新しい太陽の書3[#3は○+3]
警士の剣
THE SWORD OF THE LICTOR
[#地付き]ジーン・ウルフ Gene Wolfe
[#地付き]岡部宏之訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)火蜥蜴《サラマンダー》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小|高貴人《エグザルタント》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから本文]
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日本語版翻訳独占
早川書房
C[#○+C] 1987 Hayakawa Pablishing, Inc.
THE SWORD OF THE LICTOR
by
Gene Wolfe
Copyright C[#○+C] 1981 by
Gene Wolfe
Translated by
Hiroyuki Okabe
First published 1987 in Japan by
HAYAKAWA PUBLISHING, INC.
This book is published in Japan by arrangement
with VIRGINIA KIDD AGENCY, INC.
through TUTTLE-MORI AGENCY, INC. TOKYO.
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[#ここから3字下げ]
人間たちの首塚が遠くに消え失せる。
わたしは次第に小さくなり――今はだれにも知られずに、いなくなる。
しかし、愛情のこもった書物の中で、子供たちの遊戯の中で、
わたしは死から蘇って、いうだろう――太陽! と。
[#地から3字上げ]――オシップ・マンデルスタン
[#ここで字下げ終わり]
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目 次
1 鎖の家のあるじ
2 瀑布の上で
3 |藁葺き小屋《ハ カ ー ル》の外で
4 〈獄舎〉の張出櫓の中で
5 サイリアカ
6 城塞の書庫
7 魅力
8 崖の上で
9 火蜥蜴《サラマンダー》
10 鉛
11 過去の手
12 激流に乗って
13 山中へ
14 未亡人の家
15 先回り
16 アルザボ
17 警士《リクトル》の剣
18 セヴェリアンとセヴェリアン
19 〈蛙〉と呼ばれた少年の物語
20 魔法使いの集団
21 魔法の決闘
22 山の裾
23 呪われた町
24 死骸
25 テュポーンとピアトン
26 世界の目
27 高い峠にて
28 首長の御馳走
29 首長の舟
30 ナトリウム
31 湖の住民
32 城ヘ
33 オッシパゴとバルバトゥスとファミリムス
34 仮面
35 合図
36 城内の戦い
37 テルミヌス・エスト
38 鉤爪《つめ》
付録/地方政府についてのノート
解説/小川 隆
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警士の剣
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1 鎖の家のあるじ
「髪の毛にあれが染みこんでしまったのでね、セヴェリアン」ドルカスがいった。「熱い石の部屋の滝の下に立ったの――男性側も同じようになっているかは知らないけれど。すると、滝の下から足を踏み出すたびに、わたしの噂をしているのが聞こえたの。彼らはあなたを黒い殺し屋と呼んで、あなたの耳にはとても入れたくないようなことを、ほかにもいろいろといってたわ」
「しごく当たり前のことさ」わたしはいった。「きみのようなよそ者がやってくるのは、たぶん月に一度あるかないかなんだ。だから、話の種にされるのは仕方がない。きみの素性を知っている女が一人、二人いて、あることないこと喋り散らすのは避けられないよ。ぼくはもう慣れっこになっている。それに、その呼び方だったら、きみも道中で何度も聞いたはずだ」
「ええ」彼女はいって、窓の下枠に腰を下ろした。下の町では、ぎっしりと立ち並んでいる商店の灯火が、まるで黄水仙の花びらのような光で、アシスの谷間を満たしはじめていたが、彼女の目にはそれも入らない様子だった。
「組合の規則がなぜ妻を娶《めと》ることを禁じているか、これでわかったろう――もっとも、何度もいっているように、きみのためなら、ぼくはいつでもきみの望む時にその規則を破る覚悟でいるがね」
「つまり、わたしがどこかよそに離れていて、週に一、二度くるだけにするとか、または、あなたのほうから会いにくるまで待っていたほうがいいというの?」
「それが、普通のやりかたなんだ。そうしているうちに、今われわれのことをとやかくいっている女たちも結局は悟るんだよ。いずれは自分自身か、あるいは息子か夫が、ぼくの手にかかることになるとね」
「でも、そんなことぜんぶ的外れよ。問題は……」ここまでいって、ドルカスは口をつぐんだ。そのまま、どちらも黙っていると、やがて彼女は立ち上がり、両手を握りあわせて、室内をゆっくりと、ゆきつもどりつ歩きはじめた。こんな態度の彼女を今までに見たことがなかった。これはひどく神経にさわった。
「じゃ、問題はなんなんだ?」わたしは尋ねた。
「あのような呼び方は、前には当たっていなかったけれど、今は当たっているということよ」
「仕事をする必要がある場合には、ぼくは技術《アート》≠発揮してきた。町や国に雇われてきた。きみは窓から、ぼくが仕事をするのを何度も眺めていた。もっとも、群衆の中に入ることは決して好まなかったね――それを咎《とが》めることはとうていできないけれど」
「眺めはしなかったわ」彼女はいった。
「きみを見た覚えがあるよ」
「わたしはないわ。実際に仕事が進行している時にはね。あなたは自分の作業に心を集中させていたから、わたしが家の中に入ったり、目を覆ったりするのを見てなかったのよ。初めの頃は、あなたが処刑台に飛び乗る時には、眺めていて手を振ったものよ。その時にはあなたはとても誇らしげで、剣と同じように背筋をぴんと伸ばして立ち、とても立派に見えたわ。あなたは誠実だった。ある時、何かの役人があなたといっしょに台に上がり、そして罪人と修道司祭《ヒエロモナク》が上がるのを見た覚えがあるわ。あの時のあなたの顔は誠実そのものだった」
「そんなもの見えるわけないだろう。ぼくは仮面をかぶっていたはずだ」
「セヴェリアン、わたしには見なくてもわかるの。あなたがどんな顔つきをしているか、わかるのよ」
「今は、そういう顔をしていないというのか?」
「いいえ」彼女はしぶしぶいった。「でも、わたしは、地下に降りたの。トンネルの中で鎖に繋がれた人々を見たわ。今夜、わたしたちが眠る時には、あなたとわたしは柔らかいベッドの中で、あの人々の上で寝ることになるのよ。わたしを地下に連れていってくれた時、彼らが何人いるといったかしら?」
「約千六百人だ。もしぼくが見張りをやめれば、この千六百人が解放されると、きみは本当に信じているのかい? いいか、ぼくらがここにきた時には、彼らはすでにいたんだぞ」
ドルカスはわたしを見ようとしなかった。「あれは、集団墓地みたいなものだわ」彼女はいった。その肩が震えているのがわかった。
「それはそうさ」わたしは彼女にいった。「執政官なら彼らを釈放できるだろう。しかし、彼らに殺された人たちを、だれが蘇らせることができる? きみは肉親を殺された経験は、まったくないんだろう?」
彼女は答えなかった。
「われわれの囚人が地上で殺してきた人々の、母親や姉妹に尋ねてごらん。アブディーススは彼らを釈放すべきかどうかとね」
「わたし自身の問題なのよ」ドルカスはそういって、蝋燭《ろうそく》の火を吹き消した。
スラックスは山脈の心臓に刺しこまれた曲がった短刀である。それはアシスの狭い谷間に横たわり、さらに上のアシーズ城まで伸びている。ハレナ、パンテオン、その他の公共の建物はすべて、城と、谷の狭い部分の下端を閉ざす(キャプルスと呼ばれる)壁の間の、平らな土地を占めている。町の個人の建物は両側の断崖を這い上っており、家も岩そのものに掘りこまれているものがかなり多い。ここから、スラックスのニックネームの一つ――〈窓のない部屋の町〉が生まれたのである。
この町の繁栄は、この町が川の航行可能な部分の末端にあるという位置に負うている。アシス谷を北上して船で運ばれてきたすべての物資は――その多くはギョルの真の水源であるかもしれないこの小さな川の入口に入る前に、ギョルの全長の十分の九を運ばれてきたのだが――もっと先まで運ぶとすれば、スラックスで船から降ろされ、動物の背に載せて運ぶことになる。逆に、自分らの羊毛や穀物を南の町に運びたい山地種族の首長や、この地域の地主は、それらをスラックスまで運んできて、アシーズ城のアーチ形の余水路をごうごうと流れ下る大爆布の下で、船に載せなければならない。
一つの城が擾乱のある地域に法の支配を強制する場合は常にそうなるのだが、法の執行が町の執政官の主要な関心事であった。彼は、それぞれ独自の司令官を持つ七つの龍騎兵《デイマルキ》の大隊を使って、城壁の外側で反乱の機会をうかがっている人々に、みずからの意志を強制することができた。法廷は毎月、新月の最初の出から満月まで召集され、朝の第二刻から始まって、その日の審理の予定が全部すむまで続けられた。わたしは執政官の宣告の主任執行官として、これらの審理に立ち会うことを要請された。なぜかというと、彼の命令した処罰を間接的にわたしに伝えると、伝達者によってそれが軽減されたり、苛酷に加重されたりするおそれがあるからである。わたしはまた、囚人たちが拘留されている〈獄舎〉の運営の監督を細大洩らさず任せられた。これは、程度こそ低いものの、〈城塞〉でグルロウズ師の負っていた貴任と同様のものであった。そして、スラックスで過ごした最初の数週間は、この任務がわたしに重くのしかかった。
理想的な位置にある牢獄などない、というのがグルロウズ師の口癖だった。しかしこれは、若者の教化のために差し出されるたいていの賢い金言と同様、議論の余地のない、なんの役にも立たないものであった。すべての脱走は三つの種類に分類される――つまり、こっそり逃げるか、暴力で逃げるか、または、見張りの者を欺いて逃げるか、である。僻遠の地は、こっそり逃げるのを最も困難にする。そしてこの理由によって、僻地に牢獄を設置する方法は、この主題を長い間考えている人々の大多数から支持されている。
不幸にして、砂漠、山頂、および孤島は、暴力的な逃走に対して最も肥沃な分野を提供する――もしも、それらが囚人の味方によって包囲攻撃されれば、手遅れにならないうちに、その事実を知るのは難しいし、また駐屯部隊の増援も不可能に近い。同様にして、囚人たちが反乱に立ち上がれば、結果が明らかにならないうちに、軍隊を現地に急行させることは、きわめて困難である。
人口が密集し、防備がしっかりしている地域にある施設なら、こういった困難は避けられるが、もっと深刻な問題が伴う。そういう場所では、囚人は千人もの味方を必要としない。一人か二人で充分である。それも戦闘能力のある兵士である必要はない――知能と決意さえあれば、掃除婦や町の物売りで用が足りる。しかも、囚人はいったん壁の外に脱走してしまえば、顔のない無数の群衆の中にまぎれこんでしまうから、その再逮捕は、狩人と猟犬の問題ではなく、スパイと情報屋の問題になる。
われわれ自身の場合には、監獄を僻遠の地に隔離するのは問題外であった。|土 民《オートクトンズ》、獣化人《ゾアントロプス》、田舎を放浪している|刺 客《クルテラリアイ》などの襲撃を撃退するための、本来の|獄 吏《クラヴィガー》に加えて、小|高貴人《エグザルタント》の武装家臣団(彼らはまったく信用できない)はいうまでもなく、たとえ、充分な人数の軍隊が与えられたとしても、輸送隊を護衛する軍隊の出動がなければ、食料の供給さえおぼつかないのである。それゆえ、スラックスの〈獄舎〉は必要によって市内に置かれていた――正確にいえば、キャプルスの壁から半リーグほど離れた、西岸の断崖の中ほどにあった。
それは大昔の様式のもので、最初から牢獄として作られたように思われたが、伝承によれば、本来は墓地であって、わずか三百年ほど前に拡張されて、新たな目的に転用されるようになったということだった。いくらか広さの余裕のある東岸から見ると、それは岩から突き出している長方形の張出櫓のように見える――そちらの側面は四階建の高さがあり、狭間のある平らな屋根が断崖と一線を画している張出櫓に。〈獄舎〉の目に見えるこの部分は――町への訪問者の多くは、それで全部だと思うにちがいないが――実は最も小さく、最も重要性の少ない部分なのである。わたしが警士《リクトル》をしていた時は、ここにはわれわれの管理事務所と獄吏の宿舎、それにわたし自身の住居しかなかった。
囚人は岩に斜めに穿たれた立坑《シャフト》の中で寝起きしている。ここのやりかたは、わたしの故郷の地下牢の客人たちのために用意された個室とも、〈絶対の家〉でわたし自身が拘留されていたあの大部屋とも違っていた。囚人はそれぞれ頑丈な鉄の首輪をはめられて、立坑の壁に鎖で繋がれており、立坑の中央に、獄吏が二人並んで歩いても鍵をひったくられる心配のないだけの幅の通路が残されていた。
立坑の長さは約五百|歩《ぺース》あり、一千ヵ所以上の囚人を繋ぐ場所があった。水の供給は、断崖のてっぺんの岩の中に埋設されている水槽からおこなわれる。そして、衛生用水はこの水槽が溢れそうになるたびに、立坑にどっと流されるようになっている。廃水は立坑の下端に穿たれた下水道で、断崖の基部のキャプルスの壁を貫通している導水管に運ばれ、町の下流のアシス谷に捨てられる。
もともとは、崖にしがみついているこの長方形の張出櫓と、この立坑そのものが〈獄舎〉の全体を構成していたにちがいない。しかしその後、崖の表面の個人の住宅のどれかからトンネルを掘ることによって囚人を脱走させようとする過去の試みと、そのような試みを挫折させるための対抗措置として掘られた――すべて、今は付加的な設備として組みこまれている――でたらめに枝分かれしている通廊や、何本もの平行な立坑によって、きわめて複雑な構造になっている。
これらの無計画、あるいはお粗末な計画によってできた付加物があるために、わたしの仕事はそれらがない場合に較べて、いちじるしく困難なものになっていた。わたしの最初の活動の一つは、望ましくない不必要な通路を、川石、砂、水、焼石灰、砂利の混合物で封鎖し、同時に、結果的に理にかなった構造になるように、残っている通路を拡張したり連結したりする作業にとりかかることだった。必要な仕事だったけれども、ごくゆっくりとしか進めることができなかった。なぜなら、いっぺんにわずか二、三百人の囚人しか鎖をはずして作業させることができず、彼らの大部分はひどい健康状態にあったからである。
ドルカスとわたしが町に着いた最初の数週間は、わたしは仕事に時間を取られて、ほかに何もすることができなかった。彼女はわたしの代わりに町を探険し、わたしは彼女にペルリーヌ尼僧団のことを尋ねてくれるように、やかましく頼んだ。ネッソスからの長い旅の間は、〈調停者の鉤爪《つめ》〉を持っている、という認識が心の重荷となっていた。今、旅が終わり、もはや道中でペルリーヌ尼僧団の足跡をたずねるという試みをしなくてもよくなり、また、最後には彼女らと接触できるであろう方向に歩いていることを確かめる必要もなくなると、この重荷は耐えられないほどになった。旅行中は、星の下では、その宝石をブーツの口に押しこんで眠り、屋根の下に泊まることのできる数少ない場合には、ブーツの爪先に隠したものだった。今では、夜中にいつ目が覚めても、まだそれがあることを確かめられるように、宝石を身につけていなければ眠ることがまったくできなくなってしまった。ドルカスは、宝石を入れる小さな袋を鹿皮で縫ってくれた。わたしは日夜それを首にかけていた。これらの最初の数週間、宝石が、それ自身の燃える伽藍のように燃えながら、頭上の空中に懸かっている夢を何度となく見た。それから目覚めては、宝石が薄いなめし革を透かしてかすかに光が見えるほど、明るく光り輝いているのを確かめたものであった。そして、毎夜、胸にその袋を載せて寝ていると(容易に手で持ち上げられるほど軽いのに)、まるで自分が押し潰されそうなほど、重くなったように感じられて目覚めることが、一度か二度はあるのだった。
ドルカスはできるだけのことをして、わたしを慰め、助けてくれた。しかし、われわれの関係の急激な変化を彼女が意識し、わたし以上にとまどっていることもわかった。このような変化は、わたしの経験では常に不愉快なものである――それ以上どんな変化が生じるかが暗示されているから、不愉快に感じるのである。いっしょに旅をしていた間は、〈果てしない眠りの園〉で、溺れかけたわたしが茅の浮き道によじのぼるのをドルカスが助けてくれた瞬間から、われわれは大なり小なり冒険をしながら旅を続けてきた、われわれは、対等の関係であり、道連れの関係であって、それぞれ自分の足で歩き、または自分自身の馬を歩ませて、一リーグ、一リーグと進んできた。わたしがドルカスにある程度の物質的な保護を与えたとすれば、彼女は対等の立場でわたしにある種の道徳的庇護を与えてくれた。なぜなら、長い間彼女のけがれない美しさを軽蔑するふりができる者はほとんどいないし、またわたしを見れば、同時に彼女を見ないわけにはいかないから、わたしの仕事に恐怖を装うこともできなくなるのである。彼女は、わたしが当惑した時の相談役であり、寂しい場所での同志だった。
ついにスラックスに到着し、パリーモン師の書簡を執政官に提出すると、これらのすべては必然的に終わりになった。煤色の制服を着ていれば、もはや群衆を恐れる必要はなくなった――むしろ彼らのほうが、わたしを国の最も恐ろしい部門の最高位の役人として恐れた。ドルカスは今は対等者ではなく、かつてクーマイの巫女が呼んだように、愛人として、〈獄舎〉の中にわたしのために与えられた住居で暮らした。彼女の忠告はまったく無用か、または、ほとんど無用になってしまった。なぜなら、わたしにのしかかる困難は、法律的、行政的なもので、わたしはそれを扱うために長年、教育を受けてきたのであり、それについては彼女はまったく無知だったから。しかも、話しあうことができるように、説明してやる時間も精力も、わたしにはなかったからである。
こうして、わたしが何刻も何刻も執政官の法廷に立っている間に、ドルカスは町をさまよう習慣を身につけるようになった。そして、春の後半をずっといっしょに過ごしたわれわれは、今、夏になって、ほとんど顔を合わせることがなくなり、夕飯をともに食べると、ぐったりと疲れてベッドに上り、たがいの腕の中で眠る以外のことはほとんどしなくなった。
やっと満月が輝いた。それを、わたしは張出櫓の屋根から精いっぱいの喜びをもって眺めた。森林に包まれているためにエメラルドのように緑色で、杯の口のようにまん丸い月! わたしはまだ自由ではなかった。なぜなら、執政官に随伴していた間に溜まった拷問や行政の細かい仕事のすべてが、手つかずになっていたからである。しかし、少なくとも今は、それに自分のすべての注意を向けることができた。これらの仕事は、それに従事している間は、自由そのものと同じくらい良いものに思われた。次の日、いっしょにくるようにドルカスを招待した。そして、〈獄舎〉の地下の部分の視察をしたのであった。
これが間違いだった。彼女は悲惨な囚人に取り囲まれ、悪い空気を吸って気分が悪くなった。その夜、すでに書いたように、彼女は髪や肌から立坑の悪臭を取るために公衆浴場にいき(水への恐怖があまりに強いので、スープ皿よりも深くないボウルにスポンジを浸して、少しずつ体を洗うことしかしない彼女にしては、めずらしいことであった)、そして、浴場の従業員がほかの客に彼女のことをとやかくいっているのを聞いたと、わたしに告げたのであった。
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2 爆布の上で
翌朝ドルカスは、張出櫓を出る前に、少年かと見まがうほど頭髪を短く切り、それをまとめる輪に一輪の白い牡丹の花を挿した。わたしは午後まで書類仕事に精を出し、それから、部下の獄吏の下士官に平服《ジェラブ》を借りて、ドルカスに出会うことを願いながら、外出した。
わたしが所持している例の茶色の本にはこう書いてある。自分が知っているすべての町とまったく異なった町を探険することほど、珍しい思いをすることはない。なぜなら、それは、まったく別の、思いもかけなかった自己を探険することだから、と。わたしはもっと珍しい体験をした――なぜなら、その町について何一つ知識を持たず、しばらくの間その町で暮らした後に、初めてそのような町を探険したのだから。
ドルカスがいっていた浴場がどこにあるか、わたしは知らなかった。もっとも、法廷で耳にした話から、そういうものが存在することは知っていたけれども。彼女が布や化粧品を買った市場がどこにあるかは知らなかったし、そのような場所が一つ以上あるかどうかさえ知らなかった。つまり、わたしは狭間から見えるもの以外は、そして〈獄舎〉から執政官の宮殿への短い道筋にあるもの以外は、何も知らなかったのである。たぶん、ここはネッソスよりずっと小さい町だから、自分の行きたい場所を見つけ出す能力は充分あると、自信を持ちすぎていたのだろう。それでも、あの見慣れた張出櫓とバリケードつきの門と黒い旒旗《りゅうき》が、まだ見えるかどうか時々確かめながら、断崖の岩に掘りこまれた洞穴住宅≠竓Rの表面から突き出たつばめの巣住宅≠フ間にかろうじて続いている曲がりくねった道を歩いていった。
ネッソスでは、金持ちはギョルの水の、より綺麗な北の方に住み、貧乏人は水の汚い南の方に住む。このスラックスでは、その習慣はもはや当てはまらない。アシス川の流れはとても速いので、上流の住民(もちろんその人数は、ギョルの北の江区の住民の千分の一にしかならない)の排泄物は、流れにほとんど影響をおよぼさないし、また、水は爆布の上から取られ、導水管によって公衆の泉と裕福な家庭に運ばれるので、金持ちも貧民も――工業用水とか、総洗濯日のように――大量の水を必要とする時以外は、川に頼る必要はないのである。
このようにして、スラックスでは貧富の差は、高低の差に表われる。最も裕福な階級は川に近い一番下の斜面に住み、そこからは容易に商店街や公の役所にいけるし、また、ちょっと歩けば桟橋に着いて、そこから奴隷の漕ぐ軽舟《カイーク》に乗って、細長い町のどこにいくこともできる。暮らし向きがもう少し劣る金持ちは、それよりもう少し高い場所に住み、一般に中流階級は、またその上に住む。このようにして、最後に最も貧しい住民は、崖の頂上の堡塁《ほうるい》の真下に住む。その家はたいてい泥と葦で作った草葺きの小屋で、長い梯子を使わなければ、家に入ることができない。
わたしはこのようなあばらや[#「あばらや」に傍点]を見物するつもりでいた。しかし、最初のうちは、川に近い商店街にとどまっていた。ここでは、狭い街路が大勢の人であまりに混雑していたので、最初は、祭がおこなわれているのか、それとも戦争が――ネッソスに留まっている間は、ずっと遠くのことのように思われたが、北に向かってドルカスと旅を続けている間に、だんだんと身近なものに思われてきた――もう、すぐ近くまできているので、そこからの避難民で町がいっぱいになっているのかと思った。
ネッソスはあまりにも広大なので、住民一人に建物が五つあるという話を聞いたことがある。だが、スラックスではこの比率は逆転する。そしてこの日には、屋根一つに人間が五十人はいるにちがいないと思われることが、たびたびあった。また、ネッソスはコスモポリタン都市なので、そこではたくさんの外人や、ほかの世界から船でやってきた退化人《カコジエン》さえも見かけるけれども、彼らは故郷から遠く離れてやってきた外人にすぎないことが、いつも意識される。ここでは街路は、種々雑多な人間で混雑している。しかし、彼らは単に山地の環境の多様性を反映しているにすぎない。だから、羽を両側の耳覆いに使った鳥の生皮の帽子をかぶった男、または、毛むくじゃらなカベルの毛皮のコートを着た男、または、顔に入れ墨をした男を見た時、わたしは次の曲がり角で、さらに何百人ものそのような部族民を見るかもしれないのである。
これらの人々が折衷人《エクレクテイクス》である。彼らは、ずんぐりした、色の黒い土民と混血した南方からの植民者の子孫であって、彼らの習慣のあるものを採用し、それと、もっとずっと北のアンピトリュオーン人から得たまた別の習慣や、少し離れていて、もっとよく知られていない交易種族や地方民の習慣を、ごちゃまぜにして身につけている人々である。
これらの折衷人の多くは、湾曲したナイフを愛用している――彼ら自身の言葉を借りれば、湾曲しているナイフには二つの比較的まっすぐな部分があって、少し先端に寄った部分に曲がり目がある。この形態は、胸骨の下に突っこむことによって、容易に心臓を突き刺すことができるように作られたものだといわれている。刃は中心のリブによって補強されており、両刃になっていて、常に研ぎ澄まされている。鍔《つば》はなく、柄は普通、骨で作られている(このナイフのことを詳しく述べたのは、これが何にもましてこの地方の特色だといわれているからであり、また、スラックスのもう一つの別名〈曲がったナイフの町〉の由来でもあるからである。この町の形態もまた、この種のナイフの形と似ている。峡谷のカーブは、刃のカーブに相当し、アシス川がその中心のリブに相当し、アシーズ城はその切っ先にあたり、キャプルスの壁は、剣身と柄の境目の線に相当する)。
格闘犬が雌狼にかかって生まれた雑種ほど、危険で凶暴で、扱いにくい動物はないと、〈熊の塔〉の管理者の一人から聞いたことがある。われわれは森林や山岳地帯の動物を凶暴だと思い、その土に、いわば、生えた[#「生えた」に傍点]人間を野蛮だと思う習慣がある。しかし本当は、ある種の家畜は人間の言葉をよく理解し、時には多少の言葉を喋ることすらあっても、そういう動物のほうが(そういうものに慣れていない人のほうがよく感じ取れるのだが)より凶悪な野性を持っている。そして、人類の曙《あけぼの》以来、都市に住む祖先を持った男女のほうが、より深い野蛮性を秘めている。ヴォダルスの血管には、数千の高貴人の――太守《エクサルク》、地方長官《エ ス ナ ル ク》、そして一代領主《ス タ ロ ス ト》などの――汚れのない血が流れているけれども、彼には、素肌に野生ラマの毛皮のマントをまとってスラックスの街路を歩き回っている土民たちには想像もつかないような、暴力性が潜んでいる。
犬狼《ドッグ・ウルフ》=iあまりにも根性がねじ曲がっていて使い物にならないので、わたしは一度も見たことはない)と同様に、これらの折衷人はその混淆した血統から残忍性と扱いにくさを最大限に受け継いでいるので、友人や追随者としては、無愛想で、信頼性に欠け、しかも争いを好む。敵としては凶暴で、欺瞞性に満ち、執念深い。少なくとも、わたしは〈獄舎〉の部下からそう聞いている。実は、そこの囚人の半分以上が、この折衷人で成り立っているのである。
わたしは言葉や服装や習慣が外国のものである男に出会うと、彼らの種族の女性はどんなだろうと想像を巡らす。そこには必ず関連がある。なぜなら、その二つは、一つの文化からの生成物であるから。ちょうど、目に見える木の葉と、葉に隠れて見えない果実とが、一つの有機体の生成物であるのと同様である。しかし、(いわば)遠くから見える葉の茂った二、三の枝の輪郭から、その果実の外観と味を、あえて予言しようとする観察者は、笑い物にされたくなければ、その葉と果実について非常に多くのことを知らねばならない。
戦《いくさ》好きの男が、ひよわな女から生まれたかもしれないし、また、彼ら自身と同じくらい体力が強く、もっと意志の強い姉妹を持っているかもしれない。このようにして、主にこれらの折衷人と可民(衣服と態度が多少粗雑である点を除いては、わたしにはネッソスの市民とあまり相違がいように思われる)からなる群衆の中を歩きながら、わたしはいつの間にか、目が黒く肌も黒い女、その兄弟が乗っている白と褐色の駁毛の馬の尻尾の毛のように、太く艶のある黒い髪の女、強いけれどもデリケートだと想像される顔の女、猛烈に抵抗するが降参するのも速い性格の女、勝ち取ることはできるが買うことはできない女――世の中にそんな女が存在するとしての話だが――などを想像していた。
わたしは想像の中で、彼らの腕から出発して、彼らがいそうなところ、つまり――山の泉のほとりにうずくまっているような寂しい小屋、高原に一つだけ立っている獣皮のテントなどに旅をした。やがてわたしは、以前パリーモン師が、スラックスの正しい位置を教えてくれる前に、海を想像して興奮したように、山岳地帯のことを思って酔ったようになった。山はどれほどすばらしいだろう。想像もできない太古の時代に数知れぬ道具で彫られたウールスの不動の偶像たちが、世界の縁のそのまた上に、雪のきらめく司教冠《ミトラ》、教皇冠《ティアラ》、王冠《ディアデム》をかぶった厳めしい頭をもたげている。町ほども大きい目のある首が、森林に包まれた肩の上にそびえている。
このようにして、群衆で雑踏し、糞尿と炊事のにおいの流れる街路を、町民の地味な平服に身をやつして肘でかき分けながらあるいていくと、わたしの心は、崖から張り出した岩や、金のネックレスのような澄みきった小川の幻影でいっぱいになった。
きっとセクラは、夏の特別な猛暑を避けて、少なくとも、これらの高地の山麓に避暑に連れてこられたにちがいない。なぜなら、わたしの心に(勝手に)浮かんでくる(ように思われる)情景の多くは、ひどく子供じみたものだったから。わたしは岩にまとわりつく植物を見たが、それらの清らかな花は、大人だったらひざまずかなければ決して見ることのできない角度からのものだった。また、存在自体が、自然の法則に反しているように思われる、怖いどころか、息をのむような深淵も見えたし、また、あまりに高くて、頂上が文字どおりないと思われるような峰々も見えた――まるで、世界全体が想像を絶する天国のようなところから、永久に落下を続けているかのような、それでいて、まだ天国の手から離れていないと思われる高峰を。
結局、町のほぼ全長を歩いて、アシーズ城についた。わたしはそこの地下道の衛兵に身分を明かし、城内に入って天守閣の頂上に登る許可を得た――昔パリーモン師に暇乞《いとまご》いする前に、組合の〈剣舞《マタチン》の塔〉に登ったように。
自分の知っている唯一の場所に別れを告げるため、あそこに登った時には、わたしは〈城塞〉の最も高い場所の一つに立っていた。そして〈城塞〉そのものが、ネッソス全域で最も高い場所の一つに立っていたのだ。あの都市は、わたしの前に目の届くかぎり広がっていた。ギョルは、地図の上を這うなめくじの緑の粘液のように、町を横切っていた。地平線の数ヵ所には〈壁〉さえ見えており、わたしよりも高い頂上からの影はどこにも落ちていなかった。
ここでは、印象はひどく違っていた。わたしはアシス川をまたいでいた。アシス川は、一段が高い木の二、三倍はある、岩の階段の連続を、わたしに向かって駆け降りてくるのだった。激動する水は白い泡となって日光にきらめぎ、わたしの下でいったん見えなくなり、それから、銀のリボンとなってふたたび現われ、わたし(それはセクラだった)が誕生日にもらったのを覚えている箱庭のように、下り斜面にきちんと納まっている町を駆け抜けた。
それでもわたしは、いわば碗《わん》の底に立っていた。すべての側に岩の壁がそそり立っていた。だから、その一つを見ると、少なくともその一瞬だけは、あたかも魔法使いの想像上の数字の掛け算によってねじ曲げられた重力が、本来の方向から直角に働いていることを信じ、見えている高い岩壁が実は世界の平らな表面なのだと信じこんでしまうのだった。
一刻またはそれ以上の間、わたしはそれらの岩を見上げ、雷のような音を立てたり、清らかなロマンスを語りながらアシス川に流れこむ、無数の滝の蜘蛛の巣のような筋を目で追い、また、石の囲いの中で行き場を失った羊さながらに、雲がそれらの岩壁の間に捕えられて、不動の岩の側面をそっと押しやっているように見えるさまを眺めていた。
やがて、実際の山の壮大さと、夢の中の山の壮大さに、わたしはついに疲れた――いや、むしろ疲れたのではなく、目がくらんで頭がくらくらしたのだった。そして、目を閉じてさえもそれらの言語に絶する高さが目に見えるようになり、また、その夜にも、さらに多くの夜にも、それらの断崖から転落したり、血みどろの指でそれらの絶望的な壁にしがみつく夢を見るようになったのであった。
それから、わたしは熱心に視線を町に向け、〈獄舎〉の張出櫓を見て安心した。それは今はそれを取り囲む岩の波の中の一つの漣《さざなみ》にすぎない一つの崖に張りついた、ごくささやかな立方体にすぎなかった。わたしは(長い間山を見つめていたために生じた酔いを覚まそうとして)城に着くまで歩いてきた道を目で探しながら、主な街路のコースをたどり、途中で見た建物や市場広場などを、新しい角度から眺めた。目によって商店街を略奪し、そういうものが川の両側に一つずつ、合わせて二つあることを知った。そして、〈獄舎〉の狭間から見てすでに知っている見慣れた目印に、新たなしるしをつけた――ハレナ、パンテオン、そして執政官の宮殿などを。やがて、地上から見ていたすべてを、この新しい見晴らしのよい場所から確認してしまい、自分の立っているこの場所と、町の図面上で早くから知っていた場所との位置関係が理解できたと感じると、より小さな道の、目による探険を始め、上の崖を這い登っている曲がりくねった小道に沿って覗いていき、しばしば建物の間の黒い帯にしかすぎない小路を探っていった。
それらを探っていくうちに、わたしの視線は結局、川岸に戻った。そして、そこの荷揚場を調べはじめた。それから、立ち並ぶ倉庫を、そして船積みするためにそこに運ばれてきて待っている、樽や箱や梱《こり》のピラミッドさえも。ここではもはや水は、桟橋で妨げられている部分以外には泡立っていなかった。その色はインジゴに近かった。そして水は、雪の日の夕方に見えるインジゴ色の影のように曲がりくねって凍りついているように見え、音もなく滑っていくように思われた。しかし、先を急ぐ軽舟や荷を積んだフェラッカ船の動きは、その滑らかな水面の下にどんなに激しい動乱が隠されているかを示していた。なぜなら、大きいほうの船はその長い第一斜檣《バウスプリット》をフェンシングの剣のように横に振り、時には、大船も小船も、急速に流れる渦をオールで激しく叩きながら、船首を左右に振っていたからである。
そして、さらに下流のすべてのものを見るのに疲れると、わたしは欄干から身を乗り出して、川岸の最も近い部分と、城の地下道の門からわずか百|複歩《ストライド》しか離れていない埠頭を眺めた。そして、そこで細い川船の一艘から、汗水たらして荷を降ろしている荷役人足を見下ろした。すると、そのそばに、小さな人影が頭髪を光らせて、じっと動かずにいるのが見えた。最初は、それを子供だと思った。なぜなら、骨太の、ほとんど裸に近い労働者たちと比べて、あまりにも小さく見えたからである。しかし、それはドルカスだった。彼女は水際すれすれのところに、両手に顔を埋めて坐っていた。
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3 |藁葺き小屋《ハ  カ  ー  ル》の外で
わたしはドルカスのそばにいったが、彼女に口を開かせることができなかった。その時に思っていたように、彼女は単にわたしに腹を立てているのではなかった。沈黙が病気のように彼女に取りつき、舌や唇は冒さないものの、それらを使おうという意志を、そしてたぶんその欲望をも無力にしてしまったのだった。ちょうど、ある種の伝染病がわれわれの快楽への欲望を、そして、他人の喜びへの共感さえ破壊するように。もしわたしが彼女の顔を持ち上げて、わたしの顔の方に向けなければ、彼女は足もとの地面を向いたまま、たぶん地面さえも見ずにそのままいたか、あるいは、最初にわたしが見つけた時のまま、両手に顔を埋めていたことだろう。
わたしはドルカスと話をしたかった――その時には、何かをいうことができると信じていたのだ――どんな言葉か知らないが、彼女をわれに返らせることができるような言葉を。しかし、荷役人足がじろじろ見ているその埠頭では、それはできなかった。しかも、彼女を連れていくべき場所もさしあたり思い浮かばなかった。川の東の斜面を登っていく近くの小道に、旅籠《はたご》の看板を見つけた。狭い土間では、客が食事をしている。しかし、数アエス払うと、上の階の小部屋を借りることができた。ベッドが一つあるだけで、ほかになんの家具もなく、余地もほとんどない。天井はあまり低いので、端の方ではまっすぐに立つこともできなかった。宿の女将《おかみ》には逢引き用の部屋を借りようとしていると思われたが、この状況では無理からぬことだった――おまけにドルカスが絶望的な表情をしていたので、わたしが彼女の弱みにつけこんでいるか、または、売春周旋屋から彼女を買ったのだと、女将は思ったようだった。それで、とろけるような同情のまなざしを彼女に向け(彼女はそれにまったく気づかなかったとわたしは信じるが)、また、わたしにはその反対に非難のまなざしを向けてきた。
わたしは扉を閉めて閂《かんぬき》を掛け、ドルカスをベッドに横たえた。それから、彼女の横に腰かけて、いったいどうしちまったんだとか、きみが気にしていることを、ぼくはどうやって直せばよいんだとか、いろいろいって、あの手この手で彼女に口を開かせようとした。しかし、これがまったく効果がないとわかると、彼女がわたしと口をきかなくなった原因は、単に〈獄舎〉の状態に彼女が恐怖を感じたためなのだと仮定して、自分自身のことを話しはじめた。
「われわれはみんなから忌み嫌われている」わたしはいった。「だから、ぼくがきみから忌み嫌われないはずはない。驚くべきことは、きみが今ぼくを嫌悪するようになったことではなく、きみがほかのみんなと同じように感じるようになるまでに、よくこれだけ長くもったということだ。しかし、ぼくはきみを愛しているから、これから組合の弁護をしてみようと思う。それはぼく自身の弁護にもなる。たとえきみがもうぼくを愛さなくなったとしても、後になって、拷問者を愛してしまったことを、それほど惨めに感じなくてもよいようにと願いながらね。
ぼくらは残忍ではない。やっていることに喜びを感じているわけではない。ただし、上手にできた時は別だ。つまり、仕事がすばやくできて、法律がわれわれに命じるままに過不足なくできた場合はね。われわれは裁判官に従うが、彼らは民衆の同意があってこそ、その職に留まっているんだ。われわれがやっているようなことは、すべきことではないのだという人がいる。だれもそういうことはすべきでないと。冷酷無情に加えられた刑罰は、われわれの客人が犯すかもしれないいかなる犯罪よりも大きな罪であると。
その言い分にも、正義が含まれているかもしれない。しかし、それは共和国全体を亡ぼす正義だ。それを認めれば、だれも安心していられなくなるし、安全でもなくなる。結局、民衆は立ち上がるだろう――最初は泥棒や人殺しに対して、それから、財産という大衆的な考えに反対するだれに対しても、そして最後には、ただのよそ者や浮浪者に対しても。それから、民衆は石打ちの刑とか火刑のような昔の恐ろしいリンチに逆戻りするだろう。そうなると、今日死んだ哀れな男に同情したと、次の日に他人に思われるかもしれないから、みんなが隣人より過激なことをやろうとするようになる。
ある客人は最も厳しい処罰に値するが、そうでない客人もいる。そういう客人に対しては、われわれは職務の執行を拒否すべきだ、という人もいる。ある者がほかの者よりも罪が重いということは、確かにあるにちがいない。また、われわれに引き渡された者の中には、起訴された事件についても、その他いかなる事柄についても、まったく悪事を働いていない人がいるかもしれない。
しかし、こういう議論をする人は、自分たちを裁判官として、独裁者によって指名された裁判官の上に置こうとしているにすぎない。法律の勉強が足りず、証人を呼ぶ権威もない裁判官のくせに、である。彼らは、われわれが真の裁判官に服従するのをやめて、自分らに耳を傾けよと要求するが、われわれが服従する相手として彼らのほうがふさわしいということを、立証することなどできはしないのだ。
また、客人を拷問したり、処刑したりせずに、運河を掘らせるとか、見張り塔を建てさせるとか、共和国に役立つ労働をさせるべきだという人もある。しかし、彼らを監視したり、拘束したりする費用があれぽ、正直な労働者を雇うことができるのだ。労働者は仕事がなければ、パンが買えない。殺人者が殺されないように、盗賊が苦痛を感じないようにするために、なぜこれらの正直な労働者が飢えなければならないのか? それだけではない、これらの殺人者や盗賊は、法に対して忠誠心もないし、報酬を貰う望みもないから、鞭で追い立てなければ働こうとしないだろう。その鞭は、結局、新しい名目でおこなわれる拷問にほかならないではないか?
また、有罪と判決された人はすべて、快適に、苦痛なしに、長年たいていは、生きている限り拘束しておけばよいという人もいる。だが決適に、苦痛なく生活する人は長生きをする。そして、彼らにそのような生活をさせるための費用はすべて、もっとましな目的に使われる金から差し引かれるのだ。ぼくは戦争のことはほとんど知らないが、武器を買い、兵士に支払うために、多額の金が必要なことぐらい承知している。今のうちは戦闘は、北の山地でおこなわれているから、われわれは百重もの城壁の陰で戦っているようなものだ。しかし、それが草原《パンパ》にまで降りてきたらどうなる? 作戦行動の範囲がずっと広がったら、アスキア人を撃退することが可能だろうか? そして、万一草原の家畜が敵の手に落ちたら、ネッソスの食糧をどうやって調達するのか?
もし、罪人を快適に監禁することもできず、拷問にもかけないとしたら、あとにどんな手段が残るだろう? もし彼らを全部殺すとすれば、それも、全部平等に殺すとすれば、盗みを働く貧しい女と、サルトゥスのモーウェンナのようにわが子を毒殺する母親とが、同じように悪いと思われるようになるだろう。きみはそうしたいと思うか? 平和な時に、大勢の者が追放の刑にあうかもしれない。だが、罪人を今追放することは、アスキア人にスパイの大軍を与えることにしかならない。彼らは訓練され、資金を与えられて、われわれの中に送り返されてくるだろう。そうなれば、すぐにだれも信じられなくなる。たとえ、われわれ自身の言葉を喋る奴であってもだ。きみはそれを望むのか?」
ドルカスは静かにベッドに横たわっていたので、わたしはちょっとの間、彼女が眠ってしまったのかと思ったほどだった。しかし、彼女の目は、あの完全な青色の大きな目は、開いていた。そして、わたしが身を乗り出すようにして見ると、その目が動いた。そして、しばらくの間、わたしを見つめているように思えた――池に広がる漣を眺めるのと同じ目つきで。
「そうだ、われわれは悪魔だよ」わたしはいった。「そう思いたければ、思うがいいさ。しかし、われわれは必要な存在なんだ。天国の能天使《パ ワ ー ズ》だって、悪魔を雇う必要があるんだからな」
彼女の目に涙が浮かんだが、彼女がわたしを傷つけたから泣くのか、それとも、わたしがまだそばにいるのに気づいたから泣くのか、どちらともわからなかった。わたしは、彼女の昔の愛情を取り戻すことができるかもしれないと思って、今度はスラックスへの旅の途中のことを話しはじめ、いろいろなことを思い出させようとした。〈絶対の家〉の構内から逃げ出して、森の中の広場で巡りあったこと。タロス博土の芝居の前に、あの大庭園で話しあったこと。花の咲いている果樹園を通り抜けて、壊れた噴水のそばの古いベンチに腰かけたこと。そこで彼女がわたしに話したすべてのこと。そして、わたしが彼女に話したすべてのことを。
そして、話が噴水におよぶまでは、彼女の悲しみはいくらか薄れたように思われた。ところが、噴水の水がその壊れた水盤からこぼれ落ちて、小川となり、それを園丁が木々の間にくねくねと引きこんで、草木に水を与え、しまいに水は地面に吸いこまれて消えていたことを話すと、ドルカスの顔の上以外には、その部屋のどこにもなかった黒いものが、まるで、杉林の中をジョナスとわたしを追ってきたあの奇妙なものの一枚のように現われて、彼女の顔に張りついた。すると彼女はもはやわたしを見なくなり、しばらくすると本当に眠ってしまった。
わたしはできるだけ静かに立ち上がって、扉の閂を抜き、ねじ曲がった階段を降りていった。女将はまだ下の食堂で働いていた、だが、客たちはもういなかった。わたしは自分が連れてきた女は病気だと説明して数日分の部屋代を払い、自分は必ず戻ってくるから、ほかに費用がかかっていればそれも必ず払うと約束した。さらに、時々部屋を覗いて様子を見て、彼女が何か食ぺたがったら食事をさせてやってくれと頼んだ。
「ああ、お客さんが部屋で寝てくれるのは、わたしたちにすればありがたいことです」女将はいった。「でも、お連れさんが病気なら、この〈雁の巣亭〉に逗留しているのが、いちばんいいといえますかしら? お宅に連れて帰ってあげることはできないんですか?」
「いや、うちで暮らすのが、どうも病気の原因らしいのでね。ともかく、連れ帰って病気をいっそう悪くする危険は冒したくないんだ」
「まあ、お気の毒に!」女将は首を振った。「こんなにお美しくて、ほんの子供さんみたいに見えるお方が。おいくつですの?」
わたしは知らないと答えた。
「わかりました。様子を見て、もしお望みなら、スープでもさしあげましょう」女将は、わたしが立ち去れば、さっそくそのような時がくるとでもいうような顔でわたしを見た。「でも、旦那の代わりにわたしがあの方をとりこにしていると思われたくありません。もしご本人がお帰りになりたいとおっしゃれば、お止めしませんよ。いいですね?」
わたしはその小さな旅籠を出ると、最短距離で〈獄舎〉に帰りたいと思った。そして、この〈雁の巣亭〉が建っている狭い街路がほとんど真南に通っているので、これを進んでいって、下の方でアシス川を渡れば、ドルカスといっしょにすでに歩いてきた路を後戻りしてアシーズ城の搦手《からめて》の城門の根元に出るよりも、早いだろうと思ったが、それは勘違いだった。
スラックスの道にもっと慣れていれば当然予測できたように、その狭い街路がわたしの予想を裏切ったのだ。なぜなら、斜面をくねくねと蛇のように這っているこれらの曲がりくねった細道は、たがいに交差することはあるにしても、全体としては上下に通じているのであって、崖にしがみついている一軒の家からほかの家にいくには(それらが本当に隣接しているか、または直接上下に位置しているのでなければ)いったん川端の中央通りまで降りて、それから登りなおす必要があったのである。こうして、まもなくわたしは東の崖の、西の崖にある〈獄舎〉と同じくらいの高さのところに出てしまい、旅籠を出た時よりも〈獄舎〉に着く望みは、より薄くなってしまった。
正直にいえば、この発見は必ずしもそれほど不愉快なものではなかった。〈獄舎〉にはなすべき仕事が待っていたが、心はドルカスのことでいっぱいになっていたから、特に仕事をしたいという気持ちにはならなかった。足を使って、いらいらを解消するほうが快かった。それで、必要ならこのでたらめな道のてっぺんまで登っていき、その高みから〈獄舎〉とアシーズ城を眺め、それから堡塁《ほうるい》の衛兵にわたしの身分を示す、バッジを見せ、堡塁に沿ってキャプルスの壁まで下り、いちばん下の道で川を渡ればよい。
ところが、半刻の間、懸命な努力をしたあげく、どこにも行き着けないことが判明した。道は三、四チェーンの崖に突き当たって、行き止まりになっていた。それも、もっとずっと早くに行き止まりになっていたものと思われた。なぜなら、最後に歩いた数十歩は、どうやら、わたしが今その前に立っている泥と細枝で作った|藁葺き小屋《ハ  カ  ー  ル》に通じる私道にすぎなかったから。
回り道はなく、また、その付近には頂上に通じる道もないことを確かめると、わたしはがっかりして向きを変えた。その時、そのあばら家から一人の子供がすっと出てきて、なかば大胆不敵に、なかばおずおずと、右目だけでわたしを見ながら、ひどく汚れた小さな手を万国共通の乞食の手つきで差し出しながら、横歩きをしてわたしの方に近寄ってきた。もし、わたしの気分がもっと良い時だったら、そのおずおずしながらも、しつこくねだる小僧を見て、吹きだしてしまったことだろう。ところが、そうではなかったので、わたしはその汚い手のひらに数アエスの金を落としてやった。
その子供は勇気を得て、思いきっていった。「姉ちゃんが病気なんです。とても重いんです、旦那さま」その声の響きから、これは男の子だと判断した。そして、その子は口をきく時に、首をめぐらして、まっすぐわたしの方を向いたので、左目が何かの病気で腫れてふさがっていることがわかった。その目から頬に膿が流れて固まっていた。「とても、とても重い病気なんです」
「わかった」わたしはいった。
「いいえ、旦那さま、ここからでは見えません。よろしかったら、扉の間から見てください見ても、姉ちゃんは気にしません」
ちょうどその時、石工のすり切れた皮のエプロンをした男が呼びかけた。「どうした、ジャダー? この人は何をいっているんだ?」彼はわれわれの方に駆け上がってきた。
だれも予想できるように、少年はこの質問に怯えて沈黙してしまった。わたしはいった。「下の町に行く近道を尋ねていたのだ」
石工は何も答えず、わたしから四|複歩《ストライド》ほどのところに立ち止まり、彼らが砕く石よりも固そうな腕を組んだ。なぜかわからなかったが、彼は腹を立て、信用していない様子だった。たぶん、わたしのアクセントが南の人間であることを暴露したからであろう。もしかしたら、服装が悪かったのかもしれない。なぜなら、それは決して贅沢なものでも、風変わりなものでもなかったが、わたしが彼よりも高い階級に属することを示していたからである。
「不法侵入してしまったのかな?」わたしは尋ねた。「きみはここの所有者かね?」
返事はなかった。彼がわたしをどう思ったにせよ、彼の見るところ、われわれの間には意思の疎通は明らかにないようで、彼に話しかけるのは、人が獣に話しかけるのと同じだった。それも知能の高い獣に、いや、むしろ、牛飼いが畜牛に向かって怒鳴りつけるようなものだった。そして、彼のほうからいえば、わたしが話すのは、獣が人に話しかけるようなものであり、喉で音を立てているにすぎないわけだ。
わたしの知るところでは、書物の中でこうした手づまりが起こることは、決してないようである。作者は物語を先に進めるのに懸命だから(いかにぼんくら[#「ぼんくら」に傍点]な作者でも、決して静まることのないきしる車輪を回して、市場の荷車を押し進めるのだ――たとえ、田園の魅力が失われ、都会の楽しみなど決して見出されない、汚れた村にしか行き着かないとしても)、このような誤解は生じないし、話しあいの拒否もない。犠牲者の喉もとに短剣を突きつけている刺客は、事情の一部始終を語りたくてうずうずしており、そして結局、犠牲者か作者がその気になる。愛情をもって抱擁している情熱的な二人も、少なくとも同様に刺し貫くのを遅らせたがっている。たとえ、それ以上のややこしい事情がないにしてもである。
しかし、実生活ではそうはいかない。わたしは石工を見つめ、石工はわたしを見つめた。わたしは彼を殺してもよいと思った。だが、自信がなかった。なぜなら、彼は異常に強そうだったし、また、彼が武器を隠し持っていないかどうか、また、近所のあばら家に仲間がいないかどうか、確かめようがなかったからである。彼はわれわれの間の路上に唾を吐くような気配を見せた。もし、そんなことをしたら、わたしは彼の頭にジェラブをひっかぶせて、押さえつけてやろうと思った。だが、彼はそうしなかった。こうしてわれわれは数秒間、睨みあっていたが、少年は何が起こっているか気づかない様子で、こういった。「扉の間から見えますよ、旦那。姉ちゃんは見ても平気です」彼は嘘をついているのではないことを熱心に立証しようとして、わたしの袖をちょっと引っぱりさえした。どうやら、自分自身の姿がどんな懇願の行為をも正当化することに気づいていないようだった。
「信じるよ」わたしはいった。しかし、信じるよということは彼を侮辱することになると気づいた。なぜなら、試そうと思うほど彼の言葉に信を置いていないことを示すからである。わたしは腰をかがめて覗いた。だが、明るい日なたから暗いあばら家の内部を覗きこんだので、最初はほとんど何も見えなかった。光はほとんどわたしの真後ろにあり、わたしは光の圧力をうなじに感じた。また、今なら背を向けているから、石工に襲いかかられても、反撃できないと感じた。
その部屋は狭かったが、乱雑になってはいなかった。扉から最も遠い壁に、いくらかの藁が積んであり、その上に少女が寝ていた。彼女はもはや、普通われわれが病人に感じる同情すら感じさせないほどの病状を呈しているため、むしろ恐怖の対象になってしまっていた。顔はすでに太鼓の皮のように薄い透明な皮をかぶった死者の顔になっていた。その唇は、眠っている時でさえ、歯を覆うことができなくなっていた。そして、頭髪は熱病という大鎌で刈り取られて、ほんのわずかしか残っていなかった。
わたしは扉のそばの泥と編み枝の壁に手をついて体を起こした。少年がいった。「ひどい病気だとわかったでしょう、旦那さま、うちの姉ちゃんは」彼はまた手を差し出した。
わたしはその手を見た――今はその手はわたしの前にあった――だが、わたしの心に浮かんだ最初の印象はそのことではなかった。わたしは〈鉤爪《つめ》〉のことしか考えられなかった。そしてそれが、重しというよりは、むしろ目に見えぬ手の拳のように、わたしの胸骨を圧迫しているのを感じた。唇に〈鉤爪〉を当てるまでは死んだようになっていたあの槍騎兵を、わたしは思い出した。彼は今では遠い過去の存在になってしまったように思われた。また、腕の切り株を差し出したあの猿人を思い出し、ジョナスの火傷が、〈鉤爪〉で撫でると消えたことを思い出した。しかし、〈鉤爪〉がジョレンタを救うことができなかった時以来、わたしはそれを使ったことはなかったし、使おうと考えたことすらなかった。
もう長い間、ふたたび試すのが怖くて、わたしはそれを秘蔵していたのだった。弟が見ていなかったら、たぶん、この瀕死の少女に〈鉤爪〉を当ててやっていただろう。この無愛想な石工がいなかったら、弟の病気の目にそれを当ててやっただろう。だがこんな状態だったので、わたしは胸骨にかかるその圧力にあらがって荒い息をつくばかりで、何もしないまま、どちらに向かっているか考えもせずに、坂を降りていった。石工の唾がその口から飛び出して、わたしの後ろの風化した石の路面にぴしゃりと落ちるのが聞こえた。だが、それがその音だとわかったのは、〈獄舎〉に戻って、いくらか落ち着きを取り戻してからだった。
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4 〈獄舎〉の張出櫓の中で
「お客様がおいでです」歩哨がいった。わたしが黙ってうなずくと、彼はつけくわえた。「まず着替えをなさったほうがよろしいでしょう、警士殿」これを聞いて、客とはだれのことか尋ねる必要がなくなった。執政官がきたのでなければ、彼がこのようなことをいうはずはない。
〈獄舎〉の事務をおこなったり、出納簿をつけたりしている書斎は通らずに、自分の私室にいくのは困難ではなかった。わたしは借り物のジェラブを脱ぎ、煤色のマントを着ながら、わたしのところに決してやってきたことのない――そういえば、法廷以外ではほとんど見かけない――執政官が、見るかぎりではお付きの者も連れないで、なぜ〈獄舎〉を訪ねてくることが必要だと考えたのか、想像をめぐらせた。
あれこれ考えるのは好都合だった。なぜなら、そうしていればほかの考えを遠ざけておくことができたから。われわれの寝室には銀を塗った大きなガラスがあった。これは今まで使い慣れた小さな磨いた金属板よりも、ずっと効率のよい鏡になった。そして、わたしが初めてその前に立って、自分の姿をつくづくと眺めた時に、ドルカスは前に一度歌って聞かせてくれた歌の数行を、その鏡に石鹸で走り書きしたものであった。
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ウールスの角笛よ、おまえは空に音符を投げ上げる、
緑できれい、緑できれい、と。
わたしの足どりに合わせて歌っておくれ、
もっと気持ちのよい森の空き地があるんだよ。
わたしを乗せて、ねえ乗せて、倒れた木の上に!
