ベルガリアード物語1 予言の守護者
PAWN OF PROPHECY
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)トラクの前で生贄《いけにえ》を焼いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)わしの|〈師〉《マスター》も
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もう一つからつか[#「つか」に傍点]をこしらえ
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[#ここから4字下げ]
物語を話してくれながら、わたしの
物語を聞くのを待たずにいってしまっ
たティオーネと、大人になる道をわた
しに教え、いまなお教えてくれている
アーサーに
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
プロローグ
第一部 センダリア
第二部 チェレク
解説/泉本 和
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
予言の守護者
[#改ページ]
登場人物
ガリオン…………………………主人公の少年
ポル………………………………おば
ダーニク…………………………鍛冶屋
ミスター・ウルフ………………語り部
バラク……………………………チェレク人
メレル……………………………バラクの妻
シルク……………………………ドラスニア人
ファルドー………………………農園主
ブリル……………………………労働者
アシャラク………………………マーゴ人
フルラク…………………………センダリア王
ライラ……………………………フルラクの妃
アンヘグ…………………………チェレク王
イスレナ…………………………アンヘグの妃
ローダー…………………………ドラスニア王
ポレン……………………………ローダーの妃
チョ・ハグ………………………アルガリア王
シラー……………………………チョ・ハグの妃
ヘター……………………………チョ・ハグの養子
ブランド…………………………リヴァの番人
ジャーヴィク……………………チェレクの伯爵
[#改丁]
プロローグ
神々の争いの歴史と
魔術師ベルガラスの行動
[#地から2字上げ]――『アローンの書』の翻案
世界が新しかったころ、七人の神々は睦まじく暮らし、いくつもある民はひとつの民のように仲がよかった。最年少の神ベラーは、アローン人たちから愛された。かれはアローン人とともに暮らし、かれらをいつくしんだので、アローン人はベラーの庇護のもとで繁栄した。他の神々も民を身辺に集め、それぞれの民を大切にした。
しかしベラーの長兄アルダーは民を持たない神だった。人間や神々と離れて住んでいたアルダーの暮らしが変化したのは、さすらい歩くひとりの子供がかれを捜しあてた日のことだった。アルダーはその子を弟子として受け入れ、ベルガラスと呼んだ。ベルガラスは〈意志〉と〈言葉〉の秘密を学び、魔術師になった。それから数年、他にもその孤高の神を見つけ出す人間たちがあらわれた。かれらはアルダーのもとで仲良く修業に励み、時はかれらに手出しをしなかった。
さて、アルダーは子供の心臓よりも小さな丸い石をひとつ拾うと、それが命のある魂になるまで手の中でころがした。偉大な力を持つその生きた宝石を人間たちは〈アルダーの珠〉と呼び、アルダーはそれを使って数かずの驚異を生みだした。
すべての神の中でもっとも美しいのはトラクで、かれの民はアンガラク人だった。かれらはトラクの前で生贄《いけにえ》を焼いて神の中の神とトラクを呼び、かれは生贄の焼ける匂いとその崇拝の言葉に酔いしれた。だが、ある日トラクは〈アルダーの珠〉の噂を聞きおよび、とたんに平静でいられなくなった。
とうとうトラクは何くわぬ顔でアルダーのもとへ行き、こう言った。「兄上、われわれと交わらず相談事にも加わらぬのは適切ではありません。兄上の心を惑わせ、われわれから遠ざけているこの宝石を捨てておしまいなさい」
アルダーは弟の魂をのぞきこみ、かれを戒めた。「なぜおまえは支配力を求めるのだ、トラク? アンガラク人だけでは物足りないのか? 思いあがって〈珠〉をわがものにしようとするでないぞ、〈珠〉に命を奪われぬようにな」
アルダーの言葉にトラクが受けた恥辱は大きかった。かれは片手をあげて兄を打ち、宝石を奪って逃げた。
他の神々は〈珠〉を返すようにトラクをいさめたが、かれは聞き入れなかった。これを知った民が蜂起し、アンガラクの軍勢と衝突して戦った。神々の戦いと人間たちの戦いが陸地に荒れ狂い、ついにトラクはコリム高地の近くで〈珠〉を持ちあげ、大地をひきさこうと、〈珠〉の意志をむりやり自分の意志に結びあわせた。山々が崩壊し、海水がなだれこんだが、ベラーとアルダーは意志を合わせて、海に境界をつくった。しかし人間の民はばらばらになり、神もまたちりぢりになった。
次にトラクが生ける〈珠〉を母なる大地めがけて持ちあげたとき、〈珠〉は目ざめ、聖なる炎に輝きはじめた。青い炎がトラクの顔を焼き、かれは痛みに耐えかねて山々を投げ、激痛にかられて大地を裂き、のたうちまわって海を招きよせた。左手が燃えあがって灰になり、顔の左半分の肉が蝋のように溶け、左目が眼窩の中で煮え立った。トラクは絶叫とともに火傷《やけど》を癒そうと海に飛びこんだが、苦悶は消えなかった。
海から身を起こしたとぎ、かれの右半分は依然として美しかったが、左半分は〈珠〉の炎に焼かれてふた目と見られぬ有様となった。果てることのない苦しみを負ったトラクは民を率いて東へのがれ、アンガラク人はマロリーの平原に大都市を建造して、それを〈夜の都市〉クトル・ミシュラクと呼んだ。トラクが傷ついた半身を闇に隠したからである。アンガラク人は神のために鉄塔を建て、頂上の部屋に樽を置いて〈珠〉をその中へ入れた。トラクはしばしば樽の前に立っては、〈珠〉を見たい熱望に負けてわが身が完全に滅びるのを恐れ、泣きながら逃げるように立ち去った。
アンガラクの領地で数世紀が経過し、アンガラク人は傷ついたかれらの神を、王にして神という意味でカル=トラクと呼びならわすようになった。
ベラーはアローン人たちを北へ連れ去っていた。およそあらゆる人間のうちで、アローン人はもっとも勇敢で好戦的だった。ベラーはかれらの心にアンガラクへの果てしない憎悪を植えつけた。アローン人たちは残忍そうな剣や斧を手に、昔ながらの敵を見つける道を求めて北部一帯を捜しまわり、永遠の氷に閉ざされた氷原に足を伸ばした。
そのような状態に終止符が打たれたのは、アローン人のもっとも偉大な王、〈熊の背〉チェレクが〈アルダー谷〉へ旅に出て魔術師ベルガラスの居所をつきとめたときだった。「北へ行く道に障害物はありません」とチェレクは言った。「前兆や予示も吉と出ている。今こそ〈夜の都市〉へ至る道をつきとめて、〈片目〉から〈珠〉を取り返す時機です」
ベルガラスは身重の妻ポレドラを残していくのは気が進まなかった。だがチェレクは魔術師を説得し、ある晩こっそりベルガラスとともに谷を出て、三人の息子、〈猪首〉ドラス、〈駿足〉アルガー、〈鉄拳〉リヴァに合流した。
無慈悲な冬が北の国を支配し、星明かりの下で霜と氷に閉ざされた荒野がきらめいていた。道を捜すためベルガラスは魔法を使って大きな狼に姿を変えた。凍てつく寒さにひびわれ砕けた木々の立ちならぶ、雪に覆われた森の中を、かれは足音も立てずにすり抜けた。無情な霜が狼の首と肩を銀色に染め、それからというものベルガラスの髪とあごひげは銀色になった。
一行は雪と霧の中をマロリーめざして森を横切り、とうとう〈クトル・ミシュラク〉にたどりついた。ベルガラスは都へ至る秘密の道を見つけだし、一行を鋼塔のふもとへ導いた。二十世紀ものあいだ、だれにも踏まれていない錆びた階段をかれらは音もなくのぼった。鋼の仮面をつけて傷ついた顔を隠したトラクが、痛みのつきまとう浅い眠りに輾転反側している部屋にそっとはいり、憎悪のくすぶる闇の中で眠る神の前を忍び足で通りすぎた一行は、ようやく生きた〈珠〉を納めた鉄の樽のある部屋に着いた。
チェレクは身ぶりでベルガラスに〈珠〉を取るよううながしたが、ベルガラスは首を横にふって言った。「あれに手をふれることはできん。わが身が滅びるやもしれんからだ。かつて〈珠〉は喜んで人間や神がふれることを許したが、トラクがあれの母なる大地めがけて〈珠〉を持ちあげたときに、意志を硬化させてしまった。二度とあのように使われることはあるまい。あれはわれわれの魂を読みとるのだ。邪悪な意志を持たず、死ぬまであれを手元に置けるほど潔白で、権力欲や所有欲のない者だけが今も〈珠〉にふれることができる」
「魂の沈黙の中に邪悪な意志を持たぬ人間などいるだろうか?」とチェレクはたずねた。ところが、〈鉄拳〉リヴァが樽をあけ、〈珠〉を持ちあげた。炎が指のすきまから光ったが、リヴァは火傷ひとつしなかった。
「そういうことだ、チェレク」とベルガラスは言った。「あんたの末息子は潔白だ。これはかれの定めとなり、かれのあとを継いで〈珠〉を保管し、守るすべての者の定めとなるだろう」リヴァにその重荷を与えたことを思い、ベルガラスは溜息をついた。
「ではリヴァの二人の兄とわたしとで、この運命がかれの上にあるかぎりリヴァの支えとなろう」とチェレクは言った。
リヴァは〈珠〉をマントにくるんで上着の下に隠した。一行は再び傷ついた神の部屋をこっそり抜けて錆びた階段をくだり、都の城門まで秘密の道をたどってその向こうの荒野にまぎれた。
まもなくトラクは目をさまし、いつもどおり〈珠〉の部屋にはいった。ところが樽は蓋があけられ、〈珠〉が消えていた。カル・トラクの怒りはすさまじかった。巨大な剣をつかんで鉄塔をおり、ふり返って塔を一撃し、なぎ倒した。トラクは雷のような声でアンガラク人たちに叫んだ――「わが身を犠牲にして手に入れたものがおまえたちの不注意から泥棒に盗まれてしまった。罰として、おまえたちの都を破壊し、おまえたちを追放してくれる。あの燃える石〈クトラグ・ヤスカ〉がこの手に戻るまで、アンガラク人は地上をさまようのだ」そう言うと、トラクは〈夜の都市〉を瓦礫に返し、アンガラクの人々を荒野へ追いやった。〈クトル・ミシュラク〉はもはや跡形もなかった。
三リーグ北でベルガラスは都から風に運ばれてくる泣き声を聞きつけ、トラクが目ざめたのを知った。「これでやつはわれわれを追ってくるぞ。われわれを救えるのは〈珠〉の力だけだ。軍勢が襲撃してきたら、〈珠〉を掴んで敵に見えるように高々と持ちあげてくれ、〈鉄拳〉」
アンガラクの軍勢はトラク自身を先頭に立てて攻めてきたが、リヴァは傷ついた神とその軍勢の目に見えるように〈珠〉を前へ突きだした。〈珠〉は敵を知っていた。憎悪の炎が新たに燃えあがって、空が憤怒に赤く染まった。トラクは叫んで顔をそむけた。アンガラクの軍勢の最前列が炎に焼きつくされ、残りは恐怖のあまり逃げだした。
こうしてベルガラスとその仲間はマロリーから脱出して、再び北の国境を通り抜け、〈アルダーの珠〉を今一度西の王国へ運びこんだ。
さて、事の経過を一部始終見ていた神々は会議を開き、アルダーが一同に忠告した。「もしもわれわれが再度弟トラクと戦うようなことがあれば、世界はその争いによって滅びるだろう。したがって、われわれは弟に見つけられぬように世界から去らねばならぬ。もはや血肉のある身としてではなく、霊魂となってそれぞれの民を守っていこう。世界のためにそうでなくてはならぬ。再びわれわれが戦えば、世界は破滅する」
神々は別れなければならないことを思って涙を流した。しかしアレンド人の牡牛神チャルダンはたずねた。「われわれの留守中に、トラクが支配権を握らぬだろうか?」
アルダーは答えた。「そうはなるまい。〈鉄拳〉リヴァの子孫が〈珠〉を持ちつづけるかぎり、トラクに勝ちめはない」
こうして神々は袂を分かち、トラクだけが世界にとどまった。けれども〈珠〉がリヴァの手中にあるため、トラクは手出しができず欝々としていた。
ベルガラスはチェレクとその息子たちに言った。「〈珠〉を守り、トラクの襲撃に備えるために、われわれはここで別れなければならん。めいめいわしの指示どおりにばらばらになって準備をしてくれ」
〈熊の背〉チェレクは断言した。「いいとも、ベルガラス。今日からアロリアはもう存在しない。しかしアローン人が一人でも残っているかぎり、アローンの民はトラクには支配されないだろう」
ベルガラスは昂然と頭をもたげて声をはりあげた。「聞くがいい。〈片目〉のトラク、生ける〈珠〉は渡さんぞ。おぬしはあれには勝てん。われわれに刃向かってきたら、わしが戦いを起こす。夜となく昼となくわしはおぬしを見張り、死ぬまでおぬしの来襲をはばむ覚悟だ」
マロリーの荒野ではカル=トラクがベルガラスの声を聞いて逆上し、生ける〈珠〉が永遠に手の届かぬところへ行ってしまったと知って地団駄をふんだ。
そのあと、チェレクは息子たちを抱擁し、それきりかれらを見ないように背を向けた。ドラスは北へ行き、ムリン川流域の地に住んだ。そしてボクトールに都をつくり、それをドラスニアと呼んだ。ドラスとその子孫は北の国境を横ににらんで、敵を拒んだ。家来を連れて南へ行ったアルガーはアルダー川流域の広い平原に馬の群れを見つけた。かれらは馬を飼いならし、人間の歴史上はじめて馬を乗りこなす術を身につけ、騎馬戦士が出現した。かれらは自分の国をアルガリアと呼んで、馬の群れを追う遊牧民となった。悄然とヴァル・アローンに戻ったチェレクは、今や息子たちを手放し、ひとりになったので、王国の名をチェレクと改めた。そして、海を見張り、敵に攻めこまれないように丈の高いいくさ船を黙々と建造した。
しかしもっとも長い旅をしなくてはならなかったのは、〈珠〉を持つ者だった。リヴァは家来とともにセンダリアの西の海岸へ行き、船を造って〈風の島〉へ渡った。そこで船を焼き払い、要塞とそれを囲む城壁都市を建設した。かれらはその都市をリヴァと呼び、要塞を〈リヴァ王の広間〉と呼んだ。アローン人の神ベラーはそれを見届けると、空から鉄の星をふたつ降らせた。リヴァはその星をつかんで、一つから剣の刃を、もう一つからつか[#「つか」に傍点]をこしらえ、〈珠〉を丸石のようにその上に載せた。剣はたいそう大きかったので、リヴァの他はだれもふるうことができなかった。マロリーの荒野ではカル=トラクが剣が作られたことを心に感じ、はじめて恐怖を味わった。
〈珠〉を切っ先にいただく剣はリヴァの王座のうしろにある黒い岩に立てかけられ、岩と一つになったので、リヴァ以外にはだれもひきはがすことができなかった。リヴァが王座に坐ると、〈珠〉は冷たい炎をあげて燃え立った。そしでかれが剣を手にとってかざすと、冷たい炎を放つ大きな舌となった。
何よりも不思議なのは、リヴァの後継ぎにあらわれるしるしだった。リヴァの子孫の一世代に一人だけ、右の掌に〈珠〉のしるしを持つ子供が出現するのだった。そういう子供は王座のある部屋に連れでいかれ、〈珠〉に手をのせられた。〈珠〉がその子を識別できるようにだった。幼な子が手をふれると、〈珠〉はそのたびに一段と輝きを増し、生ける〈珠〉とリヴァの子孫の絆は一世代ごとに強まった。
さてベルガラスは一行と別れたあと〈アルダー谷〉へ急いだ。ところがたどりついてみると、妻のポレドラは双子の娘を生んで帰らぬ人となっていた。彼は悲嘆のうちに姉娘をポルガラと名づけた。ポルガラの髪は鴉の羽根のように黒かった。魔術師の流儀でベルガラスが伸ばした片手をその子の額にあてると、生えぎわの一房の髪が真っ白になった。ベルガラスの心は乱れた。それが魔術師のしるしであり、ポルガラはそのしるしを持ったはじめての女の子だったからだ。
白い肌と金髪の妹娘にしるしはなかった。ベルガラスはその子をベルダランと呼び、かれと黒髪の姉娘は彼女を他の何よりも愛し、ベルダランに愛情を注ぐことで互いに満足した。
ポルガラとベルダランがそうして十六歳になったとき、アルダーの霊魂がベルガラスの夢にあらわれてこう言った。「愛する弟子よ、わたしは〈珠〉の守護者の家系とおまえの家系を結び合わせたいのだ。したがって、娘のどちらかを選んでリヴァの王にめあわせ、かれの子孫の母とするがよい。世界の希望はひとえにその子孫にかかっており、トラクの腹黒い力もそれにはかなわぬからだ」
ベルガラスは魂の深い沈黙の中でポルガラを選びそうになった。しかし、リヴァの王のかかえる重荷を知るかれは代わりにベルダランを送り、娘が出ていったあと、涙をこぼした。妹が衰弱のすえ死ぬ運命にあるのを知って、ポルガラもまた、長いこと辛い涙にかきくれた。しかしやがてかれらは慰めあい、ついに互いを認めるにいたった。
二人は力を合わせてトラクを見張りつづけた。無限の歳月を通して、父娘は今なお監視の目を注いでいるという。
[#改丁]
第一部 センダリア
[#改ページ]
1
ガリオン少年の記憶にある最初のものは、ファルドー農園の台所だった。だから、大人になってからも台所や台所特有の音を聞いたり、匂いをかいだりすると、ことさらほのぼのとした気持になった。愛情、食べ物、くつろぎ、安全、なかても家庭を髣髴とさせる厳粛なざわめきとそれらはかたく結びついているように思えた。どんなに偉くなっても、ガリオンはすべての記憶があの台所からはじまることを決して忘れなかった。
梁が低く広大なファルドー農園の台所には、オーヴンややかん[#「やかん」に傍点]が所狭しと並び、ほら穴みたいなアーチ型の暖炉では、巨大な焼き串がゆっくり回転していた。長くて頑丈ないくつもの仕事台の上では、パンがこねられ、ニワトリが切り裂かれ、湾曲した細長いナイフがきびきびと上下に動いて、人参やセロリをさいの目に刻んだ。幼い子供の頃のガリオンはそういう仕事台の下を遊び場にして、周囲で立ち働く台所の下働きたちに指や爪先をふまれないコツをたちまち修得した。日が暮れて遊び疲れると、ときには台所の隅に寝ころがり、水漆喰塗りの壁にずらりとさがったたくさんの磨きあげたなべや包丁や柄の長いお玉杓子に映る、ゆらめく赤い炎を眺めた。するとあらゆるものがぼんやりと焦点を失い、かれはまわりの世界と完璧に調和し、このうえない平和のうちに、いつしか眠りこんでしまうのだった。
台所とそこで起きる一切の中心にいるのは、ポルおばさんだった。なぜかおばさんはあらゆる場所にいっぺんに出現できるみたいだった。詰め物で膨らませたガチョウに最後の仕上げをしてロースト用の鍋に入れるのも、膨らんできたパンの形を手際よくととのえるのも、オーヴンから出したばかりのハムの燻製に飾りつけをするのも、彼女の仕事と決まっていた。台所で働く者は他にも数人いたが、パンもシチュウもローストも野菜も、台所から運び出される前に、最低一度はポルおばさんの手を通過した。匂いや味、あるいはもっとすごい本能によって、おばさんはそれぞれの料理がどんな味つけを必要としているかを見抜き、煮つめたり、原因をさぐったり、投げやりとも見える手つきで土焼きの香辛料の瓶をひとふりしたりして、すべてを完璧に調味した。まるで凡人の知力を超えた一種の魔法がそなわっているかのようだった。しかもどんなに忙しくでも、ポルおばさんはガリオンがどこにいるかをいつでも正確に知っていた。パイ皮にひだをつけているさいちゅうでも、特別のケーキに飾りつけをしていても、詰め物をしたばかりのニワトリを縫い合わせているさなかでも、顔もあげずに伸ばした片脚を、他人の足もとにひそんでいるガリオンのかかとか足首にひっかけてかれをひきずり戻すことができるのだった。
かれが少し大きくなると、それはゲームにさえなった。ガリオンはポルおばさんが猛烈に忙しくてかれにかまってなどいられないのを見届けると、笑い声をたてながらしっかりした小さな足でドアに走りよるのだった。けれども彼女はいつでもガリオンをつかまえた。そしてかれは笑いながらポルおばさんの首に抱きつき、キスをしてから、もう一度逃げだす次のチャンスをうかがうことに戻るのだった。
その頃のかれはポルおばさんのことを世界一偉くて、世界一きれいな女の人だと信じて疑わなかった。ひとつには、彼女がファルドー農園にいるどの女の人より背が高く――男とたいして変わらなかった――かれと一緒のときはもちろん別として、常にまじめな――いかめしいともいえる――顔をしていたためだった。髪は長く、額の左の生えぎわの一房が新雪のように白いほかは、黒いといってもよさそうな濃い褐色をしていた。夜、台所の上階《うえ》の個室で、ポルおばさんが自分のベッドのわきに置かれた小さなベッドにガリオンを寝かしつけるとき、かれは手を伸ばしてその白い一房をさわった。するとおばさんはほほえんで、柔らかい手でガリオンの顔をなでてくれるのだった。そのあとやっとガリオンはポルおばさんがそばにいて見守っていてくれることに満足して眠った。
ファルドー農園は、西を〈風の海〉に、東を〈チェレク湾〉に接する霧の王国センダリアのほぼ中央に位置していた。とりわけその時代とその国の農場がどれもそうであるように、ファルドー農園もひとつかそこらの建物ではなく、正面に堅固な門を持つ中庭を囲んで、いくつもの小屋や納屋、家禽の寝場所、鳩小屋が並んだ頑丈な複合建造物だった。二階の外廊下づたいの大小の部屋には農園の労働者たちが住みこんで、塀の外の広大な畑を耕し、作物を植え、草取りをした。ファルドー自身は中央の大食堂の上の四角い塔に設けた住居で暮らし、労働者は日に三度――収穫期には四度のことも――大食堂に集まって、ポルおばさんの台所のごちそうに舌つづみをうった。
農園はおおむね大変幸福で平和なところだった。農園主のファルドーはいい主人だった。背が高く真面目な人物で、長い鼻とそれ以上に長い顎をしていた。めったに笑いもほほえみもしなかったが、雇い人たちには親切で、一滴の汗をしぼりあげることよりも全員の健康を維持することに心を砕いているふうだった。かれが相続した上地で生活する六十余人の人々にとって、ファルドーは多くの点で主人というよりむしろ父親のような存在だった。かれはみんなと一緒に食事をしたし――その地方の農場主たちの多くが使用人には冷淡なことからすると、珍しいことだった――ファルドーが大食堂の中央テーブルの上座にいると、ときにばか騒ぎをしがちな若い連中は態度を慎しんだ。農園主ファルドーは信心深く、毎回食前に必ず神の恵みに滔滔《とうとう》と祈りを捧げた。農園の連中はこれを心得ていたので、三度の食事の前には礼儀正しく列を作って大食堂にはいり、少なくとも見かけだけは敬虔なふりをしてテーブルについてから、ポルおばさんとその助手たちが並べておいた食べ物が山と盛られた皿や鉢にとびついた。
ファルドーが良心的なのと――ポルおばさんの巧みな指の魔術のせいとで、農園はその地方二十リーグ四方で働いて暮らすのに最高の場所として知れ渡っていた。近くのアッパー・グラルトの村の居酒屋では、ファルドーの大食堂で三度三度出される奇蹟のような食事の話が毎晩ことこまかに語られ、他の農場で働く不運な連中がビールを数杯ひっかけたあと、ポルおばさんのガチョウのローストの説明に人目もはばからず泣く光景がみられるのもしょっちゅうだった。そんなわけで、ファルドー農園の評判は地方じゅうに広がった。
農園で一番の重要人物は、ファルドーを別にすれば、鍛冶屋のダーニクだった。大きくなってポルおばさんの注意深い目からのがれることを許されると、ガリオンは誰に言われることもなく鍛冶屋の仕事場へ足を向けた。ダーニクの鍛冶場から生まれる熱く燃える鉄は、ガリオンを催眠術のようにひきつけた。ダーニクは目立たない褐色の髪と鍛冶場の熱で赤らんだ目立たない顔をした平凡な風貌の男だった。背は高からず低からず、やせっぽちでも肥ってもいなかった。真面目で物静かで、鍛冶屋がたいがいそうであるように、驚くほど力があった。とびちる火花で焼け焦げがたくさんできた粗末な革のチョッキに、同じく焼け焦げだらけの革の前掛けをしめ、センダリアの当地方の習慣にしたがって、ぴったりしたズボンをはいて、柔らかい革のブーツという恰好をしていた。最初ダーニクがガリオンに向かって言ったのは、鍛冶場とそこでできる灼熱した金属に手をふれるなという警告だけだった。だが、気心が知れてくると、ダーニクはもっと饒舌になった。
「手をつけたものは必ず仕上げてしまうことだ」とダーニクは助言するのだった。「ほったらかしておいて、しばらくしてから必要以上に火で焼き直すのは鉄のためによくない」
「どうして?」ガリオンはたずねる。
ダーニクは肩をすくめた。「どうしてもだ」
またあるときは、修理中の馬車の長柄の金属部分をやすりで最後にこすりながらこう言った。「常に最高の仕事をせよ」
「でもそこは下側の部分でしょう、誰にも見えないよ」ガリオンは言った。
「だがわたし[#「わたし」に傍点]はそれがあるのを知っている」金属をなめらかにする手を休めずダーニクは言った。「やっつけ仕事をすれば、この馬車が通るのを見るたびに恥ずかしくなるだろう――それにどうせわたしはこの馬車を毎日見ることになるだろうしな」
こんな具合だった。ダーニクは、期せずして、仕事、倹約、謹厳、礼儀正しさ、そして社会の中枢を形成する実用主義などの堅実なセンダリア人の美点を小さな少年に教えたのだった。
当初ポルおばさんは危いのがわかりきっている鍛冶場に出入りするガリオンの熱中ぶりを心配したが、台所の勝手口からしばらくようすをうかがってからは、ダーニクが自分に負けないぐらいガリオンの安全に気を配っているのに気づいて少し安心した。
あるとき、つぎを当ててもらおうと大きな銅のやかんを鍛冶場へ持っていったおばさんは鍛冶屋に言った。「あの子が邪魔になるようなら、追い返すか、わたしに言うかしてくださいな、ダーニクさん。台所から遠くへはやらないようにしますから」
「邪魔なもんですか、マダム・ポル」ダーニクは微笑した。「あの子は賢いから邪魔をしてはいけないことぐらいちゃんとわかっていますよ」
「あなたはやさしすぎるのよ、ダーニク。ガリオンの頭は質問ではちきれんばかりなんですからね。ひとつ答えたら、あとが大変よ」
「それが男の子ってもんです」ダーニクはやかんの底のちっぽけな穴のまわりに当てがった小さな粘土の輪の中に、ぐつぐつ煮えたつ金属をそっと流しこみながら言った。「わたしだって子供の頃は質問好きでしたよ。でも親父も鍛冶の手ほどきをしてくれたバール老人も、できるかぎり辛抱強く答えてくれました。ガリオンにも同じようにしなけりゃ、かれらに借りを作ることになる」
そばに坐っていたガリオンはこのやりとりのあいだじっと息をつめていた。どちらか一方が一言でもよからぬことを言えば、ただちにかれは鍛冶場から追放されてしまう。ポルおばさんが修理したてのやかんをぶらさげて踏み固められた裏庭を引き返していったとき、おばさんを見送るダーニクのまなざしに気づいて、ガリオンの頭にある考えが芽ばえた。単純な思いつきだったが、それのすばらしい点はそれがみんなを幸せにするということだった。
その夜、粗布で片方の耳をごしごしやられてひるみながらガリオンは言った。「ポルおばさん」
「なんなの?」おばさんはガリオンの首すじに注意を転じた。
「ダーニクと結婚すれば?」
彼女は手をとめた。「なんですって?」
「すごくいい考えだと思うんだ」
「おや、そう?」その声にかすかな険しさが忍びこみ、ガリオンはまずいことになったのを知った。
「かれはおばさんが好きなんだよ」弁解ぎみに言った。
「で、あんたはもうダーニクとこのことを話しあったの?」
「ううん。まずおばさんに話そうと思ったんだ」
「少なくともそれだけは賢明だったわ」
「よかったら明日の朝にでもぼくがダーニクに話してあげる」
かれは片耳をむんずとつかまれて、むりやりおばさんのほうを向かされた。ポルおばさんはぼくの耳を便利な把っ手扱いしている、とガリオンは思った。
「このばかげた話はダーニクにも他の誰にも一言ももらすんじゃありません」彼女の黒い目がこれまでガリオンが見たことのない光を宿してかれをにらみつけた。
「ただの思いつきだったんだ」ガリオンはあわてて言った。
「大変悪い思いつきだわ。今後大人のことを考えるのはおよし」彼女はまだ耳をつかんでいた。
「言うとおりにする」ガリオンは急いで賛意を示した。
しかしその夜遅く、静かな暗闇の中でそれぞれのベッドに寝ているとき、ガリオンは遠回しにその問題に近づいた。
「ポルおばさん?」
「なんなの?」
「ダーニクと結婚したくないなら、誰と結婚したいの?」
「ガリオン」
「うん?」
「黙って寝るのよ」
「ぼくには知る権利があると思うな」ガリオンは傷つけられた口調で言った。
「ガリオン[#「ガリオン」に傍点]!」
「わかったよ。もう寝る。でもこのことについておばさんはあんまり公平じゃないと思うよ」
ポルおばさんは深く息を吸った。「いいわ。わたしはね、結婚なんて考えていないの。これまで考えたことはないし、これからも考えそうにないわ。大事なことがたくさんありすぎて、とても結婚まで気が回らないのよ」
「心配することないさ、ポルおばさん」気分を和らげようとガリオンは言った。「大きくなったらぼくがおばさんと結婚する」
すると彼女は豊かな低い笑い声をあげて、手を伸ばし、闇の中でかれの顔にふれた。「なにを言うかと思ったら、ガリオン。あなたには別の奥さんが待っているのよ」
「誰?」ガリオンは問いつめた。
「いつか自分で見つけだすのね」とポルおばさんは謎めかして言った。「もうお休み」
「ポルおばさん?」
「なあに?」
「ぼくのおかあさんはどこにいるの?」それはずっと前から訊くつもりでいた質問だった。
長い間があり、やがてポルおばさんは溜息をついて、「あなたのおかあさんは死んだのよ」と静かに言った。
ガリオンはふいによじれるような苦悩のうねりと耐えがたい悲しみをおぼえた。かれは泣きだした。
ポルおばさんはベッドをおりてかれのベッドのかたわらにひざまずき、ガリオンを抱きしめた。それから自分のベッドにかれを運び、ガリオンの悲しみが自然に静まるまでそばについていた。長い時間がたち、ようやくガリオンはとぎれとぎれにたずねた。「どんな人だったの? ぼくのおかあさんて?」
「金髪で、とても若くて、とてもきれいだったわ。やさしい声をしていて、とても幸福だったのよ」
「ぼくのこと愛してた?」
「あなたには想像できないくらいにね」
そう聞くとかれはまた泣いたが、今度は苦悩というよりむしろ無念の涙で泣きかたも静かだった。
ポルおばさんは少年が泣き疲れて眠るまでしっかり抱きしめていた。
六十人かそこらの共同生活体なら当然のことだが、ファルドー農園にも子供は他にもいた。年長の子供たちはみな働いていたが、その自由保育地にはガリオンと同じ年頃の子供が他に三人おり、かれらはガリオンの遊び仲間となり、友だちとなった。
一番年長の少年はランドリグという名前だった。一、二歳ガリオンより大きいだけなのに、背はかなり高かった。一番の年かさなのだからふつうなら当然かれが大将になるところだったが、ランドリグはアレンド人だったので、少しばかり分別が足らず、年下の子供に陽気に従った。センダリア王国はよその王国とちがい、きわめて種々雑多な民を擁していた。チェレク人、アルガー人、ドラスニア人、アレンド人、それに相当数のトルネドラ人までがいて、これらの混血がセンダー人だった。アレンド人が非常に勇敢なのはもちろんだが、かれらは鈍いことでも有名だった。
ガリオンの二人めの遊び仲間は小柄ですばしっこいドルーン少年で、やたらと素姓がいりくんでいるため、かれのことはセンダー人と呼ぶしかなかった。ドルーンのもっとも注目すべき点は、いつでも走っていることで、走ることが可能ならかれは絶対歩かなかった。足と同じく、頭もよく回転するらしく、舌もよくまわった。かれはひっきりなしに猛烈な早口でしゃべり、いつも興奮していた。
この小さな四人組の疑いようのないリーダーは金髪の美少女、ズブレットだった。彼女は遊びを考えだしたり、お話をこしらえて聞かせたり、自分のためにファルドーの果樹園からリンゴやスモモを盗ませたりした。小さな女王よろしくかれらに君臨し、少年たちを互いに張りあわせ、そそのかして喧嘩をさせた。とても残酷だったから、三人の少年たちはそれぞれ彼女のちょっとした気まぐれに唯唯諾諾と従いながらも、ときどきズブレットを憎らしく思った。
冬になると、かれらは農園裏の雪のつもった丘を広い板に乗ってすべりおり、あかね色の夕暮れが雪の上に忍びよる頃、雪まみれになって手にあかぎれを作り、ほっぺたを真っ赤にして家路についた。あるいは、鍛冶屋のダーニクが氷がじゅうぶん厚いことを宣言すれば、アッパー・グラルトへ向かう道路ぞいの農家の真東の小谷にある、白く氷の張った池の上をいつまでもすべりつづけたりした。天気が寒すぎたり、春が近づいて雨や暖かい風に雪がとけたり、池の氷がゆるんだりすれば、干草小屋に集まって、髪にもみがらをいっぱいくっつけ、夏の匂いのする埃を吸いこみながら、屋根裏から干草の山にとびこんで遊んだ。
春にはじめじめした池のふちでオタマジャクシをつかまえたり、木登りをして高い梢に小枝で作られた鳥の巣の中に卵を見つけて、目を丸くして眺めたりした。
ある晴れた春の朝、ズブレットにせかされて池のそばの木のてっぺんによじ登り、落ちて腕を折ったのは、もちろんそそっかしいドルーンだった。ランドリグは茫然と口をあけて、負傷した友だちの前に立っているだけだったし、ズブレットはドルーンが地面に落ちる寸前にいち早く逃げだしてしまったので、必要な決定を下す役目はガリオンにまわってきた。かれは勇敢にその状況をしばし考えた。くしゃくしゃの砂色の髪の下のガリオンの顔は真剣そのものだった。腕が折れたのは明らかだったし、ドルーンは青ざめてすくみあがり、泣くまいと唇をかみしめていた。
目の隅に動くものをとらえて、ガリオンはぱっと目をあげた。少し離れたところで黒マントの男が大きな黒い馬にまたがって、じっとこちらを見ている。目が合った瞬間、ガリオンはぞくっとして以前にもその男を見たことがあるのを思いだした――たしかにその黒い姿は遠い昔、視界の隅をうろついていたことがある。無言で、いつも見ているだけの黒い姿。黙ってこちらをじっと見ているひややかで憎々しげなようすの陰には、ふしぎに恐怖にも似た何かが見えかくれしている。そのときドルーンが泣き声をあげ、ガリオンはわれにかえって友だちに向き直った。
ベルトがわりの縄で折れた腕を注意深くドルーンの身体の前に固定すると、ガリオンはランドリグと二人で怪我をした少年を立ちあがらせた。
「せめて手をかしてくれたっていいのにな」ガリオンは腹を立てて言った。
「誰が?」ランドリグはきょろきょろあたりを見まわした。
ガリオンは黒マントの男を指さそうとふり向いたが、男は消えていた。
「誰も見なかったよ」とランドリグ。
「痛いよ」ドルーンが言った。
「心配するな。ポルおばさんがなおしてくれる」ガリオンは言った。
そのとおりだった。三人が台所の戸口にあらわれたとき、彼女はひと目で状況を見てとった。
「ここへ連れてきて」そう言った声は平静そのものだった。青ざめて激しくふるえている少年をオーヴンのそばの腰かけに坐らせると、ポルおばさんは食料室のひとつの奥の高い棚に並ぶ上焼きの壺から数種の薬草を取り出してお茶をいれた。
「これを飲みなさい」湯気の立つマグを渡しながら、おばさんはドルーンに指示した。
「これで腕がよくなるの?」ドルーンはいやな匂いの飲み物を疑わしげに見ながらたずねた。
「いいから飲むのよ」おばさんは命令して、数本の副木と細長いリネンを広げた。
「うへっ! まずいや」ドルーンは顔をしかめた。
「それはそうよ。全部飲みなさい」
「もういやだ」
「よろしい」ポルおばさんは副木を片づけて、壁の掛け釘から長くておそろしく鋭利な包丁をつかんだ。
「それで何をするの?」ドルーンはふるえ声で訊いた。
「その薬を飲みたくないんだから、腕は切り落とさなけりゃ」おばさんはそっけなく言った。
「切り落とす[#「切り落とす」に傍点]?」ドルーンは目玉をとびださんばかりにして金切り声をあげた。
「だいたいこのへんかしらね」おばさんは包丁の先で考え考え肘をつついた。
ドルーンは目に涙をためて残りの液体をのみくだし、数分後には腰かけの上でこっくりこっくりしはじめた。ポルおばさんが折れた骨を固定させたときに一度だけ悲鳴をあげたものの、腕に包帯が巻かれ副木が当てられたあとは、またうとうとしだした。とり乱した少年の母親と手短かに話をしてから、ポルおばさんはダーニクに頼んで少年をベッドまで運んでもらった。
「本気で腕を切り落とすつもりじゃなかったんでしょう?」ガリオンは言った。
ポルおばさんはかれを見たが表情は変わらなかった。「そうかしら?」おばさんの返事にガリオンは自信が持てなくなった。するとおばさんが言った。「ズブレットと話したいことがあるわ」
「彼女はドルーンが木から落ちたときに逃げちゃったよ」
「見つけてきなさい」
「ズブレットは隠れているんだ」ガリオンは口をとがらせた。「具合が悪くなると、いつだって隠れるんだ。どこへ行けば見つかるのかわからないよ」
「ガリオン。彼女の居所を知っているかと訊いたんじゃありませんよ。見つけだして連れてきなさいと言ったんです」
「きたがらなかったら?」ガリオンは逃げ道を作った。
「ガリオン!」ポルおばさんの有無を言わさぬ口調に、かれは台所をとびだした。
「あたし全然関係ないわ」ガリオンに連れられてポルおばさんの台所にはいってくるなり、ズブレットは嘘をついた。
ポルおばさんは腰かけを指さした。「坐って!」
ズブレットはその剣幕にあぜんとして目を大きく見開き、腰かけに坐りこんだ。
ポルおばさんは勝手口をさしてガリオンに言った。「出て!」
ガリオンはあわてて外に出た。
十分後、少女はすすり泣きながら台所からよろめきでてきた。ポルおばさんは氷のように険しい目で戸口に立ち、ズブレットを見送った。
「彼女をぶったの?」ガリオンは期待をこめて訊いた。
ポルおばさんの一瞥はかれをちぢみあがらせた。「ぶつものですか。女の子をぶったりしませんよ」
「ぼくだったらぶったのに」ガリオンはがっかりして言った。「じゃ、何をしたの?」
「あなたには関係ないことでしょう?」
「うん、本当はないけど」もちろん、そう言ったのはまちがいだった。
「よろしい」ポルおばさんはかれの片方の耳をつかんだ。「そろそろ仕事をしてもらうわ。洗い場によごれたおなべがいくつかあるから、ごしごし洗ってきれいにしてちょうだい」
「どうしておばさんがぼくに腹を立てるのかわからないよ」ガリオンはじたばたしながら文句を言った。「ドルーンがあの木に登ったのはぼくのせいじゃないんだよ」
「洗い場へ行くの、ガリオン。さっさとなさい」
晩春から初夏にかけては静かだった。いうまでもなくドルーンは腕がなおるまで遊べなかったし、ズブレットはなんと言われたのか知らないがポルおばさんのお説教にすくみあがっていたので、あとの二人の少年を避けていた。ガリオンの遊び仲間はランドリグ一人になり、利発さに欠けるランドリグは相手としてあまりおもしろくなかった。じっさい他にすることがないので、少年たちはしばしば畑へ行く農夫たちの働きぶりを眺めたり、かれらのおしゃべりに耳を傾けたりした。
たまたま、特にその夏のあいだファルドー農園の人々の話題にのぼったのは、西部地方の歴史上最大の激変事、〈ボー・ミンブルの戦い〉だった。ガリオンとランドリグは人々の語る、五百余年の昔、カル=トラクの軍勢が突如西部へ攻めこんだ物語に夢中になって聴きいった。
センダリアに住む人々の時の計算法によれば、すべてがはじまったのは四八六五年のことだった。おびただしい数のマーゴ人、ナドラク人、タール人が東部断崖の山脈を越えてドラスニア国になだれこみ、そのあとから無数のマロリー人が果てしない波のごとく押し寄せたのだった。
ドラスニアが無残に破壊しつくされたあと、アンガラク人は南へ矛先を転じてアルガリア国の大草原へ向かいアルガリアの〈砦〉と呼ばれる巨大な城塞を包囲攻撃した。攻撃は八年におよび業を煮やしたカル=トラクはついにアルガリア陥落を断念した。カル=トラクが軍勢を率いて西のウルゴランドへ攻めこんではじめて、他の王国はアンガラク人の侵略の対象がアローン人の国だけでなく、西部全域であることに気づいた。四八七五年の夏、カル=トラクはボー・ミンブルの手前のアレンディアの平原を急襲し、迎え撃つ西の連合軍と衝突した。
戦いに参加したセンダー人は〈リヴァの番人〉ブランドの指揮下に集結した軍勢の一部だった。リヴァ人、センダー人、アストゥリア人からなるその軍勢は、アルガー人、ドラスニア人、ウルゴ人らが左から攻めこんだあと背後からアンガラク軍を襲撃した。トルネドラ人とチェレク人は右から攻め、ミンブルのアレンド人は前方から伝説上に名高い攻撃をしかけた。何時間にもわたる凄絶な戦いがくりひろげられ、ついに戦場の中心でブランドはカル=トラク自身との一騎打ちにのぞんだ。いくさの結果はその決闘にかかっていた。
大物同士の遭遇以来六百年がたっていたが、ファルドー農園で働くセンダリアの農夫たちの記憶の中では、いまだにそれはついきのうのことのように鮮明だった。ひらめく剣の一撃、牽制、受け流しのようすがいちいち説明の対象になった。やられたかと見えた瞬間、ブランドが楯のおおいをとり払い、一瞬ひるんだカル=トラクは防具をさげたとたんに打ち倒された。
ランドリグにとって、戦いのもようはアレンド人の血を騒がせてあまりあるものだったが、ガリオンはひとつ納得できない点に気づいた。
「ブランドの楯にはなぜおおいがしてあったの?」かれは年配の労働者の一人、クラルトにたずねた。
クラルトは肩をすくめた。「ただそうなっていたのさ。わしがこれまでその話をした者はみんなそれに同意しとる」
「魔法の楯だったのかな?」ガリオンは食いさがった。
「かもしれんが、そんなのは聞いたことがないね。わしが知っているのは、ブランドが楯のおおいをとったらカル=トラクが自分の楯を落とし、そのすきにブランドがカル=トラクの頭に剣を突きさしたってことだけだ――目かなにかをやったらしい」
ガリオンは頑固に首をふった。「わからないな。どうしてそんなことでカル=トラクはこわがったんだろう?」
「さあね」クラルトは言った。「そのわけは聞いたことがないな」
物語には不満が残ったものの、ガリオンば決闘を再現しようというランドリグのいささか単純な計画にすぐ賛成した。一日かそこら剣がわりの棒で互いに身がまえたり突きあったりしたあと、ガリオンは遊びをもっとおもしろくするには何か道具が必要だと考えた。ポルおばさんの台所からやかんがふたつと大きななべの蓋がふたつ、不思議にも消えてなくなり、今や兜と楯で身をかためたガリオンとランドリグは剣を交えるために足繁く静かな場所へかよった。
何もかもうまく運んでいた二人の遊びが一転したのは、年上で背も高く力も強いランドリグが、ばか力を出して木の剣でガリオンの頭をたたいたときだった。やかんのふちがガリオンの額にくいこんで血が流れだした。突然耳鳴りがし、異常な興奮をおぼえて、ガリオンは地面から起きあがった。
その後何が起きたのかさっぱりわからない。かろうじておぼえているのは、カル=トラクに挑む叫び声が口からほとばしりでたことだけだったが、その言葉さえガリオンには理解できなかった。目の前のランドリグの見なれたまぬけ面が無残に崩れた醜悪な顔にとってかわり、ガリオンは頭の中に煮え立つようなほてりを感じて、狂ったようにその顔に何度も棒をふりおろした。
やがて嵐がさり、ガリオンの足もとには逆上した攻撃に気を失ったあわれなランドリグが倒れていた。かれは自分のしたことにちぢみあがったが、同時に強烈な勝利を口中に味わった。
そのあと、農園内の怪我の手当を一手にひきうけている台所で、ポルおばさんが余計な口は一切きかずに二人の手当をした。ランドリグの傷はそうひどくはなさそうだったが、顔は早くも腫れあがって数ヵ所が紫色になりはじめ、最初は目の焦点がなかなか合わなかった。頭に冷湿布をし、ポルおばさんのせんじ薬のおかげでランドリグはみるみる回復した。
しかしガリオンの額の切り傷にはもう少し用心が必要だった。おばさんはダーニクに少年をおさえつけさせると、針と糸をとって袖の裂けめでも縫うように平然と傷口を閉じあわせ、その間患者の口から発せられるわめき声には耳も貸さなかった。彼女が関心を示したのは、総じて、二少年の一騎打ちの怪我よりもへこんだやかんのほうらしかった。
縫合がすむとガリオンは頭痛がして、ベッドへ運ばれた。
「少なくともカル=トラクはやっつけたよ」かれはポルおばさんにうわごとのように言った。
彼女は鋭くガリオンを見つめた。「トラクのことをどこで聞いたの?」と問いつめた。
「カル[#「カル」に傍点]=トラクだよ、ポルおばさん」ガリオンは辛抱強く説明した。
「質問に答えるのよ」
「農夫たちが――クラルトじいさんやみんなが――ブランドやボー・ミンブルやカル=トラクなんかの話をしていたんだ。ランドリグとぼくはその真似をして遊んでいたんだよ。ぼくがブランドで、ランドリグがカル=トラクさ。残念ながら楯のおおいをはずすところまでいかなかったけどね。そうなる前にランドリグに頭をたたかれたんだ」
「よくおきき、ガリオン」とポルおばさんは言った。「注意深くきいてもらいたいのよ。二度とトラクの名を口にするんじゃありません」
「カル[#「カル」に傍点]=トラクだってば。ただのトラクじゃなくて」ガリオンはくり返した。
次の瞬間おばさんの手がとんだ――そんなことをおばさんがしたのははじめてだった。横っ面をはたかれて、ガリオンは痛いというよりびっくりした。それほど強い平手打ちではなかったからだ。「いいこと、二度とトラクの名をしゃべってはいけないよ。絶対に! これは大事なことなのよ、ガリオン。あなたの身の安全がかかっているのよ。約束してちょうだい」
「そんなに怒らなくたっていいじゃないか」ガリオンは傷つけられた口調で言った。
「約束しなさい」
「わかった、約束するよ。あれはほんの遊びだったんだ」
「大変おろかな遊びですよ。ランドリグを殺してたかもしれないのよ」
「ぼくはどうなのさ」ガリオンは文句を言った。
「あなたには決して危険はおよばないわ。さあ、もうお休み」
怪我とおばさんに飲まされた奇妙な、苦い飲み物のせいで、頭がふらふらし、うとうとしていると、おばさんの低い豊かな声が、「ガリオン、わたしのガリオン、あなたはまだ若すぎるわ」と言うのが聞こえたような気がした。しばらくして、魚が銀色の水面へ浮上するように深い眠りから目ざめたかれはぼんやりとおばさんの声を聞いた。「おとうさん、あなたが必要なんです」それからかれは再び不穏な眠りにひきずりこまれ、黒い馬にまたがった黒い姿につきまとわれた。男は冷たい憎悪と恐怖めいたものを漂わせてガリオンの一挙一動を監視していた。そしてその黒い姿の背後に、これはポルおばさんにも黙っていたことだが、ランドリグと戦っていたときに垣間見たのか、それとも想像なのか、邪悪な物言わぬ木に生《な》る恐るべき果実のような、醜くくずれた顔が隠れていることをガリオンは知っていた。
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その語り部がファルドー農園の門口に再びあらわれたのは、ガリオンが輝ける永遠の少年時代にはいってまもなくだった。かれは薄ぎたない一介の老人で、どうやらふつうの人間とちがい、しかるべき姓名を持たぬようだった。ズボンの膝にはつぎが当たり、左右ちぐはぐの靴は爪先が破けていた。長袖の毛織りのチュニックの腰のあたりをしばっているのは一本の縄だったし、センダリアのその地方ではめったにつけない珍しいしろもので、ガリオンが肩や背や胸をおおうぶかぶかの切替え布とともに恰好がいいと思った頭巾は、食べ物や飲み物のしみでよごれていた。比較的新しいと思えるのは、たっぷりしたマントだけだった。年老いた語り部の白髪はあごひげと同じように、とても短く刈りこまれていた。角ばって力強い顔をしていたが、その容貌からはどこの出身とも知れなかった。アレンド人にもチェレク人にも似ておらず、アルガー人でもドラスニア人でもリヴァ人でもトルネドラ人でもなく、いっそ遠い昔に忘れられた民族の子孫のようだった。目は深味のある陽気な青で、永遠の若さと永遠の茶目っ気をたたえていた。
語り部はときどきファルドー農園にあらわれ、いつでも歓迎された。事実かれは根なしの放浪者で、話をしながら世界をさまよっているのだった。その話は必ずしも新しくはなかったが、老人の語り口には一種独特の魔法があった。かれの声は雷のごとくとどろくことも、そよ風のようなささやきになることも変幻自在だった。一度に十二人の声音を使うこともできたし、鳥のようにさえずって、かれの話をきこうとする鳥たちを呼びよせることもでき、また、狼の遠吠えをまねれば、その声は聞き手のうなじの毛を逆立て、ドラスニアの真冬のような冷気を聞く者の心臓に送りこんだ。雨の音や風の音もお手のもので、なにより不思議なことに、雪のふる音まで出すことができた。老人の話は物語に命を吹きこむ音にあふれ、それらの音と言葉を使ってかれが織りなす物語からは、情景や匂い、そして見知らぬ時代と場所の感触そのものまでが、魅了された聴衆には現実のことのように感じられるのだった。
その驚異のすべてを老人はわずかばかりの食事と大ジョッキ数杯のビール、それに寝場所がわりの干草小屋の暖かい一角とひきかえに惜し気なく与えた。かれは鳥のように手ぶらで世界を渡り歩いているようだった。
語り部とポルおばさんはひそかにお互いを認めあっているようなところがあった。かれが近くにひそんでいるかぎり、台所の最高の宝が安全でないことを知っているらしく、おばさんはいつも皮肉まじりに語り部の訪問を黙認していた。老人がうろついていると、パンやケーキがいつのまにか消え、おばさんが背中を向けたすきに、いついかなるときでも取り出せるナイフが目にもとまらぬすばやさで三回、細心の注意を払って料理されたガチョウから一対の足とたっぷりした胸肉がすぱっと切りとられるのだった。ポルおばさんはかれを老いぼれ狼≠ニ呼び、語り部の姿がファルドー農園の門にあらわれると、何年もつづいているらしい競争がまたぞろ開始された。食べ物をくすねるときですら老人は不埒にもポルおばさんにお世辞を言った。クッキーや黒パンを差しだされると丁重に断ってから、それが持ち去られる直前に半分盗むのだった。ビールやワインの貯蔵庫は老人の出現と同時にかれの手に引き渡されるも同然であり、盗みを働くのが楽しいとみえて、おばさんが厳しい目で監視していても、かれは物語ひとつと引きかえに喜んで彼女の台所を略奪する共謀者を十人ばかりたちどころに見つけてしまった。
嘆かわしいことに、かれのもっとも有能な手下の一人はガリオン少年だった。ポルおばさんは老獪な泥棒とその卵を同時に見張る必要に迫られて、しばしば仕事が手につかなくなり、ほうき片手にののしり声をあげ、床を踏みならして二人を台所から追いだすのが常だった。すると老語り部は少年ともども笑いながらどこか人目につかぬ場所へ逃げこみ、二人して盗んできた果物をほおばった。それからくすねたビールかワインの瓶をしきりにかたむけながら、大昔の物語で手下を楽しませるのだった。
とっておきの話はもちろん大食堂用で、夕食がすみ、皿が片づけられたあと、老人は立ちあがって不思議な魅惑の世界へ聴衆をいざなった。
ある晩、例によって信心深いファルドーがこう言った。「なあ、ご老人、世界の始まりと神神の話をしてくれんか」
老人は考えこんだ。「世界の始まりと神々の話か、悪くはない話題だがね、ファルドー、味気ないよ」
「わたしの見たところ、あんたに言わせるとどんな話題も味気ないのね、老いぼれ狼」ポルおばさんはそう言うと樽に歩みよって、語り部のためにジョッキ一杯の泡だつビールを注いだ。
かれはもったいぶった一礼とともにジョッキを受けとり、「それは危険をもたらす話のひとつでね、マダム・ポル」と説明した。ビールを大きくあおってジョッキをわきに置くと、老人はしばし考えこむように顔を伏せ、やがてまっすぐ――それとも、そう思えただけなのか――ガリオンを見つめた。それからかれは妙なことをした。ファルドーの大食堂で話をするときにそんなことをするのははじめてだった。マントをかきあわせ、すっくと立ちあがったのだ。
「見よ」語り部の声が豊かに響きわたった。「神々が世界と海と乾いた土地をつくりたもうた黎明期を。かれらは夜空に星をちりばめ、世界に光を与えるため、天に太陽と、その妻である月を配した。
そして神々は大地に獣を、海に魚を、空に鳥を生ぜしめた。
人間をも造り、いくつかの民に分けられた。
神々は七人で、みな平等であり、その名をベラー、チャルダン、ネドラ、イサ、マラ、アルダー、トラクといった」
もちろんガリオンはその物語を知っていた。センダリアのその地方の者はみなそれを知っている。アローンの起源にまつわる話だし、センダリアの三方の土地はアローン王国だからだ。だが、なじみ深い物語であるにもかかわらず、そういうふうに語られるのを聞くのははじめてだった。世界が最初に創造されたころのおぼろげな暗闇の時代に、神々が世界を闊歩するさまを想像して、ガリオンは胸を高鳴らせ、禁じられたトラクの名が出るたびに肝をひやした。
神々のひとりひとりがどのように民を選んだか、語り部の説明にかれはじっと聴きいった――ベラーはアローン人を、イサはニーサ人を、チャルダンはアレンド人、ネドラはトルネドラ人、マラはもはや存在しないマラグ人、そしてトラクはアンガラク人を。ガリオンは、神アルダーが一人離れて暮らし、孤独にまかせて星を研究し、ごくひと握りの者だけを弟子として受け入れたことを知った。
かれは話に聴き入る人々のようすをちらりと盗み見た。ひとことも聞きもらすまいと、みんな夢中だった。ダーニクは目を丸くしているし、クラルトじいさんは両手をテーブルの上でしっかり握りあわせている。ファルドーは心もち青ざめて目に涙をうかべていた。ポルおばさんは部屋の後方に立っていた。寒くなかったが、おばさんも身体にマントをまきつけて、真剣な目つきをして、妙にまっすぐ立っていた。
語り部の話はつづいた。「神アルダーは球形の宝石を作ることになった。するとどうだ、北の空できらめくある星の光がその宝石の中に封じこめられた。そして〈アルダーの珠〉と呼ばれるその宝石には偉大な魔法の力がそなわった。なぜなら〈珠〉によってアルダーは過去と未来を見ることができたからだ」
その話にすっかり心を奪われていたガリオンは、自分が息をつめているのに気づいた。トラクが〈珠〉を盗み、他の神々がかれと戦ったくだりをガリオンは驚嘆して聞いた。トラクは〈珠〉を利用して大地を裂き、陸を海水で水びたしにしたが、かれの悪業はそこまでだった。〈珠〉が悪用に反撃し、トラクの顔の左側をとかし、左手と左目を焼き尽した。
老人は一息ついてジョッキをからにした。ポルおばさんがあいかわらずマントをかきあわせたまま、ジョッキをもうひとつ運んできた。その動作はどことなく威厳にあふれ、目は輝いていた。
「この物語がこういうふうに語られるのははじめて聞いた」とダーニクが低い声で言った。
「これは『アローンの書《*》』だ。王様たちの前だけで話されるのだよ」クラルトが同じく声をひそめて言った。「かつてセンダーの宮廷でそれを聞いた男を知っとった。かれはその一部をおぼえていたよ。しかし全部を聞いたことは一度もない」
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
*この物語より短い浅薄な類似版はいくつか存在し、それらはこのプロローグに使われている改作に似ていた。『アローンの書』ですら、もっと大昔の書物の抄録だといわれる。
[#ここで字下げ終わり]
物語はつづき、魔術師のベルガラスが二千年後にチェレクとその三人の息子を率いて〈珠〉を奪還し、西の国々が建設されてトラクの軍勢にそなえたいきさつが詳細に語られた。神々は〈風の島〉の要塞にたてこもるリヴァを〈珠〉の番人に残して世界から姿を消し、リヴァは巨大な剣をつくってそのつかに〈珠〉をはめこんだ。〈珠〉がそこにあり、リヴァの子孫が王座にすわりつづけるかぎり、トラクに勝ちめはなかった。
次にベルガラスはかわいがっている娘を王たちの母とすべくリヴァのもとに送り、魔術師のしるしを持つもうひとりの娘はベルガラスとともにとどまって、魔術を学んだ。
昔話が終わりに近づくにつれて、老語り部の声はたいそう低くなった。「そしてかれらベルガラスと娘の女魔術師ポルガラは、トラクの逆襲を見張る魔法を二人のあいだで取り決めた。たとえ死の床で襲来の日を迎えようとも、かれらはトラクをはばむだろうと一部では言われている。それというのも、いつか傷ついたトラクがわが身を犠牲にして手に入れた〈珠〉を取り返しに西の王国を攻撃すると予言されており、世界の運命はトラクとリヴァの子孫との戦いにかかっているからだ」
老人はそこまでしゃべると黙りこんでマントが肩からずりおちるにまかせ、物語が終わったことを態度で示した。
大食堂をひとしきり静寂が支配した。それを破るのは消えかけた暖炉の火が数回力なくパチパチと立てる音と、外の夏の暗闇で聞こえるカエルやコオロギのはてしない歌だけだった。
ようやくファルドーが咳払いとともに立ちあがり、椅子が木の床の上で大きくきしんだ。
「ご老人、今夜はすばらしい思いをさせてもらったよ」かれの声は感動のあまりくぐもっていた。「われわれには死ぬまで忘れられない出来事だ。あんたが話してくれたのは王だけが聞ける物語だ。凡人がおいそれと聞けるものではない」
すると老人は青い目をきらめかせてにやりとした。「近頃あまり王様たちとつきあいがないんでね、ファルドー」かれは笑った。「みんな忙しすぎて昔話をきく暇がないらしいし、物語というのは埋もれてしまわないかぎり、ときどきひっぱりだして埃をはたいてやる必要がある――そのうえ、昨今は王様がどこに隠れているのかわからんしな」
それを聞くと全員がどっと笑い、椅子をうしろにひいた。夜もふけて、夜明けとともに起きなくてはならない者にとっては寝る時間だったからだ。
「わしの寝ぐらまで道をランタンで照らしてくれるか、ぼうや?」語り部はガリオンに訊いた。
「よろこんで」ガリオンはとびあがって台所にかけこんだ。四角いガラスのランタンをおろして中のろうそくに台所の埋火のひとつで火をつけると、大食堂にとって返した。
ファルドーが語り部と話をしていた。かれが立ちさったとき、ガリオンは老人と、食堂の奥にまだ立っていたポルおばさんのあいだで妙な目くばせがかわされたのを見た。
「では用意はいいかな、ぼうや?」ガリオンが近づくと老人は言った。
「いつでもいいよ」と、ガリオンは答え、二人は連れだって大食堂を出た。
好奇心ではちきれんばかりのガリオンはさっそくたずねた。「どうしてさっきの話は未完成なの? トラクがリヴァの王様と会って何が起きたか、なぜ話すのをやめたの?」
「それはまた別の話なんだ」老人は説明した。
「いつか話してくれる?」ガリオンはねだった。
老人は笑った。「トラクとリヴァの王はまだ会っていないのさ。だからあまり上手に話せんのだ、そりゃそうだろう?――少なくともかれらが会ってからでないとな」
「だってただのお話なんでしょう?」ガリオンは異議をとなえた。
「そうかな?」老人はチュニックの下からワインの瓶をとりだして、長々とあおった。「どういうのが単なる作り話で、どういうのが作り話に見せかけた実話だなんて、だれにわかる?」
「作り話にきまってるよ」きゅうにまぎれもないセンダー人らしく頑固で実際的な気分になって、ガリオンは断固言いはった。「本当のはずがないもの。それじゃ魔術師のベルガラスは――ものすごい年になっちゃうし、人間はそんなに長生きしないよ」
「七千歳だ」老人は言った。
「え?」
「魔術師ベルガラスは七千歳だ――もう少しいってるかもしれん」
「ありえないよ」
「そうか? おまえはいくつだ?」
「九歳さ――今度の〈エラスタイド〉で」
「すると九年で可能なことと不可能なことを残らず学んだというわけかね? おまえはおどろくべき少年だな、ガリオン!」
ガリオンは赤くなった。なぜかあまり自信がなくなり、口ごもりがちに言った。「だって、ぼくがこれまで聞いた一番の年よりはミルドリン農園のウォルドリクじいさんなんだ。ダーニクの話だと九十歳はこえていて、この地方で一番の年よりなんだ」
「むろん広大な地方なんだろうな」老人はしかつめらしく言った。
「おじいさんはいくつ?」降参したくないので、ガリオンはたずねた。
「相当な年よりだ」
「やっぱりただの作り話だよ」ガリオンは言いはった。
「堅実な善人の多くがそう言うだろうよ」老人は星を見上げた。「――人生を無事にきりぬける善人は自分で見てさわれるものしか信じない。しかし、われわれが見たりさわったりできない世界があるのだ。その世界はそれ自身の掟によって生きている。このごくあたりまえの世界では不可能なことも、そこでは可能なのだ。そしてときには、そのふたつの世界の境界が消えることがある。そのとき可能と不可能の見分けがつけられるかね?」
「ぼくはあたりまえの世界に生きたいと思うよ」ガリオンは言った。「もうひとつのほうはすごく複雑そうだからね」
「われわれには必ずしもその選択権はないのだ、ガリオン」語り部は言った。「やらなければならぬ何か――偉大にして崇高なあること――をするために、そのもうひとつの世界がいつかおまえを選んだとしても、あまり驚かんことだな」
「ぼくを?」ガリオンは信じられずに問い返した。
「それよりもっと不思議なことも起きている。お休み、ぼうや。わしはしばらく星を眺めるとしよう。星とわしは非常に古い友だちなのだ」
「星と?」ガリオンは思わず上を見た。「おじいさんてすごく変わってるね――こんな言い方をしてかまわなければ」
「まったくだ」語り部はうなずいた。「これほどの変人に会うことはまずあるまいよ」
「それでもやっぱりおじいさんが好きだよ」失礼にならないようにガリオンはいそいで言った。
「それはうれしい。さあ、お行き。ポルおばさんが心配しているだろう」
その後眠りについたガリオンの夢は不安に満ちていた。傷のあるトラクの黒い姿が暗がりにぬっと立ちはだかり、ありえることとありえぬことのまじりあいねじれた景色のかなたから、奇怪なものが追いかけてきて、もうひとつの世界が手を伸ばしてかれをつかまえようとした。
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それから数日後の朝、台所をこそこそとかぎまわりつづける老人にたまりかねて、ポルおばさんがいやな顔をしはじめたとき、老人はある用件で近くのアッパー・グラルトの村へ行ってくると言い訳した。
「願ってもないわ」ポルおばさんはいささか無遠慮に言った。「あんたがいないあいだは少なくとも食料品室は安全でしょうからね」
老人はおもしろそうに目をきらめかせてふざけ半分にお辞儀をした。「何か入要なものはないかね、マダム・ポル? ちょっとしたものなら買って来てあげられるよ――どのみちわしの手に届く程度のものだよ」
ポルおばさんはすこし考えた。「香辛料がちょっと減ってきているわね。〈タウン・タヴァン〉の真南のういきょう小路にトルネドラ人の香辛料市場があるのよ。居酒屋《タヴァン》を見つけるのはお手のものでしょう」
「退屈な遠出になりそうだわい」老人は快活に言った。「それにさびしくもある。十リーグの長い道中、話し相手もいない」
「鳥を相手にしたらいいわ」ポルおばさんはそっけなかった。
「聞き手としては悪くないが、やつらのおしゃべりは同じことのくりかえしでたちまちつまらなくなっちまうのさ。その子を道連れにするのはどんなもんだろう?」
ガリオンは固唾をのんだ。
ポルおばさんは辛辣に言った。「この子はひとりでいても悪い癖を山ほど身につけているのよ。くろうとの教えをうけさせたくはないわ」
「マダム・ポル、そりゃ言いがかりだ」老人はほとんどうわの空で揚げ菓子をひとつくすねながら、反論した。「それにな、変化はいい影響を与えるぞ――視野を広げるともいえる」
「ガリオンの視野はじゅうぶん広いわよ、おあいにくさま」
ガリオンの心はしぼんだ。
「だけど」おばさんはつづけた。「かれが一緒に行けば、香辛料を買い忘れたり、あんたがビールで酔っぱらってコショウをクローヴやシナモンやナツメグと混同するのを防いだりする役には立ちそうね。いいでしょう、連れていきなさい。でも、いい、いかがわしい所へ連れこんだら承知しないからね」
「マダム・ポル!」老人はショックをそよおって言った。「そんな場所にわしが出入りしてるか?」
「あんたのことならよく知っているのよ、老いぼれ狼」彼女の口調はとりつくしまもなかった。「アヒルが池を好きなのと同じくらいあんたは自然と不道徳や堕落に魅せられるじゃないの。ガリオンをおかしなところへ連れこんだとわかったら、ただじゃすまないわよ」
「するとそういうことがあんたの耳にはいらんように気をつけなけりゃならんというわけだ」
ポルおばさんはかれをにらみつけた。「どの香辛料が必要か調べるわ」
「そしてわしはファルドーから馬一頭と馬車を借りてこよう」老人はそう言って、またひとつ揚げ菓子を盗んだ。
驚くほど短時間のうちに、ガリオンと老人は早足で進む馬のうしろではねながら、アッパー・グラルトへの砂利道をたどっていた。晴れた夏の朝で、空にはタンポポの綿毛のような雲がうかび、灌木並木の下は深い青にかげっていた。しかし二、三時間もたつと太陽が暑く照りつけて、馬車にゆられているのが退屈になってきた。「もうすぐかな?」ガリオンがそう訊いたのは三度めだった。
「まだしばらくだ」老人は言った。「十リーグはかなりの距離だからな」
「あそこは前にいっぺん行ったことがあるんだ」ガリオンはなにげなく聞こえるように言った。「もちろんそのときはほんの子供だったからあまりおぼえていないけど、すごくいい所だったような気がするよ」
老人は肩をすくめた。「どこにでもあるような村さ」どことなくほかのことに気をとられているようだった。
ガリオンは長い道のりを忘れさせてくれる話をしてもらおうと、質問をはじめた。
「どうしておじいさんには名前がないの――こんなことを訊いて悪くなければ?」
「名前ならたくさんある」老人は白いあごひげをしごいた。「年の数に負けないぐらいな」
「ぼくはひとつだけだ」
「今までのところはな」
「え?」
「今までのところはひとつだけだ」老人は説明した。「やがては別の名を持つかもしれんぞ――ひとつふたつにとどまらないかもしれん。人生を生きていく途中で名前を集める人間もいるのだよ。ときには名前がすりへってしまうこともある――ちょうど服のように」
「ポルおばさんは老いぼれ狼《ウルフ》って呼んでいるね」
「ああ、ポルおばさんとわしは大昔からの知りあいなのさ」
「なぜおばさんはそう呼ぶの?」
「おまえのおばさんのような女性がすることはだれにもわからんよ」
「ミスター・ウルフと呼んでもいいかい?」とガリオンはたずねた。ガリオンにとって名前はきわめて重要だった。老語り部に名前がないらしい事実は、いつもかれを悩ませていた。名前がないと、どことなく老人が不完全で未完成に思われた。
老人はしばらく真顔でガリオンを見つめたあと、いきなり笑いだした。「ミスター・ウルフとはね。いやはやぴったりだ。これまででそれが一番気に入ったよ」
「じゃ、いいの? ミスター・ウルフって呼んで?」
「悪くないぞ、ガリオン。おおいにけっこうだ」
「それじゃ、お話を聞かせてよ、ミスター・ウルフ」
ミスター・ウルフが数世紀におよぶアレンド人の陰気な果てしない市民戦争に材をとっためくるめく冒険と、腹黒い裏切りの話をガリオンに聞かせると、時間も距離もあっというまに経過した。
「どうしてアレンド人はそんなふうなのかな?」とりわけ陰欝な話のあとでガリオンはたずねた。
「アレンド人は非常に気位が高いのだ」ウルフは片手に手綱をいい加減につかんだまま、馬車の座席によりかかった。「気位が高いというのは必ずしも信頼できる特質ではない。曖昧な理由から人間を行動させることがあるからな」
「ランドリグはアレンド人なんだ」ガリオンは言った。「かれはときどき――その、頭があまりよく回らないみたいなんだ、ぼくの言う意味わかるかな」
「それも気位が高いせいさ。下品になるまいとのろのろしているうちに、ほかのことを考える時間がなくなってしまうのだ」
かれらは長い丘の頂上にさしかかった。次の谷にアッパー・グラルトの村が横たわっていた。スレートの屋根を持つ灰色の石造りの小さな村落は、ガリオンにはがっかりするほどちっぽけに見えた。土埃のつもった白い二本の道路が交差し、曲がりくねった数本の細い通りが走っている。家は四角くがっしりしていたが、まるで下方の谷に置かれたおもちゃのようだった。東部センダリアの山並が向こうに見える地平線をぎざぎざに削り、夏だというのにほとんどの山頂はまだ雪をかぶっていた。
