ヴァージニア・ウルフ短篇集
ヴァージニア・ウルフ/西崎 憲 編訳
目 次
ラピンとラピノヴァ
青と緑
堅固な対象
乳母ラグトンのカーテン
サーチライト
外から見たある女子学寮
同情
ボンド通りのダロウェイ夫人
憑かれた家
弦楽四重奏団
月曜日あるいは火曜日
キュー植物園
池の魅力
壁の染み
ミス・Vの不思議な一件
書かれなかった長篇小説
解説 ヴァージニア・ウルフについて
[#改ページ]
ラピンとラピノヴァ
[#地付き]Lappin and Lapinova
二人は結婚した。ウエディングマーチは高らかに鳴り響いた。鳩は飛びたった。イートン校の制服を着た小さな少年たちが米を投げた。フォックステリアが二人の歩く道を横切った。アーネスト・ソーバーンは縁もゆかりもない人々の小さな群を抜けて自動車まで花嫁の手を引いていった。ロンドンの街頭で他人の幸福や不幸を蒐集するのに余念がない人々の顔は好奇心に満ちていた。疑いようなく彼は|端麗《ハンサム》に見えたし、彼女は内気に見えた。さらに米が投げられ、車は動きだした。
それは火曜日のことだった。そして今は土曜日である。自分がアーネスト・ソーバーン夫人であることに慣れようと、ロザリンドはまだ努力をしていた。たぶん自分がアーネスト|某《なにがし》夫人であるという事実に決して慣れることはないだろう。ロザリンドはそう思った。彼女はいま湖やその向こうの山々を|見霽《みはる》かすホテルの弓形の張り出し窓の椅子に腰を掛けて、朝食をとりに下りてくる夫を待っていた。アーネストというのは慣れるのに難しい名前だった。自分が欲しい名前ではなかった。自分が好きなのはティモシーやアントニーやピーターといった名前だった。それに彼はアーネストという名前の人間には見えなかった。つまりその名前が連想させるものはアルバート記念碑や、|黒檀《マホガニー》の食器棚や、アルバート公の鋼版画といったもの――それにポーチェスターテラスの食堂にいる義理の母親といったものだった。
けれども彼はここにいる。嬉しいことに彼はアーネストという名前であるようには見えない――確かに、そんなふうには見えない。でも、アーネストでないとしたら一体何なのだろう? ロザリンドは横目でちらりと夫を見た。そう、トーストを|齧《かじ》っている彼は穴うさぎのように見える。たぶん今まで誰もいないだろう。真っ直ぐな鼻に碧い眼、少しの|弛《ゆる》みもない唇を備えた、|逞《たくま》しく、きちんとした若い男性と、小形で臆病な動物との共通点を指摘した者は。そのことは自分の連想をいっそう愉快なものにするように思われた。彼の鼻は食べている時ごく微かにひくひくと動いた。ちょうどロザリンドが飼っているうさぎの鼻のように。視線に気づいたアーネストに笑っている理由を尋ねられ、ロザリンドは自分が考えていることを説明しなければならなくなった。
「あなたがうさぎに似ていたからなのよ、アーネスト」ロザリンドは言った。「野生のうさぎに」そうして夫を見ながら言葉をつづけた。「狩りをするうさぎ、王様うさぎ、ほかのうさぎたちのために法律を作ってやるうさぎ」
アーネストは自分がそうしたうさぎに|喩《たと》えられたことに別段不服の意を表さなかった。そして鼻をひくひくさせると彼女が喜ぶので――彼は自分の鼻がひくひくすることを知らなかった――わざとやって見せた。彼女は笑いころげた。そして彼もまた笑った。だから、老嬢たちや釣りにきた男や|脂《あぶら》じみた黒の上着のスイス人の給仕らはみな二人がどんな状態でいるのか正しく推測することができた。あの二人はとても幸福だと。だがそんな幸福はどのくらいつづくのだろうか? みなは心のなかで質問を発した。そしてそれぞれ自分の経験に照らしてその問いに答えた。
昼食の時、湖畔に茂ったヒースのうえに腰を下ろし、ロザリンドは言った。「うさぎさん、レタスは?」彼女は固茹で卵の付けあわせのレタスを差しだした。「どうぞ、わたしの手からとってくださいな」彼女はさらに言った。アーネストは手を伸ばしてレタスを取り、少し齧って鼻をひくひくさせた。
「利口なうさぎね、かわいいうさぎ」アーネストを撫でながら彼女は言った。ちょうど家のうさぎをよくそうしたように。けれどそれはばかげた行いだった。彼が何であるにせよ、飼い馴らされたうさぎでないことだけは確かだった。ロザリンドはその言葉をフランス語にしてみた。「ラパン」彼女はアーネストをそう呼んでみた。しかしアーネストが何であるにせよ、フランスのうさぎでないことも間違いなかった。彼はどこから見ても紛うかたなくイギリス人だった――ポーチェスターテラスで生まれ、ラグビー校で教育を受け、役所で働く公務員だった。だから彼女はつぎに「バニー」と呼んでみた。けれどそれはますます具合が悪かった。「バニー」と呼ばれる人は太っていて、柔らかくて、滑稽な人だった。アーネストは痩せて、堅くて、真面目だった。けれども、そうはいっても彼の鼻はひくひくする。「ラピン」彼女は不意に言った。そして探していた言葉を見つけたという顔で小さく快哉を叫んだ。
「ラピン、ラピン、ラピン王」彼女は繰りかえした。その名前は彼にぴったりのように思えた。彼はアーネストではない。彼はラピン王だった。でも、何故だろう? それは彼女にも判らなかった。
二人だけで長い散歩に出て話題がなくなった時――雨の日。みんなが雨になるだろうと注意したものだが――あるいは夜、寒くて暖炉の前にすわっていた時、老嬢たちがいなくなり、釣りの客もいなくなり、給仕がベルを鳴らした時だけ姿を現すような時、ロザリンドはラピンの一族に関する話を創りあげて空想のうちに遊んだ。ロザリンドの手で――彼女は縫い物をし、アーネストは新聞を読んでいた――それらは真に現実的で、|活々《いきいき》としていて、悦ばしいものになった。アーネストも新聞を読むのを止めて、彼女を助けた。その話には黒いうさぎたちと赤いうさぎたちが登場した。敵のうさぎがいて、味方のうさぎがいた。うさぎたちが住む森があり、周囲には草原と沼地があった。そして何よりもラピン王がいた。ラピンはひとつ芸が――鼻をひくひくさせる――できるどころではなかった。ラピンは日が経つにつれて、きわめて偉大な動物になっていった。ロザリンドはつねに彼のうちに新たな特徴を見いだした。けれど、一番の特徴は彼が偉大なハンターであることだった。
「それで、王さまは今日」とロザリンドはハネムーンの最後の日に言った。「何をしたのかしら?」
実際はその日二人は一日中、山登りをした。彼女の|踵《かかと》には|肉刺《まめ》ができていた。だが彼女が聞きたいのはそんなことではなかった。
「今日は」とアーネストが言った。鼻を動かし、葉巻の端を噛みきりながら。「彼は野うさぎを追いかけた」アーネストはそこでマッチを|擦《す》り、もう一度鼻をひくつかせた。
「女のうさぎだ」
「白い野うさぎ」ロザリンドは叫んだ。まるでアーネストの言葉を予期していたかのように。「少し小さめの野うさぎ、銀灰色の、大きな明るい眼をしたうさぎ?」
「そうなんだ」とアーネストは言い、ロザリンドが彼を見た時浮かべた表情と同じ表情で彼女を見た。「ちょっと小さめの野うさぎだ。まるで眼が飛びだしそうに大きな。小さな|前肢《まえあし》をぶらぶらさせた」すわっている彼女はその言葉通りの恰好をしていた。手には縫いかけの布地があった。それに彼女の眼はとても大きく明るく、確かに少し飛びだしていた。
「ああ、ラピノヴァだわ」ロザリンドは小声で言った。
「そういう名前で呼ばれているのかい?」とアーネストは言った――「本当のロザリンドは」彼はロザリンドを見た。彼は自分がとても彼女を愛していると思った。
「ええ、そういう名前で呼ばれてるの」ロザリンドは言った。「ラピノヴァ」。そしてその夜ベッドに行く前にすべてが決まった。彼はラピン王で彼女がラピノヴァ女王だった。二人は対極に位置していた。彼は大胆で意志が堅固だった。彼女は慎重で|柔弱《にゆうじやく》だった。彼は慌ただしいうさぎの世界を統治した。彼女の世界は荒れ果てていて、謎めいたところだった。彼女が出歩くのはたいがい月の光がそこを照らす時分だった。にもかかわらず二人の領土は隣接していた。二人は王と女王だった。
そうして二人はハネムーンから帰り、二人だけの世界を所有することになった。一匹の野うさぎをのぞけば、穴うさぎばかりの住む世界。そんな世界があることを誰も知らなかった。そしてそのことはもちろん楽しさを増大させた。その一切が、たいていの若い夫婦よりも自分たちが強い絆で結ばれて周囲の世界に相対していると二人に感じさせた。人々がうさぎや森や罠や狩猟のことを話している時、しばしば二人はこっそりと視線を交わした。またメアリー伯母さんが皿の野うさぎを正視できないと言った時――赤ん坊そっくりだったので――テーブルをはさんでウインクしあった。あるいはアーネストの兄弟でスポーツ好きのジョンが、その秋のウィルトシャーで、一羽のうさぎに幾らの値がついているかということを話題にした時も同様だった。猟場番人あるいは密猟者あるいは領主などが欲しくなると、二人はしばしば友人たちにその役を振りあてて楽しんだ。アーネストの母であるレジナルド・ソーバーン夫人、たとえば彼女は完璧なまでに大地主の役に|相応《ふさわ》しかった。しかし、そういうことはすべて秘密だった――それが大事な点だった。二人以外の誰もその世界の存在を知る者はいなかった。
ロザリンドは思うのだった。自分はその世界なしで冬を生き延びることができただろうかと。たとえば金婚式のパーティーがあった。ソーバーン一族の者すべてがポーチェスターテラスに集まって、昔、大いに祝福されたその結婚の五十回目の記念日を祝った――それはアーネスト・ソーバーンを世に送りだした結婚ではなかっただろうか? きわめて実りの多い結婚――ほかに九人の息子と娘をおまけに送りだしたのではなかったか? 同じように結婚して多産な多くの息子と娘を。彼女はパーティーを恐れた。けれど避けて通ることは不可能だった。階段を上っている時、彼女は自分が親を亡くした一人っ子であるような気分になった。柔らかい光を放つ壁紙と、輝かしい一族の肖像画が掛けられた大きな客間に集ったソーバーン一族のなかの、一粒の水滴であるような気分になった。生けるソーバーンたちは肖像画そっくりだった。描かれた唇の代わりに本当の唇を備えているところ以外は。そしてその唇から冗談が飛びだした。勉強部屋についての冗談、女家庭教師がすわろうとした時どうやって椅子を引いたか、老嬢たちがベッドに入る前にどうやって蛙をシーツのあいだに忍びこませたか。彼女自身は|二つ折りシーツ《アツプルパイベツド》の|悪戯《いたずら》さえしたことがなかった。用意した贈り物を手に、ロザリンドは高価な黄色いサテンのドレスに身を包んだ義母のほうに、そして鮮やかな黄色いカーネーションを胸に飾った義父のほうに向かった。二人の周囲のテーブルや椅子のうえには金色の贈り物が隙間なく載せられていた。ある物は|生綿《きわた》に包まれ、ある物は輝く枝を伸ばし――金色の燭台、それに煙草入れ、鎖。どの贈り物にも正真正銘純金であるという金細工師の印が刻まれていた。一方の彼女の贈り物は小さな穴がたくさん開いた模造金の小箱だった。それは十八世紀に造られた|砂箱《サンドキヤスター》で、昔はそれで砂を撒いて余分なインクが紙面を汚さないようにしたのだ。何とも間が抜けた贈り物だ。彼女はそう思った――吸い取り紙のこの時代に。|砂箱《サンドキヤスター》を差しだした時、婚約の際に義母が希望として記した言葉を思いだした。「私の息子はあなたを幸福にするでしょう」その文字の連なりは黒くずんぐりとしていた。いや、自分は幸福ではない。全然幸福ではなかった。彼女はアーネストを見た。|槊杖《さくじよう》のように直立不動で、一族のすべての肖像画のそれと同じ鼻をしていた。全然、ひくひくしない鼻。
それから正餐のためみんな広間に下りた。彼女の姿は量感のある花をつけた菊の|一群《ひとむら》の蔭に半分ほど隠れた。丸く結ばれた赤や金の花弁を持つ菊の蔭に。すべてが金色だった。複雑に絡みあった金の花文字のイニシャルが記された金縁のカードには、つぎからつぎへと運ばれてくるはずの料理の名前が並んでいた。彼女は澄んだ金色の液体のなかにスプーンを浸した。常夜灯は|外《おもて》に立ちこめた白い|靄《もや》を金色の目の粗い織物へと変え、窓から差しいるその光は金の食器の|縁《ふち》を|滲《にじ》ませ、パイナップルの表面を|肌理《きめ》の粗い金色へと変えた。結婚式の時に着た白いドレスを身につけ、飛びだした眼で前をみつめる彼女だけが溶融に|抗《あらが》っていた。あたかも|氷柱《つらら》のように。
正餐が進むにつれて広間は蒸し暑くなっていった。男たちの額には汗の玉が見えるようになった。|氷柱《つらら》のような自分もしだいに溶けて水に変わりだしているように思われた。彼女は溶けだしていた。水となって流れだしていた。無に分解していた。まもなく見えなくなってしまうだろう。その時、頭のなかの大波と耳のなかの喧噪を縫うようにして一人の女の甲走った声が響いた。「だって、たくさん子供を産むのよ」
ソーバーン一族――そう、たくさん子供を産む、彼女はその言葉を繰りかえした。ロザリンドは|酷《ひど》くなってくる|目眩《めまい》のせいで二重に見える赤く丸い顔の列を見まわした。後光のような金色の|靄《もや》によって膨張したその顔。「たくさん子供を産む」ジョンが喚いた。
「ちっぽけな悪魔どもめ……撃ち殺せ、でかい長靴で踏みつぶせ、それがあいつらの唯一の扱い方だ……うさぎどもめ」
その言葉、魔法の言葉を聞いて彼女は生き返った。菊の隙間からアーネストの鼻がひくひく動くのが見えた。皺が寄っていた。ほんとうに見事にひくひくした。そしてその瞬間不思議な変動がソーバーン一族を見舞った。金色の大テーブルは野放図に生長した|金雀枝《えにしだ》の茂みを点在させた荒れ野に変じた。ざわめく声は空のうえから降る|雲雀《ひばり》の|麗《うら》らかな歌になった。空は眩しいばかりの蒼で、雲がのんびりと空を渡っていた。そしてみんなすっかり変わった――ソーバーン一族のみんなは。彼女は義父を見た。こそこそとした態度の口髭を染めた小さい人。義父の弱点は物を蒐めることだった――印章判、|琺瑯《ほうろう》の|匣《はこ》、十八世紀の化粧テーブルに関係した細々とした物。彼はそれらのものを書斎の箪笥の|抽斗《ひきだし》に隠して妻の眼に触れないようにしていた。今、義父は彼女の眼にどう見えていたか――義父は密猟者だった。|雉《きじ》や|鶉《うずら》で外套を膨らませた。彼はそれを煤けた小さなコテッジの三本脚の深鍋でこっそりと料理するのだ。それが義父の真の姿だった――密猟者。そしてシーリア、結婚していないシーリアはいつも他人の秘密を嗅ぎまわっていた。みなが隠しておきたいと願っている些細な秘密を――彼女はピンクの眼をした白いフェレットで、地面を嗅いで|穿《ほじく》りかえすので、その鼻には土がこびりついていた。ハンターの手先を務めるため網に入れられ、肩に乗せられ、穴に潜る――それは憐れむべき人生だった――シーリアの人生は。決して彼女のせいではないが。そういうふうに彼女はシーリアを見た。そして彼女は義母を見た。二人は彼女を大地主と呼んでいた。赤い顔で、粗野で、人を苛めるのが好きで――彼女はまさしくそういう存在だった。義母はいまそこに立って感謝の言葉を述べていた。しかしロザリンド――いまはラピノヴァであるのだが――彼女が見た義母の姿は違った。義母の背後には半ば朽ちたような大きな屋敷が、それに剥がれかけた|漆喰《しつくい》が見えた。そして、存在することを止めた世界のことで子供たち(子供たちは彼女を憎んでいる)に礼を返す声のなかにロザリンドは啜り泣きを聞き取った。それから沈黙が落ちた。みんな立ちあがってグラスを掲げ、みんなそれを飲んだ。金婚式は終わった。
「ああ、ラピン王」霧を抜けて家路を辿りながら彼女は言った。「もしあなたがちょうどあの時鼻をひくひくさせなかったら、私はきっと罠にかかってたわ」
「でも君は大丈夫だった」ラピン王はラピノヴァの|前肢《まえあし》を握りしめた。
「そう、大丈夫」彼女は答えた。
二人はハイドパークを通って帰った。湿地の王と女王、霧の王と女王、|金雀枝《えにしだ》の香り漂う荒れ野の王と女王。
そのように時は過ぎた。一年、二年。そして冬の夜、偶然にも金婚式と同じ日の夜――レジナルド・ソーバーン夫人はしかしもう亡くなっていて、屋敷は人に貸されることになり、住んでいるのは管理人だけだった――アーネストが役所から帰ってきた。二人は住み心地の好い小さな家に住んでいた。サウスケンジントンにある、一階が馬具屋の建物の上半分を借りていて、地下鉄の駅からも程近いところだった。寒い日で、濃い霧が出ていた。ロザリンドは暖炉の前にすわって針仕事をしていた。
「今日、私の身に起こったことをどう思う?」アーネストが暖炉の火のほうに足を伸ばしてすわると彼女はすぐに言った。「流れを渡っていたの、そうしたら――」
「何の流れだい?」アーネストが彼女の言葉を遮った。
「窪地の流れよ、私たちの森と黒森が接するところ」彼女は説明した。
アーネストはぽかんとした顔をしていた。
「一体何のことを言ってるんだい?」彼は尋ねた。
「まあ、アーネスト」狼狽しながら彼女は言った。「ラピン王」暖炉の|火明《ほあかり》のなか、小さな|前肢《まえあし》を胸の前に垂らした恰好で、彼女はさらにそう言ってみた。けれど彼の鼻は動かなかった。彼女の手が――それは手に変わっていた――布地を固く握りしめた。彼女の眼は半分ほど飛びだしていた。アーネスト・ソーバーンからラピン王に変わるまで、少なくとも五分はかかった。待っているあいだロザリンドは首筋にかかる力を感じた。まるで誰かに首を|捻《ねじ》られているようなそんなふうな。ようやく彼はラピン王に変わった。彼の鼻はひくひくと動いた。そして二人はいつものように森をあちらこちら|彷徨《さまよ》ってその夜を過ごした。
けれども夜の眠りは安らかなものではなかった。真夜中に彼女は眼を覚ました。何か奇妙なことが自分の身に起こっているという気がした。体が固く冷たくなっているような気がした。ついに彼女は電気を点けて、横に寝ているアーネストのほうを見た。彼は深く眠っていた。|鼾《いびき》をかいていた。けれども鼾をかいている時ですら、鼻は全然動かなかった。彼がほんとうはアーネストだということが有りうるだろうか。しかも自分がそのアーネストとほんとうに結婚したということが。義母の広間が幻となって眼の前に現れた。そしてそこに二人はすわっていた。彼女とアーネスト。歳をとり、壁に並んだ鋼版画の下、食器棚の前……。それは二人の金婚式だった。彼女はそれには耐えられなかった。
「ラピン、王さまのラピン」彼女は囁いた。一瞬、アーネストの鼻が独りでにひくひくしたような気がした。けれど彼は眠りつづけた。「起きて、ラピン、起きて」彼女は叫んだ。
「いったい、どうしたんだ」
「うさぎが死んでしまったような気がしたの」彼女は啜り泣いた。アーネストは怒っていた。
「そんな、ばかなことを言うもんじゃない、ロザリンド」彼は言った。「横になって、眠るんだ」
彼は背を向けた。つぎの瞬間には彼は深く眠っていて、|鼾《いびき》をかいていた。
けれど、彼女は眠ることができなかった。ベッドの片側で彼女は丸くなっていた。ちょうど野うさぎがそうするように。彼女は明かりを消した。けれども街灯の光が天井をぼんやりと照らしていた。そして|外《おもて》の木々の影が天井に網のような模様を描き、それはまるで小さな影の森を思わせ、そのなかを自分は|彷徨《さまよ》っているような気がした。あちらこちらで曲がり、あちらこちらで|逸《そ》れ、ぐるぐると回って、狩りをしながら、狩られながら、猟犬の吠え声と角笛の音を聞きながら、飛ぶように走り、逃げ……メイドがブラインドを巻きあげ、朝のお茶を運んでくるまで。
つぎの日は何もする気にならなかった。何かを失くしたみたいだった。まるで体が縮んでしまったかのように思えた。小さくなって、くすんで、かちかちになったかのように。関節もぎくしゃくとしか動かなかった。|階貸しアパート《フラツト》のなかをうろうろしながら、彼女は何度も姿見に映る自分の顔を見た。眼がまるで眼窩から飛びだしそうに見えた。まるでロールパンの|乾《ほし》|葡萄《ぶどう》のようだった。それにどの部屋もみんな縮んでしまったかのように思えた。大きな家具は奇妙な角度で突きだしていて、彼女は何度も何度もそれにぶつかった。結局ロザリンドは帽子を被り、外出することにした。彼女はクロムウェル通りを歩いた。歩きながら覗きこんだ家には食堂があり、人々は壁に並んだ鋼版画の下にすわって食事をしていた。カーテンはレースの襞飾りのついた黄色の厚いカーテンで、|黒檀《マホガニー》の食器戸棚が見えた。いつのまにか彼女は自然史博物館の前にいた。子供のころ彼女はそこが好きだった。けれど博物館のなかに入って最初に見たものは、偽物の雪のうえにすわって薄紅のガラスの眼で彼女を見返す剥製の野うさぎだった。それは彼女の全身に震えを生じさせた。けれども夕暮れが訪れて少し気分が落ちついた。彼女は家に戻り、明かりも点けずに暖炉の前にすわった。ロザリンドは荒れ野に独りでいるところを想像してみた。荒れ野には小川が走っていた。小川の向こうは暗い森だった。しかし流れを跳び越えることはできなかった。結局、彼女は小川の岸の濡れた草のうえに|蹲《うずくま》った。椅子のうえに|蹲《うずくま》った。無意味に手を胸の前に垂らして。暖炉の|火明《ほあかり》のなかの彼女の眼は虚ろだった。まるでガラスでできているように。銃声が響いた……。撃たれでもしたかのように彼女は跳びあがった。それはアーネストで、鍵穴のなかで鍵が回っただけだった。彼女は震えながら待った。アーネストは部屋に入ってきて、スイッチを押し、明かりを点けた。背が高く|端麗《ハンサム》なアーネスト、寒さで赤くなった手を擦りあわせる彼がそこにいた。
「明かりも点けずに何をしてるんだい?」彼は言った。
「ああ、アーネスト、アーネスト」椅子のうえで跳びあがるようにして彼女は叫んだ。
「おやおや、一体どうしたんだ」彼は明るい声で答え、|掌《てのひら》を暖炉の火に|翳《かざ》して温めた。
「ラピノヴァが……」怯えた眼で食いいるように彼の顔を|凝視《みつ》め、ロザリンドは言った。「ラピノヴァが行ってしまったの、アーネスト、いなくなってしまったの」
アーネストは眉を|顰《ひそ》めた。堅く口を引きむすんだ。「ああ、そういうことか、そういうことなんだね」不可解な笑みを浮かべて彼はそう言った。十秒ほどそうして黙って立っていた。彼女は待った。首筋に置かれた手にしだいに力が|籠《こも》るような気がした。
「そう」ようやく彼は口を開いた。「可哀想なラピノヴァは……」彼はマントルピースのうえの鏡を見ながら曲がったネクタイを直した。
「罠にかかってしまった」アーネストは言った。「死んでしまったよ」そして椅子に腰を下ろして新聞を読みはじめた。
それが結婚生活の終わりだった。
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青と緑
[#地付き]Blue & Green
|玻璃《ガラス》の尖った指先はみな下方を差している。光はその|玻璃《ガラス》を|辷《すべ》りおり、滴って緑色の水溜まりを作る。一日中、|玻璃《ガラス》の枝つき燭台の十本の指は大理石のうえに緑を滴らせる。|鸚哥《いんこ》らの羽――その耳障りな声――鋭利な|棕櫚《シユロ》の葉――それらも緑。その緑の針が陽光のなかで|燦々《きらきら》と|耀《かがや》く。けれども堅い|玻璃《ガラス》は大理石のうえに滴る。水溜まりは沙漠のあちらこちらに|汎《うか》んでいる。|駱駝《らくだ》どもが水溜まりを|蹌踉《よろ》めきながら通りぬけていく。水溜まりは大理石のうえに降りる。|藺草《いぐさ》がそれを縁取る。水草が繁茂する。そこここに|皓《しろ》い花が咲いて出る。蛙がのそのそと這いでる。夜になれば空にある姿と少しも変わらぬ星々がそこに映る。黄昏がやってくる。闇がマントルピースのうえの緑を消しさる。波立つ海面。船は現れない。|伽藍《がらん》とした空の|下《もと》、|目的《あて》のない波が騒ぐ。夜だ。尖った|玻璃《ガラス》が青の滴りを落とす。緑の退場。
|潰《つぶ》れた鼻の|巨《おお》きな生き物が水面に現れ、ずんぐりとした鼻に並んだ|孔《あな》から二本の水の柱を噴きあげる。水の柱の中央部は青白い炎の色で、飛沫が青い|小珠《ビーズ》の房飾りのように周囲を彩っている。青い線が黒く厚い皮に幾筋も走っている。口や鼻孔を水が|洒《あら》うに任せ、生き物は沈んでいく。水で重くなる。青は体全体を覆い、磨いた|瑪瑙《めのう》のような眼を覆う。浜辺に打ちあげられて生き物は横たわる。|蒙《くら》く、鈍く、ぽろぽろと乾いた青い鱗を|零《こぼ》しながら。その金属を思わせる青が浜辺の錆びた鉄を染めあげていく。青は打ちあげられた手漕ぎボートの|肋材《ろくざい》の色。|一叢《ひとむら》の青い|糸沙参《いとしやじん》の下で水が|揺蕩《たゆた》う。何より大聖堂の|傑《すぐ》れて、|冴々《さえざえ》として、香を含んだ青、聖母たちの|被衣《かつぎ》の、その精妙な青。
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堅固な対象
[#地付き]Solid Objects
砂浜の広漠とした半円のなかで動いている唯一のものはその小さな黒い点だった。そうして、|肋材《ろくざい》と竜骨だけになった|鰯舟《いわしぶね》が打ちあげられた箇所に近づくにつれ、その不明瞭な黒い点は四本の足を持つものに変わった。さらに推測が確信に変わっていく。それが二人の若い男に違いないという確信に。そうした、砂を背景にしたぼんやりとした輪郭からだけでも、二人が生気に溢れていることは容易に見てとれた。二人の体が近づいたり離れたりするさまには、形容しがたいような活力があった。決して大きな動きではなかったが、その動きは二人の小さな丸い頭についている小さな口で交わされているものが、激越な議論であることを示していた。二人がいっそう近づいて、右側の男の持つステッキが何度も砂に突きたてられるのが見えるようになった時、それはいっそう明確になった。「きみはぼくにこういうつもりだろう……きみはほんとうは……」波打ち際を歩く右側の男のステッキは砂に長く真っ直ぐな破線を刻み、たとえばそんな言葉が交わされているのだと明らかに主張していた。
「政治は|忌々《いまいま》しいものだ」左の人物の口からはっきりとそんな言葉が飛びだした。そしてその言葉が発されている間にも、二人の口や鼻や顎や小さな口髭、ツィードの縁なし帽や粗皮のブーツ、狩猟用の上着や格子縞の靴下といったものがどんどん明瞭になっていった。二人のパイプから煙が立ち昇っていた。二人の肉体ほど確固としていて、生きていて、堅くて、赤くて、多毛で、精力的なものは何マイルにも及ぶその海と砂の領する地帯には何もなかった。
彼らは黒い鰯漁の小舟の六本の|肋材《ろくざい》と竜骨の隣に、勢いよくすわった。人間の身体がどんなふうに身を|捩《よじ》って議論から抜けだすか、どんなふうに自分の|昂《たか》ぶった調子を弁解するかについては言うまでもないだろう。身体はそういった解放的な動きのうちに準備が整っていることを示す。新しい何かにたいする準備――何でもいい、手頃な何か。そしてステッキで砂浜に半マイルかそこいら線を刻んできたチャールズは平たい石を拾い、海に向かって水切りをはじめた。ジョンのほう、「政治は|忌々《いまいま》しいものだ」と言ったジョンのほうは、手を砂に突きたてて一心に掘りはじめた。やがて手首がすっかり砂に隠れ、袖を|捲《まく》りあげなければならなくなった時、彼の眼にあった深甚さがすっかり消え失せていた。より正確に言えば、成人した者が得た窺い知れない深みを眼に与えていた思考と経験の背景が失われた。ただ澄んだ表面だけを残して。驚きにほかならない感情のみ残して。幼い子供の眼に見られるようなそんな感情。疑いもなく、砂を手で掘る作業がそのことに関係していた。しばらく砂を掘った彼は思いだしていた。掘り進める指先を湧きでてくる海の水が濡らすことを。穴は|濠《ほり》になる。井戸になる。泉になる。海に繋がる秘密の地下水路になる。手を水のなかで動かしながら穴をそのうちのどれに仕上げようか思案していると、指先が固く、丸みを帯びたものに触れた――堅固で厚みのある漂着物――彼の手はやがて意外に大きく不均衡なそのものの形を少しずつ明確にさせ、やがて砂の表面まで掻いだした。全体を覆った砂を払いのけてみると緑色が現れた。ガラスだった。不透明と言っても差し支えないほど濃い緑色をしていた。海に掻き撫でられて角が|失《な》くなっているだけでなく、輪郭も変わり、そのためそれがもとは壜だったのかタンブラーだったのか窓に使われていたのか特定することは不可能になっていた。それはただガラスであると言うよりほかないものだった。しかし、それは同時に高価な石であるとも言えた。金の枠に留めて、あるいは穴を|穿《うが》って鉄線を通すかすればおそらく宝石になるはずだった。結局それは本当に宝石なのだろう。王女は入江を舟で|渉《わた》る。奴隷たちは歌いながら|櫂《かい》を操り、|船尾《とも》にすわった黒髪の王女はその歌に耳を傾けながら、水の|面《おもて》に指を|辷《すべ》らせる。たぶんその王女の身を飾った宝石ではないだろうか。あるいはエリザベス女王の|御代《みよ》に沈んだ宝の箱の樫の側板が割れ、転がりでたエメラルドが海の底を延々と旅をして、ついに浜まで辿りついたのだろう。ジョンは掌をあわせてそのうえでガラスを転がしてみた。そして光に透かしてみた。ガラスを通して見ると友人の胸と腹は消え、右手は拡大された。緑色は空に|翳《かざ》したり友人の体にあててみたりするのに応じて、薄くなったり濃くなったりした。それは彼を喜ばせた。不思議な気持ちにさせた。それはとても固く、とても緊密で明確だった。|靉靆《あいたい》とした海、|靄《もや》に包まれた砂浜に比べて。
溜息が彼の思いを邪魔した――意味に満ちた、決定的な溜息。それは友人のチャールズが手に届く範囲にある限りの平たい石をすべて投げおわった、あるいはそうした石を投じるという行為が無意味だという結論に達したことを彼に告げていた。二人は腰を下ろし、並んでサンドイッチを食べた。食べおわって、伸びをし、体を|解《ほぐ》し、立ちあがった時、ジョンはあらためてガラスを手に取って、無言でそれを眺めた。チャールズもまたそれを眺めた。しかし彼はすぐにそれが平たいものではないことを見てとり、パイプに煙草の葉を詰め、愚かしい方面へ向かった思考を雲散させるような熱情を|籠《こ》めて言った。
「さっきのことだが――」
チャールズはそれを見なかった。あるいは見たとしても意識に留めなかったのかもしれない。ジョンは少しのあいだガラスを|凝視《みつ》め、|躊躇《ためら》いながらもポケットにそれを|辷《すべ》りこませた。その衝動はあるいは道に散らばっている小石のなかのひとつを子供に拾いあげさせる衝動と同じものだったかも知れない。石に暖かい生活と子供部屋のマントルピースのうえでの安逸を約束し、自分のその行為がもたらす力と慈愛の感覚の快さに浸る。そして百万ものよく似たもののなかから選びだされたのが自分であるということを石が躍りあがって喜んでいること、街道の寒さと雨に苦しむ生活の代わりにその幸福を享受できたことを石が心から喜んでいると信じること。「何百万ものほかの石のどれかであったかも知れない。でも拾われたのは私なのだ、この私、私」
ジョンの心のなかにこうした思いがあったか、あるいはなかったか、いずれにせよガラスはマントルピースのうえに置かれることになった。ガラスは請求書と手紙の束のうえに鎮座し、素晴らしいペーパーウエイトになっただけでなく、書物のページからふと眼が離れた折など、視線の止まり木として絶好のものになった。考えごとの途中で何度も何度も視線の対象になったものというのはそれが何であれ、思索の織物と深く関係を持ち、本来の形を失い、少し違ったふうに、空想的な形に自らを作りなおし、まったく思いがけない時に意識の表面に浮かびでたりするものだ。ジョンは外出した際に、骨董品のショーウインドーに惹きつけられる自分を見いだすことになった。それはガラスに似た何かが眼に入ったという理由からだけではなかった。それが何らかの物質であって、多かれ少なかれ丸みを帯びているならば、それに死せる炎をその内深くに持つものならば、何でも――磁器、ガラス、琥珀、岩、大理石――有史以前の鳥の滑らかな楕円の卵、何でも彼を惹きつけた。また彼は視線を地面に落としながら歩くこともした。ことに家庭の塵芥が棄てられる空地では。その種のものはしばしばそういう場所で見つかるのだ――投げ棄てられたもの、使う人間がいなくなったもの、あるべき形を失ったもの、用をなさなくなったもの。二、三箇月のうちには四つか五つほど集まり、マントルピースのうえに居場所を見つけた。それらはまた有用でもあった。輝かしい経歴の頂点に立ち、議会に地歩を占めようとしている男には整理すべき文書の類は山のようにある――有権者に向けての演説、政見の声明、寄付金募集、夕食への招待、そうした|種々《くさぐさ》のことに関する文書は。
