新しい太陽の書2[#2は○+2]
調停者の鉤爪
THE CLAW OF THE CONCILIATOR
[#地付き]ジーン・ウルフ Gene Wolfe
[#地付き]岡部宏之訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)あなたの刺《とげ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)部屋の|水差し《ユーワー》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから本文]
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日本語版翻訳独占
早川書房
C[#○+C] 1987 Hayakawa Pablishing, Inc.
THE CLAW OF THE CONCILIATOR
by
Gene Wolfe
Copyright C[#○+C] 1982 by
Gene Wolfe
Translated by
Hiroyuki Okabe
First published 1987 in Japan by
HAYAKAWA PUBLISHING, INC.
This book is published in Japan by arrangement
with VIRGINIA KIDD AGENCY, INC.
through TUTTLE-MORI AGENCY, INC. TOKYO.
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しかし、あなたの刺《とげ》から力がなおも流れ出す、
そして、あなたの深淵からは楽の音が。
あなたの影は薔薇のようにわたしの心の中にある。
そして、あなたの夜は強いワインのようだ。
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目 次
1 サルトゥスの村
2 暗闇の男
3 見世物師のテント
4 花束
5 小川
6 青い光
7 刺客
8 短刀
9 木の葉の君主
10 セア
11 セクラ
12 ノトゥール
13 調停者の|鉤爪《つめ》
14 控の間
15 愚者の火
16 ジョナス
17 学生とその息子の物語
18 鏡
19 収納室
20 絵画
21 水占い
22 化身たち
23 ジョレンタ
24 タロス博士の劇『天地終末と創造』
25 神殿奴隷《ヒエロドウール》への攻撃
26 別れ
27 スラックスに向かって
28 アバイヤの女奴隷《オダリスク》
29 牛飼い
30 穴熊との再会
31 清め
付録/共和国の社会関係
訳者あとがき
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調停者の鉤爪
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1 サルトゥスの村
一条の光の中に、わたしのマントのように黒い髪に縁取られた、モーウェンナの美しい顔が浮かんだ。その首から石の上に血が滴った。唇が動いたが、言葉は出なかった。しかしわたしは(まるで永遠≠フ割れ目から時の世界≠覗く自存神《インクリエート》ででもあるかのように)その光景の内側に、その農家を、ベッドの上で苦しみ悶えている彼女の夫スタチズを、池のほとりで火照った顔を洗っている小さなチャドを、見た。
外で、モーウェンナの告発者のエウゼビアが魔女のように泣きわめいた。わたしは彼女に静かにしろというために格子のそばに寄ろうとした。だが、たちまち独房の暗闇に迷ってしまった。ついに明かりを見つけると、それは〈憐れみの門〉の影から伸びている緑の道だった。ドルカスの頬から血が噴き出し、それが地面にぼたぼた垂れる音が、騒々しい悲鳴や怒号の中でさえも耳に届いた。このように壮大な構造物である〈壁〉が、ちょうど表紙と表紙の間の狭い線が二冊の本を分けるように、世界を二つに分けていた。今やわれわれの前に、ウールスの創成以来生えているかと思われるような、断崖のように高い巨木が、純粋な緑に包まれてそびえていた。それらの間に道路があり、若草が萌え出しており、その上に男女の死体があり、一台の小型馬車が燃えて、その煙が澄んだ空気を汚していた。
湾曲した牙に天藍石《ラズライト》をちりばめた軍馬にまたがった五人の騎手がいた。彼らはヘルメットをかぶり、インダンスレーン青のケープをまとい、穂先から青い炎を噴く槍を持っており、その顔は兄弟の顔よりももっとよく似ていた。旅行者の流れはこれらの騎馬武者に当たって、岩に砕ける波のように左右に分かれた。ドルカスがわたしの腕から引き離されたので、わたしはテルミヌス・エストを抜き放った。そして、われわれの間を隔てる者をあわや切り倒そうとした時、その人物はマルルビウス師だとわかった。彼は大混乱の真ん中に落ち着きはらってたたずみ、そのそばにわたしの愛犬のトリスキールがいた。それを見て、これは夢だとわかり、またそのことから、前に見た彼の幻は夢ではなかったと、眠りの中でさえも知った。
わたしは毛布をはねのけた。耳に鐘楼のカリヨンの響きが残っていた。起床時間だった。服を着ながらキッチンに駆けつける時間であり、職人のクックさんのために鍋を掻き回し、グリルからソーセージを――ほどよく焼けて、はじけて、香ばしい匂いを放っているソーセージを――盗む時間だった。顔を洗う時間であり、職人たちに給仕をする時間であり、パリーモン師の試験の前に学科を暗唱すべき時間だった。
目を覚ますと、そこは徒弟の宿舎の中だった。しかし、すべてが違っていた。丸窓があるはずの白壁に、隔壁にあるはずの四角い窓が開いていた。固く狭い寝棚の列が消えており、天井があまりにも低かった。
それから目が覚めた。窓から田舎の匂い――昔、あの共同墓地から壊れた幕壁を通って漂ってきた草花や木々の、むしろ快い匂いによく似ているが、それに厩《うまや》の蒸れた匂いの混じったもの――が漂ってきた。鐘の音がまた聞こえた。さほど遠からぬ鐘楼から、〈新しい太陽〉の到来をこいねがう信仰をいまだに抱いている少数の人々に呼びかける鐘の音だった。もっとも、まだ非常に早い時間で、古い太陽はその顔からウールスのべールをまだほとんど落としていなかったし、また、鐘の音以外には村は静まりかえっていた。
前の晩にジョナスが見つけたのだが、部屋の|水差し《ユーワー》にワインが入っていた。わたしはそれを少し口に含んで口をすすいだ。その渋味が水よりも快かった。しかし、やはり水で顔を洗い、髪をとかしたかった。寝る前に、マントを畳み、その真ん中に〈鉤爪《つめ》〉を入れて、枕にしていた。今、それを広げようとして、前にアギアがわたしのベルトの|図 嚢《サパタッシュ》に手を差し入れようとしたことを思い出した。それで、〈鉤爪〉をブーツの中に押しこんだ。
ジョナスはまだ眠っていた。わたしの経験では、人は起きている時よりも眠っている時のほうが若く見える。しかし、ジョナスは老人のように見えた――いや、たぶん、年輪を経ているというだけのことかもしれない。彼の顔は、鼻筋が通り、額がまっすぐで、昔の絵によくあるような顔だった。わたしは残り火を灰に埋めると、彼を起こさずに部屋を出た。
中庭の井戸のバケツの水で顔を洗ってさっぱりした頃には、旅籠《はたご》の前の道路はもはや静かではなく、前夜の雨でできた水溜りを通っていく蹄の音や、三日月刀のような角のぶつかりあう音で、騒々しくなっていた。どの獣も人間より背が高く、黒か白黒の斑《ぶち》で、顔にかかる荒い毛の陰に半分隠れている目をぎょろつかせていた。モーウェンナの父親が御者だったことを思い出した。この獣の群れが彼のものだということもありうる。しかし、まあそんなことはないだろう。わたしは地響きを立てていく獣の最後のやつが通り過ぎるのを待って、馬に乗っていく人々を眺めた。三人いたが、その顔は汚れていて、ありふれた顔つきだった。彼らは先端に金具のついた自分の体よりも長い突き棒を振り回していた。そして、強くて鋭敏な雑種の犬を連れていた。
旅籠の中に戻って朝食を注文すると、焼きたての暖かいパン、作りたてのバター、酢潰けの家鴨の卵、そして泡立てた胡椒入りのチョコレートが出てきた(この最後の食物は、この時には知らなかったが、北方の習慣を受け継いでいる人々の中に入ったという確かな証拠であった)。頭の禿げた小鬼のような宿の亭主は、前夜にわたしが村長《アルカルデ》と会話していたのを見ていたらしく、鼻を袖口でこすりながら、テーブルにつきまとって、料理が出てくるたびに味はどうかと尋ね――事実、すべてとても良い味だった――夕食にはもっと旨いものを出すと約束し、コックが駄目だと罵った。もっとも、そのコックは彼の女房が務めているのだったが。彼はわたしを殿様《シユール》と呼んだが、それはネッソスの人が時々そうしたように、わたしを匿名の高貴人《エグザルタント》と思ったからではなくて、ここでは拷問者が能率的な法の力として、偉い人物と考えられているからであった。貧乏人の常として、彼には自分より上の階級は一つしか考えられなかったのである。
「ベッドの具合はよろしゅうございましたか? 羽毛はたくさん入っておりましたか? もっとたくさん持ってまいります」
わたしは口に食べ物がいっぱい入っていたが、うなずいた。
「では、そういたしましょう。三枚で充分でしょうか? あなた様ももう一人の殿様も、一緒のお部屋でよろしゅうございますね?」
むしろ別々の部屋のほうがよい、とわたしはいいかけた(ジョナスが泥捧とは思わなかったが、〈鉤爪〉はどんな人間にとっても強すぎる誘惑になる可能性があったし、それよりも何よりも、わたしは他人と同じベッドに寝るのに慣れていなかったのだ)。だが、その時、ひょっとしたら彼は個室の宿賃を払うだけの金を持っていないのではないか、という考えが頭にひらめいた。
「今日はあそこにおいでになりますね、殿様? 壁をぶち破る時に? 石工が一人いれば切石を下ろすことはできます。でも中でバルノックが動いている音が聞こえるし、まだ力が残っているかもしれません。たぶん、武器を見つけているでしょう。ねえ、石工の指を噛むくらいのことはできるでしょうよ、他に何もできないとしても!」
「公式の資格でいくことはないが、できれば見物してもいいな」
「みんなきますよ」禿頭の男は両手をこすりあわせたが、その手はまるで油でもついているようになめらかに触れあった。「あのねえ、祭になるんですよ。村長はそうするといっています。商才のある人ですからね、あの村長は。並の人間なら――うちのパーラーであなたを見かけても、なんにも思いつきません。いや、モーウェンナに引導を渡してもらうくらいのことしか考えません。ところが、あの人は違う! 彼は物事を見る。それらの可能性を考える。いわば、一瞬にしてあの人の頭から、祭のすべてが飛び出すんです。色とりどりのテントやリボン、焼肉や綿菓子、全部いっぺんにね。今日は何をするか? さあ、今日は開かずの家を開いて、穴熊のようにバルノックを引き出す。これで皆の気持ちが沸き立ち、近在の人々が何リーグも歩いて集まってくる。それから、あなたがモーウェンナとあの田舎者に仕事をするのを見物する。明日は、あなたはバルノックに取りかかる――普通は焼き鍍《ごて》から始めるんでしょう? みんなそれも見たがりますよ。次の日は、彼にかたをつけ、テントを畳む。人々が金を使ってしまったら、その後はあまり長い間ぶらぶらさせておかないほうがよい。そうしないと、物乞いを始めたり、喧嘩を始めたり、いろいろと厄介ですからね。すべて上手に計画され、すべて上手に見通しが立っている! それが村長ってもんです!」
朝食がすむと、また外に出て、村長の魔法のような考えが具体化するのを見物した。田舎の人人が果物や獣や、家で織った反物を売るために、ぞろぞろと村に入ってきた。彼らの中には、毛布や、吹き矢で殺した黒と緑の小鳥を紐に通したものを持っている土着民も二、三混じっていた。ここでは、わたしの煤色のマントは多少おかしな目で見られるので、アギアの兄に売りつけられたあのマントがまだあればよかったのに、と今になって思った。ふたたび旅籠の中に戻ろうとした時に、早足で行進する足音が聞こえた。それは、〈城塞〉の駐留軍の演習で聞き慣れた音であり、あそこを去って以来耳にしていない音だった。
今朝早く見た獣は、河に向かって降りていったのだ。そこからはしけに乗せられて、ネッソスの畜殺場への旅の残りをすることになっていた。だが、今やってきた兵士たちはその逆、つまり、河のほうから上がってきていた。彼らの士官が、行進したほうが兵士を鍛えることになると感じているからか、それとも、彼らを運んできた船がよそで必要になったからか、あるいは、彼らの目的地がギョルから離れたところにあるためか、わたしには知りようがなかった。彼らが人混みの中に乗りこんでくると、軍歌を歌えという大声の命令が聞こえた。そして、ほとんどそれと同時に、下士官《ヴィントナー》の棍棒の当たる音、不運にも叩かれた人の叫び声などが聞こえた。
その兵士たちは投石兵《ケラウ》であって、それぞれ長さ二キュビットの柄のついた投石器《スリング》で武装し、それぞれ焼夷弾の入った絵具を塗ったなめし革のパウチを持っていた。わたしより年上らしい者もいくらかいたが、大部分はわたしよりも若かった。だが、その鍍金《めっき》した鎖帷子《くさりかたびら》や、豪華なベルトや、長い剣につけた図嚢などが、選り抜きの突撃隊員《エレンダリアイ》であることを、誇らしげに主張していた。彼らの歌はたいていの軍歌と違って、戦闘や女のことを歌ったものではなく、生粋の投石戦士の歌だった。その日、わたしが聞いた限りでは、次のような文句だった。
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小さい頃におふくろがいった、
ねんねんおころり、涙をお拭き。
どうせ坊やは旅に出る、
|流 星《シューティング・スター》の下で生まれたこの子だ。
大きくなったら、おやじがいった、
おいらの髪の毛引っぱって、頭を殴っていったっけ。
傷を受けても泣いてはならぬ、
流星の下で生まれた男だ。
魔法使いに会ったら、いった、
朱《あけ》に染まった未来が見える。
火事に暴動、略奪に戦争、
おう、流星の下で生まれた男よ。
羊飼いに会ったら、いった、
おれたち羊はいかねばならぬ、どこへなりとも仰せのままに。
〈夜明けの門〉には天使が待ってる、
さあさ、いこうよ、流星を追って。
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といった具合に、次から次へと、謎めいた歌詞(わたしにはそう思われた)や、ただ滑稽なだけの歌詞や、単に韻を踏ませるためだけの寄せ集めの言葉が続き、それが何度も何度も繰り返された。
「立派な兵士たちですねえ」そういったのは旅籠の亭主だった。彼は禿頭をわたしの肩に寄せかけていた。「南の連中です――ほら、黄色い頭髪や、まだらの肌をしたやつが大勢いるでしょう。彼らはあちらで寒さに慣れています。山岳地帯ではこいつらが必要なんですよ。それにしても、この歌声を聞いていると、一緒にいきたくなりますなあ。何人ぐらい、いると思いますか?」
食料を積んだ駄馬が、剣先で追われてくるのが見えてきた。「二千人。いや、二千五百人かな」
「なるほど。彼らがどこにいくか知りたいんですよ。この道をどんなに大勢の人が上ってきたか、とても信じられないでしょう。しかし、戻ってくる人はほんのわずかです。まあ、それが戦争というものなんでしょう。わたしはいつも自分に言い聞かすんです。彼らはまだあちらにいるのだと――どこにいったにしても――とにかく、あちらにいるのだとね。しかし、あなたもわたしも知っているように、行きっきりになってしまった人が大勢います。それにしても、歌声を聞いていると、一緒にいきたくなるもんですねえ」
何か戦争のニュースはあるかと、わたしは尋ねた。
「ええ、あります。わたしはもう何年も何年も前から注意しているんです。それにしても、おわかりでしょうが、彼らの戦いはいくらやっても変わりばえしないみたいですね。こちらに近づいてくるでもなし、そうかといって、遠のくわけでもなし。いつも想像しているんですが、われわれの独裁者と相手の独裁者は戦争をする場所を決めていて、それが終わるとそれぞれ家に帰るんじゃないでしょうかね。うちのかみさんは、あんな馬鹿だけれど、そもそも実際には戦争などないと信じているんですよ」
最後の駄馬の御者が通った後を、群衆が閉ざした。そして、われわれがお喋りをしている間にも、群衆は刻々と増えていった。人々は大騒ぎをして露店やパビリオンを組み立てて、道路の幅を狭め、そのために人混みがいっそうひどくなった。高い竿の先につけた毛髪の逆立った仮面は、樹木のように地面から生えだしたもののように見えた。
「じゃおかみさんは、兵士たちがどこにいくと思ってるのかね?」わたしは、旅籠の亭主に尋ねた。
「ヴォダルスを探しにいくのだと、やつ[#「やつ」に傍点]はいうんですよ。まるで、独裁者が――その手は黄金を撫で、敵もそのかかとにキスをするという、あのお方が――たった一人の盗賊を捕まえるために全兵力を派遣するようなことを、あいつはいうんですよ!」
わたしにはヴォダルスという言葉以外はほとんど耳に入らなかった。
諸君と同様の普通の人間になれるなら――日々に記憶が薄れると文句をいっている諸君のような人間になることができるなら――わたしは何を投げうっても惜しくはない。わたしの記憶は決して薄れない。それは常に残っている。そして、最初の印象のとおりに常に新鮮である。だから、いったん記憶を呼び起こすと、わたしは金縛りのようになって、その記憶の中に運び去られてしまうのである。
わたしは旅籠の亭主に背を向けて、つめかける田舎者や騒ぎ立てる商人たちの中に紛れこんだように思う。しかし、わたしの目には彼らの姿も亭主の姿も入らなかった。その代わりに、足の下に、あの共同墓地の人骨の散乱した小道を感じ、漂う河霧を透かして、貴婦人にピストルを渡して剣を抜いたヴォダルスのほっそりした姿を見ていた。今(大人になってしまうというのは、悲しいことだ)わたしは彼の異常な行動に感動した。百もの秘密のプラカードで、旧体制のために戦うとか、今のウールスが失ってしまった高度の古代文明のために戦うと宣言している男が、その文明の、効率のよい武器を捨ててしまったのだから。
もし、過去の記憶が無傷で残るとすれば、その理由はひとえに、過去は記憶の中にしか存在しないからだろうと思う。わたしと同様に過去をふたたび呼び起こすことを望んだヴォダルスは、現在に生きるものとしていまだに残っている。われわれが今あるようにしか存在しえないということは、われわれの許されざる罪として依然として残っている。
もしわたしが諸君と同様に薄れる記憶の持ち主であったら、群衆を肘でかき分けて歩いたあの朝に、疑いなく彼を退けていただろうし、それによって、ある意味で、これらの言葉を書き連ねている今もわたしを掴んでいる、この生の中の死から逃れたことであろう。いや、ひょっとしたら、全然逃れなかったのかもしれない。そうだ。たぶん逃れはしなかったのだろう。いずれにしても、あの古い、想起された感情はあまりにも強烈だった。かつて感嘆したものへの感嘆の念に、わたしは捕えられてしまったのである。ちょうど、琥珀の中に捕えられた蝿が、大昔に消えた松か何かの木の捕虜として残っているように。
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2 暗闇の男
その盗賊の家は、村の普通の家と少しも変わりなかった。割れた鉱石で作られた一階建ての家で、同じ材質の石板で平らなどっしりした感じの屋根を葺いてあった。その扉と、道から見える唯一の窓は、雑な石細工で閉鎖されていた。今はその家の前に百人ほどの祭の参加者がたたずんで、お喋りしたり、指さしたりしていた。しかし、中からはなんの物音も聞こえず、煙突からは煙も出ていなかった。
「このへんでは、普通こういうことをするのかね?」わたしはジョナスに尋ねた。
「これは伝統的なものだ。≪一つの伝説、一つの嘘、それにそれらしさ≠ェ加われば、伝統になる≫[#≪≫は《》の置換]というじゃないか?」
「出てくるのはかんたんなように思われるがな。夜に窓を破るとか、壁そのものを破るとか、地下道を掘るとかすれば。もちろん、彼がこのようなことを予想していたら――そして、もし、これが普通に行なわれることであり、彼が本当にヴォダルスのためにスパイを働いていたとすれば、そうしないわけはないだろうに――道具も、充分な水や食料も用意しておくことはできたろうに」
ジョナスは首を振った。「開口部を塞ぐ前に、徹底的に家捜しをして、食料、道具、灯火の類はすべて取り出してしまうんだ。それだけでなく、価値のあるものは全部取り上げてしまうんだよ」
響きのよい声がいった。「われわれが自負しているように良識があれば、実際にそうするさ」それは村長《アルカルデ》だった。群衆の中で、こちらが気づかぬうちに、すぐ後ろにきていたのだった。われわれは挨拶し、彼も挨拶を返した。村長はがっちりした四角ばった体格の男で、顔には開けっぴろげな表情を浮かべていたが、目のあたりのひどく利口そうな表惰がそれを裏切っていた。「あなたは目につくと思いましたよ、セヴェリアン師、派手な服装であろうと、なかろうとね。その服は新品ですか? そうらしく見えますな。もし、満足のいかないものであれば、はっきり、そうおっしゃってください。ここの祭にやってくる商人たちには、まともな商売をさせるように努力しています。善良な商売しか認めません。もし、ご不満がおありでしたら、売ったやつがだれであろうと、必ず河に放りこんでやります。年に一人か二人放りこめば、あとの連中は増長しませんよ」
彼は言葉を切って、後ろにさがり、わたしの服装をとっくりと眺め、それから、いかにも感心したようにうなずいた。「よく似合っています。なんてったって、あなたは姿は良いし、顔も男前だから。もっとも顔色がちょっと青すぎるけれど、ここ北部の気候がすぐに良い色に焼いてくれるでしょう。とにかく、その服はお似合いだし、立派に見えます。もし、どこでお買いになったか尋ねられたら、サルトゥス村の縁日で買ったとおっしゃってもけっこうです。別に害はありませんから」
わたしはそう言おうと約束した。しかし、自分の外観や、安物の服屋から買った平服の耐久性よりも、旅籠《はたご》の部屋に隠してきたテルミヌス・エストの安全性のほうがよほど気にかかった。
「あなたと助手の方は、たぶん、悪党を引き出すのを見物にきなさったんでしょうね? メスミンとセバルドが棒を持ってきたら、すぐに始めます。この作業に使う道具の名前をいうとすれば、破城槌《バタリング・ラム》ということになりますが、なあに、実のところはただの木の幹でして、それも大きくはないのです――さもないと、作業員の人数が増えて、給料が大変ですからな。しかし、これで用は足りるはずです。十八年前にここで起こった事件は、たぶんご存じないでしょうな?」
ジョナスとわたしはうなずいた。
村長は、数語以上喋る機会を見つけた政治家が必ずやるように、胸を張っていった。「わたしはほんの青二才でしたが、よく覚えていますよ。女でした。名前は忘れましたが、みんなピレクシア母さんと呼んでいました。彼女を閉じこめて石が積み上げられました。今ここで見ているのと、そっくり同じようにです。なにしろ作業員がほとんど同じだから、同じようにやったんですよ。しかし、季節は夏の終わり頃で、林檎摘みの季節でした。それはとてもよく覚えています。人々がわいわいいって新しい林檎酒を飲んでいたし、わたし自身は見物しながらもぎたての林檎をかじっていましたからね。
その翌年に、とうもろこしが育った頃、だれかがその家を買いたいと申し出ましたっけ。ほら、不動産は村の所有になりますから。それで収支を償うのですよ。作業員は見つけた物を分け前として取る。そして村当局は家と土地を取るわけです。
話すと長くなるので、かんたんにいいますが、われわれは破城槌にする木を切り取ってきて、見事に扉を破り、その婆さんの骨を掃き寄せて、家を新しい所有者に引き渡すつもりでした」村長はひと息入れて、顔をのけぞらせて笑った。その笑いにはどこか不気味なところがあった。たぶん、群衆の騒音と混ざりあって、音がないように感じられたからだろう。
わたしは尋ねた。「彼女は死んでいなかった?」
「死ぬという言葉の意味によりけりです。こういっておきましょう――女はあまり長い間暗闇に閉じこめられていると、恐ろしく奇妙なもの[#「もの」に傍点]になることがあると。ちょうど、大木の立ち並ぶ森の奥の朽木の中に、奇妙なものが見えるのと同様にです。このサルトゥスの住民は大部分、鉱夫です。だから、地底で見出すものには慣れています。しかし、あの時はみんなあわてて後戻りして、松明を持ってきました。そいつは明かりも火もいやがりましたっけ」
ジョナスがわたしの肩に触って、群衆の渦巻く方向を指さした。目的ありげな顔つきの一団が、人波をかき分けながら街路をやってきた。数人が先の尖った杖《ビレット》を持ち、他の者は真鍮のたが[#「たが」に傍点]のはまった六尺棒を持っていた。わたしは、ずっと昔に、共同墓地にドロッテとロッシュとわたしを入れてくれた民兵の見張りの人々を、強く思い出した。これらの武装した人々の後から、四人の男が木の幹を運んできた。それは村長がいったとおり、直径約二スパン、長さ約六キュビットのごつごつした丸太だった。
群衆はいっせいに息をのんで彼らを迎えた。それから、一段と騒がしくなり、人の良さそうな声援がいくつも飛んだ。指揮を執るために村長が向こうにいった。彼は六尺棒を携えた男たちに指図して、封鎖した家の扉の前に空間を作らせた。そして、ジョナスとわたしがもっとよく見ようとして強引に前に出ていくと、われわれのために自分の権限で群衆に道をあけさせた。
突入部隊の全員が部署につけば、儀式抜きで作業が始まるとばかり、わたしは想像していた。そのことは村長にも聞かずに一人合点していたのだった。ところが、最後のぎりぎりの瞬間に、彼は封鎖した家の戸口の上がり段にのぼり、群衆に静まるように帽子を振ると演説を始めた。
「よその衆も、村の衆も、よくこられた! これから呼吸を三回する間に、この障壁を壊して、悪党バルノックを引きずり出して見せる。奴は死んでいるかもしれないし――それほど長く閉じこめておいたわけではないから――みんなが思っているように、生きているかもしれない。彼のやったことはみんなが知っている。反逆者ヴォダルスの|刺 客《カルテラリアイ》と結託し、彼らの餌食になりそうな人の到着や出発を通報したのだ! 諸君は今みんな考えている。それも正しいことを。このような悪質な犯罪者に情けは無用だと! そう、そのとおりだ! われわれはみんな同じ意見だ! このバルノックのおかげで、何百、いや何千の人が墓碑銘のない墓に眠っている。何百、いや何千という人がそれよりももっともっと悪い運命に出会っている!
だが、諸君、これらの石が崩れ落ちる前に、ちょっと考えてもらいたい。ヴォダルスは一人のスパイを失った。別のスパイを探しているだろう。今から遠くない静かな夜に、きっと、諸君のだれかのところによそ者がやってくるだろう。そいつはきっと口がうまい――」
「あんたのように!」だれかが叫び、皆が笑った。
「わたしよりもっとうまいやつだ――みんなも知っているように、わたしはただの粗野な鉱夫にすぎない。そいつはもっとずっと弁舌爽やかで、説得力ある話をするだろう、そういうべきだった。それに、金もいくらか持っているだろう。諸君がそいつにうなずく前に、このバルノックの家を思い出してもらいたいのだ。扉のあるべき場所に、こうして切石を積み上げられた今のこの家の情景をだ。きみ自身の家が、窓も扉も塞がれて、その中に自分がいるところを想像してもらいたいのだ。
それから、バルノックが引き出されてからどうされるか、これからよーく見て、覚えておいてもらいたい。なぜなら、諸君に――特によそからやってきた諸君に――いうのだが、これから諸君が見るものは、このサルトゥスの祭で見るもののほんの手初めにすぎないからだ! これら数日の行事のために、最も腕のよい専門家をネッソスから雇った。少なくとも、諸君はここで少なくとも[#「少なくとも」に傍点]二人の人間が正式の方法で処刑されるのを見ることになる。一刀のもとに首をはねるのだ。一人は女だから、椅子を使うことになろう! これは、教育の高さと国際性を自慢する多くの人人も、決して見たことのないものだ。それから、この男」村長は言葉を切り、日の当たっている扉の石を掌で叩いた。「バルノックが優秀な案内人によって死≠ノ引き渡されるのを、諸君は見ることになろう! 今頃は、彼は壁に小さな孔をあけているかもしれない。たいていそうするんだ。もしそうなら、彼もわたしの言葉を聞くかもしれない」
彼は声を張り上げた。「もし聞いているなら、バルノック、今、喉を切れ! さもないと、もっと早く餓死しなかったことを後悔することになるぞ!」
一瞬、あたりが静まりかえった。まもなく、ヴォダルスの追従者にわたしの特技を発揮しなければならないと思うと心が痛んだ。村長は右手を頭上に上げ、力を入れて振り下ろした。「よし、おまえたち、本気で取りかかれ!」
破城槌を抱えていた四人の男たちは、まるで打ち合わせをしてあったように、声をそろえて、一、二、三と声をかけ、石で塞いだ扉めがけて突進した。だが、前の二人が段に上がった時に少し勢いが鈍った。破城槌は大きな音をたてて、どさりと石にぶつかったが、それ以上の効果はなかった。
「よし、おまえたち」村長は繰り返した。「もう一度やれ。サルトゥス生まれの男がどんなものか、皆の衆に見せてやれ」
四人はふたたび突進した。今度は、前の二人がもっと上手に階段を駆け上がった。その衝撃で、扉を塞いでいる石が震えたように見え、漆喰から細かい粉が舞い落ちた。群衆の中から、たくましい黒ひげの男が名乗りをあげて、もとの四人に加わり、今度は五人で突進した。破城槌の音はそれほど大きくはならなかったけれども、ばりばりと骨の折れるような音がした。「もう一度」村長がいった。
それでよかった。次の打撃で、石は家の中にめりこみ、人の頭ほどの大きさの穴があいた。それ以後は、破城槌係はもはやランニング・スタートをする必要はなかった。後はもう腕で破城鎚を振るうだけで、残っている石を突き崩すことができ、しまいに穴は人が通れるくらいの大きさになった。
わたしは気がつかなかったけれども、だれかが松明を持ってきていた。一人の子供がそれを持って近所の家に走っていき、台所の火で点火して戻ってきた。杖と棒を持っている男たちがそれを受け取った。村長は抜目なさそうな目つきに似合わぬ勇気を見せて、シャツの下から短い警棒を引き出すと、先頭に立って中に入っていった。われわれ見物人は武装した男たちの後ろに群がった。ジョナスとわたしは見物人の先頭にいたので、彼らとほとんど同時に入口に達した。
中の空気は、予想以上に汚れており、いたるところに壊れた家具が散乱していた。どうやら、最初に封鎖する人々がやってきた時に、バルノックは箪笥や戸棚でつっかい棒をして抵抗し、封鎖係はそれらを打ち壊して、彼の家財道具のところまでいったようであった。足が不揃いになったテーブルの上に、その木を焦がすまで燃えた蝋燭の跡があった。後ろにいた人々が、わたしを押しのけて奥のほうに入っていった。そして、ちょっと驚いたことに、わたしは押し戻されていた。
家の奥で騒ぎが起こり――あわただしい乱れた足音――そして叫び声――が聞こえ、それから人間のものとも思えない絶叫が聞こえた。
「捕まえたぞ!」後ろでだれかがいった。そして、その知らせが口から口に伝わって外に出ていくのがわかった。
小自作農らしい小太りの男が、片手に松明を、もう片手に六尺棒を持って、暗闇から駆け出してきた。「どけ! 後ろにさがれ、みんな! 奴を連れ出すぞ!」
何が見えるか、わたしには予想がつかなかった……たぶん、もじゃもじゃの髪の、不潔な男。ところが、出てきたのは幽霊だった。バルノックはもともと背が高かった。いまだに背が高いが、猫背になっており、痩せていた。肌はあまりにも青ざめていて、腐った鹿の死体のように、発光しているように見えた。体毛がなく、禿げ頭で、ひげもなかった。その日の午後に、監視人から聞いたところによると、彼は体毛を引き抜くのが癖になってしまったということだった。特に悪いのはその目で、出目金のように飛び出し、盲いているように見え、口もとにできる黒い膿瘍のように黒ずんでいた。彼が喋りだした時、わたしは顔を背けたが、声は耳に入った。「助けがくる」そいつはいった。「ヴォダルスだ! ヴォダルスがやってくるんだ!」
この時、わたしは牢屋に繋がれた経験などなければよかったと思った。なぜなら、そいつの声を聞いて、〈剣舞《マタチン》の塔〉の地下牢で判決を待っていたあの窒息するような日々を、すっかり思い出してしまったからである。わたしもまたヴォダルスが助けにくることを夢みていたのだ。獣の匂いのする堕落した現代を一掃し、かつてのウールスの輝かしい高度の文化を回復してくれる革命が起こることを。
だが、わたしを救ってくれたのはヴォダルスや、その影の軍隊ではなくて、パリーモン師と――そして疑いなく、ドロッテやロッシュや、その他二、三の友達の――弁護だった。彼らはわたしを殺すのはあまりに危険であり、わたしを法廷に引き出すのはあまりにも不名誉だといって、組合員を説得してくれたのであった。
しかしバルノックは決して救われないだろう。彼の同志であるべきわたしが、彼に焼き鏝を当て、車裂きの刑を加え、最後にその首をはねることになるだろう。彼はおそらく金だけを目的に悪事を働いたのだろう、とわたしは自分に言い聞かそうとした。だが、そう言い聞かしている間に、なにか金属が――疑いなく杖の先の金具が――石を叩いた。すると、ヴォダルスがくれたコインの響きが聞こえたように感じられた。荒れ果てた霊廟の床石の下の隙間に、それを落とした時のあの響きが。
このように、すべての注意が記憶に集中している時には、人間の目は本人に導かれなくても、無数の細部から単一の対象を識別し、それに注意を集中している時には決して得られないような明晰さをもって、それを提出することがある。この時のわたしがそうだった。戸口の先に押し寄せ、もみあっている無数の人々の顔の中から、一つだけ上を向いて、日に照らされている顔をわたしは見た。それはアギアの顔だった。
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3 見世物師のテント
その瞬間、われわれ二人と、その周囲の全員が、絵の中の人物のように凍りついた。アギアの上向いた顔と、わたしの丸く見開いた目。派手な着物を着て包みを持った田舎の人々の群れの中に、われわれは立ちつくしていた。それからわたしは動き、彼女はいってしまった。できれば走って追いかけたかったが、見物人をかき分けるだけで精いっぱいで、彼女が立っていた場所に到達するまでに、心臓の鼓動にして百ばかりの時間がたってしまった。
その時には、彼女は完全に姿を消してしまっていた。そして、群衆は船のへさきの下の水のように渦巻き、入れ替わった。バルノックは太陽にむかって悲鳴をあげながら、引き出されていった。わたしはある鉱夫の肩を掴んで、大声で尋ねた。だが、そいつは隣にいた若い女にはまったく注意を払っておらず、彼女がどこにいったかまったく知らなかった。それでわたしは囚人についていく群衆を追っていったが、やがて、その中に彼女がいないことを確信した。それから、他にどうしようもないと知って、テントや屋台を覗いて歩き、香ばしいカルダモン入りのパンを売りにきた農家の主婦や、焼肉売りの人に質問をしながら、祭日の人混みの中を探しはじめた。
このように、〈絶対の家〉の朱色のインキの糸をゆっくりと巻きこむようにしながら書いていくと、このすべてはいかにも冷静で組織立った行動でさえあるかのように思われるかもしれない。しかし、真相からこれほど遠いことはない。わたしは息を切らし、汗みどろになって、質問の言葉を叫びながら、相手の返事をほとんど待ちもしないで歩きまわったのだ。アギアの顔は夢で見た顔のように、わたしの心の目の前に浮かんでいた。幅の広い平たい頬、柔らかに丸みを帯びた顎、そばかすのある日焼けした肌、そして切れ長の、笑いを含んだ、人をからかっているような目。なぜ彼女がやってきたか、想像もつかなかった。とにかく、彼女がきていたということだけは知った。そして、彼女の姿をちらりと見たために、彼女の絶叫の痛ましい記憶が蘇ったことを、知ったのであった。
背がうんと高くて、栗色の髪をした女を見かけなかったかね?≠アの言葉がしまいには蝉の歌のように無意味なものになってしまうまで、わたしはこの質問を何度も何度も繰り返した。ちょうど十七石のキャドロウなり≠ニ叫んでいたあの決闘者のように。
「ああ、ここにきている田舎娘は一人残らず見たよ」
「彼女の名前を知っているかい?」
「女かい? いいとも、女を世話してやるよ」
「どこで彼女を見失った?」
「心配ないよ。また、すぐに見つかるさ。この祭はそれほど大きくないから、いつまでもはぐれたままでいることはない。あんたがた、二人で落ちあう場所を決めておかなかったのかね? まあ、うちのお茶をおあがりよ――ひどく疲れているみたいだね」
わたしはコインをまさぐった。
「金は払わなくてもいい。充分もうかっているから。まあ、どうしてもというなら、一アエスももらっておくか。さあ、どうぞ」
その老女はエプロンのポケットを探り、大量の小銭を出して見せると、しゅうしゅう音を立てて沸いているお茶を薬罐《やかん》から陶器のカップに注ぎ、何か鈍い色の金属のストローを差し出した。わたしは手を振ってそれを断った。
「綺麗だよ。お客さんが使うたびに洗うんだから」
「こういうものは使い慣れていないんだ」
「じゃ、茶碗の縁に気をおつけ――熱いよ。心当たりを探してみたかい? あっちには人がたくさん出ているだろう」
「家畜がいるところかい? ああ、探した」お茶はマテ茶で、香ばしく、ちょっと苦かった。
「相手の娘は、あんたが探していることを知っているのかね?」
「知らないと思う。たとえ彼女がわたしを見かけたとしても、わたしとは気づかないだろう。いつもと……違う服装をしているから」
老女は鼻を鳴らして、もじゃもじゃの白髪の束をスカーフの下に押しこんだ。「サルトゥスの祭日だから? そりゃ、そうだ! だれだって、祭には晴着を着てくる。勘の良い女の子なら、それくらいわかるよ。囚人を繋いである河岸のほうはどうだろうね?」
わたしは首を振った。「彼女は消えちまったみたいだ」
「だが、あんたは諦めていない。わたしよりも通っていく人々を見る、その目つきでわかる。まあ、幸運を祈るよ。まだ見つかるだろうよ。もっとも、近頃このあたりでは、ありとあらゆるおかしなことが起こっているというけれどね。ねえ知っているかい? 緑色の人間が見つかったんだって。そいつを、あのテントが見えるあの場所に連れてきたんだよ。緑色の人間は、喋らせることさえできれば、なんでも知っているんだってさ。それから、あの伽藍《がらん》の一件がある。あのことは聞いているだろうね?」
「伽藍だって?」
「町の人のいう本物とは、違うそうだよ――そのお茶の飲み方を見ると、あんたは町からきたようだが――でも、これはわたしたちサルトゥス近在の者が見る唯一のものなのさ。綺麗だったよ、たくさんランプが下がっていて、色とりどりの絹でできた壁に窓がたくさんあってね。わたし自身は、信心しないがね――いや、むしろ、|万 物 主《バンクリエーター》がわたしの心配をなんにもしてくれないなら、こちらも彼の心配をしてやるには及ばない、という心境なんだよ。当然だろ? それにしても、人々はひどいことをしたもんだよ。世間で非難されているようなことを本当にしたのならね。ほら、あれに火をつけたっていうじゃないか」
「ペルリーヌ尼僧団のことをいっているのか?」
老女は物知り顔にうなずいた。「ほら、知ってるじゃないか。でも、あんたも世間の人と同じ間違いをしている。あれはペルリーヌ尼僧団の伽藍ではなくて、〈鉤爪《つめ》の伽藍〉なんだよ。ということは、つまり、人間が火をつけたりしてはならないものだよ」
わたしは小さく独言をいった。「あいつら、火をつけなおしたんだな」
「なに?」年とった女は耳をそばだてた。「聞こえなかったよ」
「あの連中が燃やした、といったのさ。あいつらが麦藁の床に火をつけたにちがいない」
「わたしもそう聞いている。あの人たちはただ後ろにさがって、燃えるのを眺めていたんだって。それは〈新しい太陽の無限の牧場〉にまで舞い上がっていったということだよ」
路地の反対側の男が太鼓を打ち鳴らしはじめた。彼が手を休めた時に、わたしはいった。「確かに、それが空中に上昇していくのを見たと主張している人々もいるね」
「ああ、舞い上がったんだよ、間違いなく。うちの義理の孫はその話を聞いた時に、ひどい衝撃を受けて半日ほどひっくりかえっていた。そのうちに、紙を貼りあわせて帽子みたいなものを作り、それをストーブの上にかざした。するとそれは浮かび上がった。それで、その子は伽藍が舞い上がるのは奇蹟でもなんでもないと考えた。これで、馬鹿と利口の違いがわかる――物事がそうなったわけは、伽藍をあのように舞い上がらせるためだったという考えは、あの子の頭に浮かばなかったんだね。自然の中に御手≠見ることができないんだよ」
「というと、その人は直接あれを見たわけじゃないんだね?」わたしは尋ねた。「あの伽藍をさ」
彼女は意味を取り違えた。「いいや、見たとも。あれがここにやってきた時に。少なくとも、十数回は見たよ」
前に聞いたタロス博士のものとそっくりだが、もっと粗野でしかも博士のような意地悪い知性が欠けている、その太鼓を持った男の単調な繰り返しの文句が、われわれの会話に割りこんできた。≪なんでも知っている! だれでも知っている! グースベリーのように緑色だ! 自分の目でごろうじろ!≫[#≪≫は《》の置換]
(しつこい太鼓の響き、ドン! ドン! ドン!)
「あの緑色の人間はアギアの居場所を知っているだろうか?」
老女はにっこり笑った。「それが彼女の名前なのかい? 今度はわかるよ、もしだれかがその子の名前をいったらさ。あいつは知っているかもしれないよ。あんたはお金を持っているから、試してみたらどうだね?」
まったくだ、とわたしは思った。
≪北方のジャングルで獲《と》れた! 決してものを食わない! 草木と同類だ!≫[#≪≫は《》の置換]ドン! ドン! ≪未来も遠い過去も彼にとっては同じだ!≫[#≪≫は《》の置換]
太鼓を叩いていた男は、わたしがテントの入口に近寄っていくのを見ると、その騒音を止めた。
「見るには、たったの一アエス。話をするには、二アエス。一人だけで会うには、三アエス」
「一人だけの場合は、どのくらい中にいられるのかね?」わたしは三枚の銅貨を探しながら尋ねた。太鼓を持った男の顔に皮肉な笑いが浮かんだ。「いたいだけさ」わたしは要求どおりの金を渡して中に入った。
わたしが長く留まりたがるとは、彼が思っていなかったのは明らかだった。そしてわたしは、悪臭かなにか、そういう不快なものがあると予想していた。だが、テントの中は蒸れた干し草のようなかすかな匂いしかしなかった。中央に、帆布の天井の息抜きから一条の日光が射しこみ、浮遊する塵がきらきら光って見えた。そこに、青い翡翠《ひすい》の色をした男が鎖に繋がれていた。木の葉のキルトをまとっていたが、もうその葉は萎れていた。そばに、清水を縁まで満たした土の壺が立ててあった。
どちらもしばらく黙っていた。わたしは立って彼を見、彼は坐って地面を見ていた。「これはペンキではないな」わたしはいった。「染めたとも思えないし。それから、あの封鎖された家から引き出されたあの男と同様に、きみは毛がないんだな」
彼はわたしを見上げて、また下を向いた。その白目さえも緑色がかっていた。
わたしは誘いをかけた。「もし、本当に植物なら、髪の毛は草だろうな」
「いいや」彼は柔らかな声でいった。その声が低かったので、女でないとわかった。
「では、本当に植物なのか? 喋る植物か?」
「きみは田舎の人間ではないな」
「数日前にネッソスから出てきたんだ」
「いくらか教養がある」
わたしはパリーモン師を思い出し、それからマルルビウス師と、あの哀れなセクラを思い出し、肩をすくめた。「読み書きはできるがね」
「だが、わたしのことを何も知らない。ごらんのとおり、わたしは口をきく植物ではない。たとえ植物が無数にある進化の道の一つをたどって、知能を持つに到っても、木や葉で人間の形態を摸写することは不可能なはずだ」
「石についても同じことがいえるかもしれないが、彫像というものがあるよ」
絶望的な様子にもかかわらず(しかも、顔はわたしの友人のジョナスの顔よりももっとずっと悲しげだった)、何かが唇の両端を引っぱって、笑いの表情を作った。「うまいことをいう。きみは科学的な教育を受けていないが、本人の思う以上によく教えられている」
「その逆だ。ぼくの受けた教育は科学的なものばかりだったぞ――もっとも、こういう途方もない推測とはなんの関係もないものだったがね。きみは何なんだ?」
「偉大な予言者、偉大な嘘つきだ。足を罠に捕えられたあらゆる人間と同様にね」
「きみが何者か教えてくれれば、助けるように努力するが」
彼はわたしを見た。それはまるで、丈の高い香草が目を開いて、人間の顔を見せたような感じだった。「信じよう」彼はいった。「このテントにきた何百人もの人間のうちで、なぜ、きみだけが憐れみを知っているのだろう?」
「憐れみのことは何も知らない。しかし、正義への尊敬の念は吹きこまれている。そして、この村の村長《アルカルデ》をよく知っている。緑色の人間も、やはり人間だ。もしそれが奴隷なら、その主人は説明する義務がある。どうして彼がその身分になったか、そして、どうして自分は彼を所有することになったか」
緑色の人間はいった。「きみを信じるなんて、たぶんわたしは馬鹿なんだろう。だが、それでもわたしは信じる。わたしは自由な人間だ、きみ自身の未来から、この時代を探険するためにやってきたのだ」
「そんなことはありえない」
「きみたちをひどく不思議がらせているこの緑の色は、きみたちの言うアオミドロにすぎない。われわれはそれを改造して、自分たちの血液の中に住むことができるようにしたのだ。そして、その導入によって、ついに人類と太陽との長い戦いに終止符を打ち、和睦することができたのだ。われわれの体内で、この微小な植物が生き、そして死ぬ。そしてわれわれの肉体は彼らとその死骸から栄養を取る。だから、他の栄養は必要としないのだ。あらゆる飢餓や、食物を栽培するあらゆる苦労は終わったのだ」
「だが太陽がなければ困るだろう」
「そうだ」緑色の男はいった。「だが、ここには充分にない。わたしの時代には昼間はもっと明るいのだ」
この簡潔な言葉を聞いて、わたしはあの〈城塞〉の〈壊れた中庭〉の屋根のない礼拝堂を初めて見た時以来、初めて感じたような興奮を味わった。「では、予言のとおり〈新しい太陽〉がくるのだな」わたしはいった。「そして実際にウールスに第二の生命があるのだな――もし、きみのいうことが本当だとすると」
緑色の男は頭をのけぞらせて笑った。これからずっと後になって、高地の雪にとざされた台地をうろつくアルザボが出す声を、わたしは聞くことになる。その笑い声は恐ろしい。しかし、この緑色の男の声はもっと恐ろしかったので、わたしは後ずさりした。「きみは人類ではない」わたしはいった。「今は違う。たとえ昔そうであったとしても」
彼はまた笑った。「わたしがきみに望みを託したと思うと、おかしくてね。わたしはなんと憐れな生き物なんだろう。歩く塵でしかないような人々の中で自分は死ぬものと、覚悟したつもりでいたのに。ほんのかすかな光明を見たとたんに、その覚悟は剥げ落ちてしまった。わたしは本物の人間だよ、きみ。きみは違う。そして、あと数ヵ月でわたしは死ぬだろう」
わたしは彼の同類を思い出した。夏の花の凍った茎がわれわれの共同墓地の霊廟の壁に、風に吹かれてぶつかるのを、なんとしばしば見たことか。「きみの気持ちはわかるよ。太陽の暖かい季節がこれからやってくる。だが、その季節が過ぎれば、きみはそれとともに枯れてしまうのだね。今のうちに実をつけるがいい」
彼は暗い表情になった。「きみはわたしを信じていない。いや、わたしがきみと同様に人間であることを理解さえもしていない。それにもかかわらず、わたしを憐れんでいる。たぶんきみが正しいのだろう。われわれには新しい太陽がやってきた。そして、それがやってきたがゆえに、われわれはそれを忘れてしまった。もし万一、わたしの時代に帰ることができたら、むこうの人人にきみのことを話すつもりだ」
「もし本当に未来の人間なら、なぜ、自分の故郷に逃げていくことができないのかね?」
「なぜなら、ごらんのとおり、鎖に繋がれているからだ」彼は足をさし出して、足首にはめられた足かせを見せた。その部分の、緑柱石のような色の肉が腫れていた。昔、鉄の輪のはまった木の幹の皮がふくらんでいるのを見たことがあるが、それとそっくりに見えた。
テントの垂れ幕が開き、太鼓を叩いていた男が首をさし入れた。「まだ、そこにいるのかい? 外に他のお客さんがいるんだがなあ」彼は意味ありげに緑色の男を見て、引っこんだ。
「きみを追い出せといっている。さもないと、天井の穴をふさいでわたしに当たる目光を遮るとね。わたしを見るために金を払った人に、その未来を予言して、お引き取り願うことになっている。これからきみの未来を予言しよう。きみは今は若くて強い。だが、この世界が太陽のまわりをあと十周も回れば、きみの力は弱まり、今のような強さを二度と回復できなくなる。もし、息子をつくれば、自分自身に対する敵を生み出すことになるだろう。もし――」
「たくさんだ!」わたしはいった。「きみがいっているのは、すべての男の運命にすぎない。一つの質問に正しく答えてくれたら、ぼくは出ていく。アギアという女を探しているんだ。彼女はどこにいる?」
一瞬、彼は黒目をくるりと上に回した。目蓋の間には、細い半月形の薄緑の部分しか見えなくなった。かすかな震えが彼を捕えた。彼は立ち上がり、両腕を伸ばした。その指が小枝のように広がった。それからゆっくりといった。「地上に」
震えが止まった。そしてまた腰を下ろした。その顔は年をとったように見え、前よりもいっそう青白く見えた。
「それでは、ただのインチキだ」わたしは背を向けながらいった。「ほんの少しでもきみを信じるなんて、ぼくは馬鹿だ」
「違う」緑の色の男はささやいた。「聞きなさい。ここにくる時に、わたしはきみたちの未来のすべてを通過してきた。その一部はわたしとともに残っている。どんなに漠然としていてもだ。わたしは真実しかいわなかった――そして、もしきみが本当にこの村の村長の友人なら、もう一つ教えてやるから、彼に伝えるがいい。ここにやってきた人々の質問からわかったことだ。武装した人々が、バルノックという人を解放しようとしている」
わたしはベルトの|図 嚢《サパタッシュ》から砥石を取り出し、鎖を繋いだ杭の端にぶつけて割り、その半分を彼に与えた。一瞬、彼は何をもらったのか理解できずにいた。それから、わかった、という表情をした。まるで自分自身の時代の明るい光をすでに浴びているかのように、大喜びで葉を広げたように見えた。
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4 花 束
見世物師のテントを出ると、わたしは太陽を見上げた。西の地平線はすでに、空のなかばより上にあがっていた。あと一刻たらずで出演時間になるだろう。アギアは消えてしまった。そして彼女に追いつく希望は、祭の市の端から端まで必死に走り回っている間に潰え去った。しかし、あの緑人の予言から慰めを受け取った。わたしはそれを、どちらかが死ぬ前に自分たちは再会する、という意味だと解釈した。それから、彼女はバルノックが外に引き出されるのを見るためにやってきたのだから、同様に、モーウェンナと家畜泥棒の処刑を見物するためにやってきたのかもしれないと考えて、やはり慰めを感じた。
これらの推理は最初、旅籠《はたご》に戻っていく間、わたしの心を満たしていた。しかし、ジョナスと同宿している部屋に着かないうちに、これらは心の外に追い出されてしまった。なぜなら、セクラのことと、自分の職人への昇進を思い出したからである。どちらの場合も、新しい平服から組合の煤色の衣服に衣替えをすることが必要だった。この連想力は非常に強力だったので、まだ部屋の木釘に掛かっていて目の前にないあの制服によっても、そして、まだマットレスの下に隠されているテルミヌス・エストによっても、連想力が働きだすのであった。
まだセクラの給仕をしていた頃には、この連想力がわたしを楽しませてくれたものだった。彼女の会話の大部分を予測できるとわかったのである。特に、彼女の独房に運んでいく贈り物の性質から、会話の最初の部分が予測できた。例えば、もしそれがキッチンからくすねてきた好きな食べ物であれば、それは〈絶対の家〉の食事の話を引き出し、また、持っていった食べ物の種類が、話題に上る食べ物の性質を支配しさえするのであった。肉ならば、下の畜殺場から響いてくる生け捕りにされた獲物の悲鳴や吠え声を聞きながらの、猟場での食事。そして、猟犬、鷹、狩猟豹などの話題が豊富だった。甘いものならば、位の高い女城主《シャトレーヌ》がごく親しい少数の友人とともにする、ゴシップ漬けになった内輪の食事。果物ならば、〈絶対の家〉の広大な庭園に何千本もの松明をともして、手品師、役者、踊り子などを呼び、花火を上げて、にぎにぎしく行なわれる園遊会の話。
彼女は坐っても食事をしたが、右手で身振りをしながら左手に皿を持ち、三歩で端から端に達してしまう独房の中を歩き回って、立ったまま食事をすることもしばしばだった。「このようにね、セヴェリアン、それらはみんな鳴り響く空に飛び上がり、緑とマゼンタの火の粉を降らせ、花火が雷のように轟くのよ!」
だが、憐れな彼女の手は、自分の高い頭よりも上に上昇するロケットの姿を示すことがほとんどできない。なぜなら、天井は彼女の身長よりもそれほど高くないからである。
「でも、わたし、あなたを退屈させているのね。さっき、桃を持ってきてくれた時にはとても楽しそうだったのに、今は笑ってもくれないんだから。ここでは、そういうことを思い出すことだけが、わたしにとって楽しみなのよ。また、あれを見ることができたら、どんなに楽しいことでしょう」
もちろん、わたしは退屈してはいなかった。ただ、彼女のように、まだ若く、恐いほどの美貌を与えられた女が、このように監禁されているのを見ると、悲しい気分になるだけだった……。
部屋に入ると、ジョナスがわたしのためにテルミヌス・エストを隠し場所から取り出そうとしていた。わたしは自分でワインを一杯注いだ。「どんな気分だね?」彼は尋ねた。
「あんたはどうだ? なんといっても、あんたにとって初めてだからな」
彼は肩をすくめた。「わたしは持って運ぶだけでよい。きみは前にもやっているのだな? 不思議な気がするよ。なぜなら、きみはそんなに若いんだから」
「ああ、前にもやった。しかし、女の経験はない」
「彼女は無実だと思うかい?」
わたしはシャツを脱ぎかけていた。そして両腕を抜き出すと、シャツで顔を拭き、首を振った。
「絶対に無実ではない。昨夜、降りていって話をしたんだ――彼女は水際に繋がれているが、あそこは蚊やブヨがひどいなあ。そのことはもういったが」
ジョナスは自分でワインに手を伸ばした。その金属の手はカップに触れるとカチリと鳴った。
「きみはいったな。彼女は綺麗で、なんとかいう人のように髪が黒いと――」
「セクラのようにね。だが、モーウェンナの髪はまっすぐで、セクラのはカールしていた」
「セクラに似ているんだな。わたしがきみの友達のジョレンタを愛しているのと同じくらいきみが愛していたらしい、その女性に。もっとも、わたしはひと目惚れだが、きみのほうは恋に陥る時間がたっぷりあった。そして、このモーウェンナという囚人は、夫と子供が死んだのは、病気――たぶん悪い水――のせいだと、きみに話したというんだね。そして、その夫は彼女よりもかなり年上だったと」
わたしはいった。「おたくと同じくらいの年齢だと思う」
「そして、その夫に想いを寄せていたもっと年上の女がいる。そして今、その女がこの囚人を責め苛んでいるというわけだね」
「言葉でだけだ」組合ではシャツを着るのは徒弟だけである。わたしはズボンをはき、素肌の肩にマント(黒よりも黒い煤色をしている)をまとった。「あのように当局によって曝《さら》し者にされた客人は、普通は投石に遭うから、われわれが見る時にはたいてい石に埋まっており、しばしば歯を何本か折っている。骨折している場合もある。女たちは凌辱されている」
「きみは彼女が綺麗だといった。たぶん大衆は彼女が無実だと思っているのだろう。たぶん憐れんでいるだろう」
わたしはテルミヌス・エストを抜き取り、柔らかい鞘は落ちるにまかせた。「無実の者には敵がいる。大衆は彼女を恐れている」
われわれはそろって外に出た。
最初に旅籠に入った時には、酒を飲んでいる大勢の客を押し分けて進まなければならなかった。だが今は、群衆はわたしの前に道を開いた。わたしは仮面をつけ、抜身のテルミヌス・エストを斜めに背負っていた。外では、われわれが進んでいくにつれ祭の騒音が静まり、しまいにはささやき声だけになり、まるで、落葉の散り敷いた荒野を歩いていくような気分になった。
処刑は祭の市のまん真ん中で行なわれることになっていた。そこにはすでにぎっしりと群衆がつめかけていた。緋の衣の聖職者が小さな祈祷書を持って断頭台の横に立っていた。彼はその職にある人の例に洩れず老人だった。その横に、前にバルノックを引き出した男たちに囲まれて、二人の囚人が待っていた。村長は、その職務を示す黄色いガウンと黄金の鎖を身につけていた。
古来のしきたりによって、われわれは階段を使ってはならないことになっている(もっとも、あの鐘楼の前の広場で、グルロウズ師が剣を杖のようについて、それを頼りに断頭台に跳び乗るのを見たことがある)。この場所でこのしきたりを知っているのは、たぶんわたし一人だけだと思うが、わたしはそれを破らなかった。こうしてマントをなびかせてわたしが跳び上がると、群衆の中から獣の声のような大きなどよめきがあがった。
≪自存神《インクリエート》よ≫[#≪≫は《》の置換]聖職者が読んだ。≪ここで今命を失う者たちは、あなたの目から見れば、われわれ以上に邪悪な存在ではないと、われわれは承知しております。彼らの手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは|首置き台《ブロック》を調べた。このように、組合の直接の監督下にない台は、具合が悪いものと相場がきまっている。スツールのように幅が広く、石頭《フール》のように固く、|たいてい《アズ・ア・ルール》皿形にへこんでいる≠ニ。ここにあるのは、この諺の最初の二つの条件にぴったり当てはまっていたが、聖キャサリンのお恵みによって、実はわずかに凸形になっていた。そして、その石頭のように固い木は、剣の男刃を必ず鈍らせるだろうと思われたが、幸いにもこの場合は男女一人ずつ客人がいるので、それぞれに新しい刃を使用することができるはずであった。
≪……あなたのご意志によって、その時に彼らの魂が浄化され、あなたの恩寵を得られますように。われわれは今日、彼らと対決し、彼らの血を流しますが……≫[#≪≫は《》の置換]
わたしはいかにも自分がこの儀式を取りしきっているかのように、剣によりかかり、足を大きく開いて、身構えていた。だが、本当のところは、彼らのどちらが短いくじを引いたかさえも知らなかった。
≪あなた、太陽を食らう黒い虫を殺す英雄よ。あなた、空があなたのためにカーテンのように分かれるお方よ。その息が、巨大なエレボスを、波の下を転げ回るアバイアとスキュラ([#ここから割り注]巨岩に住む六頭、十二足の海の女怪[#ここで割り注終わり])を縮こまらせる、あなた。最も遠方の森林の最小の種子の中にも、人の目の届かぬ暗黒の中に転がりこんだ種子の中にさえも、等しく住んでおられる、あなたよ≫[#≪≫は《》の置換]
女のモーウェンナが、聖職者に導かれ、鉄の串を持った男に後ろから小突かれながら、階段を上がってくるところだった。群衆の中のだれかが大声で、猥褻な示唆をした。
≪……慈悲心を持たぬ者に、慈悲を垂れたまえ。われらに慈悲を垂れたまえ。今、慈悲心を失わんとしているわれらに、慈悲を垂れたまえ≫[#≪≫は《》の置換]
聖職者が祈りを終えた。すると村長が話しはじめた。「おまえが女だということを考慮すると……」
彼の声はかん高くて、いつもの話し声とも、バルノックの家の前の演説に使った修辞的な口調とも、まったく異なっていた。わたしはそれをしばらく上の空で聞いていたが(実は、群衆の中にアギアを探していたのだ)、やがて彼が怯えているのだとわかった。この二人の囚人に対して行なわれるすべてを、彼は至近距離で見守らなければならないからである。わたしはにやりとしたが、これは仮面の陰で見えなかった。
「……きわめて忌まわしく、異例ではあるが、おまえの左右の頬に焼き饅を当て、両足を折り、首を胴体から打ち落とすことになった」
(そのためには石炭の入った火鉢が必要だということを思い出すだけの分別が、彼らにあればよいが、とわたしは思った)
「その思考が臣民の音楽であるところの独裁者の譲歩によって、不束《ふつつか》なるわたしの手に委ねられた高潔なる司法権力により、ここに宣言する……ここに宣言する……」
彼は台詞を忘れてしまった。わたしは小声で教えた。「おまえの最期の時がきた」
「ここに宣言する。おまえの最期の時がきたぞ、モーウェンナ」
「調停者に懇願することがあれば、心の中で申し述べるがよい」
「調停者に懇願することがあれぽ、申し述べよ」
「もしおまえに、人の子を弁護する者がついているなら、これが発言の最後の機会だ」
村長は落着きを取り戻しかけており、今度はちゃんと言えた。「もしおまえに、人の子を弁護する者がついているなら、これが発言の最後の機会だ」
はっきりと、しかし、大きい声でなく、モーウェンナがいった。「わたしが有罪だと大部分の人が思っていることは、知っています。でも、わたしは無実です。告発されたような恐ろしいことは、わたしにはとてもできません」
