エレニア記4 永遠の怪物
THE RUBY KNIGHT
デイヴィッド・エディングス David Eddings
嶋田洋一訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)あとを尾《つ》けて
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(例)疲労|困憊《こんぱい》の極み
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目 次
第二部 ガセック(承前)
第三部 トロールの洞窟
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永遠の怪物
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登場人物
[#ここから改行天付き、折り返して9字下げ]
スパーホーク………エレニア国のパンディオン騎士。エラナ女王の擁護者
カルテン……………パンディオン騎士。スパーホークの幼馴染
ベヴィエ……………アーシウム国のシリニック騎士
ティニアン…………デイラ国のアルシオン騎士
アラス………………サレシア国のジェニディアン騎士
セフレーニア………パンディオン騎士の教母。スティリクム人
フルート……………スティリクム人の謎の少女
クリク………………スパーホークの従士
タレン………………シミュラの盗賊の少年
ベリット……………パンディオン騎士見習い
エラナ………………エレニア国の女王
ガセック……………伯爵。歴史の研究者
オキュダ……………ガセック伯爵の執事
ベリナ………………ガセック伯爵の妹
ウォーガン…………サレシア国王
ソロス………………ペロシア国王
バーグステン………エムサットの大司教。巨漢の元ジェニディアン騎士
ソーギ………………カモリア国の船長
マーテル……………元パンディオン騎士
クレイガー…………マーテルの部下
アダス………………マーテルの部下
アニアス……………シミュラの司教
オサ…………………ゼモック国の皇帝
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
第二部 ガセック(承前)
[#改ページ]
12[#「12」は縦中横]
翌日になって、夜明け前に馬にまたがる一行の雰囲気は重く沈んでいた。
「友人だったのか」カルテンの馬に鞍を置きながらアラスが尋ねた。
「最高の友だった」とスパーホーク。「口数は少なかったが、引き受けたことは何があってもやり抜く男だった。心に穴があいたような気分だ」
「尾行のゼモック人はどうする」とカルテン。
「どうにもできんだろう。おまえとティニアンとベヴィエがこんな状態で、こっちの戦力はいささか落ちている。あとを尾《つ》けてくるだけなら、とりあえず問題にする必要もなさそうだ」
「前にも言ったと思うが、うしろに敵がいるのは好きじゃない」とアラス。
「うしろにいるとわかっている敵のほうが、行く手で待ち伏せしている敵よりもましだろう」
鞍の腹帯を締めようとして、カルテンは顔をしかめた。「ひどくなってるような気がするよ」そう言って片手をそっと胸の横に当てる。
「治るさ。いつだってそうだった」スパーホークが慰めた。
「問題は、治るまでの時間がだんだん長くなってきてることなんだ。いつまでも若くはないぜ、スパーホーク。ベヴィエはもう馬に乗って大丈夫なのか」
「無理をさせなければな。ティニアンは大丈夫だろうが、いずれにしても一日二日はゆっくり行くつもりだ。馬車にはセフレーニアを乗せる。剣を受け取るたびにだんだん弱っていくんだ。おれたちには見せないが、かなりの重荷を背負いこんでいるはずだ」
クリクが残りの馬を引いてきた。いつもの黒い革のベストを着ている。
「ベヴィエの鎧《よろい》はもう返してもいいでしょう?」期待のこもった口調だ。
「もうしばらく我慢してくれ」スパーホークが答えた。「ベヴィエにはまだ無理をさせたくない。どうも頭の固いところがあるから、大丈夫だと見極めがつくまで、勇敢なところを見せようなんて気を起こさせたくないんだ」
「ひどく着心地が悪いんですよ」
「着てもらう必要があるってことは説明したろう」
「説明で片付く問題じゃありませんよ。ベヴィエとわたしは似たような体格ではありますけど、まるっきり同じってわけじゃないんです。身体じゅう擦り傷だらけですよ」
「あと数日の辛抱だ」
「そのころにはこっちが歩けなくなってるかもしれません」
ベリットがセフレーニアに手を貸して、宿の戸口に姿を現わした。教母を馬車に乗せ、その横にフルートを抱え上げる。セフレーニアは疲れた表情で、手には赤ん坊を抱くようにオルヴェンの剣を抱えていた。
「大丈夫ですか」スパーホークが尋ねる。
「慣れるのにしばらく時間がかかるというだけのことです」
そこへタレンが厩《うまや》から馬を引いてきた。
「その馬は馬車につけて、おまえが御者をやれ」スパーホークは少年にそう命じた。
「わかったよ、スパーホーク」とタレン。
「口答えしないのか」スパーホークはちょっと驚いた顔になった。
「どうしてさ。理由はちゃんとわかってるし、それに御者台の座席のほうが馬の鞍より座り心地がいいんだ。うまく尻を落ち着ければ、実際ずっと楽なんだよ」
ティニアンとベヴィエが宿の外に出てきた。どちらも鎖帷子《くさりかたびら》を身に着け、ゆっくりした足取りで歩いてくる。
「鎧はなしか」アラスが軽い調子でティニアンに声をかけた。
「重いからな。まだちょっと自信がない」とティニアン。
「忘れ物はないだろうな」スパーホークがクリクに尋ねた。
クリクがむっとした目で見つめかえす。
「念のためだよ。こんな朝早くから不機嫌になるな」スパーホークは全員を見わたした。
「今日はあまり無理をしないで、五リーグも進めればよしとしよう」
「みんながたがただからな」とティニアン。「あんたとアラスだけ先に行ったらどうだ。おれたちはゆっくり追いつくから」
「だめだ。このあたりには友好的じゃない連中がうろついてる。今の状態では自分の身も守れないだろう」ちらりとセフレーニアに笑みを向け、「それにわれわれは十人で行動することになってるんだ。若き神々のご機嫌をそこねたくないからな」
カルテンとティニアンとベヴィエを鞍に押し上げてから、一行はゆっくりと宿の中庭を抜け、まだ暗く人気《ひとけ》のないパレルの街路へと乗り出した。北門へ向かうと、門衛があわてて門を開いた。
「きみらに安息を」門を通り過ぎながらカルテンは祝福の言葉を口にした。
「どうしてあんなことを言ったんだ」しばらくしてからスパーホークが尋ねた。
「金をやるより安上がりだろ。それにおれの祝福だって、多少のことはあるかもしれないじゃないか」
「だいぶ調子が戻ってきたみたいですね」とクリク。
「ずっとこの調子だとしたら、まだまだだな」スパーホークが答えた。
東の空が白みはじめた。一行はパレルからヴェンネ湖へと北西に伸びる街道をゆっくりとたどっていった。二つの湖のあいだの土地は起伏が激しく、しかもそれがだんだんとひどくなっていくようだ。ところどころに大きな荘園が点在し、尖《とが》った帽子の農奴が住む村もいくつか見えた。イオシア西部では何世紀も前にすたれた農奴制だが、ここペロシア国では今もまだ続いている。スパーホークの知る限り、その理由はペロシアの貴族に、ほかの制度をちゃんと機能させるだけの管理能力がないからだった。貴族たちも何度か見かけたが、たいていは華やかなサテンの胴衣《ダブレット》を着て、亜麻布のシャツを着た農奴たちを馬上から監督していた。農奴制について耳にしたさまざまな悪い噂《うわさ》とは裏腹に、畑を耕している農奴たちはよく太っていて、虐待されている様子もなかった。
ベリットは百ヤードほどうしろに離れて、背後を振り返りながら馬を進めていた。
「ずっとあんなことを続けてたら、おれの鎧がねじれちまう」カルテンが非難がましい口調で言った。
「いつでも鎧職人のところへ行って、調整しなおしてもらえるさ」スパーホークが答える。「継ぎ目も少し緩めてもらったほうがいいかもしれない。そうしよっちゅう腹に何か詰めこんでるんじゃ、きつくなってるだろう」
「今朝はやけに辛辣《しんらつ》じゃないか」
「いろいろ考えることがあってな」
「指揮官に向かない性格のやつってのがいるんだ」カルテンは全員に向かって声を張り上げた。「ここにいるわが醜い友人もそうらしい。心配をしすぎるんだな」
「交替するか」スパーホークがぼそりと言う。
「おれと? まじめにやれよ、スパーホーク。おれは鵞鳥《がちょう》の群れも束ねられなかったんだぜ。騎士の一団なんてまとめられるもんか」
「だったら口を閉じて、おれに騎士の一団をまとめさせてくれ」
ベリットが後方から追いついてきた。鞍に着けた止め帯の中で上下に跳ねまわる斧《おの》を懸命に押さえながら馬を走らせている。
「ゼモック人がいますよ、サー・スパーホーク。ちらりちらりと姿が見えるんです」
「どのくらいうしろだ」
「半マイルくらいでしょうか。本隊は後方にいて、斥候を出してるようです。こっちを見張っているんです」
「攻撃を仕掛けたら、散り散りになって逃げてしまうでしょうね」とベヴィエ。「そしてすぐにまた集まって、尾行を続けるだけです」
「そうだろうな」スパーホークは渋い顔で同意した。「まあどうにもならんだろう。こっちは人数も少ない。あとを尾けたいというなら尾けさせておくさ。追い払うのはもっと体調が整ったときにしよう。ベリット、戻って見張りを続けろ。英雄になろうなんてするなよ」
「よくわかりました、サー・スパーホーク」
午《ひる》になる前から暑くなってきて、スパーホークは甲冑《かっちゅう》の中で大汗をかいた。
「これは何かの罰なんですか」クリクが顔を流れ落ちる汗を布きれでふきながら尋ねた。
「罰を与えた覚えはないな」
「だったら、どうしてこんなストーブの中に閉じこめられてるんです」
「悪いな。仕方がないんだ」
正午ごろ、緑に覆われた細長い谷を進んでいると、華やかな衣装を身に着けた十人ほどの若者が疾駆《ギャロップ》で近づいてきて一行の行く手を阻《はば》んだ。
「そこで止まれ」中の一人、緑のビロードの胴衣《ダブレット》を着た小太りの青白い若者が、横柄に片手を上げ、鼻持ちならない傲慢な口調で命令した。
「何だって」スパーホークが問い返す。
「おまえたち、誰の許しを得て父上の所領を通行している」若者はどうだと言わんばかりに、にやにや笑っている仲間を得意げに見まわした。
「ここは公道だとばかり思っていたが」とスパーホーク。
「父上が黙認していらっしゃるだけだ」小太りの若者は小鼻をふくらませ、何とか自分を危険な男に見せようと苦労していた。
「仲間にいいところを見せたがってるだけです」クリクがささやいた。「さっさと片付けて先を急ぎましょう。腰の細身剣《レイピア》なんて飾りものですよ」
「まずは外交交渉だ」とスパーホーク。「怒った農奴の群れに追いかけられるのはまずいだろうからな」
「じゃあわたしがやります。こういうことは慣れてるんですよ」クリクはゆっくりと前に進み出た。午後の陽射しにベヴィエの甲冑が輝き、白いケープと外衣《サーコート》がまぶしいほどだ。クリクの厳しい声が響いた。「お若いの、きみは少しばかり礼儀作法に通じていないところがあるようだ。まさかとは思うが、われわれが誰だかわからないのかね」
「前に会ったことはないな」
「個人的に知っているという意味ではない。われわれが何者なのかという話をしているんだ。わかってもらえると思うがね。どうやらきみは、あまり広く世間を旅してはいないようだな」
若者は怒りに目を丸くして、甲高い声でわめいた。
「ばかを言え。ヴェンネの街に二度も行ったことがあるんだ」
「なるほど。ではそのヴェンネの街で、教会というものの存在を耳にはしなかったかね」
「うちの荘園にも礼拝堂がある。おまえなんかに教えてもらうことはない」若者は冷笑を浮かべた。どうやらそれが普通の表情らしい。
荘園の館から、黒いブロケード織の胴衣《ダブレット》を着た男が馬を飛ばしてきた。
「教養のある人物と話をするのは嬉しいものだ」クリクが言った。「ではもしかして、聖騎士というものの話を聞いたことはないかね」
若者はやや要領を得ない顔になった。黒い胴衣の男は若者たちの背後からすさまじい勢いで近づいてくる。その顔は怒りで蒼白になっていた。
「道をあげるように強く忠告する」クリクの口調は滑らかだった。「きみのしていることは魂を危険にさらすことにほかならない――命はもちろんのこと」
「脅しなんか効くものか――ここは父上の領地なんだ」
「ジェイケン! 気でも狂ったのか!」黒服の男が怒鳴った。
「父上――」小太りの若者はひるんだ。「侵入者を訊問していたんです」
「侵入者だと? ここは国王陛下の公道だ、ばか者!」
「でも――」
黒い胴衣《ダブレット》の男は馬を寄せ、鐙《あぶみ》の上に立ち上がると、拳《こぶし》の一撃で息子を鞍から叩き落とした。それからクリクに向き直る。
「お許しください、騎士殿。このばか息子は誰に口をきいているかもわかっていないのです。わたしは教会を崇敬し、その騎士団にも敬意を抱いております。どうかお怒りにならないよう、心からお願い申し上げます」
「いいんですよ、閣下。息子さんとわたしは、もう意見の相違を克服する寸前まで行っていたんです」
貴族はたじろいだ。
「間に合うように駆けつけることができたのを神に感謝します。こんなばか息子は何ほどのものでもないが、それでも息子が騎士殿に首を打ち落とされていたなら、母親は気落ちしたでしょうからな」
「そんなことになっていたとは思っていませんよ」
「父上!」地面に転がった若者は甲高い声を上げた。鼻から一筋血が流れている。「ぼくを殴ったね! 母さんに言いつけてやる!」
「いいとも。あれはさぞ感銘を受けることだろう」貴族は申し訳なさそうにクリクを見やった。
「お恥ずかしい話です、騎士殿。遅ればせながらしつけを考え直さなくてはならんようだ」そう言って息子を睨《にら》みつけ、冷たい声で、「家に戻っていろ、ジェイケン。家に着いたらその寄生虫どもを放り出せ。日没までに全員、わたしの領地から立ち退かせろ」
「でも、友だちなんだよ」息子は泣き声を上げた。
「わたしの友だちではない。そんなやつらとは縁を切れ。おまえも荷物をまとめるんだ。いい服は必要ないぞ。僧院へ行くのだからな。厳格な修道僧たちがおまえの教育を引き受けてくれるだろう――わたしがなすべきだったことだが」
「母さんがそんなことさせるもんか!」息子はまっ青な顔になってわめいた。
「あれに口出しはさせん。おまえの母親は、いつもいささか口をはさみすぎた」
「だけど――」若者の顔がくしゃくしゃになる。
「おまえにはうんざりだ、ジェイケン。おまえのような息子を持ったことを後悔している。修道僧には礼儀正しくするのだぞ。甥《おい》たちの中に、おまえよりもずっとましな者が何人もいる。おまえに跡を継がせるわけにはいかん。これからの一生を修道僧として生きるがいい」
「そんなことさせるもんか」
「できるとも」
「母さんがただじゃおかないよ」
貴族は冷たい笑い声を上げた。
「おまえの母親にもうんざりしてきたところだ。傲慢で、怒りっぽくて、しかもまったく愚かなのだからな。おまえを見るに耐えないような息子に育ててしまった。それにまあ、近ごろは魅力のほうもめっきり衰えた。あれには尼僧院で残る一生を過ごさせよう。祈りと断食が多少は天国に近づけてくれるかもしれん。愛する妻の魂を清める手助けをするのは、夫の義務というものだろうからな」
ジェイケンの顔に、もはや冷笑は浮かんでいなかった。自分の世界が音を立てて崩れていくのを目の当たりにして、若者は激しく震えていた。
貴族は侮蔑《ぶべつ》的な口調で続けた。
「それでは息子よ、言ったとおりにするがいい。それともこちらの聖騎士殿にお願いして、まさしくおまえにふさわしい罰を与えてもらおうか」
クリクはそれを合図に、ゆっくりとベヴィエの剣を引き抜いた。鞘が不気味な音を立てる。
若者は尻をついたまま、あわてて後じさった。
「ぼくにはたくさん友だちがいるんだぞ」
クリクは甘やかされた若者たちを上から下まで眺めまわした。
「それがどうかしたかね」盾の位置を直し、剣を握った腕を曲げる。「首は無傷で残しておきますか、閣下」と貴族に声をかける。「記念に壁にでも掛けられるように」
「できるもんか!」ジェイケンは今にも気を失いそうだ。
クリクは馬を進めた。剣が日光を反射してぎらりと光る。「やってみせようか」その声は岩さえ震え上がりそうなほど恐ろしげだった。
若者は恐怖のあまり目を大きく見開いて馬に飛び乗り、サテンの服を着た取り巻きたちを引き連れて逃げていってしまった。
「これでほぼお望みどおりでしたでしょうか、閣下」クリクが貴族に尋ねた。
「完璧でした、騎士殿。ああいう目に遭《あ》わせてやりたいと何年も思っていたのです」貴族はため息をつき、言い訳でもするように話しはじめた。「妻との結婚は政略結婚でした。妻の家は高い爵位を持っていたが、大きな負債に苦しんでいた。わたしの家は金と土地を持っていたが、身分はあまりぱっとしたものではなかった。両家の親たちは申しぶんないと思ったようだが、妻とわたしはほとんど話をすることもなかった。わたしはできるだけ妻を避け、恥ずかしながら、何人ものほかの女と浮気をした。金さえ出せば自由にできる若い女が、いくらでもいたのだ。妻はあの不肖の息子に慰めを見出した。ほかに熱中することが何もなかったのだ。わたしの人生をできるだけ惨めなものにすることには熱中していたかもしれんが。わたしは父親としての義務を怠った」
「わたしにも息子がいます」馬を進めながらクリクが応じた。「みんないい息子たちですが、一人だけどうしようもないのがいましてね」
タレンは目を上げて天を仰いだが、何も言わなかった。
「遠くまでおいでになれるのですか」明らかに話題を変えようとして、貴族が尋ねた。
「ヴェンネへ行くところです」
「それはかなりの長旅ですな。領地の東のはずれに夏の別邸があります。よろしければ泊まっていらっしゃいませんか。夜までには着けるでしょうし、お世話をする召使たちもおります」苦い顔になって、「館にご招待するのが筋なのでしょうが、今夜はいささか騒々しいことになりそうですからな。妻の声はよく響く上に、今日わたしが決めたことをすんなり受け入れるとはとても思えませんから」
「ご親切にありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「息子の失礼を思えば、お詫《わ》びにもなりません。どうすればあの性根を叩き直してやれるものやら」
「わたしは革のベルトでいい結果を出していますよ」
貴族は苦笑した。
「悪くない考えかもしれませんな」
一行はよく晴れた午後の陽射しの中を進んで、日が沈むころ〈夏の別邸〉に到着した。それは大邸宅と言ってもいいくらいの広壮な屋敷だった。貴族は召使たちに指示を与えてから、ふたたび馬にまたがった。
「わたしもこちらに泊まりたいくらいなのですが、妻が家じゅうの皿を割ってしまう前に帰ったほうがよさそうですからな。妻には居心地のいい尼僧院を見つけてやって、わたしもこれからは平穏な生活を送るつもりです」
「お気持ちはわかりますよ、閣下」クリクが答えた。「幸運をお祈りします」
「道中ご無事で、騎士殿」貴族はそう言うと馬首をめぐらせ、やってきた道を戻っていった。
屋敷の玄関広間で大理石の床の上に立ったとき、ベヴィエがクリクに声をかけた。
「クリク、さっきは大いにわたしの甲冑の面目を施してくれました。わたしだったら二言と言わせずに、剣を突き立てていたところだ」
クリクは笑顔になった。
「あのほうがずっと楽しいでしょう、サー・ベヴィエ」
ペロシア人貴族の夏の別邸の内装は、外装よりもさらに豪華だった。壁にはみごとな彫刻を施した高価な木材が使われ、床と暖炉はすべて大理石で、家具には最高級のブロケード織の布がかけられている。召使は控え目だがよく気がつき、何も言わなくてもなすべきことはすべてやってくれた。
スパーホークたち一行は、ちょっとした舞踏室ほどの大きさのある食堂で豪華な夕食を摂《と》った。
「これこそが人生ってもんだよ」カルテンが満足げにため息をつく。「なあスパーホーク、どうしておれたちはちょっとした贅沢《ぜいたく》にあずかれないんだろうな」
「われわれは教会の騎士だからな。清貧によって鍛えられるんだ」
「それだって程度問題だろう」
「具合はどうですか」セフレーニアがベヴィエに尋ねた。
「だいぶよくなりました。今朝からまだ一度も血を吐いていません。明日は普通駆足《キャンター》でも大丈夫だと思いますよ、スパーホーク。今のペースだと時間がかかりすぎるでしょう」
「もう一日だけ楽なペースで進もうと思う。地図によると、ヴェンネから先は少々道が険しくて、人もほとんど住んでいないらしい。待ち伏せには絶好の士地だし、尾行してくる連中もいる。きみとカルテンとティニアンには、身を守れる程度に回復しておいてもらいたいんだ」
「ベリット」クリクが見習い騎士に声をかけた。
「はい」
「ここを発《た》つ前に、一つ頼まれてくれないか」
「何でしょう」
「明日の朝一番にタレンを中庭に連れ出して、徹底的に身体検査をしてくれ。この館のご主人はとても親切だった。不愉快な思いをさせたくないんでな」
「どうしておいらが何か盗むなんて思うのさ」タレンが不平を鳴らした。
「どうしておまえが何も盗まないなんて思える。転ばぬ先の杖だ。この屋敷には小さくて高価な品物がたくさんあるからな。たまたまそのうちのいくつかが、おまえの服の隠しに転がりこむかもしれん」
寝室のベッドは羽毛を詰めてあり、ふかふかしていて気持ちがよかった。翌朝は夜明けとともに起き、たっぷりした朝食を腹に収めてから、一行は召使たちに礼をいい、待っていた馬にまたがって出発した。昇ったばかりの太陽は黄金色に輝き、頭上には揚げ雲雀《ひばり》の声が聞こえた。馬車の中からフルートが笛の音を合わせる。セフレーニアはだいぶ元気になったようだったが、スパーホークの意見でやはり馬車の中に座っていた。
正午少し前くらいに、獰猛な顔つきの男たちが近くの丘を越えて疾駆《ギャロップ》で近づいてきた。革製の服とブーツを身に着け、頭を剃り上げている。
「東部辺境の部族民だ」前にペロシアにいたことのあるティニアンが警告の声を上げた。「気をつけろ、スパーホーク。情け容赦のない連中だぞ」
丘を下ってくる一団の馬の扱いは水際立っていた。腰帯には恐ろしげなサーベルをたばさみ、短い槍《やり》を持って、左の腕には丸盾《ラウンドシールド》をつけている。頭目の短い号令でほとんどの者たちがいっせいに馬を止めた。馬の尻肉が震えるほどの急停止だった。五人の手下とともに頭目が前に出る。頭目は目つきの鋭い痩《や》せぎすの男で、頭には無数の傷痕があった。六人がこれ見よがしの技巧で馬を脇に寄せる。たくましい馬たちの動きはみごとにそろっていた。それから六人は槍を地面に突き刺し、華々しい身振りで輝くサーベルを引き抜いた。
「だめだ!」スパーホークたちが本能的に剣を抜こうとするのを見て、ティニアンが叫んだ。「これは儀式なんだ。じっとして」
頭を剃った男たちは堂々たる歩きぶりで前進した。何かの合図で六頭の馬がいっせいに片膝《かたひざ》をつき、乗り手は手にしたサーベルを敬礼するように顔の前にかざした。
「こいつはすごい! あんな真似のできる馬は見たことがない」カルテンがつぶやく。
ファランの耳がぴくりと動き、スパーホークにはその苛立ちが手に取るようにわかった。
「聖騎士方にご挨拶《あいさつ》申し上げる。何なりとご命令を」革の衣装を着た頭目が儀式張った声を上げた。
「わたしに相手をさせてくれないか」ティニアンがスパーホークにささやいた。「多少の経験があるんだ」
「任せたぞ、ティニアン」スパーホークは蛮族の一団から目を離さずに答えた。
ティニアンが前に進み出た。しっかりと手綱を握って、馬を一定のゆっくりした速度で歩かせている。デイラ人騎士は同じく儀式張った声で呼ばわった。
「ペロイの民にご挨拶をお返しする。兄弟との出会いはわれらの喜びとするところ」
「やり方を知ってるじゃないか、騎士殿」
「東の辺境にしばらくいたものでね、ドミ」
「ドミって何だ」カルテンがささやいた。
「古いペロシア語で、首長≠ニでもいったような意味だ」アラスが答える。
「とでもいったような?」
「説明すると長くなる」
「ともに塩をいかがかな、騎士殿」戦士が尋ねた。
「喜んで、ドミ」ティニアンはゆっくりと鞍から滑り下りた。「それをよく焼いた羊肉《マトン》にかけるのはどうかな」
「すばらしい提案だ、騎士殿」
「取ってこい」スパーホークがタレンに言った。「緑の包みだ。口答えはするな」
「口答えするくらいなら舌を噛《か》み切るよ」タレンは不安そうに答え、包みを探しはじめた。
「暖かい日だな」ドミは気軽な口調で言って、草の上に足を組んで座った。
「さっきまで同じことを言っていたところだ」ティニアンも同じように腰をおろす。
「おれはクリング、この一隊のドミだ」
「わたしはティニアン、アルシオン騎士だ」
「だろうと思った」
タレンがおずおずと二人に近づき、焼いた仔羊の腿肉《ももにく》を差し出した。
「いい焼き具合だ。教会騎士はいいものを食べている」クリングはベルトに下げた革製の塩袋の口を開いた。歯と爪を使って肉を二つに引き裂き、半分をティニアンに手渡す。それから塩の袋をティニアンに差し出すと、「塩はどうだ、兄弟」
ティニアンは指を袋の中に突っこんでたっぷりと塩をつまみ、肉の上に振りかけた。指についた塩は四方の風の中に振り払う。
「おれたちのやり方をよく知っているな、わが友ティニアン」同じ動作をしながらドミがにこやかに言った。「このすばらしい若者は、おまえの息子か」
「いやいや、そうじゃない」ティニアンはため息をついた。「いい子なんだが、盗賊の仲間入りをしていてな」
「ほほう!」クリングは笑ってタレンの肩を叩いた。タレンはひっくり返ってしまった。
「盗賊は世界で二番目に誉《ほま》れ高い職業だ。戦士の次にな。腕はいいのか、若いの」
小さく笑みを浮かべたタレンの目が鋭くなった。
「試してみるかい、ドミ」言いながら立ち上がり、「守れるものは守ってみな。残りはおいらが盗んでみせるから」
戦士は頭をのけぞらせて大笑いした。タレンはもう男に近づいて、すばやく両手を動かしていた。
「いいだろう、若き盗賊よ」ドミは嬉しそうに笑いながら両腕を広げた。「できるものなら盗んでみるがいい」
タレンはうやうやしく一礼した。
「お申し出はありがたいけど、もう盗ませてもらったよ。貴重品はほとんど一つ残らずいただいたと思うな」
クリングは目をしばたたき、あわてて身体じゅうを服の上から叩きはじめたが、やがてうめき声を上げた。
「いい結果になりそうじゃないか」スパーホークがささやいた。
タレンは盗んだ品物を取り出して棚卸しを始めた。
「ブローチが二つ。指輪が七つ。左の親指にはまってたのはずいぶんきついね。金の腕輪が一つ。これ、調べてもらったほうがいいよ。真鍮《しんちゅう》が混ぜてあると思うな。ルビーのペンダントが一つ。高く売りつけられたんじゃないといいけど。あんまり質のいい石じゃないからね。あと宝石を嵌《は》めこんだ短剣が一振りと、剣の柄頭《つかがしら》の宝石が一個」タレンはぱんぱんと両手をはたいて見せた。
ドミは大きな笑い声を爆発させた。
「この子を買うぞ、わが友ティニアン。最高の馬の群れを一つやろう。この子は実の息子として育てる。こんな腕のいい盗賊は見たことがない」
「いや――申し訳ないが、この子は売り物じゃないんだ」
クリングは嘆息した。「馬は盗めるか」残念そうにタレンに尋ねる。
「馬は服の隠しに入れるには大きすぎるね。でもやれると思うよ、ドミ」
「すばらしい。この子の父親はさぞ鼻が高かろう」
「あまりそんな気はしませんね」クリクがつぶやく。
「ところで、若き盗賊よ」クリングがほとんど申し訳なさそうに切り出した。「財布も一つなくなっているような気がするんだが――かなり重いやつが」
「ああ、いけない、すっかり忘れてた」タレンは額を叩いて、服の下からずっしりと重い革の袋を取り出し、ドミに手渡した。
「中身を数えたほうがいいぞ、わが友クリング」ティニアンが忠告する。
「この子とおれはもう友だちだから、信用することにする」
タレンはため息をつき、あちこちの隠し場所からかなりの数の銀貨を取り出した。それをクリングに手渡しながら、
「こういうのってやめてもらいたいなあ。楽しみがなくなっちゃうよ」
「馬の群れ二つでは?」とクリング。
「申し訳ない。塩と話だけにとどめておこう」
二人は塩を振った肉を食べ、タレンは馬車のほうに戻ってきてスパーホークに話しかけた。「馬をもらっとけばよかったのに。おいらなら、暗くなってから逃げ出せばいいんだもん」
「木に鎖で縛りつけられるぞ」
「鎖なんて、一分もあれば抜けられるさ。ああいう馬がどれほどの値打ちものかわかんないの?」
「この子をしつけるには思ったより時間がかかりそうだ」カルテンが言った。
「護衛はいらんか、わが友ティニアン」クリングが尋ねた。「おれたちの用事は大したものじゃない。母なる教会とその騎士団の役に立てるなら、喜んで手伝わせてもらうが」
「ありがとう、わが友クリング」ティニアンは頭を下げた。「だが、こちらの使命はわれわれだけでじゅうぶんに対処できる」
「うむ、聖騎士の武勇は伝説的だからな」
「そちらの用事というのはどういうものなんだ、ドミ。ペロイがこれほど西までやってくるのは珍しいことだと思うが」
「確かに、普段は東の辺境を離れることはまずない」クリングは歯で仔羊肉の塊を骨から引きはがした。「ここ数世代にわたって、ときどきゼモック人がペロシアの国境を侵そうとする試みがあってな。それで国王が賞金をかけたんだ。連中の耳一つにつき、半クラウン金貨が一枚だ。これは楽な稼ぎになる」
「両耳そろえてか」
「いや、右耳だけだ。だからサーベルの扱いに気をつけないと、狙いがそれて賞金がふいになってしまう。まあそれはいいが、おれたちは国境近くでゼモック人のかなり大きな一団を見かけたんだ。何人かはやっつけたが、残りは逃げてしまった。最後に見たときはこっちへ向かっていて、しかも怪我人がいるらしく、血の跡が続いていた。それを追ってきたというわけだ。そいつらの耳を集めて賞金をいただく。あとは時間の問題だ」
「それなら少し時間を節約させてやれるかもしれん」ティニアンは大きな笑みを浮かべた。「昨日あたりから、かなりの数のゼモック人が背後に見え隠れしているんだ。そっちの探しているのと同じ集団かどうかは知らんが、いずれにせよ耳は耳だし、別の集団をやっつけたからといって、国王の金貨は同じように通用するからな」
クリングは嬉しそうな笑い声を上げた。
「まったくそのとおりだ、わが友ティニアン。それにもしかすると、このあたりには金貨二袋分がうろついているのかもしれん。どのくらいの人数だかわかるか」
「四十人かそこらは見かけた。この街道を南からやってきてる」
「そいつらは、ここから先へは進めんな」クリングは狼のような笑みを浮かべた。「じつに実り多い会見だった、わが友ティニアン。少なくともおれと仲間にとっては。どうしておまえたち、自分で賞金をものにしようとは思わないんだ」
「賞金のことは知らなかったのでね、ドミ。しかも教会の仕事は急を要する」ティニアンは顔をしかめた。「それにたとえ賞金を手に入れたとしても、われわれは誓いによって、それを教会に寄進しなければならない。われわれの働きの成果は、どこかの太った僧院長あたりの懐《ふところ》におさまってしまうわけだ。まともな仕事などしたこともないような連中をさらに肥え太らせるくらいなら、誠実に生きている友人に渡したほうがずっといい」
クリングは思わずティニアンを抱きしめた。
「兄弟よ、おまえこそ真の友だ。おまえと知り合えたことを名誉に思う」
「わたしにとっても同じことだ」
ドミは指についた脂《あぶら》を革のズボンでぬぐった。
「ではそろそろ出発することにする、わが友ティニアン。ぐずぐずしていては賞金も手に入らんからな」一拍おいて、「やはりあの少年を売るつもりはないか」
「あれはわたしの友人の息子なんだ。わたしは厄介払いしても構わないんだが、友情は大切だからな」
「よくわかった、わが友ティニアン」クリングは一礼した。「今度また神に語りかけるとき、おれのことをよろしく言っておいてくれ」一瞬のうちにドミは馬上にあり、その腰が鞍に落ち着く前に馬はもう走り出していた。
アラスがティニアンに歩み寄り、しっかりとその手を握った。
「すばらしい手際だった。あれは実にいい考えだ」
「公正な取引さ。おれたちは背後からゼモック人を一掃できるし、クリングは耳を手に入れる。友人のあいだの取引では、両方に何かしら得るものがないとな」
「まったくそのとおりだ」アラスが同意する。「しかし耳を売るという話ははじめて聞いた。たいていは首なんだが」
「耳のほうが軽いし、袋を開けるたびに睨《にら》んだりしないからな」
「いい加減になさい。子供がいるのですよ」セフレーニアの厳しい声が飛んだ。
「失礼、小さき母上。軽い話題のつもりだった」アラスがすんなり謝罪する。
セフレーニアは足音荒く馬車へ戻っていった。教母が小声でつぶやくスティリクム語の中に、礼儀正しい人々のあいだでは決して用いられない言葉が確かにあったとスパーホークは思った。
「どういう者たちなのですか」たちまち南のほうに見えなくなる戦士たちの姿を見送りながらベヴィエが尋ねた。
「ペロイだ」ティニアンが答える。「馬の育成に長《た》けた遊牧民だ。この地域にはじめて定住したエレネ人だよ。ペロシア王国という名称は、ペロイにちなんでつけられたんだ」
「見かけどおりに獰猛なのですか」
「見かけ以上だ。国境地帯にペロイがいたからこそ、オサはペロシアじゃなくラモーカンドに侵攻したんだろう。気が触れてでもいない限り、ペロイとことを構えようとする者はいない」
ヴェンネ湖に着いたのは翌日遅くだった。ヴェンネ湖は広いが浅い湖で、近くの泥炭の沼からつねに水が流れこんでくるため、湖水は茶色く濁っていた。泥沼状になっている湖岸から少し離れて野営地を設営するあいだ、フルートは妙に苛々した様子だった。セフレーニアの天幕ができるとすぐにフルートは中に駆けこみ、決して外に出てこようとはしなかった。
「フルートはどうかしたんですか」スパーホークは無意識に指輪をいじりながらセフレーニアに尋ねた。指輪をはめた指がうずくような気がしていたのだ。
「わからないのです」セフレーニアは眉根を寄せた。「まるで何かに怯《おび》えているようですが」
一同が食事を終え、セフレーニアが天幕にフルートの食事を運んでいってしまうと、スパーホークは負傷している三人に状態を詳しく尋ねた。全員がもう完全に大丈夫だと答えたが、その言葉をすんなり信じるわけにはいかない。それでも押し問答の末、とうとうスパーホークはこう言った。
「いいだろう。では前のペースに戻すことにしよう。甲冑はそれぞれ持ち主に返して、明日は普通駆足《キャンター》で進むことにする。疾駆《ギャロップ》はなし、早駆けもなしだ。問題が起きた場合は、本当にまずくなるまで後方に控えていること」
「まるで雛《ひな》のいる雌鶏《めんどり》みたいに口うるさいな」カルテンがティニアンにささやいた。
「虫をつつき出してきたらおまえが食べるんだぞ」
「お申し出はありがたいが、おれはもう夕食はすませたよ」
スパーホークは眠りに就いた。
真夜中近く、天幕の外に銀色の月の光が満ちるころ、スパーホークは毛布を跳ねのけて起き上がった。ものすごい咆哮《ほうこう》が聞こえてきたのだ。
「スパーホーク! みんなを起こせ! 早く!」外からアラスの声が響いた。
スパーホークはカルテンを揺り起こし、鎖帷子を着こんだ。剣をつかんで天幕の外に飛び出す。すばやくあたりを見まわすと、ほかの者たちを起こす必要はないことがわかった。みんなそれぞれに防具を着け、武器を手にしている。アラスは野営地の端に立って盾を構え、斧を手にしていた。懸命に闇の中に目を凝《こ》らしている。
スパーホークはアラスに歩み寄ると、静かに尋ねた。
「どうしたんだ。さっきの音は何だ」
「トロールだ」アラスがぶっきらぼうに答える。
「ここはペロシアだぞ。そんなことはあり得ない。ペロシアにトロールだなんて」
「出ていってトロールにそう言ってやったらどうだ」
「本当に間違いないのか」
「あの声は数え切れないくらい聞いてきた。間違えるはずはない。トロールだ。しかも何かに怒り狂ってる」
「火を焚《た》こう」ほかの者たちが集まってくると、スパーホークはそう提案した。
「無駄だ。トロールは火を恐れない」
「トロールの言葉がわかるんだったな」
アラスはうなずいた。
「われわれに敵意はないと言ってやったらどうかな」
アラスは辛抱強い表情で説明した。
「スパーホーク、この状況では何をしても同じだ。もし襲ってきたら、足を狙え」と全員に向かって、「胴体を狙うと武器を奪われて、逆襲を食らうぞ。よし、とにかく話しかけてみよう」
アラスは顔を上げ、恐ろしげな胴間声を張り上げた。
何かが闇の中から、侮蔑的な、唾を吐くような声で答えた。
「何と言ってるんだ」
「悪態をついてる。終わるまではまだ一時間かそこらかかるだろう。トロール語は悪態の語彙《ごい》がおそろしく豊富だからな」アラスは眉をひそめ、不思議そうにつぶやいた。
「何だかあまり自信がなさそうだな」
「こちらの人数が多いので、用心しているのでしょう」とベヴィエ。
「やつらは用心なんて言葉は知らん」アラスは納得しなかった。「たった一匹で城壁都市を襲ったトロールもいるんだ」
またしても咆哮が聞こえた。少し近くなっている。
「いったいどういう意味だ」アラスが当惑げにつぶやいた。
「どうした」とスパーホーク。
「泥棒を引き渡せとわめいている」
「タレンのことか」
「わからん。タレンがトロールの服の隠しから何か盗んだとも思えない。やつらは服なんか着ないからな」
と、そのときセフレーニアの天幕からフルートの笛の音が聞こえてきた。その調子は厳しく、どこか脅すような響きがあった。しばらくすると闇の中からふたたび咆哮が聞こえた。なかば苦しむような、なかば不満気な声だ。声は徐々に遠ざかり、やがて消えていった。
「みんなでセフレーニアの天幕へ行って、あの子の頭と肩に口づけしてやらないか」アラスが言った。
「どうなったんだ」とカルテン。
「あの子が追い払ってくれたらしい。トロールが逃げ出すところなんて、はじめて見た。雪崩《なだれ》にさえ単身立ち向かっていくようなやつらなんだ。とにかくセフレーニアと話してみるべきだと思う。おれにはわからない何かが、ここで起きている」
しかし戸惑っているのはセフレーニアも同じことだった。教母はフルートを腕に抱き、少女は泣いていた。
「どうぞみなさん、しばらくそっとしておいてください。この子はひどく取り乱しています」
「いっしょに見張りに立とう、アラス」天幕を出たティニアンが言った。「あの声で血が凍っちまった。もう眠れそうにない」
一行がヴェンネの街に入ったのはその二日後だった。追い払われたトロールの姿を見かけたり声を聞いたりすることは、その後とうとう一度もなかった。
ヴェンネはあまり魅力的な街ではなかった。税金が敷地の面積に応じて決まるようになっているため、市民は大きく張り出した二階を造って、少しでも税金を安く上げようとしていた。二階の張り出しが極端に大きいために、街路はまるで昼なお暗い狭いトンネルのようだ。とにかくできるだけきれいな宿を見つけて部屋を取ると、スパーホークはクリクを連れて情報を集めに出かけた。
ところがどうしたことか、ガセックの名を聞くとヴェンネの人々は誰もがひどく神経質になった。スパーホークとクリクが得た返事は曖昧な矛盾したものばかりで、しかも答えてくれた街の人間は、いつもあわてて二人の前から姿を消してしまうのだった。
「あそこを」クリクが酒場のドアの前でふらついている男を指差した。「あれだけ酔ってれば逃げられないでしょう」
スパーホークはぐらぐらしている男を見て、不満そうな顔になった。
「あれだけ酔ってたんじゃ、返事もできないんじゃないか」
しかしクリクのやり方は暴力的なほど単刀直入なものだった。道を横切り、酔っ払いの襟首をつかんで街路を引きずっていくと、そこにあった泉の中に男の頭を突っこんだのだ。それからクリクは快活な口調で男に話しかけた。
「さてと、これでお互いの立場はわかってもらえたと思う。これからいくつか質問をするから、あんたはそれに答えるんだ。鰓《えら》呼吸ができるなら、別に答えなくてもいいがね」
男は水を跳ねとばして咳《せ》きこんだ。クリクは発作がおさまるまで男の背中を叩いてやった。
「ようし、まず最初の質問だ。ガセックはどこにある」
酔っ払いの顔がまっ青になり、目が恐怖に丸くなった。
クリクはふたたび男の頭を水の中に突っこんだ。
「いい加減いやになってきますね」泉の水面に湧《わ》き上がるあぶくを見ながらスパーホークに話しかけ、男の髪をつかんで引き上げる。「素直に協力してくれたほうが楽だと思うがね。ではもう一度だ。ガセックはどこにある」
「き、北だ」男は息を詰まらせ、大量の水を街路に吐き出した。酔いは吹き飛んでしまったようだ。
「それはわかってる。どの道を行けばいい」
「北門を出て、一マイルばかり行くと道が二つに分かれる。それを左だ」
「よくなってきたぞ。だいぶ素面《しらふ》に戻ってるじゃないか。ガセックまでの距離はどのくらいある」
「よ、四十リーグほどだ」男は鉄のようなクリクの腕の中で身をよじった。
「じゃあ最後の質問だ。どうしてヴェンネの人間は、ガセックの名を聞くとみんな逃げ腰になる」
「あ、あれは恐ろしい場所だ。口では言えないようなひどいことが起きてるんだ」
「胃は丈夫なほうなんだよ。いいから言ってみろ」
「血を飲んだり、血の風呂に入ったり――人間の肉を食ったりまでするんだ。あんな恐ろしい場所はほかにない。その名を口にしただけで呪いが振りかかるんだ」男は震えながら泣きだしてしまった。
「さあさあ」クリクは男を放し、そっと背中を叩いてやってから硬貨を渡した。「すっかり怖《お》じ気づかせちまったな。飲み屋に戻ってもう一杯やってきちゃどうだ」
男はたちまち姿を消した。
「あまり気分のいい場所じゃなさそうですね」とクリク。
「まったくだ」スパーホークはうなずいた。「だが何にしても、行ってみるしかない」
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13[#「13」は縦中横]
これから進む道はひどい悪路だと聞いていたので、その翌朝、一行は馬車を宿の主人に託し、全員が馬に乗って出発した。暗い街路は松明《たいまつ》の光に照らし出されていた。前の日にクリクが酔っ払いから聞き出した情報をスパーホークが全員に伝えていたので、ヴェンネの北門を出た一行は、油断なくあたりに気を配って進んでいった。
「ただの迷信かもしれないぜ。さんざん恐ろしい話を聞かされて、行ってみたら何のことはない、何世代も昔の話だったなんて経験があるからな」
カルテンの言葉に、スパーホークはうなずいた。
「確かに辻褄《つじつま》の合わない話ではある。パレルの職人は、ガセック伯爵が学者だと言っていた。異国の血なまぐさい風習には、いささか似つかわしくないような気がするな。とにかく気をつけていこう。故国から遠く離れているだけに、助けを呼ぶのはいささか大変だ」
「わたしは後方を見張ります」ベリットが名乗りを上げた。「ゼモック人が尾《つ》けてきていないと、はっきりわかっていたほうが安心ですから」
「ドミに任せておけば大丈夫だとは思うが」とティニアン。
「でも――」
「行ってくれ、ベリット」スパーホークが促した。「万一ということもある」
一行は無理をせずに普通駆足《キャンター》で進んでいった。日が昇るころには、道が二股に分かれているところまでやってきていた。左の道は泥の中に轍《わだち》の跡が残る、細い踏み分け道にすぎなかった。数日前から降りつづいていた雨のせいで、泥道がさらに通りにくくなっている。道の左右は深い藪《やぶ》だった。
「ゆっくり行くしかないな。もっといい道でも、山に入ると険しくなるのが普通だ」アラスがそう言って、すぐ先にそびえている山々のほうを見やった。
「頑張るしかないだろう」とスパーホーク。「とはいえ、アラスの言うのももっともだ。四十リーグといえばけっこうな距離だし、悪路のほうが短く感じられるというわけではないからな」
一行は泥道を速足《トロット》で進みはじめた。アラスが言ったとおり、道はだんだんと悪くなった。一時間ほどすると、一行は森の中に入った。常緑樹の森の中は陰鬱《いんうつ》で薄暗かったが、空気はひんやりと湿っていて、甲冑を着けた騎士たちにとってはありがたかった。しばらく休憩してパンとチーズの昼食を摂《と》ると、スパーホークたちはさらに山道をたどっていった。
あたりは不気味なほど人気《ひとけ》がなく、小鳥のさえずりさえ聞こえない。ただ黒い烏《からす》だけはほとんどどの木にもいて、しきりにしわがれた鳴き声を上げていた。陰気な森に夕闇が迫ってくると、スパーホークは道から少し離れたあたりをその晩の野営地に定めた。
森の鬱々たる雰囲気は能天気なカルテンにまで影響を与え、一行は黙々と夕食を終えると、早々に寝袋にもぐり込んだ。
真夜中ごろ、アラスがスパーホークを起こして見張りの交替を告げた。
「このあたりは狼が多いらしい」巨漢のジェニディアン騎士が小さな声で言った。「背中を木の幹にあずけておいたほうがいい」
「狼が人を襲ったという話は聞いたことがないな」ほかの者たちを起こさないよう、スパーホークも声をひそめて答える。
「普通は襲わない。狂犬病にかかったのは別だが」
「そいつは心休まる話だ」
「気に入ってもらってよかった。おれは寝る。長い一日だったからな」
スパーホークは焚《た》き火の明かりの輪から離れ、五十ヤードほど森の中に入って闇に目を慣らした。森の奥から狼の鳴き声が聞こえる。ガセックに関する悪い噂の出所が、何となくわかったような気がした。この陰鬱な森だけでも、迷信深い人々の恐怖を掻《か》き立てるにはじゅうぶんだ。それに加えて、つねに凶兆とされる烏の群れが巣食い、さらに背筋の凍るような狼の声まで聞こえてくるのだ。噂がどうやって始まったのか、もはや明らかではないか。スパーホークは目と耳に神経を集中し、慎重に野営地のまわりを見まわった。
四十リーグ。道がだんだん悪くなっていることを考えれば、一日に十リーグ進むのが精いっぱいだろう。のんびりしたペースに苛立ちはつのるが、こればかりはどうにもならない。ガセックにはどうしても行かなければならないのだ。だがもしかすると、伯爵はサラク王の墓の在処《ありか》を知っている者と行き合っておらず、この退屈で時間のかかる旅はまったくの無駄に終わるかもしれない。そんな考えを、スパーホークは急いで頭から追い払った。
あたりの森の様子をうかがっているうちに、もし無事にエラナを救うことができたらどうなるのだろうという思いが、ぼんやりと頭の中に漂ってきた。エラナのことは子供時代しか知らないが、あの子ももう小さな女の子ではない。こんな大人になるだろうという個性の片鱗を目にしたことはあったが、騎士はエラナを知っているとはとても言えないような状態だった。いい女王になるだろうということには確信があったものの、個人としてのエラナは、いったいどういう女性なのか。
闇の中に動きを感じて、スパーホークは足を止めると剣の柄に手をかけた。目を凝《こ》らすと、焚き火の光を反射する二つの緑色の目が見えた。狼だ。狼はしばらく焚き火の炎をじっと見つめていたが、やがて音もなく森の中へと引き返していった。
スパーホークは息を詰めていたことに気づき、音を立ててそれを吐き出した。狼と対峙してまったく不安を感じない人間など、いるはずがない。不合理なことだとわかっていても、本能的に背筋が寒くなるのだ。
月が昇り、暗い森の上に青白い光を投げかけた。見上げると雲が流れてくるのがわかった。雲は徐々に月を隠し、さらに濃くなっていくようだ。
「また雨か。舞台としては最高だな」スパーホークはかぶりを振り、闇の中に目を凝らしながら見まわりをつづけた。そのあとティニアンと交替して天幕に戻り、眠っていると肩をゆすられた。
「スパーホーク」タレンだった。騎士はすぐに目を覚ました。
「どうした」少年の声に切迫したものを感じて、スパーホークは身を起こした。
「外に何かいるよ」
「わかってる。狼だ」
「違うよ。狼が二本足で歩くようになったっていうなら別だけど」
「何がいたんだ」
「木の陰にいてはっきりとは見えなかったけど、ローブみたいなものを着てた。あんまり身体にぴったりしてないやつ」
「シーカーか」
「わかるわけないじゃない。ちらっと見ただけなんだよ。森の端まで来て、また木陰に逃げこんじゃったんだ。顔のあたりが光ってなかったら気がつかなかったよ」
「緑色に?」
タレンがうなずく。
スパーホークは悪態をつきはじめた。
「汚い言葉のねたが尽きたら言ってよ。おいらの在庫は豊富だから」
「ティニアンには知らせたか」
「うん」
「おまえ、外で何をしてた」
タレンはため息をついた。
「常識がないなあ」その口調は年齢よりもかなり大人びていた。「盗賊ってのは、二時間おきに目を覚ましてあたりを見まわるものなんだよ」
