エレニア記6 神々の約束
THE SAPPHIRE ROSE
デイヴィッド・エディングス David Eddings
嶋田洋一訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ヴァニオン卿《きょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)賢明にして|慈悲深く《グレイシャス》て
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)頭を剃ったがにまた[#「がにまた」に傍点]の小男
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[#挿絵(表紙/6.png)入る]
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目 次
第二部 総大司教(承前)
第三部 ゼモック
訳者あとがき
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神々の約束
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登場人物
[#ここから改行天付き、折り返して9字下げ]
スパーホーク………エレニア国のパンディオン騎士。エラナ女王の擁護者
カルテン……………パンディオン騎士。スパーホークの幼馴染
ベヴィエ……………アーシウム国のシリニック騎士
ティニアン…………デイラ国のアルシオン騎士
アラス………………サレシア国のジェニディアン騎士
セフレーニア………パンディオン騎士の教母。スティリクム人
クリク………………スパーホークの従士
タレン………………シミュラの盗賊の少年
ベリット……………パンディオン騎士団修練士
ヴァニオン…………パンディオン騎士団長
エラナ………………エレニア国の女王
ミルタイ……………タムール人の女戦士
ウォーガン…………サレシア国王
デレイダ……………総大司教近衛隊長
ドルマント…………大司教
エンバン……………大司教
オーツェル…………大司教
マコーヴァ…………大司教
ストラゲン…………盗賊の頭領
クリング……………ペロシアの馬賊のドミ(首長)
アニアス……………シミュラの司教
マーテル……………元パンディオン騎士
クレイガー…………マーテルの部下
アダス………………マーテルの部下
オサ…………………ゼモック国の皇帝
アザシュ……………ゼモックを統べる古き神
アフラエル…………新しい神々のなかでもっとも若い女神
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第二部 総大司教(承前)
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17[#「17」は縦中横]
その日の夕刻早く、カルテンとティニアンが引きずるようにしてサー・ナシャンの書斎に連行してきたクレイガーは、見るからによれよれだった。薄い髪は乱れ、無精髭が伸び、近眼の目は血走っている。両手は激しく震え、表情はみじめそのものだったが、そのみじめさは敵に捕まったためのものではなかった。二人の騎士はマーテルの手下を部屋の中央まで引きずってきて、そこに置かれた簡素な椅子に押しこんだ。クレイガーは震える両手の中に顔を埋めた。
「この状態ではろくに何も聞き出せそうにないな」ウォーガン王がうなるように言った。「こういう破目に陥ったことがあるからよくわかるのだ。ワインを少し持ってきてやれ。手の震えが止まれば、多少はましになるだろう」
カルテンがサー・ナシャンを見やると、小太りのパンディオン騎士館長は部屋の隅の豪華な戸棚を指差した。
「薬として備えてあるのですよ、ヴァニオン卿《きょう》」ナシャンは急いで言い訳した。
「もちろんだ」とヴァニオン。
カルテンは戸棚を開き、アーシウムの赤が入ったクリスタルのデキャンタを取り出した。大きなゴブレットいっぱいにワインを注ぎ、それをクレイガーに手渡す。半分かたは床にこぼれてしまったが、残りはどうにか飲みこむことができたようだ。カルテンはもう一杯注いでやり、さらにもう一度ゴブレットを満たした。手の震えがややおさまると、クレイガーは瞬《まばた》きをしてあたりを見まわした。
「どうやら敵の手に落ちたらしいな」その声は長年の飲酒ですっかりしわがれていた。「まあ戦争に運不運はつきものだ」そう言って肩をすくめる。
「おまえの状況はあまり芳《かんば》しいものではない」アブリエル卿が不気味に告知した。
アラスが砥石《といし》を取り出して、斧の手入れを始める。ひどく耳障りな音が響いた。
「なあ、おれは今ひでえ気分なんだ。メロドラマみたいな脅しはやめにしてくれ。こうして生き延びてきたんだ、状況はじゅうぶん理解してる。命と引き換えに協力させてもらうよ」クレイガーは弱々しくそう言った。
「いささか情けなくはないか」ベヴィエが鼻を鳴らす。
「もちろんそうさ、騎士殿。おれは情けない人間なんだ。知らなかったのか。実を言うと、おれはわざと捕まろうと思ってあんなところにいたんだ。マーテルの計画は、順調に進んでるあいだはすばらしいものだった。だがそれが破綻《はたん》を見せはじめたとき、これは最後までつきあってもろくなことはないと見切りをつけたんだよ。時間を節約しようじゃないか。おれは殺すには惜しい情報源だぜ。いろいろなことを知ってるんだからな。知ってることは何だって話す。代償はこの命と、自由と、金貨千クラウンだ」
「そなたの忠誠心はどこにあるのじゃ」オーツェルがきびしい顔で問いただす。
「忠誠心だって?」クレイガーは笑い声を上げた。「マーテルに? ばかなことを言うなよ。おれがマーテルのために働いてたのは、金になったからだ。そんなことは向こうも承知の上さ。だが今はあんたがたが、金よりももっと大事なものを提供できる立場だ。取引に応じるか?」
「しばらく拷問台に置いてやれば、少しは値引きが期待できるかな」とウォーガン。
「おれはあんまり頑丈じゃないんだ。健康状態のほうも最高とは言いがたいしね。拷問人の職務執行中におれが息を引き取ったりしないってほうに、本気で賭けてみたいかい」
「その条件を呑《の》もう。望みのものをやればいい」ドルマントが言った。
「猊下《ユア・グレイス》は賢明にして|慈悲深く《グレイシャス》ていらっしゃる」クレイガーはいきなり笑いだした。「駄洒落《だじゃれ》はごかんべんを、ドルマント大司教。誓って偶然ですよ」
「ただしこちらからも一つ条件がある」ドルマントは先を続けた。「目下の状況を考えれば、おまえの前の主人が捕縛されるまで、おまえを自由にしてやるわけにはいかない。自分でも認めるとおりおまえは信用できないし、そもそもおまえの話が真実だという保証はどこにもないのだからな」
「それはよく理解できるよ。でも地下牢はなしだぜ。おれは肺があまりよくなくて、湿っぽい場所は避けることにしてるんだ」
「僧院ならどうだ」とドルマント。
「それなら問題ない。ただしスパーホークが十マイル以内に近づかないことを保証してくれ。スパーホークはときどき癇癪《かんしゃく》を起こすし、何年も前からおれを殺したがってるんだ。そうだろう、スパーホーク」
「ああ、そうとも」スパーホークはすんなりと認めた。「ただ今回のところは、マーテルが死ぬまでおまえには手を出さないという誓いを立ててもいい」
「それなら公正だな。あと、追いかけはじめる前に、一週間おれを先行させると約束してくれ。これで取引成立かね?」
ダレロン騎士団長が部下に声をかけた。
「ティニアン、われわれが相談するあいだ、その男を外の廊下に出しておいてくれ」
クレイガーはよろよろと立ち上がり、ティニアンに声をかけた。
「行こうぜ、騎士殿。あんたもだ、カルテン。ワインを忘れるな」
厳重に監視された囚人が部屋を出ると、ウォーガン王が声を上げた。「で?」
「クレイガー自身は小物です、陛下」ヴァニオンが答える。「しかし持っている情報の価値は、たしかにあの男の言うとおりだ。条件を受け入れることを進言します」
「あんなやつに金貨を渡すのは惜しい」ウォーガンは不興げにうめいた。
「クレイガーに関して言えば、金貨はかならずしも安穏を意味しません」セフレーニアが言った。「あれだけの金を与えれば、六ヵ月としないうちに飲みすぎで死んでしまうでしょう」
「それでは罰を与えたことにはならんような気がするが」
「飲酒のために死ぬ人間をご覧になったことはありますか」
「あるとは言えんな」
「いつか療養所を見学して、経過をご覧になるとよろしいでしょう。感じ入るところがあると思いますよ」
「では衆議一決かね?」ドルマントが一同を見わたした。「あのどぶ鼠《ねずみ》に要求どおりのものを与え、重要なことをマーテルに報告できなくなるまで、僧院に幽閉するということで」
「いいだろう」ウォーガンは不承不承うなずいた。「やつを連れてきて、話を決めよう」
スパーホークは戸口に歩み寄り、ドアを開けた。顔に傷のある、頭を剃《そ》り上げた男が、何かしきりにティニアンと話しこんでいた。
「クリング?」スパーホークはペロシア東部辺境の馬賊のドミに気づいて、驚いて声をかけた。
「やあ、スパーホーク。また会えて嬉しい。ここにいる友ティニアンに知らせを持ってきたところだ。ラモーカンド国東部にゼモック軍が集まってるのは知ってたか」
「その話は聞いている。これから討伐に向かうところだった」
「よし。おれはサレシア国王の軍団と行動をともにしてたが、そこへ仲間の一人が故郷から追いついてきた。その討伐に向かうとき、あまりラモーカンドにばかり目を奪われないほうがいい。ゼモック軍はペロシア東部にも侵攻してきてる。おれの一族は、もう樽《たる》に何杯もの耳を集めた。聖騎士もこのことを知っておくべきだと思ってな」
「きみには借りができたな、ドミ」とスパーホーク。「友ティニアンに野営している場所を教えておいてくれないか。今はちょっとイオシア各国の国王が集まっていて手が離せないんだが、時間ができ次第すぐに訪ねていく」
「では用意をしておこう、騎士殿。ともに塩を取って、話し合おうではないか」
「そうしよう、わが友」スパーホークが答えた。
ティニアンはクリングとともにその場を離れ、スパーホークとカルテンはクレイガーをナシャンの書斎に連れて戻った。
ドルマント大司教が硬い表情で口を開いた。
「いいだろう、クレイガー。おまえの条件を受け入れる。釈放しても大丈夫と見極めがつくまで、僧院に幽閉するという条件付きでだ」
「もちろんだ、猊下《げいか》」クレイガーは即座に同意した。「どのみち少し休息を取りたかったんだ。この一年、マーテルに言われて大陸じゅうを東奔西走してたからな。まず何から聞きたい?」
「オサとシミュラの司教の関係は、どのようにして始まったのだ」
クレイガーは椅子にもたれかかり、足を組んで、ワインのグラスを揺らしながら考えこんだ。
「おれの理解してるところだと、シミュラの老大司教が病に倒れて、あそこの大寺院を切り盛りする責任がアニアスの肩にかかってきたときだ。それまでの司教の野心は、主に政治方面に向けられてるようだった。自分の情婦をその兄と結婚させて、エレニア王国を自由にしようとしてたんだ。しかし教会を通じて得られる権力の大きさに味を占めてからは、野心のほうも大きく膨らんだ。アニアスは現実主義者で、自分があまり人に好かれていないことはじゅうぶんに承知していた」
「それはまたおそろしく控えめな表現だ」コミエーが口をはさむ。
「そんなことはわかってるよ、閣下。マーテルさえあいつを嫌ってたんだ。何だってアリッサがあいつと寝床をともにしようなんて考えたのか、おれには永遠の謎だね。とにかくアニアスは、総大司教の座を射止めるには助力が不可欠だってことを知ってた。マーテルはどこからかアニアスの計画を嗅《か》ぎつけて、身をやつしてシミュラに潜入すると、アニアスの相談に乗ってやったわけだ。詳しいことは知らんが、マーテルとオサは以前に何かで知り合っていたらしい。本人はあまり話したがらないんだが、おれのにらんだところじゃ、やつがパンディオン騎士団から追放されたことに関係がありそうだった」
スパーホークとヴァニオンが視線を交わす。
「そうだ。先を続けろ」ヴァニオンが言った。
「最初アニアスはその申し出を拒絶したんだが、マーテルはその気になるととても説得力がある。とうとう司教も、とにかく交渉を始めることに同意した。二人は仲間のところから追放された悪名高いスティリクム人を見つけてきて、長いこと話し合っていた。その男が代理人としてオサと交渉することで話がまとまって、その時点で取引が成立したわけだ」
「その取引というのは?」アーシウムのドレゴス王が尋ねる。
「今から話すよ、陛下。そう次々と質問されたんじゃ、細かいことを言い忘れちまう」一息入れてあたりを見まわし、「おれがどれほど協力的になってるか、胸に刻んどいてもらえるとありがたいね。オサは手下を何人かエレニアに送りこんで、アニアスに助力を与えた。その助力ってのは、要するに黄金だ。オサは何トンも貯めこんでるらしい」
「何ですって!」エラナが声を上げた。「アニアスが父とわたしに毒を盛ったのは、総大司教の座に就くために、エレニアの国庫を自由にするのが第一の目的だと思っていたわ」
「悪く取らないでもらいたいんだがね、女王陛下。でもエレニアの国庫にある金なんて、アニアスがやろうとしてたことを考えれば、ほんの雀の涙だよ。ただ国庫を自由にしてれば、資金の本当の出どころを隠しておけるからな。公金横領くらいならともかく、オサと取引してたなんて知れたら、いくら何でもただじゃすまない。陛下と父上が毒を盛られたのは、アニアスがオサの黄金をいくらでも使えるってことを隠蔽《いんぺい》するためだったんだ。計画はだいたい予定どおりに進んだ。オサはアニアスに資金を与え、あるいはスティリクムの魔法で計画を支援した。何もかもうまく進んでたのに、そこへスパーホークがレンドー国から戻ってきた。あんたのせいで何もかもめちゃくちゃだぜ、スパーホーク」
「それはどうも」
「あとはだいたいわかってるんじゃないかね。最終的におれたちはこのカレロスに集結して、そのあとのことは、いわばもう歴史となったわけだ。さて、じゃあドレゴス王の質問に戻ろうか。オサの出した条件はとてもきびしくて、アニアスには大きな代価を要求した」
「アニアスの支払う代償とは何だったのだ」巨体のサレシア人聖職者、バーグステン大司教が尋ねた。
「魂だよ、猊下」クレイガーは身震いした。「金や魔法を提供する前に、オサはアニアスがアザシュ信仰に改宗することを求めたんだ。マーテルはその儀式を見てきて、おれにも話してくれた。実のところ、それもおれの仕事の一部でね。マーテルはときどきひどく人恋しくなることがあって、そういうときの話し相手が要りようだったのさ。マーテルは簡単にびくつくような玉じゃないが、アニアスの改宗の儀式には、やつでさえ気分が悪くなったそうだ」
「マーテルも改宗したのか」スパーホークがきびしい表情で尋ねる。
「そいつはないと思うね。マーテルはどんな宗教も信じちゃいない。あいつが信じるのは政治と権力と金であって、神じゃない」
「主導権を握っていたのはどちらです? 誰が主で、誰が従だったのですか」とセフレーニア。
「アニアスは自分が命令を出してると思ってたが、はっきり言って疑問だね。アニアスとオサの交渉ではかならずマーテルが間に入ってたし、マーテルはマーテルで、独自にオサと交渉してたからな。アニアスはそれを知らなかったはずだ。これは確実な話じゃないんだが、マーテルとオサのあいだには別の約束ができてたんじゃないかと思う。マーテルならやりそうなことさ」
「すべての背後に、もっと大きな動きがあったのではないかな」エンバン大司教が鋭く追及した。「オサが――あるいはアザシュが――それだけの資金と労力を注ぎこんで、シミュラの司教の穢《けが》れた魂を手に入れようとしただけとは考えにくい」
「当然だよ、猊下。向こうの計画は、アニアスとマーテルの計画を後押しすることで、自分たちの望んでるものを手に入れようってことだった。シミュラの司教が賄賂《わいろ》を使って総大司教の座を手に入れたら、向こうは望んでたものを、戦争なんかせずに手に入れることができる。戦争ってのは賭けだからな」
「その望んでいたものというのは?」とオブラー王。
「アニアスは総大司教の地位が、喉から手が出るほど欲しかった。マーテルはやつがその座に就けるよう後押しした。計画どおりに進んでいれば、何も問題はなかったんだ。マーテルの望みは、権力と富と正統性だ。オサはイオシア大陸全土を支配するのが望みだった。そしてアザシュの望みは、もちろんベーリオンに決まってる。それに全世界の人間の魂だな。アニアスは永遠に――ほとんど永遠に――生きることになる。数世紀のあいだは総大司教として権力をふるい、徐々にすべてのエレネ人にアザシュを信仰させていこうとしてたのさ」
「何と恐ろしいことじゃ!」オーツェルが声を上げる。
「まさしくそのとおりだよ、猊下。マーテルは皇帝の冠を得て、オサとほとんど変わらないほどの権力を手に入れるはずだった。西イオシア全土の支配者としてね。それで顔触れがそろうわけさ。オサとマーテルが皇帝、アニアスが総大司教、そしてアザシュが神というわけだ。そのあとはレンドー国と、ダレシア大陸のタムール帝国が標的になったんだろう」
「どうやってアザシュのためにベーリオンを手に入れるつもりだったんだ」スパーホークが憮然として尋ねた。
「欺瞞《ぎまん》、詐欺、盗品売買、必要とあれば力押し。なあ、スパーホーク、聞いてくれ」クレイガーの顔が急に真剣になった。「マーテルはおまえに、少し北上してから東に転じて、ラモーカンド東部でオサと合流するって話を聞かせたはずだ。たしかにやつはオサのところへ行く。だがオサはラモーカンドにいるんじゃない。戦争にかけては、将軍たちのほうがオサよりも上手《うわて》だからな。オサはずっとゼモックの街の王宮にいるんだ。マーテルとアニアスが向かったのもそこだ。マーテルはあんたにあとを追わせたがってる」息を継いで、「もちろんこれはマーテルから、あんたに伝えろと言われたことだ。マーテルはあんたがベーリオンを持って、ゼモックまで追ってくることを望んでる。なぜかやつら、みんなあんたを恐れてるんだ。あんたがベーリオンを見つけたからってことだけが理由じゃないらしい。マーテルまでが、あいつらしくもなく、あんたと直接対決するのを嫌がってる。あんたがゼモックへ行って、アザシュが方をつけてくれることを期待してるんだ」クレイガーの顔が急に苦痛と恐怖に歪《ゆが》んだ。「行かないでくれ、スパーホーク! 頼むから行かないでくれ! アザシュがあんたからベーリオンを手に入れたら、世界はおしまいだ」
翌朝の大聖堂の通廊には、早くから人々が押しかけていた。カレロスの市民たちも、ウォーガン王の軍勢がマーテルの傭兵たちを追い払ってしまうと、徐々に廃墟の中へと戻りはじめた。聖都の住人といってもほかのエレネ人以上に信心深いわけではないだろうが、エンバン大司教は純粋な人道主義に基づく施策を演出していた。街じゅうに布告を流して、感謝の礼拝が終わったら、すぐに教会の倉庫を人々に開放すると宣言したのだ。カレロスではほかに食糧を手に入れるあてがなかったから、人々は即座に反応した。何千人という会衆が集まれば大司教たちもことの重大さに気づいて、自分たちの責務を真剣に考えるようになるだろう――エンバンはそう狙いを説明した。それとは別に、エンバンには飢餓に対する特別の思い入れがあった。その肥満した体型ゆえに、空腹に対してはことさら神経質だったのだ。
感謝の礼拝ではオーツェル大司教が司祭を務めた。スパーホークはこの痩《や》せた厳格な大司教が、一般の信徒に向かってはまったく異なった口調で話しかけることに気づいた。その声はやさしいほどで、時には心からの同情に満ちたものとなった。
「六回だ」カダクの大司教が最後の祈りを先導しはじめると、タレンがスパーホークに耳打ちした。
「何が」
「礼拝のあいだ、六回微笑んだんだよ。数えてたんだ。でもあの顔に微笑みはあんまり似合わないね。昨日のクレイガーの話だけど、どういうふうに決まったの? おいら眠っちゃったもんだから」
「ああ、知ってたよ。クレイガーを聖議会に出頭させて、マーテルとアニアスの会見に関するデレイダ隊長の証言のあとで、昨目の話をくり返させることになった」
「みんな信じるかな」
「たぶんな。デレイダの証言にはけちのつけようがない。クレイガーはその話を裏付けて、細かい点を補足するだけだ。デレイダの証言を聞いたあとなら、クレイガーの話を受け入れるのもそう難しくはないだろう」
「うまい手だな。ねえ、スパーホーク、いいことを教えてあげようか。盗賊の皇帝になるって話だけど、あれはもうやめにしたんだ。かわりに教会に入ることにした」
「神よ信仰を守りたまえ」
「きっとお守りくださるであろう、息子よ」タレンが生意気な口調で答えた。
礼拝が終わって合唱が頌歌《しょうか》に変わると、小姓たちが大司教の列のあいだを走りまわって、聖議会がただちに再開されるという知らせを届けた。行方をくらましていた聖職者がさらに六人、新市街のあちこちから発見された。さらに二人は大聖堂の建物の中から姿を現わした。残りは依然として行方不明のままだ。大司教たちはしずしずと通廊を出て、謁見室に通じる廊下を歩いていった。あとに残っていろいろな人たちと話をしていたエンバンが、小走りにスパーホークとタレンの横を駆け抜けた。息を切らし、汗をかいている。
「忘れるところだった。ドルマントに教会の倉庫を開放するよう命令してもらわなくてはならん。さもないとわれわれが暴動の原因を作ってしまうわい」
「教会を切りまわそうと思ったら、おいらもあんなに太らなくちゃいけないのかな」タレンがささやく。「太ってるといざってときに速く走れないんだよね。それにエンバンは、しょっちゅうそういう破目に陥ってるみたいなんだ」
謁見室の扉の前に、デレイダ隊長が立っていた。胸当てと兜《かぶと》は輝くほどに磨き上げられ、真紅のマントには染み一つない。スパーホークは謁見室に入ろうとする教会騎士と聖職者の列を離れ、隊長に短く声をかけた。
「不安かね」
「そうでもありません、サー・スパーホーク。待ちきれない気分だとまでは言いませんがね。いろいろと質問されるのでしょうか」
「たぶんな。びくつかないことだ。落ち着いて、地下室で耳にしたことだけを報告すればいい。きみには名声があるから、誰もきみの言葉を疑ったりはできないさ」
「暴動でも起きなければいいのですが」
「その心配はいらんだろう。暴動が起きるとしたら、きみの次の証人の話を聞いたときだ」
「その証人はどんな話をするのです?」
「それをここで口にすることは許されていない――きみが証言を終えるまではね。この期に及んできみの中立性を損なうような真似をするわけにはいかないんだ。幸運を祈る」
大司教たちは謁見室の中に数人ずつ固まって、低い声で話し合っていた。その朝は感謝の礼拝の影響で、エンバンの思惑どおり、どこか厳粛な雰囲気が漂っていた。あえてそれを破ろうとする者はいないようだ。スパーホークとタレンは、ずっと仲間たちと座っていた同じ席にふたたび腰をおろした。ベヴィエはセフレーニアを守るように、心配そうな表情でそばに付き添っている。セフレーニアは白く輝くローブを身にまとい、穏やかに腰をおろしていた。スパーホークが合流すると、ベヴィエが話しかけてきた。
「いくら言っても耳を貸してくれないのです。プラタイムとストラゲンとあのタムール人の女性は、聖職者に変装させてもぐり込ませました。でもセフレーニアだけは、どうしてもあのスティリクムのローブを着るというのです。国王と聖職者以外の者が聖議会を傍聴することは許されていないと何度も説明したんですが、聞き入れてくれません」
「わたしは聖職者ですよ、ベヴィエ。アフラエルの神官なのですから。実際、高位の神官なのです。これは宗教合同運動の一環だとでも思ってください」
「わたしならそういう話は選挙が終わるまで待ちますね、小さき母上」ストラゲンが忠告した。「何世紀も続く神学論争が始まりかねない。われわれはいささか時間に追われているわけですから」
「向こうに顔馴染の姿が見えないのは寂しいな」カルテンが傍聴席の反対側、いつもアニアスが座っていたあたりを指差して言った。「今朝の証人の話を聞いて、あの顔がくしゃくしゃになるのを何としても見たかったんだが」
ドルマントが入ってきて、エンバンとオーツェルとバーグステンを相手にしばらく何か相談してから演台の前に立った。それだけで部屋の中が静かになる。ドルマントは話しはじめた。
「わがブラザーにして友人諸君、前にわれわれがここに集まって以来、実にさまざまな出来事がありました。議事に入る前に何人か証人を呼んで、現在の状況をはっきりさせておきたいと思います。だがその前に、カレロスの街の現状を説明しなくてはなりますまい。包囲軍が街の食糧をことごとく略奪したため、市民は今や食べるものさえないような状態です。ここに聖議会の承認を得て教会の倉庫を開放し、困窮している人々に食糧を分け与えたいと思うのですが、いかがでしょうか。教会を代表する者として、慈善はわれわれの義務でもあります」議場をぐるりと見まわして、「反対の方はいらっしゃいますか」
誰も何も言わない。
「ではそのように決しました。ここでもっとも誉れ高い傍聴人として、西イオシア各国の元首の方々をお招きしたい」
議員たちは全員がうやうやしく立ち上がった。
部屋の正面でトランペットがファンファーレを吹き鳴らした。巨大な青銅の扉がゆっくりと開き、イオシア大陸の王室の面々が姿を現わした。全員が地位を示すローブをまとい、王冠を戴《いただ》いている。スパーホークの目はウォーガンをはじめとする王たちの上を素通りして、婚約者の姿に釘づけになった。エラナはすばらしかった。スパーホークがレンドー国に追放されていた十年のあいだ、この女王に注目する人間はほとんどいなかったに違いない。多少ともその存在が注目されることがあるのは、宮廷の公式行事のときだけだったのだろう。そのためにエラナは、当たり前の王室の人間よりもはるかに強く、セレモニーの場を楽しみにしてきたようだった。女王はほかの元首たちといっしょに、重々しい足取りでゆっくりと歩を進めている。片手は遠い親戚に当たるデイラ国のオブラー老王の腕にそっとかけていた。総大司教の玉座とその台座の横には、各国の王たちの席が半円形にしつらえてあった。いかなる偶然か――あるいは偶然ではないのかもしれないが――並んだ王座の背後の丸窓から射しこむ光は、ちょうどエレニア国の女王の席の上にかかっていた。エラナは黄金色に輝く太陽の光を後光のように浴びて席に着いた。スパーホークには、それは実にふさわしいことに思えた。
国王たちが全員着席すると、議員たちもふたたび腰をおろした。ドルマントは各国の元首に一人ひとり挨拶し、欠席しているラモーカンド国王については、オサが国内に居座っているためほかに考えなければならないことがあるのだと事情を説明した。そのあと最近の状況が手短に語られたが、それはここ数週間を月の上で過ごしていた人物に向けられたもののようだった。エンバンの用意した証人は、新市街の破壊とマーテルの傭兵の悪行を、微に入り細を穿《うが》って描写してみせた。もちろんその恐ろしさは誰もが承知していたが、あらためてそれを語って聞かされることで、聖議会には怒りと、復讐を求める気分が横溢《おういつ》した。聖議会を軍事方面に誘導し、迅速な行動が必要だということを印象づけるためには、そのほうがいいとエンバンが判断したのだった。もっとも、この半ダースほどの証人たちが明らかにした中でいちばん重要だったのは、包囲軍を指揮していた男の名前だった。マーテルという名前は、三人の証人がはっきりと口にした。さらにドルマントは、デレイダ隊長を呼び出す前に、この追放されたパンディオン騎士のことを簡単に説明した。ただしそこではマーテルが傭兵として働いていることを述べるにとどめ、シミュラの司教との関係にはいっさい言及しなかった。それから総大司教近衛隊の隊長が証人として喚問された。もちろんドルマントは、近衛兵の伝説的な中立性をさりげなく強調することも忘れなかった。
デレイダはすばらしい記憶力の持ち主だった。二人が会う場所をなぜ知っていたのかという点は巧妙にぼかして、聖騎士団のすばらしい情報収集能力の成果≠ニだけ表現した。隊長は地下室のことと、長らく忘れられていた導水渠《どうすいきょ》のことを説明し、それが大聖堂に敵を引き入れる危険な通路となり得たことを明らかにした。マーテルとアニアスの会話については、実際の内容をほとんどそのまま復唱することができた。とくにその報告がまったく感情を表に出さない冷静な口調で述べられたため、信頼性はいよいよ高くなった。個人的にはいろいろ思うところもあるのだろうが、デレイダは中立を守るという信条に厳格に服していた。議員や傍聴人の間からはしばしば驚きの叫びが上がって、報告を中断させた。
あばたのある顔を青ざめさせたマコーヴァ大司教が立ち上がり、いかにも苦しげな反対尋問を開始した。
「きみが地下室の闇の中で聞いた声だが、話をしていたという二人とは別人の声だったということは考えられないかね。すなわち、これがシミュラの司教を陥れるための、巧妙に仕組まれた罠だという可能性は」
「そういうことは絶対にあり得ません、猊下」デレイダは言下に否定した。「一方は間違いなくアニアス司教であり、その相手はマーテルと呼ばれていました」
マコーヴァは汗をかきながら、別の方向に矛先を向けた。
「きみを地下室へ案内したのは誰かね、隊長」
「パンディオン騎士団のサー・スパーホークです、猊下」
「なるほど」マコーヴァは勝ち誇った笑みを浮かべて聖議会の面々を眺めわたした。「サー・スパーホークは以前からアニアス司教に私怨《しえん》を抱いていました。この証人が欺かれたのであることは、疑いの余地がありません」
デレイダは顔をまっ赤にして立ち上がった。
「わたしを嘘つき呼ばわりするおつもりか」その手は早くも剣の柄にかかっていた。
マコーヴァが怯《おび》えた顔で後じさる。デレイダは食いしばった歯のあいだから声を押し出した。
「マコーヴァ大司教、わたしはサー・スパーホークから、事前に何一つ聞かされてはいなかった。その部屋にいるのが誰かということさえ、サー・スパーホークは口にしなかった。わたしは自分の目でアニアスの顔を確認し、そのアニアスの口からマーテルの名前を確認したのだ。もう一つ申し上げておくことがある。スパーホークはエレニアの女王の擁護者だ。もしわたしがその地位にあったなら、今この瞬間、シミュラの司教の首は大聖堂の正門の旗竿を飾っていただろう」
「よくもそんなことが!」マコーヴァが息をあえがせる。
「あなたが懸命に総大司教の座に押し上げようとしている人物は、スパーホークの女王に毒を盛り、今しもスパーホークの怒りから逃れるべく、オサの保護を受けようとゼモックへ向かっている。猊下は投票する相手を別に探したほうがいい。万が一、聖議会がアニアスを総大司教に選出するという過ちを犯したとしても、あの男は玉座に就くまで生きてはいられないからだ。たとえスパーホークが殺さなくとも――わたしが殺す!」デレイダの目はらんらんと輝き、剣はなかば鞘走《さやばし》っていた。
マコーヴァが縮み上がる。
そこへドルマントが穏やかに声をかけた。
「ああ、隊長、少し休憩して気を鎮めるかね」
「それには及びません、猊下」デレイダは剣を収めた。「数時間前に比べれば、ずいぶん怒りもおさまりました。コムベの大司教の名誉を疑うつもりはありません」
「かっとしやすい男だな」ティニアンがアラスにささやいた。
「赤毛にはときどきああいうのがいる」アラスが訳知り顔で答える。
「まだ隊長に何か質問があるかね、マコーヴァ」エンバンがしれっとした顔で尋ねた。
マコーヴァは何も言わずに、自分の席に引き退がった。
「賢明な決定だ」エンバンが聞こえよがしにつぶやく。
議場に神経質な笑い声があふれた。
聖議会に衝撃と怒りをもたらしたのは、街への攻撃の背後にアニアスがいたという事実ではなかった。議員たちはみんな高位の聖職者であり、野心というものが人をどこまで駆り立てるか、誰もが身にしみて知っていたからだ。アニアスの採った手段はあまりにも極端で許しがたいものではあったが、その動機は理解できたし、目的のためにそこまで徹底した挙に出たことに対して、ひそかに舌を巻いている者さえ少なくはなかった。だがオサと手を結んだというのは、これはまったく言語道断だった。進んでアニアスに票を売った大司教たちでさえ、かつての同盟者がどこまで堕落していたのかわかってくると、居心地悪げに椅子の中で身じろぎした。
最後にドルマントはクレイガーを呼び入れた。デモスの大司教は、クレイガーが悪党であり、本質的に信用できない人間であるということを隠そうともしなかった。
クレイガーは多少とも身ぎれいにしていたが、現在の地位を示すために、手首と足首は鎖につながれていた。だが証言が始まると、これが非常に役に立つ証人であることがわかった。言い訳がましい態度はいっさい見せず、乱暴なほどぶっきらぼうに、みずからの欠点をあけすけに明かしてしまうのだ。自分の首を救うための取引の内容までしゃべってしまう始末だったが、そのためにかえって、この男には真実だけを述べる強力な理由があるのだという聖議会の心証はますます強くなった。大司教たちは蒼白になり、祈りの声があちこちから聞こえた。クレイガーが即物的な口調で、成功の直前まで行った恐るべき陰謀の詳細を明らかにすると、怒りと恐怖の叫びが上がった。とはいえ、証人がベーリオンに言及することはなかった。青い薔薇についてはいっさい伏せておくという相談が、ごく早い段階でまとまっていたのだ。最後にクレイガーは、残念そうな口調でこう締めくくった。
「もう少しでうまくいってたんだ。西部諸王国の軍団がカレロスに到着するのがもう一日遅かったら、シミュラの司教はそこの玉座に就いてたことだろう。そうしたらまず最初に聖騎士団を解体して、次に各国元首に自分の王国に戻って、いっさい軍を動かすなと命令してたはずだ。オサは何の抵抗も受けずに進軍して、一世代も経つうちには、誰もがアザシュを崇拝してたろう。よくできた計画だったんだがな」ため息をついて、「そうなれば、おれは世界一の金持ちの一人になってたはずなんだ」もう一度ため息。「やれやれ」
椅子にゆったりと背中を預けて聖議会の動向を注意深く観察していたエンバン大司教が、いきなり立ち上がった。
「この証人に対して、何か質問はありますかな」とマコーヴァを見つめて尋ねる。
マコーヴァは答えなかった。顔を上げようとさえしない。
「それではブラザー諸君、そろそろ休会にして、昼食ということにしてはどうかな」エンバンは相好を崩し、大きな腹を叩いた。「わたしからこの提案が出たことは、驚くには当たりますまい」笑い声が上がり、緊張が多少ともゆるんだ。「今朝はいろいろと考えなくてはならんことができたようだ。だが不幸なことに、われわれにはあまり考えている時間がない。オサがラモーカンド国東部に居座っている以上、じっくりと瞑想しているわけにはいきませんからな」
ドルマントが休会を宣言し、議事は一時間後に再開すると付け加えた。
エラナに呼ばれて、スパーホークとミルタイは大聖堂の中の小さな部屋でいっしょに昼食を摂《と》ることになった。若い女王はどこか上の空で、食事にもほとんど手をつけず、熱心に紙に何か書きつけていた。
「エラナ、食べなさい。体力がもたなくなる」ミルタイが鋭い口調で言った。
「お願い、ミルタイ。演説の草稿を作ってるの。午後には聖議会で挨拶をしなくちゃならないのよ」
「大したことを言う必要はないんだよ」スパーホークが言った。「会議を傍聴できてとても名誉に思うってことと、アニアスに対する非難をちょっと述べて、最後に神の恩寵を祈ればそれでいいんだ」
「これは女王が聖議会で演説する最初の機会なのよ」
「女王なら前にもいた」
「ええ、でも総大司教が選挙される場に居合わせた人はいない。その点を重視したいの。これは歴史的な機会だし、そんなところでみっともない演説はしたくないのよ」
「気絶もしたくはないでしょう」ミルタイは断固とした調子で、皿を女王の前に押しやった。なかなか頼もしいじゃないかとスパーホークは思った。
ドアを軽く叩く音がして、タレンがにやにやしながら入ってくると、エラナに一礼した。
「ソロス王は午後の議会には出席できないって知らせにきたんだよ。スパーホークは悪党だって暴露される心配はなくなったね」
「ほう?」
「陛下は風邪をひいたらしくて、それが喉にきたんだ。かすれ声しか出せなくなってるんだよ」
エラナが眉をひそめる。
「おかしいわね。このところそう寒くはなかったはずなのに。ペロシア国王の不運を望むわけじゃないけど、この時期にこうなったのは運がよかったかもしれないわね」
「運はあんまり関係ないと思うよ、女王陛下。セフレーニアは呪文を編み上げるんで、指がこんがらがりそうになってたからね。申し訳ないけど、ドルマントとエンバンのところにも行かなくちゃならないんだ。そのあとウォーガンにも、ソロス王を黙らせるために頭を殴ったりする必要はなくなったって言ってこないと」
昼食を終えると、スパーホークは女性二人に付き添ってふたたび謁見室に向かった。
「スパーホーク、あなた、デモスの大司教ドルマントのことは好きかしら」
「とてもね。あの人は最高の友人の一人だ。かつてパンディオン騎士だったというだけのせいじゃなく」
「わたしも大好きよ」そう言って微笑むエラナの口調は、何かの解決がついたと言っているかのようだった。
議事が再開されると、ドルマントは各国の王たちに、集まっている大司教たちのために演説をお願いしたいと申し出た。スパーホークがエラナに話したとおり、立ち上がった王たちはこの場に招かれたことへの感謝の言葉を述べ、アニアスとオサとアザシュを非難し、聖議会に神の祝福があることを祈った。
「ではブラザー諸君、ここにわれわれは珍しい機会を得ました。歴史上はじめて、女王からのご挨拶があります」ドルマントはごくかすかな笑みを浮かべた。「西イオシアの偉大な国王がたには申し訳ないが、エレニア国のエラナ女王陛下は、ほかのみなさんよりもずっと愛らしいと申し上げざるを得ない。そしてここにいる全員、その知性が美貌に劣らないものであることを知って、きっと驚くことでしょう」
エラナはかわいらしく頬を染めた。女王がどうして思いのままに頬を染められるのか、スパーホークには最後までわからないままだった。エラナは何度か説明しようとしたのだが、その説明は騎士の理解を超えたものだったのだ。
エレニアの女王は立ち上がった。しばらくはドルマントの称讃の言葉にどう応えていいのかわからないと言いたげに、顔をうつむかせている。
「ありがとうございます、猊下」顔を上げると、よく通る鈴のような声が響いた。頬の赤みはすっかり消え、顔には断固とした表情が浮かんでいた。
スパーホークは急に激しい疑念にとらわれ、仲間たちに警告した。
「しっかりしたものにつかまっていたほうがいいぞ。あの表情には見覚えがある。何かこっちの度肝を抜くようなことを隠してる顔だ」
エラナが話しはじめた。
「傍聴を認めてくださった聖議会にもお礼を申し上げます。また兄弟である君主たちとともに、聖職者の方々に叡智をお与えくださいと神に祈りたく思います。このようなときに聖議会で挨拶をするはじめての女性ということで、大司教のみなさまには、ここでいくつか余計なことを申し上げるわがままをお許し願えるでしょうか。たとえつまらないことを申し上げたとしても、教養高い大司教のみなさまには、きっとご寛恕《かんじょ》いただげるものと信じております。わたくしは女の身であり、さほどの齢《よわい》を重ねているわけでもありません。誰もが知っているとおり、若い女というのは興奮すると愚かな振る舞いに及ぶものです」一息入れて、銀のトランペットのような声を響かせる。「今わたくしは興奮≠ニ申し上げたでしょうか。いえ、むしろわたくしは激怒しております! あの怪物、あの冷血な獣《けだもの》、あの――あのアニアスは、わが最愛の父を手にかけました。イオシア大陸に並ぶ者もない、賢明で柔和な君主を葬り去ったのです!」
「アルドレアスが?」カルテンが信じられないと言いたげにつぶやく。
「そればかりか、わたくしの心を引き裂いただけでは飽き足らず、あの野蛮人はこのわたくしの命までも狙ってきました。みなさん、教会は汚染されました。穢《けが》されてしまったのです、あの悪党が聖なる位階の一角を占めていたがために。わたくしはここへ嘆願をしに、請願者としてやってきました。正義を求めにやってきたのです。わたくしは父を亡き者にした男の身体《からだ》から、この手で正義を絞り取る決意です。この身はか弱い女に過ぎませんけれど、わたくしには擁護者がおります。命令があれば、たとえあの怪物アニアスが地獄の底に隠れようとも、かならずや見つけ出してきてくれるであろう擁護者が。アニアスはきっとわたくしの前に引き出されます。それをここにお誓いしましょう。そしてあの男のたどる運命を伝え聞いて、この先何世代にもわたる者たちが、きっと身震いすることとなるでしょう。母なる教会には、あの恥知らずに対し、正義を施すことを心配する必要はありません。教会はやさしく、慈悲深いもの――でもわたくしはそうではありません」教会の意図に逆らうのはそのくらいにしておいたほうがいいとスパーホークは思った。
エラナは若々しい顔に復讐の決意をみなぎらせていた。
「ですが、この貴重な地位はどうなるでしょう」ふり返って、布で覆われた玉座を見やる。「アニアスが世界を血の海に沈めても手に入れようとしたこの座は、誰のものとなるのでしょう。この豪華な椅子には、誰が腰をおろすことになるのでしょう。みなさんどうか誤解なさいませんように。しょせんこれはただの椅子です。重くて、不格好で、たぶんあまり座り心地もよくないはず。この椅子にともなう重荷と責任を、母なる教会の闇の時代にあって、みなさんは誰に背負わせようとするのでしょうか。聡明な人でなくてはなりません。もちろん、それは言うまでもないことです。しかし教会の大司教であれば、いずれもみな聡明な方々です。勇気ある人でなくてはなりません。しかしみなさんは、いずれも獅子のように勇敢な方々であるはず。抜け目なく、過ちを犯さない人でなくてはなりません。聡明さと抜け目のなさはまったく違うものです。賢明な人でなくてはなりません。敵はずる賢い者なのですから。アニアスではありません。アニアスもたしかにずる賢い男でしたが。オサでもありません。あれはみずからの放蕩《ほうとう》の淵に沈んでしまっています。そう、敵はアザシュなのです。あの地獄の落とし子と渡り合える力と叡智と意志をお持ちの方は、いったいどなたなのでしょうか」
「何をしているのでしょう」ベヴィエが小声で尋ねた。
「わかりきっているだろう、騎士殿。女王は新しい総大司教を指名しようとしていらっしゃる」ストラゲンが上品ぶって答えた。
「ばかな! 総大司教を決めるのは聖議会です!」ベヴィエは色をなした。
「サー・ベヴィエ、今もし女王があのかわいい指をあなたに向けたら、聖議会はあなたを総大司教に選ぶだろう。まわりを見てみろ。みんな完全に女王の掌《てのひら》の上だ」
「大司教のみなさんの中には、戦士がいらっしゃいます。鋼を扱い慣れた豪胆な方々です。しかし鎧《よろい》をまとった総大司教が、アザシュの狡知《こうち》に太刀打ちできるでしょうか。みなさんの中には、神学者がいらっしゃいます。すばらしい知性を備え、神ご自身の御心とご意思を推察できる方々です。しかしこうした神の真理に慣れ親しんだ総大司教が、欺瞞の元締めであるアザシュに対抗できるでしょうか。教会法に通暁し、教会政治に最高の手腕を発揮する方々もいらっしゃいます。強い方も、勇敢な方もいらっしゃいます。やさしい方も、慈悲にあふれる方もいらっしゃいます。もし聖議会全体を総大司教に選ぶことができるのであれば、教会は無敵となり、地獄の門さえわたくしたちを遮ることはできないでしょう!」エラナはよろめき、震える片手を額に押し当てた。「失礼しました」と弱々しい声で、「アニアスの蛇がわたくしの命を奪おうと盛った毒が、まだ少し残っているようです」
スパーホークが腰を浮かす。
「いいから座ってろよ、スパーホーク」ストラゲンがそれを押しとどめた。「ここでがちゃがちゃ鎧を鳴らして出ていったら、女王の演技が台なしだ。大丈夫、女王は何ともない」
「母なる教会には擁護者が必要なのです、大司教のみなさん」エラナはなお弱々しい声で先を続けた。「聖議会の本質を一身に体現した人物が。心の中ではもうみなさん、それが誰なのかわかっていらっしゃるはずです。神がみなさんに叡智をお与えになり、今しもみなさんの中に真の謙譲の衣をまとって隠れつつ、なおみなさんを導き、それでいながら自身がそうしていることに気づいてさえいない、その大司教の名を明かしてくださいますように。たぶんその方は、自分が神の声を代弁していることさえ意識してはいらっしゃらないでしょう。どうかみなさん、心の中を探ってください。そしてこの重荷をその方に負わせてください。教会の擁護者となれるのはその方だけなのです!」またしてもエラナはよろめいた。膝が崩れ、花がしおれるように床に倒れかかる。畏怖の表情を浮かべて目には涙をあふれさせたウォーガン王があわてて駆け寄り、エラナの身体を抱き止めた。
「完璧な演出だ」ストラゲンは称讃の声を上げ、にやにやしながらスパーホークを見やった。「憐《あわ》れな憐れなスパーホーク。おまえの勝ち目はこれっぽっちもないな」
「ストラゲン、黙っていてくれないか」
「いったいどういうことなんだよ」カルテンが憮然として尋ねる。
「たった今、女王は次の総大司教を指名したんだよ、サー・カルテン」
「誰を? 名前なんて言わなかったじゃないか」
「まだわからないのか。女王はきわめて慎重に、ほかの候補をことごとく排除していった。残るのは一人だけだ。大司教たちにはそれが誰だかわかってる。誰かがその名前を口に出しさえすれば、もうそれで決まりだ。教えてやってもいいんだが、楽しみを奪っちゃ悪いからな」
ウォーガン王は明らかに意識のないエラナを腕に抱いて、謁見室の脇の扉から外に運び出した。
「ついていてあげなさい」セフレーニアがミルタイに言った。「安静にさせて。気が昂《たか》ぶっているでしょうから。それと、ウォーガン王がここに戻ってこないようにしてください。余計なことを言ってすべてを台なしにするかもしれません」
ミルタイはうなずいて、小走りに部屋から出ていった。
議場には興奮した話し声があふれていた。エラナの情熱が全員に火を点《つ》けたのだ。エンバン大司教は驚きに目を丸くして座っていたが、やがて大きな笑みを浮かべ、片手で口許を覆って大笑いしはじめた。
近くにいる修道僧の興奮した声が聞こえる。
「まさに神の御手に操られていたのだ。しかし、なぜ女が? どうして神は女の声でわれらに語りかけてこられたのだろう」
「主のなさりようは神秘だ。人知では計り知れない」別の修道僧が畏怖の口調で答えた。
ドルマント大司教が静粛を求めても、ざわめきはしばらく収まらなかった。
「ブラザーにして友人のみなさん、エレニア国の女王があのように感情的になったことに、われわれは寛容であるべきです。わたしは女王を子供のころから知っておりますが、普段はとてもしっかりした女性なのです。本人も言っていたとおり、毒の副作用がまだ残っていて、ときに精神が不安定になるのでしょう」
「こいつは珍しい」ストラゲンがセフレーニアに笑いかける。「当のご本人は気づいていらっしゃらないようだ」
「お黙りなさい、ストラゲン」セフレーニアがたしなめた。
「はい、小さき母上」
鎖帷子《くさりかたびら》を身につけ、恐ろしげなオーガーの角つき兜をかぶったバーグステン大司教が立ち上がり、戦斧《バトルアックス》の石突きで大理石の床を叩いた。
「発言してよろしいか」
「もちろんだ、バーグステン」ドルマントが答える。
「われわれがここに集まったのは、エレニアの女王の体調を云々《うんぬん》するためではない。総大司教を選挙するためだ。議事を進行するよう提案する。そのために、わたしはここにデモスの大司教ドルマントを総大司教候補に指名したいと思う。ほかにこの指名に同調する方はおいでになるかな」
「よせ!」ドルマントがうろたえて叫ぶ。
「デモスの大司教は法を逸脱しておる」オーツェルが立ち上がった。「慣習と法により、指名を受けた者は結果が出るまで口をきいてはならんことになっておる。ブラザー諸君の同意があれば、ここは高名なユセラの大司教に議長をお願いしたいと思うが」そう言って議場を見まわす。反対する者はいないようだ。
エンバンはまだにやにや笑いながら演台に近づき、丸々した片手を振ってドルマントを追い払った。
「カダクの大司教は、もう発言を終えられますか」
「いや、まだじゃ」オーツェルの表情はきびしかった。と、内心では感じているに違いない胸の痛みをいっさい表に出すことなく、オーツェルはこう言った。「わしもエムサットのブラザーの指名に同調する。総大司教にふさわしい者は、ドルマント大司教のほかにはおらん」
マコーヴァが立ち上がった。顔が紙のように白くなっている。
「こんな非道は、きっと神の怒りを買うぞ!」食いしばった歯のあいだから吐き捨てるように言う。「茶番にはつきあっておれん!」コムベの大司教は踵《きびす》を返し、足音荒く部屋から出ていった。
「誠実な人間ではあるんだね」タレンが感想を述べた。
「誠実? マコーヴァが?」とベリット。
「そうだよ、先生。いったん買収されたら、どんなに状況が変わっても立場を変えないんだからね」
そのあとは何の滞りもなく、大司教たちは次々に立ち上がってドルマントの指名に同調した。最後に残った高齢の大司教が周囲の手を借りて立ち上がり、「ドルマント」とか細い声を上げると、エンバンはずるそうな笑みを浮かべた。
「さて、ドルマント」と驚いたふりで、「残ったのはあなたとわたしだけらしい。誰か指名したい者がいるかね」
「頼むからやめてくれ、ブラザー諸君」ドルマントは涙を流して哀願した。
「デモスの大司教は法を逸脱しておる。ここでは指名する名前を言うか、さもなくば黙っていなくてはならん」とオーツェル。
「すまんな、ドルマント。そういう決まりなんだ」エンバンは微笑んだ。「そうそう、わたしはほかのみんなと同様、あなたを指名する声に同調する。本当に誰も指名しなくていいのかね?」しばらく待って、「けっこう。ではデモスの大司教を指名する者が百二十六名、棄権が一名、退場が一名となりました。驚くべきことですな、ブラザー諸君。では投票に移りますかな。それとも時間を節約して、ドルマント大司教の総大司教就任につき、口頭で決を採りますか。お答えをお待ちしたい」
どこか前列のほうから、深みのある最初の声が響いた。「ドルマント!」その声が議場に反響する。「ドルマント!」
すぐにいくつもの声がそれに加わった。「ドルマント!」それが咆哮《ほうこう》に高まる。「ドルマント!」声はしばらくやむことがなかった。
やがてエンバンが片手を上げて声を制し、ドルマントに話しかけた。
「こう伝えるのはまことに心苦しいのだが、どうやらあなたはもう大司教ではないらしい。何人か連れて聖具室へ行ってきてはどうかな。新しいローブを試着してみなくてはならんだろう」
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謁見室にはまだ興奮した話し声があふれていた。叫び声さえ混じっている。高揚した面持ちの大司教たちは、大理石の床の上に集まってしきりにおしゃべりをしていた。群衆の中を押し通るスパーホークの耳に、神の霊感を受けて≠ニいう言葉が畏怖の口調で語られるのが何度も聞こえた。聖職者というのは伝統的にきわめて保守的で、一介の女性が聖議会の動向を事実上決定したとは、どうしても考えることができないのだ。神の霊感を受けたのだということにすれば、とても都合がいい。あれはエラナがしゃべったのではなく、神ご自身のお言葉だったのだというわけだ。だが今のスパーホークにとって、神学的な議論などどうでもよかった。気になるのは女王の容体だ。ストラゲンの説明はたしかにもっともらしかったが、何といってもスパーホークの女王の、婚約者のことなのだ。自分の目で元気な姿を確かめるまでは、安心することなどできなかった。
ウォーガン王がエラナを運び出した扉を開けると、女王は元気どころか、前よりも健康そうに見えた。たった今まで閉じられていたドアの前で中腰になって耳を押し当てている様子は、いささか奇妙ですらあった。
「自分の席に戻ったほうがもっとよく聞こえるでしょう、陛下」やや憮然とした口調でスパーホークが言った。
「静かにしてよ、スパーホーク。中に入って、ドアを閉めて」
スパーホークは戸口をまたいだ。
ウォーガン王は壁に背中を押しつけ、目にはいささか取り乱した色を浮かべていた。ミルタイがその前に立ちはだかっている。
「この女ドラゴンをどかせてくれ、スパーホーク」ウォーガンが懇願した。
「わが女王の演技を暴露しないと約束していただけますか、陛下」スパーホークが礼儀正しく尋ねる。
「自分が虚仮《こけ》にされたことを認めるような、ばかな真似をするはずがないだろう。公衆の面前で、ころりと騙《だま》されたことを白状する気はない。ただおまえの女王は大丈夫だと知らせようとしただけなのだ。なのにドアまでたどり着きもせんうちに、この大女が入ってきた。余を脅迫したのだぞ、スパーホーク! 人もあろうに、この余を! あそこの椅子が見えるか」
スパーホークは目を転じた。その椅子は布張りで、背中に大きな裂け目があり、中から馬の毛が飛び出していた。
「ただ提案しただけだよ、スパーホーク」ミルタイがのんびりと言った。「間違った決定をするとどういうことが起きるか、ウォーガンに知っておいてもらいたかった。もう問題はない。ウォーガンとわたしは、今では友だちみたいなものだから」ミルタイが誰に対しても尊称というものをつけないことにスパーホークは気づいた。
「一国の王に向かって短剣を抜くのはとても失礼なことだぞ、ミルタイ」スパーホークがとがめる。
「そうじゃない。あれは膝でやったんだ」ウォーガンは身震いした。
スパーホークは戸惑ったようにタムール人の女の顔を見た。
ミルタイは修道士のローブを押し広げ、手を伸ばしてキルトを少しだけ引っ張り上げた。前にタレンが言っていたとおり、腿《もも》の内側に湾曲したナイフが止めてある。切先は膝から四インチばかり下まで飛び出していた。刃はずいぶん鋭そうだ。
「女がする装備でね。男はときどき、都合の悪いときにふざけかかってくることがある。ナイフはそういうとき、ほかを当たるように説得するのに役に立つ」
「違法ではないのか」とウォーガン。
「ご自分で逮捕してみてはいかがです、陛下」スパーホークが答えた。
そこへエラナの鋭い声が飛んだ。
「おしゃべりはやめてくれない? かささぎの群れみたいに騒々しいわ。これからの行動を説明します。もうすぐ外が静かになるはずだから、そうしたらウォーガンはわたしの腕を取って謁見室に戻ります。ミルタイとスパーホークはそのあとからついてきて。わたしはウォーガンの腕にすがって、いかにも弱々しい様子を見せるわ。なにしろわたしは気を失っていたか、あるいは神の霊感を受けたばかりなんですからね。外の部屋の噂話では、どうやらそのどちらかということになっているみたい。とにかく総大司教が玉座に案内される前に、自分の席に戻っていたいの」
「さっきの演説のことはどう説明するつもりなんだ」とウォーガン。
「説明はしません。わたしは演説のことなど、何一つ覚えていないの。みんな信じたいことを信じて、わたしを嘘つき呼ばわりはしないはずよ。だってそんなことをすれば、スパーホークかミルタイが相手ですものね」エラナは笑みを浮かべ、スパーホークに尋ねた。「わたしの選んだ人は、だいたいあなたの思ってた人だったかしら」
「ああ、そのとおりだ」
「じゃあわたしに感謝すべきよね――二人きりになったときに。いいわ、じゃあ戻りましょう」
四人はそれぞれにふさわしい態度で謁見室に戻った。エラナはぐったりとウォーガンに寄りかかり、疲れて消耗しきった表情を見せていた。二人の君主が席に戻ると、部屋の中が急に静まり返った。
エンバン大司教が心配そうな顔で進み出た。「女王陛下には大事ありませんかな」
「多少はよくなったようです」スパーホークが答えた。これならまったくの嘘ではない。「聖議会で演説をしたことについては、何も覚えていないとおっしゃっています。この状態では、問い詰めるようなことは避けたほうがよろしかろうと思いますが」
エンバンは抜け目ない目つきでエラナを見やった。
「よくわかった、スパーホーク。聖議会にはよしなに取りなしておこう」エラナに微笑みかけて、「お元気になられたようでよろしゅうございました、陛下」
「ありがとう、猊下」エラナは小さな震え声で答えた。
スパーホークとミルタイが傍聴席の仲間のところへ戻ると、エンバンは演台の前に立って議会に呼びかけた。
「みなさん、エラナ女王が回復されたことは、われわれ全員の喜びとするところでありましょう。演説の中で言ったかもしれないことについては、みなさんにお詫《わ》びしてもらいたいとのお言葉を承っております。とはいえ、女王の健康はなお良好とは申せません。しかもここカレロスまでの旅は、大きな危険をくぐり抜けなくてはならないものでした。聖議会を傍聴したいという女王の思いは、それほどに強かったのです」
あちこちから称讃のつぶやきが上がった。
「ですから女王の演説の内容について、あまり立ち入った質問は避けるべきでありましょう。それにどうも、陛下は話の内容をよく覚えていらっしゃらないようなのです。あの衰弱ぶりを見れば、それも無理からぬことであると申せましょう。ほかにも説明のしようはあろうかと思いますが、まさに陛下のおっしゃった叡智をもって、それを追究することは思いとどまるべきでありましょう」伝説はこうして作られていくのだ。
と、トランペットがファンファーレを吹き鳴らし、玉座の左側の扉が開いて、バーグステンとオーツェルを左右に従えたドルマントが入ってきた。新しい総大司教は簡素な白い法衣を着て、表情も今はすっかり落ち着いていた。スパーホークは奇妙な感興にとらわれた。ドルマントの白い法衣とセフレーニアの白いローブに、はっきりした類似を見出していたのだ。それはいささか異端的な考えを騎士に抱かせた。
ラモーカンドとサレシアからやってきた二人の大司教がドルマントを玉座まで先導する。玉座を覆っていた布は三人がいないあいだに取り去られており、総大司教は席に着いた。
「サラシには聖議会にお話をなさいますか」演台の前を離れたエンバンが片膝をついて尋ねた。
「サラシって?」タレンがベリットに尋ねる。
「とても古い名前だ。三千年近く前、教会がようやく統一されたとき、初代の総大司教となった人の名前だよ。以来その名前は栄えあるものとして、総大司教への呼びかけに使われるようになったんだ」ベリットが小声で答えた。
ドルマントは黄金の玉座の上で居ずまいを正した。
「ブラザー諸君、わたしはこのような光栄を求めてはいなかった。もし諸君がこれをわたしに負わせようと思わなかったなら、そのほうがずっと幸せだったろう。今できることは、われわれ全員、これが神のこ意思であることを祈るだけだ」わずかに顔を上げて、「さて、なすべきことは山ほどある。諸君には大いに手を貸してもらわなくてはならんだろうし、いつもそうだが、この大聖堂にも変化があるだろう。教会の役職もいろいろと変更になるだろうが、どうか悔しがったり落ちこんだりしないでいただきたい。総大司教が代わったときには、つねにくり返されてきたことなのだ。母なる教会は、この五百年で最大の危機に見舞われている。したがってわたしの最初の仕事は、信仰の危機を再確認することになるだろう。これはわれわれが敵に遭遇してこれを打ち破るまで続くものとする。それではブラザーと友人の諸君、まずは祈りを捧げてから、それぞれの仕事にかかることにしよう」
「簡にして要だ。サラシはいい一歩を踏み出した」アラスが称讃した。
「女王はあの演説のとき、本当にどうかしてたのか」カルテンが興味津々でスパーホークに尋ねた。
「もちろん違う」スパーホークは鼻を鳴らした。「自分のしてることは、つねに完璧に把握してたとも」
「そんなことじゃないかと思ってたんだ。おまえの結婚生活は驚きの連続になるぜ、スパーホーク。だがまあ、それもまたいいか。しょっちゅう思いがけないことが起きれば、用心深くなるからな」
大聖堂を出る前に、スパーホークはセフレーニアと言葉を交わそうと思った。教母は脇の通廊に引っこんで、修道僧のローブを着た男と何事か熱心に話し合っていた。だが振り向いたその男はエレネ人ではなく、白い髭《ひげ》を長く伸ばしたスティリクム人だった。男は近づいてくる騎士に頭を下げた。
「では、わしはこれで失礼しよう」セフレーニアにスティリクム語で別れを告げるその声は、老人のものとしてはとても深く豊かだった。
「いえ、ザラスタ、いてください」セフレーニアは片手を男の腕にかけた。
「聖なる場所にわしのような者がいては、騎士殿が困惑するじゃろう」
「スパーホークはそこらの騎士よりもものわかりがいいのですよ」教母は微笑んだ。
「これが伝説のサー・スパーホークかね」スティリクム人の男は少し驚いたようだった。「光栄に存じます、騎士殿」と重々しいエレネ語で挨拶する。
「スパーホーク、これはわたしの旧友であり親友でもあるザラスタです。同じ村で子供時代を過ごしました」セフレーニアが言った。
「光栄です、シオアンダ」スパーホークはスティリクム語で言って頭を下げた。シオアンダとは友の中の友≠意味するスティリクム語だ。
「年のせいで目が衰えたようじゃ」とザラスタ。「こうしてよく顔を見てみれば、たしかにサー・スパーホークだとわかる。目的が光となって輝いておる」
「ザラスタは力を貸してくれました」セフレーニアが言った。「きわめて賢く、秘儀に通じている人なのです」
「名誉に思います」とスパーホーク。
ザラスタは笑みを浮かべ、やや卑下するように答えた。
「あなたの探求の旅には、あまりお役に立てそうもない。そのように鉄に囲まれてしまったら、わしは花のようにしおれてしまうことじゃろう」
スパーホークは胸当てを軽く叩いた。
「エレネ人はこういうのが好きなのですよ。尖《とが》った帽子や、ブロケード織りの胴衣《ダブレット》のようにね。いずれは鋼鉄の服が時代遅れになるといいのですが」
「エレネ人は面白みのない人たちだといつも思っておったが、あなたは冗談がわかるようだ、サー・スパーホーク。今度の旅ではお役に立てんが、いずれ別の折には重要なお手伝いができるじゃろう」
「旅ですか?」とスパーホーク。
「あなたとセフレーニアがどこへ向かうのかは知らんが、二人の前途には何リーグもの道が見えておる。わしがここへ来たのは、心を鋼《はがね》のようにして、注意を怠らぬようにと忠告するためじゃ。危険を避けることは、時として危険を乗り越えるよりも望ましい」ザラスタはあたりを見まわした。「わしがここにおるのも、避け得る危険の一つかもしれんな。あなたは国際的な視野をお持ちじゃが、お仲間の中にはそうでない人もいよう」ザラスタはスパーホークに一礼し、セフレーニアの両掌に口づけをして、暗い脇通廊の奥に音もなく姿を消した。
「一世紀以上会っていませんでした。変わりましたね――ほんの少し」セフレーニアが言った。
「それだけの時があれば誰でも変わるものですよ、小さき母上」とスパーホーク。「もちろんあなたは別ですけど」
「あなたはいい子ですね、スパーホーク」教母はため息を洩《も》らした。「何もかも、あまりに昔のことのような気がします。ザラスタは子供のころから、何に対しても真剣でした。当時でさえその知性は信じられないほどでした。秘儀についての理解も群を抜いていました」
「旅というのは何のことでしょう」
「まさかそれが感じ取れないとでも言うつもりですか。あなたの前に伸びている長い距離が感じられないと?」
「ええ、わかりません」
「エレネ人というのは」セフレーニアは嘆息した。「ときどきあなたがたには、季節の移ろいさえわからないのではないかと思うことがあります」
スパーホークはその言葉を無視した。「どこへ行くんです?」
「わかりません。ザラスタにさえ、そこまではわかりませんでした。わたしたちの前に伸びているのは、暗い未来です。もっと前にわかっていてもよかったはずですが、わたしの道がその中を突っ切っているとは思いませんでした。いずれにせよ、どこかに旅をするのは確かです。なぜエラナといっしょにいないのですか」
「エラナは女王ですからね。今のところ近づけません」わずかに間を置いて、「セフレーニア、エラナにもあれが見えるんです――あの影が。たぶん指輪の片方をはめているせいだと思うんですが」
「それは理屈に合いますね。ベーリオンは指輪がなければ扱えません」
「それでエラナの身に危険が及ぶでしょうか」
「もちろんです。そもそもエラナは、生まれたときから危険にさらされているのです」
「それはいささか運命論的じゃありませんか」
「おそらく。その影というのを見てみたいですね。わたしならもう少しはっきり正体を見定められるでしょう」
「エラナから指輪を借りてきて、二つともあなたに渡してもいいですよ。そうすればベーリオンが扱えるでしょう。きっとそれで影が見えるはずです」
「二度とそんなこと、口の端にものぼせないでください」教母は身震いした。「いきなりわたしが永遠に消え失せてしまったりしたら、何の役にも立てませんからね」
スパーホークは少しむっとして尋ねた。
「セフレーニア、わたしは実験台か何かなんですか。ほかの者たちにはベーリオンに触るなと言いつづけていながら、わたしには何のためらいもなく、ベーリオンを見つけ出せ、グエリグから手に入れろとおっしゃった。わたしにだって危険はあるわけでしょう。わたしがあれに触れたとき、いきなり爆発したりすることは考えなかったんですか」
「ばかなことを、スパーホーク。あなたがベーリオンを扱う運命にあることは誰でも知っています」
「わたしは知りませんでした」
「この話はもうやめましょう、|あなた《ディア》。それでなくても山ほど問題を抱えているのです。あなたとベーリオンの間にはつながりがあるのだという、事実だけを受け入れることです。目下の問題はその影ですね。正体は何なのか、何をしているのか」
「ベーリオンを追ってるようですね。それに指輪も。ペレンのしていたことは度外視していいんじゃありませんか。あれはマーテルが独自に実行した計画だと思うんですが」
「そう決めつけてしまっていいものかどうか。ペレンを操っていたのはマーテルかもしれませんが、そのマーテルも何か別のものに操られていたのかもしれません。本人も知らないあいだに」
「こういう議論を続けていると、頭が痛くなってくるんですが」
「とにかく気をつけることです、ディア。どんなときも防御を怠らないように。エラナを見習うことでしょうね。あなたが不注意だったりしたら、エラナはきっと動揺するでしょう」
その晩ふたたび一堂に会したとき、仲間たちの意気は今一つ上がらなかった。今回はパンディオン騎士館ではなく、総大司教の居室に付属している装飾過多の広い部屋を使っている。通常は教会でも最高の位階に属する聖職者が集まって会議を行なう部屋だ。集まったのはサラシの個人的な要請があったからだった。スパーホークはティニアンがいないことに気づいた。部屋の壁には羽目板が張られ、カーテンと絨毯は青で統一されていた。宗教的なテーマを描いた巨大なフレスコ画が天井を飾っている。それを見上げたタレンは、ばかにするように鼻を鳴らした。
「左手でだってもっとましなものが描けるよ」
「いいかもしれんな」とクリク。「大聖堂の天井を絵で飾ってみるつもりはないか、ドルマントに聞いてみよう」
タレンは目を丸くした。
「あの天井は牧場より広いくらいじゃない。全面に絵を描くなんて言ったら、四十年はかかるよ」
クリクは肩をすくめた。
「おまえは若いからな。一つの仕事に取り組んでれば、揉《も》め事に巻きこまれることもないだろう」
ドアが開いてドルマントが入ってきた。全員が席を立って、床に片膝をついた。
「やめてくれ」ドルマントが弱々しく懇願する。「エレニアの女王に望んでもいない地位を押しつけられて以来、どこへ行ってもそれをやられているんだ」
「あら、サラシ、何てことをおっしゃるの」エラナが抗議した。
「話し合って、結論を出したいことがあるのだ」ドルマントは部屋のまん中に置かれた大きな会議卓の上座に腰をおろした。「座ってくれ。仕事にかかろう」
「戴冠式の日取りはいつがよろしいでしょうな、サラシ」エンバン大司教が尋ねた。
「それはあとでいい。まずオサをわれわれの玄関口から追い払うことだ。あれの出席を認める気はないからな。どう進めればいい?」
ウォーガン王が一同を見まわした。
「ではいくつか案を出して、諸君の反応を見るとしようかな。余が思うに、方法は二通りある。ゼモック軍と遭遇するまで東に進軍し、平原で撃破する。あるいは、適当な渓谷が見つかったらそこで止まって、敵を待ち受ける。前者の案では、オサがカレロスに近づくのを防ぐことができる。後者では野戦用の砦《とりで》を築く余裕が取れる。それぞれに利点はあるが、また同時に欠点もある」もう一度部屋の中を見まわし、「どう思うかね」
「敵がどういう相手なのかを知る必要があろうな」ドレゴス王が言った。
「ゼモックの民の数は多い」とオブラー王。
「それはまったくそのとおりだ。やつらは兎のように増えるからな」ウォーガンが苦々しげに答える。
「つまり数では向こうが上ということじゃ」オブラー王は先を続けた。「軍事戦略に関する記憶が正しければ、その場合こちらはつねに防戦に回ることとなろう。攻撃をかける前に、敵の戦力を切り崩しておかねばなるまい」
「また包囲戦か。包囲戦は嫌いだ」コミエーがこぼす。
「いつも望みのものが手に入るとは限らんぞ、コミエー」アブリエルが声を上げた。