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書斎には大きい椅子が数脚あった。執政官はその一つに坐っていることだろう(もっとも、彼はこの機会を利用して、わたしの書類を点検しているかもしれないという考えが心をよぎった――その気になれば、彼にはそうする正当な権利がある)。だが、彼はそういうことはせずに狭間のところに立って、この日の午後もっと早くにアシーズ城の城壁からわたし自身がやっていたように、自分の支配する町を眺めていた。手を後ろに組んでいたけれども、わたしが見ていると、その手は彼の心の動きにつれて、それぞれ独自の意志があるかのように動いていた。しばらくすると彼は振り返って、わたしを見た。
「きていたのか、拷問者の師匠《マスター》。足音が聞こえなかったぞ」
「わたしはただの|職 人《ジャーニーマン》です、執政官閣下」
彼は微笑して、外に背を向けて狭間の下縁に腰を下ろした。その顔はざらざらしており、鉤鼻で、黒い肉に囲まれた大きな目があった。しかし、それは男性的な顔ではなく、むしろ醜い女の顔といってもよかった。「わたしから、この場所の責任を任されているのに、きみはただの職人のままでいるのかね?」
「わたしを昇格させることができるのは、組合の師匠だけです、執政官閣下」
「しかし、持参した書簡や、選ばれて派遣されてきたことや、ここに着いて以来おこなった仕事から判断すると、きみは組合で最高の職人であるにちがいない。とにかく、きみが師匠風を吹かせても、ここではだれにもわからないではないか。あちらには師匠は何人いるのかね?」
「師匠風を吹かせれば、自分にわかります、執政官閣下。そして、組合の師匠は二人だけです。わたしが出てから、だれかが昇格していれば別ですが」
「欠席裁判≠ナ、きみを昇格させてくれるように、わたしが手紙を書いてやろう」
「ありがとうございます、執政官閣下」
「なんの、なんの」彼はいった。そして、まるで困った状況になったとでもいうように、後ろを向いて、狭間から外を覗いた。「たぶんひと月もすれば返事があるはずだ」
「むこうで、わたしを昇格させてくれることはないでしょう、執政官閣下。でも、あなたがわたしをそんなに気に入ってくださったと知れば、パリーモン師は喜ぶでしょう」
彼はまたくるりとこちらを向いて、わたしを見た。「われわれはそんなに他人行儀にする必要はないぞ。わたしの名はアブディーススだ。われわれ二人だけの時は、その名を呼ぶがいい。きみはたしかセヴェリアンだったな?」
わたしはうなずいた。
彼はまた向こうを向いた。「この開口部はひどく低いな。きみがくるまで、これを調べていたのだが、この壁は膝の上まであるかなしかだ。これでは、だれかが落っこちても不思議はない」
「それは、あなたのように背が高い人の場合だけです、アブディースス」
「昔は、罪人を高い窓や、断崖の縁から投げ落とす死刑が時々おこなわれたのではなかったかな?」
「はい、その方法はどちらも用いられました」
「だが、きみは使わないようだな」彼はまたわたしを見た。
「わたしの知るかぎりでは、生きている人で、それをおこなった人があるという記憶はありません、アブディースス。わたしは斬首刑なら――|首置き台《ブロック》を用いるのも、椅子を用いるのも、どちらも――おこなっておりますが、しかし、それ以外はやっておりません」
「だが、ほかの方法の使用に異議を唱えるわけではないだろう? そういった方法を用いよと指示がありさえすれば?」
「わたしは執政官の判決を実行するためにやってきたのです」
「セヴェリアン、公開処刑が大衆のためになる場合もある。また、大衆に不安を引き起こし、害にしかならない場合もある」
「それは理解しております、アブディースス」わたしはいった。時々、子供の目に、その子が大人になった時の悩みが表われることがあるが、執政官の顔には(本人はたぶん自覚していないだろうが)未来の罪の意識がすでに表われているのが見てとれた。
「今夜、宮殿に来客がある。きみにも出席してもらいたいと思っているのだよ、セヴェリアン」
わたしはお辞儀をした。「政府の部局の中で、アブディースス、他の部局との交流から除外されることが、長年の習慣になっているところが一つだけあります――それがわたしのところです」
「そして、きみはそれが不当だと感じている。まったく当然だ。きみがそのように考えているなら、今夜、復権をしようではないか」
「わたしたち組合の者は、不当だと不満を洩らしたことは一度もありません。実は、わたしたちはこの独特の孤立を光栄に感じているのです。しかし、今夜出席すれば、ほかの人たちはあなたに抗議する理由があると感じるかもしれませんね」
彼は唇を歪めて微笑した。「それは気にしておらん。そら、これできみは地上に降りられるぞ」彼は手を差し出した。その指には、飾り文字が金箔で記された、クリソス貨幣ほどの大きさの固い紙の円板が、デリケートにつままれていた――まるで、それが指の間から羽ばたいて飛び去るのを恐れているかのように。この紙の円板のことはセクラからたびたび聞いていた(それに触れると、心の中で彼女が動いた)が、まだ見たことはなかったのだった。
「ありがとうございます、執政官閣下。今夜とおっしゃいましたね? 適当な衣服を見つけるように努力いたします」
「今の装束のままできたまえ。仮面舞踏音楽会を催すのだ――きみの制服が、きみの衣装だ」彼は立ち上がり、あたかも、長い不愉快な仕事の完成に近づいた人のような様子で(と、わたしには思われた)、背筋を伸ばした。「さっき、きみの任務を果たすためのあまり洗練されていない、ある方法について話しあったが、今夜、きみに必要な道具をなんなりと持参するのがよろしかろう」
わたしは理解した。自分の両手以外に必要なものはなかった。それで彼にそういった。それから、客を迎える亭主としてもう失敗したと思いながら、飲み物でもいかがですかとすすめた。
「いいや」彼はいった。「わたしが儀礼のために、どんなに飲み食いを強いられるか、もしきみが知っていれば、もてなしを断わることのできる相手と同席するのが、どれほど嬉しいかわかるだろう。いくらきみの組合の同僚でも、飢餓の代わりに食べ物を拷問に使うことは、考えつかなかったろうな?」
「それはプランテレーションと呼ばれております、執政官閣下」
「いつか、その話を聞きたいものだ。どうやら、きみの組合はわたしの想像よりはるかに進んでいるようだな――たしかに十数世紀は進んでおる。狩猟についで、きみたちの知識は世界最古のものであるにちがいない。だが、今はこれ以上長居をしてはいられない。夕方にはきてくれるな?」
「もう、ほとんど夕方になっておりますが、執政官閣下」
「では、次の刻の終わり頃には」
彼は出ていった。その後になってはじめて、わたしは彼の寛衣にしみこませてあった麝香《じゃこう》のかすかな香りに気がついた。
わたしは手に持っている小さな紙の円板を見て、手の上でひっくり返した。裏面には架空の肖像画が描かれており、その中にわたしの知っている恐ろしい顔の一つがあった――ほとんど顔じゅうが口で、牙がびっしりと生えている――独裁者の庭園で、退化人が仮面を投げ捨てた時に見たあの顔、それから、サルトゥスの廃坑から出てきたあの猿人の顔。
長い散歩と、その前の(早起きをしたので、ほぼ一日分の)仕事のおかげで、わたしは疲れていた。それで、また外出する前に、衣服を脱いで、体を洗い、果物と冷肉を少し食べ、ぴりっとした味の北方のお茶を一杯飲んだ。深い気がかりがある時には、本人が意識していない時でも、それが心に残っているものだ。この時のわたしがそんな状態だった。自分では意識していなかったけれども、天井が斜めになった狭い旅籠《はたご》の部屋に寝ているドルカスのことや、藁の上で死にかけていたあの少女の記憶が、わたしの目を塞ぎ、耳を閉ざしていた。たぶん、下土官の足音を聞かず、そして、彼が入ってくるまで、自分が暖炉のそばの箱から焚きつけの小枝をつかみ出して手で折ろうとしていたのに気づかなかったのは、彼女たちのせいだと思う。彼は、また外出するのですかと尋ねた。彼はわたしの留守中の〈獄舎〉の運営に責任を持っている。わたしはそうだと答え、帰りはいつになるかわからないと伝えた。それから、彼がジェラブを貸してくれたことに礼をいい、今度は、その衣服はいらないといった。
「いつでも貸してさしあげます、警士殿。ですが、そのことを気にしているのではありません。申しあげたいのは、町にお降りになるのなら、獄吏を二、三人連れていかれるほうがよろしいということです」
「ありがとう」わたしはいった。「だが、治安は良好だ。危険はないだろう」
彼は咳払いをした。「これは〈獄舎〉の威信の問題です、警士殿。われわれの司令官として、護衛をお連れください」
彼が嘘をついているとわかった。しかし、また、彼はわたしに良かれと信じる事柄のために嘘をついていることもわかった。それで、わたしはいった。「それは考慮しよう。見苦しくない兵士を二人よこしてくれるなら」
彼の顔がばっと明るくなった。
「だが」わたしは続けた。「武器は携帯させたくない。これから宮殿にいくのだが、武装した護衛を連れていけば、われわれの主人である執政官を侮辱したことになるだろう」
これを聞くと、彼は口の中でもごもごいいはじめた。わたしはいかにも立腹したかのように、薪を床に投げつけ、彼の方を向いた。「はっきりいえ! おれが怖がると思っているのか。どういうことなんだ?」
「なんでもありません、警士殿。これといって、あなたに関することではないのです。ただ、ちょっと――」
「ちょっと、なんだ?」もう彼が喋る気になったことがわかったので、わたしはサイドボードのところにいき、二人分のカップにロゾリオ([#ここから割り注]強壮酒の一種[#ここで割り注終わり])を注いだ。
「市中に殺人事件がいくつか起こっているのです、警士殿。昨夜は三件、その前の夜は二件。ありがとうございます、警士殿。あなたの健康のために」
「きみの健康のために。しかし、殺人は何も異常なことではないだろう? 折衷人は常に刺し殺しあっている」
「これらの事件の被害者は焼き殺されたのです、警士殿。わたしが実際にそのことをよく知っているわけではありませんが――だれもよく知らないようです。たぶん、あなた自身のほうがよくご存知でしょう」下士宮の顔はざらざらした褐色の石の彫刻のように無表情になった。だが、彼が喋りながら冷たい暖炉をちらりと見たのに、わたしは気づいた。そして、わたしが小枝を折っているのは(手に持ってみると、ひどく固く乾燥していたが、彼が入ってきてからずっと後になるまで、自分の手の中にあることに気づかずにいた。ちょうど、アブディーススが、わたしが注目しはじめてからずっと後まで、たぶん、自分自身の死を考えていることを自覚しなかったように)、何事かを、つまり、暗い秘密のようなものを執政官がわたしに洩らしたからだと、彼が考えていることがわかった。実際には、それはドルカスと、彼女の絶望の記憶と、そして、わたしが彼女と混同して考えているあの乞食の少女のためだったのだが。彼はいった。「外に優秀な部下を二人待たせてあります、警士殿。彼らはどこにでもお供をし、お帰りになるまで待っている用意ができています」
それはありがたいと、わたしは彼にいった。すると、彼は、わたしに報告した以上のことを知っている、いや、知っていると信じていることを、わたしに悟られないように、すぐに背を向けた。しかし、そのしゃっちょこばった肩と、筋肉の緊張したその首と、そして、扉の方に向かう早い足どりが、彼の石のような目が伝える以上の情報を伝えたのであった。
わたしの護衛は、強さによって選ばれた屈強な男たちだった。わたしがテルミヌス・エストを肩にかけて曲がりくねった街路を歩きだすと、彼らは大きな鉄の棍棒を振り回しながら、道幅が広い時にはわたしの両側に、そうでない時にはわたしの前後にまわってついてきた。アシス川の縁で、わたしは彼らを解放した。今晩の残りの時間は自由に過ごしてよいと許可を与えると、彼らは喜び勇んで離れていった。それからわたしは細い小型の軽舟(派手な色彩の天蓋がついていたが、昼の最後の時刻はもう終わったので、必要はなかった)を雇い、上流の宮殿にやってくれと頼んだ。
アシス川で実際に舟に乗るのは、これが初めてだった。船尾の舵を取る船主と四人の漕ぎ手の間に腰を下ろすと、氷のように冷たい澄んだ川の水が、その気になれば両手を浸すことができるほど身近にごうごうと流れていた。〈獄舎〉の張出櫓の狭間から見た時には、踊っている昆虫のようにしか見えなかった脆弱な木の船体では、この激流に逆らって一スパンでも進むことなど、とうてい不可能だと思われた。やがて、舵取りが号令をかけ、舟は動きだした――たしかに岸の近くを航行した。しかし舟は、まるで投げた小石のように水面を跳ね飛んで進んだ。八本のオールはものすごい早さで完全なタイミングで水を掻き、非常に軽く、細く、滑らかな船体は、水に浮かんでいるというよりは、水の上の宙を走っていくようだった。アメシストのガラスのはまった五角形のランタンが、船尾材から下がっていた。あわや、舟が横波を食らって転覆し、沈みながらキャプルスの壁の根元の方に押し流されるのではないかと、無知なわたしが思った瞬間に、操舵手は舵棒につけた紐をつかみ、棒そのものを手から放して、ランタンの灯芯に火をつけた。
もちろん、彼が正しく、わたしが間違っていた。ランタンの小さな扉が、中のバター色の明かりを閉じこめるように閉まり、紫の光が外に射すと、一つの渦が舟を捕えてぐるぐると回し、漕ぎ手がオールを櫂座にかけている間に、その渦が舟を百複歩以上も上流に押し上げ、小さな入江に放りこんだ。そこは水車用の貯水池のように静かで、豪華な遊行船で半分ほど埋まっていた。子供の頃、ギョルで泳ぐ時に飛込み台に使っていた階段とそっくりだが、それよりもずっときれいな河岸の階段が、川の深いところから始まって、宮殿の敷地のまばゆい灯火の燃えている、凝った装飾のある門まで続いていた。
この宮殿は〈獄舎〉からしばしば眺めていたので、〈絶対の家〉を模した地下建造物ではないことも知っていた。眺めていなければ、当然そのように想像したところだ。また、われわれの〈城塞〉のような用心堅固な要塞でもない――明らかに、執政官とその前任者たちは、断崖の割れ目を縫うようにして続いている城壁と堡塁で実際に二重に結合されているアシーズ城と、キャプルスの壁の防衛拠点は、町の安全にとって充分な防備になっていると考えていた。ここでは城壁は、好奇の視線を避けるための、そしてたぶん、ちょっとした泥棒を防ぐための、ただの柘植《つげ》の生垣になっていた。色彩豊かで、寛いだ雰囲気の庭園全体に、金色のドームのある建物が散在していた。それらは、わたしの張出櫓の狭間からは、模様のある絨毯《じゅうたん》の上に、糸が切れて落ちた橄欖石《かんらんせき》そっくりに見えていたものだった。
金銀線細工で飾られた門のところに歩哨がいた。彼らは鋼鉄の胴鎧とヘルメットを着け、火炎放射槍と、騎兵用の長い直身刀《スパタ》を持った、下馬した騎兵だった。しかし、彼らは小さな素人劇団の役者のような感じで、追撃戦や、雨風をいとわぬ偵察行からの休暇を楽しんでいる、人の良い歴戦の勇士、といった風情があった。その二人組に、絵のついた紙の円板を提示すると、ちらりと見ただけで手を振って、わたしを中に入れてくれた。
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5 サイリアカ
わたしは最初に到着した客の一人だった。まだ、仮装した客よりも忙しそうに立ち働いている従僕たちの姿のほうが多かった。従僕たちはたった今作業を開始したばかりのようで、仕事をすぐに終えてしまおうと決心しているように見えた。水晶レンズのついた枝つき燭台と、木々の梢に吊るしたコロナス・ルシス([#ここから割り注]花火の一種。王冠形でゆっくりと燃える[#ここで割り注終わり])に火をともし、飲食物の皿を運びだして配置したり、置きなおしたり、またドームのある建物に持ち帰ったりしていた――これらの作業は三人の従僕によっておこなわれていたが、時には(人手が足りなくなって)一人でやっていることもあった。
わたしはしばらくの間、急速に暮れていく黄昏の光で草花を鑑賞しながら、あたりを歩き回った。やがて、パヴィリオンの柱の間に、仮装した人々がちらちら見えたので、ゆっくりとその中に入っていった。
〈絶対の家〉のこのような集会の様子がどんなものかは、すでに述べた。土地の人たちだけの社交の場であるここには、むしろ、親の古着で着せ替えごっこをしている子供のような雰囲気があった。顔を朽葉色に塗り、白粉をはたき、土民の仮装をした男女が見えた。一人の男などは、本物の土民であって、それがいかにも土民らしい服――本物らしさの度合では、ほかの者の服装と五十歩百歩の服――を着ていた。わたしは吹き出しそうになった。なぜなら、彼は仮装しているスラックス市民として、本物の衣装につけている点ではだれにもひけを取らなかったからである。もっとも、それを知っているのは彼とわたしだけだったが、これらすべての――本物や、自分でそう想像しているだけの――土民に混じって、ほかにも滑稽な点では優るとも劣らない仮装をした十数人の姿があった女装をした役人たち、兵士に化けた女たち。土民、裸行者、教皇特使とその侍祭、隠者、幽霊、半獣半人の獣化人《ゾアントロプス》、贖罪者、派手なぼろをまとって、目に荒々しい隈取りをしたレモンタートス([#ここから割り注]高貴人を現地語でいったもの[#ここで割り注終わり])、などの扮装をした折衷人《エクレクテイクス》たち。
わたしはいつの間にか、こんなことを考えていた。もし万一、〈新しい太陽〉つまり〈昼の星〉ご自身が、ずっと昔に〈調停者〉と呼ばれた頃のように、今ここに突然現われて――それは、ここが不適切な場所であり、彼は常に最も適切でない場所を好んだからであるが――われわれにはありえないような新鮮な目でこれらの人々をごらんになったら、どうだろうか。そして、そのように出現されて、神業によって次のように命令されたら、どうだろうか。この人々のすべて(わたしはだれも知らないし、だれもわたしを知らない)は、今夜装っている役割を、今後永遠に続けよと。土民は山の石の小屋の中にうずくまって焚き火にあたっていろ。本物の土民は永久に仮面舞踏音楽会の町民のままでいろ。女たちは剣を手にして、共和国の敵にむかって突撃を続けろ。役人たちは北向きの窓辺で針編みレースを作りながら、人気《ひとけ》のない道路を眺めて溜息をついていろ。贖罪者は荒野でみずからの悪行を嘆いていろ。司直の手に追われるレモンタードスは、わが家に火をつけて山に逃げこめ。そして、わたしだけは、ちょうど光の速度が数学的変換によって変化しないように、そのままでいうと。
やがて、わたしが仮面の下でひとりにやにや笑いをしていると、柔らかななめし革の袋に入った〈鉤爪〉が、〈調停者〉は冗談の種ではない、そして、おまえは彼の力の断片を持っていることを忘れるな、とでもいいたげに、わたしの胸骨を叩いた。その瞬間、部屋の中の、羽毛をつけたり、ヘルメットをかぶったり、ぼさぼさの髪の毛をしたすべての頭のむこうに、一人のペルリーヌ尼僧の姿が見えた。
わたしはあわてて、どいてくれない人を押し退けたりしながら、大急ぎで彼女の方にむかっていった(といっても、どいてくれない人はほとんどいなかった。なぜなら、わたしが見かけどおりの人間だということは、だれ一人気づかなかったけれども、この近くには真の高貴人がいなかったので、背の高さで、彼らはわたしを高貴人と勘違いしたからである)。
そのペルリーヌ尼僧は若くも年寄りでもなかった。小さなドミノ仮面の下の顔は、なめらかな卵形で、以前にアギアとわたしが祭壇を壊した後に、あのテントの伽藍の中でわたしを見逃してくれた尼僧長の顔のように、洗練され、近寄りがたい感じがした。彼女は小さなワインのグラスをもてあそぶようにして持っていた。そして、わたしが足もとにひざまずくと、彼女はそれをテーブルに置き、わたしが接吻できるように指を伸ばした。
「告解をお聴きください、教母様」わたしは懇願した。「あなたと、あなたの教団のすべての尼僧に対して、わたしはこの上もない害を及ぼしてしまいました」
「死神はわたしたちすべてに対して、害を及ぼします」彼女は答えた。
「わたしは死神ではありません」この時わたしは目を上げた。そして、初めて疑念を抱いた。
人々のざわめぎの中に、彼女がはっと息を飲む音が聞こえた。「ちがうんですか?」
「ちがいます、教母様」そして彼女は本物の尼僧ではないのではと、わたしはすでに疑いはじめていたのに、その一方で、彼女が逃げるのではないかと恐れた。それで、手を伸ばして、彼女の腰からぶら下がっている帯の端をつかんだ。「教母様、失礼ですが、あなたは尼僧団の本当のメンバーなのですか?」
彼女は無言で首を振り、床に倒れた。
われわれの地下牢では、客人が気を失って倒れるのはごく普通のことだった。しかし、嘘は容易に見破ることができる。贋の失神者は、わざと目をつぶり、つぶったままでいる。だが、真の失神者は、男も女もほとんど同じだが、まず目のコントロールを失う。そのため、一瞬、目玉が厳密に同じ方向を見なくなる。ときには、上瞼の裏に上がってしまうこともままある。そのような場合、瞼が完全に閉まることはめったにない。瞼が閉じるのは、故意の行為ではなくて、筋肉の単なる弛緩にすぎないからである。普通は、上下の瞼の間に、ほそい三日月形の鞏膜《きょうまく》が見える。この時の倒れた婦人も、そうだった。
何人かの男が手を貸してくれ、彼女をアルコーブに運んだ。そこで、熱気とか興奮について、たわいない話がいろいろと交わされたが、実際にはそのどちらも存在しなかった。しばらくの間は、野次馬を追い払うことは不可能だった――やがて、貴人たちは散ってしまい、今度は、たとえ彼らを引きつけておきたいと願っても、不可能な状態になった。この頃には、その婦人は身動きを始めていた。そしてわたしは、子供の服装をした同年配の女から、彼女はスラックスからあまり遠くないところに屋敷を持っている大郷士《アーミジャー》の妻で、主人は何かの用事でネッソスに行っているのだと、聞かされた。わたしはテーブルのところに戻って、彼女の小さなグラスをもってきて、中の赤い液体を彼女の唇に触れさせた。
「いや」彼女は弱々しくいった。「いらないわ。……サンガリー([#ここから割り注]酒の名[#ここで割り注終わり])は大嫌いなの。ただ、色が衣装に合うから選んだだけよ」
「なぜ気を失ったのですか? わたしがあなたを本物の修道女と思ったからですか?」
「いいえ、あなたがだれかわかったからよ」彼女はいった。われわれはしばらく黙っていた。彼女はまだ、わたしが助けて乗せた長椅子になかば横たわっており、わたしはその足もとに坐っていた。そして、彼女の足もとにひざまずいた瞬間を、心の中でふたたび生々しく思い浮かべた。前にもいったように、わたしには自分の生涯のあらゆる瞬間を再現する能力がある。そして、結局、「どうしてわかるのですか?」と聞かざるをえなくなった。
「ほかの人なら、こういう服装をしていれば、死神ですかと聞かれれば、そうだと答えるでしょうに……まさしくその仮装をしているんですから。一週間前に、わたしは執政官の法廷に坐っていました。夫が雇い人の一人を盗みの罪で訴えたんです。あの日わたしは、法廷の隅に立っているあなたを見ました。今そこに持っている剣の鍔の上に腕組みをして、立っているのをね。そして、さっき、あなたが過去の過失を話した時に、そして、わたしの指にちょっと接吻した時に、だれかわかったんです。そして、思ったんです……ああ、なんと思ったか、わからないわ! たぶん、あなたはわたしを殺すつもりでわたしの前にひざまずいた、そう思ったんだわ。法廷で見た時に思ったんだけれど、あなたの立っている姿を見ると、あなたはこれから首をはねる哀れな人に対して、特に女に対しては、いつも優しくする人に見えるのよ」
「わたしはペルリーヌ尼僧団の所在を知りたいばかりに、ひざまずいたんです。あなたの衣装は、わたしのものと同様に、仮装とは見えなかったから」
「ええ、そうです。いや、つまり、わたしにはこれを着る資格はないのです。といって、女中にあわてて縫わせたものでもないんですの。これは本物の授与服なんですよ」彼女は間を置いた。
「わたしまだ、あなたのお名前もうかがっていませんのよ」
「セヴェリアンといいます。あなたのお名前はサイリアカですね――介抱をしている時に、ご婦人の一人からうかがいました。どうしてあなたがこの衣服を手に入れられたか、そして、ペルリーヌ尼僧団がいまどこにいるかを知っていたら、教えてくれませんか?」
「これはあなたの仕事の一部ではありませんね?」彼女はしばらくわたしの目を覗きこみ、それから、首を振った。「個人的なことです。わたしはあの人たちに育てられたのです。わたしは聖職志願者だったんですよ。わたしたちは大陸をあちらこちら旅行しました。そして、旅をしながら木や花を見ていくだけで、素晴らしい植物の勉強ができました。あの頃のことを時々思い返すと、椰子から松まで一週間でいったように感じるけれど、実際にそんなことはありえませんわねえ。
わたしは最後の誓いを立てるばかりになっていました。そして、尼僧服着用の前の年に、試着して寸法を合わせることができるように、また、荷物を解くたびに平服に混じってそれが見えるように、尼僧服を授与することになっているのです。ちょうど、娘が母親の婚礼衣装(それは祖母の婚礼衣装でもあったわけですが)を見るたびに、自分が結婚する時は、これを着て式に出るのだという思いをかみしめるのと同じことです。でも、わたしはこの尼僧服を一度も着ませんでした。そして、送ってきてくれる人がいなかったので、尼僧団が家のそばを通るまで長い間待っていて、やっと家に帰ることができました。その時にこれを持ってきたのです。
長い間これを思い出しませんでした。ところが、執政官の招待状が届いた時、また取りだして今夜着てくることにきめたのです。わたしはスタイルには自信があります。そして、あちらこちら、ちょっと縫いなおすだけですみました。似合うと思っています。顔は尼僧向きですしね。でも、目が違うんですよ。実は昔からそうなんです。でも、誓いを立てれば、年月がたてば、尼僧の目になるだろうと、思ったものです。わたしたち志願者の監督は、そういう目をしていました。彼女が坐って縫い物をしながら目を上げると、まるで、その古い破れたスカートも、テントの壁も、なにもかもまっすぐに見透かして、極地人が住むウールスの果てを見つめているように、思われたものです。いいえ、ペルリーヌ尼僧団が今どこにいるか、わたしは知りません――彼女ら自身だって、自分たちのいる場所を知っているかどうかあやしいものです。もっとも、教母様は知っているでしょうがね」
わたしはいった。「きっと、教団にお友達がいるでしょう。お仲間の聖職志願者で残った人はいないのですか?」
サイリアカは肩をすくめた。「だれも便りをくれないのですよ。本当に何も知りません」
「気分が良くなったら、踊りのほうにいきましょうか?」われわれのアルコーブにも、楽の音が流れこみはじめていた。
彼女は首を動かさなかったが、ペルリーヌ尼僧団のことを話している時に、時間の回廊をたどっていた彼女の目が、ぎょろりと動いて、わたしを見るのがわかった。「それをお望みなの?」
「と、いうわけでもありません。わたしは大勢の人の中では完全に寛げないのです。友人たちの間でなら別ですが」
「では、友人がおありになるのね?」彼女は本当にびっくりしたようだった。
「ここには、いません――いや、ここに[#「ここに」に傍点]一人いらっしゃいますが。ネッソスでは、組合の同僚がいたのです」
「なるほど」彼女はためらっていた。「むりにあちらに行く理由はありません。この催しは夜を徹しておこなわれるでしょう。夜明けには、もし執政官がまだ楽しんでいれば、光を遮るためにカーテンを降ろし、たぶん庭園に日よけさえも掛けるでしょう。わたしたちはいつまでも、好きなだけここに坐っていることができます。そして、従僕が回ってくるたびに、ほしい飲み物や食べ物を取ればいいんです。そして、だれか、話をしたい人が通りかかったら、引き止めて、面白い話を聞かせてもらうことにしましょうよ」
「あまり夜が更けないうちに、あなたを退屈させはしないかと心配です」わたしはいった。
「その心配はご無用よ。なぜって、わたしはあなたにあまりお喋りさせるつもりはないんですから。むしろ、わたしがお話しして、あなたに聞いていただきたいの。まず――あなた、とてもハンサムだということを自覚していらっしゃる?」
「そうでないと、承知しています。でも、わたしがこの仮面を脱いでいるところを、あなたは一度もごらんになっていないから、わたしがどんな顔をしているか、ご存知ないはずですよ」
「とんでもない」
彼女は、目玉によってわたしの顔を判断しようとでもするように、体を乗り出した。彼女自身の仮面はガウンの色と同じで、とても小さく、目の回りの二つのアーモンド形の輪といった程度の、申し訳ばかりのものだった。だがそれは、彼女には元来ないエキゾチックな雰囲気を与え、また、神秘的な感じを、彼女から責任の重荷を取り去る秘匿の感じを、醸し出していたと思う。
「あなたはきっと、とても聡明な方なのね。でも、こういった行事には、わたしと同じで、経験を積んでいらっしゃらないみたい。さもなければ、他人の顔を見ずに、それを判断する術《すべ》を会得しているはずですもの。もちろん、顔と一致しない木のお面をつけている場合は、とても難しいけれど。でも、その場合でも、ずいぶんいろいろとわかるのよ。あなたの顎は尖っているでしょう? ちょっと窪みがあってね」
「ええ、顎が尖っているというのは当たっています」わたしはいった。「でも、窪みは、ありません」
「わたしをはぐらかそうとして、嘘をついているか、それとも、注意して見たことが一度もないか、どちらかよ。ウエストを見ると顎の形がわかるの。特に男はね。わたしの最大の関心はそこにあるんだけれど。ウエストの細い人は、顎が尖っているのよ。そのなめし革の仮面は、ちょうどそれを確認するだけの余地を残しているわ。あなたの目はくぼんでいるけれど、大きくて、よく動く。これは、男性の場合は、顎に窪みがあるしるしなの。とりわけ顔が痩せている人の場合はね。あなたの頬骨は高い――その輪郭は、その仮面をとおしてかすかに表われている。そして、頬が平らだから、よけいに頬骨が高く見える。髪は黒い。それは、手の甲の毛を見ればわかる。唇が薄いことは、仮面の口を通して見える。唇の全体は見えないけれど、カーブして、ねじれている。これは男性の唇としては最も望ましいものなのよ」
わたしはなんといってよいか、わからなかった。そして実をいえば、この時には、彼女のそばを離れることができれば大助かり、といった気分だった。結局、わたしはいった。「あなたの評価の正しさを調べるために、この仮面を取りましょうか?」
「いや、いや、だめよ。〈夜明けの歌〉が演奏されるまではね。それに、あなたはわたしの感情を考慮すべきよ。もし、仮面を取って、結局ハンサムでないとわかったら、わたしは興味ある一夜を奪われることになるんですもの」彼女はそれまで背を起こして坐っていたが、ここで、また長椅子の背に寄りかかり、頭髪を首のまわりに黒い光背のように広げた。「ねえ、セヴェリアン、あなたは顔の仮面を外す代わりに、心の仮面を外すべきよ。後で、心の仮面を外して、もし、望むことがなんでもできるとしたら、何をしたいか、全部教えてね。今は、わたしが心の仮面を外して、あなたについて知りたいことを全部いうわ。あなたはネッソスからきた――そのくらいはわかります。でも、どうしてペルリーヌ尼僧団の所在をそんなに熱心に知りたがるの?」
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6 城塞の書庫
彼女の質問に答えようとした時に、二人連れがわれわれのアルコーブのところを通りかかった。男は囚衣《サンペニト》([#ここから割り注]宗教裁判所で悔い改めた異教徒に着せた、赤の×形十字が背と胸についた黄色の懺悔服。または、悔い改めぬ異教徒を火刑に処する時に着せた、火炎及び悪魔などが描かれた黒服[#ここで割り注終わり])を着ており、女はお針子の衣装を着ていた。彼らは通りがかりに、われわれの方をちらりと見ただけだが、なんとなく――二人がいっしょに頭を傾けたためか、または、目の表情から、そう感じたのだろう――わたしが仮装しているのでないことを知っている、いや、少なくとも疑っているように思われた。しかし、わたしは何も気づかぬふりをしたままいった。「たまたま、ペルリーヌ尼僧団の持ち物がわたしの手に入ったのです。それを返したいのです」
「では、あの人たちに危害を加えるつもりはないのね?」サイリアカは尋ねた。「その物とは何か教えてくれますか?」
とても真実を教える気にはならなかった。それになんであろうと、それを教えれば、出して見せろといわれるにきまっていた。それで、いった。「本です――古い本で、美しい挿絵が入っているんです。その由来を知っているふりをするつもりはありませんが、きっと宗教的に大切なもので、とても価値のあるものだと信じています」そしてウルタン師の図書館から借りてきて、セクラの独房に残っていたのを持ってきてしまった、あの茶色の本を、|図 嚢《サパタッシュ》から出して見せた。
「なるほど、古いものね」サイリアカはいった。「そして、少なからぬしみ[#「しみ」に傍点]があるわ。見てもいい?」
わたしは本を渡した。彼女はページをぱらぱらとめくってみて、スキニス([#ここから割り注]古代ギリシャ神話と関係あるグロテスクな酒神祭の踊り[#ここで割り注終わり])の絵のところにくると手を止め、われわれの寝椅子の上の壁龕《ニッチ》に燃えているランプの光が当たるところにかかげた。角の生えた男たちがゆらめく明かりの中で飛び跳ねるように見え、|風の精《シルフ》たちが身悶えするように見えた。
「わたしも本のことは何も知らないわ」彼女はそういいながら、本を返してよこした。「でも、本に詳しい叔父がいます。彼なら、この本についていろいろのことを教えてくれるでしょう。今夜ここにいれば、見てもらうのにでも、叔父がいなくてよかったわ。もしいれば、わたしはなんとかしてその本を、あなたから巻き上げようとするでしょうからね。叔父は、もっぱら古書を探すために、ペルリーヌ尼僧団にいた頃のわたしと同じくらい遠方まで、五年ごとに旅をするのよ。古書を探し出すためだけにね。忘れられた古文書のところにさえも行ったのよ。そういうものについて聞いたことが、おありになる?」
わたしは首を振った。
「わたしが知っているのは、彼が荘園のキュヴェ([#ここから割り注]樽詰めの混合葡萄酒[#ここで割り注終わり])をいつもより飲みすぎてちょっと酔っぱらった時に、一度喋ったのを聞いた話だけだけれど。それも、たぶんすべてを喋ったわけではないわ。話をした時、わたしが自分でそこに出かけていくといいだすのを恐れている感じがしたから。そんな気は全然なかったのにね。今では、たまに、いかなかったことを後悔しているくらいよ。とにかくネッソスの、たいていの人が訪れる町よりもずっと南の方に――あの大きい河の、もうとうに町が終わってしまったとたいていの人が考えているほど下流に、大昔の要塞が立っているの。たぶん、独裁者自身以外のだれも――彼の精神が千人もの後継者の中に生きつづけますように――それをとうの昔に忘れてしまって、幽霊が住んでいると思われているのよ。それはギョルを見下ろす丘の上に立っていて、叔父の話では、地下墳墓のある野原を見下ろしているだけで、何物も守っていないんですって」
彼女は言葉を切り、手を動かして、目の前の空中に丘と要塞の恰好を描いて見せた。わたしは思った――彼女はこの話を何度もしているな、それも子供たちに、と。それで改めて、彼女が子供を持っている年齢に充分に達していることや、その子供たちは、この話や、そのほかのお伽噺を何度も聞いているくらいの年齢の子供たちだと意識した。彼女の滑らかで官能的な顔には、年齢のしるしは表われていなかった。しかし、ドルカスの中ではまだあれほど明るく燃えていた、またジョレンタの周囲にさえもその清らかな神々しい光を投げかけていた、そして、セクラの力の陰にあれほど強く明るく輝き、彼女の妹のセアが墓の横でヴォダルスのピストルを受け取った時に、共同墓地の霧に包まれた小道を照らしていた、あの青春の灯火《ともしび》は、彼女の内部ではずっと昔に消えてしまっており、炎の香りすらとどめていなかった。わたしは彼女を哀れに思った。
「あなたは次の顛末を知っているにちがいないわ。古代の種族がどのようにして星々に到達したか。そして、そうするために、彼らがどのようにして自分自身の野性的な側面のすべてを売り飛ばしたか。そしてその結果、もはや青ざめた風の味に関心を持たず、愛欲に関心を持たず、新しい歌を作らず、古い歌を歌わず、時間の底の雨の森から自分たちが持ちだしてきたと信じる――事実、彼らがそれらのものをもたらしたと、叔父はいうんだけれど――他の動物的なものに関心を抱かないようになったか。また、あなたは次のことを知っている、いや、知っているはずよ。人間がそれらを売り渡した相手――それは人間が自分の手で創りだしたものだったけれど――は心の中で人間を憎んだ。そして、創った人間には思いもよらないことだけれど、彼らには本当に心があったのよ。とにかく、彼らは自分たちの創り手を滅ぼそうと決心したの。そして、ずっと昔、人間が無数の太陽に広がっていった時に、彼らのところに残していったすべてを返還することによって、その復讐をなし遂げたの。
そのくらいなら、あなたも知っているはずね。ある時叔父は、今わたしがあなたに話したように、これを話したわ。この話のすべてと、それ以上のことが、収集した蔵書の一冊に書かれているのを発見したのよ。その本は、彼の信じるところでは、一|千年紀《キリアド》にわたってだれも開いていなかったというの。
でも、彼らがどうやってそれをなし遂げたかは、あまりよく知られていないわ。子供の頃に、こんな想像をしたことを覚えてる。悪い機械が穴を掘っているの――夜、穴を掘って、とうとう古い木々のねじ曲がった根をすっかり取り去ってしまい、そして、世界がずっと若かった頃に彼らが埋めておいた鉄の櫃《ひつ》を掘り出したの。そして、その櫃の鍵を外すと、わたしたちが今話題にしていたすべての物が、金色の蜜蜂のように、うわーんと飛び出してくるの。馬鹿げた想像だけれど、こういった、思考力のあるエンジンとは、実際はどのようなものだったのか、わたしには今でも想像がつかないわ」
わたしはジョナスを思い出した。彼は腰の皮膚のあるべきところに、輝く軽い金属があった。それにしても、彼が人類を困らせるために、疫病や災害を解き放つとは想像できなかった。わたしは首を振った。
「でも、叔父がいうには、その本が彼らのしたことを明らかにしてくれたそうよ。彼らが解き放ったのは、昆虫の大群ではなくて、あらゆる種類の文明の利器の洪水だったのよ。それらは、数で書き表わすことができないために人間が忘れていた思考のすべてを、彼らが計算して復活させたものだったの。都市からクリーム容器にいたるまで、あらゆる物の製造は機械にまかされていたの。そして機械は、巨大なメカニズムのような都市の建設を一千世代も続けたあげく、今度はまるで嵐の前の雲の峰のような都市とか、龍の骸骨のような都市を作りはじめたのよ」
「それはいつのことですか?」わたしは尋ねた。
「ずっとずっと昔のことよ――ネッソスの最初の石が置かれるよりも、ずっと前のこと」
わたしは彼女の肩に腕を回していた。そして彼女は、手をわたしの膝の間に差し入れてきた。その暖かみと、ゆっくりと探る動きを、わたしは感じ取っていた。
「そして、彼らは家具の形成でも衣服の裁断でも、なにからなにまで同一の原理に基づいておこなったの。ずっと以前に、そのような衣服や家具や都市によって象徴される思想のすべてを、永久に人類の生活から追放しようと決心した指導者たちは、とうの昔に死んでしまったので、人々は彼らの顔も信条も忘れてしまい、新しいものを得たと喜んだの。こうして注文によってのみ作られた帝国のすべてがすたれてしまったのよ。
でも、帝国が崩壊してしまっても、世界が死滅するには長い時間がかかったわ。機械たちは、最初、人間に返そうとしたものがふたたび拒絶されることのないように、野外劇《ぺージェント》や魔術幻灯《ファンタスマゴリア》を考案して、人間がそれを見て運命や復讐や目に見えない世界のことを考えるように仕向けたの。その後で、男や女の一人一人に顧問として、他人の目には見えない伴侶を与えたのよ。ずっと昔に子供たちが持っていたような伴侶をね。
機械たちの力が――機械自身が望んでいたようになおも弱まると、もはや自分たちの所有者の心にそういう幻影を持たせつづけられなくなり、また、もっと多くの都市を作ることもできなくなった。なぜなら、残っている都市はもうほとんど空っぽになっていたから。
叔父の話では、機械は、人類が自分たちに襲いかかってきて、自分たちを破壊してくれればいいと考えるまでになっていたんですって。でも、そんなことは起きなかった。なぜなら、前には奴隷として蔑まれ、悪魔として崇拝されていた機械なのに、非常に愛されるようになっていたから。
それで、機械は自分たちを最も愛する人たちを全部呼び寄せて、人類がしまっておいたすべてのものについて長い年月をかけて教え、やがて死んでいったの。
やがて、彼らが愛した者、彼らを愛した者が全部集まって、どうすれば彼らの教えを保存することができるか協議したの。なぜなら、自分たちの種族がもう二度とウールスにやってくることはないと、みんなよく知っていたからよ。でも、彼らの間に、深刻な議論が起こったの。彼らはみんないっしょに学んだのではなくて、男も女も、一人一人が一つの機械と差し向かいで、まるで、世界じゅうにその二人[#「二人」に傍点]だけしかいないようなやりかたで学んでいたから。それに知識の量はあまりにも多く、学ぶ者は少しだったので、機械たちはそれぞれ違うことを教えていたからなの。
こうして彼らは派閥に分かれ、それぞれの派閥がまた分裂し、それがまた分裂し、という具合に分かれていき、結局、一人一人が孤立して、みんなたがいに誤解したり誤解されたり、非難したり非難されたりするようになったの。やがて、習慣上、本体のそばで見守るために機械の宮殿に残っているごく少数の人を除いて、みんな機械の置いてある都市から外に出ていったり、もっと奥に潜りこんでいってしまったりしたの」
ワイン係の一人が、水のように澄み、水のように静かなワインを運んできた。カップをちょっと動かすと、ワインはたちまち目を覚まし、だれにも見えない花のような、盲人にしか見えない花のような芳香を放った。飲んでみると、まるで雄牛の心臓から力を飲んでいるような気分になった。サイリアカは勢いよくカップを取ると、ぐっと飲みほして、空のカップを部屋の隅にがちゃんと投げつけた。
「もっと話してください」わたしは彼女にいった。「その忘れられた古文書の話を」
「最後の機械が冷たくなり、動かなくなると、人類が捨てた禁断の知識を機械から教わっていた人々は、それぞれ心に恐怖を感じて、みんなばらばらに分かれていったの。なぜなら、自分たちがいずれは死すべき生物であり、大部分の者がもう若くはないと自覚していたから。そして、自分自身の死とともに、自分が最も愛している知識が死ぬだろうと、だれもが知っていたから。やがて彼らはそれぞれ――こうするのは自分だけだと思いながら――長年にわたって耳を傾け、機械から学んできた、野性的《ワイルド》な物事についての隠された知識を全部記録しはじめたのよ。そのほとんどは消失したけれども、ときにはそれらを筆写しようとする人の手に入って、その人の加筆によって活気づけられたり、割愛によって弱められたりしながら、生き残った知識もたくさんあったの……キスして、セヴェリアン」
仮面に邪魔されながらも、われわれは唇を合わせた。彼女が身を引くと、昔、〈絶対の家〉の|秘密の入り口《ス ー ド サ イ ラ ム》や|地 下《カタクトニアン》の閨房で繰り広げられた、セクラのふざけ半分の愛の記憶の幻影が、わたしの内部に湧き上がってきた。わたしはいった。「知らないんですか? こういうことをする時には、男の注意を分散させてはいけないのですよ」
サイリアカは微笑した。「だから、こうしたの――あなたがちゃんと聞いているかどうか、確かめたかったのよ。
とにかく、長い間――どのくらい長い間なのかは、だれも知らないと思うけれど、とにかく、当時はまだ太陽の消滅にそれほど近づいていなかったし、年月は今よりも長かったので――これらの記録は世の中に流布するか、または、筆者が安全に保存するために隠した記念碑の中に埋もれていたの。それらは断片的であり、矛盾しており、自己解釈が加えられていたわ。やがて、ある独裁者が(当時はまだ独裁者とは呼ばれていなかったけれど)最初の帝国によって行使されていた支配力を回復したいという望みを抱き、部下にそれらを収集させたの。白衣の男たちは、小さな屋根裏部屋をくまなく捜索し、機械を記念するために建立された男のスフィンクス像を投げ倒し、ずっと昔に死んだ巫女たちの地下の埋葬室に侵入したの。彼らの略奪品は、当時建設されたばかりのネッソスの町にうずたかく積み上げられ、焼却されることになったのよ。
でも、焼却が始まる前の夜に、時の独裁者がそれまでは、睡眠中に野性的な夢を決して見たことがなく、起きている時には支配する夢しか見なかった人が――ついに夢を見たの。そして、その夢の中で、自分の手から永久に抜け落ちようとしている、生と死の、石と川の、そして動物と草木の、馴化《じゅんか》されていないすべての世界を見たのよ。
夜が明けると、彼は命令を発して、松明に点火するのを禁じ、巨大な地下収蔵庫を建設させ、白衣の男たちが集めた書物や巻物を収めさせたの。なぜなら、彼の計画するその新帝国が万一失敗に終わったら、彼はその収蔵庫に隠退して、古代人を真似て捨てることにきめた世界に、入ろうと思ったからなの。
彼の帝国は、当然のことながら、思いどおりにはならなかったわ。未来に過去を見出すことはできないもの――形而下の世界よりずっと大きくて、ずっと動きののろい形而上の世界が回転をまっとうして、〈新しい太陽〉がやってくるまでは、だめなんだから。でも彼は、その収蔵庫とまわりに巡らせた幕壁の中に、計画どおりに引退はしなかったのよ。なぜなら、野性的なものはいったん人の生活から除去されると、罠に敏感になって、二度と捕まらなくなるからね。
にもかかわらず、彼は収集したすべてを密封する前に、監視人をつけたといわれるの。そして、監視人は寿命が尽きると、後継者をつくり、それがまた後継者をつくるといった具合にして、その独裁者の命令を忠実に守ったのよ。なぜなら、彼らには、機械が貯えていた知識から生じる野性的な思考がしみこんでいて、このような忠実さは、それらの野性的なものの一つだったから」
わたしは話している彼女の衣服を次第に脱がせ、乳房にキスをしていた。しかし、こういった。
「あなたがいう、それらの思想のすべては、独裁者にしまいこまれた時に、世界の外に出ていってしまったのではないかなあ? わたしの耳には入っていないのだろうか?」
「出てはいかなかったのよ。なぜなら、それらは長い間、手から手に伝えられて、すべての人間の血の中に入ってしまったから。それに、監視人は時々それらを世間に送り出すことがあったというのよ。それらは最後には必ず監視人のもとに送り返されて、またもとの暗闇の底に沈むのだけれど、その前に人間に読まれるのよ。読み手が一人か大勢かは別としてね」
「すばらしい物語ですね」わたしはいった。「たぶん、わたしのほうがあなたよりも知識が多いと思うけれど、この話を聞いたのは初めてです」衣服を剥いでみると、彼女の足は長く、太股からほっそりしたくるぶしにかけて、絹のクッションのようになめらかに細くなっており、体ぜんたいがまるで快楽のために形成されているように見えた。彼女の指が、わたしのマントの肩の止め金に触れた。「これを脱ぐ必要がある?」彼女は尋ねた。「これで、わたしたちを隠すことができるかしら?」
「できます」わたしは答えた。
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7 魅 力
わたしは、サイリアカの与えてくれた快楽に溺れそうになった。わたしは彼女を、かつてセクラを愛したようには愛さず、ドルカスを愛していたようにさえも愛さなかった。また、彼女はかつてのジョレンタのように美しくなかったけれども、わたしは彼女に対して優しい気持ちになった。その原因の一つは、人を落ち着かない気分にするあのワインだった。そして彼女は、わたしが〈剣舞《マタチン》の塔〉のぼろを着た少年であった頃、あの発《あぱ》かれた墓のそばでセアの卵形の顔を見る前に、夢に描いていたようなタイプの女性であった。それに彼女は、この三人のだれよりも、はるかによく愛の技術を心得ていた。
われわれは起き上がると、体を洗いに水の流れている銀の水盤のところにいった。そこには、われわれと同じように愛しあっている二人の女がいて、われわれをじろじろ見て笑った。だが、わたしが女でも容赦しないぞという態度を見せると、悲鳴をあげて逃げていった。
それから、われわれは体を洗いあった。わたしは、彼女が自分から去っていくと信じていたが、サイリアカのほうでも、わたしが彼女から去っていくだろうと信じていることがわかった。しかし、われわれは別れずに(もし別れれば、そのほうがよかったのだろうが)静まりかえった小庭園に出ていった。そこには夜の闇が満ちていた。われわれは寂しい泉のほとりにたたずんでいた。
彼女はわたしの手を取り、わたしは子供のように彼女の手を握っていた。「あなたは、〈絶対の家〉を訪問したことがあるの?」彼女は尋ねた。彼女は月の光に浸っている水面に映る自分たちの影を見つめており、その声は聞き取れないほど低かった。
わたしはあると答えた。それを聞くと彼女はわたしの手を握っている手に力をこめた。
「あそこの〈蘭の井戸〉を訪ねたことは?」
わたしは首を振った。
「わたしも〈絶対の家〉を訪ねたことはあるけれど、〈蘭の井戸〉を見たことはないの。独裁者に后がいる時は――今の独裁者にはいないけれど――后はあそこに宮廷を開くのよ。世界で最も美しいあの場所にね。今でも、最も美しい人しかあの場所を歩くことは許されないの。わたしが主人とあそこを訪ねた時は、わたしたち大郷士の身分にふさわしいある小部屋に滞在していたの。ある晩、主人がどこかにいってしまったので、歩廊に出て左右を見ながら立っていると、宮廷の高官が通りかかったの。その人の名前も官職も知らなかったけれど、呼び止めて、〈蘭の井戸〉に行ってもよいかどうか尋ねてみたの」
彼女は言葉を切った。三呼吸か四呼吸する間、パビリオンから聞こえてくる楽の音と、噴水の水音のほかは物音が絶え、あたりは静まりかえった。
「すると、その人は立ち止まって、わたしを見たの。ちょっと驚いたのだと思うわ。わたしのような、下女の縫った自家製のガウンを着て、田舎風の宝石をつけた、取るに足りない北方の大郷士の妻が、生まれてこのかた〈絶対の家〉の高貴人の中で暮らしてきた人に見つめられると、どんな気分がするか、あなたにはとうていわからないでしょうね。それからその人はにっこり笑ったのよ」
彼女は今度はわたしの手を強く握った。
「そして、こういったの。これこれの回廊を進んでいって、これこれの彫像のところを曲がって、ある階段を上り、そして象牙の小道に沿っていきなさい、ですって。セヴェリアン、わたしの恋人さん!」
彼女の顔は月そのもののように輝いていた。彼女が語っているのが、彼女の生涯最良の瞬間であったことがわかった。そしてまた、わたしが分け与えた愛のかけら、それも、大きなかけらを、彼女が今や貴重な宝物として心に秘蔵していることがわかった。なぜなら、それが彼女にその瞬間を思い出させたのだから――自分の美しさを、それを支配するのにふさわしいと思う人に評価され、しかも、その価値が欠けていないと判断されたその時を思い出させたのだから。わたしの理性は、これに腹を立てろと命じた。だが、わたしは心の中に憤りの感情を見出すことができなかった。
「その人は行ってしまったの。そしてわたしは、いわれたとおり歩きはじめたの――二十|複歩《ストライド》いやたぶん四十|複歩《ストライド》ぐらい。その時、主人と出会ってしまったのよ。主人はわたしたちの小さな部屋に戻れと命じたわ」
「なるほど」わたしはいって、剣の位置を直した。
「わかるでしょう。それでは、わたしがこのようにして夫を裏切ることは、悪いことかしら? あなた、どう思う?」
「わたしは判事ではありません」
「みんなわたしを裁くわ……お友達はみんなね……恋人もみんな。あなたはその中の最初の人でも最後の人でもないけれどね。たった今|高温浴室《カルダーリウム》にいたあの女たちさえもよ」
「わたしたちは子供の頃から裁きをしないように、裁きをしないで、共和国裁判所から下りてくる判決を実行するように教育されています。あなたの罪も、彼の罪もわたしは裁きません」
「わたしは裁くわ」彼女はいった。そして、星々の明るく固い光の方に顔を向けた。わたしは混雑した舞踏室の端に彼女を見かけて以来、彼女がその制服をまとっている尼僧団の一員と、どうして間違ってしまったか、やっと合点がいった。「いや、少なくとも、裁くと自分では思っているわ。自分で有罪だと思うの。でも、やめられないのよ。わたしはあなたのような男を自分のところに引き寄せるのだと思うわ。あなた、引き寄せられた? あそこには、今のわたしよりももっと美しい女たちがいたのにね」
「よくわかりません」わたしはいった。「わたしたちはこのスラックスにくる途中で……」
「あなたも話したいことがあるのね? 話して、セヴェリアン。わたしは今までに自分に起こった唯一の興味のあることを、もうほとんど全部話してしまったわ」
「ここにくる途中で、わたしたちは――ほかの道連れのことはまた別の機会に話しますが――ある魔女とその助手とその依頼者に、たまたま出会いました。彼女らはずっと昔に死んだ人の肉体にふたたび魂を吹きこむために、ある場所にやってきていたのです」
「本当に?」サイリアカは目を輝かした。「なんてすばらしいんでしょう! 噂なら聞いたことがあるけど、一度も見たことはないわ。全部お話しして。でも、法螺《ほら》はいやよ」
「実は、話すことはあまりないんです。わたしの道は荒れ果てた町の中を通っていました。そして、彼女たちの焚き火が見えた時、わたしたちの道連れの一人が病気だったので、その焚き火のところにいったのです。魔女が目的の人を蘇生させた時、わたしは最初、彼女が町全体を回復しようとしているのだと考えました。しかし、その後何日もたってから、初めて理解したのです……」
考えてみると、わたしが理解したのがなんだったかは、説明できない。実は、それは言葉を超えた意味のレベルの、ほとんど存在しないと考えたいようなレベルのことだとわかったのである。もっとも、われわれが自分の思想に加えることを覚えた不断の鍛練が、もし万一なかったならば、思想はいつのまにか必ずそこに上っていってしまうものだろうが。
「話を続けて」
「もちろん、実際に理解などしませんでした。今もまだ考えているし、まだわかったわけではないのです。でも、なんとなく、次のことはわかりました。彼女は彼を過去から連れ戻そうとしており、そして、彼[#「彼」に傍点]は自分といっしょにあの石の町を、自分自身の|舞 台《セッティング》として引きずってこようとしていたのだと。たぶんあれは、彼と離れてはなんの現実性もなかったのではないかと思うことも時々あります。だから、あの舗道や、壁の瓦礫の上を、わたしたちが馬で乗り越えていった時、実際は彼の遺骨の間を通っていったのではないかと」
「そして、実際にその人はやってきたのね?」彼女は尋ねた。「話して!」
「ええ、彼は戻ってきました。それから、依頼者は死に、わたしたちの道連れの女も死にました。そして、アプ−プンチャウ――それが死者の名前ですが――はまた行ってしまいました。魔女たちは|逃げ《ラン》去りました。実際には、空を飛んでいったのでしょうが。しかし、わたしがいいたかったのは次のことです。翌日は歩いて旅を続けて、貧しい家族の小屋に一晩泊まりました。そして、その夜、いっしょに旅をしていた女が眠っている間に、わたしはその家の主人と話をしました。彼はその石の町のことをとてもよく知っているようでしたが、その町の本来の名前を知りませんでした。それから、その男の母親と話をしました。彼女は彼よりももっと知っていると思いましたが、実際はあまり知りませんでした」
このような話題をこの女に話すのは困難だと思ったので、わたしはためらった。「最初、彼らの祖先はその町の出身ではないかと、想像したんです。しかし、彼らの種族がやってくるずっと前に、その町は破壊されていたのだと、彼らはいいました。それでも、彼らはそれについて多くの話を知っていました。なぜなら、男は子供の時からそこで宝物を探していたからです。もっとも、彼がいうには、石や壺のかけらと、ずっと昔のほかの宝探しの人たちの痕跡以外には何も見つからなかったということですがね。
大昔には#゙の母親がいいました。なんらかの呪文を唱えて、地中に自分の金貨を埋めておけば、埋蔵されている金貨を引き寄せることができると信じられていた。それを試みた人が大勢いて、中にはその場所を忘れてしまったとか、自分自身の金貨をまた掘り出すことができなくなった人もいた。家の息子が見つけてくるのは、そういう金貨であり、それによってパンを食べているのだ≠ニ」
あの夜に、こういう話をしていた彼女の姿を、わたしは思い出した。老齢で腰の曲がった彼女が、泥炭の小さな焚き火で手をあぶっていた様子を。もしかしたら、彼女はセクラの年老いた乳母の一人と似ていたのかもしれない。なぜなら、その老婆の何かが、ジョナスとともに〈絶対の家〉に幽閉されて以来、久しぶりにセクラを心の表面に引き出したのだから。あの時は、自分の手を見て、指があまりにも太く、色が黒く、指輪をはめていないことに、ひどく驚いたものだった。そんなことが一、二度あったのだった。
「話を続けて、セヴェリアン」サイリアカがまたいった。
「その石の町の何かが同類を引き寄せる、とその老婆はいいました。交霊術師《ネクロマンサー》のことは聞いているだろう≠ニ彼女はいいました。死者の魂を漁る人のことだ。逆に死者の中に、自分たちをふたたび生かしてくれる能力のある人を呼ぶ|生者漁り《ヴィヴィマンサー》がいることは、知っているかい? そういうのが、あの石の町にはいるんだよ。そして、一サロス([#ここから割り注]日食、月食の循環する周期。約十八年[#ここで割り注終わり])に一度か二度、そいつが呼び寄せた人間の一人が、家で食事をするんだよ≠ニ。それから彼女は息子にいいました。おまえ、あの杖を抱いて寝た無口な男を覚えているだろう。おまえはほんの子供だったけれど、覚えていると思うよ。あの男が今までに見た、最後のやつだった≠たしはこの時には何も感じなかったけれど、後になって、|生者漁り《ヴィヴィマンサー》のアプ−プンチャウに引き寄せられたのだとわかりました」
サイリアカはわたしに流し目をくれた。「では、わたしは死者だというの? そういいたいの? 交霊術をする魔女がいて、あなたはその焚き火につまずいただけだというのね。あなた自身が、あなたが話しているその魔女であり、そして疑いなく、あなたのいうその病人が、あなたの依頼人であり、もう一人の女は、あなたの召使だと思うわ」
「そう思うのは、物語の重要な部分を全部省略しているからです」わたしはいった。そして、自分が魔女と勘違いされたことで、吹き出しそうになった。だが、〈鉤爪〉が胸骨を押して、おまえは知識を除けばあらゆる点で実際に魔女ではないか、わたしから盗んだ力を行使するのだから、と告げた。そして、わたしは――前に理解した≠フと同じ意味で――理解した。アプ−プンチャウは〈鉤爪〉をつかんだけれども、それをわたしから奪うことはできなかった(いや、奪おうとしなかった?)のだと。「最も重要なことは」わたしは続けた。「その亡霊が消えた時に、あなたが今まとっているような、ペルリーヌ尼僧団の緋のケープの一枚が、泥の中に残っていたことです。わたしはそれを|図 嚢《サパタッシュ》に入れて持っています。ペルリーヌ尼僧団は交霊術に手を出すんですか?」
この質問の答えを、わたしはついに聞かなかった。なぜなら、わたしが話しおえた時、この泉に通じる小道を、背の高い執政官の影が近づいてきたからである。彼は仮面をつけており、バーゲスト([#ここから割り注]大犬の姿で現われて凶事を予告する化物[#ここで割り注終わり])の扮装をしていたので、もし明るい場所で見かけたら、執政官とはわからなかったろう。しかし、この庭園の暗がりが、人間の手のように効果的に彼の変装を剥ぎ取ってしまったので、背の高い体形を見ただけで、すぐに彼だとわかったのだった。
「ああ」彼はいった。「見つけたのだな。これは予想すべきだった」
「やはりそうでしたか」わたしは彼にいった。「でも、確信がありませんでした」
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8 崖の上で
わたしは陸側の門の一つから宮殿を出た。そこでは六人の騎兵が警備していたが、彼らには、数刻前に川岸の階段のところにいた二人の警備兵のような寛いだ雰囲気はなかった。その一人は、礼儀正しいけれども、明らかにわたしの道をふさぐようにして、こんなに早く退出しなければならないのかと尋ねた。わたしは身分を明かし、残念ながらそうしなければならないといった――今晩はまだ仕事が残っているし(事実そうだった)、また、明朝になれば忙しい一日が待っている(事実そうだった)のだと。
「では、あなたは英雄ですな」兵士はわずかに親しみの増した口調でいった。「護衛はお連れにならないのですか、警士殿?」
「獄吏を二人連れてきたが、もう返してしまった。わたし一人で〈獄舎〉への道を、見つけられないはずはないからな」
それまで黙っていた別の騎兵がいった。「朝までここに泊まっていかれたらどうですか? 静かにおやすみになれる場所を探しますよ」
「ああ、しかし、それでは仕事が終わらない。残念ながら、今お暇《いとま》しなければならないだろう」
道をふさいでいた兵士が脇に退いた。「兵士を二人おつけします。ちょっと待ってくだされば、手配します。警備将校の許可を得なければなりませんので」
「その必要はないだろう」わたしは彼にいった。そして、彼らがまだ何もいわないうちに、そこを去った。何かが――おそらく、わたしの部下の下士官がいっていたあの殺人の下手人が――町の中で蠢動《しゅんどう》しているのは明らかだった。わたしが執政官の宮殿にいた間に、また別の殺人がおこなわれたのは、確実だと思われた。そう思うと、快い興奮が心を満たした――それは、どんな襲撃者よりも自分のほうが腕が上だと思うほど、わたしが愚かだからではなくて、襲撃されると考えることが――この夜スラックスの暗い街路で死を賭けると考えることが――そんなことがなければ自分が感じるであろう沈んだ気持ちを、多少なりとも高揚させてくれるからであった。この焦点のない恐怖、この顔のない夜の脅威こそ、わたしの幼年期のすべての恐怖のなかでも最初のものであった。だから、幼年期が終わってしまった今では、完全に大人になってしまうと幼年期のすべてが懐かしく感じられるように、わたしはその恐怖を懐かしく感じたのだった。
わたしはすでに、その日の午後に訪ねたあのあばら家[#「あばら家」に傍点]と同じ側の川岸にきていた。そして、また舟に乗る必要はなかった。しかし、街路は未知のもので、この暗闇では、まるでわたしを閉じこめるために作られた迷路のように思われた。何度か間違った方向に歩きかけた後に、やっと自分の行きたい細道を見つけ、崖を飛び跳ねながら上っていった。
対岸の壮大な右の壁が上昇して太陽を遮るまで、ひっそりと立って待っていた道の両側の家々は、今は人声でさんざめき、ランプの明かりの洩れている窓もあった。アブディーススが下の宮殿で酒宴を催しているのに対して、高い崖の上の貧乏人たちも、騒々しさが少ないという点が大いに異なるとはいえ、やはり陽気に楽しんでいた。通り過ぎていくと、最後にサイリアカと別れた後に執政官の庭園で耳にしたのと同様の、愛の物音が耳に入り、静かに話しあっている男女の声が聞こえ、また、ここでもあそこと同じひやかし[#「ひやかし」に傍点]の声が聞こえた。宮殿の庭園には花の香りが漂っており、空気はそこにある泉や、そのすぐ外側を勢いよく流れる冷たいアシス川という大きい泉によって洗われていた。ここには、もはやそのような芳香はなかったが、あばら家と、入り口に蓋をした洞穴の間を吹き抜ける微風が、時には汚物の悪臭を運んでき、また時には注いでいるお茶の香りや、つつましいシチューの香りを運んでき、また時には山の清浄な空気だけを運んでくるのだった。
崖の表面をこのくらい高く上ると、もはや、炊事の明かり以外に灯火を備えるだけの金の余裕のある人は、まったく住んでいなかった。わたしは振り返って町を眺めた。ちょうど、その日の午後にアシーズ城の狭間から――気分はまったく異なっていたが――町を見下ろしたのと同様に。人の話では、山には、底に星が見えるほど深い割れ目が――つまり、世界を完全に突き抜けている割れ目が――あるということである。今わたしはそれを見つけたような気分になった。それはまるで、下にある星座を覗きこむようなものだった。まるで、ウールス全体が脱落してしまって、自分が星の輝く深淵を覗きこんでいるような。
今頃は、わたしの捜索がおこなわれているかもしれないと思われた。執政官の槍騎兵が、たぶん庭園の松明をひっつかんで、静かな街路を斜めに下りてくる姿が心に浮かんだ。それよりはるかに悪い想像は、〈獄舎〉から今繰り出してくる獄吏の姿を眺めることだった。しかし、動いている灯火も見えなければ、かすかなしわがれ声の叫びも聞こえなかった。それに、たとえ〈獄舎〉が騒ぎだしたとしても、それは対岸の崖を蜘蛛の巣のように走っている暗い街路に影響を及ぼすような騒ぎではなかった。そんなことがあれば、新たに叩き起こされた兵士たちを外に出すために開いたり閉じたりする大門に、ちかちかと瞬く灯火が見えるはずだ。しかし、そのようなことはなかった。やがて、わたしは向きを変えて、さらに登りはじめた。警報はまだ発せられていなかった。もっとも、すぐに発せられるだろうが。
そのあばら家には灯火も話し声もなかった。中に入る前にわたしは小さな袋から〈鉤爪〉を取り出した。いったん中に入ってしまえば、その勇気がなくなるかもしれないと恐れたからである。それは、ときには花火のようにまぶしく輝いた。サルトゥスの旅籠《はたご》にいた時がそうだった。またある時はガラスのかけらほども光らなかった。この夜、そのあばら家の中では、〈鉤爪〉はまぶしいほどの輝きはなかったが、光そのものがより清らかな暗闇であるかのような、深い青色に燃えた。わたしの信じるところでは、〈調停者〉のすべての呼び名の中で使用されることが最も少なく、またいつもわたしを最も当惑させるのは、〈黒い太陽〉という名前である。この夜以来、わたしはそれをほとんど理解できたように感じている。この時には、その宝石を、それ以前にも、またそれ以後にもやったように、指で摘むことができなかった。厳密に必要な場合以外に、それに触れることによって神聖な石を汚すことがないように、右の手のひらに載せたのだった。こうして〈鉤爪〉を捧げ持つと、わたしは身をかがめて、あばら家の中に入っていった。
少女は、その日の午後に寝ていた場所に横たわっていた。まだ息をしているのかもしれなかったが、その音は聞こえなかった。そして、彼女は身動きをしなかった。眼病を患っている少年はその足もとの土間にじかに寝ていた。彼はわたしが与えた金で物を買ったらしく、床一面に唐蜀黍《とうもろこし》の皮や、果物の皮が散乱していた。二人とも目覚めないでくれと、わたしは一瞬祈るような気持ちになった。
〈鉤爪〉の深い光を受けた少女の顔は、目の下の窪みや、削げ落ちた頬が強調されて、昼間見た時よりもいっそう弱々しく恐ろしいものに見えた。わたしは、自存神《インクリエート》とそのお使いを呼び出す、正式な祈りの言葉を唱えるべきだと感じたが、喉はからからに渇き、口はどんな獣の口よりも言葉が乏しかった。彼女の方にゆっくりと手を下げていくと、手の影が彼女に当たっていたすべての光を遮った。ふたたび手を上げた時には、なんの変化も起こっていなかった。わたしは〈鉤爪〉がジョレンタを助けなかったことを思い出して、ひょっとしたら〈鉤爪〉は女には効かないのではないか、いや、女自身がそれを握ることが必要なのではないだろうか、と考えた。それから、わたしは少女の額に、直接〈鉤爪〉を載せた。すると、一瞬、その死のような顔に第三の目が生じたように見えた。
これを使ったすべての場合で、この時ほど目覚ましい効果を発揮したことはなかった。おそらくこれは、わたしの側のいかなる自己欺隔によっても、どれほど不自然な暗合によっても、起こったことに説明がつかない唯一の例だろう。猿人の出血は彼自身の信仰によって止まったのかもしれないし、〈絶対の家〉の道端の槍騎兵はただ気絶しただけで、放っておいても蘇生したかもしれない。ジョナスの傷が一見治ったように見えたのは、単なる光の悪戯だったかもしれない。
だがこの場合は、まるで、想像もできないなんらかの力が、一クロノン([#ここから割り注]光子が電子の直経を横切るのに要する時間[#ここで割り注終わり])と次のクロノンとの間に働いて、宇宙の軌跡をねじ曲げたかのようだった。少女の、澱みのように黒い本物の目が開いた。その顔はさっきまでの髑髏《どくろ》ではなくなっており、ただの若い女のやつれた顔になっていた。「そんなに輝く服を着ているあなたは、だれ?」少女は尋ねた。それから、「ああ、わたし夢を見ているんだわ」
わたしは彼女に、自分は味方であり、怖がる必要はないといって聞かせた。
「怖がってはいないわ」彼女はいった。「目が覚めていれば怖がるかもしれないけれど、覚めていないんだもの。あなたは空から降りてきたように見えるわ。でも、知ってるの。あなたは哀れな小鳥の翼にすぎないのよ。ジャダーがあなたを捕まえたの? 歌を歌って聞かせてよ……」
彼女の目がまた閉じた。今度は、ゆっくりとした寝息が聞こえた。顔は、目が開いていた時のままで――痩せて憔悴してはいたが、死の刻印は拭い去られていた。
わたしは彼女の額から宝石を取り上げて、今度は同じように少年の目を当てた。だが、そうする必要があったかどうか疑問だった。その目は〈鉤爪〉のキスを感じる以前に、すでに正常になっているように見えた。病気はすでに消滅したのかもしれなかった。彼は眠りながら、もぞもぞと体を動かし、まるで夢の中で、足ののろい少年たちの前を走っていて、彼らについてこいと呼びかけているかのような、叫び声をあげた。
わたしは〈鉤爪〉を袋に戻した。そして、唐蜀黍《とうもろこし》や果物の皮の散乱している土間に腰を下ろして、彼の言葉に耳を傾けた。しばらくすると少年はまた静かになった。星明かりが扉のそばに薄暗い模様を描いていた。それ以外にはあばら家の中は真っ暗だった。姉の規則正しい寝息と、少年の寝息が聞こえた。
職人に昇格して以来煤色の衣服をつけており、それ以前は灰色のぼろ[#「ぼろ」に傍点]を身につけていたわたしのことを、彼女は、輝く衣服を着ているといった。額の光で目が眩んでいたのだろう――なんでも、どんな衣服でも、その状態の彼女には輝いて見えたことだろう。それでもなお、ある意味で彼女は正しいという感じがした。といっても、(そう書きたいのはやまやまだが)この瞬間以後、このマントとズボンとブーツがいやになったというのではない。それよりもむしろ、ある意味で、執政官の宮殿にいた時に間違えられたのと同じように、この服装を実際の変装だと感じるようになり、また、タロス博士の芝居に出演した時にそう見えたように、舞台衣装のような感じがしてきたのである。拷問者も人間である。そして、人間が年がら年じゅう黒よりも暗い色の衣服をまとっているのは、不自然である。アギルスの店で買った茶色のマントを着た時には、自分の偽りの行為にいやけがさしたものだ。けれど、その下に着た煤色の衣装も、同様の偽りか、あるいはさらにひどい偽りなのかもしれない。
やがて、真実がわたしの心に押し入ってきた。たとえ、わたしがこれまでに真の拷問者であったとしても、グルロウズ師や、そしてパリーモン師さえもが、拷問者であったという意味において、拷問者であったとしても、もはや拷問者ではないのだ。このスラックスでふたたびチャンスを与えられた。そして、この再度のチャンスにおいても失敗した。三度目はないだろう。この技術と衣装のおかげで、雇われることはありうるかもしれない。しかし、それだけのことだ。それよりも、その可能性を投げ捨てて、北方で戦っている兵士の仲間入りをするほうがよいことは疑いない。といっても、それは万一〈鉤爪〉の返還に成功したらの話だ――そもそも、成功することがあればの話だが。
少年がもぞもぞ動き、姉の名前にちがいない名前を呼んだ。彼女はまだ眠ったまま、何事かをつぶやいた。わたしは立ち上がり、もうしばらく彼らを見守ってから、自分の厳しい表情と長い剣を彼らが見たら怯えるだろうと気にしながら、こっそりと小屋を抜け出した。
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9 火蜥蜴《サラマンダー》
外に出ると、星の光が前より明るくなったように思われた。何週間ぶりかで、〈鉤爪〉がわたしの胸を打つのをやめていた。
狭い小路を下りていくのに、町を見るために振り返って、足を止める必要はもうなかった。町は何万ものきらめく灯火となって、アシーズ城の当直の焚き火から、キャプルスの壁を貫通して猛烈な勢いで流れている川面に映る衛兵室の窓の明かりまで、わたしの前に広がっていた。
今頃は、すべての門がわたしに対して閉ざされていることだろう。たとえすでに龍騎兵が出動していなくても、わたしが川端の平地に達する前には出動するだろう。それでも、わたしは町を去る前に、もう一度ドルカスに会おうと決心した。そして、そうする能力は間違いなく自分にある、となんとなく感じられた。後で城壁を抜け出すための、作戦を練りはじめたとたんに、はるか下の方で新たな光が閃いた。
これだけ距離があるので、その光は小さく、ほかのすべての明かりと同様に、ピンの先ほどしかなかった。しかし、ほかの光とは全然異なっており、たぶん、それを光として捕えたのはわたしの心だけだと思われた。なぜなら、ほかに似たものはないからである。ヴォダルスが共同墓地の女の死体を発掘したあの夜に、銃がパワー全開で発射されたのを見たことがある――あれは、位相のそろったエネルギーのビームで、稲妻のように霧を引き裂いた。この光はそれとそっくりではなかったけれど、思い起こすことのできるどんなものよりも、それに近かった。光はほんの一瞬閃いて消え、心臓の一鼓動分おくれて、わたしは顔に熱波を感じた。
暗かったせいか、〈雁の巣亭〉という小さな旅籠《はたご》を、わたしは見過ごしてしまった。曲がり角を間違えたのか、それとも、上から吊るされている看板に気づかずに、扉の閉まっているその旅籠の窓のところを、うっかり通り過ぎてしまったのか、わからなかった。原因はともかくとして、わたしはまもなく、川からずっと離れた道をせっせと歩いていることに気づいた。本来なら川のそばを歩いているはずなのに。少なくとも、その道はしばらくの間は崖に平行に進んでいた。焼き印を押しているような、肉の焦げる匂いが鼻についた。後戻りしようとしたとたんに、暗闇で一人の女とぶつかった。あまりにも激しく、あまりにも不意にぶつかったので、思わず倒れかかって、よろよろと後ずさった。その時、女の体がどさりと石にぶつかるのが聞こえた。
「見えなかったんだ」わたしは女の方に手を伸ばしながらいった。
「逃げな! 逃げな!」女はあえいだ。それから、「ねえ、助け起こして」その声にはかすかに聞き覚えがあった。
「なぜ、逃げなければならないんだ?」わたしは彼女を引き起こした。かすかな明かりで、ぼんやりと顔が見えた。しかも、そこには恐怖の色さえも見えたように思えた。
「あれがジュルミンを殺した。あの人は生きたまま焼き殺された。見つけた時には、まだ杖が燃えていた。そして……」彼女が何をいおうとしていたにせよ、それから後はすすり泣きに変わってしまった。
「何がジュルミンを焼き殺したんだ?」彼女が答えなかったので、眉を揺すぶると、彼女はよけいに激しく泣きじゃくった。「どこかで会ったかな? おい、話してくれ! あっ、〈雁の巣亭〉の女将じゃないか。あそこに連れていってくれよ!」
「それは」彼女はいった。「無理です。手を貸して、お願い、旦那。どこかに隠れないと」
「よし。〈雁の巣亭〉にいこう。遠くないはずだ――え、なんだって?」
「遠すぎます!」彼女は泣いた。「遠すぎます!」
路上のわれわれのそばに、何かがいた。それがそばにやってきたのを、わたしが気づかなかったのか、それとも、この時まで感知できなかったのか、わからない。とにかく、そいつは突然その場に現われた。鼠を極端に怖がる人は、たとえその姿が見えなくても、自分の家に入ってきた瞬間にわかるというが、今がまさにそうだった。暖かくない熱感がそこにあった。そして、空気にはなんの臭いもなかったけれども、その生命を支える力が流れていくのを、わたしは感じた。
女はまだ気づいていない様子だった。彼女はいった。「あれは昨夜はハレナの近くで三人を焼き殺し、今度は一人を焼き殺したそうですよ、〈獄舎〉のそばでね。そして、今度はジュルミンでしょう。あれはだれかを探しているんだと――世間ではいっています」
わたしはノトゥールのことを、そして〈絶対の家〉の控の間の壁にそって鼻を鳴らすような音をたてていたもの[#「もの」に傍点]を思い出した。「どうやら、そいつは探している相手を見つけたらしいぞ」
わたしは彼女を先に行かせ、また向きを変えて、その所在を探そうとした。熱は強くなったが、明かりは見えなかった。わたしは〈鉤爪〉を取り出して、その光で見たいという誘惑を感じた。それから、〈鉤爪〉が猿人の洞窟の地下に眠っていた正体不明のものを目覚めさせたことを思い出し、また、その光が、この正体不明のものにわたしの位置を知らせることになるばかりだと悟った。前に杉林の中をジョナスとともに逃げた時に、ノトゥールに対して剣を使ったことがあるが、今度の場合、それ以上に効果があるかどうかわからなかった。だが、わたしは剣を抜いた。
それとほとんど同時に蹄の音と叫び声が聞こえ、わずか百|複歩《ストライド》ばかり先の角を曲がって、二人の騎馬兵が地響きをたてて走ってきた。時間的余裕があったら、彼らがわたしの想像していた姿にあまりにもよく似ていたので、笑ってしまったことだろう。しかし、今はそれどころではなかった。彼らの槍から噴き出す炎の強烈な光が、彼らとわれわれの間に立っている、何か黒い、猫背のものの輪郭を描き出した。
そいつは光の方を向いた。その得体の知れないものは、花が開くように開いたように思われた。ほとんど目にもとまらぬ早さで背丈が伸び、体が薄くなり、発光するガーゼのような、熱いけれども、どことなく爬虫類のような感じの生物になった。ちょうど北方のジャングルから持ってこられたのをたまに見る、あの色彩豊かな蛇が、一見色つきの琺瑯《ほうろう》製品のように見えても、やはり爬虫類であるように。兵士たちの馬は後足で立ち上がり、いなないた。だが、兵士の一人は、わたしも舌を巻くほどの胆力を見せて、自分の正面にいるそのものの真ん中に、槍の炎を射ちこんだ。ぱっと、まばゆい光がほとばしった。
〈雁の巣亭〉の女将が、わたしの方に倒れかかってきた。わたしは彼女を失いたくなかったので、あいている腕で支えた。「どうやら、こいつは生きている心臓を探しているようだ」わたしは彼女にいった。「軍馬の方にいくはずだ。さあ、逃げよう」
そういったとたんに、そいつはわれわれの方を向いた。
さっき、そいつが騎馬兵に向かって体を広げた時に、わたしは後ろから見て、爬虫類の花のようだといった。その印象は、今、恐ろしく光り輝くその姿をくまなく見ても、やはり変わらなかった。もっとも、今は、さらに二つの別の印象が加わったけれども。その一つは、強烈な、そして、この世のものとは思われない熱感だった。それは依然として爬虫類のようであり、それも、ウールスでは決して知られていない状態で――ちょうど砂漠のエジプトコブラが雪玉の上に落ちでもしたように――燃えている爬虫類なのだった。もう一つの印象は、空気とは違う風にはためいているぼろ[#「ぼろ」に傍点]布、というものだった。それはやはり花ではあるけれども、白と淡黄色の花弁を持つ花であり、それ自身の心臓の熱から生じた恐ろしい嵐にはためく炎なのであった。
これらすべての印象とともに、これらを包み、これらに滲みわたっている、筆舌に尽くしがたい恐怖感があった。わたしは、すべての決意と力を吸い取られてしまった。その瞬間、逃げることも攻撃することもできなくなった。その生物とわたしは、それ以前にも以後にも過ぎ去ったなにものとも関係のない、時間のマトリクスの中にその中に――はまりこんで動けなくなっているのはわれわれだけなので、なにものによっても変更されることのない時間のマトリクスの中に――固定されてしまったのである。
一つの叫びが呪縛を破った。騎馬兵の別の一隊が後ろから駆けつけてきた。そしてこの生物を見て、馬に鞭を当て、突撃に移った。一呼吸する間もなく、彼らはわれわれのまわりに殺到した。われわれが踏み倒されなかったのは、聖キャサリンの御加護によるものと思わざるをえない。もしそれまで、わたしが独裁者の軍隊の勇気を疑っていたとしても、ここでその疑いを捨てたことであろう。なぜなら、騎馬隊は両方とも、猟犬が鹿に襲いかかるように、その怪物めがけて体当たりしていったからである。
だが、無駄だった。目もくらむばかりの閃光がほとばしり、恐ろしい熱感があった。わたしはまだなかば失神している女を抱えて、街路を駆け下りていった。
騎馬隊の入ってきた角を曲がったつもりだったが、狼狽していたために(それはわたし自身の狼狽であるだけでなく、心の中で悲鳴を上げているセクラの狼狽でもあった)、曲がるのが早すぎるか遅すぎるかしたらしい。そのために、予期していた下の町への急な坂を下らずに、いつの間にか、崖から突き出している岩の上にできた浅い袋小路に入ってしまっていた。その間違いに気づいた時には、ねじ曲がった小人のような姿に返った怪物が、袋小路の入口で、目にみえない恐ろしい熱を放射していた。
星明かりで見ると、ただの黒い服を着たせむしの老人としか見えなかったが、これを見た時ほどの強い恐怖感を、わたしはいまだかつて味わったことはない。小路の奥に一軒の藁葺き屋根の小屋があった。あの病気の姉と弟が寝ていたあばら家よりも大きい建物だったが、やはり編み枝と泥でできていた。わたしは扉を蹴り開けて、そのうさぎ小屋のような不快な家の中に入っていった。最初の部屋を素通りして次の部屋に入り、それも通り抜けて、三つめの部屋に入った。そこには数人の男女が寝ていた。そこも通り過ぎて次の部屋に入ると、〈獄舎〉のわたしの部屋の狭間のように、町を見渡す窓が一つだけあった。ここが行き止まりだった。崖縁につばめの巣のように懸かっているこの家の奥座敷だった。この瞬間、断崖はまるで底なしのように見えた。