くたびれた馬は村をめざしてとぼとぼと丘をくだった。一歩進むごとにひづめが小さな土埃を舞いあげ、まもなくかれらは玉石舗装の通りをがたがたと音をたてて村の中心へ向かった。村人たちはおつにすましていて、農園の馬車に乗った年よりと子供にはむろん目もくれなかった。女たちはドレスを着て先の尖った帽子をかぶり、男たちは丈の短い上着に柔らかいビロードの縁なし帽をかぶっていた。かれらの顔つきは高慢で、町なかでうやうやしく道をあけ、かれらを通す数人の農夫たちを明らかにさげすみの目で見ていた。
「みんなすごくりっぱだね」ガリオンは感想を述べた。
「自分たちでもそう思っているらしいな」ウルフはちょっとおもしろそうな顔をして言った。
「何か食べる物を見つける時間だと思うが、どうだ?」
それまで気づかなかったが、老人にそう言われてみると、ガリオンはきゅうにおなかがすいてきた。「どこへ行くの? だれもかれも大金持ちみたいだけど、見知らぬ人間をテーブルに呼んでくれるかな?」
ウルフは笑って腰にさげた財布をじゃらじゃらゆすった。「知り合いを作る手間は不要だよ。ここには食べ物を金で買う場所があるのさ」
食べ物を買う[#「買う」に傍点]? はじめて聞くことだった。食事どきにファルドーの門にあらわれる者はだれでも当然のように食卓へ招かれた。村人の世界がファルドー農園の世界とまったく異質なのは明らかだった。「でもぼくお金は持ってないよ」ガリオンは口をとがらせた。
「わしがたっぷり二人分持っている」ウルフは少年を安心させると、とある大きな低い建物の前で馬をとめた。ドアの真上にひと房のブドウの絵を描いた看板がかかっている。看板には字が書いてあったが、もちろんガリオンには読めなかった。
「なんて書いてあるの、ミスター・ウルフ?」ガリオンはたずねた。
「中で食べ物と飲み物が買えると書いてあるのさ」ウルフは馬車からおりた。
「字が読めるのってきっといい気分だろうね」ガリオンはうらやましそうに言った。
老人はびっくりしたようにかれを見つめた。「おまえには読めんのか、ぼうや?」信じられんというように訊いた。
「教えてくれる人がいなかったんだ。ファルドーは読めるんだろうけど、農園じゃほかのだれも読み方を知らないんだ」
「なんたることだ」ウルフは鼻をならした。「おまえのおばさんに話しておこう。彼女は義務を怠っておる。とっくに教えているべきだったのだ」
「ポルおばさんて字が読めるの?」ガリオンは呆気にとられてたずねた。
「読めるとも」ウルフは先に立って居酒屋へはいっていった。「字が読めてもろくなことはないと彼女は言うが、それについてはずっと前にさんざん話しあったのだ」老人はガリオンの教育の欠陥にいたく動転しているようだった。
だがガリオンは空気のよどんだ居酒屋の内部にすっかり気をとられていたので、それにはあまり注意を払わなかった。店内は広くて薄暗く、天井の梁は低くて石の床にはイグサがちらばっていた。寒くはなかったが、中央の石のくぼみに火が燃えて、四本の四角い石柱が支える煙突のほうへ煙がふわふわと昇っていた。数台の細長いしみだらけのテーブルの上に土焼きの皿がのっていて、その中に獣脂のろうそくの脂がしたたっており、ワインと気のぬけたビールの匂いが空中にたちこめていた。
「食べ物は何がある?」ウルフは脂のしみだらけのエプロンをした仏頂面の不精ひげを生やした男に問いかけた。
「骨付き肉が残ってるよ」男は暖炉の片側で停止している焼串を指さした。「おとといローストしたばかりだ。それにきのうの朝こしらえた肉がゆと、ほんの一週間前のパンもある」
「よかろう」ウルフは腰をおろして言った。「それとわしにはここで一番上等のビール、この子にはミルクだ」
「ミルク?」ガリオンは文句を言った。
「ミルクだ」ウルフは断固たる口調で言った。
「金はあるのかい?」仏頂面の男が問いただした。
ウルフが財布をじゃらつかせると、男はにわかに表情をやわらげた。
「あの人はどうしてあそこで寝ているの?」ガリオンはテーブルのひとつにつっぷしていびきをかいている村人を指さした。
「酔っぱらっているのだ」ウルフは高いびきの男をろくに見もせずに答えた。
「だれか介抱してあげたほうがいいんじゃない?」
「むしろそっとしておいてもらいたいんだよ」
「あの人を知ってるの?」
「あの男もああいうやからもたくさん知っているさ。わし自身ときどきああなったからな」
「どうして?」
「そのときはそれがふさわしいことに思えたんだ」
焼き肉は焼きすぎでパサパサしており、肉がゆは水っぽく、パンはかび臭かったが、ガリオンは腹ぺこで気づかなかった。教えられているとおりに皿をきれいにパンでぬぐうと、かれはミスター・ウルフが二杯めのビールをちびちび飲むあいだおとなしく坐っていた。
「とてもおいしかったよ」本心というより何かを言う必要にかられて、ガリオンは言った。アッパー・グラルトは総じて期待はずれだった。
「こんなもんだろうよ」ウルフは肩をすくめた。「村の居酒屋は世界中どこでも似たりよったりだ。また行きたいと思わせるものにはめったにお目にかからん。さて、行くか?」かれはコインを数枚置いた。仏頂面の男がそれをつかんだ。ウルフはガリオンを連れて再び午後の陽ざしの中へ戻った。
「おばさんの言った香辛料の商人を見つけよう。それから一晩の宿泊所と――馬を休ませる厩をさがす」かれらは居酒屋のわきに馬車を残して通りを歩きだした。
トルネドラ人の香辛料商人の家は、次の通りにあるのっぽの建物だった。短いチュニックを着た浅黒いがっしりした男が二人、通りにたむろしており、店の正面ドアの近くには、奇妙な武装した鞍をつけた獰猛そうな黒い馬が一頭立っていた。
かれらを見るなりミスター・ウルフは足をとめた。
「どうかしたの?」
「タール人だ」ウルフは静かに言って、二人の男をじっと見た。
「え?」
「あの二人はタール人だ。通常マーゴ人の人足として働いている」
「マーゴ人て?」
「クトル・マーゴスに住む連中のことさ」ウルフは短く言った。「南部アンガラク人だ」
「〈ボー・ミンブルの戦い〉でぼくたちがやっつけた? どうしてあいつらがここにいるんだろう?」
「マーゴ人は商売をはじめたのだ」ウルフは眉をひそめた。「それにしても、こんな人里離れた村で見かけるとは思わなかった。中へはいったほうがいい。あのタール人たちはわしらを見ていた。今回れ右をしてひき返したら変に見えるだろう。わしのそばを離れるんじゃないぞ、ぼうや、何もしゃべるな」
かれらはいかつい二人の男の前を通って、香辛料商人の店にはいった。
店主のトルネドラ人は床まで届く茶色の帯つきのガウンをはおった、やせた禿頭の男だった。かれは神経質に目の前のカウンターの上で、ツンとする匂いの粉包み数個の重さを計っているところだった。
「いらっしゃい」店主はウルフに声をかけた。「少しお待ちを。すぐにすみますから」その舌たらずなしゃべりかたがガリオンには奇異に思えた。
「ごゆっくり」ウルフはしわがれ声でぜいぜいと言った。すばやく老人に目をやったガリオンは、かれが背を丸め、愚かしげに首を上下させているのを見てびっくりした。
「そっちを先にすませてやれ」店内にいたもうひとりの人物が短く言った。鎖かたびらをつけた浅黒くがっしりした男で、腰には短剣をさしている。頬骨がはった顔には残忍な傷跡がいくつも残っていた。目は妙に険しく、声は耳ざわりで、強いアクセントがある。
「急ぎませんから」ウルフは先刻のがらがら声で言った。
「おれの用件はかなり時間がかかるんだ」マーゴ人は冷淡に言った。「せかされるのは好まん。買う物を店主に言うんだ、じいさん」
「では、お言葉に甘えさしてもらいますわ」ウルフはしわがれ声で言った。「どっかにリストがあるはずじゃ」かれはのそのそとポケットをまさぐりはじめた。「わしとこの主人が書いたんじゃが、わしは読めんで、あんたに読めるといいんじゃが」ようやく一覧表を見つけて、トルネドラ人にさしだした。
店主はそれを一瞥すると、「これならすぐにすみますよ」とマーゴ人に言った。
マーゴ人はうなずいて、ウルフとガリオンを無表情に凝視した。と、その目がかすかに細まり、表情が変化した。「礼儀正しそうな子供だな。名前は?」男はガリオンに言った。
その瞬間まで、ガリオンは生まれてから一度も嘘をついたことのない正直な少年だった。だがウルフの態度は、ごまかしといつわりの世界をそっくりかれの目の前にくり広げていた。頭のどこか奥のほうで警告の声が聞こえたような気がした。乾いた冷静な声が、これが危険な状態で、身を守る手段をとるべきであることを忠告している。ガリオンはぽかんと口をあけ、頭のからっぽなまぬけの表情をよそおった。「ランドリグだ、だんなさま」ともぐもぐ言った。
「アレンド人の名だな」マーゴ人の目が一段と細まった。「おまえはアレンド人には見えん」
ガリオンは口をあけて男を見た。
「おまえはアレンド人か、ランドリグ?」マーゴ人は重ねて問いつめた。
目まぐるしく頭を働かせながら、ガリオンは考えをまとめようとするかのように顔をしかめた。乾いた声がいくつかの代案をささやいた。
「おとうさんはアレンド人だった」とかれはやっと言った。「でもおかあさんはセンダー人で、ぼくはおかあさん似だっていわれる」
「アレンド人だったと言ったな」マーゴ人はすばやく言った。「すると父親は死んだのか?」傷跡のある顔は真剣だった。
ガリオンはばかみたいにこっくりした。
「伐ってた木が倒れてきたんだ」と嘘をついた。「うんと昔のことだよ」
マーゴ人は急に興味をなくしたようだった。「そら、銅貨をやろう、小僧」と無関心に小さなコインをガリオンの足元に投げた。「トラクの神の肖像が刻印されているものだ。おまえに幸運を運んでくれるかもしれん――あるいはせめてもう少し知恵をな」
ウルフがすばやく身をかがめてコインをひったくったが、かれがガリオンに渡したのはただのセンダリア銅貨だった。
「お礼を申しあげろ、ランドリグ」ウルフはぜいぜいと言った。
「ありがとう、だんなさま」ガリオンはその銅貨をきつく握りしめて隠しながら言った。
マーゴ人は肩をすくめて横を向いた。
ウルフはトルネドラ人の店主に香辛料の代金を払い、ガリオンと店を出た。
「あぶないゲームをしたもんだ」二人のタール人の耳にはいらないところまでくると、ウルフが言った。
「ぼくたち二人の正体をあいつに知られたくなさそうだったからさ」ガリオンは説明した。「なぜかはわからなかったけど、ミスター・ウルフと同じようにすべきだと思ったんだ。ぼくのしたことまちがってた?」
「おまえはじつにのみこみが早い」ウルフは感心したようだった。「うまくマーゴ人をごまかせたよ」
「なぜコインをとりかえたの?」
「アンガラクのコインは見かけどおりのものじゃないことがある。おまえは持っていないほうがいい。馬車をとりにいこう。ファルドー農園に戻るのは長い道のりだ」
「今夜は宿に泊まるんだと思ったよ」
「状況が変わったのだ。さあ、いこう、ぼうや。出発の時間だ」
馬は疲労が激しく、前方に陽が沈むころ、アッパー・グラルトを出てのろのろと長い丘をのぼった。
「どうしてアンガラクの銅貨を持たせたくないの、ミスター・ウルフ?」ガリオンはしつこくたずねた。そのことがまだ頭にひっかかっていた。
「この世界にはこうと見えて、じつはちがうものがたくさんあるのだ」ウルフはなぜかむっつりと言った。「わしはアンガラク人を信用しない、とりわけマーゴ人は信用ならん。おまえがトラクの肖像のついたものを持ったことがないなら、それにこしたことはないのだよ」
「でも、西部とアンガラク人との戦いが終わってからもう五百年になるんでしょう」ガリオンは反論した。「みんなそう言ってるよ」
「みんな[#「みんな」に傍点]ではない。さ、馬車のうしろから毛布をだしてくるまるんだ。おまえが風邪でもひいたら、おばさんはわしを許してくれんからな」
「そうしろって言うならそうするよ。でも、ちっとも寒くないし、眠くもないんだ。向こうにつくまでずっと相手をするよ」
「そいつはうれしい」
ガリオンはしばらくしてから言った。「ミスター・ウルフ、ぼくのおかあさんとおとうさんを知ってた?」
「ああ」ウルフは静かに言った。
「おとうさんも死んだの?」
「残念だがそうだ」
ガリオンは大きな溜息をついた。「やっぱりそうか。両親のことをおぼえていたらなあ。ポルおばさんの話だと、そのときぼくはほんの赤ん坊だったんだ――」ガリオンは言葉に詰まった。「おかあさんを思いだそうとしたけど、だめだった」
「おまえはとても小さかったのだ」
「どんな人たちだったの?」
ウルフはあごひげをしごいた。「平凡だった。二人とも目立たないごく平凡な人間だった」
ガリオンは反撥した。「ポルおばさんはぼくのおかあさんはとてもきれいだったと言ったよ」
「そうとも」
「それじゃどうして目立たなかったなんて言うの?」
「とりたててすぐれていたわけでも、重要でもなかったということだ。おとうさんもそうだった。二人を見た者はだれでも素朴な村人の一家だと考えた――若い夫と若い妻と赤ん坊――それが人々の印象だった。そうであるべきだったのだ」
「わからないな」
「とても複雑なんだよ」
「おとうさんはどんな人だった?」
「中肉中背で、黒髪で、大変まじめな若者だった。わしはおまえのとうさんが好きだった」
「ぼくのおかあさんを愛してた?」
「どんなものよりもな」
「そしてぼくも?」
「もちろんだ」
「三人はどんなところに住んでいたの?」
「あれはこじんまりした家だった。主要道路から遠く離れた山のそばの小さな村だ。通りのつきあたりに二人は小さな田舎家をかまえた。小さいが頑丈な家だった。おまえのおとうさんが自分で建てたのだ――かれは石切り工だったのだよ。たまに近くまで行くと、わしはそこに立ち寄ったものさ」老人の声が単調につづいて村や家やそこに暮らしていた二人を説明した。じっと耳を傾けていたガリオンはいつしか眠りこんだ。
明け方近い時刻だったにちがいない。少年は自分が馬車から抱きおろされて二階へ運ばれるのを夢うつつで感じた。老人は驚くほどたくましかった。ポルおばさんがいた――目をつむっていてもそれはわかった。おばさんのまわりには暗い部屋にいてもわかる独特の匂いが漂っている。
「ふとんをかけておやり」ミスター・ウルフが低い声でポルおばさんに言った。「今起こさないのが一番だ」
「何があったの?」ポルおばさんが訊いた。老人同様おばさんも声をひそめていた。
「町にマーゴ人がいたんだ――香辛料商人の店に。そいつはあれこれ質問をして、あの子にアンガラクの銅貨をやろうとした」
「アッパー・グラルトに? その男はたしかにただのマーゴ人だったの?」
「それはわからん。いくらわしでもマーゴ人とグロリム人のはっきりした区別はつかんよ」
「そのコインはどうなって?」
「すばやくわしが拾った。あの子にはかわりにセンダリア銅貨を与えたよ。もしあのマーゴがグロリムなら、わしのあとを追わせようじゃないか。数ヵ月はまちがいなく楽しませてやれるぞ」
「では、行ってしまうの?」ポルおばさんの声はなぜかさみしげだった。
「しおどきだ」ウルフが言った。「あの子は今のところここにいればまず安全だし、わしはこの国を出なければならん。とりかからねばならんことがあるのだ。マーゴどもが人里離れた場所にあらわれると、胸が騒ぎはじめる。われわれははかりしれぬ責任と務めをかかえている。油断は許されない」
「長く留守にするの?」
「数年というところだろう。調べなくてはならんことが多くあるし、会わねばならん人が大勢いる」
「心細いわ」ポルおばさんはそっと言った。
老人は笑った。「感傷か、ポル? おまえらしくもない」ウルフはそっけなく言った。
「わたしの言う意味、わかっているでしょう。あなたや他のみんなに与えられたこの仕事にわたしは向いていないのよ。幼い男の子の養育について、わたしが何を知っていて?」
「おまえはよくやっとるよ。あの子から目を離さんことだ。そしてかれの性格にひっぱりまわされてヒステリーを起こさんようにな。注意しろ、あの子は堂々たる嘘をつくぞ」
「ガリオンが?」ショックをうけた声だった。
「このわしですら感心するような嘘を例のマーゴ人につきおった」
「ガリオンが?」
「両親のことも質問しはじめたよ。おまえはどこまで話したんだね?」
「ほんの少しよ。かれらが死んだことだけ」
「さしあたってはその程度にとどめておこう。まだうまく乗り越えられる年齢でもないのに詳しい話をしたところで意味がない」
二人の話し声はつづいていたが、ガリオンは再びうとうとしはじめ、九割がた、これはみんな夢なんだと考えた。
しかし翌朝目をさますと、ミスター・ウルフはいなくなっていた。
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いつものように季節はめぐった。夏が熟して秋になり、秋の陽光が薄れて冬になり、冬がせっかちな春にしぶしぶ道をゆずり、そして再び春が咲きほころんで夏になった。めぐる季節とともに歳月がたち、ガリオンも少し大人になった。
かれの成長につれて他の子供たちも大きくなった――あわれなドルーンだけが例外で、かれは生涯小さなやせっぽちであることを運命づけられているようだった。ランドリグは若木のように背が伸び、まもなく農園の男たちとたいして変わらない背丈になった。ズブレットは身長こそあまり伸びなかったが、他の部分で発育して少年たちの興味をかきたてはじめた。
十四歳の誕生日を目前にした初秋のこと、ガリオンはあやうく人生にピリオドをうちそうになった。池と手ごろな丸太を与えられた子供ならだれもが持つような衝動にかられて、かれらはその夏いかだをこしらえていた。それはたいして大きくもなく、特に頑丈にできてもいなかった。上に乗った者の重量のバランスがとれていないと片側が沈みがちだったし、思いもよらぬときにバラバラになる危険な癖があった。
そのいかだが突如として、もとの丸太の状態に戻る決意をしたのは、その晴れた秋の日のことで、そのとき――これみよがしに――いかだに乗っていたのはもちろんガリオンだった。丸太どうしをつないでいた紐が一本残らず切れて、いかだがバラバラになりだしたのだ。
もう手遅れというときになってやっと危険に気づいたガリオンは岸へいかだをつけようと死に物狂いの努力をしたが、あせってかえっていかだの分解を早めただけだった。しまいには足元の丸太はたったの一本になり、かれは両腕をやみくもにふりまわしてバランスをとろうとむなしい努力をした。助けを求めて、狂ったようにじめじめした岸辺に目を走らせたそのとき、遊び仲間がいるうしろの斜面のずっと上に、黒い馬にまたがった例の男の姿が見えた。黒マントの男は少年の窮地をくいいるように見ていた。次の瞬間、足の下でいじわるな丸太が回転し、ガリオンは水しぶきとともに水中にころげ落ちた。
あいにくガリオンが受けた教育の中に水泳の知識は含まれていなかった。水はじっさいはそれほど深くはなかったが、泳げない者にとってはじゅうぶんな深さだった。
池の底はひどく気味が悪かった。薄暗くじくじくした藻草の群れにカエルやカメが住みつき、ガリオンが沈む小石のように藻の中につっこんだとき、いやらしい恰好のウナギが一匹、ヘビみたいに身をくねらせて逃げていった。ガリオンはもがいた拍子に水をのみ、足で底をけって再び水面にあがった。浮上するクジラよろしく水面をつき破って、せわしなく咳こむような息を数回したとき、仲間の叫び声が聞こえた。斜面の上の黒い姿は動いていなかった。ほんのまたたきの一瞬に、その明るい午後のこまかい情景が残らずガリオンの脳裏に刻まれた。秋の強い陽ざしに全身を曝《さら》しているのに、男にも馬にも影がないことにさえかれは気づいた。そのありえない事実を理解しようとしつつ、ガリオンは再び暗い水底に沈んだ。
溺れて藻のあいだでもがきながら、丸太のそばに浮きあがれば、それにつかまって浮かんでいられるかもしれないと思いついた。ガリオンはびっくり顔のカエルを払いのけてまた上へジャンプした。ところが運悪く、浮上したところは丸太の真下だった。頭のてっぺんに衝撃がつたわって目の前が赤くなり、耳鳴りがした。ガリオンをうけとめようと手を伸ばしている藻草の方へ、かれは死んだように沈んでいった。
そのとき、ダーニクがあらわれた。ガリオンは髪の毛を乱暴につかまれて持ちあげられ、力強く水をかくダーニクにそのまま岸へひきずられていくのを感じた。鍛冶屋はなかば気を失っている少年を土手にひきあげると、仰向けにして胸を何度か足で踏み、むりやり肺から水を押しだした。
ガリオンの肋骨がキィキィ鳴った。「もういいよ、ダーニク」かれは喘ぎ喘ぎやっと言って起きあがった。頭のてっぺんのみごとな裂傷から血が流れてたちまち目にはいった。ガリオンは血をぬぐうと、影のない黒い騎手を捜してあたりを見まわしたが、男は消えていた。立ちあがろうとしたが、ふいに世界がぐるぐるまわって、ガリオンは気を失った。
目がさめると、頭に包帯を巻かれて自分のベッドに寝ていた。
ポルおばさんがベッドのわきに立っていた。目が怒っている。「ばかな子だよ!」おばさんは叫んだ。「あの池で何をしていたの?」
「いかだ乗りさ」ガリオンはなにげないふうに言った。
「いかだ乗り? いかだ乗り[#「いかだ乗り」に傍点]ですって? だれがそんなことをしていいと言いました?」
「だって――」ガリオンは口ごもった。「ぼくたちはただ――」
「ただなんなの?」
かれは弱々しくおばさんを見た。
するとおばさんは低い泣き声をあげて、息がつまるほど固くガリオンを抱きしめた。
池でもがいている自分を見つめていた影のない不思議な姿のことを話そうかと一瞬考えたが、ときどき話しかけてくる頭の中の乾いた声が今はその時期ではないと忠告した。かれは黒馬の男と自分のあいだの問題がきわめて個人的な何かであって、意志か行動をきそいあうような方法で対峙するときがいずれくるのをなぜか知っているような気がした。今ポルおばさんにそれを話せば、おばさんをその問題にまきこむことになるし、それはしたくなかった。なぜかはっきりとではないが、ガリオンは黒い姿が敵であることを知っていた。そう考えると少し恐ろしかったが、同時にそれは胸おどることでもあった。いうまでもなくポルおばさんならあの見知らぬ男をやっつけられるだろう。だがおばさんが手を出したら、ごく個人的で、なぜだかきわめて重要な何かを自分は失ってしまうにちがいない。そう思ったガリオンは黙っていることにした。
「ほんとにそれほど危くはなかったんだよ、ポルおばさん」かわりにかれはぎくしゃくと言った。「泳ぎかたがわかりだしていたところだったんだ。あの丸太に頭をぶつけなかったら、どうってことなかったよ」
「でも実際に頭をぶつけたじゃないの」おばさんは指摘した。
「まあ、そうだね。だけどそんなに深刻じゃなかったんだ。あと一、二分あればなんとかなったさ」
「あの状況で、あなたに一、二分の余裕があったとは思えないわね」おばさんはぶっきらぼうに言った。
「でもさ――」ガリオンは言葉につまり、しゃべるのをあきらめた。
それがガリオンの自由の終わりだった。かれは台所のなべというなべのへこみやひっ掻き傷とねんごろになった。一度、ふてくされて計算してみたら、なべ一個につき週二十一回も洗っている勘定になった。もっともらしく台所をとりちらかしたポルおばさんが、きゅうに少なくても三、四個はなべをよごさないとお湯もわかせなくなり、いちいちかれが洗わなくてはならないからだった。ガリオンはほとほといやになって、逃げだすことを本気で考えはじめた。
秋が深まって天気が悪くなりだすと、子供たちもたいがい建物にひきこもった。それもそう悪くなかった。ランドリグだけはもうめったに子供の仲間入りはしなかった。大人並の体格がかれを――ガリオン以上に――ひんぴんと労働へ駆りだしたからである。
働かなくてもいいとき、ガリオンはズブレットやドルーンとこっそり戸外へぬけだしたが、干草の山にとびこむのも、厩や納屋でのはてしない鬼ごっこも、もうあまりおもしろくなかった。かれらは年齢的にも、肉体的にも、大人たちがそういう手持ちぶさたなようすにたちまち気づいて、ろくでもないことをさせないために仕事をあてがう時期に達していた。たいていは、どこか人目につかない場所に坐りこんで、ただ話をするのが習慣になっていた――といってもじっさいは、ガリオンとズブレットがえんえんとつづくドルーンのおしゃべりを聞くのだった。小柄でせっかちなその少年はじっと坐っていることがまったくできないのと同じように、半ダースの雨つぶについて何時間でもしゃべっていられるらしく、気がせくと息もつかずに言葉をほとばしらせた。
「あんたの手のそのマークはなんなの?」ある雨の日、とうとうと流れるドルーンの声をさえぎってズブレットが訊いた。
ガリオンは右のてのひらにあるまん丸い白い跡を見つめた。
「ぼくもそれには気づいてたぜ」ドルーンが話の途中ですばやく話題を変えながら言った。「でもさ、ガリオンは台所で育ったろう、な、ガリオン? だからたぶん小さいときに火傷したんだよ――だれかがとめるまもなく何か熱いものにさわるかなんかしてさ。きっとポルおばさんはすごく怒ったよ。あの人ほどすぐ怒る人は見たことないもんな。それに――」
「ずっと前からあるんだ」ガリオンは左手の人さし指でてのひらのマークをなぞった。これまでよく見たことはなかったが、それはてのひら全部をおおっており、かすかな光の中でうっすら銀色に輝いていた。
「あざかもしれないわ」ズブレットが言った。
「きっとそうだよ」ドルーンが間髪を入れずに言った。「一度顔の片側に大きな紫色のあざのある男を見たことがあるんだ――秋になるとカブラを積みに寄る馬車の御者たちの一人でさ――とにかく、顔半分にベタッとあざがついてるもんで、はじめはでっかい傷跡で大喧嘩でもやらかしたんだと思ったんだ――御者連中はしょっちゅう喧嘩してるからな――でも、そのうちそれが怪我のあとじゃなくで――ズブレットが言ったように――あざだってことがわかった。なにが原因であんなのができるのかな」
その夜、ベッドにはいる仕度ができてからガリオンはおばさんに訊いてみた。「ポルおばさん、このマークは何かな?」てのひらを外にして片手をあげた。
長い黒髪にブラシをあてていたおばさんは目をあげた。「心配するようなものじゃないわ」
「心配なんかしていないさ。ただなんなのかと思ったんだ。ズブレットやドルーンはあざだと思っているけど、そうなの?」
「そんなようなものね」
「ぼくの両親のどちらかに同じようなマークがあった?」
「おとうさんにね。昔から家族に伝わるしるしなのよ」
ふいにガリオンは妙なことを思いついた。理由もわからぬまま、かれはその手を伸ばしておばさんの額の生えぎわの白いひとすじの髪にふれた。「この白い部分のようなもの?」
きゅうに手がちくちくし、頭の中で窓が開くような気がした。はじめは、無限の歳月がうねりたつ雲海のように動いていく感覚しかなかったが、やがて、はてしなくくり返される喪失と悲嘆の念がどんなナイフよりも鋭く迫ってきた。次に、歳月が現在に近づき、ガリオン自身の顔があらわれ、その背後にもっとたくさんの顔が、年老いた顔、若い顔、堂々たる、あるいはごく平凡な顔があらわれ、それらすべてのうしろに、ときおりうかべる愚かしげな表情をぬぐいさったミスター・ウルフの顔が見えた。だが何よりもそこには、この世のものならぬ人間ばなれした力の知識と、征服されざる確固たる意志があった。
ポルおばさんが放心したように頭をどけた。「よしなさい、ガリオン」するとかれの頭の中で窓がしまった。
「今のはなんだったの?」ガリオンは好奇心にかられてたずねた。もう一度窓をあけたかった。
「ただの手品よ」
「どうやるのか教えてよ」
「まだだめよ、ガリオン」おばさんはかれの顔を両手ではさんだ。「まだだめ。あなたにはまだ準備ができていないわ。もうお休みなさい」
「ここにいてくれる?」少しこわくなってガリオンは訊いた。
「いつでもいるわ」そう言ってかれを抱くと、おばさんは再び長い豊かな髪を梳《す》きながら、低い旋律の美しい声でいつものように不思議な歌を口ずさんだ。それを聞きながらガリオンは眠りにおちた。
それ以後は当のガリオン自身、あまりてのひらのマークを見なかった。にわかにあらゆるたぐいのよごれ仕事がふえ、両手はもちろんのこと身体の他の部分までよごれっぱなしだったからだ。
センダリアの――そして西部の諸王国の――もっとも大事な祝日は、〈エラスタイド〉だった。はるか昔、七人の神々が力を合わせ、ただのひとことで世界を創造した記念の日なのだ。
〈エラスタイド〉の祭りは真冬におこなわれた。ファルドー農園のような農場はその季節、ほとんどすることがないために、習慣上その時期は飾りつけた大食堂でごちそうを食べ、贈り物をもらい、神々をたたえるお芝居をする二週間のすばらしい祝祭になっていた。この最後のお芝居はいうまでもなくファルドーの信心深さの反映だった。ファルドーは単純な善人だったが、農園の雇い人たちのあいだに自分の信心がどのくらい浸透しているかについてはなんの幻想も持っていなかった。ただ、敬虔な行為を目に見える形で示すことが、その季節にはふさわしいと考えていたのである。そしてまことに良い主人であったから、農園の人々は喜んでファルドーに調子を合わせた。
ファルドーの嫁いだ娘アンヘルダのその夫のエイルブリッグが、言葉を交わす程度の父親との仲を保つために、年に一度きまって訪れるのもまた、あいにくとこの季節だった。アンヘルダには無関心をよそおって相続権をあやうくする気はさらさらなかった。しかし彼女の訪問はファルドーにとってはひとつの試練だった。センダリアの首都にある商館の下級店員のくせに、けばけばしい身なりをした高慢ちきな娘婿を見るとき、かれはほとんど軽蔑を隠さなかった。
だがかれらの到着はファルドー農園の〈エラスタイド〉の祭りがはじまるしるしだったから、個人的にはだれひとり二人に好意を持っていないにもかかわらず、かれらの出現は常に熱っぽく迎えられた。
その年の天候は――センダリアにしては――ことのほか険悪だった。早々と腰をすえてふりつづいていた雨がたちまち雪になり、ベタ雪の時期が到来した――晩冬に降る乾いてきらきらした粉雪とちがって、いつも半分とけた湿った雪だった。今や台所の義務にしばられて、以前の遊び仲間と祝日前の期待にみちた乱痴気騒ぎにも加われないガリオンにとって、きたるべき祝日はなぜか味気なく、気のぬけたものに思えた。かれは古き良き日々をなつかしみ、しばしば恨みの嘆息をもらしては砂色の髪をした不運の暗雲のように、むっつりと台所を歩きまわった。
〈エラスタイド〉の祭りがいつもおこなわれる大食堂の昔ながらの飾りつけすら、その年のガリオンにはどうしようもなくみすぼらしく思えた。天井の梁を花綱で飾っているモミの枝はなんとなく緑がさえなかったし、ぴかぴかに磨かれて注意深く枝に結びつけられたリンゴは、いつもより小さくて赤味に乏しかった。かれはまたもや溜息をつき、ふてくされてひたすら台所を歩きまわった。
しかしポルおばさんは一向に意に介さず、同情のそぶりも見せなかった。判で押したようにガリオンの額に手をあてて熱のあるなしを診てから、調合できるなかで最高にまずい強壮剤を彼に飲ませた。それからというものガリオンはこっそり歩き、聞こえないように吐息をつくように心がけた。あの乾いた謎の頭の一部はそっけなくおまえはどうかしているのだと告げていたが、ガリオンは耳を貸そうとしなかった。頭の中の声はかれよりもずっと大人びて賢明だったが、人生から一切の楽しみを奪おうと決めているようだった。
〈エラスタイド〉の朝、一人のマーゴ人と五人のタール人が門の外に馬車であらわれ、ファルドーに面会を求めた。ただの子供にはだれも注目しないことや、多くのおもしろい事柄を小耳にはさむには、なにげなく盗みぎきできる場所にいるにかぎることをはやばやと学んでいたガリオンは、門のそばでどうでもいいはんぱ仕事にせっせと精を出した。
そのマーゴ人はアッパー・グラルトにいたマーゴ人そっくりの傷だらけの顔をして、馬車の座席に偉そうに坐っていた。鎖かたびらのシャツが動くたびにジャラジャラ音をたてた。頭巾のついた黒マントをはおり、剣がよく見えた。何ひとつ見落とすまいというようにその目はたえず動いていた。泥だらけのフェルトのブーツにぶあつい外套姿のタール人たちは、雪原を吹きわたる風にも無頓着そうに馬車を背にして無関心にぶらぶらしていた。
一番上等の上着を着たファルドーが――なんといっても〈エラスタイド〉なのだから――中庭を横ぎってきた。うしろにアンヘルダとエイルブリッグがくっついている。
「おはようございます。楽しい〈エラスタイド〉を」とファルドーはマーゴ人に言った。
マーゴ人は鼻をならした。「あんたが農夫のファルドーか?」と強いアクセントのある声で訊いた。
「さようで」
「保存状態のいい相当量のハムが手元にあるそうだな」
「豚が今年はよかったもので」ファルドーはひかえめに答えた。
「そいつを買いたい」マーゴ人は財布をじゃらつかせて言った。
ファルドーは頭を下げた。「明朝一番にお売りしましょう」
マーゴ人は農園主を見すえた。
「ここは敬虔な農園でございましてな」とファルドーは説明した。「〈エラスタイド〉の神聖を犯して神々を怒らせるようなことはいたしませんのです」
アンヘルダがかみつくようにいった。「おとうさん、ばかはよして。このりっぱな方は商用で遠路はるばるおいでになったのよ」
「〈エラスタイド〉に仕事はせん」ファルドーは頑固に言った。長い顔にためらいはいささかもなかった。
「センダリアの都じゃ、そういう感傷で仕事をフイにしたりしませんがね」エイルブリッグがやや甲高い鼻声で口をはさんだ。
「ここはセンダリアの都ではない」ファルドーはそっけなかった。「ここはファルドー農園だ。ファルドー農園では〈エラスタイド〉には働かないし、取引きもしない」
アンヘルダが抗議した。「おとうさん、この方は金貨を持っているのよ。金貨よ、おとうさん、金貨[#「金貨」に傍点]!」
「それ以上は聞かん」ファルドーはきっぱりそう言うと、マーゴ人に向き直った。「あなたと召使いのみなさんを喜んでわしらの祝祭にお迎えいたしましょう。宿泊所も提供できるし、センダリア一うまい夕食もお約束できます。この特別の日に神々をたたえるよい機会です。宗教的義務に出席して損をするわけがありませんよ」
「クトル・マーゴスでは今日を祝日とはみなさん」顔に傷のある男は冷たく言った。「そちらのご婦人の言うとおり、わたしははるばる商売をしにやってきたのだ。ぐずぐずしている暇はない。わたしの求める品を売る農夫はこの地方にほかにもいるはずだ」
「おとうさんてば!」アンヘルダが泣きついた。
「隣人たちのことはわたしが知っていますよ」ファルドーは静かに言った。「きょうのあなたはツイていないと思いますな。本日の祝祭はこの地方では根強い伝統なのです」
マーゴ人はしばらく考えたあげく言った。「あんたの言うとおりかもしれんな。明日できるだけ早い時間に売買ができるならば、招待をうけるとしよう」
ファルドーは一礼した。「お望みなら、このわたしが夜明けと同時に立ち会いましょう」
「それでは決まった」マーゴ人はそう言って馬車からおりた。
その午後、大食堂にごちそうが並べられた。特別な日のための盛りつけにおおわらわだった台所の下働きたちや他六人が、もれなくポルおばさんの舌の検閲にパスしたあつあつの焙り肉や、湯気のたつハム、じゅうじゅう脂をしたたらせているガチョウを持って、台所から食堂へ走りでた。牛の巨大な腰肉と格闘しながら、ガリオンは〈エラスタイド〉には働くべからずというファルドーの禁止令が台所の戸口からこっちには関係がないことに気づいてふくれっ面をした。
そのうちすべての準備がととのった。テーブルはごちそうを満載し、暖炉には火があかあかと燃えて、たくさんのろうそくが金色の光で大食堂を満たし、松明が石柱にとりつけらえた環の中でひらめいた。ファルドーの使用人たちが全員一張羅を着て、期待によだれをたらさんばかりにしずしずと大食堂にはいってきた。
一人残らず着席すると、中央のテーブルの上座にいたファルドーが起立した。かれはジョッキを持ちあげて言った。「さあ、みんな、このごちそうを神々に捧げよう」
「神々に」人々は一斉に応じて、うやうやしく立ちあがった。
ファルドーがジョッキに軽く口をつけると、全員がそれにならった。「お聞きください、神神よ」ファルドーは祈りの言葉を述べた。「われわれはきょうの日にあなたがたがおつくりくださったこの美しい世界の恵みに心より感謝し、さらに一年間、あなたがたのためにわが身を捧げるものといたします」少しのあいだもっとしゃべるつもりのように見えたが、ファルドーは次の瞬間腰をおろした。このような機会にそなえて、いつもかれは何時間も特別の祈りの文句を練習するのだが、人々の前でしゃべる苦痛が、念入りに準備した言葉をいつもかれの心からかき消してしまうのだった。そんなわけで、ファルドーの祈りはいつでも大変心がこもっていて、また大変短かかった。
「さあ食べてくれ、みんな」ファルドーは指示した。「さめてしまってはしようがない」
そこでかれらは食べた。ファルドーのたっての希望でこの食事だけは一同とともにすることになったアンヘルダとエイルブリックは、もっぱらマーゴ人と話を交わすことに努めた。かれらにとって注意に値するのは大食堂の中でかれだけだったからである。
「以前からわたしはクトル・マーゴスを訪れようと思っているんですよ」エイルブリックはややもったいぶって言った。「東西間の交流がもっとさかんになれば、過去のわれわれの関係をぶちこわした相互不信も消えるんだ、そうじゃありませんか?」
「われわれマーゴ人は交際ぎらいでね」顔に傷のある男はそっけなく言った。
「しかしあなたはここにいる」エイルブリックは指摘した。「それはよりさかんな交流が結局は有益だということじゃないですか?」
「わたしは仕事でここにいるんだ。好きできているんじゃない」マーゴ人は食堂を見まわしてファルドーにたずねた。「するとあんたの使用人はこれで全部かね?」
「ひとり残らずここにいますよ」ファルドーは言った。
「ここに老人がひとり――白髪で白いあごひげのある――いるはずだが」
「ここにはおりませんな。ここではわたしが最年長だが、ごらんのとおり、わたしの髪は白髪とはほど遠い」
「同国人のひとりが数年前にそういう老人に会ったんだ。かれはアレンド人の子供を連れていた――たしかランドリグという名前だった」
となりのテーブルにいたガリオンは皿に顔を伏せて、耳が伸びているのではないかと思うほどじっと聞き入った。
「ランドリグという名の少年ならいますとも。あっちの遠くのテーブルの端にいるあの背の高い若者ですわ」ファルドーは指さした。
マーゴ人はランドリグに目をこらした。「いや、わたしが聞いた子供とはちがう」
「ランドリグはアレンド人にはよくある名前ですよ」ファルドーは言った。「きっとお友だちが会ったのは別の農園の二人連れでしょう」
「そうにちがいない」マーゴ人はその件を頭から払うように言った。「このハムはすばらしい」短剣の先でかれは皿をさした。「燻製所のハムもこれと同じような品質かね?」
ファルドーは笑った。「いやはや! きょうはわたしを仕事の話にひきずりこもうたって、そう簡単にはいきませんぞ」
マーゴ人はちょっと頬をゆるめた。傷跡のある顔にその表情は異様に見えた。「試してみるのはかまわんだろう」とかれは言った。「しかしあんたの料理人はたいした腕だ」
「おほめにあずかったぞ、マダム・ポル」ファルドーは心もち声をはりあげた。「クトル・マーゴスから見えたわれらが友人は、あんたの料理がいたくお気に入りだ」
「それはどうも」ポルおばさんはそっけなく言った。
彼女を見たマーゴ人の目がはっとしたように見開かれた。「みごとな食事だ、ご婦人」マーゴ人はポルおばさんのほうへ軽く頭をさげた。「あんたの台所は魔法の場所だな」
おばさんはにわかに軽蔑的な表情になった。「いいえ。魔法なもんですか。料理は辛抱強くさえあれば、どんな者でも身につけられる技術です。魔法はまったく別物です」
「しかし魔法もまたひとつの技術だろう、ご婦人」
「そう考える者は大勢いますがね、真の魔法は内側から生まれるもので、目をあざむく小手先の結果じゃありません」
マーゴ人が顔をこわばらせておばさんをにらむと、彼女ははがねのような視線を返した。近くに坐っているガリオンには、二人が口にした言葉とはまったく関係のない何かが両者のあいだを行き交っているような気がした――なんだかお互いが挑みあっているようだった。やがて、その挑戦を受けるのを恐れるかのようにマーゴ人が目をそらした。
食事が終わると、〈エラスタイド〉の昔ながらの特徴であるささやかな芝居の時間になった。先刻そっと大食堂を出ていった年配の七人の農夫が、頭巾のついた長いローブをまとい、念入りに彫って色を塗った神々の顔を形どったお面をつけて、戸口にあらわれた。衣裳はくたびれ、一年間ファルドーの屋根裏部屋にしまいこまれていたせいで、しわだらけだった。お面をつけたローブ姿はゆっくりと大食堂にはいってくると、ファルドーのテーブルの下手に一列に並んだ。それから一人ひとりがかわるがわる自分の演じる神の素性を手短かにしゃべった。
「わたしはアルダー」先頭のお面の蔭からクラルトの声がした。「ひとりで住む神である。この世の存続を命じる」
「わたしはベラー」二番めのお面の蔭から別の聞きおぼえのある声が言った。「アローン人の熊神である。この世の存続を命じる」
チャルダン、イサ、ネドラ、マラと順につづいて、ついに最後のひとりの番になった。他の神々とちがって、そのローブは黒く、お面は色塗りの木のかわりにはがねでできていた。
「わたしはトラク」お面の蔭からダーニクの声がうつろに響いた。「アンガラク人の竜神である。この世の存続を命じる」
ガリオンの目のすみで何かが動き、かれはすばやくそっちを見た。マーゴ人が奇妙な儀式的ともいえるしぐさで、両手で顔をおおっていた。そのうしろの奥のテーブルでは、五人のタール人が顔を土気色にしてふるえていた。
七人の姿はファルドーのテーブルの下手で手をつなぎ、声を合わせた。「われわれは神である。われわれはこの世の存続を命じるものなり」
「神々の言葉に耳を傾けよ」とファルドーが言った。「ファルドーの家は神々を歓迎する」
「ファルドーの家に神々の祝福を、そしてこの一同に」七人はそう答えると、回れ右をしてきたときと同じようにゆっくりと大食堂を出ていった。
それから贈り物がくばられた。これは大変な興奮の的だった。贈り物はすべてファルドーからのものであり、その善良な農園主は毎年使用人一人ひとりに一番ふさわしい贈り物をくれたからである。新しいチュニックやズボン、ガウンや靴がひときわ目をひいたが、今年ガリオンは喜びで息がつまりそうになった。布にくるまれた小さめの包みをあけると、こぎれいな、さやにぴたりとおさまった短剣が出てきたのだ。
「この子もそろそろ一人前だからな」とファルドーはポルおばさんに説明した。「一人前の男にはいいナイフが必要なものだ」
もちろんガリオンはさっそく贈り物の切れ味を試し、早々に指を切ってしまった。
「やむをえないでしょうね」とポルおばさんは言ったが、それが怪我のことなのか、贈り物それ自体のことなのか、それともガリオンが成長した事実のことなのかはよくわからなかった。
マーゴ人は翌朝ハムを買い、五人のタール人とともに出発した。数日後、アンヘルダとエイルブリッグが荷作りをしてセンダリアの都へ帰途の旅につき、ファルドー農園は通常の生活に戻った。
冬はゆっくり進んだ。雪がふり、それがとけて、いつものように再び春がやってきた。その春が例年とちがう点といえば、新顔の労働者ブリルの到着だけだった。結婚して近所の小作地を借りていた若い農夫のひとりが、ファルドーからの実用的な贈り物の山と心のこもった忠告を得て、所帯持ちとして人生をはじめるために農園を去ったので、そのあとがまにブリルが雇われたのだった。
ガリオンの考えでは、ブリルはまるで魅力のない農園の余計者だった。チュニックとズボンはつぎだらけで臭く、黒い髪はぼうぼうだし、もじゃもじゃひげは生やしっぱなしで、片目は焦点が合っていなかった。気むずかしく、孤独を好み、およそ清潔とはいいがたかった。ツンとくる腐ったような臭いの汗をしじゅうかいているらしく、ブリルの近くにはその臭いが毒気のように漂っていた。二、三度会話を試みたあと、ガリオンはこりごりしてブリルを避けていた。
しかしその春と夏のあいだ、少年の心を占めていることはほかにもあった。そのときまでは純粋な遊び仲間というよりはむしろ足手まといだと思っていたズブレットに、きゅうに関心が向きだしたのである。彼女がきれいなのはこれまでずっと知っていたが、特にその季節まではそれはどうでもいい事実であって、ガリオンとしてはランドリグやドルーンと遊ぶほうがずっと楽しかった。ところが今や事態は一変した。ガリオンは他の二人の少年もまた同様にズブレットに注意を払いはじめたことに気づき、はじめて嫉妬という心穏やかならぬ感情を味わった。
ズブレットはいうまでもなく三人全員をさんざんもてあそび、彼女の前で三人がにらみあうと目を輝かせた。ランドリグは仕事があるので大半の時間は畑にいたが、ドルーンはガリオンにとって深刻な不安の種だった。かれはめっきり落着きをなくし、しじゅう言い訳を作っては、ドルーンがズブレットと二人きりでいないことを確かめに建物の周囲をうろついた。
ガリオン自身の売込み作戦はほれぼれするほど簡単だった――買収にたよったのである。ご多分にもれず、ズブレットもお菓子には目がなかった。そしてガリオンには台所のどこへでも近づけるチャンスがあった。ほどなく二人は一つの協定を結んだ。ガリオンが金髪の遊び友だちのためにお菓子を盗むと、お返しとしてキスをさせてもらえるのだ。ある晴れた夏の午後、ぽつんと離れた干草小屋でそういう交換儀式のまっさいちゅうをポルおばさんに見つからなかったら、事態はさらに進展していたかもしれない。
「そこまででじゅうぶん」ポルおばさんの断固たる声が戸口からとんだ。
ガリオンはぎょっとして、うしろめたそうにズブレットから離れた。
「わたしの目に何かがはいったの」ズブレットがすばやく嘘をついた。「ガリオンはそれを取ってくれようとしていたのよ」
ガリオンは真っ赤になってつっ立っていた。
「へえ?」ポルおばさんは言った。「それはそれは。きなさい、ガリオン」
「ぼく――」ガリオンは口を開いた。
「今すぐによ、ガリオン」
それで一巻の終わりだった。以後ガリオンの時間は寝るまで台所にしばられ、ポルおばさんの目は片ときもかれから離れないように思えた。ガリオンは多くの時間をあてもなく台所ですごし、にわかに鼻もちならなく見えてきたドルーンがたまらなく気になったが、ポルおばさんが目を光らせているので、逃げることもできずにいた。
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色づいた木の葉が風に吹かれて赤や金の雪のように舞い落ち、冷えこむ夕方のあかね色の空に出た冷たい一番星に向かってファルドー農園の煙突から青い煙がまっすぐたちのぼっていくその年の秋のなかば、ウルフが戻ってきた。かれは突風の吹くある午後、道をやってきた。秋の空は低くたれこめ、真新しい落葉が老人のまわりで渦まいて、ぶかぶかの黒いマントが風にはためいた。
台所の残飯を豚にやっていたガリオンは老人がやってくるのを見て、出迎えに走った。老人は旅の埃をかぶって疲れているように見えた。灰色の頭巾の下の顔は厳しかった。いつもの楽天的で陽気な態度はどこへやら、ガリオンがそんなに沈痛なようすの老人を見たのはそれがはじめてだった。
「ガリオン、大きくなったな」ウルフは挨拶がてら言った。
「五年もたつんだもの」
「もうそんなになるか?」
ガリオンはうなずくと、友だちと肩を並べた。
「みんな元気かね?」ウルフはたずねた。
「うん。ここじゃみんな変わらない――変わったのはブレルドが結婚して引越したのと、去年の夏年とった牝牛が死んだことだけさ」
「その牝牛ならおぼえとるよ」と言ってからウルフはつけ加えた。「ポルおばさんと話をしなけりゃならん」
「きょうのおばさんご機嫌ななめなんだ」ガリオンは警告した。「納屋で休んだほうがいいかもしれないよ。食べ物と飲み物はぼくがすぐにくすねてきてあげる」
「おばさんのご機嫌を思いきって試すしかあるまい」とウルフは言った。「急ぎの用件なのだ」
かれらは門をくぐり、中庭を横ぎって台所の勝手口に近づいた。
ポルおばさんが待っていた。「またきたの?」おばさんは腰に手をあてて辛辣に言った。
「わたしの台所はあんたのこのあいだの訪問からまだ立ち直っていないのよ」
「マダム・ポル」ウルフは一礼してから妙なことをした。胸の前で宙に複雑なしるしを小さく描いたのである。ガリオンにその身ぶりを見せるつもりがなかったのは確実だった。
ポルおばさんの目がわずかに大きくなったかと思うと、次の瞬間に細められ、顔つきが険しくなった。「どうして――」と言いかけておばさんは口をつぐみ、鋭く命じた。「ガリオン、人参が少しいるのよ。菜園の向こうはしの地面にまだ何本か残っているわ。すき[#「すき」に傍点]とバケツを持って取ってきてちょうだい」
「でも――」いったんは逆らったものの、おばさんの顔つきに恐れをなしてガリオンはあわてて外に出た。むろん盗み聞きはほめられた癖ではなかったし、センダリアではもっともぶしつけなことと考えられていたが、ガリオンは追い払われるときにかぎって話がとびきりおもしろく、自分と少なからぬ関連があるという結論にずっと前に達していた。良心がとがめた時期も過去にちょっとあったが、それを実行してもなんら害がない――聞いたことをくり返さないかぎり――ことがわかると、良心は好奇心に負けてしまっていた。
ガリオンはすばらしく良い耳を持っていたが、台所の物音の中から二つの聞き慣れた声を拾いわけるにはちょっと手間取った。
「あの男が手掛かりを残すわけがないわ」ポルおばさんが言っていた。
「残す必要はない」ウルフが答えた。「あれそのものが臭跡を残してくれる。それをたどるのなど朝めし前だ。キツネがウサギの足跡をかぎわけるようなものさ」
「あの男、それをどこへ持っていく気かしら?」
「さてね。やつの心はわしには読めん。たぶん北回りでボクトールへ行くだろう。ガール・オグ・ナドラクへはそれが一番の近道だから。わしに追われていることがわかれば、できるだけ早くアンガラク人の国へはいりたがるはずだ。西部にいるかぎり、やつの盗みは完了しない」
「それが起きたのはいつ?」
「四週間前だ」
「もうアンガラクの王国に着いている可能性もあるわね」
「それはありそうにない。ちょっとやそっとの距離ではないのだ。しかし、アンガラクにまだついていないならわしはやつを追跡せねばならん。おまえの助けがいる」
「でもどうしてわたしがここを出られて?」
ポルおばさんが訊いた。「あの子を守らなくてはならないのよ」
ガリオンの好奇心はほとんど耐えきれないほどに高まっていた。かれは勝手口にさらににじりよった。
「あの子はここにいれば安全だ」ウルフが言った。「これは一刻を争う問題なのだ」
「いいえ」ポルおばさんが反論した。「ここだって安全じゃないわ。この前の〈エラスタイド〉には、マーゴ人がひとりとタール人が五人やってきたのよ。マーゴ人は商人をよそおっていたけど、それにしては質問が多すぎたわ――数年前にアッパー・グラルトで見たという老人とランドリグという名の子供のことをたずねたのよ。わたしにも気づいたかもしれないわ」
「とすると、思ったより深刻だな」ウルフは考えこむようにいった。「あの子をよそへ移さねばならん。ほかのところにいる友人たちにあずけたらいい」
「だめよ」ポルおばさんがまた反対した。「わたしが行くなら、かれも一緒でなけりゃ。あの年頃は厳重に監視する必要があるわ」
「ばかを言うな」ウルフの強い声がした。
ガリオンはびっくりした。ポルおばさんにそんなふうにしゃべる者はだれもいない。
「決めるのはわたしです」ポルおばさんがきっぱり言った。「大人になるまであの子の面倒はわたしがみると全員一致で賛成したじゃないの。あの子と一緒でないならわたしは行かないわ」
ガリオンの胸は躍った。
ウルフが厳しく言った。「ポル、われわれの行き先を考えろ。連中の手にあの子を渡すことはできん」
「わたしに監視されずにここに残るよりは、クトル・マーゴスかマロリーにいたほうがよほど安全よ。去年の春だって、同年齢の女の子と納屋にいるところを見つけたんですからね。言ったとおり、あの子には見張りが必要なのよ」
するとウルフが豊かな声で楽しげに笑った。「それだけか? おまえはそういうことを心配しすぎるよ」
「わたしたちが戻ってきたらあの子が結婚していて、もうじき父親になるとわかったらどうなるの?」ポルおばさんが苦々しげに訊いた。「きっとすばらしい農夫になることでしょうよ。そして状況が再びととのうまで、わたしたち全員が百年待たなければならなくなったら、どうなるの?」
「まさか、そこまではいくまい。ほんの子供なんだ」
「わかってないのね、老いぼれ狼」ポルおばさんが言った。「ここはセンダリアの田舎なのよ。あの子は正しいことをするように育てられてきたし、その女の子というのは小利口なはねっかえりで、ひやひやさせられるほどませているわ。目下のところ、どんなマーゴ人よりチャーミングなズブレットのほうがはるかに危険なのよ。かれも一緒にいくか、でなけりゃわたしも行かないわ。そちらにはそちらの責任があるし、わたしにはわたしの責任があるんですから」
「言い争っている時間はない。そうするしかないなら仕方がないだろう」
ガリオンは興奮で息がつまりそうだった。ズブレットをあとに残していくことには、つかのま胸が痛んだだけだった。かれはふり返って、夕空をかすめ飛ぶ雲を嬉々として仰いだ。背を向けていたので、ポルおばさんが勝手口から出てきたのが見えなかった。
「わたしの記憶では、菜園は南の塀の向こうにあるのだけれどね」おばさんはずけずけと言った。
ガリオンはぎくりとした。
「人参をまだ掘ってきていないのはどういうわけ?」おばさんは問いつめた。
「すき[#「すき」に傍点]が見つからなかったんだ」ガリオンはしどろもどろに言った。
「おやそう。でも見つけたようね」眉毛が危険の様相を呈してつりあがった。
「たった今だよ」
「けっこうだこと。人参よ、ガリオン――さっさとなさい!」
ガリオンはすき[#「すき」に傍点]とバケツをつかんで走りだした。
戻ってきたときは薄暗くなっていて、ポルおばさんがファルドーの住居へ階段をのぼっていくのが見えた。あとをつけていってまた立ち聞きをしようかと考えたとき、小屋のひとつの暗い戸口で何かがわずかに動いた。ガリオンは足をとめて門の陰に身をひそめた。人影が小屋から忍びでて、ポルおばさんが今しがたのぼっていった階段の下に近づき、おばさんがファルドーのドアに消えるやいなや音もなく階段をのぼりだした。あたりが暗くなっていたので、だれがおばさんのあとをつけているのかガリオンにはよく見えなかった。バケツを下におろすと、かれはすき[#「すき」に傍点]を武器のようにつかんで、暗がりづたいに急いで中庭をまわった。
階上の部屋で人が動く気配がした。戸口にただずんでいた人影がハッと身を起こし、あわてて階段をおりてきた。ガリオンはすき[#「すき」に傍点]をかまえたまま、すばやく隠れた。人影が通りすぎたとき、カビ臭い服の臭いと腐ったような汗の臭いが一瞬鼻をうった。男の顔を見たも同然だった。おばさんをつけていた人影は新しくきた農夫のブリルだった。
階段の上のドアが開いて、おばさんの声が聞こえた。「申しわけありません、ファルドー、でも家族の問題で早急に発たなくてはならないんです」
「もっと給料を出すよ、ポル」ファルドーの声は今にも泣きだしそうだった。
「お金は関係ありませんわ」ポルおばさんは答えた。「あなたは良い方です、ファルドー、それにこの農園は安息所を求めていたわたしにとって、願ってもない場所でした。あなたには感謝しています――あなたが考えている以上に――でも、出発しなければならないんです」
「その家族の件が片づいたら、戻ってきてくれるね」ファルドーは拝まんばかりだった。
「いいえ、ファルドー、残念ですけれど」
「きみがいなくなると、みんな寂しがるよ」ファルドーは涙声で言った。
「わたしもあなたが懐しくなりますわ、ファルドー。あなたのようにやさしい方には会ったことがありません。わたしが行ってしまうまでこのことは内緒にしてくださるとありがたいのです。説明やら感傷的な別れは苦手ですので」
「望みどおりにしよう、ポル」
「そんな悲しそうな顔をなさらないで」ポルおばさんは快活に言った。「助手たちはよく訓練されていますわ。かれらの料理はわたしのと少しもちがわないでしょう。あなたの胃袋は絶対気づきませんよ」
「心は気づく」
「そんなこと」おばさんはやさしく言った。「そろそろ夕食の仕度をしないと」
ガリオンは急いで階段の下を離れた。頭を悩ましながらかれはすき[#「すき」に傍点]を小屋に片づけ、門のわきにおきざりにしていた人参のバケツを取りにいった。戸口で聞き耳をたてていたブリルを見たことをおばさんに話したら、たちまち自分の行動を問われるだろうし、それには答えずにすませたかった。たぶんブリルは好奇心をかきたてられただけで、あのことに神経質になったり不審を持ったりする必要はないのだ。しかしながら悪臭ふんぷんたるブリルがかれ自身の一見無害な気晴らしをそっくりそのまま実践しているのを目撃したことは、ガリオンをひどくバツの悪い気持にさせ――ちょっぴり自分を恥じる気持にさえさせた。
ガリオンは興奮のあまり食事がのどを通らなかったが、その日の夕食はファルドー農園のこれまでの食事となんら変わらないように思えた。気むずかしい顔のブリルをそれとなく観察してみたが、わざわざ盗み聞きした会話によってその男の態度に変化が生じたようすはこれっぽっちも見あたらなかった。
夕食が終わると、農園を訪れたときの常でミスター・ウルフは物語をするよう説き伏せられた。かれは立ちあがるとしばらくじっと考えこんだ。煙突の中で風がうなりをあげ、大食堂の柱の輪に固定された松明がゆらめいた。
「だれもが知っているように」とウルフは語りだした。「マラグ人はもはや存在せず、マラの霊魂は荒野でひとり泣いている。苔むしたマラゴーの廃墟には悲しげな声がこだましている。しかしまた、だれもが知っているように、マラゴーの丘や川には上質の黄金が大量に埋まっている。その黄金がマラグ人滅亡の原因であったことはいうまでもない。ある隣りの王国がその黄金の存在を知るに至ったとき、誘惑は抑えきれぬほどに高まった。そしてその結果――黄金が王国間の問題になると、例外なくそうなるように――戦争が起きた。戦争の口実はマラグ人が人食い人種だという嘆かわしい事実だった。文明人にしてみればこの習慣は忌むべきものではあるが、マラゴーに黄金がなかったら、見すごされていただろう。
だが戦争は避けがたく、マラグ人は虐殺された。しかしマラの霊魂と殺された全マラグ人の亡霊はマラゴーにとどまった。その幽霊王国に足を踏み入れた者たちがまもなく発見したとおりだった。
さて、たまたまその頃、南センダリアのミュロスの町に三人の強者が住んでおり、その黄金の噂を聞いて、マラゴーまで旅をして分け前をいただこうと決心した。言ったように冒険好きの豪の者ぞろいだったので、幽霊の話など笑いとばして問題にしなかった。
かれらの旅は長かった。ミュロスからマラゴーの上流域まではなにせ何百マイルも離れている。が、黄金の匂いにひかれて三人は進みつづけた。こうしてある嵐の闇夜のこと、三人のような連中を追っぱらうために配置された巡察隊の目をかすめて、一行は境界を越えマラゴーに忍びこんだ。戦争がいかに金がかかり、不都合なものかを経験した隣りのあの王国は、当然ながら、境界突破を試みる者に黄金を取られたくなかったのだ。
黄金への欲望に胸を焦がす一行は、夜を徹して忍び足で前進した。マラの霊魂が周囲ですすり泣いたが、勇敢なかれらはへっちゃらだった――それどころか、その音は魂などではなく木木をさわがす風のうなりにすぎないと互いに言いあった。
ぼんやりした霧深い朝が丘陵のあいだからしみだしてきたとき、そう遠くないところで川の流れる音が聞こえた。黄金が一番見つかりやすいのが川の土手であることは、だれでも知っている。そこでかれらは川音のするほうへ足を速めた。
薄日の中でひとりがふと下を見ると、足元の地面が黄金でおおわれている――かたまりがごろごろしているのだ。欲のとりこになった男は何も言わずに、仲間が見えなくなるまでぶらぶらしていた。それから這いつくばって、子供が花をつむように黄金を集めだした。
背後に物音を聞いて男はふり返った。何を見たかは言わんでおこう。かかえこんでいた黄金を残らず下へ落として、男は逃げだした。
さきほど水音のしていた川が近くの土手をひきさき、二人の仲間は男がその土手のふちから足を踏みはずすところを見て仰天した。男はころげ落ちながらも空中で足を攪拌器のように動かして走っていた。次の瞬間ふり返ったかれらは、仲間を追いかけていたものの正体を見た。
ひとりは気がちがったようになって、今しがた仲間をのみこんだ土手に絶叫しながら飛びこんだが、もっとも勇敢で大胆な三人めの強者は、幽霊が生きた人間に害を加えられるはずがないと胸に言いきかせて、その場に踏みとどまった。もちろんそれは最悪のまちがいだった。絶対に大丈夫だと確信して勇ましく立っている男のまわりを幽霊がとり囲んだ」
ミスター・ウルフは一息ついてジョッキに少し口をつけた。「そのあと」と老語り部は言葉をつづけた。「幽霊でも腹がすくことはあるのだから、男をばらばらにして食べてしまった」
ウルフの物語のショッキングな結末に、ガリオンは総毛立った。同じテーブルにいる人々がふるえているのが感じられた。それはかれらが聞くのを期待していたような話ではまるでなかった。
そばに坐っていた鍛冶屋のダーニクは平凡な顔に困惑の表情をうかべていたが、とうとう口を開いていいにくそうにウルフに言った。
「どうあってもあなたの話の信憑性を疑うつもりじゃないんですが、しかし、もしかれら――幽霊のことです――が男を食べたのなら、それはどこへ行ったんです? つまり――だれもが言うように、幽霊に実体がないなら、胃袋もないはずでしょう? それに何を使ってかむんですか?」
ウルフはずるがしこそうな謎めいた顔つきになった。指を一本立て、今にもダーニクの当惑した質問に神秘的な解答を与えるかと思いきや、いきなり笑いだした。
ダーニクははじめ呆気にとられたふうだったが、やがてはにかみがちに声を合わせて笑いはじめた。全員がその冗談に気づき、ゆっくり笑いが広がった。
「いっぱいかつがれたよ」ファルドーがみんなと同じように腹をかかえて言った。「おおいに教訓にもなった。欲深は悪徳だが、恐怖はもっと始末が悪く、本当に幽霊がこの世にうようよしていたら、世界は大恐慌に陥るということだ」信心深いファルドーはおもしろい話をなんらかの道徳的お説教にこじつけてしまうのだった。
「そのとおりだ、ファルドー」ウルフは多少まじめに言った。「しかしこの世には簡単に説明でかたづけたり、笑いでごまかしたりできんものがある」
暖炉のそばに坐っているブリルは笑いに加わっていなかった。「おれは幽霊なんか見たことはない」かれは不機嫌に言った。「見たというやつに会ったこともないし、魔法とか魔術とかいうような子供だましは少なくともおれは信じないね」ブリルは席を立つと、その物語が個人的侮辱ででもあったかのように、足音荒く大食堂を出ていった。
その後台所でポルおばさんが洗い物をし、ウルフがビールのジョッキを片手に仕事台のひとつにもたれているとき、ガリオンの良心との戦いがついに結着をみた。あの乾いた内なる声が、目撃したことを隠しているのは単に愚かであるだけでなく危険でもありうると言明したのである。ガリオンは洗っていたなべを下へおいて、台所の向こうにいる二人のほうへ近づいた。
「たいしたことじゃないかもしれないけど」かれは慎重にきりだした。「夕方、菜園から戻ってきたときに、ブリルがおばさんのあとをつけていくのを見たんだ、ポルおばさん」
おばさんはふり返ってかれを見た。ウルフはジョッキをおろした。「つづけて、ガリオン」ポルおばさんは言った。
「ファルドーと話をしにおばさんが上へ行ったときのことだよ」ガリオンは説明した。「ブリルはおばさんが階段をのぼりきって、ファルドーに中へ入れてもらうまで待っていた。それからそっと階段をのぼり、ドアに耳をつけていたよ。すき[#「すき」に傍点]を片づけに行く途中、あいつが階段の上にいるのを見たんだ」
「このブリルという男はいつから農園にいるんだ?」ウルフが不審そうに訊いた。
「去年の春きたんだ。ブレルドが結婚して出ていったあとさ」
「そして数ヵ月前の〈エラスタイド〉には、マーゴ人の商人がここへきたわけか」
ポルおばさんが鋭くウルフを見、「まさか――」と言いかけて口をつぐんだ。
「ちょっと出ていって、そのブリルと二、三言葉を交わすのも悪くなかろう」ウルフはむっつりと言った。「かれの部屋を知っているか、ガリオン?」
ガリオンはうなずいた。きゅうに心臓が早鐘をうちだした。
「案内してくれ」ウルフはよりかかっていた仕事台から離れた。その足取りはもう老人のそれではなかった。不思議にも歳月がにわかに肉体からはがれ落ちたかのようだった。
「用心してね」ポルおばさんが警告した。
ウルフはおかしそうに笑った。ひやっとするような声だった。「わしはいつだって用心しとるよ。もうわかっていてもよさそうなものだ」
ガリオンはウルフの先に立って急いで中庭へ出ると、庭の向こう端の階段の下へ近づいた。それをのぼりきったところに労働者たちの部屋が並ぶ回廊がある。かれらは階段をのぼった。柔らかい革の靴はすりへった段を踏んでも物音ひとつ立てなかった。
「そこだよ」なぜ声をひそめるのか自分でもよくわからずにガリオンはささやいた。
ウルフはうなずき、二人は静かに暗い回廊を先へ進んだ。
「ここだ」ガリオンは足をとめてささやいた。
「さがってろ」ウルフは小声で言うと、指先でドアにふれた。
「鍵がかかってるの?」
「鍵ぐらいなんでもない」ウルフは声を落として掛け金に手をかけた。カチッと音がしてドアが勢いよく開いた。ウルフはガリオンをしたがえて中に踏みこんだ。
部屋はまっくらで、ブリルの汚れた服のすえた臭いが漂っていた。
「もぬけの殻だ」ウルフは普通の声音で言った。かれがベルトにつけた何かをいじると、火打ち石がシュッとはがねにこすれて火花が散った。ほぐされた一本の縄に火花がとんで赤く輝きだした。ウルフがそれをちょっと吹くと、火花が炎になった。かれは燃える縄を頭上にかかげて、からっぽの部屋を見まわした。
しわくちゃの服や身の回り品が床とベッドに散らかっていた。ガリオンは即座にこれが単なるだらしなさのせいではなく、あわてて出ていった痕跡だと気づいたが、それがどういうことなのかよくわからなかった。
ウルフはしばらく小さな松明を持ったまま立っていた。その顔はどこかうつろで、頭で何かを探しているかのようだった。
「厩だ」ウルフは鋭く言った。「急げ、ぼうや!」
ガリオンは回れ右をして、ウルフより先に部屋からとびだした。燃える縄がゆらゆらと中庭に落下し、走りながらウルフが手すりこしに投げ捨てたあともつかのま中庭を照らしだした。
厩に明かりがついていた。中途はんぱにおおわれた光は弱々しかったが、かすかな光線がいたんだドアのすきまからもれている。馬たちが落ち着きなく動いていた。
「離れてろ、ぼうや」ウルフはそう言うと、厩の扉をぐいとあけた。
ブリルは中にいた。かれの悪臭にたじろぐ馬に鞍をつけようとやっきになっている。
「出発かね、ブリル?」ウルフは腕組みをして戸口から踏みこんだ。
ブリルはさっとふり向くと不精ひげにおおわれた顔をいまいましげにゆがめて腰をおとした。焦点のあわない片目が、仕切りの掛け釘にぶらさがるランタンの半分おおわれた光の中で白く光り、欠けた歯がむきだしになった。
「旅に出るには妙な時間だな」ウルフは皮肉っぽく言った。
「邪魔するな、じじい、後悔するぜ」ブリルは威嚇するように言った。
「後悔なら今までいやというほどしてきたさ。今さらひとつふえたところでどうってことはない」
「警告はしたんだからな」ブリルはわめいて片手をマントの下につっこみ、錆ついた短剣をとりだした。
「ばかなまねはするな」ウルフは軽蔑しきった口調で言った。
だが短剣のひらめきを見たガリオンはすかさず腰へ手を伸ばして短剣をぬき、手ぶらの老人の前に立ちはだかった。
「さがってろ」ウルフはどなった。
しかしガリオンはすでに輝く短剣を突きだして前にとびだしていた。あとになってゆっくり考えてみても、なぜそういう反応をしたのかかれには説明できなかった。深いところで眠っていた本能が目をさましたかのようだった。
