新しい太陽の書4[#4は○+4]
独裁者の城塞
THE CITADEL OF THE AUTARCH
[#地付き]ジーン・ウルフ Gene Wolfe
[#地付き]岡部宏之訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戦闘《バトル》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数|歩《ぺース》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから本文]
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日本語版翻訳独占
早川書房
C[#○+C] 1988 Hayakawa Pablishing, Inc.
THE CITADEL OF THE AUTARCH
by
Gene Wolfe
Copyright C[#○+C] 1988 by
Gene Wolfe
Translated by
Hiroyuki Okabe
First published 1988 in Japan by
HAYAKAWA PUBLISHING, INC.
This book is published in Japan by arrangement
with VIRGINIA KIDD AGENCY, INC.
through TUTTLE-MORI AGENCY, INC. TOKYO.
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午前二時に窓を開けて耳を澄ませば、
〈冬〉が太陽を呼びにいく足音が聞こえるだろう。
そして、陰の木々のそよぎが聞こえ、
月光を浴びた木々のきらめきが見えるだろう、
そして、闇は深く暗いけれど、
もう夜は終わったと、きみは感じるだろう。
[#地から3字上げ]――ラドヤード・キプリング
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目 次
1 死んだ兵士
2 生きている兵士
3 ほこりの中を
4 熱病
5 避病院
6 ミレス、フォイラ、メリト、そしてハルヴァード
7 ハルヴァードの物語――二人のアザラシ取り
8 尼僧
9 メリトの物語――雄鶏と天使と鷲
10 アヴァ
11 〈十七人組〉の忠実な部下――正義の人
12 ウィノック
13 フォイラの物語――大郷士の娘
14 マンネア
15 最後の家
16 世捨て人
17 神々の黄昏――最後の冬
18 フォイラの願い
19 グアザヒト
20 パトロール
21 展開
22 戦闘
23 海の大船が陸地を見る
24 飛翔機
25 アギアの慈悲
26 ジャングルの上で
27 ヴォダルスの前で
28 行軍について
29 共和国の独裁者
30 時の回廊
31 砂の園
32 サムル号
33 独裁者の城塞
34 宇宙の鍵
35 イナイア老の手紙
36 贋金と点火について
37 ふたたび川を渡って
38 復活
〈付録〉独裁者の武器と神殿奴隷の船
解説/鏡 明
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独裁者の城塞
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1 死んだ兵士
わたしは戦争を見たこともないし、戦争について経験者と話をしたこともない。しかし若かったし、暴力について多少の知識もあったから、わたしにとって戦争は一つの新しい経験にすぎないと信じていた。ちょうど、他の物事――たとえばスラックスでの権力の保持や、〈絶対の家〉からの脱走などが、自分にとって新しい経験であったように。
戦争は新しい経験ではなく、新しい世界である。その世界の住民は、ファミリムスとその仲間以上に、人類とは異なっている。その世界の法律は新しい。そこでは、地理学さえ新しい。なぜならそれは、意味のない丘や洞穴に、都市と同様の重要性が付与される地理学なのだから。われわれの馴染みのウールスにエレボス、アバイア、アリオクなどの怪物がいるのと同様、戦争という世界には、戦闘《バトル》という怪物が跋扈《ばっこ》している。その細胞は独立していて、それぞれ独自の生命と知性を持ち、近づいた人は、次第に濃厚になる予兆を感じるものである。
その夜、わたしは夜明けのずっと前に目覚めた。すべてが静まり返っているように思われた。敵が接近しているのではないかと感じ、その殺気で胸騒ぎがした。わたしは起き上がって、見回した。丘は闇に沈んでいた。わたしは丈の高い草を踏みしだいて、寝床のようなものを作り、その中にいた。こおろぎが鳴いていた。
ずっと北のほうで何かが見えた。地平線すれすれに董色の閃光がひらめいたように思われた。光が見えたと思われる地点に目を凝らしてみた。見たと思ったのは目の錯覚にすぎず、たぶんあの首長の家で与えられた麻薬の残存効果かなにかだろうと自分を納得させたその瞬間、凝視していた地点の少し左に、紫紅色の閃光が走った。
一刻あるいはそれ以上の間、わたしはそこに立ちつづけていたが、謎の光は時々見えた。結局、ずっと遠方のものであり、接近してくる徴候はないし、また、わたしの心臓の鼓動の五百拍ごとに発光するという頻度にも変化はないらしいと結論を下して、また横になった。この頃には完全に目が覚めてしまったので、わたしは体の下の大地がごくかすかに震動しているのに気づいた。
夜が明けて、ふたたび目覚めた時には、この震動はやんでいた。歩きながら地平線を熱心に注目していたが、特に変わったものは見えなかった。
二日間食事をしていないので、もう空腹感はなくなっていたが、正常の体力は失われていると感じた。この日のうちに二度、朽ち果てた小さな家に出会い、そのたびに中に入って食べ物を探した。何かが残っていたにしても、とうの昔に持ち去られてしまっていて、鼠すらいなかった。二つめの家には井戸があったが、ずっと昔に何かの死骸が投げこまれていた。いずれにせよ、腐った水を汲み上げる手だてはなかった。わたしは、飲み物はないか、これまで何本も使ってきた腐った木の棒よりましな杖はないかと思いながら、歩きつづけた。山中でテルミヌス・エストを杖がわりに使った経験から、杖があるととても歩きやすいことを知っていたのである。
昼ころ、一本の小道に行き当たったので、それに沿っていった。まもなく蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。わたしは道を見下ろすことのできる場所に身を潜めた。一瞬の後、次の丘の上に一人の騎士が現われ、わたしの下をさっと通り抜けていった。ちらりと見たかぎりでは、アブディーススの龍騎兵の指揮官のスタイルになんとなく似た鎧をつけていたが、風にはためくそのケープは赤ではなく緑であり、ヘルメットには帽子の庇のような面頬がついていた。それがだれであるにせよ、実に威風堂々たる騎馬武者だった。軍馬は口から泡を噴き、横腹は汗にまみれていたが、それでも競馬の発走信号がたった今出されたばかりのような勢いで、飛ぶように疾走していった。
一騎に出会ったのだから、ほかにも出会うだろうと予想したが、あとはやってこなかった。わたしは鳥の鳴き声を聞いたり、たくさんの猟獣の姿を見かけたりしながら、長い間、無事に歩きつづけた。やがて、(言葉に言い表わすことができないほど嬉しかったが)道は小川と交差した。それから上流に十数歩あるくと、白い砂利の川床の上を、より深い水が、もっと静かに流れている場所に出た。小魚がブーツに驚いて逃げまどった――これは常に良い水のしるしである――水はまだ山の頂きの冷たさと、雪の名残りの甘さをとどめていた。わたしはがぶがぶ飲んだ。もう飲めなくなると、水は冷たかったが、今度は衣服を脱いで、体を洗った。水浴を終えて、衣服を着け、道と川の交差点に戻ると、対岸に動物の足跡が二つついているのが見えた。几帳面に二つそろって並んでおり、動物がかがんで水を飲んだことを示していた。それらは、さっきの将校の馬の蹄の跡に重なっており、一つ一つが晩餐の皿ほどの大きさがあって、前足の裏の柔らかい肉の跡の先には、鉤爪の跡はなかった。かつて、わたしが幼女セクラであった頃に叔父の猟犬係をしていたミダン老人が、こういったことがある――剣歯虎《スミロドン》はたらふく食べたあとでなければ水を飲まず、また、たらふく食べて水を飲んだあとには、こちらから手を出さないかぎり危険はないと。だから、わたしは先に進んだ。
道は樹木の生えた谷間をくねくねと続き、それから丘の間の鞍部にのぼっていった。峠の近くまでいった時に、直径が二スパンもある立ち木が、目の高さでぽっきりと折られている(ように見える)のを発見した。立っている切り株と、落ちている幹の端は、どちらもささくれていて、斧できれいに切断したのとはまったく異なっていた。先のほうに歩いていくと、二、三リーグにわたって、同様のものが数十本見つかった。倒れた幹に葉がついておらず、樹皮もない場合があり、しかも立っている切り株から新芽がふいていることから判断すると、この加害は少なくとも一年前に、ことによったらもっと以前に行なわれたようであった。
やがて細道は、本当の道路に接続した。噂にはしばしば聞いていたが、これまでは崩壊しているもの以外一度も歩いたことのない道で、ネッソスを出た時に槍騎兵が遮断していて、タロス博士やバルダンダーズやジョレンタやドルカスとはぐれてしまった、あの旧道にそっくりだった。しかし、あたりに漂っているもうもうたる土ぼこりは予期していなかった。道幅はたいていの都市の街路よりも広かったが、草はまったく生えていなかった。
その道を進む以外にどうしようもなかった。周辺の樹木は密生していて、木と木のあいだの空間は藪でふさがっていた。最初、槍騎兵の火を噴く槍を思い出して、怖かった。しかし、本道通行禁止令はここではすでに効力を失っているだろうし、この道路には明らかに往時ほどの通行量はないものと思われた。だから、まもなく後方から、人声と大勢の行進する足音が聞こえてきた時には、わたしは一、二歩、木立の中に歩み入っただけで、隊列が通り過ぎるのを、公然と見物することにした。
先頭は、威勢よく轡《くつわ》を噛み鳴らす見事な青馬にまたがった将校だった。その軍馬の牙は長く伸ばされて、馬の鎧と騎士の| 剣 《エストック》の柄に調和するトルコ石がはめこまれていた。その後に徒歩で続く兵土は、肩が大きく、腰が細く、真っ黒に日焼けして無表情な顔をした重歩兵の先鋒隊《アンテピラニ》だった。彼らは三叉の槍、刺股《さすまた》、頭の重い鉾槍《ほこやり》などを携帯していた。このようにごたまぜの武器を持っていることや、徽章と装具にある種の不揃いが認められることから、彼らの兵団《モラ》はもとの編成の残存者によって構成されていると、わたしは見て取った。もしそうだとすると、彼らは経験した戦闘の結果、無感動になっているにちがいないと思われた。全部で四千人くらいの兵士が、興奮も抵抗も、疲労の徴候も示さず、みずからの態度に無頓着ではあるが、だらしなくはなく、思考も努力もなしに歩調を揃えて、ザク、ザク、ザク、ザクと進んでいった。
その後から、唸ったり、ラッパのような声をあげる古代象《トリロフォドン》に牽かれた荷車がやってきた。それらがそばにくると、わたしは道路のほうににじり寄った。なぜなら、その大部分は食糧を積んでいたからである。しかし、それらの車の周囲には騎馬兵たちがいた。そして、その一人がわたしに呼びかけて、どの隊の者かと尋ね、それから自分についてこいと命じた。わたしはそれに背いて逃げだした。相手は馬に乗ったまま木立の中を走ることはできないし、軍馬を捨てて、徒歩でわたしを追うこともあるまいと思ったが、それでも、息が切れるまで走って逃げた。
最後に立ち止まったのは、ひょろ長い木々の林の中の、緑がかった木洩れ日の落ちている静かな空き地だった。苔が地面を厚く覆っていたので、まるで、〈絶対の家〉の主人に出会ったあの秘密の絵の部屋の、分厚いカーペットの上を歩いているような気分になった。わたしはしばらくの間、細い木の幹によりかかって、耳を澄ませながら、休息を取った。自分自身の呼吸の音と、耳の中の潮騒のような血流の音以外には、物音は聞こえなかった。
しばらくすると、第三の物音、つまり、蝿のかすかな羽音が意識にのぼった。わたしは組合のマントの端で顔の汗を拭った。そのマントは今は哀れにもぼろぼろになり、色あせていた。そしてわたしは、これが職人になった時にグルロウズ師が肩に着せかけてくれたマントであり、これを着て死ぬことになったかもしれないことを、ふいに思い出した。布地にしみこんだ汗が、露のように冷たく感じられた。空気は湿った地面の匂いを重苦しく含んでいた。
蝿の羽音がやみ、それからまた聞こえてきた――それも、もう少し執拗に。たぶん、自分の呼吸が正常に戻ったせいでそう感じられただけだろう。わたしはぼんやりと羽音の主を探した。すると一匹の蝿が、数|歩《ぺース》先に棒のように落ちている日光を矢のように横切って、密生している木の後ろから突き出ている茶色の物体にとまるのが見えた。
ブーツだ。
わたしはなんの武器も持っていなかった。いつもなら、徒手空拳で男一人に立ち向かうぐらい怖くもなんともない。特に、このように剣を振るうことが不可能な場所では。しかし今は、自分の体力がほとんどなくなっているのがわかっており、また、絶食は人の勇気の一部を破壊することを発見しつつあった――いや、むしろ、絶食が勇気の一部を消費し、ほかの切迫した事柄に回す分が減る、というだけのことかもしれない。
それはともかく、わたしは疲れた足を引きずりながら静かに横歩きして、相手が見えるところまでいった。そいつは片足を体の下に縮め、もう片足を伸ばして、地上に横たわっていた。右手のそばに青龍刀が落ちており、その革紐がまだ手首にはまったままになっている。単純な鉄兜《バーバット》が頭から落ちて、一歩はなれたところに転がっている。蝿はブーツを這い上がって、膝のすぐ下の剥き出しの肉のところまでいき、それからまた小さい鋸のような音を立てて舞い上がった。
むろん、その男が死んでいることはわかった。安堵すると同時に、孤独感がどっと戻ってくるのを感じた。もっとも、孤独感が消えたことは気づかずにいたのだったが。わたしはそいつの肩をつかんでひっくり返した。死体はまだ腐ってはいなかったが、それでもかすかながら、すでに屍臭を発しはじめていた。顔は、火のそばに置いた蝋人形の顔のように柔らかくなっていて、どんな表情で死んだか、今となっては知るすべはない。若くて金髪で――角顔のハンサムなタイプだった。傷を探したが、見あたらなかった。
背嚢の革紐はあまりに固く締まっていたので、引っぱって緩めることも、止め金を外すこともできなかった。結局ベルトから短刀を抜いて紐を切断し、短刀は立ち木に突き立てた。毛布一枚、紙切れ一枚、粗織りの靴下二足(こいつはありがたい)、とりわけありがたかったのは、清潔な布にくるんだパン半斤と玉葱一個、そして、別の布にくるんだ干し肉五本とチーズ一塊り。
まず、パンとチーズを食べたが、落ち着いて食べることができないので、三口ごとにむりやりに立ち上がって、歩き回ることにした。パンは一生懸命に噛まなければ飲みこめなかった。その味は、〈剣舞《マタチン》の塔〉の客人の食事に出す堅パンの味とそっくりで、また、空腹のせいではなくいたずら心で一、二度盗んだパンの味とそっくりだった。チーズは干からびていて、匂いが強く、塩辛かったが、それでもとてもおいしかった。その時、こんなに旨いものは食べたことがないと思ったし、今でも、あれ以来あんなに旨いものは食べたことがないと思っている。生命そのものを食べたといっても、過言ではないだろう。それを食べると喉が渇いた。しかし、玉葱が唾液腺を刺激して、いかに上手に渇きを癒してくれるかを知った。
肉――これも強い塩潰けになっていた――に手をつける頃には、これを夜のために取っておこうかどうしようかと思案する余裕ができるまでに満ち足りていた。ひと切れ食べて、あとの四切れは取っておくことに決めた。
その日の午前中、初めの頃は風がなかったが、今はかすかな風が吹いていて、わたしの頬を冷やし、木の葉をそよがせ、死んだ兵士の背嚢から引き出した紙切れを吹き飛ばした。紙切れは苔の上をかさこそ舞っていって、木にひっかかった。わたしはまだもぐもぐと食べながら、紙切れを追いかけてつかまえた。手紙だった――発送する機会がついになかったか、または、ついに書きおえることができなかった手紙だと思う。男の筆跡は角ばっていて、思ったより細かい文字だった。といっても、文字が小さいのは、彼が小さな紙片にたくさんの言葉を書き連ねたいと思ったからにすぎないだろう。見たところ、それは彼の持っている最後の紙だったらしい。
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拝啓
この前に手紙を出した場所から強行軍をして、今は北に百リーグきている。食糧は充分あるし、昼間は暖かい。しかし、夜は寒いことがたまにある。前に話したマカールは病気で倒れ、後方に残ることが許された。すると、ほかのやつが大勢病気だと言いだしたので、そいつらは武器なしで、背嚢を二個ずつ背負い、監視をつけて、おれたちの前を歩かされている。とにかく、今のところアスキア人の姿は全然見えない。百人隊長の話では、彼らの姿を見るのは、まだ何日も行軍をしてからだそうだ。三夜連続で、歩哨が反乱軍に殺されたので、わが軍はついに一ヵ所に三人ずつ歩哨を立て、陣地の外にも絶えず斥候を出すことになった。おれは最初の晩にその斥候の一人に指名されたが、ひどく気味の悪いものだった。暗闇で戦友のだれかに切り殺されはしないかと思うせいだ。おれは木の根につまずいたり、焚火のまわりの歌声に耳をそばだてたりして、当直時間を過ごした。みんなが歌うのは、こんな歌だ――
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あしたの夜は
朱《あけ》に染まった地面が寝床だ
だから今夜は酔っばらおうぜ
さあ戦友よ、酒杯を回せ
敵が射撃を始めたら
すべての弾丸《たま》よ、それてくれ
おまえが良いものぶんどるように
おれもおまえも達者なように
さあ戦友よ、酒杯を回せ
あしたの夜は
朱に染まった地面が寝床だ
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当然のことながら、反乱軍の姿は見なかった。反乱軍はその首領の名前を取ってヴォダラリアイと呼ばれ、選り抜きの戦士だということだ。そして給料も良く、アスキア人から援助を受けているそうだ……。
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2 生きている兵士
わたしは途中まで読んだ手紙を脇に置き、その筆者を見つめた。彼の易合は、弾丸はそれずに命を奪ったらしい。男は今、輝きの失せた青い目で太陽を見つめている。片方の目をウィンクしているように半眼に開き、もう片方の目を大きく見開いて。
この瞬間よりもずっと以前に、〈鉤爪《つめ》〉を思い出してもおかしくなかった。だが、わたしは忘れていた。いや、死者の背嚢から食糧を盗むのに熱中していて、その考えを圧殺していただけかもしれない。きっと相手が、死から蘇らせてくれた命の恩人に食糧をわけてくれるだろうなどとは考えつきもしかったのだ。今、ヴォダルスとその追従者(彼らを見つけさえすれば、きっとわたしを助けてくれるだろうと思った)のことを口にしたとたんに、わたしは〈鉤爪〉のことを思い出し、それを取り出してみた。〈鉤爪〉は夏の日を浴びていっそう明るくきらめいたように思われた。実際、サファイアのケースがなくなってから、こんなに明るく輝くのを見たことはなかった。それを彼にあてがった。それから、得体の知れない衝動に駆られて、それを口に含ませた。
それでもなんの効果もないとわかると、わたしは〈鉤爪〉を親指と人差指でつまみ、尖端を死者の額の柔らかい皮膚に突き立てた。彼は動きも、呼吸もしなかったが、生きている人の血のように新鮮で粘りけのある血が一滴、湧き出して、わたしの指を汚した。
わたしは指を引っこめて、草の葉で拭った。そして、また手紙の続きを読もうと思った時、どこか離れた場所から、小枝の折れる音が聞こえてきた。隠れるか、逃げるか、闘うか、一瞬迷った。しかし、最初の手段は成功しそうもなかったし、第二の手段にはすでにうんざりしている。それで、死者の短刀を拾い上げ、マントにくるまって、立ったまま待つことにした。
だれもこなかった――いや、少なくとも、だれも見えなかった。木々の梢で、風がかすかなため息をもらしていた。蝿はいってしまったようだ。たぶん、物陰を跳ねていく鹿の足音でも聞いたのだろう。わたしはこれまで、狩猟道具になるような武器を持たずに旅を続けてきたので、動物を狩るという可能性をほとんど忘れてしまっていた。そして今、短刀を調べながら、これが弓ならよかったのにと考えていた。
背中で何かの動く気配がした。
わたしは振り返った。
あの兵士だった。背筋に戦慄が走った――死体さえ見ていなかったら、瀕死の男だと思っただろう。彼は手を震わせ、喉をごろごろ鳴らしていた。わたしは屈んで、彼の顔に触った。顔は今までどおり冷たかった。火を起こさねばならないという衝動を感じた。
彼の背嚢には、火起こしの道具が入っていなかった。だが、兵士たる者必ずその種の道具を持っているものである。彼のポケットを探ると、二、三アエスの貨幣と、懸垂式の日時計と、火打ち石が見つかった。火口《ほくち》になる枯れ草は木の下にいくらでもあった――心配は、そのすべてが燃え上がりはしないだろうかということだった。わたしは両手で地面を掃き清めて空地を作り、中心にかき集めた枯れ草を積み上げて火をつけ、腐った大枝を数本集めて折ると、火の上に乗せた。
焚火は予想以上に明るい光を放った――ほとんど日が暮れて、すぐに暗くなる時間だった。わたしは死者を見た。もう両手の震えはやんで、喉からは音も聞こえない。顔の肌は、さっきよりも暖かくなっているようだ。しかしそれは、疑いなく焚火の熱のせいだった。額の血の滴はほとんど乾いていたが、それでも瀕死の太陽の光を反射しているように見え、どこかの宝庫からこぼれ落ちたひと粒の宝石――それも鳩の血の色をしたルビーか何かのような輝きを放っていた。われわれの焚火は、ほとんど煙を立てなかった。それでも、まるでお香のように匂いのよいかすかな煙がまっすぐに立ち昇って、しだいに濃くなる夕闇の中に消えていった。それを見ていると、何かうまく思い出せないものが、心に浮かんできた。わたしは気力を奮い起こして、さらに薪を見つけてきて、折って火にくべ、ひと晩はもつと思われる大きさの焚火にした。
このオリシアは、山岳地帯やディウトルナ湖畔ほど寒くはなく、死者の背嚢に毛布があったことは思い出したが、それを使う必要を感じなかった。作業のおかげで体は温まったし、食事のおかげで元気も出たので、夕闇の中をしばらく歩き回ったり、気が向くと短刀を勇ましく振り回したりもしたが、それでも、死者と自分との間にいつも焚火をはさむように気をくばっていた。
この手記の中で折りにふれ述べているように、わたしの記憶はいつも、幻覚さながらの密度をそなえて立ち現われる。この夜は、自分の生涯を一本の直線ではなく円環として捕えて、その中に入りこんでしまいそうに感じた。一度などその誘惑に抵抗せずに、のめりこんでしまった。これまで記述した出来事のすべてと、そのほかおびただしい物事が、どっと蘇ってきた。共同墓地の門の格子の間をくぐり抜けようとするイータの顔と、そばかすのある手が見えた。〈城塞〉の塔を叩くさまを眺めていた猛烈な嵐と、鞭のように閃く稲妻が見えた。その雨が、組合の食堂のモーニングカップよりもはるかに冷たく新鮮に、顔を流れ下るのを感じた。ドルカスの声が耳の中でささやいた。「お盆と十字架をウィンドウに並べて……。どうするつもり? わたしを亡ぼすために悪鬼《エリニス》でも呼び出すの?」
そうだ。本当にそうだ。できれば、そうしたかった。もしわたしがヘトールだったら、この世の裏側の恐ろしい場所から、魔女の首と毒蛇の舌を持った鳥を引っばり出してきただろうに。その鳥たちは、わたしの命令を受けて、麦を脱穀するように森林を翼で打ち、都市を叩きつぶしただろうに……それでもやはり、できることなら、最後の瞬間に、彼女を救いにわたしは現われたことだろう――子供の頃、好きな子に何か意地悪をされると、その子を窮地から救っておいて、侮辱する場面を想像し、救った後に冷たく立ち去りたいとみんな思うものだが、わたしはそうせずに彼女を腕の中に抱き上げたいと思うのである。
死が訪れた時、彼女は子供の域をほとんど出ていなかったし、また、死んでからずいぶん長い年月がたっていた。だから、その彼女にとって、この世に呼び戻されることがどんなに恐ろしいことだったか、わたしはこの時初めて知ったように思う。
それを考えているうちに、食糧と短刀を取り上げたあの死んだ兵士のことを思い出した。そして、もしや彼が息をしていないか、身動きしていないかと、耳を澄ませた。だが、わたしはあまりにも記憶の世界に没入していたので、足の下の柔らかな森の土は、ヴォダルスのために〈穴熊のヒルデグリン〉が暴《あば》いた墓から出たもののように思われ、また、木の葉のそよぎは、われわれの共同墓地の糸杉のそよぎと、暗紫色の薔薇の花の揺れる音のように感じられた。そしてまた、わたしがそばだてたこの耳も、ヴォダルスが脇の下にロープをかけて引き上げた白い屍布につつまれた女の死体が、もしや呼吸をしてはいないかと、その音をむなしく探し求めていた。
しまいに夜鷹の鳴き声でわれに返った。兵士の白い顔がわたしをじっと見つめているように思われたので、焚火をまわっていって毛布を見つけ、死体にかけた。
今にして思えぽ、ドルカスは、われわれを裏切るあの女たちの大群(実際、それはすべての女を含んでいるかもしれない)の一員なのだ――それも、現存するライバルのためではなく、自分自身の過去のために裏切りを働く、特殊なタイプの女に属していた。サルトゥスで処刑したあのモーウェンナは、自分が自由であり、おそらく処女だった時代を思い出して、夫と子供を毒殺したにちがいないが、それと同様にドルカスは、自分の寿命が尽きる前にわたしが存在していなかった(彼女が無意識に見抜いたように、わたしが存在しそこねた)からこそ、わたしのもとを去ったのである。
(また、わたしにとっても、あれは黄金時代だった。わたしの独房に本や花を持ってきてくれたあの粗野で優しい少年の記憶を、わたしは宝物のように大切にしまいこんでいたにちがいない。その理由は主として、彼が運命の瞬間を迎える前のわたしの最後の愛人だということを知っていたからだ。もっとも、その運命の瞬間は、あの牢獄で学んだように、わたしの叫びを圧殺するために壁かけをかぶせられた瞬間でもなく、ネッソスの〈古い城塞〉に到着した瞬間でもなく、背後で独房の扉がぴしゃりと閉まった瞬間でもなく、また、ウールス上に決して輝いたことのないような閃光に浸り、自分の肉体が自分に反逆するのを感じたあの瞬間でさえもなくて――彼が持ってきてくれた油じみた皮剥きナイフの、冷たく慈悲深い鋭利な刃で、われとわが身の喉を掻き切ったあの瞬間だった。おそらく、わたしたちみんなに、そうした時がやってくるのだろう。めいめいが自業自得だとわが身を呪うことこそ、カイタニア([#ここから割り注]普遍的な知性[#ここで割り注終わり])の意思なのだろう。それにしても、わたしたちはそれほどひどく憎まれるのだろうか? そもそも憎まれるということがありうるだろうか? そんなことはない。わたしの乳房への彼のキスをまだ覚えているかぎりは――彼のキスは、アフロディシウスのキスがそうであったように、そして、親衛隊長の甥だったあの若者のキスがそうであったように、わたしの肉体の香りを吸うためにするのではなくて――まるで、わたしの肉体に本当に飢えているかのように、したものだった。何者かがわたしたちを見張っていたのだろうか? 今では、彼はわたしの一部を食べてしまっている。その記憶でわたしは目を覚まし、手を上げて彼の頭髪を指で梳《す》くのだわ)
わたしはマントにくるまって遅くまで寝ていた。困苦を堪え忍ぶ人には、自然が報酬を支払ってくれる。安楽な生活をしている人なら不満をいうかもしれないような小さな困難が、ほとんど快楽に感じられるのだ。わたしは実際に体を起こす前に、山岳地帯で辛抱した困苦に比べれば、昨夜はなんと容易に過ごすことができたことかと一人で感謝しながら、何度も目を覚ましたものであった。
ついに、日光と小鳥のさえずりで、われに返った。燃え尽きた焚火の反対側で、あの兵士がもぞもぞ動き、何か呟いたようだった。わたしは起き上がった。兵士は毛布を脇にのせて、空に顔を向けて横たわっていた。その顔は青白く、頬がこけていた。目の下には濃いくまがあり、口から深いしわが伸びていた。しかし、それは生きた人間の顔だった。両眼は本当に閉じられており、鼻孔からは呼吸の音が聞こえた。
一瞬、彼が目覚めないうちに、逃げたいという誘惑に駆られた。彼の短刀はまだ取り上げたままになっていた――返してやろうかと思ったが、相手がそれを使って襲いかかってくるのではないかという恐怖を感じて、やめにした。短刀はまだ木の幹に突き刺さったままだった。それを見ると、キャスドーの家の鎧戸に突き刺さったアギアの曲がった短刀を思い出した。わたしはそれを取って、彼のベルトの鞘に収めた。というのも、剣を持っているくせに、ナイフを持っている相手を恐れるなど恥ずかしく思えたからである。
男の瞼がぴくぴく動いた。わたしは、ドルカスが目を覚ました時に覗きこんでいて彼女を怖がらせたことを思い出して、体を後ろに引いた。自分の姿が黒く見えないように、マントを後ろにずらせ、何日も太陽にさらされてすっかり日焼けして茶色くなった腕と胸をむき出しにした。彼の呼吸音が聞こえた。それが寝息から目覚めの息に変わるのを聞いた時に、わたしには、死から生への移行という、ほとんど奇跡ともいえる事件が起きたように感じられた。
彼は子供のようにうつろな目をして起き上がり、あたりを見回した。唇を動かしたが、意味のない音声しか出てこなかった。わたしは親しげな口調になるように注意しながら、話しかけた。彼は耳を傾けたが、理解できないようだった。わたしは〈絶対の家〉への路上で蘇生させたあの槍騎兵が、ひどく茫然としていたことを思い出した。
彼に与える水があればよかったのだが、水はなかった。その代わり、彼の背嚢から取った塩漬けの肉をひと切れ取り出して、二つに裂き、片方を彼に与えた。
それを噛むと、彼はいくらか気分が良くなったようだった。「立ち上がれ」わたしはいった。
「飲む物を探さなくてはならないぞ」彼はわたしに手を差し出して、体を引き上げさせた。だが、ほとんどまともに立っていることはできなかった。最初はとても冷静だった目が、次第に警戒の色を帯び、大きく見開かれた。立ち木がライオンの群れのように襲いかかってくるのではないかと、恐れているかのようだった。だが、短刀を抜こうともせず、青龍刀を取り戻そうともしなかった。
三、四歩あるくと、兵士はよろめいて倒れかけた。わたしは彼を腕に寄りかからせて、いっしょに木立を抜けて道路のほうに歩いていった。
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3 ほこりの中を
北に向かうべきか、南に向かうべきかは決められなかった。北方のどこかにアスキア軍がいる。戦線に近づぎすぎれば、高速機動作戦に巻きこまれるかもしれない。しかし、南にいけばいくほど、助けてくれる人に出会う可能性は少なくなるだろう。脱走兵として逮捕される可能性は、さらに高くなる。だが結局は、南に向かうことにした。わたしがこのようにふるまったのは、主として習慣からだった。それにしても、これが賢明だったのか、愚かだったのかは、いまだによくわからない。
路上の露はすでに乾いてしまっていた。埃っぽい路面には、足跡はない。どちらの側も、三ペースまたはそれ以上の間、植物は一様に灰色になっていた。まもなく森林を通り抜けた。道路は曲がりくねって丘を下り、岩の散在する谷間の底で、小さな川にかかった橋を越えて続いていた。
われわれはそこで道をはずれて、水際に降りていき、水を飲んで顔を洗った。ディウトルナ湖を後にして以来、わたしは髭を剃っていなかった。兵士のポケットから火打ち石を取り出した時には剃刀は見当たらなかったが、思いきって、剃刀を持っていないかを尋ねてみた。
この取るに足りない出来事をわざわざ記述したのは、これが、彼が理解したらしいわたしの最初の言葉だったからである。彼はうなずくと、長い鎖帷子の下に手を差し入れて、田舎の人人がよく使っている小さな刃物――つまり、村の鍛冶屋がすり切れた牛の蹄鉄を半分に切って、グラインダーにかけて作るあの剃刀――を取り出した。わたしはそれを、いまでも持ち歩いている割れた砥石で研ぎ、それからブーツを革砥の代わりにして、さらに研き上げた。次に、石鹸はないかと尋ねた。たとえ持っていたにしても、彼はその意味を理解せず、しばらくすると、水中を覗きこむことのできる岩に腰を下ろしてしまった。その姿を見ると、わたしはドルカスのことを強く思い出した。そして、〈死〉の野原――たぶんわれわれ生きている者にとってだけ、暗い場所――のことを尋ね、そこにいた時のことで覚えていることは全部教えてほしいものだと切実に思った。しかし思いとどまって、冷たい水で顔を洗い、頬と顎の髭をできるだけ剃った。剃刀を鞘に収めて返そうとすると、彼がどうしてよいかわからない顔をしたので、自分で持っていることにした。
そのあとは一日じゅう歩きづめだった。何度も呼び止められては、尋問された。われわれはそれ以上に他人を呼び止めて、質問をした。わたしは次第に上手な嘘を作り上げた。わたしは〈独裁者〉に随伴する民事裁判官の警士《リクトル》である。道中でこの兵士に出会った。主人が彼の面倒を見るようにわたしに命じた。彼は口がきけない。だから、彼がどの部隊の者かわからないと。最後の部分はまぎれもない事実である。
別の道と何度か交差し、時には別の道のほうをいった。テントでできた大都市のような、何万人もの兵士が寝起きしている大規模な兵営に二度ほど行き着いた。それぞれの兵営で衛生兵は、わたしの道連れの傷が出血でもしていれば包帯をしてやるが、今の状態では面倒を見てやることはできないといった。二つめの兵営で話をする頃には、わたしはもはやペルリーヌ尼僧団の所在を尋ねることはせず、泊めてくれる場所に行く方向だけを尋ねることにした。この頃にはほとんど夜になっていた。
「ここから三リーグ先に避病院があるが、あそこなら泊めてくれるかもしれないぞ」この情報を教えてくれた相手はわれわれを見比べて、黙ってぼんやりと立っている兵士に同情するのとほとんど同じくらい、わたしにも同情心を抱いたようだった。「西北に進んでいくと、右手に二本の大木の間を通っている道が見える。道の幅は、そこまでの道の半分ぐらいだ。それにそっていけばいい。武器は持ってるか?」
わたしは首を振った。兵士は青龍刀を鞘に戻してしまっていた。「自分の剣は、やむをえず主人の従者に預けてきた――剣を持ったままで、この男の世話をすることはできないからね」
「それなら、獣に用心しろよ。飛び道具を持っていればいいんだが、おまえにやれるものはここにはないし」
わたしは行きかけた。だが、彼は肩に手をかけてわたしを引き止めた。
「もし襲われたら、この男を残して逃げるのだぞ」男はいった。「やむをえず、そんなことになっても、あまり悪いことをしたと気にするなよ。おれは以前に、これと似た経験をしている。この男は回復しそうもないぞ」
「もう回復しているよ」わたしはいった。
この男はわれわれを泊めてもくれず、武器もくれなかったが、食べ物はくれた。そして、わたしは、ここしばらく感じなかった陽気な気分になって歩きだした。ある谷間に入ると、一刻ほどして西の山が上がって太陽を隠した。兵士と並んで歩いていくうちに、もう彼の肩を支えている必要がないことがわかった。それで手を放すと、彼はいかにも友人であるかのようにわたしの横を歩きつづけた。彼の顔は実際には、細長いジョナスの顔に似ていなかった。しかし、この男の顔を横から見ると、幽霊を見ているのではないかと思うほど、ジョナスを思い出させるところがあった。
灰色の道は月明かりで見ると、緑がかった白い色に見え、両側の木々と藪は黒く見えた。歩いていきながら、わたしは喋りはじめた。ひどく寂しかったからというのがその理由の一部であることは認めるが、それ以外にも立派な理由があった。このあたりにはいろいろな野獣がいることは明らかだ。たしかに、アルザボなどは狐が鳥を襲うように人を襲う。だがそのほかの大多数の獣は、人間の存在を前もって警告すれば、逃げるものだと聞いていた。この兵士に対して、ほかの者に話しかけるように話しかければ、悪企みを抱いた連中はその声を聞いて、彼に抵抗能力がないとは想像しにくいだろうと思ったのである。
「昨夜のことを覚えているかい?」わたしは喋りはじめた。「おまえ、ぐっすり寝こんでいたなあ」
返事はなかった。
「まだおまえには話してなかったかもしれないが、おれはあらゆることを覚えているという特技があるんだ。望めばそれをいつでも取り出せるというわけではないが、記憶そのものは常に変わらずに存在している。ある種の記憶は、脱走した客人みたいに地下牢の中をさまよっているんだ。必要に応じて引き出すことこそできないものの、彼らはいつもそこにいて、決して外に出ることはできないのさ。
もっとも、考えてみれぽ、これは完全に正しいというわけではない。うちの組合の地下牢の第四層と最下層は放棄されている――どうせ、上の三つの層がいっぱいになるほど客人が入ることはないんだ。そして、おそらく第三層も、グルロウズ師がいずれ放棄するだろう。今は第三層には、役人が決して見にくることのない気ちがいだけを収容している。そういうのをもっと上の層に入れると、やかましくてはた[#「はた」に傍点]迷惑だ。もちろん、全部が全部騒々しいわけではない。おまえみたいに静かなのもいるがね」
またしても返事はなかった。月の光の中で、彼がわたしに注意を払っているかどうかわからなかったが、わたしは預かっている剃刀を思い出した。
「おれは一度そこにいったことがある。つまり、第四層を通り抜けてね。昔、犬を飼ったことがあって、そこに置いていたんだ。ところが、その犬が逃げてしまった。追っかけていくと、地下牢から出るトンネルを見つけた。結局、這いだしたのは、〈時の広間《アトリウム》〉という場所の壊れた台座の下だった。そこには日時計がいっぱいあった。そこで一人の若い女に会ったのさ。実際、あんなに綺麗な女には、あれ以来会ったことがない――美しさの種類が違うが、ジョレンタよりも美しかったように思う」
兵士は何もいわなかったが、今はなんとなくわたしの言葉を聞いているように思われた。ひょっとしたら、かすかな頭の動きが目の隅から見えたというだけのことかもしれないが。
「その女の名前はヴァレリアという。ふけて見えたが、おれよりも若かったな。髪の毛は黒くてカールしていて、セクラのようだったが、ヴァレリアは目まで黒かった。セクラの目は董色なんだ。肌は、見たこともないほどきめ細かく、濃い牛乳に柘榴と苺のジュースを混ぜたような色だった。
しかし、ヴァレリアのことを話すつもりで話しはじめたわけじゃない。ドルカスのことを話すつもりだったんだ。ドルカスも可愛かった。まあ彼女は痩せていて、子供みたいだったがね。顔は美しい妖精《ペリ》みたいだった。髪は、切る前は長かった。いつも花を挿していた」
わたしはまた言葉を切った。彼の注意を引くことができるような気がしたので、女たちの話を続けていたのである。しかし今は、彼がまだ耳を傾けているかどうか、はっきりわからなくなっていた。
「スラックスを去る前にドルカスに会いにいった。彼女の泊まっている宿の部屋にね。〈雁の巣亭〉という旅籠《はたご》だった。彼女はべッドに寝ていて、裸だったが、いつもシーツで体を隠していた。まるで、いっしょに寝たことが一度もなかったみたいにな――それまで、おれたちはずっと歩いたり馬に乗ったりして旅を続けてきたのに。陸地が海から呼び起こされて以来、一度も人の声を聞いたことのないような場所で野宿をしたり、太陽以外にはだれの足も歩いたことのない丘に登ったりしてきたんだ。彼女はおれから、そしておれは彼女から去ろうとしていた。そして、どちらも、心からその逆を望んではいなかった。だが土壇場で、彼女はとうとう恐ろしくなって、自分といっしょにきてくれと頼んだ。
彼女の意見では、〈鉤爪〉は、イナイア老の鏡が距離に対して持っているのと同様な力を、時間に対して持っているということだった。この言葉を聞いた時は、あまり気にとめなかった――実はおれはさほど知的な男ではないし、哲学者の素質はまったくない――しかし、今は面白い説だと思う。彼女はこういったんだ。あの槍騎兵が蘇生したのは、〈鉤爪〉が彼の時間を、彼が生きている時までねじ曲げたからよ。あなたの友達の傷が半分治ったのは、〈鉤爪〉が時間を、その人の傷が治りかけた時点にねじ曲げたからね≠ニ。面白い意見だと思わないか? おれがおまえの額を〈鉤爪〉で刺した少し後で、おまえは妙な音を立てた。あれはおまえの断末魔の喉鳴りだったかもしれないと思っている」
わたしは待った。兵士は喋らなかった。しかし、まったく意外なことに、彼がわたしの肩に手を乗せるのを感じた。それまでわたしはまるで無駄口同然にぺらぺら喋っていた。だが、彼のその動作によって、自分の喋っている事柄の重大性に気づいた。もしこれが正しかったら――いや、ごくわずかでも真実に迫った部分があったとしたら――わたしはキャスドーの息子程度にしか理解していない力をもてあそんだことになる。わたしが養子にしようとしたあの少年は、巨人の指輪のことを理解したと思って、結局は命を取られてしまったではないか。
「おまえがぼんやりしてしまったのも、無理はない。時間を後ろ向きに移動するのは恐ろしいことにちがいない。そして、死を後ろ向きに通過するのはもっと恐ろしいことだ。つまり、もう一度生まれるのと同じようなものだろうといおうとしたんだ。しかし、普通に生まれるよりも、もっとずっと苛酷なものだと思う。なぜなら、子供の場合はすでに母親の子宮の中で生きているのだから」わたしは言いよどんだ。「おれは……つまり、セクラは……子供を生んだことはないがね」
どうやら、彼の混乱に思いおよんではじめて、わたしは自分の混乱に気づいたらしい。自分がだれであるか、ほとんどわからなくなったのは、たぶんそのせいだろう。結局わたしは不器用にいった。「変に思わないでくれよ。おれは疲れたり、眠りかけたりした時は、別人になりかけることがあるんだ」(そういうと、理由を知るすべはないが、肩をつかんだ彼の手に力が入った)「話せば長くなるし、おまえとは関係のない話だ。いいたかったのはこうだ――〈時の広間《アトリウム》〉では、台座が崩れたために日時計が傾いて、指時針は正しい時刻を示さなくなってる。そういうことが起こると、昼の時刻が停止するか、または、毎日のある部分に時間が逆行するという。おまえはポケットに日時計を入れている。だから、正しい時刻を知るためには、指時針を太陽のほうに向けなければならないことは知っているな。太陽は、ウールスが周囲を踊り回る間、じっと静止している。そして、人間が時間を知るのは、ウールスの踊りによってだ。ちょうど、耳の悪い人間でも、踊り子の動きを見れば、タランテラのリズムを打つことができるようなものだ。だが、万一太陽そのものが踊りを始めたら、どうなる? そうすれば、時間の進行もまた、後ろ向きになるかもしれないじゃないか。
おまえが〈新しい太陽〉を信じているかどうか知らないが――自分でも信じているかどうか、よくわからないがね――しかし、彼が将来存在することになれば、それは〈調停者〉の再来だろう。だから、〈調停者〉と〈新しい太陽〉は同一のものの二つの名前にすぎない。それがなぜ〈新しい太陽〉と呼ばれるのか、理由を考えてみてもよいと思う。おまえ、どう思う? ひょっとしたら、それは時間を動かすこの力のためではないだろうか?」
その時、実際に時間そのものが止まったように感じられた。周囲では、木々が黒く静かにそそり立ち、夜が空気を新鮮なものにした。もう喋ることを思いつかなかった。くだらないことを喋ったことが恥ずかしかった。なぜなら、兵士がわたしの喋ることすべてに真剣に耳を傾けていたように感じられたからである。前方に、道の両側の並木のものよりもはるかに幹が太い松の木が二本見えた。そして、その間を緑がかった白い小道が通っているのがぼんやりと見えた。「あそこだ!」わたしは叫んだ。
しかし、その場所までいった時に、わたしは兵士に手をかけて引き止め、肩をつかんで向きを変えて、ついてこさせなければならなかった。埃の中に黒い雫のようなものを見つけたので、わたしはかがんで指で触ってみた。
それは凝固した血液だった。「この道路でいいぞ」わたしはいった。「負傷兵を連れて、ここを通っていったんだ」
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4 熱 病
目的地に着くまでに、どのくらい歩いたか、または、夜がどのくらい更けたかわからない。わかったのは、本道をそれてからしばらくすると、自分が妙につまずくようになったことと、病気のようになったことだけである。ちょうど、ある種の病人が咳が止まらなかったり、またある種の病人が手の震えが止まらなくなったりするように、わたしはつまずくようになったのである。二、三歩進むとつまずき、さらに二、三歩いくとまたつまずく、といった具合に。ほかのことを何も考えないようにしていないと、左のブーツの爪先が右のかかとに当たるのである。そして、精神を集中していることができなくなった――一歩ごとに精神が飛び去ってしまうのだ。
小道の両側の木で螢が光っていた。そして、前方に見える明かりも、同じような昆虫の光だろうとずっと思っていたので、足を早めはしなかった。それから突然、自分たちが暗い屋根のようなものの下にいて、何列も長く並んだ布で覆ったベッドの間を、黄色いランプを持った男女がいったりきたりしているような印象を受けた。黒い衣を着ているらしい一人の婦人がわれわれを預かって、別の場所に連れていった。そこには革と骨で作った椅子があり、火鉢に火が燃えていた。そこにいくと、彼女の着物が真紅だとわかった。そして、彼女は真紅の頭巾をかぶっていた。一瞬、サイリアカだと思った。
「お友達はひどい病気なのでしょう?」彼女はいった。「どうしたか、知っていますか?」
すると兵士が首を振った。「いいや。彼がだれであるかも知らないんだ」
わたしはびっくりして口もきけなかった。彼女はわたしの手を握り、それを放して、今度は兵士の手を握った。「この人は熱病にかかっています。あなたもそうですよ。暑い夏がやってきたから、これから毎日、病人がやってくることでしょう。生水を飲まず、できるだけ虱《しらみ》の駆除をしなければいけなかったのです」
彼女はわたしのほうを向いた。「あなたのほうは浅い切り傷がたくさんありますね。膿んでいるのもあります。岩の破片ですか?」
わたしはようやくいった。「病人はわたしではありません。この友人を連れてきたのです」
「どちらも病気ですよ。もちつもたれつ、というところね。どちらか片方だけだったら、とてもここに着くことはできなかったと思いますよ。岩の破片でやられたのですか? 敵の武器ですか?」
「そう、岩の破片です。味方の武器です」
「それがいちばんわるいんですってね――味方から撃たれるのが。でも、問題は熱病です」彼女はためらいがちに、兵士とわたしを見比べた。「両方とも今すぐにベッドに寝かせたいところよ。でも、その前にお風呂に入らなくてはね」
彼女は手を打って、くりくり坊主のがっしりした男を呼び寄せた。男はわれわれの両手を取って歩きはじめたが、やがて立ち止まって、わたしを抱き上げ、まるでわたしが前に幼いセヴェリアン坊やを抱いたときのように歩いていった。やがてわれわれは裸にされ、石で熱したお湯のプールに漬けられた。がっしりした体格の男は、われわれの頭にさらに水をかけた。それから、一人ずつ風呂から上げて、鋏で髪の毛を刈った。それがすむと、しばらくお湯に漬けておかれた。
「もう口がきけるんだな」わたしは兵士にいった。
ランプの明かりで彼がうなずくのが見えた。
「では、なぜここにくるまで黙っていたんだ?」
彼はためらった。それからちょっと肩を動かした。「いろいろなことを考えていた。それに、おまえは口をきかなかった。ひどく疲れていたみたいだった。一度は、止まろうかといったんだが、おまえは答えなかったぞ」
わたしはいった。「おれには、その反対に思えるがなあ。だが、たぶん両方とも正しいんだろう。おれに会う前に、何があったか覚えているか?」
また間があった。「おまえに会ったことさえ覚えていない。おれたちは暗い小道を歩いていた。すると、おまえが隣にいたんだ」
「その前は?」
「わからん。音楽だ、たぶん。それから長いみちのりを歩いた。最初は日が照っていて、後は暗闇の中だった」
「その歩みは、おれといっしょの時だったのか?」わたしはいった。「ほかに覚えていることはないか?」
「暗闇を飛んでいた。そうだ、おまえといっしょだった。それから、太陽がおれたちの頭のすぐ上にかかっている場所にきた。おれたちの前に光があった。だが、その中に歩み入ると、それは一種の暗黒になった」
わたしはうなずいた。「おまえは理性が働いているとはいえなかったからな。暖かい日には、太陽が頭のすぐ上にあるように見えることがある。太陽が山の陰に隠れると、光は暗くなる。自分の名前を思い出せるか?」
この質問に、彼はしばらく考えこんだ。やがて、悲しげに微笑んで、「それは、どこか途中でなくしちまったよ。これは山羊の道案内をしてやると約束した豹の台詞だがな」
がっしりした丸坊主の男は、われわれ二人の気づかないうちに戻ってきていた。彼はわたしの手を取って湯から上がらせ、タオルをくれて体を拭かせた。そして寛衣と、私物を入れた帆布の袋もくれたが、袋には燻蒸消毒の強い匂いがついていた。一日前だったら、たとえ一瞬たりとも〈鉤爪〉が懐中からなくなれば、発狂するほど心配しただろう。ところがその夜は、〈鉤爪〉を返されるまで、なくなっていることにほとんど気づかなかった。蚊帳の下の簡易ベッドに横になるまで、それが実際に戻ってきたことを確かめもしなかったのだ。横になってから手のひらに乗せると、〈鉤爪〉は月光のように柔らかな光を放って輝いた。そして、月が時時そういう形になるような形をしていた。それが放つ薄緑の豊かな光は太陽の反射光だと思って、わたしは微笑した。
サルトゥスで寝た最初の夜には、組合の塔の徒弟の宿舎にいると思って目覚めた。今わたしはそれと同一の経験を、逆向きにした。つまり、わたしは眠って、その眠りの中で、静かな人影と動くランプのある暗い避病院を、昼間の幻影にすぎないと思ったのだ。
そして、起き上がって周囲を見回すと、気分が良かった――実際、これまでに感じたことがないほど気分が良かった。しかし、暑かった。体の内部が火照っているような感じだった。ロッシュが赤い頭髪を乱し、口を少し開けて、横向きに寝ていた。その顔はたるんでいて、子供っぼく、背後の元気に満ちた精神はうかがい知れなかった。丸窓から〈古い中庭〉に雪が積もっているのが見えた。それは新たに積もった雪で、人や家畜の足跡はついていなかった。だが、共同墓地には、そこを寝ぐらにしている小動物の足跡がすでに何百もついているだろう。死者のペットであり、遊び相手であるそれらの小動物は、自然が与えてくれた新しい風景のなかで、食べ物をあさり、遊びたわむれるために出てきたのだ。わたしは急いで静かに服を着て、もぞもぞ動いた徒弟の一人に、唇に指を当てて見せて、塔の中心のきつい螺旋階段を急いで降りていった。
階段はいつもより長く思われた。段から段を踏んでいくのが難しかった。われわれはいつも、階段を上がる時には重力が邪魔になり、降りる時にはそれが助けになるものと信じている。ところが、今はその助けがなかった。いや、ほとんどなくなっていた。わたしは一足ごとに力を入れなければならなかった。それも、足が段に当たった時に、体が飛び上がるのを防ぐために。乱暴に段を踏むと、飛び上がりそうに感じたのである。夢の中で物事を知るあの神秘的な方法で、わたしは知った。〈城塞〉の塔のすべてがついに上昇し、冥王星《デイース》の軌道を越えて、ついに旅立ったのだと。それを知って喜びを感じたが、同時に、共同墓地にいって穴熊や狐の跡を追いたいと思った。できるだけ早く階段を降りていくと、呻き声が聞こえた。おかしなことに階段はもはや下には降りていかずに、ちょうどバルダンダーズの城の階段が部屋の壁の中に伸びていたように、一つのキャビンに通じていた。
それはマルルビウス師の病室だった。師匠たちには広々とした居室が与えられている。それにしても、この部屋は実際のキャビンの大きさよりもはるかに大きかった。そこには記憶どおりに二つの丸窓があったが、ともに途方もない大きさで――テュポーン山の目ほどもあった。マルルビウス師のベッドも非常に大きかったが、部屋が大きいために目立たなかった。二つの人影が彼の上にかがみこんでいた。彼らの衣服は黒っぽかったけれども、組合の煤色でないことにわたしは驚いた。わたしは彼らのところにいった。そして、病人の苦しそうな呼吸が聞こえるほどそばまでいくと、二人は体を伸ばして、わたしの方を向いた。あのクーマイの巫女《みこ》とその助手だった。あの廃壇の石の町の墓の屋根の上で会った魔女たちである。
「ああ、シスター、とうとうやってきましたね」とメリリンがいった。
彼女の言葉を聞いて、わたしは自分で考えていたように徒弟のセヴェリアンでないことがわかった。わたしはいたずら盛りの彼と同じくらいの身長のセクラ、つまり、十三歳か十四歳のころのセクラだった。わたしはひどく狼狽した――それは少女の肉体のせいでも、男の衣服を着ている(それは実際、むしろ愉快なことだった)からでもなくて、この事実を前もって知らなかったからである。また、わたしはメリリンの言葉が魔術の一つの行為であると感じた――つまり、セヴェリアンとわたしの両方がそれまで存在していたのに、彼女がなんらかの方法でセヴェリアンを背景に押しやったのだと。クーマイの巫女はわたしの額にキスした。そして、キスが終わると、彼女は唇から血を拭った。彼女は口にこそ出さなかったが、これは、わたしがある意味であの兵士にもなったしるしだとわかった。
「わたしたちは、眠ると」メリリンがわたしにいった。「つかの間の世界から永遠の世界に移るのです」
「目覚めると」クーマイの巫女はささやいた。「現在の瞬間の先を見る能力を失うのだよ」
「この巫女さんは決して目覚めないのよ」メリリンが自慢した。
マルルビウス師が体を動かしてうめいた。すると、クーマイの巫女はベッドのわきのテーブルから水の入ったガラス叛を取り、タンブラーに少し注いだ。彼女がガラス瓶をもとに戻した時、中で何かの生き物が動いた。どういうわけかわたしはそれを|水の精《ウンディーネ》だと思って、後ずさりした。ところがそれは、わたしの手ほどの身長もないヘトールで、白髪の不精髭の生えた顔をガラスに押しつけていた。
彼の声が鼠の鳴き声のように聞こえた。「時には光子の嵐によって地面に叩きつけられ、銀河の渦によって、銀の帆の立ち並ぶ暗黒の海の回廊を、時計回りに、反時計回りに、光とともに転がりながら、悪魔の乗り移ったおれたちの鏡が航行する。糸のように細く、銀の針のように細い、百リーグのマストは星の光の糸で縫い、星々を黒|天鵞絨《ビロード》に刺繍し、疾風のように過ぎゆく〈時間〉の風とともに濡れる。彼女の歯の中の骨よ! 泡が、〈時間〉の飛翔する泡が、浜辺に撒き散らされる。そこではもはや老水夫は、静止することのない疲れを知らぬ宇宙から、自分の骨を保つことができない。彼女はどこにいってしまった? わがレディは、わが魂の伴侶は? 水瓶座の、魚座の、牡羊座の激しい潮を越えていってしまった。小船に乗って、乳首を黒い天鵞絨の蓋に押しつけて、いってしまった。星の洗う磯から、居住可能世界の乾いた砂州から、永遠に船出してしまった。彼女は彼女自身の舟。彼女は彼女自身の舟の船首像であり、船長である。水夫長、水夫長、ランチを出せ! 縫帆手よ、帆を作れ! 彼女はおれたちを置き去りにしたぞ。おれたちは彼女を置き去りにしたぞ。彼女はおれたちが決して知らない過去にいる。おれたちが決して知ることのない未来にいる。もっと帆を張れ、船長、宇宙がおれたちを置き去りにしようとしているから……」
テーブルのガラス瓶の横にベルがあった。メリリンがまるでヘトールの声を圧倒しようとでもするように、そのベルを鳴らした。そして、マルルビウス師がそのタンブラーの水で唇を湿しおえると、彼女はそれをクーマイの巫女から受け取って、残りの水を床にこぼし、さかさにしてガラス瓶にかぶぜた。ヘトールは静かになった。だが水は床に広がり、まるで隠れた泉に吸いこまれるように泡立った。氷のように冷たかった。靴が濡れたので、家庭教師が怒るだろうなと、ぼんやりと思った。
そのベルの音に応えて一人の下女がやってきた――それはセクラの下女で、わたしがヴォダルスの命を救った次の日に、その皮剥ぎの拷問を受けた足を検査した女性だった。彼女はもっと若かった。実際に少女だった頃のセクラの年齢だった。だが足の皮はすでに剥がれて、血が流れていた。「ごめん」わたしはいった。「ごめんよ、ハンナ。ぼくがやったんじゃない――グルロウズ師と職人がやったんだ」
マルルビウス師はベッドに起き上がった。この時はじめて、わたしは彼のベッドが実際は女の手であることを知った。それはわたしの腕ほどの長さの指と、猛獣の鉤爪のような爪のついた手だった。「おまえ、よくなったな!」彼は、まるでわたしが瀕死の人間ででもあったかのようにいった。「いや、ともかく、よくなりかけている」ベッドになっている手の指が彼の上に閉じはじめた。だが、彼はベッドから、今は膝ほどの深さになっている水の中に飛び下りて、わたしの横に立った。
一匹の犬――昔飼っていたトリスキール――がどうもベッドの下に隠れているようだった。いや、もしかしたら、ベッドの向こう側に横たわっているので、目に入らなかっただけかもしれない。そいつが今、嬉しそうに吠えながら、一本しかない前脚でわたしの右手を取り、クーマイの巫女が左手を取って、わたしを山の巨大な目のところに連れていった。
前にあそこでテュポーンに見せられた景色が見えた。絨毯を広げたように、世界を隅から隅まで見わたすことができた。今度は、その規模がもっとずっと広大だった。太陽はわれわれの後ろにあり、その光の強さは何倍にもなっているように思われた。影は錬金術を受けたように黄金になっていた。そして、あらゆる緑のものは見ているうちにより黒ずみ、より大きく成長した。畑に穀物の実るのが見え、おびただしい海の魚さえも、彼らを養う小さな海底の植物の増加とともに、鼠算式に増えていくのが見えた。後ろの部屋の水はその目から流れ出し、光を反射して、虹となって落下した。
それから目覚めた。
眠っている間に、だれかが雪をつめたシーツでわたしをくるんでいた。(後で知ったのだが、その雪は脚のしっかりした役畜によって山から運び下ろされたものだった)わたしはぶるぶる震えながら、夢に戻りたいと熱望した。しかし、夢とわたしはすでに広大な距離で隔てられていることをぼんやりと意識していた。口の中には薬の苦い味がした。広げられた帆布は、下の床のように固く感じられた。緋の衣のペルリーヌ尼僧たちがランプを持ってあちらこちら歩きまわり、暗闇に呻いている男女を介抱していた。
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5 避病院
その夜はうとうとぐらいしたかもしれないが、ふたたび眠ったとは思えない。夜が明けた時には雪は溶けてしまっていた。二人の尼僧がシーツを運び去り、体を拭くタオルをくれ、乾いた布団をもってきてくれた。その時に〈鉤爪〉を彼女たちに渡したいと思った――持ち物は寝台の下の袋に入っていた――が、あまり適当な機会とは思えなかった。それで思いとどまって横になり、もう明るくなっていたが、眠った。
正午ころふたたび目を覚ました。避病院は今までになかったように静まり返っていた。どこかずっと遠くで二人の男が話をしており、もう一人が叫び声をあげたが、その声は静けさをいっそう強調しただけだった。わたしは起き上がり、あの兵士が見えるとよいがと思いながら見回した。右側には頭を短く刈った男が寝ていた。最初、それを見て、ペルリーヌ尼僧団の奴隷の一人かと思った。声をかけると、彼は首を回してこちらを見た。すると間違いだとわかった。
その目は、これまでに見たどんな人間の目よりもうつろだった。わたしには見えない精霊でも見つめているような表情をしていた。「〈十七人組〉に栄光あれ」彼はいった。
「おはよう。この病院がどのように経営されているか知っているかね?」
彼の顔を一つの影がよぎったように思われた。それで、わたしの質問がなぜか彼の疑念をかき立てたことがわかった。彼は答えた。「すべての努力は、その人が〈正しい思想〉に従う程度に応じて、うまくも導かれるし、まずくも導かれるのだ」
「おれといっしょに連れてこられた男がいるんだが、そいつと話をしたい。まあ、友人みたいなものだから」
「民衆の意志を行なう者は友人だ。もっとも、われわれは彼らと話したことはまったくないがね。民衆の意志を行なわない者は敵だ。もっとも、われわれは子供のように集まることを学んだが」
左側の男がいった。「そいつからは何もわからないよ。捕虜なんだ」
わたしは振り向いてそちらを見た。そいつの顔はほとんど髑髏《どくろ》のように憔悴していたが、それでもユーモアの跡をとどめていた。その固い黒い頭髪は、何ヵ月も櫛を入れたことがないように見えた。「こいつはいつもそんなことばかりいっているんだ。ほかの喋り方はしないぜ。やい、てめえ! てめえらをやっつけてやるからな!」
右側の男が答えた。「〈民衆の軍隊〉にとって敗北は勝利への跳躍台だ。そして勝利はさらなる勝利への梯子だ」
「それでも、捕虜の中ではいちばん物わかりのよいほうなんだぜ」左手の男がいった。
「捕虜だというが、何をしたんだ?」
「何をしたかだと? そりゃ、死ななかったのさ」
「話がよくわからない。彼は決死隊員か何かかね?」
左手の男の向こう側の患者が起き上がった――痩せてはいるが、美しい顔だちの若い女性だった。
「彼らはみんなそうなの」彼女はいった。「とにもかくにも、戦争に勝つまでは国に帰れないのよ。そして、本当は、自分たちが決して勝てないことを知っているわ」
「外部の戦闘は、内部闘争が〈正しい思想〉に導かれた時に、すでに勝っている」
わたしはいった。「では、こいつはアスキア人なのか。そういうことだったのか。アスキア人を見るのは初めてだ」
「彼らはたいてい死ぬんだ」黒い髪の男がいった。「おれがいったのは、そういうことさ」
「彼らがわれわれの言葉を喋るとは知らなかった」
「喋らないさ。こいつと話をしに何人かの将校がやってきたが、そいつらの意見では、こいつは通訳だったらしいということだ。たぶん、われわれの兵士を捕虜にした時に、尋問したのだろう。それが悪事でも働いたかして、兵卒の位に引き下げられてしまったんだな」
若い女がいった。「彼は本当に気が狂っているとは思わないわ。たいていの敵は狂っているけれど。ところで、あんたの名前はなんていうの?」
「これは悪かった。自己紹介をするべきだったな。おれはセヴェリアンだ」そして、警士《リクトル》だとつけ加えそうになったが、それを知らせると、二人ともわたしに口をきいてくれなくなることがわかっていたので、思いとどまった。
「わたしはフォイラ。こちらはメリト。わたしは〈青い軽騎兵〉だった[#「だった」に傍点]。彼は装甲歩兵だった[#「だった」に傍点]のよ」
「おかしな言い方をするな」メリトが不機嫌にいった。「現におれは装甲歩兵であり[#「あり」に傍点]、おまえは軽騎兵である[#「ある」に傍点]のに」
彼は女よりもよほど死に近いようだ、とわたしは思った。
「よくなってここを退院する頃には、除隊になればいいと思っているだけよ」フォイラがいった。
「そしたら、どうするつもりだ? 他人の牛の乳絞りをして、他人の豚の世話をするのか?」
メリトはわたしのほうを向いた。「彼女の話にだまされるなよ――おれたちは志願兵なんだ。二人ともな。おれが負傷したのは、昇進の直前だった。昇進すれば女房を養えるようになるんだ」
フォイラが反対側でいった。「あんたと結婚するなんて約束はしてないわ!」
数ベッド先でだれかが大声でいった。「やっちまえ。そうすりゃ女はおとなしくなるぜ!」
それを聞くと、フォイラのベッドの先の患者が起き上がった。「彼女はおれと結婚するんだぜ」そういうのは大柄で、肌が白く、髪も白っぽい男で、南の氷島の住民に特有のゆっくりした口調で喋った。「おれはハルヴァードだ」
驚いたことに、アスキア人の捕虜がきっぱりといった。「男と女は結びつけば、より強くなる。しかし、勇敢な女は夫よりも子供をほしがる」
フォイラがいった。「勇敢な女は妊娠していても戦うよ――わたしは妊婦が戦場で死ぬのを見たわ」
「木の根は民衆だ。葉は落ちる。だが、木は残る」
わたしはメリトとフォイラに、このアスキア人は自分で考えて喋っているのだろうか、それとも何かわたしの知らない文献から引用しているのだろうかと尋ねた。
「創作しているのか、という意味?」フォイラはいった。「いいえ。彼らは決して創作しないのよ。口にするのはすべて、一つの承認されたテキストからの引用でなければならないの。ぜんぜん口をきかない者もいるわ。それ以外の者は何千もの――実際には何万も何十万もあるんだと思うけど――このような決まり文句を暗唱しているのよ」
「まさか」わたしはいった。
メリトは肩をすくめた。彼はかろうじて片肘をついて体を起こしていた。「いや、そうなんだ。少なくとも、みんなそういっている。彼らのことなら、おれよりも彼女のほうがずっと詳しい」
フォイラはうなずいた。「軽騎兵隊では、斥候をたくさんやるの。そして、時には特別に捕虜を捕まえるために出動することもあるのよ。たいてい敵兵に話しかけても、何もわからないわ。でも参謀本部なら、彼らの装備や健康状態からいろいろなことを知ることができるのよ。彼らの故郷の北の大陸では、わたしたちと同じように喋るのは、ごく小さな子供だけなの」
わたしは組合の仕事をしているグルロウズ師のことを思い出した。「たとえば、こんなことはどういうんだろう? 三人の職人に、あの荷車の荷を降ろさせろ=v
「そういうことは全然いわないのよ――ただ、人々の肩をつかんで、荷車を指さし、突き飛ばすのよ。それで彼らが働けばよし、働かなければ、リーダーは、勝利を確実にするために労働する必要があるとかいう文句を引用するのね。大勢の証人のいる前で。にもかかわらず、そいつが働こうとしなかったら、リーダーはそいつを殺させるでしょう――たぶん、彼を指さして、民衆の敵を除去しなければならぬとかなんとかいう文句を引用することによって、ね」
アスキア人はいった。「子供の叫びは勝利の叫びだ。それにしても、勝利は知恵を学ばねばならぬ」
フォイラが通訳した。「つまり、子供たちは必要だけれど、彼らのいうことは無意味だ、という意味よ。わたしたちが彼らの言葉を覚えたところで、たいていのアスキア人にとって、わたしたちは口がきけないも同然なの。というのは、承認されたテキストのものでない語群は、彼らにとって無意味だから。もし、そのような語群が認められれば――彼ら自身にとってさえも――それらの話がなんらかの意味を持つことになって、したがって、彼らが不忠の言辞を聞くことが可能になり、自分自身さえもそういうことを口にできるようになるからよ。それは、とっても危険なことでしょう。彼らが承認されたテキストを理解したり、引用するだけでいるかぎり、だれも彼らを非難できないのよ」
わたしは首を回してアスキア人を見た。彼が聞き耳を立てているのは明らかだった。しかし、その表情からは、内面を推し測ることはできなかった。「承認されたテキストの筆者自身は」わたしは彼にいった。「それを書く時に、承認されたテキストを引用することはできない。だから、承認されたテキストでさえも、不忠の要素を含んでいることになるな」
「〈正しい思想〉が民衆の思想だ。民衆は、民衆と〈十七人組〉を裏切ることはありえない」
フォイラがわたしに呼びかけた。「民衆と〈十七人組〉を侮辱しないでね。そんなことをすると、自殺しかねないわ。時々そういうことがあるのよ」
「そもそも、彼は正常なのかい?」
「中には、しまいにはいくらかわたしたちと同じような話し方をするようになる者もいるそうよ。あんたのいうのが、そういうことならね」
これについては、なんといっていいか思いつかなかったので、われわれはしばらく黙っていた。ここのような、ほぼ全員が病気である場所では、静かな期間がしばらく続くことが、ままある。われわれは時間があり余っていることを知っていた。その日の午後、言いたいことが言えなかったとしても、夕方にまた機会があるだろうし、翌日の朝になればまた別の機会があるだろう。実際――たとえば食事の後などに――健康人と同じように喋る者がいたら、さぞ嫌われることだろう。
しかし、今ここで言われたことは、わたしに北方を思い出させ、そちらのことは知らないに等しいことを思い知った。少年時代に〈城塞〉の内部で床掃除をしたり、使い走りをしたりしていた頃には、戦争そのものはほとんど無限に遠いところの出来事であるかのように感じられた。そして、主要な砲台に配置されていた砲兵隊の大部分は、戦争に参加してしまっていた。しかし、わたしはそのことを、ちょうど手にあたる日光と太陽の関係を知っているという程度にしか知っていなかった。わたしは拷問者になるだろう。そして、拷問者になれば軍隊に入る理由はないし、強制的に徴兵される恐れもないだろう。ネッソスの門(事実、わたしにとって、あれらの門そのものが伝説以上の存在であったのだ)で戦争を目にすることなど、まったく期待していなかったし、また、あの都市を去ることなどは予期していなかった。いや、〈城塞〉のあるあの都市の一角を去ることさえ、予想してはいなかったのだ。
あの頃は、北方、つまりアスキアは想像を絶するほど遠いところであって、もっとも遠方にある銀河のような場所だった。なぜなら、どちらも永遠に手の届かない場所だからだ。心情的に、わたしはさいはての銀河と、われわれの土地と彼らの土地との中間に広がる熱帯植物の枯死地帯とを混同していた。といっても、もし教室でパリーモン師に質問されれば、なんの苦もなくその二つを区別しただろうが。
しかし、アスキアそのものについては何も知らなかった。そこに大都会があるかないかも知らなかった。われわれの共和国の北東部のような山岳地帯なのか、それとも、われわれの草原のように平坦な土地なのか知らなかった。(正しいかどうか知るよしもないが)それは単一の陸塊で、われわれの国の南部にあるような列島ではないという印象を抱いていた。とりわけはっきりしているのは、そこにおびただしい人々――隣りのアスキア人の捕虜のいう民衆――が住んでいるという印象だった。それは無尽蔵の大群であって、ほとんどそれ自体が、ちょうど蟻の集団のように一つの生き物になっている。そのような何万何億という大衆が言葉を持たずにいると考えるのは、つまり、ずっと昔に意味を失ってしまったにちがいない諺のような文句を、ひたすら鸚鵡返しにすることを強制されていると思うだけでも、ほとんど堪えがたい気持ちだった。わたしはひとり言同然にいった。「きっとトリックか、嘘か、間違いにちがいない。そんな国民が存在するはずはない」
すると、アスキア人がわたしより決して大きくない声で――たぶん、わたしよりも静かな声で――答えた。「どうすれば国家はもっとも活発になるか? 国家は、争いがない時にもっとも活発になる。どうすれば争いはなくなるか? 不和がなくなればよい。不和はどうすれば消滅するか? 不和の四つの原因を消滅させればよい。つまり嘘、馬鹿話、自慢話、そして争いを煽動するだけの役目しかしない話だ。この四つの原因をどうして消滅させるか? 〈正しい思想〉だけを話せばよい。そうすれば、国家に不和はなくなる。不和がなければ、争いがなくなる。争いがなければ、国家は活発に、強力に、安全になる」
わたしの質問は回答を得た。それも二重に。
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6 ミレス、フォイラ、メリト、そしてハルヴァード
わたしはかなり前から、ある恐怖を心から追い払おうと努力してきたが、この夜わたしはその恐怖の餌食となった。ヘトールが星々の彼方から携えてきた怪物は、セヴェリアン坊やといっしょに、魔法使いの村から脱出して以来、見かけなかった。しかし、彼がわたしを探していることは忘れなかった。荒野や、ディウトルナ湖上を旅している間は、彼に追いつかれる心配はあまりなかった。しかし今はもう旅をしておらず、自分でも手足が弱っていることを知っていた。食事をしたにもかかわらず、山岳地帯で飢えていた時よりももっとずっと体力が弱っていた。
またアギアは、ヘトールのノトゥールや火蜥蜴《サラマンダー》やなめくじ[#「なめくじ」に傍点]よりも怖いくらいだった。その勇気、利口さ、そして敵意は身にしみている。寝台の間をやってくる緋の衣の尼僧が、実は衣の下に毒を塗った錐剣を隠し持ったアギアだということは、充分ありうる。その夜はよく眠れなかった。夢はたくさん見たが、どれもはっきりしないもので、ここでは話さないことにする。
目覚めた時にも、ろくに休息が取れていなかった。この避病院にやってきた時には、熱をほとんど意識していなかったし、昨日には下がっていたように思われたが、その熱が今になってまた出てきた。手足のすみずみまで熱を感じた――体が燃えているにちがいないと感じ、南の氷山に登ったら、氷も解けるだろうと思われた。わたしは〈鉤爪〉を取り出して、自分の胸に抱きしめた。そして、一度は口に含んでみさえした。熱はまた下がったが、体力は回復せず、眩暈がした。
その朝、例の兵士が会いにきた。彼は鎧の代わりに尼僧からもらった白衣を着ていた。しかし完全に回復した様子で、明日は退院したいといった。わたしはこの病室で得た知り合いにおまえを紹介したいといい、もう名前を思い出したかと尋ねた。
彼は首を振った。「ほとんど記憶がない。軍隊に戻れば、おれを知っているやつがいるんじゃないかと思っているんだがね」
適当な名前が思い浮かばなかったので、一応ミレスということにして、彼を紹介した。わたしはアスキア人の名前を知らなかった。フォイラも含めて彼の名前をだれも知らないことがわかった。みんなが名前を尋ねると彼は、「〈十七人組〉に忠誠を誓った者だ」とだけ答えた。
しばらくの間、フォイラとメリトと兵士とわたしだけでお喋りをした。メリトはミレスをとても気に入った様子だったが、もしかしたら、その理由はただ、わたしがつけたその兵士の名前と自分の名前が似ているというだけのことだったかもしれない。やがて、兵士はわたしの上半身を助け起こしてくれ、声をひそめていった。「さて、二人だけで話をしなければならない。今もいったように、おれは明朝ここを出るつもりだ。見たところ、おまえはあと数日は退院できそうにない――もしかしたら、二、三週間はかかるかもしれない。おれたちはもう二度と会うことはないかもしれない」
「そうならないことを願うよ」
「同感だ。しかし自分の部隊を見つけたら、おれは、おまえが回復しないうちに戦死するかもしれない。そして、もし部隊が見つからなければ、脱走兵として逮捕されないように、おそらく別の部隊に入るだろう」彼は言葉を切った。
わたしは微笑した。「おれはここで死ぬかもしれないよ。熱病でね。おまえは遠慮していわなかったが、おれはあの哀れなメリトと同じくらいやつれているんじゃないか?」
彼は首を振った。「あれほどじゃない。だいじょうぶ、だいじょうぶ――」
「それじゃ、大山猫が月柱樹のまわりで兎を追い回していた時の、つぐみの歌の文句だ」
今度は彼が微笑む番だった。「そのとおり、おれも今そういおうと思ったところだ」
「それはおまえの故郷でよくいわれる駄洒落なのかい?」
微笑が消えた。「わからん。故郷がどこかも思い出せない。それも今おまえと話をしなければならない理由の一つなんだ。夜おまえといっしょに道を歩いたことは覚えている――ここにくる以前のことで、思い出せるのはそれだけだ。おまえ、おれをどこで見つけたんだ?」
「森の中だ。たぶん、ここから五リーグか十リーグ南のあたりだと思う。おれが歩きながら〈鉤爪〉について話したことを覚えているか?」
彼は首を振った。「おまえが何かそんなことをいったことは覚えているが、なんといったかは覚えていない」
「何を覚えている? 全部話してくれ。そしたら、おれの知っていること、推測できることを全部話してやろう」
「おまえと歩いていた。暗闇が続いた……おれは倒れた。いや、ことによったら暗闇の中を飛んだかもしれない。自分自身の顔が見えた。いくえにも、いくえにも重なって見えた。赤みがかった金色の髪の、ものすごく目の大きい女がいた」
「美人か?」
彼はうなずいた。「世界一の美人だった」
わたしは声をあげて、だれか鏡を持っていたら、ちょっと貸してくれないかと頼んだ。フォイラがベッドの下の私物の中から鏡を出した。わたしはそれを持ち上げて、彼に見せた。「これがその顔か?」
彼はためらった。「そう思う」
「青い目?」
「……はっきりしない」
わたしは鏡をフォイラに返した。「道中でおまえに話したことをもう一度話そう。ここがもっとプライバシーのある部屋だといいんだがな。すこし前にあるお守りが手に入った。不法に手に入れたわけではないが、それはおれのものではないんだ。そして、非常に価値のあるものだ――そいつは時によって、いつもではないが、時によって――病を癒す力を発揮する。死者を蘇生させることさえあるんだ。二日前に、北に向かって旅をしていたら、たまたま兵士の死体にいきあった。道路からはずれた森の中だった。死んでから一日ぐらいたっていた。おそらく、前の夜のうちに死んだのだろう。その時おれはとても腹が減っていた。それで、彼の背嚢の紐を切って、中に入っていた食糧をほとんど食べてしまった。それで罪の意識を感じて、そいつを生き返らせてやろうとして、お守りを取り出した。しばらくは、前に何度も失敗しているから、今度も駄目かと思っていた。ところが失敗ではなかった。もっとも、蘇るのがのろかったし、そいつは自分がどこにいるか、自分に何が起こったか、長い間わからずにいたようだったがね」
「おれが、その兵士なのか?」
わたしは彼の正直そうな青い目を覗きこんで、うなずいた。
「そのお守りを見せてくれないか?」
わたしは〈鉤爪〉を取り出して、手のひらに乗せた。彼はそれをつまみあげ、両面を丁寧に調べ、先端のとがった部分を指の腹に押し当てて鋭さを試した。「魔力があるようには見えないな」
「この力を魔力[#「魔力」に傍点]といっていいかどうかわからない。おれは魔法使いに会ったことがあるが、彼らはこれを思い出させるようなことはしなかったし、これと似た作用も経験しなかった。時々光を放つ――今はごくかすかだから、おまえには見えないだろうが」
「見えない。何かが書いてあるようにも見えないし」
「呪文とか祈りの文句のことだな。ああ、長いこと持ち歩いているが、そういうものは目にとまらなかった。時たま効果を発揮するということを別にすれば、実際は何もわかっていないんだ。しかし、これはたぶん呪文や祈祷のもとになる種類のものであって、その逆ではないように思う」
「おまえのものではないといったな」
わたしはまたうなずいた。「ここの女司祭のものだ。ペルリーヌ尼僧団のね」
「おまえはここにきたばかりだぞ。ふた晩前に、おれといっしょにきたんだぞ」
「彼女たちを探していたのさ。これを返すためにね。少し前にネッソスで、彼女らのところから盗られたんだ――盗ったのはおれじゃないがね」
「それで、おまえが返そうとしているんだと?」彼はどことなく疑わしそうな目でわたしを見た。
「そうだ、結果的にそうなる」
彼は立ち上がり、手で白衣のしわを伸ばした。
わたしはいった。「信じないんだな、全然」
「おれがここにきた時、おまえは近くの連中におれを紹介してくれた。おまえがこのベッドに寝ていた間に話をした連中にだ」彼は言葉を一つ一つ探すようにしてゆっくりと喋った。「もちろん、おれも何人かの連中に会った。おれが寝かされた場所でな。一人、ほとんど怪我のないやつがいる。ほんの子供だ。ここからずっと離れた小さな荘園からやってきた若者さ。そいつはほとんどずっとベッドに坐って床を眺めている」
「ホームシックか?」わたしはいった。