たった今通り過ぎてきた部屋から、眠りを妨げられた人々の怒りの声が聞こえた。扉がばっと開いて、闖入者を追い出すために、だれかがこちらの部屋に入ってきた。しかし、その人はテルミヌス・エストのきらめきを見たにちがいなく、はっとして立ち止まり、悪態をつき、いってしまった。一瞬後れて、だれかが悲鳴をあげた。それで、火の生物が建物の中に入ってきたとわかった。
わたしは女をしっかりと立たせようとした。しかし、彼女はわたしの足下にくずおれてしまった。窓の外には何もなかった――泥壁は数キュビット下で終わっており、床を支える丸太は壁の外に突き出してはいなかった。頭上に突き出している腐った藁屋根は、蜘蛛の糸ていどの手がかりにしかならなかった。それをなんとかして掴もうとしている間に、洪水のようにまぶしい光が流れこんできて、すべての色を奪い、煤そのもののような黒い影を投げた。この時わたしは、さっき騎馬隊がやったように闘って死ぬか、または飛び下りるしかないと知った。そして、さっと振り向いて、わたしを殺しにやってきたそのもの[#「もの」に傍点]と対面した。
そいつはまだ向こうの部屋にいた。だが、街路でやったようにそいつが体を広げるのが、戸口から見えた。その前の石の床に、しわくちゃの老婆らしい半焼けの死体が転がっていた。見ていると、そいつは死体を調べようとでもするように、その上に身をかがめた。すると、老婆の肉は火ぶくれを起こし、焼き肉の油身のようにぱちぱちはぜ、それから崩れ落ちた。一瞬の後、骨さえもただの白い灰になった。怪物はそれを蹴散らして進んできた。
わたしは、テルミヌス・エストはこれまでに鍛造された最良の刀剣だと信じているが、あれほど大勢の騎兵を一蹴した力に対しては無力だとわかっていた。それでわたしは、だれかがこれを見つけて、最後にはパリーモン師のところに戻ることを漠然と希望しながら、テルミヌス・エストを脇に投げ捨て、喉もとの小さい袋から〈鉤爪〉を取り出した。
これはわたしのすがるべき最後の藁だった。だが、すぐに失敗だとわかった。この生物がどのようにして外界を感知するか知らないが(その動きから、このウールス上では、そいつは盲目に近いらしいとわたしは想像していた)明らかにこの宝石を認識することができた。そして、それを恐れなかったのだ。そいつののろい前進が、目的のある、前への早い流れに変わった。そして、戸口に達した――ばっと煙が立ち昇り、がさっという音がして、そいつは消え失せた。床にできた穴から、下の方の光が見えた。突き出した岩の露頭が終わったところから始まる脆弱な床を、そいつは焼き切ってしまったのだった。最初その光は、その生物の無色の光だったが、やがて――青緑色、紅藤色、薔薇色、と急速に移り変わる変彩パステルのような光になり、それから、飛び跳ねる炎のような、ただのかすかな赤みがかった光になった。
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10 鉛
その小さな部屋の真ん中の、ぞっとするような穴に落ちこむのではないか、いや、部屋全体が――ぐらぐら揺れる構造もろとも落下してしまうのではないかと思ったりした。しかし、とにかくテルミヌス・エストを取り戻し、〈雁の巣亭〉の女将を安全な場所に移すことができた。
そして結局、脱出することができた。街路に出ると、騎馬隊も町民もいなくなっていた。疑いなく、兵士たちは下の火の方に引き寄せられていったのだし、町民は怯えて家に閉じこもっているのだ。女将はまだ質問にまともに答えることができないほど怯えていた。しかし、わたしは彼女を片手で支えて道案内をさせることにした。案の定、彼女は間違わずに、わたしをあの旅籠に連れていった。
ドルカスは眠っていた。わたしは彼女を起こさずに、暗がりで、ベッドのそばの腰掛けに坐った。今ではそこに小さなテーブルもあって、下の休憩室から持ってきたグラスと瓶をのせることができた。ワインの種類はわからなかったが、口に含んだ時には強く感じられるのに、いったん飲み下すと水も同然だった。ドルカスが目を覚ますまでに、わたしは瓶の半分ほどを飲んでしまったが、それと同量のシャーベットを飲んだ程度にしか酔わなかった。
彼女はぎくりとして起き上がり、また枕に頭を落とした。「セヴェリアンね。当然あなただと気づくべきだったわ」
「びっくりさせたなら、ごめん」わたしはいった。「見舞いにきたよ」
「どうもありがとう。でも、わたし、目が覚めるたびに、あなたが覗きこんでいるような気がしたわ」彼女はまたしばらく目を閉じていた。「あなたはその底の厚いブーツで、そうやってとても早足に歩くでしょう。自分で気がついている? 人々があなたを怖がる理由の一つは、それなのよ」
「ぼくが吸血鬼を思い出させると、きみは前にいったね。柘榴《ざくろ》を食べて、唇が血のように赤く染まった時に。二人で笑ったろう。覚えているかい?」(あれはネッソスの〈壁〉の内側の野原で、タロス博士の劇団と野宿をして一夜を過ごし、前の晩に逃げた観客が落としていった果物を食べた時のことだっだ)
「ええ」ドルカスはいった。「もう一度、わたしに笑ってもらいたいのね? でも、残念ながらもう笑えないわ」
「ワインを少し飲むかい? 無料のやつだが、思ったほど悪くない」
「元気づけのために? けっこうよ。お酒は、すでに陽気になっている人が飲むべきだと、わたしは思うの。さもないと、悲しみばかりが杯に注ぎこまれることになるんですもの」
「とにかく、一口ぐらい飲みなよ。具合が悪くて、一日じゅうなにも食べていないと女将がいってたよ」
この時、ドルカスはこちらを向こうとして、枕の上で金髪の頭を動かした。どうやら、完全に目覚めたようなので、わたしは思いきって蝋燭に火をつけた。
彼女はいった。「制服を着ているのね。女将がさぞびっくり仰天したことでしょう」
「いいや、彼女は怖がらなかった。ただ、カップに、瓶の中味を注いで、がぶ飲みをしているがね」
「あの人、親切にしてくれたのよ――とても優しいのよ。こんなに夜遅く飲んでいても、辛く当たらないでね」
「いじめたりするものか。とにかく、何か食べないか? 下の調理場に食べ物があるはずだ。ほしいものをなんでも持ってきてあげる[#「あげる」に傍点]からさ」
彼女はわたしの言葉を聞いてかすかに笑った。「わたしは今日一日じゅう、食べたものをあげ[#「あげ」に傍点]つづけていたのよ。具合が悪かったと女将がいっていたのは、そのことなの。それとも、吐いた[#「吐いた」に傍点]、とあの人いったかしら? まだ臭いがするんじゃないかしら。気の毒に、女将さん、一所懸命に後始末をしてくれたけれど」
ドルカスは言葉を切って、鼻をひくひくさせた。「これなんの匂いかしら? 焦げた布? 蝋燭にちがいないわ。でも、その大きい剣で灯芯が切れるわけはないし」
わたしはいった。「ぼくのマントだと思う。火のそばに寄りすぎていたから」
「窓を開けてと頼みたいけれど、見れば、窓はもう開いているわね。あなた、いやなんじゃない。風で蝋燭の火がゆらめくのが。影がちらちら揺れると、目が回る?」
「いいや」わたしはいった。「炎をじかに見なければ、大丈夫だ」
「その顔つきじゃ、水のそぱにいくといつもわたしが感じるような気分を、いまのあなたは抱いているみたい」
「今日の午後、きみが川端の水際に坐っているのを見つけたんだよ」
「ええ、知っているわ」ドルカスはそういって、黙りこんだ。その沈黙があまり長く続いたので、彼女がまた全然喋らなくなるのではないかと、わたしは心配になった。あの時に彼女に取りついていた病的な(今は、確かにそうだったと思っている)沈黙が、また戻ってきたのだと。
結局わたしはいった。「あそこにきみがいるのを見て、びっくりした――はっきりきみだとわかるまでに、何度も見なおしたよ。きみを探しに出かけたのにね」
「わたし吐いたのよ、セヴェリアン。そのことはもういったわね?」
「ああ、いったよ」
「何を吐いたかわかる?」
彼女は低い天井を見つめていた。わたしはそこにもう一人のセヴェリアンがいるように感じた。ドルカスの心の中だけに存在する、優しくて気高いセヴェリアンが。他人に最も親しい気分で話をする時には、だれもが、話し相手と信じる人物について自分の抱いているイメージに向かって、話をしているものだ。しかし、この時には、それだけではないと感じた。たとえわたしが部屋を出ていっても、ドルカスは話しつづけるだろうと感じたのである。「いいや」わたしは答えた。
「水、かな?」
「投石器の弾丸よ」
わたしは彼女が比喩的に話をしていると思った。それで、調子を合わせるだけにした。「それはさぞ気持ちが悪かったろう」
彼女の頭がまた枕の上で動いた。今度は、瞳孔の大きく開いた彼女の青い目が見えた。それにはなんの表情もなく、二つの小さな幽霊といってもよい感じだった。「ねえ、セヴェリアン、投石器の弾丸だったのよ。重くて小さい金属の塊りなの。直径が栗ぐらいで、長さはわたしの親指よりちょっと短いくらい。そして、命中≠ニいう言葉が刻印されているの。そういうのが、喉からバケツの中にがらがらと転がり落ちたのよ。それで、手を伸ばして――いっしょに吐いた汚物の中に手を突っこんで、拾い上げて見たの。バケツはこの宿の女将がやってきて持ち去ったけれど、わたしはその弾丸を拭いて、とっておいたの。二個あって、テーブルの引き出しに入っているわ。食べ物を載せるのに、女将が運び入れたテーブルよ。見たい? なら、引き出しを開けて」
そんなことは想像もつかなかった。だから、だれかがきみを毒殺しようとしていると思うのか、と尋ねた。
「いいえ、とんでもない。引き出しを開ける気はないの? あなた勇気があるでしょう。見たくない?」
「信じるよ。きみが、テーブルの中に投石器の弾丸があるといえば、きっとあるにちがいない」
「でも、それをわたしが吐き出したとは、信じてないのね。無理もないわ。ねえ、こんな話なかったかしら? 豹の祝福を受けた猟師の娘がいて、その子が喋るたびに口から黒玉のビーズが飛び出したというの。ところが、彼女の兄嫁がその祝福を盗んだら、喋るたびに唇から蟇《ひきがえる》が飛び出すようになったというのよ。この話を聞いた覚えはあるけれど、決して信じはしなかったわ」
「ゲーッとやったら、鉛玉が出たなんてことがありうるだろうか?」
ドルカスは笑った。だが、その笑いには陽気なところは含まれていなかった。「簡単なことよ。造作もないことよ。わたしが今日、何を見たか知っている? あなたがわたしを見つけた時に、なぜわたしが口がきけなかったかわかる? ほんとに口がきけなかったのよ。セヴェリアン、本当なの。わたしがただ怒って依沽地になっているだけだと、あなたに思われていたことは知っているわ。でも、だめだったの――石のように、口がきけなかったのよ。なにもかもどうでもよくなったような気持ちだったから。今でも、多少その気持ちが残っているわ。でも、許してね、あなたが勇敢でないといったことは。あなたは勇敢よ。わたしは知ってるわ。ただ、ここの囚人たちに対して仕事をしている時に、勇敢に見えなかっただけ。アギルスと闘った時のあなたは、勇敢だったわ。その後で、バルダンダーズがジョレンタを殺そうとしていると思って、彼と闘おうとした時にもね……」
彼女はまた黙った。それから溜息をついて、「ねえ、セヴェリアン、わたしとても疲れたわ」
「きみとそのことを話したかったんだよ」わたしはいった。「囚人についてね。たとえ許してもらえなくても、理解してほしい。これはぼくの天職だ。幼年時代から仕込まれてきたことなんだ」わたしは体を乗り出して、彼女の手を取った。それは小鳥のようにかよわいものに感じられた。
「前にも同じようなことをいったわね。わたし心から理解してるわよ」
「しかも、ぼくはその仕事を上手にやれるんだ。ドルカス、きみが理解してくれない[#「くれない」に傍点]のは、そこなんだ。折檻や処刑は芸術なんだ。そして、ぼくには適性が、天分が、能力があるんだ。この剣は――われわれの使う道具は、どれもぼくの手に握られて生きてくるんだ。もし〈城塞〉に残っていたら、ぼくは師匠《マスター》になっていたかもしれないんだよ。ドルカス、聞いてるのか? こんな話、きみにとって、いくらかでも興味があるんだろうか?」
「ええ」彼女はいった。「少しはね。でも、喉が渇いたわ。あなたがもう飲まないなら、わたしに少しワインを注いでくれないかしら」
わたしは頼まれたとおりに、グラスに四分の一ほどワインを注いでやった。なぜなら、シーツにこぼすと悪いと思ったから。
彼女は起き上がって(この時までわたしは、彼女が起き上がることができるとは思っていなかった)ワインを飲んだ。最後の真紅の一滴まで飲みほしてしまうと、グラスを窓の外に投げ捨てた。下の街路で、グラスががしゃんと砕ける音が聞こえた。
「わたしの飲んだ後で、あなたが飲むと困ると思ったからよ」彼女はいった。「そうしなければ、あなたはきっと飲むんですもの」
「とすると、自分の病気が伝染病だと思ってるんだな?」
彼女はまた笑った。「ええ。でも、もううつっているわよ。あなたはあなたのお母さんからうつされてるわ。死という病気をね。セヴェリアン、今日わたしが何を見たか、あなたはちっとも尋ねてくれないのね」
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11 過去の手
ドルカスから、「今日わたしが何を見たか、あなたはちっとも尋ねてくれないのね」といわれたとたん、その話題から自分が話をそらそうとしていたことに気づいた。それはわたしにとってまったく無意味なことなのに、ドルカスはそれに大きな意味を付加しているのではないかという予感があった。ちょうど、狂人が倒木の樹皮の下を這ったみみずの跡を、超自然の精霊の仕業だと信じるように。わたしはいった。「きみの心をそれからそらせたほうがいいと思ったのさ。それがなんであるにしてもね」
「確かにそうね。気をそらすことができれば、だけど。でも、だめよ。椅子を見たの」
「椅子だって?」
「古い椅子よ。それとテーブルと、そのほかいろいろなものを。轆轤《ろくろ》師通りに古道具屋があって、|折 衷 人《エクレクテイクス》とか、わたしたちの文化を充分に吸収して古い家具などをほしがるようになった土民を相手に、商売をしているらしいの。ここにはそういう品物の供給源がないから、店の主人は年に二、三回、息子を連れてネッソスにいくんですって――南部の放棄された地区にね。そして舟いっぱいに積んでくるの。わたしその人と話をして、すべてわかったのよ。あそこには何万軒もの空き家があって、ずっと昔に潰れてしまった家もあるけれど、住民が去った時のままに立っている家もあるのよ。たいていはすでに略奪に遭っているけれど、たまに銀器や多少の宝石類が見つかるの。そして、家具の大部分はなくなっているけれど、立ち退く人はたいてい後に何か残していくものなの」
彼女が泣きだしそうに思えたので、わたしは身をかがめて、その額を撫でてやろうとした。ところが彼女は、やめてくれといいたげな目つきでじろりとわたしを見て、またさっきのようにベッドに横たわった。
「家のなかには、まだ家具が全部そろっているのもあるのよ。そういうのが最高だと、彼はいっていたわ。その地域が死滅してしまった後に、いくらかの家族が――たぶんほんの少しの人々が――孤立して残ったと、その人は考えているの。移住するには年を取りすぎていたか、頑固すぎたのね。それでわたし、考えてみたんだけれど、そういう人たちにはきっと、後に残していくにしのびない物があったのね。たぶん、お墓とかね。彼らは略奪者の攻撃を避けるために、窓を板張りにし、犬とか、もっと凶暴な動物を飼って自衛していたのよ。それでも結局、彼らがいなくなると――つまり、寿命が尽きると――死体をそれらの動物が食べて、逃げてしまったの。だから、この古道具屋の主人と息子たちがくるまで、だれも、略奪者や死体を食べる動物さえもきていない、ということがありうるのね」
「古椅子といっても、ずいぶんたくさんあるにちがいない」わたしはいった。
「あの椅子は特別だわ。あらゆる部分に見覚えがあったのよ――脚の彫刻も、腕の木目の模様さえもね。それを見た時に、いろんなことが心に蘇ってきたの。それから、ここで、固く重い種のようなあの鉛を吐いた時に、合点がいったのよ。覚えている、セヴェリアン、わたしたちがあの〈植物園〉を去った時のことを? あなたと、アギアと、わたしが、あの大きいガラスの自然植物園から出てきて、舟を雇ってあの島から岸に渡ったわね。そして河には青い花と艶のある緑色の葉の睡蓮がいっぱい生えていたわね。睡蓮の種は、あんなふうに固くて、重くて、黒くて、聞くところによると、ギョルの底に沈んで、世界の寿命が尽きるまで残っているそうね。でも、何かの拍子で表面近くに上がってくると、どんなに古くても発芽して、千年も昔の花をまた咲かせるというわ」
「それはぼくも聞いたことがある」わたしはいった。「しかし、きみにもぼくにも、なんの関係もないよ」
ドルカスはじっと横たわっていたが、声は震えていた。「それらを呼び戻す力はなんなの? 説明できる?」
「日光だろうな――いや、ぼくには説明できない」
「そして、太陽以外には日光の源はないの?」
この時、彼女が何をいおうとしているかわかった。だが、わたしの中の何かが、それを受け入れることを拒んだ。
「あの人――ヒルデグリン、廃墟になった石の町の墓の屋根で二度目に会った人――が、わたしたちを舟に乗せて〈鳥の湖〉を渡っていった時に、大勢の死者の話をしたわね。死体を水中に沈めるという話を。死者はどのようにして沈められたの、セヴェリアン? 死体は浮くわ。どうやってそれを重くしたの。わたしは知らないわ。あなた知ってる?」
わたしは知っていた。「喉から鉛の重りを押しこむんだ」
「そうだと思った」彼女の声はとても小さくて、静かな部屋の中でも、ほとんど聞こえないほどだった。「いや、そうわかったの。あれを見た時にわかったのよ」
「〈鉤爪〉が自分を生き返らせたと思っているんだな」
ドルカスはうなずいた。
「あれは事実、効き目があった。時にはね。それは認めよう。しかし、それはぼくがあの宝石を取り出した時だけで、しかも必ずというわけではないんだ。〈果てしなき眠りの園〉で、きみがぼくを「水中から引き上げてくれた時、あれは図嚢に入っていて、ぼくはそれすら知らなかったんだよ」
「セヴェリアン、前にわたしに持たせてあげるといったことがあったわね。今、もう一度見せてくれる?」
わたしは〈鉤爪〉を柔らかな革袋から取り出して、上にかかげた。青い光は鈍っているように見えた。だが中心には、その名前のもとになっているまがまがしい鉤爪の形が見えた。ドルカスが手を差し出したが、わたしはワイングラスのことを思い出して、首を振った。
「わたしが壊すと思っているんでしょう? そんなことはしないわ。神聖冒涜になるもの」
「もしきみが自分の言葉を信じているなら――ぼくはそう思っているが――それなら、きみはこれを憎むはずだ。これはきみを引き戻した……」
「死からね」彼女はまた天井を見つめていたが、その天井に、深遠でしかも滑稽な秘密を嗅ぎ取ったかのように、にっこり笑った。「遠慮なくいってちょうだい。あなたに害はないでしょう」
「眠りからだ」わたしはいった。「人が引き戻されるとすれば、それは死からではない――われわれが常に理解しているような死、われわれが死≠ニいう時にわれわれが思い描く死ではない。もっとも、何百年も前に死んだ〈調停者〉が、他人を蘇生させるためにこの石を通じて働きかけているなんて、ぼくにはとても信じられないと告白せざるをえないがね」
ドルカスは答えなかった。彼女が聞いているかどうかさえわからなかった。
「今きみは、ヒルデグリンのことを話した」わたしはいった。「彼がわれわれを舟に乗せて湖を渡って、アヴァーンを取りに連れていってくれた時のことをね。彼が死についてどういったか、覚えているかい? 死は鳥のよい友達だといったんだよ。たぶんあの時にぼくらは、そのような死はわれわれの想像している死ではありえないと知るべきだったんだろうな」
「もし、それを全部信じるといったら、〈鉤爪〉を持たせてくれる?」
わたしはまた首を振った。
ドルカスはわたしを見ていなかった。だが、彼女はわたしの影の動きを見たにちがいない。いや、たぶん、天井に映っている彼女の心のセヴェリアンもやはり首を振った、というだけのことなのかもしれない。「では、しかたがないわ――わたしは、できればそれを破壊するつもりだったのよ。わたしが本当に信じていることを話しましょうか? 自分は死んでいたと――眠っていたのでなくて、死んでいたと――信じているの。わたしはずっとずっと昔に、小さな店の上の部屋で夫と暮らし、子供たちの面倒を見ながら、一生を終えたのよ。そして、あなたのいう〈調停者〉とは、宇宙の死を生き延びた太古の種族の一つから、大昔にやってきた冒険者だと思うの」彼女は毛布を握りしめた。「教えて、セヴェリアン。彼が今度くる時には、〈新しい太陽〉と呼ばれることになっているんじゃない? そのように考えられない? そして、彼は以前にきた時に、イナイア老の鏡が距離に対して持っているのと同じような力を、時間に対して持っているものを携えてきたと、わたしは信じているの。それが、あなたのその宝石なのよ」
彼女は言葉を切り、頭を回して、挑戦するようにわたしを見た。わたしが黙っていると、彼女は続けた。「セヴェリアン、あなたが槍騎兵を蘇生させたのは、〈鉤爪〉が彼の時間をねじ曲げて、彼をまだ生きている時点に戻したからよ。あなたが友達の傷を半分治したのは、傷が治りかかった時点に、〈鉤爪〉が時間をねじ曲げたからよ。そして、あなたが〈果てしなき眠りの園〉の沼に落ちた時は、〈鉤爪〉がわたしに触れたか、触れそうになったのよ。そして、わたしにとって、時間が、わたしが生きていた時間になったのよ。だから、生き返ったの。でも、わたしは今まで死んでいたの。ずっと長いこと死んでいて、しなびた死体になってあの茶色の水の中に保存されていたのよ。そして、今でもなお、わたしの中には死んだ部分があるわ」
「だれの中にも、死んだ部分は常にあるものだよ」わたしはいった。「それを知っているばかりに、結局、われわれは死ぬんだろう。うんと小さい子供は別にして、だれもみんなそうなんだ」
「わたしこれから帰るつもりなの、セヴェリアン。今それがわかったわ。そして、あなたに話そうとしていたのは、これだったんだわ。帰って、自分がだれだったのか、どこに住んでいたのか、そして、自分に何が起こったのか、どうしても調べたいの。あなたがいっしょに来れないことはわかってるわ……」
わたしはうなずいた。
「そう頼むつもりもないの。来てほしくない、とさえ思っているわ。あなたを愛している。でも、あなたはもう一つの死なのよ。あなたは、湖の中の古い死がそうであったように、わたしといっしょにいて、わたしと友達になってくれた死なのよ。でも、死にはちがいないの。自分の生を探しにいく時に、死を連れていきたくはないわ」
「わかった」わたしはいった。
「わたしの子供はまだ生きているかもしれない――たぶん、年寄りになっているだろうけど、生きているかもしれないわ。どうしても知りたいの」
「ああ」わたしはいった。だが、どうしてもつけ加えずにはいられなかった。「ぼくは死ではないと、きみがいったこともあったぞ。自分は死だと考えていると、他人に思わせてはならないとね。〈絶対の家〉の構内の果樹園の裏にいた時だ。覚えているかい?」
「わたしにとっては、あなたは死だったわ」彼女はいった。「あなたに警告していた罠に、わたしが自分ではまってしまったともいえるわね。たぶん、あなたは死ではないでしょう。でも、あなたはいつまでたっても今のままで、拷問者であり、首斬り役人であり、血まみれの手をしているのよ。あなたは〈絶対の家〉にいた時のことをとてもよく覚えているから、きっと……いや、いえないわ。〈調停者〉が、〈鉤爪〉が、つまり自存神《インクリエート》が、わたしにこんなことをしたのよ。あなたではなくてね」
「何をいいたいんだ?」わたしは尋ねた。
「タロス博士が後で、わたしたち両方にお金をくれたでしょ、あの空き地で。宮廷の職員から芝居のお礼として受け取ったお金よ。そのあと旅をする時に、あなたに全部あげたわね。あれを返してくれる? 必要なの。全部でなくても、少なくとも一部をね」
わたしは図嚢に入っている金をテーブルの上にあけた。金は彼女から受け取った金額と同じくらいか、あるいは少し多かった。
「ありがとう」彼女はいった。「あなたはいらないの?」
「きみほどさしせまって必要になることはない。それに、これはきみのだ」
「明日、出発するわ。もし体が治ったらね。治ろうと治るまいと、明後日には出発するわ。川下に行く舟が一日に何度くらい出るか、あなたは知らない?」
「きみが望む時に出るのさ。舟を川に押し出せばいいんだ。後は川が面倒を見てくれる」
「あなたの言葉とも思えないわね、セヴェリアン。少なくとも、あなたらしくないわ。あなたの話から察すると、お友達のジョナスなら、そんないいかたをしたでしょうけど。それで思い出したんだけれど、今日の訪間者はあなたが最初じゃないのよ。わたしたちの友達の――少なくとも、あなたの友達の――ヘトールが尋ねてきたのよ。これ、あなたには面白くない話でしょ? ごめんなさい。ちょっと話題を変えたかったの」
「やつは楽しんでいるんだ。ぼくを見るのを楽しんでいるんだ」
「あなたが大衆の前で技を披露すると、大勢の人々が楽しむわ。そして、あなた自身もそれをするのを楽しむじゃないの」
「彼らは怖がるためにやってくるんだ。その後で、自分らが生きていることを祝福することができるようにね。大衆は興奮が好きなのさ。死刑囚が取り乱すかもしれないし、何か不気味な事故が起きるかもしれないし、そういうサスペンスが好きなんだ。ぼくは、自分の技術を発揮するのが好きだ。ぼくが持っている唯一の本当の技術をね――仕事を完璧にすすめるのが楽しいのさ。ヘトールは、もっと別のものを求めている」
「苦痛を?」
「そう、苦痛を。しかも、それだけじゃない」
ドルカスはいった。「あなたも知っているけど、彼はあなたを崇拝しているわね。彼はしばらく話していったけれど、あの人、あなたにいわれれば火の中にも飛びこむと思うわ」これを聞いてわたしは顔をしかめたにちがいない。なぜなら、彼女はこう続けたから。「ヘトールについて、こんな話をすると、あなた気分が悪くなるんでしょう? 病人は一人でたくさんね。話題を変えましょう」
「きみのような病人じゃない。ちがうよ。しかし、彼のことを考えると、きまって処刑台の上から見た顔を思い出してしまうんだ。口を開けて、目を……」
彼女は気持ち悪そうに、体をもぞもぞ動かした。「そう、あの目――今夜あの目を見たわ。死んだ目よ。わたしがそんなことをいってはいけないんでしょうけれど。死体の目よ。触ってみると、石のように乾いていて、指で押しても決して動かない目なのよ」
「全然違う。サルトゥスの処刑台から見下ろした時に、彼がいて、その目は躍っていた。しかし、きみは、彼がたいていの場合に浮かべている鈍い目の表情は、死体を思い出させるといった。今までに鏡を覗いたことはないのかい? きみ自身の目は死んだ女の目ではないよ」
「たぶん違うでしょうね」ドルカスは言葉を切った。「美しいと、あなたはよくいってくれたわね」
「生きることが嬉しくないのかい? たとえ夫が死んだとしても。そして、子供が死んだとしても。そして、かつて暮らしていた家が廃墟になっているとしても――たとえ、それが全部そのとおりだとしても――自分がまだこの世に生きていることを、心から喜ぶことはできないのかい? きみは幽霊じゃない。あの廃墟の町で見た亡霊とはちがうんだ。いったとおりに、鏡を見てごらん。それがいやなら、ぼくの顔でも、だれの顔でも覗いて、自分の姿を見てごらん」
ドルカスはさっきワインを飲むために起き上がった時よりも、もっとずっとのろのろと、苦しそうに体を起こした。だが、今度は脚を寝台の外に降ろした。見ると、薄い毛布の下は、裸だとわかった。病気になる前のジョレンタの肌は完全無欠で、お菓子のように滑らかで柔らかかったが、ドルカスの肌には小さい金色のそばかすがあった。ジョレンタのみずみずしい肉体もすばらしかったが、ドルカスのそういう不完全なところがもっと好ましかった。彼女が病気であって、しかも、彼女と別れようとしている今この時に、しゃにむに押し倒したり、自分のために体を開いてくれと頼んだりしたら、ずいぶん罪が深いだろうと思った。しかし、そう思いながらも、それでもなお、彼女を求める欲望が体内にうごめくのを感じた。どんなにある女を愛していても――いや、どんなに愛していなくても――その女をもはや抱けなくなった時に、わたしは最も強い欲望を感じる。しかし、ドルカスに対する気持ちはそれよりずっと強く、もっと複雑だった。ほんの短い間だったが、彼女はわたしのいちばん親密な友だった。そして、われわれがおたがいを占有することが、ネッソスの物置を改造した部屋での熱狂的な欲望から、ここの〈獄舎〉の寝室での長くのんびりした戯れにいたるまでの、二人の愛と友情の、特徴的な行為だったのだ。
「泣いているね」わたしはいった。「ぼくに帰ってほしいのかい?」
彼女は首を振った。それから、無理にでも外に出ようとしていたように思えた言葉が、もはやなくなってしまったかのように、彼女はささやいた。「ねえ、あなたも行ってくれない、セヴェリアン? いえ、つまり、来てくれない? わたしといっしょに来てくれない?」
「それはできない」
彼女はまた狭いベッドに倒れこんだ。今は、もっと小さく、もっと子供っぼく見えた。「わかってる。あなたは組合に対して義務があるのね。またそれを裏切ったら、自分に対して顔向けできないものね。わたし頼むつもりはないわ。ただ、もしかしたらいっしょに来てくれるかもしれないという希望を、捨てきれないだけなの」
わたしは前と同様に首を振った。「ぼくは町から逃げ出さなければならない――」
「セヴェリアン!」
「それも、北に向かってだ。きみは南にいこうとしている。それに、もしぼくらがいっしょに逃げたら、兵士を満載した特使船が追ってくるだろうよ」
「セヴェリアン、何があったの?」ドルカスの顔はひどく平静だったが、その目は大きく見開かれていた。
「女を逃がした。ぼくはある女を絞め殺して、死体をアシス川に投げこむように命じられた。やればできることだった――彼女に対して、本当に、特別な感情があったわけではなかったし、ごく容易にやれたはずだった。だが、彼女と二人だけになると、セクラを思い出した。ぼくらは植えこみの陰の東家《あずまや》にいた。それは水際に建っていた。ぼくは彼女の首に手を回していた。その時にセクラのことを考え、どんなに彼女を逃がしたかったか思い出した。だが、逃がす方法が見つからなかった。この話はきみにしたかな?」
ほとんどわからないくらいかすかに、ドルカスは首を振った。
「あの時は、いたるところに組合の同僚がいた。最短の道筋を通るにしても、五人の同僚の前を通らなければならなかった。しかも、彼らはみんなぼくを知っており、彼女を知っていた」(今や、セクラはわたしの心の一隅で、絶叫していた)「この場合、ぼくが実際にしなければならなかったことは、グルロウズ師が彼女を連れてこいと命令したと、彼らにいうことだったろう。しかし、そうすれば、ぼくは彼女といっしょに行かねばならなかったろう。それでもなお、ぼくは組合に残ることのできる方策を考え出そうとしていた。彼女に対するぼくの愛情が、充分ではなかったのさ」
「もう過ぎたことよ」ドルカスはいった。「それにね、セヴェリアン、死はあなたが思うほど恐ろしいものではないわ」われわれの役割はいつの間にか逆転していた。ちょうど、交互に慰めあう、二人の迷子のように。
わたしは肩をすくめた。ヴォダルスの宴で食べた亡霊はほとんど鎮まっていた。セクラの長く冷たい指がわたしの脳に触れているのを、感じることができた。自分の頭蓋を裏返して彼女を見ることはできないけれども、彼女の深い菫色の目が自分の目の後ろにあることを自覚していた。彼女の声で話さないためには、努力が必要だった。「とにかく、ぼくはその女とあの東家《あずまや》にいて、ほかに人はいなかった。彼女の名前はサイリアカだった。彼女がペルリーヌ尼僧団の所在を知っていることがわかっていた。いや、知っているのではないかと、ぼくは思っていた――サイリアカは一時、尼僧団のところにいたことがあるんだ。器具を必要としない、音のしない折檻の方法がいくつかある。見栄えはしないが、効果は充分だ。いわば、体の中に手を差し入れて、客人の神経を直接操作するんだ。ぼくはハンババの小枝≠ニいう技を使おうとした。ところが、指を触れもしないうちに、彼女は白状してしまった。ペルリーヌ尼僧団はオリサイア峠の近くで、怪我人の手当てをしているというんだ。そして、わずか一週間前に、尼僧団の知り合いから手紙をもらったというんだ……」
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12 激流に乗って
東家《あずまや》には立派な屋根があったが、側面は格子組だけで、目隠しの役目は、その細い木組ではなくて、壁に沿って植えられている高い羊歯が果たしていた。月光が射しこんでおり、さらに多くの光が外の激流に反射して戸口から射しこんでいた。サイリアカの顔に恐怖の色が見えた。そして、唯一の希望は、自分に対してわたしがいくらかでも愛情を持ちつづけることだと考えていることがわかった。それならば、彼女に希望はないと、わたしは思った。なぜなら、わたしは何も感じなかったからである。
「独裁者の野営地だと」彼女は繰り返した。「アインヒルディスがそう書いてきたのよ。オリサイアという場所よ。ギョルの水源のそばでね。でも、用心しなくてはだめよ、もし本を返しにいくならね――北方のどこかに退化人《カコジエン》が着陸したとも、いっているから」
わたしは彼女が嘘をついているかどうか見きわめようとして、じっと見つめた。
「アインヒルディスがそういったのよ。退化人たちは独裁者の目に入るのがいやだから、〈絶対の家〉の鏡を使いたくないと思ったにちがいないわ。独裁者は退化人の僕《しもべ》であるのに、時々、退化人を自分の僕であるかのように扱うから」
わたしは彼女を揺すった。「冗談をいっているのか? 独裁者が退化人に仕えているんだと?」
「お願い! ねえ、お願い……」
わたしは、手を放した。
「みんなそうなのよ……エレボスに誓って! ねえ許して」彼女はすすり泣いた。彼女が横たわっている場所は暗い陰になっていたが、尼僧団の緋色の制服の端で目と鼻を拭いているのがわかった。「みんな知っていることよ。労働者と平民は別としてね。大郷士《アーミジャー》はみんな、上流人さえも大部分、そしてもちろん高貴人《エグザルタント》は昔から知っていることなのよ。わたしは独裁者を見たことはないけれど、聞いたところでは、彼、つまり〈新しい太陽の副王〉は、ほとんどわたしと同じくらいの身長だそうね。もし彼の後ろに千門もの大砲がひかえていなければ、そんな人が支配するのを、誇り高い高貴人たちが許すと思う?」
「ぼくは会ったことがある」わたしはいった。「そして、やはりそのようなことを考えた」わたしはサイリアカがいったことを確認するために、セクラの記憶を探ってみた。しかし、単なる噂話しか出てこなかった。
「独裁者のことを話してくれない? 最後のお願いよ、セヴェリアン――」
「いや、今は話さない。しかし、なぜ退化人がぼくにとって危険なんだ?」
「彼らの居場所を突き止めるために、独裁者がきっと偵察隊を差し向けるわ。そして、たぶんここの執政官もそうすると思うのよ。彼らのそばで見つかる者はだれも、彼らのためにスパイをつとめていると思われるでしょう。それどころか、悪くすれば、〈不死鳥の玉座〉に反逆する陰謀に彼らを引き入れようとしてそのへんをうろついていると思われるでしょう」
「わかった」
「セヴェリアン、殺さないで。お願い。わたし、良い女じゃなかったわ――これまで決して良い女ではなかった。ペルリーヌ尼僧団から去ってこのかたね。でも、今、死に対面することはできないわ」
わたしは彼女に尋ねた。「とにかく、何をやったんだ? なぜアブディーススはきみを殺したがるんだ? なぜだ?」首の筋肉の強くない人を絞め殺すことは、ごくたやすい。そして、わたしはすでにその仕事をするために、腕を曲げていた。だが、それと同時に、できるものならこの方法ではなくて、テルミヌス・エストを使うことが許されればよいのに、と思った。
「ただ、あまり大勢の男を愛したからよ。夫でない男たちをね」
それらの抱擁の記憶に揺り動かされたかのように、彼女は体を起こし、わたしにすり寄ってきた。月光がまた彼女の顔に落ちた。その目は、こぼれ落ちない涙で光っていた。
「彼はわたしに残酷だったの。とても残酷だったのよ。結婚の後はね……だからわたしは仕返しに恋人を作ったのよ。そして、その後で、また別の人を……」
(彼女の声はほとんど聞こえないほど小さくなった)
「そうすると、しまいには新しい恋人を作るのが習慣になるの。それは、年月を押し戻し、まだ命のすべてが指の間からこぼれ落ちてしまったわけではないと自分に示す手段であり、また、自分はまだ男が贈り物を持ってやってくるほど若く、まだ男が髪を撫でたがるほど若いと自分に示す手段なのね。結局そのために、わたしはペルリーヌ尼僧団を去ったのね」彼女は言葉を切り、息を整えているように思われた。「わたしが何歳だか、あなた知っている? いわなかったかしら?」
「聞いていない」わたしはいった。
「では、いわずにおくわ。でも、あなたの母親といってもおかしくないくらいなのよ。一、二年早く妊娠していたら、その可能性はあったのよ。わたしたちはずっと南方にいたの。そこには青と白だけの大きい氷が黒い海に浮いているの。そこに小さな丘があり、わたしはその上に立って景色を眺めたものよ。そして、夢を見たの。わたしは暖かい着物を着て、食べ物と訓練した鳥(実際にはそういう鳥を飼ったことはなく、ただ欲しいと思っていただけだけれど)を持って、その氷のところに舟を漕いでいったわ。そしてわたしだけの氷の島に乗って、北方の椰子の生えた島までいくの。その島で、世界の夜明けに建てられた城の廃墟を発見するはずなのよ。それから、あなたが生まれたでしょう、たぶん、わたしが一人でその氷の上にいる間にね。想像上の旅に、想像上の子供が生まれても、おかしくないでしょう? あなたはミルクよりも暖かい水の中で魚を取ったり、泳いだりしながら成長したでしょうに」
「不実の罪で殺される女はない、夫の手にかかるなら別だが」わたしはいった。
サイリアカは溜息をつき、その夢がすべり落ちた。「このあたりに上陸した大郷士の中で、夫は執政官を支持する少数派の一人なの。ほかの人々は、執政官にできるだけ従わず、折衷人の間に不穏な空気を醸成することによって、独裁者にその更迭を迫ることができるのではないかと考えているの。わたしは夫を笑い物にしてしまったわ――それは、とりもなおさず彼の同志や執政官を侮辱したことになるのよ」
わたしの内部にいるセクラの目で、わたしはその田舎の別荘を見た――なかば荘園、なかば要塞で、二百年間ほとんど変わっていない部屋がたくさんあった。わたしは貴婦人たちの忍び笑いを聞き、狩人の足音を聞き、窓の外の角笛の音、大型猟犬の低い吠え声を聞いた。それはセクラが引退を望んでいた世界だった。そして、わたしはこの女に憐れみをおぼえた。彼女は広い世間を知らないうちに、その隠居所に押しこめられてしまったのだ。
ちょうどタロス博土の芝居で、高い裁判官席のある審問室が、〈絶対の家〉の最下層のどこかに潜んでいるように、われわれはそれぞれの心の最も汚れた独房の中に、価値の下落した現行通貨で過去の負債を懸命に支払う、一つのカウンターを持っている。そのカウンターで、わたしはセクラの命の代償としてサイリアカの命を差し出した。わたしは彼女を東家《あずまや》から連れ出した。すると彼女が、水際で殺されるのだな、と思ったことがわかった。わたしは殺す代わりに、川を指さした。
「この急流は南に流れて、ギョルという大河に合流し、それから次第に緩やかになってネッソスに流れていき、最後に南の海に流れこむ。迷路のようなネッソスの町では、捕まらずにいようと思えば、どんな逃亡者も捕まらずにいることができる。なぜなら、あそこには街路や中庭や、棟割り長屋が数限りなくあり、あらゆる地方のあらゆる顔が何百回でも見られるからだ。もし着のみ着のままで、友人や金がなくても、あそこにいくことができれば、生き延びたいか?」
彼女は青白い片手を喉に当てて、うなずいた。
「まだ、キャプルスの壁に、船の通行を妨げる鉄格子は降りていないだろう。真夏までは、あそこの急流に逆らって攻撃をしてくる心配はないと、アブディーススは知っているから。だが、きみはアーチの下をものすごい早さでくぐり抜けなければならないし、溺れるかもしれない。たとえネッソスに着いたとしても、パンのために働かなければならないだろう――たぶん他人のために洗濯したり、料理をしたりして」
「わたし髪を結ったり、服を縫ったりできるのよ。あなたがたは、最後の、最も恐ろしい拷問として、釈放の話を囚人にするということを、時々耳にするわ。それをやっているなら、お願いだからやめて。もう、やりすぎよ」
「カロイヤー([#ここから割り注]本来は、ギリシヤ正教会の聖職者[#ここで割り注終わり])とか、そのほかの宗教関係の役人は、それをやる。われわれの言葉を信じる囚人はいない。しかし、次のことだけは念を押しておきたい。きみは自宅に帰ったり、執政官に赦免を求めたりするような馬鹿なことはしないだろうな」
「わたしは馬鹿よ」サイリアカはいった。「でも、しないわ。わたしのようなこんな馬鹿でも、それはしないわ、絶対に」
われわれは水際に沿って、執政官への客の入来を受け付ける歩哨の立っていた階段にいき、それから小型の派手な色彩の遊覧ボートのところにいった。わたしは兵士の一人に、試しに川に乗り出してみるつもりだと言い、それから、流れに逆らって戻ってくるために、漕ぎ手を雇うのは問題ないだろうかと尋ねた。すると彼は、よかったらボートをキャプルスの壁のところに乗り捨てて、辻馬車で戻ってきてはどうかといった。その兵士が同僚との会話を続けるために戻っていくと、わたしはボートを調べるふりをし、衛兵所の松明から最も遠いボートのもやい綱を解いたのである。
ドルカスがいった。「とすると、あなたはこれから逃亡者として北にいくのね。そのあなたから、わたしはお金を取り上げてしまったのね」
「金はたいしていらないよ。もっと稼ぐこともできるだろうし」わたしは立ち上がった。
「半分くらいは持っていって」わたしが首を振ると、彼女はいった。「では、二クリソス取って。もし最悪の事態が重なっても、わたしなら春をひさぐこともできるし、盗みもできるから」
「もし盗みをすれぽ、手を切り取られるぞ。ぼくが自分の食事のために他人の手を切り取るほうが、きみがきみの食事のために手を差し出すよりも、いいよ」
わたしは行きかけた。すると彼女はベッドから飛び出して、マントをつかんだ。「気をつけて、セヴェリアン。何かが――ヘトールは火蜥蜴《サラマンダー》といっていたけれど――何かが町をうろついているわ。なんだか知らないけれど、そいつは犠牲者を焼き殺すのよ」
わたしは、火蜥蜴《サラマンダー》よりも、執政官の兵士のほうがずっと恐ろしいといい、彼女が何もいえないでいるうちに立ち去った。しかし、前に船頭から、崖の上に通じていると聞いていた西の川岸の狭い道をせっせと上っていくうちに、火蜥蜴《サラマンダー》よりも、執政官の兵士よりも、山の寒さや山の野獣のほうが恐ろしいのではないかと思いはじめた。また、ヘトールのことも考え、彼はどうやって、そしてなぜ、こんな北方まで自分を追ってきたのだろうと思った。しかし、これらの事柄を考える以上に、わたしはドルカスのことを考え、彼女はわたしにとってなんだったか、そしてわたしは彼女にとってなんであったかと考えた。ふたたび彼女を見かけるのは、ずっと先のことになるのだが、わたしはなんとなく、そうなると感じていたように思う。初めて〈城塞〉を出た時、わたしは笑顔を他人に見られないように頭巾を被ったものだった。しかし今度は、頬を流れる涙を隠すために、顔を覆った。
〈獄舎〉に水を供給する貯水池は、白昼に二度ほど見たことがあったが、夜に見るのは初めてだった。昼間には、それは小さく見え、一軒の家の土台ぐらいの大きさしかない長方形の池のようで、深さも墓ぐらいしかないように思われた。だが、欠けた月の光で見ると、それはまるで湖のように見え、〈鐘楼〉の地下の貯水池と同じくらい深いように思われた。
その貯水池は、スラックスの西の縁を守る城壁からわずか百|歩《ペース》しか離れていなかった。その城壁には塔がいくつもあった――その一つは貯水池のすぐそばにあり、この時までに守備兵が、わたしが町を脱け出そうとしたら逮捕するように命令を受け取っていたことは疑いない。崖に沿って歩いていくと、時々、城壁の上をパトロールしている兵士の姿がちらちら見えた。彼らの槍は点火されていなかったが、星空を背景にして、羽根飾りのついた兜が見え、ときにはそれにかすかに明かりが反射して見えたりした。
今わたしは、煤色のマントと頭巾が彼らの目を欺くのを頼りにして、うずくまって市街を見下ろした。キャプルスの壁のアーチの、鉄の落とし格子が降ろされており――それに、アシス川の水が当たって逆巻いているのがわかった。これで、すべての疑問が解けた。サイリアカは捕まってしまったのだろう――いや、逃亡を目撃され、すぐさま報告されたのかもしれない。アブディーススは彼女を捕えようと非常な努力をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。わたしにとって最も妥当だと思われるのは、彼はサイリアカの逃亡を見逃し、そうすることによって彼女に人の注意が集まるのを避けるだろう、ということだった。しかし、可能ならば、わたしを逮捕したいと思っていることだろう。そして(実際にわたしがそうであるように)、彼の支配への反逆者として処刑したいだろうと思った。
わたしは水から水に視線を移した。つまり、アシス川の激流から、静かな貯水池に。その水門を開く言葉を知っていたので、それを使った。大昔の機構はまるで奴隷の魔物によって動かされるかのように、ずずっと巻き上がり、水がほとばしった。その流れはキャプルスの壁の下のアシス川の激流よりも早かった。このずっと下では、囚人たちがその轟音を聞き、入り口に最も近い者の目には、奔流の白い泡が見えるだろう。立っている者はたちまちくるぶしまで水に漬かるだろう。そして、眠っていた者はあわてて立ち上がるだろう。次の瞬間には、全員が腰まで水に漬かるだろう。だが、彼らはそれぞれの場所に鎖で繋がれており、弱っている者は強い者に支えられ――一人も溺れることはない(と、わたしは望む)。入り口の獄吏は、崖の上の貯水池をだれが悪戯したのかと、持ち場を離れて崖の上に通じる急な坂道を駆け上がってくるだろう。
そして、最後の水が流れ落ちてしまうと、獄吏の足に撥ね飛ばされた石が斜面を転がり落ちていく音が聞こえた。わたしは水門をもとどおりに閉めると、水が流れ落ちたばかりの、ほとんど垂直なぬるぬるした水路に身を潜めた。この中では、もしテルミヌス・エストを持っていなければ、もっとずっと容易に移動することができただろう。曲がりくねった煙突のような管の一方の壁に背中を押しつけて体を支えるために、テルミヌス・エストを肩から外さなければならなかった。しかも、それをつかむために片手を使うわけにはいかなかった。わたしは飾帯を首に掛け、鞘に入った剣をぶら下げて、その重量をかろうじて支えた。二度、足を滑らせたが、そのたびに、次第に細くなる水路の曲がり角に救われた。そして、ついに、あまりに長い時間がたって、もうきっと獄吏たちが持ち場に戻ってしまったと思われた頃、赤い松明の火が見えた。それで、わたしは〈鉤爪〉を引き出した。
それは、それ以来二度と見たことがないような明るさで燃えた。目もくらむほどの明るさだった。わたしはそれを高く掲げて、手が焼けて灰になってしまうのではないかとばかり思いながら、〈獄舎〉の長いトンネルを下っていった。わたしを見た囚人はいないと思う。〈鉤爪〉はちょうど、夜のランタンの光が森の鹿の目を射すくめるように、彼らを射すくめた。彼らはぽかんと口を開け、髭の生えた赤ら顔を上に向け、金属を切り抜いた影絵のように鋭い、煤のように黒い影を後ろに落として、身動きもせずにじっとしていた。
トンネルのいちばん下には――そこから水が流れ出して、キャプルスの壁の下に通じる緩やかに傾斜した下水に流れこむのだ――最も弱った囚人と、最も病気のひどい囚人がいた。そして、〈鉤爪〉が彼ら全員に及ぼした力を最も明瞭に見たのは、この場所だった。最古参の獄吏も真っすぐに立っているのを見たことがない囚人が、今は男も女もみんな背が伸び、力に溢れているように見えた。わたしは彼らに手を振って挨拶した。もっとも、だれもわたしの姿を認めたものはなかったろう。それから、わたしは〈調停者の鉤爪〉を小さな革袋に戻した。そのあとで、ウールスの表面の夜すら、それに較べれば昼間と思えるほどの暗闇に、わたしは飛びこんだ。
どっと流れた水で、下水はすっかり綺麗になっていた。そして、放水路よりも下水を下るほうがずっと容易だった。なぜなら、それはもっと狭くはあったが、傾斜が緩やかで、頭を下にしてすばやく這い下りることができたからである。いちばん下には格子がはまっていたが、それは、前の巡察の時に見ておいたように、ほとんど錆がまわっていた。
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13 山中へ
キャプルスの壁から這いだして灰色の光の中に入った時には、春が終わり夏が始まっていた。といっても、高地では太陽が天頂に近くなる時を除いて、決して暖かくはならなかったけれども。それでもわたしは、人家が肩を寄せあっている谷間に入っていく気にはならず、なるべく折衷人《エクレクテイクス》らしく見えるようにマントを折り畳んで片方の肩に掛けて、一日じゅう歩いて山中に分け入った。また、テルミヌス・エストを分解して鍔《つば》を抜き取り、組み立てなおして、遠くから見ると鞘に入った剣が杖に見えるようにした。
昼ごろには地面は岩そのものになり、ひどくでこぼこになり、歩くというよりは、むしろ攀《よ》じ登るといった状態になった。二度ばかり、下の方に鎧のきらめきが見え、見下ろすと、たいていの人ならとても歩けるとは思えないような細道を、幾組かの騎馬兵が真紅の軍隊マントをなびかせて、駆足《キャンター》で下りていくのが見えた。周囲には食べられる植物はなく、天空を舞っている猛禽類以外には捕獲すべき鳥獣も見当たらなかった。たとえそういうものを見つけたとしても、わたしの剣では仕留めることは不可能だし、ほかに武器はなかった。
こう書くと、まったく絶望的だと思われるかもしれないが、実際は、天の帝国の広大なパノラマのような山の景色に接して、わたしは興奮していた。子供には景色を鑑賞する力がない。なぜなら、想像力の中に、それぞれ感情や環境を伴った同様の景色の蓄えがなく、精神的な深みを欠いた景色を知覚するだけだから。しかし今、わたしはその雲の冠を戴いた峰々に、〈剣舞《マタチン》の塔〉の円錐頭《ノーズコーン》から見たネッソスの眺めや、アシーズ城の狭間から見たスラックスの眺めを重ねあわせて見た。そして、はた目には惨めな状態だろうが、わたし自身は、気も遠くなりそうな喜びを覚えたのである。
その夜はごつごつした岩の陰に、体を丸めて過ごした。〈獄舎〉で着替えをしてこのかた、食事をしていなかった。それは今ではもう、何年とはいわないまでも、何週間も前のことのように思えた。事実、古びたキッチンナイフを盗み出して、哀れなセクラのところに持っていってやり、独房の扉の下から、彼女の血が、真っ赤なみみずが這い出すように、滲み出してくるのを見てから、実際はほんの数ヵ月しかたっていないのだ。少なくとも、岩の選びかたはよかった。岩は風を防いでくれ、その陰に留まっている限りは、氷穴の中のような静かな極寒の空気の中で憩うことができた。しかし、どちら側かに一、二歩あゆみ出れば、たちまちまともに強風を浴びて、一瞬にして骨の髄まで凍えてしまうのであった。
そこで、目覚めた後に残るような夢も見ずに、約一刻ほど眠ったと思う。目が覚めると、ヘトールがわたしの上に屈みこんでいたような感じがした――これは夢ではなく、疲れている時とか怯えている時などに人間を訪れる根拠のない知覚、または疑似知覚である。わたしは、彼の悪臭のある氷のように冷たい息を顔に感じたように思った。もはや鈍くない、燃えるような彼の目がわたしの目を覗きこんでいるように感じた。すっかり目覚めてから、彼の瞳だと思った光点は、実は、薄い澄んだ空気の中で非常に明るく輝いている二つの大きな星だとわかった。
わたしは目を閉じて、これまでに知った最も暖かく快適な場所を思い出すことによって、ふたたび眠ろうと努力した。組合の塔の中で与えられたあの職人の居室。それは徒弟の宿舎から移ってくると、プライバシーも保たれ、毛布も柔らかくて、とても豪華に思われたものだった。一度バルダンダーズと共にしたベッドでは、彼の幅の広い肩が、まるでストーブのように熱を放射していたものであった。〈絶対の家〉のセクラの居室。ジョナスと泊まっていたサルトゥスのあの居心地の良かった部屋。
どれも効果はなかった。わたしは二度と眠ることができなかった。そうかといって、暗がりで崖から足を踏み外す恐れがあったので、先に歩いていく勇気もなかった。だから、その夜の残りは、星空を眺めて過ごした。わたしが最も年少の徒弟だった頃にマルルビウス師が教えてくれた星座の壮大な眺めを、初めて実感した。昼間は、その上を雲が動いていくように見える静止した土台であり、夜は、ウールスそのものの運動の背景になる空は、なんと不思議なものだろう。夜空を見ていると、まるで船乗りが潮の流れを感じるように、われわれは体の下でウールスが回転するのを感じることができる。この夜、悠然たる回転感があまりに強かったので、わたしはその長くたゆみない動きに、ほとんど眩暈《めまい》を感じそうだった。
また空は、宇宙が永久に落ちこんでいく底なしの穴である、という感じも強かった。世間の人が、あまり長く星を見つめていると、引きこまれそうな感じがして怖くなるというのを聞いたことがある。わたし自身の恐怖は――実際に恐怖を感じたのだが――遠い太陽に関するものだけでなく、むしろ、その大きく開いた虚空そのものにあった。あまり怖いので、凍えた指で何度か岩にしがみついたほどだった。なぜなら、ウールスから滑り落ちるにちがいないと思われたからである。人が屋根のない部屋に文句もいわず寝るほど温和な気候の土地はない、というくらいだから、だれでも多少はこういう感じを抱いているにちがいない。
すでに書いたように(たぶん、ドルカスと話をして以来、ヘトールが心を大きく占めていたからだと思うが)、わたしはヘトールに顔を見つめられていると思いながら目覚めた。だが、目を開けてみると、その顔には二つの明るい星以外に、なんの造作も残っていなかった。この時初めて、わたしは星座を選びだして見る気になった。それらの名称はしばしば本で読んでいたが、空のどの部分にあるかについては、ひどく不完全な知識しかなかった。最初はすべての星が、どんなに美しいにしても、まるで焚き火から舞い上がる火の粉のような、特徴のない光の集団にしか見えなかった。もちろんすぐに、それらには光度の差があり、色も決して一様ではないことがわかってきた。やがて、まったく意外なことに、長い間それらを見つめているうち、一匹の翼龍の形が、まるでその体全体にダイアモンドの粉をまぶしでもしたように、はっきりと飛び出して見えてきた。一瞬にしてそれは消え去った。だが、またすぐに現われた。そして、それとともにほかの形が見えてきた――聞いていた星座に対応するものもあれば、まったくわたし自身の想像力の産物と思われるものもあった。とりわけ両頭蛇、つまり胴体の両端に頭のある蛇の形が、はっきりと見えた。
これらの天空の動物たちが目に飛びこんでくると、わたしはその美しさに圧倒された。だが、それらの形があまりにもはっきりと目に焼きついて(たちまち、そうなってしまったのだが)、もはや意志の力では消し去ることができなくなった。すると今度は、彼らが蠢《うごめ》いている深夜の深淵に落ちこむのではないかという恐怖が生まれた。しかしこれは、他の恐怖のように単純な物理的、本能的な恐怖ではなくて、むしろ、動物や怪物の荒々しい絵が燃える太陽で描かれている宇宙、という観念に対する一種の哲学的な恐怖なのであった。
わたしはマントで頭を包んでしまうと(発狂しないために、そうせずにはいられなかった)、それらの太陽の回りをまわっているいろいろな世界のことを考えはじめた。それが存在することは、だれでも知っている。多くは、ただの果てしない岩の平原だけれども、中には、氷の天体とか、アバドンがそうだといわれているように、熔岩の川が流れる灰の丘の連なる天体もある。しかしほかにもいくらか条件の良い世界がたくさんあって、人類の子孫や、少なくともわれわれ自身とそれほど違わない生物が住んでいる。最初わたしは、緑の空とか藍色の草とか、そのほかウールス的世界以外のものを考える心が空想しがちの、ありとあらゆる子供っぽい風変わりなものを思い描いた。しかし、やがてこれらの幼稚な空想にも飽きて、その代わり、われわれのものとはまったく異なる社会や思考の方法を考えはじめた。住民のすべてが、自分らは植民者のただ一組の夫婦の子孫であることを知っており、たがいに兄弟姉妹として付きあっている世界。名誉という通貨しかなくて、めいめいが、社会を救った男または女と交際する資格を得るために働いている世界。人類と野獣との長い戦いがもはやおこなわれていない世界。これらの考えとともに、何百もの新しい考えが浮かんできた――たとえば、みんながみんなを愛していたら、正義はどのようにして考量され与えられるのだろうか、とか、知覚力のある動物は決して殺さずにおこうという人々は、どうやって靴をはき、食べ物を取るのか、とか。
わたしは幼年時代に、月の緑の円板が実は天空に浮かぶ一種の島であって、その色は、今では記憶もさだかでない古い時代に、最も初期の人類が植えた森林から発するものであることを初めて理解した時に、そこに行く意志を固め、それから、その後知るようになったほかの宇宙のほかの世界のすべてを目標に加えたものであった。しかし、成長の代償として、その希望を放棄してしまった(のだと思う)。なぜなら、成長するにつれて、自分には手の届かないほど社会的地位が高い人でなければ、ウールス脱出は不可能らしいと知ったからである。
今、この昔の憧れが再燃した(幼い徒弟時代のほうが、こうして逃亡者として追われる境遇よりも、星界を空想する機会が多かったのは確かだから)。この気持ちは年月の経過とともに次第に滑稽なものに思われてきた。しかしその間に、欲望を可能なものだけに限定することの愚かさをも悟ったのであった。だから、今の気持ちのほうがはるかに強烈だった。そして、どうしてもいくぞと決心した。これから命ある限り、どんなチャンスでも、それがどんなに小さいものであっても、絶対に見逃さないように夜の目も見ずに注意していようと思った。すでに一度は、イナイア老の鏡のところに偶然に行っている。そして、わたしよりもずっと賢いジョナスは、ためらうことなく光子の潮に身を投じた。あれらの鏡の前にわたしがふたたび立つことが決してないと、だれがいえようか?
そう考えると、わたしはマントを頭からむしり取り、心を固めて星空を見上げた。ところが、すでに日光が山頂を越えて射しこんでいて、星々の光はほとんど見えなくなっていた。頭上に不気味に懸かっていた巨人たちの顔は、今はただの、ずっと昔に死んだウールスの支配者たちの、歳月の経過とともにやつれ、頬が雪崩《なだれ》となって欠け落ちた顔になっていた。
わたしは立って、伸びをした。前日のように、食物なしに今日を過ごすことができないのは明らかであり、また、前夜のように、マント以外に体を覆うものもなしに今夜を過ごすことができないのは、いっそう明らかだった。こうして、まだ人家のある谷間に下りていく気にはならなかったものの、下の斜面に延々と連なって見える高い森林に向かって、歩きはじめた。
そこに着くのに、ほとんど午前中いっぱいかかってしまった。ついに、森林の前触れである白樺の藪の中に下り立った。森林の奥の方は、勾配は予想以上にきつかったが、地面はいくらか凹凸が少なく、したがって土は乏しいながらもいくらか分量が多くて、かなり高い樹木が生えており、木と木との間隔はそれらの幹の太さとほとんど変わらないくらいに密生していることがわかった。それらはもちろん、セフィススの南岸で後にした闊葉硬木の熱帯樹林ではなくて、大部分が樹皮の荒い針葉樹で、丈の高いまっすぐな幹をもった木だった。それらは、それだけの樹高と生命力をもちながら、山の日陰を避けるようにして傾いて生えており、少なくとも四本に一本は風と稲妻との戦いの傷をあからさまに見せていた。
(都会人が浅はかにも信じているように)わたしは樵《きこり》か猟師に出会って、荒れ地で外来者にだれもが提供するような親切な扱いを受けるだろうと期待していた。しかしその希望は、とうのむかしに消えていた。何度も何度も立ち止まって、斧の音か猟犬の吠え声が聞こえないかと耳を澄ました。しかし、静けさしかなかった。実際、これだけ樹木があれば、大量の木材が取れるはずなのに、伐採の跡はまったく見当たらないのだ。
ついに、氷のように冷たい水が木々の間を縫って流れる小川のほとりに出た。両岸には丈の低い柔らかな蕨《わらび》と毛髪のように細い草が生えていた。わたしは腹いっぱいに水を飲むと、小さな滝や淵を次々に作りながら流れていく川に沿って、半刻ほどのあいだ山腹を下っていった。見たところ合流する川もないのに、しだいしだいに川が大きくなっていくのを見て、きっと昔の人もこうして驚きながら歩いていったのだろうなあ、と思いながら。
やがて、水量が増して、木々さえも安全に立っていることができないくらいの流れになった。そして前方に、少なくとも幹の直径が四キュビットもある木が、根元を浸食されて、川を横切って倒れているのが見えた。危険を告げる音も聞こえなかったので、わたしはあまり注意を払わずに近づいていき、突き出ている根をつかんで上に登った。
次の瞬間、あやうく空気の大海に転げ落ちそうになった。ここの高さに較べれば、失意のドルカスを見下ろしたあのアシーズ城の胸壁もただの欄干にすぎず、これに匹敵できる人工物といったら、ネッソスの〈壁〉しかないだろう。小川は断崖から音もなく落下して、風に吹き飛ばされて霧になり、消滅して虹になっていた。下の木々は、子供に甘い父親が作ってやった玩具の森とでもいったところで、その向こうの縁に小さな畑があり、小石ほどの大きさの一軒の家が見え、白い煙が一筋立ち昇っていた。その煙は、崖から落下して消えてしまっている水のリボンの幽霊ででもあるかのように、ねじれながら空中に昇って、やはり虚空に消えていた。
最初、断崖を下ることはごく容易に思われた。なぜなら、わたしは倒木の上に飛び乗ったはずみに、その向こう側に飛び出しそうになり、その木は崖の縁から空中になかば突き出していたからである。しかし、いざバランスを回復してみると、それは不可能に近いとわかった。岸壁は急峻で、見渡すかぎり広大な範囲に及んでいた。もし綱を持っていれば、おそらく、それを伝わって下に降り、夜になるずっと前にその家にたどり着くことができただろうが、もちろんそんなものはなかった。あったにしても、ここを降りるのに必要なものすごい長さの綱に身を託す気には、なかなかなれなかっただろう。
しかし、しばらくの間、崖縁を歩きまわって調べているうちに、ついに一筋の小道を発見した。ひどく急で、狭い道だったが、間違いなく使われている形跡があった。そこを下っていく間の話は、くどくどしないことにしよう。おわかりだろうが、この時にはとても興味深いように思われても、実際には、この物語とほとんど関係がないのだから。道があちこち曲がりくねるにつれて、右手になったり左手になったりする崖の表面と、道そのものにだけ注意を集中することを、まもなく覚えた。始めから終わりまで急な下り道で、幅は一キュビットにも満たなかった。時には、道は岩肌にじかに刻まれた一連の下りの階段となり、また、ある場所では、手と足をかける穴になり、そこを梯子を降りるようにして降りていかねばならなかった。これらは――客観的に見れば――以前、夜に、猿人の坑道の入り口で、よじ登ったり降りたりしたあの岩の割れ目と較べれば、はるかに容易だった。少なくとも、今は耳もとで炸裂する弩《いしゆみ》の矢は飛んでこなかった。しかし、高さは百倍もあって、目が回りそうだった。
おそらく、反対側の奈落を無視するように必死の努力をしていたからだろうが、わたしは、自分が這い下りている世界の地殻の広大な切断面の標本を、痛いほど意識しはじめた。太古には――昔パリーモン師から渡された教科書で読んだのだが――ウールス自身の心臓が生きていた。そして、その生きている核の変動によって、平野が泉のように噴出し、また、昼間に見た時には一続きの大陸であったものが、一夜にして割れて、海と島々が生じることもあった。しかし、もう今は彼女は死んで、冷えて、固まったマントルの中でしなびてしまったといわれている。ちょうど、ドルカスの話にあった放棄された家のどれかで、老婆の死骸が、静止した乾燥した空気の中でミイラ化して、衣服がその上に落ちこんでいるように。ウールスも、それと同じだというのだ。そして、ここでは一つの山の半分が、残りの半分から脱落して、少なくとも一リーグは陥没していた。
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14 未亡人の家
ジョナスとともに数日間滞在したサルトゥスで、わたしは職歴の二番目と三番目の公開斬首刑を執行したのだが、あそこでは鉱夫たちが、金属屑や建物の石材や、ネッソスの〈壁〉が建設される以前の、忘れられて何千年にもなる文明の遺物さえも略奪し、利用していた。どのようにしてやるかというと、山腹に細い孔を穿《うが》ち、遺物の豊富な層を掘り当てるか、または(トンネルの掘り手が特に運が良ければ)、そのまま既成の美術品展示場として使えるような建造物が残されている建物を掘り当てるのである。
サルトゥスであれほど苦労してなされていたことが、わたしが今這い下りている断崖では、その気になれば、なんの苦労もなくおこなわれただろう。わたしの肩のところには、過去が、すべての死者と同様まったく無防備に露出していた。あたかも、山の崩壊によって時間そのものが露出したように。崖の表面のところどころに化石になった骨――巨大な動物の骨や、人間の骨――が突き出ていた。また、そこには、森林がみずからの死者――つまり、時が石に変えてしまった切り株や大技――を埋葬していた。だから、わたしは下りていきながら、ひょっとしたらウールスは、われわれが想像しているように、その娘である樹木よりも年を取っていないのではないかと思い、また、樹木が太陽の面前の虚空に生えるところを想像し、木々がたがいに根を絡みあわせ、枝を絡みあわせて、ついにその蓄積がウールスになるさまを思い描き、また、それらは彼女の衣のけば[#「けば」に傍点]にすぎないとも考えた。
それらよりも深いところに、人類の建物や機械類が埋もれていた(もしかしたらほかの種族のものも同様にそこに埋もれていたかもしれない。なぜなら、わたしが持ち歩いているあの茶色の本の中のいくつかの物語は、このウールス上に、われわれが退化人《カコジエン》と呼ぶ生物の植民地があったことを暗示しているからである。もっとも、実際には彼らは単一の種族ではなく、それぞれ独自の特徴を持つ無数の種族から成り立っていたのだが)。ここには、銅が赤く、銀が白いというのと同じ意味で、緑の金属や青い金属があった。それらの色とりどりの金属が、芸術作品として形成されたのか、それとも、不思議な機械の部品として形成されたのかもわからないほど、奇妙な形に作られていた。おそらく、これら想像を絶する種族の中には、実際そのような区別をしない種族もいることだろう。
ほんの半分ほど下りたある部分で、断層の線が偶然に、何か巨大な建物らしいもののタイルの壁と一致した。それで、わたしがたどっている風の吹きすさぶ小道が、その上を横切っていた。それらのタイルがどんな模様を描いているか、わたしにはどうしてもわからなかった。なぜなら、崖を下りていく時にはあまりにも近すぎて見ることができず、ついに根元に下り立った時には、あまりにも高く、落下する川のもうもうたる水煙に隠れて、識別することができなかったからである。しかし、歩いていく間に、ちょうど肖像画の上を這っている昆虫が、その人物の顔を見るように、それを見ることができた。タイルは、非常に密接にくっつきあっており、さまざまな形をしていた。最初、鳥、蜥蜴、魚などの動物が生き生きと絡みあっているところを表現しているかと思った。しかし今では、そうではなくて、わたしの把握できない幾何学模様を形成していたのだと思っている。ちょうど、複雑な分子の結合構造から実際の動物の形が現われてくるように、生物の形が見えてくるほど複雑な幾何学模様を形成していたのだと。
何はともあれ、これらの形態はその絵または模様とほとんど関係なかったらしい。いろいろな色の線がそれらを横切っており、それらは永遠の昔にタイルの材質に焼きつけられたものにちがいないけれども、ほんの一瞬前に巨大な画家の筆によって描かれたかのように、自由奔放に華やかにみえた。一番多く用いられている色調は薄青色《ペリル》と白だった。しかし、わたしは何度も足を止めて、そこに描かれているのは何か(文字なのか、顔なのか、それとも単なる線と角度の装飾的な模様なのか、それとも、絡みあった草木の模様なのか)を判別しようと努力したが、駄目だった。おそらく、見る位置と、見る者がそれに付加する心的傾向によって、そのいずれでもあるし、またいずれでもない、ということになるのだろう。
この謎の壁を通過してしまうと、下りの道はずっと容易になった。急な斜面を這い下りる必要は二度となかったし、また、ステップを刻んだ部分はまだ何ヵ所も現われたが、それらにしても、以前よりも急だったり狭かったりすることはなくなった。そして、予想していた以上に早く下に着くことができた。わたしは今下りてきたばかりの細道を、まだ一度も足を置いたことがないような感慨をもって見上げた――事実、壁面が剥がれ落ちて道が崩壊し、通過不可能に見える場所が何ヵ所もあった。
上からあんなによく見えていたあの家は、木々に隠れて、見えなかった。しかし、煙突の煙はまだ空に見えていた。前に小川にそって通り抜けた森よりも勾配の緩やかな森を、今度は通っていった。ほかに相違があるとすれば、こちらの黒い樹木のほうが古びて見えた。ここには南部の大羊歯が生えていなかった。事実〈絶対の家〉以北では、アブディーススの庭園で栽培されていたのを除けば、大羊歯は一本も見かけなかった。だが、木々の根元に、葉に光沢があって、哀れなセクラの目の色とまったく同じ色の花をつけた、野生の董《すみれ》が生えていた。そして、非常に厚い緑のビロードのような苔が、絨毯《じゅうたん》を敷きつめたように地面を覆っていて、木々そのものもすべて高価な垂れ布をまとっているように見えた。
その家と、人間のいるその他の徴候を見出すかなり以前に、犬の吠え声が聞こえた。それと同時に、森林の静寂と驚異が後退した。まだ存在してはいるが、限りなく遠方に退ってしまったのだ。まるで、古くて風変わりではあるが思いやりのある神秘的な生命みたいなものが、姿を現わしそうになったまさにその瞬間に、引き戻されてしまったような感じだった。ちょうど、わが家に招待しようと長い間努力してきた非常に高名な音楽家か何かが、やっと来てくれて、家の扉をノックした瞬間に、気に入らない客の声を聞いて、手を降ろし、帰っていったきり二度と戻ってこない、とでもいうような。
しかし、それはなんと快かったことか。ほとんど二日間におよぶ長い時間、わたしはまったく一人ぼっちだった。最初の日は岩のごつごつした野原で、次の日は凍るように美しい星空のもとで過ごし、それから、静かに息づく古木の間に入ったのだ。そして今、犬の荒々しい、聞き慣れた声を聞くと、わたしはまた人間の快楽を思い出した――思い出しただけでなく、すでにそれを感じるほど生き生きと思い描いたのだった。その犬は、姿が見えれば、きっとトリスキールに似ているだろうと思った。そして、やはりそうだった。もっとも、足は三本でなく四本で、頭はもう少し細長く、毛の色はライオン色よりももっと濃い茶色だったけれども、踊るような目、よく振れ動く尻尾、だらりと垂れる舌はそっくりだった。彼はまず宣戦布告をしたが、わたしが話しかけるとすぐにそれを撤回し、二十|複歩《ストライド》もいかないうちに、耳を掻いてくれと首を差し出した。わたしはふざけ回る犬といっしょに、その家のある林間の小さな空き地に入っていった。
壁は石造りで、ほとんどわたしの頭の高さくらいしかなかった。草葺きの屋根は見たこともないほど勾配が急で、草が強風で飛ばないように点々と平たい石が載せてあった。手短かにいえば、これは、われわれの共和国の栄光でもあり絶望でもあるあの先駆的な――ある年にはネッソスの人口を養うことができるほど余分の食糧を生産するかと思えば、その翌年には、彼ら自身が餓死しないように食糧を供給してもらわなければならない――農民の家の一つであった。
家の扉の前に舗装した部分がない場合には、人の足に踏まれる草のすり切れ具合で、どのくらいの人数が出入りするか判断できる。ここには、石の階段の前にハンカチの大きさほどの丸く土の露出した部分しかなかった。わたしはそれをみて、犬はとうの昔に鳴きやんでいることでもあるし、もし、わたしが予告なしに戸口に現われたら、その山小屋に住んでいる人(住人は一人以上いるはずはないと思った)は怯えるかもしれないと思ったので、空き地の縁に立ち止まって、大声で挨拶をした。
木々と空がその声を飲みこみ、静けさしか残らなかった。
わたしはふたたび大声をあげ、それから犬を引き連れて扉の方に進んだ。扉のすぐ手前までいった時に、一人の女が現われた。その顔は繊細な感じで、幽霊に取りつかれたような目つきさえしていなかったら、美人といってもよいほどだった。しかし、衣服はぼろぼろで、清潔でなかったら乞食と間違われてもしかたがない状態だった。次の瞬間、そのスカートの後ろから、母親よりも大きいくらいの目をした丸顔の小さな男の子が覗いた。
わたしはいった。「驚かしたなら、悪かった。山で道に迷ったんだ」
女はうなずき、ためらい、それから戸口から身を引いた。わたしは中に入った。その家は壁が厚くて、中は予想以上に狭かった。そして、火の上の鉤に吊り下げた鍋から、野菜の煮える強い香りが漂っていた。窓は少なく、小さくて、壁が厚いために、光の孔というよりはむしろ影の箱といったほうが適当だった。一人の老人が、炉に背を向けて、豹の毛皮の上に坐っていた。その目は焦点が定まらず、知性もまったく感じられなかったので、最初は盲人だと思った。部屋の真ん中には一つのテーブルがあり、その周囲に五脚の椅子があった。そのうち三つは大人用のものに見えた。わたしは、より文化的な生活様式を採用した折衷人のために、ネッソスの放棄された家から家具類が北に運ばれてくるという、ドルカスの話を思い出した。だが、この家のものはすべて、この場で作られた形跡をとどめていた。
女はわたしの視線の方向を見て、いった。「夫はすぐに戻ってくるわ。夕飯の前に」
わたしは彼女にいった。「心配しなくてもいい危害は加えないから。食べ物を分けてくれて、今夜、冷たい外ではなく、ここに寝かせてくれて、明朝、方角を教えてくれれば、どんな仕事でも喜んで手伝ってあげる」
女はうなずいた。それから、まったく意外なことに、幼い男の子がかぼそい声でいった。「セヴェラに会ったかい?」母親はさっと振り返った。グルロウズ師が囚人を制圧する組み伏せかたを実演した時のことを思い出すほど、すばやい動作だった。ほとんど目には見えなかったが、叩いた音が聞こえ、子供が泣き叫んだ。母親は戸口をふさぐ位置に移動し、子供は彼女から最も離れた櫃《ひつ》の陰に隠れた。その時わたしは了解した、いや、了解したと思った。セヴェラというのは、彼女が自分以上に傷つきやすいと考えている少女か婦人であって、わたしを中に入れる前に、(たぶん屋根裏に)隠れるように命じたのだと。だが、わたしはこの女に対して、これ以上いくら善意であることを主張しても無駄だろうと考えた。なぜなら、この女は無知であるにしても馬鹿でないのは明らかだし、彼女の信頼を得る最善の方法は、それにふさわしい振舞いをすることだと考えたのである。そしてまず手始めに、体を洗うための水が欲しいといい、また、それをこの炉で温めることを許してくれるならば、どんなに遠い水源からでも喜んで汲んでくるつもりだといった。彼女はわたしに壼を渡し、泉の位置を教えた。
わたしは、普通ロマンチックだと考えられているたいていの場所――高い塔のてっぺんとか、地底の奥深くとか、豪華な建物の中とか、ジャングルとか、舟の上とか――にいたことがある。しかし、この粗末な石の山小屋と同じ感慨をわたしに与えたものは一つもない。これは、文明のサイクルの最下端になるたびに人類が潜りこむと学者の教える、あの洞窟の原形のように思えたのであった。牧歌的、田園的な隠遁所(これはセクラがとても好んだ考えだった)のありさまを聞いたり、読んだりすると、決まって清潔で整頓された環境に暮らすことになっている。窓の下にミントの寝床があり、いちばん寒い壁ぎわには薪が積まれ、板石の床が光っているといった具合だ。ここには、そんなものは何一つなく、理想とはほど遠かった。しかもなお、この家は不完全ではあっても、より完成されており、自分の生活環境を詩的に形成する能力が人間になくても、こういう僻遠の地で暮らし、愛しあうことができるという事実を示していた。
「あんたはいつもその剣で髭を剃るの?」女は尋ねた。彼女が無警戒にわたしに話しかけたのは、これが最初だった。
「これが習慣、伝統なんでね。もし髭が剃れないほど切れないような剣なら、持って歩くのは恥ずかしいし、もし髭が剃れるほど切れるなら、剃刀を持つ必要はない、というわけさ」
「それにしても大変ね。そんなに重い刃物をそのように持ち上げるなんて。自分を切らないように大変な注意を払っているんでしょうね」
「こうしていれば、腕の力が強くなる。それに、機会あるごとに自分の剣を扱うのは良いことなんだ。自分の手足のようになるからね」
「では、あんたは兵隊さんなのね。そうだと思った」
「ぼくは人間の殺戮者だ」
彼女はそれを聞くとびっくり仰天したようだった。「侮辱したわけじゃないのよ」
「侮辱されたとは思っていない。だれだって、なにかを殺す――あんたは鍋の熱湯にこれらの野菜を入れて殺した。ぼくが人を殺す時には、その人間が生きつづけた場合に殺すであろうあらゆる生物の命を救うことになるんだ。たぶん、その中にはほかの男や女や、それに子供も含まれていると思う。おたくのご主人は何をしているの?」
女はそれを聞くと、ちょっと笑った。彼女が笑うのを見るのはこれが初めてだった。笑うと彼女はずっと若く見えた。「なんでも。こんな山の中では、男はなんでもやらなくてはならないのよ」
「というと、あんたはここで生まれたのではないんだね」
「ええ」彼女はいった。「セヴェリアンだけ……」微笑みが消えた。
「セヴェリアン[#「セヴェリアン」に傍点]、だって?」
「息子の名前よ。入ってくる時、あの子を見たでしょう? 今はこっそりこちらを覗いているわ。時々、聞きわけがなくなるの」
「それはぼくの名前だ。ぼくはセヴェリアン師というんだ」
彼女は子供に呼びかけた。「聞いたかい? 旦那の名前はおまえと同じなんだって!」それから、またわたしに向かって、「良い名前だと思う? 気に入っている?」
「残念ながら、あまりそういうことを考えたことがないんでね。しかし、そう、そう思う。ぼくには合っていると思うな」わたしは髭を剃りおえて、剣の手入れをするために椅子の一つに腰を降ろした。
「わたしスラックスの生まれなの」女はいった。「あんた、あそこに行ったことある?」
「あそこから来たところだよ」わたしは教えた。わたしが立ち去った後で、もし万一、騎馬兵が彼女を尋問し、彼女がわたしの服装を述べれば、どうせ素性は割れてしまうと思ったからである。
「ヘライスという女に会わなかった? わたしの母だけど」
わたしは首を振った。
「そうでしょうね、大きな都会だから。長くはいなかったの?」
「ああ、ほんの短い間だった。おたくはこの山中にいて、ペルリーヌの噂は聞かなかったかね? 赤い衣を着た尼僧の修道会のことだが」
「聞いていないわね。ここにはあまりニュースが伝わってこないから」
「ぼくは彼女らの所在を探しているんだ。もし見つからなければ、アスキア人と闘うために独裁者が率いている軍隊に入るつもりだ」
「夫なら、もっと良い情報を聞かせられるでしょうに。でも、こんなに高くまで登る必要はなかったわ。ピーキャン――夫の名前よ――の話では、巡察隊は、北に向かう兵隊の邪魔は決してしないそうよ。たとえ、旧道を歩いていてもね」
彼女が北に移動する兵隊の話をした時に、もっとずっと近くで、何者かがやはり動いたようだった。火のはぜる音や老人の静かな呼吸の音に隠れてほとんど聞こえないほど、かすかな気配だった。しかし、それにもかかわらず間違えようのないものだった。音を立てずにいるために必要な完全な静止に、もはや耐えられなくなった裸足の人間が、ほとんど感知できないほどかすかに足を踏み変えたのだ。そして、その下の床板が新たな重量の配分に応じて、きしんだのである。
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15 先回り
夕飯の前に帰ってくるはずの夫は、帰ってこなかった。そして、われわれ四人――女、老人、子供、そしてわたし――は、彼ぬきで夕飯を食べた。わたしは最初、妻の予言は、それがなければわたしが犯したかもしれない犯罪を思いとどまらせるための嘘だと思った。しかし、その嵐の前兆である静けさの中で、午後になって雲行きがますます悪くなるにつれて、彼女が本気でそういったのであり、今は真剣に心配しはじめていることが明らかになった。
夕飯は、食事としてこれ以上簡単なものはないというほど簡単なものだったが、わたしは非常に空腹だったので、これまでで最も満足した食事の一つとなった。われわれは塩もバターも入れずに煮た野菜と、ぼろぼろのパンと、少しの肉を食べた。ワインもなく、果物もなく、新鮮なものも、甘いものもなかった。しかしわたしは、ほかの三人が食べたもの全部を合わせたよりもたくさん食べたにちがいないと思う。