「ガリオン、どくんだ!」ウルフが言った。
「そうしたほうがいいぜ」ブリルが剣をふりあげた。
そのときダーニクがあらわれた。どこからともなく姿を見せたダーニクが牝牛のくびきをつかんで、ブリルの手から剣をはたき落とした。猛り狂ったブリルがダーニクのほうを向いたとき、二度めの一撃が斜視の男の腋の下あたりをとらえた。ブリルの肺からしゅうと息がもれ、かれは喘ぎながら身をくねらせてわらの散った床にくずれおちた。
「けしからんぞ、ガリオン」ダーニクはとがめるように言った。「わたしがおまえのその短剣を作ったのはこういうことのためじゃないんだ」
「だってあいつはミスター・ウルフを殺そうとしたんだよ」ガリオンは抗議した。
「そのことは気にするな」ウルフは厩の床で喘いでいる男の上へ身をかがめた。そして乱暴に身体をさぐり、臭いチュニックの下からジャラジャラ音をたてる財布をぬきとった。
「そいつはおれのもんだぞ」ブリルは肩で息をしながら起きあがろうとしたが、ダーニクが牝牛のくびきをふりあげたのでまたがっくりと倒れこんだ。
「一介の労働者が持っているにしてはかなりの金額じゃないか、ブリル」ウルフはそう言うと財布の中身を手の中にふりだした。「この金貨をどうやって手にいれた?」
ブリルはウルフをにらみつけた。
コインを見てガリオンは目を丸くした。金貨を見たのははじめてだった。
「答えるにはおよばんよ、ブリル」ウルフはコインの一枚を仔細に眺めた。「金貨がかわりにしゃべってくれる」老人はコインをもとに戻し、倒れている男に小さな皮の財布をほうり投げた。ブリルはすばやくそれをつかんでチュニックの中へしまいこんだ。
「このことをファルドーに話さなくてはならない」とダーニクが言った。
「いや」とウルフ。
「重大問題なんですよ」ダーニクは言った。「とっくみあったとか、二、三発殴りあったとかいうならまだしも、武器をとったんです」
「そんな時間はないのだ」ウルフは壁の掛け釘から馬具の皮紐をはずして言った。「この男の両手をうしろでしばってくれ。そして穀物小屋にでも入れておこう。朝になればだれかが見つけるだろうさ」
ダーニクはまじまじとウルフを見た。
「わしを信用するんだ、ダーニク。事態は一刻を争う。こいつをしばってどこかに隠してくれ。それがすんだら台所へきてほしい。おいで、ガリオン」ウルフはくるりと背を向けて厩の外に出た。
二人が戻ったとき、ポルおばさんはそわそわと台所を行きつ戻りつしていた。「それで?」
「出ていこうとしていたよ」ウルフは言った。「わしたちがくいとめた」
「もしや――」おばさんの言葉が宙にういた。
「いいや。やつは剣をぬいたが、たまたま近くにきあわせたダーニクがやっつけた。いいタイミングだった。ここにいるあんたのいたずら小僧がもうちょっとでつっかかっていくところだったんだ。あの短剣はみごとなものだが剣の前ではいちころだろうね」
ポルおばさんは目をつりあげてガリオンのほうを向いた。ガリオンはぬけめなくおばさんの手が届かないところまであとずさった。
「その子を叱っている暇はないぞ」ウルフは台所におきざりにしていったジョッキをつかんだ。
「ブリルはアンガラクの上等の純金を財布いっぱい持っていた。目立たずに出発したいと思っていたが、すでに見張られていたのだから今さらこそこそしても意味がない。おまえとその子に必要なものをまとめるんだ。ブリルが自由になるまでに、やつとのあいだに数リーグは差をつけておきたい。行き先ごとにふり返ってマーゴ人の気配を確かめるのはまっぴらだ」
ちょうど台所にはいってきたダーニクが、つっ立ってまじまじとかれらを見つめた。「ここでは物事は見かけとちがうらしい」かれは言った。「あなたがたはいったいどういう人たちなんです。それに、そういう危険な敵がいるとはどういうことですか?」
「話せば長いことなんだ、ダーニク」ウルフは言った。「だがあいにく今は話している暇はない。ファルドーにわしらにかわって謝まっておいてくれ。それからブリルを一日かそこらひきとめておいてもらえんだろうか。やつやその仲間にかぎつけられぬうちに、われわれの足跡を消してしまいたいのだ」
ダーニクはゆっくり言った。「だれかがそれをしなけりゃならないのなら引き受けましょう。どういうことかよくわからないが、危険がつきまとっているのだけは確かなようだ。どうやらわたしもいっしょに行くしかなさそうですよ――少なくともあなたがたを無事ここから連れだすまでは」
ポルおばさんが突然笑いだした。「ダーニク、あなたが? わたしたちを守るというの?」
ダーニクは背すじを伸ばした。「お言葉だが、マダム・ポル、護衛もなしであなたを行かせるわけにはいきません」
「行かせるわけにはいかないですって?」彼女は信じられぬように言った。
「よかろう」ウルフがいたずらっぽい顔で言った。
「気でもちがったの?」ポルおばさんは老人に向き直ってつめよった。
「ダーニクが役に立つ男であるのはさっき証明されたばかりだ。他に取り得はなくとも、道中わしの話し相手になってくれる。あんたは年ごとにこうるさくなってきたし、百リーグかそれ以上の道のりを連れの悪口ばかり言って過ごすのは、わしとしてもぞっとせんからな、ポル」
「とうとうもうろくしたわね、老いぼれ狼」彼女は苦々しげに言った。
「まさしくそういうことだよ、わしが言わんとしたのは」ウルフはけろりとして答えた。「さあ、必要なものをまとめて出発しよう。夜はたちまち明ける」
ポルおばさんは一瞬ウルフをにらみつけてから、足音高く台所を出ていった。
「わたしも手回り品をとってこなくては」ダーニクがきびすを返して、突風の吹きすさぶ夜の中へ姿を消した。
ガリオンの頭の中は渦まいていた。いろいろなことがものすごいスピードで次々に起き、ついていけなかった。
「こわいか、ぼうや?」ウルフが訊いた。
「ううん――」ガリオンは言った。「わからないだけだよ。何がなんだかさっぱりわからない」
「そのうちわかってくるさ、ガリオン。さしあたってはわからないほうがいいかもしれん。われわれがしていることには危険がつきまとうが、危険といったって、そう大層なものではない。おまえのおばさんとわしとで――それにもちろん善人のダーニクも――おまえに危害がおよばぬように気をつけてやる。さ、食料室で手伝ってくれ」ウルフはランタンを持って食料貯蔵室にはいると、パンのかたまりやハム、丸い黄色いチーズ、ワインの瓶数本を掛け釘からはずした袋につめこみはじめた。
ガリオンに正確な判断がつくかぎりでは、かれらが静かに台所を出て暗い中庭を横ぎったのは真夜中近かった。ダーニクが勢いよくあけた門のかすかなきしみがやけに大きく聞こえた。
門をくぐりぬけるとき、ガリオンは一瞬胸がしめつけられる思いがした。ファルドー農園はかれが知っている唯一のわが家だった。そこを今、もしかすると永遠に、出ていこうとしている。そういうことには大きな意味があった。ズブレットを想って、かれの胸はいっそう痛んだ。ドルーンとズブレットが一緒に干草小屋にいる姿が思いうかぶと、一切をとりやめたい衝動にかられたが、今となっては手遅れだった。
農園の複合建築物の保護林を抜けると、冷たい烈風が吹いてきてガリオンのマントをはためかせた。厚い雲が月を隠し、道路は周囲の畑よりわずかに明るいだけだった。ガリオンは歩きながらポルおばさんにもう少しすりよった。
丘の頂上までくると、かれは立ちどまってちらりとうしろをふり返った。ファルドー農園は後方の谷に沈む青白いかすかなにじみでしかなかった。名残りおしげにガリオンはそれに背を向けた。前方の谷は黒々として、道路さえ一行の前にたちはだかる闇にとけこんでいた。
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かれらはもう何マイルも歩いていた。正確なところはガリオンにはわからなかった。かれは歩きながらこっくりこっくりし、ときどき暗い道路上の見えない石につまずいた。今ガリオンがなによりもしたいのは、眠ることだった。目はひりひり痛み、疲労のあまり脚ががくがくした。
さらにひとつ丘をのぼりきったところで――センダリアのその地方はしわくしゃの布がたたまれたような地形だったから、いつでもつぎつぎと丘があらわれるように思えた――ミスター・ウルフが足をとめ、あたりを見回し、重苦しい薄闇を目でまさぐった。
「ここで道路からはずれる」かれは宣言した。
「それはどうでしょう?」ダーニクが言った。「このへんには森がある。追いはぎが潜んでいるという話ですよ。追いはぎはいなくても、暗闇で迷子になってしまうんじゃないでしょうか?」かれは暗い空を見あげた。平凡な顔が不安にくもっているのがおぼろげに見えた。「月が出ていればなあ」
「追いはぎを恐れる必要はないだろう」ウルフは自信ありげだった。「月が出ていないのももっけの幸いだ。追っ手はまだこないだろうが、われわれが通る姿がだれにも見られないにこしたことはない。マーゴ人の金貨はたいていの秘密を買いとる威力があるからな」そう言ってウルフは道ばたに広がる野原へ一行をみちびいた。
ガリオンにしてみれば野原を進むのは無理な注文だった。道路でもときどき蹴つまずいていたほどだから、でこぼこな地面に口をあけた目に見えない溝や穴やでっぱりは一歩ごとにかれの足をひっかけた。一マイルの末に一行が黒々とした森のはじにたどりついたときには、ガリオンは疲れはてて今にも泣きださんばかりだった。
「ここからそう遠くないところに木こりの通る道がある」ウルフが指さして言った。「もうちょっとだ」ウルフは再び暗い森のはじをたどって歩きだし、ガリオンと他の二人はよろめきながらついていった。「さあ、ここだ」ようやくウルフはそう言って足をとめ、みんなが追いつくのを待った。「そこはまっくらだろうし、道は広くない。わしが先に行くからみんなでついてくるんだ」
「わたしがちゃんとうしろにいてやるからな、ガリオン」ダーニクが言った。「心配するな。なあに大丈夫だよ」だが鍛冶屋の声には少年をなだめるよりはみずからを元気づけているような響きがこもっていた。
森にはいると今までより暖かくなったような気がした。樹木が突風からかれらを守ってくれるせいだったが、一寸先も見えないまっくら闇なのでどうしてウルフに道が見えるのかガリオンは不思議だった。本当はウルフも行き先がわからず、運を天にまかせてめくらめっぽう歩きまわっているだけではないかという恐るべき疑念が芽ばえた。
「とまれ」雷のような声が突然前方で響きわたってガリオンをとびあがらせた。森の暗闇に少し慣れた目に、人間ではありえないほど巨大な何かの輪郭がぼうっとうかびあがった。
「巨人だ!」ガリオンはふいにパニックにとりつかれて叫んだ。次に、疲労困憊していたのと、その夜あまりに多くのことが一度に起きて神経が過敏になっていたのとで、かれはいきなり森の中へ駆けだした。
「ガリオン! 戻ってらっしゃい!」ポルおばさんの声がうしろから叫んだ。
だがかれは激しい恐怖のとりこになっていた。木の根ややぶにつまずき、樹木にぶつかり、イバラに脚をひっかけながら走りつづけた。むやみやたらに逃げる果てしのない悪夢を見ているようだった。低くはりだした見えない枝に全速力でぶつかって、額に衝撃が走り、目の前に火花がちった。ガリオンはじめじめした地面に倒れ、喘ぎ、すすり泣きながら、意識をしっかり持とうとした。
そのとき、目に見えない恐ろしい手が身体をつかんだ。言いしれぬ恐怖が脳天をつらぬき、ガリオンは死に物狂いでもがいて短剣をぬこうとした。
「よせ」声が言った。「手を放せよ、ウサギくん」
「ぼくを食べる気か?」ガリオンはかすれた声で訊いた。
声の主は笑った。「立てよ、ウサギ」ガリオンは力強い手で身体が引き起こされるのを感じた。片腕をがっしりつかまれて、かれは森を半分ひきずられていった。
前方のどこかに明かりが見えた。樹々のあいだで火がまたたいている。そこへ連れていかれようとしているらしかった。頭を働かせ逃げだす手段を考えださなくてはならないとわかっていながら、恐怖と疲労に麻痺した頭は役に立たなかった。
三台の馬車が焚火を半円形に囲んでいた。ダーニクがいた。ウルフとポルおばさんと一緒にいるのは、あまりの大きさにガリオンが実在の人間のはずがないと思った男だった。男の木の幹のような脚は毛布にくるまれ、皮紐を十字に交差させて結んであった。膝まで届く鎖かたびらを着て、腰をベルトでしめている。ベルトの片側にはおそろしく重そうな剣が、もう片側には柄の短い斧がさがっていた。髪の毛は編んでおさげのようにしてあり、こわそうな赤ひげがもじゃもじゃと生えていた。
明かりの中へはいったとき、ガリオンは自分をつかんでいる男を見ることができた。ガリオンとたいして変わらない背丈の小男で、先の尖った長い鼻が顔のまん中にでんといすわっている。目は小さく、やぶにらみで、まっすぐな黒髪はぎざぎざに刈ってあった。その顔はなんとなくうさんくさく、汚れたつぎだらけのチュニックや、たちの悪そうな短い剣としっくり調和していた。
「そら、われらがウサギくんだ」イタチみたいなその小男は焚火の輪の中にガリオンをひっぱりこんで、高らかに言った。「楽しい追いかけっこまでさせてもらったよ」
ポルおばさんは大変な剣幕で、「二度とあんなことはするんじゃないの」と厳しくガリオンに言い渡した。
「そうガミガミ怒りなさんな、マダム・ポル」ウルフが言った。「喧嘩をするより逃げるほうがまだましじゃないか。もっと大きくなるまで、足はその子の最良の友だちなんだ」
「ぼくたち追いはぎにつかまったの?」ガリオンはふるえ声でたずねた。
「追いはぎ?」ウルフは笑った。「おまえはとんでもなく豊かな想像力を持っているんだな、ぼうや。この二人はわしらの友だちだ」
「友だち?」ガリオンは半信半疑で訊き返すと、赤ひげの大男とその横のイタチ顔の男を疑わしげに見つめた。「まちがいない?」
すると大男まで笑いだした。その声が地震のようにあたりをゆるがした。「信じていないらしいぜ」大男は響きわたる声で言った。「きっとあんたの顔が警戒心を持たせたんだ、シルク」
小さいほうの男はむっとして、大柄な連れを見あげた。
ウルフは少年をさして言った。「これがガリオンだ。二人ともマダム・ポルはもう知っとるな」かれの声はポルおばさんの名に力をこめたように聞こえた。「そしてこっちがダーニク、われわれに同行する決意をした勇気ある鍛冶職人だ」
「マダム・ポルだって?」これといった理由もなく小男が吹きだした。
「それで通っているのよ」ポルおばさんがぴしゃりと言った。
「では喜んでそう呼ばせてもらうよ、奥方」小男はからかうように一礼して言った。
「ここにいる大きい友だちがバラク」ウルフは紹介をつづけた。「困ったことがあるときそばにいてくれると役に立つ。見てのとおり、バラクはセンダー人ではない。ヴァル・アローン出身のチェレク人だ」
ガリオンはチェレク人を見るのははじめてだった。そびえ立つようなバラクが目の前にいると、戦いにのぞんだチェレク人の恐ろしい武勇譚がにわかに信憑性をおびてきた。
「そしてわたしは」と小男が片手を胸にあてて言葉をついだ。「通称シルク――たいした名でないことは自分でも認めるが、わたしにはぴったりだよ――出身はドラスニアのボクトール。詐欺師兼軽業師だ」
「それに泥棒でスパイでもある」バラクが上機嫌でつけ足した。
「だれしも欠点はあるさ」シルクは平然と認めて、もじゃもじゃのほおひげを掻いた。
「そしてわしはこの時期と場所にかぎってはミスター・ウルフと呼ばれとる」老人が言った。
「かなり気に入っておるのだ。この子がつけてくれた名前だからな」
「ミスター・ウルフ?」シルクが訊き直してからまた笑った。「そりゃまたずいぶん楽しい名前だね」
「そう思ってくれてうれしいよ」ウルフはにべもなく言った。
シルクは言った。「ではミスター・ウルフと呼ぶとしよう。みんな、火のそばに寄ってあたたまってくれ。わたしが食べ物を用意する」
ガリオンはその妙な組み合わせの二人をまだ疑っていた。かれらは明らかにポルおばさんとミスター・ウルフを知っている――それも別の名前でだ。ポルおばさんがこれまでずっと考えていたような人ではないらしい事実がかれの心をおびやかした。ガリオンの全人生の礎石のひとつがたった今消えてしまっていた。
シルクが持ってきた食べ物はぶあつい肉片のうかんだまずいカブのシチュウと、ぞんざいに切った数枚のパンだったが、ガリオンは自分の旺盛な食欲に驚きながらも、まるで何日も食べていなかったかのようにかぶりついた。
やがて胃袋が一杯になり、パチパチと燃える焚火で足が暖まると、ガリオンは丸太に腰かけたままうとうとしはじめた。
「今度はなんなの、老いぼれ狼?」とポルおばさんがたずねるのが聞こえた。「この不恰好な馬車はなんのつもり?」
「自分で言うのもなんだが、ほれぼれする計画なのだ」とウルフが言った。「知ってのとおり、一年のこの季節はセンダリア中を馬車が行き来している。収穫物が畑から農場へ、農場から村へ、村から町へと運ばれていく。センダリアでは馬車がもっとも目立たない。あんまりありふれた光景だから、目にはいらんのだ。だからこの手を使って旅をする。今のわれわれは正直者の荷馬車ひきというわけだ」
「なんて言って?」ポルおばさんが問い返した。
「荷馬車の御者だよ」ウルフは悠然と答えた。「センダリアの仕事熱心な作物運搬人――旅への熱情断ちがたく、道端の空想にとりつかれて、富を築き、冒険を求めんと故郷を出る」
「馬車で行ったらどのくらいかかると思うの?」
「一日六リーグから十リーグというところだな」ウルフはおばさんに言った。「たしかにのろいが、注意をひくよりのろいほうがましだ」
ポルおばさんはうんざりしたように首をふった。
「最初の目的地は、ミスター・ウルフ?」シルクが訊いた。
「ダリネだ。われわれの追う相手が北へ行ったなら、ボクトールやその先へたどりつくにはダリネを通過せねばならんはずだ」
「で、わたしたちはダリネへ何を運んでいくの?」ポルおばさんが質問した。
「カブさ、奥方」シルクが言った。「きのうの朝、わたしのでかい友だちと二人でウィノルド村で荷馬車三台分のカブを買っておいた」
「カブですって?」ポルおばさんは露骨におどろいて言った。
「いかにも、カブだ」シルクはしかつめらしく言った。
「では、用意はいいか?」ウルフが訊いた。
「いいとも」大男のバラクが短く答え、鎖かたびらをジャラジャラいわせて立ちあがった。
「役割の点検をすべきだな」ウルフはバラクを入念に眺めた。「その恰好は正直な馬車ひきらしくない。丈夫な毛織の服に着がえたほうがいい」
バラクは傷つけられた顔をした。「この上にチュニックをはおればどうだろう」と遠慮がちに言った。
「音がするんだよ」とシルクが指摘した。「それにそういうのには明らかな匂いがあるんだ。風下にいれば、おまえは錆びた鉄細工みたいに匂うぞ、バラク」
「鎖かたびらがないと服を着ている気がしないんだ」とバラクは文句を言った。
「犠牲を払うのはおまえだけじゃない」とシルクが言った。
バラクはぶつぶつこぼしながら一台の馬車に近づき、服の束をひっぱりだして鎖かたびらを脱ぎはじめた。亜麻布の下着に大きな赤茶けた錆の跡がついていた。
「わたしなら下着もとりかえるね」シルクが言った。「おまえのシャツは鎖かたびら同様匂うぜ」
バラクはかれをにらみつけた。「ほかは? まさかおれを丸裸にさせようてんじゃないだろうな」
シルクは笑った。
バラクが下着を脱いだ。胴体は巨大なうえに赤毛が密生していた。
「まるで敷物だな」シルクが感想をもらした。
「しようがないだろう。チェレクの冬は寒いんだ。だが毛深いおかげでふるえずにすむ」バラクは新しい下着をきた。
「ドラスニアだって寒い。よもやおまえのばあさんがその長い冬のあいだに熊といちゃついたなんてことはあるまいな」
「いつかそのへらず口がわざわいして、ひどいめにあうぜ、シルク」バラクが不吉なことを言った。
シルクはまた笑った。「わたしの人生の大半は苦難の連続だよ、バラク」
「どうしてかね」バラクは皮肉たっぷりに言った。
「言いあいはあとにしろ」ウルフがたしなめた。「できれば週明けにはここから遠ざかっていたいんでな」
「もちろんだ」シルクがあわてて立ちあがった。「バラクとはあとでいくらでも楽しめる」
近くに三組の頑健な馬が杭につながれていた。かれらは総がかりで馬たちに馬具をつけ、荷馬車につないだ。
「わたしが火を消そう」シルクがそばを流れる小川からバケツ二杯の水を運んできた。水がかけられるとジュッと音がして、低い木の枝のほうへ煙がもくもくと立ちのぼった。
ウルフが言った。「森のはずれまで馬をひいていこう。低い枝に歯をほじられちゃたまらん」
馬たちは今にも出発したそうだったが、暗い森の細道をおとなしく進んだ。一行は広々とした野原の手前で立ちどまり、ウルフが人影がないかどうか注意深く周囲に目を配った。
「だれもおらんな。出発しよう」
「おれと一緒に乗ってくれよ、鍛冶屋さん」バラクがダーニクに言った。「目はしのききすぎるドラスニア人の侮辱に耐えながら夜を過ごすより、正直者と話をするほうがよっぽどいい」
「いいですとも」ダーニクはていねいに答えた。
「わたしが先頭を行く」シルクが言った。「このへんの裏道や小径にはなれているんだ。昼前にはアッパー・グラルトを越えた本街道へ出る。バラクとダーニクはしんがりがよかろうな。われわれを追いかけたくなる輩も二人を見れば勇気をなくすことうけあいだ」
「よし」ウルフがそう言ってまん中の荷馬車の座席にのぼり、手を伸ばしてポルおばさんをひきあげた。
ガリオンはすばやくそのうしろの荷台によじのぼった。だれかがシルクとの同乗をすすめるかもしれないというかすかな懸念があったからだ。ミスター・ウルフが会ったばかりの二人組を友だち扱いするのは一向にかまわなかったが、森の中で味わった恐怖はまだかれの記憶になまなましく、ガリオンは二人に対してはとてもくつろいだ気分になれなかった。
かび臭いカブの袋はごつごつしていたが、ガリオンはそれを押したり突いたりして、たちまちポルおばさんとミスター・ウルフのすぐうしろに自分用の安楽な座席を作った。風からさえぎられ、ポルおばさんのそばでマントをかぶっていると暖かかった。居心地満点だった。その夜起きたさまざまな出来事に心がたかぶっていたにもかかわらず、かれはすぐにまどろみだした。頭の中の乾いた声が、森の中でのふるまいはあまりほめられたものではなかったとさとしたが、声はたちまち静かになり、ガリオンは眠りにおちた。
目がさめたのは音が変化したためだった。泥道をいく馬たちの柔らかなひづめの音が硬質な響きに変わった。夜明けを数時間後にひかえた冷たい秋の闇の中で眠る、とある小さい村の丸石の道にさしかかっていた。ガリオンは目をあけて、細長いのっぽの家々を眠たげに眺めた。小さな窓はどれも闇に沈んでいた。
犬が一匹短く吠えたあと、階段下の暖かい寝場所に舞い戻った。この村はどんな村で、三台の荷馬車の通過も知らずに尖ったタイル屋根の下でどのくらいの人々が眠っているのだろう、とガリオンは思った。
丸石敷きの通りは大層狭く、手を伸ばせば家々の風雪にさらされた敷石が通過がてらにさわれそうだった。
そうこうするうち、名もない村は後方に遠ざかり、一行は再び路上に出た。馬のひづめがたてる柔らかな音がまたもガリオンを眠りへいざなった。
「めざす相手がもしダリネを通らなかったらどうするの?」ポルおばさんが低い声でミスター・ウルフにたずねた。
ふとガリオンはかれらが何を捜し求めているのか正確になにひとつ知らないことに気づいて、胸を高鳴らせた。かれは目をつぶったまま耳をすました。
「そのもしも≠ニいうのはやめてくれないか」ウルフがいらだたしげに言った。「もしも≠口にしながら手をこまねいていたんではなにもできん」
「わたしはただ訊いただけよ」
「やつがダリネを通らなかったら、われわれは南へ向かう――ミュロスへな。やつはそこで隊商に加わって〈北の大街道〉からボクトールへ行くかもしれん」
「もしかれがミュロスを通らなかったら?」
「そのときはカマールへこのまま向かう」
「それから?」
「あとはカマールに着いてからだ」これ以上その問題を話しあう気はないといわんばかりに、老人の口調は決定的だった。
ポルおばさんは最後の問いをするように息を吸ったが、思い直したらしく、荷馬車の座席にもたれた。
前方の東の空にたれこめた雲がかすかに色づきだし、一行は風に吹きさらされた夜の切れはしの中、何かを求めて進みつづけた。まだはっきりとは見きわめられないものの、それは一日にしてガリオンの全人生を根こそぎにするほど重要な何かだった。
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7
一行は四日がかりで北部沿岸のダリネに到着した。第一日めはきわめて順調だった。曇天で風がたえず吹いていたものの、空気は乾燥し道もよかったからだ。静かな農園を通りぬけ、ときには畑のまん中で腰をかがめて働いている農夫の横を通過した。農夫は必ずといっていいほど作業の手をとめて、通りすぎる一行を見送った。手をふる者もいれば、そうでない者もいた。
次にあらわれたのは谷に抱かれるようにのっぽの家が集まった村落だった。一行が通りかかると子供たちが出てきて、口々に興奮した叫びをあげながら荷馬車を追いかけた。村人たちは鋭い好奇心をのぞかせてようすをうかがっていたが、荷馬車がとまらないのがはっきりすると、鼻を鳴らしてめいめいの関心事に注意を戻した。
一日めがくれると、シルクが道ばたの木立の中へ一行を先導し、彼らは野宿の準備をした。ウルフがファルドーの食料貯蔵庫から失敬してきた最後のハムとチーズを食べたあと、かれらは荷馬車の下の地面に毛布を広げた。地面は固く冷たかったが、胸おどる冒険をしているのだという興奮のせいか、ガリオンは居心地の悪さも気にならなかった。
ところが、夜が明けると雨がふりだした。最初のうちはこまかい霧雨で風がまぎらしてくれたが、時間がたつにつれて本降りになった。湿った袋の中のカブのカビ臭い匂いが強くなり、ガリオンはみじめな気分でマントにしっかりくるまった。冒険の輝きは薄れはじめていた。
道がぬかるんですべりやすくなり、必死で丘をのぼる馬たちは頂上につくたびに休息しなくてはならなかった。第一日に進んだ距離は八リーグだったのに、以後は五リーグも行けばいいほうだった。
ポルおばさんは怒りっぽくなった。「ばかげているわよ」と彼女は三日めの昼頃ミスター・ウルフに言った。
「正しい見地から見ようとすれば、何事もばかげているのだ」ウルフは哲学的に答えた。
「どうして御者でなきゃいけないの?」おばさんは問いつめた。「もっと早く進む手段は他にもあるじゃないの――相応の乗り物にのった裕福な一家とか、駿馬にまたがる皇帝の使者とか――どっちも今頃はダリネについているわよ」
「そしてタール人にも追跡できる痕跡を、われわれがすれちがった単純素朴な人々の記憶に刻みつけるのか」ウルフは辛抱強く説明した。「ブリルはわれわれの出発をとっくに雇い主たちに報告したはずだ。今頃はセンダリア中のマーゴ人がわれわれを捜している」
「どうしてぼくたちはマーゴ人から隠れるの、ミスター・ウルフ?」ガリオンはたずねた。口をはさむのは気がひけたが、自分たちの逃避の背後にひそむ謎を解こうとする好奇心には勝てなかった。「かれらはただの商人じゃないの――トルネドラ人やドラスニア人みたいな?」
「マーゴ人は本当は商売に関心などないのだ」ウルフは説明した。「ナドラク人は商人だがマーゴ人は戦士だ。連中はわれわれが御者をよそおっているのと同じ理由で商人のふりをしているのさ――あまり人目をひかずに行動できるようにな。すべてのマーゴ人はスパイだと思ってまずまちがいない」
「こういう質問をするよりもっとましなことはないの?」ポルおばさんが訊いた。
「うん、別に」言ったとたんにガリオンはしまったと思った。
「そう。バラクの荷馬車のうしろにけさの食事に使った汚れたお皿があるわ。バケツもあるはずよ。前方の小川までそのバケツを持って走って水をくんできなさい。そしたらバラクの馬車に戻って、お皿を洗うのよ」
「冷たい水で?」ガリオンは口をとがらせた。
「さあ早く、ガリオン」おばさんはとりつくしまもなかった。
ぶつくさこぼしながら、ガリオンはのろのろ進む馬車からおりた。
四日めの夕方、かれらは小高い丘のてっぺんにたどりつき、ダリネの町とその向こうの鉛色の海を見おろした。ガリオンは息をのんだ。町はとても大きく見えた。町を囲む塀は厚くて高く、その内側にはこれまで見たこともないほどたくさんの建物が建っていた。だがかれの目をひきつけたのは海だった。潮の匂いが漂っている。何リーグか前からその匂いはかすかに鼻孔にはいりこんでいたが、今大きく深呼吸しながら、ガリオンは生まれてはじめて海の香りを胸一杯吸いこんだ。わくわくする気分だった。
「やっとついた」ポルおばさんが言った。
シルクが先頭の馬車をとめて、歩いて戻ってきた。頭巾が少しうしろへずらされて、長く尖った鼻先から雨のしずくがしたたっている。「ここでとまるか。それとも町へおりるかい?」
「町へ行くわ」ポルおばさんは言った。「すぐ近くに宿屋があるのに、荷馬車の下で寝る気はありませんからね」
ミスター・ウルフが同意した。「正直者の御者なら宿と暖かい酒場を求めるだろうて」
「そう言うだろうと思ったわ」
「それらしくふるまわなけりゃならんからな」ウルフは肩をすくめた。
一行は丘をくだりつづけた。荷馬車の重みに耐えようと足をふんばる馬たちのひづめがすべった。
町の門につくと、よごれたチュニックに錆ついた兜をかぶった二人の見張りが門のすぐ内側にある監視小屋から出てきた。
「ダリネにどういう用だ?」ひとりがシルクに訊いた。
「手前はコトゥのアンバーです」シルクは陽気に嘘をついた。「このすばらしい町で商いをしたいと思っている貧乏商人ですわ」
「すばらしいだ?」見張りのひとりが鼻を鳴らした。
「荷馬車に何をつんでいる、商人?」もうひとりがたずねた。
「カブでして」シルクはうらめしそうに言った。「手前の家族は代々香辛料の売買をやってきたんですが、手前はやむなくカブを売っておりますんで」かれは嘆息した。「世の中めちゃくちゃでございますね、見張り番さん」
見張りは言った。「荷馬車を調べねばならんが、少々時間がかかるぞ」
「そのあいだ、ぬれて待たねばなりませんな」シルクは目をすがめて落ちてくる雨を見あげた。
「どうせならその時間、どこか気持のいい居酒屋で口の中をしめらせたほうがずっとよろしいんじゃありませんか」
「たっぷり金がないとそいつはむずかしいな」と見張りは期待をこめて言った。
「酒代のたしに手前からのささやかな友情のしるしを受けとってくださればうれしいんですがね」
「そいつはすまんな」見張りは軽く頭をさげた。
数枚のコインが手から手へ渡され、荷馬車は調べられずに町へはいった。
丘の上から見たダリネはうっとりするほどだったが、ぬれた通りをガタガタと進むにつれて、ガリオンはそれほどでもないことに気づいた。建物はどれも似たりよったりで、尊大でよそよそしく、通りはゴミがちらかってきたなかった。ここでは塩からい海の匂いに死んだ魚の臭いがまざり、足早に道を行く人々の顔は陰気で冷たかった。ガリオンの最初の興奮はしぼみはじめた。
「どうしてみんなあんなに悲しそうなの?」ガリオンはミスター・ウルフにたずねた。
「厳格で欲深な神がとりついているからさ」とウルフは答えた。
「どの神様のこと?」
「金だ。金はトラクより始末の悪い神なのだ」
「その子にたわごとを吹きこまないでちょうだい」ポルおばさんが言った。「ガリオン、ここの人たちは本当は悲しいんじゃないの。ただみんな急いでいるだけよ。大事なことがあって、それに遅れるんじゃないかと思っているのよ。それだけのこと」
「ぼくはここに住みたいとは思わないな」ガリオンは言った。「さびしくて不人情そうなところだもの。ときどき思うんだ、みんなでまたファルドー農園に戻れたらなあって」かれは溜息をついた。
「ファルドー農園に勝るところはそうあるまいな」ウルフがうなずいた。
シルクが選んだ宿屋は波止場の近くにあり、磯の香りと海と陸の境目の腐った岩屑の臭いがぷんぷんした。だが宿屋は頑丈な造りで、厩と、荷馬車用の倉庫が併設されていた。宿屋の例にもれず、一階は台所と広い社交室でテーブルが並び、大きな暖炉があった。二階が泊まり客用の寝室になっていた。
「まあまあだ」宿の主人と長々としゃべったあと、シルクが荷馬車へ戻ってきて報告した。
「台所は清潔そうだし、わたしが調べたところじゃ寝室には虫もいない」
「わたしがみてみるわ」ポルおばさんが言って荷馬車をおりた。
「ご随意に、奥方」シルクはばかていねいに一礼した。
ポルおばさんの検査はシルクのときよりずっと時間がかかり、彼女が中庭へ戻ってきたときは、あたりが暗くなりかけていた。「やっと合格というところね」おばさんは不満気だった。
ウルフが言った。「ひと冬腰をすえようというんじゃないんだぞ、ポル。せいぜいが二、三日だ」
おばさんはそれを無視して宣言した。「熱いお湯をわたしたちの部屋へ運ぶよう注文してきたわ。わたしはこの子を連れて行って身体を洗うから、そのあいだみんなで荷馬車と馬の世話をしてちょうだい。いらっしゃい、ガリオン」おばさんはくるりと背を向けて宿屋に戻っていった。
この子と呼ぶのをみんながやめてくれないものかとガリオンは熱望した。なんといっても自分にはれっきとした名前があるのだし、おぼえづらい名前でもない。このままでは長い灰色のあごひげが生える齢になっても、まだみんなにこの子呼ばわりされるにちがいないとかれは陰気に考えた。
馬と荷馬車の世話がすみ、全員が湯を使ってさっぱりすると、一同は再び階下へおりて夕食を囲んだ。食事はポルおばさんの手料理にはかなわなかったが、カブでないだけ大歓迎だった。ガリオンは絶対の確信を持って死ぬまで二度とまともにカブを見られないと思った。
食べおわると男たちはのんびり酒瓶を傾け、ポルおばさんは非難の表情をうかべて言った。
「ガリオンとわたしはもう寝るわ。二階へあがるときは、あまり何度も階段をふみはずさないようになさいよ」
ウルフとバラクとシルクはそれを聞いて笑ったが、ダーニクはちょっと恥ずかしそうな顔をした。
翌日ミスター・ウルフとシルクは早々と宿屋を出て、一日中帰らなかった。ガリオンはわざと目につく場所にいて、一緒に行かないかと訊かれることを期待したのだが、そうはならなかったので、ダーニクが馬の世話をしに階下へおりるとき、ついていった。
二人でエサと水をやったあと、鍛冶屋が切り傷か石でもはまっていないかとひづめを調べているとき、ガリオンは言った。「ダーニク、こういうこと全部を奇妙だと思わない?」
ダーニクは点検していた辛抱強い馬の脚をそっとおろした。「どういうこと全部だって、ガリオン?」鍛冶屋の平凡な顔はまじめそのものだった。
「何もかもだよ」ガリオンはちょっとあいまいに言った。「この旅も、バラクとシルクも、ミスター・ウルフもポルおばさんも――全部がさ。あの人たちはときどきぼくに聞こえないと思ってしゃべっているんだ。このすべてがものすごく大事なことらしいんだけれど、ぼくたちがだれから逃げているのか、何を捜しているのかよくわからない」
「わたしにもわからんのだよ、ガリオン」ダーニクは認めた。「見かけどおりでないものはいくらでもある――まるきりちがうこともないではない」
「ポルおばさんは前とちがうような気がしない?」ガリオンは訊いた。「つまりさ、みんなの態度を見てると、おばさんはまるで貴婦人かなんかみたいだし、ファルドー農園を出たら、おばさん自身までようすがちがうしさ」
「マダム・ポルはりっぱなご婦人だ。わたしにはずっとわかっていた」ダーニクの声が彼女の話になるときまってあらわれるおなじみのうやうやしい響きをおび、ガリオンはおばさんの異変をダーニクに感づかせようとしても無駄だと悟った。
ガリオンは別の攻めかたを試みた。「それにミスター・ウルフだけれど、ぼくはこれまでずっとただの語り部のおじいさんだと思っていたんだ」
「あの人は通りいっぺんの風来坊じゃなさそうだ」ダーニクは認めた。「われわれは重要な任務にたずさわる偉い人々の仲間入りをしたようだぞ、ガリオン。おまえやわたしのような単純な人間はあれこれせんさくせず、目と耳をしっかりあけておいたほうがいいのかもしれん」
「これがすっかり終わったら、ファルドー農園へ帰るの?」ガリオンは慎重にたずねた。
ダーニクは雨のふりしきる宿屋の中庭に目をやりながら考えた。「いや」ようやくかれは低い声で言った。「マダム・ポルの許しがあるかぎり、どこまでもついていくよ」
とっさの衝動にかられてガリオンは手を伸ばし、鍛冶屋の肩をたたいた。「何もかも一番いい結果になるよ、ダーニク」
ダーニクは溜息をつき、「そう願うとしよう」と言うと、馬に注意を戻した。
「ダーニク、ぼくの両親を知ってた?」
「いや。わたしが最初に見たとき、おまえはマダム・ポルの腕に抱かれている赤ん坊だった」
「そのときのおばさんはどんなだった?」
「怒っているようだったな。あれほど激しい怒りは見たことがなかったような気がするよ。彼女はしばらくファルドーと話をしてから、台所働きの仕事についた――ファルドーの気性はおまえも知っているだろう。かれはくる者を拒んだことはただの一度もない。当初彼女は単なる手伝い女だったが、それは長くはつづかなかった。それまでいた年よりの料理女がしだいに肥ってなまけ者になり、とうとう末娘と同居するために辞めてからは、マダム・ポルが台所をきりまわすようになった」
「その頃のおばさんはすごく若かったんでしょう?」
「いや」ダーニクは考え深げに言った。「マダム・ポルは全然変わっていない。今もあの最初の日とまったく同じに見えるよ」
「きっとそう見えるだけだよ。齢をとらない人間なんかいないもの」
「マダム・ポルはちがうんだ」ダーニクは言った。
その夜、ウルフと尖った鼻の友だちが戻ってきた。二人の顔は落ち着いていた。ウルフは雪のように白いひげをしごいて短く言った。「なんでもなかった」
「だから言ったでしょう」ポルおばさんがからかうように言った。
ウルフはいらだたしげに彼女を一瞥してから肩をすくめた。「念には念をいれんとな」
鎖かたびらを磨いていた赤ひげの巨漢バラクが顔をあげて、たずねた。「まるで痕跡なしかい」
「気配もない」ウルフは答えた。「やつはここを通らなかったのだ」
「とすると、今度の目的地は?」バラクは鎖かたびらをどけて訊いた。
「ミュロスだ」ウルフは言った。
バラクは立ちあがって窓に近づいた。「雨は小降りになってるが、道はぐちゃぐちゃだぜ」
「いずれにせよ明日出発というわけにはいかないよ」ドア近くの腰かけに坐りこんでいるシルクが言った。「カブを処分しなけりゃならない。カブを積んだままダリネから出ていったら変に思われるし、うろついているマーゴ人と言葉をかわす見込みのある連中におぼえられてはまずい」
「そのとおりだ」ウルフが言った。「一刻も時間をむだにしたくはないが、いたしかたあるまい」
「一日雨があがれば道もよくなるだろうし、荷馬車がからなら速度もあがる」とシルクが指摘した。
「カブはまちがいなく売れるんですか、シルク?」ダーニクが訊いた。
シルクは自信たっぷりに答えた。「わたしはドラスニア人だ。なんでも売っちまうさ。もうけることもできるかもしれない」
「そのことなら心配いらん」ウルフが言った。「カブは需要があるのだ。今われわれがしなけりゃならんのはカブをかたづけることだけだ」
「原則の問題だな」シルクは気どって言った。「それに、ぬけめなく取引きをまとめようとしないと、そのことも印象に残ってしまう。心配ご無用。取引きはすぐすむし、そのせいで出発が遅れることはない」
「一緒に行っていい、シルク?」ガリオンは期待をこめて言った。「この宿屋以外、ダリネの他の場所を見ていないんだ」
シルクは物問いたげにポルおばさんを見た。
彼女はしばらく考えてから言った。「別に悪いことはなさそうだわね。わたしも手がすいて片づけ物ができそうだし」
翌朝、食事がすむと、シルクはカブの袋をかついだガリオンを連れて出発した。小男はことのほか機嫌がよいらしく、長い尖った鼻がふるえんばかりだった。丸石敷きのゴミだらけの通りを歩きながらかれは言った。「大事なのは売りたい気持を露骨に見せないことだ――そしてもちろん、市場を知ることだな」
「もっともだね」ガリオンは礼儀正しく言った。
「きのうちょっと調べてみたんだが」とシルクはつづけた。「カブはドラスニアのコトゥの波止場では目方百につきドラスニア銀貨一リンクで売られているんだ」
「一なんて言ったの?」
「ドラスニアのコインの名称さ――インペリアル銀貨一枚にだいたい匹敵する――まったく同じというわけじゃないが、まあ似たりよったりだ。買い手はわれわれのカブをその四分の一の値段で買おうとするだろうが、最終的には二分の一まで出すだろう」
「どうしてわかるの?」
「それが習慣なんだ」
「ぼくたちのカブはどのくらいあるんだろう?」通りのゴミの山を避けて通りながらガリオンは訊いた。
「三千だ」
「ということは――」複雑な暗算をしようとガリオンは眉間にしわをよせた。
「十五インペリアル銀貨だ」シルクが助け舟を出した。「あるいは三クラウン金貨だな」
「金貨?」ガリオンは問い返した。田舎では商売に金貨が使われることはめったになかったので、その言葉にはほとんど魔法のような輝きがあった。
シルクはうなずいた。「金貨のほうが好ましいんだ。持ち運びが楽だからな。銀貨は重くていけない」
「ぼくたちが払ったカブの代金はどのくらい?」
「五インペリアル銀貨だ」
「農夫のもうけが五でぼくたちが十五、買い手が三十?」ガリオンは信じられなかった。「とうてい公平とはいえないね」
シルクは肩をすくめた。「そういうものなんだよ。あれが買い方の商人の家だ」広い石段のついた堂々たる建物を指さした。「われわれが中へはいっても、買い方は多忙をよそおってこっちには全然関心のないふりをするだろう。そのあと、わたしとの取引きがはじまると、きみに目をとめて利口そうな坊やだとほめるだろう」
「ぼくに?」
「きみをわたしの身内――息子か甥か――と思って、お世辞を並べて優位に立とうと考えるんだ」
「ずいぶんおかしな考えだね」
「わたしは商人にいろいろなことを言う」シルクは先をつづけた。今やかれは猛烈な早口でしゃべっており、目はぎらぎらして、鼻は実際にヒクヒクうごいていた。「わたしが何と言おうと知らん顔をしてろよ。驚いた顔をするな。相手はわれわれを仔細に観察しているんだ」
「嘘をつくの?」ガリオンはショックをうけた。
「そのつもりだ。相手も嘘をつくだろう。うまい嘘をついたほうが得をするんだ」
「なんだかすごくこみいっているみたいだね」
「ひとつのゲームさ」シロイタチのようなシルクの顔がにやりと笑った。「世界中で行なわれている非常に刺激的なゲームだ。巧みな者は金持ちになり、へたなやつは損をする」
「シルクはうまいほう?」
「名人のひとりさ」かれはひかえめに答え、「中へはいろう」といいながら先に立って商人の家の広い石段をのぼった。
商人はベルトのない毛皮でふちどりをした淡緑色のガウンをきて、頭にぴったりしたふちなし帽をかぶっていた。男はシルクの予言どおりにふるまった。シルクとガリオンが気づいてくれるのを待っているあいだ、なんの変哲もない机に向かって、さも忙しげに顔をしかめ、羊皮紙の山をせわしなくめくっていた。
「これでよしと、さて」商人はようやく口を開いた。「取引きかね?」
「カブを持っているんだが」とシルクはどことなくうらめしげに言った。
「それはじつにあいにくなことだね」商人はうかぬ顔をした。「コトゥの波止場はちょうど今カブの山に呻いているところなんだよ。あんたのカブをいくらで買い取っても、ろくなもうけにならん」
シルクは肩をすくめた。「それじゃチェレク人かアルガー人に売るとしよう。かれらの市場はまだここほど供給過剰じゃないだろう」彼は回れ右をしてガリオンに声をかけた。「さ、行くぞ」
「ちょっとお待ちを」商人が言った。「その口ぶりから察するに、あんたとわたしは同国人だ。同胞のよしみでカブを見てもいい」
「貴重な時間をむだにしちゃ申しわけない。カブがあふれているなら、これ以上あんたをわずらわせることもあるまい」
「どこかに買い手を見つけてやれるかもしれないんだ」商人はシルクの遠慮を一蹴した。「商品の質がよければな」かれはガリオンの肩から袋をとって口をあけた。
ガリオンはシルクと商人が互いに優位に立とうと、丁重に相手の言い分を受け流す手口に夢中になって聞き入った。
「利発そうな坊やだな、この子は」はじめてガリオンの存在に気づいたかのように、突然商人が言った。
「みなしごでね。わたしが面倒をみているんだ」とシルクは言った。、商売の基礎を教えこもうとしているんだが、のみこみが遅くてな」
「ほう」商人はちょっと失望したように言った。
そのときシルクが右手の指で奇妙なジェスチャーをした。
商人の目がわずかに見開かれたかと思うと、かれもジェスチャーをした。
それから先、何が進行しているのかガリオンにはさっぱりわからなかった。シルクと商人の手が密に複雑なしるしを描いた。目にもとまらぬはやさのときもあった。シルクの長くほっそりした指が踊るように見え、それをじっと見つめる商人の額に集中力の激しさをあらわす玉の汗が吹きだした。
「では、決まったね?」室内の長い沈黙を破ってついにシルクが口を開いた。
「決まった」商人はなにがなし力なく答えた。
「正直者と取引きをするのはいつでも気持のいいものだ」シルクは言った。
「きょうは大変勉強になった。あんたがこの先ずっとこの商売をつづけるつもりじゃないといいがね。そうだとしたら、こっちはたった今倉庫と金庫室の鍵をあんたに渡したほうがましだ。あんたがあらわれるたびに戦々恐々としたくない」
シルクは笑った。「そっちこそ手ごわい相手だったよ」
「最初はそのつもりだったが」と商人は首をふりふり言った。「あんたにはとてもかなわん。明朝ベディク波止場のわたしの倉庫にカブを運んでくれ」かれは鵞ペンで羊皮紙に数本線をかいた。「うちの職長が金を払う」
シルクはお辞儀をしてその羊皮紙をつかむと、「さ、おいで」とガリオンに言い、部屋を出た。
「何が起きたの?」風の吹きすさぶ通りへ出たとき、ガリオンはたずねた。
「望みどおりの値をつけさせたのさ」シルクはすまして答えた。
「でも、何も言わなかったじゃないか」
「われわれは長々と話しあった。見ていなかったのか?」
「ぼくが見たのは、二人が指をくねらせあっていたのだけだよ」
「それがわれわれの会話法なんだ」シルクは説明した。「あれはわたしの同国人が何千年も昔あみだしたひとつの独立した言語なんだ。謎言葉といって、口でしゃべるよりずっと早い。他人の前でも盗み聞きされずに話すことができる。名人なら、その気になれば天気の話をしながら商談をまとめることもできるんだ」
「ぼくにそれを教えてくれない?」ガリオンは夢中になってたずねた。
「おぼえるには長い時間がかかるぞ」
「ミュロスへの旅は長い時間がかかりそうなんでしょう?」
シルクは肩をすくめた。「いいだろう。簡単じゃないが、暇つぶしになりそうだ」
「もう宿屋へ帰るの?」
「寄るところがある。ミュロスへはいる口実に積み荷がいるんだ」
「荷馬車をからっぽにして出発するんだと思った」
「そうさ」
「でも今――」
「知りあいの商人に会うんだ」シルクは説明した。「そいつはセンダリア中の農作物を買って、アレンディアとトルネドラの市場がおあつらえ向きの状態になるまで商品を農場にとめている。それからそれをミュロスかカマールへ運ばせる手配をするんだ」
「ずいぶん入り組んでるみたいだね」ガリオンは疑わしげに言った。
「みかけだけさ」シルクはガリオンにうけあった。「おいで、見ていりゃわかる」
その商人は流れるような青い長衣を着たトルネドラ人で、尊大な顔つきをしていた。シルクとガリオンが帳場に足をふみいれたとき、かれは陰気な顔のマーゴ人と話をしていた。ガリオンがこれまで見たマーゴ人がみなそうだったように、そのマーゴ人も顔に深い傷跡があり、貫抜くような黒い目をしていた。
中へはいってマーゴ人を見たとき、シルクは気をつけろというようにガリオンの肩に手をのせ、前へ進みでた。「失礼いたします」かれはへつらうように言った。「ご来客中とは知らなかったもので。手がすくまでボーイと外で待たせてもらいますよ」
「ほとんど一日かかりそうなんだがね」トルネドラ人は言った。「重要な用件か?」
「積み荷がないかと思いましてね」シルクは答えた。
「ない」トルネドラ人はそっけなかった。「なにもない」マーゴ人のほうへ向き直ろうとして、かれは鋭くシルクを見た。「コトゥのアンバーじゃないか? 香辛料を扱っているんじゃなかったのか」
ガリオンはシルクがその名を都の門番に告げたことを思いだした。小男がその名前を以前にも使っていたのは明らかだった。
「やれやれそれが」とシルクは溜息をついた。「投機をかけた最後の商品はアレンディアの岬沖の海底に沈んでしまっているんです――トル・ホネス行きの船二隻に満載した商品が。突然の嵐でわたしは文なしですよ」
「それはまた気の毒に、アンバー」トルネドラ人の大商人はどことなくとりすまして言った。
「しかたなく今は品物の運搬をやっているわけで」シルクはのっそりと言った。「おんぼろ荷馬車が三台、それがコトゥのアンバーが築いた帝国のなれの果てです」
「不運はだれにでもやってくるものさ」トルネドラ人は哲学的に言った。
「ではこの男がかの有名なコトゥのアンバーか」とマーゴ人が言った。耳ざわりなアクセントのある声はばかに柔らかだった。黒い目がさぐるようにシルクの全身を眺めまわした。「きょうここへきたのはついていた。あれだけ名高い人物に会えたのだからな」
シルクは深々とお辞儀した。「めっそうもないことで」
「ラク・ゴスカのアシャラクだ」マーゴ人は自己紹介をして、トルネドラ人のほうを向いた。
「話し合いはしばし中断だ、ミンガン。偉大なる商人の損失の埋め合わせの役に立てば、大変な名誉というものだろう」
「なんともご親切に、アシャラクさん」シルクはまた頭をさげた。
ガリオンの頭はありとあらゆるたぐいの警告を叫んでいたが、マーゴ人の鋭い目が気になってシルクにわずかな身ぶりひとつしてみせることができなかった。ガリオンはなにくわぬ顔でぼんやりした目つきをしながらも、めまぐるしく頭を働かせた。
ミンガンが言った。「喜んで手伝うが、今のところダリネには積み荷がないんだよ」
「ダリネからメダリアへの荷物はもう委託されているんですよ」シルクはすばやく言った。
「荷馬車三台分のチェレクの鉄ですがね。ミュロスからカマールまで毛皮を運ぶ契約もあるんです。ただメダリアからミュロスまでは五十リーグありますからね、気になるのはそこなんで、からの荷馬車で旅してももうけにならないし」
「メダリアか」ミンガンは額にしわをよせた。「記録を調べてみよう。あそこには何か荷がありそうだ」彼は帳場を出ていった。
「あんたの偉業は東の王国じゃ伝説なんだ、アンバー」ラク・ゴスカのアシャラクは感嘆のおももちで言った。「おれがクトル・マーゴスを発ったときには、あんたの首にはまだ大変な賞金がかかっていたぜ」
シルクはこともなげに笑った。「ちょっとした誤解ですよ、アシャラク。わたしはお国でのトルネドラ人の情報収集活動を調査していただけなんです。やっちゃならない危険を冒したおかげで、トルネドラ人たちにこっちの狙いをつきとめられてしまいましてね。やつらがわたしにつけた罪名はぬれぎぬですよ」
「どうやって逃げだした?」アシャラクは訊いた。「タウル・ウルガス王の兵隊たちはあんたを捜して王国をそれこそ調べまくったんだぞ」
「たまたまさる高位のタール人のご婦人に会いまして、どうにか説きふせて国境を越え、ミシュラク・アク・タールへ密入国したんです」
「ははあ」アシャラクは短く微笑した。「タール人の女性は説得しやすくて有名だからな」
「しかしじつに欲深でしてね。どんな親切にもたっぷり見返りを期待するんです。クトル・マーゴスからの脱出より、彼女から逃げるほうがはるかに骨が折れた」
「今でも貴国の政府のためにそういう任務を遂行しているのか?」アシャラクはなにげなくたずねた。
「もう口もきいちゃくれません」シルクはふさいだ顔で言った。「香辛料商人のアンバーは役に立っても、貧乏な馬車引きのアンバーはお呼びじゃないというわけでね」
「当然だな」とアシャラクは言ったが、その口調は今聞いた話にたいするそこはかとない不信をあらわしていた。アシャラクは興味がなさそうにガリオンを一瞥したが、とたんにガリオンは相手が自分を知っているのだという不思議な衝撃をおぼえた。なぜそれがわかったのかはっきりしなかったが、ラク・ゴスカのアシャラクが生まれたときからガリオンを知っているのはまちがいなかった。その目つきには見おぼえがあった。ガリオンが成長する過程で何十回となく視線を合わせたことがあるからだ。アシャラクはいつも黒マントで黒い馬にまたがり、じっとかれを見てはどこへともなく消えさっていた。ガリオンが今無表情に視線を返すと、アシャラクの傷跡のある顔にかすかな微笑の影が横ぎった。
そのときミンガンが部屋に戻ってきた。「メダリアの近くの農場にハムの荷物がある」と商人は知らせた。「ミュロスにはいつ到着の予定だね?」
「十五日か二十日後には」シルクは言った。
ミンガンはうなずいた。「ハムをミュロスへ運搬する契約書を渡そう。荷馬車一台につき七ノーブル一銀貨だ」
「トルネドラの銀貨、それともセンダリアの?」シルクはすかさず訊いた。
「ここはセンダリアだぞ、アンバー」
「われわれは世界の市民ですよ」シルクは指摘した。「われわれの取引きはいつもトルネドラのコインでしてきたじゃないですか」
ミンガンは嘆息した。「相かわらず抜け目がないな、アンバー。よかろう、トルネドラのノーブル銀貨だ――これもわれわれが占い友人で、あんたの不運をわたしが気の毒に思うからだぞ」
「また会うかもしれんな、アンバー」アシャラクが言った。
「そうですね」シルクはそう言うと、ガリオンと帳場をあとにした。
通りへ出るとシルクはつぶやいた。「けちなやつだ。相場は七じゃなく十のはずなんだ」
「あのマーゴ人はどうだったの?」ガリオンはたずねた。今ついに名前を持つにいたった例の人影と自分のあいだに存在する不思議な無言のつながりを公表したくないという、おなじみの気持が再び頭をもたげた。
シルクは肩をすくめた。「わたしが何かをたくらんでいることは察しているが、正確なところはつかんでいない――こっちがやつは何かをたくらんでいると見当をつけているのと同様さ。ああいう腹のさぐり合いは何度もしたことがあるんだ。双方の目的がぶつからなけりゃ、互いに干渉はしない。アシャラクもわたしもプロなんだ」
「おじさんはすごく不思議な人だね。シルク」
シルクは片目をつぶってみせた。
「コインのことでミンガンと言いあったのはどうして?」
「トルネドラのコインのほうがちょっと純度が高いのさ。値打ちも高い」
「なるほどね」
翌朝、一行は再び荷馬車に乗り、ドラスニア人の商人の倉庫までカブを運んだ。そのあと、からになった荷馬車は身も軽くダリネを出て南をめざした。
雨はあがっていたが、どんより曇った朝で風が吹きすさんでいた。町はずれの丘の上でシルクがとなりに乗っているガリオンのほうを向いた。「よし、はじめよう」かれはガリオンの顔の前で指を動かした。「これはおはよう≠フ意味だ」
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二日めからは風もやんで、再び秋の白っぽい太陽が顔をのぞかせた。一行はダリネ川づたいに南への道を進んだ。逆巻く川の流れは山からなだれ落ちてチェレク湾へそそいでいる。あたりは丘陵に富み、樹木が茂っていたが、荷がからなので馬たちの進みは速かった。
ダリネの谷をガタガタとのぼっていくあいだ、ガリオンは景色にはろくすっぽ目もくれなかった。シルクのひらひら動く指に意識を九割方集中させていたからである。
「叫ぶな」ガリオンが練習しているとシルクが指示した。
「叫ぶなって?」ガリオンはめんくらってたずねた。
「大きなジェスチャーをするなってことだ。大げさにやるな。一切を隠密裏に運ぶのがそもそもの狙いなんだから」
「練習してるだけだよ」
「悪い癖は小さいうちに摘みとったほうがいいんだ。それからもぐもぐ言わんように気をつけろ」
「もぐもぐ?」
「ひとつひとつの言葉遣いを正確に形作るんだ。ひとつを終えてから次に移れ。速さは気にするな。だんだん速くできるようになる」
三日めには二人の会話は半分言葉、半分ジェスチャーで成り立つようになり、ガリオンは得意になりはじめていた。その日の夕方、一行は道をはずれて高いスギ木立にはいり、例のごとく荷馬車で半円を作った。
「勉強のほうはどうだ?」ウルフが馬車をおりながら訊いた。
「進歩しているよ」シルクは言った。「この子の赤ちゃん言葉を使う傾向がなくなったら、進み具合もずっと速くなりそうだ」
ガリオンはくさった。
やはり荷馬車をおりていたバラクが笑った。「おれも謎言葉を知っていれば役に立ちそうだとよく思ったが、剣を握るようにできている手はどうも動きがにぶくてな」かれは大きな手をつきだして、頭をふった。
ダーニクが顔をあげ、空気を嗅いだ。「今夜は冷えこみますよ。明け方は霜がおりそうだ」
バラクも鼻をうごめかしてからうなずいた。「あんたの言うとおりだ、ダーニク」と響きわたる声で言った。「今夜は景気よく火を焚く必要がある」かれは荷馬車の中へ手を伸ばして斧を持ちだした。
「馬がやってくるわ」荷馬車にまだ坐っていたポルおばさんが知らせた。
みんないっせいに話すのをやめ、今しがたそれた道に遠くから近づいてくるかすかなひづめの音に耳をすました。
「三人はいるな」バラクがむっつりと言った。斧をダーニクに渡すと、かれは荷馬車に戻って剣をとりだした。
「四人だ」とシルクが言い、荷馬車に近づいて座席の下から剣をとった。
「われわれは道路からたっぷり離れている。じっとしていれば、気づかずに通りすぎるだろう」ウルフが言った。
「グロリムたちから隠れるのはむりよ」ポルおばさんが言った。「連中は目で捜しはしないんだから」彼女はウルフに謎めいたしぐさを二度すばやく送った。
いや<Eルフがジェスチャーをして返した。かわりにわれわれが=\―ウルフも謎の身ぶりをした。
ポルおばさんはちょっとかれを見つめてからうなずいた。
「みんな静かにしててくれ」ウルフはかれらに指示すると、真剣な顔で道路のほうを向いた。
ガリオンは固唾をのんだ。疾走する馬の足音が近づいてきた。
次の瞬間、妙なことが起こった。近づいてくる騎手たちとかれらがもたらす脅威にふるえあがって当然なのに、夢のような倦怠がガリオンをとらえた。道をやってくる黒マントの騎手たちの通過を、そこに立って見ている肉体をおきざりにして、いきなり頭が眠ってしまったかのようだった。
どのくらいそうやって立っていたのかわからないが、まどろみからさめると、騎手たちはさって陽が沈んでいた。夜が訪れて東の空は暗紫色になっており、夕陽に染まったちぎれ雲が西の地平線にうかんでいた。
「マーゴ人たちよ」ポルおばさんがひっそりと言った。「ひとりはグロリムだわ」彼女は荷馬車をおりはじめた。
「センダリアにマーゴ人は大勢いるよ」シルクが手を貸しながら言った。「任務もさまざまだ」
ウルフが陰気に言った。「マーゴ人とグロリムはまったく別物だ。どうやら舗装した道路は避けたほうがよさそうだ。メダリアへ行く裏道を知っとるかね?」
シルクは慎み深く答えた。「裏道ならまかせてほしいな」
「よし。ではもっと森の奥へ移ろう。万が一にも焚火の明かりが道から見えたらまずい」
ガリオンはマント姿のマーゴ人たちをほんの一瞬見ていた。かれらのひとりが、黒い馬上の黒い姿としてしか知らなかった長い年月のすえに出会った、あのアシャラクだという保証はどこにもなかったが、なぜかそうにちがいないという気がした。アシャラクはガリオンを追ってくるのだ、かれがどこへ行こうとも。それだけは確かだった。
霜に関するダーニクの予想は当たっていた。翌朝、地面は霜で白くおおわれ、一行が出発したとき馬たちの吐く息が凍てつく空気の中で白く見えた。かれらは小径や、ところどころ雑草の茂るほとんど使われていない道づたいに進んだ。街道にくらべて速度はおちたが、そのほうがずっと安心だった。
荷馬車はさらに五日かかってメダリアから十二リーグほど北に位置するウィノルド村に到着した。ポルおばさんの主張で一行はその村の今にも懐れそうな宿屋で一泊した。「また地面で寝るのはお断わりだわ」とおばさんはきっぱり宣言したのだ。
宿のきたない社交室で食事をすませると、男たちはビールを飲みだし、ポルおばさんは入浴用の熱い湯を運ぶように指示して二階の部屋にあがった。だがガリオンは馬のようすを見ると言い訳して外に出た。わざと嘘をつくのはかれの習慣ではなかったが、ファルドー農園を出て以来、一瞬たりともひとりになっていないことにガリオンはつい先日気づいていた。もともと孤独好きの少年ではないとはいえ、常に大人たちに囲まれているのは息がつまりそうだった。
ウィノルド村は大きな村ではなく、夕暮れの寒気の中を丸石敷きの狭い通りを三十分もぶらついていると、端から端まで行きついてしまった。家々の窓がろうそくの光で黄色に輝き、ガリオンはふいに強い郷愁におそわれた。
と、曲がりくねった通りの次の角の開いた戸口からもれる光の中に、ガリオンは見慣れた姿を一瞬認めた。確信は持てなかったが、とにかくかれはざらざらした石塀にぴったり背中をへばりつけた。
角にいる男がいらだたしげに明かりのほうを向き、ガリオンは男の片目が白く光るのを見逃さなかった。ブリルだった。薄ぎたない男は明らかに見られるのをいやがって、すばやく光の外へ出てから足をとめた。
ガリオンは塀にしがみついて、いらいらと角を行ったりきたりしているブリルを見守った。こっそりその場を離れ、急いで宿屋に引き返すのが一番賢明なように思えたが、ガリオンはその考えをすぐ放棄した。塀のわきの暗がりにひそんでいれば見つかる気づかいはなかったし、ブリルがここで何をしているのか正確に見届けないで立ちさるのは好奇心が許さなかった。
実際はほんの数分だが、何時間もたったように思われた頃、別の人影が足早に通りをやってきた。頭巾をかぶっているので顔は見えなかったが、チュニックにズボンをはき、ありふれたセンダー人のふくらはぎまであるブーツをはいていることが輪郭でわかった。男がふり向いた拍子に腰に剣をさげているのも見えたが、それは驚くべきことだった。下級のセンダー人が武器を携帯するのは必ずしも不法ではないが、ひそかに隠し持つのがふつうだったからだ。
ガリオンはブリルと剣の男の会話が聞こえるところまでにじりよろうとしたが、二人はほんのひと言ふた言話しただけだった。コインが手渡されるチリンという音がし、やがてふたつの人影は別れた。ブリルは音もなく角を曲がって見えなくなり、剣の男はガリオンが立っているほうへ曲がりくねった細い通りを歩いてきた。
隠れる場所はなかった。頭巾の男がそばへきたらガリオンが目にはいるのは確実だった。回れ右をして逃げるのはさらに危険だった。進退きわまったガリオンは肚をきめて近づいてくる人影のほうへ決然と歩いていった。
「だれだ、そこにいるのは?」頭巾の男は剣のつかに手を伸ばして問いただした。
「こんばんは」ガリオンはわざと幼い子供のような甲高い声をだした。「寒いですね」
頭巾の男は何事かつぶやいて、緊張をといたようだった。
逃げだしたくてガリオンの脚がガクガクふるえた。剣の男とすれちがうと背中がぞっとし、疑いの目で見られているような気がした。
「小僧」男が突然言った。
ガリオンは足をとめ、ふり返った。「何ですか?」
「おまえここに住んでいるのか?」
「はい」努めて平静な声で嘘をついた。
「ここらに居酒屋はあるか?」
町を探険したばかりのガリオンは自信を持って答えた。「はい、この通りをまっすぐ行って次の角を左へ曲がると、正面に松明が出ています。見逃がしっこありません」
「ありがとうよ」頭巾の男は短く言って、細い通りをそのまま歩いていった。
「おやすみなさい」危険がさった事実に勇気づけられて、ガリオンはうしろ姿に呼びかけた。
男は答えなかった。すれちがった程度ですんだことに元気づいてガリオンは威勢よく次の角まで歩きつづけたが、いったん角を曲がると、素朴な村の少年の役をかなぐり捨てて走りだした。
宿屋へたどりつき、ミスター・ウルフやみんなが炉辺で話しているすすけた社交室へとびこんだときには、息をきらしていた。
盗み聞きの恐れがある社交室でニュースをもらすのはまちがいかもしれないと気づいたかれは、上壇場で思い直し、友人たちが坐っているところへしいて静かに近づいた。身体を暖めるふりをして暖炉の前に立ち、声を落として言った。「たった今、村でブリルを見たんだ」
「ブリル?」シルクが訊いた。「ブリルってだれだ?」
ウルフは眉根をよせた。「農園の労働者なんだが、アンガラク金貨を財布にどっさり持っていて、クサいところのある男だ」かれはすぐさまファルドー農園でのひと悶着について、シルクとバラクに教えた。
「殺しときゃよかったのに」バラクが低く響く声で言った。
「ここはチェレクではないんだぞ」ウルフはたしなめた。「センダー人はいきあたりばったりの殺人には過敏なのだ」かれはガリオンに向き直った。「ブリルに見られたのかね?」
「ううん。ぼくが最初に見つけて、暗がりに隠れていたんだ。ブリルは別の男と会って、金を渡していたみたいだった。そいつは剣をもっていたよ」ガリオンは手短かに一部始終を説明した。
「これで事態は変わってくるな」ウルフは言った。「夜が明けたら予定より早く出発したほうがいい」
「ブリルにわれわれのことを嗅ぎまわらせないようにするのはむずかしくないでしょう」とダーニクが口をはさんだ。「わたしがやつを見つけだして頭を二、三回殴ってやります」
「悪くない」ウルフはにやりとした。「しかし、朝早く町を出て、われわれがここにいたことさえ知らぬままにしておくほうがいいと思う。出くわす者と片っぱしから喧嘩をする暇はない」
「しかし、その剣を持ったセンダー人をよく見ておきたいね」シルクが腰をあげながら言った。
「われわれを追っているのだとすれば、どういうつらか知っていたほうがいい。見知らぬ人間にあとをつけられるのは気にくわないんだ」
「用心しろ」ウルフが警告した。
シルクは笑った。「わたしが用心深くなかったことがあるか? すぐ戻ってくるさ。ガリオン、その居酒屋はどこにあるって?」
ガリオンは場所を教えた。
シルクはうなずいた。目が光り、長い鼻がうごめいた。かれは背を向けると、すばやくすすけた社交室をぬけて冷たい夜の中へ出ていった。
「どうだろう」とバラクが考えこみながら言った。「もしもこれほど厳重に追跡されているんだとしたら、荷馬車やこの退屈な変装はやめにして、いい馬を買い、ひたすらまっしぐらにミュロスへ行ったほうがいいんじゃないか?」
ウルフは首をふった。「われわれの居所をマーゴ人たちがそれほど確実に知っているとは思えん。ブリルがここにいるのは何かほかの不正行為のためかもしれんし、気づかれたわけでもないのに逃げだすのはばかげている。ここはただ波風を立てずに進みつづけたほうが賢明だ。たとえブリルがまだマーゴ人たちに雇われているにせよ、こっそり出発してこの中部センダリアを捜しまわらせてやったほうがわしはいいと思うね」ウルフは腰をあげた。「階上へ行ってポルに何があったか知らせてくる」かれは社交室を突っきって階段をのぼっていった。
「やっぱりおれは気にくわん」バラクがむっつり顔でこぼした。
その先かれらは黙りこくって坐ったままシルクの帰りを待った。薪がはじけ、ガリオンはびくっとした。待ちながらふと、みんなでファルドー農園を出てから自分は大きく変わったのだと思った。あの頃はすべてが単純で、世界は味方と敵にはっきり二分されているように思えた。しかし出発以来、短いあいだにガリオンは前には想像もしなかった複雑さを知りはじめていた。かれは用心深く疑い深くなり、明らさまな悪だくみでないかぎりあの内なる声が与える警告にしばしば耳を傾けるようになっていた。何事も額面どおりに受けとらないことも学んでいた。以前の無邪気さを失ってしまったのは少し残念な気もしたが、乾いた声に言わせれば、そんな後悔は子供じみているのだった。
やがてミスター・ウルフが階段をおりてきて、また一同に加わった。
約三十分後、シルクが戻ってきた。「まったくもってむさくるしい男だ」と暖炉の前に立って言った。「察するに、よくいる追いはぎだな」