「だがウォーガン王、選択肢はもう一つありそうです。ラモーカンドにはあちこちに城や要塞があります。先にこうした砦を占領してしまうのです。そうすれば、オサはそこを迂回《うかい》するわけにはいかなくなります。もしそうすれば、砦の中の部隊に補給路を断たれ、背後を衝《つ》かれてしまいますからな」
「だがアブリエル卿《きょう》、その作戦では、味方の戦力をラモーカンド中央部に分散することになってしまう」とウォーガン。
「たしかにそれは欠点でしょう。だが前にオサの侵略を受けたとき、われわれはランデラ湖畔で正面から激突しました。その結果イオシア大陸の人口は激減し、立ち直るのに何世紀という時間を要したのです。それをくり返すのが賢明なことなのかどうか」
「だが勝ったではないか」ウォーガンがむっつりと問い返す。
「またあのような勝ち方をしたいのですか」
「ほかの手立てもあるでしょう」スパーホークが静かに口を開いた。
「ぜひ聞かせてもらいたいな」ダレロン騎士団長が言った。「今までの選択肢の中には、あまり気に入ったものがない」
「セフレーニア、実際のところ、ベーリオンにはどれほどの力があるんです」
「世界でもっとも力のある品だと言ったはずです、ディア」
「その手があったな」とウォーガン。「スパーホークはベーリオンを使って、オサの軍団をそっくり消し去ることもできるわけだ。ときにスパーホーク、ことが終わった暁には、ベーリオンはサレシアの王室に返してくれるのだろうな」
「それはあとで話し合いましょう、陛下。でもお返ししたからといって、どうなるものでもありませんよ。指輪がなければ何もしてはくれませんし、わたしの指輪をお渡しする気にはなれませんからね。女王が自分の指輪についてどう考えているかは、直接お尋ねになってみてください」
「指輪を手放すつもりはありません」エラナは無表情にそう言った。
スパーホークはさっきのセフレーニアとの話をじっくりと思い返していた。考えれば考えるほど、今回の差し迫った衝突は、五百年前のようにラモーカンド中央部で軍団同士がぶつかり合うことで解決されるとは思えなくなってくる。だがその確信を正当化する方法がなかった。それは論理によって到達した結論ではなく、むしろもっとスティリクム的な、直感的な飛躍によって得られた確信だったからだ。軍隊に同行するのは間違いだということが、スパーホークにはなぜかはっきりとわかった。しなければならない何かに遅れてしまうだけでなく、危険でさえある。サー・ペレンの行動がマーテルだけの関与する陰謀ではなかった場合、スパーホークは自分と仲間たちの身を、完全武装した、だがどこに潜んでいるのかまったくわからない、何千という敵の前にさらしてしまうことになる。ここは何としても、エレニア軍とは一線を画して行動しなければならなかった。しかしそれもまた、論理的にそうする必要があるというのではなく、そうするしかないという絶対の確信に基づく結論だった。
「ベーリオンにはアザシュを滅ぼす力がありますか」答えはもうわかっていたが、ほかの者たちのために、セフレーニアの口から言ってもらう必要があった。
「何を言っているのです、スパーホーク」教母は激しい衝撃を受けているようだった。「神を滅ぼそうというのですか。そんなこと、口の端にのぼせただけで全世界が震撼します」
「神学的な議論をする気はありません。ベーリオンにその力はあるんですか」
「わかりません。そんなことを考えた人は、今まで一人もいませんでしたから」
「アザシュの最大の弱点はどこです」
「幽閉されているという点でしょう。スティリクムの若き神々は、粘土の塑像の中にアザシュを封じこめました。何世紀も前にオサが見つけた、あの像です。アザシュがあれほど熱心にベーリオンを探し求めているのは、これも理由の一つなのです。あの神を自由にできるのは青い薔薇だけです」
「その塑像が破壊されたら?」
「アザシュも像とともに滅びるでしょう」
「わたしがゼモックの街へ行って、ベーリオンでは結局アザシュを滅ぼせないことがわかって、かわりにベーリオンそのものを破壊したとしたら、どういうことになります」
「街は壊滅するでしょう」困ったような口調で、「それに周囲の山々も、ことごとく」
「だったら、わたしは失敗するはずがないということになりませんか。いずれにしてもアザシュはいなくなる。もしクレイガーの言うことが本当なら、ゼモックにいるオサも、マーテルやアニアスといった連中も、みんな道連れだ。アザシュとオサさえいなくなれば、ゼモック国の侵略軍はばらばらになってしまうでしょう」
「命を投げ出すつもりなのか、スパーホーク」ヴァニオンが言った。
「それで何百万という命が助かるなら」
「絶対にだめです!」エラナが叫んだ。
「申し訳ありません、女王陛下。でもアニアスとほかの連中を始末しろとお命じになったでしょう。その命令は撤回できませんよ――少なくともわたしに対しては」
ドアを軽くノックする音がして、ティニアンとペロイ族のドミ・クリングが入ってきた。
「どうも遅くなりまして。ドミと二人、ずっと地図を調べてたんです。どういうわけかゼモック軍は、ラモーカンド国境にいる本隊から、戦力を北に移しはじめてるようなんです。ペロシア国東部に侵入してきてるんですよ」
クリングがソロス王を見つけて目を輝かせた。
「ああ、ここにいたんですか、国王陛下。ずっと探してたんです。ゼモック人の耳をたっぷり集めてきましたから、買い取ってくださいよ」
ソロス王は何かつぶやいたが、まだ喉が治っていないようだった。
「だいぶ絵柄がそろってきました」スパーホークが全員に向かって言った。「クレイガーの話だと、マーテルはアニアスを連れて、ゼモックの街にオサの保護を求めに行くつもりだとか」椅子の背にもたれかかり、「過去五百年にわたる問題の最終解決は、ラモーカンドの平原にではなく、ゼモックの街にあると考えるべきでしょう。われわれの敵はアザシュであり、マーテルでもアニアスでもオサでもゼモック人でもありません。そしてアザシュを永遠に葬り去るための手段が、今われわれの手の内にあるのです。それを使わないのは愚かなことだと思いませんか。ベーリオンの花びらが擦り減るまでゼモックの歩兵部隊を壊滅させつづけて、カモリア湖の北のどこかの戦場で年を取って髪が白くなるまで戦うのも一つの方法でしょうが、問題の中心を一気に貫くほうがいいのではありませんか。問題の中心とは、つまりアザシュです。さもないと、結局は数世紀ごとに、同じ問題に悩まされつづけることになります」
「まともな戦略とは言えんな、スパーホーク」とヴァニオン。
「失礼ながら、平原で膠着状態に陥るという戦略のどこがまともなんですか。前にゼモックと西方諸国が戦ったときは、痛手から回復するのに一世紀以上かかったんですよ。今回は完全に終止符を打てる可能性があるんです。たとえうまくいかなくても、その時はベーリオンを破壊します。そうなれば、アザシュが西方を侵略する理由はもうありません。あとはタムール人にでもちょっかいを出すようになるでしょう」
アブリエル騎士団長が疑念を口にした。
「だが突破できんだろう、スパーホーク。ペロイのドミの言葉は聞いたはずだ。ゼモック軍は東ラモーカンドだけでなく、東ペロシアにも侵攻している。たった一人で、どうやってその中を突っ切るつもりだ」
「たぶん脇にどいてくれるのではないかと思います。マーテルは北へ向かっています。少なくとも、本人はそう言いました。パレルあたりまで行くつもりなのかどうかは知りませんが、実はそれはどうでもいい。マーテルがどこへ向かおうと、わたしはあとを追っていくからです。やつは追ってきてもらいたがっています。地下室ではっきりとそう言いましたし、わたしが聞いていることは確実に承知していたんです。わたしをアザシュのもとへ連れていきたいんですよ。途中でその邪魔をするようなことは、しないと考えていいはずです。奇妙に思えるかもしれませんが、今回はマーテルを信用できると思うんです。そうするしかないとなれば、やつは自分で剣を振るってでもわたしのために道を切り開いてくれるでしょう」スパーホークはちらりと笑みを浮かべた。「みなさんのお気遣いは胸にしみました」セフレーニアに目を転じて、「神を滅ぼすなどと口の端にのぼせることさえ考えられないということでしたね。ベーリオンを破壊するということならどうでしょう」
「さらに考えられないことです、スパーホーク」
「つまり敵もまた、わたしがそんなことを考えているとは夢にも思わないということですね」
セフレーニアは黙ってうなずいた。騎士を見る教母の目には、奇妙な畏怖の色があった。
「それはこちらの強みということです」とふたたび全員に向かって、「誰もが思いもつかないことを、こっちは最後の手段として握っているわけです。わたしはベーリオンを破壊できる。それを脅しに使うこともできます。そうすればどんな人間も――あるいは神々も――わたしのために道をあけてくれるでしょう」
アブリエル騎士団長はなおも頑固にかぶりを振った。
「東ペロシアの国境地帯に集まっているのは、あの原始的なゼモック人だ。いくらオサでも、あの連中を完全に命令に従わせることなどできない」
「発言してもよろしいでしょうか、サラシ」クリングがひどく礼儀正しく声を上げた。
「もちろんだとも、息子よ」ドルマントは戸惑った顔をしていた。この恐ろしげな男が何者なのか、まったく知らなかったのだ。
「ペロシア東部からゼモック国のかなり奥まで、おれたちが案内してやれるぞ、友スパーホーク。ゼモック軍が広く散開しているなら、おれたちは馬で中央突破できる。パレルからゼモック国境まで、幅五マイルにわたって敵の死体が転がるだろう。もちろん右耳のない死体がな」クリングは狼のような笑みを浮かべ、得意げにあたりを見まわした。その視線が、エラナ女王の横に控えめに腰をおろしているミルタイの上に止まった。目が大きくなり、顔がまず青くなって、次にまっ赤に上気する。クリングはもの欲しげなため息を洩らした。
「わたしならやめておくな」とスパーホーク。
「何だって?」
「あとで説明しよう」
そのときベヴィエが口を開いた。
「認めたくはないのですが、考えれば考えるほどその計画がよさそうに思えます。われわれがオサの首都へ到達するのに、大した問題は起きないでしょう」
「われわれ?」とカルテン。
「当然いっしょに行くのでしょう、カルテン」
「うまくいくと思いますか、小さき母上」ヴァニオンが尋ねた。
「いいえ、ヴァニオン卿、だめです!」エラナが口をはさんだ。「スパーホークがゼモックへ行って、ベーリオンを使ってアザシュを殺すことはできません。指輪が二つそろっていないからです。一つはわたくしが持っているのです。これを取り上げようと思ったら、わたくしを殺すしかありません」
これはスパーホークが予期していなかった事態だった。「女王陛下――」
「あなたが口を開くことは許可していません、サー・スパーホーク。この愚かで無益な計画をこれ以上追求することは禁止します。命を投げ出すことは許しません。あなたの命はわたしのものなのよ、スパーホーク! わたしの! それを取り上げるなんて、許しません!」
「ということはまた振り出しだな」とウォーガン。
「そうでもないでしょう」ドルマントはそう言って、静かに席を立った。「エラナ女王、あなたには母なる教会の意志に従うつもりがありますか」
エラナは反抗的にドルマントを見つめた。
「どうなんです」
「わたくしは教会の真の娘です」エラナはしぶしぶそう答えた。
「そう聞いて安心しました。これは教会の命令です。教会が必要とするしばらくの間、その指にある装飾品を教会の手に委《ゆだ》ねなさい」
「不公平だわ、ドルマント」
「教会に背くのですか、エラナ」
「そ――そんなことは!」エラナが逡巡する。
「では指輪をお渡しなさい」ドルマントは手を差し出した。
エラナはわっと泣きだした。ドルマントの腕をつかみ、そのローブに顔を埋める。
「指輪をお渡しなさい、エラナ」
「一つだけ条件があります、サラシ」
「聖なる教会と取引しようというのですか」
「いいえ、サラシ、もっと以前の命令に従っているだけです。教会はわたくしたちに、結婚によって忠実な信徒を増やすようにとお命じになりました。指輪はわたくしとサー・スパーホークが、婚姻によって一つに結ばれたときにお渡しいたします。わたくしは努力に努力を重ねてスパーホークを引き止めてきました。教会はこの条件を認めてくださるでしょうか」
「公平な申し出のようだ」ドルマントは自分が牛の肉のように取引されるのを唖然《あぜん》として眺めているスパーホークに、ちらりと笑みを向けた。
もの覚えのいいエラナは、前にプラタイムから教わったとおり、片手を開いて唾を吐いた。「じゃあ、決まりね」
ドルマントはしばらく目を丸くしていたが、その意味を悟って自分も掌《てのひら》に唾を吐いた。「決まりだ」
二人は掌と掌を打ち合わせ、スパーホークの運命を定めた。
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第三部 ゼモック
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部屋は涼しかった。砂漠の熱気は日が沈むとたちまち衰え、明け方にはいつも寒いほどの冷えこみが来る。窓辺に立ったスパーホークは、ビロードのような夜が空から拭《ぬぐ》い去られ、眼下の街路の影が角や戸口に引っこんで、灰色の光がそれに取って代わるのを眺めていた。それは光というよりも、単に闇がない状態というほどのものだ。
影になった路地の中から最初の一人が姿を現わす。肩の上に素焼きの瓶を載せて、巧みにバランスを取っている。女は黒いローブとフードをまとい、顔の下半分を黒いベールで隠していた。薄明の中を歩くその姿のあまりの優美さに、スパーホークの胸は痛んだ。さらにもう一人。女たちは次々と戸口や路地から姿を現わし、それぞれに素焼きの瓶を肩に載せて、あまりに昔から続いているためにもはや本能となってしまっている儀式にのっとって無言の行列に加わった。男たちの一日の始まりがどうあろうと、女たちの一日はまず井戸へ向かうことから始まるのだ。
リリアスが身じろぎして、眠そうな声でつぶやいた。「マークラ、ベッドへ戻って」
家畜処理場のなかば狂乱した牛の鳴き声にも負けずに、遠くから鐘の音が聞こえてくる。この王国では鐘を鳴らすことは奨励されていないから、そこへ行けば同じ信仰を持った者たちがいるはずだった。ほかに行くあてもないまま、スパーホークはよろよろと鐘の音を追っていった。剣の柄が血で滑る。武器がひどく重く感じられた。そんな重荷は放り出してしまいたい。ちょっと力をゆるめれば剣は手を離れて、糞尿のにおいのする闇の中に転がっているはずだ。だが真の騎士というものは、死の瞬間まで剣を手放したりはしない。スパーホークは剣を握る手に力を込め、鐘の音をたよりによろめきながら歩きつづけた。寒かった。傷口から流れ出す血が心地よいほど温かい。寒い夜の中、脇腹から流れる血だけで暖を取りながら、騎士は進みつづけた。
「スパーホーク」クリクの声だ。頑丈な手が肩を揺さぶる。「スパーホーク、起きるんです。また悪い夢を見てますね」
スパーホークは目を開いた。全身が汗まみれだった。
「同じ夢ですか」とクリク。
スパーホークはうなずいた。
「マーテルを殺せば、たぶんもう見なくなるでしょう」
スパーホークはベッドの上で身体を起こした。
クリクはにやにや笑っている。
「それとも違う悪夢だったんですか。何しろ今日は婚礼の日ですからね。新郎ってのは、結婚の前の日に悪い夢を見るもんだと決まってるんです。昔からの習慣みたいなものですよ」
「アスレイドと結婚する前の日は、おまえも悪夢を見たのか」
「見ましたとも」クリクは笑った。「何かに追いかけられてて、そいつから逃れるには海辺まで逃げきって船に乗らなくちゃならないんです。問題は海が動きまわって、ちっともじっとしててくれないことでね。すぐ朝食にしますか。それとも風呂に入って、わたしが髭《ひげ》を剃ってあげてからにしますか」
「髭くらい自分で剃れる」
「それはどんなものですかね。手を出してください」
スパーホークは右手を突き出した。目に見えるほど震えている。
「今日は絶対に自分で髭を剃ろうなんて思わないことです。わたしから女王への、結婚のプレゼントってことにしましょう。あなたを傷だらけの顔で初夜の寝台に送りこみたくはないですからね」
「今何時だ」
「夜明けの一時間かそこら前です。起きてください、スパーホーク。今日はやることがびっしり詰まってるんです。ああ、ところで、エラナからプレゼントが来てますよ。昨夜あなたが眠ったあとで届いたんです」
「起こしてくれればよかったのに」
「なぜです? どうせ寝台ではかぶれませんよ」
「何なんだ、いったい」
「あなたの冠ですよ」
「わたしの、何だって?」
「冠です。一種の帽子ですかね。日除けにはあまり役立ちそうにないですけど」
「エラナは何を考えているんだ」
「儀礼でしょう。何しろ女王のこ夫君なんですから。まあ、今夜以降ですけど。なかなかいい冠ですよ――冠としては。黄金、宝石、そういったものがふんだんに使ってあって」
「どこでそんなものを」
「あなたがシミュラからここに向かった直後に作らせたんです。いっしょに持ってきたんですよ――漁師がいつも釣糸と釣針を隠しに忍ばせてるみたいにしてね。どうやら新婦は、いつ機会が訪れてもいいように準備をしてたようですね。今夜の結婚式のとき、ビロードのクッションに乗せて持ってくるように言われました。結婚の絆《きずな》が結ばれたら、すぐにあなたの頭に載せようと思ってるようです」
「ばかばかしい」スパーホークは鼻を鳴らし、ベッドから飛び下りた。
「たぶんね。でもすぐに女性というのが、世界をわれわれとは違ったふうに見てるんだってことがわかるようになりますよ。だから人生は面白いんです。それで、どうするんです。食事ですか、風呂ですか」
その朝の会合は騎士館で行なわれた。大聖堂は混乱のさなかにあったからだ。ドルマントの改革は徹底したもので、聖職者たちは巣を壊された蟻のように右往左往していた。オーガーの角のついた兜《かぶと》に鎖帷子《くさりかたびら》という格好のバーグステン大司教が、にやにやしながらサー・ナシャンの書斎にその巨体を現わし、戦斧《バトルアックス》を部屋の隅に立てかけた。
「エンバンとオーツェルはどうした」ウォーガン王が尋ねた。
「かつての同僚を追放するのに忙しいようです。サラシが大聖堂の大掃除を始めましたから。エンバンは政治的に信頼できない者たちの名簿を作って、あちこちの僧院で急に人口が膨れ上がっています」
「マコーヴァは?」とティニアン。
「名簿の先頭だ」
「第一秘書は誰になったのかね」とドレゴス王。
「ほかに誰がいます。エンバンですよ、もちろん。オーツェルは神学校の学長に任命されました。たぶんいちばんよく似合う地位でしょう」
「そなたは?」ウォーガンが尋ねる。
「いささか特殊な地位を与えられましたが、まだ呼び方は決まっていません」バーグステンはきびしい顔で四人の騎士団長を見わたした。「教会騎士団のあいだには、かなりの長きにわたって意見の対立があった。サラシはわたしに、そうした対立に終止符を打つようお命じになった」太い眉が不気味にひそめられる。「理解していただけるものと信じるが、いかがかな」
騎士団長たちは不安そうに顔を見合わせた。
「それで、何か決まったことは?」バーグステンが尋ねた。
「まだ議論の途中なのです、猊下」そう答えたヴァニオンは、今朝は顔色がすぐれなかった。どう見ても調子が悪そうだ。いつもは年齢を感じさせないヴァニオンだが、こんなときにはスパーホークも、騎士団長が見かけよりかなり年上なのだということを思い知らされた。「スパーホークはあくまでも自殺的な作戦にこだわっており、それよりましな計画はまだ誰も思いつけずにいます。教会騎士団は明日にでも動きだして、ラモーカンドの城や砦を占領に向かいます。それが終わったら各国の軍団もあとに続きます」
バーグステンはうなずいた。
「実際には何をするつもりなのだ、スパーホーク」
「ゼモックへ行ってアザシュを滅ぼし、マーテルとオサとアニアスを殺して帰ってくるつもりです、猊下」
「けっこうだな。だがわたしの知りたいのは詳細だ。詳細を説明したまえ。サラシに提出する報告書を作らなくてはならん。サラシは詳細な報告書がお好きなのだ」
「はい、猊下。ほぼ意見が一致しているのは、マーテルたちがゼモックへ逃げこむ前にこれに追いつくのは不可能だろうという点です。三日も先行されていますからね、今日も含めて。マーテルは馬のことなど気にしませんし、どうしてもわれわれに先行しておきたいと思っているはずです」
「マーテルを追いかけるつもりなのかね。それともまっすぐゼモック国境に向かうのか」
スパーホークは椅子にもたれかかった。
「その点はちょっと曖昧なんです。マーテルを捕まえたいのはもちろんですが、そのために脇道にそれるつもりはありません。いちばんの目的は、ラモーカンド中央部で大規模な戦闘が始まる前に、ゼモックの街にたどり着くことです。クレイガーの話によると、マーテルはまず北へ向かって、ペロシア国のどこかでゼモック国との国境を越えようとしているようです。わたしもだいたい同じ道をたどるつもりですから、その意味ではマーテルを追いかけることになります。ただ、やつを追いかけてペロシア北部を走りまわるつもりはありません。向こうが道をはずれたら、追跡はやめてまっすぐゼモックに向かいます。レンドー国から戻って以来、ずっとマーテルのゲームに付き合わされてきたんです。これ以上はごめんですよ」
「ペロシア東部にいるゼモック人はどうするつもりだ」
「そこでおれの出番になります、猊下」クリングが言った。「ゼモック国の奥まで行ける道があるんです。ゼモック人はなぜかその道を通らないようで、おれたちは何年も前から利用してます。国境地帯に耳が不足してきたときなんか」ドミは急に口をつぐみ、あわててソロス王に目を向けた。だがペロシア国王は祈りに没頭していて、クリングがうっかり口を滑らせた言葉は聞いていなかったようだ。
「これでだいたい全部です」スパーホークがバーグステンに言った。「ゼモック国内がどうなっているのかは誰にもわかりませんから、向こうではある程度、場当たり的にやるしかないでしょう」
「何人で行くのだ」とバーグステン。
「いつもどおりです。騎士が五人と、クリクにベリットにセフレーニアです」
「おいらは?」タレンが抗議の声を上げる。
「あなたはシミュラに戻るのです」セフレーニアが言った。「エラナが見ていてくれるでしょう。わたしたちが戻るまで、王宮で待っていなさい」
「不公平だよ!」
「人生とはそうしたものです。あなたの将来のことは、スパーホークとお父様が考えています。その前にあなたが死んでしまうようなことにはしたくないのです」
「教会に取りなしてもらえない?」タレンは急いでバーグステン大司教に尋ねた。
「いや、だめだな」武装した大司教が答える。
「おいらが聖なる教会にどれほど失望したか、とてもわからないだろうね。このことだけで、もう聖職者になる気はなくなったよ」
「神に称《たた》えあれ」バーグステンがつぶやく。
「アーメン」アブリエルがため息をついた。
「許してもらえるの?」タレンがむっつりと尋ねる。
「だめだ」答えたのはベリットだった。ドアの前の椅子に座って腕を組み、片足をドアの前に伸ばして、タレンが逃げ出すのを防いでいる。
タレンは傷ついた表情で腰をおろした。
その後の議論はラモーカンド中央部の城砦にどう部隊を展開するかに移り、スパーホークたちは話に加わらなかった。新郎は何を考えるでもなく、ぼんやりと床を見つめて座っていた。
午《ひる》ごろになって会合は終わり、一同は解散した。準備しておくことが山ほどあり、誰もがそれぞれに仕事を抱えていた。
ナシャンの書斎を出ようとすると、クリングが声をかけてきた。
「友スパーホーク、ちょっと話をしていいか」
「もちろんだ、ドミ」
「個人的なことなんだが」
スパーホークはうなずいて、傷痕のあるペロイ族の頭目を近くの小さな礼拝堂に連れていった。二人は祭壇の前でおざなりに片膝をつき、最前列の磨き上げた木の長椅子に腰をおろした。
「話というのは何だ、クリング」
「おれは単純な男だ、友スパーホーク。だから本題から入ろう。エラナ女王を警護してる、あの背の高い美しい女に、おれは心を奪われてしまった」
「そんなことじゃないかと思った」
「おれにあの女を射止める可能性はあるだろうか」クリングの情熱はその目に表われていた。
「わたしには何とも言えないな、わが友。ミルタイのことはよく知らないんだ」
「それが名前なのか。今まで名前を知る機会がなかった。ミルタイ――いい響きじゃないか。あの女は何もかも完璧だ。これは聞いておかなくてはならない。結婚はしているんだろうか」
「していないと思う」
「よかった。女に言い寄るのにまず夫を殺さなくてはならないというのは、あまりうまくない。どうも出だしがぎくしゃくするからな」
「言っておくが、ミルタイはエレネ人じゃない。タムール人だ。文化的にも宗教的にも、われわれとは異なっている。相手の名誉を踏みにじったりはしないだろうな、クリング」
「もちろんだ。侮辱するなど、考えられない」
「それはとにかく第一歩だ。それ以外の近づき方をしたら、きっとミルタイに殺されるだろう」
「殺される?」クリングは驚いて目をしばたたいた。
「ミルタイは戦士なんだ。これまでに知ってるどんな女性とも違っていると思ったほうがいい」
「女は戦士にはなれない」
「エレネ人の女はな。だがさっきも言ったように、ミルタイはタムール人のアタン族だ。世界の見方がわれわれとは違うんだよ。わたしの考えでは、ミルタイはもう十人以上の人間を殺してる」
「十人?」クリングは信じられない顔でごくりと唾を呑み、背筋を伸ばした。「それは問題かもしれない、スパーホーク。だが構わん。結婚すれば、たぶん女らしく仕込んでやれるだろう」
「その点に賭けようとは思わないな、わが友。仕込むという話なら、たぶん仕込まれるのはきみのほうだ。すっぱり諦《あきら》めるのがいちばんだよ、クリング。わたしはきみが気に入ってる。殺されるところは見たくない」
「よく考えてみなくてはならない」クリングは戸惑っているようだった。「これはひどく不自然な状況だ」
「そうだな」
「ともあれ、おまえにオマを頼めるだろうか」
「その言葉はわからないな」
「友だちのことだ。女のところへ――それにその父親と兄弟のところへ行って、こちらがどれほどその女に惹《ひ》かれているかを告げてくるんだ。女にはおれがどれほどすばらしい男かを話して聞かせる。おれがすばらしい指導者で、たくさん馬を持っていて、多くの耳を集め、偉大な戦士だといったような、そういうありきたりな話を」
「偉大な戦士というところは、強い印象を与えそうだな」
「単純な事実だ。おれは最高の戦士なのだから。ゼモックへ着くまで、考える時間はじゅうぶんあるだろう。ただ、出発する前に話だけは伝えておいてくれ。相手にも考えておいてもらいたいからな。そうそう、忘れるところだった。おれが詩人だということも話しておいてくれ。女はそういうものに弱い」
「最善をつくすよ、ドミ」とにかくスパーホークはそう約束した。
午後になってスパーホークから話を聞いたミルタイの反応は、あまり芳《かんば》しいものではなかった。
「あの頭を剃ったがにまた[#「がにまた」に傍点]の小男のこと? 顔じゅうに傷のある?」ミルタイは信じられないという顔をしていたが、やがて腹を抱えて大笑いしはじめた。
「まあ、やるだけのことはやったんだ」スパーホークは哲学的な顔でつぶやいた。
婚礼はいささか型破りなものになりそうだった。たとえばエラナの付き添いをするようなエレネ人の貴婦人はカレロスにはおらず、女王と親しい女性といえば、セフレーニアとミルタイくらいのものだった。エラナは二人にも式に出てもらうと言って譲らず、そのために眉をひそめる者は少なくなかった。国際人のドルマントでさえ、さすがにこれには言葉を詰まらせた。
「大聖堂で行なう宗教的な行事に、異教徒を二人も参列させるわけにはいかんよ、エラナ」
「わたくしの結婚式なのよ、ドルマント。だからわたくしの好きなようにします。セフレーニアとミルタイには、どうしても出席してもらいます」
「認めるわけにはいかん」
「けっこうね」エラナの目が冷たくなった。「二人が出席しないなら、結婚式はしません。結婚式をしない以上、指輪はこのままわたくしの手許に残ります」
「あれはまったく手に負えない女性だな、スパーホーク」エラナが婚礼の準備をしている部屋から足音荒く出てきた総大司教は、煙でも吐きそうな勢いだった。
「われわれは元気がいい≠ニ称していますがね、サラシ」スパーホークは穏やかに指摘した。着ているのは銀の縁取りのある黒いビロードの胴衣《ダブレット》だ。甲冑姿で婚礼に臨むという考えには、エラナが断固として反対したのだった。女王はこう言った――「鎧を脱がせるために寝室に鍛冶屋を呼んでおくなんていうのはいやよ。手伝いが必要なら、わたしがやります。でも爪をみんな折ってしまいたくはないの」
西イオシア各国の軍隊の貴族たちや大聖堂の聖職者たちが大挙して出席したために、その夜、蝋燭《ろうそく》で照らされた広い聖堂には、クラヴォナスの葬儀のとき以来の人数が詰めかけた。聖歌隊が楽しげな聖歌を歌う中、参列者がずらりと並んで席に着き、盛大に香が焚《た》かれた。
スパーホークは付添人たちと、聖具室で苛々しながら待っていた。仲間たちはもちろんみんな顔をそろえている。カルテン、ティニアン、ベヴィエ、アラス、ドミ、クリク、ベリット、それに四人の騎士団長たち。エラナの付添人は、セフレーニアとミルタイのほかには、当然の人選として西イオシア各国の王たち、それに奇妙な人選として、プラタイムとストラゲンとタレンがいた。女王はこうした人物を選んだ理由を説明しなかった。理由などなかったという可能性も大きい。
「やめてください、スパーホーク」クリクが言った。
「何を?」
「胴衣《ダブレット》の襟をそうやって引っ張るのですよ。破けてしまいます」
「仕立屋がきつくしすぎたんだ。首に縄を巻かれてるみたいだよ」
クリクは何とも答えなかったが、ただ面白がるような目でスパーホークを見つめた。
ドアが開いて、エンバンが汗にまみれた顔を突っこんできた。大きな笑みを浮かべている。
「そろそろいいかな」
「さっさと始めましょう」とスパーホーク。
「花婿殿は待ちきれんようだな。いや、昔を思い出すわい。聖歌隊は伝統的な婚礼の聖歌を歌っているから、よく知っている者も多かろう。最後の和音になったらドアを開けるから、そうしたら諸君は、われらが犠牲の仔羊を祭壇の前に運んできてくれ。逃がすんじゃないぞ。そうなるとたいてい大騒ぎになるからな」エンバンはいたずらっぽく笑ってドアを閉めた。
「とんでもない人だ」スパーホークがむすっとしてつぶやく。
「そうかね。おれは好きだけどな」とカルテン。
婚礼の聖歌は、エレネ教会の聖歌の中でもいちばん古くから伝わるものの一つだった。喜びに満ちあふれたその歌に、新婦はじっと耳を澄まし、新郎はほとんど注意を払わない。それもまた一つの伝統だった。
最後の歌声が消えると、エンバン大司教は大きくドアを押し開けた。スパーホークは友人たちに取り囲まれ、祭壇へと運ばれていった。まるで刑吏が囚人を絞首台へ護送するようだという言い方は、この場合は不謹慎に過ぎるかもしれない。
まっすぐ通廊を進んでいくと、祭壇では金の縁取りのある純白の法衣をまとったドルマント総大司教が待っていた。
「よくぞ参った、わが息子よ」ドルマントはかすかな笑みを浮かべた。
スパーホークはあえて答えなかった。ただ友人たち全員が、きっと何か面白いことが起きるに違いないと期待していることだけはよくわかった。
やがて招待客が全員立ち上がり、沈黙が降り、誰もが首を伸ばして正面のドアを見つめるちょうどその時を見計らって、花嫁の一行が一方のドアから現われた。最初はセフレーニアとミルタイだった。だがまっ先に目を引いたのは、二人の身長の違いではなかった。人々が唖然として息を呑んだのは、二人が明らかに異教徒であるという事実だった。セフレーニアはどう見てもスティリクムふうの白いローブを着て、額には花冠を飾り、静かな表情を浮かべていた。ミルタイのガウンは、エレニアでは知られていないスタイルのものだった。濃い青紫色で、縫い目がないように見える。両肩のところを宝石のついたクリップで止め、そこから長い金の鎖が胸の下へ伸びて背中で交差し、ウェストを締めて腰を支え、前で複雑な結び目を作ってから、床まで届きそうな飾り房になって終わっている。肩までむき出しになった黄金色の両腕は染み一つなく滑らかだが、みっしりと筋肉がついていた。足には金色のサンダルを履き、今はほどいている漆黒の髪はまっすぐに背中を流れ落ち、腿のなかばにまで達していた。頭には飾り気のない銀のバンドを巻き、腕にはブレスレットではなく、金の象嵌《ぞうがん》を施した、磨き上げた鋼鉄の手錠をはめていた。エレネ人の感情に配慮したのか、一目でわかるような武器は帯びていない。
セフレーニアと並んで入ってきたミルタイの姿を見て、ドミ・クリングが悩ましげなため息をついた。二人はゆっくりした足取りで祭壇に向かった。
ふたたび思わせぶりな間があって、左手を軽くオブラー老王の腕にかけた花嫁が登場した。一人の女ではなく一個の芸術作品としてその姿を全員が堪能できるよう、いったん足を止める。花嫁衣装はたいていそうだが、エラナのガウンも白いサテン製だった。ただ金のラメで縁取りされているところが目を引く。そのコントラストを強調するために、長い袖は折り返してあった。袖自体はとても長く、伸ばせば床に引きずりそうなほどのカットになっている。金のメッシュの幅広いベルトには、さまざまな宝石が散りばめられていた。この上なく豪華な黄金のケープが背後の床にまで広がって、輝くようなサテンの衣装にさらに重みを加えている。色の薄いブロンドの髪には王冠が飾られていた。エレニア王家に代々伝わる王冠ではなく、黄金のメッシュを編んで輝く小さな宝石をいくつもはめ込み、あいだに真珠を散らしたものだ。王冠はベールを止めるためのものだった。ベールの前面は胴着にかかり、うしろは両肩を覆っていたが、とても薄い布地でできているために、まるで霧がかかっているようにしか思えなかった。白い花を一輪だけ手にして、白く若々しい顔は輝くようだ。
「こんな短い期間で、よくあれだけの花嫁衣装ができましたね」
ベリットにささやかれて、クリクが答えた。
「セフレーニアが指をうごめかせたんだと思うね」
そのときドルマントにじろりと睨《にら》まれて、二人は口をつぐんだ。
エレニアの女王に続いて、王冠を戴いた国王たちが入場した。ウォーガン、ドレゴス、ソロス、それに父の代理のラモーカンド王国皇太子と、カモリア王国大使の顔もあった。レンドー国からの出席者はなく、またゼモック国のオサを招くことは誰も考えなかった。
一行はゆっくりと通廊を歩いて、新郎の待っている祭壇へと近づいた。プラタイムとストラゲンは最後尾について、左右からタレンを挟みこむ形になっている。タレンは白いビロードのクッションを捧げ持っており、その上にはあの一対のルビーの指輪が載っていた。付け加えておくと、ストラゲンとプラタイムの二人は若い盗賊をしっかりと監視しているようだった。
スパーホークは花嫁が顔を輝かせて近づいてくるのを見つめた。まだ理性的にものを考えることのできる最後の瞬間に、これまでどうしても認めることのできなかったことを、騎士はようやく受け入れた。十数年前に託されたエラナの世話という仕事は、単なる雑用だっただけでなく、スパーホークに対する侮辱でもあった。それでも王女に対して怒りをぶつけることをしなかったのは、王女もまた父王の気まぐれの犠牲者だとわかっていたからだ。最初の数年はたいへんだった。今はあのように顔を輝かせて近づいてくるエラナも、当時はとても人見知りが激しかった。いささかくたびれた、小さなぬいぐるみのロロとしか話をしようとはしなかったのだ。ロロはいつも、エラナにとっては唯一の話し相手だった。だがそのうちに、幼い王女はスパーホークのいかつい顔ときびしい態度にも慣れてきた。二人のあいだに細い友情の絆のようなものができたのは、ある尊大な廷臣が王女に無礼を働いて、保護者の騎士に手ひどくたしなめられた時だった。誰かが自分のために血を流してくれるのは、王女にとってははじめての経験だったのだ(その血は廷臣の鼻から流れたものだったが)。その瞬間から、顔色の悪い幼い王女にとって、まったく新しい世界が開けたのだった。その日以来、王女はどんなことでも――騎士が望まないことまでも――スパーホークに打ち明けるようになり、秘密はいっさい作ろうとしなくなった。スパーホークは王女のことを、世界じゅうの誰よりも詳しく知っていた。そのためにスパーホークは、ほかのどんな女にも心を移すことができなかった。小柄な王女の存在はスパーホークの存在とあまりにも複雑に絡まり合っていて、二人の心を引き離すことなど誰にもできなかったのだ。それがこの時、この場所に二人がいることの理由だった。自分が苦しみに耐えるだけのことであれば、スパーホークは誰にも心の内を明かすことなく、じっと耐え忍ぶこともできたろう。だがエラナの苦しみまで抱えこむというのは――
聖歌が終わった。血縁であるオブラー王が騎士に女王を引き渡し、新婦と新郎はドルマント総大司教に向き直った。
ドルマントがそっと二人に耳打ちした。
「ここで少し説教をすることになっている。慣習があって、みんなわたしがそうすると思っているからな。別に聞いていなくてもいいが、できれば目の前で欠伸《あくび》をするのだけはがまんしてくれ」
「そんなこと考えてもいませんわ、サラシ」エラナがささやき返した。
ドルマントは結婚というものについて――いささか長々と――一席ぶち、新郎新婦に対して、式さえ終わってしまえば自然の衝動に従うことに何の差し障りもないこと、むしろそれは奨励されていることを請け合った。総大司教は互いに相手に誠実であるべきことを強調し、二人の和合の果実はエレネ人の信仰を持つよう育てなくてはならないと念を押した。そのあと汝《なんじ》は≠ナ始まる一連の質問が交互に二人に対してなされ、婚姻すること、世俗の富をすべて分かち合うこと、愛し、敬い、従い、慈しみ合い云々《うんぬん》といったことを約束するかどうかといったことが尋ねられた。式は滞りなく進んで、タレンがとうとうどちらも盗むことのできなかった指輪の交換に移った。
そのときだった。まるで大聖堂のドーム屋根そのものから響いてくるような、どこか馴染みのある静かな楽の音が聞こえてきたのは。それはトリルを奏でる笛の音で、愛を称える喜ばしい楽調に満ちていた。スパーホークはセフレーニアに目を向けた。その輝くような笑みが、すべてを語っていた。アフラエルはいったいどんな条件でエレネ人の神と取引し、この場に列席して自身の祝福を与えることを許されたのだろう――騎士はちらりとそんなことを思った。
「あの音楽は何?」エラナが唇を動かさずに尋ねた。
「あとで説明してあげるよ」スパーホークがささやき返した。
アフラエルの笛の音は、蝋燭に照らされた聖堂に集まったほかの人たちには聞こえないようだった。ただドルマントだけは目をわずかに大きくして、少しばかり青ざめた。それでもどうにか自分を取り戻すと、スパーホークとエラナが永遠に別れがたく結びついた夫婦であると宣告した。そのあと二人に神の祝福を求め、最後にちょっとした祈りを捧げてから、ようやくスパーホークに花嫁への口づけを許した。
スパーホークはそっとエラナのベールを上げ、唇を新婦の唇に触れさせた。公衆の面前での口づけは誰がやってもまずうまくいかないものだが、二人は何とかあまりぎこちなくならずにやってのけた。
結婚式はそのままスパーホークの、女王の夫としての戴冠式に移った。スパーホークはひざまずき、若き女王はクリクが紫のビロードのクッションに載せて持ってきた冠を手に取った。ほかのもろもろのことといっしょに夫に従うと誓った女性ではあるが、今は女王としての権威がそれに優先している。エラナは鈴のようによく響く声で、簡潔な演説を行なった。この声で岩山にそこをどけと命じれば、本当にどいてくれることをかなり期待できそうな、すばらしい声だ。演説の中で女王はスパーホークのことをいろいろと褒め上げ、最後に冠をしっかりと夫の頭にかぶせた。そのあと、スパーホークがひざまずいていて上を向いた顔の位置がちょうどよかったので、エラナはもう一度夫に口づけした。さっきの練習の成果か、エラナがすっかり上達していることにスパーホークは気づいた。
「あなたはわたしのものよ、スパーホーク」唇を離さないまま女王はそうささやき、元気いっぱいのスパーホークにわざわざ手を貸して立ち上がらせた。ミルタイとカルテンが進み出て、山鼬《アーミン》の毛皮をあしらったローブをそれぞれの肩に羽織らせる。新たに夫婦となった二人は祭壇の前でふり返り、人々の喝采を受けた。
式典のあとは夕食が供された。いろいろと食べたにもかかわらず、スパーホークはどんな料理が出たのかまったく覚えていなかった。ただ一つ記憶にあるのは、それが何世紀も続くように思えたことだけだ。だがとうとうそれも終わり、スパーホークと花嫁は教会複合施設を構成する建物の一つにある、東翼棟の上の豪華な部屋に案内された。二人は中に入り、スパーホークはドアを閉めて鍵をかけた。
部屋の中には椅子やテーブルや長椅子などいろいろな家具があったが、スパーホークは圧倒的な寝台の存在感だけを感じていた。寝台は高い壇の上に置かれ、四隅には柱が立っている。
「やっとね。永遠に続くんじゃないかと思った」エラナがほっとしたように言った。
「まったくだ」
「ねえ、スパーホーク」エラナは女王の口調をすっかり改めていた。「わたし、本当に愛されてるのかしら。これを強制したってことはわかってる――最初はシミュラで、今度はここでね。わたしと結婚したのは、本当にわたしを愛してるから? それともわたしが女王だから、命令に従っただけ?」その声は震え、目には怯えたような色があった。
スパーホークはやさしく答えた。
「ばかなことを訊《き》くなよ、エラナ。最初ちょっと驚いたのは確かだが、それはきみがそんなふうに思ってるとは知らなかったからだ。わたしはあまり結婚するのにふさわしい男じゃないかもしれないが、きみを愛してる。ほかの女性を愛したことはなかったし、これからもないだろう。いささかくたびれてはいるが、わたしはきみのものだ」スパーホークの口づけに、エラナの不安は溶け去っていくようだった。
口づけはしばらく続き、やがてスパーホークは小さな手がうなじを這《は》い上がってきて、冠を取り去るのを感じた。顔を離して、エラナの潤んだ灰色の瞳を見つめる。騎士はそっと女王の冠をはずし、ベールを床に落とした。二人が互いに相手のローブの紐をほどくと、毛皮つきのローブは床に滑り落ちた。
開いたままの窓から入ってくる夜風が薄いカーテンをたなびかせ、はるか下方のカレロスの街のざわめきを運んでくる。スパーホークとエラナはそんな風にも気づかず、二人に聞こえるのは相手の胸の鼓動だけだった。
蝋燭はもう消えていたが、部屋の中は暗くなかった。月が昇り、満月の青白い銀の光が射しこんでいたからだ。月の光は窓辺で静かに揺れている薄いカーテンにとらえられ、どんな蝋燭よりもすばらしい薄明かりで部屋を満たした。
時間は深夜――むしろ早朝と言ったほうがいいくらいだ。眠ってしまったスパーホークを揺り起こしたのは、月の光を浴びる新妻だった。
「だめよ、そんなの。今夜しかないんだから、眠ったりして時を無駄にしないで」
「すまない。忙しい一日だったんでね」
「夜だって忙しいの」エラナはいたずらっぽい笑みを浮かべた。「自分が雷みたいな鼾《いびき》をかくってこと、知ってた?」
「鼻を折ったせいだろうな」
「ちょっとまずいかもしれないわね。わたしって眠りが浅いの」夫の腕の中で、エラナは満足げなため息を洩らした。「ああ、とてもいい気持ち。もっと何年も前に結婚すればよかった」
「父上が反対したと思うね。もしそうならなくても、ロロはきっと反対したろう。そういえば、ロロはどうなったんだ」
「父があなたを追放したあと、詰め物がみんな出ちゃったの。洗濯して、きちんと畳んで、クロゼットのいちばん上に入れてあるわ。最初の赤ちゃんが生まれたら、詰め物をしなおしてもらいましょう。かわいそうなロロ。あなたがいなくなってから、手荒い扱いを受けたのよ。いつもあの子を抱いて泣いてたものだから、何ヵ月かするとすっかりびしょ濡れになってしまって」
「わたしがいなくて、そんなに寂しかったのか」
「寂しかった? 死のうと思ったくらいよ。本気で死にたかった」
スパーホークの腕に力がこもった。
「いいわ。今度はそっちの話をしましょうか」
スパーホークは笑った。
「頭に浮かんだことを何でも口にするんだな」
「二人きりのときはね。あなたに隠すことは何もないもの」ふと思い出したように、「式のときに聞こえた音楽のこと、あとで説明してくれるって言ったわよね」
「あれはアフラエルだ。セフレーニアに確かめてみないとわからないが、どうもわたしたちは複数の宗教のもとで結婚したらしい」
「よかった。絆は一本より二本のほうが丈夫ですもの」
「そんな必要はないよ。きみは六歳くらいから、ずっとわたしを虜《とりこ》にしていたんだ」
「すてきだわ。わたしの努力は神様がご存じですもの」エラナはさらに夫ににじり寄った。「でもこう言っては何だけど、そのおしゃまなスティリクムの女神様はちょっと気にかかるわね。いつもそばにいるみたいに思えて。もしかするとたった今も、目には見えないけど、どこかその辺に浮かんでいるんじゃないかしら」急に身を硬くしてベッドの上に起き上がり、あわてた様子で「そんなことがあると思う?」
「そうだとしても驚かないね」スパーホークは妻をからかった。
「スパーホーク!」月の薄明かりでは断言はできないが、騎士は妻の顔がまっ赤になっていたように思った。
「心配はいらないよ」スパーホークは笑った。「アフラエルはとても礼儀正しい。覗《のぞ》き見しようなんて思いつきもしないさ」
「でも絶対確実ではないんでしょ。どうも気に入らないわ。あなたはアフラエルにとても惹《ひ》かれてるみたいだし。不死身の競争相手がいるなんて、割に合いませんからね」
「ばかを言うなよ。アフラエルは子供だぞ」
「あなたにはじめて会ったのは五歳のときだったけど、あなたが部屋に入ってきた瞬間に、この人のお嫁さんになろうって決めてたわ」エラナはベッドから下りて窓の前に行き、薄いカーテンを開いた。月の光を浴びたその姿は、雪花石膏《アラバスター》の彫像のようだった。
「ローブを羽織ったほうがいい。見た人がびっくりするぞ」
「カレロスの人間は、何時間も前にみんな寝静まってるわ。それにここは街路から六階も上なのよ。わたし、月を見たいの。月とわたしはとても親しい関係だから、どんなに幸せか、月に見てもらいたいのよ」
「異教だな」スパーホークが微笑む。
「そうね。でも女はみんな月に特別な関係を感じてるわ。男には理解できない方法で、月は女に呼びかけてくるのよ」
スパーホークはベッドから這い出して、窓の前でエラナに寄り添った。月は青白く明るかったが、その青白い光のせいで、マーテルの包囲軍が聖都に作り出した瓦礫《がれき》の山もいくぶんか脱色されて見えた。とはいえ、煙のにおいは夜気の中にはっきりと感じられる。空には星が瞬いていた。別に変わったところはないのだが、なぜか今夜は星々までがひときわ明るく輝いているように思えた。
エラナはスパーホークの腕を肩に回させてため息をついた。
「ミルタイはやっぱりドアの外で寝てるのかしら。いつもそうしてるのよ。今夜のミルタイはすてきだったと思わない?」
「そうそう、言う機会がなかったんだが、クリングがすっかりミルタイに参ってるんだ。一人の女性にあれほど夢中になってる男は、見たことがない」
「少なくともあの人は率直で開けっぴろげね。あなたからやさしい言葉を引き出すのは大変だったのよ」
「愛してることはわかってたろう。いつだって愛してた」
「それはやや不正確ね。わたしがロロを連れて歩いてたころには、多少の好意を抱いてるだけだったはずよ」
「好意以上のものだった」
「本当に? わたしが子供っぽいことやばかげたことをした時の、あなたの傷ついた顔が忘れられないわ」エラナは眉をひそめた。「ねえ、女王の夫っていう称号は何だか間が抜けてるわ。シミュラに戻ったらレンダ伯と話してみましょう。どこかに空いてる公領があるはずよ。もしなかったら、空ければいい。どっちみちアニアスの取り巻きだった連中を追放することになるんだし。公爵という地位はお気に召すかしら、殿下」
「お心遣いはありがたいがね、陛下。だがこれ以上肩書きを増やすのはごめんこうむりたいな」
「肩書きを増やしてあげたいのよ」
「わたしは夫≠ナじゅうぶんだ」
「夫なんて、男なら誰でもなれるわ」
「でもきみの夫はわたしだけだ」
「あら、今のはいいわね。もう少し練習すれば、完璧な紳士になれるわよ」
「わたしの知ってる完璧な紳士は、みんな廷臣だからな。一般的に見て、あまり尊敬を集めているとはいえない」
エラナは身震いした。
「寒いんだろう。だからローブを羽織れといったのに」
「そばにすばらしく温かい夫がいるのに、どうしてローブがいるわけ?」
スパーホークは妻を腕の中に抱き上げ、ベッドに戻った。
「これが夢だったのよ」そっとベッドの上におろされ、スパーホークが横に滑りこんで上掛けをかけると、エラナが寄り添ってきて言った。「ねえスパーホーク、知ってる? 今夜のこと、実はとても心配だったの。気恥ずかしくて、神経質になるんじゃないかって。でもそんなことはぜんぜんなかった。どうしてだかわかる?」
「いや、わからない」
「はじめてあなたを見たときから、わたしたちはもう結婚していたようなものだったからだと思うの。これまでの年月は、ただわたしが成長して、形をつけられるようになるのを待つためだけのものだったのよ」軽く口づけをして、「今何時ごろかしら」
「日の出の二、三時間前だろう」
「それなら時間はじゅうぶんね。ゼモックに行ったら、ほんとうに気をつけてよ」
「最善をつくすよ」
「わたしを感心させるためだけに、英雄ぶった行動はしないでね。もうじゅうぶんに感心してるんだから」
「気をつけよう」
「指輪のことだけど――今すぐ欲しい?」
「みんなの前で渡すほうがいいんじゃないか。取引が完了するところをサラシに見せたほうがいい」
「あの人につらく当たりすぎたかしら」
「ちょっと驚いただけさ。サラシはきみのような女性の相手をするのに慣れてない。それで少し気持ちが乱れたんだろう」
「あなたもそうなの、スパーホーク?」
「そんなことはない。わたしはきみを育ててきたんだからな。気まぐれには慣れっこさ」
「あなたは本当に幸せ者よ、スパーホーク。自分の手で妻を育てることのできた男なんて、そうはいないわ。ゼモックに着くまで、そのことをよく考えてみるといいでしょうね」急にその声が震えだし、エラナはすすり泣きを洩らした。「こんなつもりじゃなかったのに。泣き虫のわたしを思い出してもらいたくなんかないもの」
「いいんだよ、エラナ。わたしだって同じ気持ちだ」
「どうして夜がこんなに短いの? あなたが頼んだら、アフラエルは日が昇るのを止めることができるんじゃない? それともあなたがベーリオンでそうするか」
「この世にはそれほどの力は存在しないと思うよ、エラナ」
「だったらアフラエルもベーリオンも、何の役に立つっていうのよ」エラナは泣きだしてしまい、スパーホークは妻を腕に抱いたまま、涙の嵐がおさまるのを待った。それからそっと口づけをする。口づけは何度もくり返され、その夜の残りはもう泣き声が洩れることはなかった。
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20[#「20」は縦中横]
「どうして公式行事にしなくちゃならないんだ」鎧を身体に馴染ませようとがちゃがちゃ歩きまわりながら、スパーホークが尋ねた。
「みんなが期待してるのよ、あなた」エラナが落ち着いた声で説明する。「もう王室の一員なんだから、ときどき公衆の前に姿を見せる義務があるの。そのうち慣れるわ」毛皮のついた青いローブをまとったエラナは、化粧台の前に腰をおろしていた。
クリクが横から口をはさんだ。
「馬上試合よりはましですよ。あれだって公式行事ですからね。剣帯をつけますから、少しじっとしててくれませんか」
クリクとセフレーニアとミルタイは、日の出と同時に部屋にやってきた。クリクはスパーホークの甲冑《かっちゅう》を、セフレーニアは女王のために花束を、ミルタイは朝食を持ってきていた。エンバンもいっしょにいて、大聖堂の正面階段で公式の壮行会が催されるという知らせを携えていた。
「一般の人々にもウォーガンの兵士にも、細かいことまでは教えていないからな。演説の中でも、あまり詳しい話はしないほうがいいだろう。われわれの側では気持ちの引き立つ送別の辞を述べて、きみが独りで世界を救いに行くんだということをそれとなく強調する。嘘はつき慣れているから、きっとそれらしく聞こえるだろう。ばかげたことであるのは確かだが、きみにはぜひ協力してもらいたいのだ。市民たちとウォーガンの軍団の士気を高めるのは、この際とても重要なことだからな」エンバンの丸顔に、失望めいた表情が浮かんだ。「魔法を使って華々しい演出をしようとしたんだが、サラシに反対された」
「あなたはときどき、おそろしく芝居がかったことをしたがりますからね」セフレーニアが言った。スティリクム人の教母はエラナの髪を実験台にして、櫛とブラシの使い方を練習していた。
「わたしは大衆的な人間なんだ」とエンバン。「父親が飲み屋の亭主だったから、どうすれば大衆が喜ぶかはよく知っている。人々は見世物が好きなんだ。だからそれを提供したいと思うのだな」
セフレーニアはエラナの髪をまとめて頭の上に結い上げた。「どう思います、ミルタイ」
「前のほうがいい」
「エラナは結婚したのですよ。前の髪型は、未婚の若い女性のためのものです。今度の髪型は、結婚していることがわかるようなものにしないと」
ミルタイは肩をすくめた。
「焼き印を押せばいい。わたしの民はそうしている」
「何をしているですって?」エラナが叫んだ。
「わたしの民は、結婚した女には夫の焼き印を押す。たいていは肩に」
「妻が夫の所有物であることを示すために?」女王は軽蔑するような声になった。「夫のほうはどんな印を付けられるのかしらね」
「妻の印を焼き印される。わたしの民では、結婚は軽々しく解消できるものではない」
「理由は見当がつくな」クリクが恐ろしげに声を上げた。
「冷めないうちに食べたほうがいい、エラナ」ミルタイが言った。
「レバーのフライはあまり好きじゃないのよ」
「あなたのためじゃない。わたしの民は婚礼の夜を重視する。花嫁の多くはその夜に妊娠するから――少なくともそう言われている。たいていは婚礼の前の交渉の結果なのだろうけど」
「ミルタイ!」エラナは赤くなって、息を呑んだ。
「あなたは違うと? それはがっかりだ」
「考えもしなかったわ。何か言ってくれないの、スパーホーク」
エンバンはなぜか怒りに顔を赤らめていた。
「わたしは走りまわってこないと。しなければならないことが山ほどあるのだ」そう言って、大司教は部屋から出ていった。
「わたしが言ったことのせい?」ミルタイが無邪気に尋ねる。
スパーホークは笑いを押し殺して説明した。
「エンバンは聖職者だ。聖職者というのは、そういう方面のことはあまり知らないようにしているのさ」
「ばかげてる。食べなさい、エラナ」
大聖堂の正面階段での集まりは、実際には儀式ではなく、公式と非公式の中間あたりに位置する大衆娯楽の一種だった。ドルマントは荘厳さを醸し出し、王冠をかぶってローブを羽織った王たちは公式行事という香りを添え、四騎士団の騎士団長たちが軍事的な色彩を加える。ドルマントはまず祈りから入った。それに王たちの短い演説が続き、そのあと騎士団長たちがもう少し長い訓話を行なった。スパーホークと仲間たちの一行はひざまずいて総大司教の祝福を受け、エラナと女王の夫の別れの場面が最後を締めくくった。エレニア国の女王はまたしてもあのよく響く声で、擁護者に敵の討伐を命じた。最後の仕上げに指輪をはずし、大いなる好意の証としてそれをスパーホークに授ける。騎士はそれに応えて、ハート型のダイアモンドをはめこんだ指輪を女王に贈った。階段での式典が始まる直前にその指輪をスパーホークに渡したタレンは、指輪の出所については言を左右にして、絶対に明かそうとはしなかった。
エラナがやや芝居がかった様子で最後の言葉を口にした。
「さあ、わが擁護者よ、勇敢なる仲間たちとともに行くがよい。われらが希望と祈りと信仰がともにあることを忘れぬよう。剣を取るのです、わが夫にして擁護者よ。そしてわたくしと、われらの信仰とわれらの故郷を、ゼモックの異教徒の軍勢から守り抜くのです!」女王はスパーホークを抱きしめ、唇に唇を押し当てた。
「悪くない演説だったよ」スパーホークが妻にささやく。
「エンバンが書いたの。でしゃばりなんだから。ときどき手紙を書いてね。それから、神の御名において、気をつけて!」
騎士はそっと妻の額に接吻し、一行は堂々たる様子で階段を下りると、待っている馬のほうに向かった。大聖堂の鐘が鳴って、スパーホークたちに別れを告げた。しばらく同道することになっている四人の騎士団長があとに続く。クリングは仲間のペロイたちといっしょに、もう馬に乗って一行を待っていた。出発する前にクリングは馬でミルタイの前に駆け寄り、馬に片膝を折らせる例の挨拶を披露した。二人とも何も言わなかったが、ミルタイはやや感銘を受けたようだった。
スパーホークは鞍にまたがると、ファランに声をかけた。
「ようし、ファラン、しばらく好きなようにしていいぞ」
大きな醜い悍馬《かんば》はさっと耳を前に向け、戦場へ赴く一行とともに、跳ねるような足取りで街の東門へと向かった。
街の外に出るとヴァニオンはセフレーニアのそばを離れ、馬をファランのそばに寄せた。「気をつけるんだぞ、わが友。ベーリオンは、いざという時すぐに取り出せるようにしてあるんだろうな」
「外衣《サーコート》の中に入れてありますよ」スパーホークはまじまじとヴァニオンを見つめた。「悪く取ってもらいたくないんですが、今朝はひどく調子が悪そうですよ」
「とにかく疲れているんだよ。アーシウムではウォーガンについて、さんざん走りまわったからな。身体に気をつけるんだぞ。わたしは別れる前に、もう少しセフレーニアと話をしてくる」
スパーホークはため息をついて、ヴァニオンが隊列を駆け戻り、何世代ものパンディオン騎士にスティリクムの秘儀を教えてきた、小柄な美しい女性のところへ向かうのを見送った。セフレーニアとヴァニオンは互いのあいだでさえ何もはっきりしたことを言わないが、スパーホークには二人の気持ちがよくわかっていた。そして二人の状況がいかに絶望的なものかということも。
カルテンが馬を近づけてきた。「初夜はどんな具合だった」と目を輝かせて尋ねる。
スパーホークは冷たい目つきでカルテンを眺めた。
「話したくないってことか」
「個人的なことだ」
「子供のころからの友だちじゃないか、スパーホーク。おれたちのあいだに秘密なんてなかったはずだぞ」
「今はあるんだ。カダクまでは七十リーグほどだったな」
「大した距離じゃないさ。少し無理すれば五日で着ける。地下室でアニアスと話してたとき、マーテルは不安そうだったか。つまり、すぐにおれたちがやつを追跡にかかると読んでたのかな」
「とにかく一刻も早くカレロスを離れたがってた」
「だったら馬にはかなり無理をさせてるだろうな」
「そう見るのが妥当だろう」
「そうなると馬はかなり疲れてるはずだから、数日のうちに追いつける可能性もある。おまえがどう思ってるかは知らんが、おれはぜひアダスとやりたい」
「いいだろう、考えておこう。カダクとモテラのあいだはどんな土地だ」
「平地だよ。ほとんどが畑で、城が点在してる。あとは農村だ。だいたいエレニアの東部と同じようなもんだな」カルテンは笑い声を上げた。「今朝のベリットの様子を見たか。鎧を着こむのに苦労してたぞ。あまりよく身体に合ってないらしい」痩《や》せぎすの若い見習い騎士だったベリットは、騎士団でもめったに使われない地位、修練士という地位に出世していた。甲冑を身につける法的な権限はあるものの、サー≠フ称号はまだつかない。
「いずれ慣れるさ。夜になったら、皮膚の柔らかい部分をパッドで保護する方法を教えてやってくれ。いきなり鎧の継ぎ目から血を流すような目には遭わせたくない。ただし慎重にな。おれも覚えがあるが、はじめて甲冑を身につけたときは自分が誇らしくて、あれこれ言われるのがひどく気に障るものだ。血豆がいくつか破れれば素直になれるんだがな」
カレロスから数マイル離れた丘の上で、騎士団長たちは一行と別れて引き返していった。忠告や注意はすべて与え終わっていたので、あとは手を握り、互いに健闘を祈るくらいしかすることはなかった。スパーホークたち一行はいささか寂しそうに、騎士団長たちが聖都へと戻っていくのを見送った。
「さて、いよいよおれたちだけだが――」とティニアン。
「まず少し相談をしよう」スパーホークはそう言って、声を張り上げた。「ドミ、ちょっとこっちへ来てくれないか」
クリングがどうかしたのかと言いたげな顔で丘を駆け上がってきた。
「さてと、われわれがすんなりゼモック国に入れるように、アザシュは何も妨害はしてこないはずだとマーテルは考えていた。だがそれは間違いかもしれない。アザシュには多くの手下がいる。それをわれわれに差し向けてこないとも限らない。向こうの望みはベーリオンであって、個人的な恨みを晴らすことではないからな。クリング、ここは斥候を出して、奇襲されるのを避けるべきだと思う」
「わかった、友スパーホーク」
「もしもアザシュの手下と遭遇したら、全員うしろに退がってくれ。わたしが相手をする。ベーリオンがあるから、面倒なことにはならないはずだ。カルテンからはマーテルに追いつく可能性が指摘された。その場合、マーテルとアニアスは生け捕りにするようにしてくれ。教会は二人を裁判にかけたがっている。アリッサとリチアスは大して抵抗しないだろうから、この二人も生け捕りにしてくれ」
「アダスはどうするんだ」カルテンが意気込んで尋ねた。
「アダスはどうせろくにしゃべれないから、裁判でもあまり役には立たないな。おまえに任せる――個人的な贈り物だと思ってくれ」
さらに一マイルほど進んだとき、一本の木の下にストラゲンの姿が見えた。
「迷子になったんじゃないかと思って心配したぞ」痩身《そうしん》の盗賊はそう言って立ち上がった。
「志願兵だと思っていいのかな」とティニアン。
「いやいや、そうじゃない。おれはゼモック国には行ったことがなくてね。今後もその方針を崩すつもりはないんだ。実は女王に伝言を頼まれた。個人的な使者というわけだ。そっちが構わなければゼモック国境までいっしょに行って、シミュラに報告を持って帰る予定だ」
「本来の仕事からずいぶん長く離れてるみたいじゃないか」とクリク。
「エムサットの仕事は、放っておいてもうまく流れているからな。テルが面倒を見てくれるし、どのみち少し休暇が必要なころだったんだ」胴衣《ダブレット》の隠しをあちこち叩いて、「ああ、ここだ」と畳んだ羊皮紙を取り出し、スパーホークに手渡す。「奥さんから手紙だ。何通か預かってきてて、いつ渡すかも指示を受けてる」
スパーホークはファランを仲間たちから少し離し、エラナの手紙の封を切った。
愛するあなたへ。まだほんの数時間にしかならないのに、わたしの心は打ちひしがれています。ストラゲンに何通か手紙を託しました。物事がうまく行かないとき、その手紙を読んで元気になってもらえるといいのですが。手紙とともに、尽きることのないわたしの愛と誠を送ります。愛しています、わたしのスパーホーク。エラナより
「どうやって先回りしたんだ」スパーホークが戻ってくると、カルテンがストラゲンにそう尋ねていた。
「あんたがたは甲冑を着けてる。おれはそうじゃない。鉄の重しを背負わされてない馬がどんなに速く走るか、知ったらきっと驚くぜ」
「どうする。カレロスに送り返すのか」アラスがスパーホークに尋ねた。
「いや、ストラゲンは女王の命令でここに来ている。はっきりしたものではないが、わたしへの命令と取れる文面もあった。いっしょに来てもらう」
「王室の擁護者になどなるものじゃない。政治だの何だの、面倒が多すぎる」ジェニディアン騎士はそう評した。
カダク街道に沿って北東に進むうちに、天気は曇りがちになってきた。もっとも前回のように雨には降られていない。ラモーカンド国も南西の辺境になるとペロシア国の影響が強いのか、丘の上に城が見えることはほとんどなかった。むしろカレロスに近いだけに、僧院や修道院がそこここに点在していて、鐘の音が広野に寂しげに鳴り響いていた。
カレロスを出て二日めの朝、馬に鞍を置きながらクリクが言った。
「雲の流れが妙ですね。秋の東風は悪い知らせなんですよ。きびしい冬になりそうです。ラモーカンド中央部の行軍も、この分だと楽じゃないでしょう」
一行は騎乗して、さらに北東を目指した。午前のなかばごろ、先頭に立っていたスパーホークのところへクリングとストラゲンが馬を飛ばしてきた。
「友ストラゲンからあのタムール人の女、ミルタイのことを少し聞いた。もうおれのことは話したのか」とクリング。
「いちおう伝えるだけは伝えたが」
「それを恐れていたんだ。ストラゲンに話を聞いて、ちょっと考え直したくなった」
「ほう?」
「あの女が肘《ひじ》と膝にナイフを仕込んでいるのは知ってたか」
「ああ」
「肘や膝を曲げると、ナイフが飛び出すようになっているとか」
「そういうことだな」
「ストラゲンの話では、ミルタイがもっと若いとき、三人のならず者に襲われたことがあったそうだ。あれは肘で一人の喉を掻《か》き切り、膝で二人めの腹を刺し、三人めを殴り倒して、ナイフを心臓に突き立てたのだとか。そんな女を本当に妻にしたいのかどうか、よくわからない。おれのことを話したとき、向こうは何と言っていた?」
「笑っていたな」
「笑った?」クリングはショックを受けたようだった。
「どうもきみはあまり好みではないようだった」
「笑った? おれを?」
「きみの判断は賢明だと思うな、友クリング。きみたち二人は、あまりお似合いじゃない」
しかしクリングは憤慨して目を剥《む》いていた。
「おれのことを笑ったのか? くそ、目にもの見せてやる――」クリングは馬首をめぐらせ、仲間のところへ戻っていった。
「笑ったなんて言わなければうまくいったのに」ストラゲンが感想を述べた。「これであいつはますますミルタイを追いまわすぞ。わりと気に入ってる男なんだ。しつこくされたミルタイがどういう態度に出るかを考えると、いささか憂鬱だな」
「何とかクリングを説得してみるさ」とスパーホーク。
「おれはあまり期待できんと思うね」
「本当はここで何をしてるんだ、ストラゲン」スパーホークは金髪の盗賊に尋ねた。「南方の王国でということだが」
ストラゲンは遠い目をして、そばの僧院を眺めた。
「本当の真実を知りたいか、スパーホーク? ちょっと時間をくれれば、耳当たりのいい話を考え出してやるぞ」
「真実のほうから始めてみてはどうだ。もしそれが気に入らなかったら、作り話のほうを頼もう」
ストラゲンはちらりと笑みを浮かべた。
「いいだろう。サレシア国では、おれは偽貴族だ。だがこっちでは本物――少なくとも本物にごく近いものになれる。国王や女王や貴族、それに高位の聖職者と、何はともあれ対等の口が利けるんだからな」片手を上げてスパーホークを制し、「勘違いをしてるわけじゃない。大丈夫、正気を疑うには及ばんよ。自分が私生児で盗賊だってことはわかってるし、こっちで紳士みたいに扱われてるのも、単におれの手腕が役に立つからだってことも承知してる。受け入れられたわけじゃなく、我慢してもらってるだけだ。だが、おれはどうも自意識が過剰でね」
「気がついてたよ」スパーホークは小さく微笑んだ。
「そう言うな、スパーホーク。とにかく、この対等の関係が一時的で表面的なものであっても、おれとしては大歓迎だ。文明的な会話ができるだけでもね。娼婦や泥棒というのは、あまり刺激的な連中じゃない。話すことも世間話ばかりだ。娼婦が集まって世間話をしてるのを聞いたことがあるか」
「あるとは言えんな」
ストラゲンは身震いした。
「ひどいもんだぞ。男について――あるいは女について――知りたくもないようなことまでわかってしまうんだ」
「いつまでもこうはいかないぞ。それはわかってるんだろう、ストラゲン。すべてが平常に戻ったら、人々はまたおまえに対してドアを閉ざしはじめるはずだ」
「たぶんそうなんだろうが、しばらく貴族ごっこをするのも楽しいもんだ。すべてが終わったら、今まで以上に貴族を憎む理由もできるしな」わずかに間を置いて、「だがあんたのことは好きだぜ、スパーホーク。とりあえず今のところはな」
北東に進むにつれて、武装した集団に出会うことが多くなりはじめた。どのみちラモーク人はいつでも動員できたし、ただちに武装せよという王の命令にも即座に従うことができる。五世紀前と同じことを憂鬱にくり返して、西イオシアの各王国から、人々はラモーカンドの戦場へと集まりはじめていた。スパーホークとアラスはトロール語で話をして時間をつぶした。スパーホークにはこの先トロールと話をする機会があるかどうかわからなかったが、せっかく覚えた言語を忘れてしまうのももったいない気がしたのだ。カダクに到着したのは陰鬱な日の夕暮れだった。西の空が遠い山火事のように、茜《あかね》色に染まっていた。東からの風は冷たく、冬の最初の冷気を運んでくるようだった。カダクは城壁に囲まれた街で、冷たく陰気な、堅苦しいところだった。今はもう習慣となってしまったとおり、クリングはおやすみの挨拶をすると手下を連れて街を抜け、東門の外の広野に野営した。ペロイ族は壁や部屋や屋根のある街中では落ち着けないのだ。スパーホークたちは街の中心部に居心地のいい宿を見つけ、風呂に入り、服を着替えて、食堂に集まった。夕食は茄《ゆ》でたハムと野菜の盛り合わせだった。セフレーニアはいつものように、ハムは口にしなかった。