食事が終わると、女(名前はキャスドーだとわかった)は鉄のたが[#「たが」に傍点]のはまった長い杖を片隅から取り出し、まずわたしに護衛の必要はないといい、それから彼女の言葉を聞いているとは思えない老人に、ちょっと行ってくるが、すぐ戻るといって、夫を探しに出かけた。わたしは老人が相変わらず火の前でぼんやりしているのを見ると、子供の機嫌を取ってそばにこさせ、それから、テルミヌス・エストを見せて、その柄を握らせ、持ち上げてごらんといったりして歓心を買った。それから、お母ちゃんが出ていってしまったから、今はセヴェラが下りてきて、きみの面倒を見るべきではないかと、尋ねた。
「ゆうべ帰ってきたよ」彼はわたしにいった。
わたしは、母親のことをいっているのかと思って、いった。「きっと今夜も帰ってくるよ。でも、今はお母ちゃんがいってしまったんだから、セヴェラがきみの面倒を見るべきだと思わないかい?」
議論をするほど言葉に自信のない子供が時々やるように、その子は肩をすくめて、離れていこうとした。
わたしは彼の肩をつかんだ。「じゃ、二階に上がって、セヴェラちゃん、下りておいでといってくれよ。おじさんは何もしないと約束するからさ」
彼はうなずき、のろのろと、そしてしぶしぶと、梯子を登っていった。「悪い女だ」彼はいった。
その時、わたしがこの家にきて初めて老人が口をきいた。「ビーキャン、ここにこい! フェッチンの話をしてやる」一呼吸おいて、彼がわたしを義理の息子と勘違いして、話しかけているのだとわかった。
「あいつはおれたちの中でいちばんの悪童だった、あのフェッチンというやつはな。背の高い、乱暴な小僧で、手にも腕にも赤い毛が生えていた。猿の腕みたいだった。だから、曲がり角の向こうから、あいつが何か取ろうとして手を出すのを見たら、大きさを別にすれば、猿が手を伸ばしたと思うだろう。やつは昔、家の銅の鍋を盗んだ。ソーセージを作るのにおふくろが使っていたやつだ。やつの腕が見えたが、わしはだれが取ったか黙っていた。なんてったって、あいつは友達だからな。鍋は二度と見つからなかった。あいつとはしょっちゅういっしょにいたが、二度とあの鍋は見かけなかった。わしは、あいつが鍋を舟にして川に流してしまったと思ったものだ。なぜなら、わし自身がいつもそうしたいと思っていたからだ。鍋を見つけようと思って、わしは川に沿って歩いていった。ところが、見つからないうちに――家に帰ろうと向きを変えもしないうちに――夜になってしまった。もしかしたら、あいつは鍋の底を磨いて、覗こうとしたのかもしれない――あいつは時々自分の似顔を描くんだ。もしかしたら、鍋に水を入れて顔を映して見たのかもしれない」
わたしは彼の話を聞くために部屋を横切って、そばにいっていた。それは、彼の話しかたが不明瞭であったためもあるし、また敬意のためでもある。なぜなら、彼の年取った顔は、ちょっとパリーモン師に似ていたから。もっとも、目は天然のものだったけれども([#ここから割り注]パリーモン師は目が悪くて、特殊な眼鏡をかけている[#ここで割り注終わり])。「フェッチンの絵のモデルになったという、あなたと同じくらいの年齢の人にむかし会いましたよ」わたしはいった。
老人はわたしを見上げた。すると、ちょうど家の中から草の上に投げ出された灰色の布の上を、小鳥の影がさっとよぎるように、この男はビーキャンではないという認識がすばやく生じ、また消えるのが見えた。だが、彼は話をやめもしなかったし、また、その他の方法でその事実を認めようともしなかった。あたかも、彼が言いかけていたことが非常に急を要する大切なことであるため、だれかにそれを話さなければならず、それが永久に消えてなくならないうちに、だれの耳にでも注ぎこんでしまわなければならないとでもいうように。
「彼の顔は猿の顔とは全然違っていた。フェッチンは男前だった――このあたりでいちばんの男前だった。いつでも女から金や食べ物をもらうことができた。なんでも女からもらうことができた。昔、古い水車小屋があった。そこにいく道を、あいつと歩いていったことがある。わしは学校の先生からもらった紙を持っていた。本物の紙で、真っ白でなくて、ちょっと茶色味がかっていて、ところどころに小さい斑点があったので、ミルクに漬けた鱒のように見えた。先生は、わしがおふくろに手紙を書くことができるように、その紙をくれたんだ――学校ではいつも板に字を書く。そして、もっとたくさん書きたい時は、スポンジで前の字を洗って消すんだ。だれも見ていないと、わしらはそのスポンジを板で打って、壁にぶつけたり、だれかの頭にぶつけたりしたものだ。だが、フェッチンは絵を描くのが大好きだった。そして、わしは歩きながら、それを考え、絵を描いてとっておくことのできる紙をやったら、やつはどんな顔をするだろうと思った。
彼がとっておくのは紙だけだった。そのほかは何もかもなくすか、人にくれてやるか、放り出してしまうんだ。わしはおふくろのいいたいことは百も承知だ。そして、小さい文字を書けば紙は半分で足りると思った。フェッチンはわしが紙を持っていることを知らなかった。わしは紙を出して見せ、半分に折って、二つに切った」
われわれの頭上で、幼い少年のかぼそい声がしたが、何をいっているかはわからなかった。
「あんなによく晴れた日はなかった。太陽は新しい命を得たみたいだった。まるで、昨日病気で、明日も病気だけれど、今日だけは歩き回り、笑い声を立てているので、知らない人が見たら、そいつにはどこも悪いところがなく、全然病人ではなくて、薬や寝床はだれかほかの人のものだと思うようなものだ。人はいつも祈りの時に、〈新しい太陽〉は明るすぎて見ることができないといっている。それは言葉のあや[#「あや」に傍点]だと、ちょうど子褒めの言葉のようなものだと、貴人の手作りの品をみんなが賞賛するようなものだと、わしはその時までずっと思っていた。たとえ空に太陽が二つあっても、両方とも見ることができると思っていたんだ。だがその日、そういうことが実際にあると知った。そして、フェッチンの顔に当たる光は、まぶしくて見ていられないほど明るかった。涙が出たよ。やつはありがとうといい、また二人で歩いていくと、やがて、女の子が住んでいる家のところにきた。名前は思い出せないが、本当に綺麗な娘だった。ひっそり隠れている人の中に、時々そういう綺麗なのがいるものだ。わしはその時まで、フェッチンが彼女と知り合いだとは知らなかった。彼はわしに待っていてくれといった。わしは入り口の階段の一番下の段に腰を降ろした」
頭上で、男の子より重いだれかが梯子にむかって歩いた。
「彼は長くは中にいなかった。だが、彼が出てくると、娘が窓から顔を出した。わしは彼らが何をしたか知った。わしは彼を見た。すると彼はあの長くて細い猿のような腕を広げた。食ってしまったものを、どうして分けることができようか? というわけだ。結局、彼は娘に頼んで、わしにもパンの塊り半分といくらかの果物を与えさせた。彼は紙の一面にわしの絵を描き、反対の面に娘の絵を描いたが、それらの絵は手放さなかった」
梯子が軋《きし》り、わたしは振り向いた。思ったとおり、女が下りてきた。彼女は背は高くないが、よく成熟した体つきで、腰が細かった。ガウンは少年の母親のと同じくらいぼろぼろで、汚れはもっとずっとひどかった。豊かな茶色の髪の毛が背中に垂れていた。彼女がこちらを向いて、その高い頬骨と切れ長の茶色の目を見せないうちに、それがだれかわかったように思う。「じゃ、わたしがここにいることを、ずっと前から知っていたのね」彼女はいった。
「その台詞は、そちらにお返ししたいくらいだ。どうやら、ぼくがくる前に、きみはきていたようだな」
「こっちにくるだろうと、見当をつけただけ。たまたま、あんたよりちょっと前に着いたのよ。この家の奥さんに話したの。もし匿《かくま》ってくれないと、あんたがわたしに何をするかをね」彼女はいった(たぶん、彼女は、たとえ弱い仲間でも、ここに仲間がいることを、わたしに知らせたかったのだと思う)。
「サルトゥスの人混みで、ちらりと見かけて以来、ずっとぼくを殺そうとつけ狙っていたな」
「それ、非難のつもり? ええ、そのとおりよ」
「嘘だ」
「と、いうと?」これは、アギアが平静を失ったのを見た数少ない場合の一つだった。
「つまり、きみはサルトゥス以前からぼくを殺そうとしていた、ということだ」
「アヴァーンでね。もちろん、そうよ」
「そして、それから後もだ。アギア、へトールの正体がわかったぞ」
わたしはアギアの返事を待ったが、彼女は何もいわなかった。
「初めて出会った日に、きみと同棲したがっている年寄の船乗りがいるといったな。そいつは年取っていて、醜くて、貧乏だと、きみはいった。そしてぼくは、きみのように綺麗な若い女が、現実に飢え死にをしかけているわけでもないのに、なぜ、その申し出を仮にも考慮したりするのかと思った。きみには保護してくれる双生児の片割れがいるし、あの店から多少の金は入ってくるのに」
今度はわたしが驚く番だった。彼女はいった。「もっと早く彼のところにいって、尻に敷くべきだったわ。今はそうしているけれど」
「ぼくを殺したら、体を許してやると約束しただけかと思った」
「それと、そのほかたくさんのことを約束して、手下にしたのよ。セヴェリアン、彼はあんたの先回りをして、わたしの命令を待っているのよ」
「もっと怪物を用意してかい? 教えてくれてありがとう。そういうことだったのか? 彼はほかの天体から持ってきたいろいろなペットを使って、きみとアギルスを脅迫していたんだな」
彼女はうなずいた。「彼は古着を売りにきたのよ。大昔に、世界の果てを越えていった昔の船で人間が着ていた種類の衣服だったわ。外人のコスチュームでもなく、暗闇の中に何世紀も置かれていた墓地出土の昔の衣服でもなかったけれど、新しいとはとうていいえない衣服だったの。彼がいうには、彼の船――そういう船は全部――は、太陽と太陽の暗黒に消えてしまったんだって。歳月さえも巡ってこない場所にね。行方不明になって、〈時間〉さえもそれらを見つけ出すことはできないとね」
「知ってる」わたしはいった。「ジョナスから聞いた」
「あんたがアギルスを殺すことがわかった時、わたしは彼のところにいったのよ。彼には鉄のように強いところもあるけど、弱い面もたくさんあるわ。わたしが体を出し惜しみしていたら、彼を全然利用できなかったでしょう。でも、わたしは彼がしてくれという奇妙なことを、全部してやったの。そして、彼を愛していると思わせたのよ。今、彼は、わたしがしてくれということはなんでもするわ。あんたがアギルスを殺した後、彼がわたしの代わりにあんたを尾行した。わたしは彼の銀貨を使って、あの古い鉱山であんたに殺された男たちを雇ったのよ。そして、これから、彼が意のままに操っているあれらの生き物が、あんたを殺すわけよ。もし、わたし自身がここであんたを殺さなければね」
「ぼくが眠るまで待つつもりだったんだな。それから下りてきて、ぼくを殺そうと思っていたんだな」
「その前に、あんたを起こすわよ。ナイフをその喉に突きつけてからね。でも、わたしがいることをあんたが知っていると、あの子から聞いたので、会ったほうが面白いだろうと思って出てきたのさ。でも、教えて――どうして、ヘトールの正体がわかったの?」
狭い窓から一陣の風が吹きこんだ。すると炉の火から煙が立った。ふたたび沈黙して炉端に坐りこんでいた老人が咳をし、石炭の上にたんを吐く音が聞こえた。アギアとわたしが話をしている間に、屋根裏から下りてきていた幼い男の子が、理解していない大きな目でわれわれを見つめた。
「もっとずっと早く気づくべきだった」わたしはいった。「友達のジョナスが、それとまったく同じ船乗りだった。きみも覚えていると思う――坑道の入り口でちらりと見かけたし、話は聞いていたはずだ」
「ええ」
「ひょっとしたら、同じ船の乗組員だったかもしれない。それとも、たがいになんらかの特徴で、相手を識別しただけのことかもしれない。あるいは、ヘトールはたがいに識別するのを、少なくとも恐れたのかもしれない。何はともあれ、ぼくがジョナスと旅をしている間は、彼はめったにわれわれに近づいてこなかった。以前にはあれほどぼくのそばにきたがっていたのにね。サルトゥスである男とある女を処刑した時に、群衆の中に彼の姿を見かけたけれど、あそこではそばにこようとしなかった。〈絶対の家〉へいく途中では、ジョナスとぼくは後をついてくる彼を見たが、ジョナスが姿を消すまでは、駆け寄ってこなかった。もっとも、ノトゥールを取り戻したくて、うずうずしていただろうがね。〈絶対の家〉の控の間に放りこまれた時も、われわれといっしょに坐ろうとはしなかった。ジョナスはほとんど死にかけていたというのに。しかし、われわれがあそこを去った時には、なにかねばねばした這い跡を残すものが、あの場所を探しまわっていたぞ」
アギアは何もいわなかった。そのように沈黙している彼女を見ると、〈剣舞《マタチン》の塔〉を去った次の日の朝に、汚い店の窓を保護している鉄格子を外しているのを見たあの若い浮かんだ。
「きみたち二人はスラックスへいく途中で、ぼくの足跡を見失ったにちがいない」わたしはいった。「それとも、何かの事故で遅れたのかな。われわれがあの町にいることを知った後にも、きみたちはぼくが〈獄舎〉の責任者になったことを知らなかったはずだ。なぜななぜなら、ヘトールはあの火の獣に町を這い回らせて、ぼくを見つけようとしたんだから。それから、それから、どうやったか知らないが、ドルカスが〈雁の巣亭〉にいるのを見つけた――」
「わたしたちが、あそこに泊まっていたのよ」アギアがいった。「ほんの二、三日前に着いたばかりで、あんたがきた時には、あんたを探しに外に出ていたのよ。後で、屋根裏の小部屋にいる女が、〈植物園〉であんたが見つけた狂った小娘だって気づいた時も、彼女をそこに泊めたのはあんただとは、まだ察していなかったわ。なぜなら、あの旅籠《はたご》の鬼婆は、その男は普通の服装をしていたといったから。でも、彼女はあんたの居所を知っていると思った。そして、ヘトールのほうがそれを聞き出しやすいとね。ついでながら、彼の本当の名前はへトールではないわよ。本名はとても古い名前で、今はそれを聞いた人はほとんどいないと、いっているわ」
「彼がドルカスに火の生物の話をした」わたしはいった。「それを彼女がぼくに話したんだ。あの生物の噂は前にも聞いていた。だが、ヘトールはその名前をいっていたな――火蜥蜴《サラマンダー》と。ドルカスがその話をした時に、ぼくは何も連想しなかったが、後で、〈絶対の家〉の外でわれわれを追って飛んできたあの黒い物の名を、ジョナスがいったことを思い出した。彼はあれをノトゥールと呼んだ。そして、あれらが出現する時には必ず暖かい風を吹きつけるので、船乗り仲間がそう呼ぶのだといった([#ここから割り注]古代ギリシャの南風神ノトスからの連想[#ここで割り注終わり])。もしへトールがあの火の生物の名前を知っているとすれば、どうやら、それは船乗り仲間の名前らしいし、彼はあの生物そのものとなんらかの関係があるらしい、と思ったのさ」
アギアはかすかに笑った。「これで全部わかったわね。そして、望みどおりの場所で、あんたはわたしを捕まえたわけね――ここで、その剣を振るうことができればの話だけど」
「捕まえたにしても、望みどおりというわけではない。それをいうなら、あの坑道の入り口で、きみを足の下に押さえつけたぞ」
「でも、わたしまだナイフを持っているわよ」
その瞬間に、少年の母親が戸口から入ってきた。われわれ二人は口をつぐんだ。彼女はびっくりした様子でアギアとわたしを見較べた。それから、いかなる驚きも彼女の悲しみを刺し貫くことができず、また、しようとしていることを変更させることができないかのように、彼女は扉を閉め、重い閂《かんぬき》を持ち上げて差しこんだ。
アギアがいった。「この人は二階でわたしの立てた音を聞きつけて、下りてこさせたのよ、キャスドー。わたしを殺すつもりよ」
「どうすれば、それを防ぐことができるの?」女は疲れた様子でいった。そして、わたしに向かって、「あんたがこの人を傷つけようとしていると聞いたから、匿ったのよ。わたしも殺すつもり?」
「いいや、彼女も殺すつもりはない。本人も承知しているがね」
アギアの顔は激怒で歪み、ちょうど、フェッチン自身が色つきの蝋で作った女の愛らしい顔が、一吹きの炎によって変形し、一瞬にして溶けて燃え上がったようになった。「あんたはアギルスを殺した。それも得意になってやった! わたしも彼と同様に死ぬべきじゃないの? 同一の肉体なんだから!」彼女がナイフを持っているといった時、わたしは完全に信じたわけではなかった。しかし、今、それは抜かれていた。抜くのは見えなかったが――スラックスの曲がった短剣の一つが。
しばらく前から、接近してくる嵐のために重苦しい空気がたちこめていた。今、雷鳴が轟き、頭上の峰々に谺《こだま》した。次々に反射する谺がほとんど消えた頃、何かがそれに応答した。その声を、わたしは描写できない。人間の叫びではなかったし、そうかといって、ただの獣の吠え声でもなかった。
キャスドーという女から疲労がすべて消え去り、必死に急いでいる様子になった。それぞれの狭い窓の下の壁に、重い木製の鎧戸《シャッター》が立てかけてあった。彼女は最も手近にあったものを引っつかむと、まるでパイ皿くらいの重さしかないように持ち上げて、窓にがちゃんとはめこんだ。戸外で、犬が狂ったように吠え、それから静まった。降りだした雨の最初の粒がポツリポツリと音を立てるばかりだった。
「こんなに早く」キャスドーが叫んだ。「こんなに早く、やってきた!」息子に向かって、「セヴェリアン、向こうにいってな」
まだ開いている窓の一つから、子供の声が叫ぶのが聞こえた。≪とうさん、助けてくれないの?≫[#≪≫は《》の置換]
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16 アルザボ
キャスドーを手伝おうとしたために、わたしはアギアと短剣の方に背中を向けることになった。これは代償に、命を失うほどの過ちだった。なぜなら、わたしが重い鎧戸《シャッター》を持ち上げた瞬間に、彼女が襲いかかってきたからである。諺によると、女と仕立屋は手に刃物を隠しているというが、アギアは熟練した刺客さながらに、わたしの腹を裂き、心臓を下から刺そうと、短剣を突き上げてきた。わたしは間一髪で振り向いて、その短剣を鎧戸で受け止めた。尖端が板を突き抜け、金属のきらめきがのぞいた。
不幸にもアギアは力が強すぎた。わたしは短剣が刺さったままの鎧戸を脇に投げすてた。彼女とキャスドーがいっしょにその鎧戸に飛びついた。わたしはアギアの腕をつかんで引き戻した。
キャスドーは激しさを増す嵐を押しかえすように、短剣の刺さった側を外にして鎧戸を窓にはめた。「ばかねえ」アギアがいった。「何を怖がっているか知らないけれど、あんたはそいつに武器を与えることになるのがわからないの?」彼女の声は敗北を認めて、冷静になっていた。
「あれには短剣はいらないのよ」キャスドーが彼女にいった。
家の中は、炉の赤い火を別にすれば、真っ暗になった。わたしは蝋燭かランタンがないかと見回したが、見当たらなかった。後になって、この家にあるわずかばかりの蝋燭とランタンは屋根裏に運び上げてあることがわかった。外で稲妻が閃き、鎧戸の輪郭が見え、扉の下に断続的な光の線がくっきりと見えた――一瞬後、一本の線に見えるはずの線が、あちこち途切れていることに気がついた。「外にだれかいるぞ」わたしはいった。「階段の上に立っている」
キャスドーがうなずいた。「窓を閉めるのがちょうど間に合ったわ。前はこんなに早くくることは決してなかったのに。嵐で目を覚ましたのかもしれないわね」
「ご主人かもしれないとは、思わないのかね?」
彼女が答える間もなく、幼い男の子の声よりかん高い声が呼んだ。≪家に入れて、母さん≫[#≪≫は《》の置換]
何者が口をきいているのか知らないわたしでさえも、その単純な言葉に恐ろしい違和感を覚えた。たぶん子供の声なのだろうが、人間の子供の声ではなかった。
≪母さん≫[#≪≫は《》の置換]その声がまた呼んだ。≪雨が降りだしたよ≫[#≪≫は《》の置換]
「上にあがったほうがいい」キャスドーがいった。「上がってから梯子を引き上げれば、あれが中に入ってきても、わたしたちのそばまでは来られないからね」
わたしは扉のところにいった。稲妻が光らなかったので、玄関の段に立っている何者かの足は見えなかった。しかし、雨音に混じって、嗄《しわが》れた、ゆっくりとした息づかいが聞こえてきた。そして、引っかくような音が一回。そこの暗闇に待っている何者かが、足を踏み変えたらしい音。
「これはきみの仕業なのか?」わたしはアギアに尋ねた。「ヘトールの怪獣の一つなのか?」
彼女は切れ長の茶色の目を踊らせ、首を振った。「このへんの山中をうろついている凶悪なやつよ。あんたのほうがよく知っているはずだけど」
≪母さん?≫[#≪≫は《》の置換]
足の擦れる音がし――この苛立った問いかけの言葉とともに、戸外の何者かは扉から離れた。鎧戸の一つが軋った。その隙間から外を見ようとしたが、戸外の暗闇しか見えなかった。だが、柔らかな重い足音が聞こえた。それは、故郷の〈熊の塔〉の、格子のはまった丸窓から時々聞こえてきたのと、まったく同じ音だった。
「あいつは三日前にセヴェラを捕まえたの」キャスドーがいった。彼女は老人を上に引き上げようとしていた。彼は暖かい炉のそばを離れるのをいやがって、ひどくのろのろと上がっていった。
「あの子もセヴェリアンも決して森の中には入らせなかったのに、あいつはここの空地の中にまで入りこんできたのよ。夕暮れの一刻前にね。それ以来、毎晩やってくるようになったの。犬はどうしても後を追おうとしなかったけれど、ビーキャンは今日、やっつけるといって出かけたのよ」
この時には、わたしにもその獣の正体がわかっていた。とはいえ、実物を見たことは一度もないのだが。わたしはいった。「では、アルザボだな? 腺から蘇生薬ができる動物だな?」
「そう、アルザボよ」キャスドーは答えた。「蘇生薬のことは、なんにも知らないけれど」
アギアが笑った。「セヴェリアンは知っているのよ。その動物の知恵を味わったんだもの。そして、恋人を体の中に連れて歩いているのよ。夜になるとね、二人が愛の行為のまっ最中に、汗みどろでささやきあっているのが聞こえるそうよ」
わたしは彼女に殴りかかった。だが、彼女はすばやく体をかわし、テーブルの反対側に逃げた。
「嬉しいでしょうね、セヴェリアン? ご先祖さまが殺したすべての獣の代わりに、ウールスにやってきたよその世界の動物の中に、アルザボがいたなんて。アルザボがいなかったら、最愛のセクラを永久に失うところだったんだから。アルザボがあんたをどんなに幸福にしてくれたか、このキャスドーに話してやるといいわ」
わたしはキャスドーにいった。「娘さんが亡くなったそうで、本当にお気の毒だった。必要なら、外の獣からこの家を守ってあげよう」
剣は壁に立てかけてあった。そして、この言葉が本心であることを示すために、わたしは剣に手を伸ばした。それは幸運だった。なぜなら、まさにその瞬間に、戸口で男の声が呼んだから。
≪開けてくれ、おまえ!≫[#≪≫は《》の置換]
アギアとわたしは、キャスドーに飛びついて止めようとした。だが、どちらも遅すぎた。われわれの手が届かないうちに、彼女は閂《かんぬき》を外した。扉がぱたんと開いた。
獣はよつん這いで待っていた。にもかかわらず、肩の高さがわたしの頭の高さと同じくらいあった。頭を低く下げていて、耳の先が、背中のてっぺんに立っている毛よりも下になっていた。炉の光を受けて、歯が白く光り、目は赤く燃えていた。世界の縁を越えてやってきたといわれる動物の目なら、これまでいろいろと見ている――ある種族学者の主張によれば、ちょうど、戦争か疫病で住民の死に絶えた田舎に、いろいろの種類の猫背の蛮族が、石斧と火を持って入りこんでくるように、ここに起源をもつ動物の死によって、それらの動物が引き寄せられたのだという――しかし、それらはただの獣の目だった。ところが、アルザボの赤い目はそれ以上のものだった。人類の知性もないし、獣の無邪気さもない。どこかの暗い星の地底の穴から、鬼がついに這い上がってきたら、そんな目つきをしているだろう、と思われるような目つきだった。それからわたしは、実際に鬼と呼ばれている猿人でさえも、人間の目をしていたことを思い出した。
一瞬、扉は閉まるかと思われた。恐怖で後ずさりしていたキャスドーが、扉を閉めようとするのが見えた。アルザボはのろのろと、むしろ面倒くさそうに進んでくるように見えた、だが、それでも彼女にとっては早すぎた。そして、扉の縁が岩にでも当たったように、そいつの横腹にごつんと当たった。
「開けておけ」わたしは呼びかけた。「どんな明かりでも必要なんだ」すでにテルミヌス・エストの鞘を払っていたので、その刃に炉の火が反射して、剣そのものが冷厳な火のように見えた。もしここに、アギアの部下が持っていたような弩《いしゆみ》があれば、武器としてはより望ましいだろう(その鏃《やじり》は空気との摩擦で発火し、目標に命中すると、溶鉱炉に投げこんだ石のように爆発するから)。しかし、それではテルミヌス・エストのように手の延長として使うことはできない。しかも弩では、もし初矢を射損じたら、二の矢をつがえている間に、アルザボに飛びかかるチャンスを与えることになる。
わたしの剣の長い刃は、この危険を必ずしも未然に防いでくれるわけではない。獣が万一飛びかかってきた時に、その四角い尖っていない先端は、獣を突き刺すことができない。わたしは敵が空中にある時に、横に薙ぎ払わなくてはならないだろう。そして、そいつがわたしに向かって空中を飛んでくる時に、その太い首から頭を切断できることは疑いないとしても、もし仕損じたら、死ぬことになるとわかっていた。さらに、剣を振るうためには充分な空間が必要だった。そのためには、この狭い部屋は適当とはいえなかった。しかも、光が必要なのに、火は消えかかっていた。
老人、少年セヴェリアン、それにキャスドー、みんないなくなった――わたしの注意が獣の目に集中していた間に、梯子を登って屋根裏に上がったのか、それとも、少なくともだれかが戸口から脱け出して獣の後ろに逃げたかどうか、それはわからなかった。アギアだけが踏みとどまって、まるで鉤竿でガレアス船([#ここから割り注]中世の三本マストの軍艦[#ここで割り注終わり])を必死に撃退しようとしている水夫のように、先端に金具のはまったキャスドーの登山杖を構えて、片隅に張りついていた。彼女に声を掛けることは、彼女に注意を向けることになるとわかっていた。しかし、もし獣が頭だけでも彼女の方に向ければ、わたしはその脊椎を切断することができるかもしれなかった。
わたしはいった。「アギア、明かりがほしい。暗闇ではこちらがやられる。前にきみはぼくを襲った時に、部下にこういったな――おまえたちが後ろから襲えば、わたしは正面で闘ってやると。今きみが灯火を持ってきてくれさえすれば、ぼくはこいつと正面から闘うぞ」
彼女は了解のしるしにうなずいて見せた。獣は本当に彼女の方に動いた。だが、予想に反して跳躍はせず、剣が届かないように間合いを取りながら、のろのろと、しかも巧みに右ににじり寄って接近してきた。その意図が一瞬わからなかったが、そうして壁に近寄れば、こちらの攻撃はさらにやりにくくなり、また相手がわたしを迂回して(もう、ほとんどそうしているが)、火とわたしの間に入ってしまえば、わたしが炉の光から得ている利点のほとんどは失われることになるのだ。
こうして、アルザボは椅子、テーブル、壁などをできるだけ利用しようとし、わたしのほうは剣を振るうためにできるだけ空間を得ようとして、注意深い勝負が始まった。
やがて、わたしは前に飛び出した。アルザボは、わたしの感じでは、わずかに指の幅ほどの間合いを残して剣を避けた。そして、こちらに突進してきたが、二の太刀を加えると、また間一髪で後退した。人間が林檎を噛むように、人間の頭を噛み砕くことができるほど大きいその顎が、わたしの顔の前でぱくりと空を噛み、臭い息を吐きかけた。
また落雷があった。あまりにも近かったので、その轟音の後で、大木の死を知らせる地響きが聞き取れたほどだった。稲妻が閃き、人を麻痺させるほどの強烈な光で、あらゆるものの細部がくっきりと見え、次の瞬間、目が眩んで何も見えなくなった。それに続く暗黒の奔流の中で、わたしはテルミヌス・エストを振るった。刃が骨に食いこむのを感じて、わたしは片側に跳びすさった。そして、雷の轟音とともに、また切りつけた。今度は家具が砕けて破片が飛び散っただけだった。
それから、目が見えるようになった。アルザボとわたしが足場を移し、フェイントを掛けあっている間に、アギアも移動していたにちがいない。そして、稲妻が閃いた時に、梯子に向かって駆けだしていたにちがいない。今は彼女は梯子を半分ほど上り、彼女に手を貸そうと、キャスドーが上から手を差し伸べていた。アルザボは一見、無傷のままでわたしの前に立っているように見えた。だが、その前の足下に黒い血が滴って溜まっていた。毛皮は炉の光を受けて赤く、ぼさぼさに見え、熊の爪よりも大きく荒々しいその足の爪もまた暗赤色に、そして、半透明に見えた。さっき戸口で≪開けてくれ、おまえ!≫[#≪≫は《》の置換]と呼びかけたあの声が、また聞こえた。死人が口を聞いたらさぞ気味が悪いだろうが、こいつはもっと不気味な声でこういった。≪そうだ、おれは怪我をした。だが、痛みはたいしたことはない。相変わらず、立っていることも、動くこともできる。おれが家族に近づくのを、おまえは永久に妨げることはできないぞ≫[#≪≫は《》の置換]獣の口から出てくるその声は、せっぱ詰まっていて、地団太を踏んでいる、まっとうな人間の声だった。
わたしは〈鉤爪〉を取り出して、テーブルの上に置いた。だが、それは青い火花ほどの明るさしかなかった。「明かりを!」わたしはアギアに向かって叫んだ。しかし、明かりはやってこず、女たちが屋根裏の床に引き上げる梯子の音が、がらがらと聞こえた。
≪そら、逃げ道がなくなった≫[#≪≫は《》の置換]やはり男の声で、獣はいった。
「おまえの前進の道もなくなったぞ。傷ついた足で、あんなに高いところに跳び上がれるか?」
だしぬけに、その声は幼女の甲高い哀れな声に変わった。≪上がれるわよ。あたしが登り口の下にテーブルを動かせないと、思ってるの? 話だってできる、このわたしがよ?≫[#≪≫は《》の置換]
「では、自分が獣だということも知っているだろう」
また男の声になった。≪おれたちが獣の内部にいることは知っている。以前には、この獣が食った肉の殻の内部にいた。同じことだ≫[#≪≫は《》の置換]
「それで、おまえの妻と息子を、こいつが食うことに同意するつもりか、ビーキャン?」
≪そうするように導くつもりだ。いや、導いている。ここにいるわれわれのところに、キャスドーとセヴェリアンも呼びたい。セヴェラを今日呼んだように。火が消えたら、おまえも死ぬ――われわれといっしょになる――彼女らも同様だ≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは笑った。「おれの目が見えない時に、おまえが怪我をしたことを忘れてしまったのか?」いつでも切ることができるようにテルミヌス・エストを構えながら、わたしは部屋を横切って壊れた椅子のところにいき、切り取られたその背の部分を拾い上げて火の中に投げこんだ。一陣の火の粉が上がった。「この木はよく枯れている、しかも丁寧に蝋が塗りこめられているから、明るく燃えるはずだ」
≪同じことだ。結局は暗くなる≫[#≪≫は《》の置換]獣――つまり、ビーキャン――はあくまでも辛抱強くいった。
≪結局は暗くなる。そして、おまえもおれたちのところにくる≫[#≪≫は《》の置換]
「椅子が全部燃えてしまって、明かりが消えはじめたら、おまえに飛びかかって殺してやる。今は出血を待っているだけだ」
獣は黙りこんだ。表情からは、獣が何を考えているか見当がつかなかったので、いっそう不気味だった。これと同様の獣の器官から蒸留して得られた分泌物によって、わたし自身の前頭葉のある細胞の核に、セクラの神経の科学的性質の残骸が固定されているように、この男と娘の精神はこの獣の脳の暗い神経の茂みに取りついていて、まだ生きていると信じていることがわかった。しかし、その生命の幽霊がいったいどんなものか、どんな夢と欲望がそれに含まれるものなのか、わたしには想像のしようもなかった。
ついに男の声がいった。≪では一刻か二刻の後に、おれがおまえを殺すか、おまえをおれを殺すかだ。それとも相打ちかな。もし今、おれが外の夜の闇と雨の中に出ていったら、おまえはウールスが回転してふたたび光に向かった時に、おれを追いつめて殺そうとするか? それとも、おれが自分の家族であるその女と子供のところにいくのを妨げるために、そこに留まるつもりか?≫[#≪≫は《》の置換]
「そんなことはしない」わたしはいった。
≪名誉にかけてか? その剣にかけて誓うか? もっともそれを太陽に向けて誓うことはできないがな≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは一歩後ろにさがり、テルミヌス・エストを逆にして、その先端が自分の心臓に向くように、刃を手で持った。「この剣と、わが技の徽章にかけて誓う。もしおまえが今夜戻ってこなければ、おれは明日おまえを追いつめはしない。またこの家に留まることもない」
蛇が這うようにすばやく、そいつは向きを変えた。一瞬、その背中を切りつけることができそうに思えた。それから、やつは姿を消した。後には、開いた扉と、壊れた椅子と、そして綺麗に拭きこまれた床板に染みこんだ血の跡(この世界の動物の血よりも黒ずんでいると、わたしは思った)以外には、そいつの痕跡は残っていなかった。
わたしは戸口に行き、閂をかけ、〈鉤爪〉を小さな袋に入れて首に垂らした。そして、獣がいったようにテーブルを登り口の下に移して、やすやすと屋根裏に上がった。キャスドーと老人はセヴェリアンという男の子といっしょに、いちばん奥で待っていた。少年を見ると、その目が、今夜のことは今後二十年間は記憶に残るだろうと物語っていた。その目は梁から吊されたランプの揺らめく光に浸っていた。
「ごらんのとおり」わたしは彼らにいった。「生き残った。下でわれわれが喋っていたことが、聞こえたかい?」
キャスドーは黙ってうなずいた。
「頼んだ明かりを、きみたちが持ってきてくれたら、こんなことにはならなかった。しかし、そうしてくれなかったんだから、きみたちに借りはない。ぼくなら、昼になったらすぐにこの家を捨てて、低地に移るがね。まあ、きみたちの気持ち次第だ」
「怖くて、もう、いや」キャスドーがつぶやいた。
「ほくもだ。アギアはどこにいる?」
驚いたことに、老人が指さした。そちらを見ると、草葺きの屋根の草を分けて、アギアの細い体が通り抜けられるくらいの穴が開いていた。
その夜わたしは、だれが屋根裏から下りてきても殺すぞと、キャスドーに警告してから、炉の前で眠った。朝になると、家の回りをまわってみた。案の定、アギアの短剣は鎧戸から引き抜かれていた。
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17 警士《リクトル》の剣
「家を捨てます」キャスドーがわたしにいった。「でも、出ていく前に朝ご飯をつくるわ。あんたは気がすすまなければ、いっしょに食べなくてもいいのよ」
わたしがうなずいて外で待っていると、やがて彼女は木の椀《わん》にあっさりした粥《かゆ》を入れ、木の匙《さじ》を添えて持ってきた。わたしはそれを泉のところに持っていって食べた。そこは藺草《いぐさ》の茂みの陰になっていて、わたしはその外に出なかった。アルザボとの約束を違えることになるとは思ったが、そこに残って、家を見守っていたのだ。
しばらくすると、キャスドーと老人と幼いセヴェリアンが姿を現わした。キャスドーは一つの包みと、夫の品物を持っており、老人と少年はそれぞれ小さな袋を持っていた。犬は三人の足もとで跳ね回っていた。犬はアルザボがきていた間、床下に隠れていたにちがいない(それを責める気はないが、トリスキールだったらそうはしなかったろうと思う)。キャスドーがわたしを探して、あたりを見回すのが見えた。だが、結局わたしが見つからなかったので、戸口の階段の上に何かをくるんだものを置いた。
わたしは、彼らが小さな畑の縁に沿って歩いていくのを見送った。この畑はほんのひと月ほど前に耕して種を蒔いたものだったが、その種もこれからは小鳥のついばむままになるのだろう。キャスドーも、その父親も振り返らなかった。だが、少年セヴェリアンは最初の尾根を越える前に立ち止まって振り返り、彼が知っている唯一の家をもう一度見た。その石の壁は今までどおりしっかりと立っており、朝飯を作った火の煙がまだ煙突から立ち昇っていた。それから、母親に呼ばれたらしく、急いで彼女を追って、視界から消えていった。
わたしは藺草の茂みから出て、扉のところにいった。階段の包みの中には、柔らかいグアナコの毛の毛布が二枚と、きれいな布に包んだ干肉が入っていた。わたしはその肉を図嚢に入れ、毛布は畳みなおして肩に掛けた。
雨上がりの空気は綺麗ですがすがしかった。もうすぐに、この石の小屋と煙と食べ物の臭いを後にすることができると思うと嬉しかった。中を覗くと、アルザボの黒い血の跡と、壊れた椅子が見えた。キャスドーはテーブルをもとの位置に戻しており、その表面には、弱々しく燃えた〈鉤爪〉の跡は残っていなかった。持っていくに価するようなものは何も残っていなかった。わたしは外に出て扉を閉めた。
それから、キャスドーとその一行を追って歩きだした。わたしがアルザボと闘っていた時に、彼女が灯火をよこさなかったことを許すことができなかった――屋根裏からランプを吊すだけでよかったのに。しかし、彼女がアギアの味方をしたことはあまり責める気にはならなかった。なんといっても彼女は、山々の凝視する顔と氷の冠の間の一人ぼっちの女なのだから。またこの点について、子供と老人はあまり罪があるとはいえなかった。彼らは少なくとも彼女と同じくらい弱い存在だから。
道は柔らかく、文字どおり足跡を追っていくことができた。キャスドーの小さい足跡が見え、そのそぱに少年のもっと小さい足跡が、彼女の一歩に対して、二歩の割合で寄り添うように歩いていた。そして、老人の足跡は爪先が外に向いていた。わたしは彼らに追いつかないようにゆっくりと歩いていった。危険が一歩ごとに増大することは承知していたが、執政官の巡察隊がいれば、彼らを尋問するだろうから、その間に逃げればよいと、無理にでも思いこもうとした。キャスドーがわたしを裏切ることはありえなかった。なぜなら、彼女がどんなに正確な情報を騎馬兵に提供したとしても、それによって彼らはかえって迷ってしまうだろうから。また、万一アルザボがうろついているとしても、襲いかかってくる前に、音か臭いでわかるだろうと考えることにした――何はともあれ、あいつを追いつめないということと、家に残っていないとは誓ったが、あいつの餌食を無防備でほうっておくと誓ったわけではない。
その道は、ビーキャンが獣道を踏み広げたものにちがいなく、まもなく消えてしまった。高木限界の上の景色はひどく荒涼としていたが、ここの景色はそれほどでもなかった。南を向いた斜面はしばしば小さな羊歯と苔に覆われていた。そして、断崖から針葉樹が生えていた。わたしの内部でセクラが、これとそっくりな場所に、教師と二人の無愛想な護衛を連れて、絵を描きにきたことを思い出した。そしてまもなく、もはや水煙の中に太陽が留まっていない滝のそばに、画架やパレットや筆のケースが乱雑に放り出されている場面に行きあうのではないかという気分になってきた。
もちろん、そんなことはなかった。そして、数刻もの間、人間のいる徴候はまったくなかった。キャスドー一行の足跡に混じって、鹿の足跡があり、それらを餌食にしている山猫の足跡にも二度ほど出会った。これらはきっと、夜が明けたばかりの、雨がやんだ頃にしるされたものだと思われた。
やがて、老人のものよりも大きい裸足の足跡が、一筋ついているのが目に入った。その一つ一つはわたしの足跡よりも大きく、また、それ以外に相違があるとすれば、その歩行者はわたしよりも歩幅が大きかった。その踏み跡は、わたしのたどっている足跡と直角に交差していたが、その一つは、少年の足跡の上に重なっており、その歩行者が彼らとわたしの間を歩いたことを示していた。
わたしは先を急いだ。
この足跡は土民のものではないかと思った。それにしても、大きい歩幅が気になった――このあたりの山中の野蛮人は、むしろ小柄なのである。もし、これが本当に土民だったら、キャスドーの一行に実害を与えるおそれはほとんどない。もっとも、持ち物を略奪するくらいのことはするかもしれないが。聞いたかぎりでは、土民たちは利口な狩人ではあるが、好戦的ではないということだった。
裸足の足跡がまた現われはじめた。今度は最初のやつに少なくとも二、三人が加わっていた。
これが軍隊からの脱走者だとすると、事情は変わってくる。わたしが預かっていた〈獄舎〉の囚人の約四分の一は、その種の男女だった。そして、彼らの多くは極悪非道の罪を犯していた。脱走者は充分に武装しているだろうし、足ごしらえもしっかりしているだろう。それが裸足で歩いているとは、腑に落ちなかった。
前方に急な登り坂が現われた。キャスドーが杖をついた丸い穴が見えた。また、彼女や老人が体を引き上げるためにつかんで折った、木の枝もわかった――たぶんそれには、追跡者が折った枝も混じっているだろう。考えてみると、老人はもう疲れているにちがいない。にもかかわらず、娘に追い立てられてまだ歩いているのはただごとではない。おそらく彼も、ほかの者も、今は自分たちが追われているのをもう知っているのだろう。峠の近くまでいった時、犬の鳴き声が聞こえ、それから荒々しい、言葉にならないわめき声が聞こえた(それはまるで前夜の谺《こだま》のように思われた)。
しかし、それはアルザボの恐ろしい半人間的な叫びではなかった。それはわたしが以前にしばしば聞いた音声だった。ロッシュの隣の寝棚に横になっていた時にさえ、かすかに聞こえたことがあり、また、あの塔の地下牢で勤務についている職人のところに、彼らの食事と客人の食事を運んでいった時にも、よく聞いたものだ。それは、第三層の客人の一人の叫びとそっくりだった。もはや意味のある言葉を喋ることができなくなった客人の一人であり、そのため、実際問題として、審問室に二度と連れていかれることのない客人の叫びそのものだった。
足跡の主《ぬし》は、アブディーススの仮面舞踏会の仮装で見たような獣化人《ゾアントロプス》だった。峠に着くと、キャスドーと老人と少年だけでなく、彼らの姿も見えた。彼らを人間と呼ぶことはできない。だが、このくらい遠くから見ると人間のように見える。九人の裸の人間が、三人のまわりを取り巻いて、背を丸めて飛び跳ねていた。わたしが走っていくと、その一人が棍棒を振り下ろし、老人が倒れるのが見えた。
それからわたしは躊躇《ちゅうちょ》した。わたしを引き止めたのは、セクラの恐怖心ではなく、わたし自身の恐怖心だった。
以前わたしはおそらくは勇敢に、鉱山の猿人と闘った。しかしそれは、闘わざるをえなかったからだった。また、アルザボと対決して一歩も引かなかった。しかしあの場合には、暗い戸外よりほかに逃げ場はなく、もし逃げだしていたらばきっと殺されたことだろう。
今は、選択の余地があった。だから、わたしは躊躇した。
キャスドーはこんなところに住んでいたから、彼らの噂を聞いていたにちがいない。しかし、おそらく遭遇したことはなかったのだろう。彼女は少年をスカートにつかまらせたまま、杖をサーベルのように振り回していた。彼女の声が獣化人のわめき声に混じって聞こえてきた。それは甲高く、意味不明で、遠い世界の声のように思われた。わたしは、女が襲われた時に人が必ず感じる恐怖を感じた。しかし、それとともに、その恐怖心の下には、彼女はおれに味方して闘おうとしなかったのだから、今度は一人で闘うがいいという気持ちが潜んでいた。
もちろん、そんな気持ちは長続きするわけはなかった。このような動物は、いっぺんに脅かして追っ払うか、または、ぜんぜん追い払えないか、どちらかである。わたしは一頭がキャスドーの杖をひったくったのを見て、テルミヌス・エストを抜き、そちらに向かって長い坂道を駆け下りた。その裸の人影は彼女を地面に投げ倒し、(おそらく)強姦しようとしていた。
その時、左手の木立から何か巨大なものが飛びだした。それはあまりにも大きく、あまりにも早かったので、最初わたしは、鞍も乗り手もいない赤毛の軍馬かと思った。そして、その歯がきらめくのが見え、獣化人《ゾアントロプス》の悲鳴が聞こえてはじめて、アルザボだとわかった。
ほかの連中はすぐさまそれに襲いかかった。彼らの鉄木の棍棒の先が、まるで地面に撒かれた穀物をついばむ鶏の頭のように、グロテスクに上下するのが一瞬見えた。それから、一頭の獣化人が空中に投げ上げられたが、それまで裸だったのが、今は赤いマントに包まれているように見えた。
その乱闘にわたしが参加した時には、アルザボは倒れていた。だが、わたしはしばらくそれに注意を向けることができなかった。テルミヌス・エストは頭上で稔りをあげて回転した。一つの裸体が倒れた、そしてまた一つ。握り拳ほどの石が耳もとをかすめた。あまり近かったのでその音が聞こえたほどだった。もしそれが当たっていたら、わたしは一瞬の後に死んでいただろう。
だが、これらの獣化人は鉱山にいた猿人と違って、それほどの人数がいるわけではなく、結局は全滅させることができた。一人を肩から腰に袈裟《けさ》掛けに切ると、肋骨の一本一本が剣の刃にごつごつと当たるのがわかった。それから、もう一人に切りつけて、頭蓋を割ってやった。
やがて、あたりはしんと静まりかえり、少年の弱々しい泣き声だけが聞こえた。七体の獣化人が山の草の上に倒れていた。そのうち、四体はテルミヌス・エストに、そして、三体はアルザボに殺されたのだと思う。アルザボの口にはキャスドーの胴体がくわえられており、その頭と肩はすでに食われてしまっていた。フェッチンを知っていた老人は、人形を投げ出したようにくしゃくしゃになって倒れていた。あの高名な芸術家がいたら、ほかのだれも考えつかない角度からこれを描いて、その潰れた頭にすべての人間の生命の尊厳と儚《はかな》さを具現させ、彼の死をすばらしい絵に仕立てることもできただろうに。だが、フェッチンはここにはいなかった。そして、血みどろの口をした犬が老人のそばに倒れていた。
わたしは少年の姿を捜して、あたりを見回した。そして、彼がアルザボの背中にしがみついているのを見つけて、ぞっとした。おそらくアルザボは彼の父親の声で呼び、少年はそれに引かれてやってきたのだ。今はアルザボの胴体の後ろの四分の一が痙攣して震え、目は閉じられていた。わたしが少年の腕をつかむと、牛の舌よりも幅が広く厚みのあるアルザボの舌が、少年の手をなめるように現われ、それから、わたしが思わず見なおすほど強烈にその肩が震えた。舌は完全に口に戻らないで、草の上にだらりと垂れた。
わたしは少年を引き離していった。「もう終わったよ、セヴェリアン坊や。怪我はないか?」
彼はうなずいて、泣きだした。それから長い間、わたしは彼を抱いて歩き回っていた。
〈鉤爪〉を使おうかと、わたしはちょっと考えた。もっとも、それはキャスドーの家の中では、以前にも何度かあったように、わたしの願いどおりの力を発揮してくれなかった。しかし、たとえ効果を発揮したとしても、それが良い結果を生むかどうかは別の問題だった。獣化人やアルザボに新しい生命を与えるつもりはなかった。そして、キャスドーの首のない死体に、どんな生命が与えられるというのだろう? 老人については、彼はすでに死の戸口に坐っていた。そして今、死んだ。それも即死だ。一、二年後にもう一度死ぬために彼を呼び戻したとしても、感謝してもらえるだろうか? 宝石は日光を受けて輝いたが、その輝きは日光のものであって、〈調停者〉の光、つまり〈新しい太陽〉の対日照《ゲーゲンシャイン》([#ここから割り注]太陽と反対側の天空に見える微光[#ここで割り注終わり])ではなかった。わたしはまた宝石をしまった。少年は大きな目を見開いてわたしを見つめた。
テルミヌス・エストは、鍔のこちら側まで血みどろになっていた。わたしは倒れた木に腰を下ろして、これからどうすべきか思案しながら、朽ち木で剣を清掃し、それから刃を研いで油を塗った。獣化人やアルザボのことはなんとも思わなかったが、キャスドーと老人の死体が獣に食い荒らされるのは忍びなかった。
しかし、警戒心はそれに反対した。もし万一、別のアルザボがやってきて、キャスドーの肉を食いつくし、それから少年をつけ狙いはじめたらどうなる? 二人の死体を小屋まで運ぶことも考えたが、あそこまでは相当な距離があるし、二つを同時に運ぶわけにはいかず、後に残したほうは、わたしが戻ってくるまでには、食い荒らされてしまっていることだろう。大量に流された血の臭いを嗅ぎつけて、屍肉を食らう大鳥がカラベル船の主帆ほどもある翼を広げてすでに頭上を旋回しはじめていた。
わたしはしばらくの間、地面を調べて、キャスドーの杖でも穴が掘れるほど土の柔らかい場所を探した。しかし、結局、二人の死体を水路に近い川原に運び、その上にケルンを築いた。こうしておけば、一年くらいは死体はそのままになっていて、聖キャサリンの祭の頃には、雪解けの水で、父と娘の遺骨はずっと遠くまで押し流されるだろうと思ったのだ。
幼いセヴェリアンは最初は眺めているだけだったが、やがて、自分でも小さい石を運んできて石塚を完成させた。それから流れに入って、砂と汗を洗い落としていると、彼が尋ねた。「あんた、ぼくの叔父さんなの?」
わたしは答えた。「父さんさ――少なくとも今はね。人は父さんを失ったら、新しい父さんを持たなければならないんだ。坊やのように小さい子の場合はね。ぼくがその新しい父さんだ」
彼はうなずいて、じっと考えこんだ。それからまったく突然に、わたしはほんの二日前の夜に見た夢を思い出した。すべての人々が、一組の入植者の夫婦の子孫であって、全員が血の絆で結ばれていることを自覚している世界の夢を。父の名も母の名も知らないわたしが、自分と同じ名前を持つこの子供に対して、強い連体感を抱くのも無理のないことかもしれない。いや、その点では、会っただれに対しても、連帯感を抱いて不思議はないのだ。夢に見たその世界は、わたしにとって、身を横たえるベッドだったのだ。水が笑い声を立てている川のほとりで、われわれがいかに真剣だったか、少年の濡れた顔がどれほど真剣で清潔だったか、その大きな目の睫にたまった水の雫がいかに輝いたか、それを描写できればよいのだが。
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18 セヴェリアンとセヴェリアン
わたしはできるだけたくさんの水を飲み、また子供にも、山には水のないところがたくさんあって、明朝までは二度と水を飲むことができないかもしれないから、同じようにしろといった。その前に、彼はこれから家に帰るのかと尋ねた。その時までは、キャスドーとビーキャンのものだったあの家に逆戻りする計画でいたのだが、わたしは帰らないと答えた。なぜなら、もう一度彼にあの屋根と畑と小さな庭を見せて、それからもう一度別れを告げさせるのは、あまりにも残酷だと思ったからである。それに彼の年齢では、父母や姉や祖父がまだあの家の中にいるように感じるかもしれなかった。
それにしても、あまり下まで降りることはできなかった――わたしが旅をするには危険な高度まで、すでに下がっていたのである。スラックスの執政官の腕は百リーグ以上も広げられており、いつなんどきアギアがその騎馬兵をわたしの方に差し向けるかもしれなかった。
北東の方角に今まで見たこともない高い峰が現われた。頭ばかりか、その肩まで雪の衣をまとっており、雪の裾は腰のあたりまで垂れ下がっていた。どんなに誇り高い顔が、西の方の群小の峰々を見下ろしているか、わたしには、いやだれにもわからないだろうと思われた。しかし、きっと彼は、人類の最盛期の最も早い時代を支配し、また、彫刻刀が木を彫るように花崗岩をこのように形成できたエネルギーを、自由に使っていたにちがいない。その容貌を見れば、荒涼たる高地を熟知している百戦錬磨の騎馬兵も、畏れをなして立ち止まるだろうと思われた。それで、わたしはそちらに針路をとった。いやむしろ、その巨人のしわになった衣の裾と、ビーキャンがかつて家庭を築いていたあの山とを結ぶ高い峠の方向に、針路をとった。最初しばらくの間は、登りは急でなく、われわれは登攀よりもむしろ歩行により多くの努力を傾けた。
少年セヴェリアンは、わたしの支えがいらない時でも、よくわたしの手を握った。わたしは子供の年齢を当てるのに慣れていないが、もしわれわれの組合の徒弟だったら、初めてパリーモン師の教室に入るくらいの年齢だろう――つまり、上手に歩くことができ、他人の言葉を理解し、他人に自分の意志を伝えることができるほど喋ることが上手になっている年齢だ。
一刻かまたはそれ以上の間、彼はここに記したことのほかは喋らなかった。それからやがて、母親が倒れていた場所とそっくりの、松林に囲まれた草の生えた開けた斜面に降りてくると、こう尋ねた。「セヴェリアン、あの人たちはだれだったの?」
だれのことをいっているのか、わたしにはわかった。「あいつらは人間じゃない。もとは人間で、いまでも人間の姿をしてはいるけどね。あれは獣化人だ。人間の形をしている獣という意味さ。話していることがわかるかね?」
幼い少年はゆっくりうなずき、また尋ねてきた。「なぜ着物を着ていないの?」
「それは、今いったように、もう人間ではなくなっているからだ。犬は生まれながらにして犬であり、鳥は生まれながらにして鳥だ。しかし、人間になるのは一つの業績なんだよ――そのことを考えなくちゃね。きみは少なくとも過去三、四年のあいだ、そのことを考えつづけていたんだよ、セヴェリアン坊や。自分の考えていることを、決して自覚していなかったかもしれないがね」
「犬はただ食べ物を探すだけだ」少年はいった。
「そのとおり。そこから、人間はそのように思考をするように強制されるべきかという疑問が生じる。そして、ある人々はそうすべきでないという結論を、ずっと昔に出している。われわれは時々人間みたいに振舞えと犬に強制することがある――後足で立って歩けとか、首輪をつけろとか、いろいろとね。しかし、われわれは、人間に人間らしく振舞えと強制すべきではないし、強制することもできない。きみは眠りたいと思ったことがあるかい? 眠くもなく、疲れてもいない時にだよ?」
彼はうなずいた。
「それはなぜかというと、少なくともしばらくの間、少年であるという重荷を、きみが下ろしたいと思ったからだ。わたしは時々ワインを飲みすぎることがあるが、それはしばらくのあいだ人間であることをやめたいからなんだ。その理由で、自分で自分の命を奪う人も時々いる。知ってるかい?」
「そして、自分を傷つけるようなことをする人もいるんだね」彼はいった。その口調は、だれかの議論の口真似のようであった。きっとビーキャンは、そういう種類の人間だったのだろう。さもなければ、自分の家族をこんなに人里離れた危険な場所に連れてきはしなかったろうに。
「動物も頭をもっている――ざりがに[#「ざりがに」に傍点]や牛や鶏のような、うんと愚かな動物でもね。きみにものを考えさせるのは、きみの頭の中のほんの小さな部分にすぎない。ちょうど、この目の上あたりだ」わたしは彼の額に触った。「さて、もしなにかの理由できみが片手を取り去りたいと思ったら、そういう技術を持っている人がいるから、きみはその人のところにいけばよい。たとえば、仮にきみの手が痛む病気にかかっていて、それが決して治らないものだとしよう。彼らは、きみの体のほかの部分にはほとんど害の及ばない方法で、腕を取り去ることができる」
少年はうなずいた。
「よろしい。その同じ種類の人々は、きみにものを考えさせる頭の中の小さい部分を取り去ることもできる。もとに戻すことはできないがね。また、たとえ戻すことができるとしても、いったんその部分を取り去ってしまえば、もう戻してくれと頼むことはできない。しかし、時々その部分を取ってくれと頼んで、金を払う人がいるのだ。彼らは考えることを永久にやめたいのさ。そして、しばしば、人類がやったすべてのことに背を向けたいという。だから、もう彼らを人間として扱うことはできない――獣になってしまったんだから。もっとも、形だけはまだ人間だがね。彼らはなぜ服を着ないのかと、きみは尋ねた。彼らはもはや服を理解しない。だから服を着ようとしない。すごく寒く感じてもだ。もっとも、その上に寝たり、くるまったりすることはあるがね」
「おじさんも、ちょっと似ているんじゃない?」少年は尋ねて、わたしの露出した胸を指さした。
彼が口にしたような考えは今までに、わたしの心に浮かんだことはなかった。それで、一瞬あっけにとられた。「これは組合の規則なのだ」わたしはいった。「わたしは頭のどの部分も切り取られてはいない。きみのいうのが、そのことだったらね。そして、前にはシャツを着ていたんだ……しかし、そう、もしかしたら、ちょっと似ているかもしれないな。なぜなら、そのことを一度も考えたことがないから。すごく寒い時にさえもね」
彼の表情を見ると、わたしが彼の疑惑を確認してしまったことがわかった。「だから、逃げているんだね?」
「いや、それが理由で逃げているわけではない。もし、関係があるとすれぽ、これはその逆といえるかもしれない。たぶん、わたしの頭のその部分が大きくなりすぎたのだろう。しかし、獣化人についてのきみの考えは正しい。だから、彼らは山の中にいるんだ。人間が獣になると、危険な獣になる。そういう獣を、人里に置いておくわけにはいかない。農場もあるし、人が大勢いるからね。だから、彼らはこのような山の中に追いやられたり、もとの友人にここに連れてこられたり、人間的な思考力を捨てる前に、お金を払って頼んでおいた人に、ここに連れてきてもらうのだ。もちろん、彼らとてまだ少しは考えることができる。すべての獣が考えるようにはね。荒野で食べ物を見つけよう、くらいは考えるさ。もっとも、冬のたびに大勢が死ぬ。また、猿が木の実を投げるように、石を投げたり、棍棒を使ったりする程度の知恵はある。そして、連れ合いを捕えるために狩りさえもする。前にもいったかな、彼らの中には女もいるからね。しかし、彼らの息子や娘が長生きすることはめったにない。それはかえって幸運なことだと思う。なぜなら、子供たちは、きみや――わたしと――同様に思考力という重荷を負って生まれてくるからだ」
話しおえると、この重荷がずっしりと重くのしかかってきた。それは実際にあまりに重かったので、記憶力が時々わたしにとって耐えがたい呪いとして感じられるように、思考力がほかの人人にとってひどい呪いになりうることが、初めて理解できたのだ。
わたしは美についてあまり感受性がないほうだが、空と山腹の景色があまりに美しかったので、それがわたしの心中の思いのすべてを綺麗な色に染め上げてくれるように感じられた。それで、把握不可能な事柄をほとんど把握できたように感じた。タロス博士の芝居に初めて出演した後、マルルビウス師はわたしのところに現われて(実際に起こったという確信が増しこそすれ、減りはしないのだが、当時は、理解できなかったことであり、いまだに理解できずにいる)、わたしが統治にはなんの関係もないのに、統治の循環性について話をしたものだった。そして今ここで、意志そのものが統治されているのだと、ふと思い当たった。統治しているのが理性でないとすれば、意志の上か下にあるものによって統治されているのだと。しかし、そのようなものが理性のどちら側に存在しているか知ることは、きわめて困難だった。本能は、確かにその下に存在している。しかし、ひょっとしたら上にも存在しているのではないだろうか? アルザボが獣化人に向かって突進した時、その本能は、自分の餌食をほかのものから守ることを命じた。ビーキャンがそうした時は、きっと彼の本能が妻と子供を守れと命じたのだろう。両方とも同じ行動をとった。そして、彼らは実際に同一の肉体の中でそれをおこなった。高位の本能と、低位の本能が、理性の後ろで手を結んだのだろうか? それとも、すべての理性の背後に控えているのは、たった一つの本能なのだろうか? どちらの場合にも、理性は左右に一本ずつ手を見るわけだが。
しかし、本能は本当に、マルルビウス師の暗示する統治の最高形態であると同時に最低の形態でもある君主の人格に対する忠誠心≠ネのだろうか? あきらかに、本能そのものが無から生じたということなどありえない――われわれの頭上を飛ぶ鷹は、疑いなく、本能によって巣を作る。だが、巣が作られない時があったにちがいないし、また、最初に巣を作った鷹は、両親から営巣本能を受け継いでいたはずはない。なぜなら、両親にはその本能がなかったのだから。また、こういった本能がゆっくり発達してきたということもありえない。二本の小枝を運んでくる鷹が出現する以前に、何千世代にわたって一本の小枝を運んでくる鷹がいたなどということはないのだ。なぜなら、一本や二本の小枝は、巣を作る鷹にとっては、なんの役にも立たないのだから。たぶん、本能に先行したものは、意志の統治の最低の原理だけでなく最高の原理でもあったのだろう。もしかしたら、そうでないかもしれない。旋回する鳥たちは彼らの象形文字を空に描いたが、それらはわたしに読ませるためのものではなかった。
この山と、先に述べたもっとずっと高いもう一つの山をつなぐ鞍部に近づいていくと、まるで極から赤道への一線をたどって、ウールス全体の顔を横切っていくように感じられた。実際、われわれが蟻のように這っていく表面は、内と外をひっくり返した球だといってもいいくらいだった。われわれの遙か後方と遙か前方に、広大な輝く雪原がぼんやりと浮き上がって見えた。それらの下には、氷に鎖された南の海の岸辺のような、石だらけの斜面があり、その下に花盛りの粗大な草の生えた高地の草原が広がっていた。前の日に通過したそういう草原を、わたしはよく覚えている。その時は、前方の山を取り巻く青い霞の下に、そのような草原が胸の上の帯のように、つまり、緑の|飾 緒《フラジエール》のように見え、その下に松林が、黒く見えるほど暗く輝いていたのだった。
ところが、今われわれが向かって降りていく鞍部はまったく違っていた。そこには広大な低山帯林がひろがり、濶葉硬木が死につつある太陽に向かって、高さ三百キュビットの青ざめた頭をもたげていた。その間に、その木の死んだ兄弟が、生きている兄弟に支えられ、絡みついた蔓生植物の幕に包まれて、直立した状態で残っていた。その夜、野宿するために足を止めた小川のほとりでは、植物はすでに山地の繊細さの多くを失い、低地のみずみずしさをいくらか帯びていた。そして、もうその暗部がはっきり見えるほど樹林の近くまできていた。少年はもはや一心不乱に歩いたり登ったりする必要がなくなると、そちらを指さし、これからあそこを下るのかと尋ねた。
「明日にしよう」わたしはいった。「もうすぐ暗くなるし、あのジャングルを一日で通過したいからね」
彼はジャングル≠ニいう言葉を聞くと目を丸くした。「危険なところなの?」
「本当は知らないんだ。スラックスで聞いたところでは、虫は低地ほどひどくはないはずだ。そして、あそこでは吸血|蝙蝠《こうもり》に悩まされることもなさそうだ――前に友達が吸血蝙蝠に噛まれたことがあるが、あまり気持ちのよいものではなかった。しかし、あそこには大きい猿が棲んでいる。そして山猫などもいるだろう」
「そして、狼も」
「そう、もちろん狼も。ただ、狼は高いところにもいる。きみの家があったところや、もっとずっと高いところにね」
彼のもとの家のことをいったとたんに、わたしは後悔した。なぜなら、彼の顔に戻ってきていた生の喜びのようなものが、その言葉とともに流れ去ってしまったからである。しばらくの間、彼はもの思いに沈んでいるように見えた。やがて、いった。「あの人たちが――」
「獣化人のことだな」
彼はうなずいた。「獣化人がきて、母さんに傷をつけた時、おじさんはできるだけ早く助けにきてくれたの?」
「ああ」わたしはいった。「できるだけ早く駆けつけたよ」これは本当だった。少なくともある意味では。それでも、口に出すには苦痛が伴った。
「よかった」彼はいった。わたしは彼のために毛布を広げた。彼がそこに横になると、彼をくるんでやった。「星が明るくなったねえ。太陽がいってしまうと、明るくなるんだね」
わたしは彼のそばに横たわり、空を見上げた。「本当は、太陽はいってしまうわけではない。ウールスが、太陽から顔をそむけるだけさ。それでも、われわれにはそう思えるんだな。たとえきみがわたしから目をそらせても、わたしはどこかにいってしまったわけではない。わたしの姿が見えなくなったとしてもね」
「もし太陽がまだそこにいるのなら、なぜ星は、より強く輝くのかなあ?」
その声を聞いていると、彼が議論しながら自分の利口さを楽しんでいることがわかった。そして、わたし自身もまた楽しかった。突然、わたしが子供だった頃、パリーモン師がなぜわたしと話をするのを楽しみにしたかが理解できた。わたしはいった。「蝋燭の火は明るい日光の中では、ほとんど見えなくなる。そして星も――本当はそれ自体が太陽なんだ――同様に薄れるように見えるのだ。大昔、われわれの太陽がもっと明るかった頃に描かれた絵を見ると、夕方になるまでは、星は全然見えなかったらしい。昔の伝説には――この図嚢の中に、そういう物語がいっぱい書かれた茶色の本が入っているが――ゆっくり消えたり、ゆっくり現われたりする魔物がいっぱい出てくる。これらの物語が、当時の星の見えかたに基づいていることは疑いないね」
彼は指さした。「あそこに海蛇がいるよ」
「そうらしいな」わたしはいった。「ほかの星座を知っているかね?」
彼は十字星や大きな雄牛を指差した。そして、わたしは自分で名づけた両頭蛇や、そのほかいろいろの星座を指し示した。
「そして、狼がいる。一角獣の上だ。小さな狼もいるよ。だが見えないな」
われわれはいっしょにそれを探した。それは地平線の近くにあった。
「あれはぼくたちみたいじゃない? 大きい狼と小さい狼。ぼくたちは大きいセヴェリアンと小さいセヴェリアンだ」
わたしはそれに賛成した。彼はわたしが与えた干し肉を噛みながら、長い間、星を見上げていた。やがて、彼はいった。「お話の本はどこにあるの?」
わたしは見せてやった。
「家にも一冊あったよ。時々母さんがぼくと姉さんに読んでくれたっけ」
「あれはきみの姉さんだったんだね?」
彼はうなずいた。「ぼくたち双子だったの。セヴェリアンおじさんには姉さんがいた?」
「知らない。家族はみんな死んでしまったんだ。わたしが子供の頃にね。きみはどんなお話が好きなんだい?」
彼は本の中を見たいといった。わたしは渡してやった。彼は何頁かめくってから返してよこした。「家にあったのと違うよ」
「そうだろうな」
「男の子が出てくるお話を探して。大きな友達と双子も出てくるやつ。その中に狼が出てくるはずだよ」
わたしは最善を尽くして、光の薄れる早さに負けないように、大急ぎで読みはじめた。
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19 〈蛙〉と呼ばれた少年の物語
1 〈初夏〉とその息子
昔々、ウールスの岸辺の彼方のある山の上に、〈初夏〉という名の美しい女が住んでいた。彼女はその国の女王だったが、王は強くて、執念深い男だった。そして、女王は王に対して嫉妬深かったので、王も彼女に対しては嫉妬深く、彼女の愛人と思う男はすべて殺してしまった。
ある日〈初夏〉が庭園を歩いていると、今までまったく知らなかった種類の非常に美しい花が目に止まった。どんな薔薇よりも赤く、甘い匂いがしたが、丈夫な茎には刺がなく、象牙のように滑らかだった。彼女はそれを摘み、人目につかないところに持っていった。そこに横たわって花のことをいろいろ考えていると、その花は彼女にとって花ではなくなり、力強くて接吻のように優しい、昔から恋い焦がれている恋人のように思えてきた。その植物の汁のいくらかが体内に入り、彼女は身ごもった。だが彼女は、王にそれは彼の子だと告げた。彼女は用心堅固だったので、王はその言葉を信じた。
生まれたのは男の子で、母親の希望で〈春風〉と名づけられた。彼が生まれると、その星占いをするために、星を研究する人が山頂に住む人だけでなく全部集まり、また、ウールスの最も偉大な魔術師もたくさん集まってきた。彼らは長い間、運勢図を懸命に研究し、九回も荘厳な秘密集会《コンクラーヴェ》を開いて、ついに次のような発表をした。戦場では〈春風〉は無敵であろう。そして、彼の子供はすべて成人に達する前に死ぬだろうと。これらの予言は王を大変喜ばせた。
〈春風〉が成長すると、母親は彼が野原や花や果物をとても好むのを見て、秘かに喜んだ。あらゆる植物が彼の手の下で生い茂り、彼が握りたがるのは剣ではなくて刈りこみナイフだった。だが、彼が若者に成長した時に戦さが起こった。彼は槍と楯を取った。彼は立居振舞いが穏やかで、王に従順だった(彼は王を自分の父と信じていたし、王も自分が父親であると信じていた)ので、多くの人はこの予言は誤りだろうと思った。だが、そうではなかった。戦いの熱気の中で彼は冷静に戦い、その大胆さには充分な判断が伴い、その用心は理にかなっていた。彼ほど機略縦横な将軍はなく、彼ほどすべての職務に忠実な士官はいなかった。王の敵に対して彼が率いた将兵は、燃えさかる青銅の兵士に見えるまでに鍛えられ、彼らの彼に対する忠誠心は〈陰の世界〉、つまり太陽から最も遠い領域にまで、彼についていこうというほどのものだった。やがて、塔を倒したのは〈春風〉であり、船を転覆させたのも〈春風〉だと人々がいった。もっとも、それは〈初夏〉が意図したことではなかったけれども。
さて、たまたま戦さの成り行きで〈春風〉はウールスにやってきた。そこで彼は、それぞれ王位についている二人の兄弟と知り合いになった。彼らのうち、兄のほうには何人も息子がいたが、弟のほうには娘が一人しかいなかった。その娘は名前を〈森の小鳥〉といった。この娘が大人になった時、父親が殺された。そして彼女の伯父は、彼女が息子を生んで、祖父の王国の権利を要求することがないように、彼女を処女司祭の名簿に登録してしまった。〈春風〉は不快になった。なぜなら、この王女は美しく、その父親は彼の友人だったから。ある日、彼はウールスの世界にたまたま一人で出かけた。そこで、ある小川のほとりで〈森の小鳥〉を見つけ、接吻して彼女を目覚めさせた。
彼らは愛しあい、双子の息子を生んだ。教団の処女司祭は〈森の小鳥〉を助けて、胎内の子供の成長を伯父王から隠したが、生まれた子供を隠すことはできなかった。そこで、〈森の小鳥〉が子供を見ないうちに、処女司祭は双子を、羽毛の毛布を敷いた柳の籠に入れ、〈春風〉が彼女を驚かせたのと同じ小川の岸にいき、籠を流して立ち去った。
2 〈蛙〉はどのようにして新しい母親を見つけたか
その籠は真水の上も塩水の上も通って、遠くまで流れていった。ほかの子供だったら死んでしまっただろうが、〈春風〉の息子たちは死ぬはずはなかった。なぜなら、彼らはまだ成長していなかったから。彼らの籠のそばで、鎧をつけた怪獣が水をはね飛ばし、猿どもは小枝や木の実をその中に投げこんだが、籠は先へ先へと流れていき、ついに二人の貧しい姉妹が洗濯をしている川岸に流れ着いた。この善良な女たちはそれを見て大声をあげた。しかし、大声がなんの役にも立たないとわかると、彼女らはスカートをたくし上げてベルトにはさみ、川の中に入っていって籠を陸に上げた。
男の赤子たちは水中で見つかったので、〈魚〉と〈蛙〉と名づけられた。姉妹が彼らをそれぞれの夫に見せると、驚くほど丈夫でハンサムな子供だとわかったので、姉妹はそれぞれ一人ずつ選んだ。さて、〈魚〉を選んだ女の夫は牧夫であり、〈蛙〉を選んだ女の夫は樵《きこり》だった。
この女は〈蛙〉に自分の乳を飲ませて、よく面倒を見た。なぜなら、女は最近、自分の子供を亡くしていたからである。彼女は夫が荒地に木を切りにいってしまうと、その子をショールにくるんで背負って歩いた。のちに彼女は、伝説の紡ぎ手によって、すべての女の中で最も強い女といわれることになる。なぜなら、彼女は一つの帝国を背負って歩いたからだ。
一年たった。その年の末に、〈蛙〉は立ち上がって、二、三歩あるくことを覚えた。ある夜、樵とその妻は荒地の中の彼ら自身の小さな空き地の焚き火のそばに坐っていた。そして、彼女が夕飯の支度をしていると、〈蛙〉が裸で焚き火のところに歩いてきて、立ったまま火に当たった。そこで、ぶっきらぼうだが心優しい樵が尋ねた。「それが好きか?」すると、今までまったく口をきかなかった〈蛙〉が、うなずいて答えた。「赤い花」と。それを聞いた時、〈初夏〉はウールスの岸辺の彼方の山頂のベッドで、もぞもぞ動いたといわれる。
樵とその妻はびっくり仰天した。だが、たがいに何が起こったか話しあったり、〈蛙〉にもう一度ロをきいてみろと説得したり、今度、牧夫とその妻に会ったらなんというか打ち合わせをすることもできなかった。なぜなら、その空き地に恐ろしい音が聞こえてきたからである――その音を聞いたことのある人は、ウールスの世界で最も恐ろしいものだといっている。そして、それを聞いた人はほとんど死んでしまうので、それには名前がないが、蜜蜂の羽音のようなものであり、また、もし猫が牛よりも大きければそのような音を出すかもしれないし、また、腹話術師《ヴォイス・スローワー》が最初に出すのを習う音のようなもの、つまり、あらゆる場所から同時に出てくるように思われる、喉の奥の唸り、とでもいったような音である。それは剣歯虎《スミロドン》が獲物のそばに忍び寄った時に出す歌声であり、巨象《マストドン》さえも怯えて、しばしば間違った方向に走り出し、背後から突き刺されてしまうという、歌声なのである。
きっと万物主はすべての謎をご存知であろう。彼は長い言葉を話され、それがわれわれの宇宙になった。そして、その言葉の一部でないことなど、ほとんど起こらないのである。そこで、彼のご意志によって、その焚き火からそう遠くないところに一つの小山が隆起した。そこには最も古い時代の大墳墓があった。貧しい樵とその妻は何も知らなかったけれども、そこには二匹の狼が家を作っていた。屋根が低く壁の厚い、壊れた記念碑や壊れた水瓶の間に緑のランプのさがった回廊のある、いかにも狼の好みそうな家だった。雄狼はコリフォドンの大腿骨をしゃぶり、妻の雌狼は子供に乳房を含ませていた。
近くから、剣歯虎の歌が聞こえてくると、彼らは狼が呪うことのできる〈灰色の言語〉でそれを呪った。なぜなら、掟を心得た動物は、ほかの狩猟獣の家のそばで狩りをすることはなく、狼たちは月と仲が良かったからである。
雄狼が呪いおえると、雌狼がいった。「あの〈殺戮者〉は、あの愚かな河馬の殺し屋は、いったいどんな獲物を見つけたんでしょうねえ? ねえ、あなた、ウールスの彼方に横たわる山脈の岩の上を跳ね回る蜥蝪の匂いさえ嗅ぎつけるあなたが、肉のついていない骨をしゃぶって我慢しているというのに」
「わたしは腐肉は食わん」雄狼はぶっきらぼうに答えた。「朝の草から虫を引き出すこともしないし、浅瀬で蛙を釣ることもしない」
「〈殺戮者〉だって、そういうもののために歌いはしませんわ」彼の妻はいった。
やがて雄狼が頭を上げて、空中の匂いを嗅いだ。「あいつはメシアの息子とメシアンヌの娘を狩っている。そんな肉から決して良いものが生じないことは、おまえも知っているとおりだ」これを聞いて、雌狼はうなずいた。なぜなら、すべての生き物の中でメシアの息子たちだけが、同胞を殺されるとみんなを殺すことを、彼女は知っていたからである。だから、万物主は彼らにウールスを与えたのであり、彼らはその贈り物を捨てたのである。
〈殺戮者〉は歌いおわると「木の葉が震えるほどすごい声で吠えた。それから悲鳴をあげた。なぜなら、狼の呪いは月が照っているかぎり、強力な呪いであったから。
「どうして彼は悲しみだしたんでしょう?」娘のひとりの顔をなめていた雌狼が尋ねた。
雄狼はまた匂いを嗅いだ。「肉が焦げた――あいつは焚き火に飛びこんだのだ」彼とその妻は、狼がやるように、声を立てずに歯を全部見せて笑った。彼らの耳は、砂漠に立つテントのように立った、彼らは耳を澄ませて、〈殺戮者〉が獲物を探して茂みの中をうろついているのを聞いていたからである。
今は狼の家の扉は開いたままになっていた。なぜなら、おとなの狼のどちらかが家にいる時には、だれが入ってこようと彼らは気にしないし、また、入ってきたものより出ていくもののほうが少ないからである。今まで月の光がいっぱいに射しこんでいた戸口が(狼の家では、月はいつも歓迎される客である)、暗くなった。そこに一人の子供が立っていた。暗いのを恐れてはいただろうが、乳の強い匂いを嗅ぎつけたのだ。雄狼は不機嫌に唸ったが、雌狼はいかにも母親らしい声で呼んだ。「お入り、メシアの坊や。ここで、乳を飲ませて、温めて、綺麗にしてあげる。ここには目の輝いた、足の早い、世界じゅうでいちばんの遊び相手がいるよ」
これを聞いて、男の子が入ってきた。そして、雌狼は乳で満腹したわが子を下ろし、彼に乳を含ませた。
「そんな生き物がなんの役に立つ?」雄狼がいった。
雌狼は笑った。「先月に殺した獲物の骨を吸いながら、よくそんなことがいえるわね。このあたりで戦さが荒れ狂い、〈春風王子〉の軍隊がこの土地を掃討したことを覚えていないの? あの時は、メシアの息子はだれもわたしたちを狩らなかったのよ。みんな自分たちでたがいに狩りあっていたからね。彼らの戦闘が終わると、わたしたちが出ていったでしょう。あなたもわたしも、〈狼の元老〉のみんなも、そして〈殺戮者〉や〈笑い屋〉も〈黒い殺し屋〉さえも。そして、わたしたちは死んだものや、死にかけたものの間を、欲しいものを選びながら歩き回ったじゃないの」
「そのとおりだった」雄狼はいった。「〈春風王子〉はわれわれのために、たいしたことをしてくれた。だが、そのメシアの子は彼ではないぞ」
雌狼は、ちょっと微笑していった。「彼の頭の毛と肌に、戦さの煙の匂いがするわ」(それは〈赤い花〉の煙だった)「彼の城壁の門から最初の部隊が進軍してくれば、あなたもわたしも塵になってしまうでしょう。でも、その最初の部隊はわたしたちの子供と彼らの子供と、そして彼らの子供の子供を養うために、千人もよけいに産み出すでしょう」
雄狼はこの言葉にうなずいた。なぜなら、彼は雌狼のほうが自分より賢いことを知っており、また、自分がウールスの岸辺の彼方の物事を嗅ぎ出すことができるように、彼女は来年の雨季の先の日々を見ることができるからである。
「彼を〈蛙〉と呼ぶことにするわ」雌狼はいった。「なぜなら、〈殺戮者〉は実際に蛙を釣ったと、あなたがおっしゃったから」彼女はこれを雄狼へのお世辞のつもりでいったと、自分では信じた。なぜなら、彼は彼女の望みをなんでも黙認してくれるからである。だが、真実はこうだった。ウールスの彼方の山頂の人々の血が〈蛙〉に流れており、その血を持つ者たちの名は長いあいだ隠れていることはできないからである。
外で荒々しい笑い声が響いた。それは〈笑い屋〉が呼んでいる声だった。「あそこにいます、ご主人! あそこ、あそこ、あそこです! ここ、ここ、ここに足跡があります。あいつはこの戸口に入っていきました!」
「ほら」雄狼はいった。「不吉なことを口にすると何が起こるかわかったろう。名づけることは呼ぶことだ。それが掟だ」そして、彼は剣を下ろして、その刃の切れ味を指で試した。
戸口がまた暗くなった。狭い戸口だった。愚か者と寺院以外は広い戸口を持たないからである。
狼は愚かではなかった。さっき、〈蛙〉はその大部分をふさいだ。今〈殺戮者〉はそのすべてをふさぎ、入ってこようとして肩を回し、大きな頭を下げていた。壁がとても厚かったので、戸口は路地のように見えた。
「何を探している?」雄狼は尋ねて、剣の平をなめた。
「自分のものを探しているだけだ」〈殺戮者〉はいった。剣歯虎は両手に曲がったナイフを持って闘う。そして、彼は雄狼よりずっと体が大きかった。しかし、この窮屈な場所で刃を交えることは望まなかった。
「これがあんたのものであったことは決してないよ」雌狼はいった。それから〈蛙〉を床に下ろし、〈殺戮者〉がその気になれば打ちかかることができるほど、その近くに寄った。彼女は火のように燃えていた。「適法でない獲物を狩るのは、適法でない。今、この子はわたしの乳を飲み、永久に月に捧げられた狼になったのよ」
「おれは死んだ狼を見たことがある」〈殺戮者〉はいった。
「そうだ。そしてそれらの肉を食ったわね。きっと蛾も食べないほど腐っていただろうに。もし倒木がわたしを殺せば、おまえはわたしを食べるかもしれないね」
「こいつは狼だというんだな。それでは〈元老〉たちのところに連れていかねばならないぞ」
〈殺戮者〉は舌なめずりをしたが、その舌は乾いていた。広い場所でなら、雄狼と対決したかもしれない。しかし、この夫婦をまとめて敵にする勇気はなかった。そして、もし自分が戸口に入っていけば、彼らは〈蛙〉を抱えて墓の崩れた石積みの間の地下道に退却するだろう。そして、そこにいけば、雌狼はすぐに雄狼の後ろに隠れるだろうと。
「それで、あんたは〈元老〉とどんな関係があるの?」雌狼は尋ねた。
「たぶん、彼と同じだけの」〈殺戮者〉はそういって、もっと食べやすい肉を探しにいった。
3 〈黒い殺し屋〉の黄金
〈狼の元老会〉は毎回満月の下で集会をする。出席できるものは全員やってくる。もし出席しなければ、残飯のお返しにメシアの息子たちの家畜を守ってやると申し出たりして、反逆を企んでいるのではないかと思われるからである。〈元老会〉を二度欠席した者は、帰ってきた時に裁判を受けなければならない。そして、〈元老会〉から有罪と認められれば、雌狼たちによって殺される。
子供たちも〈元老会〉にこなければならない。これは、その父親が真の狼であることを確認したいと思うおとなの狼が、だれでも彼らを調べることができるようにするためである(雌狼は時々腹いせに犬と寝ることがあり、犬の息子はしばしば狼の子とそっくりに見えるけれども、体のどこかに必ず白い斑点がある。白はメシアの白であり、メシアは万物主の清い光を覚えているからである。そして、メシアの息子たちは、触ったものすべてに、いまだにその斑点を烙印として残すからである)。
こうして、満月の夜に雌狼は〈狼の元老会〉の前に立った。子供たちが足の前で遊び、〈蛙〉は――月の光が窓から射しこんでその肌を緑色に染めると、本当に蛙のように見えた――彼女のスカートの毛皮にしがみついて、その横に立った。〈群れの長《おさ》〉はいちばん高い席に坐っていた。
〈元老会〉の前に連れてこられたメシアの息子を見て驚いたかどうかは、その耳からは判断できなかった。彼は歌った。
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ここに五つの子供がいる!