「それは知らなかった」
「知っとくべきだったね。不安だけど、楽しい生き方なんだ」
スパーホークは片手で少年の首のあたりを叩いた。
「いつかおまえに普通の男の子らしい生き方をさせてやるからな」
「どうしてさ。そんな時代はもう卒業しちゃったんだよ。事情が違ってれば駆けまわって遊んでられたろうし、それはそれでいいもんだろうけど、そうはならなかったわけだし、このほうが楽しいもん。寝てていいよ、スパーホーク。そいつのことはティニアンとおいらが目を光らせてるから。そうそう、明日は雨になるよ」
翌朝は重苦しい雲が頭上にかかっていたものの、雨は降っていなかった。正午ごろ、スパーホークは手綱を引いてファランを立ち止まらせた。
「どうしました」クリクが尋ねた。
「あそこの小さな谷間に、村があるようだ」
「こんな森の中で何をしてるんですかね。畑なんてなさそうだし」
「訊《き》いてみればいいさ。いずれにしろ話を聞きたい。ヴェンネよりもガセックに近いわけだから、もう少し鮮度のいい情報が手に入るだろう。好きこのんで猪突猛進することはない。カルテン」
「何だい」
「しばらくみんなと先に行っててくれ。クリクとおれはあの村へ行って、少し話を聞いてくる。すぐに追いつくからな」
「わかった」カルテンの口調はぶっきらぼうで、やや不機嫌そうだった。
「どうかしたのか」
「どうもこの森は気がふさぐ」
「ただの木じゃないか」
「わかってるけど、どうしてこんなにたくさんあるんだ」
「しっかり目を開いておけよ。シーカーがこの付近にいるぞ」
カルテンの目が輝いた。剣を引き抜き、親指で切れ味を確かめる。
「何を考えてる」スパーホークが尋ねた。
「あいつをおれたちの背後から永遠に葬り去る、いい機会だと思って。オサの虫けらはがりがりに痩《や》せてるから、一撃でまっ二つにできるだろう。ちょっと隊列を離れて、独りで待ち伏せしてみるかな」
スパーホークはすばやくその案を検討する様子を見せた。
「悪くない。だがみんなを安全な場所まで先導する人間はどうする」
「ティニアンがいるさ」
「たぶんな。だが知り合ってからまだ半年にしかならない、怪我から回復しかけの人間に、セフレーニアの身の安全を託せるか」
カルテンはスパーホークに悪口雑言を叩きつけた。
「義務なんだよ、カルテン」スパーホークは穏やかに言った。「義務を果たすためには、いろいろと楽しいことをふい[#「ふい」に傍点]にしなくちゃならない。言ったとおりにしてくれ。シーカーのほうはあとで何とかするさ」
カルテンはなおも悪態をつきながら、馬首をめぐらして仲間のところへ戻っていった。
「危うく決闘になるところでしたよ」クリクが言った。
「わかってる」
「カルテンは腕が立つけど、かっとなりやすいのが珠《たま》に傷ですね」
二人は馬の向きを変え、村のほうへと丘を下っていった。
家々は丸太造りで、屋根は草で葺《ふ》いてあった。村のまわりは切り拓《ひら》かれて、家並みから二百五十フィートあたりのところまでは、木の切り株の残る畑になっている。
「開墾はしてるみたいですけど、家庭菜園といった程度ですね。どうやって暮らしを立てているのか、やっぱり謎《なぞ》ですよ」
しかし村の中に入ると、その謎はすぐに解けた。大勢の村人が、素朴な架台の上に載せた丸太から材木を切り出していたのだ。乾燥させるため家々の脇に並べられた材木の用途は明らかだった。
一人が鋸《のこぎり》を引く手を休め、汚い布で額の汗をぬぐった。
「宿屋ならないぞ」スパーホークに向かってぶっきらぼうに声をかける。
「宿屋を探してるわけじゃないんだ、隣人《ネイバー》。ちょっと知りたいことがあってね。ガセック伯爵のお屋敷まではどのくらいかな」
男の顔がわずかに青ざめた。
「気に入らないくらい近くですよ」男は黒い甲冑に神経質そうな目を向けた。
「何かまずいことでもあるのかい」クリクが尋ねる。
「まともな人間はガセックには近づかない。たいていは、その話をすることさえ嫌がるもんだよ」
「同じような話をヴェンネでも聞いた」とスパーホーク。「伯爵の屋敷に何があるというんだ」
「はっきりとは知りませんよ」男はそわそわと答えた。「この目で見たわけじゃないんです。噂を聞いただけなんで」
「どんな噂だね」
「あのあたりで人がいなくなるんだそうです。二度と姿を見かけないんで、本当に何があったのかは誰も知りませんけど。でも伯爵の農奴も逃げ出してるんです。そんな厳しいご領主ってわけでもないのに。あのお屋敷では何か邪悪なことが起きてるんですよ。このあたりの者たちはみんな怖がってます」
「邪悪の元凶は伯爵だと思うかね」
「それはちょっとないでしょう。伯爵はこの一年、ほとんど帰っていらっしゃいませんでしたから。旅の好きなお方でね」
「わたしもそう聞いている」スパーホークはしばらく考えこんだ。「ところで、最近スティリクム人を見かけなかったかね」
「スティリクム人ですか。いいえ、連中はこの森には足を踏み入れません。このあたりの人間はスティリクム嫌いで、そのことはよく知れ渡ってますから」
「なるほど。伯爵の屋敷までどのくらいの距離だと言ったかな」
「言ってませんよ。まあ十五リーグってとこです」
「ヴェンネで聞いたら、あそこからガセックまで四十リーグだと言われたんだがな」とクリク。
村人はばかにするように鼻を鳴らした。
「街のやつらは一リーグがどのくらいかも知りやしませんよ。ヴェンネからガセックまでなら、三十リーグをそう出ちゃいないはずです」
「ゆうべ森の中で人の姿を見かけたんだが」クリクが何気なさそうに切り出した。「黒いローブを着て、フードをかぶってた。このあたりの人だったのかな」
村人の顔がまっ青になった。
「このあたりには、そういう格好をする者はいないね」
「本当に?」
「そう言ったろう。そんな服装をする者は、この近所にはいないよ」
「それなら旅人だったんだろう」
「きっとそうだ」男はふたたびぶっきらぼうな調子に戻っていた。目が少し血走っている。
「時間を取らせてすまなかった、ネイバー」スパーホークはファランの向きを変え、村をあとにした。
「まだ何か知っていそうでしたね」最後の家のそばを通り過ぎると、クリクが感想を述べた。
「ああ。シーカーに支配されてはいないが、ひどく恐れていたようだ。とにかく急ごう。暗くなる前にみんなに追いつきたい」
西の空が夕焼けに染まるころ、二人は仲間に追いつくことができた。その晩は道からあまり離れていない、静かな湖のそばで野営することになった。
「雨になると思うか」夕食が終わって火を囲んでいると、カルテンが尋ねた。
「やめてよ。ラモーカンドでずぶ濡れになった服がやっと乾いたとこなんだから」とタレン。
「いつ降りだしてもおかしくないでしょう」クリクがカルテンの問いに答えた。「今このあたりは雨の季節ですからね。でもそんなに湿度が上がってるような気はしません」
馬をつないだ場所から戻ってきたベリットが、小さな声で報告した。
「サー・スパーホーク、近づいてくる者がいます」
スパーホークは立ち上がった。「何人だ」
「蹄《ひづめ》の音は一頭分しか聞こえません。われわれが向かっていた方角から近づいています」わずかに間を置いて、「馬をすさまじく駆り立てているようです」
「あまり賢いとは言えんな。この闇と、道の状態を考えれば」アラスがうなるようにつぶやく。
「焚き火を消しますか」とベヴィエ。
「もう気がついていると思います、サー・ベヴィエ」ベリットが答えた。
「足を止めるかどうか見てみよう。一人だけなら大した脅威ではない」スパーホークが言った。
「シーカーだと話は別ですがね」クリクは鎖帷子を整え、鬼軍曹の口調になった。「では諸君、散開して戦いに備えるよう」
騎士たちは反射的にこの命令に従った。こと白兵戦については、クリクが四騎士団の誰よりも経験豊富だと本能的にわかっていたのだ。スパーホークは剣を抜きながら、従士である友人を心の底から誇らしく思った。
旅人は野営地にほど近い道の上で馬を止めた。馬が激しく息をあえがせているのが聞こえる。「近づいてもいいですか」闇の中から男の声が尋ねた。その声は甲高く、ヒステリーの一歩手前という感じがした。
「こっちへどうぞ」クリクにちらりと目をやってから、カルテンが気楽そうな声で言った。
闇の中から馬に乗って現われた男は、けばけばしいほど派手な服装をしていた。羽根飾りのついた鍔広《つばひろ》の帽子をかぶり、赤い胴衣《ダブレット》に青いズボン、それに膝まである革のブーツをはいている。背中にはリュートを背負っていた。腰の小さな短剣のほかには、武器を帯びている様子はない。馬は疲労のあまりよろめいており、乗り手のほうも似たような状態だった。
「ありがたい」焚き火のまわりに立っている武装した騎士の姿を見て、男がつぶやいた。身体が鞍の上でぐらぐらと揺れ、ベヴィエが飛び出して手を貸さなかったら転げ落ちていたところだった。
「疲労|困憊《こんぱい》の極みだな」とカルテン。「何に追いかけられていたんだ」
「狼だろう」ティニアンが肩をすくめる。「落ち着いたらすぐに話してくれるさ」
「水を飲ませてあげなさい、タレン」セフレーニアが指示する。
「はい」少年は手桶《ておけ》を持って湖へと走っていった。
「少し横になっていなさい。もう安心ですよ」ベヴィエが声をかける。
「時間がないんだ」男はあえぎながら答えた。「大至急お伝えしなければならないことがある」
「名前は何というんだ」カルテンが尋ねた。
「わたしはアーベル、吟遊詩人だ。詩を書き、曲をつけて、王侯貴族のお楽しみのために歌って聞かせるのを仕事にしてる。たった今あの怪物の、ガセック伯爵の館から逃げ出してきたところだ」
「妙なことになってきたな」とアラス。
タレンが手桶に汲んできた水を、アーベルはむさぼるように飲んだ。
「馬を湖に連れていっておやりなさい」セフレーニアが少年に言う。「一度にあまりたくさん飲ませないように」
「わかりました」とタレン。
「どうして伯爵が怪物なんだ」スパーホークが尋ねた。
「美しい乙女を塔に閉じこめるような人物を、ほかにどう呼べばいいんです」
「その美しい乙女というのは?」ベヴィエが妙に熱心な声で尋ねる。
「伯爵の妹御です!」アーベルは怒りに息を詰まらせた。「罪を犯すなど考えられない人なんだ」
「伯爵は理由を説明したかね」とティニアン。
「してはならないことをしたとか、何やらたわ言を口走っていました。そんな話、わたしは聞く耳を持たない!」
「確かな話なのか。その女性には会ったのか」カルテンは懐疑的だった。
「いや、わたしは会っていません。でも伯爵の召使に聞いたんです。妹御は絶世の美女で、伯爵は旅から戻るや、その妹御を塔に幽閉してしまったのだと。それからわたしを含めて召使たちをことごとく館から追い出し、二度と妹御を塔の外に出すつもりはないと言い放ったのです」
「怪物だ!」義憤に燃えてベヴィエが叫んだ。
セフレーニアは吟遊詩人をしげしげと見つめていたが、やがて緊張した顔でスパーホークに合図して、焚き火のそばを離れた。スパーホークとクリクがそれに続いた。
「どうしました」話を聞かれないあたりまで離れると、スパーホークが尋ねた。
「あの男に触れてはなりません。ほかの人たちにも、手を触れないように言ってください」
「よく意味がわかりませんが」
「あいつ、どこか妙ですよ、スパーホーク」クリクが言う。「目におかしな色があるし、しゃべり方も変に早口で」
「何かに感染しているのです」とセフレーニア。
「病気ですか」スパーホークは身震いして後じさった。疫病がたやすく猛威を振るう世界にあって、病気という言葉には人の想像力をすさまじく刺激する響きがある。
「あなたの考えているものとは違います。肉体的な病気ではなく、何かが心を汚染しているのです。何か邪悪なものが」
「シーカーですか」
「そうではないと思います。症状が違います。ともあれ、あの人が何かに感染しているのは間違いないでしょう。誰もそばに寄らないようにしてください」
「しゃべってますし、表情にもあの虚《うつ》ろな感じはないですからね」とクリク。「おっしゃるとおりだと思います、セフレーニア。シーカーではないでしょう。何か別のものです」
「今、あの人はとても危険な存在です」
「すぐに方をつけますよ」クリクはフレイルに手を伸ばした。
「まあ、クリク」教母はあきらめたような声で言った。「おやめなさい。あなたが疲れきった旅人を襲ったなどと知ったら、アスレイドがどう思うでしょう」
「言わなければいいんですよ」
「何かというと武器に頼るエレネ人の癖は、いつになったら直るのでしょうね」セフレーニアはうんざりしたようにそう言い、スパーホークにはわからないスティリクム語で何事かつぶやいた。
「何ですって」
「何でもありません」
「困ったことが一つあります」クリクが真剣な顔で言った。「あの吟遊詩人が何かに感染してるとすると、ベヴィエにも伝染《うつ》ってるはずですよ。馬から落ちそうになったとき手を触れてますから」
「ベヴィエはわたしが見張ります」とセフレーニア。「甲冑が守ってくれたかもしれません。すぐにわかることです」
「タレンはどうかな」とスパーホーク。「手桶を渡すとき、触ったんじゃないだろうか」
「そうは見えませんでしたが」
「ベヴィエに伝染していたら、治せるんですか」クリクが尋ねる。
「まだどういうものなのかもわかっていません。何かがあの吟遊詩人に取り憑《つ》いているということしかね。とにかく戻って、みんなに警告しないと」
「聖騎士のみなさんに訴えます!」焚き火のそばでは吟遊詩人が激昂した声で演説していた。「邪悪なる伯爵の館に乗りこんで、その残虐な行ないに罰を与え、いわれなく幽閉されている美しき妹御を救い出さなくてはなりません」
「そうだ!」ベヴィエが熱を込めて叫ぶ。
スパーホークはちらりとセフレーニアに目をやった。確かにベヴィエは感染していると言うように、教母がうなずき返す。
「その人についていてくれ、ベヴィエ」スパーホークはそう声をかけた。「あとのみんなは、ちょっと来てもらいたい」
一同が焚き火のそばを離れると、セフレーニアが手短に事情を説明した。
「じゃあベヴィエも感染してるんですか」カルテンが尋ねた。
「残念ながら。すでに不合理な行動が始まっています」
スパーホークはまじめな顔でタレンに問いかけた。
「おまえ、水を汲んできたときあの男に触らなかったか」
「触らなかったと思うけど」とタレン。
「囚《とら》われの美女を救出しようと駆けまわりたい衝動は感じてないか」とクリク。
「おいらが? ばかなこと言わないでよ」
「大丈夫そうですね」セフレーニアがほっとした声で言った。
「よかった」とスパーホーク。「これからどうします」
「できるだけ急いでガセックへ行きましょう。何が原因なのか突き止めないと、手の打ちようがありません。何としても館の中に入らないと――たとえ力ずくでも」
「それはいいが、あの吟遊詩人はどうします」とアラス。「触るだけでほかの者を感染させられるなら、いずれ大軍団を率いて館に押しかけてくるかもしれない」
「簡単な手があるじゃないか」カルテンが剣の柄に手をかける。
「いけません」セフレーニアの鋭い声が飛んだ。「眠らせることにしましょう。何日か休息を取るのは、あの人にとっても悪いことではないでしょう」そう言ってカルテンに厳しい顔を向け、「どうして何でもかんでも剣で解決しようとするのです」
「訓練の成果ですよ、きっと」カルテンは肩をすくめた。
セフレーニアは呪文を唱えはじめ、指で魔法を編み上げると静かに解き放った。
「ベヴィエはどうします。あいつも眠らせるんですか」ティニアンが尋ねる。
セフレーニアはかぶりを振った。
「馬には乗れるでしょう。置いていくのはどうかと思います。ただ、触られないように離れていてください。それでなくても問題を抱えこんでいるのですから」
一同は火のそばに戻った。
「あの人は眠ってしまいました。これからどうします」とベヴィエ。
「明日の朝ガセックへ向かう」スパーホークが答えた。「そうそう、ベヴィエ、だいぶ頭に来ているようだが、向こうに着いてもあまり感情的にならないでくれ。手は剣から離して、口もつつしむようにな。行動に移るのは状況をよく見極めてからだ」
「それが慎重なやり方というものでしょうね」ベヴィエは不承不承うなずいた。「病気だということにして、あまり表立たないようにします。悪逆な伯爵の顔を何度も見たら、怒りを抑えきれなくなりそうですから」
「いい考えだ。その友人には毛布でもかけてやって、もう寝たほうがいい。明日は厳しい一日になりそうだからな」
ベヴィエが天幕に引き取ってしまうと、スパーホークはほかの騎士たちを集めてひそかに注意を与えた。
「今夜の見張りにはベヴィエを起こすな。真夜中に独りで抜け出すような真似はされたくない」
全員がうなずいて、毛布にくるまった。
翌朝はまたしても空に厚い雲がかかって、陰気な森の夜明けは薄暗かった。朝食をすますと、クリクが支柱に帆布を張って吟遊詩人の上に差しかけた。
「雨が降ったときの用心にね」
「大丈夫でしょうか」とベヴィエ。
「疲れているんだろう。寝かせておいてやるさ」スパーホークが素知らぬ顔で答える。
一行は馬に乗り、踏み分け道に戻った。最初は速足《トロット》で進んで馬の身体を暖め、半時間ほどしてから疾駆《ギャロップ》に移った。
「足許に気をつけろ。馬の足をくじくなよ」
やがて道は陰気な森を抜け、一行はときどき速度を落として馬を休めながら進んでいった。そのうちに西のほうから雷の音が聞こえはじめ、早くガセックの館に着きたいという望みを、近づく嵐がさらに大きなものにした。
伯爵の館に近づくにつれ、廃墟となった村落の跡が目につきはじめた。嵐雲が頭上を覆い、遠い雷の音が着実に近づいてくる。
その日の午後、とある角を曲がると、荒れ果てた耕地のかなた、岩山の頂きに伯爵の居館が見えた。耕地のそこここには廃墟となった家々が、それを見下ろす荒涼とした館を恐れるかのように、数軒ずつ固まって残っていた。スパーホークはファランの手綱を引いた。
「全速力であの館へ突撃するのはやめておこう。中の人たちにわれわれの目的を誤解されたくない」一行は速足《トロット》で耕地を横切り、村の廃墟のそばを通って岩山の麓《ふもと》に近づいた。
岩山には狭い道がついており、スパーホークたちは一列になってその道を登っていった。
「ぞっとしないな」首を伸ばしたアラスが、岩山の上にそびえる館を見てつぶやいた。
「確かにあんまり魅力的とは言えないな」カルテンも同意する。
道をたどっていくと、閂《かんぬき》のかかった門の前に出た。スパーホークは馬を止め、鞍の中で身を乗り出すと、鉄の拳《こぶし》で門を叩いた。
しばらく待ったが、何の応答もない。
スパーホークはもう一度門を叩いた。
しばらくして、門の中央部の小さな覗《のぞ》き窓が開いた。「何の用です」虚ろな声が短く尋ねた。
「旅の者だが、嵐が通り過ぎるまで泊めていただけないだろうか」
「外の方はお泊めできません」
「門を開けなさい」スパーホークは感情を込めずに言った。「われわれは教会騎士だ。われわれの正当な要請への協力を拒むのは、神に反逆するのと同じことになる」
門の向こうの姿を見せない男は、それを聞いて逡巡《しゅんじゅん》した。
「伯爵のご意向をうかがわないと」と、仕方なさそうに低い声でつぶやく。
「では、うかがってきたまえ」
「あまり快調な出だしとは言えんなあ」とカルテン。
「門番というのは、大物になったような勘違いをすることが多いんだ」ティニアンが言う。「錠と鍵というのは、ある種の人間にはおかしな効果をもたらすものなんだな」
待つうちにも、紫がかった西の空に電光が閃《ひらめ》きはじめた。
ずいぶん長い時間が経ったように思え、やがて鎖の鳴る音と、重い鉄の閂が鉄の輪の中を滑る音が聞こえてきた。ゆっくりと門が開きはじめる。
中に立っている男は巨漢だった。牛革の鎧を着け、太い眉の下の目は落ち窪《くぼ》んでいる。下顎《したあご》は大きく張り出し、顔には打ち沈んだ表情が浮かんでいた。
スパーホークはこの男を知っていた。一度見かけたことがあったのだ。
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不機嫌な門番が先導する通路は蜘蛛の巣に飾られ、大きく間隔をあけて鉄の輪に差した揺れる松明《たいまつ》の明かりにほの暗く照らし出されていた。スパーホークはわざと足取りを遅くして、セフレーニアの横に並んだ。
「気がつきましたか」騎士が小さな声でささやくと、教母はうなずいてささやき返した。
「予期した以上のことが起きているようです。気をつけなさい、スパーホーク。ここは危険です」
「ええ」騎士はむっつりとうなずいた。
蜘蛛の巣だらけの通路の先には、大きな重い扉があった。無言の案内人が扉を引き開けると、錆《さ》びた蝶番《ちょうつがい》が抗議するようにきしんだ。扉の先にはカーブを描いた階段が、下の大広間へと続いていた。丸天井の下の壁は白く塗られ、磨き上げられた石の床が夜のように黒い。アーチ型の暖炉では炎がはぜ、そのほかの光源といえば、火の前に置かれたテーブルの上の一本の蝋燭《ろうそく》があるばかりだった。テーブルの前に白髪混じりの男が腰をおろしている。上から下まで黒ずくめの服装をしたその男は憂鬱げな表情で、めったに陽に当たらないらしい青白い顔色をしていた。どことなく不健康な、暗い不安に沈んでいるような雰囲気がある。男は蝋燭の明かりで、革装丁の大きな本を読んでいた。
「お話しした人たちです、ご主人様」革鎧を着た四角い顎《あご》の男が、深くうつろな声でうやうやしく男に話しかけた。
「ご苦労、オキュダ」テーブルの前の男が弱々しい声で答える。「部屋を用意してさしあげるように。嵐が通り過ぎるまでご逗留《とうりゅう》だからな」
「お心のままに、ご主人様」巨漢の召使は踵《きびす》を返し、階段を上っていった。
「このあたりまで旅してくる者はごく少ない」黒ずくめの男が言った。「王国もここまで来ると荒涼として、人もあまりいないのでな。わたしはガセック伯爵。天候が回復するまで、この陋屋《ろうおく》に身を寄せられるがよかろう。あるいはこの家の門をくぐらねばよかったと思うことになるやもしれんが」
「わたしはスパーホークです」大柄なパンディオン騎士はそう名乗ってから、仲間を紹介した。
ガセック伯爵は一人ひとりに丁寧に会釈《えしゃく》した。
「おかけになるといい。すぐにオキュダが何か飲み物を持ってくるだろう」
「ご親切に、ありがとうございます」スパーホークは兜と籠手をはずしながら礼を言った。
「いつまでありがたいと思うかな、サー・スパーホーク」ガセックは不気味にそう答えた。
「何やら問題があるらしいことを示唆なさるのは、これで二度目になりますね」とティニアン。
「そしてこれが最後ではなかろうな、サー・ティニアン。もっとも、問題≠ニいう言葉はいささか軽すぎるようだ。本心を言えば、もし卿《けい》らが聖騎士でなかったなら、わが家の門は閉ざされたままだったろう。ここは不幸の家なのだ。部外者にまでその嘆きを担わせるのは気が進まん」
「何日か前にヴェンネを通ってきたのですが、伯爵の城に関する噂でもちきりでした」スパーホークは慎重に探りを入れた。
「驚くには当たらん」伯爵は震える片手で顔を覆った。
「お加減が悪いのですか」セフレーニアが問いかける。
「寄る年波でしょうな。これを癒す方法は一つしかない」
「召使の姿を見かけないようですが」注意深く言葉を選んでベヴィエが尋ねる。
「もはやオキュダとわたしだけなのだ、サー・ベヴィエ」
ベヴィエはほとんど詰問するような口調で先を続けた。
「森の中で吟遊詩人に会いました。伯爵には妹御がおありだとか」
「アーベルという愚か者から聞かれたか。いかにも、妹が一人いる」
「妹御はこの場にご同席なさいませんか」
「妹は具合が悪いのだ」
「レディ・セフレーニアはすぐれた癒し手ですが」
「妹の病は癒せるようなものではない」伯爵は断固とした口ぶりで答えた。
「もういい、ベヴィエ」スパーホークが命令口調で若いシリニック騎士を押しとどめる。
ベヴィエは顔を紅潮させ、立ち上がって部屋の奥に歩いていった。
「あの若者は何を興奮しているのだ」伯爵が尋ねる。
「吟遊詩人のアーベルが、伯爵のお屋敷のことを話したんですよ」ティニアンが率直に答えた。「ベヴィエはアーシウム人です。感情的になりやすくてね」
「なるほど。アーベルがどんなひどいことを言ったか、見当はつく。幸いにも信じる者は少ないが」
それを聞いてセフレーニアが異議を唱えた。
「それは考え違いではなかろうかと存じます。アーベルの話は理性を曇らせる混乱に満ちていますが、混乱は伝染するものです。アーベルと出会った者は、一時的にせよ、その話をまったき真実と受け取るでしょう」
「なるほど、妹の腕はずいぶんと長いらしい」
どこか屋敷の奥からすさまじい絶叫が聞こえ、虚ろな笑い声が響きわたった。
「妹御ですか」セフレーニアがそっと尋ねた。
ガセックがうなずく。スパーホークはその目に涙が光るのを見て取っていた。
「ご病気は、肉体的なものではない?」
「いかにも」
「この話はこれまでにしておきましょう」セフレーニアが騎士たちに言った。「伯爵にはおつらい話題のようですから」
「ありがとう、マダム」ガセックは礼を述べ、ため息をついた。「それで卿らは、この陰鬱な森に何の用がおありかな」
「実は伯爵に会いにきたのです」スパーホークが答えた。
「わたしに?」ガセックは驚いた顔になった。
「ある場所を探しているのです。ゼモック国の侵略に倒れた、サレシアのサラク王の葬られている場所を」
「どこかで聞いた名前だな」
「だろうと思いました。パレルの革職人に聞いてきたのです。名前をバードといって――」
「その者なら知っている」
「その男が、伯爵の作っていらっしゃる年代記のことを教えてくれました」
ガセック伯爵の目が輝き、一行がやってきてから初めて、その顔に生気が甦《よみがえ》った。
「わたしのライフワークだ」
「そのように理解しています。バードの話だと、相当に網羅《もうら》的なものだとか」
「それはいささか大袈裟かもしれんな」伯爵は謙遜して、笑みを浮かべた。「それでもペロシア北部と、一部はデイラのほうまで、ほとんどの民話を収集できたと思っている。オサの侵攻は一般に知られているよりもはるかに広範なものだったのだ」
「ええ、それはわれわれも気がつきました。伯爵の年代記を閲覧するお許しをいただければ、サラク王が埋葬されている場所を探す手がかりが得られるのではないかと思っているのです」
「もちろん構わんとも、サー・スパーホーク。わたしも手を貸そう。ただ今日はもう遅いし、あの年代記は分厚いのでな」と申し訳なさそうに言って、「今から始めたら徹夜になってしまうだろう。手をつけると時の経つのを忘れてしまうものだから。明日の朝から始めることにしてはどうかな」
「伯爵のよろしいように」
そこへオキュダが入ってきた。濃いシチューを入れた壺と、人数分の皿を手にしている。
「お食事は差し上げておきました」召使は静かに報告した。
「容態に変化は」
「残念ながら、ご主人様」
伯爵はため息をついた。その顔がふたたび暗くなる。
オキュダの料理の腕はあまり誉められたものではなく、シチューはかろうじて我慢できるという程度の味だった。伯爵はいつも研究に夢中で、食事の味つけなどには頓着しないのだろう。
食事が終わると伯爵は一同におやすみの挨拶をした。オキュダが先に立って階段を上り、廊下を歩いて、用意された部屋まで一行を案内する。寝室に近づくにつれ、狂女の絶叫がふたたび聞こえはじめた。ベヴィエは唇を噛《か》んだ。
「訴えている」怒りを押し殺した声でつぶやく。
「いいえ、騎士様」オキュダはかぶりを振った。「あの方はすっかり正気を失ってしまわれました。あの状態の患者は、自分が置かれている状況さえ理解できなくなっているものです」
「召使ふぜいに、どうして心の病について詳しいことがわかるのだ」
「もうよせ、ベヴィエ」スパーホークがふたたび割って入った。
「いえ、構いません。騎士様のお疑いはもっともです」オキュダはベヴィエに向き直った。「若いころ、わたしは修道僧でした。修道会の僧院の一つが狂人のためのホスピスになっていて、わたしはそこに属していました。狂人の扱いにはじゅうぶんな経験があるのです。レディ・ベリナは完全に狂っていて、もはやお救いする術《すべ》はありません。どうか信じてください」
ベヴィエの自信はややぐらついたかに見えたが、その表情はすぐにまた硬くなった。「そんな話は信じられない」
「信じる信じないはご自由です、騎士様。こちらの部屋をお使いください」オキュダは部屋の扉を開けた。「ゆっくりおやすみを」
ベヴィエは部屋に入って、背後で扉を閉めた。
「屋敷の中が静かになったら、すぐにも伯爵の妹を探しに部屋を抜け出しそうですね」セフレーニアがつぶやく。
「まったくです」スパーホークも同意した。「オキュダ、このドアが開かないようにできないかな」
巨漢のペロシア人はうなずいた。
「鎖をかければできると思います」
「じゃあ、そうしてくれないか。真夜中にベヴィエがさまよい出たりすると困る」スパーホークはしばらく考えこんだ。「ドアの外に見張りもつけたほうがいいな。あのロッホアーバー斧を持っているんだ。思い余ってドアを打ち壊そうとするかもしれない」
「そいつはいささか冒険だな」カルテンが疑わしげな顔で言う。「ベヴィエを傷つけるのは本意じゃないが、あの恐ろしげな斧で襲ってこられるのも願い下げにしたいところだ」
「外に出ようとしたら、全員で押さえこめぱいいだろう」
オキュダは続いてほかの者たちを部屋に案内した。最後はスパーホークだった。
「ほかにご用はございませんか」召使は礼儀正しく尋ねた。
「少しいいかな、オキュダ」
「はい、騎士様」
「前におまえを見たことがある」
「わたしをですか」
「しばらく前にカレロスにいて、セフレーニアと二人で、スティリクム人の家を見張っていたことがあるのだ。おまえは女の供をしてその家に入っていったな。あれがレディ・ベリナだったのか」
オキュダは嘆息し、うなずいた。
「あの家で起きたことが、ベリナの狂気の原因だったのだろう」
「そう思っております」
「すっかり話を聞かせてくれないか。ベヴィエに取り憑《つ》いているものを追い払わなくてはならないのだが、つらい質問で伯爵を苦しめたくはないんだ」
「わかります、騎士様。わたしの忠誠は伯爵にささげたものですが、あなたは詳しいことを知っておかれるべきだと思います。そうすれば、少なくともあの狂女から身を守ることができるでしょうから」オキュダは苦しげに顔を歪《ゆが》めて腰をおろした。「伯爵は学究肌の方で、何十年も研究していらっしゃる民話の収集のために、長く屋敷を留守になさることがしばしばありました。妹御のレディ・ベリナは平凡な、どちらかというと容姿はあまりぱっとしない、中年の女性です――でした、と申し上げるべきでしょうか。ご結婚のあてもなく、この人里離れた屋敷の中で孤独と退屈をかこっていらっしゃいました。この前の冬のこと、ベリナ様は伯爵に、カレロスの友人のところへ遊びにいきたいとお願いなさいました。伯爵はわたしを供として連れていくことを条件に、これをお認めになったのです」
「どうしてカレロスまで行けたのかと不思議に思っていた」スパーホークはベッドの端に腰をおろした。
「カレロスのお友だちというのは軽薄な考えなしのご婦人がたで、ベリナ様の耳に、女が魔法で美貌と若さを手に入れられるというスティリクムの家のことを吹きこみました。ベリナ様はどうしてもそこへ行きたいとおっしゃいます。女性というのは、ときに妙な考えを起こすもののようで」
「本当に若返ったのかね」
「わたしはスティリクム人の魔術師がいる部屋に入れてもらえませんでしたから、中で何があったのかはわかりません。部屋から出てきたベリナ様は、別人と見紛《みまが》うばかりでした。顔と身体は十六歳の少女ですが、恐ろしい目をしていました。さきほどもお話ししたとおり、わたしは狂人の世話をしていたことがありますので、その兆しはすぐにわかりました。そこでベリナ様を縛り上げ、まっすぐこの屋敷に連れ帰ったのです。ここで治療できないものかと思いまして。伯爵はいつもの長旅に出ていらして、ベリナ様とわたしが戻ったあと、何が始まろうとしていたのか知るよしもありませんでした」
「それで、何があったのだ」
オキュダは身震いした。
「恐ろしいことです、騎士様」と怯《おび》えた声で、「どうやったのか、ベリナ様は召使たちを完全に支配してしまわれました。どんな命令にも、誰も逆らうことができないのです」
「おまえを除いて、ということか」
「修道僧だったので守られていたのか――あるいはわたしなど役に立たないと思われたのでしょう」
「実際のところ、ベリナは何をしたんだ」
「カレロスのあの家でベリナ様が出会ったものは、何だかわかりませんが、きわめて邪悪なものでした。あの方はすっかり取り憑かれてしまったのです。ベリナ様は奴隷にした召使たちを夜な夜なあたりの村に送り出し、罪もない農奴をさらってこさせました。あとでわかったのですが、あの方は屋敷の地下に拷問部屋を作っていました。そこで血と苦痛の喜びにひたっていたのです」オキュダの顔が嫌悪に歪んだ。「人間の肉を喰《く》らい、裸の全身に人間の血を塗りたくって。わたしがこの目で目撃したのです」息をつき、気を落ち着けて先を続ける。「伯爵が戻っていらしたのは一週間ほど前のことです。ある夜、遅くお帰りになった伯爵が、地下室からワインを取ってくるようにとおっしゃいました。普段はたいてい水しかお飲みにならない方なのですが。地下室に下りていくと、悲鳴のようなものが聞こえました。そのあとを追って、わたしは隠し部屋の扉を開けたのです。神よ、開けなければよかった!」オキュダは両手で顔を覆った。すすり泣きの声が洩《も》れ聞こえてくる。やがて多少とも自制を取り戻すと、召使は話しつづけた。「ベリナ様は裸で、農奴の娘がテーブルに鎖で縛りつけられていました。あの方は憐れな娘を、生きたまま切り刻んでいたのです。そしてひくひくと動く肉片を口に運んでいました!」オキュダは嘔吐しそうになり、歯を食いしばった。
「そこにいたのはベリナだけだったのか」なぜそんなことを尋ねる気になったのか、スパーホークは自分でもよくわからなかった。
「いえ、奴隷となった召使たちもいっしょにいて、床に流れた血をすすっていました。それに――」と言いよどむ。
「続けて」
「これはあまり確かなことではありません。頭がくらくらしていましたから。ですが部屋の奥のほうに、フードで顔を隠した黒ずくめの人影を見たような気がします。その姿を見ると、魂が凍りつくようでした」
「その人影のこと、もう少し詳しくわからないか」
「背が高く、とても痩《や》せていて、黒いローブにすっぽりくるまっていました」
「ほかには」次に何が来るのか、スパーホークには背筋の凍りつくような確信があった。
「部屋が暗かったのです、騎士様」オキュダは弁解するように言った。「あの方が焼きごてを熱していた炎しか明かりがなくて。ですがその人影があるように思えた隅には、緑色の光が見えたような気がします。何か重要なことなのでしょうか」
「おそらくな」スパーホークは言葉少なに答えた。「続けてくれ」
「わたしは伯爵に知らせに走りました。最初は信じていただけませんでしたが、無理に地下室へとお連れしました。その場のありさまをご覧になったら、伯爵が妹御を殺そうとなさるのではないかと思いました。そうしていればよかったのです! 戸口に伯爵の姿を見たあの方は、農奴の娘に使っていたナイフをかざして襲いかかってきました。ナイフはわたしが奪い取りましたが」
「それで伯爵は、ベリナを塔に閉じこめたわけか」スパーホークは話の凄惨さに身震いしていた。
「わたしがお勧めしたのです」オキュダはぼそぼそと先を続けた。「わたしのいた施設では、暴力的な患者は監禁していましたから。二人で塔まで引きずっていって、ドアに鎖をかけました。何とか治療する手だてが見つからない限り、ベリナ様は生涯をあの部屋で過ごすことになるでしょう」
「ほかの召使たちはどうした」
「最初はあの方を解放しようとしたので、何人かわたしが手にかけました。そして昨日のことですが、残った者たちがあの愚かな吟遊詩人に作り話を吹きこんでいるのを、伯爵が耳になさいました。そこで伯爵は全員を城から追い出すよう、わたしにお命じになったのです。しばらくは門のあたりをうろうろしていたようですが、そのうちにみんないなくなりました」
「その者たちにおかしなところはなかったか」
「みんな魂の抜けたような無表情な顔をして、わたしが手にかけた者たちは、殺されても声も上げませんでした」
「それを恐れていたんだ。前にも同じような者たちと出会っているのでね」
「あの家で、ベリナ様の身に何があったのでしょう。何があの方を狂気に追いやったのでしょう」
「修道僧だったからには、神学についてそれなりの知識はあるはずだな。アザシュという名を聞いたことはあるか」
「ゼモック人の信仰する神ですか」
「そうだ。あの家にいたスティリクム人は実はゼモック人で、レディ・ベリナの魂はアザシュに奪われてしまったのだ。ベリナが塔から抜け出せるということはないか」
「絶対に不可能です」
「だがベリナはあの吟遊詩人を感染させ、さらにそれをベヴィエにまで伝染させている」
「塔の外に出たということは絶対にありません」オキュダは断言した。
「セフレーニアと話してみなくては。正直に話してくれてありがとう、オキュダ」
「伯爵を救っていただけるのではないかと期待してのことです」オキュダは立ち上がった。
「できるだけのことはする」
「ありがとうございます。ではお友だちの部屋のドアに鎖をかけてきます」ドアに向かいかけて足を止め、陰気な口調で、「騎士様……わたしはあの方を殺すべきだったのでしょうか。そうしたほうがよかったのでしょうか」
「これからそうすることになるかもしれない」スパーホークは率直に答えた。「そのときは首を切り落とすことだ。さもないと何度でも立ち上がってくるだろう」
「そうするしかないなら、そういたします。斧がありますし、伯爵がこれ以上苦しまずにすむようにできるなら、何でもするつもりです」
スパーホークは慰めるように、召使の肩に手を置いた。
「きみは善良で誠実な男だ。きみのような召使がいて、伯爵は幸運だった」
「ありがとうございます」
スパーホークは甲冑を脱ぐと、セフレーニアの部屋の前まで廊下を歩いていった。
「はい」ノックに返事があった。
「わたしです、セフレーニア」
「お入りなさい、|愛しい人《ディア》」
スパーホークは教母の部屋に入った。「オキュダと話してきました」
「それで」
「ここで起きていることを話してくれました。ただ、お聞かせしていいものかどうか」
「ベヴィエを治すためには、聞くしかないようですね」
「思ったとおり、カレロスであのゼモック人の家に入っていくのを目撃したペロシア女性は、伯爵の妹でした」
「それはわかっていました。ほかには」
スパーホークはオキュダから聞いた話を手短に、あまり凄惨な場面は省略して話して聞かせた。
「辻褄《つじつま》は合いますね」意見を述べるセフレーニアは冷静だった。「そうした形で犠牲を捧げるのは、アザシュ信仰の特徴です」
「まだあります。地下のその部屋に入ったとき、奥のほうに人影が見えたそうです。フードで顔を隠していましたが、その顔は緑に光っていたそうです」
教母は息を呑んだ。
「アザシュは何体もシーカーを飼っているんでしょうか」
「古き神に関する限り、どんなことでもあり得ます」
「同じやつであるはずはありません。同時に別々の場所にいるなんてことはできませんからね」
「今も言ったとおり、古き神に関する限り、どんなことでもあり得ます」
「セフレーニア」騎士の声には緊張が感じられた。「こういうことは言いたくないんですが、ちょっと恐ろしくなってきました」
「わたしもですよ、ディア。アルドレアスの槍をいつも身近に置いておくことです。ベーリオンの力が守ってくれるでしょう。もうおやすみなさい。わたしも考えることがあります」
「寝る前に祝福をいただけますか、小さき母上」スパーホークは床に膝をついた。急に自分が小さな、何の力もない子供に返ったような気がした。そっと教母の両の掌に口づけする。
「心からの祝福を、ディア」セフレーニアは騎士の頭を両手で抱き、自分のほうに引き寄せた。「あなたは誰よりも優れた騎士です、スパーホーク。心を強く持ちさえすれば、地獄の扉さえあなたの敵ではありません」
スパーホークが立ち上がるとフルートがベッドから滑り出て、堂々とした様子で近づいてきた。動いてはいけないような気がしてじっとしていると、少女はあらがいがたい優しさで騎士の両手首をつかみ、左右の掌にそっと口づけをした。その口づけで、血が炎のように燃え上がった。スパーホークは何も言えずに部屋を出ていった。
眠りは断続的で、スパーホークはしばしば目を覚まし、ベッドの中で不安げに身じろぎした。いつまでも夜が終わらないのではないかと思った。雷鳴が城を基礎から揺るがしている。嵐がもたらした雨はスパーホークが眠ろうとしている部屋の窓を打ち、スレート葺きの屋根を流れ下って中庭の敷石を叩いた。真夜中を過ぎたころ、とうとうスパーホークは眠るのをあきらめ、毛布を跳ねのけて不機嫌にベッドの端に座りこんだ。ベヴィエはどうしたものだろう。いかにもアーシウム人らしい信仰の強さはあっても、あのシリニック騎士にはオキュダのような鉄の意志が欠けていた。ベヴィエは若いがゆえに純真で、しかもアーシウム人特有の情熱的なところがある。ベリナにとっては利用しやすい相手だろう。たとえセフレーニアがあの強迫的な妄念を消し去ることができたとしても、ベリナがいつでも都合のいいときに、ふたたび取り憑いてこないという保証はどこにもない。あまり考えたくないことではあったが、この問題を解決するにはオキュダの示唆した方法しかないような気がした。
そのとき突然、スパーホークは言いようのない恐怖の念を感じた。何か圧倒的に邪悪なものが近くにいる。闇の中を手探りして剣をつかむと、スパーホークはドアを大きく開け放った。
部屋の外の廊下は一本の松明でぼんやりと照らし出されていた。ベヴィエの部屋の外でクリクが居眠りをしている以外、廊下に人影はない。と、セフレーニアの部屋のドアが開き、教母がフルートをすぐあとに従えて足早に外に出てきた。
「あなたも感じましたか」
「ええ。場所はわかりますか」
セフレーニアはベヴィエの部屋を指差した。「あの中です」
「クリク」スパーホークが従士の肩に手を触れると、クリクはぱっと目を開いた。
「どうしました」
「ベヴィエの部屋に何かいる。油断するな」スパーホークはオキュダのかけた鎖をはずし、掛け金を動かし、ゆっくりとドアを押し開けた。
部屋は不気味な光に満たされていた。ベヴィエがベッドの上でしきりに寝返りを打ち、その上に霧のような、輝く裸体の女が浮かんでいた。セフレーニアがはっと息を呑む。
「夢魔《スクブス》!」教母は小さく声を上げ、すぐに呪文を唱えはじめた。フルートにも鋭く手で合図する。少女は笛を取り上げ、スパーホークにはメロディーを追うことさえできない複雑な曲を吹き鳴らした。
輝く女がドアのほうを振り向いた。いわく言いがたい美しさだ。と、唇がめくれ上がり、その下の牙があらわになった。脅すようにしゅうっと息を吐く音が聞こえる。その音には、どこか昆虫が羽根をこすり合わせる音を連想させるところがあった。だがその場から動くことはできないようだ。呪文は続き、夢魔は頭を抱えて悲鳴を上げはじめた。フルートの笛の音がきびしさを増し、セフレーニアの呪文の声が大きくなる。夢魔は身をよじり、呪いの言葉をわめき散らした。そのあまりの激しさに、スパーホークは思わずあとじさった。と、セフレーニアが片手を上げ、驚いたことに、スティリクム語ではなくエレネ語で叫んだ。
「出てきた場所に戻るがいい! 今宵はもはやこれまでと知れ!」
夢魔は雲散しながら不満の叫びを上げ、あとにいやな腐敗臭を残して消え去った。
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15[#「15」は縦中横]
「どうやって塔を抜け出したんだ」スパーホークが切迫した口調で言った。「一つしかないドアには、オキュダが鎖をかけてあるはずなのに」
「抜け出してはいません。前に一度だけ見たことがあります」セフレーニアのしかめ面に、歪《ゆが》んだ笑みが浮かんだ。「呪文を思い出せたのは幸いでした」
「何を言ってるんです、セフレーニア。今そこにいたじゃないですか」とクリク。
「実際にいたわけではありません。夢魔《スクブス》は実体ではなく、それを送り出した者の魂なのです。ベリナの肉体はずっと塔から出ていません。でも魂のほうはこの陰鬱な館の通廊を漂い歩き、触れる者を端から感染させていたのです」
「では、ベヴィエはもう治らないのですか」スパーホークが憮然《ぶぜん》として尋ねる。
「いいえ。少なくとも一部は、夢魔の呪縛を解くことができました。すばやく行動すれば何とかできるでしょう。クリク、オキュダを探してきてください。いくつか訊《き》きたいことがあります」
「今すぐ」従士はそう答えてドアから出ていった。
「明日の晩もやってきて、ベヴィエを感染させようとするんじゃありませんか」
「それを防ぐ手だてはあると思います。とにかくまずオキュダに確認してみないと。少し黙っていてください、スパーホーク。考えなくてはならないことがあるのです」セフレーニアはベッドに腰をおろし、心ここにない様子でベヴィエの額を撫《な》でた。ベヴィエはしきりに身じろぎしている。「おやめなさい」教母は眠っている男にそう言って、短くスティリクム語の呪文を唱えた。若いアーシウム人はぐったりと枕に顔をうずめた。
スパーホークは苛々しながら、教母の考察が終わるのを待った。しばらくすると、クリクがオキュダを連れて戻ってきた。セフレーニアは立ち上がった。
「オキュダ――」言いかけて気が変わったらしく、独り言のように、「いえ、もっと手っ取り早い方法がありますね。やってもらいたいことがあります。地下室の扉を開けたときのことを思い返して――扉を開けた瞬間を。ベリナがしていたことに気を取られないように」
「おっしゃる意味がよくわかりませんが」とオキュダ。
「わかる必要はありまぜん。ただ思い出すのです。あまり時間がありません」セフレーニアはしばらく小声で何かつぶやいていたが、やがて手を伸ばしてオキュダの太い眉に触れた。そうするためには爪先立ちをしなくてはならなかった。「あなたがたはどうしてそう背が高いのです」不平を言いながら指先でオキュダの額に軽く触れ、ほっと息を吐き出す。「思ったとおりです。ここになければ辻褄《つじつま》が合いません。オキュダ、伯爵は今どちらに」
「まだ奥の間だと思います。いつも夜遅くまで読書をなさいますから」
「けっこう」教母はベッドを見て、指を鳴らした。「ベヴィエ、起きなさい」
アーシウム人はぎくしゃくと起き上がった。目が虚ろになっている。
「クリク、オキュダと二人で、倒れないように支えてあげてください。フルートはベッドに戻って。あなたには見せたくありません」
少女はうなずいた。
「では行きましょう、みなさん。あまり時間がありません」
「実際のところ、何をしようというんです」教母のあとから廊下を歩きながら、スパーホークが尋ねた。小柄なわりにセフレーニアは足が速い。
「説明している時間はありません。地下室へ下りる許可をもらわないと――それに、伯爵にもいっしょに来てもらう必要がありそうです」
「地下室へですか」スパーホークが戸惑った顔になる。
「下らない質問はいいかげんになさい」セフレーニアは足を止め、騎士に非難の目を向けた。「槍を手放さないようにと言ったでしょう。部屋へ戻って、取ってきなさい」
スパーホークはどうしようもないと言いたげに両手を上げ、踵を返した。
「走って!」背後から教母の声がかかる。
スパーホークが一行に追いついたのは、城の中央の薄暗い部屋に続く、下り階段の前の戸口のところだった。ガセック伯爵は揺れる蝋燭《ろうそく》の光の中で、まだ本の上にかがみ込んでいた。暖炉の火は今にも消えそうな残り火となり、外では激しい風がしきりに煙突に吹きこんできている。
「目を悪くなさいますよ、伯爵」セフレーニアが声をかけた。「本は脇に置いてください。なすべきことがあります」
伯爵は驚いて教母を見つめた。
「お願いしたいことがあるのです、伯爵」
「何なりと」
「あまり性急にお引き受けなさいませんように。まず何をお願いしたいのかお聞きください。このお屋敷の地下には秘密の隠し部屋があります。ここにいるサー・ベヴィエといっしょに、その部屋へ行かなくてはなりません。伯爵にもご同行願いたいのです。すばやく行動すればベヴィエを救い、このお屋敷の呪いを追い払うことができるでしょう」
ガセックはスパーホークを見つめた。顔にはありありと戸惑いの表情が浮かんでいる。
「言うとおりになさるようお勧めします」スパーホークが言った。「どのみち同意させられるんです。すんなり受け入れてしまったほうが簡単ですよ」
「そのご婦人はいつもこうなのかね」伯爵は立ち上がった。
「しょっちゅうですよ」
「時間がありません」セフレーニアは苛立たしげに足踏みしていた。