群衆は彼女の話を聞こうとして、つめよせた。
「わたしがスタチズを愛したことは、そしてスタチズが与えてくれた子供を愛したことは、証人が大勢います」
ひと塊りの色が目に入った。強い春の日射しの中に、黒紫色のものが見えた。それは葬式のお供の者が持つ哀悼の薔薇のような、花束だった。それを持っているのは、河岸でモーウェンナを責めているのを見かけたあのエウゼビアだった。見ていると、彼女はその香りをうっとりと吸いこみ、それから、その刺の生えた茎を利用して群衆の中に自分の通る道をあけ、断頭台のすぐ根もとに立った。「おまえにこれをやる、モーウェンナ。これが萎れないうちに、お死に」
わたしは剣の尖っていない先端で板を叩いて、皆を静まらせた。モーウェンナがいった。「わたしのために祈祷をしてくれた優しい人と、ここに連れてこられる前に話をした人は、わたしがあんたより先に至福が得られたら、あんたを許してやってくれと、祈ったのよ。わたしは今まで祈りを叶える力を与えられたことは決してなかったけれど、その祈りを聞き届ける。今あんたを許す」
エウゼビアはまた何か言おうとした。だが、わたしが睨みつけて黙らせた。彼女のそばで、歯の欠けた、にやにや笑いをしている男が手を振った。わたしはそれがヘトールだと知って、ちょっと驚いた。
「用意はいい?」モーウェンナがわたしに尋ねた。「わたしはいいわよ」
ジョナスが、真赤に燃える炭火の入ったバケツを断頭台の上に据えたところだった。そのバケツから、然るべき言葉を彫った焼き鏝の柄とおぼしいものが突き出ていた。だが、椅子がなかった。わたしはこれは重大な過失だという思い入れをして、村長をちらりと見た。
しかしそれは、柱を眺めるも同然だった。結局、わたしはいった。「椅子がありますか、村長閣下?」
「二人に取りにいかせた。それから縄も」
「いつ?」(群衆がざわめきはじめた)
「数分前に」
今さら、前の晩に用意万端整えると保証したではないかなどと、なじっても始まらなかった。すでにわかっているように、平均的な田舎の官吏ほど断頭台の上で取り乱す者はいないのである。彼は注目の中心(処刑の時は、彼はその位置から締め出される)にいたいという強烈な欲望と、そしてまた、能力があり訓練さえ受けていれば充分に心を落ち着かせることができるのに、それを欠いているというまったく正当な恐怖心との間で、引き裂かれていた。両眼をくり抜かれることを充分に承知して階段を上がってくる最も臆病な客人も、二十人中十九人まではもっと立派に振舞うものである。人々のたてる騒音に不慣れで、涙ぐましいほど遠慮がちな内気な修道士でさえも、もっと頼りになるものである。
だれかが叫んだ。「さっさとやれ!」
わたしはモーウェンナを見た。やつれた顔、清らかな肌、憂わしげな笑み、大きい黒い瞳。彼女は群衆の中に、まったく望ましくない同情の念を呼び起こすタイプの囚人だった。
「|首置き台《ブロック》に腰かけさせればよい」わたしは村長にいった。そして、次のようにつけくわえる誘惑に打ち勝つことができなかった。「これはむしろ椅子といったほうが早い代物なんだからな」
「彼女を縛る縄がない」
わたしはすでに喋りすぎていた。だから、囚人を縛らなければならない者についての意見を述べることは差し控えた。
そのかわりに、|首置き台《ブロック》の後ろにテルミヌス・エストを横たえて、モーウェンナをそこに坐らせ、古式にのっとって両手を上げて敬礼をし、それから右手に焼き鏝を持ち、左手で彼女の手首を握り、左右の頬に焼き鏝を当てた。それからまだ白熱している鏝を上にあげた。悲鳴を聞いて、いったん静まった群衆が、今またどよめいた。
村長は背筋を伸ばし、別人のような口調でいった。「彼女を大衆に見せろ」
それをせずにすめばよいと思っていたのだが、わたしはやむなくモーウェンナを引き上げて立たせた。彼女の右手を自分の右手で持って、まるで田舎の舞踏会に参加してでもいるかのように、ゆっくりと儀式ばって台の上を一周した。ヘトールは喜びにわれを忘れていた。わたしは彼の声を聞くまいと努力したが、彼が周囲の人に、わたしと知り合いだと自慢している声が聞こえた。エウゼビアが花束をモーウェンナのほうにさし上げて、叫んだ。「さあ、すぐにこれが必要になるよ」
一周すると、わたしは村長を見た。彼は進行を遅らせる口実を考えて、ちょっと間をおいたが、結局、作業を進めろという合図を出した。
モーウェンナがささやいた。「すぐにすむかしら?」
「もうすんだも同然だよ」わたしは彼女をふたたび|首置き台《ブロック》の上に腰かけさせて、剣を持ち上げようとしていた。「目をつぶりなさい。そして、これまでに生きていたほとんどすべての人が死んだということを、心に思い浮かべるよう努力しなさい。調停者さえも死んだのだ。そして彼は〈新しい太陽〉として蘇るだろうと」
彼女のまつ毛の長い、青白い目蓋が閉じた。彼女は振り上げられた剣を見なかった。鋼鉄の閃きが群衆をまた静まらせた。そして、完全な静寂が訪れると、わたしは彼女の太股に剣の平の部分を打ち降ろした。ピシャッという筋肉が叩かれる音の上に、大腿骨の折れる音が、優勢な拳闘士の左右のパンチのように、ゴツゴツッと聞こえた。一瞬、モーウェンナは失神したが、くずおれはせずに、そのままの姿勢で台の上に凍りついた。その瞬間、わたしは後ろに一歩さがり、なめらかに水平に彼女の首をはねた。これは上下に切断するよりも、習得するのに数等困難な技であった。
かんたんに言えぽ、わたしは噴き上がった血の噴水を見、首がどさりと台の上に落ちる音を聞いて初めて、やり遂げたと知ったのだった。自覚していなかったが、わたしも村長と同様に怯えていたのである。
これはまた、昔からの伝統によれぽ、組合の習慣的な威厳が緩む瞬間でもあった。わたしは笑いたくなり、飛び跳ねたくなった。村長がわたしの肩を揺すり、わたしが自分でそうしたかったように、何かぶつぶついっていた。その言葉は耳に入らなかったが――それは何か楽しい無意味な言葉だった。わたしは剣を振り上げ、髪の毛を握って首を持ち上げて、断頭台の上を意気揚々と歩いた。今度はたった一周ではなく、何度も何度も、三周も四周も歩いた。微風が吹きだしていた。仮面にも、腕にも、裸の胸にも、深紅の点々がついていた。群衆は必ず叫ぶ冗談を叫んでいた。「うちのかみさんの(または、亭主の)髪も切ってくれるかい?」「それが終わったら、ソーセージを半分お食べ」「その女の帽子をくれない?」
わたしは野次馬全員を嘲笑してやり、首を投げつけるふりをした。その時、だれかがわたしの足首をつかんだ。エウゼビアだった。彼女の最初の言葉を聞かないうちに、組合の塔の客人たちの中でしばしば観察したような、話したい衝動に彼女が駆られていることがわかった。その目は興奮で輝き、顔はこちらの注意を引きたいという努力で歪んでいたので、彼女は今までに見たこともないほど年寄にも、また若くも見えた。彼女の叫んでいる言葉が聞き取れなかったので、わたしは身をかがめて耳をすませた。
≪無実だよ! 彼女は無実だったんだよ!≫[#≪≫は《》の置換]
今は、自分はモーウェンナを裁いた判事ではないと説明している時ではなかったので、わたしはただうなずいた。
≪彼女はスタチズを盗んだ――わたしから! 今、彼女は死んだ。わかるかい? 彼女は結局、無実だったんだよ。でも、わたしはとても満足だ!≫[#≪≫は《》の置換]
わたしはまたうなずき、首を持ち上げて断頭台の上を、もう一周した。
≪わたしが彼女を殺したんだ!≫[#≪≫は《》の置換]エウゼビアは金切り声でいった。≪あんたじゃない――!≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは下の彼女に叫びかえした。「そう思いたければ、思うがいい!」
≪無実だよ! わたしは彼女を知っていた――とても用心深いんだ。彼女は何かを隠しておきたかったろう――自殺するための毒薬を! あんたに捕まる前に死にたかったろう≫[#≪≫は《》の置換]
ヘトールが彼女の腕をつかみ、わたしを指さした。≪おれのご主人様だぞ! おれの! おれだけの!≫[#≪≫は《》の置換]
≪だから、下手人は別のやつだったのさ。いや、結局、病気だったんだ――≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは叫んだ。「すべての正義はデミウルゴス([#ここから割り注]創造神[#ここで割り注終わり])だけのものだ!」群衆はまだ騒々しかったが、この頃にはいくぶん静かになっていた。
≪でも、彼女はわたしのスタチズを盗んだ。そしてもう、いなくなった≫[#≪≫は《》の置換]いっそう声を張り上げて、≪ああ、せいせいした! 彼女はいなくなった!≫[#≪≫は《》の置換]それとともにエウゼビアは、薔薇の濃厚な香りを肺が張り裂けるほど吸いこもうとでもするかのように、花束に顔を突っこんだ。わたしは待ち受けているバスケットにモーウェンナの首を放りこみ、ジョナスの差し出した深紅のフランネルで剣の刃を拭った。ふたたびエウゼビアを見ると、彼女は野次馬の輪の中にぐったりと倒れて死んでいた。
その時には、わたしはあまり考えもせずに、彼女は喜びのあまり心臓発作でも起こしたのだろうと思った。しかし、その日の午後、村長が彼女の花束を薬局の主人に調べさせると、花弁の間に、強力だが正体のはっきりしない毒薬が入っていたことがわかった。想像するに、モーウェンナが階段を上がる時にその毒薬を手に持っていて、焼き鏝を当てた後でわたしが彼女の手を取って断頭台の上を回らせた時に、それを花の中に投げこんだにちがいない。
ここで中断して、読者に直接話しかけることを許していただきたい。もっとも、われわれはたぶん測り知れない長い年月の深淵によって隔てられているであろうが。すでに書き記した部分――あの鎖された門からサルトゥスの祭まで――は、成人してからのわたしの生活の大部分を包含しており、これから記録すべき残りの部分は、ほんの二、三ヵ月に関することにすぎない。それにもかかわらず、まだこの物語の半分も終わっていないように感じられる。この書物が昔のウルタン師の年代記のように図書館の広い部分を占領しないように、(もう率直にいってしまうが)多くの事件を飛ばすことにしようと思う。アギアの双子の兄のアギルスの処刑を詳しく記述したのは、それがわたしの物語にとって重要だったからであり、また、モーウェンナの処刑を記述したのは、それが行なわれた状況が異常だったからである。他の処刑については、何か特別に興味あることがない限り記述するつもりはない。もし諸君が、他人の苦痛と死に喜びを感じるとしたら、わたしの物語からほとんど満足は得られないだろう。そこで、次のように言うだけに留めることにする。わたしは家畜泥棒に指示どおりの処置をし、それは彼の処刑によって終わったと。今後、旅行の話をする時には、いちいち言及はしないが、利益になる場合にはわたしが組合の秘伝を実践したものと了解願いたい。
[#改ページ]
5 小 川
その晩ジョナスとわたしは自室で二人だけで食事をした。大衆の人気者になり、皆に知られることは、そうなってみると、とても気持ちの良いものだとわかった。だが、気疲れもした。しばらくすると、同じ単純な質問に何度も何度も答えるのに疲れ、また酒席への招待を丁寧に断わるのにも疲れてきたのだ。
仕事の礼金について、最初、ちょっとした行き違いがあった。わたしは、仕事を引き受けた時に四分の一の礼金を受け取り、その後、客人が一人死ぬごとにその分の礼金を受け取るものとばかり思っていた。ところが村長は、三人全部が処理された段階ではじめて残りの全額を支払うつもりだった、というのである。そんな条件だったら、わたしは決して同意しなかったろう。まして、あの緑人の警告(それはヴォダルスへの忠誠心から、胸にしまっておいた)があったから、受け入れたくなかった。それで、こんなことなら明日の午後は出演しないぞと脅すと、礼金は支払われ、すべて穏便に解決したのであった。
今ジョナスとわたしは、おれたちは宿にいないと言えと、旅籠《はたご》の亭主に言いふくめ、自室のドアを閉めてかんぬきを掛け、湯気の立つ料理とひと瓶のワインを前にして、腰を落ち着けていた。しかし、わたしは完全に寛ぐことはできなかった。なぜなら前の晩に、密かに〈鉤爪〉を調べたら、その後で水差しの中味がすばらしいワインに変わっていることをジョナスが発見したのを、妙に生々しく思い出したからである。
ジョナスは、わたしが薄赤い液体をじっと見つめているのに気づいたらしく、自分のカップに酒を注ぐと、こういった。「きみは判決には責任がないということを、思い出さなくてはいけない。たとえ、きみがここにこなくても、結局彼らは処罰され、たぶんきみよりも腕の落ちる者の手にかかって、もっと酷い苦痛を味わったことだろう」
なんの話をしているつもりかと、わたしは彼に尋ねた。
「きみが悩んでいるのがわかる……今日のことで」
「うまくいったと思っているよ」わたしはいった。
「蛸《たこ》が人魚の海草のベッドから出て、なんといったか知っているだろう。≪きみの技術に文句をいうわけではない――その正反対だ。しかし、もうちょっと浮かれた顔をしてもよさそうなものだ≫[#≪≫は《》の置換]」
「後で、いつもがっくりくるんだよ。パリーモン師がいつもそういっていた。そして、自分もやはりそうなるとわかったんだ。師はそれを純粋に機械的、心理学的な機能と呼んだ。その時には、これは撞着語法だとぼくには思えた。だが今は、彼が間違っていたかどうかわからなくなった。何が起きたか、あんたには見えなかったのかい? それとも、あまり忙しすぎたかな」
「わたしはほとんど階段の上に、きみの後ろに立っていたよ」
「それなら、よく見えたろう。どんな具合だったかわかったはずだ――椅子を待つのを断念した後は、万事スムーズに進んだ。ぼくは腕を揮い、喝采を浴び、感嘆の的になった。その後で、虚脱感があった。パリーモン師はよく群衆憂鬱症と宮廷憂鬱症の話をして、両方にかかる者もいれば、全然かからない者もいるし、片方だけにかかる者もいるといった。どうやら、ぼくには群衆憂鬱症があるようだ。宮廷憂鬱症があるかどうかは、スラックスにいけば、たぶん知る機会はなくなるだろうがね」
「で、それはどんなものかね?」ジョナスはワインの杯の中を覗きこんでいた。
「拷問者――たとえば、〈城塞〉の師匠の一人としてみよう――は、ときどき最高位の高貴人と接触する機会がある。仮に、重要な情報を持っていると思われる、きわめて神経過敏な囚人がいるとしよう。こういう囚人の審問には、高官が立会人として派遣されてくることが多い。そういう立会人はたいていの場合、よりデリケートな手術にほとんど経験がないから、師匠にさまざまな質問をし、被術者の気質や健康について自分が抱いているある種の危惧の念などを打ち明けて相談する。こんな時、拷問者は自分が物事の中心であるような感じを持つんだ――」
「それで、仕事が終わると感情が落ちこむのだな。うん、わかるような気がする」
「これらの仕事が、ぶざまに失敗した例を見たことがあるかい?」
「ない。この肉を食う気はないのかね?」
「ぼくも見たことはない。しかし、話に聞いたことはある。だから、緊張していたのだ。客人がわれわれの手を振り切って、群衆の中に逃げこんでしまったとか。首を切り落とすのに、何度も何度も剣を振り降ろさねばならなかったとか。拷問者が完全に自信を喪失して、仕事を進めることができなくなったとかね。ぼくがあの断頭台に跳び乗った時、これらの事故が一つも自分に起こらないという保証はなかった。もし起こっていたら、ぼくは一巻の終わりになっていたかもしれない」
「≪それにしても厳しい稼業だなあ≫[#≪≫は《》の置換]これは茨《いばら》が百舌《もず》にいった台詞だがね」
「実際には、それほど――」わたしは口を閉じた。なぜなら、部屋のずっと向こうのほうで、何か白いものが動くのが見えたからである。最初は鼠かと思った。鼠は大嫌いだった。われわれの塔の地下牢で、鼠にかじられた客人は大勢いるのである。
「どうした?」
「何か白いものだ」わたしはテーブルを回って見にいった。「紙きれだ。ドアの下からだれかが差し入れたんだ」
「また女がきみと一緒に寝たいというんだな」ジョナスがいったが、その時にはわたしはすでにそれを拾い上げていた。見ると、それは羊皮紙に灰色がかったインキで書かれた繊細な女手の手紙だった。わたしはそれを蝋燭のそばに持っていって読んだ。
[#ここから2字下げ]
最も親愛なるセヴェリアン――
わたしを支援してくれる親切な人々の一人から、ここから遠くないサルトゥス村にあなたがいると教わりました。あまり運が良くて信じられないほどです。でも今は、あなたがわたしを許してくれるかどうか、ぜひとも知らねばなりません。
わたしのためにあなたが受けたどんな苦難も、わたしの本意ではなかったと誓います。最初からあなたにすべてを話したいと思っていました。でも、他の人々がどうしても承知しなかったのです。彼らは、知るべき人以外は何人も知ってはならない(つまり、彼ら自身以外は駄目、ということ)と判断したのです。そしてついに、露骨にこういったのです。すべてにおいて[#「すべてにおいて」に傍点]自分たちに従わなければ、計画を破棄してわたしを見殺しにすると。あなたがわたしのために死ぬ覚悟でいることはわかっていました。それで、もしあなたが選択できるのなら、あなたもまたわたしのために苦しむことを選んでくれるだろうと、わたしはあえて希望したのです。許してくださいね。
でも今は、わたしは脱出して、ほとんど自由にしています――つまり、優しいイナイア老の単純で人情味のある指示に従うかぎりは、自分自身の主人でいられるのです。ですから、あなたが一部始終を聞いたら、わたしを本当に許してくださると希望しつつ、すべてをお話しします。
わたしが逮捕されたことはあなたも知っていますが、わたしの慰安について組合のグルロウズ師がとても気を使い、しばしばわたしの独房を訪問したり、また、彼や他の師匠たちが尋問できるように、わたしを彼のところに呼び寄せたことを、あなたも覚えているでしょう。それは、わたしの保護者である親切なイナイア老が、わたしに細かく気を配るように、彼に指示したからなのです。
でも、独裁者がどうしてもわたしを釈放する意志がないとわかると、イナイア老はみずからわたしの面倒を見ることにしたのです。グルロウズ師にどんな脅迫がなされたか、あるいは、どんな賄賂が贈られたのか知りませんが、とにかくそれは充分でした。そして、わたしが死ぬ――最も親愛なるセヴェリアン、あなたはそう思ったのね――数日前に、彼はどんな手段を取らねばならないか説明してくれました。もちろん、わたしをただ解放するだけでは不充分でした。探索がなされないようなかたちで解放する必要がありました。つまり、わたしが死んだように見せかけなければならなかったのです。でも、実際に死なせてはならないという厳重な指示が、グルロウズ師に出されていました。
これらの障害のもつれをわたしたちがどのように切り開いたか、もうあなたにも想像がつくでしょう。わたしは内部的な作用しか及ぼさない装置に掛けられるように、手配されました。そして、わたしに真の危害が及ばないように、まずグルロウズ師がその装置の危険性を取り去りました。わたしが苦しんでいるとあなたが思った時に、わたしは悲惨な生命を断つ手段をあなたに求めることになっていました。すべてが計画どおりにいきました。あなたはわたしにナイフをくれました。わたしはそれで腕を浅く切り、扉のそばにしゃがんで、その下に血を流しました。それから、喉に血を塗り、あなたがわたしの牢獄を覗いた時に見えるように、寝台の上に斜めに倒れていたのです。
見たでしょう? わたしは死んだようにじっと横たわっていました。目はつぶっていたけれど、あなたがわたしを見た時に感じた苦しみは、わかるように思いました。わたしは泣いてしまいそうでした。そして、涙が溢れるのをあなたに見られたらどうしよう、と心配で心配でたまらなかったことを覚えています。そして、ついにあなたが立ち去る足音が聞こえました。わたしは腕に包帯を巻き、顔と首を洗いました。しばらくするとグルロウズ師がやってきて、わたしを連れ去ったのです。許してくださいね。
今はふたたびあなたに会いたいと思っています。そして、保護者のイナイア老が厳粛に約束してくれているように、もし彼がわたしの赦免を取りつけるのに成功したら、わたしたちはもう二度と離れる必要はないのです。でも、すぐにわたしのところにきてください――わたしはいま彼の使者を待っているところです。その者が到着すれば、わたしはすぐに〈絶対の家〉に飛んでいって、その名が、奴隷たちの焦げた額の上の、三度祝福された掌である独裁者の、足もとにひれ伏さなければならないのです。
あなたはこれをだれにも口外せずに、ひそかにサルトゥス村から北東に進み、小川に出会うところまでいきなさい。その川はくねくねと曲がりくねってギョルに流れこんでいます。しかし、それをさかのぼっていくと、ある鉱山の入口から水が流れ出しているところに着きます。
ここで、ある重大な秘密をあなたに伝えなければなりません。これは絶対にだれにも漏らしてはなりません。実は、この鉱山は独裁者の宝物庫であって、彼は〈不死鳥の玉座〉から追われる日に備えて、この中に大量の貨幣、金銀塊、宝石を蓄えています。それを、イナイア老のある家来が守っています。でもあなたは彼らを恐れる必要はありません。彼らはあなたに従うように指示されています。そしてわたしは彼らと話をして、あなたをとがめずに通すように命じておきました。だから、あなたはその坑道に入って、水の流れについていきなさい。最後に、水が石から流れ出しているところに着きます。ここでわたしは待っています。ここでこれを書いているのです。あなたが許してくれることを願いつつ――
[#地から2字上げ]セクラ
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を何度も読みかえしながら、どんなに大きい喜びの波を感じたか、とても表現できない。わたしの顔を見ていたジョナスが、最初、椅子から飛び出し――わたしが失神しかけたと思ったらしい――それから、まるで狂人から身を引くように、後ずさりした。わたしがやっと手紙を畳んで|図 嚢《サパタッシュ》に押しこんだが、彼は何も尋ねなかった(ジョナスは真の友人なのだ)。だが、その顔つきから、援助の手をさしのべてくれるつもりだとわかった。
「きみの馬がいる」わたしはいった。「乗っていってもいいか?」
「いいとも。しかし――」
わたしはすでにドアのかんぬきを外していた。「きみと一緒にはいけない。万事うまくいけば、馬はきみのところに帰るように手配するよ」
階段を駆け下りて、旅籠の中庭にとび出していく間、手紙はセクラの声そのものでわたしに語りかけた。そして、厩に入った頃には、わたしは実際に狂っていた。ジョナスの小馬《メリーチップ》を探したが、目の前にいたのは、背の高さがわたしの目の高さよりも高い大型の軍馬だった。この平和な村に、だれがこんなものを乗り入れたか見当がつかなかった。しかし、それは気にしないことにした。わたしは一瞬もためらわずにその背に飛び乗り、テルミヌス・エストを抜き放ち、その馬を繋いである手綱を一刀のもとに切断した。
こんなに見事な軍馬を見たことはなかった。馬はひと跳ねで厩から飛び出し、ふた跳ねで村の通りに飛び出した。ひと呼吸の間、わたしは彼がテントの綱か何かに足をひっかけはしないかと心配した。だが彼は踊り子のように足もとがしっかりしていた。道は川に向かって東の方に伸びていた。家並を抜け出すやいなや、左にいくように指示した。彼は子供が小枝でも飛び越すように一つの塀を飛び越した。そして、いつのまにか、牛たちが緑色の月の光を浴びて角を上げている牧場を、全速力で疾走していた。
今でもわたしは乗馬は得意ではない。まして、当時は不得意だった。たとえもっと小さな動物の、高い鞍にまたがっていたとしても、半リーグもいかないうちに背中から振り落とされてしまうだろうと思っていた。ところがわたしの盗んだ軍馬は、そのものすごいスピードにもかかわらず、影のようになめらかに走った。実際、われわれは影のように見えたにちがいない。なぜなら、彼の毛は黒かったし、わたしは煤色のマントを着ていたから。彼は手紙に記された小川をしぶきを飛ばして渡るまでペースを緩めなかった。そこにきて、わたしはブレーキをかけた――一部は端綱《はづな》を握ることによって、大部分は言葉によって。その言葉に対して、彼はまるで兄弟のように耳を傾けた。小川の両岸には道がなかった。しかも、それについていくと、まもなく両岸に木が生えているところに出た。そこで小川に入るように彼をリードし、その泡立つ急流を、まるで人間が階段を上がっていくように、そして深い淀みは泳いで、上流にさかのぼっていった。
一刻以上たった頃、われわれは一つの森を抜け出した。それは、〈隣れみの門〉のところでドルカスやタロス博士やその他の者と別れてから通過した森とそっくりだった。やがて、両岸がより高くごつごつしてきて、樹木はより小さくねじれたものになってきた。川の中には玉石があったが、その縁が角張っていたので、人の手が加わっているとわかり、それによって、ここはもう鉱山の領域であり、足の下には大きな都市の残骸があることがわかった。道はますます険しくなった。激しい気性にもかかわらず、馬は滑る石を踏んで何度かよろめいたので、わたしは背から下りて、彼を導いていった。こうして、一連の小さな夢のような谷間を通っていった。それぞれの谷は高い両岸の陰になって暗く、それぞれ緑色の月光がところどころに斑点を作っており、それそれ水音が鳴り響いていた――しかし、それを別にすれば、あたりは静けさに包まれていた。
ついに、他のものよりももっと小さく、もっと狭い谷に入った。そして、そのどんづまりの、一チェーンほど先の急な斜面に月光が当たっているところに、暗い入口が見えた。そこが小川の水源で、石になった巨人の唇から流れ出すよだれのように、水が流れ出していた。わたしは水際に、馬が立っていられるだけの広さのある地面を見つけて、切れた残りの短い手綱で、ごく小さな木の幹になんとか彼を繋ぎとめた。
ここには、坑道に通じる丸太の構脚橋がかかっていたことは間違いなかった。しかしそれは、ずっと昔に朽ち果ててしまっていた。月光で見ると、そこに登るのは不可能に思われた。だが、古い崖の表面に足をかける穴がいくつか見つかり、それを利用して流れ落ちる水の片側を登っていくことができた。
両手を開口部の中に入れた時に、後ろの谷間から何かの音が聞こえた。いや、聞こえたように思った。わたしは動きを止めて振り返った。ラッパの合図とか爆発音のような耳につく音でなければ、激しい水音が掻き消すはずであり、実際にこの音は掻き消されたのだが、それでもわたしは何かを感じ取った――たぶん、岩の上に岩が落ちた音か、または、何かが水の中に飛びこんだ音だったろう。
谷間は平和に静まりかえっているように思われた。その時、馬が足の置き場を変え、その誇り高い頭と前を向いた耳が、一瞬、光の中に入るのが見えた。わたしは、彼があまり窮屈に繋がれたのを不満に思って、足踏みをして、蹄鉄をつけた足で岩を打ったのだと結論した。そして、坑道の入口に体を引き上げた。そして、そうすることによって、後でわかったように、自分の命を救ったのだった。
このような場所に入ることを承知で出てきたとすれば、いくらかでも分別のある人なら、ランタンと蝋燭の予備をたくさん持ってきたはずである。だが、わたしはまだセクラが生きていると知って気が動転していたので、何も持ってこなかった。だから闇の中を這って進んだ。すると十数歩もいかないうちに、背後の谷間に射す月の光が見えなくなった。ブーツは水に浸かっていた。このようにして、さっきまで馬を引っばってきた時と同様に、水の中をさかのぼっていった。テルミヌス・エストは左肩に掛けていたが、その鞘の先が水で濡れる心配はなかった。なぜなら、トンネルの天井があまりにも低いので、体を二つに折って歩かなければならなかったからである。こうして長い間進んでいった。自分は間違ったところにきてしまったのではないだろうか、セクラはどこか別の場所で待っていて、これは無駄になるのではないだろうかと、絶えず不安にさいなまれながら。
[#改ページ]
6 青い光
わたしは氷のように冷たい水の音に慣れてしまったので、もし質問されれば、静けさの中を歩いていったと答えただろう。しかし、事実はそうでなかった。そして、窮屈なトンネルが突然広がって、暗さは変わらないが広い部屋になった時に、水の音楽の変化からそれにすぐに気づいたのだった。わたしは一歩踏み出し、さらにもう一歩踏み出して、それから頭を上げた。もう、ごつごつした岩の天井は頭に当たらなかった。両腕を上げた。何もない。次にテルミヌス・エストの縞瑪瑙《オニキス》の柄を握り、鞘をはめたまま、上に伸ばして振った。やはり、何も触らなかった。
それからわたしは、この記録を読んでいる諸君が、実に馬鹿げていると思うようなことをした。しかし、この鉱山にいるかもしれない番人は、わたしがくると予告され、危害を加えてはならないと指示されていると、わたしが教えられていたことを、思い出していただきたい。わたしはセクラの名を呼んだのだ。
すると、木霊が答えた。≪セクラ……セクラ……セクラ……≫[#≪≫は《》の置換]
それからふたたび静寂が戻った。
わたしは水が岩から湧き出しているところまで、流れについていくことになっていたのに、まだそうしていなかったと思い出した。おそらく水は、外の小さな谷間をいくつも通り抜けて流れているように、この丘の地下のたくさんの空洞を通ってちょろちょろと流れてくるのだろう。わたしはふたたび水中を渡りはじめた。次の一歩で頭まで水中に没するのではないかという心配があったので、一歩ごとに手探りしながら進んでいった。
五歩進まないうちに、今はなめらかに流れている水のささやきに重なって、ずっと離れてはいるが明瞭なある物音が聞こえた。さらに五歩あるかないうちに光が見えた。
それは、伝説として語り継がれている月の森林のエメラルド色の反射光でもなければ、また、番人が持っている灯火の光――つまり、松明の深紅の光や蝋燭の金色の輝きでもなく、夜に独裁者の飛翔機が〈城塞〉の上を飛ぶ時に、たまに見かけることのある、目を射るような白い光線でさえもなかった。むしろ、それは時によって無色に見えたり、濁った黄緑色に見えたりする発光性の霧であった。距離がどのくらいあるか見当がつかなかった。そして、決まった形はないように思われた。それは一時、視野の前にちらちらと光った。わたしは流れについていきながら、そちらに水を撥ねかけた。すると、そこにもう一つの光が現われた。
次の数分間の出来事に注意を集中するのは、わたしには困難である。たぶん、だれでも潜在意識の中にいくつもの恐怖の瞬間を抱えているだろう。ちょうど、われわれの地下牢の使用されている最下層に、精神がとうの昔に破壊されてしまったか、もはやその意識が変形して人間のものでなくなっている客人がいるように。彼らと同様にこれらの記憶は、金切り声をあげたり壁に自分の鎖を打ちつけたりしているが、光を見るほど上に連れてこられることはめったにないのである。
この丘の地下で経験したことは、ちょうどそれらの客人があそこに残っているように、心の奥底に閉じこめておくように努力はしているが時々意識せざるをえないものとして、わたしの心の中に残っている(少し前に、サムル号がまだギョルの河口近くにいた時、わたしはある夜、船尾レールごしに外を覗いた。すると、オールが水につくたびに燐光が点々と光るのが見えた。すると一瞬、この丘の地下のもの[#「もの」に傍点]がついにそこまでやってきたのかと感じたものである。今は、彼らを指揮するのがわたしの役目になっているが、それにはほとんど喜びを感じない)。
わたしの見た光に、さっき書いたように、もう一つの光が加わった。それから、最初の二つに三つめが加わり、それに四つめが加わり、さらに増えていった。まもなく数えきれないほどの数になった。その正体は知れなかったが、わたしは実際に慰められ、それらを見て、その一つ一つがわたしの知らない種類の松明の火であり、手紙に記されていた番人がそれぞれ手に持っている松明なのだろうと想像して、勇気づけられたのだった。さらに十数歩進むと、それらの光点が合体して一つの形をつくるのが見えた。それはわたしの方を向いた矢印の形だった。次に、昔〈熊の塔〉で動物に餌をやる時によく聞いたことのある、捻り声のようなものが、ごくかすかに聞こえた。その時でさえも、もし向きを変えて逃げ出せば、わたしは逃げおおせたと思う。
だが、そうしなかった。唸り声が大きくなった――もっとも、正確に動物の出す声ではなかったし、ひどく熱狂した人間の大群の叫びでもなかったが。前に想像していたように、一つ一つの光点は形がないわけではなかった。それらは不揃いな五つの尖端を持つ、絵画で星形と呼ばれる形をしていた。
わたしが立ち止まったのはこの時だったが、もはや手遅れだった。
この頃には、これらの星が放つ不安定な無色の光は強さを増していて、周囲にそびえているものの影を見わけることができるほどになっていた。どちらの側にも、人工物であることを暗示する角張った側面を持つ塊りがあり――まるで、サルトゥスの鉱夫が宝物を掘り出す地底都市(ここはまだ重なっている土の重さで崩壊していなかった)の中を歩いているようだった。これらの塊りの間に、不規則ではあるが一種の規則性を持つずんぐりした円柱が立ち並んでいた。ちょうど、薪の山から小枝がばらばらに突き出てはいるが、それでいて一つの塊りを形成しているように。これらの柱は柔らかに光り、人魂のような動く星の光を、受け取った時よりも不気味さを減らし、少なくともより美しく反射していた。
一瞬、これらの円柱はなんだろうとわたしは考えた。それからまた星形を見た。この時初めて、彼らの姿がはっきりと見えた。諸君はこれまでに、夜、小屋の窓だと思って、せっせと歩いていったら、結局大きな砦のかがり火だとわかった、というような経験をしたことはないだろうか? それとも、崖をよじ登っていて、足を滑らせ、やっとしがみついて下を見たら、そこは信じていたよりも百倍も高い崖だったとわかった、というようなことは? もし、そんな経験があるなら、わたしが感じたことを、ある程度想像できるだろう。それらの星形は、火花ではなく、人間の形をしていたのである。だが、それらは、わたしの立っていた場所が、こんなところにあるものとしては想像を絶するほど広大な場所であったので、小さく見えたにすぎなかった。この連中は人間よりも肩が分厚く、もっと捻れているので、人間ではなさそうだった。彼らはわたしに向かって攻め寄せてきた。わたしの聞いた唸り声は、彼らの音声だったのだ。
わたしは向きを変えた。だが、水の中を走ることはできないと知って、その暗い構造物が立っている岸に上がった。その時には、彼らはほとんど手の届くところにきていた。そして、彼らの一部は左右に展開して、わたしを外界から切り離した。
説明しにくいが、彼らは恐ろしい姿をしていた――毛深くて、胴体が屈まっていて、腕が長く、足が短く、首が太い点は、猿に似ていた。歯は剣歯虎《スミロドン》の牙に似て湾曲し、鋸状の縁を持ち、その頑丈な顎から指ほどの長さに下向きに突き出ていた。しかし、わたしに恐怖を感じさせたものは、それらの特徴のどれかでも、その夜光性の毛皮でもなく、彼らの顔の何かだった。たぶん、青白い瞳孔のある巨大な目だったろう。その目は、彼らがわたしと同様に人間であることを物語っていた。老人が腐りかけた肉体に幽閉されているように、また、女性が弱い肉体に閉じこめられているために大勢の不潔な欲望の餌食になるように、この人々は不気味な猿の姿に包まれており、それを自覚しているのだった。彼らに取り囲まれた時、わたしはそれを悟った。そして、彼らの体で目だけが光を放たない部分であるだけに、なおさら気持ちが悪かった。
わたしは大きく息を吸いこんで、もう一度セクラと叫ぼうとし、それから気がついて、口を閉じ、テルミヌス・エストを抜いた。
ひときわ体の大きいやつ、少なくとも、ひときわ大胆なやつが一人、襲いかかってきた。そいつは大腿骨で作った柄の短い棍棒《メイス》を持っており、剣が届くぎりぎりの距離の外に立ち、大きな唸り声をあげ、長い手でその武器の金属の先端をびしゃびしゃ叩いて、わたしを威嚇した。
何かが後ろの水流を乱した。振り向くと、ちょうど発光する猿人の一人が流れを渡ってくるのが見えた。切りつけると、そいつは飛び退いた。だが、わたしの四角い剣先が彼の脇の下の少し下に当たった。この剣は、見事に鍛造され、完全に刃がつけられている名剣なので、彼の胸骨は見事に切断された。
彼は倒れ、水がその死体を運び去った。だが、彼がいやいや水の中を歩いていたのを、また、少なくとも、水流がわたしの動きを鈍らせると同様に、彼の動きをも鈍らせていたのを、わたしは剣が届く前に見て取っていた。わたしはまた向き直り、攻撃者全員を視野に入れながら、後ずさりして水の中に入り、水が外界に流れ出している地点目指してゆっくりと移動しはじめた。あの窮屈なトンネルに到達しさえすれば安全だと、わたしは感じた。だがそれと同時に、彼らは決してわたしにそうさせるつもりがないこともわかっていた。
彼らはなおもぎっしりとわたしを取り囲み、その人数は数百にも達した。この頃は、彼らの発する光は非常に強くなり、前にちらりと見えた四角ばった塊りが実際に建物であることがわかった。どうやら、それらは非常に古い構造物であるらしく、継ぎ目のない灰色の石でできており、いたるところこうもり[#「こうもり」に傍点]の糞で汚れていた。
不規則な円柱は、各層を、前の層に交わるように積み重ねた、金属の延べ棒の山であることがわかった。その色から、それらは銀だと推測された。それぞれの堆積に百本ぐらい延べ棒が含まれ、この地底都市には何百もの堆積があるのは確実だった。
このすべてを、わたしは六歩あるく間に見て取った。七歩目に彼らは襲いかかった。少なくとも二十人が、あらゆる方向から襲いかかってきた。彼らの首を綺麗にはねている暇はなかった。わたしは剣を風車のように振り回した。その音は地下の世界を満たし、石の壁や天井にこだまし、彼らの怒号や叫喚に消されずに耳に届いた。
このような瞬間には、時間の感覚は狂うものである。激しい攻撃と、自分自身の狂暴な打撃を覚えているが、後で考えると、すべてはひと呼吸の間に起こってしまったように思われる。二人、五人、十人、と倒れ、しまいにわたしのまわりの水は、人魂の光を浴び、どす黒い血の色に染まり、瀕死の者や死者でいっぱいになった。それでもなお、彼らは襲いかかってきた。わたしは肩を殴られた。それはまるで巨人の拳で叩き割られたように思われた。テルミヌス・エストが手から抜け落ち、大勢がわたしの上にのしかかり、その重さで水底に押しつけられ、必死にもがいていた。敵の牙が二本のスパイクのようにわたしの腕を切り裂いた。だが、その敵は溺れるのが恐くて、水のないところで闘うほどには戦闘能力を発揮できないようだった。わたしはそいつの幅の広い鼻孔に指を突っこみ、その首筋をひっぱたいた。だが、彼の首は人間の首よりも頑丈にできているようだった。
この時、もしトンネルに行き着くまで呼吸を止めていることができたら、わたしは脱出できたかもしれない。猿人どもはわたしの姿を見失ったようだった。わたしは少しの間、水中を流れ下った。その頃には肺が爆発しそうになっていた。水面に顔を上げると、彼らはまた襲いかかってきた。
当然死なねばならない時が、疑いなくだれにもやってくる。いつも感じているのだが、これがわたしの死ぬべき時だった。それ以来、自分が持っている生命はすべて、純粋な利益であり、貰う資格のない贈り物だと、わたしは見なしている。わたしには武器はなく、右腕は裂けて痺れていた。今は猿人たちは大胆になっていた。その大胆さのおかげで、わたしは一瞬長く生きることができた。なぜなら、敵はわたしを殺そうとしてあまり大勢押し寄せたので、たがいに邪魔をしあったのである。わたしは一人の顔を蹴った。もう一人がわたしのブーツを握った。その時、一条の閃光がほとばしった。わたしは(自分にもわからない本能または霊感で、体を動かし)それをわしづかみにした。それは〈鉤爪〉だった。
まるでそれはみずからに人魂の光をすべて引きつけて、生命の色彩に染め上げたかのように、清らかな青い光を放ち、その光で洞穴を満たした。心臓が一鼓動する間に、猿人どもはまるでゴングの音でも聞いたように動きを止めた。わたしはその宝石を頭上に掲げた。どんな激しい恐怖の場面を自分が待望していたか(実際に待望していたとして)、今となっては言うことができない。
実際に起こったことは、まったく予想をはずれたことだった。猿人たちは悲鳴をあげて逃げもしなければ、攻撃を再開しもせず、後ずさりして、先頭の者がわたしから三歩ほどの距離に退った。そして、坑道の床に顔をすりつけるようにして平伏した。最初にわたしが入ってきた時と同様の静寂がたちこめ、かすかなせせらぎの音だけになった。だが今は、何もかも見ることができた。わたしの立っている場所に近い汚れた銀の延べ棒の堆積から、猿人が荒廃した壁を降りてきて青白い火の斑点のように見えたこの洞穴の一番奥の部分まで、見ることができた。
わたしは後ずさりを始めた。それを見上げる猿人たちの顔は、人間の顔だった。そのような彼らを見ていると、長い長い年月にわたって暗闇と闘ってきたために、彼らの歯が牙になり、目が皿のようになり、耳が左右に突き出して大きくなったことが、理解できた。われわれはかつて猿であったと、賢者はいう。森林で楽しく暮らしている猿だったが、ずっとずっと昔に、名のない砂漠にそれらの森が飲みこまれたのだと。老人になって、ついに歳月が心を曇らせると、人は子供の状態に戻る。もしも、年老いた太陽がついに死に、われわれが暗闇に取り残され、骨を奪いあって掴みあいをするようになると、人類は(老人がそうであるように)かつての姿の堕落したイメージに逆行するのではないだろうか? わたしはわれわれの未来を見た――少なくとも一つの未来を――そして、果てしない夜に血を流した者たちよりも、暗黒の戦いに勝利した者たちのために、よけいに悲しみを感じた。
(すでに言ったように)わたしは一歩後退した。そして、また一歩。それでも猿人はだれ一人としてわたしを止めるために動こうとはしなかった。この時、わたしはテルミヌス・エストを思い出した。たとえこの狂暴な戦いから脱出するとしても、もし、彼女を置き去りにしてきたら、わたしは自分を軽蔑することになるだろう。彼女を持たずに平気で出てくることなど、できるわけがなかった。わたしは彼女のきらめく刃を〈鉤爪〉の光で探しながら、ふたたび前進しはじめた。
それを見ると、その奇妙な歪んだ人間たちの顔が輝くように思われた。そして、その表情から、わたしがここに残ることを望んでいることがわかった。そうすれば、〈鉤爪〉とその青い光がずっと彼らのところに残るからである。今こうして言葉を紙に書き記すと、いかにも恐ろしいことのように感じられるが、実際には恐ろしくなかったように思う。荒々しい姿をしていても、その一つ一つの野獣のような顔に憧憬の表情を見ることができた。そして、たとえ彼らがいろいろな点でわれわれより劣っているとしても、ウールスの地底のこの隠された都市の住民には、醜い無邪気な心という祝福が与えられていると、わたしは思った(し、また今もそう思っている)。
一方の側からもう一方の側まで、岸から岸まで探したが、何も見つからなかった。もっとも、〈鉤爪〉から射す光はますます明るくなって、しまいにはこの広大な洞穴の天井から垂れ下がっている石の歯の一つ一つが、漆黒の鋭い輪郭の影を投げかけるまでになった。うずくまっている連中に、わたしはついに呼びかけた。「おれの剣は……おれの剣はどこにある? おまえたちのだれかが取ったのではないか?」
彼女[#「彼女」に傍点]を失う恐怖で半狂乱になっていなかったら、わたしは彼らに話しかけたりしなかっただろう。だが、彼らに言葉が通じたようだった。彼らはたがいにつぶやきはじめ、わたしにも話しかけ――立ち上がらずに――身振りで合図をし、棍棒や尖った骨の槍を差し出して、受け取るようにうながし、もう闘う意志のないことを示した。
その時、水の流れる音と猿人のつぶやきに重なって、別の音が聞こえた。するとたちまち彼らは静まりかえった。もし、この世界のまさにこの足を、食人鬼が食べるとすれば、その歯の擦れあう音は、ちょうどこんな音になるだろう。足の下の小川の底(わたしはまだそこに立っていた)が揺れた。そして、さっきまで澄みきっていた水に、細かい沈泥が舞い上がり、まるで、水中に一条のリボンがうねっているように見えた。ずっと下の方で、〈最後の日〉――その日にはウールスのすべての都市が〈新しい太陽〉の日の出を迎えるために歩きだすといわれている――の塔の歩みもかくやと思われる足音が聞こえた。
そして、また一歩。
たちまち猿人たちは起き上がった。そして、低く身をかがめながら空洞のずっと奥の方に逃げこんだ。今度は無言で、しかも、おびただしく羽ばたいているこうもり[#「こうもり」に傍点]のようにすばやく。彼らがいなくなるとともに明かりが消えてしまった。なぜなら、なんとなく気になっていたように、〈鉤爪〉はどうやらわたしのために発光したのではなく、彼らのために発光していたのだから。
地底からまた足音が聞こえた。それとともに最後の光がふっと消えた。しかし、その瞬間に、最後の輝きで、テルミヌス・エストが一番深い水底に沈んでいるのが見えた。暗闇の中でわたしは身をかがめ、〈鉤爪〉をまたブーツの中に押しこみ、剣を拾い上げた。そして、そうしながら、腕の痺れが消えているのに気づいた。腕が、今では戦いの前と同様に強くなっているように思われた。
また足音が聞こえた。わたしは向きを変えて、剣で前を探りながら逃げ出した。大陸の根元からわれわれが呼び出してしまったその生き物が何であったか、今はわたしは知っているように思う。しかし、その時には知らなかった。そして、そいつを目覚めさせた原因が、猿人の唸え声だったか、それとも〈鉤爪〉の光だったか、それとも他の物だったか、わたしにはわからなかった。
ただ、わかったのは、足の下のずっと深いところに何かがいて、そいつの前では、あれほど恐ろしい姿をしており、人数も多い猿人たちが、まるで風に吹かれた火の粉のように逃げまどうということだけだった。
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7 刺 客
外界に向かってトンネルを引き返した時のことを思い出すと、あれには一刻、またはそれ以上の時間がかかったように思われる。わたしの神経は、情け容赦のない記憶によって常に責めさいなまれているので、健全な状態にあることは決してないように思われる。あの時は、神経が最高のピッチで震えていたので、三歩あるくのにも、一生涯のエネルギーを使い果たしてしまいそうだった。もちろんわたしは怯えていた。わたしは幼少の頃から臆病者と呼ばれたことは一度もない。また、場合によっては、勇気があるといわれたことが何度もある。組合員としての義務をたじろぐことなく遂行してきたし、個人的にも、戦争でも、闘ってきたし、険しい岩山をよじ登りもしたし、溺死しそうになったことも何度かある。しかし、勇気があるといわれる者と、きわめつきの臆病といわれる者との間には、後者は危険の前に恐れ、前者は危険の後で恐れる、という以外の相違はないと信じる。
大きな内在的な危機の最中には、人間はそれほど怯えていられないのは事実である――精神がそのこと自体と、それに対決するか、またはそれを避けるために必要な行動に、集中しすぎているからである。しかし臆病者は、自分の中に恐怖を持ち歩いているから臆病者なのである。われわれが臆病だと思う人物も、危険を予告されなければ、われわれがびっくりするような勇気を示すことがある。
わたしは少年時代に、グルロウズ師を最も豪胆で勇気がある人だと思っていた。しかし、彼は疑問の余地なく臆病者であった。ドロッテが徒弟頭をしていた時期に、ロッシュとわたしは交替でグルロウズ師とパリーモン師の世話をした。ある夜、グルロウズ師は自室に引き揚げた時に、わたしに残ってお酌をするように命じた。その時に、彼はわたしに打ち明け話をした。
「子供よ、おまえは客人のイアを知っているか? 大郷士《アーミジャー》の娘で、なかなか器量良しだ」
わたしは徒弟だから、客人とはほとんど接触はなかった。わたしは首を振った。
「彼女は凌辱されることになっている」
その意味がわからないままに、わたしはいった。「はい、師匠」
「これは婦人にとって最大の不名誉だ。男にとっても同じだがな。拷問者によって凌辱されることは」彼は自分の胸を指さして、頭をのけぞらせてわたしを見た。彼はあれほどの大男にしては、頭が驚くほど小さかった。もし彼がシャツかジャケットを着ていたら(もちろん、決して着はしなかった)、見る人は彼がパッドを入れていると信じたくなったことだろう。
「はい、師匠」
「わたしの代わりに、おまえがやると申し出る気はないか? おまえのような若者は、水気が溢れている。まだ毛が生えていないとは言わせないぞ」
やっと彼のいうことが飲みこめた。それで、自分はまだ徒弟だから、そのようなことが許されるとは思っていなかった、と彼にいった。しかし、そのように命じられれば、従いますと。
「そうだろうな。悪くない女だぞ、あれは。だが、背が高い。背が高い女は、わたしは好まんのだ。きっと、彼女の家系には一世代かそこら前に、高貴人の悪党がいたのだ。血はおのずから現われると、世間でいうとおりだ。その意味を完全に知っているのはわれわれだけだがな。やりたいか?」
彼はカップを差し出し、わたしはお酌をした。「やれとおっしゃるのでしたら、やらせていただきます、師匠」実は、わたしは考えるだけで興奮したのである。女を自由にした経験はなかったから。
「おまえではだめだよ。わたしでなければな。万一、審問されたらどうなる? やはり、わたしが証明しなければならないのだ――書類に署名をしてな。二十年間、組合の師匠をつとめているが、書類を偽造したことは一度もない。おまえは、わたしにはできないと思っているんだろう」
その考えがわたしの心をよぎったことは決してなかった。パリーモン師について、その逆の考え(つまり、彼にはまだ能力がいくらか残っているということ)が浮かんだことがないと同様に。なにしろ、パリーモン師の頭は真白で、猫背で、覗きレンズを掛けているから、いつもよぼよぼの老人のように見えるのである。
「いいものを見せてやろう」グルロウズ師はそういって、椅子から立ち上がった。
彼はひどく酒に酔っている時でも、しっかりと歩き、はっきりと喋ることのできる人だった。彼は自信に満ちた様子で、箪笥に大股に歩み寄った。もっともわたしは、彼が取り出した青い磁器の瓶を取り落とすのではないかと、一瞬思ったけれども。
「これは珍しい強力な薬だ」彼は蓋を取って、暗褐色の粉末を見せた。「決して失敗はない。いずれ、おまえも使わねばならなくなる。だから覚えておきなさい。ナイフの先にのせて、爪で摘めるだけでの分量を服用する、わかるか? たくさん飲みすぎると、二、三日は人前に出られなくなるぞ」
「覚えておきます、師匠」
「もちろん、これは劇薬だ。こういうものは皆そうだ。そして、これが最良だ――それ[#「それ」に傍点]以上ちょっとでもよけいに飲むと、命を落とす。そして、月が変わるまで、二度と用いてはならない。わかったな?」
「コービニアンさんに薬の分量を計ってもらったほうがよさそうですね、師匠」コービニアンとは組合の薬剤師のことである。目の前でグルロウズ師が匙一杯飲むのではないかと、わたしは心配になったのだった。
「わたしがか? わたしはこんなものはいらん」彼は馬鹿にしたようにいって、瓶に蓋をし、箪笥のもとの棚に、どしんと乗せた。
「それはけっこうですね、師匠」
「しかも」(彼はわたしにウィンクして見せた)「これを使う」彼は|図 嚢《サパタッシュ》から鉄製の張形を取り出した。それは長さ一スパン半あり、先端と反対の端になめし革の紐が通してあった。
読者には愚かしく思われるかもしれないが、その幾分誇張された写実的なデザインにもかかわらず、わたしには一瞬その用途が想像できなかった。酒のために師が子供になってしまった、まるで、木馬と本物の獣との間に基本的な違いはないと思う子供のようになってしまった、というばかばかしい考えが浮かんだ。わたしは吹き出しそうになった。
「凌辱≠ニいうのが、最も適切な言葉だ。おまえにもわかるだろうが、そのようにして、われわれにはけ口[#「はけ口」に傍点]を与えてくれるわけだ」彼は鉄製の男根でびしゃびしゃと掌を打った――今思うと、それはわたしを威嚇した猿人が棍棒を持ってやったのと同じ動作だったのだ。あの時、わたしは納得し、そして激しい嫌悪感に襲われたものであった。
しかし、その嫌悪感も、今それと同じ状況に遭遇したら感じるであろう感情とは違う。あの客人には同情しなかった。なぜなら彼女のことは、まったく考えなかったから。あの感情は、グルロウズ師にたいする一種の強い反感にすぎなかった。彼はあのように立派な体格で、あれほど力持ちであるにもかかわらず、あの茶色の粉末に頼らねばならず、さらに悪いことに、見てしまったあの鉄の張形――彫像から鋸で挽き切られたものかもしれない、たぶんそうだったろう――に頼らねばならなかったのだ。しかし、別の場合の師をもわたしは見ている。その時は、ただちに行なわなければ、客人が生きているうちには命令が遂行できないおそれがあった。彼はただちに実行した。それも粉末も張形も使わず、しかもなんの困難もなく。
あの時はグルロウズ師は臆病になっていたのだ。それにしても、彼の臆病さは、同じ立場にあったらわたしが発揮するだろう勇気よりもましだった。なぜなら、勇気は必ずしも美徳とはかぎらないからである。猿人と闘った時(そのようなことが勇気とみなされるように)、わたしは勇敢であった。しかしその勇気は、むこう見ず、そして自暴自棄の混合物にすぎなかった。今、トンネルの中で、もはや恐れる原因がなくなった時にわたしは恐れ、危うく低い天井に頭を打ちつけて脳味噌をぶちまけそうになった。だが、前方に、月の光によって照らされた出口が見えて、ほっとするまで、スピードを落とさなかった。それから実際に立ち止まり、安全に逃げおおせたと考えて、ぼろぼろのマントの端で剣をできるだけていねいに拭い、鞘に納めた。
それが終わると、剣を肩に掛け、出口の縁にぶらさがり、登ってきた時に足場にした岩棚をブーツのつま先で探りながら、降りはじめた。だが、ちょうど三つめの足場に達した時、頭のそばの岩に二本の弩《いしゆみ》の矢が当たった。一本は昔作られた割れ目かなにかに食いこんだらしく、その場に突き刺さって、目もくらむような白い炎を噴き出した。この時どんなに驚いたか覚えているし、また、次の矢がもっと近くに当たり、ほとんど目がくらんでしまう前の二、三秒の間に、この弩が、巻き上げられた時に新しい投射物が弦につがえられる種類のものでないことを、つまり、二の矢をすばやく発射できるものでないことを願ったのを覚えている。
第三矢が岩にはじけて、その種類の弩であることがわかった。それで、射そんじた射手がまた発射しないうちに、飛び下りた。
坑道から水が流れ落ちる場所には、当然知っていなければならなかったのだが、深い滝壼があった。わたしはまた水に潜った。だが、すでに濡れていたから、それは問題なかった。そして、顔や腕にこびりついた火の粉を消すことができた。
ここでは、水面下に静かに隠れていることなど論外であった。水はわたしを小枝のようにつかみ、自分の気が向いた場所でわたしを水面に放り出した。そこは、まったく幸運なことに、岩壁からかなり離れた場所だったので、わたしは攻撃者の背中を見ながら岸に這い上がることができた。彼らと、それに混じって立っている女は、滝が落下している地点を見つめていた。
わたしはテルミヌス・エストを抜いて――この剣を抜くのは、この夜はこれが最後になった――叫んだ。「こっちだ、アギア」
彼女だということは、その前からわかっていた。そして、彼女が(一緒にいる男たちよりもすばやく)振り向くと、その顔が月光に照らされてちらりと見えた。それは(彼女の自己軽視にもかかわらず、非常に美しかったが)わたしにとっては恐ろしい顔だった。なぜなら、それが見えたということは、セクラが確実に死んでいるということを意味したから。
一番近くにいた男はとても愚かで、弦を引き絞らぬうちに弩を肩に当てようとした。わたしは水に潜り、下からその足を切った。一方、もう一人の弩の矢が流星のようにわたしの頭をかすめて、ひゅっと飛びすぎた。
この時には、わたしはふたたび体を起こしており、二番目の男は弩を捨てて、短剣を抜こうとしていた。アギアはもっとすばやく、彼の刃が鞘から抜け出す前に、|あいくち《ア サ メ》でわたしの首に切りかかった。わたしは彼女の一撃をかわし、二撃目をテルミヌス・エストで払い除けた。もっとも、テルミヌス・エストはフェンシングのために作られたものではなかったけれども。わたしが攻撃に移ると、彼女は飛び退いた。
「後ろに回れ」彼女は第二の射手に叫んだ。「わたしが前から攻める」
彼は答えなかった。そして、口をぽかんと開けて、短剣の切っ先をさっと横に向けた。彼が見ているのはわたしではないと気づかないうちに、何か光の塊りのようなものが、弾むようにしてわたしの横を通り過ぎた。頭蓋骨が割れる不気味な音が聞こえた。アギアは猫のように優雅な動作で振り返り、その猿人を突き刺そうとした。だが、わたしはその毒を塗ったあいくちを彼女の手から叩き落とした。それは岩肌を滑って滝壺に飛びこんだ。すると、彼女は逃げ出そうとした。
わたしは彼女の髪の毛をつかんで、引き倒した。
猿人は自分が殺した射手の死体の上に屈みこんで、ぶつぶついっていた――彼が何かを奪おうとしていたのか、それとも、その姿に好奇心を抱いたのか、わたしにはわからない。
わたしはアギアの首に足を乗せた。猿人は体を伸ばし、振り向いてわたしを見た。それから、さっき坑道で見たように地面にうずくまり、両腕を差し上げた。片方の手首がなくなっていた。テルミヌス・エストですっぱりと切り取られたのだとわかった。猿人は、理解できないことをぶつぶついった。
わたしは答えようとした。「そうだ。おれが切ったのだ。気の毒だった。今はもう和睦した」
懇願するような表情のままで、彼はまた喋った。切り口からまだ血がしみ出していた。だが彼の種族の身体は、テラコドンがそうだといわれているように、動脈が収縮して閉まるような機構を備えているにちがいない。普通の人間なら、これだけの傷を受けて、外科医の処置を受けなければ、出血多量で死ぬだろうに。
「おれがそれを切った」わたしはいった。「しかし、それはまだ闘っていた時のことだ。おまえたちが〈調停者の鉤爪〉を見る前のことだ」その時、こんな考えが浮かんだ。丘の下でわれわれがどんな騒ぎを始めたにせよ、こいつはそのために生じた恐怖をものともせずに、あの宝石をもうひと目見るために、わたしを追って外に出てきたにちがいない、と。わたしは手をブーツの中に突っこんで〈鉤爪〉を引き出した。そして、そうした瞬間に、ブーツとその貴重な荷物[#「荷物」に傍点]をアギアの手のすぐそばに置いていたことの愚かしさを覚った。なぜなら、猿人がさらに低くひれ伏して、その憐れな手の切り口をさしのべた瞬間に、彼女の目が貧欲な表情を浮かべて見開かれたからである。
一瞬、われわれ三人は動きを止めた。不気味な光のなかで、われわれは奇妙なグループに見えたにちがいない。上の高い場所から、驚いたような――ジョナスの――声が呼んだ。「セヴェリアン!」影絵芝居で、すべての偽りを溶かし去るトランペットの響きのように、その叫びはわれわれの活人画に終止符を打った。わたしは〈鉤爪〉を降ろし、掌に隠した。猿人は岩壁の方に跳んで逃げ、アギアはわたしの足の下でもがきはじめ、悪態をつきはじめた。
剣の平でひと打ちすると彼女は静かになった。だがわたしは、ジョナスがやってきて味方が二人になり、アギアが逃げられなくなるまで、彼女の体を踏みつけていた。
「助けが要ると思ったのさ」彼はいった。「だが間違っていたらしい」彼はアギアと一緒にいた男たちの死骸を見ていた。
わたしはいった。「これは本当の闘いではなかった」
アギアが首や肩をもみながら、起き上がった。「四人いたのよ。あんたをやっつけることができたのに。でも、この連中、つまり、光る虎人間の死骸が、穴から流れ落ちはじめると、二人は恐れをなして逃げてしまった」
ジョナスは鉄の手で頭を掻いた。すると、馬に毛すき櫛をかけるような音がした。「ではわたしは、見たと思ったものを、やはり見たのだな。自分の頭がおかしくなったと思いはじめていたのだが」
何を見たと思ったのかと、わたしは尋ねた。
「毛皮の衣を着た光る生き物が、きみに平伏していた。きみは燃えるブランデーの杯を持ち上げていた、と思う。それとも、あれは香炉だったかな? これはなんだ?」彼は腰をかがめて、さっき猿人が平伏していた水際から何かを拾い上げた。
「棍棒だ」
「ああ、見ればわかる」骨の柄の端に腱の輪がついていた。ジョナスはそれを手首にはめた。
「きみを殺そうとしたこの連中はだれだね?」
「殺せたのに」アギアはいった。「そのマントがなければね。この人が穴から出てくるのが見えた。でも、彼が岩壁を下りはじめると、マントがその体を隠した。わたしの手下どもは標的が見えなかったのよ。腕の肌だけしかね」
わたしは、アギアとその双子の兄に関わりあいになった事情と、そして、アギルスの死について、できるだけ手短かに説明した。
「そうか。では、彼女はこれから彼のところにいくわけだな」彼は視線を、彼女からテルミヌス・エストの血まみれの刃に移して、小さく肩をすくめた。「上に馬が置いてある。わたしはあちらにいって、馬の面倒でも見たほうがいいだろう。そうすれば、後で何も見なかったといえるし。この女が、あの手紙を寄こした人物なのか?」
「当然、気づくべきだった。彼女にはセクラのことを話したからな。きみはセクラのことは知らないが、彼女は知っていた。手紙にはそのことが書いてあったんだから。ネッソスの〈植物園〉を歩きながら、彼女に話したんだ。手紙にはいくつかの間違いがあり、セクラだったら決して言わないようなことが書いてあった。しかし、読んだ時には、落ち着いて考えなかったんだ」