ある日、遊説のために法学院の居室を出て駅に向かっていた彼は、法学院の大きな建物の礎石を取りまく芝地に半ば埋もれたものが、ひじょうに珍しいものであることに気がついた。|手摺《てすり》越しにステッキの先で触れるくらいしかできなかったが、それが驚くべき形の磁器の|欠片《かけら》であることは容易に見てとれた。そのものは何より|海星《ひとで》に似ていた。意図的にそういうふうに作られた、あるいは壊れてそうなったのかも知れない。しかしそれは不規則ではあるが疑いようなく、五つの|尖《さき》を持っていた。色は青が主だが、緑の縞もしくは点と形容できる模様がそのうえに広がっていた。そして真紅の線が幾筋か走っていて、何ともいえず豪奢で魅力的な輝きを磁器に賦与していた。ジョンはそれを手に入れることを決意した。しかし彼がステッキで|突《つつ》けば|突《つつ》くほど、磁器は地中に潜っていった。結局、彼は部屋に戻って針金を輪にしてステッキの先に装着できるようにした道具を作る羽目に陥った。それを使い、さらに多大な集中力と技術を用いて、彼はついに磁器の|欠片《かけら》を手の届くところまで引き寄せることができた。磁器を手にした瞬間、彼は思わず快哉を叫んでいた。その時、時計の鐘が鳴り響いた。約束を履行するにはまったく不可能な時間だった。集会は彼抜きで行われた。しかし、この磁器の|欠片《かけら》はどうしてこんな形に割れたのだろうか。仔細に眺めてみると、星形になったのはまるっきり偶然だったということがはっきり判った。そのことは磁器の不思議さをいっそう|募《つの》らせた。そして、そういうふうな形のものがほかに存在する可能性はないような気がした。マントルピースの端には砂のなかから掘りだしたガラスが置かれていた。反対側の端に磁器の|欠片《かけら》を置くと、それは別の世界からやってきた生き物のように見えた――奇形のように、|道化《ハーレクイン》みたいに幻想的に見えた。磁器は宙に浮いて、瞬く星のように明滅していた。|爪先旋回《ピルエツト》の|最中《さなか》にあるように見えた。活力があって機敏な磁器と、無口で思索的なガラスの対照は彼を魅了した。そして不思議な気持ちに捉われ、また驚きの気持ちに捉われ、同じ部屋の同じマントルピースの細長い大理石の板のうえにあるということはともかく、そのふたつのものがどのようにしてこの地上に至ったかを自問した。その疑問は答えられないまま残った。
彼は壊れた磁器が多く現れる場所を巡って歩くようになった。鉄道の線路に挟まれた空地、取り壊された屋敷の跡地、ロンドン近郊の共有地。しかし高いところから磁器が投げ落とされるということはそうそうあるものではない。それは人間の営為のうちではかなり頻度の低い行為だ。それには二階建て以上の家と、下を誰か通っていることなど考えずに壷や瓶を窓から放るほど無謀で激しい衝動と浅墓な先入観を備えた女の、ふたつの要素が必須である。割れた磁器はたくさんあった。けれども、それは何か些末な家庭的な事故によるもので、目的も個性もそこにはなかった。にもかかわらず、彼はしばしば驚かされた。ロンドンだけでもその形は信じられないくらい多岐にわたっていて、不思議に思う気持ちがさらに深くなっていったからである。そしてそこに見られる質と模様の違いの多様さは形の多様さを上回り、彼の驚異の念を|誘《いざな》い、思索の|因《よすが》となった。最上位に属するものは家に持ち帰ってマントルピースのうえに飾った。しかしながら、マントルピース上でのそれらの務めは次第に装飾的要素の強いものになっていった。ペーパーウエイトを必要とする文書の類は日々少なくなっていったからである。
ジョンは務めを怠るようになった。あるいはおそらく上の空で|熟《こな》すようになった。あるいはジョンの選挙区の住民は彼の許を訪れた際、マントルピースの状態を見て、好ましからざる印象を受けるようになった。いずれにせよジョンは議会で有権者の代表に選ばれることはなかった。そして彼の友人であるチャールズはそのことを深く悲しんで、すぐに慰めの言葉をかけた。チャールズはその災厄によってジョンがあまり痛手を受けているように見えないことに奇異の念を抱き、すぐ受けいれるにはあまりにも重大なので、そうした態度になっているのだろうと、自分を納得させた。
じつはその日、ジョンはバーンズ共有地を訪れたのである。そこで彼は|針《はり》|金雀枝《えにしだ》の茂みの根元から、ひじょうに変わった鉄の一片を見つけた。それは形や量感や丸みを帯びているという点で前に拾ったガラスにそっくりだった。しかしガラスより冷たく、重く、そして黒く金属的な輝きを放っていた。鉄の一片は明らかに地球のものとは見えなかった。それは死せる星の一部かもしれなかった。あるいはそれ自身衛星の燃え殻かもしれなかった。鉄は彼のポケットに重量感を与えた。マントルピースに重量感を与えた。冷たく|耀《かがや》いた。隕石はガラスと星形の磁器の|欠片《かけら》ととともにマントルピースのうえに収まることになった。
彼の視線がつぎからつぎへと新しいものに移っていくにつれて、ものを所有しようという決意の強さは、それが自分に苦痛をもたらすという事実を圧倒するものになった。彼はさらに断固たる態度で探索に励んだ。もし彼が大望に燃えていなかったら、もしもいつか自分の努力に報いる輝くばかりの塵芥の山を発見するということを確信していなかったならば、自分を苦しめる幾多の失望――それに探索の困難と浴びせられる嘲笑――それらによって彼は追求を断念させられていただろう。先端に|鉤《かぎ》を取りつけたステッキと鞄を携え、彼は地中に埋まっているものでさえことごとく掘り返した。絡みあった灌木の下を探ってみた。探索物の発見が期待できるのはそれらが棄てられる場所であることを経験から学び、壁に挟まれた小路や空地を調べてまわった。求めるものの水準が高くなり、選択眼も厳しくなるにつれて、失望も甚大になった。しかしつねに心には希望の微かな|燈《ともしび》が点じていた。磁器の一片、ガラスの|欠片《かけら》、珍しい傷のあるもの、珍しい壊れ方のもの、それらは彼を|誘《いざな》った。日々は過ぎた。彼はもう若くなかった。彼の輝かしい経歴――政治的経歴――は過去のものになった。人々は彼を招くのを止めた。晩餐に招く人物としてはあまりに物静かだったからである。彼は自分が真剣に抱いている望みを決して人には話さなかった。周囲のようすを見ると、理解してくれそうもないことは明らかだと思えたからである。
彼はいま椅子の背に深く|凭《もた》れて、政府をどのように動かしていくかということを力説しながら、自分の言葉を強調するために、マントルピースのうえの石を十回以上、持ちあげては置くといった動作を繰りかえすチャールズの姿を眺めていた。そうした仕草をしていても、チャールズは石の存在を認識していなかった。
「ほんとうのところはどうなんだ、ジョン?」不意にチャールズが尋ねた。ジョンのほうに向きなおって。「何がこんなふうにあっさりと君に政治を棄てさせたんだ?」
「棄ててはいないよ」ジョンは言った。
「しかし、きみにはもう希望はこれっぽっちもない」チャールズがやや激した口調で言った。
「その点に関しては僕はきみの意見に同意しない」ジョンは確信の|籠《こも》った声で言った。チャールズは彼を見て、急に深い不安を覚えた。途方もない疑念が彼を捉えた。彼は自分たちが違う対象について話しているのではないかという奇妙な違和感を覚えた。チャールズは恐ろしい不安を紛らわせようと周囲を見まわした。しかし部屋の乱雑さは彼の不安をさらに助長することになった。あのステッキは何だろう? あの厚い布の鞄は何だろう? それにこれらの石は? チャールズはジョンを見た。その表情のなかの確固とした何かが、夢見るような何かが著しい不安をもたらした。彼は心底納得した。疑問の余地はなかった。ジョンはもう演壇に登ることすらしないだろう。
「綺麗な石だ」彼はできるだけ喜ばしげな声を作ってそう言った。そして約束があるので、と言いながらジョンの許を辞した――永久に。
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乳母ラグトンのカーテン
[#地付き]Nurse Lugtonユs Curtain
乳母のラグトンは眠っている。彼女は大きな|鼾息《いびき》をひとつ|周囲《あたり》に放つ。首は前方に|傾《かし》いでいる。眼鏡は額のほうにずれている。炉格子の前の椅子に彼女は腰を掛け、|指貫《ゆびぬき》の|嵌《は》まったその指は上方を差している。長い木綿の糸が針から垂れさがっている。ふたたび|鼾息《いびき》。つづいてもう一度。膝のうえにはエプロンをすべて覆い隠すほど大きな青い柄物の生地が広げられていた。
布全体に描かれた動物たちは乳母のラグトンが五回目の|鼾息《いびき》を発するまで動かなかった。一回、二回、三回、四、五――ああ、ようやく老いた乳母は眠った。|羚羊《かもしか》は縞馬に向かって頷いた。|麒麟《きりん》は高い梢の葉を食べはじめた。すべての動物たちが身震いし、凝り固まった四肢を|解《ほぐ》した。何故かというと、青い生地に描かれた模様は野生の動物の一団であり、動物たちの下には湖や橋や円い屋根の家が並ぶ町があり、小さな男たちや女たちが窓から|外《おもて》を眺めたり、あるいは馬に乗って橋を渡ったりしていたからである。けれども老乳母が五回目の|鼾息《いびき》を放つとすぐに青い生地は青い大気に変わった。木々の枝はそよいだ。湖の波の音が聞こえた。橋のうえの人々が動きだし、窓辺の人々が手を振った。
動物たちは移動しはじめていた。最初は象が、そしてつぎに縞馬が、それから麒麟と虎、駝鳥が、|大狒々《マンドリル》が、十二匹の|山鼠《マーモツト》が、|蛇喰鼠《マングース》の一団がそれにつづく。さらには|企鵝《ペンギン》と|塘鵝《ペリカン》たちが|突《つつ》きあいをしながらよちよちと歩きはじめた。動物たちの頭上では杯の形をした|黄金《きん》の|指貫《ゆびぬき》が太陽のように輝いている。そして乳母のラグトンが|鼾息《いびき》をかくと、動物たちの耳にそれは森を|渉《わた》る風の唸りとなって届いた。彼らは水を飲みに行くために野を下った。そして下っていくにつれ、青いカーテンには(乳母のラグトンはジョン・ジャスパー・ギンガム夫人の家の客間用のカーテンを縫っていたのである)草が萌えでた。薔薇や雛菊が咲いてでた。見ると白い石、黒い石が散らばっている。水溜まりがある。|鄙《ひな》びた小径が幾本か通じていて、小さな蛙たちが象に踏まれないように慌てて跳ねた。動物たちは下っていった。丘の麓にある湖まで水を飲みに行くのだ。そして間もなくすべての動物が湖の岸辺に集まった。あるものは屈んだ。あるものは首を伸ばした。それはとても美しい光景だった――ことに、眠っている老乳母ラグトンの膝のうえにそうした光景が広がっていることを考えると。いつもの背の高い木製の椅子にすわる彼女の膝のうえ――そしてエプロンが薔薇や芝草に覆われ、野生の動物たちがそれを踏みつけていることを考えると。乳母のラグトンは動物園の檻の鉄棒の隙間に傘を差しいれるといったことでさえ、死にそうなほど恐がるというのに。小さな油虫にすら跳びあがるというのに。けれど乳母ラグトンは眠っていた。乳母のラグトンは何も見ない。
象たちは水を飲んでいた。麒麟どもはあたりで一番高い|百合《ゆりの》|木《き》の梢の葉を|食《は》んでいた。橋を渡る人々は動物たちに向かって|甘蕉《バナナ》を放った。そして空に|鳳梨《パイナツプル》を放りなげた。それに|榲椁《マルメロ》と薔薇の葉を詰めこんだ金色の美しいロールケーキを。猿たちがそれを好んだのである。老いたる女王は東洋風の|駕籠《かご》に乗ってやってきた。陸軍大将が通った。首相が通った。それから海軍大将、死刑執行人が、そして町の経済を支える偉い方々が。そこはミラマーチマントポリスという極めて美しいところだった。誰も美しい動物たちを傷つけなかった。大抵の者は動物たちを憐れんだ。なぜなら一番小さな猿ですら魔法にかけられていることがよく知られていたからである。大きな女鬼が動物たちを罠に捕らえていたのである。そして大きな女の鬼はラグトンと呼ばれていた。家の窓から人々は女鬼の姿を見ることができた。自分たちを見おろすように|聳《そび》える彼女を。女鬼は地滑りの痕や高い絶壁などを有する山の斜面に似ていた。眼窩の深い断裂、髪、鼻、歯も見えた。自分の領土に迷いこんできたすべての動物たちを女鬼は生きたまま凝固させた。だから動物たちは一日中、彼女の膝のうえでじっと静止している。けれど鬼が眠りに落ちると動物たちは解き放たれる。そして夕方にミラマーチマントポリスに水を飲みにやってくるのだった。
不意に老乳母ラグトンがすっかり皺になったカーテンをぐいっと引っ張った。
大きな金蠅がランプの|周囲《まわり》を飛んでいて、彼女の眼を覚まさせたのだ。彼女はすわりなおし、針を布地のなかに送りこんだ。
動物たちは一瞬のうちにもとの姿に戻った。空気は青い生地に戻った。カーテンは沈黙して膝のうえに広がった。乳母ラグトンは針を手に、ギンガム夫人の客間の窓に掛けるカーテンを縫いつづけた。
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サーチライト
[#地付き]The Searchlight
十八世紀に、とある伯爵のものだったその邸は、二十世紀になってクラブとしての務めを求められることになった。円柱が連なり、シャンデリアが|皎々《こうこう》と照る広間で食事をした後、バルコニーに出るのはじつに爽快だった。バルコニーからはハイドパークを見渡すことができる。木々は盛んに葉を繁りださせていた。もし月が出ていたならば、|橡《とちのき》の枝のあいまのピンク色とクリーム色の|花形帽章《コケイド》めいた花が見えただろう。けれど、その夜は月が出ていなかった。とても暑い。よく晴れた昼の時間を|承《う》けて夏の夜がはじまっていた。
アイヴィミー夫妻とその友人たちはバルコニーでコーヒーを飲み、煙草を|燻《くゆ》らせていた。一同を会話をつづける努力から解放しようとでもいうのか、あるいは骨折りなしで楽しませようという|心算《つもり》なのか、幾つもの光の軸が円を描くように空を照らしはじめた。空襲というわけではなかった。このところの習いで空軍が敵の飛行機を探しているのだった。疑わしい箇所でもあったのか一瞬静止した後、風車の羽根のように、あるいは、べつの形容をするなら、何か不可思議な昆虫の触角のように、光はふたたび円を描きはじめる。ひっそりとした石の遊歩道を照らし、盛大に花をつけた|橡《とちのき》を一瞬浮かびあがらせ、突然、当のバルコニーをまともに照らしだした。一瞬、円形の輝きがそこからあがった――おそらく、レースのポーチのなかにあった手鏡が光ったのだろう。
「見て」アイヴィミー夫人が言った。
光が通りすぎた。アイヴィミー夫妻と友人たちはふたたび暗闇のなかに立っていた。
「あのお蔭で何が見えたか、あなた方の誰も言いあてることができないでしょうね」夫人がそう言ったので、しぜん、みな口々にそれを言いあてようとした。
「いいえ、いいえ、違います」彼女はいずれの答えも退けた。誰も当たらなかった。彼女だけが知っていた。彼女だけが知ることができたのだった。なぜなら彼女はその男自身の|曾孫《ひまご》だったからである。|曾祖父《そうそふ》が彼女にその話をしたのだった。どんな話か? もしみんなが望むのだったら、彼女は話してもいいと思っていた。芝居がはじまるまでにはまだ少し時間があった。
「でも、どこから始めたらいいかしら?」彼女は思案した。「一八二〇年から?……その頃は、曾祖父は子供だったに違いないわ。私自身もう若くはないけれど」――確かに彼女は若くなかった。しかし、彼女は美しかったし、立ち居振るまいも優雅だった――「曾祖父は大変な年寄りだったわ。私がまだ子供の頃――その話をしてくれた頃は。とても素敵な年寄りだった」アイヴィミー夫人は説明した。「白いもじゃもじゃの髪、碧い眼。曾祖父は綺麗な少年だったと思うわ。ほんとうに変わってた……でも、そうなったのも不思議ではないのでしょう――ああいうふうに暮らしていたのだから。名前はカウマーだった。カウマー家は零落しきっていたわ。かつては良家だったけれど。カウマー家は北のほう、ヨークシャーに土地を持っていたわ。けれど、曾祖父が子供の時、残っていたのは塔だけだった。家は小さな農家って言ったほうがいいような家で、野原の真ん中に建ってた。十年ほど前に私たちはそこへ行ってみたわ。私たちは車を置いて、野原を歩かなければならなかった。家に行く道はなくなっていたの。家はぽつんと建ってた。草が門の高さまで茂って……鶏が何羽かいてあちこち|啄《ついば》んで、家のなかまで出入りしていた。何もかもが荒れ果てていて、塔から急に石が落ちてきたのを覚えてるわ」彼女は一瞬口を|噤《つぐ》んだ。「曾祖父たちが住んでいたのはそんなところだった」彼女はふたたび口を開いた。「歳とった父親、女の人、少年。女の人は父親の妻ではなかった。それに少年の母親でもなかった。彼女は農場で働いていた|女《ひと》で、父親は妻が死んだ時、その|女《ひと》を手元に残したの。家を訪ねる者が誰もいなかった理由は――あの場所がどこもかしこも荒れ果てていたもうひとつの理由は、たぶんそれでしょうね。でも思いだすわ、ドアのうえには盾形の紋章がかかっていた。それから本、古い本、|黴《かび》に覆われた。曾祖父はすべて本で学んで、それで自分を作った。曾祖父は私に言ったわ、自分は読んで読んで読み尽くした。古い本、ページのあいだの地図が広げられるようになっている本。曾祖父はその本を塔の最上階まで引っ張りあげた――ロープがまだそこにあって、壊れた階段も見ることができた。すわるところが抜けた椅子が窓際に置いてあった。壊れて開きっぱなしの窓が揺れていた。ガラスは割れていた。荒れ野が何マイルも何マイルも見渡せたわ」
彼女はそこでしばらく口を|噤《つぐ》んだ。ちょうど塔の最上階の開きっぱなしの窓から遥かか彼方を眺めるかのように。
「でも、私たちには見つけることができなかった」と彼女は言った。「望遠鏡は見つからなかった」背後の食堂で皿の鳴る音が高くなった。バルコニーのアイヴィミー夫人は当惑しているように見えた。たぶん、望遠鏡を見つけることができなかったので。
「なぜ望遠鏡を探したんですか?」誰かが質問した。
「なぜ、望遠鏡を探したか? そうね、もし望遠鏡がなかったら」彼女は笑った。「私は今ここにすわっていなかったでしょうね」
確かに彼女は今そこにすわっていた。肩に青いものを羽織った、活力のある初老の婦人。
「そこにあったに違いないわ」彼女はふたたび口を開いた。「曾祖父がそう言ってたから。毎晩、大人たちがベッドに向かうと、彼は窓際にすわって望遠鏡で星を見たの。木星、アルデバラン、カシオペア」彼女は木々のうえに姿を見せはじめた星を手で示した。闇は濃くなりはじめていた。サーチライトの光はいっそう明るく見えた。空を|辷《すべ》り、そこここで星を差して止まった。
「あそこに星がある」アイヴィミー夫人はつづけた。「そして曾祖父は自問した。子供の彼は言った。『あれは何だろう? なぜあそこにあるんだろう、それに自分って何だ?』話し相手もなく星を眺めている人が大抵するように」
彼女は口を|噤《つぐ》んだ。いあわせた者たちはみんな木々のうえに現れはじめた星を見あげた。星は真に永遠であるように見えた。不変のものであるように。ロンドンの|騒声《ざわめき》は鎮まっていた。何百年という時間も無に等しいと思われた。バルコニーの一同は少年が自分たちと一緒に星を見ているように思った。また少年とともに塔の部屋にいるような気がした。荒れ野のうえに懸かる星を見ているような。
背後で声があった。
「あなたの言う通りよ、フライデイさん」
みんな振りかえった。塔の部屋からひょいと|抓《つま》みあげられて、バルコニーのうえに放りだされたような感覚を味わった。
「『あなたの言う通りよ――フライデイさん――』ああ、でも、彼にそう言う人は誰もいなかった」彼女は低い声で言った。背後にいた一組の男女が立ちあがってどこかへ去った。
「彼は孤独だったわ」アイヴィミー夫人は話をつづけた。「よく晴れあがった夏の日のことだった。六月の一日。完璧な夏の日々のなかの一日。すべてが熱気のなかで立ち尽くす日。農園の庭では何羽かの鶏が地面を|突《つつ》いていた。コップを手にうとうとする父親。流しで手桶を洗う女。たぶん塔から石がひとつ落ちたでしょう。その日は永遠に終わらないように見えた。彼には話をする人が一人もいなかった――それにすることも何もなかった。彼は塔に行った。世界のすべてが眼の前に広がっていた。荒れ野は高く低くつづいていた。空と荒れ野が交じっている。緑と青、青と緑、どこまでも、どこまでいっても」
薄明かりのなかで、みなはアイヴィミー夫人がバルコニーの手摺にもたれかかり、頬杖をつくのを見た。塔の部屋から荒れ野を見おろしているといった具合に。
「荒れ野と空だけ。荒れ野と空。毎日、毎日それだけ」彼女は小声で言った。
それから彼女は何かを眼の前に構えるような動きをして見せた。
「でも、望遠鏡を通して見たら地上はいったいどんなふうに見えるだろう」質問の口調で彼女は言った。
つづいて指で何かを|捻《ひね》っているような、小さく速い動きをして見せた。
「彼は焦点を合わせたわ」アイヴィミー夫人は言った。「彼は望遠鏡を地上に向けた。地平線に広がる黒い森に向けてみた。そうしたら見えてきた……一本一本の木……分かれて見える……それに鳥……舞いあがったり舞いおりたり……一筋の煙……あそこに……木立のちょうど真ん中あたりに……。それから……もっと下……もっと下……」顔を下に向けた。「家がある……木に囲まれて……農家だ……煉瓦の一個一個まで見える……ドアの左右に一個ずつ桶があるのが見える……桶には青と薄い赤の、|紫陽花《あじさい》だ、たぶん」彼女はそこで一旦黙った。「それから、家から娘が一人出てくる……頭に青いものを被って……それから立ちどまって……鳥に餌をやる……鳩だ……娘のまわりに舞いおりてくる。……それから……ああ。……男だ。……男だ。男が家の角を曲がってきた。娘の腕を|掴《つか》んだ。二人はキスをした……キスをした」
アイヴィミー夫人は両の腕を広げ、それからゆっくりとその幅を狭めた。誰かにキスをしているかのように。
「男が女にキスをしているのを見たのはそれが初めてだった――望遠鏡のなか――荒れ野の向こう、何マイルも何マイルも向こう」
顔から何かを離すような仕草をした。たぶん望遠鏡だったのだろう。彼女はすわった。背中を伸ばして。
「それから、彼は階段を駆けおりたわ。彼は荒れ野を走った。細い道を走って、街道へ出た。森を幾つも抜けた。何マイルも何マイルも走った。森のうえに星が輝きだした頃、彼は家に辿りついた……埃だらけになって、汗だくになって……」
彼女は言葉を切った。走ってきて自分の前で止まった少年の姿を|眼《ま》のあたりにしたかのように。
「それから、それから……彼はそれからどうしたのですか? 彼は何て言ったんですか? それに娘のほうは……?」みなは催促した。
光の軸がアイヴィミー夫人のうえに落ちた。あたかも、誰かが望遠鏡のレンズの焦点を彼女に合わせたかのようだった(それは空軍だった。敵機を探索しているのだ)。彼女は立ちあがっていた。彼女は青い色合いのものを頭に被っていた。手をあげていた。驚いて、戸口で立ちすくんでいた。
「それが……その娘が私――」彼女はそこで|口籠《くちごも》った。「その娘が私です」と言いかけたかのように。しかし気がついた。そして訂正した。「その娘が私の曾祖母なのよ」
彼女は|袖無し外套《クローク》の所在を探して周囲を見まわした。それはすぐ後ろの椅子にあった。
「でも、それからどうなったんですか――もうひとりの男の人は、家の角を曲がってきた男の人は?」一同は尋ねた。「もうひとりの男の人? もうひとり?」アイヴィミー夫人は小声で言った。屈んで|袖無し外套《クローク》を手探りしていた(サーチライトの光はバルコニーを外れてどこかへ行っていた)「その人は、たぶんどこかへ消えてしまったんでしょう」
「光は」彼女は付けくわえた。|袖無し外套《クローク》やら何やらを拾いあげながら。「ただあちらこちら照らすだけ」
サーチライトの光は通りすぎていった。それはいまバッキンガム宮殿の広大な地所を照らしていた。劇場に出かける時間だった。
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外から見たある女子学寮
[#地付き]A Womanユs Collegefrom Outside
羽毛の白を|湛《たた》えた月の光があるので空は決して暗くなることはない。栗の花は葉の緑を背に夜のあいだずっと白く映えている。仄暗い箇所は牧草地の野生の|阿蘭陀芹《チヤービル》の茂み。ケンブリッジ大学の方形の庭をゆく風はタタールやアラビアに達することはない。女子学寮ニューナム・コレッジの屋根の上空に広がる青灰色の雲のどこかで|儚《はかな》く|潰《つい》えるだけだ。その場所で、その庭で、もし歩きまわる空間が必要になったとしたら、彼女は木々のあいだにそれを見いだしただろう。そして彼女の顔と|対《むか》いあうことのできる顔は女たちの顔だけだったので、彼女は隠すのを止めたかもしれない。空白のような、特徴のないその顔を。そして、その時刻を迎えた部屋を覗きこむかもしれない。空白のような、特徴のない顔の、閉じられた白い瞼の、シーツのうえに伸ばされた指輪を外した手の、無数の眠れる女たちが部屋のなかに見える。けれどもあちらこちらで|灯火《あかり》はまだ輝いている。
アンジェラの部屋を見ればあるいは電灯が二つあると思うかもしれない。アンジェラ自身あまりに輝かしいし、四角い鏡に写って見える彼女の像もまたあまりに輝いているからだ。彼女の全体は完全になぞられている――おそらく魂の形までも。なぜなら鏡は完全に静止した像を保持しているからだ――白と金、赤い上履き、青い石で留めた、色の薄い髪。アンジェラと鏡のなかの像との静謐な接触を乱す囁きや影はない。鏡像はアンジェラであることを喜んでいるように見える。ともあれその瞬間は喜ばしいものだった――夜の中心に架けられた輝かしい絵。夜の闇のなかに|顕《た》つがらんとした聖堂。実際、奇妙なことだ。物が存在することの適切さを眼に見える形で証明するこの光景を眺めるのは。時の淵に大胆不敵に|泛《う》かぶこの完全無欠な百合。妥当性を誇るような――この鏡像。けれど、そうした深い思索はある変化によって裏切られる。鏡はもうその|裡《うち》に何も孕んでいなかった。見えるのは|真鍮《しんちゆう》のベッドの台だけだった。そして、彼女はあちらこちら走りまわり、叩いたり、投げたりする。家庭にいる女のように。そして、もう一度変化する。彼女は口をすぼめて黒い背の本に向かっていた。経済の科学に関して的確な理解を示しているとは断然言いがたい部分を指で追いながら。アンジェラ・ウイリアムズだけは将来の生計のためにニューナム・コレッジにいた。感動的な礼拝のさなかにあっても彼女はスウォンジーにいる父親の小切手のことを忘れたことがなかった。それから流し場で食器を洗う母親のことを。物干し綱で乾きはじめているピンク色のワンピース。百合をもって示される象徴はもう時の淵に完全無欠のさまで|泛《う》かんでいなかった。他の者と同じように、ただカードに名前を書かれた存在に過ぎなかった。
A・ウイリアムズ――月の光でそう読みとることができるかもしれない。それから、メアリー、エリナー、ミルドレッド、セアラ、フィービといったような、それぞれの部屋のドアの四角いカードに記されている名前も読みとれるかもしれない。名前ばかり。名前があるばかり。白く冴えた光がそれらを|凋《しぼ》ませる。そして強張らせる。まるでそれらの名前が書かれた目的が、ただ整然とそして勇敢に起床させるということだけであるかのように。たとえば彼女たちに号令する必要が生じた場合に、たとえば火事を消すために、たとえば暴動を鎮圧するため、検査のために。それがドアにピンで留められたカードに書かれた名前の力だった。そしてまたそれはタイルや廊下や寝室のドアの存在によって搾乳場や女子修道院との類似性も浮かびあがらせた。隔離のための、あるいは懲戒のための場所、冷たく純粋な牛乳のボウルがある場所、リネンの洗濯物の山がある場所。
ちょうどその時、あるドアの向こうから柔らかい笑い声が聞こえてきた。時計が几帳面に時を打った――ひとつ、ふたつ。もし、いま時計が号令を発したとしても、それらは無視されたに違いない。火事、暴動、検査、それらはすべて雪のような笑い声に覆われたかもしれない。あるいは優しく|根扱《ねこ》ぎにされていたかもしれない。深みからふつふつと湧いてきたようなその音は、時間と規律と懲戒をふわりと押し流す。ベッドのうえはカードで埋まっていた。サリーは床のうえだった。ヘレナは椅子に掛けていた。お利口バーサは暖炉の前で両手を堅く握りしめていた。A・ウイリアムズが欠伸をしながら部屋に入ってきた。
「だって耐えられないくらいひどいから」とヘレナが言った。
「ひどいわね」バーサが繰りかえした。それから欠伸をした。
「あたしたちは宦官じゃないわ」
「私は裏門からこっそり帰ってくるのを見たわ、あの古い帽子を被って。あの人たちはあたしたちに知られたくないのよ」
「あの人たち?」アンジェラが言った。「あの子がでしょう」
そして笑い。
カードが広げられた。赤い顔や黄色い顔がテーブルのうえに被さり、複数の手がカードのなかで躍った。椅子の背に頭を|凭《もた》せかけたお利口バーサは深い溜息を洩らした。なぜならば、彼女は眠りたくてたまらなかったのだ。しかし、夜は自由な放牧地だった。無限の野原だった。夜は留まることのない豪勢さを誇っていた。みんな闇のなかにトンネルを掘らなければならなかった。みんなトンネルを宝石で飾らなければならなかった。夜はこっそりと分け与えられる。昼は群れで共有される。ブラインドは巻きあげられていた。庭には|靄《かすみ》が立ち籠めていた。他の者がカードに興じるあいだ、窓辺の床にすわって、体と心のどちらも風に吹きとばされて、宙を舞っているようで、藪をいくつも越えて吹きとばされているようで。ああ、彼女はただベッドに横になって眠りたかった。眠りにたいする自分の欲求を誰も感じとっていないことは明らかだった。彼女は惨めな気持ちで思った――眠い頭で――こくりこくりとしながら、体を揺らしながら、ほかの者たちの眼は冴えきっているに違いない、と。部屋のみんなが声を揃えて笑った時、庭で夜を明かした鳥の声が聞こえた。まるで彼女たちの笑い声が|靄《かすみ》になって――。
そう、まるで笑い声が(彼女はいま|微睡《まどろ》んでいた)|霞《かすみ》になって部屋から漂いだして、木々や草の茂みにしなやかなゴムの紐で留められ、そのため庭がぼんやりと見えるとでもいうように。それから風があたりを掃き、草の茂みは|靡《なび》き、白い気体はいずこともなく吹きとばされていった。
女たちが寝ている部屋のすべてからその気体は立ち昇っていた。|靄《かすみ》のように灌木に張りつき、それから風を受けて、|散々《ちりぢり》になって大気のなかに消えていった。年配の女たちは眠っていた。間もなく起床時間となり眼を覚ました彼女たちはすぐに事務室の象牙色の鞭に手を伸ばすだろう。いま、彼女たちは静穏に、閑寂に、深い休息のうちにあった。年配の女たちは、窓のそばで横たわった、あるいは輪になった若い身体に囲まれ、支えられていた。庭に注がれてゆく泡立つ笑い。責任のない笑い。心から、そして肉体から溢れだして、規則や時間や懲罰をゆっくりと押し流すその笑い。計り知れない豊かさを持ち、けれども形はなく混沌として、裾を引き摺り、彷徨し、薔薇の茂みに気体の房飾りを施すそれ。
「ああ」寝間着姿で窓辺に立ったアンジェラは溜息をついた。声には苦痛が滲んでいる。彼女は窓の外に眼をやった。|靄《かすみ》は彼女の声によって切り裂かれたように分かれた。彼女は喋っていた。ほかの者がカードに興じているあいだずっと。アリス・エイヴェリーに向かって。バンバラ城について、宵の砂丘の色について。それに関しては手紙で日取りを伝えるとアリスは言った。八月。アリスはそれから屈んで、彼女にキスをした。少なくとも手で彼女の髪に触れた。そのためアンジェラは静かにすわっていることがどうしてもできなくなった。心に強風の荒れ狂う海を抱いた人のようにうろうろと部屋を(部屋はそんな光景の立会人である)歩きまわった。大きく腕を広げて、興奮を、驚愕の気持ちを鎮めようとした。梢に黄金の果実をつけた奇跡の樹が体全体を|撓《しな》らせたことにたいする驚愕――それは自分の手に落ちたのではないだろうか?彼女はそれを抱いていた。それは彼女の胸で|耀《かがや》いていた。触れることのできないもの、考えることのできないもの、言葉で説明できないもの。けれど、それは光るためにそこに置かれたのだった。それからゆっくりと靴下を脱いで、室内履きのうえに置きながら、ペチコートをきちんと畳んでさらにそのうえに載せながら、アンジェラは、ウイリアムズというもうひとつの名前を持つアンジェラは認識した――いったいどうやったらこのことを表現できるだろうか――混乱に満ちた永い歳月の闇を走ってきて、いまトンネルの向こうに光が見えたことを。人生、世界、彼女の眼下にそれはあった――すべては善いものだった。すべては愛すべきものだった。それが彼女の発見だった。
実際、驚きはどれほどだったろうか。ベッドに寝ても眼を閉じることができなかったとしたら――何者かが頑として眼を閉じることを拒んだのだ――また、もし薄闇のなかで椅子や整理箪笥が荘重なものに見え、一日の到来を告げる青白い兆しを映した姿見が、かけがえのないほど美しいものに見えたとしたら。子供のように親指をしゃぶりながら(アンジェラは去年の十一月に十九歳になっていた)彼女はその善き世界に横たわっていた。その新しい世界、トンネルの向こうの世界。しかし、すぐに耐えられなくなった。一刻も早く眼にしたいという欲求、先んじたいという欲求が彼女を突き動かした。毛布を|跳《は》ねのけ、|擬《もど》かしい思いで窓に駆けより、庭を薄く覆う|靄《かすみ》を見た。窓をすべて開けはなった。燃えるように青い何かが遠くで囁いていた。もちろん世界だった。そして近づきつつある朝だった。「ああ」彼女は叫んだ。痛みを覚えたかのように。
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同情
[#地付き]Sympathy
ハンフリー・ハモンド。四月二十九日、バッキンガムシャー、ハイ・ウイッカム、荘園館――シーリアの夫だ。これはシーリアの夫に違いない。何てこと。信じられない。ハンフリー・ハモンドが死んだ。私はあの人たちの家を訪ねるつもりだった――忘れていたのだ。このあいだ呼ばれた時になぜ行かなかったのだろう。あの時、二人は演奏会を催して、モーツァルトを演奏したはずだ――あの時は二人を失望させてしまった。二人で家に来て食事をしていった夜、ハンフリーはほとんど喋らなかった。ハンフリーは私の向かい側の黄色いアームチェアにすわった。ハンフリーは確か黄色いアームチェアのような家具が好きだって言ってた。ハンフリーはどんなつもりでああ言ったんだろう? なんで私はハンフリーに黄色いアームチェアが好きな理由を話させなかったんだろう? なんで話したかもしれないことを、話させないまま帰してしまったんだろう? ハンフリーはなぜあんなに長いあいだ何にも言わないですわってたんだろう? なぜ、私たちから離れて、ホールで乗合バスのことを喋ってたんだろう?