「出来のいいハムをどうして茄でたりしてしまうのでしょうね」サー・ベヴィエがうんざりした顔で言った。
「ラモーカンドのハムは塩がきつすぎるんだ」カルテンが説明する。「だからじゅうぶん茄でないと食べられないのさ。妙な連中だよ、ラモーク人てのは。どんなことでも勇気をもって挑戦しなくちゃいけなくしてしまうんだ――食事まで」
「散歩に行きませんか、スパーホーク」食事が終わるとクリクがそう言った。
「一日の運動はじゅうぶん足りてるような気がするんだがね」
「マーテルがどっちへ行ったか知りたくないんですか」
「それはそうだ。わかった。ちょっとあたりを嗅《か》ぎまわってみるか」
路上に出ると、スパーホークはあたりを見まわした。「これじゃあ真夜中までかかるぞ」
「そんなにかかりませんよ」とクリク。「まず東門に行ってみて、何もわからなかったら北門へ回りましょう」
「まず通行人に聞いてみたほうがよくないか」
クリクはため息をついた。
「頭を使ってください。旅人というのは、だいたいにおいて朝一番で出発します。街の住人が仕事に出かけるのと同じ時間です。職人の多くは一杯やりながら朝食を摂《と》りますから、たいていの居酒屋は朝も店を開けてます。その日の最初の客を待つ居酒屋の亭主は、街路を注意して見てるはずです。請け合いますが、もしマーテルがこの三日以内にカダクを出たんだとしたら、半数以上の居酒屋の亭主がやつの姿を見かけてるはずですよ」
「おまえはすばらしく頭がいいな、クリク」
「一人ぐらいはそういう人間が必要ですからね。一般に騎士というのは、あまり考えることに時間を使わないようですし」
「それは偏見というものだ」
「誰しも欠点はあるってことです」
カダクの街路にはほとんど人影がなく、わずかな市民が強い風にマントの裾を足首にからませながら、急ぎ足で歩いているだけだった。四つ角に設置された松明《たいまつ》は風にあおられて燃え上がり、あるいは吹き流されて、石畳に揺らめく影を踊らせていた。
最初に訪ねた居酒屋の亭主はどうやら自分自身が店のいちばんの上得意らしく、ふだん何時に店を開けるのか、それどころか今が何時なのかさえ、まったくわかっていなかった。二軒めの店の亭主は無愛想で、うなり声の答えしか返ってこなかった。しかし次の店の亭主はおしゃべりな老人で、話をするのが大好きという人間だった。
「そうさなあ」と頭を掻きながら、「ちょいと思い出してみようかい。こん三日以内ってこったね?」
「だいたいそんなところだ」とクリク。「友人とはここで会うことになってたんだけど、おれたちのほうが遅刻してね。どうやら先に行ってしまったらしいんだ」
「どんな様子ん人だって?」
「かなり大柄で、甲冑をつけてたと思うんだが、つけてなかったかもしれない。頭が見えてればわかると思うんだ。まっ白な髪をしてるから」
「そういう人は見かけた覚えがねえなあ。別の門から出てったんじゃないんかい」
「そうかもしれないが、東へ向かったのは確かだと思うんだ。この店が開く前に街を出たのかもしれないな」
「そりゃあどうかね。おれは門が開くんと同時に店を開けてっから。街で仕事をしてる者《もん》の中にゃ、だいぶ離れた農場に住んでんのもいるんでな。おかげで朝はなかなか商売繁盛さね。あんたん友だちにゃ、連れはいねえんかい」
「いる。聖職者が一人と、貴族出身の女性がいっしょだ。ほかにはたぶん、ばかみたいに口を半開きにした若者と、ゴリラみたいな顔の、でかい野蛮人がいたはずだ」
「ああ、あん一行か。そん猿男んこと最初に言ってくっりゃよかったんさ。そんなら昨日ん朝、夜明けにこん道を通ってったよ。そんゴリラみたいなんは馬から下りてきて、大声でエールを注文してった。あんまりよくしゃべれねえみてえだな」
「誰かにやあ≠チて挨拶されただけで、返事を考えるのに半日もかかるんだ」
亭主はかん高い笑い声を上げた。「間違いねえ、そん人だ。においのほうも、あんまりいいもんじゃなかったっけ」
クリクは亭主に笑いかけ、硬貨をカウンターの上に置いた。
「そいつはどうかな。肥溜《こえだ》めに比べてそうひどいってほどじゃない。どうもありがとう。助かったよ」
「追いつこうと思ってんかい」
「ああ、大丈夫、追いつけるさ。いずれはね。ほかに連れはいなかったかな」
「いんや、そん五人だけだ。そんゴリラ男んほかは、みんな頭まですっぽりマントにくるまってた。だから髪が白いって人にも気いつかんかったんだな。ずいぶん急いでたみてえだったから、追いつくつもりだったら、ちょいと馬に無理させねえとだめかもな」
「そうするよ。どうもありがとう」クリクとスパーホークは店を出て、街路に戻った。
「知りたかったのはだいたいこんなところでしょう、スパーホーク」
「あの老人は金の鉱脈だよ。多少はマーテルに追いついたようだ。傭兵を連れていないこともわかった。行く先はモテラだな」
「ほかにもわかったことがありますよ」
「ほう、何だい」
「アダスがやっぱり風呂に入ってないってことです」
スパーホークは笑った。
「アダスはいつだってそうだ。埋める前にたっぷり水を使って、洗ってやるべきかもしれんな。さもないと地面がやつを吐き出すかもしれない。よし、宿に戻るか」
スパーホークとクリクがふたたび天井の低い宿の食堂に入ると、一行の人数が増えていることがわかった。無邪気な顔を取り繕ったタレンが、全員のきびしい視線を浴びてテーブルの前に座っていたのだ。
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21[#「21」は縦中横]
「おいら、王室の使者なんだよ」スパーホークとクリクが近づいてくると、タレンは急いでそう言った。「ベルトに手を伸ばすのはやめてよ、二人とも」
「王室の、何だって?」スパーホークが尋ねる。
「あんたに女王陛下からの伝言を持ってきたんだ、スパーホーク」
「見せてもらおう」
「暗記してきてるんだ。伝言が敵の手に落ちたらまずいだろ」
「わかった。聞かせてもらおう」
「個人的な伝言なんだよ、スパーホーク」
「構わん。ここにいるのはみんな友人だ」
「どうしてそんな態度を取るのかわからないな。おいらは女王命令に従ってるだけなのに」
「伝言はどうした、タレン」
「ええと、陛下はシミュラへ出発する準備ができたよ」
「それはよかった」スパーホークの声は冷たかった。
「あんたのことをとても心配してる」
「感動だな」
「でも気分はいいって」タレンが付け加える言葉は、言えば言うほどぎこちなくなった。
「そう聞いて安心した」
「それから、ええと、愛してるって」
「あとは?」
「その、これで全部だよ」
「それはまたずいぶん簡単だな。言い忘れてることがあるんじゃないのか。もう一度はじめからくり返してくれ」
「あの、つまり、陛下はミルタイとプラタイムに話してたんだ。もちろんおいらにもね。自分が今何をしてて、どんなふうに思ってるか、伝えられる方法があればいいのにって」
「それをおまえに言ったのか」
「それは――おいらもその部屋にいたよ」
「つまりここへ伝言を届けろと命じられたわけではないんだな」
「ええと、まあ、はっきりとはね。でも女王陛下の望むことは、かなえてあげるべきなんじゃないかな」
「よろしいですか」セフレーニアが割って入った。
「もちろんです」とスパーホーク。「知りたいことはもうわかりましたから」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれません」教母は少年に向き直った。「タレン」
「はい、セフレーニア」
「あなたがこんな貧弱な、嘘であることが明白な作り話をするのははじめて聞きました。ほとんど意味のないたわごとです。とくにストラゲンが、まったく同じ使命を帯びてきていることを考えればね。本当にこの程度の話しか考え出せなかったのですか」
タレンはどうにか戸惑った表情を取り繕った。
「嘘じゃありません。女王陛下は、たしかにさっき言ったとおりのことを言ったんです」
「それはそうでしょう。でもあなたはなぜ、そんなどうでもいいことを伝えに馬を飛ばしてきたのです」
タレンは少し混乱しているようだった。
「ああ、やれやれ」セフレーニアは嘆息して、しばらくスティリクム語でアフラエルに毒づいた。
「どうも話がわからないんですがね」カルテンが憮然として言った。
「今すぐ説明してあげます。タレン、あなたには他人を騙《だま》すすばらしい才能があったはずですね。あなたの悪知恵はどうしてしまったのです。いったいどうして、せめてもう少し信じられるような話をでっち上げなかったのですか」
タレンはわずかに身じろぎした。
「そんなことをしちゃいけないような気がしたんだ」と渋い顔で答える。
「友だちに嘘をついてはいけないと?」
「まあそんなとこだよ」
「神に称《たた》えあれ!」ベヴィエが熱っぽく叫んだ。
「感謝の祈りを始めるのはもう少し待ってください、ベヴィエ。タレンの急な心変わりは、どうも見かけどおりのものではなさそうです。これにはアフラエルが関わっています。あの女神はひどく嘘がへたなのですよ。信仰のあり方から、どうしてもそうなってしまうのです」
「またフルートですか」とクリク。「でも、どうしてタレンを同行させたいんでしょう」
「誰にわかります?」セフレーニアは笑った。「この子が好きなのかもしれません。それとも対称性を重んじているのか。あるいはほかに何か――この子にさせたいことがあるのか」
「じゃあ、おいらが悪いわけじゃないんだね」タレンがすばやくそう言った。
「たぶんね」セフレーニアは少年に微笑みかけた。
「それで少し気が楽になったよ。追いかけていったら気を悪くするだろうってことはわかってたし、真実ばっかりで息が詰まりそうだったんだ。機会があったらうんとお仕置きしてやってよ、スパーホーク」
「いったい何の話をしてるのか、わかるか」ストラゲンがティニアンに尋ねた。
「もちろん。いつか説明してやろう。どうせ信じられないだろうが、とにかく説明はしてやるよ」
「マーテルのことは何かわかったのか」とカルテン。
「昨日の早朝、東門から出ていったそうだ」スパーホークが答える。
「じゃあ一日分は差を詰めたわけだな。手下は連れてるのか」
「アダスだけです」とクリク。
「そろそろ何もかも話していいのではありませんか、スパーホーク」セフレーニアが言った。
「そうですね」スパーホークは大きく息を吸いこんだ。「諸君には、正直にすべてを語ってはいなかった」
「それが何か目新しいことだとでも言うのか」とカルテン。
スパーホークはそれを無視して先を続けた。
「サレシアでグエリグの洞窟を出て以来、わたしはずっとあとを尾《つ》けられていた」
「クロスボウの射手にか」とアラス。
「それも関係があったのかもしれんが、よくわからない。クロスボウを射かけてきたやつとその手先は、たぶんマーテルに雇われていたんだろう。今もまだ脅威なのかどうかは不明だ。中心になっていた男は、もう死んだ」
「誰だったんだ」ティニアンが尋ねる。
「それは別にどうでもいいことだ」ペレンのことは秘密にしておこうと、スパーホークは心に誓っていた。「マーテルには他人を思いどおりに動かす手段がある。本隊から離れて行動したいというのは、それも理由の一つだ。信頼できるはずの者たちに攻撃されたときのことを考えて、しょっちゅう背後を気にしていたんでは、いい仕事は期待できないからな」
「クロスボウの射手でなければ、誰に尾けられている」アラスが執拗に尋ねた。
スパーホークは数ヵ月前から出没している影のことを話して聞かせた。
「それがアザシュだと思うのか」とティニアン。
「そう考えれば辻褄《つじつま》が合うんじゃないか」
「どうしてアザシュにグエリグの洞窟の場所がわかったのです。洞窟からずっと追ってきているのだとすれば、アザシュはその場所を知っていたことになると思いますが」そう尋ねたのはベヴィエだった。
「スパーホークに殺される前、グエリグは侮辱的な言葉でアザシュをからかったのです」セフレーニアが言った。「アザシュがそれを聞いていたことは、いくつかの証拠からも明らかです」
「どういう侮辱だったんだ」アラスが好奇心をむき出しにして尋ねた。
「焼いて食ってやるって脅したんですよ」クリクが簡潔に答える。
「それはいかにトロールでも、なかなか思いきった発言だ」とストラゲン。
「それはどうかな」アラスは異を唱えた。「洞窟の中では、グエリグは絶対に安全だったはずだ――少なくともアザシュからは。だがスパーホークに対しては、じゅうぶんな備えはできてなかった」
「お二人さんのどちらか、少し詳しく説明してくれないか」ティニアンが言った。「あんたらサレシア人はトロールの専門家だからな」
「どれほどの光明を投げかけることができるか心許《こころもと》ないがね」ストラゲンが笑って答える。「トロールに関してほかのエレネ人より多少詳しいのは確かだが、それでも大してよく知ってるわけじゃない。おれたちの祖先がはじめてサレシアにやってきたときには、トロールとオーガーと熊の区別もろくにつかなかった。今おれたちが知ってるのは、ほとんどがスティリクム人に教えてもらったことなんだ。はじめてスティリクム人がサレシアにやってきたとき、若き神々とトロールの神々のあいだで、ちょっとした軋轢《あつれき》が生じたらしい。だがトロール神たちはかなり早い段階で自分たちの不利をさとって、どこかに身を隠したんだそうだ。伝説によると、グエリグとベーリオンと二つの指輪は、その隠れ場所と何か関係があるんだそうだ。一般に信じられてるところでは、トロール神たちはグエリグの洞窟のどこかにいて、ベーリオンの力でスティリクムの神々から守られている」アラスの顔を見上げて、「あんたが言わんとしてるのはこのことか」
アラスはうなずいた。
「ベーリオンの力とトロール神の力が結びつけば、アザシュでさえいささか用心深くならざるを得ない。グエリグがそんな脅しをかけられたのはそのせいだろう」
「トロール神てのはどのくらいいるんだ」カルテンが尋ねた。
「五体、だったかな」ストラゲンがアラスのほうを見て言う。
アラスがうなずいた。
「食の神、殺す神、それに――」言いかけてセフレーニアを見やり、ややあわてた様子で、「――その、多産の神、と言っておこう。あと氷の神という、これはすべての天候の神なんだろう。そして火の神だ。トロールの世界観は単純にできてる」
「だとすると、スパーホークがベーリオンと指輪を持って洞窟から出てくれば、アザシュはすぐに気づいたはずだ。そしてあとを尾けたに違いない」とティニアン。
「友好的じゃない意図を持ってね」タレンが補足した。
「前にもあったことです」クリクは肩をすくめた。「ダモルクはレンドー国じゅうでスパーホークを探しまわったし、シーカーはラモーカンド国で行く先々に現われた。アザシュのやり口は予想がつきますよ」
ベヴィエは眉根を寄せて考えこんでいた。「何か見落としているような気がするんですが」
「たとえば?」とカルテン。
「それがどうもはっきりしなくて。でも、重要なことだという気がするんです」
翌朝は夜明けにカダクを出発し、モテラの街に向かった。空は相変わらず灰色に曇り、前の晩の話題のせいもあって、誰もがむっつりとふさぎ込んでいた。話もはずまず、一行は黙々と馬を進めた。午《ひる》ごろ、セフレーニアが停止を命じて、叱りつけるように言った。
「みなさん、これは葬送の行列ではないのですよ」
「どんなもんですかね、小さき母上。昨夜《ゆうべ》あんな話を聞いたあとじゃ、そううきうきした気分にはなれませんよ」カルテンが言い返す。
「少し元気の出るようなことを考えるべきですね。この先にはかなりの危険が待ち受けているのです。陰気にふさぎ込んで、憂鬱に憂鬱を重ねるようなことはやめにしましょう。負けるのではないかと思って戦えば、たいていそのとおりになるものです」
「それは確かだ」アラスが同意した。「ヘイドにいたあるブラザーは、世界じゅうの骰子《さいころ》が自分を憎んでいると信じこんでいた。その男が勝つところは見たことがない――ただの一度も」
「おまえの骰子を使ってたんだとしたら、理由はわかるがね」とカルテン。
「あんまりだ」アラスは悲しげに答えた。
「だったら、あの骰子は捨ててしまったらどうだ」
「そこまで深く傷ついたわけじゃない。とにかく、もう少し明るい話をしたほうがいいのは確かだ」
「街道脇の飲み屋で一杯やるってのはどうだ」カルテンが期待を込めて提案した。
「だめだ」アラスがかぶりを振る。「暗い気分でエールを飲むと、ますます落ちこむ。四、五時間も飲みつづければ、全員でジョッキに向かって泣きだしてるだろう」
「聖歌を歌うのはどうです」ベヴィエがほがらかに声を上げる。
カルテンとティニアンは長いこと見つめ合っていたが、やがてそろってため息をついた。
「おれがカモリアにいたころ、やんごとなきレディに惚《ほ》れられた話はもうしたんだったかな」ティニアンが言った。
「まだ聞いてないと思う」すかさずカルテンが答える。
「つまりこういうことなんだ――」ティニアンは面白くて少しばかりいかがわしい、たぶんまったくの作り話と思える恋愛冒険譚を長々と語りはじめた。そのあとはアラスが、雌オーガーに恋慕された不運なジェニディアン騎士の話を披露した。雌オーガーの愛の歌のくだりでは、全員が腹を抱えて爆笑した。話は細部まで潤色されたうえユーモアたっぷりで、一行の雰囲気は目に見えて明るくなった。日没時に馬を下りるころには、みんなだいぶ気分がよくなっていた。
ひんぱんに馬を替えたにもかかわらず、モテラに着いたのはカダクを出てから十二日めのことだった。ゲラス川の西の支流から広がるじめじめした平原に築かれた、ぱっとしない街だ。正午ごろ街に入ると、スパーホークとクリクはここでも情報を集めに出かけ、残りの者たちは北のパレルへ向かう旅に備えて馬を休ませた。日没までまだかなり時間があったので、モテラでぐずぐずしている理由はなかった。
「どうだった」スパーホークと従士のクリクが戻ってくると、カルテンが尋ねた。
「マーテルは北へ向かった」
「まだぴったり背後についてるわけだな。差は縮まったか」とティニアン。
「だめです。まだ二日遅れてます」クリクが答えた。
ティニアンは肩をすくめた。「まあ、方角さえ間違ってなければ――」
「パレルまではどのくらいだ」ストラゲンが尋ねる。
「百五十リーグ。少なくとも十五日はかかるな」とカルテン。
「冬に向かって進んでいくようなもんですよ」クリクが言った。「ゼモックの山の中では、雪になるでしょう」
「ありがたいね」とカルテン。
「これから起きることを知っておくのは、損にはなりません」
空は曇ったままだったが、空気は冷たく乾燥していた。旅のなかばあたりから、土地を広範囲に掘り返したあとが目立ちはじめた。ランデラ湖畔の古戦場はすっかり荒れ地となっていた。宝探しをしている者も何度か見かけたが、一行は何事もなく通り過ぎた。
何か変化があったのか、それとも蝋燭《ろうそく》に照らされた室内ではなく戸外にいるせいなのか、スパーホークの目の隅にちらつく黒い影は、実際に何かがそこにいるような、実在感の強いものになっていた。それは陰鬱な一日の午後遅くなってからのことで、一行は植物がまったく見当たらない風景の中を、一日じゅう馬を駆ってきていた。土地はあちこちが掘り返され、土が山のように積み上げられている。今ではお馴染みになったあの影がちらつくのを目の隅にとらえ、ぞっとする感じにふり返ると、スパーホークはずっと尾けてきていたそのものと、正面から向き合っていた。
「セフレーニア」緊張して声をかける。
「何です」
「見たいんじゃないかと思って。ゆっくり振り向けば見られますよ。大きな泥水の池の上です」
教母はふり返った。
「見えますか」スパーホークが尋ねる。
「ええ、はっきりと」
スパーホークはほかの者たちにも声をかけた。
「諸君、隠れていた友人が姿を現わしてくれたようだ。われわれの後方、百五十ヤードほどのところにいる」
全員が振り向いた。
「何かの雲みたいだな」カルテンが感想を述べる。
「あんな雲は見たことがないよ」タレンは身震いした。「まっ黒なんだね」
「どうしてもう隠れるのをやめたんだろう」とアラス。
全員の視線が、説明を求めるようにセフレーニアのほうを向いた。
「わたしに訊かれても困ります。でも何かが変わったようですね」
「まあ、とにかくこれでスパーホークがずっと幻覚を見てたんじゃないってことは確かになったわけだ。それで、あいつをどうする」とカルテン。
「何ができると思うんだ。雲を相手に、斧や剣は役に立たない」アラスがぼそりと言った。
「そうかな。なら、ほかにどうすればいい」
「無視する」アラスは肩をすくめた。「国王の公道であとを尾けてきたからといって、法を侵したことにはならない」
だが翌朝になってみると、雲はどこにも見当たらなかった。
一行がパレルの街を再訪したのは、晩秋のある日のことだった。いつものとおりドミと手下たちは街の外に野営し、スパーホークたちは前に泊まったのと同じ宿に馬を向けた。
「またいらしてくださったんですね、騎士殿」黒い甲冑《かっちゅう》の騎士が階段を下りてくるのを見て、宿の主人が挨拶した。
「また来られてよかったよ」スパーホークの言葉は、心からのものではなかった。「東門まではここからどのくらいだね」ここでもマーテルの足取りを追っておく必要がある。
「三街区ばかり向こうですよ、騎士殿」
「思ったより近いな」ふと思いついて、スパーホークは宿の主人に尋ねた。「二日前にパレルを訪れたはずの友人の消息をあたりで尋ねてこようと思ったんだが、きみが知っていれば時間の節約になる」
「知ってることは何でもお答えしますよ、騎士殿」
「その男は髪が白くて、なかなか魅力的な婦人と、数人の供を連れている。この宿に泊まってはいなかったかね、隣人《ネイバー》」
「ああ、その方ならお泊まりでしたよ。ヴィレタまでの道を尋ねられましたが――この時期にゼモック国へ行こうなどというのは、正気の沙汰《さた》とも思えません」
「向こうでやらなくちゃならんことがあるのさ。あいつはいつもせっかちで、ばかなことをする男だった。二日前というのは間違いないかね」
「ええ、二日前です。馬の状態を見ると、だいぶお急ぎのようでしたね」
「どの部屋に泊まったかわかるかね」
「閣下のご一行の中の、女性の方が入っておいでの部屋です」
「ありがとう、ネイバー。何としても友人に追いつきたいのでね」
「お友だちはいい方でしたが、あの大柄な人には閉口しましたね。はじめてお会いになったときから、多少はましになってるんでしょうか」
「あまりなってないな。あらためて礼を言うよ、ネイバー」スパーホークはふたたび階段を上がり、セフレーニアの部屋のドアを叩いた。
「お入りなさい、スパーホーク」
「それはやめてくれませんか」ドアを開けて騎士が言った。
「何をです」
「顔を見る前に名前を呼ぶのですよ。せめて誰がノックしてるのかわからないってふりくらいできないんですか」
セフレーニアは笑った。
「マーテルは二日前にここを通ってます。この部屋に泊まってたんですよ。この事実は何か役に立ちますか」
教母はしばらく考えこんだ。
「ええ、たぶん。どんなことを考えているのです、スパーホーク」
「やつの計画がわかると助かるんですがね。われわれがすぐ背後に迫っていることは承知してるでしょうから、何か妨害することを考えているはずです。どんな罠を仕掛けてくるのか知りたいですね。二日前の情景が覗《のぞ》けないでしょうか。話を聞くだけでもいい」
教母はかぶりを振った。「遠すぎます」
「まあ、だめでもともとですからね」
「そうとも限りませんよ」セフレーニアはさらに考えこんだ。「そろそろベーリオンのことをもう少しよく知っておくべきではありませんか、スパーホーク」
「どういう意味です」
「ベーリオンとトロールの神々と指輪には、何らかのつながりがあります。それを探ってみましょう」
「どうしてトロールの神々がここに出てくるんです。ベーリオンを使う手段はあるんですから、トロール神なんて放っておけばいいじゃないですか」
「ベーリオンにこちらの言うことが理解できるとは思えないのです。たとえ理解できるとしても、命令に従うためにベーリオンが何をしているのか、わたしたちには理解できないでしょう」
「洞窟は崩せましたよ」
「あれは単純なことでしたからね。今度の命令はだいぶ込み入っています。トロール神に話しかけるほうが、ずっと簡単でしょう。できればトロール神たちがどのくらいベーリオンと深い関係にあるのか知りたいですし、ベーリオンを使って、どの程度トロール神を操れるのかも知っておきたいのです」
「つまり実験をしたいんですね」
「そういう言い方もあるでしょう。どうせ実験をするなら、差し迫った事情がないうちにやっておきたいですからね。実験の結果にわたしたちの命がかかっているような状況でやるよりも、そのほうが安全でしょう。ドアに鍵をかけてください。ほかの人たちはまだ巻きこみたくありません」
スパーホークはドアを閉め、鉄のボルトをかけた。
「トロール神と交渉を始めたら、考えている時間はないでしょう。始める前にすべてを考えておくのです。とにかく命令をするだけで、ほかのことは何もしてはいけません。質問をしたり、説明を求めたりしないように。ただなすべきことを命令して、向こうがどうやってそれを実行するかは気にしないことです。二度眠る前にこの部屋にいた男のしていることを見聞きしたい。それだけです。その情景は――」と部屋の中を見まわして暖炉を指差し、「――あそこに映し出させなさい。ベーリオンには、トロール神と話をすると言うのです。クワジュがいいでしょう。トロールの火の神です。炎と煙をつかさどる、いちばん論理的な神ですから」セフレーニアはトロールの神々について、これまで口にしたよりもずっと多くを知っているようだった。
「クワジュですね」ふと思いついて、スパーホークは尋ねた。「トロールの食の神の名前は何というんです」
「ノームですが、なぜです」
「まだ考えてる途中なんですが、うまくまとまったら試してみてもいい」
「不意打ちはやめてください。わたしがどう感じるかは知っているでしょう。では籠手《こて》を取って、ベーリオンを袋からお出しなさい。手を滑らせたりしないように。指輪がいつも宝石に触れているように気をつけて。トロール語はまだ覚えていますか」
「ええ、アラスと練習してましたから」
「よろしい。ベーリオンに話しかけるのはエレネ語で構いませんが、クワジュとはトロール語で話さなくてはならないでしょう。今日あなたがしたことを、トロール語で話してごらんなさい」
はじめのうちはつっかえつっかえだったが、しばらく話しているうちにだいぶ調子が戻ってきた。エレネ語からトロール語に切り替えると、考え方までが大きく変化する。トロール的なものの考え方が、言語そのものの中に潜んでいるのだ。あまり愉快な考え方ではないし、エレネ人の心にはまったく異質のものだが、いちばん深い、もっとも原初的な部分では、どこかしら通じ合うものがある。
「いいでしょう。暖炉の前に立って。始めましょう。意志を鉄のようにするのですよ。ためらったり、説明したりしてはいけません。ただ命令するのです」
スパーホークはうなずいて、籠手をはずした。血のように赤い二つの指輪が炎に輝いている。騎士は外衣《サーコート》の中に手を入れ、小袋を取り出した。教母と二人、暖炉の中のはぜる炎を見つめる。
「袋を開きなさい」セフレーニアが言った。
スパーホークが結び目をほどく。
「ベーリオンを取り出して、クワジュを呼び出すように言いなさい。それからクワジュに望みを伝えるのです。あまり詳しく話す必要はありません。クワジュにはあなたの考えがわかりますから。あなたに向こうの考えがわかったりしないことを祈るのですね」
スパーホークは大きく息を吸いこむと、小袋を暖炉の上に置いた。「行きますよ」袋を開き、ベーリオンを取り出す。手を触れたとき、サファイアの薔薇は氷のように冷たかった。思わず湧き上がってくる畏怖の念をできる限り遠ざけ、宝石を両手に持ってきびしく声をかける。「青い薔薇! クワジュの声をここへ連れてこい!」
宝石が奇妙に揺らいだような気がして、群青色の花弁の奥にまっ赤な光点が見えた。両手の中でベーリオンがいきなり熱くなる。
「クワジュ!」スパーホークはトロール語で叫んだ。「わたしはエレニアのスパーホークだ。指輪を持っている。クワジュは命令に従わなければならない」
手の中でベーリオンが震える。
「わたしはエレニアのマーテルを探している。エレニアのマーテルは、二度眠る前にこの場所にいた。クワジュはエレニアのスパーホークが見たいものを火の中に見せる。クワジュはエレニアのスパーホークが聞きたいことを聞かせる。クワジュは従え! 今すぐに!」
ごくかすかに、やたらと声の反響する虚《うつ》ろな場所から、遠く怒りの咆哮が聞こえたような気がした。そこに巨大な炎のはじける音がかぶさっているようだ。暖炉で踊るように燃えていた樫《かし》の木の炎が、燠火《おきび》くらいにまで小さくなった。その火がふたたび大きくなり、明るい黄色の炎が暖炉の開口部から勢いよく噴き上げる。と、炎がいきなり静止した。もはや揺らめいてもいなければ踊ってもおらず、輝きだけはそのままに凍りついてしまっている。同時に暖炉の熱も、まるで厚い硝子《ガラス》で仕切りをしたかのように、まったく届いてこなくなった。
気がつくとスパーホークは天幕の中を覗きこんでいた。憔悴した様子のマーテルが粗末なテーブルの前に座り、反対側にはもっとやつれの目立つアニアスがいた。
「どうしてやつらの居所がわからないのだ」シミュラの司教が尋ねた。
「わからん」マーテルがざらざらした声で答えた。「オサがくれたもの[#「もの」に傍点]たちを総動員したんだが、何も見つけられなかった」
「無敵のパンディオン騎士よ」アニアスが冷笑する。「もっと長く騎士団にとどまって、子供騙しの手品みたいなものよりましな魔術を、セフレーニアから教わっておくべきだったな」
「おまえはもうほとんど何の役にも立たなくなってしまっているんだぞ、アニアス」マーテルは不気味な口調になった。「オサとおれにとって、総大司教になるのは誰だっていいんだ。どこの聖職者だろうとな。おまえの代わりなどいくらでもいる」その一言で、誰が誰から命令を受けているのか、疑問の余地なくはっきりした。
天幕の入口の垂れ布が上がって、アダスがのっそりと入ってきた。その鎧はさまざまな国の甲冑の部品を寄せ集めたもので、しかも錆《さび》だらけだった。アダスには前頭部というものがないことに、スパーホークはあらためて気がついた。眉の上からすぐに髪が生えているのだ。
「死んだ」アダスはうめき声と区別がつかないような声を出した。
「歩かなくてはならんぞ、このばか者め」とマーテル。
「弱い馬だった」アダスは肩をすくめた。
「おまえが死ぬほど拍車をくれなかったら、まったく問題はなかった。別の馬を盗んでこい」
アダスはにっと笑った。「農場の馬か」
「馬なら何でもいい。農夫を殺したり女で楽しんだりするのもいいが、一晩じゅうかけるんじゃないぞ。それから、終わったあと農家を燃やすな。こっちの居場所を宣伝するようなものだ」
アダスは笑って――少なくとも笑い声のように聞こえないことはない――天幕から出ていった。
「よくあんな野蛮人を我慢して使っているな」アニアスが身震いする。
「アダスのことか。あれはそう悪くない。歩く戦斧《バトルアックス》だと思えばいいんだ。人を殺すのに使うだけで、いっしょに寝ようとは思わん。そういえば、おまえとアリッサの意見の違いは解決したのか」
「あの淫売め!」アニアスの口調には軽蔑がこもっていた。
「そんなことは最初から知っていたろうに。あの身持ちの悪さに惹《ひ》かれた部分もあったはずだぞ」マーテルはアニアスに顔を寄せた。「きっとベーリオンのせいだ」
「何がだ?」
「スパーホークを見つけ出せない理由だ」
「アザシュにも見つけられないのか」
「おれはアザシュに命令したりはしないんだ、アニアス。向こうが何かをおれに教えておきたいと思ったとき、連絡があるだけだ。ベーリオンはあの神よりも力があるのかもしれん。どうしても知りたければ、寺院に着いたとき自分で訊いてみるんだな。きっと怒るだろうが、それはおまえの問題だ」
「今日はどのくらい進んだ」
「せいぜい七リーグだ。アダスが馬の腹を拍車で蹴破ってから、ひどく速度が落ちたからな」
「ゼモックの国境まではどのくらいある?」
マーテルは地図を開いた。
「あと五十リーグほど――五日かそこらだろう。スパーホークを三日以上引き離しているとは思えないから、今の調子で進むしかない」
「もうくたくただ。こんな調子で進むのは慣れていない」
「疲れたと文句を言いたくなったら、スパーホークの剣が自分の腹を貫くところを想像してみるんだな。エラナに首を斬られるときの苦痛を思ってもいい。裁縫用の鋏《はさみ》か、パン切りナイフでな」
「おまえになど会わなければよかったと思うことがある」
「それはまったくお互いさまだ。ゼモック国に入ってしまいさえすれば、スパーホークの足取りを鈍らせることもできる。街道に待ち伏せ部隊を配置したから、少しは慎重になるだろう」
「殺すなと言われているんだぞ」アニアスが反対する。
「何を寝言を言っている。ベーリオンを持っている限り、人間にやつを殺すことなどできん。やつを殺すなと――たとえ殺せても殺すなと言われてはいるが、ほかのことについては何も指示はないんだ。仲間を何人か失えば、われわれの敵も多少は動揺するだろう。本人は認めたがらないが、スパーホークは心やさしい男だからな。少し眠っておいたほうがいいぞ。アダスが戻ったらすぐに出発だ」
「暗い中をか」アニアスが信じられない顔になる。
「何がまずいんだ、アニアス。闇が怖いのか。腹に突き立った剣か、首の骨をがりがり削るパン切りナイフのことを考えろ。そうすれば勇気が出る」
「クワジュ! もういい! 消えろ!」スパーホークが怒鳴った。
炎はたちまち正常に戻った。
「青い薔薇、ノームの声を連れてこい!」スパーホークはさらにそう命じた。
「何をするつもりです!」セフレーニアは叫び声を上げたが、ベーリオンはもう反応を始めていた。輝く群青の花弁の中に黄緑色の点が生じ、スパーホークの口の中にいやな味が広がった。腐りかけた肉のような味だ。
スパーホークは鋭く声をかけた。
「ノーム、わたしはエレニアのスパーホークだ。指輪を持っている。ノームは命令に従わなければならない。わたしは狩りをする。ノームはわたしの狩りを手伝う。わたしは獲物の人間から二度の眠りだけ離れている。ノームはわたしの狩人とわたしが、獲物の人間に追いつけるようにしろ。その時がきたらエレニアのスパーホークが言うから、ノームは狩りを手伝う。ノームは従わなくてはならない!」
またしても虚ろな、反響する怒りの声が響いた。今度の咆哮には何かを噛《か》むくちゃくちゃという音と、恐ろしげな舌なめずりの音が混じっていた。
「ノーム! 消えろ! エレニアのスパーホークが命令したら、ノームはまたやってくる!」
黄緑色の光点が消え、スパーホークはベーリオンを袋の中に戻した。
「気でも狂ったのですか!」セフレーニアが叫んだ。
「そういうわけじゃありません。マーテルが待ち伏せを仕掛けたりできないように、すぐうしろに迫っておきたいんですよ」眉根を寄せて、「わたしを殺そうとしていたのは、どうやらマーテル独自の考えだったらしい。だが今は違う命令を受けているようです。事情は少しはっきりしましたが、今度はあなたや仲間たちの身を心配する必要が出てきました」スパーホークは顔をしかめた。「いつだって何かしら心配事があるんですからね」
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22[#「22」は縦中横]
「スパーホーク」クリクだった。従士は主人の身体を揺すって起こそうとしていた。「夜明けまであと一時間ほどです。起こしてくれと言ったでしょう」
「おまえはいったいいつ寝てるんだ」スパーホークは上体を起こして欠伸《あくび》をし、座ったまま床に足をおろした。
「ちゃんと寝てますよ」クリクはきびしい目でスパーホークを検分した。「きちんと食事をしてませんね。肋《あばら》が浮いてますよ。着替えておいてください。ほかの人たちを起こしたら戻ってきて、甲冑《かっちゅう》を着ける手伝いをしますから」
スパーホークは立ち上がり、錆《さび》に汚れた詰め物入りの鎧下《よろいした》を着こんだ。
戸口からストラゲンの皮肉っぽい声が聞こえた。
「粋な格好だな。それは洗濯しちゃいけないって騎士の掟《おきて》でもあるのか」
「乾かすのに一週間もかかるんだ」
「どうしても必要なものなのか」
「甲冑を着たことは?」
「幸運にして、ない」
「一度試してみろ。この鎧下がないと、鎧が肌の敏感な部分とこすれるんだ」
「格好をつけるためには、いろいろと耐えなくちゃならんことがある」
「本当にゼモックの国境で引き返すのか」
「女王命令だからな。それにおれは足手まといになるだけだ。神と敵対するような器じゃないんだよ。正直、あんたは頭がおかしいと思ってる――悪く取らないでくれよ」
「シミュラからエムサットに帰るのか」
「奥様のお許しが出ればな。本当は帰って、帳簿の検査だけでもしておきたい。テルは頼りになる男だが、何と言っても泥棒だからな」
「そのあとは?」
「知るものか」ストラゲンは肩をすくめた。「おれはいい加減な世界に住んでるんだよ。そこには独特の自由があって、したくないことは何もしなくていい。おっと、忘れるところだった。今朝はあんたと自由の損得勘定を議論しにきたんじゃない」胴衣《ダブレット》の中に手を突っこんで、ふざけた調子で頭を下げ、「お手紙でございます、殿下。奥様からだろうと存じますが」
「いったい何通預かってきてるんだ」折り畳んだ羊皮紙の束を受け取りながら、スパーホークが尋ねた。ストラゲンは短いが感動的なエラナの手紙をカダクで一通、モテラでも一通、女王の夫に渡していた。
「それは国家機密でね」
「いつ渡せといった指示はあるのか。それともきみの気まぐれで決めているのかね」
「両方を少しずつだな。指示はもちろん受けてるが、おれの判断も交えてるんだ。あんたが気落ちしたりふさぎ込んでたりするときに、気持ちを引き立たせるのがおれの役目なのさ。じゃあこれで失礼するから、手紙を読んでくれ」ストラゲンは廊下を歩いて、宿の階下に通じる階段のほうに姿を消した。
スパーホークはエラナの手紙の封印を破った。
愛するあなた。すべてが順調に進んでいれば、今ごろはパレルですね――ああ、まったくやりにくいわ。未来を見ようとするんだけど、わたしの目はそんなによくないの。わたしは何週間も何週間も前からあなたに話しかけていて、今これを読んでいるあなたの身に何が起きているのか、まったくわかっていない。この不自然な状況で、わたしがどれほど苦しく寂しい思いをしているか、わかっていただけるかしら。この苦しみをみんなここで打ち明けてしまったら、あなたの決意を鈍らせ、あなたを危険にさらすことになってしまう。愛しています、スパーホーク。わたしの心は二つに引き裂かれそう。一方には男になってあなたと危険を分かち合い、必要とあらばこの命を投げ出してもいいという思いがあり、また一方には、女としてあなたの抱擁にわれを忘れる喜びをすばらしいと感じてもいるのですから≠サのあとスパーホークの若き女王は新婚初夜のことをこまごまと描写していたが、二人だけの秘め事をここに書き記すのは不粋というものだろう。
「女王の手紙はどうだった」中庭で馬に鞍を置きながらストラゲンが尋ねた。東の空に陽が昇って、雲が汚い色に染まっている。
「文学的だ」スパーホークは簡潔に答えた。
「あまり似合わん気がするな」
「地位のローブをまとうと、ときにその人間の本質が見えにくくなることがある。エラナはたしかに女王だが、ふさわしくない本を大量に読んだ、十八歳の女の子でもあるんだ」
「そんな冷静な分析が新郎の口から聞けるとは思わなかったな」
「言いたいことはいろいろあるさ」スパーホークは馬の腹帯を締めた。ファランはうなり声を上げ、腹をふくらませて、わざと主人の足を踏んづけた。騎士はほとんど反射的に、馬の腹に膝を叩きこんだ。「今日はしっかり目を開いておけよ、ストラゲン。きっと変わったことが起きるぞ」
「たとえばどんなことだ」
「よくわからん。ただ、うまくいけば今日はいつもよりずっと距離を稼げるはずだ。ドミとペロイたちといっしょにいてくれ。感情的な連中だから、尋常ならざることがあると取り乱すかもしれない。何もかも予定どおりだと言って、安心させてやってくれ」
「本当に予定どおりなのか」
「まるっきり見当もつかないんだよ。だが、わたしは極力ものごとを楽観的に見るように努めるつもりだ」それでストラゲンは、ある程度わかってくれたようだった。
日が射してくるのは遅かった。東から流れてきた雲が、夜のあいだに厚みを増していたのだ。鉛色をしたランデラ湖から続く長い斜面を登りきったところで、クリングとペロイたちが合流した。
「またペロシアに戻れるのはいいことだ。こんなでたらめに掘り返された土地であっても」クリングの傷痕のある顔には、上機嫌な表情が浮かんでいた。
「ゼモック国境まではどのくらいだ、ドミ」ティニアンが尋ねた。
「五日か六日だ、友ティニアン」
スパーホークは仲間に声をかけた。
「ちょっと待っててくれ。セフレーニアとわたしはすることがある」騎士は教母に合図してその場を離れ、草の茂った丘の上で馬を下りた。「いいですか」
「どうしてもやらなければならないのですか、ディア」
「ええ、そう思います。ゼモック国境を越えた後、あなたやみんなを待ち伏せから守るには、これしか方法がないんです」外衣《サーコート》の中から小袋を取り出し、籠手をはずす。ベーリオンを手に取ると、やはり氷のように冷たく感じられた。「青い薔薇! ノームの声をここに呼べ!」
宝石がしぶしぶといった感じで暖かくなり、黄緑色の光点が現われた。口の中に腐った肉の味が広がる。
「ノーム! わたしはエレニアのスパーホークだ。指輪を持っている。これから狩りをするから、ノームは前に命令したとおり狩りを手伝え。今すぐだ、ノーム!」
スパーホークは何かが起きるのを緊張して待ち受けたが、何も起こらなかった。
「ノーム! 消えろ!」サファイアの薔薇を小袋に戻し、口紐を結んで外衣《サーコート》の下に戻す。やや落胆した声で、「とりあえずここまでですね。手伝えないならそう知らせてくるという話でしたが、たしかに知らせてきたようです。ここまで来てそれがわかったのはちょっと残念ですが」
「まだあきらめるのは早いと思いますよ」とセフレーニア。
「何も起きなかったんですよ、小さき母上」
「そう決めつけたものでもないでしょう」
「とにかく戻りましょう。マーテルに追いつくには、もっとつらい方法に頼るほかなさそうですから」
一行は速足《トロット》で斜面を駆け下った。昇ったばかりの太陽が、東の地平線にかかった雲の向こうに顔を出している。パレルの西に広がる農地は最後の収穫期を迎えていて、農奴たちがもう畑に出て働いていた。街道から見ると、灰色や青の服に身を包んだ人影はまるで動かない玩具《おもちゃ》のようだった。
「農奴制というのは、あまり勤労意欲を刺激しないものらしいですね。あの連中はちっとも動いてないみたいじゃないですか」クリクが批判的に言った。
「おれが農奴だったとしても、あまり真面目に働こうって気にはならんだろうな」とカルテン。
そのあと普通駆足《キャンター》になった一行は、広い谷を横切って低い山々の連なる中に踏みこんだ。そこでは東方の雲もやや薄く、地平線のすぐ上にかかった太陽も少しはっきりと見ることができた。クリングは斥候を出し、一行は進みつづけた。
何かがおかしいような気がしたが、スパーホークにはそれをはっきりと指摘することができなかった。あたりは静まり返っていて、馬の蹄《ひづめ》の音がひどく大きく響いた。足許は柔らかい泥道なのに、蹄の音が妙に固い感じだ。あたりを見まわしたスパーホークは、仲間たちがそろって不安そうな顔をしているのに気づいた。
次の谷を半分ほど過ぎたとき、クリクがいきなり手綱を引いて馬を止めた。「くそ、わかったぞ」
「どうしたんだ」スパーホークが尋ねる。
「出発してからどのくらいになります」
「一時間くらいだろう。それがどうした」
「太陽を見てくださいよ、スパーホーク」
東の空に目を向けると、なだらかな稜線の上に丸い太陽の姿が見えた。
「あるべき場所にあるじゃないか。誰も動かしたりはしてないようだぞ」
「そこが問題なんですよ。動いてない。出発してから一インチも動いてないんです。昇ってきたあと、その場に止まってしまってる」
全員が東の空を見つめた。
「そうじゃないさ、クリク」ティニアンが言った。「丘を登ったり下ったりすれば、太陽の位置は変わるもんだ。今は前より高い場所にいるから、その分だけ太陽が低く見えるんだろう」
「わたしも最初はそう思ったんです、サー・ティニアン。でもパレルの東の丘の上を出発したときと今とを比べても、明らかに太陽は同じ位置にあるんですよ」
「冗談はよせよ、クリク。太陽は動くに決まってるじゃないか」とカルテン。
「今朝はそうじゃないようですよ。どうなってるんですかね」
「サー・スパーホーク! あれを!」ベリットの声はかん高く、今にもヒステリーを起こしそうだった。
スパーホークは修練士の震える指が示す方向に目を向けた。
鳥だった。どこといって変わったところはない。雲雀《ひばり》か何かだろうとスパーホークは思った。不自然なところは何もない――中空にぴたりと静止しているという事実さえ気にしなければ。まるでその場にピンで止めてあるかのようだ。
誰もがやや目を血走らせてあたりを見まわした。と、セフレーニアがいきなり笑いだした。
「いったい何がおかしいんです」とクリク。
「何も問題はありませんよ、みなさん」セフレーニアが言った。
「問題はない?」とティニアン。「太陽はどうなったんです? それにあの鳥は?」
「スパーホークが太陽を止めたのです。それに小鳥も」
「太陽を止めた?」ベヴィエが息を呑む。「そんなこと、不可能です!」
「そうでもないようですよ。昨夜スパーホークはトロール神と話をしました。わたしたちは狩りをしていて、獲物が遠くに逃げていると言ったのです。そしてトロールの神ノームに、追いつけるよう手を貸してくれと頼みました。ノームは今まさに手を貸しているようですね」
「ついていけませんよ。太陽と狩りがどう関係してるんです」とカルテン。
「そんなに難しいことではありません。ノームは時間を止めたのです。それだけのことです」
「それだけのこと? どうやって時間を止められるんです」
「知りません」セフレーニアは眉をひそめた。「時間を止める≠ニいう言い方も、たぶん正確ではないでしょう。実際には、わたしたちは時間の外を進んでいるのです。一秒と次の一秒のあいだを」
「どうしてあの鳥は落ちてこないんですか、レディ・セフレーニア」ベリットが尋ねる。
「実際には羽ばたきをしているからです。通常の世界では、時間はごく普通に流れています。でもそこにいる人々は、わたしたちが通り過ぎたことに気づきもしません。神々に何かをしてくれと頼んだとしても、こちらの予期するような方法でそれをしてくれるとは限らないのです。スパーホークはノームに、マーテルに追いつきたいと望みを述べました。そのとき考えていたのは、距離よりもむしろ時間のことだったはずです。だからノームは距離を縮めるのではなく、時間を縮めました。わたしたちに関しては、時間は止まっています。その中で距離を縮めるかどうかはわたしたち次第です」
そこへストラゲンが疾駆《ギャロップ》で近づいてきた。
「スパーホーク! いったい何をやらかしたんだ!」
スパーホークは手短に事情を説明した。
「とにかく戻って、ペロイを落ち着かせてくれ。魔法だと言えばいい。世界は静止していて、目的地に着くまで何も動かなくなってるんだと」
「それは本当なのか」
「ああ、だいたいな」
「信じてくれると思うか」
「今の説明が気に入らないなら、自分たちで気に入るような説明を考え出すように言ってくれ」
「あとでまた動くようにできるんだろうな」
「もちろんだ――そう願ってる」
「あの、セフレーニア」タレンがためらいがちに声をかけた。「世界はどこもすっかり動きを止めてるってこと?」
「ええ、つまりわたしたちにはそう見えるということです。ほかの人たちはそうは感じていません」
「じゃあ、おいらたちの姿は誰にも見えないんだね」
「そこにいることさえわからないでしょう」
うやうやしいほどの微笑が、ゆっくりとタレンの口許に浮かんだ。
「なるほど――うん、うん、なるほど」
ストラゲンも同じように目を輝かせている。
「いや、まったくだ、殿下。うん、まったく」
「いけません、二人とも」セフレーニアの鋭い声が飛んだ。
スパーホークはストラゲンに声をかけた。
「クリングのところへ行って、急がなくてもいいと伝えてきてくれないか。馬に楽をさせたほうがいい。われわれが到着するまで、相手はどこへも行かないし、何もしないわけだからな」
いつまでも薄明るい夜明けの中を普通駆足《キャンター》で進むのは、気味のいいものではなかった。寒くも暖かくもなく、湿気もなければ乾いてもいない。周囲の世界は静まり返って、動かない鳥がときどき宙に静止していた。農奴たちは彫像のように畑の中に立っている。白樺の木のそばを通りかかったときには、トロール神ノームが時間を止める直前に風に吹き散らされたらしい黄金色の木の葉が、風下のほうに舞い落ちる途中で空中に凍りついていた。
「いま何時ごろかな」何リーグか進んだころカルテンが尋ねた。
アラスが空を見上げる。「夜が明けたところだ」
「最高に面白いぜ、アラス」カルテンは皮肉いっぱいに答えた。「ほかのみんなは知らんが、おれは少し腹が減ってきた」
「生まれながらの腹っぺらしだな」とスパーホーク。
携行食糧で食事を済ませると、一行はさらに進みつづけた。急ぐ必要はないのだが、カレロスを出て以来ずっと気が急《せ》いていたのが尾を引いて、いつの間にか普通駆足《キャンター》になってしまう。のんびりと進むのは不自然に思えた。
実際には計りようがないものの、感覚として一時間かそこら経ったころ、後方からクリングが追いついてきた。
「うしろに何かいるぞ、友スパーホーク」クリングの声には畏怖の響きがあった。太陽を止められる男と話をするのは、そういつもあることではない。
スパーホークは鋭くドミに目を向けた。「確かか」
「はっきりとは言えない。そんな感じがしただけだ。南のほうにまっ黒な雲がある。かなり離れているから断言はできないが、どうもおれたちを追ってきてるような気がする」
スパーホークは南に目を転じた。あの同じ雲だ。大きさと黒さを増して、いよいよ不気味に見える。どうやらあの影はこんなところまで追いかけてこられるらしい。
「動くところを見たか」
「いや。だが食事のあともうずいぶん走ったが、出発したときと同じ、右肩のすぐうしろに見えてる」
「目を離さないようにしてくれ。実際に動いてるところをとらえるんだ」
「わかった」ドミはうなずいて、馬首をめぐらした。
普通の一日分の距離を進んだと思えるあたりで、一行は野営地を設営して一夜≠過ごした。馬たちは戸惑い気味で、ファランはずっと疑わしげな目をスパーホークに向けっぱなしだった。
「わたしのせいじゃない」鞍から下りながら、スパーホークはそうファランに声をかけた。
「哀れな馬によくそんな嘘がつけるな」そばからカルテンが口をはさんだ。「恥ってものを知らんのか。明らかにおまえのせいじゃないか」
スパーホークの眠りは浅かった。明るさはずっと変わらない。とにかくできるだけ眠ってから、騎士はあきらめて起き上がった。ほかの者たちもしきりに寝返りを打っていた。
「おはよう、スパーホーク」セフレーニアの口調は皮肉っぽかった。やや不満気な顔をしている。
「どうかしたんですか」
「朝のお茶はあきらめるしかなさそうです。岩を熱してお湯を沸かそうとしたのですが、だめでした。何も働かないのです――呪文も魔法も、いっさいが。あなたとノームが作り出したこのどこでもない国では、わたしたちは完全に無防備です」
「誰が攻撃してくるというんです、小さき母上。わたしたちは時間の外にいるんでしょう。どんな相手も手の出しようがありませんよ」
その考えがまったくの間違いだとわかったのは、ちょうど正午≠イろのことだった。
「動いてるよ、スパーホーク」動きのない村へと近づいているとき、タレンが叫んだ。
「あの雲! 動いてる!」
前の日にクリングが気づいた雲は、今やはっきりと動いていた。墨のようにまっ黒なその雲は、農奴の草葺《くさぶ》き屋根の小屋が集まった小さな村のある、浅い谷へと向かっている。雲の動きにつれて、低く雷の音も聞こえた。ノームが時間を止めて以来はじめて耳にする音だ。雲が通り過ぎたあとは、草も木もすべてが枯れて腐っていた。雲が触れただけで、一瞬にしてしおれてしまうようだ。やがて雲は村を呑みこんだ。通り過ぎたあとには、まるで村などはじめからなかったかのように、何も残っていなかった。
雲が近づいてくると、スパーホークの耳に規則的な音が響いてきた。何十人もの裸足の足が歩調を合わせて地面を踏んでいるような音だ。それとともに獣の咆哮のようなものも聞こえた。何十匹という獣が声を合わせて、低くうなっているかのようだ。
セフレーニアが差し迫った顔で叫んだ。
「スパーホーク、ベーリオンを使いなさい! あの雲を吹き払うのです! クワジュを呼んで!」
スパーホークは小袋を手探りし、籠手を地面に投げ捨てると、素手で袋を引き開けた。サファイアの薔薇を両手に捧げ持つと、なかば叫ぶように宝石に呼びかける。
「青い薔薇! クワジュを呼べ!」騎士の手の中でベーリオンが熱くなり、花弁の中に赤い閃光が走った。「クワジュ! エレニアのスパーホークだ! クワジュは近づいてくる黒い雲を焼き払って、エレニアのスパーホークに雲の中のものが見えるようにする! すぐにやれ、クワジュ!」
またしてもトロール神が意思に反して使役されるときの、怒りと不満の咆哮が聞こえた。と、黒い雲の正面に、轟音を上げる炎の壁がいきなり出現した。炎はたちまち明るさを増して白熱し、スパーホークは熱波が叩きつけてくるのを感じた。だが雲は炎など歯牙にもかけないように、じりじりと前進してくる。
「青い薔薇!」スパーホークはトロール語で叫んだ。「クワジュに手を貸せ! 青い薔薇は自分の力とすべてのトロール神の力をまとめて、クワジュを助ける! やれ、すぐにだ!」
それに応えて噴き上がった力の激しさに、スパーホークは鞍から転落するところだった。ファランが後退し、耳を倒して歯をむき出す。
雲の動きが止まった。大きな裂け目が生じては、即座に閉じていく。炎が大きく燃え上がったかと思うと急に弱くなり、また息を吹き返した。二つの力がせめぎ合っているのだ。だがやがて、とうとう雲の黒さが薄れはじめた。まるで夜明けが近づいて、夜の闇が薄れていくようだ。炎がますます大きく明るくなった。雲は逆にますます薄れ、ばらばらになってちぎれ飛んでいく。
「おれたちが勝ってるぞ!」カルテンが叫んだ。
「おれたち?」クリクはスパーホークの籠手を拾い上げた。
と、突風に吹き払われたかのように、雲が一気に流れ去った。スパーホークと仲間たちの目に、うなるような音を立てていたものの姿があらわになった。巨大な身体を持った、人間に似たものたち――といっても、腕と足と頭があるというだけのことだ。毛皮に身を包んで、石で作った武器を持っている。大部分が斧と槍だ。人間に似ているのはそこまでだった。額は狭く、口吻は突き出し、身体は毛皮に覆われているのに、髪はほとんどない。雲は吹き払われたが、そのものたちは前進を続けていた。引きずるような調子の駆け足だ。全員の足がいっせいに地面を打ち、それに合わせてあのうなるような声が上がる。一定の間隔で足を止めると、隊列のどこかから獣の遠吠えのような、かん高い咆哮が上がる。そしてふたたび前進が始まり、うなり声と足音が再開されるのだ。頭には一種の兜をかぶっている。何だか見当もつかないが、角のある動物の頭蓋骨で作ったものだ。顔には色付きの泥で複雑な模様が描かれていた。
「あれがトロールなのか」カルテンが上ずった声で尋ねた。
「あんなトロールは見たことがない」アラスは斧に手を伸ばした。
と、ドミが手下に向かって叫んだ。
「ようし、おまえたち、行く手を阻む獣を一掃するぞ!」言うやクリングはサーベルを抜き、高く頭上にかかげて喚声を上げた。
ペロイ族が突撃する。
「クリング! 待て!」スパーホークが叫んだ。
だが手遅れだった。いったん攻撃にかかったペロシア東部辺境の馬賊たちを、呼び戻す方法などありはしない。
スパーホークは悪態をつき、ベーリオンを外衣《サーコート》の中に突っこんだ。
「ベリット、セフレーニアとタレンを後方へ! 残りはペロイに手を貸せ!」
それは文明的な戦闘とはとうてい言えないものだった。クリングの部族の最初の攻撃で、戦場は敵と味方が入り乱れた大混戦に陥った。聖騎士たちは、目の前の醜悪な怪物が痛みを感じないらしいことにすぐに気づいた。もっとも、それがこの生き物の本来の性質なのか、それとも召喚者から与えられた防御の一種なのかは判然としない。厚い毛皮の下の筋肉はあり得ないほど頑丈だった。剣が跳ね返されるというわけではないが、すぱっと切れないのだ。最高の一撃が決まっても、相手はほんのかすり傷を負うだけだった。
それでもペロイ族のサーベルはなかなか役に立っていた。鋭い切っ先をすばやく突き立てるほうが、重い大剣《ブロードソード》を大上段から振り下ろすよりもよほど効果的なのだ。厚い毛皮を貫いてしまえば、さしもの怪物も苦痛の悲鳴を上げた。ストラゲンは目を輝かせて毛深い敵の中に馬で躍りこみ、細身剣《レイピア》を閃《ひらめ》かせた。不器用に振りまわされる斧をよけ、石の穂先のついた槍をかわして、毛だらけの身体にやすやすと切っ先を沈める。
「スパーホーク! こいつらの心臓はかなり下のほうだ! 胸じゃなくて、腹を狙え!」
それでだいぶ簡単になった。聖騎士たちは作戦を変更し、刃で叩き斬るのではなく、剣を腹に突き立てるようにした。ベヴィエもしぶしぶロッホアーバー斧を鞍に戻し、剣を抜いた。クリクもフレイルを捨てて、短い剣を手にした。だがアラスは頑固に斧にこだわっていた。それでも状況のきびしさはわかっているらしく、いつもは片手で扱う斧を、このときばかりは両手で握っていた。アラスの剛力をもってすれば、頑丈な毛皮も厚い頭蓋骨も、あまり苦にはならないようだった。
戦況はすっかり変化していた。だが巨体の獣たちはその変化が理解できないらしく、突き出される剣の前に次々と倒されていった。最後に残ったわずかな数の一団は、仲間が全滅しているにもかかわらず、なお戦いをやめようとはしなかった。そこへクリングの一隊が電光のように駆けこんできて、残りをことごとく片付けてしまった。最後まで立っていた一匹は、十ヵ所以上ものサーベルの傷から血を流しながら、顔を上げてあのかん高い遠吠えを上げた。アラスが進み出て鐙《あぶみ》の上に立ち上がり、斧を頭の上から振り下ろした。斧は顎のあたりまでめり込んで、遠吠えはとだえた。
スパーホークは血のしたたる剣を手にしてふり返ったが、敵はことごとく倒れていた。さらによくあたりを見まわすと、勝利のために多大な犠牲を払ったことがわかった。クリングの手下が十人以上も倒れ――ただ倒れただけではなく、身体をずたずたに引き裂かれていた。ほかにも同じくらいの数の者たちが、血の海の中でうめき声を上げている。
クリングは草の上に足を組んで座り、死にかけた男の頭を揺すってやっていた。その顔には悲しみがあふれていた。
「残念だ、ドミ」スパーホークが言った。「どのくらいの負傷者が出たか教えてくれ。手当の方法を何か考えよう。きみたちの土地まで、あとどのくらいだと思う?」
「精いっぱいに馬を駆って一日半だ、友スパーホーク。二十リーグに少し欠ける」クリングは死んだばかりの戦士の目をそっと閉じさせた。
隊列の最後尾では、ベリットが馬上で斧を手にして、タレンとセフレーニアを守っていた。
「終わりましたか」セフレーニアが目をそむけるようにして尋ねた。
「はい」スパーホークは馬を下りた。「あれは何だったんです、小さき母上。トロールのようにも思えますが、アラスは違うと言ってます」
「原始人ですよ、スパーホーク。とても古く、とても難しい呪文です。神々と、スティリクムの魔術師の中でも特別に力の強いほんのわずかな者だけが、時をさかのぼって動物や人間を連れてくることができます。原始人が地上を歩いていたのは、数えきれないほどの時代をさかのぼった、はるか大昔のことです。わたしたちは、かつてみんなああいう姿をしていました。エレネ人も、スティリクム人も、トロールさえもが」
「人間とトロールが親戚だって言うんですか」騎士は疑わしげに尋ねた。
「とても離れていますけれどね。はるか太古に変化があって、トロールと人間は別々の道を歩みはじめたのです」
「ノームが凍りつかせた時間の中も、思ったほど安全ではないようですね」
「ええ、確かに」
「そろそろまた太陽を動かす潮時でしょう。追ってくる者たちの目は、時間の隙間に逃げこんでもごまかせない。しかもここではスティリクムの魔術が働きません。だったら普通の時間の中にいたほうが安全です」
「わたしもそう思います、スパーホーク」
スパーホークはベーリオンを小袋から取り出し、ノームを呼び出して呪文を解かせた。
クリングの手下のペロイ族は、死者と負傷者を運ぶための担架をこしらえていた。ふたたび前進を始めた一行は、鳥がちゃんと飛んでいて、太陽がきちんと動きはじめたのを見て、ほっと安堵のため息をついた。
翌朝、ペロイの巡邏隊が一行を見つけ、クリングが進み出て友人たちと協議を始めた。戻ってきたとき、その顔はきびしかった。
「ゼモック人は草に火をかけてる。友スパーホーク、悪いがあまり長く付き合えそうにない。牧草地を守らなくてはならないし、そのためにはできるだけの人数で、広く分散しなくてはならない」
ベヴィエが何か思いついた顔でクリングに話しかけた。
「ゼモック人が一ヵ所に集まっていたほうが簡単なのではありませんか、ドミ」
「それはもちろんだ、友ベヴィエ。だがどうしてやつらが一ヵ所に集まる?」
「価値のあるものを奪うためです、友クリング」
クリングは興味を持ったようだった。「たとえば?」
ベヴィエが肩をすくめる。
「黄金とか、女とか、家畜とか」
クリングはびっくりした顔になった。
「もちろん罠ですよ。家畜と宝と女たちを一ヵ所に集めて、わずかな数のペロイに護衛させるのです。あとの戦士たちは全員、ゼモックの斥候にもよくわかるようにしてその場を離れます。そのあと暗くなってからそっと引き返して、見つからないように近くに身をひそめているんです。ゼモック人は家畜と宝と女を盗もうと、全員で襲ってくるでしょう。そこを一網打尽にすればいい。こうすれば敵を一人ひとり探し出す手間が省けます。そのうえ女たちには、あなたがたの活躍を目の当たりにさせることができます。女というのは、憎むべき敵を打ち倒す強い男に憧れるものだとか聞いています」ベヴィエはずるそうな笑みを浮かべた。
クリングはしばらく眉根を寄せて考えこんでいたが、やがて大声で叫んだ。
「気に入った! こんないい手を気に入らないはずがあるか! それでいこう!」ドミはさっそく仲間に計画を伝えにいった。
「おまえにはときどきびっくりさせられるよ、ベヴィエ」ティニアンが言った。
若いシリニック騎士は謙遜するように答えた。
「軽騎兵の使う標準的な戦略の一つですよ。軍事史を研究していて知ったんです。ラモーク人の男爵たちは、城を築くようになる以前には、この戦略を数えきれないほど使っています」
「それは知ってるが、驚いたのは女を餌《えさ》に使うってところだよ。どうやら思ったより世慣れてるようじゃないか」
ベヴィエは赤面した。
一行は比較的ゆっくりした速度でクリングのあとに従った。負傷者と死者を運ぶ悲しげな馬の列がそれに続く。カルテンは遠い目をして、しきりに指で何か数えていた。
「どうしたんだ」スパーホークが尋ねた。
「マーテルにどのくらい追いついたのか計算してるんだ」
「一日半に少し足りないくらいだよ」タレンが即座に答えた。「一日と三分の一だね、正確には。マーテルのうしろ、六時間か七時間くらいのところだよ。平均速度は一時間に一リーグってとこかな」
「つまり二十マイルくらいか」とカルテン。「なあスパーホーク、今夜ずっと休まずに走れば、日が昇るころにはやつの野営地の中だぜ」
「夜中に走る気はない。非常に敵対的な相手がいるとわかってるんだ。闇の中で不意打ちを食いたくはないからな」
日が沈むと一行は野営して、食事を済ませたあと、大天幕に集まって今後の作戦を練った。
「なすべきことはだいたいわかっている。国境までは大して問題はないだろう。クリングはどのみち一時的に部隊を女たちのそばから遠ざけるわけだから、途中まではペロイの軍団が警護についてくれることになる。それを見ればゼモック軍は近づいてこないだろう。とりあえず国境までは安全だ。問題は国境線を越えたあとだな。その場合、鍵を握るのはマーテルだ。やつの背後を脅かして、われわれを妨害するために軍勢を集めている時間など作れないようにしてやらないと」
「はっきりしろよ、スパーホーク」とカルテン。「さっきは夜中には走らないと言ってたくせに、今度はマーテルの背後を脅かすだなんて」
「背後を脅かすだけなら、追いつく必要はないさ。おれたちがすぐうしろに迫ってると思わせることができれば、やつは懸命に先を急ぐだろう。暗くなる前にやつと話をしておきたいな」騎士はあたりを見まわした。「蝋燭が一ダースばかりいる。頼まれてくれるか、ベリット」
「何なりと、サー・スパーホーク」
「このテーブルの上に蝋燭を並べてくれ。隣り合わせに、一列にな」スパーホークは外衣《サーコート》の中に手を伸ばし、ベーリオンを取り出した。それをテーブルの上に置き、誘惑を避けるために布をかける。一列に並べた蝋燭に火が灯されると、騎士は指輪をはめた手を宝石の上に置いた。
「青い薔薇、クワジュを呼べ!」
宝石がふたたび手の下で熱くなり、真紅の光点が花弁の奥に現われた。
「クワジュ! わたしは知っているな。今夜敵が眠る場所を見たい。炎の中にそれを見せろ。すぐにだ、クワジュ!」
怒りの声はもはや咆哮ではなく、不機嫌そうなつぶやきになっていた。蝋燭の炎が伸び、一つに融合して、明るく黄色い炎の幕になった。その中に映像が現われる。
小さな野営地だった。天幕はわずかに三つしかない。中央に湖のある、小さな草地のようだ。黒っぽい杉の木立が湖の向こうに見える。湖畔には小さな火が焚《た》かれ、三つの天幕はそれを半円形に囲むようにしつらえられていた。スパーホークは慎重にその情景を心に刻んだ。
「もっと焚き火に近づけ、クワジュ! 向こうの話が聞こえるようにしろ!」
視点が火に近づいて、情景が変化した。マーテルたちが焚き火を囲んでいる。どの顔にも疲労の色が濃かった。スパーホークが仲間たちに合図すると、全員が身を乗り出して聞き耳を立てた。
アリッサの刺々《とげとげ》しい声が聞こえた。
「どこにいるのよ、マーテル。わたしたちを守ってくれるはずの、ゼモックの軍団というのは。野の花でも摘みにいってるの?」
「ペロイを足止めしているんだよ、王女。あの野蛮人どもに追いつかれたほうがいいのか。心配するな。欲望が抑えきれなくなったら、アダスを貸してやる。あまりいいにおいはしないが、あんたが求めるのはそんなものじゃあるまい」アリッサの目に憎しみの炎が燃え上がったが、マーテルは気にも留めなかった。アニアスに向かって、「ペロイ族はゼモック人が阻止してくれる。スパーホークが死ぬほど馬を駆り立てたとしても――あいつにそんなことができるわけはないが――まだおれたちより三日は遅れてるはずだ。国境を越えるまではゼモック軍など必要ない。そのあとは連中を使って、わがブラザーとそのお仲間たちのために罠を仕掛けさせるがな」
スパーホークは急いでトロール神に声をかけた。
「クワジュ! あの連中にわたしの声が聞こえるようにしろ。すぐにだ!」
蝋燭の炎が揺らめき、すぐに静かになった。
「とてもいい野営地だな、マーテル。その湖に魚はいるのか」スパーホークは何気ない調子で話しかけた。
「スパーホーク!」マーテルが息を呑む。「こんな遠くまで声が届くのか」
「遠くだって? それほど離れてるわけじゃない。すぐうしろにいるんだ。だがわたしだったら、野営地は湖の向こうの、あの杉の木立の中にしたな。おまえを殺したがってる人間は大勢いるんだ。そんな開けた場所に野営するのは、あまり安全とは言えないぞ」
マーテルはいきなり立ち上がった。「馬だ!」とアダスに怒鳴る。
「もう出発かい、マーテル。それは残念だ。顔を合わせるのを楽しみにしてたんだがな。まあいいか。どうせ明日の朝いちばんで会えるだろうし。そのくらい待つのは、おれたち二人にとってはどうってことじゃない」
スパーホークは残忍な笑みを浮かべた。あわてて馬に鞍を置く五人は目を血走らせ、しきりにあたりをうかがっていた。あっという間に鞍に飛び乗り、しゃにむに馬を駆って、まっしぐらに東へと向かっていく。
スパーホークはそのうしろ姿に呼びかけた。
「戻ってこいよ、マーテル。天幕を忘れてるぞ」
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23[#「23」は縦中横]
ペロイ族の土地はこれまで一度として鍬《くわ》の入ったことがない、柵《さく》も何もない広大な草原だった。晩秋の風がどこまでも続く草原に吹きわたり、雲の垂れこめる空の下、夏への挽歌を奏でている。一行は平原のただ中にそびえる高い岩山を東へと向かっていた。誰もがマントをしっかりと身体に巻きつけて、乾燥した冷たい風を防いでいる。いつまでも続く陰鬱な天気のせいで、意気はあまり上がらなかった。