兵士は首を振った。「エネルギー兵器にやられたんだ。三叉槍《コルシーク》――そういうんだと、だれかが教えてくれた。おまえはそういうものに詳しいか?」
「あまり知らない」
「まっすぐ前にビームを発射する。それと同時に、二本の斜めのビームを発射する。左斜め前と右斜め前に向けてだ。射程距離は長くはないが、集団攻撃を迎え撃つには効果があるということだ。そうだろうと思う」
彼はだれか聞いていないかと、ちょっとあたりを見回した。しかし避病院では、自分に向けられた会話以外は、完全に無視するのが礼儀となっている。そうしなければ、患者たちはたちまち取っ組み合いを始めることだろう。
「彼の百人部隊は、この種の兵器の攻撃目標になった。戦友の大部分は算を乱して逃げた。だが彼は逃げなかった。それでも死ななかった。ほかのやつから聞いたんだが、彼の前に死体の壁が三つあったというんだ。攻めてくるアスキア人を射ち殺し、彼らがそれを乗り越えてやってくると、彼は後退して、また死体の壁を築いたのだと」
わたしはいった。「そいつは勲章をもらって、昇進したんだろうな」また熱が出てきたのか、それとも日中の暑さのせいにすぎないのかわからないが、肌がべとつき、なんとなく息苦しく感じた。
「いいや、ここに送りこまれたのだ。田舎出のほんの子供だといったろう。入隊して数ヵ月しかたっていないが、それ以前に目にした人間よりも多くの人数を、その日に殺したのだ。いまだにそれを克服できずにいる。もしかしたら永久に駄目かもしれん」
「だから?」
「ひょっとしたら、おまえもそいつと同じじゃないかと思ってね」
「わからんなあ」わたしはいった。
「おまえはたった今南からやってきたようなことをいっている。自分の軍団を抜けてきたなら、そういうのがいちばん安全だからな。とにかく、それが嘘だということはだれにもわかる――戦闘が行なわれている場所でなければ、そういうふうに傷だらけにはならない。おまえは岩の破片でやられたのだ。そうなんだよ。そして、われわれがここにきた最初の晩に、声をかけてくれた尼僧も、すぐにそう見て取ったのだ。だからおまえは、認めている以上に長く北部にいたのだと思う。もしかしたら、おまえ自身が思っている以上に長くいたのかもしれない。もし大勢の人間を殺しているなら、彼らを生き返らせるものを持っていると信じるのは救いになるだろうよ」
わたしはにやりと笑って見せようと努力した。「それで、おまえは?」
「見たとおりだ。おまえに全然恩を受けていないというつもりはない。おれは熱を出していたし、おまえが見つけてくれた。おれはうわごとをいっていたかもしれない。むしろ、意識を失っていたというほうが正しいだろう。だから、おまえが死人だと思ったんだ。もしおまえがここに連れてきてくれなかったら、おそらく死んでいたろうよ」
彼は立ち上がろうと腰を浮かした。わたしはその腕をつかんで引き止めた。「行く前にいっておきたいことがいくつかある」わたしはいった。「おまえ自身のことだ」
「おれがだれか知らないといったじゃないか」
わたしは首をふった。「そうはいっていないぞ。二日前に森の中でおまえを見つけた、といったんだ。おまえのいう意味で、おまえがだれか、おれは確かに[#「確かに」に傍点]知らない――しかし、別の意味では、知っているかもしれないと思う。つまり、おまえは二人の人間で、その一方をおれは知っているのだと思う」
「一人で二人の人間である、というやつはいない」
「おれがそうだ。おれはすでに二人の人間になっている。たぶん、われわれが知っている以上にたくさんの人間が、二人なのだろう。しかし、おまえにいおうとしているのは、もっと単純なことだ。さあ、よく聞けよ」わたしはあの森に戻る詳しい道順を教えた。そして、彼が充分に飲みこんだことを確かめてからいった。「紐が切れたおまえの背嚢が、たぶんまだあそこにある。だから、まちがいなく見つかる。おまえの背嚢には、手紙が入っていた。おれはそれを引き出して、途中まで読んだ。宛名は書いてなかったが、書きおえて出すばかりになっていたなら、末尾におまえの名前の一部くらいは書かれているはずだ。その手紙を下に置いたら、風に飛ばされて、立ち木にひっかかった。今からいけばまだ見つかるかもしれないぞ」
彼は顔をこわばらせた。「おまえは読むべきではなかったし、放り出しておくべきではなかったぞ」
「いいかい、おれはおまえが死んでると思ったんだ。とにかく、あの時はとても多くのことが起こった。大部分はおれの頭の内部でだがな。もしかしたら、熱病にかかりはじめていたのかもしれない――よくわからんが。それから、もう一つの話だ。おまえはおれを信じないかもしれないが、この話を聞くのは大切なことかもしれない。しまいまで聞く意志があるか?」
彼はうなずいた。
「よし。イナイア老の鏡の噂を聞いたことはあるか? その機能は知っているか?」
「〈イナイア老の鏡〉の噂なら聞いたことがある。しかし、どこで聞いたか覚えていない。人がその中に歩み入ることができる。ちょうど扉の中に歩み入るように。すると別の星に歩み出るという話だ。本当だとは思えない」
「その鏡は実在する。おれは見ているんだ。今の今まで、おれはずっと、おまえと似たような考え方をしていた――それは船のようなものだが、もっとずっと速いものだと。だが今はあまり確信がなくなった。とにかく、おれの友人が鏡と鏡の間に歩み入った。おれはそれを見ていた。あれは手品でも迷信でもない。彼は、どこか知らんが、鏡の連れていく場所にいってしまった。彼はある女を愛していた。ところが、彼の体は隅々まで人間の肉体ではなかった。だからいってしまったのさ。わかるか?」
「事故に遇ったのか?」
「事故に遇ったといっていた。しかし、それは問題でない。彼は帰ってくるといったんだ。修理を受けて、正気に戻って五体満足になって、彼女を探しに帰ってくる≠ニ。これを聞いた時は、どう考えてよいかわからなかった。しかし今は、彼が帰ってきたと信じている。おまえを蘇生させたのはおれだ。そして、おれは彼の帰りを待ち望んでいた――もしかしたら、それとこれは関係があるかもしれないぞ」
言葉が途切れた。その兵士は寝台が並べられている地面の踏みにじられた土に視線を落とし、またわたしを見上げた。「人間というものは友人を失ってまた別の友人を得ると、おそらく昔の友人が帰ってきたように感じるのだろう」
「ジョナスの――それが男の名前だが――喋り方には、特徴があった。何か不愉快なことを喋らなくてはならない場合には、それを和らげて、冗談にしてしまうんだ。喜劇の台詞みたいにね。おれたちが出会った最初の晩に、おれが名前を尋ねたら、おまえは、どこか途中でなくしちまったよ。これは、山羊を案内してやると約束した豹の台詞だな≠ニいった。これを覚えているか?」
彼は首を振った。「おれはいろいろ馬鹿なことをいうよ」
「おれは変だなと感じた。なぜなら、これはいかにもジョナス流の表現だが、表面的な意味よりももっと多くを伝えたいと望んでいるのでなければ、あんなことはいわなかったはずだ。たぶんざる[#「ざる」に傍点]と同じさ。水をいっぱい入れておいたんだがなあ≠ニかなんとかいったろうに」
返事を待ったが、彼は答えなかった。
「もちろん、豹は山羊を食った。その肉を飲みこみ、骨を噛み砕いた。どこか途中でな」
「もしかして、どこかの町特有の喋り癖だとは思わなかったか? ひょっとしたら、その友人はおれと同じ場所からやってきたのかもしれないぞ」
わたしはいった。「それは場所ではなくて、時間だと思う。ずっと昔に、だれかが恐怖を取り除かなければならなかった――肉と血でできた人間たちが鉄とガラスの顔を見た時に感じる恐怖をね。ジョナス、おまえ聞いているな。おまえを非難するつもりはないよ。その男は死んだ。そして、おまえはまだ生きている。わかるよ。しかしジョナス、ジョレンタは死んだよ――彼女の最期をぼくは看取った。〈鉤爪〉で生き返らせようとしたが、駄目だった。よくわからんが、彼女はあまりにも人工的だったからだろう。だから別の人を見つけることにしろよ」
兵士は立ち上がった。その顔はもはや怒ってはいなかったが、夢遊病者のようにうつろな表情だった。彼は背を向けて、何もいわずに立ち去った。
約一刻ほどの間、わたしは頭の下に手を組んで、ベッドに横たわったまま、いろいろなことを考えていた。ハルヴァードとメリトとフォイラは、三人で話をしていた。わたしはその話に入ってはいかなかった。尼僧の一人が昼食を持ってくると、メリトが皿をフォークで叩いてわたしの注意を引いた。「セヴェリアン、おまえに頼みがあるんだが」
わたしは頭の中のいろいろな考えを振り捨てたくてしかたがないところだったので、できるだけ協力するといった。
フォイラ(ある種の女性は輝くばかりの笑顔を自然≠ゥら与えられるが、彼女もその一人だった)は、わたしに笑顔を向けた。「こういう事情なの。この二人は午前中ずっと、わたしのことで喧嘩しているのよ。もし二人とも丈夫なら、決闘で結着をつけることもできるけれど、それではずっと先になるわ。それに、そんなに長く待てないのよ。今日わたしは父母のことを思い出していた。両親が長い冬の夜に火の前によく坐っていたことなんかをね。もしハルヴァードとわたしが、あるいは、メリトとわたしが結婚すれば、いずれはわたしたちもそうして暮らすことになるでしょう。そこでわたし、物語の上手な人と結婚することに決めたの。気がふれたんじゃないか、なんて目で見ないでよ――これは生まれてこのかた、わたしがする唯一の筋の通ったことなんだから。彼らは両方ともわたしと結婚したがっていて、両方ともとてもハンサムで両方とも財産がなくて、もしうまく結論がでなければ、二人は刺しちがえて死ぬか、またはわたしが両方を殺すことになるでしょうよ。あんたは教養のある人物だわ――それは話し方でわかる。だから、あんたに聞いてもらって結論を出してもらいたいの。まずハルヴァード。物語は自作でなければならず、本からの引用では駄目よ」
ハルヴァードは少しは歩くことができたので寝台から起き上がって、メリトの寝台までやってきて、そのすそのほうに坐った。
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7 ハルヴァードの物語――二人のアザラシ取り
「これは実話だ。おれはいろいろな物語を知っている。架空の話もあるが、たぶん架空の話は、みんなが忘れてしまった頃に実話になるんだろう。実話もたくさん知っている。なにしろ、南の島々では、北の人々が夢にも考えないような不思議なことがいろいろと起こるんだから。この話を選んだのは、おれ自身がそこにいあわせて、だれにも劣らず、いろいろと見たり聞いたりしたからだ。
おれは南の群島のいちばん東の島の出身だ。グレイシーズという島だ。そこに、ある男女が住んでいた。おれの祖父さんと祖母さんだがね。二人には息子が三人あった。名前はアンスカールとハルヴァードとガンダルフだ。ハルヴァードがおれの親父だ。そして、おれが船の手伝いができるほどに成長すると、親父はもう兄弟と狩りや漁をやらなくなった。そして、お袋と妹や弟のところに獲物を全部持ち帰ることができるように、親父とおれと二人だけで海に出た。
叔父たちは結婚しなかったので、一艘の船をそのまま共有していた。彼らは獲物を自分たちで食べたり、もう丈夫でない祖父母にも分け与えていた。夏になると、彼らは祖父さんの土地を耕した。祖父さんは島でいちばんいい土地を持っていて、その唯一の谷間には、氷のような寒風は当たらなかった。そこでは、グレイシーズのほかのどの場所にも実らない作物を作ることができた。なぜならこの谷間では、成長の季節がほかよりも二週間長かったからだ。
おれに髭が生えはじめた頃、祖父さんが一族の男どもを呼び集めた――つまり、親父と二人の叔父と、おれ自身を。おれたちが彼の家にいってみると、祖母さんが死んでいた。そして、その入棺の準備に、大きい島から司祭がきていた。息子たちは泣いていた。おれも泣いたがね。
その夜、おれたちは祖父さんのテーブルについた。一方の端に祖父さんが、もう一方の端に司祭が坐っていた。祖父さんがいった。「さあ、財産を処分する時がやってきた。ベガは死んだ。彼女の家族には、これをもらう権利はない。そして、わしもまもなく彼女の後を追うだろう。ハルヴァードは結婚していて、妻のほうからの分け前がある。彼はそれで自分の家族を扶養する。分け前は少ないとしても、飢えることはない。おまえ、アンスカール。そしておまえ、ガンダルフ。おまえたちは結婚する意志があるのか?」
叔父たちは二人とも首を振った。
「では、わしの遺言はこうだ。全能の神よ、ご照覧あれ。全能の神のしもべもこ照覧あれ。わしが死んだら、わしの財産のすべてはアンスカールとガンダルフにいく。もし片方が死ねば、もう片方にいく。両方が死ねば、ハルヴァードのところにいく。もしハルヴァードが死ねば、財産は彼の息子たちで分けられる。おまえたち四人は――もしこの遺言に同意できなければ、今そういえ」
だれも口をきかなかった。こうして、話は決まった。
一年たった。エレボスの船が一艘、霧の中から現われて攻めてきた。そして二艘の船が、毛皮、海の象牙、塩漬けの魚、などを要求した。祖父さんは死んだ。そして、妹のファウスタは女の子を生んだ。収穫が終わると、叔父たちはほかの男たちと漁をした。
南では春がきても、まだ植えつけには早すぎる。なぜなら、まだ凍るような寒い夜がいく晩もやってくるからだ。しかし、日が急速に長くなっていくのを見ると、人々はアザラシの集団繁殖地を探し出す。それはどの岸からもずっと離れた岩の上にある。霧がとても濃い。日が伸びているとはいっても、まだまだ短い。死ぬのは人間であって、アザラシでないことがしばしばある。
アンスカール叔父さんがそのとおりになり、ガンダルフ叔父だけが船で帰ってきた。
ここで知っておいてもらいたいが、おれたちの仲間は、アザラシとか魚とか、そのほかどんな海の獲物をとりにいく時にも、自分の体を船に縛りつける。綱はセイウチの生皮を編んで組紐のようにしたもので、その人が船の中を必要に応じて自由に動き回ることができるだけの長さがあるが、それ以上の長さはない。海の水はすごく冷たくて、人はそれに漬かるとすぐに死んでしまう。だが、おれたちの仲間はしっかり縫いあわせたアザラシの皮の服を着ているし、たいてい相棒の漁師が引き上げることができるから、命は助かる。
ガンダルフ叔父の話はこうだった。彼らはほかの猟師たちが行ったことのない集団繁殖地を探しに、ずっと遠くまで出かけた。そしてアンスカールが、水の中を泳いでいる雄アザラシを見つけた。彼は鈷を打った。アザラシが海の底に潜ると、鈷のロープが輪になって彼の足首にからみついた。彼は海に引きこまれた。ガンダルフは彼を引き上げようとした。ガンダルフはとても力の強い人だったからな。だが、マストの根元に結んである鈷のロープを、彼とアザラシの両方が引っばったので、船がひっくりかえった。ガンダルフはそのロープを両手でたぐって這い上がり、ロープをナイフで切って、助かった。船を正常の姿勢に戻してから、アンスカールを引き入れようと努力したが、命綱も切れてしまった。彼は証拠としてささくれたロープの切れ端を持ち帰った。こうしてアンスカール叔父は死んだ。
おれたちの同胞は、女は陸で死ぬが、男は海で死ぬ。だから、おまえたちが作るような墓を、おれたちは女の船≠ニ呼ぶ。アンスカール叔父のように男が死ぬと、一枚の生皮を広げて、その絵姿を描き、それを男たちがお喋りをするために集まる家に吊す。そのような絵姿は、生きている人間がだれ一人その人物のことを思い出せなくなるまでは、取り外されることはない。アンスカール叔父のために生皮が用意され、画家たちが仕事を始めた。
やがて、ある良く晴れた朝に、親父とおれが新しい年の作物を植えるために農機具の用意をしていると――そうだ、覚えているぞ!――鳥の卵を集めにいっていた子供たちが村に駆けこんできた。一頭のアザラシが南の入江の浜砂利の上に横たわっているというのだ。だれも知っているように、アザラシは人間のいる浜には上がってこない。だが、たまたまアザラシが海で死ぬか、またはなんらかの怪我をすることがある。それを思い出して、親父とおれと、ほかに大勢の人が浜に駆けつけた。なぜならアザラシは、最初に武器を突き刺した人のものになるからだ。
おれがいちばん早かった。そして、農作業用の熊手を持っていた。こいつはうまく投げることはできない。しかし、おれのすぐ後ろに何人かの若者が続いていた。だから、おれはあと百|複歩《ストライド》ほどのところでそれを投げた。熊手はまっすぐに飛んで、アザラシの背中にぐさりと突き刺さった。次の瞬間、二度と見たくないような光景が展開した。熊手の重い柄でバランスがくずれて、柄が地面に着くまで獣が転がった。
おれの目に、冷たい海水のせいで保たれていたアンスカール叔父の顔が飛びこんできた。髭には、暗緑色の海草がからんでいた。丈夫なセイウチの生皮の命綱は、体からほんの二、三スパンのところで切断されていた。
ガンダルフ叔父は大島にいっていたので、見ていなかった。うちの親父がアンスカールを抱き上げ、おれが手を貸して、ガンダルフの家に運び、命綱の端がガンダルフに見えるように、綱を死体の胸の上に乗せた。そして、おれたちはほかの何人かのグレイシーズ諸島の人々とともに坐って、彼の帰りを待った。
ガンダルフは兄弟の死体を見ると大声をあげた。女が出すような悲鳴ではなく、雄のアザラシが自分の群からほかの雄たちを追い払う時に出すような怒号だった。彼は暗闇に逃げ去った。おれたちは船に見張りを立て、夜っぴて島じゅうを捜索した。南の果てで精霊が燃やす火が一晩じゅう見えた。それで、アンスカールもおれたちといっしょにガンダルフを探しているのがわかった。精霊の火は消える前にいちばん明るく輝いた。その時に、彼がラドボッズ・エンドの岩の間に隠れているのが見つかった」
ハルヴァードは黙りこんだ。実際、あたり一面静まり返った。声の聞こえる範囲にいたすべての傷病兵が話に聞き入っていた。しばらくして、メリトが尋ねた。「彼を殺したのか?」
「いいや。昔ならそうした。しかし、それはよくない。今では本土の法律が流血の罪に復讐を下す。そのほうがいい。おれたちは彼の手足を縛り、彼の家に置いた。そして、おれが彼のそばに坐っている間に、年配の人たちが船の用意をした。彼は大島のある女を愛していたのだといった。おれはその女に一度も会っていない。しかし、彼の話では、ネノックという名前だったそうだ。金髪碧眼で、彼より若かった。だが、だれも彼女と結婚しようとしなかった。なぜなら、彼女は前年の冬に死んだある男の子供を身ごもっていたからだ。船の中で、彼はアンスカールに彼女を家に連れてきたいといったのだそうだ。すると、アンスカールは彼を誓い破り≠ニ呼んだ。ガンダルフ叔父は強かった。彼はアンスカールをつかんで船の外に投げ飛ばした。それから命綱を両手に巻きつけ、縫い物をする女が糸を切るように、綱を切った。
彼の話によれば、その時、彼は男たちがよくやるようにマストに手をかけて立ち、水中の兄弟を見つめていたという。彼はナイフの閃きを見た。だが、それはアンスカールが彼を脅そうとしているか、または投げようとしているとしか考えなかった」
ハルヴァードはまた黙りこんだ。そして、話を続けようとしなかったので、わたしがいった。
「わからないな。アンスカールはどうした?」
微笑、それもごくかすかな微笑で、ブロンドの口髭の下のハルヴァードの唇が引きつれた。それを見ると、青くて、ものすごく冷たい、南の氷島が見えたように感じた。「彼は自分の命綱を切ったのだ。ガンダルフがすでに切ってしまった綱をだ。そのようにして、自分が殺されたということを、死骸を見つけた人に知らせようとしたのさ。わかったかい?」
わかった。そして、しばらく言葉が出なかった。
「とすると」メリトが唸るような声でフォイラにいった。「谷間のすばらしい土地はハルヴァードの父親のものになった。そして、この物語によって、彼に財産は何もないが、遺産を多少もらう見込みがあるということを、なんとかおまえに伝えたわけだ。そして、また、彼が人殺しの家の出であることも、もちろん伝えたわけだ」
「メリトはおれをえらく買いかぶっている」ブロンドの男は大声でいった。「おれはそんなことは考えていなかった。今重要なのは、土地でも毛皮でも金でもない。だれがいちばんいい話をするかだ。そして、いろいろな話を知っているおれは、その中でいちばんいいのを話したのだ。たしかに親父が死ねば、遺産が少しは入るかもしれない。しかし、まだ結婚していない妹たちに、持参金としていくらかつけてやることになるだろう。そして、残ったわずかなものを、弟とおれで分けることになる。しかし、すべてなんにもならない。なぜなら、おれにはフォイラを南に連れていく気はないからだ。あちらは生活がとても苦しいからな。おれは兵士になって以来、もっとましな場所をたくさん見ている」
フォイラがいった。「ガンダルフ叔父さんはネノックをとても愛していたんだろうね」
ハルヴァードはうなずいた。「彼は縛られて転がされている時に、それもいったっけ。しかし、南の男たちはみんな自分の女を愛するのさ。男が冬、海に立ち向かい、嵐や凍るような霧に立ち向かうのは、女たちのためなんだ。浜砂利の上で、男が自分の船を押し出す時に、船底が砂利とこすれて立てる音は女房、子供、女房、子供≠ニ聞こえるというよ」
わたしはメリトに、これからおまえの話を始めるかと尋ねた。だが、彼はかぶりを振って、みんなハルヴァードの話で満腹してしまったから、明日まで待つといった。それから、みんなはハルヴァードに南の生活について質問し、教えられたことと自分たちの同胞の生活を比較した。アスキア人だけがだまっていた。わたしはディウトルナ湖の浮島を思い出し、あそこの住民の話をハルヴァードたちにした。もっとも、バルダンダーズの城の戦いの話はしなかったけれども。われわれは夕食の時間までこのようにして話しあっていた。
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8 尼 僧
食事を終える頃には、あたりは暗くなりかけていた。夕暮れ時には、だれもがふだんよりも口数が少なくなる。体力がないからだけではなく、負傷者はいつよりも日没後に死ぬことが多く、とりわけ夜更けに死ぬことが多いと知っているからである。いうなれば、過去の戦闘が借金を取り立てる時刻なのだ。
また別の意味においても、夜はわれわれに戦争をよけいに意識させた。時々――そして、わたしの記憶によれば、とりわけその夜は――大がかりなエネルギー兵器の発射が、熱雷の稲妻のように夜空を焦がした。歩哨たちが持ち場につく足音が聞こえ、ふだんは夜の十分の一≠ニいう以上の意味を与えずに使っているウオッチ≠ニいう言葉が、耳に聞こえる現実、つまり足を踏み鳴らす音や意味不明の命令などからなる実際の存在となった。
だれも口をきかない瞬間が生まれ、それが次第に長引いていった。その瞬間を妨げる唯一のものは、あちこちの患者の状態を尋ねにやってくる尼僧とその男の従者たちの、井戸の水音のようなかすかな話し声だけだった。緋の衣の尼僧が一人やってきて、わたしの寝台のそばに腰を下ろした。わたしは心の働きがひどく鈍っていて、半眠りのような状態だったので、彼女が腰かけを持参したことに気づいたのは、しばらくたってからだった。
「あなたがセヴェリアンね?」彼女はいった。「ミレスの友達の」
「はい」
「あの人は名前を思い出しましたよ。それをあなたに知らせたほうがよいと思ってね」
なんという名前かと、わたしは尋ねた。
「それは、もちろんミレスよ。今いったように」
「時間がたてば、もっと多くのことを思い出すと思っていたんですが」
尼僧はうなずいた。彼女は中年を過ぎた、優しく、しかも厳粛な顔つきをした女性だった。
「きっと思い出すでしょう。家や家族のことをね」
「家族がいればですがね」
「ええ、家族のいない人もいます。家庭を築く能力さえない人もいます」
「わたしのことですね」
「いいえ、とんでもない。とにかく、その能力の欠如は、本人がどうこうできるものではありません。でも家庭があれば、わけても男の人たちにとっては、ずっといいのです。お友達が話した男の人のように、たいていの男性は家族のために家庭を築くと思っています。でも、実際は、男たちは自分のために家庭と家族の両方を築くのですよ」
「では、ハルヴァードの話を聞いていたのですね」
「わたしたち何人もが聞いていましたよ。いい物語でした。シスターが呼んでくれたので、わたしはあの患者のお祖父さんが遺言をするところから、最後まで全部聞きました。あの悪い叔父さんのどこが問題かわかりますか? つまり、ガンダルフの?」
「たぶん、彼が恋愛したことでしょう」
「いいえ、それは彼の正しい点です。ほら、人間はみな植物のようなものでしょう。美しい緑色の部分があって、しばしば花や実をつけますし、まっすぐに太陽に向かって、自存神《インクリエート》に向かって伸びていきます。また、それと反対の方向に、光のこないところに穴を掘って伸びていく暗い部分もあります」
わたしはいった。「秘伝の書物を勉強したことはありませんが、どんな人にも善い部分と悪い部分があることは、わたしも知っています」
「わたし、善悪の話をしていたかしら? 太陽に向かって昇る力を植物に与えるのは、根の部分です。もっとも、根がそのことを知っているわけではありませんが。もし、草刈り鎌を地面すれすれに振るって茎を根から切断すれば、茎は倒れて枯れます。でも根は新しい茎を伸ばすかもしれないでしょう」
「悪は善だというんですかり」
「いいえ。わたしたちの他人への愛情や、自分自身への関心は、わたしたちに見えず、また、めったに考えをめぐらせないものから発生するということです。ガンダルフにはほかの男たちと同様に、権威を持ちたいという本能がありました。それが適切に成長すれば、家族を作るようになります――さらに女たちも、同様の本能を持っています。ガンダルフの場合は、その本能が長いこと抑圧されていました。ここにいる大勢の兵士たちも同様です。将校たちは支配権を持っています。支配権を持たぬ兵士たちは、苦しみます。そして、兵士たちはなぜ自分が苦しまなければならないかわかりません。もちろん、下士官や兵の間で、他人と結びつく人もいます。時には数人で、一人の女性とか、女のような男性を共有することがあります。さらには動物をペットにしたり、戦乱で家を失った子供を可愛がったりします」
わたしはキャスドーの息子を思い出していった。「そういうことに、あなたがたがなぜ反対するか、わかりますよ」
「反対はしません――特にこれに反対しないことはたしかです。そして、大きく自然からはずれた物事にもね。わたしはただ権威を持ちたいという本能のことをいっているだけです。その悪い叔父さんは、この本能のおかげで女を愛しました。それも、すでに子供のある人をね。だから家庭を持ったとたんに、大家族を持つことになります。だから、そのようにして、彼は失っていた時間の一部を取り戻すことになるのです」
彼女は言葉を切り、わたしはうなずいた。
「それにしても、あまりにも多くの時間が失われました。その本能は別のかたちで噴き出します。彼は兄弟から委託されただけの土地の正当な主人になり、もう一人の人間の主人になることを夢見ました。この夢が迷いのもとでしたね」
「そうでしょうね」
「他の人たちも、同様に非現実の夢を見ることがあります。といっても、もっと危険性の少ないものですが」彼女は笑みを浮かべてわたしを見た。「あなたは自分に何か特殊な権威があると考えていますか?」
「わたしは〈真理と悔悟の探究者〉の職人です。しかし、この地位はなんの権威も伴っていません。われわれ組合の者は、裁判官の意志を実行するだけです」
「拷問者組合はずっと昔に廃止されたと思っていました。では、それは警士の協会のようなものになっているんですね?」
「まだ存在しています」わたしはいった。
「やっぱりね。でも何世紀か前には、それは銀細工師の組合のような、本当の同業者組合だったのですよ。少なくとも、わたしはそう読みました。わたしたちの教団で保存している歴史書でね」
彼女の話を聞くと、わたしは一瞬あらあらしい感情の高揚を感じた、彼女の話が、とにかく正しいと感じたからではない。たぶん、わたしはある点では狂っているのだろう。それがどの点であるかも知っている。そして、このような自己欺瞞はそれには含まれていない。にもかかわらず、このようなことを信じることが可能な世界に――この瞬間だけでも――生きているのが、すばらしいことのように思われた。わたしは、この時初めて悟った――司法的処罰のより高度の形態について何も知らず、また、独裁者を何重にも取り巻く陰謀の輪のことを何も知らない人々が、共和国には何百万人もいることを。そして、これはわたしにとってワイン、いやむしろ、ブランデーのようなものであって、めくるめく喜びのためにわたしは千鳥足になってしまった。
尼僧はそれに少しも気づかずにいった。「それ以外に特殊な権威を持っているとは思わないのですか?」
わたしはうなずいた。
「あなたは〈調停者の鉤爪〉を持っていると信じていると、メリトがいいました。そして、オオヤマネコかカラカラ鳥から取ったような、小さな黒い鉤爪を彼に見せて、それを使って大勢の死者を蘇らせたといったそうですね」
では、年貢の納め時がやってきたのだ。これを放棄すべき時がとうとうやってきたのだ。この避病院に着いて以来、まもなくその時がくると知っていた。しかし、それを手放す心の準備ができるまで、なるべく先に延ばしたいと思っていたのだった。今わたしは、これが最後だと思いながら〈鉤爪〉を取り出し、尼僧の手に押しつけた。「これがあれば、あなたがたは大勢の人を救えます。わたしは盗んだのではありません。そして、ずっとあなたがたの教団にこれを返したいと願っていたのです」
「これを使って」彼女は優しく尋ねた。「大勢の死者を蘇らせたのですか?」
「これがなかったら、わたし自身何ヵ月も前に死んでいたでしょう」わたしはそういって、アギルスとの決闘の物語をはじめた。
「待って」彼女はいった。「これはあなたが持っているべきです」そして彼女は〈鉤爪〉を返してくれた。「ごらんのとおり、わたしはもう若い女ではありません。来年は、この教団の正会員になって三十周年のお祝いをすることになっています。この前の春までは、毎年の五大祭のたびに奉挙される〈調停者の鉤爪〉を拝んだものです。あれは大きなサファイアで、オリカルク貨幣ほどの大きさがありました。たくさんの別荘よりも価値があったにちがいありません。だからこそ、盗人に取られてしまったのですわ」
わたしは口を出そうとした。だが、彼女は手を振って黙らせた。「あれが奇跡を起こして、病人を治したり、死者さえ蘇らせたりするということですけれど、もしそうなら、われわれの教団に病人がいると思いますか? わたしたちは少ししかいません――なすべき仕事に比べて、あまりにも小人数です。去年の春先にわたしたちの仲間が一人も死ななかったら、教団はもっとずっと大人数になっていたでしょうに。わたしが愛した大勢の人たち、先生方やお友達は、まだ教団にいるでしょうに。たとえ、偉い僧侶《エポプト》の靴の泥を掻き落として飲むようなものだとしても、無知な人々にはそれなりの驚異が必要です。わたしたちの願いどおり、まだあれが存在していて、カットされて小さな宝石にされていなければ、〈調停者の鉤爪〉こそは、わたしたちが所有しているもっとも偉大な善人の最後の遺品なのです。彼の記憶を大切に保存しているからこそ、わたしたちはあれを大切に秘蔵していたのです。もし、あれがあなたが自分で持っていると信じているような種類のものだったら、だれにとっても貴重なものだったでしょうに、そして、ずっと昔に独裁者たちがわたしたちの手からもぎ取ってしまったことでしょうに」
「これは本当に〈鉤爪〉なんです――」わたしはいいかけた。
「あの宝石の芯の異物だったにすぎません。〈調停者〉は人間だったのですよ、警士のセヴェリアンさん。あのお方は猫でも鳥でもないのですよ」彼女は立ち上がった。
「巨人が胸壁から投げて、岩に当たって砕けてしまったのです――」
「あなたを落ち着かせようと思ったのに、興奮させてしまっただけのようですね」彼女はいった。まったく思いがけないことに、彼女はにっこり笑って、身をかがめてわたしにキスした。
「わたしたちはここで、事実ではないことを信じている大勢の人たちと出会います。でも、あなたほど立派な信念を持った人はそう多くはありません。このことはまたいずれ話しあいましょう」
寝台が並んでいる静かな暗闇の中に彼女の小柄な真紅の姿が消えていくのを、わたしは見送った。われわれが話している間に、大部分の傷病兵は眠ってしまっていた。呻き声を立てているのも何人かいた。三人の奴隷が入ってきた。二人が担架で負傷者を運び、一人がランプを持って道を照らしている。その光で、彼らの剃りあげた頭が光って見えた。汗をびっしょりかいていた。彼らは負傷者を寝台に寝かせ、死人にするように手足をととのえ、出ていった。わたしは〈鉤爪〉を見た。さっき尼僧に見せた時には死んだように黒くなっていたが、今は小さな白い火花がその根元から先端に向かって走っていた。わたしは気分がよくなったように感じた――よくも、狭いマットレスの上に一日じゅう辛抱していたものだと思った。だが、立とうとすると、足はほとんど体を支えることができなかった。ひと足ごとに、患者の上に倒れかかりはしないかと心配しながら、わたしは二十ペースほどよろよろと歩いて、運びこまれたばかりの男のところにいった。
それはエミリアンだった。独裁者の宮廷の伊達男として知っていた男だった。こんなところで彼に会った驚きで、わたしは呆然としながら、彼の名前を呼んでしまった。
「セクラ」彼はつぶやいた。「セクラ……」
「そう、セクラよ。わたしをおぼえているのね、エミリアン。さあ、回復しなさい」わたしは〈鉤爪〉を彼に当てた。
エミリアンは目を開けて、悲鳴をあげた。
わたしは逃げたが、自分の寝床に戻る途中で倒れてしまった。わたしはひどく弱っていたので、残りの距離を這っていくことができるとは信じられなかった。しかし、なんとか〈鉤爪〉をしまって、ハルヴァードのベッドの下に転がりこみ、姿を隠すことができた。
奴隷たちが戻ってきた時には、エミリアンは起き上がっていて、口をきくことができた――もっとも、彼の話は奴隷たちにとってほとんど意味をなさなかったろうと思うが。彼らは彼に薬草を与えた。一人だけが、あとに残って彼が薬草を噛むのを見届け、それから静かに去っていった。
わたしは寝台の下から転がり出ると、寝台の縁にすがりつくようにして立ち上がった。あたりはまた静まり返っていた。しかし傷病兵の多くは、倒れる前のわたしを見ていたにちがいなかった。エミリアンは、わたしが想像したように眠ってはいなかったが、茫然としているようだった。「セクラ」彼はつぶやいた。「セクラの声がしたぞ。彼女は死んだと聞いたのに。ここでは死者の国からの声が聞こえるのか?」
「今は聞こえない」わたしは彼にいった。「きみは容体が悪かった。だが、すぐよくなるだろう」
わたしは〈鉤爪〉を頭上に掲げて、エミリアンだけでなくメリトやフォイラにも――避病院のすべての傷病兵に対して――精神を集中しようと努力した。〈鉤爪〉は一瞬きらめいて、暗くなった。
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9 メリトの物語――雄鶏と天使と鷲
「さほど遠くない昔に、わたしの生まれた場所からあまり遠くないところに、立派な農場がありました。そこは養禽で特に有名でした。雪のように白い家鴨や、白鳥ほども大きくて、ほとんど歩けないほど太った鵞鳥や、オウムのように色彩豊かな鶏の群れが飼育されていました。この農場を作った農夫は、農業についてたくさんの変わった考えを持っていました。しかし彼は風変わりな考え方のせいで、普通の考え方をする近所の農家よりもずっと成功しました。だから、彼を馬鹿よばわりする勇気のある人はほとんどいませんでした。
彼の奇妙な考えの一つは鶏の管理についてのものでした。雛が雄だとわかると、去勢しなければならないことはだれも知っています。農家の庭には雄鶏は一羽だけでいい。二羽いると喧嘩をするからです。
ところが、この農場主はその手間を完全に省きました。「全部成長させろ」と彼はいいました。「喧嘩もさせろ。いいことを教えてやるよ、あんた。そうすれば、いちばん優秀で雄鶏らしい雄鶏が勝つ。そいつが親になってたくさんの雛を作り、家の養鶏もますます盛んになるという勘定だ。それだけじゃない。そいつの雛鳥がいちばん丈夫で、あらゆる病気を駆逐するのにいちばんいいんだ――お宅の鶏が全滅したら、家へ来な。こちらの言い値で種鶏を売ってやるよ。負けた雄鶏は家族で食えばいい。死ぬまで喧嘩した雄鶏ほど、肉の柔らかい鳥はいないぜ。ちょうど、闘牛場で死んだ牛からいちばん上等の牛肉が取れ、一日じゅう猟犬に追われた鹿からいちばん上等の鹿肉が取れるのと同じことだ。それに、男は去勢鶏を食うと精力が減退するぜ」
この風変わりな農夫はまた、食事に鶏を食べたいと思った時には、かならず最悪の鶏を選ぶことが自分の義務だと心得ていました。「いちばんいいのを食うなんて」彼はいいました。
「お天道さまに申しわけない。いい鶏は万物主の目の下で栄えるように残しておくべきだ。万物主は男と女を創ったと同様に、雄鶏と雌鶏をもお創りになったんだからな」おそらく彼がそう感じて、そのとおりにしたためでしょうが、彼の鳥の群れはとても良くて、最悪のものが混じっているようには見えないことがしばしばありました。
今まで話したことから、彼の鳥の群れの雄鶏はとても優秀なものだとわかるでしょう。それは若くて強くて勇敢でした。尻尾はいろいろな種類の雉の尻尾のように見事なものでした。そして、鶏冠も疑いなく立派だったでしょう。といっても、彼がその地位を得るために闘ったたくさんの死闘のために、ぼろぼろのリボンのように千切れてしまっていたけれども。彼の胸は真っ赤でした――ここのペルリーヌ尼僧の衣みたいにね。しかし、彼自身の血で染まる前には白かったと、鵞鳥たちはいいました。彼の翼はとても強くて、白い家鴨のどれよりも上手な飛び手でした。そして、彼の蹴爪は人の中指ほどの長さがあり、嘴は剣ほども鋭かったのです。
この立派な雄鶏には千羽もの妻がいました。しかし、彼のお気に入りは自分と同じくらい立派な雌鶏でした。高貴な血筋の娘で、近在のすべての鶏の女王と認められていた鳥です。彼らは納屋の角と家鴨の池の間を、それは誇らしげに歩いていました! これ以上立派なカップルを見ることは、とてもできません。そうです、独裁者おんみずからお気に入りの女性をつれて〈蘭の泉〉にお出ましになるのを見る以外にはね――独裁者は去勢されているという噂だから、なおさらです。
ある晩、恐ろしい騒ぎが持ち上がって雄鶏が目を覚ますまでは、この幸福なカップルにとってすべてが朝食の虫みたいにうま味のあるものでした。一羽の耳の大きい梟がねぐらにしている納屋に飛びこんできて、獲物を求めて鶏の中を進んできたのでした。もちろんそいつは、雄鶏がとりわけ気に入っている雌鶏につかみかかりました。そして、彼女を鉤爪で捕えると、大きな、音のしない翼を広げて飛び立とうとしました。梟は暗闇でもよく目が見えるから、雄鶏が羽毛に覆われた憤怒の塊りとなって自分に飛びかかってくるのが見えたにちがいありません。当惑した顔つきの梟を見た人間がいるでしょうか? でもきっと、その晩に納屋にいた梟は、当惑の表情を浮かべたにちがいありません。その雄鶏の蹴爪はどんな踊り子の足よりも早く動き、その嘴は、きつつき[#「きつつき」に傍点]の嘴が木の幹に穴をあけるように、梟の丸い輝く目に突きかかりました。梟は雌鶏を落とし、納屋から飛び去り、二度と姿を現わしませんでした。
もちろん雄鶏には自慢する権利がありました。しかし、彼は高慢になりすぎました。暗闇で梟をやっつけたことから、どんな場所でどんな鳥をもやっつけることができると思ってしまったのです。そして鷹の獲物を救出するとか、飛ぶ鳥の中では最大でもっとも恐ろしいテラトルニス鳥を撃退するとかいいはじめました。彼のまわりに賢明な相談役さえいたら、それも、たいていの貴公子が顧問に選ぶリャマと豚がいたら、彼の大言壮語は、きっと礼儀正しくはあるが効果的な方法ですぐに抑えこまれたでしょう。しかし、悲しいことに、そうはなりませんでした。彼にのぼせ上がっている雌鶏のいうことや、仲間の飼い鳥として彼のかちえた栄光にある程度与っていると感じている鵞鳥や家鴨のいうことにしか、耳を傾けませんでした。ついに年貢の納め時がやってきました。高慢になりすぎた者にかならず年貢の納め時がやってくるように。
それは日の出の時刻で、要領の悪い者にとって、もっとも危険な時でした。雄鶏は高く高く舞い上がっていって、まるで空を突き抜けそうに思われました。そしてついに、飛翔の最高点において、納屋のてっぺんの切妻の風見の上にとまりました。そこで、太陽が赤と金の鞭で影を追い払うと、彼はかん高い声で何度も何度も、おれは翼を持つすべてのものの君主だと叫びました。彼は七回、同じことを叫びました。そして七は幸運の数字だから、それで降りてくればよかったのです。ところが彼はそれでは満足せず、もう一度自慢の声をあげてから、舞い降りました。
そして彼がまだ仲間の群れの中に着地しないうちに、納屋の真上の高い空に非常に不思議な現象が起こりました。百筋もの太陽の光線が、子猫が毛糸の玉にじゃれるようにもつれあい、女がこね鍋でうどん粉をこねるように転がりあったように見えました。それから、この輝かしい光の集合体から足が生え、腕が生え、頭が生え、最後に翼が生えて、納屋の上に急降下してきました。それは赤と青と緑と金色の翼を持つ天使でした。天使は雄鶏より大きいようには見えませんでしたが、雄鶏はその目を覗きこんだとたん、内心で、自分よりもはるかに大きいと知りました。
「これ」と天使はいいました。「正義の声を聞きなさい。きみは翼のあるものできみに対抗できるものはないと公言した。ここにわたしがいる。ごらんのとおり翼のあるものだ。光の軍隊の強力な武器はすべて置いてきた。だから格闘をしよう。われわれふたりで」
これを聞くと雄鶏は羽を広げ、ぼろぼろの鶏冠が土をこするほど低く頭を下げました。「このような挑戦にふさわしいと思われたことを、わたしは生涯の最後の日まで名誉と思うでしょう」彼はいいました。「このような挑戦はほかのどの鳥も受けたことはありませんから。しかし、この上もなく遺憾なことに、わたしはこれをお受けすることができません。理由は三つあります。まず第一に、あなたには翼がありますが、わたしが闘うのはあなたの翼に対してでなくて、その頭と胸に対してです。だから、格闘の目的においては、あなたは翼のあるものとはいえません」
天使は目をつぶり、手で自分の体に触りました。そして、手を離すと、彼の頭髪はもっともすばらしいカナリアの羽毛よりさらに輝かしい羽毛になりました。そして、彼の衣の布は、もっとも輝かしい鳩の羽毛よりも白い羽毛になりました。
「第二の理由は」少しもひるまずに雄鶏は続けました。「あなたには、明らかに変身能力があることです。だから、格闘しているうちに、翼を持たない生物たとえば大蛇など――に変身する気になるかもしれません。だから、万一あなたと闘っても、フェアプレーとなる保証がないことになります」
これを聞くと天使は胸を開いて、集まった鳥たちに内部にあるすべての特性を見せ、変身能力を取り外しました。それをいちばん太った鵞鳥に渡して、試合がすむまで預かってくれるように頼みました。すると鵞鳥はたちまち変身して、極から極まで列をなして渡っていく灰色の雁になりました。しかし、飛び去ることなく、天使の能力をしっかりと預かっていました。
「理由の三番目は次のとおりです」雄鶏はやけになっていいました。「あなたは明らかに万物主に仕える役人であって、ごらんのとおり正義のための告発という仕事をなさっています。もしわたしが仰せのとおりあなたと闘えば、勇敢な鶏たちが認める唯一の支配者に対して、わたしは重大な罪を犯すことになります」
「なるほど」天使はいいました。「それは強力な法的見解だ。たぶんきみはこれで自由を勝ち取ったと思っているだろう。だが実は、きみは自分の死に通じる弁論をしてしまったのだよ。わたしはきみの翼をほんのわずか後ろにねじり、尻尾の羽根を引き抜くだけのつもりでいたのに」それから彼は頭をあげて、不思議な荒々しい叫びをあげました。たちまち一羽の鷲が空から舞い降りてきて、稲妻のように納屋に飛びこみました。
鷲はとても強かったけれど、雄鶏はすばやくて勇敢だったので、二羽は納屋じゅうを飛び回って闘い、家鴨の池の横で闘い、牧場を横断して闘い、また戻ってきました。納屋の壁に車輪の壊れた古い荷車が立てかけてありました。雄鶏はその下を最後の砦に選びました。そこでは鷲が上から飛びかかることができず、また陰になっているため、雄鶏がいくらか涼を取ることができたからです。しかし、彼はひどく出血していたので、鷲が(やはり同じくらい血まみれになっていましたが)そこにやってこないうちに、よろめき、倒れ、立ち上がろうとして、また倒れました。
「さあ、みんな」天使は集まっているすべての鳥に呼びかけました。「これで正義が行なわれたのを見た。高慢になってはいけない! 自慢してはいけない! 必ず天罰が下るからね。おまえたちは自分らの統領は無敵だと思った。その彼がここに横たわっている。彼はこの鷲のではなく高慢の餌食となって、やっつけられ、破滅したのだ」
すると、皆が死んだと思っていた雄鶏が頭を上げました。「天使よ、まちがいなくあなたはとても賢明です」彼はいいました。「しかし、雄鶏のことを少しもご存じない。雄鶏は尻尾を裏返して、尾羽根の下の白い羽毛を見せるまでは、負けではないのです。わたしの力は、飛んだり、走ったり、たくさんの闘いをしたりして、自分で培ったものですが、結局負けてしまいました。しかし、あなたの主人の万物主の手から受け取った精神は、負けてはいません。鷲よ、おまえに命乞いするつもりはないぞ。さあ、こい。さあ、殺せ。しかし、名誉を重んじるなら、おれを負かしたとは決していうなよ」
雄鶏の言葉を聞くと、鷲は天使を見ました。そして天使は鷲を見ました。「万物主はわれわれから無限に離れておられる」天使はいいました。「そして、わたしはおまえよりもずっと高く飛ぶことができるが、やはり、彼から無限に離れている。だから、わたしは主のご意志を推測する――それ以外の方法はだれにもない」
彼はふたたび胸を開き、一時はずしておいた能力をもとに戻しました。それから彼と鷲は飛び去り、雁もその後を追ってしばらく飛んでいきました。この話はこれでおしまいです」
メリトは上向けに横たわって、頭上に張られた帆布を見上げながら、話をしていたのだった。彼は片肘ついて体を起こすこともできないほど衰弱していると、わたしは感じていた。傷病兵のほかの者たちは、ハルヴァードの話を聞いていた時と同様に、静かに耳を傾けていた。
やがてわたしはいった。「よい話だった。二つの話を判定するのはとても難しい。おまえもハルヴァードも、そしてフォイラも同意してくれるなら、おれは二つの話について、少し時間をかけて考えてみたい」
起き上がって、立てた両膝に顎を乗せて話を聞いていたフォイラが、呼びかけた。「判定はしないで。まだコンテストは終わっていないわ」
みんなが彼女を見た。
「明日、説明する」彼女はいった。「判定はしないでね、セヴェリアン。でも、今の話はどう思った?」
ハルヴァードが胴間声でいった。「おれの考えを話そう。メリトはおれが利口だといったが、メリトも同じように利口だぜ。おれほどうまくはないし、おれほど強くない。だが、それを武器にして女の同情を引いた。うまくやったぜ、雄鶏野郎」
メリトの声は、鳥たちの闘いの話をしていた時よりも弱くなったように思われた。「これは、おれの知っている最低の物語だ」
「最低だって?」わたしは尋ねた。みんな驚いた。
「そうだ、最低だ。これは幼い子供たちに話して聞かせる馬鹿ばなしだ。泥と農場の動物と頭の上の空しか見たことのない子供たちにな。言葉の一つ一つに、それがはっきり現われているにちがいない」
ハルヴァードは尋ねた。「勝つ気はないのか、メリト?」
「勝ちたいさ。おまえは、おれほどはフォイラを愛していない。おれは死ぬほどフォイラがほしい。だが、彼女を失望させるくらいなら、死んだほうがましだ。もし今の物語で勝てるなら、おれは決して彼女を失望させることはないだろう。少なくとも物語ではな。これよりもましな話を千も知っているんだから」
ハルヴァードは前の日にやったように、起き上がってわたしのベッドのところにくると、腰を降ろした。わたしはベッドの横に足を降ろして、並んで坐った。彼はわたしにいった。「メリトのいうことはとても賢い。彼がいうことは何もかも、とても賢い。それでも、おまえはおれたちが話した物語で判定するんだぞ。まだ話してない知ってる話、というやつではなくてな。おれだってほかにたくさんの話を知ってる。故郷の冬の夜は、共和国じゅうでいちばん長いんだから」
このコンテストを最初に考えだし、自分をその賞品にしているフォイラの意志を尊重して、わたしはまだ全然、判定していないと答えた。
アスキア人がいった。「〈正しい思想〉を話す人はみな、話がうまい。とすると、ある学生がほかの学生に抜きんでるのは、どの点においてか? それは話し方においてだ。知的な学生は〈正しい思想〉を知的に話す。聞き手は話し手の口調によって、話し手が理解しているかどうか知る。知的な学生のこの優れた話し方によって、〈正しい思想〉は火のように、人から人に伝わる」
彼が話を聞いていたとは、だれも気づかなかったように思う。みんな、いま彼が口をきいたので、ちょっとぎくりとした。少しおいて、フォイラがいった。「つまり、彼は物語の内容で判定すべきでなくて、その語り口のうまさで判定すべきだといっているのよ。わたしは必ずしも賛成しかねるけれど――それでも、いくらかの真理は含まれているかもしれないわね」
「おれは賛成しない」ハルヴァードが胴間声でいった。「話し上手の技術には、聞き手はすぐに飽きてしまう。最善の話し方は、もっとも平明な話し方だ」
ほかの者も議論に加わり、そのことや、小さな雄鶏のことなどを長いこと話しあった。
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10 アヴァ
容体が悪いうちは、食事を持ってきてくれる人々にあまり注意を払わなかった。しかし、いったん思い返すと、彼らのことをはっきりと思い出すことができた。やはり、わたしは何から何まで覚えているのだ。一度は、ペルリーヌ尼僧が給仕をしてくれた――前の夜にわたしに話しかけた尼僧である。そのほかの時には、頭を剃った男性の奴隷か、または茶色の衣の聖職志願者たちだった。この晩、つまりメリトが物語をした日の晩には、それまでに見たことのない、痩せて灰色の目をした聖職志願の少女が夕食を運んできた。わたしは起き上がって、彼女が盆を渡すのを手伝った。
それがすむと彼女は礼をいい、それから、「あなたはそれほど長くここにいないでしょう」といった。
わたしは、ここでやるべきことがあり、ほかに行くところはないといった。
「自分の部隊があるでしょう。もしそれが全滅していたら、新しい部隊に配属されるのですよ」
「兵士ではない。兵士になろうかなと、漠然と思いながら北にやってきたんだ。ところが、その機会を得ないうちに病気になってしまったのさ」
「故郷の町で待っていればよかったのに。徴兵団が少なくとも年に二回はすべての町を回って歩くそうですよ」
「残念ながら、故郷はネッソスでね」彼女が微笑むのが見えた。「少し前にあそこを去った。ほかの町にいても、半年もじっと待ってなんかいられなかっただろうよ。とにかく、そのことは全然考えてなかった。きみもネッソスの人かね?」
「立ってはいけません」
「なに、大丈夫」
彼女はわたしの腕に触った。なんとなく、独裁者の庭園にいる、人に馴れた鹿を思い出させるような、おずおずとした動作だった。「よろよろしてますわ。熱が下がっても、足は立つのを忘れてしまっているんですよ。それを忘れてはいけません。ずっと寝ていたんですからね。さあ、横になってください」
「そうすると、一日じゅう話をしているこの連中以外に、話し相手がいないんだ。右側のこの男はアスキア人の捕虜で、左側のこの男は、きみもぼくも聞いたことがないような村から出てきたんだよ」
「わかりました。もし横になるなら、ここに坐って、しばらく話し相手になってあげます。どうせ、宵課を行なうまでは、もう仕事はありませんから。ネッソスのどの地区からきたんですか?」
彼女にベッドまで連れ戻されながら、わたしは喋りたいのではなく、聞きたいのだといい、きみ自身はどの地区を家と呼ぶのかと尋ねた。
「ペルリーヌ尼僧団にいれば、それが家です――テントをどこに立ててもね。尼僧団が家族に、友人に、なるのです。まるで、すべての友人が突然、姉妹にもなったみたいなものです。でも、ここにくる前は、あの町のずっと北西の地区に住んでいました。〈壁〉がよく見えるところでしたよ」
「〈血染めが原〉のそば?」
「ええ、すぐそば。あそこ知ってるんですか?」
「あそこで決闘をしたことがある」
彼女は目を丸くした。「ほんと? わたしたち見物によくいきました。いってはいけないと言われてましたけど、やっぱりいきました。あなたは勝ったのですか?」
そのことは一度も考えたことがなかったので、ちょっと考えなければ、答えができなかった。
「いや、負けた」
「でも、生きているのね。相手の命を取るよりも、負けて生きているほうがたしかにいいですね」
わたしは白衣を広げて、アギルスのアヴァーンの葉がつくった胸の傷を見せた。
「あなたは、とても運がいいわ。胸にそういう傷のある兵士がよく連れてこられるけれど、めったに命を救うことができないんですよ」彼女はためらいがちにわたしの胸に触った。彼女の顔には、ほかの女の顔には見たことのない優しさがあった。彼女はわたしの肌をちょっと撫でた。それからぱっと手をはなした。「深い傷ではなかったんでしょうね」
「うん、そうだ」わたしは答えた。
「いちど、士官と仮装した高貴人《エグザルタント》との格闘を見ました。彼らは毒のある植物を武器に使いました――たぶん、剣を使うと士官のほうに有利になって、公平でなくなるからでしょうね。高貴人が死んで、わたしは現場を離れましたけれど、後で、その士官が逆上して、大騒ぎになりました。かれは植物を振り回しながら、わたしのそばを駆け抜けていきましたが、だれかが彼の足に棍棒《カジェル》を投げて打ち倒しました。あれはわたしが見たいちばんエキサイティングな決闘だと思います」
「彼らは勇敢に闘った?」
「必ずしもそうではありませんでした。法律的な問題でずいぶん議論していましたよ――ほら、何かを始めたくない時に、男の人たちがよくそうするでしょう」
「このような挑戦にふざわしいと思われたことを、わたしは生涯の最後の日まで名誉と思うでしょう。このような挑戦はほかのどの鳥も受けたことはありませんから。しかし、この上もなく遺憾なことに、わたしはこれをお受けすることができません。理由は三つあります。まず第一に、おっしゃるとおり、あなたには翼がありますが、わたしが闘うのはあなたの翼に対してでなくて……≠アの物語、知ってる?」
彼女は微笑して首を振った。
「いい話だよ。いつか話してあげよう。〈血染めが原〉のそばに住んでいたのなら、きみの家は重要な家であったにちがいない。きみは女大郷士《アーミゲット》なの?」
「それどころか、わたしたちはみんな女大郷士か高貴人ですよ。残念ながら、これはむしろ貴族的な教団なのです。ときたま、わたしのような上流人《オブテイメート》の娘も入団を許されます。その上流人が教団の古くからの友人であればね。でも、わたしたちは三人しかいません。大きな贈り物をしさえすれぽ、娘を受け入れてもらえると思っている上流人もいるそうですが、事実は違います――お金だけでなく、いろいろな方法で援助しなければならないのです。しかも、それを長い間続けたあとでなければだめなのです。世の中はね、実際には人々が信じたがっているほど腐敗してはいないのです」
わたしは尋ねた。「そのように制限するのは、正しいことだと思う? きみたちは〈調停者〉に仕えている。彼は蘇らせた人々に、おまえは大郷士か、それとも高貴人か、などと尋ねただろうか?」
彼女はまた微笑した。「その質問は教団で何度も議論されました。でも、上流人や、もっと低い階級の人々にも門戸を開放している教団がほかにもあります。わたしたちはこのやり方を続けることによって、教団の事業に使う大金を調達できますし、大きな影響力を持つこともできます。もし、わたしたちが特定の種類の人々だけを介抱したり食事を出したりしているのなら、あなたのおっしゃることは正しいでしょう。でも、事実はちがいます。わたしたちは、可能な場合には動物も助けているのですよ。コクネサ・エピチャリス様は、わたしたちは虫にも足を止めるとよくおっしゃったものです。だって、わたしたちは――つまり聖職志願者は――蝶々の羽根を治そうとしたりするんですもの」
「これらの兵士が全力を尽くしてアスキア人を殺していることを、きみたちは気にしないのだろうか?」
彼女の答えはまったく予想外のものだった。「アスキア人は人類ではありません」
「さっきもいったように、隣りの患者はアスキア人だ。それなのに、きみたちは世話をしている。見たところ、われわれと同じようにね」
「わたしもいいましたよ。できる場合には、動物をも引き受けるとね。人類が人間性を失うことがありうるということを、知らないのですか?」
「獣化人《ゾアントロプス》のことだね。ぼくも何匹か見たことがある」
「もちろん、彼らのことです。彼らは故意に人間性を放棄します。そういう意志がなくても、人間性を失う者もいます。たいていは、自分の能力を高めていると思う時とか、自分の生まれついた状態よりも高いところに上っていると思う時などにね。また、そのほかに、アスキア人のようにそれを剥奪された者もいるのです」
わたしは城壁からディウトルナ湖に飛びこんだバルダンダーズを思い出した。「たしかに、そういう……連中は同情にあたいするな」
「動物は同情にあたいします。だから、わたしたちの教団は彼らの世話をするのです。でも、人がそれらを殺しても、殺人とはいえません」
わたしは抑えきれない興奮を感じて、起き上がり、彼女の腕をつかんだ。「たとえ何かが――たとえば〈調停者〉の腕のようなものが人類を癒すことができるとしても、それでもなお、人類でないものには効き目がないこともありうるとは思わないか?」
「〈鉤爪〉のことをいっているのね。口を閉じてくださいな――そうやって、ぽかんと口を開けていると、吹き出したくなるんです。教団の外の人々が周囲にいる場合には、わたしたち笑ってはいけないことになっているんです」
「知っているんだな!」
「あなたの世話係が話してくれました。あなたは狂っているが、いいほうに狂っていると。そして、決して他人を傷つけるようなことはないだろうと、いいましたよ。それで、わたしがなぜかと尋ねると、教えてくれました。あなたは〈鉤爪〉を持っていて、時々病人を治したり、死者を蘇らせたりすることができると」
「きみは、ぼくが狂っていると信じるのか?」
彼女は微笑してうなずいた。
「なぜだ? あの尼僧がいったことは考えないで。今夜、ぼくはきみにそう思わせるようなことをいったかい?」
「むしろ、魔法にかかっているとでもいうのかしら。あなたが何かいったから、そうだというのではないのよ。いや、少なくとも、ひどい状態ではありません。でも、あなたは一人の人間ではないのよ」
彼女はそういってから、黙りこんだ。わたしが否定するのを待っているのだと思ったが、わたしは黙っていた。
「あなたの顔と、それに動作がね――わたしがあなたの名前さえ知らないことを知っていて? 彼女は教えてくれなかったのです」
「セヴェリアン」
「わたしはアヴァ。セヴェリアンというのは、男と女の対のきょうだいの名前でしょう? セヴェリアンとセヴェラというように。女のきょうだいはいるの?」
「わからない。たとえいても、魔女だよ」
アヴァはそれを聞き流した。「もう片方の人は、名前があるの?」
「では、それが女だと知っているんだね」
「ええ。食事を配っている時に。ちょっと、高貴人のシスターの一人が手伝いにきてくれたのかと思いましたわ。それで、見回したら、あなたでした。最初は、目の隅からあなたを見た時にそんな気がするみたいでした。でも、こうしてここに並んで坐っていて、まともにあなたを見ている時でさえも、彼女が見えることがあるんですよ。ちらりと視線をそらせた時にあなたが消えて、あなたの顔をした背の高い青白い女の人がいるんです。断食のしすぎだなんていわないでね。みんながそういうんですよ。それは事実とちがいます。たとえそうだとしても、これはそういうものではありません」
「彼女はセクラという名前なんだ。人間性喪失の話をしていたね? 彼女のことをいおうとしていたの?」
アヴァは首を振った。「そうは思いません。でも、なにかを尋ねたいと思っていました。ここには、あなたと同じような患者がもう一人いるんです。その人はあなたといっしょにやってきたと聞きました」
「ミレスのことだな。いや、ぼくの場合と彼の場合はまったく別だ。彼のことは話すつもりはない。話すなら、彼が自分で話すべきだし、他人がとやかくいうことではない。しかし、ぼく自身のことを話そう。屍食者のことは知っているね?」
「あなたはそれではありません。二、三週間前に、三人の反乱者を捕えました。屍食者がどんなものかは知っています」
「われわれとどうちがう?」
「彼らは……」彼女は言葉を探した。「彼らの場合は、常軌を逸しています。ひとり言をいいます――もちろんひとり言をいう人は大勢いるけれど――そして、彼らは存在しないものを見ます。どことなく孤独なところがあって、なんとなく利己的です。あなたとは違います」
「しかし、そうなんだ」わたしはいった。それから、あまり詳細にわたるのを避けながら、ヴォダルスの宴のことを話した。
「彼らが強制したのですね」わたしが話しおえると彼女はいった。「あなたが本心をいったら、彼らはあなたを殺したでしょうね」
「それは問題ではない。ぼくはアルザボを飲んだ。彼女の肉を食べた。彼女を愛してはいたけれども、最初は不潔に感じた。彼女はぼくの内部におり、彼女のものであった生命を共有した。それでも、彼女は死んでいた。彼女があそこで腐っていくのを感じることができた。最初の夜、彼女のすばらしい夢を見た。ぼくが記憶の中に戻っていく時、彼女の記憶はもっとも大切にしまってあるものの一つなんだ。その後、恐ろしいことが起こった。目が覚めている問に、時々夢を見るらしい――それが、きみが気づいたひとり言や凝視なのだと思う。今は、それもずっと前から、彼女はまた生きはじめたらしいのだ。もちろん、ぼくの内部でね」
「ほかの人とはちがうようですね」
「ああ」わたしはいった。「少なくとも、噂に聞いたところではちがうね。わけのわからないことがたくさんある。話したのは、その主なものの一つだ」
アヴァは二、三呼吸のあいだ黙っていた。それから、目を丸くした。「あなたが信じている〈鉤爪〉のせいだわ。その時、〈鉤爪〉を持ってたんでしょう?」
「ああ、しかし、それにどんな力があるか知らなかった。あれは働かなかった――いや、働いたんだ。ドルカスという女を蘇らせた。しかし、何が起こったか、彼女がどこからやってきたかがわからなかった。もし知っていたら、セクラを救えたかもしれないのに。蘇らせただろうに」
「それで、あるんですか? ここに持っているんですか?」
わたしはうなずいた。
「それなのに、わからないんですか? それは彼女を実際に[#「実際に」に傍点]蘇らせたんですよ。あなたが知らなくても〈鉤爪〉は働くことがありうると、たった今いったでしょう。あなたは〈鉤爪〉を持った。そして――あなたの言葉に従えば――腐りかかっていたそうですが、彼女を自分の内部に持った」
「肉体なしで……」
「唯物主義者なんですね。無知な人々がみんなそうであるように。でも、あなたの唯物主義は唯物主義を架空のものにしてしまいます。それがわかりませんか? つきつめて考えれば、問題になるのは、魂と夢、思想と愛と行為なのです」
わたしは心に湧き上がった思想にあまり驚いたので、しばらく口もきかずに、自分のさまざまな想像にのめりこんでいたほどであった。やっと我に返ると、驚いたことにアヴァがまだそばにいた。わたしは彼女に礼をいおうとした。
「こうしてあなたと坐っていると、気分が落ち着きます。たとえ、尼僧がやってきても、患者のだれかが悲鳴をあげるかもしれないから、待機しているのだと言いわけができるでしょう」
「きみがセクラについていったことには、まだ判断が下せない。長い間考えなければならないだろう。たぶん、何日間もね。人が見たら、ちょっと馬鹿なんじゃないかと思うだろうな」
彼女は微笑した。このわたしの言葉には(本心を語ったものではあるが)、少なくともその一部に彼女を笑わせたいという気持ちが混じっていたのは事実だった。「そうは思いません。むしろ、思慮深い人だと思うでしょう」
「とにかく、もう一つ質問がある。ぼくは眠ろうとする時とか、夜中に目が覚めた時などに、失敗と成功を結びつけようと努力する。つまり、〈鉤爪〉を使ってだれかを蘇生させた場合と、それを試みても生命が戻ってこなかった場合とをね。すると、それはただの偶然以上のものだという気がするんだよ。たぶん、その相互関係はぼくには知りえないものだろうが」
「今それを発見したと思うのですか?」
「きみは人間性を失った人たちのことを話してくれたが――それと関係があるのかもしれない。ある女がいた……彼女はそうだったかもしれないと思う。もっとも、すごく美人だったがね。それから、ぼくの友人だが、ある男がいた。そいつはほんの一部だけしか治らなかった。命が助かっただけだ。もし、人間が人間性を失うことがありうるとすれば、おそらく、最初に人間性を持っていなかったものが、後に人間性を見出すこともありうるはずだ。失うものがあれば、得るものもある。これは普遍的事実だ。その男は、これに当てはまると思う。それからまた、死が暴力的にやってきた場合は、〈鉤爪〉の効果がいつも少ないように思う……」
「それは考えられますね」アヴァはそっといった。
「〈鉤爪〉は、ぼくが腕を切断した猿人を癒した。あれはたぶん、ぼく自身の仕業だったからだろう。また〈鉤爪〉はジョナスを助けた。しかし、あの鞭を振るったのはぼく――つまり、セクラ――だった」
「治癒能力がわたしたちを〈自然〉から守ります。どうして自存神《インクリエート》は、わたしたちをわたしたち自身から守らなくてはならないのですか? わたしたちは、自分自身から自分自身を守ってもよいはずです。もしかしたら、自存神はわたしたちが自分の所業を後悔した時にだけ、助けてくださるのかもしれませんね」
わたしはなおも考えながら、うなずいた。
「わたしはこれから礼拝堂にいきます。あなたは少しは歩けるくらい回復しています。いっしょにきますか?」
広い帆布の屋根の下にいた間は、そこが避病院の全体であるように思われた。だが、今は夜で、ほんのぼんやりとではあったが、たくさんのテントやパビリオンが見えた。その大部分はわれわれのテントと同様に、涼しい風を入れるために、停泊中の船の帆のように側壁を巻き上げてある。われわれはそのどれにも入らずに、その間の曲がりくねった道を歩いていった。わたしにはずいぶん長いみちのりに思えたが、やがて、側壁の降ろされている一つのテントに着いた。それは帆布ではなく絹のテントで、内部の照明のために真紅に輝いていた。
「昔は」アヴァがわたしにいった。「大伽藍がありました。一万人も収容できて、畳めば一台の荷車に乗るようなのが。それを、わたしが入団する直前に、ドムニセラエ様が焼かれておしまいになったんですよ」
「知っている」わたしはいった。「見たよ」
絹のテントの中に、花に埋まった簡素な祭壇があった。わたしはその前にひざまずいた。アヴァは祈った。わたしは祈りを知らなかった。それで、時には自分の内部にいるように思われ、また時には、あの天使がいったように、無限の遠方にいるようにも思われるだれかに、声を出さずに話しかけた。
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11 〈十七人組〉の忠実な部下――正義の人
翌朝、食事が終わり、みんなも目を覚ました頃、わたしはフォイラに、メリトとハルヴァードの勝負をいま判定しようかと思いきって尋ねた。彼女はかぶりを振った。ところが、彼女が口を開かないうちに、アスキア人がきっぱりした口調でいった。「大衆への奉仕は、全員が参加しなければならない。牛は犂《すき》を引き、犬は羊の番をする。猫は穀物倉で鼠を捕る。このようにして、男も女も子供でさえも、大衆に奉仕できる」
フォイラは持ち前のこぼれるような笑顔を見せた。「この友人も物語がしたいのよ」
「なんだと!」一瞬、メリトが本当に立ち上がるのかとわたしは思った。「まさか、こいつを、おまえ――候補者の一人に――考慮に――」
フォイラは身振りで押しとどめ、彼は唾を吐いて黙りこんだ。「そうねえ」なにかが彼女の唇の端をひっぱった。「そうしようかなあ。もちろん、あんたがたほかの人たちに、翻訳して聞かせなければならないでしょうけれど。それでいいかしら、セヴェリアン?」
「お望みなら」わたしはいった。
ハルヴァードが胴間声でいった。「これは最初の協定と違う。おれは一語残らず覚えているぞ」
「わたしだって覚えている」フォイラはいった。「でも、それとは矛盾しないわ。それどころか、協定の精神[#「精神」に傍点]と実際に調和するのよ。つまり、わたしを求めるライバルは競争しなければならない、ということ――今のところ、この人たちはあまり優雅でも、美男でもないけれどね――もっとも、ここに幽閉されていたんじゃあ、ますます美男から遠ざかるのは避けられないけれど。このアスキア人も、自信があるなら、求婚者になる資格があるのよ。わたしを見る彼の目つきに、みんな気づかなかった?」
アスキア人が朗誦した。「結合すれば、男女はより強くなる。しかし、勇敢な女は子供をほしがり、夫をほしがらない」
「つまり、わたしと結婚したいが、自分の心づかいは受け入れられないと考えている、ということね。これは間違いだわ」フォイラはメリトからハルヴァードに視線を移した。そして、微笑がにやにや笑いになった。「あんたがた二人は物語コンテストで、実際に彼をそんなに恐れているの? 戦場でアスキア人に出会ったら、あんたがたは脱兎のごとく逃げなければならないわね」
どちらも答えなかった。そして、しばらくするとアスキア人が話しはじめた。「昔は、大衆の大義への心酔者はどこにもいた。〈十七人組〉の意志は全員の意志だった」
フォイラが通訳した。≪むかし、むかし……≫[#≪≫は《》の置換]
「だれにも怠けさせるな。もし怠ける者がいたら、ほかの怠けるやつとつなぎあわせて、怠け者の国を探させろ。彼らが出会うすべてのものに、彼らを導かせろ。〈飢餓の家〉に坐っているよりも、千リーグ歩くほうがましだ」
≪遠いところに、親類でない人々が共同して経営している農場がありました≫[#≪≫は《》の置換]
「一人は強く、もう一人は美しく、もう一人は巧みな細工人だ。大衆に奉仕する人間としては、どれが最善か?」
≪この農場に、一人の善人が住んでいました≫[#≪≫は《》の置換]
「仕事は、賢明な仕事の分割者によって分割させろ。豚は太らせろ、鼠は飢えさせろ」
≪ほかの人たちが彼の分け前をごまかしました≫[#≪≫は《》の置換]
「評議に集まる人々が裁判するが、だれも百叩きの刑より重い刑を受けることはない」
≪彼は不満をいいました。そしてみんなは彼を叩きました≫[#≪≫は《》の置換]
「手はどのようにして栄養を与えられるか? 血液によって。血液はどのようにして手に届くか? 血管によって。もし、血管が閉じていたら、手は腐るだろう」
≪彼はその農場を去って、旅に出ました≫[#≪≫は《》の置換]
「〈十七人組〉が設置されている場所で、究極の正義が行なわれる」
≪彼は首都にいって、自分の受けた仕打ちについて苦情を述べました≫[#≪≫は《》の置換]
「苦しい仕事をする者にきれいな水を与えよ。温かい食べ物と、清潔な寝床を与えよ」
≪彼は旅に疲れ、腹を空かせて、農場に戻ってきました≫[#≪≫は《》の置換]
「百叩き以上の刑罰を受ける者はない」
≪彼らはまた彼を叩きました≫[#≪≫は《》の置換]
「すべてのものの後ろに、さらに何かがある。これは永遠に続く。こうして、鳥の後ろに木が、土の後ろに石が、ウールスの後ろに太陽がある。われわれの努力を見つけようではないか」
≪正義の人は諦めません。彼はまた農場を去り、徒歩で首都に向かいました≫[#≪≫は《》の置換]
「すべての請願者が聞き届けてもらえるか? いや、みんなが同時に叫ぶからだめだ。では、だれが聞いてもらえるか――いちばん大声で叫ぶ者か? いや、みんな大声で叫ぶからだめだ。いちばん長く叫んでいる者が聞かれる。そして、正義は彼らに対して行なわれる」
≪彼は首都に着くと、〈十七人組〉の戸口の階段にキャンプを張り、通り過ぎるすべての人に、わたしの言い分を聞いてくれと頼みました。長い時間がたった後、彼は宮殿に入ることを許され、中にいる権力者たちは同情をもって彼の苦情を聞いてくれました≫[#≪≫は《》の置換]
「だから、〈十七人組〉はいう。盗みをする者からは、彼らの持てるすべてを取れ。なぜなら、彼らの持てるものは何一つ彼ら自身のものではないから、と」
≪彼らは彼に、農場に戻って悪い者たちに――彼らの名において――出ていくようにいいなさいと、いいました≫[#≪≫は《》の置換]
「市民と〈十七人組〉の関係は、いい子供と母親の関係に等しい」
≪彼は権力者のいうとおりにしました≫[#≪≫は《》の置換]
「愚かな話とは何か? 風だ。それは耳から入り、口から出ていく。だれも百の風の動きしか受け取らない」
≪彼らは彼を嘲り、殴りました≫[#≪≫は《》の置換]
「われわれの努力の裏に、われわれの努力が見出されるようにせよ」
≪正義の男は諦めませんでした。彼は首都にもう一摩戻りました≫[#≪≫は《》の置換]
「市民は大衆に与えられるべきものを大衆に与える。大衆に与えられるべきものは何か? 何もかもだ」
≪彼はとても疲れました。衣服はぼろぼろになり、靴はすり切れました。食べ物もなく、売る物もありませんでした≫[#≪≫は《》の置換]
「親切であるよりも、公正であるほうがよい。しかし、良い判事だけが公正である。公正でありえない人々は親切であれ」
≪首都で、彼は乞食をして暮らしました≫[#≪≫は《》の置換]
ここまできて、わたしは口を出さずにはいられなくなった。それからフォイラに向かって、アスキア人が使う決まり文句の意味を、物語の文脈に合わせてそれほどうまく理解するのはすばらしいことだが、どうしてそんなことができるのかわからないといった――たとえば、親切と公正についての文句が、どうして主人公が乞食になったという意味になるのか、どうしてわかるのか。
「では、だれかほかの人――たとえばメリト――が物語をしていると仮定しましょう。そして、物語のある部分で彼が腕を突き出して、施しを求めはじめたら、あんた、その意味がわかるんじゃない?」
わたしはわかるだろうといった。
「これも同じことなのよ。わたしたちは、空腹や病気で仲間についていけないアスキア人を時時見つけるわ。わたしたちが殺さないとわかると、彼らはこの親切と正義の話を始めるの。もちろん、アスキア語でね。これはアスキアで乞食がいう台詞なのよ」
「もっとも長く叫ぶ者が聞かれる。そして、それらの者に正義がなされる」
≪今度は長い間待たなければ宮殿に入ることが許されませんでした。しかし、とうとう彼は中に入れてもらい、言い分を聞いてもらいました≫[#≪≫は《》の置換]
「大衆に奉仕する意志のない者は、大衆に奉仕させろ」
≪悪いやつらを監獄に入れてやろうと、権力者たちはいいました≫[#≪≫は《》の置換]
「苦しい仕事をする者に、きれいな水を与えよ。食べ物と、清潔な寝床を与えよ」
≪彼は家に帰りました≫
「百叩き以上の刑を受ける者はない」
≪彼はまた叩かれました≫[#≪≫は《》の置換]
「われわれの努力の裏に、われわれの努力が見出されるようにせよ」
≪しかし彼は諦めませんでした。ふたたび苦情をいいに首都に向かって出発しました≫[#≪≫は《》の置換]
「大衆のために闘う者は、千の心をもって闘う。大衆に反して闘う者は、心を持たずに闘う」
≪今度は悪い連中が恐れました≫[#≪≫は《》の置換]
「〈十七人組〉の決定に反対する者があってはならぬ」
≪彼らは考えました。こいつは宮殿に何度も何度もいった。彼はそのたびにあそこの支配者たちに、われわれが前の命令に従わなかったと告げたにちがいない。きっと、今度は支配者たちは兵士を派遣してわれわれを殺すだろう≠ニ≫[#≪≫は《》の置換]
「もし彼らの傷が背中にあれば、だれが彼らの血を止めるか?」
≪悪い連中は逃げ出しました≫[#≪≫は《》の置換]
「過去において〈十七人組〉の決定に反対した者は、今どこにいるか?」
≪彼らは二度と姿を現わしませんでした≫[#≪≫は《》の置換]
「苦しい労働をする者にきれいな水を与えよ。食べ物と、そして清潔な寝床を与えよ。そうすれば、彼らは労働をしながら歌い、労働は彼らにとって軽いものになるだろう。そうすれば、収穫の時に歌い、収穫は重くなるだろう」
≪正義の人は家に帰り、その後ずっと幸福に暮らしました≫[#≪≫は《》の置換]
この物語にはみんなが拍手喝采をした。物語そのものに、アスキア人捕虜の才能に、アスキアの生活をわれわれに覗き見させてくれたことに感動したのであり、また、とりわけ、この翻訳をしたフォイラの上品な機知に感動したからだと思う。
いずれこの記録を読む諸君が、物語を好むかどうか、わたしの知るすべはない。もし好まなければ、諸君はきっとこれらの頁を注意せずにめくってしまったことだろう。白状するが、わたしは物語が大好きだ。実際、世の中のすべてのよきものの中で、人類が自分のものだと主張できるのは物語と音楽だけである。そのほかの慈悲、美しさ、眠り、(アスキア人ならいうだろうが)きれいな水、温かい食事などは、すべて自存神がお作りになったものである。だから、物語は宇宙の計画のなかでは実際に小さなものであるが、われわれ自身のものを最高に愛さずにいることは難しい――少なくとも、わたしにとっては難しいことなのである。
この物語は、この本に記録したものの中でもっとも短く、もっとも単純だが、わたしはこの物語からある程度重要ないくつかのことを学んだように思う。その第一は、われわれの会話の非常に多くの部分が決まりきった慣用句で成り立っているということである――われわれは、それを自分自身の口で新しく作り出したと思っているのだ。このアスキア人は、機械的に丸暗記した文章だけを使って話をしているようだった。もっとも、彼がそれぞれの引用句を使うまで、われわれは一度もそれを聞いたことがなかったのだが。フォイラは女が普通に話すように話したと考えられる。そして、もし、彼女がそのような引用句を使ったかどうかと尋ねられたら、わたしは使わなかったと答えたことだろう――しかし、最初から聞き手が彼女の文章の終わりがどうなるかを見通せるような場合は、じつにひんぱんにあった。
第二に、表現から衝動を取り除くことが、いかに難しいかということを学んだ。アスキアの人々は彼らの支配者の声だけで話をするように、飼育されていた。だが、彼らはそれで新しい言語を作りだしていた。そして、アスキア人の話を聞いた後では、彼が表現したいどんな思想でも、その言語で表現できることを覚った。
第三に、物を語るということの多面的な性質を、わたしは改めて学んだ。たしかに、アスキア人のものほど平明なものはありえなかった。しかし、それはどういうことなのか? 〈十七人組〉を賞賛するためのものだったのか? その名前の恐ろしさだけで、悪人たちは逃げてしまった。この物語は彼らを糾弾するためのものだったのか? 〈十七人組〉は正しい人の苦情を聞いたが、彼に口頭の支持[#校正1]を与える以上のことは何もしなかった。そもそも、彼らがそれ以上のことをするという徴候は何もなかった。
しかし、アスキア人とフォイラの話を聞いても、もっとも知りたいと思ったことを知ることはできなかった。アスキア人のコンテストへの参加を認めた彼女の動機はなんだったのか? ただのいたずらだったのか? 彼女の笑っている目から、わたしはやすやすとそれを信じることができる。もしかしたら、彼女は本当に彼に魅かれたのではなかったか? わたしとしては、これはより信じがたいが、ありえないことではない。女が魅力的な資質をまったく欠いた男に魅かれるのを、見たことのない人がいるだろうか? 彼女は明らかにアスキア人たちと多くの関係を持っていた。そして彼は明らかに普通の兵士ではない。彼は、われわれの言語を習得しているのだ。彼女は彼から何かの秘密を絞り取ろうとでも思っているのだろうか?