ああ、こんなにはっきりとハンフリーの顔が浮かぶ。それにあのはにかんだ様子もはっきりと思い浮かべられる。うまく言えないことを言おうとした感じ、アームチェアが好きだってことについて何か言いかけて、でも言えなくて口を閉じた時のあの感じ。なぜあんなことを言ったか知ることはもうできない。もうほっぺたの赤味は|褪《あ》せているし、いかにも若々しく、意志の強さや大胆さを感じさせる眼は開くことはない。瞼の下できっとそれでもまだ大胆なんだわ。たぶんひとりの男性として、ひとつの硬直した死体として、ハンフリーはベッドに横たわっている。傾斜した白いベッド。窓が開いていて、鳥が啼いている。死への譲歩はない。涙も感傷もない。百合の花が畳んだシーツのうえに撒き散らされている――ハリーのお母さんかシーリアのシーツのうえに――。
シーリア。そう……私はシーリアを見るだろう。しかし同時に見てはいない。それは私が想像できない時間だ。他人の人生のそうした時間を人はいつも見ないようにする。私たちは他人の人生のなかのそうした時間をいつも結果から推測するだけだ。ハリーの部屋の前まで私は彼女のあとを|随《つ》いていく。私は彼女が|把手《とつて》を回すのを見る。それからその見えない時間が訪れる。そして私の想像力がふたたび眼を開いた時、そこに見いだすのは世界のなかに位置づけられた彼女の姿だ――寡婦。いや、そうではないだろう。私が見るのは、|酷《ひど》く早い朝、あたかも光がその額で砕けでもしたかのように、体の隅々まで白に染めて立つ彼女ではないだろうか。外見に表れた|徴《しるし》を私は見るだろう。そしていつまでも見つづけるだろう。けれどもその意味は想像することしかできない。羨望とともに私は彼女の沈黙と苦痛を見る。私は彼女が私たちのあいだを動きまわるのを眼で追う、告白されざる秘密を秘めた彼女の姿から私は憶測を導きだす。彼女が夜を待ち遠しく思っている、孤独な夜の航路に就くことを待ちわびていると。私は思う。彼女がその日の自分の務めを果たすために、私たちのあいだに舞い降りることを。私たちの楽しみに侮りの眼を向け、寛大に耳を傾けることを。喧噪のなかで私は考える。彼女のほうが私よりもっとその喧噪を耳障りに感じているに違いないと。空虚なそれは彼女にとってまったく無意味に思えるはずだ。それにもかかわらず、私は彼女を羨む。彼女の安寧ゆえに――認識ゆえに。けれども額の白いヴェールは太陽が輝きを増すにつれて色褪せていく。そうして彼女は窓辺に立つ。二輪馬車が道を行きかい、御者たちが立ったまま他の御者に向かって口笛を吹き、歌い、叫ぶ。
その時、私は彼女をより明瞭に見るだろう。彼女の頬には色彩が戻っているだろう。しかし薔薇色ではない。視線を柔らかく曖昧にしていた薄い皮膜は彼女の眼から|擦《こす》りとられている。日々の音が|否応《いやおう》なく彼女の耳に飛びこむ。彼女は開けはなした窓辺に立ち、|怯《ひる》み、萎縮する。私は彼女の許へ行く。もう羨望の気持ちはない。私が手を伸ばすとシーリアは身を縮めるのではないだろうか。私たちはみな泥棒だ。みんな残酷だ。彼女の前を無関心に流れていく河にみんな飛びこむ。私自身彼女の前に飛びこむかもしれない。しかしたちまち水流に押し流されてしまう。手を握るためにシーリアに向かって手を差しだせと要求する私の憐憫の情は強い同情の念に変わる。あるいは変わると予測される。そしてその憐憫は、あまりに盛大であるために彼女の眼には侮蔑と映るかもしれない。すぐに彼女は敷物を振って埃を払っている隣家の奥さんに向かって叫ぶだろう。「いい朝ですわね」その人はぎくりとして彼女を見つめる。そうして頷いて見せ、家のなかに急いで戻る。シーリアは赤い壁のうえまで茂った果樹の花を黙って見つめる。頬杖をついて。涙が|零《こぼ》れおちる。しかし彼女は手の甲で涙を拭う。シーリアは二十四歳だったか――もっとうえだとしても二十五歳だろう。彼女を誘えるものだろうか――一日掛かりの丘陵の散歩に。ブーツでしっかりと街道の土を蹴り、私たちは出発する。囲いを飛び越えて、|野面《のづら》を横切って森まで行く。そこで彼女は|白頭翁草《アネモネ》を見つけて飛びつき、ハンフリーのためにと言ってどれを摘むか選びはじめる。そして気を変える。夜にはもっと綺麗になるからと言って。私たちは腰を下ろして、黄緑色の三角形の野原を見おろす。アーチになった茨の茂みを通して見るので、そんなふうに奇妙な三角形に見えるのだ。
「何を信じる?」と不意に彼女は尋ねるだろう。(私の想像によると)花の茎を口にくわえて。「何にも信じないわ――何にも」慌てて意に反したことを言ってしまう。眉根を寄せ、シーリアは花を棄てる。そして勢いよく立ちあがる。彼女は大股で一ヤードか二ヤード前へ進みでて、それから勢いよく、低い枝に跳びつく。木の葉のあいだにある|鶫《つぐみ》の巣を見ようとして。
「卵が五個あるわ」彼女は叫ぶ。私も急に大きな声を出して叫びかえす。「それはすごいわね」
けれどそれはみんな空想だ。私は彼女と一緒に部屋にいるというわけではない。彼女と一緒に森に行くというわけではない。私はいまロンドンにいる。窓辺に立って、タイムズ紙を手にして。けれども、何とすべてを変えるものか、死というものは。日蝕でも起こったみたいに。色彩というものが消え失せ、樹木が影のなかで紙のように薄く、鉛色に見える。冷たい風が微かに吹き寄せ、通りの騒音が高くなって、建物の深い谷間を|渉《わた》っていく。それから一瞬の後、懸隔には橋が渡される。音は混じりあう。まだ色を失っているが、樹木を見るとそれらは歩哨になり監視者になっている。空はそれらの柔らかい背景となる。そしてとても遠くにあるように見える。夜明けの山の頂に立つもののように。死が務めを果たしたのだ。木の葉や家々やゆらゆらと立ち昇る煙の背後に広がる死が冷静にそれらを用いて静穏な何ものかを作りあげたのだ。そうしたものが生の偽装を|纏《まと》う前に。急行列車から私は丘陵や平野や垣根のところで大鎌を手に列車を見あげている男を眼にする。そして長く伸びた草のうえに横たわる恋人たちを眼にする。偽装することなく二人は私を見た。私が偽装することなく二人を見たので。幾らか重荷が降ろされた。幾らか障害が取りのけられた。この晴れやかな大気のなか、私の友人らは地平線に|蟠《わだかま》る闇を通ってゆく。それらの者すべてはただ善性を欲し、穏やかに私を押しのけ、そして世界の|縁《へり》を踏みこえて船に乗りこんでいく。それらの者たちを乗せて嵐へとあるいは晴朗へと旅立とうとしている船のなかに。私の眼はそうした者たちを追うことはできない。けれども別れのキスと以前より屈託のない笑い声を発して、彼らは私の前を通りすぎて永遠の航海へと出発する。水際まできちんと列を作る。まるで生きているあいだずっとこちらが目指す方向であったとでもいうように。私たちみんなが生を|享《う》けてから通ってきた道、曲がり、|岐《わか》れてきた道が、いまこの大きな鈴懸の木の下で合流するということが、明確に見てとれるようになる。こんな穏やかな空の下で、ある時は高く、ある時は低く響く、自動車の音と人間たちの叫びの和声のなかで。
私が知っていたとは言えないあの質朴な若者は、では内側に死の強大な力を秘めていたのだ。彼は境界を越え、死ぬことによって別種の存在と融合した――開いた窓と、|外《おもて》の鳥の声が聞こえるその部屋で。彼は静かに|退《しりぞ》いていく。彼の声は聞こえないが、その沈黙の雄弁さは深甚だ。彼は自分の人生を外套か何かのように足下に広げる。私たちがそれを踏んで進めるように。彼は私たちをどこに導こうとしているのだろうか? 私たちは縁まで行き、眼を凝らす。けれども彼はもう遥か彼方まで進んでいる。彼の姿は遠い空で霞んでいく。私たちには空の緑と蒼の柔らかさが残る。しかし彼のいる世界は透明なので、そうしたものもない。縁に群れる私たちに彼は背を向ける。黎明の空を裂くように進み、彼は消えていく。彼は行ってしまった。私たちは引き返さなければならない。
|鈴懸《すずかけ》は深い気圏の底に|佇《た》ち、震える葉で光の薄片を散乱させる。葉の隙間から太陽の光は真っ直ぐに芝草を射す。|風露《ゼラニウム》は地上で赤く|燿《かがや》く。叫び声がひとつ左手からあがる。それから出しぬけに明らかに違う叫び声が右手からあがる。自動車は外に向かいながら衝突する。乗合バスは内に向かいながら衝突する。時計が十二の明瞭な鐘の音で宣言する。正午。
私はその時引き返さなければならないだろうか。私は眼の当たりにするのだろうか。地平線が見えなくなるのを、山が低くなり、粗野で強い色が戻ってくるのを。いや、そうではない。ハンフリー・ハモンドは死んだ。彼は死んだ――白いシーツ、花の薫り――一匹の蜜蜂が部屋に紛れこんできて、それから出ていく。つぎはどこに行くのだろうか? 風鈴草にとまる。けれどそこで蜜を見つけることはできなかった。それから壁の黄色い|匂紫羅欄花《においあらせいとう》のほうに行ってみる。果たしてそれらの旧いロンドンの庭で蜜を得る希望は叶えられるものだろうか。大地は乾ききっている。大きな鉄の排水管のうえ、あるいは|坑道《トンネル》の曲がり角に撒かれた塩のように。――けれど、ハンフリー・ハモンド。死んだなんて。紙のうえの名前をもう一度確かめさせて欲しい。もう一度友人たちのもとへ戻らせて欲しい。そんなに早く友人たちを見棄てさせないで欲しい。彼は火曜日に死んだ。三日前、突然に。二日病んで、それでおしまい。死の大いなる業。おしまい。たぶん彼の体はもう土に覆われている。周囲の人々は自分たちの日常に少しだけ変更を加える。彼の死を知らない何人かの人たちは手紙の宛名として彼の名前を用いるだろう。けれども、玄関のホールのテーブルに置かれた封筒はもう時間から取り残されているように見える。彼がもう何週間も前に、何年も前に死んでいるような気がしてしょうがない。彼のことを考えても、ほとんど何も知っていることがないように思える。それに家具が好きだという彼の言葉は私には何の意味ももたらさない。どうしたって彼は死んでいる。彼が私に言ったことで一番重要なものですら、いまの私の感情に影響を与えることはできない。恐ろしい。恐ろしいことだ。こんな無慈悲なこと。アームチェアがある。彼のすわったものだ。磨りきれてはいるがまだまだ頑丈だ。私たち人間の使用に耐えて生きぬいている。マントルピースにはガラスや銀の置物が雑然と置かれている。けれども彼の命は|儚《はかな》かった。壁や絨毯のうえに帯のように延びる鈍い光のように。私が死んだ時も太陽の光線はちょうどこんなふうにガラスや銀の置物のうえで輝くのだろう。太陽はこれから百万年も光の帯を作りつづける。黄色く広い道。この家や街を通って果てしない|道程《みちのり》を行く。|遥々《はるばる》と海しか見えないところを行く。太陽の光の帯は無限の|襞《ひだ》を引きのばしながら延びつづける。ハンフリー・ハモンド――ハンフリー・ハモンドとは誰だ? ――奇妙な響きだ。縮んだり、伸びたり。貝殻のように。
この荷物。小包。黒くのたうつペンの|痕《あと》が見える白い小さな四角い紙の群れ。「義理の父が……あなたをもてなしてくれるわ……」シーリアは気が狂った? 義理の父親? 彼女はまだ白いヴェールを身にまとっているのに。ベッドは白くて、傾斜しているのに。百合――開いた窓――外で女が敷物を叩いて埃を払っているのに。「今度のことは全部ハンフリーがやってくれてるのよ」ハンフリー? ――死んでるんじゃないの? 「引っ越しするのよ、たぶんもっと大きな家に」死者の家ってこと?「あなたも来て泊まるのよ。ロンドンに行かなきゃならないわ。何しろ喪服も買わなきゃね」ああ、駄目よ、彼がまだ生きているなんて言わないで。何てことなの、どうして|騙《だま》したの?
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ボンド通りのダロウェイ夫人
[#地付き]Mrs Dalloway in Bond Street
手袋を買いに行ってくるわ、とダロウェイ夫人は言った。
通りに出ると、時を打つビッグベンの鐘の音が聞こえた。十一時。まだ人の手が触れていない時間は新鮮で、まるで浜辺の子供たちにあてがわれたそれのようだった。けれども時鐘の慎重な律動には何かしら厳粛なものがあった。自動車の低い唸りと、通りをいく人たちの足音に重なるその音には、何かしら心を揺るがすものがあった。
街の人々がもっぱら幸福な使命に自らを捧げているわけでないことは疑い得なかった。語られるべきことを多く含むのは、私たちがウエストミンスターの通りを歩くというその事実より、私たち自身のほうだろう。ビッグベンもまた錆に飲みこまれる鋼の棒以外の何物でもない。もし担当の公務員の保守作業がなかったなら。ダロウェイ夫人にとってのみ、その瞬間は完全だった。ダロウェイ夫人にとっては六月は鮮烈だった。幸福な子供時代――ジャスティン・パリーは彼の娘たちにしか魅力的に映らなかったというわけではない(もちろん、彼の議会での立場は弱い)。宵の花々、立ち昇る煙。見えない高みから降ってくる鴉の啼き声。十月の大気を掻きわけて下へ下へ――子供時代の代わりになるものなど何もない。|薄荷《ミント》の葉がそれを取り戻させてくれる。でなければ青い縁取りのついたコップが。
可哀想な子供たち。彼女は溜息をついた。そして足を速めた。ああ、馬の首の真下、あの、小さな|悪戯《いたずら》っ子。そして彼女は手を上げて舗道の縁石のうえで立ちどまった。ジミー・ドーズが反対側でにやにやと笑った。
魅力的な女だ。落ちつきがあって、頭が良さそうで、紅い頬をしているわりに妙に白髪が多い。勤め先に急ぐバス勲爵士スクループ・パーヴィスはそんなふうに彼女を見た。ダートノールの幌付き荷馬車が通り過ぎるのを彼女は心持ち姿勢を正して待った。ビッグベンが十番目の鐘を響かせた。そして十一番目の鐘。重い音の輪が大気中に溶融していった。自尊心が彼女の背筋を真っ直ぐにさせていた。それは受け継いで、手渡すものだった。規律に精通し、苦痛を受けいれながら。人々はいかに苦しんだことか。あの人たちはどのように苦しんだことか。彼女は考えた。大使館のフォックスクロフト夫人のことに思いを馳せた。宝石で身を飾りたてた彼女は|昨夜《ゆうべ》悲嘆にくれていた。あの感じの好い男の子が死んでしまったからだ。そしてそうなったいま|旧《ふる》い|荘園館《マナーハウス》を(ダートノールの幌付き荷馬車が通りすぎた)|従弟《いとこ》の手に渡さなければならなくなったからだ。
「やあ、素晴らしい朝だね」陶器店の前でヒュー・ウィトブレッドが大袈裟な身振りで帽子をとって彼女に挨拶した。二人は子供の頃からの知合いだった。「どこへ出かけるんだい?」
「ロンドンを歩くのが好きなのよ」ダロウェイ夫人はそう言った。「田舎を歩くよりずっといいわ」
「おれたちはちょうど今来たところだ」ヒュー・ウィトブレッドは言った。「ついてないことに医者のところへ行く途中だがね」
「ミリー?」同情の念をただちに顔に表してダロウェイ夫人は言った。
「少し調子が悪いらしい」ヒュー・ウィトブレッドは言った。「まあ、そうらしい。ディックは元気か?」
「ぴんぴんしてるわ」とクラリッサは答えた。
もちろん、と歩きながら彼女は考えた。ミリーは私と同年代だ――五十か、五十二、たぶん例のことなのだろう。ヒューの態度がそう語っていた。紛うかたなく語っていた――懐かしく、好もしいヒュー、ダロウェイ夫人は考えた。歓びとともに記憶を|弄《まさぐ》りながら。感謝とともに、感動とともに。どのくらい内気だったことか。自分の兄弟にすら話しかけるよりは死んだほうがいいと思うような人――彼はいつもそんな感じだった。オクスフォードにいたころは。それから変わった。そして周囲にいた誰かがたぶん馬に乗れなかった(まったく、忌々しい)。ではどのようにして女たちは議会の席にすわっていられたのだろう? どんなふうに男たちと物事を進めたのだろう? 途方もなく深い本能の問題があるのに。女のなかには。それを超えることはできない。試す必要はない。そしてそのことに私たちが触れなくても、ヒューのような男性はそれを理解する。懐かしく好もしいヒューが愛されるのはそれがあるからだ。クラリッサはそう考えた。
アドミラルティーアーチをくぐると、|疎《まば》らな並木に縁取られた|人気《ひとけ》のない路の突きあたりにヴィクトリア女王の白い記念碑が見えた。豊かなヴィクトリア女王の母性、心の寛さ、飾らなさ。つねに型破りで、しかし何と畏怖に値することか、とダロウェイ夫人は考えた。ケンジントン公園と角縁眼鏡の老婦人と|温柔《おとな》しくさせておくために乳母が喋っていたこと、女王へのお辞儀が思いだされた。旗が宮殿のうえで|翩翻《へんぽん》と|翻《ひるがえ》っていた。王と女王は戻ってきている。ディックはかつて女王に昼食の席で会ったことがある――素晴らしく綺麗な女性。それは貧しい人々にとっては重要なことだった。クラリッサは思った。それから兵士たちにとっても。行手の左側に眼をやると、銃を持って英雄然と台座に立つ青銅の男が見えた――ボーア戦争。とても重要だ。ダロウェイ夫人は考えた。バッキンガム宮殿のほうに歩を進めながら。宮殿は毅然としてそこにあった。いっぱいの光のなか、断固として、率直に。しかしそれが特質なのだ。彼女は思った。民族に生まれつき備わった特質。インド人たちが尊敬したもの。女王は病院を欲した。慈善市を催した――イングランド女王。クラリッサは考えた。宮殿を見ながら。すでにその時刻、自動車は門を出ていた。兵士たちは儀礼を済ませていた。門は閉ざされていた。道路を横切ってクラリッサは公園に足を踏みいれた。背中を真っ直ぐに伸ばして。
六月は木々のすべての葉を奔放に茂りださせる。ウエストミンスターの母親たちは木漏れ日で|斑《まだら》になった乳房を赤子たちに含ませていた。若い娘たちは大したもので草のうえに寝転がっていた。老いた男がぎこちない動きで屈み、くしゃくしゃの新聞を拾いあげ、広げて読んで、それから放り捨てた。でもなんて厭なことだろう。|昨夜《ゆうべ》大使館でサー・ダイトンは言った。「もし馬を預かってもらう人間が必要になったら、私の場合は手を挙げるだけで事足りる」さらにサー・ダイトンは言った。しかし経済の疑問より宗教上の疑問のほうが遥かに重大だ、と。ダロウェイ夫人はその言葉が途方もなく興味深いものだと思った。サー・ダイトンのような男性の口から聞くのは。「そう、失われているものを国は決して知ることはないだろう」彼は問わず語りに好漢ジャック・スチュワートについてそう述べた。
彼女は軽い身の|熟《こな》しでなだらかな傾斜を登っていた。空気が目覚めて力を振るいだしていた。艦隊から海軍省に報せが届けられていた。その素晴らしい活力の波を受けて、ピカディリーとアーリントン通りと|遊歩道《マル》は公園の空気を文字どおり摩擦し、熱を生じさせ、木々の葉の一枚一枚を輝かせて、屹立させるかのようだった。クラリッサはその活力を愛した。馬に乗ること、踊ること、彼女はそれらすべてを熱狂的に愛してきた。あるいは田舎での長い散歩、本について、生活のさまざまなことについて話しながら。若い者たちは|途轍《とてつ》もなく生意気だから――ああ、そんなことを誰かが言っていた。けれどそれは確信があって言われたことだ。初老という時期は難しいものだ。ジャックのような人たちはそれを知ることはまずない。彼女はそう考えた。というのも、彼は死というものを一度も考えたことがなかった。みんなそう言っていた。自分が死に向かっているということを知らなかったと。|而《しか》していま嘆くことはできぬ――いったいどういうふうな状況だったのだろう――髪は白くなりゆく……もはや俗塵に|塗《まみ》れることなく……一回りか二回り前に|己《おのれ》の酒を飲みほして……もはや俗塵に塗れることなく。彼女は背中を伸ばして立っていた。
ジャックは叫んだものだ。シェリーを引用しながら。ピカディリーで。「あなた方はピンを欲している」彼は言った。彼は貧相な人たちを嫌った。「まいったよ、クラリッサ、ほんとにまいった」――彼女はいまデヴォンシャーの屋敷のパーティーでの彼の言葉をありありと思いだしていた。琥珀のネックレスに|見窄《みすぼ》らしい着古しの絹の服を着た貧乏なシルヴィア・ハントについて言っていたこと。クラリッサは背中を真っ直ぐに伸ばしていた。なぜなら声を出して喋ってしまったらしかったからである。ここはもちろんピカディリーだった。ほっそりとした緑色の円柱やバルコニーのある建物の前を通りながら、新聞で埋まったクラブの窓の前を通りながら、いつも真っ白な|鸚鵡《おうむ》の入った鳥籠が懸かっている旧いレディー・バーデット−クーツの屋敷の前を通り過ぎながら。それから金箔の豹たちが不在のデヴォンシャー・ハウス、高級なクラリッジホテル。彼女はジェプスン夫人あてに名刺を置いてきてほしいとディックに言われていたことを必然的に思いだした。でなければ夫人は帰ってしまうだろうとのことだった。富裕なアメリカ人たちは魅力的になることができる。そこはセント・ジェイムズ宮殿だった。子供が積み木で作ったような。そしていま――彼女はボンド通りを歩いていた――クラリッサはいまハチャーズ書店の前にいた。人の流れは止まらない――止まらない――止まらない。ローズクリケット場、アスコット競馬場、ハーリンガムポロ競技場――それは何だったろう? なんてかわいい娘、と彼女は考えた。弓形に張りだしたショーウィンドーに開いた状態で飾られた誰かの回顧録の口絵を見ながら。たぶん、サー・ジョシュアかロムニー。茶目っ気のある、明るい、控えめな、そんな娘――自分の娘のエリザベスのように――唯一の本物の娘。そしてばかばかしい本もあった。ソーピー・スポンジ。それをジムはよくスコットランド・ヤードで話をする時、引用したものだ。それからシェイクスピアのソネット集も一冊あった。彼女はソネットを暗記していた。黒い令夫人についてフィルと一日中議論したこともある。そうしてその夜、ディックは夕食の時に黒い令夫人のことは全然知らないと率直に言ったのだった。ほんとうに彼女はその率直さゆえに彼と結婚したのだ。ディックは決してシェイクスピアを読まなかった。たぶん、ここにはミリーに買ってあげるような、小さくて安い本が何かあるはずだ――もちろん、『クランフォード』だ。あれほど素敵なものが今まであっただろうか。ペティコートを着た牛のようなもの。もし、みんなにああいうふうなユーモアがありさえすれば、今、ああいう種類の自尊心がありさえすれば、とクラリッサは思った。彼女は大判の本のことを思いだしていた。結句、登場人物たち――何とそれらが現実の人物であるかのように語ったことか、偉大な作品を求めるならば過去に遡らなければならない。もう俗塵に塗れることなく……もう太陽の熱を恐れるな……|而《しか》して今は嘆くことはできぬ、嘆くことはできぬ。彼女は繰りかえした。彼女の眼はショーウィンドーを|彷徨《さまよ》っていた。詩が頭のなかを駆けめぐっていた。偉大な詩を吟味するのに余念がなかった。現代の詩人たちは、人が死について読みたいと願うことを決して書かない。彼女はそう思った。それからショーウィンドーを離れた。
乗合バスは自動車につづき、自動車は幌付き荷馬車につづく。幌付き荷馬車は|乗合自動車《タクシー》の後を追い、|乗合自動車《タクシー》は自動車の後を追う――屋根のない自動車が走ってきた、若い娘が運転している。四時頃までだろう。痛む足。私は知っている。クラリッサは思った。娘が疲れているように見えるから。娘は半分眠っていた。ダンスの後で。車のその座席で。もう一台、自動車がきた。それからもう一台。だめ、だめ、だめよ。クラリッサは温厚な笑みを浮かべた。その太った|婦人《ひと》は厄介なことをすべて背負いこんでいた。でも、ダイアモンド、蘭、朝のこの時間に、だめ、だめ、だめよ。見栄えが素晴らしく好いあの警官はやがて手をあげるだろう。もう一台、自動車が通る。絶望的に魅力がないわ。なぜあの年頃の若い娘っていうのは眼の|周囲《まわり》を黒く塗らなくちゃいけないのかしら。それに若い男。娘と一緒にいる若い男、こんな時間に、国がこんなに――好もしい警官が手をあげ、彼の指示を認めたクラリッサはゆっくりと横断した。ボンド通りのほうへ。湾曲した狭い通りを眺めながら。宣伝の垂れ幕を眺めながら。刻み目のついた太い電信線が空を横切っていた。
百年前、コンウェイの娘と駆け落ちした彼女の高祖父シーモア・パリーはボンド通りを北から南へ歩いた。百年に|亘《わた》ってパリー家の者はボンド通りを歩いた。そして反対側からくるダロウェイ家の者に会ったかもしれない(母親の側はリー家だった)。彼の父親は服をヒルズ商店から買っていたかもしれない。あちらのショーウィンドーには、反物が置かれていた。またこちらには黒いテーブルがあり壷がひとつだけそのうえに置かれていて、驚異的な値がついていた。魚屋の氷の塊のうえに置かれた紅く厚いサーモンのようなそれ。宝石はひじょうに美しかった――赤い星、橙色の星、模造宝石、スペインのものだ、彼女はそう考えた。そして古い金の鎖。星のように光る|飾り留め《バツクル》。髪を高く結った女たちが|纏《まと》う海の緑の|繻子《サテン》を飾る小さなブローチ。しかし、見た眼がいいことにどんな意味があるだろう。人は節約をしなくてはならない。彼女は風変わりなフランスの絵が一幅見える画廊の前を通らなければならなかった。人々が紙吹雪を撒いたような――薄紅と青の――冗談で描いたみたいな。もし、絵画のある生活をしているとしたら(本や音楽でもそれは同じだろうが)ああいう画廊に入ることはないだろう。イオリアンホールの前を通りながら、クラリッサは思った。人は冗談に惹かれてそんなことはしないものだ。
ボンド通りの流れは|滞《とどこお》っていた。レディー・ベクスバラの姿があった。競技大会を観覧する女王のように、一段と高い場所で、堂々として見えた。彼女は自家用の四輪馬車のなかで、背筋を伸ばし、まったくの一人で、眼鏡の奥から|四囲《あたり》を|睥睨《へいげい》していた。白い手袋は手首のあたりに緩みがきていた。黒を着ていたが、明らかに着古した服だった。けれども、とクラリッサは考えた。何とそれらは多くのことを語っていることか。家柄、自尊心、余分なことは一言も口にしないこと。言い換えれば、人に無駄話をさせないこと。驚異的な友人。ここ何年か誰も結局彼女の|粗《あら》を探すことはできなかった。そしていま、とクラリッサは思った。私は伯爵夫人を追い越そうとしている、白粉を塗った顔の身じろぎもしない夫人を。クラリッサは彼女のようになるためだったら、何でも代償を払っただろう。クレアフィールドの女主人。男のように政治を語る|女《ひと》。けれども彼女は決して外出しない。クラリッサは思った。そして彼女を招待するのはまったくの無駄だった。そして馬車が動きはじめた。レディー・ベクスバラは競技会を観覧した女王のように運ばれていった。確かに彼女は生きるために必要な何物も持っていなかった。そして老いた夫は衰えていて、彼女はそれらすべてを気に病んでいると噂されていたのだが。そんなことを考えながら店に入った彼女の眼には涙が滲んでいた。