無事に生まれた息子と娘だ!
もし彼らが贋物なら、説明しろ、ハウ・ワウ・ワウ!
もし、いうことがあれぽ、今いえ、ナウ・ワウ・ワウ!
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子供たちが〈元老会〉の前に連れてこられた時は、たとえ彼らに対して異議が申し立てられても、親には弁護ができない。だが、ほかの場合ならば、だれかが彼らを傷つければ、殺戮の罪を問われる。
「今いえ、ナウ・ワウ・ワウ!」壁がそれを反射したので、谷間の小屋のメシアの息子たちは扉を鎖し、メシアの娘たちはわが子を抱き締めた。
その時、最後の狼の後ろに隠れていた〈殺戮者〉が進み出た。「なぜ、ぐずぐずしている?」彼はいった。「おれは利口ではない――あんたがたにもよくおわかりのように、おれは強すぎて利口になれないのだ。しかし、ここに四匹の子狼がいる、そして、五匹目は狼ではなくて、おれの獲物だ」
これを聞いて、雄狼が尋ねた。「彼[#「彼」に傍点]はどんな権利があって、ここで発言しているのだ? 彼[#「彼」に傍点]は絶対に狼ではないのに」
十いくつもの声が答えた。「狼が証言を求めれば、だれでも発言できる。話せ、〈殺戮者〉!」
そこで雌狼は剣の鯉口を切り、もし闘うことが必要になったら、最後の闘いをしようと身構えた。傲慢な顔をし、燃えるような目をした彼女は悪魔のように見えた。なぜなら、天使はしばしば、われわれと敵との間に立つ悪魔にすぎないから。
「おれは狼ではないと、おまえはいう」〈殺戮者〉は続けた。「そのとおりだ。狼がどんな匂いか、狼がどんな音を立て、どんな姿をしているか、おれたちは知っている。この狼は、このメシアの息子を自分の子にした。だが、狼を母に持ったからといって、子が狼になるわけではないことは、みんなも知っている」
雄狼が叫んだ。「狼とは、母親と父親が狼である者をいうのだ! わたしはこの子をわが息子と認める!」
この言葉に、笑いが起こった。そして、それがやんでも、一つの奇妙な声が笑いつづけた。それは〈狼の元老会〉の前で〈殺戮者〉に助言を与えるためにやってきた〈笑い屋〉だった。彼は叫んだ。「多くの者がそういった、ホッ・ホッ! だが、彼らの子供たちは狼の群れを食ってしまった」
〈殺戮者〉がいった。「彼らはその白い毛皮のために殺された。その毛皮の下の皮膚も白いからだ。こいつがどうして生きることができようか? こいつをおれにくれ!」
「ふたり発言しなければならない」〈長《おさ》〉は告げた。「それが掟だ。この子を弁護したい者はいないか? これはメシアの息子だ。しかし、同時に狼でもあるのか? 両親でないふたりがこれを弁護しなければならない」
すると〈裸の者〉(彼は狼の若者を教えているので、元老のひとりに数えられている)が立ち上がった。「わたしはメシアの息子を教えたことがない」彼はいった。「この子から何か学ぶことがあるかもしれない。わたしは彼を弁護する」
「もう、ひとり」〈長〉はいった。「もうひとり弁護しなければならない」
しんと静まりかえった。やがて〈黒い殺し屋〉が広間の後ろから大またに歩み出た。だれもが〈黒い殺し屋〉を恐れる。彼のマントは最も幼い子の毛皮と同じくらい柔らかいが、その目は夜に燃えるからである。「すでにここで、狼でない者がふたり発言した」彼はいった。「わたしも言葉で説明しなくてもいいではないか? わたしは黄金を持っている」彼は財布を持ち上げた。
「話せ! 話せ!」百もの声が叫んだ。
「掟はこうもいっている。子の命を買うことができる、と」〈黒い殺し屋〉はそういって、手のひらに黄金を注ぎ、こうして一つの帝国を買い取った。
4 〈魚〉の畝《うね》
もし〈蛙〉の冒険のすべてを語るとしたら――彼が狼に混じってどのように暮らし、狩りや闘いをどのように覚えたかを語るとしたら、それだけで何冊もの本がいっぱいになるだろう。しかし、ウールスの彼方の山頂の人々の血を引く者は、最後にはその呼び声を感じる。そして、彼にもその時がやってきた。彼は〈狼の元老院〉に火を持ちこんでいった。「ここに〈赤い花〉がある。その名において、わたしが支配する」そして、だれも反対せずにいると、彼は狼を統率して、自分の王国の臣民にした。そしてまもなく、人間も狼と同様に彼のもとに馳せ参じた。彼はまだほんの子供だったけれども、周囲の人間よりも常に背が高く見えた。なぜなら、彼は〈初夏〉の血を引いていたからである。
ある夜、野薔薇が咲いている時に、〈初夏〉が彼の夢の中に現われて、母である〈森の小鳥〉のことや、彼女の父親や伯父のことや、彼のきょうだいのことを話した。彼は牧夫になっているきょうだいを見つけ出した。そして、狼や〈黒い殺し屋〉や大勢の人間とともに王のところにいき、遺産を要求した。王は老齢であり、その息子たちは息子を残さずに死んでいたので、王は遺産を与えた。その中から〈魚〉は都市と農地を取り、〈蛙〉は山岳地帯の荒地を取った。
だが、彼に従った大勢の人間が大人になった。彼らは他の民族から女を奪い、子供を作った。そして、狼がもはや必要がなくなって荒地に帰ると、〈蛙〉は臣民の住む都市がいると判断した。その都市には、男たちが戦争に出かけた時に、住民を守るための城壁が必要だった。彼は〈蛙〉の家畜の群れのところにいき、一頭の白い雌牛と一頭の白い雄牛を取り、それらに引き具と黎《すき》をつけ、城壁を築く目印として一筋の畝を掘らせた。臣民が建設の用意をしている間に、〈魚〉が家畜を取り戻しにやってきた。〈蛙〉の臣民が畝を示して、これが城壁になるというと、〈魚〉は笑ってそれを跳び越えた。彼らは、馬鹿にされた小さいものは決して大きくならないことを知っていたので、〈魚〉を殺した。だが、彼はその時には成人していたので、〈春風〉が生まれた時の予言が実現したことになった。
〈蛙〉は死んだ〈魚〉を見ると、土地を豊饒にするために畝に埋めた。彼は〈裸の者〉にそのように整られていたからである。〈裸の者〉はまた〈野蛮な者〉つまり、スクワント([#ここから割り注]植民者にトウモロコシの栽培を教えたアメリカ・インディアン)とも呼ばれる。
[#改ページ]
20 魔法使いの集団
われわれは曙光とともに、人が家に入るように、山のジャングルに入った。後ろでは、日光が草や藪や岩の上に踊っていた。われわれは、剣で道を切り開かなければ通れないほど厚く茂った一種の蔓草の中を進んでいった。前方には、影とそびえたつ樹木の幹しか見えなかった。森の中には昆虫の羽音一つ聞こえず、小鳥のさえずりも聞こえず、風のそよぎもなかった。歩いていく地面には土が露出していて、最初は山腹の斜面の岩と同じくらいごつごつしていたが、一リーグもいかないうちに滑らかになり、最後には、鋤で作ったにちがいない短い階段のところに出た。
「見て」少年がいって、一番上の階段に載っている何か奇妙な形の物を指さした。
わたしは立ち止まって見た。それは鶏の頭だった。その両眼に黒い金属の針のようなものが刺さっており、くちばしには脱皮した蛇の皮をくわえていた。
「これ何?」少年は目を丸くした。
「呪《まじな》いだと思う」
「魔法使いがここに置いたの? どんな意味があるの?」
わたしはその疑似学芸についての、なけなしの知識を思い出そうとした。子供の頃、セクラはある乳母に育てられたが、その乳母はお産を早めるために紐に結び目を作ったり解いたりし、また、真夜中に、結婚式のケーキを載せる皿にセクラの未来の夫の顔(それはわたしの顔だったろうか?)が映って見えたといいはった。
「鶏は」わたしは少年にいった。「日の先ぶれだ。そして、魔法的な意味で、夜明けの鶏の鳴き声は太陽をもたらすといえるだろう。こいつは盲目にされているが、それはたぶん、夜明けがいつきたかわからないようにするためだろう。蛇の脱皮した皮は、清めと若返りを意味する。盲目の鶏が古い皮を持っているんだ」
「だから、それはどういう意味なの?」少年はまた尋ねた。
わたしは知らないと答えたが、これは〈新しい太陽〉の到来に反対する呪いだと確信した。そして、子供の頃、わたし自身が熱烈に望んでいながら、同時にほとんど信じていなかった太陽の再生に、だれかが反対していることを知って、なんとなく胸が痛んだ。それと同時に、〈鉤爪〉を持っていることを自覚した。万が一にも〈鉤爪〉が〈新しい太陽〉の敵の手に落ちたら、彼らはきっとそれを破壊するだろうと思われた。
さらに百歩も進まないうちに、木々から赤い布切れがさがっていた。あるものは無地だったが、あるものには、わたしの読めない黒い文字が書かれていた――いや、それはむしろ、実際に持っている知識以上の知識を持っていると自負する種類の人々が、天文学者の書きものを真似て使う、記号や表意文字のようだった。
「後戻りをするか」わたしはいった。「あるいは、迂回したほうがいいな」
そういうかいわないうちに、後ろでがさがさ音がした。路上に歩み出たのは、ものすごく大きい目をした黒と白と赤の縞模様の人影だった。一瞬わたしは、本当の悪魔が出現したと思った。それから、ただ体に模様を描いた裸の人間にすぎないことがわかった。彼らは手に鉄の鉤爪を取りつけており、それを持ち上げて見せた。わたしはテルミヌス・エストを抜いた。
「おまえの邪魔はしない」一人がいった。「行け。去るつもりがあるなら、立ち去れ」体に塗った絵具の下の肌は白く、頭髪は南部人のように金髪らしかった。
「邪魔はしないほうがいい。この剣は長いから、おまえたちがおれの体に触れるより早く、おまえたちを殺すことができるからな」
「では、いくがいい」金髪の男はいった。「子供をわれわれのところに残すことに異存ないなら」
それを聞いて見回すと、セヴェリアン坊やはいつのまにかわたしのそばから消えていた。
「だが、彼を返してもらいたければ、その剣を差し出して、われわれについてこい」恐れる色もなく、体に絵具を塗った男はわたしに歩み寄り、手を差し出した。その指の間から鉄の鉤爪が現われていた。それは手のひらに持った鉄の棒に取りつけられているのだった。「二度は頼まんぞ」そいつはいった。
わたしは剣を鞘に納め、鞘を吊している飾帯を外して、そっくり彼に渡した。
彼は目を閉じた。その目蓋には白い輪郭を持った黒い点々が描かれており、鳥が見たら蛇だと思うような、ある種の芋虫の模様のように見えた。「これは血をたっぷり吸っているな」
「そのとおり」わたしはいった。
彼の目がまた開いた。そして、今度はまたたきもしない目で、じっとわたしを見つめた。その絵具を塗った顔には――そのすぐ後ろに立っているもう一人の男と同様に――仮面のように表情がなかった。「ここでは、新しく鍛造された剣はほとんど力を持たない。だが、これは害を及ぼしそうだ」
「息子とおれが立ち去る時には、それは返してくれるのだろうな。息子をどこにやった?」
返事はなかった。二人はわたしの周囲を左右から回った、そして、少年とわたしが進んできた方向に道を進んでいった。一瞬おいて、わたしは彼らの後を追った。
彼らがわたしを連れていったのは村と呼んでもよいところだった。だが、サルトゥスのような村ではなく、村と呼ばれることもある土民の小屋の集まりのような場所でもなく、普通の意味の村ではなかった。樹木は、以前に見た森林のものとはちがい、もっと大きくて、木と木の間隔がずっと離れていた。天蓋のような葉は、頭上数百キュビットのところに光の通らない屋根を形成していた。あまりにも大きい樹木だったので、まるで、時の始まりから全時代を通じて成長してきたもののように思われた。一本の木の幹に扉があり、それに階段が通じていた。その木の幹には窓の穴が点々とあいていた。別の木の枝の上には数階建ての家があった。また別の木の大枝からは大きなムクドリモドキの巣のようなものがぶら下がっていた。また、地面にいくつかの昇降口が開いていることから、地下に坑道が掘られていることがわかった。
わたしはその昇降口の一つに連れていかれ、暗闇に通じている粗末な梯子を降りるように命じられた。一瞬(理由はわからないが)、これはずっと深い地底に通じているのではないか、あの猿人の闇の宝物倉の下にあった深い洞窟のようなところに通じているのではないかと、恐怖を感じた。だが、そうではなかった。その時には腐った筵《むしろ》のように思えたものの間を、身長の四倍も下りないうちに、地下室に着いた。
頭上のハッチは閉じられて、あたりは真っ暗だった。手探りでその場所を調べると、広さは縦横が三歩に四歩くらいだとわかった。床と壁は土で、天井は皮の剥いでない丸太だとわかった。家具と呼べるようなものは何一つなかった。
われわれが連行されたのは午前の中頃だったから、あと七刻ほどすれば、暗くなるだろう。そうなる前に、権力者の前に引き出されるのだろう。もしそうなったら、わたしは全力をふるって、子供とわたしは無害だから、穏便に釈放すべきであると説得してやろう。もし、そういうことにならなければ、またこの梯子を登って、ハッチから脱出することができないかどうか試してみよう。わたしはそう考えて、腰を落ち着けて待った。
わたしは確かに眠らなかった。だが、身に備わっている、過去を呼び出す特技を利用して、少なくとも精神的には、その暗い場所を脱出していた。しばらくの間、子供の頃にやっていたように、〈城塞〉の壁の外の共同墓地で、動物を眺めていた。雁が矢印を描いて飛んでいくのを眺め、狐や兎の行き来を眺めた。わたしのために、彼らはふたたび草原を駆け抜け、それから、雪の中に足跡を残した。トリスキールは、〈熊の塔〉の裏の廃物の上に死んでいるように見えた。彼のそばにいくと、彼が体を震わせ、首を上げてわたしの手をなめた。わたしはセクラの狭い独房に、彼女といっしょに坐り、たがいに声を出して本を読みあい、また、読むのを中止して、読んだことを議論しあった。「世界は、時計が止まるように、止まるのよ」彼女はいった。「自存神《インクリエート》は死んだわ。そして、だれが彼を再生する? だれが再生できる?」
「確かに、時計は持ち主が死ねば止まるといわれていますね」
「それは迷信よ」彼女はわたしの手から本を取り上げて、自分の手で持った。その手は指が長く、冷たかった。「持ち主が死の床につくと、だれも時計に新たな水を注がないからよ。その人が死ぬと、看護婦は時間を確認するために文字盤を見る。後で、それが止まっていることに気づく。時間も同じことよ」
わたしは彼女にいった。「それは持ち主より先に止まるというんですね。とすると、たとえ今宇宙が止まりかけているとしても、自存神が死んだということにはなりませんね――ただ、彼が存在しないというだけのことで」
「でも、彼は病気なのよ。あたりを見回してごらん。この場所や、頭上の塔を見てごらん。ほらね、セヴェリアン、存在しているのに、見えていなかったものがいっぱいあるでしょう」
「それでも彼はだれかほかの者に、機構の欠けた部分を補ってくれと頼むことができるでしょう」わたしはいった。それから、自分のいったことに気づいて赤面した。
セクラは笑った。「あなたのために初めて着物を脱いだ時以来、あなたが赤面したのを見たことがなかったわ。わたしの乳房の上にその手を置かせたら、あなたは苺のように真っ赤になったっけ。覚えている? だれかに補欠を頼むんですって? あの若い無神論者はどこにいったのよ?」
わたしは彼女の太股に手を置いた。「あの時と同様に、神聖なお方の面前で取り乱したんですよ」
「さては、わたしの話を信じないな? でも、無理ないわ。わたしはあなたのような若い拷問者にとって、夢でしかないんだから――まだ手足が切断されていなくて、自分の欲望を冷ましてくれと頼む美しい囚人なんてね」
わたしは恰好良く見せようとしていった。「あなたのような夢は、わたしの手の届かないところにあります」
「そんなことないわ。わたしは今はあなたの意のままだもの」
独房の中のわれわれのそぱに、何かがいた。わたしは閂《かんぬき》の掛かった扉を見、銀の反射板のついたセクラのランプを見、それからすべての隅を覗いた。独房は暗くなり、それからセクラとわたし自身さえも、灯火とともに消滅した。だが、われわれの記憶の中に侵入してきた何者かは、消えなかった。
「だれだ?」わたしは尋ねた。「なんの用だ?」
「われわれがだれか、おまえはよく知っている。われわれもおまえがだれか、知っている」その声は冷たく、たぶん、それまでに聞いたもっとも独裁的な声だと、わたしは思った。だが、独裁者自身はそういう喋り方はしなかった。
「では、おれはだれだ?」
「ネッソスのセヴェリアン、スラックスの警士《リクトル》だ」
「おれはネッソスのセヴェリアンだが」わたしはいった。「もはやスラックスの警士ではない」
「では、それをわれわれに信じさせてみよ」
また静かになった。そして、しばらくして、この尋問者には尋問するつもりがないことがわかった。自由になりたければ、自分からすすんで説明しろと強制しているのだ。わたしは彼に組みついてやりたい衝動に駆られた――距離は二、三キュビット以上離れているはずはなかった――しかし、さっきここにくる途中で衛兵が見せたように、彼も鋼鉄の鉤爪で武装しているにちがいなかった。また、さっきも思ったように、〈鉤爪〉を革袋から出したいと思った。もっとも、それ以上の愚行はありえなかったけれども。わたしはいった。「スラックスの執政官はある女を殺すようにおれに命じた。だが、おれはそれに反して女を逃がしてしまった。それで自分も町から逃げなければならなかったのだ」
「兵士の固めている場所を、魔法を使って通り抜けたのだな」
奇跡をおこなうと自称する人はすべて贋物だと、わたしは昔から信じている。今の尋問者の声には、他人を欺くように、自分をも欺くことを暗示する何かが含まれていた。また、嘲笑の調子も含まれていたが、それは魔法に対する嘲笑ではなく、わたしに対する嘲笑だった。
「まあね」わたしはいった。「おれの能力について、何を知っている?」
「その力は、この場所から逃げ出すには不充分だと」
「逃げる試みはしていない。それでも、すでに自由になっていたがね」
これは彼を不安にした。「おまえは自由ではなかった。ただ、霊魂でここに女を連れてきただけだ!」
わたしは溜め息を聞かれないように、そっと息を吐き出した。前に〈絶対の家〉の控の間で、幼い少女がわたしを背の高い女と間違えたことがあった。あの時は、セクラが一時的にわたし自身の人格と入れ換わっていたのだった。どうやら今は、記憶に蘇ったセクラが、わたしの口を借りて喋っていたにちがいなかった。わたしはいった。「ではきっと、おれは降霊者なんだ。死者の霊を自由にできるんだ。なぜなら、あの女は死者なんだから」
「その女を逃がしたといったではないか」
「別の女だ。あれは、ほんのわずかに似ているだけだ。おれの息子をどうした?」
「彼はおまえを父とは呼んでいないぞ」
「幻想の病を患っているんだ」わたしはいった。
返事はなかった。しばらくして、わたしは立ち上がり、この地下の牢獄の壁の上の方をふたたび手で撫でまわした。それはやはり、平らな土だった。しかし、ハッチをなんらかの携帯可能な構造物で覆って、日光が射しこまないようにすることは可能だし、また、もしハッチが巧妙に作られていれば、音を立てずに持ち上げることも可能だと思われた。わたしは梯子の最初の桟に上がった。体重がかかると、桟はきしった。
もう一段上がった。そしてまた一段。そのたびに梯子がきしった。四段目を登ろうとした時、頭と肩を短剣の先のようなもので突かれたように感じた。右の耳から血が滴って、首を濡らした。
わたしは三段目に戻って、上の方を手探りした。地下室に入る時に破れた筵だと思ったものは、十数本以上もある鋭い竹串で、それらがなんらかの方法で、先端を下に向けて立坑に植えこんであるのだった。降りる時には、体がそれらを片方に押し退けるので、容易に降りられるのだが、今はちょうど魚を突く銛《もり》の逆刺が、魚体の外れるのを防ぐように、わたしが逃げるのを防いでいるのだった。わたしはその一本をつかんで折ろうとした。だが、両手でやればともかく、片手ではそれを折ることは不可能だった。明かりと時間さえあれば、それらの間をくぐって登っていくことは可能だったろう。明かりはたぶん自分で調達できるだろう。しかし、その危険を冒す気にはならなかった。それでまた床に跳び下りた。
もう一度、部屋の周囲を回ってみたが、今までわかった以上のことはわからなかった。だが、さっきの尋問者が音を立てずに梯子を登っていったことは、間違いないように思われた。もっとも彼は、何か特別な知識を持っていて、それで竹串の間を通れたのかもしれないが。わたしはよつん這いになって床を歩き回ったが、やはりそれ以上の知識は得られなかった。
梯子を動かそうとしたが、梯子はその場所に固定されていた。そこで、立坑に最も近い隅を出発点にして、力いっぱい高く飛び上がって壁の上の方を指で触った。それから、半歩片側に移ってまた飛び上がった。こうして、さっき坐っていた場所のだいたい向かい側にきたと思われる頃、ついに見つけた。それは高さ約一キュビット、幅約ニキュビットの長方形の穴であった。尋問者はたぶん綱か何かの助けを借りて、音も立てずにそこから下りてきて、また同じ方法で戻っていったのだろう。だが、ただ首と肩だけを差し入れたと考えるほうが妥当だと思われた。そうすれば、声は、その人物が本当にわたしの部屋の中にいるように聞こえたことだろう。わたしはその穴の縁にできるだけしっかりとつかまって、跳び上がり、体を引き上げた。
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21 魔法の決闘
その先の部屋は、これまで閉じこめられていた部屋とそっくりだった。ただし、床はもっと高かった。もちろん、そこも真っ暗だった。しかし、もう監視されていないと確信したわたしは、〈鉤爪〉を袋から取り出し、その光であたりを見回した。光は明るいというほどではなかったが、充分だった。
梯子はなかったが、狭い扉があって、次の地下室に通じているように思われた。わたしは〈鉤爪〉をまたしまうと、その扉を通り抜けた。だが、その先は部屋ではなくて、扉と同じくらいの幅のトンネルになっており、数|複歩《ストライド》もいかないうちに、二度も曲がった。最初は、わたしが幽閉されていた部屋の壁の扉が見つからないように、光をさえぎるための屈曲した通路にすぎないと、想像していた。しかし、それだったら、三回以上屈曲する必要はないはずである。壁は湾曲し、分岐しているように思えた。だが、一寸先も見えない暗闇に変化はなかった。わたしはまた〈鉤爪〉を取り出した。
狭い場所に立っているためか、光が多少強くなったように思われた。しかし、手で触ってわかっていた以上のものは見えなかった。ほかにはだれもいない、土の壁と丸太の天井(今は頭のすぐ上にあった)の迷路の中だった。屈曲しているために光の到達範囲は極端に狭まっていた。
〈鉤爪〉をまた取り出そうとした時に、異様な刺激臭を感じた。わたしの鼻は、決して物語の雄狼の鼻ほど敏感ではない。それをいうなら、普通の人より嗅覚は鈍いくらいである。しかし、この臭いは知っているような気がした。もっとも、以前どこで嗅いだかを思い出すまでには、しばらく時間がかかった。それは、われわれが脱走したあの朝、控の間で、少女と話をした後にジョナスのところに戻った時に嗅いだ臭いだった。あの少女は、何か正体不明の捜索者が、あそこの囚人たちの間をくんくん嗅ぎ回っていたといっていた。そして、わたしはジョナスの寝ていた場所の床と壁に粘液のような物質を発見したのだった。
これ以後、わたしは〈鉤爪〉を袋に戻さずにいた。そして、迷路をさまよっている間に、悪臭のある痕跡を何度も横切ったが、それを付着させた生物の姿はついに見ることがなかった。一刻またはそれ以上さまよったあげく、短い、開いた立坑を上がる梯子を見つけた。その出口の四角い昼間の光は、まぶしくもあり、嬉しくもあった。しばらくの間、わたしは梯子に足を掛けることさえせずに、ただ光を浴びていた。それを登れば、たちまち捕まってしまうことは、ほとんど確実だと思われた。しかし、この頃には我慢できないほど喉が渇き、腹が減っていた。しかも、わたしを探している不気味なもの(それは間違いなくヘトールのペットの一つだった)の存在を考えると、今すぐにでも跳び出していきたい気持ちだった。
やがてわたしは、用心しながら登っていって、地面から顔を出した。そこは(予想に反して)前に見た村の中ではなかった。曲がりくねった迷路は、わたしを村の外の秘密の出口に連れてきたのだった。ここでは、巨大な静かな樹木がいっそう身近に立っていた。そして、最初、目がつぶれるほど眩しく思えた光は、その葉を透かして落ちてくる薄暗い緑色の光にすぎなかった。外に出ると、穴は二本の根の間にあって、すぐ横を歩いても気がつかないほど、人目につかなかった。できるものなら重いもので蓋をして、わたしを探している不気味な生物が出てくるのを防ぎたい、少なくとも遅らせたいと思ったが、そんな目的に役立つ石などは、そのあたりにはなかった。
地面の傾斜を観察し、可能な限り下りつづけるという昔ながらの方法によって、まもなく小さな流れを発見した。その上には小さく空が開けていた。そして、判断できた限りでは、時間は日の出から八刻ないし九刻たっていると思われた。発見した清水の水源からそう遠くはないところに村があるだろうと想像して歩いていくと、すぐに見つかった。わたしは煤色のマントにくるまって最も暗い陰に立ったまま、しばらく村を観察していた。一度は、(前に山道でわれわれを捕まえた連中のように体に絵具を塗っていない)男が一人広場を通っていった。一度は、もう一人が宙吊りの小屋から出てきて、泉のところにいって水を飲み、また小屋に帰っていった。
次第に暗くなると、この奇妙な村は目覚めた。十数人の男たちが宙吊りの小屋から出てきて、広場の中心に薪を積み上げはじめた。さらに、衣を着て二叉の杖を持った男が三人、樹木の家から出てきた。ほかにも、薪に点火されるとすぐに、密林の道を見張っていたにちがいない男たちが、最も暗い陰から滑り出して、焚き火の前に一枚の布を広げた。
衣を着た男の一人が、焚き火に背を向けて立ち、ほかの二人はその足もとにうずくまった。彼らのすべてに何か異常な雰囲気があった。だがわたしは、〈絶対の家〉の庭園で見た神殿奴隷《ヒエロドウール》の雰囲気よりもむしろ、高貴人《エグザルタント》の態度を思い出した――それは、指導者と大衆を切り離すような、リーダーシップの意識から生じる態度だった。体に絵具を塗った者も、塗っていない者も、その三人の方を向いてあぐらをかいて地面に坐った。大勢のざわめきと、立っている男の力強い演説が聞こえてきた。だが距離が遠かったので、話の内容は理解できなかった。しばらくすると、うずくまっていた男たちが立ち上がった。その一人が衣をテントのように開いた、すると――わたしが養子にした――ビーキャンの息子が歩み出た。もう一人が同じやりかたでテルミヌス・エストを取り出し、鞘を払って、その輝く刃と、柄の黒オパールを群衆に見せた。それから、絵具を塗った男の一人が、わたしのいる方に向かって、ある距離を歩いてきて(わたしは煤色のマントにくるまっているにもかかわらず、彼に見られているのではないかと心配になったが)、地面に設置されている扉を引き開けた。その後まもなく、彼はもっと焚き火に近い別の扉から現われ、いくぶん慌てた様子で衣を着た男たちのところにいき、なにごとか報告した。
何を報告したかについては、ほとんど疑う余地はなかった。わたしは肩をそびやかせて、焚き火の光の中に進み出た。「あそこにはいない」わたしはいった。「ここにいるぞ」
大勢が息をのむのが聞こえた。自分がまもなく死ぬかもしれないとわかっていても、それを聞くのはやはり痛快だった。
衣の男たちの真ん中の奴がいった。「ごらんのとおり、おまえはわれわれから逃げることはできない。自由にはなったが、また引き戻すことができる」地下の牢獄でわたしを尋問したあの声だった。
わたしはいった。「もしおまえが道≠きわめているなら、おまえの権威は、無知の者が信じているほどには、おれに及ばないと知っていよう」(このような人々の喋りかたを真似るのは、困難ではない。それ自体が、修道僧やペルリーヌ尼僧団の女司祭たちの喋りかたの物真似なのだから)「おまえたちはおれの息子を盗んだ。この子が〈言葉を話す獣〉の息子でもあることは、この子を充分に尋問したなら、すでに知っているはずだ。彼を返してもらうために、おれは剣をおまえたちの奴隷に渡し、また、しばらくの間、わが身をも提供した。今それを返してもらう」
人間の両肩の間には、親指で強く押すと、腕全体が麻痺するつぼ[#「つぼ」に傍点]がある。わたしはテルミヌス・エストを持っている衣の男の肩に手を置いた。すると彼は剣を足もとに落とした。少年セヴェリアンは、幼児にしては珍しく気丈なところを見せて、それを拾い上げ、わたしに渡した。真ん中の衣の男は杖を上げて叫んだ。「武器を取れ!」すると追随者はいっせいに立ち上がった。多くは、前に述べた金属の鉤爪を持っており、ほかの多くの者はナイフを抜いた。
わたしはいつものようにテルミヌス・エストを背負ったままいった。「おれがこの古代の剣を武器として使うとは、おまえたちもまさか思うまい。これにはもっと高度な特性があることは、ほかの者ならともかく、おまえたちが知らないはずはない」
セヴェリアンを出現させた衣の男があわてていった。「それなら、アバンダンティウスがたった今そういった」もう一人の男はまだ腕をさすっていた。
わたしは真ん中の衣の男を見た。明らかに彼がその男だった。その目は利口そうで、石のように固かった。「アバンダンティウスは賢い」わたしはいった。ほかの者に襲いかかられることなしに、彼を殺す方法はないかと、わたしは思案した。「だから、魔術師《マグス》の体を傷つけると、どんな呪いがかかるかも、彼は知っているはずだ」
「では、おまえは魔術師なのだな」アバンダンティウスはいった。
「執政官の餌食をその手から奪い、彼の軍勢のただなかを姿を見られずに通過してきた、このおれがか? そうだ、そのように呼ばれてきた」
「では、魔術師であることを証明せよ。そうすれば、われわれの仲間に迎えてやろう。だが、もしその試験に失敗したり、拒否したりすれば――多勢に無勢だ。しかもおまえには一振りの剣しかない」
「公正な試験ならば失敗しない」わたしはいった。「だが、おまえも、おまえの手下もそういう試験をする資格はない」
彼はこのような口論に引きこまれるほど愚かではなかった。「おまえ以外は、ここのだれもが試験のことを知っているし、公正であることも知られている。おまえのまわりにいる者すべては、それに成功しようと志している者だ」
わたしは、それまでに気づかなかった広間に連れていかれた。それは基本的に丸太で建てられており、樹木の間に隠されていた。窓は一つもなく、入り口が一つあるだけだった。中に松明《たいまつ》が持ちこまれると、その一間の建物の中には家具はなく、ただ、草を編んだ敷物が一枚敷かれているだけであることがわかった。幅にくらべて極端に長く、まるで廊下のように見えた。
アバンダンティウスがいった。「ここで、おまえはデクマンと決闘をする」彼は、さっきわたしが腕を麻痺させた男を指さした。その男は、指名されたことにいささか驚いたようだった。
「おまえはさっき焚き火のところで、彼を負かした。こんどは彼が、できるなら、おまえを負かさなければならない。おまえはここに坐るがいい。扉に最も近い場所だ。だから、われわれは彼を助けに入ることはできない。彼はいちばん奥に坐る。おまえたちはたがいにそばに寄ったり、さっき焚き火のところでおまえがやったように、相手の体に手を触れてはならない。たがいに呪文を唱えるのだ。明朝、どちらが勝ったか見にくる」
わたしは幼いセヴェリアンの手を引いて、その暗い場所の最も奥に連れていった。「おれはここに坐る」わたしはいった。「おまえたちがデクマンを助けにこないことは、心から信じることにしよう。だが、おれが外に協力者を持っているかどうか、おまえたちには知る術はない。おまえたちはおれを信じるといったから、おれもおまえたちを信じることにする」
「その子供をわれわれに預けたほうが、よいだろうに」アバンダンティウスがいった。
わたしは首を振った。「この少年は、そばに置かねばならない。おれの子供だからな。おまえたちがジャングルの道で彼をさらった時は、それと同時におれの力の半分を奪ったといっていいくらいだ。二度と彼を引き離させはしないぞ」
ちょっと間を置いて、アバンダンティウスはうなずいた。「では、好きなように。われわれはその子供に害が及ばないことを願うだけだ」
「彼に害は及ばない」わたしはいった。
壁に鉄のブラケットがついており、四人の裸の男が松明を一本ずつに差しこんでから、出ていった。デクマンは扉のそばにあぐらをかき、膝の上に杖を置いた。わたしは坐り、子供を引き寄せた。「怖いよ」彼はいって、その小さな顔をわたしのマントに埋めた。
「無理もない。きみにとってこの四日間は恐ろしいものだった」
デクマンはゆっくりしたリズムで呪文を唱えはじめていた。
「セヴェリアン坊や、あの道で、きみに何が起こったか話してくれよ。見回したら、きみは消えていたぞ」
多少、おだてたり、機嫌を取ったりしなければならなかったが、やがて彼のすすり泣きはやんだ。「あいつらが出てきたんだ――鉤爪をつけて、体を三色に塗った男たちが。それで、ぼく、怖くなったから逃げた」
「それだけか?」
「それから、三色の男たちがもっと出てきて、ぼくを捕まえた。そして、地面の穴に入れたんだ。暗かったよ。それから、ぼくを起こして、持ち上げた。そして、男の上着の中に入った。そしたら、あんたがきて、助けてくれた」
「だれかが質問しなかったかい?」
「暗闇にいた男の人が」
「わかった。セヴェリアン坊や、今度は絶対に逃げちゃいけないぞ。前に道で逃げたみたいにな――わかったか? ただし、わたしが逃げたら、いっしょに逃げるんだぞ。前に三色の男たちに出会った時、もし逃げなかったら、こうして捕まりはしなかったんだから」
子供はうなずいた。
「デクマン」わたしは呼んだ。「デクマン、話してもいいか?」
彼はわたしを無視した。もっとも、呪文を唱えている声がいくらか高くなったかもしれないが。その顔は天井の穴を見つめているように上を向いていたが、目は閉じられていた。
「あいつ、何をしているの?」少年は尋ねた。
「呪《まじな》いをしているんだ」
「ぼくらに害が及ぶの?」
「いいや」わたしはいった。「こういう魔法はたいていインチキなんだ――きみを穴から持ち上げて、あたかも、もう一人のやつがきみを衣の下から出現させたように見せかけるとかね」
だが、わたしは話しながらも、それだけではないと感じていた。デクマンはわたしに精神を集中させていた。それも、それほど精神を集中させることができる人間はあまりいないと思われるほどに。わたしは一千の目が見つめている明るい場所に、裸でいるように感じた。一本の松明の火が揺らめき、一方に流れて消えた。広間の照明が弱まると、目に見えぬその光はひときわ明るくなったように感じられた。
わたしは立ち上がった。痕跡を残さずに人を殺す方法はいろいろとある。わたしは進んでいきながら、心のなかで、それらを復習した。
たちまち、両側の壁から一エルほどの槍が飛び出した。それらは兵士たちが持っている槍のような、穂先から火を噴き出すエネルギー武器ではなく、サルトゥスの村人が使っていた先金のついた突き棒のようなものだった。にもかかわらず、至近距離では殺傷能力のあるものだったので、わたしはまた腰を下ろした。少年がいった。「外で、丸太の隙間から見張っていると思うよ」
「ああ、初めて知った」
「ぽくらに何ができるの?」そして、わたしが答えずにいると、「この人々はだれなの、父さん?」といった。
彼がわたしをそう呼んだのは初めてだった。わたしは彼をいっそう引き寄せた。そうすると、デクマンがわたしの精神の回りに編み上げていた網が、弱まるように思えた。わたしはいった。
「ほんの想像にすぎないが、いってみれば、これは魔法使いの専門学校なんだ――熱心な信者が秘密の学芸と信じるものを練習しているのさ。彼らはいたるところに追随者を持っていて――あやしい話だがね――とても残忍だと考えられている。〈新しい太陽〉の噂を聞いているかね、セヴェリアン坊や? 予言者がいうには、この世界にやってきて氷を押しかえし、世直しをする人だそうだ」
「アバイアを殺すんだね」子供がこう答えたので、わたしはびっくりした。
「そうだ、彼はそういうことや、ほかにもいろんなことをすると考えられている。ずっと昔にも一度来たことがあるんだって。それは知っていたかい?」
彼はうなずいた。
「その時の彼の使命は、人類と自存神との間に平和を打ち建てることだった。それで〈調停者〉と呼ばれたんだ。彼は後に有名な聖宝を遺した。〈鉤爪〉と呼ばれる宝石だ」そういうと、わたしの手は動いて〈鉤爪〉のところにいった。それの入っている人間の皮の小さな袋の口の紐を緩めはしなかったが、柔らかななめし革ごしにそれに触れることができた。指がそれに触れるやいなや、デクマンがわたしの心の中に創り出していた目に見えぬ強烈な光が弱まって、ほとんど消えてしまった。今考えると、なぜかわからないが、〈鉤爪〉に効果を発揮させるためには、それを隠し場所から取り出さなくてはならないと、長い間思いこんでいたのであった。この夜わたしは、それが間違いだと知って、笑ってしまった。
一瞬デクマンは呪文を唱えるのをやめて、目を開けた。幼いセヴェリアンはいっそう強くわたしにしがみついた。「もう怖くなくなった?」
「ああ」わたしはいった。「今までわたしが怖がっていたのを、知っていたのか?」
彼は重々しくうなずいた。
「今の話の続きだが、そのような名前の聖宝が存在するために、ある種の人々は〈調停者〉が鉤爪を武器として使っていたという考えを抱いたらしい。わたしは時々、〈調停者〉が存在していたのかどうか疑念を抱いていた。だが、もしそのような人が実際に生きていたとしたら、おそらくその武器を、主として自分自身を抑制するために使っていたと思う。わたしのいっていることがわかるかね?」
わかるはずがないと思ったが、彼はうなずいた。
「あの山道で、〈新しい太陽〉の到来を妨げる呪いを見つけたろう。三色の男たちは――この試験に合格した連中だと思うが――鉄の鉤爪を使う。わたしが思うには、彼らはこの場所を占拠して、〈調停者〉の能力を不法に行使できるように、〈新しい太陽〉の到来を押し戻したいと望んでいるにちがいない。もし――」
外で、だれかが悲鳴をあげた。
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22 山の裾
たとえ一瞬でも、わたしの笑い声はデクマンの精神集中を破った。だが、戸外の悲鳴は彼に影響しなかった。彼の網は、わたしが〈鉤爪〉をつかんだ時に大部分が脱落してしまったのだが、ふたたび結ばれはじめた。今度はもっとゆっくりと、だが、もっと緊密に。
いつも、このような感じは筆舌に尽くしがたいといいたくなるが、本当に表現できないことはめったにない。わたしは二個の知覚力のある太陽の間に、裸でぶら下がっているように感じた。そして、それらの太陽はデクマンの脳の半球だと、なんとなくわかった。わたしは光に浸っていたが、それは焦熱地獄のような強烈な光で、わたしを焼きつくし、なんとなく金縛りにするような力があった。それを浴びていると、すべてがどうでもよいことのように思われ、自分自身が無限に小さく、軽蔑すべぎものに感じられた。
こうしてわたしの精神の集中も、ある意味で、破られずにいた。だが、漠然とながら、その悲鳴はわたしにとって有利なチャンスの合図なのかもしれないと、意識した。ずいぶん遅ればせながら、たぶん、十数呼吸が鼻孔を通過した後に、わたしはよろよろと立ち上がった。
何かが扉から入ってこようとしていた。最初の印象は、おかしないいかただが、泥のようだった――ウールスが痙攣を起こして、広間が今まさに臭い沼の底に沈もうとしてでもいるような。それは扉の柱のまわりを、さぐるように柔らかに流れてきた。それと同時に、また一本の松明が消えてしまった。まもなくそいつは、デクマンの体に触りそうになった。わたしは大声で彼に警告した。
その獣が触ったせいか、わたしの声のせいかわからないが、彼は後ずさりした。わたしはまた呪縛の破れるのを、双子の太陽の間でわたしを捕えていた罠が崩れるのを感じた。それらはばらばらになり、ぼんやりして、消えていった。そして、わたしは体が拡大するのを感じ、上でも下でもなく、右でも左でもない方向に回っていぎ、結局われに返ると、試験の広間の中に五体満足で立っており、セヴェリアン坊やがマントにしがみついていた。
その時、デクマンの手の鉤爪が閃いた。彼がそれを持っていることすら、わたしは知らなかった。その黒くてほとんど形のない生物がなんであるにせよ、その横腹が、鞭打たれた脂肪のように切れた。そいつの血液は黒、いや、むしろ暗緑色だった。デクマンのは赤かった。その生物はデクマンの上に流れ上り、彼の皮膚を蝋のように溶かしたように思われた。
わたしは少年を抱き上げて、手と足で、わたしの首と腰にしがみつかせ、力いっぱい飛び上がった。だが、指先は屋根の棒に触っただけで、それをつかむことはできなかった。怪物は盲目的に、しかし、目的ありげに向きを変えた。もしかしたら、そいつは臭いによって動かされるのかもしれないが、わたしには、どうも思考によって動かされるように思われてならない――そう考えれば、わたしが夢の中でセクラになっていたあの控の間では、わたしを見つけるのにひどくのろかったし、一方デクマンの精神がわたしの精神に集中していた試験用の広間では、ひどく早かったことが、説明できるように思われるのだ。
わたしはまた飛び上がった。だが、今度は棒まで少なくとも一スパンは足りなくて、つかみそこねた。二本残っている松明の一つを取るためには、怪物に向かって走る必要があった。だが、わたしはそうした。そして松明をつかんだが、それは腕金から取ったとたんに消えてしまった。
今度は片手で腕金をつかみ、その手の力で足を助けるようにして、また飛び上がった。今度は、左手でなめらかな細い棒をつかむことができた。棒はわたしの体重でしなった。だが、わたしは少年をぶら下げたまま、体を引き上げ、腕金に片足をのせることができた。
下では、黒い形のない怪物が後足で立つようにして伸び上がり、倒れ、また伸び上がった。わたしは棒をにぎったまま、テルミヌス・エストを抜いた。それを一振りして、相手のどろどろの肉に深く切りつけた。剣が離れるやいなや、そいつの傷は閉じて、くっついてしまったようだった。そこで、今度は屋根を葺いてある草に剣を向けた。これは白状すれば、アギアの逃走術の盗用である。屋根の草はジャングルの草を丈夫な繊維で束ねたもので、厚かった。最初めった切りにしたが、ほとんど跡が残らないように思われた。だが、三度目に切りつけると大きな草の塊りが脱落した。その一部が残っている松明に当たり、それを押し包んで、くすぶりはじめた。それからどっと炎が噴き上がった。わたしはあいた穴から、夜の闇に飛び出した。
このようにして、抜き身の鋭利な剣を手にしたまま、やみくもに飛び出したにもかかわらず、少年もわたしも死ななかったのは不思議である。わたしは地面に落ちると、剣と少年を手放して、よつん這いになった。草葺き屋根の炎は時々刻々大きくなった。少年の泣き声が聞こえたので、逃げないようにいい聞かせ、それから片手で彼を引き起こして立たせ、もう一方の手でテルミヌス・エストをひっつかんで、わたし自身逃げ出した。
その夜の残りの時間ずっと、われわれはジャングルの中をめくらめっぽうに逃げた。できるかぎり、山の上の方に向かうようにした――北にいけば道は登りになるだけでなく、そのほうが落とし穴のようなものに転げこむ危険が少ないと思われたからである。朝がきても、われわれはまだジャングルの中にいた。自分たちがどのあたりにいるか、いっこう明らかにならなかった。少年を抱えて歩いていくと、やがて彼は腕の中で眠ってしまった。
さらに一刻ほど進むと、前方の地面が急勾配になっていることは疑いがなくなった。そして、ついに、前の日に切り開いて通ったのと同じような蔓草のカーテンが現われた。剣を抜こうとして、少年の目を覚まさないように注意しながら下に降ろそうとした時、左手の隙間から明るい日光が射しこんでいるのが見えた。わたしはできるだけ早く、そちらに向かって走るように歩いていった。そこを通り抜けると、まばらな草と灌木の生えた岩だらけの台地に出た。さらに何歩かいくとさらさら流れている綺麗な渓流にいきあたった――間違いなく、二晩前にそのほとりで少年とわたしが寝たあの川だった。わたしは、あの不定形の怪物が跡をつけてきているかも知らず、また気にもかけずに、そこに倒れて、またもや眠ってしまった。
わたしは迷路の中にいた。魔法使いたちの暗い地下の迷路に似ているようでもあり、似ていないようでもあった。ここの回廊は広く、時には〈絶対の家〉の壮麗な柱廊のようにも見えた。実際、ある部分には窓間鏡がはまっていて、そこに、自分自身のぼろぼろのマントと憔悴した顔と、そして、わたしにぴったりと寄り添って、美しく裾を引いたガウン姿の半透明なセクラの姿が、映って見えた。そして、いくつもの惑星が彼らだけに見える長い斜めの湾曲した軌道を描いて、ひゅっひゅっと通過した。青いウールスは子供のような緑色の月を連れていたが、彼女に触りはしなかった。赤いヴェルタンディ([#ここから割り注]火星のこと[#ここで割り注終わり])がデクマンになり、その皮膚が浸食され、彼自身の血の中に巻きこまれていった。
わたしは逃げた。そして、手足をばたばたさせて墜落した。一瞬、日光に浸った空に、本物の星が見えた。しかし、眠りが重力のように抗いがたくわたしを引っ張った。ガラスの壁の横をわたしは歩いた。それをとおして、徒弟のわたしが着ていた古いつぎだらけの灰色のシャツを着た少年が、怯えて逃げていくのが見えた。第四層から〈時の広間〉に逃げていくのだな、とわたしは思った。ドルカスとジョレンタが手をつないでやってきて、たがいに微笑みかわしたが、わたしを見なかった。それから、銅色の肌で、がに股の土民たちが、羽毛と宝石で体を飾り、シャーマンの後をついて、雨の中で踊っていた。雲のように広大な|水の精《ウンディーネ》が空中を泳ぎ、太陽を覆い隠した。
わたしは目覚めた。柔らかな雨が顔に当たっていた。そばにセヴェリアン坊やがまだ眠っていた。わたしはマントでできるだけ彼をくるんで、また蔓草のカーテンの中に抱いていった。そのカーテンをくぐって大枝を広げている木々の下に入ると、雨はほとんど落ちてこなかった。われわれはそこに横になって、また眠った。今度は夢も見ずに、一日じゃう眠り、目覚めると、夜明けの青白い光があたり一面に漂っていた。
少年はすでに起きて、大木の幹の間をさまよっていた。ここでは川がどこを流れているか彼が教えてくれたので、わたしは洗面をし、お湯なしでできるだけ丁寧に髭《ひげ》を剃った。崖の下の家に入った最初の午後以来、髭を剃っていなかったのである。それから、見覚えのある道を見つけて、また北に進路をとった。
「三色の人たちにまた出会わない?」彼は尋ねた。心配はいらないし、逃げてはいけないと、わたしはいって聞かせた――三色の男たちはわたしがやっつけてやるからと。しかし、本当のところは、ヘトールのことと、彼がわれわれを追わせている怪物のほうがずっと気になっていた。もしあれが火で死ななかったとすれば、今頃はわれわれの方に向かって動いているはずである。あれは太陽を恐れる動物のように思えたが、ジャングルの暗がりは、黄昏そっくりだった。
体に彩色した男が一人だけ、路上に現われた。それも、立ちはだかるようにではなく、ひれ伏して服従を誓うかのように。わたしは彼を殺したい誘惑に駆られ、ほとんどそうしかけた。われわれは主として判事の命令によってのみ人を殺すように、厳密に教育されている。しかし、この躾《しつけ》はわたしの心の中では、ネッソスから遠ざかるにつれて、戦争に近づくにつれて、荒れた山中に分け入るにつれて、弱まっていた。ある神秘家によると、戦場から立ち昇る〈気〉は、風下のずっと離れたところにいる人の脳にまで、影響を与えるということである。にもかかわらず、わたしは彼を引き起こし、脇に退いてくれとだけいった。
「大|魔術師《マグス》さま」彼はいった。「あの這う暗闇をどうされました?」
「もとの穴に送りかえした。わたしが引き出したのだがな」わたしは彼にいった。なぜなら、これまであの怪物に出会わなかったので、もし死んでいなけれぽ、ヘトールに呼び戻されたのだという、かなり強い確信があったからである。
「われわれの仲間の五人があの世にいきました」色を塗った男がいった。
「では、おまえたちの魔力はわたしの予想以上に強いのだ。あれは一晩に何百人も殺したことがある」
背を向けたら、襲いかかってこないという保証は、まったくなかった。しかし、実際に背を向けても、彼は襲ってこなかった。前日にわたしが捕虜として歩いた道は、今は人気がなかった。もはや、衛兵が現われて、誰何《すいか》することもなかった。赤い布の一片が引きちぎられて、踏みにじられてあったが、その理由は想像もつかなかった。前には滑らかだった(たぶん、熊手でならしてあったのだろう)路面に、たくさんの足跡が見えた。
「何を探しているの?」少年が尋ねた。
まだ木陰で聞き耳を立てている者がいるかもしれないので、わたしはずっと小声で話した。
「昨夜われわれが逃れた動物の粘液の跡だ」
「見えるの?」
わたしは首を振った。
しばらく少年は黙っていたが、やがて、いった。「セヴェリアンお父さん、あれはどこからきたの?」
「物語を覚えているかい? ウールスの岸辺の彼方の山頂の一つからやってきたのさ」
「〈春風〉が住んでいるところ?」
「同じ場所ではないと思う」
「どうやって、そいつはここにきたの?」
「悪い奴が連れてきたのだ」わたしはいった。「さあ、ちょっと黙っていてくれ、セヴェリアン坊や」
わたしの少年への態度がつれないとしたら、それは、わたしも同じ問題で悩んでいたからである。へトールは、自分が勤務していた船で、あのペットたちを密輸したのだろう。それは間違いないところである。そして、ネッソスからわたしの後をつけてきた時は、あのノトゥールを何か小さな密封した容器に入れて、身につけてきたものと思われる――ノトゥールは恐ろしいものではあるが、ジョナスも知っていたように、鼻紙ていどの厚さしかないのだから。
しかし、試験の広間で見たあの獣は、どうだろう? あれは、ヘトールがやってきた後に、〈絶対の家〉の控の間にも現われた。だが、どうやって? そして、ヘトールとアギアがスラックスから北に旅をした時は、犬のように彼らの後をついてきたのだろうか? わたしはあれがデクマンを殺した時の記憶を呼び出し、その重さを推定した。あれは人間の数人分の重さがあるにちがいない。そして、たぶん軍馬ほどの重さがあるだろう。それを隠して運ぶためには、大きな荷車が必要だったろう。ヘトールはこんな山の中を、そんな車を引いてきたのだろうか? それは信じられない。われわれが見た粘液質の怪獣は、スラックスで死ぬのを見た火蜥蝪《サラマンダー》と、そんな荷車に相乗りをしていたのだろうか? これも信じられなかった。
われわれが着いた時には、村は人気がないように見えた。試験の広間の一部はまだ立ったまま、くすぶっていた。そこで、デクマンの死骸を探したが、見つからなかった。もっとも、なかば焼けた彼の杖を見つけたけれども。中空で、内側が滑らかに磨かれたようになっているところから察するに、頭部を取り除けば、毒矢を吹き出す筒になるようだった。もし、わたしが彼の呪文にあまり抵抗力を示せぱ、それが使われることは間違いなかった。
少年はわたしの表情と視線の向きから、わたしの思考を追っていたにちがいない。彼はいった。
「あの人は本当に魔法が使えたんだね? あんたを金縛りにするところだったよ」
わたしはうなずいた。
「本物じゃないっていったのに」
「ある意味では、ということさ、セヴェリアン坊や。わたしだって、とりたててきみ以上に物知りというわけではない。あれが本物とは思わなかったのだ。インチキな仕掛けをあまりたくさん見てしまったから――わたしが監禁されていた地下室への秘密の扉とか、きみをあの男の衣の下から出現させた、ああいうやりかたとかね。それはそれとして、あらゆるところに闇の事物がある。たぶん、そういうものを真剣に探究すれば、どうしても多少はそういうものが見えてくるだろう。そういう人が、きみのいうように、本物の魔法使いになるんだ」
「そういう人なら、だれにでもやりかたを教えることができるだろうね。もし、本物の魔法を知っているなら」
この意見に対して、わたしはただ首を振っただけだったが、それ以来、そのことを真剣に考えつづけた。少年の意見は、もっと成熟した言葉で述べられれば、より説得力のあるものになったにちがいないが、それでもこの意見には二つの反対意見があるように思われた。
その一は、魔法使いによって、ある世代から次の世代にあまりにも少しの知識しか伝えられないということである。わたし自身の受けた教育は最も基本的な応用科学と呼べるものだった。そして、それによってわたしは次のことを知った。つまり、科学の進歩は一般に信じられているほど大きく論理的思考や組織的探究に依存しているのではなく、むしろ、一群の人々からその後継者へ、信用すべき情報が――偶然に得られたにせよ、深い洞察力によって得られたにせよ――伝達されるかどうかに依存しているのだ。ところが、闇の知識の探究者は、みずからの死に際してさえそれを退蔵する性質があり、また、ほとんどその価値がなくなるまでに、大きな偽りの衣装に包んだり、自己の利益に奉仕する嘘で韜晦《とうかい》したりして伝達する性質がある。時には、愛人や子供にていねいに教える例もあると聞くが、このような人々はほとんど愛人や子供を持たない性質があり、また、そういうものを持つと彼らの技術が弱まることもありうる。
その二は、このような力の存在そのものが、反対勢力が存在する証拠となるという意見である。われわれはこの第一の種類の力を闇と呼ぶ。もっとも、それらはデクマンがやったようにある種類の破壊的な光を利用するのかもしれないが。そして、第二の種類の力を光と呼ぶ。もっとも、それらは、ちょうど善人が、善人であるにもかかわらず、眠る時にベッドのカーテンを引くように、闇を利用する時があるけれども。それにしても、闇と光の話には真実性がある。なぜなら、片方が片方の存在を明瞭に示唆するからである。セヴェリアン坊やに読んでやった物語では、宇宙は自存神の長い一語にすぎないといっている。とすれば、われわれはその単語の綴りにすぎないことになる。しかし、どんな言葉を喋っても、ほかの言葉――それも話されない言葉――がなければ話にならない。もし獣が唯一の叫びしか持っていないならば、その叫びは何も物語らない。そして、風さえもおびただしい声を持っており、それを聞くことによって、室内にいる人は天候が険悪か静穏かを知ることができる。闇と呼ばれる力は、自存神が話さなかった[#「なかった」に傍点]言葉のように、わたしには思われる。もっとも、これは、自存神が存在すればの話であるけれども。そして、もしほかの言葉、つまり話された言葉を識別するためには、これらの話されなかった言葉を疑似存在として考えるべきである。話されなかったことが重要であることはありうる――しかし、話されたことはもっと重要である。こうして、まさにわたしの〈鉤爪〉の存在についての知識そのものが、デクマンの呪縛を押しとどめるのに、ほとんど充分な力を持ったのである。
そして、闇の事物の探究者がそれを見つけるとすれば、光の事物の探究者もまたそれを見つけるのではあるまいか? そして、彼らのほうが自分たちの知恵をよりよく伝える性質を持っているのではないか? だから、ペルリーヌ尼僧団は世代から世代へと〈鉤爪〉を守り伝えたのである。そのことを考えると、彼女らを見つけて〈鉤爪〉を返還しようというわたしの決意は、いっそう強まった。なぜなら、たとえ前にそれを知らなかったとしても、アルザボを食べた一夜はわたしに、自分は肉にすぎないと痛感させ、またいつかは必ず死ぬだろうし、たぶんまもなく死ぬだろうと痛感させたからである。
われわれが接近していく山は北の方角にあり、ジャングルの鞍部に影を投げかけるので、そちらには蔓草のカーテンはなく、木の葉の薄緑色がさらにもう一段薄くなり、枯れ木の数が増し、すべての樹木がより小さくなっていた。われわれが一日中下を歩いてきた木の葉の天蓋が破れ、さらに百|複歩《ストライド》進むとまた破れて、やがて完全に消滅した。
そして山が眼前にそびえ立っていた。あまりに近かったので、もはや人間の像としては見ることはできなかった。雲の峰から、巨大なひだのある斜面が起伏しながら下っていた。それが巨人像の衣の彫刻のひだだった。彼はいくたび眠りから目覚めて、それをまとったことか。それも、たぶん、人間の視力では捕えられないくらい広大なその衣が、幾時代にもわたってここに保存されるであろうことを思い起こしもせずに。
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23 呪われた町
翌日の正午ごろ、また水を見つけた。それは、われわれ二人がこの山で味わう唯一の水となった。キャスドーが渡してくれた干し肉は、ほんの数条しか残っていなかった。それを少年と分けあって食べてしまい、流れる水を飲んだが、それは大人の親指の太さほどの滴りでしかなかった。山の頭や肩のあたりには、雪がたくさん積もっているのが見えるのに、こんなに水が少ないのは不思議に感じられた。しかし後になって、雪が積もっている部分の下のスロープ(そこは夏がきて雪が解けたのかと思った)は、風で雪がきれいに吹き飛ばされているのだとわかり、また、もっと高いところでは、白い堆積が何世紀にもわたって蓄積されたままなのだろうと想像がついた。
毛布は露で湿っていた。それを岩の上に広げて乾かした。太陽は出ていなかったが、乾燥した山の疾風は一刻かそこらで、それを乾かしてくれた。今夜は、ちょうどスラックスを出た最初の夜にしたように、高い山の斜面で野宿することになるとわかった。しかし、どういうわけか、そうわかっても、わたしは意気消沈しなかった。ジャングルの鞍部で遭遇した危険を後にする、というよりはむしろ、ジャングルの中の一種のむさ苦しさ[#「むさ苦しさ」に傍点]を後にする、という感じだった。わたしは汚れてしまったと感じ、山の冷たい大気がそれを清めてくれるだろうと感じた。しばらくの間、その感じが変わることなくつきまとっていた。やがて、懸命に登りはじめると、心にひっかかっていたのは、魔法使いたちに嘘をついたという記憶だとわかった。わたしは彼らと同様に、大きな力を支配しており、広大な秘密に内々関与しているようすを装って、嘘をついていたのだ。これらの嘘は完全に正当化される――わたしの命と、セヴェリアン坊やの命を救ったのだから。にもかかわらず、その嘘に頼ったことで、自分がなんとなく人間的に駄目な感じがした。わたしは組合を去る頃にはグルロウズ師を嫌いになっていた。彼はしばしば嘘をついたのだ。だが今、師が嘘をついたから、師が嫌いになったのか、それとも、師が嘘をついたから、嘘が嫌いになったのか、わからなかった。
それはともかくとして、グルロウズ師にはわたしと同様に立派な口実があった。たぶんそれは、わたしの口実よりも立派なものだったろう。彼は組合を維持し、その幸福を増進するために嘘をつき、われわれの仕事について、さまざまな役人や職員に大袈裟な説明をし、そして、必要な場合にはわれわれの誤りを隠したのである。そうすることによって、組合のこの事実上の頭《かしら》が、みずからの地位を高めていたことは確かである。しかし、彼はまた、わたしやドロッテの地位も、ロッシュやイータの地位をも高めていたのであり、そして、結局はそれを受け継ぐはずのすべての徒弟や職人の地位を高めていたのだ。もし彼がみんなに信じさせたがっていたような、単純で残忍な人物だったら、わたしは今、彼の不正直さは自分の利益のためだけだったと、確信することができただろう。だが、そうではなかったことを、わたしは知っている。たぶん、彼は何年もの間、わたしが今自分を見ているような目で、彼自身を見ていたのだろう。
それにしてもわたしは、セヴェリアン坊やを救うために行動したという確信が持てない。彼が逃げ出し、わたしが剣を差し出したのは、闘った場合よりも彼の利益になったかもしれない――わたしはおとなしく降伏することによって、直接に利益を得る立場にあったのだ。もし闘っていたら、殺されていたかもしれないからである。その後で、いったん逃げてから、わたしは確かに戻っていった。それは少年のためでもあり、テルミヌス・エストのためでもあった。猿人の坑道でも、あの剣をなくした時には取りに戻った。あの剣がなければ、わたしはただの放浪者になってしまったことだろう。
これらの考えを受け入れた後一刻ほどして、わたしは剣と少年の両方を背負って岩の表面を攀《よ》じ登っていた。そして、このどちらに対しても今まで以上に心配しているかどうか、もはや確信を失っていた。幸いにも、わたしはかなり元気を回復していたので、登攀《とうはん》はそれほど困難ではなかった。そして、頂上で大昔のハイウェイにいきあたった。
これまで多くの奇妙な場所を歩いた経験があるが、これほど変則的な感じを強く与える場所はほかになかった。左手の、わずか二十|歩《ペース》ほど離れたところに、この幅の広い道路の末端が見えた。崖崩れか何かがその下の端をその部分から運び去ってしまっていた。われわれの前には道路は完成した日のままの完全な姿で伸びていた。継ぎ目のない黒い岩の帯が、顔を雲の中に隠している巨人のほうにくねくねと上っていた。
少年を下に降ろすと、彼はわたしの手をつかんでこういった。「道路は通れないって、母ちゃんがいったよ。兵隊がいるからって」
「そのとおりだ」わたしはいった。「だが、お母ちゃんは兵隊がいる下の方に下りていこうとしていたんだ。この道路にも昔は間違いなく兵隊がいた。しかし、もうずっと昔に死んでしまったんだ。下のジャングルのいちばん大きな木が、まだ種だった頃よりももっと昔にね」彼は寒がった。それで、毛布の一枚を与えて、それをマントのように体に巻きつけて、とめておく方法を教えた。もしこの時だれかが見ていたら、われわれ二人を、不釣り合いな影を引いた一つの小さな灰色の人の姿と思ったことだろう。
われわれは霧の中に入った。こんなに高いところに霧が湧くのは不思議だと思った。しかし、その上に出て、太陽に照らされた上の表面を見下ろすことができて、はじめてそれが雲だとわかった。鞍部から見上げた時には、ひどく遠いもののように思われたあの雲だった。
それにしても、今は遙か目の下になっているジャングルの鞍部そのものは、ネッソスやギョルの下流地帯よりも疑いなく数千キュビットは上にある。その時わたしは、なんと遠くまできてしまったことだろうと思った。こんな高度まで――ほとんど世界の腰のところまで――ジャングルが存在しうるなんて。ここではいつも夏で、気候に変化を与えるものは高度だけだ。もし万一、この山地を離れて西に旅をするとすれば、パリーモン師から教わったところによると、こちらのジャングルが楽園に思われるほど疾病が猖獗《しょうけつ》をきわめているジャングル、うだるような熱気と虫の大群のいるジャングルに、入るはずであった。そして、そこにも死の証拠を見るはずであった。なぜなら、ジャングルがウールス上のどの地点よりも多くの太陽の力を受けているといっても、それでもなお、往時と較べれば、その力は少なくなっているからである。そして、南に氷が張り出してきて、温帯植物が氷から逃げるにつれて、熱帯の樹木やその他の植物は枯死して、新入者に土地をあけ渡すのである。
わたしが雲を見下ろしている間に、少年は前へ歩いていた。今彼は輝く目で振り返って、わたしに呼びかけた。「この道路はだれが作ったの?」
「きっと、この山を彫った労働者たちだろう。彼らはものすごいエネルギーを自由に使ったし、われわれの知っているどんな機械よりも強力な機械を持っていたんだな。それにしても、なんらかの方法で土砂を運ばなければならなかったろうに。昔はここを何千台もの大小の荷車が通ったにちがいない」それにしても、わたしには合点がいかなかった。なぜなら、そのような車輌の鉄の車輪が通れば、スラックスやネッソスの固い敷石にさえも轍《わだち》がつくからである。きっと、太陽と風だけがここを通ったのだろう、とわたしは思った。
「セヴェリアンお父さん、見て! あの手が見える?」
少年ははるか頭上の山の突出部を指さしていた。わたしは首を伸ばした。だが、しばらくの間は今まで見ていたもの、つまり、荒涼たる灰色の岩が長く連なっている崖以外は、目に入らなかった。その時、日光がその端の近くの何かに反射した。それは間違いなく黄金の輝きだと思われた。目に入ると同時に、その黄金は指輪だとわかった。そして、その下の岩に沿って、まるで石になって凍りついてしまったような親指――長さが約百ペースほどもある親指が見え、その上の丘がほかの指だとわかった。
われわれはお金を持っていなかった。いずれ人間の居住地区にまた入ることになるだろう。それを思うとお金がいかに貴重であるかわかっていた。まだわたしの捜索がおこなわれているとすれば、お金で捜索者を説得してよそを探すようにしむけることもできる。また、お金があれば、セヴェリアン坊やにどこかの価値ある組合の徒弟の身分を買ってやることもできる。というのも、彼がわたしといっしょに旅を続けることができないのは明らかだからだ。おそらくその大きな指輪は石の上に置いた金箔にすぎないだろう。しかし、たとえそうであっても、金箔の大きさは広大だから、石から剥がして巻き取ることができれば、総体はかなりの分量になるにちがいない。
また、考えたくはなかったが、ただの金箔が長い年月に耐えられるものかどうか、考えずにはいられなかった。とうの昔に緩んで、脱落してしまわないだろうか? もしこの金の指輪が無垢の金塊ならば、一財産になる。しかし、ウールスの全財産をもってしても、この巨大な造形物を買い取ることはできないだろう。この建設を発注した者は数えきれぬ富の持ち主だったことになる。たとえ、指輪がその下の指の部分までずっと詰まった金塊ではないとしても、ある程度の厚みはありそうだ。
これらのことを考えながら、せっせと登っていくと、わたしの長い足はすぐに少年の短い足を追い抜いた。道路は時々、石を積んだ車が通ったとはとても信じられないような急な勾配で上がっていた。割れ目のところを二度、通過したが、その一つはあまり幅が広いので、まず子供を向こう側に放り投げてから、自分が飛び越えなければならなかった。止まる前に水が見つかればよいと願っていた。だが全然見つからなかった。そして、夜になっても、身を隠す場所は岩の割れ目しかなかった。われわれはそういう場所の一つを見つけて毛布とマントにくるまって、ようやく眠った。
朝になると二人とも喉が渇いていた。わたしは、雨季は秋にならなければやってこないが、今日は雨が降るかもしれないと思うと少年にいった。そして、元気を奮い起こして出発した。それからまた、少年は小石を口に含んで喉の渇きをごまかすことができると教えてくれた。これは山の民の知恵で、わたしの知らなかったものであった。今は前よりも風が冷たくなった。空気が薄くなっているのが感じとれた。時たま道路が曲がって、ほんのしばらくの間、日なたに出ることがあった。
道路はそのようにくねくねと続いて、指輪から次第に遠ざかった。結局、完全な影に入ってしまうと、指輪は視界から消え去り、われわれは坐った人物像の膝のあたりにきてしまった。最後に急な登りがあった。その勾配はあまりに急だったので、階段があればよいと思ったほどだった。それから前方に一群の細い尖塔が、澄んだ空気の中に浮いているように見えた。少年が叫んだ。
「スラックスだ!」その声があまり嬉しそうだったので、その町について母親がいろいろと話して聞かせていたにちがいないとわかった。そして、彼女とあの老人は、少年の生まれたあの家から少年を連れ出す時に、そこに連れていってやるといったにちがいないと。
「ちがう」わたしはいった。「スラックスではない。むしろわたしの〈城塞〉に似ているぞ――組合の〈剣舞《マタチン》の塔〉に、魔女の高楼に、〈熊の塔〉に、そして〈鐘楼〉に」
彼は目を丸くしてわたしを見た。
「いや、もちろん、それではない。ただ、わたしはスラックスにいったことがあるが、あそこは石の町だった。この塔は、組合の塔と同様に金属だ」
「塔に目があるよ」幼いセヴェリアソがいった。
たしかにそうだった。最初、わたしは自分の想像力に欺かれているのかと思った。特に、塔のすべてに目がついているわけではなかったので。そして、結局わかったのだが、それらのあるものはわれわれから顔を背けているのだった。塔には目だけでなく、また、肩も腕もあることがわかった。つまり、それらは実は鎧武者、つまり頭のてっぺんから足の爪先まで、鎧兜《よろいかぶと》に身を固めた戦士の金属像だったのである。「これは本物の町ではない」わたしは少年にいった。「これは独裁者の衛兵たちだ。彼に害を及ぼす者をやっつけようと、彼の命令を待っているんだよ」
「ぼくたちに何かするだろうか?」
「そう思うと恐ろしいね。この連中の足なら、きみもわたしも鼠のように踏みつぶされちまいそうだ。しかし、そんなことはしないから安心おし。彼らはただの像だ。彼の権力の記念碑としてここに残された、精神的な衛兵なのさ」
「大きな家もあるよ」少年はいった。
そのとおりだった。そびえ立つ金属の像に較べれば、家の高さはその腰くらいしかなかった。だから、最初はそれらを見落としていたのである。それらの建物もまた〈城塞〉を思い出させた。あそこでは、星を飾り立てる意図のない建造物は、決して塔と混じりあうことはなかった。たぶん、単なる薄い空気のせいにすぎないだろうが、わたしは不意に一つの幻影を見た。これらの金属像がゆっくりと伸び上がり、それから、両手をさっと空の方に伸ばして、昔われわれが松明の光を頼りに地下水槽の暗い水の中に飛びこんだように、天空に飛びこんでいく幻影を。
風化した岩の上で、ブーツはきしる音をたてたにちがいない。しかし、気がついてみると、そんな音を聞いた記憶はなかった。たぶん足音は山頂の広大な景色に飲みこまれてしまい、われわれは苔の上を歩くように、足音を立てずに立像の方に近寄っていったのだろう。それらが最初に見えた時に左後方に落ちていたわれわれの影は、今は足もとの水溜まり程度に縮んでいた。そして、それぞれの彫像の目が見えることに気づき、また、最初いくつかを見落としていたが、それらの目は日光を受けてきらめいていることを確認した。
ついに、われわれはそれらの間を通り、それらを取り囲んでいる建物の間の小路を通っていった。これらの建物は、アプ−プンチャウの忘れられた町の建物と同様に、廃墟になっているものと、わたしは予想していた。それらは、戸が閉まっており、しーんと静まりかえっていた。だが、ほんの数年前に立てられたばかりだといってもよいくらいだった。落ちこんでいる屋根はないし、壁の四角い灰色の石を落として生え出ている蔓草もなかった。建物には窓がなく、寺院や要塞、墓、その他わたしがよく知っているどんな建物とも構造が異なっていた。まったく飾り気がなく、優雅さもなかった。だが、それらの細工は見事なもので、さまざまな形態は、機能の相違を示しているように思われた。それらの間の輝く彫像は、記念碑が立っているようにではなく、まるで突然の寒風によってその場に凍りついてしまったかのように見えた。
わたしは一軒の建物を選んで、それに押し入るつもりだと、少年に告げた。運が良ければ中に水があるかもしれないし、ひょっとしたら食べ物さえ蓄えられているかもしれないと。ところが、扉は壁のように頑として動かず、屋根は土台と同様に丈夫だった。たとえ斧があったとしても、それを使って扉を砕いて中に入ることはできなかったろうと思う。テルミヌス・エストで切り開くことなど思いもよらなかった。どこかに弱い部分はないかと、突いたり、こじたりして数刻を過ごした。われわれが試した二番目の建物も、三番目の建物も、最初のものと変わりなく頑丈であることがわかった。
「あちらに丸い家があるよ」しまいに少年がいった。「ぼくが行って見てきてあげる」
この人気のない場所には彼に害を及ぼすようなものはないと確信したので、わたしは彼に頼むといった。
まもなく彼は戻ってきた。「扉が開いたよ!」
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24 死 骸
ほかの建造物の用途は見当もつかなかったが、この建物の用途もわからなかった。円形の建物で、上には丸屋根がついている。壁は金属――といっても、われわれの〈城塞〉の塔の壁のような黒光りするものではなく、磨いた銀のように明るい光沢のあるものだった。
このきらめく建物は階段状の台座の上に建っていた。あの古めかしい鎧兜姿の武者の巨大な像が、路面にそのまま立っていたのと較べて、これがそのような土台にのっているのは奇異な感じがした。その周囲に五つの扉があり(中に踏みこむ前に、外を一回り歩いてみたのだ)、その扉は全部開いていた。わたしは扉の前の床を調べて、これらが長年この状態にあったかどうかを判断しようとした。だが、これだけの高地では埃がほとんどないので、結局はっきりしたことはわからなかった。わたしは検査をすますと、自分が先に中に入るから、きみは脇にどいていなさい、と少年にいって、中に入った、
何も起こらなかった。少年が続いて入ってきても、扉は閉まらず、敵も襲いかかってこず、エネルギーが空気を染めることもせず、足の下の床もしっかりしたままだった。にもかかわらず、なんとなく罠に掛かったように感じた。外の山の上は、どんなに空腹で喉が渇いていたにしても自由だったのに、今はもはや自由でなくなったような気分だった。そして、もしこの子供がいなかったら、向きを変えて逃げ出したいところだ。だが、子供の前では、自分が迷信深かったり、恐れたりしているところを見せたくなかったし、食糧と水を見つける義務があるように感じた。
建物の内部には、名前もわからないたくさんの装置があった。それらは家具でもなく、箱の類でもなく、機械という言葉でわたしが理解しているものでもなかった。その大部分は奇妙な角度にしつらえられてあった。坐るためのくぼみのようなものが、いくつか中に見えた。しかし、もし坐るとしたら、とても窮屈で体が凝ってしまいそうだったし、また、同僚に顔を向けるよりも、むしろ装置の一定の部分を向くことになりそうだった。また、その他のものには、だれかがかつて休んだと思われるような|窪み《アルコーブ》があった。
これらの装置は通路の脇にあり、通路はちょうど車輪のスポークのようにまっすぐに建物の中心に向かって通っていた。われわれが入ってきた通路の先には、なにか赤いものと、その上にもう少し小さい褐色の物体が、ぼんやりと見えた。最初それらのどちらにも、あまり注意を払わなかった。だが、右に述べた装置がわれわれにとってなんの価値もなく、また危険もないものであることがわかってしまうと、わたしは少年を連れて、そちらに向かった。
赤い物体は一種の寝椅子、それも非常に入念に作られたものであった。そして、罪人でも縛りつけるのに使ったようなベルトがついていた。その周囲には、養分の供給と排泄をつかさどるとおぼしい機構がついていた。寝椅子は小さな台座の上にあり、椅子の上には、二つの頭を持つ人間の死骸らしいものが横たわっていた。山地の薄い乾燥した空気のために、この肉体はずっと昔に干からびてしまっていて謎の建造物群と同様、一年前のものとも、千年前のものとも、見当がつかなかった。死骸は、わたしよりも背の高い、たぶん高貴人よりもさらに背の高い男性のもので、筋骨たくましかった。しかし、今なら、ほんのちょっと触っただけで、その腕を根もとからもぎ取ることができそうに思えた。彼は腰布も、いや、どんな衣類も身につけていなかった。生殖器のサイズが突然変化するのは見慣れているけれども、それでもここにあるものが、ひどく縮んでしまっているのを見て、不思議な感じがした。二つの頭には毛髪がいくらか残っていた。そして、右の頭の毛は黒で、左のは黄色味がかっているように思われた。両方の目は閉じており、口は二つとも開いていて、歯がいくらかのぞいていた。わたしは、この生き物を縛っていたかもしれないベルトに、止め金が掛かっていないことに注目した。
