の気配を読み取りながら、包囲を避けて前進した。だから、かれが警告を出すたびに、みんなはパトロールが近づいていることを的確に把握することができた。
「どんな感じ?」ガリオンは、どんよりと曇ったある日の午後、シルクが案内したほとんど使われていない草ぼうぼうの道を進みながらヘターに話しかけた。「つまりさ、馬の考えていることを聞けるってことだけど」
「はっきりとは説明できないな」ヘターは言った。「もう長いこと常にそうすることができたから、聞けないっていうのがどういうことなのか、もう想像もつかない。つまり、馬の心に手を差しのべるっていうか――その中に包含されるようなものなんだよ。馬っていうのは自分は≠チていうより自分たちは≠チていう観念でものを考えているらしいんだ。たぶん群れの中の一頭であるということがかれらにとって一番自然な状態だからなんだろうな。もしかれらがきみと懇意になれば、かれらはきみを群れの仲間と見なすようになる。ときには、きみが馬じゃないってことを忘れてしまうこともある」かれはそこまで言うと急に話を中断した。「ベルガラス」かれは険しい口調で呼びかけた。「別のパトロールがやってきます――あの丘のすぐ向こうです。二、三十人はいますよ」
ミスター・ウルフはさっとあたりを見回した。「あの森にたどりつくだけの間はあるか?」かれは半マイルほど前方にあるうっそうとした楓の木立を指さした。
「急げば」
「よし、急げ!」ウルフの命令とともに、かれらは馬を蹴って全力疾走した。午前中ずっと降りつづくことになる春雨のしずくが、大きな楓の葉に二、三滴落ちるか落ちないかのうちに、その木立にたどりついた。かれらは地面におり立つと、うしろ姿を見られないようにしながら馬の先に立って湿っぽい若木のあいだを押し進んだ。
トルネドラのパトロール隊は丘の頂上までやってくると、浅い谷間をさっと駆けおりた。パトロール隊の隊長は楓の木立からそう遠くないところで馬を止めると、厳しい口調で一気に命令を下し、部下を分散させた。隊員は小さなグループをつくり、草ぼうぼうの道をふた手に分かれて偵察したり、次の起伏の頂上からあたりの田園を見渡したりした。隊長と灰色の乗馬マントをはおった民間人はその場に残って馬を道端に寄せた。
隊長は不快そうに目を細めて、ポツポツと落ちてきた雨を見上げた。「湿っぽい一日になりそうだな」かれはそう言うと、馬をおりて深紅のマントをさらにぴったりとたぐり寄せた。
かれの相棒もひらりと馬をおり、同時にうしろを振り返ったので、楓の木立の中に隠れていた一行はその顔をはっきりと見ることができた。ガリオンは、ヘターが急が体を硬くしたのを感じた。乗馬マントをきたその男は、マーゴ人だった。
「こっちへどうぞ、隊長」マーゴ人は馬の先に立って、木立のはずれにある、大きく枝を広げた若木の枝の陰に入り込みながら言った。
トルネドラ人はうなずいて乗馬マントの男のあとを追った。
「ところでわたしの申し出は、考慮していただけましたか?」マーゴ人が訊ねた。
「あれはただの推測かと思っていたが」隊長がそう答えた。「その異邦人とやらがわれわれの管轄内にいるかどうかもまだわからないというのに」
「しかし、隊長、わたしが得た情報にそれば、かれらは南に向かっているのですよ。かれらがこの管轄内にいることはすでにわかっているはずじゃないですか」
「だからと言って、われわれがそいつらを見つけるという保証はどこにもないぞ。たとえ見つけたとしても、きみの言うとおりにするのはまず無理だろう」
「隊長」マーゴ人は辛抱強く説得をつづけた。「なんといっても、それが王女さまの安全につながるんですよ。もしトル・ホネスに連れ戻されれば、王女さまはヴォードゥ派の連中に殺されてしまうでしょう。わたしがお渡しした書類にもそう書いてあったでしょう」
「ボルーン家の人間といっしょなら王女も安全だ。ヴォードゥ派の連中も南部トルネドラまでは追ってこないだろう」
「ボルーン家のひとびとはどうせ王女さまを父親のところに帰してしまいますよ。あなただってボルーン家の人間じゃありませんか。あなたなら、自分の家の首長に公然と反抗したりしますか?」
隊長は困った顔をした。
「王女さまの安全を守るには、ホーバイト家に預けるしかありませんよ」マーゴ人はさらに言いつのった。
「かれらと一緒なら安全だという保証がどこにある?」
「なんといっても最大の保証は――かれらの政治力です。かれらは、カドール大公が帝位につくのを阻止するためなら、政治力にものを言わせてどんなことでもするでしょう。大公が王女の死を望んでいるなら、ホーバイト家はもちろん生かしておこうとするはずです。王女さまの安全を真剣に考えれば、これしか道はありません――それに、そうしていただければ、いずれあなたも金持ちになれるんですよ」かれはずっしり重い財布をジャリジャリ鳴らして見せた。
隊長はそれでもまだ半信半疑だった。
「なんなら倍額にしてもいいですよ」マーゴ人の声はもうほとんど猫撫で声だ。
隊長はごくりと唾を飲み込んだ。「それが王女の安全につながるんだな?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ、ボルーン家を裏切ることにはならんのだな」
「あなたは愛国者ですよ、隊長」マーゴ人は冷淡な笑いを浮かべながらかれを安心させた。
ポルおばさんはセ・ネドラといっしょに木立の中にしゃがみながら、彼女の手をぎゅっとつかんでいた。少女の顔は憤激に赤らみ、目はめらめらと燃えあがっていた。
しばらくして軍隊とマーゴ人が行ってしまうと、王女は怒りを爆発させた。「よくもあんなことが言えたものだわ。それもお金のためによ!」
「あれがあなたに対するトルネドラの政策なんですよ」馬を引いて若木の木立を抜け、霧雨に煙る外の世界に出ながら、シルクが言った。
「でも、あのひとはボルーン家の人間よ」彼女は食い下がった。「わたしの家族の一員なのよ」
「トルネドラ人は他の何よりも財布に対して忠誠を誓ってるんですよ。そんなことも知らなかったとは驚きですな、王女さま」
それから数日後、かれらはある丘の頂上に立っていた。そこから、水平線上に緑の斑点のように広がっている〈ドリュアドの森〉が見えた。雨はすでにどこかに吹き飛ばされ、太陽がさんさんと輝いている。
「森にたどりついてしまえば、もう安全よ」王女はみんなに言った。「軍隊もあそこまでは追ってこないわ」
「どうして?」ガリオンが聞いた。
「ドリュアドとの条約よ。あなた、なにも知らないの?」
ガリオンはこの言葉にむっとした。
「あたりには誰もいません」ヘターはミスター・ウルフに報告した。「今出発するか、暗くなるまで待つかですね」
「一息に逃げてしまおう」ウルフは言った。「パトロールをかわすのも、いい加減疲れてきた」かれらは前方に広がる森を目指し、全速力で丘を駆け下りた。
野原から森林地帯に移り変わるさいには、かならずそれを知らせるやぶの縁≠ェあるはずなのだが、そこにはそういう徴候はまったく見られず、いきなり森がはじまっていた。ウルフがその木立の下にみんなを先導すると、とつぜん家の中に入り込んだような、確とした変化が感じられた。森そのものは、信じがたいほど古色蒼然としている。立ち並ぶ巨大な樫の木が大きく枝を広げているので、空はほとんど見えなかった。林床は苔におおわれ、ひんやりしていて、下生えはほとんどない。ガリオンは、その巨大な木の下では何もかもちっぽけに見えるような気がした。また、その森に奇妙な静けさが漂っているように感じた。あたりはひっそり静まりかえっていて、時おり昆虫の羽音や頭の上のほうから小鳥の歌声が聞こえてくる。
「おかしいな」ダーニクがあたりを見回しながら言った。「木樵が入った形跡がどこにもない」
「木樵ですって?」セ・ネドラはあえぐように言った。「ここに? この森に入り込む木樵なんていないわよ」
「この森は伐採を禁止されているのだ、ダーニク」ミスター・ウルフが説明した。「ボルーン家はドリュアドと条約を結んでいるのでな。もう三千年以上ものあいだ、誰もここの木にはふれとらんのだ」
「奇妙なところだ」今度はマンドラレンが、居心地悪そうにあたりを見回しながら言った。
「まるで精霊が宿っているようだ――精霊といっても、すべてが好意的なわけではないからな」
「〈森〉は生きているのよ」セ・ネドラはかれに言った。「この森はほんとうはよそ者が嫌いなんだけど――でも心配することはないわ、マンドラレン。わたしといっしょにいる限りあなたは安全よ」彼女は得意げに言った。
「ほんとうにパトロールは追ってこないんでしょうね?」ダーニクはミスター・ウルフに訊ねた。「ジーバースはわれわれがここに来ることを知っているんだから、きっとボルーン家に報告したと思いますよ」
「ボルーン家はドリュアドとの条約を破ったりしない」ミスター・ウルフはそう言ってかれを安心させた。「たとえどんな理由があっても」
「もし己の利益になるとわかっていたら、トルネドラ人はどんな条約でも踏みつけると思うけどな」シルクはいぶかしそうに言った。
「この条約だけは特別なのだ」ウルフが言った。「むかし、ドリュアドが王女のひとりをボルーン家の若い貴族に贈った。その王女こそ、のちに初代ボルーン王朝の皇帝となる子供を生んだ母親なのだ。だから、ボルーン家の繁栄はその条約ぬきには考えられない。かれらは決して危ない橋は渡らないだろう――たとえどんな理由があるにせよ」
「ドリュアドっていったいなんなの?」奇妙な精霊の気配や森の中にひそんでいる知覚のようなものに気圧されたガリオンは、その重々しい、微動だにせずにこちらを観察しているような沈黙を破りたくてとうとう口を開いた。
「こぢんまりしたグループだ」ミスター・ウルフは言った。「きわめて優しい気質を持っている。だからわしもドリュアドにはずっと好意を抱いてきた。もちろん、ドリュアドは人間ではない。が、そんなことはどうでもいいことだ」
「わたしもドリュアドよ」セ・ネドラは誇らしげに言った。
ガリオンは彼女の顔をまじまじと見た。
「厳密に言えば、そういうことになるな」ウルフがまた言った。「どうやらドリュアドの血筋はボルーン家の女のほうにだけ受け継がれているらしい。ボルーン家が条約を忠実に守っているのも、ひとつにはそれが原因なのだ――もし条約が破られたら、妻も母親もみんな荷物をまとめて出ていってしまうだろうからな」
「彼女は人間みたいに見えるけど」ガリオンは王女を見つめたまま反論した。
「ドリュアドは限りなく人間に近いから、わざわざ区別するほどのこともないのだ。それを考えれば、トラクが世界を引き裂いたときにドリュアドが他の怪物のように凶暴にならなかったことにもうなずけるだろう」
「怪物ですって!」セ・ネドラは声をはりあげて抗議した。
「これは失礼、王女さま」ウルフはすぐに謝まった。「これは、プロルグのゴリムがウル神に遭遇したさいに、かれを助けた非=人間をさして使われたウルゴ語なのだ」
「わたしが怪物に見える?」彼女は苛立たしそうにぷいと頭を上げた。
「言葉の選択を誤ったようだな」ウルフはぶつぶつ言った。「すまなかった」
「どうせ怪物よ!」セ・ネドラはさらにいきまいた。
ウルフは肩をすくめた。「わしの記憶が正しければ、この先そう遠くないところに小川がある。そこで馬を止めてわれわれが到着したという報告がザンサ女王の耳に届くまで待つとしよう。女王の許可なしにドリュアドの領域に入り込むのはよしたほうがいい。彼女たちは怒るとひどく意地悪になるからな」
「さきほど親切だって聞いたような気がしますけど」ダーニクが言った。
「ことによりけりだ。とにかく、森の真ん中にいるというのに、木と言葉を交わす連中を怒らせるのは得策ではないな。そんなことをすれば、不快なことが起こると相場は決まっている」ウルフはそう言って顔をしかめた。「それで思い出した。斧は見えないところにしまっておいたほうがいいぞ。ドリュアドは斧にはひどく敏感だからな――それと火。彼女たちは火を見ると、見境がなくなる。焚き火はできるだけ小さくしないと。それも料理のときだけだ」
苔むした岩の上で光を放ちながらサラサラ流れていく小川につくと、かれらはそのわきに立つ一本の巨大な樫の木の下に入り込み、馬をおりて灰褐色のテントを張った。ガリオンは食事をすませたあと、退屈まじりにあたりをぶらついた。ミスター・ウルフはひとり微睡《まどろ》み、シルクはすでに他の仲間を骰子《サイコロ》遊びに誘いこんでいた。ポルおばさんは丸太の上に王女を座らせ、彼女の髪についている紫色の染料を落としていた。
「ガリオン、もし他にすることがないんなら、お風呂につかってきたらどう?」ポルおばさんはガリオンに声をかけた。
「お風呂?」かれは聞き返した。「どこにあるのさ?」
「小川に沿って歩いていけば、どこかに淵があるはずよ」彼女はセ・ネドラの髪を注意深く泡立てながら答えた。
「水に浸かれっていうの? ぼくが風邪をひいてもいいのかい?」
「あんたは大丈夫よ、ガリオン。でも、すごく汚いわ。さあ、早く洗ってらっしゃい」
ガリオンは恨めしそうに彼女を見てから、きれいな服と石鹸とタオルを用意するために荷物のところに行った。それから、ブツブツと不平をこぼしながら上流に向かって地面を踏み鳴らしていった。
森の中でひとりきりになってみると、見られているという例の奇妙な感覚がさらに強くなってきた。もちろん、これといった確証はなかった。とりたてて変わったところはないのに、なぜかしら樫の木がかれの存在に気づいていて、かれにはわからない植物の言葉のようなものでかれの動きをことこまかに報告しあっているような気がしてならなかった。とはいえ、脅威のようなものは感じられなかった――あるのは、見られているという感覚だけだ。
テントからしばらく来たところで、かれはかなり大きな淵を見つけた。そこはちょうど小川が上方の岩場から滝となって落ちているところだった。淵の水はひじょうに澄んでいて、底にあるきれいな色の玉石や、用心深くかれを観察している数匹の大きな鱒の姿もはっきりと見ることができた。水の様子を見るために片手を入れたとたん、かれは身震いした。かれはごまかすことを考えた――パシャパシャッと体に軽く水をかけて、とくに日立つ汚れだけ石鹸で洗えば――だが、とっさにその考えを振り切った。ポルおばさんは完璧に洗わないかぎり、首をたてには振りそうにない。かれは苦しそうに溜息をつくと、服を脱ぎはじめた。
最初の衝撃は相当なものだったが、すぐにその冷たさもなんとか我慢できることがわかった。しばらくすると爽快ささえ感じるようになった。しかも滝がうまい具合に石鹸の泡をすすぎ落としてくれるので、いつしかかれは心から入浴を楽しんでいた。
「ずいぶん大騒ぎしてるじゃないの」堤の上からセ・ネドラがやんわり値踏みするように声をかけた。
ガリオンはおどろいて淵の底にもぐった。
けれども魚とちがって人間が水の中にいられる時間には限りがある。一分かそこらすると、かれはもがきながら水面に上がってきて、ひょいと頭を出し、あえぎながら唾を吐き出した。
「どうしちゃったの?」セ・ネドラが聞いた。彼女は、袖なしでウエストのところにベルトがついた丈の短い白いチュニックに、足がむきだしの紐つきサンダルという恰好だった。紐は彼女の細い足首とふくらはぎのところを交差し、膝のすぐ下で結ばれていた。片方の手にはタオルを持っていた。
「あっちに行けよ」ガリオンはまくしたてた。
「冗談じゃないわ」彼女はそう言うと大きな岩の上に腰をおろし、サンダルの紐をほどきはじめた。彼女の銅色の髪はまだ湿っていて、肩のあたりでくしゃくしゃと固まっていた。「どうしようっていうのさ?」
「水浴びしたいのよ。あなたはまだ浸かっているつもり?」
「他の場所に行けばいいだろ」ガリオンは叫んだ。すでに震え始めているが、頭を出しただけであとは水の中にしっかりとつかったままだ。
「だって、ここがよさそうなんだもの。水はどんなぐあい?」
「冷たいよ」かれはガチガチと歯を鳴らした。「でも、きみがどこかに行くまで、ぼくはぜったいに出ないからね」
「馬鹿なこと言わないでよ」彼女は言った。
かれは頬を赤らめ、断固として首を横に振った。
彼女は苛立たしそうに溜息をつくと、「ええ、ええ、わかったわよ。見ないようにすればいいんでしょ。でも、あなたって大馬鹿ね。トル・ホネスのお風呂では、そんなことを気にするひとは誰もいないわよ」
「ここはトル・ホネスじゃないんだよ」かれは語気を強めて言った。
「うしろを向いてるわ、もしそれであなたの気がすむんなら」彼女はそう言うと、立ち上がって淵に背を向けた。
ガリオンは彼女をすっかり信用しているわけではなかったから、淵からこっそりはい出すと、大急ぎでズボン下とズボンをひっぱり上げた。「もういいよ」かれは合図を送った。「さあ、入りなよ」かれは濡れた顔と髪をタオルでぬぐった。「ぼくはテントに戻ってるからね」
「レディ・ポルガラは、わたしと一緒にいるようにって言ってたわよ」彼女はウエストの紐をそっとほどきながら言った。
「ポルおばさんがなんだって?」かれはぎょっとして聞き返した。
「あなたはここに残ってわたしの護衛をするんですって」彼女はそう言うと、チュニックのすそをつかんだ。服を脱こうとしているのはあきらかだ。
ガリオンはくるりと回れ右をして、しっかりと木を見据えた。かれの耳は真っ赤に染まり、手は自分でもどうしようもないほどに震えている。
彼女は銀鈴を振るような声で笑った。彼女が淵に入ると、水しぶきの音が聞こえた。水の冷たさにいったんは悲鳴をあげたものの、しばらくするとまた水しぶきの音があがりだした。
「石鹸を取ってちょうだい」彼女はガリオンに命令した。
かれは何も考えずに屈みこんで石鹸を拾ったが、ぎゅっと目をつぶる前にウエストまで水に浸かって立っている彼女の姿がちらっと見えてしまった。かれは淵に背を向けて目を閉じたまま、うしろ手に石鹸を持ってぎごちなく突き出した。
彼女はまた笑ってかれの手から石鹸を取った。
永遠にも思えるような時間が過ぎたあと、王女はようやく水浴びを終えて淵から上がり、体を拭いてもう一度服を着た。ガリオンはその間ずっと目を閉じていた。
「センダー人って変に意識するのね」陽に照らされた空き地にふたり並んで腰をおろしているときに彼女が言った。彼女は片側に頭を傾けて、茜色をした、くしゃくしゃのもつれ髪を櫛でといている。「トル・ホネスの浴場はみんなに開放されているし、運動会はたいてい服を着ないで競技するわ。わたしもこのまえの夏、十二人の女の子相手に帝国競技場で走ったのよ。観客はすごく喜んでたわ」
「目に浮かぶようだよ」ガリオンは素っ気なく言った。
「それは何?」彼女は、かれの裸の胸に下がっているお守りを指さして言った。
「去年の〈エラスタイド〉のときにおじいさんがくれたんだ」ガリオンは答えた。
「どれどれ」彼女は手を伸ばした。
かれは上体を前にかがめた。
「よく見れるようにはずしてよ」彼女は命令した。
「はずしちゃいけないことになってるんだ。ミスター・ウルフとポルおばさんが、たとえどんなことがあってもぜったいにはずしちゃいけないって。たぶん、この中に何かの呪文が込められてるんだと思うよ」
「まあ、おかしな発想ね」彼女は、お守りがよく見えるように屈み込みながら言った。「あのふたりは本当は魔術師じゃないんでしょ?」
「ミスター・ウルフはもう七千歳なんだよ。〈アルダーの神〉のことも知ってるんだって。ぼくは、ウルフが一本の小枝を一分かそこらで木に成長させたり、石を燃やしてしまうのを見たことがあるんだ。ポルおばさんはひとつの呪文を唱えただけで盲目の女のひとの目を見えるようにしてしまったことがあるし、おばさん自身ふくろうに変身することができるんだよ」
「わたしはそんなこと信じませんからね」セ・ネドラはかれに言った。「まだ他に説明があるはずよ」
ガリオンは肩をすくめ、リネンのシャツと茶色のチュニックを着た。それからブルブルッと頭を振ると、まだ濡れている髪を指ですいた。
「かえってめちゃめちゃになるじゃないの」彼女は口やかましく言った。「ほら」彼女は立ちあがってかれのうしろに回った。「わたしにやらせて」彼女はかれの髪に櫛を当て、ていねいにとかしはじめた。「男の子にしてはきれいな髪をしてるわね」
「ただの髪だよ」かれは無関心に答えた。
彼女は一、二分のあいだ、黙って髪をとかしていたかと思うと、かれのあごをつかんで頭をのけぞらせ、まじまじとその顔をのぞきこんだ。そして髪のわきを一、二度押さえ、やっと自分の思いどおりのかたちになると、一言「うん、だいぶよくなったわ」と言った。
「ありがとう」ガリオンは彼女のこの変わりように少し戸惑いを感じていた。
彼女はもう一度芝の上に腰をおろすと、片方の膝を両腕でかかえ、きらきらと輝く淵を見つめた。
「ガリオン」彼女はとうとう口を開いた。
「うん?」
「普通の人間として成長するってどんなもの?」
かれは肩をすくめ、「ぼくは普通の人間しかやったことがないから、他と較べようもないよ」
「わたしが言おうとしていることはわかってるでしょ。あなたの育った場所のことを聞かせて――どんなことをしてきたかとか」
そこで、かれはファルドー農園、台所、ダーニクの鍛冶屋、そしてドルーンやランドリグやズブレットのことを話して聞かせた。
「ズブレットのことが好きなのね?」彼女はほとんどとがめるような口調で訊ねた。
「前はそう思ってたよ。でも、農園を離れてからあんまりたくさんのことが起こったから、彼女はどんな顔をしていたかさえもう思いだせないんだ。けっきょく、女の子を好きにならなくたってぼくはどうにかやっていけるんだと思うよ。それに、思い返してみても、辛い思いをしたときのほうが多いからね」
「そんなの無理よ」彼女はそう言うと、かれにニコリと笑いかけた。太陽の日差しを受けて燃え立つように輝いている髪が、こぢんまりした顔をふさふさと縁どっている。
「かもしれないね」かれは素直に認めた。「よし、今度はきみが、とくに特別な人間として育つのがどんなことかを話す番だよ」
「わたし、そんなに特別じゃないわ!」
「きみは帝国の王女さまじゃないか。ぼくに言わせれば、それは十分に特別なことだよ」
「ああ、そういうことね」彼女はそう言うと、クスクスと笑いだした。「あのね、あなたたちの仲間に入ってから、わたし、自分が帝国の王女だってことをほとんど忘れてしまうことがよくあるのよ」
「ほとんどねえ」かれはニッコリ笑って言った。「でも、すっかりじゃないだろ」
「ええ、すっかりじゃないわ」彼女はもう一度淵のほうに視線を投げかけた。「王女でいるのって、たいていはすごく退屈なことなのよ。儀式とか式典とかそんなことばっかり。その間ずっとスピーチを聞いたり、偉いひとの接待をしてなくちゃいけないのよ。まわりには四六時ちゅう護衛がくっついているわ。でも、わたしは時々ひとりきりになるために、こっそり抜け出してやるの。護衛たちはそのたびに震え上がってるわ」彼女はまたクスクス笑ったかと思うと、急に物思わしげな表情を見せた。「あなたの運勢を占わせて」彼女はそう言ってガリオンの手をとった。
「占いができるの?」ガリオンは訊ねた。
「ただの真似ごとよ。時々メイドたちと一緒にこれをして遊ぶの。あなたは高貴な生まれの夫と結婚して子宝に恵まれるわ、ってみんなで言い合うのよ」彼女はかれの手を裏返して、掌を見た。かれの掌の銀白色のあざは今ではすっかり平坦になっていたので、肌はなめらかだった。
「これは一体なんなの?」彼女は聞いた。
「ぼくも知らないんだ」
「病気じゃないわよね?」
「うん。ずっと前からここにあるんだ。ぼくの家系と何か関係があるんじゃないかと思うんだけど。ポルおばさんは何故かこれをひとに見せるのを嫌って、一生懸命隠そうとしてるんだ」
「こんなものをどうやって隠すの?」
「おばさんは年がら年じゅう、手を汚くしておく仕事を見つけてくれるんだ」
「まあ、面白い。わたしもあざがあるのよ――心臓のすぐ上のところに。見たい?」彼女はチュニックの襟をつかんだ。
「いいよ、きみの言葉を信じるよ」ガリオンは気の毒なほど真っ赤になって言った。
彼女は銀鈴をころがすような可愛らしい笑い声をあげた。「あなたって変な子ね、ガリオン。わたしが今まで会った男の子たちとまったく違うわ」
「かれらはトルネドラ人だろう」ガリオンは指摘した。「ぼくはセンダー人だもの――少なくとも、センダー人として育てられた――だから、違いがあるのは当然だよ」
「自分が何人なのかわからないような口ぶりね」
「シルクが、ぼくはセンダー人じゃないって言うんだ。ぼくが何人なのかまったく見当がつかないって。すごく変な話さ。だって、シルクはどんなひとを見ても、そのひとが何者なのかすぐにわかるのに。きみのおとうさんは、ぼくのことをリヴァ人だと思ったみたい」
「レディ・ポルガラがあなたのおばさんで、ベルガラスがおじいさんなんだから、あなたも魔術師なんじゃないかしら」セ・ネドラは言った。
ガリオンは一笑に付して、「ぼくが? そんな馬鹿な。第一、魔術師は人種じゃないんだよ――チェレク人やトルネドラ人やリヴァ人とは訳が違うんだ。どっちかって言うと、魔術師は専門職みたいなものだと思うよ――法律家や商人みたいな――ただ、魔術師の場合、新米はいないけどね。魔術師はみんな何千歳という年寄りなんだ。ミスター・ウルフが言ってたけど、人間はある意味で変わってしまったから、もう魔術師になることはできないんだって」
セ・ネドラは上体をうしろに反らして肘の上にもたれかかっていたが、かれの顔を見上げると、「ガリオン?」
「うん?」
「わたしにキスしたい?」
ガリオンの心臓の鼓動はにわかに激しくなった。
とそのとき、そう遠くないところからダーニクの呼ぶ声が聞こえてきた。ガリオンは、ほんの一瞬だが、この昔なじみの友だちを恨めしく思った。
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20[#「20」は縦中横]
「ミストレス・ポルが、そろそろテントに戻るように言ってるぞ」空き地まで来ると、ダーニクは言った。率直でごまかしのない顔に、どことなくおもしろがっているような表情を浮かべながら、かれはわざとふたりを見た。
ガリオンはとっさに顔を赤らめたが、しばらくすると顔を赤らめた自分に腹を立てはじめた。けれども、セ・ネドラのほうはそんなことはまったくおかまいなしといった顔をしている。
「ドリュアドはまだ来ないのかしら?」彼女は、立ち上がってチュニックのうしろについた芝を払いながら聞いた。
「まだですよ」ダーニクは答えた。「すぐにわれわれを見つけるはずだとウルフは言ってますけど。それより、南の方で嵐のようなものが発生しているらしくて、ミストレス・ポルがあなたとガリオンにすぐに戻るようにと」
ガリオンがちらっと空を見上げると、南から沸き上がったインクのように真っ黒な雲の層が、重々しい足取りで北進しながら鮮やかな青空をおおい隠しているところだった。かれは顔をしかめた。「あんな雲、はじめて見たよ。あなたはどう、ダーニク?」
ダーニクも空を見上げた。「奇妙だ」
ガリオンが湿った二枚のタオルを巻いてから、三人はふたたび小川を下りはじめた。雲のかたまりが太陽をおおい隠してしまうと、森はにわかに薄暗くなった。見られているという感じ――この森に入って以来みんながずっと感じていた例の用心深い知覚のようなもの――はまだなくなっていなかったが、今はそれ以外のものが加わっているように思えた。巨大な樹木が不安そうに体を揺すぶり、サラサラと葉音をたてながら無数の小さなメッセージを送りあっているように見える。
「怯えているわ」セ・ネドラがささやいた。「何かが木を怯えさせているのよ」
「え?」
「木よ――木が何かに怯えているの。ほら、感じない?」
かれは途方に暮れて彼女の顔を見つめた。
かれらのはるか上方では、小鳥たちが急に静まりかえり、澱んだ水と腐りかけた草木の嫌な臭いを乗せて冷たい風が吹きはじめた。
「これはなんの臭い?」ガリオンは神経質にあたりを見回して聞いた。
「この南はニーサなのよ」セ・ネドラが言った。「ニーサはほとんどが湿原なの」
「そんなに近いの?」ガリオンはなおも聞いた。
「それほどでもないわ」彼女はちょっと顔をしかめて言った。「六十リーグかそれ以上はあるもの」
「そんな遠くの臭いが運ばれてくるわけ?」
「そんなはずはない」今度はダーニクが言った。「すくなくともセンダリアではそんなことはありえない」
「テントまであとどのくらいかしら?」セ・ネドラが聞いた。
「約半マイルですよ」とダーニク。
「走ったほうがいいみたい」彼女は提案した。
ダーニクは首を振った。「地面がでこぼこしています。薄暗いなかを走るのは危険ですよ。でも、少し速く歩くことならできるでしょう」
かれらは、しだいに深くなる暗がりの中を急いで歩きつづけた。風がますます激しくなり、木々はその勢いに体を揺すぶりながら、たわんでいる。森に浸透している奇妙な怯えがさらに強くなってきたようだ。
「あそこで何か動いているよ」ガリオンは不意にそうつぶやいて小川の向こう側の黒っぽい木立を指さした。
「何も見えないわ」セ・ネドラは言った。
「ほら、大きな白い枝をつけたあの木のすぐうしろだよ。あれはドリュアドかな?」
うす明かりの中で、ぼんやりとした影が一本の木からもう一本の木へすべるように進むのが見えた。その姿には、背筋がぞくぞくするような不気味さが漂っていた。セ・ネドラはそれを見るなり、嫌悪をあらわにした。「ドリュアドじゃないわ」彼女は言った。「まったく違う生き物よ」
ダーニクは枯れ落ちた一本の大枝を拾うと、棍棒を持つようにそれを両手で握った。ガリオンもあたりをいそいで見回して別の大枝を見つけ、それで武装した。
別の影が二本の木のあいだでふらついているように動いた。さっきよりやや近い。
「運を天にまかせてやってみよう」ダーニクが厳めしい口調で言った。「注意しながら走れ。みんなのところにたどりつくんだ。さあ、行くぞ!」
ガリオンがセ・ネドラの手をとり、三人は小川の堤に沿って走りはじめたが、何度も何度もつまずいた。ダーニクは両手でつかんだ棍棒を威嚇するように振り回すうちに、ガリオンたちのはるか後方に遅れをとってしまった。
人影は今ではすっかりかれらを取り囲み、ガリオンは初めて這いあがる恐怖をおぼえた。
そのとき、セ・ネドラが悲鳴をあげた。かれらの前方の低いやぶから、影のひとつがその姿を現わした。それは大きくて、気味の悪い姿をしており、頭の前面に顔がなかった。不完全な形の両腕をこちらに伸ばしてヨロヨロと歩きながら、ぽっかり空いた眼孔がかれらを虚ろに見つめている。全体は濃い灰色とも言える土気色をしており、ジクジクした体は腐りかけた悪臭を放つ苔にぴったりとおおわれていた。