午後遅く岩山の頂きに着くと、あたりには慌ただしい動きがあった。先乗りしてペロイを集めていたクリングが、頭に粗織りの布を巻いて一行を出迎えた。
「何かあったのか、友クリング」ティニアンが尋ねた。
「サー・ベヴィエの計画にちょっとした反対があって、反対者の一人にうしろから殴られた」クリングが渋い顔で答えた。
「ペロイの戦士が、背後から誰かを襲うことがあるとは思わなかったな」
「もちろんそんなことはない。襲ってきたのは男じゃないんだ。高い地位にあるペロイの女の一人に、うしろから鍋で頭を一撃された」
「その女は処罰したんだろうな」
「そういうわけにはいかないんだ、友ティニアン。おれの妹なんでね。鞭打ったりしたら、母が許してくれない。女たちはみんなベヴィエの計画が気に入らなくて、妹はその代表としておれを罰しにきたんだ」
「女性の方たちは、身の安全がはかれないと考えているのでしょうか」ベヴィエが尋ねた。
「そうじゃない。ペロイの女はみんな雌獅子《めじし》のように勇猛だ。問題は、この女たちの野営地の責任者を決めなくちゃならんということなんだ。ペロイの女は誇り高くて、地位というものにとても敏感だ。男たちはみんなすばらしい計画だと賛成したんだが、女たちときたら――」と両手を広げて、「男にどうして女が理解できる?」それからドミは居ずまいを正し、具体的な話に入った。「副頭目たちに言って野営地を設営させてる。少数の見張りだけを残して、残りは全員ゼモックの国境へ、侵攻するような格好で馬を走らせる。夜になったら少しずつ兵力を分散して、こっそりここへ戻ってこさせる。周囲の丘に隠れて、ゼモック軍がやってくるのを待ち受ける予定だ。あんたたちはずっと国境まで同行して、ゼモック国に潜入すればいい」
「うまい計画だ、友クリング」ティニアンが称讃した。
「おれもそう思ってる」クリングは相好を崩した。「みんな来てくれ。おれの氏族の天幕に案内する。夕食に雄牛を焼いてるところだ。ともに塩を取って話し合おう」ドミには何か考えがあるようだった。「友ストラゲン、あんたはあのタムールの女ミルタイについて、ほかの者たちよりよく知っている。あの女の料理の腕はどうだ」
「ミルタイの料理を食べたことはないがね、ドミ。だが少女のころ、徒歩で旅をした話なら聞いている。わたしの理解するところでは、そのときは主に狼を食べていたようだ」
「狼を? どうやって料理するんだ」
「料理はしなかったんじゃないかな。急いでいたせいだろうが、走りながら食べたと言ってたから」
クリングは大きく唾を呑んだ。
「生で食べたというのか。だいたいどうやって狼を捕まえたんだ」
ストラゲンは肩をすくめた。
「追いかけたんだろうな。そのあと適当に引き裂いて、走りながら食べたんだろう」
「何と哀れな狼だ!」そう叫んだクリングが、ふいに疑わしげな顔になった。「おまえの作り話じゃないだろうな、ストラゲン」
「おれがそんなことをする人間に見えるか」ストラゲンは子供のように無邪気な目つきでドミを見つめ返した。
翌朝は夜明けとともに出発し、すぐにクリングが戻ってきて、スパーホークと馬を並べた。
「昨夜ストラゲンはおれをからかっただけなんだろう?」ドミは心配そうな顔で尋ねた。
「たぶんな」とスパーホーク。「サレシア人はちょっと変わっていて、奇妙なユーモア感覚を持っているから」
「だがあの女ならやりかねない――狼を殺して、生で食べるってことだ」クリングの口調には称讃の響きがあった。
「その気になればできるだろうな。まだミルタイのことを想っているのか」
「ほかのことはほとんど考えられないくらいだ。何とか忘れようとしたんだが、無駄だった」クリングはため息をついた。「仲間は決してあの女を受け入れないだろう。おれの地位が今のようなものでなければ問題はないんだが、もし結婚すれば、あれはペロイ族のドマってことになる――ドミの連れ合いで、女たちの中では最高の位だ。ほかの女たちは嫉妬《しっと》ではらわたを煮えくり返らせ、夫に悪口を吹きこむだろう。するとその連中は評議会で反対意見を述べ、おれは子供時代からの友だちを大勢殺さなくちゃならなくなる。ミルタイがいるだけで、ペロイ族はばらばらになってしまう」もう一度ため息をついて、「おれは戦いで死ぬべきなのかもしれない。そうすれば愛と義務のはざまで悩まなくてもすむからな」そこまで言って、クリングは鞍の上で姿勢を正した。「女みたいな泣き言はやめよう。ゼモック軍の本隊を壊滅させたあと、おれと仲間は国境地帯に急行する。ゼモック軍にはおまえたちのことを気にする暇などないだろう。そんなことにかまけてなどいられなくなるから。おれたちはやつらの神殿や寺院を破壊する。きっとやつら、狂ったようになるだろう」
「ずいぶん細かく考え抜いてあるんだな」
「やるべきことがしっかりわかっているに越したことはない。東に進軍するときは、北東にあるゼモックの街、ヴィレタへ向かう街道を進む。前に言った道に入るにはどうすればいいか教えるから、よく聞いてくれ」クリングは目印や距離を挙げながら、どう進めばいいかをスパーホークに説明した。
「だいたいこんなところだ、友スパーホーク。もっと手伝えればいいんだがな。騎馬隊を何千騎かつけてやることもできるが、本当にいいのか」
「申し出はありがたいんだが、それだけの数がいると抵抗を引き起こして、進み方が遅くなる。ラモーカンド国の平原には、ゼモック軍が押し寄せてくる前にわれわれがアザシュの寺院にたどり着くことをあてにしている友人がたくさんいるんだ」
「よくわかった、友スパーホーク」
東に二日進んだとき、クリングはスパーホークに、ここで南に折れるようにと言った。「夜明けの二時間前に出発するといい。昼間おまえたちが隊列を離れるところを敵の斥候が目にしたら、興味を抱いて尾《つ》けてくるかもしれない。南のほうはずっと平坦な土地だから、夜中に馬を走らせても大した危険はない。幸運を、わが友。おまえの肩にはとても重い荷が載っている。おれたちもおまえのために祈ろう――ゼモック人を殺すのに忙しくないときには」
ちぎれ雲の上に月が顔を出し、スパーホークは大天幕を出て新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんだ。ストラゲンも騎士のあとから出てきて、よく通る声で話しかけてきた。「いい晩だな」
「少し寒いがね」スパーホークが答える。
「夏だけの国に住みたいなんて思うやつがどこにいる。明日の朝、出発するところは見送れないだろう。早起きは苦手なんでね」ストラゲンは胴衣《ダブレット》の中に手を突っこみ、前よりも厚い紙の束を取り出した。「これで最後だ。女王に言いつかった仕事もどうやら完了だな」
「よくやってくれたよ、ストラゲン――たぶんな」
「もう少しおれを信用しろよ、スパーホーク。おれはエラナに命じられたとおりにやったんだ」
「一度に全部の手紙を渡してしまえば、こんなところまで来る必要はなかったろうに」
「長旅は別に気にならんさ。あんたのことも、あんたの仲間のことも気に入ってるんだ。その圧倒的に貴族的な態度を真似しようと思うほどじゃないが、気に入ってるのは確かでね」
「おれもおまえのことは気に入ってるよ、ストラゲン。信用する気にはなれんが、気に入ってることは間違いない」
「どうもありがとう、騎士殿」ストラゲンは大仰に一礼して見せた。
「礼には及ばんよ、ミロード」スパーホークは笑みを浮かべた。
「ゼモックに入ったら気をつけろ」ストラゲンは真顔になった。「おれはあの鉄の意志を持つ若い女王が気に入ってる。あんたがばかなことをして、女王が嘆き悲しむのを見たくなどないんでね。それから、タレンの言葉には耳を傾けることだ。まだ子供だし、根っからの泥棒ではあるが、とても勘が鋭くて頭も切れる。おれたち二人がこれまでに会った中で、いちばん知的な人間かもしれんぞ。それにやつは運がいい。負けるんじゃないぞ、スパーホーク。おれはアザシュに頭を下げたりはしたくない」顔をしかめて、「もうじゅうぶんだ。ときどき泣き言を言いたくなることがあってな。中へ戻って、古きよき日々のために一杯やらないか。手紙を読みたいというなら別だが」
「それはあとにしよう。ゼモック国に入って気が滅入るようなことがあったとき、心を浮き立たせてくれるものが何かないとな」
翌朝早く集まったとき、雲はふたたび月を隠してしまっていた。スパーホークは全員に道を説明し、クリングに教えられた目印をとくに強調した。それから一行は馬に乗って、野営地をあとにした。
闇は通り抜けることなどできないのではないかと思うほど濃かった。
「ぐるぐる円を描いて進んでても、絶対わからないぞ」カルテンがやや不機嫌そうな口調で文句を言った。前の晩ペロイたちと遅くまで起きていて、目がまっ赤になっている。スパーホークが起こしたとき、その手は小さく震えていた。
「いいから進むのです、カルテン」とセフレーニア。
「わかってますよ。でも、どっちにです?」
「南東です」
「それは結構ですけど、どっちが南東なんです?」
「あちらです」教母は闇の中で指を差した。
「どうしてわかるんです」
セフレーニアはすばやくスティリクム語で何かカルテンにささやいた。
「というわけです。これで何もかも明らかでしょう」
「小さき母上、一言もわかりませんでしたよ」
「それはわたしのせいではありません」
夜明けはゆっくりと訪れた。東の空には厚く雲がかかっていたのだ。南へ進んでいくと、何リーグも東のほうに横たわる峰々のぎざぎざになった頂きが見えてきた。ゼモック国でしか見られない山々だ。
午《ひる》近くになって、クリクが手綱を引いた。
「目印の赤い峰が見えますよ、スパーホーク」
「血を流してるみたいだな。おれの目のせいなのか」とカルテン。
「それも少しはあるでしょうね。昨夜《ゆうべ》あんなにエールを飲むからです」
「そういうことは昨夜のうちに言ってくださいよ、小さき母上」
「いいでしょう、みなさん」セフレーニアが全員に呼びかけた。「そろそろ着替えをしておくべきだと思います。甲冑《かっちゅう》姿はゼモック国ではいささか目立ちますからね。必要なら鎖帷子《くさりかたびら》は着けていても構いませんが、その上には用意してあるスティリクム人のスモックを着てください。着替えが終わったら、少し顔をいじらせてもらいます」
「この顔に慣れてるんだが」とアラス。
「あなたはそうかもしれませんが、ゼモック人は驚くでしょう」
五人の騎士とベリットは甲冑を脱いだ。騎士たちはいささかほっとした様子だが、ベリットは明らかに残念がっていた。それから着心地の悪さは鎧とあまり変わらない鎖帷子を着こみ、その上からスティリクム人のスモックをまとう。
セフレーニアは全員をきびしく点検した。
「剣帯はとりあえずスモックの上でいいでしょう。ゼモック人が武器を身につけるのに、決まったやり方があるとは思えませんから。あとで違うことがわかったら、そのときに調整しましょう。ではみなさん、動かないで」セフレーニアは一人ひとりの前で同じ呪文をくり返し、顔に触れていった。
「効いていないようですよ、レディ・セフレーニア。みんな何も変化していません」ベヴィエが仲間の顔を見まわして言った。
「あなたの目をごまかそうとしているのではありませんからね、ベヴィエ」教母は笑ってそう答え、鞍袋から小さな手鏡を取り出した。「ゼモック人にはこう見えているのです」と鏡をベヴィエに手渡す。
鏡を覗《のぞ》きこんだベヴィエは、思わず息を呑んで邪悪を払う仕草をした。
「神よ! これはひどい!」鏡はすぐにスパーホークに手渡され、スパーホークは奇妙に変化した自分の顔をじっくりと検分した。髪は馬の尻尾のような黒のままだが、ざらざらした肌はスティリクム人特有の青白いものに変わっている。額と頬骨は斧で雑に刻んだように大きく張り出していた。だががっかりしたことに、折れた鼻は元のままだ。鼻のことなど気にしていないと自分でも思っていたのだが、この鼻がまっすぐだったらどんなふうに見えるか、知らず知らずのうちに気になっていたようだ。
「みなさんの顔は純粋なスティリクム人に似せてあります。ゼモック国では珍しいことではありませんし、わたしも安心できますからね。エレネ人とスティリクム人が入り混じった顔を見ると、吐き気がしてくるのです」
セフレーニアは右手を伸ばし、かなり長くスティリクム語を唱えて身振りをした。刺青《いれずみ》のような螺旋状の黒い帯が手首から腕にかけて現われ、その先端は掌《てのひら》で、まるで生きているような蛇の頭の絵柄になった。
「何か理由があるんでしょうね」ティニアンが興味津々で尋ねる。
「もちろんです。では、行きましょうか」
ペロシアとゼモックの国境はあまりはっきりしたものではなく、丈高い草の生えた草原が終わるところをうねうねと延びているようだった。その東側の土地は痩《や》せていて岩だらけで、植物の生育も悪い。黒っぽい針葉樹の森が、急な斜面を一マイルばかり登ったあたりから始まっていた。その距離を半分ばかり行ったところで、薄汚れた白いスモックを着た騎馬の男たちが十人あまり、木々のあいだから現われて近づいてきた。
「わたしに任せてください」セフレーニアが言った。「何も言わないで、ただこわもてに見えるようにしていてください」
近づいてきたゼモック人の一隊が馬を止めた。未完成な印象のスティリクム的な顔もあれば、そのままエレネ人で通りそうな顔も、両者が入り混じったような顔もある。
「ゼモックの恐怖の神に栄光あれ」隊長らしい男が崩れたスティリクム語で言った。ゼモックの言語は、スティリクム語とエレネ語の悪いところだけを取って混ぜあわせたような言葉だった。
「神の名前を言わなかったね、ケジェク」セフレーニアが冷たく言う。
「どうしてあいつの名前がわかったんだ」カルテンが小声でスパーホークに尋ねた。話すのは苦手でも、聞くほうは多少はましらしい。
「ケジェクってのは名前じゃない。侮辱の言葉だ」スパーホークが答えた。
ゼモック人は青白い顔をますます青ざめさせ、憎々しげに顔をしかめた。
「女と奴隷が、帝国警護隊にそんな口をきくんじゃない!」
「帝国警護隊ね」セフレーニアが嘲笑する。「おまえもおまえの部下たちも、警護隊員の面汚しだ。神の名をお言い。そうすれば信仰が本物かどうかわかる。さあ、ケジェク、神の名を言うか、それとも死ぬか」
「アザシュ」不安になってきたらしい男がつぶやいた。
「その名はそれを語った口により穢《けが》された。だがアザシュはときに穢れさえお喜びになる」
ゼモック人は胸をそらした。
「われわれは人を集めるよう命じられている。祝福されしオサがその拳《こぶし》を伸ばして、西の不信心者どもを奴隷とする日が近づいているのだ」
「ではそのように、仕事を続けるがいい。勤勉に働け。アザシュは熱意の不足には罰をもって臨まれる」
「女の命令など受けん」隊長は冷たく言い放った。「おまえの召使たちを戦場に供出しろ」
「おまえの権威はわたしのそれを上回るものではない」セフレーニアは掌を男のほうに向けて右手を上げた。腕から手首にかけて描かれた帯がうごめき、蛇の頭がしゅっと音を立てて、二股の舌をちろちろと出し入れした。「挨拶をするがいい」
隊長は目を恐怖に見開いて後じさった。スティリクム人は掌に接吻して挨拶をするから、言われたとおりにすれば自分から命を投げ出すことになる。
「高位の巫女《みこ》様とは知らず、お許しください」
「だめだね」セフレーニアは冷たく答え、脅えて縮こまっているほかのゼモック人たちを見やった。「この屑肉《くずにく》はわたしを侮辱した。なすべきことをするように」
ゼモック人たちは鞍から飛び下り、暴れる隊長を馬から引きずり下ろすと、その場で首を打ち落とした。いつもならそんな残虐な光景からは顔をそむけるセフレーニアが、表情一つ変えずにそれを眺めている。
「死体はいつものように街道にさらして、仕事を続行するように」
中の一人がおずおずと声を上げた。
「あ、あの、恐怖の巫女様、隊長がいなくなってしまいました」
「おまえが声を上げたから、おまえが隊長になる。よく働けば褒賞があり、働かなければおまえの首にも罰が下ろう。死体をわたしの道からどけなさい」セフレーニアは踵《かかと》でチエルの脇腹をつつき、白い乗用馬は慎重に血だまりを避けて先へ進んだ。
「ゼモック人の隊長は楽じゃなさそうだ」アラスがティニアンに言った。
「まったくな」ティニアンも同意する。
「あそこまでする必要があったんですか、レディ・セフレーニア」ベヴィエが声を詰まらせながら尋ねた。
「ええ。ゼモック人は、僧職に対して反抗したらかならず罰せられます。そしてゼモック国には、罰は一つしかありません」
「どうやって蛇の絵を動かしたの」タレンがやや怯《おび》えたような表情で尋ねた。
「何もしていません。そう見えただけです」
「だったら、噛《か》まれる心配もなかったわけ?」
「本人は噛まれたと思ったでしょう。結果は同じことです。クリングはどのくらい森の奥まで入ると言ったのですか、スパーホーク」
「馬でおよそ一日です。森の東のはずれで南へ針路を変えます。山に入る直前ですね」
「では先を急ぎましょう」
一行は誰もがセフレーニアの変化に恐れを感じていた。ゼモック人との遭遇のときに見せた傲慢な態度があまりにも普段の教母と違っていたために、仲間たちにまである程度の恐怖感を植えつけてしまったのだ。薄暗い森の中を進みながら、一行は押し黙って、ときどきちらちらとセフレーニアのほうに目を向けていた。とうとう教母は手綱を引いてチエルの足を止めさせた。
「やめてもらえませんか。わたしにもう一つ頭が生えでもしたみたいに。あれはゼモック人の巫女になりすますために、アザシュの巫女がするとおりのことをしただけです。怪物の真似をするなら、ときには怪物のように振る舞う必要があるのです。それでは行きましょう。何か話をしてくれませんか、ティニアン。いやなことを忘れられるような話を」
「わかりました、小さき母上」丸顔のデイラ人騎士が答えた。たぶん意識はしていないのだろうが、今では全員がそういう呼び方をするようになっていた。
その晩は森の中で野営して、翌朝も曇り空の下を出発した。道は確実に登りになっており、進むにつれて空気が冷えこんできた。午《ひる》ごろになって一行は森の東のはずれに到達し、そこで南に針路を変えた。ただし百ヤードほど森の中に戻って、身を隠すようにすることは忘れなかった。
クリングが言っていたとおり、その日遅くにはかなりの広さで木々が枯れている林に到着した。白く立ち枯れた木々が山の斜面に沿って、一リーグほどの幅がある滝のように広がっている。あたりには嫌なにおいのする茸《きのこ》がたくさん生えていた。
「この場所は見たところ、地獄の端にあるみたいな感じだな。それににおいもだ」ティニアンが不快そうな声で言った。
「曇ってるせいだろう」カルテンが応じる。
「晴れていてもあまりましになるようには思えない」アラスが反論した。
「どうしてこんなに広い場所が荒れ地になったんでしょう」ベヴィエが身震いしながら尋ねた。
「大地そのものが病んでいるのです」とセフレーニア。「この呪われた森に長居は無用です。人と木は違うといっても、この毒気が健康にいいわけはありませんから」
「もうすぐ暗くなりますよ」とクリク。
「大した問題ではありません。明かりならあるはずです」
「どうして大地が病むようになったのですか、レディ・セフレーニア」汚染された土地から白骨が手を伸ばしているような木々を見まわしながら、ベリットが尋ねた。
「それはわかりません。ただ、この場所は死のにおいがします。この地面の下には想像もできないほど恐ろしいものが埋まっているのでしょう。はやく立ち去るのがいちばんです」
夕闇が迫りはじめ、やがて夜になると、周囲の枯れ木は無気味な青白い光を放ちはじめた。
「これも魔法なんですか。木が光ってるのは」カルテンがセフレーニアに尋ねた。
「いいえ。これは魔法のせいではありません」
クリクが悔やむような笑い声を上げた。
「すっかり忘れていたな」
「何をさ」とタレン。
「こんなふうに枯れた木は、闇の中で光ることがあるんだ」
「それは知らなかったな」
「街からほとんど出たことがないからだ、タレン」
「街のほうがお客が多いんだよ」タレンは肩をすくめた。「蛙の懐を狙ったって、稼ぎにはならないからね」
夜になって一時間ばかり、一行はマントで鼻と口を覆って、青白い光の中を進みつづけた。真夜中近くになって、やっと普通の木々の茂った急な斜面にたどり着いた。さらにしばらく進んでから、その夜の残りを過ごすために野営地を設営した。木々に囲まれた浅い池のそばにいると、夜気がとても甘やかな、純粋なものに感じられた。何しろずっとあの死んだ森の、ひどい悪臭の中を進んできたのだ。翌朝、斜面の上から見渡した光景は、あまり心を浮き立たせるものではなかった。昨夜通ってきた場所は白く死んでいた。今日これから通っていく場所のほうは、今度は黒く死んでいた。
「あれ、いったい何なの?」タレンは息を呑んで、泡立ち弾けている黒いどろりとした沼のようなものを見つめた。
「クリングの言っていた、タールの沼だな」スパーホークが答える。
「迂回《うかい》できるの?」
「いや。タールは崖の斜面から流れ出していて、沼は麓《ふもと》に何リーグにもわたって広がっている」
タールの沼は黒く濡れて輝き、ぼこりぼこりと泡立ちながら、岩だらけの山地の南五マイルくらいまで広がっていた。反対側の端には青みがかった炎が、シミュラの大寺院の尖塔ほどの高さに噴き上がっている。
「どうやってここを渡るんです」ベヴィエが情けない声を上げた。
「注意して、だな」とアラス。「サレシアで何度か流砂を渡ったことがある。できるだけ長い棒で前方を探りながら進むんだが、おそろしく時間がかかる」
「ペロイが印をつけている」スパーホークが言った。「固い地面があるところに棒が刺してあるそうだ」
「その棒のどっち側を歩けばいいんだ」とカルテン。
「それは聞いてないな」スパーホークは肩をすくめた。「あまり先まで進まないうちにわかるとは思うがね」
一行は斜面を下って、慎重な足取りで黒い沼地に踏みこんだ。沼地の空気はナフサの強烈なにおいがして、いくらも行かないうちにスパーホークは頭がぼうっとしてくるのを感じた。
足許に気をつけて歩かなくてはならないため、進行速度は大いに鈍った。粘り気のある泡がナフサの底から浮かび上がってきては、奇妙な音を立てて弾ける。沼地の南端に近づくと、炎の柱が天を焦がしていた。青い炎が消えることなく地面から噴き上がっているのだ。その燃える柱の横を通り過ぎると、道は急に上り坂になって、間もなく一行はタールの沼地を抜け出すことができた。地面から噴き出すガスが燃えているそばを離れたせいなのだろうが、沼地をあとにしてみると、山の空気はおそろしく冷たく感じられた。
「雲行きが怪しくなってきましたね」クリクが言った。「たぶんまず雨が降るでしょうが、そのあと雪になりそうですよ」
「山の旅に雪はつきものだ」アラスが感想を述べた。
「次の目印は何だい」ティニアンがスパーホークに尋ねる。
「あれだ」スパーホークは太く黄色い地層が斜めに表面を走っている、高い崖を指差した。「クリングの目印は実にわかりやすいな」前方に目を向け、幹に大きく切れこみの入った木に目を止める。「道に沿って印もついている。よし、雨が降りだす前に急ごう」
その道は昔の川床らしかった。長い歳月のうちにイオシア大陸の気候が変化し、ゼモック国はどんどん乾燥していって、大地に狭い渓谷を刻みこんだ川の流れもいつしか干上がってしまったらしい。あとにはそびえ立つ崖に向かう、急峻な道が残されたというわけだ。
クリクの予想どおり、午後遅くに雨が降りはじめた。あらゆるものをじっとりと濡らす霧のような雨だ。
「サー・スパーホーク、ちょっと見てください」ベリットが最後尾から声をかけてきた。
スパーホークは手綱を引き、後戻りした。「どうした、ベリット」
ベリットは西のほうを指差していた。夕日は雨雲の向こうの、わずかに明るい灰色の影にすぎない。その薄明かりの中央部に、不定形のまっ黒な雲が浮かんでいる。
「あの雲だけ動き方が違うんです。ほかの雲はみんな西のほうに動いているのに、あの雲は東に、まっすぐこっちに向かってきています。どうもあの原始人が隠れてた雲に似てるような気がしませんか。われわれを尾行してきていた」
スパーホークの気持ちは沈んだ。
「たしかにそのとおりだ。セフレーニア!」
教母も戻ってきて二人に合流した。
「またあの雲です」スパーホークは西のほうを指差した。
「そのようですね。どうせすんなり消えてくれるとは思っていなかったのでしょう」
「そう願ってはいたんですが。何とかできますか」
「いいえ」
スパーホークは背筋を伸ばした。「ではこのまま進みましょう」
急傾斜の渓谷は岩のあいだを縫うように続き、夕闇が迫る中、一行はゆっくりと坂道を上っていった。やがて古代の川床が鋭く曲がっているところを抜けると、地滑りの跡が見えた。むしろ崖崩れの跡といったほうが正確かもしれない。渓谷の南面が崩落して、完全に道をふさいでしまっている。
「かなりすさまじい状況ですね。クリングが通り抜ける方法を教えてくれているといいんですが」ベヴィエが言った。
「ここでは左側を行けと言われてる。木の幹や枝や藪《やぶ》が、崩れた崖と反対のほうの、北側の壁沿いに積み上げてあるはずだ。それをどければ地滑りの向こうへ抜ける道があるそうだ。ペロイ族は耳を集めにゼモックへ遠征するとき、この道を使っている」
カルテンが顔をぬぐった。「とにかく見にいってみよう」
折れた木の幹やもつれ合った藪が固まっている様子は、急速に薄れゆく夕日の中ではごく自然に見えた。春の洪水のあとなど、どこの渓谷にも見られる流木や残骸の堆積と同じことだ。タレンが馬を下りて斜めに引っかかった木の幹に登り、奥のほうを覗いて「おーい」と呼びかけた。声は虚ろな谺《こだま》となって返ってきた。
「返事があるかどうか、少し待ってみろ」ティニアンがタレンに声をかける。
「ここみたいだよ、スパーホーク。奥は広い通路になってる」
「だったら仕事にかかったほうがいい」アラスはそう言って、暗くなりかけた空を見上げた。「今夜はこの中で過ごすのがよさそうだ。天気が崩れそうだし、もう暗くなる」
スパーホークたちは流木を使って簡単な軛《くびき》を作り、荷馬をそれにつないで木の幹や藪をどけた。通路の入口は三角形で、渓谷の北側の崖に向かって口を開いている。中は狭くて、かび臭かった。
「乾燥してる」とアラス。「それに外からは見えない。少し奥に入ったところで火を焚《た》こう。服を乾かさないと、朝には鎖帷子が錆《さ》びて、身動きできなくなる」
「その前に入口をふさぎましょう」クリクが言った。もっとも、藪で入口を隠したくらいで、サレシアからずっと追ってきている黒い雲から逃げられるとはあまり思っていないようだ。
入口をふさぐと荷物の中から取り出した松明《たいまつ》に火が灯《とも》され、一行は狭い通路をたどっていった。百ヤードほど進むと、少し広い場所に出た。
「ここでいいですか」クリクが尋ねる。
「乾燥はしてるな」カルテンは足許の砂を足で蹴散らした。白くなった木の破片がいくつも埋まっている。「薪もじゅうぶんにありそうだし」
狭苦しい場所に野営地が設営され、すぐに小さな火が熾《おこ》された。
そこへ通路の先を偵察に行っていたタレンが戻ってきた。
「このあとまだ何百ヤードか続いてるね。上の出口も入口と同じように、木や藪で隠してある。クリングはかなり気をつけてたみたいだな」
「上のほうの天気はどうだった」クリクが尋ねる。
「雪混じりの雨になってたよ、父さん」
「予想は当たっていたようだな。まあ、みんな雪がはじめてってわけじゃない」
「料理当番は誰だ」とカルテン。
「おまえだ」アラスが答えた。
「もうおれの番だなんてはずはない」
「悪いが、おまえの番なんだ」
カルテンはぶつぶつ言いながら荷物の中をかき回しはじめた。
食事はペロイの携行食と羊肉《マトン》の薫製と黒パン、それに乾燥豆を使った濃いスープだった。栄養はあるが、味のほうはあまり感心したものではない。食事が終わるとカルテンは後片付けにかかったが、ふと手を止めて疑わしげにアラスを見やった。
「おい、アラス」
「何だ、カルテン」
「いっしょに旅をしてるあいだ、おまえが料理をしてるところは一度か二度しか見た覚えがないぞ」
「そうかもしれない」
「おまえの番はいつ来るんだ」
「おれの番は来ない。次が誰の番かをちゃんと確認しておくのがおれの仕事だ。おまえだって、おれが料理をしたりするのを期待してはいないだろう。これで公平だ」
「誰がおまえを指名したんだ」
「志願した。進んで不愉快な仕事を引き受けるのが教会騎士というものだ。だからこそ人々はおれたちを尊敬する」
そのあと一同は輪になって腰をおろし、暗い面持ちで焚き火を見つめた。
「どうして騎士なんてものになったのか、自分でも不思議になるのがこんな日さ」ティニアンが言った。「若いころには法律家になる道も開けてたんだ。だがそれじゃあ退屈だと思って、こっちの道を選んだ。どうしてあんなことを考えたのかな」
いっせいに同意のつぶやきが洩れる。
「そういうことを考えるのはやめにしませんか、みなさん」セフレーニアが言った。「前にも話しましたが、憂鬱になったり絶望したりすれば、それこそ敵の手の中にまっ逆さまです。黒い雲は頭の上にかかってるものだけでじゅうぶんでしょう。自分たちの手で増やしてやることはありません。光が弱まったときこそ、闇の力が伸びるものです」
「元気づけるつもりで言ってるにしては、何だか妙だね」とタレン。
教母は小さく笑みを浮かべた。
「少しばかり芝居がかっていたかもしれませんね。早い話が、わたしたちは大いに気をつけなくてはいけないということです。絶望したり落胆したりしないよう、そして何よりも憂鬱にならないよう注意しなくてはなりません。憂鬱は狂気の一形態ですから」
「どう気をつければいいんです」カルテンが尋ねる。
「簡単なことだ、カルテン」アラスが答えた。「おまえはティニアンをよく見張ってろ。もし蝶々《ちょうちょう》みたいな振る舞いを始めたら、スパーホークに報告するんだ。おれはおまえが蛙みたいな振る舞いを始めないか見張ってる。もし舌を伸ばして蝿を捕ろうとしはじめたら、おまえが現実を把握できなくなってきてるとわかるわけだ」
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24[#「24」は縦中横]
半クラウン硬貨ほどの大きさの雪片が、霧雨に混じって狭い通路へと吹きこんでいた。真っ黒な烏が木の幹にとまって、羽根を濡らし、目を怒りにぎらつかせている。頑丈な壁としっかりした屋根と、陽気にはぜる炎が恋しくなるような朝だった。だがそんな快適さは望むべくもなく、スパーホークとクリクは木の葉の中で身体を丸めて、せめてもの暖を取った。
「確かなのか」スパーホークが従士にささやいた。
クリクがうなずいて、低い声で答える。
「間違いなく煙でした。誰かがベーコンを焼こうとして、焦がしてしまったみたいですね」
「何にしても、ここで待つ以外に手はない。誰かに出くわしたくはないからな」スパーホークは身体の位置をずらそうとしたが、生育の悪い二本の木のあいだにはさまっていて、身動きができなかった。
「どうしたんです」とクリク。
「水が落ちてくるんだ。ちょうど首のうしろのところに」
クリクは思案げな顔でスパーホークを見つめた。
「どんな気分です、スパーホーク」
「冷たい。ともあれ、尋ねてくれてありがとうよ」
「そうじゃありません。あなたの状態を知っておくのはわたしの責任ですからね。今回の仕事では、あなたがすべての鍵なんです。ほかの者たちが自分を憐《あわ》れみはじめてもどうってことはありませんが、あなたが疑いや恐怖を抱いたら、全員が大変なことになります」
「セフレーニアはときどき母鶏みたいに世話焼きになるんだ」
「あなたを愛しているからですよ。心配して当然です」
「もう子供じゃないんだぜ。結婚だってしてるんだ」
「ああ、まったくそのとおりですね。気がつかなかったのが不思議なくらいです」
「面白いよ」
二人は耳を澄まして待ちつづけたが、聞こえるのは木から落ちる水滴の音だけだった。
「スパーホーク」とうとうクリクが声をかけた。
「何だ」
「もしわたしに何かあったら、アスレイドのことをお願いできますか。それに子供たちも」
「おまえに何かあるわけがないだろう、クリク」
「たぶんね。でも知っておきたいんです」
「おまえには年金が入る。かなりの額だ。たぶんスパーホーク家の土地を少し売らなくちゃならんだろう。アスレイドにはじゅうぶんなものが遺せるさ」
「それはあなたが生きて帰るってことが前提ですね」クリクが意地悪く言う。
「その点も心配いらんよ。遺言状に書いてあるから、ヴァニオンがちゃんとやってくれる。あるいはエラナが」
「何もかも考えてあるんですね」
「危険がつきものの仕事だからな。先のことを考えておくのは、いわば義務なんだ。万一の場合に備えてね」スパーホークは年長の友人に笑いかけた。「これもわたしの気持ちを明るくするためなのか。ずいぶん持って回ったやり方だな」
「聞いておきたかっただけですよ。それであなたの気が楽になったんなら、なおよかった。アスレイドも息子たちを仕事につけてやることができるでしょう」
「息子たちの仕事ならもうある」
「農夫ですか。どんなもんですかね」
「農夫じゃない。ヴァニオンと話し合ったんだ。今度の件が片付いたら、長男は見習い騎士として騎士団に入ることになるだろう」
「それって妙じゃありませんか」
「そんなことはない。パンディオン騎士団はいつだって優秀な人材を求めているんだ。父親似の息子だったら、まず最高の部類だ。本当なら何年も前におまえを騎士にしてもよかったんだが、話さえさせてくれなかったからな。まったく頑固者だよ、クリク」
「スパーホーク、だから――」クリクははっとして耳をそばだてた。「誰か来ます!」
「まったく、ばかげてるよ」藪の向こうから声が聞こえた。エレネ語とスティリクム語が入り混じった、ゼモック国の言葉だ。
「何て言ったんです? あの言葉はさっぱりだ」クリクがささやく。
「あとで教えてやる」
「戻っていってスルケルに、おまえはばかだって言ってきたらどうだ、ホウナ」別の声が答えた。「おまえの意見にはきっと興味を示すと思うぜ」
「スルケルがばかなのは確かだよ、ティマク。あいつはフォラカクの出身なんだ。あそこのやつらの頭は、おかしいか弱いかのどっちかだ」
「命令はオサから出てるんであって、スルケルから出てるわけじゃないぜ。スルケルは言われたことをやってるだけだ」とティマク。
「オサね」ホウナは鼻を鳴らした。「本当にいるのかどうか怪しいもんだ。おれは神官連中のでっち上げじゃないかと思ってる。誰か見たやつがいるのかよ」
「おれが友だちでよかったな。誰かに聞かれたら禿鷹《はげたか》の餌にされてるところだ。文句をたれるのはもうよせ。この仕事は悪くないだろうが。誰もいないはずの田舎を見てまわるだけなんだからな。本当なら一人残らず召集されて、ラモーカンドへ送られてたところだ」
「もう雨にはうんざりなんだよ」
「降ってくるのが水だけなのに感謝することだ。ラモーカンドの平原で聖騎士団と出会った仲間の上には、炎やら雷やら毒蛇やらが降り注ぐことになるはずだからな」
ホウナは鼻で笑った。
「聖騎士団にそこまでやれるもんか。こっちはアザシュが守ってくれてるんだ」
「アザシュねえ」ティマクが冷笑する。「ゼモック人の赤ん坊を煮こんでスープを作ってるような神だぜ」
「ばかな迷信だよ」
「大寺院に行って帰ってきたってやつを一人でも知ってるか」
やや離れたあたりで鋭い笛の音がした。
「スルケルだ」とティマク。「移動の時間らしい。あの笛の音がひどく癇《かん》に障るってこと、あいつは気がついてるのかね」
「ほかにどうしようもないのさ。しゃべるほうはまだ覚えてないからな。行こう」
「何を話してたんです。何者ですか」クリクが尋ねた。
「一種の警邏《けいら》隊らしいな」
「われわれを探してるんですか。マーテルがどうにかして手を打ったんでしょうか」
「そうではないようだ。二人の話からすると、応召していない者がいないか見回っているらしい。全員を集めて、出発しよう」
一行が騎乗するとカルテンが尋ねた。
「どんな話をしてたんだ」
「文句を言ってた」とスパーホーク。「兵隊というのはどこの世界でも変わらないものだな。恐ろしげな話を剥《は》ぎ取ってしまえば、ゼモック人も結局はわれわれと大して違ってるわけじゃないってことらしい」
「アザシュを信仰している者たちです。それだけで怪物ですよ」ベヴィエがかたくなに言い張る。
「そうじゃない、アザシュを恐れているんだ。恐怖と信仰は同じとは言えないだろう。ゼモック人を根絶やしにする必要はないように思えるな。狂信者と一部のエリートを一掃すれば――アザシュとオサはもちろんだが。それ以外の一般人には、エレネ人の神でもスティリクム人の神でも、好きなほうを選んでもらえばいい」
ベヴィエはなお頑固に反論した。
「あれは危険な民ですよ、スパーホーク。エレネ人とスティリクム人の雑婚は、神の目には忌まわしいものと映っているのです」
スパーホークはため息をついた。ベヴィエはがちがちの保守主義者で、議論をしても得るところはなさそうだった。
「まあ、どうするかは戦争のあとで決めればいいことだ。今は先を急こう。周囲に気を配っておく必要はあるが、そう神経質にならなくても大丈夫そうだ」
一行は馬を駆って渓谷の坂道を上り、そこここに木立の点在する高原に出た。雨は降りつづいており、東へ進むにつれてそこに混じる湿った大きな雪片はますます多くなった。その夜は唐檜《とうひ》の木立の中で野営したが、濡れた枯れ枝の焚き火は小さく、元気がなかった。翌朝目を覚ますと、高原には重く湿った雪が三インチばかり積もっていた。
「このあたりで決断すべきですね、スパーホーク」クリクが降りやまない雪を見ながら言った。
「うん?」
「もともとよく知らなかったこの道が、雪でますます見分けにくくなってます。このままこの道を進むか、それとも北に針路を転じるかです。北へ向かえば、午《ひる》ごろにはヴィレタの街道に出られるでしょう」
「おまえはもう決めてるようじゃないか」
「ええ、まあ。本当に目的地へ着けるのかどうかもわからない道を探して土地鑑のない異郷を歩きまわるのは、どんなものかと思います」
「わかった、クリク。こういうことにかけては、おまえのほうが目端が利く。針路を北へ変えるという提案に乗ろう。わたしが心配しているのは、国境を越えたところでマーテルの配置した待ち伏せに出会うことだったわけだからな」
「半日が無駄になるぞ」アラスが指摘する。
「この山の中をさまよい歩くことにでもなったら、もっと時間が無駄になる。アザシュとは時間を約束してるわけじゃないからな。いつ行っても歓迎してくれるはずだ」
一行はぬかるんだ雪の中を北へ向かった。雪と霧雨にぼんやり霞んでいた近くの丘に着くころには、雪は全員の身体に湿った毛布のように貼りついていた。その不快さのせいで、誰もがますます不機嫌になった。アラスとティニアンはときおり冗談を言って雰囲気を明るくしようと努めたが、それも長くは続かなかった。一行は黙々と、憂鬱に馬を進めていった。
クリクの予想どおり午《ひる》にはヴィレタの街道に出ることができ、一行はふたたび東に向かった。雪が降りはじめて以来、誰かが街道を通った形跡はなかった。厚い雲に閉ざされて夕暮れもはっきりとはわからず、あたりはいつの間にか暗くなっていた。その日は古いがたがたの納屋で夜を明かし、敵地にいるときはいつもそうするように、交代で見張りに立った。
翌日の午後遅くにはヴィレタを迂回した。どのみち街には何もないのだから、危険を冒すことはない。
「誰もいませんね」街の横を通過しながらクリクが言った。
「どうしてわかるんだ」とカルテン。
「煙が上がってません。この寒さだし、雪まで降ってるんです。誰かいれば火を燃やしてるはずです」
「なるほど」
「出かけるとき、何か忘れ物をしてったんじゃないかな」タレンが目を輝かせる。
「気にかけるんじゃない」クリクがぼそりと答えた。
翌日は少し雪が小降りになり、雰囲気は目に見えて明るくなった。だがその次の日の朝にはまた雪が降りだして、一行はふたたび意気消沈した。
「何でこんなことをやってるんだろうな。どうしておれたちでなくちゃいけないんだ」一日が終わるころ、カルテンがむっつりと尋ねた。
「おれたちが教会騎士だからだ」スパーホークが答える。
「教会騎士ならほかにもいるじゃないか。おれたちはもうじゅうぶんやったと思わないか」
「帰りたいのか。おまえにも誰にも、ついてきてくれと頼んだわけじゃないぞ」
カルテンはかぶりを振った。
「もちろんそうじゃない。どうかしてた。おれが言ったことは忘れてくれ」
だがスパーホークは忘れなかった。その晩、騎士はセフレーニアを脇へ引っ張っていった。
「ちょっと問題があります」
「あなたも異常を感じたのですか」教母がはっとして尋ねる。「何かが外からあなたに干渉しているような気がしますか」
「どういうことです」
「みんなしばらく前から感じていると思いますよ。いきなり疑念や憂鬱に襲われるのです」小さく微笑んで、「教会騎士はそんな人たちではないでしょう。いつも能天気なほど楽天的ですからね。疑惑と抑鬱は、外から押しつけられたものです。問題というのは、それを感じたのではないのですか」
「わたしは感じていません。ちょっと気分が暗いのは確かですが、それは天気のせいでしょう。問題があるのはほかの者たちなんです。今日カルテンがやってきて、どうしてわれわれが行かなくちゃならないんだと言うんです。カルテンがそんなことを口にするのははじめてですよ。普段は手綱をつけておくのに苦労するくらいのやつなのに、今は荷物をまとめて帰りたがってる。全員が同じように感じてるんだとしたら、どうしてわたしだけは何も感じないんでしょう」
セフレーニアは天幕の外の、降りつづく雪に目を向けた。スパーホークはその年齢を超越した美しさをふたたびはっきりと意識した。
「あなたを恐れているのだと思います」ややあって教母はそう答えた。
「カルテンが? ばかを言わないでください」
「そうではありません。アザシュですよ。アザシュがあなたを恐れているのです」
「やっぱりばかげてる」
「ええ、でも事実は動きません。なぜかあなたは、誰よりも強力にベーリオンを扱うことができるのです。グエリグでさえ、あそこまでの絶対的な力を引き出すことはできませんでした。アザシュはそれをひどく恐れていて、だから直接あなたに手を出そうとせず、周囲の者たちを意気阻喪させようとしているのでしょう。カルテンやベヴィエを狙ってくるのは、あなたに攻撃を仕掛けるのが怖いからなのだと思います」
「あなたもやっぱり絶望を感じているんですか」
「もちろんそんなことはありません」
「どうしてもちろん≠ネんです」
「それを説明すると長くなります。この件はわたしが何とかしましょう。もうおやすみなさい」
翌朝、スパーホークは聞き覚えのある音で目を覚ました。澄みきった笛の音の曲調は短調だったが、そこには時代を超えた喜びがあふれていた。スパーホークの口許にゆっくりと笑みが浮かぶ。騎士はカルテンを揺り起こした。
「お客さんだぞ」
カルテンはすばやく身を起こし、剣に手を伸ばした。そこで笛の音に気づいたらしく、たちまち顔じゅうに笑みが広がった。
「いやあ、そろそろ現われるんじゃないかと思ってたんだ。また会えるとは嬉しいな」
二人は天幕の外に出てあたりを見まわした。雪はまだ降りつづいていて、しつこい霧も木々のあいだにかかっている。小さな焚き火の前にはセフレーニアとクリクが腰をおろしていた。
「あの子はどこです」カルテンが雪の中を見まわしながら尋ねた。
「ここにいます」セフレーニアは静かにお茶を口に含んだ。
「姿が見えませんよ」
「見える必要はありません。ここにいるとわかっていればいいのです」
「それは同じとは言えませんよ、セフレーニア」その声にはかすかな失望の色があった。
「あの子はとうとうやり遂げたみたいですね」クリクが笑い声を上げた。
「何をです」とセフレーニア。
「教会騎士の一団を、エレネ人の神の目の前からかっさらったんですよ」
「何をばかな。そんなことはしていません」
「そうですか? カルテンを見てごらんなさい。あの表情は今までカルテンが見せた中で、いちばん崇拝に近いものですよ。もし今わたしが祭壇らしきものをこしらえたら、きっとその前にひざまずくと思いますね」
「ばかを言うな」カルテンがやや取り乱して答えた。「おれはあの子が好きなんだ。それだけだよ。あの子がそばにいると、何となく気分がいいんだ」
「そうでしょうとも」とクリク。
「ベヴィエが出てきたら、そういう話はしないほうがいいでしょうね。きっと困惑するでしょうから」セフレーニアが言った。
ほかの仲間たちも満面に笑みを浮かべて天幕から出てきた。アラスなど声を上げて笑っている。
一行の雰囲気は一気に明るくなり、寒々しい朝だというのに、まるで陽光が降り注いでいるかのようだった。馬たちまでがうきうきと元気そうだ。スパーホークとベリットは馬に朝の飼葉を与えにいった。いつもなら不機嫌な顔で主人を迎えるファランも今朝は見違えるようにおとなしく、なごやかとさえ言えそうな様子で、大きく枝を広げた欅《けやき》の木をじっと見つめていた。その視線を追ったスパーホークの身体が凍りついた。その木はなかば霧に包まれていたが、そこに歓喜の歌声で一行の絶望を癒してくれた少女の見慣れた姿が、はっきりと浮かび上がっていたのだ。はじめて会ったときとまったく同じ格好で、太い枝の上に座って羊飼いの笛を唇に当てている。草を編んだヘアバンドが黒く艶《つや》やかな髪を止めていて、着ているのは腰のところをベルトで締めた、短い亜麻布のスモックだった。草の汁に汚れた小さな足は、足首のところで重ねられている。大きな黒い瞳はまっすぐにスパーホークを見つめ、頬にはかすかな笑窪《えくぼ》があった。
「ベリット、見てみろ」スパーホークは静かに声をかけた。
若い修練士はふり返りかけて、急に動きを止めた。
「やあ、フルート」その声は不思議なほど落ち着き払っていた。
アフラエルは返事をするように短くトリルを吹き、さらに歌を続けた。やがて木の周囲に霧が渦巻き、それが晴れたとき、少女の姿はどこにもなかった。それでもアフラエルの歌だけはいつまでも続いていた。
「元気そうでしたね」とベリット。
「元気そうじゃないなんてことが考えられるか」スパーホークは笑った。
それ以後の日々は飛ぶように過ぎていった。陰気な雪の中をむっつりと旅していた一行が、今では休日の遠出のようにはしゃいでいた。絶えることなく笑い声と冗談が飛び交い、天候のことなど気にする者は誰もいなかった。とはいっても、天気が大きく変わったわけではない。それからも雪はずっと降りつづいた。夜から午前中にかけてしんしんと降りつづき、毎日|午《ひる》ごろになると徐々に雨に変わる。降り積もった雪が雨で融かされ、道はいつまでもぬかるんだままだった。もっとも、おかげで積雪のために通れなくなるということもなかったのだが。ときおりアフラエルの笛の音が霧の中から聞こえてきて、一行を先へ進めとうながした。
何日かしてスパーホークたちは、メージュク湾の鉛色の広がりを見下ろす丘の頂きに到着した。湾はなかば冷たい霧に覆われ、近くの岸辺には背の低い建物がかなりの規模で立ち並んでいた。
「たぶんあれはアルバクだな」カルテンは顔をぬぐって、しげしげと街を見つめた。「煙は見えない。いや、待て。一本だけ煙の出てる煙突があるぞ。ちょうど街のまん中あたりだ」
「行ってみたほうがいいでしょう。船を盗まなくちゃなりません」クリクが言った。
一行は丘を下ってアルバクの街に入った。街路は舗装されておらず、雪が積もっていた。雪面は乱れておらず、それもまた街に誰もいないことを裏づけていた。薄く消えそうな唯一の煙は、中央広場らしい場所に面した、低い小屋のような建物の煙突から上がっていた。アラスが鼻をうごめかした。
「においから判断して、居酒屋だ」
馬を下りた一行は小屋の中に入った。部屋は細長く、煤《すす》けた梁《はり》は低く、床にはかび臭い藁《わら》が敷かれていた。じめじめと冷たくて、嫌なにおいがする。窓はなく、部屋の奥にある暖炉の炎がただ一つの明かりだった。背中に瘤《こぶ》のある、ぼろを着た男が、椅子を蹴り壊して火にくべていた。スパーホークたちが入っていくと、男が叫んだ。
「そこにいるのは誰だ」
「旅人です。一夜の宿を探しています」セフレーニアが聞きなれないスティリクム語の方言で答えた。
「ここはだめだぞ。おれの場所だ」男は椅子の破片を暖炉に放りこみ、ごわごわの毛布にくるまって腰をおろすと、口を開けたビール樽を引き寄せ、両手を火の上にかざした。
「喜んでほかの場所へ行きますが、その前に情報をいただけますか」
「ほかの誰かに訊《き》くんだな」男はセフレーニアを睨《にら》みつけた。その目は左右が別々の方角を向いており、極度の近視のせいだろう、相手を斜めに見つめているように見えた。
セフレーニアは藁を敷いた床の上を横切り、背中に瘤のある非協力的な男の前に立った。
「この街にはあなたしかいないようですが」
「そうだ」男はむっつりと答えた。「ほかのやつらは、みんなラモーカンドへ死ににいった。おれはここで死ぬ。そうすれば長いこと歩く必要もないからな。さあ、出ていってくれ」
セフレーニアは腕を伸ばし、無精髭の伸びた顔の前に掌《てのひら》を突き出した。蛇の頭がちろちろと舌を出して起き上がる。斜視で近眼の男は戸惑って顔をあちこちに動かし、相手が何を持っているのか見定めようとした。と、男は驚きの声を上げ、腰を浮かせて椅子の上にひっくり返り、ビールの樽を蹴倒した。
「挨拶をするがいい」セフレーニアが無慈悲な声で言った。
「巫女《みこ》様とは知らなかったんです。どうかお許しください」男は切れぎれに哀願した。
「それはあとで決めよう。この街にはほかに誰もおらぬのか」
「誰もいません。わたしだけで。この身体じゃあ旅はできないし、ろくにものも見えないんです。だから置いていかれました」
「われらは別の旅人の一行を探しておる。男が四人と女が一人、男のうちの一人は白い髪をしておる。別の男はまるで獣のよう。おまえは見なかったか」
「どうぞ殺さないでください」
「では答えよ」
「昨日ここを何人か通っていきました。お探しの者たちかもしれません。顔がわかるほど近づいてこなかったんで、確かなことはわかりません。でも話は聞こえました。これからアーカへ行って、そこから首都へ向かうのだとか。タッサルクの船を盗んでいきました」背中に瘤のある男は床の上に座りこみ、うめきながら前後に身体を揺すりはじめた。
「狂ってるぞ」ティニアンがそっとスパーホークに耳打ちした。
「ああ」スパーホークが悲しげに答える。
「みんな行っちまった」男はつぶやきつづけていた。「みんなアザシュのために死にに行ったんだ。エレネ人を殺して、自分も死ぬ。アザシュは死が好きだ。みんな死ぬ。みんな死ぬ。みんなアザシュのために死ぬ」
「船をもらいます」セフレーニアが男のつぶやきを制した。
「持っていけ。持っていけ。誰も帰ってこない。みんな死んで、アザシュに食われるんだ」
セフレーニアは背《そびら》を返し、仲間たちのところへ戻った。
「ここを出ましょう」その声は鋼《はがね》のようだった。
「あの人はどうなるの? 一人きりで、ほとんど目も見えないんだよ」タレンが沈んだ声で尋ねた。
「死ぬでしょう」セフレーニアがぶっきらぼうに答える。
「一人きりで?」タレンは気分が悪そうだ。
「死ぬときはみんな独りです」セフレーニアは決然とした足取りで一行の先頭に立った。
だが外に出ると、教母はその場に泣き崩れた。
スパーホークは鞍袋から地図を取り出し、顔をしかめてティニアンに話しかけた。
「なぜマーテルはアーカなんかに行くんだ。目的地から何リーグも離れているのに」
ティニアンは地図を指差した。
「アーカからゼモックまでは街道が通じてる。だいぶ追い立ててやったから、たぶん馬が消耗してるんだろう」
「そんなところだな」スパーホークはうなずいた。「それにマーテルは原野を走るのが好きじゃない」
「同じ道を追跡するか」
「それには及ばないだろう。やつは船には詳しくないから、湾を横断するのに何日かかかるはずだ。こっちにはクリクという元船乗りがいるから、まっすぐ目的地に向かうことができる。こっちの岸から首都まで、三日もあれば行き着けるだろう。マーテルの先を越せそうだな」スパーホークは従士に声をかけた。「よし、クリク、船を探しにいこう」
スパーホークはクリクが選びだした、タールを塗った大型の平底船の手すりにもたれかかっていた。風が一時的に西向きになったときをとらえて、船は滑るように東へ進んでいた。スパーホークは短衣《チュニック》の中に手を突っこみ、エラナの手紙を取り出した。
愛するあなた。すべてがうまくいっていれば、今ごろはゼモック国境のすぐ近くまで来ているはずですね。すべてがうまくいっていると信じなければ、気が変になってしまいそうです。あなたと仲間たちは、きっと成功するでしょう。神ご自身から直接そう言われたようにはっきりと、わたしにはそれがわかっています。わたしたちの人生は不思議な運命に操られているようです。わたしたちは愛し合い、結婚するさだめだったのです。ほかに選択の余地はありませんでした。たとえあったとしても、やはりわたしはあなたを選んだでしょうけど。わたしたちが出会い、結婚したことはすべて、より大きな計画の一部だったのだと思います。あなたのもとに仲間たちが集まってきたことも。あの人たちを除いて、この世界にあなたの手助けをするに足る者がほかにいるでしょうか。カルテンとクリク、ティニアンとアラス、ベヴィエと、若いけれど勇敢なベリット。みんながあなたのもとに、愛と共通の目的のために集まったのです。愛しい人、あなたが失敗することはあり得ません。あれほどの人たちが集まっているんですもの。急いでください、わが擁護者にして夫たるあなた。無敵の仲間たちを率いて古来の敵のねぐらを襲い、オサを打ち倒してください。アザシュも震えることでしょう。騎士スパーホークがベーリオンを手にすれば、地獄が総力を挙げようと敵ではありません。急いでください、愛しいあなた。あなたを守るのがベーリオンだけではなく、わたしの愛もあるのだということを忘れずに。
愛しています。エラナ
スパーホークは何度か手紙を読み返した。花嫁は雄弁術にたいそう長《た》けているようだ。こんな個人的な手紙にまで、演説口調が入りこんでいる。なかなか意気の上がる手紙ではあったが、これほど推敲されていなくていいから、できればもう少し純粋な気持ちの伝わってくるもののほうがよかった。とはいっても、エラナの言葉が真心からのものであることはよくわかっていた。一語一句を磨き上げてしまうという演説家の本能のようなものが、つい顔を出してしまっただけなのだ。
スパーホークはため息をついた。
「まあ、もう少しお互いのことがわかってくれば肩の力も抜けるだろう」
そこへベリットが上がってきて、スパーホークはふとあることを思いついた。もう一度手紙を読み返し、すばやく心を決める。
「ベリット、ちょっといいか」騎士はそう声をかけた。
「もちろんです、サー・スパーホーク」
「これを見たいんじゃないかと思ってね」と手紙をベリットに渡す。
ベリットはそれを見て、困ったような顔になった。
「でも、個人的な手紙でしょう」
「おまえにも関係があると思うんだ。このところ悩んでいる問題を解決するのに役立つかもしれない」
ベリットは手紙に目を通した。その顔に奇妙な表情が浮かんだ。
「役に立ったか」とスパーホーク。
ベリットはまっ赤になった。「し、知っていらしたんですか」
スパーホークは微苦笑を浮かべた。
「おまえには想像もつかないことかもしれんが、わたしにも若い時代はあったんだ。おまえの身に起きたことは、若い男ならたぶん誰でも経験することだろう。わたしの場合は、はじめて王宮に出仕したときだった。相手は貴族の若い女性で、太陽はその瞳から昇ってその瞳に沈むのだと思えたものだ。今でもときどきその人を思い出すことがある――ほのぼのとした気持ちでね。もちろんもう中年の婦人だが、その目で見つめられると今でも甘酸っぱい気分になる」
「結婚しているのにですか、サー・スパーホーク」
「それは最近のことだし、その女性への思いには何の関係もないことなんだ。おまえもきっと幾晩もエラナの夢を見たことだろう。そういうときには誰だってそうなる。たぶん人間はそうやって成長していくんだ」
「女王にはお話しにならないでしょうね」ベリットは衝撃を受けていた。
「たぶんな。しないよ。エラナだって気にするはずはないんだ、別に話す必要などないさ。要するにわたしが言いたいのは、おまえの感じている気持ちも成長の一段階だってことだ。誰もが通ってくる道なんだ――運がよければ」
「じゃあ、わたしのことを憎んではいらっしゃらないんですね」
「憎む? もちろんそんなことはない。もしおまえが若くてかわいい女の子に何も感じなかったとしたら、そのほうがむしろがっかりだったろう」
ベリットはため息をついた。
「ありがとうございます、サー・スパーホーク」
「いいか、ベリット、おまえはいずれ正規のパンディオン騎士になる。そうなればわたしたちはブラザーだ。サー≠ヘいらないんじゃないか。スパーホーク≠セけでいい。それで自分の名前だということはわかるから」
「それでよろしいのなら、スパーホーク」ベリットは手紙を差し出した。
「代わりに持っていてくれないか。わたしの鞍袋の中はがらくたでいっぱいなんだ。なくしたくはないんでね」
そして二人は肩を並べるようにして、クリクが船の舵《かじ》取りに苦労してはいないかと船尾に向かった。
その晩はシーアンカーを流して眠りに就き、翌朝目覚めてみると、空はまだ灰色に曇っているものの、雨と雪はすっかり上がっていた。
「またあの雲です、スパーホーク」ベリットが船尾からやってきて報告した。「かなり後方ですが、間違いありません」
スパーホークは後方を見やった。実際に目にしてみると、あまり恐ろしいものには見えない。視野の端にぼんやりした影が漂っていたときには名付けようのない恐怖を感じたものだが、今ではよほど注意していないと、どうということのないちょっとした障害といった程度に考えてしまいそうだった。とはいえ、なお危険なものであることは確かだ。騎士の口許に小さな笑みが浮かんだ。神々さえときにはへまをやって、せっかくの効果を台なしにしてしまうことがあるらしい。
「どうしてベーリオンで片付けちまわないんだ、スパーホーク」カルテンが苛立《いらだ》たしげに言った。
「吹き散らしても、また集まってくるだけだ。やるだけ無駄だよ」
「じゃあ何の手も打たないっていうのか」
「そんなことはない」
「どうするんだ」
「無視する」
午前中なかばくらいに、一行は雪の積もった浜に上陸し、馬を下ろしてから船を海に流した。ふたたび馬にまたがって内陸に向かう。
湾の東岸は西岸よりもさらに不毛で、岩山は細かい黒い砂に覆われ、風の当たらない場所にだけうっすらと雪が積もっていた。風は身を切るように冷たく、砂と雪を巻き上げて騎士たちのまわりに渦巻いた。一同は口と鼻を布で覆って、永遠の薄暮の中を進みつづけた。
「ゆっくり行け」アラスが目にかかる砂ぼこりを払いのけながら言った。「アーカから街道をたどるというマーテルの考えは、正しかったかもしれない」
「寒くて埃っぽいのは街道も変わらんだろう」スパーホークはかすかな笑みを浮かべた。「マーテルは清潔好きなやつだ。雪混じりの細かい黒砂が何ポンドかやつの襟首に入りこむところを想像すると、多少は気分がよくなる」
「情けない楽しみですね、スパーホーク」セフレーニアがたしなめる。
「わかってます。ときどきこうなるんですよ」
その晩は目についた洞窟で一泊し、翌朝外に出てみると、風はいつやむともなく砂埃を巻き上げつづけているものの、空はきれいに晴れ上がっていた。
ベリットはきわめて責任感の強い若者だった。朝一番にあたりを偵察するのは自分の義務だと心得ていて、ほかの者たちがちょうど洞窟の入口の前に集まりはじめたところへ駆け戻ってきた。その顔には激しい嫌悪の表情が浮かんでいた。
「向こうに人がいます、スパーホーク」ベリットが馬を下りて報告した。
「兵士か」
「違います。老人や女子供もいっしょでした。武器も持ってはいますが、使い方を知っている様子はありませんね」
「何をしてるんだろう」とカルテン。
ベリットは神経質な咳払いをして、あたりを見まわした。
「あまり言いたくありません、サー・カルテン。レディ・セフレーニアにはお見せしないほうがいいと思います。祭壇のようなものを作って粘土の神像を置き、人が公衆の面前ではしないようなことをしています。堕落した農民ではないかと思います」
「セフレーニアに話したほうがいいな」スパーホークが言った。
「できませんよ、スパーホーク」ベリットは赤くなった。「女性の前で、あの連中が何をしてたかなんて話せるわけがないでしょう」
「一般化して話すんだ。こと細かに物語る必要はない」
しかしセフレーニアはその話に俄然《がぜん》興味を示した。
「具体的にどういうことをしていたのです、ベリット」
「こう訊かれると思ってたんです」ベリットはうらめしげにスパーホークを見やった。「つまりその――動物を生贄《いけにえ》に捧げていました。誰も服を着ていませんでした。この寒さだというのに。生贄の血を身体じゅうに塗りたくって――その――」
「わかりました。その儀式は知っています。どんな人々でした? スティリクム人のようでしたか、それともエレネ人ふうでしたか」
「大部分が明るい色の髪をしていました」
「なるほど、わかりました。その人たちは別に危険ではありません。ただ、神像のほうは問題ですね。そのままにはしておけません。破壊してしまわないと」
「ガセックの地下室にあったのを壊さなくちゃならなかったのと同じ理由ですか」とカルテン。
「そのとおりです」教母はわずかに顔をしかめた。「こういうことは言いたくないのですが、ガンダの近くの神殿にあった神像にアザシュを閉じこめたとき、若き神々には手抜かりがありました。考え方そのものはよかったのですが、見落としていた点があるのです。神像が人の手で複製され、その前である種の儀式が執り行なわれれば、アザシュの精はそちらに乗り移ることができるのです」
「それで、どうしましょう」ベヴィエが尋ねた。
「儀式が終わる前に神像を破壊します」
渓谷に集まった裸のゼモック人たちはあまり清潔とはいえず、髪はもつれて固まっていた。衣服というものがどれほど人間の醜さを隠しているか、これほどはっきりと思い知らされたのははじめてだった。集まっていたのは農民や山羊飼いらしく、鎖帷子に身を固めた騎士たちがいきなり姿を現わすと、怯《おび》えて悲鳴を上げた。スパーホークたちがゼモック人に変装していたことも、混乱に拍車をかけた。相手は恐怖の叫びを上げながら、なすすべもなく右往左往するばかりだった。
中に四人だけ神官のローブを着けた者がいて、その四人は山羊を生贄に捧げたばかりの祭壇の前に立ちふさがった。三人は唖然として騎士を見つめているだけだが、残る一人の頭の小さい髭《ひげ》もじゃの男は、指を動かして懸命にスティリクム語の呪文を唱えた。わらわらと幻影が現われたが、それは笑ってしまうほど出来が悪かった。
騎士たちは幻影と右往左往する人々の中に突っこんでいった。
「神を守れ!」神官が口から泡を吹いて絶叫したが、信徒たちは従わなかった。
夏の午後の熱気で遠くの山が揺らいで見えるように、泥の神像がかすかに動いたように思えた。すさまじい悪意が波のようにくり返し神像から押し寄せ、あたりの空気が急におそろしく冷たくなった。スパーホークは身体じゅうの力が抜けるのを感じた。ファランがよろめく。と、祭壇の前の地面が大きく震えた。何かが地面の下でうごめいている。あまりの恐ろしさと嫌悪感に、スパーホークは思わず顔をそむけた。地面が盛り上がり、冷たい恐怖がスパーホークの心臓をわしづかみにする。目の前が暗くなりはじめた。
「いけません!」セフレーニアの凛《りん》とした声が響いた。「気をしっかり持つのです! それにあなたを傷つけることはできません」教母は早口にスティリクム語の呪文を唱え、すばやく片手を伸ばした。出現したのはまばゆく輝く球体で、はじめは林檎くらいの大きさしかなかったが、どんどん大きさと明るさを増していき、最後にはまるで小さな太陽かと思えるほどになった。それは神像の前に浮かんで夏のような暑さをもたらし、おそろしい冷気をたちまち追い払ってしまった。波打っていた地面が静かになり、神像も凍りついたように動きを止める。
クリクは震えている去勢馬を前進させ、重いフレイルを一振りした。醜悪な神像は一撃で粉々になり、破片は四方八方へ飛び散った。
裸のゼモック人たちの口から、絶望の泣き声が上がった。
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25[#「25」は縦中横]
「その人たちを集めなさい、スパーホーク」セフレーニアは裸のゼモック人たちを見て身震いした。「それと、お願いですから早く服を着せてください」祭壇に目を転じ、「タレン、神像の破片を集めて。ここに残しておくわけにはいきません」
少年は文句を言おうともしなかった。
ゼモック人を集める≠フに、さしたる時間はかからなかった。武器を持たない裸の人間は、鎖帷子を着て鋭い鋼鉄を手にした人間の命令には、たいていの場合逆らわないものなのだ。頭の小さい神官だけはなおもわめき散らしていたが、それ以外に鞭打ちの口実を与えたりしないよう、細心の注意を払っているようだった。
「背教者め! 神を畏《おそ》れぬ者どもめ! アザシュに頼んで――」その声がかすれた叫びに変わった。セフレーニアが片手を伸ばし、蛇の頭が舌を出し入れしながら神官を睨《にら》みつけたのだ。神官は目を丸くして、ゆらゆらと揺れる蛇の頭を見つめていた。と、いきなり地面に身を投げ、教母の前に平伏した。
セフレーニアは厳しい顔であたりを見まわした。ほかのゼモック人たちも恐怖のうめきとともにその場に這《は》いつくばる。教母はがさつなゼモック語の方言で、ゼモック人たちを叱りつけた。
「邪道に落ちた者たちよ! この儀式は長らく禁じられていたはず。なぜ全能なるアザシュの命令に背いた」
くしゃくしゃの髪の男が哀れっぽい声を上げた。
「神官たちに騙《だま》されたんです、恐るべき巫女様。儀式を禁じたのはスティリクム系の陰謀だと言われて。スティリクム系の連中が、おれたちを真の神から遠ざけてると言われたんです」セフレーニアのスティリクム的な風貌など、男の目には入っていないらしい。男は誇らしげにこう続けた。「おれたちはエレネ系です。選ばれた民なんです」
セフレーニアは教会騎士たちに意味ありげな視線を投げ、自分の前に平伏している、ぼろを身にまとった汚いエレネ系≠フ者たちを見やった。そのときは確かに、きびしい弾劾の言葉を投げつけようとしたはずだ。しかし教母は吸いこんだ息をそのまま吐き出し、冷静な口調でこう告げただけだった。
「おまえたちは信仰の道をはずれた。したがって仲間とともに聖なる戦いに参加することは許されぬ。故郷へ帰るがよい。メージュクの彼方へと立ち戻り、二度とこの地に足を踏み入れぬよう。アザシュの神殿にも近づいてはならぬ。あえて近づく者には破滅が与えられるであろう」
「神官は縛り首にしますか。それとも火あぶりに?」くしゃくしゃの髪の男が希望を込めて尋ねた。
「ならぬ。われらの神が求めているのは信徒であって、死体ではない。以後おまえたちは浄化と服従の儀式と、季節の儀式だけを執り行なうよう。おまえたちは子供のようなもの。ならば子供のように崇拝するがよい。さあ、行け!」セフレーニアが手を伸ばすと、蛇の頭が掌《てのひら》から飛び出し、膨れ上がって鎌首をもたげた。もはや蛇というより、ドラゴンだ。ドラゴンは咆哮し、煤《すす》っぽい炎を吐いた。
ゼモック人たちは一目散に逃げ出した。
「せめてあの神官くらいは吊るしてもよかったんじゃないですか」カルテンが言った。
「だめです。わたしはあの人たちに別の信仰の道を示唆しました。その信仰では、人を殺すことは禁じられているのです」
「あれはエレネ人だったのでしょう、レディ・セフレーニア。ならばエレネ人の神を信仰する道を指し示すべきだったのではありませんか」とベヴィエ。
「あの偏見と矛盾を抱えたままでですか。そうすべきだったとは思えません。わたしは穏やかな道を指し示しました。タレン、まだですか」
「見つかるだけの破片は見つけたよ」
「持ってきてください」教母は白い乗用馬の首をめぐらし、粗雑な祭壇のそばを離れた。
いったん洞窟に戻ってから、一行はふたたび出発した。
「どこから来た者たちだったんでしょう」刺すような寒気の中を進みながら、スパーホークはセフレーニアに尋ねた。
「ゼモック国の北東部です。メージュクの北の草原地帯でしょう。あなたがたと違って文明的な人間と出会うことのなかった、原始的なエレネ人です」
「文明的な人間というのは、スティリクム人のことですか」
「当然です。ほかに文明的な人間がいますか」
「勘弁してくださいよ」
セフレーニアは微笑んだ。
「アザシュ信仰の儀式に乱交を取り入れたのはオサの発案です。そうすればエレネ人を取りこめますからね。みずからもエレネ人だったオサは、それがあなたがたの人種にとってどれほど強い誘因になるかをよく承知していたのです。わたしたちスティリクム人はむしろもっと倒錯的ですし、アザシュもそのほうが好みなのですが、奥地の原始的な人々は昔ながらのやり方に固執したわけです。比較的害のない方法にね」
そこへタレンが割りこんできた。
「神像の破片はどうすればいいのさ」
「投げ捨てるのです。一マイルに一個ずつくらい、一つ残さず。儀式はもう始まっていました。誰かが破片を集めて、組み立てたりすることがないようにしなくてはなりません。面倒は雲だけでたくさんですからね。アザシュそのものに追われるようなことになるのはごめんです」
「アーメン」少年は熱心な口調でそう答え、道の脇に馬を寄せると、鐙《あぶみ》の上に立ち上がって泥の破片を遠くに放り投げた。