しかし、この時わたしは、かつて彼に食糧を供給していた機械のほうにずっと注意が向いていた。そして、古代の機械は驚くほど耐久性のあるものが多く、長い間放置されていても、きわめて良好な保存状態にあることを思い出した。何か食糧が出てこないかと思って、見えるかぎりのダイアルを回し、あらゆるレバーを動かしてみた。わたしがあちこちいじるのを、少年はしばらく見つめていたが、やがて、われわれは飢え死にするのではないかと尋ねた。
「いいや」わたしはいった。「人間というものは、食べ物がなくても想像以上に長く生きられるよ。飲み物を飲むほうがもっとずっと大切なんだ。しかし、たとえここで何か見つからなくても、もっと山の上にいけば雪があるにちがいない」
「この人はどうして死んだの?」理由はわからないが、この死骸に手を触れるという考えは浮かんでこなかった。少年はそのふっくらした指で、死骸の干からびた片腕を撫でていた。
「人間は死ぬものなんだよ。むしろ、こんな怪物が生きていたことのほうが不思議だ。普通は死産になるのにね」
「ほかの人たちは、この人を置き去りにして、どこかにいってしまったのかな?」少年はいった。
「生きたまま、という意味かい? そういうことはありえたと思う。下の土地では、たぶん彼の生きる場所はなかったろうから。いや、もしかしたら、彼がいきたがらなかったのかもしれない。あるいは、良くないおこないをして、ここに監禁されたのかもしれない。ひょっとしたら、気がちがったか、または凶暴な発作を起こしたのかもしれない。推測のどれかが当たっているとしたら、彼はここに戻っては飲み食いしながら最後の何日かを山上でうろついて過ごし、そして、頼りにしていた食糧と水が尽きて、死んだにちがいない」
「じゃ、ここには水はないんだね」少年はさらりといった。
「そうだ。でも、本当にそうなのかは、まだわかってないんだよ。何かの別の原因で、食糧が尽きる前に死んだのかもしれない。それに、これまでいったことは、彼が山を彫った人々のペットかマスコットのようなものだったという推測がもとになっている。それにしても、ここはペットを飼っておく場所にしては、ひどく入念に作られているなあ。何はともあれ、わたしにはこの機械の再始動はできそうもない」
「ぼくたちは、山を下りていくぺきだと思うな」この丸い建物を後にした時に、少年はきっぱりいった。
自分の恐怖はまったく馬鹿げたものだったと思いながら、わたしは後ろを振り返った。扉はやはり開いたままで、何も動かず、何も変化していなかった。もしこれが罠だったら、きっと、何世紀も前に錆びて開いたままになってしまったのだろう。
「そうだな」わたしはいった。「しかし、もう日が暮れかかっている――ほら、われわれの影がずっと長くなっているだろう。山の反対側を下りていく途中で、夜に追いつかれたくない。だから、今朝見たあの指輪のところにいけるかどうか、まず確かめたいんだ。あそこにいけば、黄金だけでなく、水も手に入るだろう。今夜は風を避けて、あの丸い建物の中で眠り、明日、夜が明け次第出発して、北の斜面を下りることにしよう」
少年はわかったというように、うなずいた。そして、わたしが指輪への道を探しに歩きだすと、元気良くついてきた。それは山の南の腕にあった。だから、ある意味で、われわれは最初に登ってきた側に戻っていくことになった。もっとも最初の時は、武者の彫像と建物の群れに南東から接近してきたのだが、今度、南の腕を登るのは、辛い登攀行になりそうだった。ところが、われわれの前に広大な胸と上腕がそびえているまさにその場所に、わたしがずっと前から待ち望んでいたもの、つまり、細い階段が見つかった。何百段もあったから、やはり大変な登りだった。そして、その大部分を、わたしは子供を抱いて上がっていった。
腕そのものは滑らかな岩だった。しかし、充分な広さがあったので、中心に沿って登っていくかぎり、少年が転落する危険はほとんどなかった。彼に手をつかまらせて、勢いよく登っていくと、マントが風にはためいた。
左の方に、前日われわれが登りはじめた斜面があり、その向こうの山と山の間に、ジャングルの毛布をかぶった緑の鞍部があった。さらにその彼方の遠い霞の中に、ビーキャンとキャスドーの家があった山がそびえていた。わたしは歩きながら彼らの小屋や、それが建っていたあたりだけでも見つけようと努力した。そしてついに、あの家に着く前に下った断崖らしいものが見つかった。高くないほうの山の側面に、それは色のついた小さなしみ[#「しみ」に傍点]のように見え、その中心に、落下する滝の水が虹色にきらめく傷のように見えていた。
それを見つけてから、わたしは足を止めて振り返り、山腹を歩いているこちらの山の頂きを見上げた。その顔と氷の司教冠と、その下の左肩が見えるようになった。そこは、千人の騎兵が千人隊長の指揮のもとに演習をしていたのではないかと思われるほど広かった。
先の方で、少年が指をさして、何かわけのわからないことを叫んでいた。指さしている先は、建物の群れと金属の衛兵の立像の方向だった。一瞬おいて、彼が何をいっているかわかった――立像の顔が半分こちらを向いているのだ。朝それらを見た時にも、やはりなかばわれわれの方を向いていたのに。それらは頭を回したのである。わたしは初めて、その目の方向を見た――すると、その目が太陽を見ていることがわかった。
わたしは少年にうなずいて叫んだ。「わかった」
われわれは手首の上にいた。前には手の小さな平地が広がっていた。そこは、腕よりも広く、危険も少なかった。わたしがその上を大股に歩いていくと、少年は前を駆けていった。指輪は第二指にはまっていた。指は世界最大の木を切って作った丸太よりも大きかった。セヴェリアン坊やはそちらに向かい、楽々とバランスを取ってその峰を走っていった。そして、両腕を投げ出すようにして指輪に触るのが見えた。
閃光がほとばしった――明るかったが、午後の日光の中だったので、目が眩むほどではなかった。董色を帯びていたので、ほとんど暗闇が閃いたといってもよかった。
彼は黒焦げになった。一瞬の間、まだ生きていたと思う。彼は頭をのけぞらせ、両腕をぱっと開いた。一筋の煙が上がり、たちまち風に吹き散らされた。少年は昆虫の死骸のように手足を縮めて倒れ、転がっていって、二指と三指の間の割れ目に落ちて見えなくなった。
|烙 印 刑《ブランディング》や|焼 眼 刑《アバシネーション》は何度も見ているし、焼き鏝は自分でも使ったことがあるけれども(完全に覚えている無数の事柄の中には、モーウェンナの火膨れになった頬もある)、彼の様子を見にいくのはとても辛かった。
指と指の間の狭い隙間に骨があった。だがそれは古い骨で、わたしが飛び下りると、あの共同墓地の小道に敷き詰められていた人骨のように、足の下で砕けてしまった。わたしはそれらをわざわざ調べはしなかった。それから〈鉤爪〉を取り出した。ヴォダルスの宴でセクラの死体が運ばれてきた時は、これを使うことを思いつかなかった。後になってそのことを嘆くと、ジョナスはこういった。馬鹿をいうな、〈鉤爪〉にどんな力があるにしても、火で焼かれた肉に生命を取り戻すことはできないと。
そして、たとえ今これが効力を発揮して、幼いセヴェリアンをわたしに返してくれても、わたしはその喜びにもかかわらず、かれをどこか安全な場所に連れていき、自分の喉をテルミヌス・エストで掻き切るだろう、と思わずにはいられなかった。なぜなら、もし〈鉤爪〉がそうしてくれたら、あの時使っていれば、セクラを呼び戻せたはずだから。そして、それなのに、セクラはもう永久に死んで、わたし自身の一部になっているから。
一瞬、陽炎のようなものが、明るい影、あるいはオーラとでもいうような光が、きらめいたように思われた。それから少年の死体はぼろぼろに砕けて黒い灰になり、揺れ動く空気の中に散乱した。
わたしは立ちつくし、それから〈鉤爪〉をしまいこむと、この狭い場所を出てもとの手の上に登るのは、どんなに大変だろうと考えながら、戻りはじめた(結局、刃先を下にしてテルミヌス・エストを立て、その鍔に片足を掛けて上に登り、今度は頭を下にし、うつ伏せになって手を伸ばし、その柄頭を握って剣を引き上げなければならなかった)。記憶は混乱しなかったが、しばらくの間、精神が混乱していた。少年が、スラックスの崖の上のあばらや[#「あばらや」に傍点]に瀕死の姉と暮らしていたあの別の少年、ジャダーとひとつになった。わたしにとってかけがえのない存在となった少年は命を救えず、それほど大切には思えなかった少年は、癒すことができた。ある意味で、わたしには二人が同一の少年のように思われた。これが精神の防御反応のようなものだということに、疑いはなかった。狂気の嵐を避けるために、精神の見つけた避難所なのだ。しかしわたしには、ジャダーが生きているかぎり、母親にセヴェリアンと名づけられた少年も、真に亡びることはないように思われるのである。
わたしは手の上で立ち止まって、振り返りかけた。だが、振り返れなかった――自分がその端にいって、身を投げるのではないかと恐れたのだ。そして、実際に足を止めたのは、山の広い膝の上に降りていく数百段の狭い階段の降り口にほとんど着いた時だった。それからそこに腰を降ろして、色のついたしみのように見えるキャスドーの家の上の断崖を、もう一度目で探した。その家に向かって森の中を歩いていく時に聞いた、あの茶色の犬の吠え声が思い出された。あの犬は、アルザボがやってきた時にはびくついていた。だが、獣化人がやってきた時には、わたしのほうは臆病に尻ごみしていたのに、犬はその不潔な肉に食らいついて死んだのだ。また、キャスドーの美しい疲れた顔や、そのスカートの後ろから覗いていた少年の顔を思い出し、また、炉に背をむけてあぐらをかぎ、フェッチンの話をしていた老人の姿を思い出した。みんな死んでしまった。ついに会うことのなかったセヴェラもビーキャンも、老人も、犬も、キャスドーも、そして、今は幼いセヴェリアンもフェッチンさえもすべて死んでしまい、すべてわれわれの時代を包み隠している霞の中に消えてしまった。わたしには、時間そのものが一つの物質のように思われる。それは果てしのない年月の列を打ちつけた鉄柵の垣根のように、がっしりと立っている。そして、そのかたわらをわれわれは海に向かって、ギョルのように流れ過ぎていく。雨にでもならないかぎり、そこからもとに帰ることは決してないのだ。
その時わたしは、この巨大な山の人形《ひとがた》の腕の上で、時を征服したいという野望を知った。これと較べれば、遠い太陽たちの野心も、他の種族を従えたいという羽根飾りをつけた小族長の煩悩にしかすぎないような、野望を知ったのだ。
西の山が上がって太陽がほとんど隠れるまで、わたしはそこに坐っていた。階段を登るよりは降りるほうがずっと容易だったろうが、今はひどく喉が渇いていた。階段を降りるショックで、一段ごとに膝が痛んだ。昼の光はほとんど消えて、風は氷のようだった。一枚の毛布は少年とともに燃えてしまった。わたしはもう一枚の毛布をマントの下に重ねて、胸と肩に巻きつけた。
半分ほど降りたところで、休息を取った。昼間の名残りに、赤みがかった茶色の細い三日月の形だけが残った。それも次第に細くなって、やがて消えた。そうすると、目の下の巨大な金属の鎧武者たちが片手を上げて敬礼した。それがあまりに静かで、がっちりとしていたので、最初に見た時から、片手を上げた姿に彫刻されていたという錯覚に陥りそうだった。
しばらくの間、わたしはすべての悲しみを忘れて、ただただ感嘆し、身動きもせずにじっとその場に留まって、眺めていた。夜が急速に山地を横切った。その最後の薄明かりの中で、巨大な腕が下がるのを見つめた。
わたしは、茫然としたまま、山の膝の上に静かに立ち並んでいる建物の間に、ふたたび入った。たとえ、一つの奇跡の失敗を見たとしても、もう一つの奇跡の起こるのを目撃したのである。そして、一見すると無目的な奇跡でも、無尽蔵の希望の源となる。なぜなら、それは次のことをわれわれに証明してくれるからだ。つまり、われわれはすべてを理解するわけではないし、われわれの敗北は――われわれの少しばかりの空虚な勝利よりもはるかに数が多いが――同様に見かけだけのものかもしれないということを。
あそこで夜を過ごそうと少年に話した、あの丸い建物に戻ろうとしながら、わたしはある馬鹿げた誤りによって、首尾よく[#「首尾よく」に傍点]道に迷うことができた[#「できた」に傍点]。そして、その建物を探すには疲れすぎていた。わたしはその代わりに、最も近い金属の衛兵からずっと離れたところに、隠れ場所を見つけた。そこで、痛む足を揉み、寒さを防ぐために衣服をできるだけ体に巻きつけた。ほとんど一瞬のうちに眠りに落ちたにちがいないが、まもなく、かすかな足音で目が覚めた。
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25 テュポーンとピアトン
足音を聞くと、わたしは起き上がって剣を抜き、少なくとも一刻の間(実際はもっとずっと短い間だったにちがいないが)、物陰に待ちかまえていた。さらに二度、足音は聞こえた。それは、すばやく、そして柔らかく、そのくせどことなく大きな男を思わせるような――運動神経の発達した力強い男が、足取り軽く走るような、急いで歩くような音だった。
ここでは星々は最大限の光度で輝いていた。星々が高く昇って、大陸を包むほどの黄金のガーゼを広げると、それらの星を母港にしている船乗りの目に映じたと同じくらい明るく輝いた。じっと静止している衛兵の姿が、昼の光で見るのと大差なくよく見えた。そして、周囲の建物は幾万もの太陽の色とりどりの光に浸っていた。われわれはこの太陽の最も外側の伴侶である冥王星《デイース》の凍った平原を、恐怖をもって思い浮かべる――しかし、われわれはどのくらい多くの太陽の、最も外側の伴侶であるのだろうか? 冥王星《デイース》の住民にとっては、一続きの長い星明かりの夜が永遠に続くのである。
星空の下に立ったまま、わたしは何度も眠りそうになった。そして、眠りの境界線上で、少年の心配をし、自分が立ち上がった時に彼を目覚めさせてしまったかもしれないと思い、また太陽が姿を見せたら、彼のためにどこで食べ物を探そうかと思案した。これらの思考の後に、彼の死の記憶が心に浮かんできた。ちょうど夜が、暗黒と絶望の波となって山に押し寄せてきたように。この時、ジョレンタが死んだ時にドルカスがどう感じたかが、わたしにもわかった。ドルカスとジョレンタの間には時々、性的な遊戯があったと信じているが、少年とわたしの間にはそのようなことはなかった。しかし、だからといって、わたしの嫉妬心をかき立てたのは、決して彼女たちの肉体的な愛ではなかった。少年に対するわたしの想いの深さは、たしかにジョレンタに対するドルカスの想いと同じくらい深いものだった(そしてまた、たしかにドルカスに対するジョレンタの想いよりも遙かに深いものだった)。もしドルカスがこれを知ったら――わたしが彼女を愛するのと同じくらい、彼女がわたしを愛してさえいたら――時々わたしが感じた嫉妬と同じくらいの嫉妬を、彼女は感じただろうに。
結局、足音がそれ以上聞こえなくなると、わたしはできるだけ体を隠して横になり、眠った。この眠りから覚めないのではないか、いや、喉もとにナイフを突きつけられて目を覚ますのではないかとも思ったが、そんなことはなかった。水の夢を見ながら、夜明けのずっと後まで寝過ごした。目が開くと一人きりで、寒くて、手足がこわばっていた。
この時わたしは、足音の謎も、衛兵の謎も、指輪の謎も、いや、この呪われた場所にあるほかのいかなるものにも関心がなかった。わたしの唯一の願望はここを去ること、それも、できるだけ早く去ることであった。そして、山の北西の斜面にいくには、あの丸い建物のところをふたたび通る必要がないことを知って――その理由はどうにも説明がつかないが――安心したのだった。
これまでにも、発狂するのではないかと思ったことは何度かあるが、それはとても多くの冒険をしたからである。最大の冒険は、人間の精神に最も強く作用する。今が、まさにそれに当てはまった。わたしよりも大柄で、肩幅のはるかに広い男が、鎧武者の足の影から歩み出たのである。それはまるで、夜空の怪物の星座の一つがウールスに落ちてきて、人間の肉体を着たようであった。なぜなら、そいつには、『ウールスと天空の驚異』という本の中の、ある忘れられた物語に出てくる食人鬼のように、二つの頭があったから。
本能的に、わたしは肩の剣の柄に手を掛けた。頭の一つが笑った。この名剣を抜いて笑われたのは、この時だけだと思う。
「なぜ、あわてている?」彼は呼びかけた。「きみもわたしと同様に良い道具をもっているな。きみの友人の名は?」
わたしは驚きながらも、彼の大胆さに舌を巻いた。「これはテルミヌス・エストです」わたしはそういって、剣の銘文が見えるように、剣を回した。
「これが別れの場所≠ゥ。大変よろしい。実によろしい。今、ここで、それを読むのは特によろしい。なぜなら、今は、世界が経験したことのない新旧の真の分かれ目になるだろうから。わたし自身の友人の名はピアトンだ。残念ながら、これにはたいした意味はないがね。彼はきみのそれに較べれば、劣った僕《しもぺ》だ。もっとも、よりよい駿馬ではあるだろうが」
その名前を聞くと、もう一方の頭が、それまでなかば閉じていた目を大きく開き、ぎょろぎょろ動かした。その口が、話をするように動いたが、音声は出てこなかった。そちらは馬鹿の系統なのだなと、わたしは思った。
「もう、その武器はしまってもよいだろう。ごらんのとおり、わたしは武装していない。いずれにしても、すでに首を斬られている。いや、つまり、きみに危害を加えるつもりはない」
かれはそういいながら、両手を上げ、右を向いたり、左を向いたりして、完全に裸であることを示した。もっとも、それは既にわかっていたことだが。
わたしは尋ねた。「もしかしたらあなたは、あちらの丸い建物で見た死人の息子ではありませんか?」こういいながら、テルミヌス・エストを鞘に納めると、彼は一歩そばに寄って、いった。
「とんでもない。わたしはあの男自身だよ」
ドルカスが、〈鳥の湖〉の褐色の水の中から現われたように、心の中に浮かんできた。そしてまた、彼女の死んだ手がわたしの手をつかむのを感じた。わたしは自分でも何をいっているかわからずに、つぶやいた。「わたしがあなたを生き返らせたのですか?」
「いや、むしろ、きみがきたので目が覚めたといっておこう。わたしはただ乾燥していただけなのに、きみは死んでいると思ったのだ。飲んだのだよ。そして、ごらんのように、また生き返った。飲むことは生きることだ。水に浸るのは、新たに生まれることだ」
「それが事実なら、すばらしいことです。しかし今、わたしは喉が渇きすぎて、頭が働きません。あなたは飲んだといいましたね。そして、あなたの口ぶりでは、少なくともわたしに対して友好的であるらしい。お願いだから、それを実証してくれませんか。もう長いこと、飲まず食わずでいるんです」
口をきいているほうの頭が微笑した。「きみはわたしの計画に実にうまく当てはまってくれる人だ――実に間がいいんだな。その衣服さえもね。とても嬉しい。ちょうど今、食べ物と飲み物がたっぷりあるところにいこうと誘おうと思ったところだ。ついてきたまえ」
この時には、水があるという人なら、どこにでもついていったろうと思う。この時以来、自分が彼についていったのは好奇心のためであって、巨大な鎧武者の像の謎が解けるかもしれないと思ったからだ、と自分に思いこませようと努力してきた。しかし、これらの瞬間を思い起こし、当時の本当の心理状態を探ってみても、絶望と渇きしかでてこない。キャスドーの家の上の滝が、目の前に銀の柱列を織り出した。そして、〈絶対の家〉の〈予言の泉〉を思い出し、スラックスの〈獄舎〉を水浸しにするために水門を開いた時に崖の上から流れ落ちた奔流を思い出した。
双頭の男は、わたしが後をついてくることを確信しているように、また同様に、わたしが襲いかからないことを確信しているかのように、わたしの前を歩いていた。今まで、丸い建物に通じる放射状の道路の一つにいるとばかり思っていたのだが、ある角を曲がって、初めてそうでないことがわかった。その建物は今、目の前にあった。一つの扉――幼いセヴェリアンとわたしがまえにくぐったのとは別のものだったが――が相変わらず開いており、われわれはその中に入った。
「さあ」口をきくほうの頭がいった。「乗りたまえ」
彼が指さしているものはボートに似ており、独裁者の庭園の睡蓮型のボートのように、内壁はどこもかも詰物がしてあった。だが、これは水にではなく空気に浮かんでいた。舷縁に触るとボートは手の下でゆらゆら、ぷかぷかと動いた。もっとも、その動きは小さすぎて目には見えなかったけれども。わたしはいった。「これは飛翔機にちがいない。こんなに近くで見るのは初めてです」
「飛翔機が燕ならば、これは――そうだなあ――雀といったところだ。いや、土龍《もぐら》か、または子供がラケットで打ちあって飛ばして遊ぶ追い羽根みたいなものだ。儀礼上、きみが先に乗らねばならないだろう。危険のないことは保証する」
それでもわたしは尻込みした。その乗物にはひどく謎めいたところがあって、一瞬たりとも足を踏み入れる気にはとうていなれなかったからである。わたしはいった。「わたしはネッソスの出身。それも、ギョルの東岸の者です。いかなる乗物も、名誉ある座席には最後につくように、そして降りるのは最初にするように、教育されています」
「そうか」口をきくほうの頭がいった。そして、双頭の男はわたしの手首をつかみ、何事が起こったかわからずにいるうちに、まるで子供を投げこむように、わたしをボートの中に投げこんだ。ボートはわたしの体の衝撃で、沈み、ぐらぐら揺れた。そして、一瞬の後に、双頭の男自身がわたしの横に飛び乗ったので、こんどは激しく横揺れした。「わたしよりも自分を上位に置く意志はない、というわけだったのか」
彼がなにごとか唱えると、乗物は動きだした。最初はゆっくりと前に滑っていったが、やがて速度を増した。
「真の礼儀には」彼はいった。「真実が含まれる。真実のこもったものが、礼儀なのだ。平民は君主の前にひざまずいて頭を下げるが、それは、君主に自分の首を取る力があると認めることなのだ。そのくせ平民はいうのだよ――いや、古き良き時代にいったものだ――わたしには真実への愛情がない、などとね。しかし実際は、わたしが愛するのは、まさに真実そのものであり、事実のあからさまな承認であるのだ」
この間ずっと、われわれは体を伸ばして横になっており、二人の間には腕一本入るほどの余地もなかった。片方がピアトンと呼んだ頭は、わたしに向かってぎょろりと目をむいて、喋るように口を動かしたが、わけのわからない音声しか出てこなかった。
わたしは起き上がろうとした。双頭の男は鉄のような腕でわたしをつかみ、引き下ろして、いった。「危ない。これらの乗物は、中に横たわるようにできているのだ。頭を失いたくはないだろう? よいかね、それは、よぶんな頭を持つのと同じくらい、いやなことだぞ」
ボートは先端を下げ、暗闇に飛びこんだ。一瞬、死ぬのではないかと思った。だが、その感覚が爽快な速度感に変わった。この種の感覚は、子供の頃、冬の霊廟の間を常緑樹の枝にまたがって滑った経験から知っていた。それにいくぶん慣れてから、いった。「あなたはこのままの状態で生まれたのですか? それとも、ピアトンはなんらかの方法で、あなたの体に植えこまれたのですか?」自分の命が、この不思議な生物に関して、できるだけの秘密を探り出すことにかかっていることを、わたしはすでに悟りはじめていたと思う。
口をきくほうの頭が笑っていった。「わたしの名はテュポーンだ。そう呼んでくれればいい。噂を聞いてるだろう? わたしはかつてこの惑星と、さらに多くの惑星を支配していた」([#ここから割り注]元来はギリシャ神話に出てくる、百頭の龍が肩から生え、膝から下はとぐろを巻いた毒蛇という巨大怪力の怪物。ケルベルス、キメラ、スフィンクスの父[#ここで割り注終わり])
わたしは彼が嘘をついていると確信していった。「あなたの偉大な力の噂はまだこだましていますよ……テュポーン」
彼はまた笑った。「きみは今、わたしを〈命令者《インペラートル》〉と呼びそうになったろう? 今にそう呼ぶようになる。いや、わたしはこの姿で生まれたのではない。いや、そもそもきみのいうような意味で生まれはしなかった。また、ピアトンがわたしに移植されたのでもない。わたしが彼に移植されたのだ。これをどう思うかね?」
今やボートは猛烈なスピードで走っているので、われわれの頭のまわりで空気がひゅうひゅう唸った。だが、下降の角度は先ほどよりも急でなくなっているようだった。わたしが話しているうちに、それは水平に近くなった。「あなたがそれを望んだのですか?」
「命じたのだ」
「とすると、ひどく奇妙な話ですねえ。なぜ、そんなことをさせようと思ったのですか?」
「もちろん、生命を得るためだ」もうかなり暗くなっていて、どちらの顔も見ることができなかったが、テュポーンの顔はわたしの顔から一キュビット足らずのところにあった。「すべての生命は、その生命を保つために行為する――これがいわゆる生存の法則≠ニいうものだ。よいかね、われわれの肉体は、われわれが死ぬずっと前に死ぬのだ。事実、肉体が死ぬからこそ、われわれは死ぬ、といったほうが当たっている。わたしの侍医は――当然、多くの世界から最高の医者たちを集めたのだが――わたしが新しい肉体を持つことが可能だろうといった。最初彼らは、前にほかの者が占めていた頭蓋でわたしの脳を包むことを考えた。この案の欠点がわかるだろう?」
彼が本気で喋っているかどうかわからないまま、わたしはいった。「いや、残念ながら、わかりません」
「顔だよ――顔! そうすれば顔が失われる。人民が従うことに慣れていた顔が、なくなることになる!」彼の腕が暗闇でわたしの腕を握った。「それではだめだと、わたしはいった。すると、ある医者がやってきて、頭全体を交換してはどうかといった。そのほうがむしろ容易だと。なぜなら、言語や視覚をつかさどる複雑な神経接続が無傷で残るから、と。もし成功したら領地を与えると、わたしはその男に約束した」
「どうも、わたしには――」わたしはいいかけた。
テュポーンはまた笑った。「最初にもとの頭を取り除いたほうがいいと思われる。そうだ、わたしもずっとそう思っていた。だが、神経接続の技術が難しいのだ。その医者は最良の方法を見出した――わたしが実験材料を与えてやったからこそできたのだがね。それは、外科手術によって随意機能だけを移植することだった。それができれば、不随意機能はやがて自然に移ることになるのだ。そうなれば、もとの頭を切除できる。傷は残るだろうが、もちろんシャツで隠すことができるからね」
「しかし、故障が生じた?」すでにわたしは狭いボートの中で、できるだけ彼から体を離していた。
「大部分は時間的なものだった」彼の声の恐るべき活力は、それまで当たるところ敵なしという感じだったが、ここにきて翳《かげ》りを見せたように思われた。「ピアトンはわたしの奴隷の一人で――最も大きくはなかったが、最も強いやつだった。われわれは彼をテストした。だが、彼のように強力な者は、心臓の活動を保持することにおいても、やはり強力だとは、思ってもみなかった……」
「なるほど」わたしはいったが、実は何もわかっていなかった。
「また大混乱の時期でもあった。天文学者たちは、太陽の活動がゆっくりと衰えるだろうといっていた。実際には、その変化はあまりゆっくりで、一《いち》人間の生涯には感知しえないほどだともいった。ところが、それが間違っていたのだ。世界の温度は数年のうちに千分の二ほどの割合で低下し、それから安定した。作物は枯れ、飢饉と暴動が発生した。わたしはその時、立ち去ればよかったのだ」
「なぜ、そうしなかったのですか?」
「しっかりした手が必要だと感じたのだ。しっかりした手は一つしかありえない。それが支配者のものであろうと、なかろうと……。
また、その頃、奇跡を起こす人物が出現していた。こういう人民の中には、そのような者がよく現われるのだ。彼は実際にはごたごたを起こす人物ではなかったが、大臣の何人かは、危険だといった。わたしは治療が完了するまでここに引きこもっていたのだが、病気や奇形が彼から逃げ出すというので、ここに連れてくるように命じた」
「〈調停者〉ですね」わたしはいった。次の瞬間、その名をいったことを死ぬほど後悔した。
「そうだ。それが彼の名前の一つだ。今彼がどこにいるか知っているかね?」
「もう、何千年も前に死にましたよ」
「それでも、残っているだろうと思うが?」
その言葉を聞いてわたしははっとして、紺碧の光が洩れていはしないかと、首から吊した袋を見下ろした。
その瞬間、われわれの乗物はへさきを上げて、上昇しはじめた。周囲の空気のすすり泣きは、龍巻のような轟音に変わった。
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26 世界の目
おそらくボートは光で制御されているのだろう――周囲で光が閃くと、ボートはすぐに止まった。山の膝の上では寒さに悩んだものだが、今感じている寒さに較べれば、あれはものの数ではなかった。風は吹いていなかったが、今の寒さは、思い出せるかぎりの最も寒い冬よりももっと寒かった。必死に体を起こそうとすると、目が回った。
テュポーンは飛び下りた。「ここにくるのはずいぶん久しぶりだ。とにかく自宅に帰るのはいいものだ」
われわれは一塊りの岩から切り出された、がらんとした部屋の中にいた。それは気球ほどの大きさがあった。ずっと奥の突き当たりに二つの丸い窓があり、そこから光が射しこんでいた。テュポーンは急いでそちらにいった。二つの窓の間隔は百|歩《ペース》ほどあり、それぞれの幅は十キュビットほどであった。わたしは彼の後をついていったが、その時に、かれの裸足がくっきりと黒い跡を残すのに気づいた。雪が窓から降りこんで、石の床に積もっているのであった。わたしは膝をついて雪をすくいあげ、ほおばった。
こんなに旨いものを味わったことはなかった。舌の熱がたちまちそれを溶かして、甘露に変えるように思われた。この場所に一生涯いて、しゃがんで雪をほおばっていたいとさえ思った。テュポーンは振り向いて、わたしを見て笑った。「きみがひどく喉が渇いているのを忘れていた。ご自由に。時間はたっぷりある。きみに見せるものは、後まわしでもかまわない」
ピアトンの口も、前のように動いた。そして、その愚かな顔に同情の表情が見えたように思われた。それで、わたしはわれに返った。そのようにわれに返ることができたのは、たぶん、すでに溶けた雪を何口も飲んだからだろうと思う。もう一口飲みこんでしまうと、わたしはそのままの姿勢でさらに雪をかき集めながら、いった。「ピアトンについて話を聞きましたが、彼はなぜ喋ることができないのですか?」
「かわいそうに彼は自分では息を吸えないのだ」テュポーンはいった。その時、彼の男根が勃起したのが見えた。彼はそれを、片手で優しく撫でた。「今もいったように、わたしはすべての随意機能をコントロールする――まもなく、不随意のほうもコントロールできるようになるだろう。それで、哀れなピアトンはまだ自分の舌と唇を動かすことはできるけれど、ちょうど吹くことができないホルンのキーを動かしている音楽家のようなものだ。雪に堪能したら、そういいたまえ。そしたら、食べ物が手に入る場所を見せよう」
わたしはまた雪をほおばり、飲み下した。「これで充分です。そう、ひどく腹が減っています」
「よろしい」彼はいって、窓から離れて、部屋の片側の壁のところにいった。そばにいってみると、その壁は少なくとも(想像していたように)平らな岩ではないことがわかった。どうやら、一種のクリスタルか、または厚い半透明のガラスらしかった。それを透かして、絵の中の食べ物のように、完成され静止しているパンの塊りや多くの不思議な料理が見えた。
「きみは霊験あらたかな護符を持っているな」テュポーンがいった。「さあ、それをこちらによこせ。そうすればこの戸棚を開けることができる」
「なんのことかわかりません。この剣がほしいのですか?」
「その首に下げているものがいるのだ」彼はそういって、手を伸ばしてつかもうとした。
わたしは後ずさりした「これには霊力はありません」
「では、きみは何も失うものはないわけだ。渡しなさい」テュポーンがそういうと、ピアトンの頭がほとんど目に見えないほど、左右に動いた。
「これはただの骨董品です」わたしはいった。「前には、これに偉大な霊験があると思っていました。でも、ある死にかけた美しい女を生きかえらせようとした時には効果がなかったし、昨日は、一緒に旅をしていた子供を生きかえらせようとしたけれど、やはり駄目でした。どうして、このことを知っているのですか?」
「もちろん、きみを監視していたのだ。きみがよく見えるようにずっと高いところに登っていた。わたしの指輪があの子供を殺し、きみが子供の死骸のところにいった時に、わたしはその聖なる火を見た。もし渡したくないなら、実際にわたしの手に載せなくてもいい――ただ、わたしのいうとおりにすればいい」
「では、あの時に警告を与えてくれることもできたじゃありませんか」わたしはいった。
「なぜ、そうしなくてはならない? あの時は、きみはわたしにとって、なんの価値もなかった。食べ物がほしいのか、ほしくないのか?」
わたしは宝石を取り出した。どうせ、ドルカスにもジョナスにも見せたのだし、また、ペルリーヌ尼僧団は大きな祭りの時にこれを聖体顕示台に置いて展示したものだった。それはわたしの手のひらで、一粒の青いガラスのように見えた。火はまったく消えていた。
テュポーンは珍しそうに、それを覗きこんだ。「なんということもないな。さあ、ひざまずいて」
「わたしのいうとおりに、繰り返すのだ。わたしはこの護符の代表するすべてのものにかけて誓います。これから受ける食べ物のために、わたしはテュポーンという名で知っているお方の隷属者になります。そして、今後永久に――」
一つの罠が閉じようとしていた。これに較べれば、デクマンの網など原始的な最初の試みにしかすぎなかった。これは、仕掛けられていることが、ほとんどわからないほど微妙なものだったが、それでも、その糸の一本一本が鋼の針金であることを、わたしは感じ取った。
「わたしの持ち物、および今後わたしの手に入るもの、今所有しているもの、将来所有するであろうもの、生きているものも死せるものも、すぺて彼の求めに応じて差し出します」
「わたしは以前にも誓いを破っています」わたしはいった。「もし、これを誓えば、また破ることになるでしょう」
「とにかく、誓え」彼はいった。「これは従わなければならない一つの形式にすぎない。誓え。そうすれば、食事が終わり次第、放免してやる」
それでもわたしは立ち上がった。「あなたは真実を愛するといいましたね。今その理由がわかりましたよ人間を束縛するのは真実だからです」わたしは〈鉤爪〉をしまった。
もしそうしなかったら、次の瞬間に、それは永久に失われてしまったろう。テュポーンはわたしをひっつかみ、テルミヌス・エストを抜くことができないように、両手を横腹に押えつけて、片方の窓のところに連れていった。わたしはもがいたが、子犬が強い人間の手の中でもがいているようなものであった。
窓のそばにいくと、それは窓とは思えないほどの大きさだった。まるで、外界の一部が部屋の中に侵入してきているような感じがした。しかも、その外界なるものは、わたしが予想していたように、山の麓の野原と森で構成されているのではなくて、空間の単なる広がり、つまり、空の一部だった。厚さ一キュビット足らずの部屋の壁が、まるで目を開けて泳いでいる時に水と空気の境界に見える濁った線のように、ゆらゆらと視野の端を後方に移動していった。
次の瞬間、わたしは外側にいた。テュポーンはわたしの体をつかんでいる手の位置を変えて、わたしのくるぶしを握った。だが、ブーツの厚みのためか、それとも、自分が恐慌に陥っていたためか、一瞬自分が逆さにぶら下げられている感じはまったくなかった。わたしの背は山塊の方を向いていた。柔らかい袋に入った〈鉤爪〉が顎にひっかかって、頭から垂れ下がった。この時に突然、テルミヌス・エストが鞘から抜け落ちるのではないかというばかげた恐怖を感じたことを覚えている。
わたしは、ちょうど鉄棒に足でぶらさがった体操選手がやるように、腹筋を使って体を持ち上げた。テュポーンは片方のくるぶしの手を放して、拳でわたしの口を殴った。それで、わたしはまた逆さ吊りになった。わたしは叫び声をあげ、唇から目に流れこむ血を拭おうとした。
剣を抜いて、また体を持ち上げて、切りつけてやりたいという誘惑は、抗いがたいほど強かった。だが、そんなことをしようとしても、こちらの意図は事前にあっさりテュポーンに察知されて、投げ落とされることはわかっていた。それに、たとえ成功しても、自分は死ぬだろう。
「さあやってみろ……」テュポーンの声が上で聞こえた。それは黄金色の広大な空間のずっと遠くの方から聞こえてくるように思われた。「……その護符に助けてもらえ」
彼は言葉をきった。一刻一刻がそれぞれ永遠のように長く感じられた。
「それはきみを助けられるか?」
わたしはかろうじて答えた。「いいや」
「今どこにいるかわかるか?」
「見えた。顔の上だ。山の独裁者の」
「それはわたしの顔だ――見えたか? わたしは独裁者だった。再来したのはわたしなのだ。きみはわたしの目のところにいる。そして、きみの背にあたるところはわたしの右目の瞳孔だ。わかるか? きみは涙だ。わたしが流す一粒の真っ黒な涙。この手をはなせば、きみは一瞬にして落下して、わたしの衣のしみとなる。だれがきみを救える、護符の保持者よ?」
「あなたです。テュポーン」
「わたしだけか?」
「テュポーンだけです」
彼はわたしを引き戻した。山の頭蓋内の空間である大きな部屋のずっと奥に戻るまで、わたしは彼にしがみついていた。ちょうど、かつて少年がわたしにしがみついたように。
「さあ」彼はいった。「もう一度、試みよう。きみはもう一度わたしの目にいかねばならない。今度は自発的にいくのだ。右目ではなく、左目にいったほうが、たぶん容易だろう」
彼はわたしの腕を取った。自由意志でそこにいったともいえるかもしれない。なぜなら、歩いたから。しかし、生まれてこのかたこれほど熱意のない歩きかたをしたことはなかっただろう。拒否することができなかった屈辱の記憶は、最近ではこれが唯一のものである。われわれは目のぎりぎりの縁に立つまで止まらなかった。それからテュポーンは身振りをして、わたしに否応なしに外を見させた。眼下には、日光の当たった部分は桃色に、影の部分は青色に染まった、波打つ雲海が広がっていた。
「独裁者」わたしはいった。「われわれはどうやってここにきたのですか? さっきの乗物はトンネルの中をあんなに長いこと急降下していたのに?」
彼は肩をすくめてわたしの質問を受け流した。「重力はわたしに仕えることができる時に、どうしてウールスに仕えようか? それにしてもウールスは美しい。見ろ! 世界の衣が見える。綺麗じゃないか!」
「とても綺麗です」わたしは賛成した。
「これをきみの衣にすることもできる。前にもいったように、わたしは多くの世界の独裁者だった。ふたたび独裁者になるつもりだ。今度はもっと多くの世界のな。その、もっとも古い世界を、わたしは首都にした。これが間違いだった。なぜなら、災害が起こった時に、長く踏み留まりすぎたからだ。逃げようと思った時には、逃げ道はなくなっていた――星々に到達できる船の操縦を任せていた者たちが、それらに乗って逃げてしまったからだ。そして、わたしはこの山に籠城することになった。この過ちは二度と繰り返さないつもりだ。首都はどこかよそに置く。そして、この世界をきみに与えて、管財人として支配させよう」
わたしはいった。「そのような高貴な地位につくのにふさわしいことは何もしていません」
「護符の所持者よ。きみであろうと、ほかのだれであろうと、わたしの行為を正当化せよとわたしに要求することはできない。それよりも、きみの帝国を眺めるがいい」
話をしている間に、はるか下に風が起こり、その鞭に打たれて雲が湧きかえり、兵隊のように密集隊形をとって東の方に移動していった。それらの下に山々と海岸の平地が見え、その彼方に海のかすかな青い線が見えた。
「見たまえ!」テュポーンがいって指さした。北東の方向の山中に、針で突いたような光が見えた。「あそこで何か大きなエネルギー兵器が使用された」彼はいった。「この時代の支配者が使ったのかもしれないし、その敵が使ったのかもしれない。どちらにせよ、もう位置がわかった。彼らは撃破されるだろう。この時代の軍隊は弱い。われわれの殻竿の前では、収穫期の籾殻《もみがら》のように飛び散ることだろう」
「このすべてを、どうして知ったのですか?」わたしは尋ねた。「わたしと息子が見つけるまで、あなたは死んでいたのに」
「ああ、しかし、もうほとんど一日生きていたし、思考を遠いいろいろな場所に送ったからな。今は海中に、支配しようとしている力がある。彼らはわれわれの奴隷になるだろう。そして、北の遊牧民の群れは彼らの奴隷になるだろう」
「ネッソスの住民はどうなりますか?」わたしは骨まで凍る思いで、足ががくがく震えた。
「きみが望むなら、ネッソスをきみの首都にしよう。きみはネッソスの玉座から、美しい婦女子や、古代の装置や書物や、そしてこのウールスの世界が産出するすべての良き物を、貢ぎ物としてわたしに送るのだ」
彼はまた指さした。〈絶対の家〉の庭園が、芝生に投げすてられた緑と金の肩掛けのように見え、その彼方にネッソスの〈壁〉と、巨大な都市、つまり〈不滅の都市〉そのものが何百リーグにもわたって広がっているのが見えた。あまりにも広大なので、〈城塞〉に立ち並ぶ塔さえもその果てしのない屋根と曲がりくねった道路の広がりの中に埋没してしまい、見ることはできなかった。
「こんなに高い山はありません」わたしはいった。「たとえこれが世界中でいちばん高い山だとしても、また、たとえこれが第二の高峰の冠の上に乗っているとしても、今見ているような遠方を、人間が見ることはできないでしょう」
テュポーンはわたしの肩をつかんだ。「この山はわたしの望むとおりの高さになるのだ。これにだれの顔がついているか、忘れたのか?」
わたしは、まじまじと彼を見つめるだけだった。
「愚か者め」彼はいった。「きみはわたしの目で見ているのだぞ、さあ、その護符を出したまえ。それにかけて誓ってもらおう」
わたしはドルカスがこのために縫ってくれた革袋から――これが最後だと思いながら――〈鉤爪〉を取り出した。そうすると、はるか下界がかすかに動いた。その部屋の窓から見える世界の光景は、やはり想像を絶する壮大なものだったが、それは高山から人間の目が識別できるもの、つまりウールスの青い皿でしかなかった。眼下の雲をとおして、たくさんの長方形の建物と、その中心の丸い建物、それに鎧武者像があるこの山の膝が瞥見できるだけだった。鎧武者像たちはゆっくりと太陽から顔をそむけ、上にいるわれわれの方を見た。
「彼らはわたしに敬意を払う」テュポーンがいった。ピアトンの口も動いたが、その動きはテュポーンのものとは一致しなかった。わたしは今、それに注目した。
「さっき、あなたは向こうの窓にいました」わたしはテュポーンにいった。「その時には、彼らはあなたに敬意を払いませんでした。彼らは〈鉤爪〉に敬意を払うのです。独裁者、もしも〈新しい太陽〉がついにやってきたら、彼をどうしますか? あなたは彼に対しても敵になるのですか、これまで〈調停者〉の敵であったように?」
「わたしに宣誓し、わたしを信じたまえ。彼がやってきたら、わたしは彼の主人になり、彼はわたしの最も卑しい奴隷になるのだ」
この時わたしは打った。
骨の破片を脳に飛びこませるように、掌のつけ根で敵の鼻を打ち砕く方法がある。しかし、それは非常にすばやくやらなければならない。なぜなら、人は相手が打ちかかるのを見ると、思わず手を上げて顔をかばうものだから。わたしはテュポーンほどすばやくはないが、彼の手が上がってかばうのは彼の顔なのである。だから、わたしはピアトンを打った。そして、死のしるしである、小さいが恐ろしい割れる音を感じた。何千年もの間テュポーンに従わずにいた心臓が、鼓動を止めた。
しばらくして、わたしは足で、テュポーンの死体を崖から突き落とした。
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27 高い峠にて
わたしは空飛ぶボートを動かす言葉を知らなかったので、ボートは従ってくれなかった(その言葉は、自分の命を取ってくれというような、ピアトンがわたしに伝えようとしていた言葉の中にあったと、わたしはしばしば思い、もっと早くそれに気づけばよかったと思うのである)。結局、右目から這い降りるしかなく――それは生涯で最もつらい下山になった。この冗長な冒険談の中で、わたしはどんなことも忘れないと繰り返しいってきた。だが、この部分についてはかなり忘れている。なぜなら、あまりにも疲労困憊していたので、ほとんど眠りながら体を動かしていたからである。結局、爆布と爆布の間の、音のしない、閉めきった町によろめきながら入った時には、ほとんど夜になっていたにちがいなかった。わたしはそこで風を防いでくれる壁の下に、倒れこんでしまった。
山は人間を死のそばに連れていくこともあるが、山はまた恐ろしい美しさを持つ。実際その美しさは、死に瀕した時にこそ明らかに見えてくるものであって、衣服も食糧も充分に持って山に入り、衣服も食糧も充分に持って山から出てくる猟師には、ほとんど見えないとわたしは信じている。山では世界全体が、静かな、氷のように冷たい清水をたたえた天然の水盤のように見えることがある。
その日、わたしはずっと下まで山を下り、何リーグも広がっている高原を見出した。そこには、優しい草や、低地では決して見られない花が咲いていた。小さくて、たちまち花盛りになり、薔薇も太刀打ちできぬほど完全で清らかな花が。
こういう高原は、断崖に囲まれていることがよくあった。もう北にはいけない、逆戻りしなければならないと、一度ならず思ったものだ。しかし、最後には必ず、上か下にいく道が見つかり、わたしはひたすら進んでいった。下の方に、騎馬の兵や行軍している兵士が見えるようなことはなかった。これにはある意味でほっとさせられたが――同時に、不安でもあった。なぜなら、自分がもはや軍隊の補給路の近くにいないという証拠だからだ。
アルザボの記憶が蘇ってきて、わたしにつきまとった。山の中には、その同類がまだたくさんいるにちがいなかった。それに、あれが本当に死んでいるかどうか確信もなかった。あのような獣が回復力を持たないと、だれがいえようか? 日中は兵士の姿の有無に不安を覚え、左右から目に飛びこんでくる高峰や爆布やぞっとするような谷間の光景のおかげで、無理にでもその記憶を心から遠ざけておくことができた。しかし夜になると、その記憶は戻ってきた。毛布とマントにくるまって高熱に浮かされたようになりながら、わたしは確かにその柔らかい足音や、鉤爪で引っかく音がきこえたと思うのだった。
もしも世界が、よくいわれるように、ある計画に基づいて整えられたものだとすれば(その計画が世界創造以前に作られたものであろうと、あるいは、世界が存在した永劫の時間のうちに冷厳な秩序と生成の論理によって作り出されたものであろうと、結果的に違いはない)、森羅万象の中に、より高い栄光の縮図と、より小さい物事の拡大図の両方が含まれているはずである。わたしは堂々巡りする思考をアルザボについての恐怖の回想から引き離すために、それを、アルザボの性質の、人間の記憶と意志を自分のものに同化するという側面に、何度も固定しようと試みた。その現象を、より小さな物事に対比するのには、ほとんど困難を感じなかった。体を小枝や草の葉で覆って敵に見つからないようにするある種の昆虫に、アルザボをなぞらえることもできるかもしれない。見かたによっては、そこに欺瞞はない――本物の小枝や葉の切れ端は、たしかにあるのだから。しかし、昆虫はその内部にいるのだ。アルザボもそれと同じことである。ビーキャンがこの動物の口を通じて、妻と子供をそばに呼びたいとわたしにいった時、彼は自分の欲望を自分で述べていると信じていたし、それは事実だった。しかしその欲望は、内部にいるアルザボ、つまり、その必要と意識がビーキャンの声の背後に隠れているアルザボに、餌を与えるのに役立つのである。
意外なことではないが、アルザボをより高い真実と対比するのは、より困難である。しかし結局わたしは、それは人間の思想や行為は物質界に吸収されるということになぞらえることができるという結論を出した。建築、詩歌、戦闘、または探険など、広い意味で芸術と呼べる諸活動によって、物質界にきわめて強い印象を与えた人は、たとえもはや生きていなくても、死後のある期間は、生命が存続しているといえるかもしれない。まさにこのようにして、少年セヴェラ[#校正1]はもはや存在しないにもかかわらず、キャスドーの家の屋根裏に登るにはテーブルを動かせばよいと、アルザボに示唆したのであった。
この時には、わたしに忠告を与えてくれる者としてセクラがいた。彼女に呼びかけた時には、わたしにはほとんど希望もなく、彼女にも忠告すべきことはほとんどなかった。それでも山岳地帯の危険性については、しばしば警告されていたので、わたしに対して、登れとか進めとか、夜が明けたらすぐにどんどん下って暖かい低地に行けとか、促したのだった。
もはや空腹は感じなかった。食べずにいると、空腹感は消えるものなのである。その代わりに衰弱が、原始的な精神の澄明を伴ってやってくる。こうして、右目の瞳孔から這い降りた後、二日目の夕方に、わたしは羊飼いの小屋にたどり着いた。それは石でできた蜂の巣のような建物で、中には鍋と、大量の穀物の粉があった。
ほんの十数歩はなれたところに山の泉があった。しかし、燃料がなかった。それで夕方ずっとかかって、半リーグも離れた岩の表面から、うち捨てられた鳥の巣をかき集めて、夜になってから、テルミヌス・エストの中子《なかご》から火を打ち出し、粗末な食べ物を煮て(高度のせいで、煮えるのに長い時間がかかった)食べた。それは今まで経験したことがないほど美味に感じられ、かすかではあるが、間違えようのない蜜の味がした。どうやら、ある種の岩石の核にウールス自身しか覚えていない海の塩が閉じこめられているように、乾燥した穀物の中にはその植物の甘い汁が残っているものらしい。
わたしは食べたものの代金を払うことにした。それで、羊飼いに残しても自分にとって支障がなく、しかも、食べたものと同じぐらいの価値のものはないかと、図嚢の中を探した。セクラの茶色の本は、手放すつもりはなかった。どうせ羊飼いは文字は読めないだろう、そう考えて、良心をなだめた。また、割れた砥石を提供するつもりもなかった――なぜなら、これにはあの緑人の思い出が残っているし、また、このあたりには同様の石が、若草の間にいたるところに落ちているので、贈り物としては安っぽいと思えたからである。また、所持していた貨幣はすべてドルカスに渡してきてしまったので、無一文だった。こうして結局、スラックスに着くずっと前に、石の町の泥の中でドルカスとわたしが見つけたあの真紅のケープを残すことに決めた。汚れているし、薄すぎてあまり暖かくないけれども、その飾り房と派手な色が、食べ物を提供してくれた人を喜ばすだろうと思った。
このケープが、なぜあそこにあったのか、どうしても完全には理解できない。つかのまの蘇りを求めて、われわれを呼び寄せたあの不思議な人物が、果たしてあれを故意に残していったのか、それとも、雨が彼を溶かして、ずっと昔からその状態にあった土に返した時に、偶然に後に残ったのか、わたしにはどうしてもよくわからないのである。あの古い尼僧団が、めったに使わないか、または決して使わない、いろいろな能力を持っていたことには疑いの余地はない。そして、その能力の中に、あのような死からの蘇りが含まれていたと考えても、馬鹿げたことではあるまい。もしそうなら、彼はわれわれを呼び寄せたように、彼女らをも呼び寄せて、たまたまあのケープを後に残したということになるのかもしれない。
しかし、たとえそうであったとしても、これはより高い権威を持つ目的に適うものであったかもしれない。われわれは自由意志でこうしようとか、ああしようとか選択し、罪を犯したり、愛他主義によって〈|神の住居《エンピリアン》〉の聖なる栄誉を盗んだりするが、それでも、自存神《インクリエート》は万物を統べたまい、従う者も逆らう者も等しく(つまり、完全に)その目的に沿って動いているのだという説がある。そして、たいていの聖者はこれに類する一見矛盾した説を、この論法で説明する。
それだけではない。あの茶色の本で読んで何度もセクラと話しあったのだが、次のように指摘する人もいる。至高の存在の〈御前〉にひらひらと舞っているおびただしい生き物がいる。それらはその主と比較すれば、一見、微小に――実際、限りなく小さく――見えるけれども、人間の目から見ればそれ相応に巨大に見える。そして人間にとってその主は、目に見えないほど巨大な存在なのだと(この限りない大きさのために主は小さく見える。それで、彼との関係においてわれわれは、大陸の上を歩いているのに、森や、沼や、砂丘などしか見ない者のようであり、また、そこを歩きながら、靴に入った小石は感じても、自分たちが一生涯見過ごしてきた大陸がそこに存在し、自分とともに歩んでいるとは、思ってもみない者に似ている)。
また、これらの生物(アムシャスパンド〔[#ここから割り注]拝火教の大天使。六体いて、善神アフラマツダに仕えている[#ここで割り注終わり]〕と呼んでいいかもしれない)が、仕えているという力の存在を疑いながらも、その一方で、それらの生物が存在するという事実を肯定する聖者たちもいる。彼らの肯定は人間の証言――たくさんの証言があり、わたしもそのような生物をイナイア老の部屋の鏡の本の頁で見たから証言できる――に基づくものではなく、むしろ反駁の余地のない論理に基づいている。なぜなら、もし宇宙が創造されたものでない(この説を、彼らは必ずしも哲学的でない理由によって、信じないほうが便利だと考える)とすれば、宇宙は永遠の昔から今日まで存在していたことになるから、というのがその論拠である。そして、もし宇宙がそのように存在していたとすれば、時間そのものは今日の後ろに無限に存在しており、そのような無限の時間の海の中で、必然的に考えられる限りのあらゆるものが去来したことになる。アムシャスパンドのような生物は考えられる。なぜなら、聖者たちも、ほかの多くの人々も、それらの存在を考えたから。しかし、それほど強力な生物がかつて存在したのなら、どうしてそれらが絶滅するのだろうか? それゆえ、彼らはまだ現存していると。このようにして、知識の逆説的性質によって、アイレム、つまり森羅万象の根源の存在は、疑われるが、それにもかかわらず、その僕《しもべ》の存在は疑われないかもしれないのである。
そして、このような生物はたしかに存在するのであるから、わたしがあの小屋に残してきた真紅のケープの場合のように、偶然の事故によって、彼らが人事に干渉(もしこれが干渉と呼べるなら)することも、ないとはいえないのではないか? 蟻の巣の内部の経済に干渉するには、無限の力は必要でない――一人の子供が小枝でかき回せばよいのだ。これ以上に恐ろしい考えを、わたしは知らない(自分の死については、想像を絶するほど恐ろしいものだと一般に思われているが、わたしにはあまり苦にならない。おそらく記憶が完全だからこう思うのだろうが、考えることができないほど恐ろしいと感じるのは、自分の生なのである)。
だが、もう一つの説明がある。〈神の顕現〉に仕えようと努力しているすべての人は、そしてたぶん、神に仕えていると主張しているすべての人でさえも、われわれから見れば、意見がひどく異なっており、たがいに一種の戦争をしているように見えるほどだけれども、やはり、わたしがかつて夢に見た人形芝居の少年と木の男のように結びついているのであって、戦っているように見えても、つまるところ両方の糸を操っている見えない個体に支配されている、ということなのかもしれない。もし、これが当たっているとすると、われわれが見たシャーマンと、あの尼僧たち――昔、彼が原始的な野蛮な風習に従って、あの石の町の小さな神殿で、厳密に典礼に準拠してドラムとカスタネットを打ち鳴らしながら生賢を捧げたのと同じ土地を、今度は自分たちの文明の中で、広く放浪して歩いているあの尼僧たち――とは友人であり、同盟者だったかもしれないのだ。
羊飼いの小屋で寝た翌日の夕暮れに、ディウトルナと呼ばれる湖に着いた。考えてみると、わたしの精神がテュポーンの精神によって金縛りにされる前に――といっても、テュポーンとピアトンに遭遇したのは実は幻覚か夢であって、その場で必然的に正気に返ったのでないとしたら、の話だが――地平線上に海を見たが、見えたのは実はこの湖であって、海ではなかったのだ。それにしてもディウトルナ湖は、海といってもおかしくなかった。それは精神が包含できないほど広大なものであった。なんといっても、その言葉に触発されて共鳴を起こすのは精神であるから――その精神がなければ、そこにはただ黒ずんだ水に覆われたウールスの小部分があるだけである。この湖は真の海面よりもかなり高いところにあるが、その水際に降りていくのに、その日の午後の大部分を費やしてしまった。
この行程で、わたしは珍しい体験をした。それは今もって大切に記憶に納めてある。わたしの心の中には、非常に大勢の男女の経験が納められているが、そのなかでも、これはわたしに想起できる最も美しいものだろう。なぜなら、この山を下っていく間に、わたしは一年間を最初から最後まで踏破したのだから。羊飼いの小屋を出た時には、上と後ろと右手に、雪と氷の広大な平原があり、その氷雪を貫いて、もっと冷たい黒い突出した岩がいくつも現われていた。そこはあまりに風が強いので、雪が積もることができずに、わたしが歩いている柔らかな牧草の上まで飛ばされてきて、解けるのであった。歩いていくうちに、草は次第に固いものになり、緑の色が濃くなった。虫の音――久しぶりに聞くのでなければ、めったに意識に上ることはないものだ――が、ふたたび聞こえはじめた。それは〈青の広間〉で最初のカンティレーナが始まる前の弦楽器の調音を思い出させる音であり、また、徒弟宿舎の開いた円窓のそばの粗末な寝床で横になりながら時々聞いた音でもあった。
見かけはしぶとく丈夫そうだが、柔らかな草が生える高度には耐えることができなかった灌木が現われてきた。しかし注意して見ると、それらは灌木とはまったく異なるもので、今までわたしが高く成長する木だとばかり思っていた植物が、ここの短い夏と苛酷な冬のために発育を阻害されているのだとわかった。しかも、それらは冬の寒風に手荒い仕打ちを受けたために裂けて、幹がひどくばらぼらになってしまっていた。これらの矮小化した木の上に、つぐみの巣を見つけた。これは、高峰の上空を舞う猛禽を別にすれば、久しぶりに見る鳥であった。さらに一リーグほど下りると、モルモットのかさこそいう足音が聞こえた。彼らは岩の露頭の間の巣穴から斑のある頭を突き出し、鋭い黒い目でわたしの接近をとらえて、仲間に警報を発した。
さらに一リーグ下りると、今度は兎が、わたしが持っていもしない渦巻くアスタラ([#ここから割り注]猟具の一種[#ここで割り注終わり])に恐れをなして、前を跳ねていった。わたしはこの地点を、足早に下っていた。そして、空腹と病気のためだけでなく、空気の薄さのために、どれほど多くの体力が失われていたか、初めて気づいた。まるで、もう一つ別の病気にかかっていたのにそれに気づかずにいて、高木や真の灌木が戻ってきてそれが回復した時に、初めて病気だったと気づいたような感じだった。
この地点では、湖はもはや霞んだ青い線ではなくなっていた。それは、鋼色の水の広大な、そして、ほとんど特徴のない広がりとして見え、後に大部分が葦でできていると知った小舟が、二つ三つ浮いていた。そして、わたしの進行方向からわずかに右にそれた小さい入江の奥に、ちょうどいい小さな村があった。
ちょうど自分の衰弱を自覚していなかったと同様に、わたしはそれらの小舟と、村の草葺きの屋根の丸い曲線を見るまでは、あの少年が死んで以来、自分がいかに孤独であったかを自覚していなかった。それは単なる孤独以上のものだったと思う。わたしはあまり仲間づきあいの必要を感じたことがない。それも、友人と呼べる人とのつきあいでなければ無用である。たしかに、知らない人と会話をかわしたくなったり、知らない顔を見たいと思ったりすることはめったにない。そもそも自分が孤独の時は、ある意味で個性を失うものだと信じている。つぐみや兎にとって、わたしはセヴェリアンではなく、人間であった。完全に孤独であることを好む多くの人々は、そして特に、荒野で完全に孤独になるのを好む人は、そのようになるとわたしは信じる。なぜなら、そういう人はそういう役割を演じるのが好きなのだから。しかし、わたしはまたある特定の人物に戻りたいと思った。そして、自分が他人とは違う存在だということを映し出してくれる、他人という鏡を見たいと思った。
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28 首長の御馳走
最初の家に行き着かないうちに、ほとんど日が暮れてしまった。太陽は湖に赤金色の道を開いた。それは村の道から世界の果てまで伸びており、そこを歩いていけばより大きい宇宙に出ていくこともできそうに思われた。村そのものは、着いた時には小さく貧しく見えたけれども、これまでずいぶん長い間、人里離れた高地を歩いてきたわたしには、充分に立派なものだった。
宿屋はなく、窓の陰からこちらを覗く人々は、だれも家に入れてくれそうもなかったので、わたしは首長の家にいった。そして、戸口に現われた太った女を押しのけて、勝手に坐りこんでしまった。この招かれざる客を見に首長がやってきた時には、わたしは割れた砥石と油を取り出して、この家の暖炉にあたりながら、テルミヌス・エストの刃の手入れを始めていた。彼はまずお辞儀をしたが、わたしに対する好奇心があまりにも強かったので、お辞儀をしながら見上げる衝動を抑えきれなかった。それを見て、わたしは笑いをこらえるのに一苦労だった。もし吹き出してしまえば、計画が台なしになるからである。
「上流のお方、よくいらっしゃいました」首長はしわの寄った頬を膨らませていった。「ほんとうに、よくいらっしゃいました。このように、狭くてむさくるしいところですが、どうぞご自由にお使いください」
「わたしは上流人ではない」わたしはいった。「〈真理と悔悟の探究者の結社〉、俗にいう拷問者組合の、大師匠である。首長、わたしを師匠≠ニ呼ぶがよい。つらい旅だった。うまい食事と、まあまあの寝床を提供してくれれば、明朝までは、きみや、きみの家族の手をわずらわすことはないだろう」
「わたし自身の寝床で、おやすみください」彼はあわてていった。「そして、できるだけの食事をお出しいたします」
「ここには新鮮な魚と、それに水鳥があるはずだな。両方とももらおうか。それから、ワイルド・ライスもだ」昔、グルロウズ師がわれわれの組合と〈城塞〉のほかの人々との関係を論じていた時に、他人の上に立つ最も容易な方法の一つは、その人が提供できないものを要求することだ、と教えてくれたことを、わたしは思い出した。「蜜、新しいパン、それにバターでもよいぞ。野菜とサラダがなければな。こういったものについては、うるさいほうではないから、わたしを驚かせてみるがいい。何かうまいものを、これまでに食べたことのないものを、食べさせてもらって、〈絶対の家〉への土産話にしたいのだ」
わたしが喋っているうちに、首長の目はますます丸くなった。そして、〈絶対の家〉という言葉が出ると――それは、疑いなく、彼の村では噂の中でも最も疎遠なものでしかなかった――彼の両眼は顔から飛び出しそうになった。彼は家畜について何かつぶやいたが(たぶん、この高地でバターを取ったら、家畜は生きていないとでもいったのだろう)、わたしは手を振って彼を去らせた。ところが、彼は扉を閉めずに出ていこうとしたので、襟首をつかんで扉を閉めさせた。
彼がいってしまうと、わたしは思いきってブーツを脱いだ。囚人のそばで、寛いだ様子を見せるのは禁物である(彼と彼の村は、監禁されてはいないが、もうわたしの囚人も同然だと思ったのだ)。しかし、なんらかの食事の用意ができるまで、だれもあえて部屋に入ってくることはあるまいと確信した。テルミヌス・エストの清掃と塗油を終えると、砥石でその刃を充分に研いだ。それがすむと、今度は袋からもう一つの宝物(といっても自分のものではないが)を取り出し、煙たい炉の明かりで、よく点検した。スラックスを出て以来、それはもはや鉄の指のように、わたしの胸を押すことはなかった――実際、山の中を歩いている間は、それを持っていることを半日くらいも忘れていて、はっと思い出し、なくしはしなかったかと、あわてて押さえてみたことも、一度や二度はあった。壁の丸石が、町の旦那衆が太鼓腹を火に焙っているように見える、この天井の低い、首長の家の四角い部屋では、〈鉤爪〉はあの片目の少年のあばら家の中で発したほどの光を発しなかったし、そうかといって、テュポーンに見せた時ほど死んでいるようにも見えなかった。むしろ今は、ほんのり光っている状態で、そのエネルギーがわたしの顔に働いていると想像することもできそうだった。その中心部にある三日月形のしるしが、いつになくはっきりと見え、そのしるし自体は暗かったけれども、星形の光がそこから射していた。
このようなもったいないものを、まるで子供の玩具のようにもてあそんだことを、ちょっと恥ずかしく思いながら、わたしはその宝石をしまった。それから茶色の本を取り出して、できれば拾い読みをしようと思った。しかし、体の熱は下がったものの、まだひどく疲れていて、ちらちらする暖炉の火が頁の古めかしいぎくしゃくした文字を踊らせるので、たちまち目がおかしくなった。そのために、読んでいる物語が、時にはまったく無意味なものになったり、また、時にはわたし自身に関すること――果てしない旅、群衆の残酷さ、血の川など――を扱っているように思われたりした。一度などは、アギアの名前を見たように思った。しかし、もう一度よく見ると、それはアゲインという言葉になってしまった。「|ふたたび《ア ギ ア》彼女は跳ん[#「跳ん」に傍点]だ。そして体をねじ[#「ねじ」に傍点]って亀の甲の隊列をかわした……」
ページは、ちょうど静かな水面に鏡を映したように輝いて見えたが、解読することはできなかった。一瞬前までは読んだと思っていた言葉のいくつかを、実際に見たかどうか確信が持てないままに、わたしは本を閉じて図嚢にしまった。アギアは実際にキャスドーの家の草葺き屋根から跳び下りたにちがいない。また、たしかに彼女はねじ[#「ねじ」に傍点]った。なぜなら、彼女はアギルスの処刑の意味をねじ[#「ねじ」に傍点]曲げて、殺人に変えてしまったからだ。神話に出てくる大亀は、世界を支えているといわれている。これは宇宙の象徴であって、その渦巻きの秩序がなければ、われわれは孤独な宇宙の放浪者になってしまう。この亀は大昔に〈宇宙の法則〉――もう失われてしまったが――を啓示したと考えられており、人間はこれに則《のっと》れば正しい行為をしていると常に確信が持てるのであった。この亀の甲羅は天球を現わし、腹甲はすべての世界の平原である。とすると、亀の甲の隊列は、恐ろしく輝く| 神 《テオログメノン》の大軍ということになるだろう……。
しかし、このような説を自分が読んだかどうか、はっきりしなかった。それで、もう一度、本を取り出して、そのページを確かめようとしたが、見つけることができなかった。こうした混乱は、疲労と空腹とそして光のせいにすぎないとわかっていた。わたしの人生には、ちょっとした出来事が狂気の始まりを自覚させることがたびたびあるが、そういう時に常に感じる恐怖を、今また感じた。炉の火を見つめているうちに、自分で信じたがっている以上に、次のようなことが起こりうるのではないかと思われてきた。つまり、たぶん頭を殴られた後とかに、また、はっきりした原因もなしに、想像力と理性が居場所を交換することがありうるのではないか――ちょうど、公園の同じベンチに毎日坐りにくる二人の友人が、そのうちに、気分を変えるために坐る場所を交換しようと決めるみたいに。もしそうなれば、わたしは自分の心のすべての幻影を、あたかも現実であるかのように見、そして、現実の世界の人間や物事を、ちょうど自分の恐怖や野心を見るあの不明瞭な方法で、感じ取るだけになるだろう。こういったことを、この物語のこの部分で思いつくのは、いかにも洞察力があるように思われるかもしれない。そう感じる人に対しては、わたしは記憶によって責め苛まれているために、非常にひんぱんに同じ道筋で瞑想するのだ、という言い訳しかできない。
かすかなノックが聞こえて、わたしの病的な白昼夢は終わった。わたしはブーツをはき、呼びかけた。「お入り」
きっと首長だと思うが、一人の人物がわたしの視野に入らないように気を使いながら扉を押し開けた。そして、一人の若い女が、真鍮の盆に料理を山盛りにして入ってきた。彼女がその盆を下ろした時、わたしは初めて、彼女が粗宋な装身具以外には素裸であることに気がついた。それから、彼女が北方の習慣に従って頭に両手を上げてお辞儀をして初めて、最初ブレスレットだと思っていた手首の鈍く光るバンドが、実は長い鎖で繋がった鋼鉄の手枷《てかせ》であることがわかった。
「夕食をどうぞ、大師匠様」彼女はいった。そして、丸い尻の肉が扉に押しつけられて平らに見えるまで、扉の方に後ずさりした。彼女は片手で扉の掛金を上げようとしたが、カチャリとかすかな音がしただけで、扉は開かなかった。彼女を中に入れた男が、外から押さえているにちがいなかった。
「うまそうな匂いだな」わたしはいった。「おまえが自分で料理したのか?」
「少しは。魚と小さな揚げ物を」
わたしは立ち上がり、彼女を怖がらせないように、テルミヌス・エストを粗末な石の壁に立てかけると、料理のそばに寄って点検した。四つ切りにして焼いた若鴨。彼女がいった魚。揚げ物(貝の身を刻んで、蒲の粉にまぶしたものだと、後でわかった)。とろ火で焼いたじゃがいも。そして、マッシュルームと青物のサラダ。
「パンがない」わたしはいった。「バターも蜂蜜もない。このままではすまないぞ」
「大師匠様、揚げ物で満足していただけると思ったのですが」
「考えてみれば、おまえの責任ではないな」
サイリアカと寝たのはずいぶん前のことになる。わたしは今まで、この若い女奴隷の体を見ないようにしていた。だが、ここでじっくりと見た。長い黒い髪が腰まで垂れている。肌は、運んできた盆とほとんど同じ色だ。しかし、腰は細い。土民の女としては、珍しいことだ。顔はきびきびした表情をしていて、ちょっと鋭い感じがある。これに較べると、アギアはあの白い肌とそばかすにもかかわらず、もっとずっと幅の広い頬骨をしていた。
「ありがとうございます、大師匠様。あなたがお食べになっている間、ここに残ってお給仕をするようにいいつかっています。もし、お気に入らなければ、あの人にいっていただかないと、わたしは外に出られません」
「そいつにいってやる」わたしは声を大きくしていった。「扉のそばから離れろ、こちらの話を立ち聞きするな、と。あの人とは、おまえの主人のことだな? この村の首長のことだな?」
「はい、ザンブダス様のことです」
「それで、おまえの名前は?」
「ピアです、大師匠様」
「それで何歳だ、ピア?」
彼女は歳をいった。わたしと同い歳だったので、わたしは笑った。
「さあ、給仕をしてくれ、ピア。わたしはこの炉端に坐るぞ。おまえが入ってくる前に、ここに坐っていたのだ。さあ、食べ物をこちらに持ってこい。前にも食卓で給仕をしたことがあるのか?」
「はい、あります、大師匠様。食事のたびにお給仕をします」
「では、やりかたはわかっているな。まず、何をすすめる――魚か?」
彼女はうなずいた。
「では、それをこちらに持ってこい。それから、ワインと、おまえの揚げた物を。おまえはもう食べたのか?」
彼女は黒い髪が踊るほど首を振った。「いいえ、とんでもない。でも、あなた様といっしょに食べるわけにはいかないと思います」
「それにしても、肋骨が数えられるくらい痩せているじゃないか」
「ここで食べたりすれば、殴られます、大師匠様」
「わたしがここにいるかぎり、そのようなことはない。だが、無理じいはやめよう。それはそうと、たとえあの犬がまだいても、あいつにさえ食わせたくないようなものが、この料理のどれかに入っているかもしれない。それを確かめたいのだ。ワインが最も怪しい。渋いが甘いだろう。田舎のワインはたいていそうだ」わたしは石の杯に半分ほど注いで、彼女に渡した。「さあ飲め。もし、おまえが痙攣を起こして床にぶっ倒れなければ、わたしも飲むことにする」
彼女はそれを飲むのにかなり苦労した。そして、目に涙を浮かべて、やっと飲みほすと、杯をこちらに返した。わたしは自分でそれに少し注ぎ、飲んでみたが、その一口一口が、予想どおりのひどい味だった。
それから彼女を横に坐らせ、彼女が自分で油で揚げた魚を一匹、食べさせてやった。彼女がそれを食べ終えると、わたしも二、三匹食べた。それらは、彼女のデリケートな顔が、あの老首長の顔よりも、はるかに好ましいと同様に、ワインよりもはるかにうまかった――今日つかまえたものだな、とわたしは思った。それも、わたしが〈城塞〉で食べ慣れていた魚が取れる、ギョルの下流の泥水とは比較にならないほど、冷たく、清潔な水の中で。
「ここでは奴隷を必ず鎖で繋ぐのか?」わたしは揚げ物を割りながら、彼女に尋ねた。「それとも、おまえは特に手に負えないからかな、ピア?」
彼女はいった。「わたしは湖の者だからです」この土地の事情に詳しい者なら、この答えで当然わかるはずだという様子だ。
「ここの連中はみんな湖の者だと思うがな」わたしはこの首長の家と、村全体を指すような身振りをした。
「いいえ、ちがいます。これらは岸の者です。わたしたちは湖に住んでいます。島に。でも時々、風が島をここに吹き寄せるんです。それでザンブダスは、わたしが島を見て、泳いで逃げるだろうと心配しているんです。鎖が重いんです――ほら、こんなに長いでしょう――それに、外れないんです。だから、たとえ逃げても、この重みで溺れてしまうんです」
「その重みでも沈まない木切れを見つけて、足で水を掻けばいいんだ」
彼女はこれを聞かなかったふりをした。「鴨をあがりますか、大師匠様?」
「ああ。だが、おまえが先にすこし食べてからだ。しかし、その前に、その島の話をもう少ししてくれ。風が島をここに吹き寄せるといったか? 白状するが、風に吹き寄せられる島というのは、聞いたことがない」
ピアはよだれの垂れそうな顔で鴨を見ていた。どうやら、鴨はこの地方では特別のご馳走にちがいなかった。「動かない島があるということは聞いています。それでは、きっと不便でしょうね。そんなのは、見たことがありません。わたしたちの島はあちこち動き回るんです。もっと早く動かすために、島の木に帆を張ることもあります。でも、そんなにうまく風をはらんで動くわけではありません。島の底は舟の底のようにちゃんとしたものではなく、桶の底のように気がきかないものですから。それに、時々ひっくり返るんですよ」
「そのうちに、おまえの島を見たいものだ、ピア」わたしはいった。「そして、おまえをそこに帰してやりたい。どうやら、帰りたがっているようだから。おまえと似た名前の男にちょっと借りがあるのさ。ここを去る前に努力してみよう。当面は、その鴨で体力をつけておくことだ」