ガリオンはとっさにセ・ネドラをうしろに押しやり、怪物めがけて飛びかかっていった。棍棒の最初の一撃は怪物の脇腹をしっかりと直撃したが、棍棒は目に見える損傷は何ひとつ与えずに、ただ怪物の体にめり込んだだけだった。突き出した腕の片方に顔を撫でられると、ガリオンはそのぬるぬるした感触に身震いしてあとずさった。かれはもう一度死物狂いで怪物の前腕を打った。かれは、その腕が肘のあたりで切断されたのを見て思わず寒気だった。怪物は立ち止まって、まだ動きつづけているその腕を拾い上げた。
ふたたびセ・ネドラの悲鳴があがり、ガリオンは振り向いた。彼女のうしろから現われた別の泥人間が、すでに両腕で彼女のウエストをつかんでいた。怪物がぐるりと体を回転させて、手足をバタバタさせている王女を地面から引き離そうとした瞬間、ガリオンは満身の力を込めて棍棒をひと振りした。その一撃は怪物の頭や背中ではなく、足首を狙ったものだった。
泥人間は両足を折られて後ろ向きにひっくり返った。しかし、転倒しながらも、セ・ネドラのウエストをつかんだ手を離そうとはしない。
ガリオンは前方にジャンプし、棍棒を捨てて剣を抜き出した。怪物の体は驚くほどしぶとかった。蔓や枯れ枝は、怪物の体を形成している粘土にすっぽり包まれてしまった。ガリオンは熱に浮かされたように怪物の片腕を切りはらい、悲鳴をあげている王女を引き離そうとした。だが、もう片方の腕がまだ彼女をつかんでいる。ガリオンは差し迫った状況にほとんどすすり泣きながら、残ったほうの腕に切りかかった。
「気をつけて!」セ・ネドラが叫んだ。「うしろよ!」
ガリオンはさっと肩ごしに振り向いた。最初の泥人間がかれをつかもうとしているところだった。と同時にかれは冷たいものが足首をつかむのを感じた。今切断したばかりの腕が少しずつ地面を横切ってきて、かれをつかんだのだ。
「ガリオン!」遠吠えのようなバラクの声が、そう遠くないところで響き渡った。
「こっちだよ!」ガリオンは叫んだ。「早く!」
やぶの中でメリメリッという音がしたかと思うと、大きな赤ひげのチェレク人が現われた。手には剣を持ち、すぐうしろにヘターとマンドラレンを従えている。バラクは力強く剣をひと振りして、最初の泥人間の頭を切り落とした。宙を飛んでいった頭は、ドサリという気味の悪い音をたてて数マイル先に落ちた。頭をなくした怪物はくるりと向きを変え、敵をつかもうと宙を手探りした。バラクは目に見えて青ざめたかと思うと、次の瞬間、怪物の伸ばされた両手をバッサリはねた。怪物はそれでもヨロヨロと前進してきた。
「足を狙って」ガリオンはとっさに言った。それから体を曲げ、自分の足首をつかんでいる粘土の手を切りつけた。
バラクが足をはねると、泥人間は倒れた。だが、今度は切断された手や足がかれのほうににじり寄ってきた。
さらに別の泥人間たちが姿を現わしたところを、ヘターとマンドラレンが剣で前後左右を打ちまくったので、あたりには無数の生きた粘土の断片が飛び散った。
バラクは屈んで、セ・ネドラをつかんでいた残りの腕を切り取った。それから彼女の体を引っぱってしゃんと立たせると、ガリオンのほうに押しやり、「彼女をテントに連れて帰れ!」と命令した。「ダーニクはどこだ!」
「うしろのほうで怪物を引き止めてるよ」ガリオンは答えた。
「ダーニクを助けに行くぞ」バラクは叫んだ。「急げ!」
セ・ネドラはひどい興奮状態にあったので、ガリオンは彼女をテントまでむりやり引っぱっていかなければならなかった。
「いったいどうしたっていうの?」かれらを見るなりポルおばさんは訊ねた。
「森の中に怪物が出たんだ」ガリオンはセ・ネドラを彼女に押しつけながら言った。「泥でできた怪物で殺すことができないんだよ。ダーニクがつかまったんだ」かれはテントのひとつに飛び込むと、間もなく剣を持ち、意気込んで出てきた。
「ガリオン!」ポルおばさんは、すすり泣いている王女を必死にふりほどきながら叫んだ。
「何をしようっていうの?」
「ダーニクを助けなくっちゃ」
「ここにいなさい」
「嫌だ!」かれは叫んだ。「ダーニクはぼくの友だちなんだよ」かれは剣を大袈裟に振り回しながら、戦場に急いだ。
「ガリオン! 戻ってらっしゃい!」
かれはポルおばさんが制するのを無視して薄暗い森の中を走り抜けていった。
テントから百ヤードほど行ったところで乱闘がくりひろげられていた。バラクとマンドラレンとヘターは泥塗れの泥人間を手際よく切り刻み、シルクは投げ槍のような勢いで乱闘の中を出たり入ったりしながら、短剣で苔にびっしりおおわれた怪物に大きな穴をあけている。ガリオンは、耳鳴りの音を聞くと同時に自暴自棄の快感が体をつらぬくのを感じ、夢中で乱闘の中に飛び込んでいった。
とそのとき、顔面を蒼白にして足を踏ん張りながらブルブルと震えているセ・ネドラを引き連れて、ミスター・ウルフとポルおばさんがその場に現われた。ウルフの目はメラメラと燃え、精神を統一しているその姿はまわりの者よりずっと大きく見えた。かれは片方の腕を前に突き出し、掌を空に向けた。「雷よ、おこれ」かれが命令したとたん、手から電光がシューッと噴き出し、はるか上空で渦巻いている雲に達した。耳をつんざくような、すさまじい雷鳴とともに大地がどよめいた。頭の中で沸き起こったゴーッという激しい轟きに、ガリオンはめまいを覚えた。
次にポルおばさんが手を上げた。「雨よ、降れ!」彼女は力強い声で言った。
にわかに雲が裂け、大気そのものが水になってしまったのではないかと思われるほどに激しい雨が降ってきた。
泥人間は、そんなことをものともせずによろめきながら前進したまま、豪雨の中でどろどろと溶け始めた。ガリオンは、怪物の体が崩れて粘士と腐った草木のじめじめした塊になっていくのを、つかれたように眺めていた。激しい雨に打たれながら、その塊は上下に波うっている。
バラクは、雫のしたたる剣を握って腕を伸ばし、ついさっきまで怪物の頭部だったぶざまな粘土の塊をためらいがちにつっ突いた。粘士がパカッと開き、その中央から一匹の蛇がとぐろを解きながら出てきた。食いつこうとするかのように蛇がかま首をもたげたとたん、バラクはその胴体を真っ二つに切った。
まわりをおおっていた泥が豪雨に打たれて溶けてくると、他の蛇もぞくぞくと姿を現わしはじめた。「あの蛇」ポルおばさんはそう言って、粘士から抜け出そうともがいている鈍い緑色の蛇を指さした。「あれを取ってきてちょうだい、ガリオン」
「ぼく?」ガリオンは体がむずむずするのを感じながら、あえぐように言った。
「わたしがやりますよ」シルクが言った。かれは枝別れした棒きれを拾い、それで蛇の頭を押さえつけた。それから、濡れた胴体をかま首のうしろのあたりでつかんで、とぐろを巻いている蛇を持ち上げた。
「持ってきて」ポルおばさんは、顔を伝う水をぬぐいながら命令した。
シルクは彼女のところに蛇を持っていき、差し出した。先の分かれた舌が神経質にチロチロと動き、よどんだ目が彼女をじっと見つめた。
「これはいったいどういうことなの?」彼女は蛇に訊ねた。
蛇は軽蔑をこめてシーッと音をたてた。それからシューシューというささやきにも似た声で、「ご主人さまの用事だ、ポルガラ」
水を滴らせている蛇が言葉をしゃべったとたん、シルクは顔を青くして蛇をきつく握りしめた。
「なるほど」ポルおばさんが言った。
「追跡はあきらめろ」蛇はさらにシューシューと言った。「おまえたちがこれ以上進むのをご主人さまはお許しにならないだろう」
ポルおばさんは蔑むように笑った。「許す? おまえの主人はわたしに何かを許すような力は持ってないわ」
「わたしの主人はニーサの女王だ。女王さまはここでは絶対的な力を誇っているのだ。蛇には蛇の流儀がある。ご主人さまはその蛇の女王なのだ。あえて危険を覚悟の上でニーサに入ろうというのなら、好きにするがいい。われわれは辛抱強い、だが臆病ではない。きっと、おまえたちがまったく予測もしないような場所で待ち伏せるだろう。われわれの毒牙は小さな傷しか残さないからほとんど気づかないかもしれない。だが、それは致命傷だ」
「サルミスラはなんだってこの問題に関心を持っているの?」ポルおばさんが訊ねた。
蛇は彼女めがけてチロチロと舌を動かした。「ご主人さまは何もおっしゃらなかったが、とやかく詮索するのはわたしの性に合わない。わたしは伝言を伝え、すでに報酬も受け取っている。さあ、どうにでも始末するがいい」
「いい度胸ね」ポルおばさんは言った。土砂降りの雨に打たれ、いく筋もの水を顔に伝わせながら、彼女は冷たく蛇を見やった。
「殺してしまいましょうか?」シルクが訊ねた。しっかりとぐろを巻いた蛇をぎゅっとつかんでいるその緊張感のために、かれの顔はこわばり、指の関節が白く浮き出ている。
「いいえ」彼女は穏やかに言った。「こんなに優秀なメッセンジャーを殺してしまうのはもったいないわ」彼女は蛇を冷やかに見つめた。「仲間をひきつれてサルミスラのところにお帰り。そして彼女に伝えるのよ。ふたたび邪魔をするようなことがあればわたしは絶対に彼女を逃がしはしない、たとえニーサで一番深い瀝青坑《れきせいこう》に逃げようと、わたしの怒りから身を隠すことはできないと」
「伝言の報酬は?」蛇は訊ねた。
「命を助けてもらったのが報酬よ」
「いかにも」蛇はシューッと言った。「伝言を運ばせてもらいますよ、ポルガラ」
「下ろしてやりなさい」ポルおばさんはシルクに言った。
小男は腰を屈め、地面に腕をおろした。蛇がかれの手のまわりでスルスルととぐろを解きはじめると、かれはそれを放してうしろに飛び退いた。蛇はかれの顔を一度だけちらっと見てから、すべるように逃げていった。
「ポル、雨はこれぐらいでいいと思うがね」ウルフは顔をぬぐいながら言った。
ポルおばさんはほとんど投げやりに手をひと振りした。すると、バケツの水が底をつきたとでもいうように、雨がピタリとやんだ。
「ダーニクを捜さないと」バラクがだしぬけに言った。
「ぼくたちのうしろにいたんだ」ガリオンはすでに氾濫している小川の上流を指さして言った。何か恐ろしいものを発見してしまうのではと思うと胸がしめつけられるように痛んだが、ガリオンは心を鬼にしてふたたび森の中に入っていった。
「あの鍛冶屋はほんとうにいいやつだ」マンドラレンが言った。「あいつを失うなんて考えられない」かれの声は奇妙に沈んでおり、薄明かりの中で見るその顔はいつになく青白かった。とは言え、大きなだんびらを握る手は相変わらずしっかりしていた。ただ、かれの瞳にはガリオンが今まで見たことのない、不安の色が浮かんでいた。
水浸しの森を歩いていくと、水滴があちこちからポタポタと落ちてきた。「たしかこのへんだったんだけど」ガリオンはあたりを見回して言った。「なんのしるしも見えないな」
「わたしはここだ」頭の上のほうからダーニクの声が聞こえた。かれは大きな一本の樫の木のはるか上のほうにいて、かれらをじっと見下ろしていた。「怪物はもう消えたのか?」かれはつるつるした幹を注意深く下りはじめた。「寸前のところで雨が降ってくれた」かれはそう言って、最後の二、三フィートを飛び下りた。「木からあいつらを追い払うのが難しくなってきたところだったんだ」
ポルおばさんは不意に、一言の言葉もなく、ダーニクを抱きしめた。が間もなく、その突拍子もない行動の照れ隠しをするように、かれに小言を言いはじめた。
彼女の言葉をおとなしく聞いているダーニクの顔には、なんとも言えない不思議な表情が浮かんでいた。
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21[#「21」は縦中横]
その晩ガリオンはなかなか寝つかれなかった。何度も目を覚ましては、泥人間のぬるぬるした感触を思い出して身震いした。だが、すべての夜がそうであるように、この夜もやがて終幕を迎え、明るく清々しい朝が訪れた。毛布の中でうとうとしたのも束の間で、すぐにセ・ネドラが起こしにやってきた。
「ガリオン」彼女はガリオンの肩をさわりながら優しく声をかけた。「起きてる?」
かれは目を開けて彼女を見上げた。「やあ、おはよう」
「レディ・ポルガラが、もう起きなさいって言ってるわ」
ガリオンはあくびをして体を伸ばし、上体を起こした。テントの垂れ蓋こしに外を見やると、明るい太陽の日差しが目に飛び込んできた。
「今レディ・ポルガラに料理を教わってるのよ」セ・ネドラはいかにも誇らしげに言った。
「それはすごいね」ガリオンは目から髪をはらいながら言った。
彼女はしばらくのあいだかれを見つめていた。こぢんまりした顔は真剣そのもので、緑色の瞳をじっと凝らしている。「ガリオン」
「うん?」
「昨日はすごく勇敢だったわね」
かれはちょっぴり肩をすくめ、「たぶん今日はそのことでお小言を食らうはずさ」
「どうして?」
「ポルおばさんとおじいさんは、ぼくが勇敢になるのをすごく嫌がるんだよ」かれは説明した。
「ぼくをまだ子供だと思ってるから、怪我をするんじゃないかと気が気じゃないのさ」
「ガリオン!」ポルおばさんが、料理をしている焚き火の場所からかれを呼んだ。「薪がもっと欲しいんだけど」
ガリオンはやれやれと溜息をついて、毛布の中からくるりと起き上がった。それからハーフ・ブーツをはくと、剣を佩《は》いて森の中に入っていった。
巨大な樫の木立の下は、ポルおばさんが前の日に呼び下ろした大雨のせいでまだ湿っており、乾いた薪を見つけるのは容易ではなかった。かれはあちこち歩き回って、倒れた木の下や張り出した岩の下から枝を引っ張り出した。木々は黙ってかれを見ていたが、今朝はなんとなく敵意の度合いが少ないように思われた。
「何をしてるの?」頭の上から軽やかな声が聞こえてきた。
かれは、剣に手をかけながら声のほうをさっと見上げた。
かれの頭のすぐ上に大きな枝が張りだしていて、そこに少女がひとり立っていた。少女はベルトのついたチュニックを着て、サンダルを履いていた。髪は黄褐色で、灰色の瞳には好奇の光が宿っている。そして、かすかに緑がかった白い肌が、彼女がドリュアドであることを物語っていた。彼女は左手に弓を持ち、右手に持った矢をぴんと張りつめた弦に当てていた。矢の先はまっすぐガリオンを狙っていた。
かれは剣からそっと手を離した。「薪を集めているんだ」かれは彼女の質問に答えた。
「なんのために?」
「ぼくのおばさんが焚き火のために薪を欲しがってるんだ」
「焚き火ですって?」彼女は顔をこわばらせ、弓を引きかけた。
「小さいやつだよ」かれはすかさず言った。「料理のためなんだ」
「ここでは焚き火は禁じられているのよ」少女はいかめしい口調で言った。
「文句があるならおばさんに言ってよ。ぼくは言われたことをしているだけなんだから」
少女がヒューと口笛を鳴らすと、近くの木のうしろからもうひとり少女が現われた。この少女も弓を携えている。彼女の髪はセ・ネドラとおなじぐらい赤く、肌はやはり葉っぱの色をおびていた。
「そいつは薪を集めてるらしいの」最初の少女が報告した。「焚き火のためですって。殺してしまうべきかしら?」
「ザンサは、かれらの正体を調べてくるようにって言ってるのよ」赤毛の少女が思慮深く言った。「かれらにここにいる理由がないとわかったら、そのときに殺せばいいじゃないの」
「ええ、それもそうね」黄色い髪の少女は、あきらかに落胆しながら同意した。「でも、こいつを見つけたのがわたしだっていうことは忘れないでよ。しかるべき時がきたら、こいつを殺すのはこのわたしですからね」
ガリオンはうなじの毛が逆立つのを感じた。
赤毛の少女が口笛を吹いた。すると、弓を携えた六人のドリュアドが木立の中から漂うように現われた。彼女たちは一様に小柄で、茜色や黄金色など様々な色をした髪は、秋の木の葉に似てなくもなかった。彼女たちはガリオンのまわりに集まり、かれをじろじろと眺めながら、クスクス笑ったり、ペチャクチャお喋りしたりしている。
「それはわたしのものよ」黄色い髪のドリュアドがそう言って木から下りてきた。「わたしが見つけたんだから。それを殺すのはわたしだって、ゼラも言ってくれてるわ」
「健康そうねえ」あとから来たドリュアドのひとりが言った。「それに、すごく従順そう。生かしておいたほうがいいと思うわ。これは雄かしら?」
別のドリュアドがクスクス笑いながら、「雄かどうかためしてみましょうよ」
「ぼくは雄だよ」ガリオンはすかさずそう言って、思わず顔を赤らめた。
「みすみす殺してしまう法はないわ」もうひとりのドリュアドが言った。「しばらく生かしておいて、それから殺せばいいじゃないの」
「これはわたしのものよ」黄色い髪のドリュアドがきっぱりと言った。「もし殺したかったら、自分で殺すわよ」彼女はわがもの顔にガリオンの腕をつかんだ。
「他の者たちの様子を見にいきましょうよ」ゼラと呼ばれたドリュアドが提案した。「火を起こしてるらしいから、やめさせないと」
「火ですって?」あとから来たドリュアドの何人かがあえぐようにそう言って、ガリオンに非難のまなざしを向けた。
「ほんの小さいやつだよ」ガリオンはすぐに言い訳した。
「これを連れてきて」ゼラはみんなに命令し、森の中をテントに向かって歩きはじめた。はるか上方では、木々が互いにささやき合っている。
テントのある空き地に到着した彼女たちを待っていたのは、落ち着きはらったポルおばさんの姿だった。彼女はガリオンを取り巻いているドリュアドを見ても、顔色ひとつ変えなかった。
「ようこそ、お嬢さまがた」と彼女は言った。
ドリュアドたちはひそひそ話を始めた。
「セ・ネドラじゃないの!」突然、ゼラという名のドリュアドが叫んだ。
「ゼラ従姉《ねえ》さん」セ・ネドラがそれに答え、ふたりは駆け寄って抱き合った。空き地内の少し離れたところに姿を現わした他のドリュアドたちは、神経質に焚き火を見ている。
セ・ネドラはすぐさまゼラにかれらが何者なのかを説明した。ゼラは仲間に近くに来るよう合図した。「このひとたちは仲間らしいわ」彼女は言った。
「じゃあ、これを殺さなくてもいいってことなの?」黄色い髪のドリュアドは小さな指でガリオンを指しながら、すねるように聞いた。
「あなたには気の毒だけど」ゼラは言った。
黄色い髪のドリュアドは、口をとがらせながら地面を踏みつけるようにして歩き去った。
ガリオンはホッと胸をなでおろした。
とそのとき、ミスター・ウルフがテントのひとつから出てきて、ドリュアドの群れを見るなり満面に笑みを浮かべた。
「ベルガラスよ!」ドリュアドのひとりがきいろい声をあげて、うれしそうにかれに駆け寄った。彼女はかれの首に腕をまわして頭をもたげさせ、音高くキスした。「何かお菓子を持ってきてくれた?」彼女は聞いた。
老人は大まじめな表情で、数あるポケットをかきまわしはじめた。砂糖菓子が次から次へと山のように出てきた。だが、ドリュアドがわっとかれを取り巻き、かれがポケットから取り出すそばからひったくったので、砂糖菓子はあっという間になくなってしまった。
「何か新しいお話を持ってきてくれた?」ドリュアドのひとりが聞いた。
「ああ、たくさんあるぞ」ウルフは、茶目っ気たっぷりに鼻のわきを指でさわった。「だが、おまえたちの姉妹も一緒に聞けるように、今しばらく待たないといけないんじゃないかな?」
「わたしたちだけで聞きたいわ」彼女は言った。
「ところで、この素晴らしい物語のお礼に何をくれるのかね?」
「キスよ」彼女はすぐさま答えた。「ひとりひとりから五回ずつ」
「わしが持ってきたのは、それはそれは素晴らしい話なんだぞ」ウルフは駆け引きに出た。
「五回はないだろう。十回でどうだ」
「八回」小柄なドリュアドはやり返した。
「よし、わかった」ウルフは同意した。「八回が適当な線だろう」
「前にもここにいらしたことがあるようね、老いぼれ狼」ポルおばさんが冷やかな口調で言った。
「たまに来るんだ」かれは何食わぬ顔で白状した。
「あのお菓子は彼女たちのためにならないわよ」彼女は非難した。
「少しぐらいなら害にはなるまい、ポル。彼女たちはお菓子に目がないのだ。砂糖菓子のためなら、ドリュアドはどんなことでもやるだろう」
「救いようのないひとね」彼女は言った。
ドリュアドはミスター・ウルフのまわりに群がり、その様子は春の花が咲き乱れる庭のようだった――だが、みんなとは言っても、ガリオンをつかまえた黄褐色の髪の少女だけは例外だった。彼女はすこし離れたところに立ち、むっつりしたまま矢の先を指でさわっていた。だが、とうとうガリオンのところにやってくると、期待を胸に訊ねた。「ねえ、ここから逃げようなんて思ってないわよね?」
「もちろん」ガリオンはきっぱりと否定した。
彼女はがっかりして溜息をもらした。「そんなこと考えるわけないわよね――どうしてもってお願いしたとしても」
「申し訳ないけど」かれは言った。
彼女はさっきよりさらに苦々しげに溜息をついた。「せっかく楽しみにしてたのに」彼女はブツブツ言ったかと思うと、やがて仲間の輪の中に入っていった。
シルクがゆっくりと用心深い足取りでテントから出てきた。ドリュアドたちがかれに馴れたころ、今度はダーニクが姿を現わした。
「彼女たちはまだほんの子供だよね?」ガリオンはポルおばさんに言った。
「そう見えるけど、見かけよりはずっと年よ」彼女は答えた。「ドリュアドは自分の木と同じぐらい長く生きるんだけど、樫の木っていうのはすごく長生きなのよ」
「男のドリュアドはどこにいるの?」かれは聞いた。「女の子しか見当たらないけど」
「男のドリュアドなんていないのよ、ガリオン」彼女はふたたび料理に取りかかりながら説明した。
「じゃあ、どうやって――? つまり、その――」かれは口ごもり、耳が熱くなるのを感じた。
「人間の男を捕まえるのよ。旅人とか、そういう類の人間を」
「ああ、そうか」かれはやんわりとその話題をやり過ごした。
朝食がすむと、かれらは小川から汲んできた水で用心深く焚き火を消し、馬に鞍をつけて森の中へと出発した。ミスター・ウルフは、小さなドリュアドたちに囲まれたまま、幸せな子供のように笑ったりおしゃべりしたりしながらみんなの先頭を行った。あたりの木々のつぶやきにもはや敵意はなく、かれらは無数の葉が歓迎するようにサラサラなびく中を進んでいった。
かれらが森の中央にある広大な空き地に到着したころには、すでに日が沈みかけていた。空き地の真ん中に樫の木が一本立っていたが、その木はあまりに巨大だったので、ガリオンはそんなに巨大なものが存在するという事実をすぐには受け入れることができなかった。その樫の木の苔むした幹には、あちこちにほら穴のような穴が開いていた。低いところの大枝は街道のように幅が広く、空き地をすっかりおおってしまうほど大きく広がっていた。その木には、膨大な時の流れと忍耐強い知力のようなものが漂っていた。一瞬、ガリオンは何かが自分の魂にかるく触れたような気がした。まるで、木の葉に顔をそっとなでられたような感じだった。それはかれが今までに感じたどんな感触とも違っていたが、同時にようこそ≠ニ言っているようにも思えるのだった。
その木は、文字どおりドリュアドでいっぱいだった。彼女たちは、花のごとく手当たりしだいに枝に群がっていた。あたりには彼女たちの笑い声と無邪気なおしゃべりが鳥の歌声のように響き渡っていた。
「マザーにあなたたちが着いたことを報告してくるわ」ゼラという名のドリュアドはそう言って木のほうに歩いていった。
ガリオンたちは鞍から下り、馬のちかくで頼りなげに立ちつくした。頭上のほうではドリュアドがささやいたり、ときどきクスクスと笑いあったりしながら、物珍しそうにかれらを見下ろしている。
あけすけで陽気な笑い声を聞いているうちに、ガリオンはなぜかしら無性に気恥ずかしくなってきた。かれがポルおばさんのところに近寄ると、他の仲間も、まるで無意識のうちに彼女の保護を求めたかのように彼女のまわりに集まっていた。
「王女はどこかしら?」彼女は聞いた。
「あそこにいますよ、マダム・ポル」ダーニクがそれに答えた。「あのドリュアドのグループに会いにいったんです」
「彼女から目を離さないでちょうだい」ポルおばさんは言った。「それと、うちの放浪者はどこかしら?」
「木の近くにいるよ」ガリオンが答えた。「ドリュアドはウルフのことをすごく気に入ってるみたいだね」
「愚かな老いぼれ」ポルおばさんは苦々しく言った。
やがて、一番下に伸びた大枝のやや上方にあるうろ穴から、別のドリュアドが現われた。このドリュアドは、他のドリュアドたちが着ている短いチュニックの代わりに、なだらかに広がる緑色のガウンを身につけていた。金色に輝く髪には飾り輪が留めてあったが、それはよく見るとヤドリギの輪だった。彼女は優雅な物腰でゆっくりと地面におりてきた。
ポルおばさんは彼女を出迎えるために前に進み出た。あとの者は適度な距離を保ちながらその後を追った。
「ようこそ、ポルガラ」そのドリュアドは暖かく言った。「お久しぶりね」
「わたしたちには仕事というものがあるのよ、ザンサ」ポルおばさんは言い訳した。
ふたりはやさしく抱擁し合った。
「このひとたちは贈り物として連れてきてくれたのかしら?」ザンサ女王はポルおばさんのうしろに立っている男たちをうれしそうに眺めながら聞いた。
ポルおばさんは笑い声をあげて、「残念ながら違うのよ、ザンサ。あなたに贈ることができたらわたしもうれしいのだけど、かれらにはまだ役目が残っているの」
「ああ、そうなの」女王は悪戯っぽく溜息をついてみせた。「ようこそ、皆さん。ところで、夕食はもちろん一緒に食べていただけるんでしょうね」
「ええ、喜んで」ポルおばさんは答えた。それから女王の腕をとると、「その前にちょっと話ができないかしら、ザンサ?」ふたりはみんなから少し離れ、ひそひそ話しはじめた。そのあいだドリュアドたちは樫の木のうろ穴から包みや袋を運び出し、大枝の下の芝生に宴の用意を整えはじめた。
ずらっと並べられた料理は一風変わったものだった。ドリュアドの常食はどうやら果物とナッツときのこがすべてらしく、調理されたものはひとつもなかった。バラクは席につくと、勧められたものを苦い顔で眺めた。「肉はないのか」かれは不平をこぼした。
「とりあえず、それでも飲んで血液を暖めろよ」シルクはかれに言った。
バラクはいぶかしそうにカップの中身をすすった。「うヘー、水じゃないか」かれは顔をしかめた。
「たまにはしらふでベッドに入るのもいいんじゃないかしら」ポルおばさんはかれらの仲間に加わるなり、言った。
「そんなことをしたら体に毒だ」と、バラク。
セ・ネドラはザンサ女王の近くに座った。彼女が女王と話をしたがっているのは傍目にも明らかだった。しかし、ふたりきりで話す機会がなかなか見つからないので、彼女はとうとうみんなの前で口を開いた。「女王さま、お願いがあるんですけど」
「言ってごらんなさい、娘よ」女王はにこやかに言った。
「たいしたことじゃないんですが」セ・ネドラは説明した。「二、三年かくまっていただきたいんです。父は年をとるごとにわからず屋になってきています。だから、父が正気を取り戻すまで、目の届かないところにいたいんです」
「ラン・ボルーンはどんなふうにわからず屋になってるの?」ザンサは訊ねた。
「わたしを宮殿から出してくれないし、十六の誕生日にはリヴァにいかなければいけないって言い張るんです」セ・ネドラは憤慨した声で言った。「こんな話ってあります?」
「それで、なぜかれはおまえをリヴァに行かせたがってるの?」
「あるくだらない協定のためです。どうしてそんな協定を結んだのか、もう誰もおぼえていないというのに」
「それが協定なら、尊重されなければいけないわ」女王は穏やかに言った。
「わたし、リヴァへは行きません」セ・ネドラは宣言した。「十六の誕生日が過ぎるまでここにいます。そうすればすべては終わるんですから」
「だめよ」女王はきっぱりと言った。「そうはいきません」
「えっ?」セ・ネドラはびっくりして聞き返した。
「わたしたちにも協定があるのよ」ザンサは説いた。「わたしたちドリュアドとボルーン家のあいだの取り決めは、じつに単純明快なもの。つまり、ボルーン家にゾリア王女の血を継ぐ娘がいるかぎり、〈わたしたちの森〉は神聖でいられるということなの。だから、父上のところに残って従うのは、おまえの義務なのよ」
「でも、わたしはドリュアドよ」セ・ネドラは泣き叫んだ。「ここの娘なのよ」
「と同時に人間であり、おまえの父上の娘なのよ」
「リヴァになんか行きたくない」セ・ネドラは食い下がった。「そんなこと、わたしのプライドが許さないわ」
ザンサは厳しい顔で彼女を見つめた。「駄々をこねるんじゃありません」彼女は言った。
「自分が何をなすべきか、もうわかってるはずよ。おまえはドリュアドとして、ボルーン家の人間として、そして帝国の王女として、自分の義務をまっとうしなければ。そんなくだらない気まぐれを言い出すなんて、見当違いもはなはだしいわ。リヴァに行くのがどうしても嫌だと言うなら、今すぐここを出て行きなさい」
セ・ネドラは女王の有無を言わさぬ口調に呆然とし、その後はむっつり黙りこんでしまった。
やがてザンサ女王はミスター・ウルフのほうを向いて、言った。「外界では様々な噂が飛びかっているようだけど、そのうちのいくつかはわたしたちの耳にも入ってきてるのよ。もしかすると、人間界で何か容易ならざる事態が起きてるのでは。そして、それはこの〈森〉にいるわたしたちの命をも脅かす可能性を秘めているのではないかしら。もしそうだとしたら、それが何なのかをわたしも知っておく必要があると思うのよ」
ウルフは重々しくうなずいた。「わしもそう思う。じつは〈アルダーの珠〉が裏切り者、ゼダーの手で〈リヴァ王の広間〉から盗まれたのだ」
ザンサはハッと息をのんだ。「どうやって?」彼女は聞いた。
ウルフは両手をひろげ、「わしらにもわからんのだ。目下のところ、ゼダーはアンガラクの王国に〈珠〉を持ち帰ろうと必死になっている。ひとたびアンガラクの王国内に入ってしまえば、やつは〈珠〉の力でトラクの目を覚まそうとするだろう」
「そんなことは絶対にあってはならないわ。これから一体どうなるの?」
「アローン人とセンダー人はもう戦争の準備をはじめているはずだ」ウルフは答えた。「アレンド人も協力を約束してくれたし、ラン・ボルーンにも一応忠告ずみだ。ただし、かれからはなんの約束も得ていないが。ボルーン家の連中は時として扱いにくいことがあるからな」かれはふくれっ面のセ・ネドラをチラッと見た。
「じゃあ、戦争ということに?」女王の声は哀しみに沈んでいた。