「ブリルは同じ水準の仲間を求めているのさ」とウルフが意見を述べた。「まだマーゴ人たちに雇われているなら、おそらくわれわれの監視にごろつきを雇っているだろう。しかし連中が捜しているのは荷馬車に乗った六人ではなく、徒歩の四人だ。夜明けも早々にウィノルドを出ることができれば、完全にやつらの鼻をあかせるだろうよ」
「ダーニクとおれが今夜は見張りに立つほうがいいと思うがね」バラクが言った。
ウルフは賛成した。「名案だ。明方の四時頃出発することにしよう。陽がのぼるときにここから二、三リーグ離れていたい」
ガリオンはその夜まんじりともしなかった。うとうとすると、残虐な剣を持った頭巾の男に暗く細い通りをどこまでも追いかけられる悪夢を見た。バラクに起こされたとき、目はざらざらし、寝不足で頭はぼうっとしていた。
ポルおばさんは一本だけのろうそくに火をつける前に、部屋の鎧戸をしめた。「冷えこむのはこれからよ」と言って、前もってガリオンに荷馬車から運ばせておいた大きな包みをあけた。厚ぼったい毛織りのズボンと子羊の毛でふちどりしたブーツをとりだすと、「これを着なさい」とガリオンに言った。「厚手のマントもよ」
「ぼくはもう赤ん坊じゃないよ、ポルおばさん」
「こごえたいの?」
「そりゃいやだけどさ――」自分の気持を表現する言葉が思いつけず、ガリオンは口をつぐんで服を着はじめた。となりの部屋で、ほかのみんなが夜明け前に起きた者に特有のあの妙に押し殺した口調でしゃべっているのが、かすかに聞こえた。
「こっちの準備はできたよ、マダム・ポル」戸口からシルクの声がした。
「それじゃ出発しましょう」おばさんはそう言って、マントの頭巾をかぶった。
その夜おそくのぼった月が、銀色の霜にきらめく宿屋の外の石をこうこうと照らしていた。馬たちを荷馬車へつなぎに行ったダーニクが厩から手綱を引いてでてきた。
ウルフが声をひそめて言った。「馬たちをひいて道路へ出よう。通過する荷馬車の音で村人たちを起こすことはない」
シルクが再び先頭に立ち、一行は宿屋の庭からゆっくり出た。
村の向こうの野原は霧で白くおおわれ、青白くけむるような月光に色彩という色彩をぬきとられたように見えた。
ウルフが荷馬車に乗りながら言った。「村人の耳に届かないところまで行ったら、できるだけ早くここから遠ざかろう。荷馬車はからだから、少しぐらい走らせても馬たちは疲れまい」
「同感だ」シルクが賛成した。
全員が荷馬車に乗り、歩く速度で出発した。頭上の身のひきしまるような寒空に星が輝いていた。月光をあびた野原は白々とし、道路から奥まった木立は黒く沈んでいた。
最初の丘のてっぺんにさしかかったとき、ガリオンはふり返って後方の谷に眠る黒っぽい集落を眺めた。どこかの窓から一条の光がもれた。金色の小さな光が一点ついて、また消えた。
「あそこでだれかが起きてるよ」かれはシルクに言った。「たった今明かりが見えたんだ」
「たぶん早起きの人間がいるんだろう。しかしそうでないということもあるな」シルクは手綱をわずかにゆすった。馬たちの歩調が速くなった。もう一度手綱をゆらすと、馬たちは小走りになった。
「つかまってろよ」と指示すると、シルクは腕を伸ばして馬たちの尻を巧みに手綱でぴしゃりとたたいた。
荷馬車が上下にはね、走りだした馬たちのうしろで猛烈に揺れた。座席にしがみついているガリオンの顔を寒風が痛いようにさした。
三台の荷馬車は全速力で次の谷をくだり、明かるい月光をあびた霜の野原と野原のあいだを疾走して、村とひとつだけともった明かりをあっというまにおきざりにした。
陽がのぼる頃にはたっぷり四リーグは進んでおり、シルクは手綱を引いて汗をかいて湯気をたてている馬たちをとめた。鉄のようにコチコチの道路をがむしゃらにとばしたせいで身体中が痛くなっていたガリオンは休息のチャンスにほっとした。シルクはかれに手綱をあずけて荷馬車からとびおり、ミスター・ウルフとポルおばさんのところへ歩いていくと、短い話をしてまた荷馬車に戻ってきた。「このすぐ先の小径にはいるんだ」指をもみながらガリオンに言った。
ガリオンは手綱をさしだした。
「やってごらん」シルクは言った。「手がかじかんじまったんだ。馬たちをただ歩かせりゃいい」
ガリオンは馬たちに声をかけて軽く手綱をゆらした。馬たちはおとなしくまた進みだした。
「小径はぐるりと輪をかいてあの丘のうしろへ通しているんだ」両手をチュニックの中にひっこめているため、シルクは顎で方角を示した。「向こう側にはモミの木立がある。そこでとめて馬たちを休ませるんだ」
「ぼくたちはつけられていると思う?」ガリオンは訊いた。
「そいつをつきとめるには今が絶好のときなのさ」
一行は丘を一周して、道路と境を接する欝蒼たるモミ木立へ向かった。やがてガリオンは馬たちの向きを変え、木立の陰へ乗り入れた。
「これでよしと」シルクが荷馬車をおりて言った。「一緒においで」
「どこへ行くの?」
「後方のあの道をちょっと見たいんだ。木立をぬけて丘のてっぺんにのぼり、われわれの足跡が関心をひくかどうか見てみるのさ」シルクは丘をのぼりはじめた。驚くべきはやさなのに、物音ひとつ立てずにのぼっていく。ガリオンは必死についていった。枯れ枝を踏みつけてさんざんヘマな音をたてたあげく、やっとガリオンにもコツがわかってきた。シルクはその調子だというように一度うなずいてみせたが、何も言わなかった。
木立は丘の手前で途切れており、シルクはそこで足をとめた。黒い道の通る下方の谷に人影はなかった。反対側の森からシカが二頭あらわれて、霜枯れの草をはみはじめただけだった。
「ちょっと待とう」シルクは言った。「ブリルとやつの手下が追ってくるとしたら、もうじきやってくるだろう」かれは切り株に腰をおろして、人気《ひとけ》のない谷を見守った。
しばらくして二輪荷馬車が一台、ウィノルドの方角へゆっくり道を進んでいった。遠ざかるにつれて豆粒のようになったが、傷跡のような道を行く速度はばかにのろく思われた。
太陽の位置が少し高くなり、かれらはまぶしい朝日の中で細めた目をこらした。
「シルク」ガリオンはとうとうためらいがちに言った。
「なんだ、ガリオン?」
「これはどういうことなの?」大胆な質問だったが、ガリオンはそう訊いてもかまわないほどシルクとはもう気心が知れているような気がした。
「どういうこととは?」
「ぼくたちのしていることさ。すこしは聞いたし、推測もちょっとはしてみたけど、ぼくには本当になにがなんだかわからないんだ」
「どんな推測をした、ガリオン?」シルクは訊いた。ひげもじゃの顔の中で小さな目が明かるすぎるほどだった。
「なにかが盗まれて――なにかすごく大事なものなんだ――ミスター・ウルフとポルおばさん――それに残りのぼくたち――がそれを取り返そうとしている」
「ふむ。そのとおりだよ」
「ミスター・ウルフとポルおばさんは見かけと全然ちがう人たちなんだ」ガリオンはつづけた。
「そう。ちがう」シルクは同意した。
「かれらは他人にはできないことができるんだと思う」ガリオンは言葉を捜しながら言った。
「ミスター・ウルフは見ないでもこのなにか――それがなんだろうと――を追いかけることができる。それから、先週あの森の中でマーゴ人たちが通りすぎたとき、かれらはなにかをしたんだ――どう説明したらいいのかわからないけど、まるで手を伸ばして、ぼくの頭を眠らせたみたいだった。どうやってやったんだろう? それにどうして?」
シルクはくすくす笑った。「きみはじつに観察眼のするどい若者だ」と言ってから、もっと真剣な口調になって、「われわれは由々しき時代に生きているんだ、ガリオン。一千年、いやそれ以上の歳月の出来事がすべてこの時代に焦点を合わせている。世界はそういうものらしい。なにこともなく数世紀がすぎるかと思うと、短い数年間に世界が二度と元通りにはならないようなきわめて重大な出来事が起きるんだ」
「選択権があるなら、ぼくはそっちの波乱のない数世紀のほうがいいな」ガリオンはむっつりと言った。
「よせよ」シルクの唇がめくれてイタチのような笑いがうかんだ。「今こそ活動のときだぞ――一切が起きるのを見て、その一端をになうときだ。血わき肉おどる冒険じゃないか」
ガリオンはそれを聞き流した。「ぼくたちが追っているものってなんなの?」
シルクは神妙に言った。「それの名前とか、それを盗んだ者の名前については知らないのが一番いい。われわれをはばもうとしている連中がいるんだ。知らなけりゃ、あらわしようがないからな」
「マーゴ人たちにぺらぺらしゃべる習慣なんかぼくにはないよ」ガリオンはぎごちなく言った。
「やつらにしゃべる必要はない。連中の中には手を伸ばして人の頭から思考をつかみだせる者がいるんだ」
「そんなことありえないよ」
「なにが可能でなにが不可能かだれにわかる?」シルクは言った。ガリオンは一度ミスター・ウルフと可能と不可能について話しあったことを思いだした。
シルクはのぼったばかりの太陽をうけて切株に坐り、まだ薄暗い谷を思案顔に見おろしていた。ありふれたチュニックにズボンをはき、粗織りの茶色いケープについた頭巾をかぶったその姿は、どこにでもいる平凡な小男だった。「きみはセンダー人として育てられただろう、ガリオン」かれは言った。「センダー人というのは堅実で実際的な人々だ。魔法とか魔術とかいった日に見えない、自分の手でたしかめられないものにはまずがまんができない。きみの友だちのダーニクは完璧なセンダー人だ。かれは靴の修繕や壊れた車輪の修理、病気の馬に薬をのませることは得意でも、ほんのちょっとした魔法ですら信じようとはしないだろう」
「ぼくだってセンダー人だ」ガリオンは抗議した。シルクのそれとない言いまわしが、自分はセンダー人だというガリオンの意識の核心を脅した。
シルクはふり向いてじっとガリオンを見つめた。「そうじゃない。きみはちがう。センダー人は見ればわかる――アレンド人とトルネドラ人のちがい、あるいはチェレク人とアルガー人のちがいがわかるようにな。センダー人には一定の頭の恰好、一定の目つきがあるが、きみにはそれがない。きみはセンダー人じゃない」
「じゃあ何人なのさ?」ガリオンは挑むように言った。
「それがわからないんだ」シルクは困惑ぎみに額にしわをよせた。「何人かすぐ見抜けるように訓練をつんできたわたしにわからないんだから、こいつはきわめてまれなことなんだ。まあ、そのうちわかるかもしれんがね」
「ポルおばさんはセンダー人?」
「まさか」シルクは笑った。
「じゃあそれでわかった。たぶんぼくはおばさんと同じ人種だよ」
シルクは鋭くガリオンを見た。
「なんといっても、ポルおばさんはぼくのおとうさんの姉さんなんだから。おかあさんの親類かと思っていたけれど、それはまちがいだった。おとうさんのほうだったんだ。今わかったよ」
「それは不可能だ」シルクは感情のない声で言った。
「不可能?」
「問題外だよ。とうてい考えられない」
「どうして?」
シルクはちょっとのあいだ下唇をかんでいたが、やがて短く言った。「荷馬車にひき返そう」
二人はきびすを返して、酷寒の中を背中にきらめく朝日を斜めにうけながら、薄暗い木立を歩いていった。
一行はその日一日裏道を進んだ。午後もおそくなって太陽が西の紫色の層雲の陰に隠れはじめた頃、ミンガンのハムを積む予定の農場に到着した。シルクはでっぷりした農夫と話をし、ダリネでミンガンから渡された一枚の羊皮紙を見せた。
「ハムが片づいてやれやれだ」と農夫は言った。「倉庫が占領されて困っていたんでね」
「トルネドラ人と取引きをしているとよくあることですよ」シルクは言った。「かれらは支払う代価以上のものをせしめる才能がありますからな――たとえそれが他人の倉庫をただで使用する場合でもね」
農夫はうかぬ顔であいづちをうった。
シルクはふと思いついたように言った。「ところで、わたしの友だちを見てやしませんか――ブリルというやつですが? 中肉中背で黒髪に黒いひげ、片目が斜視の?」
「つぎだらけの服を着たむっつりした男かね?」肥った農夫はたずねた。
「そうそう」
「この近辺をうろついてたよ。なんでも――老人と女と少年を捜しているとか。その三人が主人からものを盗んだんで、見つけだしに送りだされたんだと言ってた」
「それはどのくらい前のことです?」
「一週間かそこらだ」
「すれちがいになって残念だな。かれを捜し出す暇があるといいが」
「わたしにはとんとその理由がわからないね」と農夫はぶっきらぼうに言った。「正直言って、あんたの友だちに好感は持てなかったよ」
「わたしだって大好きというわけじゃありませんよ」シルクは同意した。「いや、じつはやつに少々金を貸してあるんです。ブリルなんかいなくたってどうってことはないが、金は恋しいのでね、この意味わかるでしょう」
農夫は笑った。
「やつのことをたずねたのを忘れてもらえればありがたいんです。わたしが捜していると警告されなくたって、なかなかつかまらないやつなんでね」
「信用してくれていい」と肥った男はまだ笑いながら言った。「あんたと仲間の馬車ひきが一晩泊まれる倉庫がうちにあるし、あっちの食堂であんたがたがうちの労働者たちと一緒に夕めしをたべてくれたらうれしいよ」
「ありがたいことで」シルクは軽く頭をさげた。「地面は冷たいし、ここしばらくみんなろくなものを食べていなかったんですよ」
「あんたら馬車ひきの生活は冒険だからな」でっぷりした男はほとんどうらやましそうに言った。「鳥のように自由で、次の丘の向こうにはいつも新しい地平線がある」
「それは買いかぶりすぎです。それに冬場は鳥にも馬車ひきにも辛い時期だ」
農夫はまた笑い声をあげてシルクの肩をたたくと、馬たちをつなぐ場所へかれを連れていった。
肥った農夫の食堂で出された食べ物は素朴だったが、量はたっぷりあった。倉庫は少し隙間風がはいったものの、干草は柔らかだった。農園はファルドー農園ほどではなくても、じゅうぶん友好的で、再び周囲に壁があるという心安らぐ意識が、ガリオンに安堵を与えた。
翌朝、充実した朝食をすませると、一行はトルネドラ人の塩のきいたハムを荷馬車に積み、農夫に心からの別れを告げた。
前日の夕方西の空にわきあがっていた雲が夜のあいだに空をおおい、どんより曇った寒気の中をかれらは五十リーグ南のミュロスめざして出発した。
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9
ミュロスへ着くまでのほぼ二週間はガリオンがこれまで過ごしたなかでもっとも試練にとんだ旅だった。荷馬車は起伏の豊かな人家もまばらな田舎をぬけて、丘のふもとのふちを進んだ。頭上の空はどんよりとたれこめて、寒さが身にしみた。ときおり雪が舞い、東の地平線には、黒い山脈が不気味にうかびあがっていた。
ガリオンは二度と身体が温まらないような気がした。毎晩ダーニクが手を尽くして乾いた薪を見つけてきても、焚火はきまって情けないほど勢いがなく、まわりの寒さはたとえようもなかった。かれらが眠る地面は常に凍りつき、冷気が骨の髄までしみこみそうだった。
ドラスニアの謎言葉の勉強はその後もつづき、名人とはいかないまでも、荷馬車がカマール湖を通過し、ミュロスへ至る長いくだり斜面へさしかかる頃には、少なくともほどほどにはあやつれるようになった。
センダリア中南部にあるミュロス市はひらべったくはいつくばったような魅力のない土地で、昔から年に一度の大規模な市が開かれるところだった。毎年夏の終わりには、アルガーの馬乗りたちがおびただしい数の家畜の群れを連れて山々をぬけ、〈北の大街道〉づたいにミュロスへやってくる。そして西部全域から家畜の買い手がミュロスに集まって、かれらの到着を待つのだ。巨額の金が手から手へと渡り、また、アルガー人たちも概してその時期に有用品や装飾品をまとめ買いするため、遠くは南のニーサくんだりからも商人たちが品物を売りに集まってくる。市の東の大平原がまるごと畜舎にあてられるが、シーズンたけなわともなると、ぞくぞくと到着する群れはそれでもとうてい収容しきれずに、畜舎の向こうの東には、半永久的なアルガー人たちの野営所ができあがる。
シルクがトルネドラ人のミンガンのハムを積んだ三台の荷馬車を率いてこの都市にはいったのは、市も終わり、畜舎がほぼからになって大半のアルガー人たちが帰途につき、残っているのは死に物狂いの商人たちだけというある日の午前のことだった。
ハムの引き渡しはとどこおりなく完了し、荷馬車はすぐに都市の南のはずれに近い一軒の宿屋の中庭に近づいた。
「ここはりっぱな宿屋だよ、奥方」シルクが荷馬車をおりるポルおばさんに手を貸しながら言った。「前に寄ったことがあるんだ」
「そう望みましょう」ポルおばさんは言った。「ミュロスの宿屋はいかがわしいという評判だから」
シルクは慎重に言った。「それは町の東端に並ぶ宿屋のことさ。よく知っているんだ」
「そうでしょうとも」おばさんは眉をつりあげた。
「職業柄ときどき心ならずもその手の場所を見つけだす必要にせまられるんでね」シルクはやんわり言った。
ガリオンはその宿屋が驚くほど清潔なのに気づいた。宿泊客は大部分がセンダリアの商人らしかった。「このミュロスにはいろんな種類の人たちがいるんだと思ったよ」シルクと一緒に二階の部屋へ荷物を運びながらガリオンは言った。
「いるさ」とシルク。「ただ、各グループが孤立する傾向があるんだ。トルネドラ人は町のある一部分に集まるし、ドラスニア人はまた別の場所、ニーサ人はまたちがう場所という具合だ。ミュロスの伯爵がそれをお好みなのさ。一日の取引きが最高潮に達すると喧嘩が起きることもあるし、同じ屋根の下に生来の敵同士が泊まるのはまずいからな」
ガリオンはうなずいた。「あのさ」ミュロスでの滞在用にとった部屋へはいりながらかれは言った。「ぼくはこれまでニーサ人て見たことがないんだ」
「そいつは運がいい」シルクは嫌悪をこめて言った。「ニーサ人はいやな人種なんだ」
「マーゴ人みたいなの?」
「いや。ニーサ人は蛇神イサを崇拝していて、かれらのあいだではそれは蛇の癖をとりいれることと考えられているらしいのさ。わたしなどまっぴらだね。おまけにニーサ人はリヴァの王を殺した。それ以来全アローン人はかれらを忌み嫌っている」
「リヴァ人の王なんかいないよ」ガリオンは異議をとなえた。
「今はな。昔はいたんだ――サルミスラ女王が国王殺害を決心するまでは」
「それはいつのことだったの?」ガリオンは興味をそそられた。
「千三百年前だ」つい昨日のことのようにシルクは言った。
「うらみつづけるにはちょっと昔のことすぎるんじゃないかな?」
「許せないこともある」と、シルクはぶっきらぼうに言った。
日没までまだ間があったので、シルクとウルフは午後になると宿を出て、謎の痕跡を求めてミュロスの通りをぶらついた。ウルフにはその痕跡が見えるか、感じられるらしく、それによって一行の捜すものがこの道を通ったかどうかがわかるのだった。ガリオンはポルおばさんと一緒の部屋で暖炉のそばに坐りこみ、冷えきった足を温めようとしていた。ポルおばさんも炉辺に腰をおろし、光る針をせっせと動かしてかれのチュニックの一枚をかがっていた。
「リヴァの王ってだれだったの、ポルおばさん?」ガリオンはたずねた。
針がとまった。「なぜそんなことを訊くの?」
「シルクからニーサ人の話を聞いていたら、ニーサ人の女王がリヴァの王を殺したってシルクが言ったんだ。どうして殺したの?」
「きょうは質問で頭が一杯のようね」おばさんは針をまた動かしはじめた。
「荷馬車に乗っているあいだ、シルクといろんな話をするんだ」ガリオンは足をもっと火に近づけた。
「靴をこがさないようになさい」
「ぼくはセンダー人じゃないんだってさ。何人だかわからないけど、センダー人じゃないのはたしかだって」
「シルクはしゃべりすぎなのよ」ポルおばさんは言った。
「ポルおばさん、おばさんはぼくになんにも教えてくれないんだね」ガリオンはいらだって言った。
「あなたが知る必要のあることは全部教えているわ」おばさんは静かに言った。「今はリヴァの王だのニーサ人の女王だのについて知る必要はないの」
「おばさんはぼくをなにも知らない子供のままにしておきたいだけなんだ」ガリオンはぷりぷりして言った。「ぼくはもう大人なんだ、それなのに自分が何人なのか――だれなのかも知らない」
「わたしが知っているわ」おばさんは目をあげずに言った。
「じゃ、ぼくはだれなのさ?」
「靴を焦がしそうになっている若者よ」
ガリオンはあわてて足をひっこめた。「それじゃ答えになっていないよ」となじった。
「そのとおり」ポルおばさんはあいかわらずじれったくなるほど平静な声で言った。
「なんで答えてくれないの?」
「まだ知らなくていいことだからよ。そのときがきたら教えてあげましょう。でもそれまではだめ」
「不公平だ」
「この世は不公平なことだらけだわ。さ、それほど一人前の気分ならもう少し薪を持ってきてちょうだい。そうすればもっと役に立つ考えごとが思いつくでしょう」
ガリオンはポルおばさんをにらみつけて部屋を出ていこうとした。
「ガリオン」
「なに?」
「ドアを力まかせにしめるなんて考えないことね」
その夜シルクとともに戻ってきたとき、ふだんは陽気な老人はいらいらと落ち着かないようだった。宿屋の社交室のテーブルにつくと、ウルフは不機嫌にじっと暖炉に目を注いだ。「例のものはここを通らなかったらしい」ようやくかれは口を開いた。「まだ数ヵ所あたっていないところがあるが、あれがここを通過しなかったのはまずまちがいない」
「するとおれたちはこのままカマールへ進むのか?」バラクが太い指でごわごわのあごひげをしごきながら言った。
「進まねばならん」ウルフは言った。「はじめからそこへ行っているべきだったのだ」
「知りようがなかったんですもの、しかたがないわ」ポルおばさんが言った。「それにしても、アンガラクの王国へあれを運びこもうとしているなら、あの男はなぜカマールへ行くのかしら?」
「やつの行き先に確信があるわけではない」ウルフはいらいらと言った。「やつは例のものをひとりじめにしたいのかもしれん。いつもほしがっていたからな」ウルフは再びじっと火を見つめた。
「カマールへ旅をつづけるにはなにか積み荷がいるな」シルクが言った。
ウルフは首をふった。「そんな手間はかけていられんよ。ミュロスからカマールへ荷馬車が手ぶらで戻るのは珍しくない。速度を犠牲にして偽装をつづけるのももうこれまでだ。カマールまでは四十リーグあるし、天気は悪くなっている。ひどい吹雪にでもなれば、荷馬車は立往生だ。雪の吹きだまりに埋まってひと冬をすごす時間はない」
突然ダーニクがナイフを落とし、あわてて立ちあがった。
「どうしたんだ?」バラクがすばやくたずねた。
「今ブリルが見えたんです」ダーニクは言った。「あの戸口にいた」
「たしかかね?」ウルフが問いただした。
「わたしはやつを知っている。ブリルでしたよ、まちがいなく」
シルクがこぶしをテーブルにたたきつけて、自分を呪った。「ばかめ! あの男を見くびっていた」
「もうかまわんさ」と言ったミスター・ウルフの声にはほとんどほっとしたような響きがあった。「こうなれば変装は無用だ。速度を優先させるときだと思う」
「荷馬車の具合を見てきましょう」ダーニクが言った。
「いや、荷馬車はのろすぎる。アルガー人の野営地へ行って、脚の速い馬を買うのだ」ウルフは急いで立ちあがった。
「荷馬車はどうするんです?」ダーニクがなおもたずねた。
「忘れよう。今は足手まといでしかない。荷馬車の馬に分乗してアルガー人の野営地まで行く。運びやすいものだけを持っていくのだ。ただちに出発の準備をしよう。なるべく早く中庭で落ちあおう」ウルフはすばやくドアに歩みより、冷たい夜の中へ出た。
全員が丸石敷きの中庭の厩の扉近くに集合したのは、それからわずか数分後だった。めいめいが小さな荷物を持っていた。巨漢のバラクが歩くとジャラジャラ音がし、ガリオンは油を塗ったバラクの鎖かたびらのかなくさい匂いを嗅ぐことができた。数片の雪が凍った空中をひらひらと落下し、凍てついた地面に小さな羽根のように舞いおりた。
ダーニクは一番最後にやってきた。かれは息をきらして宿屋から出てくると、ひとつかみほどのコインをミスター・ウルフに押しつけた。「これで精一杯でした」とかれはすまなそうに言った。「荷馬車のやっと半分の代金ですが、急いでいるのを宿の主人に感づかれて足元を見られてしまった」ダーニクは肩をすくめた。「少くとも処分はできましたがね。価値あるものを置きざりにしていくのは良くありません。そのことが気にかかって注意がおろそかになります」
シルクが笑った。「ダーニク、あんたは正真正銘のセンダー人だな」
「これが性分なんですよ」ダーニクは言った。
「ご苦労だったな、ダーニク」ウルフは真顔で言うと、コインを財布に入れた。「馬はひいていこう。夜この狭い通りを疾走しても注意をひくだけだ」
「おれが先頭を行く」バラクが宣言して剣を抜いた。「なにかあっても、一番厳重に武装しているからな」
「わたしが隣りに並びますよ、バラク」とダーニクが薪を太い棍棒のように持ちあげた。
バラクは目を光らせてうなずくと、馬をひいて門をくぐった。ダーニクがその横にぴたりとついた。
ガリオンはダーニクを見ならって薪の山の前を通るときにちょっと立ちどまり、頑丈な樫の棒を選んだ。それは頼もしい重さで、ガリオンは二、三回ふりまわして感じをつかんだ。それからポルおばさんがじっと見ているのに気づき、おとなしく足早に歩きつづけた。
通りは細く暗く、ふりだしていた雪が多少激しさをまして、シンと静まった空中にものうげに停止しているように見えた。馬たちは雪に怖気づいたように、前をゆく仲間のうしろにぴたりとついた。
襲撃は思いがけなく、あっというまの出来事だった。突然バラバラと足音がし、バラクが最初の一撃を剣でかわした拍子に鋼と鋼のぶつかる鋭い音が響いた。
ガリオンには舞いちる雪を背景にうかびあがったぼんやりした人影しか見えなかったが、やがて、昔子供の頃、戦争ごっこのさいちゅうに友だちのランドリグをたたきのめしたときのような耳鳴りがはじまった。血管の中で血が煮えたぎり、かれはポルおばさんの短い叫びを無視して戦いの場にとびこんだ。
肩を思いきりたたかれて、ガリオンはふり返りざま樫の棒で殴り返した。手応えあってくぐもった呻き声がした。かれはまた殴りつけた――一番の急所を本能的に嗅ぎわけて、影のような敵のそういう部分めがけて再三棍棒をふりおろした。
しかし主たる戦いはバラクとダーニクの周囲で起きていた。バラクの剣がたてる金属音とダーニクの棍棒のにぶい音が、襲撃者たちの呻きとともに細い通りに響いた。
「あの小僧だ!」背後でどなり声がして、ガリオンはパッとふり向いた。二人の男がこっちへ通りを走ってくる。ひとりは剣を、もうひとりは見るからに邪悪な湾曲したナイフを持っている。望みはないとわかっていながらガリオンは棍棒をふりあげたが、そこへシルクがあらわれた。小男は暗がりからまっしぐらに二人の賊の足元へ突っこみ、三人はもつれあって通りにひっくり返った。シルクは猫のようにしなやかに立ちあがり、くるりと一回転して、もがいているひとりの耳の真下をしたたかに蹴った。男は痙攣しながら丸石敷きの通りに沈みこんだ。必死に立ちあがりかけていたもうひとりは、シルクのかかとを顔面にくらった。ネズミ顔のドラスニア人が宙をとんで身をひねり、両足で蹴りつけたのだ。シルクはそれからなにげないともいえる態度でふり返った。
「大丈夫か?」
「なんともないよ」ガリオンは答えた。「すごくうまいんだね、こういうことが」
「軽業師だからな」シルクは言った。「コツさえのみこめば簡単なものさ」
「やつら逃げていくよ」
シルクがふり向くと、たった今やっつけた二人がほうほうのていで薄暗い路地に逃げこむところだった。
バラクの勝ち誇った叫びが聞こえ、残りの襲撃者が逃走するのが見えた。
通りの向こう、小窓からもれる雪まだらの明かりの中で、ブリルが怒りに地団駄をふんでいた。「臆病者めらが!」かれは雇い人たちに罵声を投げつけた。「腰ぬけども!」だがバラクがそっちへ歩きだすと、ブリルも背を見せて逃げていった。
「大丈夫、ポルおばさん?」ガリオンは通りを横ぎっておばさんに近づいた。
「もちろん」おばさんはきつい調子で言った。「二度とあんなまねはしないように。喧嘩はそれにふさわしい人たちにまかせておきなさい」
「ぼくはなんともなかったんだ」ガリオンは反抗した。「ここに棍棒を持っていたんだから」
「口答えはおよし。苦労してあなたを育てたのは、のたれ死にしてもらうためじゃないのよ」
「全員無事ですか?」ダーニクが引返してきて、心配そうにたずねた。
「むろん無事ですとも」ポルおばさんは気短かにきっぱり言った。「馬のところにいる老いぼれ狼を手伝うことがないかどうか見てきたらいかが」
「そうしましょう、マダム・ポル」ダーニクは穏やかに言った。
「ちょいとした戦いだったな」バラクが剣をぬぐいながらやってきて言った。「流血はたいしてなかったが、まあまあだ」
「それがあなたにわかってよかったわ」ポルおばさんは苦々しげに言った。「わたしはこういう出会いはもう遠慮したいわね。何か遺留品は?」
「残念ながらなしだ」バラクは言った。「思いきりぶちのめしてやるには場所が狭すぎたし、石がつるつるして足がよくふんばれなかったが、賊の二人にはじゅうぶんしるしをつけてやった。骨の二、三本は折ったし、頭のひとつふたつはへこませてやった。グループとしちゃ、やつらは戦うより逃げるほうがはるかに得意だったな」
シルクが路地から戻ってきた。ガリオンを襲おうとした二人を追いかけていったのだ。シルクの目はきらきら光り、意地の悪い笑いが口元をゆがめていた。「痛快だな」と言ってから、これといった理由もなくかれは笑った。
ウルフとダーニクが目を血走らせた馬たちをやっとなだめて、ガリオンたちのところへ戻ってきた。「負傷したものは?」ウルフが訊いた。
「全員無傷さ。剣をぬくほどのこともなかった」とバラクが野太い声で言った。
ガリオンの頭はめまぐるしく動いていた。興奮していたので、事件全体を最初から考えたほうが賢明であるにもかかわらず、せっかちに質問した。「ブリルはどうしてぼくたちがミュロスにいるとわかったんだろう?」
シルクがすばやい一瞥をくれ、目を細めて言った。「たぶんウィノルドからわれわれのあとをつけてきたんだ」
「でも、ぼくたちは立ちどまってうしろをたしかめたよ。ウィノルドを出たときはつけられていなかったし、毎日うしろを見張っていたはずだよ」
シルクは眉をひそめた。「つづけろ、ガリオン」
「ブリルはぼくたちの行き先を知っていたような気がするんだ」かれは今ことの真相にはっきり気づき、それをしゃべらせまいとする奇妙な抑制にさからって言った。
「ほかに考えていることは?」ウルフが訊いた。
「だれかがしゃべったんだ。ぼくたちがここへくるのを知っていただれかが」
シルクが言った。「ミンガンは知っていた。しかしミンガンは商人だ。ブリルみたいなやつに自分の商売の話をするわけがない」
「だけど、ミンガンがぼくたちを雇ったとき、あの帳場にはマーゴ人のアシャラクがいたよ」しゃべらせまいとする力があまりに強かったので、ガリオンは舌がうまく回らなかった。
シルクは肩をすくめた。「それは関係ないだろう。アシャラクはわれわれの正体を知らなかったんだ」
「でも、もしも知っていたら?」ガリオンは抑制をふりきろうともがいた。「もしかれがただのマーゴ人じゃなくて、ダリネを出た二日後ぼくらがやりすごしたやつらと一緒にいたような一味の仲間だとしたら?」
「グロリムか?」シルクの目が大きくなった。「そうだな、アシャラクがグロリムだとすると、われわれが何者でどこへ行くかに感づいたとしても不思議じゃない」
「そしてあの日ぼくたちを追いこしていったグロリムがアシャラクだったとしたら?」ガリオンはけんめいに口を動かした。「かれは本当はぼくたちを捜していたんじゃなくて、ただブリルを見つけてここでぼくたちを待ち伏せさせるために南へ急いでいたんだとしたら?」
シルクはしげしげとガリオンを見た。「なるほど」と低い声で言った。「じつにもっともだ」かれはポルおばさんをちらりと見た。「すばらしいね、マダム・ポル。あんたの育てたこの少年はまれに見る洞察力を持っている」
「そのアシャラクという男、どんなようすをしていた?」ウルフがせきこんでたずねた。
シルクは肩をすくめた。「どこにでもいそうなマーゴ人だ。ラク・ゴスカの出だと言っていた。われわれには関係ない仕事をしているただのスパイだとばかり思っていたが、わたしの神経は眠っていたらしい」
「グロリムたちを相手にすると、そういうことが起こるのだ」ウルフは言った。
「あそこの窓からだれかがわたしたちを見ています」ダーニクが静かに言った。
すばやく上を見たガリオンは、おぼろげな明かりに照らされた二階の窓に黒い人影を認めた。その人影にはなんとなく見おぼえがあった。
ミスター・ウルフは上を見なかった。かわりに何かの内部を見ているような、心で何かを探っているような無表情な顔になった。それからしゃんと背を伸ばし、燃えるような目で窓の人影を凝視した。「グロリムだ」ウルフは短く言った。
「殺しておいたほうがいいな」シルクはふところから先の尖った長い短剣をとりだし、グロリムが見おろしている家からすばやく二歩さがると、一回転して流れるようなオーバーハンドで短剣を投げた。
短剣が窓を突き破り、押し殺した叫び声がして明かりが消えた。ガリオンの左腕に不思議な激痛が走った。
「やった」シルクがにやりとした。
「おみごとだ」バラクがほれぼれと言った。
「だれでもある程度の腕前は身につけているもんだ」シルクは謙遜して言った。「あれがアシャラクなら、ミンガンの帳場でわたしをあざむいた借りが返せたわけだ」
「少なくともこれでちょっとは思い知ったろう」ウルフは言った。「こそこそ町を出る意味はもうなくなった。連中はわれわれがここにいるのを知っている。馬に乗っていこう」ウルフは馬にまたがると、速歩で先頭に立ち、通りを進んだ。
抑制が消えたので、ガリオンはみんなにアシャラクのことを話したかったが、馬に乗っているためそのチャンスがなかった。
いったん都市のはずれまでくると、一行は馬たちを軽く突いて速い駆け足にさせた。その頃になると雪はいちだんと激しくふりしきり、広大な畜舎のひづめに踏み荒された地面はすでにうっすらと白くなっていた。
「今夜は冷えこむぞ」シルクが進みながら叫んだ。
「その気になりゃいつだってミュロスへ引返せるぜ。もう一、二回格闘すれば身体もあったまるかもしれん」バラクが言った。
シルクは笑って、馬を軽く再びかかとで蹴った。
アルガー人の野営地はミュロスの東三リーグのところにあった。頑丈な柵に囲まれた広い地域だった。ふりしきる雪のために野営地はかすんで見えた。じゅうじゅう燃える松明を側面にかかげた門には、革のすね当て、雪をかぶったやはり革の上着、なべを伏せたような恰好のはがねの兜といういでたちの獰猛そうな戦士が二人立っていた。手に持つ槍の先端が松明の明かりをうけてぎらぎら光っている。
「とまれ」戦士のひとりがミスター・ウルフに槍をつきつけて命じた。「こんな夜中になんの用だ?」
「大至急ここの家畜の長《おさ》と話がしたいんですよ」ウルフは丁重に答えた。「おりてもよろしいかな?」
二人の番兵はちょっと話しあった。
ひとりが言った。「よかろう。ただしおまえの連れはだめだ――明かりから先へは行っちゃならん」
「アルガー人め!」シルクは低く毒づいた。「あいかわらず疑い深いことだ」
ミスター・ウルフは馬をおり、頭巾をうしろへはねのけて、雪の中を二人の番兵のところへ歩いていった。
そのとき、不思議なことが起きた。ミスター・ウルフをじろじろ見ていた年長のほうの番兵が、銀色の頭髪とあごひげに気づくなり、きゅうに目をまんまるくし、あわててもうひとりに何事かささやいた。そして二人そろってウルフに深々とお辞儀をしたのである。
ウルフはわずらわしげに言った。「そんなことはせんでいいから、わしを元締めのところへ案内してくれ」
「ただいま、長老さま」年かさの番兵が急いで言い、門をあけにかけよった。
「どういうこと?」ガリオンはポルおばさんにささやいた。
「アルガー人は迷信深いのよ」おばさんの返事はそっけなかった。「あまりいろいろ訊くのはよしなさい」
かれらは待った。雪がかれらの上にふりつもり、馬の上でとけていった。三十分ほどたった頃、再び門があいて、鋲をうった革のチョッキにはがねの兜をかぶった屈強な数十名の馬に乗ったアルガー人たちが、鞍をつけた六頭の馬をひいてあらわれた。
そのうしろをミスター・ウルフが歩いてきた。一房だけを残して頭をつるつるに剃りあげた背の高い男が、ウルフに同行している。「われわれの野営地を訪問してくださるとは光栄です、長老さま」と長身の男は言っていた。「みなさんの旅の速度があがるとよいのですが」
「アルガーの馬があれば遅れる気づかいはまず無用だ」ウルフは答えた。
「手下がお伴をして、数時間とたたぬうちにミュロスのはるか向こうへ出る道まで御一行をお連れします。そのあと、みなさんがつけられていないことをたしかめるためにしばらくそのへんをぶらつくでしょう」
「じつにかたじけない、長《おさ》どの」ウルフは頭をさげた。
「わたしこそお役に立てる機会に恵まれて光栄ですよ」長《おさ》も頭をさげた。
一分たらずで一行は新しい馬に乗りかえた。アルガー人の護衛団の半分が前に、半分がうしろにまわり、かれらは馬の頭をめぐらせて暗い雪の夜の中を再び西へ進みだした。
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10[#「10」は縦中横]
少しずつ、ほとんどわからぬ程度に闇が薄れだした。音もなく降る雪が朝の訪れまであいまいにしていた。馬たちは疲れも知らぬように強まる光の中を進みつづけた。〈北の大街道〉の広い路面をおおう雪は今や馬のけづめ毛の高さまで達し、ひづめの音をかき消している。ガリオンは一度うしろをちらりとふり返った。一行の足跡が入り乱れて後方に伸び、視界がきかなくなるあたりでは早くもそれが雪におおわれはじめていた。
じゅうぶんあたりが明かるくなると、ミスター・ウルフは汗をかいている馬の手綱を引いて、しばらく歩速で進ませた。「どのくらいきたかな?」とシルクにたずねた。
マントのひだに積もった雪を払っていたイタチ顔の男は、舞いちる雪片のペールの中に陸標を見つけようと周囲を見わました。「十リーグかもうちょっとというところかな」とようやく言った。
「こいつは気の滅いる旅のしかただぜ」バラクが太い声を出し、鞍の中で巨体を動かして顔をしかめた。
「おまえを乗せている馬の気にもなってみろ」シルクがにやにやした。
「カマールまではどのくらいあるの?」ポルおばさんがたずねた。
「ミュロスから四十リーグだ」シルクが言った。
「では休息所が必要だわ。背後に何者がいようと、四十リーグぶっつづけに走るのは無理よ」
「さしあたって追っ手の心配はないと思う」ウルフが言った。「ブリルとやつの手下にせよ、アシャラクにせよ、われわれを追跡しようとすればアルガー人たちにひきとめられるはずだ」
「アルガー人でも役に立つことはあるんだな」シルクが皮肉めかして言った。
「わしの記憶が正しければ、あと五リーグばかり西に高級旅館があるはずだ。昼までにはそこへつく」
「わたしたちがとめてもらえるでしょうか?」ダーニクが疑わしげにたずねた。「トルネドラ人が親切だという評判はついぞ耳にしたことがないんですがね」
「金を払えばトルネドラ人はなんだって売る種族だ」とシルク。「休むにはその旅館がもってこいだ。たとえブリルかアシャラクがアルガー人たちをまいてここまでわれわれを追ってきたとしても、軍団兵たちが城壁内の愚を許すわけがない」
「どうしてセンダリアにトルネドラの兵隊がいるの?」その考えに愛国的な怒りがこみあげてくるのを感じながら、ガリオンは訊いた。
「大きな街道があるところならどこでも軍団がいるんだ」シルクは説明した。「トルネドラ人は客をごまかすことより協定書を書くほうが得意なんだよ」
ミスター・ウルフはおかしそうに笑った。「支離滅裂だな、シルク。かれらの道に文句はないが、軍団は気にくわんというわけか。軍団と街道は二つでひとつなんだ、片方だけというわけにはいかんよ」
「つじつまを合わせるふりをしたことはないんだ」尖った鼻の男はすまして言った。「安楽かどうか疑わしいが、その高級旅館に昼までにつきたいなら、もう行ったほうがよくないか? ふところが軽くなる機会をむげにしたくない」
「よし。先を急こう」ウルフは早くも走りだそうとうずうずしているアルガーの馬の脇腹をかかとで蹴った。
雪の降る昼の光の中を一行がたどりついてみると、くだんの旅館はひとつづきの頑丈な建物で、そのまわりをさらに堅固な塀が囲んでいた。配置されている軍団は、これまでガリオンが見たトルネドラの商人たちとは別種の人々だった。口先のうまい商売人とはうってかわって、これらの連中は光る胸当てと羽毛のついた兜に身を固めた険しい顔のプロの戦士たちだった。かれらは誇らしげに、わがもの顔にふるまい、各自が全トルネドラの権力を背負っているのだという意識を持っていた。
食堂での食事は簡素で衛生的だったが、おそろしく高かった。硬くて狭いベッドとぶあつい毛織りの毛布がついたちっぽけな寝室は、なめたように清潔だったが、食事と同様高かった。厩はきれいだったが、やはりミスター・ウルフの財布を大いに軽くした。ガリオンは自分たちの宿泊代はどのくらいするのだろうと思ったが、ウルフは財布が底なしであるかのようになにくわぬ顔ですべての料金を支払った。
「あすまでここで休養する」一行が食事をたべおわったとき白いあごひげの老人は宣言した。
「朝までには雪もやむかもしれん。吹雪をついてしゃにむに進むのは気が進まんのだ。こういう天候だと道中何がひそんでいるかわからんからな」
疲れはてて放心状態だったガリオンは、テーブルに坐ってうつらうつらしながらこの言葉を聞いてほっとした。他のみんなは静かに話していたが、とても内容に耳を傾ける気力はなかった。
ポルおばさんが見かねて言った。「ガリオン、もう寝たらどうなの?」
「大丈夫だよ、ポルおばさん」子供扱いされるのが癪にさわって、かれは急いでしゃんと上体を起こした。
「今すぐ上へ行きなさい、ガリオン」かれにはおなじみの有無を言わさぬあの口調で、おばさんは言った。生まれてこのかたずっとガリオンは「今すぐよ、ガリオン」と言われつづけているような気がした。だがかれは口答えするような愚かなまねはしなかった。
立ちあがってみて、脚がガクガクするのにびっくりした。ポルおばさんも席を立ち、かれを食堂から連れだした。
「ひとりで行けるったら」ガリオンは反撥した。
「もちろんよ。さ、いらっしゃい」
ガリオンが小部屋のベッドに這いあがると、おばさんは首もとまで毛布をひっぱりあげてかれをしっかりくるみこんだ。「はいではだめよ。風邪をひかれたら困るわ」おばさんはガリオンが小さな子供の頃やっていたように、ひんやりした手をちょっと額に当てて言った。
「ポルおばさん?」ガリオンは眠そうな声でたずねた。
「なに、ガリオン?」
「ぼくの両親はだれだったの? つまり、名前はなんていったの?」
彼女はいかめしい顔でガリオンを見た。「その話はあとでしましょう」
「知りたいんだよ」かれは頑固に言い張った。
「いいわ。おとうさんの名はゲラン、おかあさんの名はイルデラよ」
考えこんでからガリオンは言った。「センダー人らしくない名前だね」
「センダー人ではないわ」
「なぜ?」
「これには長いいきさつがあるのよ。それに今のあなたはくたくたで話を聞くどころじゃないでしょ」
衝動にかられて、ガリオンはやにわに手を伸ばし、右手のてのひらのしるしをポルおばさんの生え際の白い一房に押しつけた。以前にもときどき起きたように、そのくすぐったい接触をきっかけに頭の中で窓が開いたような気がしたが、今度見えたのはもっとずっと重要なものだった。怒りがあった。そして顔がひとつ――どことなくミスター・ウルフの顔に似ているが、かれではない顔、その顔にこの世の激烈な憤怒が向けられていた。
ポルおばさんが頭をどけた。「それはしないでといったでしょう、ガリオン」その口調はきわめて事務的だった。「あなたにはまだその用意ができていないのよ」
「これがなんなのか、いつか教えてくれなくちゃだめだ」
「そのうちにね。でもまだ早いわ。目をつぶって、お休み」
するとその命令が意志を溶かしてしまったかのように、たちまちガリオンは深い安らかな眠りにおちた。
夜が明けると雪はやんでいた。高級旅館の塀の外の世界は切れ目ひとつない白一色の下にすっぽりおおわれ、大気はほとんど霧のような――霧そのものではなく――湿ったかすみの膜にくるまれていた。
「霧のセンダリアか」シルクが朝食の席で皮肉っぽく言った。「王国全土がよくも錆つかないもんだと、ときどき驚くよ」
かれらは終日楽な駆け足で旅をつづけ、夜になって別の高級旅館にたどりついた。朝出発した旅館と寸分たがわぬようすの旅館で、あまりによく似ているので、ガリオンは一日中馬を走らせて出発地点に戻ってきただけのような錯覚をおぼえた。馬たちを厩に入れながら、かれはそのことをシルクに言った。
「トルネドラ人は予言能力がなかったら、つまらない連中なんだ。旅館はどれもこれもまるっきり同じさ。ドラスニアにもアルガリアにもアレンディアにも、連中の大街道が伸びているほかのどんなところにも、同じ建物が建っている。それがトルネドラ人のひとつの弱味だ――この想像力の欠如がな」
「同じことをなんどもくり返してあきないのかな?」
「そのほうが快適なんだろう」シルクは笑った。「夕めしもどうせ同じだろうよ」
翌日はまた雪になったが、昼になるとガリオンは雪につきもののあのかすかに埃りっぽい匂いとはちがう匂いを嗅ぎつけた。ダリネに近づいていたときのように、海の匂いが漂いはじめ、旅が終わりかけていることがわかった。
センダリア一の大都市の北の主要な港であるカマールは、古来〈大カマール川〉の河口に位置する不規則に広がった場所だった。ドラスニアのボクトールへ伸びる〈北の大街道〉の自然な西の終点であり、同様に、アレンディアを横断してトルネドラとトル・ホネスの帝都に達する〈西の大街道〉の自然な北の終点でもある。すべての道はカマールで終わるというのもあながちでたらめではなかった。
冷えこむ雪の日暮れどき、一行はその都市をめざして少しずつ丘をくだった。城門からかなり遠い地点でポルおばさんが馬をとめて言った。「もう流れ者を装おっていないのだから、一番評判の悪い宿を選ぶ必要はないと思うわ、そうでしょう」
「そのことは考えていなかった」ミスター・ウルフが言った。
「わたしは考えたわ。道ばたの旅館やみすぼらしい村の宿屋はこれ以上まっぴらですからね。わたしにはお風呂と清潔なベッドとおいしい食べ物が必要なのよ。文句がなければ、今度はわたしが宿泊所を選ぶわ」
ウルフは穏やかに言った。「いいとも、ポル、言うとおりにしよう」
「けっこう、では」彼女は一行をひきつれて都市の城門へ馬を進ませた。
「カマールになんの用だ?」広い門口で毛皮にくるまった番兵のひとりが横柄に訊いた。
ポルおばさんは頭巾をうしろへはねのけると、はがねのような視線を男に注いでよく通る声で言った。「わたしはエラトの公爵夫人です。ここにいるのは従者たちです。カマールでの用件はおまえには関係ありません」
番兵は目をぱちくりさせてからうやうやしく一礼した。「失礼しました、閣下夫人。ご無礼をするつもりはなかったんです」
「そう?」ポルおばさんの口調はあくまでひややかで、凝視はあくまで険悪だった。
「気がつかなかったもので」あわれな男は威丈高な凝視にさらされてへどもどした。「なにかお手伝いできることがありましょうか?」
「そうは思いませんね」ポルおばさんは番兵を頭から爪先までじろりと眺めた。「カマール一の宿屋はどこ?」
「それでしたら〈ライオン〉でございましょう、閣下夫人」
「それで――?」彼女はいらだたしげに言った。
「それで、とおっしゃいますと?」男は質問の意味がのみこめず訊き返した。
「どこにあるの? ばかみたいに口をあけてつっ立っていないで、言いなさい」
「税関の向こうです」番兵は彼女の言葉に顔を赤らめて答えた。「この通りをいきますと税関。広場に出ます。そこにいる者におたずねになれば、すぐ〈ライオン〉はわかります」
ポルおばさんは頭巾をかぶり直した。「この者に何かやりなさい」と肩ごしに命じて、ふり返りもせずに都市にはいっていった。
「ありがとうございます」ウルフが身をかがめて小さなコインを一枚やると番兵は言った。
「正直なところ、エラト公爵夫人なんて初耳だったもんで」
「あんたは運がいいよ」ウルフは言った。
「たいそうきれいなお方だ」男は感に耐えぬ口調で言った。
「それにふさわしい気性の持主でね」
「それには気づきましたとも」
「あんたが気づいているのにはわれわれも気づいたよ」シルクが茶化した。
一行は馬をせかしてポルおばさんに追いついた。
「エラト公爵夫人だって?」シルクはやんわり言った。
ポルおばさんはすまして言った。「あの男の態度にいらいらしたもんだから。それに見知らぬ連中の前でみすぼらしい顔つきをするのにはあきあきしているのよ」
税関広場でシルクは雪にうもれた舗装道路を歩いていく忙しそうな商人に声をかけた。「ちょっと――そこの」あたうかぎりもっともえらぶった口ぶりでそう言うと、驚いている商人の目の前で馬をとめた。「わたしのご主人さまのエラト公爵夫人が〈ライオン〉という宿への道を知りたがっておられる。つべこべいわずに教えろ」
ネズミ顔の男の物言いに商人は目をしばたいて、顔を紅潮させた。「あの通りをいきな」指さして短く言った。「かなりの道のりだ。左側にある。正面に〈ライオン〉の看板が出てる」
シルクはふんと鼻をならし、男の足もとの雪にコインを数枚投げると、尊大な態度でくるりと馬の向きを変えた。ガリオンは商人が憤然としたのに気づいたが、結局かれはシルクの投げたコインを捜して雪の中をまさぐった。
「あの連中はわれわれの通過をあっさり忘れそうもないな」通りをしばらく行ったところでウルフが苦々しげに言った。
「かれらがおぼえているのは横柄な貴婦人の通過だ。これまで同様のいい隠れみのだよ」シルクは言った。
宿屋につくと、ポルおばさんは普通の寝室ではなくワン・フロアを丸ごと所望した。「代金はそこにいる侍従が支払うわ」彼女は宿の主人に言って、ミスター・ウルフを示した。「荷物を積んだ馬たちは残りの召使いと数日遅れてやってくるから、仕立て屋と小間使いが必要だわね。そのようにとりはからっておくれ」ポルおばさんはそこまで言うとくるりと背を向けて、貸し切りの部屋へつづく長い階段を威風堂々とのぼりだした。召使いが案内しようとあわててあとを追いかけた。
「あたりを払う風采の持主でいらっしゃいますな」ウルフがコインを数えはじめると、主人は思いきって言った。
「まったく」ウルフは相槌をうった。「公爵夫人の願望にさからわないことをわしは知恵と心得ているのだ」
「それじゃこちらもそうしましょう。うちの末娘はよく気のきく子でしてね。あの子に公爵夫人の小間使いの役をやらせますよ」
「それはありがたいね」シルクが主人に言った。「奥方は望んだことがおくれるとひどくご機嫌が悪くなるんだ。そのとばっちりをうけるのはわれわれだからな」
かれらはポルおばさんが借りきった部屋へぞろぞろと階段をのぼり、広い控えの間に足を踏み入れた。ガリオンがこれまで見たこともないようなすばらしく贅沢な部屋だった。複雑な絵を織りこんだタペストリーが壁を埋めている。たくさんのろうそく――いがらっぽい獣脂ではなく本物の蜜蝋の――が壁にとりつけた張り出し燭台や、磨きあげたテーブル上の大燭台の中できらめいていた。暖炉では暖かい火が陽気にいきおいよくおどり、床にはおもしろい模様の大絨緞が敷かれている。
ポルおばさんは火の前に立って両手を温めていた。「魚だの垢だらけの水夫たちの匂いのするどこかのみすぼらしい波止場の宿屋よりここのほうがよくはない?」おばさんは訊いた。
ウルフがいくらか辛辣に言った。「言わせていただくがね、エラト公爵夫人。これじゃ注目してくださいというようなものだぞ。おまけにこの宿泊代ときたら一連隊を一週間飢えさせないほど高い」
「もうろくしてけちけちしないでちょうだい、老いぼれ狼。わがままの貴婦人のことなどだれが本気で考えるものですか。あなたの思いつきの荷馬車だってブリルをだましつづけることはできなかったじゃないの。すくなくともこの変装は快適だし、ずっと速く前進できるわ」
ウルフは鼻をならした。「後悔することにならなけりゃいいがと思っているだけだ」
「不平をこぼすのはやめて」
「好きにするがいいさ」ウルフは溜息をついた。
「そのつもりよ」
「わたしたちはどうふるまったらいいんです。マダム・ポル?」ダーニクがためらいがちに質問した。ポルおばさんの堂々たる変身ぶりにかれがめんくらっているのは明らかだった。「上流階級の流儀にはなじみがないもので」
「まったく簡単よ、ダーニク」彼女は鍛冶屋を上から下まで眺めて、地味で信頼できるその顔つきと堅実な能力に注目した。「エラト公爵夫人の馬丁頭というのはどうかしら? 厩の監督係もかねて?」
ダーニクはきまり悪そうに笑った。「生まれてこのかたしてきた仕事とは不釣合にりっぱな肩書だ。それならどうにかこなせそうだが、肩書がちょっと重荷になりそうですよ」
「あんたなら大丈夫さ、ダーニク」とシルクがうけあった。「その正直な顔があれば、なにを言ったって信用してもらえる。わたしがあんたみたいな顔をしていれば、世界の半分を盗んじまうところだ」シルクはポルおばさんのほうを向いてたずねた。「わたしの役割は、奥方?」
「エラトの代官ね」おばさんは言った。「代官の地位と通常きってもきれない窃盗はあんたにぴったりですもの」
シルクは皮肉めかしてお辞儀をした。
「それじゃおれは?」バラクがにやにやしながら言った。
「お付きの兵士。ダンスの先生なんてだれも信じやしないでしょうからね。うかつに近よれないような感じでそばに控えていてくれればいいわ」
「ぼくは、ポルおばさん?」ガリオンは訊いた。「ぼくはなにをするの?」
「わたしの小姓よ」
「小姓って?」
「わたしのためにいろいろな物を持ってくるの」
「いつもやってることか。それを小姓っていうの?」
「なまいきをいうんじゃないの。ドアにも応えるし、来客を告げるのも役目のうちよ。わたしの気分が晴れないときは、歌をうたってもらうわ」
「歌を?」ガリオンは耳を疑った。「ぼくが?」
「習慣ですからね」
「まさかぼくにそんなことさせやしないよね、ポルおばさん?」
「閣下夫人とおっしゃい」
「ぼくの歌を聞くはめになったら、あまりうれしくないと思うよ」ガリオンは警告した。「あんまりいい声じゃないんだ」
「心配にはおよばないわ」
「わしの役割はすでに決定ずみだな、閣下夫人の侍従だ」ウルフが言った。
「家老よ。わたしの財産管理人兼会計係もね」
「そんなことだと思った」
ドアをおずおずとたたく音がした。
「だれがきたのか見てごらん、ガリオン」ポルおばさんが言った。
ガリオンがドアをあけると、地味な服に糊のきいたエプロンと帽子をつけた、明るい茶色の髪の若い娘が立っていた。娘はとても大きな茶色の目で不安げにガリオンを見つめた。
「なにか?」ガリオンはたずねた。
「公爵夫人のお世話にあがりました」彼女は低い声で言った。
「小間使いがまいりました、閣下夫人」とガリオンは知らせた。
「上出来よ」とポルおばさん。「おはいり」
娘がはいってきた。
「きれいな娘だこと」
「ありがとうございます、奥さま」娘はちょっと膝を曲げ、ほんのり頬を染めて答えた。
「名はなんというの?」
「ドニアです、奥さま」
「かわいい名前ね。さて、大事な事柄に移るわ。この宿にお風呂はあって?」
翌朝はまだ雪が降っていた。近隣の家々の屋根に雪がうず高く積もり、細い通りは雪に埋もれた。
「われわれの捜索は終わりに近づいているようだ」ミスター・ウルフはそう言うと、タペストリーだらけの部屋のサラサラと雪が吹きつける窓の外をじっと見つめた。
「こっちの追う相手はカマールに長くはいなかったようだ」シルクが言った。
「たしかにな」ウルフは同意した。「しかしいったん尻尾を見つけたら、われわれはもっと迅速に行動できるだろう。町なかへ出て、わしの言うことが正しいかどうかみてみよう」
ミスター・ウルフとシルクが出かけたあと、ガリオンはしばらくドニアと話をした。彼女はガリオンとほぼ同年齢のようだった。ズブレットほどきれいではなかったが、その物静かな声と大きな茶色の目はたいそう魅力的だった。二人の仲が順調に進んでいたところへポルおばさんの呼んだ仕立て屋が到着し、ドニアはおばさんの部屋へ行かなければならなくなった。エラト公爵夫人が新しい服の試着をするのである。
ダーニクは贅沢な部屋にいると居心地が悪いらしく、朝食後厩へ行ったきりだったので、ガリオンの相手は大男のバラクだけだった。バラクは小さな石で剣の端にできた傷を根気よくこすり落としていた――ミュロスのこぜりあいの記念である。ガリオンは赤ひげのこの巨漢にはこれまでどうしてもうちとけることができなかった。バラクはめったに口をきかなかったし、どことなく近よりにくい雰囲気があった。そんなわけで、ガリオンは控えの問のタペストリーを仔細に眺めて朝をつぶした。タペストリーに描かれていたのは鎧兜に身を固めた騎士たちと、丘の上の城、そして庭をそぞろ歩く妙に角ばった顔つきの乙女たちだった。
「アレンドのものだな」まうしろでバラクの声がして、ガリオンはとびあがった。大男が音もなく近づいてきたので、気づかなかったのだ。
「どうしてわかるんですか?」ガリオンはていねいにたずねた。
「アレンド人はタペストリーが好きだからさ」バラクは低い声をとどろかせた。「しかも織りこまれた絵は、男たちが戦場で戦いあっているあいだの女たちを描いている」
「かれらは本当にあんな恰好をしているのかな?」ガリオンは重装備の騎士を指さした。
「そうとも」バラクは笑った。「もっとすごい。馬まで鎧をつけてる。それで戦おうっていうんだからばかな話だ」
ガリオンは靴で絨緞を示した。「これもアレンドのもの?」
バラクはかぶりをふった。「マロリーのだ」
「どうやってマロリーくんだりからここまできたんだろう? マロリーは世界の向こうはじにあるって聞いたけど」
「かなり遠くではある」バラクはうなずいた。「だが商人てのはもうけになるならその倍の距離だって出かけていくさ。こういう品物はふつうガール・オグ・ナドラクからボクトールまで〈北の隊商道〉を通って運ばれるのよ。マロリーの絨緞は金持ちに尊ばれるんだ。おれはアンガラク人とかかわりのあるものはなんだろうと嫌いだから、この絨緞もあまり好かんな」
「アンガラク人にはどのくらい種類があるんだろう?」ガリオンはたずねた。「マーゴ人とタール人がいるのは知ってるし、〈ボー・ミンブルの戦い〉の話やなんかも聞いたことがあるけど、アンガラク人については本当はよく知らないんだ」
「五つの部族がある」バラクはまた床に坐って剣を磨きはじめた。「マーゴ人にタール人、ナドラク人、マロリー人、そしてもちろんグロリムだ。かれらは東の四つの王国に住んでいる――マロリー、ガール・オグ・ナドラク、ミシュラク・アク・タール、クトル・マーゴスさ」
「グロリムはどこに住んでるの?」
「やつらは特定の場所を持たないんだ」バラクはむっつりとして答えた。「グロリムは、〈片目〉のトラクに仕える僧で、アンガラク人の領土のいたるところにいる。かれらはトラクのためにかなりのいけにえを捧げている。グロリムの剣によって流れたアンガラクの血は、〈ボー・ミンブル〉十二回分よりもっと多い」
ガリオンは身ぶるいした。「トラクは自分の民を殺してなにが楽しんだろう?」
「さあね」バラクは肩をすくめた。「トラクはひねくれたよこしまな神なのさ。〈アルダーの珠〉を使って世界を破裂させ、〈珠〉の報復をうけて片目と片手を焼き尽くされたとき、トラクは気が狂っていたんだという説もある」
「世界が破裂するなんてことあるのかな?」ガリオンは訊いた。「そこのところがどうしても理解できないんだ」
「〈アルダーの珠〉の威力はなんでもできるほどすごいんだ」バラクは言った。「トラクがそれを持ちあげると、大地はその力に裂け、海は陸地をのみこんだ。昔々の話だが、おれはたぶん本当だと思うぜ」
「〈アルダーの珠〉は今どこにあるの?」ガリオンは突然たずねた。
バラクはじっとかれを見た。青い目がよそよそしくなり、考える顔つきになったが、何も言わなかった。
「ぼくの考えを言ってみようか?」ガリオンは衝動的に言った。「盗まれたのは〈アルダーの珠〉だと思う。ミスター・ウルフが見つけようとしているのは〈珠〉じゃないかな」
「そしておれはこう思うね、そういうことはあんまり考えないほうがいいぜ」バラクは警告した。
「でも知りたいんだ」ガリオンは反抗した。バラクの言葉と頭の中のいましめる声にもかかわらず、好奇心がかれをつき動かした。「みんなよってたかってぼくを何んにも知らない子供みたいに扱うんだ。ぼくたちが何をしているのかさっぱりわからないから訊いているだけだよ。ねえ、ミスター・ウルフは何者なの? アルガー人たちはミスター・ウルフを見てどうしてあんなにぺこぺこしたの? かれは目に見えないものをどうして追跡できるんだろう? 後生だからさ、教えてよ、バラク」
「だめだ」バラクは笑った。「そんなヘマをやったら、おまえのおばさんに頬ひげをひっこぬかれちまう」
「まさかおばさんがこわいんじゃないでしょう?」
「分別のある人間ならだれだって彼女がこわいさ」バラクは立ちあがって剣を鞘にすべりこませた。
「ポルおばさんが?」ガリオンは信じられずに問い返した。
「おまえはこわくないのか?」バラクはいじわるくたずねた。
「こわくないよ」と言ってから、必ずしもそれが真実でないことに気づき、「ええと、本当にこわいんじゃなくてさ、もっと――」説明に困ってガリオンはつづきを宙にうかせた。
「そのとおり」バラクは言った。「おれだっておまえ同様むこうみずじゃない。おまえは質問をかかえすぎているし、答えないほうがおれとしちゃ賢明なんだ。そういうことが知りたけりゃ、おまえのおばさんに訊くしかないな」
ガリオンはむっつり言った。「教えてくれるもんか。なんにも教えてくれないんだ。両親のことだって本当のところは教えてくれないんだから」
バラクは怪訝そうに眉をひそめた。「そいつは妙だ」
「ぼくは両親はセンダー人じゃなかったんだと思う。名前がセンダリアの言葉じゃないし、シルクもぼくはセンダー人じゃないと言うしね――すくなくともセンダー人らしく見えないって」
バラクはしげしげとガリオンを見てから言った。「そうだな。そういやセンダー人の顔じゃない。むしろリヴァ人に似ている――といっても、完全にリヴァ人らしいわけでもないが」
「ポルおばさんはリヴァ人なの?」
バラクの目がわずかに細まった。「またしても答えないほうがいい質問を話題にしているようだぜ」
「いつかつきとめてやるさ」
「だがきょうはだめだ。一緒にこい。すこし運動をする必要がある。中庭へ出よう。剣の使いかたを教えてやるよ」
「ぼくに?」考えただけでわくわくして、ガリオンの好奇心はきゅうに跡形もなく消えてしまった。
「そろそろ学んでもいい年頃だ。知っていれば役に立つ機会がそのうち起きないともかぎらないしな」
午後も遅くなり、バラクの重い剣をふりまわす努力に腕が痛くなりだして、戦士の手腕を身につけるという考え全体の興奮がめっきりさめていた頃、ミスター・ウルフとシルクが帰ってきた。一日中雪の中を歩きまわっていたせいで、かれらの衣服はぬれていたが、ウルフの目は明かるく、みんなをひきつれて控えの間への階段をのぼる途中も、妙に意気揚々としていた。
「おばさんにもこっちへきてもらってくれ」ウルフはぬれそぼったマントをぬいで、身体を温めようと火のそばに近づきながらガリオンに言いつけた。
ガリオンは今は質問するときではないことをいちはやく感じとった。ポルおばさんが終日仕立て屋と閉じこもっていた部屋の磨かれたドアに駆けよって、軽くノックした。
「なんの用?」中からおばさんの声がした。
「ミスター・――あ――その、侍従が戻ってまいりました、奥様」最後の瞬間におばさんがひとりではないことを思いだして、ガリオンは言った。「お話ししたいことがあるそうです」
「あら、そう」おばさんはすぐに出てきて、ドアをぴったりうしろ手にしめた。
ガリオンは息をのんだ。おばさんは豪華な青いビロードの服をきていた。そのためびっくりするほど堂々と見えて、呆気にとられてしまったのだ。ガリオンは賞賛の目でおばさんを見つめるばかりだった。
「かれはどこ?」ポルおばさんは訊いた。「ガリオン、ポカンとつっ立っていないで。失礼というものよ」
「きれいだよ、ポルおばさん」思わずかれは言った。
おばさんはかれの頬を軽くたたいた。「ええ、わかってるわ。さあ、老いぼれ狼はどこなの?」
「タペストリーの部屋だよ」まだおばさんから目をそらすことができずかれは言った。
「じゃ、いきましょう」おばさんは短い廊下を悠々と控えの間に近づいた。中へはいると、全員が暖炉のそばに立っていた。
「いかが?」ポルおばさんはたずねた。
ウルフが彼女を見あげた。かれの目は依然輝いていた。「すばらしい選択だ、ポル」とほれぼれと言った。「青は昔から一番よく似合ったからな」
「お気に召して?」おばさんは両腕を伸ばし、みんなに自分の美しさがわかるように、少女じみたしぐさで一回転してみせた。「気に入ってもらえるといいのだけれど、だって大変な値段なんですもの」
ウルフは笑った。「そうだろうとも」
ポルおばさんのドレスがダーニクにおよぼした効果はかわいそうなくらい明瞭だった。哀れな男の目は文字通りとびださんばかりになり、顔はかわりばんこにまっさおになったりまっかになったりしたあげく、見ているガリオンが胸をつかれたほどうろたえた表情にやっと落ち着いた。
シルクとバラクはおかしいようにそろって深々と、無言でお辞儀をし、ポルおばさんは二人の沈黙の賛美に目をきらめかせた。
「例のものはここを通ったよ」ウルフが真顔で告げた。
「たしかなの?」
ウルフはうなずいた。「あれの通過の記憶をここの敷石に感じることができた」
「海路できたのかしら?」
「いや。おそらくやつはあれを持って人里離れた入江にでも上陸し、海岸づたいに陸路でここまできたのだろう」
「そして再び船に乗った?」
「それはしなかったと思う」ウルフは言った。「やつのことはよく知っている。海は苦手のはずだ」
「おまけに」とバラクが口をはさんだ。「チェレクのアンヘグ王の耳にそれが届けば、百隻の戦さ船がやつを追いかける。海の上でチェレクの船から逃げられる者はいないんだ。やつはそれを知っている」
「そのとおりだ」ウルフは相槌をうった。「アローン人の領土はよけて通るだろう。アルガリアとドラスニアを通る〈北の大街道〉をやつが避けた理由も、たぶんそれだ。アローン人の諸王国ではべラー神の霊の力が強い。この盗賊だとて熊神とあえて対決するほどの肝っ玉はないさ」
「となると、残るはアレンディアかウルゴ人の領土だな」シルクが言った。
「わしはアレンディアだと思う。ウル神の怒りはベラーの怒りよりもっとすさまじいからな」
「ちょっと失礼」ダーニクがあいかわらずポルおばさんに目を注いだまま、横から言った。
「なにがなにやらさっぱりです。その盗賊とやらの正体をまだうかがっていないし」
ウルフは言った。「ダーニク、悪いんだがやつの名を口にするのは賢明でないのだよ。やつには大変な威力があってな、こちらの居所を気取られでもしたら、すべての行動が筒ぬけになってしまうのだ。千リーグ離れていてもやつの名を口にしたら聞かれる恐れがある」
「魔法使いですか?」ダーニクは信じられぬようにたずねた。
「わしはそうは言わんがね。それはあの技巧を理解していない人間が使う言葉だ。わしはもっと容赦のない呼び名をほかにいくつか使っているが、とりあえず、やつのことは盗賊≠ニ呼ぼう」
「まちがいなくやつはアンガラク人の諸王国の方へ向かうだろうか?」シルクが眉をよせた。
「そうだとしたら、まっすぐ船でトル・ホネスへ行って、やつの足跡をたどりながら、〈南の隊商道〉からクトル・マーゴスへはいるほうが早いんじゃないのかね?」
ウルフは首をふった。「足跡を見つけたからには、それから離れんほうがいい。何をたくらんでいるかわからんからな。ひょっとすると例のものを盗んだのはひとりじめしたいからで、グロリムに渡すためではないかもしれん。ニーサに避難所を求めることもありうる」
ポルおばさんがうかぬ顔で言った。「それが事実だとしたら、あの蛇女の息の根をとめる時間ができるわ」
「まだわからんよ。あした食料を買って、船で川を渡り、アレンディアへ行こう。そこでまた足跡が見つかるはずだ。さしあたってわれわれにできるのは、足跡を追うことしかない。それがどこへ通じるか確信が持てたら、その時点で代案を考えればいいのだ」
暗くなった外の中庭から突然馬の足音が大挙して聞こえてきた。