わたしは数歩離れたところにいき、〈鉤爪〉をブーツに戻し、深く押しこんだ。「きみがいうように、きみは馬のところにいったほうがいいだろう。ぼくの馬は逃げてしまったらしい。だから、われわれは交替できみの馬に乗らなければならないかもしれない」
ジョナスはうなずくと、下りてきた崖を登って戻りはじめた。
「きみはぼくを待ち伏せしていたんだな?」わたしはアギアに尋ねた。「何か物音が聞こえた。そして馬がその音に耳をそばだてた。あれがきみだったんだな。あの時になぜぼくを殺さなかった?」
「わたしたちはあの上にいたのよ」彼女は高地の方を指さした。「そして、あんたが谷川を上ってきた時に、雇った男たちにあんたを射殺させようとしたのよ。男はみんなそうだけど、彼らは馬鹿で頑固で、矢を無駄に使いたくないと言いはった――洞穴の中の動物があんたを殺すだろうと。わたしは自分の力で動かせる一番大きい岩を転がして落としたけれど、すでに手遅れだったわ」
「彼らは鉱山のことをきみに教えたのか?」
アギアは肩をすくめた。すると月の光が、彼女の露出した肩を、肉体よりもっと貴重な、もっと美しいものに変えた。「これからわたしを殺すつもりでしょ。だから、そんなことどうでもいいじゃない? この土地の人々はみんなこの場所の話をするわ。あの生き物が嵐の夜に出てきて、家畜小屋から家畜を盗んだり、時には、子供を盗みに家に押し入るって。また、彼らは中の宝物を守っているという伝説もあるわ。だから、それも手紙に書いたのよ。あんたが、たとえセクラを連れにこなくても、宝物のためにやってくるかもしれないと思ってね。あんたに背を向けて立ってもいいかしら、セヴェリアン? どちらでもよいなら、それが振り降ろされるのを見たくないもの」
彼女がそういった時、わたしは心から重荷が取れたように感じた。その顔を覗きこんでいなければならないとしたら、彼女を切ることができるかどうか自信がなかったからである。
わたしは自分の鉄の張形を振り上げた。そうしながら、アギアにもう一つ尋ねたいことがあったような気分がした。だが、それがなにか思い出せなかった。
「切って」彼女はいった。「覚悟はいいわ」
わたしは足場を固めた。そして、指で鍔《つば》の一端にある女の首を探り当てた。女刃の目印であるその首を。
しばらくすると、また彼女がいった。「切って!」
だが、その時には、わたしは崖を登って谷間から出ていた。
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8 短 刀
われわれは黙って旅籠《はたご》に帰った。ひどくのろのろと歩いたので、町に着く前に東の空が白んできた。ジョナスが小馬から鞍をはずしている時に、わたしはいった。「彼女を殺さなかったよ」
彼はこちらを見ずにうなずいた。「知っている」
「見ていたのか? 見たくないといっていたのに」
「きみがそばにやってきた時に、彼女の声が聞こえたからさ。またやるつもりかな、彼女は?」
わたしは考えながら、彼が小さな鞍を馬具部屋にしまうのを待った。彼が出てきた時にいった。
「ああ、きっと、またやるだろう。約束は取りつけなかったから。きみのいうのがそのことならね。約束なんて、彼女はどうせ守りはしないんだから」
「それじゃ、わたしなら殺していただろうな」
「ああ」わたしはいった。「それが正しいことだったろうな」
われわれは一緒に厩《うまや》を出た。旅籠の中庭は今はかなり明るくなっていて、井戸と、旅籠の中に通じる広い扉が見えた。
「正しいことだったとは思わないよ――自分だったら殺したろうに、といっているだけだ。そうしなければ、自分が寝首を掻かれて、どこかの汚いベッドで死ぬ光景が心に浮かんだことだろうよ。そして、わたしなら、これ[#「これ」に傍点]を揮ったことだろう。これは正しいことではなかったろうよ」ジョナスは猿人が捨てていった棍棒《メイス》を持ち上げ、荒々しく無骨に、剣で切る真似をして、打ち下ろした。その先端のふくらみがきらりと日光を反射したので、二人ともびっくりした。
それは黄金を叩いて作ったものであった。
一晩じゅう飲み明かした酔客の仲間に、祭日がまだ提供しているドンチャン騒ぎの中に、われわれのどちらも加わりたいとは思わなかった。われわれは共同で借りている部屋に引きこもって、寝る用意をした。この黄金を二人で分けようというジョナスの申し出を、わたしは断わった。わたしは前から多額の金を持っていたし、仕事の料金の前払いもしてもらっていた、そして彼は、いわば、わたしの生来の気前の良さに頼っていたのだった。だから、これでもう彼が引け目を感じる必要がなくなると思うと、わたしは嬉しかった。また、この黄金のことで、彼がわたしを完全に信用していることを知り、そして、自分が〈鉤爪〉の存在を彼から注意深く隠していた(事実、まだ隠している)ことを思い出して、恥ずかしく感じた。そのことを彼に話す義理があると感じた。しかし、その気持ちとは逆に、わたしは濡れたブーツから足を引き抜く時に、〈鉤爪〉をわざわざ爪先の方に落としこんだのであった。
目覚めたのは正午近かった。そして、〈鉤爪〉がまだそこにあることを確かめてから、ジョナスから頼まれていたように、彼を起こした。「これに値をつける宝石屋が定期市にいるはずだ」
彼はいった。「すくなくとも、市にいけば取引できる。一緒にくるかい?」
「何か食べないとね。そして、食べおわれば、ぼくは断頭台にいく時間になる」
「では、食べたら仕事に戻れよ」
「ああ」わたしはマントを持ち上げた。マントはひどく破れていた。そして、ブーツは重たくて、まだ少し湿っていた。
「ここの女中のだれかに縫ってもらえばいい。新品のようにはならないだろうが、今のままよりはずっとましになるだろう」ジョナスがドアを開けた。「さあ、腹が減っているなら、いこう。いったい何をそんなに考えこんでいるのかね?」
旅籠の食堂で、彼との間にご馳走を置き、別室で旅籠のかみさんにマントを繕ってもらいながら、わたしは丘陵地帯の地下で起こったことを説明し、最後に地底のはるか深いところで聞いた足音のことを話した。
「きみは不思議な男だな」彼はそれしかいわなかった。
「不思議といえば、きみのほうだ。人々に知られたくないらしいが、きみはなんらかの種類の外人《フォリナー》だな?」
彼は微笑した。「退化人《カコジェン》といいたいのかい?」
「外地人《アウトランダー》だな」
ジョナスは首を振り、それから、うなずいた。「まあ、そういうことだろう。しかし、きみは――きみは怪物どもを平伏させるその魔除けを持っているし、秘蔵の銀を発見してもいる。それなのに、まるで天気の話でもするような態度で、わたしにその話をするんだなあ」
わたしはパンを少し食べた。「たしかに、不思議だ。しかし、その不思議さは〈鉤爪〉というもの自体にあるのであって、ぼくという人間にあるのではない。その話をきみにするのは、当然じゃないか? もしぼくがきみの黄金を盗めば、それを売って、その金を使うことができる。しかし、この〈鉤爪〉を盗んだ人間に良いことはないように思われるんだ。どうしてそう思うのかわからない。しかし、とにかくそう思うんだ。そして、もちろんこれを盗んだのはアギアなんだ。また、銀についていえば――」
「彼女は〈鉤爪〉をきみのポケットに入れたのか?」
「ベルトに吊していた|図 嚢《サパタッシュ》にだ。覚えているだろうが、彼女は兄がぼくを殺すと思っていた。それから、彼らはぼくの死体を要求するつもりでいた――すでに、そういう計画をたてていたのだ。テルミヌス・エストと組合のマントを手に入れるためにね。うまくいけば、彼女は剣と衣服と、それに宝石も、手に入れたはずだったんだ。そして、たとえそれが露顕しても、悪者はぼくであって、彼女だということにはならなかったろう。今思い出すと……」
「何を?」
「ペルリーヌ尼僧団のことさ。彼女らはぼくとアギアが脱出しようとしたら、阻止した。ジョナス、他人の心が読めるという人々がいるが、本当だと思うかい?」
「もちろん」
「みんながみんな、そう断言するわけではないがね。グルロウズ師はそれを信じているような口ぶりだった。しかし、パリーモン師はまったく問題にしなかった。それにしても、ペルリーヌ尼僧団の教主は読めたと思う。少なくとも、ある程度はね。彼女はアギアが何か盗んだことを、そしてぼくは盗んでいないことを知っていた。アギアを身体検査をするために裸にしたが、ぼくの身体検査はしなかった。その後で彼女らは伽藍を取り壊した。それは〈鉤爪〉がなくなったためにちがいないと、ぼくは思う――なんてったって、あれは〈鉤爪の伽藍〉だったのだから」
ジョナスは思案顔でうなずいた。
「しかし、きみに尋ねたいのはこれらのことではない。あの足音についての、きみの意見を聞きたいのだ。いつか陸上に上がってくるという、エレボスやアバイアやその他の海中の生物のことは、だれも知っている。にもかかわらず、きみはわれわれ他の大部分の人間よりも、彼らのことをもっとよく知っていると思うのだ」
ジョナスの顔は前にはまったく開けっぴろげだったのに、今は守りを固めて、心の内を包み隠す表情になった。「なぜ、そう思うんだね?」
「なぜなら、きみは船乗りだったからだ。そして、あの豆の話をしたからだ――あの門のところで話したじゃないか。きみはぼくが二階で読んでいたあの茶色の本を見たにちがいない。あれには世界のあらゆる秘密が書いてある。少なくとも、いろいろな賢者がそうだということがね。ぼくはその全部どころか、まだ半分も読んではいないが、セクラと一緒に数日おきに一項目ずつ読み、その間の日々にそれについて議論した。しかし、あの本の中のすべての説明は単純で、一見、子供じみていることに気づいていた」
「わたしの物語のようにだな」
わたしはうなずいた。「きみの話もあの本から出たものかもしれない。最初、あれをセクラのところに持っていった時に、これは子供のために書かれたものか、または子供っぽいことが好きな大人のために書かれたものだろうと、ぼくは思った。しかし、書かれた思想のいくつかについて彼女と話しあってみると、それらはあのように表現する以外にない、そうでなければ、全然表現できないものだとわかった。もし筆者がワインの新しい作り方とか、セックスをする最善の方法とかを記述したいと思ったら、複雑で厳密な言語を使うこともできたろう。しかし、あの本では、筆者はのっぴきならないことを本当に書いたんだ。初めにヘクセメロン([#ここから割り注]天地創造の六日間、またはその物語[#ここで割り注終わり])だけがあった≠ニか不動の聖像《イコン》を見ることが大切なのではなく、不動の意味を知ることが大切なのだ≠ネどと。ぼくが地底で聞いた足音は……あれらの怪物の一つだったのだろうか?」
「その本は見なかったよ」ジョナスは立ち上がった。「これから棍棒を売りにいく。だが、出かける前に、すべての女房が遅かれ早かれ亭主に言うことを、きみに言っておこう。もっと質問をする前に、本当に答えが知りたいかどうか、考えてごらん≠ニね」
「最後に、もう一つ質問したい」わたしはいった。「そうしたら、もうそれ以上は質問しないと約束する。われわれが〈壁〉を通過した時に、あの中に見えたのは兵士だと、きみはいったね。そして、彼らはアバイアなどの怪物を阻止するために、あそこに駐屯しているのだとほのめかした。あの猿人たちも同じ種類の兵士なのか? もし、そうだとすれば、われわれの敵が山のように大きい生物だというのに、人間と同じ大きさの戦士が役に立つだろうか? そして、なぜ、昔の独裁者たちは人間の兵士を使わなかったのだろうか?」
ジョナスは棍棒をぼろ布に包みおえて、今はそれを手から手に持ちかえていた。「それでは質問が三つだよ。わたしがはっきりと答えられるのは、二番目の質問だけだ。後の二つは、推測することにしよう。しかし、約束は守ってもらうよ。こういったことを話すのは、これで最後だ。まず、最後の質問に答える。昔の独裁者たちは――実際には独裁者ではなかったし、そう呼ばれてもいなかったのだが――たしかに人間の兵士を使った。しかし、動物を人間化することによって創り出した戦士、および、密かに人間を動物化して創った戦士のほうが、より忠実だったのだ。それは当然だった。なぜなら、民衆は支配者を憎んでいたが――それらの人間でない従者をもっとずっと憎んだからだ。こうして、そのような従者は、人間の兵士なら耐えられないようなことも耐えさせることができた。彼らが〈壁〉の中で使われたのは、そのためだったかもしれない。あるいは、まったく別の説明があるかもしれないがね」
ジョナスは言葉を切り、窓に歩み寄ったが、街路は覗かずに、雲を見上げた。「きみの見た猿人が同じ種類の交雑生物であるかどうか、わたしにはわからない。わたしが見たやつは、毛皮を除けぽ、人間そのものに見えた。だから、どちらかといえば、きみの意見に賛成したい。つまり、彼らは坑道で生活していたために、そして、あそこに埋没している都市の遺物と接触したために、基本的な性質が変化した人類なのだとね。ウールスは今はひどく古くなっている。非常に古い。だから、過去の時代に隠された宝物がたくさんあることは疑いない。金や銀は変質しない。しかし、その番人たちは、葡萄がワインに変わり、砂が真珠に変わるよりも、もっと不思議な変容をしたということはありうるよ」
わたしはいった。「しかし、われわれ地上の者も、毎晩、暗闇を経験しているし、鉱山から引き上げられた財宝も、われわれのところに運ばれてくる。それなのに、なぜ、われわれは変化しないのかね?」
ジョナスは答えなかった。そしてわたしは、もう質問しないという約束を思い出した。それでも、彼が振り向いてこちらを見た時に、その目が、おまえは馬鹿だなあ、われわれだって変化している[#「変化している」に傍点]んだよ、と語っているのがわかった。それから彼はまた背を向けて、外の空をもう一度見上げた。
「いいよ」わたしは譲歩した。「これには答えなくていい。しかし、答えるといった他の質問は、どうなんだ? 人間の兵士はどうやって、海からやってくる怪物に抵抗できるんだ?」
「エレボスやアバイアが山よりも大きいという、きみの言葉は正しい。そして、きみがそれを知っているので、わたしは驚いたと認めよう。たいていの人は想像力に欠けるから、そんなに大きいものを思い描くことができない。だから、あれらが家や船より大きいとは考えない。あれらの実際のサイズはあまりにも大きいので、この世界に留まっているかぎり、水中から出ることは決してできないんだ――自分自身の体重でつぶれてしまうからね。しかし、彼らが拳で〈壁〉を叩き壊すとか、大石を投げるとか、考えてはいけない。彼らは思考によって追随者を組織し、自分たちの支配に対抗するすべての支配に対して、彼らをぶつけてくるのだ」
それから、ジョナスは旅籠のドアを開けて、にぎやかな街路にそっと抜け出した。わたしはその場に残り、遅い朝食を食べたテーブルの上に片肘をついて、バルダンダーズと同じ寝床に寝た時に見た夢を、思い出していた。陸地はわたしたちを支えられないよ≠ニあの女の怪物どもはいったものだった。
さて今や物語は、これまで大幅に言及することを避けてきたあることを書かざるをえない部分にさしかかった。何年も前に起こったことを、わたしはためらわずに細大洩らさず記述してきたし、また、わたしに話しかけた人々の言葉と、それに答えたわたしの言葉を、ありのまま記述してきた。読者諸君はいやでもそれに気づいたはずである。そしてこれは、物語をなめらかに進めるために、わたしが採用した便宜的な方法にすぎないと考えたにちがいない。だが真相は、わたしがいわゆる完全想起力という呪われた能力の持ち主の一人だということである。われわれがあらゆることを覚えているという、愚かな申し立てを時々耳にするが、必ずしもそうではない。たとえば、わたしはウルタン師の図書館の棚の本の配列を思い出すことはできない。しかし、多くの人が信じてくれる以上に、思い出すことはできるのだ。幼年時代にたまたま通り過ぎたテーブルの上の品物の位置とか、ある場面を以前に心に思い浮かべたことがあるとか、そして、その思い出した事柄が、それについての現在の評価とどのように異なっているか、というようなことさえも。
わたしがパリーモン師のひいき[#「ひいき」に傍点]の生徒になったのは、この想起能力のおかげである。だから、この物語が生まれた責任は、その能力が負うべきだといえるかもしれない。なぜなら、もし彼がわたしをひいき[#「ひいき」に傍点]にしてくれなかったら、彼の剣とともにわたしをスラックスに送りはしなかったろうから。
この能力は弱い判断力と結びついているという人もいる――その点については、わたしはなんともいえない。しかし、これには別の危険、これまでに何度も出遭ったような、ある危険が伴う。今やっているように、そして、あの時に夢を思い出そうとしてやっていたように、過去に心を投げこむと、あまり物事をよく思い出すので、過ぎ去った日――それは古くて新しい日なのだが――の中でふたたび自分が動いているような気分になるし、また、毎回変わることなく、その幽霊たちを自分と同様に現実のものとして、心の表面に引き出すことができるのである。今もまだ、目を閉じると、ある冬の宵にやったように、セクラの独房に歩み入ることができるのだ。すると、すぐにわたしの指は彼女の衣服の温もりを感じ、一方では、彼女のかぐわしい体臭が、まるで暖炉の前で温まった百合の香水のように鼻孔を満たすのである。わたしは彼女のガウンを持ち上げ、あの象牙のような肉体を抱擁し、乳首がわたしの顔に押しつけられるのを感じ……
ほら、ね? このような記憶の中で何時間も何日も過ごすのは、ごくたやすいことなのだ。そして、時にはあまりにも深くその中に没入するので、麻薬か酒に陶酔したようになる。今、わたしはその状態にある。猿人と、洞窟で聞いたあの足音が、まだ心の中にこだましている。そして、なんらかの説明を求めて、わたしは夢に戻る。今では、それはだれが立てた音か知っていると確信し、また、夢の形成者が考えた以上にその秘密が現われていたのではないかと思いながら。
ふたたびわたしは、革の翼の生えた、司教冠をかぶった馬にまたがる。われわれの下をペリカンの群れがぎごちない羽ばたきをして飛び、鴎の群れが輪を描いて泣き叫ぶ。
ふたたびわたしは、空気の深淵を転げ落ち、海に向かって風を切って落下する。そして途中で、雲と波の中間に浮かぶ。それから、体を反らせ、頭を下にし、足を吹流しのように後ろに伸ばして、水を切る。澄んだ紺碧の水中に漂いながら、髪の毛が蛇である怪物と、頭がたくさんある怪物と、そして、遙か下の渦巻く砂の庭園を見る。女の巨人たちは、それぞれの指の先にアマランスのような鉤爪のついた、シカモアの木の幹のような腕を上げる。それから突然に、それまで盲目同然だったわたしは、なぜアバイアがわたしにこの夢を送って、わたしを兵士としてウールスの大規模な最終戦争に送りこもうとしたか、理解する。
しかし今は、記憶という暴君がわたしの意志を圧倒した。わたしはあの巨人の女奴隷《オダリスク》と彼女らの庭園とを見ることができ、それらは思い出した夢の材料にすぎないと知ったけれども、それらの魅力と夢の記憶から逃れることができなかった。手がわたしを人形のように掴んだ。こうしてわたしは、アバイアの娼婦たちの間でちやほやされながら、サルトゥスの旅籠の安楽椅子から持ち上げられたのだった。それでもなお、さらにたぶん心臓の百鼓動ぐらいの間、海とその緑色の髪の女たちを心の中から追い払うことができずにいた。
「こいつ眠っているぞ」
「目は開いている」
もう一つの声が、「この剣も持っていくか?」
「持っていけ――使いみちがあるかもしれない」
女の巨人たちは消え失せた。鹿革と粗末なウールの衣服を着た男たちが、わたしを両側から掴み、顔に傷痕のあるやつがわたしの喉に短刀の切っ先を突きつけていた。右側の男は空いた手でテルミヌス・エストを掴み上げていた。彼はあの封鎖した家の扉をぶち壊すのを手伝っていた黒髭の民兵だった。
「だれかくるぞ」
傷痕のある男がすっと隠れた。扉ががたがた鳴るのが聞こえ、中に引きこまれたジョナスが怒鳴るのが聞こえた。
「これはおまえの主人だな? では、動いたり、大声をあげたりするな。さもないと、二人とも殺すぞ」
[#改ページ]」
9 木の葉の君主
彼らはわれわれを壁に向かって立たせ、両手を縛った。その後で、革紐を隠すために、マントをそれぞれの肩に着せかけたので、われわれは腕を後ろに組んで歩いているように見えた。それから、旅籠《はたご》の庭に連れ出された。そこには、鉄と角製の粗末な象籠を背中につけた巨大なバルチテリウム([#ここから割り注]犀の祖先に当たる大型の哺乳動物[#ここで割り注終わり])が、足踏みをしていた。わたしの左腕を取っている男が手を上げ、突き棒で獣の膝のくぼを打ってひざまずかせ、われわれをその背中に追い上げた。
ジョナスとわたしがサルトゥスにやってきた時に通った道は、坑道から出た鉱滓の丘、つまり主として砕けた岩と煉瓦から成り立っている丘を縫っていた。また、わたしがアギアの手紙にだまされて、馬で出かけた時には、同様のたくさんの丘の間を駆け抜けていったのだが、村への進入路の最も村に近い部分は、主に森の中を通っていた。そして今は、しっかりした道はなく、踏み跡だけがある小山の間を進んでいった。ここには、たくさんの瓦礫に加えて、鉱夫が埋もれた過去から持ち出したもので、捨てなければ彼らの村とその職業の名折れになるようなものを、全部、投げ捨ててあった。ありとあらゆる不潔で醜悪なものが折り重なって、巨大なバルチテリウムの背丈の十倍以上の高さの小山になっていた――傾いたり砕けたりしている猥褻な彫像や、干からびた肉片や毛髪の房がまだこびりついている人骨など。そして、それらとともに一万体もの男女。個人の復活を願って、自分の死体に永久不変の処理を施した人々が、放蕩三昧の末にのびてしまった酔っぱらいのように、ここに横たわっていた。水晶の石棺は壊れ、手足は不揃いにグロテスクに投げ出され、衣服は腐ってしまったか、または腐りつつあり、そして、目をぽかんと空に据えて。
最初ジョナスとわたしは、自分たちを捕えた男たちに質問しようとした。だが、彼らは拳を使ってわれわれを黙らせた。しかし今、バルチテリウムがこの荒廃した土地をくねくねと通っていくうちに、彼らの心がいくぶんなごんだように思われたので、わたしはまた、どこに連れていくのかと尋ねた。顔に傷痕のある男が答えた。「荒野にいくのさ。自由な男と美しい女たちの家にいくのさ」
わたしはアギアを思い出して、もしや彼女を救ったのではないかと尋ねた。彼は笑って首を振った。「おれの主人は〈森のヴォダルス〉だ」
「ヴォダルスだって!」
「おや」彼はいった。「では、あの人を知っているんだな」彼は象籠に一緒に乗っている黒髭の男を小突いた。「きっと、ヴォダルスはすごく親切におまえを扱ってくれるぞ。なにしろおまえは、あんなに楽しそうに、彼の部下の一人を拷問しましょうと申し出たんだからな」
「本当に彼を知っているんだ」わたしはいった。そして、ヴォダルスとの関連を、傷痕のある男に話しそうになった。わたしは徒弟頭になる前の最後の年に、彼の命を実際に救ったのだから。しかしこの時、ヴォダルスがはたしてそれを覚えているかどうか自信がなくなった。それで、もしバルノックがヴォダルスの部下だと知っていたら、彼の拷問に決して賛成しなかっただろうに、とだけいった。もちろん、これは嘘だった。なぜなら、わたしはそれを承知の上で、バルノックの苦しみを多少減らすことができるだろうと思うことによって、料金を受け取るのを正当化したのだから。この嘘はまずかった。三人とも腹をかかえて笑いだし、バルチテリウムの首にまたがっている調教師さえも、吹き出したのであった。
彼らの笑いが納まると、わたしはいった。「昨夜、おれはサルトゥスを出て北東にいったんだが、今はそちらの方向に進んでいるのか?」
「そうか、そっちにいたのか。主人はおまえを探しにきたが、手ぶらで帰ってきたっけ」傷痕のある男はにっこりした。それで、この男は、ヴォダルス本人が失敗したのに、今、自分が成功して帰っていくと考えて、悪い気持ちではないのだなと、わかった。
ジョナスがささやいた。「北に向かっているんだ。太陽を見ればわかる」
「そうだ」傷痕のある男がいった。彼は地獄耳だったにちがいない。「北だ。そう遠くまではいかないがな」それから彼は暇つぶしに、彼の主人が捕虜を扱う方法を話しだした。その大部分はきわめて原始的で、真の苦痛よりもむしろ劇的効果をねらったものだとわかった。
まるで、目に見えない手が頭上にカーテンを広げたように、象籠の上に樹木の影が落ちた。おびただしいガラスの破片の輝きは、見開いた死者の目とともに、われわれの後になった。そして獣は高い木立の涼しい緑の影に入った。これらの巨木の間に入ると、人間の身長の三倍の背丈のあるバルチテリウムさえも、ちょこちょこ歩く小さな獣にしか見えなかった。そして、その背に乗っているわれわれは、お伽話に出てくる、小妖精の王様の蟻塚の砦にむかっていく小人といってもよかった。
そして、こんな考えが心に浮かんだ。わたしがまだ生まれていない時代にも、これらの木々はほとんど今より低くはなかったろう。そして、わたしがあの共同墓地の糸杉や平和な墓石の間で遊んでいた子供の頃にも、これらは今と同様にそびえ立っていたことだろう。そしてまた、わたしが死んで、あそこに眠っている死者と同じくらい長い年月が経っても、やはりこれらの木々は、死にゆく太陽の最後の光を飲みこみながら、今とまったく同じ姿で立っていることだろう、と。そして、自分の命は自分にとってはかけがえのないものだが、自分の生死など、森羅万象の尺度でいえば、ほんの少しの重さしかないと覚った。そして、この二つの考えから、鋼を鍛えるようにして一つの心境を打ち出し、それによって、どんなに小さくても生きるチャンスがあれば、見逃さずに掴む用意をし、また、その心境の中で、自分が助かろうと助かるまいと、あまり気にしないことにした。わたしは実際にこの心境によって、生きたと思う。この心境はわたしにとって、とても良い友となったので、それ以来そばに置くように努力してきた。いつもそれでうまくいったわけではないが、しばしばうまくいった。
「セヴェリアン、大丈夫か?」
そういったのはジョナスだった。わたしはちょっと驚いた様子で彼を見たと思う。「ああ。病気みたいに見えたか?」
「ちょっとの間な」
「この場所に親しみを感じたので、どういうわけかと考えていただけさ。ここはわれわれの〈城塞〉の夏の多くの日々を思い出させてくれるように思う。これらの樹木はほとんどあそこの塔と同じくらい大きい。そして、塔の多くは蔦に覆われていたから、静かな夏の季節にはそれらの間を通ってくる光は、これとおなじエメラルドのような色をしていた。それに、ここは、あそこと同じように静かでもあるし……」
「それで?」
「きみは何度も船に乗ったのだろうな、ジョナス」
「そう、何度もね」
「ほくは昔から船に乗りたいと願っていた。そして、初めてその念願がかなったのは、アギアと一緒に〈植物園〉のある島に渡してもらった時と、その後で〈鳥の湖〉を渡った時だけだ。船の動きは、この獣の動きととてもよく似ている。そして、オールが水に入る時に時々水音がする以外は、今と同じように静かだった。今、ぼくは洪水になった〈城塞〉の中を、船に乗ってゆっくりと通っていくような気分だ」
それを聞いてジョナスがあまり厳粛な顔をしたので、わたしは吹き出してしまい、思わず立ち上がってしまった。(たぶん)象籠の縁から覗いて、森の地面について何か言うことによって、自分が空想に耽っているということを示そうとしたらしい。
しかし、わたしが立ち上がるやいなや、傷痕のある男も立ち上がって、短刀の切っ先をわたしの喉から親指一本ぶんぐらいの所に突きつけて、坐れと命じた。彼を困らせるために、わたしは首を振った。
彼は武器を振った。「坐れ。さもないと、その腹をかっさばいてやるぞ!」
「そして、おれを連れ帰るという手柄を捨てるつもりかね? その手はないぜ。おまえがおれを捕まえたと、他の連中がヴォダルスに報告するまで待てよ。それに、この手を縛ったままで、刺したことになるんだぜ」
ここで運命の変わり目がやってきた。テルミヌス・エストを持っていた髭の男が、それを抜こうとしたのだ。だが彼はそのような長い剣を抜く正しい方法を知らずに――正しくは、片手で十字型の鍔を握り、もう片方の手で鞘の口を握り、両腕を左右に開くようにして、刃を抜き放つのである――庭の雑草を引き抜くように、上に引き上げて抜こうとした。このぎごちない動作に気を取られて、彼は背中を波打たせて歩いているバルチテリウムの動きを受けそこね、よろけて傷痕のある男にぶつかった。この剣の刃は髪の毛が切れるほど鋭利だったから、二人とも切れた。傷痕のある男は跳び退いた。その瞬間、ジョナスはそいつの足の後ろに自分の片足を引っかけ、もう片方の足の裏で相手の足を押し、そいつを象籠の手すりの上から転落させることに成功した。
一方、黒髭の男はテルミヌス・エストを取り落とし、自分の傷を見つめた。それは非常に長かったが、疑いなく浅かった。わたしはその武器を自分自身の手のように知悉しているから、振り向き、屈み、柄を握り、かかとの間にそれをはさみ、手首を縛っている革紐を切断するのに、ほんの一瞬間しかかからなかった。その時、黒髭の男は短刀を抜いた。もしジョナスがそいつの股間を蹴らなかったら、わたしは殺されていたかもしれない。
そいつは体を二つに折った。そして、彼が体を起こすよりずっと早く、わたしは起き上がって、テルミヌス・エストを構えた。
彼の筋肉が収縮して、ぴょんと体が直立した。被処刑者をひざまずかせないと、よくそうなるのである。血飛沫《ちしぶき》が、異変が起きたことを調教師に告げた最初のしるしだったと思う(すべてが、それほどすばやく行なわれたのである)。調数師は振り返ってわれわれを見た。わたしは象籠から体をぐっと乗り出し、片手で剣を水平に揮って、彼も切った。
バルチテリウムは非常に狭い間隔で並んで生えている二本の大木の間を通った。そのとたんに、彼はちょうど壁の割れ目に鼠がはまりこんだように引っかかり、首が地面に転げ落ちた。その前方に、この森で見た最大の空き地があったそこには羊歯だけでなく草も生えており、直射日光がちらちらと芝生の上に落ちて、鮮やかな緑と黄色の斑《まだら》模様が踊っていた。そこの花をつけた蔓草の天蓋の下に、ヴォダルスは玉座をしつらえていた。そして、われわれが入っていった時は、彼はたまたま女城主《シャトレーヌ》セアをかたわらに置いて、その玉座につき、裁定を下したり、部下の表彰をしたりしていた。
ジョナスはまだ象籠の床に転がって、短剣で手の革紐を切っていたので、これらを見ることはできなかった。しかしわたしは、今は柄まで真赤に染まっている剣を持ち上げて、バルチテリウムの背中の揺れに対してバランスを取りながら、まっすぐに体を起こしていたので、すべてを見ることができた。百もの顔が、中心の玉座についている高貴人の顔と、その后であるハート型の顔とともに、こちらを向いた。そして、その瞬間わたしは、彼らが見たにちがいないものを、彼らの目の中に見た。首のない男がまたがった巨獣。その体の前半分は本人の血で朱に染まっており、わたし自身は剣を持ち、煤色のマントをまとってその背中に直立している情景を。
もし、その背中から滑り下りて逃げ出そうとしたり、獣を突ついてもっとスピードを上げさせようとしたら、わたしは死んでいたろう。しかし、あの鉱山の廃棄物に混じっていた大昔の死人たちを見て、それからこの永遠の森に入った時に、体内に入ったあの精霊のおかげで、わたしはそういうことはせずに、そのままの状態でいた。だから、バルチテリウムは導く者がいないままに、(ヴォダルスの部下が左右に退いてできた道を通って)玉座と天蓋を支えている台座の前にくるまで、静かに歩みつづけたのだった。そこで獣が立ち止まると、死人は前に投げ出されて、台座の上のヴォダルスの足下に落ちた。わたしは象籠からずっと体を乗り出して、剣の平で獣の片方の脚を打ち、またもう片方の脚を打った。すると獣はひざまずいた。
ヴォダルスはいろいろな感情が含まれている薄笑いを浮かべた。その一つに、面白がっている感情があり、たぶんその分量が最も多かったろう。「斬首人を捕えてくるように部下に命じたが」彼はいった。「どうやら、成功したらしい」
わたしは、高貴人が〈大きい庭〉の処刑を見にきた時にやるように、組合で教えられている礼式に従って、目の前に剣の柄を持ち上げて敬礼した。「殿様、彼らが連れてきたのは斬首人とは逆の人間です――以前に、ある事件がありました。あの時、もしわたしがいなかったら、あなたご自身の首が掘り返したばかりの土の上に転がったかもしれないのですよ」
すると、彼は剣やマントよりもわたしの顔に注目し、しばらくしてからいった。「そうだ、あの時の若者だな。もうこんなに月日がたったのか?」
「お久しぶりです、殿様」
「あのことは後で水入らずで話すとしよう。その前に公《おおやけ》の仕事がある。ここに立て」彼は台座の左の地面を指さした。
わたしがバルチテリウムから降りると、ジョナスも続いて降りた。二人の厩番が獣を連れ去った。そこで、われわれは一刻ほどの間、ヴォダルスが命令を発し、計画を伝え、賞罰を与えるのを待った。人間が壮麗さを誇る柱列やアーチは、森林の木の幹や丸天井のような枝を、石で真似た模造品にすぎない。そして、ここでは、両者の間には、片方が白か灰色で片方が茶色と薄緑であるという以外には、相違はないように思われた。それから、独裁者の兵士と、高貴人の家臣団が総出でかかっても、なぜヴォダルスを屈伏させることができないか、納得がいったように感じられた。彼はウールスで最も強力な砦に――われわれの〈城塞〉よりも遙かに大きな砦に――拠っていたのだから。
彼はついに群衆を去らせ、それぞれの男女を持場に戻らせた。そして、台座から降りてきて、わたしが子供に話しかける時にやるように、わたしの上に身を屈めて話しかけた。
「きみはかつてわたしの役に立ってくれた」彼はいった。「だから、他にどのようなことが起ころうとも、きみの命を救ってやる。もっとも、しばらくの間はここの客として留まる必要があるかもしれないがね。もし、もはや命の危険がないとわかったら、またわたしの役に立ってくれるかな?」
昇格の儀式の時の独裁者への宣誓は、この自叙伝の出発点となったあの霧の夕ベの記憶に対抗できるほど、強い力を持っていなかった。宣誓というものは、他人に与える実利に較べれば、名誉に関わる弱々しい事柄にすぎず、精神的なものにすぎない。いったん他人を救えば、われわれは一生涯その人のものとなる。感謝の気持ちを見出せないと言う人がしばしばいるが、これは正しくない――そういうことを言う人はいつも間違った場所を見ているのだ。他人に真の利益を与える人は、一瞬間、万物主と同じレベルに上る。そして、その昇格への感謝の気持ちで、その他人に生涯仕えることになるのだ。このような気持ちを、わたしはヴォダルスに語った。
「よろしい!」彼は言って、わたしの肩をぽんと叩いた。「きたまえ。ここから遠くないところに、食事が用意してある。一諸に食事をしながら、頼み事を話すとしよう」
「殿様、わたしは一度自分の組合の名誉を汚しました。ふたたびその名誉を汚すようなことだけはさせないでください」
「きみのすることが、人に知られることはない」ヴォダルスはいった。それを聞いて、わたしは満足した。
[#改ページ]
10 セ ア
他の十数人の者と、その空き地を離れて半リーグほどいくと、木立の中に食卓がしつらえられていた。わたしはヴォダルスの左手に坐らされた。他の人々が食事をしている間、わたしは食べるふりをして、彼とその奥方を眺めて目を楽しませていた。彼女は、わたしが組合の塔の徒弟部屋の寝床の上で、しばしば思い出していたあの人だった。
彼の命を救った時、わたしは少なくとも精神的には少年だった。少年にとって、すべての大人は、実際に非常に小柄な人でなければ、背が高く見えるものである。今見ると、ヴォダルスはセクラと同じか、または彼女以上に背が高く、またセクラの腹違いの姉妹のセアは彼女と同じくらいの背丈だった。それで、彼らは真に高貴な血筋の人々であって、ラーチョ氏がそうであったようにただの大郷士《アーミジャー》ではないと、わかった。
セアこそ、わたしの初恋の人だった。また彼女は、わたしが救った人のものだったから、わたしは彼女を崇拝してもいた。最初にセクラを愛したのは、彼女がセアを思い出させるからにほかならなかった。今(秋が去り、冬がきて、春がきて、年の終わりであると同時に始まりでもある夏がふたたびきて)わたしはふたたびセアを愛した――なぜなら、彼女はセクラを思い出させるから。
ヴォダルスがいった。「きみは女性の賛美者だな」わたしは目を落とした。
「上流の人々の中に入ったことは、ほとんどないものですから。どうぞ、お許しください」
「女性を賛美することにかけては、わたしもきみと同様だ。だから、許すべきことは何もない。だが、細い首を見ると、それをちょん切ることを考えるのではないか?」
「とんでもありません、殿様」
「それを聞いて安心した」彼はツグミの大皿を取り上げ、一羽を選んでわたしの皿に載せてくれた。それは特別な好意のしるしだった。「それでも、白状すると、ちょっと驚いているのだ。きみの職業の人は、われわれを見て憐れな人間と思うのではないかと、わたしは思いこむところだった。ちょうど肉屋が家畜を見て思うようにな」
「その点については、わかりかねます。肉屋の修業はしておりませんから」
ヴォダルスは笑った。「一本取られた! きみがわたしに仕えることに同意したのが、ちょっと惜しいような気がする。捕虜のままでいるほうを選んでさえいれば、不幸なバルノックの命と交換するために、手元に置いて――最初はそのつもりだったのだ――楽しい会話を交すことができたろうに。だが、事情が変わった。明朝までにはきみはいなくなるだろう。しかし、きみの性格にとてもよく合う使いを頼もうと思っているのだ」
「あなたの使いでしたら、きっと合うにちがいありません」
「きみは断頭台の上で才能を浪費している」彼は微笑した。「遠からず、もっと良い仕事を見つけてやろう。だが、もし、しっかりと仕えるつもりなら、盤上の駒の位置と、今やっているゲームの目的を理解する必要がある。白と黒が闘っているとしよう。きみの衣服に敬意を表して――これで、きみの利益がどこにあるかわかる――われわれを黒としよう。きみはきっと、われわれ黒組は盗賊であり反逆者であると聞かされているだろう。だが、われわれが実際に何をしようと努力しているか、見当がつくか?」
「独裁者に王手をかけることですか、殿様?」
「それでけっこう。しかし、それは一つの段階にすぎない。究極の目的ではない。きみは〈城塞〉からやってきたほら、きみの旅と経歴について、少しは知っているのだよ――あれは昔の大きな要塞だ。だから、過去について多少の勘はあるにちがいない。千年前には、人類は今よりももっとずっと豊かで、もっとずっと幸福であったということを、きみは一度も考えたことはないか?」
「だれも知っています」わたしはいった。「過去の素晴らしい時代から、われわれがずっと落ちこんでいるということは」
「では、もう一度昔のようになろうではないか。ウールスの人間に――星々の間を航行し、銀河から銀河に飛び移っていた、太陽の娘たちの主人に」
女城主セアは、ヴォダルスの考えを聞いていたにちがいなかったが、それを少しも表情に出さずに、彼の向こう側からわたしの方を見て、綺麗な、鳩の鳴くような声でいった。「われわれの世界がどのように改名されたか、知っている、拷問者さん? 原始人が赤いヴェルタンディに行った。当時そこはウォーと呼ばれていた([#ここから割り注]火星を暗示している[#ここで割り注終わり])。ところが彼らは、その名前には粗野な響きがあるから、他の人々が従う妨げになると思ったので、改名して、プレゼントと呼んだ。これは彼らの言語の洒落なのよ。なぜなら、その同じ言葉が今≠ニ贈り物≠意味するんだから。とにかく、家庭教師の一人がこんなことをセクラとわたしに説明しことがあったわ。もっとも、こんな混乱を耐え忍んでいる言語があるなんて、わたしには想像もつかないけれど」
ヴォダルスは彼女の話を聞きながら、自分で話したくてしかたがない様子だったが、礼儀をわきまえているので、口を出さなかった。
「やがて、他の人々も――彼らなりの理由があって、できるものなら最も内側の居住可能世界に一つの民族を引き寄せたいと思って――ゲームに加わり、その世界をスクルド、つまり未来の世界≠ニ呼んだ。こうしてわれわれ自身の世界はウールス、つまり過去の世界≠ノなったのよ」
「それは間違いだよ、きみ」ヴォダルスは彼女にいった。「このわれわれの世界は、わかっている限りの古代からその名前で呼ばれていたと、わたしはちゃんとした権威者から聞いている。それにしても、きみの誤りの説はあまりにもチャーミングだから、むしろ、そちらが正しくて、わたしのほうが間違っていると思いたいくらいだよ」
それを聞いて、セアは微笑した。そして、ヴォダルスはまたわたしの方を向いた。「これが、なぜ今のようにウールスと呼ばれるかの説明にはならないが、奥方の話はきわめて重要なことを明らかにしている。つまり、当時、人類は自分の船で世界から世界へと旅をし、それぞれを支配し、そこに人間の都市を建設したということだ。当時は、われわれの種族の栄えた時代だった。その頃、われわれの父の父の父は宇宙征服のために奮闘していたのだ」
彼は黙った。そして、こちらの言葉を待っているように思われたので、わたしはいった。「殿様、われわれの知恵はその時代から、ずいぶん退化してしまったものですね」
「そら、ずばりと核心を突いてきたな。しかし、きみの優れた洞察力にもかかわらず、それは間違いだ。いいかね、われわれの知恵が退化したのではない。退化したのは力なのだ。学問は絶え間なく前進してきた。しかし、たとえ人間が征服に必要なすべてを学んでしまっても、世界の力というものが消耗してしまったのだ。われわれは今、前人の廃墟の上に、不安定に存在している。一部の者が、飛翔機《フライヤー》で空中を飛んで、一日に一万リーグ旅するとしても、その他の者はウールスの皮膚の上を這っているだけで、その西の端が上昇して太陽を隠す前に、一方の地平線からもう一方の地平線までいくことはできない。きみはさっき、あの虚弱で愚かな独裁者に王手をかけるといったが、今は二人の独裁者がいると考えてもらいたい――覇権を賭けて争っている二大勢力を。白組は物事を現状のままに維持しようとしており、黒組は人間の足をふたたび君臨への道に置こうとしている。わたしはたまたまそれを黒組といったが、星々がよく見えるのは夜だということを思い出すと、これは具合がよいな。日中の赤い光の中では、それらは遠く、まったく見えないから。さて、これらの二つの勢力のうち、きみはどちらに仕えたいかな?」
木々の間に風が起こった。そして、食卓のみんなが静まりかえって、ヴォダルスの話に耳を傾け、わたしの答えを待っているように思われた。わたしはいった。「もちろん、黒組です」
「よろしい! しかし、分別ある人間として、再征服への道は容易ではないことを理解しなければならない。変化を望まない人々は自分らのためらいに永久にしがみついて腰を上げないだろう。われわれ[#「われわれ」に傍点]はあらゆることをしなければならない。われわれ[#「われわれ」に傍点]はあらゆることに挑戦しなければならないのだ!」
他の人々が喋ったり食べたりしはじめた。わたしはヴォダルスだけに聞こえるように声を低めていった。「殿様、まだお話ししてないことがあります。不忠者だと思われたくありませんので、これ以上隠していられません」
彼はわたしより陰謀者として上だった。それで、答える前に、顔をそむけ、食べているふりをした。それからいった。「なんだ? いってみよ」
「殿様」わたしはいった。「聖宝をもっています。〈調停者の鉤爪〉といわれるものです」
わたしが話している間、彼は焼いた鳥のももをかじっていた。見ていると、彼は黙って、顔を動かさずに、目だけ動かしてわたしを見た。
「ごらんになりたいですか? とても美しいものです。このブーツの口に入れてあります」
「いいや」彼はささやいた。「見たくはあるが、ここではやめておこう……いや、全然見ないほうがよいだろう」
「では、だれに渡せばいいのですか?」
ヴォダルスは鳥肉を噛んで飲みこんだ。「それがなくなったと、ネッソスの友人から便りがあった。では、きみが持っていたのか。始末できるようになるまで、きみが持っているがいい。売ろうと思うな――すぐにわかってしまうからな。どこかに隠しておけ。どうしてもしかたがなかったら、穴にでも投げこむのだ」
「でも、殿様、とても価値のあるものです」
「それは価値を超越している。つまり、計り知れない価値がある。きみもわたしも分別のある人間だ」その言葉とは裏腹に、彼の声には恐怖の響きがあった。「だが、愚かな民衆はそれを神聖なものだと、あらゆる種類の驚異を行なうものだと信じている。もし万一、わたしがそれを持っていれば、彼らはわたしを神聖なものを冒漬する者であり、神人族《テオログメノン》の敵だと思うだろう。われわれの支配者たちは、わたしが反逆者になったと思うだろう。教えてくれ――」
ちょうどその時、それまで見たことのない男が、緊急の知らせを持っていることを示す表情をして、食卓のところに走り寄ってきた。ヴォダルスは立ち上がり、彼と一緒にその場から数歩はなれた。その姿はまさに、ハンサムな学校の教師が生徒と歩いているようだ、とわたしは思った。なぜならその使者の頭は彼の肩よりも低かったからである。
彼はすぐ戻るだろうと思いながら、わたしは食事をしていた。だが、彼は長いあいだ使者に質問をしたあげく、その男と一緒に歩み去り、太い木々の幹の間に姿を消した。他の人たちも、一人また一人と立ち上がって、結局、美しいセアと、ジョナスとわたしと、そしてもう一人の男だけが残った。
「あなたはわたしたちの仲間よ」セアは最後に持ち前の優しい声でいった。「でも、わたしたちのやりかたをまだ知らないわね。お金が必要かしら?」
わたしはためらったが、ジョナスがいった。「それは常に歓迎されるものです、女城主様、兄貴の不幸と同様に」
「今日からは、すべての獲物から、あなたがたの分け前を取っておくことになります。それは、あなたがたが戻ってきた時に、渡します。それまでの間は、ここに二つの財布がありますから、それを持って、急いで旅をしてください」
「では、われわれは出かけるのですか?」わたしは尋ねた。
「その話はなかったの? 夕食の時にヴォダルスから指示があるでしょう」
さっきの食事がこの日の最後のものだと思っていたので、その考えが表情に出たらしい。
「今夜は晩餐《サバー》があります。月が明るいから」セアはいった。「だれかが呼びにくるでしょう」それから彼女は韻文の断片を引用した。
[#ここから3字下げ]
夜明けの食事は、目を開けるため、
お昼の食事は、強くなるため、
夕方の食事は、長話をするため、
夜の食事は、賢くなるため……
[#ここで字下げ終わり]
「でも、今は召使のチュニアルドが、旅の疲れを休めるところに案内します」
今まで黙っていた男が立ち上がって、いった。「どうぞ、こちらへ」
わたしはセアにいった。「もっと暇ができたら、女城主様、お話ししたいことがあります。ご学友の消息を知っているのです」
彼女はわたしが真剣にいっているのに気づき、わたしは彼女が気づいたことを知った。それから、われわれはチュニアルドについて、木々の間をずっと歩いていった。たぶん一リーグかそれ以上歩いたと思う頃、やっと、草の生えた小川の岸に着いた。「ここで、お待ちください」召使はいった。「できれば、お眠りなさい。暗くなるまではだれもきません」
わたしは尋ねた。「もし、われわれが逃げようとしたら、どうなる?」
「この森全体に、あなたがたに対する君主の意志を知っている者がいます」そういうと、彼はきびすを返して、立ち去った。
それから、わたしはジョナスに、発《あば》かれた墓のそばで見たことを、この本に書いたとおりに話した。
「なるほど」わたしが話しおえると、彼はいった。「きみがなぜこのヴォダルスに仕えたいか、わかった。しかし、わたしはきみの友人であって、彼の友人ではないことを覚えておけよ。わたしの望みは、ジョレソタというあの女を見つけることだ。きみの望みは、ヴォダルスに仕えること、そして、スラックスにいって新しい流刑生活を始めること、そして、組合の名誉に塗った泥を拭うこと――どうして、そんなものに泥を塗ることができるか、白状すると、わたしには理解できないがね――そして、ドルカスという女を見つけ、アギアという女と仲直りし、一方で、ペルリーヌ尼僧団という女の団体に、われわれが二人とも知っている、あるものを返すことだ」
このリストを言いおえる頃には、彼は笑顔になっており、わたしは声を出して笑っていた。
「きみを見ていると、年老いたケストレル([#ここから割り注]はやぶさの一種[#ここで割り注終わり])の話を思い出すよ。二十年間、止まり木に止まっていて、それから、あらゆる方向に飛んでいったというやつだ。これらのことが成就できればよいと思う。しかし、そのうちの一つか二つが、他の四つか五つの事柄の邪魔になるかもしれないと――その可能性はほとんどないだろうが、ことによったら、ありうると――覚悟しているだろうな」
「まったくきみの言うとおりだ」わたしは認めた。「ぼくはそのすべてをやろうと必死になっている。そして、きみは信用しないかもしれないが、それらのすべての利益になるように、全力を揮い、全神経を集中するつもりだ。それでも、物事は必ずしも思いどおりにならないかもしれないと、認めないわけにはいかない。分裂した野心がぼくを投げこんだ場所は、こんな木陰でしかなかった。ぼくは今、宿なしの放浪者だ。ところがきみは、一つの強力な目的を、わき目もふらずに追い求めていて……自分の立場がちゃんとわかっている」
こんな話をしながら、われわれは午後遅くの何刻かを過ごした。頭上では小鳥がさえずり、ジョナスのように忠実で理性的で、機転がきき、しかも知恵とユーモアと慎みにあふれた友人と語らうのは、非常に愉快だった。当時は、彼の経歴について何一つ手がかりはなかったけれども、彼には自分の背景をさらけ出すつもりはまったくないらしいと、わたしは感じていた。だから、直接質問はせずに、それらを引き出してやりたいと思い、次のようなことを知った(いや、むしろ、知ったと思った)。つまり、彼の父親は技術家だった。そして、彼の言葉を借りれば、普通のやりかたで――といっても、実際には稀なのだが――両親に育てられた。家は南部の海岸の町にあったが、最近訪れてみると、あまり変わってしまったので、そこに留まるつもりはない。
〈壁〉のそばで初めて出会った時には、その外観から、わたしより十歳ぐらい年上だと思った。今、彼の話を聞いて(また、もっと前に話したことをいくらか参考にして)、もう少し年上だと判断した。彼は過去の年代記をたくさん読んでいるようだった。わたしはまだ、パリーモン師やセクラが努めて教育してくれたにもかかわらず、あまりにも世間知らずで無学だったので、中年よりずっと年下の人がそんなに博学多識になれるとは思わなかった。彼には、人類のことを、ちょっと皮肉に突き放して見るようなところがあり、世界の辛酸をいろいろとなめていることを想像させた。
話を続けていると、遠くの木々の間を歩く女城主《シャトレーヌ》セアの優雅な姿がちらりと見えた。わたしはジョナスを小突き、二人で黙って彼女を眺めた。彼女はこちらに向かってやってきたが、われわれの姿を見ていなかったので、ただ指示に従っているだけの人のように、ぼんやりと歩いていた。時々、太陽の細い光線が彼女の顔に落ちた。たまたま、それが横顔の時には、セクラの横顔を強く思い出させた。それを見て、わたしは涙が溢れそうになった。歩き方もセクラにそっくりで、一度も籠に入れられたことない、誇り高いホロラコス鳥([#ここから割り注]絶滅した太古の鳥の一種[#ここで割り注終わり])の足どりを思い出させた。
「あれは本当に古い家系にちがいない」わたしはジョナスにささやいた。「彼女を見てごらん! まるで|木の精《ドリュアス》だ。柳の木が歩いているみたいだ」
「ああいう古い家系は、最も新しいものなんだよ」彼は答えた。「古代には、彼らのようなのは全然いなかったんだから」
われわれの言葉がわかるほどの距離ではなかったと思うが、セアはジョナスの声を聞いたらしく、こちらに目を向けた。われわれが手を振ると、彼女は足を早めた。走りだしたわけではないが、足が長いので、とても早く進んできた。われわれは立ち上がった。そして彼女がそばにきて小川に顔を向け、スカーフの上に坐ると、われわれもまた腰を下ろした。
「姉のことで、話したいことがあるといってたわね?」彼女の声を聞くと、近寄りがたい感じは少し減った。そして腰を下ろすと、背丈もわたしよりそれほど高くはなくなった。
「わたしはあの人の最後の友人でした」わたしはいった。「彼女の話では、ヴォダルスが一身を投げ出して彼女を救うように、あなたから説得してもらうことになるだろう、ということでした。彼女が投獄されたことは、ご存じでしたか?」
「彼女の従者だったの?」セアは品定めをするようにわたしを見た。「ええ、ネッソスの貧民窟のあの恐ろしい場所に、彼女が連れていかれたと聞いたわ。そこで、すぐに死んだと理解しているわ」
わたしは、セクラの独房の扉の外で、その下から真赤な血の糸が流れ出すのを待っている間のことを思い出した。だが、黙ってうなずいた。
「彼女がどのようにして逮捕されたか――あなた知っている?」
セクラはそれをこと細かに話していた。それで、わたしは彼女から聞いたとおりに、何一つ省略せずに、話して聞かせた。
「なるほど」セアはいった。そして、流れる水を見つめて、しばらく黙っていた。「もちろん、宮廷は恋しいわ。でも、あの人たちのことや、彼女をタペストリーでくるんだなんてことを聞くと――それが典型的なやりかたなのよ――わたしがあそこから出た理由が思い出されるわ」
「あの人も時々恋しがっていたように思います」わたしはいった。「少なくとも、宮廷のことをいろいろと話しておいででした。でも、もし万一釈放されても、あそこに戻るつもりはないと。女城主《シャトレーヌ》という肩書のもとになった田舎の宏壮な本邸の話をなさっていました。そこを改装して、地方の指導者たちを招いて晩餐会をしたり、狩りをしたりするのだと」
セアは顔を歪めて苦笑いした。「わたしはもう、十回生まれ変わってもやりきれないほどの狩りをやってしまったわ。でも、ヴォダルスが独裁者になったら、わたしは彼の后になり、また〈蘭の泉〉のほとりを歩くでしょう。今度は、従者の中に、歌を歌ってわたしを慰める五十人の高貴人の娘を加えてね。もう、うんざりだわ。でも後、ほんの数ヵ月の辛抱ね。今のところは――ごらんのとおりよ」
彼女は暗い目つきでジョナスとわたしを見た。そして、われわれにそのままでいるように身振りで示しながら、非常に優雅に立ち上がった。「異母姉《あ ね》の近況を聞かせてもらって楽しかったわ。あなたの言ったその家は、今はわたしのものなのよ。もっとも、それを公言することはできないけれどね。話をしてくれたお礼に、まもなく列席する晩餐のことを教えておくわ。ヴォダルスが投げたヒントを、あなたは受け取らなかったみたいね。理解できたの?」
ジョナスが何もいわなかったので、わたしは首を振った。
「もしわれわれや、その同盟者や、潮流の下の国々で待っている君主たちが、勝利を得たいと思ったら、過去から学ぶことができるすべてを学ばなくてはならないでしょ。蘇生薬のアルザボのことを知っている?」
わたしはいった。「いいえ、奥様。でも、その名前の動物の話は聞いています。それは言葉を喋ることができ、子供の死んだ家に夜やってきて、中に入れてくれと泣くそうです」
セアはうなずいた。「その動物はずっと昔に星から連れてこられたのよ。ウールスの利益のために持ってこられた他のたくさんのものと同様にね。それは犬くらいの知能しかない、いや、もっと低いかもしれないわ。でも、腐肉を好んで食べ、墓場をうろついていて、人間の肉を食べると、少なくとも一時は、人間の言葉や事柄がわかるのよ。蘇生薬のアルザボはその動物の頭蓋骨の基部にある腺から作られるの。話していること、わかる?」
彼女がいってしまうと、ジョナスはわたしを見ようとせず、わたしも彼の顔を見ようとしなかった。二人とも、その夜、列席する宴会がどんなものか、わかったのだ。
[#改ページ]
11 セクラ
腰を降ろしてから長い時間がたったように思われた(実際にはわずか数分にすぎなかったのだろうが)。もはや胸の感じが我慢できなくなった。わたしは小川のほとりにいき、そこの柔らかい土の上にひざまずいて、ヴォダルスといっしょに食べた夕食を吐き出した。そして、出てくるものがなくなっても、まだむかむかしたり、ぶるぶる震えたりしながらそこに残って、顔を洗ったり口をすすいだりしていた。冷たい綺麗な水が、吐き出したワインや、なかば消化された食べ物を洗い去った。
やっと立ち上がることができるようになると、ジョナスのところに戻って、いった。「逃げよう」
彼は憐れんでいるようにわたしを見た。ほんとうに憐れんでいるんだ、とわたしは思った。
「ヴォダルスの戦士がぎっしりと取り囲んでいるのだぞ」
「きみは、ぼくのように気分が悪くならないみたいだな。どうせ、この話は彼の仲間に聞かれているだろう。チュニアルドはおそらく嘘をついているんだ」
「木々の間を見張りのやつが歩いている音が聞こえたぞ――彼らはそれほど足音を忍ばせないんだ。セヴェリアン、きみにはその剣がある、そしてわたしにはナイフがある。しかし、ヴォダルスの部下は弓を持っているだろう。さっき見たら、われわれと同じ食卓についた大部分の者が持っていた。試しに、吠え猿みたいに木の幹の陰に隠れてみるか……」
彼の考えがわかったので、わたしはいった。「吠え猿は毎日、射殺されているんだぞ」
「だが、あれを夜、射つ者はない。あと一刻かそこらで暗くなるだろう」
「では暗くなるまで待てば、一緒に逃げてくれるんだな?」わたしは手を差し出した。
ジョナスはそれを握った。「気の毒に、セヴェリアン。ヴォダルスとこの女城主セアともう一人の男を――発《あば》かれた墓のそばで見たと、きみはいったな。そこで手に入れたものを、彼らがどうするつもりか、知らなかったのか?」
もちろん、知っていた。だが当時は、それを自分とはかけ離れた、無関係な知識だと思ったのだった。今は、言うべき言葉がなかった。そして、実際に夜が早くこないかと思う以外には、ほとんど何も考えることができなかった。
われわれを迎えにヴォダルスがよこした男たちは、予想よりもずっと早くやってきた。矛を携えた、もと農民だったらしい屈強の男が四人。そして、もう一人、なんとなく大郷士《アーミジャー》らしい雰囲気の、士官用の剣を持った男。たぶん彼らは、われわれが入ってきた時に、台座の前で見かけた群衆の中にいたのだろう。それはともかく、彼らはわれわれのことで危険を冒さないように心を固めているらしく、戦友と呼びかけながらも、武器を携えてわれわれを取り囲んだ。ジョナスはいかにも男らしく勇敢な顔でそれに応対し、森の小道を護送されていきながら、彼らと気軽にお喋りをした。わたしはこれから始まる試練のこと以外は考えることができず、世界の果てに向かっていくような気分で歩いていった。
歩いていくにつれて、太陽の顔からウールスは顔を背けていった。星明かりは濃い群葉の下まで届かないようだった。しかし、案内人は道をよく知っていて、ほとんど歩みをゆるめなかった。わたしは一歩あるくごとに、これから連れていかれる食事に、どうしても加わらなければならないのだろうか、と尋ねたかった。しかし、拒否することは――いや、拒否したがっている様子を見せるだけでも――ヴォダルスのわたしに対するいくばくかの信頼を傷つけることになり、わたしの自由と、そして、たぶん命を、危険に陥れることになると、尋ねなくてもわかった。
最初はジョナスの冗談や質問にしぶしぶ答えていた五人の護衛は、わたしが絶望的になるのに反比例して、次第に陽気になり、これから飲み競べか淫売宿にでも出かけていくかのように、噂話を始めた。その声に期待の響きがこもっていることは、わたしにもわかったが、彼らが口にするからかいの言葉は、放蕩者のひやかしが幼児に理解できないと同様に、わたしには理解できなかった。「今度は遠くにいくか? また溺れるつもりかい?」(これはわれわれ一行の後ろにいる者の言葉で、暗闇の中の実体の伴わない声にすぎなかった)
「エレボスにかけて、おれは冬まで、おまえたちに見えないくらい遠くに沈むつもりだ」
大郷士に属しているとわたしがにらんだ男の声が尋ねた。「おまえたちだれか、もう彼女を見たか?」他の連中は威勢のよいことばかりいっていた。しかし、この男の単純な言葉の裏には、今まで聞いたことのないような渇仰の響きがこもっていた。例えば、道に迷った旅人が故郷のことを尋ねてでもいるような。
「いいや、ウォルドグレーブ」
(別の声が)「アルクモンドが良いやつだといっているぞ。年を取りすぎてもいず、若すぎもせず」
「またトリバート([#ここから割り注]女の同性愛者[#ここで割り注終わり])じゃないだろうな」
「さあね……」
声がとだえた。いや、たぶん、わたしが彼らの言葉に注意するのをやめたのだろう。木々の間にちらちらと明かりが見えたのである。
もうしばらく歩くと、松明が見え、大勢の人声が聞こえた。前方でだれかが、われわれに止まれといった。すると、大郷士が進み出て、小声で合言葉をいった。
まもなくわたしは腐った落葉や枯枝の上に坐っていた。右手にジョナスがいて、左手には木彫の低い椅子があった。大郷士はジョナスの右に座を占めた。居合わせた人々は(われわれの到着を待っていたとも見える様子で)、一本の木の大枝から吊された、煙を上げているオレンジ色のランタンを中心に車座になっていた。
ここには、広場の謁見の場にいた人々の三分の一ぐらいしかいなかったが、その服装や武器から判断して、主として地位の高い者と、たぶんそれに混じって、ある人数の覚えのめでたい戦士の幹部がいるように思われた。男四、五人に、女が一人、といった割合だった。しかし、女たちは男と同様に戦《いくさ》慣れしており、何はともあれ、宴会の始まりを男よりも熱心に待ち望んでいるようだった。
皆しばらく待っていると、ヴォダルスが暗闇から劇的に現われ、円陣を横切って大股に歩いてきた。全員が起立し、彼がわたしの横の木彫の椅子に腰を降ろすと、また坐った。