「残念だがそういうことなのだ、ザンサ。わしはここにいる連中とともにゼダーの跡を追っている。そして、やつが〈珠〉を持ってトラクのところにたどり着くまえに、なんとか追いついて〈珠〉を取り返せればと思っているのだ。かりにわれわれが無事〈珠〉を取り返したとしても、どのみちアンガラク人はすてばちになって西部を攻撃してくるだろう。はるか昔の予言がその条件を着々と整えつつあるのだ。いたるところにその徴候が現われ始めているので、グロリムたちのひねくれた知覚でさえ、それを感じている」
女王は溜息をついた。「わたし自身、すでにいくつか徴候を感じているわ、ベルガラス。間違いであってくれればいいと願っていたけど。ところで、そのゼダーというのはどんな男なの?」
「わしと瓜ふたつだ」ウルフは言った。「わしらは長いあいだ同じ師に仕えていたのだが、どうやらそれが人間に一定の徴《しるし》をつけてしまうらしい」
「そういう男なら、先週〈森の川〉の上流を通り抜けてニーサに入っていったわよ。もしそうと知ってたらその男を引き止めることもできたのに」
「じゃあ、われわれは思ったよりやつに近づいてるってことだな。やつはひとりだったか?」
「いいえ」ザンサは報告した。「トラクの召使いがふたり一緒にいて、それから小さな男の子がひとり」
ウルフは驚きをあらわにした。「男の子?」
「ええ――六歳かそこらの」
ウルフは顔をしかめ、次いで目を真ん丸に見開いた。「そうか、それがやつの手口だったんだ。まさか、そんな手を使うとは」
「なんなら、その男がどのへんで川を渡り、ニーサに入ったのか教えてあげるわ」女王は申し出た。「だけど、そんなに大人数でニーサに行くのは危険だわ。あの湿原にはいたるところにサルミスラの目が光っているのよ」
「そのことなら、もう計画を立ててある」ミスター・ウルフは彼女に言った。それからバラクのほうを振り向くと、「その船は確かに〈森の川〉の河口で待ってるんだろうな?」
「ええ、そのはずです」バラクはどら声で答えた。「船長は信用のおける男らしいから」
「よし」ウルフは言った。「じゃあ、シルクとわしはゼダーの跡を追うことにする。あとの者は川に沿って海に出てくれ。そして海岸に着いたら船をつかまえ、今度は〈蛇の川〉を上ってスシス・トールに向かうのだ。そこで落ち合おう」
「ニーサのように危険な士地で別行動をすることが、果たして賢明な選択と言えるでしょうか?」マンドラレンが口をはさんだ。
「そうするより仕方がないのだ」ウルフが言った。「ジャングルでくつろいでいる蛇人間たちは、よそ者が来ることを極端に嫌っている。わしとシルクだけなら、速やかに、こっそりと移動することができる」
「どこで待ち合わせればいいんです?」バラクが聞いた。
シルクがそれに答えた。「スシス・トールの埠頭の近くにドラスニアの貿易包領がある。そこにわたしの友だちの商人が何人かいるから、ボクトールのラデクはどこか、と聞いてくれ。もしそこで会えなくとも、だいたいの居場所を商人たちに言い残しておくから」
「わたしはどうなるの?」セ・ネドラが聞いた。
「わたしたちと行動を共にすることになるわ」ポルおばさんが答えた。
「ニーサに行く理由なんて、わたしにはないわ」
「言われたとおりにするのよ」ポルおばさんは小柄な少女に言った。「わたしはあなたの父上じゃないのよ、セ・ネドラ。そのふくれっ面を見ても、わたしの胸は痛まないし、まつ毛をパチパチ動かして気をひこうとしても、なんとも思わないわ」
「逃げてやるから」セ・ネドラは脅迫した。
「やるだけ無駄よ」ポルおばさんは冷たく言った。「わたしはあなたを連れ戻さなければならないし、あなただってそんなことをされればいい気分じゃないでしょう。目下のところ世界はおそろしく深刻な事態を迎えていて、とてもじゃないけど、過保護な女の子の気紛れがいちいち取り沙汰されるような状況じゃないの。あなたにはわたしたちと一緒に来てもらうわ。そして、十六の誕生日には〈リヴァ王の広間〉に立ってもらうわ――たとえ、鎖につないで連れていくことになっても。わたしたちは皆すごく忙しくて、これ以上あなたのお守りをしてる暇はないのよ」
セ・ネドラは彼女の顔をじっと見ていたかと思うと、突然わっと泣きくずれた。
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22[#「22」は縦中横]
翌朝、まだ陽ものぼらず、巨大な樫の大枝の下に霧がうっすらとたちこめているうちにシルクとウルフはニーサに発つ準備をした。ガリオンは丸太の上に座り、老人が食料を包む様子を陰鬱な顔で見守っていた。
「何をそんなにふさぎこんでいるんだ?」ウルフはかれに訊ねた。
「離れ離れにならずにすめばいいのに」ガリオンは言った。
「ほんの二週間じゃないか」
「わかってるよ、でも――」ガリオンはそう言って肩をすくめた。
「わしがいないあいだ、おばさんのことを頼んだぞ」ウルフは包みを縛りながら言った。
「わかったよ」
「それと、お守りを離すんじゃないぞ。ニーサは物騒なところだから」
「うん、忘れないよ」ガリオンは約束した。「ねえ、おじいさんは用心を怠ったりしないよね?」
老人は薄もやの中で白いひげをきらめかせながら、かれの顔をまじまじと見つめた。「わしはどんな時でも決して用心を怠りはしないぞ、ガリオン」
「さあ、急がないと、ベルガラス」シルクがふたりの話している場所に二頭の馬を引っぱってきて呼びかけた。
ウルフはうなずくと、ガリオンに向かって、「二週間のうちにスシス・トールで会おう」と言った。
ガリオンはすぐに老人を抱き締めると、ふたりが去っていくのを見なくてすむようにきびすを返した。かれが空き地を歩いていくと、そこには憂いに沈んだマンドラレンが霧の中を見つめながら立っていた。
「別れというのは気の滅入るものだ」騎士は沈みがちに言ったあと、溜息をもらした。
「でも、それだけじゃないんでしょ、マンドラレン?」ガリオンは聞いた。
「おぬしはなかなか鋭い少年だな」
「何を悩んでいるの? ここ二日間ほど、なんだか様子がおかしいようだけど」
「わたしの胸の中に奇妙な感情が芽生えたのだよ、ガリオン。わたしにはそれが気に食わないのだ」
「へえ、どんな感情?」
「恐れだ」マンドラレンは短く言った。
「恐れ? 何を?」
「泥人間だ。理由はわからない、だが泥人間の存在そのものがわたしの心に寒気を覚えさせたのだ」
「怖い思いをしたのはあなただけじゃないよ、マンドラレン」
「わたしは、これまで一度たりとも恐怖というものを感じたことがなかったのだ」マンドラレンは静かに言った。
「一度も?」
「子供のときでさえ。だが、あの泥人間を見たとたん背筋に寒気が走って、逃げたい≠ニいうことしか考えられなくなってしまったのだ」
「でも、逃げなかったよ」ガリオンは指摘した。「あなたは残って戦ったじゃないか」
「あの時はそうだった。だが次はどうなる? 心の中に恐怖心というものが入り込んでしまった以上、それがいつ表面に出てくるかを誰が予想できる? 今この瞬間にわれわれの追跡の結果がどちらに転ぶかが決まるというような時に、いまいましい恐怖心がその冷たい手でわたしの胸を捕らえ、勇気を奪わないと誰が言える? それを考えると、いても立ってもいられないのだ。わたしは自分の弱さ、自分の欠点が恥ずかしくて仕方がない」
「恥ずかしい? 人間らしいっていうことが? あなたは自分に厳しすぎるんだよ、マンドラレン」
「おぬしは優しいからそのように言ってくれるが、ガリオン、わたしの欠点はあまりに悲痛で、そんなに簡単に容赦されるべきものではないのだ。わたしはこれまで完璧を目指して努力をつづけ、そう的外れでないところまでこぎつけたと思っている。だが、何よりも素晴らしいものだったはずのその完璧にひびが入ってしまったのだ。その事実を受け入れるのは死ぬほど辛い」かれがふり向いたとたん、ガリオンはかれの目に涙が浮かんでいるのを見てハッとした。
「おぬし、わたしがよろいを着るのを手伝ってくれぬか?」かれは聞いた。
「もちろん」
「今のわたしには鋼に身を包むことがどうしても必要なのだ。おそらく、そうすればわたしの愚かな心を強くすることができるかもしれない」
「あなたは愚かじゃない」ガリオンは主張した。
マンドラレンは悲しげに溜息をつくと、「時がそれをあばいてくれるさ」
出発の時間が訪れると、ザンサ女王はかれらに短く声をかけた。「みなさん、お元気で。できることなら、わたしもあなたがたの追跡のお手伝いをしたいところだけど、ドリュアドは決して壊れることのないきずなで自分の木と結ばれているのよ。ここにあるわたしの木はかなりの老齢だから、わたしが面倒を見てあげないと」彼女は朝もやの中にそびえ立っている巨大な樫の木をにこやかに見上げた。「この木とわたしは互いに屈従し合っているの。でもそれは愛の屈従なのよ」
ふたたびガリオンは、前日はじめてその巨大な木を見たときに感じたあのやわらかな接触を感じた。その感触は別れを惜しんでいるようでもあり、何かしら警告しているようでもあった。
ザンサ女王は驚いたようにポルおばさんと視線を交わしてから、ガリオンの顔をまじまじと見つめた。彼女は言葉をつづけた。「年の若い娘たちに、わたしたちの森の南の境界となる川まで案内させましょう。そこまでいけば海に行く道はもう簡単だから」彼女の声音にはなんの変化もなかったが、目は物思わしげな色を帯びていた。
「ありがとう、ザンサ」ポルおばさんは心からそう言って彼女を抱き締めた。「セ・ネドラがわたしたちと共に無事でいるということをボルーン家に伝えてもらえれば、皇帝の気持ちもいくらか落ち着くと思うのだけど」
「そうするわ、ポルガラ」ザンサは約束した。
やがてかれらは馬に乗り、六人かそこらのドリュアドのあとを追った。彼女たちはかれらの前で蝶のように軽やかに飛び跳ねながら、かれらを南に導き、森に入っていった。なぜかしらガリオンの気持ちは深く落胆していて、ダーニクのわきで曲がりくねった森の道を進むあいだ、まわりの景色もほとんど目に入らなかった。
午前の中ごろには木立の下が暗くなってきたが、かれらは陰気な様相を呈している森の中に黙々と馬を進めた。ガリオンは、先ほどザンサ女王の開拓地で聞こえたような気がしたあの警告が、枝のきしむ音や木の葉のざわめきの中でこだましているように感じた。
「きっと空模様が変わりつつあるんだろう」ダーニクはそう言って、上を見た。「空が見えたらいいんだが」
ガリオンはうなずき、危険が迫っているという嫌な感覚をはらいのけようとした。
よろいかぶとに身を包んだマンドラレンと鎖かたびらを着込んだバラクがみんなの先頭を進み、鋼の円板を打ちつけた、なめし皮のジャケットを着ているヘターが最後尾を守っている。どうやら、何か悪いことが起こるのではという予感がみんなの胸の中に浸透しているらしく、かれらは一様に武器のちかくに手をおき、危険にそなえてあたりに視線を走らせながら用心深く馬を進めている。
とそのとき、藪から、あるいは木立のうしろからトルネドラの軍団が突然降ってわいたように姿をあらわし、かれらを取り囲んだ。攻撃してくる気配はないが、目映いほどに磨きあげられた胸当てをつけ、短い投げ槍をこちらに構えながらじっと立っている。
バラクは呪いの言葉をもらし、マンドラレンは馬の手綱をぐいっと絞った。「寄るでないぞ!」マンドラレンは槍を低く垂らしつつ、兵士に命令した。
「あわてるな」バラクがすかさず戒めた。
ドリュアドたちは、一度だけ真ん丸に見ひらいた目で兵士たちを見たきり、あとはいつの間にかうっそうとした森の中にとけこんでしまった。
「どうしたものだろう、バラク卿?」マンドラレンは呑気な調子で訊ねた。「あわせても百人は越えるまい。やっつけてしまおうか?」
「あんたとは近いうちに二、三のことがらについてじっくり話さなければいけないようだな」バラクはそう答えたが、肩ごしに振り向いた拍子に、じりじりとにじり寄ってくるヘターの姿が目に入ったので、あきらめたように溜息をついた。「ああ、どうやら、そうしたほうがいいようだな」かれは楯についた紐をぎゅっと締め、鞘の中で剣をゆるめた。「どう思う、マンドラレン? あいつらに逃げるチャンスを与えてやるべきかな?」
「慈悲深い提案ですな、バラク卿」マンドラレンは賛意を示した。
間もなく、道を少し行ったあたりで、騎馬部隊が薄暗い木立の中から進み出てきた。隊長は大柄な男で、銀の縁取りをつけた青いマントを着ていた。胸当てとかぶとには金がちりばめられている。乗っている馬は栗毛の雄馬で、勢いよく躍り跳ねながらひづめで地面に積もった湿っぽい木の葉をかき乱している。「お見事だ」かれは馬を前進させながら言った。「じつにお見事」
ポルおばさんは新来者たちを冷やかに凝視した。「旅行者を引き止める以外、軍団にはすることがないのかしら?」
「これはわたしの軍団でしてね、マダム」青いマントの男は横柄な口調で言った。「わたしから言われたとおりに行動するだけなんですよ。ところで、あなたがたはセ・ネドラ王女を同行しているとお見受けしたが」
「誰とどこに行こうと、わたしの勝手でしょ、閣下」セ・ネドラは居丈高に言った。「ヴォードゥ家のカドール大公にはなんの関係もないことだわ」
「父上は大いに心配してらっしゃいますよ、王女さま。トルネドラじゅうの人間があなたを捜しています。ここにいるのは一体何者ですか?」
ガリオンは必死にしかめっ面をつくり、頭を横に振って彼女に警告しようとしたが、手おくれだった。
「わたしたちを先導しているふたりの騎士はボー・マンドール男爵のマンドラレン卿と、トレルハイム伯爵のバラク卿」彼女はペラペラとしゃべりはじめた。「うしろを守っているアルガー人の戦士はヘターといって、アルガリアの王、チョ・ハグの息子さんよ。そのレディは――」
「自分で言えるわよ、セ・ネドラ」ポルおばさんは穏やかな声で彼女を制した。「それより、なぜヴォードゥの大公がわざわざ南トルネドラまでいらしたのかうかがいたいわ」
「利益になるものがあるからですよ、マダム」カドールは答えた。
「そうでしょうとも」
「今も帝国じゅうの軍団が王女さまの行方を追っていますが、突き止めたのはこのわたしだったというわけです」
「ヴォードゥ家の人間がボルーン家の王女を捜す手助けにそんなに意欲的だなんて、意外だわ。両家が互いに憎みあってきた年月の長さを思うと、なおさらのこと」
「くだらない冗談を言い合うのはやめようじゃないか」カドールは冷やかに言った。「動機がなんであろうと、きみたちの知ったことじゃない」
「どうせ薄汚い動機にきまってるわ」
「マダム、身分のほどを忘れてるんじゃないかね。わたしが大公という地位にあること――もっと適切に言うなら、やがてわたしが手に入れることになる地位のことを忘れてもらっては困るぞ」
「それで、どんな地位を手に入れるおつもりですの、閣下?」彼女は訊ねた。
「わたしはやがてトルネドラ皇帝、ラン・ヴォードゥになるのだ」
「まあ? それで、その未来のトルネドラ皇帝が〈ドリュアドの森〉でいったい何をしてるんです?」
「自分の利益を護るために必要なことをしているまでだ」カドールは堅い声音で言った。「つまり、今しばらく、セ・ネドラ王女を預かっておく必要があるということだが」
「おとうさまがそれを聞いたらなんと言うかしら、カドール大公」セ・ネドラが言った。「その野心を知ったら」
「ラン・ボルーンがなんと言おうが、わたしには関係のないことですよ、王女さま」カドールは言い返した。「トルネドラがわたしを求めている以上、ボルーン家がどんな手を使っても、わたしが皇帝の地位につくのを邪魔することはできない。あの老帝が、おまえさんをホネス家かホーバイト家の人間と結婚させて王座に偽の名乗りをあげようとしていることはわかってるんだ。そんなことをすれば事態がややこしくなるのは目に見えている。わたしはもっと簡単にことをすませるつもりだ」
「わたしと結婚することで?」セ・ネドラは軽蔑の言葉を浴びせた。「あんたはそんなに長生きできないわよ」
「とんでもない。ドリュアドの妻などこっちから願い下げだ。ボルーン家とちがって、ヴォードゥ家は、血筋は純粋に一点のしみもなく守られるべきだと思っているのだ」
「じゃあ、わたしを捕虜にするつもり?」
「残念ながら、それはできない。どこから皇帝の耳に入らないとも限らないからな。それにしても、よりによってあんなときに逃げたのはまずかったな、王女さま。大金を注ぎ込んでやっと部下のひとりを宮殿の調理場に送りこみ、珍しいニーサの毒を若干手に入れたところだったんだ。わざわざ、父上宛にお悔やみの手紙もこしらえておいたのに」
「ずいぶん思いやりがあるのね」セ・ネドラは顔色を青くして言った。
「残念ながら、そろそろ単刀直入に話すときがきたようだな」カドールはそう言って話をつづけた。「トルネドラ政治に巻き込まれた気の毒な王女の人生に終止符を打つには、鋭いナイフが一本と、二、三フィート分の泥があればじゅうぶんだ。悪く思わないでくださいよ、王女さま。個人的な怨みはない、だが、わたしは己の利益を守らなければならないのだ」
「カドール大公、おぬしの計画には小さな穴がひとつあるようだが」マンドラレンは槍を傍らの木に用心深く立てかけながら言った。
「なんのことだかわからんな、男爵」
「なら言うが、おぬしの誤りは、無謀にもわたしの武器が届くところに来てしまったということだ。おぬしの頭はもうなくなったも同然。頭をなくした男には王冠など必要ないと思うが」
ガリオンは、マンドラレンがこんな向こう見ずな態度に出るのは、ひとつには、もう恐れてはいないということを自分自身に証明したいからだと気づいていた。
カドールは不安そうに騎士を見つめた。「きみにはそんな真似はできない」かれは確たる根拠もなしに言った。「きみたちは人数が少なすぎる」
「それぐらいの考えしか持たないとは、おぬしも愚かな男だ」マンドラレンは言った。「わたしは天下無敵を誇る騎士で、しかも全身を鋼に包んでいるのだぞ。おぬしの兵士なぞ、わたしのまえでは草の葉片に等しい。おぬしの運命はもう決まったもおなじだ」かれはそう言うと同時に大きな剣を引き抜いた。
「結局はこうなる運命だったんだな」バラクはヘターに向かって皮肉まじりにそう言い、自分も剣を抜いた。
「そううまくいくかな」どこからか耳障りな声がひびきわたったかと思うと、黒いローブを着た見覚えのある男が、喪服のように黒い馬に乗って、近くの木のうしろから現われた。男は早口でなにごとかをつぶやき、右手でサッ、サッと宙を切るようなジェスチャーをした。ガリオンは頭の中を黒いものが通過し、奇妙なとどろきが起こるのを感じた。マンドラレンの握っていた剣が、ころがり落ちた。
「恩にきるぞ、アシャラク」カドールはホッと胸をなでおろして言った。「こんなことになるとは思ってもみなかった」
マンドラレンは籠手《こて》をはずし、激しい一撃を食らったかのように腕をさすった。ヘターの両眼が狭まり、ついでそれが奇妙にぼんやりとした色を帯びはじめた。マーゴ人の黒い馬は、一度だけいぶかしそうにかれを見たが、すぐに、軽蔑ともとれる態度で視線をそらした。
「どうだ、シャ・ダール」アシャラクは傷跡のある顔に作り笑いを浮かべ、さも満足そうに言った。「もう一度挑戦してみるか?」
ヘターの顔に激しい嫌悪の色が浮かんだ。「それは馬じゃない」と、かれは言った。「見た目には馬だが、もっと別のものだ」
「そうさ」アシャラクはうなずいた。「実を言えば、まったく別のものだ。もしお望みなら、こいつの魂の中身を探ってみるがいい。どうせ気に入るようなものは見つからないと思うが」かれはそう言うと、弧を描いて馬から飛びおり、目をギラギラさせながらみんなのほうに歩み寄った。それからポルおばさんの前で立ち止まり、皮肉っぽくお辞儀をした。「またお会いしましたな、ポルガラ」
「ずいぶん忙しそうじゃないの、チャンダー」
馬からおりようとしていたカドールは、この会話を耳にするなり、驚きをあらわにした。
「この女を知ってるのか、アシャラク?」
「カドール大公、この男はチャンダーと言って、グロリムの高僧なのよ。この男は単に金で名誉を買っただけ、あなたはそう思ってるかもしれないけど、いずれ近いうちにこの男がもっと多くのものを買ったということがわかるでしょうよ」彼女が鞍の上で居ずまいを正すと、生え際の白い髪の房がとつぜん白熱のように光り輝いた。「チャンダー、あんたはなかなか面白い競争相手だったわ。これからは淋しくなるわね」
「よせ、ポルガラ」チャンダーは間髪おかずに言った。「おれはこの小僧の心臓をつかんでいるんだぞ。おまえが意志を集中させようとしたとたん、小僧は死ぬと思え。こいつの正体はもうわかっている。おまえにとってどれほど価値ある人間なのかということも」
彼女は目を狭めた。「口で言うのは簡単よ、チャンダー」
「じゃあ試してみるか?」
「馬からおりるんだ」カドールの鋭い命令の声とともに、軍団がそろって威嚇するように前進をはじめた。
「言われたとおりにして」ポルおばさんが穏やかに命じた。
「長い追跡だったぞ、ポルガラ」ふたたびチャンダーが言った。「ベルガラスはどこにいる?」
「そう遠くないところにいるわ。今すぐ逃げ出せば、たぶんかれが戻ってくるまえに逃げられるはずよ」
「嘘を言うな、ポルガラ」チャンダーは笑った。「もしやつがそんなに近くにいれば、そうとわかるはずだ」かれはうしろを向いてガリオンの顔をじろじろと眺めた。「大きくなったな、小僧。そう言えば、おまえとじっくり話す機会は一度もなかったな」
ガリオンは敵の、傷跡のある顔を見つめかえした。警戒する気持ちはあったが、不思議と怖い≠ニは感じなかった。長年のあいだ待ちつづけてきた戦いが、いよいよ始まろうとしている。かれの心の奥底にある何かがもう準備はできている≠ニ言った。
チャンダーはかれの瞳をのぞきこんだ。「この小僧は何も知らないんだな?」かれはポルおばさんに聞いた。「ポルガラ、たいした女だぜ、おまえは。秘密を守りたいがために、小僧に何も教えずにいたとは。それなら、もっと早くおまえから奪っておけばよかった」
「その子にかまわないで、チャンダー」
チャンダーは彼女の言葉を無視した。「こいつの本当の名前はなんというんだ、ポルガラ? もう教えてやったのか?」
「あんたには関係のないことよ」彼女は抑揚のない声で言った。
「それがあるんだよ、ポルガラ。おれはおまえとおなじぐらい注意深くこの小僧を見守ってきたんだ」かれはふたたび笑った。「おまえがこいつの母親をつとめてきたというなら、父親役をつとめていたのはこのおれなのさ。われわれはふたりでこいつを立派な息子に育てあげたというわけだ――それはともかく、こいつの本当の名前が知りたい」
彼女は体をまっすぐにして、冷たく言った。「もう十分でしょう、チャンダー。条件はなんなの?」
「条件などないさ、ポルガラ。おまえとこの小僧はおれと一緒に、神トラクが目覚めのときを待っている場所へ赴くのだ。その間、小僧の心臓はこの手に握られたままだから、おまえも従順にふるまうしかあるまい。ゼダーとクトゥーチクは、〈珠〉をめぐって互いに滅ぼし合うだろう――その前にベルガラスがふたりを見つけ、自分の手でやつらを滅ぼしてしまわないかぎり――だが、おれは〈珠〉にはなんの興味も持っていない。最初からおれが狙っていたのは、おまえとその小僧なんだ」
「じゃあ、あんたはわたしたちを引き止めようとしてたんじゃなかったの?」
チャンダーは笑い声をあげた。「引き止める? おれはおまえたちをずっと助けてきたというのに。クトゥーチクもゼダーも、西部じゅうに手下を持っている。おれはおまえたちが無事に通りぬけられるように、いたるところでそいつらを惑わし、足止めを食わせてきたんだ。おれには、遅かれ早かれベルガラスが必要にせまられて〈珠〉だけを追うようになるということが読めていたのさ。そうなれば、おまえと小僧を略奪できるということも」
「何が目的なの?」
「まだわからないのか?」かれは聞いた。「神トラクが目覚めたとき、最初に目にするふたつのものは、鎖につながれ、かれの前にひざまずいているかれの花嫁と宿敵というわけさ。おれは、何物にもかえがたい贈り物をした褒美として、昇進を約束されるだろう」
「じゃあ、他の仲間は放してちょうだい」
「他の連中など、どうでもいい。あいつらはカドール閣下のところに置いていこう。かれが連中を生かしておきたがるとは思わないが、どうするかはかれしだいだ。おれの欲しいものはもう手に入ったからな」
「あんたは豚よ!」ポルおばさんはやり場のない怒りを爆発させた。「薄汚い豚だわ!」
チャンダーは穏やかな笑みを浮かべたまま、彼女の顔をピシャッと打った。「ポルガラ、おまえはほんとうに舌をコントロールする方法を学ばないといけないようだな」
どうやらガリオンの頭は爆発してしまったようだった。かれはおぼろげながらも、ダーニクと他の連中は兵士に押さえられているが自分を危険な人間と見なしている兵士はひとりもいないらしい、ということを見てとった。かれは無意識のうちに剣に手を伸ばし、敵のほうに歩きだした。
(そんな方法じゃだめだ!)それはいつもかれの心の中にあったあの乾いた声だった。だが、それはもはや消極的で無関心な声ではなかった。
(あいつを殺してやるんだ!)ガリオンは脳のほら穴の中でささやいた。
(そんな方法じゃだめだ!)声はおなじ警告を繰り返した。(かれらにそんなものは通用しない――おまえのナイフなんかでは)
(じゃあ、どうすればいいの?)
(ベルガラスが言ってたことを思いだすんだ――〈意志〉と〈言葉〉のことを)
(どうすればいいかわからないよ。ぼくにはできない)
(おまえはおまえなんだ。教えてやる、さあ、見るんだ!)眼前に〈アルダーの珠〉の炎の中であがいている神トラクのイメージが浮かび上がった。それはごく自然に、しかも驚くほど鮮やかに見えたので、まるで実際に起こっていることを眺めているように思われた。かれはトラクの顔が溶け、指が炎と化すのを見た。やがてこの顔が徐々に変わりはじめ、ついにはあの黒い傍観者の顔が現われた。あまりに長いあいだその心と結びついていたために、記憶から消えることのなかったあの黒い傍観者の顔が。激しい炎に包まれたチャンダーのイメージが目の前に現われるにつれ、ガリオンは内なるところで凄まじい力が沸き起こるのを感じた。
(今だ!)声が命令した。(やれ!)
ぶちのめさなければ。怒りを晴らすにはそれしか方法がない。かれは作り笑いを浮かべているグロリムに飛びかかった。あまりに素早い動作だったので、軍団の誰ひとりとしてかれを押さえることはできなかった。右腕をぶるんと振るい、チャンダーの傷跡のある左頬を平手で打ったとたん、かれは内なるところで沸き起こったすべての力が、掌にある銀色のあざから大きな奔流となってほとばしり出るのを感じた。「燃えろ!」かれは意志を込めて命令した。
不意をつかれたチャンダーは、反射的に体を引いた。その顔に怒りが浮かびはじめたのも束の間で、すぐに恐ろしい事実を悟ると同時に、両眼が大きく見開かれた。かれは抑えがたい恐怖の中でしばらくガリオンを見つめていたが、やがてその顔が苦しみにゆがみはじめた。「やめてくれ!」かれが声をからして叫ぶのと同時に、ガリオンの手がふれた頬のあたりから煙が出て、グツグツ煮えはじめた。まるで真っ赤に燃えるストーヴの上にいきなり横たえられたかのように、黒いローブからいく条もの煙が立ちのぼった。かれは悲鳴をあげ、顔をかきむしった。そのとたん指がバッと燃え出した。かれはふたたび悲鳴をあげ、身悶えしながら湿った地面に倒れた。
(じっと立ってるのよ!)今度はポルおばさんの声が頭の中にするどく響きわたった。
チャンダーの顔は今やすっかり炎に包まれ、ほの暗い木立の中にその叫び声がこだましていた。軍団は炎と化した男からあとずさった。ふいにガリオンはいたたまれない気持ちになった。かれは目をそむけようとした。
(気を抜かないで!)ポルおばさんの声が言った。(そのままチャンダーに意志を集中するのよ!)
ガリオンは燃えさかるグロリムをじっと見つめた。チャンダーが手足をばたつかせて自分の体を飲みつくした炎と戦っているあたりでは、地面の湿った草が煙をあげてくすぶっている。胸のあたりからも炎が噴き出し、悲鳴がだんだん弱くなってきた。だが、最後の力をふりしぼってもがきながら立ち上がると、チャンダーは哀願するような動作で、燃えあがる両手をガリオンのほうに伸ばした。「坊っちゃま」かれはしわがれ声で言った。「ご慈悲を!」
哀れみがガリオンの胸をしめつけた。長年にわたる、ふたりのあいだの密やかなきずなが、かれを引き止めようとした。
(だめよ!)ポルおばさんの厳しい声が命令した。(解放したら、あんたはこの男に殺されるのよ!)
(ぼくにはできない)ガリオンは言った。(もうやめたいんだ)かれは先ほどと同じように意志を集中しはじめた。頭の中で哀れみと同情が巨大な渦巻きのように沸き起こるのが感じられた。チャンダーのほうになかば手を伸ばし、かれを癒すことに神経を集中させた。
(ガリオン!)ポルおばさんの声が鳴り響いた。(あんたの両親を殺したのはチャンダーなのよ!)
かれの中で形成されつつあった思考はその場で凍りついた。
(ゲランとイルデラを殺したのはチャンダーなのよ。二人は生きたまま焼かれたのよ――今この男がこうして燃えているように。両親の怨みを晴らすのよ、ガリオン! この男を燃やしつづけなさい!)
ウルフから両親の死を聞かされて以来、ずっと胸のなかに持ちつづけてきた怒りと憤りが、頭の中でいっぺんに燃えあがった。一瞬まえには、自らの手で鎮めかけた炎だったが、突如としてその程度の炎では飽き足らなく思えてきた。なかば差しのべていた同情の手は、ピタリと停止した。抑えがたい怒りの中で、かれはその手を上げ、掌をかえした。掌に奇妙なうずきを感じたと思った瞬間、その手が鮮やかに燃えあがった。掌のあざから真っ青な炎がほとばしり、指のすきまからも炎が渦巻くようにのぼった。だが、痛みもなければ、熱いという感覚さえなかった。青い炎はますます鮮やかになっていく――あまりに鮮烈なので、かれ自身それを正視することができないほどだった。
断末魔の苦しみの極みにありながら、なおもチャンダーは燃えさかる手から逃れようとした。耳ざわりな絶望の叫びをあげながら真っ黒に焦げた顔を必死におおい、二、三歩よろよろとあとずさったが、次の瞬間、焼け落ちる家屋のようにガラガラと音をたてて地面にくずれ落ちた。
(やったわ!)ふたたびポルおばさんの声が聞こえた。(怨みは晴らされたのよ!)次いで、舞いあがるような歓喜の声が、かれの頭のほら穴のなかで高らかにこだました。(ベルガリオン! わたしのベルガリオン!)