そして、彼はどうなのか? メリトとハルヴァードは、それぞれ相手が隠された目的をもって物語をしたと非難しあった。彼もそうしたのだろうか? もしそうしたなら、それはきっとフォイラに――そして、われわれほかの者にも――自分は決して諦めないぞということを伝えることであったろう。
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12 ウィノック
その晩、また別の訪問者があった。あの頭を剃った男性の奴隷の一人だった。わたしが起き上がって、例のアスキア人と話をしようとしていると、その奴隷がやってきて、わたしの横に腰を降ろした。「わたしを覚えていますか、警士《リクトル》さん?」彼は尋ねた。「名前はウィノックです」
わたしは首を振った。
「あなたがここに着いた時に、お風呂に入れて面倒を見たのがわたしです」彼はいった。「あなたが口がきけるほど回復するのを待っていました。昨夜こようと思ったのですが、あなたはすでに教団の聖職志願者の一人と熱心に話しこんでいたのでね」
なんの話をしたいのかと、わたしは尋ねた。
「今、警士さんと呼びましたが、否定しませんでしたね。本当に警士だったのですか? あの夜は警士の服装をしていましたが」
「昔、警士をしていたのだ」わたしはいった。「衣服はあれしか持っていない」
「でも、もう警士ではない?」
わたしはうなずいた。「軍隊に入るために北にやってきた」
「ああ」ウィノックはいい、ちょっと目をそむけた。
「きっと、ほかにもそういう連中がいるだろう」
「少しはいます。たいていは南に入るか、または、強制的に南に入れられてしまいます。あなたのように北にくるのも少しはいますが。なぜなら、みんな友人か親類の者がすでにいる特定の部隊に入りたがりますから。兵士の生活は……」
わたしは彼が話を続けるのを待った。
「奴隷の生活とそっくりだと思います。自分は兵士になったことは一度もありませんが、兵士と話したことは何度もあります」
「おまえの生活はそんなに惨めなのか? ペルリーヌ尼僧は優しい主人だと思っていたが。彼女たちはおまえたちを叩くのか?」
ウィノックはこれを聞くと微笑して、背中を見せた。「警士だったのなら、この傷がおわかりでしょう」
薄れていく光の中で、それはほとんど見えなかった。わたしは指でその傷をなぞった。「非常に古くて、鞭でできたものだということしかわからない」
「これは二十歳の時に受けた傷です。今はもう五十歳になりかけています。あなたのように黒い衣服の人がこの傷をつけたのです。長いこと警士をしていたのですか?」
「長くはない」
「では、その職業についてあまり多くをご存じない?」
「開業する程度の知識はある」
「それだけですか? わたしを鞭打った人は、拷問者組合からきたといっていました。もしかしたら、あなたもそのことを聞いていると思ったのですが」
「聞いている」
「本当にそういうものがあるのですか? 彼らはずっと昔に死に絶えたという人もいます。しかし、わたしを鞭打った人はそうはいいませんでした」
わたしはいった。「わたしが知っているかぎりでは、それはまだ実在している。きみに鞭打ちの刑を執行した人の名前を覚えているかね?」
「|職 人《ジャーニーマン》のパリーモンだといいました――あ、知っているんですね!」
「ああ、一時わたしの師匠だった。今はもう老人になったがね」
「では、まだ生きているので? あなたはまたあの人に会うことがあるのでしょうか?」
「そういうことはないだろうな」
「あの人に会いたいのです。いつかは。結局は自存神《インクリエート》がすべてを命じられるのです。あなたがた若い人は、乱暴な生活をします――わたしも、あなたくらいの年齢の時はそうでした。しかし、自存神はわれわれのするすべてを形成されるということを、あなたは知っていますか?」
「たぶんね」
「信じなさい。そうなのですよ。わたしはあなたより多くのことを経験しています。とすると、わたしは職人のパリーモンに二度と会えないかもしれませんね。だから、あなたがわたしのメッセンジャーになるために、ここにやってきたのですよ」
話がここまで進んで、ウィノックがなんらかのメッセージを伝えてくれるのではと期待した時に、彼は黙りこんでしまった。アスキア人の物語を一生懸命に聞いていた患者たちは、今は仲間どうしで話をしていた。だが、この老奴隷が集めておいた汚れた皿の山の中のどこかで、一枚がかすかなカチリという音を立てて動き、その音がわたしの耳に届いた。
「奴隷制の法律について、何か知っていますか?」彼はやっとわたしに尋ねた。「いや、つまり、法のもとで男か女が奴隷となりうる方法についてですが?」
「ほとんど知らない」わたしはいった。「ある友人は(わたしはあの緑人を思い出していた)奴隷と呼ばれていた。だが、彼は破廉恥な人々に捕えられた不運な外人にすぎなかった。あれは違法だとわかっていた」
彼はうなずいて賛意を示した。「その人は肌が黒かったですか?」
「まあ、そういっていいだろう」
「昔はそうだったと聞いていますが、奴隷制は肌の色によって行なわれていたそうです。肌の黒い人ほど、奴隷にされたのだと。確かに信じがたいことです。でも、むかし教団に歴史に詳しい女城主《シャトレーヌ》がいて、その人から聞きました。彼女は誠実な女性でしたよ」
「奴隷たちは日向で重労働をしなければならないから、そういう話が生じたのだろうな」わたしは感想を述べた。「過去の慣行の多くは、今から見ればおかしなものにしか見えないからね」
これを聞くと、ウィノックはちょっと腹を立てた。「いいですか、若い人、わたしは古い時代にも生きていたし、今も生きています。どちらがいいか、あなたよりずっとよく知っています」
「パリーモン師もよくそういっていたな」
期待どおり、この言葉は彼を話の主題に引き戻した。「男が奴隷にされるのは、三つの場合しかありません」彼はつづけた。「しかし女はちがいます。結婚しているとどうなるか、とかね。
もし、ある男が――奴隷となって――ほかの地方から共和国内に連れてこられたなら、その男は奴隷のままでいる。そして、彼をここに連れてきた主人は、希望すればそいつを売ることができる。これが第一の場合。戦争捕虜――ここにいるアスキア人がそうです――は、支配者たちの支配者であり、奴隷たちの奴隷である独裁者の奴隷となる。独裁者は、望むなら、彼らを売ることができる。独裁者はよくそうしている。そして、これらのアスキア人の大部分は単調な仕事以外にはあまり役に立たないから、しばしば上流の川で船を漕いでいるのが見受けられる。これが第二の場合。
第三の場合は、人はだれかに仕えるために自分自身を売ることができる。なぜなら、自由な人間は自分の体の主人であって――いわば、彼はすでに自分自身の奴隷だから」
「奴隷が拷問者に打たれることはめったにない」わたしはいった。「どうしてそんな必要があるのだ、そいつの主人が打てばいいのに?」
「では、わたしは奴隷ではなかったのだ。それを、職人のパリーモンさんに尋ねたかったんですよ。わたしは盗みに入ったところを捕えられたただの若者だったんです。職人のパリーモンさんは、鞭打ちの刑を受ける日の朝に、話をするために入ってきました。彼がそうしてくれるのは優しい行為だとわたしは思いました。もっとも、その時にあの人は、拷問者組合から来たといいましたけれど」
「われわれは可能な場合には、いつも客人に心の準備をさせるのだ」わたしはいった。
「悲鳴をあげないように我慢することはないと、あの人はいいました――それほど痛いものじゃない、と。そして、裁判官がいった数以上には打たないと約束しました。だから、わたしは望むなら数を算えていればいい。そうすれば、いつごろ終わるかわかるだろうと。また、皮膚を切るために必要以上に強く打つつもりもないし、骨を折るつもりもない、といいました」
わたしはうなずいた。
「わたしは彼にお願いがあるといいました。すると彼は、できることなら聞いてやるといいました。それで、後で戻ってきて、また話をしてもらいたいといいました。すると彼は、わたしが少し回復した頃に戻ってくることにしようといいました。それから坊さんがお祈りをするために入ってきました。
彼らはわたしに両手を頭上に上げさせて、わたしを杭に縛りつけ、その手の上に起訴状を鋲で止めました。たぶん、あなた自身何度もやっているでしょうが」
「何度もやっている」わたしはいった。
「わたしのやられたのも、それとなんの相違もないでしょうね。その時の傷がまだ残っています。ごらんのように、薄れてはいますがね。もっとひどい傷を受けた人を大勢見ています。獄吏が慣例に従って、わたしを牢屋に引きずって戻しましたが、自分では歩けたと思っています。手や足を失う苦痛ほどのひどい苦痛ではありませんでした。わたしはここで、外科医の手伝いをしてたくさんの手足を切り取っていますがね」
「当時は痩せていたかね?」わたしは尋ねた。
「とても痩せていました。肋骨を数えられるほどでしたよ」
「それはきみにとって、とても有利だった。鞭は太った人の背中にはとても深く食いこむ。そういう人は、豚みたいに多くの血を流すんだ。秤量不足などの場合、商人の処罰が充分ではないという声もあるが、それは彼らの苦痛の激しさを知らない人のせりふさ」
ウィノックはうなずいた。「翌日いつもと変わらないくらいに力が戻りました。そして約束どおり職人のパリーモンさんがやってきました。わたしは自分のことをどんな生活をしているかとか、そういうことを全部、彼に話しました。そして、パリーモンさんのことを少し尋ねました。自分を鞭打った人に対して、そういう話をするのはおかしいと思うでしょうね?」
「いや。同じようなことをよく聞いているよ」
「あの人はこういいました。わたしは組合にそむくことをしてしまった。内容は話したくないが、そのせいでしばらく流刑に遭っているんだと。そのことをどう感じているか、どんなに淋しく思っているか、話してくれました。他人の暮らしぶりを思ったり、他人も自分と同様に組合を持たないと知って、気分をまぎらわそうとしていたというのです。しかし、そういう人たちをとても気の毒に思うようになり、また、自分自身も哀れになったんですね。さらにこういいました。もしきみが幸せになりたければ、そして、二度とこういう経験をしたくなくなれば、自分で何か組合のようなものを見つけて、加入することだといってくれました」
「それで?」わたしは尋ねた。
「それで、あの人のいうとおりにすることに決めたのです。釈放されると、たくさんの組合の師匠たちと話をしました。まず探して、選び、それから肉屋とか蝋燭屋など、受け入れてくれそうな人と話をしたんです。しかし、わたしのように年がいっていて、入会金もなく、性質の悪い者を――みんなわたしの背中を見て、厄介者だと判断したんですよ――徒弟として採用してくれるところはありませんでした。
それから、船乗りになろうとか、兵士になろうとか考えました。あれ以来、そのどちらかになっていればよかったと思うことがしばしばあります。しかし、そうしていたら、今頃ならなければよかったと後悔しているか、またはもう死んでしまって、後悔のしようもなくなっているでしょうね。それから、どういうわけか、宗教団体に参加しようという気にもなりました。たくさんの教団と話をした結果、お金がないことを話し、背中を見せたにもかかわらず、受け入れてくれるという教団が二つありました。しかし、教団の生活について聞けば聞くほど、とうてい勤まりそうもないと感じるようになりました。わたしは大酒飲みだし、女は好きだし、そういう生活を変えたくないのが本音だったんです。
それから、ある日、ある街角に立っていると、まだ話をしてない教団に所属しているらしい人を見かけました。この頃には、わたしはある船に乗る契約をしようと考えていました。しかし、まだ出帆まで一週間近くありました。しかしある船乗りから、いちばんつらい仕事が山ほどあるのは出航準備中だときいていました。だから、出航直前まで待っていれば、そういう仕事をしなくてすむということでした。全部嘘でしたが、その時には知りませんでした。
とにかく、わたしは見かけた人の後をついていきました。彼が立ち止まると――野菜を買いにきていたんです――わたしはそばにいって、どの教団の人かと尋ねました。彼はペルリーヌ尼僧団の奴隷だと答えました。そして、奴隷という身分は、教団員になるのと同じようなもので、しかも、それよりいいといいました。男はあるていど酒を飲むことができ、仕事の時にしらふでいればだれにも文句をいわれない。女についてもごまかしがきく。しかも、女たちは彼らを多少なりとも神聖な男たちだと考えるから、チャンスはいくらでもある。それに、そこらじゅうを旅して歩ける、と。
受け入れてもらえるだろうか、とわたしは尋ねました。教団の生活がそんなにいいことずくめだとは信じられないといいました。彼はきっと受け入れられるだろうといいました。そして、女についていったことは、今ここで証明することはできないが、酒についてのことなら、赤ワインの瓶を二人で一本飲んで、証明できるといいました。
わたしたちは市場のそばの居酒屋にいって、腰を下ろしました。彼は言葉どおり酒をおごってくれて、教団の生活は船乗りの生活に似ているといいました。なぜなら、船乗りの生活のいちばんいい点は、いろいろな場所を見てあるくことだが、自分たちも同じことをしているからと。また兵士の生活にも似ている。なぜなら、教団が野蛮な地方を旅行する時には、武器を持っていくからと。何はともあれ、契約すれば、彼らは金を払ってくれる。宗教団体は、誓いを立ててその修道者になるすべての人から喜捨を受ける。もし、その人が後に還俗することになれば、修道者になっていた期間に応じて、払い戻してくれる。ところが、われわれ奴隷はその逆で、契約する時に支払いを受ける。そのあとで教団を去る場合には、お金を支払って自由を買い戻さなければならない。しかし、ずっと留まっていれば、お金は全部自分のものになる。彼はこのように説明してくれました。
わたしには母親がいます。彼女が一アエスも持っていないことは、会いにいかなくてもわかります。宗教団体のことを考えている間に、わたし自身が信心深くなったにちがいありません。母親のことが気にかかっていても、どうやって自存神《インクリエート》にお願いしたらよいか、わかりませんでした。こうしてわたしは契約書に署名しました。――当然、わたしを紹介してくれた奴隷のゴスリンは報酬を受けました――そして、わたしはそのお金を母親のところに持っていきました」
わたしはいった。「きっとお袋さんは喜んだろう。そして、あんたもね」
「母親は何かインチキがあるのではないかと思っていましたが、とにかくわたしはその金を母親に渡しました。もちろん、すぐに教団に戻らなければなりませんでした。教団の者がついてきていたのです。こうして、ここに三十年いるわけですよ」
「きみは褒められていいね」
「さあ、どうですか。辛い生活でした。しかし、わたしの見たところでは、生活とは、辛いものです」
「そうだな」わたしはいった。実をいうと眠くなってきたので、もうウィノックが行ってくれればよいと思っていたのだ。「話を聞かせてもらって、ありがとう。とてもおもしろかった」
「お願いがあるのです」彼はいった。「あなたがもし、また職人のパリーモンさんに会ったら、尋ねてもらいたいことがあるのです」
わたしはうなずいて、彼の言葉を待った。
「ペルリーヌ尼僧は優しい主人だろうとあなたはいいましたが、そのとおりだと思います。わたしは尼僧の何人かから優しい扱いを受けました。ここで鞭打たれたことはありません――ちょっとした平手打ち以外はね。しかし、彼女たちのやりかたを知っておくべきです。おとなしくない奴隷は文句なしに売り飛ばされるのです。きっとおわかりにならないと思いますが」
「うん、そうだな」
「大勢の男たちが、わたしのように安楽な生活と冒険ができると思って、教団に身売りをします。一応はそのとおりです。それに、病人や怪我人の治療を手伝うのは気分のいいものです。しかし、ペルリーヌ尼僧団に適さない者は売り飛ばされます。そして教団は彼らに支払ったよりもっとずっと多くの金を手にします。今はどのようになっているかわかりますか? こうなんです。彼女たちには、だれかを鞭打つ必要がないのです。いちばんひどい刑罰といっても、せいぜい屋外便所の拭き掃除ぐらいのものです。ただし、彼女たちの気に入らないことをした場合には、鉱山に追いこまれることがありうるということです。
長年の間ずっとパリーモンさんに尋ねたいと思っていたのは……」ウィノックは言葉を切って、下唇を噛んだ。「あの人は拷問者でしたねえ? あの人もそういったし、あなたもそういいました」
「そう、そうだった。今もそうだ」
「では、わたしの知りたいのは、彼が身の上話をしたのはわたしを苦しめるためだったのか、それとも、できるだけの忠告を与えるつもりだったのか、ということです」わたしから表情が見えないように、ウィノックは顔をそむけた。「それを尋ねてくれませんか? そうすれば、わたしがまたあなたに会う機会はあるでしょうから」
わたしはいった。「彼はできるだけの忠告を与えたんだよ。それは間違いない。もし、あんたがそのまま留まっていたら、彼か、またはほかの拷問者によって、とうの昔に処刑されてしまったかもしれない。人が処刑されるところを見たことがあるかね? まあ、拷問者は何もかも知っているわけではないがね」
ウィノックは立ち上がった。「奴隷もそうです。どうもありがとう、若い人」
わたしは彼の腕に触って、ちょっと引き止めた。「こんどはわたしから質問してもいいか? わたし自身、拷問者だった。もしあんたが、パリーモン師が身の上話をしたのは、苦痛を与えるためだったのではないかと、そんなに長年にわたって考えていたのなら、たった今わたしが話したことがそれと同じでないと、どうしてわかるんだね?」
「あなたなら、違うといってくださると思ったのです」彼はいった。「おやすみ、若い人」
ウィノックの話したことと、ずっと昔にパリーモン師が彼に話したことを、わたしはしばらく考えた。とすると、パリーモン師もまた放浪者だったのだ。おそらくわたしが生まれる十年くらい前には。それなのに、彼は〈城塞〉に帰って、組合の師匠になった。わたしはアブディースス――わたしは彼を裏切ってしまった――がわたしを師匠にしてやりたいといったことを思い出した。どんな罪にせよパリーモン師の犯した罪は、後になって、すべての組合員によって隠匿されてしまったのだ。今は、彼は師匠になっている。もっとも、物心がついて以来ずっと見てきたので慣れっこになってしまって、不思議にも思わなくなっているが、組合の業務を監督しているのは、彼よりもずっと年齢の若いグルロウズ師なのだった。外では、北方の夏の暖かい風がテントのロープの間で遊び戯れていた。しかし、わたしはまた〈剣舞《マタチン》の塔〉の急な階段を上がって、〈城塞〉のたくさんの塔の間で歌っている冷たい風の声を聞いているような気分になった。
結局、もっと苦痛の少ない問題に心を戻そうと思って、わたしは立ち上がり、伸びをして、フォイラの寝床のほうにぶらぶら歩いていった。彼女は目覚めていた。わたしはしばらく彼女と話をした。それから、物語コンテストの判定をしようかと尋ねた。だが、せめてあと一日待ってくれと、彼女はいった。
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13 フォイラの物語――大郷士の娘
ハルヴァードもメリトも、アスキア人にだってチャンスはあるのよ。わたしもその仲間に入ると思わない? ライバルはいないと思って乙女に言い寄る男にだって、ライバルはいるの。それは彼女自身よ。彼女は自分を彼に与えるかもしれないけれど、また自分を自分のために取っておくことを選ぶこともあるものね。男は彼女に、独身でいるよりも自分といっしょになったほうが幸せになることを納得させなくちゃならない。そして、男の人は乙女をしょっちゅう言いくるめるけど、それがうまくいかないことだってざらよ。このコンテストに、わたしは自分を含めるつもりなの。そして、できれば自分に自分を勝ち取らせたいのよ。もし物語のために結婚するなら、彼らの中でわたしよりも話の下手な人と結婚したりするかしら?
男たちはそれぞれ自国の話をしたわ。わたしも同じようにする。わたしの国は地平線が遠く、空が広いの。夏は、風が天火の息ほども暑くなるし、大草原《パンパ》に火がつくと、煙の線が百リーグも伸びて、ライオンが火から逃げるために悪鬼のような形相で家畜に乗るの。わたしの国の男たちは雄牛のように勇敢で、女たちは鷹のように激しい気性なのよ。
わたしのお祖母さんが若かった頃、わたしの国のだれもやってこないほど遠いところに、一軒の館がありました。パスクアの殿様の家来をしている一人の大郷士の家でした。土地は豊かで、立派な家でした。もっとも、屋根の梁はすべて一夏かかって牛に牽かれて現場に運ばれたものでした。わたしの国の家の壁はすべて泥でできていますが、ここの壁も泥でできていました。その厚みは三ぺースもありました。森林地帯に住む人々はこのような壁を馬鹿にしますが、それらは涼しくて、漂白されると外観もよくなり、燃えないのです。その家には一つの塔と、広い宴用の部屋があり、ロープと滑車とバケツの仕掛けがあって、二頭のメリーチップ([#ここから割り注]小型の馬[#ここで割り注終わり])がぐるぐる歩いて屋上の庭園に水を揚げるようになっていました。
その大郷士はいかにも騎士的な男で、奥方は美しい婦人でした。でも、彼らの子供で一歳以上に育ったのは一人しかいませんでした。それは女の子で、背が高く、なめし皮のように茶色で、油のように滑らかな肌をしていました。髪はもっとも薄い白ワインの色で、目は入道雲のように黒い色でした。でも、彼らが住んでいる館はあまりに僻遠の地にあったので、だれも知らず、だれも彼女を求めてやってきませんでした。彼女はよく、たった一人で一日じゅう馬に乗り、鷹狩りをしたり、カモシカを狩る斑のある狩猟猫の後を追ったりしていました。また、一日じゅう一人で寝室に坐り、籠の雲雀の歌を聞いたり、母親が里から持ってきた本の頁をめくったりしていることもよくありました。
やがて父親が、彼女を結婚させようと決心しました。彼女は二十歳近くなっており、それを過ぎると嫁のもらい手が少なくなるからです。やがて彼は家来を三百リーグ四方に派遣して、彼女の美しさを宣伝し、自分の死後は娘の夫に全財産を相続させると約束しました。銀の象眼をほどこした鞍にまたがり、珊瑚の柄頭の剣をさげた立派な騎士たちが大勢やってきました。父親は彼らのすべてを歓待しました。そして、娘は男の帽子で髪を隠し、男の飾帯に長い剣をさげ、仲間のふりをして彼らの間に混じり、だれが大勢の女と寝たと自慢するか、人に見られていないと思って物を盗むのはだれか観察しました。彼女は毎晩父親のところにいって、それらの名前をいいました。父親は娘を去らせ、その男たちを呼び寄せて、だれも近づかない処刑場の話をしました。そこでは生皮に包まれた囚人が、日に照らされて死ぬのです。すると翌朝、男たちは馬にまたがって逃げ出すのでした。
やがて三人だけが残りました。そうなると、大郷士の娘はもう彼らの中に入っていくことができなくなりました。こんな小人数では必ずばれてしまうからです。彼女は寝室にいき、髪を下げ、ブラシをかけ、狩りの衣服を脱ぎ、香水を垂らしたお湯に入りました。そして、指輪をはめ、腕にはブレスレットをはめ、耳に金の大きな輪をつるし、頭には大郷士の娘のしるしである純金の細いヘッドバンドをつけました。つまり彼女は、自分を美しく見せるために知っている方法を全部やったのです。事実、彼女は勇気もありましたし、たぶん彼女より美しい乙女はどこにもいなかったでしょう。
思いどおりのおめかしができると、彼女は召使いをやって父親と三人の求婚者を呼び寄せました。「さあ、わたしを見てください」彼女はいいました。「額に金の輪が見えるでしょう。そして、もう少し小さな輪が耳から下がっています。あなたがたの一人を抱擁する腕は、それよりなお小さい輪に抱擁されています。そして、もっとずっと小さい輪が指にはまっています。皆さんの前にわたしの宝石箱の蓋が開いています。その中にはもう輪は入っていません。でも、この部屋にはもう一つの輪があります――わたしが身につけない輪です。あなたがたの中でだれかそれを見つけて、わたしのところに持ってきてくれませんか?」
三人の求婚者たちは上を見たり下を見たり、アラス織りの壁かけの裏を見たり、ベッドの下を見たりしました。ついに、もっとも若い求婚者が雲雀《ひばり》の籠を鉤からはずして、大郷士の娘のところに持ってきました。その雲雀の右脚に、ごく小さな金の輪がはまっていました。「さあ聞いて」彼女はいいました。「この茶色の小鳥をもう一度わたしに見せてくれた人を夫にします」
彼女はそういうと籠を開けて手をつっこみ、雲雀をつかんで外に出し、窓のところにいって空中に放ちました。三人の求婚者は一瞬その金の輪が日光を受けてきらりと光るのを見ました。雲雀は舞い上がっていって空の小さな点になってしまいました。
それから、求婚者たちはあわてて階段を駆けおり、ドアの外に出て、それぞれの愛馬の名を呼びました。それらの足の早い友は、彼らを背にのせてすでに何もない草原を何百リーグも横断してやってきた馬たちでした。三人はそれぞれの馬の背に銀の象眼のある鞍をのせ、一瞬のうちに大郷士とその娘の視野から、そしてめいめいの視野からも、消えていきました。なぜなら、一人は北のジャングルに向かい、一人は東の山に向かい、いちばん若い男は西の静まることのない海に向かったからです。
北に向かった男は何日か馬を進めて、川のほとりに出ました。その川は泳ぐには流れが早すぎるので、彼はそこにいる小鳥の歌に耳を傾けながら、岸にそって進んでいきました。ついに浅瀬のところにきました。その浅瀬に茶色の服をきて茶色の馬に乗った人がいました。その顔は茶色の首巻で覆われ、マントも帽子も衣服もすべて茶色でした。そして、茶色の右のブーツのくるぶしのあたりに金の輪をはめていました。
「おまえはだれだ?」求婚者は呼びかけました。
その茶色の人影はひと言も答えませんでした。
「大郷士の家にわれわれの仲間の若い男がいたが、そいつが一昨日姿を消した」求婚者はいいました。「そして、おまえはその男だろう。おまえはなんらかの方法でわたしの探求について知り、今わたしを妨げようとしているのだな。さあ、道を開ければよし、さもなければ殺してやる」
彼はこういうが早いか剣を抜き、馬に拍車を当てて水中に乗り入れました。彼らはわたしの国の男らしく右手に剣を持ち左手に長いナイフを持って闘いました。求婚者は強く勇敢で、茶色の騎士はすばやく巧みな剣の使い手だったので、二人はしばらく闘っていました。しかし、ついに後者が倒れ、彼の血が川を染めました。
「おまえの乗馬は残していこう」求婚者はいいました。「また鞍にのぼれるほどの体力が、まだおまえにあるかもしれないからな。おれは慈悲深い男なのだ」彼はこういって立ち去りました。
山に向かった男もやはり、数日間、馬を進めました。すると山地の民が作るような綱と竹でできた細い橋のところにきました。それは岩の狭い割れ目に蜘蛛の巣のようにかかっていました。このようなものの上を馬に乗って通るのは愚か者だけです。それで、男は馬を降り、手綱を引いて進んでいきました。
渡りはじめた時には、前にだれもいないように思われましたが、橋の四分の一も渡らないうちに、真ん中に一つの人影が現われました。かたちは人間そっくりでしたが、ちらりと自く見える部分が一ヵ所ある以外は全身が茶色で、体のまわりには茶色の翼が畳まれているように見えました。第二の求婚者がなおも進んでいくと、そいつの片脚のくるぶしのあたりに金の輪がはまっているのが見え、茶色い翼のように思われたものは、そういう色のマントにすぎないとわかりました。
そこで彼は、このような創造主を忘れた精霊から身を守るため、空中に一つの〈サイン〉を描いて、そいつに呼びかけました。「おまえはだれだ。名を名乗れ!」
「見たとおりだ」その人影は答えました。「名を当ててみよ。当てれば、おまえの願望はわたしの願望だ」
「おまえは大郷士の娘から放たれた雲雀の精だな」第二の求婚者はいいました。「姿は変えられるかもしれないが、その輪がしるしだ」
これを聞くとその茶色の姿は剣を抜いて、柄のほうを第二の求婚者に差し出しました。「正しい名前をいい当てた」それはいいました。「わたしに何をさせたい?」
「いっしょに大郷士の家に帰ってくれ」求婚者はいいました。「そして、大郷士の娘におまえを見せれば、彼女を勝ち取ることができるのだ」
「喜んであなたといっしょに帰ろう、それがあなたの望みなら」茶色の姿はいいました。「しかし、ここで警告しておくが、彼女の目には、わたしは、あなたが見ているのとはちがう姿に映るぞ」
「それでもかまわないから、いっしょにきてくれ」ほかになんといっていいかわからなかったので、求婚者はそう答えました。
山の民が作るそのような橋の上では、人聞はたいして苦労せずに向きを変えることができるけれど、四つ足の獣にはとてもできない相談です。そこで、第二の求婚者が馬の向きを大郷士の家の方向に回すことができるように、彼らはそのまま対岸に向かって進みました。「なんと面倒なことだろう」彼はその長い吊り橋を歩きながら考えました。「おまけに、ひどく困難で危険だ。これを自分のために利用することはできないだろうか?」結局、彼は茶色の姿に呼びかけました。「わたしはこの橋を往復して歩かねばならない。だが、おまえも同じことをする必要があるだろうか? 対岸に飛んでいって、待っていてくれないか?」
これを聞くと、茶色の姿は不思議に震える笑い声を立てました。「片方の翼に包帯が巻いてあるのが見えないか? わたしはあなたのライバルの一人にあまり近寄りすぎたので、剣で切りつけられたのだ」
「では遠くまで飛ぶことはできないのか?」第二の求婚者は尋ねました。
「ああ、だめだ。あなたがこの橋に近づいた時、わたしはこの茶色の渡り板に止まって休んでいた。あなたの足音が聞こえた時には、舞い上がる力はほとんどなかったのだ」
「なるほど」第二の求婚者はそれ以上何もいいませんでした。しかし、心の中でこう考えたのです。もしこの橋を切り落とせぱ、雲雀は舞い上がらざるをえないだろう――だが、遠くに飛ぶことはできない。だから、きっと殺すことができるだろう。そうすれば、輪を持ち帰って、大郷士の娘を納得させることができる。
対岸に着くと彼は馬の首をたたいて、向きを変えました。その時、彼はこう考えていました――この馬は死ぬだろう。しかし、こいつがどれほど優秀な獣でも、家畜の大群の持ち主になることと較べれば問題ではない。「ついてこい」彼は茶色の姿にいいました。そしてまた馬の手綱を引いて橋の上を戻りはじめました。だから、その風の強い、ぞっとするような谷間の上を、彼が先頭になり、次に馬が歩き、しんがりに茶色の姿が行きました。「馬は橋が落ちる時に、後脚で立ち上がるだろう。だから雲雀の精はその横を駆け抜けることはできないだろう。だから、鳥の姿に返って、死ぬことになるのだ」彼の計略はね、わたしの国で信じられていることから自然に浮かんできたものでした。わたしの国で変身生物を重要視する人々は、彼らはいったん虜になってしまうと、意のままに変身しなくなるというわ。
求婚者と馬と雲雀の精はふたたび橋の長いカーブを下りはじめ、それから第二の求婚者がやってきた側を上っていきました。そして彼は岩に足がつくやいやな、研ぎ澄ました剣を抜きました。橋には二本の綱の手すりと、渡り板を支える二本の麻のケーブルがついていました。彼はこのケーブルを最初に切るべきでした。ところが手すりを切るのに一瞬の時間を無駄にしました。すると茶色の姿は後ろから馬の鞍に飛び乗って、横腹を拍車で蹴り、求婚者を踏みつけました。こうして、彼は自分の馬の蹄の下で死にました。
海のほうにいったいちばん若い求婚者もやはり何日か馬を進めました。すると海岸に出ました。その波立ち騒ぐ海の岸辺で、彼は茶色のマントを羽織り、茶色の帽子をかぶり、鼻と口を茶色の布で覆い、茶色のブーツのくるぶしのあたりに金の輪をはめている人に出会いました。
「わたしを見て」その茶色の人は呼びかけました。「わたしの名前を当てなさい。そうすれば、あなたのいうとおりにします」
「あなたは天使です」いちばん若い求婚者がいいました。「雲雀を探すわたしを導くために遣わされたお方です」
それを聞くと茶色の天使は剣を抜いて、柄を先にして、いちばん若い求婚者のほうに差し出していいました。「名前を当てましたね。わたしに何をさせたいのですか?」
「天使長の意志を邪魔するつもりは毛頭ありません。あなたは雲雀のところにわたしを導くために遣わされたお方ですから、わたしの唯一の望みはあなたがそうしてくださることです」
「ではそうしよう」天使はいいました。「それで、いちばん近い道を通っていきたいか、それともいちぽんいい道を通っていきたいか?」
これを聞くといちばん若い求婚者はひそかに考えました。「これはきっとなんらかのトリックだ。最高天《エンビリアン》の能天使《バワーズ》はいつも人間の短気を戒める。死ぬことのない天使たちには、時間の余裕が充分にあるからだ。いちばんの近道は、きっと地下の洞窟のような恐ろしいところを通っていくのだろう」それで彼は天使に答えました。「いちばんいい道を。ほかの道を通っていくのでは、これから結婚する相手の女性に失礼になるのではないでしょうか?」
「そうだという者もあれば、そうでないという者もある」天使は答えました。「では、わたしを馬のあなたの後ろに乗せなさい。ここからほど近いところに立派な港がある。わたしは、たった今そこで、きみの馬に優るとも劣らない二頭の軍馬を売ってきたところだ。きみの馬も売り、わたしのブーツにはまっている金の輪も、そこで売ることにしよう」
彼らは港に着くと、天使のいったとおりにしました。そしてそのお金で、大きくはないが速くて丈夫な船を買い、それを操る熟練した船頭を三人雇いました。
港を出て三日目の夜の、いちばん若い求婚者は若い男たちが夜に見るような夢を見ました。目が覚めて自分の頭の横の枕に触ると、それが暖かいことがわかりました。そしてふたたび眠ろうとして横になると、デリケートな香水のようないい匂いがしました――わたしの国の女たちは、春に花をつけた草を乾燥させて、それで髪を結びますが、そんな匂いだったかもしれません。
ある島に着きました。無人島でした。いちばん若い求婚者は雲雀を探しに岸に上がりました。雲雀は見つかりません。日暮れになると彼は服を脱いで、涼を取るために波騒ぐ海に入りました。星が輝きだすと、天使が仲間に加わりました。彼らはいっしょに泳ぎ、いっしょに海岸に寝転んで、たがいに物語をしました。
ある日、ほかに船はいないかと舳先から眺めていると(彼らはものを売り買いすることもあれば、闘うこともあったのです)突風が吹いてきて、天使の帽子が飛ばされ、なんでもむさぼり食う海に落ちました。その後まもなく、彼女の顔を覆っていた茶色の布も吹き飛ばされてしまいました。
彼らはとうとう波風の騒ぐ海に飽きて、わたしの国を思い出しました――ライオンたちが草の燃える秋に家畜に乗って走り、男たちは雄牛のように勇敢で、女たちは鷹のように激しいわたしの国をね。彼らの船は〈ひばり〉とよばれていましたが、今やその〈ひばり〉は青い海原の上を飛び、毎日、赤い朝日をバウスプリット([#ここから割り注]帆船の船首に突き出しているマスト状円材[#ここで割り注終わり])で突き刺しました。彼らはその船を買った港で、またその船を売り、三倍の値段を受け取りました。なぜなら、この船は歌や物語に読みこまれて、有名になっていたからです。そして実際、その港にやってきた人人はみんなその船の小ささにびっくりしました。なにしろそのこざっぱりした茶色の船は船首材から舵柱までほとんど二十ペースもなかったのですから。彼らは戦利品も、交易で得た品物も売りました。わたしの国の人々は自分たちの手で最良の軍馬を飼育していますが、売る馬の最良のものを連れてくるのが、この港なのです。そしてここでいちばん若い求婚者と天使はそれぞれの乗る馬を買い、その鞍袋に宝石や黄金をいっぱいに詰めこみ、遠すぎてだれもやってこない大郷士の家に向かって出発しました。
道中で彼らはたくさんの擦り傷を負い、浄化力のある海でたびたび洗い、帆布か砂で拭った彼らの剣を血で汚しました。それでも、やがて着く日がきました。天使は大声で叫ぶ大郷士と、涙を流す母親と、そしてがやがやさわぐ召使たちに歓迎されました。そこで彼女は茶色の衣服を脱ぎすてて、もとの大郷士の娘に戻りました。
大がかりな婚礼が計画されました。わたしの国では、このようなものは何日もかかります。なぜなら、肉を焼く穴が新たに掘られねばならず、家畜を屠《ほふ》らねばならず、使者が何日もかかって客を迎えにいかなくてはならず、客は来るのに何日もかかるからです。三日めに大郷士の娘は、召使をいちばん若い求婚者のところにやって、こういわせました。「わたしの女主人は今日は狩りをしません。その代わりにあなたを寝室にお招きします。海と陸の昔話をするためです」
いちばん若い求婚者は港に戻った時に買ったいちばんいい服を着て、まもなく大郷士の娘の扉のところにやってきました。
彼女は窓辺の椅子に坐って、母親が実家から持ってきた古い本の頁をめくりながら、籠の雲雀の歌に耳を傾けていました。彼がその籠のところにいってみると、雲雀は片足に金の輪をはめていました。それで不思議に思って、彼は大郷士の娘のほうを見ました。
「浜辺で出会った天使は、あなたをこの雲雀のところに案内すると約束しませんでしたか?」
彼女はいいました。「それもいちばんいい道を通って? わたしは毎朝この籠を開けて、翼の運動のために鳥を空に放つのです。鳥はすぐに戻ってきます。ここには彼のために食べ物も、きれいな水も、安全もありますからね」
このいちばん若い求婚者と大郷士の娘の結婚式は、わたしの国で見たもっとも素晴らしいものだったという人もいます。
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14 マンネア
その夜、フォイラの物語についていろいろと感想がのべられた。今度はわたしのほうから、物語の判定を延期したいと申し出た。というのも、判定を下すのに一種の恐怖を感じたからである。たぶん、拷問者の中で受けた教育の名残りだろう――拷間者の師匠は、共和国の役人(判事はその中に含まれない)によって指名された判事の指示を執行することを、幼いうちから徒弟に教えこむのだ。
それだけでなく、あるものがわたしの心にのしかかっていた。アヴァが夕食を運んできてくれればよいと思っていたが、そうでないとわかると、わたしはとにかく起き上がり私服を着て、次第に濃くなる黄昏の中に忍び出た。
足がふたたび力を回復していることを知って驚いた。――それも快い驚きだった。もう何日も前から熱は下がっていたのだが、(ちょうど、以前には丈夫だと考える癖がついていたように)自分は病気だと考える癖がついてしまって、おとなしく寝ていたのだった。歩き回って仕事をしている大勢の人が、実際には死にかけているのにそれに気づいておらず、また一日じゅうベッドに寝ている大勢の人が、実際には、食べ物を運んできたり体を洗ってくれる人よりも健康であることは疑いない。
わたしはテントの間の曲がりくねった通路を歩いていきながら、以前とても健康だと感じていた頃のことを思い出そうとした。山岳地帯にいた時も、湖上にいた時もそうではなかった――あそこで経験した辛苦が次第に体力をむしばみ、ついに熱病の餌食になってしまったのだ。スラックスから逃げた時もそうではなかった。あの時はすでに警士の勤めで疲れきっていた。スラックスに着いた時もそうではなかった――ドルカスとわたしは、山中でわたし一人で耐えたのと同じくらい苛酷な不自由を、道なき道で体験してきたのだ。〈絶対の家〉にいた時でさえ(今から考えるとイマールの治世と同じくらい遠いものに思われる)、そうではなかった。なぜなら、アルザボと、そしてセクラの死んだ記憶を摂食した後遺症にまだ悩んでいたから。
ついに記憶が蘇った。〈城塞〉を出た最初の朝に、アギアとともに〈植物園〉に向けて歩きだしたあの記憶すべき朝の気分が、今蘇ったのである。あの朝わたしは、気づいてはいなかったが、〈鉤爪〉を身につけていたのだった。もしかしたら、あれは祝福されていたと同時に呪われてもいたのではないかと、わたしは初めて思った。いや、もしかしたら、あの同じ日の夕方にアヴァーンの葉に刺された傷から回復するだけのために、過去のすべての月日が必要だったというだけのことかもしれない。わたしは〈鉤爪〉を取り出して、その銀色の輝きを見つめた。目を上げると、ペルリーヌ尼僧団の礼拝堂の真紅の輝きが目に入った。
聖歌を歌っているのが聞こえた。それで礼拝堂が空になるには、少し時間がかかるとわかった。しかし、とにかく進んでいった。そして、ついに扉からこっそりと中に入り、後ろの席に坐った。ペルリーヌ尼僧団の典礼については何もいわないことにしよう。このようなものをうまく描写することは常にできないし、たとえできるとしても、適切なこととはいえないからだ。
〈真理と悔悟の探求者たち〉と呼ばれる組合に、わたしは一時所属していたことがあったが、あの組合には独自の儀式がいろいろあった。その一つをほかの場所である程度詳しく描写したことがある。確かにこれらの儀式は、その団体独特のものであり、たぶんペルリーヌ尼僧団のものも同じようにここ独特のものなのだろう。もっとも、それらはかつては普遍的なものであったのかもしれないが。
偏見のない観察者として言えるかぎりでは、われわれの組合のものと較べると、彼女たちの儀式はより美しく、より劇的でなかった。ひと言でいえば、動きが少ないといえるだろう。儀式の参列者の衣装は確かにとても古いものであり、印象的なものであった。聖歌には、ほかの音楽にない不思議な魅力があった。われわれの儀式は主として、組合の役割を若い組合員の心に焼きつけることを意図していた。たぶんペルリーヌ尼僧団のこういった儀式も、同様の働きをもっているのだろう。もしそうでなければ、〈全知の神〉の特別な注意を引きつけるように意図されたものだろう。実際にそうかどうかは、わたしにはわからない。その場合は、この教団は特別の保護を受けていないことになる。
儀式が終わって緋の衣の尼僧たちがぞろぞろと出ていく時、わたしは頭を垂れて祈りに没入しているふりをした。すると、祈りのふり[#「ふり」に傍点]が、たやすく本物の祈りとなることがわかった。ひざまずいている自分の肉体を依然として意識していたが、ほんのつかの間の重荷にしか感じられなかった。心はウールスから遠く離れ、実際、ウールスの群島世界から遙か離れた星の荒野にいた。そして、自分が話しかけている相手はさらに遠くにいるように思われた――わたしは、いわば、宇宙の壁にきてしまったのだ。そして今、その壁を通して、外に待っているお方に向かって叫んだのだ。
叫んだ≠ニわたしはいった。しかし、この言葉はおそらく間違いだろう。むしろ、ささやいたのだ。自分の家に幽閉されたバルノックは、同情心のある通行人に向かって、壁の穴からささやきかけただろうが、それと同じようなものだ。わたしは、ぼろぼろのシャツを着て霊廟の狭い窓から獣や小鳥を眺めていた頃の自分がどんな人間だったか、そして今はどんな人間になっているかを話した。また、ヴォダルスと、その独裁者に対する闘争のことではなくて、かつて愚かにも彼のものだと思いこんでしまったその動機について話をした。自分に何百万もの民衆を導く能力があると考えて、みずからを欺くことはしなかった。ただ自分自身を導くことができますようにと、お願いしただけである。そして、そのようにお願いすると、宇宙の小孔を通して、黄金の光に浸っている新しい宇宙の景色が次第次第にはっきりと見えてきたようだった。そこに、わたしの聞き手がひざまずいて、わたしの話に耳を傾けていらっしゃった。世界の割れ目だと思われたものが広がって、ついに、一つの顔と腕組みをした腕が見えてきた。そして、孔はトンネルのように続いて、一人の人間の頭(それは一時は、山に彫られたあのテュポーンの頭よりも大きく見えた)の奥深くに入っていった。わたしは自分自身の耳に向かってささやいていた。そして、そのことに気づくと、わたしは甲虫のようにその中に飛びこみ、立ち上がった。
だれもいなくなっていた。今までに体験したことがないような深い静けさが、香のかおりのする空中に漂っていた。目の前に祭壇が立っていた。アギアとわたしが壊したものに較べれば粗末だが、灯明や線の清らかさや、サンストーンとラピスラズリのパネルなどがあって美しかった。
今わたしは進み出て、その前にひざまずいた。哲学者に教えてもらわなくても、| 神 《テオログメノン》が今、特別に近くにいるのでないことはわかる。にもかかわらず、彼はより近くにいるように思われた。そしてわたしは――ついに――〈鉤爪〉を取り出すことができた。できないのではないかと、ひそかに恐れてはいたが。心の中に言葉の綴りだけを書きながら、いった。「わたしはたくさんの山を越え、川を渡り、草原を横切って、あなたをお連れしました。あなたはわたしの内部でセクラに生命を与えてくださいました。わたしにドルカスをお与えくださいました。そして、ジョナスをこの世界に蘇らせてくださいました。わたしはあなたにはなんの不満もありませんが、あなたはわたしに対してたくさんの不満をお持ちにちがいありません。わたしは力不足の人間です。自分が与えた傷を回復させるために、わたしがすべきことをしなかったとは、おっしゃらないでください」
もし〈鉤爪〉を祭壇の人目につくところに置いたら、だれかに持ち去られるにきまっていた。それでわたしは台座に上り、安全で恒久的な隠し場所はないかと、装飾のあいだを探した。すると、ついに、祭壇の石そのものが下のほうから四個の締金で固定されていることがわかった。それらの金具が祭壇の建造以来、一度もゆるめられたことがないのは確実であり、祭壇が立っているかぎり、そのままになっているだろうと思われた。普通の人では無理だが、わたしは手の力が強いので、それらを外すことができた。すると、石の下の木部にいくらかの彫りこみがあって、石は端だけを支えられており、ぐらぐら動かないようになっていた――まさかこれほど都合よくできているとは思わなかった。わたしはジョナスの剃刀を使って、もうぼろぼろになっている組合のマントの端から、四角い布を切り取った。それに〈鉤爪〉を包んで、石の下のくぼみに入れ、締金をもとのように締めた。それが偶然ゆるんだりしないように力をこめてやったので、指が血だらけになった。
祭壇から離れると深い悲しみを覚えたが、礼拝堂の扉までの距離の半分もいかないうちに、激しい歓喜が沸き上がってきた。生と死の重荷が取り除かれたのだ。今わたしは、ふたたびただの人間に戻り、喜びで気が狂わんばかりだった。ちょうど子供の頃、マルルビウス師の長い授業が終わって、〈古い中庭〉で自由に遊ぶことができるようになった時とか、壊れた幕壁を這い降りて共同墓地の霊廟や木々の間を走りまわることができるようになった時に感じたのと同じ気持ちだった。わたしは名誉を汚され、追放され、家を失い、友人もなく、お金もなく、そしてたった今、世界でもっとも貴重なもの――それは結局、世界で唯一の価値あるものだったかもしれない――を放棄したところだった。にもかかわらず、すべてうまくいくだろうとわかったのだった。わたしは実存の底まで這い降りて、わが手でそれに触れ、実際に[#「実際に」に傍点]底があると知り、ここから先は上りだと知った。わたしは舞台でやったように、マントをさっと体に巻きつけた。今は役者であって拷問者ではない。たしかに昔は拷問者だったが。わたしは空中に飛び上がり、山羊が山腹でやるように飛び跳ねた。なぜなら、わたしは子供であり、だれも自分以外の人間になることはできないと知ったからである。
屋外の冷たい空気は、特別に自分のためにあつらえられたもののように感じられた。ウールスの太古の大気ではなくて、新たな創造物のように。わたしはそれに浸り、まずマントを広げ、星々に向かって腕を上げ、子宮の液体に溺れるのを逃れたばかりの赤子のように、胸いっぱいにその空気を吸いこんだ。
これらすべては、これを記述するのに必要な時間よりも短時間で起こった。さっきわたしが出てきた避病院のテントに戻りかけた時に、ちょっと離れた別のテントの陰から、じっとこちらをうかがっている姿があるのに気づいた。魔法使いの村を破壊した、あのやみくもに追ってくる生物から少年といっしょに逃げて以来、わたしはずっとヘトールの召使のどれかにまた探し出されるのではないかと恐れていた。そして、逃げだそうとした瞬間に、その姿が月光の射している場所に歩み出た。それは尼僧にすぎなかった。
「待って」彼女は呼びかけ、近寄ってきた。「おどかしてしまったみたいですね」
彼女は顔はなめらかな卵形で、ほとんど性の区別がないように見えた。若いけれども、アヴァほど若くはなく、背丈はたっぷり頭二つぶん高かった――真の高貴人だ、セクラほどの背丈だと、わたしは思った。
わたしはいった。「長い間、危険な生活をしてきたので……」
「わかります。わたしは戦争のことは何も知りませんが、それを体験した男女は大勢います」
「それで今、わたしはどんなお役に立てるのでしょうか、女城主《シャトレーヌ》様?」
「まず、あなたの健康が回復しているかどうか知らねばなりません。大丈夫ですか?」
「はい」わたしはいった。「明日、ここを去るつもりです」
「では、礼拝堂で感謝の祈りをささげていたのですね」
わたしはためらった。「いうべきことがたくさんありました。女城主様。そうです、祈りもその一部でした」
「いっしょに歩いてもよいかしら?」
「もちろんです、女城主様」
背の高い女は、どんな男よりも背が高く見えるというが、たぶんそのとおりだろう。この女性の体格はバルダンダーズとは比べものにならなかったが、それでも並んで歩くと自分が小人になったように感じられた。また、セクラがわたしと抱擁する時にいかに体を屈めたか、そしてまた、わたしはいかにして彼女の乳にキスしたかを思い出した。
こうして二十歩ほど歩いてから、尼僧はいった。「上手に歩くじゃないの。足が長いのね。この足で何百リーグも歩いたのでしょう。あなたは、騎兵隊ではないのですね?」
「少しは馬に乗りましたが、騎兵隊ではありません。わたしは徒歩で山岳地帯を越えてきたのです。そのことをおっしゃっているのなら」
「それはよろしい。なぜなら、乗用馬を上げることができませんからね。でもたしか、まだわたしの名前を教えてなかったわね。わたしはマンネアです。この教団の聖職志願者の監督尼です。今、ドムニセラエ様が留守ですから、臨時にここの人々の管理をしているのです」
「わたしはネッソスのセヴェリアンといいます。放浪者です。あなたがたの立派な事業を援助するために千クリソスも喜捨をしたいところですが、無一文なので、ここで受けたご親切には、お礼を申し上げることしかできません」
「乗用馬のことをいったのは、ネッソスのセヴェリアンさん、あなたに一頭売ってあげようとか、感謝されたいと思って、差し上げようとか、いっているのではありません。もし今あなたの感謝を受けなければ、将来それを得ることはないのです」
「感謝の念は差し上げました」わたしは彼女にいった。「今いったように。これも今いったことですが、あなたがたの親切を当てにして、だらだらとここに留まっているつもりもありません」
マンネアはわたしを見下ろした。「あなたが長居をするとは思っていませんでしたよ。今朝ある志願者から、二晩前に患者の一人がいっしょに礼拝堂にいったという話を聞きました。そして、その人のことをいろいろと聞きました。今晩、みんなが外に出た後にあなたが残ったのを見て、あなたがその人だとわかりました。わたしはあることをしなければなりません。でも、それをしてくれる人がいないのです。平時なら教団の奴隷を派遣したいところです。でも、彼らは病人の看護の訓練を受けています。今は彼らが一人残らず必要です。それでも足りないほどなのです。でも、彼は乞食に杖を送り、猟師に槍を送る≠ニいわれています」
「あなたを侮辱するつもりはありませんが、女城主様、もし、礼拝堂にきたからという理由で、わたしを信用してくださるなら、それは間違いです。もしかしたら、祭壇から宝石を盗んだかもしれないではありませんか」
「泥棒や嘘つきが、おりにふれ祈りにくるというのですね。彼らが来るのは、〈調停者〉のお恵みの力です。いいですか、セヴェリアン、ネッソスからの放浪者さん、それ以外の人はこないのですよ――教団の中でも外でもね。でも、あなたは何も犯しませんでした。わたしたちは無知な人々が想像する半分も力を持っていません――それにもかかわらず、われわれに力がないと思う人々は、もっとずっと無知だということになります。あなた、わたしのために使者にたってくれませんか? 旅券をあげますから、脱走兵とまちがわれる心配はありません」
「わたしに勤まることでしたら、女城主様」
彼女はわたしの肩に手を置いた。それは彼女がわたしの体に触れた最初だった。わたしは軽いショックを受けた。まるで小鳥の羽根で不意に撫でられたような感じがしたからである。
「ここから二十リーグほどのところに」彼女はいった。「ある賢明で神聖な隠者の庵があります。彼は今までは安全でした。しかし、この夏の間ずっと独裁者は押しまくられています。それで、まもなくあの場所も戦火に巻きこまれることになるでしょう。だれかがあそこにいって、わたしたちのところにくるように、彼を説得しなければなりません――いや、もし説得できなければ、力ずくででも連れてこなければなりません。あなたがその使者だと〈調停者〉がお示しになったと信じます。できますか?」
「わたしは外交官ではありません」わたしは彼女にいった。
「しかし、もう一つの仕事にかけては、正直いって長い訓練を受けております」
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15 最後の家
マンネアはその隠者の隠遁所の位置を示すおおざっぱな地図をくれて、この地図に記されているコースを厳密にたどらなければ、隠遁所を見つけることはまず不可能だろうと強調した。
その家が避病院からどちらの方向にあたるか、わたしにはわからない。地図に示された距離はその困難さに比例しており、曲がり角は紙の寸法に合わせて調整されていた。わたしはまず東に向かって歩きだした。やがて、急流が縫うように流れている狭い谷間を通って西に向かい、最後には南に向かった。
この旅の最初の区間では大勢の兵士に出会った――一度は、道の両側に二列縦隊の兵士がおり、その真ん中を傷病兵を後方に運ぶ騾馬が通っていった。わたしは二度呼び止められたが、そのたびごとに旅券を見せて、先に進むことができた。旅券は今までに見たこともない上等のクリーム色の羊皮紙で、教団のナルテックス([#ここから割り注]教会堂の入口の広間[#ここで割り注終わり])をかたどった金色の印形が押してあり、こう記されていた。
[#ここから2字下げ]
関係の諸官に――
本旅券の所持人(若い男性、頭髪と目は黒、顔は青白く、身長は中背よりかなり高い)はわれらの奉仕者、ネッソスのセヴェリアンである。貴官はわれらが守る記憶を敬い、また貴官自身がいずれ援護を望み、また場合によっては名誉ある埋葬を望むこともありうるがゆえに、該セヴェリアンがわれらより委託された業務を遂行することを妨げず、同人に必要な保護扶助を与えられるよう要請する。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]〈調停者の旅行修道女団〉通称ペルリーヌ尼僧団℃w導監督尼
[#地から2字上げ]女城主 マンネア
しかし、いったん狭い谷間に入ってしまうと、世界じゅうの兵士が消え失せてしまったように思われた。もはや兵士の姿は見えず、激流の轟音が、遠雷のような独裁者のサカールやカルヴァリン砲の音をかき消した――といっても、その場所でそれらの音が実際に聞こえたらの話だが。
隠者の家の様子についての説明は聞いていたし、またその説明は持参した地図のスケッチによって補足されていた。しかも、そこに到着するのに二日かかると聞かされていた。それゆえ、日没時に見上げた時に、目の前にそそり立つ断崖の頂上にその家が立っているのが見えたので、かなり驚いた。
まちがえようがなかった。マンネアのスケッチは、軽さと強さの感じを兼ねそなえたその家の高く尖った破風を、完全に捕えていた。その一つの小さな窓に、すでに明かりがともっていた。
山中でわたしはたくさんの崖を登った。これよりずっと高いものもあったし、また――見かけだけは――もっと険しい崖もあった。岩の間で野宿したいとは決して思わなかった。だから、隠者の家を見たとたんに、今夜はあの家で寝ようと決心した。
登りの最初の三分の一は容易だった。わたしは猫のように岩の表面をよじ登っていき、昼の光が消えないうちに全体の半分以上を登った。
わたしはいつも夜目がきく。まもなく月が出るだろうと自分にいい聞かせながら、登攀を続けた。これは間違いだった。古い月はわたしの入院中に死んでしまっていた。そして、あと何日かしなければ、新月は生まれないのだった。星々は多少の光を投げたが、それらは速く流れる雲の筋によって何度も何度も遮られた。目を惑わす光は、暗闇よりも悪いように思われる。といっても、この時そのような光があったわけではないが。この時、以前に猿人の地下の領分からわたしが出てくるのを、アギアが刺客を連れて待ちかまえていたことをふと思い出し、背中の皮膚が、まるで弩の火箭を予想したように縮み上がった。
まもなく、さらにひどい困難がわたしを圧倒した。平衡感覚を失ったのだ。といっても、完全に眩暈の虜になったわけではない。一般論として、下≠ヘ足の方向であり、上≠ヘ星の方向だと知っていた。しかし、それ以上厳密なことがわからなくなった。そして、それがわからないために、新しい手掛かりを一つ一つ探すのには、どのくらい体を傾けたらよいか、ほとんど判断ができなくなった。
この感覚が最悪になったまさにその時に、速く流れる雲が密集隊形を取った。わたしは真の暗闇に閉じこめられてしまった。時には、崖の表面の傾斜がよりゆるやかになり、ほとんど直立してその上を歩くことができそうに感じられた。また、突き出していて、下側にしがみつかなければ落ちそうな部分もあった。また、上に登っているのではなく、長い距離を右か左ににじり寄っているように思えることもままあった。一度などは、気がついたら、ほとんど頭が下を向いていた。
ついに岩棚にたどりついた。明るくなるまで、そこに留まることにした。体をマントでくるみ、横たわり、背中を岩に密着させようとして体を動かした。ところが、背中には何も触らなかった。もう一度、体を動かしてみたが、それでも何も触らない。平衡感覚のみならず、方向感覚まで消えてしまったのではないか、そして、いつの聞にか後ろ向きになって崖縁に向かってにじり寄っているのではないかと怖くなった。それから、両側の岩を手で触って確認してから、上向きに寝ころがり、両腕を伸ばした。
その瞬間、一つの閃光がひらめき、すべての雲の腹を硫黄色に染めた。ほど近いところに、大きな砲撃の死の荷物が落下したのだ。その消耗性の光で、自分が崖の頂上に着いていることがわかり、また、前に見えていた家が見えなくなっていることに気づいた。わたしは広々とした何もない岩の上に寝ころんだ。降りはじめた雨の最初の一滴が顔に当たった。
翌朝は寒く惨めな気持ちで、避病院から持ってきた食べ物の一部を食べ、その高い山の、崖と反対側の山腹を降りていった。そちらの斜面のほうが歩きやすかった。わたしはその山の肩を回って、地図に示されている細い谷間に戻るつもりだった。
しかし、それができなかった。道が行き止まりになっていたわけではない。いやむしろ、長時間歩いた後に、目標にしていた地点に着いてみると、そこはまったく違った場所で、浅い谷間にもっと幅の広い川が流れていた。数刻を無駄にしてそのあたりを探すと、隠者の家が崖の上にあるのを見た(と思われる)場所を発見した。いうまでもないが、隠者の家は今はそこにはなかったし、また、崖は記憶にあるほど高くも、急でもなかった。
そこで、ふたたび地図を取り出して調べると、マンネアが使っていたベンで書かれたとは信じられないほど見事な書体で、隠者の家の絵の下に最後の家と書かれてあることに気づいた。どういうわけか、この言葉と岩の上の家の絵を見ると、あの〈ジャングルの園〉でアギアといっしょに見た家を思い出した。あの家では、イサンゴマという裸の男の話に、夫と妻が坐って耳を傾けていた。〈植物園〉全体の通路を熟知していたアギアは、もしわたしが回れ右してその小屋に戻ろうとしても、見つからないだろうといっていた。あの出来事を振り返ってみると、今はわたしは彼女を信じないが、当時は彼女を信じていたことに思いいたった。もちろん、わたしが信じやすい性格を失ったのは、彼女の背信行為に対する反動にすぎないのかもしれない。実例なら今はたくさん手もとにある。あるいは、あの時は〈城塞〉と組合の保護から離れてわずか一日しかたっていなかったから、今よりもずっとうぶ[#「うぶ」に傍点]だったというだけのことかもしれない。しかしまた次のように考えることも可能である――今では、これが当たっているように思われるのだが――当時信じたのは、物事を自分の目で見ていたからであり、また、その光景やそれらの人々を知ったこと自体に説得力があったのだ。
イナイア老は〈植物園〉の建設者だといわれている。ひょっとしたら、彼が駆使していた知識の一部を、この隠者が持っているのではないだろうか? また、イナイア老は〈絶対の家〉の中に、絵画のように見える秘密の部屋を作っていた。わたしはそれを偶然に発見したのだが、そういうことになったのは、ひとえに絵画清掃係の老人の指示に従ったからだった。彼は、わたしがそれを発見するように仕向けたのだ。ところが今は、わたしはもはやマンネアの指示に従っていなかった。
わたしは山腹を迂回し、なだらかな斜面を登って後戻りした。すると、記憶にある急な崖が前に現われ、その根もとに狭い激流があり、その水音が谷間全体に響き渡っていた。太陽の位置から判断すると、明るい時間はせいぜい二刻くらいしか残っていなかった。しかし、その光の中で崖を降りるのは、夜にそれを登った時よりはるかに楽だった。一刻たらずで、前日の夕方に去った狭い谷間にわたしは降り立った。窓には明かりが見えなかったが、〈最後の家〉はもとの場所に、つまり、その日にわたしのブーツが踏んでいた岩の上に、建っていた。わたしは首を振り、それに背を向けて、黄昏の明かりでマソネアが描いてくれた地図を読んだ。
先に進む前に、ここに記述したすべてに超自然的なものがあるとは決して思っていないことを、明らかにしておきたい。このようにして、わたしは〈最後の家〉を二度見た。しかし、二度とも同様の光の中で見たのだった。最初は夕暮れの薄明かりのなかで、二度目は早朝の薄明かりの中で。だから、わたしの見たものが、岩と影が作り出したものにすぎず、明かりの灯った窓が星だった、ということは確かにありうる。
狭い谷間に反対の方向から到着しようと思ったら、それが消え失せていたことについていえば、そのような狭い下り坂は、何にもまして視野から消えやすい地理的特徴だといえよう。地面のもっともかすかな凹凸でも、坂を隠してしまう。大草原の土民のあるものは、匪賊から身を守るために、次のように村を作る。まず地面に縦穴を掘り、斜路でその底に降りられるようにして、それから穴の側面を掘りくぼめ、家や厩を作るのである。掘り出した土を草が覆ってしまうと(冬の雨季の後は、急速にそうなる)よその者は半チェーン以内に接近しても、その存在に気がつかないのである。
しかし、わたしはそのような愚か者であったかもしれないが、自分ではそうは思わない。パリーモン師は、われわれが夜風に脅えて恥をかかないように、超自然的なものが存在するのだと、よくいっていた。しかし、わたしとしてはあの家を本当に何か不可思議な力が取り巻いていたと信じたい。そして、今は当時よりももっと強くそれを信じている。
それはともかくとして、その時以後、わたしはもらった地図に従っていった。そして、夜になって二刻以内に〈最後の家〉の扉に通じる小道を上っていた。その家はまさに記憶どおりの崖の縁に建っていた。マンネアがいったように、その旅にはきっかり二日かかったのだった。
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16 世捨て人
ポーチがあった。家の土台の石とほとんど同じくらいの高さしかなかった。しかしポーチは、家の両側に続いており、角を曲がってもなお伸びていた。恐れるものがほとんどなく、暮らし向きのよい田舎家には、よく長いポーチがあり、主人が夕涼みをしながら| 月 《リユンヌ》の下に沈むウールスを眺めたりしているものだが、それに似た感じだった。扉を叩いたが返事がない。それで、最初右のほうに、次に左のほうにこのポーチを歩いていって、窓を覗いた。
中は暗くて何も見えなかった。しかし、ポーチは家を回って崖縁まで続いており、そこで手すりもなく終わっていることがわかった。もう一度、扉を叩いたがやはり返事がなかったので、わたしはひと眠りしようと思い(そこには屋根があり、岩の間のどんな場所よりもいい場所だったので)横になった。と、そのとたん、かすかな足音が聞こえた。
その高い家のどこか上のほうで、人が歩いていた。最初足取りはごくゆっくりだったので、老人か病人にちがいないと思った。だが、近づいてくると次第にしっかりしたものになり、速くなって、しまいに扉のそばにきた時には、まるで歩兵中隊か騎兵中隊の指揮官を思わせるような、目標を持った男の規則正しい足音になった。
この時には、わたしはまた立ち上がっていて、マントの塵を払い、できるだけ見苦しくない様子をしていた。しかし、扉がさっと開いた時にそこに現われた人物を見る心の準備は、ほとんどできていなかった。その人はわたしの手首ほどの太さの蝋燭を持っており、その光で、バルダンダーズの城で見た神殿奴隷《ヒエロドウール》の顔のような顔が見えた。といっても、人間の顔ではあった――実際のところ、〈絶対の家〉の庭園の彫像の顔がファミリムスやバルバトゥスやオッシパゴのような生物の顔の模倣であったのと同様に、ファミリムスやバルバトゥスやオッシパゴなどの顔はわたしが今見たような顔を、異星人を媒体にして模写したものにすぎないという感じがした。この物語の中で、わたしはしばしばすべてを記憶していると述べてきた。たしかにそのとおりである。しかし、そういいながら、この顔を描写しようとしてもできないことを知る。どんな描写をしてみても、少しもそれに似ないのだ。額は重くまっすぐであり、目はくぼんでいて、セクラの目のように濃い青色だったというしかない。この男の肌は、やはり女の肌のようにきめが細かかったが、そうかといって、その人物に女性的なところは少しもなく、腰まで垂れている髭はこの上もなく黒かった。衣の色は白く見えたが、蝋燭の光が反射すると虹色にちかちか光った。
わたしは〈剣舞《マタチン》の塔〉で教わったようにお辞儀をして、名を名乗り、だれのところから遣わされたか述べてから、こういった。「あなたは〈最後の家〉の世捨て人ですか?」
彼はうなずいた。「わたしはここにいる最後の者だ。アッシュと呼ぶがいい」
彼は片側により、わたしに入るように身振りをして、それから家の裏側の部屋に案内してくれた。そこには大きな窓があって、昨夜わたしがよじ登った断崖を見渡すことができた。いくつかの木製の椅子と一つのテーブルがあった。部屋の隅々の壁ぎわに、蝋燭の光を受けて鈍く光る金属の櫃《ひつ》がいくつか置いてあった。
「むさ苦しいところで恐縮だ」彼はいった。「ここは客を迎える部屋だが、あまり来客が少ないので、物置に使いはじめてしまった」
「このような淋しい場所で一人暮らしをするには、貧しく見えたほうがよろしいですよ、アッシュ様。でも、この部屋はそうは見えません」
微笑むことができる顔には見えなかったが、彼は微笑んだ。「宝物を見たいか? 見せてやろう」彼は立ち上がって、一つの櫃を開き、内部が見えるように蝋燭をかかげた。それには四角いパンの塊と圧縮した無花果の包みが入っていた。彼はわたしの表情を見て、尋ねた。「空腹か? この食べ物に呪いはかかっていない――そういうものを恐れているならば」
わたしは恥ずかしく思った。なぜなら、この旅のために食糧を持参しており、帰りの道中のためにまだいくらか取ってあったからである。だが、わたしはいった。「もし分けていただけるなら、そのパンを少しください」
彼はすでに半分に切ってあるパン(それも非常に鋭利な刃物で)と、銀紙に包んだチーズと、そして、黄色い辛口のワインをくれた。
「マンネアは善い女だ」彼はわたしにいった。「そして、きみは、自分が善人であることを知らない種類の善人だと思う――それが唯一の善人だという人もいるがね。彼女は、わたしがきみの役に立つと考えたのだな?」
「むしろ、わたしがあなたのお役に立てるというふうに、彼女は考えているのです。アッシュ様。共和国軍は退却中です。まもなくこの地方全体が戦闘に巻きこまれるでしょう。その戦闘が終わると、アスキア人がやってきます」
彼はまた微笑した。「影のない人々か。それは、誤っているが、同時に完全に正しい名前――そういう名前がたくさんあるが――の一つだ。もしアスキア人がきみに、おれは本当は影を落とさないのだぞといったら、きみはどう思う?」
「わかりません」わたしはいった。「そういうことは一度も聞いたことがありませんから」
「昔の話だ。昔語りは好きかね? ああ、目を光らせたな。話がもっと上手ならよいのだが。きみたちは敵をアスキア人と呼ぶが、もちろん彼ら自身がそう名乗っているわけではない。きみたちの祖先が、彼らはウールスの腰にあたる地方からやってきたと思ったのだ。あの地方では正午に太陽が正確に頭上にくるからな。しかし、実際は彼らの故郷はもっとずっと北のほうだ。それなのに彼らはアスキア人、つまり影のない人≠ニいわれている。われわれの種族の最初の朝にできた物語の中に、ある人が自分の影を売ったら、どこにいっても追い出されたという話がある。だれも彼が人間だとは信じなかったのさ」
わたしはワインを飲みながら、隣の寝台に寝ていたアスキア人の捕虜を思い出した。「その人は自分の影を取り戻したのですか、アッシュ様?」
「いいや。しかし、しばらくの間は、反射のない人といっしょに旅をしていた」
アッシュ師は黙りこんだ。それからしばらくしていった。「マンネアは善い女だ。きみの申し出を受け入れることができればよいのだが。しかし、いくことはできない。戦争は決してここのわたしの家にはやってこない。いくら兵士の隊列がやってこようとも」
わたしはいった。「いったんお戻りになって、女城主様を安心させてはいかがでしょう」
「それもできない」
これでは強制的に連れていく以外にないと思ったが、今すぐに腕力に訴える理由はないように思われた。朝になれば機会はいくらもあるだろう。わたしは諦めたように肩をすくめて、尋ねた。「では、少なくとも今夜はここに泊めていただけますか? 戻って、あなたの決心を報告しなければなりませんが、十五リーグ以上のみちのりがあるのです。今はもうそんなに歩けません」彼はまた微笑した。まるで、松明の動きで象牙の像の唇の影が動いたとでもいうような微笑だった。「世界のニュースを聞かせてもらおうと思っていたのだが」彼はいった。「きみはとても疲れているようだ。食事が終わったら、ついてきなさい。ベッドに案内する」
「わたしは上品な礼儀をわきまえておりません、師匠。でも、ご主人が会話を望んでおられるのに寝てしまうほど、育ちが悪いわけではありません――しかし、残念ながら、お聞かせするようなニュースがほとんどないのです。避病院の患者仲間から聞いたところによると、戦争は継続していて、日ごとに激しくなっています。味方に援軍が続々と到着しているし、敵は北から全勢力を送りこんでいます。また敵は砲兵の大群を擁しています。ですから、味方は檜騎兵[#校正2]にますます頼らなければなりません。槍騎兵ならすみやかに突撃して、敵の重砲が狙いをつける前に接近戦を挑めますから。また、敵は去年自慢していた以上に多数の飛翔機を持っています。もっとも、味方がずいぶん撃墜しましたがね。独裁者は直接指揮を執るために、〈絶対の家〉から多数の親衛隊を引き連れてやってきています。しかし……」わたしはまた肩をすくめて言葉を切り、パンとチーズをほおぼった。
「戦さの研究は、歴史の中でももっとも面白くないもののように、わたしにはいつも思われる。それにしても、いくつかの一定のパターンがあるな。長期戦で一方の力が急に強くなる場合は、普通次の三つの理由の一つが当てはまる。まず、新しい同盟者が現われた場合だ。それらの新しい軍隊の兵士は、古い兵士と較べて、なんらかの点で異なっているか?」
「はい」わたしはいった。「年齢が若くて、全体的に力が弱いということです。そして、より多くの女性が混じっています」
「言語や服装に相違はないのか?」
わたしは首を振った。
「では、今のところ、少なくとも敵が新しい同盟者を持ったことは否定できる。第二の可能性は、別の場所で行なわれていた別の戦争が終結した場合だ。もし、そうなら、援軍は老兵になる。きみの話ではそうではないそうだから、第三の可能性しか残らない。なんらかの理由で、きみたちの敵は今すぐに勝利をおさめる必要があり、総力を結集しているのだ」
わたしはパンを食べおえていたが、今は本当に話に引きこまれていた。「どうしてでしょう?」
「もっと知識がなければ、なんともいえない。たぶん、敵の指導者が人民を恐れているのだろう。厭戦気分が生じているのだ。もしかしたら、アスキア人全部がただの奉仕者にすぎなくて、今はその支配者たちがみずから乗り出して、行動を起こそうとしているのかもしれない」
「あなたはいったん希望を与えて、次の瞬間にそれを取り上げるのですね」
「わたしではない。歴史がそうするのだ。きみは戦線に出ていたのかね?」
わたしはかぶりを振った。
「それはよい。様々な点で、戦争を見れば見るほど、人は戦争がわからなくなるものだ。きみたちの共和国の人々の状態はどうかね? 自分らの独裁者の後ろでがっちりと団結しているかね? それとも、戦争にひどく疲れて、大声で平和を求めているのかね?」
わたしは笑ってしまった。そして、わたしをヴォダルスに引き寄せるのに役立ったあの昔の苦い想いがいっきょに蘇った。「団結ですって? 大声で求めるですって? 師匠、あなたがより高度の物事に精神を集中するために隠遁されていることは承知しています。でも、自分の住んでいる国のことをそれほど知らない人がいるとは、思ってもみませんでした。立身出世主義者、傭兵、冒険志願者の若者が戦っているのです。百リーグ南では、戦争は噂にもなっていません。〈絶対の家〉の外ではね」
アッシュ師はぎゅっと唇を結んだ。「では、きみたちの共和国は予想以上に強い。きみたちの敵が必死になるのも無理はない」
「もしこれが強さなら、慈悲の神よ、われわれを弱さからお守りください。アッシュ様、いつなんどき前線が崩壊するかもしれません。わたしといっしょにより安全な場所に移ったほうがよろしゅうございます」
彼は聞いていないように見えた。「もし、エレボスやアバイアやそのほかの怪物がみずから参戦するなら、それは新しい闘争になるだろう。もしもの話だが。面白い。しかし、きみは疲れている。いっしょにきなさい。ベッドと、きみがさっきいったように、わたしが研究するためにここにきた高度な物事のところに案内しよう」
隠者とわたしは階段を二つ上って、ある部屋に入った。それは前の晩に明かりが見えた部屋にちがいなかった。その階全部を占める広い部屋で、たくさんの窓があった。いろいろな機械があったが、バルダンダーズの城で見たものよりは小型で、数も少なかった。またいくつものテーブル、紙、たくさんの書物、そして中心の近くに狭いベッドが一つ置かれていた。
「ここで仮眠するのだ」アッシュ師が説明した。「勉強がわたしを引きとめる時にな。きみのような体格の人には大きいとはいえないが、寝心地はよいと思う」
前の夜は岩の上で寝たので、実際に寝心地がよさそうに思われた。
彼は手洗いの場所を教えてくれると、出ていった。彼が明かりを消す前に、最後にちらりと見えたその顔には、前に見たあの完全な微笑が浮かんでいた。
しばらくして、目が暗さに慣れると、わたしはそのことを考えるのをやめた。たくさんある窓のすべての外側に、真珠色の無限の光が輝いていたからである。「ここは雲の上だな」わたしは心の中でいった(わたしもかすかな微笑を浮かべていた)。「いや、低い雲がやってきてこの山頂を覆ったのだろうか。暗くて気づかなかったが、彼はなんらかの方法でそれを知ったのだろう。今はその雲の峰が見える。確かに高度な物事だ。ちょうどテュポーンの目から雲の峰を見た時みたいだ」それから横たわって、眠りに落ちた。
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17 神々の黄昏――最後の冬
どういうわけか説明はできないが、武器を持たずに目覚めるのが奇妙に感じられた。そんな感じがした朝は、これが初めてだった。テルミヌス・エストが折れてしまった後、バルダンダーズの城で略奪が行なわれている時でも、わたしは恐怖を感じないで眠っていた。その後も、恐怖を感じずに北へ旅をしていた。つい昨夜も、武器を持たずに、断崖の上の剥き出しの岩の上に寝たが――たぶん、あまりにも疲れていたからだろうが――怖くはなかった。今にして思えば、ここのところずっと――実際、スラックスを去ってこのかた、組合から遠ざかるにつれて、自分は、出会った相手がそう思いこむような者であると――つまり、昨夜アッシュ師の前でいったように、一種の冒険志願者なのだと信じるようになってきた。拷問者としては、自分の剣は武器ではなく、むしろ道具であり、職務のバッジのようなものだと考えていた。振り返って見ると、あれがわたしの武器になっていたのであり、今は武器がないのだった。
アッシュ師の寝心地の良いマットレスの上に、組んだ手に頭をのせて仰向けに横たわり、そのことを考えた。この戦乱の地にとどまるつもりなら、また剣を手に入れる必要がある。たとえふたたび南に帰るにしても、やはり剣を持っていたほうが賢明だろう。もしここに留まれば、戦闘に引きこまれる危険がある。そうすれば、死ぬのはほぼ確実だ。しかし、南に引き返すことは、さらにずっと危険である。スラックスの執政官アブディーススは疑いなくわたしの逮捕に賞金を懸けているだろうし、また組合は、わたしがネッソスの近くに現われたと知ったら、刺客を用意するに決まっている。
しばらくの間、夢うつつの人がそうするように、決定を迷った末に、ウィノックのことと、彼がペルリーヌ尼僧団の奴隷について話したことを思い出した。客人が拷問の後で死ぬようなことがあれば、われわれの恥になるので、組合では医術を充分に教える。だから、自分は少なくともあそこの奴隷たちと同じ程度の知識はあるのだ。あの|あばらや《ハカール》で少女の病気を治した時には、思わず精神の高揚を覚えたものだった。女城主マンネアはすでにわたしにいい印象を持っているし、アッシュ師匠を連れ帰ったら、わたしの評価はもっと高まるだろう。
すこし前に、わたしは武器を持っていないことで不安を感じていた。今は、武器を持っているように感じた――決意と計画は剣よりもよい武器である。なぜなら、人はそれで自分の刃を磨くからである。わたしは毛布をはねのけた。その時おそらく初めて、毛布がどれほど柔らかいかを意識した。その大きな部屋は寒かったが、日光がいっぱいに当たっていた。まるで四方に太陽があるような、四方の壁がすべて東を向いているような感じだった。わたしは裸のままいちばん近い窓に歩み寄り、前の晩に漠然と気づいた起伏のある白い平原を見やった。
それは雲の塊りではなく、氷の平原だった。窓はどうしても開かなかった。いや、むしろ、窓のパズルのようなからくり[#「からくり」に傍点]を解くことができなかった。しかし、顔をガラスに密着させて、できるだけ下のほうを覗いて見た。〈最後の家〉は前に見ておいたように、高い岩山の頂上に建っていた。わたしは窓から窓に移って見たが、どの眺めも同じだった。そこでもとのベッドに戻り、ほとんど無意識にズボンとブーツをはきマントを羽織った。