「おはよう」クラリッサは魅力的な声で言った。「手袋なのよ」最高の親しみをこめて彼女はそう言い、ハンドバッグをカウンターのうえに置いて、ゆっくりと手袋のボタンを外しはじめた。「白い手袋」と彼女は言った。「肘のうえまであるのがいいわ」そして彼女は、女店員の顔に眼をやった――おや、この|女《ひと》は記憶にある|女《ひと》ではないようだけど? 眼の前の店員はずっと歳とっていた。「今してるのは全然駄目なの」クラリッサは言った。女店員は手袋を見た。「マダムはブレスレットをおつけになりますか?」クラリッサは手を広げてみせた。「指輪くらいしかつけないわ」店員は灰色の手袋を受け取り、それを持ってカウンターの端へ行った。
そう、とクラリッサは考えた。もしこの|女《ひと》と記憶にある|女《ひと》が同じだったなら、彼女は二十歳老けたことになるわ……。客はほかに一人しかいなかった。カウンターの前に横向きにすわっていた。その|女《ひと》は腕を突きだしていた。手が開いた状態で垂れさがっていた。放心したように。日本の扇に描かれた人のようだ、クラリッサはそう思った。あるいは放心しすぎているかもしれない。しかし何人かの男は彼女を崇拝するだろう。その婦人は悲しげに首を振った。またしてもサイズが大きすぎたのだ。彼女は鏡の角度を変えてもう一度眺めた。「手首のあたりが」彼女は白髪混じりの髪の女店員を非難した。店員は確かめて、同意した。
クラリッサとその婦人は待った。時計が時を刻んでいた。ボンド通りは物憂くさざめいていた。女店員は手袋を持って消えてしまった。「手首のうえが」とその婦人は声高に、悲しげに言った。彼女は椅子を、氷を、花を準備しなければならないのだろう。それに携帯品一時預かりの札も、とクラリッサは思った。来てほしくない人たちがやってきて、来て欲しい人たちは来ない。彼女はそしてドアのそばに立つのだろう。その店では靴下も扱っていた――絹の靴下。婦人というものは手袋と靴で判断されるものだ。懐かしいウイリアム伯父はよくそう言ったものだ。釣りさげられ、銀色の光を放って揺れる絹の靴下越しに、クラリッサはその|女《ひと》を見た。撫で肩。手は力なく垂れている。古いバッグ。視線はぼんやりと床に落ちている。もし野暮ったい|女《ひと》が自分のパーティーにきたら、我慢できないだろう。人はキーツのことを好きになっただろうか? もし彼が赤い靴下を穿いていたとしたら。ああ、ようやく――店員がカウンターに戻ってきた。そしてそれが彼女の脳裏にひらめいた。
「戦争前に、真珠のボタンのついた手袋があったのを、覚えてらっしゃる?」
「フランス製の手袋ですか? マダム」
「そう、フランス製だったわ」クラリッサは言った。もう一人の婦人はとても悲しげな顔で立ちあがって、ハンドバッグを手に取った。そしてカウンターのうえの手袋を見おろした、けれどそれらはすべて大きすぎた――どれも手首のあたりが太すぎた。
「真珠のボタンがついた品ですね」店員は言った。彼女はやはり前よりとても歳をとっているように見えた。彼女はカウンターのうえで薄い包装紙を広げていった。真珠のボタン、とクラリッサは思った。完璧な簡素さ――フランス製というものは。
「マダムの手はとてもほっそりとしてらっしゃいます」店員はそう言った。指輪のあたりでゆっくりと慎重に手袋を引きおろしながら。そしてクラリッサは姿見のなかの自分の腕を見た。手袋は肘に届かなかった。もう半インチ長いのはあるだろうか? けれど、彼女を煩わせるのは気が重かった――たぶん、この月のこの日、クラリッサは考えた。立っていることが苦痛なのではないだろうか? 「あら、お気になさらないでください」店員は言った。手袋が持ってこられた。
「あまり疲れないようにしないと」とクラリッサは親しげな口調で言った。「立ちっぱなしなの? 休暇はいつ取りますの?」
「九月です、マダム、そのあたりはあまり忙しくないのです」
その頃、私たちは田舎にいるわ、とクラリッサは思った。でなければ狩猟か。ブライトンに二週間ばかり滞在したりする。あまり風通しが好くない宿に。女主人は何でも興味がある。彼女をラムリー夫人の領地に送ることはほんとうにたやすいことだ(実際その言葉が喉元まで出かかった)。けれどもその時、彼女は思いだした。ディックが新婚旅行の時、自分に教えてくれた、衝動的な|施《ほどこ》しというものの愚かしさを。それよりはだね、と彼は言ったものだ。中国と交易するほうがよほど重要なのだ、と。もちろん彼は正しかった。それに彼女は店員が|施《ほどこ》しを受けることは好まないだろうということを漠然と感じた。彼女は自分の場所にいた。ディックがそうであるように。手袋を売るのが彼女の仕事だった。彼女は自身の独立した悲哀を持っている。|而《しか》して今、嘆くことはできぬ、嘆くことはできぬ、その言葉が頭のなかを駆けめぐった。もう俗塵に|塗《まみ》れることなく。クラリッサは腕を突きだした姿勢のまま考えた。完全に無意味に見える瞬間が存在する(手袋は脱がされた。革の粉を|雀斑《そばかす》のように残して)――ただ、人はもう、とクラリッサは思った。人はもう神を信じない。
往来の|騒声《ざわめき》が不意に怒号のように高まった。絹の靴下が光った。客が入ってきた。
「白い手袋を」と彼女は言った。その声のなかのある響きがクラリッサの記憶を刺激した。
以前は、と彼女は考える。とても単純だった。大気を伝って鴉たちの声が降ってきた。シルヴィアが死んだ時、もう何百年も前のことのように思われるあの時、早朝の教会の前の薄霧に包まれた|水松《いちい》の生垣、そしてダイアモンドの形の蜘蛛の巣はとても美しかった。けれどもディックが明日死んだら、神を信じるかということに関しては――そう、信じなくなるだろう。子供たちには自分で選択させる。けれど、自分はレディー・ベクスバラのようにするだろう。彼女は慈善市を開いた。噂では彼女は電報を手に――彼女の最愛のラウダンが死んだと告げる電報を手に――慈善市をつづけた。でも、なぜだろう、神を信じていないとしたら? ほかの人々の利益のために、と彼女は考えた。手袋をはめてもらいながら。この店員はもっと不幸になるだろう。もし信仰がなかったら。
「三十シリングです」と、店員は言った。「いいえ、すみません、マダム、三十五シリングの間違いでした。フランス製はお高くなっていました」
誰も自分自身のためには生きていないのだ。クラリッサはそう思った。
その時、先ほどの客が手袋を取りあげ、強く引っ張った。手袋は裂けた。
「何よ、これ」彼女は大きな声で言った。
「革の欠陥ですね」半白の髪の店員は急いで言った。「時々、|鞣《なめ》す時に酸が|零《こぼ》れてしまうのです。こちらのほうをお試しください、マダム」
「でも、こんなものに二ポンド十シリングの値をつけるなんて|酷《ひど》い詐欺だわ」
クラリッサはその婦人を見た。婦人もクラリッサを見た。
「手袋は戦争以来、少しばかり信頼性に欠けるのです」店員はクラリッサに向かって言いわけした。
けれど、この|女《ひと》をいったいどこで見たのだろうか? ――年配の、顎の下を襟飾りで覆った、金縁の眼鏡に黒いリボンを付けた、肉感的で、賢明そうで、サージェントの描いた絵のなかの人物のような婦人。居丈高に振る舞っている人をどうやって声で聞き分けることができるだろう、とクラリッサは思った。「ちょっとだけ、きついわ」と彼女は言った。店員はふたたびいなくなっていた。クラリッサはまた待機状態のまま残された。恐れることはない、と彼女は繰りかえした。カウンターのうえで指を遊ばせながら。太陽の熱をもう恐れることはない、恐れることはない。彼女は繰りかえした。腕には小さな茶色い点が見えた。店員は|蝸牛《かたつむり》のように這っていた。|汝《なんじ》、この世の|己《おの》が勤めをすでに為せり。何千人もの若者が死んだ。それはこれからもつづいていくかもしれない。ああ、ようやくだ。肘のうえ半インチ、真珠のボタン。五と四分の一。私ののんびり屋の先生、クラリッサは思った、私が午後までこうしてすわって時間を潰すつもりだとでも思っているの。やれやれ、あなたはお釣りを持ってくるのに二十五分くらいかけるんでしょうね。
|外《おもて》の通りで恐ろしい破裂音がした。店員たちはカウンターの向こうで身を|竦《すく》めた。しかし、真っ直ぐに背中を伸ばしてすわっていたクラリッサは、もうひとりの客に笑いかけ、弾んだ声で言った。「ミス・アンストラザー!」
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憑かれた家
[#地付き]A Haunted House
あなた方が起きたのが何時だったにせよ、その時、ドアが閉まる音が聞こえたはずだ。部屋から部屋へと二人は歩きまわる。手をつないで、こちらで何か持ちあげ、あちらで戸を開け、確かめている――幽霊のような一組の男と女。
「ここに置いたのよ」女が言った。男が応じる。「ああ、でもこっちにも」「二階にある」女が呟く。「それに庭にも」男が|囁《ささや》く。「静かに」二人が言い交わす。「でないと家の者を起こしてしまう」
けれども私たちを起こしたのはあなた方ではない。そう、違うのだ。「二人は探している。二人はカーテンを寄せている」そう言い、さらに一ページか二ページ読み進める。「いま二人は見つけた」そして確信するだろう。余白のうえに鉛筆を止めて。それから本を読むことに|倦《う》み、立ちあがって、自分で確かめに行くかもしれない。がらんとした家、開けっぱなしのドア、ただ森鳩の満足そうな声と農場の脱穀機の微かな唸りが聞こえるだけ。「何のために私はここに来たのか? 何を見つけたかったのか?」私の両手は空っぽだ。「では、もしかしたら二階ではないだろうか?」林檎は屋根裏にあった。それからふたたび階下に。庭はまだ昔通り、ただ本が芝生のなかに紛れこんでいただけ。
だが、二人は客間でそれを見つけていた。二人の姿は見えなかった。窓ガラスに林檎が映った。そして薔薇も。薔薇の葉はすべて窓ガラスのなかで緑色に見える。客間で二人が動きまわると黄色い林檎だけがくるくると回った。だが、それから少し経ってドアが開けられると、床のうえに散らばっている、壁に掛かっている、天井から垂れさがっている――いったい何が? 私の両手は空っぽだ。|鶫《つぐみ》の影が絨毯のうえを横切る。もっとも深い沈黙の井戸から森鳩は音の泡を曳きあげる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」家の鼓動が柔らかく脈打つ。「埋められた宝、部屋は……」鼓動が不意に止まる。そうだったのか、ああ、宝が埋まっている?
少し後、光は褪せていた。では、庭のほうなのか? けれども太陽の光線は|当処《あてど》なく|彷徨《さまよ》い、木々は闇を紡いでいた。
私がいつも求めていた光線は窓ガラスの向こうでとても美しく、とても見事に燃え、それから冷えて地表に|滲《し》みわたっていく。窓ガラスは死だった。死は私たちの|間《あわい》にあった。まず女の許を|訪《おとな》った。何百年も前に。家を|過《よ》ぎった。窓をすべて|塞《ふさ》いだ。部屋は闇に閉ざされた。男はそこを去る。彼女の許を去る。北に行った。東に行った。南の空で星々に変化が生じるのが見えた。家を探した。ダウンズの丘の裾に見つけた。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」家の鼓動は歓ばしげに脈打つ。「あなたの宝物」
風は通りで唸りをあげる。木々は屈し、反りかえる。雨のなかで月光は|放埒《ほうらつ》に跳ね、散ずる。けれどランプの光は窓からまっすぐ地面を指す。蝋燭の炎は静止し、揺らぐことはない。家のなかを歩きながら、窓を開けながら、私たちを起こさないように声を低めながら、幽霊のような二人は自分たちの歓びを探す。
「ここで眠ったのよ」女は言った。男も言う。「数えきれないくらいキスをした」「朝を迎えた――」「木々の|隙間《あいま》の銀の月――」「二階――」「庭で」「夏が訪れた時――」「冬の雪の頃――」遠くでドアが閉まる音が聞こえる。心臓の鼓動のような穏やかな音。
二人は近づいてくる。戸口で二人は立ち止まる。風は|滅《や》んだ。雨の滴が銀色に光って窓ガラスを伝って落ちる。私たちの眼は閉ざされている。傍らで鳴る足音は聞こえない。幽霊のような服を|纏《まと》った|女《ひと》も見えない。男の手が|角燈《ランタン》を覆う。「見なよ」彼は囁く。「ぐっすり眠っている。唇に愛情を|湛《たた》えて」
屈んで、銀色の|角燈《ランタン》を掲げ、二人は長いあいだ私たちを食いいるように|凝視《みつ》める。いつまでも二人は動かない。風が吹きこんでくる。炎が少し揺れる。生きているような月光が壁を照らし、床を照らす。そして下を向く二人の顔を照らし、染めあげる。|凝《じつ》と考えこむようなその顔を。眠れる者の顔を|検《あらた》めながら、自分たちの隠された歓びを探しながら。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」家の心臓は意気揚々と|摶《う》つ。「永い年月――」彼は囁く。「きみはふたたび僕を見つけた」「ここで――」彼女も小声で応える。「眠って、庭で本を読んで、笑って、屋根裏で林檎を転がして、ここに私たちは宝物を残した――」身を屈めた二人が持つ|角燈《ランタン》が私の|瞼《まぶた》を開かせる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」屋敷の鼓動は高らかに鳴りひびく。目覚めた私は叫ぶ。「ああ、ではこれが――これがあなた方の宝なのですね。心のなかのこの|燈火《ひかり》が」
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弦楽四重奏団
[#地付き]The String Quartet
さあ、ようやく辿りついた。もし、あなたが広間の外に眼を向けたなら、地下鉄に路面電車に乗合バス、少なからぬ数の自家用馬車、それにあえて自分の信じるところを言えば、座席が前後に分かれたランドー型馬車さえ見ることができるだろう。それらはロンドンの端と端を結んで織物を織るようにも見える。けれど私の念頭には疑念が浮かびはじめる――。
もし、そうしたことが真実であるならば。みんなが言っているように。リージェント通りが完成し、条約が調印され、その時期にしては寒くなく、借りられる|階貸し住宅《フラツト》もなく、インフルエンザが今を盛りと猛威をふるい、もし食料品室の水漏れのことで手紙を書くのを忘れていたことを私が思いだし、列車のなかに手袋を忘れたならば、もし、|躊躇《ためら》いがちに差しだされた手を、身を乗りだして誠意を|籠《こ》めて握りかえすことを血の繋がりが私に要求するとしたら――。
「七年経ちますね、このあいだお会いしてから」
「前はヴェニスでしたか」
「ところで今はどちらにお住まいですか?」
「そう、午後遅い時間が一番都合がいいです。けれども、もし、こう言っても|我儘《わがまま》が過ぎないとしたら――」
「けれど、すぐあなたのことは判りました」
「しかし、戦争は暴落を――」
もしそうした小さな矢によって心が射抜かれるとしたら、そして――人間の社会はそれを強要するのだが――射抜かれたかと思う間もなく、もうすでにつぎの矢が放たれるならば、もしこれが熱を発生させ、さらに彼らが電灯をつけているならば、もしあることがたいていそのあとに改良と修正の必要を残すのなら。後悔以外にも悦びや虚栄心や欲望を掻きたてて――もし、私の言うことがすべて事実だとしたら、そして帽子や、毛皮の襟巻や、紳士方の燕尾服、最近流行の真珠のネクタイピンといったものが周囲を埋めているとしたら――そこにどんな好機があるだろうか?
何の好機だろう? 理由を言うのは刻々と難しくなっていく。自分が何も言うべきことを持たないという事実を確信し、いつ会ったのかも思いだせないのに、結局ここにいる理由を。
「あの行進は見ましたか?」
「王様は寒そうに見えた」
「違う、違う、でもそれは何?」
「あの|女《ひと》はマームズベリーに家を買ったのです」
「見つかってほんとに幸運だった」
一方、彼女が――彼女というのが誰であるにせよ――大馬鹿者であることは私には明瞭なように見えた。なぜならそこで問題となっているのは|階貸し住宅《フラツト》や帽子や鴎のことだけだったからだ。そしてそれは念入りに着飾ってここにすわっている百人もの人たち、心を閉ざし、毛皮を身につけ、飽食している人たちすべてにも言えることだった。私が別だというわけではない。私もただ受動的に金色の椅子にすわっているに過ぎない。ただ埋められた記憶のうえの土を掘り返しながら。みんなと同じように。確かにそんなふうだったのだ。もし私が誤解しているのでなければ、私たちはみんな何かを思いだそうとしていた。人目を|憚《はばか》りながら何かを探していた。なぜそわそわする。なぜ服の似合い具合にそう神経質になる。なぜ手袋を気にする――ボタンが留めてあるか、留めてないかを。それから暗い背景に浮かぶ初老の婦人の顔を見るがいい。少し前は|洒脱《しやだつ》で|活々《いきいき》としていたその顔。いまは黙りこんで、悲しげに見える。日蔭にいるように。あれは控えの間で調弦をする第二ヴァイオリンの音ではないだろうか? 四人が現れた。四つの黒い影。楽器を持っている。それから降りそそぐ強い光に照らしだされた四つの白い方形の前にすわった。四人はしばらく弓の先を譜面台に載せてやすんでいた。それから同時に弓の|尖《さき》を上げ、軽やかに構えた。そして自分の向かい側にいる奏者を見ながら、第一ヴァイオリンがカウントをはじめる、一、二、三――。
繁茂し、躍り、生長し、破裂する。山の頂の梨の樹。|迸《ほとばし》る噴水。降りかかる飛沫。けれどローヌの流れは速く深い。幾つもの橋のアーチを過ぎていく急流。流れる水は木の葉を運ぶ。銀色の魚に落ちた影を洗いおとす。|斑《ふ》を身に散らした魚は急流を駆けおりる。そしていま渦のなかに飛びこむ――それは容易に果たせないことだ――淵はどこからどこまでも魚で埋まっている。跳躍し、水を打ち、鋭角的な|鰭《ひれ》を動かす。沸騰し、渦を巻く水。黄色い|瑪瑙《めのう》のような無数の魚たちはひじょうな勢いで回る。ぐるぐると、ぐるぐると、ぐるぐると――やがて渦から解放されると魚は急速に下方に向かう。あるいは水面に躍りでて美妙な螺旋を描く。|鉋《かんな》から吐きだされる薄い削り屑のように反りかえって。上方へ、上方へ……。それらのなかには何と美しい善性があることか。軽やかな動きで、微笑みながら世界を|渉《わた》っていく。そしてそれは陽気な年寄りの魚売り女たちのなかにもあった。橋のアーチの下にしゃがむ醜い年寄りの女たち。何と深く彼女たちは笑い、体を揺すり、|巫山戯《ふざけ》あうことか。歩きながら、往ったり来たりしながら、うふふふ、あははは。
「あれは初期のモーツァルトだ、もちろん――」
「けれども、あの旋律はモーツァルトのほかの曲全部と同じように人を絶望させます――私は希望がいい。どういう意味かって? あれは音楽のなかで最悪のものです。私は踊りたい、笑いたい、薄赤い色のケーキや、クリーム色のケーキが食べたい。薄い色の刺激のあるワインが飲みたい。それに|猥褻《わいせつ》な話――いま、そういうものが楽しめる気分なのです。人は歳をとればとるほど猥褻な話を好むようになる。はははは。私は笑っている。何を笑っているか? あなたは何も言いませんでした。向かい側の老紳士も何も言わなかった……。けれど、想像すると――想像すると――静かに!」
憂鬱の河は私たちを運ぶ。柳の|撓垂《しなだ》れた枝ごしに月が昇る時、私はあなたの顔を見る。柳の傍らを通る時に私はあなたの声を聞き、鳥の声を聞く。あなたは何を囁いているのだろうか? 哀しみ、哀しみ。歓び、歓び。|解《ほど》くことができないほど緊密に織られ、苦痛とともに|聚《あつ》められ、嘆きとともに撒き散らされる――大音響!
ボートは沈む。昇ってくる。影が幾つか昇ってくる。けれど木の葉はいま薄くなり、ぼんやりとした影になり、|尖《さき》が赤くなり、私の心からその所有になる二面性を備えた情熱を引きだす。私のためにそれは歌う。私の悲哀を開く。|憐憫《れんびん》に疲れた心を和らげる。太陽のない世界を愛情で氾濫させる。そして慈愛を注ぐことを決して止めることなく、減ずることもない。手際よく、微妙に織りあげてゆく。模様がすっかりできあがるまで、完成するまで、分割されたものが統合されるまで。昂揚、啜り泣き、横になっての休息、悲哀、歓喜。
それにしても、なぜ嘆くのか? 何を求めているのか? なぜ満足しないのか? 私は言う。すべては解決された。薔薇の葉の毛布にもぐって|寝《やす》んでいる、降ってくる薔薇の葉。降ってくる。ああ、けれどもそれは止む。一枚の薔薇の葉は途方もない高みから落ちてくる。見えない気球から落下する小さなパラシュートのように。|旋々《くるくる》と、|翻々《ひらひら》と、|揺々《ゆらゆら》と。それは決して私たちの許には届かない。
「そうです、そうです。何も気がつきませんでした。あれは最悪の音楽です――ばかげた夢です。第二ヴァイオリンが遅れている、そうではないですか?」
「あそこにお年寄りのマンロー夫人がいる。そろそろ歩いている――年々眼が悪くなっている。可哀想な人――この滑りやすい床では」
眼の見えない老人。白髪のスフィンクス……。あそこの舗道に立っている。手招きしている。厳しい顔で、赤い乗合馬車を。
「なんて美しいんでしょう。なんて素敵に演奏するんでしょう。なんて――なんて――なんて――」
舌はただの拍子木だった。それだけでしかなかった。私の横にある帽子の羽根飾りはがらがらのように、子供の玩具のように、華やかで楽しいものだった。カーテンの隙間から|鈴懸《すずかけ》の葉の緑色が私の眼を射た。とても奇妙だった。とても刺激的だった。
「なんて――なんて――なんて」静かに!
草のうえには愛しあう者たちがいた。
「マダム、もしあなたが私の手を取ってくださるなら――」
「|あなた《サー》、私は心からあなたを信じるでしょう。それに私たちは体を宴席に置いてきました。この芝のうえにいるのは私たちの魂ですわ」
「では、この抱擁は魂の抱擁ですね」|檸檬《れもん》の木は頷いた。白鳥は岸を離れ、夢見るように河のなかほどまで進みでた。
「でも、話を戻しましょう。その|男《ひと》は廊下を追ってきたの、それから角を曲がった時、私のペティコートのレースをきつく踏みつけたのよ。そうしたらもう私にできることなんて、きゃあって叫んで、それから口に手をあててその声を抑えようとするくらいでしょう? それから、彼は剣を抜いたのよ、それで明らかに殺すつもりで何度も私を突いてきたわ。お前は狂ってる、狂ってる、狂ってるって叫びながら。そこで思わず私も叫んでいたの。そうしたら、王子が、出窓の前で大判のヴェラム革のノートに書き物をしていた王子が、紫色の縁無し帽に毛皮の上履きの恰好で現れて、|細剣《レーピア》を壁からもぎとったのよ――スペイン王から貰った剣ね、知ってるでしょう――それで私は逃げられたの。この服を羽織って。スカートの破れを隠すためによ――隠すため……でも、聞いて。角笛の音!」
紳士は婦人にすぐさま応じた。そして婦人は音階を駆けあがる。きわめて機知に富んだ挨拶を交換し、啜り泣きながら最高潮に達する。意味は充分に明らかなのだが、それは言葉では示せないものだった――愛情、笑い、昂揚、歓び、至福――すべてが穏やかな親愛の情の悦ばしい|小波《さざなみ》のうえに浮いていた――澄んだ角笛の音が響くまで。最初はずっと遠方から、そしてだんだん明瞭になってくる。まるで中世貴族の家令が夜明けを告げるために吹いているような、あるいは恋人たちの逃亡を不吉に告げるかのような、その響き……緑の庭、月光に照らされた池、|檸檬《れもん》の木、恋人たち、それに魚たち。それらはすべて|蛋白石《オパール》の色の空に融けた。その空を|渉《わた》って響いていく角笛の音にやがてトランペットの音が混じり、さらにクラリオンの音が重なった時、大理石の柱を結んで堅固な白いアーチが幾つも立ち昇るのが見える……。重い足音とトランペットの響き。かちゃかちゃという音。がらがらという音。確固たる創設。確固たる創建。何万もの人の行進。混沌と無秩序が地上を|闊歩《かつぽ》する。けれど私たちが訪れたこの街は石も大理石も持たない。街は困難に耐えて在る。揺るぎもせず在る。ひとつの顔、ひとつの旗も挨拶をしない。歓迎もしない。では出発するがいい。あなたの希望を滅ぼすために。沙漠で私の歓喜を|萎《な》えさせよう。裸のまま前へ進む。立ち並ぶ柱に装飾はない。無意味な吉兆。影もない。輝かしく。苛烈に。では私は後退する。もう切望せず、ただここを出ることを欲する。通りを見つけ、建物に眼をやり、林檎売りの女に挨拶をし、玄関のドアを開け閉めするメイドに話しかけることだけを欲する。星の夜。
「おやすみなさい、おやすみなさい。あなたはこちらの道ですか?」
「それはそれは、私はあちらなのです」
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月曜日あるいは火曜日
[#地付き]Monday or Tuesday
物憂げに、無関心に、翼で軽々と大気を打ち震わせて、行くべき道を知る青鷺は教会の上空を飛ぶ。白く、遠く、空のなかの空はいつ果てるともなく拡散し、収斂し、移動し、停滞する。湖? その岸辺を覆い隠すのだ。山? ああ、完璧だ――その斜面の太陽の|黄金《きん》。沈んでゆく。では、羊歯の|一叢《ひとむら》。あるいは白い羽根の|一叢《ひとむら》。いつまでも、いつまでも――。
真実を求め、真実を待ち、苦闘を重ねて|僅《わず》かの言葉を抽出し、つねに欲しながら――(叫び声が不意に左手からあがり、つづいてもうひとつ右手からあがる。外に向かう自動車は衝突する。内に向かう乗合バスは衝突する――つねに欲しながら――(時計が十二回鳴って明言する。今が正午だと。光は金の|鱗《うろこ》を落とす。子供らは群れる)――真実を欲しながら。赤い色はあれは|円蓋《ドーム》。木々の枝には硬貨がぶらさがる。煙突から煙が|棚引《たなび》く。どなる声。叫ぶ声。喚く声、「鉄売ります」――真実?