顔面を蒼白にしたカドールは手足をガクガクさせ、まだ燃えつづけているチャンダーの亡骸から恐る恐るあとずさった。「魔術だ!」かれはあえいだ。
「そのとおりよ」ポルおばさんは冷たく言い放った。「あんたにはこういうゲームはまだ早すぎたようね、カドール」
度胆を抜かれた軍団のメンバーも、いましがた目にした光景に目を大きくふくらませたまま、じりじりと後退していた。
「皇帝はこの企みを重大事と考えるでしょうね」ポルおばさんは兵士たちに言った。「あなたたちが自分の娘を殺そうとしたことを耳にしたら、かれは自分に対する挑戦と思うはずよ」
「われわれが企んだのではありません」兵士のひとりが即座に言った。「カドールがひとりでやったことです。われわれはただかれの命令に従っていただけです」
「皇帝はそれを弁明として受け入れるかもしれないけど」彼女は疑わしそうに言った。「でも、わたしだったら、自分の忠誠を証明するような贈り物を持っていくでしょうね――こういう状況にふさわしい何かを」彼女は意味ありげにカドールを見た。
彼女の言わんとすることを察した兵士の何人かが、剣を抜いて大公を取り囲んだ。
「なんの真似だ?」カドールはかれらに聞いた。
「今日という日は、あんたから王座以上のものを奪ってしまったようね、カドール」ポルおばさんが言った。
「そうはさせんぞ」カドールは兵士たちに言った。
兵士のひとりが大公の喉に剣の先をあてると、厳めしい口調で言った。「大公、われわれは皇帝に忠誠を誓う。反逆罪のかどでおまえを逮捕する。もしわれわれを手間取らせるようなことがあれば、われわれはおまえの頭だけをトル・ホネスに持ち帰ることにする――どういう意味か、わかっていると思うが」
将校のひとりがセ・ネドラの前でうやうやしくひざまずいた。「王女さま、何かお役に立てることはございますでしょうか?」
王女はまだ顔面蒼白でブルブル震えていたが、きりっと直立すると、声も高らかに言った。
「父上のところにこの反逆者を連れていって、ここで起こったことを伝えてちょうだい。カドール大公を逮捕したのはわたしの命令だと言うのよ」
「かしこまりました、王女さま」将校はそう言うなり、さっと立ち上がって鋭い口調で命令した。「罪人に鎖をかけろ!」それから、セ・ネドラのほうに向きなおり、「王女さま、目的地までお送りいたしましょうか?」
「その必要はないわ、隊長。ただ、この反逆者をわたしの目のとどかないところに連れていってちょうだい」
「お望みのままに」隊長は深々とお辞儀をした。それから手で素早く合図して、兵士たちにカドールを連れていかせた。
ガリオンは掌のあざをじっと見つめていた。が、炎が燃えていた形跡はどこにも見当たらなかった。
兵士の束縛から解放されたダーニクは、目を真ん丸にしてガリオンを見つめた。「わたしはおまえのことをすっかり知っているつもりだったが」かれは小さな声で言った。「おまえは誰なんだ、ガリオン? どうやったらあんなことができるんだ?」
「ダーニク」ポルおばさんはかれの腕にふれてやさしく言った。「今までどおり、目に見えるものだけを信じるようにして。ガリオンはいつものガリオンよ」
「あれをやったのはあなただと言うんですか?」ダーニクはチャンダーの死骸を見たが、すぐに視線をそらした。
「もちろんよ。ガリオンのことはあなたもよく知ってるでしょ。この子は誰よりも平凡な少年よ」
だが、ガリオンにはそうではないことがわかっていた。〈意志〉はたしかにかれのものだったし、〈言葉〉もかれの内から出たものだった。
(黙ってて!)頭の中で彼女の声が警告した。(誰にも知られちゃいけないのよ)
(どうしてぼくをベルガリオンって呼んだの?)かれはそっと訊ねた。
(それがあんたの名前だからよ)彼女の声が答えた。(さあ、いつもどおりに振る舞うのよ。わたしを質問攻めにしないで。そのことについてはあとで話しましょう)そして、それきり彼女の声は聞こえなくなった。
他の仲間は、軍団がカドールを連れて退却するまで、その場にぼんやり突っ立っていた。やがて、軍団が視界から消え、皇族としての威厳を保つ必要がなくなると、セ・ネドラは声をあげて泣き出した。ポルおばさんは腕の中に彼女を抱え、なだめはじめた。
「これは埋めておいたほうがいいな」バラクはそう言ってチャンダーの残骸を足でそっと突いた。「煙ったまま残していったら、ドリュアドが機嫌を損ねるだろうから」
「鍬を取ってきましょう」ダーニクが言った。
ポルおばさんはたしかにぼくをベルガリオンと呼んだ。しかもその名前はぼくの頭の中で早鐘のように鳴りひびいた。まるで、ぼくが昔からその名前を知っていたかのように――ぼくがこれまでの短い人生を中途半端なまま生きてきて、あの瞬間、名前を聞いたときにやっと完成されたとでもいうように。でもベルガリオンは〈意志〉と〈言葉〉をそなえ、手でふれるだけで人間の体を生ける炎と化してしまえる人間なのだ。
(おまえがやったんだな!)ガリオンは、頭の片隅にある乾いた意識に非難の矛先を向けた。
(ちがう)声が答えた。(どうやればいいかを教えただけだ。〈意志〉と〈言葉〉はおまえのものだったし、ふれたのもおまえだ)
ガリオンにはそれが真実だということがわかっていた。かれは恐怖のうちに、敵の最後の哀願と、青白い炎を放ちながらそのしぼり出すような慈悲の願いをはねつけた自分の手を思い出していた。この数ヵ月のあいだ、絶望的なまでに自分をかきたてていた復讐の願望は、恐ろしいほど完璧に叶えられた。だが、その後味はどうしようもなく苦かった。
かれはガクッとひざを折ると、地面に顔をうずめ、うちひしがれた子供のように泣きじゃくった。
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第三部 ニーサ
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大地にはあいかわらずなんの変化もなかった。木立もおなじなら、空もおなじ。そして季節はいまだに春だった。季節はそのしっかりした足取りをいっこうに緩めようとしなかったからだ。だが、ガリオンにとっては、何もかもが昨日までのようにはいかなくなっていた。
かれらは〈ドリュアドの森〉を抜け、トルネドラの南の境界線となる〈森の川〉の堤をめざしているところだったが、ガリオンは仲間がときおり自分に奇妙な視線を向けているのを感じた。そのまなざしは好奇心と思索に満ちており、気立てがよくて真面目なあのダーニクまでが、まるでガリオンを恐れているような素振りを見せていた。唯一ポルおばさんだけが、今までどおりに、何も気にかけていないふうだった。(気にするのはよしなさい、ベルガリオン)頭の中で彼女の声がつぶやいた。
(その呼び方、やめてくれない)かれは苛立ちをこめて言った。
(あなたの名前じゃないの、慣れておいたほうがいいわよ)
(ぼくにかまわないで)
そう言ったとたん、頭の中にあった彼女の存在は消えてなくなった。
海に着くまでには、さらに数日かかった。雨こそ降らないが、依然として断続的に風が吹いていた。ついに川の河口にある広やかな浜辺に出ると、そこには激しい潮風が吹きつけていた。轟音とともに砂浜に寄せてくる波。白い波頭が波のてっぺんにまだら模様をつくっている。
寄せ波のむこうに、細身で黒いチェレクの戦船《いくさぶね》が錨をおろしたまま、ゆらゆらと揺れていた。その上空では、ギャー、ギャーと鳴き声をあげながら無数のカモメが飛びかっている。バラクは馬を止め、目の上に手をかざした。「はて、どこかで見たような船だが」かれは細身の船をしげしげとながめながら、太い声で言った。
ヘターは肩をすくめ、「ぼくには船なんてどれも同じに見えますけど」
「この世にはまったく同じものなど存在しない」バラクは大いに傷ついたようすで言いかえした。「もしおれが馬なんてみんな同じに見えるって言ったら、どんな気がする?」
「このひとは目が見えなくなってるんだ≠ニ思うでしょうね」
バラクはニヤッと笑って言った。「それと同じことさ」
「どうやってここにいることを知らせればいいんでしょうかね?」ダーニクが聞いた。
「もう気づいてるだろう」バラクが答えた。「酔っぱらってなければ。水夫っていうのは、不親切な海にはとくに目を光らせているもんだ」
「不親切?」ダーニクは聞き返した。
「チェレクの戦船《いくさぶね》が視界に入ると、どの海岸も不親切になるんだよ」バラクが答えた。「迷信のようなものだと思うがな」
船が上手回しになり、錨が引き揚げられた。長くてクモの脚のようなオールが出ると、船は白い泡をたてた砕け波のあいだをぬうようにして、河口のほうに前進してきた。バラクは先頭をきって川堤に向かうと、大きな流れに沿って馬を進め、ついに船を岸のすぐわきにつなげるほど深い場所を見つけた。
バラクにもやい綱を投げてよこした毛皮の水夫たちにはどこかで会ったような気がすると思っていると、まっさきに川堤に飛び移ってきたのは、なんとバラクの旧友、グレルディク船長だった。
「よくこんな南まで来たもんだな」バラクの声は、互いに離れていた時間の長さをまったく感じさせなかった。
グレルディクは肩をすくめ、「あんたが船を欲しがってるって聞いたもんでな。別に用事もなかったんで、ここに来てあんたが何をやってるのか見てみるのもいいんじゃないかと思って」
「じゃあ、わがいとこと話したのか?」
「グリンネグのことか? いや、話してない。おれたちは、あるドラスニア商人たちの依頼でコトゥからトル・ホーブの港まで来てたんだ。そこで、たまたまエルテグにでくわしたのさ――おぼえてるだろう――あの黒ひげで、片目の男だよ」
バラクはうなずいた。
「やつは、グリンネグに金をもらって、ここであんたを待つ約束だって言うじゃないか。おれは、あんたとエルテグの仲があまりよくなかったことをおぼえてたから、おれが代わりに行こうって言ったんだ」
「それで、あいつは同意したのか?」
「いや」グレルディクはあごひげを引っぱりながら答えた。「実を言うと、ひとの仕事に口出しするな≠チて言われたんだ」
「べつに意外なことじゃないな。エルテグのやつは、むかしから欲の皮がつっぱってたから。おおかた、グリンネグが金をたんまり払うとでも言ったんだろう」
「たぶんね」グレルディクはニヤリと笑った。「エルテグはいくらとは言わなかったが」
「それで、どうやって気持ちを変えさせたんだ?」
「あいつの船にちょっと困ったことが起きてね」グレルディクは真顔で言った。
「困ったことって?」
「つまり、ある晩あいつと水夫がすっかり酔っぱらったあと、どこかの悪党が船にこっそり乗りこんで、マストを切り倒しちまったってことらしいんだよ」
「おいおい、この世はいったいどうなるんだ?」
「おれもまったく同感だよ」
「あいつはそれをどう受け止めてた?」
「喜んでるとは言えないな」グレルディクは肩を落として言った。「おれたちが港から漕ぎ出そうとしているとき、神を冒涜するような言葉をつぎつぎとわめきちらしてたようだぜ。かなり離れたところにいても聞こえるような大声で」
「あいつも気持ちをコントロールすることをおぼえないといけないな。そんなことをするから、あちこちの港でチェレク人の悪い評判がたつんだ」
グレルディクは神妙にうなずいてから、ポルおばさんのほうを振りかえった。「奥方」かれはていねいにお辞儀をした。「どうぞご自分の船と思ってお使いください」
彼女はかれのあいさつに答えて質問した。「船長、スシス・トールまではどのくらいかかるのかしら?」
「天候にもよりますが」かれはちらっと空を見やりながら答えた。「せいぜい十日ってとこですかね。ここに来るとちゅうで馬のためにかいばを積んできましたが、ときどき水をやるために止まらないといけないでしょうから」
「じゃあ、もう出発したほうがいいわね」
「天候にもよるんだけど」かれは船をちらっと見ながらもう一度おなじ言葉をくりかえしたが、ヘターはたいして気にもとめずにやり過ごした。間もなくかれらは堤を離れ、河口の浅瀬を渡って外海にのりだした。水夫が帆をあげると、かれらはななめ後方から風を受けながら、ニーサの灰色がかった緑色の海岸線を南に帆走しはじめた。
ガリオンは船のへさきにある自分の指定席に行って腰をおろすと、はげしく波打つ海を物悲しい顔でながめた。あの森で炎をあげている男のイメージが、頭の中を占めて離れなかった。
うしろでコツコツと堅い足音が聞こえたかと思うと、ほのかな懐かしい香りが漂ってきた。
「そのことについて話したい?」ポルおばさんが訊ねた。
「話すことなんてどこにあるのさ?」
「いっぱいあるわよ」
「おばさんは、ぼくにああいうことができるって、知ってたんでしょう?」
「できるんじゃないかとは思ってたわ」彼女はかれのわきに腰をおろしながら言った。「いくつか徴候があったもの。でも、現実に使われてみないことには、なんとも言えないものなのよ。そういう能力がありながら使わずじまいだったひとを何人も見てきたわ」
「ぼくも使わずにすめばよかったのに」
「あんたに選択権があったとは思えないわ。チャンダーはあんたの敵だったのよ」
「だけど、ああまでしなくちゃいけなかったの? どうしても燃やす必要があったの?」
「あんたが自分で選んだことよ。燃やしたことでそんなに悔やむなら、今度からあの方法は使わないことね」
「今度なんてないよ」かれは抑揚のない声で言った。「ぜったいに」
(ベルガリオン)頭の中で彼女の声が容赦なく響いた。(その愚かしい考えはすぐに捨てなさい。くよくよ思い悩むのはやめるのよ)
「よしてよ」かれは声に出して言った。「ぼくの頭の中に入ってこないで――それからベルガリオンって呼ぶのもやめてくれない」
「あんたはベルガリオンなのよ」彼女は引き下がらなかった。「好むと好まざるとにかかわらず、あんたはふたたびあの力を使うことになるわ。一度解き放たれてしまったからには、二度と籠の中に戻すことはできないのよ。これから先も怒ったり驚いたり興奮したりすることはあるはずだし、そうなればあんたはほとんど無意識のうちにそれを使ってしまうでしょうね。片方の腕を使わないわけにいかないのとおなじで、あんたはもうそれを使わないわけにいかないのよ。それより今いちばん大事なことは、それをどうやってコントロールするかをあんたに教えることなの。その場の気分で木立を根こぎしたり丘を平らかにしながらウロウロするのを、黙って見てるわけにはいかないわ。あんたはその力と自分自身をどうコントロールするかを学ばなければいけないのよ。わたしは、あんたを怪物にするためにここまで大きくしてきたわけじゃないんだから」
「もう手遅れだよ、ぼくはもう怪物さ。ぼくがあそこでしたことを見なかったの?」
(自己憐憫はもうたくさんよ、ベルガリオン)またもや彼女の声が聞こえた。(もうどこにも行きようがないのよ)彼女は立ち上がると、今度は声に出して言った。「すこしは大人になる努力をなさい。自分の考えにとらわれて他人の言葉に耳を貸せない人間には、話のしようがないわ」
「もう二度とあんなことはしないからね」かれは反抗的に言った。
(だめよ、あんたはまたやるわ、ベルガリオン。勉強と訓練をかさねて、必要な法則を身につけるのよ。でも、どうしてもいやだというのなら、わたしたちも別の方法を考えないといけないわね。よく考えて結論を出してちょうだい――でも、そんなに時間はあげられないわ。すごく重要なことだから、延ばすわけにはいかないの)彼女は腕をのばしてかれの頬にかるくふれた。それからきびすを返して歩き去った。
(彼女の言うとおりじゃないか)頭の中の声がかれに話しかけた。
(ひとのことに首を突っ込まないでよ)ガリオンはすげなく言った。
その後、二、三日のあいだ、かれはできるだけポルおばさんを避けるようにしていた。だが、視線まで避けることは不可能だった。狭い船上のどこに行こうと、ポルおばさんの視線が常につきまとっていた。穏やかで、物思わしげなあの視線が。
それから三日目の朝食のとき、彼女ははじめてなにごとかに気づいたかのように、かれの顔をまじまじと眺めて言った。「ガリオン、ずいぶんひげが伸びてきたわね。剃ったらどうなの?」
ガリオンは顔を真っ赤に染めて、あごに指をのばした。そこには、たしかにひげがあった――ふわふわと柔らかく、剛毛というよりは綿毛という感じだったが、それでもひげであることに変わりはなかった。
「おぬしは日一日と大人の男に近づいているのだなあ、ガリオン」マンドラレンはいかにも満足そうに言った。
「なにもいますぐ決断するまでもないでしょう、ポルガラ」バラクは、自分のもじゃもじゃした赤ひげをなでつけながら言った。「しばらく伸びるままにさせておこう。それで、もしあまり具合がよくなければ、そのときに剃ればいい」
「この件に関しては、あなたの立場は中立とは言いがたいように思いますけど、バラク」ヘターが口をはさんだ。「チェレク人ならほとんどひげを伸ばしてるってわけでもないんでしょう?」
「おれの顔にはまだ一度も剃刀が当たったことがない」バラクは打ち明けた。「だが、べつに急いでやっつけることもないと思うぜ。あとになってから伸ばしておけばよかったと思っても、簡単にくっつけるわけにはいかないんだから」
「なんとなく変な感じ」セ・ネドラが言った。ガリオンに止めるすきを与えずに、彼女は小さな二本の指をのばしてかれのあごにある柔らかいひげをぐいっと引っ張った。かれは痛みに縮みあがって、もう一度顔を赤らめた。
「さあ、やってちょうだい」ポルおばさんが有無を言わせぬ調子で命令した。
ダーニクは黙ってうしろのデッキに行った。やがて水桶と茶色の石鹸とタオル、そして鏡のかけらを持って戻ってきた。「たいして難しいことじゃないんだ、ガリオン」かれは若者の前のテーブルにそれらのものを並べながら言った。それから、腰につけたケースの中からきちんと折りたたんだナイフを取り出した。「ただ、肌を切らないように注意する、それだけのことさ。肝心なのは、あわてないことだ」
「鼻のちかくを剃るときにはとくに注意しろよ」ヘターが忠告した。「鼻のない人間なんておかしくて見られたもんじゃないからな」
ひげ剃りの儀式はたくさんの忠告とともに進められ、その結果、全体的に見ればそう悪いものではないということがわかった。ほとんどの出血は二、三分後には止まったし、顔の皮を剥かれたような感じを除けば、ガリオンはその出来にすっかり満足していた。
「だいぶよくなったわ」ポルおばさんが言った。
「すぐに顔が風邪ひいちまうぞ」と、バラク。
「そういうことを言わないでくれる?」彼女はかれに言った。
かれらの左側をニーサの海岸線が通りすぎていた。複雑にからみ合い、蔦や長いぼろ布のような苔をまとった植物が、いつ果てるともなく壁のようにつづいている。ときおり風の中に起こる渦巻きが沼のいやな臭いを船に運んできた。ガリオンとセ・ネドラは、いっしょに船のへさきに立ちながらジャングルの方角を眺めていた。
「あれはなんだろう?」一本の小川が海に流れ込んでいるのだが、ガリオンは、その小川のどろどろした堤に沿って脚をズルズルと這わせている大きなものを指していた。
「クロコダイルよ」セ・ネドラが答えた。
「クロコダイルって?」
「大きなトカゲよ」
「危険なやつかい?」
「すごく危険よ。ひとを食べちゃうんだから。本で読んだことないの?」
「字が読めないんだ」ガリオンはたいしたことではないとでもいうように打ち明けた。
「なんですって?」
「字が読めないんだ」ガリオンはおなじ言葉をくりかえした。「読み方なんて誰も教えてくれなかったから」
「そんな馬鹿な!」
「ぼくのせいじゃないよ」かれはもごもごと言い訳した。
彼女はかれの顔をしげしげと眺めた。チャンダーとの決闘があって以来、彼女は半ばかれを恐れているように見えたし、それによっておそらく彼女の自信もくずれつつあったにちがいないのだが、それでもかれに対する彼女の態度は総じてあまりよくはなかった。ふたりの人間関係が幸先の悪いスタートをきったのも、もとはと言えば彼女がかれをただの下働きの少年と見なしたことが原因なのだが、彼女はおそろしくプライドが高くて、最初の過ちをなかなか認めることができないのだ。ガリオンは、彼女の頭の中で小さな歯車がカチカチと音をたてて回っているのを聞いたような気がした。
「わたしに読み方を教えてもらいたい?」彼女は言った。おそらく、これは今まで彼女がガリオンにかけた言葉の中で、もっとも謝罪にちかいものだったろう。
「時間がかかるんじゃない?」
「それはあなたの頭の出来によるけど」
「いつから始めればいいかな?」
彼女は顔をしかめた。「教科書なら二冊あるけど、なにか書くものがいるわねえ」
「書くことまで習う必要があるのかな? 今のところは読むだけでじゅうぶんだと思うけど」
彼女は苦笑して言った。「読み書きはひとつのことよ、お馬鹿さんね」
「知らなかったよ」ガリオンはわずかに顔を赤らめながら言った。「ほんとうのことを言うと――」ガリオンは考えをまとめようともがいてから、弱々しく結んだ。「そんなこと考えてもみなかったような気がする。ところで、どんなものに書けばいいのかな?」
「羊皮紙がいちばんいいわ。それと、木炭の棒――こすって消せば、羊皮紙の上に何度も書けるでしょ」
「ぼく、ダーニクに言ってくるよ。かれなら何か考えてくれると思うんだ」
ダーニクが勧めてくれたのは、帆布と黒焦げになった棒きれだった。それから一時間とたたないうちに、船のへさきの隠れ場所でガリオンとセ・ネドラは互いの頭をくっつけ合わせるようにして、板に釘づけしたカンバスに向かっていた。ガリオンが一度だけ頭をあげると、そこからそう遠くないところにポルおばさんが立っていた。彼女はなんとも言えない表情でふたりを眺めていた。すぐにかれはカンバスの上に並ぶ、妙にひとの心をひきつける符号に視線をもどした。
教授はその後何日間かつづいた。かれはもともと手先が器用だったので、みるみるうちに文字を書くコツを習得していった。
「ちがう、ちがう」ある日の午後、セ・ネドラが指摘した。「つづりがちがってるわ――間違った文字を使ってるわよ。あなたの名前はガリオンでしょ、ベルガリオンじゃないわ」
かれはふいに寒気をおぼえ、四角いカンバスを見下ろした。ベルガリオン=Aその名前はきれいにつづられていた。
かれがさっと視線をあげると、ポルおばさんがいつもの場所に立って、相変わらずかれを見つめていた。
(ぼくの頭の中に入ってこないで!)ガリオンは不快な気持ちを彼女にぶつけた。
(いっしょうけんめい勉強なさい)沈黙のうちに彼女がはっぱをかけた。(勉強は、たとえどんな種類のものでも、きっと役に立つわ。しかも、あんたには、学ばなくちゃいけないものが山ほどあるんだから。習慣を身につけるのは、早ければ早いほどいいわ)そのあと、彼女はにっこり微笑んで立ち去った。
翌日、グレルディクの船はニーサの中央にある〈蛇の川〉に到着した。水夫たちは帆を降ろし、上流のスシス・トールまでの長い力漕に備えて、オールをオール受けにセットした。
[#改ページ]
24[#「24」は縦中横]
そこには空気の動きというものがまったくなかった。まるで、世界がとつぜん湯気のたちこめた巨大な澱みに変わってしまったかのように思われた。〈蛇の川〉には河口が百ほどもあって、そのひとつひとつが、荒れ狂う海の波にいやいや合流するかのように、ゼリー状の三角州の黒泥の中をのろのろと這っている。その巨大な三角州の中に生える葦は二十フィートも背丈があり、織布のようにびっしりと隙間なく並んでいた。上のほうではそよ風が葦のあたまをなでて、焦らすような音をたてているが、葦の足もとにいるかれらには、風のことなど考えることはおろか、思い出すことすらできなかった。空気はそよとも動かない。上のほうから照りつける太陽は、下界を沸騰させるほどではないにせよ、焼けつくようなその日差しで三角州の湿度をたかめ、嫌な臭いを誘発している。こころなしか、ひとりひとりの呼吸も水蒸気になってしまったように見える。葦の陰から発生した虫は、ちょっとでも露出した肌があればがむしゃらに食いつき、どん欲に血を吸い取った。
かれらは一日半をこの葦の中で過ごしたのち、やっと最初の林にさしかかった。林といっても丈はなく、藪ていどのものだった。ゆっくりとニーサの心臓部に入っていくにつれ、川の本流がようやく水路のような形を見せはじめた。水夫が玉のような汗をかきながらオールに罵声を浴びせ、船は流れに逆らいながらゆっくりと進んでいる。その様子は、忌まわしいにかわ[#「にかわ」に傍点]のようにまとわりつくドロドロの油の流れに逆らって必死にもがいている船のようだ。
木々の丈が高くなってきたかと思うと、すぐにそれが巨大な樹木にとって代わった。ふしだらけの根が、堤沿いの軟泥の中から、グロテスクにゆがんだ人間の脚のようにニュッと突き出し、城郭ほども大きさのある幹が湯気のたちこめた空にそびえている。頭上の主枝から波状にさがっているねばねばした蔓が、息をひそめた大気の中で、まるで植物の意志のようなもので自らの身をよじらせているかのように、くねくねと動いている。さらに木の上からは、ぼろ雑巾を思わせる灰色がかった苔が、吹き流しのように、数百フィートに渡って何本も何本もぶら下がっている。川は意地悪く、大きなとぐろを巻いて曲がりくねっているため、かれらは本来の十倍の距離を旅しなければならなかった。
「嫌なところですね」ヘターはへさきの向こうにひろがる、雑草のおいしげった川面を力なく眺め、不平をこぼした。馬革のジャケットとリネンの下着はとっくに脱ぎ捨てられ、むきだしになった細身の上半身が汗に光っている。かれも他の仲間の例にもれず、虫に噛まれた忌まわしい跡が体じゅうに残っていた。
「まったく同感だ」マンドラレンが賛意の声をあげた。
水夫のひとりが叫び声をあげて飛び退くなり、オールの握りのあたりを蹴飛ばした。長くて滑りがあってぐにゃぐにゃした何かが、その盲目的などん欲さで水夫の肉体を求めながら、いつのまにかオールをはいあがってきていたのだ。
「ヒルだ」その忌まわしいものがポチャンと音をたてて臭い川に落ちたとたん、ダーニクは身震いして叫んだ。「あんなに大きなのは初めてだ。一フィート以上はあったぞ」
「いずれにしても、泳ぎに適したところじゃありませんね」ヘターが感想をもらした。
「考えるのもおぞましい」と、ダーニク。
「たしかに」
グレルディクとバラクが交代で舵を取っている高いへさきのすぐ下の船室から、軽いリネンのドレスを着たポルおばさんが出てきた。彼女はそれまで、この過酷な暑さの中で体力をなくし花のように萎れてしまったセ・ネドラの看病をしていたのだ。
(なんとかできないの?)ガリオンは声を出さずに問いかけた。
(なんとかって、何を?)
(こういうものぜんぶだよ)かれはやるせなさそうにあたりを見回した。
(わたしにどうしてほしいわけ?)
(せめて、この虫をなんとかしてよ)
(どうして自分でやらないの、ベルガリオン?)
かれはきっと口を結ぶと、無言の叫びをあげた。(やだよ!)
(それほどむずかしいことじゃないわ)
(やだよ!)
彼女は肩をすくめるときびすを返し、欲求不満にやきもきするかれをあとに残して立ち去った。
スシス・トールまではさらに三日かかった。スシス・トールは川の大きなとぐろに囲まれた、黒い石造りの町だった。住居はどれも屋根が低く、たいていは窓がなかった。町の中央には、奇妙な形の尖塔や円蓋やテラスをつけた巨大な建築物がどっしりと腰をおろし、不思議な異国情緒をかもしだしている。どんよりと濁った川に、波止場や小桟橋が突き出していたが、グレルディクはその中でもとりわけ大きな波止場に船を導いた。「税関に立ち寄らないといけないんだ」かれはそう説明した。
「しかたのないことですね」とダーニク。
税関でのやりとりは簡単だった。まずグレルディク船長が、ボクトールのラデクという人物の荷物をドラスニアの貿易包領に届けるところだと告げた。そのあと剃髪した税関の役人にジャラジャラと音のする財布が手渡され、船は検査なしで先に進むことを許されたというわけだ。
「あの金は貸しだからな、バラク」グレルディクが言った。「ここまでの旅は友情でやったことだが、あの金はまた別の話だ」
「どこかに書いておけよ」バラクはかれに言った。「ヴァル・アローンに戻ったときに精算するから」
「ヴァル・アローンに戻ることがあればの話だろ」グレルディクは顔を渋らせた。
「おまえはきっとお祈りのたびにおれの顔を思い浮かべるだろうな。おまえが常におれの安全を祈ってくれてることは知ってるが、これからはさらに熱が入るってもんだ」
「世の中の役人はみんな腐敗してしまってるんだろうか?」ダーニクは苛立たしそうに言った。
「賄賂を受け取らずに職務を全うする人間なんてひとりもいないんだろうか?」
「ひとりでもそんなことをする人間がいたら、それこそこの世は終わりですよ」ヘターがそれに答えた。「こういう事情に対応するには、ぼくたちは単純で正直すぎるんですよ、ダーニク。他のひとに任せて、ぼくたちはかかわらないほうがいいみたいですね」
「不快としか言いようがない」
「たしかにそうかもしれません。でも、役人がうしろのデッキを見なくてよかった。馬のことを説明するのはまたひと苦労だったでしょうから」
水夫たちはふたたび船を川に戻し、どっしりとした波止場が並ぶほうに漕ぎだした。いちばん外れの波止場に船を横付けすると、かれらはオールをしまって、停泊所の、タールで黒ずんだ杭に太綱を巻きつけた。
「ここには停められないよ」汗だらけの見張りが波止場から怒鳴った。「ドラスニアの船専用なんだ」
「どこでも好きなところに停めるさ」グレルディクはすぐに言い返した。
「兵隊を呼んでくるぞ」見張りはそう言っておどすと、太綱の一本をつかみ、長いナイフを取り出した。
「野郎、ロープを切ってみろ、おりていってきさまの目ん玉をくりぬいちまうからな」
「さっさと説明しろよ」バラクが言った。「喧嘩をするには暑すぎるぜ」
「おれの船はドラスニアの商品を運んでるんだよ」グレルディクは波止場の見張りに言った。
「ラデクという男、たしかボクトールのやつだったと思うが、そいつの荷物なんだ」
「なんだ」見張りはそう言ってナイフをしまった。「それならそうと何故はじめから言わないんだよ?」
「おまえの態度が気に食わなかったからだ」グレルディクはずけずけと言った。「どこに行けばお偉いさんに会える?」
「ドロブレクのことか? かれの家なら、その店沿いの道をちょっといったところだ。ドアのところにドラスニアの紋章がついた家だよ」
「そいつにちょっと話があるんだ。波止場を離れるには通行許可証が必要か? スシス・トールには変なきまりがあると聞いてきたが」
「包領の中なら自由に動き回れるよ。町の中に入るときは、通行証がいるけどな」
グレルディクはブツブツ言いながら船のうしろに行ったが、間もなく、折り重ねた羊皮紙の束をいくつか持って戻ってきた。「ご自分でその役人に会ってみますか?」かれはポルおばさんに聞いた。「それとも、わたしに任せますか?」
「いっしょに行ったほうがよさそうね」ポルおばさんが言った。「あの娘はまだ眠ってるから、みんなに起こさないように言っておいてちょうだい」
グレルディクはうなずいて、船長補佐に短く指示を与えた。水夫が波止場に板を渡すと、グレルディクが先頭をきって陸にあがった。頭上では厚い雲が渦を巻き、日差しをさえぎっている。
波止場まできている通りは、両脇にドラスニアの商店が立ちならんでいて、ニーサ人が店から店へとだらだら歩きながら、ときおり立ち止まっては、汗だくの店員と値段のかけ合いをしていた。ニーサの男はみな一様に、軽い玉虫色の生地でできたぶかぶかのチュニックを着ており、頭はツルツルに剃りあげられている。ポルおばさんのうしろを歩いていたガリオンは、ある種の嫌悪感とともに、そのニーサ人たちが目に念入りな化粧をほどこし、唇と頬に紅をさしていることを見てとった。かれらの言葉は非常に早口で、シューシューという音をたて、例外なく舌がもつれているような話し方だった。
重苦しい雲は、このころにはすっかり空をおおいつくし、通りはにわかに暗くなった。みすぼらしい、ほとんど裸同然の男が十二人、小石敷きの区画を修繕していた。かれらがニーサ人でないことは、伸ばし放題の頭髪とぼさぼさのひげから容易に察しがついた。足首を足かせと鎖につながれていた。残忍な顔のニーサ人が鞭を片手にかれらにおおいかぶさるように立っていたが、この男が好き放題にこの鞭を行使していることは、男たちの体の生々しいみみず腫れや切り傷の跡を見れば一目瞭然だった。たまたまあわれな奴隷のひとりが、ぞんざいに四角く刻んだ腕いっぱいの石を足下に落としてしまい、痛さのあまり口を大きくあけて獣のような吠え声をあげた。ガリオンはその奴隷の舌が切りとられているのを見て、怖気立った。
「あやつらは、人間を家畜のレベルに引き下げようというのか」マンドラレンは、抑えがたい怒りに目を燃えたたせながら、うなるように言った。「どうしてこのような汚水だめが今まで浄化されずに放っておかれたのだ?」
「一度だけきれいになったことがあったんだよ」バラクが厳めしく口を開いた。「ニーサ人がリヴァ王を暗殺した直後、アローン人がここに攻め入り、目につくニーサ人をことごとく殺したんだ」
「人数が減っているようには見えないが?」マンドラレンがあたりを見回して言った。
バラクは肩をすくめ、「もう十三世紀も前の話だぜ。それほどの年月があれば、たった一対のネズミだって種を再建することができただろうよ」
ガリオンのとなりを歩いていたダーニクが、とつぜんあっと息をのみ、顔を真っ赤にして目をそむけた。
ニーサの娘が、八人の奴隷に担がれた輿の中から、ちょうど歩み出たところだった。彼女が着ている薄緑色のガウンはひじょうに薄い生地でできているため、ほとんど透明も同然で、想像の余地はほとんど残されていなかった。「見るんじゃない、ガリオン」ダーニクは顔を赤らめたまま、しゃがれ声で言った。「邪悪な女狐《めぎつね》だ」
「いけない、忘れてたわ」ポルおばさんが意味ありげに顔をしかめた。「ダーニクとガリオンは船に残しておくんだった」
「あのひとはどうしてあんな服を着てるの?」ガリオンは、裸同然の女を見ながら訊ねた。
「それを言うなら服を着てないの?≠セろ」ダーニクは怒りに声をつまらせた。
「習慣なのよ」ポルおばさんが説明した。「きっと気候のせいね。もちろん他にも理由はあるでしょうけど、今はそこまで話す必要はないと思うわ。ニーサの女はみんなああいう服装をしてるのよ」
バラクとグレルディクもその女を見ていたが、こちらはうれしそうににやにや笑いを浮かべていた。
「およしなさい」ポルおばさんがきつい調子で言った。
そこからそう遠くないところで、剃髪したニーサ人が壁に寄りかかりながら自分の手を眺め、放心したようにケケケケと笑っていた。「指が透けて見える」もつれた舌で男はシューシューと息をもらした。「向こうが見える」