衣服を着おわると同時に、アッシュ師が現われた。「邪魔をしたかな?」彼はいった。「きみが歩き回る音が聞こえたが」
わたしは首を振った。
「邪魔をするつもりはなかったんだ」
手が無意識に顔にいった。不精髭が生えていることに、今わたしの愚かな部分が気づいたのである。わたしはいった。「マントを着る前に、髭をそるつもりだったのです。間の抜けたことをしてしまいました。避病院を出てきてから、髭を剃っていませんでした」まるで、精神が舌と唇を氷原に置き去りにして先にいってしまい。舌と唇が懸命にそれを追っているといった感じだった。
「ここにお湯と石鹸がある」
「それは、どうも」わたしはいった。それから、「もし階下に降りたら……」
また例の微笑。「同じか? 氷か? というのだな。違う。きみはこれに気づいた最初の人だ。どうしてこれに気づいたか、教えてくれないか?」
「ずっと昔に――いや、実際は、ほんの数ヵ月前です。今では大昔のことのように思われますが――ネッソスの〈植物園〉にいきました。そこに〈鳥の湖〉という場所がありました。その中では、死体が永久に新鮮さを保っているらしいのです。水の持っている性質のためだと聞かされましたが、その時も、水にそんな大きな力があるのだろうかと不審に思ったものです。また別に、〈ジャングルの園〉という場所がありました。そこの草木の葉は、ふだん見慣れている葉よりも、もっと濃い緑色をしています――明るい緑ではなく黒っぽい緑で、まるで植物が降り注ぐ太陽エネルギーのすべてを使いきれない、といった感じでした。中にいる人々は、われわれの時代の人ではないように思えました。もっとも、過去の人なのか未来の人なのか、あるいは、そのどちらでもない第三のものなのか、わかりませんでした。彼らは小さな家にいました。これよりもずっと小さい家でしたが、この家を見て、あれを思い出したのです。あそこを出て以来、〈植物園〉のことをたびたび思い出しました。そして、あそこの秘密はこうではないかと考えたのです――つまり、〈鳥の湖〉では時間は決して変化しない、そして〈ジャングルの園〉の通路を歩く時には――どうしてそうなるかわかりませんが――時間を前か後に移動するのだと。ちょっと喋りすぎたでしょうか?」
アッシュ師は首を振った。
「それから、ここにくる途中でこの家が丘の頂上に建っているのが見えました。ところが、そこまで登ってみると、家は消えていました。そして、下の谷間は記憶にあるものと異なっていました」わたしはほかにどういえばいいかわからなくて、黙りこんだ。
「そのとおりだ」アッシュはいった。「わたしは、きみが今周囲に見ているものを観測するために、ここに置かれている。しかし、この家の下のほうの階はもっと古い時代に入りこんでいる。その中できみたちの時代がもっとも古い」
「とてつもない、驚くべき話に思えます」
彼は首を振った。「この岩の突起が氷河にも負けずに残ったことのほうが、よほど驚くべきことだよ。もっとずっと高い峰の頂上は埋没してしまったのにね。偶然によって成就されたとしかいいようがないほど微妙な地理的パターンによって守られているのだ」
「でも、最後にはこれも覆われてしまうのでしょうか?」わたしは尋ねた。
「そうだ」
「それからどうなりますか?」
「わたしは立ち退く。いや、それが起こる少し前に立ち退くことになるだろう」
わたしは不合理な怒りの大波を感じた。子供の頃、自分の疑問をマルルビウス師に理解してもらえない時に感じたのと同じ感情だった。「いや、ウールスはどうなるか? という意味です」
彼は肩をすくめた。「別に。きみの見ているのが最後の氷河作用だ。太陽の表面活動は今は鈍い。まもなく、それは熱をもって明るくなるだろう。しかし太陽そのものは縮小し、それに属する諸世界へのエネルギーの供給は減ってしまう。最後には、だれかがやってきて、この氷の上に立てば、太陽はただの明るい星にしか見えなくなるだろう。その人が立つのは、きみの見ている氷ではなく、この世界の大気が凍ったものだ。だから、非常に長い間残るだろう。おそらく、宇宙の日暮れまで」
わたしは別の窓のところにいき、また氷の広がりに目をやった。「これは、もうまもなく起こるのですか?」
「きみが見ている場面は、きみたちから何千年も未来のものだ」
「しかし、これの前に、氷が南からきたはずですね」
アッシュ師はうなずいた。「そして、山頂から降りてきた。こちらにきたまえ」
われわれは家の第二層に降りた。前の晩に階段を登ってきた時は、ここにはほとんど注意を払わなかった。窓はずっと少なかった。だが、アッシュ師は一つの窓の前に椅子を置いて、いっしょに坐って外を眺めようという身振りをした。彼のいったとおりだった――純粋で美しい氷が山腹を這い降りて、松林と戦おうとしていた。これもまたずっと未来の光景かと、わたしが尋ねると、彼はまたうなずいた。「生きているうちに、きみがこれを二度と見ることはない」
「でも、人間の一生が届くほどの近さなのですか?」
彼は肩をひねり、髭の下で微笑した。「程度の問題だといっておこう。きみはこれを見ることはない。きみの子供も、そのまた子供も見ることはない。しかし、その過程はすでに始まっている。きみの生まれるずっと前に始まったのだ」
わたしは南のことは何も知らなかったけれども、いつの間にかハルヴァードの物語の島の人人のことを考えていた。作物の成長する季節があり、アザラシを狩ることのできる、貴重な保護された小さな場所。あの島々は遠からず、男たちとその家族を養うことができなくなるだろう。船が女房・子供、子供・女房≠ニいう音を立てて浜辺の砂利の上をこする最後の時がやってくるだろう。
「この時代には、きみたちの同胞の多くはすでにいなくなっている」アッシュ師が続けた。
「きみたちが退化人《カコジエン》と呼ぶ人々が、慈悲深くも彼らをもっと条件のいい世界に移したのだ。氷が最後の勝利を納める前に、さらに多くの人が去るだろう。わたし自身はそれらの避難民の子孫なのだよ」
一人残らず避難するのだろうかと、わたしは尋ねた。
彼は首を振った。「いや、だれもというわけではない。行くことを承知しなかった者もあるし、見つからなかった者もあるし、行先が見つからなかった者もある」
しばらくの間、わたしは坐って氷の包囲攻撃を受けている谷間を眺めながら、思考を整理しようとした。それから、やっといった。「いつも経験するのですが、宗教関係者は真実ではないが安心させるようなことを話し、科学者は恐ろしい真実を話します。女城主マンネアは、あなたは神聖な方だといいましたが、わたしには科学者のように思われます。氷の研究をさせるために、あなたの同胞があなたをこのウールスに派遣したとおっしゃいましたし」
「きみのいうような区別はもはやなくなった。宗教も科学も、常に何かへの信頼の問題だった。それは同じ何かなのだ。きみ自身はいわゆる科学の人だ。だからわたしはきみに科学の話をした。もしマンネアが仲間の尼僧たちといっしょにここにいたら、わたしは別の話し方をしただろう」
あまりたくさんの記憶があるので、わたしはよく記憶の中で迷子になる。今、松林がわたしの感じることのできない風にそよいでいるのを眺めていると、太鼓の音が聞こえるような気がしてきた。「未来からきたという人には、ほかにも会ったことがあります」わたしはいった。
「その人は緑色をしていました――あの木々と同じ緑色です――そして、その人の時代はより明るい太陽の時代だといいました」
アッシュ師はうなずいた。「彼は真実を語ったにちがいない」
「しかしあなたは、今わたしが見ているものは、ほんの数寿命先のものだとおっしゃる。それはすでに始まっている過程の一部であり、これが最後の氷河作用になるだろうと。あなたか彼か、どちらかが偽の予言者ということになります」
「わたしは予言者ではない」アッシュ師は答えた。「彼も予言者ではない。だれも未来を知ることはできない。われわれは過去のことを話しているのだ」
また腹が立ってきた。「これはほんの数寿命先のことだとおっしゃったくせに」
「ああ、いった。しかしきみとこの情景は、わたしにとっては過去のできごとなのだ」
「わたしは過去のものではありません! 現在のものです」
「きみ自身の観点から見れば、そうだろう。しかし、わたしがきみの観点からきみを見ることはできない。きみはそれを忘れている。これはわたしの家だ。きみが外を眺めているのは、わたしの窓からだ。わたしの家は根元を過去に突っこんでいる。そうでなければ、わたしはここで発狂してしまう。そうなっているからこそ、わたしはこういった昔の数世紀を、書物のように読めるのだし、むかしの死者の声を聞けるのだ。きみの声もその一つだ。きみは時間を単一の糸だと考えているが、時間は一枚の織物であり、すべての方向に永遠に広がっているタペストリーなのだ。わたしは一本の糸を後ろ向きにたどる。きみは一つの色を前向きにたどる。どんな色か、わたしには知りようがない。きみが白をたどれば、わたしのところにくるのかもしれないし、緑をたどればその緑人のところにいくのかもしれない」
なんといってよいかわからなくて、自分は時間を川のようなものと考えていましたと、かろうじてつぶやいた。
「そうだ――きみはネッソスからきたのだったな? あれは川のそばの町だった。しかし、かつては海のそばの町だった。だから、時間を海のようなものとして考えたほうが都合がよいだろう。波が寄せたり返したりする。そして潮がそれらの下を流れている」
「階下に降りたいのですが」わたしはいった。「わたし自身の時間に戻るために」
アッシュ師はいった。「わかった」
「いや、わかっていただけたかどうか。あなたの時代は、わたしが正しく聞き取ったとすれば、この家の最上階の時代です。ベッドその他の必要なものは、そこに置いておられます。でも、お聞きしたところによると、仕事に圧倒されない時にはここで寝るということでした。しかし、ここはあなた自身の時代よりも、わたしの時代に近いといわれました」
彼は立ち上がった。「わたしも氷から逃げている、という意味だよ。さあ、いこうか? きみはマンネアのところに帰る長旅の前に食事をしておきたいだろう」
「帰るのはあなたといっしょにです」わたしはいった。
彼は階段を降りはじめる前に、振り返ってわたしを見た。「いっしょにいくことはできないといったぞ。この家がいかに巧妙に隠されているか、自分の目で見ただろう。道を正確に歩いてこないものにとっては、最下階さえも未来に建っているのだ」
わたしは彼の両腕を後ろからダブルロックでおさえ、空いたほうの手で武器を持っていないか身体検査した。何もなかった。彼は強かったが、恐れていたほどではなかった。
「わたしをマンネアのところに連れていくつもりだな。そうだろう?」
「はい、師匠。自発的にいってくだされば、手数がずっと少なくてすみます。綱のある場所を教えてください――必要ならその衣の帯を使いますが、そうしたくありません」
「そんなものはない」彼はいった。
わたしは最初に計画していたように、彼の手を| 帯 《シンクチャー》で縛った。「ここからある程度離れたら、そしておとなしくすると約束してくだされば、帯は解きます」
「わたしはきみを快く家に迎え入れた。きみにどんな害を与えたというのだ?」
「たくさん与えてくれました。でも、それは問題ではありません。アッシュ師匠、わたしはあなたが好きだし、尊敬しています。あなたがしたことは恨みませんから、あなたも、わたしのしたことを恨まないでください。でも、ペルリーヌ尼僧団は、あなたを連れてくるようにといって、わたしを派遣したのです。理解していただけるかどうかわかりませんが、自分はちょっとした人物だと改めて悟りました。さあ、ゆっくりと階段を降りてください。あわてて踏み外すと、体を手で支えられませんからね」
わたしは彼を導いて、最初に案内された部屋に降り、固いパンと一箱の乾燥果実を取り出した。「今はもう、自分がそうだとは思っていませんが」わたしは言葉を続けた。「でも、わたしは――」拷問者≠ニいう言葉が唇まで出かかったが、これは組合の事業をあらわす正確な用語でないと気づいて(そう気づいたのは、この時が最初だと思う)公式の用語を使った。
「〈真理と悔悟の探求者〉として育てられました。われわれはするといったことは必ずするのです」
「わたしには遂行しなければならない義務がある。上の、きみが寝ていた階で」
「残念ながら、義務の遂行は諦めていただかなければなりません」
扉から外に出て、岩だらけの山頂にいく間、彼は黙っていたが、それからいった。「できることなら、きみといっしょにいきたい。この扉の外に歩み出て、決して立ち止まらないで歩くことができればよいと、何度思ったことか」
名誉にかけて誓ってくれれば、すぐにでも束縛を解くつもりだと、わたしはいった。
彼は首を振った。「わたしがきみを裏切ると、考えたほうがよいかもしれないよ」
この意味はわからなかった。
「たぶん、どこかそのへんにヴィーネという女がいる。しかし、きみの世界はきみの世界だ。わたしの存在の可能性が高い時だけ、わたしはそこに存在できるのだ」
わたしはいった。「わたしはあなたの家の中に存在していたのでしょう?」
「そうだ。しかし、それはきみの可能性が完全だったからだ。きみは、わたしの家とわたしがやってきた過去の一部だ。問題は、わたしが、きみの行く未来であるかどうかということだ」
わたしはサルトゥスで会った緑人を思い出した。彼は充分に実体を備えていた。「では、あなたは石鹸の泡のように消え失せるのですか? それとも煙のように吹き飛ばされるのですか?」
「わからない」彼はいった。「自分の身に何が起こるかは知らないし、また、そうなったら、どこにいくのかも知らない。わたしは、いつなんどき存在をやめてもおかしくない。だから、わたしは決して自発的にはここを去らなかったのだ」
わたしは彼の腕をつかんだ。そうすれぽ、たぶん彼を自分のところに留めておけると思ったのだろう。そして、歩きつづけた。わたしはマンネアが描いてくれた地図のとおりに進んだ。
そして、〈最後の家〉はわれわれの後方に、ほかのいかなるものにも劣らず実体的にそびえていた。わたしの心は彼が話し見せてくれたすべてのことを考えるのに忙しかったので、しばらくの間、たぶん二十歩か三十歩の間、視線を回して彼を見ていなかった。タペストリーについて彼がいったことが、ヴァレリアを思い出させた。彼女とわたしがお菓子を食べた部屋に、タペストリーが掛かっていたからだ。また、糸について彼のいったことは、彼女に会う前にわたしが走り抜けた迷路のようなトンネルを思い出させた。わたしはそれらのことを彼に話そうとした。だが、彼は消えていた。わたしの手は何もない空を握っていた。一瞬、〈最後の家〉が氷の海に船のように浮かんでいるように思われた。それから〈家〉は、建っていた黒い山頂に溶けこんでしまった。氷は、最初にわたしがそう思ったもの――つまり、雲海でしかなかった。
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18 フォイラの願い
さらに百ペースほど歩く間は、アッシュ師は完全に消えたわけではなかった。わたしは彼の存在を感じていた。時々は、直接見ようとしなければ、わたしの横を半歩遅れて歩いている彼の姿が見えることすらあった。どうして彼が見えるのか、また、別の不在の中にいながら、なぜある意味で存在しうるのか、わたしにはわからない。われわれの目は、何億何兆もの太陽のようなおびただしい粒子から、質量も電荷もない光子の雨を受け取る――ほとんど目の見えないパリーモン師から、わたしはこのように教わった。これらの光子に叩かれて、われわれは人間が見えると思いこむ。われわれが見ていると信じている人間が、アッシュ師と同様に幻影だということも、時にはあるかもしれない。いや、師の場合以上にそうなのかもしれない。
彼の知恵も、またわたしのそばにあると感じられた。憂欝な知恵ではあったが、実物だった。いつの間にかわたしは、彼がいっしょにくることができればよいのにと願っていた。しかし、それは氷の到来が確実だということを意味するのだ。「わたしは孤独です、アッシュ師匠」わたしはあえて後ろを見ないでいった。「今まで、自分がどんなに孤独であるか、自覚していませんでした。あなたも孤独だと思います。ヴィーネという人はどんな女性ですか?」
おそらくわたしは、たぶん彼の声を想像したにすぎないのだろう。≪最初の女だ≫[#≪≫は《》の置換]
「メシアンヌですか? ああ、彼女なら知っています。彼女はとても美しかったですよ。わたしのメシアンヌはドルカスでした。彼女がいないから、わたしは孤独なのです。しかし、ほかのすべての人がいないからでもあるのです。セクラが自分の一部になった時に、わたしは二度と孤独を感じることはないだろうと思いました。しかし今は、われわれはただ一人の人間であるかのように密着してしまっています。だから、ほかの人々を求めて、孤独に感じるのです。ドルカスや、島の娘のピアや、セヴェリアン坊やや、ドロッテやロッシェを求めて、淋しく思うのです。もしイータがここにいたら、抱きしめてやりたいくらいです。
とりわけ会いたいのは、ヴァレリアです。わたしが会ったもっとも美しい女性となるとジョレンタでしたが、ヴァレリアの顔を思い出すと、心が引き裂かれそうになります。あの時は自覚していませんでしたが、わたしはほんの子供でした。暗闇から這い上がると、〈時の広間《アトリウム》〉という場所に出たのでした。それをぐるりと取り囲むように、塔が――ヴァレリアの家族のたくさんの塔が――そびえていました。〈広間《アトリウム》〉の真ん中にはたくさんの日時計に覆われたオベリスクが立っていました。その影が雪の上に落ちていたのを覚えていますが、あそこには一日に二、三刻しか日光は当たらなかったはずです。いくつもの塔がほとんどずっとあそこに影を落としていたにちがいありません。あなたはわたしより深い理解力をお持ちです、アッシュ師匠――彼らがあれを、どうしてあのように建てたのか、教えてくれませんか?」
岩の間で戯れていた風がわたしのマントをつかんだので、マントは肩からはなれて翻った。わたしはそれをまた体に巻きつけ、フードを引き上げた。「わたしは犬の後をつけていたのです。トリスキールという名前の犬でした。そして、わたしは自分自身に対してさえも、あいつは自分の犬だといいました。わたしには犬を飼う権利はなかったのに。彼を見つけたのは冬の日でした。わたしたちは洗濯をしていました――客人の敷布を洗っていたのです――そしたら下水が布切れと糸屑でつまってしまったのです。わたしが仕事をさぼっていると、ドロッテが、外にいって詰まっている布を突き出せといいました。恐ろしく冷たい風が吹いていました。当時は知らなかったけれど、あれはあなたのいう氷の先触れでした――冬の寒さは年ごとにひどくなっていたのです。そして、下水に詰まったものが抜けると、もちろん汚い水がどっと流れ出て、わたしの手を濡らしました。
ドロッテとロッシュを別にすれば、わたしがいちばん年上だったから、そういう仕事はもっと若い徒弟がするべぎだと、わたしは腹を立てていました。そして、棒で布を突ついていた時に、〈古い中庭〉のむこう側にあの犬が見えたのです。おそらく、前の晩に〈熊の塔〉の住人が個人的な決闘をして、そのために死んだ獣たちを塔の扉の外に投げ出しておいたのでしょう。屍肉を食う動物に食わせるためです。そこには一頭のアルシノイター([#ここから割り注]象のような足と大きな角を持つ、大昔に絶滅した哺乳動物の一種[#ここで割り注終わり])と、一頭の剣歯虎《スミロドン》と、数頭の凶暴な狼の死骸があり、犬の死骸はそれらのいちばん上にのっていました。たぶん彼が最後に死んだのでしょう。傷から判断すると、狼に殺されたようでした。もちろん、彼は実は死んでいませんでした。でも、死んでいるように見えたのです。
わたしは彼のところまで見にいきました――ちょっと作業を中止して、手に息を吹きかけるための口実でした。犬は……そう、これまでに見た死骸と同様に、こわばって、冷たくなっていました。わたしは一度、剣で牛を切り殺したことがありますが、その牛が自分の血の海の中にひっくり返って死んだ時でも、あの時のトリスキールよりもっとずっと生気があるように見えました。とにかく、わたしは手を伸ばして彼の頭を撫でました。それは牛の頭ほどの大きさがありました。そして、彼は耳を切り取られていたので、二つの小さな突起しか残っていませんでした。わたしが触ると、彼は目を開けました。わたしは大急ぎで〈中庭〉を横切って駆け戻り、棒で力いっぱい突き上げました。すると、いっぺんに下水孔が貫通しました。わたしが何をしているかと思って、ドロッテがロッシュを見によこすと困ると思って、慌てていたのです。
あの時のことを回想すると、わたしはすでに〈鉤爪〉を持っていたような感じがします。実際には、あれを手に入れる一年以上も前のことなのに。彼がぎょろりと目をむいてわたしを見上げた時の様子を、なんと表現したらいいでしょう。彼はわたしの心を動かしました。〈鉤爪〉を持っていた時に獣を蘇生させたことは一度もありませんが、考えてみれば、そもそもそんな試みはしなかったのです。獣の中にいた時は、いつも殺すことができればよいと思っていました。なぜなら、食べ物が欲しかったからです。もう今は、食べるために獣を殺すことが当然とは思えなくなってきました。あなたの食糧は――パンとチーズとワインと、それに乾燥果実だけで、肉は含まれていなかったことに気づきました。あなたの時代の人々がどんな世界に住んでいるか知りませんが――あなたの同胞はやはり同じように考えているのですか?」
返事があればよいと思いながら、言葉を切って待ったが、やはりなかった。いまはすべての山頂が太陽の下にさがっていた。もはや、アッシュ師の希薄な存在がわたしの後をつけているか、あるいは、後をつけているのはわたしの影だけなのか、よくわからなかった。
わたしはいった。「〈鉤爪〉を手に入れると、それが人間の行為によって死んだ者を蘇生させることはないと知りました。もっとも、わたしが手首を切断した猿人は治ったように思います。ドルカスは、それはわたし自身がやったことだからだと考えました。わたしにはわかりません――〈鉤爪〉そのものが、自分を持っているのはだれか知っていたとは決して思いませんが、もしかしたら知っていたのかもしれませんね」
一つの声――アッシュ師のではなくて、今までに一度も聞いたことのない声――が、呼びかけた。「新年おめでとう!」
目を上げると、約四十ペースほど離れたところに、〈絶対の家〉に通じる緑の道でヘトールのノトゥールに殺されたあの槍騎兵のような人物が見えた。わたしはどうしてよいかわからなかったので、手を振って叫んだ。「では、今日は元日なのかね?」
彼は軍馬に拍車を当てて、ギャロップで近寄ってきた。「夏至の日だ。新年の始まりだ。われらの独裁者のための輝かしい年だ」
わたしはジョレンタがひどく気に入っていた決まり文句のいくつかを思い出そうとした。
「彼の心は臣民のお社《やしろ》」
「よくいった! おれの名はイバール。第七十八|騎兵隊《クセナギー》の者だ。夕方まで道路をパトロールしている。貧乏籤を引いちまったよ」
「この道を歩くのは合法だろうな?」
「完全に。だが、むろん身分を証明できる場合にかぎる」
「ああ」わたしはいった。「それは当然だ」わたしは、マンネアが書いてくれた旅券のことを忘れかけていた。今、それを取り出して、彼に渡した。
〈最後の家〉にいく途中に誰何《すいか》された時には、相手の兵士は必ず文字が読めるものと確信していた。しかし兵士は二度とも羊皮紙をさかしげに見つめはしたが、彼らの目に入ったのは、教団の印形と、マンネアの規則的で威勢はよいが、いっぷう変わった筆跡だけだといってもよかった。ところが、この槍騎兵は疑問の余地なく文字が読めた。彼の目が文字の行にそって動くのが見え、また、その動きがちょっと停止したのは、名誉ある埋葬≠フ部分だろうと推測することすらできた。
彼は注意深く羊皮紙を折り畳んだが、あいかわらず手に持ったままだった。「そうか、ペルリーヌ尼僧団の奉仕者なのか」
「ああ、その名誉を担っている」
「では、お祈りをしていたんだな。きみを見かけた時、ひとり言をいっているのかと思ったよ。おれは宗教がかったたわごとには賛成できない。手近には騎兵連隊旗があり、遠方には独裁者がいる。おれにとって崇敬と神秘の対象は、それだけで充分だ。しかし、あの人たちは善い女たちだと聞いている」
わたしはうなずいた。「そう信じている――たぶんきみよりも、もう少し強くね。とにかく、実際に善い女性たちだよ」
「そして、彼女たちのために使いに出たんだな。何日前のことかね?」
「三日前」
「メディア・パルスの避病院に帰るところなのか?」
それでわたしはまたうなずいた。「日が暮れないうちに着けばよいと思っている」
彼は首を振った。「無理だ。のんびりいけよ。これが忠告だ」かれは羊皮紙を差し出した。
わたしはそれを受け取って|図 嚢《サパタッシュ》に戻した。「道連れがいたんだが、離れ離れになってしまった。ひょっとして、きみ、その人を見かけなかったかな?」わたしはアッシュ師の人相風体を説明した。
槍騎兵は首を振った。「その人が通るかどうか気をつけていて、出会ったら、きみがどちらにいったか知らせてやろう。さて――質問に答えてくれないか? 公式のものじゃないから、いやならいやといってくれ」
「答えられれば、答えよう」
「ペルリーヌ尼僧団を去ったら、何をするつもりかね?」
わたしはちょっとびっくりした。「おや、あそこを去る気はぜんぜんないよ。いつかは去るだろうがね」
「では、軽騎兵を心の隅に入れておけよ。きみは腕が立ちそうだ。そういう人はいつでも歓迎する。寿命は歩兵の半分ぐらいだが、楽しみは倍あるぜ」
彼は馬を促して進んでいってしまった。取り残されたわたしは、彼のいったことを考えた。彼が野宿をしろといったのは、疑いなく真面目だった。しかし、その真剣さのゆえに、いっそう気が急いた。幸運にもわたしは天から長い足を授かっているので、早く歩く必要がある場合には、普通の人が小走りに走るくらいの早さで歩くことができる。そこで、アッシュ師のことと、自分自身のつらい過去のことを忘れて、その足を使った。もしかしたらアッシュ師の希薄な存在みたいなものが、まだわたしと同道していたのかもしれない。今でもまだ、そうかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、わたしにはわからなかったし、今も依然としてわからないままである。
あの死んでいた兵士とわたしが一週間とちょっと前に歩いた、あの細い道にさしかかった時には、ウールスはまだその顔を太陽からそむけていなかった。その道の土の上にまだ血の跡があったが、それは以前に見たものよりもずっと分量が多かった。わたしは槍騎兵のいったことから、ペルリーヌ尼僧団がなんらかの犯罪で責められているのではないかと恐れていた。今、これは負傷兵の大軍が避病院に連れてこられたからにすぎないと確信し、あの槍騎兵はわたしが彼らの看護に取りかかる前に、ひと晩休息をとるべきだと考えたのだとわかった。そう思うと、気分がとても楽になった。傷病兵であふれていれば、わたしは技能を発揮する機会を得ることになり、また、わたしが教団に身売りをしたいと申し出れば、マンネアが受け入れてくれる可能性がずっと増えることになる。それは、〈最後の家〉での失敗を説明する物語をでっち上げさえしたらの話だけれども。
しかしながら、道の最後の湾曲部を回った時、見えたのは完全に別のものだった。
避病院があった場所の地面は、まるで狂人の大軍によって徹底的に掘り返されたようになっており――底のほうはすでに浅く水の溜まった小さな池になっていて、その周囲を砕けた樹木が取り巻いていた。
わたしは暗くなるまで、友人のなんらかの痕跡や、〈鉤爪〉を納めた祭壇の痕跡を探し求めて、そこを行きつ戻りつ歩いた。すると、人間の手が見つかった。手首からちぎれた男の手だった。それはメリトのものとも、アスキア入のものとも、ウィノックのものともわからなかった。
その夜わたしは道端で寝た。朝になると探索を始めた。そして、目暮れ前に生存者のいる場所を見つけた。もとの場所から数リーグ離れたところだった。わたしは粗末な寝台から寝台へと回って歩いた。だが、多くの者は意識がなく、頭に大きな包帯を巻いていたので、だれがだれやらまったくわからなかった。彼らの中に、アヴァやマンネアや、わたしのベッドの横に腰掛けを持ってきたあの尼僧が混じっていたかもしれなかったが、そこで彼女たちを見つけることはできなかった。
識別できた唯一の女性はフォイラだった。それも、わたしが負傷者や死者の間を歩いていると、彼女が気づいて、「セヴェリアン!」と呼んだからこそ、わかったのである。わたしは彼女のところにいって質問しようとした。だが、彼女はひどく弱っていて、ほとんど口がきけなかった。警告なしに攻撃が始まって、落雷のように避病院を粉砕したのだった。彼女の記憶はすべてその直後からのもので、悲鳴が聞こえてもなかなか救助がやってこなかったこととか、医療のことをほとんど知らない兵士によって引きずられていったことなどであった。わたしは彼女にできるかぎりのキスをしてやり、また見舞いにくると約束した――ふたりとも、それが守ることのできない約束だと、知っていたと思う。彼女はいった。「みんなで物語をした時のことを覚えている? わたし、あれを思い出したわ」
そうだろうともと、わたしはいった。
「ここに運ばれてくる途中に、よ。メリトやハルヴァードや、そのほかの人は死んだと思うわ。だから、セヴェリアン、あれを覚えているのはあんた一人になるわ」
いつまでも覚えているよと、わたしはいった。
「ほかの人たちに物語をしてやってほしいの。冬の夜とか、何もすることがない夜にね。あの時のみんなの話を覚えている?」
「≪わたしの国は地平線が遠く、空の広いところです≫[#≪≫は《》の置換]」
「そうよ」彼女はそういって、眠った。
わたしが守った二つめの約束。まず、すべての物語を茶色の本の最後の空白の頁に書き写し、それから、ここに、あの長い暖かな午後に聞いたとおりに書き記したこと。
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19 グアザヒト
それから二日間、わたしはさまよっていた。その間には、ほとんどいうべきことがないので、ここではあまり詳しく触れないことにする。たぶん、いくつもの連隊に入隊する機会はあっただろうが、意志が固まっていなかった。むしろ〈最後の家〉に戻りたかった。しかし、万一あそこでふたたびアッシュ師に会うことができたとしても、彼の前にわが身を投げ出して、その慈悲にすがることはプライドが許さなかった。スラックスの警士《リクトル》の地位になら喜んで復帰するのに、と心の中で考えた。しかし、たとえそれが可能であったとしても、それを実行したかどうかわからない。わたしは木の生えた場所で獣のように眠り、手に入るものを食べたが、食べられるものはほとんどなかった。
三日めに、錆びた青龍刀が落ちているのを見つけた。どうやら、去年の戦闘で使われたものらしかった。わたしは小さな油の瓶と割れた砥石を取り出して(この両方とも、テルミヌス・エストの残骸を水中に投げこんだ後、その柄とともにずっと持って歩いていたのである)青龍刀を清掃したり研いだりして楽しい一刻をすごした。それがすむと、またとぼとぼと進んでいった。それからまもなく道路に出た。
今はマンネアの旅券の効力が根こそぎなくなってしまったので、アッシュ師の家からの帰途よりも、姿を人目にさらすことにずっと慎重になっていた。しかし、〈鉤爪〉が蘇らせたあの死んでいた兵士――彼の一部がジョナスだということは知っていたが、自分ではミレスと名乗っていた――が、今はおそらくどこかの連隊に入っているだろうと思われた。もしそうなら、そして実際に戦闘に参加していないとすれば、この近くの路上か兵営にいることだろう。わたしは彼と話をしたいと思った。ドルカスと同様に、彼は死者の国で一時休んでいた経験がある。ドルカスのほうが向こうに住んでいた期間が長い。しかし、あまり時間がたって彼の記憶が消えないうちに、彼に質問することができれば――たとえ彼女を取り戻すことはできないとしても――少なくとも彼女の喪失を諦めるのに役立つ、なんらかの知識を得られるかもしれないと思うのである。
野越え山越えしてスラックスまで歩いていった時にはまったく感じなかったような愛を、今は彼女に対して感じていることがわかる。あの頃は、わたしの思考はセクラのことでいっぱいだった。わたしは絶えず彼女を求めて、自分の内部に手を差しこんでいたのだった。今では、彼女があまりにも長い間わたしの一部になっているので、まるで、どんな結合《カプリング》よりも強い究極の抱擁の中に彼女を把握しているように思われる――いや、むしろ、男性の種が女体に貫入して(アペイロン〔[#ここから割り注]世界の根源に実在する、なんらの規定も持たぬ無限者[#ここで割り注終わり]〕の意志がそこにあれば)新しい人間を産み出すように、わたしの意志によってわたしの口に入った彼女は、一個の新しい人間を確立することになるセヴェリアンと結合したのである――自分をまだセヴェリアンと呼ぶことができるが、同時に、いわばみずからの二重の根源を意識しているわたしと。
ミレス・ジョナスから、わたしの求めていることが聞き出せたかどうかわからない。実は、あの日から今日まで彼を捜し出そうとずっと努力しているのだけれど、見つけ出すことができずにいるのだ。その日の午後のなかばには木々の折れている地帯に入っていた。時々死体を見かけたが、腐敗の程度はかなりすすんでいた。最初、わたしはそれらの死体の持ち物を奪おうとした。だが、わたしより先にきた者がいたようだ。さらに実際夜間に狐がやってきて、その鋭い小さな歯で肉を囓ったあとがあった。
少し後に、体力が衰えはじめると、わたしはくすぶっている空の補給車の残骸のところでひと休みした。補給車を牽いていた獣は、死んでからさほど時間がたっていない様子で路上に倒れており、御者はその間にうつ伏せに投げ出されていた。それを見て、ふと思った。死骸からほしいだけの肉を切り取って、どこか人目につかないところにいって火を起こしても、それほど悪いことではなかろう。そして、倒れている獣の腰に青龍刀の先を突き刺した時、蹄の音が聞こえてきた。騎馬急使の乗った軍馬の蹄の音かと思い、やりすごそうとして道の端にどいた。
だが、やってきたのは、背の高い酷使された馬に乗った、小柄で太った精力的な顔つきの男だった。その男はわたしを見ると手綱を引いた。だがその表情から、逃げる必要も闘う必要もなさそうだということがわかった。(もし、必要があったとすれば、それは闘う≠アとだったろう。しかし、たとえ闘うことになっても、切り株や、倒木の間では、彼の馬はほとんど役立たなかったろうし、彼が袖無し鎖帷子を着て、真鍮の輪のはまったもみ革の帽子をかぶっていても、わたしは充分に彼に勝つことができると思った)
「だれだ?」彼は呼びかけた。わたしが名乗ると、彼はいった。「ネッソスのセヴェリアンだって? では文明人、いや、半文明人だな。それにしても、食物に事欠いている様子だな」
「とんでもない」わたしはいった。「昔にくらべれば、最近はよく食べている」体力が衰えていると思われたくなかったのだ。
「それにしても、もう少し食ってもよいだろう――その剣についているのはアスキア人の血ではないな? きみはスキアヴォーニ([#ここから割り注]本来は剣の一種。昔、ベニス総督の衛兵が持っていた[#ここで割り注終わり])か? 不正規兵か?」
「最近のおれの生活は、たしかに不正規だよ」
「しかし、どの組織にも付属していないのか?」彼はびっくりするほど機敏に、ひらりと馬の鞍から飛び降り、手綱を地面に投げ出して、大股に近寄ってきた。脚はちょっとがに股で、顔はちょうど粘土で型取って窯で焼く前に上下から押しつぶしたとでもいうように、額と顎が浅く、横に広がっていて、目が細く、口が大きかった。それでもわたしは、彼の元気の良さと、そして、不正直さを少しも隠す努力をしていないところが、いっぺんに気に入った。
わたしはいった。「なんの組織にも、だれにも付属していない――思い出は別だがね」
「ああ!」彼はため息をつき、一瞬、目玉を上に向けた。「わかる――わかる。それぞれ、みんな苦労しているんだ。女かね、それとも法律かね?」
これまで自分の困難をその角度から観察したことはなかった。しかし、しばらく考えたあげく、その両方だと認めた。
「では、きみはどんぴしゃりの場所で、どんぴしゃりの人間に出会ったぞ。今夜、御馳走を食べて、大勢の新しい友人と過ごして、明日は持ちきれないほどのオリカルクを手に入れる、というのはどうかね? よさそうだ? よろしい!」
彼は馬のところに戻った。そして、剣土の剣先のようにすばやく手を突き出して、馬がいやがって顔を背ける前に轡をつかんだ。それから手綱を持って、降りた時と同様に巧みに鞍に飛び乗った。
「さあ、後ろに乗れよ」彼は呼んだ。「遠くはないし、この馬は二人ぐらい乗ってもへいちゃらだ」
わたしは彼のいうとおりにした。もっとも、あぶみ[#「あぶみ」に傍点]の助けがなかったので、かなり苦労した。わたしがまたがった瞬間に、馬はブッシュマスター([#ここから割り注]巨大な毒蛇[#ここで割り注終わり])のようにわたしの足に噛みつこうとした。だが、この動きを明らかに予想していた主人は、短剣の真鍮の柄頭でいやというほど殴りつけ、馬はよろめいて倒れそうになった。
「心配するな」彼はいった。彼は首が短くて肩越しに振り返ることができないので、わたしに話しかけていることをはっきりさせるために、口の左端から言葉を発した。「こいつは立派な獣で、勇気のある闘士だ。自分の価値をちょっときみにわからせようとしただけさ。一種の入門式《イニシエーション》だ。入門式《イニシエーション》という言葉は知っているだろう?」
その言葉ならよく知っているつもりだと、わたしはいった。
「所属する価値のある会にはみんなそれがある。今にわかる――おれはもう自分で体験したがね。すべて、勇気のある小僧なら耐えることができ、後で笑えるようなものばかりだ」
その謎めいた激励の言葉とともに、彼は巨大な拍車を、内臓を掻き出そうとでもするように、立派な愛馬の横腹に突き立てた。こうして、われわれは後ろにもうもうたる砂塵を巻き上げて、道路を飛ぶように走っていった。
無知なわたしは、ヴォダルスの|軍 馬《チャージャー》に乗ってサルトゥスを出て以来、すべての騎乗獣は、血統が良くて足が早いものと血統が悪くてのろいものの二種類に分けられると思っていた。良いものは、ほとんど狩猟猫のように優雅にらくらくと走り、悪いものはのろのろと走るので、走る姿などはほとんど問題にもならないと。セクラの家庭教師の一人の格言に、真偽二価を持つすぺての体系は誤りである、というのがあった。わたしは今この馬にまたがって、その家庭教師への敬意を新たにした。この慈善家の馬は第三のクラス(この時以来このクラスはかなり広範なものだとわかった)、つまり、スピードは鳥が飛ぶよりも早いが、まるで、鉄の脚で石の道路の上を駆けるような走り方をする獣からなるクラスに属していたのだ。男性は女性と較べて数えきれない長所を持っており、そのために正当にも女性を保護する責任を与えられているが、女性にも男性に自慢できる大きな長所が一つある。それは、自分の骨盤と疾走する獣の背骨にはさまれて自分の生殖器を押しつぶす女は一人もいないということである。手綱を引いて停止する前に、わたしにとってこれ[#「これ」に傍点]が二、三十回起こり、やっと馬の尻から滑り降りて、蹴られるのを避けるために横に飛び退いた時には、わたしは決して上機嫌とはいえない気分になっていた。
止まったところは、丘の間に時々見かける直径百|複歩《ストライド》ほどの、そこそこたいらな荒地だった。
その中心に、小屋ほどの大きさのテントが張られていて、その前に色槌せた黒と緑の旗が翻っていた。野原全体に何十頭もの脚を縛られた馬が思い思いに草を食んでいた。そして、同じくらいの人数の粗末な身なりの男たちに粗野な女たちがちらほら混じって、のんびりと鎧を磨いたり、眠ったり、博打をしたりしていた。
「おい、みんな」わたしの慈善家は馬からわたしの横に下り立って、叫んだ。「新人がきたぞ!」そして、わたしを指さして、「ネッソスのセヴェリアンだ。この連中は槍騎兵《コンタリアイ》不正規軍・第十八|部隊《パチェーレ》。少しでも金になる場合には、不屈の勇気を発揮する、一騎当千のつわものばかりだ」
ぼろを着た男女が立ち上がって、ぞろぞろとこちらにやってきた。彼らの多くはあからさまに、にやにや笑いを浮かべていた。その先頭に一人の非常に痩せた背の高い男がいた。
「同志諸君、ネッソスのセヴェリアンを紹介する!
セヴェリアン」慈善家は続けた。「おれはきみの傭兵隊長だ。グアザヒトと呼んでくれ。ここの、きみよりも背のずっと高い釣竿は、副官のエルブロンだ。ほかの連中はきっと自己紹介をするだろう。
エルブロン、きみに話がある。明日はパトロールだ」彼は背の高い男の腕をつかんで、テントの中に引き入れた。わたしは大勢の騎兵たちの輪の中に取り残された。
もっとも大柄な男の一人で、身長がほとんどわたしと同じくらい、体重が少なくとも二倍はありそうな熊のような男が、青龍刀を指さした。「そいつの鞘はないのか? ちょっと見せてくれ」
わたしは文句をいわずに青龍刀を差し出した。次の瞬間に何が起こるにしても、殺人の場面だけはないと確信していた。
「じゃ、おまえ騎手なんだな?」
「いや」わたしはいった。「少しは馬に乗るが、専門家とは思っていない」
「しかし、馬の扱い方は心得ているだろう?」
「男や女の扱いのほうが得意だな」
みんな吹き出した。大男はいった。「よし、それでけっこう。おまえが馬に乗るのは、それほど多くないだろう。だが、女どもと――そして軍馬の――知識が豊富にあることは、助けになるぜ」
彼が喋っている間に、蹄の音が聞こえてきた。二人の男が、一頭の白と黒の駁毛《ぶちげ》の馬を引いてやってきた。筋骨逞しく、荒々しい目つきの獣だった。ついている手綱は左右に別れていて、長く伸ばしてあり、獣の頭の両側に、人間が三ペースほど離れて立つことができるようになっていた。鞍の上には、狐色の髪の、笑顔をうかべたあばずれ女が乗り、手綱を握るかわりに、両手に一本ずつ鞭を持っていた。騎兵とその女たちが拍手喝采した。その音に驚いて、駁毛の馬は龍巻のように後肢で立ち上がり、前肢に三本ずつ生えている角質の突起を見せて空中を掻いた――それはいちおう蹄と呼ばれているが、実際は、芝土を把握するにも、戦闘をするにも、ほとんど変わりなく適応する鉤爪だった。その牽制動作は目にもとまらぬスピードだった。
大男はわたしの背中をぴしゃりと叩いた。「最高の獣とはいえんが、これで充分だ。おれが自分で調教した。これから、あそこのメスロッブとラクタンがおまえに手綱を渡すから、おまえはこいつの背に乗りさえすればいい。もし、ダリアを突き落とさずにそれができたら、おれたちがおまえを追い詰めるまで、彼女を自由にしていいぞ」彼は声をあげた。「よし、放せ!」
わたしは二人の男が手綱を渡してくれるものとばかり思っていた。ところが、彼らはそれをわたしの顔めがけて投げつけた。わたしはあわててそれをひっつかもうとしたが、二本ともつかみそこねた。だれかが、後ろから駁毛を棒で突いた。そして、大男は奇妙なつんざくような音の口笛を吹いた。その駁毛の馬は〈熊の塔〉の軍馬のように、格闘を教えこまれていた。そして、長い歯は金属で延長されてはいなかったが、自然に伸ばされて、口からナイフのように突き出ていた。
わたしは閃光のようにひらめく前肢を避けて、端綱をつかもうとした。片方の鞭で顔を横ざまにしたたかに打たれた。そして駁毛の突進によってわたしは打ち倒された。
騎兵たちが馬を引き戻したにちがいない。さもなければ、わたしはくしゃくしゃに踏みつけられたことだろう。もしかしたら、彼らはわたしを助け起こしてくれさえしたかもしれない――確信は持てないが。喉には砂塵がつまり、額から出た血が目に滴り落ちた。
今度は、わたしは蹄の届かない距離を保ちながら右に円を描いてまわっていき、彼を捕まえようとした。だが、彼はわたしよりすばやく向きを変えた。ダリアという女は、わたしを打ち倒そうとして、こちらの顔の前で両方の鞭の柔らかい部分をびしりと鳴らした。はからずもわたしは、怒りにまかせて、その一本をつかんでいた。鞭の柄の革紐は彼女の手首に巻きつけてある。鞭の先をぐいと引くと、彼女はそれに引っぱられてわたしの腕の中に倒れこんできた。彼女はわたしの耳を噛んだ。だが、わたしは彼女の首ねっこをつかみ、ぐるりと向きを変え、指を片方の固い尻の下に差しこみ、体を持ち上げた。彼女の宙を蹴る足が駁毛を驚かせたらしい。わたしが観衆の中に馬を後退させると、いじめ役の一人が彼の尻を突いてわたしのほうに進ませた。その時、わたしは手綱を足で押さえた。
それからあとは簡単だった。わたしは女の体から手を放し、馬の端綱をつかみ、その首をねじり、暴れる客人を制圧するために教わったように、体の下から前肢を蹴った。馬はかん高い悲鳴をあげてひれ伏した。奴が足を体の下に入れないうちに、わたしは鞍にまたがり、そこから長い手綱で横腹をひっぱたいた。馬は稲妻のように群衆の中を駆け抜けた。わたしはその向きを変え、ふたたび群衆の中に突っこませた。
物心ついて以来わたしは、この種の闘いの興奮について聞かされてきたが、自分で経験したことは一度もなかった。今、すべてが間違いなく真実だとわかった。隊員とその女たちは喚声をあげて逃げまどい、剣を振り回している者も少しはいた。しかし彼らの反応は、われわれを撃退するよりもむしろ雷雨を撃退するほうにむいていたかもしれない――わたしはひと跳びで半ダースもの人間をなぎ倒した。逃げる女の赤い頭髪が旗印のように流れた。だが、いかなる 人間の足もこの駿馬の足に優りはしなかった。われわれは彼女の横を駆け抜けざま、手を伸ばしてその炎のような旗印をひっつかみ、彼女をわたしの前に放り上げた。
曲がりくねった踏み跡をたどっていくと暗い峡谷に入った。なおも進むと、また別の峡谷に続いていた。われわれの前を鹿が逃げまどった。三回跳躍すると、天鵞絨のような毛並みの雄鹿に追いつき、そいつを路外に押しのけた。スラックスの警士をしていた頃、折衷人《エクレクテイクス》たちはしばしば獲物を追い、馬から飛び降りて刺し殺すという話を聞いたことがある。今は、そういった話も信じられる――わたしだって肉切りナイフで雄鹿の喉を切ることができたろう。
われわれはその雄鹿を後に残し、丘のてっぺんに登り、それを猛烈な勢いで駆け降りて、木の生えた静かな谷間に入った。駁毛が走り疲れると、わたしは彼に木々の間を勝手に歩かせた。ここの木々は、サルトゥスを出て以来もっとも太いものだった。そして、彼が立ち止まって、木々の根元に生えているまばらな柔らかい草を食べはじめると、わたしはグアザヒトがやったように手綱を地面に放り出した。それから馬の背から降りて、赤毛の女が降りるのを手伝った。
「ありがと」彼女はいった。それから、「やったわね。あんたにできるとは思わなかったわ」
「さもなければ、この役目を引き受げはしなかった、というわけかい? 彼らがきみに押しつけたと思っていたよ」
「あんたに鞭でそんな傷を負わせるんじゃなかったわ。今、お返しをしたいと思っているんじゃない? たぶん、手綱でね」
「どうして、そんなことを考えるんだ?」わたしは疲れていたので、腰を降ろした。草の中に、一つずつの花が水滴よりも小さい、黄色い花が咲いていた。二つ三つ摘んで、匂いを嗅ぐと、伽羅の香りがした。
「あんた、わたしのタイプらしいわ。それに、わたしをさかさまにして運んできたでしょう。男がそうするのは、きまってその尻を叩きたいときよ」
「ちっとも知らなかった。そいつは面白い考えだな」
「いろいろ持っているわ――その手の考えならね」すばやく、そして優雅に、彼女はわたしのそばに坐り、わたしの膝に手を置いた。「あのねえ、あれは人の真似をしただけなのよ。ものには順番があるでしょ。あの時はわたしの番で、あんたを叩くことになっていたの。今はもう終わったのよ」
「わかった」
「じゃ、わたしを痛めつける気はないのね? まあうれしい。ねえ、ここで楽しく過ごそうよ。なんでもあんたのしたいことを、したいだけして、食事の時間になるまで帰らないことにしようよ」
「痛めつけないとはいわなかったぞ」
無理に笑いを浮かべていた彼女の顔が、うつむいた。彼女は地面を見つめた。逃げたらどうだ、とわたしはいった。
「そうすれば、よけいにあんたを面白がらせるだけよ。そして、わたしをよけいに痛めつけなければ、あんたはやめなくなるわ」彼女が喋っている間に、その手はわたしの股を這い上がってきた。「あんた男前ね。それに背がとても高いし」彼女は坐ったまま頭を下げ、顔をわたしの膝に押しつけ、欲望をくすぐるようなキスをした。それから、さっと体を起こした。「楽しくやれるだろうに。ほんとうにね」
「あるいは、自殺することもできる。ナイフは持っているか?」
一瞬、彼女の口が完全な小さい円になった。「頭、狂ってるんじゃない? 最初から気づくべきだったわ」彼女はぴょんと立ち上がった。
わたしはその足首をつかみ、彼女を柔らかい森林の地面に引き倒した。彼女のシフトドレスは着古してしょう[#「しょう」に傍点]がなくなっており――ひと引きで、ぱらりと脱落した。「逃げないといったぞ」
彼女は肩ごしに大きな目でわたしを見た。
わたしはいった。「おまえにおれを支配する力はない。おまえも、ほかの連中もだ。おれは決して苦痛を恐れない。死も恐れない。おれが欲する生きた女性は一人しかいない。そして、おれは自分以外のだれも支配したいとは思わないんだ」
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20 パトロール
われわれの陣地の外辺部は、直径二、三百ペース足らずだった。敵の大部分はナイフと斧しか持っていなかった――彼らの斧とぼろぼろの衣服は、故郷の共同墓地でわたしがヴォダルスを助けて戦った、あの民兵を思い出させた――しかし、彼らはすでに何百人も集まっており、さらに大勢が到着しつつあった。
不正規兵たちは馬に鞍を置き、夜明け前に宿営地を出た。影はまだ長かった。流動的な前線に沿ったある場所で、斥候が北に向かう大型馬車の深い轍を見つけてグアザヒトに報告した。われわれはそれを三刻にわたって追跡した。
その馬車はアスキア人に分捕られたものだった。それを襲撃したアスキア人はよく戦い、南に向かってわれわれを驚かせ、それから西に転じ、また北に転じて、まるで蛇がのたくるように移動した。しかし、われわれの砲火と、銃眼から射ってくる車内の衛兵の砲火との間に捕えられて、つねに死者を残していった。そして、アスキア人がもはや逃げられなくなり、戦闘はもう終わりだという頃になって、われわれは初めて別の追跡者の存在に気づいた。
正午までに、その小さい谷間は包囲された。きらめく鋼鉄の車は車軸まで泥に埋まり、死んだ捕虜や瀕死の捕虜を載せたまま、立ち往生した。われわれが捕えたアスキア人の捕虜はその前にうずくまり、味方の負傷者が監視についた。アスキア人の将校はわれわれの言語を喋った。一刻ほど前にグアザヒトが、馬車を動くようにせよとその将校に命じたのだが、失敗したので、かなりの人数のアスキア人が射殺されたのだった。三十人ほどが、ほとんど裸で、疲れて、虚ろな目をして残っていた。彼らの武器は、少し離れた場所に繋がれたわれわれの馬のそばに積み上げられていた。
今、グアザヒトは巡視をしている。見ていると、彼はわたしの隣の隊員が隠れている木の切り株のところで足を止めた。敵の一人が斜面の少し上の藪の中から頭を出した。わたしの竿《コントウス》が一筋の炎を吹き、そいつを仕とめた。女兵士だった。彼女は反射作用で跳ね上がり、次の瞬間、キャンプファイアーの石炭の中に投げ込まれた蜘蛛のように体を丸めた。赤いスカーフの下の彼女の顔は蒼白だった。そして、突然、わたしは気づいた――彼女は無理やりに顔を上げさせられたのだと。あの藪の陰に、彼女を好まないやつか、少なくとも彼女を評価しないやつがいて、彼女に無理やりに頭を出させたのだと。わたしはまた射ち、その緑のくさむらを閃光で切りつけた。刺激臭のある一陣の煙が、女兵士の幽霊のようにこちらに流れてきた。
「チャージを無駄にするな」グアザヒトがすぐそばでいった。彼は恐怖のためではなく単に習慣で、わたしの横にぱっと身を伏せたのだと思う。
一刻に六回発射したら、日暮れ前にチャージは消耗してしまうかと、わたしは尋ねた。
彼は肩をすくめ、それから首を振った。
「太陽の位置で判断できたかぎりでは、おれはその割合でこれを発射してきた。そして夜になったら……」
わたしは彼を見た。だが、彼はまた肩をすくめただけだった。
「夜になったら」わたしは続けた。「敵が数歩先にくるまで姿は見えない。だから、おれたちはある程度でたらめに射って、二、三十人は殺すだろう。それから後は剣を抜いて背中合わせに立つことになる。そうなったら、殺されるのはこちらの番だぞ」
彼はいった。「そうなる前に援軍がくるさ」わたしが信じないのを見てとると、彼はぺっと唾を吐いた。「あんないまいましい車両の轍なんか見つけなけりゃよかったんだ。聞かなけりゃよかったんだ」
今度はわたしが肩をすくめる番だった。「あれはアスキア人にくれてやって、われわれは脱出しようじゃないか」
「あれは絶対に金だぞ! われわれの隊員に払う金貨なんだ。あんなに重いのはそれしかない」
「鎧兜だって、けっこうな重さだぜ」
「あれほどじゃない。この種の大型馬車は前にも見たことがある。ネッソスか、あるいは〈絶対の家〉からの黄金なんだ。それにしても、乗っているやつらときたら――これまでに、あんな生き物、見たことあるか?」
「おれは見たよ」
グアザヒトはわたしをじっと見つめた。
「ネッソスの〈壁〉の〈憐れみの門〉から出てきた時に見た。彼らは類人獣だ。われわれの軍馬を昔の道路エンジンよりも早いものに作り変えたのと同じ、失われた技術が考案したものだ」彼らについてジョナスから教わったことをもっと思い出そうとして、結局、わたしはむしろ弱々しく次のように言いおえた。「独裁者は人間には辛すぎる労働や、人間には安心して任せられない仕事をさせるために、彼らを雇っているんだ」
「その意見は充分に筋が通っている。あの連中なら、銭を盗むのは不得意だろう。あいつら、どこにいくのかな? おい、おれはおまえに目をつけているんだぞ」
「わかってる」わたしはいった。「そう感じていた」
「いいか、おまえに目をつけているんだぞ。特におまえがその駁毛を、調教した本人にむかって突っ走らせて以来だ。このオリサイアでは、強い男や勇敢な男はおおぜい見かける――たいてい、そいつらの死骸につまずいて、目にとまるんだ。また、利口なやつもたくさん見かけるが、二十人中十九人は利口すぎて、本人を含めて誰の役にも立たない。価値があるのは、一種の力を持っている男なんだ。女の場合もある。それは、自分の言うことを、他人にやりたいと思わせるような力なんだ。自慢するわけではないが、おれにはそれがある。おまえにもそれがあるぞ」
「今までのおれの人生では、その力が圧倒的に表われた事例はないぜ」
「それを引き出すには、時として戦争が必要なのさ。それが戦争の利点の一つだ。そして、戦争の利点は多くはないから、実在する利点は尊重しなければならない。セヴェリアン、おまえあの馬車のところにいって、あの類人獣どもと交渉してくれ。おまえはあいつらのことをある程度知っているといった。あいつらを出てこさせて、おれたちの戦闘の手伝いをさせてもらいたいんだ。つきつめればおれたちはともに、同じ立場にいるんだからな」
わたしはうなずいた。「それに、もしあのドアを開けさせることができれば、おれたちはあの金を山分けできる。それに、味方の何人かは逃げるかもしれないしな」
グアザヒトはいやな顔をして首を振った。「たった今、利口すぎるやつのことをなんといった? もしおまえが本当に利口だったら、あの言葉を聞き流しはしなかったろうに。だめだ、そんなことはしない。たとえ車内に三、四匹しかいなくても、説得してくれ。戦士は一人でも貴重なんだ。それに少なくとも、彼らの姿を見れば、そのへんの略奪者《フリーブーター》どもが脅えて逃げるかもしれない。その| 竿 《コントウス》をこちらによこせ。おまえが戻ってくるまで、この位置を守っていてやる」
わたしはその細長い武器を彼に渡した。「ところで、そのへんの連中とはなんだ?」
「あの連中かい? 非戦闘従軍者。従軍商人や淫売――男も女もいる。脱走兵。独裁者や将軍などがしょっちゅう狩り集めて作業をさせるが、すぐにずらかってしまう。とんずらがやつらの特技さ。あんな連中は抹殺すべきだ」
「あんたの権限で、車の中の捕虜と取り引きすればいいんだな? 掩護してくれるだろうな?」
「あいつらは捕虜じゃない――いや、そうだ、そういっていいだろう。おれのいったことを彼らに伝えて、できるだけうまい取り引きをしてくれ。掩護するから」
彼が本気かどうか判断しようとして、わたしはしばらく彼を見つめていた。たいていの中年の男と同じように、男の顔には、彼が将来そうなる老人の表情が表われていた。気難しくて猥褻で、最後の小戦闘の際に口にするであろう反対意見や不満を、今からつぶやいている老人の表情が。
「約束する。さあ、いけ」
「よし」わたしは立ち上がった。その装甲車は、むかし〈城塞〉の中のわれわれの塔に重要な客人を運んできた輸送車と酷似していた。窓は小さくて、格子がはまっており、後ろの車輪は人間の背丈ほどある。滑らかな鋼鉄の側面は、さっきグアザヒトに話したあの失われた技術をうかがわせた。そして、中に乗っている類人獣はわれわれよりも優秀な武器を持っているとわかった。わたしが武器を持っていないことを示すために両手を差し出して、できるだけ落ち着いて近寄っていくと、ついに一つの窓格予に一つの顔が覗いた。
このような生き物の話を聞くと、人は獣と人間の中間の安定した生物を想像するが、実際に見ると――今わたしはこの類人獣を見、また、サルトゥスの近くの鉱山で猿人を見たのだが――実物はそういうものとは全然違う。できるだけうまい喩えとして、風に吹かれる白樺のそよぎ、とでもいっておこうか、ある瞬間にはそれは普通の木に見える。次の瞬間に、葉の下側が見えると、それは超自然の創造物のように見える。類人獣についても同じことがいえる。最初わたしは、マスチフ犬が格子の間からこちらを覗いたのかと思った。次に、むしろ気高いまでに醜い、黄褐色の顔の、琥珀色の目の人間に見えた。わたしはトリスキールを思い出して、相手が臭いを嗅ぐことができるように、格子のところに手を上げた。
「なんの用だ?」彼の声はしわがれてはいたが、不愉快ではなかった。
「おまえたちの命を救いたい」わたしはいった。しかし、その言葉が口から出たとたんに、最悪のことをいってしまったとわかった。
「おれたちは名誉を救いたい」
わたしはうなずいた。「名誉はより高度の生命だ」
「おれたちの名誉を救う方法を知っているなら、話せ。聞こう。だが、決して心を許しはしないぞ」
「われわれはすでに心を許している」わたしはいった。
風が凪ぎ、一瞬にして相手は歯をぎらめかせ、燃えるような目をしたマスチフ犬に戻った。
「おまえたちがこの車に乗せられたのは、アスキア人からこの金を守るためではなく、できればこれを盗もうと考えている味方の共和国人から守るためなのだ。アスキア人どもは――見たとおり、打ち破られてしまった。われわれは独裁者に忠実な人間だ。おまえたちが対抗すべき相手が、まもなくわれわれを圧倒するだろう」
「彼らはおれとおれの仲間を殺さなければ、金を取ることはできない」
では、やはり黄金なのだ。わたしはいった。「彼らはそうするだろう。だから、出てきてわれわれが戦うのを手伝ってくれ。そうすれば、まだ勝ち目がある」
彼はためらった。わたしは、最初に彼の命を救うといったことが完全な誤りだったとは、もう思えなくなった。「だめだ」彼はいった。「できない。おまえのいうことは理屈かもしれない。だが、おれたちの掟は理屈の掟ではない。おれたちの掟は名誉と服従だ。おれたちは残る」
「しかし、われわれがおまえたちの敵でないことはわかっているだろう?」
「おれたちが守っているものをうかがうやつは、みんな敵だ」
「われわれもそれを守っているんだぞ。もし、これらの非戦闘従軍者や脱走兵どもが、おまえたちの武器の射程距離に入ったら、おまえたちは射撃するか?」
「ああ、もちろんだ」
わたしは打ちしおれているアスキア人の群れのほうに歩み寄り、彼らの司令官と話したいといった。立ち上がった男は、ほかの者よりもほんのわずかに背が高いだけだった。その顔に表われている知性は、狡猾な狂人の顔に時々見る種類のものだった。わたしはその男に、自分はアスキア人の捕虜としばしば話したことがあり、彼らのことを知っているので、グアザヒトのかわりに交渉するように派遣されてきたのだと伝えた。これは、わたしの意図したとおり、三人の負傷した監視役の耳にも届いた。彼らはグアザヒトが陣地の周辺部のわたしの持ち場についているのを見ることができた。
「〈十七人組〉の名において、挨拶を送る」そのアスキア人がいった。
「〈十七人組〉の名において」
アスキア人はびっくりした顔をしたが、うなずいた。
「われわれは、われらの独裁者の不忠な臣民に包囲されている。だから彼らは独裁者と〈十七人組〉の両方の敵なのだ。われわれ自身の司令官・グアザヒトは、われわれ全員が生きて自由になる計略を考え出した」
「〈十七人組〉の奉仕者は目的なしに消費されてはならない」
「そのとおりだ。計略はこうだ。われわれの軍馬をその鋼鉄の輸送車に繋ぐ――それを泥沼から引き出すのに必要な頭数だ。おまえとおまえの仲間も車を引き出すために働かなければならない。車が引き出せたら、おまえたちの武器を返し、おまえたちがこの包囲線を突破するのを手伝ってやる。おまえの兵士もわれわれの兵士も北に向かう。おまえたちはその車と、中の黄金を、おまえたちの上司のところに運んでいってよい。これを捕獲した時に、おまえたちが考えたとおりにだ」
「〈正しい思想の光〉はあらゆる闇を突き通す」
「いいや、われわれは〈十七人組〉の側に寝返ったわけではない。おまえたちはお返しにわれわれを手伝ってくれればいいのだ。第一に、車を泥の中から引き出すのを手伝うこと。第二に、われわれの強行突破を手伝うこと。第三に、おまえたちの軍の中を通過して、われわれ自身の戦線に戻るまで護衛してくれること」
アスキア人の将校はきらめく輸送車のほうをちらりと見た。「いかなる失敗も恒久的な失敗ではない。だが、必然的な成功には新しい計画とより強い力が必要だ」
「じゃ、おれの新しい計画に賛成なんだな?」汗をかいていることに気づかなかったが、今になって汗が目に流れこみ、目にしみた。わたしはグルロウズ師がよくやっていたようにマントの端で額を拭った。
アスキア人の将校がうなずいた。「〈正しい思想〉を学べば、いずれ成功への道が開ける」
「そう」わたしはいった。「そのとおり、それを学んだぞ。われわれの努力の後に、われわれの努力が見出されるようにしよう」
車に戻ると、さっき見たのとおなじ類人獣がまた窓のところに現われた。今度はそれほど敵意に満ちていなかった。わたしはいった。「アスキア人はこれをもう一度引き出すことに同意した。これから積み荷を降ろさねばならない」
「それは不可能だ」
「そうしなければ、黄金は太陽とともに失われてしまう。放棄しろといっているのではない――ただ運び出して、見張りを立てればいいのだ。おまえたちは武器を持っている。もし武器を持った人間が近づいてきたら、殺してもいい。おれは丸腰でおまえといっしょにいる。その場合にはおれをも殺していいぞ」
さらに執拗な説得が必要だったが、結局彼らは同意した。わたしはアスキア人を監視している負傷者たちに持っている| 竿 《コントウス》を置かせて、それから、われわれの軍馬の八頭を車に繋がせた。そして、アスキア人たちをその綱と車輪に取りつかせた。すると、車の横の鋼鉄のドアがばたんと開いて、類人獣たちがいくつかの小さな金属箱を運び出した。二匹がその作業をし、わたしと話をしたもう一匹が見張りについた。彼らは予想していた以上に背が高く、|火打ち石銃《フュージル》を持ち、その補助としてベルトにピストルをつけていた――ピストルを見たのは、〈絶対の家〉の庭園で神殿奴隷《ヒエロドウール》がバルダンダーズの突撃を撃退するために使ったのを見て以来のことだった。
金属箱が全部降ろされ、三匹の類人獣が武器を構えてその周囲に立つと、わたしは号令をかけた。負傷した隊員が新しいチームを組んだ軍馬のすべてに鞭を当て、アスキア人は目玉が飛び出すほど凄い形相をして力を籠めた……そして、誰もが駄目だと思った時、鋼鉄の大型車は泥から持ち上がり、負傷者が止める暇もないうちに半チェーンほどごろごろと動いた。グアザヒトがわたしの| 竿 《コントウス》を振りながら外辺部から飛び出してきた。それで、あやうく彼とわたしは殺されそうになった。だが類人獣は、彼がただ興奮しているだけであり、危険がないことを見て取るだけの分別があった。
彼は類人獣が黄金をまた内部に運び入れるのを見、そしてわたしがアスキア人に約束したことを聞くと、ますます興奮した。わたしは彼の名において行動しろと命令されたことを、彼に思い出させた。
「おれが行動するのは」彼は吐き捨てた。「勝てると思った時だ」
わたしは彼のように軍事的経験はないと告白した上で、苦境から脱することが勝利になるような場合もあることを体験的に知っているといった。
「それにしても、おまえだったらもっとましなことを考え出すと思っていたのに」
西の山々の峰は、われわれの気づかぬうちに情容赦なく上昇して、すでに太陽の下の縁につかみかかろうとしていた。わたしはそれを指さした。
突然グアザヒトは顔をほころばせた。「何はともあれ、こいつらは、おれたちが車を取り返した相手のアスキア人なんだ」
彼はアスキア人の将校に声をかけて、われわれの騎兵が攻撃の先頭にたつから、おまえの部下は徒歩で鋼鉄の車の後をついてくるがいい、と伝えた。アスキア人の将校は同意した。だが、部下が再武装すると、彼は数人を車の上に配置し、残りを率いて自分が攻撃の先頭に立つといいだした。グアザヒトは一見しぶしぶ同意したが、わたしにはそれは完全な芝居に思われた。われわれは新しい連畜《チーム》の八頭の軍馬のそれぞれに武装した隊員を乗せた。そして、グアザヒトが旗手と熱心に話しているのが見えた。
われわれは脱走兵の警戒線を北に向かって突破するつもりだと、わたしはアスキア人に約束していた。だが、その方向の地面は鋼鉄の車両には向いていないことがわかった。それで結局、北北西に針路をとることに意見が一致した。アスキア人の歩兵は射撃をしながら、全力疾走と較べてもさほど遅くはないスピードで前に進んだ。輸送車がその後に続いた。隊員の| 竿 《コントウス》の細い持続的な電光が、車を押し包もうとするぼろをまとった暴徒の群れを突き刺した。そして、車の屋根に乗ったアスキア人の火縄銃が噴き出す董色のエネルギーが彼らの間で炸裂した。類人獣は窓格子の間から火打ち石銃を発射し、一回の噴射で半ダースもの暴徒を屠った。
われわれの騎兵隊の残り(わたしもその中にいた)は味方の陣地の外辺部が消滅するまで踏み留まっていて、それから車を追った。貴重なチャージを節約するために、多くの者は| 竿 《コントウス》を鞍輪に通して、剣を抜き、アスキア人と車が残していった抵抗する敵を蹂躪した。
やがて敵中を突破し、地面の障害が減った。いきなり、車を牽く馬にまたがった騎兵が馬に拍車をかけた。すぐに後ろに続いていたグアザヒト、エルブロン、および、そのほかの隊員が一陣の真紅の炎と渦巻く煙とともに、車の屋根からアスキア人をなぎ払った。徒歩の者は散り散りになり、やがて射撃を始めた。
それは自分としては参加できないと感じる戦闘だった。わたしは手綱を引いた。すると、見えた――ほかのだれよりも早く見たと信じるのだがまるでメリトのお伽噺の天使のように、夕焼け雲から降下するアンピエル([#ここから割り注]独裁者の有翼女性兵士[#ここで割り注終わり])の最初のやつが。見上げると、彼女たちは美しかった。裸で、いかにも若い女らしいほっそりした肉体を持っていた。だが、彼女たちの虹の翼はどんな|大 鳥《テラトルニス》の翼よりも広く広がった。そしてアンピエルは、それぞれ両手にピストルを握っていた。
その夜遅く、キャンプに戻り、負傷者の手当てをすませると、わたしはグアザヒトに、これからも同じようなことをするのかと尋ねた。
彼はしばらく考えた。「あの空飛ぶ女どもがやってくるなんて、知りようはなかった。今から振り返ると、まことに当然なことだが――あの輪送車には、全軍隊の半分に払うだけの金が積んであったにちがいない。だから、それを探しに精鋭部隊を投入するのをためらうわけがないんだ。しかし、おまえだったら、実際に起こる前に想像できたかな?」
わたしは首を振った。
「なあ、セヴェリアン、おれはおまえにこんな口をきいてはいけないんだな。しかし、おまえはやれるだけのことをやった。そして、おまえはこれまでに出会った最高のやり手だ。とにかく、結果的にはうまくいったじゃないか? 見たかい、天使長の優しかったこと。結局、彼女の目にどう映った? 勇敢な小僧どもがアスキア人の手から輸送車を奪回しようとしていたんだ。きっと感状をもらうぞ。ことによったら褒美をもらうかもしれないな」
わたしはいった。「金が車から運び出された時に、あんたは類人獣を殺すこともできた。それにアスキア人もだ。だがそうしなかった。なぜなら、そうすると、おれもいっしょに死ぬからだ。確かにあんたは感状に値するよ。少なくとも、おれからのね」
彼は憔悴した顔を両手でこすった。「まあ、いいさ。ことによったら第十八部隊の終わりになっていたかもしれないんだ。一刻後には、金の奪いあいで、同土討ちが始まっていたかもしれないからな」
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21 展 開
戦闘の前に、ほかのパトロールが何度か行なわれ、暇な日もあった。アスキア人をまったく見かけなかったり、見るのは彼らの死体ばかりという日もよくあった。われわれの役目は脱走兵を逮捕したり、軍隊を食い物にして太る行商人や放浪者たちをわれわれの領域から追い払うことだった。しかし彼らが、鋼鉄の輸送車を包囲していた連中の同類に見えた時には、そいつらを殺した。といっても、公式のスタイルで処刑するのではなく、鞍の上から切り倒すのだ。
ふたたび月が満ちて満月に近くなり、緑色の林檎のように空にかかった。経験豊かな隊員が、最悪の戦闘はいつも満月か、その近くにやってくると教えてくれた。満月は狂気を産み出すからだという。しかし、本当のところは、月の光で将軍たちが援軍を夜間に連れてくるのに便利だからだと思う。
戦闘の日の夜明けに、われわれはラッパの響きで毛布から呼び出された。われわれは霧の中でだらしない二列縦隊を作った。その先頭にグアザヒトが立ち、それに軍旗を持ったエルブロンが続いた。女たちは――パトロールに出る時にたいていそうであったように――後に残るものとわたしは思っていた。だが、半数以上が| 竿 《コントウス》を引きずってついてきた。見ると、ヘルメットのある者は頭髪を上げてヘルメットの鉢の中に押しこんでおり、多くの者が胴鎧を着けて、胸を平たく見せ、乳房を隠していた。わたしはそのことを、隣の馬に乗っているメスロップにいった。
「報酬のことでごたごたが起こるかもしれないな」彼はいった。「目の確かなやつがわれわれを算えているだろう。そして、契約では普通、男がいくことになっている」
「今日はいつもより金をたくさんくれるとグアザヒトがいっていたぞ」
彼は咳払いをして、唾を吐いた。ウールスそのものに飲みこまれてしまったように、白い粘液が冷たく湿った空気の中に消えた。「仕事がすむまでは金はよこさない。いつもそうだ」
グアザヒトが大声をあげて、手を振った。エルブロンが旗で合図をした。みんな出発した。蹄の音がまるで百個もの太鼓のくぐもった乱打のように鳴り響いた。わたしはいった。「たぶん、そうやって、死んだやつの給料をうかすんだな」
「三倍の給料がでる――一つはその男が戦ったから、一つは敵を殺したから、一つは、解雇手当てだ」
「または、その女が戦ったから、ということにもなるな」
メスロップはまた唾を吐いた。
しばらく馬を進めていき、やがて、ほかの場所となんの相違もないような場所に停止した。隊列が静まりかえると、周囲の丘にぶんぶんいうような、ざわめきが聞こえた。疑いなく衛生上の理由から、そしてアスキア人に集中した標的を与えないため散開していた部隊が、あの石の町の塵の粒が寄り集まって蘇り、踊り子たちの肉体になったように、今集まってくるところだった。
みんなは気づいていなかったが、昔あの町に着く前にわれわれのあとを追ってきた猛禽のように、今、朝焼けの一様な光の中に黒ずんで溶けていくまばらな雲の上を、車輪のように回転する五本の腕を持つものが、われわれを追って飛んできていた。最初、ずっと高いところにいた時には、それはただの灰色に見えた。しかし、眺めているうちにも、それはわれわれに向かって降下してきた。その色は、黄色に対して金色があり、白色に対して銀色があるように、無色に対して存在する、なんとも名づけようのない色あいになった。それらが回転すると、空気が稔った。
それまで見えていなかったもう一つが、われわれの針路を横切って、ほとんど木々の梢よりも高くない高度で跳び出してきた。それぞれのスポークは塔の長さほどあり、胴体にいくつかの|開き窓《ケイスメント》と丸窓《ポート》があいていた。それは空中に平らに浮いていたが、ぐいぐいと進んでくるように見えた。その風がまるで木々を吹き飛ばそうとでもいうように、猛烈な勢いでわれわれに吹き降ろした。わたしの乗っている駁毛の馬が悲鳴をあげ、後足で立ち上がった。ほかの多くの軍馬も同じようにし、その不思議な風の中で転ぶものも多かった。
それは心臓の一鼓動の時間でやんだ。周囲で渦巻いていた木の葉が雪のように地面に落ちた。グアザヒトが大声をあげ、エルブロンがラッパを吹き鳴らし、旗を振った。わたしは駁毛を制御して、狼狽している軍馬のところに次々に駆けていき、それぞれの鼻面を抑えて、騎手がふたたびそれらを制御できるようにしてやった。
ダリアが隊列の中にいたとは知らなかったが、このようにして彼女を助けてやった。騎兵の服装をし、| 竿 《コントウス》を持ち、両側の鞍角に細身のサーベルをひと振りずつ下げた彼女はとても美しく、少年ぽく見えた。彼女を見てわたしは、知り合いのほかの女性が同じ状況にあったら、どのように見えるだろうかと思わずにはいられなかった。セアなら芝居の中の女性戦士。美しくて劇的ではあるだろうが、基本的には船首像の人形のようになるだろう。セクラなら――今はわたし自身の一部になっているが――毒を塗った武器を振るう復讐心の強いミマロン([#ここから割り注]バッカス神の巫女[#ここで割り注終わり])。アギアなら自分の体型に合わせて鋳た胴甲を着けて、脚のほっそりした栗毛の馬にまたがり、弓弦で編んだ髪を風になびかせるだろう。ジョレンタなら茨のように刺の生えた鎧を着た花の女王。歩み以上に早い進行にそぐわない大きな乳房と肉感的な太股。停止するたびに夢見るように微笑み、鞍の背によりかかろうとするだろう。ドルカスなら日光にきらめく噴水のように一時的に舞い上がって馬にまたがった|水の精《ナーイアス》。ヴァレリアならたぶん貴族的なダリア。味方の隊員が散り散りになったのを見て、わたしはふたたび隊列を組むのは不可能ではないかと思った。ところが五腕跳空機《ペンタダクテイル・エアストライダー》が頭上を通過して数分たつと、またみんな集合した。そして、一リーグほどの距離を全力疾走した――たぶん、軍馬の不安のエネルギーをいくらかでも発散させるためだったのだろう。それから小川のほとりで止まり、馬がよたよたしないように、口を湿す程度に水を飲ませた。わたしが苦労して馬を水際から後退させ、それから空の見える空き地に歩ませていくと、まもなくグアザヒトが馬を走らせてきて、冗談めかして尋ねた。「またやってくるかと、眺めているのか?」
わたしはうなずいて、あのような乗物はこれまでに見たことがないといった。
「それはそうだろう。前線の付近でなくては見られないからな。南に下っていくやつは、決して戻ってこない」
「われわれのような兵隊は、あんなのを止めることはないだろう」
彼は突然真顔になり、その小さな目が日焼けした顔のしわのようになった。「うん。しかし、大胆な小僧どもなら彼らの襲撃隊を阻止することができる。銃や空中戦艦《エア・ガレー》ではできない」
駁毛の馬がじりじりして、体を動かし、足踏みをした。わたしはいった。「おれはたぶんあんたが聞いたことのない町の、ある地区からやってきた。〈城塞〉という地区だ。あそこには全方位を狙うことのできる銃砲があった。しかし儀式の時以外には、一度たりとも発射されたことはなかった」わたしはまだ空を見つめながら、ネッソスの上空をあの五腕跳空機が旋回するのを、そして、〈物見櫓〉と〈大天守閣〉だけでなくすべての塔から無数の射撃が行なわれるさまを想像し、また、それに対して五腕跳空機はどんな武器で反撃するのだろうかと思った。
「こいよ」グアザヒトがいった。「あれがくるのを待って見物したい気持ちはわかるが、なんの益もないぞ」
わたしは彼について小川に戻った。そこではエルブロンが隊列を組ませていた。「やつらはわれわれを射撃さえしなかった。あんな飛翔機にはきっと銃が積んであるだろうに」
「おれたちは取るに足らない小魚なのさ」グアザヒトはわたしを隊列に入らせたいと思っているのに、直接わたしに命令するのをためらっているのだ。
わたしは、恐怖が亡霊のように自分をつかんでいるのを感じた。恐怖は足のあたりをいちばん強くつかんでいるが、冷たい触手をあげて内臓にさしこみ、心臓にまで触っていた。わたしは黙りたかった。しかし、喋るのを止めることができなかった。「われわれが戦さの原にいったら――」(わたしは戦場を、アギルスと闘った〈血染めが原〉のような、芝生を刈った野原だと想像していたのだと思う)
グアザヒトが笑った。「味方が戦闘に突入したら、あれらがおれたちに襲いかかるから、味方の銃手は絶好の標的ができたと喜ぶだろうよ」彼がこれから何をしようとしているのか、わたしが理解できずにいるうちに、彼はわたしの駁毛を剣の平でひっぱたいて、わたしを走り去らせた。
恐怖とは、膿の流れるできもので顔の形が変わってしまう病気のようなものである。人はできものの根源よりもむしろ、できものを見られることを恐れるようになり、また恥辱に感じるだけでなく汚されたように感じるようになる。駁毛がスピードを緩めはじめると、わたしはその腹に踵を食いこませて、隊列の殿《しんがり》にもぐりこんだ。
ちょっと前までは、わたしはエルブロンの地位を奪いそうな勢いだった。しかし今はグアザヒトのせいではなく、自分のせいで最低の地位にまで降等された。それにしても、散り散りになった隊員を集合させる手伝いをしていた時には、わたしが恐れていたものはすでに通り過ぎていた。だから、わたしの昇進のドラマ全体は、それが降等に終わった後まで、演じ通されたことになる。それはまるで、一人の若者が公園でぶらついていて刺し殺され――それから、殺されたことにまったく気づかず、その下手人の色っぽい女房と知り合いになり、そして最後に女の夫が町の別の地域にいるのは確実だと思って、彼女を抱きしめると、女は彼の胸から突き出している短剣の柄が当たって痛いと泣きだす、といった芝居を見るようなものだ。
隊列がよろよろと前進していくと、ダリアが列を離れて、後尾のわたしが接近するのを待っていた。「あんた、怖いのね」彼女はいった。それは質問ではなく、陳述だった。しかも、非難ではなくて、ヴォダルスの宴で知ったおかしな文句のような合言葉だった。