「では、こちらへ」伯爵はあきらめてそう言い、階段を上り、蜘蛛の巣だらけの廊下を進んでいった。「地下室への通路はこちらです」狭い脇廊下を指差し、そちらに歩きだす。伯爵は胴衣《ダブレット》から大きな鉄の鍵を取り出すと、小さなドアの錠をはずした。「明かりがいるな」
クリクが鉄の輪から松明《たいまつ》をはずし、伯爵に手渡す。
伯爵は松明を掲げ、延々と続く狭い階段を下りはじめた。オキュダとクリクは夢遊病者のようなベヴィエが階段を転げ落ちないように、その身体を支えていた。階段が終わると、伯爵は左の通路に入った。
「先祖にワインの目利《めき》きを自慢にしている者がいたのだ」通路の左右にぼんやりと浮かび上がる、木の棚に並べられた樽《たる》や壜《びん》を示して、伯爵が説明した。「わたしはほとんどワインを飲まないので、ここへ下りてくることは滅多にない。あの晩ワインを飲みたくなってオキュダをここへ寄越したのは、まったくの偶然だった。そのためにオキュダは、あの惨劇を目撃することになったのだが」
「伯爵にはあまりお気に召さないかもしれません」セフレーニアが言った。「部屋の外で待っていらしたほうがよろしいのではありませんか」
「いや、マダム、あなたに耐えられるのなら、わたしも耐えてみせよう。今はただの部屋にすぎない。そこで起きたことは、もはや過去の話だ」
「その過去を呼び出そうと思っているのです」
伯爵は鋭い視線を教母に向けた。
「セフレーニアは魔術の使い手です。いろいろなことができるんですよ」スパーホークが説明する。
「そういう者がいるという話は聞いているが、ペロシア国ではスティリクム人は珍しい存在だ。実際に魔術が使われるところは見たことがない」
「見なければよかったと思われるかもしれませんよ」セフレーニアが不気味な口調で警告した。「ベヴィエを治すためには、妹御の恐ろしい所業をすべて見せなくてはなりません。屋敷の主《あるじ》として伯爵にもその場にいていただく必要はありますが、ドアの外にいるだけでじゅうぶんでしょう」
「いや、マダム。ここで起きたことをこの目で見れば、わたしの意志もより強固になるだろう。閉じこめておくだけではだめだということなら、もっときびしい方法を考慮しなくてはならない」
「そうならなければいいのですが」
「この部屋だ」伯爵は別の鍵を取り出した。錠をはずし、ドアを大きく開く。気分の悪くなりそうな血と腐肉のにおいが立ちこめた。
揺れる松明の明かりの中で、なぜこの部屋がひどく凄惨な感じを与えるのか、スパーホークは一目で見て取っていた。血まみれの床の中央には台が置かれ、壁には凶々《まがまが》しいフックがいくつも取り付けられている。どのフックにも黒く干からびた肉片が付着しているのを見て、スパーホークはうめいた。壁の一面には恐ろしげな拷問の七つ道具がそろえてある。ナイフ、やっとこ、焼きごて、鋭く尖《とが》った鉄の鉤《かぎ》。親指締め器や鉄のブーツ、鉤のついた鞭《むち》なども見えた。
「少し時間がかかります」セフレーニアが言った。「ただ、朝までには終わらせなければなりません。クリク、松明を頭の上に、できるだけ高く掲げてください。スパーホーク、槍をいつでも使えるように構えて。何かが妨害してくるかもしれません」教母はベヴィエの手をとり、台の前まで連れていった。「目覚めなさい、ベヴィエ」
ベヴィエは目をしばたたき、戸惑った様子であたりを見まわした。「ここはどこです」
「ここへ来たのは見るためであって、話すためではありません」セフレーニアはスティリクム語を唱えながら、すばやく指で複雑な形を描いた。それから松明を指差し、呪文を解き放つ。
最初は何も起きたようには思えなかった。だがそのうちに、血まみれの台のあたりにかすかな動きが見えはじめた。薄暗い、ぼんやりした人影のようだ。松明が燃え上がり、その姿が多少はっきりしてくる。人影は女で、その顔には見覚えがあった。カレロスのスティリクム人の家から出てきた、ペロシア人の女だ。そしてまた、さっきベヴィエの上に漂っていた夢魔《スクブス》の顔でもあった。女は全裸で、表情は歓喜に輝いている。片手には刃渡りの長いナイフを、もう一方の手には鉄の鉤を持っていた。台に縛りつけられた別の人影も徐々にはっきりしてきた。着ているものから見て、これが農奴の娘なのだろう。顔を激しい恐怖に歪ませながら、縛られた手足を自由にしようと懸命にもがいている。
ナイフを持った女は台の上に縛りつけられた人影に近づき、わざとゆっくりした手つきで、犠牲者の衣服を切り裂いた。農奴の娘を裸に剥《む》いてしまうと、伯爵の妹はナイフの刃を娘の肉体に滑りこませた。そのあいだも聞き慣れないスティリクム語の方言で、ずっと何事かつぶやきつづけている。農奴の娘の悲鳴が上がり、レディ・ベリナの歓喜の表情が残忍な笑みに変わった。その歯が野のように尖っているのを見て、スパーホークはぞっとした。見るに耐えなくなって顔をそむけると、ベヴィエの顔が目に入った。信じられないと言いたげな、恐怖にこわばった表情で、娘の肉をむさぼり喰らうベリナを見つめている。
すべてが終わったとき、ベリナの口からは血が流れ、その身体にも血が塗りたくられていた。
場面が変わりはじめた。今度の犠牲者は男で、壁に取り付けられたフックにぶら下げられて身をよじっている。ベリナは男の身体からゆっくりと肉片を切り取っては、口に運んでいた。
さらに次々と犠牲者が現われ、ベヴィエはすすり泣きながら、手で顔を覆おうとした。
「いけません!」セフレーニアは鋭く言って、ベヴィエの両手を引き下ろした。「全部見るのです」
恐怖の再現はさらに続き、男や女が次々とベリナのナイフに切り裂かれた。もっとも陰惨なのは、子供たちが犠牲になる場面だった。スパーホークにはとても耐えられなかった。
永遠に続くかと思えた血と苦痛の饗宴が、やっと終わりを告げた。セフレーニアはじっとベヴィエの顔を見据えた。
「わたしが誰だかわかりますか、騎士殿」
「もちろんです。もうやめてください、レディ・セフレーニア。お願いです」
「この人はわかりますか」教母はスパーホークを指差した。
「わがブラザー、パンディオン騎士団のサー・スパーホークです」
「この人は」
「スパーホークの従士のクリクです」
「この紳士は」
「ガセック伯爵、この不幸な館のご主人です」
「この人は」セフレーニアはオキュダを指差した。
「善良で忠実な、伯爵の召使です」
「まだ伯爵の妹を解放するつもりですか」
「あの女を解放する? 気でも狂ったんですか。あれは地獄の奥底に閉じこめておくべき怪物です」
「うまくいきました。どうやら殺さなくてすみそうです」セフレーニアの声には大きな安堵感があった。
スパーホークは教母が暗示したきわめて現実的な対処法の可能性に、身のすくむ思いだった。
「もうこの部屋から出てもよろしいでしょうか」オキュダが震え声で尋ねた。
「まだ終わっていません。これからが危険なのです。クリク、松明を部屋の奥に持っていきなさい。スパーホークもいっしょに。いつでも槍を使えるようにしておくのですよ」
二人は肩を寄せあって、ゆっくりと部屋の奥に進んでいった。揺れる松明の明かりで、奥の壁の窪《くぼ》みに安置された小さな石の像が浮かび上がった。グロテスクな形をしていて、顔もひどく歪んでいる。
「何だこれは」スパーホークは息を呑んだ。
「それがアザシュです」セフレーニアが答える。
「本当にこんな姿をしているんですか」
「だいたいは。いちばん恐ろしいところは、どんな彫刻家にも形にすることはできません」
と、石像の前の空間が歪んで、黒いローブに身を包み、フードで顔を隠した骸骨のように痩《や》せた姿が、アザシュ像とスパーホークのあいだにいきなり出現した。フードの陰の緑の輝きが次第に明るさを増していく。
「顔を見てはいけません!」セフレーニアが全員に警告した。「スパーホーク、左手で槍の柄をたどって、刃の部分を握りなさい」
スパーホークはぼんやりとその指示を理解し、左手で槍の穂先をつかんだ。とたんにすさまじい力がふくれ上がるのを感じた。
シーカーは絶叫し、スパーホークの前から後退した。緑の輝きが明滅して、消えはじめる。スパーホークは断固とした足取りで、槍の刃をナイフのように突き出したまま、フードをかぶった怪物に一歩一歩近づいていった。シーカーはもう一声絶叫すると、その場から消え去った。
「神像を壊すのです」セフレーニアの声が飛ぶ。
スパーホークは槍を構えたまま、片手を伸ばして壁の窪みから神像を取り上げた。見かけによらず重くて、触れると熱く感じた。それを頭の上まで持ち上げて、思いきり床に叩きつける。像は無数の破片に砕け散った。
「よくやりました! 妹御はもう無力です、ガセック伯爵。神像を壊したことで、与えられていた異界の力はすべて失われたはずです。姿のほうも、もうカレロスのスティリクムの家に入る前の、元の容姿に戻っていると思います」
「あなたにはいくら感謝しても足りないくらいです」伯爵は心から礼を述べた。
「あれはわたしたちを追ってきてたやつなんですか」とクリク。
「実体ではありません。神像が危ないと見て、アザシュがこの場に召喚したのです」
「実体じゃないなら、別に危険はなかったのでは」
「それは大きな過ちですよ、クリク。アザシュに召喚された幻影は、ときとして実体そのものよりも危険なのです」教母は顔をしかめて、あたりを見まわした。「この部屋にいると胸が悪くなります。早く出ましょう。とりあえず、ドアはもう一度封鎖しておいてください。あとで本格的にふさいでしまうことにして」
「かならずそうします」伯爵は約束した。
一行は狭い階段を引き返し、はじめて伯爵と会った丸天井の部屋に戻った。ほかの者たちもみんなそこに集まっていた。
「あのものすごい悲鳴、何だったの」タレンの顔はまっ青だった。
「妹だ」ガセック伯爵が悲しげに答える。
カルテンは心配そうにベヴィエを見やった。
「あいつの前でその話をしても、だいじょうぶなのか」と小声でスパーホークに尋ねる。
「もうだいじょうぶだ。それにレディ・ベリナも力を失ったはずだ」
「そいつはよかった。あの女が同じ屋根の下にいるかと思うと、よく眠れなくて」カルテンはセフレーニアのほうを向いた。「いったいどうやったんです。つまり、ベヴィエを治した方法ですけど」
「あの女性が他人に影響を与えている方法を割り出したのです。そこでそうした力に一時的に対抗する呪文を使いました。それから地下室に行って、治療を完成させたのです」教母は眉をひそめた。「とはいえ、まだ問題はあります」と伯爵に向かって、「あの吟遊詩人はまだ野放しのままです。あの人は感染していますし、伯爵が城から追い出した召使たちも同様でしょう。そこから汚染が広がって、大勢の人たちがここに押しかけてくる危険があります。いつまでもここに残って、そういう人たちを一人ひとり治療しているわけにもいきません。この探求の旅は、そのような遅れを許さないほど重要なものなのです」
「武装した者たちを雇おう。その程度の資力はある。城の門を固めて、必要とあらば妹を殺してでも、決して外に出したりはしない」
「そこまでするには及ばないと思いますよ」スパーホークは教母が言っていたことを思い出していた。「塔を見せていただけませんか」
「何か考えでも、サー・スパーホーク」
「まあ、まず塔を見てからのことです」
伯爵は一行の先に立って中庭を横切った。嵐はもう通り過ぎて、東の地平線のほうに遠雷を望むばかりだった。篠《しの》つくようだった雨も、今は敷石の上に時おりぱらぱらと落ちてくるだけだ。
「あの塔がそうだ」伯爵は城の南東の隅にある塔を指差した。
スパーホークは戸口の近くにあった松明を取り、雨に煙る中庭を横切って、塔の検分を始めた。ずんぐりした円筒形の構築物で、高さは二十フィートほど、直径は十五フィートほどと思えた。石の階段が円周を半分ばかり伸び上がり、厳重に錠を下ろして鎖をかけたてっぺんのドアまで続いている。窓は細い隙間《すきま》のようなものだった。塔の基部にはもう一つ別のドアがあって、こちらは施錠されていない。スパーホークはそのドアを開けて中に入った。倉庫がわりになっているようで、壁ぎわに箱や袋が積み上げられ、埃《ほこり》っぽく、あまり使われている様子はなかった。塔は円筒形なのに、部屋のほうは円形ではなく、半円形をしている。壁からは|控え壁《バットレス》が張り出して、上の階の石の床を支えていた。スパーホークは満足げにうなずいて外に出た。
「あの倉庫のような部屋の、壁の向こうはどうなっているのですか」
「調理場に続く木の階段がある。塔に立てこもったとき、料理人が食事や飲み物を上に運べるようになっているのだ。今はオキュダがその階段を使って、妹に食べ物を運んでいる」
「追放した召使たちは、その階段のことを知っていますか」
「料理人たちしか知らんだろう。その者たちはオキュダが殺した中に入っている」
「ますますけっこう。階段の上にはドアがあるのですか」
「いや、食事を差し入れる細い窓があるだけだ」
「よかった。妹御の不行跡はいささか問題だが、飢え死にさせたくはありませんからね」スパーホークは仲間たちを見まわした。「諸君、新しい仕事がある」
「よく話が見えないんだがね」とティニアン。
「みんなこれから石工になるんだ。クリク、煉瓦《れんが》や石の積み方は知ってるな」
「当たり前でしょう」クリクが心外そうに答える。
「よし、じゃあおまえが親方だ。さて諸君、これから提案することに驚かないでもらいたい。ほかに手はなさそうなのでね」とセフレーニアを見やり、「もしベリナが塔を抜け出せば、ゼモック人かシーカーを探しにいくと思います。そうなればベリナは力を回復するでしょうか」
「ええ、間違いなく回復するでしょう」
「それを許すわけにはいきません。あの地下室を、二度とあのような用途に使わせるわけにはいきませんからね」
「何を提案しようというのだね、サー・スパーホーク」伯爵が尋ねる。
「外階段の上のドアをふさいでしまうんですよ。それから階段を壊して、その石材で塔の基部のドアもふさぎます。調理場から塔の中の階段に通じるドアには、隠し扉を付けます。オキュダは食事を運ぶことができますが、吟遊詩人や召使たちが戻ってきて城の中に入りこんだとしても、どこから上の部屋に入ればいいのかわからないようにしておくわけです。レディ・ベリナは残る生涯をあの部屋で過ごすことになります」
「そいつはいささか残酷じゃないか」とティニアン。
「殺したほうがいいというのか」スパーホークは憮然として答えた。
ティニアンの顔が青ざめる。
「じゃあ決まりだ。ベリナは塔に幽閉する」
ベヴィエは冷然たる笑みを浮かべた。「完璧です、スパーホーク」そう言って伯爵に向き直り、「ときに伯爵、お屋敷の建物で不要なのはどのあたりでしょうか」
伯爵が不審そうな顔になる。
「ドアを塗りこめるには材料がいります」ベヴィエが説明した。「かなりの量が必要でしょう。厚く頑丈にふさいでおきたいですからね」
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16[#「16」は縦中横]
騎士たちは甲冑《かっちゅう》を脱ぎ、オキュダが持ってきた職人の服に着替えると作業にかかった。まずクリクの指示で厩の裏の壁を壊した。オキュダは大きな桶で漆喰をかき混ぜ、それから全員で階段を上って、塔のてっぺんのドアの前まで石を運び上げはじめた。
「ドアをふさぐ前にベリナを見ておかなくてはなりません」セフレーニアが言った。
「だいじょうぶですか」とクリク。「まだ危険かもしれないんでしょう」
「それを確かめておきたいのです。もう力を失っているとは思いますが、それを確認するにはこの目で見てみるしかありません」
「わたしも最後に顔を見ておきたい」ガセック伯爵が言った。「あんなことになってしまったが、かつては愛していた妹なのだ」
スパーホークたちは階段を上り、クリクがドアの鎖を鉄の棒でこじってはずした。伯爵が鍵を取り出し、錠をはずす。
ベヴィエは剣を抜いた。
「そこまで用心しなくちゃならんのか」ティニアンがベヴィエに尋ねる。
「念のためです」ベヴィエはむっつりと答えた。
「それではドアを開けてください」セフレーニアが伯爵に声をかける。
レディ・ベリナはドアのすぐ前に立っていた。歪《ゆが》んだ顔の肉はたるみ、首には皺《しわ》が見える。もつれた髪には白いものが混じり、裸体には見苦しく贅肉《ぜいにく》がついていた。目は完全な狂人のそれで、憎しみのあまり唇がめくれて、牙のような歯があらわになっていた。
「ベリナ」悲しげに声をかけた伯爵に向かって狂女はしゅうっと声を上げ、指を鉤爪のように曲げて突進した。
セフレーニアは指先をベリナに向けて、呪文を一言つぶやいた。狂女は重い一撃を受けたかのように後じさった。不満げな声を上げ、もう一度突進してくる。その身体がぴたりと止まり、女は見えない壁があるかのように、目の前の空間を引っ掻《か》いた。
「ドアを閉めてください、伯爵」セフレーニアの声は沈んでいた。「もうじゅうぶんです」
「わたしもだ」伯爵は声を詰まらせ、目に涙を浮かべてドアを閉めた。「もはや回復の望みはないのだろうな」
「ありません。もちろんカレロスのあの家を出たときから狂っていたのですが、今はもう完全に失われてしまいました。自分自身を別にして、もはや誰にとっても危険な存在ではありません」セフレーニアの口調は憐《あわ》れみにあふれていた。「あの部屋に鏡はないでしょうね」
「ない。鏡があると何かまずいのかね」
「いいえ。ただ、少なくとも自分の姿を目にしなくてすみます。本人にあれを見せるのは、あまりに残酷というものでしょう」教母はしばらく考えこんだ。「このあたりでよく見かける草があります。その汁を搾ったものには、鎮静効果があるのです。あとでオキュダに話して、それをベリナの食事に混ぜるように言っておきましょう。治すことはできませんが、自分を傷つける危険は小さくなるでしょう。ドアに鍵をかけてください、伯爵。男性方がなすべきことをしているあいだ、わたしは中におります。終わったら知らせてください」フルートとタレンをあとに従えて、セフレーニアは屋敷のほうに歩きだした。
「おまえはここにいろ」クリクが息子に声をかけた。
「今度は何さ」とタレン。
「手伝いをするんだ」
「煉瓦《れんが》積みのことなんか、何にも知らないよ」
「石を階段の上に運ぶだけだ。大した知識は必要ない」
「冗談だろ!」
クリクがベルトに手をかけると、タレンはあわてて厩の裏の、石を積み上げてある場所に向かった。
「いい子だ。現実を把握するのが早い」とアラス。
ベヴィエは先頭に立って仕事をすると言い張り、狂ったように石を積み上げていた。
「もっと平らに積むんだ」クリクが声をかける。「間に合わせのものじゃないんだから、職人仕事をしようじゃないか」
スパーホークは思わず笑い声を上げた。
「何かおかしいですか」クリクが冷たい声で尋ねる。
「いや、ちょっと思い出したことがあってな。それだけだ」
「どんなことを思い出したのか、あとで聞かせてもらいましょう。突っ立ってないで、タレンといっしょに石を運んでください」
ドアがはめ込まれている戸口はかなりの厚さがあった。もともと城の一部として、堅固な造りになっているのだ。最初の壁はドアのすぐ外に築かれた。伯爵の妹が中でわめき立て、ドアに体当たりしている。次に二枚めの壁が、最初の壁のすぐ外に築かれた。スパーホークが屋敷に戻ってセフレーニアを呼びに行ったのは、午前もなかばを過ぎたころだった。
「けっこう」セフレーニアはそう言って、騎士といっしょに中庭に出てきた。雨はもう上がって、晴れ間が見えはじめていた。スパーホークにはそれが吉兆に思えた。セフレーニアの先に立って、塔を半周している外階段の下までやってくる。
「ご苦労さまでした、みなさん」セフレーニアは全員に声をかけた。壁は最後の仕上げを施されているところだった。「では下りてきてください。最後にもう一つすることがあります」
全員が下りてくるのと入れ違いに、小柄なスティリクム人の教母は階段を上がっていった。壁の前で呪文を唱える。呪文が解き放たれると、築かれたばかりの壁が一瞬輝いたように見えた。輝きはすぐに薄れ、セフレーニアが下りてきた。
「いいでしょう。では階段を壊してください」
「何をしたんです」カルテンが興味津々といった様子で尋ねる。
セフレーニアは微笑んだ。
「あなたがたのした仕事は、思っている以上にいい出来になっています。あの壁はもう絶対に破れません。あの吟遊詩人やほかの召使たちが年老いて白髪になるまでハンマーを振るいつづけても、傷一つつけられないでしょう」
クリクは階段を上り、壁を調べて下に声をかけた。
「漆喰がすっかり乾いてます。普通なら何日もかかるのに」
セフレーニアは塔の基部のドアを指差した。
「そちらをふさぎ終わったら知らせてください。どうも外はじめじめしていて、冷えますね。暖かい室内に戻ります」
伯爵は妹を幽閉しなければならないことに自分で思っていた以上の悲しみを覚えたらしく、セフレーニアといっしょに屋敷の中に戻った。クリクは残りの者たちを指揮して作業に当たった。
壁でふさがれた上の戸口に通じる階段を壊して、さらに下の戸口をふさぐと、時刻はもう夕暮れに近かった。セフレーニアが出てきて同じ呪文をかけ、また屋敷の中に戻った。
スパーホークたちは調理場に集まった。調理場は塔に隣接する位置にあった。
クリクは塔の内部の階段に通じる小さなドアを検分した。
「どうだ」スパーホークが尋ねる。
「急《せ》かさないでください」
「もう時間が遅いんだぞ」
「あなたが代わりにやりますか」
スパーホークは口を閉じ、何も言わずに見守ることにした。タレンが外に滑り出る。退屈してしまったようだ。クリクは仕事に熱中するたちで、スパーホークもときにそうなることがあった。
クリクはオキュダにいくつか質問をしてから、漆喰だらけになった仲間たちを見まわした。
「新しい仕事を覚えてもらわなくちゃなりません。今度は大工仕事です。あのドアを使って、食器棚を作ってもらいます。蝶番《ちょうつがい》はそのまま残して、見えない場所に掛け金をつけます。そうすれば誰もドアだとは思わないでしょう」小首をかしげて、上から響いてくるくぐもった叫び声に耳を傾ける。「詰め物がいりそうですね。ドアの裏に打ちつけて、音が洩《も》れないようにしましょう」
「それはいい」オキュダが賛成した。「ほかに召使がいない以上、かなりの時間をここで過ごさなければなりませんから。あの叫び声を聞かされつづけたのではたまりません」
「それだけが理由じゃないんだが、まあそういうこともあるかな。それではみなさん、仕事にかかってください」クリクはにこやかな口調になった。「役に立つ人間に鍛えてあげますよ」
完成した食器棚はなかなかの出来栄えだった。クリクはそれを黒っぽく塗装して、一歩後退すると批評するように眺め、オキュダに指示を与えた。
「塗料が乾いたら、何回かワックスをかけておいてくれ。使いこんだ感じを出したほうがいいな。いくつか傷をつけて、隅には埃《ほこり》を吹きつけておくといいだろう。あとは食器を並べておけば、誰だって一世紀以上も前からここにあったと思うに違いない」
「何とも役に立つ男じゃないか、スパーホーク」アラスがいった。「売る気はないか」
「あいつの女房に殺されるよ。そもそもエレニアでは、人間の売り買いはしないんだ」
「ここはエレニアじゃない」
「そろそろ伯爵の部屋に戻らないか」
「まだですよ、みなさん」クリクの声が響いた。「最後に床の木屑《きくず》を掃除して、道具を片付けてください」
スパーホークはため息をついて、箒《ほうき》を探しにいった。
調理場の掃除を終えた一同は自分の身体から漆喰と木屑を洗い落とし、短衣《チュニック》とズボンに着替えると、丸天井の大きな部屋に集まった。そこでは伯爵とセフレーニアが熱心に話しこみ、少し離れてタレンとフルートが腰をおろしていた。少年は少女にチェッカーを教えているようだった。
「だいぶすっきりしましたね」セフレーニアが称讃するように言った。「中庭にいたときは、本当に汚れ放題でしたから」
「煉瓦や石を積む仕事をすれば、どうしたって泥だらけになりますよ」クリクは肩をすくめた。
「豆ができちまった」カルテンが掌を見てこぼす。
「カルテンは騎士になって以来はじめてまっとうな仕事をしたんです」クリクが伯爵に言った。「少し修業すればそれなりの大工にはなれそうです。ほかのみなさんは、残念ながら道のりは遠そうですね」
「調理場のドアはどうやって隠したのかね」伯爵が尋ねた。
「食器棚を作りつけました。あとはオキュダが古く見えるように少し手を入れて、食器を並べておくだけです。裏に詰め物をしておきましたから、妹御の叫び声もほとんど聞こえません」
「まだわめきつづけているのか」伯爵は嘆息した。
「歳とともに静かになるとは思えません」とセフレーニア。「死ぬまで叫びつづけるのではないでしょうか。声がやんだとき、すべてが終わったと知れるでしょう」
「オキュダが食事の用意をしてくれています」スパーホークが伯爵に言った。「まだしばらくかかるでしょうから、今のうちに伯爵がお書きになった年代記を見せていただけないでしょうか」
「それはいい考えだ、サー・スパーホーク」伯爵は椅子から立ち上がった。「失礼してよろしいかな、マダム」
「もちろんです」
「よろしければごいっしょに?」
セフレーニアは笑った。「ご遠慮しておきましょう。図書館では何のお役にも立てませんから」
「小さき母上は字が読めないのですよ」スパーホークが説明する。「何か信仰と関係があるらしいのですが」
「違います。関係があるのは言語です。エレネ語で考える癖をつけたくないのです。スティリクム語ですばやく考えたりしゃべったりする必要があるとき、邪魔になるといけませんからね」
「ベヴィエ、アラス、きみたちもいっしょに来ないか。探している伝承を特定するのに、きみたち二人の知識は役に立つはずだ」
三人の騎士は伯爵のあとから階段を上り、部屋をあとにした。埃っぽい通廊を歩いて西の翼棟まで行くと、伯爵はドアを開いて騎士たちを暗い部屋に招き入れた。しばらく大きな机の上をかき回して蝋燭《ろうそく》を探し出し、通廊に戻って松明《たいまつ》から火を移す。
さほど大きくない部屋の中は本で埋まっていた。本は床から天井まである書棚にぎっしりと詰めこまれ、あるいは四隅に積み上げられている。
「伯爵は読書家でいらっしゃる」ベヴィエが言った。
「学者とはそういうものだよ、サー・ベヴィエ。このあたりの土地は痩《や》せていて、木は育つものの、農業にはあまり向いていない。木を育てるというのは、文明的な人間にとってはあまり刺激的な仕事ではないのだ」伯爵は嬉しそうに部屋の中を見まわした。「本はわたしの友だちだ。これからは前にも増して、本と付き合う時間が増えることになりそうだ。この館を捨てることはできない。ここに残って、妹を守ってやらなくてはならんからな」
「狂ってしまった人間は、あまり長生きしないものだ」アラスが言った。「自分が傷つくことにさえ無頓着になってしまう。わたしの従姉は冬に正気を失って、次の春までももたなかった」
「愛する者の死を望むようになろうとは、痛恨の極みだ。だが、神よ救いたまえ、わたしはまさにそんな気持ちだ」伯爵は机の上に積み上げた、一フィートほどの厚さの綴じていない紙束に手を置いた。「わたしのライフワークだ」腰をおろし、「仕事にかかろう。何を探しているのだね」
「サレシアのサラク王の墓を」アラスが答えた。「ラモーカンドの戦場までたどり着いていないので、ペロシアかデイラで小競合《こぜりあ》いに巻きこまれたのではないかと思う。船が難破したのでない限り」
スパーホークは船が難破した可能性をまったく考えていなかった。ベーリオンがサレシア海峡かペロス海の底に沈んでいるのではないかと思うと、ぞっとするような不安を覚えた。
「それは少し細かすぎるな。王の目的地は湖のどちら側の岸だったのかな。この年代記は地域別にまとめてあるのだ」
「可能性が高いのは東岸でしょう」ベヴィエが答えた。「サレシア軍がゼモック軍を迎え撃ったのが東岸でしたから」
「どこに船が着いたのかわかるような手がかりはあるかね」
「これまでに聞いた限りでは、何も」とアラス。「いくつか航路を考えてはみたが、百リーグ単位でずれていると思う。大陸北岸のどこかの港に入ったのかもしれないが、かならずしもそうするとは限らない。サレシア人を海賊扱いする地域もあるので、サラク王は時間のかかる訊問を嫌って、どこか人のいない海岸に乗りつけたかもしれない」
「そうなるとまた少し難しくなる」ガセック伯爵が言った。「上陸した場所がわかれば、どの地域を通ったかも見当がつくのだが。サレシアにはその王の特徴を伝える話でも残ってはいないかな」
「大したことはわからない。ただ、身長七フィートの大男だったとか」
「少しは役に立ちそうだな。平民はその王の名前など知らなかったろうが、それだけの大男なら目についたはずだ」伯爵は文書をめくりはじめた。「デイラの北岸に着いたということは考えられるかな」
「考えられないことじゃないが、可能性は低いだろう。当時デイラとサレシアは、ちょっとした緊張関係にあった。サラクは捕虜にされかねないような場所は避けたと思う」
「ではアパリアの港のあたりから始めてみよう。ランデラ湖東岸に至る最短の道が、この南を通っている」伯爵は紙を繰りはじめたが、やがて額に皺《しわ》を寄せた。「ここにはそれらしい記述はなさそうだ。王の軍勢はどのくらいの規模だったのかね」
「あまり大きなものじゃない。サラク王はわずかな手勢だけを率いて、急いでエムサットを出発してる」
「アパリアで採集した話は、みんなサレシアの大軍のことばかりだ。たぶんあなたの推測が正しいのだろう、サー・アラス。サラク王はどこか人のいない海岸に上陸して、アパリアを避けて通ったのだ。ナデラの港のあたりを調べてから、海岸沿いの漁村で聞いた話を見てみよう」伯爵は地図を広げ、文書の束のなかばあたりを開いて記述を追っていった。「これかもしれない」声に学者らしい熱がこもってくる。「ナデラの近くで農民から聞いた話だ。侵攻が始まって間もないころ、一隻の船が夜中に街の沖合いを通り過ぎ、何リーグか川をさかのぼって着岸したそうだ。少人数の戦士が下り立って、中の一人はほかの者たちよりも頭一つ大きかった。サラクの王冠には何か特徴がなかったかね」
「大きな青い宝石がついていたはずだ」アラスが真剣な顔になる。
「それだな」伯爵の嬉しそうな声がした。「その宝石のことが話に残っている。拳ほどの大きさがあったそうだ」
スパーホークはほっと安堵のため息をついた。「少なくとも難破はしなかったわけですね」
伯爵は糸を一本取って、それを地図の上に斜めに伸ばした。ペンをインクに浸し、いくつかメモを取る。
「さて、それでは――サラク王がナデラから戦場まで最短の道を行ったとすると、ここに書き出した地域を通ることになる。いずれもわたしが調査した土地だ。近づいてきたようですぞ、諸君。それでは王の足跡をたどってみよう」伯爵は次々とページを繰った。「ここには何もない」独り言のようにつぶやく。「だがこのあたりで戦闘はなかった」唇をすぼめ、さらに読みつづける。「これだ!」伯爵の顔に輝くような勝利の笑みが浮かんだ。「一団のサレシア人が、ヴェンネ湖の北二十リーグにある村を通過している。指揮するのは王冠をかぶった巨漢だったとある。だいぶ絞れてきた」
スパーホークは自分が息を詰めていたことに気がついた。これまでの人生で数多くの使命や探求をこなしてきたスパーホークだったが、紙の上で王の足跡を追うこの作業には、今までにない奇妙な興奮を覚えた。学者が学問に一生を捧げて満足する気持ちというのが、少しだけわかったような気がした。
「あったぞ、これだ! 見つけたぞ!」伯爵の昂《たか》ぶった声が上がった。
「どこです」スパーホークが身を乗り出して尋ねる。
「その部分を読んであげよう。もちろんわかっているだろうが、これは実際に聞いた話を普通の言葉に直したものだ」そう言って苦笑し、「農民や農奴の言葉は実に彩《いろど》り豊かだが、学問的な作業にはあまり似つかわしくないのでな」伯爵はそのページに目を凝《こ》らした。「そうそう、思い出した。この男は農奴で、主人から話をするのが好きなやつだと推薦されたのだった。ヴェンネ湖の東にある畑で、鍬《くわ》を振るっていたのだよ。聞かせてくれた話はこういうものだ。侵攻が始まって間もないころのこと、ゼモック国のオサの軍勢がラモーカンド国の東の国境を越えて、田園地帯を荒らしながら進軍してきた。エレニア西方の国王たちは全力を上げてこれを迎え撃つべく、ラモーカンド領内を西から東へ、怒濤のように進んでいた。ただ、その目的地はヴェンネ湖よりもずっと南のほうだった。北からやってきた軍勢は大半がサレシア人だったが、サレシアの軍勢が上陸してくる前に、先遣隊がヴェンネ湖のそばを通って南へ向かっていった。
誰もが知っているように、オサは偵察隊や警邏《けいら》隊を本隊のかなり先まで派遣していた。先に述べたサレシアの先遣隊と衝突したのも、そんな警邏隊の一つだった。そして〈巨人の塚〉と呼ばれている場所で戦いになった=v
「その場所は戦闘の前からそう呼ばれていたんだろうか」とアラス。
「たぶんあとからついた名前だと思って間違いないと思う」伯爵が答える。「ペロシア国には死者のために塚を築く習慣はない。あれはサレシアの習慣だろう」
「そのとおり。それに巨人≠ニいうのは、サラク王のことを指しているのでは?」
「わたしもそう思う。ところで、まだ続きがある」伯爵は先を続けた。「サレシア軍とゼモック軍の交戦は、短いが激烈を極めた。ゼモック軍は北方の戦士を数で圧倒しており、間もなくサレシア軍は全滅した。最後に残った者の中に、指揮官らしい巨漢の姿があった。その巨漢が倒れると、みずからも深手を負った家臣の一人が遺体から何かを取り、それを持って西方の湖のほうに逃れた。持っていったものが何だったのか、それをどうしたのか、はっきりしたことはわからない。ゼモック兵はその男を追いかけ、男は傷のために湖畔でこときれた。と、そこへアルシオン騎士団の一隊が通りかかった。レンドー国での任務で受けた傷を癒すべくデイラの騎士本館に戻っていた部隊が、ランデラ湖へと向かう途中で通りかかったのだった。騎士たちはゼモック兵を一人残らず討ち果たし、忠臣の遺体を埋めると、サレシア国の先遣隊が全滅させられたことには気づかないまま行ってしまった。
そのころかなりの数のサレシアの軍団が、ほんの一日遅れで先遣隊を追いかけていた。農民から何が起きたかを聞くと、サレシア兵たちは仲間を埋葬し、その墓の上に大きな塚を築いた。この第二波のサレシア軍も、やはりランデラ湖畔に行き着くことはできなかった。二日後に待ち伏せに遭《あ》って全滅してしまったためである=v
「サラク王がどうなったのか、誰も知らなかった理由がわかったな」アラスが言った。「事情を知っている者が一人も生き残っていなかったんだ」
「その家臣が持って逃げたというのが、サレシア国の王冠だったのでしょうか」とベヴィエ。
「可能性はある」アラスはうなずいた。「だが、王の剣だったかもしれない。サレシアでは王家の剣をとても重視するから」
「それはすぐにわかることだ」スパーホークが言った。「〈巨人の塚〉に行って、ティニアンが王の亡霊を呼び出せばな。剣がどうなったのか、あるいは王冠がどうなったのか、教えてくれるだろう」
と、ガセック伯爵が口を開いた。
「一つ妙なことがある。これは戦闘が終わったあとのことなので書いてはおかなかったのだが、農奴たちの話によると、ヴェンネ湖のそばの湿地に、もう何世紀も前から、ひどくねじくれた姿の怪物が出没するのだそうだ」
「湿原にいる動物ではないのですか。あるいは熊とか」とベヴィエ。
「熊なら農奴にもわかるだろう」
「大鹿ではないかな」アラスが言った。「はじめて大鹿を見たときは、あんなに大きくなる生き物がいるとは信じられなかった。それにあの顔はなかなか印象的だ」
「農奴たちによると、その怪物は後足で立って歩いていたそうだ」
「トロールということはありませんか」スパーホークが尋ねた。「湖のそばで野営したとき、わめき散らしているのを聞いたのですが」
「毛深くて、おそろしく背が高いと言っていましたか」とアラス。
「毛深いとは言っていたが、ずんぐりしていて、手足はどれもねじれているそうだ」
アラスは眉根を寄せた。
「そんなトロールの話は聞いたことがない。ただ、もしかして――」その目がかっと見開かれた。「グエリグだ!」アラスは指を鳴らした。「グエリグに違いない。これで間違いなしだ、スパーホーク。グエリグはベーリオンを見張っている。どこを見張ればいいか知っているはずだからな」
「ヴェンネ湖に戻ろう」スパーホークが言った。「できるだけ急いでだ。グエリグに先を越されたくない。ベーリオンを争ってグエリグと取っ組み合うのはごめんだからな」
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17[#「17」は縦中横]
「みなさんには感謝の言葉もない」翌朝、城の中庭で、出発しようとする騎士たちに向かってガセック伯爵が言った。
「それはわたしたちも同様です」スパーホークが答えた。「伯爵のご助力がなければ、求めるものを探し出すことはとてもできなかったでしょう」
「道中の安全を祈る、サー・スパーホーク」ガセック伯爵はそう言って、大柄なパンディオン騎士と温かい握手をかわした。
スパーホークは城の中庭を出て、岩山の麓《ふもと》に向かう細道を先に立って下っていった。
「あの人、どうなっちゃうのかな」タレンがしんみりした調子で尋ねた。
「どうしようもない。妹が死ぬまであそこにいるしかないだろう。もう危険はなくなったが、それでも伯爵は妹を守り、世話していかなくてはならない」
「孤独な人生を送ることになるんだな」カルテンが嘆息する。
「本と年代記があるんだ。学者にとってはそれだけでじゅうぶんさ」
アラスが小さな声で何かつぶやいた。
「どうかしたのか」ティニアンが尋ねる。
「ヴェンネ湖にトロールがいるには、それなりの理由があると気がつくべきだった。おれがしっかりしてれば時間を節約できたんだ」
「グエリグを見ればわかったと思うのか」
アラスはうなずいた。
「グエリグは矮躯《わいく》だ。矮躯のトロールはめったにいない。五体不満足の子が生まれると、母親がすぐに食ってしまうからな」
「そいつは残酷な話だ」
「トロールは心優しい種族ってわけじゃない。仲間同士でもしじゅういがみ合ってる」
その朝はよく晴れ上がり、ガセック伯爵の城から下ってきたところにある人の気配のない村のそばの畑では、小鳥のさえずりも聞こえた。タレンが馬の向きを変えて村のほうに向かった。
「盗むものなんかなさそうだぞ」クリクが背後から声をかける。
「ちょっとした好奇心さ。すぐに追いつくよ」
「連れ戻しましょうか」ベリットが尋ねる。
「まあ好きにさせてやれ。さもないと一日じゅう文句を言いつづけそうだ」スパーホークが答えた。
タレンは村から疾駆《ギャロップ》で戻ってきた。顔色がまっ青で、尋常ではない目つきをしている。一行に追いつくと転げ落ちるように馬を下り、ものも言えずに地面に横たわった。
「見てきたほうがよさそうだな」スパーホークはカルテンに声をかけた。「ほかの者はここで待っててくれ」
二人の騎士は槍を構えて、用心深く村に乗りこんだ。
「こっちへ行ったらしい」カルテンが泥道に残ったタレンの馬の足跡を槍先で示した。
スパーホークはうなずき、二人は蹄のあとを追って、ほかよりもやや大きめの家に近づいていった。馬を下り、剣を抜いて中に入る。
部屋はどれも埃《ほこり》が積もっていて、家具は何も残っていなかった。
「別に何もないみたいだな。あいつ、何をあんなに怯《おび》えてたんだ」とカルテン。
スパーホークは家の裏手の部屋に通じるドアを開け、中を覗いた。
「セフレーニアを呼んできてくれ」
「どうかしたのか」
「子供だ。生きてはいない。死んでからだいぶ経つな」
「確かか」
「自分で見たらどうだ」
カルテンは部屋を覗き、うっと声を上げた。
「本気でセフレーニアにこれを見せるつもりか」
「何があったのか知る必要がある」
「じゃあ連れてこよう」
二人で家の外に出ると、カルテンは馬にまたがって仲間のもとに向かい、スパーホークはドアのそばで見張りに立った。しばらくすると金髪の騎士がセフレーニアを連れて戻ってきた。
「フルートはクリクに預けてきた。子供に見せるようなものじゃないからな」
「ああ」スパーホークは言葉少なにうなずいた。「小さき母上、申し訳ないんですが、あまり気持ちのいいものではありません」
「たいていのものがそうですよ」セフレーニアは毅然とした口調で答えた。
二人は教母を連れて家の中に戻り、裏手の部屋に向かった。
部屋の中を一目見て、セフレーニアは横を向いた。
「カルテン、墓を掘ってください」
「シャベルがありませんよ」
「それなら手で掘りなさい!」残酷とも言えるほど強い口調だ。
「わかりました」いつにない教母の激しさに気圧《けお》されて、カルテンは急いで外に出ていった。
「かわいそうに」セフレーニアは小さな遺体のそばで哀悼の声を上げた。
遺体はからからに干からびていた。肌は灰色になり、落ち窪《くぼ》んだ目は見開かれたままだ。
「ベリナの仕業ですか」スパーホークの声も、いつになく大きくなっていた。
「いいえ、シーカーです。あれはこうやって人を餌食にするのです。ここに」と子供の身体に残る小さな穴を指差し、「そしてここと、ここと、ここにも。これはシーカーが体液を吸った跡です。干からびた死体だけを残していくのです」
「二度とさせない」スパーホークはアルドレアスの槍を握りしめた。「今度会うときが、やつの死ぬときだ」
「あなたにできますか、ディア」
「やらずにはいられませんよ。この子の仇を討ちます――相手がシーカーだろうと、アザシュだろうと、地獄の門そのものであろうと」
「怒っているのですね」
「ええ、そのとおりです」愚かで無意味なことだとわかっていたが、スパーホークは剣を引き抜き、罪もない壁に斬りつけた。それで何が解決するわけではないが、少しは気分がよくなった。
残りの者たちが静かに村へやってきて、カルテンが素手で掘った墓穴の前に集まった。セフレーニアが家の中から、干からびた子供の死体を抱いて現われた。フルートが薄い布を手に進み出て、二人はゆっくりと遺体を布に包んだ。遺体は粗末な墓の中に納められた。
「ベヴィエ、お願いできますか」セフレーニアが声をかけた。「この子はエレネ人です。ここにいる騎士の中では、あなたがいちばん信心深いでしょうから」
「わたしにはできません」ベヴィエはぼろぼろと涙をこぼしていた。
「ほかの誰にできるというのです。この子を無明の闇の中に、独りで放り出すのですか」
ベヴィエはじっと教母の顔を見つめていたが、やがて墓の前にひざまずき、エレネ教会に古くから伝わる死者のための祈りを唱えはじめた。
意外なことにフルートが、ひざまずいているアーシウム人の騎士に近づいた。その指が黒い巻き毛を、慰めるようにそっと撫でる。なぜかスパーホークは、この奇妙な少女がここにいる誰よりもずっと歳をとっているような感じを受けた。と、フルートが笛を取り上げた。流れてきた古い旋律はエレネ人のあいだに昔から知られているものだったが、それでいてどことなくスティリクム的なものを感じさせた、少女の吹く笛の音に、一瞬スパーホークは信じられないような可能性を考えた。
葬儀が終わると一行は馬に乗り、進みつづけた。その日はみんな口数が少なかった。夜になると小さな湖のそばの、吟遊詩人と出会った場所に野営した。男はいなくなっていた。
「これを恐れていたんだ。まだここにいると思ったのが甘かった」スパーホークが言った。
「このまま南へ進めば追いつけるだろう」とカルテン。「あの男の馬は疲れきってたからな」
「追いついてどうするんだ。まさか殺すつもりじゃあるまいな」ティニアンが疑念を口にする。
「それは最後の手段だ」カルテンが答えた。「ベリナがどうやって感染させたのかわかったんだから、セフレーニアが治してやれるんじゃないか」
「信頼していただくのは嬉しいのですが、それは見当違いのようですね」セフレーニアが口をはさんだ。
「ベリナがかけた呪文は、弱まったりはしないのですか」ベヴィエが尋ねる。
「徐々に弱まってはいくでしょう。時とともに、少しずつ熱情が冷めていくはずです。でも完全に消えることはありません。それで却《かえ》っていい詩が書けるかもしれませんね。重要なのは、感染力が落ちてくることです。この一週間くらいのあいだに大勢の人間を感染させない限り、吟遊詩人も召使たちも、伯爵にとって大きな脅威にはならないでしょう」
「多少は心が休まります」若いシリニック騎士はわずかに顔を曇らせた。「わたしはもう感染していたのに、夢魔《スクブス》はなぜあの晩、もう一度やってきたのでしょう。時間の無駄だったように思うのですが」ベヴィエはまだ子供の葬儀の心痛からすっかり立ち直ってはいないようだった。
「呪縛を強化しておきたかったのでしょう。感染はしていても、まだ仲間に襲いかかるほどではありませんでしたから。ベリナを塔から解放するためには手段を選ばないというところまで、しっかり虜《とりこ》にしておきたかったのだと思います」
野営の準備をしているとき、スパーホークはふと思いついて、お茶のカップを手に火のそばに座っているセフレーニアのところへ行った。
「セフレーニア、アザシュは何を考えているんでしょう。どうして急にやり方を変えて、エレネ人を狙いだしたんでしょうか。以前にはそんなことはしなかったと思うのですが」
「アルドレアス王の亡霊が、霊廟で言ったことを覚えていますか。ベーリオンが姿を顕《あら》わす時期が近づいていると」
「ええ」
「アザシュもそれを知っていて、切羽詰まってきているのです。思うに、ゼモック人が頼りにならないということに気がついたのではないでしょうか。命令には従順ですが、創意工夫がありませんからね。何世紀も戦場を掘り返しているのに、掘るのはいつも同じ場所です。ベーリオンの在処《ありか》については、わたしたちがこの数週間で調べ上げたことのほうが、ゼモック人が五百年かかって知ったことよりも多いくらいでしょう」
「われわれは運がよかった」
「それだけではありませんよ。エレネ人の論理というものをわたしはときどき揶揄《やゆ》しますが、その論理こそが、まさにわたしたちをベーリオンに近づけてくれたのです。ゼモック人は論理的ではありません。そこがアザシュの弱点なのです。ゼモック人はものを考えません。その必要がありませんからね。考えるのはすべてアザシュの役目です。だからアザシュは、どうしてもエレネ人の手下が必要だった。崇拝されたかったのではなく、エレネ人の精神が必要だったのです。アザシュはゼモック人を西の王国じゅうに放って、昔話を集めさせました。わたしたちが採ったのと同じ方法です。たぶんいずれ誰かが求める話に出くわすのを待って、その意味をエレネ人の手下に解き明かさせるつもりだったのでしょう」
「それはずいぶんと迂遠《うえん》な方法ですね」
「アザシュには時間があります。わたしたちのように追い立てられてはいないのですから」
その夜遅く、スパーホークは火から少し離れて歩哨に立ち、月明かりに輝く小さな湖を眺めていた。またしても狼の声が陰鬱な森の奥から聞こえてきたが、なぜか前ほど不気味には感じられなかった。森に取り憑《つ》いていた悪霊は永遠に封印され、狼も今では邪悪な凶兆などではなく、ただの狼に戻っていた。もちろんシーカーの存在はまったく別の話だ。今度出会ったらあの化け物の腹をアルドレアスの槍で貫いてやると、スパーホークは無言で誓った。
「スパーホーク、どこだい」タレンのささやき声がした。火のそばに立って、こっそり闇の中を見透かしている。
「こっちだ」
少年は足許に注意しながら、ゆっくりと騎士に近づいた。
「どうかしたのか」スパーホークが尋ねる。
「眠れないんだよ。話し相手はいらないかと思って」
「ありがたいな。独りで見張りに立つのは寂しいものだ」
「あの城を離れられて、ほっとしたよ。あんなに怖かったの、生まれてはじめてだ」
「わたしもいささかぞっとさせられた」
「ねえ、聞いてよ。ガセック伯爵の城にはすごくいい品物がいっぱいあったのに、盗もうなんて気はぜんぜん起きなかったんだ。おかしな話だろ」
「おまえも成長したってことだ」
「知り合いの泥棒の中にはすごい年寄りもいるよ」そう言ってから、タレンは深刻そうなため息をついた。
「何を落ちこんでいるんだ」
「誰にも言わないつもりだったんだけど、実は前ほど楽しくなくなってるんだ。誰からでも、どんなものでも盗めるってわかっちゃったからかな。もうスリルを感じないんだ」
「そろそろほかの仕事に目を向けるんだな」
「おいらに何ができると思う」
「考えてみて、思いついたら教えてやろう」
タレンは急に笑いだした。
「何がおかしいんだ」
「紹介状を書いてもらうのはちょっと難しそうだと思ってさ」なおも笑いながら、「おいらのお客は、おいらと取引してたことを知らないんだからね」
スパーホークも破顔した。「そいつは問題だ。何とかしないとな」
少年はまたため息をついた。
「もうすぐ終わるわけだよね。そうだろ、スパーホーク。王様がどこに埋められてるのかはわかった。あとは王冠を掘り出して、シミュラに戻るだけだ。あんたは王宮に行って、おいらは街頭に戻る」
「それはどうかな。たぶん街頭に代わるものを用意してやれると思うが」