「酔っぱらいですか?」ヘターが聞いた。
「正確に言うと、ちがうわ。ニーサ人には奇妙な娯楽がたくさんあるのよ――葉っぱとかベリーとか、例の木の根とか。かれらの知覚はゆるんでしまってるの。アローン人に見られる酒浸りより、こっちのほうがずっと深刻みたいね」
別のニーサ人がかれらのわきをよろよろと通り過ぎていった。その足取りは妙にびくついていて、表情はうつろだ。
「この状況が広く浸透してるんですか?」マンドラレンが聞いた。
「すこしでも薬に浸かってないニーサ人には、いまだかつてお目にかかったことがないわ。薬のせいでかれらは満足に話すこともできないのよ。ところで、わたしたちが探してるのはあの家じゃないかしら?」彼女は筋向こうのどっしりとした建物を指さした。
かれらが大きな家に向かって通りを渡っていると、南のほうから不吉な雷鳴が聞こえてきた。ノックに応えたのはリネンのチュニックを着たドラスニア人の召使いで、かれは一行を薄暗い控え室に案内すると、しばらく待つようにと告げた。
「いやな町だな」ヘターがそっとつぶやいた。「良識のあるアローン人が何を好きこのんでこんなところにくるのか、ぼくには理解できない」
「金だよ」グレルディク船長はさらりと言った。「ニーサとの貿易はいい金になるんだ」
「金より大事なものがあるだろうに」ヘターはブツブツと言った。
おそろしく太った男が、小暗い部屋に入ってきた。「もっと明かりをつけろ」かれは召使いを怒鳴りつけた。「なにもこんな暗がりにお客人を待たせなくてもいいだろう」
「ランプをつけると暑くて困ると言ったのはあなたじゃないですか」召使いは苦々しい口調で反論した。「どっちにするのかはっきり決めてくださいよ」
「おれがどう言ったかはどうでもいい、とにかく言われたとおりにしろ」
「ドロブレクさん、この暑さであなたの頭の中は支離滅裂になってるんですよ」召使いはとげとげしくそう言うと、いくつかのランプに火を入れ、ぶつぶつとひとり言をつぶやきながら部屋をあとにした。
「まったく、ドラスニア人の召使いは世界一たちが悪いよ」ドロブレクは悪態をついた。「さて、用件にかかろうか」かれは巨体を椅子に沈めた。玉のような汗が顔をつたい、茶色のシルクのローブの湿った襟もとに絶え間なく流れ落ちている。
「グレルディクだ」ひげの船乗りが名乗った。「ボクトールのラデクという商人の荷物を積んで、たったいまあんたの波止場に到着したところなんだが」かれは折り重ねた羊皮紙の束を差し出した。
ドロブレクは目を細くして、言った。「あのラデクが南万貿易に興味を持ってるとは知らなかったな。てっきり、センダリアやアレンディアとしか取り引きをしないものと思ってた」
訪問者の顔ぶれを見るなり、ドロブレクの汗にぬれた顔は表情を失った。ややあって指がかすかに動きだした。――ここにあるものはすべて目に映ったままに受け取っていいのかね?――ドラスニアの謎言葉のせいで、かれのまるまるした指がにわかに器用に見えてきた。
――ここでおおっぴらに話せるのかしら?――ポルおばさんの指が訊ねた。彼女のジェスチャーには威厳があり、伝統の重みさえ感じさせた。その動作には、ガリオンが他の者のジェスチャーに見たことのない、格式のようなものがあった。
――どうせ伝染病の巣のような場所なんだから、いくらでもおおっぴらにしてくださいよ。奥方、あなたは奇妙なアクセントをお持ちですな。どこかで見たような気がしないでもないが――
――もう、だいぶ昔に覚えたから。ところで、ボクトールのラデクというのがどういう人間かはもちろん知ってるわね――
「もちろん」ドロブレクは声に出して言った。「知らない人間なんていませんよ。ときにはコトゥのアンバーを名乗るっていうあの男でしょう――まあ、はっきり言えば、法にひっかかるものを扱うときだね」
「はぐらかし合うのはもう終わりにしない、ドロブレクさん?」ポルおばさんが穏やかに言った。「あなたがローダー王から指示を受けたってことはもう確証ずみよ。化かし合いはもう飽きたわ」
ドロブレクは顔色を曇らせ、固い口調で言った。「これは失礼。でも、本物だと確信できるような決め手がないことには」
「馬鹿なこと言うなよ、ドロブレクさん」バラクの太い声が轟いた。「目を開けてよく見ろよ。おまえさんもアローン人なら、このレディが誰かは聞かなくともわかるだろう」
ドロブレクは打たれたようにポルおばさんの顔を見て、目を大きく見ひらいた。「そんなわけがない」かれはあえいだ。
「なんなら、彼女に証明してもらいましょうか?」ヘターが言った。そのとき、突然ゴロゴロゴロと雷鳴の音がして、家が振動した。
「いや、結構」ドロブレクはポルおばさんを見つめたまま、大急ぎで断った。「こんな経験をしたのは初めてなもので――つまり、今まで――」かれは言葉を詰まらせた。
「ケルダー王子かわたしの父から何か連絡を受けたかしら?」ポルおばさんはてきぱきと質問した。
「おとうさん? ということは、つまり――? かれもこれに関わっているということで?」
「あたりまえでしょ」ポルおばさんは容赦なく言った。「あんたはローダー王がよこした伝言を信じてないの?」
ドロブレクは、ひとが頭をはっきりさせようとするときにやるあのやり方で、ブルブルッと頭を振った。「失礼しました、レディ・ポルガラ。あなたの来訪にすっかりわれを失ってしまって。しばらくすれば慣れると思いますから。それにしても、まさか、こんな南方までいらっしゃるとは」
「ということは、ケルダーや父からはまだなんの伝言も受け取っていないということね」
「ええ、何も聞いておりません。かれらもここに来ることになっているんですか?」
「そう言ってたわ。ここでわたしたちと合流するか、それともなければ、伝言を送ると」
「ニーサで伝言を受け取るのは容易なことじゃありませんよ」ドロブレクは説明した。「ここの人間はあまり信用できないんです。王子とあなたのおとうさんが内陸からメッセンジャーを送ったとしても、そいつがたまたま道に迷っているかもしれない。以前わたしも町から十リーグと離れていないところにメッセージを送ったことがあるんですが、そのときはなんと到着するのに六ヵ月もかかりました。メッセージを持っていったニーサ人が途中であのベリーの畑を見つけてしまったんですよ。われわれが発見したとき、その男は畑の真ん中に座って、うれしそうに笑ってました」ドロブレクは苦い顔をして、「体の上には苔が生えてました」と付け加えた。
「死んでたんですか?」ダーニクが聞いた。
ドロブレクは肩をすくめ、「いいえ、ただ幸福に浸っていただけです。ベリーの実を存分に楽しんで。わたしはその場でかれを解雇しましたが、本人はべつに気にもしていないようでした。ただ言えるのは、そいつは今でもあそこに座っているだろうということです」
「スシス・トールにおけるあなたの情報網はどのくらいなのかしら?」ポルおばさんが聞いた。
ドロブレクはずんぐりした腕を大きく広げて見せた。「あちこちでたくさんの情報を集めてますよ。宮廷内に二、三人、それからトルネドラ大使館内にもひとり下級官吏がいます。トルネドラ人は芸が細かいですからね」かれは悪戯っぽく笑ってみせた。「かれらに情報を集めさせておいて、そのあとでその情報を買ったほうが安あがりなんです」
「かれらの言ってることを信用できれば、の話でしょう」ヘターが言った。
「もちろん、かれらの言ってることをそのまま信用したりはしませんよ。トルネドラ大使は、わたしがかれの部下を買収してることを知ってるんでね。かれはしょっちゅうにせの手掛かりを与えては、わたしをひっかけようとしてるんだ」
「あなたがそれに気づいてることを大使は知ってるんですか?」ヘターがまた訊ねた。
「もちろん知ってますよ」太った男は笑い声をあげた。「だがかれがそれを知ってることをわたしが気づいてるとは思っていない」かれはそう言ってもう一度笑った。「おそろしく込み入ってるでしょう?」
「ドラスニア人のゲームはたいていそうさ」バラクが言った。
「ところで、ゼダーという名前に聞き覚えはないかしら?」ポルおばさんが聞いた。
「もちろん聞いたことはありますよ」
「かれはサルミスラと接触してるの?」
ドロブレクは顔をしかめた。「さあ、どうでしょう。そういう話は聞いたことがありませんが、だからと言って接触してないということにはなりませんからね。ニーサは秘密めいた土地ですが、中でもサルミスラの王宮は国じゅうで一番秘密めいていますから。あそこで起こっていることのほんの一部を聞いただけでも、あなたたちは耳を疑うと思いますよ」
「あら、わたしなら、なるほどと思うわよ」ポルおばさんは言った。「たぶんあなたが想像すらしていないようなことも起こってるはずよ」彼女は仲間のほうを向くと、「どうやら行き詰まってしまったようね。シルクと老いぼれ狼から連絡があるまで、わたしたちは身動きがとれないわ」
「わたしの家にお泊まりになれば?」ドロブレクが申し出た。
「グレルディク船長の船にいるわ。あなたの言うようにニーサは秘密めいた所だから、トルネドラの大使もきっとあなたの家の人間を何人か買収してるはずよ」
「たしかに」ドロブレクは同意した。「でも、それが誰かはわかってますよ」
「あぶない橋は渡らないことにするわ。ちょっとわけがあって、今はトルネドラ人には関わりたくないのよ。船の上で人目を忍ぶことにするわ。ケルダー王子から連絡が入ったらすぐに知らせてちょうだい」
「もちろんですよ。でも、雨が上がるまで待たなくちゃいけないようですね。ほら、あの音」どしゃぶりの雨が頭上の屋根を叩き、雷のような音をたてていた。
「まだまだ降りつづきますかね?」ダーニクが聞いた。
ドロブレクは肩をすくめ、「いつもは一時間かそこらですよ。この季節は午後になると毎日のように雨が降るんです」
「この雨で少しは涼しくなるでしょう」と、ダーニク。
「そうとも限りませんよ。たいていは、さらに悪くなるだけでしてね」ドロブレクは顔の汗をぬぐった。
「よくこんなところで暮らせますね」
ドロブレクは面白そうに微笑んで、「太ってると、そうそう動きまわるわけにはいきませんから。金もどんどん入ってくるし、それに、あのトルネドラ大使とのゲームがあるかぎり退屈することはない。慣れてしまえば、ここの生活もそれほど悪くない。そう言ってれば、多少気も休まるってもんですよ」
そのあと、かれらは黙って腰をおろしたまま、厳しい雨の音に耳を澄ました。
[#改ページ]
25[#「25」は縦中横]
それから数日のあいだ、かれらはグレルディクの船の上でシルクとミスター・ウルフからの伝言を待っていた。セ・ネドラも病気から回復し、淡い色のドリュアド風チュニックを着てデッキに現われるようになった。ガリオンの目から見れば、そのチュニックはニーサの女たちが着ているガウンよりわずかに透けている度合いが少ないだけだった。かれは断固たる口調で、「もう少し何か羽織ったほうがいいよ」と注意したが、彼女は軽く笑い飛ばした。そしてかれを歯ぎしりしたい気分にさせたその頑固な態度で、彼女はふたたびかれに読み書きを教えはじめた。ふたりはデッキの上の邪魔にならないところで一緒に腰をおろし、トルネドラの政治に関する長たらしくて退屈な本を相手に勉強をはじめた。最初、ガリオンは一生かかっても読み終わらないのではと思ったが、実際はかれの飲み込みが非常によかったため、驚くほどの早さでぐんぐんと征服していった。セ・ネドラはひどく自分勝手だったからかれを褒めるようなことはなかった。それどころか、かれが失敗するのをほとんど息を止めて待ちわびているらしく、あざ笑う機会がおとずれるたびにうれしくて仕方がないという顔をした。隣り合って座っているときに、彼女が接近してきたり、彼女の軽い芳しい香りが鼻をくすぐると、ガリオンはにわかに注意力が散漫になった。ときどき手や腕や腰がふれたりするとき、かれは気候とは関係なく汗をかいた。ふたりとも若かったから、彼女は思いやりに欠け、かれはかれで自分の考えを押し通そうとした。蒸し暑い気候で気が短くなり、いらいらしてたこともあって、レッスンが口げんかに発展することもしばしばあった。
ある朝かれらが起きてみると、近くの波止場で四角い帆をつけた黒いニーサの船が川の流れの中でゆらゆらと揺れていた。きまぐれな朝のそよ風が、その船から思わず鼻をおおいたくなるような悪臭を運んできた。
「なんの臭い?」ガリオンは水夫のひとりに訊ねた。
「奴隷船さ」水夫はニーサの船を指さして厳めしく答えた。「海上にいれば、たとえ二十マイル離れていても臭ってくるんだ」
ガリオンは醜悪な黒船を見て、ブルブルッと身震いした。
バラクとマンドラレンが甲板の上をふらふらとやってきて、欄干にいたガリオンに合流した。
「まるで廃船だな」バラクは激しい軽蔑をこめてニーサの船を評した。かれは上半身はだかで、毛むくじゃらの胴体に汗が流れている。
「奴隷の船なんだって」ガリオンはかれに言った。
「汚水だめのような臭いだな。燃料にしたら、さぞかしよく燃えるだろう」
「ひどい商売だ」マンドラレンが言った。「ニーサははるか昔から人間の苦痛を商売のネタにしてきたのだ」
「あれはドラスニアの波止場か?」バラクは目を細めながら聞いた。
「ううん」ガリオンが答えた。「水夫が言ってたけど、あっち側にあるのはぜんぶニーサの波止場らしいよ」
「畜生」バラクはうなった。
鎖かたびらをつけ、黒いローブを羽織った男たちの一団が、奴隷船のつながれている波止場に歩いてきて、船首のあたりで立ち止まった。
「おいおい」バラクが声をあげた。「ヘターはどこだ?」
「まだ下にいるよ」ガリオンが言った。「どうかしたの?」
「ヘターから目を離すなよ。あの連中はマーゴ人だ」
剃髪したニーサ人の水夫が甲板のハッチを開け、船倉に向かって二言三言荒々しく命令した。打ちしおれた男たちが、一列になって、ゆっくりと出てきた。どの男も首に鉄の首輪を付け、それぞれが長い鎖でつながれている。
マンドラレンはびくっとして、突然呪いの言葉をわめきはじめた。
「どうした?」バラクが聞いた。
「あの男たちはアレンド人だ! 話に聞いたことはあるが、まさか本当にこんなことがあるとは」
「何を聞いたって?」
「アレンディアではもう長いことある忌まわしい噂が流れつづけているのだ」マンドラレンは怒りに青ざめながら答えた。「わが国の貴族が時おり農奴をニーサ人に売って私腹を肥やしているらしいと」
「どうやら現実は噂以上らしいな」バラクが言った。
「それ」マンドラレンがうなった。「あそこの奴隷のチュニックについている紋章が見えぬか? あれはボー・トラルの紋章だ。ボー・トラル男爵が札付きの浪費家だということは知っていたが、まさかこんなに卑劣なことをするやつだったとは。よーし、アレンディアに戻るとちゅうでわたしはやつを真っ向から非難してみせるぞ」
「そんなことをしてなんになる?」バラクが聞いた。
「やつはわたしに挑戦しないわけにはいかなくなる」マンドラレンは厳めしく言った。「わたしはやつの悪行をその体に思い知らせてやるのだ」
バラクは肩をすくめた。「農奴と奴隷――たいして違いはないんじゃないか?」
「農奴たちには人権があるのだ、バラク卿。領主はかれらを保護し、面倒をみるよう義務づけられている。騎士としての誓いがわれわれにそれを要求しているのだ。この薄汚れた取り引きは、アレンドの真の騎士の名誉に汚点をつけたのだ。あの汚らわしい男爵の取るに足らない命を奪うまで、わたしの気持ちは一瞬たりとも休まらない」
「悪くないな」バラクは言った。「そのときはおれも同行しよう」
ヘターがデッキにやってきた。バラクはすぐにかれのわきに歩み寄り、片方の腕をきつくつかみながらそっと耳打ちした。
「すこしジャンプさせてみろ」マーゴ人のひとりが耳障りな声で命令している。「どのぐらい足が悪いやつがいるか見てみたい」
たくましい肩をしたニーサ人が長い鞭のとぐろをスルッと解き、鎖につながれた男たちの足下を慣れた手つきでさっと打った。奴隷船のわきの波止場で、奴隷たちがあたふたと踊りはじめた。
「人でなしめ!」マンドラレンがわめいた。手すりをつかむ指の関節が真っ白になっている。
「落ち着いてよ」ガリオンが警告した。「ポルおばさんが、絶対に人に見られちゃいけないって言ってたよ」
「我慢ならぬ!」マンドラレンは叫んだ。
奴隷同士を結びつけている鎖は古く、錆であばたができていた。ひとりの奴隷がつまずいて倒れた瞬間、鎖の環がポキンと折れ、その奴隷は自分の体が突然自由になったことに気づいた。かれは、絶望の中から生まれた機敏さでくるっと回転して立ち上がると、二歩ほど助走をつけて波止場から黒っぽい川の水に飛び込んだ。
「こっちだ!」マンドラレンは泳ぎはじめた奴隷に向かって叫んだ。
鞭を持ったたくましいニーサ人が耳障りな笑い声をあげ、逃げていく奴隷を指さした。
「ごらんなさい」かれはマーゴ人たちに言った。
「止めるんだ、この間抜け」マーゴ人のひとりがかれを怒鳴りつけた。「あの奴隷には純金を払ってるんだぞ」
「もう手遅れですよ」ニーサ人は醜い笑みを浮かべながら、奴隷の姿を目で追いつづけた。
「ほら、見てみなさい」
泳いでいた男は突然ギャッと悲鳴をあげたかと思うと、水面から消えた。ふたたび浮かびあがってきたときには、顔と腕は、川にはびこっていた一フィートほどもあるヒルにぬるぬるとおおわれていた。男はふたたび悲鳴をあげ、のたくるヒルを必死にかきむしり、どうにか引き離そうと自分の肉まではぎ取った。
マーゴ人も声をあげて笑いはじめた。
ガリオンの怒りが爆発した。かれはすさまじい集中力で自分の意志を集めると、一方の手でグレルディクの船のすぐ向こうにある波止場を指し、言った。「ここに来い!」かれはまるで巨大な潮が自分の体から流れ出ていくような激しいうねりを覚え、ほとんど意識をなくしたような状態でマンドラレンによろよろともたれかかった。頭の中に巻きおこった轟きで、一瞬聴覚が奪われた。
奴隷はぬるぬるしたヒルにおおわれて身もだえしたまま、その波止場に忽然と横たわっていた。疲労が波のようにガリオンを襲った。もし、マンドラレンが受け止めていなかったら、かれはその場に倒れていただろう。
「あの男はどこに行った?」バラクは、川面が波打っているあたりを眺めたまま言った。つい今しがた、そこには奴隷の姿があったのだ。「沈んじまったのか?」
マンドラレンは言葉もなく、震える手で奴隷を指さした。今、奴隷はかれらの船のへさきから二十ヤードぐらい先にあるドラスニアの波止場で、弱々しくもがきながら横たわっていた。
バラクはまず奴隷を眺め、次いで川を眺めた。かれはびっくりしてパチパチと目をしばたたいた。
ニーサ人の漕ぎ手四人を乗せた小さなボートが向こうの波止場を出て、まっすぐグレルディクの船に向かってきた。へさきには、長身のマーゴ人が傷跡のある顔を怒りにゆがませながら立っている。
「そこにおれの所有物がいるだろう」かれは水の向こうから叫んだ。「今すぐ奴隷を返すんだ」
「ここに来てその男に文句を言ったらどうだ、マーゴ?」バラクが怒鳴り返した。かれがヘターの腕を放すと、ヘターは長いかぎ竿を拾うために一度だけ立ち止まってから、まっすぐ船べりに行った。
「邪魔をしようっていうのか?」マーゴ人はいくらか動揺の色を見せながら言った。
「ここで話し合おうじゃないか」バラクはうれしそうに呼びかけた。
「おまえたちは、奴隷の所有権にけちをつけようと言うんだな」
「とんでもない。もちろん、法の問題がからんでくる可能性はあるが。この波止場はドラスニアの領土、しかもドラスニアでは奴隷は法的に認められていない。というわけで、その男はもう奴隷ではないのさ」
「仲間を連れてくるぞ。必要とあらば、力ずくでその奴隷を取り返してみせる」
「ということは、おまえはアローン人の領士へ侵入しようというんだな」バラクはいかにも残念だという顔をして警告した。「われらがドラスニア人のいとこたちがここにいないとなると、やはりかれらに代わってわれわれがこの波止場を守ることになるだろうな。どう思う、マンドラレン?」
「まったくおぬしの言うとおりだ」マンドラレンが答えた。「ひとかどの男なら、当然ひとの道として親族の留守中にはその領土を守らなくては」
「そらみろ」バラクはマーゴ人に言った。「わかっただろう。ここにいるおれの友人はアレンド人だ。つまりかれはこの件に関してはまったく中立の立場なわけだ。ここはひとつ、かれの解釈に従ったほうがいいと思うがね」
グレルディクの水夫たちはこの頃にはもう索具によじのぼり、まるで凶暴な形相をした巨大な猿かなにかのようにロープにしがみつきながら、武器を指でなで、マーゴ人に向かって歯をむいていた。
「ふん、まだ他に方法はあるぞ」マーゴ人はほのめかすように言った。
ガリオンは、しだいに力が蓄積され、頭の中でかすかな音がこだましているのを感じた。目の前の木の手すりを両手でつかみながら、かれは立ち上がった。おそろしいまでの衰弱を感じとったが、心を鋼鉄のようにして、必死に力を集めようとした。
「はい、もうお終いよ」ダーニクとセ・ネドラをうしろに従えてデッキに出てくるなり、ポルおばさんがきびきびした口調で言った。
「おれたちは法律について話し合ってただけですよ」バラクは無邪気に言った。
「何をやってたかはもうお見通しよ」彼女はピシャリとやり返した。その瞳は怒りに満ちていた。彼女は、川の水をはさんで向こう側にいるマーゴ人を冷やかに見つめた。「さっさと帰ったほうがいいわよ」
「そのまえに取り返さなくてはいけないものがある」ボートの男は言い返した。
「そんなことはどうでもいいのよ!」
「今に見てろよ」かれはそう言うときりっと直立し、ひとり言でも言うようにブツブツとつぶやきながら、両手をすばやく動かして複雑な一連のジェスチャーをつくりだした。大気は少しも動いていないのに、ガリオンはふいに何か風のようなものに押されたような気がした。
「やり方を間違えないように気をつけなさい」ポルおばさんが静かに忠告した。「ほんの一ヵ所でも忘れると、顔の前で爆発しかねないわよ」
ボート上の男はとたんにぴたっと静止し、一抹の不安に顔色を曇らせた。ガリオンを押していた不思議な風はやんだ。男はふたたび空で指を編み合わせながら、顔をしかめて精神を統一しはじめた。
「こうやるのよ、グロリム」ポルおばさんはそう言ってかすかに手を動かした。ガリオンは、急激な空気の動きを感じた。まるで、今までかれを押していた風が突然向きを変えて反対の方向に吹きはじめたかのように。グロリムは両手を上に放り投げてあとずさり、つまずいてボートの床に倒れこんだ。ボートは、強い力に押されでもしたかのように、数ヤードうしろに押し戻された。
グロリムは目を大きく見ひらき、死人のように真っ青な顔をして半ば立ち上がった。
「師匠のところへお帰り、ろくでなし」ポルおばさんは痛烈な言葉を浴びせた。「そして、教わったことをちゃんと覚えていなかったからお仕置きしてくださいって言うのよ」
グロリムが漕ぎ手のニーサ人に早口で何かを命令すると、かれらはボートの向きを変え、奴隷船のほうに向かって漕ぎ出した。
「せっかく面白い喧嘩がはじまるところだったのに」バラクが不満そうに言った。「なんでぶちこわしたんです?」
「もっと大人になりなさいよ」彼女はにべもなく言った。それから、ガリオンのほうに向きなおった。目はメラメラと燃え、額の生え際の白い髪はひとすじの炎のように光を放っていた。
「大馬鹿よ! ひとの教えにまったく耳を貸さなかったくせに、突然怒り狂った雄牛のように爆発してしまうなんて。騒音をともなう転位がどんな結果を引き起こすか、すこしでも考えてみなかったの? あんたはスシス・トールじゅうのグロリムに、わたしたちがここにいるっていう警告を発してしまったのよ」
「あの奴隷は死にかけていたんだよ」ガリオンはどうしていいかわからずに、身振りで波止場に横たわっている奴隷を示しながら反論した。「何かをせずにはいられなかったんだ」
「あの奴隷は川に飛び込んだと同時に事切れてたのよ」彼女は感情のない声で言った。「見てごらんなさい」
奴隷は断末魔の苦しみからくる弓なりの姿勢のまますでに硬直し、頭がよじれ、口がぽかんと開いていた。かれが死んでいるのは明らかだった。「何が起こったの?」ガリオンは急に寒気を覚え、問いかけた。
「あのヒルは毒を持ってるのよ。ゆっくりと獲物を食べられるように、その毒でいけにえを麻痺させるのよ。かれの心臓はその毒で止まってしまったの。つまり、あんたは死人のためにわたしたちの存在をグロリムに暴露したというわけ」
「あのときは死んでなかったよ!」ガリオンは叫んだ。「助けを求めて叫んでいたんだから」かれは未だかつて経験したことがないほどの激しい怒りを覚えた。
「助けることはできなかったわ」彼女の声は冷たく、残忍でさえあった。
「なんて怪物なの?」かれは食いしばった歯の隙間からしぼり出すように言った。「おばさんには感情っていうものがないの? おばさんならあの奴隷を見殺しにしてたね」
「今はそのことを議論するときじゃないわ」
「いいや! 今だよ――今すぐだよ、ポルおばさん。おばさんは人間じゃないよ、自分でそのことに気づいてた? おばさんはあまりに遠い昔に人間としての自分を忘れてきちゃったから、どこにそれを忘れてきたかさえ思い出せないんだ。おばさんは四千歳だったよね。ぼくたちの一生なんて、おばさんが瞬きするあいだに終わっちゃうんだよ。ぼくたちはおばさんの遊び道具に過ぎないんだ――ひとときの気晴らしさ。おばさんは自分の楽しみのためにぼくたちを指人形か何かみたいにあやつってるんだ。もてあそばれるのはもうたくさんだよ。おばさんとぼくの間はもう終わったんだ!」
おそらくそこまで言う気はなかったのだろうが、かれの怒りは本人の意志を離れ、止めるすきもなく言葉がどんどんほとばしり出てしまったのだ。
彼女はまるで不意打ちを受けたかのように真っ青な顔をして、かれを見つめた。それから居住いを正すと、「救いようがないわ」言った。その声は静かなだけにいっそう恐ろしく響いた。
「終わったですって? あんたとわたしの仲が? わたしがあんたをこの世に誕生させるためにどれだけのことをしてきたか、あんたにわかるって言うの? この千年というもの、わたしの頭の中にはあんたのことしかなかったのよ。あんたには想像もつかないような苦悩や別れや痛みを耐えてきたわ――すべてあんたのためよ。ときには何百年もつづけて貧しくて惨めな暮らしをしたわ――それもあんたのためよ。自分の命より愛していた妹もあきらめた――やっぱりあんたのためよ。本物の炎より恐ろしい苦悩と絶望を何度も何度もくぐり抜けてきた――それもあんたのためよ。だけど、あんたはそれもこれもみんな自分の楽しみのためにやったことだと言うのね?――暇つぶしのためにやったことだと? 千年以上のあいだこの身を捧げてあんたを思ってきたことなんて、たいして労力のかからないことだったと? あんたとわたしの仲は永遠に終わらないわよ、ベルガリオン。ぜったいに! 必要とあらば、この世の果てまでいっしょに歩いていくわ。終わるなんてことはぜったいにないわ。あんたはわたしに尽きせぬ借りがあるんですからね!」
水を打ったような静寂がおとずれた。他の仲間はポルおばさんの激烈なまでの言葉にショックを受け、最初は彼女を、次いでガリオンの顔をじっとながめた。
彼女はそれ以上は何も言わずに、きびすを返してふたたびデッキの下に帰っていった。
ガリオンはどうしていいかわからずにあたりを見回した。自分のしたことがひどく恥ずかしく思え、どうしようもない孤独に襲われた。
「ああするしかなかったんだよ、そうでしょ?」かれはとくに誰に対するともなく言ったが、何を言おうとしているのか自分でもよくわからなかった。
かれらはガリオンを見つめたが、その問いに答えてくれる者はひとりもいなかった。
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26[#「26」は縦中横]
午後もなかごろになると、今日もまた雲が渦巻きながら空をおおいはじめた。遠くのほうで雷の音がしたなと思うと、雨が勢いよく降りだし、湯気をあげていた町はふたたび滝の中にすっぽり包まれた。どうやら午後の雷雨は毎日おなじ時間に降るらしく、いつしかかれらにとってもそれが当たり前となっていた。かれらはデッキの下に移動して、雨が頭上のデッキをはげしく叩いているあいだ微動だにせずに汗を流していた。
ガリオンは粗く削った肋材に背中をつけてきりっと座ったまま、けっして顔をそむけずに、ポルおばさんに執念深い視線を送りつづけた。
彼女はその視線を無視して、セ・ネドラと静かにおしゃべりをしていた。
狭い船室昇降口からグレルディク船長が入ってきた。顔とひげに水が伝っている。「あのドラスニア人――ドロブレク――が来てますけど。伝言を持ってきたそうで」
「入ってもらってくれ」バラクが言った。
ドロブレクは巨体をしぼるようにして狭いドアを抜けてきた。かれの体は雨でずぶ濡れになっており、その場に立つと床にポタポタと水滴が落ちた。かれは顔をぬぐいながら言った。
「外は雨なんですよ」
「ええ、知ってます」ヘターが言った。
「今しがたメッセージを受け取りましてね」ドロブレクはポルおばさんに言った。「ケルダー王子からです」
「やっときたわね」
「かれとベルガラスは河口に向かってるらしいですよ。わたしの予想では、あと二、三日のうちにここに到着するはずです――遅くとも一週間以内には。なにぶんメッセンジャーの話が一貫していないもので」
ポルおばさんは物問いたげな顔でかれを見た。
「熱病ですよ」ドロブレクは説明した。「その男はドラスニア人だから信用はできるんです――内地の貿易拠点にいるわたしの差配人のひとりでしてね――でも、この不潔な湿地帯にはびこっている数多い病気のひとつに冒されてしまいまして。今のところ、ちょっと興奮状態なんですよ。一日かそこらのうちに熱が下がって、正気に戻ってくれるといいんですが。とりあえずだいたいのメッセージがわかったところで飛んできたんです。すぐに知らせを聞きたいだろうと思いましてね」
「お心遣い感謝するわ」ポルおばさんは言った。
「じつはすでに召使いを送ったんです。でもスシス・トールではメッセージが紛失することがよくあるし、召使いが事実をまげて伝えることもあるもので」かれはそう言うと急ににやりと笑った。「もちろん、それが本当の理由じゃありませんがね」
ポルおばさんはにこりと微笑んで、「そのようね」と言った。
「だいたい太った男というのは、ひとところにいて自分の代わりにひとを動かしたがるんですよ。ところで、ローダー王のメッセージの感じから察するに、これはどうやら現在世界で起こってる事件のなかでも、とりわけ重要なもののようですな。じつは首をつっこんでみたくてね」かれは渋面をつくった。「われわれは誰でもときどき子供じみたことをしたくなるようですな」
「メッセンジャーの容体はどれぐらいひどいのかしら?」ポルおばさんが訊ねた。
ドロブレクは肩をすくめた。「どうしてそんなことがわかります? こうしたニーサの伝染病の半分は名前もつけられていないんです。それぞれを区別するなんて不可能なんですよ。病気にかかってすぐに死んでしまう場合もあれば、何週間か持ちこたえるときもある。ときには回復することさえありますよ。とにかくわれわれにできるのは、病人を安静にして、成り行きを見守ることだけなんです」
「すぐに行きましょう」ポルおばさんはそう言って立ち上がった。「ダーニク、わたしの荷物の中からあの緑のバッグを取ってきてくれないかしら? あの中にある薬草が必要なのよ」
「この手の病人には近づかないほうがいいですよ、奥方」ドロブレクは警告した。
「わたしなら大丈夫。あなたのメッセンジャーに直接質問してみたいのよ。かれから答えを聞き出すには、熱を下げるしかないわ」
「ダーニクとおれがいっしょに行こう」バラクが申し出た。
彼女はかれの顔を見た。
「大事をとるにこしたことはないでしょう」大男は剣を佩きながら言った。
「あなたがそうしたいのなら」彼女はそう言うとマントを着て、頭巾を上に返した。「一晩ぐらいかかるかもしれないわ」彼女はグレルディクに言った。「ちかくにグロリムがいるから水夫たちにしっかり監視させておいてちょうだい。見張りにはなるべくしらふの水夫をおくようにしてね」
「しらふと言いますと?」グレルディクはきょとんとした顔で聞き返した。
「水夫の部屋から歌声がもれてくるのを聞いたことがあるのよ」ポルおばさんはいくぶんとりすました口調で言った。「チェレク人はお酒が入らないと歌わないでしょ。今夜はエールの樽にふたをしておいてね。さあ、行きましょうか、ドロブレク」
「はい、ただいま」太った男はグレルディクにいたずらっぽい視線を送りながら答えた。
彼女たちが行ってしまうと、ガリオンは心底ほっとした。ポルおばさんの前では敵意を維持しなくてはいけなかったから、その緊張感で神経が参りはじめていたのだ。かれは自分がぬきさしならない状況に置かれていることに気づいていた。〈ドリュアドの森〉でチャンダーにすさまじい炎を放って以来ずっとかれを苦しめてきた恐怖と自己嫌悪は日に日に大きくふくれあがり、かれはその重みに耐えるのがやっとだった。かれは毎日夜の来るのが怖くてしかたがなかった。毎晩きまって同じ夢を見るからだ。燃えて溶けたチャンダーの顔、そして「坊っちゃま、ご慈悲を!」と懇願するかれの声、それが何度も何度もくりかえされるのだ。さらに、その苦悩への答えとしてかれ自身の手から噴きあがった青白い炎が、何度も目の前をちらついた。ヴァル・アローン以来ずっと抱きつづけてきた憎しみは、あの炎の中ですでに燃え尽きていた。かれの復讐は完璧なまでの実現を見たため、責任を回避したり転化する道はまったく残されていなかった。今朝の爆発はポルおばさんに対してというより、かれ自身に対するものだった。かれは彼女を怪物呼ばわりしたが、かれが嫌悪しているその怪物はじつはかれ自身の中にひそんでいるものだったのだ。かれのために気が遠くなるほど長いあいだ苦難を味わってきたという彼女の告白、そしてそれを話しているときの彼女の激情――かれの言葉に深く傷ついたからこそだ――その事実がかれの心の中でもつれ、焼けるような痛みを与えていた。かれは恥ずかしかった。恥ずかしくて、仲間の顔をまともに見ることさえできなかった。かれは独りうつろな目をして座ったまま、ポルおばさんの非難の声が頭の中で何度もこだまするのを聞いていた。
嵐が過ぎてしまうと頭上のデッキを打つ雨の音も弱まってきた。ときおり気まぐれな風にまじって雨の小さな渦巻きがどろどろした川の表面を渡っていく。空がしだいに明るさを取り戻し、乱れた雲の合間に入り込んだ太陽の光が、そこかしこに真っ赤な染みをつくっている。ガリオンは独りきりで良心の呵責と闘うためにデッキに上がっていった。
しばらくすると、うしろのほうで軽やかな足音が聞こえた。「あなた、ちょっといい気になってるんじゃない?」セ・ネドラがとげとげしく言った。