それとほとんど同時に、どこかの御大家の上級の召使のお仕着せを着た一人の男が進み出て、円陣の中心のオレンジ色の灯火の下に立った。彼は大きい瓶と小さい瓶と、そして水晶のゴブレットが一つずつ乗った金属の盆を持っていた。ざわめきが起こった――言葉というようなものではなく、無数の小さな満足の音、つまり、早い呼吸と舌なめずりの音だとわたしは思った。この音がひと通り行き渡るまで、金属の盆を持った男はじっと待っていた。それから、ゆっくりした足どりでヴォダルスの前に進み出た。
わたしの後ろでセアの優しい声がいった。「さっき話したアルザボは、あの小さいほうの瓶に入っているのよ。もう一つには、胃を守るための薬草の混合液が入っているの。両方を混ぜたものを、口いっぱいに含んで飲み下しなさい」
ヴォダルスは驚いた表情で、振り返って彼女を見た。
彼女はジョナスとわたしの間を通って円陣に入り、それからヴォダルスと金属の盆を持った男の間を通り、結局ヴォダルスの左側に坐った。ヴォダルスは彼女の方に体を寄せ掛けて何か言おうとした。だが、盆を持った男がすでに二本の瓶の内容物をゴブレットの中で混ぜはじめていた。それで、彼は今は話をするには不適当だと考えたようであった。
盆は、液体にゆっくりした渦巻きの動きを与えるように、回された。「よろしい」ヴォダルスはいって、両手で盆からゴブレットを取り、唇のところに持っていった。それから、わたしのところに回してよこした。「女城主《シゃトレーヌ》がいったように、ひと口いっぱいに飲むのだ。それより少ないと、分量が不足して、共通体験にあずかれない。よけいに飲んでも、なんの得もない。そして、薬は――非常に貴重なのだぞ――無駄になる」
わたしは教えられたとおりにゴブレットから飲んだ。混合液はニガヨモギのように苦く、冷たく悪臭があるように思われた。それで、職人の宿舎の廃水を流す戸外の排水口の掃除を命じられた、あのずっと昔の冬の日を思い出した。一瞬、さっき小川のほとりでそうなったように、また吐き気がこみ上げてくるのではないかと思った。もっとも、実際には、胃袋の中には上がってくるようなものは何も残っていなかったのだが。わたしは息を止め、飲み下し、ゴブレットをジョナスに回した。それから気がつくと、だらだらとよだれが流れ出していた。
彼はわたしと同様に、いやそれ以上に困っていたが、ついになんとか飲み下して、ゴブレットを、われわれの護送隊長をつとめたウォルドグレーブに回した。その後、わたしはゴブレットが一座の中をゆっくりと回っていくのを眺めた。それには十人分の薬が入っているようだった。空になると、お仕着せの男がその縁を拭き、盆の瓶から液体を注ぎ、また調合をやりなおした。
彼は次第次第に、丸い物体に当然備わっている実体的な形状を失って、シルエットだけになり、木の板を鋸で挽いて作った、色つきの、ただの人形のように見えはじめた。わたしはバルダンダーズと一緒に寝た夜に見た人形芝居の夢を思い出した。
われわれが坐っている円陣も、そこには三十人か四十人の人間がいると知っているのに、やはり、紙を切り抜いて作った玩具の王冠のように見えてきた。左手のヴォダルスと、右手のジョナスは正常だった。しかし、大郷士《アーミジャー》は、セアもそうであるように、すでになかば絵のように見えた。
彼女のところに、お仕着せの男がやってくると、ヴォダルスは立ち上がり、まるで夜風に押されてでもいるようになんの苦もなく動いて、オレンジ色のランタンの方に漂っていった。そのオレンジ色の光に照らされて、彼はずっと遠くにいるように見えた。だが、彼の視線を、まるで焼き鏝を熱している火鉢から熱を感じるように、わたしは感じることができた。
「共通体験にあずかる前に、一つ宣誓をしてもらわねばならない」彼はいった。すると、われわれの頭上の木々がおごそかにうなずいた。「これからきみが受ける第二の生命にかけて、きみはここに集まった者たちを決して裏切らないと誓うか? そして、ヴォダルスを自分の選んだ盟主として、ためらわず、疑わず、必要ならば死に到るまで、従うことを誓うか?」
わたしは木々と一緒にうなずきかけたが、それでは不充分に思えて、いった。「誓います」そして、ジョナスもいった。「はい」
「そして、ヴォダルスがきみの上に置いた人はだれであっても、ヴォダルスと同様に従うか?」
「はい」
「はい」
「また、これ以前になされた宣誓であろうと、これ以後になされる宣誓であろうと、他のすべての宣誓よりも、この宣誓を優先させるか?」
「させます」ジョナスがいった。
「そうします」わたしはいった。
風がやんでいた。まるで、この集会に何かの落ち着かない精霊がついていて、それが不意に消え失せたかのようだった。ヴォダルスはふたたびわたしの隣の椅子に腰を降ろした。彼はわたしの方に身を屈めた。たとえ彼の声が間延びしていたとしても、わたしにはわからなかった。だが、その目の中の何かが、彼もアルザボの影響を、それもたぶんわたしと同じくらい深く、受けていることを、物語っていた。
「わたしは学者ではない」彼は話しだした。「だが、最も偉大な大義も、最も卑しい手段としばしば結合するといわれていることは、わたしも知っている。諸国民は貿易で結びついており、祭壇や聖宝箱の綺麗な象牙や珍しい材木は、卑しい獣の肉や骨の屑を煮たもので接着されており、男と女は排泄器官で交接する。同様に、われわれは――きみとわたしは、結合する。同様に、われわれの中に一時的かつ強力に――生き返るであろう一人の同胞と、最も不潔な獣の一種の胸腺から絞り出した副産物によって、これより、しばしの間、われわれはともに結合する。泥から花が咲くように」
わたしはうなずいた。
「この薬の使用法を教えたのは、われわれの同盟者だった。彼らは人間がふたたび浄化されて、字宙を征服して彼らと結合する用意ができるのを待っている。この動物を持ちこんだのは、秘密の邪悪な計画を持った別の者たちだった。これをきみに話すのは、きみが〈絶対の家〉にいけば、大衆が退化人《カコジェン》と呼ぶ人々や、教養のある外太陽系人、つまりヒエロドゥール([#ここから割り注]神殿に仕える奴隷[#ここで割り注終わり])などに会うかもしれないからだ。きみはいかなることがあろうと、彼らの注意を引いてはならない。なぜなら、彼らが注意して見れば、ぎみがアルザボを使ったことははっぎりとわかるからだ」
「〈絶対の家〉ですって?」ほんの一瞬だったが、この言葉が麻薬の霧を払った。
「そのとおり。あそこには、わたしの指令を待っている男が一人いる。そして、きみがかつて属していた劇団が今から二、三日後に、あそこでバッカス神の祭に参加することを許されるということがわかった。きみはあの劇団に復帰して、これから渡すものを、機会を見て渡してもらいたいのだ」彼は衣服の中を探った。「きみに海の大船が陸を見る≠ニ言う者にだ。そして、もし彼がそのお返しに何かメッセージを伝えたら、きみはそれをわたしは樫の奥の院からきた≠ニいう者に伝えるがよい」
「殿様」わたしはいった。「頭がくらくらしています」(それから嘘をいった)「そんな言葉は覚えられません――本当に、もうすでに忘れてしまいました。ドルカスや、その他の者が〈絶対の家〉にくるだろうと、おっしゃったのですか?」
ヴォダルズはここで、ナイフではないが、それに似た形をしたものをわたしの手に押しこんだ。よく見ると、それは鉄で、火を起こす時に火打石を打ちつける金具らしかった。
「思い出すさ」彼はいった。「そして、わたしへの宣誓を決して忘れることはないだろう。ここにいる者の多くは、ここにくるのはたった一回限りだと思っていたのに、またやってきたのだよ」
「でも、殿様、〈絶対の家〉は……」
円陣の向こう側の後ろの木から、フルートのような鼻笛《ウバンガ》の音が聞こえた。
「わたしはまもなく、花嫁を送っていかねばならないが、心配しなくていい。少し前に、きみはわたしの穴掘り人足と出会ったな――」
「ヒルデグリンだ! 殿様、わたしにはわけがわかりません」
「彼はいろいろな名前を使うが、そう、それもその一つだ。彼は〈城塞〉からずっと離れたところで拷問者に会うとは――それも、わたしのことを話すとは――きわめて異常なことだと考え、きみを監視する価値があると思ったのだ。きみがあの夜、わたしの命を救ったことは知らなかったのだがね。運わるく、監視者たちは〈壁〉のところできみを見失った。それ以来、彼らはきみが復帰するかもしれないと思って、きみの道連れの動きを監視していたのだ。わたしはこう考えた。追放者ならこちらの味方について、憐れなバルノックの命を助けるほうを選び、彼を救出するチャンスをわれわれに与えてくれるかもしれないと。昨夜、わたしはきみと話をするためにみずからサルトゥスに乗りこんだ。だが、骨折りの甲斐もなく、乗馬を盗まれ、藁一本の収穫もなかった。そこで今日は、きみがわたしの部下に特殊技能を揮うのを防ぐために、なんとしてもきみを捕えることが必要になった。しかし、まだ、きみがわれわれの大義に共感するかもしれないと思ったので、きみのところにさし向けた兵士たちに、生け捕りにして連れてくるように命じたのだ。その結果、わたしは三人を失い、二人を得た。今の問題は、この二人が、その三人より価値があるかどうかということだ」
それから、ヴォダルスは立ち上がった。ちょっとよろめいて。わたしは自分も立たなくてよいことを、聖キャサリンに感謝した。なぜなら、わたしの足はとうてい体を支えられそうもなかったからである。木々の間から、何かぼんやりと白くて、人間の背丈の倍ほどのものが、鼻笛の音の方に向かって、滑るように動いてきた。皆が首を上げてそちらを眺めた。そして、ヴォダルスはふらふらとそれを出迎えるように動いた。セアは彼の空の椅子こしに、こちらに体を寄せて、わたしに話しかけた。「美しいでしょう、彼女は? 彼らは奇蹟を成就したのよ」
それは女の人で、六人の男の肩に担がれた銀の輿に乗っていた。一瞬、セクラだと思った――オレンジ色の光の中で、彼女そっくりに見えたのだ。それから、それはむしろ――たぶん、蝋で作った彼女の人形だとわかった。
「危険だといわれているのよ」セアは優しい声でいった。「生前に知っていた人と体験をともにするのはね。記憶がごっちゃになって、精神を当惑させるかもしれないから。でも、わたしは彼女を愛しているから、その混乱の危険を覚悟してやるのよ。そして、あなたが彼女のことを話す時の表情を見て、あなたもそれを欲していることがわかったから、ヴォダルスに何もいってないのよ」
ヴォダルスはその女性の人形が円陣を横切って担がれてくると、手を上げてその腕に触れた。それとともに、甘い、間違えようのない良い匂いが漂ってきた。わたしは組合の宴会に出された、スパイス入りのココナツの毛皮をまとい砂糖漬の果物の目を持ったアグーチ([#ここから割り注]動物の名[#ここで割り注終わり])の丸焼きを思い出し、これも焼肉を人体の形に再形成しただけのものだと知った。
その瞬間、もしアルザボの作用を受けていなかったら、わたしは発狂してしまったろうと思う。それはわたしの感覚と現実の間に、巨大な霧の塊りのように立ち、それを透かしてすべてが見えたが、何一つ理解できなかった。わたしには別の味方もいた。それはわたしの内部に成長しつつある知識だった。もし、今ここで同意してセクラの構成物質の一部を飲み下せば、このままでは必ずすぐに腐って消えてしまう彼女の精神の軌跡が、わたしの中に入って、いかに希薄になるにしても、わたしが生きる限り持続するという確信だった。
同意が生じた。自分がこれからやろうとしていることは、もはや不潔でも恐ろしくもなくなった。それどころか、わたしはセクラに対して自己のあらゆる部分を開放し、わたしという存在の精髄を歓迎の心で飾った。また、麻薬のために、食欲も生じた。他のいかなる食べ物でも満足させられない飢餓が。そして、円陣を見渡すと、皆の顔にその飢餓の表情があらわれていた。
お仕着せの男――ヴォダルスの昔の家令で、一緒に亡命した者の一人にちがいない――はセクラを担いで輪の中に入ってきた六人の男に手を貸し、輿を地面に降ろすのを手伝った。数呼吸の間、彼らの背中が視界を遮った。彼らが離れると、彼女の姿はなく、白いテーブルクロスみたいなものの上に、湯気を立てている肉が並べられているばかりだった……
わたしは許しを乞いながら、食べ、待った。彼女は、精妙な調和を見せる、値段のつけられないほどの大理石の、最も豪壮な墳墓に相応しい人だった。だが、その代わりに、床が擦り切れ、いろいろな装置が花輪でなかば偽装されている、わたしの拷問者の作業室に葬られることになっていた。夜風は涼しかったが、わたしは汗をかいていた。そして、その雫が自分の剥き出しの胸を流れ落ちるのを感じながら、そして、彼女の存在を自分の中に感じないうちに、他人の顔に彼女を見るのが恐いので、わたしは地面を見つめながら彼女がくるのを待った。
ちょうど絶望した時に――彼女はそこに、ちょうどメロディーが小屋を満たすように、いた。わたしは子供で、彼女と一緒にアーキス川のほとりを駆けていた。わたしはその暗い湖に囲まれたとても古い別荘を知った。見晴らし台の汚れた窓から見た景色を、そして昼間に蝋燭をともして坐って本を読む、二つの部屋の間にあるはんぱな角度の秘密の隙間を、知った。そして、ダイアモンドのカップの中に毒楽が待っている独裁者の宮廷の生活を知った。これまでに拷問者の虜《とりこ》になって、独房を見たり、鞭を感じたりしたことがない人間にとって、死ぬということがどういうことか、死とはどんなものか、わたしは知った。
自分で想像していた以上に、わたしが彼女にとって大切な人間だったとわかった。それから、ついに眠りに落ちたが、そこで見る夢は彼女のことばかりだった。ただの記憶それまでにたくさん持っていた記憶――だけではなかった。わたしは彼女の憐れな、冷たい手を握った。わたしはもはや徒弟のぼろも、職人の煤色の衣服も着ていなかった。われわれは一つだった。裸で、幸福で、清潔で。そして、彼女がもはやいないことを、そして、わたしはまだ生きていることを、われわれは知った。しかし、これらの事実のどちらにも逆らわずに、二人の髪の毛を絡みあわせて一冊の本をともに読み、他の物事について話したり、歌ったりした。
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12 ノトゥール
セクラの夢から醒めると、もう朝になっていた。ある瞬間に、わたしとセクラは、きっと楽園にちがいないと思われるところを、黙って一緒に歩いていた。その楽園は、いまわの際に〈新しい太陽〉の名を呼ぶすべての者に開かれるといわれている。しかし、そこは彼らの命を断った死刑執行人に対しては鎖されていると、賢人は教える。それにしても、それほど多くの人を許してくださるお方なら、時にはそのような者をも許してくださるにちがいないと、わたしにはどうしても思えるのである。次の瞬間、わたしは寒さと、ありがたくない光と、そして小鳥のさえずりを意識した。
わたしは起き上がった。マントは露に濡れ、露は汗のように顔に降りていた。横では、ジョナスがもぞもぞと身動きを始めたところだった。十|歩《ペース》はなれたところに、二頭の大型の軍馬――一頭は白ワインの色、もう一頭は斑のない黒――が、苛立ってくつわを噛み、足を踏み鳴らしていた。宴《うたげ》とその出席者の形跡は、セクラの形跡と同様に残っていなかった。その後、彼女とは二度と会っていないし、今はもうこの世で会う望みはない。
テルミヌス・エストは、よく油を塗った丈夫な革の鞘に入って、そばの草の中に置かれてあった。それを取り上げて、丘を下っていくと小川があった。わたしはそこで不充分ながら身だしなみをととのえた。戻るとジョナスが目を醒ましていた。わたしは彼を小川の方にいかせた。そして彼のいない間に、死んだセクラに自分なりに別れを告げた。
だが、彼女の一部はまだわたしとともにあった。時々、過去を回想するわたしは、セヴェリアンではなくてセクラになる。まるで、わたしの精神がガラスのはまった額縁に入っていて、そのガラスの前にセクラが立ち、それに彼女の姿が映るような具合である。また、あの夜以来、特定の時や場所を考えずに彼女のことを考えると、わたしの想像の中に現われるセクラは、かろうじて胸もとが隠れ、腰から下は絶えず変化して流れ落ちる滝のような、きらめく霜のように白いガウンをまとって、鏡の前に立つ。そうして、しばらくそこにたたずんでいる彼女を、わたしは見る。たがいに両手を伸ばして相手の顔に触れながら。
それから、壁も天井も床もすべて鏡でできている部屋の中で、彼女はくるくると回る。疑いなく、わたしが見ているのは、これらの鏡の中に映っている姿の、彼女自身の記憶なのである。だが、一つか二つステップを踏むと、彼女は暗闇に姿を消し、もはや見えなくなるのだ。
ジョナスが戻ってくるまでには、わたしは悲しみを克服して、馬を調べているふりをすることができた。「黒がきみのだ」彼はいった。「そして、クリーム色のは、明らかにわたしのだ。もっとも、船乗りが自分の足を切断した外科医にいったように、どちらもわれわれにはもったいないくらいだがね。これから、どこにいく?」
「〈絶対の家〉に」彼が信じられないような顔をしたのがわかった。「昨夜、ヴォダルスとぼくの話を、横で聞いていなかったのか?」
「その名前は聞き取れたが、そこにいくということは聞かなかった」
前にもいったように、わたしは乗馬は得意ではない。だが、黒のあぶみに片足を掛けて、ひらりと馬上の人になった。二晩前にヴォダルスから盗んだ馬は、丈の高い戦闘用の鞍がついていて、ひどく乗り心地が悪かったが、非常に落馬しにくかった。この黒馬にはほとんど平らに近い、詰物をしたビロードの座蒲団みたいなものがついていた。それは豪華ではあったが、頼りなくもあった。わたしがまたがるやいなや、馬は走りだしたがって、跳びはねた。
それはたぶん、あのことを話すには最も都合の悪い時だったろう。だが、それはまた唯一の機会でもあった。わたしは尋ねた。「どのくらい覚えている?」
「昨夜の女のことか? 全然だ」ジョナスは跳ねる黒馬をよけて、クリーム色の馬の手綱を解き、またがった。「食べなかったんだ。ヴォダルスはきみを注目していた。だが、あの薬を飲み下してしまった後は、だれもわたしに注目しなかった。それに、どのみち、わたしは実際に食わずに、食っているふりをする術を身につけているからな」
わたしはびっくりして彼を見つめた。
「きみの面前で何度も実行している――たとえば昨日の朝食がそうだった。わたしはあまり食欲がないから、この術は社交的に役立つんだよ」彼はクリーム色の馬に、森林の道を進んでいくように促してから、肩ごしにいった。「ところで、わたしは道路事情にかなり詳しい。少なくとも、たいていの道はね。しかし、なぜあそこにいくのか教えてくれないかな?」
「ドルカスとジョレンタがあそこにくることになっている」わたしはいった。「そして、われわれの君主ヴォダルスの使いをしなければならないんだ」われわれが監視されていることはほとんど確実であったので、それを実行するつもりがないことは、言わないほうが良いと思った。
ここで、このわたしの自叙伝が永久に続かないように、何日もの出来事をはしょって話さねばならない。こうして馬に乗っていく間に、わたしはヴォダルスが言ったことをジョナスに、全部、いや、さらに多くを話した。われわれは村や町があると泊まっていった。そして、泊まったところでは、需要に応じてわたしの特殊技能を発揮した――それは金儲けがどうしても必要だったからではなく(なぜなら、われわれは女城主セアがそれぞれにくれた財布を持っていたし、サルトゥスでもらった料金がたくさん残っていたし、また、ジョナスが猿人の黄金を売って得た金もあったから)、疑惑を軽減するためだった。
四日目の朝には、まだ北に向かって強行軍をしていた。ギョルはその河岸の、草地にかえってしまった禁断の道路を守る竜のように、われわれの右手を蛇行しながら日光を浴びていた。前日に、パトロール中の槍騎兵《ウーラーン》に出会った。彼らはわれわれと同様に馬に乗り、〈憐れみの門〉のところで旅人を殺した兵士の槍と似た槍を持っていた。
出発以来、神経質になっているジョナスがつぶやいた。「今夜、〈絶対の家〉のそばまでいくつもりなら、急がなければならないぞ。その祝祭が始まる日と、それが行なわれている期間について、ヴォダルスが何かヒントを与えておいてくれればよかったのになあ」
わたしは尋ねた。「〈絶対の家〉はまだ遠いのか?」
彼は川の中の遠くの島を指さした。「あれに見覚えがあるような気がする。そして、あそこまで二日の行程にあった時に、ある巡礼が〈絶対の家〉が近いといっていた。近衛兵に用心するように注意してくれたから、確かな話だと思う」
わたしは彼にならって、馬をトロットで走りださせていた。「その時は歩いていたんだろ」
「あのメリーチップに乗っていたんだ――もう二度とあの憐れな獣に会うことはないだろうな。彼女は最善の条件の時でも、これらの馬の最悪の条件の時よりも遅いだろう。それは認める。しかし、こいつらの足が、あいつの二倍速いかどうかわからないぞ」
祝祭日までに着くことが不可能だと思ったら、ヴォダルスはわれわれを〈絶対の家〉に派遣しはしなかったろう、とわたしが言おうとした時、何かが頭から腕一本くらいの距離の空中をかすめて通った。最初は、大こうもりのように思われた。
わたしにはその正体はわからなかったけれども、ジョナスは知っていた。彼はわたしに理解できない言葉を叫ぶと、手綱の端でわたしの馬の尻を叩いた。馬はばっと前に跳び出し、わたしは投げ出されそうになった。一瞬にして、われわれは狂ったように全力疾走に移っていた。そして、馬の両側に一スパンの余裕もない、狭い間隔で立っている二本の木の間を、矢のように通り抜けた時に、その得体の知れないものが、空を背景にして煤の斑点のようにシルエットになって見えたのを覚えている。一瞬の後、そいつは後ろの枝の中で、がさがさともがいていた。
森の縁を抜けて、その先の乾いた峡谷に入ると、そいつは見えなくなった。だが、峡谷の底に着いて、対岸を登りはじめると、そいつは木々の間からいままで以上に激しく暴れながら、姿を現わした。
祈りの文句を一つ唱えるくらいの間、そいつはわれわれの進路とある角度をなして飛翔し、こちらの姿を見失ったように思われた。それから反転して、長く水平な滑空をしながら、またこちらに向かってきた。わたしはテルミヌス・エストの鞘を払っていた。そして、黒馬の首に手綱で圧力を加えて、その飛翔体とジョナスの間に割って入った。
軍馬の足がいかに速いといっても、そいつのほうがもっとずっと速く接近してきた。もし先の尖った剣を持っていたら、急降下してくるところを刺すことができるのに、と思った。しかし、もしそんなことをしていたら、わたしはきっと命を落としていたことだろう。幸か不幸か、その種の剣の持ちあわせがなかったので、わたしはテルミヌス・エストを両手に持って、切りつけた。まるで空気を切ったみたいだった。これほど鋭利な刃にとっても、そいつは軽すぎ、丈夫すぎると思った。一瞬の後、そいつはぼろ布のように二つに分かれた。わたしは一瞬、ちょっとした熱さを感じた。ちょうど、天火の扉が開き、また音もなく閉まったように。
下馬して調べたいと思ったが、ジョナスが大声をあげて、手を振っていた。われわれはサルトゥス周辺の高い森林を遙か後にして、今は、ぼろぼろの杉の木が生えた、起伏の激しい急峻な丘陸地帯に入っていた。斜面のてっぺんに、そういう杉の木立があった。われわれは体を低くして、馬の首にしがみつくようにして、その茂みに乱暴に飛びこんだ。
まもなく、群葉があまり濃くなったので、馬たちは歩くことしかできなくなった。それとほとんど同時に、岩の壁にまともにぶつかった。もはや、もつれあった木の枝の間を強引に進むこともできなかった。やむなく馬が止まった時、後ろで何か別の音が聞こえた――乾いたカサカサいうような音。ちょうど、怪我をした鳥が檎で羽ばたいているような音が。杉の木の薬品のような匂いが、肺を圧迫した。
「脱出しなければだめだ」ジョナスが息を切らしていった。「いや、少なくとも動いていなければ」折れた枝の先が彼の頬に突き刺さって、喋っている間にも、血が滴り落ちた。彼は左右を見た後、右の川の方向を選んだ。そして、馬に鞭を当てて、一見、通過不可能に見える茂みの中に、強引に馬を進めた。
たとえあの黒いものが襲ってきても、わたしならある程度、対抗することもできると考えながら、道を開くのを彼に任せて、その後からついていった。まもなく、そいつが灰緑色の葉むらの間に姿を見せた。数分後、さらにもう一つ見えた。それは最初のやつとそっくりで、すぐ後に続いた。
森が終わり、ふたたび馬を全力疾走させることができるようになった。二枚の、羽ばたく夜の切れ端が、後を追ってきた。彼らのサイズが縮まっただけ速くなったように思われたが、実際は一枚の時よりも遅かった。
「火を見つけなくては」ジョナスは地響き立てている軍馬のひづめの音に負けじと叫んだ。「あるいは、殺してもよい大きな獣を見つけることだ。もし、どちらかの馬の腹を裂くことができれば、たぶん、それでもよいのだが。しかし、駄目だったら、万事休すだ」
軍馬の片方を殺すのには反対だという意志を示すために、わたしはうなずいた。もっとも、わたしの乗っている馬は、まもなく疲労で倒れるだろうという考えが、一瞬、脳裏をかすめたけれども。今、ジョナスはわたしとの距離が開くのを避けるために、やむなく馬のスピードを落とした。わたしは尋ねた。「あいつらが欲しがっているのは血なのか?」
「いや。熱だ」
ジョナスは馬の頭を右に向け、その横腹を鉄の手でひっぱたいた。それは効き目があったらしく、獣はまるで突き刺されでもしたように、跳び出した。われわれは乾いた水路を跳び越え、足を滑らせたり、つまずいたりして、左右に揺れながら埃っぽい山腹を下り、やがて、軍馬の駿足を最も活かせるなだらかな平野に出た。
後ろでは黒いぼろ[#「ぼろ」に傍点]がはためいていた。彼らは高い木の二倍の高度を飛び、風に流されているように見えた。だが、草のそよぎを見ると、風に対向していることがわかった。
前方で、ちょうど布地が縫目で変化するように、地形がかすかではあるが、突然変化した。曲がりくねった緑色のリボンを転がしたように、草地が平らに伸びていた。わたしは黒馬の進路をぐいとそちらに向けると、その耳もとで大声をあげ、剣の平を鞭のように当てて、叱咤激励した。彼は今は汗びっしょりで、杉の小枝でできた傷から血を流していた。後ろでジョナスが大声で警告するのが聞こえた。だが、わたしは気にかけなかった。
一つのカーブを曲がると、木立の間から川のきらめきが見えた。黒馬がまた元気を失いはじめるのを意識しながら、もう一つのカーブを曲がった――すると、ずっと遠くに、探し求めているものが見えた。たぶん、これを言ってはいけないのだろうが、わたしはその時、心臓の虫のために衰えてしまった天の太陽に向かって、剣を振り上げ、大声で呼ばわった。「〈新しい太陽〉よ、あなたの怒りとわたしの希望によって、彼の命をわたしにください!」
その槍騎兵《ウーラーン》(この時には一人しかいなかった)は、きっとわたしが脅しをかけていると思ったにちがいない。実際にそうしたのだから。馬に拍車をかけてこちらに駆けてくるそいつの、槍の穂先の青い炎が大きくなった。
黒馬はわたしのために、苦しい息をしながらも、狩られる兎のように走った。手綱をひと捻りすると、彼は道路の青草を蹄で蹴散らしてスライドし、向きを変えた。一呼吸する間もなく、われわれはもときた道を引き返し、われわれを追ってくるものに向かって突進した。この時に、ジョナスがわたしの作戦を理解していたかどうかわからない。しかし、彼はいかにも理解しているように、決して自分のペースを緩めずに、こちらに調子を合わせた。
飛翔生物の一つがさっと舞い降りてきた。その姿はまるで宇宙に穿《うが》たれた穴のように見えた。なぜなら、それは真の煤色で、わたしの制服と同様に光をまったく反射しなかったからである。それはジョナスに襲いかかるつもりだったらしい。だが、剣の届く範囲にまでやってきたので、わたしは前にやったように切断した。するとまた熱風を感じた。その熱がどこからやってくるかわかって、それがどんな悪臭よりも忌まわしく感じられた。熱気が肌に当たる感覚だけで、胸が悪くなった。槍騎兵《ウーラーン》の槍の噴炎がいつ襲ってくるかわからなかったので、わたしは激しく手綱を引いて、川と反対の方向に馬を向けた。われわれが道路から離れるいなや、噴炎がやってきて、地面を焦がし、枯れた立木を燃え上がらせた。
わたしは馬の頭を引き起こし、後ろ足で立たせ、いななかせた。一瞬わたしは、燃えている立木の周囲を、三つの黒いもの[#「もの」に傍点]を探した。そこにはいなかった。それから、結局ジョナスにあれらが追い着いて、わたしに理解できない方法で彼を攻撃しているのではないかと心配になり、ジョナスの方を見やった。
それらはそこにもいなかったが、彼の視線をたどると、どこにいったかがわかった。槍騎兵《ウーラーン》のまわりを飛び回っていたのだ。見ていると、彼は槍で防こうと懸命になっていた。噴炎が何度も空気を引き裂いた。それで、雷鳴のような音が続けざまに聞こえた。噴炎がほとばしるたびに、太陽の明るさが洗い流された。しかし、それらを殺そうと彼が放っているエネルギーそのものが、それらに力を与えているように思われた。わたしの目には、それはもはや飛んでいるようには見えず、暗黒の光が閃いてでもいるように、ここと思えばまたあちらと、変幻自在に出没するように思われた。こうして、それらは絶えず彼に接近していき、ついに、わたしがこれを書いた時間よりも短い時間に、三匹いっぺんに彼の顔に襲いかかった。彼は鞍から転落し、その手から槍が落ちて、炎が消えた。
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13 調停者の鉤爪《つめ》
わたしは呼びかけた。「そいつ、死んだか?」ジョナスが返事をする代わりにうなずくのが見えたので、わたしはそのまま走り去ろうとした。だが彼は、こちらにこいというような身振りをして、馬から降りた。槍騎兵《ウーラーン》の死体のところで落ちあうと、彼はいった。「こいつらを殺すことができるかもしれない。そうすれば、また飛び立ってわれわれを襲うとか、他のだれかを傷つけるために使われるとかいう心配がなくなる。こいつらは今は満腹している。だから、われわれでも扱えると思う。何か、入れるものがいるな――金属かガラスの、防水容器のようなものが」
その種のものには心当たりがなかったので、わたしはそういった。
「わたしもだ」彼は槍騎兵のそばにしゃがんで、彼のポケットをひっくりかえした。燃える樹木の香ばしい煙が、香の煙のようにあらゆるものにまつわりついていた。わたしは、またペルリーヌ尼僧団の伽藍の中にいるような気分になった。散らばっている小枝と、倒れた槍騎兵の下の去年の夏の落葉は、あの麦藁の床を思い出させ、まばらな立木の幹は、あれを支えている円柱を思い出させた。
「あった」ジョナスはそういって、真鍮の胴乱《ヴァスキュラム》をを持ち上げた。そして、蓋を捻ってはずし、中の薬草を捨てた。
「あれらはどこにいるんだ?」わたしは尋ねた。「この死体が吸収しちまったのか?」
ジョナスは首を振った。そして、しばらくすると、槍騎兵の左の鼻の孔から黒いものの一つを、非常に注意深く、繊細な神経を使って、引き出しはじめた。完全に不透明であるのを別にすれば、それは最上等の塵紙に似ていた。
彼の用心深さに、わたしはびっくりした。「それを裂けば、二つになるんじゃないか?」
「ああ。しかし、今は満腹している。もし裂けば、エネルギーを失って、また暴れるから、扱うのが不可能になるかもしれない。ついでながらいっておくが、大勢の人が死んでいるんだ。こいつらを切ることができると気づいたばかりにね。切りこまざいて、身を守ろうとするんだが、結局、相手が多くなりすぎて撃退できなくなってしまうのさ」
槍騎兵の片方の目が半眼に開いていた。死骸を見たことはこれまで何度もあるが、わが身を守るために彼を殺したこのわたしを、ある意味で彼が監視しているような、不気味な感じを拭い去ることができなかった。それで、気分を変えるために、いった。「最初のやつを切った時、飛ぶスピードが鈍ったように思ったが」
ジョナスは引き出した恐ろしいものを胴乱の中にしまいおえ、もう一枚を右の鼻孔から引き出しかけていた。彼はつぶやいた。「どんな飛翔物も、速度はその翼の面積による。もし、そうでなければ、これらの生物を使っている専門家は、送り出す前にこま切れにするはずだと思う」
「まるで、前にもこれと出会ったことがあるような口ぶりだな」
「以前に、これを儀式的殺人に便っている港に入港したことがあるんだ。だれかが持ち帰ることは避けられないと思ったが、ここで見るのは初めてだ」彼は真鍮の蓋を開いて、最初のものの上に二枚目の煤色のものを置いた。すると下になったやつが、もそもそ動いた。「こいつらはこの中で再結合するだろう――彼らをもとに戻すのに、専門家はこうやるんだ。きみは気づかなかっただろうと思うが、こいつらは森の中を通過する時に、いくらか破れたはずだが、飛行中に自分でくっついてしまったんだ」
「もう一匹いるぞ」わたしはいった。
彼はうなずいて、鉄の手を使って死者の口をむりやりに開けた。もとのままの歯や、土色に変わった舌や歯茎はあったが、まるで底なしの湾のように見えた。わたしの胃は一瞬むかついた。ジョナスは死者の唾液の滴る三枚目の生き物を引き出した。
「もしぼくが二度目にこいつを切っていなかったら、彼の片方の鼻孔か口は開いていたんじゃないだろうか?」
「肺の中に入りこむまではな。実際、運が良かったよ。こいつのところにこんなに早く駆けつけることができて。さもなければ、きみはきっとこいつの死体を輪切りにして、あれらを外に出したにちがいない」
ひと筋の煙が流れ、わたしは杉の木が燃えていることを思い出した。「もし、こいつらが欲しがっているのが熱だとしたら……」
「彼らは生物の熱のほうが好きなんだ。といっても、時には間違って生きた植物質の火に引き寄せられることがあるがね。事実、作用するのは単なる熱だけではないように思う。おそらく、成長しつつある細胞特有の放射エネルギーのようなものだろう」ジョナスは三枚目の生き物を胴乱につめこんで、ぴしゃりと蓋を閉めた。「われわれはこれをノトゥールと呼んでいる。なぜなら、こいつらは暗くなって、その姿が見えなくなると出てくるんだが、襲ってくる最初の兆候は、その暖かい息だからだ([#ここから割り注]春風の神ノトスからの連想[#ここで割り注終わり])。しかし、原住民がこれをなんと呼ぶかは、知らない」
「その島はどこにあるんだ」
彼は不思議そうにわたしを見た。
「海岸から遠いのか? ぼくはずっとウロボロスを見たいと思っていた。もっとも、危険なものだとは思うが」
「ずっと遠い」ジョナスはそっけない声でいった。「実際、すごく遠い。ちょっと待ってくれ」
わたしは待った。そして見ていると、彼は大股に河岸に歩いていき、胴乱を勢いよく放り投げた――それはほとんど中流にまで達して水に落ちた。彼が戻ってくると、わたしは尋ねた。「こいつらをわれわれ自身で使うことはできないのか? だれかわからないが、こいつらを送り出したやつが今さら諦めるとは思えないし、われわれもこいつらが必要になるかもしれないじゃないか」
「こいつらはわれわれには従わないよ。それに世の中は、こいつらをなくしちまったほうが、具合がいいんだ。肉屋のかみさんが亭主の一物を切り取る時に言ったようにな。さあ、もう出かけたほうがいい。だれか道をやってくるぞ」
ジョナスの指さす先を見ると、二つの人影が歩いてくるのが見えた。彼はすでに、水を飲んでいる軍馬の端綱《はづな》を掴み、鞍にまたがろうとしていた。「待ってくれ」わたしはいった。「いや、一、二チェーン先にいって、待っていてくれ」わたしは、猿人の出血している手首の切り口を思い出していた。そして、あの伽藍の奉納灯が木々の間に赤や紫に吊されているのが見えるような気がした。わたしはブーツのずっと奥に手を突っこんで、そこに押しこんでおいた〈釣爪〉を引き出した。
白昼の光の中でこれを見るのは、初めてだった。それは太陽の光を反射して、〈新しい太陽〉そのもののように燦然ときらめいた。ただ青いだけでなく、紫から青までのすべての色彩を帯びて。わたしはそれを槍騎兵の額に載せた。そして、彼が生きるようにしばらく祈念した。
「こいよ」ジョナスが呼んだ。「何をしているんだ?」
わたしは、なんと答えてよいかわからなかった。
「そいつは完全に死んでいるわけではないぞ」ジョナスがいった。「槍を見つけないうちに、立ち去れよ!」彼は馬に鞭を当てた。
かすかに、なんとなく聞き覚えのあるような声がした。「師匠!」わたしは頭を回して、草の生えた街道の先の方を眺めた。
「師匠!」旅人の一人が手を振り、二人そろって駆けてきた。
「へトールだ」わたしはいった。だが、ジョナスは姿を消していた。わたしは振り返って槍騎兵を見た。今は両眼が開いて、胸が上下していた。その額から〈鉤爪〉を取って、もとのようにブーツの中に押しこむと、彼は起き上がった。わたしはヘトールとその道連れに向かって、道路から立ち去れと怒鳴った。だが、彼らはなんのことか理解できないようだった。
「あんたはだれだ?」
「味方だ」わたしは答えた。
その槍騎兵はまだ弱々しかったが、立ち上がろうとした。わたしは手を貸して、彼を引っぱり上げてやった。しばらくの間、彼は――自分自身や、自分にむかって駆けてくる二人の男や川や、そして木立などあらゆるものを見つめていた。軍馬を恐れている様子だった。自分自身の馬で、辛抱強く乗り手を待って立っているのに。「ここはどこだ?」
「ギョルのほとりの旧道じゃないか」
彼は首を振り、両手で頭をかかえた。
ヘトールはまるで、息せききって駆けてきて主人の愛撫を待つ血統の悪い犬のように、はあはあいいながら駆け寄ってきた。百|複歩《ストライド》ほど遅れてやってくるその道連れは、贅沢な衣服を着て、けちな行商人のように信用できない顔をしていた。
「し・し・師匠」ヘトールはいった。「あなたに追い着くために、わたしたちがどんなにな・な・難渋し、どんなに犠牲を払い、どんなに苦労して、この浮き世の山々を越え、広い茶色の海を渡り、が・が・がたがたの広野を越えてやってきたか、あなたには想像もつかないでしょう。か・か・貝殻のように打ち捨てられ、千もの潮流に翻弄され、このような淋しい場所に打ち上げられ、あなたなしにはき・き・休息できない、あなたのど・ど・奴隷であるこのわたしとは、いったい何者なのでしょうか? 朱に染まった〈鉤爪〉の師匠よ、あなたがわたしに投げかけたこの際限のない苦難を、い。い・いったいわかっておいでなのですか?」
「サルトゥスで歩いている時におまえと分かれ、ここ数日間は馬で急いできてしまったからなあ。さぞ大変だったろう」
「そうですとも」彼はいった。「そうですとも」それから、ほら、言ったとおりだろうとでもいうような意味ありげな表情で連れを見て、地面にへたりこんでしまった。
槍騎兵がのろのろといった。「おれはコーネット・ミネアスだ。おまえたちはだれだ?」
彼はお辞儀でもするように、頭をぴょこりと下げた。「こ・こ・この師匠は、セヴェリアン様だ。その尿が臣民のワインである独裁者の――家来であり、真理と悔悟の探究者の組合≠フ一員だ。ヘトールはその慎ましい召使い。ベウゼックもまたその慎ましい召使い。たぶん、あの走り去った男もまたその召使いだと思う」
わたしは彼に黙るように身振りをした。「われわれはみんな憐れな旅人だよ、コーネット。きみがここに倒れているのを見て、助けようとしただけだ。さっきは死んでいると思ったよ。危ないところだったなあ」
「ここはどこだ?」槍騎兵はまた尋ねた。
ヘトールが熱心に答えた。「クィエスコの北の道路だ。し・し・師匠、わたしたちは舟に乗って、闇夜にギョルの広い水面を航行してきました。そしてクィエスコでお・お・降りたのです。ベウゼックとわたしは舟のデッキで帆を操って、や・や・やってきたのです。のろのろと川を遡ってね。あ・あ・頭の上をひゅっと風を切って、ぜ・ぜ・〈絶対の家〉に向かっていく幸福な連中もいるというのに。でも、舟はわたしどもが起きていようと寝ていようと、は・は・走りつづけて、こ・こ・こうしてあなたに追い着いたのです」
「〈絶対の家〉だと?」槍騎兵はつぶやいた。
わたしはいった。「ここから遠くないと思うが」
「特別警戒をするんだった」
「きっと、戦友の一人がまもなくやってくるだろう」わたしは馬をつかんで、その高い背にまたがった。
「し・し・師匠、また、わ・わ・わたしたちをおいていかれるのではないでしょうね? ベウゼックはあなたの芝居を二度しか見ていないのですよ」
ヘトールに答えようとした時に、道の反対側の木立の間に、何か白いものがちらりと見えた。何か巨大なものが動いていた。すぐに、ノトゥールを送り出したやつが別の武器を用意しているのかもしれない、という考えが浮かんだ。それで、わたしは黒馬の横腹をかかとで打った。
彼は跳び上がって駆け出した。半リーグかそこいらの間、川と道路を隔てる細長い地面を疾走していった。やっとジョナスを見つけると、わたしは彼に知らせるために全速力でその土地を横切っていき、見たものを話した。
わたしが話している間、彼はじっと何かを回想していた。話しおえると、彼はいった。「きみのいうようなものには、まったく心当たりがない。しかし、わたしの全然知らない輸入品がたくさんあるかもしれないからな」
「しかし、そういうものだったら、迷子の牛みたいに、勝手にうろついているはずはないだろう!」
ジョナスは返事をせずに、数歩先の地面を指さした。
幅一キュビットにも満たない砂利道が、木々の間をくねくねと続いていた。その両側には、そんなにたくさん自然に群生しているのを今までに見たことがないような、おびただしい野生の花が咲きこぼれていた。また、砂利は、大きさがとてつもなくきちんとそろっており、輝くばかりに白い石で、どこか遠くの秘密の岸辺から運んできたにちがいないと思われた。
それを調べようと、わたしは馬をもう少し近寄せて、ここにこんな小道があるというのは、いったいどういうことだろうか、とジョナスに尋ねた。
「その意味は一つしかない――つまり、われわれはすでに〈絶対の家〉の敷地に入っているのだ」
突然、わたしはこの場所を思い出した。「そうよ」わたしはいった。「前に、ジョゼファや他の人々と魚釣り大会をやって、ここにきたことがあるわ。あのねじ曲がった樫の木のところを横切って……」
発狂したのかと疑ってでもいるように、ジョナスはわたしを見た。そして、一瞬、わたし自身も同じように感じた。以前わたしはしばしば馬で狩りにいった。だが、わたしが今乗っているこの馬は軍馬であり、猟馬ではなかった。この時、両手が蜘蛛のようにひとりでに上がって、わが目をほじり出そうとした――そして、もし横にいる粗末なみなりの男が、その手で――それは鉄の手だった――叩き落とさなかったら、わたしの手は実際にそうしていただろう。「きみは女城主《シャトレーヌ》セクラではないぞ」彼はいった。「きみはセヴェリアンだ。拷問者組合の職人だ。不幸にも彼女を愛してしまった男だ。自分の姿を見ろ!」彼は鉄の手を上げて、その擦れて光っている掌にわたしの顔を映して見せた。そこには、細長く醜い、そして当惑した見知らぬ男の顔が映っていた。
それでわたしは、組合の塔を、滑らかな黒っぽい金属の壁を、思い出した。「ぼくはセヴェリアンだ」わたしはいった。
「そのとおり。女城主セクラは死んだんだ」
「ジョナス……」
「え?」
「あの槍騎兵は生き返ったぞ――見ただろう。〈鉤爪〉が彼にまた命を与えたんだ。額に載せてやったんだが、もしかしたら、彼が死んだ目であれを見たから蘇生したのかもしれない。彼は起き上がった。呼吸をし、ぼくに話しかけたぞ、ジョナス」
「彼は死んではいなかった」
「見たじゃないか」わたしはまたいった。
「わたしはきみよりずっと年上だ。きみが考えるより、ずっと年寄なんだ。たくさんの船旅の間に学んだことが一つでもあるとしたら、それは、死者は蘇らない、年月は戻らない、ということだ。今まであったもの、過ぎ去ったものは、ふたたび訪れることはない」
まだセクラの顔がわたしの前にあった。だが、それは暗い風に吹かれて、次第にゆらめき、消えてしまった。わたしはいった。「もし、これを使ってさえいたらなあ。あの死者の宴の席で、〈鉤爪〉の力を呼び求めていたら……」
「あの槍騎兵は窒息しかけていた。完全に死んではいなかったんだ。ノトゥールを引き出してやったから、呼吸ができるようになり、しばらくして意識を取り戻したのさ。きみのセクラについて言えば、彼女を復活させることのできるような力は宇宙にはないのだよ。彼らはきみがまだ〈城塞〉の中に監禁されていた間に、彼女を掘り出して氷穴のなかに保存しておいたにちがいない。われわれが見る前に、ウズラのように内臓を出して、肉を焼いたのだ」彼はわたしの腕をつかんだ。「セヴェリアン、しっかりしろ!」
その時は、わたしはひたすら死にたい気持ちだった。もし、ノトゥールがまた出現したら、わたしはそれに抱きついたことだろう。しかし、道の遙か前方に実際に現われたのは、さっき川のそばで見たのと似た白い姿だった。わたしはジョナスから体を振りほどいて、そちらに向かって、疾走していった。
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14 控の間
われわれが知性を打ちつけて痛手を負い、結局、「美しく恐ろしい幻影だった」といって、現実と和睦する以外にない、そんな生物――や人工物――がある。
わたしがこの後すぐに探険することになる、めくるめく世界のどこかに、人類と似ているようで、似ていない種族が住んでいる。背丈がわれわれより高いわけではない。肉体は、完全であるという点を除けば、われわれのものと似ている。しかし、彼らが信奉する規範は完全にわれわれとは異質である。われわれと同様に、二つの目と、一つの鼻と、一つの口はある。だが、彼らはこれらの造作(今もいったように、それらは完全だ)を使って、われわれが決して感じたことのない感情を表現するので、われわれにとって、彼らの顔を見ることは、大昔の、恐ろしい、しかもきわめて重要か、まったく理解不可能な感情のアルファベットのようなものを眺めることになる。
そのような種族が存在する。しかし、この〈絶対の家〉の庭園の端で、それに遭遇したわけではない。木立の間を動いているのを、さっきわたしが見て、そして今――はっきり見えるところまで――そちらに向かって突進していったのは、そのような生物の、生命の火を吹きこまれた巨大な像なのであった。その肉体は白い石でできていた。そして、目は、人間の彫像に見るような(卵の殻を切断して作ったような)滑らかな丸い盲目の目だった。それがゆっくりと、麻薬患者か夢遊病者のように、だが不安定でなく、動いているのだった。それには視覚はないようだったが、鈍いとはいえ意識はあるような印象を受けた。
ちょっと手を休めて、自分の説明を読みかえしてみたが、それの本質を伝えることに完全に失敗している。その精神《スピリット》は、彫刻のものなのだ。もし、堕ちた天使のようなものがいたとして、わたしとあの緑人との会話を立ち聞きしたとしたら、わたしをからかうためにそのような得体の知れないもの[#「もの」に傍点]を考案したかもしれない。そいつのあらゆる動作に、芸術と石の持つ晴朗感と恒久性が伴っていた。わたしはそいつの一つ一つの身振り、頭や手足や胴体の一つ一つの姿勢が、究極のものではないかという感じを抱いた。いや、一つ一つが際限もなく反復されるのではないかと。ちょうど、ヴァレリアの多面日時計の小人たちのポーズが、時の湾曲した歩廊にずっと反復されていくように。
その白い彫像の持つ奇妙な感じが、死への欲求を洗い流してしまってから、わたしが最初に感じたのは、それがわたしを傷つけるのではないかという本能的な恐怖だった。
第二の恐怖は、それは危害を加えるつもりがない、ということだった。わたしがその静かな非人間的な姿に怯えたように、人が何かに怯えて、それから、それには加害の意図はないと知るとすれば、その人は我慢できないほどの侮辱を受けたように感じるものである。この生きている石像に切りつければ、刃が欠けるだろうということを一瞬忘れて、わたしはテルミヌス・エストを抜き放ち、黒馬の手綱を引いて速度を緩めた。われわれがそこに立ち止まると、そよ風さえも止まったように思われた。黒馬はほとんど体を動かさず、わたしも剣を振り上げたまま、われわれ自身もほとんど彫像になったかのように静止した。本物の彫像は、人間の三、四倍ある顔に不可解な表情を浮かべ、恐ろしい完全な美に包まれた手足を動かして、こちらに向かってきた。
ジョナスの叫び声と、打撃の音が聞こえた。はっとして、そちらを向くと、ちょうど彼が地面に転がって、高い羽飾りのついたヘルメットの男たちと格闘をしているのが見えた。そのヘルメットは、見ている間にさえも消えたり現われたりするように思われた。その時、何かが耳もとをひゅっとかすめ過ぎた。もう一つが手首に当たった。気がつくと、わたしは蜘蛛の巣のような紐の中でもがいていた。それは小さな蛇の群れのようにわたしを締めつけた。だれかがわたしの足をつかみ、馬から引きずり落とした。
何が起こったかわかるほどに落ち着くと、首にワイアーの輪縄がはまっており、われわれを捕えた兵士の一人がわたしの|図 嚢《サパタッシュ》の中を手探りしていた。彼の手がまるで茶色の雀のようにすばやく動くのが、はっきり見えた。その顔もまた見えた。それは手品師の糸によってわたしの顔の上に吊り下げられている無感覚な仮面のように思われた。一、二度、彼が動くと、着ている異様な鎧《よろい》がきらめいた。その時に、ちょうど、透明な水に浸したガラスのビーカーのように、それが見えることがわかった。それは、人力のとうてい及ばない技術によってぴかぴかに磨き上げられ、それで光を反射するのだとわたしは思った。だから、それ自身の物質は見えなくて、草木の茶色や緑色だけが、その胴甲、頸甲、すね当てに反射して、捻れて見えるのだと。
おれは組合員だぞ、と抗議をしたのだが、その近衛兵はわたしの所持金を(図嚢の中のセクラの茶色の本、砥石のかけら、油と布切れ、その他の小物を残して)全部取り上げた。それから、わたしの体にからまっている紐を巧みに外して、(なるべく自分の感覚に忠実にいうが)それらを胸板の脇の下に突っこんだ。といっても、以前にそういうものが見えていたわけではない。それらの紐は、われわれがキャット≠ニ呼んでいる鞭に似ていて、革紐の束の一端をまとめて、他の端に重りをつけたものだった。その後、これはアチコと呼ばれる武器だと知った。
わたしを捕えた兵士は今、ワイアーの輪縄を引き上げて、わたしを立ち上がらせた。似たような状況でたびたび経験したように、ある意味でわれわれはゲームをやっているのだという意識を、わたしは抱いた。実際には立つことを拒否して、彼がしまいにわたしを絞め殺すか、または同僚を何人か呼んでわたしを運んでいくようにさせてもよいのに、そうはせずに、完全に彼のなすがままになっているという芝居を、自分はやっているのだと。同様に、その気なら他にいろいろとやることもできたろう――ワイアーを掴んでもぎ取り、相手の顔をひっぱたいてやるとか。逃げ出して、殺されるか、気絶させられるか、または激痛に投げこまれるとか。だから、実際には今やっているように、強制されることなどありえないのだ、と。
少なくとも、わたしはこれがゲームだと知っていた。だから、彼がテルミヌス・エストを鞘に納め、わたしをジョナスが立っている方に導いていく時に、わたしは微笑していた。
ジョナスがいった。「われわれは何も悪いことはしていない。友人の剣を返し、馬をわれわれに返してくれ。そうすれば、立ち退く」
返事はなかった。二人の近衛兵(四羽の雀のように見えた)は黙って馬を捕まえて、われわれを引き立てていった。これらの馬は、なんとわれわれに似ていたことか――細い革紐で大きな頭を引かれて、どこか知らない場所を辛抱強く歩いていくとは。人生の十分の九がこのような降伏の状態で成立しているように、わたしには思われる。
兵士に引き立てられて森から出ると、緩やかに起伏する草原になり、やがてそれは芝生になった。例の彫像はわれわれの後を歩き、その仲間が後ろに続いて、しまいには一ダース以上の数になった。すべて巨大で、すべて異なっていて、すぺて美しかった。わたしはジョナスに、この兵士たちはだれなのか、われわれをどこに連れていくのだろうかと尋ねた。だが、彼は答えなかった。わたしは、苦痛で息が止まりそうだった。
わたしにわかったかぎりでは、彼らは頭から足まで鎧兜に身を固めていた。だが、その金属が完全に磨かれているので、一見柔らかそうに、ほとんど液体のような柔軟性をもっているように見え、また、そのため視覚がひどく攪乱されて、二、三歩離れると空や草に溶けこんでしまうように思われた。芝地を横切って半リーグほど歩くと、花の咲いている李《すもも》の林に入った。すると、羽飾りのあるヘルメットと鎧のひだのある肩甲に、たちまちピンクと白の光が踊った。
そこで、やたらに屈曲の多い小道に行き当たった。その小森からちょうど外に出るところで彼らは止まり、ジョナスとわたしは乱暴に引き戻された。あまりにもだしぬけに止まったので、あとに続いている石像たちの足が、砂利の上で滑る音が聞こえたほどだった。兵士の一人が、声のない叫びとでもいうもので、向こうにいけと彼らに警告した。わたしは花の間から懸命に覗いて、前方に何があるか見ようとした。
前には、われわれが歩いてきた道よりも、もっとずっとひろい道があった。それは、実は、壮麗な行進用の道路にまで拡大された庭園の通路だった。舗装は白い石でなされ、大理石の欄干がその両側についていた。そこを、今まさに、種々雑多な人々の一団がやってくるところだった。大部分は徒歩だが、さまざまな種類の動物に乗っている人もいた。一人は毛むくじゃらなアークトテールを連れており、もう一人は芝生よりも濃い緑色の穴熊の首にまたがっていた。このグループが通過するとすぐに、他のいくつかのグループが続いてきた。それらがまだ遠すぎて、一人一人の顔が見分けられないうちから、うつむいた一人の人間の頭が、他の頭よりも少なくとも三キュビット突き出ているグループがあることに、わたしは気づいた。しばらくして、もう一人はタロス博士だとわかった。彼は胸を張り、ぐっと反り返って、元気よく歩いていた。わが愛しのドルカスは、今までにもまして、より高い天球からさまよってきた寄るべない子供のような姿で、その後ろを歩いていた。ジョレンタはパラソルをさし、ベールをなびかせ、ビーズをきらめかせて、小型のジェネット([#ここから割り注]小馬の一種[#ここで割り注終わり])の片鞍に乗っていた。そして彼らみんなの後ろに、背負いきれない荷物を車に積み、それを引いて、最初にわたしの目についた男が、つまり、あの巨人バルダンダーズが、地響き立てて歩いてきた。
彼らが通り過ぎるのを、呼びかけることができずに見ていることは、わたしにとって苦痛だったとすれば、ジョナスにとっては拷問であったろう。ジョレンタはわれわれのほとんど真ん前にくると、首を回した。その瞬間、彼女は彼の欲望を嗅ぎつけたにちがいないと、わたしには思われた。山の中では、ある種の不潔な精霊は、彼らのために火の上に投げられた肉の匂いに引きつけられるというが、それと同様に。だが実際は、彼女の注意を引いたのは、われわれがそばに立っていた花盛りの木であったことは間違いない。ジョナスがはっと息をのむのが聞こえた。だが、彼女の名前の最初の音が、それにすぐ続いて起こったガツンと殴る音によって断ち切られた。そして彼はわたしの足もとに投げ出された。今その場面を回想すると、彼の金属の手が路面の砂利に当たってたてたガラガラという音が、あの李の花の匂いとともに、なまなましく思い出される。
劇団の役者たちが全部通過してしまうと、二人の近衛兵は気の毒なジョナスを持ち上げて運んだ。まるで子供を運ぶように軽々とやってのけたが、その時はわたしには、そんなことができるのは彼らに力があるからだとしか思えなかった。われわれは役者たちがやってきた道路を横切り、人の背丈より高い薔薇の生垣を突っ切っていった。その生垣には大輪の白薔薇の花が満開で、そこを寝ぐらにしている小鳥たちであふれていた。
その先に、庭園そのものが広がっていた。もし、それを描写しようと思えば、ヘトールの、狂った、つかえがちの弁舌を借りる以外に方法はないだろう。築山、樹木、草花の一つ一つが、息をのむほどの見事な景色を構成するように、卓越した知性(それはイナイア老のものだと、その後知った)によって配列されたもののように思われた。眺める人は、自分が中心にいるように感じる。つまり、目に見えるすべては、自分の立っている場所に向かって導かれていると。ところが、百|歩《ペース》、あるいは一リーグ歩いた後も、やはり自分が中心だと感じ、景色の一つ一つが、隠者に与えられる、言葉で表現することのできない悟りのようなものを、何か伝達不可能な真理のようなものを、伝えているように思われるのである。
庭園があまりに美しかったので、ここに塔がそびえていないことに気づくまで、しばらく時間がかかった。木々の梢より上には、小鳥と雲があるばかりで、その上には古い太陽と青白い星しか見えず、神聖な荒野でもさまよっているのではないかと錯覚を起こすほどだった。やがてわれわれは、ウロボロスのコバルト色の波よりも美しい、地面のうねりの波頭に達した。すると、はっとするほどだしぬけに、足もとに穴があいた。わたしは穴と呼んだが、この言葉で普通連想されるような暗い奈落のようなものとは、まったく違う。むしろそれは、いたるところに泉あり、夜の花あり、いかなる花よりも華やかな人々があちらこちらにいて、水辺を散策し、暗がりでお喋りしている、岩屋《グロット》なのであった。
たちまち、今はセクラの生命から吸収してわたしのものとなった〈絶対の家〉の記憶の多くが、あたかも壁が倒れて墓場に光が射しこんだかのように、結びついた。博士の劇に暗示されていたあることを理解し、セクラが話してくれた物語の多くに暗示されていたもの(決して直接には言及されなかった)をも理解した。この大宮殿全体は地下にあるのだった――いやむしろ、その屋根と壁は土盛りされて、草木が植えられ、風景を構成しているのだ。だから、われわれは独裁者の権力の座の真上を今までずっと歩いてきて、宮殿はまだかなり先だと思っていたのである。
われわれはその岩屋には降りていかなかった。しかし、これは囚人の拘留にはまったく不適切な部屋に通じているか、または、これからわれわれが通過する次の二十かそこらの岩屋のどれにも通じていることは、まったく疑う余地はなかった。しかし、ついに、もっとずっと暗く厳しいが、そうかといって美しさは少しも劣らない岩屋にやってきた。そこに入っていく階段は不規則で、時には不安定でさえあり、黒い岩の自然の累層をまねて彫刻されたものであった。上から水が滴り、人工洞窟の上部には羊歯や黒ずんだ蔦が生えていて、そこにはまだ日光が多少射しこんでいた。千歩ほど降りた下部では、壁にめくらたけ[#「めくらたけ」に傍点]が生えていた。そのきのこのあるものは発光し、あるものは空中に不思議なかびくさい臭いを放ち、あるものは幻想的な男根崇拝の対象物を暗示していた。
この暗い庭園の中心の櫓から、緑青で緑色になった一組のゴングが吊されていた。それは風によって鳴らされるように意図されたもののように見えたが、風がここまで届くことはありえないと思われた。
少なくとも、近衛兵の一人が黒い石壁の一つにはまった青銅と虫食い跡のある木でできた重い扉を開くまでは、わたしはそう思っていた。ところが、その扉が開くと、一陣の冷たく乾いた風がその戸口を吹き抜け、ゴングを揺らして鳴らした。その音はあまりによく調音されていたので、音楽家が意図的に作曲したものであるかのように鳴り響き、その人の思想が今ここに流されているかのように思われた。
そのゴングを見上げると(近衛兵はそれは妨げなかった)、また彫像が見えた。それらは少なくとも四十体はいた。彼らは庭園をずっと横切ってわれわれの後を追ってきたのである。そして今、ついに動きを止め、小壁に並ぶ戦没者記念像のように、穴の縁に並んでわれわれを見下ろしていた。
わたしは小さな独房の唯一の住人になるものと予想していた。それはたぶん、われわれ自身の地下牢の習慣を、無意識にこの未知の場所に当てはめて考えていたからだろう。しかし、これほど実際の状態とかけ離れた想像はありえなかった。入口の先は、狭い扉の並んでいる廊下になっているわけではなく、広々とした絨毯の敷かれた歩廊になっていて、その奥にまた入口があった。この両開きの第二の扉の前に、火を噴く槍を持った槍持ちが立ち番をしていた。近衛兵の一人がひと言いうと、彼らは扉をさっと開いた。その先は、広大な、陰の多い、天井の低い、飾り気のない部屋になっていた。男、女、子供を含む数十人の人々が、そのいろいろな部分に散らばっていた――大部分は一人ずつで、二人組やグループになっている者もいくらかいた。家族連れは壁の凹部《アルコーブ》を占め、ところどころに布の衝立が立って、プライバシーを提供していた。
この中にわれわれは突っこまれた。いや、わたしは突っこまれたのだが、不運なジョナスは投げこまれたといったほうがいい。わたしは倒れかかる彼をつかまえようとし、少なくとも彼の頭が床に激突することだけは防いだ。そうしているうちに、後ろでピシャリと扉が閉まる音が聞こえた。
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15 愚者の火
わたしはさまざまな顔に取り巻かれた。二人の女がわたしからジョナスを引き取り、介抱するからと約束して、連れ去った。他の人たちが口々に質問しはじめた。名前はなんという? それはなんの服だ? どこからきたのか? こういう人を、こういう人を、こういう人を、知っているか? これこれの町にいったことはあるか? おまえは〈絶対の家〉の者か? ネッソスの者か? ギョルの東岸からきたか、西岸からきたか? どの居住区か? 独裁者はまだ生きているか? イナイア老は? 町の執政官はだれか? 戦争はどうなった? 司令官だれそれの消息を知っているか? 騎兵だれそれは? 千人隊長だれそれは? おまえは歌えるか、朗誦できるか、楽器を弾けるか?