「そうだ。前に森の中でいった自慢の言葉を思い出させるつもりだな。あれを喋った時には、空疎なものだとは知らなかった、としかいえないよ。昔ある賢い人が、おれにこんなことを教えようとした。客人が一つの拷問をマスターしてしまって、悲鳴をあげたり身悶えしたりしながらも、それに耐えることができるようになった場合でも、まったく別の拷問を加えることによって、子供の意志を砕くように効果的にそいつの意志を砕くことができるものだと。彼に質問された時に、おれは説明なら全部できるようになったが、当然のことながら、たった今まで自分自身の生活に応用することができなかった。しかし、おれがここの客人だとすると、いったい拷問者はだれなのだろう?」
「みんな多少なりとも怖いのよ」彼女はいった。「だから――そう、見たわよ――グアザヒトはあんたを追っ払ったの。それはね、自分の恐怖心が増すのを防ぐためだったのよ。恐怖心が増せば、指揮を執ることができなくなるでしょう? その時になれば、しなければならないことをするようになるわ。だれでもみんなそうなのよ」
「もう行ったほうがよくないか?」わたしは尋ねた。隊列の後尾は、長い行列の後尾がいつもそうであるように伸縮しながら、離れていくところだった。
「いま行くと、あたしたちが怖気づいて後ろにいたことが、みんなにわかってしまうわ。もう少し長く待てば、あんたがグアザヒトと話しているところを見た人々は、落伍者の尻を叩かせるために後ろに呼び寄せられたと思うわよ。そして、あたしはあんたを手伝うために後ろにきたのだとね」
「なるほど」わたしはいった。
汗で湿った、そしてドルカスの手のように細い彼女の手が、わたしの手の中に滑りこんできた。
その瞬間まで、彼女は前に戦ったことがあるとわたしは確信していた。そして今、彼女に尋ねた。「きみもこれが最初なのか?」
「たいていの男よりもうまく戦えるわ」彼女はきっぱりといった。「売女《ばいた》と呼ばれるのは、もううんざりよ」
われわれはいっしょに馬を走らせて隊列を追った。
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22 戦 闘
敵は最初、広い谷間の向こう側の斜面にばらまかれた色の点々のように見え、それから、小競り合いをする兵士たちが、ちょうど林檎酒のジョッキの表面に踊る泡のように、動いたり混じりあったりするように見えた。われわれは木々が砕けた森の中を駆け抜けていった。皮が剥けて白くなった木は、複雑骨折をした生き物の骨のように見えた。われわれの隊列は、今ではずっと大きくなっていた。たぶん不正規槍騎兵の全体が含まれているのだろう。森は、時間稼ぎのような感じがする砲火を約半刻の間、浴びていたのだった。何人かの騎兵が負傷し(わたしのそばの一人は重症だった)、何人も戦死した。負傷者は自分で自分の手当てをし、たがいに助けあおうとしていた――われわれに衛生班がついていたとしても、ずっと遅れているらしく、わたしの目には入らなかった。
時々、木々の間で死体に行きあたった。たいていは、二人とか三人の小さい集団をなしており、たった一人のこともあった。中には、どういうわけか鎖帷子の上着の襟を、折れた木の幹の突出した裂け目に引っかけて死んでいる者もいた。わたしはその兵士の、死んでいても休むことができないという状況に恐怖を覚え、またこれは、殺されてしまったのに倒れることができずにいるこの近くの木々と同じ状態だと思った。
これとほぼ同じ頃、わたしは敵を意識し、またわれわれの両側に味方の騎兵隊がいることに気づいた。右手には、いわば騎馬兵と歩兵の混成部隊がおり、その騎馬兵はヘルメットなしで、上半身は裸で、日焼けした胸に赤と青の毛布を巻いてたすきがけにしていた。彼らはわれわれの大部分より乗馬がうまいように思えた。彼らは人の背丈よりそれほど長くない投げ槍を持っており、大部分はそれらを鞍の弓型部に斜めに携えていた。めいめいが左腕の上部に小型の銅の楯を縛りつけていた。これらの兵隊が共和国のどの地方からやってきたか見当がつかなかった。しかし、髪を長く伸ばしていることと、胸を露出しているというだけの理由で、きっと野蛮人なのだろうとわたしは思った。
もしそうだとすると、彼らに混じって歩いている、褐色の肌で、前屈みの姿勢をした毛むくじゃらの連中は、もっと下級の部族だということになる。彼らの姿は木立の間からちらりと見えただけだが、時には四つん這いで歩くのではないかと思われた。彼らは時々、マーシイチップ([#ここから割り注]小型の馬の一種[#ここで割り注終わり])に乗っているジョナスのあぶみをわたしが時々つかんだように、騎馬兵のあぶみをつかんでいるようだった。騎馬兵はそのたびに、戦友の手を武器の柄で叩いていた。
左手の低い地面にひと筋の道が通っていた。そして、その下と左右を大部隊が進んでいった。われわれの部隊と野蛮人の騎馬・歩兵混成部隊を全部合わせたよりも大勢いた。噴炎槍と大きい透明の楯を持った小楯兵《ペルタスト》の大隊。弓と箙《えびら》をたすき掛けにして、元気いっぱいの馬にまたがったホビラー([#ここから割り注]軽騎兵の一種[#ここで割り注終わり])。羽飾りと旗の海とも見まがう隊型を組んだ、軽武装のチェルカジス([#ここから割り注]軽騎兵の一種[#ここで割り注終わり])。
突然、戦友になったこれらすべての見慣れない兵隊の勇気を知るすべは、まったくなかった。しかし、わたし自身の勇気とくらべてそれほど優るものではないと、無意識に推測した。そして、実際、彼らは向かい側を移動している点々とくらべて、防備が手薄に見えた。われわれが受けている砲撃が次第に激しくなってきた。そして、わたしの見る限りでは、敵方は全然砲火にさらされていなかった。
ほんの数週間前なら(今では少なくとも一年はたっているように感じられるが)、この物語の発端となった霧の夜に、ヴォダルスがわれわれの共同墓地で使用したあんな武器で狙い射ちされると思っただけで、震え上がってしまったことだろう。だが今われわれの周囲に炸裂する閃光は、あのピストルの閃光を、湖の首長の射手の投石弓から射ち出される光る金属塊と同様に、子供っぽく思わせるようなものだった。
これらの太矢を投射するのにどんな種類の装置が使われているのか、いや、それが実際は純粋のエネルギーなのか、それともなんらかのタイプのミサイルなのか、わたしにはわからなかった。しかし、それらがわれわれの間に当たると、その爆発は何か棒のように引き伸ばされたものになる性質があった。そして、それらは命中するまで目に見えないが、飛んでくる時にはヒューッと音がした。その音はまばたきを一回する間くらいしか続かなかったけれども、まもなくその音によって、どのくらい近くに命中するか、爆発はどのくらい強力に広がるか、判断できるようになった。その音に変化がなければ、コリュパイオス([#ここから割り注]古代ギリシャ劇のコロスの総指揮者[#ここで割り注終わり])が調子笛を吹き鳴らすように聞こえ、落下地点は少し離れたところになる。しかし、音調が急上昇して、ちょうど、最初男声のために鳴らした笛の音が、女声のための音になったように聞こえれば、落下点は近くなる。そして、単一の轟音でもっとも音量の大きいものだけが危険なのだが、音程の急上昇するもの一つについて、少なくとも味方の一人が、そしてしばしば数人がやられるのだった。
このように馬を走らせていくのは、正気の沙汰ではないように思われた。散開すべきだった。いや、下馬して木々の中に避難すべきだった。一人がそうすれば、残りの全員がそれにならっていたと思う。太矢が落下するたびに、わたしはその一人になりそうになった。しかし、何度も何度も、まるで心が狭い円に繋がれてでもいるように、さっき怯えた態度を見せた記憶が、わたしをもとの位置に引きとめた。ほかの連中が逃げれば、わたしもいっしょに逃げたろう。しかし、最初に逃げる者にはなりたくなかった。
避けられぬことだったが、一本の太矢がわれわれの隊列に平行に当たった。六人の隊員が、まるで小型爆弾を抱いていたかのように飛び散った。最初の兵士の頭が真っ赤な血の塊りとなって吹っ飛び、二番目の首と肩が吹っ飛び、三番目の胸が、四番目と五番目の腹が、六番目の股間(いや、たぶん鞍と馬の背も)が吹っ飛び、それから太矢は地面に当たり砂塵と石を間歇泉のように噴き上げた。このようにして死んだ兵士たちの隣の列にいた兵士と馬は、爆発の余波を受け、隣人の手足や甲冑に打たれて、やはり死んだ。
馬を走らせつづけたり、しばしば歩かせつづけることは、特に恐ろしかった。もし逃げることができないなら、しゃにむに進んで、戦闘を開始させたい。実際に死ななければならないなら、いっそ死にたいと思った。この打撃は、勇気を回復させる機会を与えてくれた。わたしはダリアについてくるように手を振って、馬を走らせ、われわれと最後に死んだ隊員との間にいる生存者の小集団を追い越し、隊列の戦死者で穴のあいた部分に入りこんだ。メスロップはすでにそこにいた。彼はわたしを見るとにやりと笑った。「良い考えだ。当分の間ここに命中する可能性はないからな」わたしは彼の誤解を解くことを思いとどまった。
とにかく、しばらくは、彼のいうとおりだと思われた。敵の砲手はわれわれを射ってしまうと、今度は右手の野蛮人のほうに筒先を向けた。だらしない野蛮人の歩兵は太矢が自分らの間に落下すると悲鳴をあげ、わけのわからないことをわめきちらした。しかし騎馬兵たちは、魔法の呪文を唱えて身を守ろうとするように見えた。しばしば彼らの朗誦がはっきりと聞こえて、その言葉さえも聞きわけられた。もっとも、一度も聞いたことのない言語だったが。一度などは、一人が実際に鞍の上に曲馬団の演技者さながらに立ち上がり、片手を太陽のほうに上げ、片手をアスキア人のほうに伸ばした。騎馬兵はそれぞれ自分の呪文を持っているようだった。砲撃で彼らの人数が減っていくのを見ていると、このような原始的な精神の持ち主がどうしてそういった呪いを信じるようになったか、たやすく見て取ることができた。というのは、生存者は自分の|魔 法《ソーマダージィ》によって救われたと感じる以外になく、また死んだ者はそれが働かなかったといって不満をいうことはできないからである。
ほぼ速歩《トロット》で前進してきたにもかかわらず、味方の軍隊で最初に敵と対戦したのは、われわれではなかった。下方の地面で、軽騎兵《チェルカジス》が谷を流れるように横断して、敵の歩兵の方陣に火の波のように激突していた。
敵は、味方の槍騎兵《コンタリアイ》の武器よりはるかに優れた武器を持っているものと、わたしは漠然と想像していた――類人獣が持っていたようなピストルや火打ち石銃などだろう――そのような武器を持った戦士が百人いれば、どんなに騎兵が大勢いても容易にやっつけることができるだろう。ところが、そのようなことは全然起こらなかった。方陣の何列かが後退した。そして、今やわたしは、騎兵の鬨《とき》の声が遠くはあるがはっきりと聞こえ、逃走する歩兵の一人一人が見えるほどの距離にいた。ある者は、小楯兵《ペルタスト》のガラス質の楯よりもずっと大きくて、金属質の光沢をもつ大型の楯を放り出して逃げた。彼らの防御武器は穂先が平たく広がった、三キュビットにも満たない長さの槍らしかった。敵を切る幕状の炎を噴出する武器のようだったが、射程距離が短すぎた。
最初の方陣の後ろに、第二の歩兵の方陣が現われた。それからつぎつぎに歩兵が現われて、谷間のずっと下のほうまで続いた。
われわれはその軽騎兵《チェルカジス》を支援するために駆けつけるのだと思ったとたんに、止まれという命令が出た。右のほうを見ると、野蛮人部隊はすでにわれわれよりかなり後ろに止まっていて、今は彼らとともに前進してきた毛むくじゃらな連中を、われわれからもっとも離れた彼らの持ち場のほうに追いやっているところだった。
グアザヒトが味方に呼びかけた。「われわれは退路を断っているんだ! 気楽に待機していろ!」
ダリアを見ると、彼女も同様にとまどった視線を返してよこした。メスロップは谷の東の端に向かって手を振った。「われわれは側面を監視している。もしだれもこなければ、今日はのんびりできるはずだ」
わたしはいった。「すでに死んだやつは別だがな」やみかけていた砲撃が、今は完全に止まったようだ。その音の消えた静寂が、われわれを取り巻いた。太矢がヒューヒュー唸って飛んできていた時よりも怖いくらいだった。
「まあな」肩をすくめる彼の仕種が、百人の部隊から二、三十人が失われたことを雄弁に物語った。
チェルカジスはひるんでしまい、アスキア人の市松模様の戦線の前面に雨霰と矢を射かけているホビラーの衝立の後ろに退却してしまっていた。矢の大部分は楯をかすめるように見えたが、何本かは鏃《やじり》を金属に食いこませたにちがいない。鏃は発火して、敵の武器と同じくらい明るい炎と、もうもうたる白煙を上げて燃えていた。
矢の攻撃がまばらになると、市松模様の方陣がふたたび、機械仕掛けのようなぎくしゃくした動きで前進してきた。チェルカジスはなおも後退を続けて、今はわれわれよりほとんど前に出ているとはいえない小楯兵《ペルタスト》の線の後ろにきていた。わたしのところから彼らの黒い顔がはっきりと見えた。全部男性で髭を生やしており、人数は約二千人だった。しかしその中に、きらびやかな飾り衣装をつけたアルシノイターの背の金ぴかの象籠に乗った、十数人の宝石を着けた若い女たちがいた。
これらの女性たちも男性同様に黒い目と黒い肌をしていたが、その官能的な姿態と悩ましげな容貌はジョレンタを思い出させた。わたしは彼女らを指さして、どんな武装をしているのかをダリアに尋ねた。武器が全然見えなかったのである。
「一人欲しいんでしょう? いや、二人かな。ここから見ていても、あんたの目には好ましく見えるんでしょうね」
メスロップがウィンクしていった。「おれも、二、三人もらってもいいぜ」
ダリアは笑った。「もしあんたたちが手を出せば、彼女らはアルラウネス([#ここから割り注]チュートン神話の女性の魔物[#ここで割り注終わり])のように闘うでしょうよ。あの女たちはね、神聖で禁断の、〈戦争の娘〉なのよ。彼女らが乗っている動物を今までに見たことがある?」
わたしは首を振った。
「あれは容易に突進して、止めることはできないの。でも、動きはいつも同じ――どんな障害物があってもそれを突破して一直線に突進し、一、二チェーン先で止まって、それから戻ってくるの」
わたしは注目した。アルシノイターには二本の大きな角がある――牛の角のように開いていないで、人間の第一指と第二指が作る間隔ぐらいに狭まっている。まもなく彼らが頭を下げ、角を地面と平行にして突撃するのを見ることになった。まさにダリアがいったとおりだった。チェルカジスは元気を盛り返して、ふたたび細身の槍とフォーク状の剣を持って攻撃した。その稲妻のような疾走のはるか後方から、アルシノイター隊が地響きを立てて出ていった。獣は灰黒色の頭を下げ、尻尾を上げ、その背の天蓋の下では、胸元の豊かな、肌の黒い乙女が金ぴかの柱を握り、直立している。彼女らの姿勢から、その太股は乳牛の乳房のように豊かで、木の幹のように丸いのが見て取れた。
この突撃で、彼らは渦巻く戦闘の中を突破して、市松模様の奥深くにといっても深すぎることなく――入りこんだ。アスキア人の歩兵たちはその獣の横腹に猛攻を浴びせた。それは|革を焼く《バーニング・ホーン》、つまりキュイール・ブーイー([#ここから割り注]蝋につけて硬くした革。中世の武具の材料[#ここで割り注終わり])を作っているも同然だったにちがいない。彼らはその頭に乗ろうとして、空中に撥ね飛ばされ、その灰色の横腹に必死によじ登ろうとした。それを救援するためにチェルカジスが殺到した。そして市松模様は満ちたり引いたりし、一つの方陣が失われた。
このような遠方から眺めていると、戦闘は将棋と同じだという自分の戦争観が思い出された。どこかよそで、だれか別の人が同じことを考えて、無意識にこの兵士たちに自分の計画を具体化するのを許したのだろうか。
「あの子たち、可愛いでしょう」ダリアがわたしをからかうように話を続けた。「十二歳で選ばれて、蜜と純粋な油で育てられるのよ。彼女らの肉はとても柔らかなので、地面に寝ると必ずあざになってしまうと言われているの。だから、なめし革の袋を持ち歩いていて、その上に寝るのだそうよ。もし、その革袋がなくなると、体の形になって体を支えてくれる泥の中に寝なければならないんですって。彼女らの世話をする宦官は泥にワインを混ぜて、火で温めて、眠っても冷えないようにするのよ」
「われわれは下馬すべきだ」メスロップがいった。「馬を休ませるために」
しかし、わたしは戦闘を見物したかったので、地面に降りたくはなかった。まもなく鞍の上に残っているのは、部隊全体でグアザヒトとわたしだけになった。
チェルカジスはふたたび押しかえされていた。そして今は目に見えぬ砲兵隊からの壊滅的な砲撃にさらされていた。小楯兵《ペルタスト》は地面にひれ伏して、楯で身を守っていた。谷の北側の森からアスキア歩兵隊の新たな方陣が現われた。まるで際限なくいるような気がした。無尽蔵の敵に対して戦さを始めてしまったような気分だった。
チェルカジスが三度目の突撃をすると、この感じはますます強くなった。一発の太矢が一頭のアルシノイターに命中し、その獣を吹っ飛ばし、それに乗っていた美人を血まみれの死骸にした。これらの女に向かって、アスキア歩兵隊が射撃していた。一頭がくずおれ、象籠と天蓋が一塊りの炎となって消滅した。歩兵の方陣は派手な衣装の死体と軍馬の死体を乗り越えて進んできた。
戦闘のそれぞれの段階で、勝者が負ける。市松模様が占領している陣地は、その先頭の方陣の側面をわれわれにさらした。そして驚いたことに、われわれは乗馬を命ぜられ、一線に散開し、最初は速歩《トロット》で、次に普通駆足《キャンター》で、そして最後にすべてのラッパの真鍮の喉の叫びとともに、顔の皮が吹き飛ばされそうな猛烈な全力疾走に移った。
チェルカジスが軽武装だとすれば、われわれはさらに軽武装だった。しかしこの突撃には、野蛮な同盟軍の呪文よりずっと強力な魔力があった。われわれの武器は麦を刈る大鎌のように、遠い隊列にそって野火のように燃えさかった。わたしは後ろに聞こえる馬蹄の響きに追い抜かれないように、自分の駁毛を手綱で叩いた。だが、追い抜かれた。そしてダリアが、炎のような髪を振り乱し、片手に| 竿 《コントウス》を、もう片方の手にサーベルを持ち、泡を吹いている馬の横腹よりも白い頬をして、わたしの横を弾丸のように駆け過ぎていくのを見た。この時、わたしはチェルカジスの習慣がどのようにして始まったか理解した。そして、彼女を殺さないように、もっと速く突撃しようと努力した。もっとも、この考えを、セクラがわたしの唇を借りて笑ったけれども。
軍馬は普通の動物のような走り方をしない――彼らは矢が空中を飛ぶように、地面すれすれに飛んでいく。一瞬、半リーグ前方のアスキア歩兵隊の砲火が、壁のように立ちはだかった。一瞬の後、われわれはその中にいた。すべての馬の脚は膝まで血にまみれていた。まるで建築物の石のように堅固に見えた方陣は、大きな楯を持ち、頭を短く刈った狂乱する兵隊の集団にすぎなくなった。彼らはわれわれを殺そうと夢中になるあまり、しばしば同士討ちを演じた。
戦闘は、よく言って愚かな労働である。しかし、それについて学ぶべきことはいくつかある。まず第一に、数がものをいうのは時間がたってからにすぎないということだ。直接の格闘は常に一対一、または一対二のものである。この点で、われわれの軍馬はわれわれを優位に立たせた――それは身長や体重のためだけでなく、軍馬は噛んだり、前脚で突いたりするからであり、彼らの蹄の打撃は、バルダンダーズが棍棒で与えるのを別にすれば、いかなる人間の打撃力よりも強いからである。
火がわたしの| 竿 《コントウス》をすっぱりと切断した。わたしはそれを捨てて、青龍刀を右に左に振るって殺戮を続け、自分の足がやられて傷口が開いたのも気づかないほどだった。
敵がみんな同じ顔つきをしていることに気づくまでに、半ダースものアスキア人を切り倒したにちがいない――といっても、(味方のある部隊の兵士たちが兄弟よりも親密で、みな同じ顔をしているように)彼らがみな同じ顔をしているというのではなく、彼らの相違が偶然で、些細なものだということである。わたしはこれと同じことを、鋼鉄の輸送車を奪回した時に捕虜の間に認めたが、それにはさほど印象を受けなかった。今のが印象に残ったのは、戦闘の狂気の中だからだった。なぜなら、それこそ狂気の一部だったから。狂乱の人影には、男性も女性もあった。女は小さいがゆらゆら揺れる乳房を持ち、身長が頭半分低かったが、それ以外に男女の相違はない。みな大きく、ぎらぎら光る凶暴な目と、頭の地肌すれすれまで刈りこんだ頭髪と、飢えた顔と、絶叫する口と、目立つ歯を持っていた。
われわれはチェルカジスと同様に自由に戦った。方陣にくぼみができたが、崩壊はしなかった。われわれの馬が息をついている間に、方陣は再構成され、ぴかぴかに磨き上げられた軽い楯が前面に並んだ。槍を持った一人の兵士が隊列から離れて、その武器を振りながらわれわれに向かって駆けてきた。わたしは最初、ただの脅しかと思い、それから、近くまでくると(普通の人間は軍馬よりもずっと足が遅い)、彼は降伏しようとしているのかと思った。しかし結局、われわれの線すれすれのところまでくると、彼は発射し、味方の隊員がそれを射殺した。断末魔の痙攣で、彼は噴炎槍を空中に投げ上げた。それが暗青色の空にねじれて飛んだ情景がまだ目に残っている。
グアザヒトが速歩でやってきた。「ひどく出血しているな。もう一度突撃するが、ついてこれるか?」
わたしはいつもと少しも変わらない力強さを感じていたので、大丈夫だといった。
「それにしても、その足は包帯したほうがいい」
焦げた肉が口を開き、血が滲み出していた。まったく負傷していないダリアが、そこに包帯を巻いてくれた。
しかし、こうして用意した突撃はついに行なわれなかった。(少なくとも、わたしに関するかぎり)意外きわまることに、馬を返せという命令が出た。そして、われわれは北東の、粗い草が風にそよいでいる、起伏のある広い場所に向かって速歩で離脱した。
野蛮人部隊は消えてしまったように思われた。彼らのいた場所の側面の、今はわれわれの前面になっている部分に、新たな部隊が出現していた。最初わたしは、あの茶色の本の中の絵で見たケンタウロスという動物に乗った騎兵かと思った。彼らの騎乗獣は人間の頭を持ち、その上に乗り手の肩と頭が見えた。その両方に腕があるように見える。もっと近くに寄ると、そんなロマンチックなものではないことがわかった――非常に背の高い人間の肩に、小さい人間――ありていにいえば小人だ――が乗っているだけだった。
われわれの進行方向はほとんど平行だったが、やがてゆっくりと一点に集中した。小人部隊は不機嫌な注意深さとでもいうべき表情でわれわれを見つめた。背の高い人間は、われわれのほうを少しも見なかった。ついに、われわれの隊列が彼らの隊列に一、二チェーン内に近づくと、われわれは停止して、彼らと向かいあった。わたしはこれまでに味わったことのない恐怖を覚えながら、この奇妙な騎手と奇妙な馬がアスキア人であることを知った。われわれの作戦は、彼らが小楯兵《ペルタスト》部隊の側面を襲うのを防ぐことだった。これは成功だった。今では、彼らが攻撃しようと思っても、われわれを突破してからでなければ不可能になっていたのだ。しかし、彼らの人数は五千人ほどあり、われわれの手に余るほどの大軍がまだ後ろに控えているのは確実だった。
しかし、敵は手を出してこなかった。われわれは停止し、轡《くつわ》に轡を接して密集隊型を取っていた。彼らはそれだけの大軍にもかかわらず、われわれの前を不安そうに右に左に揺れ動いていた。まるで、右側を通過しようという考えにとらわれたものの、次に左を通ろうと思いなおし、また次に右を通ろうとでも思ったみたいだった。しかし、仲間が後ろからわれわれに攻撃されるのを防ぐためには、まず軍勢の一部をさいてわれわれの前線と交戦しなければ、そこを通過することは不可能だった。われわれは戦闘を先に延ばしたいというように、射撃をしなかった。
方陣を離れてわれわれに襲いかかったあの孤独な槍兵と同じことをするやつが、今や現われた。背の高い兵士の一人が猛然と突進してきたのだ。片手に小枝と大差ない細い棒を持ち、もう一方の手はショテルと呼ばれる、刃の前半が半円形にカーブを描く両刃の剣を持っていた。もっとそばまでくると、彼は速度を緩めた。見るとその目が焦点を結んでいないことがわかった。実は盲目だったのだ。その肩の上の小人は、逆に反りを打った短い弓の弦に矢をつがえていた。
この二人がわれわれから半チェーン以内に接近すると、エルブロンが彼らを追い払うように二人の兵士を派遣した。彼らがその盲人のそばにいかないうちに、盲人は軍馬にも負けないほどのスピードで、しかも不気味に静かに走りだし、矢のようにこちらに向かってきた。八、九人の隊員が射撃した。だが、このようなスピードで移動する標的に命中させることがいかに難しいものか、わたしは思い知った。矢が当たり、オレンジ色の炎を上げて燃えた。一人の隊員が盲人の杖を払い除けようとし――ショテルがさっと振り降ろされ、その湾曲した刃がその隊員の頭蓋骨を真っ二つに割った。
やがて、敵の集団の中から三人の小人を乗せた三人の盲人のグループが離れた。彼らがわれわれのところまでこないうちに、さらに五つか六つのグループが続いた。前線のずっと先のほうで、味方の騎兵隊長《ヒツパルク》が手を上げた。グアザヒトが前進の合図をし、エルブロンが突撃ラッパを吹き鳴らした。その音――口の深い鐘がその中に含まれているように感じられる大音響――が左右に響きわたった。
その時には知らなかったが、純粋な騎兵同士の遭遇戦は、たちまちただの小競り合いに堕してしまう、というのが通り相場である。この場合もそうだった。われわれは彼らに向かって馬を走らせ、二十人か三十人の戦死者を出しながら、そこを通過した。そして、敵が小楯兵部隊の側面を衝くのを防ぐためと、そして、自分が味方の軍勢にふたたび接触するために、われわれはすぐに馬を返してまた交戦した。もちろん敵も振り向いて、われわれと対面した。そして、たちまちのうちに、味方にも敵にも前線と呼べるようなものはなくなり、めいめいの戦士が独自に創り出した戦術で交戦する以外になくなった。
わたし自身の戦術は、射撃の用意のできている小人はすべて敬遠して、そうでないものを後ろか横から攻めることであった。これは実際に応用できる場合には、非常にうまくいった。しかし、次のようなことがすぐにわかった。小人は乗っている盲人が殺されると、ほとんど手も足も出なくなるようだったが、その背の高い馬≠フほうは、乗り手がいなくても、闇雲に突進し、途中に立ちはだかるものには凶暴な力で襲いかかるので、以前にもまして危険な存在になるのであった。
小人の矢とわれわれの| 竿 《コントウス》の火で、あちこちで見るまに草が燃えだした。息が詰まる煙のために混乱がいっそう激しくなった。わたしはすこし前に、ダリアとグアザヒトと――そして、知り合いのすべて――を見失っていた。刺激臭のある灰色の霞を通して、突進する軍馬にまたがった一つの人影が、四人のアスキア人を撃退しているのが目に入った。わたしは彼のところにいった。一人の小人が盲目の馬≠回して矢を放ち、それが耳もとをかすめていったが、わたしは駁毛で彼らを蹂躪し、その蹄で盲人の骨をバリバリと砕いた。もう一つの小人盲人組の後ろの燻っているくさむらから、一つの毛むくじゃらの姿が立ち上がり、ペオン([#ここから割り注]中南米の労働者[#ここで割り注終わり])が木を切り倒すように、彼らを切り倒した――盲人の同じ場所を斧で三、四回切りつけ、ようやく倒したのである。
わたしが救援に駆けつけた騎馬兵は、われわれの隊の者ではなく、最初に右翼にいたあの野蛮人部隊の一人だった。彼は負傷していた。その血を見て、自分も負傷していることを思い出した。足はこわばり、体力はほとんどなくなっていた。方向さえわかっていたら、わたしは谷の南の尾根の味方の陣営に駆け戻りたかった。しかし、それがわからなかったので、駁毛の手綱を緩め、その手綱で力いっぱいひっぱたいた。というのも、こういった動物たちは、最後に水を飲んだり休息を取った揚所に戻っていくことがよくあると聞いていたからである。馬は普通駆足《キャンター》を始め、それからすぐに疾走に移った。一度馬がジャンプして、鞍から投げ出されそうになった。下を見ると、軍馬の死骸のそばに転がっているエルブロンの死骸がちらりと見えた。そして、焼けた芝土の上に真鍮のラッパと黒と緑の旗が投げ出されていた。わたしは駁毛の頭を返して、それを探しに戻りかけた。しかし、手綱を引いた時には、その場所はもうわからなかった。右手の煙の中に、騎馬隊の線が見えた。はっきりした形もほとんどない、ただの黒いぎざぎざの線だ。はるかその後方に、火を噴く一つの機械が不気味にそそり立っていた。まるで歩く塔とでもいうような機械が。
ある瞬間に、そのほとんどが見えなくなり、次の瞬間に、それは急流のようにわたしにふりかかってきた。乗っていたのがだれだったのか、いや、彼らが乗っていたのがどんな動物だったか、ここでいうことはできない。忘れてしまったからではなくて(わたしは何事も忘れない)、何ひとつはっきり見えなかったからである。この時は、戦いが問題ではなく、生きる方法を見つけることが問題だった。わたしは剣でも斧でもないねじれた武器の打撃を払いのけた。駁毛の愛馬は、後ろ足で立ち上がった。その胸に、火の角が生えたように一本の矢が突き立っているのが見えた。一人の騎馬武者がわれわれに激突し、われわれは暗闇の中に転落した。
[#改ページ]
23 海の大船が陸地を見る
意識を回復して、まず感じたのは足の痛みだった。足が駁毛の馬の体の下にはさまっていたのだ。わたしは、自分がだれかも、そして、なぜこんな場所にいるのかも、よくわからないうちに、しゃにむに足を抜き出そうとした。手も顔も、自分が横たわっている地面も血だらけだった。
静かだった――あまりにも静かだった。耳を澄ませて、蹄の響きを――ウールスそのものを太鼓にした、太鼓の響きを聞き取ろうとした。だが聞こえなかった。チェルカジスの叫びも、アスキア歩兵の方陣から聞こえてくるかん高い狂ったような叫びも、もはやなかった。わたしは体の向きをかえて鞍を押しやろうとした。だが、できなかった。
どこか遠くで、たぶん谷間を囲む峰の一つから、恐ろしい狼が月に向かって吠えていた。その人間のものでない吠え声(廷臣がシルヴァの近くに狩りにいった時に、セクラが一度か二度聞いたことがあった)のおかげで、目のかすみは、その日早くに起きた野火の煙のためではなく、また、恐れかけていたように頭の傷のためでもないことがわかった。あたりが薄暗くなっているのだ。しかし、それが夕闇なのか、夜明けの暗がりか、その判断はつかなかった。
わたしは休んだ。おそらく眠ったのだろう。やがて足音で目覚めた。あたりはいっそう暗くなっていた。のろく、柔らかく、重い足音だった。移動する騎兵隊の音でもなく、そうかといって行進する歩兵の規則正しい足音でもない――バルダンダーズより重いものが、もっとゆっくりと歩く足音だった。わたしは助けを求めようとして口を開き、また閉じた。前に猿人の洞窟で一度目覚めさせてしまったあの恐ろしいものよりも、もっと恐ろしいものを呼び寄せることになるのではないかと思ったからである。駁毛の死骸から体を引き離そうとすると、しまいには足が付け根から引きちぎれそうになった。最初の狼と同じように恐ろしく、しかももっとずっと近くにいる別の狼が、頭上の緑の島に向かって遠吠えをした。
子供の頃、わたしはよく想像力に欠けているといわれた。それが当たっているとすれば、それをわれわれの結合体に持ち込んだのはセクラにちがいない。なぜなら、心の中に恐ろしい狼が見えたからである。オニガー([#ここから割り注]原始的なろば[#ここで割り注終わり])ほどの大きさの、そいつらの黒い姿がしずしずと谷間に流れこんでくるのが見えたのだ。おまけに、そいつらが死体の肋骨を噛み砕く音まで聞こえた。わたしは何をしているかもわからないうちに、何度も大声をあげていた。
その重い足音は止まったようだった。前に、それがわたしのほうに向かってきていたかどうかは別にして、今はわたしのほうに向かっているのは確かである。草の葉のすれる音がした。メロンのような縞模様のある小さなフェノコッド([#ここから割り注]ねずみの一種[#ここで割り注終わり])が、わたしにはまだ見えない何物かに怯えて、跳び出した。そいつはわたしを見ると、ため息のような声を立てて、たちまち行ってしまった。
エルブロンのラッパは沈黙してしまったとさっきいった。しかし、別のラッパが今鳴った。これまで聞いたこともないほど深く、長い、荒々しい音だった。薄暗い空を背景にして、折れ曲がったオルフィクレイデ([#ここから割り注]金管楽器の一種[#ここで割り注終わり])の輪郭が見えた。その音楽が終わると、それは降りた。そして、さらに一瞬、演奏者の頭が、馬の背にのった騎兵のヘルメットの三倍ほど高い位置で、明るさを増す月を覆い隠すのが見えた。――もじゃもじゃの毛が生えた円屋根のような頭。
オルフィクレイデが、滝の轟きのような深い響きを伴ってもう一度鳴った。今度はそれが上がるのが見えた。その両側を守る白い巻き上がった牙が見える。わたしは、支配の象徴であるマンモスという動物の通路に横たわっていたのだ。
以前グアザヒトは、〈鉤爪〉を持っていなくても、わたしが動物にたいしてある程度の支配力を持っているといっていた。わたしは、それを使おうと努力してみた。自分にもわからぬことをつぶやきながら精神を集中し、しまいにはこめかみがずきずき癖くほどになった。マンモスの長い鼻が、探るようにわたしのほうに伸びてきた。先端の直径は、一キュビット近くもあった。鼻は子供の手のように軽やかにわたしの顔を触り、甘い枯れ草の臭いのする熱い湿った息を吐きかけた。駁毛の死骸が持ち上げられた。わたしは立ち上がろうとしたが、どういうわけか倒れてしまった。マンモスはわたしの腰に鼻を巻きつけて抱き起こし、自分の頭より高くかかげた。
最初に目に入ったのは、晩餐の皿ほどの大きさの黒い突き出したレンズのついた旋回機銃の銃口だった。それには操作席が取りつけられていたが、席にはだれもいなかった。銃手は下に降りて、ちょうど船乗りがデッキに立つように、銃身に手を当ててバランスを取りながらマンモスの首の上に立っていた。一瞬、わたしの顔に明かりが当たり、目がくらんだ。
「きみか。奇跡がわれわれに集中するな」その声は本当の男のものでもなく、女のものでもなかった。ことによったら少年のものといってもいいような声だった。わたしは話し手の足もとに横たわっていた。彼はいった。「怪我をしているな。その足で立てるか?」
立てるとは思えないと、わたしはやっと答えた。
「ここは横になるには不便な場所だ。落ちるには適当だがね。ずっと後ろにゴンドラがある。しかし、マミリアンの鼻ではあそこには届かない。きみはここに坐って、回転銃架によりかかるしかないだろう」
彼の小さくて柔らかい、湿った手が、腕の下に感じられた。彼がだれであるか教えてくれたのは、たぶんその触感だったろう。それは、雪の降り積もった〈紺碧の家〉で出会い、その後で、〈絶対の家〉の画廊にかかっている一枚の絵に見せかけた、巧みに奥行きを縮めたあの部屋で出会った、あの両性具有人《アンドロジン》だった。
≪独裁者だ≫[#≪≫は《》の置換]
セクラの記憶の中で、わたしは宝石をちりばめた衣を着ている彼を見た。彼はわたしを認識したといったが、朦朧とした意識では、それが信じられなかった。それで、昔教わった暗号文を口にした。「海の大船が陸地を見ます」
「そうだ。実際そうだ。しかし、もしきみが転落したら、マミリアンはきみを抱き止めるほどすばやくはないぞ……知恵があることは疑う余地がないがね。できるだけ彼に協力してやりたまえ。わたしは見かけほど強くない」
わたしは片手で旋回機銃の台座の一部をつかみながら、徽臭いマットのようなマンモスの皮膚の上をまわっていくことができた。「正直にいいますと、あなたは決して強そうには見えませんでしたよ」
「きみは職業的な目を持っているからわかるはずだ。しかし、きみの見積もりほどの力もわたしにはないのだ。それにひきかえ、わたしの目から見ると、きみはいつも角と煮革([#ここから割り注]蝋で煮て丈夫にした革[#ここで割り注終わり])でできているように見える。実際にそうであるにちがいない。さもなければ今頃は死んでいるはずだ。その足はどうした?」
「火傷だと思います」
「手当てをしなければならないな」彼はちょっと声をあげた。「帰る! 帰るぞ! マミリアン!」
「ここで何をしていらっしゃるのですか?」
「戦場を視察しているのだ。見たところ、きみは今日ここで戦ったらしいな」
わたしはうなずいたが、まるで頭が肩から転げ落ちそうな感じだった。
「わたしは戦わなかった……いや、戦ったのかな。しかし、個人的にではない。軽い補助集団に命令を下して戦闘に参加させたのだ。小楯兵部隊に支援してもらった。どうやら、きみも補助部隊の一つにいたようだな。友達に戦死者はいなかったか?」
「友達は一人だけでした。しかし、最後に会った時には彼女は無事でした」
彼の歯が月光を受けてきらりと光った。「女性への関心を持ちつづけているのだな。それは、前に話を聞いたあのドルカスのことか?」
「いいえ。それはどうでもよいのです」わたしは自分のいいたいことを、どのように表現してよいかわからなかった。(匿名者の正体を見抜いたことをあからさまにいうのは、このうえもなく不作法である)結局、なんとか喋った。「あなたはわれわれの共和国で高い身分をお持ちの方だとわかります。こんなことをお尋ねすれば、この動物の背中から突き落とされるかもしれません。でも、教えていただけますか? 大軍を指揮するお方が、〈|歓 楽 街《アルジェドニック・クォーター》〉であんな店をやっておられるのは、いったいどういうわけですか?」
わたしが喋っている間に夜の闇が急速に濃くなり、舞踏会のはねたあと、召使が細長い棒の先に金の司教冠《ミトラ》をぶら下げたような蝋燭の芯切りをもって歩いている広間の蝋燭のように、星が一つ、また一つと、輝きだした。ずっと遠方で両性具有人がいうのが聞こえた。
「きみは我等がだれか知っている。我等はそのもの自体だ。自己支配者、独裁者だ。我等はもっと多くを知っている。我等はきみがだれか知っている」
今にして思えば、マルルビウス師は死ぬ前に重病を患っていた。当時のわたしにはそんなことはわからなかった。なぜなら、病気という概念はわたしにとって他人事であったからである。少なくとも徒弟の半分が、いやたぶん半分以上が、職人に昇格しないうちに死んだ。しかし、われわれの塔が不健康な場所だとか、しょっちゅう泳ぎにいったギョルの下流が汚水溜同然ににごっているということは、わたしの頭にはついぞ浮かばなかった。徒弟はいつも死んだ。そして、われわれ生きている徒弟が彼らの墓を掘る。すると、土中から小さな骨盤や頭蓋骨が出てくる。われわれの後の世代の徒弟は、それらの白亜質の破片が鋤で小さく砕かれて、しまいにタール質の土に消えてしまうまで、何度も何度もそれらを再埋葬するのである。といっても、わたしはせいぜい喉が痛むとか、鼻水が出るとかいう病気にしかかからなかった――つまり、健康人を欺いて病気とはこんなものだと信じさせるのに役立つだけの病気にしかならなかったのである。しかし、マルルビウス師は本物の病気にかかっていた。それはいろいろな影に死を見ることだった。
小さなテーブルのそばにたたずむ師を見れば、師が後ろにだれか立っているのを意識していることが感じ取れた。彼はまっすぐ前を向き、決して首を回さず、ほとんど肩を動かさないが、われわれに話しかけているだけでなく、その未知の聞き手にも話しかけていたのだった。
「わたしは最善をつくして、おまえたち子供に学問の基礎を教えこんだ。それは、おまえたちの心の中で成長し、花を咲かせるべき木々の種なのだ。セヴェリアン、Qの字の形に注意しなさい。それは幸福な子供の顔のようにまん丸くなければいけない。それなのに、その片方の頬は、おまえの頬のように落ちこんでいるぞ。いいか、おまえたち、みんな見たな。脊髄が頂上に向かって伸び上がり、拡張し、そしてついに脳の無数の通路に花開いている様子を。ところが、こいつは、片方の頬が丸く、反対側は削げて萎縮している」
彼は震える手を石筆のほうに伸ばした。だが、石筆は彼の指を逃れてテーブルの縁から転がり落ち、カタンと床に当たった。彼は屈んでそれを拾い上げようとはしなかった。きっと、身を屈めるとその目に見えない存在がちらりと見えるかもしれないのを、彼は恐れたのだと思う。
「わたしはこれらの種子をわれわれの組合の徒弟に植えこむことに、生涯の大部分を費やした。いくらか成功したが、それほどではない。昔ある少年がいた。そいつは――」
彼は丸窓のところにいって、たん[#「たん」に傍点]を吐いた。わたしはそのすぐそばにいたので、滲み出た血が捻れた塊りになって落下するのが見えた。そして、師といっしょにいる黒い姿(死は煤色よりももっと黒い色をしている)が見えないのは、それが彼の内部にいるからだとわかったのだった。
死というものが、もはや古いかたちではわたしを怖がらせることができなくなった時に、新しいかたちの死、戦争というかたちの死が、わたしを怖がらせることがありうるとわかったように、今わたしは、肉体の弱さが、昔の師匠が感じていたにちがいない恐怖と絶望によってわたしを痛めつけることがありうると知った。意識が回復し、また消えた。
意識は春の気まぐれな風のように、やってきては消えた。そして、今まで記憶の断片に囲まれてよく不眠に悩んでいたわたしが、今は糸をもって落ちかかった凧を必死に上げようとしている子供のように、目を開けていようと努力していた。自分の怪我をした肉体以外のすべてを忘れることも、ままあった。受けた時にはほとんど感じなかった足の傷、そして、ダリアが包帯してくれた時にはほとんど努力しないで閉じこめることができた苦痛が、夏至の日の〈太鼓の塔〉の轟音のように、わたしの思考のすべての背景をなすほどの強さで、ずきずきと疼いた。わたしはずっと怪我をした足の上に寝ているように思いながら、右に左に体を回した。
目は見えずに、音を聞き、時には、耳で聞かずに、目で見た。わたしはごろりと首を回して、マミリアンのもつれた体毛から頬を離し、小さな蜂鳥の胸毛を織って作った枕の上に載せた。
一時、厳かな顔つきの猿たちが持つ、真紅とまばゆい金色の炎が踊る松明が見えた。角と牛の鼻面を持つ人間――生命を吹きこまれた星座――が、わたしの上に身を屈めた。わたしは彼に話しかけた。いつの間にか、喋っていた。自分は正確な誕生日を知らない。もし彼の牧場の優しい精神と偽りのない力がわたしの命を支配してくれたなら、礼を言う、などと。それから、自分が誕生日を知っていることを思い出した。その日が、白鳥座から太陽が昇る日であり、父が死ぬまで、毎年わたしのために舞踏会をもよおしてくれたことを思い出した。相手は首を回して、片方の茶色の目でわたしを見つめながら、熱心に耳を傾けた。
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24 飛翔機
顔に日が射した。
わたしは体を起こそうとした。実際、片肘をつくことに成功した。わたしはちかちか光る色彩の球に包まれていた――紫に藍、紅玉に紺碧。そして目に落ちかかる剣のように、これらの魔法の色彩を貫く太陽の明るい黄色。やがて、太陽の光が遮られて消えた。すると、その強い光が何を覆い隠していたかがわかった。多彩な絹のドーム型のパビリオンの中に寝ていたのだ。一つのドアが開いていた。
前にマンモスに乗っていた人が、わたしに向かって歩いてきた。彼に会う時にはいつもそうだが、この時もサフラン色の衣を着ており、武器にしては軽すぎる黒檀の棒を持っていた。
「回復したな」彼はいった。
「はい、といいたいところですが、話をする努力だけで死んでしまうかもしれません」
それを聞いて、彼はにっこり笑った。といっても、その笑いは口のねじれにすぎなかったけれども。「きみなら、ほかのだれよりもよく知っていると思うが、我等がこの世で堪え忍ぶもろもろの苦痛は、来世で犯すであろう楽しい犯罪や愉快な忌み事のすべてを可能にしてくれる……きみはそれらを熱心に集めているのではないか?」
わたしは首を振り、頭をまた枕に乗せた。柔らかい枕はかすかな徽《かび》の臭いがした。
「それでもよかろう。きみがあの世にいくには、まだかなり間があるからな」
「あなたの医者がそういうのですか?」
「わたしはわたし自身の医者だ。そして、わたしみずから、ずっときみの治療をしていたのだ。ショックが基本的な問題だった……老婦人の心身障害と似たようなものでね。きみも、今そう考えているだろう。だが傷を負った男性も、それがもとで死ぬことがきわめて多いのだ。もしショック死するわたしの患者のすべてを生かしてくれるといわれれば、わたしは心臓を突かれて死ぬことにためらわずに同意するよ」
「あなたが、あなた自身の医者であり――そして、わたしの医者でもあるとすると、真実を話してくださっているのですか?」
これを聞くと、彼の笑いがさらに広がった。「わたしは常にそうしている。この地位にいると、嘘のもつれを解く暇がないほど多くを喋らなければならない。もちろん、きみも理解しているにちがいないが、真実は……これは、農民のかみさんたちが話題にするようなささいな普通の真実のことであって、きみと同様にわたしも言い表わすことのできない究極の普遍的な〈真実〉のことではないが……真実のほうが人を欺きやすいのだ」
「意識を失う前に、あなたが独裁者だとおっしゃるのを聞きましたが」
彼はわたしの横に、まるで子供のようにどさりと音を立てて、厚い絨毯の上に坐った。「いった。そのとおりだ。びっくりしたかね?」
わたしはいった。「〈紺碧の家〉でお会いしたのがあなただと、あれほどはっきり思い出さなかったら、もっと驚いていたでしょうね」
(雪に覆われた、足音を消す雪の降り積もった、あのポーチは幽霊のように絹のパビリオンの中に立っていた。独裁者の青い目と自分の目が合うと、わたしはロッシュが横の雪の中に立っているのを感じた。われわれは二人ともあまりよく似合わない、着なれない衣服を着ていた。中に入ると、セクラではない女がセクラに変身した。それはちょうど、後にわたしが最初の男性、メシアに変身したのと同様だった。俳優は自分の演じる人物の精神をどの程度まで身につけることができるといえるだろうか? わたしが捕吏の役を演じた時は、なんということもなかった。なぜなら、それが実生活の自分と非常に近かったからいや、少なくとも、自分がそういう存在だと信じていたから。しかしメシアを演じた時には、それ以外には決して考えないようなことを、考えたこともあった。それは、セヴェリアンにとってもセクラにとっても等しく異質な考えで、物事の始まりという考え、世界の夜明けという考え、であった)
「きみも覚えているだろうが、わたしは独裁者だけをしている[#「だけをしている」に傍点]といった覚えはない」
「〈紺碧の家〉でお会いした時、あなたは宮廷の小役人のように見えました。あなたがそうおっしゃらなかったことは認めます。しかし、あの時わたしは、そうだとわかったのです。そして、タロス博土にお金を渡したのは、あなただったのでしょうね?」
「あの時に尋ねられていたら、赤面せずにいえただろうに。それは完全に真実だ。実際、わたしは、自分の宮廷のいくつもの下役を勤めているのだ……当然ではないか? そのような役人を任命するのはわたしの権限だ。だから、自分自身を任命することもできる道理ではないか。独裁者からの命令は、一つの補助手段としては重すぎることが多いのだよ。きみだって、持ち歩いていたあの斬首剣で、鼻を削ぐようなことは決してやらなかったろう。独裁者の命令は出すべき時期があるし、また三級財務官の書簡にもそれなりの時期がある。そして、わたしはその両方であり、ほかにもいろいろとやっているのだ」
「そして、〈|歓 楽 街《アルジェドニック・クォーター》〉のあの家では――」
「わたしは犯罪者でもあるのだよ……きみと同様にな」
愚かさには際限がない。宇宙空間そのものは、それ自体の湾曲によって境界をつけられているという。しかし、愚かさは無限を超えて続いているのだ。わたしは本当に頭がよいわけではないが、少なくとも自分は慎重であり、単純な物事を覚えるのが早いと思っており、またジョナスやドルカスと旅をしていた時には、常に自分は実際的であり先見の明があると自負していた。しかし今この瞬間まで、法体系の頂点に立つ独裁者の地位と、わたしがヴォダルスの密偵として〈絶対の家〉に潜入したことを彼が確実に知っているという事実とを結びつけて考えたことはなかった。その瞬間、わたしはできることなら飛び上がってパビリオンから逃げ出したいと思った。だが、足は水のように力が入らなかった。
「われわれはみんなそうだ――法の執行者はすべて犯罪者でなければならないのだ。きみの組合の同僚は、もし自分も同様の罪を犯していたなら、きみに対してそれほど厳格な態度をとったと思うかね?――わたしのスパイの報告によれば、彼らの多くはきみを殺したいと思ったそうだ。きみは彼らにとって危険な存在だったのだ。もしきみを厳罰に処さなければ、彼らがいずれ同様の誘惑を受けるかもしれないからだ。みずから罪を犯さない裁判官や獄吏は、怪物だ。彼らは自存神《インクリエート》だけのものである赦免を盗み取ったり、誰のものでも、何のものでもない苛酷な処分を実行したりする。
だから、わたしは犯罪者になった。暴力犯罪はわたしの人類愛に悖《もと》る。そして、窃盗に必要な手と思考のすばやさは、わたしには欠けている。しばらく迷った末……たぶん、きみが生まれた頃に……わたしは天職を見いだした。それは、今となっては、なくては満足できないような、ある感情的必要を扱う職業だ……そして、わたしは人間の天性について一つの知識を持っている、本当に持っているのだぞ。いつ賄賂を差し出すべきか、いくら差し出すべきか、そしてもっとも大切なことだが、差し出してはならないのはいつか、わたしは正確に知っているのだ。また、わたしのために働く女たちがその仕事を続けようと思うほど幸福に思い、しかも自分の宿命に不満足でいさせるにはどうすればよいか、知っている……。
彼女たちはもちろん、高貴人の婦人の体細胞から培養された|影=sカーイビット》であって、血液の交換によって高貴人の若さを延長するためのものなのだ。わたしが取りまとめる邂逅を、純情なローマンスとわびしい売春との中間のものではなく、珍しい体験だと客人に感じさせる、それが、わたしの腕なのだ。きみは珍しい体験をしたと感じただろう?」
「わたしたちも、そう呼ぶんですよ」わたしはいった。「〈客人〉と」わたしは彼の言葉だけでなく、その声の調子にも耳を傾けていた。前に会ったどちらの場合にも彼は上機嫌には見えなかったが、今は機嫌がよかった。そして、彼のお喋りを聞くのは、つぐみの囀《さえず》りを聞くようなものだった。彼はそれをほとんど自覚しているといってもよい態度で、顔を上げ、喉を張り出し、|取りまとめる《ア レ イ ン ジ》≠ニかローマンス≠フRを、日光に向かって転がすように震わせた。
「これは役にも立つ。大衆の底辺に触れることができる。だから、税が本当に徴収されているかどうか、それらが公平だと考えられているかどうか、社会のどの分子が興隆し、どの分子が凋落しているかがわかる」
わたしのことをいっているのだと感じたが、どういう意味かはわからなかった。「宮廷からのあの婦人たちのことですが」わたしはいった。「なぜ、本物を使わなかったのですか? 彼女らの一人はセクラを装っていました。セクラがわれわれの塔の地下に監禁されていた時にです」
彼は、わたしがとりわけ愚かしいことをいった(まさにそのとおりだったが)とでもいう目つきで、わたしを見た。「もちろん、彼女たちが信用できないからだ。ああいうことは秘密にしておかねばならない……暗殺される可能性を考えるとな。これらの古い家柄の金ピカの人たちが、わたしの面前であのように深くお辞義をし、微笑み、慎み深い冗談やちょっと淫らな誘いを囁くからといって、わたしにいくらかでも忠誠心を抱いていると、きみは思うかね? そうでないことは、きみにもわかるだろう。わたしの宮廷には信用できる者はほとんどいない。そして高貴人の中には一人もいないのだ」
「そうでないことはわかるだろうと、おっしゃいましたね。とすると、わたしを処刑させるつもりはないのですか?」わたしは自分の首の脈搏を感じることができ、真っ赤な血の滴りを見ることができた。
「きみがわたしの秘密を知ってしまったからか? いいや、あの絵の裏の部屋で話したように、きみには別の使い道がある」
「わたしがヴォダルスに忠誠の誓いをしているからですね」
これを聞くと、彼はおかしくてたまらない様子で、顔をのけぞらせて笑った。ちょうど、精巧な玩具の秘密を発見したばかりの、ぽちゃぽちゃした可愛い子供のように。その笑いが納まって、ついに陽気な喘ぎに変わると、彼は両手を打ち合わせた。柔らかく見える手のわりには大きな音だった。
体は人間の女性、頭部は猫、という姿の生物が二匹入ってきた。彼女たちの目は間隔が一スパンもあり、大きさは李《すもも》ほどもあった。彼らはダンサーがよくやるように、しかし、今まで見たどんなダンサーよりも優雅に、爪先で歩いてきた。その動作を見ると、これが彼女らの普通の歩き方なのだということが、なんとなくわかった。彼女らは人間の女の体をしているといったが、それは必ずしも正しくない。なぜなら、わたしに着物を着せるその短く柔らかい指に、鉤爪の先がひそんでいるのが見えたからである。わたしは一人の手をつかんで、よく馴染みの猫の前足にするように、押してみた。すると、引っこめられている鉤爪が見えた。それらを見ると、わたしの目に涙が浮かんだ。なぜなら、それらは、無知なわたしが〈調停者の鉤爪〉と呼んだ宝石の中に隠されていた〈鉤爪〉と同じ形をしていたからである。独裁者はわたしが泣くのを見て、おまえたちは彼を痛がらせているから下に降ろすようにと、女人猫《ウーマン・キャット》にいった。
わたしは母親を二度と見ることができないと知った幼児のように感じた。
「痛がらせてはいません、レジオン様」一人が聞いたこともないような声で不満をいった。
「降ろせといっているのだ!」
「彼女らはわたしの皮膚をこすってさえもいませんよ」わたしは彼にいった。
女人猫に支えてもらえば、歩くことができた。すべての影が太陽をひと目見て逃げる朝がきた。わたしの目を覚ましたのは、新しい日の最初の光だった。朝の新鮮な空気で肺を満たし、まばらな草の上を歩くと、擦り減ったブーツが露で黒くなった。淡い星のようにかすかな風で髪がそよいだ。
独裁者のパビリオンはとある丘の上に立っていた。それをぐるりと取り巻くように、彼の軍隊の野営地が広がっていた――黒や灰色のテント、そのほか枯れ葉のようなテント、芝で覆った小屋、地下の退避壕に通じる縦穴。今、それらから兵士たちが銀蟻のように流れ出してくる。
「われわれは警戒しなければならないのだ」彼はいった。「前線からある程度離れてはいるが、もしもっとわかりやすい場所なら、上からの攻撃を招くだろう」
「あなたの〈絶対の家〉がなぜ庭園の地下にあるのか、不思議に思ったものです」
「その必要は今はなくなったが、昔、敵がネッソスを荒廃させた時があったのだよ」
われわれの足の下と周囲で、トランペットの銀の唇が鳴った。
「わたしが眠ったのはひと晩だけですか」わたしは尋ねた。「それとも丸一日眠ってすごしたのでしょうか?」
「いや、ひと晩だけだ。傷の痛みを和らげ、化膿を防ぐ薬を与えた。今朝はきみを起こすつもりはなかったのだが、きてみたら、きみは目を覚ましていた……ああ、もう時間がない」
よく意味がわからなかった。それを尋ねないうちに、裸同然の六人の男が綱を引っばっているのが見えた。とっさの印象は、巨大な風船のようなものを引き降ろしている、というものだったが、それは飛翔機だった。そして、その黒い胴体を見ると、独裁者の宮廷の記憶が生き生きと蘇った。
「えーと、なんていう名前でしたっけ? そう、マミリアン――に乗るのだと思っていたのですが」
「今日はペットには乗らない。マミリアンはすばらしい戦友だ。静かで、賢くて、わたし自身の意志から独立した意志で戦うことができる。しかし、すべてを総合すれば、わたしは楽しみで彼に乗るのだよ。今日はアスキア人の弓から弦をひと筋盗んで、ある機械を使う。彼らはこちらからいろいろ盗むからな」
「着陸するために動力をつかうというのは本当ですか? あなたの飛行士の一人が前に教えてくれたように思うのですが」
「きみがセクラの方だった時のことだろう。純粋のセクラだった時の」
「はい、もちろんそうです。独裁者様、こんなことをお尋ねするのは愚かなことでしょうか? なぜ、わたくしをお殺しになったのか、そして、どうして今のわたくしを知っていらっしゃるのか?」
「それは、この若い友人の顔にきみの顔が見え、彼の声にきみの声が聞こえるからだ。きみの乳母もきみを知っている。彼女らをごらん」
わたしは見た。女人猫が恐れと当惑のために顔を歪め、牙をむきだすのが見えた。
「なぜきみが死んだかについては、飛翔機にのってから……時間をみて――彼に話すことにする。さあ、帰りなさい。彼が健康を害して衰弱しているから、きみは出現しやすいのだ。しかし、今わたしに必要なのは彼であって、きみではない。帰らなければ、方法があるぞ」
「あの――」
「え、セヴェリアン? 怖いのか? 今までにこのような考案物に乗ったことはないのか?」
「はい」わたしはいった。「でも、怖いのではありません」
「動力について質問したことを覚えているか? ある意味ではそのとおりだ。この浮揚力は、磁場による捕捉機構に保持された鉄に相当する反物質《アンティマター》によって供給される。|反・鉄《アンティ・アイアン》は逆の磁力構造を持つので、正常磁力《プロマグネティズム》から斥力を受ける。この飛翔機の建造者はそれを磁石で囲んだ。だから、それが中央の所定の位置から外れると、より強い磁場に入って、押し戻される。反物質世界では、その鉄は大きな漂石ほどの重量があるのだろうが、このウールス上では、この飛翔機の建造に使われた正常物質《フロマター》の重さと釣り合う。わかるかな?」
「そのつもりですが」
「問題は、そのチェンバーを密封することが、われわれのテクノロジーでは不可能なことだ。いくらかの大気――少しばかりの分子――が溶接の小孔から忍びこんだり、磁石のワイヤーの絶縁物を貫通して入ってくる。それらの分子のひと粒ひと粒が、|反・鉄《アンティ・アイアン》の中の等価物を中和して、熱を発生する。そのたびごとに飛翔機は浮揚力の極微の量を失うことになる。だれでも思いつく唯一の解決策は、できるだけ高空に飛翔機をおいておくことだ。そうすれば、実際上、空気の圧力がなくなるからね」
飛翔機は今こちらに向かって降下してきた。そして、その流麗な線の美しさを堪能できるほど近くまできた。それはまさに桜の葉の形をしていた。
「すべてを理解できるわけではありませんが」わたしはいった。「効果が現われるほど、飛翔機を高いところに浮かしておくには、ずいぶん長い綱がいるでしょうね。そして、もしアスキア人の五腕跳空機《ペンタダクテイル》が夜やってきたら、綱を切って飛翔機を流してしまうでしょうね」
女人猫たちはこれを聞くと、唇をちょっと歪めて、ひそかに笑った。
「綱は着陸に使うだけだ。綱がないと、飛翔機が降下するのに長い距離が必要になる。急速に前進しなければ降下できないからだ。さて、われわれが下にいるのを知ると、飛翔機はケーブルを落とす。ちょうど、池の中にいる人が、引き出してもらうために、ほかの人に向かって手を差し出すようなものだ。飛翔機はそれ自身の意志を持っている。といっても、マミリアンの意志とはちがう――われわれが飛翔機のために作ってやった意志だがね。それによって、飛翔機が困難を避けて留まっており、われわれの信号を受け取ると、降りてこられるようになっているのさ」
飛翔機の下半分は不透明な黒い金属でできていて、上半分はほとんど目に見えないほど透明なドームになっていた――その物質はたぶん〈植物園〉の屋根の物質と同じだろう。船尾から、マンモスが携帯していたような銃砲が一門突き出しており、船首からはその二倍も太い砲が一門突き出していた。
独裁者は片手を口もとに上げて、手のひらになにごとかささやいたようだった。ドームに一つの口があいて(まるでシャボン玉に穴が開いたようだった)、蜘蛛の巣の梯子のように、細くて非物質的に見えるひと筋の銀色の階段が、われわれに向かって降りてきた。胸をむきだしにした男たちは、綱を引いて遠くまでいってしまった。「これが登れそうか?」独裁者が尋ねた。
「両手を使えば」わたしはいった。
彼は先に登っていった。その後をわたしは、負傷した足を引きずりながら、恥ずかしい恰好で登っていった。胴体のカーブに沿って、座席が両側に長いベンチ状になっており、毛皮張になっていた。しかし、触ってみると、この毛皮も氷のように冷たかった。わたしの後ろで穴が縮小して、消えた。
「どんなに高く昇っても、この中は地表と同じ気圧になっている。窒息の心配はない」
「残念ながら、恐怖を感じるほどの知識がありません」
「もとの部隊を見たいだろう? ずっと右の方だ。しかし、見やすい位置に持ってきてやろう」
独裁者は操縦席についていた。機械といえば、わたしはこれまでに、テュポーンのもの、バルダンダーズのもの、そして〈剣舞《マタチン》の塔〉でグルロウズ卿[#校正3]が操作していたものくらいしか見たことがなかった。わたしが恐れていたのは、機械でもなければ、窒息でもなかった。だが、その恐怖をわたしは必死に抑えた。
「昨夜、救助してくださった時は、わたしがあなたの軍隊にいたことをご存じなかったようでしたね」
「きみが眠っている間に調査したのだ」
「そして、わたしたちに前進の命令を出されたのは、あなただったのですか?」
「ある意味ではな……結果的にきみをそのように動かすことになる命令を下したのだ。しかし、それはきみたちの部隊とは直接関係はない。わたしのしたことを恨んでいるか? 入隊した時には、決して戦う必要はないだろうと思ったのではないか?」
われわれは大空高く舞い上がっていった。というより、前にわたしがそうなるのを恐れたように、天にむかって落下していった。しかし、そこで、あの煙やラッパの真鍮の叫び、風を切って飛んでくる太矢で血糊となって吹っ飛ばされた隊員のことが思い出され、すべての恐怖が怒りに変わった。「戦争のことは何も知りませんでした。あなたはどれほど知っていらっしゃるのですか? ご自分が実際の戦闘に参加したことはあるのですか?」
彼は肩ごしにわたしをちらりと見た。その青い目がきらりと光った。「千回もある。きみは普通の考え方で、二回だ。わたしは何回ぐらいだと思ったのかね?」
わたしの答えはずっと後になった。
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25 アギアの慈悲
ウールスの表面に、軍隊が色とりどりの武器や甲胃をきらめかせて、まるで眼前に花輪を広げたように展開するのを見ていると、まずこれ以上に不思議なものはありえないとわたしは思った。その上空の、われわれとほぼ同じ高さのところを、翼のあるアンピエルが輪を描いたり、暁の風に乗って上昇したりしながら舞っていた。
やがて、もっと不思議なものが見えた。それはアスキア軍だった。彼らは水色がかった白色と灰黒色をしていて、われわれの軍隊が流れるように動くのに対して、固い動きをしながら地平線のあたりに展開した。わたしはそれを眺めるために前に出ていった。
「もっとそばで見せることもできるが」独裁者はいった。「そうすると、人間の顔だけを見ることになる」
わたしをテストしているのだ。もっとも、どんなテストをしているのかわからなかった。
「それを見せてください」わたしはいった。
前に傭兵騎兵隊《スキアヴォーニ》とともに馬に乗って、味方の部隊が戦闘に参加するのを見た時には、彼らが集団になると弱々しく見えることにびっくりしたものだ。騎兵隊全体が、非常な力をもって激突する波のように満ちたり引いたりし――それからただの水のように流れ去る。それは、子供でさえも手ですくうことができる白鼠一匹の重さをも支えることができないほど弱々しいものに見えた。密集隊形をとり、クリスタルの楯を持った小楯兵部隊さえも、テーブルの上の玩具ほどの凄さもなさそうだった。それにひきかえ、何万人もの兵士が砦ほどの大きさの機械類を擁《よう》して肩と肩を接している、敵の密集隊形がいかに強そうに見えるか、今わたしは思い知った。
しかし、操縦パネルの中央のスクリーンに、彼らの面頬の下が映っていた。あれほど堅固で強そうに見えたものが、すべて溶けあって一種の凄惨な絵巻に変わった。その歩兵の隊列に、老人や子供や、白痴に見えるものまで混じっていたのである。ほとんど全部が、前の日に見たのと同様のあの狂った飢えた顔をしていた。そしてわたしは、あの隊列を離れて飛び出してきて、死に際に槍を空中に投げ上げた兵士を思い出して、目をそむけた。
独裁者は笑った。その笑いには今は喜びは含まれていなかった。それは烈風にはためく旗の音のように、そっけない音でしかなかった。「自殺を見たのか?」
「いいえ」わたしはいった。
「それは運が良い。彼らに注意していると、よく見かける。彼らは戦闘準備ができるまで、武器を渡されない。そして、その機会を利用する者が大勢いる。槍兵は普通、武器の柄を柔らかい地面に突き立てて自分の頭を吹き飛ばす。一度は二人の剣兵――一人は男、一人は女だった――が盟約を結ぶのを見た。彼らはたがいに相手の腹を刺しちがえたのだ。最初見ていると、彼らは左手を動かしながら、一……二……三と数を算え、そして死んだ」
「彼らは何者ですか?」わたしは尋ねた。
彼はわたしに、解釈のしようのない視線を投げた。「なんだって?」
「彼らは何者か? とお尋ねしたのです。彼らがわれわれの敵であり、北方の暑い国々に住んでおり、エレボスの奴隷になっているといわれていることは、知っています。しかし、彼らは何者なんですか?」
「今まで、きみは自分が知らないということを、知らなかったのではないか?」
喉がからからに渇いているのを感じたが、なぜそうなったのかはわからなかった。わたしはいった。「たぶんそうだと思います。ペルリーヌ尼僧団の避病院に入るまで、会ったことはありませんでした。南部にいると、戦争はずっと遠くのことに思われるのです」
彼はうなずいた。「彼らはかつて南に押し寄せたが、我等はその半分まで北に押しかえしたのだ。我等独裁者たちがな。彼らが何者なのか。きみはやがて知るだろう……重要なのは、知りたがっているという、そのことなのだ」彼は言葉を切った。「どちらも我等のものになりうる。南に向かうものだけではなく、両方の軍隊がだ……両方取れと、きみなら忠告するか?」彼は喋りながら、一つの操縦装置を操った。すると飛翔機は、尻を空に、舳先を緑の地面に向けて、われわれを戦場に振り落とそうとでもするように、前に傾いた。
「おっしゃる意味がわかりません」わたしは答えた。
「彼らについてきみがいったことは、半分正しい。彼らは北の暑い国からきたのではなく、赤道直下に横たわる大陸からきたのだ。しかし、彼らがエレボスの奴隷だというのは合っている。彼ら自身は、深海で待っているものたちの同盟者だと考えている。実際は、エレボスとその同盟者は、彼らをこちらに与えるつもりでいるのだ。もし、わたしが彼らにわがほうの南を与えればね。きみと、そのほかのすべてを与えればだ」
わたしは彼のほうに落ちないように、座席の背をつかんでいなければならなかった。「なぜ、わたしにそれをお話しになるのですか?」
飛翔機は水溜まりの子供のボートのように、ぐらぐら揺れてもとに戻った。
「なぜなら、きみが感じるようなことを他人がすでに感じているという事実を、きみはいずれ知らなくてはならなくなるからだ」
わたしは尋ねたい事柄を、質問のかたちに整えることができなかった。ついに、わたしは思いきっていった。「なぜあなたがセクラを殺したのか、ここで話してくださるとおっしゃいましたね」
「彼女はセヴェリアンの中に生きているではないか?」
心の中の窓のない壁が倒れて砕けた。わたしは叫んだ。「わたくしは死にました[#「死にました」に傍点]!」その言葉が唇を通り抜けるまで、自分が何をいったか、わたしにはわからなかった。
独裁者は操縦席のパネルの下からピストルを取り出し、わたしのほうに体を向けて、それを膝に乗せた。
「その必要はないでしょう、独裁者様」わたしはいった。「こんなに弱っているのですから」
「きみにはいちじるしい回復力がある……それはすでに見ているよ。そうだ、女城主セクラは逝ってしまった。もっとも、きみの内部で持ちこたえているがな。そして、きみたち二人はいつもいっしょにいる。二人とも淋しいのだ。きみはまだドルカスを探しているのか? きみは彼女のことをわたしに話した。覚えているだろう。ほら、あの〈秘密の家〉で会った時だ」
「なぜセクラをお殺しになったのですか?」
「わたしが殺したのではない。きみの間違いは、あらゆる事件の裏にわたしがいると思っていることだ。だれもいない……わたしも、エレボスも、ほかのだれも。あの女城主についていえば、きみが彼女だ。きみは公然と逮捕されたのかね?」
そんなことがありうるとは思っていなかったほど明瞭に、記憶が蘇った。わたしは銀色の悲しげな顔の仮面が壁に並んでいる回廊を歩いていき、天井が高くて徽臭い大昔のタペストリーがかかっている放棄された部屋の一つに入った。会うことになっている密使はまだきていなかった。埃っぽい長椅子に坐るとガウンが汚れるのがわかっていたので、鍍金《めっき》した黒檀の華奢な椅子に坐った。後ろの壁にはタペストリーがかかっていた。見上げると、全部色つきの毛糸で編まれた、冠をかぶり鎖で縛られた〈運命の神〉と、杖と眼鏡を持った〈不満の神〉が、わたしの上に降りてこようとしているのが見えたことを覚えている。
独裁者がいった。「ある役人たちが、きみが腹違いの妹の愛人に情報を伝えていたことを知って、きみを誘拐した。きみは密かに連れ出された。なぜなら、きみの家族は南部で大きな影響力を持っていたからだ。そして、ほとんど忘れ去られた牢獄に運ばれた。何が起こったかをわたしが知った時には、きみはすでに死んでいた。わたしの留守中にそのようなことをしでかした役人どもを、処罰すべきだったというのか? 彼らは愛国者であり、きみは反逆者なのだぞ」
「わたしセヴェリアンもまた、反逆者です」わたしはいった。そして、自分がかつてヴォダルスを救い、後に彼の宴に参加したことを、初めて詳しく話して聞かせた。
話を聞きおえると、彼は納得したようにうなずいた。「きみがヴォダルスに対して抱いていた忠誠心の大部分は、おそらくあの女城主から生じたものだ。ある部分は、彼女がまだ生きていた間に彼女から分け与えられたものであり、もっと多くは、死後に分け与えられたものだ。きみがいくら世間知らずだったとはいえ、食屍者たちによって供せられた肉が彼女のものであったことが、偶然の一致だと考えるほど、世間知らずではあるまい」
わたしは抗議した。「たとえヴォダルスが、わたしとセクラの関係を知っていたとしても、彼女の死体をネッソスから運んでくる時間はありませんでした」
独裁者は微笑した。「きみが救った時、彼はこれと同じような乗物で逃げたと、さっきいったではないか? 彼が〈市の壁〉の外側の、ほとんど十リーグも離れていないあの森からネッソスの中心まで飛んできて、初春の冷たい土の中に保存されていた死体を掘り出し、一刻以内に戻るというのは、可能だったろう。実際、彼はそう多くを知る必要はなかったし、それほどすみやかに行動する必要もなかった。きみが組合の仲間に監禁されている間に、彼は、自分に対して死ぬほど忠実だったセクラの方《かた》がすでにいないことを知ったのかもしれない。彼女の肉を追従者に食べさせたのは、それで彼らの忠誠心を強めるつもりだったのだろう。彼女の死体を取る動機は、それ以外に必要なかった。そして、彼女を地下室か、またはあの地方にいくらでもある廃坑の一つの雪の中に埋め替えたにちがいない。きみが到着し、彼との結合をのぞみ、彼はセクラの方《かた》を持ち出すことを命じたのだ」
何かが、目にも止まらぬ早さで通過し――一瞬の後、その動きの余波を受けて、飛翔機は猛烈に揺れた。スクリーンを火花が駆け回った。
独裁者が操縦装置に手を戻さないうちに、われわれは後ろにすっ飛ばされた。精神が麻痺しそうな大爆発が起こり、震動する空が黄色い火の花となって開いた。わたしの目に、イータのパチンコに打たれた雀が、今のわれわれのように空中でふらつき、同じように傾いて、ばたばたしながら落下していくのが見えた。
気がつくと、あたりは真っ暗だった。鼻を刺すような煙が立ちこめ、新鮮な土の臭いがした。一瞬か、または一刻の間かわからないが、わたしは救助されたことを忘れて、ダリアとわたしがグアザヒトやエルブロンやそのほかの兵士とともに、アスキア人と戦ったあの野原に横たわっていると信じていた。
だれかが、そばに横たわっていた――その人の息づかいが聞こえ、動いていることを示すぎしぎしいう音や、がりがりいう音が聞こえた――しかし、最初わたしはそれらに注意を払わなかった。それから、餌をあさっている動物の音だと思い、怖くなった。またしばらくすると、何が起こったか思い出し、きっと独裁者の立てている音だと思った。わたしとともに墜落したのに彼も生きているのだろうか。わたしは声をかけた。
「では、まだ生きているのか」彼の声は非常に弱々しかった。「きみは死ぬだろうと思ったが……考えが足りなかった。わたしはきみを蘇生させることができなかったし、きみの脈はとても弱かった」
「忘れていました! わたしたちが軍隊の上空を飛んでいたことを覚えておいでですね? しばらくの間わたしは忘れていました! 忘れるとはどういうことか、今わかりました」
彼の声にはかすかな笑いが含まれていた。「今度はいつも思い出すだろう」
「だといいのですが。でも、こうして話している間にも薄れていきます。霞のように消え失せます。これ自体が忘却ということにちがいありません。わたしたちを撃墜したのは、どんな武器だったのですか?」
「わからない。しかし、聞きなさい。これはわたしの生涯で、もっとも重要な言葉だ。いいか。きみはヴォダルスと、彼の帝国再生の夢に奉仕してきた。人類がふたたび星々にいくことを、きみはまだ望んでいるのではないか?」
わたしはヴォダルスが森でいったことを思い出した。「星々の間を航行し、銀河から銀河へ跳躍する、太陽の娘たちの主人であるウールスの人々」
「かつては、そうだった……そして、彼らはウールスのむかしの戦争のすべてをもたらし、また、若い太陽たちの間で、新しい戦争に火をつけた。彼らですら」(彼の姿を見ることはできなかったけれども、その口調から、アスキア人を指していることがわかった)「二度とそういうことがあってはならないと理解している。彼らは人類が単一の個人になることを欲している……数限りなく同一の、複製品のような。一方われわれは、一人一人が全人類とその願望のすべてを身内に蔵することを願っている。きみは、わたしが首にかけていたあの小瓶に気づいたかな?」
「はい、しばしば気になりました」
「これはアルザボのような|薬 物《ファルマコン》が入っている。すでに混合して懸濁液になっている。もう腰から下が冷たくなってきた。わたしはまもなく死ぬ。わたしが死ぬ前に……きみが使用しなければならぬ」
「あなたが見えません」わたしはいった。「そして、ほとんど身動きできません」
「にもかかわらず、何とかしなくてはならない。きみはあらゆることを覚えている。だから、〈紺碧の家〉にきた夜のことを思い出すにちがいない。あの夜、ほかのある者がわたしのところにきた。わたしはかつては〈絶対の家〉の使用人だった……だから彼らはわたしを憎むのだ。きみも憎まれるぞ。前歴が前歴だから。パエオンという人がいる。彼はわたしを教育してくれた。五十年前には蜂蜜管理官だった男だ。わたしは彼が本当は何なのか知った。なぜなら、それ以前に彼に会っていたからだ。彼はきみがそれだと……次の人だと、教えてくれた。こんなに早くそうなるとは思っていなかった……」
言葉が聞こえなくなった。わたしは彼のほうに手探りしながら、這いはじめた。手が彼の手を探し当てた。すると彼はささやいた。「ナイフを使え。われわれはアスキア人の戦線の後ろにいる。しかし、きみを救助するように、ヴォダルスに呼び掛けてある……彼の軍馬の蹄の音が聞こえる」
耳を彼の口もとに寄せていたが、言葉はほとんど聞き取れないほどかすかだった。「お休みください」わたしはいった。ヴォダルスが彼を憎んでおり、殺そうとしていることを知っていたから、わたしはこれはうわごとだと思った。
「わたしは彼のスパイだ。それも、わたしの役職の一つなのだ。彼は反逆者たちを引き寄せる……だれが反逆者で、何をし、何を考えているか、わたしにはわかる。それが彼の役目の一つだ。今わたしは、独裁者がこの飛翔機に閉じこめられていることを伝え、その位置を知らせた。彼はわたしの役に立っていた……ボディガードとして……これ以前にはな」
今はわたしにも、外の地面の足音が聞こえた。わたしは手を上に伸ばして、何か合図をするものはないかと探した。手が毛皮に触れた。そして、飛翔機は裏返しになっていることがわかった。われわれは石の下に隠れている| 蟇 《ひきがえる》のように、その下になっているのだ。
金属をバリバリと引き裂く激しい音がした。見ているうちに胴体に割れ目が開き、昼の光のように明るいが、柳の葉のように緑色をした月の光が射しこんできた。独裁者が見えた。その薄い白髪は、乾いた血で黒くなっていた。
彼の上から、シルエットになった緑の影が、われわれを見下ろしていた。彼らの顔は見えなかったけれども、きらきら輝く目と細長い頭は、決してヴォダルスの従者のものではなかった。わたしは必死で独裁者のピストルを探した。手がつかまれ、わたしは引き上げられた。共同墓地の墓から引き上げられるところを見た、あの女の死体のことをいやでも思い出してしまった。なぜなら、飛翔機は柔らかい土の上に墜落して、半分地中に埋まっていたからである。アスキア軍の太矢が当たった部分は、側面が吹っ飛ばされて、もじゃもじゃにもつれた配線が露出し、金属はねじ曲がり、焼けていた。
それを見ている時間はあまりなかった。わたしを捕えた人々は、かわるがわるわたしをひっくり返し、顔を両手で持って見た。それから、これまで布を見たことがないような目つきで、マントをまさぐった。これらの、目が大きくて頬のこけた精鋭歩兵隊員《エ ヴ ゾ ン》([#ここから割り注]元来は、スカートをはいたギリシャ兵[#ここで割り注終わり])は、われわれが戦った敵の歩兵とそっくりに思えた。だが、女性は混じっているものの、老人や子供は混じっていなかった。彼らは銀色の帽子をかぶり、鎧の代わりにシャツを着ており、奇妙な形の長銃《ジェザイル》を携えていた。銃身がひどく長く、台尻を地面につくと、銃口は持ち主の頭よりも上に出た。独裁者が飛翔機から運び上げられるのを見て、わたしはいった。「独裁者様、あなたのメッセージは傍受されてしまったようです」
「にもかかわらず、届いたよ」彼は指さすこともできないほど弱っていた。しかし、その視線をたどると、一瞬の後、月を背景にして空を飛んでいるものの形がいくつか見えた。
それらはわれわれに向かって、まるで月の光を滑り降りてきたと思えるほどすばやく、一直線に降りてきた。頭は丸くて白い女の首のようで、骨のヘッドバンドをつけ、顎がずっと伸びて湾曲した嘴になり、尖った歯が並んでいた。翼が生えていた。彼らの羽根は非常に大きくて、胴体が全然ないように見えた。端から端まででは、少なくとも二十キュビットはあった。それらが羽ばたいても音はしなかった。しかし、はるか下にいるわたしにも空気の奔流が感じられた。
(かつてわたしは、このような生物がウールスの森林をめった打ちにして、ウールスの都市を叩き壊してしまうことを想像した。わたしの思考が、これらのものを招来するのを助けたのだろうか?)