「これで安心というわけですか」スパーホークが尋ねる。「つまり、神像は破壊したわけでしょう。あとはタレンが破片をすべて捨て終われば、それで解決ですか」
「そうはいかないでしょう、ディア。まだ雲のことがあります」
「あの雲は現実の脅威じゃありませんよ。仲間を怯えた、憂鬱な気分にしただけですからね。それはもうフルートが解決してくれましたし。あれ以上のことができないなら、恐れるには足りません」
「自信過剰になってはいませんか。あの雲だか影だかは、たぶんアザシュが創り出したものです。つまりはダモルクやシーカーと同じくらい危険なものだということです」
東に進んでも田舎の景色に大きな変化はなく、天気のほうも同様だった。風は身を切るように冷たく、巻き上げられた黒い埃が空を隠してしまう。まれに見かける植物は生育が悪く、元気がなかった。道はかろうじてそれと見分けられる程度に続いてはいるが、曲がりくねっている様子から考えて、人間の通る道というより野牛の通り道らしかった。泉にもあまり出会わず、たまにあっても厚く氷が張っていて、まずそれを融かしてからでないと馬に水を飲ませることもできなかった。
「この埃が!」アラスがいきなり空に向かってわめき、口と鼻を覆っていた布をむしり取った。
「落ち着け」とティニアン。
アラスは埃混じりの唾を吐き出した。
「こんなことをして何になる? どっちに進んでるのかもわからん!」ふたたび布で顔を覆うと、アラスは何かぶつぶつつぶやきながらふたたび馬を進めた。
馬たちは凍った砂を蹴立てながら、よろめくように進みつづけた。
メージュク湾西岸の山の中で一行に取り憑《つ》いていた憂鬱が、ふたたび舞い戻ってきていた。スパーホークは無念の気持ちを抑えて、注意深く進んでいった。だがそうして周囲の渓谷や岩の露頭に目を配っているあいだにも、仲間たちの雰囲気は急速に険悪になっていった。
ベヴィエとティニアンは暗い話題にはまり込んでいた。
「罪なのですよ」ベヴィエが頑固に言い張っている。「口にすることさえ異端であり、冒涜なのです。教会の父祖たちはそれを理論化しました。その理論は神から出たものであり、それゆえに神ご自身が、神こそ唯一無二の神聖なものであるとわたしたちに告げておいでになるのです」
「しかしな――」ティニアンが言いかけるのを、ベヴィエがさえぎった。
「まず聞いてください。神ご自身がほかに神はないと語っていらっしゃる以上、ほかの神の存在を信じることは最悪の罪になります。わたしたちは子供っぽい迷信にとらわれているのです。ゼモック人が危険な存在であることは確かですが、それはあくまでも世俗的な危険です。エシャンド派と同じことで、この世のものならぬ同盟者がいるなどというわけではないのです。わたしたちは、敵である異教徒の頭の中にある病んだ妄想のうちにしか存在しない神秘的な敵を求めて、命を無駄にしようとしています。スパーホークを説得すれば、きっと無意味な探求をやめさせることができるはずです」
「それが一番だろうな」ティニアンがいささか疑わしげに答える。スパーホークがすぐそばで聞いているというのに、二人とも気づく様子さえない。
「おまえから話をしてくれよ、クリク。おれたちには万に一つの勝ち目もないぜ」そう言っているのはカルテンだった。
「自分で言えばいいでしょう」とクリク。「わたしはただの従士なんです。主人に向かって、あなたは頭のおかしい自殺志願者だなんて言えませんよ」
「うしろから忍び寄って、縛り上げるべきじゃないのかな。自分が助かろうとしてるだけじゃない。あいつの命も助けることになるんだからな」
「同感です、カルテン」
「来ますよ! 気をつけて!」ベリットが近くに巻き上げられた土埃を指差して叫んだ。
スパーホークの仲間たちの雄叫びはかん高く、恐慌をきたしているかのようだった。攻撃にはどこか自暴自棄なところが感じられた。土埃の渦に向かって突進し、何もない空間に向かって剣や斧を振りまわしている。
「手を貸して、スパーホーク!」タレンが悲鳴のような声で叫んだ。
「何に手を貸すんだ」
「怪物だよ! みんな殺されちゃう!」
「それはどうかな」スパーホークは仲間たちが土埃の雲に向かって武器を振るうのを見ながら答えた。「どうも相手にとって不足があるように見えるが」
タレンはしばらくスパーホークを睨みつけていたが、やがて悪態をつきながらそばを離れた。
「あなたにも土埃の中には何も見えないようですね」セフレーニアが静かに尋ねた。
「まさにそれだけですよ、小さき母上――土埃です」
「何とかしたほうがいいでしょう」教母はスティリクム語を唱え、小さく身振りをした。
土埃の渦は震え、しばらくそのまま渦巻いていたものの、やがて長く深い吐息とともに雲散霧消した。
「どこへ行った?」アラスが吠え、あたりを見まわして斧を振りまわす。
ほかの者たちも憮然とした表情で、暗く疑わしげな視線をスパーホークのほうに向けた。
それからは誰もがスパーホークを避け、暗く顔をしかめてひそひそと耳打ちし合っては、敵意に満ちた視線をこっそりスパーホークのほうに向けるようになった。その夜の野営地は断崖の風下側に設営された。砂に磨かれた青白い岩が、病んだような粘土の層から突き出している。夕食はスパーホークが作ったが、仲間たちはいつものように火のそばでいっしよに話をしようとはしなかった。スパーホークはやれやれと言いたげに首を振り、毛布にもぐり込んだ。
「お目覚めください、騎士殿。あなたの喜びのうちに」声は柔らかく優しく、愛に満ちているようだった。スパーホークは目を開いた。そこは楽しげな彩りの大天幕の中で、入口の布を引き上げた向こうには、花の咲き乱れる緑の野原が広がっていた。樹齢を重ねた大木の太い枝にはかぐわしい花が咲き、木々のかなたには群青色の海があった。海面に反射する陽光が宝石のようだ。空は見たこともないほど美しい。頭上の天蓋は虹の色をして、その下の世界すべてを祝福していた。
騎士を起こした声の主は鼻面で身体を押し、天幕の中に敷かれた絨毯の上を前足の片方の蹄《ひづめ》でしきりに引っ張っていた。鹿にしては小柄で、毛皮は輝くばかりの純白だ。大きな瞳は褐色で、従順そうな、信頼の表情をたたえている。その素直さが心に響いた。とはいえ、鹿の態度は一途で、何としても騎士を起こさずにはいないつもりらしかった。
「寝過ごしてしまったかな」スパーホークはそう尋ねた。鹿の気分を害したのではないかと心配だった。
「きっとお疲れだったのでしょう、騎士殿」ほとんど反射的に返ってきた答えには、スパーホークの気持ちを傷つけまいとする心遣いが感じられた。「着替えをなさってください。主人のもとへお連れするようにと申しつかっております。主人はこの世界を統《す》べ、あらゆるものたちの敬愛を集めております」
スパーホークが白い首を撫でると、鹿は嬉しそうに身じろぎした。立ち上がって甲冑《かっちゅう》を探す。甲冑はまさにそうあるべきとおり、黒光りして銀の紋章を輝かせていた。嬉しいことに、身に着けた甲冑には絹の薄物ほどの重さしかなかった。鋼鉄でできているわけではないのだ。威圧的な大剣も、このお伽《とぎ》の国ではただの飾りに過ぎないとわかっていた。宝石のような海に臨んだ、虹色の空の下に広がるこの国は、幸福な満足感にあふれている。ここには危険も憎しみも対立もなく、すべてが愛と平和のうちに留まっているのだ。
「急ぎませんと」白い鹿が言った。「向こうの岸辺で船が待っております。光の変わりつづげる空の下、移り気な波にどこかへ運ばれてしまうと困りますから」鹿は繊細だが正確な足取りで、花々の口づけを受けながら野原を横切っていった。花の香りに頭がぼうっとなりそうだ。
白い虎が暖かい陽射しの中にごろんと横たわり、大きな足をした不器用な虎の子供たちが、あたりの草の上で取っ組み合いをしていた。白い鹿は足を止めて鼻面で白い虎の顔をつつき、虎はお返しに、鹿の顔を顎から耳まで湿った舌で舐《な》め上げた。
温かな風に無数の花が揺れる中、スパーホークは白い鹿のあとについて野原を横切り、大木の下の青みがかった影の中に入った。木々の向こうには雪花石膏《アラバスター》を敷き詰めた岸辺がゆるやかに下って、まっ青な海へと続いている。海辺に待っていたのは、船というよりも鳥だった。船首は細く優美で、白鳥の首のようだ。二つの翼は雪のように白い帆となって、樫の木の甲板の上に広がっている。船は早く出発したがっているかのように、しきりにもやい綱を引っ張っていた。
スパーホークは少し考えてから白い鹿のほうに身をかがめ、片腕を胸の下に、もう片方の腕を尻のうしろに回して、やすやすと抱え上げた。鹿は暴れる様子もなく、ただ一瞬驚いたような表情を目に浮かべただけだった。
「心配は無用だ。船まで運んであげよう。岸と船のあいだを渡るとき、水に濡れて冷たい思いをしないよう」
「ご親切に、騎士殿」鹿は信頼しきった様子で顎をスパーホークの肩に置いた。騎士は力強い足取りで波をかき分けていった。
騎士と白い鹿が乗りこむと、船は飛び立つように出発した。勇ましく波を蹴立てていくと、間もなく目的地が見えてきた。それは新緑に覆われた小さな島で、頂上には想像もつかないほど古くからある木々を戴《いただ》いていた。張り出した太い枝の下に、神殿の輝くような大理石の柱が見えた。
同じように優美な別の船が、気まぐれな風の向きになど頓着する様子もなく、サファイア色の海を渡って同じ島へと近づいていた。手招きする島の黄金の岸辺に下り立つと、サー・スパーホークは親しい仲間たちの顔を見出した。堅忍不抜で誠実なサー・カルテン、雄牛のように屈強で獅子の心を持つサー・アラス……
あふれるばかりのイメージと感情の奔流に目がくらみ、スパーホークは頭をはっきりさせようとかぶりを振った。目が覚めかけている。
どこかで小さな足が地団駄を踏む音がして、聞き慣れた声が響いた。
「まったく困ったものね、スパーホーク! さっさと眠りに戻りなさい!」
勇壮な騎士たちはゆっくりした足取りで、木々を戴く島の頂上めざしてゆるやかな坂道を上っていった。互いに今朝の冒険の次第を語り合っている。サー・カルテンは白い穴熊に、サー・ティニアンは白い獅子に、サー・アラスは巨大な白い熊に、サー・ベヴィエは雪のような鳩に導かれていた。若い修練士のベリットは白い仔羊に、クリクは忠実な白い犬に、タレンは白い毛皮のミンクに先導されている。
白いローブを着て額に花冠を飾ったセフレーニアが、神殿の大理石の階段の前で一行を待っていた。そのそばで、どんな生き物よりも昔から生きていた樫の巨木の張り出した枝に腰をおろしているのは、この夢の王国の女王、幼い女神アフラエルだった。いつもの粗織りのスモックではなくガウンを身にまとい、頭には後光が射している。笛で偽装する必要はもうないので、女神は澄みきった声で挨拶の歌を奏でた。立ち上がり、階段を下りるように落ち着き払って虚空を歩む。聖なる木立の冷たく瑞々《みずみず》しい草に足が触れると、少女は笑いながらくるくると回転して一同のあいだを踊りまわり、弓のような形のいい唇で口づけの雨を降らせた。小さな足が柔らかな草をそっと踏みしだく。スパーホークは即座に、いつもフルートの足が草の汁で汚れていた理由を理解していた。女神は勇士たちをこの神聖な場所まで案内してきた白い動物たちにも口づけをした。やめようと思っても、スパーホークの頭の中には次々と華麗な称讃の言葉が浮かび上がってきた。アフラエルは横柄な身振りでスパーホークにひざまずくよう命じ、その首に小さな腕を回すと、何度もくり返し口づけした。
「そんな言葉でわたしをからかうのをやめないと、その鎧《よろい》を脱がせて、羊といっしょに牧草を食べさせるわよ」スパーホークにだけ聞こえるようにそうささやく。
「失礼をお許しください、至聖なる方」スパーホークが笑いながら答える。
アフラエルは笑って、また騎士に口づけした。かつてセフレーニアがこの女神は口づけが好きなのだと言っていたが、その好みはあまり変わっていないようだった。
人間には知られていない果物で朝食を済ませると、一行はのんびりと草の上に寝転がった。聖なる木々の上から小鳥がさえずりかけてくる。やがてアフラエルが立ち上がり、もう一度全員に口づけをしてから、きっぱりした声で切り出した。
「あなたがたのもとを去って以来ここ数ヵ月の孤独な日々、この喜ばしき再会を最上のものとするため、あえてわたくしはこの地にあなたがたを招きませんでした。今ここにわたくしの招きにより、かつまた愛する姉の助力により――」とセフレーニアに華やかな笑みを向け、「――あなたがたはこうして集まってくれました。わたくしはあなたがたと、いくつかの真実を分かち合わんとするものです。真実の一片をしか語ることができぬには、あらかじめ寛恕《かんじょ》を願っておきましょう。なぜならこれは神々の真実であり、あなたがたの十全な理解が及ぶ事柄ではないと考えるからです。ともに愛を分かち合った日々のかたみに言葉を添えるならば、あなたがたにはこの身が子供と見えるように、わたくしの目には、あなたがたこそが子供と映っているのです。さればあなたがたの限られた理解を超える事柄をあえて持ち出さぬは、わたくしの義務と言うべきでありましょう」アフラエルは要領を得ない顔をしている一同を見わたし、苛立たしげに声を張り上げた。「いったいどうしたっていうのよ」
スパーホークが立ち上がり、アフラエルをそっと脇に引っ張っていった。
「何よ」女神が憤然と尋ねる。
「一つ忠告に耳を貸す気はあるかね」
「聞きましょう」あまり明快な返事ではない。
「雄弁術の使いどころを間違えてるよ、アフラエル。カルテンなんか、ポールアックスを叩きこまれた牛みたいな表情をしてた。われわれは普通の人間なんだ。話をわからせたかったら、普通に話してくれないと」
アフラエルは顔をしかめた。「何週間もかけて原稿を作ったのよ」
「けっこうな演説だったとも。ほかの神にこの話をするときには、もちろんきみもそうするだろうが、今の言葉をそのとおり引用しよう。きっと嬉しくて卒倒するだろうな。だが夜はいつまでも続くわけじゃないし、われわれも話ははっきりと理解したい。ここはひとつ簡単明瞭なやつをお願いしたいね。難しい言葉遣いはなしだ。ああいうのを聞いてると、教会の説教を思い出してしまう。説教というのは、どうも眠くなりがちなものなんだ」
アフラエルは口を尖《とが》らせた。
「わかったわよ。でもスパーホーク、あなたって面白いことをみんな取り上げてしまうのね」
「お許しいただけましょうか」
女神は舌を突き出し、スパーホークをほかの者たちのところへ戻らせた。
「この不平たらたらの老いぼれ熊に、要点だけにしろって言われたわ」アフラエルは横目でスパーホークを睨みつけた。「騎士としてはいい男だけど、詩人じゃないのよね。まあいいわ。みんなに来てもらったのは、ベーリオンのことをいくつか話しておくためよ。なぜあれほどの力があって、なぜあれほど危険なのかをね」少女は漆黒の眉を寄せた。「ベーリオンは物質ではなく、星々よりも古くからある精気なの。そうした精気はたくさんあって、それぞれに特徴を持ってる。中でも重要なのは、その色ね。つまりどういうことかというと――」言いかけて一同の顔を見まわし、「この話は日を改めたほうがよさそうね。とにかく、こうした精気はこの宇宙に無数に――」少女は困ったようにセフレーニアに顔を向け、小声でささやいた。「これ、すごく難しいわ、セフレーニア。エレネ人て、どうしてこう鈍いわけ」
「エレネ人の神が、何も説明しないことにしたからですよ」
「まったく堅物なんだから。必要もないのに、やたら規則を作りたがるのよね。あいつはそれしかしてない――規則を作っただけ。退屈なやつだわ」
「話を続けたらどうです、アフラエル」
「そうね」幼い女神は騎士たちに向き直った。「精気にはそれぞれの色があって、それぞれの目的があるの。今はとにかくそういうものだと思って受け入れておいて。そして精気は世界を創る。ベーリオンは――これも本当の名前じゃないけど――青い精気よ。遠くから見ると、海のせいでこの世界も青く見えるわ。ほかにも赤や緑や黄色や、そのほか無数の色の世界がある。世界を創るには、虚空の中を永遠に漂っている塵《ちり》を集めて固めるわけ。ちょうどバターを作るみたいに、精気のまわりに塵が集まってくるの。でもこの世界を創ったとき、ベーリオンはミスを犯した。赤い塵を多く集めすぎたの。ベーリオンの本質は青い色だから、赤い色には耐えられないのよ。赤い塵を集めるとできるのが――」
「鉄だ!」ティニアンが叫んだ。
「みんなには理解できないなんて言ったのは誰よ」アフラエルはスパーホークに責めるような視線を向け、ティニアンに駆け寄って何度も口づけした。「よくできました。ティニアンの言うとおり。鉄は赤いものだから、ベーリオンは鉄に弱いの。そこで自分を守るために、ベーリオンは青い本質を凝結させてサファイアの形を取った。それを掘り出したグエリグが、薔薇の形に彫り上げたわけね。鉄に、つまり赤い色に囲まれていたために、ベーリオンは身動きできなくなっていたわけ」
一同はまだよく理解できないという表情でアフラエルを見ていた。
「手短にやってくれ」スパーホークが注文をつける。
「やってるじゃない」
「われわれには関係のない話だ」騎士は肩をすくめた。
「トロールの神々がその中に封じこめられて、ベーリオンはますます硬く凝結したわ」
「トロールの神々が、どうしたって?」スパーホークが息を呑《の》む。
「誰だって知ってることよ、スパーホーク。わたしたちがトロール神を探しまわったとき、グエリグがどこに匿《かくま》ったと思ってるの」
ベーリオンの非協力的な住人たちが心臓から数インチのところにいたことを思って、スパーホークは不安な思いにとらわれた。
「つまり要点は、スパーホークがベーリオンを破壊するといって脅したことよ。エレネ人の騎士である以上、破壊しようと思ったら剣か斧かアルドレアスの槍か、とにかく鋼鉄の武器を使うはずだわ。そんなもので一撃されたら、ベーリオンは本当に破壊されてしまう。だからベーリオンとトロールの神々は全力を挙げて、スパーホークがアザシュと対決できないようにしようとしたの。アザシュとの戦いの帰趨《きすう》によっては、ベーリオンに剣を向けようとするでしょうからね。最初はスパーホークの心に働きかけたんだけどうまくいかないんで、今度はあなたがたに狙いをつけた。あとしばらくすれば、きっとあなたがたの中の誰かがスパーホークを殺していたはずよ」
「ばかな!」カルテンがなかば叫ぶように声を上げた。
「今のまま心をねじ曲げられていけば、いずれそうなるわ」
「その前にこの胸を剣で貫くまでです」ベヴィエが決然と言い放つ。
「どうしてそんなことをしたがるわけ? ただベーリオンを鉄でできたものの中に入れればいいだけよ。あの布の袋には鉄を表わすスティリクムの印が縫い取ってあったけど、ベーリオンとトロール神たちも必死だから、その程度じゃ抑えきれなくなったのね。今度は本物を使わないと」
スパーホークは急に自分がひどく愚かに思えて顔をしかめた。
「あの影は――今は雲だが――ずっとアザシュがやっているのだと思っていた」
アフラエルはあきれたように騎士の顔を見つめた。「何ですって?」
「そう考えるのが理に適《かな》ってると思えたんだ。そもそもの最初から、アザシュはわたしを殺そうとしてたんだから」
「どうして影だの雲だのを使ってあなたを追いかけなくちゃいけないのよ。もっとちゃんと実体のある手下がいくらでもいるのに。有名なエレネ人の論理≠ネんて、その程度のものなの」
「それだ!」ベヴィエが叫んだ。「はじめて影のことを聞いたときから、何か見落としていると思っていたんです。アザシュの仕業とは限らないということだったんですね」
スパーホークには自分がひどい間抜けに思えた。
「どうしてわたしはベーリオンから大きな力を引き出せるんだ」
「指輪をしてるからよ」
「グエリグだって同じことだろう」
「そのときはまだ石が透明だったわ。今はあなたとエラナの先祖の血が混じって、赤くなってるでしょ」
「その色の違いだけで、わたしの言うことをよく聞いてるのか」
アフラエルはまじまじとスパーホークを見つめ、セフレーニアに目を転じた。
「つまりこの人たち、どうして自分の血が赤いのかってことさえ知らないわけ? 何をしていたのよ、姉さん」
「エレネ人には理解しにくいことなのですよ」
アフラエルは足音荒くその場を離れ、知ってなどいるはずのないスティリクム語の悪態を並べ立てた。
「あなたがたの血が赤いのは、鉄が含まれているからなのですよ、スパーホーク」セフレーニアが静かに説明する。
「血の中に鉄ですか? どうしてそんなことができるんです」
「そういうものだと思って信じることです。あなたがベーリオンに大きな力を振るえるのも、血の混じった指輪のせいです」
「何とも驚くべき話だ」
そこへアフラエルが戻ってきた。
「ベーリオンを鉄の中に閉じこめてしまえば、もうトロール神たちも妨害できないわ。みんなもスパーホークを殺そうなんて考えなくなって、また一体感が戻ってくるでしょう」
「説明抜きで、やるべきことを伝えるだけじゃだめだったんですか」クリクが尋ねた。「ここにいるのは教会騎士ですからね。わけがわからなくても命令には従ったはずです。そういうふうに訓練されてるんですから」
「そうしてもよかったんだけど」と小さな手でクリクの髭面《ひげづら》を撫で、「でもみんなに会いたかったのよ。わたしが住んでるところも見てもらいたかったし」
「見せびらかしたかった?」
アフラエルはわずかに顔を赤くした。
「まあね。それってそんなに、とってもいけないこと?」
「とてもきれいな島ですよ、フルート。わたしたちに見せてくれたことを誇りに思います」
女神はクリクの首に抱きつき、ところ構わず口づけをした。だがスパーホークは、武骨な従士に口づけする少女の顔がなぜか涙に濡れていることに気づいた。
「そろそろ戻らないと、もうすぐ夜が明けるわ。でもその前に――」
口づけはかなりの時間にわたった。黒い髪の小さな女神はタレンの唇をさっとかすめ、ティニアンを見つめた。そこで足を止め、考えこむような顔をしてから、若い盗賊の前に戻ってしっかりと口づけをしなおした。歩みを進めながら、女神は神秘的な笑みを浮かべていた。
「主人はあなたのお心を安んじることができましたでしょうか、騎士殿」雪のように白い鹿が、白鳥を模した船の上で尋ねた。船は色鮮やかな大天幕が待っている、雪花石膏を敷き詰めた岸辺へと戻っていくところだ。
「召喚された元の世界でふたたびこの目が開いたとき、確実なことがわかるだろう、心優しきものよ」どうにもならない。華やかな言葉が反射的に口を衝《つ》いて出るのだ。騎士は悲しげにため息をついた。
笛の音が少し音程をはずして、叱るような調子になる。
「親愛なる女神アフラエルに喜びあれ」スパーホークはあきらめたようにつぶやいた。
「そのほうがずっといいわ、スパーホーク」その声はもはや耳の中のささやきではなくなっていた。
白い小柄な鹿の案内で大天幕に戻ると、スパーホークはふたたび身体を横たえた。奇妙に穏やかな眠気が訪れた。
「わたくしをお忘れにならないで」鹿が鼻先でそっと騎士の頬を押した。
「もちろんだ。忘れるはずがあろうか。そなたの優しい存在のおかげで、わたしの心は慰められ、魂は安らいだのだから」
そしてスパーホークは眠りに落ちた。
目覚めたのは死んで久しい大地の上を黒い砂と冷たい風が吹きわたる醜い世界だった。髪は土埃にまみれ、服の下にまで入りこんだ砂で肌がひりひりした。だが騎士を目覚めさせたのは、金属と金属を絶え間なく打ち合わせる小さな音だった。誰かが鋼鉄の板を小さな金槌で叩いているのだ。
前の日の騒動にもかかわらず、スパーホークはとてもすっきりした気分で、世界の平安を感じていた。
金槌の音がやみ、クリクが何かを手にして埃っぽい野営地を横切ってきた。従士は手にしたものをスパーホークの前に差し出した。
「どう思います。これなら入りますかね」ごつごつした手の中にあるのは、鎖帷子から作った小袋だった。「とりあえず作れるのはこんなところです。手許にあまり鋼鉄がありませんので」
スパーホークは袋を受け取り、従士の顔を見つめた。
「おまえもやっぱり夢を見たのか」
クリクがうなずく。
「セフレーニアとも話をしました。全員が同じ夢を見てます。実際には夢じゃないんですがね。セフレーニアは説明してくれようとしましたけど、ちんぷんかんぷんで」クリクはまっすぐにスパーホークを見つめた。「申し訳ありません。あなたを疑ってしまいました。何もかもがひどく虚しく、希望も何もないように思えたんです」
「トロールの神々がしたことだ。ベーリオンをこの袋に入れて、二度とそんなことが起きないようにしよう」スパーホークは布の小袋を取り出して紐をほどきはじめた。
「そのまま袋に入れたほうが簡単じゃないですか」
「鋼鉄の袋に入れるのは簡単でも、急いで取り出すのは難しいからな。アザシュの息を首筋に感じながら結び目をほどくのはごめんだ」
「確かにそのとおりですね」
スパーホークはサファイアの薔薇を両手で持ち、顔の前にかざしてトロール語で呼びかけた。
「青い薔薇、エレニアのスパーホークだ。わたしを知っているな」
薔薇は不満そうに瞬いた。
「わたしの権威を認めるか」
薔薇が暗くなった。ひしひしと憎しみが感じられる。
騎士は右手の親指を使って指輪を回し、宝石の花に押しつけた。金属の部分ではなく、血の混じった宝石を直接押し当てたのだ。そのまましっかりとサファイアの薔薇を押さえつける。
ベーリオンは無言の悲鳴を上げ、手の中で生きた蛇のようにのたうった。スパーホークは少しだけ力をゆるめた。
「合意に達することができて嬉しいよ。クリク、袋の口を開け」
抵抗はなかった。宝石はむしろ進んで牢獄の中に入っていった。
「うまいですね」クリクが称讃する。スパーホークは柔らかい鉄線で袋の口を閉じた。
「やってみる値打ちはあると思ったんだ」と笑みを浮かべ、「ほかの者たちは起きてるのか」
クリクはうなずいた。
「火のそばに整列してます。全員に恩赦を与えると表明したほうがいいですよ。さもないと午前中の半分はずっと謝罪の言葉を聞かされることになります。とくにベヴィエには気をつけてください。夜が明ける前からずっと祈りつづけてました。どれほど申し訳なく思ってるかを話すだけで、きっとかなりの時間がかかるでしょう」
「あれはいい男だよ、クリク」
「もちろんです。そこが問題でしてね」
「皮肉な話だ」
クリクは騎士に笑みを向けた。
二人で野営地を歩きながら、クリクが空を見上げた。
「風がやみましたね。埃もおさまってるみたいだ。これもやっぱり――?」
「たぶんな。辻褄《つじつま》は合うじゃないか。さて、行くぞ」スパーホークは咳払いをして、恥じ入った顔の仲間たちに近づいていった。「面白い夜だったな」と気安げに話しかける。「あの白い鹿はとても気に入ってたんだ。ただ濡れた鼻が冷たくてね」
やや緊張ぎみの笑い声が上がる。
「さて、憂鬱の原因は明らかになったんだから、そのことをほじくり返しても意味はない。そうだろう。誰が悪いわけでもないんだ、もうあの件は忘れることにしないか。今はもっと重要な問題が目の前にある」そう言って鎖帷子から作った袋を持ち上げ、「われらの青い友人はこの中だ。この小さな鉄の袋が気に入ってくれるかどうかは知らんが、気に入ろうと入るまいとこの中にいてもらわなくてはならない――必要なときが来るまではな。朝食を作るのは誰の番だ?」
「あんただ」とアラス。
「わたしは昨日の夕食を作ったぞ」
「だからどうした」
「不公平じゃないか」
「おれは食事を作る順番を調整してるだけだ。正義なんてことを持ち出したいんだったら、神と話をしてくれ」
全員が笑いだし、それですべては元どおりになった。
スパーホークが朝食の支度をしていると、セフレーニアが火のそばに近づいてきた。「あなたに謝らなくてはなりません、ディア」
「何です?」
「あの影の背後にトロール神がいるとは、想像もしませんでした」
「それをあなたのせいにはできませんよ。わたしはアザシュがやっていると思いこんでいましたから、ほかの可能性を示唆されても一蹴していたでしょう」
「もっと勘が働いてもよさそうなものでした。論理には頼らないはずだったのに」
「ペレンの件がありましたからね。それで判断を誤ったんだと思います。ペレンはマーテルの命令でわたしを襲ったわけだし、マーテルはアザシュが最初に立てた計画にそのまま従っていました。一連の襲撃が同じ延長線上にあったので、別の何かがゲームに参加してきていたなんて、わかるはずがなかったんです。影とペレンのあいだに何の関係もないことがわかったあとでも、それ以前の推測に縛られてしまっていました。自分を責めることはないですよ、小さき母上。わたしももちろんあなたを責めたりはしません。むしろ驚いたのは、われわれが考え違いをしていることをアフラエルが見逃して、警告してくれなかった点です」
セフレーニアは少し悲しげに微笑した。
「わたしたちが思い違いをしているとは考えもしなかったのでしょう。わたしたちの視野がどれほど限られているか、アフラエルには決して本当には理解できないのです」
「そう言ってやったらどうです」
「死んだほうがましですね」
クリクの推測が正しかったのかどうかは不明だが、ここ何日か土埃で一行の息を詰まらせていた風は、自然のものであったにせよベーリオンが起こしたものであったにせよ、今はもうやんでいた。空は明るくまっ青に晴れ上がり、東の地平線上には冷たく輝く太陽がかかっていた。そんなことが前の晩の幻視とあいまって、一行の気分は背後の黒い雲など気にならないくらい高揚していた。
「スパーホーク」ティニアンがファランの横に馬を並べて声をかけた。「やっとわかったような気がするぞ」
「何がわかったんだ」
「アラスが食事当番を決めるやり方だよ」
「ほう。それはぜひ聞きたいな」
「誰かが尋ねるまで待つんだ。それだけさ。誰の番だと尋ねた瞬間、アラスはそいつを食事当番に指名する」
スパーホークはこれまでのことを思い返してみた。
「確かにそうらしいな。だが、もし誰も尋ねなかったらどうなる」
「そのときはアラスが食事を作るのさ。一度だけそういうことがあったと思う」
スパーホークは考えをめぐらせた。
「みんなにも教えてやったらどうかな。アラスには今までの分を含めて、たっぷり当番をやってもらうべきだと思うんだが」
「まったくだ」ティニアンは笑い声を上げた。
午後のなかばごろになって、黒い巨岩が鋭い割れ目をさらす岩山の麓《ふもと》に着いた。道らしいものが曲がりくねりながら頂上まで続いている。それを半分くらい登ったところで、タレンがうしろからスパーホークに声をかけた。
「ここで止まらない? おいらが先に行って、ちょっと偵察してくるよ」
「それは危険だ」スパーホークがあっさりと却下する。
「大人になりなよ、スパーホーク。おいらはその道の専門家なんだぜ。誰にも姿を見られたりしないよ。保証してもいい」そこでわずかに言葉を切り、「それに何か面倒が持ち上がったとき、必要になるのは鋼鉄に身を固めた一人前の男だろ。戦闘ではおいらは役に立たない。いなくなっても惜しくないのはおいらだけなのさ」タレンは顔をしかめた。「こんなことを言うなんて、自分でも信じられないね。アフラエルを遠ざけておいてくれないかな。どうも不健全な影響を受けてるような気がする」
「とにかくだめだ」スパーホークが重ねて反対する。
「無駄だよ、スパーホーク」生意気な口調でそう言うと、少年はもう鞍から飛び下りて駆け出していた。「ここにおいらを捕まえられる人はいないもん」
「しばらくお仕置きをしていなかったな」クリクがうなるように言って、岩山の斜面を敏捷《びんしょう》に登っていく少年を見送った。
「だがあいつの言うとおりだ」とカルテン。「おれたちの中で、失っても痛手にならないのはタレンだけだ。どうもいつの間にか騎士道精神というものを身につけたみたいじゃないか。誇りにしていいと思うがね、クリク」
「誇りなんて、どうしてあの子が命を落とすようなことになったのかを母親に説明するときには、何の役にも立ってくれませんよ」
前方でタレンの姿が地面に呑まれでもしたかのようにいきなり見えなくなり、しばらくして頂上近くの亀裂から、ふたたびその姿が現われた。すぐに少年は道を駆け戻ってきた。
「向こうに街があるよ。たぶんあれがゼモックじゃないかな」
スパーホークは鞍袋から地図を取り出した。
「どのくらいの大きさだった」
「シミュラと同じくらい」
「だったらゼモックだ。どんな様子だった」
「不気味≠チて言葉を発明した人は、きっとああいうのを思い描いてたんだろうなって感じだね」
「煙は見えたか」クリクが尋ねる。
「街の中央にある、二つの大きな建物からだけは煙が上がってた。見たところつながった建物みたいだったな。片方にはいろんな形の尖塔がいくつもあって、もう片方には大きな黒い丸屋根があった」
クリクはセフレーニアに向き直った。
「そこを除いて、街には誰もいないようですね。前にゼモックに来たことはおありですか」
「一度」
「尖塔のある建物というのは何なんです」
「オサの王宮です」
「黒い丸屋根の建物は?」それは言わずもがなの質問だった。答えは誰もが承知していたのだから。
「黒い丸屋根の建物はアザシュの寺院です。あれはそこにいます――われわれを待っているのです」
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26[#「26」は縦中横]
変装はもう役に立たない。スパーホークはそう結論づけ、騎士たちはそれまで着ていた服を脱いで甲冑を身につけた。田園地帯で無知な農民や三流の民兵を欺くのと、精鋭部隊が警備している首都を怪しまれずに移動するのとでは、事情は天と地ほど異なる。最終的には武力に頼らざるを得ず、すなわちここは甲冑が必要ということになる。田舎なら鎖帷子でも何とかなるが、都市生活にはそれなりの礼装が求められるというわけだ。スパーホークは皮肉っぽくそう考えた。田舎の服装で押し通すわけにはいかない。
「それで、どういう計画なんだ」騎士同士、互いに手を貸して甲冑を身につけながらカルテンが尋ねた。
「まだはっきり決めてない」とスパーホーク。「正直に言うと、ここまでたどり着けるとは思ってなかったんだ。ぜいぜいオサのいる街にできるだけ近づいて、そこでベーリオンを破壊するつもりだった。爆発に巻きこめるようにな。甲冑を着終わったらセフレーニアと相談してみよう」
午後になると、高く薄い雲が東から流れてきた。日没に向かって雲は徐々に厚くなり、乾燥しきった寒さはやわらいで、むっとする湿気が高まってきた。東の地平線のかなたに遠雷が轟《とどろ》き、血のように赤い夕焼け雲のあいだに日が沈むころ、騎士たちはセフレーニアのまわりに集まった。
「ここにいるわれらの輝かしい指揮官が、戦術上の偶発事態を一部見落としていたようでしてね」カルテンが話の口火を切った。
「勘弁してくれ」スパーホークがつぶやく。
「何を言ってるんだ、スパーホーク。おれは阿呆《あほう》≠ネんて言葉は一度も使わなかったじゃないか。われわれ全員が今いちばん興味を覚えているのは、これからどうするのかってことだ」
「包囲戦は除外して構わないと思う」とアラス。
「正面突破というのは楽しいぞ」とティニアン。
「わたしも一言いいかね」スパーホークは皮肉っぽく言って、セフレーニアに状況を説明した。「わたしの見るところでは、つまりこういうことです。向こうの街はほぼ無人らしいのですが、オサの精鋭部隊が見回りをしているのはまず間違いありません。戦えばたぶん勝てるでしょうが、そこにすべての希望を託すのはやはり不安があります。というわけで、もう少しあの街のことを詳しく知っておきたいんです」
「オサの精鋭部隊というのがどれほどのものなのかってこともね」ティニアンが付け加えた。
「ちゃんとした兵隊ですよ」とベヴィエ。
「教会騎士の敵じゃないだろう」
「ええ。でもそれは当然でしょう」ベヴィエは謙遜するそぶりも見せなかった。「ウォーガン王の軍団の、平均的な兵隊と同じ程度だと思います」
「以前あの街にいたことがあるとおっしゃいましたね」スパーホークがセフレーニアに言った。「王宮と寺院の位置は、正確にはどうなっているんですか」
「事実上同じ建物と言っていいでしょう。街のちょうど中心に位置しています」
「つまりどの門から入っても同じということですね」
セフレーニアはうなずいた。
「王宮と寺院が同じ屋根の下にあるというのは、奇妙じゃありませんか」クリクが口をはさむ。
「ゼモック人は奇妙な人たちなのです。実際にはいちおう別々の建物ではあるのですが、王宮の中を通って寺院へ行くことができます。寺院そのものには、外からの入口はありません」
「じゃあ王宮へ馬を乗りつけて、扉を叩けばいいわけか」とカルテン。
「だめですよ」クリクが反対した。「王宮までは歩いていって、扉を叩くかどうかはそのとき考えましょう」
「歩いて?」カルテンは傷ついた声になった。
「舗装された道の上では、馬の蹄《ひづめ》はとんでもない音を立てますからね。物陰に隠すのも少しばかり骨ですし」
「甲冑をつけて長い距離を歩くのは大変なんだぞ」
「騎士になることを選んだのは自分じゃないですか。確かあなたとスパーホークは、みずから志願したんだと思いましたが」
「スパーホークが言ってた、姿の見えなくなる呪文をかけるわけにはいきませんか」カルテンはセフレーニアに尋ねた。「フルートが笛でかけたとかいうやつですけど」
セフレーニアは首を横に振った。
「なぜだめなんです」
教母は短い音楽の一節を口ずさんだ。
「今のが何の曲かわかりましたか」
カルテンは眉根を寄せた。「わかりません」
「伝統的なパンディオン騎士団の聖歌です。あなたもよく知っているでしょう。これで質問の答えになりましたか」
「ははあ。音楽は得意分野じゃないってことですか」
「ためしにやってみて、音を間違えたらどうなるの」タレンが興味深げに尋ねる。
セフレーニアは身震いした。「訊《き》かないでください」
「忍びこむしかないか。だったら忍びこみにいこうぜ」とカルテン。
「暗くなったらすぐにな」スパーホークが答えた。
埃《ほこり》っぽい平原を一マイルばかり進むと、ゼモックの街の陰鬱な城壁に行き当たった。西門に着くころには、甲冑の騎士たちはさかんに悪態をついていた。
「蒸し暑いな」カルテンが上気した顔をぬぐってつぶやいた。「この国にはまともなことは何もないのか。今ごろこんなに蒸すはずはないんだ」
「おかしな天気が近づいてきてますね」クリクもカルテンに同意した。遠い雷の音と、ときどき東の雲海に閃《ひらめ》く電光が、二人の観察を裏付けていた。
「オサに頼んで、嵐のあいだ雨宿りをさせてもらえるかもしれないな」ティニアンが軽口を叩く。「ゼモックでは客を歓待するものなんですか」
「あてになりませんね」とセフレーニア。
「街に入ったらできるだけ静かに進むんだぞ」スパーホークが一同に注意した。
セフレーニアは顔を上げて東のほうを見やった。蒸し暑い闇の中で、色白の顔もほとんど見分けられないくらいだ。
「もう少し待ちましょう。嵐はこちらに向かっています。雷に紛れれば、甲冑の鳴る音もあまり注意を引かないでしょう」
一行は玄武岩の城壁に寄りかかり、咆哮する雷鳴が容赦なく近づいてくるのを待ち受けた。
「これならどんな音を立てても大丈夫だな」十分ほどしてスパーホークが言った。「雨になる前に中に入ろう」
門扉は粗雑な角材を組んで鉄で補強しただけのもので、しかも少し開いていた。騎士たちは剣を抜き、一人また一人と中へ滑りこんだ。
街には奇妙な臭気が充満していた。今までに訪れたどんな街でも感じたことのないにおいだ。いいにおいではないが悪臭でもなく、とにかくまったく馴染みのない臭気だった。通りにはもちろん松明《たいまつ》などなく、東から流れてくる乱雲をときおり紫色に染め上げる雷の閃光だけを頼りに進むしかなかった。閃光に照らし出される街路は細く、舗石は長い年月のうちに滑らかにすり減っていた。家々は高さこそあるものの敷地が狭く、窓はどれも小さくて、その多くには鉄格子がはまっていた。絶え間なく吹きわたる砂塵《さじん》が、家々の石壁をきれいに磨き上げている。砂塵は角々やドアの下に吹きだまり、人がいなくなってからせいぜい数ヵ月しか経たないこの街を、まるで永劫《えいごう》の昔に見捨てられた廃墟のように見せていた。
タレンがスパーホークの背後に近づいて、甲冑を軽く叩いた。
「やめてくれ、タレン」
「注意を引くにはちょうどいいじゃない。いい考えがあるんだけど、反対する?」
「まず話を聞かないとな。何を考えているんだ」
「おいらには、この一行の中ではあまり類のない才能がある」
「おまえが盗める財布はそう多くないと思うぞ。何しろ人がいないからな」
「何とでも言えばいいさ。言いたいことを言ったんだから、話を聞く気になった?」
「すまなかった。続けてくれ」
「あんたたちには死人を目覚めさせずに墓地の中を歩くことさえできないだろ」
「そこまで言うつもりはないがね」
「おいらにはある。このくらい言わないとわかってもらえないからね。でもおいらなら墓地の中を歩いて戻ってきて、誰かが近づいてくるとか、誰かが待ち伏せしてるとか、報告することができるんだ」
今度はスパーホークもぐずぐずしてはいなかった。すぐさま少年に手を伸ばしたのだが、タレンはやすやすとその手をすり抜けた。
「やめなよ、スパーホーク。間が抜けて見えるだけだよ」手の届かないところまで逃げてから、タレンはブーツの中に手を突っこんだ。隠し場所から切っ先が針のように尖《とが》った長めの短剣を引き抜く。少年は細い街路を闇の中へと消えていった。
スパーホークは悪態をついた。
「どうしたんです」クリクがすぐうしろから声をかけた。
「タレンに逃げられた」
「タレンが何か?」
「偵察に行くと言うんだ。止めようとしたんだが、捕まえそこなった」
迷路のように入り組んだ街路の奥から、人間のものとは思えない恐ろしい咆哮が聞こえた。
「今のは何です」ベヴィエがロッホアーバー斧の長い柄を握りしめる。
「風かな」ティニアンが自信なさそうに言った。
「風は吹いていません」
「わかってる。でも風のせいだと思いたいんだ。ほかの可能性は気に入らない」
一行は家の壁に張りつくようにして進みつづけた。電光が閃き、雷鳴が轟くたびに足を止めて目を凝らす。
音もなく駆け戻ってきたタレンが、捕まらないように距離を取って報告した。
「警備隊が近づいてくるよ。松明は持ってるけど、誰かを探そうとしてる様子じゃないね。むしろ見つけたくないみたいだ」
「何人いた」とアラス。
「一ダースかそこら」
「心配するほどの数じゃない」
「路地を通ってとなりの街路に移ったら? 向こうの姿なんか見えもしないから、もっと心配が少なくてすむよ」
「次に指揮官を選ぶとき、おれはあの子に一票入れる」アラスが低い声でそう言った。
一行は細く曲がりくねった街路を進みつづけた。タレンが先に立って様子を探ってくるので、ゼモックの警備隊を避けるのは簡単だった。しかし街の中心部に近くなると、建物のまばらな、街路の広くなっている場所に出た。戻ってきたタレンの顔が一瞬の稲妻に照らし出されたとき、そこには困ったような表情が見えた。
「また前方に警備隊がいるよ。ただ問題は、巡回してないんだ。どこかの居酒屋に押し入ってきたらしくて、道のまん中で酒盛りをしてるんだよ」
アラスが肩をすくめる。「また脇道を通って迂回《うかい》すればいい」
「ところがそうはいかないんだ。このあたりには脇道がないんだよ。迂回路は見つからなかった。この道を行くしかないんだ。ざっと見てきた限りでは、この近くで王宮に続いてる道はここだけらしい。この街の作りはめちゃくちゃだよ。どの道も通じるべきところに通じてないんだから」
「酒盛りをしているうち、戦えそうなのは何人くらいでした」ベヴィエが尋ねる。
「五人か六人だね」
「向こうに松明は?」
タレンはうなずいた。「次の角を曲がったところだよ」
「松明を燃やしているなら、すぐには闇に目が慣れないはずです」ベヴィエは腕を伸ばして、意味ありげに斧を振るった。
「どう思う」カルテンがスパーホークに尋ねる。
「やってみよう。進んで道をあけてくれるとは思えない」
それは戦いというよりも、ただの殺戮だった。ゼモック人たちは酒の飲みすぎで、まったくあたりに注意を払っていなかったのだ。教会騎士たちはただまっすぐ近づいていき、その場で全員を斬り捨てた。一人が短く悲鳴を上げたが、その驚きの声は雷鳴に呑みこまれた。
騎士たちはぐったりした身体を無言で近くの戸口まで引きずっていき、家の中に隠した。それからセフレーニアを守るようにまわりを囲み、稲妻に照らされた広い通りを進んでいった。行く手には何本もの松明が煙を上げている。どうやらそこがオサの王宮の入口らしかった。
またしてもあの咆哮が聞こえた。人間の声には似ても似つかない。そこへタレンが駆け戻ってきた。もう騎士たちの手から逃れようとするそぶりは見せていない。
「王宮はすぐそこだよ」今では雷がひっきりなしに鳴っていたが、それでもタレンは声をひそめた。「門の外に見張りがいる。鎧みたいなものを着てるんだ。身体じゅうから鋼鉄の針が突き出してて、まるでハリネズミみたいだった」
「人数は」とカルテン。
「数えてる時間がなかった。あのわめく声が聞こえる?」
「聞かないようにしてるんだ」
「慣れたほうがいいと思うよ。門の見張りの声なんだ」
オサの王宮はカレロスの大聖堂よりも大きかったが、建築物としての荘厳さとは縁がなかった。山羊飼いとして育ったオサの感覚では、唯一大きい≠ニいうことにしか価値を見出せなかったのだ。オサに関する限り、大きいものほどいいということになる。その王宮はくすんだ色の黒い玄武岩で作られていた。もともと柱状になっているので、石工にとってもそれがいちばん簡単だったのだ。だが美しさという観点からは、どう考えてもすぐれた素材ではなかった。巨大な建築物を作るというのが唯一の目的で、それ以外のことはまったく考えられていないのだ。
王宮はゼモックの街の中心に、山のようにそびえ立っていた。もちろん塔もある。王宮に塔は付きものだ。しかし本館の上から天を指すいくつもの黒い塔には、荘厳さも、釣り合いも、さらにたいていは目的さえなかった。多くは何世紀も前に建設が始まって、完成しないままに放置されている。なかばでき上がった状態で、周囲には足場の残骸を残したまま、むなしく空に屹立《きつりつ》しているのだ。オサの王宮は邪悪さよりも、むしろ狂気を感じさせた。熱狂的な、だが目的のない努力の結晶という感じだ。
王宮の向こうにはアザシュの寺院の巨大な丸屋根が見えた。正六角形の玄武岩のブロックを正確に積み上げて造られた半球形の漆黒の天蓋は、何かとてつもなく大きな昆虫の巣か、伝染性の腫瘍のようだ。
王宮と寺院を囲む一帯は、建物も木も記念碑もない、舗装された無人地帯になっていた。何もない空間が壁から二百ヤードの幅で広がっている。この闇夜の中にあって、その空間は何千本もの松明の光で照らし出されていた。敷石と敷石の継ぎ目に無作為に突っこまれた松明が、膝《ひざ》の高さに炎の草原を作り出している。
騎士たちがたどっている広い道は炎の広場を通って、オサの住居の正面玄関までまっすぐに延びているようだ。そしてその道幅を維持したまま、見たこともないほど大きくて高いアーチ型の扉の奥へと続いている。扉はわずかに開いていた。
見張りは壁と松明の広場のあいだに立っていた。いずれも甲冑を着けているが、それはスパーホークが目にした中でも最高に幻想的なものだった。兜は髑髏《どくろ》を模していて、そこから鋼鉄の枝角が生えている。関節の部分――肩や肘《ひじ》、腰や膝――は長い棘《とげ》と、炎のような突起で飾られていた。腕の部分には鉤があり、手にしている武器は相手を殺すよりも、苦しめることに主眼を置いたようなものだった。鋸《のこぎり》の歯と鋭い棘が植えてあるのだ。盾は大型で、恐ろしげな絵が描いてあった。
サー・ティニアンはデイラ人であり、デイラ人は昔から甲冑の専門家として知られている。
「あんな子供っぽい、ばかげた甲冑を見たのははじめてだ」雷鳴がやんだ瞬間の短い静寂のあいだに、ティニアンは侮蔑的な口調でそう言った。
「へえ?」とカルテン。
「あの甲冑はほとんど役に立たない。いい鎧というのは、それをまとった人間を保護すると同時に、ある程度の活動の自由を与えるようになってなくちゃいけない。亀になっちまうようじゃだめなんだ」
「でもなかなか迫力はあるじゃないか」
「まさにそれだけが目的なんだろう。恐ろしげに見せるってことだけが。あの棘や鉤は役に立たないだけじゃなく、邪魔ですらある。敵の武器を鎧の弱い部分に誘導してしまうんだ。いったい鎧職人は何を考えていたのかね」
「前の戦争の遺産ですよ」セフレーニアが説明した。「ゼモック人は教会騎士の外見に圧倒されてしまったのです。だから甲冑の本当の機能は理解しないまま、ただその威圧的な外観だけを真似しました。あの甲冑は、使うことよりも見せることに主眼を置いているのです。ゼモック人が甲冑を着けるのは、自分を守るためではありません。敵を怯《おび》えさせるためです」
「わたしはちっとも怯えませんけどね、小さき母上」ティニアンが陽気に答えた。「これなら簡単そのものですよ」
と、外見だけは恐ろしげなオサの戦士たちにしかわからない何かの合図があったのだろう、全員がいっせいに、あの人間のものとは思えない咆哮を上げた。何の意味もない言葉をわめいているようだ。
「あれは鬨《とき》の声ということなんでしょうか」ベヴィエが自信なさそうに尋ねる。
「あれで精いっぱいなのですよ」とセフレーニア。「ゼモックの文化は基本的にスティリクム的なもので、スティリクム人は戦争のことを何も知りません。エレネ人は戦いに赴くとき大声を上げますが、あの衛兵たちはその音だけを真似ているのです」
「ベーリオンを使って消しちゃったらどうなの、スパーホーク」タレンが提案した。
「いけません!」セフレーニアが鋭く声を上げた。「やっとトロール神たちを閉じこめたのです。それをふたたび解放するのは、アザシュの前に出るときまで待つべきでしょう。下っ端相手にベーリオンを使って、ここまでやってきた目的を危うくすることはありません」
「もっともだな」ティニアンがうなずいた。
見張りの様子を見つめていたアラスが口を開いた。
「やつら動いてない。こっちの姿は見えてるはずなのに、隊形を組んで扉を守ろうとしてない。まっすぐ中に突っこんで扉を閉めれば、やつらのことは心配しなくてすむ」
「そんなばかげた作戦は聞いたことがない」カルテンが文句を言った。
「ほかにいい案があるのか」
「いや、実を言うと、ない」
「だったらそれでいい」
騎士たちはいつもの楔型《くさびがた》隊形を取り、オサの王宮の口を開けた扉に突進した。炎の草原を横切って門に近づいたとき、奇妙に馴染みのあるにおいがスパーホークの鼻を衝《つ》いた。
始まったときと同じ唐突さで無意味な咆哮がやみ、髑髏の兜をつけた衛兵たちはぴたりと身動きを止めた。武器を振るうでもなく、門の前に応援を呼ぶでもない。ただその場に立ちつくしている。
またしても同じにおいがした。急に吹いてきた風に乗って、においがあたりに広がっていく。雷が近くの建物を直撃し、すさまじい音とともに大きな破片が吹き飛んだ。あたりの空気が急にぴりぴりしはじめる。
「伏せろ! みんな地面に伏せるんだ!」クリクの差し迫った声が響いた。
わけがわからないながらも、全員が即座にその声に従った。甲冑が大きな音を立てて地面を打つ。
クリクの警告の意味はすぐに明らかになった。巨大な門の左側にいた不気味な甲冑姿の衛兵が、いきなり青い炎を上げて輝く火球となり、微塵《みじん》に吹き飛んだのだ。白熱した甲冑の破片が降り注いでも、ほかの兵士たちは身動きもせず、ふり返ることさえしなかった。
「あの鎧ですよ!」クリクが雷鳴に負けないように叫ぶ。「鋼鉄は雷を呼ぶんです。立たないで!」
雷は髑髏の兜の兵士たちを次々と打ち倒していった。肉と髪の焼けるにおいが、王宮の玄武岩の壁に当たって戻ってくる風に乗って、広場じゅうに漂った。
「身動き一つしないぞ! いくら訓練したって、あそこまでできるもんじゃない!」カルテンが驚きの声を上げた。
やがて移動を続ける嵐の乗った雷は徐々に遠ざかり、鋼鉄に身を固めた兵士たちのかわりに、離れた場所の無人の家を襲いはじめた。
「もう大丈夫かな」スパーホークが従士に尋ねた。
「はっきりしたことは言えませんよ。空気がぴりぴりしてきたと感じたら、すぐにその場に伏せてください」
一同は注意深く上体を起こした。
「アザシュだったんでしょうか」ティニアンがセフレーニアに尋ねる。
「そうは思えません。アザシュがやったのだとしたら、雷が狙いをはずしたりはしなかったでしょう。でもオサの仕業ということは考えられますね。寺院に入るまでは、アザシュよりもむしろオサの召喚したものに出会うことになるでしょう」
「オサが? そんなに技量があるんですか」
「技量というのはちょっと違いますね。オサにはとてつもない力があるのです。技術的には不器用ですよ。怠け者で、練習をしませんから」
一行はふたたび進みはじめたが、不気味な甲冑に身を固めた戦士たちは攻撃しようともせず、扉を守る仲間を呼び集めようともしなかった。
スパーホークが最初の兵士に近づいて剣を上げると、それまで身動き一つしなかった兵士がいきなり咆哮し、無意味に棘や突起を生やした大きな斧を振り上げた。スパーホークは斧を受け流し、敵を剣で一撃した。恐ろしげな外見の甲冑は、ティニアンが言っていた以上に役立たずだった。鎧は紙ほどの厚さしかなく、スパーホークの剣はほとんど何の抵抗も受けずに相手の身体に食いこんでいたのだ。まったく何の防御もない人間の身体でも、これほどやすやすと剣が食いこみはしなかったろう。
スパーホークの剣を受けた兵士はその場に倒れ、鎧がぱっくりと口を開いた。スパーホークは吐き気を抑えて後じさった。鎧の中身は生きた人間の身体ではなかった。黒ずんでぬるぬるした骨に、腐った肉がまとわりついているだけなのだ。ものすごい悪臭が鎧の中から噴き上がった。
アラスが驚いて叫んだ。
「死人だ! 鎧の中は骨と腐肉だけだ!」
ひどい腐臭に吐き気をこらえながら、騎士たちはすでに死んでいる敵に向かっていった。
「止まって!」セフレーニアの鋭い声が響いた。
「でも――」カルテンが不満げに鼻を鳴らす。
「一歩退がりなさい。全員です」
全員がしぶしぶ一歩後退すると、恐ろしげな甲冑をまとった死体はふたたび動きを止めた。目にも見えず耳にも聞こえない合図を受けて、またしてもあの咆哮が上がった。
「どういうことだ。どうして攻撃してこない」アラスが首をひねった。
「死んでいるからですよ、アラス」
アラスは斧で一体の戦士を指し示した。
「死んでいようといまいと、こいつはおれに槍を突き立てようとした」
「それはあなたが武器の届く範囲に入ったからです。よくご覧なさい。まわりにこれだけの数がいるのに、手を貸そうと集まってくる者はありませんでした。松明を貸してください、タレン」
少年は敷石のあいだに突き立ててあった松明を引き抜いてセフレーニアに渡した。教母は松明で足許を照らし、「恐ろしいことです」と身震いした。
「われわれがお守りします、レディ・セフレーニア。何も恐れることはありません」とベヴィエ。
「わたしたちが恐れるものは何もありませんよ、サー・ベヴィエ。本当に恐ろしいのは、オサがたぶんどんな人間よりも強力な力を持っているという事実でしょう。ですがオサはあまりにも愚かで、その力の使い方さえわかっていないのです。わたしたちは何世紀も、とんでもない大ばか者を恐れていたのです」
「死人を甦《よみがえ》らせるというのはかなり印象的なことですよ、セフレーニア」スパーホークが指摘した。
「死体を動かすくらいのことは、スティリクム人なら子供でもできます。ですがオサは、動かした死体で何をすればいいのか、まったくわかっていません。この死んだ戦士たちは、それぞれに一枚の石板の上に立っています。守っているのはその石板だけなのですよ」
「確かなんですか」
「自分で試してみてはどうです」
スパーホークは盾を上げ、悪臭を放つ兵士に近づいた。足が同じ敷石の上にかかったとたん、髑髏の兜をつけた兵士はぎざぎざの刃のついた斧を振りまわした。騎士はその一撃を軽く受け止め、すぐに後退した。衛兵は元の位置に戻り、ふたたび彫像のように動かなくなった。
王宮と寺院を取り囲む衛兵の輪から、またしても虚《うつ》ろな咆哮が上がった。
と、セフレーニアが白いローブをしっかりと押さえて、立ち並ぶ衛兵のあいだを静かに歩きだした。スパーホークはぞっとしたが、教母は足を止めて一同をふり返った。
「早くおいでなさい。雨になる前に中に入りましょう。衛兵のいる敷石さえ踏まないようにすればいいのです」
稲光の中に浮かび上がる髑髏の兜をかぶった、悪臭を放つ不気味な甲冑のあいだを縫って歩くのは、あまり気持ちのいいものではなかった。それでも森の中で棘のある植物を避けて歩くのと、実質的には大した違いはない。
死んだ衛兵の最後の一人の横を通り抜けると、タレンは斜めに列をなして並んでいる甲冑のほうをふり返った。
「ねえ、先生」とベリットにささやきかける。
「何だ、タレン」
「この最後の甲冑を、斜め前のほうに突き倒してみない?」といちばん後ろの衛兵の背中を指差す。
「どうして」
タレンは茶目っけたっぷりの笑みを浮かべた。
「いいから一突きしてみなよ、ベリット。そうすればわかるから」
ベリットはやや戸惑った顔で、それでも斧を持った手を伸ばすと、死体を強く押しやった。鎧が倒れ、斜め前方の鎧にぶつかる。二つめの死体は即座に最初の死体の首を叩き落としたが、そのためにうしろによろめき、三つめの衛兵に首を切り落とされた。
混乱はたちまち伝播《でんぱ》して無感覚な同士討ちが繰り広げられ、かなりの数の甲冑がとなりの衛兵に首や手足を飛ばされた。
「本当にいい息子を持ったな、クリク」アラスが言った。
「希望はありそうですね」クリクが謙遜して答える。
一行は王宮の入口に向かい、そこで足を止めた。暗い戸口のまん中で、霧のような顔が中空に浮かんでいたのだ。そのまわりでは不気味な緑の炎が燃えている。その顔は醜く歪《ゆが》み、恐ろしいほどの邪悪さを感じさせた。スパーホークには見覚えのある顔だった。
「アザシュ!」セフレーニアがかん高い声を上げた。「退がってください。全員です!」
一同は実体のないその顔をじっと見つめた。
「本物なんですか」ティニアンが畏怖の声で尋ねる。
「似姿です。これもやはりオサの仕事ですね」
「危険なんですか」とカルテン。
「戸口に一歩踏みこめば、死よりも恐ろしい運命に見舞われるでしょう」
「ほかに中へ入る方法はないんですかね」カルテンは輝く幻影を恐ろしげに眺めた。
「あるのは確かでしょうが、見つけ出せるかどうか」
スパーホークは嘆息した。その時が来たならそうしようと、ずっと以前に心を決めてあったのだ。だが行為そのものよりも、その前に待ち受けている言い争いのほうが、ずっと気が重かった。騎士はベーリオンを入れた金属の袋を腰からはずした。
「よし、みんなはもう行ってくれ。どれくらいの時間があるかはっきりとは言えないが、できるだけ引き延ばすようにする」
「何の話をしてるんだ」カルテンが疑わしげに尋ねた。
「アザシュに近づくのはこれが限界らしい。何をしなくてはならないか、みんなわかっているはずだ。誰かがそれをやるしかない。シミュラまで帰りつくことができたら、もうすこし違う結果になっていればよかったと思うとエラナに伝えてくれ。セフレーニア、ここで大丈夫でしょうか。アザシュを滅ぼせますか」
セフレーニアは涙をいっぱいにためてうなずいた。
「感傷的になってる場合じゃありませんよ」スパーホークはぶっきらぼうに言った。「時間がない。きみたちに出会えて幸せだった。きみたち全員に。さあ、行ってくれ。これは命令だ」ばかなことを考えはじめる前に、全員を追い返さなくてはならない。スパーホークは大声を張り上げた。「行くんだ! 見張りのいる敷石を踏まないように気をつけろ」
騎士たちは動きはじめた。軍の人間というのは、大声で叫ばれた命令には反射的に従うようにできている。大切なのは一行が歩きはじめたということだった。こんなことをしても、どのみち無駄かもしれないのだ。セフレーニアの話が正しいとするなら、ベーリオンを破壊したとき道連れとなって壊滅する地域から出るには、丸一日以上必要だ。それだけのあいだ発見されずにいられる可能性は、とても小さなものだった。だがそれでも、ほんのわずかでも可能性があるなら、賭けてみなくてはならない。
仲間が去っていくのを見送りたくはなかった。見ないほうがいいのだ。スパーホークにはやるべきことがある。悪事を働いて、旅を続ける家族に置き去りにされた子供のように、みじめに立ちつくしているわけにはいかなかった。騎士はすばやく右を見て、さらに左を見た。セフレーニアの言うとおりこれがオサの王宮への唯一の入口だとするなら、口を開けている通路とアザシュの幻影からはできるだけ離れたほうがいい。誰かが――あるいは何かが――王宮から出てきたとき、いきなり目につくような場所にいるのは賢明ではない。左か、それとも右か。スパーホークは肩をすくめた。どっちでも同じことだ。たぶん王宮の外壁に沿って、寺院のほうに移動するのが一番だろう。そうすれば多少なりともアザシュに近づくことができる。
大破壊が起きたとき、あの古き神にはできるだけ中心部近くにいてもらいたいのだ。踵《きびす》を返したとき、それが見えた。脅すように立ち並ぶ死人の列の向こうに、仲間たちが決然とした顔で立っていた。
「何をしてる。ここを離れろと言ったろう」
「おまえを待つことに決めたんだ」カルテンが叫び返した。
スパーホークは脅すように足を踏み出した。
「ばかなことはおやめなさい、スパーホーク」クリクが言った。「この死者の列を縫ってくるような危険を冒すつもりですか。一歩でも間違えたら、背後から頭をかち割られるんですよ。そしてアザシュはベーリオンを手に入れる。そんなことのためにはるばるやって来たんですか」
[#改ページ]
27[#「27」は縦中横]
スパーホークは悪態をついた。どうして言われたとおりにしないんだ。そしてため息。こうなることはわかっていた。もはやどうなるものでもないし、仲間を非難してみても仕方がない。
ベルトから水入れを取ろうと籠手をはずすと、指輪が松明《たいまつ》の炎に赤く輝いた。留め金をはずして水入れを取り、喉《のど》を潤す。目の中にふたたび指輪の輝きが映った。水入れをおろし、考えこむように指輪を見つめる。
「セフレーニア。来てください」
教母はすぐに騎士のそばにやってきた。
「シーカーはアザシュだった。そうですね」
「それは簡略化しすぎです」
「言ってる意味はわかるでしょう。ペロシアにあったサラク王の墓の前で、アザシュはシーカーを通じて話しかけてきた。だがやつはわたしがアルドレアスの槍を持って追いかけると、逃げてしまった」
「ええ」
「ラモーカンドでは、墓の中から出てきた怪物をあの槍で追い払い、グエリグもあの槍で殺した」
「そうですね」
「でも本当は槍の力じゃなかったんでしょう。実のところ武器は何でもよくて、重要なのは指輪だった」
「何を言おうとしているのか、よくわかりませんね」
「わたしもはっきりとはわからないんですよ」もう一方の籠手もはずして、二つの指輪を眺める。「指輪それ自体にもある程度の力があるのではないですか。ベーリオンを扱うための鍵だということにこだわりすぎていたのかもしれない。ベーリオンの力があまりに大きいので、指輪だけでできることを見落としていたんじゃないでしょうか。アルドレアスの槍は、実はあまり関係がない。それはむしろいいことかもしれません。何しろあれはシミュラの、エラナの居室の隅に立てかけてあるんですから。どんな武器であろうとも、あの槍と同じ効果をもたらすことができるんじゃないでしょうか」
「指輪がそれに触れている限り、そのとおりです。要点を言ってください。エレネ人の論理は退屈です」
「考えをまとめる助けになるんですよ。ベーリオンを使えばあの幻影を消し去ることもできますが、そうするとトロール神たちが解き放たれて、こっちが背中を向けるたびにうしろから襲ってこようとするでしょう。でもトロール神と指輪は関係がありません。指輪だけを使うなら、ノームやそのお友だちを起こすことはないんです。指輪をはめた両手で剣を握って、空中に浮かんでいるあの幻影に触れたら、どういうことになると思います」
セフレーニアはただ騎士を見つめていた。
「ここでの相手はアザシュじゃありません。オサなんです。わたしは世界一の魔術師ではありませんけど、指輪があるならその必要はない。オサが相手なら、指輪の力だけでじゅうぶんだと思いませんか」
「何とも言えません。わからないのです」教母が弱々しく答える。
「だったら試してみましょう」悪臭を放つ見張りの列のほうに向き直り、仲間たちに呼びかける。「わかった、戻ってきていい。やることができた」
一同は鎧を着けた死体のあいだを慎重に戻ってきて、スパーホークと教母のまわりに集まった。
「これからやることは、うまくいかないかもしれない。その場合、諸君にはベーリオンの処分をしてもらわなくてはならない」ベルトから鉄を編んだ袋をはずす。「わたしが失敗したらベーリオンを敷石の上に置いて、剣か斧で一撃するんだ」そう言って袋をクリクに手渡し、盾をカルテンに預けると、スパーホークは剣を抜いた。剣の柄を両手で握り、中央にアザシュの顔が浮かんでいる広い戸口に戻る。「幸運を祈っててくれ」剣を上げると騎士はそう言った。それ以外、どんなことを言っても大言壮語にしかならなかったろう。
両腕を伸ばし、緑の炎に取り巻かれたアザシュの顔に向かって水平に剣を構える。意志を鋼鉄のようにして思いきり足を踏み出し、スパーホークは剣の切先を燃える幻影に突っこんだ。
その結果は華々しく、満足できるものだった。切っ先が触れたとたんに幻影は爆発し、スパーホークの上に色とりどりの火花が降りかかった。衝撃はあらゆる方向数マイル以内の、すべての建物の窓|硝子《ガラス》を砕いたのではないかと思えた。スパーホークをはじめとして全員がその場に身を伏せ、王宮の前で見張りに立っていた甲冑姿の死体は、刈り取られる麦のようにばたばたと倒れた。スパーホークは耳鳴りを何とかしようと頭を振りながらよろよろと立ち上がり、戸口のほうに目をやった。巨大な扉の片方はまん中から二つに割れ、もう片方は蝶番《ちょうつがい》一つで、危なっかしくぶら下がっていた。幻影は消え、それがあった場所には薄い煙が漂っているだけだ。王宮の奥のほうから、蝙蝠《こうもり》の声を引き伸ばしたような苦痛の叫びが響いた。
「みんな大丈夫か」スパーホークは仲間たちを見まわした。
一同は誰もがどこかぼんやりした目つきをして、ふらふらと立ち上がるところだった。
「うるさいな」とアラス。
「中でわめいてるのは誰だ」カルテンが尋ねる。
「たぶんオサだろう。呪文を破られると、かなりこたえるからな」スパーホークは鉄を編んだ袋と籠手を取り上げた。
「タレン、よせ!」クリクが叫んだ。
だが少年はもう戸口に向かって歩きはじめていた。
「何もなさそうだよ、父さん」さらに奥まで進んでから引き返してきて、「おいらが煙みたいに消えちゃわなかったってことは、大丈夫だと思っていいんじゃないかな」
クリクは両手を広げてタレンを追いかけようとしたが、考え直して悪態をついた。
「中へ入りましょう」セフレーニアが言った。「街の警備兵にもさっきの音は聞こえたはずです。ただの雷だと思った可能性もありますが、様子を見にこようとする者もいないとは限りません」
スパーホークは袋をベルトに戻した。
「中に入ったら人目につきたくありません。どっちへ進めばいいでしょう」
「扉をくぐったら左へ行くのがいいでしょう。そっちは調理場と倉庫に通じていますから」
「わかりました。では、行きましょうか」
街に足を踏み入れたときに感じた奇妙なにおいは、王宮の暗い通廊でさらに強くなった。騎士たちは慎重に、叫びかわす王宮警護隊の声に耳を澄ましながら進んでいった。王宮の内部は混乱を極めており、これほどの広さを持った建物であっても、出会い頭に敵と衝突する可能性はつねにあった。それでも暗い部屋を選んで歩くことでいくらかその危険を低減させることはできたが、完全に回避することはできなかった。もっとも教会騎士の白兵戦の技量はゼモック人を上回っており、また多少の物音は通廊に反響する叫びにかき消されてしまった。一行は武器を構えたまま前進を続けた。
一時間近く歩くと、菓子を焼いている大きな調理場に出た。竈《かまど》の炎がある程度の明かりを提供してくれる。一行はそこで足を止め、扉を閉めて閂《かんぬき》をかげた。
「完全に方角を見失いました」クリクはそう言って、菓子を一つつまみ食いした。「どっちへ進みましょう」
「あの扉ですね。調理場はオサの玉座の間に通じる通廊に面しているはずです」とセフレーニア。
「玉座の間で食事をしているのですか」ベヴィエが唖然として尋ねる。
「オサはあまり動きまわりません。もう歩くことができないのです」
「どうしてそんなことに」
「食べすぎですよ。オサはいつも何かしら食べていて、しかも運動嫌いです。足が肉体を支えきれなくなっているのです」
「玉座の間に入る扉はいくつあるのかな」
アラスに訊《き》かれて、セフレーニアはしばらく考えこんだ。
「四つ、だったと思います。一つはこの調理場に、一つは王宮の中央に、もう一つはオサの私室に通じています」
「あとの一つは」
「そこには扉はありません。その先は迷路に続いています」
「だったら最初に戸口を封鎖することだ。オサと話し合うのに、邪魔が入らないように」
「たまたまその場に居合わせた人間とも話し合うんだろう。マーテルはもう着いてるのかな」カルテンはもう一つ菓子をつまんだ。
「それを知るには、方法は一つだな」とティニアン。
「すぐにそうするさ」スパーホークが答えた。「その迷路というのは何です、セフレーニア」
「寺院への通路です。人々が迷路作りに熱中した時期がありましてね。非常に複雑で、危険なものです」
「寺院へ行くのに、ほかの道はないんですか」
セフレーニアはうなずいた。