男たちや女たちの黒や金色の靴の先の|耀《かがや》き――(この霧といったら――砂糖? いや結構です――未来の連邦)――暖炉が光を投げかける。それは部屋を赤く染める。黒い人影と彼らの|煌《きら》めく眼だけ残し。|外《おもて》では幌付き荷馬車から荷物が下ろされている。ミス・スィンガミーは机の前にすわって紅茶を飲んでいる。板ガラスが毛皮を護っている――。
|翻《ひるがえ》り、木の葉の光を|煌《きら》めかせ、吹き飛ばされて角を曲がり、自動車の|隙間《あいま》を縫い、銀の|跳《は》ねで汚れ、人家か人家でないかを問わず、集められ、撒きちらされ、さまざまな尺度で浪費され、吹きとばされ、吹きよせられ、引き裂かれ、地を這い、集められ――真実?
いま暖炉の前の大理石の白い方形のうえにふたたび集められた。象牙色の深みから浮上してきた言葉はその黒を|四囲《あたり》に投げかけ、咲きほこり、染みとおる。投じられた本。炎のなかに。煙のなかに。一瞬の閃火のなかに――あるいはいまは旅のさなか。大理石の四角い|垂飾《ペンダント》。下方に立ちならぶ|光塔《ミナレツト》。インドの|海洋《うみ》。気圏が蒼を追いたてる。星が|燿《かがや》く――真実? あるいは今は接近に満足して?
物憂げに、そして無関心に、青鷺は引きかえす。空は星々を|薄紗《ヴエール》で覆う。それから剥ぎとって裸にする。
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キュー植物園
[#地付き]Kew Gardens
楕円の花壇からハートの形の、あるいは舌の形の葉を身の丈の半ばまで附けた茎が百本ほど群れて上方を指している。茎の先には赤や青や黄色の花弁が附いていて、その表面にはおのおのの色よりも濃く、また微かに盛りあがった|斑《ふ》が散らばっている。赤や、青、黄色の花の|頤《おとがい》の暗がりを結ぶように|手摺《てすり》が延びている。手摺は金色の花粉に覆われて、ざらざらとした手触りを持ち、両端は少し丸みを帯びている。それぞれの花弁は夏の微風に安寧を乱されるほどの|嵩《かさ》を持ち、揺れると赤や青や黄色の影は他の花弁のうえを掠める。また|一片《ひとひら》ほどの茶色い地面を精妙このうえない色で染めあげる。花の光は小石の|滑《なめ》らかな表面にも落ちる。茶色い螺旋を描く|蝸牛《かたつむり》の殻のうえにも。また雨が結んだ水滴に射しいる花の光は赤や青や黄色に染まった水滴の薄い皮膜を内側から押し広げ、見る者はその水滴がすぐに破裂し、消えてしまうだろうとの印象を抱く。しかし、水滴は消えることはなく、つぎの瞬間にはふたたび銀灰色に戻っている。そして花の光は葉へと移り、表皮の下で枝分かれした葉脈を浮かびあがらせる。そして光はさらに移動し、ハートの形あるいは舌の形の葉が作る円蓋の下の漠とした緑色の空間に|飾光《イルミネーシヨン》を描きだす。同時に、穏やかだった風が少しだけ強くなり、花の色が空に向かって投じられる。七月のキュー植物園を行く男たちや女たちの眼に向かって投じられる。
男たちや女たちはだらだらと歩いてきて、花壇の前を過ぎてゆく。規則性を欠いたその奇妙な動きは、芝生を横切って花壇から花壇へとジグザグに飛んでゆく青や白の蝶の動きに似ていなくもない。その男は女の六インチほど前方をのんびりと歩いていた。女のほうは男よりも意志を感じさせた。ただ、時々、振りかえって後ろの子供たちが離れすぎていないかを確かめる。前を行く男は自分では意識していなかったが、女との距離を保ちつづけた。男は自分の考えを連れにして歩きたかったのだ。
「十五年前、おれはリリーと一緒にここへきた」男は思った。「おれたちはあっちのほうにある池の畔にすわった、それからおれは暑い午後のあいだずっとリリーに結婚して欲しいと言いつづけた。|蜻蛉《とんぼ》がおれたちのまわりをぐるぐる廻っていた、蜻蛉や、リリーの靴の先についた銀色の四角いバックルをおれははっきりと思いだせる、話しているあいだずっとおれはその靴を見てた、その靴が苛立ったように動いた時、顔をあげなくてもリリーが何を言うつもりなのかおれには判った、リリーの全部が靴のなかにあるような気がした。おれの愛情とか、欲望とかは|蜻蛉《とんぼ》のなかにあった。何かの理由で蜻蛉がそこに止まったら、ある葉に、まんなかに赤い花を附けたその大きな葉に止まったら、リリーがすぐにいいわと答えるような気がした。けれども蜻蛉はおれたちの周囲を廻りつづけた。蜻蛉はどこにも留まらなかった――もちろん留まらなかった、幸運なことに止まらなかった、そうでなかったら自分はこうしてエリナーや子供たちと歩いていなかっただろう――なあ、エリナー、過去のことを考えることがあるか?」
「なぜ、そんなこと訊くの、サイモン?」
「ずっと、過去のことを考えてたからさ、僕はリリーのことを考えてた。結婚してたかもしれない女だ……どうして、黙っているんだ? 僕が過去のことを考えるのは|厭《いや》か?」
「なぜ、私が|厭《いや》がるの? 人はいつも過去のことを考えるものよ。公園にきたら寝そべっている男や女は幾らでもいるわ。あれは誰かの過去じゃない? みんな過去の遺物、あの男の人、あの女の人、木陰で寝そべっているあの幽霊たち……あれは誰かの幸福、あれは誰かの真実じゃない?」
「僕にとっては、銀色の四角いバックルと|蜻蛉《とんぼ》が――」
「私にとっては、あるキスだわ。想像してみて、二十年前、イーゼルを前にした小さな六人の女の子。湖の岸辺にすわって睡蓮の花を写生してるのよ。あれは生まれて初めて見る赤い睡蓮だったわ。それから突然キスされたのよ、|項《うなじ》に。午後のあいだずっと手が震えて、絵が描けなかったわ。私は時計を取りだして、時間を測った。五分くらいだったらキスのことを考えても大丈夫だって思ったのよ――それはものすごく素晴らしかった――歳とった、白髪まじりの髪の女の人のキス。鼻に|疣《いぼ》のある人のキス。私の人生のすべてのキスの母であるキス。こっちへ来なさい、キャロライン、ヒューバートも」
彼らは花壇の前を通り過ぎていった。今は四人並んで歩いていた。そして間もなく、木々のあいだで小さくなり、半ば透明になったように見えた。大きく不規則な形の光と影の|斑《ふ》がその背中に落ちて震えていた。
楕円形の花壇では、赤と青と黄色に染められた殻のなかで二分ばかり|凝《じつ》としていた|蝸牛《かたつむり》がきわめて緩慢ながらも動きはじめていた。やがて蝸牛はでこぼこの地面を覆った|脆《もろ》い|土塊《つちくれ》のうえを這いはじめた。蝸牛が這うと土塊は壊れ、|散々《ちりぢり》になった。蝸牛は前方にはっきりした目標地点を持っているように見えた。その点で蝸牛は角張った体に長い脚を備えた緑色の奇妙な虫とは違うようだった。虫は蝸牛の前を横切ろうとしていた。しばらく虫は思案するかのように触角を震わせながら待っていたが、やがて唐突に背を向けて反対方向に立ち去った。谷間が緑の深い湖になった茶色い懸崖。全体がゆらゆらと揺れる平たい剣のような木々。灰色の丸石。|罅《ひび》に覆われ、そのうえ大きな|褶曲《しゆうきよく》を持つ薄いもの。そうしたものが目標点に辿りつくまで蝸牛が一歩一歩進むべき道程に横たわっていた。|蝸牛《かたつむり》が、アーチになった枯葉の天幕を迂回すべきか、登って越えるべきか決断を下す前に、楕円形の花壇に新たな人間の足音が近づいてきた。
今度は両方とも男だった。若い方の男の顔には自然さに欠けると判断されるような冷静さがあった。若い男は連れが喋りだすと、顔をあげ、そのまま黙って自分の前を見ていた。そして連れが話しおえると、すぐにまた地面に眼を落とした。若い男はある時は沈黙が長くつづいた後ようやく口を開いた。またある時はまったく口をきかなかった。年長の男は、身体を揺すりながら奇妙に不規則な歩き方をしていた。手を前方に突きだしたり、不意にうえを向いたりする様子からは、家の前で待たされすぎて苛立った馬車馬の動きが連想された。しかし男の動きはだらしなく、意味も欠いていた。年長の男はひっきりなしに喋っていると言ってよかった。男は笑みを浮かべ、それからふたたび話しはじめた。まるで笑みが自分の言葉にたいする返答であるかのように。男は霊について喋っていた――男の話によると、死者の霊というものは今この時にも天国での奇妙な経験をあまさず男に伝えようとしているらしかった。
「ウイリアム君、天国は古代人にテッサリアとして知られていた。そして戦争中のいま、霊的なものは丘々のあいだを雷のように|闊歩《かつぽ》している」男は口を|噤《つぐ》んだ。聴き耳をたてるようにして。そして笑って頭を振ると、話をつづけた。
「きみは小さな電池を持つ。それに電線を|絶縁《インシユレート》するためのゴムの切れ端を持つ――いや、|離隔《アイソレート》だったかな? ――ああ、細かいところは省略しよう。無暗に細部に立ちいるのは理解を妨げることになるだけだ――要するにその小さな機械はベッドの頭の付近の適当な場所に置いてある。ぼくたちは言うだろう、こざっぱりした|黒檀《マホガニー》の演台の前に立って。ぼくの指示の下、助手たちの手ですべての用意は調っている。未亡人は耳を当てる。そうして折合いがついたならば信号で霊を呼び寄せる。ああ、女たち、未亡人たち、黒衣の女たち――。
その時、男は遠方にドレスを見たらしかった。木蔭のなかで黒のように見える紫のドレス。男は帽子を取り、それを胸にあてた。それから足を早め、熱に浮かされたように、呟きながら、身振りをつづけながら、女の許へ向かおうとした。しかし、ウイリアムが男の服の袖を掴み、老いた男の注意を惹くためにステッキの先で、手近の花に触れた。一瞬、混乱した面持ちでそれに眼をやった後、男は花のほうに耳を傾けた。そして花の話す声に答えているようだった。というのも男はウルグアイの森林について話しはじめたからである。その森林に何百年も前にヨーロッパ一美しい娘とともに行ったことがあると男は話していた。ウルグアイの森の木々の足下に絨毯のように広がる、蝋のような花びらを持った熱帯の薔薇、|夜鶯《ナイテインゲール》、浜辺、人魚、溺れて死んだ女たちのことを語る声が男の口から低く洩れた。ウイリアムに引っ張られて、歩かざるを得なくなった時、男の顔に表れた禁欲的な忍耐の色が、ゆっくりと濃さを増していった。
後を追うようにして、男の所作に奇異の念を抱いていた中流下層と思しい年配の女が二人やってきた。一人は太って、鈍い感じだった。もう一人は薔薇色の頬をしていて、きびきびとしていた。二人はその階級のたいていの人がそうであるように、脳の不調からくる奇矯さの徴候に惹かれていることを率直な態度で表した。それが富裕な階級に属するらしい者の身に生じていたので、二人の関心は余計高まっていた。しかし、二人は男の仕草が単なる奇癖さから生じたものなのか、ほんとうの狂気に由来するものなのか、確固とした判断を下せるほど近い距離にいたというわけではなかった。年配の男の背中を無言で舐めるように見て、意味ありげな視線をこそこそと交わした後、二人はひじょうに|込《こ》みいった対話に戻った。
「ネル、バート、ロト、セス、フィル、親父さん、あの|男《ひと》が言うには、あたしに言わせれば、あの|女《ひと》が言うには、あたしに言わせれば、あたしに言わせれば、あたしに言わせれば――」
「あたしのバート、シス、ビル、爺さん、年寄り、砂糖、
砂糖、小麦粉、鰊、青菜、
砂糖、砂糖、砂糖」
鈍重な感じの女は、降りかかる言葉が織りなす模様を通して、涼しげに、緊密に、垂直に立つ花々を、不可解な表情を浮かべて眺めていた。あたかも深い眠りから醒めて、真鍮の燭台が普段とは違ったふうに光を反射するさまを見る者のように。眼を|瞑《つむ》り、また明けて、そしてまた視線を真鍮の燭台に戻す。ようやく覚醒が本格的になる。そして、意識のすべてをもって燭台を見る。太った女はそんなようすで楕円形の花壇の前に佇んで、もう一人の女の言葉に耳を傾ける振りさえ止めてしまった。彼女はそこに立ちすくんで言葉が自分に降りかかるにまかせた。上半身を前に後ろにゆっくりと揺らしながら花を見ていた。それから、すわってお茶を飲む場所を探そうと言った。
|蝸牛《かたつむり》はいま枯葉を迂回することも登ることもせずに目標に到達しうると思われる方法のすべてを検討していた。登攀に要する努力はともかく、かさかさという音をたてて震えるそれに角の先で触れた蝸牛の内心は、果たしてその薄いものが自分の重さに耐えられるだろうかという疑念でいっぱいになった。結局、蝸牛はそのものの下を潜って進むことにした。|縁《へり》の一部分が|捲《めく》れあがって、ちょうど潜りこめるくらいの隙間ができていたのである。蝸牛は頭をその隙間に突っこみ、高い茶色い屋根をしげしげと眺めた。そして、涼しげな茶色い光に慣れはじめた頃、新たに二人の人間が芝のうえをやってきた。今度は二人とも若かった。若い男と若い女。二人とも若さの最盛期にいた。あるいはその少し前の時期に。薄紅の滑らかな蕾が粘る|苞《ほう》を内側から破裂させる直前の時期。蝶の羽がすっかり伸びきったものの、まだ陽光のなかで静止している頃。
「ついてたな、金曜日じゃなかった」男は口を開いた。
「なんで、そう思うの? つきとか信じてるの」
「金曜日だったらきみは六ペンス払わされてた」
「六ペンスがどうだって言うの? それくらいの価値はあるんじゃないの?」
「それ? ――それっていう言葉できみは何を言いたいんだ?」
「色んなことよ――色んなこと指してるのよ――言ってる意味わかるでしょう?」
こうした言葉のあいだには長い沈黙が挟まれていた。二人とも低く変化に乏しい声で話した。二人は花壇に密着するようにして|凝《じつ》と動かずに立っていた。それから二人で女の持っていたパラソルを柔らかい地面に深く突き刺した。その行動と女の手のうえに男の手が重ねられたという事実は、二人の感情を奇妙な形で表現していると言えた。あたかも二人の取るに足らない会話が、やはり何かを表現していたように。短い翼しか持たない言葉は意味で重くなった二人の体を遠くまで運ぶには力が足りず、二人はただ周囲をとりまくごく当たり前のものに無様にぶつかるだけだった。そしてそのことが接触をそれほど力の|籠《こも》ったものにした。しかし誰が知るだろう(そんなふうに二人は考えた。パラソルを地面に突きたてながら)、言葉のなかには絶壁が隠されているんじゃないだろうか? あるいは氷の斜面が見えない側で陽光を受けて煌めいているんじゃないだろうか? 誰が知るだろう? 見たことがある者が誰かいるだろうか? キュー植物園で飲めるお茶はどういうものかと、彼女が考えている時も、彼は娘の言葉の背後にぼんやりと見える何かについて思いを巡らしていた。広大に|聳《そび》えたつ何か、堅固な何か。そして霞がゆっくりと晴れていき、やがて明らかになってきた――ああ、何だろう――こういう形のものって何だろう――小さな白いテーブルが並んでいる、ウエイトレスたちがまず女に視線をやり、それから男を見た。それから、現実のシリング硬貨を二枚払うことになると思われる一枚の勘定書。そう、これは現実だった。みんな現実だった。ポケットから硬貨を取りだしながら、男は確信した。彼と彼女以外の者すべてにとってそれは現実だった。彼にとってさえ、それは現実であるように見えはじめてきた。それから――それは考えつづけるには、あまりにも興奮の度合いが大きすぎて、耐えられないものになった。彼は力を|籠《こ》めてパラソルを地面から引きぬき、誰もがほかの誰かとお茶を飲んでいた場所を早く見つけたいと強く思った。ほかの人々と同じように。
「さあ、行こう、トリッシー、もうとっくにお茶を飲んでていい時間だ」
「どこでだってお茶は飲めるでしょう?」興奮のため奇妙に震える声で彼女は言った。そして手を引っ張られて、ぼんやりと周囲を見廻しながら芝の小径を歩いた。パラソルを引き摺りながら、視線を周囲にさまよわせながら、お茶のことを忘れ、あちらこちら歩きまわりたいものだと思いながら、蘭と野草に囲まれて立っていた鶴たちのことを思いだしながら、中国の|塔《パゴダ》と、真紅の鶏冠のある鳥のことを思いだしながら。しかし彼女を引き摺るようにして男は歩きつづけた。
このように、よく似た二人組が不規則で漫然とした動きでつぎからつぎへと花壇の前を通りすぎてゆき、一歩ごとに濃くなる青緑色の霞に包まれていった。彼らの体は霞のなかで最初は形と色を有していたが、しまいにはそのどちらも青緑色の大気に溶けさった。なんという暑さだろう。あまりに暑かったので|鶫《つぐみ》さえ飛ぶのを止めて跳ねることにしたようだった。まるで機械仕掛けの鳥のようだ。花蔭で一つの動きからつぎの動きに移るまでに長い間があった。あちらこちら飛びまわる代わりに白い蝶たちは上になったり下になったりして戯れあい、|翻《ひるがえ》るその白い薄片で一番背の高い|花群《はなむら》のうえに|罅割《ひびわ》れた大理石の円柱を造った。|棕櫚《しゆろ》の温室のガラスの屋根は陽光を受けて輝いた。まるで光る緑の傘でいっぱいの野外市のようだった。飛行機のエンジンの音が低く響くなか、夏の空が|猛々《たけだけ》しい思いを低く語った。黄色に黒、薄紅に雪の白、さまざまな色の人影、男、女、子供たちの姿がつかのま地平線に|滲《にじ》みでた。それから、芝生のうえに広がる黄色い地帯を見て、みな覚束なげな足取りで木蔭を探し、やがて黄色と緑色の空気のなかに水滴のように溶けていった。赤や青の薄い染みだけを残して。重く大きな肉体はすべて打ち|臥《ふ》して動かなくなり、地面に|畳《たた》なわっていた。けれども彼らの声は|揺々《ゆらゆら》とその体から発された。まるで|気怠《けだる》く燃える太い蝋燭の炎のように。声、そう、声だ。言葉のない声、沈黙を不意に打ち砕く声。深い満足の響きで、激しい欲望の響きで、あるいは子供らの声に含まれた驚異の、その新しさで。沈黙を打ち砕く? しかし、沈黙などなかった。バスの車輪は回り、変速ギアは切り替えられる。街は唸りつづける。鋼鉄で造った中国の入れ子の箱のように。箱のなかで回る箱のように。街の表層でいま叫び声があがる。そして数万にも及ぶ花弁は空に向かって一斉にその色を|轟《とどろ》かせる。
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池の魅力
[#地付き]The Fascination of the Pool
たぶん、かなり深いのだろう――確かに底は見えない。岸辺は厚く茂った|藺草《いぐさ》の房飾りに縁取られ、そのせいで水の|面《おもて》はひじょうな深度を持つ水のそれのように暗い。けれども池の中心あたりには白っぽい影が見える。一マイルほど離れた場所にある大きな農場が売りに出されていて、その売買に熱心な人物がやったのか、あるいは子供の悪戯かも知れないのだが、その旨を記した|貼紙《ビラ》の一枚、農耕用の馬や若い雌牛すべて、さらには農耕機具一式も合わせて売却すると記した|貼紙《ビラ》が、岸辺の切り株に貼りつけてある。池の中央には|貼紙《ビラ》の影が映っていて、風が吹くとその白い色は洗濯物が風にはためくように揺れる。見る者の眼は水の|面《おもて》を滑ってゆき「ロムフォード・ミル」という赤い大きな文字を認める。岸辺と岸辺に挟まれて揺れる緑の水のなかの|仄《ほの》かな赤。
もし人が|藺草《いぐさ》の茂みに腰を下ろして池を見るならば――池というものは何かしら不可思議な魅力を持っている。人が説明することのできない魅力を――赤と黒の文字が記された白い紙が水の表面に薄く貼りついているといった印象を覚えるだろう。また一方、その下では理解の及ばない水の生活が営まれているという印象も受けるはずである。人の精神における思案や熟慮といったものによく似た営みがそこで行われているという印象を。時の推移にかかわらず、時代の推移にかかわらず、多くの者が、ひじょうに多くの者が独りでここにやってきたに違いない。自分の想念を水のなかに流しいれるために、何事かを池に尋ねるために。この夏の夕つ方ここにいる者がちょうどそうしているように。たぶん池が魅力を持つのはそのせいだろう――池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を|擁《よう》している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で|犇《ひし》めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。葦の刃によってふたつに断ちきられ、その隙間を一匹の魚が|擦《す》り抜けていく。月の|皓《しろ》く大いなる円盤はそうしたものすべてを|殲滅《せんめつ》する。池の魅力は立ち去った者たちが残した想念の存在ゆえである。そして肉体から離れた想念は自由に、親密に、会話を交わしながら、出入りする。共有地のこの池に。
そうした流体さながらの想念は、結合して眼に見える人間を造りだす――ほんの一瞬だけ。そして人は|頬髯《ほおひげ》を生やした赤ら顔の人物が水面で上体を深く折っている光景に出くわす。水を飲んでいるのだ。自分は一八五一年の大博覧会の熱狂を見てからここにやってきた。自分は女王が博覧会の開催を告げるのを見た。液体のようにその声は笑う。|寛《くつろ》いでいるように。柔らかい長靴を脱ぎ捨てて、シルクハットを岸に置いたようだ。いや、じつに暑かった、しかし今はすべて過ぎさった、すべては|塵《ちり》になってしまった、もちろんそうだ。想念はそんなふうに言っているらしかった。葦の|隙間《あいま》でゆらゆらと揺れながら。けれどもわたしは恋する者だった。べつの想念が口を開く。滑るように、音もなく、混乱もなく、先ほどの想念に重なった。お互いの邪魔を決してしない魚たちのような動きで。一人の娘。わたしたちは農場を出てよくここにきたものだ(その農場が売りに出されていることを伝える|貼紙《ビラ》が水面に映っている)、あの一六六二年の夏、街道を通る兵隊にはわたしたちの姿はぜったいに見えなかった。ものすごく暑かった。わたしたちはここに寝た。恋人と一緒に人目を避けて|藺草《いぐさ》の茂みのなかに横たわった。笑いながら池に入り、水のなかに入る。永遠の愛という想念、火のような|数多《あまた》のキスと絶望の想念。それで、ぼくはとても幸福だった、と違う想念が娘の絶望を|後目《しりめ》に言った(娘は池に身を投げたのだった)。ぼくはここで釣りをしたもんだ。ぼくたちは結局あの|巨《おお》きな鯉を釣りあげることはできなかった。ただ見ただけだ――ネルスン提督のトラファルガーの海戦の時に、柳の木の下で泳いでいるのを――すごい奴だった。素晴らしい暴れん坊だった。みんなあいつを釣りあげることなんてできないって言った。|嗚呼《ああ》、|嗚呼《ああ》、と低く呟く声が子供の声と入れ替わった。悲痛なその声は池の底から響いてきたに違いなかった。声は現れた。水を張った|椀《ボウル》のなかに|泛《う》かぶものを一気に|掬《すく》いあげる大きなスプーンのように。それはわたしたちがほんとうに聴きたかった声だった。ほかのすべての声はすべて|酷《ひど》く悲しそうなその声の話を聴くために池の縁に静かに滑らかに移動した――声は確かに池に関する一切に通じていた。みんなそれを知ることを望んでいた。
人は引き寄せられるように池に近づき、葦を掻きわける。より深いところを見るために。水に映った影を透かし、幾つもの顔を透かして、幾つもの声を透かして、底を見るために。しかし、博覧会に行った男や、身を投げて溺れ死んだ娘や、大きな魚を見た少年や、|嗚呼《ああ》、|嗚呼《ああ》と嘆く声の下にはいつもべつの何かがあった。いつもべつの顔が、べつの声があった。新たな想念が現れて、それまでいた想念にとって代わった。なぜならば、スプーンは幾度もわたしたちのすべてを|掬《すく》いあげて、その考えや憧憬や疑念や告白や幻滅を昼の光に|晒《さら》させるが、結局いつもずるずると下降していき、わたしたちはその縁から|零《こぼ》れて、ふたたび池に戻らなければならなかったからだ。そしてまた池の中央はロムフォード・ミル農場の売却を|謳《うた》った白い|貼紙《ビラ》の影によって占められる。つまるところ、人がこの池の岸辺にすわることを愛し、池を覗きこむ理由はそれなのかもしれない。
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[#地付き]The Symbol
山の頂には月のクレーターによく似た小さな窪みがある。そこは雪に覆われ、鳩の胸のように虹の光沢を|湛《たた》えている。あるいは死のように完全な白である。窪みには乾いた雪の混じった突風がしばしば吹きつける。だがその雪を受けとめるものは何もない。呼吸する|生命《いのち》、あるいは毛皮に覆われた|生命《いのち》にとってその場所は高すぎるのだ。にもかかわらず、雪はつかのま虹の光沢を発する。それに血紅の|耀《かがや》きを。無垢の白色を。その日の天候の具合によって。
谷の深み――峰の両側は深い|懸崖《けんがい》になっている。最初は岩、こびりついた雪、少し下がると岩に|獅噛《しが》みつくような一本の松、それからぽつねんと立った山小屋、鮮やかな緑色の窪地、そして白っぽい屋根の家が|一群《ひとむら》、それからようやく麓に辿りつき、村、ホテル、映画館、それに墓地へと至る――ホテルのそばの教会付属の墓地に並ぶ幾つかの墓石には墜死した登山家の名前が刻まれている。
「この山は」ホテルのバルコニーの椅子にすわってその|婦人《レデイー》は記す。「ひとつの|徴《しるし》です……」彼女はそこで手を止めた。彼女は双眼鏡で一等高い地点を見ることができた。レンズを調節して焦点を合わせる。あたかもその|徴《しるし》というのがどんな物であるのか確かめようとするように。彼女はバーミンガムに住む姉に手紙を書いていた。
バルコニーからはアルプスの避暑地の本通りを見おろすことができた。まるで劇場の特等席さながらだった。バルコニーから見通せない居間はほんの少ししかなかった。そして、芝居が――そう、幕開け劇程度のものではあるが――公然と演じられていた。それらはつねに幾分突発的だった。前座。幕開け劇。時間潰しの娯楽。ごく稀に結末らしいものがつくこともある。たとえば結婚、たとえば友情の不滅性。そうしたものには空想的なところがあった。ふわふわとした取留めのないところがあった。堅固なものでこれほど標高の高い場所まで持ってこられるものはあまりないのだ。家々さえも作り物に見える。イギリスのアナウンサーの声も村に辿りついた時にはやはり非現実的なものになっている。
双眼鏡を下ろし、彼女は下の通りで出発の準備をしている若者たちに向かって頷いた。そのなかの一人とはある繋がりがあった――若者の伯母が昔ある学校の校長をやっていて、その学校に彼女の娘が通っていたのである。
手にまだペンを、インクの滴りを|尖《さき》につけたそれを持ちながら、彼女は下の登山家たちに向かって手を振った。
彼女は山は|徴《しるし》だと書いた。けれどもいったい何の|徴《しるし》なのだろう。前世紀の四十年代には二人の男が、六十年代には四人の男が非業の死を遂げた。最初の|分遣隊《パーテイー》はロープが切れた。二番目の|分遣隊《パーテイー》は夜を迎えた時、凍死した。私たちはいつも何かしら高所を目指して登っている。それは私たちにとって陳腐な決まり文句のようなものなのだ。だがその言葉は彼女の内側の眼に映っているものを表しはしない。双眼鏡で頂の処女地を見た後では。
彼女はいささか唐突につづけた。「なぜ、山が私にワイト島を思いださせるのか不思議です。お姉さんも覚えていると思いますが、お母さんが死にかけていた時、私たちはお母さんをあそこへ連れてきました。私はよくバルコニーに立ったものです。船が入ってきて、乗客のことを説明する時、私はよく言いました。あれはエドワーズさんに違いない……ちょうど|舷梯《はしご》から桟橋に降りたところだ、これで乗客が全部降りた、いま船の向きが変わった……姉さんには言いませんでした――もちろん言いませんでした――姉さんはインドにいました。姉さんはルーシーを|妊《みごも》っていました。ほんとうに、どんなに医者がくるのを待ち焦がれたことか、医者の口からはっきりと来週いっぱい保たないでしょうという言葉を聞くのをどのくらい望んだことか。実際はもっとずっと長かった。お母さんは一年半生きた。この山は私がどのくらい孤独だったかを思いださせます。私はお母さんの死を|徴《しるし》として見ていました。その|徴《しるし》のある地点に到達することができたなら――その時、自分は自由になるだろう――お姉さんも覚えていると思いますが、私たちはお母さんが死ぬまで結婚することができませんでした――その時は雲が山の代わりでした。私は考えました。その地点に辿りついた時――このことは誰にも話していません、あまりに冷たいような気がしたのです。けれど私は考えました。その時、私は頂上に立っていることだろう、と。そして私は多くのことを想像することができました。もちろん私たちの家系はインド駐在のイギリス人の家系です。私はまだ想像できます。耳にした話から、世界のほかの場所で人がどんな生活をしているか想像できるのです。私は泥の小屋を見ます。それから未開の人々を。私は池の水を飲む象の姿を見ることができます。私たちの伯父や|従兄弟《いとこ》の多くは探検家でした。私も探検に行ってみたいという願いをいつも強く抱いていました。でも、時がやってきて、長い婚約期間のことをじっくり考えてみると、結婚することが一番好いように思えました」