「放っておいてよ」
「そうはいかないわ。今朝のあなたのくだらない発言をわたしたちがどう思っているか、はっきりと教えてあげたいの」
「そんな話聞きたくない」
「悪いけど、どうしたって話すわよ」
「聞かないよ」
「いいえ、聞くのよ」彼女はかれの腕をつかむと、むりやり顔を向けさせた。彼女の瞳は炎のように燃え、小さな顔は抑えがたい怒りに満ちている。「あなたの今朝の行動はまったく許しがたいわ。おばさんはあなたを赤ん坊のときから育ててきたのよ。あなたにとってはおかあさんよ」
「ぼくのおかあさんは死んだんだ」
「あなたが知っているただひとりのおかあさんはレディ・ポルガラよ。それなのに、あなたはなんてひどい仕打ちをしたの? あなたは彼女を怪物呼ばわりしたのよ。情がないといって彼女を責めたのよ」
「聞いてないからね」ガリオンは叫んだ。それが子供じみた、いや、それどころか幼児のような振る舞いだと知っていながら、かれは耳をふさいだ。ガリオンにはセ・ネドラ王女がいつでも自分の嫌がることばかり持ち出してくるように思えてならなかった。
「手をどかしなさいよ!」彼女はキンキンと鳴り響く声で言った。「たとえ絶叫してでも聞かせてみせるわよ」
ガリオンはその言葉の意味に恐れをなして手をどかした。
「彼女はまだ赤ちゃんだったあなたを連れてきたのよ」セ・ネドラはまるでかれの傷の一番痛いところをすっかり心得ているかのように、チクチクと責めた。「彼女はあなたの人生の第一歩を見守ってきたのよ。ごはんを食べさせて、世話をして、あなたが怖い思いをしたときは抱きしめてくれた。それが怪物のすることかしら? 彼女はいつだってあなたを見守ってるのよ、あなたそのことに気づいてた? たとえあなたがつまずいても、彼女は手を差し延べてあなたを受け止めてくれるのよ。あなたが寝てるときにそっと毛布をかけてるのを見たことがあるわ。これが愛情のないひとのやること?」
「わかったようなこと言わないでくれよ」ガリオンは言った。「お願いだから、ぼくをひとりにさせておいて」
「お願いだからですって?」彼女はからかうように繰り返した。「ずいぶん変なときに礼儀作法を思い出したものね。今朝のあなたはそんな言葉は口にしなかったじゃない。お願いだから、なんてただの一度も言わなかったわよ。ありがとうという言葉も聞かなかったわ。あなた自分がなんなのか知ってる? 甘やかされた子供、それがあなたよ」
もうたくさんだ! この過保護でわがままな王女に甘やかされた子供呼ばわりされるなんて、我慢できない。
激怒したかれは、彼女に向かって一気に声を振り立てた。かれの口をついて出る言葉は乱暴でほとんど支離滅裂だった。けれども叫んだことでだいぶ気分がすっきりした。
最初は互いに非難をぶつけあっていたが、いつのまにかそれがただの悪口雑言に変わっていた。セ・ネドラはカマールの魚売りの女みたいにギャーギャーわめきたて、ガリオンの声は男らしいバリトンと少年っぽいソプラノのあいだでひび割れ、震えていた。ふたりは互いの顔の前で指を振り、がなりたてた。セ・ネドラがドンドン足を踏みならせば、ガリオンは負けじと腕を振りまわした。全体的に見れば、小気味いい喧嘩だった。争いが終わってみると、ガリオンはすっかりいい気分になっていた。セ・ネドラを大声で侮辱することなど、今朝ポルおばさんに浴びせたひどい言葉の数々にくらべれば悪気のない気分転換に過ぎなかった。つまり、この口喧嘩はあたりさわりなくかれの混乱と怒りを発散させ、気分を軽くしてくれたのだ。
最後はもちろんセ・ネドラが涙に訴え、ワッと走り去って終幕となった。取り残されてみると、恥ずかしいというより馬鹿馬鹿しかった。かれは言う機会を逸したきわめつけの侮辱を二言三言つぶやいていきまくと、やがてふっと溜息をついて憂いまじりに手すりにもたれかかり、じめじめした町が夕闇に沈んでいくのを眺めた。
たとえ自分に対してでも認める気はなかったのだが、じっさいはかれはセ・ネドラに感謝していた。最終的にくだらない喧嘩になってしまったことで、かれの頭はすっきりした。今ならポルおばさんに謝まらなくてはいけないということも、はっきりとわかる。彼女にあんな暴言を吐いたのも、もとはと言えばかれ自身の根深い罪の意識が原因だったし、ああ言うことによってなんとかその罪を彼女になすりつけようとしていたのだ。かれ自身の責任を回避する方法がどこにもないのは火を見るより明らかだった。それを事実として受け止めてみると、なぜかしら気分が楽になったような気がした。
あたりの闇はどんどん深まってきた。南国の夜は暑苦しく、無軌道な沼地から腐りかけた植物やよどんだ水の臭いが漂ってくる。くせの悪い小さな虫がかれのチュニックの中に入ってきて、かれの手のとどかないどこか肩のあいだを噛みはじめた。
前触れらしきものはまったくなかった――船がきしんだり傾くこともなければ、危険な予感もなかった。かれはふいに背後から腕をつかまれ、湿った布で口と鼻をぴったりふさがれた。必死にもがいたが、かれを押さえつけている手はおそろしく強かった。かれはせめて助けを呼ぼうと頭をひねり、顔を表に出そうとした。その布は変な匂いがした――うんざりするほど甘くて、濃厚な匂い。かれはしだいに目がくらみ、もがこうにも力が入らなくなってきた。めまいに押し流される前に、かれは最後の力を振りしぼったが、やがて深い闇の底に落ちていった。
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27[#「27」は縦中横]
そこは長い廊下のようなところだった。今ガリオンの目には敷石を敷いたその床がはっきりと見えていた。三人の男がかれの顔を下に向けたまま運んでいるため、頭が首のあたりで縦に揺れたり横に揺れたりでひどく居心地が悪かった。口はカラカラに渇き、男たちがかれの顔に押し当てたあの布に染み込んでいた、例の濃厚で甘い匂いがまだしぶとく残っていた。かれは頭を上げ、あたりの様子を見ようとした。
「起きたぜ」一方の腕を持っていた男が言った。
「やっと起きたか」別の男がブツブツと言った。「イサス、おまえはこいつの顔に布を長く当てすぎたんだよ」
「自分が何をやってるかぐらいわかってるさ」はじめの男が言った。「そいつを降ろせ」
「立てるか?」イサスがガリオンに聞いた。かれの剃髪した頭はところどころに短い毛が生えかけており、長い傷跡が額から空の眼孔のしわだらけのくぼみを通ってまっすぐあごまで達していた。紐つきのローブは汚れて染みがついていた。
「立つんだ」イサスは非難まじりの声で命令した。かれは足でガリオンの体をつついた。ガリオンは立ち上がろうともがいた。ひざがガクガク震え、かれは壁に手をついてやっと体を支えた。岩肌はじめじめと湿っていて、カビのようなものがびっしりと生えていた。
「連れてこい」イサスは他の者に命令した。かれらはガリオンの腕をつかみ、なかば引きずり、なかば持ち上げるようにして片目の男の後から湿った廊下を進んでいった。その廊下を抜けると、部屋というより屋根つきの広場といった感じのする、丸天井におおわれた場所に出た。彫刻をほどこした巨大な柱が、そびえるようなその天井を支えている。頭上から下がっている長い鎖の先に、あるいは柱の途中にある細やかな棚の上に、小さなオイルランプが点在している。色とりどりのローブを着た男たちが惚けたような感じであちこちに動きまわっている様子が、なにかしら乱雑な雰囲気をかもしだしていた。
「おまえ」イサスはとろんとした目つきのぽってりとした若者を呼びつけた。「宦官《かんがん》がしらのサディに小僧を連れてきたと伝えてこい」
「自分で言えばいいだろ」若者は笛のような声で言った。「おまえのようなやつに命令される覚えはないぞ、イサス」
イサスは太った若者の横っ面をピシャッと打った。
「叩いたな!」若者は口に手をやりながら泣き叫んだ。「唇から血が出たじゃないか――そら」かれは掌をひらいて血を見せた。
「言われたとおりにしないなら、おまえのそのぶよぶよした喉をかき切るぞ」イサスは低い感情のない声で言った。
「わかったよ、おまえが言ったことをサディに伝えればいいんだろ」
「さっさとしろ。行くからには、おれたちが女王さまの捜していた小僧を見つけたということをちゃんと伝えるんだぞ」
丸々と太った若者はあわてて走り去った。
「宦官のやつらめ!」ガリオンの腕をつかんでいた男のひとりが吐き捨てるように言った。
「あいつらにはあいつらの使い道があるからな」もうひとりが下品は笑い声をあげながら言った。
「その小僧を連れてこい」イサスが命令した。「サディは待たされるのを嫌うんだ」
ふたりの男はガリオンを明るい場所に連れていった。
髪とひげをぼうぼうに伸ばしたみすぼらしい恰好の男たちが、たがいに鎖でつなぎ合わされたまま床にすわっていた。「水を」その中のひとりがしぼり出すような声で言った。「どうか水を」かれは懇願するように腕を伸ばした。
イサスは立ちどまり、意外そうにその奴隷の顔を見た。「どうしてこいつにはまだ舌があるんだ?」かれは奴隷のそばに立っていた見張りを問いただした。
見張りは肩をすくめた。「切る暇がなかったんだよ」
「はやく時間をつくれ。こいつがしゃべってるのを僧侶に聞かれたら、尋問されるぞ。そんな目に遭いたくないだろう」
「僧侶なんてくそくらえだ」見張りは口ではそう言ったものの、そわそわと肩ごしにうしろを振り返った。
「用心しろよ」イサスはかれに忠告した。「それと、このけだものたちに水をやっとけ。死んだ物には誰も金を払わないぞ」かれは、ガリオンをつかんでいる男たちの前に立って、二本の柱にはさまれた薄暗い場所を歩きはじめた。「そこをどけ」かれは闇の中に横たわっている何かに向かって言った。その影はしぶしぶと動きはじめた。背筋を這いあがるような嫌悪感とともに、ガリオンはそれが巨大な蛇であることを見てとった。
「あっちで仲間といっしょにいろ」イサスはその蛇に言った。かれが指した薄暗い隅には大きな塊があって、ゆるやかに沸騰した水のようにくねくねと波打っていた。うろこが擦り合わされるときの、乾いたシューシューという音が、ガリオンの耳にかすかに届いた。かれらの進行を妨げていた蛇は、イサスに向かってチロチロと舌を出したあと、その薄暗い隅のほうにくねくねと移動していった。
「イサス、おまえいつかぜったいに噛まれるぞ」仲間のひとりが警告した。「あいつらは命令されるのをひどく嫌うんだからな」
イサスは涼しい顔で肩をすくめ、歩きつづけた。
「サディがおまえと話したがってるぞ」かれらがピカピカに磨かれた大きなドアに近づいていくと、さきほどの肥満した若い宦官がイサスに向かって意地わるく言った。「おまえに打たれたことを話したからな。マースはおれの味方だ」
「それはよかったな」イサスはそう言うと、ドアを押し開いた。「サディ」かれはかん高い声で呼んだ。「おまえの相棒に、おれが入ると言ってくれ。そいつに滅多な真似をされたくないからな」
「イサス、おまえのことはわかってるようだ」ドアの向こうの声が答えた。「こいつはうっかり変な真似をしでかすようなやつじゃない」
イサスは中に入り、後ろ手にドアを閉めた。
「おまえはもう行っていいぞ」ガリオンをつかんでいた男の片われが若い宦官に言った。
丸太りの男はフンと鼻を鳴らした。「おれはサディに行けと言われたところにだけ行くんだよ」
「そして、サディがヒューッと口笛を鳴らせばどこにいても飛んでくるんだろ」
「それはおれとサディの問題だろ、えっ?」
「そいつを中に入れろ」イサスがふたたびドアを開けて命令した。
ふたりの男はガリオンを部屋の中に押し込んだ。「おれたちはここで待つよ」片方の男がそわそわと言った。
イサスは耳障りな声で笑いながら足でドアを閉じ、テーブルの前にガリオンを押しやった。その上に置かれたオイルランプが真っ暗な部屋にかろうじて明かりをもたらしていた。テーブルには死人のような目をした細身の男が座っていて、一方の手の指でつるつるになった頭をなでていた。
「話ができそうか、坊主?」かれはガリオンに聞いた。かれの声は奇妙なコントラルトで、絹のローブは色とりどりと言うより深紅色の無地に近かった。
「水をもらえませんか?」ガリオンは頼んだ。
「ああ、ちょっと待て」
「サディ、今すぐ金をもらいたいんだが」イサスが言った。
「これがその坊主だとわかったら、すぐにやるよ」サディが答えた。
「名前を聞いてみろ」ガリオンの背後の暗闇から、シューシューというささやき声が聞こえた。
「まあ待て、マース」サディはその声を聞いていくらか煩わしそうな顔をした。「前にもこういうことはやったことがあるんだ」
「手間がかかり過ぎてるぞ」さきほどの声がまたささやいた。
「名前を言ってみろ、坊主」サディはガリオンに言った。
「ドルーン」ガリオンはとっさに嘘をついた。「ねえ、ほんとうに喉がカラカラなんだよ」
「イサス、おまえはおれを馬鹿にしてるのか?」サディが声を荒げた。「年の頃が同じならどんな坊主でも満足すると思ったのか?」
「おまえが連れてくるように言った小僧だぜ」イサスが言った。「おまえの情報が間違ってたんなら、おれにはどうしようもないよ」
「ドルーンと言ったな?」サディはふたたび訊ねた。
「そうだよ。グレルディク船長の船のキャビン・ボーイなんだ。ここはどこ?」
「質問するのはこっちだ」サディは言った。
「こいつは嘘をついてるぞ」ガリオンのうしろでシューシューというささやき声が言った。
「わかってるさ、マース」サディはおだやかに答えた。「最初は誰でもそうなんだ」
「こんなことに時間をかけてる暇はないぞ。オレットを飲ませろ。すぐに本当のことが知りたい」
「わかったよ、マース」サディはうなずくと、席を立って一瞬テーブルのうしろの暗闇に姿を消した。カチッという音、次いで水を注ぐ音が聞こえた。「これがおまえの提案だということを忘れるなよ、マース。もし彼女がこのことに腹をたてても、責められるのはおれじゃないからな」
「彼女はわかってくれるさ」
「さあ、坊主」サディは明かりの中に戻ってくると、茶色い陶製のカップを差し出した。
「ええっと、やっぱりいいや」ガリオンはもごもごと言った。「それほどカラカラでもないような気がする」
「飲んだほうが身のためだぞ、坊主」サディが言った。「さもないと、イサスにおまえを押さえさせて、喉にこれを流し込むぞ」
「飲め」シューシューという声が命令した。
「言われたとおりにしたほうがいいぞ」イサスが忠告した。
しかたなしにガリオンはカップを受け取った。その水は奇妙に苦く、舌が焼けるような感じがした。
「よし、それでいい」サディはそう言うと、ふたたびテーブルの向こうの席についた。「さてと、名前はドルーンといったな?」
「うん」
「ドルーン、おまえはどこから来たんだ?」
「センダリア」
「センダリアのどこだ?」
「北側の海岸のダリネに近いところ」
「チェレクの船で何をしてたんだ?」
「グレルディク船長はぼくのおとうさんの友だちなんだ」ガリオンはそう答えたが、なぜかしら、急にもっとたくさんのことをしゃべりたい気持ちになった。「おとうさんがぼくに船のことを勉強させたがったんだよ。農夫になるよりは水夫になったほうがいいからって。グレルディク船長は水夫になるために必要なことをぼくに教えるって約束してくれたんだ。船長はすぐに上達するだろうって言ってるよ。船酔いもしなかったし、帆を固定しているロープにのぼるのも恐がらないからだって。もうオールをこげるぐらいの力があるし、それに――」
「おまえの名前はなんと言ったかな、坊主?」
「ガリオン――じゃなくて――えーと――ドルーンだ。うん、ドルーンだよ、だから――」
「年はいくつだ、ガリオン?」
「この前の〈エラスタイド〉で十五になったんだ。ポルおばさんが言ってたけど、〈エラスタイド〉に生まれたひとはすごくラッキーなんだってさ。ぼくがひとよりラッキーかどうかはまだわからないけど――」
「それで、そのポルおばさんというのは誰なんだ?」
「ぼくのおばさんだよ。ぼくたちは前はファルドー農園で暮らしてたんだけど、ミスター・ウルフがやってきて、それからぼくたちは――」
「ひとは彼女のことをポルおばさんと呼ぶ以外になんと呼んでいる?」
「フルラク王はおばさんのことをポルガラって呼んでたよ――それはグレルディク船長がぼくたちみんなをセンダーの宮殿に連れていってくれたときのことだけど。それからぼくたちはヴァル・アローンのアンヘグ王のところに行って、それから――」
「ミスター・ウルフというのは誰だ?」
「ぼくのおじいさんだよ。みんなはベルガラスと呼ぶけど、ぼくはどうも信じられないんだ。でも、やっぱり本当なんだろうね、だっていつだったか――」
「それで、どうしておまえたちはファルドー農園を後にしたんだ?」
「最初はなぜだかわからなかったけど、そのうちにゼダーという男が〈リヴァ王の剣〉の柄頭から〈アルダーの珠〉を盗んで、それでぼくたちはゼダーがトラクのところにそれを持っていってかれを目覚めさせる前にその〈珠〉を取り戻さなくちゃいけないんだってことがわかってきたんだ――」
「おれたちの捜していた坊主だ」シューシューという声がささやいた。
ガリオンはそっとうしろを振り返った。気がつくと、あたかも小さなランプの炎が急に強くなったかのように、部屋の中が明るくなっていた。隅で、自らのとぐろから体を起こし、奇妙に平べったい頭の中で小さな目を光らせているのは、おそろしく大きな大蛇だった。
「これでサルミスラのところに連れていける」蛇はシューシューと言った。それから床に体を横たえると、くねくねと身をよじりながらガリオンのほうに近づいてきた。ガリオンは、冷たく乾いた鼻先が足にふれるのを感じた。心の底では金切り声をあげていたが、かれはおとなしく立ち上がった。うろこだらけの蛇はゆっくりと足をのぼり、巻きつくようにしてさらに上にのぼると、最後にガリオンの顔のとなりで頭をもたげ、舌先でかれの顔にチロチロとふれた。
「おとなしくしろよ、坊主」蛇が耳元でシューシューとささやいた。「いい子にしてるんだぞ」蛇の体は重く、とぐろは太くて冷たかった。
「こっちだ、坊主」サディは立ち上がりながら、ガリオンに言った。
「金はどうなったんだ?」イサスがすかさず訊ねた。
「ああ、そうだったな」サディは蔑むように言った。「テーブルの上の袋の中だ」かれはそれだけ言うときびすを返し、ガリオンの先に立って部屋を出た。
(ガリオン)いつもかれの頭の中にいるあの乾いた声がそっと呼びかけた。(よく聞いてくれよ。何も言っちゃいけない。顔色を変えてもいけない。ただ耳を傾けるんだ)
(あ、あなたは誰?)ガリオンは頭の中のもやをかきわけながら、声に出さずに言った。
(おまえの味方だ)乾いた声が答えた。(さあ、よく聞けよ。やつらはおまえが思いどおりに動くようにあるものを飲ませた。それに逆らっちゃいけない。リラックスするんだ。戦おうと思うな)
(でも――ぼくは言っちゃいけないことを言っちゃったよ。ぼくは――)
(今はそんなことはどうでもいい。とにかくわたしの言うとおりにしろ。もし何かが起こって、危険なことになっても、戦うんじゃない。わたしがなんとかするから――でも、おまえがもがいていたら、うまくやることができないんだ。わたしがやるべきことをやるためには、おまえはリラックスしてなくちゃいけないんだ。ふいに自分でもわけのわからないことを言ったりやったりしていることに気づいても、心配したりあがいたりするな。それはやつらじゃなくて、このわたしがやってることだから)
この静かな激励になぐさめられて、ガリオンは宦官のサディと並んでおとなしく歩きつづけた。そのあいだ蛇のマースのとぐろはかれの胸や肩に重くのしかかり、鈍くとがった頭はかれの頬に接吻せんばかりにもたれかかっていた。
かれらは大きな部屋に入った。壁面はドレープにおおいつくされ、きらきら輝くクリスタル製のオイルランプが銀の鎖に掛かっている。一方の壁面には頭から三分の一がはるか上方の闇の中に隠れてしまうような巨大な石像がどっしりと立ちはだかり、その彫像のすぐ前にはカーペットを敷きつめクッションを散らした低い台座が横たわっていた。台座の上には重々しい造りの、椅子とも寝椅子ともつかないソファがあった。
ソファの上に女がひとり座っていた。彼女の髪は闇のような黒で、ゆるやかにカールしながら背中と肩に滝のように流れ落ちていた。頭に戴いた金の冠は、複雑に細工され、宝石とともにまばゆいばかりの光輝を放っている。ガウンは純白で、透けるように薄い紗でできていた。どう見てもそれは体を隠す役目を果たしておらず、むしろ、宝石や装飾品をつけることができるという理由で身に着けたものらしかった。薄布におおわれた肌は白亜のように白く、顔だちの美しさは比倫を絶するものがあった。瞳の色は淡く、色がないようにさえ見えた。ソファの片側の台座には金の縁取りをした巨大な鏡が立っており、その女はゆったりと腰かけながら、鏡の中に映った自分の姿をうっとりとながめていた。
剃髪した二十人あまりの宦官が台座の片隅に群がるようにしてひざまずき、うずくまりながら、その女と彼女のうしろにそびえる彫像を拝むように見上げていた。
ソファのわきでは髪を伸ばした、見るからに怠惰で甘やかされていそうな若者が、クッションの真ん中にだらりともたれかかっていた。かれの髪はくるくるの巻毛で、頬には紅をさし、目にはすばらしく念入りな化粧がしてあった。身につけているものはといえば、申し訳ていどの腰巻だけ。いかにも退屈で機嫌が悪い、といった顔つきをしていた。女は鏡の中の自分をながめながら、片手の指先でかれの巻毛をぼんやりとすいていた。
「女王さま、訪問者の到着でございます」ひざまずいていた宦官のひとりが歌うような声で報告した。
「ははーっ」他の者たちも声をそろえて唱えた。「訪問者のお着きい」
「ご機嫌うるわしゅう、永遠なるサルミスラさま」宦官のサディが台座と淡い目をした女の前にひざまずいて言った。
「サディ、それは?」彼女は震えをともなった、奇妙に低い声でたずねた。
「あの少年でございます、女王さま」サディは床に顔を伏せたまま答えた。
「〈蛇の女王〉の前に出たらひざをつけ」ガリオンの耳元で大蛇がシューシューとささやいた。ガリオンを取り巻いていたとぐろがきつくなり、かれは突然の強い締めつけに驚いてひざをついた。
「マース、近う寄れ」サルミスラは大蛇に言った。
「女王さま、最愛の蛇を招じたまう」サディが節をつけて詠んだ。
「ははーっ」
大蛇はとぐろを解いてガリオンの体を離れると、台座の足下にうねうねと近寄っていった。それから、ソファにもたれている女より高く体を起こすと、太い胴体を屈めて彼女の体の上にぴったりと寝そべった。丸みを帯びた頭部が彼女の顔のあたりにまで達すると、彼女は愛しそうに大蛇の顔に接吻した。長い、枝別れした舌で彼女の顔をなめまわしたあと、マースは彼女の耳元にシューシューとささやきはじめた。彼女は大蛇に抱擁されて横たわりながらその声に耳を傾け、眠そうな目でガリオンをながめた。
やがて大蛇をわきに押しやると、女王は立ち上がってガリオンを見下ろした。「蛇人間の国へようこそ、ベルガリオン」彼女はゴロゴロと喉を鳴らした。
ベルガリオン、じっさいはポルおばさんからしか聞いたことのないその名前を聞いたとたん、体の中を奇妙な衝撃が走り抜け、ガリオンは頭の中のもやを追い払おうともがいた。
(まだ早い)頭の中で乾いた声が警告した。
サルミスラが台座から足を踏み下ろすと、透けたガウンの下の体が優雅にくねくねと動いた。彼女はガリオンの一方の腕をとり、やさしく引き起こした。それから、ためらいがちにかれの顔にふれた。彼女の手は氷のように冷たく感じられた。「かわいい坊や」彼女はほとんど独り言を言うように溜息をついた。「若くて、温かい」彼女の表情はどことなく飢えているように見えた。
奇妙な錯乱がガリオンの頭の中を満たした。サディにもらったあの苦い飲み物が、毛布のようにまだかれの意識をおおっていたのだ。その毛布の下で一度は恐れを感じたものの、一方では女王の異様な魅力に惹かれていた。白亜の肌と光のない瞳はひどく不愉快だったが、それでも彼女のまわりには秘めやかな悦びを約束する円熟さとでもいうのだろうか、とにかく官能的な魅力が漂っていた。かれは知らず知らずのうちにあとずさっていた。
「恐れることはない、愛しいベルガリオン」彼女はゴロゴロと喉を鳴らした。「傷つけるつもりはない――おまえがわたしを傷つけようとしないかぎり。ここでのおまえの役目はとても楽しいもの。ポルガラが想像だにしなかったことを教えてあげよう」
「そんなやつにかまわないで、サルミスラ」わきにいた若者がすねたように言った。「あなたがぼく以外のやつに目を向けると、ぼくが不機嫌になるってことは知ってるでしょう」
女王の瞳が煩わしそうにキラッと光った。彼女は振り向くと、若者を冷やかに見つめた。
「おまえが何を好きで何を嫌いかなど、もうどうでもいいのよ、エシア」
「なんだって?」エシアは信じられないといった顔で叫んだ。「すぐに言われたとおりにしろよ!」
「駄目よ、エシア」
「あとでひどい目に遭わせてやるぞ」
「駄目よ、できないわ。わたしはもうそんなことでは喜ばない。そのすねた態度や不機嫌な顔にはいいかげん飽き飽きしてたのよ。さあ、お行き」
「去れというのか?」エシアは自分の耳が信じられないといったふうに目を見開いた。
「おまえはお払い箱よ、エシア」
「お払い箱? でも、あなたはぼくなしでは生きられないんだぞ。自分でもそう言ってたじゃないか」
「たまに心にもないことを言うのはひとの常でしょうに」
バケツの水が流れ出ていくように、若者の顔から傲慢さがさーっと引いた。かれはぐっと唾をのむと、ワナワナと震えはじめた。「それで、いつ戻ってくればいいの?」かれは哀れっぽく言った。
「戻ってくる必要はないわ」
「もう二度と?」かれはあえいだ。
「ええ、二度と。さあ、もう醜態をさらすのはやめて、さっさとお行き」
「ぼくはこれからどうなるの?」エシアは叫んだ。瞳からは涙があふれはじめ、目のまわりの化粧は幾本ものグロテスクな筋となって顔を伝っている。
「うんざりさせないで、エシア」サルミスラは言った。「荷物をまとめて行くのよ――さあ! わたしには新しい夫ができたのだから」彼女はふたたび台座の上に乗った。
「女王さま、夫君を選びたまう」サディが詠唱した。
「ははーっ」他の者も声をそろえて唱えた。「万歳、サルミスラさまの夫君、この世でもっとも幸運な男」
すすり泣いていた若者はピンクのローブと華麗な彫刻をほどこした化粧箱をわしづかみにした。それから転げるように台座をおりると、ガリオンに非難の言葉を浴びせた。
「こいつ、よくも。みんなおまえのせいだぞ」そう言うが早いか、若者は腕にかけていたローブのひだの中から小さな短剣を引き抜いた。「思い知らせてやる」かれは叫び声とともに短剣を振り上げた。
今度は自覚もなければ、意志を集めることもなかった。エネルギーのうなりがなんの前触れもなく沸き起こり、エシアをうしろに押しやった。若者は小さなナイフでがむしゃらに宙を切りつけた。うねりは去っていた。
エシアは狂気に目を血走らせ、短剣を振りかざしながらふたたび突進してきた。すると、またしてもうねりが沸き起こった。今度のうねりはさっきより強かった。若者ははね飛ばされた。かれが床に倒れたとたん、短剣がカタカタと床をすべった。
サルミスラは興奮ぎみに目を輝かせながら、倒れているエシアを指してパチンパチンと指を鳴らした。弓から放たれた矢のごとき素早さで、台座の下から小さな緑色の蛇がシューッと飛び出してきた。口をぽっかり開けて、怒ったようにシューシューという音を発している。蛇はエシアの足のつけ根を一度だけ噛むと、スルスルッとわきに退き、どろんとした目つきで成り行きを見守った。
エシアはびっくりして息を飲み、あまりの恐怖に血の気を失った。かれは起き上がろうとしたが、とつぜん四肢の力が抜けて磨かれた床の上にぶざまに投げ出された。一度だけ窒息しそうな声をあげたかと思うと、間もなく体がけいれんしはじめた。かかとで床をパタパタと蹴り、腕を乱暴に振り回している。目がうつろになり、焦点が定まらなくなってきた。と、口の中から緑色の泡が噴水のようにブクブクとほとばしった。体は弓なりに反って、肌の下にあるすべての筋肉がうねうねと波うっている。頭が床をガンガンと叩きはじめた。いったん手足をバタバタさせてひきつけたように床から跳ね上がったあと、今度は体全体が床の上でバウンドした。床に落ちたときには、若者はもう事切れていた。
サルミスラは淡い瞳になんの感情も映さずにぼんやりとその死を傍観していた。驚きや後悔といったものはそこには存在しなかった。
「審判が下された」サディが唱えた。
「疾風迅雷《しっぷうじんらい》の早業《はやわざ》、それが〈蛇人間の女王〉たるサルミスラさまの審判」他の宦官たちもそれに応えた。
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28[#「28」は縦中横]
ガリオンはその後もいろいろな物を飲まされた――苦いものもあれば、気分が悪くなるほど甘ったるいものもあった――カップを唇のところに持っていくたびに、意識はますます深いところに沈んでいくように思われた。視覚がかれを惑わしはじめていた。世界がとつぜんぼんやりと霞み、そこで起こっていることいっさいが海の底のできごとのように映った。壁はゆらゆらと揺らめき、ひざまずいている宦官たちの姿も、絶え間ない潮の流れの中で流され巻きこまれている海藻のようにゆらゆらと波だって見えた。宝石のようにきらびやかなランプから、さまざまな色の光がゆっくりと床の上に降り注いでいるように見える。ガリオンはすっかりぼうっとなって、台座の上のサルミスラのソファのそばにだらりともたれかかった。目の前が真っ白に輝き、頭の中からいっさいの思考が消えていくように思えた。時間の感覚もなければ、欲求も意志もなかった。かれは一瞬仲間の顔をぼんやりと思い浮かべた。だが、かれらにもう二度と会えないという悔恨の念がつかのま脳裏をよぎっただけで、一時的なメランコリーもまた甘美な喜びを与えただけだった。かれは失ったもののために水晶のような涙を一粒こぼしさえしたが、その涙が手首に落ちてこの世のものとも思えない美しい光を放ったのを見ると、その光景に吸い寄せられたまますっかりわれを忘れてしまった。
「この子はどうやってあんなことをしたの?」かれの背後のどこかで女王の声がした。その声はこのうえなく美しい音楽のようで、ガリオンの心の髄に鋭くつきささった。
「こいつには力がある」マースのシューシューという声はあたかもリュートの弦をはじくようにガリオンの神経を震わせた。
「こいつの力には意志も意図もないが、おそろしく強い。この子供にはご注意ください、親愛なるサルミスラ。ふとしたことでこいつに滅ぼされないとも限らない」
「コントロールしてみせるわ」彼女は答えた。
「そう祈ります」
「魔術には意志が必要だわ」サルミスラは指摘した。「この子から意志を遠ざけておけばいいのよ。マース、おまえの血は氷のように冷たいから、血管がオレットやアタールやカルディスで満たされたときのあの燃えるような感じを味わったことがないでしょう。おまえの心は岩のように冷たいから、体が意志をとりこにするようになるなんて想像もできないのよ。わたしはこの子の心を眠らせてから、愛でかれの意志をがんじがらめにしてみせる」
「愛というと?」大蛇はかすかに驚いた様子で聞き返した。
「どんな言葉より役に立つ言葉。もしおまえの気に入るなら、食欲と呼んでもいいわ」
「それならわかります。でも、こいつの力をみくびってはいけません――あなた自身の力を過信するのも然りです。この子供の心は尋常じゃない。まったく予想できない何か不思議なものを備えているとでもいうか」
「今にわかるでしょう」彼女はそう答えると、宦官を呼んだ。「サディ」
「なんでしょう、女王?」
「この子を連れていきなさい。お風呂に入れて、香水をつけるのよ。この子はボートとかタールとか海水の臭いがするわ。わたしはこんなアローン人の臭いは嫌い」
「はい、ただいま」
ガリオンは暖かいお湯のある場所に連れていかれた。服を脱がされてお湯に浸けられ、シャボンで洗われ、そのあとまたお湯に浸けられた。それからいい香りのするオイルを皮膚に擦り込まれ、小さな腰巻がウエストのあたりにぴったり巻きつけられた。それが終わると、今度はあごをぐいっとつかまれ、頬に紅が塗られた。顔を塗っている人間が女だということに気づいたのは、この最中だった。かれはゆっくりと、ほとんど無意識に浴室を見回した。そのときになってやっと、そこにいる人間がサディ以外はみんな女だということに気づいた。何かひどくきまりの悪いことをしているような気がした――女たちの前で裸になっているということに関係のある何か――だが、それがどういうことなのか思い出すことはできなかった。
その女が顔を塗り終えると、宦官のサディはかれの腕をとってふたたび薄暗い、どこまでもつづく廊下を抜け、サルミスラが彫像の下のソファに半分寝転びながら、そのわきの台に載った鏡で自分の姿をうっとりとながめている部屋に連れ帰った。
「見違えたわ」彼女はガリオンを頭の先から爪先まで満足そうにながめた。「思ったよりたくましいのね。さあ、ここに連れてきて」
サディは女王のソファの横にガリオンを引っ張っていき、エシアがもたれかかっていたクッションの上にそっと座らせた。
サルミスラはためらうようにゆっくりと手を伸ばし、冷たい指先でかれの顔と胸をなでた。彼女の淡い瞳は炎のように輝き、唇がかすかに開きかけた。ガリオンの視線は彼女の青白い腕に釘づけになった。その白い肌には体毛らしきものがまったくなかったのだ。
「なめらかだ」かれはその不思議な肌の意味を必死に考えながら、ぼんやりとつぶやいた。
「もちろんよ、愛しいベルガリオン。蛇に毛はないわ。わたしは蛇の女王なのよ」
かれはゆっくりと、戸惑いながら視線を上に移し、彼女のいっぽうの肩に光沢のある黒いひとふさの毛がうねうねとかかっているのを見た。
「これは特別」彼女は傍観者をハッとさせるような虚栄に満ちたしぐさでその巻毛に触れた。
「どうして?」かれは訊ねた。
「秘密よ」彼女はそう言って笑った。「たぶん、いつか教えてあげるわ。これが気に入った?」
「ええ、たぶん」
「ねえ教えて、ベルガリオン。おまえはわたしを美しいと思う?」
「ええ、思います」
「わたしをいくつぐらいだと思う?」彼女が両手を大きく広げたので、ガウンの薄い紗を透かしてその肢体がくっきりと見えた。
「わからないな。ぼくよりは年上だけど、そんなに年じゃない」
一瞬彼女は苛立たしそうに顔色を曇らせた。「当てるのよ」どことなく残酷な響きのする声で彼女は命令した。
「三十くらいかな」かれは当惑しながら言った。