彼女は一切れ取った。そして、いく口か飲み下してから、わたしのために肉をむしりはじめ、指でつまんでわたしに食べさせた。肉はまだ湯気が立つほど熱く、パセリのような香りがそこはかとなく染みこんでいた。その香りはたぶん、餌になっている水草からきたものだろう。しかしまた、肉の味は濃厚でもあり、いくぶん油っぼくもあった。片股の大部分を平らげてから、口直しにサラダを少し食べた。
この後、わたしは鴨をもう少し食べたと思う。やがて、炉の中に何か動くものがあり、わたしの目を捕えた。ほとんど燃えつきて、真っ赤に光る薪の断片が、丸太の一つから離れて、火格子の下の灰に落ちたのだ。ところが、ふつうならそこに横になって、光が薄くなり、結局黒くなるのだが、それが真っすぐに立ち上がって、ロッシュの姿になったように思われたのだ。それも、子供の頃にいっしょに〈鐘楼〉の地下の水槽に泳ぎにいった時によくしていたように、松明を持ったロッシュの姿に。
こんなところで、赤く光る微塵のように小さくなった彼を見るのは、いかにも異常なことに思われたので、わたしはピアに彼を指さして見せた。彼女には何も見えていないようだった。だが、親指くらいの大きさしかないドロッテが、彼女の肩の上に、その流れるような黒髪の陰に半分隠れて、立っていた。彼がそこにいることを彼女に言おうとした。すると自分が、しゅうしゅう、うーうー、ぱくぱくと、おかしな言語を喋っているのが聞こえた。そのことについては少しも恐怖を感じず、ただ他人事のように驚いただけだった。自分が喋っているのが人間の言葉でないことがわかり、ピアの顔に恐怖の表情が浮かぶのを、わたしは眺めていた。ちょうど、〈城塞〉の老ルデジンドの画廊の大昔の絵でも眺めるように。わたしは依然として、自分の発する音声を言葉に変えることができず、止めることもできずにいた。ピアが悲鳴をあげた。
扉がばっと開いた。扉はあまり長いこと閉まっていたので、鍵を掛けずにおくこともできるということをほとんど忘れていたのだった。だが、それが今開いて、そこに二人の人間が立っていた。人間といっても、その顔は二匹の川獺《かわうそ》の背中のように、のっぺりとした毛皮だった。それでもやはり人間だった。一瞬の後、彼らは丈の高い青緑色の植物に変身し、その茎から剃刀のように鋭利なアヴァーンの葉が、奇妙な角度に突き出した。黒くて、柔らかく、脚がたくさんある蜘蛛が、その陰に隠れていた。わたしが椅子から立とうとすると、蜘蛛は炉の光を受けてきらめく繊細な糸を引いて、飛びかかってきた。目を見開き、恐怖のために華奢な口を丸く開けたピアの顔が見えたが、それを記憶にとどめるかとどめないかのうちに、鉄の嘴《くちばし》をもった隼《はやぶさ》が飛びかかってきて、わたしの首から〈鉤爪〉をむしりとった。
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29 首長の舟
それから、わたしは暗い場所に閉じこめられた。後でわかったのだが、閉じこめられていた時間は、その夜と、翌日の午前中の大部分だった。わたしの転がっていた場所は暗かったが、最初のうちは暗いと感じなかった。なぜなら、幻覚を見るのに照明は不要だからである。すべてを思い出すことのできるわたしは、その幻覚を今でも想い起こすことができる。そして、それをここで語ることは、いとも容易なことだ。しかし、自分の妄想の総カタログを開陳して、究極の読者であるあなたを退屈させることはやめておこう。わたしにとって容易でないのは、それらに関する自分の感情を表現する作業なのである。
これらの妄想がすべて、ある意味でわたしの飲んだ麻薬に含まれていたということにすれば、わたしはとても安堵するだろう(その時はただの想像だったが、後になって独裁者の負傷兵を治療する者たちに質問してわかったように、食べたサラダに刻みこんであった茸《きのこ》のせいにほかならなかった)。それはちょうど、時には楽しみ、時には悩んだ、セクラの思想とセクラの人格が、ヴォダルスの宴で食べた彼女の肉片に含まれていたのと同じようなものだ。しかし、違っていることを、わたしは知っている。つまり、わたしの見た、ある時は面白く、ある時は恐ろしく、ある時はただグロテスクであった幻影は、すべてわたし自身の心の産物か、あるいは、今はわたしの心の一部になっているセクラの心の産物なのである。
いやむしろ、この暗闇で、宮廷の女たち――おそろしく背が高く、高価な磁器さながらに堅苦しい優雅さが染みこんでいて、真珠かダイヤの粉を白粉として顔に塗っており、セクラがそうだったのだが、幼年時代にある種の毒薬を少量飲むことによって目を大きくしていた――のパレードを眺めながら、初めてわかりはじめたように、それらの幻影は、かつて彼女のものであった心と、かつてわたしのものであった心の結合体の中に、今存在している心の産物なのであった。
かつての徒弟、〈鐘楼〉の地下で水泳をした若者、ギョルで溺れそうになった若者、夏の日々に共同墓地で遊びほうけていた若者、絶望のどん底で、盗んだナイフを女城主セクラの方に渡した若者、ゼヴェリアンは死んでしまった。
いや、死んだのではない。なぜ、あらゆる生命は必ず死によって終わると、それ以外の終わりかたはないと、彼は思ったのだろう? 死んだのではない、消えたのだ。ちょうど、一つの音が、即興演奏のメロディーの識別不可能な、分離不可能な一部となった時に消え失せて、二度と現われることがないように。あの若いセヴェリアンは死を憎んでいた。そして、自存神《インクリエート》の慈悲によって――その慈悲は、実際は(多くの場所で賢明にもいわれるように)われわれを困惑させ破滅させるものであるが――彼は死にはしなかったのだ。
幻覚の女たちは長い首を回してわたしを見下ろした。彼女らの楕円形の顔は完全無欠で、左右対照で、無表情だったが、いかにも好色そうだった。それから、わたしは突然気づいた。彼女らは〈絶対の家〉の官女ではなく――いや、少なくとも、もはやそうではなくて――〈紺碧の家〉の高級売春婦になっていた。
これらの魅惑的で非人間的な女たちの行進が、しばらく続いたように思われた。そして、わたしの心臓がひとつ鼓動するたびに(これ以前にも以後にもめったになかったが、この時はそれを意識したので、胸の中で太鼓が鳴っているようだった)、彼女たちは姿のどんな細かい部分も少しも変えることなしに、役割を反転するのだった。ちょうど夢の中で、ある人間が、実はそれに少しも似ていない人物であるということを時折り経験するように、これらの女たちは、ある瞬間には、独裁者の御前の飾り物であるかと思えば、次の瞬間には、一握りの真鍮貨幣《オリカルク》で一夜の春をひさぐ女たちになるのであった。
この間ずっと、そして、その前後のもっとずっと長い間、わたしはひどく不快だった。蜘蛛の巣は、次第にただの漁師の網だとわかってきたが、それでも取り除かれてはいなかった。しかも、わたしは綱で縛られてもいて、片手は横腹に、もう片方の手は指が顔に届くほど曲げられて(まもなく痺れてしまった)、固く縛りつけられていた。麻薬の効き目が最高潮に達したときに失禁したので、今ではズボンは尿でぐっしょりと濡れ、冷たくて、悪臭を放っていた。幻覚が激しさを失ってきて、間隔も間遠になると、わが身の置かれた状況の惨めさが心に次第に強く染みこんできた。そして、今放りこまれている窓のない物置から引き出されたら、どんなことが起こるか、次第に不安になってきた。首長は早飛脚か何かで、わたしが申し立てどおりの人間ではなく、また執政官の司直の手から逃れていることを知ったのだろうと、わたしは思った。さもなければ、こんな取り扱いをするはずがない。このような状況のもとでは、わたしはさまざまな想像をするしかなかった。彼みずからわたしを始末するのではないか(このような場所では疑いなく、溺死刑だろう)、木端役人に引き渡すのではないか、いや、スラックスに返送するのではないか、などと。そして、万一機会があったら自決する覚悟を固めた。もっとも、絶望のあまり覚悟の自殺をするようなチャンスが与えられるとは、ちょっと考えられなかったけれども。
ついに扉が開いた。光で目が眩みそうになった――といっても、この壁の厚い家の暗い部屋の明かりにすぎなかったが。二人の男がわたしを、まるで食べ物の袋を引き出すようにして、引っぱり出した。彼らは濃い髭を生やしていた。だから、前にピアとわたしのいる部屋に闖入してきた時には、顔ではなく動物の毛皮がついているように見えたのだろう。彼らはわたしを立たせようとしたが、足がいうことをきかなかった。それで、やむなく彼らはわたしの綱を解き、テュポーンの網が破れた後に新たに被せられた網を取り除かなければならなかった。わたしがまた立つことができるようになると、彼らは一杯の水と一枚の塩魚をくれた。
しばらくして首長が入ってきた。彼は村の諸事を指図する時は立ってやる習慣らしく、偉そうな態度で立っていたが、声が震えるのをどうすることもできなかった。なぜまだわたしを恐れるのか合点がいかなかったけれども、とにかく恐れているのは明らかだった。わたしは失うものは何もなく、あっても得るものだけだと心を定めて、釈放しろと高飛車に命じた。
「それはできません。大師匠様」彼はいった。「指示を受けてやっておりますので」
「では聞くが、畏れ多くもおまえたちの独裁者の代理人に対して、このような振舞いをしろと、いったいだれが命じたのか?」
彼は咳払いをした。「城からの指示です。昨夜、家の伝書鳥があなたのサファイアをあちらに届けました。すると今朝、別の鳥が、あなたをお連れしろとの手紙を持ってきたのです」
最初は、彼がアシーズ城のことをいっているのかと思った。あそこには龍騎兵部隊の一つの指令部がある。しかし、すぐに、ここは少なくともスラックスの砦から二十リーグは離れているから、彼がそれほど詳しいことを知っているはずはないと思った。わたしはいった。「それはどの城だ? そしてその指示は、わたしがそこに出頭する前に体を洗うことを禁じているのか? そして、衣服を洗うことも?」
「それはかまわないと思います」彼は不安そうにいった。そして、部下の一人に、「風の具合はどうだ?」といった。
いわれた男は肩を軽くすくめた。わたしにはなんの意味もなかったが、首長には情報を伝えたらしい。
「よろしい」彼はわたしにいった。「あなたを釈放することはできませんが、お望みでしたら、衣服を洗い、食べ物をさしあげます」彼は立ち去る時に、まるで謝るような表情を浮かべて振り返った。「大師匠様、城は近く、独裁者は遠いのです。わかってください。過去にはいろいろと深刻な問題がありましたが、今は平和なのです」
議論をしてやろうと思ったが、彼はそのチャンスを与えず、部屋を出て扉を閉めた。
まもなく、今度は粗末な仕事着を着たピアが入ってきた。わたしは彼女に服を脱がされ、体を洗われるという屈辱を、甘んじて受けなければならなかった。しかし、その過程を利用して彼女に小声で話しかけ、わたしの行く場所に剣を送るように手配を頼むことができた――その謎の城の主人に一部始終を話して、協力を申し出れば、逃げることができるのではないかと思っているのだと。前にわたしが、木片につかまれば鎖の重さを浮かすことができるではないかといった時も、彼女は無視したが、この話にも反応を示さなかった。だが、一刻かそこら後に、服を着なおしたわたしが、村の大建築物に行く舟に乗るために、連行されていくと、彼女はテルミヌス・エストを胸に抱いて、われわれの小さな行列を追って走ってきた。明らかに首長はこのような立派な武器を手もとに置きたかったので、彼女に文句をいった。しかし、わたしが舟に引きこまれながら、城に着いたら、向こうでだれがわたしを受け取るか知らないが、そいつにこの剣の存在を知らせるぞと警告すると、ようやく折れた。
舟は今までに見たこともない種類のものだった。形は、ジーべック([#ここから割り注]地中海の三本マストの帆船[#ここで割り注終わり])に似ていて、前後が尖り、胴体の幅が広く、船尾は水面上にずっと長く張り出していて、船首はそれよりももっと張り出していた。だが浅い船体は、浮力のある葦を柳細工のように束ねたものでできていた。このような脆弱な船体に、普通のマストを立てる手段はないから、その代わりに竿を縛りあわせて作った三角形の枠が立ててあった。この三角形の狭い底辺は、舷縁から舷縁に渡されてあり、縦の長い二辺の先に一個の滑車がついていた。そして、首長とわたしが這って舟に乗りこむと同時に、それに、幅の広い、縞模様の、亜麻布の帆のついた斜めの帆桁が、引き上げられた。首長は今はわたしの剣を持っていた。だが、もやい綱が解かれたとたんに、ピアが鎖をじゃらじゃら鳴らしながら、舟に飛びこんできた。
首長は激怒して、彼女に殴りかかった。しかし、このような舟の帆を手繰り、すいすいとターンさせるのは容易な作業ではなかった。そして結局、彼女を泣かせて船首に追いやっただけで、留まることを許した。なぜ彼女がついてきたがるか理由はわかっているつもりだったが、わたしはあえて彼に尋ねた。
「わたしが留守の間、こいつに家内がつらく当たるのです」彼はいった。「殴ったり、一日中、拭き掃除をさせたり。もちろん、子供のためにはなりますが、わたしが帰ってくると、こいつはほっとするのです。でも、むしろわたしと一緒に出かけたいのです。あまりひどく叱ることもできません」
「同感だ」口臭のひどい息を避けるため顔をそむけながら、わたしはいった。「それに、彼女は城を見たいんだろう。これまでに見たことがないんだな」
「あの城壁なら、何度も見ていますよ。こいつは湖の者なんです。彼らは風に吹かれてあちこち動きまわるから、何もかも見ていますよ」
彼らが風に吹かれて動いているとすれば、われわれもそうだった。縞模様の帆が、精霊のように澄んだ空気をいっぱいにはらむと、これほど幅の広い船体も傾いて、かなりのスピードで湖面を滑っていった。やがて、村は水平線の下に消えた――もっとも、高山の白い峰は、まだ、湖から直接そびえているように見えていたけれども。
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30 ナトリウム
これらの湖岸の漁民の武器はあまりにも原始的だった――事実、スラックスの周辺で見た真に原始的な土民のものよりも、はるかに原始的だった――そのために、彼らがまがりなりにも武装していることを理解するのに、しばらく時間がかかった。船には、舵や帆の操作をするのに必要な人数以上の人間が乗っていた。だが、それらは漕ぎ手か、または、首長がわたしを城主のところに連れていった時にその威信を高めるための随員にすぎないと思った。彼らはベルトに、どこの漁民も使っているような、まっすぐで細身のナイフをつけており、舟のへさきには、魚を突くための逆刺のついた鈷《もり》が積んであったが、わたしは気にもとめていなかった。それが防備のために持ってこられたもので、また、実際に防がなければならない相手がいると知ったのは、見たいと熱望していた島々の一つが見えてきて男たちの一人が動物の歯を植えた棍棒をいじっているのに気づいた時だった。
小島そのものは、実際に動いているのがわかる以外、取り立てて変わったところはなかった。島は低くて、非常に緑の色が濃く、その最上部に小さな一軒の小屋が立っていた(われわれの舟と同じく葦でできており、屋根もまた同様の材料で葺いてあった)。数本の柳が生えており、やはり葦で作った一艘の細長い舟が、水際に繋がれていた。さらに近づくと、島そのものも葦、しかも生きた葦でできていることがわかった。それらの茎のせいで、独特の緑の色になっているのだ。絡みあった根が、筏のような底を形成しているにちがいない。密集して絡みあった生きた根の上に、土が自然にたまったか、あるいは住民によって積み上げられたものだろう。そこから、木が生えて根を水中に垂らしているのである。また、野菜が植わっている小さな畑もあった。
首長も、船上にいるすべての者も、ピアを除いてだれもが不機嫌に島を睨みつけているので、わたしはこの小さい陸地を、好ましい気分で眺めた。ディウトルナの湖の冷たく、一見果てしない青い水面と、太陽が君臨し星々のきらめいている、より深く暖かいが、真に果てしない青い空を背景にして、島は一つの緑の点に見え、それを鑑賞することは容易だった。もしこの景色を、絵画として見れば――画布を二等分する水平な線、緑の木々と茶色の小屋のある緑の点――批評家たちに象徴主義だといってけなされているある種の絵画よりも、もっと重々しく象徴性を帯びたものに見えただろう。しかし、それが何を意味しているか、だれがいえるだろうか? われわれが自然の風景に見る象徴は、すべて、われわれが見るからこそ、そこに存在する、などとはいえないと思う。自分が見るからこそ世界は存在するのであり、建物も山も(彼らがたった今話しかけたばかりの)われわれ自身さえも、彼らが顔を背ければすべて消滅すると、本気で信じている唯我論者がいたら、だれでもためらわずに気ちがいの烙印を押すだろう。同じ対象物の意味が同様にして消え失せると信じるのも、同様に正気の沙汰ではないことになりはしないだろうか? もしセクラが、今にしてわかったように、わたし自身がふさわしくないと感じていた愛の象徴だったとしたら、彼女の象徴力は、わたしが彼女の独房から出て扉を閉めた時に消滅したのだろうか? それでは、こんなに長い時間をかけてせっせと書き綴ってきたこの本を、これを最後に頁を閉じて、老ウルタンの管理する書庫に発送したら、そのとたんにこの本が消滅して、ただの朱色の染みになってしまうというのと同じことである。
というようなわけで、憧れの目でその浮き島を眺め、体を縛っている縄に苛立ち、心の中で首長を呪いながら、わたしが熟考していた大きな間題とは、これらの象徴が、それ自体で、自発的に何を意味しているか判断することであった。われわれは印刷物を見て、最後から二番目の文字に海蛇を見、最後の文字に剣を見る子供のようなものである。
二つの無限の間に浮かんだ、その小さい住み心地のよさそうな小屋と緑の畑が、わたしにどんなメッセージを伝えようとしていたか、わたしにはわからない。しかし、わたしがそれに読みこんだ意味は、自由と家庭だった。そして、より大きな自由への欲望を――自分で満足できるだけの慰めを伴って、上の世界も下の世界も意のままに放浪して歩く自由への欲望を――感じたのだった。考えてみれば、それはずっと以前から――〈絶対の家〉の控の間に抑留されていた時にも、また、〈古い城塞〉で拷問者の客人になっていた時にも、感じていたものであった。
やがて、わたしの自由への欲望が最も高潮し、また、針路上で舟が最も島に接近した時に、その小屋から二人の男と、一人の十五歳くらいの少年が出てきた。しばらくの間、彼らは扉の前に立って、舟と乗組員を品定めするようにわれわれを見つめていた。こちらの舟には首長のほか五人の村人が乗っていた。だから、島の人がわれわれに何もできないことは明らかだと思われた。ところが、彼らは細身の舟を出して、男たちはそれを漕ぎ、少年は粗末な筵の帆を張って、われわれを追ってきた。
首長はわたしの隣に坐って、時々彼らの方を振り返って見ていた。その膝には、テルミヌス・エストが横たわっていた。彼は今にも剣を脇に置いて、船尾の舵手のところに話しにいくとか、または、へさきにたむろしているほかの者のところに話しにいきそうに思われた。両手は前で縛られていたので、ほんの一瞬の隙さえあれば、剣の刃を親指の幅ほど鞘から抜き出して縄を切ることができそうだった。だが、その機会はやってこなかった。
また別の島が見えてきた。われわれを追跡する舟は二艘になった。今度の舟には二人乗っていた。今や形勢はわずかに悪くなった。首長は村人の一人を呼び寄せると、自分も剣を持って、一、二歩、船尾の方に寄った。彼らはそこの舵手席の下に隠してあった金属の缶を開けて、今まで見たこともない武器を取り出した。二本の細身の弓を結合して一つの弓にしたもので、それぞれに弦を張り、間に半スパンほどの隙間があくように詰物をして縛りあわせてある。弦は中央で縛ってあり、そこになんらかのミサイルを載せて射ち出す、一種の投石器になっていた。
この奇妙な仕掛けを眺めていると、ピアがいざり寄ってきた。「わたしは監視されているから」彼女はささやいた。「あなたの縄を解くことができません。でも、きっと……」彼女は後を追ってくる舟のほうを、意味ありげに見やった。
「彼らは攻撃してくるだろうか?」
「もっと仲間が増えなければだめです。あの人たちには魚を突く鈷と、パチョスしかないから」
わたしが不審な顔をすると、彼女はつけ加えた。「歯を植えた棒のことです――こちらの一人が持っているような」
首長が呼び寄せた村人は、缶からぼろ[#「ぼろ」に傍点]の塊りのようなものを取り出していた。そしてそれを、開けた缶の蓋の上でほどき、油で光っているようにみえる数個の銀灰色の金属塊を取り出した。
「爆弾≠ナす」ピアは怯えた声でいった。
「おまえの故郷の人はもっと大勢やってくるだろうか?」
「もっと多くの島のそばを通れば、やってきます。一、二艘が岸の者の舟を追っているのを見れば、みんなが後を追いはじめます。分捕り品の分け前にあずかるつもりでね。でも、すぐにまた岸が見えてくるでしょう――」その村人が自分の上着で手を拭いて、銀色の金属塊の一つを持ち上げ、二重弓の投石器につがえるのを見ると、彼女ははっと息をのみ、粗末な作業衣の下の胸をふくらませた。
「あれはただの重い石みたいだが――」わたしはいいかけた。射手は弦を耳のところまで引き絞って、放した。金属塊は二本の細い弓の間から、ひゅっと空中に飛び出した。ピアがあまり怯えた顔をしたので、わたしはその塊りが空中で何かに変化するのではないかと、期待したほどだった。ことによったら、麻薬に酔ってこの漁民たちに捕まった時に、今も本当に見たような気がしないでもない蜘蛛に、化けるのではないかと。
そんなことは起こらなかった。金属塊は――きらめく筋になって――湖上を飛んでいき、近いほうの舟のへさきから十ペースほどの水中に落下した。
一呼吸ほどの間は、それ以上何も起こらなかった。それから、激しい爆発が起こり、火の球と、そして水蒸気の塊りが立ち昇った。何か黒いものが――明らかにミサイルそのもので、まだ無傷のまま――みずから起こした爆発の勢いで空中に跳ね上がり、今度は追跡しでくる二艘の舟の中間に落下した。続いて新たな爆発が起こった。最初の爆発と較べても、ほんのわずかに小さいだけだった。片方の舟はほとんど水浸しになり、もう片方は針路を変えて遠ざかった。三度、四度と爆発が起こった。だが、その金属塊は、ほかにどんな力を秘めているにしても、ヘトールのノトゥールがジョナスとわたしを追ってきたように、舟を追う能力はないように見えた。爆発のたびにそれは遠くに飛んだが、四回目の爆発の後は、力が尽きてしまったようであった。二艘の追跡船は弾着距離の外に後退したが、それでもなお追跡をあきらめないのを見て、わたしは彼らの勇気に敬服した。
「爆弾≠ヘ水から火を起こすんです」ピアがいった。
わたしはうなずいた。「そうらしいな」わたしは葦の束の間にしっかりした足場を見つけて、足を尻の下に入れはじめていた。
後ろ手に縛られていても、泳ぐのはさほど困難ではない――ドロッテやロッシュやイータやわたしは、よく、腰の後ろで親指を絡みあわせて泳ぐ練習をやったものである。だから前で手を縛られていても、必要なら長い間、水に浮いていられるのがわかっていた。しかし、ピアのことが気がかりだった。それで彼女に、できるだけ舟の前の方にいくようにいった。
「でも、そうすると、あなたの縄を解くことができなくなります」
「やつらが見張っている間は、どうせだめだ」わたしはささやいた。「前に行け。もしこの舟が壊れたら、葦の束につかまれ、浮いているから大丈夫だ。文句をいうな」
へさきの男たちは彼女を止めなかった。そして、彼女は船首材をまとめている葦を編んだ紐のところまでいって、やっと腰を下ろした。わたしは深く息を吸い込んで、船端から身を躍らせた。
その気なら、ほとんど漣《さぎなみ》も立てずに飛びこむこともできただろう。だが、わたしはできるだけ大きい飛沫を上げるために、足を胸元に引きつけて飛びこんだ。重いブーツのおかげで、はるかに深く沈んだ。もし泳ぐつもりで衣服を脱いでいたら、こう深くは沈まなかったろう。心配していたのはこの点だった。首長の射手がミサイルを発射した時に、爆発までにかなりの間があったことを見届けていた。二人の男がずぶ濡れになっただけでなく、油布の上にあった金属塊も全部水をかぶったはずであった――しかし、それらが、わたしが水面に顔を出す前に爆発するかどうか不安があったのである。
水は冷たく、沈んでいくにつれて、さらに冷たくなった。目を開けると、すばらしいコバルト色が見え、それが体の周囲で渦を巻きながら濃くなっていった。わたしはブーツを脱ぎたいという激しい衝動を感じた。しかし、そうすれば、急速に浮かび上がってしまうだろう。わたしはその代わりに、すばらしい色の驚異で心を満たし、また、サルトゥスの鉱山の周辺の廃棄物の山に散乱していた防腐処理を施した死骸のことを――時間の青い深淵に永遠に沈んでいく死骸のことを――考えて、気をまぎらせた。
特に力を使わずに、ゆっくりと体を回転させていくと、首長の舟の茶色の船体が頭上に浮いているのが見えた。その茶色の斑点とわたしは、しばらくそれぞれの位置に凍りついているように思われた。わたしはまるで、翼に風をいっぱいはらんで天の星のすぐ下を舞う禿鷹の下に横たわっている死者さながらに横たわっていた。
やがて、肺が張り裂けそうになって、わたしは浮き上がりはじめた。
それが合図だったように、最初の爆発が――鈍い遠いドーンという音が、聞こえた。わたしは上に向かって蛙のように泳いだ。それから、次々に爆発が聞こえた。それらは一つごとに強さを増していった。
水面に頭が出ると、首長の舟の船尾が破れて、葦の束が箒の藁のように開いているのが見えた。左の方で二次爆発が起こり、一瞬耳がガーンと鳴り、顔に大粒の雨のように飛沫がかかった。遠くないところで、首長の射手がもがいていた。だが首長(嬉しいことに、まだアルミヌス・エストを握っていた)と、ピアと、そのほかの男たちはへさきの残骸にしがみついていた。それは葦の浮力のおかげでまだ浮いていたが、下端は水に浸っていた。わたしが手首の縄を噛み切ろうとしていると、ついに島の住民の二人が手を伸ばして、彼らの舟に引き上げてくれ、その一人が縄を切って自由の身にしてくれた。
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31 湖の住民
ピアとわたしは、浮島の一つでその夜を過ごした。わたしは、セクラが鎖に繋がれていなくとも囚人だった時、彼女の中に入ったように、まだ鎖に繋がれてはいるが自由の身のピアの中に入った。その後で、ピアはわたしの胸の上に横たわって、嬉し涙にくれた――といっても、わたしを得た喜びというよりは、自由の身になった喜びの涙だったと思う。もっとも、彼女の同胞の島の住民は、貿易かまたは略奪によって岸の住民から得たもの以外には金属を持っておらず、彼女の手錠を断ち切る鍛冶屋もいなかったのだが。
多くの女を知った男は、ある種の女たちの間には、愛の相似性があることに気つぎはじめるというが、わたしは今初めて、自分の経験においても、それが正しいことを知った。なぜなら、飢えた口としなやかな体のピアは、ドルカスを思い出させたからである。しかし、これはまた、ある程度は間違ってもいた。ドルカスとピアは、姉妹の顔がどことなく似ているように、愛の類似性があったけれども、わたしが彼女らを混同するようなことは決してないだろうから。
島に着いた時には、島の生活の珍しさを充分に鑑賞するには疲れすぎていたし、ほとんど夜になってもいた。今でさえも、わたしが覚えているのは、小舟を岸に引きあげたこと、そして、われわれを救ってくれた人の一人が流木で小さな焚き火をしている一軒の小屋に入っていったこと、そして島民が、捕えた首長から取り上げて、返してくれたテルミヌス・エストに油を塗ったことだけである。しかし、ウールスがふたたび太陽に顔を向けた時に、片手を優雅な柳の木にかけて立ち、島全体が足の下で揺れるのを感じるのは、すばらしい気分だった!
われわれの家主は、朝食に魚を料理してくれた。それを食べおわらないうちに、さらに二人の島民が魚の追加と、今までに味わったことのない根菜をもってきてくれた。われわれはそれらを灰で蒸し焼にして、熱いまま食べた。その味は、思いつくいかなるものより、栗とよく似ていた。さらに三艘の舟がやってきて、それから、四本の立木のそれぞれの枝に、風をいっぱいにはらんだ四角い帆を張った島がやってきた。最初遠くから見た時は、小型船隊でもやってきたかと思ったものだ。船長[#「船長」に傍点]は年配の男で、陸の住民でいえば酋長といったところだった。名前はリビオといった。ピアがわたしを紹介すると、彼は父親が息子を抱擁するようにわたしを抱いた。これは、これまでわたしに対して、だれもしてくれなかったことであった。
われわれ二人だけになると、ほかの人たちは、ピアも含めて全員が、声をひそめれば内緒話ができるくらいの距離に遠ざかった――ある者は小屋に入り、ほかの者(今では全部で十人ほどになっていた)は島の端の方に行った。
「あなたは偉大な闘士だと聞いています。そして、人間の殺戮者だと」リビオは話しはじめた。
たしかに人間の殺戮者ではあるが、偉大ではないと答えた。
「そうなのです。人間はすべて後ろ向きに闘います――つまり、他人を殺すために。しかし、勝利というものは、他人を殺すから得られるのではなくて、自己のある部分を殺すことによって得られるのです」
わたしは彼の話が理解できるということを示そうとして、いった。「部下の人々があなたをこのように愛しているところをみると、あなたは自分自身の最も悪い部分を全部殺してしまったにちがいない」
「それも、当てにはなりません」彼は言葉を切って、湖を見渡した。「わたしたちは貧しく、少人数です。そして、最近はほかの連中に牛耳られています……」彼はかぶりを振った。
「広く旅をして気づいたのだが、貧しい人々のほうが機知も勇気も、金持ちより優っているのがふつうのようだ」
これを聞いて彼は微笑した。「あなたは優しいお方です。でも、わたしたちは機知と勇気がありすぎるために、もう滅びるかもしれません。わたしたちは大人数になったことはありません。この前の冬には大勢死にました。多くの水が凍ったのです」
「羊毛も毛皮もないきみたちにとって冬がどんなにつらいものか、考えてもみなかった。だが、そういわれてみると、なるほどと思う。実際、厳しいものにちがいない」
老人は首を振った。「体に油を塗るのです。これは大変に効き目があります。それに、あざらしが、岸の連中が持っているものよりも良いマントになります。でも、氷が張ると、これらの島は移動できなくなります。すると、岸の連中は船を使わなくても来られるようになり、全勢力をあげて攻めてきます。毎年夏は、やつらが魚を取りにくると、われわれは戦います。しかし、毎年冬になると、やつらは氷を渡って奴隷狩りにやってきて、われわれを殺すのです」
この時わたしは、首長が取り上げて城に送ってしまった〈鉤爪〉を思い出した。「陸の住民は城主に従わなければならない。だから、もし城主と和睦すれば、城主があいつらの攻撃をやめさせてくれるかもしれないぞ」
「昔、わたしが若い頃には、こういった喧嘩で命を落とすのは、年に二人か三人でした。ところが、やがて城の建設者がやってきたのです。その話はご存知ですか?」
わたしは首を振った。
「そいつは南からやってきました。聞くところによると、あなたもそちらからこられたそうですね。彼は、布とか銀とかよく鍛造したいろいろの道具とか、岸の連中が欲しがるようなものをたくさん持っていました。彼の指図に従って、彼らは城を築きました。今の岸の連中の祖父にあたる人々です。彼らはその道具を彼のために使いました。作業が終わると、彼は約束どおり、道具を返還しなくてよいといい、そのほかたくさんのものを与えました。わたしの母の父は彼らが働いているところにいって、おまえたちは自分の上に支配者を置こうとしているのだぞ、それがわからないのか、と聞きました。なぜなら、城の建設者はおまえらを思いのままに使って丈夫な城壁を建設させた。そこに立てこもってしまえば、だれも彼に指一本触れることができなくなるのだからと。わたしの母の父のこの言葉を聞くと、彼らは笑って、おれたちは大勢だ――これは事実です――そして城の建設者は一人だ――これも事実でした――といったのです」
わたしは彼に、その建設者を見たか、見たなら、どんな人物だったか、と尋ねた。
「一度だけ見かけました。船で通りかかった時に、彼は岩の上に立って、岸の連中に話しかけていました。小柄な男で、もしあなたがあそこにいて、彼と並んだら、彼の頭はあなたの肩より上には出なかったでしょう。恐怖を感じさせるような男ではありませんでしたよ」リビオはまた言葉を切って、暗い目で、自分の支配する湖面ではなくて、ずっと昔に過ぎ去った時を眺めやる表情になった。「それでも、恐怖が襲ってきました。外の城壁が完成すると、岸の連中が、狩りに戻ってきました、やな[#「やな」に傍点]や、家畜のところに。それから、そのいちばん偉いやつがわれわれのところにやってきて、いいました。おまえたちは獣や子供を盗んだ。返さなければ、おまえたちを亡ぼすぞ、と」
リビオはわたしの顔を覗きこんで、手を握った。その手は木のように固かった。わたしはその時に彼を見て、失われた年月をも見た。当時はつらい日々を過ごしていたにちがいなかった。もっとも、彼らが生み出した未来――わたしが膝に剣を横たえて彼と会い、彼の話を聞いているこの未来――は、当時の彼には想像もつかなかったほど、もっとずっと苛酷なものだった。しかし、当時の彼には喜びもあった。彼は強い若者だったのだ。そして今――たぶんそのことを考えているのではないだろうが――彼の目は、それを思い出していた。
「わたしたちはこういってやりました。おれたちは子供を食いはしない。そして、魚を取らせる奴隷もいらなければ、獣を放牧する必要もないと。その時でも、彼らはわたしたちが犯人でないことを知っていたにちがいありません。なぜなら、戦さを仕掛けてこなかったのですから。しかし、われわれ島の者が近づくと、向こうの女たちが夜っぴて嘆き悲しんでいるのが聞こえたものです。
当時は、満月の翌日が交易の日になっていました。その日になると、われわれの仲間で塩やナイフがほしい者は、岸にいったものです。次の交易の日になった時、岸の連中は子供や獣がどこにいったか知っていて、ひそひそとささやきあっているのを、われわれは見ました。それで、おまえたちは大勢なんだから、なぜ城を強襲して乗っ取らないのかと尋ねました。ところが、彼らはそうする代わりに、われわれの子供たちや、あらゆる年齢の男女をさらっていって、扉の外に繋いだり、門のところに引っばっていって、そこに縛りつけたりしたのです」
わたしは、それがどのくらい長く続いたかを尋ねてみた。
「何年もの間です――今いったように、わたしが若者だった頃からです。時々、岸の連中は戦いました。もっとも、戦わないほうが多かったのですが。二回ほど、南から戦士たちがやってきました。南の岸の高い家の、誇り高い人々から派遣されてきたのです。彼らがここにいる間は戦争はやみました。城でどんな話があったか、わたしは知りませんが。今お話しした城の建設者は、いったん城が完成してしまうと、だれの目にも姿をさらさなくなりました」
彼はわたしが話すのを待っていた。老人たちと話している時によく感じるのだが、彼が喋っている言葉と、わたしが聞いている言葉とが、まったく別物であるかのように感じられた。つまり彼の話には、彼の息が見えないと同じで、目には見えないヒントや手がかりや隠された意味がいっぱい含まれているかのように。時間というものは白い精霊のようなもので、そいつがわれわれの間に立って、わたしが聞く前に、いわれたことの大部分を、引きずった袖で拭き消してしまうかのように。やがてわたしは、思いきっていった。「おそらく、彼は死んだのだろう」
「今はあそこに一人の悪い巨人がいます。しかし、だれも見た者はありません」
わたしは笑いを禁じえなかった。「それでも、彼が存在しているという感じが、岸の人々の攻撃心を大幅にそいでいるのだろうな」
「五年前に、彼らは、死人に群がる小魚のように、夜陰に乗じて大軍で城を攻め、火を放ち、城内で見つけた者を殺しました」
「それで、彼らは今でも習慣できみたちと戦争を続けているのか?」
リビオは首を振った。「今年、雪がとけると、城の人々が帰ってきました。彼らの手は贈り物であふれていました――いろいろな財宝や、あなたが岸の連中に向けたあの奇妙な武器などでね。また、ほかにあそこにやってきた者もいますが、そいつらが奴隷なのか、主人なのか、われわれ湖の者にはわかりません」
「北からか、南からか?」
「空からです」彼はそういって、太陽の威光によって光が薄れた星々のかかっている、上の方を指さした。しかしわたしは、訪問者が飛翔機でやってきたというだけのことだろうと思って、それ以上詮索しなかった。
終日、湖の住民がやってきた。そのほとんどは首長の船を追ってきたのと同様の船でやってきたが、中には、自分の島に帆を上げてやってきて、リビオの島に接続する者もあった。こうして、ついに、われわれは浮かぶ大陸にいるような気分になった。彼らを率いて城を攻めてくれと、直接頼まれることはなかった。しかし、その日の時間がたっていくうちに、彼らがそれを願っていることが、だんだんとわかってきた。そして彼らは、わたしが先頭に立つだろうと理解しはじめた。書物では、この種のことは、普通は激しい演説によってなしとげられるように思う。しかし、現実は少し違った。彼らはわたしの身長と剣に感嘆し、ピアはみんなに、わたしが独裁者の代理人であって、彼らを解放するために派遣されてきたと告げた。リビオはいった。「いちばん被害を受けているのはわれわれです。しかし、岸の連中は城を落とすことができました。彼らはわれわれよりも戦争が強いです。しかし、彼らが焼き討ちした部分は完全に再建されていないし、南からの指導者がいるわけでもありません」わたしは城の付近の土地の状況を、彼やそのほかの者に尋ね、それから、われわれの近づくのが城壁の上の歩哨に見えにくくなる夜までは、攻撃をしてはいけないといいわたした。また、口に出してはいわなかったけれども、正確な射撃が不可能になる夜の闇を待ちたいとも思った。もし城主があの首長に爆弾≠与えたとすると、彼自身はもっと威力のある武器を蓄えていると考えるのが妥当であるから。
帆走していく時、わたしは約百人ほどの戦士の先頭にいた。もっとも、そのほとんどは穂先にあざらしの肩の骨をつけた槍か、パチョスか、ナイフしか持っていなかった。ここで、わたしは責任感と彼らの苦境への同情心から、この小軍隊の指揮を引き受けたと書けば、わたしの自尊心はくすぐられることだろう。しかし、それは事実ではない。断わったら何をされるかわからないので、それが怖くて決心したわけでもない。もっとも断わるなら、遅延の口実を作るとか、戦わないほうが島の住民にとって利益になる理由を見つけるとか、外交的な手管を弄さなければ、状況はわたしにとって難しいものになるだろう、という感じはあったけれども。
実は、わたしは彼ら以上に強い強迫観念を覚えたのである。リビオは首に、骨を彫って作った魚をぶら下げていた。そして、わたしが尋ねると、これはオアンネスだと言い、わたしの目がその神聖なものを汚さないようにと、手で覆ってしまった。なぜなら彼は、わたしがオアンネスを信じないことを知っていたからである。オアンネスとは、この人々の〈魚の神〉であるにちがいなかった。
信じないのは事実だったが、オアンネスについて重要なことはすべて知っているという感じがした。彼は湖の最も暗い深みに住んでいるにちがいない。嵐になると、波間に跳ね上がるのが見えるのだと。彼は湖底の魚の飼育者であり、島の住民の漁網を満たしてくれる者であり、また、殺人者が水上に出ると、オアンネスが満月のような目をして、そばに現われて、船を転覆させるのではないかという恐怖を必ず感じるのだと。
わたしはオアンネスの存在を信じもしなければ、恐れもしなかった。しかし、彼がどこからきたかは知っていると思った――ほかの宇宙がすべてその影だという真の宇宙があって、そこに遍在している一つの力があると、わたしは知っていた。この力についてのわたしの概念は、つきつめて分析すれば、オアンネスと同様に笑うべきもの(であり、真剣なもの)であるとわかっていた。わたしは〈鉤爪〉がその力のものだと、つまり自存神のものだと、知っていた。そして、自存神のものだと自分が知っているのは〈鉤爪〉だけだと、世界のあらゆる祭壇や祭服の中で、自存神のものだと自分が知っているのは〈鉤爪〉だけだと、感じていた。わたしはそれを何度も手に持った。〈獄舎〉では頭上にかかげた。それで独裁者の槍騎兵に触れた。そして、その力を行使した。たとえペルリーヌ尼僧団の所在を知っても、もはや、それを素直に返還できるかどうか、自信が持てない。しかし、それをだれかほかの者におとなしく奪われるつもりがないことは、はっきりといえる。
それだけではない。どうやらわたしは――ほんの短い期間だとしても――その力を保持すべく選ばれたように思われるのだ。わたしが、御者を煽動して競走をさせるのをアギアに無責任に許したために、それはもはやペルリーヌ尼僧団の手もとにはない。だから、その面倒を見、それを使い、おそらくは返還することが、わたしの義務になってしまったのだ。そして、わたしの不注意のために、それが今落ちこんでいる手から――だれに聞いても怪物のように思われる奴の手から――取り戻すことが、間違いなくわたしの義務だと思ったのである。
聖キャサリンの日に|職 人《ジャーニーマン》に昇格する前、わたしはパリーモン師とグルロウズ師から組合のいろいろな秘密を明かされたものだが、この自叙伝を書きはじめた時には、それらの秘密をたとえ少しでも洩らすつもりはなかった。しかし、今その一つをお話ししようと思う。なぜなら、それを理解しなければ、わたしがこの夜にディウトルナの湖上でしたことが、理解できないからである。その秘密とは、われわれ拷問者は服従する、というだけのことである。高く積み重なったすべての統治体の中で――どんな物質的な塔よりもはるかに高い、〈鐘楼〉よりも、ネッソスの〈壁〉よりも、テュポーン山よりも高い生業《なりわい》のピラミッドの中で――独裁者の〈不死鳥の玉座〉から、最も不名誉な職業の者、またその下働きをしている最も卑しい使用人にまで及んでいるピラミッドの中で――われわれは唯一の無傷の石なのである。想像もできないようなことを従順に実行する意志がなければ、だれも真に服従しているとはいえない。そして、われわれ以外に、想像もできないようなことをする者はいないのである。
キャサリンの首をはねた時に、みずからすすんで独裁者に与えたものを、どうして自存神に断わることができようか?
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32 城 へ
今は残りの島は分離していた。その島の間を小舟が動いており、あらゆる枝に帆が張られていたが、われわれの動きは、溺れかけている陸地の最期の妄想としか思えず、流れる雲の下に静止しているという感じを抑えることができなかった。
その日見た浮き島の多くが、女子供の避難所として後に残され、出陣してきたのは数島だけだった。わたしはその六つの島のなかで最も大きいリビオの島の、いちばん高い場所に立っていた。その老人とわたしのほかに、七人の戦士が乗っていた。ほかの島には四、五人ずつ乗っていた。これらの島のほかに、約三十艘ほどの小舟がいて、それぞれ、二、三人が乗りこんでいた。
ナイフと槍を持ったこの百人の戦士が侮りがたい軍勢だ、などという幻想は抱いていなかった。一握りのアブディーススの槍騎兵がいれば、彼らなど籾殻《もみがら》のように蹴散らされてしまうだろう。しかし、彼らはわたしの追従者であり、部下を率いて出陣する気分は何物にも代えがたかった。
五万リーグ彼方の〈月の森〉の、無数の木の葉から降り注ぐ反射光を別にすれば、湖面には一点の光も見えなかった。湖の表面は、磨かれて油を引かれた鋼鉄を思わせた。風は穏やかで白波は立っておらず、水面は金属の丘のように緩やかな起伏を見せて、ゆったりと動いていた。
しばらくすると、一片の雲が月を隠し、あたりが暗くなったので、湖の住民が方向を誤りはしないかと心配になった。しかし、彼らは白昼と少しも変わらずに舟を操り、舟や島がしばしば接近することはあったが、この航行中に衝突の危険を感じたことは一度もなかった。
このようにして、星明かりと暗闇の中を、風のささやきと、時計の動きのように規則正しく上下するオールの音以外には、なんの物音も聞こえず、ゆるやかな水のうねり以外に感じられる動きもないままに自分自身の群島の中で運ばれていくと、心が安らぎ、睡魔が襲ってきた。疲れていたし、出発の少し前に眠ろうとしたのだが、夜風の冷たさと、これから起こることへの懸念で、ずっと眠れずにいたせいである。
これから強襲しようとする城の内部については、リビオもほかの島民もきわめて曖昧な情報しか与えてくれなかった。主要な建物と一つの城壁がある。その主要な建物が本物の天守閣――つまり、充分に城壁を見下ろすことのできるだけの高さのある、要塞化された塔――であるかどうか、判断がつかなかった。また、その主要な建物のほかに、他の建物(たとえば、物見櫓《バーピカン》など)があるかどうかも、また、その城壁が大小の塔で補強されているかどうか、また、守備兵が何人くらいいるかもわからなかった。この城は地元民を働かせて、二、三年で完成された。とすると、たとえばアシーズ城くらいの堅固さはあるだろう。しかし、あれの四分の一くらいの城でも、われわれからすれば難攻不落といってよいだろう。
このような遠征隊を指揮することに、自分がいかに適していないかが痛感された。戦闘というものに参加したことはおろか、見たことすらないのだ。わたしの軍隊組織の知識は、〈城塞〉で育った経験と、そして、スラックスの要塞の中のわずかな見物から得られたものであり、また、戦術について知っている(と思っている)ことは、同様にちょっとした読書から得られたものだった。子供の頃、共同墓地で木剣を持って戦争ごっこをやったことを思い出した。そういったことをあれこれ考えると、本当に病気になりそうな気分になった。それは自分自身の命が惜しいからではなく、自分の過失一つで、わたしを指揮者と仰いでいるこれらの無邪気で無知な人々の大部分が死ぬことになるかもしれないからであった。
また月がちょっと顔を出し、その前をコウノトリの群れが黒いシルエットになって飛んでいった。湖岸の線が、より黒い夜の筋として水平線上に見えた。新たな雲の塊りが、また月の光をさえぎった。顔に一粒の水滴が落ちた。すると、理由はわからずに、突然愉快な気持ちになった――きっと、あのアルザボを撃退した夜の戸外の雨を、無意識に思い出したからであろう。あるいは、あの猿人の洞窟の口から噴き出す氷のように冷たい水のことを思い出したからかもしれない。
しかし、こういった偶然の連想はさておいて、この雨は実際に救いの雨だったのかもしれない。われわれには弓がなかった。だから、敵の弓弦が濡れるのは、大変ありがたかった。また、首長の射手が発射した爆弾≠使うことも、きっと不可能になると思われた。しかも、雨は隠密攻撃をするのに有利である。われわれの攻撃が成功するとすれば、隠密裡《おんみつり》にやるしかないと、わたしはずっと前から心を決めていたのである。
作戦をたてるのに没頭していると、また雲が切れた。われわれは右手に断崖となってそびえている岸と平行な針路をとっていることがわかった。前方には、もっと高い岬が湖に突き出ていた。わたしは島の先端まで歩いていって、そこに配置されている男に、城はあの上にあるのかと尋ねた。すると彼は首を振っていった。「あれを回っていきます」
その通りだった。すべての帆耳が緩められ、新しい大枝に結びなおされた。石の重りをつけたリーボード([#ここから割り注]帆船が風に流されないように風下側の水中に下ろす板[#ここで割り注終わり])が島の片側の水中に下ろされ、三人の男が力を合わせて舵棒を引いて、針路を変えた。この時わたしはふと、リビオは、われわれのこの陸地接近を、湖面を見張っているかもしれない敵に気づかれないようにうまくやれと命令したにちがいないと思った。もしそうだとすると、城とわれわれの艦隊との間に岬がなくなれば、発見される危険がまだあることになる。また、もしこの城の建設者が、今われわれが迂回しているほとんど難攻不落にみえる高い岩の上を、建設地に選ばなかったとすると、彼はもっと完全な場所を発見したことになる、という考えが浮かんだ。
やがて、岬の先端を回った。すると四チェーン以上先の水際に目的地が見えた――それは岬よりもっと高くもっと急峻に突き出た岩の上にあり、城壁と一見がまのこしかけ=i[#ここから割り注]からかさ状の毒きのこ[#ここで割り注終わり])のような奇怪な形をしている天守閣から成り立っていた。
わたしは目を疑った。中央の、大きな先細りの円柱(これは自然石を積み上げた丸い塔であるにちがいない)の上に、塔そのものと同様に堅固に見える、直径がその十倍ほどの金属のレンズ状の構造物が広がっていたのだ。
われわれの島でも、舟でも、そのほかの島でも、みんなそれを指さして、ひそひそとささやきあった。どうやら、この信じられないような光景は、わたしだけでなく彼らにとっても初めて見るもののようだった。
霞んだ月光――それは瀕死の姉の顔にする妹のキスである――がその巨大な円板の上面を照らしていた。その下の濃い影の部分に、オレンジ色の火花がきらめいた。それらは動いて、滑るように上下したが、その速度は、しばらく見ていなければわからないほどゆっくりだった。やがて、その一つが上昇して円板の下面に触れるくらいのところまでいって、消えた。そして、われわれが接岸する直前に、さらに二つの火の粉が同じ位置に現われた。
崖の陰に小さな浜があった。だが、リビオの島はそこに達する前に座礁してしまったので、テルミヌス・エストを頭上に差し上げて、また水に飛びこまなければならなかった。幸いにも大きな波はなく、今にも雨が降りだしそうだったが、まだ実際に降りはじめてはいなかった。わたしは湖の住民が舟を砂利浜に引き上げるのを手伝った。ほかの人々は、太い綱で島々を大石につないだ。
山岳地帯を旅した経験があるので、暗闇で登る必要さえなければ、その細い、迷いやすい小道を歩くのはたやすいことだったろう。しかし真っ暗闇だったので、埋没した都市を通ってキャスドーの家までいったあの下りの道のほうが、距離は五倍ほどあったにしろ、より容易だったように思われる。
てっぺんに着いたものの、城壁まではまだかなり距離があり、その間を絡みあった羊歯の茂みが隔てていた。わたしは島民をまわりに集めて、城の上の空飛ぶ船はどこからきたか知っているかと――誇張した表現で尋ねた。そして、みんなが知らないことを確かめると、わたしは知っているぞと説明した(そういうものがあると、ドルカスに聞いて知っていたのだが、これまで実物を見たことはなかった)。そして、これがここにある以上、襲撃に移る前に、自分が状況を偵察したほうがいいだろうといった。
だれも口をきかなかったが、彼らが絶望的な感情を抱いていることが感じ取れた。彼らは自分たちを率いてくれる英雄を見つけたと信じたのに、戦闘が始まらないうちにその英雄を失うことになるかもしれないと思ったのだ。
「できれば、城内に入ってみる」わたしは説明した。「それが可能だったらきみたちのところに帰ってくる。きみたちが突入できる扉を開けておくつもりだ」
リビオが尋ねた。「しかし、もしあなたが帰ってこなかったら? われわれは、ナイフを抜くべき時をどうやって知るのですか?」
「なんらかの合図をする」わたしはいった。そして、万一あの黒い塔に閉じこめられたら、どんな合図を発することができるだろうかと、懸命に考えた。「こんな晩には、火を焚いているにちがいない。わたしは窓から燃え木を差し出そう。きみたちに火の流れが見えるように、できればそれを落とすことにする。もし合図も出せず、帰ることもできなければ、わたしは捕虜になったと思ってもらいたい――その場合は、朝の最初の光が山に届いたら、攻撃を開始しろ」
それから少したって、わたしは城門に立ち(手触りで判断できたかぎりでは)、人間の首の形をした大きな鉄のノッカーを、樫の木の扉に埋めた同じ金属の板に、がんがんと打ちつけていた。
応答はなかった。十数呼吸ほど待ってから、またノックした。その音が、心臓の鼓動のように空虚な反響を伴って城内にこだまするのが聞こえた。しかし、人の声はしなかった。〈独裁者〉の庭園でちらりと見たあの不気味な顔が、心を満たし、わたしはこわごわ射撃音を待った。もっとも、たとえあの神殿奴隷《ヒエロドウール》たちがわたしを射殺することに決めても――すべてのエネルギー武器は、つきつめれば彼らのところから出ている――おそらく、わたしがその音を聞くことは決してないだろう。風も静まりかえって、まるで大気がわたしとともに待っているようだった。東の方で雷鳴が轟いた。
ついに足音が聞こえた。それはあまりにも早く軽やかだったので、子供の足音のように思われた。聞き覚えのあるような声が呼びかけた。「だれだ? なんの用だ?」
わたしは答えた。「〈真理と悔悟の探究者の結社〉の師匠セヴェリアンだ――その正義が臣下の糧《かて》である独裁者の腕としてやってきた」
「ほんとうか!」そう叫んで、城門をさっと開いたのはタロス博士だった。
一瞬、わたしはただ彼を見つめるばかりだった。
「いってくれ、独裁者はわれわれに何を望んでいるんだ? 最後にきみと会ったのは、きみが〈ねじれたナイフの町〉に行く途中だった。結局あそこに行き着けたのかな?」
「独裁者は、おまえの配下がなぜ彼のしもべの一人を捕えたか知りたいと思っておられる」わたしはいった。「つまり、わたしのことだ。こうなると、事態は少し違った様相を帯びてくるぞ」
「そうだ! そうだ! われわれの観点から見てもそうなる。わかってくれるだろうが、きみがムレーヌの謎の訪問者とは知らなかったのだ。きっと、あのバルダンダーズのやつも知らなかったろう。さあ、入ってくれ。相談しよう」
わたしは城門をくぐった。わたしが中に入ると、博士はその重い扉を押して閉じ、鉄の閂《かんぬき》をかけた。
わたしはいった。「実際話すことはあまりないが、まず、暴力で奪われた貴重な宝石のことから始めようか。聞くところによると、おまえのところに送られてきたそうだが」
こうして話しながらも、わたしの注意は、喋っている言葉から、神殿奴隷《ヒエロドウール》たちの巨大な船の方に移った。こうして城門をくぐると、今は頭の真上にあった。それを見上げると、拡大鏡の二重曲線を通して見下ろした時にしばしば感じるのと同様の、あの転移感覚を感じた。その船の下側の凸面は、人間の世界に対してだけでなく、すべての可視世界に対して、異質のもののような印象を与えた。
「ああ、そうだ」タロス博士はいった。「きっとバルダンダーズが、きみのビー玉を持っている。いや、持っていたが、今はどこかにしまってあるだろう。きっと返してくれるよ」
(実際にそんなことはありえないが)一見、その船を支えているように見える丸い塔の内部から、狼の遠吠えにも似た寂しく恐ろしい声が聞こえた。組合の〈剣舞《マタチン》の塔〉を出てから、そんな声を聞いたことがなかった。それでも、なんの声かわかったので、わたしは、タロス博士にいった。
「捕虜がいるな」
彼はうなずいた。「ああ。今日は連中に食べ物をやる暇がなかった。いろいろ忙しくてな」彼は漠然と頭上の船の方に手を振った。「退化人《カコジエン》たちに会うのに異議はないだろうな、セヴェリアン? 中に入って、宝石のことをバルダンダーズに聞きたければ、そうしなければならないだろうよ。やっこさん、中で連中と話をしているんだ」
わたしは異議はないといった。もっとも、そういう心の内で、身震いを禁じえなかったけれど。
博士はその赤い顎髭の上に、わたしがよく覚えているあの輝く鋭い歯の線を見せて、にっこり笑った。「すばらしい。きみはいつもすばらしく偏見のない人物だった。おそらくきみの受けた教育が、だれであろうと来る者を拒まず、ということを教えたといってよかろう」
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33 オッシパゴとバルバトゥスとファミリムス
このようなピール塔([#ここから割り注]元来は、一六世紀にイングランドとスコットランドの境界地方に、侵略を防ぐ要塞として建てられた小塔[#ここで割り注終わり])では普通のことだが、入り口は地面と同じ高さではなかった。中庭の舗装した地面から約十キュビット上の狭いドアに、同様に狭くて、急な、手すりのない階段が通じていた。このドアはすでに開いていた。中に入ってからタロス博士がそれを閉めなかったので、わたしはほっとした。塔の壁の厚み以上はなさそうな狭い廊下を抜けると、この階で得られる空間全体を占めているらしい一室(この塔の内部で見た部屋は全部そうらしかった)に入った。そこは、故郷の〈剣舞《マタチン》の塔〉にあったのと同様の大昔の機械で埋まっていたが、使用法となると想像もおよばなかった。部屋の片側には、上の階に上がる狭い階段がまたあった。その反対側に、どんな場所にせよ、とにかく遠吠えのような声を出している捕虜が幽閉されている場所に通じる、吹き抜けの暗い階段室があった。そうとわかったのは、その暗い空間から捕虜の声が漂ってきたからである。
「発狂しているな」わたしはいった。そして、音がする方に頭を傾けた。
タロス博士はうなずいた。「捕虜はたいていそうなる。少なくとも、わたしが診察したやつはたいていそうだ。ヘリボー([#ここから割り注]古代に狂気を治すと考えられた薬草の一種[#ここで割り注終わり])の煎じ薬を投与しているんだが、あまり効果があるとはいえん」
「われわれの地下牢の第三層にも、あのような客人がいる。法的見地からわれわれは彼らを拘留せざるをえない。彼らはわれわれに引き渡されたものであり、当局者は決して釈放を認めようとしないんだから」
博士はわたしを上りの階段の方に導いていきながら、いった。「つらい心の内はお察しするよ」
「やがて彼らは死んだ」わたしは頑固に続けた。「拷問の後遺症か、ほかの原因でね。幽閉によって真の目的を達することは決してないんだぞ」
「そうだろうな。その機械の鉤に気をつけろ。きみのマントをつかもうとしているぞ」
「では、なぜここでは幽閉しているんだ? ここは、われわれのと違って、法的な収容施設ではないじゃないか」
「いろいろの臓器を取るためさ。バルダンダーズはこの廃人どもの大部分をそのために使っている」タロス博士は階段の最初のステップに足をかけ、振り返ってわたしを見た。「さあ、いいかい、行儀良くしてくれよ。ほら、彼らは退化人《カコジエン》と呼ばれるのをいやがるからな。ここでは彼らが自分の名前だという言葉で呼びかけてくれ。げす[#「げす」に傍点]な言葉を使っちゃいけないよ。ともかくも、不快な話題は避けてもらいたい。哀れなバルダンダーズは〈絶対の家〉で錯乱状態になった後、彼らの機嫌を取るために必死の努力をしている。もしきみがすべてを台なしにすれば、あの連中がいなくなる前に、彼は踏み潰されてしまうだろうよ」
わたしは、できるだけ如才なくすると約束した。
空飛ぶ船は塔の上に浮いていたので、バルダンダーズとその指導者たちが最上階の部屋にいるものだと思っていた。だが間違いだった。次の階に上っていく時に、がやがやと人の声が聞こえ、それからあの巨人の声が、いっしょに旅をしていた時によくそういうことがあったが、ずっと遠くの廃墟の壁でも倒れたような響きを伴って聞こえてきた。
この部屋にも機械類が入っていた。しかし、ここのものは、下の階にあったような大昔のものだとしても、正常に運転できる状態にあるように見えた。しかも、テュポーンの広間にあった装置のように、わたしには想像もつかない、なんらかの論理に基づいて設置されているように思われた。バルダンダーズの賓客はこの部屋の向こうの端にいた。そちらの金属やクリスタルの雑然とした塊りの上に、普通の人間の三倍の大きさはある彼の頭が、まるで森の梢の葉むらの上に突き出た恐龍の頭のように、突き出ているのが目に入った。そちらに向かっていく途中、鐘状のガラス器の中に、ピアの妹ではないかと思われるような若い女性の残骸が横たわっているのが見えた。腹部は鋭い刃物で切り開かれ、内臓の一部が取り出されて、体の周囲に置かれていた。臓物は腐敗の初期段階にあるようだった。にもかかわらず、彼女の唇が動いた。そばを通り過ぎる時に、彼女は目を開けて、また閉じた。
「来客だ!」タロス博士が呼びかけた。「だれかわかるまい」
巨人はゆっくりと首を回してわたしを見たが、ネッソスでの最初の朝、タロス博士が叩き起こした時のように、彼はわたしがだれか、ろくにわからない様子だった。
「バルダンダーズは、きみも知っている」博士はわたしに向かって話を続けた。「だが、われわれの賓客に紹介しなくてはならないな」
三人の人間、いや、人間らしく見えるものが、上品に立ち上がった。一人は、もし本当の人間だとすれば、ずんぐりむっくりのタイプだった。後の二人は、わたしよりも優に頭一つ高くて、高貴人ほどの身長があった。三人全部がかぶっている仮面は、思慮深く、落ち着いた、洗練された中年の男性のものだった。しかし、背の高いほうの二人の仮面の穴から覗いている目は、人間の目よりも大きかった。また、背の低いほうは、目がまったくなかった。だから、仮面の穴には暗闇しか見えなかった。三人とも白い衣を着ていた。
「みなさん! われらの偉大なる友人、拷問者のセヴェリアン師匠をご紹介します。セヴェリアン師匠、こちらは尊敬すべき神殿奴隷《ヒエロドウール》のみなさん、オッシパゴ、バルバトゥス、それにファミリムスの諸氏だ。人類に――ここにその代表のバルダンダーズがおり、そして今きみがやってきたわけだが――知恵を吹きこむことが、これらの高貴なる諸氏のお仕事だ」
タロス博士がファミリムスといって紹介したやつが口をきいた。完全に人間のものといってさしつかえない声だったが、わたしが聞いたどんな人間の声よりも、もっと響きがあり音楽的だったので、弦楽器が生命を得て喋っているような感じがした。「よくこられた」そいつはいった。
「セヴェリアンさん、あなたにお会いして、これ以上大きな喜びはありません。あなたがたは礼儀としてお辞儀をしますが、わたしたちは膝を曲げます」そして、実際にちょっと膝を曲げて見せた。後の二人も同様にした。
彼が何をし、何をいったとしても、この挨拶以上にわたしを驚かせはしなかったろう。わたしは驚きのあまり、返事もできなかった。
この沈黙を破って、もう一人の背の高い退化人、つまりバルバトゥスが、会話の気まずい断絶を埋めようとする宮廷人のように、口をはさんだ。彼の声はファミリムスの声よりも低く、軍人のような雰囲気が感じられた。「よくこられた――この友人がいったように、そして全員が伝えたく思っているように、きみを心から歓迎します。しかし、われわれがここにいる限り、きみの友人諸君には外で待っていただかなければなりません。もちろん、それはおわかりでしょうが。まあ、これはいちおうの形式として、いったわけでして」
三人目の退化人は、耳に聞こえるというより肌に感じられるくらい低い声で、つぶやいた。
「それはどうでもよい」それから、自分の仮面の目の穴が空虚であることを、わたしに気づかれまいとでもするように、顔を背けて、後ろの狭い窓から外を覗くふりをした。
「では、問題ないかもしれませんな」バルバトゥスはいった。「なんといっても、オッシパゴがいちばんよく知っているのだから」
「じゃ、きみはここに友達を連れてきたのか?」タロス博士がささやいた。彼は癖として、たいていの人のようにグループに話しかけることはめったになく、グループの中の一個人に、あたかも自分とその人しかいないかのように話しかけるか、さもなければ、何千人もの集団に話すように演説口調で話すのだった。
「何人かの島民が送ってきてくれたのさ」わたしは精いっぱいなにくわぬ顔でいった。「きみも知っているはずだ。湖に浮いている葦の塊りの上で暮らしている連中だよ」
「あいつらは、おまえに対して反乱を起こそうとしているぞ!」巨人にタロス博士がいった。
「いつかこんなことになると、警告しておいたのに」彼は、オッシパゴという退化人が外を覗いているふりをしている窓に駆け寄り、肩でそいつを押しのけて、夜の闇を覗きこんだ。それから、その退化人の方を向き、ひざまずいてその手を握り、それにキスした。退化人の手は、肌色の塗料を塗った、柔軟性のある物質でできた手袋で、中に入っているのがそれと別物であることは、一目瞭然だった。
「お助けくださいますね、閣下? お願いしますよ。きっと、船にファンタシンがあるでしょう。一度、城壁に恐ろしいものを並べれば、一世紀は安全でいられますよ」
持ち前のゆっくりした口調でバルダンダーズがいった。「セヴェリアンが勝利者になるだろう。さもなければ、どうしてこの人たちが彼にひざまずく? セヴェリアンは死ぬかもしれないが、われわれは死なないかもしれない。あんた、彼らのやり口を知ってるじゃないか、博士。略奪は知識を広めることになるかもしれないんだぞ」
タロス博士は烈火のように憤って、彼の方を振り返った。「それじゃ、きくがね! 前にそうなったことがあるかね?」
「だれにそれがわかる、博士?」
「そうならなかったと、知っているくせに。あいつらは相変わらず、無知で迷信深い、獣のような連中だぞ!」彼はまたさっと向きなおった。「高貴なる神殿奴隷《ヒエロドウール》諸氏、お答えください。それを知っているものがいるとすれば、あなたがたです」
ファミリムスはある身振りをした。しかし、彼の仮面の陰の真実が、わたしにとって今まで以上にわかったとは決していえなかった。人間の手ならそんな動きをすることは決してないし、同意も不同意も、苛立ちも慰めも表現していない、まったく無意味な動作だったからである。
「きみが知っていることを、何から何までいうつもりはない」彼はいった。「きみが恐れているあの者たちは、きみを打ち負かす方法を知ったのだ。彼らがまだ単純だというのは事実かもしれない。しかし、家に持ち帰ったものが、彼らに知恵をつけたのかもしれないよ」
彼は博士に向かって話していた。しかし、わたしはもはや自分を抑えることができなくなって、いった。「なんの話をしているか、教えてくださいませんか?」
「あなたがたのことを、あなたがた全員のことを話しているのです、セヴェリアン。こういっても、もはやあなたの感情を傷つけることはないでしょうね」
バルバトゥスが口をはさんだ。「あまり自由奔放に喋りさえしなければね」
「わたしたちのぼろ[#「ぼろ」に傍点]舟が長旅の末にたどり着いて、時々、休息を取る世界があるのですよ。その世界にはマークがついています。両端に頭のある蛇のしるしでしてね。片方の頭は死んでいて――もう片方の頭がそれを食べているのです」
オッシパゴが窓から振り返らずにいった。「それがこの世界だと思う」
「カモウナがいれば、きっと故郷を明かすことができるでしょうに。しかし、あなたがそれを知っても、しかたありません。あなたにとって、わたしの説明のほうがもっとわかりやすいでしょう。生きている頭は破壊を意味し、生きていない頭は建設を意味します。前者が後者を食べる。そして、食べることが、その食糧に滋養を与えることになる。子供ならば、万一、前者が死ねば、死んでいるほうの建設を表わすものが勝って、今度は自分の分身を自分自身と同じものにすることができると思うかもしれません。しかし、そうなれば、実際は両方ともすぐに死ぬのです」
バルバトゥスがいった。「毎度のことだが、こちらのわたしの親友はものわかりが良いとはいえない。きみ、彼の話がわかるかね?」
「わかりませんよ!」タロス博士は怒っていうと、うんざりした様子で向きを変え、急いで階段を下りていった。
「それは問題ではない」バルバトゥスはわたしにいった。「なぜなら、問題は彼の主人ですからね」
彼はバルダンダーズが異論を唱えるのを待つかのように間を置き、それから、やはりわたしに向かって言葉を続けた。「われわれの目的は、おわかりでしょうが、きみたちの種族を進歩させることなのです。特定の思想や教義を押しつけることではなくてね」
「岸の住民を進歩させるのですか?」わたしは尋ねた。
この間じゅうずっと、湖の水は風に吹かれて夜の嘆きをつぶやきつづけていた。オッシパゴの声は、それと混ざりあうように思われた。「きみたちみんなをだ……」
「では本当なんだな! 多くの賢者が推察していたとおりだ。われわれは導かれているわけだ。あなたがたはわたしたちを見守っていて、そして、歴史の各時代を通じて――あなたがたにとっては、その期間はほんの何日という期間にすぎないでしょうが――わたしたちを野蛮な状態から引き上げてくれたのですね」わたしは興奮のあまり、茶色の本を引き出した。それは油を引いた絹の布で包んであったにもかかわらず、この日の朝早く濡らしたために、まだいくぶん湿っていた。「ここに書いてあることを見てください。人間は賢くはないが、それでも知恵の対象である。もし知恵が人間をふさわしい対象と認めるのなら、人間がみずからの愚行を軽んじるのは賢明といえるだろうか?≠アんなことが書いてあります」
「間違っていますよ」バルバトゥスがいった。「きみたちの一時代はわれわれにとっては永遠なのです。わたしの友人とわたしが、きみたちの種族を扱ったのは、きみ自身の寿命にも満たない期間なのです」
バルダンダーズがいった。「この人たちはほんの二十年くらいしか生きない。犬と同じだ」かれの口調はここに書いてある以上のことを伝えた。なぜなら、それぞれの言葉が、深い水槽に落ちて沈む石のようにこぼれ落ちたからである。
わたしはいった。「そんなはずはない」
「あなたがたは、わたしたちが生涯をかけた作品なのです」ファミリムスが説明した。「あのバルダンダーズという人は、学ぶために生きています。わたしたちの見るところでは、彼は過去の知識をひそかに蓄えています――それらの種子のように固い事実こそ、彼に力を与えるものなのです。やがてこの人は、知識を蓄えていない人々の手にかかって殺されるでしょうが、その死はあなたがた全員にとっていくばくか利益になるでしょう。一本の木が岩を割ることを考えてみてください。木は自分が使うために、水や生命をもたらす太陽の熱や……そのほかすべての生命の材料を吸収します。やがて、木は枯れて腐り、土の肥やしになります。土は木自身の根が岩から作ったものです。その木の影が消えると、新しい種が発芽し、やがてその木が立っていた場所に森が繁茂します」
タロス博士がやっくりと馬鹿にしたように手を叩きながら、また階段吹き抜けのところに姿を現わした。
わたしは尋ねた。「では、あなたがたがこれらの機械を残したんですか?」そういいながら、わたしは、後ろのどこかのガラスの覆いの下でぶつぶつつぶやいている、あの内臓を摘出された女のことを痛いほど意識していた。今までだったら、そのようなものは拷問者のセヴェリアンにすれば、少しも気にならなかったのに。
バルバトゥスがいった。「いいや。これらは彼が見出したものか、または、みずから建造したものです。彼は学ぶ意志があるから、そのように手配してほしいと、ファミリムスがいったのです。われわれが教えたわけではないのです。われわれはだれにも何も教えません。ただ、きみたちの種族には複雑すぎて複製することが不可能な装置は売りますがね」
タロス博士がいった。「この怪物どもは、この恐ろしい連中は、われわれのために何もしてくれないぞ。きみも見て――その正体を知っているじゃないか。〈絶対の家〉の劇場で、わたしの患者が発狂して彼らの中で暴れた時に、ピストルで殺そうとしたじゃないか」
巨人はその大きな椅子の上で身じろぎした。「同情のそぶりなんかしなくていいよ、博士。あんたには似合わないよ。おれとしたことが、この人たちが見ている時に馬鹿な真似をするなんて……」彼の幅の広い肩が上下に動いた。「あの衝動に負けてはならなかったのになあ。今は、忘れようといってくれているが」
バルパトゥスがいった。「きみも知っているように、あの晩われわれは、きみの創造者を容易に殺すことができた。彼の突撃をそらすためにだけ、火傷させたのだ」
この時わたしは、この巨人が独裁者の庭園の先の森で別れる時にいったことを思い出した――おれは博士の主人だ、と。今、わたしは自分が何をしているか考えもせずに、博士の手を握った。その肌はわたしの肌と同様に暖かく生きてはいるが、奇妙に乾いたものに感じられた。一瞬の後、彼は乱暴に手を引っこめた。
「きみはなんなんだ?」彼が答えなかったので、わたしはファミリムスとバルパトゥスと自称する者たちの方を向いた。「あの、わたしは以前に、部分的にしか人間の肉体を持っていない人に会ったことがありますが……」
彼らは答える代わりに巨人の方を見た。そして、その顔が仮面にすぎないとわかっていながら、彼らがバルダンダーズに説明しろと要求していることがわかった。
「人体模型《ホムンクルス》だよ」バルダンダーズは低い声でいった。
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34 仮 面
彼が話しているうちに雨が降りだした。冷たい雨が、百万もの氷の拳で、城のざらざらした灰色の石を叩いた。わたしは体の震えを止めようとしてテルミヌス・エストを膝の間にはさんで、腰を降ろした。
「すでにわかっていたよ」わたしはできるだけ落ち着いて、いった。「島民から、この城の建設費用を払った小さい人のことを聞いた時、それが博士のことだとね。だが、巨人、つまり、きみは後からきたと、彼らはいっていた」
「おれがその小さい人だった。博士が後からきたんだ」
一人の退化人が窓のところで、濡れそぼった夢魔のような顔を見せ、それから姿を消した。わたしには何も聞こえなかったけれども、おそらく彼はオッシパゴに、なんらかのメッセージを伝えたのだろう。オッシパゴは振り返らずにいった。「成長にはそれなりの不利が伴う。もっとも、きみたちの種族には若返りの方法はそれしかないが」
タロス博士がぱっと立ち上がった。「その不利は克服できる! 彼は自分自身をわたしの手に委ねた」
バルダンダーズがいった。「やむをえなかった。ほかにだれもいなかったんだから。自分で自分の医者を造り出したのだ」
わたしは彼らを見較べながら、まだ心の平静を保とうと努力していた。どちらの外観にも態度にも変化はなかった。「しかし、彼はきみを殴るじゃないか」わたしはいった。「見たぞ」
「前に、おまえが小さいほうの女に打ち明けているのを、偶然聞いたことがある。おまえはもう一人の女を亡ぼした。愛していたのにだ。それでも、おまえは彼女の奴隷だったぞ」
タロス博士がいった。「わたしは彼を起こさなければならなかったんだよ。彼は運動をしなければならなかった。これはわたしが、彼のためにする仕事の一部なのだ。聞くところによると――その健康は臣下の幸福であるという――独裁者は、寝室に、世界の果ての彼方に住む別の独裁者から贈られた等時化機《アイソクロノン》を置いているという。たぶん、その贈り主がこれらの紳士がたの主人なのだろう。わからんがね。とにかく、独裁者は喉もとに短剣を突きつけられるのを恐れて、寝ている時にはだれも近づけない。だから、この機械が夜の時間を彼に告げるのだ。夜が明けると、その機械が彼を起こす。では、共和国の支配者が、ただの機械に眠りを妨げることをなぜ許すのかね? バルダンダーズは今いったように、わたしを彼の医者として創造した。セヴェリアン、きみはわたしを知るようになってから、しばらくたつ。わたしが偽りの謙遜という悪名高い悪徳に、大いに悩んでいるといえるかね?」
わたしはかろうじて笑みを浮かべて、首を振った。
「では、ごらんのとおりのわたしの謙遜の美徳について、わたしは責任がないといわねばならない。バルダンダーズは賢明にも、わたしを自分と正反対に造った。彼の欠点の|釣合い重り《カウンター・ウエイト》≠ノなるようにだ。たとえば、わたしはお金を好まない。これは主治医としては、患者にとってすばらしいことだ。そして、わたしは友人たちに対して誠実だ。なぜなら、彼がわたしの最初の友人だからだ」