通りの反対側の家のバルコニーで、敷物の埃を払う女の姿が眼に入った。毎朝、同じ時間にその|女《ひと》はバルコニーに出てきた。通りの幅は小石を軽く投げればちょうど届くほどの距離で、二人は視線が合えば笑みを交わすまでになっていた。
「この土地の小さな家は」ペンを取って彼女はふたたび書きはじめた。「バーミンガムのそれによく似ています。どの家も下宿人を置いています。ホテルは満員です。食べるものは単調な味だけれど、お姉さんが食べて|不味《まず》いと思うようなものではありません。それにもちろんホテルから見る景色は素晴らしいです。どの窓からも山を見ることができます。いいえ、それどころか、どこにいたって山を見ることはできます。これは掛け値なしに言えることですが、時々、新聞を売っている店から出た時――新聞は一週間遅れで手に入ります――山がいきなり眼に飛びこんできて、思わず声が出ることがあります。ある時はちょうど道の正面に|聳《そび》えて見えます。またある時には、雲のように見えます。でも決して動きません。いずれにしても、会話は山のことばかりです。あちこちにいる病人たちのあいだの会話でさえ例外ではありません。今日、山はなんとくっきりと見えることでしょう。たぶん通りを|遮《さえぎ》るように聳えているはずです。それになんと遠くに見えることか。たぶん雲のように見えるでしょう。もっとも、こうした言い方はここでは決まり文句になっています。昨夜の嵐の時、私は山が見えなくなることを望みました。けれどもアンチョビの皿が運ばれてきた時、牧師のW・ビショップさんは言いました。「ほら、見てください、山だ」」
「私は利己的になっているのでしょうか。自分を恥じるべきなのでしょうか。病気や怪我人がとてもたくさんいます。それは訪問者には限りません。土地の人々は甲状腺腫に|酷《ひど》く苦しめられています。もちろんそれを治療することはできます。やる気とお金のある人がいれば。治療を受けられないという状況を結局認めてしまうというのは、恥ずべきことではないでしょうか。あの山を壊すには地震を起こさなければならないでしょう。想像だけれども、山は地震によってできたはずですから。このあいだ、私はホテルの主人のメルキオルさんに訊いてみました。今でも地震はあるのかと。ない、とメルキオルさんは答えました。地滑りと|雪崩《なだれ》だけだと。そういうもので村全部が消えることもあるようだ。メルキオルさんはそう言いました。でもメルキオルさんはすぐに付けくわえました。ここには全然危険はない」
「こうして書いているあいだも、斜面を登っていく若い人たちの姿をはっきりと見ることができます。みんな一本のロープに|繋《つな》がれています。前に書いたと思いますが、あのなかの一人はマーガレットと同じ学校に行っています。彼らはいまクレバスを渡っているところで……」
彼女の手からペンが落ちた。インクの滴りが便箋のうえにジグザグの線を描いた。斜面には若者たちの姿はなかった。
その夜、救援隊が遺体を発見して間もない頃だった。彼女はバルコニーのテーブルのうえの書きかけの手紙に気がついた。彼女はふたたびペン先をインクに浸し、先をつづけた。「使い古された言い方がたぶん一番いいのでしょう。彼らは登っている途中で死にました……村人たちは春の花を持っていって彼らの墓に供えました。彼らが探しにいったものは……」
締めくくりにふさわしいと思える言葉は見つからなかった。彼女はつづけた。「では、よろしく伝えてください、可愛い子供たちに、それから」彼女は姉のペットの名前をそこに付けくわえた。
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壁の染み
[#地付き]The Mark on the Wall
はじめて壁の染みに気がついたのは今年の一月の半ば頃だったろうか。何気なく顔をあげた時のことだったと思う。日付をはっきりさせるためにその時自分の眼に映じたものがどんなものだったか述べるべきだろう。まず暖炉のことが思いだされる。柔らかな黄色い光の|紗《しや》が本のページを覆っている。三本の菊の花がマントルピースの椀型のガラスの花瓶に挿してある。そう、それは冬に違いない。そして私たちはお茶を飲みおえたところだった。というのも顔をあげて壁の染みをはじめて見た時、紙巻き煙草を吸っていたことが記憶に残っているからだ。視線をあげ、私は煙草の煙の向こうを見た。私の眼は一瞬燃える石炭のうえに止まり、城の塔で|翻《ひるがえ》る真紅の旗のお|馴染《なじ》みの空想が私の心の|裡《うち》に生じた。それから黒い岩山の斜面を騎行する紅衣の騎士たちの一団が見えた。どちらかといえば、染みが私の空想を邪魔したのは好もしいことだった。というのもそれはいつもながらの空想、自動的な空想だったからである。たぶん子供のころに形成された空想なのだろう。染みは小さく丸かった。白い壁に黒く点じている。マントルピースのうえ、だいたい六インチか七インチうえ。
私たちの思考というものは何と|容易《たや》すく新しいものに惹きつけられることか。藁の一片を運ぶ蟻のようにしばらく熱心に担いで歩き、やがて放りだす……。もし染みが釘によって生じたのだとしたら、普通の絵を架けるために釘が打たれたわけではないだろう。細密画を架けるためだったに違いない――婦人を描いた細密画。白い髪粉の付いた巻毛、白粉をはたいた頬の。それに|麝香撫子《カーネーシヨン》の赤の唇。それはもちろん複製だ。なぜ細密画なのか。それはこの屋敷の前の持ち主の絵の選び方にはある流儀があったからである――古い部屋には古い絵。前の持ち主はそんなふうな人たちだった――ひじょうに興味深い人たち。私はしばしば、前の持ち主たちのことを考える。それも妙な場所で。もう二度とその人たちを見ることができないからだろう。またその後どうなったか知ることができないからだろう。以前の持ち主たちは家具の様式を変えたいと思ったのでこの屋敷を離れることを望んだ。そんなふうに彼は言った。それから彼は主張を繰り広げていた。自分の考えるところによると、私たちが引き離される時に芸術はその背後に観念を持つようになるだろうと。たとえば突進する列車に乗りこんで、お茶を注ごうとしている老淑女から、あるいは郊外の屋敷の裏庭でテニスボールを打とうとしている若者から引き離される時。
けれど、染みに関しては、私は確信を持つことはできない。結局のところ染みは釘によって生じたものなのだと信じることはできない。釘によって生じたにしてはそれは大きすぎるし、丸すぎる。私は立ちあがるかもしれない。けれども私が立ちあがって、染みを確かめたとしても、それが何であるか指摘することは九分九厘できないだろう。ひとつのことが一度為されてしまえば誰もそれがどのように為されたか知ることはもうできないのだ。いやはや何という人生の神秘。何という思考の|杜撰《ずさん》さ。人間の愚昧さ。自分たちの所有物にたいする支配力がいかに僅少であるかをそれは示している――こうした生活がつまりは私たちの文化であるというのは、何とも心許ないことではないだろうか――私たちが人生において失うものを少し挙げてみよう。幼年時代。それはつねに喪失した物のうちでもっとも不思議なものだ――いったいどんな猫が|咬《か》んだのだろう、どんな鼠が|齧《かじ》ったのだろう――本を造る道具を収めた薄青い三つの缶を。そして鳥籠。輪回しの輪、スケート靴、アン女王の石炭バケツ、玉突き遊びの台、手回しオルガン――すべて|喪《うしな》われてしまった、それに幾つかの宝石もまた。|蛋白石《オパール》、|翠玉《エメラルド》、それらは|蕪《かぶ》の根本にでも眠っているのだろう。確信するにはあまりに削られ、除かれた箇所が多すぎる。驚くべきことはこの瞬間、私の背後に服なら何でもというほど揃っているということである。堅固な家具に囲まれてすわっているということである。ともかくも、もし誰かが人生と何かを比べることを欲したならば、その者は風に吹き飛ばされて時速五十マイルで地下鉄の|坑《あな》を移動しているという|喩《たと》えを好むに違いない――地下鉄の|坑《あな》の突きあたりで着地した時、髪にはたった一本のヘアピンも残っていないはずだ。素っ裸で神の足下に放りだされるのだ。|日光蘭《アスフオデル》の咲く草地に真っ逆さまに放りだされるのだ。郵便局の落とし|樋《とい》に投げこまれた茶色い包装紙の小包のように。競走馬の尻尾さながらに髪を後ろになびかせて。そう、それが人生の速度を表している。絶え間ない消耗と絶え間ない恢復。すべてがとても無計画で、すべてがとても|出鱈目《でたらめ》……。
けれど死後のことである。太い茎をゆっくり引っ張ったせいで花を挿した花瓶は引っ繰りかえり、人を紫と赤の光で染めあげる。結局のところ人はここで生まれるのと同じようにあちらで生まれると推測してはなぜいけないのだろうか? 希望もなく、口もきけず、眼の焦点を合わせることもできず、草の根を掻きわけるようにして、巨人たちの足下で。さまざまなことが言われている。曰く、木になる、曰く男と女である、あるいは、そうしたものになったにせよ、ひとつの状態に留まるのは五十年かそこいらである。思うに、死後、そこには光と闇の空間しかない。太い茎が交錯する。たぶんずっとうえまで。不明瞭な色の薔薇の花の形の染みが点在する――|滲《にじ》む薄紅と青――それらは時が経つにつれて、段々明瞭になってくる――それからどうなるか私には判らない……。
にもかかわらず、壁の染みは穴などではない。それは穴ではなく何か丸くて黒いものである可能性さえある。小さな薔薇の葉。夏の|名残《なごり》の。そして家事を引きうける者として、ひじょうに細心であるとは言えない私はマントルピースのうえに埃を見いだす。よく使われる言い方で言えばトロイを三度埋められるほどの埃。ただ壷の|欠片《かけら》だけが断固たる態度で生き抜いたトロイのその埃。人が信じているように。
|外《おもて》の木はとても優しく窓ガラスを叩く……。私は静かに考えたい。穏やかな気持ちで、ゆったりと、少しも邪魔されずに、椅子から立ちあがることを強いられることなく、ひとつのことからつぎのことへ|辷《すべ》らかに移動し、反対あるいは邪魔される感覚を覚えることなく。私は深くより深く沈みたいと思う。その堅固で独立した事実とともに表面から遠く離れて。自己を安定させるために、心を掠めていく想念の最初のものを捕まえさせて欲しい……。シェイクスピア。……そう、彼はほかの者同様巧みにやってのけるだろう。安楽椅子に充実した気持ちですわって、炎を|凝視《みつ》めている一人の男。そして遥か天界から想念がその心へ絶えまなく降りそそぐ。彼は|掌《てのひら》に額を埋める。そして人々は開いたドアから見る――場面は夏のことだと想定されているのだ――しかし、これは何という退屈さだろう。この歴史的虚構は。それは私の興味をまったく惹かない。私は思考の悦ばしい小径に行き当たることを望んでいる。遠回しに自分自身に称賛をもたらすような思考の小径。というのも、あれらはもっとも愉しい思考だからだ。そして鼠色をした慎み深い人々の心のなかにさえ、頻繁に現れるものである。自分自身に対する称賛の言葉を聞くことを真に|疎《うと》ましく思っていると自分で信じこんでいる人々の心のなかにさえ。それらは直接的に自分自身を讃える想念ではない。それが美しい|所以《ゆえん》である。それらはこんな思考である。
「それから、私は部屋に入った。みんなは植物の話をしていた。私はキングズウェイのとある古い屋敷の敷地のごみの山に咲いた花を見た時のことを語った。その花の種は、と私は言った。その種はチャールズ一世の時代に撒かれたものに違いない。チャールズ一世の時代にはどんな花が咲いていたのか? 私は尋ねた――(けれど私はその問いの答えを思いだせない)。たぶん、紫の房のついた|丈《たけ》の高い花ではないか。会話はそういうふうにつづいていった。そのあいだ私は心のなかでずっとあれこれと自分の身を飾りたてていた。美しく、密かに、表向き自分を讃えることなく。というのは、もしそうしなかったら自分は|襤褸《ぼろ》を出してしまうだろうから。そしてただちに自己防衛のために本に手を伸ばしてしまうだろうから。実際、不思議なことだ。人がいかに本能的に自己のイメージの偶像化の弊から自分を保護しようとするか、また戯画化を免れようとするか、原型を想像するのが困難なほどの歪曲から逃れようとするか、ということを考えると。けれど、もしかしたらそれは格別不思議なことではないのだろうか? いずれにしてもひじょうに重要な問題だ。姿見が割れることを想像して欲しい。像は消える。鏡面いっぱいに映っていた深い森の緑を湛えたロマンティックな影はもはやどこにもない。ただほかの人々の眼に映るのと同じ、一人の人間の殻が残るだけ――なんと風通しの悪い、皮相な、不毛な、あからさまな世界になってしまうことか。住むことのできない世界。バスや地下鉄のなかで互いに顔を合わせる時、私たちは鏡を覗きこんでいる。それは私たちの眼のなかの空虚さ、ガラスのように無機質な光のことを教えてくれる。未来の小説家たちはそれらの鏡像の重要性をだんだん理解していくだろう。というのも、もちろんその鏡像はひとつではなく、ほとんど無限と言っていいほど存在するからだ。そこには探求すべき深みがある。幽霊たちを小説家は追跡するだろう。自分たちの小説からだんだん現実の描写を取り除くようにしつつ。そうした見識を当然のものと見なして。ギリシア人たちがしたように、おそらくはシェイクスピアがしたように――けれどもそうした普遍化はあまりに無益だ。言葉を勇ましく響かせるのはもう必要ではない。それは新聞の社説や、閣僚を思いおこさせる――種という観念と種を成す個というものとの混同、子供が冒すようなその混同。標準的なもの。現実のもの。人は言語に絶するような恐るべき破滅の危険を冒すことなくしてそれらのものに別れを告げることはできない。普遍化はロンドンに日曜日を取り戻させる。日曜の午後の散歩、日曜の昼食、故人の噂、衣服、そしてさまざまな習慣――ある時間まで同じ部屋にみんなですわって待つような習慣、誰一人としてそんなことは望まないのだけれど。すべてのことについてルールがあった。テーブルクロスに関するある期間のルールは、それが小さな黄色い四角が並んだ|綴織り《タペストリー》でなければならないということだった。宮殿のなかを写した写真のなかで見られるような、そのなかの回廊に敷かれた絨毯のような。それ以外のテーブルクロスは本当のテーブルクロスではなかった。けれどどのくらい衝撃的だったか、そして同時にどのくらい素晴らしいことだったか。それらの現実的なもの。日曜日の昼食や日曜日の散歩や田舎の屋敷やテーブルクロスといったものが完全には現実的でないこと、実際なかば幽霊のようなものであることが判った時は。そして、その現実性を信じない者たちを見舞った天罰がただ法に背いた自由の感覚だけだと知れた時は。現実のそうしたさまざまなものや標準的なものにいま取って代わっているのは果たして何だろうか? それはたぶん男性だ。もしあなたが女性だとしたら。男性の視点、それが私たちの生活を統治している。それが標準を決めている。それがホイッティカーの年鑑の席次表を決定する。けれども、思うにホイッティカーの年鑑の席次表は戦争以来、多くの男や女たちにとって半分幽霊のようなものになりはじめた。期待してもよいだろう。それはまもなく笑い飛ばされてごみ箱に捨てられるはずだ。幽霊が行くところはごみ箱なのだ。|黒檀《マホガニー》の食器戸棚、ランドシアの版画、神々や悪魔たち、地獄やその他のものとともに。私たちみんなに違法な自由に酔いしれる感覚を残して――もし自由が存在するというならば……。
ある光の下では染みは壁から突きだしているように見える。それに完全な円形をしていないように見える。確信があるというわけではないが、それは知覚できるほどの影を落としているようだ。もし壁板に触ってそのまま指を下に這わせていけば、指がある地点であたかも小さな塚を登って降りるような動きをするだろうと染みは示唆する。なだらかな傾斜の塚。ちょうどサウスダウンズにある塚のような。墓とも要塞とも言われる塚。その二つのうちでは私は墓であったという説のほうを好む。イギリスのたいがいの人々と同じように|憂鬱《メランコリー》を私は求めるし、散歩が終わりに近づいた時、草の下に夥しい骨の層が広がっていることに思い至るのはごく自然なことだと思うのだ。塚についてはかなりの数の本が書かれているに違いない。何人かの考古学愛好家たちは骨を掘りだして名前をつけているだろう……。考古学愛好家というのはどんな種類の人間なのか。たいていは退役した陸軍大佐で年配の発掘員の一団を連れてサウスダウンズまでやってくる。そして土と石の塊を仔細に|検《あらた》める。付近の牧師と手紙のやりとりをはじめる。朝食の席上で開封された手紙を読んで、彼らは何かしら重要な問題に遭遇したような印象を覚える。それから|鏃《やじり》の比較のために幾つかの田舎町への旅行が必要となる。彼らと彼らの年配の妻たちにとってともに好もしい必要。妻たちは|李《すもも》のジャムを作りたいと思っている。あるいは書斎を掃除したいと思っている。そして要塞なのか墓なのかという偉大な疑問の解決を永遠に一時停止の状態にしたいと願う理由をすべて有している。一方の大佐自身は両方の主張にそれぞれ有利な証拠が溜まってくることに哲学的な満足を覚える。最終的に彼が要塞説に傾くということは実際ありそうなことである。そして反対の論者たちと対立して、彼は小冊子を著す。それを年に四回催される地方の研究会で読みあげようとする時、脳卒中が彼を地に打ち臥せしめる。そして彼の最後の意識的な思考は妻のことでも息子のことでもない。要塞と鏃のことである。その時には地方の博物館のガラスケースのなかに展示されている鏃。中国の女殺人者の足や、掌一杯ほどもあるエリザベス朝人たちの爪や、多量のチューダー朝の陶製のパイプとか、ローマ人が遺した陶器の|欠片《かけら》とか、ネルスン提督が使ったワイングラス――私がまったく知らない何かを証明するものと並んでいる。
そうなのだ、そうなのだ、何も証明されてはいない。何も知られてはいない。そしてもしこの瞬間、私が立ちあがって壁の染みがほんとうは何であるのか確かめにいったとしたら――私は何と言うだろう? ――たとえば大きな古釘の頭。二百年前にそこに打たれ、何代にもわたる家政婦たちの辛抱強い拭き掃除のお陰で塗料を押しのけて頭の部分を現し、暖炉の火が照り映える白い壁のなかで営まれる現代の生活をいまはじめて見た古釘。そんなものを私は知るべきだろうか? 知識? さらに考察を重ねるための事実? 私はじっとすわっていても立ちあがった場合と同じように考えることができる。知識とは一体何だろう? 学者とは一体どういう人たちだろう? 洞穴や森で|尖鼠《とがりねずみ》に質問しながら、背中を丸めて薬草を煎じたり、星の言葉を書きとめたりしている魔女や隠者たちの末裔以外の学者とは。そうした学者たちを敬う気持ちはしだいに衰えてきている。迷信が減少し、精神の美と健康にたいする尊崇の念が増大する今……そう、きわめて喜ばしい世界を想像することができる。静かで広々とした世界。どこまでもつづく野原に鮮やかな赤や青の花が咲き誇る世界。教授や専門家や、警察官の顔をした家政の専門家のいない世界。魚が|鰭《ひれ》で水を掻いて進むように、人が自身の思考を用いて進むことができる世界。睡蓮の茎を|食《は》みながら、白い|海胆《うに》の卵の塊のうえで|揺曳《ようえい》する……。下のこの場所は何と平和であることか、世界の中心に根を張り、灰色の水の層を見あげる。そこに不意に煌めく光、その反射――もしもホイッティカーの年鑑を離れることができたなら――席次の表から離れることができたならば。
すぐに私は立ちあがって、壁の染みがほんとうは何であるのか自分の眼で確かめてみなくてはならない――釘なのか、薔薇の葉なのか、板の割れ目なのか。
これはふたたび人の|性《さが》の昔ながらの自己保存の営みだ。人の|性《さが》はこの一連の思考を威嚇的であり、また単なる力の浪費だと判断する。現実との不調和であると。そもそも一体誰がホイッティカー年鑑の席次表に逆らうことができるだろうか? カンタベリーの大監督の後には大法官がつづき、大法官の後にはヨークの大監督がつづく。すべての者は誰かのあとにつづく。それがホイッティカーの哲学だ。誰が誰のあとにつづくか知ることが深甚なる重要事なのである。ホイッティカーは知っている。そして人の|性《さが》が忠告するように、席次表に自分を慰めさせるのだ。自分を怒らせるのではなく。そしてもしあなたが慰められなかったならば、もしこの平和な時間を粉砕しなければならないとしたら、壁のあの染みのことを考えるのだ。
私は人の|性《さが》の営みを理解している――興奮あるいは苦痛を生じさせる思考を終結に向かわせる行動を促すことを。私は思うのだが、そうしたことがあるために行動を旨とする男性たちにたいする私たちの微かな侮りが生まれてくるのではないか――そうした男性たち、私たちはすでに事実と見なしているのだが、彼らは考えることをしない。だがそれでもなお害はない。壁の染みを見ることによって同意できない思考に終止符を打つことは。
確かに、染みに視線を据えたので、私は波間で厚い木の板を見つけたような気持ちになっている。私は現実的な感覚に満足を覚える。それはたちまち二人の大監督と一人の大法官を日蔭の影のようなものに変える。そこには何かしら確固としたものがある。何か現実的なものが。たとえば真夜中に恐ろしい夢から醒め、人は明かりをつけてそのままじっと横になる。|箪笥《たんす》をありがたく思いながら、その確かさをありがたく思いながら、現実をありがたく思いながら、非個人的な世界をありがたく思いながら。自分というもののほかにも何かがちゃんと存在している証拠がそこにあるのだから。何であれ人が確信を得たいと思うことはそれなのだ……。木材というものは考える対象として喜ばしいものだ。それはもとは樹木だった。そして樹木は生長するものだ。そして私たちは樹木がどういうふうに生長するか知らない。何年もの時間をかけて樹木は生長する。私たちに何ら注意を向けることなく。草地で、森で、河畔で――まったく人が考えるものとしてはうってつけだ。暑い午後、牛たちは木の下で尻尾を振る。木は河の|面《おもて》を緑に染める。だから|水鶏《くいな》が水に飛びこむ時、あるいは潜ったり浮かんだりする時、羽根がすっかり緑色に染まるのではないかと見る者は思う。私は水流に|抗《あらが》って、まるで風に|靡《なび》く旗のように、水のなかで静止する魚のことを考えるのが好きだ。私は河床の泥の小山をゆっくりと登っていく水棲の甲虫のことを考えるのが好きだ。私は木そのもののことを考えるのも好きだ。まず考えるのは、木材であることの緊密で乾いた感覚。それから嵐に翻弄されること。それから樹液の緩慢で心地よい分泌。私はまた冬の夜、広漠とした野原で葉を堅く閉じて立っている木を想像するのが好きだ。月の放つ鉄の銃弾に撃たれまいと弱い箇所を護る木。陸に立つ裸のマスト。震えるマスト。一晩中震える。六月には鳥の声はとても大きく風変わりに聞こえる。そして虫たちが骨折って樹皮の|褶曲《しゆうきよく》を|匍《は》う時、その脚は何と冷えることか。あるいは薄い緑の葉の日除けの向こうの太陽、赤いダイアモンドの形の眼の虫たちをまともに照らす太陽。冷たく強大な大地の圧力の下で一本ずつ切れてゆく根。それから最後の嵐がやってくる。木は傾き、倒れる。頂の枝は地面に深く突き刺さる。大地に帰ったのだ。けれど、そうは言っても用済みになったわけではない。一本の木にはさらに百万もの忍耐と注意を要する人生が待っている。世界の至るところで、寝室で、船上で、舗道で、男たちや女たちがお茶を飲んだ後、すわって煙草を吸う羽目板張りの部屋で。それは平和な思索に満ちている。幸福な思索に。木というものは。私はそれらの思索のひとつひとつについて考えてみたい――けれども何かが邪魔になりはじめている……。私はどこにいるのだ? これはすべて何のためのものなのか? 木なのか? 川なのか? ダウンズの丘陵? ホイッティカーの年鑑? |日光蘭《アスフオデル》の咲く野原か? ひとつのことすら私は思いだすことができない。すべてのものは動いている。落ちつつある。滑りつつある。消えつつある……。膨大な数の事物が新たに|出来《しゆつたい》する。誰かが前に立って喋っている――。
「新聞を買いに行くつもりだよ」
「新聞を買いにいく?」
「新聞を買ってもしょうがないんだが……。何も起こらないんだから。|忌々《いまいま》しい戦争だ。戦争なんてくそくらえだ……しかし、どうでもいいが、何で壁で|蝸牛《かたつむり》を飼わなきゃならないのかさっぱり判らないな」
ああ、壁の染み、それは蝸牛だったのだ。
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ミス・Vの不思議な一件
[#地付き]The Mysterious Case of Miss V.
群衆のなかで感じる孤独感が類例のないものであることは常識になっていると言っていいだろう。小説家たちは飽くことなくそれを取りあげつづける。その情熱は否定しようのないものである。そして今、ミス・Vのことがあったので、ともかくも私はそれを信じる気になっている。彼女とその姉妹たちの話――たぶん彼女たちのことを記す際に、そのいずれにたいしても同じ名前を用いることが適当だと直感的に判断されるのは、ひじょうに特徴的なことと言えるかもしれない――確かに人はあるいはたちどころにそうした女の話を一ダースほど並べたてるだろう。けれども、そんな話がロンドン以外で聞かれることは稀だ。田舎にはもちろん肉屋やもしくは郵便屋、それに教区牧師の妻といった人物が実在する。だが高度に文化的な都会では人間生活における礼は可能な限り狭い領域に押しこめられている。肉屋は肉を勝手口に投げいれる。郵便屋は手紙を郵便受けに|捩《ね》じこむ。郵便受けの便利なその隙間を通して、牧師の妻は教書を突きつける。みんな同じ行動を繰りかえす。浪費されるべき時間はない。だから肉は食べられないまま残るかもしれない。手紙は読まれないかもしれない。教書に書かれたことは実行されず、誰も賢くなることはないかもしれない。そしてある日、日々の用を勤めるそれらの者は、十六番あるいは二十三番の家を気にかける必要はないと無言で結論を下す。彼らはその家を|省《はぶ》く。巡回の経路から。そして可哀想なミス・Jあるいはミス・Vは人間の生活の緊密な連鎖から抜けおちる。そしてすべての人々から|省《はぶ》かれる。永遠に。
そうした運命があなたに降りかかることが高い確率で起こりうるという事実は、|省《はぶ》かれる危険から自分を遠ざけるために、自分の存在を主張する行為が必要であるということをあなたに示唆する。どうやったら、ふたたび日常生活に戻ることができるだろうか。もし肉屋や郵便配達人や警官があなたを無視しようと決心したならば。それは恐ろしい運命だ。そうなった時、私だったら椅子を引っ繰りかえすだろう。そうすれば少なくとも階下の下宿人は私が生きていることを知るはずだから。
だがミス・Vの不思議な一件に戻ろう。了解されると思うのだが、イニシャルのなかにはミス・ジャネット・Vのような人物もまた隠されている。一つの文字で充分なところを二つに分ける必要はないだろう。
彼女たちは十五年ほどロンドンの街を回遊している。ある客間で、あるいはどこかの画廊で、あなたは彼女たちの姿に気づく。そして言うのだ。「こんにちは、ミス・V」あたかも彼女に会うのが日課となっているかのように。そして彼女は答えるだろう。「気持ちの好い日ですわね」あるいは「なんて|忌々《いまいま》しい天気なんでしょう」。それからあなたはその場を離れ、ミス・Vのほうはアームチェアか箪笥のなかに溶けこむように見える。いずれにせよ、あなたはミス・Vのことを思いだすことはない。彼女が一年ほど後、家具から自分の身を引き剥がしてあなたの眼の前に立つまで。そしてそっくり同じ会話が繰りかえされる。
彼女の血に流れるもの――ミス・Vの血管を流れている液体が何であるにせよ――それが彼女に出会うという特別な運命に私を導く――もしくは、つかのまの接触へと、そして忘却へと。言いまわしがどういうものであれ――その事態はほかの人々の身に起こるより頻繁に私の身に起こる。そんな出来事が習慣のようになるくらい。どんなパーティーも演奏会も展覧会も、お馴染みの灰色の影がその一部になっていなければ、完全とは言えなかった。そして少し前、彼女が私の行手に現れることを止めた時、私は何かしらの欠落があることを漠然と感じたものだ。誇張するつもりはない。欠けているのが彼女なのだと気づいたと言うつもりもない。正確を期すために中立的なその言葉を使っているのだ。
私は混みあった客間のなかで理由の判らない欠乏感のために周囲を見まわしている自分に気づく。そう、ここにはすべてが揃っている――けれども確かに家具やカーテンのあたりに何か足りないものがある――壁に掛けてあった版画がどこかに移されたのだろうか?