「まあね。でも面倒くさくなったら、どうせおいらは逃げ出しちゃう。みんなと過ごしたことを懐かしく思い出すんだろうな。ちびっちゃうくらい怖い目にも遭《あ》ったけど、楽しいこともたくさんあったからね。一生忘れないよ」
「何かしらおまえに与えることはできたわけだ」スパーホークは少年の肩に手を置いた。「もう寝ろ、タレン。明日は早発《はやだ》ちだぞ」
「あんたがそう言うならね」
翌朝、一行は夜明けとともに出発し、馬が悪路に足を取られないよう注意しながら、樵《きこり》の村に立ち寄りもせずに進みつづけた。
「どのくらいかかると思う」昼ごろカルテンが尋ねた。
「あと三日か四日――最悪でも五日だな」スパーホークが答える。「この森さえ抜ければ道はよくなるから、もっと急げるはずだ」
「あとは〈巨人の塚〉を見つけるだけか」
「それはそう難しくないだろう。ガセック伯爵の話だと、地元の農民なら誰でも知ってるらしい。聞いてまわればわかるだろう」
「それから掘りはじめる」
「他人任せにはしたくないところだな」
「ラモーカンドのアルストロムの城でセフレーニアが言ったこと、覚えてるか」カルテンは真顔になった。「ベーリオンが現われれば、鐘を鳴らしたように世界じゅうに知れ渡るって話だ」
「何となく」
「だとしたら、掘り出した瞬間にアザシュにも知られてしまうわけだ。シミュラへの帰途は、道の両側にずらっとゼモック人が並んでることになるぜ。ひどく厄介な旅になる」
すぐうしろで馬を駆っていたアラスが反論した。
「そうでもないだろう。スパーホークは指輪を持ってる。トロールの言葉をいくつか教えてやろう。ベーリオンさえ手に入れば、できないことは何もない。ゼモック人の軍団をそっくり壊滅させることもできる」
「本当にそれほどの力があるのか」
「カルテン、おまえはわかってない。たとえ話半分としても、ベーリオンにはほとんどあらゆることができる。スパーホークがその気になれば、太陽を止めることだってできるだろう」
スパーホークは肩越しにアラスを振り返った。「ベーリオンを使うには、トロールの言葉が必要なのか」
「はっきりとは言えんが、ベーリオンにはトロールの神々の力が封じてあるという話だ。エレニア語やスティリクム語には反応しないだろう。今度トロールの神に語りかけることがあったら、そのとき訊《き》いておこう」
その夜も野営地は森の中だった。夕食を終えると、スパーホークは火のそばを離れて考えごとをしようとした。そこへベヴィエがそっと近づいてきた。
「ヴェンネには立ち寄ることになるのでしょうか」
「たぶんな。今日以上に距離が稼げるとは思えないから」
「よかった。教会を探さないと」
「ほう」
「邪悪なものに穢《けが》されましたからね。しばらく祈りを捧げないと」
「きみのせいではないさ。誰の身に起きても不思議はなかった」
「でも、わたしだった」ベヴィエはため息をついた。「たぶんあの魔女は、わたしなら与《くみ》しやすいと思ったのでしょう」
「ばかばかしい。きみほど信心深い人間は、ほかに見たことがないくらいなのに」
「いいえ」ベヴィエは悲しげにかぶりを振った。「自分の欠点はわかっています。女性に心を動かされやすいのです」
「若いうちはそうしたものだよ、わが友。歳とともに鎮まってくる――とわたしは聞いている」
「あなたもまだ感じることがあるのですか。あなたくらいの年齢になるころには、もうこうした悩みから解放されていたいものだと思っていたんですが」
「そういうものではないんだよ。わたしの知っていたある老人など、いくつになってもきれいな女性を見ると振り返っていた。人間はそのように造られているんだと思う。神がそのようにお造りになったのでなければ、そう感じることをお許しにはならないだろうからな。わたしが悩んでいたとき、ドルマント大司教がそう説明してくれたんだ。完全に信じたわけじゃないが、そう考えると多少は罪悪感が軽くなる」
ベヴィエは小さく笑った。
「あなたがですか、スパーホーク。そんな一面があるとは知りませんでした。すべてを義務に捧げている方だと思っていましたから」
「そうでもないさ。わたしだって、たまにはほかのことを考える。リリアスをきみに紹介できればよかったんだが」
「リリアス?」
「レンドー人の女性だ。追放されているあいだ、いっしょに暮らしていた」
「スパーホーク!」ベヴィエは息を呑んだ。
「正体を隠すのに必要なことだったんだ」
「でもまさかその女性と――」ベヴィエはそのあとを言えなかった。暗くてわからないが、きっとまっ赤になっていることだろう。
「もちろん、すべきことはしたよ。さもなければリリアスは出ていってしまったろう。とても貪欲な女性でね。正体を隠すためにはリリアスにいてもらわなくてはならなかったから、それなりに幸せでいてもらう必要があった」
「あなたには驚きました、スパーホーク。本当に驚きました」
「パンディオン騎士団は、シリニック騎士団よりも現実的なんだ。仕事を完遂するために、しなければならないことはする。心配はいらんよ、わが友。きみの魂は傷ついてはいない――少なくとも、あまりひどくは」
「それでもやはり、しばらく教会で過ごしたいと思います」
「なぜだね。神はあらゆる場所にいる。そうじゃないか」
「もちろんです」
「だったらここで話をすればいい」
「教会で話をするのとは、やはり違いますよ」
「まあ、いいと思うようにすることだ」
翌朝も一行は夜明けとともに出発した。道は下り坂になっていた。森に覆われた丘陵地帯が終わろうとしているのだ。ときおり、曲がり角や丘の上から、春の陽射しにきらめくヴェンネ湖の湖面が見えることもあった。午後のなかばごろになって、道が二股に分かれている場所までたどり着いた。本街道はガセックからの道に比べてずっと状態がよく、夕陽が西の空を茜色《あかねいろ》に染めるころには、一行はヴェンネの街の北門に到着していた。
薄暮の中、家々の迫《せ》り出した狭い街路をふたたび馬で走り抜け、スパーホークたちは前に泊まった宿を目指した。陽気な太ったペロシア人の亭主が一行を出迎え、客室のある二階に案内した。
「呪われた森の探索はいかがでした、みなさん」
「とてもうまくいったよ、ネイバー。ガセックの地を恐れる必要はもうないと、みんなに話してもらって構わない。問題の原因を探り出して、方をつけてきたから」
「聖騎士に神のお恵みのあらんことを! あんな噂のおかげで、ヴェンネの商売はひどいことになってたんです。みんなあの森を避けて、ほかの街道を通るようになってたもんですから」
「もうすっかり片付いたよ」
「やっぱり何かの怪物だったんで?」
「ある意味ではそうだな」とカルテン。
「殺したんですか」
「封印してきた」カルテンは肩をすくめ、甲冑を脱ぎはじめた。
「ありがとうございました、みなさん」
「ああ、ところで〈巨人の塚〉と呼ばれている場所を探しているんだが、どのあたりで聞けばいいか知らないか」スパーホークが尋ねた。
「それなら湖の東側でしょう。いくつか村がありますよ。岸辺が泥炭の湿地になってるんで、村は湖から少し離れてますがね」主人は笑い声を上げた。「村人は簡単に見つかりますよ。あっちの連中は竈《かまど》で泥炭を燃やすんですが、これがすごい煙を出すんです。それを目印にすれば、すぐにわかりますよ」
「今夜の食事は何だい」カルテンが熱心に尋ねた。
「ほかに考えることはないのか」とスパーホーク。
「長い旅をしてきたんだ、本物の食事にありつきたいじゃないか。みんな仲間としてはいい連中だけど、料理の腕はもう一つだからな」
「朝から牛肉の塊を焙《あぶ》ってたんですよ。そろそろいい具合に焼き上がってるころです」
カルテンの顔にいかにも嬉しそうな笑みが浮かんだ。
ベヴィエは言葉どおり近くの教会で一夜を過ごし、翌朝になってふたたび合流した。魂の状態がどうなったのか、スパーホークはあえて尋ねないことにした。
一行はヴェンネの街を出て、湖の岸沿いに南へ向かった。前に街へやってきたときに比べると、足取りはいかにも軽快だった。あのときはランデラ湖の北端で埋葬塚から現われた怪物にやられて、カルテンとベヴィエとティニアンが怪我をしていた。しかし今はその傷もすっかり癒え、疾駆《ギャロップ》で馬を進めることができる。
午後遅くになって、クリクがスパーホークのそばに馬を寄せた。
「泥炭の煙がかすかに感じられます。このあたりに村か何かありそうですよ」
「カルテン」スパーホークは僚友に呼びかけた。
「何だ」
「近くに村がある。クリクとおれで見てくるから、野営の用意をして、盛大に火を熾《おこ》しておいてくれ。戻るのは夜になると思う。目印が必要だ」
「任せとけ」
「頼んだぞ」スパーホークと従士は街道をはずれ、広野を突っ切って、一マイルほど先に見える低い木立を目指した。
泥炭の燃えるにおいが強くなってきた――妙に家庭的なにおいで、スパーホークは不思議にほっとするものを感じた。
「気を許しちゃだめですよ」クリクが注意する。「あの煙は人の頭に妙な作用をするんです。泥炭を燃やす連中は、あんまり信頼できません。ラモーク人より悪いくらいです」
「そういう情報はどこで仕入れてくるんだ」
「方法があるんですよ。教会や貴族がたは急ぎの報告書を送らせ情報を仕入れますが、平民はものごとの核心をつかむんです」
「覚えておこう。村があるぞ」
「話すのはわたしが引き受けます。どう頑張っても、あなたには平民らしい話し方はできないでしょう」
村は全体にずんぐりした感じだった。灰色の自然石を積み上げた、軒の低い幅の広い家が並んでいる。屋根は草葺《くさぶ》きで、それが一本きりの狭い通りの左右に迫っている。がっしりした体格の農民が牛小屋の中で椅子に腰をおろし、褐色の雌牛の乳を搾《しぼ》っていた。
「ちょっと訊《き》きたいことがあるんだが」馬を下りながらクリクが声をかける。
農民は振り返って、口をぽかんと開けたままクリクを見つめた。
「このあたりに〈巨人の塚〉って呼ばれてる場所はないかね」
男は何も答えず、ただ見つめつづけている。
と、近くの家から痩《や》せた斜視《やぶにらみ》の男が出てきた。
「そいつに話しかけても無駄だよ。若いころ馬に頭を蹴られて、それ以来ちょっとおかしいんだ」
「それはどうも、とんだことで」クリクが答える。「実は訊きたいことがあるんだよ。〈巨人の塚〉って場所を探してるんだがね」
「まさか夜中に行ってみようなんて思っちゃいないだろうね」
「ああ、明るくなるまで待つつもりだけど」
「そのほうがましだが、あんまり勧められないな。知ってるだろ、あそこは呪われた場所なんだ」
「そいつは知らなかった。どのあたりだい」
「あっちに細い道が見えるだろ」痩せた男は南東のほうを指差した。
クリクがうなずく。
「日が昇ったらあの道を行ってみな。塚のすぐ横を通ってる――四マイルか、たぶん五マイルくらいだ」
「この付近をつつき回してる者はいないかな。あるいは地面を掘り返してるとか」
「そういう話は聞いたことがないね。まともなやつなら、呪われた場所をつつき回したりはしないもんだ」
「このあたりにトロールがいるそうだが」
「トロールって何だね」
「全身が毛むくじゃらの醜い化け物で、こいつは手足がひどくねじくれてる」
「ああ、あれか。泥地のあたりに巣があるらしいな。夜だけ姿を見せて、湖のそばをうろついてるよ。ものすごい声を上げてたかと思うと、狂ったみたいに前足で地面を叩くんだ。泥炭を切りにいったとき、二、三度見かけたことがある。おれならまあ、近づこうとは思わんね。ひどい癇癪《かんしゃく》を起こしてるようだから」
「そいつはいい忠告だ。近くにスティリクム人はいるかね」
「いいや、この辺には近づかないよ。異教徒には風当たりの強い土地柄だからな。あんた、やたらと質問が多いな」
クリクは肩をすくめた。「知りたいことがあったら、人に訊くのがいちばんさ」
「じゃあ、誰かほかのやつに訊いてくれ。おれは仕事があるんだ」男の表情が刺々《とげとげ》しくなった。牛小屋の中の男を叱《しか》りつける。「まだ終わらないのか」
口を半開きにした男がかぶりを振る。
「さっさとやれ。終わるまで夕食はお預けだ」
「時間を取らせて悪かったな」クリクが馬にまたがりながら礼を言った。
痩せた男はうなり声で答え、家の中に戻っていった。
夕焼けに染まった村の外に出ると、スパーホークが従士に話しかけた。
「役に立つ情報だ。少なくともこのあたりにゼモック人はいない」
「そこまで当てにできますかね」クリクは懐疑的だった。「あの男、あまりいい情報源だとは思えませんよ。周囲で何が起きてるか、気にするタイプじゃなさそうです。それに気をつけなくちゃいけない相手はゼモック人だけじゃない。シーカーが何を仕掛けてくるか知れたものじゃないし、例のトロールにも気を配らなくちゃならないんです。宝石が姿を現わせば世界じゅうに知れわたるってセフレーニアの話が本当なら、あのトロールこそがまっ先に気がつくはずだと思いませんか」
「どうかな。セフレーニアに訊いてみないと」
「そう思って行動したほうがいいですよ。王冠を掘り出したら、たぶんあいつと対決することになります」
「なかなか楽しい考えだな。とにかく塚の場所はわかったんだ。暗くなる前に、カルテンがどこに野営することにしたのか見てみようじゃないか」
カルテンは湖畔から一マイルばかり離れた場所で、低木の茂みの中に野営地を設営していた。茂みのはずれでは盛大に焚《た》き火が燃えている。火のそばに立つカルテンのところに、スパーホークとクリクが戻ってきた。
「どうだった」
「塚の方角はわかった」スパーホークが馬を下りながら答えた。「そう遠くじゃない。ティニアンに相談しよう」
重装甲のアルシオン騎士は、野営地の焚き火のそばでアラスと話をしていた。
スパーホークはクリクが村人から聞き出した情報を話し、ティニアンのほうを向いた。「調子はどうだ」
「元気だよ。どうしてだ。具合が悪そうに見えるか」
「そうじゃないが、もう一度死霊魔術を使う気があるかと思ってね。前回はひどい目に遭《あ》ったわけだから」
「大丈夫だよ。一連隊をそっくり起こしてくれとでも言うなら別だけど」
「一人だけでいい。掘り出す前にサラク王と話をしておきたい。王冠がどうなったのか知っているだろうし、サレシアへ連れ帰るのに異議がないかどうかも確かめておきたいからな。怒った亡霊を連れて歩きたくはない」
「まったくだ」ティニアンは大きくうなずいた。
翌日は夜明け前から起きだして、地平線に最初の曙光が兆すのをじりじりしながら待ち受けた。空が白みはじめると、一行はまだ暗い野原を横切って駆け出した。
「もう少し明るくなるまで待ったほうがよかったんじゃないか」カルテンが不平を洩《も》らした。「同じところをぐるぐる回るようなことになるぜ」
「東へ向かうんだから、日の出の方角へ進めばいいだけだ。明るいほうへ向かっていけばそれでいい」
カルテンはさらに何かつぶやいた。
「聞こえなかったぞ」とスパーホーク。
「おまえに言ったんじゃない」
「これは失礼」
夜明けの薄明が徐々に明るさを増し、スパーホークは位置を確かめようとあたりを見まわした。
「あそこに見えるのが昨日の村だ。道はあの村の向こう側になる」
「あまり急がないほうがいいでしょう」セフレーニアが白いローブをフルートの身体に巻きつけながら忠告した。「塚に着いたときには、じゅうぶんに明るくなっているようにしないと。呪いがどうこうというのはただの迷信かもしれませんが、いちおう考えておくべきです」
スパーホークははやる気持ちを懸命に抑えた。
一行は静まり返った村の中を並足で抜け、不愛想な村人が教えてくれた道に乗り入れた。スパーホークはファランを速足《トロット》で走らせ、不満そうなセフレーニアの顔を見て、弁解するように言った。
「そんなに急いでるわけじゃありませんよ。塚に着くころにはもうすっかり日が昇ってるはずです」
道は両側に自然石を積み上げた壁があり、田舎道はどこでもそうだが、うねうねと曲がりくねっていた。農夫はまっすぐな道を作ることにさほど関心がなく、いちばん歩きやすいところに道をつけるからだ。スパーホークはいよいよ苛立ちを募らせた。
「あそこだ」やがてアラスが前方を指差した。「サレシアにはああいうのが何百とある」
「もう少し日が高くなるのを待とう」ティニアンが太陽を見上げて言った。「まわりに影がないほうがいい。王はどの辺に埋められてるのかな」
「中央だ。足を西に向けて、両側に家臣が身分の高い順に並んでいる」
「それならわかりやすそうだ」
「少しあたりを見ておこう」スパーホークが提案した。「誰かが掘り返していないか、周囲に誰もいないか、確かめておきたい。ことはできるだけ内密に進めたいからな」騎士たちは普通駆足《キャンター》で塚の周囲をめぐった。塚はかなりの高さがあり、長さは百フィート、幅は二十フィートほどだった。まわりには草が生い茂り、左右対称の形をしている。掘り返された形跡はなかった。
「上に登って見てきます」戻ってくるとクリクが言った。「このあたりではいちばん高い場所らしいですから、あたりの様子もよくわかるでしょう」
「墓の上に登るつもりですか」ベヴィエが驚いたように尋ねる。
「いずれにしたって登らなくちゃならんよ、ベヴィエ」ティニアンが言った。「サラク王の亡霊に出てきてもらうには、埋められてる場所のすぐ近くまで行かないとな」
クリクは塚の斜面を登ってあたりを見まわし、下に向かって叫んだ。
「誰もいないようです。ただ、南のほうに木立がありますね。始める前に見てきたほうがいいんじゃないでしょうか」
スパーホークは歯噛《はが》みしたが、従士の言うとおりだということは認めるしかなかった。
クリクは草の斜面を滑り降り、ふたたび馬にまたがった。
「セフレーニア、子供たちとここにいてください」
「いいえ、スパーホーク。もし隠れている者がいたとしたら、わたしたちがこの塚に特別の興味を抱いていると知られないほうがいいでしょう」
「それもそうだな。もっと南へ下るようなふりをして、その木立まで行ってみましょう」
一行は曲がりくねった田舎道をさらに南へ進んだ。木立が近づいてくると、セフレーニアがスパーホークに声をかけた。
「木立の中に人がいます。友好的ではないようです」
「何人くらいですか」
「少なくとも一ダースはいるでしょう」
「タレンとフルートを連れて、少し退っていてください」それからほかの者たちに向き直り、「ようし、諸君、やることはわかってるな」
だがスパーホークたちが踏みこむ前に、貧弱な装備の農民たちが木立から飛び出してきた。一目でそれとわかる無表情な顔つきをしている。スパーホークは槍先を下げ、仲間たちと肩を並べて突撃した。
長い戦いにはならなかった。農民は武器の扱いに慣れておらず、しかも徒歩だった。数分のうちに、すべては片付いていた。
「みごとな手並みだな[#「みごとな手並みだな」は古印体]――騎士たちよ[#「騎士たちよ」は古印体]――」ぞっとするような金属的な声が、木々の下の影の中から皮肉っぽく響いた。ローブを着てフードで顔を隠したシーカーが、馬にまたがって朝の光の中に姿を現わした。「だが無駄なあがきだ[#「だが無駄なあがきだ」は古印体]――おまえたちの居場所はわかった[#「おまえたちの居場所はわかった」は古印体]――」
スパーホークは手にしていた槍をクリクに渡すと、かわりにアルドレアスの槍を鞍から引き抜いた。
「おまえの居場所もわかったぞ、シーカー」その声は不気味なほど落ち着き払っていた。
「ばかな真似はよせ[#「ばかな真似はよせ」は古印体]――サー・スパーホーク[#「サー・スパーホーク」は古印体]――おまえなどわしの敵ではない[#「おまえなどわしの敵ではない」は古印体]――」
「試してみるか」
フードの下の顔が緑色に輝きはじめた。だがその光はすぐに弱まり、消えた。
「指輪を持っているのか[#「指輪を持っているのか」は古印体]――!」その声には前ほどの自信は感じられなかった。
「もう知ってるものと思っていたがね」
そこへセフレーニアが進み出た。
「ずいぶんと久しいな[#「ずいぶんと久しいな」は古印体]――セフレーニア[#「セフレーニア」は古印体]――」シーカーの声は、どこか息が洩れているような響きだった。
「こんなに早く会いたくはありませんでした」教母が冷たく答える。
「そなたが膝を屈してわしを崇《あが》めるなら[#「そなたが膝を屈してわしを崇めるなら」は古印体]――命は助けてやるぞ[#「命は助けてやるぞ」は古印体]――」
「いいえ、アザシュ、お断わりです。わたしは自分の女神を崇めます」
スパーホークは驚いて教母を見やり、またシーカーに視線を戻した。
「わしがそなたにはもう価値がないと心を決めれば[#「わしがそなたにはもう価値がないと心を決めれば」は古印体]――アフラエルにも守りきることはできんぞ[#「アフラエルにも守りきることはできんぞ」は古印体]――」
「とっくにそう決めているはずなのに、これといった効果は出ていないようですよ。わたしはアフラエルに仕えます」
「好きなようにするがいい[#「好きなようにするがいい」は古印体]――セフレーニア[#「セフレーニア」は古印体]――」
スパーホークはファランを前に進め、指輪をはめた手を滑らせて、槍の穂先に指輪を触れさせた。ふたたびあのすさまじい力の高まりが感じられる。
「もうすぐゲームは終わる[#「もうすぐゲームは終わる」は古印体]――その結果は見えている[#「その結果は見えている」は古印体]――また会うことになろう[#「また会うことになろう」は古印体]――セフレーニア[#「セフレーニア」は古印体]――今度会うときが最後だ[#「今度会うときが最後だ」は古印体]――」フードをかぶった怪物は馬首をめぐらせ、脅すように近づくスパーホークの前から逃げ去った。
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第三部 トロールの洞窟
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18[#「18」は縦中横]
「本当にアザシュだったんですか」カルテンが恐ろしげに尋ねた。
「アザシュの声です」とセフレーニア。
「あんなふうにしゃべるんですか。しゅうしゅう息が洩れてるみたいに」
「そうではありません。あれはシーカーの口を通したからでしょう」
「前にも会ったことがあるみたいですね」ティニアンが鎧《よろい》の肩当てをゆすりながら言った。
「一度だけ。大昔のことです」どうやら教母はその話をしたくないらしいとスパーホークは思った。「塚に戻ったほうがいいでしょう。なすべきことを済ませて、シーカーが援軍を連れてくる前に立ち去りましょう」
一行は馬首をめぐらし、うねうねした細道を引き返した。陽はもうかなり高い。だがスパーホークは寒気を感じていた。代理を通じてとはいっても、古き神との遭遇は騎士の血を凍らせ、陽光をさえ弱めてしまったかのようだった。
塚に戻るとティニアンはロープの束を取り出し、急な斜面を登っていった。土の上にふたたび魔法陣が描かれた。
「間違って王の側近を起こしてしまったりしないのか」とカルテン。
ティニアンはかぶりを振った。「サラク王には名前で呼びかける」呪文が始まり、最後に鋭く手を打ち鳴らす音が響いた。
最初は何も起きないのではないかと思えたが、やがて死して久しいサラク王の亡霊が塚の中から現われた。身を鎧う鎖帷子は古風な造りで、剣や斧による大きな傷がいくつか見えた。盾はあちこちがへこんでおり、古代の剣はぼろぼろに刃こぼれしていた。大男だが、王冠はかぶっていない。
「何者だ」亡霊が虚《うつ》ろな声で尋ねた。
「ティニアンと申します、陛下。デイラ国のアルシオン騎士です」
サラク王は虚ろな目できびしくティニアンを見つめた。
「無礼であろう、サー・ティニアン。急ぎ余を瞑《ねむ》りに返すがよい。余の怒りに触れぬ前に」
「お許しください、陛下。お瞑りを妨げるのは本意ではありませんが、重大なことなのです」
「死者にとっての重大事などありはせぬ」
スパーホークが進み出た。「スパーホークと申します、陛下」
「甲冑を見るに、パンディオン騎士らしいな」
「いかにも。実はエレニア国の女王が重病にかかり、これを癒せるのはベーリオンしかないのです。女王の健康を取り戻すため、あの宝石を使うお許しをいただきたい。ことが終わればすぐに墓所にお返しいたしますので」
「返すも返さぬも、好きにするがよい」亡霊はどうでもよさそうに答えた。「ただし、宝石は余の墓にはない」
スパーホークは鳩尾《みぞおち》に強烈な一撃をくらったような気がした。
「そのエレニアの女王とやら、ベーリオンにしか癒せぬとは、いかなる病なのかな」亡霊の声にはごくかすかな好奇心が感じられた。
「王位を狙う者に毒を盛られたのです、陛下」
無関心そうだったサラクの表情が、いきなり怒りに歪《ゆが》んだ。「大逆罪ではないか、サー・スパーホーク。犯人はわかっておるのか」
「はい」
「すでに罰したのであろうな」
「まだなのです、陛下」
「まだ首がつながっておるとな? パンディオン騎士団は時代とともに軟弱化したか」
「女王の健康を回復するのが先決と考えたのです、陛下。女王ご自身がその者たちを処罰することができるよう」
サラクは考えこんでいたが、やがてうなずいた。
「それがふさわしいことかもしれぬ。よかろう、サー・スパーホーク、そなたに力を貸そう。余とともにベーリオンが埋まっておらぬからといって、嘆くには及ばぬ。ベーリオンの隠されし場所を教えよう。余が大地に倒れたおり、ヘイド伯たるわが一族の者が王冠をつかみ、敵の手に落ちぬようそれを持ち去った。伯爵は重傷の身で駆けつづけ、彼方の湖の岸辺に至ってついに倒れたが、死者の家にて余に誓って申すには、王冠はいまわの際に沼に沈め、敵の手には落ちておらぬということだ。ゆえに湖を探すならば、かならずやベーリオンは見出されるであろう」
「ありがとうございます、陛下」スパーホークは心からの感謝を込めて答えた。
そこへアラスが進み出てきた。
「わたしはサレシア国のアラス、陛下の縁戚に連なる者です。陛下の安息のために、異国の地がふさわしいとは思えません。神もお力添えあれ、陛下のお許しがあればご遺体は故国に持ち帰り、エムサットの王家の墓所に埋葬いたしたく存じます」
サラクは称讃の面持ちで三つ編みのジェニディアン騎士を見つめた。
「ならばそのように、わが親族よ。実のところ、この荒れ地にあってわが瞑りは、いささか安らかならざるものであった」
「今しばらくこの地にお瞑りください、わが王。なすべきことが終わればすぐに戻りきて、故国へお連れいたします」アラスの氷のように青い目には涙が浮かんでいた。「休ませてさしあげてくれ、ティニアン。最後の旅は長いものになる」
ティニアンはうなずき、サラク王をふたたび地中に戻した。
「ということで、あとはヴェンネ湖へ馬を駆って水泳だな」カルテンが熱っぽく言った。
「土掘りよりは楽でしょう。シーカーとトロールの心配だけしてればいいんですから」クリクはわずかに顔をしかめた。「サー・アラス、グエリグはベーリオンの在処《ありか》を知ってたのに、どうして取り戻そうとしなかったんですかね」
「おれの考えでは、グエリグは泳げない。身体がひどくねじくれているからな。だがやはりグエリグとは戦うことになるだろう。ベーリオンが湖から引き上げられるのを見たら、すぐに襲ってくるはずだ」
スパーホークは西のかた、朝日にきらめく湖水のほうを見やった。野原を覆う丈高い夏草が朝のそよ風に波のように揺れ、それが湖のそばでは、泥炭地に生える灰色がかった菅草《すげくさ》や萱《かや》に取って替わられている。
「グエリグのことはその時に心配すればいい。とにかく湖をもっとよく見てみよう」
一行は草の生えた塚の斜面を滑り降り、馬にまたがった。湖へ向かいながら、アラスが言った。
「ベーリオンが沈んでいる場所は、岸からそう離れてはいないはずだ。王冠は黄金でできている。黄金は重い。死にかけた男に、それほど遠くまで投げられたはずはない」指先で顎《あご》を掻《か》いて、「前にも水の中で探しものをしたことがある。計画的にやらないとだめだ。適当に引っ掻きまわしても成果は期待できない」
「着いたらやり方を教えてくれ」とスパーホーク。
「わかった。湖まで真西に進もう。ヘイド伯が死にかけていたなら、寄り道などしなかったはずだ」
一行は進みつづけた。大いに意気の上がったスパーホークの気持ちに、不安の影が差しはじめた。無表情な手下の一群を引き連れたシーカーが、いつ襲ってこないとも限らないのだ。なのに湖の底を探っているあいだ、騎士たちは甲冑をつけることができない。まったくの無防備だ。問題はそれだけではなかった。騎士たちが湖の底をさらっているのにアザシュが気づけば、すぐに何をしているのか見抜かれてしまうだろう。それにグエリグのこともあった。
西へ進んでもそよ風は吹きつづけていた。まっ青な空を白い雲がゆったりと流れていく。
「杉林があります」クリクが四分の一マイルばかり先の、植物が茂って黒っぽく見えるあたりを指差した。「湖に着いたら筏《いかだ》がいるでしょう。来い、ベリット。木を伐《き》ってこよう」つないだ荷馬と見習い騎士をあとに従えて、クリクは杉の木立に向かった。
スパーホークと仲間たちは午前なかばに湖のほとりに着き、そよ風に細波《さざなみ》立つ湖面を見つめた。カルテンが泥炭の溶けた黒っぽい深みを指差した。
「この底にあるものを見つけようってのは、いささか骨だぞ」
「ヘイド伯は岸のどのあたりにたどり着いたんだと思う」スパーホークがアラスに尋ねる。
「ガセック伯爵の話では、アルシオン騎士が遺体を埋葬したんだったな。急いでいただろうから、遠くまで運んだとは思えん。この付近で墓を探そう」
「五百年前だぞ」カルテンが疑わしげに問い返す。「そんなものが見つかるかな」
「見つからんとは言えんだろう」答えたのはティニアンだった。「デイラには遺体を埋めた場所に石を積む風習がある。ただ埋めただけなら長い年月のうちに風化してしまうかもしれないが、石なら長持ちするからな」
「わかった。散開して、積み上げた石を探そう」スパーホークが言った。
探し当てたのはタレンだった。長い年月のあいだに何度か水をかぶったらしく、一部が泥に隠れた、茶色く汚れた石の低い塚があったのだ。ティニアンは墓の手前の泥の中に、旗をつけた槍の石突きを突き立てた。
「始めるか」とカルテン。
「クリクとベリットを待とう。泥の堆積がひどくて、歩くのは無理だ。筏がいる」
半時間ばかりが過ぎ、見習い騎士と従士がスパーホークたちに合流した。荷馬は十数本の丸太を引いていた。
丸太をロープで縛って筏が完成したのは、正午を少し回ったころだった。騎士たちは甲冑を脱ぎ、下帯一本になって、陽射しの下で大汗をかいていた。
「だいぶ日焼けしたな」カルテンが肌の白いアラスに声をかけた。
「いつものことだ。サレシア人は焼けるとまっ赤になる」筏の端を固定したロープを引っ張って、結び目を確認する。「さて、これで浮かぶかどうか見てみよう」
一同は滑りやすい泥の上で筏を押して進水させた。アラスが厳しい目で検分する。
「これで海を渡ろうとは思わんが、ここでの目的にはじゅうぶんだろう。ベリット、あそこの柳の茂みから、枝を二本伐ってきてくれ」
見習い騎士はうなずき、すぐに二本の長い枝を持って戻ってきた。
アラスは墓の前に行き、拳《こぶし》よりも大きいくらいの石を二つ取り上げた。二、三度手の中で重さを測ってみて、片方をスパーホークに投げ渡す。
「どう思う。黄金の王冠の重さはこんなものか」
「そう言われても、王冠はかぶったことがないからな」とスパーホーク。
「想像しろ、スパーホーク。日が傾きかけている。すぐに蚊が出てくるぞ」
「わかった、これでだいたい王冠の重さだ。何ポンドか前後してるかもしれんが」
「だろうと思った。よし、ベリット、柳の枝を持って筏に乗れ。捜索する範囲を決める」
ベリットは少し戸惑った様子で、それでも言われたとおりにした。
アラスは手にした石を頭の上に掲げた。「そのあたりでいいぞ、ベリット」そう呼びかけておいて、下手から石を筏のいるほうに放り投げる。「そこに印をつけろ!」
ベリットは顔にかかった水をぬぐいながら「はい、サー・アラス」と叫び返し、水面に広がる輪の中心に筏を向けた。柳の枝を一本取り、それを水底の泥の中に突き立てる。
「左によけてろ。次の石を投げるぞ」
「そっちから見て左ですか、それともこっちから?」
「どっちでもいい。この石でおまえの頭をかち割りたくないだけだ」アラスは茶色く濁った水面を見つめながら、石を左右の手で交互にもてあそんでいる。
ベリットが筏を邪魔にならない場所に動かすと、アラスは思いきり遠くまで石を放り投げた。
「死にかけた男が、あんな遠くまで投げられるわけないだろう」カルテンが口をはさむ。
「そういう考え方もあるが、最大限の余裕を見こんだ」アラスはしれっとした顔で答え、割れ鐘のような声で叫んだ。「ベリット、その場所に印をつけて、潜ってみろ。どのくらいの深さがあって、底がどうなってるか知っておきたい」
ベリットは二つめの石が沈んだ場所に印をつけてから、ためらう様子を見せた。
「レディ・セフレーニアに、うしろを向いているように言ってもらえませんか」その顔はまっ赤になっていた。
「もし誰か笑ったりしたら、その人は残る一生を蟇蛙《ひきがえる》として過ごすことになります」そう脅しておいてから、セフレーニアはくるりと湖に背を向けた。興味津々のフルートも同時にうしろを向かせる。
ベリットは服を脱ぎ、川獺《かわうそ》のように水の中に飛びこんだ。上がってきたのは一分ほどあとだった。湖の岸辺にいる者たちは、機敏な見習い騎士が水面に顔を出すまで、全員が息を止めて見守った。ベリットはふうっと息を吐き出し、水を跳ね飛ばした。
「深さは八フィートってところです、サー・アラス」筏の端につかまってベリットが報告した。「底には泥が堆積してて――少なくとも二フィートはありそうです。あまりいい状態じゃありません。水は茶色く濁ってます。手を顔の前に持ってきても、ほとんど見えないくらいです」
「それを心配していたんだ」アラスがつぶやく。
「水は冷たいか」カルテンが叫んだ。
「ものすごく冷たいですよ」ベリットは歯の根も合わなかった。
「おれはそれを心配してたんだ」とカルテン。
「では諸君、水浴びの時間だ」アラスが言った。
その日の午後はまことに不愉快に過ぎていった。ベリットが言ったとおり、水は冷たくて濁っており、やわらかな湖底は泥炭の泥に厚く覆われていた。
「手で泥を掘ろうなんて思うな」アラスが注意した。「足で探るんだ」
だが何も見つからないまま、日が沈むころには全員が疲れきって、寒さに青ざめていた。
「決断の必要があるな」全員が身体を乾かして短衣《チュニック》と鎖帷子を身に着けると、スパーホークが渋い顔で言った。「いつまでもここにいるのは危険だ。シーカーはわれわれのだいたいの居場所を知っているから、臭跡をたどって追ってくるだろう。やつに見られたら、その瞬間にベーリオンの在処《ありか》がアザシュにもわかってしまう。それだけは何としても避けたい」
「そのとおりです」とセフレーニア。「シーカーが手下を集めて、それをここまで引き連れてくるには、多少の時間がかかるでしょう。それでもやはり、いつまでここに留まるか、期限を切っておいたほうがいいと思います」
「もう目の前なんですよ」カルテンが不満の声を上げる。
「見つけたベーリオンをすぐにアザシュに奪われたのでは、元も子もありません。わたしたちがここを離れれば、シーカーもこの場所から引き離すことができます。ベーリオンがある場所はもうわかっているのですから、危険がなくなってから戻ってくればいいのです」
「明日の正午では」スパーホークが提案した。
「それ以上ここに留まるのは危険でしょうね」
「じゃあ決まりだ。明日の正午になったら、荷物をまとめてヴェンネの街に戻る。これまでの印象では、シーカーは街中にまで手下を率いてくることはないらしい。あの連中は目立つからな」
「船だ」焚《た》き火の炎に顔を照らされたアラスが声を上げた。
「どこに」カルテンが宵闇《よいやみ》の迫る湖面に目を凝《こ》らす。
「そうじゃない。ヴェンネに戻ったら船を雇えばいい。シーカーはヴェンネまでおれたちの臭跡を追ってくるだろうが、水の上でにおいを追うわけにはいかんだろう。やつはヴェンネの外で、おれたちが出てくるまでじっと待っているはずだ。おれたちは安心してここに戻ってきて、ベーリオンを探すことができる」
「名案じゃないか、スパーホーク」とカルテン。
「どうでしょう」スパーホークはセフレーニアに尋ねた。「水の上を行けば、シーカーは追ってこられないでしょうか」
「そう思います」
「よし、じゃあその手でいってみよう」
粗末な夕食を済ませると、一行は床に就いた。
翌朝は夜明けとともに起き、急いで朝食を摂《と》り、筏を湖に押し出した。前の日からそのままにしてある目印の柳の枝のそばで筏を固定し、スパーホークたちはふたたび冷たい水に潜って、足で湖底の泥の中をつつきまわした。
正午が近くなってきたころ、水面に顔を出して息を継いでいたスパーホークのそばにベリットが浮かび上がった。
「何かあるみたいです」見習い騎士はあえぎながら言い、また頭から先に水中に潜った。苦しいほど長く感じられる時間があって、ベリットがふたたび水の中から現われた。手にしているのは王冠ではなく、茶色く変色した人間の頭蓋骨だった。ベリットは筏まで泳いでいって、丸太の上に頭蓋骨を載せた。スパーホークは太陽を見上げて悪態をついた。ベリットを追って筏に泳ぎつき、身体を引き上げる。
「これまでだな」ちょうど水面から顔を出したカルテンに、スパーホークは声をかけた。「これ以上はまずい。みんなを集めて、岸に戻ろう」
岸に戻ると、まっ赤に日焼けしたアラスがしきりに頭蓋骨をひねくりまわしていた。「ずいぶん細長い頭だ」
「ゼモック人だからですよ」セフレーニアが横から口をはさんだ。
「溺れたんでしょうか」とベリット。
アラスは頭蓋骨から泥を掻き落とし、左のこめかみのところに開いた穴に指を突っこんだ。
「側頭部に穴がある。溺れたんじゃない」湖岸に歩み寄り、水の中でゆすいで、中に詰まった数世紀分の泥を洗い流す。水から上げて振ってみると、からからと音がした。巨漢のサレシア人はヘイド伯の塚に積まれた石の上に頭蓋骨を置き、別の石を打ちおろした。胡桃《くるみ》でも割るような気安さだった。割れた頭蓋骨の中から何かを取り上げる。「思ったとおりだ。矢を射かけられてる。たぶん岸からだ」錆《さ》びた鏃《やじり》をティニアンに手渡す。「どう思う」
「デイラ製だな」ティニアンは鏃を調べてからそう答えた。
スパーホークはしばらく考えていた。
「ガセック伯爵の記録によると、デイラ国から来たアルシオン騎士たちが、ヘイド伯を追っていたゼモック人を一掃したということだった。そのゼモック人たちは、たぶん伯が王冠を湖に投げこむのを見ていて、回収しようとしたのではないかな。そいつらは王冠が投げこまれる現場を見ていた。そしてここに、デイラの矢を頭に受けたゼモック人の頭蓋骨がある。事情を推測するのは簡単だ。ベリット、この頭蓋骨を見つけた正確な位置はわかるか」
「数フィートの幅でなら。岸にあるものを目印にしてましたから。あそこの倒木からまっすぐに、三十フィートほど水に入ったところです」
「たぶんそこだな」スパーホークはうなずいた。「ゼモック人は王冠を追って水に飛びこんだ。そこへアルシオン騎士団が通りかかって、岸から矢を射かけた。ベーリオンは頭蓋骨から数ヤード以内にあるはずだ」
「これで場所はわかりました。あとで取りにきましょう」セフレーニアが言った。
「ですが――」
「急いでここを離れなくてはなりません。シーカーがすぐ背後に迫っているとき、ベーリオンを手中にするのは危険すぎます」
しぶしぶながら、スパーホークはその意見を正しいと認めざるを得なかった。
「わかりました」声に失望が表われている。「荷物をまとめて、出発しましょう。甲冑はやめて鎖推子を着れば、そう目立たずに済むでしょう。アラス、筏は湖に流してしまってくれ。ここにいた証拠は何も残したくない。そのあとヴェンネに向かうことにする」
片付けには半時間ほどかかった。それから一行は湖に沿って、疾駆《ギャロップ》で北へ向かった。いつものようにベリットがしんがりを務め、尾行してくる者はいないかと目を凝らした。
スパーホークの気持ちは晴れなかった。ここ何週間か、ずっと柔らかな砂の上を駆けつづけてきたような気がする。女王を救うことのできるものに手が届きそうになるたびに、何かしら邪魔が入って目標から遠ざけられてしまう。暗い迷信的な情念が頭をもたげてきそうだった。スパーホークはエレネ人であり、教会騎士だ。エレネ教会にはそれなりの信仰を持っているし、教会が異端≠ニ呼ぶものに対して示す嫌悪にも、いちおうの理解は示している。とはいえ、あまりに世の中を知りすぎているために、教会の教えを額面どおりに受け取ることができなくなっている面もあった。いろいろな意味で、絶対的な信仰と完全な懐疑主義のあいだに宙ぶらりんになっているのだ。どこかの何者かが懸命になって、スパーホークをベーリオンから引き離そうとしている。それが何者なのかはわかっているつもりだった。しかしなぜアザシュは、それほどの敵意をエレニア国の若き女王に抱かねばならないのか。スパーホークは苦い顔で、軍隊と侵攻のことを考えはじめた。もしエラナが死んだら、ゼモック人をことごとく殺戮しつくすと心に誓っているのだ。アザシュはすべての崇拝者を失って、廃墟となった寺院の片隅で独りむせび泣くことになるだろう。
一行は翌日の昼過ぎにヴェンネの街に入り、相変わらずの薄暗い街路を通って、今や馴染《なじ》みとなった宿に帰りついた。
「いっそこの宿を買い取っちまえばいいんだ」馬を下りながらカルテンが言った。「生涯ここに住んでるみたいな気になりかけてきた」
「行って交渉してきたらどうだ」スパーホークは従士を振り返った。「クリク、湖まで歩いてみよう。日が暮れる前に船を見ておきたい」
騎士と従士は宿の中庭を出て石畳の街路を歩き、湖に向かった。
「いくら慣れても愛着のわかない街ですね」
「物見遊山に来てるわけじゃないからな」
「どうしたんです、スパーホーク。ここ一、二週間、何となく機嫌が悪いですね」
「時間だよ」スパーホークはため息をついた。「時間が指の間からこぼれていくのが、感じられるような気さえする。ベーリオンまで数フィートのところに迫っていながら、荷物をまとめて出発しなくちゃならなかったんだ。女王は刻一刻と死に近づいているのに、こっちでは何かというと妨害が入る。誰かに当たり散らして、大暴れしてやりたい気分だ」
「わたしを見ないでください」
スパーホークはかすかな笑みを見せた。
「おまえに当たる気はないさ」そっと従士の肩に手をかけ、「ほかに当たるものがなかったとしても、おまえとおれの間に本当に深刻な対立が起きるかどうかなんて賭けをする気にはならんからな」
「それもありますね」クリクは前方を指差した。「あそこです」
「あそこって、何が」
「飲み屋ですよ。船乗りの溜《たま》り場です」
「どうしてわかる」
「一人中に入るのを見ました。船ってのは水が漏ります。そこで船の持ち主は、それをタールで止めようとします。誰かが上着にタールを着けてたとしたら、まず船乗りと思って間違いないんです」
「おまえは本当に情報の宝庫だな、クリク」
「長年のあいだに世界じゅうを見てきましたからね。ちゃんと目を見開いてれば、いろんなことがわかるんです。中に入ったら、話すのはわたしに任せてください。そのほうが手っ取り早い」クリクは急におかしな、よろめくような足取りになった。飲み屋のドアを不必要に力を込めて開き、しわがれた声を作る。「邪魔するぜ。もしかしてここは、船乗り仲間が集まってる店かい」
「ああ、そうだよ」バーテンが答えた。
「そいつぁよかった。陸者《おかもん》と飲むなんざごめんだからな。やつらときたら、天気のことと作物のことばっかりだ。目照りがどうの、蕪《かぶ》の出来がこうのなんて言われたって、こちとら話にも何もなりゃしねえや」
飲み屋の客たちのあいだに賛同の笑いが起こった。
「間違ってたら申し訳ないが、話し方からして、海のほうのお仕事じゃないですか」バーテンが尋ねた。
「おうよ。潮風の香りと、頬《ほお》に当たる波の飛沫《しぶき》が恋しいぜ」
「海からはずいぶんと離れちまってるもんなあ」隅のテーブルにいた、服にタールの染みをつけた男が、敬意の混じったような口調で言った。
クリクは大きく嘆息して見せた。
「船をしくじっちまったのよ。サレシア国のヨストからアパリアの港まで下って、街で飲みすぎてな。船長は遅刻者を待っててくれるような人じゃなかったから、朝にはおれを残して船出しちまった。そのとき運よくこのお方に出会って、雇ってもらったってわけだ」と親しげにスパーホークの肩を叩き、「ヴェンネで船を雇いたいんだそうだ。湖の藻屑《もくず》になっちまわねえような、ちゃんとしたやつをな」
隅のテーブルの男がふたたび声を上げた。
「それで、その旦那はいくらで船を雇うつもりなんだね」
「ほんの二日ばかりなんだが」クリクはスパーホークに顔を向けた。「どんなもんですかね、船長。半クラウンだときびしいですか」
「半クラウンなら何とかなる」スパーホークはクリクの豹変ぶりに対する驚きを表に出さないようにして答えた。
「二日って言ったな」男が確認する。
「風と天候しだいだがな。水の上じゃあ、いつだってそうだろう、え?」
「まったくだ。どうやら取引の話ができそうだな。おれは大きめの漁船を持ってるんだが、ここんとこ漁がいささか不調でね。船を貸しに出して、その二日のあいだは網を繕《つくろ》っててもいい」
「じゃあちょいと浜まで行って、その船を見てみようじゃないか。気に入れば取引成立ってわけだ」
服にタールをつけた男はジョッキを干して立ち上がった。「ついてきな」そう言ってドアに向かう。
「クリク」スパーホークが渋い顔で、小さく声をかけた。「こういう不意討ちはやめてくれ。わたしの神経は昔ほど丈夫じゃないんだ」
「いろいろあるから人生は楽しいんでさあ、船長」クリクはにやにやしながら、漁師のあとを追って飲み屋の外に出た。
船は三十フィートほどの長さがあり、うずくまるように水に浮かんでいた。
「少し水が漏るみたいだな」船の中に一フィートほど溜まった水を見て、クリクが指摘した。
「ちょうど修理中でね」漁師は申し訳なさそうに答えた。「沈木にぶつけて、継ぎ目が破れちまった。船大工は飯を食いにいってるけど、戻ってきたら修理を終えて、引き渡してもらうことになってる」船の手すりをいとおしげに叩いて、「いい船だよ。舵輪《だりん》にも敏感に反応するし、この湖で出会うどんな天候だって乗り切れる」
「朝には修理は終わってるんだな」
「大丈夫だ」
「どうします、船長」クリクがスパーホークに尋ねた。
「よさそうだが、わたしは専門家じゃない。そのためにおまえを雇ったんだ」
「よし、いいだろう。この船を借りることにする。夜明けにまた来るから、そんとき話を詰めよう」クリクは掌に唾を吐き、漁師の掌と打ち合わせた。「行きましょうぜ、船長。酒と食事とベッドを見つけないと。明日は長い一日になりそうだ」クリクはあのどことなくふらついた足取りで、湖畔からの道を登っていった。
「説明してもらおうか」漁船の持ち主の姿が小さくなると、スパーホークが言った。
「大したことじゃないんですよ。湖の船乗りは、たいてい海の船乗りを尊敬してるものなんです。だからいろいろ便宜を図ってくれる」
「それは見当がついたが、どこであんなしゃべり方を覚えたんだ」
「十六歳くらいのとき、海に出てたことがありましてね。前にも話しましたよ」
「聞いた覚えがないがな」
「話しましたってば」
「たぶん記憶に残らなかったんだろう。どうして海に出たんだ」
「アスレイドですよ」クリクは笑い声を上げた。「あのころあれは十四歳くらいで、ちょうど蕾《つぼみ》がほころびかけてる感じでした。目が色っぽくてね。わたしはまだ心の準備ができてなくて、それで海に逃げ出したんです。生涯最大の失敗ですよ。イオシア西岸で一番のおんぼろバケツの甲板員として雇われたんですが、六ヵ月のあいだ、仕事といえば船から水を掻い出すことだけでした。陸に戻ったときには、二度と船には足を踏み入れないと誓ったもんです。アスレイドはわたしが帰ってきたのをとても喜びましたけど、あのころから情熱的な女でしたからね」
「そのとき結婚する気になったのか」
「そのすぐあとです。家に帰るとわたしを親父さんの干草小屋へ連れていって、熱心に[#「熱心に」に傍点]説得したんですよ。その気になったアスレイドは、とても説得力がありましてね」
「クリク!」スパーホークは衝撃を受けていた。
「もっと大人になりなさい、スパーホーク。アスレイドは田舎娘なんです。たいていの田舎娘は、結婚式のときにもう腹が大きくなりかけてるもんです。説得の仕方としては直截《ちょくせつ》的ですけど、それなりの見返りはあるってことです」
「干草小屋だって?」
クリクは微笑んだ。
「たまには少し考え方を変えてみるんですね」
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19[#「19」は縦中横]