バラクがすばやく歩みよって、ちらりと表をうかがった。「兵隊だ」と短く言った。
「こんな場所にか?」シルクも急いで窓に近づいた。
「王の連隊のひとつらしいぜ」バラクが言った。
「わたしたちに興味を持ちっこないわ」
「かれらが見かけどおりの連中であればね」とシルク。「一、二種類の制服を手に入れるのはさほどむずかしいことじゃない」
「マーゴ人じゃないな」とバラク。「マーゴ人ならわかる」
「ブリルもマーゴ人じゃない」シルクは宿の中庭をじっと見おろした。
「なんと言っているか聞いてみてくれ」ウルフが指示した。
バラクが慎重に窓のひとつをほんの少しあけると、冷たい一陣の風が吹きこんで、ろうそくがいっせいにゆらめいた。下の中庭で連隊長が宿屋のあるじと話していた。「中位より多少背が高く、白髪で短い白いひげを生やした男だ。数人の連れがいるかもしれない」
「そういう人ならお泊まりです、閣下」宿のあるじは半信半疑の口ぶりだった。「しかしおたずねの人物じゃありませんよ。光栄にもうちにご滞在のエラト公爵夫人の家老をつとめている人ですからね」
「どこの公爵夫人だと?」連隊長は鋭くたずねた。
「エラトです。たいそう美しくて堂々とした、それは高貴なご婦人ですよ」
「そのご婦人と話せるだろうか」連隊長は馬からおりて言った。
「ご都合をお伺いしてみましょう」あるじは答えた。
バラクは窓をしめると、きっぱり言った。「あのおせっかいな連隊長はおれが片づける」
「いかん」ウルフは言った。「引率している兵隊の数が多すぎる。それに見かけどおりの連中なら、われわれに危害をおよぼすこともないだろう」
「裏階段がある。かれが戸口にくるまで通り三つは逃げられるぞ」シルクが提案した。
「宿屋の裏に兵隊が配置されていたらどうするの? エラト公爵夫人と話をしにくるのだから、公爵夫人にまかせたらどう?」
「何を考えている?」ウルフが訊いた。
「みんなが隠れてくれたら、連隊長とはわたしが話をするわ。朝まで注意をそらしておいて、かれが引返してくる前に全員で川を渡ってアレンディアへ行ってしまうのよ」
「まず大丈夫だろうが、あの連隊長は断固たる性格の男らしいぞ」
「断固たる男を扱うのはこれがはじめてじゃないわ」
「早く決断しないと」シルクが戸口から言った。「今階段のところにいる」
「おまえのいうとおりにしてみよう、ポル」ウルフは隣室へ通じるドアをあけながら言った。
「ガリオン」ポルおばさんは言った。「あなたはここにいなさい。お付きなしの公爵夫人なんていやしないわ」
ウルフと他の者は足早に部屋を出た。
「どうすればいいの、ポルおばさん?」ガリオンはささやいた。
「自分が小姓だということだけおぼえていればいいのよ」そう言うとおばさんは部屋の中央の大きな椅子に腰をおろして、ドレスのひだを注意深くととのえた。「わたしの椅子のそばに立って、用心を怠らないように。あとはわたしがひきうけるわ」
「はい、奥さま」ガリオンは言った。
宿のあるじのうしろから姿をあらわした連隊長は長身の落ち着いたようすの男で、射ぬくような灰色の目をしていた。ガリオンはなにげなく聞こえるように最善の努力をして連隊長の名をたずね、ポルおばさんのところへとって返した。
「ブレンディグ連隊長がお目にかかりたいとのことです、閣下夫人」とかれは伝えた。「重要な用件だそうです」
ポルおばさんはその要求を考えるふりをしてしばらくガリオンを見てからようやく言った。
「いいでしょう。お通しして」
ブレンディグ連隊長がはいってきた。宿のあるじはそそくさと立ちさった。
「閣下夫人」連隊長はうやうやしくポルおばさんに一礼した。
「どういうことです、連隊長?」おばさんは問いただした。
「これほど緊急の任務でなければ、お手間をとらせたりはいたしません」ブレンディグは謝まった。「王じきじきのご命令なのです。ご存知とは思いますが、王のご希望には従わなくてはなりません」
「王さまのご用件に二、三分なら時間をさいてもよろしゅうございますわ」
「王がつかまえたがっておられる人物がいるのです。白髪でひげのある老人です。お伴のなかにそういう老人がいるとうけたまわりましたが」
「その男は罪人ですか?」おばさんは訊いた。
「王はそうは言われませんでした。閣下夫人」ブレンディグは言った。「わたしはただその男をとらえて、センダーの城へ身柄をひきわたすよう命じられただけです――その男に同行している者も一人残らず」
「わたしはめったに宮廷へはまいりませんのよ。召使いの中に王さまの興味をひく者がいようとは思いませんね」
「閣下夫人」ブレンディグは微妙な口ぶりで言った。「王の近衛連隊における義務のほかに、わたしは准男爵の位を持つ光栄にも浴しています。物心ついてから宮廷に出入りしていますが、あなたを拝見したことは一度もないと申しあげねばなりせん。これほど人目をひく容貌のご婦人をたやすく忘れるはずがありませんからな」
ポルおばさんはそのお世辞を認めたしるしに小首をかしげた。「気づいているべきでしたわ、ブレンディグ卿、その物腰は一介の兵隊のそれじゃございませんものね」
「まだあります、閣下夫人。わたしは王国の所有地はすべて知っています。まちがいでなければ、エラト地方は伯爵の身分領地で、エラト伯爵は背の低いずんぐりした人ですよ――たまたまわたしの大おじでしてね。王国がワサイト・アレンド人の支配下になって以来、センダリアのその地域に公爵領はないのです」
ポルおばさんは氷のような目で連隊長を凝視した。
「閣下夫人」ブレンディグはほとんど謝罪口調で言った。「ワサイト・アレンド人は第三黄金時代の最後の数年間に、遠い親類にあたるアストゥリア人に根絶やしにされました。したがって、ワサイトの貴族が滅びてもう二千年以上になるのです」
「歴史の講釈、感謝しますわ」ポルおばさんは冷たく言った。
「しかし問題はそれではない。そうでしょう?」ブレンディグはつづけた。「わたしは先ほど話した人物を見つけだすよう王に命じられているのです。名誉にかけて、そういう人物をごぞんじでないのですか?」
その問いが両者のあいだで宙にうき、ふいにパニックに襲われたガリオンがもうこれまでと、バラクを大声で叫ぼうとした。
そのとき、隣室のドアがあき、ミスター・ウルフがはいってきた。「これ以上つづける必要はない。わたしがお捜しの人物だ。センダリアのフルラクがわしに何の用かね?」
ブレンディグは驚いたようすもなくウルフに目を転じた。「陛下はそこまでわたしに打ちあけてはくださいませんでした。われわれがセンダーの城に到着しだい、きっと陛下みずから説明なさるでしょう」
「では早いほうがよいな」ウルフは言った。
「いつ出発する?」
「われわれは明朝、食事をすませたらただちにセンダーへ発ちます」ブレンディグは言った。
「それまでお仲間のだれひとりこの宿を出ないと約束していただきたいのです。エラト公爵夫人を地方の兵舎に軟禁するような失礼はしたくない。そこの独房は非常に居心地が悪いと聞いています」
「信用したまえ」ミスター・ウルフは言った。
「ありがとうございます」ブレンディグは軽く頭をさげた。「この宿屋のまわりに見張りを配置せざるをえないこともご承知おきください――むろん、保護のためです」
「お心づかい痛みいりますわ」ポルおばさんはそっけなく言った。
「おそれいります」ブレンディグは形式ばったお辞儀をすると、きびすを返して出ていった。
磨きあげたドアはただの木だった。それはわかっていたが、ブレンディグの背後でドアがしまったとき、ガリオンにはそれが牢屋のドアのあのぞっとする決定的な響きを持っているような気がした。
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11[#「11」は縦中横]
カマールからセンダリアの都へ至る海岸道路をかれらは九日がかりで進んだが、距離にすればそれはわずか五十五リーグにすぎなかった。ブレンディグ連隊長のペース配分が慎重なのと、彼の率いる分遣隊が逃亡を考えることもできないような方法で配列されていたため、そんなに日数がかかったのである。雪はやんでいたが、あいかわらず道は悪く、沖合から吹きつけて雪に埋もれた広い塩性湿地をわたる風は凍てつくように冷たかった。長くのびた無人の海岸ぞいにセンダリアの宿屋が里程標よろしく等間隔で建っていて、かれらは夜が訪れるたびそれらの宿に泊った。〈北の大街道〉ぞいにあるトルネドラの旅館にくらべるとやや見劣りしたが、必要を満たすことはできた。ブレンディグ連隊長はかれらが快適であるよう気を配っているようだったが、毎晩見張りをおくことも怠らなかった。
二日めの夜、ガリオンはダーニクとともに暖炉のそばに坐って憂欝そうに炎をじっと見ていた。ダーニクはもっとも古い友人であり、そのときのガリオンは無性に友情がほしい気分だった。
「ダーニク」かれはとうとう言った。
「なんだね?」
「牢屋にはいったことある?」
「牢屋に入れられるようなことをわたしがすると思うのか?」
「見たことぐらいあるかと思ったんだ」
「正直者はそんなところへは近寄らないよ」
「いやなところなんだってね――暗くて寒くてネズミがいっぱいいて」
「どうして牢屋の話などするんだね?」
「もうじきそういう場所に詳しくなるんじゃないかと思ってさ」ガリオンはつとめて平気な口ぶりで言った。
「われわれは悪いことはなにもしていない」
「じゃあどうして王さまはこんなふうにぼくたちをつかまえたんだろう? ちゃんとした理由がなければこんなことしないよ」
「われわれは悪いことはなにひとつしていない」ダーニクはかたくなにくり返した。
「でもミスター・ウルフがしたかもしれない」ガリオンはほのめかした。「なにか理由がなけりゃ、王さまがこれだけの兵隊を送りこんでミスター・ウルフを追跡させるわけがないんだ――そしてたまたま仲間だというだけでぼくたち全員投獄されてしまうのかもしれないよ」
「センダリアではそんなことは起こらない」ダーニクはきっぱり言った。
翌日、沖合からすさまじい烈風が吹きつけてきたが、それはなまあたたかく、足首まで埋まる路上の雪がぬかるみはじめた。昼には雨がふりだした。かれらはずぶぬれになって次の宿屋へ向かった。
「この強風が静まるまで先へ進むのは見合わせなくてはならないようだ」その夜ブレンディグ連隊長は宿屋の小窓の外を見ながら言った。「道路は朝には通行不可能な状態になっているだろう」
翌日もその次の日も、かれらは宿屋の狭い主室に腰をおろして、壁や屋根にたたきつけられる雨の音を聞きながら時間をすごした。その間ずっと、ブレンディグとその兵隊の監視の目が光っていた。
二日め、ガリオンは腰かけの上でうとうとしているネズミ顔の小男に近づいて、声をかけた。
「シルク」
「なんだ、ガリオン?」シルクは目をさまして訊いた。
「王さまってどんな人?」
「どの王だ?」
「センダリアの王さまだよ」
「愚かな男さ――王のごたぶんにもれず」シルクは笑った。「センダリアの王たちは他の王より愚かしさの度合いがいくぶん強いかもしれないが、それにしたところでごくあたりまえのことだ。なぜそんなことを訊く?」
「うん――」ガリオンはためらった。「だれかが王さまの気に入らないことをしたと仮定するでしょう、ところがほかにも一緒に旅をしている者がいて、その人たちまでつかまった場合、王さまは全員牢屋に入れちゃうのかな? それとも他のみんなは放免されて、王さまを怒らせた人だけが投獄されるのかな?」
シルクはまじまじとガリオンを見たあと、きっぱりと言った。「きみらしくもない質問だぞ、ガリオン」
ガリオンは赤くなり、きゅうに穴があったらはいりたいような気持になって、小さな声で言った。「ぼく牢屋がこわいんだ。理由もわからないで、永久に暗闇に閉じこめられたくないんだ」
「センダリアの王たちは公正で正直な連中だよ」シルクは言いきかせた。「とびきり頭がいいわけじゃないが、公明正大なんだ」
「頭がよくなくて、どうして王さまになれるの?」ガリオンは反論した。
「知恵は王には有益な資質だが、絶対必要なものじゃない」
「それじゃ、王さまたちはどうやって王さまになるんだろう?」
「ある者は生まれついての王なんだ。世界一の愚か者でも、しかるべき両親がいれば王になれる。センダリアの王たちはその点不利だ。出身がいやしいからな」
「いやしいって?」
「かれらは選出されたのさ。王を選ぶなんてことは今までだれもしなかった――センダー人だけがやったことさ」
「どうやって選ぶの?」
シルクはにんまりした。「それがひどいんだよ、ガリオン。王を選ぶにしちゃ、お粗末な方法だ。もっとひどい方法もあるが、選挙は王を選ぶにはどうしようもない方法だよ」
「どんなふうにやったのか話してよ」
シルクは雨に打たれている部屋の向こうの窓をちらりと見て肩をすくめた。「暇つぶしにはなるな」かれは椅子にもたれ、足を暖炉のほうへのばして話しはじめた。
「そもそものはじまりは千五百年ほど昔のことだった」シルクの声は、近くで羊皮紙に書き物をしているブレンディグ連隊長にもじゅうぶん聞こえるほど大きかった。「当時のセンダリアは王国ではなく、独立した国でさえなかった。チェレクに併合されたり、アルガリアや北部アレンド人――アレンド市民戦争の富に依存していたワサイト人やアストゥリア人さ――の手に渡ったりしていたんだ。その戦争がついに終わり、ワサイト人が滅ぼされてアストゥリア人が敗北し、北部アレンディアの未開林へ追放されたとき、トルネドラの皇帝ラン・ホルブ二世がここに王国をつくるべきだと決めたんだ」
「どうしてトルネドラの皇帝にセンダリアのことを決める権限があったのかな?」ガリオンはたずねた。
「帝国の権力は絶大なのさ」シルクは言った。「〈北の大街道〉が建設されたのは第二ボルーン王朝の時代だった――建設を始めたのはラン・ボルーン四世だったと思うが、ちがったかな、連隊長?」
「五世だ」ブレンディグは顔もあげず気むずかしげに言った。
「ありがとう、連隊長。ボルーン王朝を正確におぼえられたためしがなくてね。いずれにせよすでにセンダリアには街道を管理する近衛連隊があった。ひとつの地域に軍隊を持っているなら、その人物はかなりの権力者だ、そうでしょう、連隊長?」
「しゃべっているのはきみだ」ブレンディグはそっけなかった。
「そりゃそうだ。さて、ラン・ホルブがその決定をくだしたのは、じつのところ寛大な気持からじゃなかったんだ、ガリオン。それを誤解しちゃいけない。トルネドラ人はただではなにひとつ与えない連中だ。ミンブレイト・アレンド人がアレンドの市民戦争にとうとう勝ち――流血と裏切りの千年のすえに――北へ勢力を伸ばすのを黙って見ていられなかったからなのさ。センダリアに独立王国を築けば、ミンブレイトはドラスニアからの貿易ルートに近づけなくなり、世界的勢力の中心地がボー・ミンブルに移ってトル・ホネスの帝都がいわば停滞状態のままとり残されるのを防ぐことになる」
「すごく複雑なんだね」ガリオンは言った。
「そうでもないさ。単なる政策だ、じつに単純なゲームだよ、ねえ、連隊長?」
「わたしには関係ない」ブレンディグは机に目を向けたまま言った。
「そうかね? それだけ宮廷と縁が深いのに、政治家じゃないって? あんたは珍しい人だ、連隊長。とにかく、センダー人は王国ができたのに本物の世襲貴族がいないことに突然気づいた。そりゃ、領土のあちこちには数人の引退したトルネドラの貴族が住んでいたし、ワサイトやアストゥリアのあれやこれやの称号をふりかざす者もいろいろいた。家来をひきつれた武将もひとりふたりいたが、本当のセンダリアの貴族はいなかったんだ。そんなわけでかれらは国民選挙をおこなうことにした――つまりだな、王を選んで、さまざまな称号の授与を王に一任することにしたのさ。じつに実用的な処理方法だよ、いかにもセンダー人らしい」
「どうやって王さまを選ぶの?」ガリオンはたずねた。話のおもしろさにつりこまれて、牢屋への恐怖が薄れはじめていた。
「全員が投票するんだ」シルクは簡単に言った。「親は当然のこととしてわが子に投票するだろうが、不正はほとんどなかったらしい。傍観していた他の国々はこのばからしさを嘲笑したが、センダー人たちは十二年間投票をしつづけた」
「六年だ、実際は」ブレンディグが羊皮紙に顔を伏せたまま言った。「三八二七年から三八三三年まで」
「候補者は千人をこえた」シルクはのほほんと言った。
「七百四十三人だ」ブレンディグの口調はこわばっていた。
「ご訂正のとおりだ、連隊長どの。まちがいを正してくれる専門家がここにいるのは心強いかぎりだよ。わたしなどこの歴史とは縁のうすい一介のドラスニアの商人にすぎないんだからね。とにかく、投票総数の三分の二でようやくかれらは王を選出した――ファンドーという名のカブ作りの農夫だ」
「カブしか作っていなかったわけじゃない」ブレンディグは怒った顔をあげて言った。
「そうだった」シルクはてのひらで額をぴしゃりとたたいた。「キャベツをうっかり忘れていたぞ。かれはキャベツもつくっていたんだ、ガリオン。キャベツを忘れちゃいかん。ところで、かれこそが王だと考えたセンダリア中の人々がファンドーの農場へ行ってみると、ファンドーは畑にせっせとこやしをまいているところだった。人々は大きな歓呼でかれを迎えた。『センダリアの王、ファンドー陛下万歳』とな。そしておそれ多いとばかり、みんなでひざまずいたんだ」
「その調子でまだつづけなければならないのか?」ブレンディグがにがりきったようにたずねて顔をあげた。
「この子が知りたがっているんだ、連隊長」シルクはしらばっくれて答えた。「われわれの過去の歴史を教えるのは年長者としての義務じゃないかね?」
「どうとでも言うがいい」ブレンディグは硬い声で言った。
「許可をくれて恩にきるよ、連隊長」シルクは頭をさげた。「そのときセンダリアの王がなんと言ったかわかるか、ガリオン?」
「ううん、なんて言ったの?」
「『みなのもの』と王は言った。『着物に気をつけるがいいぞ。おまえたちがひざまずいているところにたっぷりこやしをやったばかりなのだ』」
そばに坐っていたバラクが大きな片手で膝をたたいて、われ鐘のような笑い声をあげた。
「そんなにおもしろいとは思わないね」ブレンディグ連隊長はひややかに言って、立ちあがった。「わたしはドラスニアの王を茶化したりしないぞ」
「あんたは礼儀正しいお人だからな、連隊長」シルクは穏やかに言った。「それに貴族でもある。その点わたしは出世にあくせくしている貧乏人にすぎない」
ブレンディグはあきらめたようにシルクを見てから背を向けて足音も荒く部屋を出ていった。
翌朝、風はやみ、雨もあがっていた。道はまるで泥沼だったが、ブレンディグは旅の続行を決意した。その日の進行は骨が折れたが、翌日は道がかわきはじめたため多少楽になった。
ポルおばさんは王の命令で自分たちがとらえられた事実に無関心のように見えた。もう人目を欺きつづける必要はないのだから、もとのおばさんに戻ってほしいといくらガリオンが願っても、彼女の女王じみた態度は変わらなかった。ファルドー農園の台所をとりしきっていたなじみ深いてきぱきとした態度は影をひそめ、かわって口うるさい傲慢さが目につき、ガリオンをがっかりさせた。ガリオンは生まれてはじめてポルおばさんとのあいだにへだたりを感じ、そのことが今まではなかったむなしさをもたらした。さらに悪いことに、ウィノルドのはずれの丘の上でシルクがポルおばさんはおまえのおばさんではありえないと断言してからというもの、たえず彼を脅していた不安は少しずつ大きくなって、自分が自分であることに自信が持てなくなってきた。ガリオンはいつのまにか「ぼくはだれなのか?」という恐るべき問いをじっと考えこむようになった。
ミスター・ウルフも変わってしまったようだった。道中も、夜宿屋にいても、かれはめったにしゃべらなかった。不機嫌ないらだちの表情をうかべて、たいていはひとりで坐りこんでいた。
カマールを発って九日め、ついに広い塩性湿地が途切れて海岸ぞいの土地が一段と起伏に富んできた。一行が丘の頂上に達した昼頃には雲間から弱々しい冬の太陽が顔をのぞかせ、海に面したセンダリアの城壁都市センダーが下方の谷に横たわっているのが見えた。
都市の南門に立つ見張りの分遣隊が、ブレンディグ連隊長が一行を率いて門をくぐるとすばやく敬礼し、ブレンディグもきびきびと敬礼を返した。広々とした都市の通りは身なりのいい人々でごったがえし、だれもが自分の用事こそこの世で一番重要なのだといわんばかりに肩をそびやかして動きまわっていた。
「おべっかつかいどもが」たまたまガリオンの横にいたバラクが侮蔑的に鼻を鳴らした。「本物の男などいやしない」
シルクが肩ごしに大男をふり返って言った。「必要悪なのさ、バラク。とるにたらぬ仕事にはとるにたらぬ人間が必要だし、一国を動かしつづけるのはとるにたらぬ仕事なんだ」
一行はすばらしく広い広場を通りぬけたあと、宮殿へ向かって大通りを進んだ。宮殿は数階建てのとてつもなく大きな建造物で、舗装された中庭の両側に大きな翼が伸びていた。宮殿全体の上には都市でもっとも高い建築物である円塔がのっていた。
「牢屋はどこにあると思う?」一行がとまったとき、ガリオンはダーニクにささやいた。
「ガリオン」ダーニクはうんざりした顔で言った。「牢屋牢屋とあまり言わないでくれないか」
ブレンディグ連隊長が馬をおり、宮殿正面の広い階段からこちらへおりてきた気むずかしげな男に歩みよった。男は刺繍を施したチュニックに羽根飾りのついた帽子をかぶっている。かれらはしばらく話しあったが、どうやら口論をしているようだった。
「わたしは王ご自身から命令をうけているのだ」ブレンディグの声は一行のところまで聞こえた。「到着後ただちにこの人々を直接王に引き渡すよう命じられている」
「わたしの受けた命令もやはり王からのものだ」気むずかしげな男は言った。「謁見の間へ通す前に、彼らをこざっぱりさせるようにと命じられているんだ。かれらの面倒はわたしがみる」
「王ご自身に引き渡すまで、かれらはわたしの管理下にある、ニルデン伯爵」ブレンディグはひややかに言った。
「きみの泥だらけの兵士たちを宮殿の広間へ通しはせんぞ、ブレンディグ卿」伯爵は答えた。
「ならばわれわれはここで待つ、ニルデン伯爵。陛下をお連れしてくれ」
「お連れしてくれだと?」伯爵は呆れた顔をした。「わたしは陛下の執事頭だぞ、ブレンディグ卿。使い走りはせん」
ブレンディグは再び馬に乗るようなそぶりできびすを返した。
「ほう、そうか」ニルデン伯爵はいらいらと言った。「あくまでも我を通す気なら、せめて足だけでも拭いてくれ」
ブレンディグは冷淡に一礼した。
「このことは絶対に忘れんぞ。ブレンディグ卿」ニルデンは脅した。
「わたしもだ、ニルデン伯爵」ブレンディグは応酬した。
それからかれらは全員馬をおり、周囲をぴったりブレンディグの兵士たちに囲まれて、西翼の中央近くの大きな扉に向けて中庭を横ぎった。
「おとなしくついてくるんだ」ニルデン伯爵は泥まみれの兵隊を一瞥して身ぶるいすると、一行の先頭に立って扉の奥にある大廊下へはいった。
ガリオンの頭の中では不安と好奇心がせめぎあっていた。シルクとダーニクの心配するなという断言や、一行をこざっぱりさせるというニルデン伯爵の言葉が示す希望にもかかわらず、拷問台や刑車その他のぞっとするものがそろった、冷たくじめじめしたネズミだらけの牢屋の脅威は、あいかわらずきわめて現実的に思えた。その一方で、宮殿というものをはじめて目のあたりにするかれは、いっぺんになにもかも見ようときょろきょろしていた。ときどき超然とガリオンに話しかけてくる頭の中のあの部分は、かれの恐怖はなんの根拠もないし、そうやって口をあけていると、まぬけな田舎者まるだしだと警告していた。
ニルデン伯爵はぴかぴかに磨かれた高いドアがずらりと並んだ廊下の一部へ一行をまっすぐ連れていった。「その男の子はこのドアだ」伯爵はそのうちのひとつを指さして言った。
兵隊のひとりがドアをあけ、ガリオンはポルおばさんをふり返りながら、しぶしぶ中へ足をふみいれた。
「さあこっちだ」ちょっといらだたしげな声が言った。
なにが待ちうけているのかと、ガリオンはさっとふり向いた。
「ドアをしめて、ぼうや」かれを待っていた端正な顔だちの男が言った。「一日中時間があるわけじゃないんだからね」男のわきには大きな木の浴槽があり、湯気がたちのぼっていた。
「いそいでそのきたないボロを脱いで、湯ぶねにはいるんだ、ぼうや。陛下がお待ちかねだよ」
ガリオンはめんくらったあまり、さからうのはおろか返事もできぬまま、茫然とチュニックの紐をほどきはじめた。
身体を洗われ、もつれてコブのようになっていた髪が丹念にとかされたあと、かれはそばの椅子の上にのっていた服をきせられた。農夫がきる丈夫で長持ちするごわごわした茶色のスボンは、それよりはるかに上等の織り物でできた光沢のある青いスボンにかわった。すりへった泥だらけのブーツは柔らかい皮の靴に、チュニックは柔らかい白のリンネルに、その上にきる丈の短い上着は深い青で、銀色の毛皮のふちどりがしてあった。
「簡単な予告があっただけだから、こっちとしてもこれだけ用意するのがせいぜいだったんだ」ガリオンを洗って服まできせた男は、批評的な目でかれを上から下まで眺めながら言った。
「王さまの前へ出しても、これならまずまずだな」
ガリオンはぼそぼそと礼を言って、次の指示を待った。
「それじゃお行き、ぼうや。陛下をお待たせしちゃいけない」
シルクとバラクが廊下でひそひそ話しあっていた。バラクは緑の錦織りの上着をきてみちがえるようだったが、剣がないので落ち着かないようすだった。シルクの上着は濃い黒で銀色のふちどりがしてあり、もじゃもじゃだった頬ひげは注意深く刈りこまれて上品な短いひげに変わっていた。
「いったいこれはどういうことなの?」ガリオンは二人に合流してたずねた。
「これから王に拝謁するのさ」バラクが言った。「ありのままの服装じゃ失礼だということだろうよ。王てのは平民を見なれてないからな」
ダーニクが部屋のひとつからあらわれた。怒りで顔が青ざめている。「あの着飾ったばかがわたしを風呂にいれさせたがった!」かれは憤怒のあまり声をつまらせて言った。
「それが習慣なんだ」シルクが説明した。「高貴な客は自分では身体を洗わないのさ。その男に暴力をふるわなかっただろうね?」
「わたしは貴族じゃないし、身体ぐらい自分でちゃんと洗える」ダーニクは怒りのさめやらぬ口調で言った。「わたしの身体から手をどけなかったら、浴槽につっこんで溺れさせてやると言ったんだ。そのあとはもうわたしを悩ませるまねはしなかったが、わたしの服を盗みやがった。しかたがないのでかわりにこれを着たんだ」ダーニクが身ぶりで示した服はガリオンの服とそっくりだった。「こんなぺらぺらした格好をだれにも見られなければいいんだが」
「ぼくたちがさっきまでの服を着ているところを見たら、王さまが怒るかもしれないんだって」ガリオンはダーニクに言った。
「王はわたしのことなど一顧だにしないさ。それより人目をあざむくような恰好をさせるこのやりかたが気にいらない。服をとり戻せるなら、わたしは馬と一緒に外で待っているよ」
「辛抱しろ、ダーニク」バラクがたしなめた。「王との一件が片づいたら、またもとどおりになるさ」
ダーニクが怒っているとしたら、ミスター・ウルフの場合は怒髪天をつくとでも形容するしかなかった。かれは雪のように白いローブをまとい、頭巾をすっぽりかぶって廊下へ出てきた。
「だれかにこの償いをさせてやるぞ」とウルフはいきまいた。
「よく似合うよ」シルクがほれぼれと言った。
「あいかわらず悪趣味だな、シルク先生」ウルフは冷淡な口調で言った。「ポルはどこだ?」
「まだおでましになってないんだ」とシルク。
「当然だな」ウルフは近くの腰かけに坐りこんだ。「ゆったりかまえていたほうがいいぞ。ポルの身じたくはたいがいえらく時間がかかるのだ」
というわけでかれらは待った。ブーツと上着を着がえたブレンディグ連隊長は数分がすぎていくあいだ廊下を行きつ戻りつした。ガリオンはこの待遇にすっかり当惑していた。逮捕はされそうになかったが、牢屋の悪夢はいまだに消えず、かれはびくびくしていた。
やがてポルおばさんがあらわれた。カマールで仕立てさせた青いビロードのドレスをきて、頭に銀の飾り輪をはめており、そのせいで生えぎわの一房の白髪がひときわ目立った。物腰は堂々として、顔はいかめしかった。
ウルフがそっけなく言った。「ずいぶん早かったな、マダム・ポル。せかされたんじゃあるまいね」
彼女はそれを無視して、ひとりひとりをかわるがわる検分し、「まあまあというところね」とようやく感想を述べ、ガリオンの上着の衿をうわの空で直した。「腕をかしてちょうだい、老いぼれ狼。センダリア国民の王がわたしたちになんの用かつきとめるとしましょう」
ミスター・ウルフは腰かけから立ちあがって腕をさしだし、二人は廊下を歩きだした。ブレンディグ連隊長があわてて兵隊を呼び集め、あたふたとあとを追った。かれはポルおばさんに呼びかけた。「あの、ちょっと、わたしがご案内します」
「道はわかっていますわ、ブレンディグ卿」ポルおばさんはろくすっぽふり向きもしないで答えた。
執事頭のニルデン伯爵が制服をきた兵士の固める巨大な二つのドアの前で一行を待っていた。伯爵はポルおばさんに軽く会釈してぱちんと指をならした。兵士が重いドアを押しあけた。
センダリア国王のフルラクはずんぐりした感じの、短い褐色のひげをたくわえた人物だった。ニルデン伯爵が一行を通した大広間の向こうはじに壇があり、その上の背もたれの高い玉座に王はいささか居心地悪そうに坐っていた。謁見の間は広大だった。丸天井は高く、四方の壁は何エーカーもありそうな重たげな赤いビロードの掛け布でおおわれていた。いたるところにろうそくがともり、上等の服をきた大勢の人々が王の存在をまるで無視してぺちゃくちゃしゃべりながらぶらぶら歩いていた。
「王に知らせますか?」ニルデン伯爵がミスター・ウルフにたずねた。
「フルラクはわしがだれか知っとる」ウルフは短く答えると、ポルおばさんと腕を組んだまま、長い真紅の絨緞を玉座に向かってどんどん歩きだした。ガリオンたちはきゅうに静まりかえった廷臣と淑女の群れの中をついていき、ブレンディグと兵隊がぴたりとそのあとにつづいた。
玉座の足もとでかれらは全員立ちどまり、ウルフがややそっけなく一礼した。ポルおばさんは冷たいまなざしで膝を曲げてお辞儀し、バラクとシルクは丁重に頭をさげた。ガリオンとダーニクは優雅とはいいがたいが、みんなにならってお辞儀した。
ブレンディグの声がうしろから聞こえた。「陛下、陛下がお捜しだった者たちでございます」
「おまえが信用できるのはわかっていたぞ、ブレンディグ卿」王はごく平凡な声で答えた。
「評判どおりだ。感謝する」
次に王はミスター・ウルフとその一行に目を転じた。なにを考えているのかその表情からは読みとれなかった。
ガリオンはふるえだした。
「いやこれはなつかしいな」王はミスター・ウルフに言った。「最後に会ってからもうずいぶんになる」
「どういうつもりなのだ、フルラク?」ミスター・ウルフは王にしか聞こえない小さな声でぴしゃりと言った。「よりによってこの大事なときに、なぜわしの邪魔をする? それにどういう料簡だ、こんなばかげた恰好をさせるとは?」かれは不愉快そうに白いローブの胸をぐいとつかんだ。「ここからアレンディアの岬までマーゴというマーゴにわしの存在を知らせようというのか?」
王は弱りはてた顔になった。「そう言われるのではないかと恐れていたんだ」ミスター・ウルフよりもっと小さな声だった。「もっと内密に話せるときに説明する」少しでも威厳を失うまいとでもいうかのように、王は急いでポルおばさんのほうを向いた。「じつに久しぶりではないか。ライラと子供たちが淋しがっていた。あんたがいなくて心細かったよ」
「それはどうも、陛下」ポルおばさんの口ぶりもウルフに劣らずそっけなかった。
王はたじろぎ、弁解口調で言った。「そうせっかちにきめつけないでくれないか。緊急の理由があったのだ。ブレンディグ卿の召喚がひどい迷惑でなかったのならよいが」
「ブレンディグ卿は礼儀のかがみのような人でしたわ」ポルおばさんの口調はあいかわらずだった。彼女はブレンディグを一度ちらりと見たが、かれは傍目にもわかるほど青ざめていた。
「これはバラク卿」王は急いで先をつづけた。まずい状況をできるだけうまく収拾しようというようすだった。「きみのいとこ、わたしの親愛なる兄のチェレクのアンヘグ王はお元気か?」
「最後に会ったときは元気でした、陛下」バラクはかしこまって答えた。「ちょっと酔っぱらってましたが、アンヘグにはよくあることです」
王は少し神経質に笑ったあと、すぐにシルクのほうを向いた。「ドラスニア王室のケルダー王子、われわれはこのように高貴な訪問者がわが王国においでと知って、びっくりしているのだ。そしてわれわれに歓迎のチャンスも与えず、そしらぬふりで通過しようとしたことにはそれ以上にいささか傷ついている。センダー人の王は短い訪問にも値しない小物なのかね?」
「ご無礼をするつもりはなかったんですよ、陛下」シルクは一礼して答えた。「しかしわれわれの用事は一刻を争うもので、通常の礼儀にかかずらっている暇がなかったんです」
王はそれを聞くと警告するような視線を送り、意外にも、ほとんど気づかぬようなしぐさでドラスニアの謎言葉を指で作った。ここではいかん。まわりに人間が多すぎる≠サのあと王は物問いたげに、ダーニクとガリオンを見た。
ポルおばさんが進みでた。「これはエラト地方の善人ダーニクです、陛下。勇敢な正直者ですわ」
「よくきたな、善人ダーニク」王は言った。「いつかわたしも勇敢な正直者と臣民に呼ばれたいものだ」
ダーニクは当惑しきった顔でぎごちなくお辞儀した。「わたしはただの鍛冶屋です、陛下」ダーニクは言った。「ですが、陛下のもっとも忠実にして献身的臣民であることはすべての人人に知ってもらいたいと思います」
「よくぞ言った、善人ダーニク」王は微笑をうかべてそう言うと、ガリオンに目を向けた。
ポルおばさんは王の視線を追って、どうでもいいような口ぶりで言った。「その子はガリオンといいます、陛下。数年前からわたしが面倒を見ているのです。わたしたちに同行しているのは、他にどうすればよいかわからなかったからですわ」
ガリオンはみぞおちに冷たい衝撃をうけた。おばさんのなにげない言葉は隠しようのない真実なのだという確信がのしかかってきた。おばさんはショックをやわらげようという努力すらしていなかった。かれの人生をうちくだいたその無関心さのほうが、うちくだかれたこと自体よりよほどガリオンにはこたえた。
「よくきたな、ガリオン」王は言った。「その若さでおまえは高貴な一行と旅をしているのだぞ」
「ぼくはこの人たちがだれなのか知らなかったんです、陛下」ガリオンはみじめな気分で言った。「だれもなにも教えてくれないんです」
王は鷹揚におもしろそうに笑った。「もう少し大きくなれば、そういう無知こそ生きていくうえでもっとも快適な状態なのだとわかるだろう。わたしなど近頃は、知らぬほうがよかったことを聞かされて困っておる」
「そろそろ内密の話にかからないか、フルラク?」ミスター・ウルフが依然としていらだたしげに言った。
「そのうちにな、友よ」王は答えた。「あんたに敬意を表して、宴会の用意を申しつけてある。みんなで食事をしよう。ライラと子供たちが待っているんだ。話しあう時間はあとでもあるさ」そう言うと王は立ちあがって壇をおりた。
ガリオンは個人的な悲しみにうちひしがれたまま、シルクの横へ行った。「ケルダー王子ってどういうこと?」たった今、自分を押しつぶしたショッキングな現実を死に物狂いで心から払いのけようと、ガリオンはたずねた。
「偶然そう生まれついたのさ、ガリオン」シルクは肩をすくめた。「どうしようもなかったんだ。さいわい、わたしはドラスニアの王の甥にすぎないし、王位継承者の末席にいる。王座にのぼる危険はさしあたってない」
「じゃ、バラクは――?」
「チェレクのアンヘグ王のいとこだ」シルクはふり向いてたずねた。「バラク、おまえの正確な位はなんだ?」
「トレルハイム伯爵だ。なぜそんなことを訊く?」バラクは野太い声で言った。
「この若者が興味を持ったんでね」
「いずれにせよ、くだらんものさ」バラクは言った。「だが、アンヘグが王になったときは、だれかが〈族長〉にならなけりゃならなかったんだ。チェレクじゃ、ひとりでふたつというわけにいかないんでな。おれが族長になったのは不運なことと考えられている――特に他の氏族の長たちにはな」
「かれらがそう考える理由がわかるね」シルクは笑った。
「どっちにしても、一族の長《おさ》なんて無意味な肩書きさ。チェレクじゃ、もう三千年以上、長の争奪戦争は起きていない。おれは末っ子の弟におれの代行をさせている。単純なやつで、おもしろがっているよ。おまけに、それが女房をいらだたせている」
「結婚してるの、バラク?」ガリオンはびっくりした。
「そう呼びたけりゃな」バラクはむっつり言った。
シルクがガリオンを小突き、これが微妙な問題であることをほのめかした。
「どうしてぼくたちに教えてくれなかったのさ?」ガリオンはとがめるように言った。「称号のことだけど」
「教えたらどうかなったのか?」シルクが訊いた。
「ううん――別に」ガリオンは認めた。「だけど――」その問題に関する気持を言葉であらわすことができず、かれは言いよどんだ。「なにがなんだかさっぱりわからないや」ガリオンは中途半端にしめくくった。
「そのうちすべてが明らかになる」シルクが断言し、かれらは宴会場に足をふみいれた。
宴会場は謁見の間とほとんど同じくらい広かった。上質のリンネル布におおわれた長いテーブルがあり、やはりそこらじゅうにろうそくが輝いていた。椅子一脚のうしろに召使いがひとり控え、小さな冠を危っかしく頭にのせたにこやかな顔立ちの、ぽっちゃりした小柄な女が一切をとりしきっていた。かれらが全員はいっていくと、彼女は急いで進みでてきた。
「なつかしいポル、とてもお元気そうね」彼女はポルおばさんを暖かく抱擁し、二人はにぎやかにしゃべりだした。
「ライラ妃だ」シルクがガリオンに短く説明した。「センダリアの母と呼ばれている。向こうにいるのが四人の子供たちだ。あとまだ四、五人いる――もっと年長だからたぶん政務でここにはいないんだろう。子供といえども食いぶちは自分で稼がせるとフルラクが主張しているからさ。他の王たちのあいだでは、ライラ妃は十四のときから妊娠しっぱなしだというのが一流のジョークになっているんだが、それというのも、赤ん坊が生まれるたびに値のはる贈り物をしなけりゃならないからなんだ。だが彼女はやっぱり女性だよ。フルラク王がやたらとヘマをしでかさないようにちゃんと気をつけている」
「彼女はポルおばさんを知っているんだね」その事実はなぜかガリオンを困惑させた。
「ポルおばさんを知らない人間はいないさ」シルクは言った。
ポルおばさんと王妃はおしゃべりに熱中して、すでにテーブルの上座のほうへ歩いていってしまったので、ガリオンはシルクのそばにくっついていた。ぼくがまちがいをしないように注意してよ≠ゥれは目立たないように指を動かした。
シルクはウィンクで答えた。
かれら全員がいったん席につき、食べ物が運ばれはじめると、ガリオンの緊張はゆるみだした。かれはシルクを見習ってさえいればよく、複雑で固苦しい上品な食事作法にも、もはやびくびくしないですんだ。周囲の会話は威厳たっぷりで、ぜんぜん理解できなかったが、だれも自分には注意を向けそうもないから、おとなしくして、皿から目をあげなければ、たぶん困ったことにもならないだろうと判断した。
ところが、みごとにカールした銀色のひげをたくわえた年配の貴族が、ガリオンをのぞきこみ、ややへりくだった口調で話しかけてきた。「旅をしてきたばかりだそうだが、この王国はいかがかな、お若いの?」
ガリオンは途方にくれて、テーブルの向かい側にいるシルクを見た。なんて言おう?≠ニ指でジェスチャーした。
今のところ、期待以上でも以下でもないと言ってやれ<Vルクは答えた。
ガリオンは忠実にそれをくり返した。
「ほう」老貴族は言った。「大体わしの予想していたとおりだ。そんなに若いのに、きみは大変観察眼が鋭いな。若い人と話すのは楽しくていい。じつに考え方が新鮮だ」
この人だれ?<Kリオンはジェスチャーをした。
セリネ伯爵だ≠ニシルク。退屈なじいさんだが、丁重に接しろ。閣下と呼びかけるんだ=u道はどうだったね?」伯爵が訊いた。
「多少ぬかるんでいました、閣下」シルクにうながされて、ガリオンは答えた。「しかし、この季節ならそれが普通でしょう?」
「いかにも」伯爵は相槌をうった。「きみはまことに利発な少年だ」
奇妙な三者間の会話はその後もつづき、シルクから与えられる意見が老紳士を感嘆させるにつれて、ガリオン自身おもしろくなりだした。
やっと宴会が終わり、王がテーブルの上座の席から立ちあがった。「では、親愛なる友人諸君」王は声をはりあげた。「ライラ妃とわたしはこれから高貴な客人たちと個人的な話をしたいので、失礼する」かれはポルおばさんに腕をかし、ミスター・ウルフはぽっちゃりした小柄な王妃に腕をさしだして、四人は宴会場の向こうのドアのほうへ歩きさった。
セリネ伯爵はガリオンににっこり笑いかけてから、テーブルの向かい側に目をやってシルクに言った。
「楽しいおしゃべりだったよ、ケルダー王子。たしかにわたしはあんたの言うとおり、退屈なじいさんだが、ときにはそれで得をすることもある、そう思わんかね?」
シルクは悲しげに笑った。「あなたみたいな古ギツネが謎言葉に堪能だということぐらい気づいているべきでしたよ、閣下」
「過ぎさりし若さの遺産だよ」伯爵は笑った。
「あんたの生徒はずんぶんうまいが、アクセントが妙だな、ケルダー王子」
「かれが修業していたあいだは寒かったんです、閣下。だから指がちょっとかじかんでいたんですよ、暇になったら、その点は矯正するつもりです」
老貴族はシルクを出し抜いたことにいたく満足の体だった。「すばらしい少年だ」とガリオンの肩をたたき、ひとりでくすくす笑いながら立ちさった。
「はじめから伯爵が気づいているのを知っていたんだね」ガリオンはシルクを非難した。
「もちろんさ。ドラスニア情報部はわれわれの謎言葉の達人をもれなく把握している。慎重に選んだメッセージを傍受させるのが役立つ場合もあるんだ。しかし、セリネ伯爵を甘くみるなよ。かれがずる賢さの点でわたしといい勝負ということもないじゃない。それにしてもあの喜びようを見たかい」
「ずるくしなけりゃなにもできないの?」ガリオンはむくれて訊いた。冗談のダシにされたからだった。
「必ずしもそうでなけりゃならないなんてことはないさ、ガリオン」シルクは笑った。「わたしみたいな人間は――その必要がないときでも、たえず嘘をついている。われわれの命はいかに抜け目がないか、それ次第ということもある。だからいつも冴えた頭でいなけりゃならないんだ」
「生きるにはきっとさびしい方法だね」内なる声の無言の催促にあって、ガリオンはすばやく言った。「人を本当に信用したことないんでしょう?」
「まあそうだ。それはわれわれのやるゲームなんだ、ガリオン。われわれはみんなそれの名人なんだ――少なくとも長生きする気ならな。われわれは全員お互いを知っている。ごく少人数の同業者仲間だからだ。報いは大きいが、ややもすると、われわれは互いを打ち負かす喜びのためだけにゲームをしてしまう。だがきみの言うとおりだ、たしかにそれはさびしいし、不快なこともある――しかしたいがいはすばらしくおもしろいんだよ」
ニルデン侯爵が近づいてきて、丁重に一礼した。「お二人とも陛下がおいでくださるようにとの仰せでございます。お友だちのみなさんは陛下の私室にすでに行っておいでです、ケルダー王子。よろしければ、どうぞこちらへ」
「行きましょう」シルクは言った。「おいで、ガリオン」
王の私室は主宮殿の飾りたてた広間よりずっと簡素だった。フルラク王は冠も堂々たる長衣も脱いでごくあたりまえの恰好をしており、そこらにいるセンダー人とちっとも変わらなかった。かれはバラクと静かに立ち話をしていた。ライラ妃とポルおばさんは長椅子に坐って、熱心に話しこんでおり、ダーニクはそこからほど遠からぬところで、なるべく目立たぬように苦心していた。ミスター・ウルフはひとりで窓のそばに立っていたが、その顔は雷雲のようにくもっていた。
「ああ、ケルダー王子」王は言った。「きみとガリオンはだれかにつかまったのかと思っていたよ」
「セリネ伯爵の質問をうまくかわしていたんですよ、陛下」シルクはあっさり言った。「むろん象徴的な意味ですが」
「かれには気をつけろ」王は警告した。「きみの数ある才能のひとつですら、あの男のずる賢さにはかなわないということも大いにありうるぞ」
「あの悪党のじいさんにはじゅうぶん敬意を払っていますよ」シルクは笑った。
フルラク王は気づかわしげにミスター・ウルフをちらりと見たあと、肩をいからせ、溜息をついた。「このいやな問題を片づけたほうがよさそうだわい。ライラ、お客のみなさんをおもてなししていてくれ、そのあいだにわたしはそこで苦虫をかみつぶしたような顔をしている友人とご婦人にこってり油をしぼられることにするよ。本当はわたしのせいじゃないんだが、小言を言わないことには友人はどうも腹の虫がおさまらないらしい」
「いいですとも、あなた」ライラ王妃は言った。「なるべく早くきりあげるようにしてくださいな。それからどうぞどならないで。子供たちを寝かしつけたところですし、休ませなけりゃならないんですから」
ポルおばさんが長椅子から立ちあがり、あいかわらず渋い顔をしたミスター・ウルフとともに王のあとから隣室へはいった。
「それじゃ」ライラ王妃は快活に言った。「なんのお話をしましょう?」
「機会があれば妃殿下によろしくお伝えするようにと、ドラスニアのポレン王妃から言いつかっています」シルクがうやうやしく言った。「慎重を要するさる事柄について、お手紙をさしあげることをお許し願いたいとのことです」
「まあ、もちろんですよ」ライラ王妃はにっこりした。「かわいい人ね、あのでぶの悪漢ローダーにはもったいないほどきれいでやさしい女性だわ。ローダーが彼女を不幸にしていないといいけれど」
「とんでもない、妃殿下」シルクは言った。「驚くべきことに思えるかもしれませんが、彼女は気が狂うほどおじを愛していますし、むろんおじのほうは若く美しい妻がいる喜びに恍惚としています。二人のいちゃつきようときたら、まったく胸が悪くなる」
「ケルダー王子、いつかはあなただって恋をしますよ」王妃はちいさく笑って言った。「そのときは十二の王国が、かくも名高い独身男性の陥落にこぞってやんやの喝采を送るでしょう。ポレンがわたしと話しあいたがっている問題ってなにかしら?」
シルクは言いにくそうに咳払いした。「子作りの問題なんです。彼女はおじの後継ぎを生みたがっていて、その件で助言を求めているんですよ。その方面での妃殿下の天賦の才能にはだれもが深い崇敬の念をいだいていますから」
ライラ王妃はぽっと赤くなってから笑って約束した。「すぐに手紙を書きますわ」
その頃ガリオンは、フルラク王がポルおばさんとミスター・ウルフを伴って消えたドアのほうへそろそろと接近していた。かれは壁のタペストリーを仔細に眺めるふりをして、閉じたドアの向こうの会話を聞きとろうとした。聞きなれた声が耳にはいってくるまで一分とかからなかった。
「いったいこの愚行はどういうことだ、フルラク?」とミスター・ウルフが言っていた。
「まあ、わたしの言い分も聞いてくれ長老」王はなだめるように言った。「あなたがご存知ないかもしれぬ事が起きたんだ」
「わしには知らぬ出来事などない、そのくらいわかっているだろう」
「〈呪われた者〉がめざめたら、われわれが無防備だということを知っておられたか? かれを抑えつけていたものがリヴァの王の玉座から盗まれた」
「じつのところ、あんたのりっぱなブレンディグ連隊長に邪魔されたとき、わしはその泥棒の足跡を追っていたのだ」
「それは申しわけないことをした。しかしいずれにせよ、わたしが邪魔しなかったとしても、あまり遠くへは行けなかったはずだ。アロリア中の王たちが三ヵ月前からあなたを捜している。最高の絵かきたちによって描かれたあなたの似顔絵が、北の五つの王国のすべての大使、外交官、役人に配られている。じっさい、ダリネからこっち、あなたはあとをつけられていたんだから」
「フルラク、わしは忙しいのだ。アローンの王たちにわしにはかまわんようにと言ってくれ。どうして彼らはきゅうにわしの行動にそう関心を持ちはじめたのだ?」
「あなたと会議を開きたがっているんだ」王は言った。「アローン人は戦いの準備をしているし、わがセンダリアですらひそかに軍が動員されている。もし〈呪われた者〉が今目をさませば、われわれはみな一巻の終わりだ。盗まれた力が彼をめざめさせるために使われる可能性は非常に強い。そしてかれの最初の行動は西部への攻撃だろう――それはご存知のはずだ、ベルガラス。リヴァの王が復活するまで、西部が事実上無防備であることも知っておいでだろう」
ガリオンは驚きのあまりびくんとして、目をぱちくりさせた。それから今のきゅうな動作をけどられないように、身をかがめてタペストリーのこまかい模様に見入った。聞きちがえたのだ、とかれは自分に言いきかせた。フルラク王がしゃべった名前がベルガラスだったわけがない。ベルガラスはおとぎ話の登場人物だ。神話なのだ。
「アローンの王たちにわしは泥棒を追跡中だと言うのだ」ミスター・ウルフは言った。「今は会議などしている暇はない。わしをほうっておいてくれれば、泥棒が盗んだものを悪用しないうちに追いつける」
「じたばたするのはやめなさい、フルラク」ポルおばさんが忠告した。「あなたの干渉のおかげでわたしたちは大事な時間をむだにしているのよ。いらいらさせないでちょうだい」
王はしっかりした声で答えた。「あなたの力は知っていますよ、レディ・ポルガラ」ガリオンはまたとびあがった。「しかしわたしにはどうしようもない」王はつづけた。「あなたがた全員をヴァル・アローンでアロリアの王たちに引き渡す約束をしてしまったし、王たるもの他の王たちとの約束を破るわけにはいかないんでね」
長い沈黙が隣室を支配しているあいだ、ガリオンの頭はいくつもの可能性の中をかけめぐっていた。
「おまえは悪人ではない、フルラク」ミスター・ウルフは言った。「わしが望むほど利口ではないが、善人だ。おまえを非難はせん――娘もしないだろう」
「それはそっちの考えでしょ、老いぼれ狼」ポルおばさんがけわしい口調で言った。
「いいや、ポルガラ。ヴァル・アローンへ行かねばならんのなら、ありったけの速さで行こう。早くアローン人たちに事態を説明すれば、かれらの干渉もそれだけ早くやむ」
「齢のせいでだんだん頭の回転が悪くなってきているようね、おとうさん」ポルおばさんは言った。「ヴァル・アローンくんだりまで行く暇はないわ。アローンの王たちにはフルラクが説明すればいいのよ」
「それではだめなんですよ、レディ・ポルガラ」王がいささかあわれっぽく言った。「父上の鋭いご指摘どおり、わたしはあまり利口だと思われていない。アローンの王たちはわたしの話など聞きやしない。今あなたがたが出発すれば、ブレンディグのような者が派遣されて、またあなたがたをつかまえるだけだ」
「そのときは、その不運な男は残りの人生をヒキガエルかハツカダイコンとして生きることになるでしょうよ」ポルおばさんは不吉なことを言った。
「もうよさんか、ポル」ミスター・ウルフが言った。「船の用意はできているのか、フルラク?」
「北の波止場に停泊している、ベルガラス」王は答えた。「アンヘグ王がよこしたチェレクの船だ」
「けっこう。では明日われわれはチェレクへ向かう。愚かなアローン人たちにいくつか指摘してやらねばならんようだ。おまえも一緒にくるか?」
「行かざるをえませんな」フルラクは言った。「会議は全体的なものになるだろうし、センダリアも巻きこまれているんですからね」
「このことはいついつまでも語り草になるわよ、フルラク」
「いいじゃないか、ポル」ミスター・ウルフは言った。「かれは正しいと思うことをしているだけだ。われわれがヴァル・アローンですべてを解決するさ」
ガリオンはふるえながらドアから離れた。ありえないことだった。懐疑的なセンダリアの教育のせいで、はじめはそのようなばかげたことを考えることすらできなかった。しかしようやくかれはしぶしぶながら、その考えを真っ向から見つめた。
ミスター・ウルフが本当に魔術師ベルガラスで、七千年以上も生きているのだとしたら? そしてポルおばさんが本当はかれの娘の女魔術師ポルガラで、ベルガラスよりほんのちょっぴり若いだけだとしたら? 些細な事柄、謎めいた暗示、半面だけの事実、全部ぴったり辻妻が合う。シルクは正しかった。彼女がおばさんであるはずはなかったのだ。ガリオンは今や完全なみなし子だった。血の絆を持たぬ天涯孤独の身だった。かれはむしょうに家へ、ファルドー農園へ帰りたかった。魔術師や不可解な捜索や、そしてポルおばさんと彼女の残酷なごまかしを思いださせるもののない静かな場所、何も考えない曖昧さの中に埋没してしまいたかった。
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第二部 チェレク
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早朝の灰色の光の中で静まりかえっているセンダーの通りをぬけて、一行は波止場と待機中の船めざして馬を走らせた。昨夜のはでな服は片づけられ、かれらは全員またもとの恰好に戻っていた。フルラク王とセリネ伯爵までが簡素な衣服に身をつつみ、商用で旅に出る二人の中流のセンダー人といったようすをしている。留守を守ることになったライラ王妃は夫と並んで馬にゆられながら、今にも泣きだしそうな顔つきで熱心に王に話しかけていた。沖合いからの身を切る寒風にそなえてマントに身を固めた兵隊たちが、一行に付き添っていた。
宮殿から港へいたる通りの突端からセンダーの石の波止場が波立つ海に突きだして、かれらの乗る船がもやい綱につながれてゆれていた。鋭く尖った船で、梁は狭く、船首は高く、狼じみた外見が、はじめての航海に対するガリオンの不安をかきたてた。甲板にたむろしているのは、ひげをはやし毛皮でできたむくむくの服をきた残忍そうな多数の水夫たちだった。バラクを別にすると、かれらはガリオンが見た最初のチェレク人であり、まったくあてになりそうもない連中というのがかれの第一印象だった。
「バラク!」マストのなかほどにいた屈強な男が大声をあげて、急傾斜したロープをつかんで甲板にとびおり、波止場におり立った。
「グレルディク!」バラクは大声で答えると、馬からおりてその人相の悪い船乗りをしっかり抱きしめた。
「バラク卿はわれらの船長と知り合いのようだな」セリネ伯爵が感想を述べた。
「心配だね」シルクが皮肉っぽく言った。「まじめで思慮分別があり、慎重な性格の中年の船長を期待していたんだ。だいたい船や船旅は好きじゃないんでね」
「グレルディク船長はチェレク随一の船乗りのひとりだそうだ」と伯爵はシルクを安心させた。
シルクは苦々しげな顔で言った。「いやいや。チェレクの定義なんて信用できない」かれは気むずかしげにバラクとグレルディクを見つめた。二人は船の上で歯をむいて笑っている水夫から渡されたビールのジョッキをぶつけあって再会を祝っていた。
馬をおりていたライラ王妃はポルおばさんを抱きしめた。「うちの人をよく見ていてくださいね、ポル」王妃は笑いまじりに言ったが、声は少しふるえていた。「アローン人たちにあおられてうちの人がばかなまねをしないように」
「もちろんよ、ライラ」ポルおばさんは慰めるように言った。
「おいおい、ライラ」フルラク王がどぎまぎして言った。「わたしは大丈夫だよ。なんといっても一人前の男なんだ」
ぽっちゃりした小柄な王妃は涙を拭いた。「薄着をしないと約束してちょうだい。それと、アンヘグと飲み明かしたりしないでね」
「われわれは大事な用件で行くんだ。ライラ。そんな暇があるわけがない」
「アンヘグのことはわかりすぎるほどわかっているわ」王妃は鼻をならした。それからミスター・ウルフのほうを向き、爪先立って彼のひげのはえた頬に口づけた。「親愛なベルガラス、これが終わったらポルと一緒に戻ってきてゆっくり滞在すると約束してくださいな」
「約束するよ、ライラ」ミスター・ウルフは厳粛に応じた。
グレルディクが言った。「国王陛下、潮の流れが変わりはじめて、船がそわそわしはじめています」
「ああ、あなた」王妃は王の首に両腕をまわし、肩に顔を埋めた。
「これこれ」フルラクはぎごちなくたしなめた。
「早くお行きになって、そうでないとわたしこの場で泣いてしまいますわ」王妃は夫を押しやった。
波止場の石はつるつるすべり、細長いチェレクの船は波にもまれて上下左右にゆれた。一行が渡らねばならない細い板は不安定にゆらゆらしたが、全員無事に船へ乗り移った。水夫たちがもやい綱をはずし、所定の位置についてオールを握った。鋭く尖った船ははねるように波止場を離れ、近くに停泊中のがっしりとした大型商船の横を通って、速やかに湾内に出た。
ライラ王妃は長身の兵隊に囲まれて、ひとりぽつんと波止場に立っていた。二、三度手をふったあと、彼女はけなげに頭をもたげて船を見送った。
グレルディク船長はバラクの横に立って舵を握り、そばにしゃがんでいるたくましい戦士に合図を送った。うずくまった男はうなずいて、皮張りの太鼓にかぶせてあった四角いぼろぼろの帆布を払いのけ、ゆっくり太鼓をたたきだした。水夫たちがオールを漕ぐ手をすぐにそのリズムに合わせ、船は大きく進みでて広々とした海へ乗りだした。
いったん港の保護の外にでると、波のうねりが極端に大きくなり、船はゆれるのをやめてひとつひとつの波の背中を滑走しては次にあらわれる波の正面を駆けあがった。陰気な太鼓のリズムに浸った長いオールが波の表面に小さな渦を残した。寒空の下の海は鉛色で、右手を流れる雪におおわれたセンダリアの海岸線が荒涼とさびれたたたずまいを見せていた。
ガリオンは一日の大半を、高い船首の近くの避難所で寒さにふるえながらむっつりと海を見つめて過ごした。ゆうべこなごなに砕け散った人生が瓦礫の山となって、かれのまわりに横たわっていた。ウルフがベルガラスで、ポルおばさんがポルガラだという考えはいうまでもなくばかげている。だがガリオンは全体の一部が少なくとも真実であることを確信していた。彼女はポルガラではないかもしれないが、おばさんでないことはほぼ確実だった。ガリオンはできるだけ彼女を見ないようにし、だれとも話さなかった。
かれらはその夜を船の後甲板の下にある窮屈な部屋で過ごした。ミスター・ウルフは長いことフルラク王やセリネ伯爵と話しこんでいた。ガリオンはこっそり老人を観察した。銀色の頭髪と短く刈りこんだひげの老人は、低い梁の一本からぶらさがったオイル・ランプのゆらめく光の中で輝いているように見えた。ミスター・ウルフはあいかわらずこれまでと同じように見え、ガリオンはとうとう寝返りをうって眠りについた。
翌日かれらはセンダリアの岬をまわり、快適な追い風にのって北東へ進んだ。帆があげられ、漕ぎ手たちは休息することができた。ガリオンはかれの問題と取り組みつづけた。
三日めは嵐になり、身を切るように寒かった。索具が氷でひびわれ、みぞれが音をたてて周囲の海にふりこんだ。
「これがやまないと、ボアを通過するのは厄介だぞ」バラクが眉をひそめてみぞれを眺めながら言った。
「何をですって?」ダーニクが不安げに訊いた。ダーニクは船が大の苦手だった。ひとしきりつづいた船酔いからやっと回復しつつあるところで、少々気が立っているようだった。
「チェレク・ボアだ」バラクは説明した。「センダリアの北端とチェレク半島の南端のあいだの幅一リーグほどの航路なんだ――潮同士が衝突して渦巻いているようなところでね。びくびくするなって、ダーニク。こいつは頑丈な船だし、グレルディクはボアを航行する秘訣を心得ている。ちょいと荒れるかもしれないが、おれたちは完全に安全さ――むろんツイていなけりゃそれまでだが」
「そりゃ楽観的ないいぐさだな」そばからシルクがそっけなく言った。「わたしは三日前からボアのことは考えないようにしているんだ」
「本当にそんなにひどいんですか?」ダーニクは元気のない声でたずねた。
「わたしはしらふじゃそこを通過しないよう特に心がけている」シルクは言った。
バラクは笑った。「ボアに感謝しなけりゃな、シルク。あれのおかげで帝国はチェレク湾から分離しているんだぜ。ボアがなけりゃ全ドラスニアはトルネドラの領土だ」
「政治的には高く評価しているが、個人的には二度とあれを見ないですめばこんなにうれしいことはないね」
あくる日、かれらは北部センダリアの岩だらけの海岸近くに錨をおろして、潮流が変わるのを待った。やがて潮の流れがゆるんで逆になり、〈風の海〉の波が隆起してボアに突っこみ、チェレク湾の水位をあげた。
「なにかしっかりしがみつけるものを見つけろ、ガリオン」グレルディクが錨をあげるように命じると、バラクが忠告した。「この追い風だと、航路はおもしろくなりそうだ」バラクは歯をむいてにやにやしながら狭い甲板を大股に歩いた。
それは愚かなことだった。立ちあがって、赤ひげの男のあとから船首へ歩きだしたときでさえ、ガリオンにはそれがわかっていた。けれども、いかなる論理にも従おうとしない問題をひとりで考えつづけた四日間は、かれをむこうみずなまでに大胆な気分にさせていた。ガリオンは歯をくいしばって、船首に埋めこまれた錆びた鉄の輪をつかんだ。
バラクは笑ってガリオンの肩をすごい力でたたいた。「いいぞ、その意気だ」と感心したように言った。「一緒に立ち向かってボアの喉の奥まで見てやろうじゃないか」
ガリオンはそれには答えないことに決めた。
背後から吹く風と潮でグレルディクの船は文字どおり航路を飛ぶように進み、激しい潮衝につかまるとぐらぐら不安定にゆれた。冷たい水しぶきが顔を刺し、ガリオンは半分目がきかなくなって、ボアの中心に船がさしかかるまで巨大な渦巻が見えなかった。すさまじいとどろきを聞いたような気がして目をこすったときには、渦巻が目の前で大きく口をあけていた。「なに、あれは?」その音にかき消されまいと大声でどなった。
「大渦巻だ」バラクがどなり返した。「つかまってろ」
渦巻の大きさはアッパー・グラルトの村ぐらいあって、もやのたちこめた想像を絶する深さの沸きたつ穴が、ぐんぐん下降していった。信じられないことに、グレルディクは船をそこから遠ざけるどころか、まっすぐそこへ向かっていった。
「どうする気なの?」ガリオンは叫んだ。
「これがボアを通過する秘訣なんだ」バラクが大声で言った。「もっとスピードを出すために、渦巻のまわりを二周するのさ。ぶっこわれなけりゃ、船はパチンコ玉みたいにとびだして、おれたちは潮衝につかまってひきずり戻されないうちに渦巻をとびこえられるって寸法だ」
「船がどうしなけりゃだって?」
「渦巻に呑まれてまっぷたつになることがあるんだ。心配するな。そんなことはめったに起きないし、グレルディクの船はじゅうぶん頑丈そうだからな」
船首が渦巻の外縁に突っこんだかと思うと、狂暴な太鼓のリズムに合わせて狂ったようにオールを漕ぐ水夫たちの働きで、船は巨大な渦のまわりを二度駆けめぐった。風が顔をかみ、ガリオンは下で口をあける逆巻く深淵から目をそらしたまま鉄の輪にしがみついた。
やがて船はうまく脱出して小石のように泡立つ波を突きぬけ、渦巻の外に出た。荒れ狂う風が索具をゆさぶり、ガリオンはそのすさまじさに半分息が詰まりそうだった。
旋風にあおられて船の速度は落ちはじめたが、渦巻からとびだしたいきおいで、かれらは一部を保護されたセンダリア側の入江にある静かな海域にたどりついた。
バラクはうれしそうに笑ってひげについた海の飛沫をぬぐった。「やれやれだ。ボアについての感想はどうだい?」
ガリオンは返事ができるとは思えなかったので、しびれた手を鉄の輪からはなすことに注意を集中した。
なじみ深い声が船尾からひびいた。「ガリオン!」
「バラクがこんなところにきたからぼくまで面倒なことになったんだ」自分の考えで船首に立った事実を無視して、ガリオンはうらめしげに言った。
ポルおばさんはバラクの無責任ぶりをきびしくとがめてから、ガリオンに注意を向けた。
「さあどうしたの?」おばさんは言った。「こうして待っているのよ。釈明でもしたい?」
「バラクのせいじゃないよ。ぼくが思いついたことなんだ」二人そろって非を認めても、結局なんの意味もなかった。
「そう。で、そのわけは?」
数日かれを悩ませていた混乱と疑惑がガリオンを大胆にした。「やってみたかったのさ」なかば挑むように言った。生まれてはじめてかれは大っぴらに反抗しようという気になった。
「なんですって?」
「やってみたかったんだ」ガリオンはくり返した。「理由なんかどうだっていいんでしょう? どうせぼくを罰するつもりなんだから」
ポルおばさんの顔がこわばり、目が燃えあがった。
近くに坐っていたミスター・ウルフがくすりと笑った。
「なにがそんなにおかしいの?」おばさんはかみついた。
「わしにまかせたらどうだ、ポル?」老人は言った。
「わたしだって扱えるわ」
「だがうまくは扱えんな、ポル。全然なってない。おまえは気短かすぎるし、口うるさすぎる。この子はもう子供ではないんだ。まだ大人ではないが、子供でもない。この問題は特別なやり方で扱わないといかん。わしがひきうけるよ」かれは立ちあがった。「断固そうするぞ、ポル」
「なんですって?」
「断固そうする」老人の目がけわしくなった。
「いいわ」彼女はひややかな声で言うと、くるりと背を向けて歩きさった。
「おすわり、ガリオン」老人は言った。
「おばさんはどうしてああいじわるなんだろう?」ガリオンは口走った。
「そうじゃない。あれが怒ったのは、おまえがポルをこわがらせたからだ。こわがりたがる者などおらんからな」
「ごめんなさい」ガリオンは自分を恥じてつぶやいた。
「わしにあやまることはない。わしがこわがったわけではないんだから」ミスター・ウルフは射通すような目でしばらくガリオンをじっと見てから訊いた。「どうしたんだね?」
「かれらはミスター・ウルフのことをベルガラスと呼んでいる」それがすべてを説明するかのようにガリオンは言った。「おばさんのことはポルガラと呼んでいる」
「だから?」
「そんなことありっこないよ」
「前にこういう話をしなかったか? ずっと前に?」
「ミスター・ウルフはベルガラスなの?」ガリオンは率直に問いつめた。
「そう呼ぶ者もいる。だとしたらどうなのだ?」
「悪いけど、ぼくは信じないよ」
「ふむ」ウルフは肩をすくめた。「信じたくなければ信じる必要はない。おばさんにくってかかったこととそれとどう関係があるんだね?」
「それは――」ガリオンは言いよどんだ。「だって――」かれは、あの決定的な問いをミスター・ウルフにぶつけたくてたまらなかった。だが、ポルおばさんとは血がつながっていないことを確信しているくせに、それが取り消しようのない事実として認められてしまったらと思うと、耐えられなかった。
「おまえは混乱しているのだ」ウルフは言った。「そうなんだろう? そうであるべきものがみんなそうでないように見える。おばさんに腹を立てているのはそれが彼女のせいみたいな気がするからだ」
「ずいぶん子供っぽい言いかたをするんだね」ガリオンは少し赤くなった。
「ちがうか?」
ガリオンはいっそう赤くなった。
「これはおまえ自身の問題だ、ガリオン」ミスター・ウルフは言った。「そのために人を悲しませるのが正しいことだと思うかね?」
「ううん」かろうじて聞こえる程度の声でガリオンは認めた。
「おばさんもわしも見かけどおりの人間だ」ウルフは静かに言った。「人々はわれわれについてたくさんのばかげた話をでっちあげたが、本当はそういうことは問題じゃない。やらなくてはならぬことがあり、それをしなければならんのがわれわれなのだ。それが重要なのだよ。世の中が自分の思うようにならないからといって、おばさんのためにこれ以上事態をややこしくしてはいかん。それは子供っぽいだけでなく、ぶしつけなことだ。おまえはそんな子供ではないはずだぞ。さあ、おばさんにあやまるべきだと思うが、どうだ?」
「そう思うよ」
「話しあうチャンスができてよかった。しかしわしならおばさんと仲直りするのにぐずぐずはせんな。彼女がいかに長期間怒っていられるか、おまえには信じられんだろうよ」老人はきゅうににやりとした。「思いだせるかぎり、おばさんはずっとわしに腹をたてっぱなしなのだ。あんまり長くつづいているので考えたくもないほどだよ」
「今すぐあやまってくる」ガリオンは言った。
「けっこう」ウルフは賛成した。