ご想像どおり、わたしはこの質問攻めに何一つ答えることができなかった。最初の大風が吹きやむと、同じように年とった白髪の男と女が、他の人々を黙らせて追いやった。そのやりかたは、ここ以外にはとうてい成功しそうもないものだった。つまり、一人ひとりの肩をポンと叩いて、部屋の最も遠い部分を指さして、はっきりと、時間はたっぷりある≠ニいうのである。次第に、他の人々は静まり、声の聞こえる限界と思えるあたりまで歩いていった。そして、この天井の低い部屋は、扉が開いた時と同様に静かになった。
「わたしはロマーだ」その老人はいい、騒々しい咳払いをして、「これはニカリートだ」といった。
わたしは自分の名前と、ジョナスの名前をいった。
老女はわたしの声に懸念の響きを聞き取ったにちがいない。「あの人は大丈夫です、安心していらっしゃい。あの娘たちができるだけ治療します。早く話を聞かせてもらおうと思っているんですよ」彼女は笑った。すると、その形の良い頭をのけぞらせた姿から、昔は美人であったことが想像された。
今度はわたしが彼らに質問を始めた。だが老人がさえぎった。「一緒にきなさい」彼はいった。
「われわれのコーナーに。あそこなら、楽に腰を降ろすことができるし、水も飲ましてあげられる」
それを聞いたとたんに、ひどく喉が渇いていることに気づいた。彼は先に立って、扉に最も近い布の衝立の陰にわれわれを連れていき、陶器の水差しから繊細な磁器のカップに水を注いでくれた。そこにはクッションがいくつかと、高さ一スパンにも満たない小さなテーブルがあった。
「質問には質問を」彼がいった。「それが昔からのきまりだ。われわれはきみに名前をいい、きみはきみの名前をいった。だから、また始めよう。なぜきみは捕まった?」
たんなる敷地への無断侵入でないとしたら、わけがわからない、とわたしは説明した。
ロマーはうなずいた。彼の皮膚は、太陽を見たことのない人特有の、青白い色をしていた。そして、もじゃもじゃの髭と、歯の欠けたその姿は、ここ以外のどんな環境で見てもぞっとするようなものだったが、ここでは、なかば磨滅した床のタイルと同様に、しっくりと適合していた。
「わたしはレオカディアの方《かた》の悪意でここに入れられたのだ。彼女のライバル、ニムファの方《かた》の執事をしていた。そして、彼女に連れられて、学者ボーコスの葬儀に参列し、遺産の再評価をするために〈絶対の家〉にやってきた時に、レオカディアの方の罠にはまったのだ。それに利用されたのがサンチャだった。彼女は――」
老女ニカリートがさえぎった。「まあ!」彼女は叫んだ。「この人はサンチャを知ってるわ」
そう、わたしは知っていた。心の中に、桃色と象牙色の部屋が浮かんだ。二面の壁が精巧な枠にはまった透明なガラスになっている部屋である。その大理石の炉床には火が燃えている。その明かりは、ガラス窓から射しこむ日光のために弱められてはいるが、乾燥した熱と、白檀の香りを部屋じゅうに満たしている。肩かけを何枚も羽織った老女が、玉座のような椅子に腰を降ろしている。かたわらの象眼のあるテーブルの上には、カット・クリスタルのデカンターと数本の茶色の瓶が立っている。「鉤鼻の、年配の婦人ですね」わたしはいった。「フォースの未亡人ですね」
「では、彼女を本当に知っているのだ」ロマーは、まるで自分の口が発した質問に自分で答えるように、ゆっくりとうなずいた。「長い年月の中で、こういう人に初めて会った」
「彼女の記憶がある、ということにしておきましょう」
「ああ」老人はいった。「彼女はもう死んだということだ。だが、わたしの若い頃には、彼女は、立派な、健康な、若い女性だった。レオカディアの方が彼女をそそのかしてわたしと寝るように仕向け、それから、それが発覚するように仕組んだ。サンチャはそれを知っていたが、わずか十四歳だったから、どんな嫌疑もかからなかった。どのみちわれわれは何もしていなかった。彼女はわたしの衣服を脱がせはじめたばかりだったから」
わたしはいった。「あなた自身、とても若かったのでしょうね」
彼は答えず、ニカリートが代わりに答えた。「この人は二十二歳でしたよ」
「それで、あなたは?」わたしは尋ねた。「なぜここに?」
「わたしは自発的にきたんです」
わたしはちょっと驚いて彼女の顔を見た。
「だれかがウールスの悪を改めなくてはならない。さもないと〈新しい太陽〉は決してやってこないでしょう。そして、だれかが、この場所や、似たような他の場所に、注意を引かなくてはならないの。わたしは大郷士の家柄の者で、家族はまだわたしを覚えているかもしれない。だから、わたしがここに留まっている間は、衛兵はわたしに注意していなければならない。そして、わたしがここに留まっているかぎり、他のすべての人々にも注意を払っていなければならないのよ」
「つまり、ここを出たければ出ることができるが、そうするつもりはない、という意味ですか?」
「いいえ」彼女はいって、首を振った。彼女の頭髪は白かったが、それを若い娘のように肩に流していた。「出るつもりよ。それはこちらの条件が満たされた場合に限るのよ。自分の罪を忘れてしまうほど長い間ここに拘留されている人々が、みんなわたしと同様に釈放されなければ駄目ね」
わたしはセクラのために盗んだキッチン・ナイフと、組合の地下牢の彼女の独房の扉の下から流れ出した真赤なリボンのような血を思い出した。そしていった。「ここの囚人たちは自分の犯罪を忘れているというのは本当ですか?」
ロマーはそれを聞いて目を上げた。「不公平だ! 質問には質問を――それがルールだ。昔からのルールだ。ここではまだその古いルールを使っている。われわれ、ニカリートとわたしは、古い世代の最後の者だ。だが、われわれの目の黒いうちは、古いルールが生きている。質問には質問をだ。きみの釈放のために尽力してくれる友人はいるのかね?」
ドルカスならきっと、われわれの所在を知れば、尽力してくれるだろう。タロス博士は雲の形のように予測不可能だが、それだからこそ、釈放させようと努力してくれるかもしれない。もっとも、彼にはそうする真の動機はないのだが。おそらく、最も重要なことは、わたしがヴォダルスの使者であり、この〈絶対の家〉に、少なくとも一人は彼のスパイそいつに、わたしは彼のメッセージを伝えることになっている――がいるということだろう。わたしはジョナスと一緒に馬で北に向かって旅をしてくる間に、あの金具を二度捨てようと試みた。だが、捨てることができないと知った。どうやら、アルザボがわたしの心にもう一つ別の呪いをかけてしまったらしい。今はそれを喜んでいるけれども。
「きみには友人がいるのか? 親類は? もしいるなら、きみはわれわれ他の者のためにも役に立つことができるかもしれない」
「たぶん、友人が」わたしはいった。「わたしの身に何が起こったか知れば、助け出そうとするかもしれません。成功の可能性はあるのでしょうか?」
このように、われわれの会話は長々と続いた。それを全部ここに書けば、この物語は終わらなくなってしまう。この部屋では、喋ったり、単純なゲームをする以外には、何もすることがない。そして、囚人たちは救済者が全部いなくなってしまうまでそういうことをしていて、結局は、飢えた人が一日じゅう噛んだ軟骨のようになって、後に残るのである。多くの点で、これらの囚人は、組合の塔の地下にいる客人よりも、良い生活をしている。昼は、苦痛の恐怖はないし、だれも孤独ではない。だが、彼らの大部分はあまりにも長くここにおり、そして、組合の客人で長く監禁されるものはあまりいないから、大体において、われわれの客人は希望に満ちているのに、〈絶対の家〉の囚人たちは絶望している。
十刻かそれ以上の時間が経つと、天井でぼんやりと光っている灯火が暗くなりはじめた。そして、わたしはロマーとニカリートに、もう起きていられないといった。彼らはわたしを扉からずっと離れた場所に連れていった。そこは、とても暗かった。囚人のだれかが死んで、もっと良い場所を受け継ぐまでは、ここがきみの場所だと、彼らは説明した。
二人が立ち去る時に、ニカリートがいうのが聞こえた。「彼らは今夜くるかしら?」ロマーが何か返事をした。だが、それがなんという答えだったか、わたしにはわからなかった。そして、あまりにも疲れていたので、尋ねる気にはならなかった。足の感じで、床に薄い藁布団があるのがわかった。腰を降ろして、体をいっぱいに伸ばして横になろうとした。そのとたんに、手が生きた人の体に触った。
ジョナスの声がいった。「ぎょっとすることはない、わたしだよ」
「なぜ、何かいわなかった? あんたが歩きまわっているのを見たぞ。だが、ぼくはあの二人の老人を振り切ることができなかったんだ。どうして、きてくれなかった?」
「声をかけなかったのは、考え事をしていたからさ。そして、最初のうちは、面倒を見てくれたあの女たちを振り切ることができなかったので、きみのところにこれなかったのだ。その後は、このへんの人々がどうしても放してくれなかったのさ。セヴェリアン、わたしはここからどうしても脱出しなければならない」
「みんなそう思っているらしいよ」わたしは彼にいった。「ぼくもまったく同感だ」
「だが、わたしは待ったなし[#「待ったなし」に傍点]だ」彼の細く、固い手――左の肉の手――が、わたしの手をつかんだ。「さもないと、わたしは自殺するか、理性を失うかしてしまう。わたしはずっときみの友人だったなあ?」彼は声を低めて、ごくかすかにささやいた。「きみが持っている聖宝――あの青い宝石――は、われわれを解放してくれないだろうか? あれが近衛兵に見つからなかったことは知っている。きみが身体検査されているのを、注意して見ていたから」
「あれは取り出したくない」わたしはいった。「暗闇でひどく光るから」
「この藁布団を立てて囲めば、目隠しになる」
布団の用意が確認できるまで、わたしは待った。それから〈鉤爪〉を取り出した。その光はひどく弱くて、手で隠すことができるほどだった。
「死にかけているのかな?」ジョナスが尋ねた。
「いいや、時々こうなるんだ。だが、勢いの良い時には――ガラス瓶の水を変性させた時や、猿人をおどした時がそうだが――煌々と輝くんだ。これにわれわれを逃がす力があるとしても、今は無理のようだな」
「扉のところに持っていかなくてはだめだ。ひょっとしたら錠前を外してくれるかもしれない」彼の声は震えていた。
「後で、皆が寝静まってからにしよう。もしわれわれ自身が逃げることができれば、皆も解放してやりたいと思うけれど、もし扉が開かなかったら――開くとは思わないが――その場合には、〈鉤爪〉を持っていることを知られたくないんだ。では教えてくれ、あんたがなぜすぐに逃げなければならないのか」
「きみがあの老人たちと話をしていた時、わたしはある家族から質問されていた」ジョナスが話しだした。「数人の老女と、四十歳ぐらいの男と、三十歳ぐらいのもう一人の男と、他に三人の女と、ひと塊りの子供たちがいた。彼らはわたしを自分たちの小さな、ほら、|壁の凹み《アルコーブ》に連れていった。そこは、他の囚人たちは招待されなければ入ることができないんだ。わたしは、外部の友人のこととか、政治のこととか、山岳地帯での戦争のこととかを、尋ねられると予想していた。だが、予想に反して、わたしは彼らにとって一種の気晴らしでしかなかったらしい。彼らは川のことや、わたしの生まれた場所のことや、わたしのような服装をしている者は何人くらいいるかということを、聞きたがった。そして、外部の食べ物のことを――食べ物についてたくさんの質問をしたが、中にはまったく馬鹿げた質問もあった。獣の殺戮を見たことがあるか? そして、獣たちは命乞いをするか? 砂糖を作っている人は毒を塗った剣を持っていて、砂糖を守るために闘うというが、本当か? とかね……
彼らは蜜蜂を一度も見たことがない。そして、蜜蜂は兎くらいの大きさをしていると思っているらしい。
しばらくして、今度はわたしのほうから質問をして、彼らはだれも、一番年寄りの婦人さえも、いまだかつて自由であったことはないと知った。どうやら、男も女も同じようにこの部屋に入れられるらしい。そして、自然の成り行きで、彼らは子供を生む。そして、何人かは連れ去られるが、大部分はここに一生涯留まる。彼らには財産もないし、解放の希望もない。実際、自由がどういうものか知らないのだ。年配の男と一人の少女が外に出たいと真剣にいったが、そのまま外にいるつもりはないようだった。老女たちは七世代目の囚人だ――と、まあ彼女らはそういうんだ。しかし、自分の母親も七世代目だったと、口をすべらせた者もいたがね。
いくつかの点で、彼らは驚くべき人々だ。外見的には、一生を過ごすこの場所によって、完全に作り上げられてしまっている。だが、その下側には……」ジョナスは言葉を切った。周囲に静けさが押し寄せるように、わたしは感じた。「家族記憶、とでも呼ぶべきものがある。彼らの祖先である初代の囚人から、代々伝えられてきた外部からの伝統が。もはや意味のわからなくなっている言葉もあるが、彼らはその伝統に、物語に、しがみついている。なぜなら、それらの物語とか、名前が、彼らの持てるすべてだから」
彼は沈黙した。わたしは〈鉤爪〉の小さい火花をブーツの中に押しこんだ。すると、完全な暗闇になった。彼の激しい息づかいが鍛冶場のふいごの音のように響いた。
「初代の囚人、つまり、彼らが数えられるかぎりの最も古い祖先の名を、尋ねた。それはキムリースンだった……きみはこの名前を聞いたことがあるか?」
わたしはないと答えた。
「では、それに似たものは? これが三語だとしたら」
「いいや、全然心当たりはない」わたしはいった。「ぼくの知っている人は、あんたのような一語名前を持っていた。ただし、その名前の一部は肩書か、または、それに添えられたある種のニックネームかもしれないがね。ボルカンとかアルトスとかいう名前があまりにも多いから」
「きみは前に、わたしの名前を珍しいと思うといったなあ。キム・リー・スンなら、わたしが……子供の……頃には、非常にありふれた名前だったかもしれない。現在は海底に沈んでしまった場所では、ありふれた名前だったかもね。セヴェリアン、きみはわたしの船の名前を聞いたことがあるかね? ≪幸運の雲≫[#≪≫は《》の置換]というのだが」
「賭博船かい? いや、しかし――」
わたしの目は、この暗闇の中でさえほとんど見えないほどかすかな、緑がかった閃光に引きつけられた。たちまち、この広い、天井の低い、異様な部屋に、ざわめきが走った。ジョナスが悲鳴をあげて立ち上がるのが聞こえた。わたしも同じようにした。だが、立ち上がるやいなや、青い閃光で目がくらんだ。その苦痛は今までに経験したことのないものだった。まるで、顔が引き裂かれたようだった。壁がなかったら、倒れていたことだろう。
どこか、もっと遠くでまた青い火が閃き、女性が絶叫した。
ジョナスは悪態をついていた――少なくともその口調で、悪態をついているとわかったが、言葉そのものは、わたしの知らない言語のものだった。彼のブーツが床を踏み鳴らすのが聞こえた。また閃光がひらめいた。この時、これは、グルロウズ師とロッシュとわたしが、セクラを革命機にかけた時に見た、あの稲妻に似た火花と同じものだと、知った。疑いなく、ジョナスもわたしと同様に悲鳴を上げた。だが、その頃には阿鼻叫喚の騒ぎになっていたので、彼の声は聞きとれなかった。
その緑がかった光は次第に強くなった。そして、苦痛のために半分以上麻痺し、いまだかつて経験した記憶のない恐怖に金縛りになって、なおも見つめていると、その光はひとりでにまとまって一つの恐ろしい顔になり、皿のような目でわたしを睨みつけ、それから急速に薄れて、ただの闇になってしまった。
たとえ、物語のこの部分に永久にかかりきったとしても、わたしのペンではこの恐怖のすべてを諸君に伝えることはできない。それは苦痛だけでなく、盲目になる恐怖もあった。だが、問題は、すでに一人残らず目が見えなくなっていることだった。光はなかった。そして、われわれは何も見ることができなかった。われわれの中には、蝋燭に明かりをつけるとか、火打石で火口《ほくち》に点火することすら、できる者はなかった。その洞穴のような広い部屋全体に、悲鳴、すすり泣き、祈りの声が満ちた。その騒ぎを圧して、一人の若い女のはっきりとした笑い声が聞こえ、それから、その声も消え失せてしまった。
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16 ジョナス
その時わたしは、飢えた人が肉を求めるように、光を求めた。そしてついに〈鉤爪〉を危険にさらした。いや、たぶん、〈鉤爪〉がわたしを危険にさらした、というべきだろう。自分の手が自分の意志にかかわりなくブーツの口に滑りこんで、それを掴み出したように思われた。
たちまち痛みが薄れた。そして、紺碧の光がさっとほとばしった。それを見たこの場所の憐れな住民は、また新たな恐怖を突きこまれるのではないかと怯えて、ふたたび騒々しくなった。わたしは宝石をまたブーツの中に押しこんだ。そして、その光が見えなくなると、手探りでジョナスを探しはじめた。
彼は気絶しているのかと思ったが、そうではなく、わたしが休んでいた場所から二十歩ほど離れたところに倒れて、もがいていた。わたしは彼を抱きかかえて(そうすると、彼はびっくりするほど軽かった)もとの場所に戻り、いっしょにマントをかぶって、その額に〈鉤爪〉を当てた。
まもなく彼は上半身を起こした。わたしは彼に休むようにいい、さっき牢獄室に入ってきたものがなんであったにせよ、そいつはもういなくなったと言って聞かせた。
彼はもぞもぞと体を動かして、いった。「空気が悪くならないうちに、コンプレッサーに動力を入れねばならない」
「大丈夫だ」わたしはいった。「すべて心配ないよ、ジョナス」われながらいやな感じだったが、わたしは彼に、一番年下の徒弟に話しかけるように話しかけていた。ちょうど何年も前にマルルビウス師がわたしに話しかけたように。
何か固くて冷たいものが手首に触れ、まるで生きているように動いた。掴んでみると、それはジョナスの金属の手だった。しばらくして、彼がそれでわたしの手を掴もうとしていたのだとわかった。「重力を感じるぞ!」彼の声は次第に大きくなった。「故障したのは照明システムだけにちがいない」彼は向きを変えた。すると、彼の手が壁に当たって、がりがり鳴るのが聞こえた。彼は、わたしには理解できない、鼻にかかった単音声言語で独言をいいはじめた。
わたしは異常な決心をして、また〈鉤爪〉を取り出し、また彼に当てた。その晩宝石は、最初調べた時のように光を失っており、ジョナスはそれ以上回復しなかった。だが、やがて彼を落ち着かせることができた。そして、部屋の他の人々がみな寝静まったずっと後になって、われわれはやっと横になって眠った。
目が覚めると、暗い灯火がまた燃えはじめていた。だが、外はまだ夜か、または、少なくとも夜が明けはじめたばかりのように感じられた。
ジョナスはまだ横で眠っていた。彼の衣服には長い裂け目ができていた。それで、あの青い火が焼いた場所がわかった。わたしはあの猿人の切断された手を思い出し、だれも見ていないことを確かめてから、その火傷の部分にそって〈鉤爪〉でなでるようにした。
宝石は前の晩よりもずっと明るい光を放った。そして、黒い傷痕は消えはしなかったが、幅が狭くなり、両側の肉の炎症が軽くなったように思われた。傷の下端に〈鉤爪〉が届くように、衣服をちょっと持ち上げた。手を突っこむと、かすかな音がした。宝石が金属に当たったような音。衣服をもっとめくり上げると、わたしの友人の皮膚は、ちょうど、芝生に大きな石があって草がとぎれるように、突然とぎれて、銀色に輝く金属に移行していた。
最初は、鎧だと思った。だが、すぐに違うとわかった。むしろそれは、金属が右手の代わりをしていると同様に、金属が肉の代わりをしているのだった。それがどのくらい続いているか、見ることはできなかった。彼が目を覚ますと困るので、足を触ることはできなかった。
わたしはふたたび〈鉤爪〉を隠して、立ち上がった。一人になってしばらく考えたかったので、ジョナスのそばから離れて部屋の中心に出ていった。前の日に、皆が目を覚まして動いている時には、そこは実に奇妙な場所だった。今はもっと奇妙に感じられた。ぐしゃぐしゃのしみのような部屋、ぎくしゃくした奇妙な角がたくさんあり、低い天井で押しつぶされている。わたしは、運動をすれば(しばしばそうなるように)精神が働きだすのではないかと思って、眠っている人人を起こさないように注意しながら、部屋の縦横の長さを歩測することに決めた。
四十|歩《ペース》もあるかないうちに、このぼろぼろの人々の群れや不潔な帆布の藁布団とは場違いに思えるものを見つけた。それは、桃色のなめらかな豪華な糸を織って作った婦人もののスカーフだった。なんともいいようのない良い香りがしたが、ウールスに生えている果物や花の匂いではなかった。
その美しい品物をたたんで|図 嚢《サパタッシュ》に入れようとした時、子供の声がいうのが聞こえた。「それ不幸よ。ひどい不幸よ。知らないの?」
見回し、それから見降ろすと、小さな少女がいた。顔が青白く、その顔には大きすぎるように思われる真夜中の色をした目をきらきら光らせていた。わたしは尋ねた。「何が不幸なの、お嬢さん?」
「拾い物を持っていると、不幸になるのよ。後から取り戻しにくるの。あなた、なぜそんな黒い着物を着ているの?」
「これは煤色だ。黒よりももっと黒い色だよ。手を出してごらん、見せてやるから。ほら、このマントの端をかけると、手がなくなってしまったように見えるだろう?」
彼女の小さな頭――それは小さかったが、その下の肩に較べるとずっと大きすぎるように思われた――が、おごそかにうなずいた。「埋葬人は黒を着ているわ。あなたは死者を葬るの? 航海士のお葬式の時には、黒い馬車がきて、黒い着物の人々が歩いていたわ。あなた、そういうお葬式見たことある?」
わたしはそのおごそかな顔をもっと容易に見ることができるように、しゃがんだ。「お葬式の時はだれも煤色の着物は着ないんだよ、お嬢さん、わたしの組合の人と間違われると困るからね。それは――たいていの場合は――死者の名誉に傷がつくことになるんだ。ほら、ここにスカーフがある。ほら、綺麗だろう? 拾い物というのは、このことかね?」
彼女はうなずいた。「鞭がそういうものを置いていくの。あなたはそれを、扉の下の隙間から外に押し出さなければならないのよ。なぜなら彼らは、自分たちのものを取り戻しにやってくるからなの」彼女の目はすでにわたしの目から離れていた。彼女はわたしの右頬を横切っている傷を見ていた。
わたしはそれに触れた。「鞭なのかい、こんなことをするのは? あいつら、だれなの? 緑色の顔が見えたけれど?」
「わたしもよ」彼女の笑い声には小さなベルのような響きが伴っていた。「あれがわたしを取って食うかと思ったわ」
「もう恐くないみたいだね」
「ママがいうには、暗闇に見えるものには、なんの意味もないんですって――ほとんど、くるたびに違っているの。痛いのは鞭なのよ。だからママは、自分と壁の間にわたしを入れて、かばってくれるの。お友達が目覚めるわ。おや、どうしてそんなにおかしな顔をするの?」(わたしは他の人々といっしょに笑ったのを思い出した。三人が若い男、二人が自分と同年くらいの女だった。ギバートが重い柄のついた鞭をわたしに渡した。ロリアンは|火 の 鳥《ファイアーバード》の用意をしていた。彼はそれを長い紐につけて振り回すつもりなのである)
「セヴェリアン!」これはジョナスの声だった。わたしは急いでそちらにいった。「きみがいてくれてよかった」わたしがそばにしゃがもうとすると、彼がいった。「どこかに……いってしまったかと思ったぞ」
「そんなことできるわけないじゃないか、覚えてるだろう?」
「ああ」彼はいった。「もう思い出した。この場所はなんと呼ばれているか知っているかい、セヴェリアン? 昨日、彼らから聞いたんだ。控の間というんだ。おや、もう知っているのか」
「いいや」
「うなずいたじゃないか」
「きみがそういった時に、その名を思い出したんだ。そして、ここだと知った。ぼく……いや、セクラが、ここにいたんだと思う。彼女は、ここを牢獄としては風変わりな場所だとは思っていなかった。たぶん、ここが、われわれの塔に連れてこられる前に見た唯一の牢獄だったからだろう。だがぼくには、ずいぶん風変わりな場所に思える。別々の独房か、少なくとも、いくつかに分離された部屋のほうが実用的だと思うがなあ。たぶん、これも偏見にすぎないだろうが」
ジョナスは上半身を引き上げて、壁にもたれかかった。日焼けした顔からは、血の気が失せていた。そして、それを汗で光らせながら、いった。「この場所がどうしてこんな具合になったか、想像できるか? 見回してごらん」
見回してみても、以前に見えたもの以外は見えなかった。暗い明かりのともった、不規則な形の部屋。
「ここは、もとは|続き部屋《スイート》――たぶん、いくつもの続き部屋だったんだ。その壁が取り払われ、古い床の上に一様な床が張られた。そして、あれはきっと、昔、吊り天井と呼ばれていたものだ。あれらのパネルの一枚を上げてみれば、その上にもとの骨格が見えるだろう」
わたしは立ち上がって、試した。だが、指の先は長方形のガラスに届いたが、身長が足りないので、充分な力を加えることができなかった。あの小さな少女が、十|歩《ぺース》ほど離れたところからこちらを見つめて、たぶん、ひと言も聞き洩らすまいと耳を澄ましていた。その彼女がいった。
「わたしを抱き上げて。わたしがやってみるから」
彼女はわれわれの方に駆けてきた。彼女を抱き上げ、両手で腰をかかえると、容易に頭の上に持ち上げることができた。数秒間、彼女の小さい腕が、頭上の四角い天井板と格闘した。やがて、塵がシャワーのように落ち、それは持ち上がった。その上に細い金属の梁の構造と、それを通して、たくさんの塑造物と、雲と鳥の絵が側面を飾っている丸天井が見えた。少女の手が弱り、パネルがまた下がり、さらに塵が落ち、それから視界が断ち切られた。
彼女を無事に降ろすと、わたしはジョナスの方を向いた。「きみのいうとおりだった。この天井の上に古い天井があった。これよりもっとずっと小さい部屋のものだ。どうして、これがわかったんだね?」
「ここの人々と話をしたからさ、昨日」彼は肉の手だけでなく金属の手も上げて、両手で顔をこするような仕草をした。「その子供を向こうにやってくれないか?」
わたしは少女に母親のところにいくようにいった。もっとも、彼女は部屋を横切っていくだけで、また声の聞こえる距離まで、壁を伝わって戻ってくるだろうと思ったけれども。
「目が覚めそうな感じがする」ジョナスはいった。「昨日は、気が狂いそうだといったように思う。どうやら、今は正気に戻っていくように思うが、正気に戻るのは同じくらい悪いか、あるいは、もっと悪いことなんだ」これまで彼は帆布の布団の上に坐っていたが、今は壁にぐったりとよりかかっていた。これと同じ姿勢で木によりかかって死んでいた死体を、わたしは見たことがある。「昔は本を読んだものだ。船内でね。歴史の本を読んだことがある。きみは何も知らないと思うが、ここは何|千年《キリアド》も経過しているんだぞ」
「それほどではないと思うがなあ」
「これとは非常に異なっていたが、また、非常に似てもいたんだ。奇妙な小さな習慣や慣例がね……それほど小さくないものもあったが。変わった制度がね。船に要求したら、別の本をくれた」
彼はまだ汗をかいていた。精神がさまよっているのだな、とわたしは思い、剣の刃を拭うために持ち歩いている四角いフランネルを使って、彼の額を拭いてやった。
「世襲の支配者と世襲の家臣、それに、あらゆる種類の奇妙な官吏たち。長く白い口髭をはやした槍騎兵」一瞬、彼のもとのユーモラスな笑顔が浮かんだ。「白の騎士≠ェ火かき棒を滑り降りている。彼のバランスはとても悪い。王の手帳に書いてあるとおりだ」([#ここから割り注]『鏡の国のアリス』からの引用。ジョナス自身が馬鹿にしている人物の一人になってしまったと自嘲している[#ここで割り注終わり])
部屋のずっと向こうの端が騒々しくなった。眠ったり、小さなグループになって静かに話をしていた囚人たちが立ち上がって、そちらにいきはじめた。ジョナスは、わたしもそちらにいくと思ったらしく、左手を上げてわたしの肩をつかんだ。しかし、その力は女のように弱かった。
「これらの習慣が始まった頃は、すべて今のかたちとは異なっていた」彼の揺れる声が、突然緊張した。「セヴェリアン、王は春の野≠ナ選出された。王たちによって伯爵たちが指名された。それがいわゆる暗黒時代というものだ。ある男爵はロンバルディの自由民にすぎなかった」
さっき天井に抱ぎ上げた少女が、どこからともなく現われて、われわれに呼びかけた。「食事よ。こない?」わたしは立ち上がって言った。「何かもらおう。きみも食べれば気分がよくなるかもしれない」
「その習慣は深く浸透した。すべてが、あまり長く続きすぎた」わたしは人だかりの方に歩いていきながら、彼がいうのを聞いた。「人民は知らなかった」
囚人たちが片手に小さなパンの塊りを抱えて戻ってくるところだった。わたしが戸口に着いた頃には人混みがまばらになっていて、扉が開いているのが見えた。その先の廊下に、糊のきいた白いガーゼのかぶり物をかぶった係員が、銀色のカートのところで世話をやいていた。囚人たちは事実上、控の間から出て、その男のまわりを取り巻いていた。わたしは一瞬、解放されたような気分になって、彼らの後についていった。
解放されたという幻想はたちまち崩れ去った。廊下のどちらの側にも槍持ちが立って通せんぼしており、〈緑のチャイムの井戸〉に通じる扉の前では、さらに二人の槍持ちが武器を交差させていた。
だれかが腕に触ったので、振り向くと、白髪のニカリートがいた。「何か食べなくてはだめよ」彼女はいった。「あなた自身がいらないなら、お友達にあげなさい。食べ物は、あってありすぎることはないのよ」
わたしはうなずいた。そして、何人もの頭ごしに手を伸ばして、べとべとするパンの塊りを二つ掴むことができた。「食事は何回あるのですか?」
「一日二回よ。あなたがたは昨日、二回目の食事の直後にやってきたの。だれかが取りすぎるということのないように注意するけれど、全員に充分に行き渡ることは決してないのよ」
「これはケーキですね」わたしはいった。指先に、レモン、メース、それにターメリックの風味のする砂糖衣がべったりとついた。
老婦人はうなずいた。「いつもそうなの。毎日、種類は変わるけれどね。あの銀の帽子の下はコーヒーよ。そして、カップはカートの下の棚。ここに幽閉されている人の大部分は、コーヒーが嫌いで飲まないの。コーヒーを知らない人さえ、いるみたい」
今はケーキはすべてなくなり、ニカリートとわたしを除く囚人の最後の人たちは、天井の低い部屋にぞろぞろと戻ってしまっていた。わたしは下の棚からカップを取り、コーヒーを注いだ。
それはとても苦く、熱く、濃く、タイムの蜜らしいもので非常に甘く味つけされていた。
「飲まないの?」
「ジョナスに持っていってやります。このカップを持っていくと、叱られるでしょうか?」
「そんなことはないと思うけど」ニカリートはいった。だが、そういいながらも、兵士たちの方に、ぐいと頭を振った。
彼らは槍を前に出して警戒の姿勢をとっており、穂先の火はさらに明るく燃えていた。わたしは彼女といっしょに控の間に戻った。われわれの後ろで扉がばたんと閉まった。
わたしはニカリートに、昨日、あなたは自分の意志でここにいるといったが、ここの囚人がケーキと南方のコーヒーを支給されるのはなぜか、理由を知っているかと尋ねた。
「知っているくせに」彼女はいった。「その口ぶりでわかるわ」
「いいや。ジョナスが知っているだろうと思っただけです」
「たぶん、知っているでしょう。それは、この監獄は、全然監獄とは考えられていないからよ。ずっと昔は――イマールの治世以前のことだとわたしは信じているけれど――〈絶対の家〉の構内で罪を犯したとして告発された者は、すべて独裁者自身が裁く習慣だったのよ。たぶん独裁者は、そのような事件の審問をすることによって、陰謀を探知することができると感じていたのね。あるいはただ、それらの事件を直接の仲間内で公正に処理すれば、憎悪を恥ずかしいものとして思いとどまらせ、嫉妬の矛先を鈍らせることになるかもしれないと考えたのかもしれないわ。重要な事件は速やかに処理されたけれど、あまり重要性のない犯罪者はここに送られて待たされた――」
たった今閉まったばかりの扉が、また開いた。みすぼらしいみなりをした、歯の欠けた小男が中に押しこまれてきた。男はよろよろと倒れたが、自分で立ち上がり、わたしの足もとに体を投げ出した。それはヘトールだった。
ジョナスとわたしがやってきた時とまったく同様に、囚人たちは彼のまわりに群がり、助け起こし、大声で質問を浴びせた。ニカリートはすぐにロマーといっしょになって彼らを追い払い、ヘトールに自己紹介を要求した。彼は帽子を取っていった(わたしは、ツェシフォンの辻のそばの草地で野宿した朝に、彼がわたしを見つけた時のことを思い出した)。「わたしはこの師匠の奴隷です。旅がらす、ぼ・ぼ・ぼろ地図のヘトールめにございます。埃だらけで、二重に打ち捨てられた男でございます」彼はぎらぎら光る、焦点の定まらない目でわたしを見据えていった。その目は、手を叩くと輪になって前の者の尻尾をくわえてぐるぐる回る、レリアの方《かた》の鼠の目を思い出させた。
わたしは彼の姿を見てひどい嫌悪感をもよおし、またジョナスのことが心配になったので、すぐにその場を離れて、寝ていた場所に戻った。腰を降ろした時には、震えている灰色の肌の鼠のイメージが、まだ心の中にありありと残っていた。それから、そのイメージはまるで、自分はセクラの死んだ記憶から盗み取られたイメージにすぎないと、みずから気づいたかのように、ちらちらと揺れて消えてしまった。ちょうどドムニアの魚のように。
「具合がわるいのか?」ジョナスが尋ねた。彼はすこし良くなったように見えた。
「いろいろなことが頭に浮かんで困るんだ」
「拷問者としてはまずいが、道連れとしては都合がよい」
わたしは彼の膝に甘いケーキを置き、カップを手のそばに置いた。「都会のコーヒーだぞ――胡椒は入っていない。こういうやつが好きなんだろ?」
彼はうなずき、カップを持ち上げて飲んだ。「きみは全然飲まないのか?」
「向こうで飲んだ。ケーキを食べろよ。うまいぞ」
彼はケーキの一つをつまんだ。「だれかに話さなくてはならない。話す相手はきみしかいない。話しおえた時に、怪物のようなやつだと、きみに思われるかもしれないが、やむをえない。きみも怪物なんだぞ、セヴェリアン。わかるか? そのわけは、たいていの人が趣味としてやることを、きみは職業としてやっているからだ」
「あんたは金属で継《つ》ぎ接《は》ぎされているんだな」わたしはいった。「手だけじゃない。このことは少し前から知っているんだ、怪物ジョナス君。さあ、パンを食べ、コーヒーを飲めよ。次の食事まで、あと八刻ぐらいあるぞ」
「われわれは墜落したんだ。あまり長い年月が経っていたので、帰還した時には、ウールス上に港がなくなっていた。船着場がなかったのさ。墜落の後、わたしの手は取れ、顔がなくなっていた。同僚の船員たちができるだけ修理してくれた。だが、もう部品がなかった。生物学的材料しかなかったんだ」彼は、わたしがずっとただの鉤ぐらいにしか思っていなかった金属の手で、まるで一片の不潔なものを持ち上げて投げ出そうとでもするように、筋肉と骨の腕を持ち上げた。
「あんたは熱がある。あの鞭で傷ついたんだ。だが、回復して、外に出て、ジョレンタを見つけ出すだろうよ」
ジョナスはうなずいた。「きみは覚えてるか? あの〈憐れみの門〉の端に近づいた時に、あの大混乱の中で、彼女が首を回したら、片方の頬に日がまぶしく当たったことを?」
わたしは覚えているといった。
「わたしはこれまで恋愛をしたことが一度もない。乗組員が四散してしまって以来、一度もないんだ」
「それ以上食べられなかったら、もう休むべきだよ」
「セヴェリアン」彼はわたしの肩をさっきのように掴んだ。ただし、今度は金属の手で。それはまるで万力のように強力だった。「頼むから、話をやめないでくれ。自分の思考の混乱に耐えられないんだ」
わたしはしばらくの間、応答のないままに、頭に浮かぶことを何くれとなく話した。やがて、セクラを思い出した。彼女はこれまでしばしば、だいたい同じようなやりかたで、心の中に押し入ってきた。そしてまたわたしは、彼女に本を読んで聞かしたことを思い出した。わたしは彼女の茶色の本を取り出し、でたらめに開いた。
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17 学生とその息子の物語
1 魔法使いの砦
昔、牧場化されていない海のほとりに、青白い塔の立ち並ぶ町があった。そこには賢者たちが住んでいた。今、その町には掟と呪いがともにあった。掟とは――住民のすべてにとって、二つの生き方があった。つまり、賢者の中で育てられ、多色の頭巾をかぶって歩くか、または、町を去って友人のいない世界に入るか、どちらかでなければならなかった。
今ここに、町で知られているすべての魔法――世界で知られている魔法の大部分――を長い間、勉強した男がいた。そして彼は成長して進路を選ぶ時期に近づいた。黄色い花がその不注意な頭を、海を見晴らす黒い城壁の間からさえも覗かせる夏の盛りに、彼は一人の賢者のところにいった。この賢者はだれも覚えていない遠い昔から多色の頭巾で顔を隠しており、この進路決定の時期のきた学生を長い間教えていた人であった。学生は賢者にいった。「何も知らないわたしのような者は、どのようにしてこの賢者の町に、住む場所を見つけたらよいのでしょうか? わたしは神聖でない[#「ない」に傍点]呪術を生涯勉強したいのです。パンを得るために肉体労働をしなければならない、友人のいない世界には、入っていきたくないのです」
すると、老人は笑っていった。「きみがまだほんの子供の頃に、夢の材料から、肉体を持った息子を作り出す術を教えたことを、覚えているだろう? あの頃、きみはなんと上手だったことか、他のすべての者から抜きんでていた! さあ、今から、そのような息子を作るのに取りかかりなさい。成功したら、それをわたしが頭巾をかぶった人々に見せる。そうすれば、きみはわれわれの仲間に入ることができるだろう」
だが、学生はいった。「もう一シーズン待ってください。もう一シーズン過ぎれば、あなたのおっしゃることをなんでもいたしますから」
秋がきた。そして青白い塔の町の、高い壁のように海風を遮っていたシカモアの木が、その所有者たちが創り出した黄金のような葉を落とした。そして、野生のソルトグースが青白い塔の間を列を作って飛んでいき、その後をミサゴとヒゲワシが渡っていった。すると、老人は学生であったその男をまた呼び寄せて、いった。「さあ、今度こそ、前に指示したように、夢の創造物を自力で肉化しなければならない。頭巾をかぶった他の人々がしびれを切らしているからな。われわれを別にすれば、きみは町で一番の年長者だ。今、行動しなければ、冬までには彼らはきみを追い出すかもしれないぞ」
だが学生は答えた。「目的を成就するために、もっと勉強しなければなりません。先生、一シーズン、わたしを保護してくださるわけにはいきませんか?」そして、彼を教えた老人は、長年にわたって女性の白い四肢のように目を慰めてくれた木々の美しさを、思い浮かべた。
ついに黄金の秋が去った。そして、太陽が安ピカの鍍金《めっき》のボールのように世界の縁を転がり、星々とウールスとの間を流れる火が空を照らしている凍った冬の首都から、冬が大股でゆっくりとこの土地に入ってきた。冬の手が触ると、波は鋼鉄に変わった。そして、魔法使いの町はバルコニーから氷の旗を垂らし、屋根に優雅に雪を積らせて、冬を歓迎した。老人はまた学生を呼び、学生はまた前のように答えた。
春がやってきて、天然の万物に喜びを与えた。だが春には、町は黒い帳《とばり》をかけた。そして、憎悪と、自分自身の能力への嫌悪感――それは虫のように心を蝕む――が魔法使いたちを襲った。なぜなら、町にはたった一つの掟と一つの呪いがあったから。そして、掟は一年じゅう影響力があったが、呪いは春を支配した。春には、町の大部分の美しい乙女、つまり魔法使いの乙女たちは緑色の服を着た。そして、柔らかい春風が彼女らの金髪をなぶると、彼女らは裸足で町の正門を出て、波止場に通じる狭い道路を通っていき、そこで待っている黒い帆の船に乗る。そして、彼女らの金髪とその緑色のファイユ([#ここから割り注]服地の名[#ここで割り注終わり])のために――また、魔法使いには、彼女らが穀物のように刈り取られるように思われるので――彼女らは穀物の乙女≠ニ呼ばれた。
長い間その老人の弟子として勉強をしてきて、まだ頭巾をかぶっていないその男は、この哀歌と悲歌を聞き、行列をして通っていく乙女たちを見ると、すべての本を脇に置き、だれも今までに見たことのないような図面を引きはじめ、以前に師匠が教えたように、たくさんの言語で文章を書きはじめた。
2 英雄の肉化
彼は毎日毎目働いた。窓に曙光が射す頃には、彼のペンはすでに長時間のつらい仕事をしており、月がその曲がった腰を青白い塔の間にからませる頃には、彼のランプは明るく燃えていた。最初は、師匠が教えてくれた古来の技術のすべてが、彼から消えてしまったようであった。なぜなら、彼は消えることのない灯火のそばで、時々羽ばたいて死の紋章を描く蛾以外にはたった一人きりで、曙光から月光まで自室にこもっていたから。
やがて、テーブルの上で時々船を漕いでいると、夢の中に入りこんでくる、もう一人の人間がいた。彼はそれがだれか知り、歓迎した。だが、夢はとりとめがなく、すぐに忘れられた。
彼はさらに刻苦勉励した。そして、彼が創造しようと努力しているものが、消えかけた焚火に投げこまれた新しい燃料のまわりに煙が立ち昇るように、彼のまわりにまとまりはじめた。時々(そして特に、朝早くまで、あるいは夜遅くまで働いた時に、そして、ついに彼の学芸の道具をすべて脇に除けて、まだ多色の頭巾を入手していない者のために用意されている狭い寝床に体を伸ばした時に)、彼はいつも隣の部屋に足音を聞いた。それは彼が生命を吹きこみたいと希望している人の足音だった。
やがて、最初は稀だったこれらの顕現は――実際、最初は雷鳴が青白い塔の間に轟き渡る夜だけにほぼ完全に限られていた――次第に珍しくなくなり、そのもう一人の人間の存在のしるしが間違いのないものになってきた。何十年も棚から降ろしたことのない本が、椅子のそばに落ちていたり、窓や扉の錠前が自然に開いたように思われたり、過去何年間も|だまし絵《トロンプ・ルイユ》程度の恐ろしさしかなかった古代の偃月刀《アルファンジ》が、緑青を擦り落とされて、輝きを増し、新たに研がれていたりした。
ある金色の午後に、若葉をつけはじめたシカモアの木に風が子供のように戯れている時、彼の書斎の扉を叩く者があった。彼は振り返りもせず、感じたことを少しも声に表わすことなく、また仕事を中断しもせずに呼びかけた。「お入り」
真夜中に、動く生き物がいないのに扉が開くように、その部屋の扉がほんの少しずつ開きはじめた。だが、動くにつれてそれに力が加わり、手を室内に差しこむことができるほど(彼は音で判断した)の幅になると、いたずら好きなそよ風が窓から入ってきて、扉の木製の心臓に命を押しこんだように思われた。そして(音で判断して)扉がさらに広く開いて、遠慮がちな奴隷《ヘロット》が盆を持って入ってくることができるほどになると、まさに海の嵐がその扉を掴んで壁に押しつけたように思われた。それから背後に――素早く、そして決心を固めたような足音と、若々しいが、それでもしっかりと大人になっている深い響きのある声が、うやうやしく言うのが聞こえてきた。「お父さん、あなたが学芸に深く打ちこんでいらっしゃる時に、お邪魔をしたくありませんが、わたしの心はひどく悩んでいます。それも、ここのところ何日もそうなのです。ですから、わたしに対する愛情によって、わたしの闖入を我慢し、わたしの悩みの相談に乗っていただきたいのです」
そこで、この学生が坐ったまま思いきって振り向くと、堂々たる風采の、肩幅の広い、筋骨たくましい若者が、目の前に立っていた。その引きしまった口には統制力が、その輝く目には知力が、そして顔全体に勇気が表われていた。額の上には、だれの目にも見えないが、盲人にさえも見えるあの王冠が載っていた。あの、英雄に勇者たちを引き寄せ、弱者をも勇敢にする王冠が。それから学生はいった。「息子よ、今も、この後も、わたしの邪魔をすることを恐れる必要はない。なぜなら、わたしにとっておまえの顔以上に見たいものは、天の下に何一つないのだから。おまえの悩みとは何かね?」
「お父さん」若者は言った。「わたしの眠りはこのところ毎晩のように女性の悲鳴で引き裂かれ、笛の音に呼び寄せられる緑の蛇のように、緑色の行列が町の下の崖をくだって波止場に行くのがしばしば見えます。そして時々、夢の中でわたしはそのそばにいくことを許されます。すると、その行列の中の人は全部美しい女で、泣いたり、叫んだり、よろめいたりしながら歩いているのが見えるのです。わたしには、彼女たちがまるで嘆く風に打たれる若い穀物畑のように思われます。この夢の意味はなんでしょうか?」
「息子よ」学生はいった。「時が熟さぬうちに、おまえが若さにまかせて暴走するのではないかと心配して、今まで隠していたことがある。それを、ついに言わねばならぬ時がきた。この町は食人鬼に支配されている。そいつは毎年、最も美しい乙女たちを差し出すよう町に要求する。おまえが夢で見たとおりに」
これを聞くと、若者は目をぎらぎらと光らせて尋ねた。「その食人鬼とは何者ですか? どんな姿をしているのですか? そして、どこに住んでいるのですか?」
「その名前はだれも知らない。だれもそばへ寄ることができないからだ。姿はナヴィスカプト([#ここから割り注]ナヴィスは船、カプトは頭の意[#ここで割り注終わり])の形をしている。つまり、そいつは人間には、船の形に見え、そのデッキ――実はこれが肩なのだが――の上に一つの櫓が乗っている。これが頭だ。この櫓に一つの目がついていて、体はエイやフカとともに深い海中を泳いでいる。腕は、最も高い船のマストよりも長く、足は海底にさえも届く杭のようだ。彼の港は西方のある島にある。そこでは、幾重にも曲がりくねり、次々に枝分かれしている水路が、遙か内陸に入りこんでいる。伝説によれば、穀物の乙女≠スちが住まわされているのは、この島だということだ。そして、そこで、彼女らの真ん中に彼は停泊し、常に目を左右に動かして監視し、彼女らを絶望に陥れているということだ」
3 姫との出会い
やがて若者は外に出て、魔法使いの町の若い男たちを集め、また、多色の頭巾をかぶっている人々から頑丈な船を手に入れた。そして、その年の夏の間じゅうずっとかかって、彼と彼が集めた若い男たちは、その船に装甲板を張り、舷側に最も強力な大砲を据えつけ、帆の揚げ下げや大砲の射ち方を何百回も練習して、ついに血の通った雌馬が手綱に反応するように、船が意のままに動くようになった。彼らは、穀物の乙女≠ヨの同情心から、その船を〈処女地〉と命名した。
ついに、シカモアの木から黄金色の葉が(魔法使いの創り出した黄金がついに人の手から落ちるように)落ち、灰色のソルトグースが町の塔の間を流れるように飛び、その後を追ってヒゲワシとミサゴが鳴きながら飛んでいくと、若者たちは船出した。食人鬼の島に通じる鯨の道を通っていくと、ここには記す余地がないが、いろいろな出来事が彼らの上にふりかかった。だが、それらの冒険の果てに、見張りの者が、緑の斑点のある黄褐色の丘の連なる陸地を前方に認めた。そして、一同が小手をかざして眺めていると、その緑色はぐんぐん大きくなってきた。やがて、学生が夢から作り出した若者は、それが本当に食人鬼の島であることを知り、穀物の乙女≠スちが彼の帆を見て浜に走り出してくるのを見た。
それから、大砲の用意がなされ、魔法使いの町の黄色と黒だけの旗が帆柱に掲げられた。彼らはますます接近していったが、座礁するのを恐れて、進路を変えて海岸線に沿って進んだ。穀物の乙女≠スちは彼らの後を追い、追っている間に仲間の乙女たちをさらに引きつけ、しまいには本物の穀物のように陸地を覆いつくした。しかし、若者は教わったことを忘れなかった。食人鬼は穀物の乙女≠スちの中にいるということを。
半日帆走してから、ある岬を回ると、海岸線が後退して果てしない深い水路に続いていた。水路はその国の低い丘の間をくねくねと曲がりくねって、最後は視界から消えていた。この水路の入口に、庭園に囲まれた白大理石の小さな丸屋根の建物があった。若者はここに投錨するように仲間に命令し、上陸した。
彼が島の土に足を乗せるやいなや、肌の浅黒い、髪の黒い、目をきらきら輝かせた非常に美しい女が会いにやってきた。彼は女にお辞儀をしていった。「お姫様か、または女王様、あなたは穀物の乙女≠フ仲間ではありませんね。彼女らの着物は緑色ですが、あなたのは漆黒です。でも、たとえあなたが緑色の衣を着ていても、それでもあなたは別だとわかったでしょう。なぜなら、あなたの目には悲しみがなく、その目の中の光はウールスのものではないからです」
「おっしゃるとおりです」姫は答えた。「なぜなら、わたしはノクチュラ、つまり〈夜〉の娘ですから。そして、あなたが退治しにきた者の娘でもあります」
「では、わたしたちは友達になることはできませんね、ノクチュラ」若者はいった。「でも、敵にならないことにしましょう」夢の材料から生まれた彼は、理由がわからないままに彼女に魅かれ、目に星の光を宿している彼女は彼に魅かれたのであった。
その言葉を聞くと、姫は両手を広げて言明した。「わが父は母を力で犯したのです。そして、わたしの意志に反してわたしをここに幽閉しています。ここにいては、母が毎日の終わりに訪れてくれなければ、わたしはたちまち発狂してしまうでしょう。もし、あなたがわたしの目に悲しみを見ないとしたら、この光がわたしの心を裏切っているからにすぎません。自由になるためなら、父とどのように戦えば勝利を得られるか、喜んでお教えします」
魔法使いの町の若者はみんな静まりかえり、そばに寄り集まって、彼女に耳を傾けた。「まず、この島の水路は海図に決して書き表わすことができないほど、くねくねと曲がりくねっていることを頭に入れておきなさい。そこを航行するには、決して帆を使うことはできませんから、前進する前に炉に火を入れておかなけれぽなりません」
「それは心配ありません」夢から肉化した若者がいった。「一つの森の半分を切り倒して、この船の燃料庫を満たしました。そして、ごらんのとおり、これらの大車輪は巨人の足どりで水上を歩くことができます」
それを聞くと、姫は身震いしていった。「ああ、巨人のことはいわないで。あなたはご自分の言葉がわかっていないのです。あなたがたと同様にたくさんの船がやってきましたが、結局藻屑と消え、この出口知らずの水路の底は白骨で埋まっています。なぜなら父は、彼らが燃料を――どんなにたくさん持っていても――使いはたすまで小島の間の水路をさまよわせておき、それから、父のほうからは船の消えかかった火で彼らを見ることができ、彼らは父を見ることができない夜間に、襲いかかって殺すのが常套手段なのですから」
すると、夢から肉化した若者は心を痛めていった。「われわれは誓ったとおり、彼を探します。しかし、他の人たちと同じ運命から逃れる方法はないのですか?」
これを聞いて姫は彼を憐れに思った。なぜなら、少なくとも〈夜〉の娘にとっては、夢の材料を身にまとっている者はすべて、ある程度魅力的に思われたからである。だから彼女はいった。
「船の最後の薪をくべる前に父を見つけるためには、水の最も黒い部分を探しさえすればよいのです。なぜなら、父の通るところは必ず、その巨大な体が泥を巻き上げるからです。それに気をつけていれば、彼を発見できるかもしれません。でも、毎日、夜明けに捜索を始めて、正午にはやめなければなりません。さもないと、黄昏に彼に遭遇するかもしれません。それはあなたにとって破減的なことになるでしょう」
「命を差し上げても借しくない知恵を、授けていただきました」若者はいった。そして、いっしょに上陸した仲間はみんな歓声をあげた。「これできっと食人鬼を退治できます」
これを聞くと、姫はおごそかな顔をなおも引き締めて、いった。「いいえ、きっととはいえません。彼はどんな海戦においても、恐ろしい敵になります。でもわたしは、あなたがたの助けになる戦法を知っています。充分な補給物資を持ってきているといいましたね。漏水の時に船に塗るタールを持っていますか?」
「何樽も持っています」若者はいった。
「では、戦う時に、風があなた自身から彼の方に吹くようにしなさい。そして、戦いが最も白熱した時に――戦端を切れば、遠からずそうなりますが――部下に命じて、炉にタールを投入させなさい。それで勝利が得られると約束はできませんが、大いに助けになるはずです」
これを聞くと、若い男たちはみんな感謝して、狂喜乱舞した。そして、夢から肉化した若者と〈夜〉の娘が話をしている間、そばに恥ずかしそうにたたずんでいた穀物の乙女≠スちは、いかにも乙女らしい歓声をあげた。あまり強くはないが、喜びに満ちた歓声を。
それから若者たちは、出帆の準備をし、船の中央の巨大な炉に点火し、風の有無にかかわらず船を押し進める白い幽霊が生まれるまで、火を燃やした。そして、姫は岸辺から彼らを見守り、祝福を与えた。
だが、ちょうど大車輪が回りはじめた時――最初はあまりゆっくりで、ほとんど動いているようには見えない――彼女は夢から肉化した若者を手すりのところに呼び寄せていった。「あなたは父を見つけるかもしれません。万一彼を見つけたら、あなたは彼ほどの剛の者でも打ち負かすかもしれません。でも、たとえそうなっても、海に戻る道を探すのに大変苦労するでしょう。なぜなら、この島の水路は驚くほど複雑に作られていますから。でも、方法はあります。父の右手の第一指の先の皮を剥ぎなさい。そこに千本ものもつれた線が見えるでしょう。でも、がっかりしないで、それをよく調べなさい。それが網の目のような水路を作る時に彼が使った地図です。そうやって、彼は肌身離さず地図を持っているのです」
4 食人鬼との戦い
彼らは内陸にへさきを向けた。水路は姫が予言したようにすぐ分岐し、また分岐し、ついに千に分岐した水路と一万の小島になった。メイン・マストの影が帽子の大きさほどに縮まると、夢から肉化した若者は、錨を投げ、火に灰をかぶせるように命令した。そこで、彼らは大砲に油をぬり、火薬の準備をし、最も困難な戦いに必要なすべての物を用意しながら、長い午後の間、待った。
ついに、〈夜〉がやってきて、その肩のあたりにコウモリを飛び回らせ、足もとに恐ろしい狼をつきまとわせて、小島から小島へと渡っていくのが見えた。彼女([#ここから割り注]夜のこと[#ここで割り注終わり])は彼らの停泊地から大砲の弾が容易に届くくらいの近い距離にいるように思われたが、それなのに皆の目には、彼女は宵の明星やシリウスの前を通ることはなく、逆に、それらの星々のほうが彼女の前を通るように見えた。ほんの一瞬間だけ彼女は彼らの方に顔を向けたが、その表情が何を物語っているか、だれにもはっきりわからなかった。しかし彼らはみんな、本当に食人鬼が、あの姫のいったように、彼女の意志に反して彼女を犯したのだろうか、と思った。そして、もしそうなら、当然想像されるはずの憤りを、彼女はまだ失っていないのではないかと思った。
曙光とともに、後甲板からトランペットの音が響きわたり、灰に埋《い》けておかれた火に新たな燃料がくべられた。だが、夜明けの風が彼らのいる水路に海から吹きこむと、若い男は大車輪が最初の回転を始めないうちに、普通の帆を張るように全員に命じた。そして、白い幽霊が目覚めると、船は二倍のスピードでぐいぐいと進みはじめた。
その水路は何リーグも続いた。直線ではなかったが、ほぼそれに近く、帆を巻き上げたり、進路を変更したりする必要すらなかった。百本もの他の水路がそれと交わっていた。そのたびごとに彼らは水を調べたが、水はいつも水晶のように澄みきっていた。たくさんの小島を通過する時に彼らが目撃した不思議な光景を話せば、この物語と同じくらいの長さの物語が一ダースも必要になるだろう――花のように茎に生えた女たちが、船の上に身を乗り出して、彼らにキスをし、その頬の粉を彼らの顔につけようとしたとか、ずっと前にワインのために死んだ人々が、自分の命が終わったのも気づかないほど馬鹿になって、ワインの泉のほとりに横たわって、まだ飲んでいたとか、手足がねじ曲がり、見たこともない色の毛皮をした、未来の前兆とも思われる獣たちが、接近する戦争、地震、諸王の殺害を待っていたとか。
ついに、夢から肉化した若い男の一等航海士をつとめている若者が、操舵手のそばで待っている彼のところにきて、いった。「われわれはこの水路をずっと進んできました。そして、帆綱を結んだ時には顔を見せていなかった太陽が、天頂に近づきました。この水路を進んでくる間に一千もの他の水路と交差しましたが、どこにも食人鬼の影はありませんでした。われわれが取っているのは運の悪いコースではないでしょうか? すぐに横に曲がって別の水路を試みたほうが賢明ではないでしょうか?」
そこで若い男は答えた。「今も、右舷の方向に分かれている水路がある。そちらを見て、水がこちらよりも汚れているかどうか、調べてくれ」
若者は命じられたとおりにして、いった。「いや、もっと綺麗です」
「そら、今度は、左舷に別の水路が口を開けているぞ。どのくらい深くまで見えるか?」
若者は、いわれた水路の正面に船がくるまで待って、答えた。「最も深いところまで見えます。何尋も下に、大昔の難破船が見えます」
「今航行しているこの水路も、そんなに深くまで見えるか?」
そこで、船が切り開く水面を若者が見ると、水がインキのようになり、激しく回転する車輪から飛び散る水滴さえも鳥の羽根のような色になった。彼はたちまち理解し、他の全員に大砲につけと叫んだ。なぜなら、ずっと前から用意していた乗組員に、射撃用意とはいえなかったからだ。
前方に他の小島より高い小島があり、その頂上は高い黒い林になっていた。そこで水路は緩やかに曲がり、真後ろから吹いていた風がクォーター([#ここから割り注]船尾から四十五度[#ここで割り注終わり])に変わった。操舵手は舵輪を握る位置を変え、当直者はある帆綱を繰り出し、他の帆綱を引き締めた。船のへさきが断崖のするどいカーブを曲がった。すると前方に、幅の狭い細長い船体があった。中央には一つの鉄の櫓があり、そこの狭間から、彼らの装備しているどの大砲よりも大きい大砲が一門、突き出していた。
そこで、夢から肉化した若い男は船首砲手に向かって、射撃せよと叫ぼうとして口を開いた。だが、その言葉が口から出ないうちに、敵の巨大な大砲が轟音を発した。その音は雷鳴のようではなく、人間の耳が聞き慣れたどんな音とも違っていた。しいて言えぱ、高い石の塔の上に立っている時に、その塔が一瞬にして崩れ落ちた、とでもいうような感じだった。
そして、それが発射した砲丸は、彼らの右舷砲座の一号砲の砲尾に命中し、それを粉砕した。砲丸そのものも砕け散り、双方の破片が大風に吹かれた黒い木の葉のように船全体に飛び散って、そのために大勢の死者が出た。
それから、操舵手は命令を待たずに、左舷の砲座が敵に向くまで船を回した。大砲がそれぞれの砲手の意志で、狼が月に吠えるように、火を吹いた。それらの砲丸は敵の唯一の櫓の両側に飛んでゆき、いくつかは命中して、たった今亡くなった人々を弔う鐘のような音を轟かせた。そして、いくつかは敵の船体の前の水面に落ちた。さらに、いくつかはデッキ(それもまた鉄だった)に命中し、跳ねかえり、風を切って空に飛んだ。
やがて、敵の唯一の大砲がまた吠えた。
この状態が、永遠と思われるほどの間、続いた。若い男はついにあの姫君、〈夜〉の娘の忠告を思い出した。風は強く吹いていたが、方向はほとんど船尾からといってよかった。もし(姫の忠告どおりに)こちらの船から敵に向かって風が吹くようにすると、船首砲以外のどの砲も長い間、標的を失わねばならなかった。それから、一つの砲座が敵に対面することになるが、それは右舷のものであって、一つの砲が破壊され、大勢の死者が出た側なのであった。
しかし、その瞬間に彼は思った。われわれは他の何百もの人々と同様に戦った。そして、その何百人かは皆死んで、その船は沈没し、彼らの骨は食人鬼の島の表面を渦巻きからみあって通っている無数の水路の中に散乱している、と。そこで彼は操舵手に命令した。だが返事はなかった。
操舵手は死んでいた。操舵手が支えていた舵輪が、今は操舵手を支えていたのだった。それを見て夢から肉化した若い男は、わが手で舵輪のスポークを握り、船の細いへさきを敵に向けた。この時に、三人姉妹([#ここから割り注]運命の女神[#ここで割り注終わり])が勇者にいかに好意を寄せるかを示すようなことが起こった。敵からの次の弾丸は、そのままであったなら、船首から船尾まで引き裂いたかもしれないのに、左舷にオールの長さほどそれた。そしてまた次の弾丸は、右舷にボートの幅ほどそれたのである。
それまで彼らの前にじっと停止していた敵は、今は遠ざかろうとも接近しようともせずに、ぐるりと向きを変えた。敵はできれば逃げようとしていることを見てとって、すでに戦いに勝ったかのように大歓声をあげた。だが、驚いたことに、それまで誰もが固定されているとばかり思っていた唯一の櫓が、ぐるりと回って逆向きになり、彼らの船のどの大砲よりも大きいその巨砲が、あいかわらずこちらに狙いをすえていた。
一瞬の後、その砲丸は彼らの船の中央に命中し、まるで酔っ払いが揺籠から幼児を放り出すように、右舷砲座の一門の大砲をその軌道から外して、甲板を滑走させ、行手にあるすべての物を粉砕した。それから、その砲座の大砲が――つまり、まだ残っている大砲が――いっせいに火と鉄を吐き出した。そして、今や距離が最初の半分たらずになっていたので(いや、もしかしたら、敵が恐れをなしたところをみると、その存在の構造が弱まったのかもしれない)、その櫓に命中する彼らの砲丸は、もはやむなしい音を立てるのではなく、世の終わりを告げる鐘も割れそうな打撃を与えた。そして、油を引いた真黒な鉄の表面に、ぎざぎざの割れ目が生じた。
それから若い男は伝声管を通じて、忠実に機関室に残って炉に流木をくべている男たちに、姫がいったようにタールを炎の中に投げこめと命令した。彼は最初、その三人が全滅しているのではないかと心配し、それから、戦闘の大音響で命令が届かないのではないかと心配した。しかし、彼と敵との間の日の当たっている水面に、影がさすのが見えたので、空を見上げた。
ある物語によれば、むかしむかし、ある貧しい漁師の娘が砂浜で、蓋をした瓶を拾った。そして、その封を切ってコルクを引き出すことによって、北極から南極までの女王になったという。ちょうどそれと同様に、彼らの船の高い煙突から、天地創造の力を受けた強力な精霊が流れ出し、風のまにまに、黒い喜びをもって転げ回り、みるみる大きくなるように思われた。
そして、実際に風が吹いてくると、風は無数の手でそれを掴み、一つの固い塊りとして敵の方に向けた。それ以上何も――鉄のデッキのある長い黒い船体も、その口が彼らに死の言葉を発した唯一の大砲も――見えなくなってからも、彼らは時間を無駄にせずに大砲にかかりきり、その黒い塊りに向かって弾丸を射ちこんだ。そして、時々敵の大砲も射ってくる音を聞いた。だが、閃光は見えず、弾丸がどこに当たったかわからなかった。
もしかしたら、それらの弾丸はまだ何にも命中せず、まだ標的を求めて世界を回っているかもしれない。
砲身が焼けて、坩堝《るつぼ》から流れ出したばかりのインゴットのように光るまで、彼らは射撃を続けた。やがて、長い間吹き出していた黒煙が薄れた。そして下にいる者が伝声管で、タールは全部燃やし尽くしたと大声で報告した。夢から肉化した若い男は、砲撃をやめるように命令した。そして、砲手たちは水をくれと言うこともできないほど疲れきって、たくさんの死骸のように甲板にぶっ倒れた。
黒煙は溶けた。霧が太陽に溶けるようにではなく、悪に強い軍隊が度重なる突撃の前に崩壊して、ここでは後退し、あそこでは頑強に抵抗し、ついに総崩れになると見えた時に、一部ではなおも力を盛り返して小競りあいをするかのように、見えた。
彼らは新たに磨かれた波間に敵を探したが無駄だった。何も見えなかった。敵の船体も櫓も大砲も、いかなる平板も円材も。
ゆっくりと、見えない敵を恐れていると思われるほど用心深く、向こう側の小島の打ち砕かれた木々や穴だらけになった地面(彼らの大砲の弾丸がそこでエネルギーを費やしたのだ)に注意を払いながら、彼らは敵が錨を降ろしていた場所に進んでいった。そして、敵の長い鉄の船体が横たわっていた位置の上にくると、夢から肉化した若い男は命令を下して大車輪を逆転させ、それからついに止めさせた。こうして、彼らの船は敵が待っていた時と同様に静かに停止した。それから彼は大股に手すりに歩み寄って下を見た。だが、その表情は、だれも、最も勇気ある者でさえも、あえて見ようとは思わないものであった。
やっと目を上げた時には、彼の顔は固く厳しく陰鬱であった。そして、だれにも言葉を掛けずに、キャビンに入っていき、扉にかんぬきを掛けた。そこで、彼の次に位する若者が、船を回すように命令した。それは、姫の白い丸屋根の館に戻るためである。また、負傷者に包帯をし、ポンプを動かし、できるかぎりの修理を始めるように命令した。だが、死者は船上に置かせた。深海に葬るためである。
5 学生の死
もしかしたら、水路は彼らが信じていたほどまっすぐではなかったかもしれない。あるいは、彼らは戦闘中に方位を見失って、わからなくなったのかもしれない。あるいは、水路は(ある者が主張しているように)、だれの目も見ていない時に、溝のみみずのように曲がりくねったのかもしれない。真相はどうであれ、彼らは一日じゅう、蒸気で――風がばったりと絶えたので――走ったが、昼間の最後の光で見ると、未知の小島の間を航行していることがわかっただけであった。
夜の間はずっと停船していた。朝がくると、その若者は、最も価値ある忠告を与えることができると感じる者を呼び集めた。だがだれも、夢から肉化した若い男を呼び出すか(とてもそうする気にはならなかった)、または、広い水面に出るか姫の館に着くまで強引に押し進むか、という以外にはなんの提案もできなかった。
このようにして彼らは一日じゅう、直線コースを取ろうと努力しながらも、その意に反して、水路のたくさんの湾曲部の間を曲がりくねりながら航行した。そしてまた夜がくると、彼らの位置は前にも増してわからなくなっていた。
だが、三日目の朝に、夢から肉化した若い男はキャビンから出てきて、もとの習慣どおりに甲板をあちらこちら歩きはじめ、破壊された部分に施された修理の具合を調べ、また、傷の痛みのために早く目覚めた負傷者に、容体はどうかと尋ねた。やがて、指揮を執っていた若者とその顧問たちが彼のところにやってきて、自分たちがしたことを全部説明し、どうしたらまた海に出られるか尋ね、死者を葬って、魔法使いの町の自分たちの家に帰りたいといった。
これを聞くと彼は大空そのものを見上げた。そして、ある者は彼が祈ったと思い、ある者は彼が自分たちに対して感じた怒りを抑えようとしたと思い、またある者は彼はただ天から霊感を得ようとしただけだと思った。しかし、彼があまり長いこと空を見つめていたので、彼らは次第に恐くなってきた(彼が水中を覗きこんでいた時も、やはり恐かったのだった)。そして、一人二人こっそりと後ずさりする者もあった。やがて、彼は彼らにいった。「見よ! 海鳥が見えないか? 空のあらゆる隅から流れこんでくるぞ。彼らの後を追え」
朝がほとんど終わるまで、彼らは曲がりくねった水路が許すかぎり、海鳥を追った。そしてついに前方に、海鳥が輪を描き、水中に飛びこんでいる場所を見つけた。そのおびただしい白い翼と漆黒の頭の群れが、行手に、低く垂れこめている雲のように――外側は晴れているが、内部では雷鳴が轟いている雲のように――見えた。すると、夢から肉化した若い男は、大砲に火薬だけこめて射つように命じた。大砲が大音響を発すると、それらの海鳥は鳴きわめきながら全部舞い上がった。そして彼らのいた場所に、大きな腐肉が浮いているのが見えた。それは陸上の動物のように思われた。なぜなら一つの頭と四本の脚があるように見えたからである。だが、それはたくさんの象を寄せ集めたよりも大きかった。
そばまでいくと、若い男はボートを水に降ろすように命じた。彼がボートに乗りこんだ時、そのベルトに大きい偃月刀《アルファンジ》を差しており、その刃が日光を受けてきらめくのが見えた。しばらくの問、彼はその腐肉に向かって懸命に作業をしていた。それから、海図を持って戻ってきた。それは今までだれも見たことのない大きいもので、なめしてない生皮に描かれていた。
彼らは夕暮れまでには姫の丸屋根の館に着いた。そして、彼女の母親が彼女を訪問している間、彼らは皆待っていた。だが、その恐ろしい女性が去ってしまうと、歩くことができる者は全員上陸した。穀物の乙女≠スちは彼らのまわりに群れ集まった。若者一人に乙女百人の割合だった。夢から肉化した若い男は〈夜〉の娘を腕に抱き、皆の先頭に立って踊りだした。その夜のことはだれも忘れなかった。
夜露を避けるために彼らは姫の庭園の木の下に入り、なかば花に埋もれていた。しばらくの間、彼らはそうして眠っていたが、やがて午後になって、船のマストの影が反対側に回ると、目を覚ました。それから、姫はこの島に別れを告げて、たとえ母が歩くすべての国を訪れようとも、ここに決して戻るつもりはないと誓った。そして、穀物の乙女≠スちも同様にした。ここには、たぶん船に乗りきれないほどの乙女がいただろうが、それでも全員が乗ることができた。それで、甲板はどこもかも彼女らの衣服で緑色に、そして彼女らの髪で黄金色になった。彼らは魔法使いの町に帰る途中に、たくさんの冒険をした。この物語では、彼らが死者を祈りとともに海に投げ入れたこと、だが、その後、夜になると死者の姿が帆の間に見えたこと、また穀物の乙女≠フ一部が王子たちと結婚して――あまり長い間魔法にかかっていたので、その間に魔法の多くを学び、その生活から去るのがいやになった王子たちが何人もいたのだ――大きな睡蓮の葉の上に城を築き、めったに人目に触れなくなったこと、などを記してよいかもしれない。
しかし、これらのすべてをここに記すことはできない。だから、次のことを記すにとどめよう。彼らが魔法使いの町の崖の近くにきた時、夢からその若い男を肉化した学生は狭間胸壁の上に立って、彼らが帰ってこないかと海を眺めていた。だが、目潰しに使ったタールの煙で黒く汚れた帆が見えたので、それは若い男の死を悼むために黒く染められたのだと信じて、身を投げて死んだ。なぜなら、人は、夢が死ねば長くは生きないからである。
[#改ページ]
18 鏡
このとりとめのない物語を読みながら、時々ジョナスの顔を見たが、彼は表情を少しも動かさなかった。しかし眠ってはいなかった。物語が終わると、わたしはいった。「この学生が黒い帆を見て、なぜすぐに息子が死んだと思ったのか、ぼくにはどうも合点がいかない。食人鬼がよこす船は黒い帆がついていた。しかし、それは一年に一度しかこないし、この時にはすでにきた後だったのだから」
「わたしは知っている」ジョナスはいった。その声は今まで聞いたこともないほどそっけないものだった。
「これらの疑問の答えを知っているという意味かい?」
彼は返事をしなかった。われわれはしばらく黙って坐っていた。わたしは茶色の本(それは、セクラとわれわれがともに過ごした夕ベのことを、執拗に思い出させてくれた)をまだ人差指で開いたままで。そして、彼は監禁室の冷たい壁に背中をもたせかけ、片方は金属で片方は肉の両手をまるで忘れてしまったかのように、体の両側に置いて。
しばらくすると小さな声が思いきったようにいった。「それは本当に古い物語にちがいないわ」それは、わたしに代わって天井の板を押し上げた、あの小さな少女だった。
わたしはジョナスのことがとても心配だったので、少女が口を出したことに、一瞬、腹を立てた。だが、ジョナスがつぶやいた。「そうだ、とても古い物語だ。そして主人公は王様に、つまり父親に、もし失敗したら黒い帆を上げてアテネに帰ってくるといっていたのさ」この言葉の意味はわたしにはよくわからないが、ただのうわごと[#「うわごと」に傍点]だったかもしれない。しかし、これはわたしが聞いたジョナスのほとんど最後の言葉だったので、この言葉を引き出した不思議な物語を書き写すとともに、ここに記録すべきだと感じたのである。
しばらくの間、少女もわたしも、もう一度彼に口を開かせようと努力した。しかし、彼はどうしても喋ろうとしなかったので、結局、われわれは諦めた。わたしはその日の残りの時間を、彼の横に坐って過ごした。そして、一刻かそこら経った頃、ヘトール(彼の小さな知恵の蓄えは――予想通り――囚人たちのためにすぐに底をついてしまった)がそばにやってきたので、わたしはロマーとニカリートに耳打ちして、彼を部屋の反対側に寝かせてもらうことにした。
なんといっても、われわれは時々うまく眠れなくて困ることがある。ある人は実際にほとんど眠らないが、たっぷり眠っている人でも、そんなに眠っていないと言い張ることがある。ある人は絶え間ない夢に悩まされる。そして、少数の幸福な人には愉快な性質の夢がしばしば訪れる。ある人は、一時は眠れなくて困ったが、今はそれから回復≠オたというだろう。まるで、意識のあることが病気であるかのような言い方だが、もしかしたら実際にそうかもしれない。
わたし自身の場合は、普通、記憶に残るほどの夢も見ずに(ここまで読み進まれた読者はもう知っておられるだろうが、時にはそのような夢も見る)眠り、夜明け前に目覚めることはめったにない。だが、この時の夜の眠りは、普段の眠りの性格とあまりにも異なっていたので、これは全然眠りとは呼べないものではないだろうかと、時々思ったくらいだった。たぶん、それは、アルザボが人間を食べた時に人間のまねをするのと同様に、眠りをまねた別の状態だったのかもしれない。
もしこれが自然の原因の結果なら、わたしは不幸な環境の組合せのためだと思う。物心ついてからずっと、重労働と荒々しい仕事に慣れてきたわたしは、この日はそのどちらもせずに監禁されていた。茶色の本の物語はわたしの想像力を刺激した――それは、本そのものとセクラとの連想によってさらに刺激され、また、彼女がしばしば話してくれた〈絶対の家〉の壁の内側に、今自分がいるという意識によってさらに刺激された。おそらく最も重要なことは、わたしの精神がジョナスへの心配と、そして、この場所が自分の旅の終わりになるのではないかという(一日じゅうずっと心の中に育ちつつあった)感じによって、圧迫されていたことだろう。自分は決してスラックスに着くことはないだろう。憐れなドルカスに、二度と出会うことはないだろう。〈鉤爪〉を返還することは決してないだろう。いや、わが身からそれを離すことすらできないだろう。実際、あまりにも大勢の囚人の死を見てきたわたしは、囚人のひとりとして命を終えるべきであると、〈鉤爪〉の所有者が仕えていた自存神《インクリエート》がお決めになったのだ、という感じに苛まれていたのであった。
それが眠りと呼べるものであるならば、わたしはほんの少しの間眠った。そして落下の感覚を味わった。高い窓から放り出される犠牲者は本能的に体をこわばらせるが、それと同様の痙攣がわたしの手足をねじ曲げた。起き上がると、暗闇しか見えなかった。ジョナスの息づかいが聞こえ、わたしの指は彼がまださっきのように壁にもたれて坐っていることを教えてくれた。わたしは横になり、また眠った。
いやむしろ、眠ろうと努力し、そして睡眠でも覚醒でもない曖昧な状態に移行した。それは別の時には快適に感じることもあるが、今はそうではなかった――眠る必要を意識し、そして眠っていないことを意識していた。そのくせ、その言葉の普通の意味において意識≠オていたわけではなかった。旅籠《はたご》の中庭でかすかな人声が聞こえ、なんとなく、まもなく鐘楼の鐘が鳴って、昼間になるような感じがした。また手足がびくりと痙攣し、わたしは起き上がった。
一瞬、緑の閃光を見たように想像した。だが、何もなかった。わたしはマントで体をくるんでいたが、それを投げ捨てた。すると、それに要した短い時間に、ここは〈絶対の家〉の控の間だと思い出した。そして、隣にはまだ、ジョナスが良いほうの腕を枕にして横たわっているけれども、サルトゥスの旅籠はとうの昔に出てきてしまったことを思い出した。目に入ったぼんやりした青白いものは、彼の右目の白目だった。もっとも、彼の深い呼吸は眠っている人のものであったが。わたしはまだとても眠かったので、口を聞きたくはなかったし、どのみち彼は返事をしないだろうという予感があった。
わたしはまた横になると、眠ることができないという苛立ちに身を委ねた。サルトゥスの町を通っていった家畜の群れを思い出し、記憶を頼りにしてその数を算えた。百三十七頭だった。それから、ギョルから歌を歌いながら上陸してきた兵士たちがいた。旅籠の亭主が何人いるだろうかと尋ね、わたしはある人数を当てずっぽうでいった。しかし、今までその人数を数えたことは、一度もなかった。彼はスパイであったかもしれないし、なかったかもしれない。
われわれにとてもたくさんのことを教えてくれたパリーモン師は、眠り方については教えてくれなかった――徒弟はみな、使い走りや掃除や台所の仕事に一日じゅう追いまくられるから、そんなことを教えてもらう必要は全くなかった。われわれは毎晩、徒弟の宿舎で半刻ほど大騒ぎをして、それから共同墓地《ネクロボリス》の住民のようにぐっすりと眠り、師がやってきて、床を磨け、汚水を流せと叩き起こすまでは目が覚めないのである。
職人のアイバートさんが肉を切るテーブルの上には包丁掛けがある。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つの包丁があり、すべてグルロウズ師の包丁よりもよく切れる。一丁は柄にちょっとした焼け焦げがあるが、それはアイバートさんが昔、焜炉の上に置き忘れたからである……
また完全に目が覚めてしまった。いや、少なくともそう思った。なぜだかわからない。横にドロッテがすやすや眠っていた。わたしはまた目を閉じて、彼のように眠ろうとした。
地上からわれわれの宿舎まで、三百九十|段《ステップ》。さらに、塔のてっぺんで大砲が動悸を打っている部屋まで何段? 大砲の数は、一、二、三、四、五、六門。地下牢《ウブリエット》で使われている独房は、一、二、三層。各層に、一、二、三、四、五、六、七、八のウィング。各層に一、二、三、四、五、六、七、八のウィング。各ウィングに、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七の独房。わたしの独房の扉の小さな窓に、一、二、三本の格子。
わたしははっとして目覚め、ぞっとした。だが、眠りを妨げた物音は、廊下のずっと先のハッチの一つがばたんと鳴っただけだった。隣では、わたしの少年の愛人であるセヴェリアンが、若者らしい気楽な寝息を立てて眠っていた。わたしは蝋燭をつけようとして起き上がり、その彫りの深い顔の新鮮な色彩をしばらく眺めた。彼はわたしのところに戻ってくるたびに、燃える自由の小片をその顔につけてくる。わたしは毎回それを取り、息を吹きかけ、胸に抱きしめるが、そのたびにそれは衰え、消えてしまう。だが、いずれそれは消えなくなり、わたしはこの土と金属の荷重の下により深く沈んでいく代わりに、金属と土を通過して、風の吹くところに、空に、昇っていくだろう。
とにかく、そのように自分に言い聞かせた。たとえこれが真実でないとしても、わたしに残っている唯一の楽しみは、その小片を集めることだった。
だが、蝋燭を手探りすると、それはなくなっていた。そして、それとともにわたしの独房がなくなっていることを、目と耳と顔の肌そのものがわたしに教えた。ここには暗い灯火があった――非常に暗いが、廊下の拷問者の蝋燭の明かりではない。わたしの独房のハッチの三本の格子を通ってきた光ではない。かすかな反響が、ここはそのような独房を百集めたよりも広い場所であると断言した。そして、壁が近いという信号を発するのに疲れきった頬と額が、それを確認した。
わたしは立ち上がり、衣服を直し、まるで夢遊病者のように歩き始めた……一、二、三、四、五、六、七歩で、大勢詰めこまれた人体と、密閉された空気の匂いが、ここはどこか教えてくれた。控え室だ! 捻れるような位置感覚の変化を感じた。独裁者はわたしが眠っている間にここに移すように命じたのだろうか? 他の人たちはわたしを見て、鞭打つのを控えたのだろうか? 扉! 扉!