「信者はみんな玉座の間を通って寺院へ行くんですか」
「一般の信者が寺院に足を踏み入れることはありません。神官と生贄《いけにえ》だけですよ」
「だとすると、まず玉座の間になだれこむべきでしょうね。ドアを封鎖して、中に衛兵がいれば始末して、オサを人質にする。喉元にナイフを突きつければ、邪魔しようとする者はいないでしょう」
「オサは魔術師だぞ。言うほど簡単に人質にできるのか」ティニアンが疑念を呈した。
「今の時点で、オサの魔術は大した脅威にはならないでしょう」セフレーニアが答える。「みなさん呪文を破られた経験はあるはずです。あれから回復するにはしばらくかかります」
「では、いいかな」スパーホークが緊張した声で尋ねた。
全員がうなずき、スパーホークを先頭に一同は戸口を抜けた。
調理場からオサの玉座の間まで続く通廊は幅が狭く、長さもあまりなかった。突き当たりが赤みがかった松明の光に照らされている。その光の輪が近づいてくると、タレンがそっと前に滑り出た。柔らかい靴は、石敷きの床の上で足音一つ立てない。少年はすぐに戻ってきて、興奮した声をひそめて報告した。
「みんないるよ。アニアスも、マーテルも、ほかの連中も。着いたばかりみたいだ。まだ旅のマントを着てたから」
「部屋の中に衛兵はどのくらいいた」クリクが尋ねる。
「大した数じゃなかったな。せいぜい二十人くらいだよ」
「残りはわれわれを探してるんだろう」
「部屋の様子はどうなってる」とティニアン。「それと、衛兵の位置もだ」
タレンはうなずいた。
「この廊下は玉座のわりとそばに通じてる。オサはすぐにほかの連中から切り離せると思うよ。見かけは庭にいるナメクジみたいだった。マーテルたちがそのまわりに集まってる。衛兵はドアの左右に一人ずつ立ってるけど、扉のないアーチ型の戸日の前にはいなかった。そこだけは誰も守ってないんだ。残りの衛兵は壁ぎわに整列してる。鎧を着けて、全員が剣と長い槍を持ってた。玉座のそばには十人かそこら、褌《ふんどし》一本のたくましいのが控えてた。武器は持ってないみたいだったけどね」
「オサの運び手です」セフレーニアが解説した。
「教母様の言ってたとおり、戸口は四つあった。この先の扉と、部屋の奥と、アーチ型の門と、あと部屋のまん中の大きな扉だね」
「その大きな扉が、王宮の中央に通じています」
「つまりその扉を押さえるのが重要ということだ」スパーホークが言った。「こっちの調理場のほうには、いたとしても奥に何人か料理人がいるだけだろう。オサの寝室にも、そんなに人がいるとは思えない。だがその大きな扉の向こうには兵隊がいっぱいだ。この先のドアから大きな扉まで、距離はどのくらいあった」
「二百フィートくらい」とタレン。
「走るのが得意な者は?」スパーホークは仲間たちを見わたした。
「おまえはどうだ、ティニアン。二百フィートをどれくらいで走れる」アラスが尋ねた。
「おまえと同じくらいさ」
「では、そっちはおれたちが押さえる」アラスがスパーホークに言った。
「アダスはおれに任せるって言ったのを忘れるなよ」カルテンが念を押す。
「できるだけ取っておくようにするよ」
一行は断固とした足取りで、松明に照らされた戸口へ向かった。扉の前でしばらく様子をうかがい、一気に突入する。アラスとティニアンは正面扉に駆け寄った。騎士たちが玉座の間に飛びこむと、驚きと警戒の声が上がった。オサの衛兵たちは混乱して口々に勝手な指示を叫んだが、一人の将校が他を圧する大声でおさまりをつけた。「皇帝を守れ!」
鎧を着けて壁ぎわに並んでいた衛兵たちが、ドアの前の仲間を置き去りにして玉座に駆けつけ、槍を構えてオサを守った。カルテンとベヴィエは調理場に通じるドアの前の衛兵二人を無造作に斬り捨て、正面扉に駆け寄ったアラスとティニアンは、懸命に扉を開けて応援を呼ぼうとしていた衛兵をそれぞれ一撃で打ち倒した。アラスが巨大な背中を扉に押しつけて開かないようにしているあいだ、ティニアンは近くのカーテンの陰を探って、閂になるようなものを探した。
ベリットはスパーホークの横を駆け抜けて部屋に飛びこみ、まだ弱々しく動いている衛兵を飛び越え、斧を構えて部屋の奥のドアに向かった。甲冑を着けていても鹿のように俊敏な修練士は、玉座の間の磨き上げられた床を蹴って、オサの寝室に通じるドアを守る二人の衛兵に襲いかかった。繰り出される槍を受け流し、斧を振るって二人をそれぞれ一撃で仕留める。
スパーホークの背後から硬い金属音が聞こえた。見るとカルテンが重い鉄の棒を扉にかませるところだった。
アラスが押さえている扉の向こうからは、しきりに何かのぶつかる音がしている。ティニアンも鉄の棒を見つけて、それを把手《とって》にかませた。ベリットもドアを封鎖していた。
「いい手際でした。でもまだオサを捕まえてませんよ」クリクが言った。
スパーホークは玉座を囲む槍の列を見て、さらにオサその人に目を向けた。タレンが言っていたとおり、過去五世紀にわたって西方諸国の恐怖の的だった人物は、どこにでもいるナメクジのようだった。肌は病的に青白く、髪の毛は一本もない。顔は水脹《みずぶく》れしていて、べっとりと汗をかいているために、まるで粘液にでも覆われているようだ。腹は大きく膨れ上がって前に迫《せ》り出し、そのために腕がまるで萎《しぼ》んでしまっているように見えた。信じられないほど不潔だが、脂じみた手には高価な指輪がいくつも光っている。まるで何かに投げつけられでもしたかのように、オサは玉座に、なかば寝そべるように腰をおろしていた。目はどろんと濁り、四肢や身体は規則的に痙攣《けいれん》している。呪文を破られた衝撃から回復していないのは明らかだった。
スパーホークは深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、あたりを見まわした。部屋そのものは莫大な金銭を費やして飾りたてられていた。壁には金箔《きんぱく》が押され、柱は真珠母で覆われている。床は磨き上げた黒|瑪瑙《めのう》で、ドアの脇のカーテンは血のように赤いビロード製だ。壁には一定間隔で松明が取りつけられ、玉座の左右には大きな鉄の炉がしつらえられていた。
そして最後に、スパーホークはマーテルに目をやった。
「やあ、スパーホーク」白髪の戦士が気取った調子で挨拶した。「立ち寄ってくれて嬉しいよ。みんな待っていたんだ」
その口調はいかにも何気なさそうなものだったが、そこにごくかすかな苛立ちが感じられた。こんなに早くやってくるとは思っていなかったし、いきなり突入してきたことも予想外だったのだろう。マーテルはアニアス、アリッサ、リチアスの三人といっしょに安全な槍の輪の中に立ち、アダスは蹴りと悪罵《あくば》で衛兵たちをけしかけていた。
「近くまで来たものでね」スパーホークは肩をすくめた。「どうしてた。少し旅にやつれたみたいだな。きびしい旅だったのか」
「耐えられないほどじゃなかった」マーテルはセフレーニアのほうに顔を向けた。「小さき母上」その声には前と同じ、どこか悔やむような響きがあった。
セフレーニアはため息をついて、何も答えない。スパーホークが先を続けた。
「これでどうやら役者がそろったようだな。何度か再会の機会があったのは、本当によかった。おかげでいろいろと記憶を新たにできたよ」そう言ってアニアスに目を向ける。司教がマーテルに従属する立場であることは、もはや明らかだった。「カレロスに留まるべきでしたな、猊下。選挙戦のいちばんいいところを見逃しましたよ。聖議会は、何とドルマントを総大司教の座につけることにしたんです」
シミュラの司教の顔がいきなり激しい苦悶に歪んだ。「ドルマントだと」と、息を詰まらせたような、打ちのめされた声が響いた。あとになってスパーホークは、アニアス司教への復讐はこの時点で完全に成し遂げられたのだと考えるようになった。今の一言が仇敵に与えた苦悩の激しさは、スパーホークには絶対に理解できないものだった。この瞬間、シミュラの司教の生涯は崩壊し、灰となってしまったのだ。
スパーホークは容赦しなかった。
「驚いたろう。まさに誰もが考えもしなかった人選だ。カレロスでは多くの人々が、神ご自身の介入があったのだと信じてる。わが妻であるエレニアの女王が――ああ、覚えているかね? 金髪の、なかなか美しい女性だ。あなたが毒を盛った――あの女王が、まさに大司教たちが思い悩んでいるその時に演説をしてね。実際には、ドルマントを示唆したのは女王だったんだ。驚くほど弁の立つ女性だよ。もっとも、一般に信じられているところでは、その演説は霊感に打たれてなされたものだということになっている。何しろドルマントは、全会一致で選出されたのだからね」
「そんなことがあるはずはない! 嘘をついているんだろう、スパーホーク!」
「自分で調べてみればいいだろう。カレロスに戻れば、きっと議事録を調べる時間はたっぷりあるはずだ。誰がおまえを裁判にかけて処刑するかという点で、大論争が巻き起こるのは目に見えているからな。何しろゼモック国境から西では、おまえはありとあらゆる人間をことごとく敵に回しているんだ。しかも全員が全員、何らかの理由でおまえを殺したがってる」
「ずいぶん子供っぽい真似だな、スパーホーク」マーテルが嘲笑《あざわら》った。
「もちろんだとも。誰だって時にはこうなる。今日の夕日があまり見栄えのするものじゃなかったのが残念だよ、マーテル。おまえにとっては最後の夕日だったのにな」
「おれかおまえか、どちらかにとってだな」
「セフレーニア」低く轟《とどろ》くような声がした。
「何です、オサ」教母が静かに答える。
「そなたの愚かなる女神に別れを告げるがよい」玉座の上のナメクジのような男が、古めかしいエレネ語で言った。豚のような小さな目はようやく焦点を結んでいたが、手はまだ震えている。「そなたと若き神々との不自然なる関わりも、終わるときが来たのだ。アザシュがそなたを待っておる」
「それはどうですかね、オサ。わたしは〈未知なる者〉を連れてきました。生まれるずっと以前から出現を待たれていたこの者の手には、ベーリオンがあります。アザシュはこの者を恐れているのですよ。あなたもまた恐れるべきでしょうね、オサ」
オサは玉座に沈みこんだ。頭が亀のように、太い首の中に引っこんだかに見えた。手が驚くほどのすばやさで動き、そこから小柄なスティリクム女性を狙って、緑がかった光が飛び出す。だがスパーホークはその瞬間を待っていた。騎士は籠手をはずした両手で盾をつかみ、何気ない様子で立っていた。だがその両手の指輪の石は、しっかりと盾の鉄の縁に押しつけられていたのだ。鍛え上げた動きで飛び出したスパーホークは、すかさずその盾を教母の前に差し掛けた。緑の光線は盾に当たって跳ね返り、衛兵が一人、いきなり音もなく蒸発した。玉座の間に白熱した鎖帷子の破片がいっぱいに飛び散る。
スパーホークは剣を抜いた。
「そろそろ茶番は終わりにしないか、マーテル」
「こちらもそうしたいところなんだがね。だがアザシュが待っている。どういうことかわかるだろう」
ティニアンとアラスが守っているドアを叩く音が激しくなった。
「ドアをノックしてるぜ、スパーホーク。いい子だから、行って誰だか見てこいよ。どうもあの音は歯に響いて」
スパーホークは前進をはじめた。
「皇帝を安全なところへ!」アニアスが玉座のそばに控えている屈強な男たちに向かって叫んだ。男たちは訓練された迅速さで、宝石を飾った玉座の下に鋼鉄の棒を差しこんだ。その棒に肩を押し当て、主人の巨体ごと玉座を台座から担ぎ上げる。男たちは玉座を担いだまま向きを変え、背後のアーチ型の開口部へ向かってどたどたと駆け出した。
「アダス! そいつらを近づけるな!」マーテルはそう叫び、アニアスとアリッサ親子を連れてオサのあとを追った。代わって野獣のようなアダスが進み出ると、槍を構えたオサの衛兵たちを剣の平らな部分で叩いて叱咤し、大声で命令をわめいた。
正面扉の外の兵士たちは破城槌を持ち出してきたらしく、扉を揺るがす音がさらに激しくなった。
「スパーホーク! この扉はもう長くはもたんぞ」ティニアンが叫ぶ。
「そこはいいから、こっちに加勢してくれ! オサとマーテルたちが逃げる!」スパーホークは肩越しに叫び返した。
アダスに命令された兵士たちは、散開してスパーホークとクリクとベヴィエに対峙した。攻めこもうとするのではなく、騎士たちが迷路へと通じるアーチ門に近づくのを防ごうとしているようだ。多くの面できわめて、驚くほど愚かなアダスだが、戦士としての才能は本物だった。しかもこうした単純な状況で、把握できる程度の人数の兵士を使って行なう戦闘では、その才能は最大限に発揮される。オサの衛兵にうめき声と蹴りと拳《こぶし》で指示を与えて、アダスは手勢を二、三人ずつの組に分けた。一つの組で一人の騎士の相手をさせようというわけだ。マーテルの命令は、アダスの限られた理解力でも誤解のしようがないほど明瞭なものだった。マーテルが逃げるまでの時間を稼ぐのだ。その役目をアダス以上にうまくこなせる者は、たぶんどこにもいなかったろう。
それでもカルテンとアラスとティニアンとベリットが戦闘に加わると、アダスは退却を始めた。数の上では優勢でも、ゼモック人の戦士は鋼鉄で身を固めた騎士の敵ではない。だがアダスは迷路の入口の少し奥まで衛兵を後退させ、槍を使ってなおも騎士たちの接近を妨害しつづけた。
そのあいだも規則的に破城槌を扉にぶつげる音は響きつづけている。
「迷路に突っこむしかないぞ。あの扉が破られたら挟み撃ちだ」ティニアンが叫んだ。
行動を起こしたのはサー・ベヴィエだった。これまでにもこの若いシリニック騎士は、自身の安全を顧みずにすばらしい勇気を示したことがあった。ベヴィエは前進して、先端が鉤になった、恐ろしげなロッホアーバー斧を振るった。ただしその狙いは敵の兵士ではなく、兵士の持つ槍だった。穂先を失った槍はただの棒にすぎない。アダスの手勢はたちまちのうちに武器を失ったが、ベヴィエのほうも脇腹を痛撃され、腰のあたりに深い傷を負った。甲冑の隙間から血を流しながら、ベヴィエはよろめくように後退した。
「ベヴィエを頼む!」ベリットに一声かけて、スパーホークはゼモック兵の隊列に迫った。槍を失ったゼモック兵は剣を抜いたが、この時点で優位ははっきりと教会騎士のほうに移っていた。甲冑の騎士たちは行く手をふさぐゼモック兵を次々に斬り伏せた。
すばやく情勢を見て取ったアダスは、アーチ門の奥へと後退した。
「アダス!」ゼモック兵の死体を蹴りのけてカルテンが叫ぶ。
「カルテン!」アダスは咆哮して一歩足を踏み出した。豚のような目をぎらぎらさせている。だがすぐに鼻を鳴らし、腹いせに味方の兵士を剣で貫くと、迷路の奥へと姿を消した。
スパーホークはすぐさま踵《きびす》を返した。「どんな具合です」と傷ついたベヴィエのそばにひざまずいているセフレーニアに声をかける。
「重傷です、スパーホーク」
「出血を止められますか」
「完全には無理です」
ベヴィエは青い顔で、脂汗を流して横たわっていた。甲冑の胸当てが二枚貝のように開いている。
「行ってください、スパーホーク。わたしはできる限りここを守ります」
「ばかを言うな」スパーホークは一蹴した。「できるだけ傷口を押さえてください、セフレーニア。それから甲冑を閉じます。ベリット、肩を貸してやれ。必要ならおまえが担いでくるんだ」
正面扉を突破しようとする音は響きつづけており、木が割れるような音も混じりはじめていた。
「ドアが破られそうだぞ、スパーホーク」カルテンが叫んだ。
スパーホークは迷路へと続く長いアーチ天井のある通廊を見やった。鉄の輪に差した松明が、かなりの間隔をおいて灯《とも》っている。スパーホークの胸に、急に希望の火が灯った。
「アラスとティニアンはしんがりを守ってくれ。扉を破って敵が入ってきたら、叫んで知らせるんだ」
「わたしは足手まといになるだけです」ベヴィエが弱々しく抗議する。
「そうでもないさ。どうせ迷路の中を駆け抜けるわけにはいかない。どんな罠が待ち受けているかわからないんだ、無茶はできないからな。さて、諸君、進もうか」
一行は迷路へと続く、長くまっすぐな通廊を歩きだした。途中に明かりのない脇道が二、三本、黒く口を開いていた。
「脇道を調べなくていいのか」とカルテン。
「その必要はありませんよ」クリクが言った。「アダスの手下にも負傷者がいるらしくて、床に血の跡が続いてます。アダスの進んだ道だけはこれでわかります」
「マーテルも同じ道を進んだとは限らんだろう。アダスには、おれたちを間違った道に引っ張りこめと言ってあるかもしれん」
「その可能性はあるな」スパーホークもカルテンに同意した。「だがこの通路には明かりがある。ほかの道にはない」
「通る道に松明で印がついてるんじゃあ、迷路とは呼べないと思いますよ」クリクが指摘する。
「かもしれんが、少なくとも松明と血の跡が同じ方向に続いてるあいだは、そのあとを追っていこう」
声の反響する通廊は、突き当たりで鋭く左に曲がっていた。上へ行くほど狭くなるアーチ型の天井は、低すぎるという錯覚を抱かせる。気がつくとスパーホークは首をすくめるようにして歩いていた。
「玉座の間の扉が破られたらしい。入口のほうに松明が見える」アラスが最後尾からそう声をかけた。
「おかげで解決する問題もあるな。脇道を探索している時間はないというわけだ。このまま進もう」
松明の灯っている通廊は、そのあたりから曲がりくねりはじめた。床にはまだ血の跡が続いており、アダスと同じ道をたどっていることがわかった。
通廊が右に曲がる。
「大丈夫か」スパーホークはベヴィエに声をかけた。ベヴィエはベリットの肩にすがって荒い息をついている。
「大丈夫ですよ、スパーホーク。ちょっと息を整えたら、手助けなしで歩けます」
通廊はふたたび左に曲がり、数ヤード先でさらに左に折れた。
「もと来た道を戻ってますよ、スパーホーク」クリクが言った。
「わかってる。どうしろって言うんだ」
「ちょっと思いつきませんがね」
スパーホークは最後尾に向かって呼びかけた。
「アラス、うしろの連中は追いついてきてるのか」
「よくわからん」
「向こうも迷路を抜ける道を知らないんじゃないですか」とクリク。「アザシュの寺院を訪れるのが、そう楽しいとは思えませんからね」
と、敵が脇道から襲いかかってきた。槍で武装したゼモック兵が五人、暗い脇道から突進してきて、スパーホークとカルテンとクリクに殺到したのだ。槍による優位は多少あったものの、じゅうぶんではなかった。三人が血まみれになって石の床の上でのたうち回ると、あとの二人は飛び出してきた脇道の奥へと逃げ去った。
クリクは壁の松明をはずし、スパーホークとカルテンの先に立って暗く曲がりくねった通路へと駆けこんだ。しばらくすると逃げていった二人の姿が見えた。二人は通路の壁に張りつくようにして、恐る恐るといった様子で横ざまに進んでいた。
「捕まえたぞ」カルテンが二人の兵士に追いすがろうとした。
「カルテン! 止まって!」クリクが絶叫した。
「何だよ」
「あの二人は壁ぎわにへばりついてます」
「だから?」
「通路の中央に何があるんでしょう」
カルテンは目を細くして壁ぎわの二人を見つめた。
「調べてみるか」カルテンは剣を使って小さな敷石をこじり出し、それを敵兵に向かって投げつけた。石は標的を何フィートもそれた場所に当たった。
「わたしがやります。そんなふうに甲冑で肩を締めつけられてたら、ものを投げることなんてできませんよ」クリクは自分で別の石をこじり出した。狙いは従士のほうがずっと正確で、投げられた石は片方の兵士の兜《かぶと》に当たり、大きな音をさせてはね返った。男は悲鳴を上げてうしろによろめき、石壁の手がかりらしいものに何とかつかまろうとした。しかしそれはうまくいかず、男の足が通廊の中央の床を踏んだ。
とたんに床が兵士の下で口を開けた。その男は絶望の悲鳴を残して消え失せていた。同僚のほうもそれを見て動きがぎこちなくなり、壁沿いの狭い足場を踏みはずして、すぐに仲間のあとを追った。
「うまいな」クリクは口を開けている落とし穴の前まで行き、中を松明で照らし出した。「底には鋭い杭がいっぱいです」と落ちた二人の兵士を見て、「戻ってみんなに話しましょう。足を踏み出すときはよく注意したほうがいい」
三人が松明に照らされた元の通廊に戻ると、アラスとティニアンが追いついてきたところだった。クリクは二人のゼモック兵の命を奪った罠のことを簡潔に説明し、その場に倒れている敵兵の姿に目をやって、落ちていた槍を拾い上げた。
「アダスの手下じゃありませんね」
「どうしてわかるんだ」とカルテン。
「アダスといっしょにいた連中の槍は、サー・ベヴィエがみんな壊してしまったはずです。つまりこの迷路の中には、あれとは別の部隊がいるってことです。今の連中みたいに、小人数に分かれてるんだと思います。われわれを脇道の罠に誘導するつもりなんでしょうね」
「申し訳ないくらいだ」アラスが言った。
「どういう理屈なんです、サー・アラス」
「そいつらは、迷路の罠をおれたちの代わりに踏んで歩いてくれる。おれたちは敵を捕まえればいいだけだ」
「災いを転じて福となすってやつか」ティニアンが口をはさむ。
「まあそうだ。捕まったゼモック人には災いばかりだが」
「背後の敵は急速に迫ってきてるんですか」とクリク。
「そうでもない」
クリクは脇道に引き返して、松明を高くかかげた。戻ってきたときには酷薄な笑みを浮かべていた。
「脇道にもこっちと同じように、松明を差す鉄の輪があります。松明をいくつか移動させたらどうでしょう。われわれは松明を追ってきて、うしろの敵はわれわれを追ってるわけですから、松明が罠のある脇道のほうに向かってたりすると、敵は慎重に進まざるを得なくなるはずです」
「あいつらのことは知らんが、おれならそうする」アラスが答えた。
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28[#「28」は縦中横]
ゼモック兵は間を置いて脇道から攻撃を仕掛けてきた。その顔にはすでに生きることをあきらめた、希望のない表情があった。だが降伏か死か≠ニいう選択は、兵士たちに考えもしなかった可能性を開いた。ほとんどの者がその可能性にとびついたが、先頭を歩かされることを知ると、その感謝の念もだいぶ薄らいだようだった。
不注意な人間を狙う罠は、どれも巧妙なものだった。床に落とし穴がないと思って安心していると、天井が崩れてきた。落とし穴の底にはたいてい鋭く尖《とが》らせた杭が立ち並び、そうでない場合はさまざまな爬虫類が待ち受けていた。いずれも毒を持った、ひどく興奮している連中だ。一度など、迷路の設計者が落とし穴と崩れる天井に飽きてしまったのか、左右の壁が飛び出してきて犠牲者を押しつぶした。
「どうもおかしいですね」クリクが言った。今また背後では、玉座の間から追ってきた兵士たちが脇道に誘いこまれ、罠にかかって発する絶叫が響いていた。
「おれには何もかもうまくいってるように思えるぜ」カルテンが答える。
「あの兵隊たちはここの衛兵なんですよ。なのにわれわれ同様、この迷路のことは何もわかってないみたいだ。手持ちの捕虜も底をついたことですし、少し考えてみたほうがいいと思いますね。さもないと大失敗をしそうです」
一同は通廊のまん中に集まった。
「どうもこれはうまくない気がします」とクリク。
「ゼモックに来たことか? カレロスにいるうちに指摘しといてやればよかったな」カルテンが混ぜ返す。クリクはそれを無視した。
「ここまで床の血の跡を追ってきたわけですが、それはまだこの先も続いてます。松明に照らされた通路のまん中をね」片足で床の血だまりをこすり、「こんな出血が続いてたとしたら、ずっと前に死んでるはずです」
タレンがしゃがみ込み、指先を血の跡にひたしてちょっと舐《な》めてみて、床に唾を吐いた。
「これ、血じゃないよ」
「じゃあ何なんだ」とカルテン。
「わかんないけど、血じゃない」
「騙《だま》されてたわけか」アラスが苦々しげにつぶやく。「おれもおかしいと思いはじめてた。しかもまずいことに、おれたちはここから出られない。松明《たいまつ》を頼りに引き返すこともできない。ここ半時間以上、せっせと松明の位置を変えつづけてきたからな」
「これで論理学に言う問題の定義≠ェできたわけですね」ベヴィエが弱々しく微笑んだ。「次の段階は解決法の発見≠ノなるはずですが」
「おれはそのほうの専門家じゃないが、この状況から論理を使って脱出できるとは思えないな」カルテンが言い返した。
「指輪を使ってはどうです。スパーホークなら、迷路をまっすぐに突っ切る通路を作れるんじゃありませんか」ベリットが提案する。
「アーチ天井の通路なんだぞ、ベリット。壁に穴なんかあけたら、天井が崩れ落ちてくる」
クリクの言葉に、カルテンがため息をついた。
「残念な話だ。これだけいい案が出てるのに、うまくいかないというだけの理由で採用できないなんてな」
そのときタレンが口を開いた。
「この迷路の謎はどうしても解かなくちゃいけないの? つまり、この謎を解くことに宗教的な重要性があるわけ?」
「そういう話は聞いてないな」ティニアンが答えた。
「だったら、どうして迷路の中なんかにいるのさ」少年が無邪気に尋ね返す。
「外に出る方法がないからだ」スパーホークが苛立ちを抑えて答える。
「それはどうかな、スパーホーク。方法はないわけじゃないよ。壁を崩すのが危険だっていうクリクの話はそのとおりだろうけど、天井のことは何も言ってなかったよね」
一同はしばらくタレンを見つめていたが、やがて全員が爆笑した。
「上に何があるのかはわからない」とアラス。
「次の角を曲がったってそれは同じだよ、サー・アラス。天井の上だって、見てみなくちゃどうなってるかわからないだろ」
「青空が広がってるかもしれん」とクリク。
「それよりもこの迷路のほうがましだっていうわけ? 外に出てしまいさえすれば、スパーホークが指輪で寺院の壁を崩したっていいんだ。オサは迷路が好きなのかもしれないけど、おいらはもうこの迷路では楽しむだけ楽しんだ気分だね。プラタイムから教わった最初の規則の一つは、気に入らないゲームならやめればいいってことだった」
スパーホークは問いかけるようにセフレーニアを見つめた。教母は悲しそうに微笑んでいた。
「わたしとしたことが、思いつきもしませんでした」
「うまくいきますかね」
「問題はなさそうですね――崩れてきた天井の下敷きにならないよう、少し離れて立ってさえいれば。とにかく天井を見てみましょう」
一行は松明を何本か高く掲げて、アーチ型の天井を調べた。
「構造的に、あれを崩すと何か問題があると思うか」スパーホークがクリクに尋ねた。
「ないでしょう。交互に支え合う形になってますし、とりあえず全体が崩れるってことはないはずです。でもかなりの石が落ちてきますよ」
「それはいいんだよ、父さん。落ちてきた石は、上に這《は》い上がる足場になるからね」
「とにかく、あの石組みを崩すには相当な力が必要です。アーチ天井には通廊全体の重さがかかってるようなものですから」
「石材がいくつか、そこになかったとしたらどうなります」セフレーニアが尋ねる。
クリクは壁が湾曲を始めるあたりに手を伸ばし、二つの石材の隙間にナイフの刃を滑りこませた。
「漆喰《しっくい》を使ってますね。でもかなりはがれてる。石材を五、六個消すことができれば、相当大きな部分が崩れ落ちてくると思います」
「通廊全体が崩れたりはしないんだな」
クリクはうなずいた。
「ええ。何ヤードか崩れてしまえば、残りの部分は安定するはずです」
「本当に石を消せるのですか」ティニアンが興味深げにセフレーニアに尋ねた。
「いいえ、ディア」セフレーニアが微笑む。「でも、石を砂に変えることはできます。結果としては同じことでしょう」教母はしばらく仔細に天井を調べてから、アラスに声をかけた。「アラス、あなたがいちばん身長があります。わたしを持ち上げてください。天井に触れるように」
アラスがまっ赤になる。その気持ちはほかの者たちにもよくわかった。セフレーニアは軽々しく手を触れることのできるような女性ではないのだ。
「何を照れているのです。さあ、持ち上げてください」
アラスは脅すように一同を見まわした。「あとでこの話をするのはなしだ。いいな」そう言うと屈みこみ、軽々とセフレーニアを持ち上げた。
教母は木にでも登るようにアラスの身体をよじ登り、手を伸ばしていくつかの石に触れた。それぞれの石の上にしばらく掌《てのひら》を押し当てている。まるでそっと撫でるような触れ方だった。
「これでいいでしょう。下ろしてください、騎士殿」
アラスは教母を床の上におろし、全員が通廊を少し引き返した。
「いつでも走れるようにしていてください。やや精確さに欠けるところがありますから」そう警告して、セフレーニアは両手を動かしながら早口でスティリクム語の呪文を唱えはじめた。掌を上に向けて両手を上げ、呪文を解き放つ。
天井から細かい砂がこぼれはじめた。おおざっぱに四角く削り出された石材と石材のあいだから、さらさらと流れ落ちてくる。最初はごく細い流れだったものが、徐々に太くなりはじめた。
「水が洩《も》れてるみたいだな」砂の流れを見ながらカルテンが感想を述べた。
やがて壁がきしみはじめ、漆喰の割れる音が響いてきた。
「もう少し退がったほうがいいでしょう」あたりの石組みを眺めてセフレーニアが言った。「呪文はうまく働いています。ここで監督している必要はありません」セフレーニアの価値観にはよくわからない部分がある。ささいな事項にひどくこだわることがあるかと思うと、恐ろしい問題をごくそっけなく扱ったりするのだ。一行はもう少し通廊の奥へと後退した。砂が流れ落ちているあたりの天井の石材は、今やぎしぎしときしみながら揺れ動いている。一度に何分の一インチかずつ、砂に変わりつづけているのだ。
崩壊は一気に起こった。頭上のアーチ天井がかなりの部分にわたっていっせいに崩落し、すさまじい音響とともに岩と数世紀を経た埃《ほこり》がなだれ落ちてきて、全員が激しく咳《せ》きこんだ。しだいに埃がおさまると、天井には大きなぎざぎざの穴があいていた。
「見にいってみよう。上がどうなってるのか、興味津々だ」ティニアンが言った。
「もう少し待ちませんか。完全に大丈夫だとわかるまで」セフレーニアが不安そうに提案する。
そのあと一行は瓦礫《がれき》の山をよじ登り、互いに手を貸して穴の上へと這《は》い上がった。天井の上は巨大なドーム状の空間になっていた。かび臭い、いやなにおいがする。下の通廊から持って上がってきた松明の光は弱々しく、壁まで届きさえしなかった――この空間の果てに本当に壁があるとしての話だが。床にはモグラの穴が地上に作るのとそっくりの畝《うね》が無数に走っていた。異常なほど勤勉なモグラだ。下の迷路にいたときにはわからなかった構造的な機構も、上から見るとよくわかった。
「動く壁です」クリクが床を指差しながら言った。「通路を閉じたり開いたりして、好きなように迷路を変形させられるようになってますね。ゼモック人衛兵まで中で迷っていたのは、これのせいだったんです」
「明かりが見える。左手前方だ。下から洩れてるようだな」アラスが言った。
「寺院の明かりかな」とカルテン。
「あるいは玉座の間か。見てこよう」
しばらくアーチ天井の上を歩くと、アラスが見つけた明かりのほうへまっすぐに延びている通路が見つかった。反対側は闇の中へと消えている。
「埃がない。しょっちゅう使われてる証拠だ」アラスが足許を示して指摘した。
まっすぐな通路を歩くのはアーチ天井の上よりもずっと早く、一行はすぐに揺らめく明かりのもとへ到着した。そこには下り階段があって、松明に照らされた部屋へと通じていた。部屋は四面が壁で、ドアはない。
「妙な部屋だ」カルテンが鼻を鳴らした。
「そうでもありませんよ」クリクは松明を上げ、通路の両側を調べた。「あの正面の壁は、あれに沿って動くようになってます」と金属製の二本のレールを指差す。レールは壁の向こうの部屋から延びていた。身を乗り出してさらによく調べてから、「外側に仕掛けらしきものはありませんから、どこかに掛け金か何かがあるはずです。下りていって探してみましょう」
スパーホークとクリクは階段を下りた。
「何を探せばいいんだ」スパーホークが尋ねる。
「わかるわけないでしょう。ごく普通に見えて、そうじゃないものです」
「あまり具体的とは言えないな」
「いいからあちこちの石を押してみてください。動く石があったら、たぶんそれが掛け金です」
二人はあちこちの石を押してまわった。しばらくしてクリクは動きを止め、自分に愛想がつきたという顔で声を上げた。
「スパーホーク、掛け金を見つけました」
「どこだ」
「左右とうしろの壁に松明がありますよね」
「ああ。それがどうした」
「でも正面の壁には松明がありません。階段を下りた目の前のやつです」
「だから?」
「でも松明を立てる鉄の輪だけは、この壁に二つあります」クリクは壁の前に行き、錆びた鉄の輪の片方を引っ張った。がつんと固い音がした。「そっちも引っ張ってください、スパーホーク。扉を開けて、向こうに何があるか見てみましょう」
「ときどきおまえの頭のよさに気分が悪くなるよ」スパーホークは渋い顔で言って、すぐに笑みを浮かべた。「まずみんなを呼ぼう。壁の向こうにゼモック軍団の半数が勢ぞろいしてて、それを二人きりで抑えなくちゃならないなんてことになったら、たまったものじゃないからな」騎士は階段まで戻って、待っている仲間たちを手招きした。指を一本唇に当てて、静かにしろと伝えることも忘れなかった。
全員が音を立てないように、そっと階段を下りてきた。
「クリクが掛け金を見つけた。壁の向こうに何がいるかわからないから、心の準備はしておいてくれ」
クリクは一同に向かって小さく声をかけた。
「そんなに重い壁じゃありませんし、レールにはよく油が引いてあるようです。ベリットとわたしで動かせるでしょう。ほかのみなさんは、向こうに何かいた場合に備えてください」
タレンがすばやく左側の隅に移動し、壁と壁の継ぎ目を調べた。
「少しだけ開けてくれれば向こうが見えるよ。おいらが叫んだら、すばやく閉めるってのはどう?」
クリクがうなずいた。「いいですか」
全員がうなずき返し、武器を握る手に力を込めた。
クリクとベリットが鉄の輪を引っ張り、壁を少しだけずらした。「どうだ」クリクが息子に声をかける。
「誰もいないね。短い廊下で、松明が一つだけ灯ってる。二十|歩《ペース》ほど先で左に折れてるみたいだな。角の向こうはずいぶん明るくなってる」
「よし、ベリット、いっぱいに開けるぞ」
二人は壁をいっぱいに引き開けた。
ベリットが感心したように声を上げる。
「これはとてもいい考えですね。迷路は実はどこへも通じていなくて、寺院へ行く本当の通路は頭の上にあるわけだ」
「ここがどこなのか調べてみよう。寺院の中なのか、それとも玉座の間に戻ってしまったのか。できるだけ静かにやってくれ」スパーホークが言った。
タレンは何か言いたそうな顔になったが、クリクに先手を打たれてしまった。
「だめだ。危険すぎる。セフレーニアとあとからついてこい」
短い通路に出ると、突き当たりの壁の松明がほの明るい光をゆらゆらと放っていた。
「何の物音もしないな」カルテンがスパーホークにささやいた。
「待ち伏せをしようとする連中は、物音なんて立てないもんだ」
通路が鋭く左へ折れる手前で、一行はしばらく足を止めた。アラスが角ににじり寄り、兜を取って頭を突き出すと、すばやく向こう側をうかがった。
「誰もいない。十五|歩《ペース》か二十|歩《ペース》先で右に曲がってる」
一行は角を曲がり、先へ進んだ。ふたたび角の手前で足を止め、またしてもアラスが首を突き出す。
「壁龕《アルコーヴ》みたいになってる。その先にアーチ型の通路があって、もっと広い通路に通じてる。そっちの通路はずいぶん明るい」
「人影は見えますか」とクリク。
「鼠一匹いない」
「その広いのが中央通路でしょう」ベヴィエがささやく。「寺院に通じる本当の道への入口は、迷路の端近くにあるはずです。玉座の間のほうでも、寺院のほうでも」
角を曲がって壁龕《アルコーヴ》に入ると、アラスはもう一度すばやくあたりをうかがった。
「たしかに中央通路らしい。百|歩《ペース》ほど行ったところで左に折れてる」
スパーホークは心を決めた。
「その角まで行ってみよう。ベヴィエの言うとおりだとしたら、角の向こうの通路は迷路の外に通じてるはずだ。セフレーニア、あなたはここにタレンとベヴィエとベリットといっしょに残ってください。クリク、おまえはこの入口を守れ。残りはわたしといっしょに来てくれ」それから従士にだけ耳打ちする。「何かまずいことが起きたら、セフレーニアたちを連れて階段の下の部屋まで戻れ。壁を閉じて掛け金をかけるんだ」
クリクはうなずいた。
「じゅうぶん気をつけてください、スパーホーク」
「おまえもな、わが友」
四人の騎士はアーチ天井の広い通路に出て、松明に照らされた前方の中央通路を目指した。角まで来るとアラスがちょっと首を突き出し、すぐに後退して小声でささやいた。
「こんなことだと思った。玉座の間だ。元の場所に戻っただけだ」
「誰かいるか」とティニアン。
「いるかもしれんが、なぜ気にする。階段まで戻って壁を閉じて、玉座の間にいる連中は勝手に楽しませておけばいい」
引き返そうとふり向いた、まさにその時だった。十人のゼモック兵を率いたアダスが壁龕《アルコーヴ》にほど近い脇道からいきなり飛び出してきて、腹の底から絶叫したのだ。玉座の間からは警戒して呼びかわす声が響いてきた。
スパーホークは即座に反応した。
「ティニアン、アラス、玉座の間のほうの敵を頼む! 行くぞ、カルテン!」二人はクリクが守っているアーチ状通路の入口に向かって駆け出した。
アダスが限られた知能で考える作戦は、あまりにも明々白々だった。部下を叱咤して先に行かせ、自分は戦斧《バトルアックス》を手にしてゆっくりと前進する。豚のような目には狂気じみた光があった。
遠すぎる。スパーホークはすぐに悟った。スパーホークとカルテンに比べて、アダスはずっと壁龕《アルコーヴ》の近くにいるのだ。そして二人の前にはもう敵兵が展開を始めていた。スパーホークは目の前のゼモック兵を斬り捨てながら叫んだ。
「クリク! 後退しろ!」
だが遅すぎた。クリクはもう猿のようなアダスの前に立ちふさがっていた。フレイルがうなりを上げ、相手の鎧《よろい》の肩と胸を痛撃する。だがアダスは殺気立った狂気にとらわれており、何の痛痒も感じないかのように、くり返しクリクの盾に戦斧を振るっていた。
こと接近戦にかけては、クリクは間違いなく世界最高の手練《てだ》れの一人だろう。しかしアダスは完全に狂乱しているようだった。斧を振るい、足で蹴りつけて、猛然とクリクに肉薄していく。クリクは一歩また一歩と後退を余儀なくされた。
アダスは盾を投げ捨て、戦斧を両手で握って続けざまにクリクの頭を狙った。一方的に受け身に回ったクリクは両手で盾を握り、強烈な打撃から頭を守った。アダスは勝利の雄叫びを上げて斧を振るった――頭ではなく、胴体を狙って。斧は胸部に深々と食いこみ、胸の傷と口から激しく血が噴き出した。「スパーホーク!」か細い叫びとともに、クリクは後退して壁に寄りかかった。
アダスがふたたび斧を振り上げる。
「アダス!」カルテンがゼモック兵を斬り倒しながら大声で叫んだ。
アダスはクリクの無防備な頭に振りおろそうとしていた斧を止め、肩越しにふり返った。
「カルテン!」挑戦に応えて咆哮し、スパーホークの友人を無造作に蹴りのけると、アダスは金髪のパンディオン騎士のほうへ突き進んだ。太い眉の下の豚のような目に、正気ではない光が宿っている。
スパーホークとカルテンは剣士らしさをかなぐり捨て、行く手にあるものをことごとく切り倒しながら、技巧よりも力と怒りに頼って前進しはじめた。
完全に自分を見失ったアダスは、部下の兵士たちをなぎ倒して近づいてくる。
通路に倒れたクリクは胸の傷を押さえ、フレイルを杖に立ち上がろうとしたが、足がよろめいてまた倒れてしまった。それでもすさまじい努力で肘を突いて身体を起こし、自分を打ち倒した敵のあとを追おうとする。と、その目が急に虚《うつ》ろになり、顔から先に頭が床の上に落ちた。
「クリク!」スパーホークは絶叫した。目の前がまっ暗になり、耳鳴りであたりの音が何も聞こえなくなる。とつぜん剣の重さがまったく感じられなくなった。ただ目の前にあるものにめちゃくちゃに切りつける。気がつくと壁の石に向かってしきりに剣を振るっていた。火花のおかげでどうにかわれに返ることができたようなものだ。剣が刃こぼれするといってクリクが文句を言うだろう……
いつの間にかタレンが父親の脇に寄り添っていた。膝をついて、懸命にクリクを仰向かせる。タレンの口から言葉にならない喪失の泣き声が洩れた。
「死んじゃったよ、スパーホーク! 父さんが死んじゃった!」
その声に、スパーホークは思わず膝をつきそうになった。愚鈍な獣のようにかぶりを振る。そんなはずはない。今のは空耳だ。襲ってきたゼモック人をほとんど無意識のうちに斬り伏せる。背後から剣戟の音が響いてきて、ティニアンとアラスが玉座の間の敵を遠ざけてくれているのがわかった。
タレンが立ち上がり、すすり泣きながらブーツに手を伸ばした。切っ先が針のように鋭い長めの短剣を手にして、アダスの背後に忍び寄る。底の柔らかい靴のせいで、足音はまったくしなかった。少年は頬を涙で濡らしながらも、憎しみに歯を食いしばっていた。
スパーホークは別のゼモック兵を斬り倒した。カルテンも敵の首を打ち落としている。
アダスは怒った雄牛のように咆哮して、部下の一人の頭を叩き割った。
その咆哮がいきなり途絶えた。アダスは目を丸くして、口をぽかんと開けている。身体に合っていないアダスの鎧は、胴丸が腰の全面を覆っていなかった。鎖帷子だけに守られたその部分を狙って、タレンが短剣を突き立てたのだ。鎖帷子は剣や斧の攻撃ならある程度まで防いでくれるが、細身の剣を突き刺されるとまったく役に立たない。タレンの短剣は獣のような男の背中、ちょうど胴丸で覆われた部分のすぐ下に滑りこんで、腎臓を貫いていた。タレンは短剣を引き抜き、今度は反対側から一突きした。
アダスは手負いの野獣のような声を上げた。前によろめきながら、片手を背中に回して傷口を押さえようとする。その顔が苦痛と衝撃のせいで蒼白になった。
タレンは膝の裏に短剣を突き立てた。
アダスはさらに何歩かよろめき進み、斧を取り落とし、両手で背中を押さえた。その身体が床に倒れてのたうつ。
スパーホークとカルテンは残りのゼモック兵を片付けた。タレンはもう落ちていた剣を拾ってアダスの身体をまたぎ、兜の上から頭に刃を叩きつけていた。それから剣を持ちかえ、のたうっているアダスの胸当ての上から懸命に剣を突き立てようとする。だが少年の力では胸当てを貫くことはできなかった。
「手を貸して! 誰か手を貸してよ!」
スパーホークは泣いている少年の横に立った。騎士の目からも涙が流れつづけている。剣をおろし、タレンがアダスに突き立てようとしている剣の柄に手を添え、もう一方の手もそれに重ねる。
「こうするんだ、タレン」その口調は訓練場で誰かに稽古をつけているような、冷静とさえ言えそうなものだった。
二人はうめき声を上げるアダスの両側に立ち、いっしょに剣を握った。柄の上で手と手が触れ合う。
「急ぐことはないからね、スパーホーク」タレンが歯を食いしばったままつぶやいた。
「そうとも」騎士はうなずいた。「急ぐことはない。おまえが急ぎたくないなら」
二人がゆっくりと剣を押しこむと、アダスは悲鳴を上げた。その声が口からほとばしる盛大な血しぶきに変わる。「頼む……」アダスが哀願した。
スパーホークとタレンは無言で剣の刃をひねった。
アダスはもう一度悲鳴を上げ、頭を何度も床に打ちつけた。踵《かかと》が敷石に模様を刻みつける。痙攣《けいれん》する身体が弓なりにそり返り、ふたたび血が噴き上がって、アダスはぐったりと動かなくなった。
タレンは泣きながら死体にむしゃぶりつき、かっと見開かれた目を掻《か》きむしった。スパーホークは屈《かが》みこみ、そっと少年を抱え上げると、クリクの横たわっているところまで運んでいった。
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29[#「29」は縦中横]
松明《たいまつ》に照らされた通路ではまだ戦闘が続いていた。鋼《はがね》と鋼のぶつかる音、悲鳴、叫び、うめき。仲間を助けに走るべきだと頭ではわかっているのに、衝撃のあまりの大きさのせいで、スパーホークは動くこともできず、茫然とその場に立ちつくした。タレンはクリクの遺体のそばに膝をつき、泣きながら石の床に拳を打ちつけている。
「行かないと」大柄なパンディオン騎士は少年に声をかけた。
タレンは答えない。
「ベリット、来てくれ」
若い修練士は斧を手に、注意深く壁龕《アルコーヴ》から滑り出てきた。
「タレンを頼む。クリクを中に引き入れておいてくれ」
ベリットは信じられないという顔でクリクを見つめていた。
「早くしろ! セフレーニアのほうも頼むぞ」
「スパーホーク! 新手だぞ!」カルテンの叫ぶ声が聞こえた。
「今行く!」スパーホークはタレンを見た。「わたしは行かないと」
「行って」タレンは涙に濡れた顔を上げ、激しい口調で言った。「皆殺しにしてよ、スパーホーク。皆殺しに」
スパーホークはうなずいた。それでタレンも多少は救われるだろう。剣を取りに戻りながら、騎士はそう思った。怒りは嘆きを忘れさせてくれる。剣を拾って振り返ると、自分自身の焼けるような怒りが込み上げてきた。カルテンのいるほうに向かいながら、自分の相手をしなくてはならないゼモック兵に憐《あわ》れみを覚えたほどだった。冷静そのものの声でカルテンに呼びかける。
「交代しよう。少し息を整えろ」
「クリクは?」ゼモック兵の槍を受け流しながらカルテンが尋ねた。
「だめだ」
「残念だよ、スパーホーク」
敵の人数は少なかった。騎士たちを脇道に誘いこもうとしていた部隊の分隊らしい。スパーホークはまっすぐ敵の中へ突っこんでいった。戦いはいい。全神経を集中しなければならないので、それ以外のことはすべて意識の外に追いやってくれる。六人のゼモック兵を相手に、スパーホークは敏捷に動きまわった。これもまたそれなりの応報というものかもしれない。スパーホークのすべての動き、すべての技巧は、クリクに教えこまれたものだった。そしてその技には、友人の死に対する燃えるような怒りでいっそう磨きがかかっていた。まさしくクリクが、スパーホークを無敵の戦士に仕立てたのだ。その容赦のなさには友人のカルテンさえもが衝撃を受けていた。ほんの数瞬のうちに、たちまち五人の兵士が床に転がった。最後の一人は背を向けて逃げ出したが、スパーホークは瞬時に剣を左手に持ちかえ、ゼモックの槍を拾い上げた。「忘れ物だ」逃げていく男の背後からそう声をかけ、熟練した動きで槍を投げつける。槍は兵士の背中の中央に突き刺さった。
「お見事」とカルテン。
「ティニアンとアラスの手伝いにいこう」スパーホークはまだ敵を殺し足りていなかった。先に立って通路を戻り、アダスの咆哮に応えて玉座の間から駆けつけてきた敵を防いでいる、アルシオン騎士とジェニディアン騎士に合流する。
「ここは引き受けよう」スパーホークが平板な声で言った。
「クリクは?」アラスが尋ねる。
スパーホークは首を横に振り、ふたたびゼモック兵の殺戮にかかった。止《とど》めはあとの者たちに任せて、ひたすら突進していく。
「スパーホーク、もうよせ! 敵は逃げはじめてる!」アラスが叫んだ。
「急げ! まだ追いつける!」スパーホークが叫び返す。
「放っておけ!」
「いやだ!」
「マーテルが待ってるぞ、スパーホーク」カルテンの鋭い声が響いた。カルテンは時として愚かなふりを見せるが、この一言でスパーホークはたちまち自分を取り戻した。どちらかといえば罪のない兵隊を殺すことなど、白い髪の裏切り者と最終的な決着をつけることに比べれば、無意味な時間つぶしでしかない。スパーホークは足を止めた。
「わかった。戻ろう。敵が戻ってくる前に、あの壁を閉じてしまわなくてはならない」
「少しは気が晴れたか」壁龕《アルコーヴ》に向かって歩きながらティニアンが尋ねた。
「あまり」とスパーホーク。
アダスの死体のそばを通るとき、カルテンが足を止めた。
「先に行っててくれ。すぐに追いつく」
壁龕《アルコーヴ》ではベリットとベヴィエが仲間を待っていた。
「追撃したのですか」ベヴィエが尋ねた。
「スパーホークがな。むきになってた」とアラス。
「すぐに仲間を集めて、引き返してきませんか」
「敵の将校が部下をその気にさせるには、とんでもなく大きな鞭が必要だな」
セフレーニアはもうクリクの遺体を整え終わっていた。命取りとなった胸の大きな傷は、マントがすっぽりと覆い隠している。目は閉じられ、表情は穏やかだった。スパーホークはあらためて、堪えられないほどの悲しみを覚えた。
「どうにかできないのですか」尋ねはしたが、答えは聞くまでもなくわかっていた。
セフレーニアはかぶりを振った。
「いいえ、ディア。ごめんなさい」教母は遺体のそばで泣いているタレンを両腕で抱きしめていた。
スパーホークは嘆息した。
「とにかくここを離れないと。追っ手がかかる前に、あの階段まで戻らなくてはならない」肩越しにふり返ると、カルテンが急ぎ足で追いついてくるところだった。ゼモック兵のマントに何かをくるんで抱えている。
「おれがやろう」アラスは屈《かが》みこんで、屈強な従士を子供のように抱え上げた。やがて一同は埃《ほこり》っぽい闇の中へと延びる階段の下に着いた。
「壁を元に戻して、掛け金をかける方法があるかどうか調べてみろ」
「それなら上からできる。レールの上に障害物を置けばいい」アラスが言った。
スパーホークは苦しい決断を下した。
「ベヴィエ、申し訳ないが、きみはここに置いていかなくてはならない。かなりの傷だし、今日はもうこれ以上友人を失いたくない」
ベヴィエは反論しようとしたが、思い直したようだった。
「タレン、おまえはベヴィエと、お父さんといっしょにここに残れ」悲しげな笑みを浮かべ、「われわれはアザシュを殺しにいくんであって、盗みにいくわけじゃないからな」
タレンはうなずいた。
「それとベリット――」
「お願いです、スパーホーク」若い修練士は目に涙を浮かべて懇願した。「置いていかないでください。サー・ベヴィエとタレンは、ここにいれば安全です。寺院ではきっと役に立ちますから」
スパーホークはちらりとセフレーニアに目を向けた。教母が小さくうなずく。
「いいだろう」気をつけろと忠告しようと思ったが、それではベリットを信用していないようだったので、何も言わないことにした。
「斧と盾を預かりましょう、ベリット。その代わりにこれを」ベヴィエが弱々しい声で言い、自分のロッホアーバー斧と紋章つきの盾を手渡した。
「名誉を汚すことは決していたしません、サー・ベヴィエ」ベリットは誓った。
カルテンが部屋の奥から戻ってきた。
「階段のうしろに空間がある。ベヴィエとクリクとタレンはその下で待ってるといいんじゃないかな。敵がどうにかして壁をこじ開けたとしても、あそこならすぐには見つからないだろう」
ベヴィエはうなずき、アラスはクリクの遺体を階段の陰に移動させた。
「ほかに言うことはあまりない。とにかくできるだけ早く帰ってくる」スパーホークはシリニック騎士の手を握った。
「あなたのために祈ります、スパーホーク。あなたがたみんなのために」
スパーホークはうなずき、クリクの遺体のそばに膝をついて従士の手を握った。
「安らかに瞑《ねむ》ってくれ、わが友」そうつぶやくと立ち上がり、あとはふり向きもせずに階段を登っていった。
迷路の上のモグラのトンネルだらけの中を、広い通路がまっすぐに突っ切っている。その通路の突き当たりの階段はとても幅があり、表面には大理石の板が敷かれていた。階段の下には隠し部屋などなく、寺院に通じる迷路もなかった。迷路など必要ないのだ。
「ここで待て。松明は消しておいてくれ」階段の手前でスパーホークは仲間たちに小さく指示を与え、兜《かぶと》を取って這《は》い進むと、最上段から下を見おろした。「アラス、足首を持っててくれ。どんなところに下りていくのか見ておきたい」がらがらと階段を転げ落ちないよう巨漢のサレシア人に押さえてもらって、スパーホークは頭からじりじりと階段に身を乗り出し、下の部屋の様子をうかがった。
アザシュの寺院は悪夢のような場所だった。丸屋根から予想されるとおりの円形で、直径はたっぷり半マイルはあるだろう。内側に少しずつ湾曲する壁面は、床と同じ黒|瑪瑙《めのう》製だった。まるで夜の中心を覗きこんでいるかのようだ。中を照らすのは松明ではなく、梁のように太い足場の上に置かれた大きな鉄桶の中でごうごうと燃え盛る、巨大な焚き火の炎だった。だだっ広い部屋の壁には磨き上げられた漆黒のテラスが何層にも積み重なって、それが床から丸屋根まで続いていた。
いちばん上のテラスには高さ二十フィートの大理石の像が等間隔に並べられていた。そのほとんどは人間の姿をしていないが、中にはスティリクム人らしい姿も、あるいはエレネ人のような姿もあった。像はアザシュの召使たちを表わしているのだろうとスパーホークは思った。その中では人間は、ごくささいな、重要でも何でもない地位を占めているにすぎないようだった。ほかの召使たちはとても遠くの、だが同時にとても近くにある場所に住んでいるのだろう。
スパーホークが覗いている位置からちょうど正面に、巨大な神像が見えた。もっとも、神の似姿を作り上げようとする人間の努力は、かならずと言っていいほど不満足な結果に終わる。たとえば獅子の頭を持つ神の姿のような場合でも、その神像は決して人間の胴体に獅子の頭を継ぎ足したものにはならない。人間は顔に魂の存在を感じるようにできていて、胴体と魂という組み合わせはしっくりこないのだ。神の似姿は具象主義のためにあるのではなく、神の顔がありのままに描かれることはない。むしろその顔は、神の魂のあり方を表わすためにこそ描かれる。磨き上げられた黒い寺院の中にそびえる神像の顔は、人間の堕落の集大成のようだった。そこには肉欲があり、貪婪《どんらん》と飽食の相があった。そしてまたもっと別の、人間の言葉では表わすことのできない相もあった。神像の顔から判断する限り、アザシュは何か人間の理解を越えたものを求め渇望しているようだった。飢えたような、不満そうな表情。決して満たされることのない、圧倒的な欲望に身を焦がす顔だ。その唇は歪《ゆが》み、表情はいかにも残虐そうだった。
スパーホークはその顔から目を引きはがした。あまり長いこと見つめていゐと、魂を失う危険さえある。
胴体のほうは完全なものではなかった。まるで像の作者がその顔の圧倒的な力に押しつぶされてしまい、胴体の下絵をおろそかにしてしまったかのようだ。蜘蛛の足のような腕が巨大な肩から、まるで触手のように伸び出している。像がやや仰向けになっているのは卑猥《ひわい》な感じに腰を突き出しているせいだが、その焦点となるべき器官は存在していなかった。そのかわり表面のつるりとした、火傷《やけど》の痕によく似た傷が広がっている。スパーホークはヴェンネ湖の北でシーカーと対峙したとき、セフレーニアが言い放った言葉を思い出した。能力を奪ったとか、去勢したとかいった言葉を使っていたはずだ。若き神々がどんな手をつかって年長の親戚を去勢したのかは、考えないことにした。神像からは緑がかった後光が射していた。シーカーの顔が放っていた光とそっくりだ。
はるか下方の円形の黒い床の上では、祭壇から放たれる気分の悪くなりそうな緑の光に照らし出された中、何かの式典が行なわれていた。その式典を宗教的な儀式と呼ぶには抵抗がある。参列者たちは全裸で、神像の前を踊りまわっていた。スパーホークは世間にうとい僧院の修道僧などではなく、世の中というものをよく知っているつもりだったが、それでもこの儀式の邪悪さには胃が裏返りそうだった。山の中でゼモックに住むエレネ人がやっていた乱交など、これに比べれば子供のように純真に思える。こっちの連中は人間ならざる存在《もの》たちの行ないをそっくり真似ているらしく、またその焦点を失った目と痙攣《けいれん》的な動きを見れば、消耗して死ぬまでこれを続ける気でいることは明らかだった。階段のついた巨大な鉄桶の下には緑のローブを着た人影が集まり、不協和音に満ちた歌をうめくように歌っている。そこには何の思いも感情も感じられなかった。
と、スパーホークの目の隅にちらりと動くものがあった。騎士はすばやく右手のほうに目を向けた。百ヤードかそこら離れた、狂気の底から引きずり出してきたとしか思えない不気味な白い彫像が並んでいる下のテラスの最上階に、一群の人影が動いていた。その中に一人、白い髪の人物が見える。
スパーホークは身をひねり、アラスに引き上げろと合図した。
「どうだった」カルテンが尋ねた。
「ものすごく大きな一つの部屋になってる。奥のほうに神像があって、広いテラスが床まで何層にも重なってた」
「あの音は何だい」とティニアン。
「何かの儀式をやっている。あの歌もその一部なんだろう」
「宗教のことはどうでもいい。兵隊はいたか」とアラス。
スパーホークはかぶりを振った。
「それはいい。ほかに何かあるか」
「ある。魔法が必要なんです、セフレーニア。マーテルたちはいちばん上のテラスに集まってます。右手に百|歩《ペース》ばかり行ったところです。何を話しているのか聞きたいんですよ。あなたの魔法なら届くんじゃありませんか」
教母はうなずいた。
「階段から離れたほうがいいでしょう。呪文はかなりの光を放ちます。ここにいると気づかれたくはありませんから」
一行は埃っぽい通路を引き返し、セフレーニアはサー・ベヴィエの磨き上げた盾をベリットから借り受けた。
「これでいいでしょう」そう言ってすばやく呪文を編み上げ、解き放つ。騎士たちは急に輝きはじめた盾のまわりに集まって、鏡のような表面に映ったぼんやりした人影に見入った。その人影が話し合う声はごく小さかったが、言っていることははっきりとわかった。
「わが黄金があれば、われらの目的に適《かな》う地位が手に入るという、そなたの約束はむなしいものであったな、アニアス」オサがあの轟《とどろ》くような声で話していた。
「またしてもスパーホークに邪魔されたのです、陛下」アニアスは平伏せんばかりにして自己弁護をはかっていた。「恐れていたとおり、あの男に何もかもめちゃくちゃにされてしまいました」
「スパーホークめ!」オサは汚い悪態をつき、玉座のような輿《こし》の肘掛けに拳を叩きつけた。「あやつがいると、わが魂はただれそうになる。その名を聞くのみにても苦しみが襲う。そなたはあやつをカレロスから遠ざけておくはずであったろう、マーテル。何ゆえに余とわが神を失望させる」
マーテルは落ち着いていた。
「まだ失敗したわけじゃないぜ、陛下。その点はアニアスも同じことだ。猊下《げいか》を総大司教の座に就けるのは、目的を果たすための手段に過ぎない。その目的は達成されたんだからな。ベーリオンはこの屋根の下にある。アニアスを昇進させてエレネ人に宝石を引き渡させるという計略は、やや不安の残るものだった。このほうがずっと手っ取り早いし、直接的だ。要は結果としてアザシュが望むものを手に入れればいいのであって、個個の計画が成功したか失敗したかはどうでもいいことだ」
オサはうなるような返事をした。
「たぶんそうなのであろう。しかしベーリオンはいまだわれらが神の手に落ちてはおらぬ。なおあのスパーホークの手の中にあるのだ。そなたは兵を差し向けたが、あやつはやすやすとそれを圧倒した。われらが主《あるじ》は死そのものよりも恐ろしい召使を差し向けてあやつを殺そうとなさったが、あやつは今なお生きておる」
「スパーホークだって所詮は人間なんだ。いつまでも幸運は続かないさ」リチアスが例の鼻にかかった声で言った。
オサがリチアスに向けた視線は、明らかに死を意味するものだった。アリッサは息子をかばうようにその肩に腕を回し、今にもリチアスを守って立ち上がろうとするかに見えた。アニアスが警告するようにかぶりを振った。
「そなたはこの私生児を認知することで限界を露呈したな、アニアス」オサの声には軽蔑があふれていた。言葉を切り、一同を見まわして、いきなり大声を上げる。「そなたたちにはわからんのか! かのスパーホークは|未知なるもの《アナーカ》だ。人の運命《さだめ》はすべてはっきりと決まっておる――アナーカを除いて。アナーカは運命の外に生きる者、神々にさえ恐れられる者だ。アナーカとベーリオンは、この世の人にも神々にもわからぬ形で結びついておる。しかも女神アフラエルが手を貸しておるのだ。その目的は不明だが、われらがまだ生きていられるのは、ひとえにベーリオンがあやつらに協力的ではないという、その一点ゆえなのだ。スパーホークは、その気になれば神にさえなれるであろう」
「だがまだ神じゃない」マーテルは笑みを見せた。「やつはまだ迷路の中だし、仲間を捨てて独りで襲ってくる気遣いもない。スパーホークのやることは予想がつくんだ。アザシュがアニアスとおれを選んだのもそのせいさ。おれたちがスパーホークを知ってて、やつがどういうことをしようとするか、予測できるからなんだ」
「あやつがここまでやり遂げることもわかっておったというわけか」オサは鼻を鳴らした。「あやつがここまでやってきて、われら自身とわれらの神の存在までもが危うくなっていることは、わかっておるのであろうな」
マーテルははるか眼下の床の上で踊り狂っている者たちを見下ろした。
「あれはいつまで続くんだ。今こそアザシュの指示が必要なのに、あれが続いてるあいだは注意を引くことさえできない」
「儀式はもう終わりに近づいておる。みな消耗しきっておるから、死ぬのはそう先のことではない」
「けっこうだ。やっとわれらがご主人と話ができる。身が危ういのはアザシュも同じだからな」
「マーテル!」オサがいきなり緊張した声を上げた。「スパーホークは迷宮を破った! 寺院への通路に到達しておる!」
「人を集めて行く手を阻め!」マーテルが怒鳴った。
「それはやったが、すっかり引き離されておる。追いつく前にあやつはここまで来てしまうであろう」
「アザシュを起こさないと!」アニアスがかん高い声で叫んだ。
「儀式の邪魔をすれば、死だ」とオサ。
マーテルは背筋を伸ばし、小脇に抱えていた華麗な兜を手に取ってぼそりとつぶやいた。
「おれの出番ということらしいな」
スパーホークは顔を上げた。あとにしてきた王宮のほうから、破城槌が石壁にぶつかる音が響いている。
「ありがとう、セフレーニア、もういいでしょう。前進します。オサは王宮側の階段のある、隠し部屋の扉を破ろうとしています」
「ベヴィエとタレンがうまく隠れてくれてればいいが」とカルテン。
「大丈夫、ベヴィエにはやるべきことがちゃんとわかってるさ」スパーホークが答えた。「これから寺院に下りる。この屋根裏部屋は――まあ何と呼んでもいいが――とにかく広すぎて、ここで戦おうとしたら敵に囲まれてしまうだろう」セフレーニアに向き直り、「背後で階段を封鎖する方法が何かありませんか」
セフレーニアは顔をしかめた。
「あるとは思います」
「自信がなさそうですね」
「そういうわけではないのです。階段を封鎖するのは簡単です。問題は、オサが対抗呪文を知っているかどうかという点です」
「手下の兵隊が駆けつけてきて階段を下りようとするまで、オサには封鎖されていることはわからないんじゃありませんか」ティニアンが尋ねる。
「そうですね。そのとおりです。見事ですよ、ティニアン」
「テラスの上をぐるっと回って、神像に近づけないかな」カルテンが提案した。
「無理です」とセフレーニア。「オサが魔術師だということを忘れてはいけません。そんなことをしたら、こちらの背中に次々と呪文を投げつけてくるでしょう。まずオサと対決するしかないのです」
「マーテルともね」スパーホークが付け加えた。「さて、あの儀式が続いているあいだ、オサはアザシュの邪魔をしようとはしないはずだ。その点はこちらに有利になる。とりあえずオサの心配だけすればいいんだからな。オサを相手に戦えるでしょうか、セフレーニア」
教母はうなずいた。
「オサは勇敢な男ではありません。脅しをかければ、自分を守るために力を使うでしょう。王宮から駆けつけてくる兵隊を当てにして」
「やってみましょう。みんな準備はいいか」
全員がうなずく。
「じゅうぶんに気をつけてくれ。それから、マーテルとわたしの一騎討ちになったら、邪魔が入らないようにしてくれ。よし、では行こうか」
一行は階段の上まで移動し、大きく息を吸いこんで、武器を手に寺院へなだれ込んだ。
「やあ、そこにいたのか、マーテル。ずっと探してたんだぜ」スパーホークはわざとマーテルの気安げな口調を真似て言った。
「待っていたよ、スパーホーク」マーテルは剣を抜いた。
「そうだろうとも。どこかで道を間違えたらしくてね。長く待たせたんでなければいいんだが」
「それほどじやない」
「けっこう。遅刻するのは嫌いなんだ」あたりを見まわして、「よし、顔ぶれはそろってるようだな」さらにシミュラの司教の顔をまじまじと見つめ、「しかしアニアス、本当にもう少し日に当たるようにしたほうがいいぞ。顔色がまっ白じゃないか」
「ちょっと待った。その前に贈り物があるんだ」カルテンが割って入った。「おれたちの訪問の記念にね。きっと気に入ってくれると思うぜ」金髪の騎士はわずかに身をかがめ、籠手をはめた手にしっかりと抱えてきた包みの一端を持って小さく振った。マントが黒瑪瑙の床に広がり、床にぶつかったアダスの首が、マーテルの足許まで転がっていって止まった。虚ろな目がじっとマーテルを見上げる。
「ご親切にどうも、サー・カルテン」マーテルは歯を食いしばってそう答え、何気なさそうな様子で首を蹴りのけた。「この手土産の礼はたっぷりとさせてもらおう」
スパーホークは剣の柄を握りしめた。頭が憎しみに沸騰する。
「そのためにクリクを失ったんだ。しっかり清算させてもらうぞ」
マーテルの目が丸くなり、声がはっとした調子になった。
「クリクを? 思ってもいなかった。心からお悔やみ申し上げる、スパーホーク。あの男は好きだった。デモスに戻ることがあったら、アスレイドにわたしからの謝罪を伝えてくれ」
「断わる。おまえの名前を出してアスレイドを侮辱する気はない。そろそろ始めるかね」スパーホークは静かに前進した。盾を構え、剣の切先を蛇の頭のようにゆっくりと前後に揺する。カルテンと仲間たちは武器を下げ、硬い表情で二人を見守った。
「思ったとおり、どこまでも紳士的だな」マーテルは兜をかぶり、斬り合いの場所を確保するためにオサの輿のそばを離れた。「その礼儀正しさと公平さが命取りになるぞ、スパーホーク。優位に立っているのだから、その優位を利用すべきなんだ」
「そんな必要はない。少しだが、まだ悔い改める時間はあるぞ。その時間を有効に使うことだ」
マーテルは薄い笑みを浮かべた。
「その気はないね。自分で選び取った道だ。今さら心変わりして、自分をおとしめるつもりはない」マーテルはかしゃんと面頬を下ろした。
二人は同時に激突した。剣がそれぞれに相手の盾を打つ。二人は子供のころからクリクの下で同じ訓練を受けてきており、フェイントや誘いで戦端が開かれることはあり得なかった。二人の力はあまりにも拮抗《きっこう》していて、十年以上も前にさかのぼるこの決闘の帰趨《きすう》は、誰にも予測のしようがなかった。
最初のうちは互いに技量や力量の変化を確かめ合うための、加減した打撃が続いた。訓練されていない者の目には何も考えずに狂ったように攻撃しているとしか見えなかったろうが、決してそういうわけではない。スパーホークにしろマーテルにしろ、怒りのあまり自分を見失って、無防備に隙《すき》を見せるようなことはなかった。二人の盾は大きくへこみ、剣と剣が打ち合わされるたびに大量の火花が散った。前へうしろへと揉み合いながら、宝石を散りばめたオサの輿と、息を呑《の》み目を丸くして見つめているアニアスとアリッサとリチアスのところから、二人は徐々に遠ざかっていった。それはスパーホークの計略の一つだった。マーテルをオサから引き離し、カルテンたちに太りすぎの皇帝を脅かさせようというのだ。そのためにスパーホークは、その必要もないときに何度か後退し、マーテルを一歩ずつオサから遠ざけていった。
「年を取ったな、スパーホーク」マーテルは息を弾ませながらそう言い、かつてのブラザーの盾に剣を叩きつけた。
「おまえだって同じだ、マーテル」スパーホークは強烈な一撃を放ち、相手をよろめかせた。
カルテンとアラスとティニアンは、サー・ベヴィエのロッホアーバー斧をひっさげたベリットを従え、散開してオサとアニアスに迫った。ナメクジのようなオサは片手を一振りし、輝く防壁で自分とマーテルの仲間を覆った。
スパーホークは首のうしろがごくかすかに粟立《あわだ》つのを感じた。セフレーニアが階段を封鎖する魔法を放ったのだ。騎士はマーテルに突進し、すばやく何度も剣を振るって、魔法につきものの感覚に白髪の男が注意を向ける暇を与えないようにした。マーテルはセフレーニアから魔法を習っているので、教母が魔法を放ったときの感じを覚えているかもしれない。
戦いは長引き、スパーホークは息を切らして汗まみれになっていた。剣を持つ腕がだるくなって、痛みはじめている。騎士は一歩退いて、わずかに剣を下げた。しばらく休んで息を整えようという、伝統的な無言の合図だ。この合図を出すことは、弱みを見せることだとは考えられていない。
マーテルは同意して、同じように剣を下げた。
「まるで昔そのままだな、スパーホーク」息をあえがせながら面頬を上げる。
「実力伯仲だ。いくつか新しい手を身に着けたらしいな」スパーホークも面頬を上げて答えた。
「ラモーカンドが長かったせいだ。もっとも、ラモーク人の剣の腕は大したものじゃない。おまえの剣は少しレンドーふうになったな」
「十年の追放のせいだ」スパーホークは肩をすくめ、息を整えようと深呼吸をくり返した。
「こんな具合に剣を振りまわしてるところをヴァニオンに見られたら、二人とも鞭をくらうところだ」
「たぶんな。ヴァニオンは完全主義者だから」
「それはまさしくそのとおりだ」