アスキアの精鋭歩兵隊員《エ ヴ ゾ ン》がそれらに気づいたのは、ずっと後になってかららしい。二、三人が同時に発砲した。そして、一点に収束する太矢がその一つを捕え、ばらばらに吹き飛ばした。それから、一つまた一つと命中した。一瞬、光が遮られて消え、何か冷たくだらりとした感じのものが顔に当たり、わたしは打ち倒された。
ふたたび目が見えるようになると、数人のアスキア兵が死に、残りは、わたしにはほとんど見えない空の標的にむかって射撃をしていた。それらから何か白っぽいものが落ちてきた。わたしはそれが爆発して、頭を吹き飛ばされるのではないかと思った。だが、爆発は起こらず、破壊された飛翔機の胴体がシンバルのような音を立てただけだった。一つの体――人形の体のように壊れた人間の体がぶつかったのだった。しかし、血はなかった。
精鋭歩兵隊員の一人がわたしの背中に武器を押しこんで、前に押した。別の二人は独裁者を、前に女人猫がわたしを支えたのとそっくりの仕種で支えていた。わたしはあらゆる方向感覚を失っていたことに気づいた。月はまだ輝いていたが、雲の塊りが星の大部分を隠していた。十字星とあの三つの星を探したが、見つからなかった。あの三つの星というのは、だれも知らない理由によって〈八つ星〉と呼ばれ、南の氷の上に永久に懸かっている三つの星のことである。まだ数人のアスキア人が射撃をしているうちに、われわれの間に閃光が走り、矢か槍のようなものが爆発して目も眩むばかりの白い火花の塊りになった。
「これでよかろう」独裁者はささやいた。
わたしはよろよろと歩きながら、目をこすっていたのだが、それでも、その意味を問い返すことができた。
「目が見えるか? 彼らはもう見えない。上空の味方は……ヴォダルスの手の者だと思うが……われわれを捕えた者たちがこんなに優秀な武器を持っているとは知らなかったのだ。これで、もう上手な射撃はできなくなるだろう。そして、あの雲が| 月 《リユンヌ》にかかれば……」
わたしは寒さを感じた。まるで、冷たい山の風が、このあたりの生温かい空気を切り取ってしまったかのようだった。ほんのちょっと前には、わたしはこれらのひょろ長い兵士たちに捕まって、絶望していた。だが、今は彼らの間に留まる保証を得られたら、何を犠牲にしても惜しくないような気分になった。
独裁者はわたしの左側の、長銃《ジエザイル》を背中に斜めに懸けた二人の歩兵隊員の間に、ぐったりとぶら下がっていた。気をつけていると、彼の頭が片側にぐらりと垂れた。それで、彼が意識を失ったか、または死んだとわかった。女人猫は彼のことをレジオン≠ニ呼んでいた。この名前と、彼が壊れた飛翔機の中でわたしにいったことを結びつけるのには、たいして知力はいらなかった。ちょうどセクラとセヴェリアンがわたしの内部で結合しているように、きっと彼の内部で、大勢の人格が結合しているのだ。ロッシュに連れられて〈紺碧の家〉(その奇妙な名前を、今わたしはたぶん理解しはじめているらしい)にいき、初めて彼にあった夜以来、わたしは彼の思考の複雑さを感じ取っていた。ちょうど、暗い明かりの下でも、モザイクの複雑さを感じ取れるように。その何万何億の極微の細片が結合して、〈新しい太陽〉の光り輝く顔と凝視する目を作り出すのを感じ取るように。
彼は、わたしが後継者となるように運命づけられているといった。しかし、統治期間はどれくらいなのか? 一人の捕虜として、固い草地の一刻の休憩が楽園にも思われるほど傷つき弱っている人間として、まことに不合理なことに、わたしは野心に身を焦がした。彼はこういっていた――彼が生きているうちに、わたしは彼の肉を食い、あの薬を飲まなくてはならないと。そして、わたしは彼を愛しているから、体力さえあったら、その豪奢と華麗と権力を要求して、わたしをつかんでいる敵の手から自分の肉体を引き離したことだろうに。今やわたしはセヴェリアンとセクラの結合体である。そしておそらく、この見すぼらしい拷問者の徒弟は、充分に自覚することなしに、法廷に囚われた若い高貴人よりもなお、これらのものに恋い焦がれていたのだろう。この時わたしは、執政官の庭園であの哀れなサイリアカが何を感じたかを知った。しかし、この瞬間にわたしが感じたことを、もし彼女が完全に知ったら、彼女の心ははじけてしまったことだろう。
次の瞬間、わたしは気が進まなくなった。わたしのある部分は、ドルカスさえも入ったことのないプライバシーを秘蔵している。わたしの心の渦巻の奥深くで、分子と分子が抱きあって、セクラとわたしが一つに絡みあっている。われわれがいるその場所に、ほかの人がやってきたら――一ダースか、ことによったら一千人か、独裁者の人格をわたしが吸収するということは、とりもなおさず、彼が合体していた人々をわたしが吸収するということになる――まるで市場の群衆が一つのあずまや[#「あずまや」に傍点]に入るようなことになる。わたしは心の伴侶を抱き寄せ、自分が抱きしめられるのを感じた。自分が抱きしめられるのを感じて、わたしは心の伴侶を抱き寄せた。
月が暗くなった。ちょうど、ほの暗いランタンが消えるように。ちょうど、だれかがそのプレートの虹彩を閉じるレバーを押して、ほんの一点の光しか残らないようにし、それから、全部を消すように。アスキアの精鋭歩兵隊員は紅藤色と薄紫色の格子のように長銃を射ち上げた。光の筋が上空の一点に集中し、ついに色つぎのピンのように雲を突き刺したが、結局効果はなかった。突然、熱風が起こり、黒い閃光としかいいようのないものが閃いた。それから独裁者が消え、何か巨大なものがわたし目がけて突進してきた。わたしはひれ伏した。
たぶん地面に激突したと思うが、記憶がない。わたしはたちまち空中に舞い上がっていくように思われた。ぐるぐる回りながら、確実に上昇していき、下界はもはやより暗い夜でしかなくなった。石のように固く、人間の手の三倍ほどの大きさの、弱々しい手がわたしの腰のあたりをつかんだ。
われわれはひっくり返り、急傾斜し、横滑りして空気の坂を降り、それから上昇気流を捕えて、冷気が皮膚を突き刺し、皮膚が強張るほど上昇した。首をもたげて見上げると、わたしを抱えている生物の白い、人間のものでない顎が見えた。それは何ヵ月も前にバルダンダーズと一つ寝床で寝た時に見た、あの夢魔だった。もっとも、あの夢ではわたしは夢魔の背中に乗っていた。夢と現実に、どうしてこのような相違があるのか、わたしにはわからない。わたしが大声で叫ぶと(何を叫んだかわからないが)、上の怪物はその偃月刀のような嘴を開いて、しゅうしゅうという声を出した。
また、上のほうから女の声が呼んだ。「これで鉱山の借りは返したわ――あんた、まだ生きているよ」
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26 ジャングルの上で
われわれは星明かりを浴びて着地した。まるで目覚めのようだった。空ではなくて、自分が夢魔の国を去っていくように感じられた。その巨大な生物は次第につぼまっていく輪を描いて、落ち葉のように降下していき、次第に暖かくなっていく空気の層を通過した。最後に〈ジャングルの園〉の匂い――つまり、緑の植物と朽ち木と、そして、蝋細工のような名も知れぬ大きな花々の匂いの混じりあったものが鼻をついた。
木々の上にジグラット([#ここから割り注]古代バビロニアの階段式ピラミッド型の寺院[#ここで割り注終わり])が黒い頭をもたげていた――だが、それにも木々が生えていた。羊歯が枯れ木から生えるように、それらの木は寺院の崩壊した壁から生え出るのである。われわれはその寺院の上にふわりと降りた。すると、たちまち松明があらわれ、興奮した人声が聞こえてきた。この直前まで吸っていた冷たい空気のために、わたしはまだ意識がはっきりしていなかった。
人間の手が、わたしをずっとつかんでいた鉤爪を外した。それから、壊れた岩棚や石段を曲がりくねって降りていくと、やがて焚火の前に出た。その向こう側に、ヴォダルスのハンサムな笑っていない顔と、その伴侶のセア(われわれの義妹だ)のハート型の顔が見えた。
「だれだ?」ヴォダルスが尋ねた。
わたしは手を上げようとしたが、押さえられた。「殿様」わたしはいった。「ご存じのはずです」
わたしの後ろから、空中で聞いた声が答えた。「これが褒美の男です。わたしの兄を殺したやつです。こいつのために、わたしは――そして部下のヘトールも――あなたにお仕えしたのです」
「では、なぜここに連れてきた?」ヴォダルスが尋ねた。「この者はおまえに与える。わたしが彼を見たら、われわれの協定を悔やむとでも思ったのか?」
もしかしたらわたしは自分で考えているよりも強いのかもしれない。あるいは、右側の男がたまたまバランスを崩した瞬間と一致しただけかもしれない。とにかく、わたしは首尾よく体をねじって、そいつを火の中に突き飛ばすことができた。彼の足が真っ赤な燃えさしを撥ね上げた。
わたしの後ろに、アギアが腰まで肌を露出して立っており、その後ろから、腐った歯をむきだしたヘトールが、両手で彼女の乳房を抱えていた。わたしは必死に逃げようとした。彼女は平手でわたしを叩いた――頬に衝撃があり、引き裂かれるような痛みを感じ、それから温かい血がどっと流れ出した。
それ以来、その武器がルシヴィーと呼ばれるものであり、また、ヴォダルスの面前では護衛以外は全員武器の携帯を禁じられていたため、アギアがそれを持っていたのだと知った。ルシヴィーとは、親指と小指にはめる輪がついている小さな棒で、手のひらに隠れるくらいの四、五枚の湾曲した刃がその棒についているだけのものである。しかし、これにやられて生きのびる人は少ない。
わたしはその数少ない人間の一人だった。二日後に気がつくと、わたしは何もない部屋に閉じこめられていた。おそらく、それぞれの人がその生涯で、ある部屋を他の部屋よりもよく知ることになるのだろう。囚人にとって、それは独房である。かつてたくさんの独房の外側で、醜く変貌し発狂した囚人たちに食べ物の盆を差し入れていたわたしは、今ふたたび、自分自身の独房を知った。このジグラットがもとはなんだったのか、見当もつかなかった。もしかしたら実際に牢獄だったかもしれない。あるいは寺院、あるいは忘れられた芸術のアトリエだったかもしれない。わたしの独房は、前に拷問者の塔の地下で入っていた独房の二倍ほどの広さで、幅六ペース、奥行き十ペースぐらいだった。大昔の輝く合金の扉が壁に立てかけてあった。それはヴォダルスの看守にとって無用のものだった。なぜなら、それに錠をかけることができなかったからである。ジャングルの樹木の鉄のような材木で粗末に作った新しい扉が、戸口をふさいでいた。窓として作られたとはとても思われないような窓が――わたしの腕より大きいとはとてもいえない丸い孔が、変色した壁にあいていて、独房に光を与えていた。
わたしに体力がついて、飛び上がってその下の縁に片手をかけ、体を引き上げて外の景色を見ることができるようになるには、さらに三日かかった。外を覗くと、そこは起伏する緑の世界で、蝶がそこかしこに飛んでいた――予想していた世界とあまりにもちがうので、わたしは気が狂ったのではないかと思い、驚きのあまり窓をつかんでいた手を離してしまった。あとでわかったのだが、そこは高さ十チェーンの硬木が芝生のように葉を広げて、鳥以外にはめったに見る者もない木々の梢の国であった。
利口そうだが不吉な顔をした老人が、頬に包帯を巻いてくれ、足の膏薬を貼りかえてくれた。それから、十三歳くらいの少年を連れてきて、その子の血管とわたしの血管を連結した。すると、しまいに少年の唇が鉛色に変わってきた。わたしはその年取った医者《リーチ》([#ここから割り注]吸血鬼の意味もある[#ここで割り注終わり])に、どこからきたのかを尋ねた。すると彼は、どうやらわたしをこの地方の原住民だと思ったらしく、こういった。「南の大都会からだ。それは冷たい土地の水を集めて流れてきた川の谷間にある。おまえたちの川よりも長い、ギョルという川だ。もっとも、あそこの洪水はそれほど激しくないがな」
「たいした腕前だな」わたしはいった。「こんなに上手な医者は見たことがない。もう気分がよくなってきた。だから、この子が死なないうちに、やめてくれないだろうか」
老人は自分の頬をつねった。「この子はすぐに回復する――今夜、わしのベッドを温めるには間に合う。この年齢の子供はみんなそうするんだ。いやいや、おまえが想像するようなことではないぞ。並んで寝るだけだ。若者の寝息は、わしのような老人にとっては元気回復薬の役目をするのだ。若さは一種の病気だから、おとなしい病人を捕えたいのは人情だ。傷の具合はどうかな?」
彼の否定ほどわたしを完全に確信させるものはなかっただろう――たとえ、承認であっても(能力があるという見かけを維持したいという、倒錯した欲望に根ざすものかもしれない)、これほどの説得力はなかったろう。わたしは正直に話した。つまりちくちく焼けるような感じがぼんやりする以外、右の頬は痺れていると。そして、この哀れな少年はどちらの仕事のほうを大切に考えているのだろうかと思った。
老人は包帯を剥ぎ取り、前に使ったのと同じ悪臭のする茶色の軟膏をまた塗った。「わしは明日またくる」彼はわたしにいった。「もっとも、ママスがまたここにくる必要はないと思う。おまえはちゃんと良くなっている。あのお方も」(頭をぐいと動かして、これはアギアのことを皮肉にいっているのだという仕種をして)「さぞ、お喜びになることだろう」
わたしはいかにも何気ない様子で、彼の患者がみんな回復するといいといった。
「おまえといっしょに運びこまれた密告者のことか? 彼はこの上もなくよい状態だ」彼はそういいながら、驚いた表情をわたしに見せないように、顔をそむけた。
この機会を捕えれば、この男に影響を与えて、独裁者を助けることができるかもしれないと考えて、わたしは彼の職業上の理解力を大袈裟に褒めたたえ、最後に、これほどの能力のある医者が、なぜこれらの邪悪な人々と手を組んでいるか、理解できないといった。
彼はうさん臭そうな目でわたしを見て、真剣な顔つきになった。「知識のためだ。ここほど、わしのような職業の者が多く学べる場所はない」
「死者を食うことか? それなら、わたしも参加したことがある。もっとも、あんたはそれを聞いていないかもしれないが」
「いや、いや。学問のある人――特にわしのような職業の者――は、どこでもそれを実行している。そして、普通はよりよい効果を得ている。なぜなら、われわれは被験者の中でも特に精選されたものであり、もっとも保持力のある組織の中にみずからを閉じこめているからだ。わしが探求している知識は、その方法では学ぶことができない。なぜなら、最近の死者はだれもその知識を持っておらず、ことによったら、これまでにだれもそれを持っていなかったかもしれないからだ」
彼は壁によりかかって、わたしだけでなく、何か目に見えない存在に向かって喋っているように見えた。「過去の不毛の科学は、惑星の消耗と、その種族の絶滅しか導きださなかった。科学は、宇宙の莫大なエネルギーと原料を利用したいという欲望だけに基づき、それらの魅力や反感や、究極の運命にはいささかも考慮を払わなかった。見なさい!」彼は、高い丸窓から射しこんだ太陽の光線に手を突っこんだ。「ここに光がある。これは生き物ではないとおまえはいうかもしれない。しかしそれでは、光がそれ以上であって、それ以下でないことを、見落としている。光は空間を占有せずに、宇宙を満たしている。あらゆるものを育むが、それ自体は破壊を常食にしている。われわれは光をコントロールすると豪語しているが、もしかしたら光は食物源としてわれわれを養殖しているのではないか? すべての森は、燃えるために成長するのではないか、そして、男や女はそれに点火するために生まれるのではないだろうか? われわれが光の主人だと主張するのは、ひょっとしたら、人間が小麦のために大地を耕し、小麦とウールスの性交の世話をするからといって、小麦が人間の主人だと主張するように僭越なことではないだろうか?」
「まことにもっともな話だが」わたしはいった。「聞きたいのはそれではない。あんたがなぜヴォダルスに仕えているか? その理由を聞きたいのだ」
「このような知識は実験抜きでは得られないからだ」彼は話しながら、笑って少年の肩に触った。わたしは子供が火に包まれる幻影を見た。これが思いちがいであればよいと思う。
これは、窓にぶら下がって外を見る二日前のことだった。あの老医師は二度とやってこなかった。彼が寵愛を失ったのか、別の場所に派遣されたのか、それとも、これ以上わたしの手当ての必要はないと判断したのか、わたしにはわからなかった。
一度アギアがやってきて、二人の武器を持ったヴォダルスの女性の部下の間に立って、わたしの顔に唾を吐きかけ、わたしのために考案した拷問を説明し、それに耐えられるだけの体力が回復したら実行してやるといった。彼女が話し終えると、わたしは真心こめてこういってやった――わたしは生涯の大半をもっと恐ろしい拷問の実施の助手をしてすごしたと。そして、きみも熟練した助手を手に入れたほうがいいぞと。これを聞くと彼女はいってしまった。
その後、何日かたったが、その大部分は一人でほうっておかれた。目覚めるたびに、わたしはほとんど別の人間になってしまったように感じた。なぜなら、このような孤独の中で、自分の思考が睡眠の暗い間隔で分断されると、個性という感覚がほとんどなくなってしまうからである。しかし、こうして切り刻まれたすべてのセヴェリアンとセクラが自由を探し求めた。
記憶の中に退却することは容易だった。われわれはしばしばそうして、ドルカスといっしょにスラックスに旅をしたあの牧歌的な時期をふたたび生き、父の別荘の裏の生垣の迷路や〈古い中庭〉で遊んだ遊戯をふたたび体験し、アギアが敵だと知る前にいっしょに下ったあの長いアダミニアの階段を思い出した。
また、しばしば記憶を離れて、むりやりにものを考え、時にはよろよろと歩き回り、時には、空中からぱっとつかみ取るのが面白いばかりに、窓から昆虫が入ってくるのを待っていた。脱走を計画したが、状況が変化するまではその可能性はありそうもなかった。あの茶色の本の文章を思い浮かべて、万一自由になった時に役立つような人間の行動の一般理論を可能なかぎり導き出すために、それらの内容と自分自身の経験を引きあわせてみた。
もし、老人であるあの医者《リーチ》が、死が確実に近づいてくることを知っているにもかかわらず、なおも知識の探求を続けることができるとすると、彼以上に死が迫っているように思われるわたしが、その不確実性の保証に慰めを見出すことはできないだろうか?
こうして、魔法使いたちの行動や、あの病気の少女のあばら家の外でわたしに近寄ってきた男の行動を篩《ふるい》にかけて、すべての心の錠を開ける鍵を探し求めた。
簡単な言葉で表現できるようなものは見つからなかった。「男や女がこのようなことをする理由は、これこれしかじか……」権力欲、肉欲、安心の必要、ロマンスで人生に味つけをしたがる趣味――ぼろぼろの金属片はどれも鍵孔に当てはまらなかった。しかし、広く適用できると思われる一つの原理を発見した。それは行動の引き金になることはないとしても、少なくとも行動の様式に影響をあたえるように思われた。わたしはそれを〈原始性原理〉と呼ぶようになった。書き記せば次のようになるだろう。≪前史時代の文化があまりにも長い間持続したので、まるでこれらの条件が今日獲得されたかのように行動する伝統が形成されてしまっている≫[#≪≫は《》の置換]と。
たとえば、湖岸の村の首長のすべての行動を観察することを、一時はバルダンダーズに許したかもしれないテクノロジーは、今から何千年も昔に塵に返ってしまったものなのである。しかしそれは、存在していた無限に長い期間に、いわば彼に魔法をかけ、それによって、もはや現存していないにもかかわらず、依然として効果を発揮しつづけたのである。
同様に、われわれはみな、大昔に消失したものや没落した都市、それにすばらしい機械の幽霊を内部に蓄えている。以前に捕えられていた時に(あの時は不安がなんと少なく、友情がなんと多くあったことだろう)ジョナスに読んで聞かせた物語はこれをはっきりと示している。わたしはこのジグラットの中であれを何度も読みかえした。作者は、神話的な設定として、エレボスかアバイアのような海の悪鬼の必要を感じ、それに船のような頭を与えた――これが目に見える彼の体のすべてであって、残りは水中にある――だから、原形質を持つという現実がこの悪鬼から除去されて、作者の魂のリズムが要求する機械になるのである。
これらの想像を楽しんでいるうちに、次第にヴォダルスのこの古代の建物の占拠の仕方が、つかの間のものであるという感じが強くなってきた。前にもいったように、医者はもうやってこなかったし、アギアも二度と訪ねてこなかったが、独房の扉の外の回廊を走る足音がしばしば聞こえ、時には、短く叫ぶ言葉が聞こえてくることもあった。
そのような物音が聞こえると、わたしは必ず包帯をしていないほうの頬を厚板に押し当てた。また実際に、ヴォダルスの計画の一部がわかるような会話の断片でも聞こえてこないかと思いながら、何も聞こえないのに、そのまま長い間坐っていた。むなしく耳をそばだてながらも、わたしは組合の地下牢にいた何百人もの囚人のことを考えないわけにはいかなかった。彼らの食事をドロッテのところまで運んでいくと、彼らはわたしの足音に耳を澄ませたにちがいない。そして、わたしがセクラのもとを訪れた時には、彼女の独房から廊下に流れ出て、それから彼ら自身の独房に流れこむ会話の断片を聞き取ろうとして、彼らは神経を集中していたにちがいない。
では、死者はどうなのだろう? 白状するが、わたしは自分が死んでいるように感じることがある。死者はわたしの部屋よりももっと小さな地下の部屋に、何億何兆となく閉じこめられているのではないか? 人間活動のどんな分野においても、死者の数が生者の数を何倍も上回らない分野はない。美しい子供の大部分は死んでいる。大部分の兵士も、大部分の臆病者も、もっとも美しい女性も、もっとも優れた学者も――みな死んでいる。彼らの遺体は枢の中に、石棺の中に、粗末な石のアーチの下に、地下のあらゆる場所に、眠っている。彼らの魂はわれわれの心に取りつき、耳をわれわれの額の骨に押しつけている。彼らがいかに熱心にわれわれの話を聞いているか、どんな言葉を求めているか、だれが知ろう?
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27 ヴォダルスの前で
六日目の朝、二人の女がわたしを連れにきた。その前の夜、わたしはほとんど眠っていなかった。これらの北のジャングルに多い吸血|蝙蝠《こうもり》が一匹、窓から入ってきたのだ。それを追い出して、止血には成功したが、蝙蝠はどうやらわたしの傷の匂いにひかれるらしく、何度も何度も戻ってきた。今でもわたしは、月光が散乱してぼんやりした緑の影を作ると、そこを大きな蜘蛛のように蝙蝠が這っていて、それからぱっと空中に舞い上がる様子を、どうしても想像してしまう。
彼女たちを見てわたしは驚いたが、向こうもまたわたしが起きているのを見て驚いた。まだ夜が明けたばかりだったからだ。女たちはわたしを立たせ、一人が喉に短剣を突きつけている間に、一人が手を縛った。しかし、一人が頬の治りぐあいはどうかと尋ね、また、わたしが連れてこられた時に、男前の捕虜がきたと噂されたのよと、つけ加えた。
「今と同様に、半死半生だったよ」わたしはいった。実は、飛翔機が墜落した時に受けた打撲傷は治ったけれども、顔と足はまだかなり痛かったのである。
女たちはわたしをヴォダルスのところに連れていった。しかしその場所は、いくらか期待していたように、ジグラット内のどこかでもなく、セアと並んで厳然と坐っていたあの岩棚でもなく、三方をゆっくりと流れる緑の水に囲まれている空地だった。少したって――何かほかの仕事が行なわれるのを立って待っていなければならなかったので――この川の流れが基本的に北東に向かっていることに気づいた。そして、これまでに北東に流れる川を見たことがないことを思いだした。これまでの経験では、すべての川が南かまたは南西に流れ、南西にむかうギョルと合流していたのである。
ついに、ヴォダルスがわたしのほうに頭を傾け、わたしは前に連れていかれた。彼はわたしがほとんど立っていられないことに気づくと、護衛に命じて、わたしを足もとに坐らせ、それから、手を振って、声の聞こえない距離に彼らを退がらせた。「今度のきみの入場は、ネッソスの先の森で行なった時よりも、印象が薄いな」彼はいった。
わたしはうなずいた。「でも、殿様、わたしはあの時と同様に、あなたのしもべとしてやってきました。あなたの首を斧からお守りした最初の時とまったく同じです。もし、わたしが血だらけのぼろを着て、手を縛られて御前に現われたなら、あなたがご自分のしもべにそのような仕打ちをなさるということです」
「きみの状態を考慮すると、そのように手首を縛ったのは、確かにいささかやりすぎであったな」彼はかすかに笑った。「痛むか?」
「いいえ、痛みは消えました」
「それにしても、その縄は必要ない」ヴォダルスは立ち上がり、細身の剣を抜き、わたしの上に身をかがめて、その切っ先で縛めを切った。
肩を動かすと最後の縄の切れ端が落ちた。無数の針が両手をちくちく刺すような感じがした。
ヴォダルスはまた席につくと、礼をいうつもりはないのかと尋ねた。
「あなたは決してわたしに礼をいわれませんでした、殿様。その代わりにコインをくださいました。コインなら、わたしもどこかに持っていると思います」わたしは|図 嚢《サパタッシュ》をさぐって、グアザヒトから支払われたコインを探した。
「金は持っているがよい。これから、きみにもっと多くのものを求める。そろそろ自分の正体を明かす気になったか?」
「わたしはいつもそのつもりでした、殿様。わたしはセヴェリアン、拷問者組合のもと職人《ジャーニーマン》です」
「しかし、その組合の元職人である以外に、何もしていないのか?」
「はい」
ヴォダルスはため息をつき、微笑した。それから椅子の背によりかかってまた溜め息をついた。「家来のヒルデグリンがきみは重要人物だとずっといい続けている。理由を尋ねたら、たくさんの推測を並べたが、どれ一つとして説得力はなかった。だから、気楽な小さな情報で小銭をせびろうとしているのだと、わたしは思った。だが、彼が正しかった」
「かつて一度、あなたにとって重要であっただけです、殿様」
「きみは会うたびに、わたしの命をかつて救ったと必ず念を押すが、ヒルデグリンが一度きみの命を救ったことを知っているか? 市内できみが決闘した時に、その相手にむかって≪逃げろ!≫[#≪≫は《》の置換]と叫んだのは彼だったのだぞ。きみは倒れていた。だから、相手がきみを刺していてもおかしくなかったのだ」
「アギアはここにいますか?」わたしは尋ねた。「もしそれを聞いたら、彼女はあなたを殺そうとするでしょう」
「われわれ以外に聞いている者はいない。教えたければ、後で教えてやるがいい。きみの言葉を彼女は決して信じまい」
「さあ、それはどうですか」
彼の顔に笑いが広がった。「よし、彼女と対面させてやる。そうすれば、わたしのものとは逆の、きみの理論を試すこともできよう」
「御意のままに」
彼は手を優雅に振って、わたしの黙諾を払いのけた。「いつでも死ねるという態度を見せさえすれば、わたしに王手をかけられると思っているのだな。だが実は、このジレンマからの容易な出口をきみは提供しているのだ。きみのアギアは非常に価値のある魔術師《タウマトウルギスト》を引き連れてやってきて、きみ、つまり〈真理と悔悟の探求者の組合〉のセヴェリアンを引き渡しさえすれば、その代償に魔術師とともにわたしに仕えると申し出た。ところが今、きみは拷問者セヴェリアンであり、それ以外の何者でもないと認めた。これではわたしが彼女の要求に抵抗するのが大変に難しくなる」
「では、なんであればよろしいのですか?」わたしは尋ねた。
「わたしは〈絶対の家〉に非常に優秀な部下を持っている、いや、持っていたというべきだな。もちろん、きみは彼を知っている。きみがメッセージを伝えたのはその男だったのだから」ヴォダルスは言葉を切って、また微笑した。「一週間ばかり前に、彼から連絡が届いた。確かに、あからさまにわたしに当てたものではなかった。しかし、わたしはすぐさま、彼にわれわれの居所がわかるようにし、しかも彼から遠くないところにいることにした。彼がなんといったか知っているか?」
わたしは首を振った。
「それはおかしい。その時、きみは彼といっしょにいたはずだ。彼は墜落した飛翔機の中にいるといったのだ――そして、その飛翔機に独裁者もともに乗っているとな。普通の事情なら、こんな連絡をよこすのは正気の沙汰ではない。なぜなら、彼は自分の所在を知らせたのだから――しかも、本人も当然知っていたように、彼はわれわれの戦線の後方にいたのだから」
「では、あなたはアスキア軍の一部なのですか?」
「一定の偵察力において彼らに仕えている、とはいえるな。アギアとあの魔術師がきみを捕えるために、彼らの兵士をいくらか殺したことを知って、きみはどうやら当惑している様子だな。その必要はない。むこうの主人は兵士を、わたしのように高くは評価していないのだ。しかも、交渉の時ではなかった」
「でも、彼らは独裁者を捕えませんでした」わたしは嘘が上手ではないが、あまり憔悴していたので、ヴォダルスはわたしの表情を容易に読むことはできなかったと思う。
彼は身を乗り出した。そして一瞬、目の奥に蝋燭が灯ったように、目を光らせた。「では、彼はあそこにいたのだな。すばらしい。きみは彼を見た。独裁者の飛翔機に同乗していた」
わたしはまたうなずいた。
「いいか、ばかばかしく聞こえるかもしれないが、わたしはきみが独裁者ではないかと思ったのだよ。真相は藪の中だ。ある独裁者が死に、別の者がその跡を襲う。そして、新しい独裁者はその地位に半世紀とどまるかもしれないし、二週間しかとどまらないかもしれない。では、三人乗っていたのだな? それだけだな?」
「はい」
「独裁者はどんな顔をしていた? 詳しく話してみよ」
いわれるままに、わたしはタロス博士がその役を演じた時の様子を細かく描写した。
「彼は魔術師の怪獣からも、アスキア人からも、逃れたのか? それともアスキア人が捕えたのか? もしかしたら、あの女と愛人がみずからの手で捕えているのかもしれないな」
「アスキア人は彼を捕えなかった、と申し上げました」
ヴォダルスはまた微笑した。しかし、その輝く目の下の歪んだ口は苦痛しか表わしていなかった。
「いいか」彼は繰り返した。「一時は、きみが独裁者かもしれないと思ったのだよ。わたしの部下も収容したが、そいつは頭に傷を負っていて、ごくわずかな時間しか意識がない。遺憾ながら、もうすぐにでも死ぬのではないかと思われる。だが、彼は常に真実しか語らなかった。そして、彼といっしょにいたのはきみだけだと、アギアがいっている」
「わたしが独裁者だと思っておられるのですね? ちがいます」
「それにしても、前に会った男とは、きみはちがう人間になってしまったぞ」
「あなたみずから、アルザボと、そしてセクラの方の命を与えてくださったではありませんか。わたしは彼女を愛していました。あのように彼女のエッセンスを摂取しても、わたしが影響を受けずにいるとお考えだったのですか? 彼女は常にわたしとともにいます。ですから、わたしは二人なのです。この一つの肉体の中でね。でも、わたしは独裁者ではありません。あの人は千人いるのです。一つの肉体の中に」
ヴォダルスは何も答えず、目の中の火をわたしに見られるのを恐れるかのように、目をなかば閉じた。川の水がひたひたと流れる音と、そして、百ペースほど離れたところにひと塊りになって、時々こちらを見ながら、仲間どうしで話をしている武装した男女のもっとずっと小さい話し声以外には、なにも聞こえなかった。一羽のコンゴウインコが梢から梢に、けたたましい声をあげて飛び移った。
「それでも、あなたにお仕えしたいと思っています」わたしはヴォダルスにいった。「もし許していただけるなら」この言葉が口から外に出るまでは、嘘か本当か自分にもわからなかった。それから、過去のセクラとセヴェリアンにとっては真実であったはずのこの言葉が、今のわたしにとっては、どれほどの偽りかを理解しようとして、心の中でとまどいを覚えた。
「独裁者は一つの肉体の中に千人いる=vヴォダルスはわたしの言葉を引用した。「それは正しい。しかし、われわれの同志で、それを知っている者はほとんどいないのだぞ」
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28 行軍について
今日(つまり、〈絶対の家〉を去る前日)、わたしはある厳かな宗教儀式に参加した。このような儀式はその重要性に従って、いや、|七王国の国王《ヘ プ タ ル ク》がいうようにそれらの卓越性≠フ順序に従って、七つの階級に分かれている――もっとも、これは少し前に記述した時期には、わたしはまったく知らなかったことだ。最低の〈|熱 望《アスピレーション》〉の段階には、個人的に唱えられた祈りを含めて、個人的な信心、石塚《ケルン》への石積みなどがある。子供の頃のわたしが、組織された宗教の全体を構成すると思っていた集会や大衆の祈願は、実は〈|統 合《インテグレーション》〉と呼ばれる第二レベルに属するものであった。今日われわれが行なった儀式は第七番目、つまり最高位のもので〈|同 化《アシリミレーション》〉というレベルのものであった。
循環性の原理に従って、最初の六つの段階を進んでくる間に蓄積された添加物の大部分は、今は不要になっている。音楽はなく、〈|保 証《アシュアランス》〉の段階の豪華な衣装は、出席者全員に聖像《イコン》の雰囲気を感じさせるような、彫刻的なひだのある糊のきいた衣に変わる。銀河の輝く帯に包まれているわれわれは、もうこれまでのように、自分で儀式を遂行することができない。しかし、できるだけそれに近い効果を得るために、聖堂からウールスの引力フィールドが排除された。これはわたしにとって新しい感覚だった。怖くはなかったけれど、世界から転落しそうに感じ――明日、これを本当に体験することになる――あの山中で過ごした一夜をまたもや思い出した。天井が床になったように感じたり、時には、(わたしにとってこちらのほうがもっと不快だったが)壁が天井になったように感じたりし、そこに開いている窓から見上げると、空に向かって永久に上昇していく山腹の草原が見えたりした。この光景は驚くべきものではあったが、普段見る光景に劣らず真実なのであった。
われわれのおのおのが太陽になり、それを取り巻く象牙の頭蓋骨がわれわれの惑星であった。音楽は除去されたといったけれど、それは必ずしも正しくない。なぜなら、それらがわれわれの周囲を勢いよく回る時に、それらの眼窩や歯の間を流れる空気が発する快いハミングやひゅーひゅーいう音がかすかに聞こえてきたからである。円に近い軌道を描くものはほとんど一定の音を発し、自転につれてほんのかすかに変化するだけであった。また、楕円軌道を描くものの歌は、接近するにつれて音程が上がり、遠ざかるにつれて下がってうめき声になり、泣き叫んだり、小声になったりするように聞こえた。
それらのうつろな目や大理石のカロット([#ここから割り注]カトリック僧がかぶる縁なし帽[#ここで割り注終わり])に、われわれが死しか見ないとは、なんと愚かなことか。それらの中に、いかに多くの友人がいることか! 〈剣舞《マクチン》の塔〉から持ち出したもので手もとに残っている唯一のもの――ここまで持ってきたあの茶色の本は、これらの骨の顔を持った男女によって植字され、印刷され、綴じられたものだ。そして今、彼らの声に包みこまれたわれわれは、過去そのものであるこれらの人々の代理として、われわれ自身と現在を〈新しい太陽〉の目ばゆい光にさし出すのであった。
しかしその瞬問に、このもっとも意義がありもっとも壮麗な象徴に囲まれながら、わたしは考えないわけにはいかなかった――ヴォダルスと面接した翌日にジグラットを去り、(六人の女の護衛のもとに、時には彼女たちに抱きかかえられたりしながら)一週間ほどかかって瘴癘《しょうれい》のジャングルの中を行軍していった時の現実は、これといかにかけ離れたものであったかを。その時、われわれは共和国の軍隊から逃れているのか、それともヴォダルスの同盟者であるアスキア人から逃れているのか、わたしにはわからなかった――いまだにわからないままである。ことによったら、反乱軍の主流部隊に合流しようとしていただけだったかもしれない。わたしの護衛は、樹木から滴って武器や甲胃を酸のように腐食する湿気と、そして、窒息しそうな炎熱に文句をいっていたが、わたしにはそのどちらもまったく気にならなかった。一度、自分の大腿部を見下ろしたら、肉が脱落してしまって、そこの筋肉が紐のように露出して、膝の関節がまるで水車の車と軸のように見えているのにびっくりしたことを覚えている。
例の老医師が同行していて、今は日に二、三回は見舞ってくれていた。最初、彼はわたしの顔に乾燥した包帯を巻いておこうと努力した。だが、その試みが無駄だと知ると、それらを全部取り去って、傷に膏薬を塗るだけで満足した。その後、わたしの女性の護衛の何人かは、わたしを見ることを拒否した。そして、わたしに話しかける必要のある場合には、目を伏せて話した。しかし、その他の護衛はわたしの裂けた顔を直視する能力に誇りを抱いている様子で、股を開いて立ち(それが勇ましいポーズだと彼女らは考えているらしい)、計算された何気なさで武器の柄に左手を乗せて、わたしを見た。
わたしはできるだけ彼女たちと話をした。それは彼女たちを欲したからではない。――傷のために体調が崩れ、性欲は根こそぎなくなってしまっていた――必死に行軍を続ける隊列の中にあって、以前に戦争で破壊された北部に一人でいた時にも、徽が縞模様をつくっているジグラットの大昔の独房に監禁されていた時にさえも感じなかったひどい淋しさを、感じたからであり、心の片隅では、まだ漠然と逃げることを望んでいたからである。わたしは、彼女たちが知っているだろうと思えるあらゆる事柄について質問した。そして、われわれの心が偶然に一致するような話題がいかに少ないかを知って、びっくり仰天した。ヴォダルスの説く進歩の復興と共和国の停滞の相違を評価して、彼の軍に身を投じた者はこの六人の中に一人もいなかった。三人はある男を追って隊列に加わったにすぎず、二人はある個人的な不正に復讐するために参加し、一人は大嫌いな義父から逃げてきたという。最後の一人を除いて、全員が入隊したことを後悔していた。現在位置を正確に知っている者は一人もいないし、おまけに目的地がどこかだれも知らないありさまだった。
われわれの隊列はガイドとして三人の野蛮人を連れていた。兄弟かまたは双子と思われる二人の若い男と、そしてもっと年取ったのが一人。その男は年齢のためだけではなく、奇形のために腰が曲がっているようで、奇怪な仮面をずっとつけていた。先の二人は若すぎ、あとの一人は年寄りすぎたが、三人全部合わせて、かつて〈ジャングルの園〉で見たあの裸の男を思い出させた。彼らは同じように裸で、同じような黒い金属的な感じの肌をしており、頭髪も同じようにまっすぐだった。若いほうの二人は両手を伸ばしたよりも長い吹き矢の筒と、野生の木綿を手編みにして、なんらかの植物で焦げ茶色に染めた矢を入れる袋を持っていた。老人は猿の頭が上端についている、本人と同じくらいねじ曲がった杖を持っていた。
隊列のわたしの位置よりもかなり先のほうに、覆いを掛けた駕籠《かご》があり、それに独裁者が乗っていた。彼は、医者の話ではまだ生きていると考えてよいようだった。そして、ある夜、わたしの護衛が仲間どうしでお喋りをしており、わたしがうずくまって焚火にあたっていた時に、老ガイド(腰が曲がっているし、仮面のせいで頭が妙に大きく見えるので、見まちがえようがない)がその駕籠に近づいていき、その下に忍びこむのが見えた。それからしばらくして、こそこそと立ち去った。この老人はウトゥルンク≠ツまり、虎に化ける能力のある巫子《シャーマン》だといわれていた。
ジグラットを発って、道路とか小道とかいえるものにまったく行き当たらないまま二、三日も進むと、死体が一列に点々と倒れている場所に出た。死体はアスキア人のもので、衣服も装備も剥ぎ取られていたので、飢え死にした死体が空から降ってきて、その場所に倒れているように思われた。外観は死後一週間ぐらいの感じだったが、湿気と暑さが腐敗を早めていることは疑いないので、死んでからの実際の時間はもっと短いのではないか。外観からは、死因はほとんどわからなかった。
この時まで、夜間に焚火の回りをぶんぶん飛び回るグロテスクな羽虫よりも大きい動物は、ほとんど見かけなかった。木々の梢から呼びかける鳥たちの姿も、ほとんど目に入らなかった。また、吸血蝙蝠がやってきたとしても、そのインクのような色の翼は息が詰まるような暗黒に紛れこんでしまう。どうやら、われわれは今や、馬の死骸に蝿が引き寄せられるように、これらの死体の行列に引き寄せられた野獣の大群の中を歩いていくように思われた。一刻も歩けば、必ず巨大な顎に噛み砕かれる骨の音が聞こえ、夜には焚火の明かりが届く小さな円の外側に、緑や赤の目が見えた。その中には、両の目の間が二スパンも離れているものがあった。これらの腐肉を貧り食った捕食者どもが、われわれに手を出すと考えるのは不合理だったが、わたしの護衛は見張りを倍にし、眠る者は胴鎧をつけ、手に| 鉈 《カートラックス》を持って寝た。
一日ごとに死体は新鮮になっていき、最後にはまったく死人ではなくなった。頭を坊主刈りにし、目のすわった狂女が、隊列のわれわれの班の直前によろよろと入りこみ、だれにも理解できない言葉を叫び、木々の間に逃げこんだ。それから助けを求める叫びと悲鳴と怒号が聞こえたが、ヴォダルスはだれも隊列を離れることを許さなかった。その日の午後にわれわれは――前にジャングルに飛びこんだといえる状況があったが、それとほとんど同じ意味で――アスキア人の大群の中に飛びこんでしまった。
われわれの隊列は、女たちと補給物資とヴォダルス自身とその家族、および、少数の彼の補佐官とその従者からなっていた。全部あわせても、彼の軍勢の五分の一に満たなかった。しかし、たとえ、彼の旗印のもとに呼び集めることのできる反乱者が全部いたとしても、そして、それぞれの戦士が百人になったとしても、それでもなお、ここにいる大軍の中では、ギョルの中のコップ一杯の水にしかならなかったろう。
最初に遭遇したのは歩兵だった。アスキア人は戦闘の時まで武器を渡されないと、独裁者から聞いたことを思い出した。そのとおりだとしても、彼らの上官は戦闘の時間が迫っていると、いや、もうほとんどその時間になっていると、思ったに違いなかった。わたしはランシュール([#ここから割り注]長い三つ叉の槍[#ここで割り注終わり])で武装した千人もの兵士を見た。それで、ついに彼らの歩兵はすべてそれを装備していると信じるようになった。それから、日が暮れる頃、さらに数千人の刺股《さすまた》を携えた兵士たちに追いついた。
われわれは彼らより速く行進していたので、それだけ深く彼らの軍勢の中に入りこんだ。しかし、われわれは彼らより早くキャンプを張った(それも、彼らがキャンプを張ったらの話だが)。ようやく眠りに落ちるまで、その晩ずっと彼らのしわがれ声の叫びや、ざくざく進む足音が聞こえていた。夜が明けるとわれわれは、ふたたび彼らの死体と、瀕死の者の中にいた。一刻と少したった頃、よろめき歩く部隊に追いついた。
これらのアスキア人には、ほかの場所ではどこでも見かけなかった一種の硬直性が、秩序に対する意志のない愛着が見受けられた。しかもそれは、わたしが理解しているような精神とか規律とかに根ざすものではないようだった。彼らが服従するのは、それ以外の行勤の筋道を思いつけないからだろう。味方の兵隊は、ほとんどいつも、いろいろな武器を携帯している――最小限度、エネルギー武器を一挺と長いナイフを一挺持っている。しかしわたしは不正規兵の中では、青龍刀だけでなく、そうしたナイフを持っていないという点で例外だった。しかし、アスキア人が一つ以上の武器を持っているところは、一度も見たことがなかった。それどころか、士官の大部分は武器をまったく持っていなかった。まるで、実際の戦闘を馬鹿にしているかのように。
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29 共和国の独裁者
その日の中ごろまでに、われわれは前日の午後に追い抜いた兵士たちのすべてをふたたび追い越して、物資を運ぶ輜重隊に追いついた。これまでに見てきた途方もない大軍が、もっと大きな想像もつかない大軍のほんの後衛にすぎないと知って、われわれはみんなびっくりしたようだった。
アスキア人は役獣としてユーインタテール([#ここから割り注]絶滅した草食動物、象に似ていて三対の角を持つ[#ここで割り注終わり])とプラティベロドン([#ここから割り注]絶滅した象の一種、ずんぐりした胴体と、巨大な下顎骨を持つ[#ここで割り注終わり])を使っていた。それらに混じって、明らかにこの目的で建造された六本足の機械がいた。わたしが見たかぎり、御者はこれらの機械と動物を差別せずに使っていた。つまり、獣が倒れて起き上がれなくなったり、機械が倒れて立ち上がれなくなったりすると、その積み荷は近くのものに分配されて上積みされ、倒れた獣や機械は遺棄されるのである。獣を殺して肉を取ったり、機械を修理したり部品を外したりする手間をかけないようであった。
午後遅くなって、われわれの隊列に大きな興奮が伝わってきたが、わたしにも、護衛にも、その原因はわからなかった。ヴォダルス自身と何人かの副官が急いでやってきた。その後、隊列の最後尾と先頭との間に激しい行き来があった。夕方になって暗くなってもわれわれはキャンプをせず、アスキア人といっしょの強行軍が続いた。松明が前のほうからわれわれのところに手渡しされた。わたしは武器を持っておらず、体力もいくらか回復したので、それを持って歩いた。すると、自分を取り巻く六人の剣士を指揮しているような気分になった。
わたしに判断できたかぎりでは、隊列は真夜中ごろに停止した。護衛が薪にするために小枝を集め、松明で点火した。そしてちょうど横になろうとした時に、伝令がやってきて、われわれの前に休んでいた駕籠かきを起こして、前のほうに行かせるのが見えた。彼らがつまずきながら闇の中に消えてしまうと、すぐに伝令が軽やかに駆け戻ってきて、護衛の下士官に早口に何かささやいた。わたしはたちまち手を縛られ(前にヴォダルスが縄を切って以来、縛られていなかったのだ)、われわれは急ぎ足で駕籠の後を追った。女城主セアの小さなパビリオンが目印になっている隊列の先頭を追い越し、止まらずになおも前進して、まもなくアスキア軍本隊の何百万もの兵士の中をさまよっていた。
アスキア軍の司令部は金属のドームだった。たぶん、テント同様に折り畳むか折り曲げてあったにちがいないが、今は普通の建物のように竪固に永久的に見えた。外側は黒かったが、われわれを入れるために側面が開くと、内部に、電源のない青白い明かりがあかあかと灯っていた。そこでは、ヴォダルスが堅苦しく畏まっていた。彼の横に駕籠が置いてあり、カーテンが開いていたので、独裁者の動かない体が見えた。ドームの中心では、三人の女性が低いテーブルを囲んでいた。彼女たちはこの時も、その後も、偶然にちらりと目を向ける以外には、ヴォダルスをも、駕籠の中の独裁者をも、引き立てられていったわたしのほうも見なかった。彼女らの前には書類が積み上げられてあった。か、そちらを見ることもしないで、たがいに顔を見あわせているばかりだった。見たところ彼女たちは、これまで出会ったほかのアスキア人とそっくりだった。しかし、目がもっと正常であり、飢え方の少ない顔つきをしている点だけが違っていた。
「彼がきました」ヴォダルスがいった。「これで二人を見比べられます」
アスキア女性の一人が後の二人に彼女たちの言語で話しかけた。両方ともうなずき、話しかけたほうの女がいった。「反大衆行為をおこなう者だけが、顔を隠す必要がある」
長い沈黙があり、それからヴォダルスがわたしにささやいた。「彼女に答えろ!」
「何に答えるのですか? 質問はありませんでした」
アスキア人がいった。「大衆の友はだれか? 大衆を助ける者は? 大衆の敵はだれか?」
ヴォダルスがひどく早口でいった。「きみの知るかぎり、この半球の南半分の人民の指導者は、きみか、それともこの意識のない男なのか?」
「ちがう」わたしはいった。気楽に嘘がつけた。なぜなら、わたしの見たかぎりでは、独裁者は共和国内のごく少数の指導者だからだ。ヴォダルスに向かって、わたしは声をひそめて付け加えた。「なんと愚かなことをするんですか? もしわたしが独裁者だったら彼らにそれを教えると、彼らは思っているのですか?」
「われわれのいうことはすべて北に伝達される」
それまで黙っていたアスキア人が、口を開いた。一度、彼女はわれわれに向かって身振りをした。彼女が話しおえると、三人はそろってじっと黙りこんで坐った。彼女らがわたしに聞こえない何かの声を聞いているような印象を、わたしは受けた。それが話している間は、あえて身動きもしないのだ、と。しかし、それは一方的な想像にすぎなかったかもしれない。ヴォダルスがもじもじ動いた。わたしは負傷した足にかかる体重を少しでも減らそうと、姿勢を変えた。そして、独裁者の細い胸が不安定な呼吸にリズムを合わせてふくらんだ。しかし、三人の女は絵姿のように微動だにしなかった。
やがて、最初に口をきいた女がいった。「すべての人物が大衆に属する」それを聞くと、ほかの者が緊張を解いたようだった。
「この男は病気です」ヴォダルスは独裁者のほうを見ていった。「わたしにとっては、役に立つ従僕でした。もっとも、もう役に立ってくれないと思いますが。もう一人は部下に加える約束をしている者です」
「犠牲の功績は、自分自身の便宜を考えずに、持てるものを大衆のために提供する者のものだ」このアスキア女の口調は、これ以上議論の余地のないことを示した。
ヴォダルスはわたしのほうを見て肩をすくめ、それからくるりと向きを変えてドームから出ていった。それとほとんど同時に、鞭を持ったアスキア人の士官がぞろぞろと入ってきた。
われわれは、ジグラットのわたしの独房の二倍ぐらいの広さがあるアスキアのテントに監禁された。中には焚火があったが、寝具はなかった。士官たちは独裁者を運び入れると、焚火のそばの地面に無造作に放り出していってしまった。わたしは手の縄を苦労して解いてから、彼を楽にさせてやろうと思って、駕籠に乗っていた時のようにあお向けに寝かせ、両腕を体の左右に整えてやった。
われわれの周囲では、軍隊は静かに、いや、少なくともアスキア軍としてはこの上もなく静かに寝ていた。時々ずっと遠くで――どうやら、眠ったままで――大声で泣きだす者があったが、大部分の時間は、外の歩哨のゆっくりとした足音以外にはなんの物音もしなかった。この時、北のアスキアに行くという考えが浮かんで、わたしは筆舌に尽くしがたい恐怖を味わった。アスキア人の荒々しい飢えた顔と自分自身とに向きあったまま残りの人生を送るのは、彼らを狂気に追いやったものがなんであれ、〈剣舞《マタチン》の塔〉の客人が耐え忍ぶことを強いられている運命よりも、もっとずっと恐ろしいものに思われた。歩哨に見つかっても命を取られる以上に悪い事態にはならないだろうと思いながら、わたしはテントの裾をめくろうとした。ところが、テントはわたしには理解できない方法で地面に溶接されていた。四つの壁面はすべて、引き裂くことのできないしなやかで丈夫な材質でできており、ミレスのレーザー銃は六人の女護衛に取り上げられていた。そして、あわやドアから走りだそうとした瞬間に、独裁者の聞き慣れた声がささやいた。「待て」だしぬけにわたしは立ち聞きされるのが心配になって、彼のそばに膝をついた。
「あなたは――お眠りになっていると――思いましたが」
「大部分の時間は昏眠状態にあったと思う。そうでない時は眠っている振りをしていた。だからヴォダルスはわたしに質問しようとしなかった。きみは逃げるつもりかね?」
「あなたを残してはいきません、独裁者様。今は逃げません。あなたは死んだものと諦めておりました」
「それほど間違ってはいなかったな……確かに一日ほどの誤差はなかった。そうだ、それがいちばんよかろう。逃げなさい。イナイア老は反乱者の中にいる。彼がきみに必要なものを運びこみ、脱出を助ける手はずになっている。だが、われわれはもはやあそこに……いない、な? 彼はきみを助けることができないかもしれない。わたしの衣を開くんだ。まず、ウェストバンドの下に手をつっこめ」
わたしはいわれたとおりにした。指に触る肉体は、死体さながらに冷たかった。左の腰のあたりに、女の指ほどの太さもない銀色の金属の柄が見えた。わたしはその武器を引き抜いた。刃の長さは半スパンもなかった。しかし、厚くて丈夫で、テルミヌス・エストがバルダンダーズの棍棒《メイス》に打ち砕かれて以来、わたしの手に触れたことのない死の鋭さをもっていた。
「まだいってはいけない」独裁者がささやいた。
「生きていらっしゃる間は、置き去りにはしません」わたしはいった。「わたしをお疑いですか?」
「二人とも生きて、二人とも逃げる。きみはあの忌まわしい行為を知っているな……」彼の手がわたしの手を握りしめた。「死者を食べること。彼らの死んだ生命を食らうこと。だが、きみの知らない別の方法と薬品がある。きみはそれを飲んで、わたしの前頭葉の生きた細胞を嚥下しなければならない」
おそらくわたしは、体を引き離したにちがいない。というのも、彼が手にぐっと力をこめて、わたしの手を握ったのだ。
「女と寝る時に、きみは自分の生命を彼女の中に突き入れる。そうすれば新しい生命が誕生する。わたしの命令どおりにすれば、わたしの生命と、わたしの内部で生きていたすべての人の生命が、きみの内部で継続するはずだ。細胞がきみ自身の神経組織に入り、そこで増殖するのだ。そのための薬品は、わたしの首にかかった小瓶に入っている。それに、その刃物なら、わたしの頭蓋骨をパインのように割ることができるだろう。自分で使ったことがあるから、約束できる。わたしがあの書物を閉じた時、わたしに仕えるときみが誓ったことを覚えているか? さあ、そのナイフを使え。そして、できるだけ早く逃げろ」
わたしはうなずいて、そうすると約束した。
「その薬はきみが知っているどんな薬品よりも強いだろう。そして、わたしの人格以外はすべて失神しているが、何百人もの人格がそこに含まれている……われわれは多数の命なのだ」
「わかりました」わたしはいった。
「アスキア人は夜明けに進軍する。夜はまだ、一刻以上も残っているだろうか?」
「夜明けまでは、生きてください。いや、その先何刻でも。ほんとうに、回復されればよいのですが」
「今わたしを殺さねばならないのだ。ウールスが太陽に顔を向ける前に。そうすれば、わたしはきみの中に生き……決して死ぬことはなくなる。今わたしは、意志の力だけで生きている。話しているうちにも、命を手放すぞ」
まったく意外なことに、涙がとめどなく流れだした。「子供の頃からあなたを憎んでいました。あなたに危害を加えることはありませんでしたが、できたら加えていたでしょう。今は、申しわけなく思っています」
彼の声は虫よりもかすかになり、消えかかった。「わたしを憎むのは正しかったよ、セヴェリアン。わたしは立った……そして、きみも立つだろう……あまりにも多くの悪とされるものの側に」
「なぜですか?」わたしは尋ねた。「なぜですか[#「なぜですか」に傍点]?」彼のそばにひざまずいて、くり返した。
「なぜなら、それ以外は、もっと悪いものばかりだからだ。〈新しい太陽〉がくるまでは、われわれは諸悪のうちから選択することしかできない。すべてが試みられ、すべてが失敗に帰した。共通の利益、人民の支配……何から何まで。きみは進歩を望むか? アスキア人にはそれがある。彼らはそのために聾者になり、〈自然〉の死によって発狂し、結局、エレボスやそのほかのものを神として受け入れる寸前にきている。われわれは人類として不動のものを保持している……野蛮性の中に。独裁者は人民を高貴人から守り、そして高貴人は……人民を独裁者から守る。宗教人が人民を慰める。われわれは社会秩序を麻痺させるために道路を閉鎖した……」
彼の瞼がふっと下がった。その胸に手を置くと、心臓のかすかな動きが感じられた。
「〈新しい太陽〉がくるまで……」
わたしが逃げたかったのは、アギアでも、ヴォダルスでも、いや、アスキア人でもなく、このこと[#「このこと」に傍点]だったのに。わたしはできるだけ優しく彼の首から鎖を持ち上げ、瓶の栓を抜き、薬を飲み下し、それからあの短い鋭利な刃物を使って、いわれたとおりにした。
それがすむと、彼の遺体を頭からつま先まで、彼が着ていたサフラン色の衣で覆い、からのガラス瓶をわたし自身の首にかけた。薬の効果は、彼の警告どおり強烈だった。これを読んでいるあなたは、おそらく単一の意識しか持っていないから、二つ、または三つの意識を持つということがどういうことか知るすべはなかろう。まして何百となれば、想像すらできまい。彼らはわたしの中に生きており、新しい命を得たことを、それぞれ独自のかたちで喜んでいる。ほんの数分前に、独裁者が顔を血みどろの惨状と化して死んだのを見たのに、その独裁者もふたたび生きていた。わたしの目も手も彼のものになった。〈絶対の家〉という蜂の巣の働きとその神聖さがわかった。彼らは太陽で方位を定め、ウールスの豊饒の黄金を集めている。〈不死鳥の玉座〉への彼の道筋を、そして星々に行って帰ってくる道筋を、わたしは知った。彼の心がわたしの心になり、わたしがその存在を夢にも知らなかった習得知識《ロ ア》と、そして彼にほかの精神がもたらした知識で、わたしの心を満たした。現象的な世界は、方向の定まらない風が悲しい声をあげて吹きすさぶ砂原に描かれた絵のように、薄暗くぼんやりしていた。たとえそうしたいと思っても、わたしはそれに意識を集中することはできなかったろう。だが、実際に集中したいとは思わなかった。
われわれの牢獄テントの黒い布地が薄い紫がかった灰色に変わり、天井の四隅が万華鏡のプリズムのようにくるくる回った。わたしは気がつかないうちに、前任者の遺体のそばに倒れていた。いくら起き上がろうとしても、手が地面を打つばかりだった。
そうして、どのくらい長くそこに倒れていたかわからない。わたしはあのナイフ――今もなお、わたしのナイフだ――を拭って、彼がしていたように体に隠した。何十もの人格が重なった一つの人格のイメージが、テントの壁を切り開き、夜の闇に脱け出してくる情景を、わたしはいきいきと思い描くことができた。セクラ、セヴェリアン、そのほか無数の人が脱出した。その思考があまりにも現実味をおびていたので、わたしは実際にそれをやったのだと信じたほどだった。しかし、疲れきって寝ているアスキア兵を避けて、木々の間を走らねばならない場面にくると、きまって、実際はそうではなくて、見慣れたテントの中に、衣に覆われた死体からそう遠くない場所に自分がいることに気づくのだった。
人の手がわたしの手をつかんだ。士官たちがまた鞭を持って戻ってきて、わたしが鞭で打たれないように自発的に立ち上がるのを、待っているのだと思った。しかし、百ものでたらめの記憶が割りこんできた……ちょうど、安画廊で絵の所有者がつぎつぎに差し出して見せる絵のように。駆けっこ、オルガンのそびえたつパイプ、それぞれの角度の意味をしるした図表、カートに乗っている女。
だれかがいった。「大丈夫か? どうしたんだ?」わたしは唇から唾が流れているのを感じたが、言葉は出てこなかった。
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30 時の回廊
何かがわたしの顔を強く打った。
「どうしたんだ? 彼が死んでいるぞ。きみは薬を盛られたのか?」
≪そうだ。薬を盛られたんだ≫[#≪≫は《》の置換]だれか他人が喋っていた。しばらくすると、それがだれかわかった。若い拷問者、セヴェリアンだ。
では、わたしはだれだ?