ガリオンは立ちあがると、ポルおばさんがチェレク・ボアの逆巻く流れを立って見ているところへ思いきって歩いていった。
「ポルおばさん」
「なあに?」
「ごめんなさい。ぼくが悪かったよ」
おばさんはふり返っていかめしくかれを見つめた。「ええ、そうね」
「二度としません」
すると彼女は温かみのある低い声で笑い、ガリオンのもつれた髪を指ですいた。「守れない約束はしないことよ」おばさんはそう言ってかれを抱擁し、すべてがまたもとどおりになった。
チェレク・ボアで渦巻く激流が後方に遠ざかったあと、かれらはチェレク半島の雪をかぶった東海岸に沿って北へ航行した。めざすは全アローン人、すなわち、アルガー、ドラスニア、チェレク、リヴァの各民族の祖先のふるさとである古代都市だった。風はこごえそうに冷たく、今にもひと荒れしそうな空もようだったが、残りの航海は事なきをえた。三日後、船はヴァル・アローンの港にはいり、氷におおわれた波止場のひとつにつながれた。
ヴァル・アローンはどんなセンダリアの都市にも似ていなかった。城壁も建物も信じられないほど古めかしく、そのせいで人間が造った建造物というより天然岩の形成物のように見えた。狭くねじ曲がった通りは雪でふさがれ、都市の後方には暗い空を背景に白い山並みが高くそびえていた。
野蛮な顔つきの御者が乗った数台のソリが波止場で彼らを待っており、みすぼらしい馬たちが固くしまった雪の上でいらいらと足踏みしていた。ソリには毛皮のマントがそなえつけてあり、ガリオンはそのひとつをまきつけて、バラクがグレルディクと水夫たちに別れを告げるのを待った。
「さあ出発だ」バラクはソリに乗りこみながら御者に言った。「みんなに追いつけなかったらことだぞ」
「あんたがあんなに長々と話しこんでいなかったら、お仲間もそう遠くへは行かなかったでしょうよ、バラク卿」御者は皮肉っぽく言った。
「そりゃまあそうだ」バラクはうなずいた。
御者がぶつぶつ言いながら馬にむちをあてると、ソリは一行がすでに見えなくなった通りをすべりだした。
狭い通りには毛皮に身を包んだチェレクの戦士たちが肩をそびやかして行き来しており、ソリが通ると大勢が大声でバラクに挨拶した。角のひとつで御者は停止を余儀なくされた。二人のがっしりした男が身を切る寒さの中で腰まで裸になり、黒山の見物人の声援をうけて通りのまんなかの雪の中でくんずほぐれつしていたからだ。
「ありふれた気ばらしなんだ」バラクはガリオンに言った。「冬のヴァル・アローンは退屈だからな」
「あの前に見えるのが宮殿?」ガリオンはたずねた。
バラクは首をふった。「ベラーの神殿さ。熊神の霊があそこに宿っているという連中もいるが、おれは見たためしがないから断言できないね」
そのとき取っ組みあっている二人が通りのわきへころがったので、かれらはまた進みつづけた。
神殿の階段の上にひとりの老婆が立っていた。ぼろぼろの毛織りのマントをまとい、骨ばった手には長い杖をつかみ、顔のまわりにもつれた髪が逆立っている。かれらが通りかかると、老婆はしわがれた声で呼びかけた。「ほうい、バラク卿。おまえさまの宿命はまだおまえさまを待っているぞえ」
「ソリをとめろ」バラクはうなるように御者に命令して毛皮のマントを払いのけ、地面にとびおりた。「マルテ」とわれ鐘のような声で老婆を一喝した。「そこをうろつくんじゃない。おまえがアンヘグの言いつけにそむいていることをおれが話したら、かれは神殿の僧たちに命じておまえを火あぶりにするぜ」
老婆はけたたましく笑った。ガリオンは彼女の目が乳白色ににごっているのに気づいて身ぶるいした。
「このマルテに火など通じるものか」老婆はキイキイと笑った。「マルテを待っている宿命はそんなものではないわ」
「宿命なんかくそくらえ。とっとと神殿からうせろ」
「マルテはマルテの見るものを見る」老女は言った。「おまえさまにはまだ宿命のしるしがついているよ、バラク卿。それが現実になったら、このマルテの言葉を思いだすじゃろうて」それから老婆はガリオンの坐っているソリを見るような目をしたが、乳白色の両眼には明らかに視力がなかった。と、悪意にみちた喜びをうかべていた顔が突然奇妙な畏怖の表情に一変した。
「ほうい、尊いお方」彼女は小声でつぶやき深々とお辞儀をした。「あなたさまが相続権をお継ぎになりますときは、最初にあなたさまにご挨拶申しあげたのがこのマルテでありますことをお忘れなきように」
バラクがどなり声をあげてつかみかかろうとしたが、老婆は杖で石段をならしながらすばやく逃げさった。
バラクがソリに戻ってくるとガリオンはたずねた。「なんのこと?」
「あれは頭が変なんだ」バラクは怒りで青ざめた顔で答えた。「いつも神殿をうろついて、物乞いをしたり、わけのわからんことを言ってだまされやすいかみさん連中をこわがらせている。アンヘグに少しでも分別がありゃ、とっくに都市から追っぱらうか焼き殺すかしてるんだ」バラクはソリに再び乗りこみ、「出せ」と御者にうなった。
猛スピードでその場を遠ざかりながらガリオンはうしろをふり返ったが、盲目の老婆の姿はどこにもなかった。
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13[#「13」は縦中横]
チェレクのアンヘグ王の宮殿はヴァル・アローンの中心にほど近い、広大で陰欝な建築物だった。巨大な翼がいくつも本殿から四方八方へ伸びていたが、その多くは崩れ落ち、ガラスのわれた窓が崩壊した屋根の下から広々とした空をうつろに見あげていた。ガリオンに判断できるかぎり、その宮殿の構造は無計画そのものだった。チェレクの王たちが代々管理してきた三千余年の歳月にわたって、ひたすら増築の一途をたどったようにしか見えないのだ。
「大部分ががらんとして、あんなふうに壊れているのはどういうわけ?」ソリがぐるっとまわって、コチコチに雪の固まった城の中庭へはいったとき、ガリオンはバラクにたずねた。
「ある王が建てるものを別の王が取り壊すからさ」バラクはそっけなく答えた。「それが王たちのやりかたなんだ」神殿で盲目の老婆に出会ってから、バラクは不機嫌だった。
一行はすでに全員ソリをおりて、立って待っていた。
「波止場から宮殿へくる途中で迷子になれるとしたら、よほど長いこと留守にしていたんだな」シルクが陽気に言った。
「遅くなっただけだ」バラクはうなるように言った。
そのとき、かれら全員の到着を扉の陰でだれかが待ちかねていたかのように、宮殿へつづく広い階段のてっぺんの大きな鉄張りの扉が開いた。亜麻色の長い髪を編みさげにし、ふかふかの毛皮で縁取りをした真紅のマントをはおった女が、階段上の柱廊玄関にあらわれでて一行を見おろした。「お帰りあそばせ、トレルハイム伯爵にしてご主人のバラク卿」女は慇懃に言った。
バラクの顔がますます陰気になった。「メレルか」かれはちょっとうなずいてみせた。
バラクの妻は言った。「アンヘグ王があなたをお迎えすることを許可してくだすったのです、閣下、わたくしの権利と義務として」
「おまえは常に義務にはたいそう注意深いからな、メレル。娘たちはどこにいる?」
「トレルハイムに、閣下」彼女は言った。「寒さの中をこんなに遠くまで連れてくるのはためにならないと思いましたので」心なしかその口調にはいじわるな響きがあった。
バラクは溜息をついた。「そうか」
「わたくしがまちがっておりましたか、閣下?」メレルは訊いた。
「気にするな」
「あなたとご友人がたの用意がよろしければ、わたくしが謁見の間へご案内いたしましょう」
バラクは階段をのぼって、やや固苦しく短く妻を抱擁し、二人で広い戸口をくぐった。
「悲劇だな」セリネ伯爵がみんなそろって宮殿への階段をのぼる途中、首をふりふりつぶやいた。
「そうでもないさ」シルクが言った。「結局バラクはほしいものを手に入れたんだ、そうじゃないか?」
「きみは冷血だよ、ケルダー王子」伯爵は言った。
「そうでもない。わたしは現実的なだけさ。バラクは何年もメレルに恋い焦がれていた。そして今は彼女を妻にしている。ああいう一途な思いが報われたのを見て、わたしは喜んでいるんだよ。あなたはそうではないとおっしゃる?」
セリネ伯爵は吐息をついた。
鎧姿の戦士の一団が一行に合流して、迷路じみた廊下を先導し、広い階段や狭い階段をのぼりおりし、大建築物の奥へ奥へとかれらを連れていった。
「かねてからチェレクの建築物には感心しているんだ」シルクは皮肉まじりに言った。「まるで予測ができない」
「宮殿の拡張は無力な王たちの恰好の仕事なのだよ」フルラク王が意見を述べた。「じっさい、悪くない思いつきだ。センダリアではふつう無能な王は迷路の舗装事業に専念するが、ヴァル・アローンの通りはずっと昔にひとつ残らず舗装ずみだからな」
シルクが笑った。「解しかねるのはいつもそれなんですよ、陛下。無能な王たちの悪影響をどうやってくいとめているんです?」
「ケルダー王子」フルラク王は言った。「きみのおじ上の不幸を望む気はさらさらないが、ドラスニアの王冠がたまたまきみの頭上にのれば、どんなにかおもしろかろうとわたしは思っているのだ」
シルクはぎょっとしたふりをして言った。「そういうことは仮りにでもおっしゃらないでくださいよ、陛下」
「それに妃もだ」セリネ伯爵が間髪を入れずに言いそえた。「王子に妃はぜひとも必要だからな」
「なお悪い」シルクは身ぶるいした。
アンヘグ王の謁見の間は円筒形の天井を持つ部屋で、中央の大きな暖炉では太い丸太がまるごと威勢よく燃えていた。ふんだんに幕を張ったフルラク王の広間とちがい、石の壁はむきだしで、石に埋めこんだ鉄の輪にはめた松明がいぶりながらゆらいでいる。火のそばでたむろする人々は、フルラク王の宮廷で見たような優雅な廷臣ではなく、輝く鎖かたびらをきたひげのはえたチェレクの戦士たちだった。部屋の一方の突きあたりに、旗を立てた五つの王座があった。四つがふさがっていて、堂々たる風貌の女性が三人、近くで立ち話をしている。
「センダリアのフルラク王のお越し!」一行を案内してきた戦士のひとりが声をはりあげ、持っていた槍の柄でイグサをばらまいた石の床をたたいてうつろな音をひびかせた。
「やあ、フルラク」王座のひとつに坐っていた大柄な黒ひげの男が立ちあがった。長い青の衣服はしわだらけでしみがつき、髪はくしゃくしゃで伸び放題だった。頭の上の金の冠は一、二ヵ所へこんでいるし、尖った先端のうちのひとつは折れている。
「やあ、アンヘグ」センダー人の王は答えて軽く一礼した。
「そなたの王座が待ちかねているぞ。フルラク」くしゃくしゃ頭の男はそう言うと、センダリアの旗の立った空《から》の王座を示した。「アロリアの諸王は本会議におけるセンダリアの王の知恵を歓迎する」
ガリオンには大げさで古めかしいその話し方が妙に印象に残った。
「どの王がどれなんです、シルク?」王座に近づきながらダーニクがささやいた。
「赤い服をきてトナカイの旗の下にいる肥ったのがわたしのおじのドラスニアのローダー王だ。馬の旗の下の顔のやせた黒い服がアルガリアのチョ・ハグ王。灰色の服に無冠で剣の旗の下に坐っている、厳しい顔つきのが〈リヴァの番人〉ブランド」
「ブランド?」ガリオンは〈ボー・ミンブルの戦い〉の物語を思いだし、びっくりして口をはさんだ。
「〈リヴァの番人〉はみんなブランドという名前なんだ」シルクは説明した。
フルラク王はそれが習慣らしく形式ばった言葉で他の王ひとりひとりと挨拶したあと、センダリアの象徴である金色の麦の束を描いた緑の旗の下の王座に腰をおろした。
「これはこれはアルダーの弟子、ベルガラスどのに、不死身のベルガラスの娘御のレディ・ポルガラ」アンヘグが言った。
「こういう形式的な儀礼にかかずらっている暇はろくにないのだ、アンヘグ」ミスター・ウルフは手厳しく言うと、マントをうしろへ払いのけて大股に進みでた。「アロリアの王たちがわしを呼びつけた理由はなんだ?」
「われわれのささやかな儀式ぐらい大目に見ていただけまいか、長老」でっぷり肥ったドラスニアのローダー王がいたずらっぽく言った。「われわれには王を演じるチャンスがめったにないのだよ。長くはかからない」
ミスター・ウルフはうんざりして頭をふった。
すると三人の堂々たる女のひとりが前へ進み出た。漆黒の髪をした長身の美人で、十字に紐をかけて結ぶ凝ったデザインの黒いビロードのガウンをはおっている。膝を折ってフルラク王にお辞儀をすると、かれの頬にちょっと頬をふれて言った。「陛下、わが家にお越しくださって光栄でございます」
「妃殿下」フルラクはうやうやしく頭をさげて答えた。
「イスレナ王妃だ」シルクが小声でダーニクとガリオンに教えた。「アンヘグの奥方さ」笑いたいのをこらえて小男の鼻がぴくぴくした。「ポルガラに挨拶するときの彼女を見てろ」
王妃は向きを変え、ミスター・ウルフに深々とお辞儀した。「神聖なるベルガラスさま」豊かに響く声が尊敬の念にうちふるえた。
「神聖とはほど遠いよ、イスレナ」老人はそっけなく言った。
それにかまわず王妃はしゃべりつづけた。「アルダーの不死身の弟子、世界中でもっとも強大なる魔術師、わがあばら家はあなたさまの持ちこまれた恐れ多い威力にふるえております」
「なかなかの演説だな、イスレナ。やや正確さを欠くがおもしろい」ウルフは言った。
だがすでに王妃はポルおばさんのほうを向いていた。「誉れ高き姉上さま」彼女は歌うように言った。
「姉上さま?」ガリオンは仰天した。
「イスレナは神秘論者なんだ」シルクが声を落として言った。「魔術にうつつを抜かしていて、自分を魔術師と思いこんでいる。まあ見てろ」
念の入ったしぐさで王妃は緑色の宝石を取りだし、ポルおばさんにさしだした。
「袖に隠し持っていたのさ」シルクがにやにやしながらささやいた。
「みごとな贈り物だこと、イスレナ」ポルおばさんは変な声で言った。「お返しにあげられるものがこれしかなくて残念だわ」おばさんは深紅のバラを一輪王妃に渡した。
「あんなものどこに持っていたんだろう?」ガリオンは目を丸くした。
シルクはウィンクしてみせた。
王妃は疑わしそうにバラを見つめ、両手でそれを包みこんだ。しげしげとバラを眺めていた王妃の目が大きくなり、顔から血の気がひいて両手がふるえだした。
二人めの王妃が前へ進みでていた。彼女は笑顔の美しい小柄な金髪女性だった。儀式ばったことはせずにフルラク王とミスター・ウルフに接吻し、ポルおばさんを暖かく抱きしめた。彼女の愛情は素朴で自然な感じがした。
「ドラスニアのポレン王妃だ」そう言ったシルクの声には奇妙なひびきがあった。ちらりと目をやったガリオンは、シルクの顔にほんのかすかな苦い自己憐憫の表情がうかぶのを見た。とたんにガリオンはシルクがときどき見せる妙な態度の理由が、まるで突然明るい光に照らしだされたかのように、はっきりと理解できた。胸がつまりそうな同情がガリオンの喉もとへこみあげてきた。
三人めの王妃、アルガリアのシラーは静かな声で手短かにフルラク王、ミスター・ウルフ、そしてポルおばさんに挨拶した。
「〈リヴァの番人〉は結婚していないんですか?」ダーニクがもうひとりの王妃を捜してきょろきょろしながら言った。
「していた」シルクはポレン王妃に目を注いだまま短く言った。「だが妻は数年前に亡くなったんだ、四人の子供を残して」
「そうでしたか」
そのとき、みるからに腹立たしげな仏頂面のバラクが広間にはいってきて、大股にアンヘグ王の王座に歩みよった。
「よく帰ったな」アンヘグ王は言った。「道にでも迷ったかと思ったぞ」
「家庭のもめごとでね、アンヘグ」バラクは言った。「妻と少し話し合わねばならなかったんだ」
「なるほど」アンヘグはそれ以上訊かなかった。
「われわれの友人に会ったかい?」バラクはたずねた。
「まだだよ、バラク卿」ローダー王が言った。「慣例上の儀式にかかわっていたんでね」ローダー王がくすくす笑うと大きな太鼓腹がゆれた。
「セリネ伯爵はみなさんご存知のはずだ」バラクは言った。「これはダーニク、鍛冶屋で勇気ある男だ。その少年の名はガリオン。レディ・ポルガラが世話をしている――いい若者だ」
「諸君はわれわれが喜んでこうしていると思うのかね?」ミスター・ウルフがいらいらとたずねた。
アルガー人の王、チョ・ハグが妙に柔らかい声で話した。「われらが身にふりかかりし不運にそなたは気づいておられるのか、ベルガラスどの? われらにはそなたが頼りなのだ」
「チョ・ハグ」ウルフは気短かに言った。「アレンドの低俗な史詩のようなしゃべりかただな。いったいその古めかしい言葉遣いは本当に必要なのか?」
チョ・ハグは困惑したようにアンヘグ王を一瞥した。
「わたしが悪いんだよ、ベルガラスどの」アンヘグ王は憂い顔で言った。「筆記者たちにわれわれの会合の記録をとらせたものでね、チョ・ハグは歴史を語る調子であなたにも話しかけていたんだ」アンヘグの王冠が少しすべって片方の耳の上で危っかしくとまった。
「歴史は非常に寛大だ、アンヘグ。歴史を感心させようとするにはおよばん。どうせわれわれの話など大半は忘れられてしまう」ウルフは〈リヴァの番人〉のほうを向いた。「ブランド、なるべく簡潔に事の次第を説明してもらえるかね?」
「どうやらわたしのせいなのだ、ベルガラス」灰色の服をきた〈番人〉は太く低い声で言った。
「油断をしたばかりに、あの〈裏切者〉にまんまと盗みを働かれてしまった」
「例の物には自衛の力があるはずだ、ブランド」ウルフは言った。「このわしですらあれにはさわれん。わしはあの盗っ人を知っている、やつをリヴァに立ち入らせまいとしても、おまえにはむりだ。それより、あれの威力にびくともせずにどうしてやつがあれに手をふれることができたのか、そのほうが気にかかる」
ブランドは頼りなく両手を広げてみせた。「ある朝われわれが目をさましたら、あれは消えていた。僧侶たちは盗賊の名を予測することしかできなかったし、熊神の魂はそれ以上は語ろうとしなかった。盗賊の正体はわかっていたから、われわれは慎重にその名前や盗賊が盗んだ物の名称をしゃべらないようにした」
「うむ。やつはどんなに遠くからでも、空中から言葉を拾う術を身につけているからな」ウルフは言った。「わしが自分で教えたことだ」
ブランドはうなずいた。「それは知っていた。だからわれわれの伝言をあなたに伝えるのにも苦労した。あなたがリヴァへおいでにならず、使者も戻ってこなかったとき、わたしは何かまずいことがあったのだと考えた。そのときなのだ、われわれがあなたを見つけるために兵を派遣したのは」
ミスター・ウルフはひげをしごいた。「するとわしがここにいるのはわしのせいらしいな。わしはおまえの使者を拝借したのだ。アレンディアのある人々に伝えなければならんことがあったのでな。これはうっかりした」
シルクが咳払いした。「ちょっとよろしいですか?」かれはていねいに訊いた。
「いいとも、ケルダー王子」アンヘグ王が言った。
「公衆の面前でこういう話し合いをつづけるのがはたして分別のある行為でしょうかね? マーゴ人はいたるところで人を買収するだけの金《きん》を持っているし、グロリムどもの妖術はいかに忠実な戦士の思考すら読みとってしまうんですよ。つまり、用心にしくことはないってことです」
「アンヘグの戦士たちはそう簡単には買収されないぜ、シルク」バラクが気を悪くして言った。
「それにチェレクにグロリムはひとりもいない」
「給仕人や台所女中にまで責任が持てるか?」シルクは言った。「わたしはこれまで思いもよらぬ場所で現にグロリムを見ているんだ」
「甥の言うことにも一理ある」とローダー王が考えこむように言った。「ドラスニアは情報収集の経験については長い歴史を持っているし、ケルダーはその第一人者だ。われわれの話が思わぬところへ漏れるかもしれんとかれが考えているなら、言うことを聞いたほうが賢明だ」
「感謝しますよ、おじ上」シルクは頭をさげた。
「きみはこの宮殿に侵入できるというのか、ケルダー王子?」アンヘグ王が、挑むように言った。
「すでに経験ずみです、陛下。何十回も」シルクは控えめに言った。
アンヘグは片方の眉をつりあげてローダーを見た。
ローダーはちょっと咳払いし、「ずいぶん前のことさ、アンヘグ。たいしたことじゃない。わたしがあることに興味があったんでね、それだけだよ」
「わたしに訊けばすんだことじゃないか」アンヘグはわずかに傷つけられた口調で言った。
「わずらわせたくなかったんだ」ローダーは肩をすくめた。「それに、ただたずねるよりほかの方法でやるほうがおもしろい」
「諸君」フルラク王が言った。「われわれのかかえる問題はいいかげんに処理できるような些細なものではない。危険をおかすよりは用心にも用心を重ねたほうがいいのじゃないかね?」
アンヘグ王はしかめっつらをしてから肩をすくめた。「仰せのとおりにするよ。では人目のないところで話し合いをつづけるとしよう。バラク、エルドリグ王が昔使っていた広間をあけて、そばの廊下に見張りをおいてくれんか?」
「承知した、アンヘグ」バラクは十二人の戦士をひきつれて広間を出ていった。
王たちは王座から腰をあげた――チョ・ハグひとりは坐ったままでいる。バラクと変わらぬほどの長身で、アルガー人特有の髪形――一房だけ残してあとは剃りあげた――をしたやせぎすの戦士が進みでて、チョ・ハグを助け起こした。
ガリオンは物問いたげにシルクを見た。
「子供の頃かかった病気のせいなんだ」シルクは小声で説明した。「脚がすっかり弱っちまって助けなしじゃ立てない」
「そういう身体で王さまでいるのって、大変じゃないのかな?」
「アルガー人は二本の足で立っていることより、馬にまたがっている時間のほうが長いんだ。いったん馬に乗れば、チョ・ハグはアルガリアの普通の人間とちっとも変わらない。かれに手を貸しているのはかれの養子のヘターだ」
「知ってるの?」ガリオンはたずねた。
「わたしはだれでも知っているんだよ、ガリオン」シルクは声をひそめて笑った。「ヘターとは何度か会っている。わたしはかれが好きだが、向こうはそのことを知らないんじゃないかな」
ポレン王妃がかれらのほうへ近づいてきた。「イスレナの誘いでこれからシラーと彼女の私室へ行くの」とシルクに言った。「どうやら女はここチェレクの国家問題には不要ってことらしいわ」
「われらがチェレクの親類にはいくつかうかつな点があるんですよ、妃殿下。かれらは第一級の石頭ですからね、女性が人間だってことにまだ気づいていない」
ポレン王妃は茶目っ気たっぷりににこっとして、シルクに片目をつぶってみせた。「いずれお話しする機会があるといいんだけれど、ケルダー、今はなさそうね。わたしの伝言をライラに伝えてくださった?」
シルクはうなずいた。「さっそく手紙を書くと言っていましたよ。あなたがここにいるとわかっていたなら、わたしが自分で手紙を持ってくるんだったな」
「イスレナの考えなのよ」ポレン王妃は言った。「王たちが会っているあいだ、王妃たちの会議を開くのも悪くないと思ったのね。彼女はライラも招待したんだけれど、ライラの航海ぎらいは周知のことだから」
「で、王妃たちの会議で何か重要な結論でもでましたか、妃殿下?」シルクは陽気にたずねた。
ポレン王妃は顔をしかめた。「坐ってイスレナの手品を見物するだけよ――コインやらなにやらが彼女の袖の奥に消えるというたぐいのこと。さもなければ、イスレナが運勢を占うの。シラーはとっても礼儀正しいから文句など言わないし、わたしは最年少なのでおとなしくしていることになっているのよ。退屈ったらないわ。とりわけイスレナがあのくだらない水晶玉に熱中して恍惚状態になるとね。ライラはわたしを手助けできると思ったかしら?」
「だれかにできるならばね」シルクはうけあった。「だが警告しておくと、彼女の助言はきわめて率直なものになりそうですよ。ライラ王妃は飾り気のない人だし、ときにはおそろしくはっきり物を言うから」
ポレン王妃はいたずらっぽく笑った。「そのことなら大丈夫よ。なんといってもわたしは一人前の女ですもの」
「もちろん」シルクは言った。「ただあらかじめ知っておいてもらいたかっただけですよ」
「わたしをからかっているの、ケルダー?」
「そんなことをわたしがしますか、妃殿下?」シルクは潔白そのものといった顔で訊き返した。
「やりかねないわ、あなたなら」
「いらっしゃいな、ポレン?」イスレナ王妃がそう遠くないところから呼びかけた。
「すぐまいりますわ、妃殿下」ドラスニアの王妃はそう言うと、シルクに向かって指をひらめかせた。ああ、退屈
辛抱なさい、妃殿下≠ニシルクは指で答えた。
ポレン王妃は堂々たるチェレク王妃と静かなアルガリア王妃のあとについて、おとなしく広間から出ていった。シルクの目が彼女を追い、その顔には前と同じ自己憐憫の表情がうかんでいた。
「ほかの人たちも出ていくよ」ガリオンはそっと言って、アローンの王たちがドアを通ろうとしている広間の向こうはしを指さした。
「よし」シルクは先に立って足早にかれらのあとを追った。
ガリオンはエルドリグ王の広間をめざして隙間風のはいる廊下を歩いていく一団のあとにくっついた。頭の中の乾いた声が、もしもポルおばさんに見つかったら、ていよく理由をつけて追い払われるぞと言っていた。
行列のしんがりをぶらぶら歩いていたとき、脇廊下のずっと先で何かが一瞬人目を忍ぶように動いた。ガリオンはほんの束の間、男の姿を見た。深緑色のマントをきた平凡なチェレクの戦士だった。行列はその廊下を通過して進んでいたが、ガリオンは足をとめてあと戻りし、もう一度目をこらした。だが緑のマントの男は消えていた。
エルドリグ王の広間の扉の前で、ポルおばさんが腕組みをして待っていた。「どこへ行ってたの?」
「見物していただけだよ」ガリオンはせいぜい何くわぬ顔で答えた。
「そう」おばさんはそう言ってからバラクのほうを向いた。「会議はたぶん長びくでしょうから、ガリオンはおとなしく待っていられそうにないわ。夕食までこの子が退屈しないでいられる場所がどこかないかしら?」
「ポルおばさん!」ガリオンは抗議した。
「兵器庫はどうかな?」バラクが言った。
「兵器庫で何をするのさ?」ガリオンは口をとがらせた。
「洗い場のほうがいいの?」ポルおばさんは嫌味に訊いた。
「よく考えれば、兵器庫を見たいような気もするけど」
「そうだと思ったわ」
「兵器庫ならこの廊下の突きあたりだ、ガリオン」バラクが言った。「ドアの赤い部屋だ」
「走って行きなさい」ポルおばさんは言った。「何かで怪我をしないようにね」
ガリオンは不公平な立場を痛感しつつ、バラクがさし示した廊下をふくれっ面で歩いていった。エルドリグ王の広間の外の通路には見張りが立っているので、盗み聞きをすることもできない。ガリオンは溜息をつくと、ひとりで兵器庫へ向かった。
しかし頭の一部ではいくつかの間題をせわしなく思いめぐらしていた。ミスター・ウルフとポルおばさんがじっさいはベルガラスとポルガラだという可能性は頑強に拒否していたものの、アローンの王たちのふるまいは少なくとも全員がそれを信じていることを如実に物語っていた。次に、ポルおばさんがイスレナ王妃に与えたバラの一件がある。バラが冬に咲かない事実は別としても、ポルおばさんはイスレナがあの緑の宝石をプレゼントすることをどうやって知って前もってバラを用意したのだろうか? おばさんがあの場でバラをつくったのだという考えをかれは意識的に頭のすみへしりぞけた。
かれは物思いにふけりながら歩いた。壁の鉄輪にさした数本の松明が足元を照らしているだけで、廊下は薄暗かった。廊下はあちこちで枝分かれし、いくつもの脇廊下が明かりのともっていない闇の奥へ消えている。兵器庫まであと少しというとき、それらの暗い脇廊下のひとつでかすかな物音がした。なぜかよくわからぬまま、ガリオンは脇廊下のひとつに身をひそめてようすをうかがった。
緑のマントの男が松明の照らす廊下にあらわれでて、こっそり周囲を見まわした。背が低く、砂色のひげをはやし、とりたてて注意をひくこともなく宮殿中を歩けそうな特徴のない男だった。だがその態度とこそこそした物腰は、言葉より声高に男がなにかよからぬことをしていることを語っていた。男は足早にガリオンのきた方角へ廊下を歩きだした。ガリオンは隠れ場所の安全な闇にひっこんだ。再びそろそろと廊下へ頭をだしてみたときは男の影も形もなく、数ある暗い脇廊下のどれに姿をくらましたのか知るすべもなかった。
だれかにこのことを言っても耳を貸してはくれないだろうと、ガリオンの内なる声がささやいた。ばかだと思われたくなければ、ただの疑惑以上の証拠が必要だった。さしあたってかれにできるのは、緑のマントの男をしっかり監視することだった。
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14[#「14」は縦中横]
翌朝は雪が降っていた。ポルおばさん、シルク、バラク、そしてミスター・ウルフは再び王たちとの会議に臨み、ガリオンはダーニクの手に託された。二人はばかでかい謁見の問の暖炉のそばに腰をおろして、そこらをぶらついたり、さまざまな行為に専念したりしているひげをはやした二十数人のチェレクの戦士を眺めて、時間をつぶした。何人かは剣をといだり、武器を磨いたりしていた。朝もまだ早いというのに、坐りこんで飲み食いしている者たちもいる。サイコロ遊びに熱中する者もいれば、壁に背をもたれて眠っている者もいた。
「このチェレク人というのはずいぶん暇な連中らしいな」ダーニクがガリオンに耳うちした。
「ここへ到着してからじっさいに働いている人間を見たことがない、おまえは見たかい?」
ガリオンはかぶりをふった。「ここにいるのは王さまのおかかえの戦士だと思うんだ」同じように小さな声で言った。「だからだれかと戦いに行けと王さまから命令があるのを待つ以外、なにもしないことになっているんじゃないかな」
ダーニクは賛成しかねるように眉をよせた。「生きていくにはさぞ退屈なことだろう」
「ダーニク」しばらくしてガリオンはたずねた。「バラクとかれの奥さんの互いにたいする態度に気づいた?」
「大変悲しいことだ」ダーニクは言った。「きのうシルクが話してくれたよ。二人がごく若かった頃、バラクが彼女に恋をした。ところが彼女は高貴な生まれで、バラクのことをあまりまじめに考えなかったんだ」
「それじゃどうして二人は結婚したの?」
「彼女の家族の考えだったのさ」ダーニクは説明した。「バラクがトレルハイム伯爵になったあと、結婚が二人に価値ある結びつきを与えるだろうと判断したんだ。メレルは反対したがむだだった。シルクの話では、結婚後バラクは彼女が本当は浅はかな人間であることに気づいたが、そのときにはもちろん手遅れだった。メレルは悪意のあることを次々にやってバラクを傷つけようとし、かれはできるだけ家によりつかないようにしているというわけだ」
「子供はいるの?」
「二人いる。どちらも女の子――五つと七つぐらいらしい。バラクは娘たちを溺愛しているが、あまり会えずにいるんだ」
ガリオンは溜息をついた。「ぼくたちに何かできることがあればね」
「夫婦間のことに口出しはできんよ」ダーニクは言った。「そういうことはすべきじゃない」
「シルクが自分のおばさんを愛しているのを知ってた?」ガリオンは口をすべらせた。
「ガリオン!」ダーニクはショックをうけたような声で言った。「言っていいことと悪いことがあるぞ」
「だって本当なんだ」ガリオンは弁解ぎみに言った。「もちろん実のおばさんじゃないけどさ。シルクのおじさんの二度めの奥さんなんだ。どう見ても本当のおばさんらしくないよ」
「彼女はシルクのおじさんと結婚しているんだぞ」ダーニクはきっぱり言った。「そんなけしからん話をでっちあげたのはだれなんだ?」
「だれもでっちあげてなんかいないよ。きのうシルクが彼女に話しかけているとき、かれの顔を見ていたんだ。シルクの気持は明らかだよ」
「おまえがそう空想しただけにきまっている」ダーニクは非難をこめて言うと、立ちあがった。
「ひとまわりしてこよう。ここに坐って友人の噂話をするよりそのほうがましだ。礼儀をわきまえた男のすることじゃない」
「いいよ」ガリオンはちょっと戸惑ったが、すぐに賛成した。腰をあげ、ダーニクについて煙ですすけた広間を横ぎり、廊下へ出た。「台所をのぞいてみようよ」ガリオンは提案した。
「それに鍛冶場もだ」ダーニクは言った。
王室の厨房は巨大だった。牡牛が丸ごと一頭金串の上で焙られており、アヒルの群れが肉汁の海の中でぐつぐつ煮えていた。荷馬車ほどもある大なべの中でシチュウがふつふつ音をたて、パンの大隊が行列してはいっていくオーヴンは、中に立っても頭がつかえないほど大きかった。ファルドー農園の秩序正しいポルおばさんの台所とちがい、ここではすべてがごたまぜで混乱をきわめていた。料理長は赤ら顔の大男で、矢継ぎ早に命令をわめいていたが、みんな知らんふりをしていた。怒声と脅迫とすさまじいばか騒ぎがあたりを支配していた。火の中に突っこまれたままのお玉杓子を不注意な料理人がつかんで金切り声をあげたり、帽子がひとつ盗まれて煮えたぎるシチューなべに投げこまれたりしていた。
「ほかへ行こうよ、ダーニク」ガリオンは言った。「ここはぼくの予想とまるきりかけはなれているもの」
ダーニクはうなずいて嘆かわしそうに言った。「マダム・ポルならこんな乱痴気騒ぎは許さんだろうな」
台所を出ると、胸元が大きくあいた薄緑の服をきた赤っぽい金髪のメイドがひとり、廊下でぶらぶらしていた。
ダーニクは礼儀正しく声をかけた。「すみませんが鍛冶場はどこでしょう?」
メイドは大胆な目つきでダーニクの全身を眺めまわした。「あんた、新顔なの? はじめて見るけど」
「宮殿を訪問中なんです」ダーニクは言った。
「どこからきたの?」メイドは問いただした。
「センダリアですよ」とダーニク。
「まあ、興味あるわ。その子に使い走りをさせて、わたしとしばらくお話ししましょうよ」彼女の視線はあけすけだった。
ダーニクは咳払いした。耳が赤くなった。「鍛冶場は?」かれはもう一度たずねた。
メイドは陽気に笑った。「この廊下を出たところの中庭にあるわ。わたしね、たいがいこのへんにいるの。鍛冶屋との仕事がすんだら、きっとわたしを見つけられると思うわ」
「そうですね」ダーニクは言った。「きっと見つけられるでしょう。行こう、ガリオン」
二人は廊下を歩きつづけて雪の降る中庭へ出た。
「言語道断だ!」ダーニクはまだ耳をほてらせたまま頑強に言った。「あの娘にはたしなみというものがまるでない。だれに報告すればいいかがわかれば、文句を言ってやるところだ」
「びっくりしたね」内心ダーニクの狼狽ぶりをおもしろがりながら、ガリオンは同意した。かれらは雪の舞う中庭を突っきった。
鍛冶場をとりしきっているのは、二の腕がガリオンの太腿ほどもある黒ひげの巨漢だった。ダーニクが自己紹介すると、二人はたちまち鍛冶屋のハンマーの伴奏に合わせて楽しそうに商売談義をはじめた。ガリオンが気づいたのは、センダリアの鍛冶場を埋めつくしていた鋤や踏みぐわ、くわに代わって、ここでは剣、槍、戦闘用の斧が壁にかかっていることだった。炉のひとつで見習人が矢尻をハンマーでたたいており、別の炉ではやせた片月の男がぞっとするような短剣をこしらえていた。
ダーニクと鍛冶屋は昼近くまで話しこんでいたので、その間ガリオンは中庭をぶらついてさまざまな職人たちの仕事ぶりを観察した。桶屋に車大工、靴屋に大工、だれもがアンヘグ王の大所帯を維持するために仕事にいそしんでいた。ガリオンは見物しているあいだも、昨夜目撃した緑のマントの砂色のひげの男を捜し求めた。誠実な仕事がおこなわれているこの場所にあの男がいる見込みは薄かったが、それでもかれは注意を怠らなかった。
正午ごろ、バラクが二人を捜しにきて、大広間にかれらを連れ戻した。そこではシルクがぶらぶらしながら熱心にサイコロ賭博を見物していた。
「アンヘグや他のみんなはきょうの午後密談をしたがっている」バラクは言った。「おれはひとっ走り行ってくる用事ができたんで、あんたたちも一緒にきたくないかと思ってね」
「それは悪くない考えだな」シルクは賭博から視線をひきはがした。「きみの親類の戦士連中はサイコロ賭博がへたくそだな。二、三度一緒にころがしてみたいところだが、やめておいたほうがよさそうだ。よそ者に負けたらたいていの連中は気を悪くするからね」
バラクはニヤッとした。「連中はきっと喜んであんたにふらせるぜ、シルク。勝つチャンスはあんたに負けないぐらいある」
「東にのぼる太陽が西にのぼるような確率だろうよ」とシルク。
「そんなに自分の腕に自信があるんですか?」ダーニクがたずねた。
「連中の腕に、だよ」シルクはくすくす笑って、ぴょんとはねた。「行こう。指がむずむずしてきた。誘惑から指を遠ざけないとな」
「なんとでも言うさ、ケルダー王子」バラクは笑った。
かれらはそろって毛皮のマントをはおり、宮殿を出た。雪はほぼやんでいたが、風は肌を刺すように冷たかった。
「わたしはみなさんの名前にちょっとまごついているんです」ヴァル・アローンの中心部へ向かっててくてく歩きながら、ダーニクが言った。「一度訊こうと思っていたんですが、たとえばあなたです、シルク。あなたはケルダー王子でもあり、ときにはコトゥの商人アンバーでもある。ミスター・ウルフはベルガラスと呼ばれているし、マダム・ポルもレディ・ポルガラとかエラト公爵夫人とか呼ばれています。わたしの出身地では、通常、人はひとつの名前しか持っていないものなんですが」
「名前は衣服みたいなものなんだ、ダーニク」シルクは説明した。「われわれはそのときに応じてもっともふさわしい名を利用する。正直者は風変わりな衣服や名前を使う必要がほとんどないが、われわれみたいな真っ正直でない者は、ときどき名前を使いわけなけりゃならないんだ」
「マダム・ポルが正直でないと形容されるのを聞くのは、よい気持ちではありませんね」ダーニクは硬い声で言った。
「侮辱する気は毛頭ないよ」シルクはきっぱり言った。「単純な定義はレディ・ポルガラにはあてはまらない。それにわたしがわれわれは正直ではないと言うのは、われわれの関与しているこの問題が、不正にしてよこしまな連中から正体を隠すことをときとして要求するという意味なんだ」
ダーニクはまだ納得がいかぬふうだったが、それ以上追求はしなかった。
「この通りを行こう」バラクが言った。「きょうはベラー神殿の前を通りたくないんだ」
「どうして?」ガリオンはたずねた。
「宗教上の義務をちょっと怠っているんでな」バラクは苫しげな表情で言った。「ベラーの高僧に出くわしてそのことを思いだしたくない。かれの声はよくとおるし、町全体の面前で叱責されちゃたまらん。分別ある男は公衆の面前で坊主や女に文句を言わせるチャンスを与えたりしないもんだ」
ヴァル・アローンの通りは細く曲りくねっていて、古い石造りの家々はひょろりと背が高く、二階部分が突きだしていた。断続的に降る雪と冷たい風にもめげず、通りは毛皮をしっかり着込んだ人々であふれていた。
上機嫌の叫び声やみだらな侮辱の応酬があたりを満たしている。ある通りのまん中では、年配の威厳たっぷりの男が二人、見物人の耳ざわりな声援をあびて雪の玉を投げつけあっていた。
「あの二人は古い友だち同士なのさ」バラクがにやにやしながら言った。「長い冬のあいだ、毎日ああやっている。もうすぐ仲良く居酒屋へ行って酔っぱらい、椅子からころげおちるまで昔の歌をうたうんだ。もう何年もそれをつづけている」
「夏はどうするんだ?」シルクが訊いた。
「石のぶつけっこさ。飲んでうたって椅子からころげおちるのは同じだがね」
「こんにちは、バラク」緑の瞳の若い娘が二階の窓から呼びかけた。「いつまたわたしに会いにきてくれるの?」
バラクはちらりと上を見て顔を赤くしたが、答えなかった。
「あの女の人が話しかけているよ、バラク」ガリオンは言った。
「聞こえた」バラクはひとこと答えた。
「きみを知っているようだが」シルクがいたずらっぽい顔で言った。
「だれのことでも知っているんだ」バラクはますます赤くなった。「行かないか?」
もうひとつ角を曲がると、むくむくの毛皮にくるまった男の一団が一列になって足をひきずるように歩いていた。左右にゆれるような妙な足取りで、人々があわてて道をあけている。
「やあ、バラク卿」一団のリーダーが節をつけて言った。
「やあ、バラク卿」他の面々が依然左右にゆれながら声をそろえた。
バラクはぎごちなく一礼した。
「ベラーのお力が汝を守らんことを」リーダーが言った。
「アロリアの熊神、ベラーをたたえん」残りが言った。
バラクはまた一礼して、行列が通りすぎるまで立っていた。
「どういう人たちだったんです?」ダーニクが訊いた。
「熊神崇拝者たちさ」バラクは嫌悪をこめて言った。「狂信者どもだ」
「厄介な一団でね」シルクが説明した。「アローンのすべての王国に支部を持っているんだ。すばらしい戦士なんだが、ベラーの高僧の手先でもある。儀式や軍事訓練に時間を費し、地元の政治に干渉するんだよ」
「かれらが言ったアロリアってどこにあるの?」ガリオンはたずねた。
「おれたちのまわりが全部そうさ」バラクが大きな身ぶりをした。「アローンの全王国をひとつにしたのが昔はアロリアだったんだ。もとはひとつの国だったんだよ。あの崇拝者どもは諸国を再統一したがっている」
「むちゃな望みではないように思えますがね」ダーニクが言った。
「アロリアが分割されたのは、ある理由のためなんだ」バラクは言った。「どうしても守らなけりゃならないものがあって、そうするにはアロリア分割が最善の方法だったのよ」
「そんなに重要なものとはなんだったんです?」とダーニク。
「この世で一番重要なものなんだ」シルクは言った。「熊神崇拝者たちはともすればそのことを忘れてしまう」
「ただ、今それは盗まれちゃったんでしょう?」ガリオンはだしぬけに言った。頭の中のあの乾いた声が、バラクとシルクがたった今言ったことと、突然崩壊したかれ自身の人生とのつながりをガリオンに教えた。「ミスター・ウルフが追いかけているのはそれなんだ」
バラクはガリオンにすばやく目を走らせて、真顔で言った。「この若いのはおれたちが思っていた以上に頭がいいぜ、シルク」
「かれは賢い少年だ」シルクも同意した。「すべてをつなぎ合わせるのはむずかしいことじゃない」イタチのような顔はまじめそのものだった。「もちろんきみの言うとおりだよ、ガリオン。どういう手を使ったのかまだわれわれにはわからないが、だれかがそれをまんまと盗んだんだ。ベルガラスが命令をくだせば、アローンの王たちはこの世をばらばらにしてでもそれをとり戻すだろう」
「戦争をするという意味ですか?」ダーニクが沈んだ声で言った。
「戦争より悪いものがある」バラクは陰気に言った。「これを最後にアンガラク人どもを片づけるにはいい機会かもしれん」
「そうならないようベルガラスがアローンの王たちを説得できることを望もうじゃないか」シルクは言った。
「例のものは取り返さなけりゃならないんだ」バラクは主張した。
「いかにも。しかし方法は他にもある。それにな、天下の公道で代案を話しあうのはまずいぞ」
バラクは目をこらすようにしてあわててあたりを見まわした。
そのときかれらは森の樹々のようにびっしりマストを林立させたチェレクの船が停泊する波止場についた。寒風が吹きすさぶ凍った川の上の橋を渡り、船の骨組が雪の中に横たわる広大な船置場に出た。
革の上っぱりをきた男が船置場のひとつの中心にある低い石造りの建物から、足をひきずりながらあらわれて、かれらが近づいていくのを立って見ていた。
「よお、クレンディグ」バラクが呼びかけた。
「よお、バラク」革の上っぱりの男は答えた。
「仕事の調子はどうだ?」バラクはたずねた。
「この季節ははかどらないね」とクレンディグが言った。「木を使う仕事にゃ向かない時期なんだ。うちの職人たちは付属品を作ったり、板を切ったりしているが、春がくるまでそれ以上のことはできんよ」
バラクはうなずくと、雪の中から突きでた船首に歩みよって、真新しいその木に片手をおいた。「クレンディグはこれをおれのために造っているところなんだ」かれは船首を軽くたたいた。「今に海上一のすばらしい船になるぞ」
「あんたの漕ぎ手たちにそれを動かせるだけの力があればの話だ」クレンディグが言った。
「そいつはすごくでかくなるよ、バラク、そしてすごく重くなる」
「そのときは大男たちを使って漕がせるさ」バラクは船の肋材に目を注いだまま言った。
ガリオンは船置場の上の丘の斜面からはしゃいだ叫びを聞いて、すばやくそちらを見あげた。数人の若者がなめらかな板にのって丘をすべりおりていた。バラクたちは明らかに午後中船の話をしているだろう。それもおもしろそうだが、ガリオンは長いこと同年齢の人間と話をしていなかったことに気づいた。かれはみんなから離れて丘のふもとに立って眺めた。
とりわけ金髪の少女がかれの目をひきつけた。どことなくズブレットを思いださせたが、ちがう点もいくつかあった。ズブレットが小柄だったのにひきかえ、この少女は男の子並みの体格だった――でも男の子でないことは目にも明らかだ。少女の笑い声が陽気にひびいた。午後の冷たい空気の中で頬をバラ色に上気させ、長いおさげ髪をなびかせて丘をすべりおりてくる。
「おもしろそうだね」即席のソリがそばまできて止まったとき、ガリオンは声をかけた。
「やってみたい?」少女は立ちあがって、毛織の服についた雪をはたきながらたずねた。
「ソリを持っていないんだ」ガリオンは言った。
「あたしのを使わせてあげてもいいわ」少女はいたずらっぽくガリオンを見つめた。「あなたがあたしに何かくれるなら」
「何がほしいんだろう?」
「そのうち思いつくわ」少女は大胆な目で彼を見た。「なんて名前?」
「ガリオン」
「ずいぶんおかしな名前ね。ここの生まれ?」
「ちがう。センダリアだ」
「センダー人なの? ほんと?」少女の青い目がきらめいた。「センダー人に会ったのはじめてだわ。あたしはメイディっていうの」
ガリオンはちょっと会釈した。
「あたしのソリを使いたい?」メイディは訊いた。
「すべってみたいな」
「貸してあげるわ、キスしてくれたら」
ガリオンが真っ赤になると、メイディは笑った。
長い上着姿の大柄な赤毛の少年が近くへすべってきて、すごんだ顔をして立ちあがった。
「メイディ、こっちへこいよ」少年は命令口調で言った。
「いやだといったら?」メイディは言った。
赤毛の少年は肩をゆすってガリオンに歩みより、問いつめた。「おまえ、ここで何してる?」
「メイディと話をしているんだよ」ガリオンは言った。
「だれに許可をもらった?」赤毛の少年は訊いた。少年はガリオンより少し背が高く、身体つきもがっしりしていた。
「許可なんかもらわなかったよ」
赤毛の少年は威嚇的な顔でガリオンをにらみ、言い放った。「その気になりゃ、おまえなんかたたきのめせるんだぞ」
赤毛が好戦的気分になっていて、喧嘩がさけられないことにガリオンは気づいた。脅しや侮辱といった前置きはあと何分かつづくかもしれないが、長い上着の少年の怒りが爆発すれば、たちまち喧嘩がはじまりそうだった。ガリオンは待つのはやめにした。げんこつを固めると、かれは大柄な少年の鼻にパンチをあびせた。
みごとな一撃をくらって、赤毛はよろっとあとずさって雪の上に尻もちをついた。少年が鼻をおさえた手を離すと、手が真っ赤にそまっていた。「血が出てる!」かれは非難をこめた泣き声で言った。「おまえのせいで鼻血が出たじゃないか」
「すぐにとまるさ」ガリオンは言った。
「とまらなかったらどうする?」
「鼻血は永遠に出やしないよ」
「なぜぼくを殴った?」赤毛は泣きべそをかいて鼻血をぬぐいながら言った。「ぼくはなにもしなかったぞ」
「しようとしてただろ」ガリオンは言った。「雪をつめとけよ、赤ん坊みたいにめそめそするな」
「まだ血がでてる」
「雪をつめるんだ」ガリオンはくりかえした。
「それでもとまらなかったら?」
「そのときは出血多量で死ぬだろうな」ガリオンは冷酷な口調で言った。それはポルおばさんから修得した手だった。ドルーンやランドリグに効いたように、チェレクの少年にも効果は抜群だった。赤毛はびっくりしてガリオンをみると、雪を片手いっぱいつかんで鼻に押しあてた。
「センダー人ってみんなそんなに残酷なの?」メイディがたずねた。
「センダリア中の人間を知ってるわけじゃないからね」
地元の子供たちと遊ぼうとした試みはまずい結果におわり、ガリオンは後悔しながら向きを変えて造船所のほうへ歩きだした。
「ガリオン、待って」メイディの声がした。彼女はガリオンを追いかけて、腕をつかんだ。
「忘れものよ、あたしのキス」メイディはかれの首に両腕をまきつけると、音高く口にキスをした。
「そらね」メイディはくるりと背中を向け、金髪のおさげをなびかせて笑いながら丘をかけのぼっていった。
ガリオンが戻っていくと、バラクとシルクとダーニクはそろって笑っていた。
「おまえはあの子を追いかけることになっていたんだぜ」バラクが言った。
「なんのために?」笑われて赤くなりながらガリオンはたずねた。
「あの子はつかまえてもらいたかったのさ」
「わかんないな」
シルクが言った。「バラク、われらのガリオンにはさらに一層の教育が必要だということを、われわれのひとりがレディ・ポルガラに報告せにゃならんようだな」
「しゃべるのはお手のものだろう、シルク。彼女にはあんたが伝えるべきだね」
「その特権をめぐってサイコロをふるのはどうだい?」とシルク。
「あんたがサイコロをふるのは前に見たことがあるんだ。シルク」バラクは笑った。
「もちろん、ただもうしばらくここにいたっていい」シルクはずるそうに言った。「むしろガリオンの新しい遊び友だちはかれの教育が完璧に仕上がれば大喜びするだろうし、そうすれば、われわれもわざわざレディ・ポルガラにご注進しなくてすむ」
ガリオンは耳をほてらせていた。「ぼくはそれほどおめでたくないよ」かれは怒って言った。
「なにを話しているのかぐらいわかってるんだ。ポルおばさんにしゃべることなんてないさ」かれはいらだたしげに雪をけとばして大人たちのそばをはなれた。
バラクがさらに船大工と話しこみ、波止場が夕方の薄闇に包まれたころ、かれらは宮殿へひきかえした。ガリオンは笑われたことをまだ根に持って、ふくれっ面であとからついていった。かれらがヴァル・アローンに到着して以来頭上にたれこめていた雲がちぎれはじめ、ところどころに澄んだ空がのぞきだした。あちこちに星がひとつふたつとまたたき、雪の降る通りがゆっくり夜のとばりにおおわれはじめた。家々の窓にやわらかなろうそくの光が輝きだし、通りに残った人々は暗くなる前に家路を急いだ。
あいかわらずひとり遅れてのろのろ歩いていたガリオンは、一房のブドウを描いた粗末な看板をかかげたとある大きな扉の中へ二人の男がはいっていくのを見た。ひとりは昨夜宮殿で目撃した、あの緑のマントに砂色のひげの男だった。もうひとりは黒っぽい頭巾をかぶっていて、その正体に気づいたガリオンはおなじみの興奮をおぼえた。頭巾の男の顔は見えなかったが、その必要はなかった。疑問の余地もないほど何度も顔を合わせていたからだ。これまでいつもそうだったように、今度もガリオンは幽霊の指で口を封じられているような、あの奇怪な抑制力を感じた。頭巾の男はアシャラクだった。ここでのマーゴ人の存在はきわめて重大事であったにもかかわらず、どういうわけかガリオンはそれを口に出してしゃべることができないのだった。かれは二人の男をほんの一瞬見ただけで、急いで友人たちに追いついた。舌をしばりつけている力をふりほどこうとしたあげく、別の方法で質問を試みた。
「バラク、ヴァル・アローンにはたくさんマーゴ人がいるの?」
「チェレクにマーゴ人はいないさ」バラクは言った。「違反すれば死刑にするというきまりで、アンガラク人は王国に立ち入ることを許されていないんだ。それがわれわれの最古の法律なんだ。〈熊の背〉チェレクがその昔定めたものでね。なぜだい?」
「ちょっと考えていただけさ」ガリオンはあいまいに言った。理性はアシャラクのことをかれらに話さねばならないと叫んでいたが、かれのくちびるは凍りついたままだった。
その夜、アンヘグ王の中央広間で、大ごちそうの並ぶ長いテーブルに全員が着席すると、ガリオンが丘の斜面で少年少女と出会った話をバラクが大幅に誇張して一同を楽しませた。
「たいしたパンチだった」バラクは大げさな口ぶりで言った。「もっとも偉大な勇者にふさわしい一発だった。それが敵の鼻に命中したんだ。鮮血がほとばしり、敵はひるんで降参した。ガリオンは英雄らしく、敗北者を見守り、いかにもまことの英雄らしく、自慢もしなければ、敵をあざけりもせず、流れ出る真っ赤な血をとめる方法を教えてやった。それからじつに威厳のある態度でその場をあとにしたんだ。だが明るい目をした娘は勇気あるかれをそのまま行かせようとはしなかった。急いでガリオンに追いすがり、雪のついた腕をやさしくかれの首にまわした。そして心をこめたキスをひとつ彼に与えたもんだ。それこそまことの英雄にふさわしいほうびだった。娘の目は賛美にきらめき、つつましい胸は新たに目ざめた情熱に激しく息づいていた。ところがつつしみ深いガリオンはそのままあっさり別れ、娘の愛情のこもったふるまいがはっきり申し出ているもうひとつの甘い報酬を求めようともしなかった。こういうわけで、その冒険は、われらが英雄が勝利こそ味わったものの、勝利の本当の報いはそっと斤けたという形で終わった」
長テーブルの戦士たちや王たちは声をあげて笑い、大喜びでテーブルや膝や互いの背中をたたきあった。イスレナ王妃とシラー王妃は寛大にほほえみ、ポレン王妃はあけっぴろげに笑った。しかしレディ・メレルは硬い顔つきをくずさず、かすかな侮蔑の色をうかべて夫を見やった。
ガリオンは顔を真っ赤にして坐っていた。提案や忠告が大声であびせられ、耳ががんがんした。
「本当にそんな具合だったのか、甥よ?」ローダー王が涙をふきながらシルクにたずねた。
「だいたいそんなところですね」シルクは答えた。「かなり大げさとはいえ、バラク卿の話はうまいもんです」
セリネ伯爵が言った。「吟遊詩人を呼びにやるべきだな。この手柄話を歌にして永遠に残さねばならんぞ」
「かれをからかうのはおよしなさいな」ポレン王妃が同情的にガリオンを見て言った。
ポルおばさんはおもしろくないようだった。おばさんはひややかな目でバラクをにらんだ。
「大人が三人もついていて、ひとりの少年が厄介事にまきこまれるのを防げないとはおかしいじゃないの?」と眉をつりあげて訊いた。
「パンチはほんの一発だよ」シルクが抗議した。「それに結局はキスをひとつされたにすぎない」
「そうかしら? それで次はどうなって? 剣を持っての決闘かもしれないし、そのあとはもっとばかなことが起きるんじゃないの?」
「本当になんでもなかったんですよ、マダム・ポル」ダーニクがうけあった。
ポルおばさんは首をふった。「ダーニク、せめてあなただけは分別というものがあると思っていたけれど、これでそれがまちがいだったことがわかったわ」
ガリオンはその言いかたに突然カッとなった。かれが何をしても、おばさんはそれを悪くとるような気がした。ガリオンの怒りは爆発寸前にまで燃えあがった。なんの権利があって、おばさんはぼくの行動に口出しするんだろう? なんといってもぼくとおばさんのあいだにはなんのつながりもないのだから、自分でやりたいと思ったら、おばさんの許可などなくてもなんでもできるはずなんだ。ガリオンはふてくされておばさんをにらみつけた。
彼女はその目つきをみると、まるで挑みかかるような冷たい表情で見返してきた。「なんなの?」
「別に」ガリオンは短く言った。
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15[#「15」は縦中横]
一夜あけた翌朝はさわやかな快晴だった。空は真っ青で、都のうしろにそびえる白い山並に陽ざしがきらめいていた。朝食後、ミスター・ウルフはその日もまたポルおばさんと二人でフルラクやアローンの王たちと密談すると発表した。
「名案だよ」バラクはいった。「陰気な考えごとは王たちにぴったりだ。しかし王の義務を持たない者にとっちゃ、きょうは室内ですごすには惜しいような上天気だな」かれはいとこを見て、ざまあみろというようににやにやした。
「意外におまえは残酷なところがあるようだな、バラク」アンヘグ王は最寄りの窓の外へうらめしげに目を走らせて言った。
「今でもイノシシは森のはしまでやってくるかい?」バラクは訊いた。
「群れをなしてな」アンヘグはいよいよつまらなそうに答えた。
「腕のいいのを数人集めて、イノシシの数をちょっと減らせるかどうか出かけてみようと思ったんだ」バラクはますます歯をむいて笑いながら言った。
「おおかたそんなことだろうと思ったよ」アンヘグはむっつりそう言うと、くしゃくしゃの頭をかいた。
「おれはあんたに貢献しているんだぜ、アンヘグ。この王国を獣だらけにしたくはないだろう?」
ドラスニアの肥ったローダー王が大笑いして言った。「一本とられたようだな、アンヘグ」
「いつものことだ」アンヘグは渋い顔でうなずいた。
「わたしならそういうことは喜んでもっと若くてスマートな連中にまかせるね」ローダーは言った。かれは両手で大きく突き出た腹をたたいた。「うまい食事はいっこうにかまわんが、最初にそいつと格闘するのは遠慮したい。わたしは恰好の標的だからな。世界一目の悪いイノシシでもわたしを見つけるのに苦労はいらん」
「それじゃ、シルク。あんたはどうだい?」バラクは言った。
「本気じゃないだろうな」とシルク。
「行かなけりゃいけないわ、ケルダー皇太子」ポレン王妃が主張した。「だれかがこの冒険でドラスニアの名誉を代表しないとね」
シルクは気の進まぬ顔だった。
「わたしの勝利者になれてよ」ポレン王妃は目を輝かせた。
「またアレンドの叙事詩を読まれたんですか、妃殿下?」シルクはむっつりとたずねた。
「国王の命令だと思いなさいな。新鮮な空気と運動は決して害にはならないわ。あなたこのところ元気がないもの」
シルクは皮肉っぽく頭をさげた。「お望みどおりに、妃殿下。もし手に負えぬ事態になっても、いつでも木に登れるでしょうから」
「あんたはどうだ、ダーニク?」バラクが訊いた。
「狩りのことはあまり知らないんですよ。バラク」ダーニクは疑わしげに言った。「しかし、よろしかったらお伴しましょう」
「いかがです?」バラクは丁重にセリネ伯爵にたずねた。
「とんでもないよ、バラク卿」セリネは笑った。「そういう楽しみに熱中したのは何年も前のことだ、もう齢だからな。しかしお誘い感謝するよ」
「ヘターは?」バラクはやせたのっぽのアルガー人にたずねた。
ヘターはすばやく父親に目をやった。
「行っておいで、ヘター」チョ・ハグは低い声で言った。「歩かねばならんときは、きっとアンヘグ王が介助する戦士を貸してくれる」
「わたしが自分で手をかすよ、チョ・ハグ」アンヘグが言った。「もっと重い荷物を運んだこともあるんだ」
「ではご一緒します。バラク卿」ヘターは言った。「誘ってくれてありがとう」かれの声は太く、よくひびいたが、父親によく似てたいそう低かった。
「さてと、どうだ?」バラクがガリオンに訊いた。
「気でもちがったの、バラク?」ポルおばさんがぴしゃりと言った。「きのうじゅうぶんガリオンを面倒事にひっぱりこんだのじゃなかった?」
もうたくさんだった。バラクに声をかけられて高揚していた気分がとたんに怒りに変わった。ガリオンは歯ぎしりして、慎重な態度をいっぺんにかなぐりすてた。「バラクがぼくを邪魔だと思わないなら、ぼくは喜んで行く」かれは喧嘩ごしで宣言した。
ポルおばさんは急にけわしい目をしてガリオンをじっと見つめた。
「おまえの赤ん坊にも歯が生えてきたな、ポル」ミスター・ウルフが愉快そうに笑った。
「黙っていてちょうだい、おとうさん」ポルおばさんはガリオンをにらんだまま言った。
「今回はそうはいかん」老人は皮肉めいた声で言った。「あの子は自分で決定をくだしたんだ。それをぶちこわしてあの子に恥をかかせるような真似はするな。ガリオンはもう子供じゃない。おまえは気づいておらんかもしれんが、背丈も体格も今では大人並みだ。もうじき十五歳になるんだぞ、ポル。これからはおまえもときどき手綱をゆるめねばならんし、かれを大人並みに扱うには今がいいチャンスだ」
彼女はしばらく老人を見つめていた。「なんとでもおっしゃるとおりに、おとうさん」と、うわべはおとなしく言った。「でも、これについてはあとで話しあいたいわ――二人だけで」
ミスター・ウルフはたじろいだ。
それからポルおばさんはガリオンを見て言った。「用心するのよ。帰ったら、二人でじっくり話しあいましょう、いいわね」
「狩りにお出かけの用意をお手伝いする必要がございますか?」レディ・メレルが例によって固苦しいばかにしたような態度でバラクにたずねた。
「それにはおよばん、メレル」バラクは言った。
「義務を怠りたくはございません」
「かまわんでくれ、メレル。おまえの主張が正しいことはわかっている」
「では失礼してよろしいでしょうか?」
「ああ」バラクは短く言った。
「ご婦人がたはわたくしのところへいらしたらいかがかしら?」イスレナ王妃が言った。「占いで狩猟の成果を予想してみましょうよ」
チェレクの王妃のやや後方に立っていたポレン王妃は、観念したように天井を仰いだ。シラー王妃がそれを見て微笑した。
「じゃ、行こう。イノシシどもがお待ちかねだ」バラクは言った。
「きっと牙をといでいるぞ」とシルク。
バラクが先に立って武器庫の赤い扉の前へ行くと、金属の柄をぬいつけた牝牛の革のシャツを着た、異様に肩幅の広い白髪まじりの男が一同に加わった。
「これはトーヴィクだ」とバラクは白髪まじりの男を紹介した。「アンヘグの狩猟頭で、森じゅうのイノシシの名前を知っているのさ」
「もちあげすぎですよ、バラク卿」トーヴィクは一礼した。
「このイノシシ狩りというのはどんなふうにやるんですか、トーヴィク?」ダーニクがていねいにたずねた。「一度もしたことがないんですよ」
「簡単です」トーヴィクは説明した。「わたしが手下の猟師たちを連れて森にはいり、音を立てたり叫んだりしてイノシシを駆りたてます。あなたがたや他の狩人たちはこれを持って待機するんです」頭部の大きい頑丈なイノシシ用の槍をおさめた棚をかれは身ぶりで示した。「イノシシはあなたが行く手に立っているのを見たら、突っこんできて牙で殺そうとします。だが、かわりにあなたが槍でそいつを殺してしまうという寸法です」
「なるほど」ダーニクはちょっと疑わしげに言った。「そう複雑ではなさそうだ」
「われわれは鎖かたびらを着ている、ダーニク」バラクが言った。「猟師たちはこれまでめったに大変な怪我はしていない」
「これまでめったに≠ニはあまり安心できるいいかたじゃないな」扉のわきの掛け釘にかけてある鎖かたびらをさわりながらシルクが言った。
「多少は危険な要素があるからこそ狩りはおもしろいのさ」バラクは首をすくめると、イノシシ用の槍を一本手にもった。
「イノシシ狩りをやめてサイコロ遊びをやろうと思ったことはないのか?」シルクはたずねた。
「あんたのサイコロでやるのはごめんだね」バラクは笑った。
かれらが鎖かたびらに袖を通しはじめたあいだに、トーヴィクの猟師たちが宮殿の雪の降る中庭で待っているソリに、イノシシ用の槍を運びこんだ。
ガリオンが鎖かたびらを着てみると、重くて、着心地はよくなかった。ぶあつい服を着ていても、鋼の輪が肌にくいこみ、姿勢を変えて輪のひとつの圧迫感をゆるめようとすると、そのつど別の数個の輪が肌を刺した。一同がソリに乗りこんだときはひどく寒く、普段の毛皮の服ではぜんぜん着足りないように思えた。
ヴァル・アローンの細い曲がりくねった通りをぬけて、一行は波止場から見て都の反対側にある大きな西の門へ向かった。馬たちの吐く息が凍てついた空気の中で白かった。
神殿で見かけた例のぼろをまとった盲目の老婆がとある戸口からあらわれて、明るい朝日をあびて進む一行にしわがれ声で呼びかけた。「ほうい、バラク卿、おぬしの死は近いぞえ。きょうの太陽が寝床を見つける前におぬしは死を味わうだろうて」
バラクは物も言わずにソリの中に立ちあがると、イノシシ用の槍をかまえ、寸分たがわぬ正確さで老婆めがけて投げた。
醜い老婆は驚くべき敏捷さで杖をふりあげ、槍をわきへはたき落とすと、あざ笑った。「マルテの婆を殺そうとするのはやめたほうがおぬしのためだぞ。おぬしの槍で婆は殺せぬ。剣だとて同じことだわい。お行き、バラク。死がおぬしを待っているわ」そう言うと老婆は、驚愕しているダーニクのとなりに坐っているガリオンのほうを向いた。「ほうい、偉大なるお方」と歌うように言った。「この日あなたさまはまことに危険な目に会われるが、あなたさまはそれを切りぬけておしまいになる。そしてあなたさまの危険が友バラクの宿命たる獣の痕跡をあらわにするでございましょうて」そう言って老婆はお辞儀をし、バラクが別の槍に手をかけるより先に走りさった。
「ありゃなんだい、ガリオン?」ダーニクが目を白黒させてたずねた。
「バラクの話だと、彼女は気のふれた盲目のおばあさんなんだ」ガリオンは言った。「ヴァル・アローンについて、ダーニクや他のみんながソリで出発したあと、ぼくとバラクはあのお婆さんに足どめをくったんだよ」
「宿命とはいったいなんのことだろう?」ダーニクは身ぶるいしながら言った。
「知らない。バラクは説明しようとしないんだ」
「朝も早々縁起が悪いな。チェレク人というのは妙な連中だ」ダーニクは言った。
ガリオンは同感とばかりにうなずいた。
都の西門を出ると、朝日を一面にうけて広々とした野原が白くきらめいていた。二リーグかなたの暗い森のはしをめざしてかれらは野原を横ぎった。疾走するソリのうしろに雪煙がもうもうと舞いあがった。
一行の通過する道に沿って、農場がいくつも雪に埋もれていた。建物はどれもこれも丸太造りで、木の屋根がとがっている。
「ここの人たちは危険に対して無関心のようだな」ダーニクは言った。「わたしなら木の家に住むなんてまっぴらだよ――火事だのなんだのの可能性があるからな」
「なんといっても国がちがうからね」ガリオンは言った。「センダリアのぼくらの暮らしかたを全世界に期待するのはむりだよ」
「だろうな」ダーニクは溜息をついた。「だがなあ、ガリオン、わたしはここではあまり居心地がよくないんだ。旅行向きにできていない人間もいるんだよ。ときどき、われわれはファルドー農園を出てこなければよかったという気になる」
「ぼくもそう思うことがあるよ」ガリオンは本音を言うと、前方の森から直立しているような、そびえたつ山並に目をあてた。「でも、これもいつかは終わって、また家に帰れるさ」
ダーニクはうなずいて、またひとつ溜息をついた。
一行が森にはいるころにはバラクも落着きをとり戻し、上機嫌になって、何事もなかったかのように狩人たちを配置しはじめた。かれはふくらはぎまで埋まる雪の中を歩いて、ソリが通った細道から少し離れた一本の大木のもとへガリオンを連れていった。「ここは絶好の場所なんだ。ここには獣道があるから、トーヴィクとその猟師たちのたてる音から逃げようとしてイノシシが通るかもしれない。イノシシがやってきたら、勇気を出して、イノシシの胸を狙って槍をかまえろ。イノシシってやつはあまり目がよくないから、槍に気づかず正面から突進してくるだろう。槍を突き立てたら、木のうしろにさっと飛びこむのが一番だ。槍に猛り狂うことがあるからな」
「もしやりそこなったら?」ガリオンは訊いた。
「おれならやりそこなったりしないね。そういう考えはあまりよくないぞ」
「わざとそうするっていうんじゃないよ」ガリオンは言った。「そういう場合、イノシシは逃げるかどうかしようとする?」
「逃げようとすることもあるが、あてにはならない。むしろ牙でおまえをまっぷたつにしようとするだろう。そのときは木に登るのが賢明だな」
「おぼえとくよ」ガリオンは言った。
「困ったことになっても、おれはそれほど遠くないところにいるからな」とバラクは約束して、ガリオンにずしりと重い槍を二本渡し、ソリに引返していった。かれらはあっというまに走りさり、ガリオンは樫の大木の下にひとり残された。
黒々とした樫の木の下は薄暗く、恐ろしく寒かった。ガリオンは雪の中をちょっと歩きまわってイノシシを待つのに一番いい場所をさがした。バラクの言った獣道は、暗いやぶの奥に曲がりくねって消えている踏み荒らされた小径だった。その小径の雪の上にびっくりするほど大きな足跡がついているのにガリオンは気づいた。枝を低く広げた樫の木がたいそう魅力的に見えてきたが、ガリオンはいらだたしげに木に登るという考えを打ち消した。かれは地面の上に立ってイノシシの突進を迎えうつことを期待されているのだ。おびえた子供みたいに木に隠れるくらいなら死んだほうがましだとガリオンは決心した。
頭の中の乾いた声が、おまえはそういうことを気にしすぎると忠告した。大人になるまでは、だれもおまえを一人前の男とは考えやしないのだから、いたずらに勇敢なふりをして厄介事にまきこまれる必要がどこにある?