「三十ですって?」声にショックが表われていた。彼女は素早く鏡に向かうと、自分の顔を子細にながめた。「どこに目をつけてるの、この唐変木!」彼女は鏡に映った自分を見たまま、ぴしゃりと言った。「どう見たって三十女の顔じゃないわ。二十三――せいぜい二十五ってとこじゃないの」
「どちらでもお好きなように」
「二十三ね」彼女はきっぱりと言った。「二十三を一日だって過ぎてないわ」
「もちろんです」かれはおだやかに言った。
「わたしが六十近いって言ったら、おまえは信じる?」彼女はとつぜん石のように堅い目つきで訊ねた。
「いいえ」ガリオンはそれを否定した。「信じられません――六十だなんて」
「ベルガリオン、おまえはなんてかわいい子なの」彼女はとろけそうなまなざしでガリオンに息を吹きかけた。彼女の指はふたたびかれの顔にふれ、すすーっと愛撫した。むき出しになった彼女の青白い肩と喉の皮膚の下から、しだいに奇妙な色つきの染みが浮かびあがった。緑と紫のまだらが、脈打ちながら移動しているかのようにいったんくっきり浮かび上がり、次の瞬間にはスーッと薄れていった。彼女の唇はまた半開きになり、呼吸が速くなってきた。まだらはやがて素通しのガウンに包まれた裸の上半身にも広がり、緑と紫のしみが肌の下でうごめいているように見えた。
マースは女王のもとへ這い寄った。うっとりとしたまなざしとでもいうのだろうか、その瞳はにわかにみずみずしく輝きはじめた。大蛇のうろこに浮かぶあざやかな模様と女王の体に現われはじめた色つきの斑点はあまりに似通っていたので、大蛇がそのとぐろで愛撫するように彼女の一方の肩をおおうと、どこまでが彼女の肌でどこまでが蛇のうろこなのか、まったく見分けがつかなくなってしまった。
もしこんなふうになかば惚けた状態でなかったら、ガリオンは女王からあとずさっていただろう。爬虫類を思わせる色のない瞳とまだら模様の肌。みだらな顔つきは、彼女のすさまじいまでの渇望を物語っていた。それでも、彼女には奇妙な魅力がつきまとっていた。かれはそのけばけばしい色気に吸い込まれていくのを感じながら、どうすることもできなかった。
「さあここにおいで、ベルガリオン」彼女はやさしい声で命令した。「おまえを取って食う気はないのよ」彼女の瞳はガリオンを手に入れた満足感に満ちあふれていた。
台座からそう遠くないところで、宦官のサディがコホンと咳ばらいをした。「神聖なる女王さま。タウル・ウルガスの勅使が女王さまに伝言を申し渡したいとのことです」
「クトゥーチクの勅使の間違いでしょう?」サルミスラはちょっと迷惑そうな顔をして言った。だがそのあとでおそらく名案が思い浮かんだのだろう、彼女は意地わるく微笑んだ。肌のまだらは薄れた。「そのグロリムを連れてきなさい」彼女はサディに言った。
サディはお辞儀をするとその場をさっと離れ、やがてマーゴ人の衣装を着た顔に傷跡のある男を連れて戻ってきた。
「タウル・ウルガスの勅使どのを歓迎せよ」サディが節をつけて言った。
「ようこそ」他の者がそれに応えた。
(さあ、用心しろよ)頭の中の乾いた声がガリオンに言った。(こいつは波止場で見かけた男だ)
そのマーゴ人をよくよく見てみると、なるほど波止場で見かけた男だった。
「万歳、永遠なるサルミスラさま」グロリムは儀礼的にそう言うと、まず女王自身に、次いで彼女のうしろの彫像に頭を下げた。「クトル・マーゴスの国王、タウル・ウルガスに代わり、〈イサの霊〉とその侍女に謹んでご挨拶を申しあげます」
「それでグロリムの高僧、クトゥーチクからはなんの挨拶もないの?」彼女は目を光らせて訊ねた。
「もちろん、ございます。しかし、そちらのほうは慣例上、内密にお伝えすることになっておりますので」
「おまえはタウル・ウルガスとクトゥーチク、どっちの遣いでここに来たの?」彼女はくるりと向きを変え、鏡に映った自分の姿をしげしげとながめながら訊ねた。
「ふたりきりでお話できないものでしょうか、女王陛下?」グロリムが聞いた。
「今もふたりきりよ」
「でも――」かれは部屋の中にひざまずいている宦官たちを見回した。
「わたしの僕《しもべ》たちよ」彼女は言った。「ニーサの女王はいつだって僕《しもべ》に囲まれているものなの。それぐらいもう覚えてもよさそうなものなのに」
「じゃあ、それは?」グロリムはガリオンを指さした。
「この子も僕《しもべ》よ――種類はちょっとちがうけど」
グロリムは仕方ないといった顔で肩をすくめた。「では、お好きなように。グロリムの高僧にしてトラクの弟子、クトゥーチクに代わってご挨拶申しあげます」
「イサの侍女ことサルミスラよりラク・クトルのクトゥーチクにその返礼を」彼女は形式的に答えた。「グロリムの高僧がわたしになんの用なの?」
「その少年です、女王陛下」グロリムは単刀直入に言った。
「どの少年?」
「あなたがポルガラから盗み、今あなたの足下に座っているその少年です」
彼女はあざけるように笑った。「クトゥーチクには悪いけど、それは不可能だわ」
「クトゥーチクの願いを断るのは、愚かというものですよ」グロリムは警告した。
「この宮殿でサルミスラに命令するのは、もっと愚かなんじゃないかしら。それで、クトゥーチクはこの子の代償に何をよこすつもり?」
「恒久の友情です」
「蛇の女王がどうして友だちを必要とするかしら?」
「では、黄金を」グロリムは不愉快そうに言った。
「アンガラクの純金に秘密があることは知ってるわ。そんなものの虜になるのはご免よ。金貨はしまっておきなさい、グロリム」
「さしでがましいことを申すようですが、女王陛下、あなたはたいへん危険な賭けをしているのですよ」グロリムは冷やかに言った。「あなたはすでにポルガラを敵にまわした。このうえクトゥーチクまで敵にまわそうというのですか?」
「ポルガラなんて怖くないわ。クトゥーチクも然りよ」
「さすが女王陛下、勇気のほども人並み以上でいらっしゃる」かれは皮肉まじりに言った。
「そろそろうんざりしてきたわ。わたしの返事はごく簡単よ。クトゥーチクに伝えてちょうだい。わたしはトラクの敵を捕らえている、けっして手放す気はないと――でも、もし――」
「もし、なんです、女王陛下?」
「もしクトゥーチクがトラクに口添えしてくれるなら、契約を結ばないこともないわ」
「契約と言うと?」
「わたしは結婚のお祝いとしてトラクにこの子をプレゼントするつもりなの」
グロリムは目をぱちくりさせた。
「もしトラクがわたしを妻に迎え、永久の若さを約束してくれたら、わたしはベルガリオンをトラクに献上するのよ」
「〈アンガラクの竜神〉は眠りつづける運命にある、そんなことは誰でも知っていますよ」グロリムは異議を唱えた。
「でも、永遠に眠りつづけるわけではない」サルミスラは抑揚のない声で言った。「アンガラクの僧侶もアロリアの魔術師たちも、永遠なるサルミスラがかれらと同じように空中の暗号を読む力を持っていることをついつい忘れてしまうようね。トラクが目覚める日はすぐそこまで来てるんでしょ。クトゥーチクに伝えなさい。その暁には、わたしはトラクと結婚し、ベルガリオンはかれのものとなるだろう、と。その日まで、この子はわたしのものよ」
「クトゥーチクにそう伝えます」グロリムは堅苦しい形ばかりのお辞儀をした。
「わかったならもう行ってちょうだい」彼女はわずらわしそうに手を振りながら言った。
(そういうわけだったのか)グロリムが去ったとたん、ガリオンの中の声が言った。(なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう)
大蛇のマースが突然かま首をもたげた。頸部がぷーっとふくらみ、目がメラメラと燃えている。
「気をつけろ!」かれはシューシューと言った。
「あのグロリムのこと?」サルミスラは笑いとばした。「恐れるほどの男じゃないわ」
「グロリムじゃない」マースは言った。「あいつだ」かれは舌先でチロチロッとガリオンを指した。「こいつの意識は目覚めている」
「そんなわけはないわ」
「とにかく、こいつの意識は目覚めている。たぶん、首にかけている金属製のものと何か関係があるんだ」
「じゃあ、そのお守りを取っておしまい」彼女は蛇に言った。
マースは床に身をかがめ、台座のまわりをするすると回ってガリオンに近づいた。
(じっとしてろ)内なる声が言った。(反抗しようとするな)
ガリオンは丸みを帯びた頭が近づいてくるのをぼんやりと見守った。
マースはかま首を起こして喉をふくらませた。神経質な舌先がチロッ、チロッと素早く飛び出したかと思うと、やがて蛇は体を前に傾けてきた。鼻先が、ガリオンの首にかかった銀のお守りにふれた。
蛇の頭がお守りにふれたとたん真っ青な閃光が飛び散った。ガリオンは、もうすっかり馴染みになったあのうねりを感じた。だが、今度のうねりはしっかりコントロールされ、焦点が一ヵ所にしぼられていた。マースがあとずさると、お守りの閃光がジューッという音とともに噴射して、銀の円盤と蛇の鼻のあいだをつないだ。大蛇の目はくしゃくしゃとしぼみ、鼻孔とぽっかり開いた口から白い煙が立ちのぼった。
閃光は消えた。死んだ蛇の体は、ピカピカに磨かれた石床の上でけいれんしたようにまだビクビクッとうねったり、よじれたりしている。
「マース!」サルミスラは悲鳴をあげた。
宦官たちは、はげしくのたうつ大蛇を避けて、あたふたと逃げ出した。
「女王さま!」ドアのところから禿げ頭の役人がきれぎれに叫んだ。「この世の終わりが近づいています」
「なんですって?」サルミスラは大蛇のけいれんから目を離した。
「太陽が消えてしまいました! まだ昼間だというのに、真夜中のように真っ暗です! 町はパニック状態です!」
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29[#「29」は縦中横]
その報告のあとに訪れた騒ぎの中にあって、ガリオンだけはサルミスラの王座のわきのクッションにもたれたまま、ただじっと座っていた。だが、そのあいだもかれの頭の中の声は、早口にしゃべりつづけていた。(じっとしてろ。何も言うな、何もするな)
「天文学者をすぐに連れてくるのよ!」サルミスラの命令が飛んだ。「どうしてわたしがこの日食に気づかずにいたか、その原因をさぐらなければ」
「日食ではありません、女王さま」禿げ頭の役人は、いまだにのたうっている蛇からわずか目と鼻の先の床に頭をすりつけながら、むせぶように言った。「闇が巨大なカーテンのように押し寄せてきたのです――風も、雨も、雷もありません、音もなく太陽をおおってしまったのです」かれはしゃくりあげはじめた。「もう二度と太陽を拝むことはできないでしょう」
「やめなさい、この愚か者」サルミスラはぴしゃりと言った。「さあ、立つのよ。サディ、この戯《たわ》けを連れて空の様子を見てきなさい。見たらここに戻ってくるのよ。何が起こってるのか把握しないと」
サディは水から上がった犬がやるようにブルブルッと体を震い、歯をむいたまま硬直したマースの顔に釘づけになっていた視線をさっともとに戻した。かれはおいおい泣いている役人を起こして、部屋の外に連れ出した。
かれらが行ってしまうとサルミスラはガリオンに視線を向けた。「いったい何をしたの?」彼女はピクピクひきつっているマースの体を指しながら聞いた。
「わからない」かれの頭は深い霧に沈んだままだった。だが、あの声が住んでいる静かな片隅だけは、はっきりと目覚めていた。
「そんなお守りははずしてしまいなさい」彼女はガリオンに命じた。
ガリオンは言われるままにメダルに手を持っていった。と、とつぜん、かれの両手はその場に凍りついてしまった。動かそうとしても動かない。かれはあきらめて言った。「できない」
「その子からそのお守りをはずしておしまい」彼女は宦官のひとりに命じた。宦官はまず大蛇をちらりと見て、それからガリオンの顔を見た。かれは頭を振って、怖々とあとずさった。
「言われたとおりにおし!」蛇の女王は激しい口調で命令した。
王宮のどこかで、ガラガラガラというすさまじい大音響がおこった。重い材木の中から爪でひっかくようなギーギーという音が聞こえ、壁がなだれ落ちる音がした。つづいて、数ある薄暗い廊下のどこかで、誰かが断末魔の叫びをあげた。
かれの頭の中の乾いた意識が何かをたしかめるように手を伸ばした。(やっときたな)声はあきらかに安堵して言った。
「いったい外で何か起こってるの?」サルミスラは激怒して言った。
(わたしといっしょに来るのだ)頭の中の声が言った。(おまえの助けが必要なのだ)
ガリオンは体の下に手をおいて、自分の体をぐいっと持ち上げはじめた。
(ちがう。こっちだ)ガリオンの中で何かが分離していくような奇妙な感覚が起こった。かれは無意識のうちにこの分離を支持した。すると、自分は動いていないのに、体がふわっと浮くのを感じた。とつぜん、体という感覚がなくなった――腕もなければ足もない――それでも移動しているという感じだけはあった。かれは自分の姿を見た――かれ自身の体――それは、サルミスラの足下のクッションに惚けたように座っていた。
「いそげ」あの声が言った。その声はもはやかれの頭の中ではなく、かれのとなりに存在しているように思われた。そこにはおぼろげな姿があった。はっきりとした形はないが、じつに親しみ深い姿が。
知力をおおっていた霧がさっと晴れあがると、ガリオンはきゅうに機敏さを取り戻した。
「あなたはだれ?」かれはとなりの存在に訊ねた。
「今はそれを説明してるときじゃない。さあ、サルミスラがなんらかの手を打つまえに、かれらを連れ出さなければ」
「誰を連れ出すって?」
「ポルガラとバラクだ」
「ポルおばさん? おばさんはどこにいるの?」
「さあ、来るんだ」声は切羽詰まったように言った。ガリオンはとなりの奇妙な存在とともに閉じたドアに向かってふわっと浮遊したような気がした。かれらはまるで空虚な霧の中でも抜けるようにドアを通り抜け、外側の廊下に出た。
それからかれらは宙に浮かんだままその廊下を飛び抜けた。風を切っているという感覚もなければ、移動しているという感覚すらなかった。一瞬ののち、かれらは大きな広間に出た。宮殿にきたとき、イサスがまず最初にガリオンを連れてきたあの部屋だ。そこまでくるとかれらは移動をやめ、空中に停止した。
ポルおばさんがホールを大股に歩いてきた。大きく見開いた両眼は怒りに燃え、体全体が激しい炎のような光に包まれている。彼女のとなりでのっしのっしと歩いているのは、ガリオンがいつか見た、あの毛むくじゃらの大きな熊だ。頭部にかすかにバラクの面影を見たような気がしたが、それは獣以外のなにものでもなかった。狂気が最高潮に達していると見えて、両目は血走り、ほら穴のような口がおそろしく大きく開いている。
命知らずの番人たちが長い槍で熊を押し戻そうとしたが、熊は槍を軽く払いのけてかれらにおおいかぶさった。巨大な抱擁で番人たちの体をバキバキッと砕いたあと、熊は爪を殻竿のように振り回してかれらの小さな体を引き裂いた。ポルおばさんと熊の通った跡には、部品のとれた体とひくひく震える肉体の一部が飛び散っていた。
隅のほうにうずくまっていた例の蛇連中はくねくねと床を横切っていたが、ポルおばさんを取り巻く炎のような光にふれたとたん、マースと同じ死をむかえた。
ポルおばさんは言葉とジェスチャーで手際よくドアを破壊していった。分厚い造りのドアが一枚、彼女たちの行く手をさえぎっていた。彼女の手がササッと払いのけると、ドアはまるでくもの巣でできていたかのように、あっさりとがれきの山に変わってしまった。
バラクは薄暗い廊下を抜けながら、なおも暴れまわった。狂気のおたけびをあげ、行く手にあるものすべてを破壊した。宦官のひとりが悲鳴をあげながら、死に物ぐるいで柱の一本によじのぼろうとした。だが、巨大な熊はうしろ足で立ちあがると、その男の背中に爪を食い込ませて引きずりおろしてしまった。熊の頑丈なあごが、ガリガリッという吐き気を催すような音をたてて宦官の頭を噛み砕いたとたん、悲鳴はぴたっとやんだ。
「ポルガラ!」ガリオンのとなりにいる分身が声もなく叫んだ。「こっちだ!」
ポルおばさんはさっと振り向いた。
「われわれについてこい」ガリオンの分身が呼びかけた。「急げ!」
サルミスラと今しがた脱出してきた半ば正体のないガリオンの体に向かって、かれらは今きた廊下をフワフワと戻りはじめた。ポルおばさんと、狂ったように吠えつづけるバラクがそのあとにつづいた。
ガリオンとかれの不思議な分身はもう一度あの分厚いドアを通り抜けた。
サルミスラは、クッションの上に座っているうつろなまなざしの脱け殻におおいかぶさるようにして立っていた。素通しのガウンに包まれた彼女の裸体は、もはや情欲ではなく怒りのために斑点を浮き出していた。「答えるのよ!」彼女はガリオンの体に向かって叫んでいた。
「わたしの質問に答えなさい!」
「あの中に戻ったら」と、実体なき存在が言った。「わたしにすべてを任せろ。しばらく時間を稼がないと」
そして、かれらは抜け殻に帰った。ブルブルッという体の震えを覚えた次の瞬間には、ガリオンは自分自身の目を通して外の世界を見ていた。さっきまでかれの知覚をまひさせていた霧がふたたび押し寄せてきた。「えっ、何?」自分でそう言おうと思ったわけでもないのに、唇が勝手に動いた。
「これはおまえの仕業なのかって聞いたのよ」サルミスラが言った。
「ぼくの仕業!」かれの唇からこぼれる声はかれ自身の声とよく似ていたが、そこにはかすかな違いがあった。
「そう、この現象ぜんぶよ」彼女は言った。「暗闇。それから宮廷の襲撃」
「ちがうと思うな。どうしてぼくにそんなことができる? ぼくはほんの子供なのに」
「嘘をつくのはおよし、ベルガリオン。わたしは知ってるのよ。おまえがどういう人間かってことを。おまえの仕業に違いないわ。ベルガラスには太陽をおおい隠すなんて芸当はない。ベルガリオン、よーくお聞き、おまえが今日飲んだものは毒薬だったの。血管に入った毒が今この瞬間にもおまえの命を縮めてるはずよ」
「どうしてぼくにそんなことを?」
「おまえを捕らえておくためよ。おまえはもっともっと薬を飲まなくちゃいけないのよ。さもないと、おまえの命は終わってしまうんだから。わたしに与えられたものを飲むことでしか、一日一日を生き永られる方法はないのよ」
ドアのすぐ外で絶望的な悲鳴が聞こえた。
蛇の女王はハッとして顔をあげ、うしろの巨大な石像を振り返った。それから妙にかしこまったしぐさで一礼すると、空で両手を編み合わせ、複雑なジェスチャーをつくりだした。それがすむと、今度はガリオンが今まで聞いたこともないような言葉で、これまた復雑な呪文を唱え始めた。その言葉は、のどから発しているようなシューシューという音と、変な韻律を持っていた。
例の頑丈なドアが、爆音とともに粉々に砕けて内側に吹き飛んだ。崩れた入口にポルおばさんが立っていた。白い髪束が炎のように光り輝き、両眼は赤々と燃え立っている。彼女のわきでは、歯から真っ赤な血を滴《したた》らせ、爪の先にズタズタの肉片をぶらさげたままの恰好で、熊が吠え声をあげていた。
「警告したはずよ、サルミスラ」ポルおばさんは血も凍るようなおそろしい声で言った。
「そこから動くんじゃないよ、ポルガラ」女王は命令した。彼女は振り向きもせずに、宙で指を複雑に編みつづけている。「その子は死にかけてる。わたしを倒したら、助かる道はなくなるよ」
ポルおばさんはその場に立ちつくした。「この子に何をしたの?」
「自分の目で確かめるがいいさ」サルミスラは言った。「この子はすでにアタールとカディスを飲んでいる。今このときですら薬の炎がこの子の血管を焼きつづけてるんだ。すぐにまた体が薬を欲しがるはずさ」手は休むことなく宙をさぐり、顔には極度の集中を示す奇妙な表情が浮かんでいる。間もなく、唇に例のしわがれたシューシューという音が戻った。
(今の話は本当なの?)ポルおばさんの声がガリオンの頭の中でこだました。
(そうらしいな)乾いた声が答えた。(飲み物を飲まされて、そのあと別人みたいになったんだから)
ポルおばさんは目を大きく開いた。(あんたは誰?)
(前からここにいたじゃないか、ポルガラ。気づかなかったのか?)
(ガリオンは気づいてたの?)
(ここにいるってことは知ってる。その意味まではわかってないようだが)
(その話はあとにしましょう)彼女は意を決して言った。(さあ、しっかり見るのよ。あんたが今やるべきことは、これよ)ガリオンの頭の中で複雑な霞のようなイメージが沸き上がった。
(わかったわね?)
(もちろん。わたしからガリオンに説明しよう)
(あんたがやるんじゃないの?)
(それは無理だよ、ポルガラ)乾いた声は言った。(力を出すのはガリオンだ、わたしじゃない。でも心配にはおよばない。ガリオンとわたしは心が通い合っているから)
ふたつの声が頭の中で相談しているあいだ、ガリオンはなぜかしら独り取り残されたような気分を味わっていた。
(ガリオン)乾いた声がそっと話しかけてきた。(おまえの血のことを考えてほしいんだ)
(ぼくの血?)
(ちょっとのあいだ血液を換えるのだよ)
(どうして?)
(あいつらに飲まされた毒を燃やしてしまうためさ。さあ、血液に気持ちを集中させるんだ)
ガリオンは言われたとおりにした。
(こんなふうになりたいと念じるんだ)ガリオンの頭の中に黄色いイメージが入りこんだ。
(わかった)
(じゃあ、やってみろ。さあ)
ガリオンは指先を胸に当て、血液が換わることを願った。突如として、体が燃えるように熱くなった。心臓の鼓動が激しくなり、毛穴という毛穴から汗が吹き出した。
(あと少し)声が言った。
ガリオンは熱くて死にそうだった。入れ換わった血液が血管を焼きはじめると、かれは激しく震えはじめた。心臓が軽やかなハンマーのようにトントントントンと胸を叩いている。目の前が真っ暗になり、かれはゆっくりと前方に倒れはじめた。
(今だ!)声が鋭く命令した。(もとに戻せ)
熱地獄は去った。心臓の鼓動が普通の駆け足ぐらいの速さになり、さらに早足までペースダウンしたのち、ついに平常の速さに戻った。かれはすっかり消耗しきっていた。だが、頭をおおっていたあの霧はもうなくなっていた。
(うまくいったよ、ポルガラ)ガリオンの分身が報告した。(今度はおまえの番だ)
心配そうに見守っていたポルおばさんだったが、これを聞くと見るみるうちに毅然とした顔つきを取り戻した。彼女はピカピカの床を横切って台座に向かった。「サルミスラ」彼女は女王の名を呼んだ。「こっちを向いてわたしの顔を見るのよ」
サルミスラの両手は今や頭より高く掲げられ、唇からはシューシューという言葉が次から次へと噴射のごとき勢いで飛び出し、ついには耳障りな叫び声に変わった。
とそのとき、彼女らのはるか頭上、天井に近い暗がりの中で巨大な石像の両眼が開き、そこから深いエメラルド色の炎が噴き出した。それに同調するかのように、サルミスラの王冠の上でひときわ燦然と輝いていた宝石が同じ炎に燃えあがった。
石像が動きだした。岩のきしむ音は大地を揺るがすような轟きを呼び、耳をつんざくような大音響がわき起こった。石像が一歩、もう一歩と足を踏み出すにつれ、巨大な彫像の土台となっていた岩壁がお辞儀をするように前に屈んだ。
「なにゆえに――イサを――召んだ?」固く結んだ石の唇から、雷のような大声が漏れた。その声は大きな胸部のはるか上方でうつろに反響していた。
「偉大なるイサの神よ、あなたの侍女を護りたまえ」サルミスラはこう叫ぶと、うしろをふり向いて勝ち誇ったようにポルガラを見た。「この邪悪な魔女はあなたの侍女を殺そうとイサ神の領内に侵入してきたのです。こやつの邪悪な力はあまりに強く、抵抗しおおすことのできるものは誰もおりません。わたくしはあなたの許嫁、どうかあなたの力で護りたまえ」
「イサの神殿を汚さんとするのは、どこのどいつだ?」石像の声がとどろいた。「わが寵愛の侍女をあえて傷つけんとするのは、どこのどいつだ?」エメラルド色の両眼が激しい怒りをたたえて光り輝いた。
ポルおばさんは、のしかかるように立ちはだかる巨大な彫像を上に見ながら、磨きぬかれた床の中央にたったひとりで立ちつくしていた。だが、彼女のまなざしに恐怖の色はなかった。
「とんでもないことをしてしまったわね、サルミスラ」彼女は言った。「これは禁じられていることなのに」
蛇の女王はあざけるように笑った。「禁じられている? おまえの警告がなんだっていうの? 尻尾を巻いて逃げるか、聖なるイサ神の怒りに立ち向かうか、ふたつにひとつだよ。神と戦えるというのなら、見せてもらおうじゃないか!」
「他に道がないのなら」ポルおばさんは言った。彼女はきりっと直立するや、ひとつの言葉をつぶやいた。その言葉はガリオンの頭の中に凄まじい轟きを呼び起こした。と、突然、彼女の体が大きくなりはじめた。樹木のように一フィート、また一フィートと上に横に拡大し、まばたきもせずに目を丸くしているガリオンの前で、彼女の体は巨人のように大きくなっていった。一瞬ののち、彼女は巨大な岩の神と互角に向き合っていた。
「ポルガラか?」イサ神の声音は、胸中の当惑を表わしていた。「どうしてこんなことをした?」
「もうすこしで〈予言〉が成就するのです、イサの神よ」彼女は言った。「それなのに、あなたの侍女はあなたとあなたの兄弟を敵に売り渡そうとしたのです」
「そんなはずはない」イサは言った。「これはイサの選んだ女人《にょにん》だ。愛しい女人《にょにん》の顔をしている」
「顔だちはまったく同じです。でも、これはイサに寵愛されたサルミスラではありません。あなたの愛《め》でたサルミスラの亡きあと、この神殿に仕えてきたサルミスラはおそらく百人はおりましょう」
「亡くなったと?」神は信じがたいといった声で言った。
「嘘です!」サルミスラが金切り声をあげた。「神よ、わたくしこそあなたの愛《め》でたサルミスラです。この女の嘘に耳を傾けてはなりません。早く殺してください」
「〈予言〉の日はすぐそこまで来ています」ポルおばさんは話をつづけた。「サルミスラの足下に座っている少年は、その〈予言〉になくてはならない人間なのです。わたくしの元に返していただかないと、〈予言〉は成功を見ないまま終わってしまうのです」
「〈予言〉の日はこんなに早く訪れることになっていたのか?」神は訊ねた。
「早くはありません、イサの神よ」ポルおばさんは答えた。「むしろ遅すぎるくらいです。あなたは計り知れないほど長いあいだまどろみつづけていたのですから」
「嘘です! みんなでたらめです!」サルミスラは、巨大な石の神のくるぶしにしがみついて死にものぐるいに叫んだ。
「ことのしだいをこの目で確かめなければならないようだ」神はゆっくりとした口調で言った。
「何千年ものあいだぐっすり寝入っていたので、すっかり世事にうとくなってしまったらしい」
「おお、イサの神よ、この女を滅ぼしたまえ」サルミスラは懇願した。「この女の嘘は神に対する憎悪と冒涜に他ありません」
「まあ待て、サルミスラ、真実を探ってからだ」
束の間、ガリオンは心に何か大きなものがふれたような気がした。何かがかれをかすって通ったのだ――かれの想像力が凍りついてしまうほど大きな何かが。その感覚はそのまま通りすぎていった。
「あああ――」床から大きな溜息が聞こえた。死んだはずの大蛇、マースがかすかに動きだしたのだ。「あああ――。眠らせてください」シューシューという声が聞こえた。
「しばらくの辛抱だ」イサが言った。「大蛇よ、名をなんと言う?」
「マースと呼ばれていました」蛇は答えた。「永遠なるサルミスラさまの相談役であり、話し相手でありました。神よ、どうか眠らせてください。これ以上生きつづける元気はありません」
「ここにいるのはわが寵愛のサルミスラなのか?」神は訊ねた。
「彼女の後継者です」マースは溜息をついた。「あなたの愛《め》でた尼君《あまぎみ》はもう何千年も前にお亡くなりになりました。その後は、かの尼君に面立ちの似たサルミスラ≠ェ選ばれつづけてきたのです」
「ああ」イサは大きな声音の中に、深い悲しみを秘めて言った。「では聞くが、この女はなぜポルガラからベルガリオンを奪ったのだ?」
「トラクと縁組みしたいがためです」マースは言った。「〈呪われた者〉の抱擁がもたらすであろう永遠の若さを得たいがために、かれにガリオンを引き渡そうと考えたのです」
「トラクの抱擁? イサの尼公《にこう》があの乱心者の汚れた抱擁を甘んじて受けるというのか?」
「進んで抱擁されようというのです、神よ。通りすがる男がいれば、それが人間であれ神であれ獣であれ抱かれたいと思うのが、彼女の性《さが》なのです」
堅い岩の顔面を、嫌悪の色がよぎった。「これまでもずっとそうだったのか?」
「そうです、神よ。あなたの愛《め》でたかの尼君の若さと美貌を保つために飲む薬が、彼女の血管を情欲の炎で燃やすのです。その炎は死ぬまで消えることはありません。行かせてください、神よ。痛みが!」
「マースよ、安らかに眠れ」イサは名残り惜しそうに言った。「イサの感謝を胸に黄泉の国へ旅立つがいい」
「あああ――」マースは大きく溜息をつくと、ふたたびへなへなと床にくずれた。
「さあ、われもまた快眠をむさぼるとしよう」イサは言った。「この世に残るわけにはいかない。われの存在がトラクの意識を戦争に駆り立て、世界が滅ぶようなことになったら大変だ」巨大な石像はふたたび足を踏み出し、何千年ものあいだ立ちつづけてきた場所に戻った。岩が曲がると、ふたたびギギギーという轟音が部屋を満たした。「ポルガラよ、この女は好きに始末するがいい」石の神は最後に言った。「ただ、イサの愛《め》でた尼《あま》の思い出のために、命だけは助けてやってほしい」
「わかりました、イサの神よ」ポルおばさんはそう言って彫像にお辞儀をした。
「それから、親愛なる兄アルダーによろしく伝えておくれ」おぼろげな神の声は、そう言っているあいだにもどんどん薄れていった。
「神よ、安らかにまどろみたまえ」ポルおばさんは言った。「願わくば、眠りがあなたの悲しみを洗い流さんことを」
「待って!」サルミスラは泣き叫んだ。だが、石像の両眼で燃えていた緑色の炎はすでに消え、彼女の王冠の宝石もチラチラとわずかに明滅したのち、光を失った。
「時間ぎれよ、サルミスラ」ポルおばさんは、おそろしく巨大な姿のまま、言った。
「殺さないで、ポルガラ」女王は彼女の足下にひざまずいて懇願した。
「殺すつもりはないわ、サルミスラ。イサの神に命だけは助けると約束したもの」
「おれはそんな約束をした覚えはないぞ」入口のところでそう言ったのはバラクだった。ガリオンがとっさに声のほうへ目をやると、そこにはなつかしい大男の姿があった。今のかれはポルおばさんの巨大な姿のせいでこびとのように小さく見える。熊の姿はどこにもなく、その代わりにチェレクの大男が武器を持って立っていた。
「だめよ、バラク。サルミスラの問題はわたしがこれを最後にきっぱりと解決してみせるから」ポルおばさんはひれ伏している女王を振り返った。「生かしておいてあげるわ、サルミスラ。あんたはずっと生きつづけるのよ――おそらく永遠に」
思っても見なかった朗報にサルミスラの瞳はキラリと輝いた。彼女はゆっくりと立ち上がり、おおいかぶさるように立ちはだかっている巨大な姿を見上げた。「今、永遠と言ったわね、ポルガラ?」
「そのためには変身が必要だけど」ポルおばさんは言った。「あんたが若さと美貌を保つために飲んでいた毒はゆっくりとあんたの命を奪いはじめているのよ。今この瞬間にもその影響が顔の上にあらわれはじめている」
女王は両手を頬にあてがうや、さっと振り返って鏡をのぞきこんだ。
「老化が進んでいるのよ、サルミスラ」ポルおばさんが言った。「あんたはすぐに醜い老女になるわ。あんたの体を満たしている色情がその身を焦がし、ついには命を奪ってしまうのよ。あんたの体は温かすぎる、それがすべての問題なのよ」
「でもどうやって――」サルミスラは声を震わせた。
「ちょっとした変身よ。ほんのすこし変身するだけで、あんたは永遠に生きつづけることができるのよ」ガリオンは彼女の意志がひとところに集まろうとしているのを感じとった。「永遠の命をあげるわ、サルミスラ」彼女はそう言うと片手を上げてひとつの言葉をつぶやいた。その言葉の持つすさまじい力は、木の葉を煽《あお》る風のようにガリオンの体を揺るがした。
最初は何事も起きていないように思われた。サルミスラは相変わらずガウンの下で青白い裸体を輝かせなら、微動だにしないで立ちつくしていた。と、奇妙な斑模様が見る見るうちにくっきりと浮き出てきて、太腿がぴったりと合わさりはじめた。変化は顔のほうにも現われていた。まず輪郭が鋭く尖りはじめた。口が横に大きく広がるにつれて唇は消滅した。口角はなおも上のほうに切れ上がり、そして、ついには歯を剥いた蛇の口に変わってしまったではないか。
ガリオンは女王から目をそらすことができずに、怖気にふるいながらその様子を見守っていた。肩が消滅して、両腕がわきにぴったり接着すると、ガウンがするりと抜け落ちた。全身がぐんぐん伸びて、今や一本足と化した両足がとぐろを巻きはじめた。つややかだった髪も消え、最後に残った人間らしい面影さえ薄れはじめていた。それでも、金の冠だけは彼女の頭にしっかりと残っていた。舌をチロチロと動かしながら、彼女は大きなとぐろの塊となって床に横たわった。頸部《けいぶ》が横に張り出してくると、蛇の女王はうつろなまなざしでポルおばさんを見た。彼女は女王が変身しているあいだにいつの間にかもとの大きさに戻っていた。
「王座に乗りなさいよ、サルミスラ」ポルおばさんは言った。
頭部はいぜんとして不動の姿勢を保っていたが、とぐろだけが弧を描いてくねくねと動き、クッションでおおわれたソファにのぼった。とぐろ同士がこすれ合うと、ガリガリという乾いた音が響いた。
ポルおばさんは宦官のサディを振り返った。「ごらん、イサのはした女《め》、蛇人間の女王を。これは、この世の終わる日までおまえたちを支配する女王。彼女は今や永遠の命を手に入れ、それゆえ、とこしえにニーサに君臨できるのよ」
サディの顔は死人のように青ざめ、目は大きくふくれあがっていた。かれはごくりと唾をのみ、それからうなずいた。
「じゃあ、女王を頼んだわよ」彼女はサディに言った。「友好的な別れをと思ったけど、背に腹は変えられないものね。この子はもらっていくわよ」
「その前に伝令を出しましょう」サディはすぐに彼女の意志を汲み取った。「あなたがたが行く手を妨げられることのないように」
「賢明な判断だな」バラクがぶっきらぼうに言った。
「万歳、ニーサの蛇女王」深紅のローブを着た宦官のひとりが台座の前でひざまずきながら震える声で言った。
「女王さまを讃えよ」あとの者たちもひざをつきながら儀式にのっとって詠唱した。
「その清き御名を誇れ」
「女王さまを崇拝せよ」