スパーホークはカルテンといっしょに使っている部屋の中に腰をおろし、地図を調べていた。カルテンはそばのベッドで眠っている。船を使うというアラスのアイデアは、なかなか悪くなかった。シーカーが獲物を追うのに使うもっとも危険な手段を封じることができるというセフレーニアの言葉も心強い。これでヘイド伯の倒れた湖岸の泥地に戻って、背後の地面を嗅《か》ぎまわるフード姿の影はないかと気にすることなく、中断した作業を再開することができそうだった。ベリットが見つけたゼモック人の頭蓋骨が、ほぼ正確にベーリオンの場所を示しているはずだ。多少とも幸運に恵まれれば、午後いっぱい費すだけで王冠を発見できるだろう。ただ、いずれにしても馬を取りにヴェンネに戻らなくてはならない。そこが問題といえば問題だった。予測したとおりシーカーの無表情な手下たちが街の周囲の平地や森をうろついているとしたら、戦って道を切り開かなくてはならない。普段なら戦いがスパーホークの心を悩ませることはない。これまでの生涯、ずっとそのための訓練を受けてきたのだから。しかしベーリオンを手中にしたならば、戦いで危険にさらされるのはスパーホークの命だけではないことになる。エラナの命まで危険にさらすことになってしまうのだ。それは何としても避けなくてはならなかった。しかもベーリオンがふたたび世に現われたことをアザシュが感知したならば、シーカーは何としてもそれを手に入れようと、全力を挙げて攻撃してくるだろう。
もちろんこれには簡単な解決法がある。馬を湖の西岸まで運べばいいだけだ。シーカーはヴェンネの街の周囲をいつまでもうろつき、やがては年老いて死んでしまうだろう。スパーホークたちは何の被害も受けずに済む。もっとも、今回借りた船では一度に二頭の馬を運ぶのが精いっぱいだろう。馬を西岸の人気《ひとけ》のない岸辺に運ぶためだけに、湖を半分も横切る船旅を八回も九回もくり返すのかと思うと、苛立ちのあまり悲鳴を上げたくなる。ほかにも何隻か船を雇うという手もあるが、それはあまり気が進まなかった。船が一隻ならそう注意を引くこともないが、数隻の船団となると人目を引かずにはおかないだろう。西岸でしばらく馬の世話をしてくれる、信用のおける人物も探す必要がある。その場合の問題は、シーカーが乗り手のにおいだけでなく、馬のにおいも嗅ぎ分けているのではないかという点だった。スパーホークは考えこみながら、指輪をはめた指を無意識に掻《か》いた。どういうわけか指輪がちくちくするような気がした。
軽くドアを叩く音がした。
「今忙しいんだ」騎士は苛立たしげに返事をした。
「スパーホーク」軽やかな、音楽的な声がした。スティリクム人に特有の快活さが感じられる。スパーホークは眉をひそめた。聞き覚えのない声だったのだ。
「スパーホーク、話があるの」
騎士は立ち上がってドアを開いた。驚いたことに、それはフルートだった。少女は部屋に滑りこんで、背後でドアを閉めた。
「しゃべれたのか?」スパーホークが驚いて尋ねる。
「当たり前でしょ」
「どうして今までしゃべらなかったんだ」
「必要がなかったからよ。あなたがたエレネ人は、しゃべりすぎるわ」声は少女のものだが、言葉や抑揚ははっきりと大人のものだ。「聞いて、スパーホーク。とても重要なことよ。すぐに出発しなくてはならないの」
「真夜中だぞ、フルート」
「何て観察力が鋭いのかしら」少女はまっ暗な窓に目を向けた。「いいから黙って聞いて。グエリグがベーリオンを手に入れたわ。北の海岸から船でサレシアへ渡るのを、何としても阻止しないと。この機を逃したらサレシアの山の中の、グエリグの洞窟まで追いかけていかなくちゃならない。それにはいささか時間がかかるわ」
「アラスの話だと、その洞窟の場所は誰も知らないそうじゃないか」
「わたしは知ってる。前に行ったことがあるの」
「何だって?」
「スパーホーク、時間を無駄にしないで。この街を出なくちゃならないわ。ここには邪魔が多すぎるの。何が起きてるのか感じ取れない。早く鉄の服を着て。出発するのよ」その言い方は切り口上で、横柄でさえあった。「まさかベーリオンが動きだしたのも感じ取れないほど鈍感なんじゃないでしょうね。その指輪から何も感じないの?」
スパーホークはちょっと驚いて、左手にはめた指輪に目をやった。やはりちくちくする感じがある。目の前にいる少女は、あまりにいろいろなことを知りすぎているように思えた。
「セフレーニアは知ってるのか」
「もちろんよ。もう荷物をまとめはじめてるわ」
「まずセフレーニアと話がしたい」
「あなたには苛々するわ、スパーホーク」少女の黒い目が険悪になり、弓のようなピンクの唇の端が下がる。
「申し訳ないが、やっぱりセフレーニアと話したい」
フルートはくるりと目を上に向けた。「エレネ人ていうのは」その口調があまりにもセフレーニアにそっくりだったので、スパーホークは吹き出しそうになった。少女の手を取り、部屋から連れ出して廊下を歩く。
セフレーニアは自分の服とフルートの服を、ベッドの上に置いた布の鞄《かばん》に忙しく詰めこんでいた。
「お入りなさい、スパーホーク」戸口の前に立っている騎士を見て、教母は声をかけた。
「待っていました」
「どうなってるんです、セフレーニア」スパーホークが不機嫌そうに尋ねる。
「話さなかったのですか」
「話したけど、信じようとしないのよ。こんな頑固な人たちによくがまんできるわね」
「それなりの魅力もあるのですよ」そう言って騎士に向き直り、「この子の話は本当です、スパーホーク。ベーリオンが湖から引き揚げられたのです。わたしもそれは感じました。今はグエリグが持っています。グエリグがどちらの方角に進んでいるか知るために、ひらけた場所へ出なくてはなりません。みんなを起こして、ベリットには馬に鞍をつけるよう言ってください」
「確かなことなんですか」
「そうです。急いでください。グエリグが逃げてしまいます」
スパーホークは廊下に飛び出した。事態の推移があまりに激しくて、考えている時間はない。部屋から部屋を回って仲間を起こし、セフレーニアの部屋に集まるよう指示する。ベリットは厩へやって馬に鞍を着けさせ、最後にカルテンを起こした。
「どうしたんだ」金髪のパンディオン騎士は、目をこすりながらベッドの上に起き上がった。
「セフレーニアが説明してくれる。急ぐんだ」
カルテンがぶつぶつ言いながら着替えをしているあいだに、スパーホークは部屋へ持ちこんでいた荷物に服を詰めこんだ。廊下を引き返し、セフレーニアの部屋のドアを叩く。
「さっさと入って、スパーホーク。礼儀作法にこだわってる場合じゃないわ」
「誰の声だ」カルテンが尋ねる。
「フルートだ」スパーホークはドアを開けた。
「フルート? しゃべれるのか」
部屋にはもう全員が集まっていた。みんな口がきけないとばかり思っていた少女を、驚いたように見つめている。
「時間を節約しましょう。わたしはしゃべれるけど、前はしゃべりたくなかった。これで退屈な質問はしなくてすむわね? じゃあ、しっかり聞いて。矮躯《わいく》のトロールのグエリグが、ついにベーリオンを取り戻したわ。サレシアの山の中にある自分の洞窟に向かってるはずよ。急がないと手の届かないところへ逃げられてしまう」
「どうやって湖から引き揚げたんだろう。前にはできなかったのに」ベヴィエが声を上げた。
「手助けがいたのよ」フルートは一同の顔を見まわし、スティリクム語で悪態をついた。「見せてあげて、セフレーニア。そうでもしないと、ここに突っ立ったまま一晩じゅうばかな質問をしつづけそうだわ」
セフレーニアの部屋の壁には大きな鏡があった――実際には磨き上げた真鍮《しんちゅう》の板だが。
「みんなここに集まってください」セフレーニアが鏡の前でそう言った。
一同が鏡の前に集まると、教母はスパーホークがはじめて耳にする呪文を唱えはじめた。続く身振りで、鏡の表面に曇りが生じた。それが晴れたとき、一行は湖を見下ろしていた。
「筏があるぞ」カルテンが驚きの声を上げる。「水面に顔を出したのは、スパーホークだ。どういうことなんです、セフレーニア」
「昨日の正午少し前に起きたことを見ているのですよ」
「それならもう知ってます」
「わたしたちがしたことはね。ほかにも動きはあったのです」
「誰もいないじゃないですか」
「向こうも姿を見られたくはなかったでしょうから。とにかくご覧なさい」
鏡に映し出されている場所が、湖面から沼地のそばに密生した茂みのほうに移った。黒いローブ姿の影が、河原の藪《やぶ》の中にうずくまっている。
「シーカーだ! 見張っていたのか!」ベヴィエが叫んだ。
「それだけではありません」
ふたたび場面が変わって、湖岸沿いに百ヤードばかり離れた貧相な木立の中に、ひどくねじくれた身体つきの毛深い影が見えた。
「あれがグエリグよ」とフルート。
「あれで矮躯?」カルテンが驚きの声を上げた。「アラス並みの大きさじゃないか。普通のやつはどのくらいあるんだ」
「グエリグのほぼ倍だ」アラスは肩をすくめた。「オーガーはもっとでかい」
セフレーニアが早口でスティリクム語をつぶやくと、ふたたび鏡の表面が曇った。
「しばらく大したことは起きませんから、その部分はとばします」
ややあって曇りが晴れる。
「おれたちが湖を離れるところだ」とカルテン。
と、シーカーが藪の中で立ち上がった。ペロシア人の農奴らしい、無表情な顔の手下を十人ほど連れている。農奴たちはふらふらと湖岸に下りていき、水に潜った。
「こうなるのを恐れてたんだ」ティニアンがつぶやいた。
またしても鏡が曇る。
「このあと夜を徹して探しつづけ、つい一時間ほど前、中の一人がとうとうベーリオンを見つけ出しました。もうまっ暗なのでちょっと見にくいのですが、できるだけ明るくしてみましょう」
はっきりとはわからなかったが、水中から顔を出した農奴の一人が、何か泥のこびりついた品物を手にしているようだ。
「サラク王の王冠です」
黒いローブ姿のシーカーが湖岸を走った。蠍《さそり》の前肢のような手を伸ばし、かちかちと音をさせている。しかしグエリグのほうが早かった。矮躯のトロールはアザシュの手先を出し抜いて、固めた拳で農奴の頭を横ざまに張り倒した。王冠をつかみ、くるりと背を向けて走り出す。やっと湖から手下を集めたシーカーがそのあとを追いかけた。グエリグの走り方は、両足のほかにおそろしく長い片方の腕を使った変則的なものだった。人間の足のほうが速いかもしれないが、そう大した違いはない。
映像が薄れて消えた。
「このあとどうなったんです」カルテンが尋ねた。
「グエリグは農奴が追いついてくるたびに足を止めました。わざと追いつかせていたようにも見えます。そうやって、一人ひとり殺していったのです」
「今グエリグはどこに」とティニアン。
「わからないわ」フルートが答えた。「闇の中でトロールを追いかけるのはとても難しいのよ。だからひらけた平地に出る必要があるわけ。セフレーニアとわたしはベーリオンの気配を感じ取ることができるけど、それには街の人たちのそばから離れなくちゃならないの」
ティニアンは考えこんだ。
「とりあえずシーカーのほうは無視していいんじゃないか。人を集めてグエリグを追いかけるには、少々時間がかかるだろう」
「そいつは心休まる話だ」カルテンが言った。「シーカーとグエリグと、いっぺんに相手をするのはごめんだからな」
「とにかく出発しよう」スパーホークが提案した。「甲冑を着けたほうがいい。グエリグと出会ったら、きっと必要になる」
騎士たちは部屋に戻って荷物をまとめ、鋼鉄で身を鎧《よろ》った。スパーホークはがちゃがちゃと階段を下りて、宿の太った主人に声をかけた。主人は誰もいない酒場の入口に立って、眠そうな顔で欠伸《あくび》をしながら戸口に寄りかかっていた。
「これから出発する」
「外はまだ暗いですよ」
「わかっている。仕事ができた」
「じゃあ知らせが入ったんですね」
「どんな知らせのことを言ってるんだ」スパーホークは慎重に尋ねた。
「アーシウム国でごたごたが起きてるって話ですよ。はっきりしたことは知りませんが、何か戦争になるみたいな噂もあるようです」
スパーホークは眉をひそめた。
「その話はいささか妙だな、ネイバー。アーシウムはラモーカンドとは違う。アーシウムの貴族たちは何世代も前に、王の命令で血の復讐とは縁を切ったはずだが」
「わたしは聞いた話をくり返してるだけですよ。何でもイオシア西部の国々は、みんな動きだしてるんだそうです。今夜早くに、大急ぎでヴェンネを通っていった一団がいましてね。外国の戦争にあまり興味のない人たちですよ。何でも湖の西側に大軍団が集結してて、出会った人間を片端から徴兵してるんだそうです」
「西の諸王国が、アーシウムの内戦のために動きだすはずはない。内戦は国内間題だからな」
「わたしもそこが腑《ふ》に落ちないんですよ。何より不思議なのは、その徴兵逃れの一団の話によると、軍団のかなりの部分がサレシア人で構成されてるっていうんです」
「それは何かの間違いだろう。ウォーガン王はいささか飲みすぎるが、友邦を侵略しようとするほどとは思えない。その一団が徴兵から逃げているのなら、追ってくる相手をしっかり見定めるような余裕はなかっただろう。鎖帷子を着た人間は、どれも同じように見えるものだ」
「そんなところかもしれません、騎士様」
スパーホークは宿代を支払った。「情報をありがとう、ネイバー」
そのとき残りの者たちも階段を下りてきた。スパーホークは背《そびら》を返して中庭に出た。
「どういうことなんですか、サー・スパーホーク」ベリットがファランの手綱を手渡しながら尋ねた。
「湖でシーカーに見張られていたんだ。やつの手下の一人がベーリオンを見つけたんだが、トロールのグエリグがそれを奪って逃げた。これからグエリグを追いかける」
「簡単にはいきませんよ。湖のまわりは霧が渦巻いています」
「グエリグがこんな北のほうまで来る前に、晴れてほしいものだな」
ほかの者たちも宿から出てきた。
「全員騎乗! どっちだ、フルート」
「しばらく北へ進んで」クリクに抱え上げられた少女が、セフレーニアの馬に乗りながら答えた。
ベリットは目をしばたたいた。「その子はしゃべれるんですか」
「お願い、ベリット、わかりきったことをくり返さないで。行きましょう、スパーホーク。ここから離れないとベーリオンの在処《ありか》がはっきりわからないわ」
一行は宿の中庭を抜け、霧深い街路に出た。霧雨になる寸前といった感じの濃い霧だった。湖の周囲に立ちこめる泥炭の刺激臭も、いっしょに漂ってきている。
「こんな晩にトロールの相手をするのは利口じゃない」アラスが近づいてきて、スパーホークに言った。
「今夜グエリグに会えるとは限らんさ。向こうは徒歩だし、ここからベーリオンが見つかった場所までは結構な距離がある。こっちの方角に向かってるかどうかさえ確実じゃないんだ」
「方角はまず間違いない」ジェニディアン騎士は反駁した。「やつはサレシアへ行きたがってる。つまり北岸の港町を目指しているということだ」
「セフレーニアとフルートが街の外へ出れば、もっとはっきりしたことがわかるさ」
「たぶんナデラだな。アパリアよりも大きいから、船もたくさんある。グエリグは密航するしかないだろう。乗せてくれる船があるとは思えん。どの船長も、トロールを自分の船に乗せたいとは思わんはずだ」
「どの船がサレシアへ向かうか、立ち聞きしてわかる程度にはエレネ語ができるのか」
アラスはうなずいた。
「たいていのトロールはエレネ語や、ときにはスティリクム語まで聞きかじってる。しゃべるほうは自分たちの言葉しかできないが、聞くだけなら多少はできる」
街の門を出て、ヴェンネの北の道が二股に分かれているところまで来たのが夜明けの直前だった。一行は山の中に分け入ってガセックへと通じる、轍《わだち》の跡の残る道に胡乱《うろん》げな視線を向けた。もう一方の道は港町アパリアへと続いている。
「できれば向こうの道は選んでもらいたくないですね」白いマントのベヴィエは身震いした。「ガセックへはもう二度と行きたくありません」
「グエリグは動いているのか」スパーホークがフルートに尋ねた。
「ええ。湖沿いに北へ向かってるわ」
「どうもよくわかんないんだけどさ、ベーリオンの位置がわかるんだったら、どうして宿屋で向こうが近づいてくるのを待ってちゃいけなかったんだい」とタレン。
「ヴェンネには人が多すぎるのです」セフレーニアが答えた。「思考と感情が渦巻いている街の中では、ベーリオンの位置をはっきりとつかむことができません」
「なるほど、それなら筋は通るね」
「湖の岸沿いに下って迎え撃てば、時間を節約できますよ」カルテンが提案した。
「この霧だ」アラスがむっつりと反対する。「向こうが見えるほうがいい。トロールに不意討ちは食らいたくない」
「どうせここを通るわけだろう」とティニアン。「少なくともこのすぐ近くを。イオシアの北岸を目指してるんだったらな。やつは湖を泳いでは渡れないし、ヴェンネの街にも入れない。聞くところでは、トロールってのはかなり目立つらしいからな。だったら、近づいてくるのを待ち伏せすればいい」
「いい考えじゃないか」カルテンも賛成した。「どのあたりを通るか予測さえつけば、不意を衝《つ》くのも難しくない。グエリグを殺して、誰かが気づいたころにはベーリオンといっしょに、シミュラまでの道のりの半分は行ってるだろう」
「まあ、カルテン」セフレーニアが嘆息した。
「殺すのはおれたちの仕事ですよ、小さき母上。見たくなかったら、見なければいいんです。トロールが一匹多かろうと少なかろうと、世界にとって大した違いはありませんよ」
「一つ問題があるな」ティニアンがフルートに言った。「シーカーは手下を補給したら、懸命になってグエリグを追いかけてくるだろう。しかもきみやセフレーニアと同じように、ベーリオンのある場所を感じ取れるんじゃないかな」
「ええ」
「だとすると、グエリグを葬り去ると同時にシーカーが襲ってくることになるのを忘れてるんじゃないか」
「そのときはもうベーリオンが手許《てもと》にあって、しかもスパーホークは指輪を持ってるってことを忘れてるんじゃないの」
「ベーリオンならシーカーを退治できるかい」
「簡単にね」
「そこの木立の中に入ろう」スパーホークが提案した。「グエリグがやってくるまでどのくらいかかるのか知らないが、やつが近づいてきたとき、道のまん中に突っ立って天気の話なんかしていたくはない」
全員が木立の陰に引っこんで馬を下りると、ベヴィエがセフレーニアに話しかけた。「ベーリオンが魔法でシーカーを退治できるなら、普通のスティリクムの魔術でも同じことができるのではありませんか」
セフレーニアは辛抱強い表情で答えた。
「もしそれができるのであれば、とうの昔にやっているとは思いませんか」
「ははあ」ベヴィエはちょっと恥ずかしそうな顔になった。「すみません、考えつきませんでした」
その朝はどことなくぼやけた感じだった。湖と北の森の両方から広がってきた霧が地上を湿っぽく覆っているが、空は青く晴れわたっている。騎士たちは見張りを立て、鞍や道具を点検した。それが済むと頻繁に見張りを交替しながら、蒸し暑い中で全員が仮眠を取った。寝不足のままでは注意力が散漫になってしまう。
午《ひる》を少し回ったころ、タレンがスパーホークを起こした。
「フルートが話したいって」
「あの子は寝てると思ってた」
「本当に眠ってるとこ、見たことがないような気がするな。近づくとかならずぱっと目を開くんだ」
「そのうちに訊《き》いてみるさ」スパーホークは毛布を跳ねのけて立ち上がり、近くの泉で顔を洗った。フルートはセフレーニアのそばで横になっていた。
少女のつぶらな目がぱちっと開いた。
「どこへ行ってたの」
「すっかり目を覚ましてこようと思ってね」
「気をつけて、スパーホーク。シーカーが近いわ」
騎士は悪態をつき、剣に手を伸ばした。
「やめてよ、それ」少女は不興げな顔を見せた。「まだ一マイルかそこらは離れてるわ」
「どうしてこんなに早く?」
「予想に反して、手下を集めずにまっすぐ馬をとばしてきたようね。単独で、馬をぎりぎりまで酷使してる。あの馬はもう死にそうだわ」
「グエリグはまだなのか」
「ええ、ベーリオンはまだヴェンネの街よりも南よ。シーカーの考えをちょっと読んでみる」フルートは身震いした。「ひどいものね。でも考えてることはだいたいこっちと同じよ。グエリグよりも先行して、待ち伏せしようとしてるわ。手下はこっちで集めればいいわけだし。どうやら戦うしかないわね」
「ベーリオンなしでか」
「残念ながら。でも手下は一人もいないから、それだけでも楽なはずよ」
「普通の武器で殺せるのか」
「無理だと思う。でも手はあるわ。試したことはないけど、姉に聞いたことがあるの」
「きみに家族がいたとは意外だな」
「まあ、スパーホークったら!」少女は声を上げて笑った。「わたしの家族は、あなたが思ってるよりずっとずっとたくさんいるのよ。みんなを呼んできて。シーカーはもうすぐこの道を通るわ。行く手をふさいで。わたしはセフレーニアを呼んでくる。シーカーはきっと足を止めて考えるわ――つまりアザシュが考えるってことね。あれの心はアザシュのものだから。アザシュは傲慢なやつだし、セフレーニアをからかう機会があれば逃したりしないはずよ。その隙《すき》をついて、わたしがシーカーを攻撃する」
「殺すのか」
「まさか。わたしたちは生き物を殺したりしないの。自然の力にそれをやらせるだけよ。さあ、行って。もう時間がないわ」
「よくわからないな」
「わからなくてもいいから、みんなを呼んできて」
騎士たちは二股の分岐のところで、槍を構えて道をふさいだ。
「あの子は自分の言ってることが本当にわかってるのかね」ティニアンが疑わしげにつぶやく。
「そう願いたいものだ」スパーホークが答えた。
と、死にそうなほど消耗した馬の苦しげな息遣いの音が聞こえてきた。よろめくような蹄の音に混じって、鋭い口笛と鞭《むち》の音も聞こえる。黒いローブを着て鞍の上にうずくまったシーカーが、死にかけた馬を無慈悲に駆り立てながら坂の向こうに姿を現わした。
「止まれ、地獄の犬よ、おまえの道はここまでだ!」ベヴィエが凛とした声で叫んだ。
「いつかあいつに言って聞かせてやる必要がある」アラスがスパーホークにささやいた。
それでもシーカーは用心深く馬を止めた。
そこへフルートを脇に従えたセフレーニアが、木立の中から姿を現わした。小柄なスティリクム女性の顔は、いつにも増して青ざめていた。奇妙なことにスパーホークは、今まで教母がこれほど小柄だとは意識したことがなかった。背丈はフルートとあまり違わないくらいだ。その存在があまりにも大きくて、なぜかアラスと同じほど背丈があるように感じてしまう。
「また会うと約束したのはこのことですか、アザシュ」からかうような教母の声が響いた。「だとしたら、用意はできていますよ」
「セフレーニアか[#「セフレーニアか」は古印体]――」憎々しげな声が答えた。「また会おうとは意外だった[#「また会おうとは意外だった」は古印体]――これがそなたの最期となる[#「これがそなたの最期となる」は古印体]――」
「あるいはあなたの」
「そなたにわしを滅ぼすことはできぬ[#「そなたにわしを滅ぼすことはできぬ」は古印体]――」不気味な笑い声が上がった。
「ベーリオンにはできます。あなたには渡しません。わたしたちが手に入れます。逃げなさい、アザシュ、命が惜しければ。この世界の岩の下に逃げこんで、若き神々の怒りを思い恐怖におののくがいい」
「ちょっとやりすぎじゃない?」タレンがしわがれた声で尋ねた。
「何か企んでるようだ」スパーホークが答える。「セフレーニアとフルートはわざとあいつを怒らせて、突っこんでこさせようとしてるんだろう」
「わたしの目の黒いうちは、そうはさせません!」ベヴィエが声を上げ、槍を構えた。
「動くんじゃない、ベヴィエ!」クリクが吠《ほ》えた。「あの二人には自分たちのしてることがわかってる。おれたちには何もわかってないんだ」
「まだそのようなエレネの者どもと[#「まだそのようなエレネの者どもと」は古印体]――野合しておるのか[#「野合しておるのか」は古印体]、セフレーニア[#「セフレーニア」は古印体]――そなたがさほどに貪欲であるなら[#「そなたがさほどに貪欲であるなら」は古印体]――わがもとへ来《きた》れ[#「わがもとへ来れ」は古印体]――わしがそなたの欲望を満たしてやろう[#「わしがそなたの欲望を満たしてやろう」は古印体]――」
「もうあなたにそんな力はありませんよ、アザシュ。去勢されたのを忘れたのですか。あなたは神々の中の鼻つまみでした。だから神々はあなたの能力を奪い、永遠の苦痛と後悔を課したのです」
消耗しきった馬の上の怪物が怒りの叫びを上げると、セフレーニアはそっとフルートにうなずいて見せた。少女は笛を唇に当て、吹き鳴らした。旋律はすばやく、軽快で、ときに不協和音が混じる。シーカーはあとじさりする様子を見せた。
「そんなことをしても無駄だ[#「そんなことをしても無駄だ」は古印体]――まだ時間はある[#「まだ時間はある」は古印体]――」アザシュが甲高い声を上げる。
「そう思うのですか、無敵のアザシュ」セフレーニアはからかうように答えた。「長きにわたる幽閉で、能力ばかりか知性まで失ってしまったようですね」
シーカーが怒りに絶叫する。
「去勢された弱小な神よ」セフレーニアはなおもいたぶりつづけた。「不潔なゼモックに戻り、もはや永久にあなたから奪い去られた歓びを思って臍《ほぞ》をかむがいい」
アザシュが絶叫し、フルートの笛の音がますます速くなる。
何かがシーカーに起きはじめていた。黒いローブの下で身体が歪《ゆが》み、フードの下からは関節を鳴らすような、恐ろしい音が聞こえている。いきなり身体が反り返って、シーカーは死にかけた馬から地面に落ちた。蠍の前肢のような手を伸ばして、よろめくように前に這《は》い進む。
聖騎士たちは反射的に、セフレーニアと少女を守る位置に動いた。
「退っていなさい!」教母の声が飛んだ。「もう進行は止められません」
シーカーはのたうちながら黒いローブをむしり取った。スパーホークは突き上げてきた吐き気を抑えた。シーカーは胴体が長く、その中央部は蜂のようにくびれていた。全体が灰色の、膿《うみ》のようなものに覆われている。細い手足にはいくつもの関節があり、顔に当たる部分についているのは二つの巨大な複眼と、先の尖《とが》った、牙のようなものにぐるりと囲まれた口だった。
アザシュがフルートに向かって何か叫んだ。スティリクム語のように思えたが、スパーホークには何と言ったのかわからなかった。わからなくてよかった、と騎士は思った。
と、ばりばりと恐ろしい音がして、シーカーの身体が裂けはじめた。中に何かがいてしきりに身をよじり、外に出ようとしている。身体の裂け目が大きくなり、中のものが姿を現わしはじめた。黒い身体がつややかに輝き、肩からは透明な羽根が広がっている。二つの大きな複眼と繊細な触角があるものの、口は見当たらない。それは胴震いして身もだえ、今や小さく縮んでしまったシーカーの皮の中から抜け出した。すっかり抜け出てしまうと土の上にうずくまり、羽根を乾かすためだろう、しきりに羽ばたきを始めた。羽根が乾いて、血かと思えるものが流れこむ。羽根の動きが速くなり、目にも止まらぬほどになった。スパーホークたちの目の前で不気味な羽化を果たした怪物は、空中に飛び上がり、東の空に姿を消した。
「止めないと! 逃げてしまう!」ベヴィエが叫んだ。
「あれはもう無害よ」フルートは笛を口から離していた。
「何をしたんです」ベヴィエの口調に畏怖《いふ》がにじんだ。
「魔法で成熟を早めただけ。姉は正しい呪文を教えてくれたみたいね。あれはもう成虫で、生殖本能しか残っていないの。つがいを求める本能までは、さすがのアザシュにも抑圧できないわ」
「あの侮辱の応酬は何だったんです」カルテンがセフレーニアに尋ねた。
「アザシュを怒らせてシーカーから注意をそらし、フルートが呪文をかけやすくしたのです。不愉快な真実をあれの面前に投げつけたのはそのためです」
「いささか危険だったんじゃないですか」
「とても」
「成虫がつがいの相手を見つけたりはしないだろうね」ティニアンがフルートに、おそるおそる声をかけた。「世界じゅうにシーカーが跋扈《ばっこ》するところなんて、見たくないからな」
「相手は見つからないわ。この地上にいるのはあれ一匹だけなの。もう口もないから、人を襲うこともない。一週間ばかりむなしく飛びまわるだけよ」
「そのあとは」
「そのあと? 死ぬのよ」フルートの口調はぞっとするほど無感動なものだった。
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20[#「20」は縦中横]
シーカーの抜け殻を街道からどけると、一行は木立に戻ってグエリグを待ち受けた。
「今どのへんだ」スパーホークがフルートに尋ねた。
「湖の北端の近くね。今は移動してないわ。たぶん霧が晴れたんで、農奴が畑に出てきたんでしょう。人目を避けて隠れてるんだと思う」
「ということは、ここに来るのは夜になってからってことか」
「たぶんそうね」
「暗くなってからトロールに出会うのは、あまり気が進まないな」
「わたしが明るくしてあげるわよ。少なくとも必要な程度にはね」
「そいつはありがたい」スパーホークは顔をしかめた。「シーカーにあんなことができるなら、どうしてもっと早くやらなかったんだ」
「時間がなかったの。いつも不意を衝《つ》かれてたから。あの呪文を使うには、準備に少し時間がかかるのよ。どうしてもそんなに話をしなくちゃだめなの? ベーリオンに集中したいんだけど」
「失礼。アラスと話すことにするよ。トロールとどう戦えばいいのか、詳しく聞いておきたいから」
巨漢のジェニディアン騎士は木の下で居眠りをしていた。「どうかしたか」と片目だけ開けて尋ねる。
「フルートの話では、グエリグはどこかに隠れているらしい。とりあえず移動はしていない。ここへ現われるのは、おそらく今夜になる」
アラスはうなずいた。「トロールは闇の中で移動するのを好む。夜に狩りをするからな」
「どう対処するのがいちばんいいんだ」
「槍だな。全員で一度に突撃すれば、一人くらいは運よく急所を突けるだろう」
「運に頼るにはことが重大すぎるようだが」
「やってみる価値はある。とにかく手始めだ。そのあとは剣か斧を使う。だが用心してかからないとだめだ。トロールの場合、とくに腕に気をつけろ。とても長いし、見かけ以上に器用だ」
「ずいぶんと詳しいな。戦ったことがあるのか」
「何度かあるが、しょっちゅうやりたいと思うことじゃない。ベリットはまだ弓を持ってるか」
「持ってると思う」
「それはいい。トロールを相手にするには、まず弓を使うのがいちばんだ。矢で動きを鈍らせて、それから止めを刺す」
「トロールは武器を使うのか」
「棍棒くらいだ。鉄や鋼を細工するような技術は持ってない」
「言葉はどこで覚えた」
「ヘイドの騎士館にペットのトロールがいた。幼いうちに見つけて、連れてきたんだ。トロールは生まれつき言葉が話せる。かわいいやんちゃ坊主だったよ――少なくともはじめのうちは。そのうちにおれたちを恨むようになったがな。言葉はそいつから習った」
「恨むようになったというのは?」
「あいつが悪かったわけじゃない。あいつが思春期を迎えても、おれたちには雌を狩ってきてやる時間がなかったんだ。それに食欲がすさまじかった。毎週牛か馬を一頭は平らげるんだ」
「最終的には、どうなったんだ」
「ブラザーの一人が餌《えさ》をやりにいって、襲われた。それで殺すしかないということになった。五人がかりで、しかもほとんどが一週間ばかり寝こむことになった」
「かついでるんじゃなかろうな」スパーホークは疑わしげに尋ねた。
「どうしてそんなことを。トロールはそう手強《てごわ》い相手じゃない。武装した戦士がたくさんいればな。腹に矢を受けると、やつらはたいてい用心深くなる。本当に気をつけなくちゃならんのは、オーガーだ。やつらには何かに用心するほどの知恵もない」アラスは顎《あご》を掻《か》いた。「以前、ヘイドのブラザーの一人に横恋慕した雌オーガーがいた。オーガーとしてはそれほどひどい顔でもなかったし、毛皮もそこそこきれいにしてたし、牙も磨き上げていた。花崗岩を噛《か》んで磨くんだ。とにかく、その雌オーガーはヘイドの騎士の一人に熱を上げた。森の中をうろついては、その男のために歌をうたうんだ――あれほどの騒音はちょっとほかにない。百|歩《ペース》以内にある松葉が全部落ちてしまうほどの歌だ。その騎士はとうとう耐えられなくなって、僧院に入ってしまった。雌オーガーはそれでもあとを追っていったものだ」
「完全にわたしをかついでるな、アラス」
「おいおい、スパーホーク」アラスがやんわりと抗議の声を上げる。
「つまりグエリグを倒すには、離れたところから矢を射かければいいんだな」
「それが手始めだ。いずれは近づかなくちゃならん。トロールの毛皮は厚くて丈夫だ。矢はあまり深く刺さらないし、闇の中では狙いも定めにくい」
「フルートが明るくしてくれるそうだ」
「あの子はとても変わってるな――スティリクム人としてさえ」
「まさしくそのとおりだ」
「本当はいくつくらいだと思う」
「見当もつかない。セフレーニアにしても、手がかりさえくれようとしないんだ。ただ見かけよりずっとずっと年長で、思いもよらないほど賢いってことだけは確かだ」
「シーカーを追い払った手際から見て、しばらくあの子の言うとおりにしてみてもよさそうだ」
「賛成だな」
「スパーホーク、ちょっと来て」少女の呼ぶ声が聞こえた。
「あの横柄なところがなければいいんだがな」スパーホークはそうつぶやき、フルートのもとへ向かった。
「グエリグがおかしなことをしてるの」スパーホークがやってくると、少女が言った。
「どうしたんだ」
「湖の上を移動してるのよ」
「船を見つけたな。アラスの話では、泳げないはずだ。どっちへ向かってる」
フルートは目を閉じて意識を集中した。
「だいたい北西ね。ヴェンネの街を避けて、西岸に出ようとしてるみたい。迎え撃つつもりなら、少し南下しないと」
「みんなに知らせてこよう。どのくらいの速度で動いてる」
「今のところとてもゆっくりね。船の漕《こ》ぎ方をよく知らないんじゃないかしら」
「それなら先回りできるだろう」
一行は小さな野営地を引き払い、ヴェンネ湖の西岸を南に向かった。やがて西ペロシアの地に朝陽が昇った。
「ベーリオンの動きから、だいたいの上陸地点を推測できないか」セフレーニアの腕に抱かれたフルートにスパーホークが尋ねた。
「あと半マイルかそこら行けば、向こうが岸に近づいてくるから少しは絞りこめるわ。風とか水流とか、いろいろ問題があるのよ」
「まだ動きはゆっくりなのか」
「前よりもっとゆっくりね。グエリグは肩と腰に異常があるの。船を漕ぐのは容易なことじゃないと思うわ」
「西岸に上陸するのがいつごろになるか、見当はつかないか」
「今の調子だと、明日の朝までは無理でしょうね。今は魚を獲ってる。食べ物が欲しいみたい」
「手でつかんでるのか」
「トロールの手の動きはとてもすばやいのよ。でも湖に出て戸惑ってるみたい。どっちに進めばいいのか、自信がなくなってるようだわ。トロールの方向感覚はとても貧弱で――ただ北だけはわかるの。北極が引き寄せようとする力を地面から感じ取れるから。それも水の上ではお手上げね」
「じゃあつかまえたも同然だ」
「祝宴の支度は、戦ってやっつけてからにしたほうがいいわよ」
「きみは実に気に食わないやつだな、フルート。気がついてたか」
「でもわたしが好きなんでしょ」少女は誰にも抵抗できない無邪気さで答えた。
「どうすればいいんです」スパーホークはお手上げだと言いたげにセフレーニアを見た。「この子にはかなわない」
「質問に答えるのです、スパーホーク」教母が言った。「あなたが思っている以上に重要なことです」
「ああ、主よ助けたまえ」フルートに向かって、「そのとおりだよ。ときどきぶってやりたくなることもあるが、確かにきみが大好きだ」
「それこそが重要なことよ」フルートは満足そうにため息をつき、セフレーニアのローブにくるまって、たちまち寝息を立てはじめた。
一行はヴェンネ湖の西岸を見張りながら、ようやく湖面を包んだ闇の中に目を凝らした。長い夜が更《ふ》けていくにつれ、フルートは見張る範囲を徐々に狭めていった。
「どうしてわかるんだ」真夜中を何時間か過ぎたころ、カルテンがフルートに尋ねた。
「理解できるかしら」フルートはセフレーニアにそう言った。
「カルテンに? たぶん無理でしょう。でも説明したければしてもいいですよ」セフレーニアは微笑んだ。「人生には、時として多少の不満も必要なものです」
「ベーリオンが斜行しているときと、まっすぐこっちに向かっているときでは、違う感じがするのよ」
「ははあ」カルテンは疑わしげにうなずいた。「意味は通るような気がするな」
「どう」フルートは得意げな顔をセフレーニアに向けた。「理解させられると思ったわ」
「一つだけ質問があるんだが――斜行≠チて何だい」
「ああ、これだもの」フルートはセフレーニアの胸に顔を押しつけた。
「なあ、何なんだよ」カルテンは仲間の騎士たちに助けを求めた。
「もう少し南に移動しよう。湖から目を離すなよ」ティニアンが言った。「歩きながら説明してやる」
「あなた!」ちらりと笑みを浮かべたアラスに向かって、セフレーニアが鋭く声をかけた。「何も言ってはいけません」
「おれは何も言ってない」
スパーホークはファランの向きを変え、北に移動しながら暗い湖面に目を凝らした。
その晩は遅くになって月が昇り、湖の上に長い光の道を作り出した。スパーホークはわずかに肩の力を抜いた。闇の中でトロールを探すのは、とても緊張を強《し》いられる作業なのだ。それがずいぶん簡単になったように思えた。あとはグエリグが岸に着くのを待つだけだ。ベーリオンの探索をはじめて以来、いくたび困難と失望に見舞われたかわからないくらいだ。座って待っているだけでいいという今の状況が、スパーホークには却《かえ》って不安なものに思えるほどだった。何かまずいことが起きるのではないかという疑いをぬぐい去ることができない。ラモーカンド国とペロシア国で起きたことが何かの前兆だったとするなら、何も起こらないはずはなかった。この探索は、シミュラの騎士館を出たその瞬間から災厄につきまとわれていた。今だけが特別なのだと考える理由はどこにも見当たらない。
錆色《さびいろ》の空にふたたび日が昇り、褐色の湖水の上に赤銅色の円盤が姿を見せた。スパーホークは見張りの場所になっている木立の中を騎乗のまま通り過ぎ、セフレーニアと子供たちが待っている場所に戻った。
「まだだいぶ遠いのか」疲れた声でフルートに尋ねる。
「まだ岸まで一マイルくらいあるわ。今のところ動いてない」
「どうしてそうしょっちゅう止まらなくちゃならないんだ」トロールは湖を渡る途中で何度も船を止めており、スパーホークは苛立ちを募らせていた。
「おいらの推測を聞きたいかい」タレンが言った。
「聞かせてくれ」
「前に一度、シミュラ川を渡る必要に迫られて船を盗んだことがあるんだ。その船が水漏れしてさ。五分おきに船を止めては、水を掻《か》い出さなくちゃならなかった。グエリグは半時間おきくらいに船を止めてるから、たぶんおいらが盗んだ船ほど水漏れはひどくないんだろうけどね」
スパーホークはしばらく少年を睨《にら》んでいたが、やがて爆笑した。
「ありがとう、タレン」急に気持ちが軽くなったようだった。
「お代はいらないよ」タレンが生意気にそう言った。「いちばん簡単な答が、えてして正しい答なんだ」
「湖には水の漏れる船に乗ったトロールがいて、われわれはそいつが水をすっかり掻い出すまで待っていなくちゃならないわけだ」
「そうだね。うまい要約だと思うよ」
そこへティニアンが普通駆足《キャンター》で駆けつけてきた。
「スパーホーク、西から騎馬隊が近づいてくるぞ」
「数は?」
「多すぎて数えられない」
「見てみよう」二人が木立を抜けると、カルテンとアラスとベヴィエが馬上から西のほうを見つめていた。
「ずっと見てたんだが、サレシア人のように思える」アラスが言った。
「サレシア人がペロシア国で何をしてるんだ」
「ヴェンネで宿の主人が言ってたこと、覚えてるか」とカルテン。「アーシウムで戦争が起きてるとか、西の王国がみんな動きだしてるとか」
「忘れていた。だがわれわれには関係のないことだ。少なくとも今のところは」
クリクとベリットが馬で駆け寄ってきた。
「どうやら見えたようですよ、スパーホーク。ベリットがそう言ってます」
スパーホークは黙って見習い騎士を見つめた。
「木に登ってみたんです」ベリットが説明する。「岸から少し離れて、小さな船が見えました。でも何だか漂流してるみたいで、水が跳ねてるのも見えました」
スパーホークは苦笑した。「タレンの言ったとおりだったらしいな」
「どういう意味です、サー・スパーホーク」
「グエリグは水の漏れる船を盗んで、しょっちゅう止まっては水を掻い出さなくてはならないんだろうとタレンが推理したのさ」
「グエリグが水を掻い出すのを、一晩じゅう待ったっていうのか」カルテンが憮然として尋ねる。
「そのようだな」
「近づいてくるぞ、スパーホーク」ティニアンが西のほうを指差した。
「間違いない、サレシア人だ」とアラス。
スパーホークは悪態をつき、木立の端に馬を寄せた。騎馬隊は隊列を組んで近づいており、列の先頭には鎖帷子に身を包み、紫のケープをつけた巨漢の姿がある。その姿には見覚えがあった。サレシア国のウォーガン王だ。かなり酔っているらしい。その横には痩《や》せた青白い男の姿があった。凝った装飾の、だがどことなく華奢《きゃしゃ》な感じの甲冑を身につけている。
「ウォーガンの隣にいるのは、ペロシア国のソロス王だ」ティニアンが小さな声で言った。「ソロスは大した脅威にはならんな。祈りと断食に明け暮れてるんだ」
「これはまずいぞ、スパーホーク」アラスが言った。「グエリグはもうすぐ上陸する。サレシアの王冠を持ってだ。ウォーガンは何としてもそれを取り戻そうとするだろう。こういうことは言いたくないが、グエリグが上陸する前にウォーガンをここから引き離したほうがいい」
スパーホークは苛立ちのあまり悪態をついた。前夜の不安が現実になろうとしている。
「大丈夫ですよ、スパーホーク」ベヴィエが力づけるように言った。「ベーリオンの行方はフルートが追っているんです。ウォーガン王をここから遠ざけたら、暇乞《いとまご》いをして戻ってくればいい。それからトロールを追っても遅くはないはずです」
「ほかに手はなさそうだな。セフレーニアと子供たちを呼んできて、ウォーガンを遠ざけることにしよう」
一同はすばやく馬を駆って、セフレーニアとタレンとフルートが待っている場所に戻った。
「ここを引き払わなくてはなりません」スパーホークは残念そうに言った。「ウォーガン王に率いられたサレシア軍が近づいてきています。アラスによれば、われわれがここにいる目的を知ったなら、ウォーガンはただちに王冠をわれわれの手から取り上げてしまうだろうということです。移動しますよ」
一行は湖のそばの木立を疾駆《ギャロップ》で離れ、北に向かった。思ったとおり、サレシア軍部隊は追跡してきた。
「せめて数マイルは稼いでおきたい」スパーホークは仲間に向かって叫んだ。「グエリグが逃げられるようにしないと」
北東に伸びてヴェンネに向かう街道をさらに疾駆で、追ってくるサレシア軍をことさらに無視して駆けつづける。
「どんどん近づいてくるよ」振り返らずに背後を見ることのできるタレンがスパーホークに報告した。
「もう少しグエリグから引き離したかったが、このあたりが精いっぱいか」
「グエリグはトロールだ、スパーホーク」とアラス。「隠れるのはお手のものだ」
「わかった」スパーホークはこれ見よがしに振り返り、片手を伸ばして停止の合図をした。手綱を引き、馬首をめぐらしてサレシア軍と対面する。
サレシア軍部隊も馬を止め、中の一人がゆっくりと進み出た。
「サレシアのウォーガン国王陛下からお言葉がある。陛下はここに同行しておいでだ」
「結構」スパーホークは短く答えた。
「ウォーガンは酔ってる。外交的にやるんだ、スパーホーク」アラスがささやいた。
ウォーガン王とソロス王が近づいてきて、手綱を引いて馬を止めた。危なっかしく鞍の上でぐらつきながら、ウォーガンが声を上げる。
「ほほお、ソロス、聖騎士の一団が引っかかったぞ」瞬きをして騎士たちの顔を眺め、「知った顔があるな。アラス、こんなペロシアくんだりで何をしておる」
「教会の仕事です、陛下」アラスが穏やかに答える。
「その鼻の折れた騎士は、パンディオン騎士団のスパーホークだったな。なぜあんなに馬を飛ばしておったのだ」
「急を要する使命なのです、陛下」
「どういう使命だ」
「それをお話しすることは許されておりません。いつもの教会の仕事とご理解ください」
「つまり政治向きのことだな。教会は政治に首を突っこまんでもらいたいものだ」
「しばらくご同行なさいますか、陛下」ベヴィエが丁重に尋ねた。
「いや、逆方向になるようだな。それにしばらくというわけにもいかん」ウォーガンは一同を見まわした。「アーシウム国で何が起きているか、聞いてはおらんのか」
「いくつか噂は耳にしております、陛下」ティニアンが答えた。「ですが、具体的なことは何も」
「ならば余が具体的なことを教えてやろう。レンドー国がアーシウム国を侵略したのだ」
「そんなばかな!」スパーホークが叫んだ。
「コムベに住んでいた者たちに、ばかなことかどうか訊《き》いてみてはどうだ。レンドー人はあの街を略奪して、火を放った。住人は難民となって、首都ラリウムに向かっておる。ドレゴス王は相互防衛条約を発動した。ここにいるソロスと余は、とりあえずできる限りの手勢を集めて救援に向かうところだ。アーシウムまで南下して、レンドーの疫病神《やくびょうがみ》を永遠に駆逐してやる」
「陛下とご同道できればいいのですが、われわれには別の使命があります。たぶんこちらの仕事が片付けば、合流できると思います」
「もう合流しているではないか、スパーホーク」ウォーガンがむっつりと言った。
「急を要する使命があるのです、陛下」
「教会は永遠だ、スパーホーク。そして辛抱強い。そなたの使命はあとでもよかろう」
そのへんが限界だった。もともとあまり我慢強いたちではないスパーホークは、サレシアの国王を正面から見据えた。わめいたり悪態をついたりすることで怒りを発散できる者たちと違い、スパーホークは怒りを募らせるほど氷のように冷静になる。
「われわれは教会騎士です、陛下」その声は平板な、感情のこもらないものだった。「地上の王に従うものではありません。われわれは神と母なる教会に対して責任を負っているのです。教会の命令には従いますが、陛下の命令には従えません」
「余の背後には千騎の精鋭がついているのだぞ」
「どの程度まで数を減らしてもいいとお思いですか」騎士の口調は不気味なほど静かだった。鞍の上で姿勢を正し、面頬《めんぼお》を下ろす。「時間を節約しましょう、サレシアのウォーガン」公式の呼びかげをして、右手の籠手《こて》をはずす。「あなたの態度はこの場にふさわしくない、不信心なものとさえ思える。よってここに決闘を申しこむ」何気ないとさえ言えそうな様子で、スパーホークは籠手をサレシア王の前の路上に投げ出した。
「これで外交的なつもりか」困ったように、アラスがカルテンにささやいた。
「あいつのやり方からして、外交にいちばん近いものだろうな」カルテンは鞘《さや》の中で剣をゆるめた。「斧の用意をしといたほうがいいぞ、アラス。面白い朝になりそうだ。セフレーニア、子供たちを連れてうしろへ」
「ばかを言うな、カルテン。自分の王に向かって斧を振るえだと」
「そんなことは言ってない。葬列の準備だ。ウォーガンとスパーホークがやり合ったら、鎧袖一触《がいしゅういっしょく》でもうウォーガンは天の美酒を傾けてるはずだからな」
「そうなれば、おれはスパーホークと戦わねばならん」アラスが思い悩む口調で言った。
「それはおまえ次第だ、わが友」カルテンも困った口調になった。「でもおれはあまり勧めんな。たとえスパーホークを倒しても、そのあとはおれが相手だ。おれは汚い手を使うぞ」
「そのようなことは許さん!」割れ鐘のような声が響いた。サレシア兵の隊列を押しのけて進み出た馬上の男は、アラスを上回る巨躯の持ち主だった。鎖帷子を着て、オーガーの角のついた兜をかぶり、巨大な斧を持っている。首に巻いた幅広の黒いリボンが、聖職者であることを示していた。
「籠手を拾うがいい、サー・スパーホーク。決闘の申しこみは撤回するように。これは母なる教会の命令だ」
「誰だ、あれ」カルテンがアラスに尋ねた。
「バーグステン。エムサットの大司教だ」
「大司教? あの格好で?」
「バーグステンは普通の聖職者とは少し違う」
「猊下――余は――」ウォーガンが言いよどんだ。
「剣を引きなさい、ウォーガン」バーグステンの声が轟《とどろ》いた。「それともわたしと一対一で戦う気がおありか」
「とんでもない」ウォーガンはむしろ心安げにスパーホークに話しかけた。「おまえはどうだ」
スパーホークは称讃の目でエムサットの大司教を見つめた。
「わたしもごめんですね。どうすればあんなに大きくなるんです」
「あれは一人っ子だったのだ。毎晩夕食をめぐって、九人の兄弟姉妹と争う必要がなかった。ここらで休戦ということにせんか、スパーホーク」
「それが分別というものらしいですね、陛下。ですが、本当に重要な用事があるのですよ」
「その話はあとにしよう――バーグステンが祈っているときにでも」