わたしはひどく混乱し、精神の動揺に引かれて転びそうになった。
わたしは手をよじった。だが、わたしがよじった手は、わたしの手ではなかった。右手は大きすぎ、強すぎるように感じ、それと同時に左手も同じような手だと感じた。
セクラは夢のように、わたしから脱落した。いや、次第に小さくなって消えてしまったというべきだろう。それも、わたしの内部でそのように小さくなって消えていき、ついにわたしはふたたび自分自身になり、ほとんど一人きりだと感じるまでになったと、いうべきだろう。
だが、わたしはそれ[#「それ」に傍点]を捕えていた。つまり、扉の位置を。若い高貴人《エグザルタント》たちが夜になると、ワイアーを編んで作ったエネルギー鞭を持って入ってくるあの秘密の扉の位置を。その他の見たり考えたりした物事すべてとともに。明日は逃げることができる。いや、今でも可能だ。
「ねえ」そばで声がした。「あの貴婦人はどこへいったの?」
またあの子供だった。黒い髪と、まじまじと見つめる目を持ったあの少女だ。わたしは婦人を見たのかと尋ねた。
少女は小さい手でわたしの手を握った。「ええ、背の高い貴婦人よ。恐いわ。暗闇に恐ろしいものがいるの。それが彼女を掴まえたのかしら?」
「きみは恐ろしいものを恐がらなかったじゃないか、覚えているだろう? あの緑の顔を、きみは笑ったじゃないか」
「これ[#「これ」に傍点]は違うのよ。暗闇ですすり泣く黒いものなのよ」彼女の声には真の恐怖がこもっており、わたしの手を握っている小さな手は震えていた。
「その貴婦人はどんな様子をしていた?」
「わからない。彼女は影よりも暗かったから、やっと見えたのよ。でも、歩き方で貴婦人だとわかったの。だれかと思ってここにきたら、だれもいなくて、あなただけがいたのよ」
「わかった」わたしは彼女にいった。「きみには決してわからないと思うがね。さあ、お母さんのところに帰って、お眠り」
「それ[#「それ」に傍点]は壁を伝わってやってくるのよ」彼女はいった。それから手を放して、姿を消した。だが、わたしのいったとおりにしなかったことは確実である。それどころか、ジョナスとわたしの後をついてきたにちがいない。なぜなら、わたしがこの〈絶対の家〉に戻って以来、彼女の姿を二度見かけているからである。彼女は疑いなく盗み食いをしながら、ここに実在しているのだ(彼女が食事をするために控の間に戻るということはありうる。しかし、あそこに監禁されている人々は――たとえ、その大部分は槍で追い立てなければ出ていかないとしても――全部釈放するように、わたしはすでに命じてある。また、ニカリートをわたしのところに連れてくるように命令した。そして、少し前に、われわれが捕まった場面を書いていた時に、彼女が謁見を待っていると、侍従がいいにきた)。
ジョナスはわたしが置き去りにしたままの姿で横たわっていた。そして、また、暗闇に彼の目の白目が見えた。「正気を保つためには脱出する必要があると、きみはいったな」わたしはいった。「さあ、こいよ。だれか知らないが、ノトゥールの送り手は別の武器に手をかけたぞ。出口を見つけた。さあ、ここから脱出するんだ」
彼は動かなかった。それで結局、腕をつかんで立ち上がらせなければならなかった。まるで少年を引き上げるような感じだった。だから、彼の体の金属の部分は、その軽さで手の感覚を狂わせるあの白い合金から鍛造されたものにちがいなかった。しかし、その金属の部分は、肉の部分と同様に何か薄い粘液のようなもので湿っていた。そばの床も、また壁そのものも、同様の粘液で汚れていることが、足の感覚でわかった。あの子供と話をした時に、来たとか行ってしまったとかいっていたもの[#「もの」に傍点]がなんであるにせよ、それ[#「それ」に傍点]が探していたのはジョナスではなかった。
鞭をふるった人々が入ってきた扉はわれわれの寝ていた場所から遠くなく、控の間の一番奥の壁の中央にあった。それは、古代のものがたいていそうであるように、|力の言葉《ワード・オブ・パワー》で開けることができた。わたしはその言葉をささやき、秘密の入口を通り抜け、扉を開け放しにしたまま先に進んだ。気の毒なジョナスは総金属製の物体のように、わたしの横をぎくしゃくと歩いた。
青白いくもの巣が花綱のように垂れており、塵が敷物のように積もっている細い階段が、ぐるぐる回りながら下に続いていた。ここまでは記憶にあった。だが、その先は何も思い出すことができなかった。これから何が起こるにせよ、ここのかび臭いにおいには自由の味がしたので、呼吸できるだけでも嬉しかった。不安はあったけれども、その気なら大声で笑うこともできたろう。
多くの踊り場に秘密の扉がついていた。だが、それらの中に入れば、たちまちだれかと出会う可能性が充分にあった。〈絶対の家〉の住民のだれかと出会わないうちに、わたしとしてはなるべく控の間から遠くまで行っていたかった。
たぶん百段くらい降りた頃、真赤な奇怪な印が描かれた一つの扉のところに出た。それはわたしの目にはウールスの岸辺から遠く離れた言語の絵文字のように見えた。その瞬間、階段に足音が聞こえた。扉には把手も引手もなかったので、わたしは体でそれを押した。すると、最初、抵抗があって、それから開いた。ジョナスが後に続いた。われわれが通り抜けると、扉はすごい勢いで閉まったので、ばたんと大きな音がするかと思ったが、音はまったくしなかった。
扉の先の部屋は薄暗かったが、われわれが入ると灯火の光度が増した。そこにわれわれ自身以外にだれもいないことを確かめると、わたしはこの明かりを利用して彼を調べた。彼の顔は、控の間の壁にもたれて坐っていた時と同様に、まだ硬直していた。しかし、それはわたしが心配していたように、生命のないものではなかった。それは、これから目覚めようとしている人の顔とそっくりだった。しかも、頬に涙のあとが濡れたまま残っていた。
「ぼくがだれかわかるか?」わたしは尋ねた。すると彼は黙ってうなずいた。「ジョナス、ぼくはできることならテルミヌス・エストを取り戻したい。今まで臆病者のように逃げてきたが、このように考えるチャンスができると、やはりあれを取りに戻らねばならないと思う。スラックスの執政官への手紙が、あの革の鞘のポケットに入っているんだ。とにかく、あの剣を手放すことは耐えられない。しかし、もしきみがここから脱出を試みたいというなら、それでもいいんだよ。きみはぼくに縛られている必要はないんだからね」
彼は聞いていないように見えた。「ここはどこか知っているぞ」彼はぎごちなく片腕を上げて、わたしが屏風だと思っていたものの方を指さした。
彼の声を聞いて嬉しかった。それはおもに、彼がまた口をきくようになるだろうという希望を抱いたからだった。そして尋ねた。「では、ここはどこだね?」
「ウールスだ」彼は答えた。そして、部屋を横切って、折り畳まれたパネルのところにいった。それらの裏側には、今見えたのだが、ダイアモンドの粒の集団がはめこまれており、扉に描かれていたのと同様の曲がりくねった標識が描かれていた。しかし、これらの標識は、パネルを開いた時にジョナスのとった行動に較べれば、それほど奇異とは思えなかった。ほんのちょっと前に気づいた彼の動作のぎごちなさは、消えていた――といっても、まだ本来の彼に戻ったわけではなかったけれども。
わたしが知ったのはこの時だった。われわれは皆、片手を失った人が(彼のように)鉤などの人工的な装置をつけて、本物の手と義手の両方を使って作業するのを、見たことがある。今わたしが見た、パネルを引っばっているジョナスは、まさにその状態にあった。ところが、義手は肉の手のほうだったのである。これに気づいた時、わたしは彼がずっと以前にいったことを理解した。彼の船が壊れた時に、顔が破壊されたと。
わたしはいった。「目を……彼らは目を交換することができなかったんだな。そうだろう? だから、きみにその顔を与えたんだ。その顔の持ち主も死んだのかね?」
彼は、わたしがいるのを忘れていたような態度で、わたしをまじまじと見た。「あの人は地上にいた」彼はいった。「われわれは偶然に彼を殺してしまったんだ。進入してくる時に。わたしには彼の目と喉頭が必要だった。その他にもいくつかの部分をもらったが」
「だから、拷問者というぼくの身分を我慢できたんだな。きみは機械なんだね」
「きみは、きみの種族の他の人々よりも決して悪くはない。わたしはきみに会う何年も前から、きみたちの一員になっていたんだ。今、わたしはきみよりも悪い。きみは決してわたしを置き去りにしなかったが、わたしはこれからきみを残していく。今がチャンスなのだ。これこそ、ヒエロドゥールを探したり、不細工な機械装置をやりくりしながら、何年間もこの世界の七つの大陸をあちこち歩き回って、探し求めていたチャンスなのだ」
わたしは、セクラにナイフを与えて以来起こったすべてのことを、思い出した。そして、彼の言ったすべてがわかったわけではないが、彼にいった。「これがきみの唯一のチャンスなら、行くがいい。幸運を祈るよ。もしジョレンタに会ったら、きみは一時は彼女を愛したが、結局それだけだった、と伝えてやる」
ジョナスは首を振った。「わからないのか? 修理がすんだら、彼女のところに戻ってくるつもりだぞ。正気になって、五体満足になったらね」
それから、彼はパネルの輪の中に歩み入った。すると、その頭上の空中にまばゆい光がともった。
それらを鏡と呼ぶのは、なんと愚かなことか。それらが鏡だというなら、すべてを包む大空が子供の風船であるというのと同じことだ。それらは実際に光を反射する。しかし、それは決してそれらの真の機能ではないと思う。それらは現実を反射するのだ、物質界の裏に存在する形而上的物体を。
ジョナスはその輪を閉じ、その中心に歩いていった。おそらく、最も短い祈りを唱えるくらいの間に、ワイアーのような閃光が見え、パネルの上端の空中に金属的な塵が飛び跳ね、それからすべてが消えてなくなり、わたし一人きりになった。
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19 収納室
わたしは孤独だった。といっても、真に孤独だというわけではない。なぜなら、あの町の木賃宿のあの部屋に入って、毛布の上にバルダンダーズの幅の広い肩を見て以来、タロス博士に出会い、それからアギアに出会い、それからドルカスに出会い、それからジョナスに出会ったから。また記憶の病にも取りつかれた。そして、ジョナスと一緒に李《すもも》の林の中を連行されていく時に、ドルカス、巨人、その他の人々の鋭いシルエットを見たし、動物を連れている人々や、他の種類の芸人たちもそこにいた。彼らはすべて、疑いなく(セクラがしばしば話したように)戸外の演芸が行なわれる場所にいくところだった。
わたしは自分の剣が見つかるかもしれないという淡い希望をもって、その部屋を探した。剣はそこにはなかった。この時、控の間の近くに――おそらく同じ階層に――囚人の持ち物を置いておく保管所のようなものが、ひょっとしたらあるかもしれないという考えが浮かんだ。しかし、今降りてきた階段を上っても、また控の間に逆戻りするばかりである。また、鏡の間からの出口は、奇妙な品物がしまわれているもう一つの室にしか通じていなかった。だがしまいに、カーペットが敷かれ、絵のかかった、暗い静かな廊下に出る扉を発見した。そして、森の中でわれわれを逮捕した衛兵たちが組合の存在を知らない様子だったとしても、〈絶対の家〉の内部の廊下で出会う人々は、それほど無知ではないかもしれないと考えて、わたしは仮面をかぶり、マントにくるまった。
結局、とがめられることはまったくなかった。豪華な手のこんだ衣装の男は脇に寄り、何人かの美しい女たちは珍しそうにわたしを見つめた。彼女たちの顔を見て、セクラの記憶が動きだすのを感じた。ついに、もう一つの階段を見つけた――ジョナスとわたしを鏡の間に導いた階段よりも、狭くもなく、秘密めいてもいず、もっと広くて、見通しのよい幅の広い階段だった。
わたしはそれを少し上って、そこの廊下を偵察し、そこがまだ控の間よりも低いことを確認すると、また上りはじめた。するとその時、上からこちらに向かって階段を降りてくる若い女に気がついた。
われわれの目が合った。
その瞬間に、以前にこうしてわれわれが視線を交えたことがあると、彼女が意識していることが、はっきりとわかった。記憶の中で、彼女がまたいうのが聞こえた。「まあ、お姉さま」とあの可憐な声で。そして、あのハート型の顔がばっと心に浮かんだ。それはヴォダルスの后のセアではなく、〈紺碧の家〉で――ちょうど今のようにわたしが階段を上っていった時に降りてきて――すれちがった、セアに似た(そして疑いなく彼女の名前を借用している)あの女だった。とすると、売春婦が芸人とともに呼ばれていることになる。何か知らないがこれから始まる宴会のために。
ほとんどまったくの偶然で、わたしは控の間の階層を見つけた。そこの階段から出るやいなや、前に、銀のカートの横でニカリートと話をしていた時に、槍持ちが立っていたまさにその場所に、自分が立っていることに気づいたのである。ここが最も危険な場面であった。わたしは用心しながらゆっくりと歩いていった。右側の壁には一ダースかまたはそれ以上の扉がついており、それぞれが彫刻のある木製の枠にはまっており、それぞれ(立ち止まって調べてわかったのだが)枠に釘づけにされており、ワニスで塗りこめられて、長い年月が経っている様子だった。右手にある唯一の扉は、兵士たちがジョナスとわたしを引っぱりこんだあの虫食いの跡のある樫の大扉だった。それと向きあって控の間の入口があり、その先には、手前のものと同様の釘づけの扉の列がまたずらりと並んでいた。どうやら、控の間は、〈絶対の家〉のこの棟のこの階層のすべてを占領しているようであった。
もし、だれかの姿が見えたら、わたしはあえて足を止めはしなかっただろう。だが、廊下には人影がなかったので、思いきって第二の階段の手すりの端の支柱にしばらく寄りかかっていた。前に、二人の衛兵がわたしを護送してきた時には、もう一人の衛兵がテルミヌス・エストを持っていた。だから、ジョナスとわたしが控の間に押しこめられている間に、この第三の兵士が、少なくともこのような分捕品の武器を保管しておく場所に向かって、最初の数歩を踏み出していたと想像しても、理屈に合っている。だが、わたしは何も思い出すことができなかった。われわれが洞窟の階段を降りていく時に、その兵士は後ろに遅れていた。その後、彼を二度と見ていない。とすると、彼はわれわれと一緒に入ってこなかったのではないだろうか。
わたしは絶望して、虫食い跡のある扉のところに戻り、それを開けた。井戸のかび臭い匂いが、たちまち廊下に入ってきた。そして、緑色のゴングの歌が始まるのが聞こえた。外では、世界は夜の闇に沈んでいた。菌類の人魂のような光以外には、ざらざらの壁は見えず、頭上の丸い星空だけが、地中に落ちこんでいる井戸の口のありかを示していた。
わたしはその扉を閉めた。それがきしりながら閉まるやいなや、わたし自身が上ってきた階段に足音が聞こえた。隠れる場所はなかった。たとえ第二の階段に駆け寄ったとしても、見つけられる前にそこに行き着く可能性はほとんどなかったろう。また、重い樫の扉から飛び出してふたたびそれを閉めるよりは、むしろましだと考えて、わたしはその場に留まっていることに決めた。
やってきたのはお仕着せを着た、五十歳ぐらいの小太りの男だった。廊下のずっと先からにもかかわらず、彼がわたしを見て青ざめたことがわかった。だが、急いでこちらにやってきて、まだ二十歩か三十歩の距離があるにもかかわらず、お辞儀をして言いはじめた。「何かお困りですか、旦那様? わたしはオディロ、ここの執事でございます。お見受けしたところ、秘密の使者でいらっしゃいますね……たぶんイナイア老の?」
「そうだ」わたしはいった。「しかし、その前に剣を返してもらいたい」
彼がテルミヌス・エストを見ていて、それを取り出してくれるとよいと思った。だが、彼はぽかんとした顔をした。
「わたしはずっと前に衛兵にここに案内されてきた。その時の話では、剣を預けなければならないということだった。だが、その使用をイナイア老が要請する前に、返してくれるということだったのでね」
小柄な男は首を振った。「いや、もし、他の従僕がそのようなことをいったとすると、役目がら、わたしに知らされているはずですが――」
「近衛兵がそういったんだ」わたしはいった。
「ああ、それに気づくべきでした。彼らはいたるところを勝手に歩き回っているのです。逃亡者が一人おりましてね。旦那様もお聞きおよびでしょうが」
「いいや」
「ベウゼックという男です。危険な人物ではないそうですが、彼ともう一人の男が木陰に隠れているのが見つかったのだそうです。このべウゼックという男が、監禁する前に猛然と飛び出して、姿を消してしまったのです。彼らはすぐに捕まえるといっていますが、さあ、どうですか。あのねえ、わたしは生まれてこのかた、ずっとこの〈絶対の家〉に住んでおりますが、ここには人目につかない奇妙な場所が――とても奇妙な場所が、ところどころにあるのですよ」
「もしかしたらわたしの剣は、そういう場所にあるのかもしれないな。見てくれるかね?」
彼は半歩後にさがった。まるで、わたしが殴ろうとして手を振り上げたかのように。「ああ、よろしゅうございます、旦那様、かしこまりました。ちょっと無駄話をしようとしただけなのですがね。たぶん、こちらにあるでしょう。どうぞ、こちらへ……」
われわれは反対側の階段の方にいった。すると、さっきは急いで探していたので、見過ごしていた扉が一つあった。段々の下側の狭い扉だった。それは白く塗られていたので、石とほとんど見分けがつかなかったのだった。
執事は重い鍵束を取り出して、その扉を開けた。中の三角形の部屋は、想像もつかないほど広くて、段々の下側のずっと先の方まで広がっており、奥の方には一種の屋根裏部屋のようなものがあり、ぐらぐらした梯子で上れるようになっていた。ランプは控の間にあったのと同じタイプのものだったが、もっと暗かった。
「見えますか?」執事が尋ねた。「お待ちください。どこかこのへんに蝋燭があったはずです。あの灯火一つだけではあまり役に立ちません。棚はあんなに暗い陰になっていますから」
わたしは彼のいうままに棚を調べていた。そこには衣類が積み上げられており、ところどころに靴、ポケット・フォーク、ペン・ケース、におい玉などが置かれていた。「わたしがほんの子供だった頃、炊事場の小僧たちがよくここの鍵をこじ開けて、中を荒らし回ったものです。それを、わたしが――良い錠前をつけて――やめさせたのです。しかし、良い品物はずっと前になくなってしまったと思います」
「この場所はなんだね?」
「もとは、請願者の持ち物の収納室でした。外套とか、帽子とか、ブーツとか――のね。このような場所はいつも、幸運な人々が帰る時に持っていくのを忘れたものでいっぱいになっています。それに、この棟はずっとイナイア老のものになっていたのです。あの方のところにはいつも、会いにきて帰っていかない人とか、入ってこなかったのに出ていく人とか、いらっしゃいますから」彼は言葉を切って、あたりを見まわした。「そのべウゼックという男を捜索する時に、兵士たちがこれらの扉を蹴倒すのを防ぐために、わたしは鍵を渡さなければなりませんでした。だから、あなたの剣もここに入れられているかもしれないと思ったのですよ。もし、そうしなかったとすれば、たぶん、衛兵所に持っていったのでしょう。まさか、これではないでしょうね?」彼は片隅から古ぼけた去勢刀《スパドーン》を引っぱり出した。
「とんでもない」
「これがここにある唯一の刀みたいですよ。衛兵所への道順をお教えしましょうか。それとも、よろしかったら、小姓を一人起こして、尋ねにやりましょうか」
屋根裏部屋への梯子はぐらぐらしていた。だが、わたしは執事から蝋燭を借りると、それを駆け上がった。そんなところに兵士がテルミヌス・エストを置くなどということは、まずありえないことだったが、自分にどんな手段が残されているか考えるために、少し時間稼ぎをしたかったのである。
上がっていくと、鼠かなにかの足音のような、かすかな物音が上から聞こえた。だが、屋根裏部屋の床のレベルの上に首と蝋燭を突き出すと、以前に、旅行中にヘトールと一緒にいるのを見たあの小男が、必死で懇願するような姿勢でひざまずいているのが見えた。もちろん、これがベウゼックだった。その姿を見るまで、わたしはその名前を思い出さなかったのである。
「上には何かありますか、旦那様?」
「ぼろに、鼠だ」
「思ったとおりでした」執事は、わたしが梯子の最後の桟から足を降ろした時にいった。「いつか自分の目で見なければならないとは思っているのですが、この年齢になると、このようなものに上る気にはなかなかならなくて。では、ご自分で衛兵所にいらっしゃいますか、それとも、小姓の一人を起こしましょうか?」
「自分でいきます」
彼は物知り顔にうなずいた。「それが一番だと思います。小姓をやったのでは剣を渡さないかもしれないし、剣があることすら認めないかもしれませんからね。ご存じでしょうが、ここは|〈厄除け地下洞〉《ヒポゲウム・アポトロパイック》[#校正1]の中です。パトロールの兵士にとがめられないためには、建物の中を通っていったほうがよいでしょう。そこで一番良いのは、わたしたちが今その下に立っているこの階段を、三つ上がって、左に行くことです。そして、回廊にそって千歩ほど回っていくと屋根のない神殿に出ます。そこは真暗で見逃すかもしれませんから、よく目を見開いて植物に注意していてください。そこを右に曲がって、さらに二百歩ほどいったところです。戸口にいつも歩哨が立っています」
わたしは礼をいい、まだ鍵を回している彼より先に出て、自分から先に階段を上っていった。そして、最初に達した踊り場から廊下に出て、上に行く彼をやりすごした。彼が充分に遠ざかると、わたしはまた階段を降りて、控の間の廊下にいった。
もしわたしの剣が実際に衛兵所のようなところに持ち去られたとしたら、こっそり忍びこむか、または暴力に訴えるかするのでなければ、とても取り戻すことはできないだろうと思われた。そして、そのどちらかを試みる前に、もっと近づきやすい場所にそれが置いてないことを、まず確かめたいと思ったのである。それからまた、ベウゼックが這ったり隠れたりしている間に、それを見かけたということもありうるので、彼に尋ねたくもあったのである。
それと同時に、控の間の囚人たちのことがとても心配になっていた。今ごろは(わたしの想像では)ジョナスとわたしが彼らのために開け放しておいた扉に気づいて、囚人たちは〈絶対の家〉のこの棟全体に散らばっているのではないかと思われた。遠からず、だれかが再逮捕されて、他の者の捜索が始まるだろうと思われた。
階段の下の収納室に着くと、わたしはべウゼックの動き回る音が聞こえるとよいがと思いながら、羽目板に耳を押し当てた。何も聞こえなかった。そっと名前を呼んでみたが、返事はなかった。そこで、肩で扉を押し開けようとした。扉はびくともしなかった。駆け寄って体当たりをくらわせるのは、音がするので恐くてできなかった。結局、ヴォダルスにもらった金具を、扉と脇柱の間になんとか割りこませて、鍵を外すことに成功した。
ベウゼックはいなくなっていた。ちょっと探すと、収納室の奥に一つの穴があり、それは井戸のようなものの中心に口を開いていることがわかった。ここから、彼は手足を伸ばすことができる広さのある場所を求めて収納室に這いこみ、またここに逃げこんだにちがいなかった。〈絶対の家〉では、このような人目につかない空間に、大昔に周囲の森林から忍びこんだ一種の白狼が住みついているということである。たぶん、彼はそれらの獣の餌食になってしまったのだろう。それ以来彼の姿を見かけないから。
わたしはその夜は彼を探さずに、収納室の扉をもとのように閉め、鍵の壊れた部分をできるだけ目立たないようにしておいた。この時初めて、廊下が対称形になっていることに気づいた。真ん中に控の間への入口があり、その両側に封鎖された扉が並んでおり、それぞれの端に階段がある。もし、この地下洞《ヒポゲウム》が(執事がいったように、またその〈|厄除け《アポトロバイック》〉という名前が示すように)イナイア老のためにとっておかれたとすると([#ここから割り注]イナイア老にはそのような能力があると信じられている[#ここで割り注終わり])、その選択は、少なくとも部分的には、この左右対称の鏡像性によると考えてよいかもしれない。もし、そうだとすれば、きっと反対側の階段の下にも、もう一つ収納室があるはずである。
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20 絵 画
問題は、なぜオディロがそこにわたしを連れていかなかったか、ということだった。わたしは落ち着いて考えもせずに、廊下を走っていった。そこに着くと、答えは明白だった。その扉はとうの昔に壊されていたのである――錠前の受け口だけでなく、扉全体が打ち壊されていて、蝶番にこびりついている二枚の色あせた木片だけが、かつてここに扉があったことを示しているばかりだった。内部の灯火は消えており、室内は暗闇と蜘蛛の棲家になっていた。
わたしは実際に向きを変えて、一、二歩あるきかけてから、はっと足を止めた。過ちの実体を理解する前に、人がしばしば経験するあのしまった≠ニいう感じがしたからである。ジョナスとわたしは午後遅くに控の間に押しこまれた。その夜、若い高貴人たちが鞭を持ってやってきた。翌朝、ヘトールが捕まり、同時にベウゼックが近衛兵の手を振り切って逃げたらしい。この近衛兵は執事にかわって地下洞を捜索するために、執事から鍵を渡されていた。この同じ執事オディロは、少し前にわたしに出会って、テルミヌス・エストが近衛兵に取り上げられたと、わたしから聞いた時に、わたしがその日の昼間に、つまりベウゼックの脱走の後に、到着したと想像したのである。
実際には、そうではなかった。それゆえ、テルミヌス・エストを持っていった近衛兵は、第二の階段の下側の鍵のかかった収納室に、あの剣を入れることはできなかったはずである。
わたしは扉の壊れている収納室にとって返した。廊下から射しこむかすかな明かりを頼りに見ると、ここにももとは、向こう側の収納室と同様に棚が並んでいたことは明らかだった。しかし今は、内部は空っぽになっていた。棚の板は何かに転用するために外されていて、棚の腕木だけが空しく壁から突き出ていた。他にはどんな種類の物も見えなかったが、同時に、検査しなければならないどんな守衛も、この埃と蜘蛛の巣の中に足を踏み入れることは喜ばなかったろうということがわかった。わたしは首を内部に差し入れる手間を省いて、壊れた扉の脇柱のあたりに手を伸ばした。すると――信じられないような、勝利と親しみの入り混じった感情とともに――自分の手が愛剣の柄を握ったのを感じた。
わたしはまた完全な人間になった。いやむしろ、ただの人間ではなく、組合の職人に戻ったのだ。そこの廊下で、鞘のポケットにあの手紙が残っているのを確かめ、それから、歩きながら輝く剣を抜き、拭い、油を塗り、また拭い、そして、指で刃の切れ味を試した。さあ、暗黒の狩人のお出ましだ。
次の目標はドルカスとの再会だった。だが、タロス博士の劇団の所在は、庭園――疑いなく、たくさんある庭園のどれか一つ――で行なわれる祭《ティアスス》で芝居をするということ以外には、まったくわからなかった。もし今、つまり夜に、外に出れば、わたしが近衛兵の姿を見ることが困難であると同様に、彼らが煤色のマントを着たわたしを見ることは、たぶん困難だろう。しかし、なんらかの助けを得られることはまずありそうにない。そして、東の地平線が太陽の下に落ちれば、前にジョナスとわたしがこの敷地に踏みこんだとたんに捕まったように、疑いなく捕まるであろう。もし、〈絶対の家〉そのものの中に留まっていれば、あの執事との経験から、わたしはだれとすれちがっても、とがめられることはないと思われる。それどころか、情報を与えてくれる人に行きあうことさえあるかもしれない。実際、だれかに出会ったら、わたし自身が祝賀のために呼ばれてきたのだと言ってみようという作戦を、思いついた(拷問が祭の出し物の一つであるということも、ないとはいえないと思ったのだ)。そして、割り当てられた寝室から出たら、迷子になってしまったといえばよい。そのようにすれば、ドルカスやその他の人々が泊まっている場所がわかるかもしれない。
こんな計画を練りながら、わたしは階段を上っていった。そして、二つ目の踊り場で廊下に出ると、そこは今まで見たことのない場所だった。控の間の前の廊下に較べてずっと長く続いていて、もっと豪華にしつらえられていた。金の額縁に入った黒ずんだ絵が壁にかかっており、壺とか胸像とか、その他、名前も知らないものが、絵の間の台に載っていた。廊下に並んでいる扉の間隔は百|歩《ペース》かまたはそれ以上も開いており、それらの内部には広大な部屋があることを示していた。しかし、全部鍵がかかっていた。そして、試しに把手を動かそうとして気がついたのだが、それらの形態や金属はわたしのまったく知らないもので、人間の手で掴むようにはできていなかった。
この廊下を少なくとも半リーグほど歩いていくと、前方にだれかが高い腰掛に坐っている(最初はそう思った)のが見えた。さらに近づくと、腰掛に見えたのは脚立であり、その上に乗っかっている老人は絵の一つを清掃しているのだとわかった。「ちょっと、失礼ですが」わたしはいった。
彼は振り向いて、当惑した様子でわたしを見下ろした。「聞いたような声だな」
その時、わたしも相手の声と顔を思い出した。管理者のルデジンドだった。ずっと前に、女城主《シャトレーヌ》セクラのために本を持ってくるように、最初にグルロウズ師から派遣された時に会ったあの老人だった。
「きみはこのあいだウルタンを探しにきたな。見つからなかったのかね?」
「いいえ、見つかりました」わたしはいった。「でも、そんなに最近ではありませんよ」
彼はこれを聞くと怒ったようだった。「今日とはいっておらん! しかし、そんなに昔のことではない。いいか、あの時に掃除していた風景画を覚えているんだ。だから、そんなに昔であるはずがない」
「わたしも覚えています」わたしはいった。「鎧兜姿の人の黄金の面頬に、茶色の砂漠が映っている絵でした」
彼はうなずき、機嫌を直した。そして、まだスポンジを手に持ったまま、梯子の端を掴んで降り始めた。「そのとおり。まさにその絵だ。見せてやろうか? とても良くなったぞ」
「ここは同じ場所ではありませんよ、ルデジンド師匠。あれは〈城塞〉の中でした。ここは〈絶対の家〉です」
老人はこれを聞き流した。「良くなったぞ……この、ちょっと先のどこかにある。あれらの古い画家たちは――デッサンでは、今日の画家どもではとても歯が立たない。もっとも、色はあせているがね。それから、言っておくが、わたしは芸術がわかる。いろいろな大郷士や高貴人が見にきて、あれこれ言うが、彼らには何一つわかっておらん。これらの絵の隅から隅まで詳しく見ているのは、いったいだれだ?」彼は自分の胸をスポンジでどしんと叩いた。それから、わたしの耳もとに口を寄せて、この長い廊下にはわれわれ以外にはだれもいないのに、ささやいた。
「さあ、彼らのだれも知らない秘密を、きみに教えてやる――それらの絵の一つはわたしなのだぞ!」
儀礼上、わたしはそれを見たいといった。
「今、探しているところだ。見つかったら教えてやる。彼らは知らん。しかし、だからこそ、それをいつも清掃しているのだ。あのね、わたしは引退したければいつでもできたんだ。しかし、こうしてまだここにいる。だれよりも長く働くんだ。まあ、ウルタンは別だがね。しかし、彼は時計皿を見ることができない」老人は長くしわがれた笑い声を立てた。
「教えていただきたいことがあるのですが。祭《ティアスス》に呼ばれた芸人たちがいるのです。彼らがどこにいるか、ご存じですか?」
「そんな噂を聞いたなあ」彼は頼りない口調でいった。「〈俳優休憩室《グリーンルーム》〉というところだ」
「連れていっていただけませんか?」
彼は首を振った。「あそこには絵はない。だから一度もいったことがない。だが、その場所の絵はある。しばらくついてきなさい。その絵を見つけて、教えてやる」
彼がマントの端を引っぱるので、わたしはついていった。
「むしろ、その場所に案内できる人のところに、連れていってもらったほうがありがたいのですが」
「それもできる。ウルタン老人が図書館のどこかに地図を持っている。あの弟子が出してくれるだろう」
「ここは〈城塞〉ではありませんよ」わたしはまた念を押した。「それにしても、どうしてここにくることになったのですか? これらの絵を清掃するために、彼らが師匠をこちらに連れてきたのですか?」
「そうだ。そうだ」彼はわたしの腕によりかかった。「何事にも論理的な説明がある。それを忘れてはいけない。そういう具合だったにちがいない。イナイア老が彼の絵をわたしに清掃させたいと思った。だからわたしはここにいるのだ」彼は言葉を切って、考えた。「ちょっと待って、間違えたぞ。わたしは子供の頃、才能があった。そう言わねばならなかったんだ。いいかね、両親はいつもわたしを励ましてくれた。そして、わたしは何時間も絵を描いていたものだ。ある天気の良い日に、家の裏で一日じゅうチョークでスケッチしていたことを覚えている」
狭い廊下が左手に口を開けた。彼はそこにわたしを引っぱりこんだ。そこは照明が悪く(事実、ほとんど真暗だった)、またひどく窮屈で、絵から適当な距離に立つこともできないほどだったけれども、主廊下のものよりずっと大きい絵――床から天井まで届き、横は両手を伸ばしたよりもはるかに長い絵――が並んでいた。わたしに見えたかぎりでは、それらはひどく拙い絵――ただのがらくたのように思われた。わたしは彼に、だれが少年時代のことをわたしに話せといったのですか、と尋ねた。
「そりゃ、イナイア老さ」彼は首を傾げてわたしを見上げていった。「だれだと思ったんだ?」
それから声をひそめていった。「おいぼれさ。皆はそういっている。イマール以来、数知れぬ独裁者の大臣をつとめてきた人だ。さあ、黙ってわたしの話を聞きなさい。それからウルタンじいさんを探してやる。
うちの家族が住んでいたところに、一人の画家――本物だぞ――が通りかかった。母はわたしが自慢の種だったので、わたしの作品のいくつかを彼に見せた。それがフェッチン、フェッチンその人だったのだ。そして彼が描いたわたしの肖像画が今日までここにかかっていて、わたしの茶色の目できみたちを眺めているのだ。わたしは数本の筆と一個の蜜柑の載ったテーブルのところに坐っている。おとなしく坐り通したら、それをくれるという約束でね」
わたしはいった。「残念ながら、今はそれを見ている時間がありません」
「こうして、わたし自身も絵描きになったのだ。そしてまもなく、偉大な画家たちの作品の復元に取りかかった。わたし自身の絵を今までに二度清掃している。あのようなわたし自身の幼い顔をねえ、きみ、自分で洗うのは奇妙なものだよ。今だれかがわたし自身の顔を洗ってくれないかと、わたしはいつも願っているのだ。そいつのスポンジで長年の塵をこの顔から取り除いてくれないかとね。しかしそれは、今きみを連れていって見せようとしている絵ではないなあ――きみが探しているのは〈俳優休憩室《グリーンルーム》〉だったな?」
「そうです」わたしは熱をこめていった。
「では、ちょうどここにその絵がある。ごらん。見れば、わかるだろう」
彼は大きな粗雑な絵の一つを指さした。それは部屋とはまったく異なるもので、庭園を描いたもののようだった。高い生垣に取り囲まれた遊園で、睡蓮の池があり数本の柳の木が風にそよいでいた。本人以外には聞く人もいないらしいのに、大平原《リヤノ》の住民風の幻想的な衣裳の男が、そこでギターを弾いていた。その人物の後ろには荒れ模様の空を横切って不気味な雲が疾走していた。
「これを見てから、図書館にいって、ウルタンの地図を見るとよい」老人はいった。
その絵は、全体を見ないとただの色の斑点に分解してしまう種類の、あのいらいらさせられる絵の一つだった。わたしは全体像をもっとよく掴もうとして、一歩後にさがり、そしてまた一歩後にさがり……
三歩さがったところで、後ろの壁にぶつかるはずだ、と気づいた。だが、ぶつかっていなかった。ぶつからずに、反対側の壁にかかっていた絵の中に立っていた。古びた革張りの椅子と黒檀のテーブルのある、暗い部屋の中に。わたしは部屋を見ようとして向きを変えた。そして振り向くと、今度はルデジンドと一緒に立っていた廊下が消えていた。そこには古く色あせた壁紙に覆われた壁が立っていた。
わたしは無意識にテルミヌス・エストを抜いたが、打ちかかるべき敵がいなかった。試しにその部屋にたった一つある扉を開けようと手を伸ばしたとたんに、それが開いて、黄色い衣を着た人物が入ってきた。背が低く、白髪を丸い額から後ろに撫で上げてあり、顔は、四十歳の小太りの女の顔といっても通用しそうだった。首には、見覚えのある張形の形のガラス瓶を細い鎖でかけていた。
「ああ」彼はいった。「だれがきたのかと思った。いらっしゃい、死神≠ウん」
わたしはできるだけ平静を装っていった。「わたしは職人セヴェリアンです――ごらんのとおり拷問者組合の者です。ここに入ったのは、まったくわたしの意志ではないのです。本当のところ、どうしてこんなことになったのか、説明していただけるとありがたいのですが。外の廊下にいた時には、この部屋はただの絵にしか見えませんでした。ところが、反対側の廊下の壁の絵を見ようとして、一、二歩後ずさりしたら、ここに入ってしまっていたのです。どんな術で、こんなことになったのでしょう?」
「術ではない」黄色い衣の男がいった。「隠し扉は必ずしも独創的な発明とはいえない。それに、この部屋の工事者は開いている扉を隠す方法を考案しただけだ。ごらんのとおりこの部屋は浅い。事実、今、きみが感じているよりももっと浅い。もっとも、床と天井の角度が収斂しており、奥の壁はきみが入ってきた壁ほど高くないということを、きみがすでに知っていれば話は別だがね」
「なるほど」事実、合点がいった。彼がそういうと、その歪んだ部屋は――いつも正常な部屋に親しんでいる心がトリックに引っかかって、それを正常な形だとわたしに信じさせていたのだが――傾いた不等辺四辺形の天井と不等辺四辺形の壁のある本来の姿を現わした。わたしが入ってきた壁に面する椅子そのものが、ほとんど奥行きのないもので、人が坐ることはできそうもなかったし、テーブルもトランプのカードの幅くらいしかなかった。
「絵を見る時に、目はこのような収斂線にごまかされる」黄色い衣の男は続けた。「それで、目は現実に、実際の奥行きがあまりなくて、人工的に単色照明を当てたそういう線に出会うと、また絵を見ていると錯覚してしまうのだ――特に、本物の絵がずっと並んでいるのを見て、条件づけられている場合には。きみはその大きい武器を持って入ってきたので、本物の壁がきみの後ろにせり上がり、身体検査がすむまで拘留することになったのだ。その壁の反対側に、きみが見たと信じている絵が描かれていることは、言うまでもない」
わたしはこんなに驚いたことはなかった。「でも、わたしが剣を持っていると、部屋はどうして知ることができるのですか?」
「それはもっと複雑で、わたしにはうまく説明できない……この貧弱な部屋よりも、もっとずっと複雑なことだから。その扉は金属繊維で包まれていて、他の金属や、その金属の兄弟姉妹がその輪の中を通過するとわかる、としか、わたしにはいえない」
「あなたがこれを全部作ったのですか?」
「いや、とんでもない。これら全部と……」彼は言いよどんだ。「そして同様のものがほかに何百もあって、いわゆる〈|第二の家《セカンドハウス》〉を形成している。これらは、初代の独裁者によって、〈絶対の家〉の壁の内部に秘密の宮殿を造り出すように要請されたイナイア老の仕事なのだ。きみやわたしだったら、きっとただの秘密の|続き部屋《スイート》しか作らなかったろうがね。彼はその秘密の家が、必ず公《おおやけ》の家と共存するように工夫したのだよ」
「でも、あなたは彼ではありませんね」わたしはいった。「もうあなたがだれかわかりましたよ! わたしを知っていますか?」わたしは顔が見えるように仮面を脱いだ。
彼はにっこり笑っていった。「きみは一度だけきたね。では、あの| 影 《カーイビット》([#ここから割り注]投影者の外部の魂である影[#ここで割り注終わり])は気に入らなかったのだね」
「彼女が代役を務めていた本物の人よりも、彼女は気に入りませんでした――いや、むしろ、わたしはもう片方の人に恋していたんです。今夜、一人の友人を失いました。しかし、今夜は昔の知り合いに出会う時みたいですね。あなたはあの〈紺碧の家〉から、どうやってここにきたのですか? 祭《ティアスス》に呼ばれたんですか? 今夜早くに、おたくの女性の一人に会いましたよ」
彼は曖昧にうなずいた。この奇妙な、奥行きのない部屋の片側の中柱の上に、奇妙な角度で取りつけられている鏡に、彼のカメオのようにデリケートな横顔が映った。それを見てわたしは、この人物は両性具有人《アンドロジン》にちがいないと判断した。そして、彼が歓楽街《アルジェドニック・クォーター》の店で、夜ごとに男たちに扉を開いていることを思うと、やりきれない気持ちとともに憐れみの情が湧き上がった。
「そう」彼はいった。「わたしは祝賀会の間ここに留まっていて、それから帰る」
わたしの心は、外の廊下でルデジンド老人が見せてくれた絵のことでいっぱいになった。それでいった。「では、その庭園がどこにあるか教えてくれますね」
この時、彼がおそらく何年ぶりかで不意を突かれたと、わたしは見抜いた。その目には苦痛の色が宿り、その左手は(ほんのわずかに)喉の瓶に向かって動いた。「ではきみはあのことを聞いているのか……」彼はいった。「たとえ、わたしが道を知っているとしても、それをなぜきみに教えねばならぬ? もし海の大船が陸地を見たら、あの道を通って逃げようとする者がたくさん出るだろう」
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21 水占い
何秒かたってから、この両性具有人《アンドロジン》がいったことが正しく理解できた。そして、セクラの焼肉の胸が悪くなるような甘い香りの記憶が鼻孔に蘇り、木の葉のそよぎが感じられるように思われた。この瞬間の緊張感のために、わたしは、この錯覚だらけの部屋の中でそんな用心をしても無駄だということを忘れて、だれか立ち聞きしてはいないかと、あたりを見回した。それから、そんな意志はないのに(意識の上では、自分とヴォダルスとの関係を知らせる前に彼に尋ねるつもリでいたのである)手が勝手に動いて、図嚢《サパタッシュ》の一番奥の仕切りから、あのナイフ形の金具を取り出していた。
両性具有人は微笑した。「やはりそうだったか。もう何日も前からきみがくるのを待っていたのだ。そして、外のあの老人やその他大勢の者に、それらしいよそ者がきたら、わたしのところに連れてくるように命じておいたのだ」
「控の間に幽閉されていたんですよ」わたしはいった。「だから、時間が無駄になったんです」
「だが、脱走した、らしいね。わたしの部下が探しにいかないうちに釈放されることは、まずないだろう。しかし、脱走してよかった――もう時間があまりないのだ……祭《ティアスス》の三日間が過ぎたら、わたしは帰らねばならない。さあ、おいで。〈庭園〉へいく道を教えよう。もっとも、きみが入場を許されるかどうか、まったくわからないがね」
彼は自分が入ってきた扉を開いた。そして、今度はそれが本当に長方形でないことがわかった。その先の部屋は、今までの部屋よりもほとんど広いとはいえないくらいだったが、角度は正常に見え、豪華にしつらえられていた。
「少なくともきみは〈秘密の家〉の正しい場所にやってきた」両性具有人がいった。「さもなければ、退屈な道を歩かなければならなかった。では失礼して、きみの持ってきたメッセージを読ませてもらうよ」
彼は部屋を横切って、わたしが最初、表面にガラスのはまったテーブルだと思った物のところにいき、その下の棚に金具を置いた。たちまち明かりが閃いて、ガラスから下を照らした。だが、その上には明かりはなかった。金具は剣に見えるほど大きくなった。そして、火打石を打ちつけて火花を出す歯のところに縞模様があり、それが流れるような筆跡の線だとわかった。
「後ろにさがっていなさい」両性具有人がいった。「これを前に読まなかったのなら、今読んではいけないのだ」
わたしはいわれたとおりにした。そして、ヴォダルスの森の空き地から持ってきた小さい物体の上に彼が屈みこんでいるのを、しばらく眺めていた。やがて彼はいった。「では、どうしようもない……両面作戦でいくしかないな。といっても、これはきみとはなんの関係もないがね。あそこに、日食の絵が扉に彫刻してあるキャビネットがあるだろう? あれを開けて、中の本を降ろしなさい。そしてこのスタンドの上に置くがいい」
わたしはなんとなく罠の匂いを感じたが、指さされたキャビネットの扉を開けた。中にはものすごく大きな本が入っていた――高さはほとんどわたしの身長ほどもあり、幅はたっぷり二キュビットもあった――それが斑点のある青緑色のなめし革の表紙を見せて立っていたのだが、その様子はまるで、縦型の棺桶の蓋を開けて、死人と対面したような感じだった。わたしは剣を鞘に収めると、その巨大な書物を両手で抱いて、スタンドの上に置いた。両性具有人は、これを前に見たことがあるかと尋ねた。わたしはないと答えた。
「これを恐がっているように見えたぞ。それに運ぶ時には、顔を背けようとしていた……ように見えた」彼はそういいながら表紙を開いた。現われた最初のページには、赤い、わたしの知らない文字が書かれていた。「これは道を探す者への注意書きだ」彼はいった。「読んで聞かせようか?」
わたしはうっかりいってしまった。「なめし革にくるまれた死人を見たような気がしたんです。しかも、その死人がわたし自身のように思われたんです」
彼は表紙を閉じて、その表面を手で撫でた。「孔雀色の染めはずっと昔の職人の仕事にすぎないし……その下の線や渦巻きは、犠牲になった獣の背中の傷にすぎない。ダニの喰い跡や鞭の跡だ。しかし、恐いなら、行く必要はない」
「開いてください」わたしはいった。「地図を見せてください」
「地図はない。これがそのもの[#「もの」に傍点]自体だ」彼はそういいながら表紙を開き、最初のページもめくった。
わたしは目がくらんだ。まるで、闇夜に稲妻を見たようだった。中のページは、叩き伸ばされ、磨き上げられた純銀のようで、室内のほんのわずかな光も捕えて、それを百倍にも増幅して反射するように思われた。「鏡ですね」わたしはいった。そして、そういいながら、違うと覚った。しかし、このようなものを一刻足らず前にジョナスを星界に帰したこのようなものを――表現するには、われわれには鏡≠ニいう言葉しかない。「でも、どうしてこれらは力《バワー》を持つことができるのですか? たがいに向きあっていないのに」
両性具有人は答えた。「どんなに長い間、本が閉じられていて、ページがたがいに向きあっていたか考えてごらん。だから今、フィールドはわれわれが負荷する緊張に、しばらくの間は耐えるのだよ。行きなさい、あえてやる気があるなら」
あえてやったわけではなかった。だが、彼がそういうと、開かれたページの上の光り輝く空中に、何物かが出現した。それは女でもなく蝶でもなく、その両方の性質をあわせ持っていた。そして絵の背景に山が描かれているのを見れば、実際には島のように巨大だとわかるように、わたしはそれをずっと遠方から見ていると知った――それは羽ばたいて宇宙のプロトンの風を打ち、ウールス全体はその動きに揺り動かされる一個の微塵にすぎないと思う。それから、わたしがそれを見たように、それがわたしを見た。ちょうど、さっき両性具有人が拡大鏡を通してあの金具に書かれた渦巻きや円環のような文字を見ていたように。それは動きを止め、わたしの方を向き、わたしに見えるように翼を広げた。それには目がついていた。
両性具有人はまるで扉をぴしゃりと閉じるように、本を閉じた。「何を見た?」彼は尋ねた。
もうぺージを覗きこまなくてもよくなった、としか頭が働かなかった。そして、わたしはいった。「ありがとうございました。あなたがどなたであろうと、今から後は、あなたの僕《しもべ》になります」
彼はうなずいた。「いずれ、それを念押しすることになるかもしれない。しかし、何を見たか二度と尋ねることはないだろう。さあ、額を拭きなさい。きみにこの情景のしるし[#「しるし」に傍点]がついてしまった」
彼はそういいながら綺麗な布をわたしに渡した。わたしはいわれるままに、それで額を拭った。なぜなら、液体が顔を流れ落ちるのを感じたからである。布を見ると、血で真赤になっていた。
彼はわたしの心を読んだかのように、いった。「傷ついたわけではない。医者の用語でいえば、たぶん血液浸出《ヘマテイドロシス》だ。強い感情的ストレスを受けると、苦しめられた皮膚の部分の……時には、あらゆる場所の皮膚の……毛細血管が、おびただしい発汗の途中に破裂するのだ。打ち身のようなうっとうしい跡が残るかもしれないな」
「なぜこんなことをなさったのですか?」わたしは尋ねた。「地図を見せてくださると思ったのに。外のルデジンド老人の呼び方に従えば、〈俳優休憩室《グリーンルーム》〉を教えてもらいたいと思っただけですのに。そこに俳優たちが寝起きしているんですよ。ヴォダルスのメッセージが、持参者を殺せとでも命じているのですか?」わたしはそういいながら剣を手探りした。だが、その握り慣れた柄に手が触った時、剣を抜くことができないほど体力が弱っていることがわかった。
両性具有人は笑った。それは最初、女性と少年の中間で揺れている愉快そうな笑い声だったが、しまいに、男の酔っ払いが時々やるような、くすくす笑いになって終わった。セクラの記憶がわたしの中で動き、ほとんど目覚めたといってもよい状態になった。「きみが望んでいたのはそれだけか?」彼は自制力を取り戻していった。「きみが求めたのは蝋燭のための火だったのに、わたしは太陽を与えようとしたのだ。そうしたら、あんなふうに火傷してしまった。悪いのはわたしだった……たぶん、わたしは自分の時間を先に伸ばそうとしていたのだろう。だが、それにしても、メッセージできみが〈鉤爪〉を持っていることを読まなかったら、それほど遠方にいかせはしなかったろうに。今は心から悪かったと思っているが、どうしても笑わずにはいられないのだよ。〈俳優休憩室《グリーンルーム》〉を見つけたら、その後はどこにいくつもりかね、セヴェリアン?」
「あなたがいけとおっしゃるところへ。思い出させてくださったように、わたしはヴォダルスに仕える誓いを立てています」(実は、わたしは彼が恐かったのだ。また、もし不服従を告白すれば、この両性具有人が彼に通報するだろうと思い、それも恐かった)
「だが、もし、わたしが何も命令しなかったらどうする?〈鉤爪〉はすでに捨てたのかね?」
「捨てることができませんでした。」わたしはいった。
彼はしばらく黙っていた。
「スラックスに行きます」わたしはいった。「あそこの執政官への書簡を持っているのです。彼がわたしに仕事を与えてくれることになっています。組合の名誉のために、あそこにいきたいのです」
「それはよい。実際のところ、きみのヴォダルスへの愛情はどれほど強いのかね?」
ふたたび、わたしは手に斧の柄を感じた。諸君の記憶は消えると聞いているが、わたしの記憶はめったに薄れることはない。あの夜、共同墓地を屍布のように包んでいた霧が、ふたたび顔を撫でた。そして、ヴォダルスからあのコインを受け取り、彼がわたしの手の届かないところにいってしまうのを見送ったことを思い出し、その時に感じたすべてが、今ここに蘇った。「前に彼の命を救ったんですよ」わたしはいった。
両性具有人はうなずいた。「では、こうしなさい。きみは計画どおリスラックスにいって、みんなに……自分自身にも……告げるのだ。そこできみを待っている地位につくつもりだと。〈鉤爪〉は危険だぞ。そのことは知っているか?」
「はい。ヴォダルスはこういいました。もしわれわれがそれを持っていることを知られたら、大衆の支持を失うかもしれないと」
しばらくの間、両性具有人はまた黙って立っていた。それから、いった。「ペルリーヌ尼僧団は北にいる。機会があれば、〈鉤爪〉を彼女らに返さねばならない」
「そうしたいと望んでいたのです」
「よろしい。もう一つ他にしなければならないことがある。独裁者はここにいる。だが、きみがスラックスに着くずっと前に、彼も軍隊を引き連れて北にいっているだろう。もし彼がスラックスの付近にきたら、きみは彼のところにいくことができる。そして彼の命を取らなければならなくなるが、その方法はいずれわかるだろう」
彼の口調は、セクラの思考と同様に、彼の正体を暴露した。わたしはひざまずきたかった、だが、彼が手を叩くと、腰の曲がった小男がすーっと静かに部屋に入ってきた。小男は修道士の制服のようなフードつきの衣服を着ていた。独裁者は彼に話しかけたが、わたしはあまりにも気が動転していたので、なんといったか理解できなかった。
世界じゅうで、〈予言の泉〉の無数の水滴を透して見る夜明けの太陽の姿ほど美しいものはあまりない。わたしは唯美主義者ではないが、その水滴の踊りを初めて見たことが(噂はしばしば聞いていた)気つけ薬の役目を果たしたにちがいない。あの時のことは、いまだに楽しい気分で思い起こされる。フード付きの衣服をきた従僕が――〈第二の家〉の工夫された廊下をえんえんと何リーグも歩いたあげくに――扉を開けてくれた時、わたしは初めてそれを見て、銀の流れが太陽の円板に表意文字を描くのを眺めたのであった。
「まっすぐ前方です」フードをかぶった姿がつぶやいた。「〈樹木の門〉をくぐって道なりにいってください。俳優たちの中にいれば安全です」後ろで扉が閉まり、草の生えた小山のスロープになった。
わたしは泉の方によろよろと進んでいった。風に吹き飛ばされるその飛沫が快く肌にあたり、さっぱりした気分になった。周囲は波模様に舗装されていた。わたしはしばらくそこにたたずんで、踊る水の形で未来を占おうとして見つめていた。それから結局、|図 嚢《サパタッシュ》をまさぐって賓銭を探した。近衛兵に有り金残らず取られていた。しかし、まだ残っている少しばかりの所持品(テルミヌス・エストのためのフランネル、砥石のかけら、油の瓶。自分のための櫛、茶色の本)の間を探っていると、足下の緑色のブロックの間に一枚のコインがはさまっているのが目に入った。
ちょっと苦労しただけで、それを引き出すことができた――一枚のアシミ貨幣。ひどく磨減していて刻印の跡がかすかに残っている。わたしは願い事を小声でいいながら、それを泉の真ん中に放りこんだ。噴水がそれを受け取って空に投げ上げた。貨幣は一瞬きらめいて落下した。わたしは水が太陽を背景に描く文様を読みはじめた。
剣。これはよくわかると思う。わたしは拷問者を続けるということだ。
それから薔薇、その下に川。わたしは計画どおりギョルをさかのぼる。なぜなら、それがスラックスへの道だから。
今度は怒濤、それがすぐに長く緩やかなうねりになる。たぶん、海だ。しかし、川の水源に向かっていっても海には着かない、とわたしは思う。
一本の棒、椅子、おびただしい塔。もともとわたしは泉の託宣能力をさほど信じていなかったが、ここで完全にインチキだと思いはじめた。わたしは背を向けた。だが、その瞬間に、たくさんの突起のある星の形がぐんぐん大きくなるのが、ちらりと目に入った。
わたしは〈絶対の家〉に戻って以来、二度〈予言の泉〉を訪れている。一度は、初めてこれを見たのと同じ扉を通ってそばにいった時、日の出の光で見た。しかし、二度と質問をする気にはならなかった。
わたしの従者は例外なく、この泉に、庭園に客がいなくなった時にオリカルク貨幣を投げこんだことがあると告白しているが、その賽銭に対して正しい予言を得たことは一度もないと、皆いっている。しかしわたしは、見物人にその人の将来を予言して追い払っていたあの緑人を思い出すと、断定的なことはいえなくなる。あれらの従者は、皿や花や呼鈴の寿命だけを見て、それを退けたのではないだろうか? また同様に、クリソス貨幣を大捌みにして投げこんだにちがいない大臣たちにも尋ねたが、彼らの答えは疑わしく、混乱していた。
泉とその美しく謎めいたメッセージに背を向けて、古い太陽に向かって歩いていくのは、実際つらかった。太陽は地平線が沈むと、巨人の顔のように大きく暗赤色に見えた。それを背景に敷地のポプラが影絵のように見え、このギョルの西岸の隊商宿《カーン》の屋根の〈夜〉の像が思い出された。それは、水浴びから帰る時に、しばしば太陽を背景にして影絵のように見えたものであった。
今は〈絶対の家〉の境界線からはるか奥に入りこんでいて、外縁部を守るパトロールからずっと離れていることも知らずに、わたしはいつなんどき呼び止められて、控の間に投げ戻されるかもしれないと恐れていた――今ごろはあの秘密の扉も発見されて、封鎖されたにちがいないと確信していたのである。しかして、そのようなことは起こらなかった。見えたかぎりでは、自分自身を除いては、何リーグも続く生垣、ビロードのような芝生、花やちょろちょろ流れる水のあいだに動くものはなかった。わたしの背丈よりもはるかに高い百合の花が、その星形の顔に溜った露をきらきら光らせて、上から小道を覗きこんでいた。小道の表面は完全に平らにならされていて、後ろには、自分の足が乱した跡が残っているだけだった。夜鶯《ナイチンゲール》――放されているものも、木の枝に吊された金の籠に入っているものもある――がまだ鳴いていた。
一度、前方にあの歩く彫刻の一つが見え、古い恐怖の感情が蘇った。そいつは人間にしては(人間ではないが)あまりに優雅で動作ののろい巨人のように、あたかも何か不思議な行列聖歌の音符につれて動いているかのように、小さな目立たない芝生の上を横切ってきた。白状するが、わたしはそいつが通り過ぎるまで、物蔭に隠れていた。そして、そうしていることをそいつが感知しないだろうか、また、そうしていることをとがめはしないだろうか、と考えていた。
〈樹木の門〉を見つけることに絶望したまさにその時に、〈門〉が見えた。間違いなかった。下手な植木屋でさえ梨の木を壁に押しつけて垣根仕立てにするものだが、何世代もかけて自分たちの仕事を完成させる〈絶対の家〉の偉大な植木職人たちは、樫の木の枝に手を加えて、小枝の一本一本が完全に建築的霊感に従うまでに、造型していた。そして、ウールスで最大の宮殿の、石ころ一つ転がっていない屋上を歩いていたわたしは、この生きた樹木を石を彫るようにして造られた偉大な緑色の入口が、片側にそそり立っているのを見たのであった。
そこでわたしは走った。
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22 化身たち
露が滴っている〈樹木の門〉の広いアーチを走り抜けると、広い草地に出た。そこには今やさまざまなテントがきらめいていた。どこかでメガテリウム([#ここから割り注]河馬ほどの大きさの絶減したナマケモノ[#ここで割り注終わり])が吠え、鎖を揺すった。他には物音はしないようだった。わたしは立ち止まって耳を澄ました。すると、もうわたしの足音で邪魔されなくなったメガテリウムは、その種族独特の死のような眠りに戻った。草木の葉に露が流れる音や、かすかな、跡絶えがちな小鳥のさえずりが聞き取れた。
他にも何か聞こえた。かすかなパシッ、パシッという音が、細かく不規則に聞こえていたが、それは耳を澄ましていると次第に大きくなってきた。わたしはその音の方に向かって、静かなテントの間の道を縫って歩きはじめた。しかし判断を誤ったらしく、タロス博士のほうが先にわたしを見つけた。
「わが友よ! わがパートナーよ! みんな眠っているぞ――きみのドルカスも、他の者たちもね。起きているのはきみとわたしだけだ。こっちだ!」
彼は喋りながら杖を振り回した。パシッ、パシッというのはそれが花の頭を叩き落とす音だった。
「ちょうど間に合ったな。どんぴしゃりだ! われわれは今夜、芝居をする。きみの代わりに、ここのだれかを雇わねばならないところだった。きみがきてくれて嬉しい! きみにはいくらか借金があるし――覚えているかね? たいした額じゃない。ここだけの話だが、あれは贋金だと思う。しかし、借金は借金だ。そして、わたしは必ず支払うのだ」
「覚えがないけどなあ」わたしはいった。「だから、たいした金額じゃないはずだ。もしドルカスが無事でいるなら、そちらは喜んで帳消しにするよ。ただし、食べ物と、一、二刻の間、眠る場所を与えてくれればの話だがね」
博士の尖った鼻が、一瞬、残念そうに下を向いた。「他の者が目を覚ますまで、眠りは十分にとることができる。しかし、残念ながら、食べ物はないのだよ。きみも知ってのとおり、バルダンダーズが火事のように食うのでね。祭《ティアスス》の世話役が今日みんなに食べ物をもってくると約束した」彼はでこぼこのテント村に向けて漠然と杖を振った。「しかし、早くても午前のなかば以前ではないと思う」
「それでもいい。ぼくは過労で食欲もないくらいだから。では、横になれる場所を教えてくれれば――」
「その額はどうしたんだ? まあいい――ドーランでごまかせるだろう。こっちだ!」かれはわたしの前をすでに早足に歩きだしていた。その後について、迷路のようなテント・ロープの間を通っていくとヘリオトロープ色のドームに着いた。戸口にバルダンダーズの手押車があり、ついにふたたびドルカスを見つけたという実感がこみあげた。
目が覚めると、はなればなれになっていたのが嘘のような気分だった。ドルカスのデリケートな美しさは変わっていなかった。ジョレンタの輝きがそれを陰に追いやるのも、今までどおりだった。しかし、三人一緒になると、わたしはジョレンタがどいて、ドルカスの上に目を止めておくことができるようにしてくれればよいのにと思った。皆が目覚めて一時間ほどすると、わたしはバルダンダーズを脇に呼び、なぜおまえは〈憐れみの門〉の先の森の中に、わたしを置き去りにしたのかと尋ねた。
「おれはあんたと一緒じゃなかった」彼はのろのろといった。「タロス博士と一緒だった」
「ぼくだってそうだ。二人で彼を探し、助けあうこともできたろうに」
長いためらいがあった。わたしはこちらの顔にかかる彼の鈍い目玉の重さを感じるように思った。そして、もしバルダンダーズにエネルギーと怒る意志があったら、どんなに恐ろしいことになるだろうと、知らないなりに思った。やっと彼がいった。「町を出た時、あんたはおれたちと一緒だったか?」
「もちろんだ。ドルカスもジョレンタもぼくも、みんな一緒だったじゃないか」
また、ためらい。「じゃ、あそこであんたを見つけたんだな」
「そうだよ。覚えていないのか?」
彼はのろのろと首を振った。そして、わたしは彼のぼさぼさの黒髪に白髪が混じっているのに気づいた。「ある朝、目が覚めたら、あんたがいた。おれ考えていた。あんたすぐいなくなったと」
「あの時は状況が違う――ぼくらはまた会おうと約束したんだぞ」(その約束をまったく守る意志がなかったことを思い出して、わたしの良心が疼いた)
「おれたちはまた会った」バルダンダーズがぼんやりといった。それから、この返事がわたしを満足させなかったと気づいて、つけ加えた。「ここではタロス博士しか、おれにとって確かな人はいないんだ」
「きみの忠誠心は見上げたものだな。しかし、彼は、きみだけでなくぼくとも一緒にいたがったことを、思い出してくれてもよさそうなものだ」このぼんやりした優しい巨人に腹を立てることは不可能だと、わたしは覚った。
「おれたち南部のここで金を集める。そして、彼らが忘れてしまった頃、また家を建てる。前に建てたみたいに」
「ここは北部だぞ。だが、そうか、きみたちの家は壊れたんだったな?」
「焼けたんだ」バルダンダーズはいった。その目の中にまるで火事の炎が映っているような感じだった。「きみがつらい目に会ったのなら、気の毒だったな。なにしろ、ぼくはあまり長いこと城や自分の仕事のことばかり考えてきたのでね」
そこに坐っている彼を残して、わたしは劇団の道具類を調べに出かけた――といっても、その必要があったわけでもなく、最もわかりきった不足以外は、わたしにわかるわけがなかったけれども。ジョレンタの周囲に大勢の芸人が集まっていた。タロス博士はそれらを追い払い、彼女にテントの中に入れと命じた。まもなく、彼の杖が肉を打つ音が聞こえた。そして彼がにやにやしながら、それでもまだ怒りながら出てきた。
「彼女が悪いんじゃない」わたしはいった。「あの器量ではしかたないだろう」
「派手すぎる。いかにも派手すぎる。きみのどこがわたしの気に入ったか、知っているかい、セヴェリアン君? きみがドルカスに魅かれているからだ。ところで、彼女はどこにいった? きみがここに戻ってから、彼女の姿を見かけたかね?」
「いっておくが、博士、彼女を殴らないでくれよ」
「そんなことは夢にも思わない。ただ、彼女が迷子になったのではないかと心配しているだけだ」
彼の驚いた表情が、真実を語っているとわたしを納得させた。わたしは彼にいった。「ぼくらはちょっと話をしたいだけなんだ。彼女は水を取りにいったんだよ」
「よく思いきったものだ」彼はいった。わたしが不審そうな顔をすると、つけ加えた。「彼女は水を恐がる。きっときみも気づいていると思うが。彼女は身綺麗だ。しかし、体を洗う時でさえも、水をほんの親指の深さくらいしか取らない。橋を渡る時なんぞ、ジョレンタにしがみついて震えるんだぞ」
やがてドルカスが戻ってきた。そして、博士がそれ以上何かをいったとしても、わたしの耳には入らなかった。この朝、彼女とわたしが出会った時、どちらも微笑をして、信じられないように手で触れあう以上のことはしなかったのだ。今、彼女はわたしのところにやってくると、持っていたバケツを下ろし、食い入るような目でわたしを見つめた。「恋しかったわ」彼女はいった。
「あなたがいなくて、とても淋しかったのよ」
他人がわたしを恋しがることもあると思うと、おかしくなった。そして、煤色のマントの端を持ち上げた。「これが恋しかったのかい?」
「死≠、というのね。死を恋しがったかって? いいえ、あなたをよ」彼女はわたしの手からマントを掴み、それを使って、〈俳優休憩室《グリーンルーム》〉の壁の一つを形成しているポプラの並木の方に、わたしを引き寄せた。「ハーブ畑のところにベンチを見つけたの。さあ、あそこに坐りましょう。こんなに長いこと離れていたんだから、少しの間二人だけでいても、皆は大目に見てくれるわ。最後はジョレンタが出てきて水を見つけるでしょう。どうせ水は彼女のためにあるんだから」
テント村の騒ぎ――そこでは曲芸師がナイフを投げたり、子供にアクロバットをさせたりしていた――から離れるとすぐに、われわれは庭園の静けさに包まれた。それらの庭園は、人間の目に見えない庭師が働いている自存神《インクリエート》の庭園であるあの荒野を別にすれば、美を求めて設計され植樹されている最大の面積の敷地といえるだろう。重なりあった生垣が狭い扉の役目をしていた。そこを通ると、太い枝に香りの良い白い花をつけている木の林に入った。そこは、近衛兵がジョナスとわたしを引きずって通っていったあの李《すもも》畑を思い出させ、わたしは悲しくなった。もっとも、あの林は装飾のために植えられたものらしかったが、今度のは果物を取るために植えられたもののようであった。ドルカスは一ダースばかりの花のついた小枝を折り取って、その白に近い金色の髪に差した。
この果樹園の先に一つの庭園があった。そこは世話をする下働きの人以外のあらゆる人に、忘れ去られているにちがいないと思われるほど古びていた。そこの石のベンチには人の首が彫刻されていたが、それらは磨滅して、目鼻立ちはほとんどわからなくなっていた。単純な花の畑が少しばかり残っていた。そして、それらとともに香りの良い調理用のハーブの畝《うね》が何列かあり――ローズマリー、アンゼリカ、ミント、バシル、ヘンルーダなどが、数えきれない年月の労働によってチョコレート色に黒ずんだ土に植わっていた。
また、小川が流れていた。ドルカスはここで水を汲んだのだろう。その水源はかつては噴水であったらしい。しかし今は、ただの泉みたいなものになっていて、浅い石盤の中に水が湧き出し、縁から溢れ落ち、結局、粗末な石細工で縁取りした小さな水路を通ってくねくねと流れていき、果樹を灌漑するようになっていた。われわれはその石のベンチに腰を降ろした。わたしがその腕に剣を立てかけると、彼女はわたしの両手を握った。
「わたし恐いの、セヴェリアン」彼女はいった。「とても恐ろしい夢を見るのよ」
「ぼくがいなくなってからかい?」
「ずーっとよ」
「並んで野宿した時に、きみはいったっけね。良い夢から覚めたって。すごく細かくて、生々しい夢だったって」
「それが良い夢だったとしても、もう忘れてしまったわ」
彼女が、壊れた噴水から流れ落ちる水から意識的に目をそらしているのに、わたしはすでに気づいていた。
「毎晩、商店の並んだ街路を歩いている夢を見るの。わたしは楽しくて、少なくとも満足しているのよ。使うお金はあるし、買いたいものの長いリストがあるの。わたしは何度も何度もそのリストを心の中で読みかえして、この町のどの地区にいけば、それらの品物の最も品質の良いものを、一番安く買えるか、思案するのよ。
でも、店から店に回っていくうちに、わたしを見るすべての人がわたしを憎み、蔑んでいることが、だんだんわかってくるの。そして、その理由は、わたしが女の体をまとっている忌まわしい精霊だと、人々が信じているからだとわかるの。結局、わたしはある老人と老婆がやっている小さな店に入るの。老婆はレースを編んでおり、老人はわたしのために商品をカウンターの上に並べるの。後ろで、彼女がレースに通す糸の音が聞こえるのよ」
わたしは尋ねた。「きみは何を買いにきたんだい?」
「小さな服よ」ドルカスはその小さな白い手を上げて、半スパンほどの幅を示した。「たぶん、お人形の着物ね。細い毛糸の小さなシャツを特によく覚えているわ。結局、わたしは一つを選んで、老人にお金を渡すの。でも、それは全然お金ではなくて――ひと塊りの汚物なのよ」
彼女の肩が震えていた。わたしは慰めようとして、その肩を抱いた。
「それから、力いっぱい叫びたいと思うの。人々は間違っている、わたしはみんなが考えているような悪霊ではないってね。でも、もしそうすれば、わたしが何を言っても、それが、彼らが正しいという決定的な証拠だと受け取られることは、わかってるのよ。そして、言葉が喉に詰まってしまうの。一番いやなのは、ちょうどその時に、糸のしゅっしゅっという音が止まることなのよ」彼女はまたわたしの空いているほうの手を取った。そして今や、彼女の言いたいことをわたしの中に押しこもうとでもするように、その手をぎゅっと握った。「同じ夢を見た人でなければ、とてもこの気持ちは理解できないわ。でも、恐ろしいの。恐ろしいのよ」
「もうぼくが戻ってきたから、きっとその夢も終わりになるだろうよ」
「それから、わたし眠るの。いや、少なくとも暗黒の中に落ちるの。もし、それから目覚めなければ、次の夢が待っているのよ。わたしは小舟に乗って、竿を使って幻のような湖を渡っていくの――」
「少なくとも、それには不思議な点はない」わたしはいった。「きみは、アギアやぼくと一緒にそういう舟に乗ったじゃないか。ヒルデグリンという男の舟だった。きっと、きみはあの時のことを思い出したんだよ」
ドルカスは首を振った。「あの舟ではなくて、もっとずっと小さい舟なのよ。老人が竿でそれを動かしていて、わたしはその足下に横たわっているの。目は覚めているけれど、体が動かないの。腕は黒い水の中に垂れているの。舟がちょうど岸に着きそうになった時に、わたしは舟から落ちるのよ。ところがその老人は気がつかないのね。そして、わたしがそこにいることを老人がまったく知らないことを、わたしは知りながら、水の中に沈んでいくの。まもなく真暗になり、とても冷たくなるの。ずっと上の方で、愛する声がわたしの名を呼んでいるのが聞こえるの。でも、それがだれの声か思い出せないのよ」
「それはぼくの声だ。起きろと、きみを呼んでいるんだ」
「たぶんね」〈憐れみの門〉でドルカスについた鞭の跡が、その頬に烙印のように燃えた。