森は今しんと静まりかえり、雪がすべての音をくるみこんでいた。さえずる鳥もなく、ときおり枝につもった雪が下の地面にすべり落ちて音をたてるだけだった。ガリオンはひしひしと孤独を感じた。ぼくはここで何をしているんだろう? 賢明で分別のあるセンダリアの少年がなんの用事があって、ここチェレクの果てしない森の中で、持ち慣れない二本の槍をお伴に獰猛な野豚の突撃を待っているのだろう? 豚がぼくに何をしたというのか? 豚肉の味が特に好きですらないことにガリオンは思いあたった。
一行のソリが通りすぎた踏みならされた道からかなり離れていたガリオンは、樫の木のもとへ引き返してふるえながら待った。
その音をどのくらい前から聞いていたのかわからないが、かれはにわかにはっきりとそれに気づいた。予期していたようなイノシシが足を踏みならし、きいきいと鳴きながら突っこんでくる物音ではなく、数頭の馬が森の雪のじゅうたんの上をゆっくり規則正しくやってくる音だった。それは背後から近づいてきた。ガリオンはそろそろと木の陰から顔を出した。
毛皮にくるまった三人の騎手が、雪の蹴ちらされたソリの通り道の向こう側の森からあらわれた。一行は手綱をひき、馬上からようすをうかがった。二人はひげのある戦士だが、アンヘグ王の宮殿で見た大勢の戦士たちとは少し感じがちがっていた。三人めは亜麻色の髪を長くのばし、ひげはなかった。中年のくせに、甘やかされた子供のようなふくれっ面をして、あとの二人が腹の立つことでもしたかのように尊大な態度で馬にまたがっている。
しばらくすると、もう一頭馬のひづめの音が森のはしの付近から聞こえてきた。息を殺してガリオンは成りゆきを見守った。四人めの騎手は、木立の途切れた雪の中で馬にまたがっている二人にゆっくり近づいた。二日前の夜アンヘグ王の宮殿の通路を忍び足でうろついていたあの緑のマントに砂色のひげの男だった。
「閣下」緑のマントの男は他の三人に合流するとやうやしく言った。
「どこへ行っていた?」亜麻色の髪の男が問いただした。
「バラク卿はけさ客たちを連れてイノシシ狩りに出かけました。かれの通り道がわたしと同じでしたので、あまりすぐあとからついてくるわけにいかなかったのです」
貴族は不機嫌にぶつぶつ言った。「かれらなら森のもっと奥にいる。さて、何を聞きだした?」
「ほんの少々でございまして、閣下。王たちは見張り付きの部屋で例の老人と女とともに会合を開いています。話の内容を聞きとるところまで近よれないのです」
「良質の金貨をたっぷりはずんでいるのだぞ。連中が何を話しているのか知らねばならん。宮殿へ戻って、話を盗み聞きする方法を見つけだせ」
「やってみます、閣下」緑のマントの男はやや固苦しく頭をさげた。
「やってみるだけではすまぬぞ」亜麻色の髪の男はかみつくように言った。
「仰せのとおりに、閣下」男はそう言うと、馬の向きを変えようとした。
「待て」貴族は命令口調で言った。「われわれの友人とは会えたのか?」
「あなたの[#「あなたの」に傍点]ご友人です、閣下」男は嫌悪をこめて訂正した。「会いました。居酒屋へ行き、少し話をしました」
「かれはなんと言った?」
「あまり役に立つことはなにも。連中はめったなことは教えてくれません」
「約束どおりわれわれと会うだろうか?」
「そう言っていました。やつを信じたいなら、それは閣下のご自由ですよ」
貴族はそれを無視した。「センダーの王とともに到着したのは何者だ?」
「例の老人と女、もうひとりの老人――センダリアの貴族かなにかでしょう。バラク卿とイタチ顔のドラスニア人、それからセンダー人がもうひとり――平民です」
「それだけか? 少年もひとりいたのではないか?」
スパイは肩をすくめた。「あの子供が重要だとは思いませんでした」
「すると子供はあそこにいるのだな――宮殿に?」
「そうです、閣下――十四ぐらいのどこにでもいるセンダリアの子供ですよ。女の小姓かなにかのようです」
「よかろう。宮殿へ戻り、その部屋にもっと接近して王たちと老人の会話を聞きとるのだ」
「それは大変危険かと思いますが、閣下」
「やらなければ、もっと危険なことになるぞ。さあ、行け。あのサルのバラクが帰ってきてここをうろついているおまえを見つけぬうちにな」貴族はすばやく馬首をめぐらすと、二人の戦士をしたがえて、暗い木立をぬって通る雪の道の向こう側の森に再び姿を消した。
緑のマントの男はしばらくむっつりとそれを見送っていたが、やがて同様に馬の向きを変え、きた道を戻っていった。
木のうしろでかがみこんでいたガリオンは背筋をのばした。槍の柄をきつく握りしめていたせいで、手が痛かった。ただならぬことだった。だれかにこのことを話さなくてはならない。
そうこうするうち、雪深い森の少し奥で狩りの角笛の音と、剣を楯にうちつける金属的でリズミカルな響きが聞こえてきた。森中の獣たちを駆りたてながら猟師たちがやってくるのだ。
茂みで枝の折れる音がして、大きな雄ジカが視界にとびこんできた。恐怖に目を大きく見開き、枝角が頭の上で張り開いている。雄ジカは大きく三歩はねて見えなくなった。ガリオンは興奮に身をふるわせた。
次にけたたましい声をたてて雌豚が獣道を突進してきて、そのあとから子豚が六匹ころがるようにあらわれた。ガリオンは木蔭にはいって、かれらを通してやった。
つづいて聞こえた鳴き声はもっと低くて、恐怖というより荒々しい怒りの響きを持っていた。イノシシだ――おい茂った灌木からその獣がとびだしてくるまでもなくそれがわかった。イノシシが姿を見せたとき、ガリオンは心臓がちぢむ思いがした。それは眠たげな肥えた食用豚ではなく、獰猛な猛り狂った獣だった。ぞっとするような黄色い牙が広がった鼻の両脇から突き出し、小枝や木の皮がいっぱいくっついている。通り道にあるものを片っ端からイノシシがめった切りにした証拠だ――木でも、茂みでも、道をどかない愚かなセンダリアの少年でも。
そのとき奇妙なことが起きた。ずっと前にランドリグと喧嘩したときや、ミュロスの暗い通りでブリルの雇い人たちと格闘したときのように、ガリオンは血が沸きたってくるのを感じ、耳の奥が鳴り響きはじめた。挑むような叫びを聞いたような気がしたが、それが自分ののどから出た声だとはほとんど信じられなかった。突然気がつくと、ガリオンは獣道のまん中に進みでて槍を手に身をかがめ、大きな獣に狙いをつけていた。
イノシシは突進してきた。目を充血させ、口からあぶくを出して、怒りにみちた低い声をのどから発しながら、待ちうけるガリオンめがけてとびかかった。船のへさきからわきたつ泡のように、粉雪がひづめに蹴ちらされて舞いあがった。森の地面にまで射しこんでいたひとすじの日光に雪の結晶がきらめいて、宙に停止しているように見えた。
イノシシが槍にぶつかった衝撃は恐るべきものだったが、ガリオンの狙いは正確だった。幅広の槍の先が硬い毛におおわれた胸を貫き、イノシシの牙からしたたる白いあぶくが突然血のあわに変わった。衝撃でガリオンは押し戻され、倒れそうになるのを感じた。と、槍の柄が乾いた枝のようにポキリと折れて、イノシシがのしかかってきた。
牙の最初のひとかきがガリオンの腹をひっかき、風がひゅうっと肺からふきでたような気がした。喘ぐようにころがって逃げようとしたとき、ふたつきめがかれの尻をとらえた。鎖かたびらが牙をかわし、怪我はしないですんだものの、気絶しかねないほどの攻撃だった。三度めは背中を突かれ、ガリオンは宙にとばされて木に衝突した。硬い幹に頭をうちつけた瞬間、目の中にちかちかする光が充満した。
そのときバラクがうなり声をあげて雪の中を突進してきた――だが、どういうわけかそれはバラクではないようだった。ガリオンは頭をぶつけたショックで朦朧《もうろう》としている目で、本当ではありえないものをぼんやりと見つめた。それはバラクだった。疑いの余地はなかった。にもかかわらず、それはほかの何かでもあった。妙なことに、まるでバラクと同じ肉体に住んでいるかのように、そこにはとてつもなく大きな恐ろしい熊がいるのだった。二つの姿がだぶりながら雪の中でぶつかりあい、思考が同じなら占める空間も同一であるかのようにまったく同じ動きをした。
太い腕が致命傷を負ってのたうちまわっているイノシシをつかみ、押しつぶした。イノシシの口から鮮血がどくどく流れると、バラクであってバラクでない毛むくじゃらの半人半獣は、瀕死の豚を持ちあげ、残忍に地面にたたきつけた。人間と獣のできそこないがその恐ろしい顔をあげて大地をゆるがす勝利の咆哮をあげたとき、ガリオンは目の前が暗くなって、灰色の無意識の井戸の中へ落ちていった。
ソリの中で我に帰るまで、どのくらいの時間が経過したのか知るよしもなかった。シルクがかれの首のうしろに雪をくるんだ布をあてがっており、かれらは自く光る野原を横ぎってヴァル・アローンへ向かっていた。
「生きる決心をしたとみえるな」シルクがにやりと笑いかけた。
「バラクはどこ?」ガリオンは頼りない声で問いかけた。
「うしろのソリだ」シルクはちらりとふり返って言った。
「かれ――大丈夫?」
「バラクがどうしたっていうんだい?」
「つまり――ちゃんとバラクらしくみえる?」
「わたしにはそうみえるがね」シルクは肩をすくめた。「口をきくな、じっとしてろ。きみはあのイノシシにあばら骨を折られるところだったんだぞ」かれはガリオンの胸に両手をおいてやさしくおさえた。
「ぼくのイノシシは? どこにあるの?」ガリオンは弱々しくたずねた。
「猟師たちが運んでいる。きみは勝利の入城をするんだ。もっとも、言わせてもらうと、積極的臆病さの美点をもうちょっと考慮したほうがいいな。きみのその本能にまかせていたら、寿命をちぢめることになりかねない」
だがガリオンはシルクがそう言ったときには、再び気を失っていた。
次に目がさめると、かれらは宮殿にいて、バラクがかれを運んでおり、ポルおばさんが血だらけの服を見て青ざめていた。
「ガリオンの血じゃないよ」バラクはすかさずおばさんを安心させた。「かれはイノシシを槍でしとめたんだ。戦っているあいだにイノシシの血を浴びたのさ。この子はなんともないと思う――頭をちょっと打っただけだ」
「連れてきて」ポルおばさんは短く言うと、先に立って階段をのぼり、ガリオンの部屋にはいった。
しばらくのち、頭と胸に包帯をまかれ、ポルおばさん特製のまずい一杯のせんじ薬を飲んでぼうっとしたまま、ガリオンはベッドに横たわって、バラクに食ってかかるおばさんの非難に耳を傾けていた。「あなたって人は図体ばかり大きくて頭はからっぽなの」おばさんはいきまいた。「自分がどんなにばかなことをしでかしたか、わかっていて?」
「あの若者はとても勇敢なんだよ」バラクの声は低く、憂欝そうに沈んでいた。
「そんなことはどうでもいいわ」ポルおばさんはぴしゃりと言った。それから攻撃をやめ、「どうしたの?」と問いつめると、急に手を伸ばして大男の頭を両手ではさんだ。かれの目をしばらくのぞきこんだあと、おばさんはゆっくりと手をはなした。「まあ」と低くつぶやいた。
「とうとうあれが起きたのね」
「どうしようもなかったんだ、ポルガラ」バラクはうちひしがれて言った。
「今によくなるわ」彼女はうなだれたバラクの頭にやさしく手をやった。
「二度とよくなりはしない」
「少しお眠りなさい。朝になれば気も楽になってよ」
大男は背を向けてひっそり部屋を出ていった。
ガリオンは二人の話が、バラクがイノシシからかれを救ってくれたときに見たあの不思議なもののことだと知って、ポルおばさんにたずねてみたかった。しかし、おばさんがくれた苦い薬が深い夢のない眠りへかれをひきずりこみ、質問はできずじまいだった。
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16[#「16」は縦中横]
翌日は身体がすっかりこわばってずきずきと痛み、ベッドから出るどころではなかった。しかし、次々と見舞客がやってきた。おかげで、ガリオンは痛みや苦痛をまぎらすことができた。贅沢な服をまとったアローンの王たちはそれぞれガリオンの勇気をほめちぎって、かれをうれしがらせた。ついで訪れた王妃たちはガリオンの怪我をめぐって大騒ぎし、心のこもった同情をよせたり、かれの額をやさしくなでたりした。称賛と同情、それに、自分は注目の的であるという確かな感触にガリオンは有頂天だった。
その日最後の見舞客はミスター・ウルフだった。雪の降るヴァル・アローンの街に夕闇がしのびよるころやってきた老人は、いつものチュニックの上にマントをはおり、今まで外にいたかのように頭巾をかぶっていた。
「ぼくのイノシシを見た、ミスター・ウルフ?」ガリオンは鼻高々で言った。
「みごとな獣だ」とウルフは言ったが、その言いかたはあまり熱がこもっていなかった。「しかし、イノシシに槍を突きたてたらすぐに道をどくのが習慣だということを、だれにも教わらなかったのかね?」
「本当のことをいうと、そのことは考えなかったんだ」ガリオンはすなおに言った。「でも道をどいたりしたら――あの――臆病に思われないかな?」
「イノシシにどう思われるかがそんなに気になったのか?」
「だって」ガリオンは言葉につまった。「そういうわけじゃないけど」
「いくら若いとはいえ、その無分別ぶりは相当なものだな」とウルフは言った。「おまえは一晩でその見解に達したようだが、ふつうそこへたどりつくまでには何年もかかるんだぞ」かれはそばに坐っているポルおばさんに向き直った。「ポルガラ、ガリオンの身体にアレンド人の血が一滴も混じっていないのは絶対たしかなのか? 近頃のこの子のふるまいはアレンド人そのものだぞ。はじめは揺れ木馬かなんかにまたがるように大渦巻に乗り、お次はあばら骨でイノシシの牙をへし折ろうとしている。おまえ、ガリオンが赤ん坊のときに、頭から落としたんじゃあるまいな?」
ポルおばさんはほほえんだが、何も言わなかった。
「早くよくなるといいな、ぼうや、わしの言ったことをよく考えてみてごらん」
ガリオンはミスター・ウルフの言葉にすっかり気を悪くして、仏頂面をした。我慢しようとしたが、涙がこみあげてきた。
「寄ってくださってありがとう、おとうさん」ポルおばさんが言った。
「おまえを訪ねるのはいつだって楽しいよ、娘や」ウルフはそう言って静かに立ちさった。
「どうしてミスター・ウルフはぼくにあんなことを言ったんだろう?」ガリオンは洟をかみながらいきなり言った。「かれはすべてをだいなしにして出ていったんだ」
「だいなしにしたって、なにを?」
「なにもかもだ」ガリオンは不満をもらした。「王たちはそろってぼくのことをとても勇敢だと言ってくれたのに」
「王はそういうことを言うものなのよ」ポルおばさんは言った。「わたしがあなたなら、たいして気にもとめないでおくわ」
「ぼくは勇敢だったんだ、でしょう?」
「きっとそうだったんでしょうね。イノシシもさぞ感心したことでしょう」
「おばさんもミスター・ウルフに劣らずひどいよ」ガリオンは非難した。
「ええ、おそらくそうでしょうよ。でもそれはごく当然のことなの。さ、夕食は何がいい?」
「食べたくない」ガリオンは反抗的に言った。
「そう? それじゃ強壮剤が必要かもしれないわね。ひとつ作ってあげましょう」
「気が変わったよ」ガリオンはあわてて言った。
「そうだろうと思ったわ」ポルおばさんはそう言ったあと何の説明もせずに、いきなり両腕にガリオンを抱きしめ、長いことじっとしていた。「これから先、あなたをどうすればよいのかしら?」ようやくおばさんは言った。
「ぼくなら大丈夫だよ、ポルおばさん」ガリオンは彼女を元気づけた。
「今度は大丈夫だったかもしれないけれど」ポルおばさんは両手でかれの顔をはさんだ。「勇敢だというのはすばらしいことよ、ガリオン、でもたまには、まず立ちどまって考えるようにしてちょうだい、約束して」
「いいよ、ポルおばさん」事のなりゆきにちょっととまどいながらかれは言った。おばさんが今でも心からかれのことを気にかけているようにふるまうのは、かなり奇妙だった。血はつながっていなくても、かれらのあいだにはまだ絆があるのかもしれないという考えがガリオンの心に芽ばえた。もちろん昔と同じではないが、少なくともこれは大きな変化だった。ふさいでいたガリオンの気分がちょっと明るくなった。
翌日は起きあがることができた。筋肉はまだちょっと痛んだし、肋骨はさわるとずきんとしたが、若いガリオンはみるみる回復した。朝の九時ごろ、ダーニクとともにアンヘグの宮殿の大広間に坐っていると、銀色のひげをたくわえたセリネ伯爵が近づいてきた。
「善人ダーニク、われわれと一緒に会議室においで願えまいかとフルラク王が言っておられますよ」伯爵はていねいに言った。
「わたしがですか、閣下?」ダーニクは信じられぬ面持ちで問い返した。
「陛下はあなたの感受性に大変感心しておられるのです」老紳士は言つた。「センダリアの実用主義のもっとも良い典型だと感じておいでだ。われわれが直面していることは、西の諸王ばかりでなく、すべての人間に関係があるのですよ。したがって、堅実で確かな常識がわれわれの会議に加わるのは願ってもないことなのです」
「すぐ行きます、閣下」ダーニクはいそいで立ちあがった。「ですが、わたしがろくに発言しなくても大目に見ていただかなければ」
ガリオンは期待をこめて待った。
「きみの冒険についてはわれわれ全員が話を聞いたよ」セリネ伯爵は楽しそうにガリオンに話しかけた。「ああ、もう一度若くなりたいものだ」かれは溜息をついた。「くるかね、ダーニク?」
「ただいま、閣下」そして二人は大広間を出て会議室へ向かっていった。
ガリオンは疎外されて傷つきながら、ひとりで坐っていた。自尊心の強い年頃だったので、仲間に入れてもらえなかったのは自分が軽視されている証拠だと心の中で思い悩んだ。傷つき、腹を立てて、ガリオンはふてくされたまま大広間を出、厨房のはずれの冷蔵所に氷詰めにしてつるしてあるかれのイノシシを見に行った。少なくともイノシシは彼を軽視したりしなかったからだ。
とはいうものの、死んだイノシシを相手に長々と楽しい時間を過ごせるものでもない。生きて突進してきたときにくらべると、それはどことなく小さく感じられ、おそろしげだった牙も、ガリオンの記憶の中にあるほど長くもなく、鋭くもなかった。おまけに冷蔵所の中は寒くて、さわると痛む筋肉がたちまちこわばってしまった。
バラクを訪ねようとしてもむだだった。赤ひげの男はすっかりふさぎこんで、自分の部屋に閉じこもっており、妻にすらドアをあけようとしなかったからだ。そんなわけで、ガリオンはひとりぼっちでしばらく歩きまわったあと、使われていないすすけた部屋や暗い曲がりくねった廊下のあるこの広大な宮殿を探検してみるのも悪くないと考えた。何時間にも思えるあいだ歩きまわって、いくつものドアをあけたり、廊下をたどったりした。ときにはその廊下が突然何もない石の壁につきあたることもあった。
アンヘグの宮殿はとてつもなくだだっぴろく、バラクが説明していたように、建てられてから三千余年の歳月を経ていた。ある南翼は完全に見捨てられて、何世紀も昔に屋根が丸ごと落ちていた。ガリオンは崩れ落ちた二階の廊下をしばらくさまよい、うず高く雪のつもった古びたベッドや腰かけ、そこらじゅうにネズミやリスの小さな足跡が残る部屋をのぞきこんで、はかない運命や移ろいやすい栄華を思い、陰欝な気分に満たされた。やがて屋根のぬけた廊下へ出た。そこには別の足跡がついていた。人間の足跡だ。それは真新しかった。前夜は大雪だったのに、そこだけ雪がつもっていない。最初は自分の足跡で、さっき探検した廊下へひとまわりして戻ってしまったのではないかと思ったが、それはガリオンの足跡よりずっと大きかった。
むろん考えられる解釈はいくらでもあったが、かれは心臓の鼓動が早まるのをおぼえた。緑マントの例の男はまだ宮殿をうろついているし、マーゴ人アシャラクはヴァル・アローンのどこかにいる。そして、亜麻色の髪の貴族は明らかによからぬ目的で森のどこかにひそんでいるのだ。
この状況が危険であるかもしれないことや、小さな短剣以外自分にはなんの武器もないことにガリオンは思いあたった。今しがたのぞいた雪のふりしきる部屋に急いでとってかえし、何年も忘れられたまま釘にかかっている錆ついた剣をつかんだ。それから、いくらか心強い気分で、物言わぬ足跡の追跡をはじめた。
未知の侵入者の通り道がその屋根なしの、さびれて久しい廊下にあるかぎり、追跡は簡単だった。踏み荒らされていない雪が大いに助けになったからだ。だが、いったん足跡が落下してばらばらになった屋根の山や、まだちゃんと屋根の残った真っ暗な埃だらけの廊下にはいると、ことはいささか困難になった。床の埃は手がかりを与えてくれたが、何度もしゃがんだり、かがみこんだりしなくてはならず、肋骨と脚が完治していないガリオンは、石の床を調べようと身をかがめるたびに顔をしかめ、呻き声をもらした。まもなくかれは汗だくになり歯をくいしばりながら一切をあきらめようかと考えはじめた。
そのとき、前方の廊下の向こうでかすかな物音が聞こえた。ガリオンは身をちぢめて壁にへばりつくと、背後から射す光が自分の姿を浮きあがらせないよう祈った。はるか前方で、ひとつきりの小窓からもれる青白い光の中を人影が忍び足で横ぎった。一瞬緑色がちらりと目にはいり、かれは侵入者の正体をついにつきとめた。ガリオンは壁から離れないようにして、片手に錆びた剣をきつく握りしめ、柔らかい革靴をはいた足で猫のようにひそやかに前進した。もしも、びっくりするほど近くでセリネ伯爵の声がしなかったら、おそらく追跡中の男めがけてまっすぐ向かっていっただろう。
「昔の予言の条件がすべて満たされぬうちにわれわれの敵が目をさます見込みは果たしてあるのですかな、ベルガラスどの?」伯爵はたずねていた。
ガリオンは立ちどまった。まっすぐ前方の廊下の壁に設けられた狭い斜問《はすま》にかすかな動きが見えた。緑のマントの男はその暗がりに身をひそめて、下方のどこからか聞こえてくるらしい言葉に耳を傾けていた。ガリオンは息をこらして壁に身をよせた。次に、用心深くあとずさり、別の斜間を見つけると、安全な暗闇にひっこんだ。
アルガリアのチョ・ハグ王の静かな声が言った。「非常に適切な質問だ。ベルガラスどの、この〈裏切者〉は〈呪われた者〉の復活のために、今手中にあるその力を使えるのだろうか?」
「力を手中にしてはいるが」と聞きなれたミスター・ウルフの声が言った。「やつはそれを使うのを恐れるかもしれん。正しく使わなければ、逆にその力に殺されてしまうからな。急いでそういう行動をとることはせずに、慎重に考慮したあとで試そうとするだろう。そのためらいがわれわれにとってはわずかな時間的余裕になるのだ」
するとシルクが言った。「やつがそれを自分のものにしたがるかもしれないと言いませんでしたか? ことによると、やつは静かにまどろんでいる〈マスター〉をそのままにしておいて、盗んだ力を利用してアンガラク人の国王になりあがろうと計画しているのかもしれない」
ドラスニアのローダー王がくすりと笑った。「グロリムの坊主がアンガラクの国にあるかれらの力をそうあっさり手ばなして、よそ者に屈服するとはどうも思えんね。グロリムの高僧自身は並みの魔術師ではないそうじゃないか」
「お言葉だがね、ローダー」とアンヘグ王が言った。「しかしその盗っ人が例の力を握っているなら、グロリムだとてそいつの支配を受け入れるしかなかろうよ。わたしは例のものの威力を調べてみたが、もしわたしが読んだことの半分でも真実なら、そいつはあんたが蟻塚を蹴散らすような具合に、やすやすとラク・クトルを滅ぼすだろう。そして、もしかれらが抵抗したなら、ラク・ゴスカからトルネドラの国境までクトル・マーゴスを根絶やしにできるんだ。しかしその力を最終的にふるうのが〈裏切者〉だろうと〈呪われた者〉だろうと、アンガラク人はそれに従って西へくるだろう」
「だとしたら、アレンド人やトルネドラ人、そしてウルゴ人にも何が起きたか知らせるべきではないか?」と〈リヴァの番人〉ブランドが訊いた。「ふいうちは二度とされたくない」
「急いでいるといっても、南の隣人に注意を与える暇もないほどではない」ミスター・ウルフが言った。「ここを発ったら、ポルとわたしは南へ向かうよ。アレンディアとトルネドラが戦いにそなえて兵を集めているなら、一般大衆が騒いでもわれわれの足をひっぱるだけだ。皇帝の軍団は勇士ぞろいだから、必要とあらば即座に反応できるだろし、アレンド人は常日頃から戦争準備をしている。なにしろ王国全体が四六時中戦争に突入しかねない状況だからな」
「今さわぎたてるのは時期尚早だわ」ポルおばさんのおなじみの声が同意した。「軍隊はわたしたちがやろうとしていることを邪魔するだけよ。わたしたちが父の昔の弟子をつかまえて、かれが盗みだしたものをリヴァに返却できれば、危機はすぎるわ。南の人々をむだにあおるのはよしましょう」
「そのとおりだ」ウルフが言った。「動員には危険がつきものだよ。軍隊を持てあましている王は迷惑なことをしばしば思いつくものだ。ボー・ミンブルのアレンド人の王やトル・ホネスの皇帝にはわしが通過がてらにかれらが知る必要のあることだけを忠告しておこう。しかしウルゴのゴリムには話したほうがよいな。チョ・ハグ、こんな季節だが、プロルグまで使者を送れると思うかね?」
「むずかしいですな、長老」チョ・ハグは言った。「あの山中の道は冬のあいだはなかなか歩けないのですよ。でもやってみましょう」
「よしと。われわれにできるのはそのくらいだ。さしあたりこの問題は、いわば内輪にとどめておいたほうがよかろう。最悪の事態になって、アンガラク人が再び侵入してきても、少なくともアロリアは武装して戦いにそなえられるはずだ。アレンディアと帝国が準備をする時間はある」
するとフルラク王が不安な声で言った。「アローンの王たちが戦争の話をするのは雑作ない。アローン人は戦士だ。しかし、わがセンダリアは平和な王国だ。われわれは城も要塞も持っていないし、国民は農夫と商人なんだ。ボー・ミンブルを戦場に選んだとき、カル=トラクは過ちを犯したんだよ。アンガラク人が再び同じ過ちをくりかえすことはありそうもない。かれらは北部アルガリアの草原地帯を横断して、直接センダリアを攻撃するだろう。食料は豊富だが、ほとんど兵隊のいないわが国は、西部で戦争を開始する理想的な基地になるだろうし、われわれはあっけなく、降伏してしまうのではないかと心配なんだ」
すると、ガリオンが驚いたことに、ダーニクが口を開いた。「センダリアの人々をそんなにみくびらないでください。王さま」ダーニクはきっぱりと言った。「わたしは隣人たちを知っていますが、かれらは戦いますよ、剣や槍についてはあまりよく知りませんが、われわれは戦います。たとえアンガラク人がセンダリアに攻めこんでも、想像したほど簡単にはいきますまい。畑や蔵に火をつけてしまえば、かれらが食べるものも乏しくなりましょう」
長い沈黙があった。やがてフルラクが妙にへりくだった口調で再び言った。「きみの言葉に自分が恥ずかしくなったよ。善人ダーニク。わたしは国王を長くやりすぎて、センダー人であることの意味を忘れてしまったようだ」
「東の断崖を通ってセンダリアへいたる道はたしか数えるほどしかないはずです」とチョ・ハグ王の息子ヘターが静かに言った。「ここぞと思う数ヵ所で崖くずれが起きれば、センダリアへ攻めこむのは月へ行くにも等しいむずかしさになります。崖くずれがタイミングよく起きれば、アンガラクの全軍はあの細い山道に閉じこめられてしまうでしょう」
「ふむ、そいつはおもしろい考えだ」シルクが愉快そうに笑った。「それならわれわれもダーニクの穏やかならぬ衝動を、カブ畑を焼き払うよりもっと有益なことに向けさせることができる。〈片目〉のトラクはいけにえの焼ける匂いがことのほかお気に召しているらしいから、その要望にこたえてやることもできるな」
身をひそめている埃だらけの廊下のずっと先で、ふいに松明がゆらめき、いくつもの鎖かたびらがじゃらじゃらと鳴る音がした。ガリオンは最後の瞬間まであやうく危険に気づかぬところだった。緑のマントの男もまたその物音を聞き、松明の明かりを見た。男は隠れ場所から出て、あわててきた道をひき返した――ガリオンのひそんでいる斜間のまん前を通りすぎた。ガリオンは身をちぢめて錆ついた剣を握りしめた。だが運よく男はちらちらする松明をふり返って見ながら、忍び足で彼の前を走りぬけた。
男が通過するとすぐにガリオンもそこを出て逃げだした。チェレクの戦士たちが侵入者をさがしていた。真っ暗な廊下で何をしていたのか説明するのはむずかしいだろう。またスパイのあとをつけようかと考えたものの、かれは一日の収穫としてはこれでじゅうぶんだとすぐに思い直した。見たことをだれかに言うときだった。だれかに話さなければならない――王たちが耳を傾けそうなだれかに。宮殿の人通りの多い廊下にいったんたどりつくと、ガリオンはバラクがうつうつとした思いに沈んでいる部屋へ断固たる足どりで向かっていった。
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17[#「17」は縦中横]
「バラク」数分間ドアをたたいたあと、応答のない部屋に向かってガリオンは呼びかけた。
「あっちへ行ってくれ」ドアの向こうから不明瞭なバラクの声がした。
「バラク、ぼくだよ、ガリオンだよ。話さなけりゃならないことがあるんだ」
部屋は長いこと静まりかえっていたが、ようやくのろのろと人の動く気配がして、ドアが開いた。
バラクはぎょっとするような姿をしていた。長い上着はしわだらけでしみがついていた。赤ひげはぼうぼうだし、ふだんなら編んである髪はざんばらでもつれていた。しかしもっともひどいのは、放心したようなその目つきだった。恐怖と自己嫌悪のいりまじったあまりにもむきだしの表情に、ガリオンは思わず目をそむけた。
「あれを見たんだろう?」バラクは問いつめた。「あそこでおれに何が起きたか見たんだな」
「本当のところ、何も見なかったよ」ガリオンは注意深く言った。「あの木に頭をぶつけたせいで、見たのは星だけだったんだ」
「きっと見たにちがいない」バラクはなおも言いつのった。「おれの宿命をおまえは見たはずだ」
「宿命? 何を言ってるの? バラクはまだ生きてるじゃないか」
「宿命というのは必ずしも死のことじゃない」バラクはむっつりと言って、大きな椅子にどさりと坐りこんだ。「いっそ、そうならいいと思うよ。たまたま身にふりかかるよう定められている恐るべきこと、そいつが宿命なんだ。死のほうがよほどましさ」
「あの頭のおかしい盲目のおばあさんの言葉にまどわされているだけだよ」
「マルテだけじゃない。彼女はチェレクじゅうのみんなが知っていることをくりかえしているだけだ。おれが生まれたとき、ひとりの予言者が招かれた――ここの習慣なのさ。ほどんどの場合、予言者は何も教えないし、その子の一生のあいだ特別なことは何も起こらない。しかし、ときには未来がどっかりと横たわっていて、ほとんどだれの目にもその宿命が見えることがある」
「そんなのただの迷信だよ」ガリオンは嘲笑した。「確実なことを言える予言者なんて見たこともないや、たとえそれが明日は雨だというような簡単なことでもだよ。ファルドー農園へきたある予言者は、ダーニクに向かってあなたは二回死ぬと言ったんだ。ばかげてるでしょ?」
「チェレクの予言者や占い師の腕はもっとたしかなのさ」バラクの顔は依然として憂欝そうに沈んでいた。「かれらが見たおれの宿命はいつでも同じだった――おれが熊に変貌するんだ。何人もの予言者に同じことを言われた。そして今それが起きたんだ。きょうで二日間、おれはここに坐って見守っていた。身体の毛がだんだん長くなって、歯がしだいにとがってきた」
「気のせいだよ」ガリオンは言った。「ぼくにはいつもとまったく同じに見えるよ」
「おまえはやさしいな、ガリオン。おれを安心させようとしているのはわかっているんだ。しかしおれには目がちゃんとあるんだ。たしかに歯はとがりはじめているし、身体は毛深くなってきている。遠からずアンヘグはおれがだれも傷つけられないように、おれを牢屋へつなぐだろうよ。そうでもしないと、おれは山へ逃げこんでトロールたちと一緒に暮らすしかない」
「ばかげてるよ」ガリオンは主張した。
「この前の日、何を見たか言ってくれ」バラクは拝むように言った。「獣になったときのおれはどんなふうに見えた?」
「頭をあの木にぶつけて星が見えただけだったら」本当らしく聞こえるようにガリオンはくりかえした。
「おれはただ自分がどういう獣に変わるのか知りたいだけなんだ」バラクの声は自己憐憫にくぐもっていた。「狼なのか、熊なのか、それとも名前すらない化物なのか」
「何が起きたかなんにもおぼえていないの?」バラクと熊がだぶって見えた異様な姿を記憶の中から消そうとしながら、ガリオンは用心深くたずねた。
「なんにも」バラクは言った。「おまえが叫ぶのが聞こえて、そのあとおぼえているのはおれの足元でイノシシが死んでいて、おまえがイノシシの血を全身に浴びて木の下に倒れていたことだけだ。だが獣がおれの中にいるのはわかった。匂いさえ嗅げた」
「それはイノシシの匂いだよ。興奮のせいで頭に血がのぼっただけのことさ」
「取り乱したっていうのか?」バラクは期待をこめて顔を上げたが、やがて首をふった。「ちがうな、ガリオン。取り乱したことなら前にもあるが、そんな感じじゃなかった。全然ちがっていた」かれは溜息をついた。
「獣になったりしないったら」ガリオンは言い張った。
「自分が何を知っているかわかっているんだ」バラクは頑固だった。
そのときあけっぱなしになっていたドアから、バラクの妻のメレル夫人がはいってきた。
「閣下はこ気分がよくおなりあそばしたようですわね」彼女は言った。
「ほっといてくれ、メレル。おまえの嫌味につきあっている気分じゃないんだ」
「嫌味ですって、閣下?」メレル夫人はなにくわぬ顔で言った。「わたくしはただ、自分の義務に関心があるだけですわ。閣下のご容体がすぐれないなら、お世話をせねば。それが妻の権利というものじゃございませんこと?」
「権利だの義務だのの心配はやめろ、メレル。いいから出ていっておれをひとりにしてくれ」
「ヴァル・アローンにお帰りあそばした夜、閣下はある権利にたいそうご執心でしたわね」彼女は言った。「寝室のドアに鍵をかけておいただけでは、閣下の執着を抑えきれませんでしたわよ」
「わかったよ」バラクはかすかに顔を赤らめた。「あれはおれが悪かった。おれたちの仲が少しは変化したかもしれんと期待していたんだ。だがそれはまちがいだった。二度と迷惑はかけん」
「迷惑? 義務は迷惑ではございません。良妻たるもの、夫がそれを求めればいつでもしたがわねばなりませんわ――ベッドへくる夫がいかに酔っぱらっていようと、乱暴であろうと。その点では、だれもふしだらなどとわたくしを責めることはできません」
「おまえ、楽しんでいるんだな?」バラクはとがめた。
「何をですの? 閣下?」なにげない声だったが、そこには痛烈な皮肉がこもっていた。
「どうしたいというんだ、メレル?」バラクはぶっきらぼうにたずねた。
「病気の閣下にお仕えしたいのですわ。閣下のお世話をし、病いの経過を見守りたいのです――逐一あらわれる症状を」
「そんなにおれが憎いのか?」バラクは激しい軽蔑をこめて訊いた。「注意するんだな、メレル。一緒にいろと強要する気になるかもしれんぞ。どんな気分だ? 猛り狂う獣と一緒にこの部屋に閉じこめられたいか?」
「手のつけられぬ状態におなりあそばしても、いつでもあなたを鎖で壁につながせることができましてよ、閣下」メレル夫人はそう言って、バラクの怒りに燃える目をひややかな無関心さで受けとめた。
「バラク」ガリオンはきまりわるそうに言った。「話さなくちゃならないことがあるんだ」
「あとだ、ガリオン」バラクはにべもなかった。
「重要なことなんだ。宮殿にスパイがいるんだよ」
「スパイ?」
「緑のマントの男だ。何度も見たんだ」
「緑のマントを着ている者は大勢いますわ」メレル夫人が言った。
「口出ししないでくれ、メレル」バラクはガリオンのほうを向いた。「どうしてそいつをスパイだと思うんだ?」
「けさまた見かけたので、あとをつけたんだ。だれも使っていないような廊下をこっそり歩いてた。王たちがミスター・ウルフやポルおばさんと会合を開いている広間の上を通っている廊下なんだ。そいつはかれらの話を一語ももらさず聞くことができたはずだよ」
「どうしてわかるの?」メリルが疑ぐり深そうに目を細めて訊いた。
「ぼくもそこにいたんだ」ガリオンは言った。「そいつからあまり遠くないところに隠れていたから、ぼくにもかれらの声が聞こえたんだ――まるで同じ部屋にいるみたいだったよ」
「どんな容貌のやつだ?」バラクがたずねた。
「髪は砂色で、ひげを生やしてて、先っきも言ったように、緑のマントを着ている。ぼくたちがバラクの船を見に行った日にも見かけたよ。マーゴ人と一緒に居酒屋にはいっていくところだった」
「ヴァル・アローンにマーゴ人はいませんよ」メレルが言った。
「ひとりいるんだよ。前にも見たことがある。そいつがだれだかぼくは知っているんだ」ガリオンはその話題を慎重に避けなくてはならなかった。黒マントの敵のことをしゃべらせまいとする力は例によって強力だった。それだけのことを口にしただけで、舌がしびれ、くちびるの感覚がなくなったように思えた。
「だれなんだ、それは?」バラクは問いつめた。
ガリオンはその問いを無視した。「次はイノシシ狩りの日に森でそいつを見た」
「マーゴ人をか?」
「ううん。緑のマントの男だ。他の連中とそこで落ちあったんだ。ぼくがイノシシのあらわれるのを待っていた場所からちょっと離れたところで、みんなでしばらく話をしていた。ぼくは見つからずにすんだんだ」
「べつに疑わしいことじゃないな」バラクは言った。「だれだって気に入った場所で友だちと会う」
「正確には友だちじゃなさそうだったよ。緑のマントの男は相手のひとりを閣下≠ニ呼んでたし、そいつはミスター・ウルフや王たちの話が聞きとれるところまで接近しろと命令していたもの」
「そいつは穏やかじゃない」バラクは憂欝な気分を忘れたようだった。「ほかに何か言ってたか?」
「亜麻色の髪の男はぼくたちのことを知りたがっていた。バラクやぼくや、ダーニク、シルク――みんなのことを」
「亜麻色の髪ですって?」メレルがすばやく問いかえした。
「閣下≠ニ呼ばれていた男だよ」ガリオンは説明した。「ぼくたちのことを知っているようすだった。ぼくのことまで知っていた」
「長くて、色の薄い髪?」メレルが訊いた。「ひげはなし? バラクより少し小柄で?」
「あいつであるはずはない」バラクは言った。「さからえば死刑にするという条件でアンヘグが追放したんだぞ」
「あなたは甘いのよ、バラク」メレルは言った。「自分に都合がよければ、そんなものは無視する男ですわ。このことはアンヘグに話したほうがいいと思います」
「かれを知ってるの?」ガリオンは訊いた。「バラクのことあまりよく言っていなかったよ」
「想像がつくわ」メレルは皮肉っぽく言った。「バラクはかれの首をはねるべきだと言った人たちのひとりだったのよ」
バラクは早くも鎖かたびらに袖を通していた。
「髪をなでつけたほうがよろしいわ」不思議にもメレルの声からさっきまでのとげとげしさが消えていた。「干草の束のようよ」
「今は髪などいじっている暇はない」バラクはいらいらと言った。「一緒にくるんだ、二人とも。すぐアンヘグのところへ行こう」
ガリオンもメレルも走らんばかりにしてバラクに追いつかねばならなかったので、それ以上質問をする余裕はなかった。三人はとぶように大広間を突っきり、あっけにとられた戦士たちはバラクの顔を見るとあわてて道をあけた。
「バラク閣下」会議室のドアをかためている見張りのひとりが大男に挨拶した。
「どけ」バラクは命令すると、ばたんとドアをあけた。
アンヘグは突然の侵入に驚いて顔をあげ、「よくきたな」と言いかけた。
「謀反だぞ、アンヘグ!」バラクは吠えるように言った。「ジャーヴィク伯爵が追放刑の掟を破って、こともあろうにあんたの宮殿にスパイを放ったんだ」
「ジャーヴィクが?」アンヘグは言った。「まさかそんなことは」
「どっこい、したんだよ」バラクは言った。「ヴァル・アローンからそう遠くないところで目撃されているし、計略の一部がこっちに聞かれている」
「何者なんだ、そのジャーヴィクとやらは?」〈リヴァの番人〉がたずねた。
「去年わたしが国外追放した伯爵だ」アンヘグは言った。「かれの家来を足止めしてみたら、伝言文を持っていた。それがセンダリアにいるマーゴ人に宛てたもので、われわれの極秘会議のもようがことこまかに書かれてあったのだ。ジャーヴィクは否定しようとしたが、手紙には彼自身の封印が押してあり、かれの金庫室にはクトル・マーゴスの鉱山産の純金がぎっしり詰まっていた。本当ならしばり首にするところだったが、かれの妻がわたしの血縁で、命乞いをしたので、西部沿岸のかれの所有地のひとつへ追放したのだよ」アンヘグはバラクを見てたずねた。「どうやってこのことをつきとめた? なんでもおまえは自分の部屋にひきこもって、だれとも口をきこうとしなかったそうじゃないか」
「夫の言葉は真実でございますわ、アンヘグ」メレル夫人が挑むような声で言った。
「かれを疑っているのではないよ、メレル」アンヘグはちょっと驚いた顔をして言った。「わたしはただ、バラクがどういう方法でジャーヴィクのことを知ったのか知りたかっただけだ」
「このセンダリアの少年がかれを見たのです」メレルは言った。「そしてかれがスパイと話しているのを聞いたのですわ。わたくしも少年の話を聞きました。ここにおいでのどなたかが夫を疑おうとするなら、わたくしは夫の言ったことを支持いたします」
「ガリオン?」ポルおばさんが驚いて声をかけた。
「われわれもその若者から話を聞いたらどうかね?」アルガリアのチョ・ハグが穏やかに言った。「マーゴ人と親交のある貴族がちょうどこの時期を選んで追放刑を破ったとすれば、われわれ全員にかかわることだ」
「メレルとおれに話したことを彼らにも話すんだ、ガリオン」バラクはガリオンを前に押しだして命じた。
「陛下」ガリオンはぎごちなく一礼した。「ぼくたちがこの宮殿にきてから、ぼくは何度も緑のマントの男がここに隠れているのを見たんです。その男は通路を忍び足で歩いて、見つからないようすごく苦心しています。ここへきた最初の夜にそいつを見ましたし、その次の日はそいつがひとりのマーゴ人と町の居酒屋にはいっていくのを見ました。チェレクにマーゴ人はいないとバラクは言っていますが、そいつの連れがマーゴ人だったのはたしかです」
「どうしてそれがわかる?」アンヘグは抜け目なく訊いた。
アシャラクの名が言えないガリオンは力なく王を見つめた。
「どうなんだ?」ローダー王が言った。
ガリオンは何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「もしかしたらそのマーゴ人を知っているんじゃないか?」シルクがほのめかした。
ガリオンは助け舟が出されたのにほっとしてうなずいた。
「きみを知っているマーゴ人の数はたかが知れているな」シルクは指で鼻をこすりながら言った。「それはわれわれがダリネで会ったやつか――そのあとミュロスでも会った? アシャラクという名のやつか?」
ガリオンはまたうなずいた。
「なぜおれたちに言わなかった?」バラクが訊いた。
「あの――言えなかったんだ」ガリオンはどもった。
「言えなかった?」
「言葉がどうしても出てこなかったんだ。なぜだかわからないけど、あいつのことになると口が開かなくなっちゃうんだよ」
「それじゃ前にもそいつを見たことがあったのか?」とシルク。
「うん」
「でもだれにも言わなかった?」
「そう」
シルクはすばやくポルおばさんを一瞥した。「これはわれわれよりあなたのほうがよく知っているたぐいのことかな、ポルガラ?」
彼女はゆっくりうなずいた。「そういうのは可能なことなのよ。あまりあてにならないから、わたし自身はやってみる気にもならないけれど、可能なことなの」表情が暗くなった。
「グロリムどもはそれをたいしたことだと思っているのだ」ミスター・ウルフが言った。「連中はすぐ感心するのさ」
「一緒にいらっしゃい、ガリオン」ポルおばさんは言った。
「まだだよ」ウルフが言った。
「これは重大なことなのよ」彼女の顔がけわしくなった。
「あとでもできる。それよりまずガリオンの残りの話を聞こうじゃないか。ダメージはもう受けてしまっているんだ。先を話してくれ、ガリオン。ほかに何を見た?」
ガリオンは大きく息を吸った。話す相手が王たちにかわって老人になったことに気が楽になってかれは再び話しはじめた。「みんなで狩りに出かけたあの日、また緑のマントの男を見たんだ。森の中で髪の黄色い、ひげのない男と会っていた。かれらはしばらく話をしていて、ぼくはその内容を聞くことができたんだ。黄色い髪の男は、ミスター・ウルフやみんながこの広間で何をしゃべっているか知りたがっていた」
「きみはただちにわたしに注進すべきだったのだ」アンヘグ王が言った。
「どっちにしても」ガリオンはつづけた。「ぼくはイノシシと戦って、頭を木にぶつけて気絶しちゃったから、けさになって自分の見たものを思いだしたんだ。ダーニクがフルラク王に呼ばれていったあと、ぼくは探検に出かけた。宮殿の屋根がすっかりくずれ落ちた場所で足跡を見つけたので、それをたどっていったら、しばらくたってからまた緑のマントの男を見たんだ。そのときなんだ、いろんなことを思いだしたのは。男をつけていくと、この広間のどこか上を通る廊下にはいっていった。そいつはそこに隠れて、みんなの話に耳を傾けていたよ」
「どのていど聞きとれたと思うね?」チョ・ハグ王がまたたずねた。
「みんなは〈裏切者〉というだれかの話をしていた」ガリオンは言った。「そして、長いこと眠っている敵の目をさますのに、その〈裏切者〉がある種の力を使えるかどうか考えていた。みんなのなかのだれかはアレンド人とトルネドラ人に警告すべきだと考えたけれど、ミスター・ウルフは反対した。そしてダーニクが、もしアンガラク人が攻めてきたら、センダリアの人人がどんなふうに戦うかを話した」
かれらはびっくりしたようだった。
「ぼくは緑のマントの男からあまり離れていないところに隠れていたんだ」ガリオンは言った。
「ぼくの聞けたことは残らず男も聞けたはずだよ。そのうち兵隊が数人やってきたので、男は逃げていった。そのときなんだよ、ぼくが一切をバラクに話そうと決心したのは」
「その上だな」シルクが壁のひとつの近くに立って、広間の天井の一角を指さした。「漆喰がはげ落ちている。われわれの声は石と石の割れめから上の廊下へ筒抜けなんだ」
「あなたの連れてきたこの少年は掘出し物ですな、レディ・ポルガラ」ローダー王がしかつめらしく言った。「かれが仕事を捜しているのなら、わたしが職を見つけてあげられるかもしれん。情報収集は報われることの多い職業だし、そっちの方面にかれは天性の才能を持っているようだ」
「ほかの才能もありますわ」ポルおばさんは言った。「いるはずのない場所に出没するのが大変得意のようね」
「その少年にあまり当たりなさるな」アンヘグ王が言った。「感謝してもしきれない奉仕をしてくれたのです」
ガリオンは再び一礼して、ポルおばさんの微動だにしない視線から退却した。
アンヘグはややあってバラクに言った。「いとこよ、どうやらここの宮殿に招かれざる訪問者がいるようだ。緑のマントを着たその潜入者とちょっと話がしてみたい」
「部下を二、三人連れていこう」バラクが凄味のある口調で言った。「宮殿をしらみつぶしにして、なにが出てくるか見てやる」
「あまり怪我はさせずに捕えてもらいたい」アンヘグは警告した。
「言われるまでもないよ」バラクは言った。「しかしまったくの無傷である必要はないぞ。口がきけるかぎり、こっちの目的に役立つ」
バラクはにやりとした。「まちがいなく口のきける状態であんたのもとに連れてくる」
冷たい笑いがアンヘグの顔にうかび、バラクはドアのほうへ歩きだした。
アンヘグは次にバラクの妻に顔を向けた。「あなたにもお礼を言うよ、メレル夫人。この一件をわれわれに知らせるにあたって、あなたは重要な役割を果たしたにちがいない」
「お礼にはおよびませんわ、陛下。それはわたくしの義務でございます」
アンヘグは溜息をもらした。「いつもいつも義務でなくてはならんのかね、メレル?」とやりきれないように訊いた。
「ほかに何がございまして?」
「じつに立派だよ。しかしそのほかの何かは自分で見つけださねばならんことだろう」
「ガリオン」ポルおばさんが言った。「ここへきなさい」
「はい」ガリオンはややびくびくしておばさんに近づいた。
「いやね。おしおきをする気などないわ」おばさんがガリオンの額に軽く指先をふれた。
「それで?」ミスター・ウルフがたずねた。
「ここにあるわ」彼女は言った。「ほんのかすかよ。そうでなかったらわたしが前に気づいていたでしょうに。すみません、おとうさん」
「どれどれ」ウルフはそう言うと、近よって片手を同じくガリオンの額にあてた。「たいしたことはないな」
「一大事になっていたかもしれないわ」ポルおばさんは言った。「こういうことが起きないようにするのがわたしの責任だったのに」
「自分を責めるな、ポル。おまえらしくもないぞ。取り除いてしまえばいい」
「どうしたの?」ガリオンは驚いて訊いた。
「なにも心配することはないのよ」ポルおばさんはかれの右手をとって、自分のはえぎわの一房の白髪にちょっとその手を押しあてた。
突然混乱した感覚がうねりたったかと思うと、ガリオンは耳のうしろに激しいうずきを感じた。ふいに頭がくらくらし、もしポルおばさんが支えてくれなかったら、倒れていただろう。
「そのマーゴ人は何者なの?」彼女はガリオンの目をのぞきこんでたずねた。
「名前はアシャラク」ガリオンは即座に言った。
「どのくらいかれを知っているの?」
「生まれてからずっとだよ。前はよくファルドー農園にやってきて、小さかったぼくを見ていた」
「今のところはそれでじゅうぶんだ、ポル」
ミスター・ウルフが言った。「まず少しかれを休ませよう。二度とそれが起きないようにわしがなにかこしらえよう」
「その少年は病気なのかね?」チョ・ハグがたずねた。
「病気というわけじゃないよ、チョ・ハグ」ウルフは言った。「説明するのはちょっとむずかしいんだ。だがもうよくなった」
「自分の部屋へ戻りなさいな、ガリオン」まだかれの肩をつかんだまま、ポルおばさんが言った。「ひとりで歩いていける?」
「大丈夫だよ」少しぼうっとしたままガリオンは答えた。
「道草をくったり、探検したりしてはだめよ」おばさんはきつい口調で言った。
「もうしません」
「部屋についたら、横になっていなさい。そのマーゴ人に会ったときのことをひとつ残らず思い返して、思い出してほしいのよ――かれが何をし、何を言ったかを」
「話しかけてきたことは一度もないんだ。ただ見ていただけだよ」
「すぐにわたしも行きますからね」ポルおばさんはつづけて言った。「かれについて知っていることを全部話してちょうだい。重要なことなのよ、ガリオン。だからできるかぎり意識を集中してね」
「いいよ、ポルおばさん」
するとおばさんはガリオンの額に軽くキスした。「さあ、走ってお行きなさい」
奇妙にぼうっとした気分でガリオンはドアに近づき、廊下へ出た。
広い通路でアンヘグの戦士たちが剣を腰にゆわえつけたり、みるからに切れ味の鋭そうないくさ用の斧を手にとったりして、宮殿捜索の準備をしていた。ぼんやりとしたままガリオンは立ちどまらずに歩いていった。
意識の一部は半分眠っていたが、あの謎の内なる部分ははっきり目ざめていた。なにかしら重大なことが起きたのだと乾いた声が言っていた。アシャラクのことをしゃべらせまいとする強い抑制力は明らかに消滅していた。ポルおばさんがどうにかしてそれをガリオンの意識から完全に放逐したのだ。それについてはかれの気持は妙にあいまいだった。かれと黒マントの無言のアシャラクとのあのふしぎな関係、きわめて個人的なそのつながりが今はなくなっている。なんとなくうつろで、なぜだか干渉されたような気持だった。溜息をついてガリオンは広い階段をのぼり、自分の部屋へ向かった。
部屋の外の廊下に六人の戦士の姿が見えた。緑のマントの男を捜すバラクの捜索隊の一部のようだ。ガリオンは足をとめた。何かがおかしい。かれは眠気をふり払った。宮殿のこのあたりは人の行きかいが激しくて、とてもスパイが隠れられる場所ではなかった。心臓が早鐘を打ちはじめ、ガリオンはたった今のぼってきた階段のほうへ一歩ずつあとずさりしはじめた。戦士たちは宮殿にいるほかのチェレク人とよく似ていた――ひげをはやし、兜と鎖かたびらと毛皮をまとっている。だが、何かしっくりしないように思えた。
頭巾のついた黒っぽいマントの大男がガリオンの部屋のドアから外の廊下へ出てきた。アシャラクだった。何か言いかけたマーゴ人の目がガリオンにとまった。「ああ」かれは静かに言った。黒い目が傷のある顔の中でぎらりと光った。「おまえをさがしていたのだ、ガリオン」物柔らかな口調をくずさずかれは言った。「こっちへくるんだ」
ガリオンは理性がひっぱられるのを感じたが、たしかな手掛かりを得られなかったかのように、ひっぱる力はするりと抜け落ちた。かれは黙って首をふり、再びあとずさりはじめた。
「さあ、おいで」アシャラクは言った。「われわれは長いあいだの知りあいだろう。わたしの言うとおりにしろ。しなければならないのはわかっているはずだ」
理性をひっぱる力が強まって、再び抜け落ちた。
「ここへくるんだ、ガリオン!」アシャラクは荒々しく命令した。
一歩また一歩とガリオンはあとずさりつづけた。「いやだ」
アシャラクの目が怒りに燃え、かれはいらだたしげに身を反らせた。
今度のそれはひっぱるのでもつかむのでもなく、殴りかかる力だった。どういうわけか的がはずれるか、それるかした。しかしガリオンはその威力を感じることができた。
アシャラクの目がわずかに見開かれたかと思うと、細まった。「だれがやったんだ?」かれは問いつめた。「ポルガラか? ベルガラスか? そんなことをしたってむだだぞ、ガリオン。一度はおまえを自分のものにしたんだ。いつでも好きなときにまたおまえを連れていけるのさ。わたしを拒むほどおまえは強くないんだ」
ガリオンは敵をじっと見つめて、負けていないところを見せようと答えた。「そうかもしれない。でも、まずぼくをつかまえなけりゃならないんじゃないのかな」
アシャラクはさっと戦士たちをふり返り、かみつくように命じた。「わたしのほしいのはあの少年だ。つかまえろ!」
まるで機械じかけのように戦士のひとりが弓矢をかまえて、まっすぐガリオンに狙いをつけた。アシャラクがすばやく腕をふりあげて、まさに飛びだしたばかりの鋼の矢をはたき落とした。矢は空中でひゅっと鳴って、ガリオンの左数フィートの石壁にぶつかった。
「生きたままでだ、ばかもの」アシャラクはうなるように言って、射手の側頭部を激しく殴りつけた。射手はけいれんしながら床にくずれ落ちた。
ガリオンはくるりと背を向けると階段にかけよって一度に三段ずつとびおりた。ふり返るまでもなく、重い足音がして、アシャラクと手下が追ってくるのがわかった。階段をおりきると、かれはすばやく左に曲がって、アンヘグの宮殿の迷路へとつづく長く暗い通路の奥へ逃げた。
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いたるところに戦士がいて、戦う物音がしていた。逃げだした当初、ガリオンの計画は単純だった。バラク側の戦士を見つけさえすれば、安全なはずだった。ところが、宮殿にいるのはバラクの戦士たちだけではなかった。ジャーヴィク伯爵が南の廃墟と化した翼から小隊を率いて宮殿にはいりこみ、猛烈な戦いが廊下でくりひろげられていたのだ。
味方と敵の見分けようがないことにガリオンはすぐ気づいた。かれにはチェレクの戦士はみんな同じに見えた。バラクか、知った顔のほかのだれかを見つけられないかぎり、みなの前に出ていくわけにいかなかった。敵ばかりか味方からも逃げているといういらだたしさが恐怖心をあおった。バラクの部下ではなくてジャーヴィクの小隊にとびこんでしまう可能性は大いにあったし――いかにも起こりそうなことですらあった。
会議室へまっしぐらにひき返すのが一番てっとり早かったのだろうが、アシャラクから逃げるのにけんめいで、たくさんの薄暗い通路を走り、たくさんの角を曲がったために、ガリオンは自分がどこにいて、どうすれば宮殿の見なれた部分へ戻れるのかわからなくなっていた。やみくもに逃げるのは危険だった。アシャラクやかれの手下がガリオンをつかまえようとどの角に待ちかまえているか知れたものではなかったし、つかまれば最後、ポルおばさんが手をふれて打ち砕いたあの奇怪な絆をマーゴ人はたちまち築きなおしてしまうだろう。それだけはなんとしてでも避けなくてはならなかった。ひとたびガリオンをわがものにしたら、アシャラクは今度こそ逃がさないにちがいない。ガリオンにとって残された唯一の手段は、隠れ場所を見つけることだった。
別の狭い通路にとびこんだガリオンは、立ちどまって息をきらしながら石壁にぴったり背中を押しつけた。通路のずっと先に、幅の狭いすりへった石の階段がらせんを描いて上へ伸びているのが、ゆらめく一本の松明の明かりの中でかすかに見てとれた。高いところにのぼれば、それだけだれかと出くわす危険はへりそうだと即断した。戦いは、もっぱら下の床の上でおこなわれるにきまっている。大きく息を吸うと、ガリオンは階段の下にすばやく近づいた。
半分のぼったところで計画に落とし穴があったことに気づいた。階段にはわき道がない。逃げこむ道も隠れる場所もないのだ。いそいでてっぺんまでのぼらないと、発見されてつかまってしまう――あるいはもっとまずいことにさえなりかねない。
「小僧!」下から叫び声がした。
ガリオンはすばやく肩ごしに下を見た。鎖かたびらと兜に身を固めた恐ろしげな顔つきのチェレク人が剣を抜いて階段をのぼってくる。
ガリオンは階段をかけのぼりはじめた。
上から別の叫び声がして、かれは凍りついた。てっぺんにも下にまさるとも劣らぬ残忍そうな戦士がいて、獰猛そうな斧をふりまわしている。
はさみうちになってしまったのだ。ガリオンは短剣をまさぐりながら石壁に身をよせたが、それがほとんど役立たないことはわかりきっていた。
そのとき二人の戦士が互いの存在に気づいた。両者は怒声をあげて突進した。剣の戦士はガリオンには目もくれずに階段をかけあがり、一方、斧の戦士はかけおりてきた。
斧が大きく空をきり、石壁に衝突して火花がとびちった。剣のほうが狙いは正確だった。恐ろしさに総毛立ったまま、ガリオンは突っこんできた斧の戦士の身体を剣が貫くのを見た。斧が音をたてて階段をころげ落ち、戦士は敵の上におおいかぶさったまま、腰のさやから幅広の短剣をひきぬいて、敵の胸に突き立てた。ぶつかりあった衝撃で両者は足を踏みはずし、もつれあったまま階段をころげ落ちた。短剣がいくどとなくひらめいて互いの身体に突き刺さった。
ガリオンはいいしれぬ恐怖に身をすくませてかれらが目の前を落ちていくのを見守った。胸の悪くなる音とともに短剣が突き立てられ、赤い泉のように二人の傷口から血がほとばしった。
一度は吐きそうになったが、歯をくいしばって階段をかけあがり、頻死の二人が下方で続行する血も凍る殺戮の物音に耳をふさごうとした。
見つかるまいとする考えは、もう消しとんでいた。ガリオンはただ走った――アシャラクやジャーヴィク伯爵からというより、階段のあの恐るべき遭遇戦から逃げるために。どのくらいたったのだろう。息をきらしてようやく、半開きのドアから使われていない埃っぽい部屋にとびこんだ。ドアをしめると、ガリオンはふるえながらそれにもたれた。
部屋の一方の壁に大きなたわんだベッドが押しつけられ、同じ壁の高い位置に小窓がひとつあった。壊れた椅子が二脚、両隅に力なく立てかけてあり、もう一方の隅には蓋のあいた衣裳箱がひとつ、それが家具のすべてだった。少なくともその部屋は残虐な男たちの殺し合いがおこなわれている廊下からは、はなれていたが、外見上の安全が単なる幻想であるのにガリオンはたちまち気づいた。だれかがこのドアをあけたら、かれは袋のネズミなのだ。ガリオンは死に物狂いで埃っぽい部屋を見まわしはじめた。
ベッドと反対側のむきだしの壁にカーテンがかかっていた。その陰に戸棚か隣室でもあるのかもしれないと思いつつ、部屋を突っきってカーテンを寄せてみた。開口部があらわれた。だがそれは別室につづいているのではなく、暗くて細い通路に通じているのだった。通路をのぞきこんでみたが、墨を流したような真っ暗闇で、ほんの少し先までしか見えなかった。武装した男たちに追われてその暗闇を手探りで逃げることを考えて、ガリオンは身ぶるいした。
ひとつしかない窓をちらりと見あげたかれは、その上に立って外がのぞけるように、部屋の向こうから重い衣裳箱をひきずってきた。もしかすると、今いる場所の手掛かりになるようなものが窓から見えるかもしれない。ガリオンは箱によじのぼると、爪先立って外を見た。
塔があちこちにそびえ、その周囲をアンヘグ王の宮殿の回廊や廊下の石板ぶきの長い部屋が囲んでいた。絶望的だった。見おぼえのあるものはなにひとつない。部屋のほうに向き直って衣裳箱からとびおりようとしたとき、ガリオンは突然棒立ちになった。床にぶあつく積もった埃の中に、自分の足跡がくっきり残っている。
あわててとびおりて、長らく使われていないベッドから当てぶとんをつかんだ。それを床に広げて部屋中をひきずりまわし、足跡を消した。だれかが部屋に隠れていた事実まで隠すわけにいかないのはわかっていたが、その大きさを見ればアシャラクやかれの手下に、ここにひそんでいたのが大人ではないといっぺんにばれてしまう足跡を抹殺することはできた。消しおわると、当てぶとんをベッドの上に投げ戻した。仕事は完璧ではなかったが、少なくともやらないよりはましだった。
そのとき、外の廊下で叫び声がして剣のふれあう音が聞こえた。
ガリオンはひとつ深呼吸をして、カーテンのうしろの暗い通路にとびこんだ。
いくらもいかないうちに、鼻をつままれてもわからないような闇が細い通路をおし包んだ。クモの巣が顔にひっかかって肌がむずむずし、でこぼこの床から長年の埃が舞いあがって息が詰まりそうになった。廊下の戦いから少しでも遠ざかりたい一心で、はじめは大急ぎで進んだが、そのうちつまずいて、一瞬どこかへ落ちていくようなひやりとする気分を味わった。闇の中へ落ちこんでいる急階段がちらりと頭にうかび、こうあわてていたら、とんでもないことになりかねないと気づいた。ガリオンは片手で壁の石をたどり、片手で低い天井からびっしりさがっているクモの巣を顔の前から払いのけて、もっと慎重に歩きはじめた。
闇の中にいると時間の感覚がなかった。永遠につづいていそうな暗い通路を何時間も手探りで進んだかと思われるころ、用心していたのに、ざらざらした石壁にぶつかってしまった。彼は一瞬パニックに襲われた。通路はここでおしまいなのだろうか? 罠だったのか?