「これは教会の命令だ!」エムサットの大司教の大音声が響いた。「教会騎士はこの聖なる使命に加わるものとする。エシャンドの異端は神に歯向かう輩《やから》だ。アーシウムの岩山にその屍《しかばね》をさらさねばならん。神よりの力を得て、教会の子らよ、ともにこの偉大なる使命のために進もうではないか」バーグステンは馬首を南に向けた。「籠手を忘れるなよ、サー・スパーホーク。アーシウムに着いたら必要になる」
「はい、猊下」スパーホークは食いしばった歯のあいだから声を押し出した。
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21[#「21」は縦中横]
正午ちょうどにペロシアのソロス王は停止を命じた。召使たちに天幕を張るよう指示し、国王付き司祭とともに天幕の中に引っこんで、正午のお祈りを始める。
「聖歌隊の少年みたいなやつだ」ウォーガン王は小さな声でつぶやき、「バーグステン!」と呼ばわった。
「御前に、陛下」戦士のような大司教が、国王の背後から静かに返事をした。
「まだ不機嫌はおさまらんのか」
「わたしは不機嫌になどなっておりません、陛下。ただ命を救おうとしただけです――陛下のお命も含めて」
「それはどういう意味だ」
「陛下が愚かにもサー・スパーホークと決闘していれば、今夜は天国で食事をなさっていたはずです――あるいは、神の審判の次第によっては、地獄でということになりますか」
「ずいぶんな言いようだな」
「サー・スパーホークは評判以上の遣《つか》い手です。失礼ながら、陛下など敵ではございません。ところで何のご用でしょうか」
「ラモーカンド国まではどのくらいだ」
「湖の南端の国境まで――二日ほどでしょうか」
「いちばん近いラモーク人の街は」
「それならばアグナクですな。国境を越えてすぐ、やや東寄りのところです」
「わかった。そこへ向かおう。ソロスを自分の国から引きずり出して、礼拝堂と縁を切らせてやる。もしあと一度でも足を止めてお祈りを始めたら、絞め殺してやるつもりだ。今日じゅうに部隊を選抜しよう。もう南への進軍は始まっておる。ソロスを先遣して、ラモーク国の貴族どもを説得させる。おまえはソロスといっしょに行け。もしやつが一日に一度以上お祈りをしたら、余が許すから、頭を叩き割っていい」
「それは面白い政治的効果をもたらすでしょうな、陛下」
「本当のことを報告する必要はない。事故だったとでも言えばいい」
「頭を叩き割っておいて、事故もないでしょう」
「何か考え出すさ。よく聞け、バーグステン。ラモーカンドの貴族どもの力は不可欠だ。寄り道をして巡礼などさせるな。動きまわらせろ。必要なら聖句を引用しても構わん。集められるだけのラモーク人を集めて、エレニア国へ向かうのだ。アーシウム国境で合流しよう。余はデイラ国のアシーへ行かねばならん。オブラーが戦時評議会を招集したのでな」あたりを見まわし、不興げに、「スパーホーク、どこかへ行ってお祈りでもしてこい。聖騎士が立ち聞きとはな」
「はい、陛下」スパーホークが答えた。
「おまえの馬はずいぶん醜いな」批判的な目でファランを見ながらウォーガンが言った。
「性格がぴったりなんです」
「おれだったら気をつけますよ、陛下」スパーホークといっしょに仲間のところへ戻りながら、カルテンが肩越しに声をかけた。「噛《か》むんです」
「どっちがだ。スパーホークか、馬か」
「好きなほうを選んでください、陛下」
二人は馬を下りて仲間と合流した。
「グエリグはどうしてる」スパーホークがフルートに尋ねた。
「まだ隠れてるわ。少なくともわたしにはそう思える。ベーリオンが動いていないの。たぶん暗くなるまで待つつもりね」
スパーホークはうめいた。
カルテンがアラスを見た。「バーグステンの話を聞かせてくれ。武装した聖職者なんて、見たことがない」
「以前はジェニディアン騎士だった」アラスが答えた。「聖職者にならなかったら、今ごろは騎士団長だったろう」
カルテンはうなずいた。「いかにも扱い慣れた感じで斧を持ってたからな。しかし騎士団から聖職の道に入るのは、いささか異例じゃないのか」
「それほどでもありませんよ」ベヴィエが口をはさんだ。「アーシウムの高位の聖職者の中には、シリニック騎士だった者が大勢います。いずれはわたしも騎士団を離れて、もっと個人的に神にお仕えしようと思っているんです」
「こいつには可愛い女の子を見つけてやる必要があるな、スパーホーク」アラスがささやいた。「ばかな計画を諦《あきら》められるように、罪深い生活をさせてやらないと。こんないいやつを教会なんかに奪われるのは惜しい」
「ナウィーンはどうだい」横に立っていたタレンが提案した。
「ナウィーンて誰だ」とアラス。
タレンは肩をすくめた。「シミュラで一番の娼婦さ。仕事熱心でね。スパーホークも会ったことがあるよ」
「本当か」アラスは片方の眉を上げてスパーホークを見た。
「仕事で会っただけだ」
「それはそうだろうが――おまえの仕事か、女の仕事か、どっちだ」
「どうやって脱出したらいいと思う」スパーホークは咳払《せきばら》いをし、あたりにウォーガン王の部下がいないことを確かめてから口を開いた。「グエリグがあまり遠くまで逃げてしまう前に、ここから抜け出さなくてはならない」
「今夜がいい」ティニアンが言った。「噂では、ウォーガン王は毎晩寝るまで飲んでるそうじゃないか。そのあとなら問題なく抜け出せるさ」
「エムサットの大司教から受けた直接の命令に背《そむ》くことはできませんよ」ベヴィエが驚いて声を上げる。
「もちろんさ、ベヴィエ。ちょっと抜け出して、田舎の司祭か僧院長を探さなくちゃならない。その人から今までの作業を続けるように命令を出してもらうんだ」カルテンがこともなげに言った。
「それは背徳です!」ベヴィエは息を呑んだ。
「知ってるとも。ぞっとするだろう」とカルテン。
「しかし解釈論的にはまったく合法なんだ」ティニアンが若いシリニック騎士に請け合った。「法の抜け道を使うことになるのは認めるが、合法には違いない。われわれは聖職に就いている者の命令に従うという誓いを立てているわけで、神に直接に仕えている司祭や僧院長の命令のほうが、バーグステン大司教の命令よりも優先されることになる。そうだろう」ティニアンはまっ正直に目を大きく開いていた。
ベヴィエは困ったようにそれを見つめていたが、やがて笑いだした。
「これなら何とかなりそうだな、スパーホーク」アラスが言った。「ただ、おまえの知り合いのナウィーンは、念のために取っておいたほうがいい」
「ナウィーンて誰です」ベヴィエが戸惑った顔で尋ねた。
「わたしの知人だ。いつか紹介してやろう」とスパーホーク。
「名誉に思います」ベヴィエがまじめな顔で答えた。
タレンはそっとその場を離れ、身をよじって笑い転げた。
不機嫌そうな顔つきの徴兵されたペロシア人兵士の軍団に追いついたのは、その日の午後遅くだった。スパーホークが危惧していたとおり、野営地の周囲はウォーガンの手勢が重武装で見張りに立っていた。
日没の直前にスパーホークたちのための天幕が張られ、一行は中に入った。スパーホークは甲冑を脱ぎ、鎖帷子を身に着けた。
「みんなここにいてくれ。暗くなる前にあたりを見まわってくる」剣帯を着けると、騎士は独りで天幕から出ていった。
外には凶悪な顔つきのサレシア人が二人立っていた。
「どこへ行くつもりだ」片方の男が尋ねた。
スパーホークは無表情に、じっと相手を見つめて待っている。
「――閣下」相手はしぶしぶそう付け加えた。
「馬を見てきたい」スパーホークは答えた。
「軍馬係がちゃんと見ています、騎士殿」
「その点について議論するつもりはないと思うが、ネイバー」
「いや――もちろんです、騎士殿」
「けっこう。馬はどこにつないである」
「ご案内します」
「それには及ばない。場所だけ教えてくれ」
「いずれにしても同行しなくてはなりません。国王命令です」
「わかった。案内してくれ」
歩きはじめたとき、急に荒っぽい声がかかった。「よう、おい、騎士殿!」スパーホークはあたりを見まわした。
「あんたと仲間が連れてこられるのが見えたんでな」それは馬賊ペロイのドミ、クリングだった。
「やあ、わが友」スパーホークは頭を剃った部族の頭目に挨拶した。「ゼモック人には追いつけたか」
クリングは笑い声を上げた。
「袋いっぱいの耳が集まった。立ち向かってこようとしたんだ。ばかなやつらだ、ゼモック人は。そこへソロス王がこの寄せ集めの軍勢を率いて現われたんで、懸賞金をもらうためについてきたというわけだ」クリングはつるりと頭を撫でた。「それもまたいい。故郷へ戻ってもあまりすることがないんだ。雌馬の出産ももう終わったしな。あの若い盗賊はまだいっしょにいるのか」
「さっき見たときはまだいたな。もちろんもう何か貴重品を盗んで姿を消したかもしれんが。あの子は必要とあれば、実にうまく姿を消すんだ」
「そうだろうとも、騎士殿。よくわかる。わが友ティニアンはどうしてる。全員そろってるみたいだったんで、訪ねていこうと思ってたんだが」
「ティニアンなら元気だ」
「それはいい」ドミは真剣な顔でスパーホークを見つめた。「ところで、軍隊のエチケットを教えてもらえないか。正規の軍隊に加わるのは初めてなんだ。略奪については、一般にどんな規則があるんだろう」
「敵兵の死体だけを漁《あさ》るぶんには、誰もとくに気には留めないだろう。味方の兵士の死体を漁るのは悪いことだとされている」
「ばかな規則だな。死体が所有権のことなど気にするか。レイプはどうだ」
「まずいだろうな。アーシウムは友好国だし、あそこの国民は女性の貞操に神経質だ。ウォーガンは従軍する娼婦をかき集めるだろうから、そっちで発散することだ」
「娼婦は退屈だからな。若くてきれいな処女がいいんだが。なあ、この行軍はいよいよもって面白くなくなってきた。放火はどうだ。盛大に火の手を上げるのは大好きなんだが」
「それは絶対にやめたほうがいい。さっきも言ったように、アーシウムは友好国だ。そこの街や家々は、アーシウムの国民のものなんだ。火をかけられたらきっと頭にくるだろう」
「文明的な戦争というのはつまらんものだな、騎士殿」
「わたしにはどうしようもないよ、ドミ」スパーホークは両手を広げた。
「こういう言い方を許してもらえるなら、問題は甲冑だと思う。鋼鉄でがっちり周囲を固めているせいで、大切なものが見えなくなっているんだ――略奪とか、女とか、馬とかいったものが。それは堕落だと思うがな、騎士殿」
「確かに堕落だよ、ドミ」スパーホークは譲歩した。「だが何世紀もの伝統があるんだ。理解してもらいたいな」
「伝統そのものに問題はない――大切なものに介入してこない限りは」
「心に留めておこう。われわれの天幕はすぐそこだ。きみに会えばティニアンは喜ぶだろう」スパーホークはサレシア人の歩哨のあとについて野営地を横切り、馬がつながれているところまで歩いていった。ファランの蹄を調べているふりをしながら、暮れかけた野営地のまわりにじっと目を凝《こ》らす。前に気づいていたとおり、何十騎という兵士が周囲を巡回していた。「ずいぶん警戒厳重なんだな」騎士はサレシア人兵士に話しかけた。
「徴兵したペロシア人は、この遠征にあまり乗り気ではないのです。せっかく集めた兵士が、夜中にみんな逃げ出してしまっては困りますから」
「なるほどな。では戻ろうか」
「はい、騎士殿」
ウォーガンが野営地の周囲に見張りを置いていることで、事態は面倒なものになっていた。天幕の外の歩哨は言うまでもない。グエリグはベーリオンを持ってどんどん遠ざかっており、しかもスパーホークはそれをどうすることもできない。単身ならば隠密行動と実力行使を取り混ぜて野営地を抜け出すこともできただろうが、それではどうにもならなかった。フルートがいなければ逃げるトロールのあとを追うこともかなわないし、フルートだけを仲間の護衛もなしに連れ出したのでは、少女をとんでもない危険にさらすことになる。何とかほかの手だてを考えるしかなかった。
サレシア人の歩哨について徴兵されたペロシア人の天幕のそばを通りかかったとき、スパーホークは見知った顔に気がついた。
「オキュダ、きみか」信じられない気持ちで声をかける。
牛の革の鎧を着た四角い顎の男が立ち上がった。顔にはとくに嬉しそうな表情も浮かんではいない。
「残念ながらそのとおりです、閣下」オキュダが答えた。
「どうしたんだ。なぜガセック伯爵のところにいない」
オキュダは同じ天幕を使っている者たちにちらりと視線を走らせた。
「内密にお話しできませんか、サー・スパーホーク」
「もちろんだとも」
「こちらへどうぞ」
「見える場所にいるから」スパーホークは見張りにそう言ってオキュダといっしょに天幕のそばを離れ、毛羽立った樅《もみ》の若木が生い茂る木立のあたりで足を止めた。ここなら誰かが天幕を張ろうとする心配はない。
「伯爵はご病気なのです、閣下」オキュダが暗い顔で言った。
「それをあの狂女と二人きりにして置いてきたのか。きみには失望したぞ、オキュダ」
「いささか状況が変わったのです」
「ほう?」
「レディ・ベリナはもう亡くなりました」
「何があった」
「わたしが殺したんです」オキュダの声は弱々しかった。「やむことのないわめき声に、もう耐えられませんでした。最初のうちはレディ・セフレーニアの教えてくれた薬草が効いて静かだったのですが、しばらくすると薬に慣れたのか、効き目はなくなってしまいました。分量を増やしても同じなんです。ある晩、夕食を塔の壁の覗き穴から差し入れたとき、あの方の姿が見えました。まるで狂犬のように、口から泡を吹いてわめき散らしていました。苦しみ抜いているのです。それを見てわたしは、平安を与えようと決心したのです」
「いずれはそうなると思っていた」スパーホークは思いきってそう言った。
「おそらくは。ただ、やはりあの方をあっさり殺してしまうことはできませんでした。薬草はもう効きませんでしたが、ベラドンナの毒は効果がありました。毒を混ぜた食事を与えると、あの方はすぐに静かになりました」オキュダの目に涙が光った。「それからハンマーを手にして壁に穴をあけ、斧を使って言われたとおりにしました。あれほど難しい仕事は、生涯はじめてです。遺体は布に包んで屋敷から運びだし、焼きました。そうなってみると、とてもまともに伯爵のお顔を見られません。わたしは罪を記した書き置きを残して屋敷を出奔し、近くの樵《きこり》の村で伯爵のお世話をする召使を雇いました。もう何も危険はないと説明しても、倍の給金を払わなければなりませんでした。あとはその村をあとにして、この軍隊に加わったんです。すぐに戦いが始まればいいと思います。わたしの人生は終わりました。今はただ、早く死にたいだけです」
「きみはなすべきことをしただけだ、オキュダ」
「そうかもしれませんが、だからといって罪が消えるわけではありません」
スパーホークは心を決めた。「いっしょに来てくれ」
「どこへです、閣下」
「エムサットの大司教に会いにだ」
「レディ・ベリナの血で汚れた手をして、高位の聖職者の前には出られません」
「バーグステン大司教はサレシア人だ。そんなことを気にするとは思えん」騎士はサレシア人の見張りに声をかけた。「エムサットの大司教猊下に会わなくてはならない。天幕まで案内してくれ」
「わかりました」
見張りの男は野営地を横切り、二人をバーグステン大司教の天幕まで先導した。蝋燭《ろうそく》の光の中では、バーグステンの荒々しい顔はことさらサレシア的に見えた。目の上には厚く骨が張り出し、頬《ほお》と顎ががっちりと張っている。鎖帷子は着たままだが、オーガーの角のついた兜は脱いで、斧は部屋の隅に立てかけてあった。
「猊下」スパーホークは一礼した。「この友人は魂の問題を抱えています。お助けいただけないでしょうか」
「それがわたしの仕事だ、サー・スパーホーク」
「ありがとうございます。このオキュダは、かつて修道僧だったことがあります。その後ペロシア北部のある伯爵に仕えるようになりました。その伯爵の妹が邪教と関わりを持ち、人間を生贄《いけにえ》にする儀式を行なって、一定の力を得るに至りました」
バーグステンの目が丸くなる。
「ともあれ、伯爵の妹はその力を失うとともに発狂し、兄の屋敷に幽閉されました。オキュダはその面倒を見ていましたが、苦しむありさまを見ていられなくなり、憐《あわ》れみの心から毒を盛りました」
「恐ろしい話だな、サー・スパーホーク」
「恐ろしい出来事があったのです」スパーホークはうなずいた。「今、オキュダは罪の意識に苛《さいな》まれ、魂が失われたと感じています。これからの人生に立ち向かっていけるように、罪の許しを与えていただけませんか」
武装したバーグステン大司教は、悩みやつれたオキュダの顔を見つめて考えこんだ。その目には厳しい色と同情の色が同時に浮かんでいた。しばらく考えて結論が出たらしく、大司教は背筋を伸ばした。表情が硬くなった。
「許しを与えることはできんな、サー・スパーホーク」
スパーホークは抗議しようとしたが、大司教は分厚い片手を上げてそれを押しとどめ、のっそりと立っているペロシア人に向き直った。「以前は修道僧だったそうだな」
「はい、猊下」
「よろしい。ではおまえは償いのためにふたたび修道僧生活に戻り、ブラザー・オキュダとしてわたしに仕えるものとする。おまえがすべての罪を償ったとわたしが認めたら、そのときに罪の許しを与えよう」
「げ、猊下――」オキュダはすすり泣きながら膝をついた。「どう感謝すればいいのか――」
バーグステンは酷薄な笑みを浮かべた。
「その気持ちがいつまで続くかな、ブラザー・オキュダ。すぐにわたしが苛酷な主人だということがわかるだろう。おまえの魂が清められるまで、その罪に数倍する償いをしなければならんかもしれんぞ。では行って、荷物をまとめてくるがいい。これからはこの天幕で、わたしのもとにいてもらう」
「はい、猊下」オキュダは立ち上がり、外に出ていった。
「こういう言い方をお許しいただけるなら、猊下はずいぶんと回りくどいことをなさいますね」スパーホークが言った。
「いや、そういうわけでもないのだ」巨漢の聖職者は微笑んだ。「人間の精神というのがどれほど複雑なものか、よく知っているというだけのことだ。おまえの友だちは、罪を清算するには苦しまなくてはならないと思っている。もしここで即座に罪の許しを与えたら、自分の魂がすっかり清められたのかどうか、生涯悩みつづけることになったろう。あの男は苦しまねばならないと思っている。だから苦しみを与えてやるのだ。適度な苦しみをだがな、もちろん。わたしとて怪物というわけではない」
「オキュダのしたことは、本当に罪なのでしょうか」
「もちろん違う。慈悲の心からしたことだ。あれはいい修道僧になるだろう。じゅうぶんに苦しんだと思ったら、どこかに静かな僧院を見つけて、そこの僧院長にしてやろうと思う。あれこれ悩んでいる暇などなくなるし、教会は善良で忠実な僧院長を獲得できるというわけだ。わたしが数年にわたって無給の下働きを使えるという点は、もちろん言うまでもない」
「あなたは本当の善人ではなさそうですな、猊下」
「本当の善人のふりをしたことなどないぞ。これで終わりだ、サー・スパーホーク。わたしの祝福とともに行くがいい」大司教は小さく目配せした。
「ありがとうございました、猊下」スパーホークはにこりともせずに答えた。
何かとてもいい気分で、騎士は見張りの男といっしょに野営地を歩いていった。自分の問題の解決にはならなかったが、明らかに他人の問題を一つ解決できたのだ。
「クリングが来て、野営地のまわりには見張りがいると教えてくれたぞ」スパーホークが天幕に戻ると、ティニアンが言った。「逃げるのは難しそうじゃないか」
「かなりな」スパーホークがうなずく。
「そうそう、フルートが距離のことを訊《き》きたいそうだ。クリクが荷物の中を見たんだが、地図が見つからなくて」
「鞍袋の中だ」
「だろうと思いましたよ」クリクが言った。
「何を知りたいんだ」スパーホークは鞍袋から地図を取り出し、少女に尋ねた。
「このアグナクからアシーまではどのくらい?」
スパーホークは天幕の中央のテーブルの上に地図を広げた。
「とてもきれいな絵だけど、わたしの問いに答えてはくれないわ」
スパーホークは距離を測った。「三百リーグくらいだな」
「それもやっぱり答えになってないわ。どのくらい時間がかかるか知りたいの」
頭の中ですばやく計算して、「二十日くらいだろう」
フルートは顔をしかめた。「少し短くできるわ」
「何が言いたいんだ」とスパーホーク。
「アシーは海沿いにあるんでしょ」
「そうだ」
「サレシアに渡るには船がいるわ。グエリグはベーリオンを、サレシアの山の中の洞窟に持っていこうとしてる」
「見張りを叩き伏せるのは簡単だぜ」とカルテン。「真夜中に巡回を出し抜くのもわけはない。まだグエリグに追いつけないほど遅れたわけじゃないだろう」
「アシーですることがあるの」フルートが言った。「わたしの用事なのよ。ベーリオンを追いかける前に済ませておかなくちゃならないわ。グエリグの目的地はわかってるから、見つけるのは難しくない。アラス、ウォーガンのところへ行って、アシーまで同行すると伝えてきて。理由は適当にでっち上げればいいわ」
「わかった、レディ」アラスはごくかすかな笑みを浮かべた。
「そういうの、やめてよね。そうそう、ウォーガンの天幕へ行く途中で、誰かに夕食を持ってくるように言ってちょうだい」
「何がいいんだ」
「山羊がいちばんだけど、豚でなければ何でもいいわ」
翌日の日没直前、軍団はアグナクに到着し、広大な野営地が設営された。市民たちはただちに街の門を閉ざした。ウォーガン王はスパーホークたち教会騎士に、休戦旗を持って北門まで同行するよう命じた。北門に着くと、王は大声で呼ばわった。
「余はサレシア国王ウォーガンである。ペロシアのソロス王も同道しておられる。またこのように、聖騎士もいっしょに来ておる。アーシウム王国はレンドー人の侵略を受けた。神に忠実なる成人男子は、われらの軍団に加わってエシャンドの異端を一掃せねばならない。市民諸君に迷惑をかけるつもりはさらさらないが、この門が日没までに開かれない場合、街の外壁は破壊され、諸君は荒野から街の炎上する様子を眺めることとなろう」
「聞こえてるかな」カルテンが言った。
「カレロスにいたって聞こえるさ」ティニアンが答える。「おまえの国の王はとてもよく響く声をしてるな、サー・アラス」
「サレシアでは、山の頂きと頂きのあいだが離れている」アラスは肩をすくめた。「話をしようと思ったら、大声になるしかない」
ウォーガン王はにやりとアラスに笑いかけた。
「太陽が丘の向こうに沈む前に門が開くかどうか、賭ける者はおらんか」
「われわれは教会騎士です、陛下」ベヴィエが生真面目な顔で答えた。「清貧の誓いを立てた身ですから、賭けに浪費できるような金は持っておりません」
ウォーガン王は爆笑した。
いささかしぶしぶといった様子で、街の門が開いた。
「わかってくれるとは思っておった」ウォーガンは街の中へと進んだ。「知事に会いたいのだが、どこにおる」と震えている門番に尋ねる。
「ち、庁舎にいると思います、陛下」門番が口ごもりながら答える。「たぶん地下室に隠れているかと」
「連れてきてもらえんかね」
「ただちに、陛下」門番は槍を放り出し、街路を駆けていった。
「あれがラモーク人のいいところだ。命令には熱心に従ってくれる」ウォーガンが鷹揚《おうよう》に感想を述べる。
知事はずんぐりと太った男だった。青い顔をして、盛大に汗をかき、門番に引きずられるようにしてウォーガン王の前に進み出る。ウォーガンが要求を述べた。
「閣下にはソロス王と余と随行員たちのために、適当な住居を用意してもらいたい。市民諸君の大きな迷惑になることはなかろう。みんなどのみち徹夜で、行軍の準備をすることになろうからな」
「仰せのままに、陛下」知事が震える声で答える。
「どうかね、ラモーク人は余の言うとおりであろうが。ソロスはとくに抵抗もなく、一週間もすればこの国全体で徴兵を終えていよう。しょっちゅうお祈りのために手を休めたりしなければな。それではどこか、飲み物のあるところへ行こうか。そのあいだに閣下が一ダースかそこらの住居を空《から》にしておいてくれるだろう」
翌朝、ソロス王とバーグステン大司教に諮《はか》ったのち、ウォーガン王はサレシア騎馬軍団を率いて西に向かった。スパーホークは王と馬を並べて同行することになった。よく晴れた朝で、陽光が湖面に反射し、そよ風が西から吹きわたっていた。
「ペロシアで何をしていたのか、まだ話す気にならんのか」ウォーガンがスパーホークに話しかけてきた。サレシア国王はいつになく素面《しらふ》の様子だったので、スパーホークはそこに賭けてみることにした。
「エラナ女王の病気のことはご存知でしょう」
「知らぬ者がどこにいる。そのために私生児の従兄が権力を握ろうとしておるのではないか」
「それだけではないのですよ、陛下。われわれは病気の原因を突き止めました。アニアス司教が国庫の金を横領するため、女王に毒を盛ったのです」
「アニアスが、何だと?」
スパーホークはうなずいた。「アニアスには良心などありません。総大司教の座を手にするためなら、どんなことでもするのです」
「とんでもない悪党だな」ウォーガンはうめくように言った。
「ともあれ、エラナを癒せるかもしれない手段を何とか見つけることができました。魔法を使うのですが、そのためにはある特別な護符が必要なのです。その護符がヴェンネ湖にあることもわかりました」
「何だ、その護符というのは」ウォーガンの目つきが鋭くなる。
「一種の装飾品です」スパーホークは当たり障《さわ》りのない返答をした。
「魔法などというたわ言を、本気で信じておるのか」
「実際の効果をこの目で見ているのです、陛下。とにかく、同行するのをあれだけ拒んだのはこういう理由からでした。他意があったわけではありません。エラナの命は呪文で保たれていますが、いつまでも長らえるわけではないのです。もしエラナが亡くなれば、リチアスが王座に就くことになります」
「余が反対すればそうはいくまい。イオシアの王国にあって王座を占めようという者の父親が知れぬなど、余の望むところではない」
「わたしもそう思いますが、リチアスは自分の父親を知っているはずです」
「ほう、誰なのだ。おまえも知っておるのか」
「アニアス司教です」
ウォーガンは目を丸くした。「間違いないのだろうな」
スパーホークがうなずく。
「これ以上はない筋からの情報です。アルドレアス先王の亡霊から聞いたのですよ。王の妹君はいささか放縦なところがありました」
ウォーガンは邪悪を祓《はら》う仕草をした。農民ならいざ知らず、一国の王にはいささか似つかわしくない仕草だ。
「亡霊だと。亡霊の言葉など、どのような裁判であっても証拠にはならんぞ」
「裁判に持ちこむつもりなどありませんよ、陛下」スパーホークはぼそりと言って、剣の柄に手を置いた。「わたしに時間ができ次第、主犯たちは最高の審判の場に立つことになるでしょう」
「いい男だ」ウォーガンは称讃の声を上げた。「しかし聖職者がアリッサと情を通じようとは思わなかったな」
「アリッサはときにすばらしい説得力を発揮しますからね。何にせよ、陛下のこの軍事行動も、アニアスの仕掛けた陰謀の一環ではないかという気がします。レンドー人の侵略者を率いているのはマーテルという男ではないかと、強い疑いを持っているのです。マーテルはアニアスのために働いていて、選挙のあいだカレロスから教会騎士団を引き離すべく、揉《も》めごとを起こそうと画策していました。騎士団長たちはアニアスの総大司教就任に反対ですから、邪魔者は遠ざけておこうというわけです」
「まさに蛇のような男だな」
「ずばり言い当てていますよ」
「おかげで今朝はいろいろと考えることができた。しばらく検討してみるから、あとでまた話をしよう」
スパーホークの目に希望の色が浮かんだ。
「あまり期待しすぎんことだぞ。アーシウム国でおまえが必要になるという考えに変わりはない。それに教会騎士団はすでに南に向かって進軍を開始しておる。おまえはヴァニオンの片腕なのであろうが。おまえがいないと、寂しがるのではないかな」
時間と距離が無限に引き伸ばされたような行軍が続いた。西へ向かった軍団はふたたびペロシア国に入り、夏の陽射しの中に地平線まで広がる平原をどこまでも進んでいった。
ある晩、デイラ国との国境までまだだいぶあるというあたりで、カルテンが不機嫌そうにフルートに詰め寄った。
「旅を短くしてやるとか言ってたんじゃなかったのか」
「やってるわ」とフルート。
「本当か」カルテンはありありと疑惑の表情を浮かべた。「もう一週間も行軍してるのに、まだデイラにも入ってないんだぞ」
「実際にはまだ二日しか経ってないのよ、カルテン。ウォーガンが不審に思わないように、長くかかったように見せかけてるだけ」
カルテンは信じられないと言いたげにフルートを見ている。
「わたしも質問があるんだがな、フルート」ティニアンが声を上げた。「湖にいたときはあれほどグエリグに追いついてベーリオンを取り戻したがってたのに、急に心変わりしてアシーへ行くと言い出したのは、いったいどういうわけなんだ」
「家族から伝言を受け取ったの。ベーリオンを追いかける前に、アシーで済ませておかなくちゃならない仕事があるって」少女は顔をしかめた。「自分で思いついててもよさそうなものだったのに」
「話を元に戻そうぜ」カルテンが苛立たしそうに言う。「どうやって時間を短縮させたりできるんだ」
「やり方があるの」少女ははぐらかすように答えた。
「わたしならそれ以上は追及しませんよ、カルテン」セフレーニアが忠告した。「この子が何をしているのか、どうせ理解はできません。悩むだけ無駄というものでしょう。それにもししつこく尋ねつづけると、おそろしく動転するような答えを聞かされることになるかもしれませんよ」
[#改ページ]
22[#「22」は縦中横]
さらに二週間ほど経ったと思えるころ、軍勢はようやくアシーを望む丘陵地帯にたどり着いた。寒々として醜い都市アシーはデイラ王国の首都で、細長いアシー湾の旧港を見はるかす、侵食された崖の上に造られていた。その晩フルートは仲間たちに、実はラモーカンド国のアグナクを出発してからまだ五日しか経ってはいないのだと打ち明けた。スパーホークたちはその言葉をそのまま受け入れることにしたが、ただ独り、学究肌でエレネ的な論理の枠にとらわれているベヴィエだけは、そんな奇跡のようなことがどうしてできるのかとフルートに質問した。フルートは辛抱強く説明したが、その内容は恐ろしいほど不気味なものだった。ベヴィエはとうとういたたまれなくなって天幕の外に出ていき、しばらく星を眺めて、それまでずっと永久不変だと思っていたものたちとの絆《きずな》を再確認しなくてはならなかった。
「あの子の言ったことが少しでもわかったのか」青い顔で冷や汗をかいて天幕に戻ってきたベヴィエに、ティニアンが尋ねた。
「少しだけ」ベヴィエはふたたび腰をおろし、フルートに畏怖の目を向けた。「真実のまわりをぐるぐる回っているようなものですが。オーツェル大司教は正しかったのかもしれません。スティリクム人とは交渉を持たないほうがいいのかも。あの民にとっては、どんなものも神聖ではあり得ないようです」
フルートは草の汁のついた小さな足で天幕を横切り、慰めるように片手をベヴィエの頬《ほお》に当てた。
「真面目で信心深い、愛しいベヴィエ。わたしたちは急いでサレシアへ行かなくてはならないの――アシーでのわたしの用事が終わったら、すぐにでも。普通のペースで大陸を半分も横断しているだけの余裕はないのよ。だからほかの手を使うしかなかったの」
「理由はわかっているんだ。でも――」
「あなたを傷つけるつもりはないし、誰かがあなたを傷つけるのを見逃すつもりもないけど、そういう堅苦しさは直すようにしないといけないわ。ものごとをあなたに説明するのがとても難しくなってしまうの。少しは役に立ったかしら」
「あまりはっきりとは」
フルートは爪先立ちで伸び上がり、ベヴィエに口づけした。
「じゃあ、これで何もかも大丈夫ね」
ベヴィエは降参した。
「やりたいようにやってくれ、フルート」やさしく照れたような笑みを浮かべ、「きみの議論とキスの両方に対抗するのは、とても無理だよ」
「いい子ね」フルートは嬉しそうに、全員に向かって言った。
「おれたちも同じ意見だ」とアラス。「ちょっと考えてることもある」
フルートは批判がましい目でジェニディアン騎士を見つめた。
「でもあなたは、どう見たっていい子じゃないわね」
「わかってる」アラスはぶっきらぼうに答えた。「見当もつかんだろうが、母はそれでずいぶんとがっかりしたものだ。ほかにもたくさんの女たちがな」
フルートはアラスに暗い視線を投げ、スティリクム語で何かつぶやきながらそのそばを離れた。スパーホークの知っている単語もいくつかあったが、騎士は少女にその意味がわかっているのだろうかと思わずにはいられなかった。
翌朝、いつものようにウォーガンはスパーホークに馬を並べるよう命じ、デイラ山地の長く岩がちな斜面を海岸のほうへと下っていった。
「これからはもっと外に出るようにしたいものだな。アグナクを発って以来三週間にもなるのだ、もう今にも鞍から落ちそうになっていて不思議はないのに、まだほんの数日しか馬に揺られていないような気分だ」
「山地だからでしょう」スパーホークは用心深くそう言った。「山の空気というのは、心身を爽快にしてくれます」
「たぶんそのせいだろうな」
「以前お話ししたこと、考えていただけましたか」
「うむ、いろいろと考えてみた。エラナ女王の身を案じるそなたの気持ちはわかるが、政治的な観点からすれば、今いちばんの大事はレンドー人の侵略を粉砕することだ。騎士団長たちはそのあとカレロスに取って返して、シミュラの司教の野望を阻止すればよい。アニアスが総大司教の座を射止めることができねば、私生児リチアスもエレニアの王座をわがものとすることはできまい。難しい選択ではあるが、政治というのは難しいゲームなのだ」
しばらくしてウォーガンは部隊の指揮官と相談を始め、スパーホークは話の骨子を仲間たちに伝えた。
「素面《しらふ》でも理性的でなくなってきてるんじゃないのか」カルテンが言った。
「だが王の立場からすれば、正しい判断だろう」とティニアン。「現在の政治状況では、クラヴォナスが死ぬ前に騎士団長全員をカレロスに帰還させる必要がある。ウォーガンにしてみれば、エラナのことは二の次だ。だがまだ可能性はあるぞ。ここはもうデイラ国内で、国王はオブラーだ。あの賢明な老王なら、事情を説明すればウォーガンの命令を覆してくれるかもしれない」
「エラナの命をそんなわずかな可能性に賭けるつもりはない」スパーホークは馬首をめぐらしてウォーガンのところへ戻った。
実際にはほんの数日しか経っていないというフルートの言葉を聞いてはいたが、スパーホークの苛立ちはおさまらなかった。見た目の進み方がゆっくりなので、どうしても気が急《せ》いてしまうのだ。頭ではフルートの言うことがわかっても、感覚のほうがついていかない。実感として二十日は二十日であり、スパーホークの忍耐は限界まで引き絞った弦のようになっていた。暗い思いが胸に湧《わ》き上がってくる。すべてが一貫して悪い方向へ転がっているようで、何もかもが凶兆に思えてしまう。グエリグとの対決がどうなるかということについても、騎士はいささか自信がぐらつきかけていた。
デイラ王国の首都アシーに到着したのは正午ごろだった。デイラ軍は街の外に野営しており、南へ向かう行軍の準備であたふたしていた。
また飲みはじめていたウォーガンは、満足そうな顔でそれを眺めまわした。
「よしよし、いつでも出発できそうだな。いっしょに来い、スパーホーク。仲間も連れてな。オブラーと話をしてこよう」
アシーの石畳の街路を進んでいると、タレンがスパーホークのそばに馬を寄せ、ごく小さな声でささやいた。
「おいらはちょっと遅れて、街を見てくるよ。何もない平野で隊列から抜け出すのは難しいけど、ここは街だからね。街には隠れるところがたくさんあるもんさ。ウォーガン王はおいらがいなくても気にしないだろ。いることに気づいてさえいないと思うな。うまい隠れ場所が見つかったら、軍隊がいなくなるまでそこに隠れてて、それからサレシアへ向かえばいい」
「気をつけるんだぞ」
「もちろんさ」
さらに街路を数本横切ったところで、セフレーニアが鋭く手綱を引き、白い乗用馬を道端に停止させた。教母とフルートは急いで馬を下り、狭い路地の入口へ向かった。路地には長い白髭をたくわえ、まっ白なローブを着たスティリクム人の老人が立っている。二人はその老人に挨拶し、三人で何かの宗教的儀式のようなものを行なった。もっとも、スパーホークには詳しいことはわからなかった。セフレーニアとフルートはしばらく老人と熱心に話し合っていた。やがて老人は二人にお辞儀をして、路地の奥に姿を消した。
「今のはいったい何事だ」セフレーニアと少女が戻ってくると、ウォーガンが疑わしげに尋ねた。
「古い友人ですよ、陛下」セフレーニアが答えた。「西方のスティリクム人の中でもっとも賢く、尊敬されている人物です」
「王ということか」
「その言葉は、スティリクム人にとっては無意味です」
「王がいなくて、どうやって政府を作るのだ」
「ほかにもやり方はありますよ、陛下。それにスティリクム人は、もはや政府を必要とする段階を卒業しています」
「ばかなことを」
「そう見えるものはたくさんあります――一見しただけでは。エレネ人もいずれこうなるでしょう」
「この女性、ときにひどく癇《かん》に触るな、スパーホーク」ウォーガンはうめくように言って、隊列の先頭に馬を戻した。
「スパーホーク」フルートが小さな声でささやいた。
「どうした」
「アシーでの仕事は終わったわ。いつでもサレシアへ行けるわよ」
「どうやってここで落ち合ったんだ」
「あとで教えてあげる。ウォーガンに遅れないようにして。あなたがいないと寂しいみたいよ」
王宮はあまり堂々とした造りではなく、威風を誇示するための建物というより、官庁の複合体のように思えた。
「オブラーはよくこんなところに住んでおるな」ウォーガンは鞍の上で身体をぐらぐらさせながら不満そうにつぶやき、正面扉の前に立っていた衛兵に向かって叫んだ。「そこのおまえ、オブラーにサレシアのウォーガンが来たと伝えてこい。いくつか相談したいことがある」
「ただいま、陛下」衛兵は敬礼して、建物の中に消えた。
ウォーガンは馬から下り、鞍に引っかけてあったワインの袋をはずした。栓を抜き、長々とあおる。
「オブラーが冷えたエールを用意しておいてくれるといいのだがな。このワインは腹に来るようになってきた」
衛兵が戻ってきた。「オブラー王がお会いになります。こちらへどうぞ」
「道順はわかっとる。前にも来たことがあるからな。誰かに馬の世話を言いつけておけ」ウォーガンは酔眼をスパーホークに向けた。「では行こうか」タレンがいないことには気づいていないようだ。
王宮の簡素な通廊を抜けた先で、デイラの老国王は地図や書類に埋まった大テーブルの前に腰をおろしていた。
「遅くなってすまん、オブラー」ウォーガンは紫色のマントの紐をほどいて床に脱ぎ捨てた。「ペロシアに寄ってソロスを拾ってきたのだ。兵隊も集めてきた」どさりと椅子に腰をおろし、「しばらく情報に接しておらん。どんな具合だ」
「レンドー人はラリウムを包囲しておる」白髪のデイラ国王が答えた。「アルシオン、ジェニディアン、シリニックの各騎士団が街の守備に当たり、パンディオン騎士たちは外からレンドー人部隊に攻撃をかけておる」
「だいたい想像したとおりだな。エールを持ってこさせてくれんか、オブラー。このところ腹の調子がおかしくて。スパーホークは知っておるな」
「もちろんじゃ。アーシウムでラドゥン伯爵を救った男であったな」
「こっちはカルテン、そのでかいのはアラス、肌の浅黒いのがベヴィエだ。ティニアンは知っていよう。スティリクム人の女性はセフレーニアと呼ばれておる――本当の名前は知らんがな。たぶんここにいる誰一人、発音すらできんだろう。パンディオン騎士団の魔術の教母で、あのかわいい女の子はその連れだ。あとの二人はスパーホークに仕えておる。どちらも怒らせんほうがいいぞ」ウォーガンはぼんやりとあたりを見まわし、スパーホークに声をかけた。「いっしょにおった男の子はどうした」
「そこらを見てまわってるんでしょう。政治向きの話は退屈らしいので」
「うむ、わしもときどき退屈になる」ウォーガンはオブラー王に向き直った。「エレニア国はまだ動いておらんのか」
「そういった報告はまだない」
ウォーガンは悪態をついた。「南下する途中でシミュラに立ち寄って、あの私生児リチアスめを縛り首にしてくれる」
「縄をお貸ししますよ、陛下」とカルテン。
ウォーガンは笑い声を上げた。「カレロスはどうなっとる、オブラー」
「クラヴォナスは昏睡状態じゃ。もう長くはもつまい。主だった聖職者はカレロスに集まって、後継者の選挙の準備をはじめておる」
「シミュラの司教が有力だな」ウォーガンは不満そうにうなって、召使からエールのジョッキを受け取った。「苦しゅうない、樽《たる》ごと置いていけ」声が間延びしてきている。
「これからの計画だがな、オブラー。できるだけ早くラリウムに赴き、レンドー軍を海に追い落とすべきだと思う。そして四騎士団をカレロスに差し向け、アニアスが総大司教になるのを阻止するのだ。もしアニアスが選挙に勝つようなことがあれば、宣戦を布告せねばなるまい」
「教会に対して?」オブラーが驚きの声を上げる。
「総大司教が排除された例は以前にもあるぞ、オブラー。アニアスも首がなければ職務はこなせまい。すでにスパーホークが剣を振るいたいと名乗りを上げてもいる」
「そうなれば大規模な内戦になるぞ、ウォーガン。表立って教会に反抗する者は、もう何世紀も出てはおらんのじゃ」
「ならばそろそろ出る潮時というものだろう。ほかには何かあるか」
「レンダ伯とパンディオン騎士団のヴァニオン騎士団長が、一時間足らず前に到着した。旅の汚れを落としてくるということじゃったが、陛下がおいでと聞いてすぐに使いの者をやったから、間もなく姿を見せよう」
「それはちょうどよかった。いろいろな問題を片付けてしまえる。ところで、今日は何日かな」
オブラー王は日付をウォーガンに教えた。
「その暦は間違っておるようだぞ、オブラー」日数を勘定したウォーガンが言った。
「ソロスはどうした」オブラーが尋ねた。
「この手で殺してしまいそうになった。差し迫った仕事を抱えながら、お祈りばかりしておるのだからな。ラモーカンドにやって、男爵たちを糾合してこいと言っておいた。軍団の先頭を切って馬を駆っておるが、実際に仕切っておるのはバーグステンだ。あれはいい総大司教になれるのだがな。武器を捨てさせることさえできれば」ウォーガンは笑い声を上げた。「鎖帷子をまとって角つきの兜をかぶり、手には戦斧《バトルアックス》を持った総大司教を見たら、聖議会の面々はどんな顔をするであろうな」
「教会にも少しは活《かつ》が入るやも知れんぞ、ウォーガン」オブラーの顔にもかすかな笑みが浮かんだ。
「実際、今の教会には誰かが活を入れる必要があるな。クラヴォナスがああなって以来、教会の活動はまるでくたびれきった老婆のようだ」
「失礼してよろしいでしょうか」スパーホークがうやうやしく口をはさんだ。「ヴァニオンと会ってきたいのですが。しばらく会っていないものですから、報告すべきことがたくさんあるのです」
「また例の、いつ終わるとも知れぬ教会の仕事か」とウォーガン。
「それがどういうものか、陛下もご存知でしょう」
「いや、ありがたいことに、余は知らん。行くがよい、聖騎士よ。上司と話をしてこい。だがあまり長い時間をかけるのではないぞ。こちらにも重要な仕事があるのだ」
「はい、陛下」スパーホークは二人の王に一礼して部屋から出ていった。
ヴァニオンは何とか甲冑の中に身体を押しこもうと悪戦苦闘しているところだった。スパーホークの顔を見ると、騎士団長は驚いた表情になった。
「こんなところで何をしているんだ。ラモーカンドにいるものとばかり思っていた」
「移動の途中なんですよ。ちょっと事情が変わりましてね。とりあえず簡単な報告をしておきます。詳しいことはウォーガン王が眠ったあとということにしましょう」スパーホークはきびしい目でヴァニオンを見つめた。「疲れているようですね」
「寄る年波さ」ヴァニオンが悲しげに答える。「それにセフレーニアを説得して肩代わりした剣の重さが、日増しに大きくなっていくようでな。オルヴェンが死んだことは知っているか」
「はい。亡霊がセフレーニアに剣を託していきました」
「それを恐れていたんだ。その剣も取り上げないと」
スパーホークは拳《こぶし》でヴァニオンの鎧の胸板を叩いた。
「こんなものを着る必要はありませんよ。オブラーは儀礼など気にしませんし、ウォーガンに至っては、儀礼なんて言葉さえ知らないでしょう」
「見た目の印象が違うのだよ。それに教会の名誉もかかっている。確かに時として退屈だが――」と肩をすくめ、「こいつを着るのを手伝ってくれ。話なら紐を締めたりバックルを留めたりしながらでもできるだろう」
「わかりましたよ、ヴァニオン卿」スパーホークは年長の友人が甲冑を身に着けるのを手伝い、そのあいだにラモーカンド国とペロシア国であったことを手短に説明した。
「どうしてまっすぐそのトロールを追いかけなかった」ヴァニオンが尋ねた。
「いろいろありましてね」ヴァニオンの黒いケープを肩当てに結びながら、「一つはウォーガンです。決闘まで申しこんだんですが、バーグステン大司教に邪魔されました」
「国王に決闘を申しこんだ?」ヴァニオンが唖然《あぜん》とした声を上げる。
「あのときはいい方法だと思ったんです」
「まったく、おまえというやつは」ヴァニオンは嘆息した。
「そろそろ行きましょう。まだ話すことばたくさんあるんですが、ウォーガンが苛々してるでしょう」ヴァニオンの甲冑姿に顔をしかめて、「踏ん張ってください。ちょっと傾いてる」言うやスパーホークは両の拳をヴァニオンの肩当てに叩きつけた。「うん、少しはましです」
「ありがとう」ヴァニオンがそっけない声で言った。膝が少し震えている。
「騎士団の名誉がかかってますからね。安物のブリキ缶に押しこまれてるように見えたんじゃ困るんですよ」
ヴァニオンは何も答えないことにしたようだった。
スパーホークとヴァニオンが部屋に入ると、レンダ伯がもうそこに来ていた。
「やあ、来たな、ヴァニオン」ウォーガン王が言った。「これで始められる。アーシウム国はどんな様子だ」
「状況はさほど変化しておりません、陛下。レンドー軍はなおもラリウムを包囲しておりますが、街にはアーシウム軍のほかに、ジェニディアン、シリニック、アルシオンの各騎士団が配備されております」
「危険な状態なのか」
「いいえ、陛下。あの街はまるで山のようです。アーシウム人の城塞がどんなものかはご存知でしょう。たぶん二十年かけても、びくともしないと思います」ヴァニオンはスパーホークを見やった。「おまえの旧友を見かけたぞ。レンドー軍の指揮を執っているのはマーテルのようだった」
「そんなことだろうと思いました。レンドー国に釘付けにしてやったんですが、どうやらアラシャム抜きでやる方法を見つけたみたいですね」
「それはさほどの苦労ではなかったじゃろう」オブラー王が言った。「アラシャムは一月前に死んだ。ひどく疑わしい状況でな」
「マーテルがまた毒薬の壺に手を伸ばしたってことですかね」とカルテン。
「すると、レンドー人の新しい精神的指導者は誰なのですか」スパーホークが尋ねた。
「ウレシムという男じゃ」とオブラー王。「アラシャムの弟子じゃったと聞いておる」
スパーホークは笑いだした。
「アラシャムはそんな男がいたことさえ知らなかったでしょうね。ウレシムなら会ったことがあります。とんだ間抜けですよ。あいつじゃあ六ヵ月ともたない」
ヴァニオンが先を続けた。
「ともあれ、パンディオン騎士団は街の外にいて、レンドー人の食糧徴発隊を攻撃しています。マーテルの軍団は間もなく飢えに苛《さいな》まれはじめるでしょう。お話しすることはこれで全部です、陛下」
「簡潔にして正確だな。ご苦労だった、ヴァニオン。レンダ、シミュラの様子はどうだ」
「こちらもあまり変わりはございません、陛下。ただ、アニアスはカレロスに向かいました」
「まるで禿鷹《はげたか》のように、総大司教の病床の枕許《まくらもと》にとまっているのであろうな」とウォーガン。
「そうであっても驚きはしませんな、陛下。アニアスはあとのことをリチアスに任せていったのですが、王宮でわたしのために働いてくれている者たちの一人が、アニアスの残していった最後の指示というのを聞きこんでまいりました。その指示というのが、レンドー国討伐にエレニアは兵を動かしてはならんというものなのです。クラヴォナスが死去したならば、エレニア軍とシミュラの教会兵は即座にカレロスに進軍することになっているようです。アニアスは聖都に自分の部下をあふれ返らせて、反対派の議員を威圧しようとしているのでしょう」
「エレニア軍はもう動きだしておるのか」
「はい、陛下。全軍がシミュラから十リーグのところで野営しております」
「たぶんそいつらと戦うことになりますよ、陛下」カルテンが言った。「アニアスは古くからの将軍を片端から馘《くび》にして、かわりに自分の手下を取り立ててるんです」