それからある朝早く、ほんとうに夜明け頃、私は叫ぶ。メアリー・V! メアリー・V! それは初めてのことだ。私は断言する。こんなに確固とした意思をもって彼女の名前が叫ばれたのは。たいがいその名は無意味な通り名のようなもので、単に会話に区切りをつけるための言葉でしかなかった。けれど半ば予測していたように、自分のその声によってミス・Vの姿が目の前に明瞭に、あるいは断片的に浮かぶということにはならなかった。ミス・Vの像が浮かぶべき場所は相変わらずぼんやりとしたままだった。一日中自分の叫び声が頭のなかに繰り返し|谺《こだま》していた。|谺《こだま》は確かめるまで消えなかった。結局、私は街の、適当と思われる一画までわざわざ足を運んだのだった。彼女とばったり会って、彼女の姿が消えてゆくのを満足な気持ちで眺めようという心づもりで。けれど彼女は現れなかった。私は不満を感じた。奇妙で空想的な計画が私の頭のなかに浮かんだのはその夜ベッドに横になっていた時だった。最初、ただの冗談みたいなものだったそれは段々真面目なものになり、いい思いつきであるように思えてきた。自分からミス・Vを訪ねてみようというその考えは。
ああ、なんて馬鹿げた、奇態な、それでいて楽しい考えであるように見えたことか。こんなことを思いつくなんて。――影を追跡する。彼女が生活している場所を見にいく。もしほんとうに彼女が生活しているのならば。そして彼女も私たちと同じような人間であるかのように会話を交わすのだ。
想像してみて欲しい。キュー植物園の花壇に咲く|雛《ひな》|桔梗《ぎきよう》を見に、バスに乗って行くのがどんな感じのものか。日が空の半ばまで落ちた時刻に。あるいは|蒲公英《たんぽぽ》の綿毛を捕まえるために出かけることがどんな感じのことか。真夜中サリー州の草原まで。けれどもそのピクニックは私がこれまで考えたもののどれよりも風変わりなものだった。そして出かけるために服を着替えた時、私は大笑いした。そして自分がこれからなす仕事にたいして、そうした実質的な準備が必要であることにたいしてまた大笑いした。メアリー・Vのためのブーツに帽子だなんて。それはおそろしく辻褄のあわないことのような気がした。
ようやく私は彼女の住んでいる|階貸し住宅《フラツト》に着いた。そして探しだした告知板は――私たちのそれと同じように――在宅か不在かを明確にしていなかった。彼女が住んでいる階、建物の最上階まで上り、ドアの前に立ってノックし、呼び鈴を鳴らし、|応《こた》えを待ちながら私はあたりを仔細に眺めた。誰も出てこなかった。そして私は影というものは死ぬことができるかどうか考えはじめていた。そして影を埋葬するにはどうしたらいいか。ドアはメイドの手によって静かに開けられた。メアリー・Vは二箇月にわたって病床に伏していた。彼女は昨日の朝、息を引きとった。ちょうど私が彼女の名前を叫んだ時間だった。だから私が彼女の影を見ることはもう決してないだろう。
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書かれなかった長篇小説
[#地付き]An Unwritten Novel
そうした不幸の表出は視線を新聞のうえまで引きあげさせ、憐れな女の顔を注視させるに充分値した。不幸の色がなければありふれたその顔。不幸の色合いのために人間の宿命の象徴にまで昇華した顔。人生とはあなたが人々の眼のなかに見いだすものだ。人生とは人々が学ぶものだ。そしてつねに学びつづけるものだ。人はその事実を隠そうとするけれども、決して学ぶことを止めはしない――人生とはいったい何なのか? 人生とはおそらくそのようなものだ。そんなふうなものだ。向かい側の五つの顔――分別のある五つの顔。人生というものが何であるかを知っている顔。人が人生に関する知識を隠そうとするのは、いかにも奇妙なことではないだろうか。五つの顔すべてに浮かぶ抑制の|徴《しるし》。唇を引き結び、眼を伏せ、自分が気づいていることを隠すために、あるいはそれには何の意味もないという印象を与えるために|然《し》かるべきことを為す五人の人物。一人は煙草を吸っている。もう一人は新聞を読んでいる。三人目は手帳を眺めている。四人目は自分の向かい側の路線図を見あげていた。そして五人目――五人目のその女における最も恐ろしい事実は彼女が何もしていないということだった。彼女は人生を直視していた。ああ、憐れな女よ、不幸な女よ、あなたも同じように振る舞うのだ――我々みなのために――人生を見ていることを隠すのだ。
私の内心の声が聞こえたかのように、彼女は顔をあげた。すわりなおして、溜息をついた。彼女は私に謝り、こう言っているように見えた。「あなたが知ってさえいれば」それから彼女は人生に視線を戻した。「でも、私は知っているのだ」私は密かに答えた。マナーに反しないようにタイムズ紙を眺めながら。「私はすべてのことを知っている。『ドイツと連合軍との講和が昨日パリにて正式に締結――イタリアの首相はニッティ氏に――ドンカスターで旅客列車と貨物列車が衝突……』私たちはすべて知っている――タイムズ紙は知っている――けれども私たちは知らない振りをするのだ」私の眼はふたたび新聞の縁を這った。彼女は震えていた。背中のなかほどにあてた片方の腕を妙なふうに|引攣《ひきつ》らせ、しきりに頭を振っている。私はもう一度人生の巨大な貯水池に潜った。「好きなものを取ればいい」私は言葉をつづけた。「誕生、死、結婚、王室行事日報、鳥の習性、レオナルド・ダ・ヴィンチ、サンドヒルズ殺人事件、高い賃金と生活費――そう、好きなものを取ればいい」私は繰りかえした。「みんなタイムズ紙のなかにある」永遠の倦怠とともに彼女は頭を振っていた。そして回ることに疲れきった|独楽《こま》のように、頭はやがて首のうえで静止した。
彼女の悲しみ、そんな悲しみにたいしてはタイムズは防御の役を務め得なかった。けれどもほかの人間はあくまで彼女と関わることを自らに禁じていた。人生にたいして為しうる最良のことは、新聞を畳み、完璧な四角形の、乾いた手触りの、厚く浸透不能なものを作ることだ。私はそれを為し、急いでその盾を構えて顔をあげた。けれども彼女は盾を貫通した。彼女は私の眼を覗きこんだ。あたかも私の眼の奥底にある勇気の堆積物を探すかのように。そしてそれをただの粘土の塊に変えてしまおうとでもするかのように。彼女の痙攣はそれだけですべての希望を|挫《くじ》いた。すべての幻影を無力にした。
そんなふうにして私たちは列車に揺られながらサリー州を抜け、州境を越え、サセックス州に入った。けれど人生に眼を|遣《や》っていたので、私はほかの客が降りたことに気がつかなかった。一人一人いなくなり、しまいには新聞を読んでいる男をのぞけば、その車両にいるのは私と彼女だけになっていた。つぎはスリーブリッジズ駅だった。列車はゆっくりとプラットフォームに滑りこみ、止まった。男は私たちを残して降りていくだろうか? 私は男が降りること、降りないことを同時に願った――最後にはそして残ってくれることを願った。その時、彼は立ちあがり、侮蔑の表情を浮かべ、新聞をくしゃくしゃのまま畳んで勢いよくドアを開け、私たちを残して去った。
不幸な女は少し身を乗りだした恰好で、青白く生彩のない顔で私に話しかけた――彼女は駅や休日やイーストボーンの兄弟のことを喋った。そして、いまはもう忘れてしまったが、季節のことを喋っていた。確か季節が早い、あるいは遅いといったことを。けれどしまいには彼女は窓の外に眼を|遣《や》り、確かに人生だけを凝視しながら呟いた。「出掛けていていつもいない――それがあれの欠点だ――」ああ、私たちはいま重大な局面に近づきつつあった。「義理の妹の」――彼女の口調の辛辣さは冷たいナイフの刃に貼りついた|檸檬《れもん》のようだった。彼女は話しかけていた。私にではなく、自分に向かって。呟く。「ばかばかしい。あの女は言うだろう――みんなが言ってることを」そして喋る一方でしきりに背中に手をやった。まるで、そのあたりの皮膚が鶏肉屋の陳列窓の羽根を|毟《むし》られた鶏の皮膚になったとでもいうように。「まあ、あの牛」と言って、彼女はいかにも神経質な感じで不意に口を閉じた。草地にいる鈍い動きの大きな牛が自分に打撃を与え、何か無分別なことをしでかすことから救いだしてくれたかのように。それから彼女は体を震わせた。そしてまた無様でぎこちない動きを繰りかえした。まるで|痙攣《けいれん》したせいで背中のどこかが火照るとでもいうように、あるいは|痒《かゆ》いとでもいうみたいに。それからふたたび彼女は世界で最も不幸な女に見えるようになった。私もまた彼女を非難した。さっきのような確信を|籠《こ》めてではなかったが。というのも、もし何かの理由があったとしたなら、そしてもし私がその理由を知っていたとしたら、その汚名は人生から除去されるだろうと思えたからである。
「義理の妹というものは」私は言った――。
その言葉に毒の唾でも吐きかけようかといった|態《てい》で彼女の唇は止まった。すぼめた形のまま止まった。けれども彼女がやったのは手袋で窓の染みを執拗に|擦《こす》ることだけだった。何かを擦り取って永遠に消してしまおうというように彼女は窓を擦った――何かの汚れ、消しにくい何かの汚れを擦るみたいに。だが彼女の努力にもかかわらず、染みは残った。彼女は震え、深くすわりなおして、腕を背中にやった。私が予想したように。何かが私に強要した。手袋を掴んで窓を擦ることを。眼の前のガラス窓のある箇所、そこにもまた小さな染みがあった。私が擦ったにもかかわらずそれはそこに残った。そして痙攣が私を突き抜けた。私は腕を|捻《ねじ》って背中の中央を掻きむしった。私の皮膚もまた鶏肉屋の陳列窓の湿った鳥肉の皮膚のようだった。背中の中央のどこかが|痒《かゆ》く、|疼《うず》いていた。じっとりとしていた。ひりひりしていた。手が届くだろうか? 目立たないように私は手を伸ばしてみた。彼女は私を見た。無限の皮肉の|籠《こも》った笑み、無限の悲哀の|籠《こも》った笑み。それが彼女の顔を一瞬掠め、そして消えていった。けれども彼女には判っていた。自分の秘密を分けてよこした。毒を渡してよこした。彼女はもう喋らなかった。私は椅子の背に背中を|凭《もた》せかけ、彼女の眼を見ないようにし、灰色と紫の丘と谷だけを眺めながら、冬の景色だけを眺めながら、彼女が伝えたいと思っていることを理解しようとした。彼女の秘密を解読しようとした。彼女の視線に|晒《さら》されながら読みとろうとした。
ヒルダは義理の妹だ。ヒルダ、ヒルダ、ヒルダ・マーシュだ――若く活気に満ちたヒルダ、豊かな胸。小太り。ヒルダはタクシーが止まる時、扉の前に立つ。硬貨を握りしめて。「可哀想なミニー、前よりいっそう|蟋蟀《きりぎりす》みたいに見えるわ――去年着ていた外套を着ていたのだ。そうよ、二人も子供がいたら、近頃は何もできないのよ。駄目、ミニー、もう私用意してるの。これでお願いね、御者さん――私が一緒の時は何もしなくていいのよ。入ってミニー。ああ、私はあなたを抱えて運べそう、あなたのバスケットごと」そうして二人は食堂に入る。「さあ、子供たち、こちらがミニーおばさんよ」
ナイフとフォークがゆっくりと直立状態から傾きはじめる。二人の子供は(ボブとバーバラだ)席を立って、ぎこちなく手を差しだした。ふたたび椅子にすわると、食べ物を口に入れるあいまに彼女をじっと見る。けれどもここからは省略しよう。装飾品、カーテン、|白詰草《しろつめくさ》の模様の陶製の皿、長方形の黄色いチーズ、正方形の白いビスケット――また省略――いや、ちょっと止めてみよう。昼食の途中で一度|痙攣《けいれん》する。ボブは彼女を黙って見つめる。スプーンを口に入れたまま。「プディングを食べなさい、ボブ」しかし、ヒルダは納得はしない。「どうして、あの人はぴくぴく体を動かさなきゃならないの」。省略。省略。二階に上がる階段の踊り場の場面まで。真鍮の飾りがついた階段。|磨《す》りへった|床敷《リノリウム》。ああ、そうだ、小さな寝室。窓からイーストボーンの街の屋根の連なりを見渡すことができる――芋虫の背中のようにうねる屋根の連なり。こちらも、あちらも、赤と黄色の縞。|瓦《スレート》の黒っぽい青がそれに混じる。そして、ミニーだ。いまドアが閉められたところだ。ヒルダは重い足音を響かせて階段を下りていく。あなたはバスケットの紐をほどく。|見窄《みすぼ》らしい寝巻をベッドのうえに広げる。毛皮付きの|氈《フエルト》のスリッパの横に立つ。そして姿見を――いや、あなたは姿見は見ない。整然と並んだ帽子用のピン。貝殻の|小筺《こばこ》のなかには、たぶん何か入っているのではないだろうか。あなたはそれを振る。中に入っていたのは真珠の飾りボタン。去年そこに入れたのだ。それで全部。それから、|洟《はな》を|啜《すす》りあげ、溜息をつく。窓辺にすわる。十二月の午後三時。霧のような雨が降っている。低い位置に見えるのは大きな生地屋の天窓から洩れる光。高いところにあるべつの光は召使いの部屋の明かり――これは消えてしまう。それでもう見るものは何もなくなった――一瞬の空白――その時、あなたは一体何を考えていたのだろう(向こう側の彼女を盗み見させて欲しい。彼女は眠っている。または眠っている振りをしている。午後三時に窓辺にすわって彼女は一体なにを考えていたのだろう? 身体のことだろうか、お金のことだろうか、請求書のことだろうか。自分の神のことだろうか?)そう、椅子にごく浅く腰掛けて、イーストボーンの|甍《いらか》の波を見下ろしながら、ミニー・マーシュは神に祈った。これはなかなか良い。彼女はやはり窓ガラスを|擦《こす》ったかもしれない。神をよく見ようとして。けれども彼女はどんな神を見たのだろうか。ミニー・マーシュの神とはどういう存在だろう。イーストボーンの裏通りの神。午後三時の神は。私もまた屋根の連なりを見る。空を見る。けれど、ああ、そういうふうに神を凝視するなんて。アルバート公よりクリューガー大統領に似ている――それが私が神に関して為しうる最良のことだ。そして私は彼を椅子のうえに見る。黒い|外衣《フロツクコート》を着て。椅子も|外衣《フロツクコート》も神を崇高に見せているとは言いがたい。私は彼が乗るための雲を一切れか二切れほど都合することができる。雲のなかで棚引く神の手には棒が見える。警棒だろうか? ――黒く、ずんぐりとして、刺が生えている――老いて、残忍な乱暴者――ミニーの神。彼が痒みと背中の不快な部分と痙攣をもたらしたのだろうか? それが彼女の祈る理由だろうか? 彼女が擦るのは罪の染みなのだろう。そうだ彼女は何かの犯罪に関わったのだ。
私は犯罪を選ぶ。森が後方に飛んでゆく――夏になるとそこにはきっと|糸沙参《いとしやじん》が咲くだろう。春がくると木のない場所には桜草が咲く。ある永別。二十年前の? 神への誓約が破られた? ミニーはそんなことはしない……彼女は信心深い。いかに彼女が母親の看病に一生懸命だったか。彼女は墓石に貯金のすべてを|遣《つか》った――ガラス越しに見える花輪――瓶に挿した|喇叭水仙《らつぱすいせん》。けれど、今はそちらの道筋を行くつもりはない。犯罪だ……人は彼女が悲しみを持ちつづけたと言った。秘密を抑制しながら――性的な秘密を、と人は言うだろう――科学的な人々は。だが彼女をこともあろうに性と結びつけるとは何という|戯言《たわごと》だ。違うのだ――たぶんこういうことなのだろう。二十年前、クロイドンの通りを歩いていると、電灯の光で明るい生地屋のショーウインドーに飾られた紫のリボンが眼に留まる。彼女は見ていこうと思う――六時をまわるまで。走れば家に帰るのにぎりぎり間にあう時間まで。彼女はガラスの自在ドアを押してなかに入った。その日は特売の日だった。ずらりと並んだ浅いトレイはリボンで溢れかえっていた。彼女は足を止め、こちらで眼についたひとつを引っ張りあげ、あちらで薔薇細工のリボンを摘む――選ぶ必要はなかった。買う必要はなかった。どのトレイもそれぞれの驚異に満ちていた。「店は七時まで営業しております」そして、今は七時だった。彼女は走った。彼女は猛然と走った。彼女は家に辿りついた。けれど、遅すぎた。隣人たち――医者――幼い弟――|薬鑵《やかん》――火傷――病院――死――あるいはただそのショックが原因で。あるいは非難されたことも加わった? けれども細部は問題ではない。それが彼女の|担《にな》っているものだ。汚辱。犯罪。償いを要求するもの。それはつねにそこにある。彼女の背中の真ん中に。「その通り」彼女が私に頷いたように見えた。「それが私のしたこと」
彼女が本当に罪を犯したかどうか、あるいはそれが何だったかについては、私はなんら気にしない。それは私が求めるものではない。生地屋のショーウィンドーは紫の輪で埋まっていた――もう、それで充分だ。たぶん少し安っぽい、少しありふれている――どんな犯罪でも選べるのに。だけれどもひじょうに多くの犯罪が(もう一度盗み見させて欲しい――ああ、まだ眠っている、あるいは眠っている振りをしている。乾いた白い唇は閉じている。強情さの徴候。人が考えるよりも――性の暗示はない)多くの犯罪があなたには|相応《ふさわ》しくない。あなたの犯罪は安っぽいものだ。ただその報いが重かったのだ。いま教会のドアが開く。木製の堅い会衆席が彼女を迎える。茶色い床のうえに彼女は|跪《ひざまず》く。毎日毎日、冬も、夏も、日が沈む時も、日が昇る時も、彼女は祈る(ちょうどこの場でそうしているように)。彼女のすべての罪は彼女のうえに降る。永遠に降る。背中の一点がそれを受けとめる。そこは掻かれ、赤くなり、火照る。そうすると彼女は痙攣する。小さな少年たちは指さす。「今日の昼食の時、ボブは」――しかし、最悪なのは歳とった女たちだった。
実際、あなたはもうすわって祈ることはできない。クリューガーはもう雲の下に沈んでしまった――画家の筆で灰色の絵具を塗られてしまったかのように。画家はそれに黒を少し混ぜる――警棒の先さえもすでに視界から失われている。それがいつも起こることだ。ちょうどあなたが神を見ている時、感じている時、誰かが邪魔をすることは。いまの場合そうするのはヒルダだ。
どんな憎んでいることか。あなたはヒルダを。彼女は一晩中浴室に鍵をかけたりもするだろう。あなたが欲しいのはただの冷たい水だけだというのに。そして時々夜が耐えられなくて、洗濯でもすれば気が楽になるように思えることがあるのに。そして朝食の時のジョン――子供たち――食事の時は最悪だった。それだけでなく、しばしば友人たちがいた――|羊歯《しだ》は完全に友人たちを隠してはくれない――友人たちもまた想像を巡らした。だからあなたは|外《おもて》に出て海岸に沿った遊歩道を歩く。そこでは波は灰色だ。新聞が風に舞っている。緑を満載した風通しの好い温室。椅子にすわるには二ペンス払わなければならない――高すぎる――砂浜には牧師がいるからだった。ああ、黒人が一人いる――おかしな人だ――|鸚哥《いんこ》を何羽か持っている――小さな憐れな生き物。ここには神のことを考えている者が誰もいないのだろうか? ――ちょうど、空のあのあたり、桟橋のうえのほう、警棒を手にして――いや、いない――灰色の空が見えるだけだ、でなければ、青空で晴れていたとしても、白い雲が神を隠してしまう。そして音楽――軍隊の音楽――あの人たちはどんな魚を釣ろうとしているのだろう? あの人たちは釣りあげるだろうか? 子供はなんとじろじろ見るのだろう、そうだ、裏道を通って家に帰るのだ――「裏道を通って家に帰るのだ」その言葉は意味を持っている。頬髯のある老人によって発された言葉であるのかもしれない――いや、違う、違う、彼は確かに喋らなかった。けれどすべてのものは意味を持っている――玄関のドアのうえの表札――ショーウィンドーのうえの看板――バスケットのなかの赤い果物――美容院にいる女たちの頭――それらすべては言う「ミニー・マーシュ!」ここで痙攣。「卵が安くなっている」それがいつも起こることだ。私は滝を滑って彼女のほうに向かっている。狂気を目指して真っ直ぐに。その時、夢のなかの羊の群のように、彼女は別の方向を向き、私の指の隙間を|擦《す》り抜ける。卵が安くなっている。いかなる犯罪も、いかなる悲嘆も、いかなる熱狂も、あるいは狂気も、憐れなミニー・マーシュを世界の岸辺に繋ぎ止めることはできない。昼食には決して遅れることはない、嵐が来そうな時にゴム引きのレインコートを忘れることはない。卵の安さに完全に無関心ではない。そうして彼女は家に辿りつく――靴についた砂を|擦《こす》りおとす。
私はあなたのことを正しく解釈しているだろうか? けれども、あの人間的な顔、いっぱいに広げた新聞の上端から見えるあの顔はもっと何かを抱えている。もっと何かを|孕《はら》んでいる。いま、彼女は眼を明けている。窓の向こうを見ている。その眼のなかには――どのようにそれを形容したらいいだろうか? ――そのなかには裂け目がある――分離が――たとえば茎を掴んだ時、蝶は飛びさる――黄昏時、黄色い花にぶらさがっていた蛾はあなたが手を動かすと飛びたつ。高く、届かないところへ。私は手を出さないだろう。そうすると、静かにぶらさがり、震えている。命、魂、霊――それがミニー・マーシュの何であるにせよ――私もまた自分の花のうえで――高原の上空の鷹――独りだ。そうでないと言うなら、人生の価値はいかなるものなのか? 飛ぶこと。宵の闇のなかで静かに在る。正午、静かに在る。高原のうえの虚空に静かに在る。手の影が|閃《ひらめ》く――飛びたつ。高く、それからふたたび静止。独り。不可視の状態で。きわめて静かに、その低い場所で|四囲《あたり》を見まわすのだ。きわめて美しく。見る者は誰もいない。気にする者は誰もいない。他人の眼は私たちの牢獄。他人の考えは私たちの檻。上方の大気、下方の大気。月と不死……ああ、けれども私は草のうえに墜落する。あなたもまた墜落する。その席に。あなたの名前は何なのか――女よ――ミニー・マーシュ、そういう名前なのか? そこに彼女はいる。自分の花にしっかり掴まって。ハンドバッグを開ける。なかから空っぽの貝殻のようなものを取りだす――卵だ――卵が安くなっていると言っていたのは誰だろう? あなたか? それとも私か? ああ、それを言ったのはあなただ。家に戻る途中で。あなたは思いだす。歳とった紳士が出し抜けに傘を開いた時のことを。あるいは|嚔《くしやみ》だったか? とにかくクリューガーは去った。そしてあなたは「裏道を通って家に帰るのだ」。そして、靴の土を|擦《こす》りおとす。そうだ、そしてあなたはいま膝のうえにハンカチを広げ、卵の殻の小さく尖った|欠片《かけら》をそこに落としている――地図の|欠片《かけら》――パズルの|欠片《かけら》。私はそれらの|欠片《かけら》を繋ぎあわせてみたいと思う。もしあなたがじっとしてさえいてくれたなら。彼女は膝を動かす――地図はふたたびばらばらになる。アンデス山脈の峰の斜面を、白色の大理石の|塊《かたまり》が弾みながら、轟然と落下していく。スペイン人の|騾馬《らば》追いたちの一団すべてを押しつぶして。彼らの護衛もろとも――ドレーク提督の戦利品、金と銀、けれど戻ろう――。
何に戻る? どこに戻る? 彼女はドアを開けた。そして傘を傘立てに立てる――無言のまま。そして、またしても地階から肉の匂いが漂ってくる。少しずつ、少しずつ、少しずつ。だが、さっきのように省略できないもの、私が下を向いて眼を閉じて突進し、追い払わなければならないもの、大軍の活力をもって、牡牛の盲目性をもって、そうしなければならないのは、羊歯の蔭の人たち、つまり巡回セールスマンたちだ。私はずっとそこに彼らを隠さなければならない。どうかして彼らがいなくなってくれないかとの期待を抱きながら。けれども、あるいは彼らが姿を現してくれたほうがむしろ有益であるのかもしれない。実際に彼らがそうするように。もし小説があるべきように、豊かさと華麗さと宿命と悲劇を引き連れて、二人の巡回セールスマンを、三人よりそのほうがいいのだったら、二人のその人物を葉蘭の小さな森とともに取りこんで進展していくのだったら。「葉蘭の葉は巡回セールスマンを部分的に隠すだけだ――」|石楠花《しやくなげ》だったら体全体を隠すだろう。おまけに私の好きな赤と白のそれを登場させる機会を与えてくれる。それを私は切望し、手に入れようと骨折っているのだ。けれどもイーストボーンの|石楠花《しやくなげ》――十二月の――マーシュ家のテーブルのうえの――いやいや、そんなことをする勇気はない。それはパンと薬味の瓶、それに骨付き肉の紙飾りと羊歯で|賄《まかな》うべき問題だ。たぶんあとで海が登場した時、機会が到来するだろう。さらに、私は欲求が身の内に湧くのを感じる。緑の雷文の細工越しに、またカットグラスの緩い傾斜越しに反対側の男を喜びとともにじっくりと眺めたいという欲求――私ができる限りの力を傾けた人物、ジェイムズ・モグリッジだ、それは。マーシュ家の人たちは彼をジミーと呼ぶのではないだろうか? ミニー、あなたは私がやりおえるまで痙攣しないと約束しなければならないわ。ジェイムズ・モグリッジはセールスをする――ボタンが適当だろうか? ――けれどもボタンを持ちこむ時期はまだだ――縦長の厚紙に並ぶ大きなボタン、小さなボタン。孔雀の羽根の眼のようなボタン。鈍い金色のボタン。煙水晶のそれ、珊瑚を加工したもの――けれど、その時期というのはまだ来ていないと私は言わなければならない。彼は各地を回っている。そして木曜日、その日はイーストボーンの日と決められているのだが、彼はマーシュ家の人々と一緒に食事をする。モグリッジの赤い顔、実直さを|湛《たた》えた小さな眼――平凡なという形容からは逸脱するところがある――きわめて旺盛な食欲(それは気が休まることだった。彼はパンで肉汁を|擦《こす》りとってしまうまでミニーを見ることはないだろう)。たくしこまれたナプキンは菱形になっている――だが、これは幼稚だ。読者にとっては意味があるかもしれないが、私にそう書かせないで欲しい。モグリッジ一家のほうに移ろう。そちらを活動させるのだ。そう、一家の靴は日曜日にジェイムズ自身によって修繕される。彼はトゥルース紙を購読している。けれども、彼の嗜好は? 薔薇だ――そして妻は病院勤務の看護婦だった――興味深い――お願いだから、私の好きな名前の女性を一人登場させることを許してもらいたい。いや、けれど、だめだ、彼女は精神のいまだ生まれざる子供だ。不義の、それでもなお愛される。私の|石楠花《しやくなげ》のように。これまで書かれたすべての小説でどれくらいの者が死んだことか――最良の者が、最愛の者が。一方でモグリッジが生きているのに。それは人生の過失だ。いまミニーは向かい側で卵を食べている。ミニーの行先には――いまルイスを過ぎるところだろうか? ――そこにはジミーがいるに違いない――そうでないとしたら、なぜ彼女は痙攣するのだろうか。
ほんとうにモグリッジはそうに違いない――人生の過失に違いない。人生はその掟を強要する。人生は道を塞ぐ。人生は|羊歯《しだ》の蔭にある。人生は専制君主だ。ああ、けれど暴力的だというわけではない。違う。私は自分が望んでやっていることをあなたに明言できるのだから。誓って言うが私は羊歯と薬味の壜、それに染みの浮いたテーブルと汚れた瓶のうえを|渉《わた》ってくる強制力に突き動かされたのだ。私はその肉体のどこか堅固な部位に位置を占めてみたくてたまらない気持ちになった。頑強な脊椎のどこかに。私が潜りこめる、あるいは足場を見つけられるどこかに。モグリッジという男の体のどこか、その魂があるところに。その構造の驚くべき安定性、鯨骨のように強靭な背骨、樫の木のように真っ直ぐなそれ。枝分かれする肋骨。ぴんと張った肉の帆布。赤い空洞。心臓の吸入と排出。茶色の四角い肉が降ってくる。さらにビールが血と|攪拌《かくはん》されるために滝となって流れ落ちてくる――そうして私たちは眼まで辿りつく。葉蘭の蔭に眼は何かを認める。黒いもの、白いもの、陰気なもの。それから皿に戻る。葉蘭の蔭に眼は一人の年配の女を認める。マーシュの姉だ。ヒルダのほうが自分の趣味に合っている。今度はテーブルクロス。「マーシュはモリス一家に起こった不都合のことは知りたいと思うだろう……」そのことを話題に出す。チーズが運ばれてくる。ふたたび皿。皿を回す――大きな指。そして反対側にいる女。「マーシュの姉――これっぽっちもマーシュに似ていない。|見窄《みすぼ》らしい。歳とった女……きみは自分の飼っている鶏に餌をやるべきだぞ……何だあれは、何で、あの女はああいうふうに痙攣するんだ? おれは声を出してしまったか? 憐れな、憐れな、憐れな。年配のああいうふうな女たちは。憐れな、憐れな」
そう、ミニー、私はあなたが痙攣しているのを知っている。でも、ちょっと時間が欲しい――今はジェイムズ・モグリッジだ。
「憐れな、憐れな、憐れな」その言葉の響きの何と美しいことか。木槌で乾いた木材を叩くようなその音。海が不穏さを増してゆく時の、波の色合いが濃くなる時の、その|昔《かみ》の鯨捕りの心臓の鼓動の音。「憐れな、憐れな」苛立った者たちの魂をつかのま|宥《なだ》め、和らげる鐘の音のようなそれ。それらを亜麻布でくるみ、そして言う。「さようなら、お元気で」そしてそれから「あなたの好みはどういうものですか?」モグリッジは彼女のために家から薔薇を切ってくるだろう。けれども、そのことはもういい。終ったことだ。では、つぎは何? 「マダム、あなたは崇拝者の群れを失うでしょう」彼らはいつまでも待っているわけではないのだから。
それがその男のやり方だ。それは反響する音だ。それはセント・ポール教会と乗合バスだ。けれど私たちはパン屑を払っている。ああ、モグリッジ、あなたはいてくれないのか? 行かなければならないのか? あなたはあんなふうな小さな馬車のどれかで、午後中、イーストボーン中を走りまわるのか? 緑色の厚紙の箱に囲まれて。時々、ブラインドを下ろし、時々、スフィンクスのように厳かな表情ですわって一点を見つめ、けれど大抵は陰気な顔で、葬儀屋を思わせる、棺桶を連想させる、馬と御者を包む夕闇を連想させるそんな顔で。どうか私たちに言って欲しい――だがドアは閉められる。私たちはもう二度と会わないだろう。モグリッジよ、さようなら。
そうだ、そうだ。私はここまで来た。まっすぐに屋敷の最上部まで。少しのあいだ、私はここに留まる。心のなかで泥の水が渦を巻いている――あれらの怪物たちは何という渦を巻き起こしていったことか。水は騒然としている。水草は揺れている。こちらの緑色のそれ、あちらの黒色の。砂が|穿《うが》たれる。砂の粒がそれまでと違うものにゆっくりと再構成されるまで。堆積物は自身を|篩《ふるい》にかける。そしてふたたび明瞭に見えるようになる。それから、死者への祈りの言葉が唇を動かす。それからそれらの者の魂の埋葬式で人は頷く。それらの人々に二度と会うことはない。