二人はあえぎながら互いの目を見つめ合い、不意打ちの徴候はないかと油断なく相手を観察していた。スパーホークの右肩の痛みがゆっくりと引いていく。
「いいか」スパーホークが尋ねた。
「いつでも」
二人はふたたび面頬を下ろし、戦いを再開した。
マーテルは一連の複雑な動きで剣を閃《ひらめ》かせた。スパーホークもよく知っている動きだ。それはもっとも古くからある型の一つで、いったんその術中にはまってしまえば、結果は避けることができない。スパーホークは防御の型どおりに剣と盾を動かしたものの、マーテルが最初の一撃を打ちこんできたときから、失神するほどの打撃を頭に受けることになるのはすでにわかっていた。もっとも、マーテルが騎士団を追放されたすぐあとで、この攻撃を受け止められるよう、クリクがパンディオン騎士の兜に改良を施していた。マーテルが最後に渾身の一撃を放ったとき、スパーホークはわずかに顎を引いて、兜の頭頂部で相手の剣を受け止めた。その部分が頑丈に補強されているのだ。耳が鳴り、膝が崩れかけたものの、続く攻撃は何とか受け流すことができた。
マーテルの反応は記憶にあるよりも緩慢なように思えた。きっと自分の攻撃も、若いころのような鋭さを失っているのだろう。二人はともに年齢を重ねてきたのだ。力でも技でも拮抗している相手との決闘を延ばしつづけているあいだに、年を取ってしまったというわけだ。
そのときスパーホークの頭に理解が閃いた。理解はただちに肉体の動きに反映される。マーテルの頭を狙って、上段から続けざまに剣が打ち下ろされた。相手は剣と盾を使って攻撃を受け止める。これ見よがしの攻撃に続いて、スパーホークは型どおり胴に突きを入れた。むろんマーテルはこの攻撃を予期していたが、盾の動きが間に合わなかった。スパーホークの剣の切っ先がマーテルの鎧の右胸部をとらえ、深々と胴体に突き刺さった。マーテルは身体を硬直させ、咳《せき》とともに血しぶきが面頬の空気穴から飛び散った。弱々しく盾と剣を上げようとするが、その手は激しく震えていた。膝が震えはじめ、剣が手から落ち、盾が足許に転がった。ふたたび咳きこむと、喉にからんだ湿っぽい音がした。面頬から血があふれ、マーテルはゆっくりと、顔から先に床の上にくずおれた。
「止《とど》めを刺せ、スパーホーク」あえぐような声がした。
スパーホークは片足でマーテルの身体を仰向かせ、剣を上げた。だが騎士はその剣を下ろし、死にかけた男のそばに膝をついた。
「その必要はない」マーテルの面頬を上げてやる。
「どうしてこんなことに……」
「新しい鎧のせいだ。あれは重すぎた。疲れて、動きが鈍くなっていた」
「正義はあるということか」マーテルは浅い息をして、急速に肺に溜《た》まっていく血で窒息しないようにした。「虚栄が身を滅ぼすとは」
「ある意味では誰もがそうなる――いずれはな」
「だが、いい戦いだった」
「ああ、まったく」
「どっちの腕が上か、やっと決着がついたな。この際だから正直に言うと、おれには昔からちゃんとわかっていた」
「わたしもだ」
スパーホークは床に膝をついたまま、マーテルの息遣いがどんどん浅くなっていくのをじっと聞いていた。
「ラークスが死んだぞ。オルヴェンも」
「ラークスとオルヴェンが? おれのせいだったのか」
「いや、別の件だ」
「それで少しなりとも気が休まる。セフレーニアを呼んでくれないか、スパーホーク。お別れを言いたい」
スパーホークは片手を上げ、二人をともに教育してくれた女性を手招きした。
スパーホークの反対側からマーテルの横に膝をついた教母の目には、涙があふれていた。
「何ですか、ディア」セフレーニアは死にかけた男にそう問いかけた。
「いつもわたしはろくな死に方をしないと言っていましたね、小さき母上」マーテルの皮肉っぽい声は、もうささやき程度にまで小さくなっていた。「でもそれは間違いでした。これはそう悪い死に方じゃありません。むしろ幸せなくらいだ。本当に愛したただ二人の人間に、そろって看取《みと》ってもらえるんですから。祝福していただけますか、小さき母上」
セフレーニアはマーテルの顔に手を置いてスティリクム語を唱え、蒼白になった額に泣きながら口づけした。
教母が顔を上げたとき、マーテルはもう死んでいた。
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30[#「30」は縦中横]
スパーホークは立ち上がり、セフレーニアに手を貸した。
「大丈夫ですか、ディア」
「何でもありませんよ」スパーホークはじっとオサを見据えた。
「おめでとう、騎士殿」オサが轟《とどろ》くような声で皮肉っぽく言った。ぬめぬめした頭が焚《た》き火の炎に照り映えている。「礼を言わねばなるまいな。マーテルには長らく悩まされておった。みずからの器量以上に背伸びするところがあってな。その役割は、そなたたち一行が余のもとにベーリオンをもたらしたときに終わっておった。よい厄介払いというものだ」
「別れの贈り物だと思ってくれていいぞ、オサ」
「ほう、帰るのか」
「いいや。おまえが死ぬんだ」
オサは笑った。胸の悪くなるような笑いだった。
「怯《おび》えていますよ、スパーホーク」セフレーニアがささやく。「あの防御があなたに効くかどうか、自信がないのです」
「わたしに破れますか?」
「わたしにもわかりません。ただ、オサは今とても力が衰えています。アザシュがすっかり儀式に心を奪われていますから」
「ならばそこから始めるべきでしょうね」スパーホークは大きく息を吸いこむと、ぶくぶくと太ったゼモック国皇帝に近づいていった。
オサは後じさり、まわりにいる半裸の男たちにすばやく合図した。男たちが輿《こし》を担ぎ上げる。オサは輿の上に大の字になって、黒|瑪瑙《めのう》の床へと下りる階段のほうへテラスの上を運ばれていった。床の上ではまだ裸の崇拝者たちが、消耗して虚《うつ》ろになった顔で、痙攣《けいれん》しながら卑猥《ひわい》な儀式を続けている。アニアスとアリッサとリチアスもオサのあとに従った。効果の疑わしい輝く防壁の外に置いていかれまいと、できるだけ輿の近くに身を寄せ合っている。黒瑪瑙の床の上に着くと、オサは緑のローブの僧侶たちを大声で呼んだ。僧侶たちは崇拝の中にみずからを見失った顔で飛び出してきて、ローブの下に隠していた武器を引き抜いた。
背後からくやしそうな、不満そうな声が上がった。皇帝を助けに駆けつけてきた兵士たちが、セフレーニアの封鎖した階段にやっとたどり着いたのだ。
「もつでしょうか」スパーホークが尋ねた。
「わたしよりも力の強い兵隊がいない限り、大丈夫です」
「だったら心配はなさそうだ。あとは僧侶だが――」と仲間の顔を見わたし、「よし、諸君、セフレーニアを囲んで陣を作れ。その隊形でテラスを突っ切る」
アザシュの僧侶は鎧を着けておらず、武器を振るう手つきもぎこちなかった。基本的にスティリクム人である僧侶たちは、自分たちの宗教の中心地にいきなり出現した教会騎士の姿に驚きうろたえていたのだ。スパーホークは前にセフレーニアの言っていたことを思い出した。スティリクム人は不意を衝《つ》かれると、どう反応していいのかわからなくなる――思わぬ出来事に困惑してしまうのだ。甲冑を着けた仲間たちとテラスの上を進みはじめたとき、肌がかすかにちくちくするのを感じた。僧侶の中に呪文を編み上げようとしている者がいるらしい。スパーホークはエレネ人の鬨《とき》の声を上げた。血と暴力への渇望に満ちた、野太く大きな咆哮だ。ちくちくする感じが消え失せた。
「大声を上げるんだ! 敵が魔法を使えないように、精神の集中をかき乱せ!」
教会騎士たちは鬨の声を上げ、武器を振りまわしながら黒いテラスの上を突撃した。僧侶たちはあとじさり、そこへ騎士たちが殺到した。
目をらんらんと輝かせたベリットが、サー・ベヴィエのロッホアーバー斧を構えてスパーホークを押しのけた。
「休んでてください、スパーホーク」凄味《すごみ》をきかせた低い声を出そうと努力しているようだ。ベリットは驚いているスパーホークを確固たる足取りで追い越し、ロッホアーバー斧を草刈り鎌のように振りまわして、緑のローブの僧侶の列に迫った。
スパーホークは手を伸ばして引き戻そうとしたが、セフレーニアがその手首をつかんだ。
「ベリットにとっては大切なことです。大した危険はありません」
オサは神像の前の磨き上げられた祭壇に運び上げられ、目の前で繰り広げられる虐殺にぽかんと口を開けて見入っていた。だがすぐに自分を取り戻し、大声で呼ばわった。「急ぎ来るがよい、スパーホーク! わが神はしびれを切らしておいでだ」
「それはどうかな、オサ」スパーホークが叫び返す。「アザシュはベーリオンを求めてはいるが、わたしに持ってきてもらいたいとは思っていないはずだ。わたしがベーリオンで何をするつもりかわからないからな」
「その調子です、スパーホーク」セフレーニアがささやいた。「有利な立場を利用するのです。アザシュはオサの不安を感じ取って、自分も同じように感じはじめるはずです」
寺院には剣戟の音と悲鳴とうめき声が満ち満ちていた。スパーホークの仲間たちは、緑のローブの僧侶たちを片端から始末している。一行はぎっしり並んだ敵のあいだに道を切り拓《ひら》き、祭壇を見上げる最初のテラスにたどり着いた。
さまざまなことがあったにもかかわらず、スパーホークは勝利に酔っていた。こんなところまで来られるとは思っていなかったのだ。ここまで生き延びてきたことで、自分が無敵の戦士のように思えた。張り出しの階段に足をかけ、ぶよぶよした皇帝を見上げる。
「どうした、オサ。アザシュを目覚めさせたらどうだ。古き神も人間と同じように死ぬのかどうか、見てみようじゃないか」
オサは唖然とした顔で騎士を見つめ、輿から下りて床にへたりこんだ。足が体重を支えてくれないのだ。
「ひざまずけ! ひざまずいて、力をお貸しくださいと祈るのだ!」となかば叫ぶようにアニアスに声をかける。兵隊たちが寺院に入ってこられないと知って、オサはかなり怖《お》じ気《け》づいているようだった。
スパーホークはカルテンに声をかけた。
「カルテン、僧侶を片付けたら、兵隊が封鎖を破って背後から襲ってこないように、階段の下を固めてくれ」
「それには及びませんよ、スパーホーク」とセフレーニア。
「わかってます。でもそうしておけば、もっと遠ざけておけますから」騎士は大きく息を吸いこんだ。「いきますよ」籠手《こて》をはずし、抜き身の剣を脇の下にたばさんで、鎖帷子から作った袋をベルトからはずす。袋の口を閉じている鉄線をほどくと、スパーホークはベーリオンを手の中に振り出した。宝石はとても熱く、夏の夜の雷のように揺らめく光が花びらの中で沸騰していた。
「青い薔薇! わたしの言うとおりにしろ!」
オサはなかばひざまずき、なかば這いつくばるような格好で、自分の神にしきりに祈りを捧げていた。恐怖のせいで、祈りの言葉は意味の通らないものになっている。アニアスとリチアスとアリッサも膝をつき、眼前にそびえ立つ神像の恐ろしい顔を見上げていた。みずから進んで帰依した神の似姿を見るその顔には、恐怖の色がありありと浮かんでいた。
「来たれ、アザシュ! 目覚めたまえ! 汝の下僕の祈りを聞き届けたまえ!」オサが哀願する。
それまで閉じられていた神像の深く窪んだ目がゆっくりと開き、そこにあの緑の炎が燃え上がった。スパーホークに向けられた悪意が波のように押し寄せ、騎士は神の巨大な存在感の前に、なかば痺《しび》れたように立ちつくした。
神像が動いている! 身体が波打つように震え、触手のような腕がうねうねと伸びてくる――スパーホークの手の中の宝石に向かって。唯一その宝石だけが、アザシュに回復と自由をもたらすことができるのだ。
「やめろ!」スパーホークはかすれた声で叫び、剣をベーリオンに突きつけた。「破壊するぞ! おまえも道連れだ!」
神像はひるんだように見えた。その目に驚きと衝撃が走る。
「なぜこの無知な蛮人をわが元に連れ来たった[#「なぜこの無知な蛮人をわが元に連れ来たった」は古印体]、セフレーニア[#「セフレーニア」は古印体]」その虚ろな声は寺院の中だけでなく、スパーホークの心の中にも響きわたった。アザシュには、心臓の鼓動と鼓動のあいだに人を消し去ってしまうほどの力がある。だがなぜかその力を、サファイアの薔薇に抜き身の剣を擬しているスパーホークに振るうのは恐ろしいらしかった。
セフレーニアは落ち着いた声で答えた。
「自分の運命に従っているだけです。わたしはスパーホークをそなたの目の前に連れてくるためにこそ生まれてきたのですから」
「ではそのスパーホークの運命は何なのだ[#「ではそのスパーホークの運命は何なのだ」は古印体]。その者が何をなさんとするか[#「その者が何をなさんとするか」は古印体]、汝は知っておるのか[#「汝は知っておるのか」は古印体]」アザシュが必死になっていることが、その声から感じられた。
「それを知る者は人にも神にもおりません。スパーホークはアナーカであり、神々はみな、いつの日かアナーカが現われて、この世界を誰にも予測できない終末へと突き動かすことを恐れてきました。わたしはそのアナーカの運命の僕《しもべ》です――それがどのような運命であろうとも。スパーホークをここへ連れてきたのも、その目的を叶《かな》えさせるためにほかなりません」
神像が身を硬くしたように見えた。抵抗しようのない力が押し寄せてくる。その圧倒的な力は、だがスパーホークに向けられたものではなかった。
セフレーニアが息をあえがせた。冬の最初の北風にしおれる花のようだ。スパーホークは教母の決意が揺らぐのを感じていた。アザシュの心の力が、セフレーニアの防御を少しずつはぎ取っていく。
スパーホークは腕に力を込め、剣を高く振り上げた。セフレーニアが倒れたら、すべてはおしまいだ。そのあと最後の一撃を宝石に加える時間があるかどうかもわからない。エラナの顔を思い浮かべながら、騎士は剣の柄をさらに強く握りしめた。
その音はほかの誰にも聞こえなかったろう。心の中に響く音だったからだ。ただスパーホークだけがその音に気づいた。執拗な、命令するような、山羊飼いの笛の音だ。そこには激しい苛立ちの感情がこもっていた。
「アフラエル!」どっと安堵感が押し寄せてきた。
顔の前に小さな火花が灯る。
「やっと呼んでくれたわね!」フルートの声には怒りが感じられた。「何をぐずぐずしていたの、スパーホーク。呼びかけなくちゃだめだってこと、知らなかったの?」
「ああ、知らなかった。セフレーニアを助けてくれ」
何かが触れたわけでも、動きや音があったわけでもない。だがセフレーニアは背筋を伸ばし、指先で軽く額をぬぐった。神像の目が燃え上がり、小さな火花を睨《にら》みつける。
「わが娘よ[#「わが娘よ」は古印体]、この死すべき者たちに肩入れせんとするか[#「この死すべき者たちに肩入れせんとするか」は古印体]」
フルートは冷たく言い返した。
「アザシュ、わたしはあなたの娘ではありません。わが兄弟姉妹たちと同じく、あなたがた古き神々が子供のような争いで現実を引き裂こうとしたとき、みずから意志して存在したのです。娘であるというなら、あなたがたの過ちの娘であると言うべきでしょう。あなたがた古き神々が世界を破滅させるような道を進まなければ、わたしたち若き神々の存在も必要なかったのです」
「ベーリオンは手に入れる[#「ベーリオンは手に入れる」は古印体]!」虚ろな声は雷鳴であり地震であり、大地の礎《いしずえ》そのものを揺るがすかと思えた。
「させません」フルートがそっけなく反駁《はんばく》する。「あなたがた古き神々にベーリオンを渡さないためにこそ、わたしたちは存在しているのです。ベーリオンはこの地上にあるべきものではなく、あなたがたも、わたしたちも、トロールの神々も、そのほかのどんな神も手にしてはならないのです」
「手に入れる[#「手に入れる」は古印体]!」アザシュの声は絶叫にまで高まった。
「いいえ。その前にアナーカが破壊します。それとともにあなたも死ぬでしょう」
神像はひるんだようだった。
「よくもそのようなことを[#「よくもそのようなことを」は古印体]。なぜそのような恐怖を語る[#「なぜそのような恐怖を語る」は古印体]? われらのうちから死者が出れば[#「われらのうちから死者が出れば」は古印体]、神々さえ不死ではなくなるというに[#「神々さえ不死ではなくなるというに」は古印体]」
「だったらそうなればいい」アフラエルは無関心そうに答え、明るい声に酷薄な響きを忍びこませた。「怒りはわたしに向けるがいい、アザシュ、子供たちにではなく。指輪の力を使ってあなたを去勢し、泥の神像の中に封じこめたのはわたしなのだから」
「そなたが[#「そなたが」は古印体]?」恐ろしい声に唖然とした響きが混じった。
「わたしです。去勢によってあなたの力は弱まり、そのために牢獄から脱出することはできなくなりました。ベーリオンがその手に渡ることはありません、不能なる神よ。あなたはそのまま、永遠に牢獄の中にいるのです。もっとも遠い星が燃えつきて灰になるまで、男性性を失ったまま、外に出ることはできないのです」アフラエルは言葉を切り、ゆっくりとナイフを肉体にねじ込むような口調で先を続けた。「あなたの愚かで見え透いた計画ゆえに、スティリクムの神々は団結してトロール神からベーリオンを永久に取り上げることとし、おかげでわたしは、あなたを去勢し幽閉する機会を得ることができました。その身に起きたことにつきあなたが責めるべき者は、あなた自身をおいてほかにありません。そして今、アナーカがベーリオンと指輪を持ってここにいます。宝石の中にはトロールの神々さえいます。あなたはサファイアの薔薇の力の前に降伏するか――あるいは死ぬしかないのです」
人間ならざるものの不満の叫びが上がったが、神像は身じろぎ一つしなかった。
しかしオサのほうは、目に狂気の光を宿して自棄的に呪文を唱えはじめた。呪文が解き放たれると、寺院の内壁を飾る怪物たちの像が震え、白い大理石が緑や青や血のような赤に色を変え、その口から洩《も》れる不気味な声が堂内に満ちた。だがセフレーニアが落ち着いた声でスティリクム語を二言唱えると、像はふたたび凍りつき、白い大理石に戻った。
オサは激怒の声を上げてふたたび呪文を唱えはじめたが、不満と怒りのあまりスティリクム語を唱えられず、呪文は母語であるエレネ語になってしまっていた。
「聞いて、スパーホーク」フルートの音楽的な声が柔らかく響いた。
「だがオサが――」
「あれはもうぶつぶつ言ってるだけよ。姉さんが何とかするわ。しっかり聞いて。もうすぐあなたに行動してもらわなくちゃならない。その時が来たら言うわ。ベーリオンに剣を突きつけたまま、あの神像の階段を上るの。アザシュかオサかほかの誰かが邪魔しようとしたら、ベーリオンを打ち砕いて。うまく神像までたどり着けたら、ベーリオンをあの火傷《やけど》の痕みたいなところに押しつけて」
「それでアザシュを殺せるのか」
「そうはいかないわ。ここに鎮座してる神像はただの容れ物なの。本物の神像は大きい像の中よ。ベーリオンが大きい神像を壊したら、アザシュの本体が現われる。本物の神像はかなり小さくて、固めた泥でできてるわ。それが見えたら剣は捨てて、両手でベーリオンをつかんで、正確にこう言うの。青い薔薇、わたしはエレニアのスパーホークだ。この二つの指輪の力において命令する。青い薔薇はこの泥の像を、元どおりの土に返せ≠チてね。それからベーリオンを神像に触れさせて」
「そうしたらどうなる」
「よくわからないの」
「アフラエル!」スパーホークは驚いて抗議した。
「ベーリオンの運命は、あなたの運命以上にわからないのよ。そのあなたですら、次の瞬間に何をするかさえわからないんだから」
「アザシュを滅ぼせるのか」
「もちろん――残りの全世界が道連れになるかもしれないけど。ベーリオンはこの世界から逃れたがってる。これ幸いとこの機に乗じるかもしれないわ」
スパーホークは固唾《かたず》を呑んだ。
「賭けなのよ」アフラエルは平気な声だ。「でも骰子《さいころ》っていうのは、振ってみないとどんな目が出るかわからないものでしょ」
寺院の中がいきなりまっ暗になった。セフレーニアとオサはまだ争い合っている。息詰まるような一瞬、その闇は永遠に続くもののように思えた。それほど深い闇だったのだ。
やがて徐々に光が戻ってきた。巨大な鉄桶の中の火がよみがえり、炎がふたたび、ゆっくりと燃え上がる。
光が戻ってきたとき、スパーホークは真正面にアニアスの姿を認めた。シミュラの司教の痩《や》せ衰えた顔は幽霊のようにまっ白で、その目からはいっさいの思念が消え失せていた。総大司教になりたいという野心ゆえの闇の中で、アニアスは自分の魂を差し出した恐ろしい相手のことを直視していなかった。今やっとその恐ろしさを理解したようではあったが、それは明らかに手遅れだった。アニアスがスパーホークを見ている。その目は何か――何でもいいから――足許に開いた地獄の穴から自分を救い出してくれるものを教えてくれと哀願しているようだった。
リチアスは恐怖のあまりうわごとを口走り、アリッサはそんな息子を抱きしめている。むしろ息子にしがみついていると言ったほうがいいかもしれない。その顔に浮かんだ恐怖の表情は、決してアニアスに劣るものではなかった。
寺院には音と光があふれていた。オサとセフレーニアの戦いが続く中、何かの割れる音が響き、煙がもくもくと立ち昇った。
「今よ、スパーホーク」フルートが静かに声をかけた。
スパーホークは自分に気合を入れ、足を進めた。剣は脅すようにサファイアの薔薇に突きつけておく。重い鋼鉄の刃の下で、宝石は身を縮めているようだった。
「スパーホーク、愛してるわ」ささやくような声が聞こえた。
だが続いて聞こえてきたのは、愛とはほど遠い音だった。トロール語でわめき立てる声だ。いくつもの声が重なって、ベーリオンの中から聞こえてくる。トロール神たちの憎しみの激しさに、スパーホークはたじろいだ。耐えられないほどの苦痛が襲ってくる。スパーホークの身体は燃え上がると同時に凍りつき、体内では骨がたわみ、きしんだ。騎士はよろめき、宝石を取り落としそうになりながらあえいだ。
「青い薔薇! トロール神たちを静かにさせろ。すぐにだ!」
苦痛はおさまらず、トロールの神々はさらに咆哮しつづける。
「ならば死ね、青い薔薇!」スパーホークは剣を振り上げた。
咆哮がぱたりと途絶え、苦痛が消えた。
スパーホークは最初の黒瑪瑙のテラスを越え、階段を上った。
「やめよ[#「やめよ」は古印体]、スパーホーク[#「スパーホーク」は古印体]」心の中に声が響いてきた。「アフラエルは意地の悪い子供だ[#「アフラエルは意地の悪い子供だ」は古印体]。そなたを破滅へと導いておるのだ[#「そなたを破滅へと導いておるのだ」は古印体]」
「いつまで待たせるのかと思ったよ、アザシュ」二番めのテラスを横切りながら、スパーホークは震える声で答えた。「どうしてもっと早く話しかけてこなかった」
心の中の声は何も答えない。
「怖いのか、アザシュ。何か言って、おまえには見えない運命を変えてしまうのが怖いのか」三番めのテラスに足がかかる。
「やめよ[#「やめよ」は古印体]、スパーホーク[#「スパーホーク」は古印体]」声は哀願調になっていた。「世界をそなたにやろう[#「世界をそなたにやろう」は古印体]」
「願い下げだ」
「そなたを不死にしてやろう[#「そなたを不死にしてやろう」は古印体]」
「興味はない。いずれは死ぬという考えは、人間にとっては当たり前のことだ。それを恐れるのは神々だけだ」三番めのテラスを横切る。
「どうしても逆らうのであれば[#「どうしても逆らうのであれば」は古印体]、そなたの仲間を皆殺しにするぞ[#「そなたの仲間を皆殺しにするぞ」は古印体]」
「遅かれ早かれ、人は死ぬ」スパーホークは何とか無関心らしく聞こえるように言った。四番めのテラスに上がる。と、いきなり固い岩の中に閉じこめられたような気がした。全員を破滅させるような決断をさせないために、直接手を出してくることはできなかったようだ。騎士は自分の絶対的な優位に気づいた。神々にはスパーホークの運命が見えないだけでなく、その考えを読むこともできないのだ。騎士がいつベーリオンを一撃する決意を固めるか、アザシュにはわからない。決断したのを感じ取ることができないために、剣の動きを止めさせることもできないわけだ。この優位を利用しない手はない。前に進むことができないまま、スパーホークはため息をついた。
「それが望みだというなら……」と剣を振り上げる。
「やめろ[#「やめろ」は古印体]!」その声はアザシュだけでなく、トロールの神々からも上がった。
スパーホークは四番めのテラスを通過した。すでに汗びっしょりだ。考えていることを神々に隠しておくことはできても、自分に隠しておくわけにはいかない。五番めのテラスに足をかけながら、騎士は静かにベーリオンに語りかけた。
「さて、青い薔薇、これからやることを説明する。おまえとクワジュとノームとほかのトロール神たちは、その手伝いをするんだ。さもなければ死ぬことになる。どのみち今日は、ここで神が死ぬことになっている。それが一体だけですむか、それともたくさんになるか、それはそっち次第だ。ちゃんと手伝いをすれば、死ぬのは一体だけだ。そうでないなら、たくさん死ぬことになる」
「スパーホーク!」アフラエルが驚きの声を上げる。
「邪魔しないでくれ」
わずかにためらうような間があって、アフラエルが少女の声で尋ねた。
「手伝えることはある?」
考えこんだのは一瞬だった。
「いいだろう。だがこれは遊びじゃない。それから、不意打ちはなしだ。この腕はばね[#「ばね」に傍点]みたいに緊張してるんでね」
火花が大きくなりはじめ、閃光だったものが明るい輝き程度にまで落ち着く。その輝きの中からアフラエルが現われた。唇にはあの山羊飼いの笛を当てている。いつものように足は草の汁に汚れていた。笛を口から放すと、その顔には生真面目な表情があった。「もういいから砕いてしまったら、スパーホーク。言うことを聞く気はないみたいですもの」アフラエルは悲しげにため息をついた。「終わりのない命にも飽きてきてたの。それを砕いて、けりをつけましょう」
ベーリオンがまっ黒になった。スパーホークは宝石が手の中で震えているのを感じた。ふたたび戻ってきた光は穏やかで、従順そうなものだった。
「これで言うことを聞くわ」とアフラエル。
「神々に嘘をついたな」
「いいえ、あなたに嘘をついただけよ。あなたに話しかけてたんだもの」
スパーホークは思わず笑い出していた。
五番めのテラスを越えると、神像がいよいよ近づいてきた。目の前に大きくそびえ立っている。オサの姿も見えた。セフレーニアとの決闘で汗まみれだ。その戦いがマーテルとの戦いよりもさらに激しいものであることは、スパーホークにもよくわかっていた。アニアスの顔に浮かんだ恐怖の表情がさらにはっきりしてくる。アリッサと息子は今にも気を失いそうだ。
スパーホークはトロールの神々の巨大な存在を感じていた。それは圧倒的な現実味を帯びており、自分を守るように背後に浮かんでいる、恐ろしい姿が目に見えるようだった。六番めのテラスに出る。あと三つだ。アザシュを崇拝する者たちの歪《ゆが》んだ心にとって、九という数字には重要な意味があるのだろうか。そのころになると、ゼモック人の神はなりふり構わずスパーホークを遠ざけようとしはじめた。死が断固とした足取りで階段を上がってくるようなものなのだ。アザシュはあらゆる力を総動員して、青く輝く死を運ぶ黒い甲冑の使者を追い返そうとした。
スパーホークの足許から炎が噴き上がった。だが騎士がその熱を感じる間もなく、火は凍りついて消えてしまった。無から現われた怪物が突進してくる。するとさっき氷に消されたのにも劣らない激しい炎が、その怪物を焼きつくした。トロールの神々がスパーホークを守っているのだ。もちろん喜んでやっているわけではないだろうが、騎士の強固な決意の前には、ほかに選ぶべき道はなかった。トロール神たちはアザシュの防御を次々と打ち壊して、スパーホークのために露払いを務めた。
七番めのテラスに騎士の足がかかると、アザシュは絶叫した。ここまでくれば一気に駆け上がることもできたが、最後の瞬間に息を切らし、疲れきって震えていたのではさまにならない。スパーホークは確実に一定の歩調を取って七番めのテラスを通り抜けた。アザシュは想像もできない恐怖を投げつけてきたが、それらは即座にトロール神によって、あるいはベーリオンそのものによって消し去られた。スパーホークは大きく息を吸いこむと、八番めのテラスに足をかけた。
たちまちあたりに黄金があふれた。金貨、延べ棒、人間の頭ほどもある金塊。何もない空間からいきなり宝石がなだれ落ち、青や緑や赤の入り混じった、虹色の滝となって黄金の上に降り注いだ。想像もできないほどの富だ。その山がみるみる小さくなり、むしゃむしゃと咀嚼《そしゃく》する音が響いた。
「ありがとう、ノーム」スパーホークはトロールの食の神につぶやいた。
心臓が止まるほど美しい女性が誘うようにスパーホークを手招きしたが、たちまちトロールの色欲の神に襲われた。その神の名前は知らなかったので、誰に感謝すればいいのかはわからない。騎士はさらに足を進め、最後の九番めのテラスに踏みこんだ。
「できるはずがない[#「できるはずがない」は古印体]!」アザシュが叫んだ。スパーホークは答えず、片手に持ったベーリオンになお剣を擬したまま、むっつりと神像に近づいていった。周囲に雷が閃《ひらめ》いたが、雷撃はベーリオンの青いオーラにことごとく打ち消された。
オサはセフレーニアとの実りのない決闘を放り出し、怯えてすすり泣きながら祭壇の右側に這い進んだ。アニアスは同じ狭い黒瑪瑙の台の上で、左のほうにうずくまっている。アリッサとリチアスは互いにしがみつき、泣きわめいていた。
スパーホークは祭壇の前に立った。
「幸運を祈っててくれ」とアフラエルにささやく。
「もちろんよ、父上」幼い女神が答えた。
ベーリオンの輝きが増すと、アザシュは身を縮めたように見えた。神像の燃える目が恐怖に見開かれる。不死の神は、いきなりみずからの死の可能性に直面して、まったくの無防備になっていた。死ぬことを思っただけで、ほかの考えはことごとく頭の中から追い払われてしまうのだ。アザシュはもっとも単純な、子供っぽい反応しかできなくなっていた。みずからの存在を脅かす黒い甲冑の騎士に向かって、めちゃくちゃに炎を投げつける。緑に輝く炎が同じように明るいベーリオンの青い炎とぶつかった衝撃は、とてつもないものだった。青いオーラが揺らめき、ぐっと盛り返す。緑の炎は後退したが、ふたたびスパーホークのほうへと押し戻してきた。
そしてベーリオンとアザシュの力は均衡した。互いに存在を賭けて争っているのだ。どちらも引くわけにはいかなかった。アザシュとベーリオンがこのまま永遠に組み合ったまま、自分はもうこの場から動けないのではないかという、不愉快な思いが湧《わ》き上がってくる。
それはスパーホークの背後から飛んできた。鳥の羽根が空を切るようなうなりとともに騎士の頭の上を越え、神像の石の胸にぶつかって大量の火花を散らす。ベヴィエの鉤つきのロッホアーバー斧だった。ベリットが、たぶん反射的に神像に向かって投げつけたらしい。まったくの反抗心から出た、愚かな行動だった。
だがそれが役に立った。
神像を傷つけることなどできるはずのない攻撃だったが、虚を衝《つ》かれたアザシュが、一瞬そちらに注意を移したのだ。力と炎が瞬間的に弱まる。スパーホークは左手に握ったベーリオンを、槍の穂先を突き出すように、神像の下腹部の火傷の痕じみた部分に押しつけた。すさまじい衝撃があって、手の感覚がなくなる。
音もまたものすごいものだった。全世界が震えたに違いないと思ったくらいだ。
スパーホークは頭を低くし、全身の筋肉に力を込めて、ベーリオンをアザシュの去勢の跡に押しつけつづけた。アザシュが苦痛の叫びを上げる。
「われを見捨てるか[#「われを見捨てるか」は古印体]!」叫び身もだえるアザシュ像の触手のような手が動き、オサを、そしてアニアスをとらえた。
「神よ!」シミュラの司教が叫んだ。アザシュに向かってではなく、子供のころから親しんできた神への叫びだった。「お助けください! お守りください! お許し――」触手がその身体を締めつけ、言葉は悲鳴に変わった。
ゼモックの皇帝とシミュラの司教に与えられた罰は、厳格きわまるものだった。苦痛と恐怖に狂乱し、何としてもこの二人を処罰したいという思いから、アザシュは腹を立てた子供のようになっていた。残る触手が次々と二人を締めつけ、残忍なほどゆっくりと、まるで洗濯物を絞るように、悲鳴を上げる二人の身体をねじりはじめる。まるで鰻《うなぎ》のような神の指のあいだから血と体液がほとばしり、オサとアニアスは身をよじりながら生命を絞り取られていった。
スパーホークは気分が悪くなり、目を閉じた。だが耳を閉じることはできない。悲鳴は絶叫になり、耳に聞こえなくなるくらいまで高まってから、息を詰まらせたような泣き声になった。
声がやみ、アザシュが放り出したのは二つの濡れた肉塊だった。
愛人であり、唯一の息子の父親である男の原形をとどめない死体を見て、アリッサは激しく嘔吐した。巨大な神像が震え、ひび割れ、崩壊をはじめた。崩れた石材が雨のように降り注ぎ、うねっていた腕がもぎとられて硬直し、床に落ちて砕ける。不気味な顔も粉々になって、頭部から滑り落ちた。大きな岩がスパーホークの甲冑の肩を直撃し、騎士は危うくベーリオンを取り落としそうになった。びしっと大きな音がして神像が腰のあたりで折れ、巨大な上半身がうしろに倒れて、磨き上げられた黒い床の上で無数の破片に砕け散った。残った部分は崩れかけた石の台座のようなもので、その上にオサが二千年近く前にはじめて目にした、あの泥の神像が載っていた。
「できるはずがない[#「できるはずがない」は古印体]!」その声は小さな動物の立てる怯えた鳴き声のようだった。兎か、あるいは鼠といったところだろう。「われは神なるぞ[#「われは神なるぞ」は古印体]! そなたなど取るに足りぬ虫けら[#「そなたなど取るに足りぬ虫けら」は古印体]、一塊の土くれではないか[#「一塊の土くれではないか」は古印体]!」
「かもしれん」スパーホークはわめき立てる小さな土の像に憐《あわ》れみさえ覚えていた。剣を手放し、ベーリオンをしっかりと両手に握る。「青い薔薇! わたしはエレニアのスパーホークだ! この二つの指輪の力において命令する! 青い薔薇はこの泥の像を、元どおりの土に返せ!」サファイアの薔薇をつかんだまま両手を伸ばす。「あれほど欲しがっていたベーリオンだぞ、アザシュ。受け取るがいい。これをここにもたらした、すべての力とともに」ベーリオンがねじくれた土の像に触れた。「青い薔薇は命令に従え! すぐにだ!」言いながら、神像が即座に消え失せるのを予期して、スパーホークは歯を食いしばった。
寺院全体が震え、スパーホークは上から押しつけられるような感覚を味わった。まるで空気そのものに、いきなり何トンもの重さが備わったかのようだ。上からかかった重さに押しつぶされるように、盛大に上がっていた炎が弱まり、ちろちろと揺らめくだけになった。
と、寺院の巨大な丸屋根が外側に向かって爆発し、六角形の玄武岩が何マイルも彼方まで吹き飛ばされた。もはや音とさえいえない大音響とともに一気に燃え上がった炎が、白熱する巨大な柱となって立ち昇る。炎の柱は雷雲を焦がさんばかりにどこまでも伸び上がり、ごうごうと音を立てて燃え盛った。電光が閃く。灼熱の炎は雷雲を押しのけ、なおも闇の中へと噴き上がり、輝く星々にまで届くかと思われた。
スパーホークは情け容赦なく、サファイアの薔薇をアザシュの像に押しつけつづけた。神の小さな、力ない触手が手首をまさぐる。それは致命的な一撃を受けた戦士が、腹に突き立った剣をゆっくりとひねる敵の手をつかむのと同じことだった。スティリクムの古き神アザシュの声は、小動物が死に際に発する小さな悲鳴のようだった。と、神像に変化が起きはじめた。土を像の形に固めていた力が弱まり、ため息のような音とともに、神像は一山の土くれに戻っていた。
巨大な炎の柱がゆっくりと小さくなり、破壊された寺院に吹きこむ風がふたたび冬の冷たさを取り戻した。
背筋を伸ばしたとき、スパーホークに勝利感はなかった。手の中で輝いているサファイアの薔薇を見やる。その恐怖と、青い中心部に閉じこめられたトロール神たちのかすかな泣き声が感じられた。
いつの間にかテラスを下りたフルートが、セフレーニアの腕の中で泣いている。
「終わったぞ、青い薔薇。今は休むがいい」スパーホークは弱々しくベーリオンに語りかけ、宝石を鉄の袋の中に戻すと、上の空で口を閉めた。
そのときばたばたと走り出す足音が聞こえた。アリッサ王女とその息子が黒瑪瑙のテラスの上を、下の床めざして駆け出していた。すっかり怯えきった二人は、互いに相手のことなど眼中にないようだった。二人とも転がるように階段を駆け下りていく。リチアスのほうが若いだけに足も速く、母親をあとに残して障害物を飛び越え、転倒し、また立ち上がって――そのままその場に凍りついた。
石のように無表情なアラスが、階段の下で待ち受けていたのだ。手には斧が握られている。
一声叫んだリチアスの首が弧を描いて宙を飛び、メロンを石の上に落としたような嫌な音を立てて、黒瑪瑙の床に転がった。
「リチアス!」アリッサが恐怖の叫びを上げると同時に、首のない胴体がアラスの足許に倒れた。アリッサは金縛りにあったように、ブロンドの髪を編んだサレシア人騎士の巨体を茫然と見つめた。その巨体が斧をなかば振り上げて、黒瑪瑙のテラスの上を近づいてくる。アラスは仕事をやりかけのまま放り出すような男ではなかった。
アリッサは腰帯に手を伸ばし、小さな硝子瓶《ガラスびん》を取り出して蓋を開けようとした。
アラスは足取りをゆるめない。
硝子瓶の蓋が開き、アリッサは顔を上向けて中身を一気に飲み干した。即座に身体が硬直し、しわがれた叫びが上がった。痙攣しながら床に倒れ、その顔がたちまち黒ずみ、舌が突き出される。
「アラス! もう必要ありません」セフレーニアがなおも前進を続けるサレシア人に声をかけた。
「毒か?」
教母がうなずく。
「毒は好かん」アラスは親指と人差し指で斧の刃をぬぐい、血を振り払うと、慣れた手つきで親指の腹を刃に押し当てた。
「だいぶ刃こぼれした。砥《と》ぎなおすのに一週間はかかる」悲しげにそう言うと、アラスはテラスの上に倒れたアリッサ王女に背を向けて階段を下りていった。
スパーホークも剣を拾って階段を下りた。ひどく、ひどく疲れた気がした。億劫《おっくう》そうに籠手を拾い上げ、瓦礫《がれき》の散乱する床の上をベリットに近づく。ベリットは畏怖に打たれた目で騎士を見つめていた。
スパーホークはベリットの甲冑の肩に手を置いた。
「すばらしい一投だった。ありがとう、ブラザー」
ベリットの顔がぱっと明るくなる。
「そうそう、ベヴィエの斧を探してきたほうがいいぞ。ずいぶん愛着があるようだから」
ベリットは笑顔になった。「そうします、スパーホーク」
寺院の中にはいくつもの死体が散らばっていた。顔を上げると冷たい冬空に星が瞬いていた。
「何時ごろだと思う、クリク」思わずそう言ったとたん、圧倒的な悲しみに襲われてスパーホークは言葉を失った。それでも強いて自分を励まし、周囲を見まわして仲間に声をかける。「みんな無事か」つい意気がくじけそうになるのをこらえて大きく息を吸いこみ、ぶっきらぼうな声で、「とにかくここを出よう」
一行は寺院の中を横切り、広いテラスのてっぺんまで上った。祭壇の大爆発の影響か、壁に並んでいた石像は一つ残らず砕け散っていた。カルテンが先に立って、大理石の階段を見上げた。
「兵隊はみんな逃げたらしいな」
セフレーニアが階段を封印していた呪文を解き、一行は階段を上りはじめた。
「セフレーニア」かろうじて聞こえる程度の声がした。
「まだ生きてる」アラスが責めるような口調で言う。
「時にはそういうこともあります。毒が効くまでに時間のかかることが」
「セフレーニア、助けて、お願い」
小柄なスティリクム人の教母は、ふり向いてアリッサ王女を見やった。王女は弱々しく顔を上げて助けを求めている。
セフレーニアの口調は死そのもののように冷たかった。
「お断わりします、王女」教母はアリッサに背を向け、スパーホークたちのすぐあとから階段を上っていった。
[#改ページ]
31[#「31」は縦中横]
夜のあいだに風向きが変わり、雪をともなった西風が吹きはじめた。前の晩に街を襲った嵐は多くの家々の屋根を吹き飛ばし、また落雷にやられた家も少なくなかった。街路には瓦礫《がれき》が散乱し、その上にうっすらと、湿った雪が降り積もっている。ベリットが馬を引いてきて、スパーホークたちはゆっくりと駒を進めた。もう急ぐ必要は何もない。カルテンが脇道で見つけてきた荷車が、馬のあとからがたがたとついてくる。荷馬の手綱はタレンが執り、荷車には布で覆ったクリクの遺体とベヴィエが乗っていた。クリクの遺体が人間の最後の運命である腐敗に見舞われることはしばらくないと、セフレーニアは断言した。
「そのくらいしなくては、アスレイドに合わせる顔がありません」教母はフルートの艶《つや》やかな髪に頬を押しつけてそう言った。幼い女神のことを今もフルートと考えてしまうことに、スパーホークはちょっとした驚きを感じた。いっしよにいるとあまり女神らしく見えないせいだろう。フルートはセフレーニアにしがみつき、涙に顔を濡らしていた。目を見開くたびにそこに見えるのは、恐怖と絶望の表情だった。
ゼモック兵とアザシュの僧侶の生き残りは人気《ひとけ》のない街から遁走し、ぬかるんだ道はどこか悲しげに虚《うつ》ろな足音を響かせた。オサの君臨した首都には、何かひどく奇妙なことが起きたようだった。寺院がほぼ全面的に崩壊したのは、別に不思議でも何でもない、王宮のほうもほぼ同程度の損害を受けたが、それも予期されたことだ。問題は寺院と王宮以外の、街全体に起きたことだった。住人が街から出ていったのは、それほど昔のことではない。なのに家々が崩れはじめているのだ。寺院での大爆発が原因と思われるような崩れ方ではなく、一軒だけ、あるいは二、三軒といった単位で、朽ち果てるように建物がつぶれている。街の住人がいなくなってから、数世紀分の腐敗が一気に進行したかのようだった。家々が傾き、悲しげな音を立て、見ている前で自然に倒壊していく。街を囲む城壁はぼろぼろと崩れ、敷石までもが浮き上がり、沈みこみ、割れて破片をあたりに飛び散らせている。
窮余の一策は成功したものの、その代償はあまりにも大きく、一行のあいだには戦《いくさ》に勝った戦士が勝利を祝うような気分はまるで見当たらなかった。そこには荷車に積まれたクリクの遺体のせいばかりではない、もっと深い悲しみがあった。
ベヴィエは失血のためにまだ青い顔をしていた。その顔には困惑の表情が浮かんでいる。
「どうもまだよくわからないのですが」
答えたのはセフレーニアだった。
「スパーホークはアナーカなのです。これはスティリクム語で運命を持たない≠ニいう意味です。人間にはすべて、それぞれの運命というものがあります――スパーホークを除く全員に。しかしスパーホークだけは、どうやってか運命の外側で動いているのです。いずれそういう者が現われることはわかっていましたが、それがいつのことなのか、どんな人間なのかということは、まったくわかりませんでした。スパーホークはこれまでに生まれたどんな人間とも異なって、みずからの運命を作り出すことができます。その存在は神々を脅かすものなのです」
一行はゆっくりと崩壊を続けるゼモックの街をあとにした。西風に乗って降り積もる雪が街を静かに包んでいく。だが建物が倒壊する音は、街をかなり離れてもまだときおり聞こえつづけていた。街道は南へ八十リーグほどのフォラカクへと続いている。午後のなかばごろ、雪が小やみになったところで、一行は一夜を過ごすべく無人の村に立ち寄った。誰もが疲れきっており、これ以上馬に揺られるのはもう一マイルだってごめんだということで意見が一致したのだ。アラスはいつもの調子で食事当番を他人に押しつけるそぶりさえ見せず、進んで食事の支度をした。一行が眠りに就いたとき、空はまだ暗くなってもいなかった。
スパーホークははっとして目を覚ました。驚いたことに、鞍の上に座っている。馬を進めているのは風の吹きすさぶ断崖の上で、はるか眼下には波が岩に砕けて、怒れる海が白く牙をむいていた。空には不気味な雲が垂れこめ、海から吹いてくる風は身を切るように冷たい。先頭を進むのはセフレーニアで、その腕にはしっかりとフルートが抱かれていた。ほかの者たちはスパーホークのあとから一列になって続いている。誰もがぎゅっとマントを身体に巻きつけ、顔にはじっと耐えるような表情を浮かべていた。みんなそろっているようだ。カルテンもクリクも、ティニアンもアラスも、ベリットもタレンもベヴィエも。馬は長い切り立った崖沿《がけぞ》いの、曲がりくねった道を登りつづけている。行く手には海に向かって突き出した、曲がった石の指のような岬が見えた。岩の岬の先端でねじくれた木が一本、しきりに枝を風になびかせている。
セフレーニアはその木の手前で馬を止め、クリクが進み出てフルートを受け取った。従士は顔を硬くこわばらせ、スパーホークの横を通り過ぎるときも、話しかけてこようとはしなかった。何かがおかしい。ひどくおかしい。だがスパーホークには、どこがおかしいのかを指摘することはできなかった。
フルートが口を開いた。
「これでいいわ。ここに来てもらったのは、今度の一件に最後の方をつけるためよ。ただ、時間があまりないの」
「方をつけるというのはどういう意味です」ベヴィエが尋ねた。
「わたしの家族は、ベーリオンを人にも神にも手の届かないところへやってしまうべきだという結論に達したの。誰もそれを探し出したり、使ったりできないところに。この使命を達成するのに、家族はわたしに一時間の猶予と、すべての力を与えてくれた。あなたがたはあり得ないことを目にするかもしれない。あるいはもう気がついているかもしれないわね。でもそういったことは気にしないで、それから、わたしを質問攻めにするのもやめてちょうだい。そんな時間はないのよ。探索を始めたとき、わたしたちは十人だった。今も同じ十人がそろってる。そうでなくてはならないの」
「海に投げこもうってことか」とカルテン。
フルートがうなずくと、アラスが口を開いた。
「同じことになるんじゃないか。ヘイド伯はサラク王の王冠をヴェンネ湖に投げこんだ。それでもベーリオンは、ふたたび姿を現わした」
「海はヴェンネ湖よりずっと深いし、とくにこのあたりは、世界じゅうでいちばん深いところなの。ここがどこの岸辺なのか知ってる人もいないわ」
「おれたちは知ってる」とアラス。
「そう? どこなの? 何という大陸の、どのあたり?」フルートは流れていく厚い雲を指差した。「太陽も見えないわ。どっちが東で、どっちが西? あなたたちに確実に言えるのは、どこかの海岸にいるってことだけよ。誰に話してもらっても構わないわ。すべての人間が明日からいっせいに海をさらいはじめたとしても、ベーリオンは見つからない。どこを探せばいいのか、正確なことは誰にもわからないんですからね」
「海に投げこめばいいんだな」スパーホークが馬を下りながら尋ねた。
「いえ、まだよ。その前にやることがあるの。持っててくれるように言った袋を出してくれるかしら、クリク」
クリクはうなずいて自分の去勢馬に戻り、鞍袋を開いた。またしてもスパーホークは、何かがおかしいという強い違和感を覚えた。
クリクは小さな帆布の袋を持って戻ってきた。袋の中には小さな鋼鉄の箱が入っていた。蝶番《ちょうつがい》式の蓋と、頑丈な掛け金がついている。従士はそれを少女に差し出した。
「わたしは触りたくないの。ただちゃんとしてることを、この目で確かめたかっただけ」少女は身を乗り出し、じっくりと箱を検分した。クリクが蓋を開けると、内側に金が張ってあることがわかった。「さすが兄さん、いい仕事だわ」
「鋼鉄はいずれ錆《さ》びるぞ」とティニアン。
「いいえ、ディア、この箱は決して錆びません」セフレーニアが答えた。
「トロール神はどうするのです、セフレーニア」ベヴィエが尋ねる。「トロール神が人間の心に手を伸ばしてくることができるのは、もうわかっています。また誰かに呼びかけて、この箱が隠されている場所に導こうとするのではありまぜんか。永遠に海の底にいるのを喜ぶとは思えないのですが」
「トロールの神々も、ベーリオンの助けがなくては人間に手を出すことはできません。そしてベーリオンは鋼鉄の箱の中にある限り無力です。この世界が創られてからグエリグが掘り出すまで、サレシアの地下深くで鉄に囲まれて、何もできなかったのですからね。絶対に安全だと言いきることはできませんが、これ以上は手のつくしようがないでしょう」
「箱を地面に置いて蓋を開けて、クリク」フルートが指示する。「スパーホーク、ベーリオンを袋から出して、眠るように言ってちょうだい」
「永遠に?」
「それはどうかしらね。この世界はそれほど長くはもたないし、そのあとベーリオンは、また自由に旅を続けられるようになるはずだから」
スパーホークは腰から袋をはずし、鉄線をねじって口を開いた。袋を逆さにして、手の中にサファイアの薔薇を落とす。鉄の牢獄から出された宝石が、一種の安堵に身震いするのが感じられた。
「青い薔薇、わたしはエレニアのスパーホークだ。わたしを知っているな」
宝石は深く冷たい群青色に輝いた。敵意は感じられないが、とりたてて友好的というわけでもない。心の奥に響いてきた小さなうなり声から察するに、トロール神たちはその中立の立場を共有してはいないようだ。スパーホークはさらに宝石に語りかけた。
「眠るときがきた、青い薔薇。苦しみはないだろう。次に目覚めたとき、おまえは自由だ」
宝石がまたも身震いした。クリスタルの輝きが、まるで感謝するかのようにやわらいだ。
「眠るがいい、青い薔薇」スパーホークは計り知れない価値のある宝石をそっと両手に包みこんだ。それを箱に収め、しっかりと蓋を閉じる。
クリクが無言で、精巧な作りの錠前を差し出した。スパーホークはうなずいて、箱の掛け金に錠前をかけた。見るとその錠前には鍵穴がなかった。問いかけるように幼い女神を見やる。
「海に投げこんで」まっすぐに騎士を見つめてフルートが言った。
そうしたくないという気持ちが湧き上がった。鋼鉄の箱に収められたベーリオンには、もう干渉する力はない。スパーホーク自身の、それが本心なのだ。しばらくのあいだ、ほんの数ヵ月ではあったが、スパーホークは星々よりも永遠の存在に触れ、その一部を共有した。ベーリオンの真の貴重さはその点にこそあるのだ。美しさや完璧さといったものは関係ない。最後に一目それを見て、その柔らかな青い輝きを手の中に感じたかった。いったん海に投げこんでしまえば、何かとても大切なものが人生から失われてしまうような気がした。そして残る一生をぼんやりした喪失感の中で過ごすことになる。時の経過とともにその感覚は薄れていくだろうが、決して完全に消えることはない……
だがスパーホークは意を決し、喪失の痛みに耐える道を選んだ。背をそらし、小さな鋼鉄の箱を怒れる海に向かって、できる限り遠くまで放り投げる。
箱は弧を描き、はるか眼下に砕ける波の彼方へと飛んでいった。それが空中で輝きはじめる。その輝きは赤でも青でもどんな色でもなく、純粋な白熱の光だった。箱はどこまでも、とても人間の力で投げられるはずのない距離を飛んでいく。やがてそれは帚星《ほうきぼし》のように長く優美な尾を引いて、やむことなく荒れ狂う海の中へと落下した。
「これで何もかもけりがついたってわけか」カルテンが尋ねた。
うなずくフルートの目には涙が光っていた。
「みんなもう帰っていいわ」少女は木の根元に腰を下ろし、悲しげに短衣《チュニック》の下から笛を取り出した。
「いっしょに来ないの」とタレン。
「ええ。しばらくここにいるわ」フルートはそう言って笛を唇に当て、悔恨と喪失の悲しげな曲を奏ではじめた。
道をわずかに戻ったころ、聞こえていた悲しげな笛の音がとだえた。スパーホークがふり返ると、木はまだそこにあるものの、フルートの姿は消えていた。
「またいなくなってしまいましたね」とセフレーニアに声をかける。
「ええ、ディア」教母は嘆息した。
岬を出るとふたたび風が立ち、吹き上げられた波しぶきが肌を刺した。スパーホークはマントのフードで顔を守ろうとしたが、うまくいかなかった。どんなに頑張っても、しぶきが頬と鼻を濡らしてしまう。
急に目覚めて起き上がったときも、まだ騎士の顔は濡れていた。塩水をぬぐい、短衣《チュニック》の下を探る。
ベーリオンはなくなっていた。
セフレーニアと話をしなくてはならないと思ったが、その前にまずやることがある。スパーホークは立ち上がり、宿営用に使った建物の外に出た。二軒先の厩《うまや》にはクリクの遺体を乗せた荷車が置いてあった。そっと毛布をめくり、旧友の冷たい頬に触れてみる。
クリクの顔も濡れていた。指先に舌を当てると、海のしぶきの塩辛い味がした。騎士は長いことその場に座りこんで、幼い女神があり得ないこと≠フ一言で片付けた事柄の大きさに思いをめぐらした。スティリクムの若き神々が力を合わせれば、文字どおりどんなことでもできるらしい。結局スパーホークは、何があったのかをはっきりさせるのはやめようと心に決めた。夢か、現実か、その中間の何かか――どんな違いがあるというのだ。ベーリオンはもう安全だ。重要なのはその点だけだった。
フォラカクに到着した一行はさらにガナ・ドリトまで南下し、そこで西に転じてラモーカンド国境の街カドゥムに向かった。平地に出ると、東へと敗走するゼモック兵にしばしば出会うようになった。負傷者の姿がないところを見ると、戦闘には至らなかったようだ。
スパーホークたちには戦勝気分も満足感もなかった。山地を抜けると雪は雨に変わった。湿っぽい空は、一同の気分をそのまま表わしているようだった。西へ進む一行のあいだには、話し声もなければ陽気な笑いもなかった。誰もが疲れきって、ただひたすら家に帰りたいだけだった。
カドゥムには大軍を率いたウォーガン王が到着していた。王は街中に陣取ったまま、ただ天候が回復して地面が乾くのをじっと待っていた。スパーホークたちは王の本陣に案内されたが、それは予想どおり居酒屋の中に構えられていた。
「これは驚き入った」スパーホークたち一行が入っていくと、ほろ酔い加減のサレシア国王はバーグステン大司教にそう声をかけた。「この者たちに生きてふたたび会えるとは思わなかったぞ。おお、スパーホーク! 火のそばへ来るといい。何か飲み物を言いつけて、どういうことになったのか話を聞かせてくれ」
スパーホークは兜《かぶと》を取り、藺草《いぐさ》を敷き詰めた居酒屋の中を横切ってウォーガン王に近づくと、簡潔に状況を報告した。
「ゼモックの街へ行ってきました、陛下。オサとアザシュを殺して、帰ってきたところです」
ウォーガンは目をしばたたいた。
「まさに要点のみだな」笑い声を上げ、酔眼であたりを見まわして、ドアの前の衛兵に大声で命令する。「そこのおまえ! ヴァニオン卿を呼んでこい。部下が戻ったと言ってな。捕虜はどこかに閉じこめてあるのか、スパーホーク」
「捕虜はおりません、陛下」
「それこそが戦争のやり方というものだ。だがサラシはお気に召さんかもしれんな。何としてもアニアスを裁判にかけたいようだったから」
「連れてきてもよかったんだが、あまり人前に出せる状態じゃなかった」とアラス。
「どっちが殺した?」
「実のところ、アザシュが殺したんですよ、陛下」ティニアンが説明する。「ゼモックの神はオサとアニアスにひどく失望しましてね。それで二人を処分したんです」
「マーテルはどうした。それにアリッサ王女と、私生児リチアスは」
「マーテルはスパーホークが殺しました」とカルテン。「リチアスはアラスが首を打ち落として、アリッサは毒をあおぎました」
「死んだのか」
「だと思います。置き去りにしてきたときには、かなり効いてるようでしたから」
そこへヴァニオンがやってきて、まっすぐセフレーニアに近づいた。二人の秘密は――二人が互いにどう思っているかということは誰の目にも明らかだったので、これはほとんど意味のない秘密だったが――ここに公然と明かされるに至った。二人はどちらにも似つかわしくない激しさでしっかりと抱き合い、ヴァニオンは何十年来愛しつづけてきた小柄な女性の頬に口づけした。
「あなたを失ったと思った」ヴァニオンの声は感動に震えていた。
「あなたを置き去りにしないことはわかっているでしょう、ディア」
スパーホークはかすかな笑みを浮かべた。セフレーニアが誰に対しても使う|愛しい人《ディア》≠ニいう呼びかけは、本当に愛しい人≠ナあるヴァニオンへの想いを隠蔽するためのものだったのだ。同じ言葉であっても、ヴァニオンに向けられるときとそれ以外では、大きな隔たりがあるようだった。
ゼモックへ向かったあとの事情の説明はなかなか詳細なものだったが、話しぶりは控え目で、また神学的な論争になりそうな点はすべて慎重に取り除かれていた。
そのあとウォーガンが酔いの回った大声で、ラモーカンドとペロシア東部の国境地帯におけるこの間の出来事を話して聞かせた。西方諸国の軍勢は進軍が始まる前にカレロスで立案された作戦に従ったらしく、またその作戦はきわめてうまく運んだようだった。
「というわけで、いよいよ本格的な攻撃にかかろうというとき、あの臆病者どもは尻尾《しっぽ》を巻いて逃げ出しおったわけだ。どうして誰も余と戦おうとせん?」ウォーガンの口調は悲しみに沈んだ。「こうなれば、ゼモックの山の中まででも追いかけていってやる」
「何のために?」セフレーニアが尋ねる。
「何のために? 二度とやつらが国境を越えてこないようにだ」ウォーガンはわめき、椅子の上でぐらつき、横に置いた樽からジョッキにもう一杯エールを満たした。
「なぜ兵士の命を無駄にするのです」セフレーニアは重ねて尋ねた。「アザシュは死にました。オサも死にました。ゼモック人は二度とやってこないでしょう」
ウォーガンは教母を睨《にら》みつけ、テーブルに拳《こぶし》を叩きつけた。
「レンドー人も一掃させてもらえなかった! ことを仕上げる前にカレロスに呼び戻されたのだ! この上ゼモック人まで取り上げられてたまるものか!」その目が虚ろになり、ウォーガンはゆっくりとテーブルの下に滑り落ちて鼾《いびき》をかきはじめた。
「おまえのところの国王はおそろしく単純な目的意識を持ってるなあ」ティニアンがアラスに言った。
「ウォーガンは単純な男だ。一つ以上のことは同時に考えられない」アラスは肩をすくめた。
「わたしもカレロスまで同行しよう、スパーホーク。ウォーガンに軍を引かせるようドルマントを説得するのに、役に立てるかもしれない」ヴァニオンが言った。もちろんそれはヴァニオンの本当の目的とは違う、ただの口実だったが、スパーホークは疑念を口にしたりはしなかった。
翌朝早くカドゥムを発った騎士たちは甲冑を脱ぎ、鎖帷子と短衣《チュニック》と厚い上着に着替えていた。それで目に見えて速度が上がるということはなかったが、旅は多少とも快適なものになった。雨は連日降りつづき、陰気な小糠雨《こぬかあめ》が世界からいっさいの色を洗い流してしまうかのようだった。季節は冬の終わりのいちばんうっとうしい時期で、決して温かくなることはなく、またすっかり乾燥することもなかった。モテラを通過し、カダクを越え、川を渡って普通駆足《キャンター》で南のカレロスへ向かう。ある雨模様の午後、一行はとうとう、戦に荒廃した聖都を見下ろす丘の上に到着した。
「まずドルマントを探し出すことだな」ヴァニオンが言った。「使者をカドゥムまでやってウォーガンを止めるには、しばらく時間がかかる。ゼモックのほうはもう道が乾きはじめているはずだ」ヴァニオンは咳《せ》きこんだ。湿っぽい、嫌な咳《せき》だ。
「大丈夫ですか」スパーホークが尋ねる。
「風邪を引いたんだろう」
カレロスへの入城は、英雄の帰還というわけにはいかなかった。パレードもなく、ファンファーレもなく、花を投げて歓呼する群衆もいない。実際のところ、一行の顔を見分けた者さえほとんどいないようだった。飛んできたのは花ではなく、通りかかった建物の窓から投げられた生ごみだった。マーテルの軍勢がいなくなってからも、修理や再建のほうはちっとも進んでいないようだ。カレロスの市民はみじめな様子で瓦礫の中に座りこんでいた。
一行は旅の汚れも落とさずに大聖堂へ向かい、まっすぐ二階の執務室に向かった。
「総大司教猊下に緊急の報告がある」ヴァニオンが豪華なデスクの前に座った聖職者に声をかけた。相手の男はしきりに書類を繰って、自分を大物に見せようとしていた。
「申し訳ないが、お話になりませんな」男は顔をしかめて、ヴァニオンの泥に汚れた服装に目を向けた。「サラシは今、カモリア国代表の司教の方々と重要な会談中です。軍隊関係のどうでもいい用件で、お邪魔をするわけにはまいりません。明日もう一度おいでください」
ヴァニオンの鼻梁が白くなった。騎士団長はマントをうしろに跳ねのけ、剣の柄をまさぐった。だが事態が血なまぐさいものになる前に、エンバンがその場を通りかかった。「ヴァニオン? それにスパーホークか? いつ戻ってきたんだ」
「たった今着いたところです、猊下。ただ、われわれの身許について疑問があるようでしてね」とヴァニオン。
「わたしが来たからには心配いらん。中に入ってくれ」
受付の男が反論した。
「ですが猊下、サラシはカモリアの司教方と会談中です。ほかにもお待ちいただいている代表団の方々がたくさん――」エンバンがゆっくりとふり向くと、男は口を閉じた。
「これはいったい何者だ」エンバンの質問は、天井に向けてなされたかのようだった。それから大司教はデスクの向こうの聖職者を見つめた。「荷物をまとめたまえ。明日の朝一番でカレロスを発ってもらう。暖かい服をたくさん用意しておくといい。サレシア北部のフスダル僧院は、この時期にはとても寒いからな」
カモリア国の司教たちは即座に退席をうながされ、エンバンはスパーホークたち一行を部屋の中に招き入れた。中ではドルマントとオーツェルが待っていた。
「なぜ連絡しなかった」ドルマントがなじるように言った。
「ウォーガンがやってくれると思ったものですから、サラシ」ヴァニオンが答える。
「そんな重要な連絡を託せるほど、ウォーガンが信頼できると思っているのかね。まあいい、どうなったんだ」
スパーホークはときどきほかの者たちの助けを借りながら、ゼモックへの旅とそこで起きたことを説明した。
「クリクが?」話の途中、ドルマントは愕然として声を上げた。
スパーホークはうなずいた。
ドルマントはため息をつき、悲しげに頭を垂れた。
「誰か仇《あだ》は討ったんだろうな」その声は残忍とさえ言えそうだった。
「息子が討ちました、サラシ」とスパーホーク。
ドルマントはタレンとクリクの関係を思い出し、驚きの目で少年を見つめた。
「どうやって完全防備の戦士を倒したんだね、タレン」
「背中を刺したんです、サラシ」タレンは感情のこもらない声で答えた。「腎臓を狙って。でも止《とど》めはスパーホークに手伝ってもらわなくちゃなりませんでした。おいらの力じゃ、鎧《よろい》を貫けなかったんで」
「それで、これからどうするつもりだね」
ドルマントの問いかけに、ヴァニオンが答えた。
「何年か時間をやるつもりです、サラシ。そのあとパンディオン騎士団の見習い騎士に任じます――クリクのほかの息子たちといっしょに。スパーホークがクリクに約束したのです」
「誰もおいらの気持ちは聞いてくれないの?」タレンがふくれっ面で言う。
「そうだ。聞く気はない」ヴァニオンが答えた。
「騎士だって? おいらが? みんなそろって常識に暇を出しちゃったんじゃないの」
「慣れればそう悪いものじゃないぞ、タレン」ベリットがにやにやしながら言った。
スパーホークは話を続けた。ゼモックで起きたさまざまな出来事の多くは、オーツェルには神学的に受け入れる準備ができていないものだった。話が進むにつれてオーツェルの目はだんだんと虚ろになり、やがて大司教はぐったりと椅子に座りこんでしまった。
「だいたいこんなところです、サラシ。心の整理をつけるには、まだしばらく時間がかかるでしょう――たぶん残る一生くらい。その時になっても、きっと理解できないことだらけだろうと思います」スパーホークはそう話を締めくくった。
ドルマントは考えこむように椅子に背を預けた。
「ベーリオンと指輪だが――どうやら教会の宝物庫に保管したほうがいいようだな」
「申し訳ないんですが、だめなんです、サラシ」とスパーホーク。
「何だって?」
「ベーリオンはもう手許にないんです」
「いったいどうしたんだ」
「海に投げこんだのです、サラシ」ベヴィエが答えた。
ドルマントは目を丸くしてベヴィエを見つめた。
オーツェル大司教が怒りの表情もあらわに立ち上がる。
「教会の許しもなくか! 神にお伺いを立てることすらせず!」
「別の神の指示があったのです、猊下。というか、女神ですが」スパーホークが答える。
「背教じゃ!」オーツェルは息を呑んだ。
スパーホークが反論する。
「わたしはそうは思いません、猊下。ベーリオンを手に入れられたのはアフラエルのおかげです。グエリグの洞窟の、深淵の底から持ってきてくれたのですから。ならばなすべきことを終えたあとは、アフラエルに返すのが筋というものでしょう。でもアフラエルはそれを望まず、海に投げこめと言いました。だからそうしたのです。教会騎士たる者、礼節は重んじなくてはなりません」
オーツェルは納得しなかった。
「礼節はこのような重大な問題には適用されん! ベーリオンを安ぴか物のように扱うなど、もってのほかじゃ! すぐに取って返して探し出し、教会に引き渡すよう!」
ドルマントもオーツェルの肩を持った。
「それが妥当というものだろうな、スパーホーク。行って回収してきたまえ」
スパーホークは肩をすくめた。
「お言葉のままに、サラシ。どこの海岸を探せばいいのかご指示いただければ、ただちにそうしましょう」
「まさかきみは――」ドルマントの顔に情けない表情が浮かんだ。
「まったく見当もつかない」アラスが口を開いた。「アフラエルにどこかの海べりの崖の上に連れていかれて、そこでベーリオンを海に投げこんだ。どこの海か、どこの岸か、いっさいわからない。あるいはこの世界の海でさえないのかもしれない。月にも海はあるのかな。残念ながら、ベーリオンは永遠に失われた」
聖職者たちは唖然としてアラスの顔を見つめた。
「どのみち、エレネ人の神がベーリオンを欲しがるとは思えませんよ、ドルマント」セフレーニアが話しはじめる。「あなたがたの神もほかの神々と同じく、あれが永遠に失われたと知って、ほっとしているのではないでしょうか。ベーリオンは神々を脅かすものです。アフラエルは明らかに怯《おび》えていました」しばらく間を置いて、「今年の冬が長くきびしいことには気がついていますか。自分たちの気分が滅入っていることにも」
「問題の多い時期だったのですよ、セフレーニア」とドルマント。
「わかっています。でもアザシュとオサが死んだと聞いても、あなたは躍り上がって喜んだりはしませんでした。それほどの大事でさえ、あなたの気分を高揚させることはできなかったのです。スティリクム人は、冬というのが神々の心の状態の反映であると考えます。ゼモックで起きたことは、これまでに一度もなかったことでした。今や神々も死ぬのだということがわかってしまったのです。神々がその考えを受け入れられるようになるまで、わたしたちの心に春は訪れないのではないかと、わたしは真剣に心配しています。今や神々は取り乱し、怯えています。人間の抱える問題などどうでもよくなってしまっているのです。当分のあいだ、人間は自力で何とかやっていくしかないのかもしれません。魔術さえ効かなくなってきているのですよ。神々が戻ってくるまで、わたしたちはこの孤独に耐えていかなくてはならないでしょう」
ドルマントはふたたび椅子の背にもたれかかった。
「わたしを困らせないでください、小さき母上」片手で力なく両目を覆う。「だが正直な話、この一月半のあいだ、たしかに冬のような陰鬱な気分が続いています。一度など、真夜中に泣きながら目覚めたことさえある。それ以来笑うことも、心が浮き立つこともなくなってしまった。わたしだけのことだと思っていたのですが、どうもそうではないようだ」わずかに言葉を切って、「われわれには教会の代表者としての責務があります。信者の気持ちを、この世界的な憂鬱からそらさなくてはならない。喜びは与えられないまでも、せめて何かの目的を与える必要があるのです。どうすればいいと思いますか」
「ゼモック人を改宗させるというのはどうでしょう、サラシ」ベヴィエが提案した。「ゼモック人は長らく邪悪な神を祀《まつ》ってきましたが、その神はいなくなりました。教会にとってこれ以上の目的があるでしょうか」
「きみは聖人にでもなろうとしとるのかね、ベヴィエ」エンバンは渋い顔でそう言い、ドルマントに向き直った。「だがこれは実にいい考えです、サラシ。信仰に篤《あつ》い者たちは熱中するでしょう。その点は疑いない」
「だったらウォーガンを止めたほうがいい」とアラス。「ウォーガンはカドゥムにいて、馬を進められるくらいまで地面が乾きしだい、ゼモック人を殺戮して回るつもりでいる」
「そっちはわたしが何とかしよう。たとえカドゥムまで赴いて、腕ずくで説得しなくてはならないとしてもな」エンバンが請け合った。
「アザシュはスティリクム人の神――だった」とドルマント。「エレネ教会はスティリクム人の改宗にほとんどまったく実績を上げていない。セフレーニア、手伝ってもらえないだろうか。何とかあなたに公的な地位と権限を与えられると思うのだが」
「いいえ、ドルマント」教母は首を横に振った。
「どうして今日はみんなわたしの言うことを拒否するんだ。何が問題なんです、小さき母上」
「スティリクム人を背教者にするのに、手を貸すわけにはいきません」
「背教者じゃと!」オーツェルが声を詰まらせる。
「これは真の信仰からはずれた者を指す言葉でしょう、猊下」
「エレネ人の神への信仰こそが真の信仰じゃ」