「それにしても」わたしはいった。「ぼくはいつも驚いていたよ。彼がきみを殺さないことをね」室内はとても寒かったので、わたしはマントを体にいっそうしっかりと巻きつけた。もっとも、現在の偽りの静けさが長く続くはずはないと確信していたけれども。
巨人がいった。「なぜおれが激情を抑えていなければならないか、あんたは知ってるはずだ。その抑制が外れたのを見たろう。彼らを前に坐らせて、まるで鎖に繋がれた熊みたいに、自分を見物させていると――」
タロス博士が彼の手に触った。その仕種には、なんとなく女性的なところがあった。「問題は彼の腺なんだよ、セヴェリアン。内分泌システムと甲状腺だ。すべてをきわめて注意深く管理しなければならない。さもないと、成長が早くなりすぎるのだ。また、体重が骨を砕かないように、わたしが注意しなければならない。そのほか、数限りない仕事があるんだよ」
「脳だ」巨人が低い声でいった。「すべてのなかで最も悪いのが脳だ。最良でもあるがね」
わたしはいった。「〈鉤爪〉はきみに効果を及ぼしたかね? たとえ、ぼくの手を離れていても、たぶん効果はあるだろうが。あれは長年にわたってペルリーヌ尼僧団の役に立った以上に、ぼくにとって短期間に効力を見せてくれた」
バルダンダーズの顔に理解の徴候が現われないのを見て、タロス博士がいった。「漁師が送ってよこしたあの宝石のことだ。あれには奇跡的な治癒作用があると考えられている」
それを聞くと、オッシパゴがやっとわれわれの方を向いた。「それは面白い。ここではきみたちが持っているのか? われわれに見せてくれないかな?」
博士はその退化人の無表情な仮面から、心配そうにバルダンダーズの顔に視線を移し、また退化人の方に視線を戻して、いった。「なに、なんでもありません。ただの鋼玉《コランダム》のかけらですよ」
わたしが塔のこの階に入ってからずっと、退化人のだれ一人として一キュビットもその場所を動いていなかった。だが、オッシパゴは短いよちよちした足どりで部屋を横切って、わたしの椅子の方にやってきた。わたしは体をすくめたにちがいない。彼はこういった。「怖がる必要はない。もっともわれわれは、きみたちの種族には痛みを多く与えるがね。その〈鉤爪〉の話を聞きたいのだ。人体模型くんは、ただの鉱物の一種にすぎないといっているがね」
彼の言葉を聞いてわたしは、彼とその仲間がバルダンダーズから〈鉤爪〉を取り上げて、虚空の彼方の故郷に持ち帰ってしまうのではないかと心配になってきた。しかし、次のように判断した。バルダンダーズに無理やりに取り出させなければ、持っていくことはできない。もし彼に取り出させれば、わたしがそれを奪う可能性も出てくる。それ以外には、あれを取り戻すチャンスはないかもしれないと。それで、わたしはオッシパゴに、〈鉤爪〉がわたしの手もとにあった時になし遂げたことを全部話した――街道の槍騎兵のこと、猿人のこと、そのほかこの本にすでに書いた、〈鉤爪〉が効果を発揮したすべての事例を。話していると、巨人の顔が次第に厳しくなり、また博士の顔はより心配そうになったように思われた。
話しおえると、オッシパゴがいった。「では、今度はぜひその驚異をわれわれに見せてもらいたい。どうか、出してくれ」バルダンダーズは立ち上がり、広い部屋を大股に横切っていった――体の大きさに較べて、部屋の機械類はまるで玩具のように見えた――そして、表面の白い小さなテーブルの引き出しから、宝石を取り出した。彼の手に持たれた宝石は、今まで見たこともないほどくすんだ色をしていた。青いガラスのかけらといってもいいくらいだった。
退化人は彼の手からそれを受け取り、肌色に塗った自分の手袋に載せて差し上げた。しかし、人間のように、その方向に顔を上げて見るようなことはしなかった。宝石は、上から照らしている黄色いランプの光を反射するように見え、その光を浴びて澄んだ青色にきらめいた。「とても美しい」彼はいった。「そして非常に面白い。もっとも、これの効果だと伝えられるようなことを、実際に発揮したはずはないがね」
「明らかに」ファミリムスは歌うようにいって、独裁者の動く彫像を思い出させる、あの独特の仕種の一つをした。
「それはわたしのものです」わたしは彼らにいった。「岸の住民が力ずくでわたしから取り上げたのです。返してくれませんか?」
「もしこれがきみのものだったら」。バルバトゥスがいった。「きみはこれをどこから手に入れたのですか?」
わたしはアギアとの出会いと、ペルリーヌ尼僧団の祭壇の破壊について、長い長い説明にとりかかった。だが、彼は途中で遮った。
「それはすべて推測ですよ。きみはそれが祭壇に載っていたのを見たわけでもなく、また、彼女から渡されたのは事実としても、その時に彼女の手を感じたわけでもない。きみはどこで、それを手に入れたのですか[#「きみはどこで、それを手に入れたのですか」に傍点]?」
「自分の図嚢の仕切りの中です」ほかにいいようはなく思われた。
バルパトゥスはがっかりしたように顔をそむけた。「そして、きみは……」バルダンダーズの方を見て、「オッシパゴが今その宝石を持っている。彼はそれをきみから受け取ったのだ。きみはどこから手に入れたのかね?」
バルダンダーズは低い声でいった。「ごらんのとおり。あのテーブルの引き出しからです」
退化人は両手で仮面を動かして、うなずいた。
「ほらね、セヴェリアン。彼の主張は、きみのと同様にすじが通っています」
「でも、その宝石はわたしのであって、彼のではありません」
「きみたちの内輪のことを判断するのは、われわれの仕事ではありません。われわれが立ち去ってから、きみたちで決めなさい。しかし、これは単なる好奇心で尋ねるのですが――きみたちから見れば、われわれは奇妙な生物だろうけれど、それでもやはり好奇心に苦しめられるのですよ――バルダンダーズ、きみはこれを持っていたいのかね?」
巨人は首を振った。「わたしの実験室に、そんな迷信的な記念品を置きたいとは思いませんよ」
「では結論を出すのは、造作もありませんな」パルバトゥスが宣言した。「セヴェリアン、われわれの乗物が上昇するところを見たいですか? バルダンダーズはいつも見送りにきます。そして、彼は人工的なものであれ、自然のものであれ、光景を熱狂的に語るタイプではないけれど、わたし自身は、これは見るに値する光景だと思いますよ」彼は向きを変えて、白衣の乱れを直した。
「名誉ある神殿奴隷《ヒエロドウール》の皆さん」わたしはいった。「ぜひ見たいと思いますが、その前にお尋ねしたいことがあります。わたしがここにきた時に、みなさんは、わたしに会ってこれ以上嬉しいことはない、といわれました。あれは、言葉どおりの意味だったのですか、とにかく、おおむねそのような意味だったのですか? だれかほかの人と間違えたのではありませんか?」
バルダンダーズとタロス博士は、退化人が最初に出発すると口にした時に、もう立ち上がっていた。今、ファミリムスが残ってわたしの質問を聞いているのに、ほかの人たちはすでに出ていこうとしていた。バルバトゥスは上の階に通じる階段を登りはじめていたし、オッシパゴはまだ〈鉤爪〉を手に持ったまま、あまり遅れないで、その後に続いていた。
わたしも歩きだした。なぜなら、〈鉤爪〉から引き離されたくなかったからである。そして、ファミリムスもわたしといっしょに歩きだした。「あなたがわたしたちのテストに合格しなかったとしても、その言葉はやはり、わたしの本心ですよ」その声は、手の届かない森から、深淵を飛び越えてやってくる、すばらしい小鳥の音楽のように響いた。「わたしたちは何度、協議したことか、何度、おたがいの意志に従ったことか。水の女たちのことは知っていますね。オッシパゴや、勇敢なバルバトゥスやわたしが、彼女らよりもずっと知恵の足りない存在だと思いますか?」
わたしは深く息を吸った。「おっしゃることの意味がわかりません。あなたとそのお仲間は気味は悪いけれど、でも、なんとなく善良だという感じがします。そして、あの|水の精《ウンディーネ》たちは見るに耐えないほど恐ろしくもあり、愛らしくもあるけれど、善良ではないように感じます」
「世界全体が、善と悪との戦いなのですか? それ以上のものだと考えたことはありませんか?」
そんなことは考えもしなかった。だから、じっと見つめる以外になかった。
「ところで、わたしの姿を大目に見てください。異存がなければ、この仮面を脱ぎたいのですが。これが仮面だということは、両方とも知っていることだし、これは暑いのですよ。バルダンダーズは前にいるから、見えないでしょう」
「お望みなら、どうぞ」わたしはいった。「でも、教えてくれませんか――」
ファミリムスは片手をさっと動かして、ほっとしたように変装を剥ぎ取った。現われたのは顔ではなく、一枚の腐敗した膜についた目だけだった。それから、手が前と同様にさっと動くと、その膜も脱落した。その下から現われたのは、〈絶対の家〉の庭園で見た動く彫像の顔に彫られていた、あの不思議で平静な美しさだった。しかしそれは、生きている女性の顔と本人のライフ・マスクが違うように、違いがあった。
「考えたことはないのですか、セヴェリアン?」彼女はいった。「一つの仮面をつけている者は、もう一つの仮面をつけるかもしれないと? でも、二つの仮面をつけているわたしは、三つはつけません。もう、これ以上偽りの顔がわたしたちの間をへだててはいません。誓います。触ってごらんなさい、あなた――その指をわたしの顔につけて」
わたしは怖かった。だが、彼女はわたしの手を取って、頬に近づけた。頬は冷たかったが、生きており、博士の肌の乾燥した暖かさとは正反対のものであった。
「あなたが見た、わたしたちのつけていた奇怪な仮面は、すべて、あなたのお仲間のウールスの市民たちの顔にすぎなかったのです。昆虫、やつめうなぎ、今は絶滅しつつあるレプラなどね。すべてあなたの同胞です。もっとも、あなたは尻ごみするかもしれないけれど」
われわれはすでに塔の最上階に近づいていた。床の材木がところどころ黒焦げになっていたが、これはバルダンダーズとその医者を追い出した大火災の名残りだった。わたしが手を離すと、ファミリムスはまた仮面をつけた。「なぜ、またかぶるのですか?」わたしは尋ねた。
「あなたの同胞が、わたしたち全員を憎み恐れるようにするためです。もし、そうしなかったら、セヴェリアン、普通の人間はわたしたち以外の者の統治を、いったいいつまで甘受するでしょう? わたしたちはあなたがたの種族から、あなたがた自身の支配権を奪うつもりはありません。あなたがたの独裁者は、あなたがたをわたしたちから隔離することによって、〈不死鳥の玉座〉を保っているのではありませんか?」
わたしは、山中で夢から覚めた時にときどき感じたような気分を味わった。つまり、起き上がって、あたりを見回した時に、夢で見ていたパリーモン師の書斎の壁でもなく、組合の食堂の壁でもなく、セクラの独房の扉の外の見張りのテーブルに坐って眺めていた壁でもなくて、松の木のピンで空にとめられた緑色の月が見え、また、砕けた冠の下の山々の厳かなしかめ面が見えた時に味わったような気分を、味わった。わたしはようやくいった。「では、なぜわたしに見せたのですか?」
ファミリムスは答えた。「見せても、もうあなたには会わないからです。残念ながら、ここでのわたしたちの友情には、始めもあれば、終わりもあります。素顔を見せたのは、別れていく友人からの歓迎のしるしだと思ってください」
その時、前にいた博士がドアを開け放った。雨音が耳を聾さんばかりに大きくなり、わたしは寒さを感じた。塔の中の死んだような空気に、氷のようではあるが、生きている外の空気が侵入してきた。バルダンダーズはその戸口を通り抜けるのに、体をかがめ、肩を回さなければならなかった。この時にわたしは覚った。タロス博士からどんな手当てを受けようとも、バルダンダーズがこれを通り抜けられなくなる日がいずれくると――扉も大きくしなければならないだろうし、たぶん階段も大きくしなければならない。なぜなら、もし落ちれば、彼は確実に死ぬだろうから。それから、以前から合点のいかなかったことが理解できた。この塔の部屋がばかでかく、天井が妙に高いのは、これが彼の塔だからだ。彼が飢えた捕虜を監禁している岩屋は、どんなふうになっているのだろうと、わたしは思った。
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35 合 図
下から見ると、その船は塔の構造に直接乗っているように見えたが、実はそうではなくて、むしろ、その半チェーンほど上に浮いているらしかった。それゆえ、船体のなめらかな曲線を黒真珠のように光らせて沛然《はいぜん》と降る雨を防ぐには、位置が高すぎた。見上げていると、世界と世界の間に吹く風を受けるために、このような船はどういった帆を張るのだろうかと、想像をめぐらさずにはいられなかった。やがて、乗組員が下のわれわれを覗いて見ないだろうかと思っていると、一時、船体の下の床を歩いているのを見かけたあの不思議な生物――男の人魚のような生物――のひとりが、栗鼠《りす》のように頭を先にして実際に下りてきて、河の中の石のように濡れて、テルミヌス・エストの刃のように研磨されている船体に手足をつけ、オレンジ色の光を浴びて這い回った。彼は、しばしば述べたような仮面をつけていた。今は、それが仮面だとわたしにもわかった。彼はオッシパゴ、バルバトゥス、それにファミリムスが下にいるのを見ると、それ以上降りてこなかった。やがて、光の糸のような、やはりオレンジ色に輝く細い線が、どこか上の方からさっと放射された。
「さあ、いかなくてはならない」オッシパゴがバルダンダーズにいい、〈鉤爪〉を彼に渡した。
「われわれがきみにいわなかったすべてのことを、よく考慮しなさい。そして、きみに示されなかったことを記憶するのだ」
「そうします」バルダンダーズはいったが、その声は今までに聞いたこともないほど暗く厳しいものだった。
それからオッシパゴはその光線をつかんで、滑るように上がっていき、ついに船体の曲線に沿って曲がっていって、視界から消えた。しかしその様子は、滑って上がっていったのではなく、まるでその船自体が一つの世界であり、ウールスと同じように、それに属するすべてのものを貪欲に自分に引きつけているように思われた。あるいは、彼がわれわれの空気よりも軽くなって、自分の船から海に飛びこんだ水夫が――わたしが首長の船から水中に飛びこんでから浮かび上がってきたように――浮かび上がった、というだけのことだったかもしれない。
それはともかく、バルバトゥスとファミリムスがその後に続いた。ファミリムスは船体のふくらみで姿が隠れる直前に手を振った。博士とバルダンダーズはきっと自分たちに別れの挨拶をしたと思ったろうが、わたしには彼女がわたしに手を振ったのだとわかった。頭巾をかぶっているにもかかわらず、篠《しの》つく雨が顔に当たり、目が見えなくなった。
船は最初はゆっくりと、それから次第に速度を増して上昇し後退していって、上でもなく、北でも南でも東でも西でもない方向に、次第に小さくなって消えていった。消えてしまった後では、どちらの方向にいったか、もうわたしには指さすこともできなかった。
バルダンダーズがわたしにいった。「おまえ、彼らの話を聞いたな」
わたしはなんのことかわからずにいった。「話は確かにしたよ。タロス博士が城壁の門を開いてくれた時に、話せといったんだ」
「おれには何もいわなかった。何も見せてくれなかったぞ」
「彼らの船を見て」わたしはいった。「彼らに話しかけた――こういうことは合図[#「合図」に傍点]とはいえないだろう」
「あいつら、おれをけしかける。決まってけしかけるんだ。まるで雄牛を死に追いやるように、けしかけやがる」
彼は狭間胸壁に歩み寄って、広大な湖面を見渡した。湖面は激しい雨に叩かれて、まるでミルクの海のように見えた。狭間の凸壁はわたしの頭より数スパン高かったが、彼はその上に、欄干に手をつくように、手をついていた。そして、その片方の閉じた拳の中に〈鉤爪〉の青い輝きが見えた。タロス博士はわたしのマントを引っ張って、室内に入って豪雨を避けたほうがよくはないかといった。だが、わたしは立ち去る気にはならなかった。
「これは、おまえが生まれるずっと前に始まった。最初、彼らはおれを助けてくれた。助けたといっても、いろいろな考えを示唆したり、疑問をぶつけたりしてきただけだがな。今ではヒントを出すだけだ。あることができるかもしれないと、ほんのちょっとほのめかすだけだ。今夜はそれさえもしなかった」
島民を実験に使うのはもうやめろといいたかったが、それをどう表現したらいいかわからなかったので、おまえの爆弾≠見たぞ、あれはたしかにすばらしい偉大な成果だ、といった。
「ナトリウムだ」彼はいった。そして、わたしのほうに向きを変え、暗い空に大ぎな頭を昂然《こうぜん》ともたげていった。「何も知らないくせに。ナトリウムは、海が大量に産み出す元素の一つにすぎない。あれが玩具以上のものだったら、漁民にくれてやると思うか? ちがう、あれはおれ自身の偉大な作品ではない。おれ自身の偉大な作品は、このおれ[#「おれ」に傍点]なのだ!」
タロス博士がささやいた。「見回してごらん――これがわからないか? まさに彼のいうとおりだ!」
「どういうことだ?」わたしはささやぎかえした。
「この城は? この怪物は? この学者は? たった今思いついたんだが、きっときみも知っているだろうが、ちょうど過去の重大な出来事が後世に影を投げるように、太陽が光を失いつつある現在、われわれ自身の影は過去に射しこんで、人類の夢をかき乱すのだ」
「頭がおかしくなったな」わたしはいった。「それとも、冗談のつもりか」
「頭がおかしいだと?」バルダンダーズが地鳴りのような声でいった。「おかしいのは、おまえ[#「おまえ」に傍点]だ。神の差配などという幻想を抱いているおまえのほうだ。やつらがどれほどおれたちを嘲笑していることか。おれたちをみんな野蛮人と思ってるんだ……普通の寿命の三倍も刻苦勉励してきた、このおれをだ」
彼は腕を伸ばし、拳を開いた。今や〈鉤爪〉は、彼のために燃えていた。わたしが取ろうとして手を伸ばすと、彼はぱっとそれを投げすてた。雨の降りつづく夜の闇に、〈鉤爪〉がなんと美しくきらめいたことか! まるで、夜空から輝く小人《スクルド》([#ここから割り注]北欧神話、未来の化身[#ここで割り注終わり])が身を投げたかのようだった。
この時、城壁の外で待っていた湖の民の鯨波《とき》の声が聞こえた。わたしは合図を出さなかった。しかし、合図は出された――それも、わたし自身への直接の攻撃を別にすれば、わたしをその気にさせる唯一の行為によって。彼らの雄叫びがまだ風に乗って聞こえている間に、テルミヌス・エストはすでに鞘を離れていた。わたしはそれを振り上げて襲いかかろうとした。だが、巨人のそばに近づかないうちに、タロス博士がわれわれの間に割って入った。彼が、テルミヌス・エストを払いのけようとして振り上げた武器を、わたしはただの杖だと思った。もし〈鉤爪〉を失ったせいで精神が引き裂かれていなかったならば、笑ってそれを叩き切ったはずだ。だが、わたしの剣は鋼に当たった響きを立てた。そして、その衝撃で、タロス博士の武器は彼の体に当たったけれども、博士はなんとかその打撃に耐えた。わたしが体勢を立てなおす暇もなく、バルダンダーズがそばを駆け抜け、わたしは胸墻まではね飛ばされた。
わたしは博士の突きを避けることができなかった。しかし、どうやら彼は、わたしの煤色のマントに目を欺かれたらしく、その武器の先端はわたしの胸板をかすめて、石に当たり、からからと音を立てた。わたしはその柄をひっつかんで押しやった。彼はよろよろと後退した。
バルダンダーズの姿はどこにも見えなかった。一瞬後、彼が突進していったのは、わたしの背後の扉だったにちがいないと覚った。彼がわたしに与えた打撃は、後から気がついて与えたものだろう。ちょうど、なにかに夢中になっている人が、いざ部屋を出る時になって、蝋燭の芯を切ったりするように。
タロス博士は塔の屋上の石の床――日向で見ればたぶんただの灰色の石だったろうが、今は雨に濡れそぼって真っ黒に見えた――に伸びていた。それでも彼の頭髪と髭が見えていたので、彼が頭を一方にねじった姿勢で、うつ伏せに倒れていることがわかった。彼をそれほど強く打ったつもりはなかった。もしかしたら、他人に時々いわれるように、わたしは自分で思っている以上に力が強いのかもしれない。ともかく、彼は自惚れの強い態度をしていたが、実際はわれわれのだれよりも弱かったのではないかという感じがした。もっともバルダンダーズは、それを察していただろうが。この時わたしは、テルミヌス・エストを振るって、その刃を直接彼の頭蓋骨にめりこませて、殺すこともできた。
しかし、それを控えて、彼の武器――彼の手から落ちた一筋の細い銀の線――を拾い上げた。人差指ほどの幅があり、非常に鋭利で――外科医のメスにも使えそうな――片刃の剣だった。柄を見て、それが何度も見ている杖の柄にすぎないことが、すぐにわかった。あれは仕込み杖で、かつてヴォダルスがわれわれの共同墓地で抜いたあの剣のようなものだった。とすると、わたしが自分の重い剣を苦労して背負って歩いていた一方で、博士は何百リーグにも及ぶ長い道中をずっとこの剣を持ち歩いていたわけか! そう思うと、わたしはおかしくなって、この雨の中で思わず笑ってしまった。切っ先は、わたしを突いた時に石に当たって砕けていた。わたしは、バルダンダーズが〈鉤爪〉を放り投げたように、この壊れた剣を胸壁から投げ落とした。そして、バルダンダーズを殺しに塔の中に降りていった。
さっき階段を上ってきた時には、ファミリムスと話をするのに夢中になっていたので、通ってきた部屋にほとんど注意を払わなかった。最上階の部屋は、思い出すと、なにもかも赤い布がかぶせてあったような気がした。今、赤い球体が見えた。それらは、もう退化人とは呼べないあの三人に会った広い部屋の天井から生えていた銀の花と同じように、炎を立てずに燃えているランプだった。これらの球体は、床に立っている小鳥の骨のように軽くて華奢《きゃしゃ》に見える象牙色の台に乗っていた。今、床といったが、それよりはむしろ、さまざまな階調とさまざまな風合を帯びた、赤一色の織物の海といったほうが当たっている。この部屋の上には、男の像をかたどった柱に支えられて、天蓋が広がっていた。それもまた真っ赤で、無数の銀の小板が縫いこまれていた。小板はきわめてよく研磨されていて、独裁者の近衛兵の鎧と同様に、ほとんど完全な鏡に近かった。
わたしは階段の上部から降りかけてはじめて、自分が巨人の寝室を見ていることがわかった。普通のものの五倍は広いベッドが、床と同じ高さに埋めこまれている。その虹色や緋色の掛け布が、深紅の絨毯の上に散らかっていることもわかった。そのねじれた寝具の間から一つの顔が見えた。わたしが剣を振り上げると、それは消えた。わたしはそのふかふかした布の一枚を引きはがしてやろうとして、階段を離れた。布団の下の稚児《カタマイト》([#ここから割り注]男色の相手[#ここで割り注終わり])――それが実際に稚児だったとして――は起き上がって、幼児が時に示すような大胆さを見せて、わたしのほうに向きなおった。事実、彼は小さな子供だった。といっても、立ち上がった身長はわたしと同じくらいだったけれども。裸だったが、ひどく太っていたので、小さな生殖器はその膨れた太鼓腹に隠れてよく見えなかった。腕はまるで、金の紐でくくった桃色の枕のようで、耳たぶには穴をあけて、小さな鈴をつけた金の輪がはめてあった。頭髪はやはり金色で、カールしていた。その下の大きな青い幼児の目で、彼はわたしを見た。
いくら彼が大柄だといっても、バルダンダーズが(その言葉が普通理解されている意味において)肛門性交《ペデラスチー》をしているとは、どうにも信じられなかった。もっともバルダンダーズが、この少年がもっと大きくなったら、そうしたいと望んでいたことはありうるが。とにかく、次のことは確かであったにちがいない。バルダンダーズは、山のように大きい自分の肉体を老齢の猛威から救うために、必要最小限度の管理を自分自身の成長に対して加えていたが、それと同じく、この哀れな少年の成長を、彼の人智学的知識にとって可能なかぎり加速していたのだ。わたしがこのようにいう訳は、バルダンダーズとタロス博士がドルカスやわたしと別れてしばらくするまで、この少年を管理下に置いていなかったことが、確かだと思われるからである。
(わたしはこの少年を、見つけた場所に残してきた。彼がその後どうなったか、今も知らない。死んだと考えるのが、いちばん妥当だろう。しかし、湖の住民が彼を保護して養ったということもありうるし、あるいは、しばらくたってから首長とその部下が見つけて、同じようにしたこともありうる)
その下の階に降りるやいなや、そこで目にしたものが、少年についてのすべての思いをわたしの心から拭い去ってしまった。この部屋は、さっきの部屋が赤い布に覆われていたと同様に、こんどは霧にとざされていた(前に通った時には、そんな霧がなかったことは確かである)。その霧は生きている湯気ともいうべきもので、万物主の口からロゴス([#ここから割り注]神のことば[#ここで割り注終わり])が出るところを想像させるように、もうもうと沸きかえっていた。それに見とれていると、墓場の蛆虫《うじむし》のように色の白い、霧の人間が、逆刺のある槍を振り回しながら、わたしの前に出現した。それがただの幻だと気づく以前に、わたしの剣がその手首を切断した。まるで煙の柱に切りつけたようなものだった。彼はたちまち収縮した。霧がみずからの上にくずおれるようだった。身の丈はわたしの腰の高さにも満たないほどになった。
わたしは前進し、さらに階段を降りていき、ついにその冷たい渦巻く白いものの中に降り立った。すると、さっきの男と同様に霧そのものでできた不気味な生物がその表面を横切って飛び跳ねながらやってきた。これまでに見た小人は、頭と胴体は正常かまたはやや大きめで、その手足は筋骨たくましくはあっても、幼児性が残っているのが普通だった。ところが今出てきたのは、その逆で、わたしよりも大きい腕や足が、ねじくれた発育不良の体から生えていた。
その逆小人《ぎゃくこびと》がエストック([#ここから割り注]一種の剣[#ここで割り注終わり])を振り回し、口を開けて声なき叫びをあげ、先の男の槍を完全に無視して、そいつの首に剣を突き刺した。槍はそいつ自身の胸に突き刺さった。
この時、笑い声が聞こえた。彼が笑うのはめったに聞いたことはないが、だれが笑ったか、すぐにわかった。
「バルダンダーズ!」わたしは呼ばわった。
彼の頭が霧の上に出た。ちょうど、夜明けに山の頂が霧の上に現われるように。
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36 城内の戦い
「本物の敵はここだな」わたしはいった。「本物の武器を持っているやつはここだな」わたしは剣で前を探りながら、霧の中に歩み入った。
「本物の敵なら、この雲の部屋の中でも見える」バルダンダーズは低音でいったが、その声はまったく落ち着いていた。「ただし、彼らは外に、中庭にいる。最初のやつはおまえの味方、第二のやつはおれの敵だった」
バルダンダーズがそういうと、霧が晴れた。彼は部屋の中央付近の大きな椅子に坐っていた。わたしがその方に向かうと、彼は立ち上がり、椅子の背をつかんで、籠でも投げるようにらくらくとわたしに向かって投げつけてきた。それは、わずか一スパンの間隔でそれた。
「さあ、おれを殺しにこい」彼はいった。「それも、あの馬鹿げたお守りのためにな。おまえを殺しておくべきだった。おまえがおれの寝床で寝たあの夜に」
こちらも同じ台詞がいえると思ったが、わざわざ答えはしなかった。彼が弱気を装って、わたしの不注意な攻撃を誘っていることは明らかだった。そして、彼は武器を持っていないように見えた。それでも身長はわたしの倍はあるし、力がこちらの四倍以上あることは確かだった。さらに接近すると、彼の姿からある夜のことを思い出した――われわれは今ここで、前に夢で見た人形芝居を再演しているのだと。もっとも、あの夢では、木の巨人は武器として棍棒を持っていたけれども。わたしが一歩また一歩と前進すると、それにつれて彼は後退した。しかし、いつでも組みつける構えをとっているように見えた。
階段から部屋を四分の三ほど横切った時に、彼は突然背を向けて逃げ出した。それは、まるで大木が走るのを見るような、おどろくべき光景だった。
とても速かった。ぎごちなくはあったが、一足で普通の二歩分は進み、わたしよりずっと早く壁際にいった――そこには、オッシパゴが覗いていたのと同様のごく狭い窓があった。
一瞬、彼が何をするつもりかわからなかった。彼が抜け出すには、窓の幅はあまりにも狭かった。彼は大きな両手をそれに突っこんだ。重なっている石と石が擦れる音がした。
間一髪で、わたしは彼の真意を察し、かろうじて二、三歩後退した。一瞬遅れて、彼は壁そのものから一塊りの石をもぎ取り、目よりも高く差し上げて、わたし目がけて投げつけた。
わたしが飛び退くと、彼はさらに一個、また一個ともぎ取り、投げつけてきた。三個目が飛んできた時などは、四個目を避けるために、剣を抱えたまま、必死に横転しなければならなかった。
石の飛んでくるのがますます早くなった。なぜなら、石が抜けたために壁の構造が弱くなったからである。そうやって横転したために、まったくの偶然で、床に落ちている一つの小箱のそばに来ていた。普通の家庭の主婦が指輪などを入れておく箱よりも、小さいくらいの箱だった。
それを飾るように、いくつかの小さなノブがついていた。その形を見て、わたしはセクラの拷問の時にグルロウズ師が調節していたノブを、なんとなく思い出した。そして、バルダンダーズが石をさらにもぎ取る前に、その箱を拾い上げて、ノブの一つを捻った。そのとたんに、消えていた霧が床からまたもうもうと湧き出し、たちまちわたしの頭の高さに達したので、白い海に沈んだようになって、視界がとざされた。
「見つけたな」バルダンダーズが低いゆっくりした口調でいった。「それを切っておくべきだった。これで、おれはおまえが見えないし、おまえはおれが見えない」
彼が石を持ち上げて、投げる用意をしながら、わたしが声を出すのを待っているのがわかったので、わたしは黙っていた。そして、約二十呼吸ほどしてから、できるだけ静かに彼の方ににじり寄りはじめた。彼ほど狡滑なやつでも、わたしの声が聞こえなければ、歩くことができないのは確かだった。四歩進んだ時、後ろの床に石が激突し、もう一個の石が壁から抜かれる音がした。
その一個が余分だった。耳を聾さんばかりの大音響が起こった。窓の上の壁全体が崩れ蕗ちたにちがいなかった。一瞬、それで彼が死んだかもしれないという淡い希望が生じた。しかし、霧がたちまち壁の穴から夜の闇に、そして外の雨の中に流れ出して薄れると、ぱっくりと開いた壁の穴の横に彼が立っている姿が見えた。
壁が崩れた時、引き抜いた石を捨てたにちがいない。彼は空手だった。わたしは彼に気づかれないうちに攻撃できればよいと思いながら、駆け寄った。またもや、彼のほうがすばやかった。彼が残っている壁をつかんで、体を外に振り出すのが見えた。そして、わたしが穴のそばに駆け寄った時には、かれはかなり下まで降りていた。彼のしたことは不可能なことのように思われたが、わたしの立っている部屋の明かりに照らされている、塔のその部分を注意して見ると、石は粗削りに切り出されたもので、漆喰を使わずに積まれたものだとわかった。だから、石と石の間に、手でつかむことのできる隙間があり、上の方がつぼまってスロープになっていたのである。
わたしはテルミヌス・エストを鞘に納めて、彼の後を追いたい誘惑に駆られた。しかし、そんなことをしたら、まったく無防備になってしまうだろう。なぜなら、バルダンダーズのほうがわたしより先に地面に着くことは明らかだったから。ほかにどうしようもなかったので、わたしは手探りで階段に戻り、最初に城に入った階まで降りていった。
そこは、さっきまでは、昔の機械以外にはだれもいず、静まりかえっていた。だが今は、伏魔殿になっていた。機械の上にも下にも間にも、さっきバルダンダーズが雲の部屋と呼んでいた部屋で見た妖怪|変化《へんげ》の幻と同類の、不気味な生き物が何十となく群れていた。あるものはテュポーンのように頭が二つあり、あるものは四本の腕があり、手足の釣りあいが――足が胴体の倍も長いとか、腕が股よりも太いとか――不気味に崩れているものが多かった。みんな武器を持っており、判断できたかぎりでは、みんな狂っていた。なぜなら、彼らの敵である島民に打ちかかるとともに、自分たち同士でも勝手に打ちあっていたからである。この時わたしは、バルダンダーズが下の中庭はわたしの味方と彼の敵でいっぱいだといったことを思い出した。たしかに彼は正しかった。これらの生物はたがいに戦いあうが、また、彼の姿を見たら、襲いかかるだろうから。
わたしは三人を切り倒して扉のところにいった。それから、わたしのところにこようと塔に入っていた島民を呼び集めて、われわれの探す敵は外にいると告げることができた。彼らが、暗い階段吹き抜けからまだ飛び出してくる狂った怪物ども――それが間違いなく自分たちの兄弟や子供のなれの果てであることに、彼らは気づかなかった――をどんなに恐れているか見て、そもそも彼らがあえて城に入ってきたことに、わたしは驚いた。しかし、わたしの存在が彼らの勇気を鼓舞するさまを見るのは、すばらしいことだった。彼らはわたしを先頭に立たせたが、彼らの目つきから、わたしがどこに向かおうと、後についてくるつもりだとわかった。グルロウズ師の地位が、師に与えていたにちがいない喜びを、わたしが初めて理解したのは、この時だったと思う。この時までわたしは、その喜びは自分の意志を他人に押しつける能力への賞賛で成り立っているだけだと想像していた。また、宮廷の若い男たち(つまり、セクラとしてのわたしが送っていた生活での友達)が、なぜあのように大勢、許嫁《いいなずけ》を捨てて、辺境の軍隊の将校の地位を受け入れるのか、理解できた。
雨は少し弱まったが、まだ銀の幕のように降り注いでいた。死人と、そしてさらに多くの巨人の作り出した生物が、階段に倒れていた――それをまたぐと自分が落ちそうになるので、わたしはその何体かを、蹴って横に落とさなければならなかった。下の城壁の内側では、まださかんに戦闘が行なわれていた。しかし、そこにいる怪物は一匹として、われわれを襲いに上がってこなかった。そして、島民は塔内に残った怪物が出てこないように、階段を守っていた。バルダンダーズの姿はどこにも見えなかった。
戦いは、われを忘れさせてくれるという意味ではエキサイティングだが、描写するのは難しいものだと、わたしは知った。そして、戦いが終わった時、いちばんよく覚えているのは、切ったとか避《よ》けたとかいうことではなくて、切りあいの間の休止期間なのである――戦闘の最中は、それに心を奪われていて、多くのことを記憶するわけにはいかない。バルダンダーズの城の中庭で、わたしは彼が作り出した怪物と四回、激闘を演じたが、今となっては、どれが上手な戦いであり、どれが拙い戦いであったか、わからない。
テルミヌス・エストの構造からいって、わたしは荒っぽい戦いかたを余儀なくされたが、暗闇と雨はわたしに有利に働いた。正式のフェンシングだけではなく、それに類する剣や槍での闘技には、充分な明るさが必要である。対決者が、それぞれ相手の武器を見なければならないからだ。だが、ここはほとんど真っ暗だった。しかも、バルダンダーズの生物は自殺も辞さぬ勇気を持っており、それが彼らに不利に働いた。彼らはわたしの切りつける刃の上を飛び越えようとしたり、下をかいくぐろうとしたりして、たいてい、それに続く返す刀でやられてしまった。これらの断片的な格闘のたびに、島民の戦士が助太刀にきて、ある時などは実際にわたしの敵をやっつけさえした。また別の場合には、敵の注意をそらせたり、わたしと切り結ぶ以前にすでに傷を負わせてあったりした。しかし、これらの遭遇戦はどれも、処刑が見事に執行された場合のように満足のいくものではなかった。
四度目の切りあいの後は、もう戦いはなかった。だが、敵の死者や瀕死者がいたるところに倒れていた。わたしは島民をまわりに集めた。われわれはみな、勝利に伴う陶酔感に浸っていた。彼らはどんなに大きい巨人にも、すすんで打ちかかる気分になっていた。だが、壁の石が崩れ落ちた時に中庭にいた者でさえ、何も見なかったといいはった。そして、彼らは盲目だとわたしが思い始め、わたしが発狂したと彼らが考えかけた時に、月が救ってくれた。
それはなんと不思議だったことか。物事に対する星座の影響を調べようとして、見上げるにせよ、あるいはバルダンダーズのように、無知な者が退化人と呼ぶ人たちから知識をもぎ取ろうとして見上げるにせよ、またあるいは、単に農民や漁民などが天候を予知しようとして見上げるにせよ、だれもが知識を求めて空を見る。しかし、だれも天に直接の助けを求めて、見上げる者はない。もっとも、その夜わたしが得たように、われわれはしばしば天から助けを得るのである。
といっても、それは雲が割れたにすぎなかった。すでに断続的になっていた雨は、まだ本当にやんではいなかった。しかし、ほんの一瞬、欠けつつある月の光(月は頭上高くにあり、ほとんど半月に近かったが、とても明るかった)が巨人の城の中庭に射しこんだ。ちょうど、〈絶対の家〉の夢の階の奏楽堂《オデウム》のいちばん大きな照明灯の光が、よく舞台に落ちていたように。月の光を浴びて、地面の舗装のなめらかな濡れた石が、静かな黒い水のたまったプールのように光った。その中に、一つの姿が映った。それはあまりにも幻想的な光景だったので、心を奪われていつまでも見惚れていたら、わたしはまもなく殺されていただろうと、今では思っている。
というのは、バルダンダーズがわれわれの上に飛び降りてきたのである。それも非常にゆっくりと。
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37 テルミヌス・エスト
あの茶色の本には、バルダンダーズの姿勢と同様に、首をのけぞらせ、顔と胸の上部が水平になるように体を倒して、ウールスに舞い降りてくる天使の画が載っていた。〈第二の家〉の大きな本でちらりと見たあの偉大な生き物が、そういうようにして降りてくるのをみたら、人はさぞ驚き恐れることだろう。しかし、その光景も、これ以上に恐ろしいとは思えない。バルダンダーズのことを思い出すと、彼のこの姿がまず思い出される。彼は恐ろしい形相をして、燐光を放つ球が先端についた棍棒《メイス》を振りかざしていた。
われわれは、薄明の中を急降下してくるふくろうから逃げ散る雀の群れのように逃げた。背中に彼の打撃の風圧を感じて振り向くと、ちょうど降り立つところだった。彼はあいたほうの手で体を抱えこみ、大道芸人がやるように、くるりととんぼ返りをして直立した。彼は今まで見たこともない、金属のプリズムを連ねたような太いベルトをしていた。それにしても、壁を這い降りていたと思ったのに、その彼がいったいどうやって棍棒とベルトを取りに塔にふたたび入ったのか、どうしても合点がいかなかった。おそらくどこかに、わたしが見たのよりも大きい窓があったのだろう。あるいは、岸の住民の焼き討ちにあって破壊された城の残骸の一部に通じる扉があったのかもしれない。いや、片手をどこかの窓に差し入れたというだけのことかもしれない。しかし、彼が舞い降りてきた時のあの静けさ。貧しい大衆の小屋ほどもある、大きな図体をした彼が、片手で反動をつけてくるりととんぼ返りをした時の、あの優雅さ。静けさを表現する最善の方法は、何もいわないことである――しかし、あの優雅さときたら!
その瞬間、わたしはマントを後ろになびかせ、しばしばそうするように、剣を振りかぶって、さっと向きなおった。この時、今まで考えもしなかった問題の答えがわかった――なぜ運命は、わたしにこのように大きくて重い武器を持たせて(これで普通の人間と戦うと、まるで斧で百合の花を叩き切るようなことになるのに)、わたしを故郷から送り出し、大陸の半分にもおよぶ放浪をさせ、火やウールスの底からの危険、水からの、そして今は空からの危険に対面させたのかが。バルダンダーズはわたしを見て、先端が黄白色に光る棍棒を振り上げた。これは一種の挨拶だと、わたしは思った。
五、六人の湖の住民が槍と、歯を植えた棒を持って彼を取り囲んだ。しかし、接近しようとはしなかった。彼はまるで、密封された輪の中心のように見えた。われわれ二人が接近した時に、その理由がわかった。わたしは理解もできず、抑制もできない恐怖に捕われたのである。彼が怖いとか、死が怖いとかいうのではなく、ただひたすら怖い≠フである。まるで頭髪が幽霊の手に握られて揺すぶられているような感じがした。そういうこともあると話には聞いていたが、いつも大袈裟だと――大きくなりすぎて嘘になった言葉の綾だとして――退けていたことが、実際に起こったのである。膝の力が抜けて、がくがく震えた――あまり震えたので、暗くてみんなに見られなくてよかったと思うほどだった。それにもかかわらず、彼とわたしは間をつめた。
その棍棒の大きさと、それを握っている腕の大きさから、一撃されたら絶対に生き残れないとわかった。わたしはひたすら身をかわし、跳びすさるしかなかった。同様にバルダンダーズもテルミヌス・エストの打撃に耐えることはできないはずだった。なぜなら、彼は軍馬の鎧くらいの厚みのある鎧を着ることができるほど、大きくて力があったが、そういうものは身につけていなかったし、また、この剣ぐらい重くて鋭利だったら、普通の人間を頭から腰までやすやすと切り下げることができるので、たとえ相手が彼であっても、一太刀で致命傷を与えることは可能だったからである。
これは彼も心得ていた。それで、われわれは役者が舞台でやるように、実際に相手に当たらない空振りをしながら、激しく打ちあった。その間ずっと恐怖がわたしを捕えていた。恐怖感はあまりにも強くて、逃げずにいると心臓が破裂するのではないかと思われるほどであった。耳の中に一種の響きが聞こえていた。そして、棍棒の先の球を見つめているうちに――実際、青白い後光のような光のために、それはいやでも目に入った――その響きがそこから出てくるとわかった。その武器そのものが、甲高い一定のトーンで唸っているのだった。ちょうど、ワイングラスをナイフで叩いて、結晶した時間の中に固定したかのように。
ほんの一瞬にすぎなかったが、疑いなく、その発見がわたしの注意をそらせた。棍棒は、斜めにではなく、テントの杭を打ちこむ木槌のように、真っすぐに打ち降ろされた。わたしは間一髪でわきに避けた。唸り、光っている棍棒の先端が、わたしの顔面をかすめて、足もとの石を直撃した。石は土器のように割れて、破片が飛び散った。その破片の一つが額の隅に当たり、血が流れ落ちるのがわかった。
それを見ると、バルダンダーズは鈍い目に勝利の光を浮かべ、それ以後は一打ちごとに石を打った。そのたびに石が砕けた。わたしはただただ後退するしかなかった。まもなく背中が幕壁に当たるのがわかった。今度はそれに沿って後退していくと、巨人は今まで以上に有利に武器を使うことができた。つまり、それを水平に振って、壁を何度も何度も叩くのだ。しばしば石の破片、それも火打ち石のように鋭く尖ったものが、わたしの体をかすめて飛び散った。しかし、体に当たったものもかなりあり、まもなく血が目に流れこんできて、胸と腕は真っ赤になった。
たぶん百回目くらいに棍棒から飛び退いた時に、何かがかかとに当たり、わたしは転びそうになった。城壁に登る階段の、いちばん下の段だった。それを登ると、高さによって多少有利にはなったが、後退しなくてよくなるほどではなかった。城壁の上には狭い通路があった。わたしは一歩一歩その通路を後退していった。もう思いきって、背を向けて逃げ出そうとも思った。しかし、あの雲の部屋で彼の不意を襲った時に、彼がどれほどすばやく動いたかを思い出して、たとえ逃げても、彼は一跳びで追いつくだろうと思った。ちょうど、わたしが子供の頃にあの塔の地下牢で、逃げる鼠に追いついて、棒でその背骨を叩き折ったように。
しかし、すべての状況がバルダンダーズに有利に働いたわけではなかった。何か白いものがわれわれの間に閃いた。すると、ちょうどやまあらしの針が雄牛の首に刺さったように、巨大な彼の片腕に、骨の穂先のついた槍が突き立った。今は湖の住民は、鳴り響く棍棒から充分に離れているので、それが恐怖心をかき立てていても、武器を投げる妨げにはならなかったのである。バルダンダーズは一瞬躊躇し、後ずさりして槍を引き抜こうとした。また槍が跳んできて、その顔にかすり傷を与えた。
ここでわたしは希望を見いだして、飛びかかった。だが、その拍子に雨で滑る石の破片に足を取られて、城壁の縁から転落しそうになった。だが、きわどい瞬間に欄干をつかむことができた――そのとたん、巨人の棍棒の光る先端が振り降ろされるのが目に入った。わたしは反射的にテルミヌス・エストを上げてその打撃を防いだ。
その時、この剣が殺したすべての男女の亡霊が城壁の上に集まって悲鳴をあげたのではないかと思われるような悲鳴が聞こえ――それから耳を聾する爆発が起こった。
わたしは一瞬、気を失って倒れた。だが、バルダンダーズも同様に倒れていた。そして、湖の戦士たちは、棍棒の金縛りから立ちなおって、通路の両側から彼に向かっていっせいに押し寄せてきた。おそらくは自然の固有振動数を持ち、これまでもしばしば経験したように、指で弾くと信じられないほど良い音色で鳴ったこの剣の刃が、巨人の棍棒に不思議な力を与えているなんらかの機構を圧倒したのだろう。あるいは、外科医のメスより鋭利で、黒曜石より硬いこの剣の刃が、棍棒の頭を切断したというだけのことだったかもしれない。何が起こったにせよ、棍棒はなくなり、わたしの手には剣の柄だけが残っていた。柄から先には一キュビットにも満たない金属の破片が突き出しているだけで、これまであまりにも長い間、暗黒の中で働いていた水銀《ヒドラルジルム》が、銀の涙となって流れ出していた。
わたしが起き上がらないうちに、湖の戦士たちはわたしを飛び越えていった。一本の槍が巨人の胸に突き刺さった。そして、投げられた棍棒がその顔に当たった。彼が腕を一振りすると、二人の戦士が悲鳴をあげながら、城壁から転落していった。そのほかの者がいっせいに飛びかかった。だが、巨人は彼らを振り払った。わたしは何が起こったのかまだ半信半疑のまま、必死に起き上がった。
バルダンダーズは一瞬、欄干の上にバランスを取って立ち、それから跳んだ。身につけているベルトから、彼が大きな助けを受けているのは疑いなかったが、同時に、彼の足の力も大変なものだったにちがいない。彼はゆっくりと重々しく弧を描いて、遠くへ遠くへ、下へ下へと落ちていった。彼に長くしがみついていた三人が、湖を見下ろす断崖の岩に落ちて死んだ。
ついに、巨大な図体をしたバルダンダーズも落下した。まるで彼自身が、それだけで一つの飛行船で、それが操縦不能に陥ったかのようだった。湖の水が白いミルクのように泡立ち、それから彼を押し包んだ。蛇のようにうごめきながら、時々光を反射する物体が、水面から浮きあがって空に昇っていき、やがて陰欝な雲の中に消えていった。疑いなく、それはあのベルトだった。島の戦士たちは槍を講えて立っていたが、バルダンダーズの頭は二度と波の上に現われなかった。
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38 鉤《つ》 爪《め》
その夜、湖の住民は城を略奪した。わたしはそれに加わらなかったし、城壁の内側で眠りもしなかった。われわれが評議会を開いた松林の真ん中に、茂った大枝の陰になって、地面に散り敷いた松の枯れ葉がまだ乾燥したままカーペット状になっている場所があった。傷を洗って包帯をしてもらうと、わたしはそこに横になった。わたしのものであり、その前にはパリーモン師のものであった剣の柄を隣にしていたので、死者と寝ているような気分になったが、そのせいで夢を見ることはなかった。
鼻孔に松の芳香を感じながら目を覚ました。ウールスはすでに、その顔のほとんど全面を太陽に向けていた。体が痛み、飛んできた石の破片でできた切り傷がひりひり痛んで火照っていた。しかしこの日は、スラックスを出て高地に分け入って以来、わたしが体験した最も暖かい日だった。松林から歩み出ると、日光にきらめくディウトルナ湖と、岩の間に萌えでた若草が目に入った。
突き出た岩の上に腰を降ろした。後ろにはバルダンダーズの城がそびえ、足もとには青い湖が広がっていた。かつてテルミヌス・エストであった折れた剣の、美しい銀と縞瑪瑙《オニキス》の柄から、もう用のなくなった中子《なかご》を取り出した。剣は刃である。だからテルミヌス・エストはもはや存在しないのだ。しかしその柄を、旅の間わたしはずっと持って歩いた。人間の皮でできた鞘は焼いてしまったが。この柄にも、いずれは別の刃がつくだろう。たとえ、それがテルミヌス・エストほど完全なものでなく、わたしのものでなくなるとしても。
わたしは愛剣の残骸にキスをして、湖に投げこんだ。
それから岩の間を探しはじめた。バルダンダーズが〈鉤爪〉を投げた方向については、ほんの漠然とした印象しか残っていなかった。しかし、湖に向かって投げたことだけはわかっていた。また、あの宝石が壁の上を飛び越えたことはわかったが、いくら巨人の腕力が強くても、あのように小さな物体を水際からそれほど遠くまで飛ばすことはできないだろうと思われた。
しかしもし本当に湖に落ちたのなら、永久になくなったことになると、まもなくわかった。なぜなら、水深はどこもかも何エルもあったからである。それでもなお、宝石は湖には達せず、岩の割れ目に落ちて輝きが見えないだけかもしれないという感じが残った。
だから、湖の住民に手伝ってくれと頼む気にもならず、また、だれかに拾われるのが心配で、休んだり食事にいったりする気にもならずに、わたしは探しつづけた。日が暮れ、黄昏に鳴く海鴉の声が聞こえると、湖の住民が島にいこうと誘いにきた。しかし、わたしは断わった。彼らは岸の住民がくるのを恐れていた。いや、バルダンダーズの仇を討つために、すでに攻撃隊を組織しているだろうと恐れていた(彼は死んではおらず、湖の波の下で生きているのではないかというわたしの推測は、あえて彼らに伝えないことにした)。だから、早く行けと促すと、岬のごつごつした岩の間をまだ這って歩いているわたしを一人残して、彼らは帰っていった。
しまいに、暗がりで探すことに疲れて、どうにもならなくなったので、岩陰に入って朝を待つことにした。時々、自分が寝ている付近の岩の割れ目とか、水の底から、紺碧の輝きが見えるような気がした。しかし、それをつかもうと手を伸ばしたり、断崖の端にいって水を覗きこもうとするたびに、はっとして目覚め、夢だったとわかるのだった。
松の木の下に寝ている間にだれかに拾われてしまったのではないかという思いが何度も何度も浮かんできて、寝たのはまずかったと後悔した。それと同時に、あれが永久に失われるより、だれかに拾われたほうがずっと良いのだと、何度も自分にいい聞かせた。
夏の腐肉が蠅を引き寄せるように、宮廷は偽の賢者、えせ哲学者、現世否定論者などを引き寄せる。彼らは(最初は)独裁者からの指名があるかもしれないと思い、そして(後には)高貴人の子供の家庭教師の職を得られるかもしれないと思って、財布の中身と知恵の続くかぎり、そこに留まる。おおかたの若い女性の例に洩れず、セクラは十六歳ぐらいの頃、そういう家庭教師の神統記や神義論などの講義にひかれた。そして、特にわたしの記憶に残っているのは、ある女予言者《ポイバード》が、都市(つまり、その市民)、詩人、そして哲学者という三つの上帝《アドナイ》が存在するという古代の詭弁を、究極の真理として提唱した講義である。彼女の理屈はこうだった。人間の意識の始まり以来(そもそも、そのような始まりがあったとして)、これら三つの範疇に属するおびただしい人々が、神聖なるものの秘密に迫ろうと努力してきた。もし、神聖なるものが存在しなければ、彼らはとうの昔にそのことに気づいたはずであり、もし存在しているなら、真理そのものが彼らを誤り導くことはありえないと。しかし、庶民の信仰、吟遊詩人の洞察、そして形而上学者の理論が、あまりにも掛け離れたものになってしまったので、大多数の人々は他者の説を理解することすらできなくなってしまった。そして、それらの説をどれも知らない人は、それらの間に関連は全然ないのだと信じても無理はない、という状態になってしまったのだと。
では、こういうことではないかしら? と彼女は尋ねた(わたしは今でも、答えることができるかどうか確信が持てないのだが)。彼らは、常に考えられているように、三つの道を同じ方向に旅しているのではなくて、実は三つのまったく違う方向に旅しているのではないか。要するに、通常の生活で、一つの交差点から三本の道が出ているのを見れば、われわれはそれらの道が全部一つの目的地に向かって進むとは思わないのではないかと。
わたしはその時、この示唆は、反発を覚えるけれども理屈には合っていると思ったし、今もそう思っている。そして、これはあまりにも緊密に編まれているので、最小の異論も火花もその網の目をくぐることができず、その中では、事実への訴求が不可能な主題の場合には、人間の精神がその網の目にからまってしまうような、あの議論の偏執狂的な構造のすべてを表現しているように思われるのである。
〈鉤爪〉もそれと同じで、同一の基準では測れないものだった。ちょうど水平距離を無限に掛けあわせても、垂直距離と等しくはならないように、いくら大金を出しても、いくら群島や帝国を積み上げても、その価値に近づけることはできなかった。もしこれが、わたしの信じるように、宇宙の外からきたものだとすると、その光は――かすかに輝くのをたびたび、そして、明るく輝くのを、わたしはほんの数回見たが――ある意味でこれはわれわれが所有した唯一の光であった。もしそれが破壊されたら、後に残ったわれわれは暗闇を手探りして進むことになるのだ。
それを持ち歩いていた間ずっと、わたしはそれを高く評価しているつもりでいた。しかし、今こうしてディウトルナ湖の暗い水面を見晴らす岩棚に坐っていると、そもそもあれを持ち歩いたとは、なんと愚かなことだったろうと思われてくる。あのような乱暴な強行軍や、狂気の冒険の間はずっと持ち歩いていて、結局ここで失ってしまうとは。日の出の直前になって、ふたたび日が暮れないうちにあれを発見しなかったら、わが命を絶とうと、わたしは誓った。
この誓いが守れたかどうか、わからない。わたしは思い出すかぎり、人生を愛してきた(それは、どんな技であろうと、とにかくこの芸術に関して自分が保持している技を、自分に与えてくれた人生への愛だったと信じる。なぜなら、自分が丹精こめて燃え上がらせた炎が、完全燃焼せずに消えるのを見るのは耐えられないからである)。わたしは確かに自分の生命を愛している――その命は、今はほかの人々の命だけでなく、セクラの命とも混ざりあっている。もし、この誓いを破っても、誓いを破るのはこれが最初というわけではない。
しかし実際に、誓いを破る必要はなかった。この、わたしが体験した最も気持ちのよい日の午前の中頃に、暖かい抱擁のように日光が照り、下の湖の波が優しい音楽を奏でている時に、わたしは宝石を――いやむしろ、その残骸を――見つけたのである。
それは岩に当たって砕けていた。そこには四分領太守《テトラルク》の指輪を飾るくらいの大きさの破片と、雲母の中に見える火花ほどの大きさもない細片が落ちていた。しかし、それだけだった。わたしは泣きながら、それを一粒一粒拾い集めた。それから、鉱夫が毎日掘り出す宝石や、大昔の死人から略奪した装飾品と同様に、それらは生命のないものだとわかって、水際に持っていき、湖に捨てた。
手のひらのくぼみに、青味がかった微塵の小さな山を載せて、わたしは三度水際に降りていき、そのたびに割れた宝石のかけらをもっと見つけようとして、もとの場所に戻った。こうして三たび往復した後に、紺碧でもなく宝石でもないが、星のように強烈な白い光を発するものが、二つの石の間にはさまっているのを見つけた。それは深く食いこんでいたので、結局松林に戻って小枝を折り取ってきて、掘り出さなければならなかった。
崇敬の念というよりむしろ好奇心をもって、わたしはそれを掘り出した。探していた宝物とは似ても似つかないものであって――いや、少なくとも、発見しつつあった破片とは似ていなかったので――摘み上げるまでは、両者に関連があろうとは、ほとんど思っていなかった。それ自体は黒いものが、どうして光を発することができるのかわからないが、とにかくそれは発光していた。もしかしたら黒玉を彫ったもので、あまりにも黒く、あまりにも完全に磨き上げてあったのかもしれない。とにかく、それは光り輝いており、小指の先ほどの長さで鉤爪の形をしていた。まがまがしい鉤の形に曲がって、針のように尖っている。まぎれもなく、あの宝石の中心にあった黒い核だった。だから、宝石そのものは、これの容器、リプサノテカ、つまり聖体容器だったにちがいない。
この意義を把握しようとして、わたしはこの不思議な輝く宝物と湖の波を見比べながら、長い間、城に背を向けてしゃがんでいた。こうしてサファイアのケースなしに見ていると、首長の家で奪われる前の日々には決して気づかなかったある効果を、わたしは深く感じた。それを見ると必ず思考が拭い去られるように思われるのだ。酒やある種の麻薬のように、それにふさわしくない精神を溶かすのではなくて、名づけようのない高度の状態と、精神とを置き換えることによってそうするのである。わたしは何度も何度も自分がその状態に入るのを感じ、そのたびごとにより高く昇っていき、しまいには自分が正常と呼ぶ意識のモードに戻らなくなるのではないかと恐怖を感じ、何度も何度も、そこから精神を引き離すのだった。そして、戻ってくるたびに、広大な現実に対する表現不可能な洞察力を得たと感じるのだった。
ついに、これらの大胆な前進と恐ろしい退却とを長いあいだ繰り返した後に、自分が持っているこの微小な物体について、真の知識に到達することは決してないだろうと覚った。そして、この思想とともに(これは一つの思想だったから)、第三の状態がやってきた。何かわからぬものへの幸福な服従の状態。反省抜きの服従。なぜなら、もはや反省することは何もないのだから。そして、ほんの少しも反抗の気味のない服従。この状態はその日いっぱいと翌日の大部分にかけて、持続した。この頃には、わたしはすでに山岳地帯に深く入りこんでいた。
読者よ、わたしはきみを砦から砦まで――アシス川の上流を支配するスラックスの城壁都市から、僻遠のディウトルナ湖を支配する巨人の城まで――連れてきて、ここで休む。スラックスはわたしにとって荒涼たる山岳地帯への入り口だった。そしてまた、この孤独な塔も一つの入り口に――ほかならぬ戦争の戸口に、なる運命にあった。ここで、遠く離れた戦争の一つの小競りあいが起きたのだから。あの時からこの時まで、この戦争はほとんど絶えることなくわたしの注意を引いてきた。
ここで休む。たとえ、わたしと並んで闘争に飛びこむ意志がなくても、読者よ、きみを責めるつもりはない。それは決して容易なことではないのだから。
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〈付録〉
地方政府についてのノート
セヴェリアンが簡単に記録しているスラックスでの経歴の記載は、〈絶対の家〉の光り輝く回廊やネッソスの賑やかな街路から遠く離れた地域における、共和国時代の政府の仕事についてわれわれの手にある(唯一ではないが)最良の証拠である。明らかに、われわれ自身の立法、行政、司法の区分は当てはまらない――法律はある一組の人々によって作られねばならず、また別の一組の人々によって施行されねばならず、裁判はそれとは別の一組の人々によって行なわれなければならないというわれわれの考えは、疑いなくアブディーススのような行政官には笑われてしまうだろう。彼らはこのような組織が実際に証明されているように――うまく働くはずがないと思うだろう。
この手記の時代には、執政官や四分領太守《テトラルク》は、人民の代表者として全権を握っている独裁者によって任命された。(しかしながら、この話題については、ファミリムスがセヴァリアンに語ったことを参照されたい)これらの役人は独裁者の命令を実行し、また、支配下にある大衆に受け入れられている慣習に従って、裁判を行なうことが期待されている。彼らはまた立法者の支配する地域だけの、そして、その人の在職期間だけに有効な――地方法を作る権限を与えられており、また、その法律を死刑をもって強制する権限を与えられている。〈絶対の家〉や〈城塞〉だけでなく、スラックスにおいても――われわれにとって最も普通の刑罰である――期限を定めた投獄は知られていない。〈獄舎《ヴインクラ》〉の囚人は拷問か処刑を待つために収容されているのであり、または、親戚縁者が良い行動をするための人質として収容されているのである。
この手記が明らかに示しているように、〈獄舎〉(つまり鎖の家)の監督は警士《リクトル》(つまり縛る者)の義務の一つにすぎない。この役人は刑事裁判の執行に関して、執政官の首席補佐官である。ある種の儀式の場合には、彼は抜き身の剣を持って、主人の前を歩く。これは執政官の権威を強く思い出させるためである。執政官によって裁判が行なわれている間、彼は(セヴェリアンが不満を述べているように)その椅子の左に立っているように要求される。死刑その他の主な法的処罰は彼が直接執行し、また、獄吏(つまり鍵を持つ者)の仕事も彼が監督する。
これらの獄吏はただ単に〈獄舎〉の監視をするだけでなく、刑事の役目もする。彼らは囚人から強制的に情報を取る機会があるので、これは比較的容易な仕事である。彼らの持っている鍵は棍棒として使えるほど大きいので、鍵は道具であるだけでなく武器であり、権威の象徴にもなっている。
龍騎兵《デイマルキ》(つまり、二通りに戦う者)は執政官の軍隊であると同時にその制服警官でもある。しかしこの名称は、この二つの職務を表わすのではなく、必要に応じて騎兵の働きも歩兵の働きもできるような装備を持ち、その訓練を受けていることを示すものらしい。この軍隊は職業軍人、北方戦線の退役軍人、およびこの地域の非土着民で成り立っているらしい。
スラックスそのものが明らかに要塞都市である。これらの場所は、敵であるアスキア人に対しては、せいぜい一日くらいしか持ちこたえられないと考えられている――それよりもむしろ、山賊とか、地方の高貴人や大郷士による反乱を防ぐように設計されているらしい。(サイリアカの夫は、〈絶対の家〉ではほとんど問題にされていないようだが、スラックスの近在では、明らかにある程度重要で、また多少の危険性さえある人物である)すべての高貴人と大郷士は私兵を養うことを禁じられているが、彼らの追随者の多くが――首長とか執事などと呼ばれているが――基本的に武人であることには、ほとんど疑う余地がない。おそらく彼らは、荘園を匪賊から守ったり、地代を取り立てたりするのに不可欠の存在なのだろう。しかし、内政不安の場合には、アブディーススのような者にとって潜在的な危険の源になるのであろう。川の源流をまたいで立つ要塞都市は、このような紛争の場合には、彼にとってほとんど難攻不落の要害となるであろう。
セヴェリアンが逃走のために選んだルートを見れば、町からの出口がいかに厳重にコントロールされているか、よくわかる。執政官自身の砦、アシーズ城(つまり、剣の切っ先の兵営)は、谷の北端を守っている。それは町そのものの中にある彼の宮殿からは、完全に切り離されているらしい。南端はキャプルス(つまり、剣の柄)によって封鎖されている。これは明らかに要塞化された壁であって、ネッソスの〈壁〉の縮小版である。断崖の上でさえも壁に連結された砦によって守られている。この町は、実際に新鮮な水の供給を無尽蔵に受けているので、重装備をしていない軍勢に包囲攻撃されても、かなり長期間にわたって持ちこたえることができそうである。
[#地から2字上げ]G・W
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解 説
[#地から2字上げ]小 川  隆
インスタント・クラシック≠ニいう言葉があります。発表されると同時に、古典としての評価が定まってしまうような作品のことです。さまざまな刺激や情報にあふれている現代では、こう呼ばれる作品はどんどん少なくなっているといえるでしょう。音楽の世界でいえば、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」や、ピンク・フロイドのLP『狂気』などが最後でしょうか。もっと若いジャンルのビデオでは、ランディスの「スリラー」や、噂の『マックス・ヘッドルーム』など、そのジャンル内のある流れをかたちづくったり、集大成して、たちまちオールタイム・ベストに選ばれる作品は、まだまだ生まれているようです。
では、SFではどうでしょう。ル・グィンの『闇の左手』やニーヴンの『リングワールド』あたりが最後だったでしょうか。いくつも賞をとった作品でも、多くの模作が発表されるうちにその新鮮さを失い、古典としての評価を与えにくいこともあります。また、ディックのように、作者の死後に急速に評価をあげる作家もいます。御三家といわれるクラーク、アシモフ、ハインラインとまでいかずとも、エリスン、ディレイニー、ゼラズニイら六〇年代までに登場した作家には、みな大評判を博した代表作があったように思います。しかし、いま騒がれている『ニューロマンサー』にしろ『ブラッド・ミュージック』にしろ、十年、二十年後に古典としての評価をたもっていられるでしょうか。むしろ、こうした運動の中での作品は、新しさや時代性が生命であり、古典の中にとりこまれることを拒否するもののように思えます。逆にいえば、そうした姿勢がこれらの作品を、結果として古典にしてゆくのではとも思えるのですが、そうした議論がでてくることからしても、これらをインスタント・クラシック≠ニ呼ぶわけにはいかないでしょう。また、こうした意識的創作態度をもたないほかの作家は、いまではそもそも古典≠ネど目ざしていないのかもしれません。
では、SF界にそういったすぐれた作品と、それをとりあげる土壌はなくなってしまったのでしょうか。
そんなことがないことを実証してくれたのが、前置きが長くなりましたが、このジーン・ウルフの≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]のシリーズです。
前二巻を読んだ方は、もうこのシリーズのとりこになっているでしょう。三巻めは、前二作ほど明るく楽しくはないかもしれません。けれど、第四巻『独裁者の城塞』は疑いなく最高級のSFであり、それまでの謎の多くがSFの枠からきちんと解明されています。そして、その第四巻の感動をもたらすのが、この悲劇的な第三巻の存在なのです。ともかく、最後まで読みつづけることをおすすめします。
問題は、前二作があることを知っていて、買おうかどうしようか迷っている読者の方です。まず、ファンタジイは好きだけれど、このシリーズはSFだし、時間旅行だの異星人だのという話は苦手だという人には、こう考えていただけたら、と思います。ウルフがこの作品でやっていることは、トールキンが『指輪物語』で試みたことを、時間的にもひろげてみたのだと。トールキンは世界の神話を集大成して、『指輪物語』を構想しました。ウルフはそれを古今の$_話を集大成することに代えたのです。SF的解釈は、読者の努力にゆだねられています。解き明かそうとすれば、さまざまな手がかりがふんだんにひそんでいます。しかし、ファンタジイとして楽しむつもりなら、そんな謎ときはしなくても、主人公セヴェリアンの遍歴と成長の物語として、じゅうぶん楽しめる作品です。しかも、ウルフはトールキンにはできなかったこと、つまり女性を描くことにも成功しています。
SFは好きでもファンタジイはだめ、という方にとって、このシリーズはややとっつきにくいかもしれません。まるで『スター・ウォーズ』のようなエキゾチックな中世的(いや、古代的でさえある)社会が、はるか未来の地球だというのですから。けれど、ハードSFのようなボルトとナット式のアイディアこそないものの、ここには魅力的なアイディアがふんだんにつまっています。しかも、ウルフは凡百のSF作家のように、それを作中人物に得々として語らせるというお粗末な手法をとってはいません。それを発見する喜びを読者の手にあずけているのです。ここにはセンス・オヴ・ワンダーの宝庫があります。それを読みとくスリルこそ、長いことSFをミステリの兄弟ジャンルにしてきたのではないでしょうか。たとえば、この時代の地球の地形が現在とはどう変わっているのか。そう考えただけでも、ネッソスやスラックスが現在のどこなのかなど、さまざまな空想がふくらんできます。また、不死を求めて水中にはいった巨人族のくだりなど、思わず涙を誘うエピソードにも、科学技術と人間の関係にたいする鋭い指摘があります。そのSF的視点は第四巻で一挙に明らかにされるのですが、そこでセンス・オヴ・ワンダーを味わうためにも、ぜひ第一巻からさかのぼって読むことをおすすめします。
また、SFとかファンタジイとかにたいする興味がたいしてあるわけではなく、ただおもしろいだけの作品をさがしている方にとっても、このシリーズは最良のおすすめ品です。ストーリイ自体は、成長小説の要素をもつ古典的な遍歴譚ですし、登場人物も(とくに女性陣は)じつに魅力的に生き生きと描かれています。さらに、おとぎ話のような短篇が随所にちりばめられ、何とおりにも楽しめるような趣向がこらされています。個人的な体験をお話しすれば、ぼくは第一巻を出版と同時に仕事の一部としてハードカヴァーで読み、その魅力にとりつかれました。二巻、三巻とペーパーバックにおりるのが待ち遠しく、とうとう第四巻の完結篇はペーパーパックになるのが待ちきれずに、高価なハードカヴァーで読んでしまいました。そのときの興奮は〈SFの本〉四号を読んでいただいた方にはおわかりいただけるでしょう。欧米の多くの読者が似たような経験をもち、第一巻を読むと同時に、いま歴史に残る驚異の作品の誕生にたちあっているのだという興奮を覚えたといいますし、それは三巻までの書評にことごとく現われています。書評子のほとんどが、作品にこめられたアイディアを読みとけたかどうかという自信をもてず、しかしその豊かなイメージとたしかな文章、魅力的なキャラクターに魅了されて、いちようにSF界の大事件(大傑作ではありません。その判断は完結まで保留するという口実で、放棄されたのでした)として、あらゆる書評がトップにこの三巻をとりあげたのです。ともかく、担当編集者の力量にもあまる作品で、担当したデイヴィッド・ハートウェルは、何度も入念に読みなおしたあげく、四部作全体の中で手をいれたのはわずか二ヵ所だけだったことを告白しています。逆にいえば、それだけ完成度も高い作品だったのです。
いま、この解説を手がかりに本書を買おうかどうか考えている方に。もしも買う勇気がなければ、借りてでも読んでください。四巻ぜんぶを読みとおす体力がなければ、一巻と四巻だけでも読んでみることをおすすめします。マキャフリイの≪パーンの竜騎士≫[#≪≫は《》の置換]のシリーズや、シルヴァーバーグの≪ヴァレンタイン卿≫[#≪≫は《》の置換]シリーズに代表されてきたサイエンス・ファンタジイは、なんといってもこの≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]のシリーズで頂点をきわめているのですから。
また、≪新しい太陽≫[#≪≫は《》の置換]という言葉の意味(マヤ神話との対比、ヴァンスの『終末期の赤い地球』との視点のちがい等々)など、このシリーズには興味ぶかいアイディアが、それこそサイバーパンクをしのぐほど、あふれています。徹底的分析や、本格的評論に耐える作品といえるでしょう。そういった方面からのアプローチにも期待したいと思います。
では、ここであらためてウルフの作品リストを掲げておきましょう。
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1 Operation ARES (1972)
2 The Fifth Head of Cerberus (1972) 連作中篇集
3 Peace (1975) ノンSF
4 The Devil in a Forest (1976) ジュブナイル
5 The Shadow of the Torturest (1980) ≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]@『拷問者の影』ハヤカワ文庫SF689
6 The Island of Doctor Death Other Stories and Other Stories (1980) 短編集
7 The Claw of The Conciliator (1981) ≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]A『調停者の鉤爪』ハヤカワ文庫SF703
8 Gene Wolfe's Book of Days (1981) 短篇集
9 The Sword of the Lictor (1981) 本書
10 The Citadel of the Autarch (1982) ≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]C『独裁者の城塞』ハヤカワ文庫SF近刊
11 The Castle of the Otter (1982) ≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]についてのエッセイ
12 The Wolfe Archipelago (1983) 短篇集
13 Plan[e]t Engineering (1984) 短篇集
14 Free Live Free (1984)
15 Soldier of the Mist (1986)
以上のほかにも、つぎの作品が予告されています。
16 The Urth of the New Sun (1987) ≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]続編
17 There Are Doors
18 Soldier of Arete 16の続篇
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何はともあれ、久しぶりにアメリカSFが生んだこのインスタント・クラシック≠お楽しみいただければ、と思います。
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底本:新しい太陽の書3[#3は○+3] 警士の剣 早川文庫 早川書房
1987年7月31日 発行
2005年9月15日 二刷
このテキストは
(一般小説) [ジーン・ウルフ] 新しい太陽の書3 警士の剣.zip iWbp3iMHRN 64,125 21a91ba93c963fe507dad744acc6d409
を元に、OCRにて作成し、底本と照合、修正する方法で校正しました。
画像版の放流神に感謝します。
※本文中の割り注表記部が多いため注記表示が五月蠅くなっています(汁
***** 底本の校正ミスと思われる部分 *****
*行数は改行でカウント、( )は底本の位置
1484行目
(p280-16) 少年セヴェラ
アルザボが幼女の声で話していたところをみると少女では?
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