しばらく、われわれは口をきかずに坐っていた。今は|夜 鶯《ナイチンゲール》は鳴いていなかった。だが、木という木でムネアカヒワがさえずっていた。そして、真紅と緑のお仕着せを着た小さなメッセンジャーのような一羽のおうむが、木の枝の間にひらめいた。
やっとドルカスがいった。「水って、なんて恐ろしいものなんでしょう。あなたをここに連れてくるんじゃなかったわ。でも、この近くでいくところといえば、ここしか思いつかなかったんですもの。あちらの木の下の草に坐ればよかったわ」
「なぜ水を嫌うのかね? ぼくには美しく思われるがなあ」
「それは、この日なたにあるからよ。でも、水の本性は、下へ下へと永久に下って、光から離れていくことにあるわ」
「しかし、また上に昇るんだよ」わたしはいった。「春に見る雨は、前の年に下水を流れたのと同じ水なんだよ。とにかく、そんな具合に、マルルビウス師に教わった」
ドルカスの微笑が星のようにきらめいた。「そう信じるといいわね。それが本当かどうかはともかくとして。セヴェリアン、あなたはわたしが知っている最善の人だと、わたしが言うのは馬鹿げているわね。なぜなら、あなたはわたしが知っている唯一の人だから。でも、仮に千人の他の人に会ったとしても、やっぱりあなたが最高よ。それをあなたに言いたかったの」
「もし、ぼくの保護が必要なら、任せておきたまえ。わかっているだろ」
「そういうことではないのよ」ドルカスはいった。「ある意味で、わたしがあなたを保護してあげたいのよ。こう[#「こう」に傍点]いえば、馬鹿みたいに聞こえるでしょ? わたしには家族はない。あなた以外にはだれもいない。それでも、あなたを守れると思うのよ」
「ジョレンタやタロス博士やバルダンダーズなどの知りあいがいるじゃないか」
「あの人たちはなんでもないわ。そう感じない、セヴェリアン? わたしさえも、なんでもないのよ。でも、彼らはわたし以下なのよ。昨夜、わたしたち五人はテントの中にいた。それでもあなたは孤独だった。いつかあなたは自分で想像力があまりないといってたわね。でも、あの孤独は感じ取ったにちがいないわ」
「きみがぼくを守りたいというのは、そのことかい――孤独から守ってくれると? そういう保護なら歓迎だな」
「では、できるかぎりのことをするわ、できるかぎりの間はね。でも、とりわけ、世間の意見からあなたを守りたいの。セヴェリアン、わたしの夢の話を覚えているでしょ? 商店や路上のすべての人が、わたしが不気味な幽霊みたいなものにすぎないと信じているってことを? 彼らが正しいのかもしれないのよ」
彼女は震えていた。わたしは彼女を抱いた。
「それが、この夢がそれほど恐ろしい理由の一部なのよ。別の理由は、彼らが他の意味で間違っているとわかっているところからくるの。忌まわしい幽霊がわたしの中にいる。それはわたしなの。でも、わたしの中には他のものだってあるのよ。そして、それらは、忌まわしい幽霊がわたしであるのに負けず劣らず、わたしという存在なのよ」
「きみは絶対に忌まわしい幽霊ではありえないし、どんな忌まわしい存在でもない」
「いや、そうなのよ」彼女は真剣にいって、わたしを見上げた。彼女は小さな顔を傾けた。その顔は、この日の光で見ると、この上もなく美しく、また、この上もなく清らかだった。「いや、ありうるのよ、セヴェリアン。ちょうど、あなたが世間の人の呼ぶものになりうるようにね。時時あなたはそうなるわ。覚えている、伽藍が空中に飛び上がって、一瞬に燃えてなくなったことを? そして、木立の間の道を歩いていったら、前に小さな明かりが見え、それがタロス博士とバルダンダーズの一行で、ジョレンタと一緒に芝居の用意をしていたことを?」
「きみはぼくの手を握ったっけ」わたしはいった。「それから哲学の話をしたっけね。忘れるものか」
「明かりのところにいったら、タロス博士がわたしたちを見て――なんといったか、覚えている?」
わたしは心をその夕方に投げ戻した。あのアギルスを処刑した日の終わりに。記憶の中で、わたしは群衆のどよめきを聞き、アギアの悲鳴を聞き、それから、バルダンダーズの太鼓の音を聞いた。「彼はこういった。これで役者がそろった。そして、きみは純潔≠ナ、ぼくは死≠セと」
ドルカスは厳かにうなずいた。「そのとおりよ。でも、あなたは本当の死≠ナはないでしょ。かれがどんなにしばしばあなたをそう呼んでも。たとえ肉屋が一日じゅう牛の喉を切っているとしても、肉屋が死でないと同様に、あなたは死ではないわ。わたしにとっては、あなたは命≠諱Bそして、セヴェリアンという名前の若者よ。そして、もしあなたが別の衣服を着て、大工か漁師になりたいと思えば、だれも止めることはできないのよ」
「ぼくは組合を去りたいとは思わないよ」
「でも、去りたければ去ることができるのよ。今日にでもね。それを覚えておかなければならないわ。人々は他人が人々であることを望まないのよ。彼らは他人にいろいろな名前を投げかけて、その中に閉じこめるの。でもわたしは、あなたがそういうものに閉じこめられることを望まないわ。タロス博士は最悪よ。独特なやりかたで、嘘をつくし……」
彼女が途中で非難をやめたので、わたしは言ってみた。「前にバルダンダーズが、あの人はめったに嘘をつかないといっていたよ」
「彼独特のやりかたで、といったでしょ。バルダンダーズは正しいわ。タロス博士は他人に嘘とわかるような嘘はつかないから。あなたを死≠ニ呼ぶのは、嘘ではなくて、それは……えーと……」
「隠喩だね」わたしは助け舟を出した。
「でも、危険な、悪い[#「悪い」に傍点]隠喩よ。しかも、あなたに対して嘘の効果を狙ったものよ」
「では、きみはタロス博士がぼくを憎んでいると思うのかい? むしろ彼は、ぼくが〈城塞〉を出て以来、本当に優しくしてくれた少数の人の一人だと言いたいくらいだよ。きみ、ジョナス――今はいないがね――それから、捕まっていた時に会ったあの老婦人、黄色い衣の人――ついでながら、あの人もぼくを死≠ニ呼んだよ――それに、タロス博士。算えてみると、本当に短いリストだな」
「彼が、わたしたちが理解しているようなやりかたで、憎むとは思わないわ」ドルカスはそっと答えた。「いや、その点なら、愛するとも思わないけれど。彼は出会ったすべての人を操作して、自分の意図で変化させたいのよ。そして、建設よりも破壊のほうが容易だから、たいていは破壊してしまうのよ」
「でも、バルダンダーズは彼を愛しているみたいだよ」わたしはいった。「ぼくは昔、足の不自由な犬を飼っていたが、バルダンダーズは、そのトリスキールという犬がぼくを見たのと同じ目つきで、博士を見ているよ」
「あなたの言うことは理解できるけれど、わたしはそうは思わないわ。あなたはその犬を見る時に、自分がどんな目つきをしていたか、考えたことがあるの? 彼らの過去について何か知っている?」
「ディウトルナ湖のそばで一緒に暮らしていた、ということだけだ。近所の人々が彼らを追い出すために、家に火をつけたらしい」
「ねえ、ひょっとしたらタロス博士はバルダンダーズの息子ということはないかしら?」
あまり馬鹿げた考えだったので、わたしは吹き出してしまった。これは緊張を解くのに好都合だった。
「彼らの振舞いは」ドルカスはいった。「まさにそういう具合なのよ。頭の鈍い勤勉な父親と、才気煥発なやんちゃ息子。少なくともわたしには、そう見えるわ」
タロス博士がドルカスを純潔≠ニ呼んだのは、同じ種類の隠喩だったのではないか、という考えがわたしの頭に浮かんだのは、ベンチのところを去って〈俳優休憩室《グリーンルーム》〉(それは、他のいかなる庭園もそうであるように、ルデジンドが見せてくれた絵とは似ても似つかないものだった)の方に戻りかけた時だった。
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23 ジョレンタ
古い果樹園とその先のハーブ畑はあまりに静かで、忘れ去られた感じに満ちていたので、わたしはあの〈時の広間《アトリウム》〉と、毛皮にくるまった、繊細な美しい顔だちのヴァレリアを思い出した。今はだれもかれも目を覚ましていて、時々、だれもかれも叫んでいるように思われた。子供たちは籠の鳥を逃がそうとして木に登り、母親の帯や父親の飛び道具に追い払われた。リハーサルが続く一方でテントが片づけられていた。一見、固く見える縞模様の帆布のピラミッドが、旗のように引き降ろされ、その先に、草のような緑色のメガテリウムが後足で立っているのが見え、一方では踊り子が額を地面につけてくるくる回っているのが見えた。
バルダンダーズとわれわれのテントは消え失せていた。だが、たちまちタロス博士が駆け寄ってきて、われわれを急ぎ立てて曲がりくねった歩道を歩かせ、高欄や、滝や、そしてトパーズの原石と花の咲いている苔の密生した岩屋《グロット》を通り抜けて、芝生を刈りこんだ窪地に連れていった。そこであの巨人が一ダースもの白鹿に見守られながら、われわれの舞台を組み立てるのに汗を流していた。
それは、ネッソスの〈壁〉の内側でわたしが演技したあの舞台よりも、もっとずっと精巧なものになりそうだった。どうやら、〈絶対の家〉の下働きの人々が、とても使いきれないほど大量の材木や釘や道具や絵具や布を持ってきたらしかった。彼らの気前の良さが博士の誇大妄想癖を目覚めさせ(それは決して眠ることはなかった)、彼は、バルダンダーズとわたしが重いものを扱う時に助手をつとめるかたわら、自作の脚本に途方もないつけ足しをせっせとした。
巨人は座つきの大工でもあって、動作はのろかったが仕事は着実であり、大変な力持ちであったので――太さがわたしの人差指ほどもある大釘を、一打ちか二打ちで打ちこみ、わたしが鋸で切れば一刻もかかりそうな丸太を、斧を二、三回振るだけで切断し――十人の奴隷を鞭でこき使うくらいの能率が上がった。
ドルカスには、少なくともわたしを驚かす程度の、絵の才能があった。われわれは協力して、日光を飲む黒いプレートを組み立てた。これは夜の公演のためのエネルギーを集めるためだけでなく、今使っているプロジェクターの動力源とするためでもあった。これらの考案物は、小屋の内部と同様に、一千リーグもの背景幕を容易に作り出すことができた。しかし、幻覚は完全な暗闇の中でのみ完全に生じるものである。だから、後ろに絵具で描いた背景を置いて効果を高めるのが最上の方法だった。それで、ドルカスは山脈の間に上半身を見せて立ち、日光のために色あせて見える映像の中に絵筆を突っこんで、巧みにそれらの背景を描き上げた。
ジョレンタとわたしはあまり役に立たなかった。わたしには画家の腕はなかったし、また、博士の助手として小道具をそろえるにしても、芝居に必要な知識がほとんどなかった。思うに、ジョレンタは物理的《フィジカリー》に反抗していたし、また肉体的《フィジカリー》にいかなる種類の作業にも向いていなかった。特に、この作業に向いていないことは確かだった。膝から下があまりにも細く、そこから上がはち切れんばかりにふくらんでいる長い足は、彼女自身の体の重さ以上のものを支えるには適していなかった。あの突き出している胸は、乳首が材木にはさまって潰れるとか、絵具で汚れるとかいう危険に、絶えずさらされていた。また、団体員を刺激して団体の目的に向かって邁進させるあの団体精神の一かけらも、彼女にはなかった。ドルカスは、前の晩わたしが孤独だったといった。そして、おそらく彼女は、わたしが想像する以上に真実を言い当てていたのだろう。しかし、ジョレンタはそれにもまして一人ぼっちだった。ドルカスとわたしには、おたがいがあった。バルダンダーズと博士には歪んだ友情があった。そしてわれわれは芝居の上演に協力してきた。だが、ジョレンタには彼女自身しかいなかったし、賞賛を得ることを唯一の目的とする絶え間ない演技しかなかった。
彼女がわたしの腕に触れた。そして、口をきかずに、大きなエメラルド色の目をぎょろりと動かして、われわれの天然の円形劇場の端をさし示した。そこには萌黄色の葉の間に白い灯火のように花が咲いている栗林があった。
わたしは、他の考かだれも見ていないことを確かめて、うなずいた。さっき一緒に歩いたドルカスに較べると、今横を歩いているジョレンタはセクラと同じくらい背が高いように感じられた。もっとも、彼女はセクラの勢いのよい大股な歩き方に較べると、歩幅がずっと小さかったが。少なくとも彼女はドルカスよりも、頭一つ高かったし、その髪型のせいでいっそう背が高いように見えた。また、乗馬用のかかとの高いブーツをはいていた。
「わたし見物したいの」彼女はいった。「これがわたしにとって唯一のチャンスなのよ」
これは真赤な嘘だったが、わたしは信じた振りをしていった。「その機会はおたがいさまだね。今日が、今日だけが、〈絶対の家〉がきみを見るチャンスなんだから」
彼女はうなずいた。わたしが深い真理を言い当てた、とでもいうように。「わたしにはだれかが必要なの――わたしが口をききたくない人が、恐がるような人がね。これらの興行師や役者がみんなそうだけどね。あんたがいなくなった後は、わたしと一緒に歩くのはドルカスしかいなかった。でも、彼女じゃ、だれも恐がらないでしょう。ちょっと、あんたその剣を抜いて肩に担いで歩いてくれない?」
わたしはそうした。
「もしわたしが愛想よくしなかったら、きたやつを追っ払ってね。わかった?」
栗の木の間には、天然の円形劇場の草よりも、もっとずっと長くて、しかも羊歯よりも柔らかい草が生えていた。小道には金色の筋の入った水晶の小石がちりばめられていた。
「独裁者だって、わたしをひと目見れば、わたしを欲しがるわ。彼がここにやってくると思う?」
彼女を喜ばそうとしてわたしはうなずいたが、こういいそえた。「女はどんなに美人でも、顧問、スパイ、女戦士《シールドメイド》以外には、あまり使わないそうだよ」
彼女は足を止めて、こちらを向き、にっこり笑った。「そうなのよ。でも、わからない? わたしはどんな男でも欲しがらせることができるのよ。だから、彼だって、その人の夢がわたしたちの現実であり、その人の記憶がわたしたちの歴史である、上御一人である独裁者だって、去勢されていようといまいと、わたしを欲しがるのよ。あんたはわたし以外の女を欲しいと思ったことがあるでしょう? 女をひどく欲しいと思ったでしょう?」
わたしはそのとおりだと認めた。
「だから、他の女を欲しがったのと同様に、あんたはわたしを欲しいと思うのよ」彼女は向きを変えて、また歩きだした。いつものように、少し足を引きずっていたが、自分自身の議論でいくらか元気が出たようであった。「でも、わたしはあらゆる男をこわばらせ[#「こわばらせ」に傍点]、あらゆる女をむずむずさせるのよ。女を決して愛したことのない女が、わたしを愛したがるのよ――これ、あんた知ってた? 同じ人たちが、何度も何度も芝居を見にきて、すごく優しい、姉妹のような言葉や、母親みたいな言葉を添えて、食べ物や花や、スカーフや、ショールや刺繍入りのハンカチをくれるのよ。彼らはわたしを保護[#「保護」に傍点]してくれるつもりなの。あの医者や、巨人や、彼らの夫や息子や近所の人から、わたしを守ってくれるというのよ。そして男ども[#「男ども」に傍点]ときたら――バルダンダーズが河に投げこまなければならないのよ」
わたしは彼女に足が悪いのかと尋ねた。そして、栗林から出ると、彼女のために乗物を探してやろうとしてあたりを見回した。だが、何も見当たらなかった。
「股が擦りむけて、歩くと痛いのよ。いくらか効く軟膏があるわ。そして、ある男が、乗りなさいといって小馬を買ってくれたの。でも、あれが今どこに放たれているかわからないの。本当は、足を開いておくことができさえすれば、快適なんだけれどね」
「背負ってあげてもいいんだよ」
彼女は完壁な歯を見せて、また微笑した。「そうすれば両方とも楽しい思いができるってわけね? でも、格好が悪いわ。やめとく。歩くわ――遠くまで歩く必要がなければいいなと思っているだけよ。実際、どんなことが起こっても、わたしは遠くまで歩くつもりはない[#「つもりはない」に傍点]のよ。どうせ、役者しかこのへんに出ていないでしょうけどね。きっと、偉い人たちは夜の祭の催しに備えて、寝坊しているわよ。わたし自身も眠らなくちゃ。少なくとも四刻は、仕事の前に眠っておかなくちゃね」
岩を流れ落ちる水の音が聞こえた。そして、それ以上に良い行先も思い浮かばなかったので、そちらに向かった。遠くから見ると乗り越えることが不可能な障壁のように見える、白い花が点点と咲いているサンザシの生垣を通り抜けると、幅が街路ほどもない一筋の川が見え、そこには氷の彫刻のような白鳥が浮かんでいた。河端に東屋があり、そばに三隻のボートがつながれていた。どれも大きな睡蓮の花をかたどったもので、内側にはこの上もなく厚い絹のブロケードが張ってある。その一つに乗りこむと香草の香りがした。「すばらしいわ」ジョレンタがいった。
「乗ってもかまわないわねえ? もし、悪ければ、だれか偉い人のところに連れていかれるでしょう。そして、その人がわたしを見れば、絶対手放しはしないわよ。そしたら、タロス博士も呼んでやるわ。よかったら、あんたもそうしてあげるからね。あんたがたは使い道があると、彼らはきっと思うわよ」
わたしは北への旅を続けなければならないと彼女にいった。そして、ドルカスと同じくらいほっそりした彼女の腰を抱き上げて、ボートに乗せた。
彼女はすぐにクッションの上に横になった。そこはちょうど、上に持ち上がっている花弁が彼女の完壁な顔に影を落とす場所だった。こうしていると、アダミニアの階段を降りていきながら日光を受けて笑い、来年かぶるつもりのつばの広い帽子の自慢をしていたアギアのことが思い出された。アギアの容貌はどこを取ってもジョレンタに劣っていない部分はなかった。身長はドルカスより高いとはほとんどいえなかった。腰は横幅が広すぎ、胸は貧弱で、ジョレンタの溢れるような豊満さと較べれば問題にならなかった。その切れ長の茶色の目と高い頬骨は、情熱と降伏よりもむしろ抜目なさと頑固さを表現していた。しかしアギアはわたしに健康な情欲を感じさせた。彼女が笑う時には、しばしば意地悪い響きがともなった。しかし、それは真の笑いだった。彼女はみずからの熱で汗をかいた。それに較べると、ジョレンタの欲望は、欲しがられたいという欲望にすぎなかった。だから、わたしは、ヴァレリアの孤独を慰めてやりたいと思ったように、彼女の孤独を慰めてやりたいとは思わなかったし、また、セクラに感じた愛情のような痛いほどの愛情を表現したいとも思わなかったし、また、ドルカスを保護してやりたいと思うように彼女を保護してやりたいとも思わなかった。逆に、彼女を辱め、罰してやりたいと思い、そのうぬぼれの鼻をへし折ってやりたいと思い、その目に涙をためさせ、また、逃げ出した幽霊を苦しめるために死人の髪を燃やすように、彼女の髪を引きむしってやりたいと思った。彼女は女性を同性愛者にすると豪語し、わたしを苦痛嗜好者に仕立てようとしていた。
「これはわたしの最後の公演だと思っているの。そう感じるのよ。観客の中にきっと素敵な人がいるわ……」彼女はあくびをして伸びをした。その引き締まった胴着では、とても彼女の体を包みきれないだろうと思って、わたしは目をそらした。そして、視線を戻すと、彼女は眠っていた。
一本の細いオールがボートの後ろに垂れ下がっていた。わたしはそれをつかんだ。舟の、水上に出ている部分は円い形をしていたが、下には竜骨があることがわかった。川の中心部は流れが強く、わたしが舵を取るだけで、一連の優雅に蛇行する流れに乗ってゆっくりと進んでいくことができた。ちょうど、〈第二の家〉の秘密の通路を、フードをかむった従者がわたしを案内していった時に、人に見られずに、|続き部屋《スイート》やアルコーブやアーチを通っていったように、今、眠っているジョレンタとわたしは、音も立てず、努力もせずに、ほとんど完全に人目につかずに、庭園の中を何リーグも通っていった。木々の下の柔らかい草地や、より快適な洗練された東屋の中に横たわっている幾組もの二人連れは、われわれの乗物を、自分たちを楽しませるために、ゆっくりと下流に流されていく装飾品としか考えていないように見えた。また、たとえカーブした花弁の上にわれわれの頭を見たとしても、こちらはこちらの情事にふけっているとしか思わなかったろう。孤独な哲学者たちが丸木作りの椅子の上で瞑想にふけり、必ずしも好色ではないグループが|明かり層《クリアスートーリー》や植え込みの中を、静かに通っていった。
やがて、わたしはジョレンタが眠っていることに腹が立ってきた。それで、オールを放し、クッションの上の彼女の横にひざまずいた。いかにも人工的ではあるが、彼女の寝顔には、起きている時には見たことのない、清らかさがあった。彼女にキスすると、その開いたか開かないくらいの大きな目が、アギアの目のように長く見え、その赤みがかった金髪が、ほとんど茶色に見えた。わたしは彼女の着物を解いた。厚いクッションに催眠剤でも仕こんであるのか、それとも、野天を歩いてきたただの疲れのためか、豊満な官能的な肉体の重みのせいか、彼女はなかば麻薬に酔ったような状態になっていた。その乳房を露わにすると、左右のそれぞれがほとんど彼女の頭くらいあった。そして、太股の間には、かえったばかりの雛がいるように見えた。
もとの場所に帰ってくると、誰もがわれわれがどこにいっていたか知っているようだった。もっとも、バルダンダーズが気にしているとは思えなかった。ドルカスは姿を隠して密かに泣いた。
しばらくするとヒロインの微笑を浮かべて戻ってきたが、目は真赤になっていた。タロス博士は怒ったと同時に喜んだと思う。わたしは(今日まで黙っていたが)次のような印象を受けた――彼がジョレンタを楽しんだことは一度もなく、彼女が喜んで全身全霊を与えるとすれば、その対象は、ウールスのあらゆる男の中で、彼しかいないと。
われわれは夕暮れ前に残された数刻を、タロス博士と〈絶対の家〉のいろいろな役人との雑談に耳を傾けたり、リハーサルをしたりして過ごした。タロス博土の芝居に出演することがどういうものか、すでにある程度話したから、ここでは台本の概要をお話しすることにしよう――といっても、その日の午後手渡された汚れた紙に書かれていたとおりではない。なぜなら、それにはしばしば即席の演技のためのヒントしか記されていないからである。それゆえ、観客の中に律儀な筆記者がいて記録したら、このようになるであろう、というものを、そしてまた、事実上、わたしの耳の奥に住んでいる悪魔的な証人が記録したものを、話すことにする。
しかし、その前にわれわれの劇場を思い描いてもらわねばならない。ウールスの苦闘している端がふたたび赤い円板の上に昇り、翼の長いこうもりが頭上をひらひらと舞い、そして、緑の弦月が東の空に低く懸かっている。ここで、ごく小さな谷間を想像してもらいたい。端から端まで千|歩《ペース》強。それがこの上もなく滑らかに起伏する芝生に覆われた丘にはさまれている。これらの丘には扉がついている。普通の私室の入口ほどのものもあれば、聖堂の扉ほどの幅の広いものもある。これらの扉は開いており、中からうっすらと煙った明かりが射している。板石を敷いた小道が、われわれの前舞台の小さいアーチに向かってくねくねと下っている。その道のあちこちに仮装舞踏会の幻想的な衣装を着た男女がいる――その衣服の大部分は遠い昔の時代から取ったものなので、セクラとパリーモン師から与えられた生半可な知識しかないわたしには、ほとんどその出所がわからない。これらの仮装者の間を、召使いが盆にカップやタンブラーを載せ、うまそうな匂いの肉や菓子を山積みして、歩き回っている。こおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]のように繊細なビロードと黒檀の黒い椅子が、われわれの舞台の前に並んでいるが、観客の多くは立っているのを好み、芝居の間じゅう邪魔にならないようにして出たり入ったりしている。そして、多くの人は十数行の台詞を聞く間しか留まっていない。木の上で雨蛙が歌い、|夜 鶯《ナイチンゲール》がさえずり、丘の上では歩く彫刻がいろいろなポーズを取ってゆっくりと動いていく。芝居のすべての役は、タロス博士、バルダンダーズ、ドルカス、ジョレンタ、またはわたし、によって演じられる。
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24 タロス博土の劇『天地終末と創造』
[#地付き](博士の主張によれば)失われた『新しい太陽の書』の一部を脚色したもの。
登場人物
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ガブリエル │予言者
巨人ノド │大元帥
メシア、最初の男 │ふたりの悪魔(変装している)
メシアンヌ、最初の女│審問官
ジャハイ │その捕吏
独裁者 │天使たち
伯爵夫人 │新しい太陽
その侍女 │古い太陽
二人の兵士 │月
彫像 │
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舞台の奥は真暗。ガブリエルが水晶のラッパを持ち、金色のライトを浴びて登場。
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ガブリエル 皆さん。わたしはこの芝居の舞台を設定するためにやってきました――なんといっても、それがわたしの役目ですからね。今は、最後の日の夜であり、最初の日の前夜です。古い太陽は沈んでしまいました。彼はもはや空に現われることはないでしょう。明日は新しい太陽が昇ります。そしてわたしの兄弟が彼に挨拶するでしょう。今夜は……今夜のことは、だれも知りません。みんな眠るのです。
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足音。重く、ゆっくり。ノド登場。
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ガブリエル 全知のお方よ! あなたの僕《しもべ》をお守りください!
ノド あの方の僕《しもべ》だって? わしらネピリムもお仕えしているんだぞ。それじゃ、いじめないことにしよう。上からの指示がないかぎり。
ガブリエル きみはあの方の一家の者か? あの方はどのようにしてきみと話をするんだね?
ノド 実をいうと、あの方は口をきかない。だから、御心を推し量るしかないんだ。
ガブリエル そんなことではないかと思った。
ノド あんた、メシアさんの息子に会ったかね?
ガブリエル 彼に会ったかだと? なんと、偉大なお馬鹿さん、彼はまだ生まれてさえもいないのだよ。どんな用事があるのかね?
ノド 彼はわしのところにきて、一緒に暮らすことになっている。この園《その》の東のわしの土地でね。うちの娘を一人、嫁にやることになっているんだ。
ガブリエル 何か勘違いをしているな――五千万年ばかり遅すぎたよ。
ノド (合点がいかないなりに、ゆっくりとうなずく)もし、あの人に会ったら――
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メシアとメシアンヌ登場。後ろからジャハイがついてくる。みな裸だが、ジャハイは宝石を身につけている。
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メシア なんと美しいところだ! 嬉しいなあ! 花、泉、そして彫刻――素晴らしいじゃないか?
メシアンヌ (臆病そうに)馴れた虎を見たけれど、その牙はわたしの腕よりも長かったわ。あの人をなんと呼べばいいの?
メシア 彼が望むように呼べばよい。(ガブリエルに)この美しい場所の所有者はだれですか?
ガブリエル 独裁者だよ。
メシア その方が、わたしたちがここに住むことを許してくれるんですね。ありがたいことだ。
ガブリエル 必ずしもそうではない。おや、きみの後ろにだれかついているぞ。知っているか?
メシア (見ずに)あなたの後ろにもだれかいますよ。
ガブリエル (その職分のしるしである水晶のラッパを見せびらかして)そうさ。〈彼〉が後ろについていてくださるのだ!
メシア それも、ぴったりと。その笛を吹いて助けを呼びたいなら、今そうしたほうがいいですよ。
ガブリエル なんと、察しのよい人だ。しかし、まだ時が熟していない。
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金色のライトが消え、ガブリエルは舞台から姿を消す。ノドは棍棒によりかかったままじっとしている。
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メシアンヌ わたし火を起こすから、あなたは家を建てはじめたほうがいいわ。ここは雨が多いにちがいない――ほら、草の緑がとても濃いでしょう。
メシア (ノドをじろじろ見て)なんだ、ただの彫像か。道理で彼が恐がらなかったわけだ。
メシアンヌ 生きて動き出すかもしれないわ。石から息子が生まれたという話を前に聞いたことがあるもの。
メシア 前にだと! たった今生まれたばかりなのに。たしか昨日だったぞ。
メシアンヌ 昨日ですって! 覚えていないわ……わたしってそんなに幼いの、メシア。光の中に歩み出て、あなたが日光に向かって話しているのを見る前のことは、何も覚えていないわ。
メシア あれは日光じゃなかった! あれは……実は、まだあの名前は考えていないのだ。
メシアンヌ それから、わたしはあなたと恋に落ちたのよ。
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独裁者登場。
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独裁者 きみたちはだれだ?
メシア そういうあなたはだれですか?
独裁者 この園の所有者だが。
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メシアはお辞儀をし、メシアンヌは膝をかがめて女らしい会釈をするが、つまむべきスカートをはいていない。
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メシア わたしたちはたった今、あなたの僕《しもベ》の一人と話をしていたところでした。今思うと、彼は畏れ多くもあなた様にとてもよく似ていたので、びっくりいたしました。ただし、彼は……あのう……。
独裁者 もっと若い?
メシア 少なくとも見かけはそうでした。
独裁者 まあ、それはやむを得ないだろう。今さら言い訳をするつもりはないが、わたしは若かった。そして、遊び相手は身近な女にかぎるほうが良いとはいえ、それでも、時には――若者よ、仮にもきみがわたしの立場にあれば、理解してくれるだろうが――ちょっとした下女とか田舎娘で、一握りの銀か一反のビロードで言い寄ることができ、最も具合の悪い時に、ライバルを殺してくれとか亭主を大使に任命してくれとか要求しない女がいれば……まあ、据え膳食わぬはなんとやら、というわけでなあ。
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独裁者が喋っている間に、ジャハイはメシアの背後に忍び寄っていた。そして、今、彼の肩に手を掛ける。
[#ここで字下げ終わり]
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ジャハイ ほーら、ごらん。あんたが自分の神だと思っているこの人が、あたしの提案のすべてに賛成し、そうしろと忠告しているのよ。〈新しい太陽〉が昇らないうちに、二人で新しく始めようよ。
独裁者 これは美しい生き物だ。これ、子供、そこのおまえの姉がまだ冷たい火口《ほくち》を吹いているのに、おまえの二つの目が明るく燃えているのは、どうしたわけだ?
ジャハイ こんなのはあたしの姉じゃないよ!
独裁者 では、ライバルか。とにかく、わたしと一緒にきなさい。この二人にはここで野宿をする許可を与えよう。そして、おまえには今夜、豪華なガウンを着せて、その口にワインを流しこみ、そのほっそりとした指を、そうだ、アーモンドを詰めた雲雀と砂糖潰のいちじくで、汚してやる。
ジャハイ あっちにおいき、じいさん。
独裁者 なんだと! わたしがだれか知っているのか?
ジャハイ ここでそれを知っているのは、あたしだけだよ。あんたは幽霊かそれ以下の存在さ。灰神楽《はいかぐら》じじいだね。
独裁者 どうやら、狂っているらしい。きみ、彼女はきみに何を要求しているのかね?
メシア (ほっとして)こいつに腹が立たないのですか? 優しい方ですね、あなたは。
独裁者 とんでもない! いいかね、狂女なら、この上もなく面白い体験ができる――本当に楽しみにしているのだ。わたしのように何から何まで知りつくし、やりつくすと、楽しみはほとんどなくなるのだよ。彼女は噛まんだろう? つまり、それほどきつくは?
メシアンヌ 噛みます。しかも、牙には毒があります。
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ジャハイが彼女に向かって跳びかかり、引っ掻こうとする。メシアンヌは追われて場外に走り去る。
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独裁者 槍持ちに庭園を探させ、あの二人を捕まえさせよう。
メシア ご心配なく。二人ともすぐに戻ってまいります。大丈夫です。実は、このようにあなた様と二人きりになれて、わたしは喜んでおります。お尋ねしたいことがあるのです。
独裁者 六時以後は請願は受け付けないことにしている――わたしが正気を保つためには、そういう規則にしなければならないのだ。きっと、きみも理解してくれると思うが。
メシア (ちょっと、たじろいで)教えていただいて、ありがとうございます。でも、実は、何かをちょうだいしたいというのではありません。ただ、教えていただきたいのです。神聖なお知恵を拝借したいのです。
独裁者 それなら、いってみよ。だが、警告しておくが、代価は支払わねばならないぞ。つまり、あの発狂した天使を今夜、申し受ける。
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メシアはひざまずく。
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メシア わからないなあ。あなたはわたしの考えをすべてご存じのはずなのに、なぜ、改めてお話ししなければならないのか? とにかく、最初の質問はこうです――彼女はあなたが追放なさった者の同類だということがわかっていても、それでもなお、わたしは彼女の提案を実行してはいけないのでしょうか? 実はわたしは確信しているのです。彼女は、わたしがその素姓を知っており、彼女の発案だからという理由でわたしが撥《は》ねつけることを承知の上で、正しい行為を推薦するのだと。
独裁者 (脇に向かって)どうやら、こいつも狂っているようだ。しかも、わたしが黄色い衣を着ているので、神だと思っている。(メシアに)多少の姦淫は、決して男を傷つけるものではない。もちろん、その妻は傷つくがね。
メシア では、わたしの姦淫は彼女を傷つけるのでしょうか? わたしは――
[#ここで字下げ終わり]
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伯爵夫人とその侍女、登場。
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伯爵夫人 あーら、わがきみ! こんなところで何をしていらっしゃいますの?
メシア 祈っているのですよ、あなた。少なくとも、靴をお脱ぎなさい。ここは神聖な土地です。
伯爵夫人 殿様、この馬鹿者はだれですの?
独裁者 狂人だ。同様に狂っている二人の女とさまよっていた。
伯爵夫人 では、衆寡敵せず、ですわね。わたしの侍女が正気でなければ。
侍女 まあ、奥様――
伯爵夫人 怪しいもんですよ。今目の午後など、緑のカポート([#ここから割り注]フードつきのコート[#ここで割り注終わり])に紫のストールを出したんだから。そんなのを着たら、まるで、朝顔の巻きついた柱みたいになってしまうわ。
[#ここで字下げ終わり]
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彼女の話を聞いているうちに次第に腹が立ってきたメシアが彼女を打ち倒す。そのすきに独裁者がこっそり逃げ出す。
[#ここで字下げ終わり]
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メシア こいつめ! わたしの前で神聖な方々を粗末に扱うと承知しないぞ。おまえはわたしの命じることだけをすればいいのだ。
侍女 あなたはどなた様ですか?
メシア わたしは人類の親だ、子供よ。そして、おまえは本当にわたしの子だな。彼女と同様に。
侍女 この方と――そして、わたしを、お許しくださいまし。あなたは亡くなったと、わたしたちは聞いておりました。
メシア 別に謝罪することはない。たいていの人間は、結局死ぬんだからな。しかし、ごらんのとおり、わたしは新しい夜明けを歓迎するために、またやってきたのだ。
ノド (長いあいだ口をつぐみ、動かずにいたが、ここで喋りだし、動きだす)わしらは早くきすぎたよ。
メシア (指さして)巨人だ! 巨人だ!
伯爵夫人 助けて! ソランジュ! キネブルガ!
侍女 ここにおります、奥様。ライベがここにおります。
ノド 〈新しい太陽〉がくるまで、まだしばらく間がある。
伯爵夫人 (泣きだす)〈新しい太陽〉がくるのよ! わたしたち夢のように溶けてしまうのよ。
メシア (ノドが暴力をふるうつもりがないと知って)悪夢なのさ。しかし、しかし、それがおまえたちにとって一番良いのだ。わからないのかね?
伯爵夫人 (少し元気を取り戻し)わたしがわからないのは、突然、賢者のように見えてきたあなたが、どうして独裁者を宇宙の魂≠ニ間違えたりするのかということです。
メシア おまえたちが古い天地創造の時のわたしの娘だということはわかる。そうであるにちがいない。なぜなら、おまえたちは人間の女だから。そして、今度の場合には、わたしは娘を一人も作っていないから。
ノド この方の息子が、うちの娘を嫁にもらってくれるのだな。わしらの一族にとって名誉なことだが、それにふさわしいことは何一つしていない――わしらはいやしい種族だ、ゲアの子孫にすぎない――それでも、高貴人の仲間に入れてもらえるだろう。とすると……わしは何になるのでしょう、メシアさん? あなたの息子の義父になるのですね。もし、あなたが反対しなければ、いずれ妻とわしは、あなたが息子さんを訪ねるのと同じ日に、うちの娘を訪ねてもいいのですね。その場合には、ねえ、あなた、わしらが食卓につくのを拒みはしないでしょうね? もちろん、わしらは地面に坐りますから。
メシア もちろん、拒みはしない。犬はすでにそうしている――いや、われわれが見ている前ではそうするだろう。(伯爵夫人に向かって)おまえが宇宙の魂≠ニ呼ぶものについて、わたしが、あの独裁者が自分自身のことを知っている以上に、よく知っているとは、思わなかったのかね? おまえのいう宇宙の魂≠セけでなく、多数のもっと下位の諸力も、その気になれば、マントのように人間性を着るのだよ。そういうことは、われわれほんの二、三の者にしか関係ない場合もあるがね。とにかく、着られているわれわれは、自分は自分のままだと思っているから、めったにそれに気づくことはないが、他人から見れば、やっぱり創造神《デミウルゴス》であり、|慰め主《パラクリート》であり、悪魔王《フィーンド》であるのだ。
伯爵夫人 もし、〈新しい太陽〉が昇るとともに、わたしが消え失せなければならないとしたら、今それを知っても手遅れですわ。もう、真夜中すぎたかしら?
侍女 ほとんどすぎています、奥様。
伯爵夫人 (観客を指さして)これらの善男善女のすべては――どうなりますの?
メシア 秋がきて散った枯葉は、どうなる?
伯爵夫人 もし――
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メシアは振り返って東の空を眺める。あたかも夜明けの最初のしるしを探すように。
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伯爵夫人 もし――
メシア もし、なんだ?
伯爵夫人 もし、わたしの体にあなたの一部が残っていたら――精液の雫がわたしの股間に詰まっていたら……
メシア もしそうなら、もうしばらくウールスをさまようかもしれない。帰り道を決して見つけることのできない迷子としてだ。しかし、おまえと寝るつもりはないぞ。おまえは自分が死人以上の存在だと思っているのか? それ以下なのだぞ。
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侍女、気絶する。
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伯爵夫人 あなたはすべての人間の父だとおっしゃいましたわね。たしかに、そうですわ。あなたは女にとって死なのですから。
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舞台、暗転。明るくなると、ナナカマドの木の下に、メシアンヌとジャハイが一緒に寝ている。後ろの丘の斜面に扉がある。ジャハイの唇が裂けている。彼女はふくれ面をして、ぷっと息を吹く。唇から顎に血が滴り落ちる。
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メシアンヌ 彼を探すのなら、まだうんと力が出るのに。おまえが後を追ってこないという保証がありさえしたらねえ。
ジャハイ あたしは〈下界〉の力で動くんだ。そして、必要ならば、ウールスの二度目の終わりまででもついていくつもりだよ。でも、もしまたあたしをぶったら、痛い目を見るのはあんただからね。
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メシアンヌは拳を振り上げる。ジャハイは後ずさりする。
[#ここで字下げ終わり]
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メシアンヌ ここで休むことに決めた時、おまえの足はわたしの足よりもひどく震えていたよ。
ジャハイ あたしのほうがあんたよりずっと苦労してるのさ。でもね、〈下界〉の力は忍耐力を越えて忍耐することなんだ――あたしはあんたよりずっと綺麗で、しかも、はるかに優しい生き物なんだよ。
メシアンヌ もうわかったよ。
ジャハイ もう一度、警告する。そして、三度目はないよ。ぶつなら、命がけでおやり。
メシアンヌ どうするつもり? わたしを亡ぼすために悪鬼《エリニス》でも呼び出すのかね。そんなことができるなら、もうとっくにやっているだろうに。
ジャハイ もっと悪いことよ。もし、またあたしをぶったら、あんたはそれが楽しみになってくるんだよ。
[#ここで字下げ終わり]
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第一の兵士、第二の兵士、登場。矛《ほこ》で武装している。
[#ここで字下げ終わり]
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第一の兵士 おい!
第二の兵士 (女たちに向かって)坐れ、坐れ! 立つな。さもないと、鷺のように串刺しにするぞ。おれたちについてこい。
メシアンヌ 四つん這いで?
第一の兵士 生意気いうな!
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彼は矛で彼女をつつく。その時、低くて耳には聞こえないほどの、轟音が起こる。それと共鳴して舞台が振動し、地面が揺れる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第二の兵士 何だ、あれは?
第一の兵士 わからん。
ジャハイ ウールスの終わりだよ、馬鹿。さあ、あたしを突いてごらん。どうせ、おまえたちも終わりなんだから。
第二の兵士 何も知らないくせに! これは、おれたちの始まりなんだ。庭園を捜索しろという命令があった時に、おまえたち二人について特別な言及があり、おまえたちを連れ戻せと命じられた。おまえたちは十クリソスの金になると睨んでいるんだ。馬鹿にするなよ。
[#ここで字下げ終わり]
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彼はジャハイを掴む。そのとたんにメシアンヌが脱兎のごとく暗闇に逃げこむ。第一の兵士がその後を追う。
[#ここで字下げ終わり]
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第二の兵士 さあ、噛むなら噛んでみろ!
[#ここで字下げ終わり]
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彼はジャハイを矛の柄で打つ。二人はもみあう。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ジャハイ 馬鹿! あの女が逃げるじゃないか!
第二の兵士 困るのはイヴォだ。おれはおれの捕虜を捕まえた。もし、奴があれを逃がせば、それはあいつの落度だ。さあこい。千人隊長のところにいくんだ。
ジャハイ この気持ちの良い場所を去る前に、あたしを愛する気はないかい?
第二の兵士 そして、おれの男性を切り取って、口にねじこむつもりか? まっぴらごめんだね。
ジャハイ それでも男かい?
第二の兵士 何だ、あれは?(彼女を揺すぶる)
ジャハイ ウールスの合図さ。もっとも、彼女はあたしのことなんぞ、かまってはくれないだろうがね。でも、待って――ちょっと手を放してくれれば、いいものを見せてあげる。
第二の兵土 今だって見えている。すべて、お月さまのお蔭だがね。
ジャハイ あんたを金持ちにしてあげる。十クリソスなんて問題じゃないよ。でも、体を掴まれていると、その力が発揮できないんだよ。
第二の兵士 おまえの足はもう一人の女より長いが、あまりうまく歩けなかったな。実際、ほとんど立つことさえもできないようだった。
ジヤハイ もう駄目よ。
第二の兵士 それじゃ、この首飾りを掴んでいよう――鎖は充分に強そうだ。それでよければ、なんだか知らんが、見せてみろ。駄目ならいっしょにこい。おれが掴んでいる間は、これ以上、自由にはなれんぞ。
[#ここで字下げ終わり]
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ジャハイは小指と親指を伸ばして、両手を上げる。一瞬、静かになる。それから、トリルに満ちた不思議な静かな音楽が聞こえてくる。雪片が静かに舞い落ちる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第二の兵士 これは金じゃない。
ジャハイ でも、見えたでしょ。
第二の兵士 故郷の村にも、天候に働きかける力のある婆さんがいる。彼女がおまえほど早くないことは認めるが、なんてったって、ずっと年寄で、弱っているからな。
ジャハイ その女が何者であろうと、あたしの千分の一も年を取ってはいないよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彫像が盲人のようにゆっくりと動いて登場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ジャハイ 何あれ?
第二の兵士 イナイア老の小さいペットの一つだ。言葉もわからないし、声も出せない。生き物であるかどうかさえ、おれにはわからんよ。
ジャハイ ヘーえ。それだけのことを聞いても、やっぱりわからないね。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彫像がそばを通過する時、彼女は自由なほうの手で、その頬をつつく。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ジャハイ 色男……色男……色男。あたしに挨拶しないのかい?
彫像 イ・イ・イ・イー!
第二の兵士 何だこれ? やめろ! こら、おれが捕まえている間は能力が発揮できないといったじゃないか。
ジャハイ あたしの奴隷をごらん。あんた、こいつと戦えるかい? やってごらん――こいつの広い胸で、その槍を折るがいい。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彫像はひざまずき、ジャハイの足にキスする。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第二の兵士 とんでもない。だが、足の早さなら、こちらが上だぞ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彼はジャハイを肩に担いで、逃げる。丘の扉が開く。彼が中に入ると扉はぴしゃりと閉まる。彫像はすごい力でそれを叩くが、扉はびくともしない。彫像は涙を流し、結局、向きを変えて、手で土を掘り始める。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ガブリエル (舞台の外から)このようにして、石像は人間が逃げ去った後、荒野でただひとり過ぎ去った時代を忠実に守りつづけるのです。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彫像が土を掘っている間に、舞台は溶暗。また明るくなると、独裁者が玉座についている。舞台上には彼が一人だが、左右のスクリーンに投影されている影から、彼が廷臣に取り巻かれていることがわかる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
独裁者 余はこうして百の世界の主ででもあるかのように坐っているが、実はこの世界さえも支配していないのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
行進する兵士たちの足音が場外に聞こえる。大声の命令。
[#ここで字下げ終わり]
独裁者 大元帥だ!
[#ここから5字下げ]
予言者、登場。羊の皮をまとい、杖を持っている。杖の上端には奇妙なシンボルの粗雑な彫刻がついている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
予言者 いたるところに無数の前兆が現われている。インクソスでは、頭がなくて、口が膝についている子牛が生まれた。名ある貞女が犬と交わって身ごもった夢を見た。そして昨夜は、南の氷の上に流星雨がシュウシュウと音を立てて降り注ぎ、予言者たちは国じゅうを歩きまわる。
独裁者 おまえ自身が予言者だ。
予言者 独裁者御自身がそれらの前兆を見ました!
独裁者 この土地の歴史に最も詳しい記録官がかつてわたしにいったことがある。百人以上の予言者が――石を投げられ、火あぶりにあい、野獣に引き裂かれ、水責めにされて――殺されたということだ。害獣のように扉に釘づけされた者さえいる。さあ、昔から予言されている〈新しい太陽〉の到来について、少し教えてもらおうか。それはどのようにして実現するのか? それはどういう意味なのか? 話せ。さもないと、老記録官の帳簿の印が一つ増え、その杖に青白い月の花の蔓が這い上がることになるぞ。
予言者 とてもあなたを満足させることはできないでしょうが、とにかくやってみます。
独裁者 知らないのか?
予言者 知っています。しかし、あなたは実際家として知られています。この宇宙だけの出来事に関心をお持ちで、星々より上をめったに見ないお方だと。
独裁者 三十年間にわたって、その点を誇りにしてきた。
予言者 しかし、あなたでさえも、癌が古い太陽の心臓を蝕んでいることはご存じです。その中心では、物質がみずからの上に落ちこみ、まるで、底なしの穴があって、上端がそれを取り巻いているようだといいます。
独裁者 それはずっと昔に天文学者から聞いた。
予言者 蕾の時から腐っている林檎を想像してください。まだ外側は綺麗ですが、結局、最後には汚く潰れてしまいます。
独裁者 人生の後半になってもまだ丈夫な人は、だれもそういう果物を思いつくのだ。
予言者 古い太陽のことはそれでよいとして、その癌のことはいかがですか? それがウールスの熱と光と、そして最後には命まで奪うということのほかに、どんなことをご存じですか?
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
格闘の物音が場外で聞こえる。悲鳴が上がり、大きな花瓶が台から叩き落とされたような、がちゃんという音がする。
[#ここで字下げ終わり]
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独裁者 あの騒ぎは何かすぐにわかる。予言者、話を続けよ。
予言者 それは、もっとずっと大規模なものだとわかっております。われわれの宇宙の断絶であり、われわれの知っている法則によって縛られていない、構造の裂け目なのです。そこからは何も出てこない――すべてが入り、何も逃れることがない。しかし、そこから何かが出現するかもしれない。なぜなら、われわれの知っているすべての物の中で、それだけが自己の性質の奴隷ではないのですから。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ノド、登場。舞台外の人物の持つ矛で突かれて、血を流している。[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
独裁者 この出来そこないはなんだ?
予言者 わたしがお話しした不吉な前兆の、まさに証明です。将来において――ずっと昔から、そう言われているのですが――古い太陽の死がウールスを亡ぼします。しかし、その墓から、怪物、新人類、そして〈新しい太陽〉が生まれます。その時、古いウールスは、ちょうど蝶が乾いた殻から出てくるように、花開きます。そして、〈新しいウールス〉はウシャス([#ここから割り注]ヒンズー神話、暁の女神[#ここで割り注終わり])と呼ばれます。
独裁者 しかし、われわれの知るすべては、押し除けられるのだろう? われわれが立っているこの太古の家も? おまえたち自身も? 余も?
ノド わしには知恵はないが、少し前にある賢者の話を聞いた――その人とまもなく親戚になるんだがね。何事も天の配剤だそうだ。わしらは夢にすぎないんだと。夢はみずからの権利で生命を持たない。ごらん、わしは怪我をしている。(手を差し出す)傷が癒えれば、これは消えてなくなる。この傷が血まみれの唇を開いて、癒えるのは残念だ、なんていうだろうか? なーに、その人のいったことを説明しようとしているだけだがね、これがあの人の言おうとしていることだと思うよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
場外に低い鐘の音が聞こえる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
独裁者 あれはなんだ? おい、予言者、だれが、なぜ、あれを鳴らしているか、いって見てこい。(予言者、退場)
ノド きっとあんたの鐘が〈新しい太陽〉の歓迎を始めたんだ。わしもそうしたいと思ってここにきたんだから。わしらの習慣では、名誉ある客が着いた時には、大声をあげて胸を叩き、地面やそこらじゅうの木の幹を喜んで叩いてまわり、できるだけ大きい岩を、その人の名誉のために谷底に投げ落とすのだ。わしも今朝はそうするつもりだ。あんたがわしを釈放してくれればの話だがな。きっとウールス自身もわしの歓迎に加わってくれると思う。今日〈新しい太陽〉が昇ったら、山そのものが海に飛びこむだろう。
独裁者 それで、おまえはどこからきた? 言えば釈放してやる。
ノド ああ、わし自身の国からさ。〈楽園〉の東のね。
独裁者 それはどこにある?
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[#ここから5字下げ]
ノド、東を指さす。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
独裁者 そして〈楽園〉はどこにあるのだ? 同じ方向か?
ノド いや、ここが〈楽園〉さ――わしらは〈楽園〉にいるんだよ。いや、少なくともその地下にね。
[#ここで字下げ終わり]
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大元帥、登場。玉座の前に進み出て敬礼する。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
大元帥 独裁者さま、ご命令どおり、この〈絶対の家〉の上の土地をすべて捜索いたしました。伯爵夫人カリナは発見され、傷は深くありませんでしたので、本人のアパートメントに護送いたしました。また、御前にいるこの巨人と、お話の宝石をつけた女と、そして二人の商人をも発見いたしました。
独裁者 あとの二人はどうした。裸の男とその妻は?
大元帥 影も形もありませんでした。
独裁者 捜索をやりなおせ。今度はしっかり調べるのだぞ。
大元帥 (敬礼して)独裁者さまの御心のままに。
独裁者 では、宝石をつけた女を連れてこい。
[#ここで字下げ終わり]
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ノドは場外に立ち去ろうとするが、矛で止められる。大元帥はピストルを抜く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ノド 出ていってもいいだろう?
大元帥 絶対にいかん!
ノド (独裁者に)わしの国の位置を教えたじゃないか。このすぐ東だと。
大元帥 おまえの国のことだけじゃない。あの地域のことならよく知っているんだ。
独裁者 (疲れて)彼は真実と思う事を話した。たぶん、それが唯一の真実だろう。
ノド じゃ、いってもいいんだね?
独裁者 おまえが歓迎するためにやってきたその相手は、おまえが釈放されようとされまいと、到着するだろうと思う。しかし、ひょっとしたら――いや、いずれにしても、おまえのような生き物を、うろつきまわらせておくことはできない。うん、釈放はしない。今後、二度と釈放することはない。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ノド、舞台から走り去る。大元帥、追いかける。発射音、悲鳴、激突の音。独裁者の周囲の人影が消える。騒動の最中にまた鐘が鳴る。ノド、再登場。頬にレーザー火傷。独裁者が笏《しゃく》で彼を打つ。打つたびに爆発が起こり、火花が飛び散る。ノドが独裁者を持ち上げて舞台に投げつけようとした時、二人の商人に化けた悪魔が登場。彼を投げ倒し、独裁者を玉座に戻す。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
独裁者 ありがとう。充分に褒美を取らせよう。衛兵に助けられる望みは、とうに捨てていたが、やはりそれは正しかったようだ。きみたちはだれか、教えてくれるかな?
第一の悪魔 あなたの衛兵は死にました。あの巨人が頭蓋骨を壁に打ちつけて割り、膝で背骨を折ったのです。
第二の悪魔 わたしたちはただの二人の商人にすぎません。あなたの兵士に保護されたのです。
独裁者 やつらが商人で、逆にきみたちが衛兵ならよかった! それにしても、きみたちは見かけはひどくほっそりしていて、人並の力もないように見えるが。
第一の悪魔 (お辞儀をして)わたしたちの力は、仕える主人によって吹きこまれるのです。
第二の悪魔 平凡な奴隷商人であるわたしたち二人が、なぜ夜分にあなたの敷地をうろついているところを発見されたのか、きっと不審にお思いでしょう。実は、わたしたちはあなたに警告しにきたのです。ごく最近わたしたちは北のジャングルに旅をしました。そこに、人類よりも古い寺院――繁茂する植物に覆われて、樹木の茂った丘しか見えない神殿があって、年取った巫子に会いました。すると彼はあなたの領土に重大な危険が迫っていると予言したのです。
第一の悪魔 その情報を持って、手遅れにならないうちにあなたに警告しようと、急いでここにやってきたのです。そして、間一髪で到着しました。
独裁者 わたしは何をしなければならない?
第二の悪魔 あなたやわたしたちが大切にしているこの世界は、太陽の周囲をあまりたくさん回ったので、宇宙の縦糸と横糸が擦り切れて、時の織機からぼろぼろの糸屑になって落ちるのです。
第一の悪魔 大陸そのものがやつれ果てた老婆のように年老いて、とうの昔に美しさを失い、不毛になっています。〈新しい太陽〉がやってきて――
独裁者 知っている!
第一の悪魔 ――それらを難破船のように打ち砕いて海に沈めます。
第二の悪魔 そして、海から新たに――金、銀、鉄、銅、それにダイアモンド、ルビー、トルコ石などのきらめく陸地が、大昔に海中に洗い落とされて百万世紀にもわたって堆積した泥の中を、のたうちまわりながら隆起してきます。
第一の悪魔 これらの陸地に住まわせるために、新しい種族が用意されます。あなたの知っている人類は脇に押し退けられます。ちょうど、長いこと野原に茂っていた草が、開墾によって麦にその土地を譲るように。
第二の悪魔 しかし、その種が燃えてしまったらどうなるでしょうか? その場合にはどうなるでしょうか? あなたがさっきお会いになった背の高い男と、ほっそりした女が、その種なのです。かつて、そいつらを畑で中毒させればよいと考えられました。ところが、そのために派遣された女は、今はその種を、枯れ草や土塊の中に見失っています。そして、彼女はちょっとした手品をしたために、あなたの審問官に手渡され、厳重な審問にさらされることになっています。しかし、まだ種を燃やすことはできるかもしれませんよ。
独裁者 きみたちの暗示する考えはすでにわたしの心をよぎったぞ。
第一および第二の悪魔 (声をそろえて)当然です。
独裁者 しかし、その二人を殺せば、本当に〈新しい太陽〉の到来を阻止できるのだろうか?
第一の悪魔 いいえ、それは不可能です。しかし、彼らを殺すことをお望みですか? そうすれば、新しい陸地はあなたのものになるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
スクリーンが明るくなる。木の茂った山や、塔のある町が現われる。独裁者、そちらを向く。間《ま》。彼は衣の中から通報機を引き出す。
[#ここで字下げ終わり]
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独裁者 われわれがここでやっていることを、〈新しい太陽〉に決して見られないようにせよ……船たちよ! われわれの上に炎を吹きつけて、すべてを枯らせ。
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ふたりの悪魔が消えると、ノドが起き上がる。町や山が消える。そして、スクリーンに何倍にも拡大された独裁者の顔が映る。舞台、溶暗。
ふたたび照明がつくと、審問官が舞台中央の高い机についている。拷問者の服装をして仮面をつけたその捕吏が、机のかたわらに立っている。左右にはさまざまな拷問器具が並んでいる。
[#ここで字下げ終わり]
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審問官 魔女といわれる女を入れなさい、ブラザー。
捕吏 伯爵夫人が外で待っています。彼女は高貴な血筋の人ですし、われわれの君主のお気に入りですから、彼女を先に面接されるようにお願いします。
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伯爵夫人、登場。
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伯爵夫人 今の言葉を聞きました。そして、審問官様、あなたがそのような訴えに耳を貸さないお方とは思えません。ですから、大胆にもすぐに入ってきましたよ。こんなことをするなんて、大胆な女だとお思いでしょ?
審問官 あなたは言葉をもてあそんでいます。しかし、そうですな。それは認めます。
伯爵夫人 では、思い違いをなさっています。少女時代以来八年間、わたしはこの〈絶対の家〉に住んでいます。わたしの股間から初めて血がにじみ出ると、母がここに連れてきたのです。その時に母はこう注意しました。決してあなたのアパートメントに近づいてはならない。ここでは気まぐれな月の相に関係なく、大勢の人から血が滴っているからと。だから今まで、ここにきたことは一度もありませんでした。でも、今はここで震えているんですよ。
審問官 善人ならここを恐れる必要はありません。しかし、たとえそうであっても、あなたは自分の証言によって、大胆になっています。
伯爵夫人 それで、わたしは善人なのでしょうか? あなたは? 彼は? わたしの聴罪司祭にお聞きになれば、わたしは善人ではないというでしょう。あなたの聴罪司祭はあなたに何といいますか? それとも、彼は恐がっていますか? そして、あなたの捕吏はあなたより善人ですか?
捕吏 そうなりたいとは思いませんよ。
伯爵夫人 あのね、わたしは大胆ではないし――ここは安全でない。知ってますよ。この恐ろしい部屋にやってきたのは、恐怖のせいなのです。彼らは、わたしを殴った裸の男のことを、あなたがたに話したでしょう。彼は捕まりましたか?
審問官 その男はわたしの前には連れてこられませんでしたよ。
伯爵夫人 まだ一刻もたっていませんが、庭園で嘆いているわたしを兵士たちが見つけたのです。その時、侍女はわたしを慰めようとしていたのです。わたしが暗い戸外にいるのを恐がると、兵士たちは〈空気の道〉と呼ばれるあの画廊を通って、わたしをアパートメントに連れ帰ってくれました。あの道は知っていますね?
審問官 よく知っています。
伯爵夫人 では、あそこにはいたるところに窓があいていて、隣接するすべての部屋と回廊に通じていることも、ご存じでしょう。あそこを通っていった時に、窓の一つに一人の男の姿が見えました。背が高く、手足が綺麗で、肩幅が広く、腰の細い人でした。
審問官 そういう男は大勢います。
伯爵夫人 わたしもそう思います。でも、少したつと、同一の人影が別の窓に現われました――そして、また別の窓にも。それで、わたしは護衛の兵士に射ってくれるように頼みました。でも、彼らはわたしが狂っていると思って、射とうとしませんでした。そして、わたしを殴った男を捕えるために派遣された一隊は、手ぶらで戻ってきました。でも、彼はあちこちの窓からわたしを見たんです。そして、よろめいているように見えたんです。
審問官 そして、あなたが見たその男が、あなたを殴った男だと信じるのですね?
伯爵夫人 もっと悪いことです。あれは彼ではなかったと思います。でも、似ています。しかも、もしわたしが彼の狂気を尊敬の念をもって扱いさえすれば、きっとわたしに親切にしてくれるだろうと感じるのです。いいえ、この不思議な夜に――人間の古い芽の、冬枯れした茎であるわたしたちが、来年の種とひどく混じりあってしまったこの夜に――彼はわたしたちの知識を超えたもっと大きな存在ではないかと気になるのです。
審問官 そうかもしれませんが、あなたがここにきても、その男やあなたを打った男を、見つけることはできないでしょう。(捕吏にむかって)魔女を入れなさい、ブラザー。
捕吏 みなこんなものです――もっとひどいのもいるけれど。
[#ここで字下げ終わり]
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彼は退場し、メシアンヌの鎖を掴んで引き立ててくる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
審問官 おまえは、われらの君主独裁者の兵士の七人を魔法に掛け、誓いを破らせ、その武器を同僚や士官に向けさせたかどで告発されている。(立ち上がって、机の片側の大きな蝋燭に火をともす)ここに、その罪を告白するように厳命する。そして、もしそのような罪を犯したなら、いかなる勢力がその成就を助けたか白状し、また、その勢力に助けを求めることを教唆した者どもの名前を白状せよ。
メシアンヌ 兵士たちは、わたしが害を加えるつもりがないことを知っただけです。そして、わたしのことを気遣ってくれたのです。そして――
捕吏 黙れ!
審問官 強要された場合は別として、被告人の抗議は重視されない。捕吏が拷問の用意をする。
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏はメシアンヌを掴み、装置の一つに縛りつける。
[#ここで字下げ終わり]
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伯爵夫人 世界にほとんど時間が残っていないから、これを見物して時間を無駄にするのはやめますわ。あなたは庭園の裸の男のお友達なの? わたしはこれから彼を探しにいきますが、会ったら、あなたがどうなったか、彼に伝えてあげますよ。
メシアンヌ ぜひ、そうして! 手遅れにならないうちに、彼にきてもらいたいの。
伯爵夫人 そしてわたし[#「わたし」に傍点]はね、彼があなたの代わりにわたしを受け入れてくれるといいと思っているのよ。二人とも同じように絶望的な境遇であることは間違いないわ。まもなく、わたしたちは絶望の姉妹になるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
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伯爵夫人、退場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
審問官 わたしもいこう。彼女を助けた者たちと話をするために。すぐ戻るから、被告人の用意をしておくように。
捕吏 審問官、もう一人おります。同罪のものです。でも、罪状はたぶんこいつのほうが軽いでしょう。
審問官 なぜ、それを言わなかった? 二人一緒に用意することができたかもしれないのに。そいつを入れなさい。
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏、退場し、ジャハイを連れて戻る。審問官は机上の書類を探す。
[#ここで字下げ終わり]
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審問官 おまえは、われらの君主独裁者の兵士の七人に魔法をかけ、誓いを破らせ、その武器を同僚や士官に向けさせたかどで告発されている。ここに、その罪を告白するように厳命する。そして、もしそのような罪を犯したなら、いかなる勢力がそれを成就するのを助けたか白状し、また、その勢力に助けを求めることを教唆した者どもの名前を白状せよ。
ジャハイ (誇らしげに)あんたが告発した事は全部やったし、あんたが知らないこともやっているよ。味方の勢力のことは、この家具装飾つきの鼠の巣が粉砕されなければ、教えるわけにはいかないね。だれが教唆したかって? 子供に、お父ちゃんに助けてもらいなって、だれが教えるんだろうね?
捕吏 母ちゃんかな?
審問官 知るものか。この女も拷問の用意をしろ。わたしはすぐに戻る。
メシアンヌ 七人の兵士はおまえのためにも闘ったのね? そんなに多くの人が死ななければならなかったとは、なんと悲しいことでしょう!