そのとき、目の隅に薄明かりが見えた。通路は終わったのではなく、右へ急な角度で曲がっているのだった。はるか向こうに明かりらしきものが見え、ガリオンはほっとしてそれをめざして歩を進めた。
明かりが強まるにしたがってかれは足を速め、すぐに光源にたどりついた。それは壁の下のほうにある細長い穴だった。埃だらけの石の床に膝をついて、かれは中をのぞきこんだ。
大きな広間が下方に見えた。中央のへこみで火がいきおいよく燃え、ガリオンのいる場所よりもっと上にある丸天井の開口部に向かって煙がたちのぼっている。その位置からだとずいぶんようすがちがって見えたが、かれはそれがアンヘグ王の謁見の間であることにたちまち気づいた。見おろすと、ローダー王の肥った姿や、やや小柄なチョ・ハグ王の姿、そしてそのうしろにはいついかなるときでもひかえているヘターがいるのが目にとまった。王座から少しはなれてフルラク王がミスター・ウルフと話しており、そのそばにポルおばさんがいた。バラクの妻がイスレナ王妃としゃべっていたし、ポレン王妃とシラー王妃が二人からあまり遠くないところに立っていた。シルクが警備の厳重なドアをときおりちらちら見やりながら、神経質に床をいったりきたりしていた。ガリオンは安堵が湧きあがるのをおぼえた。もう大丈夫だ。
かれらに呼びかけようとしたとき、大きなドアがバタンとあいて、鎖かたびらをつけて剣を手にしたアンヘグ王が、バラクと〈リヴァの番人〉をしたがえて、大股にはいってきた。二人に両側からつかまれてもがいているのは、ガリオンがイノシシ狩りの日に森で見た亜麻色の髪の男だった。
「この裏切りは高いものにつくぞ、ジャーヴィク」王座に近づきながら、アンヘグが冷酷な口調で肩ごしに言った。
「では終わったの?」ポルおばさんがたずねた。
「もうじきですぞ、ポルガラ」アンヘグは言った。「宮殿の一番奥まったところでわたしの家来がジャーヴィク一味の最後の一人を追いかけている。もっとも、警告がなかったら、事態はまったくちがっていたかもしれん」
大声を出そうかどうか迷っていたガリオンは、もうしばらく黙っていることにした。
アンヘグ王は剣をさやにおさめ、王座にすわって言った。「やらなけりゃならんことをする前に、ちょっと話をしよう、ジャーヴィク」
バラクとかれとほぼ同じくらい力のあるブランドに掴まれていた亜麻色の髪の男は、無益にじたばたするのをあきらめ、挑むように言った。「何も言うことはないね、アンヘグ。運にさえ恵まれりゃ、今ごろはおれはおまえの王座にすわっていたんだ。思いきってやってはみたが、これで一巻の終わりよ」
「そうでもないぞ」アンヘグは言った。「くわしいことが知りたい。しゃべったほうが身のためだ。どうせしゃべることになるんだからな」
「もっともひどいことをするがいいさ」ジャーヴィクはせせら笑った。「しゃべる前に舌をかみきって死んでやる」
「それには気をつけよう」アンヘグは冷たく言った。
「その必要はないわ、アンヘグ」ポルおばさんがゆっくり捕虜に歩みよりながら言った。「説明するのにもっと楽な方法があります」
「おれは何もしゃべらないぜ」ジャーヴィクは言った。「おれは戦士だ。おまえなどこわくない、妖術使いめが」
「思った以上に愚か者だな、あんたは、ジャーヴィク卿」ミスター・ウルフが言った。「わしがやったほうがよくはないか、ポル?」
「わたしでもやれるわ、おとうさん」彼女はジャーヴィクを見すえたまま言った。
「慎重にな」老人は警告した。「おまえは極端に走ることがある。わずかな接触でじゅうぶんだぞ」
「自分のしていることぐらいわかっているわよ、老いぼれ狼」辛辣に言うと、ポルおばさんは捕虜の目をひたと見つめた。
ガリオンは依然身をひそめたまま息を詰めた。
ジャーヴィク伯爵は汗をかきはじめ、ポルおばさんの視線から必死に目をそらそうとしたがむだだった。彼女の意志がジャーヴィクを支配し、視線をがんじがらめにしていた。ジャーヴィクの身体がふるえ、顔から血の気がひいた。彼女は動きもせず、身ぶりひとつしないで、ただジャーヴィクの前に立ち、視線を彼の頭脳に焼きつけた。
すると、少しして、ジャーヴィクが絶叫した。次にもう一度絶叫して、両側から二人に腕をつかまれたままの恰好で、くたっとくずおれた。
「それをあっちへやってくれ」激しくふるえながらジャーヴィクは泣き声で言った。「しゃべるから、それをあっちへやってくれ、頼む」
アンヘグの王座のそばでぶらぶらしていたシルクが、ヘターを見て言った。「何を見たんだろうな」
「知らないほうがいいかもしれませんよ」とヘターは答えた。
イスレナ王妃はそのトリックがどんな具合におこなわれたのかちょっとでも手掛かりを得ようと、目を皿のようにして見守っていたが、ジャーヴィクがわめくと、傍目にもはっきりわかるほどたじろいで、目をそむけた。
「よし、ジャーヴィク」アンヘグは妙に抑えた口調で言った。「最初からはじめるんだ。ひとつ残らず知りたい」
「はじめは些細なことだったんだ」ジャーヴィクはふるえ声で言った。「なんの害もなさそうに思えた」
「ありえないことだな」とブランドが言った。
ジャーヴィク伯爵は大きく息を吸いこみ、ポルおばさんをちらりと見やって、また身ぶるいした。それから背筋をのばし、「ことの起こりは二年ほど前だ。おれは船でドラスニアのコトゥへ行き、そこでグラショールという名のナドラク人の商人に会った。いかにも善良そうな男で、親しくなったあと、金もうけになる冒険に興味はないかと訊いてきた。自分は伯爵で並みの商人ではないと言ったが、そいつは執拗だった。チェレク湾の島に住む海賊のことで神経をとがらせているのだが、武装した戦士の乗りこんだ伯爵の船なら、襲われる気づかいはないと言うのさ。グラショールの積荷は箱がひとつだけ――あまり大きくない箱――だった。ボクトールの税関の目をかすめてまんまと持ちこんだ宝石がはいっていたらしい。グラショールはそれをセンダリアのダリネに運びたがっていた。おれが本当に興味はないと言うと、やつは財布をあけて金貨をじゃらじゃらと出してみせた。今でもおぼえているがぴかぴかの純金で、おれは目がはなせなくなってしまった。金が必要だったんだ――結局のところ、だれだってそうだろう?――それに、グラショールの頼みをきいてやるのが格別不名誉なこととも思えなかった。
とにかく、おれはそいつとそいつの積荷をダリネへ運び、グラショールの仲間に会った――アシャラクというマーゴ人だ」
ガリオンはその名前にはっとした。シルクが驚いたように低く口笛を鳴らすのが聞こえた。
ジャーヴィクは話をつづけた。「約束どおり、グラショールがくれたのと同額の金貨をアシャラクがおれに払い、おれは金貨一袋を持ってその一件とおさらばした。アシャラクは大変世話になったと言い、もっと金貨が必要になったら、喜んで手に入れる方法を見つけてさしあげようと言った。
そのときのおれは一度にそんなに持ったこともないような、大量の金貨をふところにしていたが、どういうわけか、まだまだ物足りないように思えた。なぜだかもっと要るような気がしたんだ」
「それがアンガラクの金貨の性質なのだ」ミスター・ウルフが言った。「金貨が金貨を呼ぶのさ。たくさんあればあるだけ、金貨に支配されるようになる。だからマーゴ人はああも金つかいが荒いのだ。アシャラクはおまえの助けに金貨を出していたのではない、ジャーヴィク。おまえの魂を金貨で買っていたのだ」
ジャーヴィクは陰欝な表情でうなずき、「とにかく」と先をつづけた。「おれが言い訳を見つけて再びダリネへ出航するのに長くはかからなかった。アシャラクが言うには、マーゴ人はチェレクへの入国を禁じられているので、われわれとその王国には大変関心があるとのことだった。かれは山のように質問をし、答えるたびに金貨をくれた。ばかげた金の使いかただと思ったが、おれは金貨とひきかえに問いに答えた。チェレクに戻ったときにはもうひとつの袋にもぎっしり金貨がはいっていたよ。おれはジャーヴィクショルムへ行き、すでに持っている金貨に新たに手に入れたぶんを加えた。おれはもうりっぱな金持ちだった。しかも不名誉なことは相かわらず何もしていなかった。ところが今度は一日の時間がいくらあっても足りないように思えてきた。暇さえあればおれは金庫室に閉じこもって、くりかえし金貨を数えたり、血のような色に輝きだすまで磨いたり、耳もとでじゃらじゃらいわせたりしてすごした。
しかし、しばらくたつと、それでもまだ足りない気がして、またアシャラクのところへ出かけた。かれは今でもチェレクに興味があり、アンヘグの考えを知りたいと言った。年に一度この宮殿で開かれる重要会議の内容を教えてくれれば、すでにためこんだのと同額の金貨をやろうと言われたが、はじめは拒否した。不名誉なことだと思ったからだ。だが金貨を見せられると、もういやだとは言えなくなってしまった」
ガリオンの眺めている位置からは、下の広間にいる人々の表情がよく見えた。ジャーヴィクの話がつづいているあいだ、かれらは憐れみと軽蔑がいりまじったなんともいいがたい顔をしていた。
「それからなのさ、アンヘグ」ジャーヴィクは言った。「おまえの家来におれの使者がとらえられ、おれがジャーヴィクショルムへ追放されたのは。はじめは気にもならなかった。まだ金貨とたわむれていられたからな。ところが、少したつとまたしてもそれだけでは不充分に思えてきたんだ。おれはボアを通ってダリネまで快速船を送り、もっと金貨を得る仕事を何か見つけてほしいというアシャラク宛ての手紙を船に託した。戻ってきた船にはアシャラクが乗っていた。何をしたら今の蓄えをふやせるか、おれたちは腰をすえて話しあった」
「それではおまえは二重の裏切り行為をしているわけだな、ジャーヴィク」悲しみに近い声でアンヘグが言った。「おまえはわたしを裏切り、チェレク最古の法を犯したのだ。〈熊の背〉チェレクの時代以降、チェレクの土を踏んだアンガラク人はひとりもいなかったのだからな」
ジャーヴィクは肩をすくめた。「そのときはあまり気にかけなかったんでな。アシャラクはひとつのプランを持っていた。おれには悪くない計画に思えた。一度に数人ずつ都へはいりこむことができれば、宮殿の崩壊した南翼にわけなく一連隊を隠すことができる。多少の幸運に恵まれて、不意をうつことができれば、アンヘグをはじめとするアローンの王たちを殺せたはずだし、おれがチェレクや、ことによるとアロリア全土の王座に坐れたはずなんだ」
「それでアシャラクの代償はなんだったのだ?」ミスター・ウルフが目を細めて問いつめた。
「おまえを王にする見返りにやつは何を望んだのだ?」
「あんまりくだらないことなので、聞いたときは笑っちまった。しかし、それを手に入れてやったら、王冠だけでなく、部屋いっぱいの金貨まで出すというのさ」
「なんだったのだ、それは?」ウルフはかさねて訊いた。
「センダリアのフルラク王の一行に少年がひとり――十四歳くらいの――まじっている、とアシャラクは言った。その子を引き渡せば、チェレクの王座のみならず数えきれないほどの金貨をくれるというんだ」
フルラク王が驚いた顔をした。「ガリオン少年を? なぜアシャラクがかれをほしがるんだ?」
ポルおばさんの息をのむ音が、ガリオンの隠れているところまで伝わってきた。「ダーニク!」おばさんの声がひびいた。だが、ダーニクはすでに立ちあがってドアのほうへ駆けだしていた。シルクがそのすぐあとにつづいた。ポルおばさんは燃えるような目をして向きを変えた。生えぎわの白い一房の髪が、漆黒の髪の中で白熱光を放っているかにみえた。ジャーヴィク伯爵はその激しい視線をあびてちぢみあがった。
「ジャーヴィク、その少年にもしものことがあったら、おまえのたどる運命は千年のあいだ人人を震撼させるでしょうよ」
ずいぶん大げさだった。
ガリオンは照れくさいのと同時に、ポルおばさんの示したすさまじい怒りにちょっとこわくもなった。
「ぼくは大丈夫だよ、ポルおばさん」壁の細長い穴からガリオンは呼びかけた。「この上にいるんだ」
「ガリオン?」おばさんは顔をあげてかれを見ようとした。「どこにいるの?」
「天井のそばだ。壁のうしろだよ」
「どうやってそこへあがったの?」
「わからない。追いかけられて走っているうちにここへきたんだ」
「すぐおりてらっしゃい」
「どうすればそうできるのかわからないんだよ、ポルおばさん。遠くまで逃げすぎて、あんまりいくつも角を曲がったんで、どうやって戻ればいいのかわからないんだ。迷子になっちゃったんだよ」
「わかったわ」おばさんは落着きをとり戻した。「そこから動かないで。あなたをおろす方法をわたしたちで考えましょう」
「そうしてくれるといいんだけど」ガリオンは言った。
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19[#「19」は縦中横]
「ふむ、どこかへ通じているはずだ」アンヘグ王は目をすがめて、ガリオンがやきもきしながら待っている場所を見あげ、言った。「かれはそれをたどっていきさえすればいいんだ」
「そして一直線にマーゴ人アシャラクの手中に落ちるの?」ポルおばさんは訊いた。「かれは今いる場所をはなれないほうがいいわ」
「アシャラクは命からがら逃げだしているよ」アンヘグは言った。「この宮殿にはおるまい」
「わたしの記憶では、王国内にすらいないはずなのよ」彼女は痛烈に言った。
「そのくらいにしておけ、ポル」ミスター・ウルフはそう言って、上へ、呼びかけた。「ガリオン、その通路はどっちへつづいている?」
「王座のある広間の裏につづいているらしいんだ」ガリオンは答えた。「曲がっているかどうかはわからない。真っ暗なんだよ、ここ」
ウルフは言った。「松明を二本渡すから、一本を今いる場所に置き、もう一本を持って通路を歩いておいき。最初の一本が見えるかぎり、まっすぐ進んでいることになる」
「じつに名案だ」シルクが言った。「七千歳まで生きて、わたしも難問をやすやすと解決できるようになりたいもんだ」
ウルフはそれを聞き流した。
「おれはやっぱり梯子をかけて、壁に穴をあけるのが一番安全な方法だと思うね」バラクが言った。
アンヘグ王は気を悪くしたようだった。「まずベルガラスの提案を試せないものかね?」
バラクは肩をすくめた。「王はあんただ」
「どうも」アンヘグは無愛想に言った。
ひとりの戦士が長い棒を持ってきて、二本の松明がガリオンに届けられた。
「通路がまっすぐ伸びているとすれば、貴賓室のどこかに出るはずだ」アンヘグは言った。
「おもしろい」ローダー王が片一方の眉をつりあげた。「通路が貴賓室へ通じているのか、それとも貴賓室から[#「から」に傍点]出ているのかわかれば大変ためになる」
「通路がとっくの昔に忘れられた脱出路か何かだという可能性だって大いにある」アンヘグは傷つけられた口調で言った。「なんといってもわれわれの歴史はそれほど平和ではなかったのだ。よりによって最低の予想をする必要はないだろうが」
「むろんないとも」ローダー王はやんわり言った。
ガリオンは壁の細長い穴の傍らに松明の一本をおき、しきりにふり返ってそれがまだよく見えるかどうかたしかめながら、埃だらけの通路をたどった。とうとう細いドアの前にたどりついた。ドアをあけると中にからっぽの戸棚があった。その戸棚をでると贅沢な寝室があり、外に広くて煌々と明かりのついた廊下が伸びていた。
数人の戦士が廊下をやってきて、ガリオンはその中に猟師のトーヴィクの姿を認めた。「ここだよ」安堵感が押し寄せてきて、ガリオンは廊下に出ていった。
「忙しかったようだな」トーヴィクはにやりとして言った。
「考えてやったことじゃないんだ」ガリオンは言った。
「アンヘグ王のもとへきみを連れて帰らせてくれ」トーヴィクは言った。「きみのおばさんのあのご婦人が心配していたようだぞ」
「ぼくのことを怒っているんだよ、たぶん」肩幅の広い男と並んで歩きながらガリオンは言った。
「だろうね」トーヴィク。「女ってのはほとんど四六時中なんのかんのとわれわれに腹を立てているんだ。大人になるにしたがってきみが慣れなけりゃならんことのひとつがそれなんだ」
ポルおばさんは謁見の間の戸口で待っていた。叱責はされなかった――とにかく今のところはまだ。ほんの束の間、彼女はガリオンを狂おしく抱きしめると、いかめしい顔でかれを見つめた。「みんな待っていたのよ」穏やかともいえる口調でそう言ってから、他の人々の待ちうけるところへガリオンを連れていった。
「わたしの祖母の部屋にだと?」アンヘグがトーヴィクに言っていた。「なんとも驚いたな。わたしがおぼえている祖母は、杖をついた気まぐれなばあさんだったがね」
「だれにだって若いときはあるさ、アンヘグ」ローダー王が茶目っ気のある顔で言った。
「理由はいくらでもありますわよね、アンヘグ」ポレン王妃が言った。「夫はちょっとあなたをからかっているんですわ」
「部下のひとりが通路を調べました、陛下」と、トーヴィクが気をきかせて言った。「大変な埃りの厚さです。おそらく何世紀も使われていないでしょう」
「なんとも驚くべきことだ」アンヘグはくりかえした。
それをもってその一件は微妙にうちきられたが、ローダー王のいたずらっぽい表情はいかにも何かいいたげだった。
セリネ伯爵が如才なく咳払いした。「ここにいるガリオン青年が何か聞かせてくれるのではないだろうか」
「でしょうね」ポルおばさんはガリオンのほうを向いた。「たしか自分の部屋にいるようにと言ったはずだけれど」
「アシャラクがぼくの部屋にいたんだよ」ガリオンは言った。「戦士をしたがえていた。ぼくを呼びつけようとしたんだけれど、ぼくが行かないでいたら、一度は自分のものにしたんだからまたそうできると言った。なんのことかよくわからなかったけれど、まずぼくをつかまえなけりゃならないよって言ってやったよ。それから逃げだしたんだ」
〈リヴァの番人〉ブランドが愉快そうに笑って言った。「ケチをつけようにもつけられそうにありませんね、ポルガラ。グロリムの僧が部屋にいるのを見つけたら、わたしだってやっぱり逃げだしますよ」
「まちがいなくアシャラクだったか?」シルクがたずねた。
ガリオンはうなずいた。「あいつのことはずっと前から知っているんだ。生まれたときから。あいつもぼくを知っていた。ぼくを名前で呼んだからね」
「そのアシャラクとやらとじっくり話をしたいもんだ」アンヘグが言った。「わが王国にひきおこした害について、いくつか訊いてみたいことがある」
「かれを見つけるのはむりだろう、アンヘグ」ミスター・ウルフが言った。「ただのグロリムの僧ではないらしい。一度、ミュロスでやつの精神にふれてみたが、並みの精神ではない」
「捜索をして楽しみたいのさ」アンヘグは冷酷な表情をうかべた。「いくらグロリムでも水の上を歩くことはできないだろう。だから、チェレクの港という港を封鎖し、山や森を戦士たちにしらみつぶしにさせるのだ。いずれにせよ、冬のあいだ戦士は肥るばかりで手に負えんから、いい運動になる」
「肥って手に負えん戦士を真冬の雪の中へ追いやれば、あんたは人気のある王になるわけにはいかんだろうね、アンヘグ」と、ローダーが言った。
「ほうびを出せばいい」シルクが提案した。「そうすれば、仕事をさせて、なおかつ人気も失わずにすみますよ」
「それは名案だ」とアンヘグ。「どんなほうびがいいだろう、ケルダー王子?」
「アシャラクの首と同じ重さの金貨を与えると約束なさい。そうすりゃ、でぶでぶの戦士だってダイス・カップやビール樽から離れますって」
アンヘグはひるんだ顔をした。
「やつはグロリムです」シルクは言った。「どうせ見つかりっこないですよ。しかし戦士は王国中を捜しまくるでしょう。あなたの金貨は無事、戦士はちょっとした運動をし、あなたの気前の良さが評判になる。そしてチェレク中の人間が斧を持って捜しまわれば、アシャラクも身を隠すのに忙しくて、災難なんぞひきおこしちゃいられなくなる。自分の首が自分自身より他人にとって価値あるものになったら、ばかなことをする暇なんかありませんよ」
アンヘグは重々しく言った。「ケルダー王子、きみはくせ者だな」
「そうあろうと努めております、アンヘグ王」シルクは皮肉っぽく頭をさげた。
「わたしのところで仕事をする気はないかね?」とチェレクの王は申し出た。
「アンヘグ!」ローダーが抗議した。
シルクは嘆息した。「なにしろ血がつながっていますからね、アンヘグ王。血縁という絆によって、わたしはおじに従属しているんです。しかし、あなたの申し出を聞くにやぶさかではありません。わたしの奉仕料をめぐる今後の話し合いに役立つかもしれませんからね」
ポレン王妃が小さな銀の鈴のような声をたてて笑い、ローダー王は苦虫をかみつぶしたような顔になった。「このとおりだ」とかれは言った。「わたしは裏切者たちに完全に囲まれていたのだ。哀れな肥った年よりはどうすればいい?」
猛々しい顔つきの戦士が広間にはいってきて、アンヘグにつかつかと歩みよった。「終わりました。やつの首をごらんになりますか?」
「いや」アンヘグは短く言った。
「波止場近くの旗竿にさらし首にいたしますか?」
「いや。ジャーヴィクはかつては勇敢な男だったのだし、婚姻によってわたしの親類ともなったやつだ。かれの妻に引き渡して、まともな埋葬をさせてやれ」
戦士は一礼して広間を出ていった。
「アシャラクとかいうグロリムの問題は興味がありますわ」イスレナ王妃がポルおばさんに言った。「レディ・ポルガラ、わたくしたち二人でかれの居所をつきとめる方法をあみだしませんこと?」彼女の表情には自己顕示欲がありありとあらわれていた。
ポルおばさんが答える前に、ミスター・ウルフがすかさず言った。「勇気ある発言だ、イスレナ。しかしわれわれとしては、チェレクの王妃をかような危険にさらすことはできん。あんたの腕がすぐれているのはよくわかっているが、そのような探索は心を完全に開かせてしまう。もしもアシャラクがあんたがかれを捜していると感じたら、ただちに報復するだろう。ポルガラなら危険はないが、あんたの心はろうそくのように吹き消されてしまいかねない。チェレクの王妃に乱心した狂人として残りの人生を送らせるのは、じつに痛ましいことだ」
とたんにイスレナの顔から血の気がひき、彼女は、ミスター・ウルフがアンヘグにしてみせたいたずらっぽいウィンクにも気づかなかった。
「許可はできんぞ」アンヘグはきっぱり言った。「大切な妃にそのような恐るべき危険を冒させるなどとんでもないことだ」
「閣下のご意志にはしたがわねばなりません」イスレナは安堵のにじむ口調で言った。「夫の命令により、さきほどの提案は撤回いたします」
「わが妃の勇気はわたしの名誉だ」アンヘグは真顔で言った。
イスレナは一礼するとばかにそそくさと退却した。ポルおばさんは眉を片方つりあげてミスター・ウルフを見たが、黙ってやりすごした。
ウルフは今まで坐っていた椅子から立ちあがると、もっと真剣な顔つきになって言った。
「重大決定をくだすときがきたようだ。事態は一刻を争う状態になってきた」かれはアンヘグに目を向けた。「盗み聞きされずに話のできる場所はあるか?」
「塔のひとつに部屋がある」アンヘグは言った。「われわれが最初の密談をする前にもその部屋はどうかと考えたんだが――」かれは言いよどんでチョ・ハグを見た。
「気づかうことはない」チョ・ハグは言った。「必要とあらば、階段ぐらいどうにかのぼれる。それに、ジャーヴィクのスパイに盗み聞きされるよりは、少しぐらい不便な思いをしたほうがましだよ」
「わたしはガリオンと一緒に残りましょう」と、ダーニクがポルおばさんに言った。
ポルおばさんは断固首をふった。「いいえ。アシャラクがチェレクをうろついているかぎり、ガリオンを目の届かないところにやりたくないわ」
「では、行こうか?」ミスター・ウルフは言った。「そろそろ日が暮れてきたし、なによりも、朝には出発したいのだ。わしの追いかける臭跡がしだいに薄れてきている」
動揺さめやらぬイスレナ王妃はポレンやシラーと並んで片側に立ち、アンヘグ王が先に立って謁見の間から出ていくときも、あとを追おうとしなかった。
そのうち成りゆきを知らせよう<香[ダー王は自分の妃にジェスチャーで話しかけた。
もちろんよ<|レンは言い返した。穏やかな顔をしていたものの、話すときの指の鳴らしかたが彼女のいらだちを示していた。
おとなしくしておいで<香[ダーの指がポレンに語りかけた。われわれはここでは客なんだ。こちらの習慣にしたがわねばならん
おおせのとおりに#゙女は両手を傾けて皮肉たっぷりに答えた。
チョ・ハグ王はヘターの介添えでなんとか階段をのぼったが、その進みかたは痛々しいほどのろかった。「すまないな」かれは喘ぎながら半分ほどのぼったところで立ちどまり、息をついだ。「おまえもだろうが、わたしにとっても階段は厄介なのだよ」
アンヘグ王は階段下に見張りを立たせてから、階段をのぼり、頑丈な扉をうしろ手に閉めてバラクに言った。「火をたいてくれ。居心地のいいほうがいい」
バラクはうなずいて、暖炉の薪に松明で火をつけた。
部屋は円形であまり広くはなかったが、腰をおろせる椅子やベンチがおいてあり、かれら全員にはじゅうぶんな大きさだった。
ミスター・ウルフは窓のひとつのそばに立ち、下方でまたたいているヴァル・アローンの街明かりを見おろした。「わしは昔から塔が好きだった」ひとりごとのようにかれは言った。
「わしの|〈師〉《マスター》もこのような塔に住んでいて、わしはそこで時をすごすのが楽しみだった」
「アルダーを知ることができるなら、一生を捧げても惜しくない」チョ・ハグが静かに言った。
「一部で言われているように、本当にかれは光に囲まれていたのかね?」
「わしにはごくあたりまえの人間に思えた」ミスター・ウルフは言った。「一緒に暮らした最初の五年間は、だれなのかすら知らなかったのだ」
「本当に噂どおりの賢者だったのか?」アンヘグが訊いた。
「おそらく噂以上だろう」ウルフは言った。「吹雪に会ってかれの塔の外で死にかけているところを発見されたとき、わしは武者修業中のむこうみずな子供だった。かれは巧みにわしを手なずけた――もっとも数百年はかかったがね」ウルフは深い溜息をつくと、窓から向きなおった。「では、はじめるか」
「捜索はどこで開始する?」フルラク王がたずねた。
「カマールだ」ウルフは言った。「そこで臭跡を発見したのでな。やつはアレンディアへはいったと思う」
「戦士たちを一緒に派遣しよう」アンヘグは言った。「ここで起きたことからすると、グロリムどもが妨害しようとするかもしれない」
「いいや」ウルフはきっぱり言った。「グロリムが相手では戦士は役にたたんよ。兵隊がいては身動きがとれんし、一連隊をひきつれてアレンディアにはいりこむ理由を、あそこの王に説明している暇もない。アレンド人に物事を説明するのは、アローン人に説明するより時間がかかるのだ――不可能にも思える」
「それは失礼というものよ、おとうさん」ポルおばさんは言った。「ここはかれらの世界でもあるのよ、かれらは当事者だわ」
ローダー王が言った。「必ずしも軍隊は必要ないだろうがね、ベルガラス、優秀なのを数人つれていったほうが用心がいいのじゃないだろうか?」
「たいがいのことはポルガラとわしで対処できるし、もっと現実的な問題はシルクやバラクやダーニクがひきうけてくれる。人数が少なければ少ないほど、いらぬ注意をひかずにすむ」そう言ったあと、ウルフはチョ・ハグのほうを向いた。「だが、その点に関するかぎりでは、あんたの子息ヘターを連れていきたいのだよ。かれの特殊な才能が必要になりそうなのでね」
「むりです」ヘターは感情をこめずに言った。「ぼくは父のそばにいなくてはなりません」
「なにを言ってる、ヘター」チョ・ハグは言った。「おまえを一生自分の脚がわりとしてしばりつけておくつもりはないぞ」
「お仕えしていることを拘束されていると感じたことなどありません、父上。ぼく程度の才能の持主ならほかにも大勢います。〈長老〉には別の人間を選んでもらってください」
「アルガー人の中にシャ・ダリムは何人いる?」ミスター・ウルフは重々しくたずねた。
ヘターが目顔で何か訴えようとするようにすばやくウルフを見た。
チョ・ハグ王は息をのみ、「ヘター、本当か?」とたずねた。
ヘターは肩をすくめた。「そうなのかもしれません、父上。重要なことだとは思わなかったんです」
チョ・ハグはミスター・ウルフに視線を転じた。
ウルフはうなずいた。「本当だよ。ひと目見てわしにはわかった。かれはシャ・ダリムだ。だがかれは自分で発見しなければならなかったのだ」
チョ・ハグはふいに目をうるませた。「わたしの息子が!」かれは誇らしげにそう言うと、荒っぽくヘターを抱擁した。
「たいしたことではありません、父上」ヘターは急に当惑したように静かに言った。
「かれらはなんの話をしているの?」ガリオンはシルクに小声で訊いた。
「アルガー人がことのほか重要視していることでね。かれらの考えによれば、思考だけで馬と話せる人間がいるんだ。アルガー人はそういう人間をシャ・ダリム――すなわち馬の〈族長〉と呼んでいる。じつにまれな能力で――たぶん一世代に二、三人しか出ないんじゃないかな。そういう人間が出たというだけでアルガー人にはこのうえない名誉なんだ。アルガリアに戻ったら、チョ・ハグは誇りではちきれんばかりになるだろう」
「そんなに重大なことなの?」ガリオンはたずねた。
シルクは肩をすくめた。「アルガー人はそう思っているらしい。新たにシャ・ダリムが見つかると、全族長が〈砦〉につどって、国をあげて六週間祝うんだ。ありとあらゆる贈り物が用意される。それを受けとる気になれば、ヘターは金持になるだろう。受けとらないかもしれないな。変わり者なんだ」
「行かなくてはいかん」チョ・ハグはヘターに言った。「アルガリアの誇りがおまえとともにある。おまえの義務は明白だ」
「父上のおっしゃるとおりに」ヘターは気のすすまぬふうに言った。
「よしと」ミスター・ウルフは言った。「アルガリアへ行って、一番いい馬を十二頭かそこらカマールへ連れていくのにどのくらいかかるかね?」
ヘターはしばらく考えて言った。「二週間です。センダリアの山中で吹雪に会わなければですが」
「では、そろって明朝ここを出発しよう」ウルフは言った。「アンヘグに船を借りるといい。カマールの数リーグ東に、南へそれる別の道があるから、〈北の大街道〉づたいに馬を連れてそこへ行くのだ。道は〈大カマール川〉を渡って、北部アレンディアのボー・ワキューンの廃墟で〈西の大街道〉に合流している。二週間たったらそこで会おう」
ヘターはうなずいた。
「ボー・ワキューンでは、アストゥリアのアレンド人もひとり、われわれに加わる」と、ウルフはつづけた。「その少しあとでミンブレイト人も加わる。南部ではその二人がわれわれの役に立つかもしれん」
「そして、予言も実現させる」アンヘグが秘密めかして言った。
ウルフは肩をすくめると、明るい青い目をふいに輝かせた。「予言を実現させるのに反対ではない。わしにとってそれがひどい不都合でないかぎりはな」
「捜索に関してわれわれが手助けできることがあるだろうか?」ブランドが訊いた。
「やることはいくらでもある」ウルフは言った。「われわれの捜索がどういう結果になろうとも、アンガラク人たちがなんらかの大規模な行動に出ようと手ぐすねひいているのは明らかだ。捜索がうまくいけば、二の足を踏むかもしれんが、アンガラク人の思考回路はわれわれとちがう。ボー・ミンブルで何か起きても、全力をあげて西部襲撃の決意をすることもありうる。われわれの知らないかれらなりの予言に対応している可能性もある。いずれにせよ、連中が何か大がかりなことをしかけてくると覚悟しておいたほうがいい。準備をしておく必要があるだろう」
アンヘグが残忍そうににやりとして言った。「準備ならもう五千年もやっている。今度こそ、このアンガラクの疫病を世界中からたたきだしてやる。〈片目〉のトラクは目がさめたら自分がマラのようにひとりぼっちで、無力なのに気づくだろう」
「たぶんな」ミスター・ウルフは言った。「しかし戦いが終わるまで、勝利の祝祭は計画しないことだ。準備はひそかにおこない、王国内の国民をいたずらに刺激するな。西部にはグロリムどもがうようよしているし、連中はわれわれのやることを逐一見張っている。この先わしのたどる臭跡はクトル・マーゴスに向かうはずだ。国境に兵力を集中しているマーゴの軍に対処しないですめばそれにこしたことはない」
「見張りごっこならわたしにもできるぞ」ぽっちゃりした顔にすごみのある表情をうかべて、ローダー王は言った。「グロリムたちより上手《うわて》かもしれない。ちょうど東部へ送る隊商をふやす時期なんだ。アンガラク人は東部からの援助がないと身動きがとれないし、マロリー人は南部に軍隊を配備する前にガール・オグ・ナドラクを越えねばならん。そこで、あちこちでひとつふたつの賄賂をちらつかせるのだ。適当な鉱山町に強いビールの樽を数個もおけばすむことだよ――ちょっとした気のゆるみがどんな結果を生むかは、神のみぞ知るさ。たまたまもらした言葉から、こっちに数ヵ月の準備期間が与えられるかもしれんて」
「かれらが何か大がかりなことをたくらんでいるとすれば、東の断崖にタール人たちが武器供給所を設置しているはずだ」チョ・ハグが言った。「タール人は利口ではない。気づかれずに連中を観察するのは雑作ないことだ。あの山の中を巡回する偵察隊の数をふやそう。運がよければ、かれらの侵入経路が前もって発見できるかもしれない。ほかにわれわれが手伝えることがありますか、ベルガラス?」
ミスター・ウルフはしばし考えこんでからふいににやりとした。「われわれが追っている泥棒は、われわれのひとりが自分の名前か、自分の盗んだものの名前をしゃべるのを聞きのがすまいと、耳をそばだてているはずだ。おそかれはやかれ、だれかが必ず口をすべらすのを当てにしているのだ。居所をつきとめられたら、こっちの会話はやつに筒抜けになる。だから、口にチャックをするより、いっそ向こうが聞き耳をたてそうなことをしゃべったほうがいいと思う。諸君にその手配ができるならばだが、北部一帯のすべての吟遊詩人と語り部に、特定の昔話をくりかえし語らせてもらいたい――諸君の知っているやつをな。それらの名がカマール川上流のあらゆる村の市場で広まりはじめたら、やつの耳の中に雷鳴みたいなとどろきをひきおこすだろう。それだけでもわれわれにはしゃべる自由ができる。そのうちやつはうんざりして、耳をそばだてるのをやめてしまうさ」
「夜が更けてきたわよ、おとうさん」ポルおばさんが注意をうながした。
ウルフはうなずくと、かれら全員に言った。「われわれは生死をかけた勝負をしている。しかしそれは敵も同じだ。かれらの危険もわれわれと同様大きい。最終的に何が起きるのか、今この時点ではだれにも予測できない。万一の場合にそなえて、信頼できる家来を送って事態を見張らせるのだ。あせらずあわてず事にあたれ。今は他のどんなことよりもあわてるのが一番危い。当面行動できるのは、ポルガラとわしだけだ。諸君にはわれわれを信用してもらうしかない。ときとしてわれわれのしたことが奇妙に思われるかもしれないが、それには理由がある。どうか二度と口出しはせんでくれ。経過についてはときおり知らせよう。諸君に他に何かしてもらう必要が生じれば、わしが知らせる。いいな?」
王たちは厳粛な面持ちでうなずき、全員が起立した。
アンヘグがミスター・ウルフに歩みよった。「一時間ほどわたしの書斎にきてもらえないだろうか、ベルガラス」とかれは静かに言った。「出発前に、あなたとポルガラにちょっと話がしたいのだ」
「あんたがそう言うなら、アンヘグ」
「いらっしゃい、ガリオン」ポルおばさんは言った。「荷物の仕度があるわ」
それまでの重苦しいやりとりに少し神妙になっていたガリオンは、静かに立ちあがると、おばさんのあとから扉に近づいた。
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20[#「20」は縦中横]
アンヘグ国王の書斎は四角い塔の中にある、取りちらかった大きな部屋だった。そこらじゅうに厚い革でとじた書物があり、歯車や滑車や小さな真鍮の鎖がついた風変わりな装置がテーブルや小卓の上にのっていた。きれいに彩色した詳細な地図が壁にピンでとめられ、豆粒のような文字に埋めつくされた羊皮紙が床に散らばっている。アンヘグ国王は二本のろうそくの放つ柔らかな光の中で、かしいだテーブルに向かい、ごわごわの黒髪が目にかぶさらんばかりにして、ひびわれた薄い羊皮紙に文字を書いた大きな本を調べていた。
ドアの前に立っていた見張りが無言でかれらを中へ通し、ミスター・ウルフはきびきびと部屋の中央へはいっていった。「われわれに会いたいと、アンヘグ?」
チェレクの王は本から身をおこして、それをわきへどけた。挨拶がわりに短くうなずいて、「ベルガラス、ポルガラ」と言ったあと、かれはドアの近くにおぼつかなげに立っているガリオンを一瞥した。
「さっき言ったことは本気なのよ」ポルおばさんは言った。「この子がグロリムのアシャラクの手の届かないところにいると確信できるまで、目を離さないつもりなの」
「かまわないよ、ポルガラ」アンヘグは言った。「おはいり、ガリオン」
「勉強をつづけているようだな」ちらかった部屋をちらりと眺めて、ミスター・ウルフは満足げに言った。
「学ぶことがありすぎて」アンヘグは絶望的なしぐさでごちゃごちゃとおかれた木や書類や奇妙な機械を示した。「この不可能な仕事をあなたに教えてもらわなかったほうが幸せだったんじゃないかと思っている」
「頼んだのはそっちだ」ウルフはあっさり言った。
「首を横にふることだってできただろうに」アンヘグは笑った。それから急に真顔になり、ガリオンにいったん目をやったあと、目に見えて婉曲的な態度で話しはじめた。「邪魔だてはしたくないが、アシャラクとやらの行動には無関心でいられないんだ」
ガリオンはポルおばさんのそばを離れて、近くのテーブルにのっている風変わりな小さい機械のひとつをさわらないように気をつけながら観察しはじめた。
「アシャラクはわたしたちが引き受けるわ」ポルおばさんが言った。
だがアンヘグは容易にはひきさがらなかった。「噂によれば、あなたと父上が何世紀ものあいだ守ってこられた――」かれはそこで言いよどみ、ガリオンをちらりと見てから、すらすらと先をつづけた。「――あるものとは、なにがなんでも守らねばならないらしい。ここにある数冊の本にそう書いてある」
「本の読みすぎよ、アンヘグ」ポルおばさんは言った。
アンヘグはまた笑った。「暇つぶしになるんだよ、ポルガラ。ほかにやることといったら伯爵連中とビールをのむだけだし、このところ少々胃が弱ってきているんでね――それに耳もだ。広間いっぱいの酔っぱらったチェレク人がどんなにやかましいか想像できるかね? その点、書物はわめきもせず、ほらも吹かず、ひっくりかえったり、テーブルの下にすべりこんでいびきをかいたりしない。相手としてははるかに上等なんだ、じっさい」
「ばかばかしい」とポルおばさん。
「どのみちわれわれはだれもが愚かなのさ」アンヘグは哲学的に言った。「だが話をもとに戻そう。わたしの言った噂が本当だとすると、あなたがたはかなり危険なことをしているんじゃないだろうか? 捜索はじつに物騒なものになりそうだ」
「安全な場所などありはしないよ」ミスター・ウルフは言った。
「なぜする必要のない危険を冒す? この世にいるグロリムはアシャラクひとりではないはずだ」
「あんたが賢王アンヘグと呼ばれているのもうなずけるよ」ウルフはほほえんだ。
「あなたがたが戻られるまで、そのあるものをわたしに託していくほうが安全ではないだろうか?」
「ヴァル・アローンですらグロリムにかかれば無事でいられないことがすでにわかっているのよ、アンヘグ」ポルおばさんは断固たる口調で言った。「クトル・マーゴスやガール・オグ・ナドラクの鉱山は底なしだし、グロリムたちはあなたが想像する以上に自由に使える金貨を持っているわ。ジャーヴィクのような者をいったい何人金で釣ったかしら? あなたの言ったそのあるものを守ることにかけては、老いぼれ狼とわたしのほうがずっと経験豊富なのよ。わたしたたちと一緒ならまちがいないわ」
「しかし気づかってくれて感謝するよ」ミスター・ウルフは言った。
「われわれ全員にかかわりのある問題だからね」アンヘグは言った。
若くて、むてっぽうなこともあるが、ガリオンはばかではなかった。かれらの話の内容がなんらかの形でかれと結びついているのは明らかだったし、謎めいたかれの素姓とも大いに関係がありそうだった。耳をそばだてている事実を隠すために、ガリオンは不思議な風合いの黒革でとじた小さな本を手にとった。開いてみたが、さし絵も彩飾もなく、妙に薄気味の悪いクモの巣みたいな字体が並んでいるばかりだった。
かれの行動をいつでも見通しているらしいポルおばさんがじろりとかれを見て、鋭く言った。
「何してるの?」
「見ているだけだよ。読めないんだ」
「すぐ下へおきなさい」
アンヘグ王が微笑した。「どうせ読めやしないよ、ガリオン。それは古代アンガラク語で書かれているんだ」
「あのけがらわしいもので何をやってるの?」ポルおばさんはアンヘグに訊いた。「あなたがた全員あれが禁書なのは知っているはずよ」
「ただの本じゃないか、ポル」ミスター・ウルフが言った。「許可が与えられなければ、それにはなんの力もないさ」
「そのうえ」と、アンヘグが考え深げにこめかみのあたりをこすりながら言った。「その本はわれわれの敵の精神を知る手掛かりを与えてくれる。知るというのはいつだってためになる」
「トラクの精神を知ることなどできるものですか」ポルおばさんは言った。「かれに対して自己を開くのは危険だわ。何が起きているかもわからないうちに、かれはあなたを毒殺することもできるのよ」
「わしはその危険はないと思う」と、ウルフが言った。「アンヘグの精神はよく訓練されている。トラクの本にしかけられた罠をよけるぐらいなんでもない。なんといってもみえすいた罠だからな」
アンヘグは部屋の向こうにいるガリオンを見て手招きした。ガリオンは部屋を突っきってチェレクの王の前に立った。
「きみはよく気がつく若者だ、ガリオン」アンヘグは重々しく言った。「きょうはよくやってくれたな。お礼といっちゃなんだが、仕事がほしかったらいつでもわたしを訪ねてくれたまえ。チェレクのアンヘグはきみの友人だよ」かれが右手をさしだしたので、ガリオンは何も考えずに右手でそれを握った。
アンヘグ国王の目がきゅうに大きくなったかと思うと、顔からかすかに血の気がひいた。かれはガリオンの手を裏返して、少年のてのひらの銀白のしるしを見おろした。
そのとき、ポルおばさんの手がついと伸びてガリオンの手をぎゅっとつかみ、アンヘグの手からそれをもぎ放した。
「では本当なんだな」アンヘグは低くつぶやいた。
「もうたくさんだわ。この子を混乱させるのはよして」ポルおばさんの両手はまだガリオンの右手をしっかりつかんでいた。「さあ、いらっしゃい。荷作りを終わらせてしまいましょう」それだけ言うと、彼女は回れ右をしてガリオンを部屋から連れだした。
ガリオンの頭はめまぐるしく回転していた。かれの手のしるしにアンヘグをあれだけ驚かせる何があるのだろう? そのあざが遺伝的なものであるのは知っていた。昔ポルおばさんが、かれの父親の手にも同じしるしがあったと言っていた。だがどうしてそれがアンヘグの関心をひくのか? 謎は深まるばかりだった。かれは無性にわけが知りたくなった。両親について、ポルおばさんについて――一切について知らなければならなかった。知って傷つくような解答なら傷つくしかない。少なくとも知らないままではなくなる。
翌朝は快晴で、かれらは暗いうちから波止場へ向けて宮殿を出発した。全員がソリの待つ中庭に集合した。
「こんな寒いところへ出てくる必要はないぞ、メレル」ソリの隣りに乗りこんできた毛皮にくるまった妻にバラクは言った。
「閣下が無事に船にお乗りあそばすのを見届ける義務がございますから」メレルは頭をつんとそらして答えた。
バラクは溜息をついた。「好きにするさ」
アンヘグ国王とイスレナ王妃が先頭となって、数台のソリは中庭から雪のつもった通りへとびだした。
太陽がまぶしく、空気はさわやかだった。ガリオンはシルクとヘターと一緒に黙りこくって乗っていた。
「どうしてそんなにおとなしいんだ、ガリオン?」シルクが訊いた。
「理解できないことがここでたくさん起きたんだもの」
「なんでも理解できる人間などいやしないよ」ヘターがちょっと格言めいたことを言った。
「チェレク人は荒っぽくて不機嫌な連中なのさ」とシルクが言った。「自分のことさえわかっていないんだ」
「チェレク人のことだけじゃないんだ」ガリオンは口ごもりながら言っだ。「ポルおばさんやミスター・ウルフやアシャラクや――なにもかも。いろんなことがあっというまに起きて、頭の整理がつけられないんだ」
「出来事というのは馬のようなものだよ」ヘターが言った。「走りさってしまうこともある。だがしばらく走ったあとで、また歩きだす。そのときには、すべてを組み合わせて考える時間ができるものだ」
「そうだといいけど」ガリオンは疑わしげに言って、また黙りこんだ。
ソリは角を曲がり、ベラー神殿の前の大きな広場にはいった。またもあの目の見えない老女がいて、ガリオンはなかばそれを期待していた自分に気づいた。老女は神殿の階段の上に立って杖をふりあげた。不思議にも、ソリを引いていた馬たちがせきたてる御者を無視して、ふるえながら立ちどまった。
「ほうい、偉大なるお方」と盲目の老女は言った。「道中ご無事でありますように」
ガリオンの乗ったソリが神殿の階段の一番近くでとまっており、老女はかれに話しかけているように思えた。ほとんど考えもしないでかれは答えた。「ありがとう。でもどうしてぼくのことをそう呼ぶのかな?」
老女は問いかけには耳もかさず、深々と頭をさげて命令するように言った。「わたしめをお忘れなきよう。遺産を相続なされたときは、マルテを思いだしてくだされ」
老女がそう言ったのはそれで二度めだった。ガリオンの好奇心ははげしくかきたてられた。
「遺産て、どんな?」
しかしバラクがたまりかねたように怒声を放って、毛皮のローブをもどかしげに脱ぎすてるや剣をぬいた。アンヘグ王もソリからおりようとしていた。荒けずりな顔が憤怒のあまり鉛色になっている。
「およしなさい!」近くでポルおばさんの鋭い声がした。「わたしがひきうけるわ」彼女はマントの頭巾をうしろへ払いのけ、よく通る声で言った。「ききなさい。どうやらおまえはその見えない目で多くのことを見すぎるようね。ひとつわたしがいいことをしてあげよう。それ以上闇と闇から生まれでるろくでもない幻に悩まされないように」
「やりたきゃあたしをうちすえるがいい、ポルガラ」と、老女は言った。「あたしは見えるものを見るのさ」
「うちすえるどころか、贈り物をあげるのよ、マルテ」そう言うと、ポルおばさんは束の間奇妙なしぐさで片手をあげた。
ガリオンはそれが起きるのをまざまざと見た。あとになって、あれはすべて目の錯覚だったのだと自分を納得させようにも不可能なほどだった。マルテの顔をまっすぐ見ていたかれは、コップの内側を流れ落ちるミルクのように白い膜が目から消えてなくなるのをまのあたりにした。
老婆が凍りついたようにその場に立ちすくんでいるあいだに、両眼をおおっていた膜から緑の瞳があらわれた。そのとき彼女が悲鳴をあげた。マルテは両手を持ちあげてそれを見ると、また悲鳴をあげた。筆舌に尽くしがたい喪失を嘆く悲痛な悲鳴だった。
「何をなさったんですの?」イスレナ王妃がたずねた。
「目をとり戻してやったのよ」ポルおばさんは再びソリに腰をおろして、毛皮のローブの乱れを直した。
「そんなことがおできになるの?」蒼白な顔をしたイスレナは弱々しく訊いた。
「あなたはできない? 簡単なことよ、じっさい」
「でも」と、ポレン王妃が反論した。「目は見えるようになったけれど、彼女はもうひとつの視力を失ってしまうんでしょう?」
「でしょうね。けれど、そんなのは些細な代償だわ、そうじゃない」ポルおばさんは言った。
「じゃ、彼女はもう魔女じゃなくなるのね?」ポレンはさらに言った。
「いずれにしても、あまりいい魔女ではなかったのよ。視力も曇って不確かだったわ。このほうがいいのよ。これでもう幻で彼女自身や他人を悩ませることもないでしょう」卒倒せんばかりの妃のかたわらで、畏怖にうたれて石のように坐っているアンヘグ王を見やると、ポルおばさんは静かに訊いた。「行きましょうか? 船が待っているわ」
その言葉に馬たちは眠りからさめたように前方へとびだし、ソリは雪をけちらしてみるみる神殿から遠ざかった。
一度だけ、ガリオンはちらりとうしろをふりかえった。老女マルテは神殿の階段の上に立ち、広げたふたつの手を見ながら、こらえきれずにすすり泣いていた。
「われわれは奇蹟を目撃する特権に恵まれたんだ、友だち」とヘターが言った。
「しかしな、あの婆さんはさほど喜んでいなかったぞ」シルクが皮肉っぽく言った。「ポルガラを怒らせないことをおぼえておこう。彼女のおこす奇蹟は両刃の剣らしいからな」
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21[#「21」は縦中横]
一行のソリが石の埠頭の近くで停止したとき、波止場の冷たい水面には朝日が低く斜めに射してきらきらと光っていた。もやい綱につながれて揺れたりひっぱられたりしているグレルディクの船のそばで、それより小型の船が一艘、やはりじれったそうに待っている。
ヘターがソリをおりて、チョ・ハグとシラー王妃に話をしに行った。三人は自分たちのまわりに他人のはいりこめぬ垣根のようなものをはりめぐらして、静かに、真剣に話しあっていた。
イスレナ王妃はやや平静をとり戻し、背筋をぴんと伸ばしこわばった笑みをうかべてソリに坐っている。アンヘグがミスター・ウルフと話をしに行ったあと、ポルおばさんは寒い波止場を横ぎってチェレクの王妃のソリのそばで足をとめた。
「わたしがあなたなら、イスレナ、別の趣味を見つけるわ」彼女はずばりと言った。「魔法の技術にかんするあなたの才能には限りがあるし、遊び半分にやるには危険な領分なのよ。自分のしていることがわからないと、とんでもないことになるわ」
王妃は黙ってポルおばさんを見つめた。
「そうそう、もうひとつ。熊神崇拝とは縁をきるのが一番いいと思うわよ。夫の政敵とつきあうなんて王妃にはあるまじき行為だわ」
イスレナの目が大きくなった。「アンヘグは知っていますの?」と傷ついた声でたずねた。
「知っていてもわたしは驚かないわ。かれは見かけよりずっと利口よ。あなたは裏切りの一歩手前にいるのよ。赤ん坊を何人か生むことね。くだらないことに時間を費したり、厄介事に足をつっこんだりしないですむわ。もちろんこれはほんの一案だけれど、よく考えたほうがいいんじゃなくて。訪問できて楽しかったわ。おもてなしありがとう」ポルおばさんはそう言ってきびすを返し、歩きさった。
シルクが低く口笛を吹いた。「これで少しよめてきたぞ」
「よめたって、何が?」ガリオンは訊いた。
「近頃ベラー教の高僧がチェレクの政治にちょっかいを出しているんだ。どうやら考えていた以上に宮殿に浸透しているらしい」
「王妃の手びきで?」ガリオンはびっくりしてたずねた。
「イスレナは魔法という考えにとりつかれている。熊神崇拝者たちのおこなうある種の儀式が、彼女みたいなだまされやすい人間には一種神秘的に見えるんだろうよ」シルクはローダー王が他の王たちやミスター・ウルフとしゃべっているほうをすばやく見てから、大きく息を吸い、「ポレンに話しに行こう」と、先に立って、向こうで寒々とした海を眺めている金髪の小柄なドラスニアの王妃に歩みよった。
「妃殿下」と、シルクはうやうやしく声をかけた。
「親愛なるケルダー」ポレン王妃はにっこり笑いかけた。
「わたしにかわって、おじにある情報を伝えていただけますかな?」
「もちろん」
「イスレナ王妃がいささか軽率なことをしたらしい」シルクは言った。「このチェレクで熊神崇拝とかかわりを持っているんですよ」
「まあ。アンヘグは知っているの?」
「はっきりしません。知っていれば認めはしないでしょう。たまたまガリオンとわたしは彼女がポルガラに戒しめられているのを聞いたんでね」
「それが効くといいわね」ポレンは言った。「深入りしすぎれば、アンヘグとしても手を打たなくてはならないでしょうし、そうなったら悲劇だわ」
「ポルガラは手厳しかった。イスレナは言われたとおりにするだろうが、おじに忠告していただきたい。かれはこの種のことを耳に入れておいてもらうのが好きですからね」
「話しておくわ」
「ボクトールとコトゥの熊神教支部にも目を光らせておくようほのめかすといいかもしれないな。こういうことはたいがいつながりがあるから。熊神崇拝はほぼ五十年前に禁止されているんです」
ポレン王妃は重々しくうなずいた。「必ず伝えるようにするわ。わたしの家来のいく人かを熊神教に潜入させてあるの。ボクトールに帰ったらすぐかれらと話をして、何が進行中かたしかめるわ」
「あなたの家来? もうそんなことまで?」シルクはひやかし半分にたずねた。「目をみはる成長ですな、王妃。あなたがわれわれ同様堕落する日もそう遠くはない」
「ボクトールは陰謀でいっぱいなのよ。ケルダー」王妃はきっとなって言った。「熊神崇拝だけじゃないわ。わたしたちの都市には世界中から商人が集まってくるし、その半数はスパイなんですからね。わたしは自分を――夫を守らなくちゃならないのよ」
「あなたのしていることをローダーは知っているのかな?」シルクはずるそうに訊いた。
「知ってますとも。わたしに最初の十二人のスパイをくれたのはかれなのよ――結婚のおくりものとしてね」
「なんともはや、まさしくドラスニア的だな」
「実際的なだけよ、結局。夫は他の王国に関連のある問題に関心があるの。だからわたしが自国の事柄を監視して、そういうことに彼が頭をわずらわさないようつとめているのよ。わたしの作戦はローダーのほど控えめではないけれど、おかげでたいがいのことには通じていられるわ」彼女はまつげの下からいたずらっぽくシルクを見た。「あなたがボクトールに戻って落ちつく決心をしたら、仕事を見つけてあげられてよ」
シルクは笑った。「このところ、世間は好機にあふれているとみえるな」
王妃は真顔になってかれを見つめた。「いつ帰国するつもり、ケルダー? いつになったらこの風来坊のシルクを返上して、あなたの属するところへ戻ってくるの? 夫はあなたの不在をとてもさみしがっているわ。それにこんなふうに世界を旅してまわるより、夫の顧問になるほうがよほどドラスニアに奉仕できるはずよ」
シルクは目をそらし、明るい冬の太陽をまぶしげに眺めた。「まだだめです。妃殿下」と、かれは言った。「ベルガラスもわたしを必要としている。たった今われわれがしているのは、きわめて重要なことなんです。おまけに、わたしはまだ腰をすえる気はない。まだまだゲームはおもしろいところでね。われわれ全員が年をとりすぎて、ゲームどころではなくなれば、いつの日か帰国するかもしれないが――わからないな」
彼女は溜息をついた。「わたしもあなたがいなくてさみしいのよ、ケルダー」と、ポレンはそっと言った。
「かわいそうに、さみしがりやの小さなお妃さま」シルクはからかうように言った。
「あなたってどうしようもない人ね」ポレン王妃は小さな足で地団駄をふんだ。
「人は全力を尽くすもんでね」シルクはにやにやした。
ヘターは両親を抱擁し、アンヘグ王が提供した小型船の甲板にとびのった。埠頭に船をつないでいる太いロープを水夫たちがほどくと、ヘターは呼びかけた。「ベルガラス、二週間したら、ボー・ワキューンの廃墟でお目にかかりましょう」
「かの地でな」ミスター・ウルフは答えた。
水夫たちが埠頭から船を押し出して、湾内へ漕ぎだしはじめた。ヘターは長い髪を風になびかせて、甲板に立ち、一度だけ手をふると、背中を見せて海のほうを向いた。
グレルディク船長の船の脇腹から雪のつもった石の埠頭に長い踏み板が渡された。
「乗船するとするか、ガリオン?」とシルクが言った。二人はゆらゆらする踏み板をつたって甲板におり立った。
「娘たちによろしく伝えてくれ」バラクが妻に言った。
「かしこまりました。閣下」メレルは例によって固苦しい調子で言った。「ほかに何かございますか?」
「おれは当分戻らない。今年は南の畑にカラスムギを植え、西の畑は休ませておくように。北の畑にはおまえが一番いいと思うことをやればいい。それから、地面の霜が完全に消えるまで、家畜を高原の牧草地には移動させるな」
「旦那さまの土地と家畜には細心の注意を払いますわ」
「おまえの土地と家畜でもあるんだ」
「旦那さまのお望みのままに」
バラクは溜息をついて悲しげに言った。「永遠にその調子でいるつもりか、メレル?」
「なんでございましょう?」
「もういい」
「ご出発の前にわたくしを抱擁なさいますか?」
「なんのためだ?」バラクは船にとびうつるや、たちまち甲板の下にもぐった。
ポルおばさんは船に乗ろうとして足をとめ、いかめしい顔つきでバラクの妻を凝視した。何か言おうとしかけて、いきなり彼女は笑いだした。
「おもしろいことでもございまして、レディ・ポルガラ?」メレルはたずねた。
「おもしろいことこのうえなしだわ、メレル」ポルおばさんは謎めいた微笑をうかべて言った。
「聞かせていただけまして?」
「ええ、ええ、メレル。でも、あまりすぐ教えてだいなしにしたくはないの」ポルおばさんは再び笑い声をあげると、船へ伸びた踏み板に足をかけた。彼女を支えようとダーニクが片手をさしだし、二人はそろって甲板におりた。
ミスター・ウルフは王のひとりひとりとかわるがわる握手をしてから、かろやかな身ごなしで船へ渡った。かれはしばしのあいだ甲板にたたずんで、雪の衣を着たヴァル・アローンの古都と、その後方にそびえるチェレクの山並みを見ていた。
「さらば、ベルガラス」アンヘグ王が呼びかけた。
ミスター・ウルフは会釈して言った。「吟遊詩人のこと、忘れんようにな」
「まかせてくれ」アンヘグは約束した。「幸運を祈る」
ミスター・ウルフは歯を見せて笑うと、グレルディクの船の船首のほうへ歩きだした。ガリオンはとっさにあとについていった。解答を求める質問がいくつもあったし、答えを知っている者がいるなら、老人こそその人だったからだ。
「ミスター・ウルフ」二人がそそり立つ船首へたどりついたとき、ガリオンは切りだした。
「なんだね、ガリオン?」
どこからはじめたらよいかわからなかったので、ガリオンは遠回しに問題に接近した。「ポルおばさんはどうやって年寄りのマルテの目を見えるようにしたの?」
「〈意志〉と〈言葉〉でだ」激しい突風に長いマントをはためかせて、ウルフは言った。「むずかしいことではない」
「わからないな」
「ただ、あることが起きるよう願うのだ。そうしておいて、それを言葉にして口に出す。願う意志がじゅうぶん強ければ、それが起きるというわけだ」
「それだけ?」ガリオンはやや失望して訊いた。
「それだけさ」
「その言葉って、魔法の言葉なの?」
ウルフは笑って冬の海に強い光を放っている太陽に目をこらした。「いや。魔法の言葉などありはしない。そう思っている人々もいるが、それはまちがいだ。グロリムたちは奇妙な言葉を用いるが、あれだって本当は必要ない。どんな言葉でも用は足りるのだよ。重要なのは〈言葉〉ではなく、〈意志〉なのさ。〈言葉〉は〈意志〉を伝える手段にすぎん」
「ぼくにもできる?」ガリオンは期待をこめてたずねた。
ウルフはかれをじっと見て言った。「どうかな、ガリオン。はじめてそれをやったときのわしは、おまえといくらもちがわない齢だったが、すでに数年間アルダーとともに生活していたのだ。その差はあるだろう」
「何が起きたの?」
「|〈師〉《マスター》がわしに岩を動かしてもらいたがってな」ウルフは言った。「邪魔だと思われたらしい。わしはそれをどかそうとしたが重すぎてびくともしなかった。しばらくするとわしは腹がたって、岩に動けと命令したのだ。岩は動いた。わしはちょっとびっくりしたが、|〈師〉《マスター》はさほど異常なこととは思われなかったようだ」
「動け≠チて言っただけ? それだけ?」ガリオンは信じられなかった。
「それだけだ」ウルフは肩をすくめた。「あんまり簡単だったので、それまで思いつかなかったのがふしぎなほどだったよ。当時わしはだれにでもできることだと思ったが、あのとき以来人間は大きく変わってしまった。おそらくもはや不可能だろう。断言はできんがね」
「魔法って長たらしい呪文やふしぎなサインやなんかを使わないとできないものだとずっと思ってたよ」
「そういうのは手品師やいかさま師の小道具さ」ウルフは言った。「かれらはもっともらしい見せ場を作って、怯えた単純な人々を感心させるが、呪文やまじないなんて本当のものとはなんの関係もない。本当のものはすべて〈意志〉の中にあるのだ。〈意志〉に焦点を合わせて〈言葉〉をとなえれば、それが起きる。ある種の手ぶりが役立つ場合もあるが、じっさいはそれも不要なのだ。おまえのおばさんは何か起こすとき、手ぶりを加えたいらしいがね、わしはもう何百年もその癖をやめさせようとしているのさ」
ガリオンは目をぱちくりさせた。「何百年も[#「何百年も」に傍点]?」と喘ぐように言った。「おばさんていくつなの?」
「見かけより年をとっているな。しかし、ご婦人に齢のことを聞くのは失礼だぞ」
ふいにガリオンは胸にぐさりとくるようなむなしさをおぼえた。恐れていた最悪のことが、たった今裏づけられてしまったのだ。
「それじゃ、ぼくの本当のおばさんじゃないんだね」力のない声でガリオンは訊いた。
「どうしてそんなことを言うんだね?」
「だってそのはずがないよ。これまでずっとおとうさんの姉さんかと思っていたけれど、そんなにすごい齢ならおばさんであることは不可能だもの」
「おまえはその不可能って言葉がよほど好きなんだな、ガリオン」ウルフは言った。「そこに至るまでを正しく理解すれば、なにひとつ――というより、少なくともほとんど――現実には不可能ではないのだ」
「どうして? どうしておばさんであるはずがあるのか、って意味だけど」
「それなら言おう。ポルガラは厳密にはおまえのおとうさんの姉さんではなかった。おとうさんとのつながりはすこぶる複雑でな。ポルはかれのおばあさんの姉さんだったんだ――こんな言いかたがあるとすれば、かれの最後のおばあさんのな――むろん、おまえのひいおばあさんの姉さんでもある」
「じゃ、ぼくの大おばさんに当たるんだね」ガリオンの心にかすかな希望の光がさした。少なくとも……これで無縁ではなくなったわけだ。
「彼女に関してその正確な表現を使えるかどうかはわからんな」ウルフはにやりとした。「怒るかもしれん。それにしてもそんなことにどうしてそう関心がある?」
「彼女がぼくのおばさんだというのはポルおばさんがただ口で言っただけのことで、本当はなんのつながりもないんじゃないかと思ったんだ」ガリオンは言った。「今までずっとそのことが心配だったんだよ」
「どうして?」
「説明しにくいことなんだけど、あの、ぼくは自分がだれで、何人なのか本当に知らないんだ。シルクはぼくはセンダー人じゃないっていうし、バラクはリヴァ人みたいに見えるっていうしね――そのものじゃないにしても。ぼくはずっとセンダー人のつもりでいたけれど――、ダーニクみたいな――そうじゃないらしいんだよ。両親のことも、かれらがどこの出身かというようなことも全然知らない。だからポルおばさんと血がつながっていないとしたら、この世に肉親はひとりもいないことになる。ひとりぼっちだよ。それがたまらなくいやだったんだ」
「しかしもう大丈夫だ、だろう? おまえのおばさんは本当におまえのおばさんなんだ――少なくともおまえの血は彼女の血と同じだ」
「教えてくれてうれしいよ。そのことが気になっていたんだ」
グレルディクの水夫たちがもやい綱をといて、船を埠頭から押し出しにかかった。
「ミスター・ウルフ」妙な考えがうかんで、ガリオンは口を開いた。
「なんだ、ガリオン?」
「ポルおばさんは本当にぼくのおばさん――というか、大おばさんなの?」
「そうさ」
「そしておばさんはミスター・ウルフの娘なの?」
「そうであることは認めねばならんな」ウルフは皮肉っぽく言った。「ときおりそのことは忘れようと努めるんだが、否定はできん」
ガリオンは大きく息を吸って、真っ向からたずねた。「もし彼女がぼくのおばさんで、ミスター・ウルフがおばさんのおとうさんなら、ミスター・ウルフはぼくのおじいさんてことになるんじゃない?」
ウルフは驚いた表情でガリオンを見つめた。「そりゃそうだな」と突然笑いだし、「ある意味ではそうなる。今までそんなことは考えもしなかったよ」
ガリオンは急に目にいっぱい涙をためて、衝動的に老人を抱きしめた。「おじいさん」とその言葉を押しだすように口にした。
「よしよし」ウルフの声が妙に不鮮明になった。「じつに驚くべき発見だ」かれはぎごちなくガリオンの肩をたたいた。
二人ともガリオンの突然の愛情表現にいささかどぎまぎし、無言のまま立ちつくしてグレルディクの水夫たちが船を湾内へ漕ぎだすようすを見つめた。
「おじいさん」しばらくたってガリオンは言った。
「なんだね?」
「ぼくのおかあさんとおとうさんは本当はどうなったの? どんなふうに死んだのかってことだけど?」
ウルフの顔がけわしくなった。「火事があったのだ」と短く言った。
「火事?」言語に絶する苦しみを思いうかべて、その恐るべき考えにガリオンの想像力は萎縮した。彼は弱々しい声で言った。「どんなふうに起きたの?」
「あまり愉快な話ではない」ウルフは暗い顔で言った。「本当に知りたいのか?」
「知らなけりゃならないんだ、おじいさん。両親についてわかることは全部知らなけりゃならないんだよ。なぜかわからないけれど、すごく重要なことなんだ」
ミスター・ウルフは溜息をついた。「そうだな、ガリオン。たしかにそうだ。ではよかろう。その質問をする年齢になっていれば、答えを聞いてもかまわんだろう」寒風をさけて、ウルフはベンチに腰をおろし、隣りを軽くたたいた。「こっちへきておすわり」
ガリオンはベンチに腰かけてマントをひきよせた。
「さてと」ウルフは思案げにあごひげをしごいた。「どこからはじめるかな?」しばらく考えこんでようやくかれは口を開いた。「おまえの一族は大変古い家柄なのだ、ガリオン。そして多くの歴史ある一族の例にもれず、何人か敵がいる」
「敵?」ガリオンはびっくりした。思ってもみなかったことだった。
「珍しいことではない」と、ウルフは言った。「われわれが他のだれかの気にいらんことをすれば、かれらはわれわれを憎むようになる。憎悪は長い歳月のあいだに増大し、ついにはほとんど宗教じみてくるのだ。かれらはわれわれだけでなく、われわれとつながりのあるものをことごとく毛嫌いする。とにかく、昔おまえの一族の敵は危険きわまりない存在になってな、そこで、おばさんとわしは一族を隠す以外守る道はないと判断したのだ」
「洗いざらい話してくれていないね」ガリオンは言った。
「ああ、いないとも」ウルフは穏やかに言った。「今教えてかまわないことだけを話しているのだ。ある事柄を知れば、おまえのふるまいは変わってくるだろう。そして人々がそれに気づく。もうしばらく人目につかずにいるほうが安全なのだ」
「無知のままでいろというんだね」ガリオンはとがめるように言った。
「よろしい、では無知といおう。話を聞きたいのか、それとも口論をしたいのかね?」
「ごめんなさい」
「気にせんでいい」ウルフはガリオンの肩をたたいた。「おばさんとわしはいささか特別な意味でおまえの一族と関係があるから、当然おまえの安全には無関心でいられなかった。だからおまえの一族を隠したのだ」
「じっさいに一族を全部隠すことができるの?」
「一族といっても数は多くなかった。あれやこれやの理由で、とぎれずに続いた家系はただひとつでな――いとこだのおじだのといったものはなかった。夫と妻とひとりきりの子供を隠すのはそれほどむずかしいことではない。われわれはもう何百年もそうやってきた。トルネドラ、リヴァ、チェレク、ドラスニア――あらゆる場所にわれわれはかれらをかくまった。かれらの暮らしはつましかった――たいがいは職人として、平凡な農夫に身をやつしたこともあった――そういう人間を人は一顧だにせんからな。いずれにせよ、二十年ばかり前まではすべて順調だった。われわれはおまえのおとうさんのゲランをアレンディアのある場所から東部センダリアの小さな村へ移した。ダリネから南東へ六十リーグほどはなれた山あいの村だ。ゲランは石工だった――このことは前に一度言わなかったか?」
ガリオンはうなずいた。「昔ね。おじいさんはおとうさんのことが好きで、ときどき家を訪ねたって。それじゃ、ぼくのおかあさんはセンダー人だったの?」
「いや。イルデラはじつをいえばアルガー人だった――〈族長〉の次女だったのだ。二人が適齢期になったとき、おまえのおばさんとわしがイルデラをゲランに紹介したんだよ。よくあるたぐいのことが起き、二人は結婚した。そして一年余りたっておまえが生まれたのだ」
「火事はいつ起きたの?」
「これから話す。一族の敵のひとりは長いことおまえの両親を捜していた」
「どのくらい長く?」
「何百年もだ」
「ということは、敵も魔術師だったんだね?」ガリオンはたずねた。「つまり、そんなに長生きできるのは魔術師しかいないもんな、でしょう?」
「そのたぐいの能力は持っている」と、ウルフは認めた。「だが魔術師というのは誤解を招きやすい言葉でな。じっさいわれわれは自分のことをそうは呼ばん。他人はいざしらず、われわれは必ずしもそういうふうには考えておらんのだ。魔術の実際を本当に理解していない人々には便利な言葉だがね。とにかく、この敵がついにゲランとイルデラの住まいをつきとめたとき、おばさんとわしはたまたま留守にしていたのだ。やつはある朝、二人がまだ眠っている早い時間に家へやってくると、ドアというドア、窓という窓を封じこめ、火をつけた」
「家は石でできていると言ったはずだよ」
「たしかに。だが、本当に燃やしたかったら、石を燃やすこともできるのだ。火は普通以上に高温でなければならないが、それだけのことでな。ゲランとイルデラは燃える家から逃げだすすべがないのを知った。だがゲランは必死に壁の石を打ちぬき、イルデラがその穴からおまえを押し出したのだ。火を放った男はそれを待ちかまえていた。やつはおまえを拾いあげ、村から出ようとした。やつが何を考えていたのかわれわれにはよくわからなかった――おまえを殺すつもりだったのか、あるいは、その男なりの理由で生かしておこうとしたのかもしれん。いずれにせよ、わしがそこへ着いたのはそのときだった。火は消しとめたが、ゲランとイルデラはすでに息絶えていた。それからわしはおまえをさらっていった男を追いかけた」
「そいつを殺した?」ガリオンは激しい口調で訊いた。
「不要な殺生はしないようにしている」ウルフは言った。「殺人は出来事の自然な筋道をめちゃくちゃにしてしまう。そのときのわしには別の考えがあった――殺すことよりはるかに不快な思いつきがな」ウルフの目は氷のようだった。「だが結局、わしはそのチャンスを失った。やつがおまえをわしめがけて投げつけたからだ――おまえはほんの赤ん坊だったのだ――わしはおまえを抱きとめねばならず、そのすきにやつは逃げていった。おまえをポルガラに託したあと、敵を捜しに行ったが、いまだに見つけられずにいる」
「よかったよ、見つからなくて」ガリオンは言った。
ウルフはそれを聞いてちょっと意外そうだった。
「もっと大人になったら、ぼくが[#「ぼくが」に傍点]そいつを見つけだす。そいつのやったことに仕返しをするのはぼくであるべきだと思うんだ、そうでしょう?」
ウルフはいかめしい顔をしてガリオンを見つめた。「危険なことになりかねんぞ」
「かまうもんか。そいつの名前は?」
「それを教えるのはしばらくしてからのほうがよいと思う。準備ができていないうちにがむしゃらに突っぱしるようなまねはしてほしくない」
「でも、そのうち教えてくれるんだね?」
「時機がくればな」
「とても重要なことなんだよ、おじいさん」
「そうだな、よくわかる」
「約束してくれる?」
「どうしてもというならば。わしが教えなくても、おまえのおばさんならきっと教えてくれる。あれもおまえと同じ気持でいるのだ」
「おじいさんはちがうの?」
「わしは年をとりすぎている。物事を見る目がいくぶんちがうのさ」
「ぼくはまだそれほど年をとっていない」ガリオンは言った。「おじいさんにできるようなことができるわけもない。だからそいつを殺すことだけで満足しなけりゃならないんだ」かれは立ちあがると、煮えたぎる怒りをもてあましたように行ったりきたりしはじめた。
「うまく言えそうにないが、ことが終わってしまえばおまえの感じかたもちがってくると思う」
「とうていありそうにないよ、そんなこと」まだうろうろと歩きながらガリオンは言った。
「そのうちわかる」
「話してくれて感謝するよ、おじいさん」
「どうせいずれはわかることだ」老人は言った。「他のだれかからゆがんだ話を聞かされるより、わしが話すほうがおまえのためにはよかったよ」
「ポルおばさんのこと?」
「ポルガラは故意におまえにでたらめを言ったりはしないだろうが、あれは物の見方がえらく主観的だからな。それが認識をくもらせる場合があるのだ。わしは長い目で物事を見るように努めているのだよ」ウルフは皮肉っぽく笑った。「それがわしにできる唯一の物の見方なのだ――現状では」
ガリオンは朝日を浴びて心なしか光を放っているように見える白髪白ひげの老人を見つめた。
「永久に生きているのってどんな感じなの、おじいさん?」
「はて」ウルフは言った。「永久に生きたことがないんでな」
「ぼくの言う意味わかっているくせに」
「人生の質はそうちがわんよ。われわれはみな必要な長さだけ生きるのだ。わしの場合はたまたまやるべきことにばかに長い時間がかかったのさ」かれはいきなり立ちあがった。「話が陰気くさくなってきた」
「ぼくたちがしているこのことはとても重要なんでしょう、おじいさん?」ガリオンはたずねた。
「今のところ、世界一重要だ」
「ぼくはあまり役に立ちそうもないね」
少しのあいだウルフは重々しくガリオンを見つめたかと思うと、片腕でかれの肩を抱くようにして言った。「一切が終わる前に、おまえは意外な成りゆきに驚くかもしれんぞ」
やがて二人はふり返って、右側をすべるように流れる雪にうもれたチェレクの海岸を船首から眺めた。水夫たちの漕ぐ船は南のカマールへ、その向こうに待ちうけるものへと向かっていた。
[#改丁]
解 説
[#地から2字上げ]泉 本 和
本書『予言の守護者』Pawn of Prophecy (1982) は、当年五六歳となる期待の新鋭(!)デイヴィッド・エディングスの作家としての二番目の作品であり、初めて取り組んだエピック・ファンタジイの巨篇〈ベルガリアード物語〉の第一巻である。
ご存じの読者諸氏も多いと思われるが、米国におけるここ十年ほどのファンタジイ新作生産量の増加は凄まじいものがある。一九八七年度においてはその新作長篇の数が一気に二百の大台を大幅に突破し、二六三冊にも達した。ちなみにこの数は同じ年のSF新作長篇出版点数に肉薄する数字である。当然のこと、これまではSF中心の出版であった各社はいずれも本格的にファンタジイ路線を敷き、量産態勢にはいっている。ベイン・ブックスなどは、デル・レイ・ブックスをまねてファンタジイ部門専用のマークを表紙に付け始め、同路線の強調を図っている。
今世紀当初より着実に出版され続け成長してきたSFとちがって、ファンタジイはごく最近まで商業ベースに乗らない小説分野とされて来た。このため、現在も書き続けている往年の作家やベテラン・ライターたちの数はたかだか知れたもので、先述の数字のほとんどは七十年代、八十年代にはいってから登場してきた新人たちの作品で占められている。さらに驚くべきは、この二六三冊の中には全くの新人の初作が高いパーセンテージで含まれているという現実だ。次から次へと新人が降ってわいたように現われて来るわけで、とても名前さえ覚えきれない。
この米国における新しいファンタジイの旗手たち――その主だったところから一部挙げてみよう。すでにFT文庫におさめられている、〈魔法の歌〉三部作のR・A・マカヴォイ、『ダークエンジェル』のメレディス・アン・ピアス、〈アイルの書〉のナンシー・スプリンガーをはじめ、未訳では、Bronwyn's Bane など絢らんたる大冒険活劇を得意とするエリザベス・スカボロウ、The Summer Tree に始まるトールキンの影響下にある〈フィオナバー〉三部作のゲイ・ガブリエル・ケイ、A Storm Upon Ulster をはじめとして翳りのあるケルト神話を得意とするケネス・C・フリント、The Golden Grove など華麗な作風のナンシー・クレス、〈ダルワース〉三部作や Dragonsbane など男性顔負けの大型活劇を書くバーバラ・ハンブリー……等々、邦訳の期待される作家や作品にあふれている。
本書のデイヴィッド・エディングスも長らく邦訳の待たれていた注目の大型新人の一人で、この全五巻よりなる〈ベルガリアード物語〉はトールキンの『指輪物語』の流れをくむ、待望久しい本格的なエピック・ファンタジイの大作である。
近年の英米のファンタジイには〈何部作〉とかシリーズものが驚くほど多い。当初は単発ものとして発表されていても、少し売れ行きがよかったり、好評だったりすればすぐに続篇が出る。また、〈三部作〉などとうたってはいても、第一巻で本来の物語は一応完結し、第二巻以降は後日談かルーズな続篇……といった雑なケースも数多く見られる。そういった中で、この〈ベルガリアード物語〉は、当初から全五巻を意図してかっちりと構成された真の意味での大長篇で、それだけにプロットも展開もしっかりしていて重量感にあふれている。
さて、その開巻となる本書『予言の守護者』は、『アローンの書』と称するプロローグによってその雄大な過去の背景の一部を読者に開示しておいて、穏やかな農村風景から静かにスタートする。(――このプロローグの物語だけでも十分長篇となるだけの内容を持っている)だが、作者はこのプロローグで背景のすべてを明らかにはしないために、読者は主人公の少年とともに、半分謎に包まれたままで翻弄されながら読み進めなければならない。
センダリア国の農村に、ガリオンという名の少年が叔母ポルといっしょに平穏に暮らしていた。そこへウルフと呼ばれる謎の老人が彼らを訪れた頃から、静かだった農村を暗雲が覆い始める。そしてある夜更け、ウルフとポルはガリオン少年を隠すようにしながら、闇にまぎれて長いあいだ暮らした村をあとにして旅立った。何かを恐れ避けるかのように、そしてまた何者かの跡を追うがごとく……。彼らのあとをしつようにつけ、ガリオンをおそう黒い影……。――ウルフとはだれなのか? 叔母ポルとウルフとの関係は? そして彼らの目的は? プロローグで語られた物語とどこでどのように結びついていくのか?――物語の歯車はゆっくりと、しかし着実にまわり始め、その速度を速めていくのである。
この〈ベルガリアード〉各巻には、本巻同様のプロローグがついていて、ここで物語の重要な鍵となる遥かなる過去の背景が語られ、しだいにその全貌が朋らかになっていくように構成されている。――本巻終了後に残される疑問のいくつかは、第二巻以降のプロローグで明らかにされる。
ここで〈ベルガリアード物語〉全五巻の原題を掲げておこう。
1 Pawn of Prophecy (1982) 本書
2 Queen of Sorcery (1983)
3 Magician's Gambit (1983)
4 Castle of Wizardry (1984)
5 Enchanter's End Game (1984)
本書は、米国において、出版当初まずまずの好評で迎えられた程度だったが、続巻が出揃うにしたがい一般読者からの支持が高まり注目を浴びて、その評価も売れ行きもアップしていった。
ローカス紙の一九八二年六月号において、ファレン・ミラーは「――ともあれ、私は本書が気にいった。エディングスは良い作家だ。きっと(この物語は)巻を追うにしたがってぐっと盛り上がって行くものと期待される」と、本書の紹介を結んでいる。エディングスがその期待に応えたか否かは、全五巻の邦訳が出揃った時点で読者の皆さん自身でご判断いただきたい。
ちなみに、そのローカス紙のファンタジイ長篇部門の年間ベストでは、本作が一九八三年度の第十一位、第三作が八四年度の第十六位、そして、第四、五作がそれぞれ八五年度の第十二位と八位に入っている。その後も、この〈ベルガリアード〉五部作はロングセラーを続けており、現在もなお版を重ねている。先日、イギリスへ行く機会があり、ロンドンなどの書店をまわってみたが、第一巻の出版から五年を経た今も、各書店に〈ベルガリアード〉全五巻がきちんと何冊かずつ並べられていた。アメリカ本国のみならず、イギリスにおいても今もって高い人気を保っているようである。
ところで、本書の作者デイヴィッド・エディングスは、一九三一年、米ワシントン州スポケインに生まれ、シアトルの北部パゲット・サウンドで育った。一九五四年にオレゴン州ポートランドのリード・カレッジで人文科学の学士を取得し、さらに一九六一年にワシントン大学において同修士号を取得している。その後、アメリカ陸軍に在籍、ボーイング社の資料関係に勤務、食糧品店の店員、国語の教師を経て、ついに作家への転身を試み、今日に至っている。また彼はアメリカ合衆国各地で暮らした経験を持っていて、現在は妻リーとともに米北西部に住んでいるとのことである。
作家としてのデビューは、一九七三年、彼が四十二歳のときに、パトナム社から出版された High Hunt と題するコンテンポラリーな冒険小説で、残念ながらさほど評判にはならなかったようである(最近バランタイン・ブックスより再刊された)。ファンタジイへの関心はかなり以前からあったようで、初作から九年後の一九八二年、ついに〈ベルガリアード物語〉の第一部となる本書を書き上げ出版にこぎつけたわけである。
さて、本文を読む前にこの解説を読んでいる方々のために、これ以上本書の内容や物語の展開について触れるのはやめておこう。要するにあなたはただ読み始めればいい。あとはエディングスのとても新人とは思えないストーリー・テラーとしての卓抜した才能と力量が、読者をいつのまにか彼の創造したファンタジイ・ワールドへとさそい込み、主人公ガリオンとその追いつ追われつの冒険をともにさせながら、エンディングまで一気に読ませてしまうだろう。――そういった点では、本書はかのサスペンス小説界の巨星、ロバート・ラドラムの作品と共通項を持っているといえるかも知れない。そういえばラドラムが作家に転身したのも四十歳のときで、デビュー時の年齢も似通っている。
また、本書はとっつきやすさや読みやすさの点でも群を抜いており、初めてファンタジイに接しようという人たちにとっては絶好の人門書といえるだろう。
さて、〈ベルガリアード物語〉、次巻ではいかなる展開をみせるか? 今から首を長くしてお待ちいただきたい。
デイヴィッド・エディングスは、この〈ベルガリアード物語〉完結から三年の沈黙ののち、本八七年、構想も新たに、続篇〈マロリオン物語〉全五巻の執筆・刊行を開始した。そのタイトルは次のように発表されている。内容については、ガリオンの息子も登場するとだけ書いておこう。(2以降は未刊)
1 Guardians of the West (1987)
2 King of the Murgos (1988)
3 Demon Lord of Karanda
4 Sorceress of Darshiva
5 The Seeress of Kell
なお、アメリカにおいて近年群出してきた新しいファンタジイ作家と作品については、『幻想文学』第十六号(一九八六年秋季号)に「A Brave New Fantasy-World/アメリカン・ニュー・ファンタジイ・ライターとその作品」と題してまとめて紹介させていただいた。興味のあるかたは、ご一読いただければ幸いである。
底本:「ベルガリアード物語1 予言の守護者」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1988(昭和63)年 1月31日 発行
1997(平成9) 年 4月15日 八刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年02月11日作成
2006年08月09日校正
2009年01月31日校正
2009年02月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] ベルガリアード物語 1 予言の守護者 .zip iWbp3iMHRN 78,430,945 c86577d789cd975d983716ec61ac9352
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するしかないでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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注意点、気になった点など
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20〜24行
底本のレイアウトに近づけるため、青空文庫形式には沿わない文章中での無意味な改行を行っています。
314行 *この物語より短い浅薄な〜
底本ではこの文のフォントは通常文のより小さい。
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本56頁15行 そよおって
「よそおって」の誤植の気がするが、もしかしたら古い言い方?
底本79頁3行 あとじゃなくで
あとじゃなく「て」、の誤植…か?
底本81頁10行 エイルブリッグ
この節において、エイルブリッ「グ」で4回、エイルブリッ「ク」で3回。どちらかが誤植。原文があればすぐ分かるのだが…。
底本100頁5行 戸口にただずんでいた人影が
た「た」ずんでいた、の誤植?
底本334頁11行 必要とあらば即座に反応できるだろし
できるだろ「う」し、の誤植?
底本343頁8行 メリルが疑ぐり深そうに
メリルって誰だよ