ガリオンはポルおばさんのあとから粉々に破けた入口に向かうときに、一度だけうしろを振り返った。サルミスラは持て余すようにまだら模様のとぐろをぐるぐると巻きながら頭巾《ずきん》の張り出した頭部を鏡のほうに向けていた。金の冠を戴き、うつろな蛇の目で鏡に映った自分の姿をじっと見ているようだった。だが、その顔には表情らしきものが何ひとつなかったから、彼女が何を思っているかなどは知るよしもなかった。
[#改ページ]
30[#「30」は縦中横]
ポルおばさんを先頭に、宦官たちがひれ伏しながら蛇の女王を褒めたたえている謁見の間を後にしてみると、廊下や丸天井の広間には人影がまったくなかった。剣を携えたバラクはいかめしい顔つきで、すさまじい大虐殺の跡を大股に歩いていた。さきほど進入してきたさいにかれが残してきた道しるべだ。大男の顔は心なしか青白く、ときおりとくにひどいバラバラ死体が道をふさぐように折り重なっているのを見ると、急いで目をそらした。
外に出てみるとスシス・トールの通りは夜の闇より深い闇におおわれ、恐怖にすすり泣く興奮状態の群衆でこったがえしていた。バラクは片手に宮殿の壁から持ってきた松明を、もう片方の手に巨大な剣を携えて、みんなを通りに導いた。ニーサ人たちはすっかり取り乱していたが、それでもバラクの顔を見るとさっと道を開けた。
「これはいったいなんなんです、ポルガラ?」かれは闇を追い払うように松明をわずかに揺らして、肩ごしにうなった。「これも魔術のうちですか?」
「いいえ、これは魔術じゃないわ」
松明のあかりの中で灰色の斑点がゆっくりと落下していた。
「雪か?」バラクは信じられないといった口ぶりで訊ねた。
「ちがうわ、灰よ」
「何が燃えているんです?」
「山よ、さあ、急いで船に戻りましょう。灰よりもこの群衆のほうがよっぽど危険だわ」彼女は薄い自分のマントをガリオンの肩の上にさっと掛けて、一本の通りを指さした。ところどころで松明が上下に揺れている。「あっちがいいわ」
灰がさらに激しく降ってきた。まるで湿った大気の間に舞い落ちてくる薄汚れた灰色の小麦粉を見ているようだ。それに加えて、おそろしく不快な硫黄の臭い。
かれらが波止場に着くころには、塗りつぶされたように黒い闇はいくらか薄れはじめていた。だが、灰はとどまることを知らずになおも降りつづけて、玉砂利の隙間に入り込んだり、建物の縁に沿って小さなうねを作りだしている。あたりは明るくなりかけているのに、舞い落ちる灰が霧のようにすべてをおおい隠してしまうおかげで、十フィート以上先はまったく視界がきかなかった。
波止場は蜂の巣をつついたような混乱に包まれていた。金切り声をあげ、むせび泣くニーサ人の群衆は、大気の中を音もたてずに舞い落ちてくるむせかえるような灰の雨から逃れようと、死に物狂いでボートに乗り込もうとしている。あまりの恐怖にわれを忘れ、死の川面に身を投じる者もけっして少なくなかった。
「ポルガラ、この群れの中を抜けるのはむりですね」バラクが言った。「ちょっとここで待っていてください」かれは剣を鞘におさめると、ジャンプして低い屋根の縁につかまった。それから体をぐいっと持ち上げて、かれらの頭上にぼんやりと立ちはだかった。「おーい、グレルディク!」群衆のわめき声にも負けない、おそろしく大きな声で言った。
「バラク!」グレルディクの声が返ってきた。「どこにいる?」
「桟橋のはずれだ」バラクが叫んだ。「人込みがすごくて通り抜けられないんだよ」
「そこで待ってろ。すぐに迎えにいってやる」
ややあって、波止場を歩く重々しい足音が聞こえてきた。ときおり何かを殴るような音が響く。興奮した群衆の叫喚に混じって、二、三度痛々しい悲鳴があがった。と、そのとき、グレルディクとマンドラレン、それに棍棒で武装した筋骨たくましい六人の水夫が、強引に道を開きつつ灰の雨の中から大股に歩み出てきた。
「道に迷ったのか?」グレルディクが下からバラクに叫んだ。
バラクは屋根から飛び下りると、「宮殿に用事があったのさ」
「あなたの身の安全が心配になりはじめていたところです」マンドラレンはわけのわからないことを口走っているニーサ人を押し退けながら、ポルおばさんに言った。「善人ダーニクはとっくに戻ってますよ」
「遅れてわるかったわ。船長、船に乗せていただけるのかしら?」
グレルディクは邪悪な笑みを浮かべた。
「じゃあ行きましょうか」彼女は急き立てるように言った。「船に乗ったら、川に少し出てから停泊したほうがいいようね。灰はそのうちにやむでしょうけど、群衆の興奮はそれまでおさまりそうにないもの。ところで、シルクか父から何か伝言は?」
「ありません、奥方」グレルディクが答えた。
「まったく何をしてるのかしら?」彼女は苛立たしげな様子で誰に言うともなく言った。
マンドラレンはだんびらを抜くと、スピードをゆるめたり進路を変えることなく、群衆の正面に向かってぐんぐん歩き出した。かれの行く手にいたニーサ人たちは、雲霧のごとく消え失せた。
グレルディクの船に隣接した波止場のはずれにはさらに大勢のニーサ人が詰め寄せており、ダーニクとヘターと残りの水夫が長いかぎ竿を持って手すりに並び、恐怖にうたれた群衆を追いはらっていた。
「踏み板を渡せ」波止場のはずれに着くなり、グレルディクが叫んだ。
「船長どの」禿げ頭のニーサ人が、グレルディクの毛皮のチョッキにしがみついておいおい泣きだした。「もし船に乗せてくれるなら、金貨を百枚進呈しますから」
グレルディクは煩わしそうに男を押し退けた。
「金貨を千枚」ニーサ人はグレルディクの袖にとりすがり、財布を振って見せた。
「このヒヒ男をおれの目の届かないところに連れていけ」グレルディクは命令した。
水夫のひとりが、ごく無造作に棍棒を振り降ろしてそのニーサ人を失神させたあと、屈んで男の握っていた財布をもぎとった。そして財布を開き、中身を片手に注いでみた。「銀貨が三枚」水夫はうんざりした声で言った。「残りはぜんぶ銅貨だ」かれは振り返り、失神している男の腹を蹴りつけた。
バラクとマンドラレンが荒々しく剣を振りまわして群衆を押し戻しているあいだに、かれらはひとりずつ船に乗り込んだ。
「よし、太綱を切れ」全員が船に乗り移ったのを見てグレルディクが叫んだ。
水夫たちが太い綱を切りほどくと、波止場の縁に群がっていたニーサ人たちの口から絶望的な悲鳴が漏れた。船がゆるやかな川の流れにのって徐々に遠ざかっていくあいだも、むせび泣きの声や落胆のうめき声が追いすがるように聞こえてきた。
「ガリオン」ポルおばさんがふいに言った。「下に行って、もっと慎みのある服を着てきたら? それと、その悪趣味な頬紅も洗い落としてらっしゃい。それがすんだら、ここに戻ってきて。話したいことがあるから」
ガリオンは自分が申し訳ていどの布しか身に着けていないことをすっかり忘れていた。かれはかすかに顔を赤らめると、そそくさとデッキの下に入っていった。
やがてチュニックとズボンに着替えてデッキに戻ってくるころには、あたりは目に見えて明るくなっていた。だが、いぜんとしてネズミ色の火山灰が静止した大気のあいだを舞い落ちていたため、あたりの景色はすっかり霞み、すべてが塵の層におおわれていた。かれらはこのころにはすでに川の中ほどまで漂流し、グレルディクの水夫たちはそこに錨を下ろしていた。船は、のろい流れの中でのんびりと揺れていた。
「こっちよ、ガリオン」ポルおばさんが呼んだ。彼女はへさきのあたりに立って、灰色がかった煙霧を眺めているところだった。ガリオンはすこしためらいながら彼女に歩み寄った。宮殿で起こった出来事が、まだ心の中に強く残っていたのだ。
「お座りなさい、ガリオン。ぜひとも話しておかなければならないことがあるのよ」
「はい、奥方」かれはそう言って、その場のベンチに腰かけた。
「ガリオン」彼女は向き直ってかれを見た。「サルミスラの宮殿にいるあいだに何かあったんじゃない?」
「え、どういう意味?」
「わかってるはずよ」彼女はやけにてきぱきと言った。「まさかわたしにその種の質問をさせて、お互いに気まずい思いをしたいわけじゃないでしょ?」
「なんだ」ガリオンは頬を赤らめた。「そのことか! ううん、そういうことはなかったよ」かれはしどけないほどに妖艶な女王の姿を思い出して、一抹の後悔を覚えた。
「よかった。それが心配だったのよ。今はまだそういうことに熱中する時期ではないわ。そういう類のことは、あんたのように特殊な状況におかれた人間に独特の影響を及ぼすものなのよ」
「よくわからないけど」
「あんたには特別な能力がそなわっているのよ」彼女は言った。「それがすっかり熟しきらないうちに他のことに気をとられはじめると、時には予想もつかないような結果を生むこともあるのよ。今のところは、ことを複雑にしないほうがいいわ」
「それなら、何かが起こってくれたほうがよかったな」ガリオンはだしぬけに言った。「そうすれば、二度とひとを傷つけることもなかったのに」
「それはどうかしら。あんたの力は測り知れないほど大きいから、ちょっとやそっとじゃ効力を失いはしないわよ。トルネドラを離れるときに話したことを覚えてる――訓練についての話を?」
「訓練なんて必要ないよ」かれの口調はだんだん不機嫌になってきた。
「いいえ、必要よ」彼女は言った。「それも今すぐ。あんたの力は桁はずれよ――まだまだ隠れた力があるわ。そのうちのいくつかは複雑すぎて、このわたしですらまだ理解できないほどよ。だから何かひどいことが起こるまえに、訓練をはじめなければいけないの。あんたには自制心というものがまったくないわ、ガリオン。ひとを傷つけたくないと本気で思うなら、不慮の事故を起こさないためにはどうしたらいいかということぐらいひとに言われなくとも自分から学びはじめているはずよ」
「魔術師になんかなりたくない」かれはなおも言いつのった。「それだけは絶対に嫌なんだ。そうならないための手助けはできないの?」
彼女は首を横に振った。「だめよ。仮にできたとしても、そんな手伝いをするつもりはないわ。放棄することはできないのよ、ガリオン。それはあんたの一部なのよ」
「じゃあぼくはこのまま怪物になってしまうの?」ガリオンは苦々しげに訊ねた。「行く先々でひとを焼き殺したり、ヒキガエルや蛇に変えてしまうわけ? それもそのうちに慣れっこになって、いつしか気に病むこともなくなるんだ。そして永遠に生き永られる――おばさんやおじいさんのように――でも、そのときはもう人間じゃないんだ。ポルおばさん、ぼくは死んでしまいたいよ」
(なんとか説得できないのかしら?)かれの頭の中でポルおばさんの声がもうひとつの知覚に直接話しかけた。
(今は無理だな、ポルガラ)乾いた声が答えた。(かれは自分の不幸にどっぷり浸かっていて、それどころじゃないんだから)
(でも自分の力をコントロールすることを学ばせないと)
(悪さをしないように見張っておこう)乾いた声はそう言って彼女を安心させた。(ベルガラスが戻ってくるまでは、とりあえず打つ手はないようだな。かれは倫理的な葛藤と戦っているんだ。かれが自分なりの結論を出すまでは、口出しすることはできない)
(こんなふうに苦しんでいるのを見るのはつらいわ)
(おまえは優しすぎるんだ、ポルガラ。かれは強い少年だから、ちょっとぐらい苦しい目にあってもへこたれたりしない)
「ぼくがここにいないみたいな話し方するの、やめてくれよ」ガリオンは腹を立てて言った。
「マダム・ポル」ちょうどそのとき、ダーニクがデッキのむこうからやってきた。「すぐに来てください。バラクが自殺しようとしてるんです」
「なんですって?」彼女は聞き返した。
「呪いがどうのこうのと言ってます」ダーニクは説明した。「自決するつもりですよ」
「救いようがないわね! それでかれはどこにいるの?」
「船尾のそばです。剣を抜いて、誰も近寄らせようとしないんです」
「いっしょに来て」彼女はガリオンとダーニクを従えて船尾にむかった。
「戦いの狂気をくぐりぬけてきたのは、おぬしだけではないのだぞ、バラク卿」マンドラレンが、チェレクの猛者を説得しようと必死になっていた。「べつに誇れたことではないが、それほど絶望しなくてはならないような問題でもないぞ」
バラクはそれには答えず、恐怖のいりまじった虚ろなまなざしで船の最後尾に陣取ったまま、大きな剣であぶなっかしく弧をえがいてみんなを威嚇しつづけた。
ポルおばさんは、水夫のひとだかりを抜けてまっすぐバラクの前に歩みでた。
「止めようなんて思うなよ、ポルガラ」かれは警告するように言った。
彼女はおだやかなしぐさで腕を伸ばしたかと思うと、人指し指でかれの剣先に触れた。
「すこし鈍くなってるわね」彼女は考えこむように言った。「ダーニクに研いでもらったほうがいいんじゃない? そのほうが肋骨のあいだを切り裂くときに、刃がなめらかに滑るわよ」
バラクはちょっと面食らったようだった。
「ところで必要な準備はすべてととのえてあるのかしら?」彼女はさらに訊ねた。
「準備って、なんの?」
「死体を処理する準備にきまってるでしょ」彼女は言った。「バラク、あなたはもっと礼儀のあるひとかと思ってたのに。礼儀のある人間なら、仲間にそんな嫌な雑用を押しつけたりしないわよ」一瞬考えこんでから、「たしかに火葬は一般的だけど、ニーサの木はすごく湿っぽいから。あなたはきっと一週間かそれ以上くすぶりつづけると思うわよ。たぶん最終的には川に投げ込むことになるでしょうね。ヒルとザリガニが、一日かそこらのうちに肉を剥ぎとって白骨にしてくれるわ」
バラクの表情は苦痛にゆがみはじめた。
「ところで、剣と楯は息子さんに返しておきましょうか?」彼女は訊ねた。
「おれには息子はいない」かれはむっつりと答えた。だが、事務的で容赦ない彼女の口調に気圧されているのは傍目にも明らかだった。
「あら、言わなかったかしら? わたしってほんとうに忘れっぽいわね」
「なんの話だ?」
「気にしないで。今はそんな話をしている場合じゃないわ。それより、単純にお腹を裂くつもり? それとも柄を握ってマストに衝突するの? どっちにしても失敗はないと思うけど」彼女は水夫たちのほうを振り返ると、「トレルハイム伯爵が思い切りマストに突進できるように道を開けてくれないかしら?」
水夫は彼女の顔をぽかんと見つめた。
「息子っていうのはどういう意味なんだ?」バラクは剣を下げながら訊いた。
「そんなことを聞いたら、今ごろはきっと決心がぐらついていたわよ、バラク。あなたのことだから、自分の体を滅茶苦茶に切り刻んでたでしょうよ。正直言って、うめきながら寝転がっているあなたを何週間も見つづけるなんて、わたしたちも嫌だわ。わかると思うけど、そういうことって気が滅入るものなのよ」
「おれはなんの話をしていたのか知りたいって言ってるんだ!」
「そう、わかったわ」彼女は大きく溜息をつくと、「あなたの妻のメレルは子供を身籠もっているわ――あのときヴァル・アローンであなたが交わした儀礼的行為の結果だと思うけど。メレルは今ごろはもう風船のようなお腹をしているはずよ。あなたの元気なベビーに四六時ちゅうお腹を蹴飛ばされて悲鳴をあげてるでしょうよ」
「息子なのか?」バラクの目はにわかに大きく見開かれた。
「そう言ったでしょ、バラク」彼女は語気つよく言った。「もっと注意ぶかくならないと。そんなふうにいつもうっかりとひとの言葉を聞きのがしてたんじゃ、いつまでたっても出世できないわよ」
「息子なのか?」繰り返し訊ねると同時に手元から剣がすべり落ちた。
「ほら、落ちたわよ」彼女はたしなめた。「さあ、はやく拾って先をつづけてちょうだい。こんなふうに丸一日かけて自害するなんて、あなたもずいぶん思いやりのないひとね」
「自害はしない」かれは憤然として言った。
「しないですって?」
「あたりまえだ」唾を飛ばしてそう言った瞬間、かれは彼女の口の端にちらっと笑みが浮かぶのを見た。かれは恥ずかしそうに頭を垂れた。
「大馬鹿よ」彼女はそう言うと、両手でかれの頬ひげをつかんで頭を引っぱり、灰まみれの顔に音高くキスした。
グレルディクは声をあげて笑い出し、マンドラレンは前に進みでて荒々しくバラクを抱き締めた。「わたしもおぬしと同じぐらいうれしいぞ、バラク。天にものぼりそうな気分だ」
「酒樽を持ってこい」グレルディクは友人の背中をポンポン叩きながら水夫に命令した。「永遠なるチェレクのセピア色のエールでトレルハイム伯爵の跡取り息子を歓迎しようじゃないか」
「これは騒々しくなりそうね」ポルおばさんはガリオンにそっと耳打ちした。「あっちに行きましょう」彼女はそう言って船首のほうに戻っていった。
「彼女はもとに戻るの?」ふたたびふたりきりになると、ガリオンは聞いた。
「え?」
「女王だよ」ガリオンは説明した。「彼女はもとの姿に戻れるの?」
「そのうちにそんな希望さえ持たなくなるでしょうよ」ポルおばさんは答えた。「外観というのはしばらくすると思考まで支配するようになるのよ。年月がたつうちに、彼女はますます蛇に近くなって、人間の女からはどんどん遠ざかっていくわ」
ガリオンは怖気をふるった。「それなら殺してやったほうがまだ親切だったよ」
「イサの神にそうしないと約束したんだもの」彼女は弁解した。
「あれはほんとうに神様だったの?」
「神の魂よ」彼女はもやのような灰を眺めた。「サルミスラがあの石像にイサの魂を吹き込んだの。すくなくともしばらくのあいだ、あの石像は神だったのよ。この話はすごく込み入ってるの」彼女は思いにふけっているような顔をしていたかと思うと、とつぜん苛立たしそうな様子になって、「かれはどこにいるのかしら?」
「かれって?」
「おとうさんよ。もうとっくに到着していてもいいはずなのに」
ふたりはどろどろした川面をながめながらその場に立っていた。
やがて彼女は手すりに背中を向け、不機嫌な顔でマントの肩を払った。指の下で灰が小さなほこりのかたまりとなってパッと吹きとんだ。「下に行くわ」彼女は顔をしかめてかれに告げた。「ここはほこりがひどくって」
「ぼくに話があったんじゃなかったの」
「あんたはまだひとの話を聞けるような状態じゃないわ。またの機会にしましょう」彼女はそう言って歩きはじめたが、とつぜん立ち止まると、「そうだわ、ガリオン」
「なに?」
「わたしは水夫たちががぶ飲みしているあのエールを飲むつもりなんてまったくないけれど。あんたの場合は宮殿でいろいろ飲まされたあとだから、きっと気分が悪くなるわよ」
「そう」かれはすこし残念そうな顔をしながら、彼女の意見にうなずいた。「わかったよ」
「もちろんどっちにしようとあんたの勝手だけど、知っておいたほうがいいと思って」彼女はそれだけ言うとふたたびきびすを返してハッチに向かい、階段の下に姿を消した。
ガリオンの心はざわざわと騒いでいた。おそろしく波乱にとんだ一日のあとで、いろいろなイメージが次から次へと心の中をかけめぐっていたのだ。
(しっ、静かに)心の中の声が言った。
「どうしたの?」
(何かが聞こえてくるような気がする。耳を澄ましてみろ)
「何が聞こえるって?」
(ほら。聞こえないか?)
ついに、はるか彼方からドシンドシンというおぼろげな音が聞こえはじめたような気がした。
「これは何?」
声は答えなかったが、そのかわりに首にかかったお守りが、そのドシンドシンという音に調子を合わせて動悸を打ちはじめた。
そのとき、後方から突進してくる小さな足音が聞こえた。
「ガリオン!」振り向いたとたん、かれはセ・ネドラに抱き締められた。「心配してたのよ。いったいどこに行ってたの?」
「船に乗り込んできた男たちに捕まったんだ」かれは彼女の手をふりほどこうと努力しながら言った。「それで宮殿に連れていかれたんだよ」
「まあ、怖い! それであなた、女王に会ったの?」
うなずいた瞬間、頭巾をつけた蛇が台座に横たわって鏡に映った自分の姿を見つめている光景を思い出して、ガリオンは思わず身震いした。
「どうかしたの?」少女は訊ねた。
「すごくたくさんのことが起きたもんでね。なかにはあまり楽しくないこともあったんだよ」どこか意識の奥で、あのドシンドシンという音がつづいていた。
「拷問されたっていうこと?」セ・ネドラは目を真ん丸にして訊ねた。
「いや、そういうことじゃないよ」
「じゃあ何があったの? 話してよ」
話すまで解放してもらえないことはわかっていた。そこで、かれは最善をつくして宮殿での出来事を話して聞かせた。かれが話しているあいだにも、ドシンドシンという音はどんどん大きくなり、右手の掌がうずきはじめていた。かれは知らないうちに掌をこすっていた。
「なんて恐ろしい話かしら」かれの話が終わるとセ・ネドラは言った。「あなた、怖くなかったの?」
「そうでもないよ」かれは掌を掻きながら答えた。「かれらに飲まされたもののせいでほとんど頭がボーッとしていたから、何も感じなかったんだ」
「ほんとうにマースを殺したの? こんなふうに?」彼女は指をパチンと鳴らした。
「いや、そうじゃないよ。実際はそれほど単純じゃなかったんだ」
「わたし、あなたが魔術師だってわかってたのよ」彼女は言った。「ほら、淵で水浴びした日にそう言ったでしょ、おぼえてる?」
「魔術師になんかなりたくないよ」かれは反論した。「ぼくが望んだことじゃないのに」
「わたしだって、王女になりたいなんて望まなかったわ」
「それとこれとは話が別だよ。王や王女でいるっていうのは身分の問題だろ。魔術師でいるっていうことは、何をやるかっていうことなんだよ」
「たいして差はないと思うけど」彼女は頑固に主張した。
「ぼくは何かを起こすことができるんだよ。それも、たいていは恐ろしいことなんだ」
「あら、それはどうかしら?」彼女は腹を立てて言った。「わたしだって恐ろしいことを起こすことはできるわよ――すくなくともトル・ホネスにいたときは、できたわ。わたしがひとこと言うだけで、召使いを鞭打ち刑の柱に送ることもできたし――断頭台に送りこむこともできた。もちろんそんなことはしなかったけど、やろうと思えばできたのよ。力は力よ、ガリオン。結果はおなじ。ひとを傷つけたくないなら、それを避けることはできるわ」
「ときにはただ起こってしまうこともあるんだよ。ぼくの意志とは関係なしに」ドシンドシンという震動はすでに不快な響きに変わっており、まるで鈍い頭痛に悩まされているようだった。
「それなら、コントロールすることを学ばないと」
「ポルおばさんみたいなことを言うんだね」
「おばさんはあなたを助けようとしてるのよ」王女は言った。「おばさんはあなたが結局しなければいけないことをさせようとしているだけなのよ。彼女の忠告を聞く前に、あなたはいったい何人のひとを焼き殺せば気がすむの?」
「そこまで言わなくてもいいだろ」彼女の言葉にガリオンは胸をグサリと刺されたような気がした。
「いいえ、言わなくちゃいけないのよ。わたしがあなたのおばさんでなかったことに感謝するのね。わたしだったら、レディ・ポルガラみたいにあなたの愚行に我慢したりしないもの」
「きみはなんにもわかっちゃいないんだよ」ガリオンはむっつりと言った。
「あなたが思ってるよりずっとわかってるつもりよ、ガリオン。あなた、自分の抱えている問題がどんなことかわかってる? あなたは大人になりたくないのよ。永遠に子供のままでいたいのよ。でも、それは不可能だわ。そんなことは誰にもできないわ。どんなにすごい力を持っていようと――皇帝だろうと魔術師だろうと――時の流れを止めることはできないのよ。わたしはもうかなり前にそれに気づいたわ。だからあなたよりはずっと利口だと思うわよ」
そう言ったかと思うと、彼女はなんの前触れもなく背伸びしてかれの唇にそっとキスした。
ガリオンはポッと頬を赤らめ、どうしていいかわからずにうつむいた。
「ねえ、教えて」セ・ネドラはかれのチュニックの袖をもてあそびながら言った。「サルミスラ女王はみんなが言ってるほどきれいなひとだった?」
「あんなにきれいな女のひとは、いままで見たことがないよ」ガリオンは深く考えもせずに答えた。
王女はハッと息を詰まらせた。「嫌いよ」彼女は食いしばった歯のすきまから叫んだ。それからくるりと向きをかえると、すすり泣きの声を漏らしながらポルおばさんを探して走り去っていった。
ガリオンは途方に暮れて彼女のうしろ姿を見送った。やがてかれはきびすを返し、川面と大気に漂う灰を物憂げにながめた。掌のうずきが耐えられないほどになってくると、かれは爪を立てて掻きむしった。
(そんなことをするとますますヒリヒリしてくるぞ)心の中の声が言った。
「チクチクするんだ。我慢できないよ」
(幼稚なことを言うな)
「何が原因でこんなにチクチクするの?」
(ほんとうにわからないのか? 思ってたより先は長いようだな。右手をお守りに当ててみろ)
「なぜ?」
(いいから当ててみろ、ガリオン)
ガリオンはチュニックの中に手を入れて、焼けるようにうずく掌をメダルにあてがってみた。あつらえて作った鍵が鍵穴に収まるように、かれの手と動悸を刻むお守りはおそろしくぴったりと組み合わさった。うずきはもう馴染みとなったあのうねりに変わり、震動は耳の中でぼんやりとこだましはじめた。
(ほどほどにしろよ)声は警告した。(まさか川を干上がらせるつもりじゃないだろう)
「何が起こってるの? これはいったい何?」
(ベルガラスがわれわれの居所を突き止めようとしてるんだ)
「おじいさんが? どこで?」
(まあ、そうあわてるな)
動悸の音はさらに大きくなり、ついにはそのドキンドキンという音に合わせて体が震動するほどになった。かれはもやの中を見ようとして、手すりの向こうに目を凝らした。落ちてくる灰はひじょうに軽く、どろどろした川の表面をすっかりおおいつくしていた。そのため目と鼻の先にあるものさえぼんやりと霞み、形をつかむことができなかった。街を眺めることさえままならず、見えない通りから響くすすり泣きの声や叫び声さえもやにおおい隠されてしまっているように思われた。唯一、船体に打ち寄せるゆるやかな川の流れだけが、はっきりと見てとれた。
そのとき、はるか向こうの川面で何かが動いた。それほど大きいものではなく、音もたてずに川の流れにつきまとっている黒っぽい影に見えないこともなかった。
例の動悸がさらに強くなってきた。
影が近づくにつれて、ガリオンの目はしだいに小さなボートの輪郭を認めるようになった。一本のオールが小さなしぶきをあげて川面の水をつかんだ。そして、オールを握っている男が肩ごしに振り返った。シルクだ。かれの顔はグレーの灰におおわれ、小さな汗の筋が頬を伝っていた。
ミスター・ウルフは小さなボートのへさきに座っていた。マントに身を包み、頭巾は折返してある。
(おかえり、ベルガラス)乾いた声が言った。
(誰だ?)ガリオンの頭の中で、ウルフの驚いたような声が響いた。(ベルガリオン、おまえなのか?)
(まったくの正解ではないな)乾いた声は答えた。(とりあえず今はまだちがう。徐々に近づいてはいるが)
(いったい誰がこんな騒音を立ててるのかと思っていたら)
(たしかにかれはときどきやり過ぎることがあるな。まあ、そのうちに覚えると思うが)
船首でバラクのまわりに群がっていた水夫たちのひとりが叫び声をあげた。いっせいに振り向いたみんなの目に、ゆらゆらと近づいてくる小さなボートが飛び込んできた。
ポルおばさんは船室から上がってきて、手すりに近づくなり、「遅かったじゃないの」と言った。
「ちょっと事件があってな」老人は狭まりつつある隔たりの向こうから答えた。かれは頭巾をうしろに押しやり、マントから小麦粉のような灰を振り落とした。その瞬間、ガリオンは老人の左腕が薄汚い三角巾で体の前に吊るされているのを見てとった。
「腕をどうかしたの?」ポルおばさんが訊ねた。
「そのことについては何も言いたくない」ウルフの顔には頬の片側から喉にかけて無残なかすり傷があり、両眼は激昂にギラギラと光っているように見えた。
シルクは灰の積もった顔に意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべながら、二本のオールでいっぺんに水をかき、かすかにコツンと音をさせただけでボートをグレルディクの船のわきにつけた。
「おまえに口をつぐんでいてくれと頼んでも、しょせん無理な話だろうな」ウルフはかれに向かって苛立たしそうに言った。
「わたしが何か言おうとしましたか、偉大なる魔術師どの?」シルクはイタチのような瞳を大きく見ひらいて無邪気を装いながら、茶化すように言った。
「つべこべ言わずに船に上がるのを手伝え」ウルフは気短かに命令した。その挙動を見ていると、かれが致命的な屈辱を味わったことが想像できた。
「仰せのとおりに、永遠なるベルガラスさま」シルクは言ったが、笑いをこらえているのは明らかだった。かれは老人がぶざまなかっこうで船の手すりをまたぐあいだ、うしろからその体をしっかり支えていた。
「すぐにここを離れるぞ」ミスター・ウルフは、皆の輪の中に入ったばかりのグレルディク船長に向かってぶっきらぼうに言った。
「と言いますと、どちらの方角でしょうか、永遠なるベルガラスさま?」グレルディクは老人をこれ以上怒らせたくなかったので、誤解のないように言葉を選んで質問した。
ウルフはかれの顔をきっと見据えた。
「上流ですか、下流ですか?」グレルディクはなだめるような口調で説明した。
「上流にきまってるだろ」ウルフはぴしゃりとはねつけた。
「どうしてわたしにそんなことがわかるんですか、ねえ?」グレルディクはポルおばさんに訴えた。それからきびすを返すと、水夫に向かって不服そうに命令を吠えたてた。
ポルおばさんは安堵と好奇心がまざりあった奇妙な表情を浮かべていた。「さぞかし面白い話が聞けるんでしょうね、おとうさん」水夫たちが重い錨を引き上げはじめるのと同時に、ポルおばさんは口を開いた。「どんな話か、早く知りたいわ」
「皮肉はごめんだぞ、ポル」ウルフは言った。「それでなくともひどい一日だったんだ。これ以上いやな思いをさせないでくれ」
この最後の言葉がいけなかった。ちょうど手すりをまたぎ越していたシルクはついにこらえきれなくなってどっと笑い出した。かれは腹を抱えながらデッキを転げまわった。
ミスター・ウルフは大いに傷つけられた様子で笑い転げるシルクをながめた。そうこうしているうちにグレルディクの水夫たちはオールを水面に突き出し、鈍い流れの中で船体の向きを変えはじめた。
「その腕はいったいどうしたの、おとうさん?」ポルおばさんの視線は射抜くように鋭く、その口調がこれ以上待つつもりはないわよ≠ニ言っていた。
「折ったんだ」ウルフは素っ気なく答えた。
「どうしてそんなことに?」
「ちょっとした事故だ、ポル。よくあることさ」
「さあ、それはどうかしら」
「今すぐ笑うのをやめてくれないか?」ウルフは笑いつづけているシルクをにらみつけた。
「水夫のところに行って、これからどこに向かうか知らせてこい」
「どこに向かうの、おとうさん? ゼダーの足跡は見つかったの?」
「やつはクトル・マーゴスに入った。ところが、クトゥーチクがそれを待ち伏せていたんだ」
「それで、〈珠〉は?」
「今はクトゥーチクの掌中にある」
「かれがラク・クトルにそれを持ち込むのを阻止することができるのかしら?」
「わしにもわからん。とにかく、〈谷〉に行くのが先決問題だ」
「〈谷〉ですって? 何を言ってるのかさっぱりわからないわ」
「われらの師がお呼びになっているのだ、ポル。師が〈谷〉に来いとおっしゃっているのなら、行かないわけにはいくまい」
「〈珠〉はどうするの?」
「〈珠〉を持っているのはクトゥーチクだ。やつの居所ならわかっている。やつはどこにも行きはしない。今はとにかく〈谷〉に向かうのだ」
「わかったわよ、おとうさん」彼女はなだめるように同意した。「そう興奮しないで」それからかれの顔をまじまじと見つめ、大胆にもこう訊ねた。「喧嘩でもしたの、おとうさん?」
「いや、喧嘩なぞしてない」かれはうんざりした声で言った。
「じゃあ、何があったの?」
「上から木が倒れてきたんだ」
「なんですって?」
「だから、今言っただろ」
老人が不承不承に告白するのを聞いて、シルクはふたたび笑い転げた。グレルディクとバラクが舵をとっているへさきの方からゆっくりとしたドラムのリズムが響きはじめると、水夫たちはそれぞれのオールを川に突き出した。船は、流れに逆らうように、油っぽい水の中を川上に向かって動きはじめた。灰にけむった大気の中で、シルクの笑い声だけが尾を引くようにいつまでもこだましていた。
底本:「ベルガリアード物語2 蛇神の女王」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1988(昭和63)年 3月31日 発行
1995(平成7) 年 8月15日 五刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年08月09日作成
2009年01月31日校正
2009年02月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] ベルガリアード物語 2 蛇神の女王.zip iWbp3iMHRN 106,990,595 a5b89dd22dd1881ff74ab147a49ce189
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ19行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するしかないでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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注意点、気になった点など
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底本363頁6行 棍棒を捨てて剣を抜き出した。
これまでの場面でガリオンがバラクから貰った長剣をもっていたという描写はないし、最初は武器として木の枝を使ったこと、セ・ネドラの体に取り付いた腕を切るのに長剣では難しい(危ない)と思えること、テントに戻った後にガリオンがテントから剣を持ち出す描写があることなどから、ここで抜いたのはファルドー農園の時に貰った短剣の方ではないかと思われます。
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本10頁10行 ミンブレイド人
ド→ト
底本161頁18行 乗ってこないだろし
「だろし」…第一巻でもあったし、古い言い方なのかも。
底本173頁12行 トレネドラ人
レ→ル
底本197頁17行 わたしのちっぱけな宮廷は
ちっぱけ、という表現があるんでしょうか?
底本461頁4行 下品は笑い声をあげながら言った
擬人化?
底本502頁8行 怖気にふるいながらその様子を見守っていた
「怖気をふるいながら」あるいは「怖気にふるえながら」じゃないかな?