「起きろ。脱出しなければならないぞ」
≪見張りがいる≫[#≪≫は《》の置換]
「それも一人ではない」その声が訂正した。「三人いたが、われわれが殺した」
わたしは塩のように白い階段を降りて、睡蓮が生えている澱んだ水の中に降りていった。わたしの横を、日焼けした若い女が歩いていた。その目は切れ長で、釣り上がっていた。彼女の肩越しに、名祖《なおや》の一人の彫刻の顔が覗いていた。彫刻者は翡翠に細工をしたので、その顔は草でできているように見えた。
「彼は死にかけているのか?」
「今はわれわれを見ている。見ろ、彼の目を」
わたしはここがどこかわかった。まもなく、大道商人がテントの入り口に顔を突っこんで、わたしに立ち去るようにいうだろう。「地上で」わたしはいった。「地上で彼女に会うだろうと、きみはいった。しかし、簡単だった。彼女はここにいる」
「われわれはいかなくてはならない」緑色の男はわたしの左手を取り、アギアが右手を取って、二人がわたしを連れ出した。
われわれは長い道程を歩いた。ちょうど逃げる幻影を見た時のように、眠っているアスキア兵を時々またぎながら。
「彼らはほとんど警戒していないのよ」アギアがささやいた。「ヴォダルスがいったけれど、彼らの指導者は部下があまりよく服従するので、裏切り攻撃を想像することがほとんどできないほどなんだって。実戦では、われわれの兵士はしばしば彼らに不意打ちをくわせるのよ」
わたしは理解できなかったので、子供のようにおうむがえしにいった。「われわれの兵士≠セって……」
「ヘトールとわたしは、もう彼らのために戦うつもりはないわ。彼らの実体を見てしまった今となって、そんなことができると思う? わたしはあんたに用事があるのよ」
わたしはふたたび自分を取り戻しはじめていた。わたしの$Sを作り上げているたくさんの心が全部それぞれの場所に落ち着きはじめていた。前に、〈独裁者〉とは自治者≠フ意味だと聞いたことがあるが、その称号が使われるようになった理由が少しわかってきた。わたしはいった。「きみはぼくを殺したがっていた。今は逃がしたがっている。刺し殺すこともできたのに」キャスドーの家の雨戸に突き立って震えていたスラックスの曲がった短剣が、目に浮かんだ。
「それよりもっと容易に殺すことはできたわ。ヘトールの鏡が、白い火で成長し、手よりも長くなる蛆虫をわたしにくれたのよ。それを放り投げるだけでよかった。そうすれば、それは相手を殺して、わたしのところに這い戻ってくるんだからそうやって見張りを一人ずつ殺したのよ。でも、この緑人はどうしても許さなかったし、わたしもそうする気にはならなかったの。ヴォダルスはあんたの苦痛を何週間も引き伸ばすことを約束したわ。そして、わたしはそれを減らすつもりはないの」
「彼のところに連れ戻すつもりか?」
彼女は首を振った。すると、木の葉の間に忍びこんでいたかすかな灰色の夜明けの光で、茶色の巻き毛が肩の上で躍るのが見えた。ちょうどあの古着屋の外で、彼女が格子を持ち上げるのを眺めた時のように。「ヴォダルスは死んだわ。わたしが放った蛆虫のためにね。わたしを騙した彼を、生かしておくと思うの? 彼らはあんたを連れ去るつもりだったのよ。今度はわたしが、あんたを逃がしてやる――あんたがどこにいくか、なんとなく虫が知らせるんだ――でも、結局はまたわたしの手の中に落ちるのよ。わたしらの有翼蛇《ブテリオブス》が、精鋭歩兵部隊《エ ヴ ゾ ン》からあんたを取り返したようにね」
「それでは、ぼくを憎んでいるから、ぼくを救おうというんだな」わたしがいうと、彼女はうなずいた。ひょっとしたらこれと同様に、ヴォダルスは、独裁者であったわたしの部分を僧んでいたのかもしれない。
いや、むしろ、自分の独裁者の概念を憎んでいたのかもしれない。なぜなら、彼は自分の従僕だと考えていた真の独裁者に対して、彼の立場ではできるかぎり誠実だったからだ。わたしが〈絶対の家〉の厨房の給仕をしていた頃、あるコックがいた。その人は自分が食事を作っている大郷士や高貴人を軽蔑するあまり、彼らに叱られるという不名誉な事態にならないように、あらゆることを病的なまでに完壁にやった。その結果、彼はその棟のコック長になった。わたしは彼を思い出し、彼のことをいろいろ考えていた。アギアはその間ずっと、わたしの腕に触っていた。その触感は、急いで歩いていくうちにほとんど感じられないほどになっていたが、やがて完全に消えてしまった。彼女を探したが、もう姿はなかった。そばにいるのは緑人だけだった。
「きみはどうしてここにくるようになった?」わたしは彼に尋ねた。「あの時、きみは命を失いかけていた。そして、われわれの太陽の下では、きみは生き延びられないことはわかっていた」
彼は微笑した。唇は緑色だったが、歯は白かった。その歯がかすかな光を受けてきらめいた。
「われわれはきみたちの子供だ。そして、きみたちより正直でない、というわけではない。もっとも食べるために殺すことはしないがね。きみは石を半分くれた。鉄を擦り減らす石だ。あのおかげでわたしは自由になった。もはや鎖に縛られなくなった時、わたしがどうすると思ったかね?」
「きみ自身の時代に帰ると思った」わたしはいった。薬の影響がかなり薄れたので、われわれの話がアスキア兵を目覚めさせるかもしれないと心配になった。しかし、兵士の影はまったく認められず暗闇だけしか、ジャングルにそびえる硬木の幹しか、見えなかった。
「われわれは恩人に報いる。きみを助けるために、わたしは〈時〉の回廊をあちらこちら走り回って、きみが囚われている瞬間を探して歩いていたのだよ」
これを聞いても、なんと答えていいか、わからなかった。結局こういった。「ほくが今どんなに奇妙に感じているか、きみには想像もつかないだろうな。だれかがぼくを救う機会を求めて、未来を探してくれていたなんて。しかし、今こうして脱出してみて、ぼくがきみを助けたのは、いずれきみが助けてくれるかもしれないと思ったからではないことがわかるだろう」
「いや、そうだったぞ――きみは別れたばかりの女(あれ以来、きみは何度も会ったけれど)を見つけるのを、わたしに手伝ってもらいたいと思っていた。しかし、わたしが一人でなかったことを、きみは知るべきだな。ほかにも、あそこを捜索している者がいる――わたしはそのうちの二人を、きみのところに派遣することになるだろう。きみとわたしの貸し借りはまだすんでいない。なぜなら、わたしはここできみが囚われているのを見つけはしたが、あの女もきみを見つけたし、わたしの援助がなくてもきみを解放したことだろう。だから、わたしはもう一度きみに会うことになるだろう」
彼はそういうとわたしの腕を放し、わたしが決して見たことのない方向に歩み入った。その方向とは、あの船がバルダンダーズの城の屋根から消えていくのを見るまでは、一度も見たことのない方向であり、また、何かがそこにある時でなければ見ることのできない方向のように思われる。彼はたちまち背を見せて走りだした。そして、夜明けの空の暗さにもかかわらず、彼の走っていく姿は、断続的ではあるが規則正しい閃光に照らされて、長いあいだ見えていた。ついに、その姿は薄れて一つの黒い点になった。ところが、完全に消えてしまうだろうとわたしが思った瞬間に、その点が光りだした。だから、その不思議な角度のトンネルの中を何か巨大なものがわたしに向かって突進してくるような印象を受けた。
それは前に見た船ではなくて、もっとずっと小さい別のものだった。といっても、相当な大きさがあって、ついにわれわれの意識の平面に完全に入りこんだ時には、その舷縁が何本もの大木の幹に同時に接触するほどだった。胴体が膨らみ、独裁者の飛翔機から降りてきた階段よりはずっと短い|渡り板《ポント》が滑り出てきて、地面に接触した。
そこをマルルビウス師と、わたしの犬のトリスキールが降りてきた。
その瞬間わたしは、ヴォダルスとともにアルザボを飲んでセクラの肉を食べて以来、本当には所有していなかった人格の支配力を回復した。といっても、セクラが消えてしまった(彼女はわたしの観点から見れば残酷で愚かな女だったとはいえ、いなくなればよいと思うことなどとてもできなかった)とか、わたしの前任者と、その中に包含されていた百人もの魂が消えてしまったとかいうわけではない。もとの単一のわたしの人格の、単純な構造はもはやなかった。しかし、新しい複雑な構造がわたしに眩暈を起こさせたり、当惑させたりすることはなくなっていた。それは一種の迷宮だった。だが、わたしがその所有者であり、その建設者でさえあって、あらゆる通路にわたしの親指の指紋がついていた。マルルビウス師がわたしに触り、わたしの驚いている手に彼の手を優しく重ねて、彼自身の冷たい頬に当てた。
「では、実物なんですね」わたしはいった。
「違う。われわれはほとんどきみの考えに近いつまり、舞台の上から降りてくる能天使《パワーズ》だ。ただし、完全な神格があるわけではない。きみは今は役者をしているのだな」
わたしは首を振った。「わたしを知らないのですか、師匠? 子供の頃、教えてくださったではありませんか。そして、わたしは組合の職人になったのですよ」
「それでもやはり役者だ。ほかの者と同様きみも自分をそのように考える権利がある。〈壁〉のそばの野原で話しかけた時、きみは芝居をやっていた。そして、次に〈絶対の家〉で会った時には、また芝居をやっていたぞ。あれは良い芝居だった。結末を見たかったぞ」
「観客の中にいらっしゃったんですか?」
マルルビウス師はうなずいた。「役者としてだよ、セヴェリアン。たった今ヒントに出した文句を、きっと知っているだろう。あれは芝居がうまく終わるように、人格を付与されて最後の幕に舞台に出される超自然力のことだ。そんなことをするのはへぼ[#「へぼ」に傍点]作者ばかりだとみんないうが、そういう人は、何も出なくて芝居がまずく終わるよりも、能天使が綱で吊り降ろされて、芝居がうまく終わるほうがよいということを忘れている。これがわれわれの綱だ――たくさんの綱と、頑丈な船もある。さあ、乗るか?」
わたしはいった。「だから、この姿をしているのですか? わたしがあなたを信用するように?」
「そうだ。そういってさしつかえない」マルルビウス師はうなずいた。それまでわたしの足下に坐って、わたしの顔を見上げていたトリスキールが、例の三本足でひょこひょこと|渡り板《ポント》のなかばまで駆け上がると、切断されて根っこだけになった尻尾を振り、犬特有の懇願するような目でわたしを見上げた。
「あなたが見かけどおりの人でありえないことは、わかっています。たぶんトリスキールは本物でしょう。でもわたしは、あなたが埋葬されるのを見たんですよ、師匠。あなたの顔は決して仮面ではありません。でも、どこかに仮面があって、その仮面の下は、大衆が退化人《カコジエン》と呼ぶものなんです。もっとも、あなたがたは神殿奴隷《ヒエロドウール》≠ニ呼ばれるほうが好きだと、タロス博士が説明してくれましたがね」
マルルビウス師はふたたびわたしの手に手を重ねた。「できれば、きみを欺きたくはない。しかし、きみのためとウールス全体のためになるように、きみがきみを欺くことを望む。ある薬が今は――きみが自覚している以上に――きみの精神を鈍らせている。ちょうど、〈壁〉のそばの草原で話しかけた時に、きみが強い眠りの影響を受けていたのと同じだ。もし、今薬の影響がなければ、たとえわれわれを見ても、きみの理性がそうすべきだと納得しても、おそらくわれわれといっしょにくる勇気は出ないだろうよ」
わたしはいった。「今のところは、そうすべきだと納得してもいないし、何かほかのことをしようと考えているわけでもありません。どこに連れていきたいのですか、そして、なぜ連れていきたいのでしょうか? あなたはマルルビウス師なのですか、それとも神殿奴隷《ヒエロドウール》なのですか?」喋っているうちに、樹木が次第に意識に上ってきた。それらはまるで、戦略を検討する参謀将校のまわりに立っている兵士のように、立っていた。夜の帳がわれわれの上に静かに下りていた。しかし、ここでも、その闇は次第に薄くなっていた。
「きみが使ったその神殿奴隷≠ニいう言葉の意味を知っているか? わたしはマルルビウスだ。神殿奴隷ではない。むしろ、神殿奴隷たちが仕えている者に、わたしは仕えているのだ。神殿奴隷《ヒエロドウール》≠ニは神なる奴隷≠ニいう意味だ。主人のいない奴隷というものがありうると、きみは思うか?」
「そして、わたしを連れていくのですね――」
「〈大洋〉にだ。きみの命を保存するために」彼はまるでわたしの心を読んだかのように、いった。「いや、アバイアの愛人たちのところに連れていくのではない。彼らは、きみが拷問者であり、将来の独裁者であるからこそ、きみを救助したのだ。いずれにしても、恐れるのなら、もっと悪いものがほかにある。まもなく、ここできみを捕えたエレボスの奴隷たちが、きみの脱走に気づくだろう。エレボスはきみを捕えるために、あの軍隊と、もっと多くの似たような軍隊を、深淵に投入する。さあ、おいで」彼はわたしを引っばって|渡り板《ポント》を上っていった。
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31 砂の園
その船は、わたしに見えない手で操縦されていた。てっきり、あの飛翔機のように浮かび上がるか、またはあの緑人が時の回廊を進んでいった時のように姿を消すのかと思っていたが、この船はそうではなく、気分が悪くなるほど急激に上昇した。船体に大枝がごつごつ当たる音が聞こえた。
「おまえは今は独裁者だ」マルルビウスがいった。「知っているか?」彼の声は索具に鳴る風の音と混じりあうように思われた。
「はい。前任者の精神が今はわたしの精神の一部になっています。彼はわたしがこの職についたと同様のやり方で、この職についたのでした。わたしは様々な秘密と、権威の言葉を知っていますが、それらについて考える時間がまだありません。わたしを〈絶対の家〉に連れ帰るのですか?」
彼は首を振った。「おまえにはまだその用意ができていない。昔の独裁者が知っていたすべてを、今の自分が使うことができると信じている。確かにそうだ――しかし、まだしっかり把握していない。試練の時がきたら、おまえがたじろぐ隙を狙って、おまえを殺そうとする多くの者と遭遇するだろう。おまえはネッソスの〈城塞〉で育った――あそこの城代になんという? 宝物の穴蔵の猿人になんと命令する? 〈秘密の家〉の地下倉庫を開く文句は何か? わたしにいう必要はない。なぜなら、それらはおまえの地位にある人だけが守る秘密だから。それに、どうせわたしは知っているのだ。だが、おまえ自身は、長く考えずに、すぐにそれらを思い出せるか?」
求められた文句は心の中にあったが、自分で発音しようと思うとうまくいかなかった。まるで小魚のように、それらはすり抜けて、結局わたしは肩をそびやかすことしかできなかった。
「それから、もう一つおまえがすることがある。冒険をもう一つやるのだ。水ぎわでな」
「なんですか?」
「それを教えたら、通用しなくなる。怖がることはない。単純なことだ。ひと息でできる。そして、説明すべきことがたくさんあるが、そうしている時間があまりない。おまえは〈新しい太陽〉の到来を信じているか?」
さきほど命令の言葉を自分の内部に探したように、今度は信念を自分の内部に探してみた。命令の言葉が見つからなかったと同様、こちらも見つからなかった。「物心ついて以来、そのように教えられています」わたしはいった。「教師たちが教えてくれたのですが――本物のマルルビウス師も教師たちの一人でした――彼ら自身がそれを信じていたとは思われないのです。だから、今、自分が信じているかどうかわからないのです」
「〈新しい太陽〉とはだれだ? 人間か? もし人間なら、彼がくると、いったいどうしてすべての青物がふたたび濃い緑色に育ち、穀倉がいっぱいになったりするのだ?」
ようやく自分が共和国を受け継いだことがわかりだした今、幼年時代になかば聞いた物事に引き戻されるのは不愉快だった。わたしはいった。「彼は〈調停者〉の再来です――正義と平和をもたらす〈調停者〉の化身です。いろいろな絵で、太陽のように輝く顔を持った姿に描かれています。わたしは拷問者の徒弟をしていて、助祭ではありませんでしたから、これだけしかいえません」わたしは寒風を避けるために体にマントを巻きつけた。トリスキールは足もとにうずくまった。
「それで、人聞はどちらをより必要とする。正義か平和か? それとも〈新しい太陽〉か?」
これを聞いて、わたしは微笑もうとした。「あなたはわたしの昔の師匠ではありえないけれども、わたしがセクラの方と合体しているように、彼の人格と合体しているように思えてなりません。もしそうなら、あなたはすでにわたしの答えをご存じです。極限状態に追いこまれた客人の求めるものは、温かさと食べ物、それに苦痛の軽減です。平和や正義は後回しでもいいのです。雨は慈悲を象徴し、日光は慈善を象徴しますが、雨と日光は、慈悲や慈善よりも優ります。さもないと、それらは象徴する対象を引き下げることになります」
「大ざっぱにいえば正しい。おまえの知っているマルルビウス師はわたしの中に生きている。そして、おまえの昔のトリスキールは、このトリスキールの中に生きている。しかし、今それは重要ではない。時間があれば、行く前におまえにも理解できるだろう」マルルビウスは目を閉じて、白髪になった胸毛を掻いた。それは、わたしがもっとも幼い徒弟だった頃の、師の仕種とそっくりだった。「おまえはこの小船に乗るのを怖がった。ウールスからおまえを連れ去りもしないし、別の大陸に連れていくわけでもないといったのにだ。仮にこういったら――いいはしない[#「しない」に傍点]が、仮にいったとしたら、どうだろう?――実はこの船はおまえをウールスから連れ去り、おまえたちがヴェルタンディと呼んでいるファレグの軌道を越え、ベトールとアラトロン([#ここから割り注]それぞれ火星、木星、土星を指す[#ここで割り注終わり])を過ぎ、ついにもっと外の暗黒に飛びこみ、そしてその暗黒を越えて、別の場所に連れていくと。こういったら、おまえは怖がるか? もうこの船に乗ってしまっているのだぞ」
「怖がっているなどと、すすんでいう人はいません。でも、そうです。怖いです」
「それが〈新しい太陽〉をもたらすことになるとしたら、怖かろうと怖くなかろうと、いくか?」
この時、深淵から出てきた氷のように冷たい精霊のようなものが、すでにその手でわたしの心臓を包んでしまったように思われた。わたしは騙されてはいなかったし、また、彼にもそのつもりはなかったと思う。はいと答えれば、その旅行をすることになるだろう。わたしは躊躇した。耳の中に自分の血の轟きが聞こえる以外には、あたりが静まりかえった。
「答えられなければ、今答えなくてもよい。また、あらためて尋ねることにしよう。しかし、おまえが答えるまでは、これ以上話すことはできない」
時々あちらこちら歩き回ったり、凍りつくような風の中で指に息を吐きかけたりしながら、わたしは湧き出してくるあらゆる思考に包まれて、この不思議な船のデッキに長い間立っていた。星々がわれわれを見つめていた。そして、マルルビウス師の目がそれらの星の中の二つになるように思われた。
ついに、わたしは彼のところに戻っていった。「長い間、望んでいました……もし〈新しい太陽〉をもたらすことになるなら、わたしはいきます」
「保証はできない。もしかして[#「もしかして」に傍点]〈新しい太陽〉をもたらすことになるというのなら、行くか? 正義と平和。そう、大切だ。しかし――最初の人類が誕生する以前にウールスが知っていたような、暖かさとエネルギーをウールスに降り注ぐ〈新しい太陽〉を選ぶか?」
ここで、このすでに長すぎる物語の中で、どうしても語らねばならないもっとも不思議な出来事が起こった。しかし、それには音も情景も結びついていなかったし、口をきく獣も巨大な女も関係なかった。それはただ、彼の話を聞いていると、スラックスで〈鉤爪〉を持って北に行かなければならないと知った時に感じたように、肋骨を押されるように感じたことである。わたしは|あばら家《ハカール》の少女を思い出しながらいった。「はい、〈新しい太陽〉をもたらすことになるかもしれないのなら、わたしはいきます」
「むこうで裁きを受けるとしたら? おまえは前に独裁者だった者を知っており、結局、彼を愛した。彼はおまえの中に生きている。彼は男か?」
「人間でした――あなたは人間ではないと思いますがね、師匠」
「それはわたしの質問の答えではない。わかっているくせに。彼はおまえが男であるように男だったか? 男女の二個群《ダイアド》の片割れか?」
わたしは首を振った。
「おまえもああなる。万一、裁きに敗れたらな。それでもいくか?」
トリスキールはわたしの膝に頭を乗せた。彼は足の悪いすべてのものの大使であり、〈絶対の家〉で盆を持って歩いていた独裁者や、自分の頭蓋骨の中でハミングしている声をわたしに伝える機会を待ちながら、あの駕籠の中にぐったりと横たわって待っていた独裁者、〈革命機〉の下で身悶えしていたセクラや、何事も忘れることができないと豪語しているわたしさえもほとんど忘れてしまっている、組合の塔の地下室で血を流して死にかけていた女たちの大使だった。もしかしたら、最後にすべてを変えたのは、何も変えなかったとあの時にわたしがいったトリスキールの発見だったのかもしれない。今度は答える必要はなかった。マルルビウス師はわたしの顔に答えを見てとったのだ。
「〈黒い穴〉といわれる空間の割れ目のことを知っているな。そこからは物質のかけらも、光のかけらも決して戻ってこないといわれる場所だ。しかし、おまえは今まで知らなかったが、これらの割れ目には〈白い泉〉という対蹠物がある。そこから、より高い宇宙によって弾き出された物質とエネルギーが、果てしない滝となってこの宇宙に流れ落ちている。もしおまえが通過すれば――もし、われわれの種族が空間の大海にふたたび入る用意ができていると判断されれば――そのような〈白い泉〉がわれわれの太陽の中心に創られるだろう」
「もし、失敗したら?」
「失敗したら、おまえの男性は奪われる。したがって、おまえは自分の子孫に〈不死鳥の玉座〉を譲り渡すことができなくなる。おまえの前任者もこの挑戦を受け入れた」
「そして失敗したのですね。それは、彼の言葉からも明らかです」
「そうだ。しかし、彼は英雄と呼ばれる大勢の人間よりも勇敢だった。行かない独裁者が何代も続き、彼が久しぶりにいったのだから、イマールは――話に聞いているだろうが――彼以前に行った最後の独裁者だった」
「でも、イマールも不適当だと判断されたにちがいありません。わたしたちは今いきますか? 手すりの先には星しか見えませんが」
マルルビウス師は首を振った。「おまえは自分で考えるほど、注意深く見ていないな。すでに目的地のそばにきているのだ」
わたしはふらふらしながら手すりに歩み寄った。眩量の一部は船の動揺が原因だったと思う。しかし、いくらかは薬の残存効果のためだった。
夜がまだウールスを覆っていた。なぜなら、われわれは急速に西にむかって飛んだので、ジャングルのアスキア軍を訪れたかすかな夜明けの光はまだ現われていなかったのだ。しばらくすると、舷側の星々が不安定にぐらぐら揺れながら、それぞれの天空で滑ったり流れたりするのが見えた。ちょうど、風が麦の間を吹き過ぎるように、何かが星々の間を動いているようだった。その時わたしは思った、≪これが海だ……≫[#≪≫は《》の置換]そして、その瞬間、マルルビウス師がいった。「これがあの〈大洋〉という大海だ」
「ここを訪れたいと思っていました」
「まもなく、おまえはその縁に立つ。いつこの惑星を発つかと、おまえは尋ねた。おまえのここでの支配力が確立するまでは出発しない。都市と〈絶対の家〉がおまえに服従し、おまえの軍隊がエレボスの奴隷たちの来襲を撃退してしまった時にだ。たぶん、何年もかかるだろう。しかし、何十年もかかることはあるまい。われわれ二人が迎えにくる」
「また会うとおっしゃったのは、今夜二度目ですね」わたしはいった。そういったとたんに、ちょうど船が上手に波止場に着いた時に感じるような、軽いショックがあった。わたしは|渡り板《ポント》を下りて砂の上に立った。マルルビウス師とトリスキールがついてきた。わたしは彼らに、しばらく留まって相談相手になってくれないかと頼んだ。
「ほんの短い間なら。質問がまだあるなら、今しなさい」
銀の舌のような|渡り板《ポント》はすでに船体に引っこみはじめていた。それは、船が上昇して、緑人が走りこんだ現実の割れ目と同じところにすっと飛びこむのには、間に合いそうもないように見えた。
「〈新しい太陽〉がもたらすという平和と正義のことを話されましたね。これまでのところ、彼がわたしを呼ぶのは正義からですか? わたしが合格しなければならないというテストとは、どんなものですか?」
「おまえを呼ぶのは彼ではない。呼んでいるのは、自分たちのもとに〈新しい太陽〉を呼び寄せたいと願う者たちだ」マルルビウス師はそういったが、わたしには理解できなかった。それから、彼は簡単な言葉で〈時〉の秘密の歴史を説明してくれた。それはすべての秘密の中で最大の秘密であって、いずれこの書物の適当な場所で書き記そうと思う。彼が説明を終えた時、わたしの精神はよろめき、聞いたことを全部忘れてしまうのではないかと心配になった。なぜなら、それは生きた人間が知るにはあまりにも大きすぎたからであり、またわたしやほかの人々も、霧に包まれようとしていることをついに知ったからである。
「忘れはしない。特におまえはな。ヴォダルスの宴で、ヴォダルスから権威の言葉を真似てつくった馬鹿げた合言葉を教えられた時、おまえはきっと忘れると思うといった。だが、忘れなかった。おまえは何から何まで覚えているだろう。また、恐れてはいけないということを、覚えておきなさい。それはちょうど、人類の叙事詩的苦行が終わるようなものかもしれない。もとの独裁者はおまえに真実を教えた――われわれはふたたび星々にいくことはない。ある種の神格としていくようになるまではね。しかし、その時は今から遠くないかもしれない。おまえの中で、われわれの種族のすべての発散的傾向が統合を果たしたかもしれない」
トリスキールは昔よくやったように、ちょっと後ろ足で立ち、それから三本足で漣《さざなみ》を蹴散らしながら、くるくる回り、星明かりの浜辺を駆けていった。そして、百ストライドほど離れたところでくるりと振り返り、誘うようにわたしを見やった。
わたしは彼のほうに二、三歩進みかけた。そこでマルルビウス師がいった。「おまえは、彼のいく場所にはいけないよ、セヴェリアン。おまえがわれわれのことを、一種の退化人《カコジエン》だと思っていることはわかっている。そして一時は、その迷夢を完全に醒ますことは賢明でないと考えてもいた。しかし、もうそういってはいられない。われわれはアクワストル、つまり想像力と精神集中力によって創造され維持されている|もの《ビーイング》なのだ」
「そういうものがあると噂には聞いています」わたしはいった。「でも、あなたの体に触ることができましたよ」
「それはテストにはならない。われわれは本当の贋物に劣らぬ実体を持っているのだ――つまり、空間の微粒子の踊りだ。だれも触れることのできないものだけが、本物なのだ。おまえももう知っているだろう。前に、おまえはサイリアカという女に会った。彼女は過去の偉大な思考機械の話をした。われわれが乗っているあの船にも、そのような機械があるのだ。それはおまえの精神を覗きこむ力を持っている」
わたしは尋ねた。「では、あなたはその機械なのですか?」一種の寂蓼感と漠然とした恐怖が心に芽生えた。
「わたしは師匠マルルビウスであり、トリスキールはトリスキールだ。その機械がおまえの記憶の中を探して、われわれを見つけたのだ。おまえの心の中のわれわれの命は、セクラやもとの独裁者の命ほど完全なものではないが、それでもわれわれはここにおり、おまえが生きている限り、生きつづけるのだ。しかし、われわれは機械のエネルギーによって、物質界に維持されている。そして、その到達範囲はほんの数千年ほどだ」
これらの最後の言葉を喋っている間に、彼の肉体はすでに光る塵となって消えはじめていた。それは一瞬、冷たい星明かりの中にきらめき、そして消えてしまった。トリスキールはさらに数呼吸の間わたしとともにいた。そして、彼の黄色の毛皮がすでに銀色に変わって微風の中に舞っていく時に、吠える声が聞こえた。
それから、わたしはしばしば恋い焦がれていた海辺に、一人で立った。孤独ではあったが、嬉しく感じた。そして、ほかの場所とは比べ物にならない空気を吸い、小さな波の穏やかな歌声を聞いて微笑んだ。陸地――ネッソス、〈絶対の家〉、そのほかすべての場所――は、東にあり、西に海があった。わたしは海岸に沿って北のほうに歩いた。なぜなら、そんなにすぐにそこを去りたくなかったし、トリスキールがその方向に走っていったからである。海中では大きなアバイアが手下の女たちといっしょにのたうちまわり、快楽にふけっているかもしれなかった。しかし、海は彼よりもずっと古く賢明だった。われわれ人類は陸上のすべての生物と同様に海から生じた。そして、われわれは海を征服できず、海はつねにわれわれのものだった。古く赤い太陽がわたしの右側に昇り、その薄れゆく美しい光で波に触った。そして海鳥の叫びが聞こえた。無数の海鳥の叫びが。
影が短くなった頃には、わたしは疲れてしまった。顔と、傷ついた足が痛んだ。前日の昼以来、食事をしていなかったし、アスキア人のテントの中で昏睡状態にあった以外は眠っていなかった。できれば休息を取りたかった。か、太陽は温かく、海岸の先に連なっている断崖は日陰を提供してくれなかった。結局、二輪の荷車の轍をたどっていくと、砂丘にひと塊りの薔薇が咲いている場所に出た。わたしはその陰に腰を降ろし、ブーツを脱ぎ、縫い目のほころんだ部分から中に入った砂をこぼした。
一本の棘が腕に刺さった。棘は肌に突き刺さったまま枝から取れた。その先端にきびの粒ほどの真っ赤な血が噴き出した。わたしはそれを引き抜き――膝をついた。
それは〈鉤爪〉だった。
ペルリーヌ尼僧団の祭壇の石の下に置いてきたとおりの、完全な、黒くきらきら輝く〈鉤爪〉だった。その藪全体が、そしてそれといっしょに生えているほかの藪も、白い花とこれらの完全な〈鉤爪〉に覆われていた。手の中の〈鉤爪〉を眺めると、非常に明るい光を放って燃えた。
あの〈鉤爪〉は手放してしまったが、それを入れるためにドルカスが縫ってくれたなめし革の袋は取ってあった。それを図嚢から取り出して、〈鉤爪〉をまた入れ、昔のように首からかけた。この旅の最初にこれとそっくりな薮を〈植物園〉で見たことを思い出したのは、その袋をしまった時だった。
このような物事は、だれにも説明できない。わたしは〈絶対の家〉にきて以来、|七王国の国王《ヘ ブ タ ル ク》やいろいろなアカリアス([#ここから割り注]秘密の科学の精通者に与えられる称号[#ここで割り注終わり])と話をしたが、自存神《インクリエート》はこれ以前に、これらの植物の中にみずからを顕現されようとお決めになったのだという以外には、満足な説明ができなかった。
その時は、驚異の念に満たされていたので思いつかなかったが――ひょっとしたら、われわれは未完成の〈砂の園〉に導かれたのではないだろうか? あの時でさえ、わたしは知らずに〈鉤爪〉を持ち歩いていた。アギアがすでに、わたしの図嚢の蓋の下にそれを滑りこませてしまっていたのだ。ひょっとして、われわれが未完成の園にきたのは、〈鉤爪〉がいわば〈時〉の風に逆らって飛んできて、別れを告げるためだったのではないだろうか? 不合理な考えだ。しかし、それをいうなら、すべての考えが不合理だ。
この浜辺でわたしが打たれたように――それも、実際に拳で殴られたようによろめいたものだった――思いついたことは、もし〈永遠の原理〉が、何千リーグも首にかけて持ち歩いていたあの曲がった棘に宿っていたとすると、そして、もしそれがいま袋に入れたばかりの新しい棘(たぶん同じ棘)に宿っているとすれば、それはどんなものにも宿っているのではないか、そして事実、おそらくあらゆるものに、あらゆる藪のあらゆる棘に、海のあらゆる水滴に宿っているのではないかということである。この棘は神聖な〈鉤爪〉だ。なぜなら、すべての棘は神聖な〈鉤爪〉なのだから。ブーツの中の砂は神聖な砂である。なぜなら、それは神聖な砂浜のものだから。修道士《セノパイト》たちは托鉢僧《サンニヤシン》たちの聖宝を大切に守っている。なぜなら、托鉢僧たちは〈万物主〉に近づいたからである。しかし、あらゆるものが〈万物主〉に近づき、触りさえしている。なぜなら、あらゆるものは彼の御手から落ちたものだからだ。あらゆるものが聖宝である。世界全体が聖宝である。わたしはずっといっしょに旅をしてきたブーツを脱いで海に投げこんだ。聖なる地面を土足で歩きたくなかったからだ。
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32 サムル号
そして、わたしは大軍のように歩みつづけた。なぜなら自分が、内部で歩いているすべての人々の仲間であるように感じられたからである。わたしは大勢の護衛に囲まれていた。そして、わたしは君主の体の護衛であった。わたしの隊列には、愛想のよいのや悪いのやいろいろな女がおり、また走ったり笑ったりする子供たちがいて、エレボスやアバイアに挑戦して貝殻を海に放りこんだりした。
半日ほどでギョルの河口についた。河幅が広すぎて対岸が見えなかった。そこに三角形の島がいくつもあって、それらの間を、帆にいっぱい風をはらんだ船が、山脈の峰の間を流れる雲のように走っていた。わたしはちょうどそばを通りかかった船に声をかけて、ネッソスまで乗せていってくれと頼んだ。顔は傷だらけで、マントはぼろぼろ、肋骨が一本一本見えていて、さぞ異様な姿だったろう。
にもかかわらず、船長はボートを迎えによこしてくれた。この親切は忘れられない。漕ぎ手の目には、恐怖と畏敬の表情が浮かんでいた。もしかしたら、単にわたしの治りかかった傷を見たためかもしれない。しかし、彼らはたくさんの傷を見慣れた男たちである。そして、わたしは〈紺碧の家〉で初めて独裁者の顔を見た時のことを思い出した。もっとも、彼は背の高い男ではなかった。いや、実をいえば男でさえなかったのだが。
サムル号([#ここから割り注]サムルは鳥の王の意味[#ここで割り注終わり])は二十昼夜ギョルをさかのぼった。可能な場合には帆走し、そうでない場合には舷側に一ダースずつの長いオールを並べて漕いだ。船乗りにとってこれはつらい航行だった。なぜなら、水の流れこそ感じられないほどゆっくりしていたが、昼夜を分かたず流れていたし、また水路のカーブが長く広すぎて、漕ぎ手が太鼓の音で目を覚まして漕ぎはじめた場所が、夕方になってもまだ見えていることがしばしばあるからである。
わたしにとっては、これはヨットの遠乗りのように快適だった。みんなと同じように帆の操作をしたりオールを漕いだりしようと申し出たが、許されなかった。そこで、航海を商売にしているだけでなく取り引きを商売にしているような、狡猜な顔つきの船長に、ネッソスに着いたら運賃をたっぷり支払うといった。ところが、彼はそれに耳を貸さず、わたしが乗っていること自体が彼とその乗組員にとって充分な報酬であると(口髭を引っばりながら――これは、非常に真剣だということを示そうとするたびに、彼がする仕種である)、いいはった。わたしが彼らの独裁者であることを察していたとは思えなかったし、また、ヴォダルスのような者がいるおそれもあったので、わたしは示唆を与えないように用心していた。しかし、目つきや態度から、わたしがなんらかの達人であることを、彼らは感じ取ったらしい。
船長の剣の一件が、彼らの迷信を強めてしまったにちがいない。それはクラクマルテ、つまり海の剣でももっとも重い種類のもので、刃の幅はわたしの手のひらくらいあり、鋭く湾曲していて、星とか太陽とか、そのほか船長にもわからないいろいろな物が彫刻されていた。船が川岸の村や、ほかの船に接近すると、船長は威厳のある姿を見せたいばかりに、その剣を身につけた。しかし、たいていの場合は、小さな後甲板にそれを置いていた。わたしがその剣を見つけたのも、そこだった。そして、小枝や果物の皮が緑色の水の上にぷかぷか浮いているのを眺める以外にすることのなかったわたしは、例の半分に割った抵石を取り出して、それを研ぎあげた。しばらくして、わたしが親指で切れ味を試しているのを見て、船長は剣術の腕前を自慢しはじめた。そのクラクマルテは重さがテルミヌス・エストの少なくとも三分の二ほどあり、柄が短かったので、彼の話を聞くのは面白かった。わたしは半刻ほど楽しんで聞いていた。たまたま、そばにわたしの手首ほどの太さの麻綱が巻いてあった。やがて彼は自分のでっち上げの話に興味を失いかけた。わたしは、彼と航海士に三キュビットほど間をあけてその綱を持ち上げさせた。クラクマルテはそれを髪の毛のように切断した。それから、彼らがどちらもあっけに取られているうちに、わたしはぎらぎら光る剣を太陽の方向にぱっと投げ上げ、柄をつかんで受け止めた。
この出来事はいささか目立ちすぎのように思われるが、わたしは気分がよくなりはじめた。休息、新鮮な空気、粗末な食事に、読者を魅了するようなところは何もない。しかし、傷や疲労には驚くべき効果を発揮することがある。
わたしが要求すれば、船長は自分の船室をわたしに提供したことだろう。しかし、わたしは甲板でマントにくるまってごろ寝をした。雨の夜が一回だけあり、船の中央部にさかさまに積みこまれていたボートの下で雨宿りをした。船に乗っている間に知ったのだが、風はウールスが太陽に背を向けると途絶える性質がある。だから、たいていの夜は、漕ぎ手の歌声を耳にしながら眠り、朝は錨の鎖のガラガラいう音で目覚めた。
もっとも、夜明け前に目覚めると、船が岸の近くにいて、甲板に眠そうな見張りが一人だけいるといったようなこともあった。また、月の光で目が覚めると、船は縮めた帆で滑るように帆走しており、航海士が舵を取り、見張りは動索《ハリヤード》の横で眠っている、ということもあった。このようなある夜、〈壁〉を通過してまもなく、船尾のほうにいってみると、航跡が螢光を放って、暗い水面に冷たい火のように燃えていた。わたしは一瞬、鉱山の猿人が〈鉤爪〉の治療を受けたくて追いかけてきたのか、それとも、昔の仇を討ちにきたのかと思った。もちろん、実際にそんな奇異なことが起こったわけではない――夢見心地の精神の馬鹿げた錯誤にすぎなかった。翌朝起こったこともまた、奇妙なことではなかったが、わたしは深い影響を受けた。
吹いてくるほんのかすかな風を受ける位置に船をもっていくために、漕ぎ手はゆっくりとオールを漕ぎながら、河の何リーグもの長さの湾曲部をまわっていった。ドラムの音と、長いオールから垂れる水の音には催眠術的な効果があった。それは、人間が眠っている時の心臓の鼓動と、血液が脳に上る途中に内耳を通る音に酷似しているからではないだろうか。
わたしは岸を眺めながら、手すりにもたれて立っていた。このあたりは、ギョルの洪水で沈泥に埋まった昔の平原で、まだ沼地になっていた。そして、あたかもその広大な柔らかい荒地全体に、見つめると消えてなくなり、目をそらすとまた現われる(ある種の絵に描かれているような)幾何学的な霊魂でも宿っているかのように、小山や丘にいろいろな図形が見えるような気がした。船長がわたしの横にきた。それで、わたしは、都市の廃撞がずっと下流のほうまで広がっていると聞いたことがあるが、それがいつ見えるのだろうかと尋ねた。彼は笑って、われわれは過去二日間、その中を航行していると説明し、木の切り株のように見えるものが、実は倒れかかった苔むした円柱だということがわかるはずだといって、望遠鏡を貸してくれた。
たちまち、あらゆるもの――壁も街路も記念碑も――が、隠れ家から跳びだしてくるように思われた。ちょうど、二人の魔女と、墓の屋根から眺めている間に、あの石の町が目のあたりに再現したように。わたしの精神の外側ではなんの変化も起こらなかったが、わたしはマルルビウス師の船が運んでくれたスピードよりも速く、寂しい田舎から、広大な古代の遺跡の真ん中に運ばれた。
今になっても、自分の前にあるものを見ている人間が、いったいどれくらいいるだろうかと考えないわけにはいかない。たとえばわたしは、友人のジョナスのことを、片手が義手であるただの人間にすぎないと何週間も思っていた。また、バルダンダーズやタロス博士といっしょにいた時には、バルダンダーズが主人だという何百もの手がかりを見逃していた。〈憐れみの門〉の外側で、博士から逃げるチャンスがあるのにバルダンダーズが逃げなかったことで、わたしは感銘さえ受けたのだ。
その日の時間がたつうちに、廃墟はますます明瞭になってきた。河が曲がるたびに、緑の壁が本来の固い地面から、ますます高くそびえ立った。翌朝、目覚めた時には、比較的丈夫な建物のいくつかに、上のほうの階がまだ残っていた。その後まもなく、古代の突堤に、新しく作られた小船が繋がれているのが見えた。わたしがそれらを指さすと、船長はわたしの世間知らずを笑っていった。「先祖代々、これらの廃墟の品物を拾って暮らしている家族がいるんですよ」
「それは聞いている。しかし、あれがその人たちのボートのはずがない。小さすぎて、それほど多くの略奪品を積めないからな」
「宝石やコインを拾うんです。ほかにここに上陸する人はいません。無法地帯で――略奪者はたがいに殺し合い、上陸するほかの人も殺すんです」
「あそこにいかなくてはならない。待っていてくれるか?」
彼は、発狂したか、とでもいうような目つきでわたしを見つめた。「この先に最後の大きな曲がり目があります。ここで降りていただいて、むこうで落ちあいましょう。水路がふたたび蛇行するところでね。わたしたちは正午前にあちらに着きます」
わたしは同意した。彼はわたしのためにサムル号を河の中に出し、四人の部下にわたしをボートに乗せて岸に連れていくように命じた。ボートが本船を離れる前に、彼は腰のクラクマルテを外してわたしに手渡し、おごそかな口調でいった。「この剣は幾多の厳しい戦いで、わたしの役に立ってくれました。やつらの首を取りにいらっしゃい。しかし、相手のベルトのバックルに当てて、刃こぼれをつくらないように用心してくださいよ」
わたしは感謝して彼の剣を受け取り、首なら昔から大好きだといった。「味方がそばにいないのは好都合です」彼はいった。「その長い剣を横に払うと、味方を傷つけてしまいますからね」そういって彼は口髭をひねった。
わたしは船尾に坐っていたので、ボートの漕ぎ手の顔をたっぷりと観察する機会があった。そのため、彼らがわたしを恐れているのと同じくらい、岸を恐れていることがはっきりわかった。そして、彼らはボートをその小船に横づけしたが、離れるのをあまり急いだために転覆しそうになった。わたしは、その小船の一人用の座席に落ちているのが、思ったとおり、萎れた真っ赤な罌粟《けし》の花だということを見定めてから、漕ぎ手たちがサムル号に向かって漕ぎ帰るのを見送った。今は主帆が微風をはらんでいたにもかかわらず、長いオールが突き出されて、早いストロークで水を掻いているのが見えた。おそらく船長は、その長い湾曲部をできるだけ速く回ろうと思っているのだろう。もしわたしが約束の地点にいなければ、約束を破ったのはわたしであって自分ではないと、彼はおのれに(そして尋ねられたら、ほかの者たちにも)言い聞かせ、わたしを乗せずにいってしまうこともできる。彼はクラクマルテを手放すことによって、良心の疼きをもっと和らげようとしたのだ。
子供の頃水に飛びこんだのとそっくりの石段が、突堤の両側に彫りこまれていた。その上には何もなく、石の間に生えた草のために青々として、まるで芝地のように見えた。わたしの前に、廃墟の都市が静かに広がっていた。都市はわたし自身のネッソスではあったが、今から見ればずっと昔になった時代のネッソスだった。頭上には二、三羽の鳥が輪をかいて舞っていた。だが、鳥たちは、日光の陰になった星のように静かだった。流れの中心部でささやいているギョルは、すでにわたしにも、わたしが足を引きずって歩く壮大な空家の群れにも関心を失ってしまったようだった。水面の見えないところに歩み入ると、河はわれわれが別室に入るとお喋りをやめる不安げな客のように、ぴたりと静まりかえった。
ここが、(ドルカスがいったように)家具や道具類が運び出された地区だとは、とても思えなかった。最初、わたしは何度もドアや窓を覗きこんでみた。だが、壊れたものや、いくらかの枯れ葉以外には中には何も残っていなかった。枯れ葉は、敷石をひっくり返して生え出した若木から、すでに舞い落ちはじめていた。また、動物の糞や二、三の羽毛や、散乱した骨はあったが、人間の略奪者の影は見えなかった。
どのくらい内陸に入りこんだかわからない。一リーグくらいだと思うが、もっとずっと短距離だったかもしれない。サムル号という交通手段を失ったことはあまり気にならなかった。ネッソスから山中の戦場にいくまでの大部分の道程を、わたしは歩いていったのだ。足どりはまだ安定していなかったが、足の裏は甲板で固くなっていた。剣を腰に釣って歩くのには慣れていなかったので、わたしはクラクマルテを抜いて、テルミヌス・エストのように肩にかついだ。夏の日光は、朝風にかすかな寒気が忍びこんだ時によくあるように、特別に豊かな暖かさを帯びていた。わたしはそれを楽しんだ。もしドルカスに会ったらどういおうか、また、彼女から何をいわれるだろうかと考えていたが、そうでなければ朝風をもっと楽しみ、静寂と孤独をも楽しめたことだろう。
あらかじめ知っていれば、そんな心配をせずにすんだはずだった。というのも、予想以上に早く彼女に行き逢ってしまったのである。しかし、わたしは彼女に口をきかなかった――また彼女のほうも、わたしに話しかけなかった。いや、判断できたかぎりでは、わたしを見さえしなかった。
河に近い大きくてがっしりした建物の群れはとうの昔に崩れ落ちて、もっと小さな、陥没した構造物に変わってしまい、それらは人家や商店として使われていたようであった。何がわたしを彼女の家に導いたかわからない。泣き声はまったく聞こえなかった。しかし、小さい無意識な音、蝶番のきしる音とか、靴のこすれる音などは聞こえていたかもしれない。おそらく、わたしを導いたのは、彼女が身につけていた花の香りにすぎなかったのだろう。ドルカスがいつもしていたように、可愛らしい白い斑のあるアラムの花が、その髪に一輪挿してあったからである。きっと小船を繋ぐ時に、その目的で花を持っていき、萎れた罌粟の花を投げ捨てたにちがいない(しかし、わたしは物語よりも先走りしている)。
わたしはその建物の正面から入ろうとした。だが、ところどころ床下のアーチが崩壊し、腐った床が土台に落ちこんでいた。裏側の倉庫はもっと開口部が少なかった。そこの静かな、緑したたる羊歯の木陰になった歩道は、かつては危険な路地だったらしく、商店主たちは窓を小さくするか、あるいは全然窓をつけていなかった。それでも、蔦の下に隠れたドアが見つかった。そのドアの鉄の部分は雨のために砂糖のように溶けてしまっており、樫の木の部分は腐り落ちて土になりかかっていた。だが、ほとんど無傷の階段が上の階に通じていた。
彼女はこちらに背を向けてひざまずいていた。彼女はいつも痩せ細っていた。今、彼女の肩はジュープ([#ここから割り注]女性のスカートの一種[#ここで割り注終わり])のかかった木の椅子を思わせた。彼女のもっとも薄い金色の髪は昔どおりで、〈果てしなき眠りの園〉で初めて彼女に会った時以来、変わっていなかった。あそこで小船を竿で動かしていた老人の死体が、彼女の前の棺台に横たわっていた。その背中がひどくまっすぐで、死顔があまりにも若く見えたので、あの老人だとはわからないくらいだった。彼女のそばの床には――小さくも大きくもない――一つの籠があり、栓をした水差しがあった。
わたしは声をかけなかった。しばらく見守っていると、彼女は立ち去った。もし彼女がずっと前からそこにいたのなら、わたしは彼女に声をかけて、抱きしめたことだろう。しかし、彼女は到着したばかりで、そんなことができるような雰囲気ではなかった。わたしがスラックスからディウトルナ湖まで、そして湖から戦場へ旅をしていた間ずっと、そして、ヴォダルスの捕虜として過ごし、さらに帆船でギョルを遡行してきた間ずっと、彼女はこの自分の家に帰るために――今はもう廃墟になってしまったが、彼女が四十年以上も住んでいたこの家に帰るために――旅を続けてきたのだ。
死体にぶんぶんと蝿がたかるように、古さがたかっている[#「たかっている」に傍点]老人。わたし自身がそうなっていた。わたしを老人にしたのは、セクラやあの老独裁者や、そのほか彼に含まれている百人もの精神ではない。わたしに年を取らせたのは、彼らの記億ではなく、わたし自身の記憶なのだ。浮いている茶色の菅の細道で、わたしの横に震えていたドルカスの姿が心に浮かんだ。二人とも寒くて、ずぶ濡れで、ヒルデグリンの酒瓶から二人の幼児のように、ともに酒を飲んだものだった。事実あの時は、二人とも実際に幼児だったのだ。
それからわたしは、足の向くままに歩いていった。静けさが暮らしている長い通りをまっすぐに進み、その通りが終わったところで、初めてでたらめに曲がった。しばらくするとギョルに出た。そして下流を見るとサムル号が落ちあう約束の場所に錨を降ろしているのが見えた。大海からバジロザウルスが泳ぎ上ってきたとしても、これほどは驚かなかったろう。
しばらくの間、わたしは笑っている船乗りたちにもみくちゃにされた。船長は手を握りしめていった。「わたしどもの来るのが遅れたのではないかと心配していました。あなたが河の見えるところで命をかけて闘っているのに、この船はまだ半リーグも離れているという情景が、心の目に浮かびましたよ」
航海士はこの船長を指導者と仰ぐほど底なしの愚か者だった。彼はわたしの背中をピシャピシャ叩いて叫んだ。「その現場に間に合っていたら、船長は大奮闘したでしょうに!」
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33 独裁者の城塞
ドルカスから一リーグまた一リーグと遠ざかるにつれて、胸が張り裂けんばかりの悲しみを味わったのも事実だが、同時に、あの空虚な静まりかえった南部を見た後にサムル号に帰ると、口では言い表わせないほどの安心感をおぼえたのも事実である。
サムル号のデッキは清潔とはいえないが、切り出したばかりの白木で作られており、熊≠ニ呼ばれる大きなマットで拭き掃除されていた――それは古い索具を織って作った一種の研磨用のパッドであって、それに重しがわりに二人のコックを乗せて、乗組員が朝飯前に板張りのすみずみまで引き回すのである。板の隙間にピッチが詰められているので、甲板は大胆で幻想的なデザインのタイルを敷きつめたテラスのように見えた。
船の舳先は高く、船首材が後ろに反り返っていた。大皿ほどの瞳と空色の虹彩を、手に入るかぎりの派手なペンキで描いた目が、針路を見出すのを助けるために緑の水面を睨んでいた。その左目は、錨という涙をこぼして泣くのだ。
船首材の前の、木を彫って作った三角形の支柱に、この船の船首像である極彩色の金ぴかの不死鳥が取りつけられている。頭は人間の女で、細長く貴族的な顔だち、目は黒く小さくて、その表情のなさが、決して死を知ることのないものの暗い落ち着きを厳かに表わしている。その頭皮からはペンキ塗りの木の羽毛が生えていて、肩を覆い、半球形の乳房をカップのように覆っている。腕は後ろに振り上げた翼になっており、その先端は船首材の端よりも上に伸びており、その金と真紅の風切り羽根は三角形の支柱の一部を隠している。もし独裁者のアンピエルを見なかったら――船乗りたちはそう考えているだろうが――それを完全に想像上の生き物と思ったことだろう。
長い第一斜檣が船首材の右側、サムルの翼の間を通っている。船首楼からは、この第一斜檣よりほんのわずかに長い前檣が立っている。前檣は帆に動く余地を与えるために前に傾斜していて、まるで前檣前支索と揺れている船首三角帆に引っぱられて歪んでいるように見える。主檣はもとの松の木のままにまっすぐに立っていた。しかし、後檣は後ろに傾いているので、三本のマストの先端はその根元の間隔よりもかなり開いていた。それぞれのマストに斜めになった帆桁がついている。その帆桁は、一本の若木から取った先細りの二本の円材を縛りあわせて作ったものである。そして、それぞれの帆桁に一枚の三角形の銹色の帆がついていた。
船体そのものは、船首像と先に述べた目と後甲板の手すりをのぞいて、喫水線から下は白く、上は黒く塗られていた。後甲板の手すりは、船長の高い身分と、彼の血みどろの経歴の象徴として真っ赤に塗られていた。後甲板は実際にはサムル号の全長の六分の一しかないが、舵輪と羅針儀の台架があり、索具の上からの眺めには及ばないものの、船上ではもっとも眺めのいい場所だった。船の唯一の真の武器があるのも、ここだった。マミリアンの機銃よりもさして大きいとはいえない旋回砲で、海賊にも反乱者にも同様に対処できるようになっていた。船尾の手すりのすぐ後ろに、こおろぎの髭さながらに繊細な彫刻が施された二本の鉄柱があった。一つはごく薄い赤で、もう一本の柱には月光のように緑がかった、切子面のたくさんあるランタンが掲げられていた。
次の日の夕方に、わたしがこれらのランタンのそばに立って、ドラムの音、長いオールが静かに水を打つ音、そして漕ぎ手の歌声に耳を傾けていると、川岸に初めて明かりを見た。ここは都市の死にかけた周辺部であり――つまり都市の生きている部分の端であり、また、死の支配がここで終わっているという意味でもあるにすぎない――貧乏人の中でもとりわけ貧乏な人人のすみかだった。ここでは人間は眠る用意をしていた。おそらくまだ、一日の終わりを示す食事を分けあっているのだろう。この明かりのそれぞれに、わたしは千もの優しさを見、千もの炉端の物語を聞く思いだった。ある意味で、わたしはふたたび家に帰ったのだ。そして、春にわたしの旅立ちをせき立てたのと同じ歌が、今わたしを連れ帰った。
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漕げよ、兄弟、漕げよ!
流れは逆だぞ
漕げよ、兄弟、漕げよ!
それでも、神がついている
漕げよ、兄弟、漕げよ!
風は逆だぞ
漕げよ、兄弟、漕げよ!
それでも、神がついている
[#ここで字下げ終わり]
この晩にだれが出発するのかと、わたしは思わずにはいられなかった。
真心こめて語られるのなら、どのような長い物語にも、最初の粗末な船が| 月 《リユンヌ》の浜辺にたどり着いて以来、人間のドラマを作るのに貢献したすべての要素を、含んでいることがわかるだろう――気高い行為や優しい感情だけでなく、醜悪な行為も愚かな行ないなども。わたしはこの本で、ありそうもない部分も、あなたがた読者には面白くないと思われかねないことも少しも気にせず、飾り気のない真実を書き記そうと努力してきた。山地の戦いが気高い行為(わたしではなく、ほかの人々の行為だったが)の場面であり、ヴォダルスやアスキア人にわたしが捕えられたのが恐怖の時であり、サムル号での旅は平穏無事な中間劇だとすると、われわれはここで喜劇の幕間にさしかかっていることになる。
われわれは日中に市の〈城塞〉が建っている地域――南寄りだが、南端というわけではない――に帆走で接近した。わたしは日に照らされた東の岸を目を皿にして眺めていた。それから船長に頼んで、むかし泳いだり喧嘩したりしたぬるぬるした階段のところで降ろしてもらった。共同墓地の門を通って、〈剣舞《マタチン》の塔〉のそばの幕壁の割れ目から〈城塞〉に入れればいいのだが。だが、墓地の門は閉まって錠がかかっており、わたしを入れてくれる民兵の一行が都合よくやってくる気配もなかった。そのため仕方なく、何チェーンも歩いて共同墓地の外側を回り、さらに幕壁にそって何チェーンも歩いて城門櫓までいかなければならなかった。
そこで大勢の衛兵と出会った。彼らはわたしを士官の前に連れていった。わたしが拷問者だというと、その士官はわたしのことを、組合に入れてくれと頼みに冬の初めによくやってくる例のごろつきの一人だと勘違いした。そして(彼の推測が正しければ、まことに適切なことだが)わたしに鞭打ちをくらわせることに決めた。それを防ぐために、わたしはやむをえず彼の二人の部下の親指をへし折った。それからその士官を子猫とボール≠ニいう方法で押さえこんで、その上司、つまり城代のところに連れていかせた。
この役人、つまり城代のことを考えて、わたしはちょっと恐ろしくなったことを白状しなければならない。というのは、この人が支配する砦の中で徒弟をしていた全期間を通じて、わたしはほとんどその姿を見かけたことがなかったからだ。会ってみると、その人は銀髪の老兵で、わたしと同様に足が悪かった。士官はわたしを立たせておいて、もごもごと告発した――こいつは不意を襲って、わたしの人格を侮辱し(事実ではない)、二人の部下を不具にしました、うんぬん。それがすむと、城代は彼とわたしを交互に見比べてから、彼を去らせ、わたしに椅子をすすめた。
「きみは武装していない」彼はいった。しわがれてはいるが、柔らかい声だった。大声で命令を下すので、声を鍛えてある感じだった。
わたしはそのとおりだと認めた。
「だが、戦闘を経験している。そして、山の北のジャングルにいた。あそこは、敵がウロボロスを渡って味方を出し抜いて以来、戦闘が行なわれなかったところだ」
「そのとおりです」わたしはいった。「でも、どうしておわかりですか?」
「きみの太股の傷は、彼らの槍で生じたものだ。これまでたくさん見ているから、見ればわかる。光線が筋肉を通過して骨に反射した。もしかしたら木に登っていた時に、地上から槍兵《ハスタルス》に刺されたのかもしれないが、きみは馬に乗った突撃歩兵だとするのが、もっとも妥当な推測だろう。重装歩兵ではない。そうなら、そんなに容易に負傷するはずがないからな。それとも短槍騎兵か?」
「ただの軽不正規兵です」
「その話は後でゆっくり聞かせてもらうぞ。なぜなら、アクセントからきみは都会の人間だとわかるが、都会人はたいていは折衷主義者とか、その同類ばかりだから。きみは足にも二つの傷がある。白くて綺麗な傷で、半スパンの間隔を置いて並んでいる。吸血|蝙蝠《こうもり》の噛み跡だ。世界の腰のほんもののジャングルの中でなければ、それほど大きいのはいない。どうして、あんなところにいったのかね?」
「乗っていた飛翔機が墜落して、捕虜になったのです」
「そして、脱走した?」
ぐずぐずしていたら、アギアと緑人のこととか、ジャングルからギョルの河口までの旅のことなど、否応なく喋らされていたろう。しかし、それはそんなに気軽に明かしたくない重要な事柄だった。だから、答えるかわりに、〈城塞〉とその城代に適用される権威の言葉を発した。
彼は足が悪かったから、できることならそのまま坐らせておいてやりたかった。しかし、彼はぱっと立ち上がり、敬礼をし、それからひざまずいてわたしの手に接吻をした。かくて、本人は知るすべもなかったが、彼はわたしに敬意を表した最初の人物になった。つまり、年に一度、個人的に謁見できるという――今まで要請したことはなく、たぶん将来も決して要請しないであろう――特権を行使したことになったのである。
わたしには、今のままの服装で次の段階に進むことは不可能だった。もしわたしがそのように要求したら、この老城代は脳溢血を起こして死んでしまったことだろう。彼はわたしの安全を非常に心配し、いかにお忍びでも、少なくとも隠密の鉾槍兵の一小隊くらいは連れて歩くベきだと考えた。まもなく、わたしはラピスラズリの小札帷子《ジャゼラント》を着せられ、編上長靴《コトルヌス》をはかされ、| 冠 《ステフェイン》をかぶせられ、さらに、黒檀の杖を持たされ、腐りかけた真珠をちりばめたダマッセ織りのゆったりしたケープを着せられてしまった。これらはすべて筆舌に尽くしがたいほど古いもので、〈城塞〉が歴代の独裁者の住居であった時代から保存されている蓄えの中から持ち出されたものだった。
〈城塞〉を出た時と同じマントにくるまって、われわれの塔に入るという最初のもくろみはこのようにして駄目になり、わたしは儀式ばった仮装服を着て、骨と皮ばかりに痩せ細り、足が悪く、まがまがしい傷痕のある、得体の知れない人物となって帰還した。パリーモン師の書斎に入った時もこのままの姿だったし、彼が死ぬほど怖がったことはほぼ間違いない。なぜなら、彼はほんの少し前に、〈城塞〉に独裁者がおいでになり、彼と話したいと仰せられていると、聞かされただけだったのだ。
師はわたしが留守の間にひどく老けてしまったようだった。しかし、それはたぶん、わたしの思い出す師が、追放された時の師ではなくて、子供の頃にあの小さな教室で見た師だというだけのことだろう。それにしても、彼がわたしを心配してくれたと思いたい。実際に、さほど不自然なことではないのだ。わたしは常に彼の最良の生徒であったし、また彼のお気に入りの生徒でもあった。グルロウズ師の票に対抗してわたしの命を救ってくれたのは、疑いなく彼の票だった。そのうえ彼は、愛剣をわたしにくれたのだ。
しかし、わたしのことを非常に心配してくれたにしろ、してくれなかったにしろ、彼には今まで以上に深いしわが刻まれていた。乏しい頭髪をこれまで灰色だと思っていたが、今見ると古い象牙のような黄色っぽい色あいだった。彼はひざまずいてわたしの指に接吻した。わたしが彼を助け起こし、テーブルの向こうの椅子に戻りなさいというと、少なからず驚いた。
「あまりにもお優しい」彼はいった。それから古い決まり文句を使った。「あなたの慈悲は太陽から〈太陽〉に広がります」
「我等を覚えていないか?」
「ここに監禁されていたことがおありですか?」彼は奇妙なレンズの構成物を通してわたしを覗き見た。それがなければ、彼はものが全然見えないのだ。わたしが生まれるずっと前に、組合の記録の薄れたインキのために使い果たされてしまった彼の視力は、さらにひどく衰えているに違いなかった。「どうやら、折檻を受けたことがおありのようですね。しかし、それはわれわれの仕事としてはあまりにも粗雑のようにお見受けしますが」
「これはおまえたちの仕業ではない」わたしは頬の傷を触りながらいった。「そうはいっても、我等はこの塔の地下の牢獄にしばらく監禁されていた」
彼はため息を――老人の浅い吐息を――ついた。散らかっている灰色の書類に目を落とし、また何かいった。その言葉が聞き取れなかったので、わたしはもう一度繰り返すように頼まねばならなかった。
「最後の時がきたのですね」彼はいった。「こうなるだろうと思っていました。わたしが死んで忘れられた頃にくればよいと願っておりましたのに。わたしどもを解雇されるのですか、それともなにか別の仕事におつけになるのですか?」
「おまえと、おまえが仕えている組合をどうするか、我等はまだ決めていない」
「わたくしどもを解雇しても無益です。独裁者様、もしあなたさまの逆鱗に触れたのなら、どうぞわたくしの老齢に免じてお許しください……でも、そのようなことは無益です。結局、わたくしどものやっていたことをやらせる人間が必要になるでしょうから。それを癒し≠ニ呼んでくださってもけっこうです。そのようなことはしばしばなされてきました。あるいは儀式≠ナもけっこうです。それもしばしば行なわれてきました。しかし、その事柄自体は、そういった仮名のもとで、ますます恐ろしいものになっていくことはおわかりでしょう。死に値しないものを投獄なさいますか? そうすれば、彼らは鎖に繋がれた大軍になるでしょう。逃がせば破局に通じるような囚人どもを監禁していることになり、苦しんで死ぬべき理由を積み上げた者どもに正義の手を下すべき公務員が必要になるでしょう。ほかのだれが、そのようなことをするでしょうか?」
「おまえのように正義の手をくだす人はほかにいない。我等の慈悲は太陽から〈太陽〉に広がるとおまえはいった。我等もそうなることを望んでいる。我等の慈悲によって、最大の悪人にも速やかな死を与えてやりたい。それは、彼らを哀れむからではなく、善人が苦痛を施与しつつ一生を送ることは耐えられないからだ」
師の頭が上がり、レンズがきらめいた。彼と知りあった年月で、わたしはこの時だけ青年時代の彼を見ることができた。「それは善人によってなされねばなりません。あなたは悪い忠告を受けておられます、独裁者様! 耐えられないのは、それが悪人によってなされることです」
わたしは微笑した。彼の顔を見ると、何ヵ月か前にわたしが心から差し出したあるものを、彼が思い出したことがわかったのである。この組合はわたしの家族であり、わたしの生涯にとってこれが唯一の家だということだ。ここで友人を見つけることができなければ、世の中で友人を見つけることは絶対にできない。「ここだけの話だが、師匠」わたしはいった。「我等は拷問を廃止することに決定した」
彼は答えなかった。その表情からは、わたしのいったことを聞いてさえいなかったことがわかった。その代わりにわたしの声を聞いていたのであって、衰えた年寄りの顔には、灯と影のように疑いと喜びの表情がひらめいていた。
「そうです」わたしはいった。「セヴェリアンです」そして彼が必死に冷静さを取り戻そうとしている間に、わたしは扉のところにいって、護衛の士官に持ってくるように命令しておいた図嚢を取り上げた。わたしはそれを、今は色槌せて銃色がかった黒色になってしまった組合の煤色のマントの残骸で包んでおいた。パリーモン師のテーブルの上にそのマントを広げて、わたしは図嚢を開き、中身を転がし出した。「持ち帰ったのはこれで全部です」わたしはいった。
彼は昔あの教室で、わたしのちょっとしたいたずらの現場を捕えた時のように微笑した。
「それと、玉座をですか? 説明してくださいませんか?」
わたしは要望に応えた。それには長い時間がかかった。そして、わたしの護衛は一度ならず扉を叩いて、わたしが無事でいるかどうか確かめた。そして結局、わたしは食事を持ってこさせた。そして、雉が骨だけになり、ケーキが平らげられ、ワインが飲み干されても、われわれはまだ話をしていた。結局この自叙伝となって実を結んだアイデアを思いついたのは、この時だった。最初は、自分が塔を出た日から物語を始めて、戻ってきた日に終わりにするつもりだった。だが、そのように構成すれば、芸術家たちが高く評価する対称性を得ることはできても、わたしの青年時代をある程度知らなければ、読者がわたしの冒険を理解することはできないことがすぐわかった。同様にして、帰還してから先の数日まで記述を延長しなければ(そうするつもりだが)、この物語の中のある要素は未完成のままに残ることになる。たぶんわたしは、だれかのために『黄金の書』を書いてしまったのだろう。事実、わたしの放浪のすべては、員数を補充しようとする図書館員の企みにすぎなかったのかもしれない。しかし、おそらくそれさえ、高すぎる望みなのだろう。
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34 宇宙の鍵
パリーモン師はわたしの話をすっかり聞きおえると、わたしの所持品の小さな山のところにいって、テルミヌス・エストの残骸のすべてである柄と柄頭と銀の鍔を取り上げた。「これはいい剣でした」彼はいった。「あやうく、あなたに死を与えるところでしたが、しかし、これはいい剣でした」
「これを持っているのが、いつも誇らしくてね。不満をいう理由など一つもなかった」
彼はため息をついた。その喉に息が詰まるように思えた。「剣はなくなってしまったのですね。剣は刃であって、その装飾ではないから。組合はあなたのマントや図嚢とともに、これもどこかに保存するでしょう。あなたの持ち物でしたから。あなたもわたくしも死んで何世紀もたったら、わたくしのような老人が、これらを徒弟たちに指し示すことでしょう。刃がなくなってしまったのは残念です。あなたが組合にくる何年も前から、わたくしはこれを使っていましたが、悪魔的な武器と闘って駄目になるとは夢にも思っていませんでした」彼はオパールの柄頭を下ろし、眉をひそめてわたしを見た。「なにか心配事がおありですか? 目をほじり出される時にも、そんなにたじろがなかった男を見たことがありますよ」
「いわれるような、鋼鉄も防ぎきれない悪魔的な武器がいろいろある。我等はオリシアにいた時に、そのいくつかを見た。そして、あそこでは、何万もの我等の兵士が火炎槍や投げ槍や、テルミヌス・エストよりも鍛造の質の悪い剣で、それらを撃退している。今のところは、アスキア人のエネルギー兵器の数が少ないので、なんとかうまくやっている。数が少ない理由は、それらを製造するのに必要な動力源がアスキア人にないからだ。もしウールスに〈新しい太陽〉が与えられたら、どういうことになるだろう? われわれよりアスキア人のほうが、そのエネルギーを上手に使うことができるのではないだろうか?」
「かもしれません」パリーモン師は認めた。
「我等は先に逝った独裁者たちと――いわば、新しい組合の仲間とずっといっしょに考えていた。マルルビウス師の話では、あのテストに挑戦したのは、近代では、我等の前任者ただ一人だったそうだ。ほかの人々の精神に触れることで、彼らがテストを拒んだ理由もわかったよ。われわれの敵が古代の科学をより多く保持していて、戦えば向こうが非常に有利な立場に立つだろうと感じたからだ。彼らの意見が正しいという可能性はあるだろうか?」
パリーモン師は、長い間考えてから答えた。「なんともいえません。かつてはわたくしがあなたを教えたものだから、あなたはわたくしを賢いと信じておられる。しかし、わたくしはあなたのように北にいったことはないのです。あなたはアスキアの軍隊を見ましたが、わたくしは全然見ていません。意見を聞いてくださるのはたいへん嬉しいことです。それにしても……あなたの話だけで判断すると、彼らは硬直しており、彼らの流儀にがっちりとはめこまれているようです。あえて想像すれば、彼らの中には物事を多く考える者はほとんどいないように思われます」
わたしは肩をすくめた。「そのようなことは、どんな集団についてもいえる。しかし、師匠のいうとおりだ。彼らについては、なおのことそれが当てはまるだろう。それにしても、師匠のいう硬直性≠ヘひどい――信念を上回る無感覚とでもいうものだ。個人的には、彼らは人間の男女に見える。しかし、一つにまとまると、木と石の機械のようになるのだ」
パリーモン師は立ち上がり、丸窓のところにいって、そびえ立つ塔の群れを見上げた。「ここのわれわれは、あまりに硬直しています」彼はいった。「われわれの組合も硬直しすぎているし、〈城塞〉の中も硬直しすぎています。ここで教育されたあなたが、彼らをそのようにごらんになるということは、わたくしに多くのことを教えてくれます。実際彼らは、頑固なのでしょう。もしかしたら、彼らが高度の科学を保持しているとしても――結局はあなたが思うほどではないでしょうが――〈共和国〉の人民のほうが、新しい環境を自分たちの利益になるように仕向けるのが上手かもしれません」
「我等は融通無碍ではないし、剛直不変でもない」わたしはいった。「異常に記憶力がよい点を除けば、普通の人間にすぎない」
「とんでもない!」パリーモン師はテーブルを叩いた。そのレンズがまた光った。「あなた様はふだんから並はずれたお方でした。あなたが幼い徒弟だった頃、一、二度、叩いたことがありました――覚えておられるでしょう、わかっています。しかし、あなたを叩いている時でさえ、将来は並はずれた人物になられる、われわれの組合がこれまでに戴いた、もっとも偉大な師匠になられると思っていました。事実あなたは、師匠になるでしょう。たとえ、あなたがこの組合を廃止なさっても、われわれはあなたを選出することでしょう!」
「すでにいったように、我等は組合を改革するつもりであって、廃止するつもりはない。改革をおこなう能力があるかどうかさえ、あやしいくらいだ。おまえは我等が最高の地位に移ったので、尊敬している。しかし、これはほんの偶然であり、我等とてそれは承知している。前任者もまた偶然に、この地位についた。そして、彼が我等のもとに連れてきた多くの精神――今ではほんのかすかに接触するだけだがは、一つか二つの例外はあるものの、天才の精神ではない。大部分は普通の男女であり、船乗りであり、職人であり、田舎女とかその他の有象無象にすぎない。それ以外の者はたいてい、セクラが笑いものにしていた奇矯な二流学者だ」
「あなたはただ単に最高の地位に移られたのではありません」パリーモン師はいった。「あなたはそれにおなりになったのです。あなたが国家なのです」
「ちがう。国家はほかのみんな――おまえ、城代、外の士官など――だ。我等は人民であり、〈共和国〉だ」わたしはこれを喋るまで、このことに気づかなかった。
わたしは茶色の本を取り上げた。「我等はこれを持っているつもりだ。これは、おまえの剣のように、良きものの一つだ。書物を書くことを奨励しよう。こういう衣服にはポケットがない。しかし出ていく時に、我等がこれらを手に持って出ていくのを人々に見せれば、たぶんよい影響があるだろう」
「それを持って、どこにいらっしゃるのですか?」パリーモン師は年老いた大鴉のように首を傾げた。
「〈絶対の家〉へ。我等は――いやご希望なら――独裁者は、ひと月以上も行方不明になっている。前線で何が起こっているか知らなければならないのだ。おそらくは、援軍を送らねばならないだろう」わたしはロマーやニカリートや、そのほかの控の間の囚人たちのことを思い出した。「ほかにも仕事があるし」
パリーモン師は顎を撫でた。「お出かけになる前に、セヴェリアン――いや独裁者様、牢屋を巡回なさいませんか、古き時代のために? 外にいるあの者たちが、西の階段に開く扉を知っているとは思えません」
それはこの塔でもっとも使用されない階段であり、またおそらく最古の階段でもあった。そして、もっとも原形をとどめている階段であることも確かだった。段は狭くて急で、真っ黒に錆びた中央の円柱の周囲をぐるぐる回りながら下に降りていた。セクラとしてのわたしが〈革命機〉と呼ばれる装置にかけられた部屋の扉が、なかば開いたままになっていた。室内には入らなかったが、その古代の機械を見ることはできた。いかにも恐ろしげだが、バルダンダーズの城の、きらきら光る、さらにずっと古い機械類ほどには不気味な感じはしなかった。
地下牢に入るのは、スラックスにむかって出発した時から、永遠になくなったと思いこんでいたもののところに帰るのと同じことだった。金属の長い廊下にそってずっと並んでいる扉にも、変わった点はなかった。そして、それらの扉に穿たれている小さい窓から中を覗くと、見慣れた顔が――わたしが職人として食事を与え、監視していた男たちや女たちの顔が見えた。
「独裁者様、お顔の色がよくありません」パリーモン師がいった。「お手が震えているのがわかります」(わたしは片手を彼の腕にかけて、ちょっと支えてやっていたのだ)
「師匠も知っているだろうが、我等の記憶は決して薄れない」わたしはいった。「我等にとっては、女城主セクラはまだこれらの独房の一つに坐っており、職人セヴェリアンがもう一つの独房に坐っているのだ」
「忘れておりました。はい、あなた様にはさぞ恐ろしいことでしょうね。女城主の元の独房にお連れするつもりでしたが、ごらんになりたくないでしょうね」
だが、わたしはどうしても見たいと言いはった。だが、実際にいってみると、新しい客人が入っており、扉は鎖されていた。わたしはパリーモン師にいって、当直の組合員を呼んでもらい、中に入った。そして立ったまま、くしゃくしゃのベッドと小さなテーブルをしばらく眺めていた。最後に、その客人に注意が移った。彼は一つきりの椅子に腰かけ、目を丸くして、希望と驚きの入り混じった、なんとも形容のしようのない表情を浮かべていた。わたしを知っているかと、わたしは尋ねた。
「いいえ、高貴人様」
「我等は高貴人ではない。おまえたちの独裁者だ。おまえはなぜここに入れられたのか?」
彼は立ち上がり、それからひざまずいた。「わたしは無実です! 信じてください!」
「よろしい」わたしはいった。「信じよう。だが、なんで告発され、どうして有罪の判決を受けたか、説明してみよ」
これまで聞いたこともないほど複雑で混乱した話を、客人は金切り声で喋りはじめた。彼の義理の妹がその母親とともに、彼に対して陰謀を企てた。彼女たちは、彼が妻を殴り、病気の妻をないがしろにし、妻がその父親から預かっているかなりの大金を、彼女たちには同意できない目的のために盗んだ、といった。彼は、このすべて(と、さらにずっと多く)を説明しながら、自分自身の利口さを自慢し、一方で、彼をこの地下牢に送りこんだ彼女たちのペテンと詭計と嘘を激しく非難した。そして、問題の金はまったく実在しないといい、また、義理の母がその一部を裁判官への賄賂として使ったといった。さらに、自分は妻が病気だとは知らなかったといい、また、彼女のために雇えるかぎりの名医を雇ったと主張した。
わたしは彼の独房を出て、次の独房にいき、そこの客人の話を聞き、それからまた次に、またその次にと回っていって、結局、十四人の客人を訪問した。十一人は自分たちは無実だと抗議した。最初のやつより筋の通った者もいれば、もっとずっとひどいのもいた。しかし、わたしを納得させるような抗議のできたものは一人もいなかった。三人は有罪だと認めた(もっとも、告発された罪状の大部分を犯したが、やっていない犯罪のいくつかについても告発されていると誓って言った者が一人いて、これは本当だとわたしは思った)。これらの二人は、もし釈放されれば、地下牢に逆戻りするようなことは絶対にしないと約束し、わたしはその願いを叶えてやった。三人目は女だった。この女は、部屋を一つ特別に用意し、よその子供を盗んできては、その部屋の家具の一部として無理やりに使ったのだ。ある時は、小さなテーブルの板の下に幼い少女の手を釘で打ちつけ、その子にテーブルの脚の役目をさせた、というのである。彼女はほかの二人と同様の率直さで、わたしにこういった。本心から興味をひかれるのは、その行為だけなので、自分はきっとその趣味に帰っていくだろうと。彼女は釈放してくれとは頼まず、ただ、宣告を単純な禁固に変更してくれとだけいった。こいつは狂人だと確信したが、彼女の会話にも、その青い目にも、狂気の徴候はなく、また裁判の前に精神鑑定を受けて、正常と判定されたと語った。わたしは彼女の額に〈新しい鉤爪〉を当てた。しかしそれは、昔ジョレンタやバルダンダーズを治療するために使おうとした時の古い〈鉤爪〉のように、効果を発揮しなかった。
二つの〈鉤爪〉の両方に顕現する力はわたし自身から引き出されたものであり、また、それが発する光が他人には暖かく感じられても、わたしにはいつも冷たく感じられるのは、そのせいだという考えから逃れることができない。この考えは、山上で眠った時に感じた、空の深淵に転落するのではないかというあの恐怖の心理的等価物である。わたしはそれが本当であることを熱望するからこそ、それに反発し、また恐れるのである。そして、もしそれに真理のもっともかすかな谺でも含まれているならば、わたしは自分の内部にそれを察知するだろうと感じる。しかし、そのようなことはない。
さらにそれには、このような内部の反響がないことを別にして、深い反対理由がいくつもある。そのうちもっとも重要で、説得力があり、どうしても避けて通ることができないのは、〈鉤爪〉は疑問の余地なく、死後何十年もたってからドルカスを蘇生させたという事実であり――それも、わたしが〈鉤爪〉を持っているということを知る以前に働いたという事実である。
この議論は決定的なものに思われる。それなのに、わたしは確信できないのだ。実際にわたしは知ったのか? 適切な意味において、知る≠ニはどういうことなのか? アギアが〈鉤爪〉をわたしの図嚢に滑りこませた時に、わたしは意識を失っていたと決めこんでいた。しかし、ただ単に目を回していただけかもしれない。いずれにせよ、意識を失った人間は周囲の状況を知っており、言葉や音楽に内部で応答していると、大勢の人が昔から信じてきた。さもなければ、外部の音によって生じる夢を説明できないではないか? 要するに、脳のどの部分が意識を失っているのか? 脳全体ではない。そうでなければ心臓は鼓動せず、肺は呼吸しなくなってしまう。記憶の多くは化学的なものだ。事実、セクラと前の独裁者からわたしが受け継いだものは、すべてそうである――薬剤は、思考の複雑な混合体を情報としてわたしの脳に入れるために役立つにすぎない。もしかしたら、外部の現象から生じるある種の情報は、意識的な思考を支えている電子的活動が一時停止した時でも、化学的に脳に押印されているのではないだろうか?
さらに、もしそのエネルギーがわたしの中に根源を持つというのなら、〈鉤爪〉が働くのに、どうしてわたしがその存在を意識する必要があるだろうか? ましてや、もしそのエネルギーが〈鉤爪〉そのものの中に根源を持つとすれば、その必要がないことはいうまでもないではないか? 同様に効果的な、別の強力な示唆もある。われわれは馬車を暴走させて、ペルリーヌ尼僧団の聖域を冒した。その事故によって馬が死んだにもかかわらず、アギアとわたしが無傷で残ったという事実は、そういった示唆を確かに与えるかもしれない。われわれはあの伽藍から植物園にいき、そこで〈果てしなき眠りの園〉に入る前に、〈鉤爪〉がいっぱいついている藪を見かけた。あの時わたしは、〈鉤爪〉は宝石だと信じていた。しかし、それにもかかわらず、あれらは〈鉤爪〉を暗示したのではないだろうか? われわれの精神は、しばしばそのような冗談じみたトリックを行なう。あの黄色い家では三人の人物に会ったが、彼らはわれわれを超自然的な存在だと信じていた。
もし、その超自然的な力がわたしのものであるなら(といっても、明らかにわたしのものではないが)、どうしてわたしがそれを持つようになったのか? 二つの説明を考え出したが、両方ともとてもありえないようなものである。ドルカスとわたしはかつて、現実の世界の事物の象徴的意義について語りあった。哲学者たちの教えによれば、事物というのは、それ自身よりも高い次元にあるものを表わし、また、より低い次元においては、今度はそれらの事物自身が象徴化されているという。ばかばかしいほど単純な例として、屋根裏部屋で桃を描いている画家を考えてみよう。この哀れな画家を自存神《インクリエート》の位置に置けば、彼の絵は桃というものを象徴しているといえる。つまり、土に生じるその果物を象徴している。その一方で、桃自体の鮮やかな曲線は、女性の豊満な美を象徴しているといえよう。たとえ、このような女性がこの画家の屋根裏部屋に入ってきても(ありえないことだが、説明のためにご勘弁ねがいたい)、彼女は自分のはち切れんばかりの尻や固い心が、窓ぎわのテーブルにのった籠の中に谺しているとは、夢にも思わないだろう。もっとも、画家にはそれ以外のことは考えられないだろうが。
しかし実際問題として、もし自存神《インクリエート》がこの画家の立場にあったら、右に述べたような関連性――その多くは、人間には推測不可能なままにちがいない――が、ちょうど画家の強迫観念がその絵に彩りを添えるように、世界の構造に深遠な影響を及ぼしているといえるのではないだろうか? もしわたしが、話に聞く〈白い泉〉で太陽の若さを取り戻すべき人物だとしたら、わたしはほとんど無意識のうちに(この表現を使って差しつかえないとすれば)、更新された太陽のものである生命と光の属性をすでに与えられているのではないだろうか?
今述べたもう一つの説明は、ただの想像の域を出ない。しかし、マルルビウス師がいったように、星々の間でわたしを裁く者たちが、わたしが失敗したら男性を取り上げるとしても、もしわたしが人類の代表として彼らの願望に従い、同等の価値のある贈り物をすれば追認される、ということになるのではないか? わたしには正義がそれを要求しているように思われる。もしそうなら、彼らの贈り物は、彼ら自身がそうであるように、時間を超越しているのではないだろうか? バルダンダーズの城で会った神殿奴隷《ヒエロドウール》たちは、将来玉座に着く者だから、わたしに関心があるといった――しかし、もしわたしがこの大陸のある地方に城を構えている支配者の一人にすぎなかったら、ウールスの長い歴史の中で城を構えていた多くの支配者の一人にすぎなかったら、彼らはそれほど強い関心を示しただろうか?