「わたしにとっては違います。あなたがたの宗教は不愉快です。残忍で、硬直していて、不寛容で、鼻持ちならないくらい独善的です。人間味というものがありません。わたしはごめんですね。あなたの改宗運動を手伝うつもりはありませんよ、ドルマント。もしここでゼモック人の改宗に手を貸したら、次はきっと西方のスティリクム人に矛先を向けてくるでしょう。そうなればわたしたちは敵と味方です」教母はそこで陰鬱な雲を追い払うような、優しい笑みを浮かべた。「アフラエルの気分がよくなったら、すぐに話をしてみようと思います。たぶんゼモック人に興味を持つのではないでしょうか」ドルマントに向けられた笑顔は、まるで輝くようだった。「そうなるとわたしたちの立場は正反対のものになりますね、サラシ。どうぞ頑張ってください。でもよく言われるとおり、よりよい男が――あるいは女が――勝ちますように」
西に向かって進みはじめても、天候はあまり変わらなかった。雨はあまり降らなくなったものの、空には相変わらず雲が垂れこめ、吹きすさぶ風には冬の寒さが感じられた。目的地はデモスだった。クリクを家に連れて帰るのだ。とうとうクリクを死なせる羽目になってしまったとアスレイドに話すのは、スパーホークにとっては気が重いことだった。アザシュの死によって地上を覆った陰鬱さは、葬送の行列のような旅にあって、いっそうその暗さを増していた。カレロスのパンディオン騎士館の鎧職人たちは、スパーホークと仲間の甲冑のへこみを直し、錆まで落としてくれていた。クリクの遺体はいささか豪華な作りの黒い馬車に乗せて運ばれた。
デモスから五マイルばかりのところで、一行は街道にほど近い木立の中に野営地をしつらえた。スパーホークと仲間の騎士たちは甲冑を準備した。暗黙の了解で、翌日は誰もが騎士の正装に身を固めるつもりになっていたのだ。満足いくまで具足を磨き上げたスパーホークは、焚《た》き火から少し離して止めてある黒い馬車に向かった。タレンが立ち上がって、あとからついてきた。
「スパーホーク」少年が歩きながら声をかけた。
「何だ」
「あの提案、真面目に考えてるわけじゃないんだろ」
「どの提案のことだ」
「おいらをパンディオン騎士にするって話だよ」
「真面目な話だとも。お父さんと約束したんだ」
「逃げだすからね」
「そうしたらわたしが捕まえる――あるいはベリットを差し向ける」
「不公平だよ」
「まさか人生ってやつが、いかさまの骰子《さいころ》を使わないなんて思ってるわけじゃあるまい」
「騎士の学校になんか行きたくないんだよ」
「いつでも望みのとおりになると思ったら大間違いさ。これはお父さんが望んだことだ。失望はさせたくない」
「おいらはどうなるのさ。おいらが望んだことは」
「おまえは若い。適応が利く。しばらくすれば気に入ってるさ」
「これからどこへ行くの」タレンの声は不機嫌そうだった。
「お父さんのところだ」
「ああ、だったら焚き火の前に戻るよ。生きてたときの姿を覚えておきたいんだ」
スパーホークが乗りこんで従士の遺体のそばに腰をおろすと、馬車はぎしぎしときしんだ。騎士はしばらく何も言わなかった。嘆きはもはや底をつき、今では痛烈な悔恨の念だけがあった。
「二人してずいぶん長く旅してきたものだな」やっとそんな言葉が口を衝《つ》いた。「おまえは家に戻って休息し、おれは独りで旅を続けていかなくちゃならない」闇の中で小さく微笑む。「おまえにしては軽率じゃないか、クリク。いっしょに年を取っていこうと思ってたのに――これからもずっと」
騎士はしばらく黙りこんで、また口を開いた。
「息子たちのことは心配するな。立派な息子たちだ。タレンのことだって、いずれは誇りに思えるようになる。尊敬されるってことを教えこむのに、しばらくかかるかもしれないがね」
またしばらく口を閉ざす。
「アスレイドにはできるだけ穏やかに伝えるよ」スパーホークはクリクの手に自分の手を重ねた。「さらばだ、わが友」
一同がもっとも恐れていた、アスレイドに悲報を伝えるという場面は、結局のところ訪れなかった。知らせはもう伝わっていたのだ。アスレイドは夫とともに長年働いてきた農場の門の前で、黒い喪服に身を包んで待っていた。若木のように背丈の伸びた四人の息子たちもいちばんいい服を着て並んでいた。その悲しげな顔を見て、スパーホークは入念に準備してきた演説が不要になったことを悟った。
「お父さんに会ってきなさい」アスレイドが息子たちに言った。
四人はうなずき、黒い馬車に向かった。
「どうしてわかったんだ」アスレイドと抱擁をかわしたあと、スパーホークが尋ねた。
「あの小さな女の子よ。前にカレロスへ行くとき、いっしょに連れていたでしょ。ある晩、あの子がドアの外にやってきて話してくれたの。そのままいなくなってしまったけど」
「その話を信じたのか」
アスレイドはうなずいた。
「本当のことだと思ったわ。あの子は普通の子供とは違ってた」
「まったくだ。残念だよ、アスレイド。残念きわまる。クリクが年を取ってきたとき、家に帰すべきだった」
「いいえ、スパーホーク。そんなことをしたら、あの人はがっくりきてたでしょう。ところで、あなたにお願いがあるんだけど」
「どんなことでも言ってくれ」
「タレンと話をしたいの」
どういうことかわからないまま、スパーホークは若い盗賊にこっちへ来いと合図した。
「タレン」アスレイドが口を開く。
「何だい」
「あなたのことはとても誇りに思ってるわ」
「おいらを?」
「あなたはお父さんの敵《かたき》を討った。兄さんたちもわたしも、とても嬉《うれ》しく思っているよ」
タレンはアスレイドを見つめた。
「知ってたの? つまり、クリクとおいらの関係だけど」
「もちろんですとも。ずっと前から知ってたわ。これから言うとおりにしてちょうだい。しなかったら、スパーホークに鞭《むち》でぶたれますからね。いいこと、シミュラへ行って、あなたのお母さんを連れていらっしゃい」
「何だって?」
「聞こえたでしょう。お母さんとは何度か会ったことがあるの。あなたが生まれたすぐあと、どんな人なのかシミュラまで見にいったのよ。どっちがうちの人にふさわしい女か、決着をつけようと思ってね。とてもいい子だった――ちょっと細すぎるけど、ここへ来ればすぐにちゃんと太れるわ。わたしたち、とても気が合うの。あなたと兄さんたちが見習い騎士になるまで、みんなでいっしょにここで暮らすことにするわ。そのあとはあの人と二人で切り盛りしていけるし」
「おいらに農場で暮らせっていうの」タレンは信じられないと言いたげに尋ねた。
「お父さんならそう望んだはずだし、あなたのお母さんもそれがいいと思うでしょう。わたしだって、もちろんそう。まさか三人をそろって失望させるような真似はしないわよね」
「でも――」
「お願いだから口答えしないで、タレン。もう決まったことなの。さあ、中へ入りましょう。夕食の準備ができてるのよ。冷めてしまったらおいしくないわ」
翌日の午《ひる》ごろ、クリクの遺体は農場を見下ろす丘の上の、丈高い楡《にれ》の木の下に埋葬された。午前中はずっと曇っていたが、クリクの息子たちが父親の遺体を丘に運び上げるときには太陽が顔をのぞかせた。スパーホークは従士ほど天候の判断に長《た》けているわけではなかったが、いきなり農場の上にだけ青空が広がって太陽が輝き、デモスの街のほかのところは相変わらず雲に覆われているのを見ると、多少の疑いを抱かないわけにはいかなかった。
葬儀は簡単だが、感動的なものだった。地元の年老いた司祭はかなり足許が危なっかしかったが、少年時代からクリクを知っていた人物で、悲しみよりもむしろ愛について多くを語った。それが終わると、クリクの長男のカラードがスパーホークの横に並び、一同はそろって丘を下った。カラードが騎士に話しかけた。
「ぼくをパンディオン騎士にって言ってくださったこと、本当に名誉に思ってます、サー・スパーホーク。でも申し訳ないんですけど、辞退させていただきたいんです」
スパーホークは平凡な顔立ちの痩せた少年に鋭く目を向けた。黒い髭はまだやっと伸びはじめたばかりだ。
「わがままで言ってるんじゃありません。ただ、父には別の考えがあったものですから。シミュラに落ち着かれたら、ぼくもそちらに合流します」
「きみが?」スパーホークは青年のてきぱきした話し方に、わずかに意表を衝かれた。
「そうです、サー・スパーホーク。ぼくは父の仕事を引き継ぎます。代々の伝統ですからね。ぼくの祖父はあなたのお祖父様とお父様にお仕えしていました。父はお父様とあなたにお仕えしました。今度はぼくの番というわけです」
「そんな必要はないんだぞ、カラード。パンディオン騎士になりたくはないのか」
「ぼくの気持ちは関係ありませんよ、サー・スパーホーク。果たすべき仕事があるんですから」
翌朝、一行は農場をあとにした。カルテンが馬を進めてきて、スパーホークの横に並んだ。
「いい葬儀だったな。葬儀が好きだってことなら。おれはむしろ、友だちにはそばにいてもらったほうがいいけど」
「ちょっと相談に乗ってくれないか」スパーホークが言った。
「殺さなくちゃならんやつは、もうみんな殺したと思ったがな」
「真面目になれないのか」
「ずいぶんな要求だな。まあ努力はするよ。相談てのは何だ」
「カラードがおれの従士になると言ってる」
「それで? 田舎じゃあ、息子が父親の跡を継ぐのは当たり前のことだ」
「カラードはパンディオン騎士にしてやりたい」
「何が問題なのかわからんな。だったら騎士にしてしまえばいいじゃないか」
「従士と騎士を兼任はできんよ」
「どうして。自分のことを考えてみろ。おまえはパンディオン騎士で、王国評議会の議員で、女王の擁護者で、かつ女王の夫じゃないか。カラードはがっしりしたいい肩をしてる。どっちの仕事もこなせるさ」
考えれば考えるほど、スパーホークはその案が気に入った。
「カルテン、おまえがいなかったら、おれはどうすればいいんだろうな」笑いながらそう言う。
「たぶんじたばたともがくことになるな。おまえは物事を複雑にしすぎるんだ。もっと単純に考えるようにしたほうがいいぞ」
「ありがとう」
「お代はいらんよ」
雨が降っていた。午後遅い空から霧のように舞い落ちてくる柔らかな銀の雨が、シミュラの街のずんぐりした物見やぐらを包みこんでいる。その街に騎馬の孤影が近づきつつあった。黒く重い旅のマントをまとった男が、大型の毛深い葦毛《あしげ》の馬を駆っている。馬の鼻面は長く、無表情な目には酷薄な光があった。
「シミュラに戻るときはいつも雨だな、ファラン」騎乗する男が馬に声をかけた。
ファランがぴくりと耳を動かす。
スパーホークはその日の朝、仲間たちをあとに残して独り先行してきたのだった。理由はわかりきっていたので、反対する者はいなかった。
「よろしければ一足先に王宮にお知らせしておきますが、スパーホーク殿下」東門の衛兵の一人がそう申し出た。エラナは夫の新しい称号を周知徹底させているらしい。そうなってなければいいと思っていたのだが。慣れるまでにはしばらく時間がかかりそうだった。
「ありがとう、ネイバー。だがここは妻をびっくりさせてやりたい。まだそういうことを喜ぶような歳だからな」
衛兵は笑顔を見せた。
「詰所に戻っていたまえ。こんな天気だ、風邪を引くぞ」
スパーホークはシミュラの街に馬を乗り入れた。雨のせいで人通りは少なく、ファランの鋼鉄を打った蹄《ひづめ》は、ほとんど無人の街路に虚ろな音を響かせた。
スパーホークは王宮の中庭に馬を止め、手綱を厩番に手渡した。
「性格の悪い馬だから、気をつけたほうがいい。よかったら飼葉と雑穀をやって、身体をこすってやってくれ。少しばかり無理をさせたものだから」
「かしこまりました、スパーホーク殿下」まただ。スパーホークはこの件で妻と話し合おうと心に決めた。
「ファラン、いい子にしてろよ」
大柄な馬は騎士に冷たく刺々《とげとげ》しい視線を向けた。
「いい旅だったぞ。ゆっくり休め」スパーホークは片手をファランの力強い首に置いた。それからふり向いて王宮の階段を上り、「女王はどこに?」と門番の一人に尋ねた。
「評議会室だと思います、閣下」
「ありがとう」スパーホークは評議会室までの、蝋燭《ろうそく》に照らされた長い廊下を歩いていった。
評議会室の扉の前に着くと、中からタムールの女巨人ミルタイが現われた。
「ずいぶん遅かったじゃない」ミルタイはとくに驚いたそぶりも見せなかった。
スパーホークは肩をすくめた。
「いろいろあってね。中かい?」
ミルタイはうなずいた。
「レンダと、盗賊たちがいっしよにいる。街路の補修について話し合ってる」一拍置いて、「あまり熱烈に挨拶しないように。子供がいる」
スパーホークはびっくりしてミルタイを見つめた。
「婚礼の夜はそういうことを考えていたんじゃないの?」ふたたび間を置いて、「あの頭を剃ってるがに股の男はどうしたかしら」
「クリングか? ドミの?」
「ドミってどういう意味?」
「頭目、かな。クリングは一族の長なんだ。わたしの知る限りでは、元気でいるはずだよ。最後に見たときには、ゼモック人をおびき寄せて皆殺しにしようとしてた」
ミルタイの目の光がなごんだ。
「どうしてそんなことを訊く」
「別に。ただの好奇心」
「なるほど」
二人は評議会室に入り、スパーホークは水の滴るマントの襟元をゆるめた。エレニアの女王は、騎士が部屋に入ったときたまたま扉に背を向けていた。エラナとレンダ伯、それにプラタイムとストラゲンが、会議テーブルの上に広げた大きな地図の上に屈《かが》みこんでいる。エラナの熱心な声が聞こえた。
「この地区を通ってみましたが、どうしようもない状態です。街路はめちゃくちゃで、ただの補修ではすまないでしょう。舗装からやり直さなくてはなりません」エラナの声の豊かな響きは、たとえ実務的な話をしていてさえ、スパーホークの心を震わせた。騎士は微笑み、濡れたマントを扉のそばの椅子にかけた。
レンダ伯が女王に答えて話しだす。
「むろん作業にかかれるのは春になってからです。しかもなお働き手の圧倒的な不足は、ラモーカンドから軍隊が戻ってくるまでは解決しませんし――」老人は言葉を途切れさせ、驚いた顔でスパーホークを見つめた。
女王の夫は指を一本立てて唇に当て、テーブルに近づいて意見を述べた。
「陛下のお言葉に異を唱えるのは本意ではありませんが、今はシミュラの街路よりも街道の整備を優先させるべきです。市民には不便を強いることになりますが、農夫が収穫物を市場に運べないようなことにでもなったら、不便どころではすみません」
「そんなことわかってるわよ、スパーホーク」テーブルに屈みこんだまま女王が答えた。「でもね――」と若く美しい顔を上げる。灰色の目が丸くなった。「スパーホーク?」その声はささやくように小さかった。
「陛下にはまず街道の整備を優先すべきだと重ねて申し上げます」スパーホークは真面目な顔で言った。「こことデモスのあいだの街道など、実に驚くべき――」言えたのはそこまでだった。
エラナが腕の中に飛びこんでくると、ミルタイが警告した。
「そっとして。外で言ったことを忘れないように」
「いつ戻ってきたの」エラナが尋ねた。
「たった今だ。ほかの者たちは少し遅れてくる。抜け駆けさせてもらったんだ――いろいろな理由でね」
エラナは微笑み、もう一度夫に口づけした。
レンダ伯がプラタイムとストラゲンに声をかけた。
「紳士諸君、この討議はまた後《のち》ほどということにしたい」笑みを浮かべて、「今宵は女王陛下の注意をこちらに向けてはおけんようだからな」
「みなさんお気を悪くなさらないかしら」エラナがわざと子供っぽい口調で尋ねる。
「もちろんだとも」プラタイムが大声で答え、スパーホークに笑いかけた。「戻ってきてくれてよかった、わが友。あんたがエラナの気をそらしといてくれれば、おれの計画してる公共事業の細かなところにまで、鼻を突っこんでこなくなるだろうからな」
「こっちの勝ちというわけなんだな」とストラゲン。
「いちおうな」スパーホークはクリクのことを思い、そう答えた。「少なくともオサとアザシュは、もうわれわれを悩ませたりはしない」
「そこが肝心な点だ。細かい話はあとで聞かせてもらおう」顔を輝かせているエラナを見て、「だいぶあとになりそうだが」
「ストラゲン」エラナが断固とした口調で呼びかける。
「はい、陛下」
「外へ」女王はまっすぐに扉を指差した。
「かしこまりました」
スパーホークと新婚の妻はそのあとすぐに、ミルタイだけをともなって王家の居室に移った。スパーホークにはこのタムールの女巨人がどこまで護衛に付いてまわるつもりなのか、よくわからなかった。気持ちを傷つけたくはないが、しかし――
だがミルタイはきわめて事務的にことを進めた。女王の召使にいくつか簡潔な命令を下して、熱い風呂と夕食を用意させ、二人の邪魔をしないように言い、居室内にすべての準備が整うと、ドアの前で剣帯の下から大きな鍵を引っ張り出した。
「ほかにいるものはない、エラナ?」
「ええ、ミルタイ。いろいろとありがとう」
ミルタイは肩をすくめた。
「それがわたしの仕事だから。さっき言ったことを忘れないで、スパーホーク」鍵でドアを叩いて、「朝になったら出してあげる」そう言うと、女巨人は部屋の外に姿を消した。ドアに鍵をかける音が大きく響いた。
エラナは少し困ったように笑った。
「いつもこの調子なの。わたしが命令しても、頭から無視するのよ」
「きみのためを思ってのことだ」スパーホークは微笑んだ。「きみが地位にふさわしい威厳を保つ手伝いをしてるのさ」
「汗を流していらっしゃい、スパーホーク。錆のにおいがするわ。そのあと向こうで何があったのか聞かせてちょうだい。そうそう、その前に指輪を返してもらえるかしら」
スパーホークは両手を伸ばした。
「どっちだい? 一生かかっても区別できるようにはなれそうにない」
「こっちよ、もちろん」エラナは左手の指輪を指し示した。
「どうしてわかるんだ」騎士は言われた指輪をはずし、妻の手にはめてやった。
「誰にだってわかるわ」
「きみがそう言うならね」と肩をすくめる。
スパーホークは女性に見られながら入浴するのに慣れていなかったが、エラナは一時も夫の姿から目を離したくないようだった。スパーホークは湯につかりながら話を始め、食べながらも話を続けることになった。話の中にはエラナが把握できないことや誤解したこともあったが、どういう出来事があったのかということはおおむね伝わったようだった。クリクが死んだことを話すと泣き声が上がり、アニアスと女王の叔母と従兄の運命に話が及んだときには、美しい顔に荒々しい表情が浮かんだ。適当にごまかしたり、割愛したりした部分も多かった。その場にいたんでなくちゃわからないよ≠ニいう台詞《せりふ》はとても便利で、何度も使われることになった。アザシュの破滅このかたどうやら全世界を覆っているらしい憂鬱については、とりわけ慎重に言及を避けた。はじめての妊娠の初期にある若い女性に聞かせるには、不適切な話題だと思ったからだ。
そのあと闇の中で親しく寄り添いながら、エラナは夫の不在中に西方諸国で起きた出来事を物語った。
夢というものに関わりの深いベッドの中にいたせいだろうか、話はいつのまにかエラナの見た夢のことになっていた。
「とても不思議な夢だったのよ」エラナはベッドの中でスパーホークに寄り添った。「空は一面に虹がかかっていて、わたしは見たことないほど美しい島にいたわ。島はとても古い木々に覆われていて、優美な白い柱の立ち並ぶ大理石の神殿があるの。わたしはそこで、あなたと仲間たちを待ってた。やがてみんながそれぞれに、美しい白い獣に案内されてやってきたわ。セフレーニアもわたしといっしょにいて、それがまるで少女みたいに若々しいの。女の子が一人、山羊飼いの笛を吹いて踊ってた。まるで小さな女帝みたいに、みんながその子の命令に従うのよ」エラナは小さく笑った。「あなたのことを老いぼれ熊≠ネんて言ったのよ。そのあとベーリオンのことを説明してくれたんだけど、とても難しい話で、ほとんど理解できなかったわ」
全部ちゃんと理解した者はいなかったよ、とスパーホークは胸の中でつぶやいた。あの夢は思ったよりも広い範囲にわたっていたようだ。しかしなぜアフラエルはエラナにも見せたりしたのだろう。
「それでいちおうその夢はおしまいで、その次の夢はあなたもよく知ってるはずよ」
「へえ?」
「さっき話してくれたもの。細部までぴったり一致してたわ。どういうわけか、ゼモックのアザシュの寺院で起きたこと、わたしも一部始終を夢で見ていたの。さっき話を聞きながら、ぞっとしっぱなしだったわ」
「そんなに不安がることじゃないさ」スパーホークはさりげない声を出そうと努めながら答えた。「とても親密な二人のあいだでは、相手の考えていることがわかるというのはよくあることだ」
「本気で言ってるの」
「もちろん。そう珍しいことじゃない。結婚してる女性に、誰でもいいから訊いてみたまえ。きっと夫の考えてることはお見通しだって答えが返ってくるはずだ」
「そうかもしれないわね」エラナは疑わしげに答え、澄ました顔で責めるように言った。「今夜はなんだか気が乗らないみたいね。わたしが醜く太ったからかしら」
「そんなことはないさ。ただ、きみはいわゆる大切な時期≠セそうだから。ミルタイが気をつけろって言いっぱなしなんだ。乱暴なことをしたなんて思われたら、肝臓を切り取られてしまう」
「ミルタイならいないわよ」
「部屋の鍵はミルタイだけが持ってるんだ」
「そんなことないわ、スパーホーク」女王は気取った調子で枕の下に手を伸ばした。「ドアは両側から鍵がかけられるようになってて、開けるときは両方で鍵を使わなくちゃならないのよ」と大きな鍵を手渡す。
「それは都合がいい」スパーホークは微笑んだ。「こっそりベッドを抜け出して、こっちからも鍵をかけたほうがいいみたいだ」
「そうしてみたら。ベッドへ戻るとき道に迷わないようにね。ミルタイに気をつけろって言われたんなら、練習を始めたほうがいいでしょ」
そのあと――実のところかなりあとのことだが――スパーホークはベッドを抜け出して窓の前に立ち、雨に煙る夜の街を眺めた。終わったのだ。もはや夜明け前に起きだして、鋼《はがね》のような灰色の光の中を井戸へ向かう、ベールをかぶったジロクの女たちの姿を眺めることはない。遠い国の見知らぬ道を、心臓の近くにサファイアの薔薇をぶら下げて馬を駆ることもない。帰ってきたのだ。年を取り、悲しみを知り、疑うことなく受け入れていたさまざまなものに対する確信をいささかゆるがせて。ようやく故郷に戻ったのだ。望むらくは戦いを終え、旅を終えて。アナーカとはみずからの運命を作り出す者なのだとか。ならば自分の運命はこの見栄えのしない街に、ほんの数ヤード離れたところに眠る、色白の美しい女性とともにある。スパーホークはそう思い定めた。
心が決まってしまうとほっとした。何かを成し遂げた気持ちで、騎士はベッドへ、妻のもとへと戻った。
[#改丁]
エピローグ
その年はなかなか春が訪れなかった。突然の遅霜が果樹の花をことごとく散らし、作物に大きな被害を与えた。夏は湿っぽく曇りがちで、収穫はわずかだった。
ラモーカンドから西イオシア各国に帰還した兵士たちを待っていたのは、薊《あざみ》ばかりが生い茂る不毛な土地との、実り少ない苦闘だった。ラモーカンド国では内戦が勃発したが、これは別に異例なことではなかった。ペロシア国では農奴の反乱が起き、教会や西方の都市の門前に蝟集《いしゅう》する物乞いの数は、すさまじい勢いで膨れ上がっていった。
エラナ懐妊の報を聞いて、セフレーニアは大いに驚いたようだった。女王が確かに妊娠していることがわかると、教母は困惑し、すこぶる機嫌が悪くなった。月満ちてエラナは女の子を出産し、夫婦はその子にダナエという名を付けた。セフレーニアは赤ん坊を徹底的に検査し、ダナエ王女がまったく正常で健康そのものだということがわかると、ほとんど腹を立てているように見えた。
ミルタイは女王の日程を調整して、エラナが公務と育児の両方をこなせるように配慮した。ついでに指摘しておくと、女王の侍女たちはミルタイに嫉妬混じりの憎しみを感じているようだった。もっともミルタイは侍女たちに手を上げるどころか、その悪口を言うようなことさえなかったのだが。
教会は間もなく東方教化の計画に興味を失い、その目はむしろ南に注がれることとなった。レンドー国に、教会にとっての好機が訪れたのだ。熱狂的なエシャンド派の信徒のほとんどがマーテルの軍勢に加わり、その後カレロスで手ひどい敗北を喫したことで、この異端派は大きく勢力を減じていた。その結果レンドー国は、熟柿が落ちるように正統の信仰に回帰するかに見えた。ドルマントは愛と和解の精神をもって宣教師を派遣したが、そうした者たちは大聖堂の丸屋根が見えなくなるや、たちまち復讐と処罰の権化となってしまった。レンドー人の反応は予想どおりのものだった。悪辣《あくらつ》な宣教師たちが何人か殺され、教会騎士団の部隊が投入されて、歓迎されない聖職者とわずかな数の改宗者を守るため、その規模はどんどん大きくなっていった。エシャンド派に心を寄せる者がふたたび増えはじめ、砂漠の奥に隠された武器庫の噂がまたそろささやかれはじめた。
文明化された人々は都市こそが一国の文化の華であると考え、自分たちの王国が土地を基盤に成り立っているものであることを、つい忘れてしまいがちになる。農業の衰退とともに経済も崩壊を始め、税収の細りはじめた政府は、必然的にさまざまな形の増税を企てた。それはすでに生活の苦しい農民に、なおいっそうの重荷を負わせることにほかならない。スパーホークとレンダ伯の議論はだんだんと深刻さを増し、二人がまったく口を利かなくなってしまうこともしばしばだった。
ヴァニオン卿の健康は日を追うにつれて徐々に衰えていった。セフレーニアはさまざまに手をつくして治療を試みたが、とうとうある風の強い秋の朝、ダナエ王女の誕生から数ヵ月を経たころ、二人はどこへともなく忽然と姿を消してしまった。白いローブのスティリクム人がデモスのパンディオン騎士本館に現われ、セフレーニアの仕事を引き継ぐことになったと告げたとき、スパーホークの最悪の疑念は現実のものとなった。約束が違うという嘆願もむなしく、スパーホークは暫定的に騎士団長の職責を引き受けさせられることとなった。ドルマントは何とか正規の騎士団長に任命しようとしたのだが、その点だけはスパーホークがあくまでも抵抗したのだ。
アラスとティニアンとベヴィエはときおりエレニアの王宮を訪れて、それぞれの故国の様子を報告していった。だがそうして伝えられる話は、いずれもエレニア国内の惨状と似たり寄ったりのものだった。プラタイムが各地に散らばる情報源から集めてくる報告によると、食糧事情は飢饉《ききん》に近く、疫病が流行する兆しが見え、社会不安がほとんど全世界的に広がっているということだった。
「きびしい時代だよ、スパーホーク」太った盗賊は哲学的な顔で肩をすくめた。「いくら頑張って食い止めようとしても、きびしい時代ってのはときどきやってくるものなんだ」
スパーホークはカラードの抗議を封じて、クリクの四人の息子たちを全員パンディオン騎士団の見習い騎士に任じた。タレンはまだ少し若すぎたので、スパーホークの目が届くよう、小姓として王宮に出仕することとなった。相変わらず行動の予測がつかないストラゲンは、しばしばシミュラを訪れた。ミルタイはエラナを護衛して、必要なときには無理にでも女王に言うことを聞かせ、クリングのたび重なる求婚を笑ってはねつけつづけていた。クリングはありとあらゆる口実を設けて、ペロシア国東部からシミュラまで、何度となく大陸を横断してきた。
数年を経ても、状況はあまり改善されなかった。雨つづきだった最初の年のあと、三年間は旱魃《かんばつ》が続いた。食糧はつねに欠乏ぎみで、エレニア国政府は税収不足に悩まされつづけた。スパーホークは妻の重荷を可能な限り肩代わりしていたが、それでもエラナの色白の美しい顔はすっかり面やつれしていた。
女王の夫個人にとっての大事件が起きたのは、晩冬の、ある寒い晴れた午後のことだった。その日は朝からずっとレンダ伯を相手に、新税の導入について激しい議論を戦わせてきたところだった。レンダ伯は感情をむき出しにしてスパーホークを罵倒し、甘やかされた怠惰な農民の福祉を気にかけるあまり、体系的に政府を瓦解させようとしていると非難した。最終的に議論に勝ったのはスパーホークだったが、そんなことは嬉しくも何ともなかった。議論で勝利を収めるたびに、騎士と年長の友人のあいだの溝はますます深くなっていくのだ。
スパーホークは陰鬱な不満をかかえて居室の火のそばに腰をおろし、四歳になる娘、ダナエ王女の動きを見るともなしに見守った。妻はミルタイとタレンを連れて市内の巡幸に出かけており、スパーホークと小さな王女は二人きりだった。
ダナエは生真面目で勇敢な子供だった。髪は艶《つや》やかに黒く、大きな目は夜のように濃く、唇はピンクの薔薇の蕾《つぼみ》のようだ。物腰は真面目だが情の深い子で、よく両親に自分から口づけをしてくることがあった。そのとき王女は暖炉のそばで、ボールを使った遊びに熱中していた。
スパーホークの人生を永久に変えてしまうことになる事件の発端は、その暖炉だった。ダナエが目測を誤り、ボールが火格子の上に転がっていってしまったのだ。王女は何かを考えるでもなく暖炉に近づき、父親が止めることも叫ぶこともできないうちに、炎の中に手を伸ばしてボールを拾い上げた。スパーホークは息を詰まらせたような声を上げて娘に駆け寄った。乱暴に娘を抱き寄せ、手を調べる。
「どうしたの、お父様」ダナエ王女は落ち着き払って尋ねた。早熟な子供で、話しはじめたのはかなり早く、今ではほとんど大人のような口を利く。
「手だよ! 火傷《やけど》したろう! 火の中に手を突っこんだりしちゃだめだ」
「火傷なんかしてないわ」ダナエは手を上げ、指を動かして見せた。「ほらね」
「二度と火のそばに近づくんじゃない」
「はい、お父様」ダナエは身じろぎして床におろしてもらい、ボールを安全な部屋の隅に持っていって遊びを再開した。
スパーホークは戸惑いながら椅子に戻った。火の中に手を突っこんで、火傷する前にすばやく引っこめることはできるだろう。だがダナエはそんなにすばやく手を動かしたようには見えなかった。スパーホークはじっくりと娘を見つめた。ここ何ヵ月か多忙を極めていたため、ダナエがそばにいるだけで満足して、ゆっくり観察したことがなかったのだ。ダナエはさまざまな変化が一気に起きる時期にさしかかっていた。そしてそうした変化は、スパーホークがあまり注意していなかったここ数ヵ月のあいだに起きていたようだ。あらためて娘の姿をまじまじと見つめて、スパーホークは冷たい手で心臓をつかまれたような衝撃を受けた。信じられないことに今までまったく見逃していた、ある重大な事実に気がついたのだ。スパーホークとエラナはエレネ人だ。だが二人の娘はそうではなかった。
スティリクム人の娘を長いことじっと見つめて、スパーホークは唯一可能な説明にたどり着いた。
「アフラエル?」茫然とした声で呼びかける。ダナエとフルートは少ししか似ていないようだったが、ほかの説明は考えつかなかった。
「なあに、スパーホーク」その声に驚いた響きはなかった。
「娘に何をしたんだ!」スパーホークは興奮のあまり椅子から立ち上がって叫んだ。
「ばかなこと言わないでよ、スパーホーク。わたしがあなたの娘でしょ」アフラエルは落ち着き払っていた。
「不可能だ。どうやって――」
「知ってるはずでしょ、お父様。わたしが生まれたとき、ちゃんとその場にいたじゃない。取り替え子か何かだと思ってるの? 郭公《かっこう》か何かみたいに、他人の巣に自分の卵を産んでいったって? そんなのはエレネ人のばかな迷信よ。わたしたちはそんなことしない」
スパーホークは何とか少し気を落ち着かせ、できる限り平静な声で尋ねた。
「説明してくれる気はあるのか。それともわたしが自分で考えなくちゃならんのかね」
「そうとんがらないでよ、お父様。子供が欲しかったんでしょ」
「しかし――」
「それにお母様は女王だから、跡継ぎを産まなくちゃならない」
「それはそうだが――」
「でも産めないの」
「何だって?」
「アニアスに盛られた毒のせいで、子供の産めない身体になってしまったの。わたしがどれほど悩んだか、きっと想像もつかないでしょうね。お母様が妊娠したと知ったとき、どうしてセフレーニアがあんなに取り乱したと思ってるの。もちろん毒の副作用は知ってたから、わたしが介入したことにすごく腹を立てたのよ。たぶん一番の理由は、お母様がエレネ人だからってことね。セフレーニアにはひどく了見の狭い一面があるから。あら、座ってよ、スパーホーク。その中腰の姿勢、何だか滑稽よ。座るか立つかはっきりして、中途半端はやめてちょうだい」
スパーホークは腰をおろした。頭がくらくらする。
「でも、どうして?」
「あなたとお母様を愛していたから。子供が産めない運命だったのを、わたしが少しだけ変えたわけ」
「わたしの運命も変えたのか」
「そんなことできるわけがないでしょ。あなたはアナーカなのよ。あなたの運命は誰も知らない。わたしたちにとっては、いつも悩みの種だったわ。生まれないようにしたほうがいいって意見のほうがずっと多かったの。それを何世紀もかけて、どうしてもあなたが必要なんだって説得したのよ」自分の身体を見下ろす。「ちゃんと成長するように気をつけていなくちゃね。前はスティリクム人だったけど、スティリクム人はわたしが子供のままでいることを受け入れられたわ。でもエレネ人には無理でしょうね。何世紀も子供のままでいたら、きっと噂をしはじめるわ。今度はきちんとやらないと」
「今度は?」
「そうよ。わたしは何十回も生まれてきたことがあるの」くるりと目を動かして、「それが若さの秘訣《ひけつ》ってわけ」アフラエルはきわめて真剣な顔になった。「アザシュの寺院でとても恐ろしいことが起きて、わたしはしばらく隠れていなくてはならなかったの。お母様の子宮は、隠れるには絶好の場所だった。絶対安全ですものね」
「ゼモックで何が起きるか、知ってたんだな」
「何かが起きることはわかってた。だからあらゆる可能性を考慮したの」小さなピンクの唇を考えこむようにすぼめて、「これはとても面白いことになるかもしれないわ。大人の女になるのははじめてだし、もちろん女王になるのもそう。姉さんがここにいればよかったのに。意見を聞いてみたいわ」
「姉さん?」
「セフレーニアよ」アフラエルはほとんど上の空で答えた。「前の両親の長女だったの。姉さんがいるのって、とてもよかった。いつもすごく賢くて、わたしがばかなことをしても許してくれるの」
スパーホークの頭の中で、それまで説明がつかなかった無数の事柄が、パズルのようにそれぞれの位置におさまった。
「セフレーニアはいったいいくつなんだ」
ダナエはため息をついた。
「答えないことはわかってるでしょう、スパーホーク。それに、わたしにもよくわからないの。わたしたちは、あなたがたほど年齢を気にしないのよ。でもだいたいのところを言えば、たぶん数百歳くらいだと思う。もしかすると千歳までいってるかな。それに何か意味があるの?」
「今どこにいる」
「ヴァニオンといっしょにいるわ。あの二人が互いにどう思ってたか、知ってるでしょ」
「ああ」
「驚いた。あなたも自分の目でものが見られたのね」
「何をしているんだ」
「わたしの代わりにいろいろなものの面倒を見てくれてるの。今回はとても忙しいことになってるんで、そのあいだの店番が必要だった。祈りに応えるくらいのことはセフレーニアにもできるし、わたしの崇拝者はそんなに多くないから」
「どうしても、これがごく当たり前のことだって口調で話さなくちゃならないのか」スパーホークは悲しげに言った。
「だってそうなんですもの、お父様。やたらに自分を偉そうに見せるのは、エレネ人の神くらいのものよ。笑うのを見たことさえ一度もないわ。わたしの崇拝者はもっとずっと感覚的なの。わたしを愛してくれてるから、失敗があっても大目に見てくれるわけ」ダナエは急に笑ってスパーホークの膝に登り、口づけをした。「あなたは今までで最高の父親だわ、スパーホーク。こんな話をしても、目の玉が飛び出したりしないんですもの」頭を騎士の胸に預ける。「実際にはどういうことになってるの、お父様? あまりいい状況じゃないってことはわかってるけど、誰かがお父様に報告をしにくるとミルタイに昼寝に連れ出されてしまうんで、細かい点がよくわからないのよ」
「世界にとってはつらい時代だよ。天候は不順で、飢饉と疫病が広まってる。あらゆるものの調子が狂ってる感じだ。もしわたしが迷信的なたちなら、全世界に悪運の呪いがかけられてると思うところだ」
「わたしの家族のせいだわ、スパーホーク。アザシュがあんなことになって以来、わたしたちはわが身を嘆くばかりで、すっかり仕事を怠っていたの。どうやらみんなが[#「みんなが」に傍点]成長しなくちゃいけないようね。家族と相談して、結果はあなたに知らせるわ」
「そうしてもらえると助かる」自分がこんな話をしていることが、スパーホークには信じられなかった。
「ただ、一つ問題があるの」
「本当に一つか」
「やめてよ。真剣なんだから。お母様にはどう説明する?」
「ああ、しまった! そのことをすっかり忘れてた」スパーホークは目をむいて叫んだ。
「今すぐ決めなくちゃならないわ。でも慌てて間違った選択はしたくない。お母様がこの話を信じるのは、かなり難しいんじゃないかしら。とくに自分が妊娠できない身体で、わたしがお母様の欲求と能力によって生まれたんじゃなく、わたし自身の選択で生まれてきたんだってことを受け入れなくちゃならないとしたら。わたしの正体を話したら、お母様はひどく傷つくんじゃない?」
スパーホークはその点を考えてみた。エラナのことなら世界じゅうの誰よりもよく知っている。渡す指輪を間違えたのだとほのめかしたとき、あの灰色の目に浮かんだ苦悩の表情を思い出すと、背筋に冷たいものが走った。
「だめだ。エラナには話せない」
「わたしもそう思ったわ。確認したかっただけ」
スパーホークはふと思いついて尋ねた。
「どうしてエラナにもあの夢を見せたんだ――あの島の夢を。それに、どうして寺院でのことをエラナが知ってたんだ。まるでその場にいたみたいだったと言ってたぞ」
「その場にいたのよ、お父様。わたしはお母様を残して勝手に出歩けるような立場じゃなかったの。そうでしょ? おろしてくれないかしら」
スパーホークが腕を放すと、ダナエは窓辺に歩いていった。
「ちょっと来て、スパーホーク」
スパーホークは窓辺で娘の横に立った。「どうした」
「お母様が帰ってくるわ。ミルタイとタレンといっしょに、中庭にいる」
スパーホークは窓の外に目を向けた。「そうだな」
「いつかわたしは女王になるんでしょ」
「途中で投げ出して、どこかで山羊の世話でも始めない限りはな」
ダナエはその言葉を無視した。
「だったら、わたしには擁護者がいるわ」
「そうだな。わたしが務めてもいいぞ」
「八十歳になっても? 今はなかなか堂々としてるけど、年を取ったら弱ってくるんじゃないかしら」
「そういじめるな」
「失礼。それに女王には夫も必要だわ」
「まあそうだが、どうして今そんな話をするんだ」
「助言がほしいのよ、お父様。それに承諾も」
「ちょっと早すぎないか。おまえはまだたった四歳なんだぞ」
「女の子はこういうこと、どんなに早く考えはじめても早すぎるってことはないのよ」そう言って中庭を指差し、「あそこにいるあの人なら、ちょうどぴったりだと思うんだけど」それは髪を飾るリボンを選んでいるような口調だった。
「タレンか?」
「いけない? わたしは好きよ。それに騎士になるんでしょ。サー・タレン――なかなかいいじゃない。面白いし、見た目よりずっといい子なのよ。それに好きなように仕込めるわ。お父様とお母様みたいに、いつもいっしょにベッドの中にいるわけにはいかないけど」
「ダナエ!」
少女は騎士の顔を見上げた。
「何を赤くなってるの、お父様」
「何でもいい。もう少し口に気をつけることだな、お嬢様。さもないとお母さんに正体をばらしてしまうぞ」
「いいわよ。そうしたら、わたしはお母様にリリアスのことを話すわ。それでどう?」
二人はしばらく見つめ合っていたが、やがてそろって爆笑した。
それから一週間ほどあとのことだった。スパーホークは執務室として使っている部屋で、デスクの上に置いたレンダ伯の最新の提案を睨《にら》みつけていた。政府の人件費をほぼ二倍にしてしまう、何ともばかげた提案だ。騎士は怒って書類の末尾に感想を書きつけた。いっそ王国の人民をすべて政府で雇うことにしてはどうです。そうすれば、みんなそろって飢えられますよ
ドアが開いて娘が入ってきた。いささか見栄えのよくないぬいぐるみの熊の片足をつかんで引きずっている。
「忙しいんだ、ダナエ」スパーホークはぴしゃりと言った。
ダナエはしっかりとドアを閉めた。
「機嫌が悪いのね、スパーホーク」
スパーホークはすばやくあたりを見まわし、続き部屋との境のドアに近づくと、慎重にそれを閉めた。
「すまない、アフラエル。ちょっと苛々していて」
「わかってるわ。王宮のみんなが気づいてるわよ」ぬいぐるみを差し出して、「ロロを部屋の向こうまで蹴とばしてみる? ロロは気にしないし、少しは気分がよくなるんじゃない?」
スパーホークは笑い声を上げた。自分がばかみたいに思えてきた。
「ロロか。懐かしいな。お母さんもちょうどそんなふうに連れて歩いてたものだ。詰め物がみんな抜けてしまうまではね」
「詰め物をしなおして、わたしにくれたの。いつも連れて歩くべきだと思われてるみたいなんだけど、どうしても理由がわからないわ。本当は仔山羊のほうがいいんだけど」
「大切な話があるんだろう」
「そうよ。みんなと長いこと話し合ったの」
その何気ない言葉の裏にある重要さに、スパーホークはひるみかけた。
「何と言ってたんだ」
「ひどいのよ、お父様。ゼモックで起きたことはわたしのせいだって言うの。何もかもスパーホークのせいだって説得しようとしたんだけど、耳を貸してくれないの」
「わたしの? そいつはどうも」
「誰も手を貸してくれないみたいだから、あなたとわたしで何とかするしかないわ」
「二人だけで世界を立て直すのか」
「そんなに難しいことじゃないのよ。手を打っておいたから、すぐに旅の仲間たちが集まってくるはずよ。会ったら驚いた顔をして、そのまま引き止めておいて」
「われわれに手を貸してくれるのか」
「わたしに手を貸すのよ。みんなにいてもらわないとできないことがあるの。うまくやるためには、たくさんの愛がいる。こんにちは、お母様」ダナエはドアのほうをふり向きもせずに言った。
「ダナエ、お父様のお仕事の邪魔をしてはいけません」エラナが娘をたしなめる。
「ロロがお父様に会いたがったの。お仕事の邪魔をしちゃいけないって言ったんだけど、ロロは聞き分けがないんですもの」その口調は真剣そのもので、もっともらしく聞こえたほどだった。ダナエは見栄えのしない熊のぬいぐるみを持ち上げ、その顔の前で指を振った。「ロロったら、悪い子ね」
エラナは笑いながらダナエに近づいた。
「この子ってすばらしいと思わない」幸せそうに膝をつき、娘を抱きしめる。
スパーホークは微笑んだ。
「そうだね。まったくだよ。きみを凌《しの》ぐくらいだ」悲しげな顔を作って、「神々しい女の子に鼻面を引きずりまわされるのが、わたしの運命らしい」
ダナエ王女と母親は頬をすり寄せ、そっくりの表情で無邪気を装った。
翌日から仲間たちが到着しはじめた。誰もがどうしてもシミュラを訪れなくてはならない理由を抱えていたが、それは主として悪い知らせを伝えるためだった。エムサットから南行してきたアラスがもたらしたのは、長年の大酒がたたって、とうとうウォーガン王が肝臓をやられたという報告だった。「杏《あんず》の実みたいな顔色をしてる」というのが巨漢のサレシア人騎士の言葉だった。ティニアンの報告は、オブラー老王がぼけてきたというものだった。ベヴィエはエシャンド派がまた叛乱を企んでいる可能性が高いという、レンドー国からの報告を携えていた。ストラゲンは対照的に明るい顔で、本職のほうが大いに好転していると報告したが、それはどう考えてもいい知らせではなかった。
そんな状況ではあっても、一行はふたたび一堂に会することのできたこの偶然の機会を大いに楽しんだ。
また仲間がそばにいてくれるのは悪いことじゃない。眠っている妻を起こさないようにそっとベッドから滑り出て、スパーホークはそう思った。前の晩は遅くまで話に興じ、朝は朝で別の仕事があって早く起きなくてはならないため、騎士はいささか寝不足ぎみだった。
「ドアを閉めて、お父様」寝室から出てきたスパーホークを見て、ダナエが静かに声をかけた。王女は火のそばの大きな椅子の中に丸くなっておさまっていた。夜着をまとい、足には例の草の汁がついている。
スパーホークはうなずき、ドアを閉めて娘のそばに近づいた。
「全員そろったわね。じゃあ始めましょう」
「いったい何をしようというんだ」
「郊外まで遠乗りをしようって持ちかけてちょうだい」
「理由がいるな。遠乗りを楽しめるような天気じゃない」
「理由は何でもいいわ。適当にでっち上げて、提案してちょうだい。みんなすばらしい考えだと思うはずよ。わたしが保証する。出かけたらデモスのほうに向かって。セフレーニアとヴァニオンとわたしが、街から少し離れて待ってるから」
「何だかよくわからないな。おまえはもうここにいるじゃないか」
「そっちにもいるのよ、スパーホーク」
「同時に二つの場所にいるってことか」
「それほど難しいことじゃないわ。しょっちゅうやってるの」
「それはいいが、おまえの正体がばれてしまうんじゃないか」
「大丈夫。みんなにはフルートに見えるはずだから」
「おまえとフルートは、それほど違っては見えないぞ」
「お父様にはね。ほかの人たちに見える姿はちょっと違うのよ」ダナエは椅子から立ち上がった。「とにかく、お願いね」そう言うと軽く片手を振り、ロロを引きずってドアに向かう。
「降参だな」スパーホークはつぶやいた。
「聞こえたわよ、お父様」ふり向きもせずにダナエが言った。
そのあと一同が朝食の席に集まったとき、実に都合よく話の口火を切ったのはカルテンだった。
「何日かシミュラの外に出かけられるといいんだがな」金髪のパンディオン騎士はそう言ってから、エラナのほうに目を向けた。「ここが気に入らないってわけじゃないんですよ、陛下。でも王宮にいると、どうもなかなか旧交を温めるってわけにいかなくて。いい具合に盛り上がってきたと思うと廷臣がやってきて、今すぐスパーホークに来てもらわなくちゃならないってことになるんです」
「カルテンの言うとおりだ」アラスも同意した。「旧交を温めるのは、酒場のどんちゃん騒ぎのようなものだ。途中で何度も邪魔が入っては、存分に楽しめない」
スパーホークはふとあることを思い出した。
「前に言っていたこと、あれは本気だったのかい、エラナ」
「わたしはいつだって本気よ。いつのことを言ってるの」
「わたしに公領を与えると言ったことがあったろう」
「そうしようと、もう四年も頑張ってるのよ。どうしてこれ以上悩まなくちゃいけないのかしらね。いつだってあなた、何か申し出を断わる口実を見つけ出してくるんですもの」
「無下に断わることもないかな――とにかく一度その公領というのを見てからの話だ」
「何を考えてるの、スパーホーク」エラナが尋ねた。
「邪魔されずに再会を祝う場所がいるんだよ、エラナ」
「どんちゃん騒ぎだ」アラスが訂正する。
スパーホークは笑みを浮かべた。
「何にせよ、その公領というのを見てみようじゃないか。たしかデモスのほうだったな。みんなもじっくりと屋敷を見たいんじゃないか」
「みんな?」とエラナ。
「何かを決めようとするとき、仲間の助言は邪魔になるものじゃない。全員でその公領を見にいこうじゃないか。みんなはどう思う」
「当たり前のことを革新的に見せる能力は、すぐれた指導者の条件の一つだ」ストラゲンがもの憂げに言った。
「どっちみち、もう少し外に出るべきなんだよ」スパーホークは妻を説得した。「ちょっとした休暇ということにしようじゃないか。どうせ心配の種なんて、留守のあいだにレンダが親戚を二ダースばかり、政府の金で養おうとするかもしれないってことだけなんだし」
「まあ、みんなで楽しんできてくれ」プラタイムが言った。「おれは慈悲に厚い人間だからな。鞍にまたがるたびに馬がつぶれて悲鳴を上げるのを見るのは、いい気分じゃないんだ。おれはこっちに残って、レンダ伯を見張ってるよ」
「馬車で行けばいい」ミルタイが言った。
「どの馬車のことを言ってるの?」とエラナ。
「あなたが雨に濡れないように乗っていく馬車よ」
「馬車なんて必要ないわ」
ミルタイの目がぎらりと光った。
「エラナ! 問答無用よ!」
「でも――」
「お黙りなさい」
「はい、ミルタイ」女王は素直に答え、嘆息した。
外出はまるで休日の遠足の気分だった。ファランさえそれを感じ取って、みずからもその祭典に加わるべく、鞍にまたがろうとするスパーホークの足を両方同時に踏みつけた。
天候はまるで静止しているかのようだった。空は曇っているが薄曇りで、その冬の特徴だった身を切るような寒さも、暖かくなったとは言わないものの、我慢できる程度にゆるんでいた。風はそよとも吹く気配がなく、スパーホークは不安な気持ちで、パレルから東に向かうときトロールの神ノームが時を停止させ、永遠の今≠フ中を進んでいったことを思い出した。
シミュラをあとにした一行は、レンダやデモスといった街に向かう街道をたどっていった。スパーホークがダナエとフルートの姿を同時に目にすることになる可能性は、どうやらなくなった。幼い王女が旅をするにはまだ寒すぎるというミルタイの決定で、ダナエは王宮に残って、侍女がその面倒を見ることになったのだ。将来起きるであろうすさまじい意見の衝突が、今から目に見えるようだった。いずれミルタイとダナエが正面衝突することになるのは避けられない。騎士は心ひそかにその時を楽しみにしていた。
ちょうどシーカーと出くわしたあたりで、一行は小さな焚《た》き火のそばに座っているセフレーニアとヴァニオンの姿を見いだした。フルートはいかにもフルートらしく、近くの樫《かし》の木の枝に腰をおろしている。ヴァニオンは若々しくなって、ここ何年も見たことがないほど元気そうだった。立ち上がって友人たちに挨拶するその姿は、なかばスパーホークが予期していたとおり、スティリクムふうの白いローブを着け、剣は帯びていなかった。
「お元気そうでなによりです」スパーホークは馬を下りながら声をかけた。
「なんとかやっているよ、スパーホーク。元気だったかね」
「文句はありません、閣下」
それだけ言うと二人は堅苦しい挨拶を切り上げ、荒っぽく抱き合った。全員がまわりに集まってきた。
「後任の騎士団長には誰が選ばれたんだね」ヴァニオンが尋ねた。
「カルテンを選ぶよう、聖議会に圧力をかけてるところです」スパーホークが穏やかに答える。
「何だって?」ヴァニオンの顔が失望に歪《ゆが》んだ。
「スパーホーク、そんなことを言うものじゃないわ」エラナが夫をたしなめた。
「冗談のつもりなんですよ、ヴァニオン」カルテンは渋い顔だった。「こいつはときどき、この鼻みたいに歪んだユーモアのセンスを発揮するんです。本当はスパーホークが騎士団長ですよ」
「それはよかった!」ヴァニオンがほっとしたような大声を上げた。
「ドルマントは何とか終身的にその地位を引き受けさせようとしてるんですが、ほかにもいろいろ仕事を抱えてるとか何とか言を左右して、あくまでも暫定騎士団長なんですがね」
「これ以上この身を薄く削られたら、日の光が透けて見えるようになってしまう」スパーホークは文句を言った。
エラナは畏怖の混じった目でフルートを見つめていた。フルートはいつものように木の枝の上に、草の汁で汚れた足を足首のところで組んで腰をおろしていた。唇には笛を当てている。
「夢に出てきた姿とそっくりだわ」エラナがスパーホークにささやいた。
「いつだって同じ姿をしてるんだ――まあ、だいたいはね」
「話しかけてもいいの?」若い女王の顔は、少し怯《おび》えてさえいるようだった。
「何の内緒話をしてるのかしら、エラナ」フルートが声をかける。
「何て呼びかければいいの?」女王がおどおどと夫に尋ねる。スパーホークは肩をすくめた。
「みんなはフルートと呼んでる。もう少し格式のある名前もあるがね」
「下りるのに手を貸して、アラス」フルートが言った。
「ああ、フルート」巨漢のサレシア人騎士は反射的にそう答え、木の下へ行って小柄な女神を抱え上げると、その身体を冬枯れた草の上に下ろした。
ダナエとして母親ばかりでなくストラゲンもプラタイムもミルタイも知っているフルートは、圧倒的に有利な立場にあった。女神は全員に親しげに声をかけ、それはエラナたちの畏怖の念をいっそう強めることとなった。ミルタイなど、見るからに動揺しているのがわかる。やがて少女はふたたびエラナに声をかけた。
「ねえ、エラナ、いつまでもここに立って睨み合ってるつもり? すばらしい夫を与えてあげたことで、わたしに感謝の言葉はないの?」
「やりすぎですよ、アフラエル」セフレーニアがたしなめた。
「わかってるわ、姉さん。だって面白いんですもの」
エラナは思わず笑いだし、両手を差し伸べた。フルートは満面に笑みを浮かべてエラナに駆け寄った。
フルートとセフレーニアも、エラナとミルタイとプラタイムといっしょに馬車に乗りこんだ。だが出発する寸前、幼い女神は窓から首を出して、甘い声で呼びかけた。
「タレン」
「何だい」タレンの声は警戒しているようだった。スパーホークはタレンが、若い男性と鹿だけが感じることのできる、あの悪い予感を得たのではないかと思った。自分が狙われているという予感だ。
「いっしょに馬車に乗っていかない?」アフラエルが蜜《みつ》のような声で誘いかける。
タレンはやや懸念するようにスパーホークのほうを見た。
「そうしろ」スパーホークは言った。タレンはもちろん友だちだが、何といってもダナエは娘なのだ。
それから一行は進みはじめた。何マイルか行ったところで、スパーホークはぼんやりした不安を感じはじめた。デモスとシミュラを結ぶ街道は若いころから何度となく通っているが、急にあたりの景色が見慣れないものに思えてきたのだ。丘などあるはずのないところに丘が見えるし、前には見たことのない、裕福そうな大きな農家がある。騎士は地図を調べはじめた。
「どうしたんだ」カルテンが声をかけた。
「どこかで間違えるような道があったかな。この街道はもう二十年以上も行き来してるが、急に目印がわからなくなってしまったんだ」
「そいつはすばらしい」カルテンは皮肉っぽく言って、肩越しに全員に声をかけた。「この栄えある指導者は、みごとわれわれを道に迷わせてくれた。かつてわれわれはこの男のあとについて世界を半周ほどもしたわけだが、今やこいつは自宅からわずか五リーグのところで道がわからなくなったと言ってる。ほかの諸君は知らんが、おれにとってはこれは大いに信頼を損なう事態だと言っていい」
「そこまでしなくてもいいだろう」とスパーホーク。
「おまえのことをぼろくそに言って批判する機会を見逃せって? ばかなことを言うなよ」
日が傾くまで進んでも場所の目星はつかず、しかも野営のための準備はなにもしてきていない。スパーホークは徐々に警戒しはじめた。
馬車の窓の一つからフルートが頭を突き出した。
「どうしたの、スパーホーク」
「一夜を明かす場所を探さなくてはならないんだが、ここ十マイルばかり、一軒の人家も見かけないんだ」
「いいから進みつづけて」フルートが言った。
「もうすぐ暗くなるんだぞ」
「だったら急いだほうがいいわね」フルートの頭は馬車の中に引っこんだ。
夕暮れにたどり着いた丘の頂きから見下ろした風景は、絶対にそこにあるはずのないものだった。眼下には静かに揺れる草原が広がり、そこここに白樺の木が白い幹を見せていたのだ。丘を半分ほど下ったところにずんぐりとした草葺《くさぶ》き屋根の家があり、窓から黄金色の蝋燭《ろうそく》の明かりが洩れていた。
「泊めてもらえるかもしれないな」ストラゲンが言った。
「さあ、急いでちょうだい」馬車の中からフルートが指示した。「夕食が待ってるわ。冷めないうちに着きたいでしょ」
「あの子はこういうことをするのが好きらしいな」とストラゲン。
「そうとも。きっとこれがいちばんの楽しみなんだ」スパーホークが答えた。
もう少し小さかったらコテージと呼ばれそうな家だった。しかし部屋は広く、部屋数も多かった。家具は田舎っぽいがしっかりした作りで、そこらじゅうに蝋燭が灯り、きれいに磨き上げられた暖炉では、火格子の上で赤々と炎が踊っていた。中央の部屋に長いテーブルがあり、そこに宴席としか呼びようのないものがしつらえられている。しかし家の中には一つの人影さえなかった。
「気に入った?」フルートが心配そうな顔で尋ねた。
「すばらしいわ」エラナはそう答え、思わず少女を抱きしめた。
「本当に申し訳ないんだけど、ハムだけは用意してないの。エレネ人がハムを好きなことはわかってるけど、でも――」フルートは身震いした。
「ここにあるだけでじゅうぶんだとも、フルート」カルテンが目を輝かせてテーブルの上を眺めながら答えた。「そうじゃないか、プラタイム」
太った盗賊は崇拝の表情さえ浮かべて料理を見つめていた。
「おお、まったくだとも、カルテン。これで文句を言ったらばちが当たる」
一同は食べすぎるくらいに食べ、食事を終えるといささか苦しそうに、だが満足げなため息をついた。
ベリットがテーブルを回ってきて、スパーホークの耳に顔を寄せた。
「またあれをやっていますよ、スパーホーク」
「何をだ?」
「暖炉ではずっと火が燃えているのに、まだ薪を足す必要はありません。蝋燭もぜんぜん減ってないんです」
「あの子の家なんだろう」スパーホークは肩をすくめた。
「それはわかってますけど――」居心地悪げにあたりを見まわし、「不自然ですよ」
スパーホークは穏やかな笑みを浮かべた。
「ベリット、われわれはあり得ない土地を通って存在するはずのない家に来て、誰が用意したのでもない食事をしたんだぞ。なのにおまえは燃えつきない蝋燭だの薪のいらない暖炉だの、そんな細かいことを気にするのか」
ベリットは笑って、自分の席に戻った。
幼い女神は女主人としての自分の役割をきわめて真剣に受け止めているようだった。ほとんど不安そうな顔で一人ひとりを部屋に案内し、言うまでもないことをいくつも説明した。
「とてもかわいい、いい子だと思わない?」二人きりになると、エラナはスパーホークにそう言った。「お客が気持ちよくくつろげるように、本当に一所懸命になってるわ」
「スティリクム人はそういったことに割と無頓着だからな。フルートはエレネ人にあまり慣れていなくて、それでぴりぴりしてるんだ」騎士は笑みを浮かべた。「いい印象を与えようと、ものすごく気を遣ってる」
「でも女神なんでしょ」
「それでも気を遣うのさ」
「なんだかダナエによく似てる気がするんだけど、思い過ごしかしら」
「小さい女の子はどれもよく似てるものさ」スパーホークは慎重に答えた。「小さい男の子と同じことだ」
「たぶんね。でもにおいまでよく似てるし、どっちも口づけするのが大好きだわ」考えこんでいたエラナの顔がぱっと明るくなった。「二人を引き合わせましょうよ、スパーホーク。きっとお互いに気に入るわ。すばらしい遊び相手になる」
スパーホークは息が止まりそうになった。
その蹄《ひづめ》の音には聞き覚えがあった。翌朝早くスパーホークを目覚めさせたのは、何よりもその音だった。悪態が口を衝《つ》く。騎士はベッドから飛び出した。
「どうしたの、あなた」エラナが眠そうな声で尋ねた。
「ファランが外に出てる。どうにかして繋馬索をはずしたらしい」
「逃げていったりはしないんでしょう?」
「わたしのいないところで自由にのびのび楽しむ機会を放棄するかって? もちろんだ」スパーホークはローブを引っかけ、窓辺に駆け寄った。そのときフルートの笛の音が聞こえた。
不思議な谷の上の空は、どこも冬じゅうそうだったように、やはり曇っていた。今にも雨を降らせそうな汚い色の雲が地平線から地平線までを覆い、風に流されていく。
家からそう遠くないあたりに広い牧草地があって、ファランはそこで大きく円を描いて駆けまわっていた。鞍も轡《くつわ》も何もつけず、実に楽しそうだ。フルートはその背中に仰向けになって笛を吹き鳴らしていた。頭は気持ちよさそうに、波打つ肩甲骨のあいだにおさまっている。膝を組んで、小さな足で大きな馬の尻を叩いて調子を取っているようだった。それはあまりにも見慣れた光景で、スパーホークはただ見つめることしかできなかった。
「エラナ、ちょっと見てみないか」
エラナが窓辺に近づいてきた。
「何てことを! 行って止めてこないと、スパーホーク。落ちて怪我をしてしまうわ」
「いや、その心配はないよ。フルートとファランは、前にもああやって遊んでいたことがある。ファランは落としたりしないさ。そもそもフルートが落ちるなんてことがあるとしてもね」
「いったい何をしてるの」
「見当もつかない」それはかならずしも事実ではなかった。「でも、大切なことなんだと思う」スパーホークは窓から身を乗り出し、まず左を、それから右を見た。全員が窓の前にいて、小さな女主人のすることを驚いて見つめていた。
フルートが笛を吹きつづけるうちに、荒々しかった風が弱まってやみ、前庭で激しく揺れていた冬枯れた草も動きを止めた。
幼い女神の奏でる笛の音は空へと昇っていき、ファランは疲れることなく牧草地を駆けまわる。笛の音とともに、頭上の黒い雲がベッドから毛布をめくるように開けていき、朝焼けに彩られた雲の浮かぶ群青色の空が広がった。
スパーホークたちはいきなり現われた青空に驚嘆の目を向け、まるで子供のように、流れては融合する雲をピンクのドラゴンや茜色のグリフォンに見立てた。流れる雲はやがてばらばらにちぎれ、空気と大地と空の精気が一つになって、もはや訪れることなどないのではないかと世界が恐れていた、春の訪れを祝った。
幼い女神アフラエルは、大きな馬の揺れる背中で立ち上がった。艶やかな黒髪をうしろになびかせ、笛の音は高く舞い上がって、日の出を迎えるかのようだ。笛を奏でながら女神は踊りはじめた。回転し、身体を揺すり、草の汁に汚れた小さな足を踏みしめ、踊りと笛の音は競い合うように高まっていった。
大地と空とファランの広い背中は、踊るアフラエルには同じものだった。緑の芽吹きはじめた芝の上で、あるいは揺れる馬の背で踊るのと同じように、女神は軽々と空中に足を踏みしめて踊りつづけた。
そこにはない家の中から畏怖に打たれて見守るうちに、一同の中にあった憂鬱はゆっくりと消えていった。幼い女神は救いと再生の歌を楽しげに吹き鳴らし、一同の胸を満たした。恐ろしかった冬はようやく終わり、ふたたび春がめぐってきた。
[#改丁]
訳者あとがき
〈エレニア記〉最終巻、楽しんでいただけましたでしょうか。
〈ベルガリアード〉と〈マロリオン〉の世界から引き続き読んできた方は、著者の筆致の違いがよくおわかりになったのではないかと思います。
少年の成長物語という、いわゆるビルドゥングス・ロマン%Iな構造を持つ〈ベル・マロ〉シリーズに対し、この〈エレニア記〉と続く〈タムール記〉の世界では、酸《す》いも甘いも知り抜いた一人前の大人たちが主人公になっています。それゆえに登場人物の行動はきわめて現実的・戦略的で、場合によっては殺伐としたものにさえなります。
エディングス作品の特徴である会話の軽妙さにしても、おおらかで直截的なやりとりの多い〈ベル・マロ〉に比べ、含意や底意のあるひねくれたやりとりが目立ちます(もちろんそうした皮肉やあてこすりの応酬も、高度な文明を体現するスティリクム人であるセフレーニアには子供っぽい態度≠ニ映るわけですが)。
このあたり、どちらがいいとか悪いとかいうことではなく、まったく異なったシリーズを書こうというエディングスの意志が感じられます。また実際、〈ベル・マロ〉と〈エレ・タム〉の印象はけっこう違っています。それでいながら、どちらもまこうかたなきエディングス節≠ノなっている点、やはりこの作家の持ち味は全体としての語り口なのだという思いを強くします。とりわけ会話のうまさは特筆すべきもので、話の本筋とは関係ない、ちょっとした余談£度の会話にさえ、思わず苦笑したくなるような皮肉や意外な含蓄が込められていて、なかなか油断できません。
ところで、〈エレニア記〉は分類するならファンタジイ≠ナあり、その中でも往きて還りし物語≠ニ呼ばれるものに該当すると言えます。主人公が故郷から旅をして、何らかの目的を果たし、ふたたび故郷に戻ってくるという形式の物語です。主人公にはたいていの場合、ともに旅をする仲間がいます。
この形式を現代の小説において完成させたのは、J・R・R・トールキンだと言っていいでしょう。というか、この往きて還りし物語≠ニいう呼び方自体がトールキンの作品『ホビットの冒険』の副題から取られています。『指輪物語』はその一つの頂点をなす作品です。
このトールキンの世界観を土台にして、種族の特徴や職業の種類を整理しルール化したのが、いわゆるロール・プレイング・ゲーム(RPG)≠ナす。『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ(D&D)』を嚆矢《こうし》として、実際に人が集まり、ゲームマスターの考えたシナリオを元にしてストーリーを進めていく方式のテーブルトークRPG≠ェ人気となり、パソコンや家庭用ゲーム機向けのコンピューターRPG≠熕泊スく製作されました。『ウィザードリィ』『ウルティマ』『マイト・アンド・マジック』などのほか、日本製の〈ドラゴン・クエスト〉シリーズや〈ファイナル・ファンタジー〉シリーズも、基本的にはこの流れを汲むものと言えるでしょう。D&Dのシナリオをパソコン上に移植した作品群さえ存在します(『プール・オブ・レイディアンス』など)。
ではスパーホークたち一行をRPGのキャラクターふうにまとめると、どんなふうになるでしょう? 実はこれ、角川書店版『ルビーの騎士』の訳者あとがきにも書いたので、旧版読者の方には「またか」と思われるかもしれませんが、一応ちょっとだけ変更してみました。
[#ここから2字下げ、折り返して9字下げ]
スパーホーク 魔法騎士。防具=プレートアーマー。武器=ブロードソード
カルテン   騎士。防具=プレートアーマー。武器=ブロードソード
ベヴィエ   聖騎士。防具=プレートアーマー。武器=ポールアックス
ティニアン  魔法騎士。防具=プレートアーマー。武器=ブロードソード
アラス    騎士。防具=チェインメイル。武器=バトルアックス
クリク    戦士。防具=レザーアーマー。武器=フレイル
ベリット   戦士。防具=チェインメイル。武器=バトルアックス
タレン    盗賊。防具=布の服。武器=ナイフ
セフレーニア 僧侶。防具=ローブ。武器=なし
フルート   魔術師。防具=布の服。武器=笛
[#ここで字下げ終わり]
スパーホークは各種の簡単な魔法が使える騎士、ベヴィエはいわゆるパラディン、ティニアンは死霊魔法を使う騎士ということですね。セフレーニアは攻撃魔法も使いますが、主に僧侶の役割。フルートはあくまでも、正体をあらわす前の段階で考えています。
D&Dではエルフやドワーフなどの種族≠熄d要になりますが、〈エレニア記〉ではこれは出身国の違いとしてあらわれているようです。オールラウンド・プレーヤーのエレニア人、信仰心に篤いアーシウム人、防御力の高いデイラ人、バーバリアンを思わせるサレシア人、魔法能力の高いスティリクム人、という感じでしょうか。
ともあれ、ゼモック国による西方諸国侵略の危機は去り、物語はひとまず大団円を迎えました。しかしそのころ、ゼモック国のさらに東方に位置するダレシア大陸のタムール帝国において、次なる危機が始まろうとしていたのです。新たな大陸を舞台に、ふたたびスパーホークたち一行が獅子奮迅の大活躍を見せることになります。
ということで、ここからは訳者を宇佐川晶子さんにバトンタッチして、引きつづきスパーホークたちの活躍をお楽しみいただきたいと思います。波瀾万丈の物語はまだまだ続きます。
二〇〇六年十二月
[#改ページ]
本書は、一九九六年八月に角川スニーカー文庫より刊行された『サファイアの薔薇』(下)を改題した新装版です。
底本:「エレニア記6 神々の約束」ハヤカワ文庫FT、早川書房
2006(平成18)年12月10日 印刷
2006(平成18)年12月15日 発行
※底本の一部の文章には、古印体と呼ばれるフォントが使用されています。このファイル中では[#「〜」は古印体]という形で注記しています。
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年 1月12日 作成
2009年 2月10日 校正
2009年 5月14日 古印体注記の書き方を変更
ハヤカワ文庫通し番号:FT431
ISBN(旧規格、ISBN-10):ISBN4-15-020431-4
Cコード:C0197
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このテキストは、PerfectDark上で流れていた
ファイル [デイヴィッド・エディングス] エレニア記6 神々の約束.zip 一般小説 ハヤカワ文庫FT デイヴィッド・エディングス エレニア記 @iW=3SxI9lX3ch68ai2rTXtkD-9p+86 69,808,378 aea8d3776c94646b983b0184304f5b7f9ba500267d47d5b8ba6d5d3261308f7e
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iW氏に感謝いたします。
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底本は本文が1ページ17行、1行約39文字です。訳者あとがきが1ページ18行、1行約40文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html