いまジェイムズ・モグリッジは死んだ。永遠に去った。そう、ミニー――「私はもう耐えられない」彼女はそう言っただろうか――(彼女を見させて欲しい。彼女はいま卵の殻を窪みに掻きあつめているところだ)。ミニーは確信を|籠《こ》めて言った。寝室の壁に|凭《もた》れて赤紫色のカーテンを縁取っている小さな毛玉を|毟《むし》りながら。けれども、彼女が自己に向かって語りかける時、話している者はいったい誰なのだろう? ――墓に入れられた魂、そのなかに追いこまれた魂、奥まで、中心の地下墓地まで。その自己はヴェールを取り、この世界を去る――臆病者だ、おそらく。けれど、幾らか美しくもある。静止することなく上下する|角燈《ランタン》とともに暗い回廊を軽やかに過ぎる時には。「私はもう耐えられない」彼女の霊は言う。「昼食のあの男――ヒルダ――子供たち」ああ、彼女の啜り泣き、自分の運命を歎じるのは彼女の霊だ。あちらこちらと追いまわされる霊。磨り切れた絨毯に宿り――貧弱な足場――消えゆく全宇宙の縮みゆく断片――愛、人生、信仰、夫、子供たち。少女時代にどんな華やかな出来事や楽しい出来事が彼女の周囲であったか私は知らない。「私のためではない――私のためではない」
けれども、そうは言っても――日々のマフィン、毛の抜けた老犬は? ビーズで編んだ敷物、リンネルの下着の心地好さも想像してみるべきだろう。ミニー・マーシュが車に轢かれて、もし病院に運ばれたならば、看護婦や医師たちは大きな声で言うだろう……。そうした図があり、そうした光景がある――そうした遠景がある――通りの向こう端の青い|汚点《しみ》。そうは言っても、結局、お茶は豪華で、マフィンは温かく、それに犬――「ベニー、あなたは籠に入りなさい。そうしてお母さんがあなたに持ってきたものを見るのよ」そう、親指が磨りきれた手袋を取り、穴に発展しようとしている箇所に戦いを挑む。あなたはもう一度防備を固める。灰色の毛糸を内に外に走らせて。
内に外に走らせる。こちらからあちらに渡し、あるいは重ね、糸の玉をくるくると回転させ、それを神自身が――しっ、神のことを考えるな。なんと堅固な編み目なのだろう。あなたは繕い物の腕に誇りをもっているに違いない。何者と言えども彼女を妨げてはならない。光を静かに降らせよう。明るい雲は木の芽が|綻《ほころ》びはじめていることを告げる。燕を枝に留まらせ、下方で膨らむ雨滴を滴らせよう……なぜ、見あげる? 音が聞こえた? 何か思いついた? ああ、あなたがやったことに戻ろう。紫色のリボンの輪が飾られたガラス? けれども、ヒルダが来るだろう。不名誉、屈辱、ああ、裂け目を塞ぐのだ。
自分の手袋を繕いおわり、ミニー・マーシュは|抽斗《ひきだし》のなかにそれをしまう。彼女は決心しながら|抽斗《ひきだし》を閉める。私は鏡のなかの彼女の顔を捉える。唇がすぼめられている。顎は高くあげられている。つぎに彼女は靴の紐を締める。それから彼女は喉に触れてみる。あなたのブローチは何だろう? 宿り木だろうか、それとも鳥の|叉骨《さこつ》だろうか? そして何が起こるか? もし私が間違っていなければ、鼓動は速くなった。その瞬間は近づいている。血は奔流となっている。滝が前方にある。重大な局面がすぐそこに迫っている。天の恵みがありますように。彼女は降りてゆく。勇気を、勇気を、立ち向かえ、立ち向かうのだ。誓っていまはドアマットのうえで待っている場合ではない。目の前はドアだ。しっかりするのだ。話しかけるのだ。彼女に対峙しろ。彼女の魂をまごつかせるのだ。
「まあ、すみません、そうです、ここはイーストボーンです。お荷物を下ろしましょうか。手伝わせてください」けれど、ミニー、私たちは気づかない振りを装っているけれど、私はあなたのことを正確に読みとっている――私はあなたとともにいる。
「鞄はこれで全部ですか?」
「御親切に感謝しますわ、そうこれで全部だと思います」
(だが、どうしてあなたは周囲を見まわしているのだ。ヒルダは駅に来ないだろう。ジョンも。そしてモグリッジはイーストボーンの反対側を旅している)
「鞄があるんで、待ってなくちゃいけないんですよ、あなた、それが一番安全なんで。ここまで来るって……ああ、あそこにいるわ、息子ですのよ」
二人はそうして歩きさった。
そう、私は混乱していた……。ミニー、確かにあなたのほうがよく判っている。奇妙な若いあの|男《ひと》……。やめるのだ、私があの人に説明しよう――ミニー! ミス・マーシュ! ――だけれども私にはどういうことか判らない。風にはためく彼女の外套には何か奇妙なところがある。いや、だが、それは真実ではない。それは見苦しいことだ……。見るがいい、二人が改札口まで行く。そしてどんなふうにあの|男《ひと》が身を|屈《かが》めるか。彼女は切符を見つけた。この冗談はいったいどういうことだ? 二人は立ち去る。通りを歩く。並んで……。そう、私の世界は|潰《つい》えた。私は何を拠りどころにすればいいのだろうか? 私は何を知っているというのだろうか? あれはミニーではなかった。モグリッジはいない。私は誰だ? 人生は骨のように空虚だ。
そのくせ、二人の最後の姿は――舗道の|縁石《ふちいし》を越えて歩きはじめた若い男、そのあとに|随《つ》きしたがう彼女、大きな建物の角を曲がろうとしている二人の姿は、私を驚異の念で満たす――私を新たなもので溢れさせる。謎めいたふたつの影。母親と息子。あなた方は何者だ? なぜ通りを行くのか? 今夜はどこで眠るのか? そして明日は? ああ、何と激しく渦を巻き、押し寄せることか――私をふたたび水面に浮上させてくれる。私は二人の後から出発する。車上の人たちは思い思いのほうに走り去る。白い光が飛沫のように注いでいる。大きなガラスの窓。|麝香撫子《カーネーシヨン》。菊。暗い庭の|蔦《つた》。戸口の牛乳運搬用の荷車。どこへ行こうと私はあなたたちの姿を、その謎のような姿を見る。角を曲がっていくあなたたち、母と息子たち。繰りかえし、繰りかえし、繰りかえし。私は早足になる。私は追っていく。ここはどうやら海であるらしい。辺り一面灰色だ。灰のようにくすんだ色。水は囁き、|脈摶《みやくう》つ。もし、私が|跪《ひざまず》いたとしたら、もし私が儀式を行おうとするなら、古怪な身振りをするならば、そう、あなた方のためだ、未知なる影よ、あなた方を私は崇拝するからだ。もし私が両の腕を広げたなら、それはあなたを掻きいだくためだ。あなたを引きよせるためだ――崇拝するに足る世界よ。
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解説 ヴァージニア・ウルフについて
[#地付き]西崎 憲
ヴァージニア・ウルフ。意識の流れ Stream of Consciousness の手法をもって小説に革新をもたらした天才的作家、自殺によって生涯を終えた作家、狂気を抱く人、フェミニスト、同性愛者。ウルフを語るキーワードは多い。人は彼女を語る際に言葉に窮することはないだろう。そうした意味において彼女はすでに作品のみで語られることは少なく「ヴァージニア・ウルフ」という一個のトピックとして受容されている観がある。ではそのトピックはどのようにして成ったのであろうか。彼女の辿った道を少し追ってみよう。
1 その生涯
アデリーン・ヴァージニア・スティーヴンが生まれたのは一八八二年の一月二十五日である。時の首相はグラッドストン。その年はイギリスがエジプトの政権を奪った年で、秋にはサヴォイ劇場でギルバートとサリヴァンの『弱気じゃ美人は手に入らない』が上演されている。父は『十八世紀英国思想史』の著者で、ヴィクトリア朝後期の屈指の作家・批評家レズリー・スティーヴン。母はエドワード・バーン・ジョーンズの絵のモデルも務めた美貌の人ジュリア・スティーヴンである。ヴァージニアは二人のあいだに生まれた四人の子供のうちの三人目である。上から順にヴァネッサ、トビー、ヴァージニア、エイドリアンとなる。しかし家族はそれだけではなかった。レズリーとジュリアはどちらも再婚だったので、おのおの連れ子がいた。レズリーのほうには先妻ハリエット・メアリアン・サッカレーとのあいだに産まれたローラがいた。ローラは精神薄弱児であった。ジュリアのほうの連れ子(前夫はハーバート・ダックワース)はジョージ、ジェラルド、ステラの三人で、総勢十名という大家族である。一家はロンドンのケンジントン区のハイドパーク・ゲートの家に住んでいた。
スティーヴン家の暮らし自体はヴィクトリア朝の中流上層の典型のような暮らしだったらしい。しかし、父親の仕事の関係上、スティーヴン家にはさまざまな詩人や作家や画家が訪れた。ブラウニング、アーノルド、ラスキン、ジェイムズ、ペイター、ハーディーなどなど。そうした文学的な環境が影響しているのか、ヴァージニアが九歳になった頃、スティーヴン家の子供たちは「ハイドパーク・ゲート・ニュース」と名付けた家庭内新聞を発刊したりしている。
ヴァージニアが子供の頃、一家は夏になるとコーンウォールのセント・アイヴズにあるタランド・ハウスと呼ばれる家に出掛けた。そこでヴァージニアたちは読書をし、散歩をし、庭でクリケットをした。じつに平和な生活だったらしい。しかし、ヴァージニアの子供時代はそうした穏やかなことのみで占められていたわけではなく、むしろ酷薄なものだった。ヴァージニアは六歳頃から、ジェラルドの性的な関心の対象になっていた。それは近親相姦へと発展し、十代の後半までそうした関係はつづいたようである。彼女はまた、ジョージからも同じような扱いを受けたようで、大人になってからも二人に対してはつねに辛辣な態度を崩さなかった。
ヴァージニアは同じような階級の大概の子供たちと違って学校へは行かなかった。教育は幼い頃は父母から、のちには家庭教師から授けられた。父親の書斎の本をたくさん読んだようである。
一八九五年、ヴァージニアが十三歳の時、母ジュリア・スティーヴンが亡くなる。その年、ヴァージニアははじめて神経症の状態におちいる。
母親の死後、父レズリーは気弱な面を見せるようになる。一家の母親的な役割はステラ・ダックワースが担う。お蔭でステラの結婚はだいぶ遅れたうえ、その幸福は短かった。ステラは一八九七年にこの世を去っている。結婚して三箇月後のことである。
一八九九年、トビーはケンブリッジのトリニティー・コレッジに進学。彼はそこでリットン・ストレイチー、クライヴ・ベル、レナード・ウルフらと知りあいになる。
一九〇四年の二月二十二日、父親のレズリーが癌で亡くなる。ヴァージニアはその少し後、ふたたび神経症になり、友人宅で療養をしていた時、窓から身を投げて自殺を図ったりもする。ヴァージニアの神経症もしくは狂気に関しては、もとより原因を特定することはできないが、若い時受けた性的虐待と肉親の死が関係していると見る者もいる。レナード・ウルフによればヴァージニアは四度狂気と正気のあいだを行き来したということである。
同年十月、ヴァージニアたちはロンドンのハイドパーク・ゲートからブルームズベリーに移る。ジョージとジェラルドはその機に独立する。この年の十二月にヴァージニアのはじめての書評がガーディアン誌に載っている。
この頃、ヴァージニアはモーリー・コレッジで文学を教えはじめている。トビーはケンブリッジの友人たちとの交際をつづけるために「サタデイ・イヴニングズ」という集まりをはじめる。それにはヴァネッサもヴァージニアも出席する。その集まりがイギリスの文学サークルとしては最も著名なもののひとつ「ブルームズベリー・グループ」の母胎となる。
一九〇六年、兄弟でもっとも仲のよかったトビーが腸チフスでこの世を去る。その二日後、画家となっていた姉のヴァネッサはそれまで退けてきたクライヴ・ベルの求婚を受けいれる。ヴァネッサとベルが結婚するので、ヴァージニアと末っ子のエイドリアンは一九〇七年にフィッツロイ・スクエアに新しい家を見つけ、そこで「サタデイ・イヴニングズ」を再開する。
ベル夫妻に第一子ジュリアンが誕生した頃、クライヴとヴァネッサのあいだは少しぎくしゃくしたものになり、その煽りでクライヴとヴァージニアの関係は近いものになる、浮気と呼ぶべき状況が生じる。
ヴァージニアとケンブリッジの卒業生たち、それにデズモンド・マッカーシーやE・M・フォースターとの関係は、堅固なものだったようである。この頃ヴァージニアの書評家としての地位はすでに確立していた。
一九〇九年、リットン・ストレイチーはヴァージニアに求婚する。しかし直後に二人はどちらもそれが真剣なものではなかったと言いだし、その話はなかったことになる。同年十一月にはロジャー・フライの肝煎りで、ヴァージニアやブルームズベリー・グループの他の面々も多大な関心を持つ「マネと後期印象派展」が開かれている。
一九一一年、レナード・ウルフがセイロンから帰る。その年の十一月ヴァージニアとエイドリアンはブランズウィック・スクエアに転居。ブルームズベリー・グループの本拠地も同所に移る。
一九一二年、レナード・ウルフは自分にたいするヴァージニアの気持ちが友人としてのそれであることを知りつつ、彼女に求婚する。ヴァージニアはしばらく悩むが、同年の五月二十九日に結局受けいれる。八月十日に二人は結婚する。
結婚前後の期間にレナードはヴァージニアが子供を産んで育てることに耐えられるかどうか複数の医師に相談している。その結果、姉のヴァネッサの同意のもとにレナードは子供を作らないことにする。ヴァージニアはレナードの決定に同意しつつも、子供が欲しいという気持ちをずっと捨てきれなかったようである。
その年の終わり頃、ヴァージニアは何度か酷い頭痛に襲われる。ヴァージニアは生涯頭痛に苦しんだようである。
翌年の一九一三年はヴァージニアには辛い時期だったのかもしれない。しばしば深刻な神経症の状態におちいり、何人かの医者にかかっている。また睡眠薬の飲みすぎで死にかけたりしている。しかし同年、出版社を経営していたジェラルド・ダックワースのもとにレナードは長篇第一作『船出』の原稿を送っている。ジェラルドはエドワード・ガーネットに判断を委ねる。ガーネットは高い評価を与え、出版が決まる(ヴァージニアの体の調子が思わしくなかったため、実際に出版されたのは一九一五年である)。
一九一五年から二人はリッチモンドの新しい家ホガース・ハウスに移る。一九一七年、ヴァージニアの気晴らしのため、そして商業的出版社が眼にとめることのない詩や短篇小説を出版するため、二人は印刷機を購い、その家に運びこむ。ホガース・プレスの誕生である。印刷の仕事が効を奏したのか、その後のヴァージニアの精神状態は好転したようで、ヴァージニアは沢山の書評を書き、一九一九年には二冊目の小説『夜と昼』をふたたびジェラルドの経営するダックワース社から上梓している。また同時に労働婦人同盟の講演者を務めたりといった政治的な活動もはじめる。同年にはサセックス州のロドメルに家を購入している。家はモンクズ・ハウスと呼ばれ、毎夏、そこで過ごすようになる。
一九二二年、ヴァージニアは『オーランドー』のモデルとなったヴィタ・サックヴィル−ウエストに会う。その後、サックヴィル−ウエストはヴァージニアの生活においてひじょうに重要な位置を占めるようになる。二人の恋愛は一九二三年からはじまる。二人のあいだの愛情と、そしてそれの変化した友情はヴァージニアにとってプラスに働き、その後の十年ほどヴァージニアは『ダロウェイ夫人』『燈台へ』『オーランドー』などつぎつぎに意欲的な作品を発表し、反発も少なくないものの世界的作家と認められ、またメアリー・ウルストンクラフトの流れに位置するフェミニズムの運動家として認められる。
一九二三年、ライヴァルとも言えるキャサリン・マンスフィールド死去。ヴァージニアは「書くための拍車を失った」ような気持ちになる。「もちろん、書きつづけるだろう。でも、空虚に向かってだ。競争者はいない」と日記に記す。マンスフィールドはヴァージニアにとって惹かれもするが、反発も感じる複雑な存在だったようである。ヴァージニアは一九二八年にマンスフィールドの夢を見ている。また一九三一年六月八日の日記にはふたたびマンスフィールドに夢のなかで会ったことを記している。ヴァージニアは彼女が死んでいることを意識しながら彼女と握手をする。
『波』が出た一九二九年頃、ヴァージニアにはジョン・レイマンやスティーヴン・スペンダー、W・H・オーデンなどの若い作家たちの知りあいができる。しかし、同時に一九三〇年代に入ってからは多くの知人たちの早世に立ち会わなければならなくなる。リットン・ストレイチー、ロジャー・フライ。一九三三年にはステラ・ベンスンが中国で客死。ヴァージニアはマンスフィールドが亡くなった時と同様の衝撃を受ける。
しかしそうした時でもレナードの存在はつねにヴァージニアの支えとなった。レナードはつねにヴァージニアの作品の最初の読者であった。ヴァージニアは日記に「イングランドで一番幸福なカップル」「私たちの結婚は完璧です」といった言葉を記している。
一九三四年、マン・レイの展覧会に行ったヴァージニアはアルゼンチンの作家であり編集者であるビクトリア・オカンポに会う。ヴァージニアは彼女に強く惹かれ、二人は友人になる。オカンポは後に『オーランドー』と『自分だけの部屋』のスペイン語訳を出版する。訳者はホルヘ・ルイス・ボルヘスである。また、ヴァージニアは一九三九年の一月に老いたジークムント・フロイトとその子供二人に会いに出掛けている。
第二時世界大戦がはじまると二人はモンクズ・ハウスで多くの時間を過ごすようになる。メクリンバーグ・スクエアの家は爆弾で壊滅的な打撃を受けたのである。自分がふたたび狂気の手に捉えられつつあると思ったヴァージニアは、一九四一年三月二十八日、レナードに「あなたは私を幸福にしてくれました。誰もあなたほどそれをうまくやることはできなかったでしょう。どうか、私の言葉を信じてください」という手紙を残し、ポケットに石を詰めこんで、ウーズ河に自ら身を投じる。死体は翌月の四月十八日に数人の少年たちによって発見される。レナードは遺灰をモンクズ・ハウスの庭の大きな楡の根本に埋めている。
2 作品解説
収録作品に関して簡単に記しておこう。
ラピンとラピノヴァ
『ヴォーグ』の競合誌『ハーパーズ・バザール』一九三九年四月号に掲載された作品で、原稿料は六百ドルだった。二十年ほど前に書いた作品を書き直したものである。一見明解なように見えるし、主題としては結婚、個人の幻想と現実の齟齬、あるいは自己と他者ということになるだろうか。しかし、ウルフの視点はロザリンドにあるわけでもなく、アーネストにあるわけでもない、そのせいか不思議な冷静さを湛えた作品になっている。
青と緑
「月曜日か火曜日」と同様に散文の枠を越えた作品である。短篇集 "Monday or Tuesday" (1921) に収録され、その後は版に登ることはなかった。ごく短いものであるが、見方によってはウルフの到達点のひとつとも言えるだろう。
堅固な対象
私見ではウルフの短篇のなかでも最高の部類に属する作品である。他の作品にもしばしば見られることであるが、ここにおいては確かにアレゴリーが機能しているが、それが何のアレゴリーであるのか明らかにされることはない。しかし、その指示性の強力さはおそらく大多数の読者に強い印象を残すだろう。珍しくプロットも存在する。気軽に書いたように見えるが、それがかえって幸いしたのかもしれない。ウルフはこの作品に関して、ホープ・マーリーズに宛てた手紙に「あなたがこの作品を気にいってくれて嬉しいです。これは少し急いで書きすぎていますが、自分としては物語るということに関して、幾つか優れた点があるように思います」と書いている。批評家の言としては、「ウルフが抱えていたジレンマ、生とは堅固なものなのか、それとも変化するものなのか、といったことの変奏である」あるいは「チャールズとジョンはそれぞれ行動的生、思索的生を表している」などといったものがある。
乳母ラグトンのカーテン
レナード・ウルフによるとエイドリアンの娘アン・スティーヴンのために書かれたものだそうである。小さな幻想を描いている。ウルフの作品のなかで、こうした形で直接的にイマジナリーなものが語られるのは珍しいと言っていいだろう。その意味で「池の魅力」と同様に興味深い作品である。
サーチライト
一九二九年から死の年まで何度も書きなおされた作品で、十ばかり異型が存在するようである。男と女がキスをする場面を望遠鏡で見るというアイディアは "TheAutobiographyofSirHenryTaylor" (1885) から得ている。ウルフは一九三九年の日記に「老サー・ヘンリー・テイラーの話はこの十年ばかり私の頭のなかでブンブン飛びまわっている」と記している。
外から見たある女子学寮
ウルフのレズビアニズム的感覚を窺測することができる作品。「書かれなかった長篇小説」同様結句に詩的なエクスタシーが感じられる。最初は長篇『ジェイコブの部屋』の一部として書かれた。
同情
出版されなかった短篇は少なくないがこの作品もそうである。見る者によって、ウルフは陰気な人間であったり、闊達な人間であったりとさまざまであったが、この作品を読むとウルフのユーモアのセンスがいかなるものであったかその一端を知ることができる。楽しい作品である。
ボンド通りのダロウェイ夫人
長篇『ダロウェイ夫人』に先んじて『ダイアル』誌一九二三年の七月号に掲載された。
憑かれた家
一九一二年から一九年のあいだ休暇を過ごしたサウスダウンズのアッシャム・ハウスのことを書いたらしい。本人は感傷的だと感じていたようである。しかし書評は好意的なものが多く、T・S・エリオットも「きわめて興味深い」との評言を残している。
弦楽四重奏団
ひじょうに効果的に音楽を描きだした作品との評価を受けている。意識の流れの手法を用いていると言っていいだろう。さまざまなイメージが一見脈絡なく現れるが読後感は散漫なものではない。
月曜日か火曜日
「青と緑」と同様に「小説」の観念からはかなり外れる作品である。「同情」に現れる文と同じものが用いられている。
キュー植物園
『タイムズ・リテラリー・サプルメント』誌に好意的な評が載ったおかげで、ホガース・プレスで百五十部刷られた本はたちまち売り切れになったそうである。セザンヌやモネの色の使い方の影響を示唆する評者もいる。
池の魅力
ウルフの作品のなかでは少し毛色の変わった感じのする作品であるが、一読忘れがたい印象を残す。
ひじょうにあっさりと書かれた印象がある。手紙の文体に近いかもしれない。ウルフは ShortStory という言葉を用いず Sketch という言い方を好んだが、この作品などを見ると確かにそうした呼称のほうが相応しいという印象を受ける。静謐さを湛えた小品である。
壁の染み
代表作のひとつ。レナードの Three Jews と一緒に "TwoStories" という書名を与えられて、一九一七年にホガース・プレスの最初の出版物として上梓されている。飛ぶような速さで書きあげたとウルフはこの作品について述べている。フォースターはこの作品を読んでファンタスティックな小説の書き手としてローレンス・スターンに連なる者との評価をウルフに与えている。確かに「意識の流れ」はしばしば「幻想」と見分けがつかなくなることも少なくないようである。
ミス・Vの不思議な一件
この作品にはもうひとつ結末がある。そちらのほうは「私はつかつかと部屋のなかに入っていき、テーブルの前にすわっているメアリー・Vの姿を見た」というものである。
書かれなかった長篇小説
「壁の染み」「キュー植物園」とともに「意識の流れ」の手法を用いたとして重要視される作品である。結句のエクスタシーに満ちた言葉はウルフの世界観が基本的に肯定的だったのではないかと思わせるに充分である。
3 評価
E・M・フォースターは追悼講演でウルフの評価は後世の人が下すだろうという意のことを述べているが、その言葉が発された時から大分経った現在も、彼女にたいする評価はフォースターが期待したほど明確なものではないように見える。もちろん文学史的には大作家であるし、研究者の数はもちろん少なくない。一般的な読者の人気という点では、日本では高いとは言えないが、欧米では現在もペーパーバックでさまざまな版が出ていて、それを見る限りでは低くはないようである。そうした作家にたいして評価が定まっていないという判断を下すのは不思議に思えるかもしれないが、どうもウルフを巡る言説を見ているとそう言わざるを得ないところがあるのだ。ウルフに関して発言する者のあいだで一致する意見はさほど多くはない。唯一、誰しも認めることはウルフが論議に値すべき作家であるという点くらいだろうか。しかし、あるいはその評価の定まらなさにこそ、ウルフの小説の特性が表れているのかもしれない。
たとえば、フォースターはウルフの小説は詩であると捉える。ほかにもウルフが書いたものは詩であると主張する者は比較的多い。しかし単純な疑問として、ではなぜウルフは詩の形式で書かなかったか、詩集が一冊もないのはどういうわけか、といった疑問が湧きあがる。やはり彼女を散文に向かわせた原因は何かしら存在すると仮定して然るべきだろう。
またウルフは「審美主義者」に分類されることもある。確かにトマス・ド・クインシーやペイターにたいする態度、それに『ダロウェイ夫人』などの描写の美しさを見るとその主張に頷きたい気持ちにもなる。けれども、審美主義者であるにしてはあまりに構築性に欠けてはいないだろうか。審美主義者の持つ完全さ(死?)への憧憬の匂いが欠けてはいないだろうか。あまりに|断片的《フラグメンタル》ではなかろうか。
また、「|感覚《センシビリテイー》」の語をもって語る批評家もいる。印象派の手法を小説上で展開したのだという主張は、おそらくそうした批評の関連で出てくるのだろう。それは確かに一考に値いする考えかもしれない。しかし「|感覚《センシビリテイー》」とはじつに曖昧な言葉である。ウルフは感覚ということを重んじて小説を書いたと判断を下す時、証明されることとはいったい何だろう。そこにウルフの作品の解釈という点で進展をもたらすものが存在するだろうか。とはいえ彼女が「感覚的なもの」、やや恣意的にパラフレーズさせてもらうなら、「小さなもの」「瞬間的なこと」を利用して小説を書いたことは明らかである。としたら「感覚的なことを帰納的に用いて小説を書いた」と書けばもう少し妥当性は増すだろう。しかし、そうした言説も評価に関して何かを決定づけるかといえば、どうやらそんなことはないようである。なぜならばウルフの作品のそうした特徴は彼女を批判する者の拠りどころともなっているからである。「リアリティーに欠ける」「人物創造や性格描写が充分でない」「道徳的な感覚がない」「行動への関心が欠如している」といった言葉はウルフが非難される時多く用いられる言葉である。そうした言い方はもちろん「ウルフは感覚的なものを重んじた」という言い方の裏返しである。讃える者も難じる者も同じ箇所を見ておのおのの判断を下しているのである。
一風変わったことを主張したのはA・D・ムーディーである。ウルフの作品はエミリー・ブロンテやスターンの作品に似て「最高レヴェルの二流作品」である、というのがムーディーの主張である。なかなか含蓄のある評言であるが、そこに示されたものは、ウルフの作品がひとつの個性に依ったものであるということだろう。そう言われてみれば、ロレンスに比べ、あるいはジョイスに比べ、ウルフの仕事は個人の名の下に為されたものといった観が強い。ウルフはあるいはひとりのマイナー・ポエットであったかも知れない。きっとそうなっていただろう。おそらく『波』あるいは『燈台へ』『ダロウェイ夫人』のどれか一作とここに収めたような短篇を五、六作だけ残したならば。そしてこれほど多量の日記や手紙を残さなかったら。ウルフの全著作がもしもその程度の量だったならば、確かに明確さは増す。その時、ウルフは「意識の流れ」というひとつの|文体《スタイル》をもったスタイリストという面を強く見せるだろう。しかしもちろんそうした仮定には無理がある。なぜならウルフが極めて多量の文章を残しているのは揺るがすことのできない事実であるし、さらにそのすべてが出版されているという事実は、結果的にウルフの作品が、あるいはウルフというトピックが、パーソナルなもの、マイナー・ポエット的なものに留まらない必然性、すなわち普遍性を備えていたことを示唆するからである。おそらくウルフに関してはこれからもさまざまな言説が現れてくるだろう。ウルフがそうしたものを喚起する存在であることだけは少なくとも明確である。
4 短篇の語るもの
ウルフに関する本は多い。トイレット・トレーニングが残した傷跡を作品から類推して論じた本から、ジョン・レイマンの愛らしい伝記までさまざまである。現在ではウルフはひとつの、あるいは複数のコードのなかにある。自殺、神経症、フェミニスト、同性愛、異父兄弟からの性的虐待。私たちはウルフを読む時、ただ作品を読んでいるのではなく、そうしたコードのなかに組みこまれた作品を読む。ヴァージニア・ウルフというテクストのなかのテクストを読んでいるわけである。しかしその是非を問うことにあまり意味はないだろう。ウルフが自殺した作家であるということを一度知ってしまえばそれはもう忘れることはできない。私たちは多かれ少なかれそうした伝記的な情報とともにウルフの作品を読むしかないのである。ことに長篇はそうしたものの抜きがたい影響を受けているといっていいだろう。そしてあるいはそこにウルフの短篇集が存在する意義もあるかもしれない。ここに収めた十七篇は伝記的要素、ウルフ的物語から比較的自由である。自由になったウルフの短篇小説が読者に伝えるものは緊密さや美や難解さだけではない。おそらくこれまでウルフになかったとされているものもここにはある。たぶんユーモアが、そして浄福感が、そして生への力強い意志でさえもここにはあるかもしれない。訳者としては訳出の際にそうした存在の明るさを含んだウルフの姿を読者に伝えたいという気持ちに強く駆られた。最後にそのことは記しておきたく思う。
翻訳にあたっては、先達の訳を参照して鴻恩に浴した。ことに小野寺健氏と川本静子氏の訳を参考にできたのは大いなる幸運であった。記して謝辞としたい。また編集部の磯部知子氏には多くの有益な助言を戴いた。底本としたのは一九八五年に出版されたスーザン・ディック Susan Dick 編の "The Complete Shorter Fiction of Virginia Woolf" の第二版である。
ヴァージニア・ウルフ (Virginia Woolf)
一八八二―一九四一。米国の女流作家。二十世紀を代表する文学者の一人。「意識の流れ」の手法を用いて、小説の可能性に新しい地平を切り開いた。批評家、フェミニストでもあり、同性愛、自殺という側面から語られることも多い。代表作に『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『波』など、短編集に『月曜日か火曜日』『憑かれた家』がある。
西崎憲(にしざき・けん)
一九五五年、青森県に生まれる。英米文学翻訳家、アンソロジスト。二〇〇二年『世界の果ての庭』で日本ファンタジーノベル大賞受賞。編訳書に『怪奇小説の世紀』『英国短篇小説の愉しみ』『マンスフィールド短篇集』、訳書にアントニイ・バークリー『第二の銃声』、A・E・コッパード『郵便局と蛇』などがある。
本作品は一九九九年一〇月、ちくま文庫の一冊として刊行された。