以上ひっくるめて、最初の説明がもっとも可能性を持つものだと思う。しかし、二番めもまったく駄目というわけではない。どちらも、わたしがこれから着手しようとしている使命は成功するであろうということを、示唆しているように思えるのだ。元気を出して、出かけることにしよう。
それでもまだ、第三の説明がある。いかなる人間も、人間に近い存在でも、アバイアやエレボスなどの心を忖度することはできない。彼らの力は理解を超えている。われわれを絶滅させるのではなく、奴隷にすることだけを勝利と考えているのでなければ、彼らが一日にしてわれわれを押しつぶすことができるのを、わたしは今や知っている。わたしが見たあの巨大な|水の精《ウンディーネ》は彼らの創造物であったが、奴隷どころではなく、彼らの玩具だった。〈鉤爪〉――彼らの海のすぐそばに生えている植物から取られた〈鉤爪〉――の力は究極的には彼らから生じている。オッシパゴやバルバトゥスやファミリムスだけでなく、彼らもわたしの宿命を知っており、わたしがそれを成就することができるように、少年のわたしを助けてくれた。わたしが〈城塞〉を去った後、彼らはふたたびわたしを見つけ、それ以後のわたしの針路は〈鉤爪〉によってねじ曲げられた。たぶん、彼らは拷問者を独裁者に、いや、独裁者よりも高いあの地位を引き上げることによって、勝利を得ようと望んでいるのだろう。
さて、マルルビウス師がわたしに説明したことを記録する時がやってきた。それが真実だと誓うことはできないが、わたしは真実だと信じている。そして、次に記すこと以上は知らない。
ちょうど花が咲き、種を落とし、枯れ、そして、その種からふたたび花が咲くように、われわれの知る宇宙は拡散して無限の空間に消滅し、その破片が集まって(空間は湾曲しているから、最後には出発点で出会う)、その種からふたたび花が咲く。このような開花と衰退のサイクルの一つ一つが、神聖な年の区切りとなる。
新たな花が前の花と似ているように、新たな宇宙は、それを産み出した廃墟となったもとの宇宙を再現する。これは大きな特徴にも、より微細な特徴にも当てはまる。新たに生じる世界は、滅びた世界と似ていないことはない。そして、同様の諸種族が住む。もっとも、花が夏から夏に進化するように、あらゆるものが極微の段階で進化する。
ある神聖な年に(われわれには本当に知覚されない時間であるが、宇宙のこのサイクルは果てしない継続のひと駒にすぎない)、マルルビウス師が人間と呼ぶのをためらわなかったほど、われわれに似た一つの種族が生まれた。その種族は、その宇宙のあまたの銀河系の間に広がった。ちょうど、遠い遠い過去に、ウールスが一つの帝国の中心であった頃、いや少なくともその故郷であり象徴であった頃に、われわれが一時そうしたといわれているように。
これらの人々は他の世界で、ある程度まで知能があるか、あるいは少なくとも知能を持つ潜在能力のある多くの生物と遭遇し――彼らが銀河と銀河の間の孤独な空間での伴侶になるように、また、おびただしい世界での同盟者になるように、彼らから、自分たちと同じような生物を作り出した。
それは急速にも、容易にも、できることではなかった。彼らの指導の手のもとで、何億何兆もの者が苦しみ、死んでいき、あとには拭い去ることのできない苦痛と流血の記憶が残った。彼らの宇宙が古くなり、銀河と銀河との間隔がひらいて、もっとも近い銀河もかすかな星団としてさえ見えなくなり、それ以後、宇宙船が太古の記録だけを頼りに舵を取るようになった頃、事業は終わった。完成してみると、その事業は始めた者たちの想像もしなかった規模になっていた。できあがったものは人類に似た新しい種族ではなくて、人類自身がそうなりたいと望んでいたような種族だった。一致団結し、同情心の厚い、公正な種族。
このサイクルの人類がどうなったか、わたしは教えられていない。たぶん、それは宇宙の内向爆発《インプロージョン》まで生き延びて、ともに消滅したのだろう。もしかしたら、それはわれわれの認識の及ばないレベルにまで進化したかもしれない。しかし人類の手によって、人類の男女がかくなりたいと願っていたものに作り上げられた生物は、イエソド――つまり、われわれ自身の宇宙よりも高度の宇宙に通じる通路を開いて脱出して、そこに、進化した彼らにふさわしい世界を創造したのだ。
その見晴らしのよい場所から、彼らは前方と後方の両方を見た。そうして見ているうちに、われわれを発見した。おそらくわれわれは、彼らを作り上げた種族と同じような種族にすぎなかっただろう。もしかしたら、彼らを作り上げたのはわれわれだったかも――いや、われわれの息子たちだったかも――あるいは、われわれの父たちだったのかもしれない。マルルビウスは知らないといった。そして、わたしは彼が真実を語ったと信じている。何はともあれ、彼らは今われわれを、彼らが形成されたように形成する。それは彼らの返済であり、同時に復讐でもある。
彼らは神殿奴隷《ヒエロドウール》をも見出した。そして、もっとすみやかに、彼らをこの宇宙に役立つように形成した。神殿奴隷たちは彼らの指示に基づいて、ジャングルから海にわたしを乗せていったような船を建造し、マルルビウスやトリスキールのようなアクアストル([#ここから割り注]精神の集中によって創造される生き物[#ここで割り注終わり])を、やはり彼らの役に立つように作り出したのである。われわれは鍛冶場で、これらの火箸につままれているのだ。
彼らが振るうハンマーは、彼らの下僕を時の回廊に沿って引き戻し、また未来に放りこむ能力にほかならない(この力は基本的には、彼らの宇宙の死を回避することを可能にする力と、同じものである――時の回廊に入ることは宇宙を去ることだ)。少なくともウールスにおいて、彼らの鉄床《かなとこ》は、生命の必然性、つまり、われわれがこの時代に、枯渇した大陸の資源をもって、ますます敵対的になっていく世界と戦う必要性なのである。これは、彼ら自身が形成された手段と同じくらい残酷なものであるから、公正さが保たれていることになる。しかし〈新しい太陽〉が現われれば、それこそは、少なくとも形成のもっとも初期の操作が完了した合図となるだろう。
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35 イナイア老の手紙
わたしに割り当てられた住居は〈城塞〉のもっとも古い部分にあった。あまり長いこと空き部屋になっていたため、維持の責任を持つ老城代や執事は扉の開け方がわからず、平身低頭して錠前を壊しましょうと申し出た。しかし、わたしはそれらの扉を制御する単純な言葉を発した。その時に、彼らの顔を見るという快楽をみずから禁じたが、彼らがびっくり仰天して思わず息をのむ音は聞こえた。
その晩、これらの部屋が作られた時代のファッションが、われわれ自身の時代のものとどれほど異なっているかを見て、非常に感銘を受けた。彼らはわれわれが知っているようなやりかたで椅子を使わずに、坐るためには複雑なクッションだけを用いた。彼らのテーブルには引き出しがなく、また、われわれが不可欠と考えるようになっている対称性が欠けていた。また、われわれの基準から見ると、織物ばかりが多くて、木、革、石、骨などが充分に使われていなかった。そのために、淫蕩な雰囲気がかもし出され、わたしはすぐに不快感を抱いた。
しかし、歴代の独裁者のために保存されているその古代様式の続き部屋以外の部屋には、入れなかった。また、前任者たちへの批判になるような模様替えをすることも不可能だった。それらの家具が、肉体よりも精神に訴えかける力があるとすると、前任者たちが残してくれた宝物を見つけるのは、なんという喜びだったことか。現在はまったく忘れ去られているか、または必ずしも正体を確認できない事柄についてのさまざまな書類があり、独創的かつ謎に満ちた機械装置があった――たとえば、わたしの手の温もりで動きだす小宇宙があり、その微小な住民が、見ているうちに大きくなり、より人間的になっていくように思われた。また、お伽噺に出てくるエメラルドのベンチ≠ネど、たくさんのものが収められている実験室があったが、中でも面白かったのは、酒精つけのマンドラゴラ([#ここから割り注]二股に分かれた太根が人体に似ている薬草の一種[#ここで割り注終わり])だった。
それが浮いている蒸留瓶は高さが七スパン、太さがその半分ほどで、一寸法師《ホムンクル》そのものは身長がわずか二スパンほどだった。ガラスを叩くと、そいつは曇ったビーズのような目をわたしに向けた。それは見たところ、パリーモン師の目よりも視力がないように思われた。その唇がねじ曲がると、音声は聞こえなかったけれども、どんな言葉を示そうとしているか、すぐにわかった――そして、ある説明できない感覚で、そのマンドラゴラが漬かっている青白い液体が、わたし自身の血の混じった小便になってしまったように感じられた。
≪独裁者よ、あなたの世界での瞑想から、なぜわたしを呼び起こしてしまったのですか?≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは尋ねた。「この世界は本当にわたしのものか? わたしは今七つの大陸があることを知っているが、この大陸の一部しかその神聖な文句に従わないではないか」
≪あなたが跡継ぎです≫[#≪≫は《》の置換]そのしなびたものはいい、偶然か故意かわからないが背を向け、もはやこちらに顔を見せなくなった。
わたしは蒸留瓶をまた叩いた。「そして、おまえはだれだ?」
≪親のないもの、命が血のなかに滲みだしてしまったもの≫[#≪≫は《》の置換]
「おや、わたしとそっくりだな! では、おまえとわたしは友人になれるぞ。似た生い立ちのものは、友人になるものだ」
≪冗談でしょう≫[#≪≫は《》の置換]
「とんでもない。おまえに本当に同情しているのだ。われわれはおまえが信じている以上に似ていると思う」
その小さい姿はもう一度向きを変えた。その小さな顔が、またわたしの顔を覗きこんだ。
≪あなたを信じることができればいいのですが、独裁者様≫[#≪≫は《》の置換]
「本気だよ。わたしが正直だといって非難したものは、これまでにいない。そして、自分の役に立つと思った時は、いろいろと嘘をついてきた。しかし、今は本当に真面目にいっている。おまえのために何かできることがあるなら、いってみよ」
≪ガラスを割ってください≫[#≪≫は《》の置換]
わたしはためらった。「死にはしないか?」
≪もともと、生きてはいませんでした。考えるのをやめることになるでしょう。ガラスを割ってください≫[#≪≫は《》の置換]
「たしかに生きている」
≪成長もしないし、動きもしないし、思考以外のどんな刺激にも反応しません。これは反応の中には入りません。わたしは自分の種類も、いや、ほかの種類も、繁殖させることはできません。ガラスを割ってください≫[#≪≫は《》の置換]
「もしおまえが本当に生きていないなら、おまえの命を奮い起こす方法を発見したいものだ」
≪身にあまる同胞愛です。セクラ様、あなたがここに監禁され、あの少年がナイフを届けた時、あなたはなぜもっと命を探さなかったのですか?≫[#≪≫は《》の置換]
わたしの頬に血が燃えた。そして、わたしはその真っ黒な蒸留瓶を持ち上げた。しかし、ぶつけはしなかった。「生きているにせよ、死んでいるにせよ、おまえは鋭い知性を持っている。セクラはわたしのもっとも怒りやすい部分なのだ」
≪もしあなたが彼女の記憶とともに彼女の腺を受け継いでいたら、あなたを怒らせて瓶を壊してもらえるでしょうに≫[#≪≫は《》の置換]
「それも知っているのか。どうして、そんなにいろいろと知ることができるのだ、盲目のおまえが?」
≪粗雑な精神活動が微小な震動を起こして、この瓶の水を動かすのです。あなたの思考が聞こえるのです≫[#≪≫は《》の置換]
「わたしにもおまえの思考が聞こえるようだ。それらが聞こえて、ほかのものが聞こえないのはなぜだ?」
汚れた丸窓から射しこむ最後の日光に照らされたそのしかめ面を、今じかに覗きこんだが、その唇が動いているかどうかは、まったくわからなかった。≪あなたは相変わらず自分自身の思考を聞いています。あなたがほかの人の思考を聞くことができないのは、あなたの精神が常に金切り声をあげているからです。籠の中で泣き叫んでいる赤子と同じことです。ああ、どうやら思い出したようですね≫[#≪≫は《》の置換]
「非常に遠い昔に、わたしは寒くて飢えていたことを覚えている。茶色の壁に囲まれて、上向けに寝ていて、自分自身の悲鳴を聞いていた。そうだ、幼児だったにちがいない。這うことができる年齢にもなっていなかったと思う。おまえはとても利口だな。今わたしは何を考えている?」
≪わたしは、あなた自身の能力の無意識の行使にすぎないと。ちょうど〈鉤爪〉と同じことだと。もちろん、そのとおりです。わたしは奇形で、生まれる前に死にました。そして、それ以来この白いブランデーの中に漬けられています。ガラスを割ってください≫[#≪≫は《》の置換]
「その前に質問したい」わたしはいった。
≪戸口に手紙を持った老人がきていますよ≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは耳を澄ませた。自分の心の中の彼の言葉だけを聞いていた後に、ふたたび現実の音を聞くのは、奇妙な感じだった――立ち並ぶ塔の間の眠そうなブラックバードの呼び声と、扉をこつこつと叩く音。
使者は、前に〈絶対の家〉の絵画室にわたしを案内したあのルデジンド老人だった。(護衛の者はびっくりしたろうと思うが)わたしは彼を室内に招じ入れた。彼と話をしたかったし、それに彼となら、むりに威厳を保つ必要はないとわかっていたからである。
「この年になるまで、ここに入ったことは一度もありません」彼はいった。「どんなご用でしょうか、独裁者様?」
「すでに用を足してもらっている。おまえの姿を見るだけで充分だ。我等がだれかわかるか? 前に会った時には、我等を見分けたではないか」
「たとえあなたの顔を知らなくても、独裁者様、どうせ二、三十回は知ることになるでしょう。あなたがどなたであるか、くりかえし教えられています。どうやら、ここでは、ほかのことについて話す人はいないようですね。ここのこの場所で、あなたがどんなに手塩にかけられて育てられたか。あれやこれやの時に、彼らがどうやってあなたに会ったか。あなたはどんな様子をしていたか、そして彼らに何をいったか。あなたに練り粉菓子をご馳走しなかったコックは一人もいません。兵士たちはみんなあなたに物語をしました。かなり前ですが、あなたにキスをせず、あなたのパンツの穴をつくろった婦人に会ったことがあります。あなたは犬を飼っておられた――」
「まったくそのとおりだ」わたしはいった。「我等は犬を飼っていたぞ」
「そして猫も、鳥も、林檎を盗むハナグマも。そして、あなたはこの場所のすべての壁に登られた。その後で、飛び降りるか、または綱にぶら下がるか、または隠れるかして、飛んだふりをなさった。あなたはかつてここにいた少年のすべてです。そして、わたしがほんの子供だった頃に年寄りだった人々についての話が、あなたの逸話として語られるのを聞きました。そして、七十年前にわたし自身がやったことも聞きましたよ」
「独裁者の顔は、人々が彼のために織った仮面の陰に隠されていることを、我等はすでに知った。それはいいことにはちがいない。自分が、人民がお辞儀をする対象と実際にどれほど異なっているかをいったん知ってしまえば、あまり威張れなくなる。しかし、我等はおまえのことを聞きたい。もとの独裁者が、おまえは〈絶対の家〉で衛兵をしていたといった。そして、今はイナイア老の従僕をしているとわかった」
「さようでございます」老人はいった。「それで、あの人の手紙を持参いたしました」彼は小さくて、いくらか汚れた封筒を差し出した。
「そして、我等はイナイア老の主人だ」
彼は粗野なお辞儀をした。「そのように存じ上げております、独裁者様」
「では、腰を下ろして、休息することを命じる。質問したいことがあるが、おまえのような高齢者を立たせておきたくない。我等が、おまえのいう、皆の噂にのぼる少年だった頃、いや、少なくとも、その年齢よりさほど年取っていなかった頃、おまえは我等をウルタン師の書架に案内した。なぜ、そうしたのか?」
「他人が知らないことを知っていたからでもありませんし、わたしの師匠が命じたからでもありません。あなたがそのことをおっしゃっているなら。この手紙をお読みになりませんか?」
「ちょっと待て。正直な答えを聞いてからだ。簡単な言葉でよい」
老人は頭を垂れて、薄い顎髭を引っ張った。彼の顔の乾燥した皮膚が白髪を追うように、小さな三角錐になって持ち上がるのが見えた。「独裁者様、昔あの時に、わたしが何かを推測して当てたと思っていらっしゃるのですね。たぶん、そうした者もいるでしょう。たぶん、わたしの主人はそうしたでしょう。わたしにはわかりませんが」彼の潤んだ目が眉の下からぎょろりとわたしを見上げ、また下を向いた。「あなたは若かった。そして、好ましい顔つきの少年でした。だから、お見せしたいと思ったのです」
「何を見せたいと?」
「わたしは老人です。あの当時も老人だし、今も老人です。あれ以来、あなたは成長された。お顔にそれが現われています。わたしはほとんど老いを加えていません。なぜなら、この程度の時間はわたしにとってはなんでもないからです。わたしが梯子を登り降りするだけに費やした時間を全部数えても、それより長くなるでしょう。あなたより前にやってきた者が大勢いたことを見ていただきたかったのです。あなたが考えもしなかった以前に、何千何万の人が生き、そして死んだことを、また、あなたよりも立派な人もいたことを知っていただきたかったのです。つまり、独裁者様、当時のあなたの立場を知っていただきたかったのです。この古い〈城塞〉で育った者はだれも、このすべてを知って生まれてくるとお思いでしょうが、わたしはそうでないことを知っています。ずっとその周辺にいながら、彼らはそれを見ないのです。しかし、あそこのウルタン師のところに降りていくと、より利口な人になって戻ってきます」
「そちは死人の代言者だな」
老人はうなずいた。「そうです。これに対して公正とか、あれに対して公正とか、みんないいますが、死者を正当に扱うことを話題にしているのを聞いたことがありません。われわれは死者が持っていたものをすべて取り上げます。それはけっこうです。そして、たいていの場合、彼らの意見に唾をはきかけます。それもいいでしょう。しかし、持ち物のいかに多くが彼らからもらったものであるか、時々思い出すべきだと思うのです。わたしはまだここにいるうちに、彼らのために一言いうべきだと考えるのです。ではこれで、独裁者様、手紙は、この奇妙なテーブルに置かせていただきます――」
「ルデジンド……」
「はい、独裁者様?」
「これから、受け持ちの絵の清掃にいくのか?」
彼はまたうなずいた。「それも、わたしが帰りたがっている理由の一つです、独裁者様。主人が――」ここで彼は言葉を切り、喋りすぎたと感じた時に人がやるように、唾をのんだように見えた。「――北にいってしまうまで、わたしは〈絶対の家〉にいました。フェッチンの絵を清掃しなければならないので、わたしは遅れたのです」
「ルデジンド、我等がそれからどんな質問をするか、おまえは知っている。しかし、その答えはもうわかった。おまえの主人はいわゆる退化人《カコジエン》なのだな。そして、理由はどうあろうと、彼は人類におのれのすべてを賭ける決意をし、一人の人間としてウールスに残っている数少ない退化人の一人なのだ。クーマイの巫女もやはりそういう一人だろうが、彼女のことは、たぶんおまえは知らないだろう。また、おまえの主人は北方のジャングルで我等といっしょにいたこともわかった。あそこで彼は、もう手遅れになるまで我等の前任者を救出しようと努力していたのだ。一つだけ、いっておくことがある。おまえが脚立に登っている時に、使いの若者が通りかかったら、その者をウルタン師のところにやるように。それが我等の命令だ」
彼がいってしまうと、わたしは封筒を開けた。中の紙は大きくはなかったけれども、細かい文字がぎっしりと書いてあった。まるで艀化したばかりの蜘蛛の子の大群がその表面に押しつけられているかのように。
[#ここから2字下げ]
ウールスの花婿、ネッソスと〈絶対の家〉の主人、その種族の頭、その人民の黄金、夜明けの使者、へーリオス、ヒュペリーオーン、スリア、サビタール、そして独裁者様! あなたの下僕イナイアよりご挨拶を申し上げます。
急がせましたので、二日以内にあなた様のところに届くと思います。
事件を知ったのは一日以上前のことでした。情報の多くはアギアという女からきました。彼女は、少なくとも本人の話によれば、あなたの解放に役立ったということです。彼女はまた、過去のあなたの彼女への仕打ちについて何やら申しておりました。と申しますのは、ご承知のように、わたくしには情報を引き出す手段があるのです。
高貴人ヴォダルスが彼女の行為によって死んだことは、すでにお聞きおよびでしょう。彼の愛人、女城主セアは最初、彼が死んだ時に周囲にいた|手 下《ミユルミドーン》ども([#ここから割り注]本来はアキレスに従ってトロイ戦争に従軍した勇士の一人[#ここで割り注終わり])の指揮を執ろうと試みましたが、彼女は決してその器ではなく、ましてや南部の部下たちを統率する力量はありませんでした。わたくしは工夫して、このアギアという女をセアの代役に立てました。彼女に対するあなた様の従来からの恩寵を考えますと、必ずやご承認を得られるものと存じます。確かに、過去においてあのような有用性を発揮した運動を維持することは望ましいことであり、また、へトールという来訪者の鏡が壊れずにいるかぎり、彼女はもっともらしい指揮官として役割を果たすことでありましょう。
わたくしの主人、つまり生前の独裁者を助けるために、わたくしが召喚したあの船を、おそらく不適当なものとお考えになるでしょう――その点については、わたくしも同じように思いますが――それでも、あれはわたくしが入手できる最善のものであり、苦心惨憺して手に入れたものなのです。わたくし自身は逆にどうしても南にいかなければなりませんでした。それも、もっとずっとのろのろと。そのうちに、わたくしの従兄弟たちが、人類だけでなく、われわれ[#「われわれ」に傍点]にも味方をする用意のできる時がくるかもしれません――しかし当面は、ウールスをほかの多くの植民された世界よりもいくぶん意義の少ないものと見、またわれわれ自身をアスキア人と(その点では黄色人種やその他多くの人種と)同等に見る態度を、維持します。
おそらく、わたくしの報告よりももっと新しく、かつ正確な報告をすでに得ておられると存じますが、そうでない場合のために、申し上げます。戦況は一進一退です。彼らの包囲のいかなる地点も深く突破してはおりません。とりわけ南部の突出部は、公平に見て、撃破されたといえる程度の被害を受けました。きわめて多数のエレボスの奴隷が死んでも、あなた様はいささかもお喜びにならないとは存じておりますが、少なくともわれわれの軍隊は小休止を得ております。
休息を切実に欲しているのは、彼らのほうです。パラリア人の問に反乱が起こっておりますが、それを鎮圧せねばなりません。あなたの親衛隊であるタレンタイン軍および、都市軍団――戦いの矢面に立つ例の三つのグループ――は敵とほとんど同様の甚大な被害を受けております。彼らの間には百人の有能な兵士を召集できぬ歩兵隊《コホー卜》さえもあります。
いうまでもありませんが、われわれはさらに多くの小火器、特に、われわれの支払いうる値段で手放すように従兄弟を説得できるなら、大砲を入手すべきであります。当面は新しい部隊を編成するために手を尽くして、春までには新兵の訓練を終えなければなりません。現在は、散り散りにならずに小競《こぜ》り合いができる軽部隊が必要です。しかし、もし来年アスキア人が大攻勢に移れば、わが方は何万ものピクネール([#ここから割り注]重装の鉾槍隊[#ここで割り注終わり])とピラニ([#ここから割り注]軽装の投槍隊[#ここで割り注終わり])が必要になるでしょう。今は、ともかく彼らの一部だけでも武装させることがよろしかろうと存じます。
アバイアの来襲について、あなた様がなんらかのニュースをお持ちならば、それはわたくしのものより新しいでしょう。わたくしは戦線を離れて以来、それについての知らせは何も得ておりません。ホルミスダスは南部に入っていると信じます。しかし、オラグエがあなたに情報をお伝えすることができるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]取り急ぎ、敬意をこめて、
[#地から1字上げ]イナイア
[#改ページ]
36 贋金と点火について
語るべきことはさほど残っていない。数日中にこの都市を去らねばならないことがわかっているから、やりたいと望むことをすべて急いでやらねばならない。組合にはパリーモン師以上に信頼できる友人はいないが、彼はわたしの計画にはほとんど役立たない。それゆえロッシュを召し出した。彼ならわたしの面前でわたしを長いこと欺きとおすことができないとわかっているからである(わたしはロッシュが自分より年取った男だろうと予想していた。だが、命令に応じてやってきた赤毛の職人は、ほとんど子供同然の男だった。彼が退出した後に、わたしは鏡に自分の顔を映してしげしげと眺めた。今までそんなことをしたことはなかったのに)。
ロッシュは、彼や多少ともわたしと親しかった何人かの友人は、組合員の大部分の意志がわたしの死を支持した時に反対意見を述べたといい、わたしはそれを信じた。彼はまた、わたしの手か足を切断して、除名することを提案したと、かなり率直に認めた。もっともそう提案したのは、それがわたしの命を救う唯一の方法だと感じたからだという。彼はなんらかの処罰を受けると予想していたのだろう普段は真っ赤な色をしている彼の頬と額が、この時ばかりは真っ白で、まるで絵具を振りかけたようにそばかすが浮き出ていた。しかし、声はしっかりしていて、他人に罪をなすりつけるような、言いわけじみたことはいわなかった。
確かにわたしは、彼を組合のほかの者たちとともに処罰するつもりだった。しかし、それは彼やそのほかの者に遺恨を抱いているからではなく、しばらく塔の地下に監禁されれば、彼らの心に、パリーモン師が話した正義の原則に対するある種の感受性が生じるだろうと思うからであり、また、これから発布するつもりの拷問禁止令の施行を保証することになると思うからである。何ヵ月も、あの芸術に怯えて暮らした者が、その廃止を非難することはあるまい。
しかし、ロッシュにはそれについては何もいわず、ただ、その晩に職人の制服を持ってきてくれるように、また、明朝わたしの手伝いをさせるためにドロッテとイータを待機させておくように頼んだ。
晩祷の直後に、彼は頼んだ衣服を持って戻ってきた。今まで着ていたごわごわの装束を脱ぎ、ふたたび煤色の衣服をまとうのは筆舌に尽くしがたい喜びだった。夜間に、その黒ずんだ衣服を着ることが、わたしの知るかぎりでは、もっとも人目につかない方法である。わたしは秘密の扉の一つからこっそりと自室を抜け出し、塔と塔の間を影のように歩いて、やがて幕壁の崩壊している部分にやってきた。
昼は暖かかったが、夜は涼しく、共同墓地は霧に包まれていて、前にヴォダルスを救うために記念碑の陰からわたしが出ていった時とそっくりだった。子供の頃遊んだあの霊廟ももとのまま立っており、四分の三閉まったまま動かなくなっている扉も、もとのままだった。
わたしは蝋燭を持参しており、中に入ると火をつけた。昔磨いた死者の真鍮の像は、また緑色に戻っていた。いたるところに、原形を保った枯れ葉が散り敷いていた。格子のはまった小さな窓に、一本の木が細い枝を差しこんでいた。
[#ここから3字下げ]
置かれた場所に、じっとしていろ、
決して他人に見られるな、
わたし以外のだれの目にも、
草が生えているように見えろ。
ここにじっとしていろ、動くでないぞ、
もしも手が近づいたら、欺いてやれ、
他人の目には信じさせるな、
わたしが見るまでは。
[#ここで字下げ終わり]
その石は、記憶にあるよりも小さく、軽かった。石の下のコインは、湿って輝きを失っていた。しかし、まだそこにあった。ふたたびそれを手にすると、たちまち、霧の中を震えながら歩いて裂けた壁のところに戻ったあの少年の自分を思い出した。
今わたしは、あれほど多くの逸脱と脱線を許してくださった読者に、いま一度許してくださるようにお願いしなければならない。これが最後のお願いである。
数日前に(つまり、これから話そうと決めた事件が実際に終わって、長い時間がたった後に)、わたしに金を借りているという放浪者が、この〈絶対の家〉にやってきたと聞いた。そいつはわたし以外のだれにも金を渡すのを拒んでいるという。わたしは昔の知り合いかなにかだろうと思って、その者を連れてくるように侍従に命じた。
それはタロス博士だった。彼は金を持っているらしく、赤いビロードのカポート([#ここから割り注]フードつきの旅行者用のコート[#ここで割り注終わり])に、同じ布地のチェチア([#ここから割り注]つばがなく房のついたアラビア風の帽子[#ここで割り注終わり])という派手ないでたちをしていた。顔は相変わらず狐の縫いぐるみそっくりだった。しかしわたしには、時々それにかすかな生命の気配が忍びこむように感じられた。そのガラスの目を通してなにかが、いや、だれかが覗いているような気配がしたのだ。
「出世なさいましたなあ」彼はそういって、帽子の房が絨毯をこするくらい深くお辞儀をした。
「わたしが、きっと出世なさると、いつもいっていたことを覚えておいででしょう。清廉潔白にして聡明な士が、埋もれたままでいるはずはありません」
「二人とも、埋もれているほど楽なことはないと知っているではないか」わたしはいった。
「わが古い組合によって、そういう人物が毎日埋められている。しかし、きみに会えて嬉しい。たとえ、きみが主人の使いできたにしても」
一瞬、博士はぽかんとした。「ああ、バルダンダーズのことですね。いや、残念ながら、彼はわたしをお払い箱にしました。あの戦いの後に。湖に飛びこんだ後に」
「では、彼が生きていると信じているのだな」
「ああ、絶対に生きています。セヴェリアン様、彼のことならわたしは、あなたよりよく知っていますが、彼にすれば、水を呼吸するなんて造作もないのです。平気なんですよ! 彼はすばらしい精神を持っていました。独特な種類の最高の天才です。すべてを取りこむのです。学者の客観性と神秘家の自己陶酔を結合したのです」
わたしはいった。「つまり、彼は自分自身に実験をしたというのだな」
「いや、いや、全然ちがいます。その逆です! ほかの人は世界に適用できるなんらかの法則を導き出そうとして、自分自身に実験をします。バルダンダーズは世界に実験をして、その結果を、ずばりいって、彼自身の肉体に使ったのです。世間では――」ここで彼は不安そうにあたりを見回して、わたし以外に聞いている者がいないことを確かめた。「――世間では、わたしを怪物だといっていますが、そのとおりです。しかし、バルダンダーズのほうが、わたしなどよりも、ずっと怪物なのです。ある意味で、彼はわたしの父親です。しかし、彼は彼自身を作り上げました。被創造物には、それぞれ必ず創造主がいるというのが、自然の、そして、自然より高いものの掟です。しかし、バルダンダーズは彼自身の創造物なのです。彼は彼自身の背後に立って、ほかのわれわれと自存神《インクリエート》を結んでいる絆を、自分自身から切り離したのです。それはともかく、主題から脱線して話をしてしまいました」博士は真っ赤ななめし革の財布をベルトにつけていた。彼はその紐を緩めて、その中をかきまわしはじめた。金属のちゃらちゃらいう音が聞こえた。
「今は金を持ち歩いているのか?」わたしは尋ねた。「昔は全部彼に渡していたのに」
彼の声はほとんど聞き取れないほど低くなった。「今のわたしの立場にあったら、あなたもそうなさるのではないですか? 今はコインを、ちょっとしたアエスとオリカルクの蓄えを残してあります。湖のほとりにね」かれは声をもう少し大きくしていった。「そうしても害はないし、羽振りの良かった頃の思い出になるし。しかし、ほらね、わたしは正直なのです! 彼はいつも正直であるようにわたしに要求しました。そして、彼も彼なりに正直だったのですよ。とにかく、われわれが門から出る前の朝のことを覚えていますか? 前の晩の上がりを、みんなに分配していたら、邪魔が入ったでしょう。コインが一枚残ったが、それはあなたに渡すべきものだった。わたしはそれを取っておいて、あとで渡すつもりだったが、忘れてしまった。それから、あなたが城にやってきた時は……」彼はわたしに流し目をくれた。「しかし、公正な取り引きは支払われて終わる、と俗にいうではありませんか。だから、ここに持ってきたのです」
そのコインは、わたしが石の下から取り出したのと瓜二つだった。
「これで、家来の方に渡さなかったわけがわかったでしょう――きっと、気ちがいだと思われますからね」
わたしはそのコインを爪で弾き上げて、受け取った。どことなく油じみているように感じた。
「本当のことをいえ、博士。わけがわからないぞ」
「なぜなら、もちろんそれが贋金だからです。あの朝そういったでしょう。独裁者に支払いにきたといって、ご家来に贋金を渡すなんてことが、どうしてできましょうか? 彼らはあなたに恐れおののいています。そんなことをしたら、彼らはわたしの腸を裂いてでも本物のコインを探すでしょうよ! あなたは何日もかかって爆発する爆薬を持っていて、人々をゆっくりとばらばらに吹き飛ばすというのは本当ですか?」
わたしは二枚のコインを見比べた。同じような真鍮の光沢をもっていて、同一の型《ダイ》で打ち出されたもののように見えた。
しかし、このささやかな接見は、先に述べたように、この物語の適当な結末の後ずっとたってから行なわれたものである。わたしはやってきたのと同じ道を通って、〈旗の塔〉の自分の部屋に戻っていった。そして、ふたたびそこに着くと、ずぶ濡れのマントを脱いで釘にかけた。昔よくグルロウズ師が、組合員のもっともつらいことはシャツを着ないことだといっていた。彼は皮肉のつもりでいったのだが、ある意味では正しかった。むき出しの胸で山岳地帯を踏破したわたしも、重苦しい独裁者の装束を数日間つけていただけで、秋の霧の夜に身震いするほど体が鈍ってしまっていた。
すべての部屋に暖炉があり、それぞれに薪が積み上げられているが、薪は古く乾燥していて、うっかり薪架にぶつけたら塵に返ってしまいそうだった。今までそのどれにも火をつけずにいたが、今日は火をつけて温まることにし、ロッシュが持ってきた衣服を椅子の背に掛けて乾かすことにした。だが、火口《ほくち》箱を探すと、興奮のあまり霊廟に蝋燭といっしょに置いてきてしまったことに気づいた。わたし以前に、これらの部屋に住んでいた独裁者(わたしの記憶の届かない遙か昔の支配者)が、手近にあるたくさんの暖炉に点火する手段を持っていなかったはずはない。漠然とそう考えながら、わたしはあちこちのキャビネットの引き出しを探しはじめた。
引き出しにはたいてい書類がいっぱい詰まっていて、以前はひどく興味を引かれたものだ。しかし、最初に部屋を調査したときのようにいちいち読むことはせずに、それぞれの引き出しから書類を持ち上げて、その下に鋼、点火器、火口の挿入筒などはないかと探した。
なにもなかった。しかし、その代わりに、いちばん大きいキャビネットのいちばん大きい引き出しの中の金銀線細工のペンケースの下に、小型のピストルが隠されているのを発見した。
このような武器は前に見たことがあった――最初は、たった今取り戻したばかりの贋金と同じコインを、ヴォダルスからもらった時だった。しかし、このような武器をわが手で握ったことは一度もなかった。そして今、それが他人の手に握られているのを見ることと、自分の手で握ることは、まったく別だとわかった。かつて、ドルカスとともにスラックス目指して北に旅をしていた時に、鋳掛け屋と行商人のキャラバンと行をともにしたことがあった。当時は、〈絶対の家〉の北の森でタロス博士と会った時に分配された金の大部分をまだ持っていた。しかし、それが路銀としてどれくらい長くもつかわからず、また、この先どのくらいの道程が残っているかもわからなかった。そのためにわたしは、ゆく先々の小さな町で、頭や手足を切断すべき犯罪者はいないかと尋ねては、ほかの連中と同様に自分の商売に励んだものであった。この放浪者たちは、われわれ二人を仲間と見なした。もっとも、われわれが当局のためにだけ働くので、いくらか高貴な階級だと考える者もあれば、圧政の道具として軽蔑の態度を見せる者もいた。
ある晩、たいていの者よりも親しくつきあい、折りにふれちょっとした好意を示してくれていた研ぎ屋が、テルミヌス・エストを研いでやろうと申し出た。わたしは仕事のために充分に研ぎ澄ましてあるから、指で切れ味を試してごらんといった。彼はちょっと指を切った後(きっと切るだろうと思っていた)、その刃だけでなく、柔らかい革の鞘も、彫刻のある鍔などにも感心し、その剣がすっかり気に入ってしまった。そして、その製作や歴史や使い方などについて数限りなく質問をした。それに答えてやると、こんどはそれを持たしてくれないかと頼んだ。わたしは剣の重さと、固いものに当てて刃を欠く危険について注意を与えてから、渡してやった。彼はにっこり笑って、教えてやったとおりにその柄をにぎった。だが、その長い、輝く死の道具を振り上げはじめると、顔面が蒼白になり、腕が震えだした。それでわたしは、彼が剣を降ろす前に奪い取った。その後彼は、おれは兵士たちの剣を何度も研いだんだぞ≠ニいう言葉を何度も何度も繰り返すばかりだった。
今わたしには、彼の気持ちがわかった。わたしはピストルを落とさないうちに、急いでテーブルの上に置いた。それから、飛びかかろうとしてとぐろを巻いた蛇の周囲を回るように、その周囲を何度も何度も回った。
ピストルはわたしの手よりも短かった。あまりに美しくできているので、一個の宝飾品といってもよいくらいだった。しかし線の一本一本が、その出所が近くの星ではなく、もっとずっと遠方であることを物語っていた。銀色の地肌は時間にも黄ばまず、研磨器から出てきたばかりといっていいぐらいだった。表面は装飾によって覆われていた――文字のようにも思われたが、実際にはなんとも判断できず、わたしのように直線と曲線のパターンを見慣れた目の持ち主には、ただの複雑なちかちか光る反射に(といっても、それは、現存しないものの反射なのだが)すぎないようにも思われた。銃把には、トルマリンに似ているが、もっと輝きのある、名も知れない黒い宝石がちりばめてあった。しばらくしてから、直視すると、その石のいちばん小さいものが四本の光芒を放って見え、目をずらすと見えなくなることに気づいた。もっとこまかく調べると、それがもともと宝石ではなく、微小なレンズであり、内部の火がそれを光らせているのだとわかった。つまり、このピストルは何世紀もたっていながら、まだチャージを保持しているのだ。
理屈に合わないことだが、それを知ってわたしは安心した。使用者にとって、武器には二重に危険がある。つまり、偶然自分を傷つける危険と、いざという時に役に立たない危険だ。最初の危険は残っているが、この光点の輝きを見た時に、第二の危険は除外できるとわかったからである。
銃身の下には、放出の強度をコントロールするためのものらしい滑動ボルトがあった。最初に頭に浮かんだのは、これを最後に扱った人は、おそらく最大の強度にセットしておいただろうという思いだった。だから、セッティングを逆にすれば、ある程度安全に実験できるのではないか。だが、事実はちがった――ボルトは可動範囲の中心に置かれていたのである。結局、弓弦からの類推によって、ボルトをできるだけ前に置けば、ピストルの危険はもっとも少なくなると判断した。わたしはそのようにして、武器を暖炉に向け、引き金を引いた。
その発射音は、この世でもっとも恐ろしいものだった。それは物質そのものの悲鳴だった。今もその谺は、大きくはないが、遠雷のように不気味に続いている。一瞬――あまりにも短い時間だったので、夢の出来事だったと信じたくなるほどだった――紫色の細い円錐形が、ピストルの銃口と積まれた薪の間にひらめいた。それから光が消え、薪が燃え上がり、焼けた石板や捻れた金具が破鐘のような音を立てて暖炉の奥から落下した。銀の細流が炉床に流れこみ、マットを焦がし、吐き気を催させるような煙を噴き上げた。
わたしは、そのピストルを新しい職人の制服の|図 嚢《サパタッシュ》に入れた。
[#改ページ]
37 ふたたび川を渡って
夜明け前にロッシュがドロッテとイータを連れて戸口にやってきた。いちばん年上はドロッテだが、顔つきや目をきらきら輝かせた様子のせいで、ロッシュよりも若く見えた。彼はいまだに筋金入りの強さの見本のような男だったが、今はわたしのほうが指二本ぶんぐらい背が高くなっていることに気づかないわけにはいかなかった。〈城塞〉を去った時にすでにそのくらいの身長になっていたにちがいないが、当時は意識していなかったのだ。イータはやはりいちばん小さく、まだ職人にもなっていなかった――なんといっても、わたしが留守にしたのはたったひと夏にすぎなかったのだ。わたしに挨拶するイータは、少しぼうっとしているように見えた。たぶん、わたしが今は独裁者になっていることが信じられなかったのだろう。特に、彼は今までわたしに一度も会っていなかったし、わたしはふたたび組合の制服を着ていたから。
わたしはロッシュに、三人とも武器を持ってくるように命じておいた。それで、彼とドロッテはテルミヌス・エストと同形の剣(細工の点では、はなはだ劣っていたが)を、そしてイータは組合の〈着面式〉の儀式に使われた木剣《クラヴア》を、持参していた。わたしが北部の戦闘を見ていなかったら、彼らは充分な武装をしてきたと思ったことだろう。しかし今は、イータだけでなく三人そろって、戦争ごっこをするために、子供が棒と松ぼっくりを背負っているように思えた。
最後にわれわれは壁の割れ目を通り抜け、糸杉と墓の間をくねくねと通っている骨の小道を歩いていった。セクラが生きていた頃、摘んで彼女のところに持っていくのをわたしがためらった死の薔薇は、少しばかりの秋の花をつけていた。わたしはいつの間にか、自分が命を取った唯一の女、モーウェンナと、その敵のエウゼビアのことを思い出していた。
共同墓地の門を通って、むさ苦しい街路に入ると、わたしの同伴者たちは心が軽くなったようだった。おそらく独裁者の命令に従ったことで、もしグルロウズ師に見つかれば、なんらかの罰を受けるのではないかと、無意識に恐れていたのだろう。
「水浴びにいくつもりではないでしょうね」ドロッテがいった。「こんな包丁[#「包丁」に傍点]を背負っていたんじゃ、沈んじゃうよ」
ロッシュがくすくす笑った。「イータは浮き[#「浮き」に傍点]を持っているからいいけどな」
「ずっと北にいくんだ。船がいるが、土手を歩いていけば、雇うことができるだろう」
「おれたちにだれかが貸してくれるなら、そして、おれたちが逮捕されなければ、の話だよ。ねえ、独裁者様――」
「セヴェリアンだ」わたしは念を押した。「この着物を着ているかぎりはな」
「――セヴェリアン、おれたちはこれらの剣を|首切り台《プロック》まで運ぶだけ、ということになっているんだぞ。そのために、こうして三人も必要だということを小楯兵《ペルタスト》に納得させるには、かなり説明がいるだろうよ。おまえがだれか、彼らは知っているんだろうか? とても――」
今度、口を出したのはイータだった。彼は川のほうを指さしていった。「見て、船だ!」
ロッシェが大声を上げ、三人そろって手を振り、わたしは城代から借りてきたクリソス貨幣の一枚を持ち上げて、ちょうど後ろの塔の問から顔を出したばかりの太陽の光を反射させた。舵を握っていた男が帽子を振り、痩せた若者らしく見えるのが前に跳んで、傾いているラグスル([#ここから割り注]マストに斜めに吊される四角い縦帆、上端より下端のほうが長い[#ここで割り注終わり])の|開き《タック》を逆にした。
その船は二本マストで、船幅はかなり狭かった。乾舷が低くて――突然わたしのものになったパトロール・カッターの目をかすめて脱税商品を運ぶには、もってこいの船だった。舵を取っている白髪まじりの抜け荷屋ふうの老人は、もっとずっと悪辣なことをやりかねない面構えであり、痩せた若者≠ヘ実は若い娘で、笑みを含んだ目ではすかいに見る特技があった。
「やあ、今日は特別な日みたいですな」舵取りはわれわれの衣服を見ていった。「喪服を着ているのかと思いましたよ。実際、すぐ近くにくるまではそう思っていたんです。目がわるくなったのかなあ? 今までまったく縁がなくてね。法廷の鴉同然に」
「まあな」わたしは船に乗りながらいった。そして、サルム号で鍛えた水夫の足がまだ衰えていないのを知り、ドロッテとロッシュの体重で帆船が傾くと、彼らが帆綱をつかもうとするのを見て、奇妙な喜びを感じた。
「その黄色い坊やの顔を拝ませてくれませんかねえ? 本物かどうか確かめたいんで。すぐ返しますから」
コインを投げてやると、彼はそれを擦って噛んでみて、やっと尊敬の色を浮かべた。
「この船を丸一日借りたい」
「黄色い坊やのためなら、ひと晩じゅうでもかまいませんよ。葬儀屋が幽霊にいった台詞みたいですが、わしら二人ともあんたがたと道連れになって喜んでいます。夜明けまで、川におかしなことがありましてな。ひょっとしたら、それと、今朝、旦那衆が川に出るのと関係があるんじゃありませんか?」
「船を出せ」わたしはいった。「そのおかしなこととは何か、途中で聞かせてもらおうじゃないか」
舵取りは自分からこの話題を持ち出したくせに、詳しい話をするのを渋った――といっても、その理由は、自分の感情や見聞きしたことを説明するのに、うまい言葉が見つからないというだけのことだったらしい。軽い西風が吹いていたので、|当て木《バッテン》で補強した帆をぴんと張れば、容易に川上に船を進めることができた。茶色の娘は舳先に坐って、イータとちらちら視線を交える以外に、ほとんど何もしなかった(ひょっとしたら、汚れた灰色のシャツを着てズボンをはいたその少年を、われわれから給料を貰っているただの従者だと思ったのかもしれない)。彼女の叔父だという舵取りの男は、喋りながらも、船が風に流されないように、舵棒にずっと一定の力をかけていた。
「大工が雨戸を開けていったように、この目で見たことを話しましょう。旦那がわしらに声をかけたところから八、九リーグほど北にいた時のことだ。積み荷は貝だった。貝を積んでいる時にはね、止まることができないんですよ。特に、たまたま暖かい午後だったりするとね。わしらは川下に下っていって、貝掘りの連中から買い取って、それから、腐らないうちに食えるように、大急ぎで水路を上がってくるんです。腐れば丸損。新鮮なやつを売ることができれば二倍以上の儲けってわけです。
わしは生まれてこのかた、ほかのどこよりも川の上でたくさん寝ている――ここはわしの寝床、この船はわしの揺籃ってとこですよ。もっとも、ふつうは朝までは眠りませんがね。しかし昨夜は――いつものギョルにいるような感じが全然しないことが、何度かありました。何か別の川にいるような、空に流れ上っている川にいるような、あるいは地下に流れこむ川にいるような、奇妙な気分がしましたよ。
遅くまで川に出ていた人でなければ気づかなかったでしょう。昨夜は、風がちょっと息をする静かな夜で、畜生とつぶやくくらいの間、風が吹いて、すぐにやみ、また吹きだすといった状態でした。霧も出てましてね。木綿くらいの厚さのやつでさ。それが例によって川面に垂れてて、その底と水面の間に、小さい樽を転がすくらいの隙間があった。両岸の灯火は、ろくすっぽ見えなかった。霧だからね。昔はわしも笛を持っていて、この船の明かりの見えないやつに吹いて警告したもんでさ。でも去年、その笛を船端から落っことしちまった。銅の笛だったから、沈んじまってね。だから昨夜は、ほかの船でもなんでも、そばにきたと思った時には、大声をあげて警告していたんです。
霧が出て一刻ぐらいたってから、マクセリンディスを寝にやった。二枚の帆を両方とも張って、風の息がくるたびに少しずつ上流にすすむようにして、また錨を下ろしました。上流人《オブテイメート》の旦那衆は知らないでしょうが、上りの船は端を行き、下りの船は真ん中を行く、というのが川の掟です。わしらは上りだったから、東の岸のほうに寄ってなくてはいけなかったんですが、霧でよく見えなくて。
やがて、オールの音が聞こえました。わしは霧の中を覗きこんだ。だが明かりが見えなかったので、相手が避けてくれるように、オーイと叫んだんです。そして、もっとよく音が聞こえるように、船端から体を乗り出して、耳を水面の近くにもっていった。霧は音を吸い取ります。しかし、音がいちばんよく聞こえるのは、頭を霧の下に置いた時でね。というのも、音は直接水に沿って伝わってくるからでさ。とにかく、わしはそうした。相手は大きな船でした。優秀なクルーが漕いでいる時には、オールが何本あるかわからないもんです。というのもオールが同時に水に入り、同時に出るからです。しかし、大型船が高速で通る時には、舳先に砕ける波の音が聞こえます。こいつは大型だった。わしは甲板室の屋根に上がって相手を見ようとした。だが、そいつはすぐそばにきているにちがいないのに、やはり灯火は見えなかった。
ちょうど下に降りようとしたときに、そいつが見えた――ガレアス船、四本マスト。オール座も四つ、無灯火。判断できたかぎりでは、そいつがまっすぐ水路を上ってくる。下ってくるやつのためにお祈りを、とわしは思った。索具の外に落っこちた牛がいったようにね。
もちろん、そいつはほんのわずかの間しか見えず、すぐに霧の中に消えていった。だが、その音はずっと後まで聞こえていた。あんな船を見たので、わしはとてもおかしな気分になって、ほかに通る船がいなくても、何度も何度もわめいたものだ。それから半リーグほど進んだ時、いやもうちょっと少なかったかもしれないが、だれかが怒鳴り返すのを聞いた。ただし、その声はわしの大声に応えるのではなく、だれかに鞭で叩かれているような声だった。わしはまた呼んだ。すると相手はちゃんと怒鳴りかえしてきた。そいつは、わしと同じような船主で、トラゾンという男だった。おまえか?#゙は叫んだ。わしがそうだといい、異常ないかと尋ねると、やつは停泊しろ!≠ニいった。
だめだ、貝を積んでいる、夜は源しくても、できるだけ早く売りたい≠ニわしはいった。
停泊しろ<gラゾンがまた叫んだ。停船して、上陸しろ≠しは叫びかえした。おまえはなぜそうしない?≠ソょうどその時に彼の姿が見えた。彼の船には思いもよらないものが乗っていた――パンドゥール兵([#ここから割り注]残忍だとされている[#ここで割り注終わり])といいたいところだが、これまでにわしの見たパンドゥール兵は一人残らず、わしと同じような茶色の顔をしていた。ところが、そいつらは霧のように真っ白だった。彼らは投石機《スコーピオン》と長柄斧《ヴージ》を持っていた――それらの穂先がヘルメットの羽毛飾りの上に突き出ているのが見えた」
わたしは話を遮って、そいつらは飢えた顔つきで、大きい目をしてなかったかと尋ねた。
彼は口の片方の端を歪めて吊り上げ、かぶりを振った。「あいつらは大男だった。旦那やわしや、この船のだれよりも大きかった。トラゾンより頭一つ高かった。とにかく、やつらはガレアス船と同じように、すぐにいってしまった。それが、霧が晴れるまでに見た唯一の船だった。だが……」
わたしはいった。「だが、ほかのものを見た。それとも何かを聞いたんだな」
彼はうなずいた。「そのために旦那衆が出かけてきたのかと思いましたよ。そう、おかしなものを見たり聞いたりした。この川に、このわしが今までに見たこともないものがいたんだ。マクセリンディスが起きていた時に話しあったんだが、彼女はマナティだといった。マナティは月の光で見ると青白くて、あまりそばに寄らなければ、人間そっくりに見える。だがマナティならわしは子供の頃から見ているから、決して見まちがうことはない。それから、女たちの声が聞こえた。大音声というわけではないが、大きい声だった。それに、ほかの声もした。何をいっているのかわからなかったけれど、口調は聞き取れた。水を通して人の声を聞くとどうなるか、知っているでしょう? 女の声がナントカ・カントカ・ナントカ・カントカというと、もっと低い声が――男の声とはいえない。なぜなら男とは思えないから――もっと低い声がナントカ・カントカ・ナントカ・カントカ・シロというんです。女の声を三回、別の声を二回聞いた。上流人の旦那にはとても信じられないだろうが、そういう声が時々川から立ち昇ってくるように聞こえたんですよ」
彼はそういうと黙りこんで、睡蓮を見渡した。われわれはギョルの〈城塞〉の対岸のかなり上流にきていたが、やはり睡蓮の花は楽園のこちら側のどの牧草地の野生の花々よりもぎっしりと密生して咲いていた。
〈城塞〉そのものが今は全容を見せており、その広大さにもかかわらず、丘の上を歩く羊の群れのようにきらめき、立ち並ぶ千本もの塔が、号令一下、今にも空中に飛び上がっていきそうに思われた。それらの下に、共同墓地が白と緑の斑の刺繍をしたように広がっていた。そのような場所に芝生や樹木が生えていることを不健康≠セと、かすかに嫌悪の口調をこめて話すことが流行しているが、わたしはそれが本当に不健康だと感じたことは決してない。植物が死んで人間を生かす。そして、人間が死んで植物を生かす。ずっと前にあそこで、わたしが本人の斧で殺したあの無知でお人よしの男でさえも、そうしたのだ。われわれの葉群はすべて色裾せている。そういわれているし、そのとおりであることは疑いない。そして〈新しい太陽〉がやってきたら、その花嫁の〈新しいウールス〉はエメラルドのような青葉で彼に彩りを添えるだろう。しかし、古い太陽と古いウールスの存在する現在では、風が枝を揺すっているあの共同墓地の松の大木ほど緑の色の濃い植物を、わたしはいまだかつて見たことがない。それらは何世代にもわたる人類の死者から、生命力を得ており、多くの木々から建造された大船のマストも、あれらの木々ほど高くはないのだ。
〈血染めが原〉は川からずっと離れている。そこまで歩いていく途中に、われわれ四人はうさんくさそうにじろじろと見られたが、だれも止めようとはしなかった。人間の家として最小限度の耐久性しかないと思っていたあの〈失恋亭〉は、あの日の午後にアギアやドルカスといっしょにいった時のままに立っていた。太った亭主はわれわれを見ると、ほとんど失神しそうになった。わたしは給仕のオウエンを連れてこさせた。
あの日の午後、彼はドルカスとアギアとわたしのところに盆を持ってきたのだが、わたしは彼をまったく見ていなかったのだ。今度はよく見た。背はドロッテくらい、頭は薄くなりかけ、痩せていて、なんとなくやつれた顔をしていた。目は濃い青。その目や口の形に、すぐに見分けられるような繊細さがあった。
「われわれがだれかわかるかね?」わたしは尋ねた。
ゆっくりと、彼は首を振った。
「今までに拷問者に給仕をしたことは一度もないか?」
「この春に一度ございます」彼はいった。「こちらの二人の黒装束の人は拷問者の方ですね。でも、あなた様は拷問者ではありません。同じような服装をしていらっしゃいますが」
わたしは聞き流した。「わたしを見たことは一度もないか?」
「はい、旦那様」
「よろしい、たぶん会っていないのだろう」(自分がいかに変わってしまったか知って、とても奇妙な感じがした)「オウエン、おまえはわたしを知らないから、わたしがおまえを知ればよいだろう。おまえの生まれた場所と、両親はだれか、そして、どうしてこの宿に雇われることになったか、話してくれ」
「父は商店主でした。西の岸の〈古い門〉に住んでいました。たぶん十歳くらいの時だと思いますが、父がわたしを給仕にするためにある旅籠《はたご》に連れていきました。それ以来あちこちの旅籠で働いています」
「父親は商店主だった。母親はどうしていた?」
オウエンの顔はまだ給仕としてのうやうやしい表情を浮かべていたが、その目に当惑の色が浮かんだ。「母のことはまったく知らないのです。キャスと呼ばれていました。でも、わたしが幼い頃に死んだのです。お産で死んだと、父がいいました」
「しかし、母の顔は覚えているだろう」
彼はうなずいた。「父が母の似顔をいれたロケットを持っていました。二十歳くらいの頃、一度父に会いにいったのですが、その時に父がそのロケットを質に入れてしまったことを知りました。その頃わたしはある上流人の仕事の手伝いをして――婦人へ手紙を届けるとか、扉の外で見張りをするとかして――少し金を作っていました。それで質屋にいって金を払い、受け出したのです。今でも身につけています。このような店では、いつも大勢の人の出入りがありますから、貴重品は身につけているのがいちばんいいんです」
彼はシャツの中に手を差し入れて、七宝焼きのロケットを引き出した。中の絵はドルカスの横顔と正面からのものだった。わたしの知っていたドルカスよりも若いとは、とてもいえそうもなかった。
「オウエン、おまえは十歳くらいで給仕になったというが、読み書きができるのだな?」
「少しばかりです、旦那」彼はとまどっているらしい。「なんと書いてあるか、しょっちゅう人様に尋ねるのです。あまり忘れないのです」
「今年の春に拷問者がここにきた時に、おまえは何か書いた」わたしはいった。「なんと書いたか覚えているか?」
怯えたように、彼は首を振った。「若いご婦人に警告するために、ちょっと走り書きを」
「わたしは覚えている。こう書いてあった。あなたといっしょにいる女は、前にもここにきた。彼女を信用してはいけない。その男は拷問者だとトルドーがいっている。あなたはわたしの母の再来だ=v
オウエンはシャツの下にロケットを押しこんだ。「その人が母にとてもよく似ていた、というだけのことです。もっと若い頃、いつかはそういう女性に会うだろうとよく考えていたのです。あの、わたしは自分に、父よりもましな人間だといい聞かせていました。結局、父はそのような女性に会ったのですが、わたしはとうとう出会いませんでした。そして、今は自分のほうがましな人間かどうか、わからなくなりました」
「その頃、おまえは拷問者の制服がどんなものか知らなかった」わたしはいった。「しかし、おまえの友人で、あの馬丁のトルドーは知っていた。彼はおまえよりも、拷問者のことをずっとよく知っていた。だから逃げたのだな?」
「そのとおりです、旦那様。拷問者が自分を呼んでいると知って、逃げたのです」
「しかし、おまえはその若い女の純真さを見て、拷問者ともう一人の女に注意するように警告したいと思った。その二人について、おまえの勘は当たっていたわけだな」
「そういわれれば、そうかもしれません」
「気がついているか、オウエン、おまえは彼女にちょっと似ているぞ」
太った亭主は、かなりおおっぴらに聞き耳を立てていた。彼はくすくす笑った。「それをいうなら、あなたに似ていますよ!」
どうやらわたしは、振り返って彼を見つめたらしい。
「お気を悪くなさらないでください、旦那。でも本当です。彼のほうがちょっとばかり老けています。しかし、あなたがたが話しあっている時に、わたしはお二人の顔を横から見ていましたが、ほんの少しの違いもありませんよ」
わたしはまたオウエンを観察した。髪と目は、わたしのように黒くはないが、それらの色を別にすれば、彼の顔はわたしの顔といってもよいくらいだった。
「おまえはドルカスのような女にまったく出会わなかったといった――そのロケットの婦人のような人にはな。それにしても、一人くらいは女に出会ったと思うが」
彼はわたしと目を合わせようとしなかった。「何人かは」
「そして、子を生ませた」
「とんでもない、旦那!」彼は愕然とした。「決してそのようなことはありません、旦那!」
「これは面白い。いままでに法律でごたごたしたことはないか?」
「何度もあります、旦那」
「声をひそめるのはよいが、そんなにひそめるにはおよばない。そして、わたしの顔を見て話せ。おまえが愛した女――いや、おそらくおまえを愛した唯一の女――色の黒い女――と一度寝たな?」
「一度です、旦那」彼はいった。「そうです、旦那。キャサリンという名前でした。古くさい名前だと、みんないいました」彼は言葉を切って肩をすくめた。「おっしゃるとおり、ごたごたがありました。彼女はある修道院から逃げてきたのです。法律が彼女を捕え、わたしは彼女に二度と会っていま|せん《*註》」
彼はくるのをいやがったが、われわれは彼を連れて帆船に戻った。
夜中にサムル号で川をさかのぼってきた時には、生きた都市と死んだ都市の境目の線は、世界の暗いカーブと、星の輝く天のドームの間の線のように見えた。今は灯火の数もずっと増えていて、その線は消えてしまっていた。廃墟同然の建物が両岸に並んでいた。しかし、それがもっとも貧しい市民の住宅なのか、あるいはただの廃墟なのか、三枚の洗濯物がひらめいている綱を見つけるまでは判断がつかなかった。
「われわれの組合には、貧乏という理想があった」わたしは船端によりかかってドロッテにいった。「しかし、ここの人々にはその理想はいらないな。すでに実現しているんだから」
「彼らこそ、それをもっとも必要としているんじゃないかな」彼は答えた。
彼は間違っていた。そこには自存神《インクリエート》がいた。神殿奴隷《ヒエロドウール》と、神殿奴隷《ヒエロドウール》が仕えている者を超えた存在が。ちょうどご大家の主人がたとえ別の階の暗い部屋に寝ていても存在が感じられるように、川の上にいても、その存在を感じることができた。岸に上がれば、そこにあるどの家の戸口をくぐっても、輝く人影のようなものとばったり出会いそうに感じ、また、これらの人影のすべての指揮者がいたるところに目に見えずに存在しているように思えるのである。なぜなら、それはあまりに大きくて目に入らない存在だからだ。
草の生えた街路の一つで、すり切れてはいるが古くはない男物のサンダルを見つけた。わたしはいった。「このあたりには略奪者が出没するそうだ。それも、おまえたちを連れてきた理由の一つだ。自分一人のことなら、自分だけでやるのにな」
ロッシュがうなずいて剣を抜いた。だが、ドロッテが口を出した。「ここにはだれもいないよ。セヴェリアン、あんたはおれたちよりずっと利口になったが、それにしても、普通の人が怖がるものにちょっと慣れすぎたようだ」
それはどういう意味かと、わたしは尋ねた。
「あんたは船頭の話の真相を知っていた。そういう表情をしていた。そして、怖がってもいた。少なくとも、不安を感じていた。しかし、あの時の船頭ほど怖がってはいなかった。川のそばにいて、何が起こっているか知ったら、ロッシュも、そこのオウエンも、おれも震え上がっただろうに。あんたのいう略奪者は、昨夜このあたりにきた。しかし、彼らは税務署の船に戦々恐々としている。きょうは水のそばにはいないよ、いや、今後何日かは大丈夫だ」
イータがわたしの腕に触った。「あの娘――マクセリンディス――に危険があると思いますか、あの船に乗っていて?」
「それほどのことはない。彼女といっしょにいれば、おまえのほうがよほど危険だ」わたしはいった。彼にはこの言葉の意味がわからなかったが、わたしにはわかっていた。彼にとってマクセリンディスは、セクラとはちがう。彼の物語が、わたしのものと同じになることはありえない。しかし、笑みを含んだ茶色の目の、あのお転婆娘の顔の背後に、わたしは〈時〉の回転する回廊を見たのだった。愛は拷問者にとって長い労働である。そして、たとえわたしが組合を解体するとしても、イータはやはり拷問者になるだろう。なぜなら、人間は富への軽蔑心がなければまともな人間とはいえず、人間はすべて拷問者であって、その意図のいかんにかかわらず、天性格によって苦痛を与えるのであるから。わたしは彼を気の毒に思い、船乗りの娘マクセリンディスをもっと気の毒に思った。
ロッシュとドロッテとイータをちょっと離れたところに見張りとして残し、わたしはオウエンといっしょにその家に入っていった。戸口に立つと、家の中からドルカスの柔らかな足音が聞こえた。
「おまえがだれか、教えるつもりはない」わたしはオウエンにいった。「そして、おまえがどうなるかわからない。しかし、我等はおまえの独裁者だ。そして、おまえが何をしなければならないか、話してやる」
彼への合言葉はなかったけれども、その必要がないことがわかった。彼は城代がやったように、すぐにひざまずいた。
「拷問者を連れてきたのは、おまえが従わないとどうなるかわからせるためだった。しかし、おまえが反抗することは望まない。そして今、おまえに会って、その必要はなかったように思う。この家に一人の女がいる。これからおまえは中に入る。そして、我等に話したのと同じ話を彼女にしなければならない。そして、彼女のそばに残って彼女を守らねばならない。たとえ、彼女がおまえを追い出そうとしても、そうしなければならないのだぞ」
「最善を尽くします、独裁者様」オウエンはいった。
「できれば、この死の町を出るように彼女を説得しなければならない。それまで、これを渡しておく」わたしはピストルを取り出して彼に渡した。「これは車いっぱいぶんのクリソス貨幣くらいの価値があるが、ここにいる間は、それだけの金より、ずっとおまえの役に立つだろう。おまえと女が無事でいたら、そして、おまえが望めば、それを買い取ってやる」わたしはピストルの使い方を教えて、彼のそばを離れた。
この時わたしは孤独だった。このいつもより騒然とした夏の、簡単にすぎる記録を読んだ人の中には、おまえはいつも孤独だったという人がきっといるだろう。わたしの唯一の真の友人だったジョナスは、彼自身の目にはただの機械だった。わたしがまだ愛しているドルカスは、彼女自身の目には一種の幽霊にすぎなかった。
わたしはそうは感じない。だれを仲間として受け入れ、だれを拒否するかを決める時、われわれは孤独であることを――あるいは、孤独でないことを選ぶのだ。こんなわけで、山の洞窟の隠遁者には相手がいる。なぜなら、小鳥や兎、つまり彼の森の本≠フ中にその言葉が生きている入会者たち、そして自存神《インクリエート》のメッセージである風が、彼の仲間であるから。また別の、何百万もの人々の中に住む人は孤独かもしれない。なぜなら、その人の周囲には敵と生贄しかいないから。
また、わたしが愛したかもしれないアギアは、逆に、もっとも人間味あふれる暮らしをしているすべての人を敵にまわして、女ヴォダルスになる道を選んだ。アギアを愛したかもしれず、また、ドルカスを深く愛してはいたが、たぶん充分に深くは愛していなかった。わたしは、今は孤独である。なぜなら、わたしは彼女の過去の一部になってしまい、彼女はその部分を、(初めの頃は、そうでなかったと思うが)わたしを愛する以上に愛したのだから。
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註 オウエンとキャサリンはセヴェリアンの父母であり、ドルカスは彼の祖母という関係になる。
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38 復 活
語るべきことは、もうほとんど残っていない。夜が明けて、血走った目のように赤い太陽が昇った。窓から風が冷たく吹きこんでくる。まもなく従僕が湯気の立つ皿を運んでくるだろう。きっと彼といっしょに、年取って腰の曲がったイナイア老がやってくることだろう。彼は残された最後の短い時間に、協議をしたいと熱望しているのだ。短命な彼の種族の寿命をはるかに超えて長生きしたイナイア老。この赤い太陽よりも長生きしないのではないかとわたしが恐れているイナイア老。この|明かり層《クリアストーリー》で、わたしが徹夜で書き物をしていると知ったら、彼はどんなに驚くことだろう。
まもなく、白よりも純粋な色である銀白の衣を着なければならない。かまうものか。
船内生活は長く、日々の移ろいもゆっくりだろう。読書をしよう。学ぶべきことがまだたくさんある。船殻を洗う世紀の音に耳を傾けながら、船室でまどろもう。この手記はウルタン師のところに送ることになろう。しかし、船内で、眠ることができず、読書にも飽きた時に、もう一度書き記してみよう――何事も忘れることのないわたしだから――一語残らずここに書き記したとおりに。それを≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]と呼ぶことにしよう。なぜなら、今ではずっと昔に失われてしまったその本が、彼の到来を予言していたといわれるから。そして、それをふたたび書きおえたら、わたしはその第二の写本を鉛の箱に密封して、時空の海に流すことにしよう。
約束したことは全部話しおえただろうか? この手記のあちこちで、物語の流れの中であれこれのことが明らかになるはずだと、わたしは保証を与えてきた。そのすべてを、わたしは確かに覚えている。しかし、それ以外のこともたくさん覚えているのだ。騙されたと思う前に、わたしがもう一度書こうとしているように、もう一度読んでいただきたい。
わたしには二つのことが明らかである。一つは、今のわたしは最初のセヴェリアンではないということである。〈時〉の回廊を歩く者は、彼が〈不死鳥の玉座〉につくのを見た。こうして、わたしのことを知らされた独裁者が、〈紺碧の家〉で微笑し、また、わたしが溺れるにちがいないと思われるところで、|水の精《ウンディーネ》がわたしを突き上げた、ということになったのである。
(しかし、最初のセヴェリアンは溺れはしなかった。何かがすでにわたしの生命を造りなおしはじめていたのだ)ここで、ほんの推測にすぎないが、最初のセヴェリアンの物語を推測してみよう。
彼もまた拷問者によって育てられたと思う。彼もまたスラックスに送られた。彼もまたスラックスから逃げ、〈調停者の鉤爪〉こそ持っていなかったものの、北の戦争に引き寄せられたに違いない――軍隊に身を隠すことによって、執政官の追及を逃れたいと望んだことは疑いない。そこで彼がどのようにして独裁者に出会ったかはわからない。しかし、確かに彼に出会った。そうして、わたしと同様に、彼は(究極の意味において、わたし自身であったし、また今もそうである)次の独裁者になり、夜の灯火の彼方に船旅をした。それから、〈時の回廊〉を歩く者は、彼が若かった時代に歩み戻り、そしてわたし自身の物語が――非常に多くの頁を費やしてここに書き記したように――始まったのである。
第二は、次のようなことである。彼は自分の時代に戻らずに、自分自身が回廊の歩行者になってしまった。わたしは今は〈日の頭《かしら》〉と呼ばれる人の正体を知って|おり《註1》、また、あまり近くにいすぎたヒルデグリンが、われわれと出会った時になぜ消滅し|たか《註二》、そして、あの魔女たちがなぜ逃げ|たか《註三》、知っている。また、子供のわたしがだれの霊廟――薔薇と噴水と空飛ぶ船のすべてが彫刻してあるあの石の小さな建物――に、いりびたっていたか知っている。わたしは自分自身の墓をいじったのであり、そして今その中に横たわろうとしている。
ドロッテやロッシュとともに〈城塞〉に帰ると、イナイア老と〈絶対の家〉から緊急連絡を受け取った。それなのに、わたしはぐずぐずしている。そして、城代に地図をもってくるように命じた。彼はあちこち探し回ったあげく、大きくて古くて、あちこちにひび割れのある地図を持ち出してきた。それには幕壁の全体が示されていたが、各種の塔の名前はわたしが知っているものとは――いや、その点では、城代が知っているものとも――違っていた。そして、この地図には〈城塞〉にない塔が記されてあったり、また、地図にない塔が〈城塞〉にあったりした。
それから飛翔機をもってこさせ、半日ほど塔の間を飛んでみた。何度も探した場所が、見えているのは疑いなかったが、たとえ見えていても、わたしには識別できなかった。
結局、明るくて消えることのないランプを持って、ふたたび組合の塔の地下牢に入り、階段をどんどん降りていって、最下層までいった。地下のいろいろな部分に過去を保存するために、このように偉大な力を発揮したのは、いったいなんなのだろう? とわたしは思った。トリスキールにスープを運んでやった皿が、そのまま残っていた(トリスキールがわたしの手の下で蘇生したのは、〈鉤爪〉を手に入れる二年前のことだった)。わたしは徒弟時代にやったように、ふたたびトリスキールの足跡をつけて、あの忘れられた穴までいき、そこから先は自分自身の足跡をたどって暗い迷路のようなトンネルに入っていった。
今度はランプのしっかりした明かりの中で、前に道に迷った場所を見つけた。トリスキールが脇道にそれたのに、自分はまっすぐに進んでしまったのだった。この時、わたしは自分の足跡ではなくて、彼の足跡をつけていきたい誘惑に駆られた。そうすれば、彼がどこから外に出たかわかるし、また、それによって、彼を手なずけた人物がだれであったか、また、〈城塞〉の横道で、時々わたしに挨拶をしてから彼がまた帰っていった先の人物がだれであったか、たぶんわかるからである。おそらく、わたしがウールスに帰った時に(本当に帰ってくるとしての話だが)、そうすることになるだろう。
しかし、今回もわたしは曲がらなかった。そして子供・大人≠ナあった過去の自分の後をつけて、床に泥が積もり、塞いだ通風孔や扉がごくまれにある直線の歩廊を進んでいった。わたしが後を追っているセヴェリアンは、かかとが低くなり、底がぼろぼろになった仕立ての悪い靴をはいていた。振り返って、後ろをランプで照らすと、彼を追っているセヴェリアンはすばらしい靴をはいてはいるが、その足取りは不揃いで、爪先をかわるがわる引きずっているのがわかった。片方のセヴェリアンは良い靴を持ち、もう片方のセヴェリアンは良い足を持っているとわたしは思った。そして、後年にだれがここにくるだろうか、また同一の足が両方の足跡を残したことを、その人は推測し、当てるだろうかと思うと、おかしくなって吹き出してしまった。
これらのトンネルがかつてはなんのために使われていたのか、わたしにはわからない。昔はもっと下に降りるために使われていた階段を、何度も見かけたが、すべては暗く静まり返った水に通じていた。一つの骸骨を見つけた。その骨は、走っていったセヴェリアンの足で蹴散らされていた。しかし、ただの骸骨にすぎず、何も物語ってはくれなかった。ところどころの壁に文字が書いてあった。それは褪せたオレンジ色か、くっきりした黒で書かれていたが、わたしに読めない言語のものであって、ウルタン師の図書館の鼠の走り書きのように、わけがわからなかった。わたしが見た二、三の部屋の壁では、かつては時を刻んでいた様々の種類の千個以上の時計がかかっていた。今はそのすべてが止まって、チャイムは鳴らなくなり、針は二度とやってこない時間をさしたまま朽ち果てていたが、それらは〈時の広間《アトリウム》〉を探す者にとって良い予兆だと、わたしは思った。
そして、ついに見つけた。日の当たるささやかな場所は、記憶にあるとおりだった。疑いなく馬鹿げた行為だったが、わたしはランプを消して、しばらく暗がりに佇み、それを眺めていた。あたりは静まり返っていて、その明るい、不揃いな形の広場は少なくとも前と同じように神秘的に見えた。
狭い割れ目を通り抜けるのに、苦労するのではないかと思っていた。しかし、今のセヴェリアンはいくぶん骨太になってはいたが、やはり細身のほうであった。穴から肩が出てしまうと、あとは容易に通り抜けられた。
記憶にある雪は消えていた。しかし、肌寒さが空気に混じっていて、雪がすぐに戻ってくることを物語っていた。実際にずっと高い上昇気流に運ばれてきたにちがいない数枚の枯れ葉が、ここの枯れかかった薔薇の上に落ちていた。たくさんの傾いた日時計はまだ狂った影を投げており、その地下の死んだ時計と同様に役に立たなくなっていたが、それでも、それらの時計ほど静止しているわけではなかった。彫刻の動物が、まばたきしない目でそれらを見つめていた。
わたしは広場を横切って扉のところにいき、それを叩いた。前に給仕をしてくれたあの臆病そうな老女が現われた。わたしは前に暖を取った徽臭い部屋に歩み入り、ヴァレリアを連れてくるようにその女にいった。彼女はあわてて立ち去った。しかし、彼女の姿が視野から消えないうちに、時の流れに擦り切れた壁の中で何かが目覚め、百枚の舌を持つ肉体のない声が、ある古めかしい称号を持つ人物の御前に出るように、ヴァレリアに要求した。わたしはぎょっとして、その人物とは自分のことにちがいないと思った。
読者よ、わたしのペンはここで止まる。もっとも、わたしは止まらないが。わたしはきみたちを門から門に連れてきた――ネッソスの共同墓地の屍布のように霧のまつわりつく門から、空と呼ばれる雲の流れる門に。近くの星々を超えてわたしを導いてくれればよいと願っているこの門に。
わたしのペンは止まる。だが、わたしは止まらない。読者よ、きみはもうわたしとともに歩くことはない。どちらもそれぞれの生活を始めるべき時だ。
この物語に、わたし〈足萎えのセヴェリアン〉こと独裁者は署名する。古い太陽の最後の年と呼ぶことになる年に。
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註一 〈日の頭〉は後年のセヴェリアンの一つのかたち。
註二 魔女は神殿奴隷の一員であり、もっとも重要な事柄に干渉したことを知って、手を引いた。
註三 ヒルデグリンの消滅は、新旧のセヴェリアンの合体にともなうエネルギーの放出によって起こった。
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〈付録〉
独裁者の武器と神殿奴隷の船
≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]の写本の中で、武器と軍事組織ほど記述が暖昧なものはない。
セヴェリアンの同盟者と敵の装備についての混乱は、二つの原因から生じているらしい。一つは、様々なデザインと目的にそれぞれ別の名をつけるという顕著な癖がセヴェリアンにあることである。わたしはそれらを翻訳するにあたって、武器そのものの外見および機能と考えられるものに留意するだけでなく、使われている言葉の本来の意味に留意するように努力した。こうして、青龍刀《フオールチヨン》、三叉戟《フスキナ》など多くの訳語が生じた。一ヵ所では、アギアの手に魔術師の剣であるアサメを持たせた。
困難の第二の原因は、三つの完全に程度の異なるテクノロジーが含まれていることである。その最低のものは鍛冶屋レベルと名づけることができよう。そこから産出される武器は、刀剣、ナイフ、斧、および矛などから構成されているらしい。これらの武器はだいたい十五世紀の金属細工の熟練工ならだれでも鍛造できるといってよかろう。これらは平均的な市民が容易に手に入れることができ、社会全体の工業力を表わすものと思われる。
第二段階は、ウールス・レベルとでも呼ぶべきものである。槍《ランス》や| 竿 《コントウス》などと呼ぶことにした騎兵の細長い武器は、疑いなくこのグループに属する。また〈控の間〉の扉の外でセヴェリアンを脅した|槍 兵《ハスタリアイ》の槍≠竅A歩兵の使う、ほかの武器も同様である。これらの武器がどのくらい広く入手できるか、文脈からははっきりしないが、ある個所に、矢≠ニ長柄のケーテン≠ェネッソスで売られているという話がでてくる。グアザヒトの不正規兵が戦闘の前に竿≠渡されたこと、および、後にそれらが回収されて、どこかに(おそらく彼のテントの中に)蓄えられたことは確かだと思われる。十八、十九世紀の海軍では、小型の武器はこのようにして支給・回収されたことを、たぶん心に留めるべきだろう。もっとも、短剣《カットラス》や小火器は陸上で自由に購入できたのだが。鉱山の外でアギアの刺客が使った|鉄の弩《アルバレスト》は、わたしがウールス武器と呼ぶものである。しかし、それらの男たちは脱走兵であったようだ。
そこで、ウールス武器はこの惑星と、たぶんその太陽系で見出される最高のテクノロジーを示しているように思われる。われわれ自身の武器と比較して、それらがどのくらい効果的であるかは、いちがいにはいいにくい。鎧はそれらに対して必ずしも防御力がないとはいえないようである。厳密にいって、現代のライフルやカービン銃やサブマシンガンに対しては必ずしも無力とはいえない。第三の段階を星のレベルと呼ぶことにする。ヴォダルスがセアに与えたピストルや、セヴェリアンがオウエンに渡したピストルが星の武器であることは疑問の余地がない。しかし、この手記で言及されているほかの多くの武器については、あまりはっきりしない。山岳戦で使われた大砲類のあるもの、いや、むしろそのすべては、星のものかもしれない。両方の側の特殊部隊が携行していた|火打ち石銃《フュージル》と長銃《ジエザイル》はこの段階に属しているかもしれないし、いないかもしれないが、わたしとしては属していると考えたい。
星の武器がウールスで製造できないことは、きわめて明らかで、それらは莫大な費用を払って神殿奴隷《ヒエロドウール》から入手しなければならなかった。交換にどんな品物が用いられるかは、興味ある問題だが、わたしには確かな解答はない。われわれの基準で考えると、古い太陽のウールスは天然資源が欠乏しているようである。セヴェリアンがする鉱山の話は、われわれなら考古学的略奪とでもいうべきものを意味しているようだ。そして、(タロス博士の芝居の中で)〈新しい太陽〉の到来とともに隆起しようとしている新しい大陸は、その魅力の一部として金、銀、鉄[#「鉄」に傍点]、および銅[#「銅」に傍点]……≠含んでいる(傍点は筆者)。奴隷――セヴェリアンの社会にはいくらかの奴隷制が確かに存在している――毛皮、肉その他の食料品、そして手作りの宝飾品のような労働集約的な品物が、その可能性のなかに含まれているらしい。
これらの手記に言及されているほとんどすべてのものについて、われわれはもっとよく知りたいと思う。中でも、神殿奴隷《ヒエロドウール》が指揮し、時には人類のクルーも乗り組む、あの星間を航行する船のことをよく知りたい(手記の中のもっとも謎めいた二人の人物、ジョナスとヘトールは、かつてはこれらの乗組員であったように思われる)。しかし、ここで翻訳者は、彼の抱えている困難の中でもっとも頭の痛い困難に対面させられる――それは、セヴェリアンが宇宙をいく船と大洋をいく船を、はっきりと区別しそこねたことである。
これは歯がゆいことではあるが、彼に与えられた環境では、まったく自然のことのように思われる。もし遠くの大陸が、月と同じくらい離れていると感じられるならば、逆に、月は遠い大陸くらいしか離れていないことになる。さらに、星間航行船は金属箔の広大な帆に光の圧力を受けて推進されるらしい。そうすると、マスト、ケーブル、帆桁の応用科学は、両種の船に共通となる。おそらく、多くの技術(と、そして特に、長期の孤独に耐える技術)が、両方のタイプの乗物にひとしく要求されただろうから、われわれが馬鹿にしたくなるような船を降りた船乗りが、われわれを驚かせるような性能の船に雇われて乗ることがあったかもしれない。セヴェリアンの帆船の船長の口調とジョナスの口調とに、多少の共通点があることがわかるだろう。
そして、ここで、最後のコメントを述べることにする。わたしの翻訳と、それに添えたこれらの付録で、わたしはあらゆる推測を避けるように努めた。今、七年間の労作を閉じるにあたって、一つだけ推測をしても許されるのではないかと思う。それはこういうことである。これらの船が持つ、時間や永劫の年月を横断する能力は、星間空間や銀河間空間を横断し、かつ宇宙の死の苦しみから逃れる能力の当然の帰結にすぎないかもしれない。そして、このようにして時間を旅行することは、われわれが想像しがちなほど、複雑でも困難でもない事柄かもしれない。セヴェリアンが最初から自分の未来について多少の予感を持っていたというのは、ありうることである。
[#地から2字上げ]G・W
[#改ページ]
解 説
[#地から2字上げ]鏡 明
これは、傑作である。
SFとか、ファンタシィというレッテルを取り去っても、なお、傑作でありうる作品である。
そして、SFとか、ファンタシィという枠組を、作品そのものが必要としているという意味で、理想的な作品である。
この作品の第一巻のペーパーバックを手に入れたのは、サンフランシスコのSF専門店であった。私が迷っていると、店員の男は、強引に読まねばならないと、その本を押しつけてきた。この作品を読む喜びを、私に分け与えなければ、気がすまない。そんな様子であった。
そして、この最終巻を読み終えた今、彼の気持は実によくわかる。知り合いの人間、誰でもいい、とにかく読ませてみたくなる。
けれども、そう思いながらも、私は、あの店員のように、楽観的には、なれない。小説を読みはじめたばかりの若い読者は、私と同じように感動してくれるだろうか。面白くて、終わるのが借しいと思ってくれるだろうか。
私と同じ世代であっても、SFやファンタシィに関心がない読者は、この作品を読むことに喜びを感じてくれるだろうか。
私には、どうも確信がない。この作品は、読者に努力を強いるところがある。不明な部分や説明のされない部分が、少なくなく、それを空白のままにして、読み進まねばならない。ことに、第一巻は、そうした努力が必要になる。
たとえば、ファンタシィというジャンルが流行しているアメリカであれば、その類型に合わせて、読者は、自分の中で一つの世界像を造り出し、この物語の中味に整合性を与えていくだろう。あるいは、SFやファンタシィが、中世的な社会や世界を多用することに慣れている読者ならば、それはそれで、無理なく物語の背景を理解していくだろう。
もちろん、それが、見かけどおりではなく、別の論理、別の世界観で構成されていることが、この作品の傑作である一つの理由なのだが、それに気がつかなくとも、とりあえずは入り込んでいけるだけの下地か、努力が必要なのだ。現在のように、サービス過剰な物語が満ちあふれているときに、誰にでも、そうした努力を強要できるか、どうか、私には、わからないところがある。それでも、そうした努力をしてでも、読む価値があると、信じている。
SFやファンタシィを読み慣れた人間にとって、この長い物語の最後に用意された物語全体に関る説明は、ちょっとした驚きを与えてくれるし、安心感を与えてくれる。ファンタシィと思えたのに、実は立派なSFであった、などという評価は、その部分を重視した結果だ。
けれども、実に幸せなことに、この物語の真の価値は、その部分にあるのではない。少なくとも、その説明がなくとも、この物語は充分に魅力的であるし、感動的であるのだ。この物語全体にとって、ほんの僅かな割合しか占めていないその短い説明のために、これだけの長さを読む必要など、ないのだ。SFであろうと、ファンタシィであろうと、そうしたレッテルが、この物語に必要とは思えないというのは、そこに理由がある。
この物語の大きなテーマの一つは、拷問者という奇妙なギルドに育てられた若者の成長物語である。主人公は成長していく過程で、何を得ていくのかといえば、それは自分自身のアイデンティティであり、成長物語は、そのまま一つの探求の旅となっていく。
成長の物語と探求の物語は、言うまでもなく、物語というものの最も古いパターンであり、同時に、現在のSFやファンタシィの中で、最も多く語られる物語である。そして、ジーン・ウルフが、この作品の中で、それらの古く、一般的である物語に与えたものは、拷問者という社会から孤立した階級であり、その階級からも孤立する主人公であり、複数のアイデンティティを主人公に与えるという操作であった。
一つの存在でありながら、複数の存在でありうるというイメージは、この作品の中で何度も繰り返して出てくる。そのいずれもが、常に魅力的であるけれども、何よりも興味深いのは、それが科学的な方法でなされるのではなく、他人の肉を食うという呪術的な方法でなされていることだ。
あるいは、死者でありながら、生者である存在が、主人公との重要な関りを持って登場してくるけれども、彼ら、彼女らもまた、言ってみれば、分裂したアイデンティティの持主であり、彼らが存在することになる原因は、一種の聖なるものの力によるのだ。
そうした非理性的な方法は、この作品の中で数多く見ることができる。それは、この物語の世界を支えている論理とは矛盾する要素であると言っていいだろう。そして、それらの理性的な部分と非理性的な部分の混在が、まさしく、この作品の意図するところであり、魅力的なところなのだ。
これだけのシリアスな物語でありながら、何の説明もなく、何の理由もなく、主人公に絶対的な記憶力を与えてしまうという設定そのものが、この作品のあり方を示している。この主人公の忘れることができないという能力は、その描写からして、理想的なもので、その能力がもたらすものをテーマにしているのではないことは明らかだ。たとえば、実在するそうした記憶能力者たちの研究を読めば、この主人公の記憶のあり方は、それらの人々とは異なったものであることは、すぐにわかる。記憶は、この物語に語られるように、リニアーなものではないのだ。
失われることのない記憶と、生きている者の中で再生される死者のアイデンティティは、同じものであり、成長と探求が捨て去るものであるわけだ。そうした相反するものを常に抱え込んでいくことで、この物語は、構成されていく。その結果は、大きな意味で、不老不死の物語になる。そして≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]というシリーズ全体のタイトルの意味するものと相似形になっていくわけだ。
残酷なことに、私の記憶力は、主人公とは正反対で、常に忘れ去っていく能力だけが優れている。具体的に、どの作品ということは、思い出せないのだが、この作品が、しばしば見せてくれるコメディ的なタッチは、六〇年代から七〇年代にかけてアメリカでも紹介されたアラバールの不条理劇のイメージを連想させることがある。
私が、アラバールに熱中したのは、もう二十年も昔のことになるけれども、当時、流行していた不条理劇の作家の一人だった。せりふそのものは、現実的であるにも関らず、シチュエーションを考えると、それが別種の意味を持ち、予想できないコメディを形成してしまう。寓話から寓話を取り去ったとでも、形容しておこうか。
この作品は、何度となく、様々な形で寓話を語ろうとする。そして、その多くは、寓意を欠いているように見える。いや、物語の中では、寓話は機能するのだが、それを取り出してしまうと、そこには抜けがらだけしか残らないと言った方がいいかもしれない。
SFやファンタシィでは、こうした作中の寓話という手法が、しばしば使われる。その最も成功している例の一つとしては、アーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』を挙げることができるが、そこにおける寓話の機能と、この作品における寓話の機能は、しばしば異なっている。『闇の左手』は、異なった世界と異なった文化を示すために使われたが、この作品では、そうした特定の意図を持たないのだ。
時にはコミック・リリーフのように機能し、時には、重層的なアイデンティティと同じように、表面とは異なった意味を持つことを示すために機能していく。
いや、SF/ファンタシィにおける寓話の機能について語るつもりではなかった。この作品が、この私の文章が、あるいは感じさせてしまうであろうやたらにシリアスな物語ではなく、しばしば笑い出したくなる部分をも持ち合わせている作品であることを強調するつもりであったのだ。そして、それが、一昔前に流行った不条理な笑い、コメディに通じるものがあるという感想を述べたいと思っただけのことだ。
もっと言えば、この作品の中で笑い出したくなる部分には、二つのパターンがある。一つは作者が、それと意図している場合であり、これは問題は、ない。もう一つは、明らかに作者の意図と結果が異なってしまっている場合だ。
多くの人が、評価する最後の証明は、私にはコミカルなものに思えたし、突如として主人公が判断力を失って危地に陥ったり、あまりに御都合主義に思える状況に出食わしたりすると、やはり笑い出したくなってしまうわけだ。それは、SFやファンタシィというジャンルそのものの弱点であり、その優れた作者にして、そこから逃れられないのかというあきらめに近い感情から生まれてくる。そして、笑い出したくなるが、そうした弱点の存在が、一層この作品に私を引きずり込んでいってしまうのだ。
完壁に構成され、一分の隙もない作品よりも、破れ目が幾つもある作品の方が、私には、いつも魅力的に思える。破れ目に出会うたびに、私は、右往左往してしまう。そうした、ゆらぎがもたらしてくれる不安と不満と笑いは、完壁である作品よりも、私を満たしてくれるのだ。いや、特異な趣味であることは、認める。けれども、絶対的な作者の支配から、作品が自由になるのは、実は、そういう瞬間なのではないかと、思えるのだ。
私の理解か、唯一のものではないし、それを強要するつもりもない。けれども、この作品が、私にとっては、欠点の存在も含めて、最も満たされることの多い作品の一つであったことは、どれほど強調しても、かまわない。そして、私がやったように、なるべくゆっくりと噛みしめるように読み、考えながら読まれるべきだと思う。そうすることで、この物語は、セヴェリアンの中のセクラのように、読む者の中で、よみがえってくれるだろう。
〔訳者付記〕本書の37章、および38章に付した註の内容については、作者ジーン・ウルフ氏のご親切なご教示を得ました。ここに記して感謝いたします。
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底本:新しい太陽の書4[#4は○+4] 独裁者の城塞 早川文庫 早川書房
1988年3月31日 発行
2005年9月15日 二刷
このテキストは
(一般小説) [ジーン・ウルフ] 新しい太陽の書4 独裁者の城塞.zip iWbp3iMHRN 71,125 c2466008a5606b16231e74abb26488c8
を元に、OCRにて作成し、底本と照合、修正する方法で校正しました。
画像版の放流神に感謝します。
***** 底本の校正ミスと思われる部分 *****
*行数は改行でカウント、( )は底本の位置
720行目
(p121- 6) 支持
指示では?
982行目
(p172-17) 檜騎兵
槍騎兵では?
1526行目
(p274- 5) グルロウズ卿
グルロウズ師では?
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