ウォーガンは悪態をついた。
「それほど深刻な事態というわけではありません、陛下」レンダ伯が言葉を継いだ。「法令を詳しく調べてみましたところ、宗教的危機にあっては、教会騎士団が西イオシア全軍の指揮を執ることになっているのです。エシャンドの異端が侵攻してきたというのは、まさしく宗教的危機といえるのではないかと思いますが」
「神かけて、いかにもそのとおりだ。それはエレニアの法なのか」
「いえ、陛下。教会法です」
ウォーガンがいきなり爆笑した。
「これはいい!」巨大な拳で椅子の肘掛《ひじか》けを叩きながら、「教会の頂点に立とうとしているアニアスに対して、教会法を使って足許をすくってやれるとはな。レンダ、おまえは天才だ」
「たまたまこの方面に通じていただけです」レンダ伯は謙遜して答えた。「ヴァニオン騎士団長が説得すれば、幕僚の方々も陛下の軍団に参加する気になるのではないでしょうか。この状況において騎士団長の権威に服さない場合、どれほど極端な手段も取れるのだという教会法の裏付けがあるのですから、なおさらのことです」
「いくつか首を落としてやれば、幕僚もみんな協力的になる」アラスが言った。「四、五人の将軍の背丈を縮めてやれば、残りはきちんと整列するだろう」
「あっという間にな」ティニアンがにやにやしながら付け加える。
「ならば斧をよく砥《と》いでおけ、アラス」とウォーガン。
「はい、陛下」
「残る問題はリチアスをどうするかということですが」レンダ伯が言った。
「それはもう決めてある。シミュラに着き次第、すぐに絞首刑だ」ウォーガンが答えた。
「すばらしいお考えです」レンダ伯は穏やかに話を引き取った。「ですが、もう少し考えてみたほうがよろしかろうと思います。アニアスが摂政の宮殿下の父親だということはご存知でいらっしゃいますか」
「スパーホークから聞いた。誰が父親であろうと関係ない。余はあやつを吊るさずにはおかん」
「アニアスが息子のことをどのくらい気にかけているのかは知る由もありませんが、リチアスをエレニアの王座に就けるために、かなり極端なことまでやってきたのは事実です。とすると、教会騎士団がカレロスに着いたとき、取引の材料に使えるのではないでしょうか。息子を拷問にかけると脅せば、アニアスはカレロスから軍を引くかもしれません。そうなれば選挙はアニアスの軍勢の影響を受けずに行なうことができましょう」
「それではちっとも面白くないではないか」ウォーガンは顔をしかめて不平を鳴らした。「だがおまえの言うとおりだな。わかった、シミュラに着いたらやつは地下牢に放りこもう――取り巻き連中もいっしょにだ。王宮の面倒はおまえが見てくれるか」
「陛下の仰せとあらば」レンダ伯はため息をついた。「ですが、スパーホークかヴァニオンのほうがふさわしいのではありませんか」
「それはそうだが、二人にはアーシウム国で活躍してもらわねばならん。どう思う、オブラー」
「レンダ伯には絶対の信頼を置いておる」オブラーが答えた。
「最善を尽くします、陛下。ただ、わたしがひどい年寄りだということはお忘れになりませんよう」
「余に比べればまだ若いではないか、わが友よ。余には責務を肩代わりしようと申し出てくれる者もおらんのじゃぞ」
「よし、これで決まりだ」ウォーガンが言った。「ではおさらいをしよう。シミュラまで南下し、リチアスを地下牢に放りこみ、幕僚を説得してエレニア軍をわが討伐軍に参加させる。教会兵もこれに加えることになるな。そのあとアーシウム国境で、ソロスやバーグステンと合流する。そのままラリウムまで南下し、レンドー軍を包囲して、その大部分を撃滅する」
「ちとやりすぎではありませんか、陛下」レンダ伯が反論する。
「いや、そんなことはない。余としては少なくともこれから十世代のあいだ、エシャンド派が反乱など起こさんようにしたいのだ」ウォーガンはひねくれた笑みをスパーホークに向けた。「おまえが忠勤を励むなら、わが友よ、マーテルはおまえに始末させてやるぞ」
「ありがとうございます、陛下」スパーホークは礼儀正しく答えた。
「何ということを」セフレーニアが嘆息する。
「仕方がないのだよ、小柄なレディ」とウォーガン。「オブラー、デイラ軍はいつでも動けるのか」
「命令を待っておるところじゃ」
「よし、ほかに何もないようだったら、明日エレニア国に向けて出発するということでどうだ」
「それでいい」老王は肩をすくめた。
ウォーガンは立ち上がり、大|欠伸《あくび》とともに伸びをした。
「では少し眠っておこうか。明日は早いぞ」
そのあとスパーホークと仲間たちはヴァニオンの部屋に集まり、ラモーカンド国とペロシア国で何があったのか、騎士団長に詳しく報告した。
報告が終わると、ヴァニオンは奇妙な顔でフルートを見つめた。
「そもそもきみの役割は、いったいどういうものなのかな」
「手助けに差し向けられたのよ」少女は肩をすくめた。
「スティリクム人によって?」
「ある意味ではね」
「では、アシーでしなければならなかった仕事というのは」
「それはもう済んだわ、ヴァニオン。セフレーニアとわたしは、ここに来ているあるスティリクム人と話をする必要があったの。王宮へ行く途中の路上で見つけて、もう話はしてきた」
「ベーリオンを追うよりも重要な話というのは、いったい何なのだ」
「これから起きることに対して、スティリクム人にも準備が必要なの」
「レンドー人の侵略のことかね」
「ああ、そんなものはどうでもいいの。もっとずっと重要なこと」
ヴァニオンはスパーホークに顔を向けた。「で、サレシア国へ行くのか」
スパーホークはうなずいた。「海の上を歩いてでも」
「わかった。街から出られるように手を尽くしてみよう。ただ心配なのは、全員が一度にいなくなったらウォーガンに気づかれてしまうという点だ。スパーホークとあと一人か二人なら、何とかウォーガンにも気取られずに済むかもしれんが」
と、フルートが部屋のまん中に歩み出て、全員の顔を眺めわたした。
「スパーホーク、クリク、セフレーニア、わたし――それにタレン」
「そんな無茶な!」ベヴィエが大声を上げた。「グエリグと対決するなら、スパーホークには騎士が同行しないと」
「スパーホークとクリクがいれば大丈夫よ」フルートは平気な顔だ。
「フルートを連れていくのは危なくないかな」ヴァニオンがスパーホークに言った。
「かもしれませんが、グエリグの洞窟までの道を知っているのはフルートだけなんです」
「タレンはどうして」クリクがフルートに尋ねた。
「エムサットでやってもらうことがあるわ」
スパーホークは騎士たちに向き直った。
「諸君には申し訳ないが、どうやらフルートの言うとおりにするしかないようだ」
「すぐに出発するか」とヴァニオン。
「いえ、タレンを待たないと」
「わかった。セフレーニア、オルヴェンの剣をいただきましょうか」
「ですが――」
「言うとおりにしてください。言い争いはしないで」
「わかりました、ディア」教母はため息をついた。
セフレーニアがオルヴェンの剣を渡すと、ヴァニオンはほとんど立っていることさえできないような状態になった。
「こんなことをしていたら死んでしまいますよ」とセフレーニア。
「誰だって何かの原因で死ぬんです。さて、諸君」と騎士たちに向かって、「わたしはパンディオン騎士の一隊を連れてきている。あとに残る諸君は、出発するときこの中に紛《まぎ》れこんでもらいたい。レンダとオブラーはどちらも高齢だ。わたしからウォーガンに、二人には馬車に乗ってもらい、ウォーガンがそのそばに付いているようにしたほうがいいと進言する。こうすればウォーガンが頭数を数えたりする心配はないだろう。とにかくできるだけよそに注意を向けさせておく」そこでスパーホークのほうを向き、「もっとも、これでごまかせるのは一日か二日がせいぜいだろう」
「それだけあればじゅうぶんです。ウォーガンはわたしがヴェンネ湖へ戻ったと考えて、そっちへ追跡隊を差し向けるでしょうからね」
「残る問題は、どうやって王宮から抜け出すかだな」
「それはわたしが何とかするわ」とフルート。
「どうやって」
「魔ぁぁ術[#「魔ぁぁ術」に傍点]よ」滑稽な発音でそう言い、ヴァニオンに向かって指をうごめかせて見せる。
騎士団長は笑い声を上げた。「きみがいなかったらどうなっていたろうな」
フルートは鼻を鳴らした。「ひどいことになってたと思うわ」
一時間ほどして、タレンが部屋の中に滑りこんできた。
「大丈夫だったか」クリクが尋ねる。
「うん」タレンは肩をすくめた。「いくつか契約をして、隠れ場所を確保してきた」
「契約? 誰とだね」とヴァニオン。
「泥棒とか、物乞いとか、殺し屋とか。それでアシーの下半分を牛耳ってるやつのところへ連れてってもらったんだ。そいつはプラタイムにいくつか借りがあったんで、プラタイムの名前を出したら、とてもよく協力してくれた」
「おまえは奇妙な世界に住んでいるな、タレン」ヴァニオンが言った。
「閣下がお住まいの世界ほど奇妙なところではございません」タレンは大仰なお辞儀をした。
「実にそのとおりかもしれんな、スパーホーク。われわれはみんな泥棒で略奪者なのだと言えないこともないわけだ。わかった」とタレンに向かって、「その隠れ場所というのは?」
「言わないほうがいいみたいだね」タレンがはぐらかすように答えた。「騎士団長はいわば当局側の人間で、おいらにも約束があるから」
「職業倫理というやつか」
「そういうこと。ただ、それは騎士道みたいなものに基づいてるんじゃなくて、喉を掻き切られないためって動機に基づいてるんだけどね」
「頭のいい息子じゃないか、クリク」とカルテン。
「どうしてもそれを言わないと気が済まないんですか」クリクが冷たい声で応じる。
「おいらのことを恥じてるの?」タレンが暗い顔になって、小さな声で尋ねた。
クリクは少年を見つめた。
「いや、タレン、そんなことはない」太い腕を息子の肩に回し、断固とした口調で、「これはわたしの息子、タレンです。文句のある人がいるなら、喜んでお相手させていただきましょう。貴族と平民は決闘ができないなんて下らない規則は、この際どうでもいい」
「ばかなことを言うなよ、クリク」ティニアンが満面の笑みを浮かべて言った。「おめでとう、二人とも」
ほかの騎士たちもこのがっしりした従士と泥棒息子のまわりに集まってきて、てんでに二人の肩を叩きながら、ティニアンの祝福に祝福を重ねた。
タレンは目を丸くしてあたりを見まわした。突然みんなから認知されて、その目に涙があふれてくる。少年はセフレーニアのところへ逃げだし、その膝に顔を埋めて泣きだした。
フルートは微笑んでいた。
[#改ページ]
23[#「23」は縦中横]
それはヴァーデナイスの波止場で、またシミュラの騎士館の外でフルートが吹いた、あの奇妙に眠気を催すような旋律だった。
「今度は何をしてるの」タレンがスパーホークにささやいた。全員がオブラー王の宮殿の正面にある、広いポーチの手すりの陰に身を隠している。
「ウォーガンの付けた見張りを眠らせるつもりだ」スパーホークは答えた。ここでくだくだと説明してみても始まらない。「そばを通っても気づかなくなる」スパーホークは鎖帷子《くさりかたびら》に旅のマントという格好だった。
「確かなの?」タレンの声は疑わしげだ。
「前にも何度か効果のほどは目にしてる」
フルートが立ち上がり、中庭に通じる広い階段を下りはじめた。片手で持った笛を吹きながら、ついてこいと手招きしている。
「行こう」スパーホークが立ち上がった。
「スパーホーク、これじゃ丸見えだよ」
「大丈夫だ、タレン。誰も気がつかない」
「姿が見えなくなってるってこと?」
「見えてはいるのです」セフレーニアが説明する。「少なくとも目には映っています。でも、そのことの意味には気がつきません」
スパーホークは先に立って階段に向かい、全員がフルートのあとから中庭に下り立った。
階段を下りたところに立っていたサレシア人の歩哨はちらりとも目を向けず、退屈そうな顔をしているばかりだ。
「これ、すごく神経にこたえるんだけど」タレンがささやいた。
「声をひそめなくてもいいんだぞ、タレン」とスパーホーク。
「声も聞こえないの?」
「ちゃんと聞こえてはいるが、そのことに気づかないんだ」
「いつでも逃げられるようにしてても、気を悪くはしないよね」
「そんな必要はないんだがな」
「でもそうしたいんだ」
「楽になさい、タレン」セフレーニアが言った。「そのほうがフルートにとっても簡単なのです」
一行は厩へ行き、馬に鞍を置いて中庭に引き出した。フルートは笛を吹きつづけている。オブラー王の門番が無関心に立っている横を通り過ぎ、王宮の外の街路を見張るウォーガン王の警備兵の前を突っ切る。
「どっちだ」クリクが息子に尋ねた。
「街路の先の、そこの路地」
「遠いのか」
「街を半分ほど横切ることになるね。メランドは王宮にあまり近づきたがらないんだ。王宮のまわりの街路は警備が厳重だから」
「メランド?」
「隠れ場所の提供者だよ。アシーの泥棒と物乞いを束ねてるんだ」
「信用できるのか」
「できるわけないじゃない。盗賊なんだよ。でも裏切られる心配はない。盗賊の聖域を申し立てたからね。おいらたちを中に入れて、誰が探しにきても匿《かくま》う義務があるんだ。もしそれを拒んだりしたら、今度プラタイムに会ったときに釈明をしなくちゃならない。カレロスの盗賊議会でね」
「どうやら世の中には、われわれのまったく知らない世界が存在してるようですね」クリクがスパーホークに言った。
「気がついてたよ」とスパーホーク。
少年はアシーの曲がりくねった街路を縫うようにして、街の門からほど遠からぬ薄汚れた街区に一行を案内した。
「ここにいて」全員をみすぼらしい居酒屋の前に残してタレンは店の中に入り、すぐに鼬《いたち》のような顔つきの男といっしょに外に出てきた。「馬はこの人に預けるからね」
「こいつには気をつけてくれ、ネイバー」ファランの手綱を渡しながらスパーホークが注意した。「遊び好きなんだ。ファラン、行儀よくしてろ」
ファランは苛立たしげに耳をぴくぴく動かし、スパーホークは鞍からアルドレアスの槍《やり》を引き抜いた。
タレンが先に立って、一行は居酒屋に入った。煙を上げる獣脂|蝋燭《ろうそく》の光に照らされて、傷だらけの長テーブルとぐらぐらのベンチが見えた。テーブルの前には数人の、目つきの悪い男たちが腰をおろしている。一見してスパーホークたちに特別の注意を払っているらしい者は誰もいないが、どの目も忙しく動いていた。タレンは奥の階段のほうへと歩いていった。「この上だよ」と階段を指差す。
階段の上の部屋はとても広くて、スパーホークには奇妙に馴染《なじ》み深いものに感じられた。家具といえるものはほとんどなく、壁ぎわに藁《わら》の寝床が並んでいる。それはシミュラにあるプラタイムの地下室にそっくりだった。
メランドは痩《や》せた男で、恐ろしげな傷痕が左の頬《ほお》に走っていた。テーブルの前に腰をおろし、目の前には書類の束とインク壺が置かれている。左手のそばに宝石の山があって、どうやらその目録を作っているところらしかった。
一行はテーブルに近づき、タレンが声をかけた。
「メランド、さっき言った友だちだよ」
「十人という話じゃなかったのか」メランドは鼻にかかった不快な声で言った。
「計画が変わってね。これはスパーホーク。まあ、リーダーみたいなもんだよ」
メランドはうなり声で応じた。「いつまでいるんだ」と短く尋ねる。
「船が見つかれば、明日の朝にでも出発する」
「船ならすぐに見つかる。港には西イオシアじゅうから船が集まってるからな。サレシアからも、アーシウムからも、エレニアからも、中にはカモリアの船まである」
「街の門は夜も開いているのか」
「いつもは閉じるんだが、今夜は外にあの軍団がいて、兵隊が出たり入ったりしてる。だからずっと開いてるはずだ」騎士の姿をまじまじと見て、「港へ行くんなら鎖帷子はやめたほうがいい。それに剣もだ。人目につきたくないんだろう。そんな格好をしてたら、港では目立って仕方ないぞ。向こうに古着がかかってるから、適当なのを持っていけ」メランドの口調はぶっきらぼうだった。
「港へはどう行くのがいちばんいい」
「北門から出ろ。轍《わだち》の跡が水際まで続いてる。街から半マイルほどで、街道から左にそれるんだ」
「ありがとう、ネイバー」
メランドはうなって、目録作りの作業に戻った。
「クリクと港へ行って、船を見てきます」スパーホークがセフレーニアに言った。「子供たちとここにいてください」
「そうしましょう」
スパーホークはどうやら身体に合いそうな、みすぼらしい青の胴衣《ダブレット》を見つけた。鎖帷子と剣をはずし、その古着に着替える。その上には自分のマントを羽織った。
「みんなどこにいるんだい」タレンがメランドに尋ねた。
「夜だからな。稼ぎにいってる――少なくともそのはずだ」
「ああ、なるほど。思いつかなかった」
スパーホークとクリクは階下の居酒屋へ下りていった。
「馬を取ってきますか」とクリク。
「いや、歩こう。馬だと目立つ」
「わかりました」
街の門を抜けて街道沿いに歩いていくと、メランドの言っていた轍の跡が見つかった。二人は港への道を下りはじめた。
「みすぼらしい場所だな」港の建物を見まわしてスパーホークが言った。
「港っていうのはそうしたもんです。ちょっと訊《き》いてみますか」クリクは船員らしい男を見つけて声をかけた。「サレシアへ行く船を探してるんだがな」言葉はヴェンネで使っていた船員言葉になっていた。「知ってたら教えてくんねえか。このあたりに船長たちの集まる飲み屋はねえかな」
「〈鐘《かね》と錨亭《いかりてい》〉へ行ってみな」船員が答えた。「あっちへ路地二、三本行った、海のそばだ」
「ありがとよ」
スパーホークとクリクは、ごみの浮いた暗いアシー湾に突き出す突堤のほうに向かって道を下りつづけた。と、クリクが足を止めた。
「スパーホーク、あの突堤のいちばん端にいる船、何だか見覚えがありませんか」
「そう言えばマストの形に見覚えがあるような気もするな。もっとよく見てみよう」
二人は桟橋まで歩いていった。「カモリア船ですね」とクリク。
「どうしてわかるんだ」
「索具と、マストの傾き具合ですよ」
「まさかおまえ――」言いかけてスパーホークは口をつぐみ、信じられない思いで、船の横腹に書かれた名前をじっと見つめた。「こいつはどうだ。ソーギ船長の船じゃないか。こんなところで何をしてるんだろう」
「頼めるかどうか、とにかく探してみませんか。船長が本当にソーギで、たまたまソーギから船を買った別の誰かじゃないとしたら、問題は解決です」
「ソーギの行く先がサレシア国だとすればな。〈鐘と錨亭〉を探そう」
「ソーギに話した物語の内容、覚えてますか」
「だいじょうぶだと思う」
〈鐘と錨亭〉は小さな落ち着いた酒場で、いかにも船長たちが足しげく訪れそうな店だった。一般船員の行く店はもっと騒々しくて、あちこちに乱暴狼藉の跡が残っているのが普通だ。スパーホークとクリクは店に入って、戸口から中を見わたした。
「あそこです」クリクがそう言って、隅のテーブルで裕福そうな仲間と飲んでいる、白髪混じりの癖毛の太った男を指差した。「間違いない、ソーギです」
前にカモリア国のマデルからレンドー国のキップリアまで運んでくれた男の姿を認めて、スパーホークもうなずいた。
「ぶらぶらとあっちへ近づこう。向こうに見つけてもらうのがいちばんいい」二人は何気なくあたりを見まわしているだけだというふりを懸命に続けながら、店の中を横切っていった。
「いよお、こいつは驚いた。マスター・クラフじゃないか」ソーギが大きな声を上げた。「デイラなんかで何をしてるんだ。従兄弟どもが諦《あきら》めるまで、ずっとレンドーにひそんでるもんだと思ってたぜ」
「やあ、あれはソーギ船長じゃないか」スパーホークはクリクに向かって驚いたふうを装った。
「こっちへ来いよ、マスター・クラフ。連れの人もいっしよに」ソーギが大らかなところを見せる。
「ご親切にどうも、船長」スパーホークはそう答えて、海の男たちのテーブルについた。
「いったいどうしたんだ、わが友」ソーギが尋ねる。
スパーホークは悲しげな表情を作った。
「どうやってか、従兄弟どもに居場所を嗅《か》ぎつけられたらしいんだ。キップリアの街角であいつらの一人を見かけてね。幸い向こうはまだ気づいてなかったんで、すぐさま逃げだした。それ以来ずっと逃げつづけだよ」
ソーギは大笑いして、仲間たちに事情を説明した。
「このマスター・クラフはちょっとした問題を抱えててな。一度も顔を見たことのない女性に言い寄るという過ちを犯し、その女性が驚くほど醜いとわかって、悲鳴を上げて逃げ出したんだ」
「本当に悲鳴を上げたわけじゃないよ、船長。一週間ばかり毛が逆立ったままだったことは認めるがね」
ソーギはにやにやしながら話を続けた。
「ところがその女性にはたくさんの従兄弟がいて、哀れなマスター・クラフはもう何ヵ月も追いまわされているのさ。もし捕まれば、その女性と無理やり結婚させられることになるのは目に見えてる」
「その前に自殺してやる」スパーホークは悲壮な口調で言った。「しかし船長こそ、こんな北のほうで何をしてるんだね。アーシウム海峡と内の海が縄張りじゃなかったのか」
「カモリア南岸の港町のゼンガで、サテンとブロケードの織物を仕入れる機会があったんだ。だがこいつはレンドー国に持っていっても売れやしない。あいつらは例の黒いローブしか着ないからな。カモリアの織物を売るなら、いちばんいいのはサレシアだ。気候を考えると不思議に思えるかもしれんが、サレシアの女性はサテンやブロケードに目がないんだ。これで一儲《ひともう》けできるというわけさ」
スパーホークは鼓動が速くなるのを感じた。
「じゃあサレシア国へ行くのか。何人か客を乗せる余地はないかな」
「サレシアへ行きたいのか、マスター・クラフ」ソーギは少し驚いた顔になった。
「どこだっていいんだよ、ソーギ船長」スパーホークは必死の口ぶりで言った。「例の従兄弟どもが、たった二日遅れで追ってきてるんだ。サレシアまで行ければ、たぶん山の中に隠れられるだろう」
「気をつけたほうがいいぞ」別の船長が忠告した。「サレシアの山には山賊がいる。トロールは言うまでもない」
「山賊より足は速いし、トロールだってあの女に比べればまだましだ」と身震いをして見せて、「どうだろう、ソーギ船長。また逃げるのを手伝ってくれるか」
「同じ値段で?」ソーギは抜け目ない。
「いくらでも出す」スパーホークは必死になっているところを見せた。
「じゃあ決まりだ、マスター・クラフ。おれの船はこの先の、第三突堤の端に係留してある。朝の大潮とともにエムサットへ向かう予定だ」
「かならず行くよ、ソーギ船長。じゃあ失礼して、われわれは荷物をまとめてくる」スパーホークは立ち上がり、船長に片手を差し出した。「また助けられたよ、船長」その感謝の言葉は本物だった。騎士とクリクは静かに酒場をあとにした。
街路を戻りながら、クリクは浮かない顔だった。
「どうも脇からちょっかいが入ってるような気がしませんか」
「何が言いたいんだ」
「都合がよすぎますよ。あてにできるとわかってるソーギにこんなところで出くわして、しかもわれわれの行こうとしてるサレシアに、ソーギもちょうど行くところだなんて」
「それは考えすぎってもんだろう。おまえも聞いたじゃないか。ソーギがここにいるのは、別に不思議でもなんでもない」
「ちょうど同じ日にこの港にいたこともですか」
それはやや答えにくい質問だった。
「街に戻ったらフルートに訊《き》いてみるさ」
「あの子が何かしてると?」
「何とも言えんが、こういったことに手を回せるのはあの子くらいしか思いつかん。もっとも、いくらフルートでも、ここまでできるのかどうかは疑わしいな」
しかしフルートと話をする機会は得られなかった。みすぼらしい居酒屋の二階の部屋に戻ると、メランドの向かいに見知った姿があったのだ。髭面《ひげづら》の巨体を何とも言いようのない服に包んだプラタイムが、しきりに何事か交渉しているところだった。
「スパーホーク!」大男が挨拶を怒鳴った。
スパーホークはちょっと驚いて相手を見つめた。
「アシーで何をしてるんだ、プラタイム」
「まあ、いろいろとな。メランドとはよく盗んだ宝石を取引するんだ。向こうはおれがシミュラで盗んだものを売り、おれは向こうがこのあたりで盗んだものをシミュラに持ち帰って、あっちで売るわけだ。たいていの持ち主は自分の宝石を見ればわかるから、盗んだのと同じ街で売るのはあまり安全なやり方じゃない」
「こいつにはおまえが言うほどの値打ちはないな、プラタイム」宝石を嵌《は》めたブレスレットを手にして、メランドがそっけなく言った。
「わかった、そっちで値をつけてくれ」
「またしても偶然ですか」クリクが疑わしげにささやく。
「すぐにわかる」スパーホークが答えた。
「レンダ伯もアシーに来てるぞ、スパーホーク」プラタイムが真剣な口調で言った。
「王国評議会にあって、多少とも誠実な人間といえるのはあの男だけだ。王宮で何かの会議に出ることになってるらしい。どうも何か起きてるようだな。おれもそいつを知りたい。不意打ちは願い下げだ」
「何が起きてるのか教えてやってもいいぞ」とスパーホーク。
「教えてくれるのか」プラタイムはやや驚いた顔になった。
「値段さえ折り合えばな」スパーホークはにやにやしている。
「金か」
「いや、もう少し大切なものかな。その会議というのには、わたしも出席することになる。アーシウム国の戦争のことは知ってるな」
「当然だ」
「おまえに話したことは、よそには洩《も》れないか」
ブラタイムはメランドに手を振ってテーブルから遠ざけ、スパーホークの目を見つめてにっと笑った。「仕事に関わらない限りはな、わが友」
これはあまり安心できる答ではなかった。
「前にいささかの愛国心を見せたことがあったな」スパーホークは慎重に言葉を選んだ。
「ときどきそういう気分になることはある」プラタイムはしぶしぶと認めた。「まっとうな稼ぎと衝突しない場合にはな」
「いいだろう。協力してくれ」
「何を企んでるんだ」プラタイムは疑わしげだった。
「わたしと友人たちは、エラナ女王に玉座を取り戻すつもりだ」
「ずいぶんがんばってるようだが、あのひ弱な娘っ子に本当に王国が統治できるのか」
「できると思っている。わたしも後ろ盾になる」
「それならまあ、箔《はく》はつくな。私生児リチアスはどうするんだ」
「ウォーガン王が吊るしたがってる」
「普通なら絞首刑には反対するんだが、リチアスだけは例外として認めてもいい。おれはエラナ女王にお目通りできるかな」
「わたしなら、それに賭けようとは思わんな」
プラタイムはにっと笑った。
「やってみる値打ちはあるさ。女王陛下に、きわめて忠実な臣下がここにいるとお伝えしといてくれ。詳細はあとでおれが女王と詰めるから」
「悪党だな、プラタイム」
「悪党じゃないふりをした覚えなんかないぜ。それで、そっちは何が望みなんだ。協力するぜ――ある程度までなら」
「まずとにかく情報だ。カルテンは知ってるな」
「おまえの友だちの? もちろんだ」
「今あいつは王宮にいる。もう少し威厳ありげに見える服を着て、王宮へ行ってくれ。カルテンを呼び出してもらって、情報を伝える方法を決めるんだ。既知の世界で起きるたいていのことについては、詳細を知る手だてがあると思っていいんだな」
「今タムール帝国で何が起きてるか、知りたいか」
「それはいい。イオシア大陸だけで厄介ごとはもう手いっぱいだ。ダレシア大陸との交渉は、いずれそのうち考えるさ」
「野心家だな、わが友」
「そんなことはない。今はとにかく女王を玉座に戻したいだけだ」
「まあ、手を貸してやろう。リチアスとアニアスを追い出すためだ」
「ならば当面の目的は同じだな。カルテンと話し合ってくれ。あいつに伝わった情報は、わたしから必要な人たちのところへ報告する」
「おれに間諜《スパイ》をやれって言うのか、スパーホーク」プラタイムは傷ついた口調になった。
「盗賊と同じ程度には誇り高い職業だと思うが」
「そうだな。唯一の問題は、そっちのほうの相場を知らないってことだ。これからどこへ行く」
「サレシア国へ行かなくてはならない」
「ウォーガンの国へ? 国王の前から逃げ出したばかりで? スパーホーク、おまえはおれが思ってた以上に勇敢か、思ってた以上に阿呆《あほう》かのどっちかだ」
「王宮から逃げ出したことは知ってたのか」
「タレンに聞いた」プラタイムはしばらく考えこんだ。「エムサットに上陸することになるのか」
「船長はそう言ってたな」
「タレン、ちょっと来い」プラタイムが言った。
「どうして」少年がぶっきらぼうに答える。
「まだこの癖を直してなかったのか、スパーホーク」プラタイムは渋い顔になった。
「昔を懐かしんでみただけだよ」タレンがにやにやしながらやってきた。
「いいか、よく聞け。エムサットに着いたら、ストラゲンて男を訪ねろ。あの街はそいつがほぼ仕切ってる。おれがシミュラでやってるような、あるいはメランドがこのアシーでやってるようなことをしてる男だ。そいつが必要な手助けをしてくれる」
「わかった」とタレン。
「何もかも考えてあるんだな、プラタイム」スパーホークが言った。
「こういう仕事をしてると、そうならざるを得なくてな。そうでないやつは不愉快な死に方をする傾向があるんだ」
翌朝、一行は日の出の直後に港に赴き、馬が積みこまれるのを確認してから乗船した。
「その子も召使かね、マスター・クラフ」タレンを見てソーギ船長がスパーホークに言った。
「あの男の末っ子だ」スパーホークは正直に答えた。
「あんたへの友情の証《あかし》として、子供の分は無料にしといてやろう。そうそう、出航前に契約を済ませとこうじゃないか」
スパーホークは署名をして、財布に手を伸ばした。
船は追い風に乗って順調にアシー湾を抜け、北側の岬の先を回った。陸地が見えなくなると、そこはもうサレシア海峡だった。スパーホークは甲板に出て、ソーギと話をした。
「エムサットまでどのくらいかかるかな」と癖毛の船長に尋ねる。
「明日の午《ひる》には入港できるだろう。風がこの調子で吹いてくれればな。今夜は帆を巻いて、シーアンカーを流しておくつもりだ。このあたりの海には内の海やアーシウム海峡ほど詳しくないんで、危険は避けたいからな」
「乗っている船の船長が慎重な人物なのはいいことだ」とスパーホーク。「慎重といえば、エムサットに入港する前にどこかの入江にでも上陸できないかな。街というものに神経質になる理由があるんでね」
ソーギは笑った。
「角を曲がるたびに従兄弟の一人がいるような気がするんだろう、マスター・クラフ。だから武器なんか持ってるのか」そう言って、意味ありげにスパーホークの鎖帷子と剣に目を向ける。
「こういう状況だと、用心しすぎるということはないからな」
「どこかで入江を見つけてやろう。サレシアの海岸は一つの長い入江みたいなものだから、静かな浜辺にでも降ろしてやるさ。そうすれば従兄弟どもをあとに引き連れていったりせずに、トロールどもを訪問できるってもんだ」
「恩に着るよ、ソーギ船長」
「そこのおまえ!」ソーギはマストの上の船員に向かって大声で怒鳴った。「ちゃんと見張れ! そこにいるのは仕事をするためで、昼寝をするためじゃない!」
スパーホークは甲板の上を歩いて舷側《げんそく》から身を乗り出し、午後の陽射しに映えるまっ青な波をぼんやりと眺めた。クリクの問いがまだ気になっている。ソーギやブラタイムと出会ったのは、本当にただの偶然なのだろうか。どうしてあの二人は、スパーホークたちが王宮から逃げ出したときを見計らったようにアシーに現われたのか。時の流れに介入できるほどの力を持つフルートのことだ、はるかな距離を越えて人々に影響を及ぼし、必要なとき必要な場所に呼び寄せることもできるのではなかろうか。いったいあの子にはどれほどの力があるのだろう。
まるでそんな思いに呼び寄せられたかのように、フルートが下の船室に通じる階段を上がってきて、あたりを見まわした。スパーホークは甲板を横切ってそちらに近づいた。
「いくつか訊きたいことがあるんだがね」
「だろうと思ったわ」
「プラタイムとソーギがそろってアシーに現われたのは、きみの仕業だと思っていいのか」
「わたしは何もしてないわ」
「でも来ていることは知っていた?」
「前から知ってる人と取引するほうが、時間の節約になるでしょ。わたしがお願いして、家族の誰かが手を回してくれたの」
「また家族か。そもそもどういう――」
「あれはいったいなに?」フルートが大声を上げ、右舷を指差した。
見ると水面下に巨大な影が見え、大きくて平たい尾が水の中から現われると、ものすこい飛沫《しぶき》をはね飛ばしてまた水中に没した。
「鯨だろう」とスパーホーク。
「魚があんなに大きくなるの」
「正確には魚ではないと思うが――少なくともそう聞いている」
「歌ってるわ!」フルートは嬉しそうに両手を打ち鳴らした。
「何も聞こえないぞ」
「聞こうとしないからよ、スパーホーク」フルートは駆けていって、船の舳先《へさき》から身を乗り出した。
「フルート! 気をつけろ!」スパーホークは少女のあとを追いかけ、引き戻そうとした。
「やめてよ」フルートはそう言って笛を唇に当てたが、そのとき船が急に大きく傾いて、少女の手を離れた笛は海の中に落ちてしまった。「ああ、いけない」そう言って顔をしかめ、「でもどうせすぐにわかることね」とつぶやくと、少女は小さな顔を仰向けた。その口から流れ出た音は、あの羊飼いの粗雑な笛の音そのものだった。スパーホークは愕然となった。あの笛は単なる飾りもので、それまでに何度も耳にしてきたのは、フルートの喉が奏でる音だったのだ。少女の歌は波の上に広がっていった。
鯨がふたたび海面に現われ、目に好奇の色を浮かべてわずかに身体をひねった。フルートが声を震わせて歌いかける。巨大な鯨が泳ぎ寄ってきて、水夫の一人が警告の声を上げた。
「鯨がいますぜ、ソーギ船長!」
まるで少女の歌に答えるかのように、何頭もの鯨が次々と浮上してきた。集まってくる鯨の起こす波で船は前後左右に激しく揺れ、頭の上の鼻孔から噴き出す潮で、あたりは霧に包まれたようになった。
水夫の一人が必死の形相で、長い柄のついた鉤を持ち出してきた。
「ばかなことはやめて」とフルート。「遊んでるだけじゃないの」
「ええと――フルート」スパーホークはおそるおそる声をかけた。「鯨たちに、うちに帰るように言ったほうがいいんじゃないかな」その言葉のばかばかしさにはすぐに気づいた。海こそが鯨たちのうち[#「うち」に傍点]なのだ。
「でも気に入ったのよ。とても美しいわ」
「ああ、わかってる。だが鯨はペットとしてはちょっとどうかな。サレシアに着いたら、すぐに仔猫を買ってやろう。頼むよ、フルート。鯨にはさよならを言って、ここから離れさせてくれ。船足が鈍《にぶ》ってるんだ」
「そう」少女は失望の表情を浮かべた。「わかった。仕方ないわね」やや名残惜しそうな感じの歌が響くと、鯨たちは大きな鰭《ひれ》で海面を叩き、飛沫《しぶき》を上げながら離れていった。
スパーホークはすばやくあたりに視線を走らせた。水夫たちがあんぐりと口をあけて少女を見つめている。今この場で納得のいく説明をするのは、ひどく難しそうだった。
「船室に戻って昼食にしないか」
「そうね」フルートはそう答え、スパーホークに向かって両腕を伸ばした。「抱いていってもいいわよ」
ソーギの水夫たちの畏怖に満ちた視線から逃れるにはそれがいちばん手っ取り早い方法だったので、スパーホークは少女を抱き上げ、船室へ続く階段を下りていった。
「これだけはちょっと勘弁してもらいたいわね」フルートは小さな爪で鎖帷子をつついた。「ものすごいにおいよ、これ」
「わたしの仕事には必要なものなんだ。身を守らなくちゃならないんでね」
「身を守るならほかにも方法があるわ。これほどにおわない方法が」
船室に戻ってみると、青ざめやつれたセフレーニアがぐったりと腰をおろしていた。膝《ひざ》には儀式用の剣が載っている。いささか目を血走らせたクリクがそばに付き添っていた。
「サー・ガレッドです、スパーホーク。まるで何もないみたいにドアを通り抜けてきて、セフレーニアに剣を渡していきました」
スパーホークは鋭い胸の痛みを感じた。ガレッドは友人だったのだ。それから背筋を伸ばし、ため息をつく。すべてがうまくいけば、セフレーニアに託される剣はこれが最後になるはずだった。
「フルート、セフレーニアを寝かせてやってくれないか」
少女はこわばった顔でうなずいた。
スパーホークはセフレーニアを抱き上げた。ほとんど重さが感じられないくらいだ。そっと寝床まで運んで、横にならせる。フルートが近づいてきて、歌をうたいはじめた。小さな子供に歌ってやるような子守歌だった。セフレーニアはため息をつき、目を閉じた。
「休息が必要だ」スパーホークがフルートに言った。「グエリグの洞窟までは長い旅になる。サレシアの海岸に着くまで眠らせておいてくれ」
「わかってるわ、ディア」
サレシアの沿岸に着いたのは翌日の午《ひる》ごろで、ソーギ船長はエムサット港のすぐ西にある小さな入江に船を停泊させた。
「どれほど感謝してるか、とても言い表わせないくらいだ、船長」上陸の準備ができると、スパーホークはソーギにそう礼を述べた。
「いいってことよ、マスター・クラフ。独り者はこういう面で助け合わないとな」
スパーホークは船長に微笑みかけた。
一行は馬を引いて渡し板を降り、海岸に上陸した。水夫たちは慎重な操船で入江を離れていった。
「いっしょにエムサットへ行くかい」タレンが尋ねた。「おいらはストラゲンと話をしなくちゃならない」
「わたしは行かないほうがいいだろう」とスパーホーク。「今ごろはウォーガンからの知らせがエムサットにも届いているかもしれない。わたしの人相風体は特徴があるからな」
「わたしがいっしょに行きましょう」クリクが名乗りを上げた。「どのみちいろいろと仕入れてくるものがありますから」
「わかった。とにかく森に入って、夜に備えることにしよう」
一行は森の中の空き地に野営の準備をし、午後のなかばになってクリクとタレンは街へ向かった。
セフレーニアは疲れきった表情で、サー・ガレッドの剣を抱いて火のそばに座っていた。
「これからかなり辛いことになりそうです」スパーホークは心苦しそうに声をかけた。
「グエリグが洞窟を封印する前に到着するには、かなり急がなくてはなりません。ガレッドの剣をわたしが肩代わりする方法は、何かないんですか」
セフレーニアはかぶりを振った。
「ありません、ディア。あなたは玉座の間にいませんでした。呪文をかけたときその場にいた者だけが、ガレッドの剣を担うことができるのです」
「そうでしたね。夕食の支度でもしてきましょう」
クリクとタレンが戻ってきたのは、真夜中近いころだった。
「何かあったのか」スパーホークが尋ねた。
「話すほどのことは、何も」タレンは肩をすくめた。「プラタイムの名前を出せば、どんなドアもすぐに開くんだ。でもストラゲンの話だと、エムサットの北の地方には強盗がうようよしてるって。武装した護衛をつけて、予備の馬を貸してくれることになった。馬は父さんの発案さ」
「一時間おきくらいに馬を替えれば、道がはかどりますからね。食糧だの何だのも、護衛といっしょにつけてくれるそうです」
「友だちってありがたいもんだろ、スパーホーク」タレンが生意気な口調で言った。
スパーホークはタレンを無視した。「ストラゲンの手下はここへ来るのか」
「ううん」とタレン。「夜明け前に、エムサットから街道を北へ一マイルほど行ったところで落ち合うことになってる」少年は野営地を見まわした。「夕食はなに? 飢え死にしそうだよ」
[#改ページ]
24[#「24」は縦中横]
東の空が白みはじめると同時に出発した一行は、エムサットの北に横たわる森を迂回し、北へ向かう街道のほど近くで停止した。
「ストラゲンとかいうのが約束を守ってくれるといいんだが」クリクがタレンに向かってつぶやく。「サレシア国ははじめてだし、事情もわからずに敵地を進むのはどうも気に食わん」
「ストラゲンは信用できるよ、父さん」タレンは自信たっぷりだった。「サレシアの盗賊にはおかしな名誉の意識があるから。気をつけなくちゃいけないのはカモリア人さ。儲《もう》けになるとわかったら、自分をいつわるのも平気なんだ」
「騎士殿」穏やかな声が背後の木立の中から聞こえた。
スパーホークは即座に剣に手をかけた。
「その必要はないぜ、閣下。ストラゲンに言われてきた。この先の山にかかるあたりには強盗が多いんで、安全にお送りしてこいと」
「ではそこから出てきてはどうだ、ネイバー」
「隣人《ネイバー》ね」男の笑い声が聞こえた。「これは気に入ったな。さぞたくさんの隣人がいるんだろう、ネイバー」
「近ごろでは、世界じゅうのほとんどの人間がそうらしい」
「ではサレシア国へようこそ、ネイバー」木立の中から出てきた男は、薄い亜麻色の髪をしていた。きれいに髭を剃り、粗野な服装をして、荒々しい外観の矛《パイク》を持ち、鞍には斧が下がっていた。「ストラゲンの話では、北へ向かうつもりだとか。われわれはヘイドまで同行する」
「それでいいか」スパーホークはフルートに確認した。
「完璧よ。そこから一マイルほど行ったところで街道からそれるの」
「子供から命令を?」と亜麻色の髪の男。
「目的地までの道はこの子が知っている」スパーホークは肩をすくめた。「案内人とは言い争わないほうがいい」
「かもしれないな、サー・スパーホーク。わたしの名はテルだ――だからどうだというわけじゃないが。一ダースの部下と、乗り換え用の馬を連れてきてる。それとクリクさんが必要だと言った、食糧そのほかも」テルは片手で顔を撫でた。「ちょっと驚いているんだよ、騎士殿。ストラゲンがよそ者にこれほど親切にするのは、はじめて見た」
「プラタイムって名前を知ってるかい」タレンが尋ねた。
テルは鋭く少年を見た。「シミュラを仕切ってる男か」
「そう、それ。ストラゲンはプラタイムにちょっとした借りがあって、おいらはプラタイムのために働いてるのさ」
「なるほど、それなら筋が通る。さて騎士殿、どうやら日も昇ってきた。そろそろヘイドへ出発しないか」
「そうしよう」スパーホークも同意した。
テルの部下は全員が実用的なサレシア農民の服を着て、いかにも使い慣れた様子で武器を携行していた。髪はそろって金髪で、人生の柔弱な面には関心がないと言いたげな、冷酷な顔をしていた。
日がすっかり昇ってしまうと一行はペースを上げた。テルと殺し屋たちが同行するために速度が落ちているのはわかっていたが、それでもスパーホークは、セフレーニアとフルートの身の安全のために、テルたちがいてくれることをありがたく思った。山で待ち伏せに遭《あ》った場合に自分たちがいかに無防備かということを、騎士は知りつくしていたのだ。
しばらくは田園地帯が続き、こぎれいな農家が街道沿いのそこここに散見された。こういう人家の多いあたりでは、襲撃を受けることはあまり考えられない。危険なのは山に入ってからだった。その日は強行軍で移動し、かなり距離を稼いだ。夜は街道から離れた場所で野営し、翌朝も早くに出発した。
「少し鞍ずれができてきたみたいです」曙光《しょこう》とともに出発するとクリクがそう言った。
「今さら鞍ずれもないだろう」とスパーホーク。
「そうは言いますけど、この六ヵ月ってもの、ほとんど馬に乗りっぱなしなんですよ。鞍がすり減ってきそうなくらいです」
「新しい鞍を買ってやる」
「それでまた一から慣らしていくんですか。ごめんですよ」
やがて道はしだいに起伏が激しくなり、北のほうにはっきりと暗緑色の山々が見えはじめた。
「一つ提案があるんだがね、スパーホーク」テルが言った。「山地に入る前に野営してはどうかな。山には強盗がいるし、夜中に襲撃を受けると何かと不都合だ。だが連中も、このあたりまで降りてくることはまずない」
遅れが出るのは望ましくないが、テルの言うことももっともだった。セフレーニアとフルートの安全は、多少の時間の節約に替えられるものではない。
その日は太陽が沈む前に止まって、小さな谷間で一泊した。テルたちは姿を隠すのがとてもうまかった。
翌朝は明るくなるのを待って出発した。速足《トロット》で進んでいると、テルが言った。
「さて、山にひそんでる中には知り合いもいるんで、やつらがどのあたりで好んで待ち伏せをするかはよくわかってる。そういう場所に近づいたら、声をかけることにしよう。いちばんいいのは疾駆《ギャロップ》で駆け抜けてしまうことだ。待ち伏せしようと隠れてる連中の不意を衝《つ》くわけだな。向こうが馬に乗るのに、一分か二分は必要だ。追いかけてくる前に、じゅうぶん引き離してしまうことができる」
「敵はどのくらいの人数なんだ」スパーホークが尋ねる。
「全部で二、三十人いるんだが、ばらばらに分散してるはずだ。待ち伏せの場所がいくつかあって、そのすべてに人を配置してるだろうから」
「わかった。その考えは基本的に悪くないが、もっといい手がある。疾駆《ギャロップ》で待ち伏せの場所を通り過ぎたあと、向こうが追ってきたら反転して迎え撃つんだ。だんだん大きくなる追っ手を背後にしたまま進むことはない」
「血に飢えているんだな、スパーホーク」
「サレシア出身の友人がいて、生きた敵を背後にするのはいやだといつも言っているものでね」
「それはなかなか的を射た意見だ」
「どうしてこのあたりの強盗のことに詳しいんだ」
「昔はあの稼業をやってたんだが、天気の悪い日に外で寝なくちゃならない生活にうんざりしてね。それでエムサットへ行って、ストラゲンの下で働くようになった」
「ヘイドまではどのくらいある」
「あと五十リーグだ。急げば今週の終わりまでに着けるだろう」
「わかった。じゃあ行こうか」
一行は速足《トロット》で山道を駆けのぼった。走りながらも道の両側の木立や藪《やぶ》に注意深く目を向けている。
「その先だ」テルがささやいた。「待ち伏せ場所の一つだ。ちょっとした谷になってる」
「突っ切るぞ」スパーホークは先頭に立って谷に駆けこんだ。道の左にある断崖の上から、驚いたような声が上がった。人影が一つ見える。
「あいつ一人だ」テルが肩越しに叫んだ。「街道を見張っていて、旅人が来ると火を焚《た》いて仲間に合図するんだ」
「今度はそうはいかねえ」テルの部下の一人が低い声でつぶやき、背中から長弓をはずした。馬を止め、滑らかな動作で崖の上に矢を射かける。矢は見張りの男の腹をとらえ、男は身体を二つに折って埃《ほこり》っぽい道の上に墜落し、動かなくなった。
「いい腕だ」とクリク。
「こんなもんだな」射手は謙遜して答えた。
「悲鳴を聞かれなかったかな」スパーホークがテルに尋ねた。
「敵がどのあたりにいるかによるな。なぜ悲鳴が上がったのかはわからないだろうが、二、三騎で様子を見にくるかもしれない」
「来ればいいさ」弓を持った男が言った。
「少し速度を落とそう。角を曲がったら目の前に敵がいたなんてのはごめんだ」とテル。
「慣れているんだな、テル」スパーホークが言った。
「訓練の成果だよ、スパーホーク。それに土地鑑だ。おれはここで五年以上暮らした。ストラゲンがおれを寄越したのも、その点を買ったからだ。ちょっとその先の角を見てくる」テルは馬から滑り下り、矛《パイク》を手に取った。低い姿勢で駆けていき、曲がり角の直前で藪の中に姿を消す。しばらくしてまた姿を現わすと、テルは奇妙な仕草をして見せた。
「三人だ。速足《トロット》で近づいてくる」弓を持った男が小声で通訳し、矢をつがえて弓を上げた。
スパーホークは剣を抜いた。「セフレーニアを守れ」とクリクに声をかける。
先頭の敵は角を曲がった瞬間、喉に矢を受けて馬から転落した。スパーホークが手綱を振ると、ファランが突進する。
続く二人は落馬した仲間をあっけに取られて見ていた。スパーホークが片方を切り捨てると、残る一人は背《そびら》を返して逃げ出した。そこへテルが藪の中から飛び出し、矛《パイク》で男の胴体を突き上げるように一撃した。男はうっとうめいて馬から転げ落ちた。
「馬を押さえろ! ほかのやつらが隠れてる場所へ戻っちまうぞ!」テルが部下に叫んだ。
男たちが逃げていく馬のあとを疾駆《ギャロップ》で追いかけ、しばらくすると馬を引いて戻ってきた。
「いい手際だった」テルは道の上に倒れた男の身体から矛《パイク》を抜き取った。「悲鳴も上げず、逃げた者もいない」足で死体をひっくり返す。「こいつは知った顔だ。あとの二人は新入りだな。街道強盗の人生は楽なものじゃないから、ドーガはしょっちゅう新人を補給しなくちゃならない」
「ドーガ?」スパーホークが馬から下りて尋ねた。
「こいつらの頭目だ。おれはあまり気にしたことはないがね。いささか自惚《うぬぼ》れが強いところのある男だ」
「死体は藪の中に放りこんでおこう。子供には見せたくない」とスパーホーク。
「わかった」
死体を隠してしまうと、スパーホークは曲がり角を戻ってセフレーニアとクリクに合図した。
二人が慎重に馬を進めてくる。
「これは思ったより簡単にいきそうだ」テルが言った。「どうやら街道をよく見張れるように、ごく少人数のグループに分かれてるらしい。少し行ったら左側の森に入ろう。右側には岩場があって、ドーガはたいていそこに弓を持った連中を待機させてる。そこを通り過ぎたら何人かで背後から襲って、片付けてしまえばいい」
「その必要があるのですか」とセフレーニア。
「サー・スパーホークの忠告に従ってるだけですよ、レディ。背後に生きた敵を残すな――とくに弓で武装してる敵はね。背中に矢を射かけられるのはごめんだし、それはあなただって同じでしょう」
岩場の手前で森の中に入り、一行は用心深く進みつづけた。テルの部下が一人、そっと木々のあいだに姿を消して、しばらくすると戻ってきた。
「二人です。岩場を五十|歩《ペース》ほど行ったところにいます」
「二、三人連れていけ。二百|歩《ペース》ほど行くと身を隠す場所がある。そこなら道を横切れるから、岩場の裏から回って背後を襲え。声を立てさせないようにしろ」
むっつりした顔のブロンドの殺し屋がものすごい笑みを浮かべ、二人の仲間に合図すると馬を駆っていった。
「こんなに楽しいものだってことを忘れてたよ」テルが言った。「天気がいいときだけだがな。冬はみじめなもんなんだ」
岩場を過ぎて半マイルほど進んだあたりで、三人の殺し屋が追いついてきた。
「首尾は」テルが尋ねる。
「半分眠ってましたよ」一人が小さく笑って答えた。「今じゃすっかり眠ってますがね」
「よし」テルはあたりを見まわした。「しばらく疾駆《ギャロップ》で行けるぞ、スパーホーク。ここから数マイルは開けた平原を通るから、待ち伏せのできるような場所はない」
一行は正午近くまで疾駆《ギャロップ》で進み、丘の手前にかかったあたりでテルが停止の合図をした。
「次は少々厄介だ。道は下りになって、その先は渓谷だ。しかもこっち側からだと、迂回する方法もない。ドーガのお気に入りの場所だから、かなりの手勢を集めてるはずだ。いちばんいいのは一気に駆け抜けてしまうことだろう。動いてる標的を上から弓で狙うのはかなり難しい――少なくともおれはそうだ」
「渓谷はどのくらい続いてる」
「一マイルほどだ」
「そのあいだずっと丸見えなのか」
「まあそうだな」
「だがほかに手はない、と」
「暗くなるまで待つという手がないわけじゃないが、そうなるとヘイドまでの残りの行程は危険が倍になるな」
「わかった」スパーホークは心を決めた。「道を知ってるのはきみだ。先導してくれ」鞍から盾をはずして腕に装着する。「セフレーニア、わたしのすぐ横に並んでください。あなたとフルートを盾で守ります。よし、いいぞ、テル」
一気に渓谷へなだれ込むことで、スパーホークたちは敵の不意を衝いた。崖の上から驚きの声が上がり、矢が一本、はるか後方に飛来した。
「散開しろ! 固まるんじゃない!」テルが叫んだ。
なおも駆けつづけると、やっと矢が隊列の中に降り注ぎはじめた。セフレーニアとフルートを守っているスパーホークの盾に、矢が当たって音を立てる。くぐもった叫びが聞こえて、騎士は背後に目をやった。テルの部下の一人が苦痛に顔を歪《ゆが》め、鞍の上でぐらついている。身体から力が抜けて、男は地面に投げ出された。
「止まるな! もうすぐだ!」テルの声がした。
前方に渓谷からの出口が見えた。道はその先で木立の中を通り、切り立った断崖の中腹へとカーブしながら続いていた。
さらに何本か矢が射かけられたが、もう隊列までは届かないようだった。
木立の中を駆け抜け、崖の中腹にかかる。テルが叫んだ。
「このままだ! ずっと駆けつづけるつもりだと思わせるんだ」
疾駆《ギャロップ》のまま断崖の切り通しを駆けていくと、道が鋭く切れこんで崖が終わり、急な坂道の下に森が見えてきた。テルは息をきらした馬の手綱を引いた。
「このあたりでいいだろう。手前で道が狭くなっているから、一度に数人しか通れないはずだ」
「本当に追ってくるかな」とクリク。
「ドーガのやり口はわかってる。われわれが誰なのかはっきりとはわからなかったろうが、ヘイドの当局に駆けこまれるのは絶対に阻止したいはずだ。やつは大規模な討伐隊がこの山地に繰り出されるのを何よりも恐れてる。ヘイドには強力な重装歩兵がいるからな」
「向こうの森は安全なのか」スパーホークは坂道の下の森を指差した。
テルがうなずく。
「藪が密生していて、待ち伏せには向かない。山のこっち側で本当に危険なのは、今の渓谷で最後だ」
「セフレーニア、あの森に行っていてください。クリクも付き添っていけ」
クリクは一瞬だけ抗議しそうな様子を見せたが、何も言わずに従った。セフレーニアと子供たちを連れて道を下り、安全な森へ向かう。
「すぐに来るぞ」テルが言った。「全速で駆け抜けたから、追いつこうとするはずだ」長弓を持った部下を見て、「どのくらいすばやく連射できる」
「一の矢が届く前に、三の矢まで放てる」男は肩をすくめた。
「四の矢もやってみてくれ。馬に当てるだけでいい。崖を転げ落ちて、乗り手も道連れになるだろう。できるだけ数を減らしたところで、残りの者たちが突撃する。この戦略でいいか、スパーホーク」
「いいと思う」スパーホークは盾を左腕に付け替え、剣を抜いた。
と、カーブした崖の向こうから岩に当たる蹄の音が響いてきた。射手は馬から下り、すぐに手が届くように、矢筒を路傍のいじけた木に引っかけた。
「一本につき四分の一クラウンだぞ、テル」矢筒から抜いた矢を弓につがえながら、静かな声で言う。「いい矢は値が張る」
「請求書はストラゲンに回せ」テルは肩をすくめた。
「ストラゲンは支払いが遅いんだ。あんたが払って、ストラゲンへの請求はそっちでやってくれ」
「わかった」少し不機嫌そうにテルが答える。
「来たぞ」別の殺し屋が言った。とくに緊張している様子はない。
カーブを曲がってきた最初の二人は、たぶんスパーホークたちの姿を見ることもできなかったろう。テルの部下の口数の少ない射手は、少なくとも本人が言うだけの腕を持っていた。二人の山賊は鞍から転げ落ち、一人は路上に叩きつけられ、もう一人は崖の下に姿を消した。馬はそのまま数ヤード走りつづけたが、テルたちが道をふさいでいるのを見て足を止めた。
次に角を曲がってきた二人のうち、片方は狙いがはずれた。
「伏せたか」射手が言った。「これならどうだ」弓を引き絞って矢を放つ。矢は男の額に命中し、男はうしろに転げ落ちて激しく痙攣《けいれん》した。
さらに山賊が一団となって角を曲がってきた。射手はその中に立て続けに矢を射こんだ。
「そろそろ出たほうがいいぞ、テル。だいぶ迫ってきた」
「行くぞ!」テルが叫んだ。矛《パイク》を脇にたばさんで構えたその形は、甲冑を着けた騎士が槍を構える格好によく似ていた。部下たちが手にしている武器はさまざまだったが、手つきはいかにも使い慣れている様子だ。
ファランの力と速度は抜きんでていたので、スパーホークは味方から五十|歩《ペース》ばかり先行して、驚いている敵のただ中に突っこんだ。剣を大きく左右に振るって敵を斬り伏せる。敵は身を守る鎧《よろい》を着けていなかったので、刃は深々と肉体にめり込んだ。中には錆《さび》の浮いた剣を弱々しく上げて騎士の猛攻を防ごうとする者も二人ばかりいたが、手練《てだれ》の剣土であるスパーホークは剣を振るいながら途中で攻撃目標を変えることができ、二人は中ほどで切断された腕をつかんで、悲鳴を上げながら地面に転げ落ちた。
山賊たちの最後尾にいた赤髭《あかひげ》の男が背《そびら》を返して逃げ出そうとした。亜麻色の髪をなびかせたテルがスパーホークの横を駆け抜け、矛《パイク》を低く構えて突進する。二人の姿がカーブの向こうに見えなくなった。
テルの部下たちはスパーホークのうしろで、きわめて効率的に止めを刺してまわっている。
スパーホークはファランを駆って角を回った。どうやらテルは赤髭の男を矛《パイク》で馬から叩き落としたようだった。男は背中に矛《パイク》を突き立てたまま、地面の上でのたうっている。テルは馬を下り、致命傷を負った男のそばにしゃがみこんだ。
「結局こういうことになったな、ドーガ」友だちに話しかけるような口調だ。「ずっと前に、旅人を襲うのは危ない仕事だって言ってやったじゃないか」テルはかつての頭目の背中から矛《パイク》を引き抜き、黙って崖の下に蹴落とした。ドーガの悲鳴が断崖にこだました。
「さて、どうやら済んだようだ」テルがスパーホークに話しかけた。「先を急ごう。ヘイドまではまだかなりある」
テルの部下たちは山賊の死者と負傷者をまとめて崖の下に投げ落として、すっかり後片付けを終えていた。
「もう大丈夫だ。何人かここに残って、連中の馬を集めろ。いい値段で売れるだろう。残りはいっしょに来い。行こうか、スパーホーク」テルは先に立って道を進んでいった。
人影もまばらなサレシア中央部の山の中で、のろのろと日が過ぎていった。あるときスパーホークは手綱を引いてファランの足取りを緩め、セフレーニアとフルートの乗った馬に近づいた。
「もう五日は旅を続けてるような気がするんだが、実際には何日経ったんだ」
少女は微笑んで、指を二本立てた。
「また時間をいじってるのか」
「もちろんよ。約束した仔猫を買ってくれなかったから、何かいじるものが必要だったの」
スパーホークは降参した。太陽の運行ほど確実なものはこの世の中にないはずなのに、どうやってかフルートはそれを意のままにできるらしい。理解できないことを辛抱強くフルートから説明されたベヴィエの狼狽ぶりを思い出して、スパーホークは同じ轍《てつ》を踏むまいと心に決めた。
それから数日後――もっともスパーホークにその点を確言する気はなかったが――の日没時、亜麻色の髪のテルがファランのそばに馬を寄せてきた。
「向こうに見える煙がヘイドの街だ。おれたちはここで引き返す。ヘイドでは、まだこの首に賞金がかかってるはずだからな。もちろん何もかも誤解なんだが、説明するのも面倒くさい。とくに縄を首に巻かれて、階段の上に立たされてる状況ではな」
「フルート」スパーホークは肩越しに少女に呼びかけた。「タレンにやってもらうことというのは、もう済んだのか」
「ええ」
「だろうと思った。テル、申し訳ないんだが、あの男の子もいっしょにストラゲンのところへ連れて帰ってくれないか。帰りに立ち寄って拾っていくから。しっかり縛り上げて、足首と腰に縄を巻いてくれ。背後から飛びかかるんだ。気をつけろよ。ベルトにナイフをはさんでるから」
「それだけの理由があるんだろうな」とテル。
スパーホークはうなずいた。
「これから行くところはとても危険だ。あの子の父親もわたしも、そういう危険なところにあの子を連れていきたくないんだ」
「女の子のほうは」
「あの子は自分で自分の面倒を見られる。たぶんわれわれの誰よりもうまく」
「いいことを教えてやろうか、スパーホーク」テルが猜疑《さいぎ》の目で騎士を見ながら言った。「子供のころ、おれは聖騎士に憧れてた。でも今じゃ、聖騎士にならなくてよかったと思ってる。あんたたちのやってることは、何だかさっぱりわからない」
「お祈りのせいだろう」とスパーホーク。「お祈りをしすぎると、人間はつかみどころがなくなってくるんだ」
「幸運を祈る」テルは短くそう言うと、仲間二人と手荒くタレンを鞍から抱え上げ、武器を取り上げて自分の馬のうしろに縛りつけた。南に向かう馬の背中からタレンがスパーホークに投げつけた悪口雑言の数々は、大部分がきわめてあからさまなものだった。
「その子にはあの言葉の意味はわからないんでしょうね」スパーホークは意味ありげにフルートを見ながらセフレーニアに尋ねた。
「わたしがそこにいないみたいな話し方はやめてくれない」少女がぴしゃりと言った。「さっきの言葉の意味ならちゃんと知ってるわ。でもエレネ語は悪態をつくには向いてないみたいね。スティリクム語のほうが語彙《ごい》が豊かだわ。でも本当に悪態をつきたいと思うなら、トロール語を試してみるのね」
「トロール語がわかるのか」スパーホークは驚いて尋ねた。
「もちろん。誰だってそうじゃない。ヘイドへ行っても仕方ないわ。陰気な街よ。泥と腐った丸太とかびのはえた屋根しかないの。西へ迂回して。谷に出るから、そこをたどるのよ」
一行はヘイドを迂回し、さらに急な山道へと踏みこんでいった。フルートはじっとあたりに目を凝《こ》らしていたが、やがて指を上げた。
「そこよ。そこを左へ入るの」
谷の入口で馬を止めたスパーホークたち一行は、フルートの指差した道を見て渋い顔になった。道といっても踏み分け道で、しかも相当に曲がりくねっているようだ。
「あまり期待できそうにないな」スパーホークが疑わしげな声で言った。「もう何年も、誰も通ったことがなさそうじゃないか」
「人間の道じゃないわ。獣道《けものみち》よ――一種のね」
「どういう獣が通るんだ」
「あれを見て」フルートが前方を指差した。
それは下が平らになった丸石で、表面には何かの絵が雑なタッチで線刻されていた。かなり風化した古いものだったが、絵の不気味さはわかった。
「何だ、あれは」
「警告よ。あれはトロールの絵なの」
「トロールの国に連れていくつもりだったのか」スパーホークが警戒して尋ねる。
「ねえスパーホーク、グエリグはトロールなのよ。ほかのどこに住んでると思ってたの」
「洞窟へ行くのに、ほかに道はないのか」
「ないわ。トロールに出会ってもわたしが脅して追い払えるし、オーガーは昼間は外に出てこないから、問題はないはずよ」
「オーガーもいるのか」
「もちろん。オーガーはトロールと同じ地域に棲息してる。誰だって知ってることよ」
「わたしは知らなかった」
「でも、もう知ってる。これって時間の無駄よ、スパーホーク」
「一列縦隊で行くしかない」騎士はクリクにそう言って、セフレーニアに目を向けた。「わたしのうしろにぴったりくっついててください。ばらばらになりたくない」スパーホークは速足《トロット》で進みはじめた。手にはアルドレアスの槍を握っている。
フルートが指示した谷は狭くて薄暗かった。切り立った左右の斜面に生えている丈高い樅《もみ》の木の樹皮は黒く見えるほどだし、谷が深いために、日光が射しこむこともほとんどないようだ。狭い谷底には山から流れてきた水が音を立てていた。
「ガセックへ行く道だって、これほどじゃありませんでしたよ」水音に負けないようにクリクが叫んだ。
「静かにするように言って」フルートがスパーホークにささやいた。「トロールはとても耳がいいの」
スパーホークは振り向いて、唇に指を当てた。クリクがうなずき返す。
道の左右の急な斜面に生い茂る木々には、枯れて白骨のようになった枝がやたらと目についた。スパーホークは身をかがめ、唇をフルートの耳元に近づけた。
「どうして木が枯れてるんだ」
「夜になるとオーガーが出てきて、枝をかじるのよ。それで枯れる木も出てくるの」
「オーガーは肉食じゃないのか」
「何だって食べるわ。もっと速度を上げられない?」
「ここでは無理だ。ひどく道が悪い。先へ行けば少しはよくなるのか」
「谷を抜ければ山地の中の平らなところに出るわ」
「高原のことか」
「好きなように呼べばいいでしょ。いくつか丘があるけど、それは迂回できる。一面に草が生えてるわ」
「そこならもっと急げるだろう。高原はグエリグの洞窟まで続いてるのか」
「そうはいかないの。そこを通り過ぎたら、岩を登らなくちゃならないわ」
「前にも行ったことがあるんだったな。そんなところまで誰に連れていってもらったんだ」
「独りでよ。洞窟までの道を教えてもらって」
「どうして行こうと思った」
「することがあったの。そうやって話しつづけてなくちゃいられない? トロールに気を配っていたいんだけど」
「これは失礼」
「静かにね、スパーホーク」少女は唇に指を当てた。
高原に着いたのは翌日のことだった。フルートの言ったとおり、そこは一面の草原だった。雪を頂いた山々が地平線をぐるりと取り巻いている。
「ここを横切るのにどのくらいかかる」スパーホークが尋ねた。
「わからないわ」とフルート。「前に来たときは徒歩だったの。馬ならもっとずっと早く行けるでしょうね」
「独りで、歩いて、トロールやオーガーのうろついてる中を通っていったのか」信じられないと言いたげにスパーホークが尋ねる。
「ぜんぜん姿は見かけなかったわ。何日か若い熊があとをついてきたけど、あれは好奇心からでしょうね。尾《つ》けまわされるのに飽きたんで、帰ってもらったけど」
スパーホークはもう何も尋ねないことにした。聞けば聞くほど頭が混乱してくる。
高地の草原は果てがないように思えた。何時間馬を走らせても、稜線がまったく変化しないのだ。太陽が雪の峰々の上に低くなると、一行はいじけた松の木立の中に野営地を設けた。
「広い国ですね」クリクはあたりを見まわして、しっかりとマントを身体に巻きつけた。「それに日が沈むと、ひどく冷えこむ。どうしてサレシア人が毛皮を着るのかわかりましたよ」
迷い出さないように馬の両足を縛り、火を熾《おこ》す。
「この草原には大した危険はないはずよ」フルートが言った。「トロールもオーガーも森が好きだから。木々のあいだに隠れられるほうが、狩りが楽になるのね」
翌朝は曇天で、山々の頂きから冷たい風が吹きおろし、丈の高い草を波打つようになびかせていた。その日はがんばって距離を稼ぎ、夕刻には白くそびえる山の麓《ふもと》までたどり着いていた。
「今夜は火を焚《た》かないように。グエリグが見張ってるはずだから」フルートが言った。
「そんなに近いのか」とスパーホーク。
「あそこに峡谷が見える?」
「ああ」
「グエリグの洞窟は、あれを登っていった先よ」
「じゃあどうしてそこまで行ってしまわないんだ」
「それはあまりいい考えじゃないわ。夜中にトロールに忍び寄るのは不可能よ。明日の朝、太陽がすっかり昇るまで待って、それから出発しましょう。トロールはたいてい昼間は寝てるから。実際には寝入ってるわけじゃないけど、それでも夜に比べれば注意力が低下してるわ」
「トロールのことをよく知ってるんだな」
「探り出すのは難しいことじゃないの。誰に訊《き》けばいいかわかっていればね。セフレーニアにお茶を淹《い》れて、熱いスープも作ってあげて。全力を尽くさなくちゃならないでしょうから」
「火を使わずに熱いスープを作るのは、ちょっと難しいぞ」
「あら、スパーホーク、わかってるわよ。なりは小さくても、ばかじゃありませんからね。天幕の前に石を積んでおいて。あとはわたしが面倒を見るわ」
ぶつぶつと何事かつぶやきながら、スパーホークは言われたとおりにした。
「離れてて。あなたを燃やしたくないの」
「燃やす? どうやって」
フルートは低く歌を歌い、小さな片手を軽く動かした。スパーホークの積み上げた石がたちまち熱を放ちはじめる。
「役に立つ魔法だ」騎士は称讃の声を上げた。
「料理を始めて、スパーホーク。一晩じゅう石を熱くしてはおけないわ」
奇妙なことだと思いながら、スパーホークはセフレーニアのやかんを熱くなった石の上に置いた。ここ数週間のあいだに、騎士はフルートのことを子供だとは考えなくなっていた。口調も行動も大人のものだし、自分をまるで従僕のように扱う。何よりも不思議なのは、つい言われたとおりにしてしまうことだった。たぶんセフレーニアの言うとおり、この少女はスティリクム人の中でも最高に力のあるレベルの魔術師なのだろう。それでもなおスパーホークを悩ませる疑問があった。実のところ、フルートはいったい何歳なのか。スティリクムの魔術師は、自在に年齢を操ったり変更したりできるものなのだろうか。セフレーニアもフルートもこの疑問に答えてくれないことはわかっていた。スパーホークは忙しく手を動かして、余計なことは考えないことにした。
夜明けには全員が目を覚ましていたが、フルートの意見で峡谷に入るのは日が高くなるまで待つことになった。また少女は馬を置いていくようにとも指示した。蹄の音がすると、洞窟に隠れている耳のいいトロールに感づかれてしまうからということだった。
峡谷は狭く、切り立った崖に挟《はさ》まれ、濃い影に沈んでいた。四人はゆっくりした足取りで、浮き石を蹴落としたりしないように注意しながら岩を登っていった。めったに口はきかず、話すときもささやき声だった。スパーホークは古代の槍を握っていた。なぜかそうすべきだと感じたのだ。
道はだんだんと険しくなり、一行は岩にへばりつくようにして登りつづけた。頂上に近づくとフルートが手振りで停止を命じ、独りで先まで様子を見にいって、すぐに戻ってきた。
「中にいるわ。もう魔法の儀式を始めてる」と小声でささやく。
「洞窟の口はふさがれてるのか」スパーホークがささやき返した。
「ある意味ではね。登っていっても見えないわ。幻影を使って、洞窟の口が岩壁にしか見えないようにしてあるの。幻影といっても固さがあるから、歩いて通り抜けるわけにはいかない。その槍を使う必要があるわね」フルートはしばらくセフレーニアとささやきを交わした。小柄な教母がうなずく。「じゃあ、いいわ」フルートは大きく息を吸いこんだ。「行きましょう」
最後の数ヤードを登りきると、茨《いばら》と枯れ枝に覆われた汚い水たまりがあった。水たまりの上にのしかかるような急峻な崖があるものの、洞窟があるようには見えない。
「ここよ」フルートがささやいた。
「間違いなくこの場所なのか。ただの岩にしか見えないぞ」とクリク。
「間違いないわ。グエリグが入口を隠しているの」少女はほとんどそれとわからない踏み跡をたどって岩壁に近づいた。「この位置よ」そう言って片手を岩に当てる。「これからやることを言うわね。まずセフレーニアとわたしが呪文を唱える。解き放たれた呪文はあなたに流れこむわ、スパーホーク。一瞬とても妙な気分になって、次に身体の中に力が湧き上がってくるのを感じるはずよ。頃合いを見計らって合図するから、言われたとおりにして」そう言うとフルートは静かに歌いはじめた。セフレーニアもごく低い声で呪文を唱えはじめる。最後に二人は声を合わせ、スパーホークに向かって身振りをした。
急に眩暈《めまい》を感じて、スパーホークはその場に倒れそうになった。身体じゅうの力が抜け、左手の槍が持っていられないほど重く感じられる。と、同じような唐突さで、槍の重さがまったく感じられなくなった。呪文の力で肩の筋肉が盛り上がっている。
「今よ。槍を岩壁のほうに向けて」
騎士は腕を上げ、言われたとおりにした。
「先端が岩壁に触れるまで進んで」
二歩進むと、槍の穂先が岩に触れる感触があった。
「力を解放する――槍を通してね」
スパーホークは意識を集中し、体内に力を集めた。左手にはめた指輪が脈動している。騎士は集めた力を、幅広の刃のついた槍の柄を通して一気に送り出した。
目の前の固い岩壁と見えたものが揺らいで、消え失せた。そこには洞窟がぽっかりと口を開けていた。
「ほら、これよ」フルートの勝ち誇ったささやきが聞こえた。「グエリグの洞窟よ。さあ、あいつを探しにいきましょうか」
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25[#「25」は縦中横]
洞窟は長らく湿気を吸いつづけた土と岩のかび臭いにおいがした。どこか闇の奥から、絶え間なく水のしたたる音が聞こえてくる。
「いるとしたらどのあたりかな」スパーホークがフルートにささやいた。
「宝物庫から始めましょう。グエリグは貯めこんだ宝を眺めるのが好きなの。その先よ」少女は一本の通路を指差した。
「まっ暗じゃないか」
「それはわたしが何とかします」セフレーニアが言った。
「静かにね」とフルート。「グエリグはどこにいるかわからないし、魔法を聞きつけたり感じ取ったりできるから」まじまじとセフレーニアを見て、「大丈夫?」
「だいぶましになりました」セフレーニアはそう答え、サー・ガレッドの剣を右手に持ち替えた。
「よかった。ここでは何もしてあげられないの。グエリグはわたしの声を聞き分けるでしょうから。ほとんど何もかも、あなたにやってもらわなくちゃならないわ」
「大丈夫です」そうは答えたものの、セフレーニアの声は弱々しかった。教母は剣を上げた。「せっかく持ち歩いているのですから、これを使いましょう」短く呪文をつぶやき、左手を小さく動かす。小さな火花が散って、剣の先端が輝きはじめた。「あまり明るくはありませんが、これで我慢してもらうしかありませんね。これ以上明るいとグエリグに気づかれてしまうでしょう」教母は剣を上げ、通路の入口に向かった。剣の先端の光は漆黒の闇の中の蛍のようにか弱かったが、それでもどうにか通路を進み、でこぼこの床の上の障害物をよけることはできる程度のものだった。
通路はずっと下りで、ゆるく右に曲がっていた。数百|歩《ペース》進んだところで、スパーホークはそれが自然にできたものではないことに気づいた。岩をくりぬいて作られた通路が、螺旋《らせん》を描きながら地下へと続いているのだ。
「グエリグはどうやってこれを作ったんだ」騎士はフルートにささやいた。
「ベーリオンを使ったのよ。昔の通路はもっと長くて、急だった。グエリグは手足がねじれてるから、それまでは洞窟から出るだけで何日もかかっていたの」
一行はできるだけ急いで歩きつづけた。ある場所では急に洞窟が広くなり、氷柱《つらら》のような鍾乳石から水がしたたり落ちていた。だがすぐに通路はまた岩の中へと吸いこまれていく。時にはセフレーニアの持つかすかな光が天井からぶら下がった蝙蝠《こうもり》の一団を驚かせ、鋭く鳴きながら狂ったように飛びまわる巨大な黒い雲を出現させることもあった。
「蝙蝠は嫌いだ」クリクが悪態をついた。
「害はないわ」フルートがささやく。「まっ暗闇の中でも、蝙蝠がぶつかってくることはないのよ」
「そんなに目がいいのか」
「いいえ、耳がいいの」
「何でも知ってるんだな」クリクのささやきには不機嫌そうな響きがあった。
「まだまだよ」フルートが静かに答える。「でもそうなろうと努力してるとこ。何か食べるものがないかな。お腹《なか》が空いてきたわ」
「干した牛肉がある」クリクは黒い革のベストの上に着ている短衣《チュニック》に手を突っこんだ。「でも塩がきついぞ」
「水ならこの洞窟にいくらでもあるわ」少女は革のように固い干し肉をかじった。「たしかに塩辛いわね、これ」そう言ってごくりと飲みくだす。
さらに進んでいくと、前方に明かりが見えてきた。最初はかすかな光だったが、螺旋状の通路を下るにつれて着実に強さを増してくる。
「宝物庫はもうすぐよ。ちょっと見てくる」フルートは独りで先へ進み、すぐに戻ってきた。「いるわ」その顔に笑みが浮かんだ。
「明かりをつけてるのか」クリクがささやく。
「いいえ、あれは地上からの光よ。洞窟の中に水が流れこんでるの。ある時刻になると、その水に反射した日光が射しこんでくるわけ」フルートはもう普通の声で話していた。「水音でわたしたちの声は聞こえないはずよ。でも注意は怠らないでね。グエリグはどんな動きも見逃さないから」さらにフルートは短くセフレーニアに何か言い、教母はうなずくと手を伸ばして、剣の先に灯った光を二本の指ではさんで消した。続いて呪文を唱えはじめる。
「何をしてるんだ」スパーホークがフルートに尋ねた。
「グエリグは独り言を言ってるわ。何か役に立つことが聞けるかもしれない。あれはトロール語だから、セフレーニアはあなたたちにも理解できるようにしようとしてるの」
「あいつにエレネ語でしゃべらせようっていうのか」
「いいえ、呪文はグエリグに向けるんじゃないわ」フルートは悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべた。「あなたはいろいろなことを学んだわね、スパーホーク。今度はトロールの言葉がわかるようになるのよ。とりあえずの間だけど」
セフレーニアが呪文を解き放つと、スパーホークは螺旋通路を下ってきたときに比べて、周囲の音がよく聞こえるようになったことに気づいた。洞窟の先のほうに流れ落ちている水の音は咆哮のようで、グエリグのきしるようなつぶやきもはっきりと聞こえる。
「しばらくこのまま待つことにするわ」フルートが言った。「グエリグはいつも独りだったから、独り言をつぶやく癖があるの。思いついたことを何でも口にするのよ。盗み聞きするだけで、かなりのことがわかるはず。そうそう、グエリグはサラクの王冠を持ってるわ。ベーリオンもそのままよ」
スパーホークは興奮が湧き上がってくるのを感じた。長らく探し求めてきたものが、ほんの数百|歩《ペース》先にあるのだ。
「あいつは何をしてる」騎士はフルートに尋ねた。
「水に削り取られてできた、大きな岩の窪《くぼ》みに座ってるわ。宝物をまわりに積み上げてる。ベーリオンにこびりついた泥炭を、舌できれいにしてるとこ。だから今は何を言ってるかわからないのね。もう少し近づきましょう。ただ、通路の外には出ないでね」
一行は光のほうに向かって這《は》い進み、開口部から数ヤード手前で動きを止めた。滝に反射する光が揺らめく水を思わせる。それはまるで虹のようだった。
「泥棒め! 盗人め!」耳障りな声が聞こえた。エレネ人やスティリクム人がどれほど耳障りな声を出しても、これほどひどいことはない。「汚い。やつらみんな汚い」矮躯《わいく》のトロールが宝物を舐《な》める音がぴちゃぴちゃと聞こえた。「泥棒どもみんな死んだ」そう言って高笑いする。「みんな死んだ。グエリグ死なない。グエリグの薔薇、とうとう戻った」
「狂ってるみたいなしゃべり方だな」クリクがつぶやいた。
「昔からよ。身体と同じように、心もねじくれてるの」
「グエリグに話せ、青い薔薇!」姿の見えない怪物は、やがてスティリクムの女神アフラエルに向けた罵詈雑言を吠えはじめた。「指輪を返せ! 指輪を返せ! 指輪がないと、ベーリオンはグエリグに話さない!」聞くに耐えない声が上がり、スパーホークはトロールが泣いているのだと気づいた。「さびしい。グエリグとてもさびしい!」
スパーホークは異形のトロールに強い憐れみの念を感じた。
「やめなさい」フルートが鋭くささやいた。「向き合ったときに心がくじけるわよ。あなたは今や唯一の希望なの、スパーホーク。心を石のようにしておいて」
と、グエリグはエレネ人のどんな言語にも直しようのない穢《けが》れた言葉を吐き出した。
「トロール神を召喚してるわ」フルートは首をかしげた。「ほら、トロール神が応答した」
滝の咆哮する音が変化したように思えた。深みが増し、反響が大きくなったような気がする。
「すぐに殺さなくちゃならないわ」少女はぞっとするほど即物的な調子でつぶやいた。「工房に、まだ元のサファイアのかけらが残ってるの。トロール神たちはそれで新しい指輪を作れと言ってる。そうすれば、ベーリオンを解除する力をその指輪に与えるって。その瞬間にわたしたちはおしまいよ」
グエリグの恐ろしい笑い声が聞こえた。
「グエリグがやっつけてやる、アザシュ。アザシュは神だけど、グエリグがやっつける。アザシュがベーリオンを見ること、もうない」
「アザシュにはあれが聞こえているのでは?」とスパーホーク。
「おそらく」セフレーニアが静かに答えた。「アザシュは自分の名前の響きを知っています。誰かがその名を口にすれば、すぐに気がつくはずです」
「人どもは湖を泳いでベーリオンを見つけた」グエリグの声はなおも続いた。「アザシュの虫は草陰で見てた。人どもいなくなった。虫は心のない人どもを連れてきた。人どもは泳いだ。たくさん溺れた。一人がベーリオンを見つけた。グエリグはそいつを殺して、青い薔薇を取り戻した。アザシュはベーリオンが欲しいか。アザシュはグエリグ探しにこい。アザシュはトロール神の火で焼かれる。グエリグ、神の肉は食べたことない。神の肉はどんな味か」
地の奥底でごろごろと音がし、洞窟の床が震えた。
「アザシュは間違いなく聞いています」セフレーニアが言った。「あのねじくれたトロールは、ほとんど称讃に値しますね。古き神に向かってあんな侮辱を投げつけた者は、およそ前代未聞です」
「アザシュはグエリグのこと怒ってるか。それとも怖くて震えたのか。グエリグはベーリオンを持ってる。指輪もすぐできる。そうすればトロール神もいらない。アザシュをベーリオンの火で焼く。汁気が抜けないように、ゆっくり焼く。グエリグ、アザシュを食べる。アザシュがグエリグの腹の中にいたら、誰がアザシュに祈るか」
今度の地鳴りには、地の底で岩の割れる鋭い音がともなっていた。
「アザシュをからかうなんて、無謀なことをしてるんじゃないですか」クリクが緊張した声で言った。
「トロールの神々がグエリグを守っています」セフレーニアが答えた。「いかにアザシュでも、トロール神と真っ向からやり合おうとはしないでしょう」
「泥棒め! みんな泥棒!」トロールはわめいた。「アフラエルは指輪を盗んだ! サレシアのアディアンはベーリオンを盗んだ! 今度はアザシュとエレニアのスパーホークが、またベーリオンをグエリグから盗もうとしてる! グエリグに話せ、青い薔薇! グエリグさびしい!」
「どうしてわたしのことがわかったんだ」スパーホークは矮躯のトロールの情報量に舌を巻いた。
「トロール神たちは老獪《ろうかい》で賢明です」セフレーニアが答えた。「この世界で起きる出来事で、知らないことはほとんどありません。そしてトロール神は自分たちの知ったことを崇拝者に教えるのです――見返りさえあれば」
「どんな見返りなら神は満足するんです」
「知らずに済むことを祈るのですね、ディア」教母は身震いした。
「グエリグは青い薔薇の花びら一枚彫るのに十年かけた。グエリグは青い薔薇を愛してる。どうして青い薔薇はグエリグに話さない」トロールはよく聞こえない声でしばらく何かつぶやいた。「指輪だ。青い薔薇がまたグエリグに話すように、指輪を作る。アザシュをベーリオンの火で焼く。スパーホークをベーリオンの火で焼く。アフラエルをベーリオンの火で焼く。みんな焼く。それからグエリグが食べる」
「そろそろ出ていったほうがいいようだ。やつを工房へ行かせたくない」スパーホークがむっつりと言い、剣に手を伸ばした。
「槍を使うのよ」フルートが助言した。「剣だとつかまれて、もぎ取られるわ。でもその槍には力があるから、つかんだりはできない。お願い、高貴なる父上、生き延びて。あなたが必要なの」
「最善を尽くすとも」スパーホークは答えた。
「父上?」クリクが驚いた声を上げる。
「スティリクム語の呼びかけの言葉です」セフレーニアがあわてた様子で言い、ちらりとフルートを見やった。「敬意を表わすものです――それと愛を」
スパーホークはめったに見せない行動に出た。胸の前で両手を合わせ、不思議なスティリクム人の少女に一礼したのだ。
フルートは喜んで両手を打ち合わせ、スパーホークの腕の中に飛びこんで、薔薇の蕾《つぼみ》のような唇で音を立てて口づけをした。さらに「父上」と呼びかける。スパーホークはひどい戸惑いを覚えた。フルートの口づけは、少女がするような種類のものではなかったのだ。
「トロールの頭はどのくらい硬いんだ」クリクがぶっきらぼうにフルートに尋ねた。少女があからさまに示した年齢に似合わない親愛の表現に、こちらも明らかに戸惑っている。従士は荒々しくフレイルを一振りした。
「ものすごく硬いわ」
「足が悪いとか言ってなかったか。どのくらいすばやく動ける」
「立ってるのが精いっぱいね」
「ではこうしましょう、スパーホーク」クリクは職業的な戦士の口調になっていた。「わたしはやつの側面に回って、膝や腰や足首にこいつをぶちこみます」と手にしたフレイルをぶんとうならせ、「やつが膝をついたら、腹に槍を突き立ててください。わたしは頭をかち割れるかどうか、やってみます」
「そう詳しく描写する必要があるのですか、クリク」セフレーニアが気分の悪そうな声で抗議する。
「仕事ですからね、小さき母上」スパーホークが答えた。「何をどうするか、きちんと決めておかなくてはならないんです。どうか邪魔しないでください。よし、クリク、行こうか」従士に声をかけ、堂々と通路を歩いて宝物庫に踏みこむ。姿を隠そうとする努力はしなかった。
宝物庫は驚くべき場所だった。天井は紫色の靄《もや》の彼方に隠れ、流れ落ちる滝は輝く金色の霧の中に突っこんで、想像もつかないほど深い滝壺へと吸いこまれ、その底から虚《うつ》ろな咆哮を轟《とどろ》かせている。眼路の限りにどこまでも続く岩壁には金の露頭や鉱脈が走り、国王の身代金よりも価値のありそうな無数の宝石が、虹色の揺れる光にきらめいている。
矮躯のトロールのねじくれた毛深い身体は、滝壺の縁のところにうずくまっていた。そのまわりには純金の塊やさまざまな色合いの宝石が山と積まれている。グエリグの右手には、サラク王の汚れた黄金の冠が握られていた。そこに嵌《は》めこまれている宝石こそサファイアの薔薇、ベーリオンだ。ベーリオンは流れこむ水に反射する光を受けて輝いているようだった。スパーホークは地上でもっとも貴重な宝石をはじめて目の当たりにして、しばし驚異の念に圧倒された。気を取り直し、古代の槍を低く構えて足を踏み出す。セフレーニアの呪文が自分のしゃべる言葉にも効いているのかどうかはわからなかったが、この不気味な怪物に声をかけるべきだという強い衝動が騎士の内心から突き上げてきた。言葉もかわさずに背中から槍を突き立てるのは、騎士としての誇りが許さなかったのだ。
「ベーリオンを受け取りにきた」スパーホークはそう声を上げた。「わたしはサレシア王アディアンではない。だから罠《わな》をかけるような真似はしない。欲しいものは力によって奪い取る。できるものなら守ってみるがいい」騎士としては、これがこの状況でできる精いっぱいの挑戦の宣告だった。
グエリグがねじくれた身体を起こして立ち上がった。激しい憎悪に厚い唇がめくれ上がり、黄色い牙がむき出しになっている。
「グエリグのベーリオンは取らせない、エレニアのスパーホーク。グエリグが先に殺す。おまえはここで死ぬ。グエリグが食べる。青白いエレネ人の神には、もうスパーホーク救えない」
「それはまだわからんぞ」スパーホークは冷たく答えた。「一度だけベーリオンを使ったら、アザシュの手に渡らないように破壊する。今すぐ渡すか、死ぬかだ」
グエリグは恐ろしい笑い声を上げた。
「グエリグが死ぬ? グエリグは不死身だ、エレニアのスパーホーク。人どもに殺せない」
「それもまだわからんぞ」スパーホークはわざとゆっくりと槍を両手で握り、矮躯のトロールに迫った。クリクは棘《とげ》つきのフレイルを手に通路から出てきて、トロールの側面に回りこんだ。
「二人か。スパーホークは百人連れてくるべきだった」トロールは身をかがめ、鉄の帯を巻いた巨大な石の棍棒を宝石の山の中から引っ張り出した。「グエリグのベーリオンは取らせない、エレニアのスパーホーク。グエリグが先に殺す。おまえはここで死ぬ。グエリグが食べる。アフラエルにも、もうスパーホーク救えない。人どもはもうおしまい。今夜はお祝いする。焼いた人ども、肉汁たっぷり」グエリグは音を立てて舌なめずりをした。ぐっと胸をそらす。毛に覆われた両肩の筋肉が盛り上がった。トロールの場合、矮躯という言葉に欺かれてはいけないのだ。小さいといっても背丈はスパーホークと同じかそれ以上だし、老木のようにねじれた腕は膝の下まで届いている。顔は髭面というよりも、毛むくじゃらというべきだろう。緑の瞳には邪悪な色が宿っていた。巨大な棍棒を右手で振りまわしながら、よろよろと進んでくる。左手にはベーリオンの嵌めこまれたサラクの王冠を握りしめたままだった。
クリクが進み出て、フレイルで怪物の膝を狙った。グエリグはその一撃を棍棒で受け、ばかにするように、うめくような恐ろしい声を上げた。
「逃げろ、弱い人ども。肉はみんなグエリグの食べ物」言うと同時に棍棒を振りまわす。異常なほど長い腕のために、単純な武器でも危険は倍加していた。クリクが飛びのくと、鉄の帯を巻いた石の棍棒がうなりを上げて鼻先をかすめた。
スパーホークは突進し、トロールの胸に槍を突き立てようとしたが、やはりグエリグは楽々と受け流した。
「遅いな、エレニアのスパーホーク」笑い声が上がる。
そこへクリクが左の尻にフレイルを叩きつけた。グエリグは後退したが、同時に猫のようにすばやく、棍棒で宝石の山を一撃した。無数の宝石が飛礫《つぶて》のように飛び散り、クリクはうめいて、あいている左手で目をぬぐった。額が切れて血が流れていた。
スパーホークはふたたび槍を繰り出し、バランスを崩したトロールの胸に軽い傷を負わせた。グエリグは怒りと痛みに咆哮し、よたよたと前進して棍棒を振るった。スパーホークは飛びのいて、冷静に隙《すき》をうかがった。トロールは恐怖というものを知らないらしい。致命傷でない限り、どんな傷を負わせても退却はしないだろう。グエリグは文字どおり口から泡を噴き、緑の目はぎらぎらと狂気に輝いていた。呪詛の言葉を吐き出すと、恐ろしい棍棒を振りまわしてふたたび前進してくる。
「滝壺の縁から遠ざけるんだ。あそこに落ちたら、王冠は見つからないぞ」クリクに声をかけたスパーホークは、そこに鍵があることに気づいた。何とかしてトロールに王冠を手放させるのだ。長い腕を持ち、目を狂気にぎらつかせたこの毛むくじゃらの怪物を圧倒するのに、二人くらいでは足りないことはもはや明白だった。だが注意をそらすことさえできれば、懐《ふところ》に飛びこんで致命傷を与えることができるかもしれない。騎士は右手でクリクの注意を引き、手を伸ばして従士の左|肘《ひじ》を叩いた。クリクは一瞬戸惑った顔になったが、すぐに理解してうなずいた。クリクはフレイルを構えたままグエリグの左手に回りこんだ。
スパーホークは槍を両手で握りなおし、フェイントをかけた。グエリグが棍棒で武器を叩こうとすると、すぐに引っこめる。
「グエリグの指輪!」トロールは勝ち誇った声で叫んだ。「エレニアのスパーホークがグエリグの指輪を持ってきた。指輪があるのを感じる!」恐ろしい咆哮を上げて、トロールは棍棒をうならせながら突進した。
クリクの棘つきのフレイルが、トロールの太い左腕からかなりの量の肉をむしり取った。しかしグエリグは気にも留めない様子で、なおも棍棒を振りまわしながらスパーホークに追い迫る。左手はまだしっかりと王冠を握りしめていた。
スパーホークはじりじりと後退した。グエリグが王冠を握っているあいだは、滝壺の深淵から引き離しておかなくてはならない。
クリクがさらにフレイルを振るったが、グエリグはあわてて身をかわし、鎖の先の棘つきの鉄棒は毛深い腕をとらえることができなかった。どうやらさっきの一撃が見た目以上に苦痛を与えていたようだ。スパーホークはその一瞬の隙を衝《つ》いて、グエリグの右肩に槍を突き刺した。グエリグは痛みというより怒りのわめき声を上げ、すぐに棍棒で応酬してきた。
と、スパーホークの背後からフルートの歌が聞こえた。澄んだ歌声が鐘の音のように、滝の轟音にもかき消されることなく響いてくる。グエリグの目が丸くなり、残忍な口がぽかんと開いた。
「おまえ!」グエリグがわめいた。「グエリグは小娘に仕返しする! 歌はここで終わる!」
フルートは歌いつづけ、スパーホークは危険を冒してちらりと肩越しに視線を投げた。通路の出口のところに少女が立っていた。背後にセフレーニアを従えている。歌はどうやら呪文ではなく、単にグエリグの注意をそらして、スパーホークかクリクが怪物の隙を衝けるようにしているだけらしかった。グエリグは棍棒を振りまわしてスパーホークを牽制《けんせい》しながら、よたよたと前進した。目はフルートを睨《にら》みつけ、食いしばった牙の奥から激しく息を吐き出している。クリクが背中を一撃したが、グエリグは攻撃されたことにさえ気づかない様子でスティリクム人の少女に向かっていった。スパーホークにとっては好機だった。トロールが目の前を横切りながら棍棒を振るったため、毛深い脇腹ががら空きになったのだ。スパーホークは全身の力を込めて、古代の槍の広い穂先を肋骨のすぐ下に思いきり突き立てた。剃刀《かみそり》のように鋭い刃が厚い毛皮を貫通し、矮躯のトロールは咆哮した。棍棒を振りまわそうとするが、スパーホークは槍を引き抜いて飛びすさった。そこへクリクがグエリグのねじれた右膝にフレイルを叩きこんだ。骨の砕ける不気味な音が響く。グエリグは転倒し、棍棒を取り落とした。スパーホークは槍を逆手に持ち替え、トロールの腹に突き立てた。
グエリグは絶叫し、右手で槍をつかんだ。スパーホークは槍を何度もこじって、鋭利な刃で内臓をずたずたにした。しかし王冠はまだしっかりと左手に握られている。手放させるには殺す以外になさそうだった。
トロールは地面を転がって槍から逃れたが、そのために傷口はさらに大きく広がった。クリクがフレイルを顔面に振るって片方の目をつぶす。恐ろしい叫びが上がり、トロールは貯めこんだ宝石を蹴散らしながら滝壺へ向かった。そして勝利の雄叫びとともに、サラクの王冠を握りしめたまま深淵に身を躍らせた!
しまったと思いながら、スパーホークは深淵の縁に駆け寄って、絶望のうちに滝壺を眺めた。はるか下方にねじくれたトロールが、想像もつかない闇の中へと落ちていくのが見えた。と、洞窟の石の床を踏む裸足の足音が聞こえ、フルートが漆黒の髪をなびかせて騎士の横を通り過ぎた。恐ろしいことに、少女はためらうそぶりも見せずに縁を越え、落ちていくトロールのあとを追った。「何てことを!」スパーホークは息を呑み、あわてて手を伸ばしたが、少女をつかまえることはできなかった。驚いたクリクも駆けつけてきた。
そこへセフレーニアもやってきた。サー・ガレッドの剣をまだ手にしている。
「何とかならないんですか、セフレーニア」クリクが哀願した。
「その必要はありませんよ、クリク」セフレーニアの声は静かだった。「あの子の身に危険はありません」
「でも――」
「しっ、静かに。耳を澄ましたいのです」
はるか頭上で雲が太陽の前を通り過ぎたかのように、滝の水に反射する光が少し弱くなった。轟く滝の音が騎士をあざけっているように聞こえる。スパーホークは自分の頬《ほお》が涙に濡れていることに気づいた。
と、深淵の深い闇の底に閃光のようなものが見えた。その光は徐々に強さを増しながら、無明の闇の中を上昇してくるように思えた。近づいてくるにつれて、はっきりした形が見えはじめた。それは純白の光の棒で、先端だけが強烈に、青く輝いていた。
ベーリオンだった。白く輝くフルートの小さな手の上に載ったベーリオンが、深淵の底から上昇してくるのだ。スパーホークは息を呑んだ。フルートの身体を通して向こうが透けて見えている。闇の中から上昇してきたものは、霧のように実体がなかった。フルートは小さな顔に冷静で落ち着き払った表情を浮かべ、片手でサファイアの薔薇を頭の上に捧げ持っていた。もう一方の手でセフレーニアを差し招く。愛する教母が深淵の上に足を踏み出すのを見て、スパーホークはぞっとした。
しかしセフレーニアは落下しなかった。
まるで固い土の上を歩いているような足取りで、教母は静かに無明の深淵の上を横切り、フルートの手からベーリオンを受け取った。それから振り向くと、奇妙に古めかしい言葉遣いでスパーホークに語りかけてきた。
「槍の穂先をはずして、汝が女王の指輪を右手にはめられよ、サー・スパーホーク。汝に手渡せしとき、ベーリオンの汝を滅ぼさざるように」その横でフルートが顔を上げ、歓喜の歌を歌った。歌は無数の声に乗ってあたりを満たした。
セフレーニアは実体のないその顔に、愛情のこもった仕草で手を触れた。それから両手で軽くベーリオンを支えたまま、虚無の上を歩いて戻ってきた。
「汝が探求は終わりぬ、サー・スパーホーク。いざベーリオンを受け取らるべし。わが手より、わが幼き女神アフラエルが手より」
その瞬間、すべてがすっきりと明確になった。スパーホークとクリクは並んで膝をつき、騎士はセフレーニアの手からサファイアの薔薇を受け取った。セフレーニアも二人の間にひざまずき、三人は称讃の目で、かつてフルートと呼んでいた少女の輝く顔を見上げた。
つねに幼い女神アフラエルは三人に微笑みかけた。歌声はなおも洞窟の中にこだましながら響きわたっている。霧のような少女の身体を満たす光がますます明るくなり、アフラエルは矢よりも速く天空に飛び去った。
その姿が見えなくなった。
[#改ページ]
本書は、一九九六年六月に角川スニーカー文庫より刊行された『ルビーの騎士』を二分冊にして改題した新装版の、第二分冊です。
底本:「エレニア記4 永遠の怪物」ハヤカワ文庫FT、早川書房
2006(平成18)年10月10日 印刷
2006(平成18)年10月15日 発行
※底本の一部の文章には、古印体と呼ばれるフォントが使用されています。このファイル中では[#「〜」は古印体]という形で注記しています。
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年 1月 1日 作成
2008年 1月12日 校正
2009年 2月10日 校正
2009年 5月14日 古印体注記の書き方を変更
ハヤカワ文庫通し番号:FT426
ISBN(旧規格、ISBN-10):ISBN4-15-020426-8
Cコード:C0197
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(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] エレニア記4 永遠の怪物(ハヤカワ文庫FT).zip 50,267,859 475979b2902bd0278cd2257dc72930312bdaa6ae
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
放流者に感謝いたします。
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底本は1ページ17行、1行は約39文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html