捕吏 (机と反対側の装置にジャハイを固定して)審問官はおまえの書類を二度読んでしまった。帰ってきたら、この誤りを――もちろん、やんわりと――指摘してやろう。
ジャハイ あんた兵士たちに魔法をかけたのかい? それじゃ、この馬鹿者にも魔法をかけて、あたしらを解放してよ。
メシアンヌ わたしには魔力はないわ。惑わしたといっても、五十人のうちたった七人だけだからね。
[#ここで字下げ終わり]
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ノドが縛られて、第一の兵士に矛で追い立てられて登場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
捕吏 なんだこいつは?
第一の兵士 ああ、おまえが今までに見たこともないような捕虜だ。こいつは百人の兵士を、まるで犬ころのように殺した。こいつに使えるような大きい手かせ足かせはあるか?
捕吏 何個も繋いで使わなくてはならないだろうが、まあなんとか工夫してみる。
ノド わしは人間じゃない。それ以上でもあるし、それ以下でもある。粘土から――野獣をペットにしているゲア母さんから――生まれたんだからな。もし、あんたがたの支配権が人間に対するものであるなら、わしを解放しなければならないぞ。
ジャハイ あたしも人間じゃないんだよ。一緒に逃げない?
第一の兵士 (笑いながら)見ればわかる。おれは一時もそれを疑ったことはなかったぞ。
メシアンヌ こいつは女なんてものじゃないわ。彼女にたぶらかされないで。
捕吏 (ノドに最後の足かせをパチリとはめて)そういうことはないだろう。大丈夫だよ、たぶらかしの時は終わったんだから。
第一の兵士 おれが行ってしまったら、おまえちょっとばかり楽しむつもりでいるんだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
彼はジャハイの方に手を伸ばす。ジャハイは猫のように唾を吐く。
[#ここで字下げ終わり]
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第一の兵士 まさかおまえ、せっかくのチャンスに背中を向けているほどお人良しではあるまい?
捕吏 (メシアンヌの拷問の用意をしながら)おれがそれほど善人だったら、たちまち、自分の道具で車裂きにされちまうよ。しかし、わが主人、審問官様が帰ってくるまでここで待っていれば、おまえは望みどおり、彼女と並んでおねんねできるかもしれないぜ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
第一の兵士もじもじする。それからその意味を覚って、あわてて退場。
[#ここで字下げ終わり]
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ノド このご婦人はわしの義理の息子の母親になるんだ。傷つけないでくれ。(鎖を引っぱる)
ジャハイ (あくびを噛み殺しながら)一晩じゅう起きていたので、あたしの精神はぴんぴんしているけれど、この肉体は休息の用意をしているよ。あんた、早くその女を片づけて、あたしのほうに取りかかってくれないかなあ?
捕吏 (そちらを見ずに)ここには休息はないぞ。
ジャハイ そうかい? じゃ、期待していたほど家庭的ではないんだな。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ジャハイ、またあくびをする。そして、口に手を当てようとして手を動かしたとたんに、手錠がはずれて落ちる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
メシアンヌ 彼女を拘束しなければだめよ――わからないの? 彼女には土は含まれていないから、鉄は支配力がないのよ。
捕吏 (まだメシアンヌを見て、拷問を続けながら)彼女は拘束してある。心配するな。
メシアンヌ 巨人さん! あんた自由になれない? 世界の運命はこれにかかっているのよ!
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ノド、束縛を解こうとするが、解けない。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ジャハイ (拘束具の外に歩み出る)そうだ! 答えるのはあたしだ。なぜなら、現実の世界では、あたしはあんたらのだれよりもずっと大きいんだから。(彼女は机のまわりを回り、捕吏の肩ごしに覗く)まあ、面白い! 粗末だけれど面白いわ。
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏は振り向き、彼女を見て、あっと驚く。彼女は笑いながら逃げる。その後を彼はぎごちなく追う。しばらくして、しょんぼりして戻ってくる。
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏 (息を弾ませて)逃げられた。
ノド そうだ。自由になった。
メシアンヌ 自由にメシアを追いかけて、何もかもだめにしてしまうのよ。前にやったように。
捕吏 どういうことになったか、おまえにはわかっていない。主人がすぐに戻ってくる。そうしたら、おれは死んじまう。
ノド 世界が死んだのだ。彼女がいったように。
メシアンヌ 拷問者さん、あんたにまだチャンスが一つだけあるわ――よくお聞き。この巨人も解放してやりなさい。
捕吏 そうすれば、彼はおれを殺して、おまえを解放するだろうな。考えてみよう。少なくとも、そうすれば楽に死ねるだろう。
メシアンヌ この人はジャハイを憎んでいる。そして、利口ではないけれど、彼女のやりロを知っており、とても強い。それだけではない。わたしは彼が決して背かないと神かけて保証できるわ。彼の拘束具の鍵を渡してやりなさい。そして、わたしのそばに立って、わたしの首にその剣を当てなさい。そして、ジャハイを見つけて連れて戻り、また自分で拘束具に入ると、誓わせればいいのよ。
[#ここから5字下げ]
捕吏はためらう。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
メシアンヌ あなたは何も失うものはないのよ。あなたの主人は、彼がここにいることさえ知らないわ。でも、もし彼が戻ってきた時に彼女がいなくなっていれば……
捕吏 そうする! (ベルトの輪から鍵を外す)
ノド わしら巨人族は父の子≠ニ呼ばれるように、婚姻によって人類の家族と結びつくことを希望している。だから、おまえのためにあの女怪《サカバス》を捕え、ここに連れ戻し、二度と逃げないように押さえ、それから、自分の体も今縛られているように、自分で縛ることを誓う。
捕吏 神かけて誓うのだな?
メシアンヌ そうよ!
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏は鍵をノドに投げる。それから剣を抜いてメシアンヌの首に当て、首をはねる用意をする。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
捕吏 あいつは彼女を捕まえることができるだろうか?
メシアンヌ どうしても捕まえなければならないのよ!
ノド (自分の縛めを解いて)彼女を捕まえるぞ。あの肉体は、本人がいっているように弱っている。彼女はあれに鞭打って酷使するかもしれない。しかし鞭打つことがすべての役に立つわけではないと覚るだろう。(退場)
捕吏 おまえに対して仕事を続けなけれぽならない。わかっておくれ……
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[#ここから5字下げ]
捕吏はメシアンヌを拷問する。彼女は悲鳴をあげる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
捕吏 (わきぜりふで)こいつはなんて美人なんだ! もっと良い時期に……出会っていたらなあ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
舞台溶暗。ジャハイの逃げる足音が聞こえる。しばらくして、かすかに照明がつくと、ノドが〈絶対の家〉の回廊を軽やかに駆けていくのが見える。彼の後ろの水瓶、絵画、そして家具の映像が動いていくので、彼が進んでいることがわかる。それらの間にジャハイが現われる。彼はそれを追って上手に去る。ジャハイが下手から入ってくる。その後ろに第二の悪魔がびたりとついて歩いてくる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ジャハイ いったい彼はどこにいってしまったんだろう? 庭園はまっ黒焦げだよ。おまえは自由に変身できる――自分でふくろう[#「ふくろう」傍点]に化けて、彼を見つけてくれないかなあ?
第二の悪魔 (ふざけて)|だれを《フ ー》?
ジャハイ メシアを! いいかい、おまえがあたしをどのように扱ったか、父さん≠ノ言いつけてやるからね。そして、あたしらの努力を台なしにしてしまったことも。
第二の悪魔 それはないだろう? あの女に誘き出されて、メシアを置き去りにしたのはおまえじゃないか。なんていうんだ? 女に誘惑されました≠ニでもいうのかい? 諸悪の根源は女の誘惑にあるという嘘は、とうの昔に用ずみになって、もうおれたち以外に覚えている者はない。それなのに、今ごろ持ち出してきて、この嘘に泥を塗るのか。
ジャハイ (彼にくってかかる)この情けない、汚れた、泣き虫め! この窓拭きめが!
第二の悪魔 (跳び退いて)そして今、おまえは〈楽園〉の東の、ノドの国に島流しだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
場外でノドの足音が聞こえる。ジャハイは水時計の陰に隠れ、悪魔は矛を創り出し、それを持って兵士の姿をして立つ。そこにノド登場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ノド どのくらい長く、おまえはそこに立っている?
第二の悪魔 (敬礼をして)あなたのお望み次第です、殿様。
ノド 何か変わったことは?
第二の悪魔 あなたのお望み次第です、殿様。尖塔ほども背丈のある巨人が近衛兵を殺し、独裁者は行方不明です。われわれは庭園をあまりたびたび捜索したので、もし槍の代わりに下肥を持って歩いていたら、こうもり傘ほどの大きい三色すみれが咲いたことでしょう。鴨の着物は羽毛《ダウン》で、希望が|芽生え《アップ》――蕪も芽生えます。明日は晴天で暖かく日が照るはずです……(意味ありげに水時計の方を見て)そして、すっ裸の女がホールを走り抜けていきましたよ。
ノド あれはなんだ?
第二の悪魔 水時計です、殿様。ほら、ごらんなさい。今、何時かわかれば、それによって、どのくらいの水が流れたかわかります。
ノド (水時計を調べる)わしの国にはこんなものはないな。これらの人形は水で動くのか?
第二の悪魔 大きいのは違います、殿様。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ジャハイが舞台の外に飛び出す。それをノドが追う。しかし、彼の姿が完全に観客の視界から消えないうちに、彼女は彼の股の間をくぐって、舞台に戻る。彼はそのままいってしまう。その間に彼女は長持の中に隠れる。いつの間にか第二の悪魔が消えている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ノド (再登揚)こら! 待て! (舞台の向こう側まで走っていき、また戻ってくる)しまった! しまった! あそこの庭園で――あいつは一度わしとすれちがった。わしは手を伸ばして、あいつをひねり潰すこともできたのに、猫のように――うじ虫のように――鼠のように。(観客に向かって)笑うんじゃない! おまえらを皆殺しにすることもできるんだぞ! おまえら中毒患者の一族をだ! ああ、おまえらの白骨を谷にばら撒いたら、どんなにせいせいするだろう! しかし、わしはもう駄目《ダン》だ――もう駄目《ダン》だ! そしてわしを信用したメシアンヌは、もう絶望《アンダン》だ!
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ノドは水時計を叩く。真鍮の水盤や水が舞台に飛び散る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ノド 言葉を話すこの才能になんの益がある? わが身を呪うことだけだ。すべての獣の優しい母よ、この才能をわしから取り上げてくれ。わしはもとに返って、山の中で、言葉にならない叫びをあげていたい。理性は苦痛しかもたらさないことを、理性が教えてくれた――そんなものを忘れて、また幸福になったほうが、ずっと賢明だ!
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
ノドはジャハイの隠れている長持の上に腰を降ろし、両手に顔を埋める。照明が暗くなると、長持は彼の体重で潰れはじめる。
また明かりがつくと、場面はふたたび審問官の部屋に戻っている。メシアンヌが拷問台に載っている。捕吏が輪を回す。彼女は悲鳴をあげる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
捕吏 これで気分が良くなったろう。だから、そういったんだ。しかも、こうしていれば、おれたちが目覚めていることが近所の人々にわかる。おまえは信じないかもしれないが、この棟全体は空き部屋と閑職の人ばかりなんだ。しかしここで、ご主人とおれはまだ仕事をしている。まだやっているんだ。だからこそ、共和国《コモンウエルス》が成り立っているんだ。そのことを皆に知ってもらいたいんだよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
独裁者、登場。衣は破れ、血で汚れている。
[#ここで字下げ終わり]
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独裁者 これはなんの場所だ? (床に腰を降ろす。両手で頭をかかえ、ノドと似た姿勢をとる)
捕吏 なんの場所だと?〈慈悲の部屋〉じゃないか、馬鹿ったれ。ここがどこか知らずに、ここにやってこれるか?
独裁者 今夜は自分の屋敷の中をひどく追い回されたから、どこにいてもおかしくないのだ。ワインをくれ――ワインがなければ水でもよい――そして、扉にかんぬきを掛けてくれ。
捕吏 クラレットはあるがワインはない。そして、扉にかんぬきを掛けるわけにはいかない。なぜなら、まもなくご主人が戻られるからだ。
独裁者 (より力強く)言ったとおりにせい。
捕吏 (ごく優しく)だんな、飲んでるね。出ていきな。
独裁者 そう、飲んでおる――それがどうした? ここが終末だ。余はおまえより善くも悪くもない人間だ。
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遠くにノドの重い足音が聞こえる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
捕吏 あいつしくじったな――わかってる!
メシアンヌ 成功したのよ! こんなに早く手ぶらで帰ってくるわけないもの。世界はまだ救えるかもしないわ!
独裁者 それはどういう意味だ?
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[#ここから5字下げ]
ノドが入ってくる。彼が祈り求めた狂気が、彼を覆っている。後ろにジャハイを引きずっている。捕吏は拘束具を持って駆け寄る。
[#ここで字下げ終わり]
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メシアンヌ だれかが彼女を捕まえていなければならない。さもないと、さっきのように逃げるわよ。
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捕吏はノドに鎖を掛け、ぱちりと締め金具をはめる。それからノドにジャハイを掴ませたまま、片方の腕を鎖で胴体に縛りつける。ノドはジャハイを掴んでいる手に力をこめる。
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏 こいつ彼女を殺すつもりだ! 放せ、このどあほう!
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捕吏は拷問具を締めつけるのに使っていた棒を持ち上げて、ノドに殴りかかる。ノドは大きな捻り声をあげて捕吏を掴もうとし、気絶したジャハイを下に落とす。捕吏はその足を掴んで、独裁者が坐っている場所に引きずっていく。
[#ここで字下げ終わり]
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捕吏 そら、おまえでもよい。
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彼は独裁者を乱暴に立ち上がらせ、片手がジャハイの手首を掴んでいるような形に、素早く縛りつける。それからメシアンヌの拷問をするために戻る。その後ろの見えないところで、ノドが鎖を外しはじめる。
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[#ここで字下げ終わり]
25 神殿奴隷《ヒエロドウール》への攻撃
ここは戸外なので、物音は広大な空に吸いこまれがちであったが、バルダンダーズが束縛を解く振りをして大きな音を立てているのが聞こえた。また観客のお喋りも耳に入った。一つは、この劇に関することで、わたしには想像もつかなかった意味を、そして、おそらくタロス博士もまったく意図していなかったような意味を、観客が読み取ったことを示していた。また、もう一つの話題は、何かの訴訟事件に関することで、話し手は、間伸びした高貴人特有の口調で、独裁者はきっと間違った判決を下すだろうといっていた。わたしは歯止めの音を充分に立てながら拷問台の巻揚機を回し、横目でこっそりと観客の方を見た。
椅子席は十くらいしか埋まっていなかったが、その横や後ろに、背の高い人影がいくつも立っていた。また、前に〈紺碧の家〉で見たのとそっくりの、非常に低いデコルタージュにフルスカート(それも、スリットかレースのパネルで飾ったものが多い)、といった宮廷服姿の婦人も少しはいた。髪型は単純だったが、それを花や宝石や、まばゆい光を放つ幼虫などで飾っていた。
われわれの観客の中の宮廷人は大部分が男らしかった。そして、その人数はたちまち増えた。多くはヴォダルスと同じくらいの身長か、またはもっと背が高かった。彼らは、柔らかな春風を冷たく感じるかのように、マントにくるまって立っていた。その顔は、山の低い、つばの広いぺタソス([#ここから割り注]古代ギリシャ=ローマの帽子[#ここで割り注終わり])の影に隠れていた。
バルダンダーズの鎖がじゃらじゃらと下に落ち、ドルカスの悲鳴が、彼が縛めを解いたことを知らせた。わたしは彼の方を振り返り、怯えたように後ずさりし、彼を撃退するために、手近の大燭台をソケットから抜き取った。その火皿の中の油が炎を浸しそうになったので、灯火はいったん消えそうになったが、やがて、タロス博士がその縁に塗っておいた硫黄と無機塩に引火し、勢いを盛り返してぱちぱちと燃え上がった。
巨人は役割が要求するままに、狂気を装っていた。目にぼさぼさの頭髪がかぶさっていたが、それでも外側から見えるほど、その目は狂暴な光を放って燃えていた。口はあんぐりと開かれ、よだれが垂れ、黄色い歯が見えていた。わたしの手の倍も長い彼の手が、わたしの方を手探りしていた。
わたしを脅かしたのは――白状するが実際わたしは怯えており、鉄の大燭台の代わりにテルミヌス・エストが手の中にあったらよいのにと、心から思った――無表情な彼の顔の裏側の、ただ表情≠ニ呼ぶしかないものであった。それはちょうど凍結した川の氷の下に、時々動いているのがほの見えるあの黒い水のようだった。バルダンダーズは今や自分の演じているものに恐ろしい喜びを感じていた。そして、彼と対面した時に、わたしは初めて知った彼は舞台の外で正気やぼんやりした謙遜の態度を装っているが、それと同じように、舞台の上で狂気を装っているわけではないのだと。そして、彼がいかに大きな影響を脚本に与えていることかと、わたしは思った。もっとも、これは単にタロス博士がわたしよりも自分の患者をよく理解しているというだけのことかもしれなかったけれども(きっとそうだ)。
もちろん、われわれは田舎の人々を恐がらせたように、独裁者の廷臣たちを恐がらせるつもりはなかった。バルダンダーズがわたしから大燭台をもぎ取り、わたしの背骨を折る振りをして、この場面は終わることになっていた。ところが、彼はそうしなかった。はたして、彼がその演技ほど狂っていたのか、それとも、刻々人数が増える観客に対して、本当に怒りを発したのか、わたしにはわからない。たぶん、この説明の両方とも当たっているだろう。
とにもかくにも、彼はわたしから大燭台をもぎ取り、それを振り回して、燃える油をシャワーのように飛び散らしながら、観客に襲いかかった。ちょっと前にドルカスの首に当てて、切ろうと構えていたわたしの剣は、足もとにあった。わたしはそれを掴もうとして、本能的に腰をかがめた。そして体を起こした時には、バルダンダーズはすでに観客の真っただ中にいた。燭台の火は消えていて、彼はそれを棍棒《メイス》のようにふるっていた。
だれかが、ピストルを発射した。その電光で彼の衣装は燃え上がったが、体には当たらなかったにちがいない。何人もの高貴人が剣を抜いた。そして、だれかが――だれだかわからなかったが――あらゆる武器の中で最も珍しいもの、つまり夢という武器を持っていた。それはティリアン・パープル([#ここから割り注]古代ギリシャ=ローマの染料[#ここで割り注終わり])の煙のように、だが、それよりもずっと早く動き、たちまち巨人を包みこんでしまった。それから彼は、過去のすべてと、そして、決して存在しなかった多くのものに、包まれて立っているように見えた。彼の横から白髪の女が芽生え、頭のすぐ上に漁船が浮かび、彼を取り巻く炎を寒風が鞭打った。しかし、兵士を茫然自失させ、無力にさせ、彼らの職務の妨げになるといわれているこの幻影は、バルダンダーズには効果がないように見えた。彼はそれでもなお、大股に前に出た。大燭台の一撃で彼の前にさっと道が開いた。
なおも見ていると(わたしはすぐにわれに返り、この狂気の闘いから逃げ出したのだが)次の瞬間に、いくつかの人影がケープと、そして顔を――そのように思われたのだ――わきに投げ出すのが見えた。それらの顔の下には(もはや体から離れた顔はノトゥールと同様の、非物質的な組織でできているように見えた)この世のものとは思われない奇怪な顔があった。針のような歯に縁取られた丸い口。それ自体が一千の目である松笠の鱗のように密集した目。火ばさみのような顎。これらのものはわたしの記憶の中に、すべてのものが留まるように留まっている。そして、夜の暗い時刻に、わたしはそれらとふたたび対面することがある。しかし、やっと目を覚まして、それらのものから、星々と月の光に浸った雲の方に顔を向けた時に、フットライトの最も近いものだけが目に入ると、わたしはとてもほっとするのである。
わたしは逃げたとすでにいった。しかし、テルミヌス・エストを拾って立ち上がり、バルダンダーズの狂気の攻撃を眺めていたので、そのわずかな遅れがあだになり、ドルカスを救おうとして向きを変えた時にはすでに彼女の姿はなかった。
それから、わたしはバルダンダーズの狂暴な怒りや、観客の中の退化人や、独裁者の近衛兵(必ず、すぐにやってくると思った)から逃げるというよりはむしろ、ドルカスを追って、走りだした。彼女の姿を求め、その名前を呼びながら進んでいった。しかし、目につくものは、森や噴水や、この果てしない庭園の不意に現われる窪地《ウエル》ばかりだった。しまいに息が苦しくなり、足が痛くなって、スピードを緩めて歩きだした。
この時にわたしが感じたつらい気分のすべてを、紙の上に書き記すことは不可能である。ドルカスとめぐりあい、また、こんなにすぐに見失うのは、とても耐えられなかった。われわれ男性の女性に対する優しさはすべて性欲から発していると、女性は信じている――いや、少なくとも信じている振りをしていることが多い。そして、男性は女性を一時的に、楽しんでいない時に愛するのであり、また、堪能した時に、もっと厳密にいえば、消耗した時に、男は女を手放すのだと。男性は性欲でこり固まっている時に、その欲望を満足させたいばかりに、非常な優しさを装う傾向がある。しかし、他の場合に、われわれが女性を実際に残酷に扱いがちだとは決していえないし、また、一つ以上の深い感惰を感じることはない、ともいえない。わたしはこの暗い庭園をさまよっていた時に、(〈血染めが原〉の先の騎馬隊の砦で別れて以来、彼女を楽しんでいなかったにもかかわらず)肉体的にドルカスを求めていたわけではなかった。なぜなら、睡蓮の形のボートの中でジョレンタと接して、男の精を何度も何度も放出した後だったから。それでも、ドルカスを見つけたら、わたしは彼女をキスで汚すだろうし、また、どちらかといえば嫌いだったジョレンタに、わたしは今はある種の愛情を抱いている。
ドルカスもジョレンタも現われなかった。また、急いで駆けよってくる兵士もいなければ、われわれが余興をするためにやってきた祭の酔客さえも見当たらなかった。どうやら、祭は敷地のごく限られた部分で行なわれているようだった。そして、今やわたしはその部分からずっと離れてしまったようであった。今でさえも、〈絶対の家〉がどのくらい遠くまで広がっているか、わたしはよく知らない。地図はあるが、不完全だし、たがいに矛盾している。〈第二の家〉の地図はまったくない。そして、イナイア老さえもその秘密の多くをずっと昔に忘れてしまったといっている。わたしはここの狭い廊下を歩き回っている時に、白い狼に出会ったことは一度もない。しかし、河の下のドームに通じる階段や、それを開くと人跡未踏の森林に出るハッチを見つけたことはある(ちょっと大きすぎる荒れ果てた大理石の石柱《ステレ》が、目印としてその地上にあることもあれば、ないこともある)。このようなハッチを締めて、成長する植物や腐った植物の匂いのまだかすかに残っている人工の空気の中に戻ると、通路のどれかが〈城塞〉に通じているのではないかと、しばしば思ったものであった。老ウルタン師はかつて、彼の図書館の書庫が〈絶対の家〉にまで広がっているとほのめかした。ということは、とりもなおさず、〈絶対の家〉が彼の図書館の書庫にまで広がっているというのと、結局同じことではないだろうか? 〈第二の家〉には、わたしがトリスキールを探したあの真暗な歩廊と似ていなくもない部分がある。たぶん、それらは同一の回廊だったろう。しかし、それが事実だとすると、あの時わたしは想像以上に危ない橋を渡っていたことになる。
これらの推測が事実に基づいているかどうかは、今書いているその時点においては、まったくわかっていなかった。空間的にも時間的にも、教えられなければとうてい想像もつかないほど遠くまで広がっている〈絶対の家〉の限界を、厳密かつ明確に定めることができるものだと、わたしは知らないなりに想像し、自分がその限界に近づきつつある、いや、まもなく近づくだろう、いや、すでに越えてしまったと、考えたのであった。こうして、その夜わたしは星を頼りに北に向かって、ひと晩じゅう歩いた。そして、歩きながら――いつも眠りを待っている間に、そうすることをみずから禁じようとしばしば努力している、まさにそのやりかたで――自分の生涯を振り返った。またもや、ドロッテとロッシュとわたしは〈鐘楼〉の地下の冷たく湿った貯水槽で泳ぎ、またもや、ジョセフィーナの玩具の小鬼を、盗んだ蛙と置き換え、またもや、偉大なヴォダルスに切りかかった斧の柄を、手を伸ばして握り、そうして、まだ捕えられていないセクラの命を救い、またもや、セクラの扉の下から深紅のリボンが流れ出すのを見、マルルビウスがわたしの上にかがみこみ、ジョナスが次元の間の無限の中に消え失せた。わたしはまたもや、崩れた幕壁の横の方庭で小石を使って遊び、セクラはわたしの父の騎馬衛兵のひづめをかわした。
最後の欄干を見てからずっと後になってさえも、わたしは独裁者の兵士を恐れた。しかし、しばらくして、遠くにパトロールの影さえも見えないことがわかると、彼らに対する軽蔑の念が次第に湧いてきて、この連中の無能ぶりは、共和国全体にあまりにもしばしば見受けられるあの一般的な秩序崩壊の一部であると信じるようになった。こんなどじ[#「どじ」傍点]な連中なら、わたしが手伝おうと手伝うまいとヴォダルスがきっと亡ぼすだろうと、わたしは感じた――実際、今すぐにでも、彼が攻撃を掛けさえすれば、可能だろうと。
しかも、ヴォダルスの合言葉を知っており、そのメッセージを予期していたように受け取ったあの黄色い衣の両性具有人《アンドロジン》は、間違いなく独裁者だった。つまり、これらの兵士の君主であり、この共和国が君主と認める限りにおいて、実際にこの共和国全土の君主なのであった。セクラは彼をしばしば見ていたし、それらのセクラの記憶は今はわたし自身のものになっている。それによれば独裁者は彼なのである。もしヴォダルスがすでに勝利をおさめてしまっているなら、なぜ、隠れて出てこないのか? それとも、ヴォダルスは独裁者の手先にすぎないのだろうか?(それなら、なぜヴォダルスは独裁者のことをまるで従僕のように呼ぶのだろうか?)わたしは、あの絵の部屋と〈第二の家〉のその他の部分で起こったことはすべて夢だったのだと、みずからを納得させようとした。だが、そうではないと知っていた。そして、あの金具はすでに手もとになかった。
ヴォダルスのことを考えているうちに、〈鉤爪〉のことを思い出した。独裁者はそれをペルリーヌ尼僧団という宗教団体に返還するように促したのだった。わたしはそれを引き出した。その光は今は柔らかで、あの猿人の洞窟の中にいた時のように強烈でもなく、控の間でジョナスと一緒に調べた時のように鈍くもなかった。それはわたしの掌に載っているのに、今はまるで、あの貯水槽よりも澄み、ギョルよりもはるかに澄んでいる青い水をたたえた大きなプールのように見えた。その中に飛びこむことができそうに思われた……もっとも、そうすれば、何か理解できない理由で、飛び上がっていきそうに感じられたけれども。それは心の安らぐことであると同時に、不安なことであった。それで、わたしはまた〈鉤爪〉をブーツの口に押しこみ、歩きつづけた。
暁が訪れた時、わたしはネッソスの〈壁〉の外の森林よりもさらに荒廃した森林の中にかろうじて通じている細道を歩いていた。あそこで見た涼しい羊歯のアーチはここにはなく、マホガニーやレインツリーの大木に肉質の触手で高級娼婦《ヘテアラ》のようにまとわりついている蔓草が、雲のように漂っている緑の群葉の方に長い手を伸ばし、花を散りばめた豪華なカーテンを垂らしていた。頭上から名も知れぬ小鳥が呼びかけ、一度は尖塔のように高い木の叉から、四足が全部手になっている点を別にすれぽ、毛皮を着たしわくちゃの赤髭の人間とも見まがう猿が、わたしの方を覗き見た。それ以上歩けなくなると、わたしは円柱のように太い木の根の間に、都合よく日陰になった乾燥した場所を見つけ、マントにくるまった。
わたしは眠りを、まるでなかば伝説的な、なかば雲を掴むような、最も捕えがたい怪物《キメラ》のように、追いつめなければならないことがしばしばある。しかし今、その怪物はむこうから飛びかかってきた。この時はテルミヌス・エストを持っていたが、それはただの棒にすぎないように思われた。われわれは舞台ではなくて、狭い手すり壁の上に立っていた。片側には軍隊の松明が燃え、反対側は断崖絶壁になっていて、その下には、かつては〈鉤爪〉の紺碧の湖であったが今はそうでない湖が、広がっていた。バルダンダーズが恐ろしい大燭台を振り上げた。そして、わたしはどういうわけか、前に海底で見た子供の人形になってしまっていた。あの巨大な女たちがそばにいないはずはないように思われた。棍棒ががちゃんと振り降ろされた。
明るい午後になっていた。そして、炎のように赤い蟻がキャラバンを組んで、わたしの胸を横断していた。この神々しくはあるが命脈の尽きた森林の青葉の間を二、三刻のあいだ歩くと、より広い小道に出た。それからさらに一刻ほど(影が次第に伸びた)歩いた頃、わたしは鼻をひくひくさせて立ち止まった。そして、気づいた匂いが実際に煙の匂いであることを知った。この頃には空腹で腹がぐうぐう鳴っていたので、わたしは足を早めた。
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26 別 れ
その小道がもう一本の道と交差する場所で、四つの人影が小さな焚火を囲んで地面に坐っていた。わたしはまずジョレンタを見分けた――彼女の美のオーラによって、その空き地は楽園のように見えた。それとほとんど同時に、ドルカスがわたしに気づき、駆け寄ってきてキスした。そして、タロス博士の狐のような顔がバルダンダーズの大きな肩の向こうにちらりと見えた。
真っ先にわたしが見つけなければならなかったはずのその巨人は、見ちがえるほど姿が変わってしまっていた。頭は汚い包帯でぐるぐる巻きにされており、幅の広い背中は、今まで着ていた黒いだぶだぶの上着の代わりに、粘土に似た、腐った水のような匂いのする、べたべたした歓膏で覆われていた。
「よくきた、よくきた」タロス博士が呼んだ。「きみはどうしたかと、みんな心配していたところだ」バルダンダーズはかすかに頭を傾けて、本当に心配していたのはドルカスだったと身振りで示した。この暗示がなくても当然わかっていいはずだった。
「逃げたのさ」わたしはいった。「ドルカスも逃げたことは知っている。他のきみたちが殺されなかったとは驚いたな」
「間一髪だった」博土はうなずいて認めた。
ジョレンタは肩をすくめ、その単純な動作を一種の精妙な儀式のように見せた。「わたしも逃げたのよ」彼女は巨大な乳房を両手で抱いた。「でもわたし、逃げるのにあまり適していないでしょ? とにかく、暗闇の中でまもなく高貴人とぶつかってしまったの。そうしたら、その人は、わたしが保護してやるから、もう逃げるには及ばないといったの。でも、その時に数人のスパーヒー([#ここから割り注]不正規トルコ騎兵[#ここで割り注終わり])がね――彼らの馬はとても立派なのよ、いずれわたしの馬車にあんなのを繋ぎたいなあ――女を好まないタイプの高官と一緒にやってきたの。この時わたしは、毛穴そのものが星々よりも明るく輝くという独裁者のところに、連れていかれるといいなと思ったの。劇の中で、もうちょっとで起こるはずだったようにね。ところが、彼らは高貴人を去らせて」バルダンダーズの方を指さして、「彼と博士は舞台裏にいるというのよ。博士は彼に膏薬を塗っており、兵士はわたしたちを殺そうとしたわ。でも、本当はわたしを殺したくないと思っていることがわかったけれどね。それから、わたしたちは釈放されて、今はここにいるというわけ」
タロス博士がつけ加えた。「夜明けにドルカスを見つけた。いや、むしろ、彼女がわれわれを見つけたんだ。それ以来われわれはずっと山に向かってゆっくりと歩いてきた。ゆっくりきたわけは、われわれの中で荷物を運ぶ力のある人間といえばバルダンダーズしかいないが、その肝心のバルダンダーズが病気になってしまったからだ。しかも、たくさんの荷物を捨てたとはいえ、どうしても携帯しなければならない品物がある程度残っていたのでね」
バルダンダーズはきっと死んだと思っていたのに、ただの病気だと聞いて驚いた、とわたしはいった。
「タロス博士が彼を止めたのよ」ドルカスがいった。「そうでしょ、博士? だから彼は捕まったのよ。驚くべきは、むしろ二人とも殺されなかったことなのよ」
「しかし、ごらんのとおり」タロス博士はにこにこしていった。「われわれはまだ生者の中を歩いている。そして、服装は多少悪くなったが、金持ちになった。セヴェリアンにわれわれの金を見せてやれ、バルダンダーズ」
巨人は痛々しく姿勢を変えて、ふくらんだなめし革の金袋を取り出した。そして、さらに指示を受けようとでもするように博士を見てから、紐を緩めて、その巨大な掌に製造したばかりのクリソス貨幣を、シャワーのように注ぎこんだ。
タロス博士はその貨幣の一枚を取り、光を受けるように持ち上げた。「これ一枚で、ディウトルナ湖畔の漁村の男が、どのくらい長く壁の工事をすると思う?」
わたしはいった。「少なくとも、一年ぐらいかな」
「二年だ! 毎日、冬も夏も、降っても照ってもだよ。銅の小銭にして、少しずつ分け与えればね。まあ、そうするつもりでいるが。そういう男を五十人ほど雇って、わが家の再建を手伝わせよう。待ってろよ。今度きたら見せてやるから!」
バルダンダーズが持ち前の低い声でいった。「連中が働けばの話だがな」
赤毛の医者はさっと彼の方に向き直った。「働くとも! はばかりながら、この前の時以来こっちも利口になっているんだ!」
わたしはさえぎった。「たぶんその金の一部はぼくのものだと思うが。そして、一部はこのご婦人たちのものじゃないのかい――違うかね?」
タロス博士は落ち着いた。「ああ、そうだ。忘れていた。婦人たちはすでに分け前をもらっている。この半分はきみのものだ。なんといっても、きみがいなければ、こんな具合にはいかなかったろうからな」彼は巨人の掌から貨幣をすくい出し、前の地面に二つに積み上げはじめた。
彼がいっているのは、あのように芝居が成功したのはわたしのおかげだ、ということだとばかりわたしは思っていた。ところがドルカスは、この褒め言葉の裏にもっと何かあると察したらしく、尋ねた。「どうしてそういうの、博士?」
狐に似た顔が微笑んだ。「セヴェリアンは高いところに友人を持っている。実は、そうではないかと、前から思っていたのだ拷問者が浮浪者のように道をさまよっているなんて、バルダンダーズでさえもちょっと飲みこみにくい話だ。まして、わたしの喉は、残念ながら、とりわけ細いのだよ」
「ぼくにそういう友達がいるといわれても」わたしはいった。「心当たりがないなあ」
コインの柱の高さが同じになると、博士は一つをわたしの方に押してよこし、もう一つを巨人の方に押し戻した。「最初、きみがバルダンダーズと一緒に寝ているのを見た時には、わたしの芝居の上演をやめさせるために、きみが警告にきたのかもしれないと思った――きみも気づいているかもしれないが、あの芝居はある意味で、少なくとも独裁制を批判しているように見えるからなあ」
「いくらかね」ジョレンタが呂律の回らない舌で、皮肉にいった。
「それにしても、二、三人の大道芸人を脅かすために、〈城塞〉から拷問者を派遣するとは馬鹿げている。それから、覚ったのだ。われわれがこの劇を上演しているという事実そのものによって、われわれはきみを隠す役目を果たしたのだと。このような催物に独裁者の部下がかかわっているとは、ほとんどだれも思わないだろう。わたしが捕吏の役割を書いたのは、きみの組合の衣装に存在理由をあたえることによって、きみをよりよく隠すためだったのだ」
「全然知らなかった」わたしはいった。
「もちろんだ。きみが信用を失うようなことは、わたしとしても望まなかったからね。ところが、昨日、舞台を作っていた時に、〈絶対の家〉の高官かやってきた――たぶん、無性人《アガマイト》だと思うが、あの連中はいつも権威者の耳もとにいるからね――そして、きみが出演するのはこの劇団か、きみはここにいるか、と尋ねた。その時、きみとジョレンタは姿をくらましていたが、わたしは肯定の返事をした。すると、彼はこう尋ねた。われわれの収入のうち、どのくらいがきみの取り分になるのかと。それに答えると、今度はこういった。自分は夜の芝居の報酬を今、渡しにきたのだと。これは結果的に非常に幸運だった。なぜなら、この薄ら馬鹿のうど[#「うど」傍点]の大木が、お客の中に飛びこんでしまったからだ」
珍しいことに、バルダンダーズは掛かりつけの医者の嘲弄に、傷ついた表情を見せた。もっとも、そうすることは、彼にとって非常な苦痛が伴うのは明らかだった。彼は顔がわれわれと違う方向に向くまで、その大きな図体を横に回したのである。
前にわたしがタロス博士のテントで寝た時に、ドルカスはわたしが淋しそうに眠っていたといった。今、この巨人がそう感じていると、わたしは感じた。つまり、彼にとっては、この空き地にいるのは、彼とある種の小動物だけ――それも飽きがきたペット――しかいないのだと。
「彼の無分別はもう報いを受けている」わたしはいった。「大火傷を負っているようじゃないか」
博士はうなずいた。「実際、バルダンダーズは運が良かった。神殿奴隷《ヒエロドウール》どもはビームの強度を絞って、彼を、殺すのではなくて追い返そうとしたのだ。この旦那は彼らの自制心のおかげで、こうして生きているのさ。そして、再生するだろうよ」
ドルカスがぶつぶついった。「治るってこと? きっと治るわよ。わたし口でいえないほど、彼に同情しているわ」
「心が優しいのだな。優しすぎるくらいだ。だがバルダンダーズはまだ成長している。そして、成長期の子供には強い回復力があるんだ」
「まだ成長している?」わたしは尋ねた。「髪の一部は白くなっているぜ」
博士は笑った。「では、たぶんもっと白くなる方に成長しているんだ。とにかく、われわれはすでに」彼は立ち上がり、ズボンの塵を払った。「すでに、ある詩人が巧みにいったように、人人がそれぞれの運命によって引き離される場所に、きている。われわれがここに止まったのはね、セヴェリアン、疲れたからというだけではない。ここは、きみの行くスラックスへの道と、われわれの故郷であるディウトルナ湖の方に行く道との分岐点なのだ。わたしはここを通り過ぎるのがいやだった。きみに会うチャンスがある最後の場所だからね。まだ収入の公平な分配もしてなかったし――しかし、それは今終わった。万一きみがまた〈絶対の家〉の後援者と話をする機会があったら、公平に扱われたと認めてくれるだろうね?」
クリソス貨幣の柱はまだわたしの前の地面にあった。「これはぼくが予想した額の百倍以上だ」わたしはいった。「ああ、そう認めるよ」わたしはコインを取り上げ、|図 嚢《サパタッシュ》に入れた。
ドルカスとジョレンタが目くばせを交した。そしてドルカスがいった。「わたしはセヴェリアンと一緒にスラックスに行くわ。そこがセヴェリアンの行くところなら」
ジョレンタは博士の方に手を差し上げた。あきらかに、彼がそれを握って引き起こしてくれることを期待しているのだ。
「バルダンダーズとわたしは二人だけで旅をする」彼はいった。「そして、われわれは徹夜で歩くつもりだ。みんなと別れるのは名残り惜しいが、もう別れの時間だ。ドルカスちゃん、きみが保護者を見つけてうれしいよ」(ジョレンタの手はこの時には彼の太股に触っていた)「さあ、バルダンダーズ、行かなくちゃならない」
巨人は地響きをたてて立ち上がった。そして、うめき声は出さなかったけれども、彼がどんなにつらい思いをしているか、わたしにはわかった。その包帯は血と汗で濡れていた。わたしは良い事を思いついて、いった。「ちょっと、バルダンダーズとぼくだけで内密の話をしたい。みんなは百|歩《ペース》ほど離れていてくれないだろうか?」
女たちは頼んだとおりにしはじめた。ドルカスは片方の道を先の方に進み、ジョレンタ(彼女をドルカスが引き起こした)はもう一方の道を進んだ。ところが、タロス博士がそのまま留まっていたので、わたしは頼みを繰り返した。
「わたしにも行ってくれというのかね? それは無意味だ。バルダンダーズはわたしと合流するやいなや、きみの話を喋っちまうよ。ジョレンタ! こっちへきなさい」
「彼女は、おたくに頼んだのと同様の頼みを聞いて、遠ざかっているんだよ」
「ああ。しかし、違う方向に進んでいる。あれでは、わたしが困る。ジョレンタ!」
「博士、ぼくはただ助けたいだけだよ。おたくの友人――だか、奴隷だか、なんだか知らないが――この人をね」
まったく意外なことに、ぐるぐる巻きにした包帯の下からバルダンダーズの低い声がした。
「おれが彼の主人だ」
「その通り」博士はそういって、バルダンダーズの方に押しやったコインの柱を持ち上げて、巨人のズボンのポケットに入れた。
ジョレンタはその美しい顔に涙を流しながら、よろよろとわれわれのところに戻ってきてしまった。「博士、一緒にいってもいいでしょ?」
「絶対にだめだ」彼は、ケーキをもうひと切れほしいという子供にいうように、冷たくいった。ジョレンタはその足下にくずおれた。
わたしは巨人を見上げた。「バルダンダーズ、きみを助けてやる。ちょっと前に、ある友人がきみのように大火傷を負った。それを治してやることができた。しかし、タロス博士やジョレンタが見ている間は、できないんだ。だから、ちょっとだけ〈絶対の家〉の方に戻ってくれないか?」
巨人はゆっくりと首を左右に振った。
「彼はきみがどんな鎮静剤をくれるか知っている」タロス博士は笑っていった。「彼自身、大勢の人に提供してきた。しかし、命が惜しいんだよ」
「ぼくがやろうとしているのは命なんだ――死ではなくて」
「ヘーえ?」博土は眉を上げた。「その火傷を負ったという友人はどこにいる?」
巨人はもう、手押車の柄を持ち上げていた。「バルダンダーズ」わたしはいった。「おまえ、〈調停者〉って知っているか?」
「遠い昔のことだ」バルダンダーズは答えた。「そんなことはどうでもよい」彼はドルカスと違う道の方に歩きだした。博士は腕にジョレンタをしがみつかせたまま、二、三歩その後を追ったが、立ち止まった。
「セヴェリアン、きみの話によると、きみはとても大勢の囚人を監視した経験があるようだな。もしバルダンダーズがもう一枚クリソスをくれるといったら、われわれがずっと遠くにいってしまうまで、こいつを押さえていてくれるかね?」
わたしは巨人の苦痛と自分自身の失敗を考えて、まだ胸糞が悪かったが、なんとかいった。
「組合員として、ぼくが仕事を引き受けるのは、合法的に成立している当局からの要請があった場合だけだ」
「では、彼女を殺すことにしよう。きみたちの姿が見えなくなったら」
「それは、おたくと彼女の間の問題だ」わたしはそう言い捨てて、ドルカスの後を追った。
彼女に追い着くか追い着かないうちに、ジョレンタの悲鳴が聞こえた。ドルカスは立ち止まり、はっと息をのんで、わたしの手を強く握り、あの声は何かと尋ねた。わたしは博士の脅しの言葉を教えた。
「それで、彼女をいかせたの?」
「本気だとは思わなかったんだ」
そういった時には、われわれはすでに向きを変えて今きた道を戻りはじめていた。十歩もいかないうちに、いくつかの悲鳴の後に、葉の落ちる音さえも聞こえそうな静寂が続いた。われわれは急いだ。しかし、分岐点に着いた時には、もう手遅れだと確信していた。そして、実をいえば、急がなければドルカスをがっかりさせるだろうというだけの理由で、わたしは急いだのだった。
ジョレンタが死んだと思ったのは間違いだった。道の角を曲がると、彼女がこちらに走ってくるのが見えた。それも、まるで豊満な太股が邪魔になって足が動かないかのように膝をくっつけて、ちょこちょこ走り、胸に腕を交差して乳房が動かないように押さえながら。その輝くばかりの赤みがかった金髪は目に振りかかり、着ている薄いオーガンザのシフトドレスはずたずたに引き裂かれていた。彼女はドルカスが抱き止めると、気絶してしまった。「あの悪魔たちめ、この人をぶちのめしたのよ」ドルカスはいった。
「さっきまでは、殺すのではないかと心配していたんだぜ」わたしは、その美女の背中のみみず腫れを見た。「これは博士の杖の跡だな。バルダンダーズをけしかけられなくて、さいわいだった」
「でも、どうしましょう?」
「これを試してみる」わたしはブーツの口から〈鉤爪〉を探り出し、彼女に見せた。「前に図嚢の中で見つけたものを覚えているだろう? 本物の宝石ではないと、きみがいったものを? これがそれだ。そして、ぼくは時々、怪我人を助けることができるらしいんだ。これをバルダンダーズに使ってみようと思ったんだが、彼は承知しなかった」
わたしは〈鉤爪〉をジョレンタの頭上にかざし、それから背中の打ち傷に沿って動かした。しかし、その光は明るくならず、彼女も具合が良くなったようには見えなかった。「作用しないな」わたしはいった。「この人を背負って歩かなければならないようだ」
「肩に担ぐといいわ。そうしないと、一番ひどく傷ついている部分を支えることになるからね」
ドルカスがテルミヌス・エストを持った。そして、わたしは彼女がいったようにジョレンタを担いだ。そうすると彼女は男のように重いことがわかった。このようにして、薄緑の天蓋のような木の葉の下を、長い間よろよろと進んでいくと、ついにジョレンタが目を開けた。しかし、その時でさえも、彼女は助けてもらわなければ、ほとんど歩くことも立つこともできず、涙の跡のある卵型の顔をもっとよく見せるために、その並はずれた頭髪を指で掻き上げることすらしなかった。
「博士はどうしてもわたしを連れていってくれないのよ」彼女はいった。
ドルカスはうなずいた。「そうらしいわね」彼女は自分よりずっと幼い人にいうような口調でいった。
「わたし、もうだめだわ」
なぜ、そんなことをいうのかと、わたしは尋ねた。彼女はただ首を振るばかりだったが、しばらくして、いった。「あんたと一緒にいってもいいでしょ、セヴェリアン? わたし、お金が全然ないの。博士がくれたお金をバルダンダーズが取り上げてしまったのよ」彼女はドルカスの方をちらりと横目で見やった。「彼女はお金を持っているわよ――わたしがもらった以上に。博士があんたに渡したのと同じくらいの大金を」
「この人は知っているわよ」ドルカスはいった。「そして、わたしのお金は、彼が望めばすべて彼のものだと知っているわ」
わたしは話題を変えた。「きみたち二人とも知っているだろうが、ぼくはスラックスにはいかないかもしれない。少なくとも、直接にはね。もし、ペルリーヌ尼僧団の所在がわかったら、回り道をするつもりだ」
ジョレンタは、気が狂ったのではないかというように、わたしを見た。「彼女たちは世界じゅうを放浪していると聞いているわ。それに、女しか入れないのよ」
「あの教団に入りたいというんじゃない。ただ見つけたいだけだ。最後に聞いた情報では、北に向かったということだった。しかし、彼女らの居場所がわかったら、そちらに行かなければならないだろう――たとえ、また南に向かうことになるとしても」
「わたしはあなたの行くところにいくつもりよ」ドルカスはいった。「スラックスでなくてもね」
「そして、わたしには行くあてがないわ」ジョレンタが溜息をついた。
ジョレンタを支えてやる必要がなくなるとすぐに、ドルカスとわたしは彼女を引き離して、少し前を歩いた。しばらく歩いてから、振り返って彼女を見た。彼女は泣いてはいなかったが、もはやタロス博士と行をともにしていたあの美女の面影はなかった。あの頃は、彼女は誇らしげに、傲慢にさえ見えるほどに、頭を上げていたし、胸を張って、あの大きな素晴らしい目をエメラルドのようにきらめかせていた。ところが今は、彼女はぐったりと肩をつぼめ、うなだれて歩いていた。
「さっき、博士や巨人となんの話をしていたの?」ドルカスが歩きながら尋ねた。
「もう話したじゃないか」わたしはいった。
「一度あなたが大きい声を出したので、その部分は聞こえたわ。〈調停者〉って知っているか?≠チてね。でも、あなた自身がそれを知らないのか、それとも、彼らが知っているかどうか確かめようとしたのか、わからなかった」
「ぼくはほとんど――いや事実上、何も知らない。彼を描いたという絵はいくつか見たことがあるが、それぞれあまりに異なっているので、とても同一人物だとは思えなかった」
「いろいろな伝説があるわ」
「ぼくが聞いた大部分は、とても馬鹿げている。ジョナスがここにいればなあ。いれば、ジョレンタの世話もするだろうし、〈調停者〉のことも知っているだろうに。ジョナスというのは〈憐れみの門〉のところで出会った人だ。ほら、メリーチップに乗っていた男だよ。彼とはしばらくの間、とても親しくしていたんだ」
「今はどこにいるの?」
「タロス博士が知りたがったのは、そのことだ。ぼくは知らない。そして、その話はしたくない。もし、きみが話をしたいなら、〈調停者〉の話をしてくれないか」
まったく馬鹿げたことだが、その名前を口にするやいなや、森林の静けさがまるで重りのように感じられた。どこか最も高い梢に吹く微風の溜息が、まるで病床から聞こえてくる溜息のように思われ、光に飢えている木の葉の薄緑の色が、飢えた子供の青ざめた顔を思い出させた。
「だれも彼のことはよく知らないのよ」ドルカスが話しはじめた。「そして、たぶんわたしはあなたよりもよく知っていないわ。しかも今は、知っていることをどのようにして学んだか思い出すことさえできないのよ。とにかく、彼はほとんど少年同然だという人もあれば、全然、人類ではないという人もあるの――退化人ではなくて、わたしたちに理解できるかたちとしては、それは何か広大な知性体のようなものであって、彼の側から見れば、わたしたちの現実の世界は玩具屋の紙の劇場ぐらいの現実性しかない、というのよ。こんな話があるの。彼はかつて死にかけた女の手を取り、そしてもう一方の手で一つの星を掴んだ。すると、その時以来、彼は宇宙と人類との、そして人類と宇宙との、調停をする能力が身について、昔からの不和に終止符を打ったと。また、姿を消す方法を知っていて、だれもが死んだと思った時にまた現われたと――埋葬されてしばらく経ってからまた現われたということよ。彼は人間の言葉を話す獣として人間の前に現われることもあるのよ。また、信心深い女の人やなんかには、薔薇のかたちに見えたりするの」
わたしは自分の着面式を思い出した。「どうやら、処刑される時の聖キャサリンがそれらしいな」
「もっと暗い伝説もあるのよ」
「それを話してくれ」
「とても恐い話だったわ」ドルカスはいった。「今では思い出すことさえできないけれど。彼のことは、あなたが持ち歩いているあの茶色の本に書いてあるんじゃないかしら?」
それを引き出して見ると、たしかに書いてあった。しかし、歩きながら読むのは落ち着かないので、|図 嚢《サパタッシュ》にいったん戻し、野宿をする時に――まもなくそうしなければならない成り行きだった――読むことに決めた。
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27 スラックスに向かって
行く道は、昼の光が残っている間、荒れた森の中を続いていた。暗くなって一刻ほど経ってから、ギョルよりも小さいが、流れのもっと速い川のほとりに出た。月の光で見ると、遠くの方に広い笹原があって、夜風にそよいでいるのが見えた。ジョレンタはかなり前から疲れたと泣きごとをいっていたので、ドルカスとわたしは止まることに合意した。テルミヌス・エストの研ぎすました刃を、森の樹木の大枝に当てるようなことは絶対に避けたかったので、そこで、小さな薪を拾い集めなければならなかった。今までに見かけた枯枝は湿気を含んでいたり、腐ってすでにスポンジのようになっていたが、この川岸には、固くて、軽くて、干からびていて、ねじ曲がった小枝がいくらでもあった。
それらをたくさん折り取って、焚火のために積み上げてしまってから、火打石は独裁者のところに置いてきてしまって、もう手もとにないことを思い出した。また、あの人物が、タロス博士の手にクリソス貨幣をいっぱい載せてくれた高官≠ニ同一人物であるにちがいないとも思った。
しかし、ドルカスがその乏しい持物の中に、火打石と鉄と火口を持っていたので、まもなく、勢いよく燃え上がる炎で体を温めることができた。ジョレンタは野獣を恐がった。〈絶対の家〉の庭園に続いている森の中に、兵士たちが危険なものを生かしておくわけがないと、わたしは懸命に説明したが無駄だった。彼女のために、三本の太い枝を、焚火の片側にまとめて燃やしておいた。必要があれば、火の中からそれをひき抜いて、彼女の恐れる野獣を撃退することができるようにである。
野獣はやってこなかった。そして、焚火は蚊を追い払った。われわれは上向きに寝て、火の粉が空中に舞い上がるのを眺めた。ずっと上の方を飛翔機《フライヤー》の明かりが行き来し、一、二瞬の間だけ、空を偽りの不気味な夜明けの光で満たした。独裁者の大臣や将軍たちが〈絶対の家〉に帰ってきたり、戦争に出ていったりしているのである。ドルカスとわたしは、彼らが見下ろして――すごいスピードだから、ほんの一瞬だろうが――われわれの真紅の星のような焚火を見たらなんと思うだろうかと、想像をめぐらした。そして結論した。彼らも、われわれが彼らのことを考えると同様に、われわれがだれで、どこにいくのか、それはなぜか、などと思いをめぐらすに違いないと。ドルカスはわたしに歌を歌って聞かせてくれた。それは、春の森をさまよって、前年の友達つまり落葉を懐かしむ娘の歌だった。
ジョレンタは焚火と川の間に寝た。たぶん、そこのほうが安全だと感じたのだろう。ドルカスとわたしは焚火の反対側にいた。できるだけ彼女から見えないところにいたかっただけでなく、そばを流れる冷たい黒い水が見えたり、音が聞こえたりするのはいやだとドルカスがいうからでもあった。「水ってみみず[#「みみず」に傍点]みたい」彼女はいった。「今は空腹でない黒檀の大蛇みたい。でも、わたしたちがどこにいるか知っていて、やがて食べるのよ。蛇は恐くない、セヴェリアン?」
セクラは恐がった。わたしは、その質問に彼女の恐怖の影が動くのを感じて、うなずいた。
「わたしの聞いたところによると、北の暑い森林では、〈すべての蛇の独裁者〉はウロボロスで、それはアバイアの兄弟なの。そして、彼の穴を見つけた猟師は、海底のトンネルを見つけたと思って、それを下っていって、彼の口の中に入ってしまうのよ。そして、何も知らぬままに喉を降りていくの。そうして、自分たちはまだ生きていると信じているうちに、死んでしまうのよ。でも、ウロボロスとは、自分の水源に流れこんでいる、そこの大河にすぎないとか、自分自身の始まりをむさぼり食う海そのものだとか、いう人もいるわ」
ドルカスはこのすべてを話しながら、こちらににじり寄ってきた。わたしは彼女がセックスを求めていると知り、抱いてやった。焚火の反対側でジョレンタが眠っているかどうか、よくわからなかった。実際、時々、もぞもぞ動いていた。豊満な尻、細い腰、波打つ頭髪のために、彼女そのものが身をくねらせる蛇のように見えた。ドルカスはその小さな、痛々しいほど綺麗な顔をわたしの顔に近づけた。彼女にキスすると、彼女が欲望に震えながら、体を押しつけてくるのがわかった。
「とても寒いわ」彼女はささやいた。
着物を脱ぐのは見えなかったけれども、彼女は裸になっていた。マントを掛けてやると、その肌が――わたし自身の肌と同様に――焚火の熱で燃え上がったように感じられた。彼女の小さな手がわたしの着物の下に滑りこんできて、わたしを愛撫した。
「とても良い気持ち」彼女はいった。「とても、すべすべしている」それから、(前に体を合わせたことがあるのに)「わたし、小さすぎるんじゃない?」と子供のようにいった。
目が覚めると、月は(それが〈絶対の家〉の庭園で道案内をしてくれた月と同じものだとは、とても思われなかった)上昇する西の地平線にほとんど追い着かれていた。月の緑柱石のような色の光が川面に落ちて、漣《さざなみ》の一つ一つに黒い影ができていた。
わたしはなぜか不安を感じた。ジョレンタの野獣への恐怖は、もはや先ほどのように馬鹿げたものには思われなくなった。起き上がって、彼女とドルカスが無事でいることを確かめてから、消えかけた焚火に薪をくべた。それからノトゥールのことを思い出した。それは夜に送り出されることが多いとジョナスがいっていた。また、控の間のあのもの[#「もの」に傍点]のことも思い出した。頭上では夜の鳥が舞っていた――〈城塞〉の荒れ果てた塔の中におびただしく巣くっている、頭が丸く、翼が短くて幅が広く、音を立てないのが特徴になっているあのふくろうだけでなく、他の種類の、尻尾が二又か三又に分かれていて、水面すれすれに降りて飛び、飛びながらさえずる鳥もいた。ときたま、今までに見たこともないような巨大な蛾が、木から木に飛んだ。それらの模様のある羽根は人の腕ほどの長さがあった。彼らは仲間どうしで、まるで人間のように会話をしていたが、その声は高すぎてほとんど耳には聞こえなかった。
わたしは焚火を掻き起こしてしまうと、剣が無事であることを確かめ、それから大きな目の優しいまつげを閉じて眠っているドルカスの無邪気な顔をしばらく眺め、それからまた横になって、星座の中を旅している鳥たちを眺め、どんなに快かろうと、つらかろうと、わたしにとって完全に鎖されることの決してない記憶の世界に入った。
わたしは徒弟頭になった次の年の、あの聖キャサリンの日の祭の記憶を呼び覚まそうとした。ところが祭の準備がほとんど始まらないうちに、他の記憶が求められもしないのに、そのまわりに群がり集まってきた。組合のキッチンで、わたしは盗み酒のカップを唇に持ち上げた――そして、それがいつの間にか、暖かい乳の流れる乳房に変わっていた。それはわたしの母の乳房だった。無駄な試みをさんざんしたあげく、ついに彼女にまで遡ることができたので、わたしは高ぶる気持ち(そのために記憶が消えてしまう可能性もあった)をほとんど抑えることができなかった。わたしの腕は彼女を掴もうとした、そして、目を上げることができさえしたら、彼女の顔が見えただろうに。それは確かにわたしの母だった。なぜなら、拷問者が養う子供は乳房を知らないから。その時に、視野の縁に灰色に見えたものは、彼女の独房の壁の金属だった。まもなく、彼女は連れていかれ、装置≠フ中で悲鳴をあげるか、またはアロウィンのネックレスの中であえぐことになるのだった。わたしは望む時にその時点に戻ることができるように、彼女を引き止めて、その瞬間にしるしをつけようと思った。だが、彼女を自分に繋ぎ止めようと努力している間にも、彼女は薄れていき、風が立つと霧が溶けるように、溶けていった。
わたしはまた子供に戻った……女の子……セクラだ。わたしは窓が鏡になっている壮麗な部屋の中にいた。それらの鏡は発光すると同時に反射してもいた。わたしの周囲には、背丈がわたしの倍かそれ以上もある美しい婦人たちがいて、それぞれ衣服を脱ぎかけていた。むせ返るような芳香。わたしはだれかを探していた。ところが、背の高い婦人たちの、美しい、完全な、化粧した顔を見ているうちに、探している相手の顔を自分が知っているかどうかわからなくなってきた。涙が頬を伝わった。三人の女が駆け寄ってきた。わたしは彼女らをまじまじと見比べた。そうしているうちに、彼女らの目が狭まって、光の点になり、それから、最も近くにいる女の唇の横のハート形の斑点が、水掻きのある指を広げた。
≪セヴェリアン≫[#≪≫は《》の置換]
わたしは起き上がった。どこから記憶が夢になったかよくわからなかった。この声は非常に低くはあったが、優しかった。そして、以前に聞いた記憶があった。しかし、それがどこだったか、すぐには思い出せなかった。今は月は西の地平線に隠れようとしており、焚火は二度目の死を迎えようとしていた。ドルカスは粗末な寝具を脇に押しやってしまって、その妖精のような体を夜風にさらして眠っていた。焚火の残り火で赤く照らされている部分は別として、ただでさえ青白い肌が、弱まっていく月光によっていっそう青白く見えた。その寝姿を見ていると、わたしは今までに一度も経験したことのない欲望を感じた――アドミニアの階段でアギアを抱き寄せた時にも、タロス博士の舞台でジョレンタを初めて見た時にも、独房にいるセクラのところに急いでいこうとしていた数知れない場合でさえも、決して感じたことのない欲望を。しかし、わたしが求めたものはドルカスではなかった。わたしはちょっと前に彼女を楽しんだばかりだった。そして、彼女がわたしを愛していると完全に信じていたにもかかわらず、もし彼女が、芝居の前の午後にわたしがジョレンタの中に入ったことを、うすうすどころか、はっきりと勘づいていなかったならば、そしてまた、焚火の向こうでジョレンタがわれわれの様子を窺っていると彼女が信じていなかったならば、彼女があれほどすすんで体をまかせたかどうか確信が持てなかった。
また、わたしは、横になっていびきをかいているジョレンタを、欲したわけでもなかった。そうではなくて、わたしが欲したのは、彼女らの両方と、そしてセクラと、そして〈紺碧の家〉でセクラの真似をしていたあの名も知れぬ売春婦と、セアの真似をしていたその友達と、〈絶対の家〉の階段の上で見たあの女であり、またアギア、ヴァレリア、モーウェンナ、その他、千人もの女たちだった。わたしは魔女たちを思い出し、彼女らの狂気と、雨の夜に〈古い中庭〉で彼女らが踊る荒々しいダンスを思い出し、あの赤い衣のペルリーヌ尼僧団の冷たい処女のような美しさを思い出した。
≪セヴェリアン≫[#≪≫は《》の置換]
夢ではなかった。森のはずれの木々の枝にとまっていた眠そうな鳥たちが、その音に驚いて飛び立った。わたしはテルミヌス・エストを抜き、その刃に冷たい夜明けの光を反射させた。だれが話しかけたにせよ、こちらが武装していることを知らせたかったからである。
またすべてが静まりかえった――今度は今までのどの夜よりも静かになった。わたしは名前を呼んだ者の位置を確かめようとして、首をゆっくりと回しながら、待った。できれば、相手の位置をすでに知っているような振りをしたほうが良いのだが、と思いながら。ドルカスがもぞもぞ動いて、うーんと唸った。だが、彼女もジョレンタも目を覚まさなかった。火のはぜる音、木の葉の間を吹きすぎる夜明けの風、せせらぎ。それ以外の音は聞こえなかった。
「どこにいる?」わたしは小声でいった。だが、返事はなかった。魚が一匹、銀鱗をきらめかせて跳ね上がり、またすべてが元のように静まりかえった。
≪セヴェリアン≫[#≪≫は《》の置換]
いかに低くても、それは惰熱に震え、必要の湯気に湿った女の声だった。わたしはアギアを思い出した。剣は鞘に収めなかった。
≪砂州よ……≫[#≪≫は《》の置換]
これは木立に背を向けさせる計略にすぎないのではないかと思いながら、わたしは目で川を探った。すると焚火から約二百|歩《べース》ほどのところに、それが見えた。
≪ここにきて……≫[#≪≫は《》の置換]
計略ではなかった。すくなくとも、わたしが予想していたような計略ではなかった。その声は下流の方から話しかけてきた。
≪きて。お願い。そこにいては、あなたの声がきこえないわ≫[#≪≫は《》の置換]
わたしはいった。「おれは口をきかなかったぞ」だが返事はなかった。わたしはドルカスとジョレンタを後に残す決心がつきかねたので、待っていた。
≪お願い。日光が水に射したら、わたしはいかなければならないの。もう二度とチャンスはないかもしれないわ≫[#≪≫は《》の置換]
この小さな川は、砂州のある部分がその上下よりも幅が広くなっていた。そして、わたしはその中心の近くまで、足を濡らさずに、黄色い砂そのものの上を歩いていくことができた。左手は緑色がかった水が次第に細く深くなっていき、右手は幅二十|歩《ぺース》ほどの深い澱《よど》みがあり、そこから水が急速に、しかも滑らかに流れ出ていた。そこの砂の上に、両足の間にテルミヌス・エストの四角い先端を置き、両手でその柄を握って立った。
「ここだ」わたしはいった。「おまえはどこだ? 今はこの声が聞こえるか?」
あたかも川そのものが答えるかのように、三匹の魚が同時に跳ね上がり、それからまた跳ね上がり、水面に一連の柔らかな破裂音を立てた。背中に金と黒の鎖の模様のある、一匹のモカシン([#ここから割り注]毒蛇の一種[#ここで割り注終わり])がわたしの靴の爪先すれすれのところに這い出してきて、跳ねる魚を脅すように向きを変え、シューッという音を立て、それからまた砂州の上流の側の浅瀬に入り、長い航跡を残して泳ぎ去った。その胴体全体が、わたしの人差指ほどの太さだった。
≪恐がらないで。さあ、わたしを見て。そうすれば、わたしがあなたを傷つけるつもりがないことがわかるわ≫[#≪≫は《》の置換]
水はもともと緑色だったが、それがなおも濃い緑色になった。そこには千本もの翡翠の触手が、決して水面を乱すことなく、うごめいていた。わたしが恐怖を忘れて見つめていると、それらの間に直径三|歩《べース》ほどの白い円板が現われ、ゆっくりと水面に向かって上がってきた。
それが何かやっとわかったのは、そいつが漣《さざなみ》の立つ水面から数スパン以内に上がってきてからだった――それも、そいつが目を開いたからこそ、わかったのである。一つの顔が水を透してわたしを見た。それはバルダンダーズを玩具扱いするほど巨大な女の顔だった。その目は真赤で、口はほとんど黒に近い深紅の厚い唇に囲まれていたので、最初はまったく唇とは思えなかった。
その奥に無数の尖った歯が生えていた。その顔を額縁のように取り巻いている緑色の触手は水に漂う彼女の頭髪だった。
≪あなたを連れにきたのよ、セヴェリアン≫[#≪≫は《》の置換]そいつはいった。≪いいえ、夢ではないわ≫[#≪≫は《》の置換]
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28 アバイアの女奴隷《オダリスク》
わたしはいった。「前に一度[#「一度」に傍点]おまえに会ったことがあるな」水中に、途方もなく大きく、ぬめぬめと光る彼女の裸体がぼんやりと見えた。
≪あの巨人を見張っていて、それであなたを見つけたのよ。でも、口借しいことに、あなたと彼が別れると、すぐにわからなくなるのよ。あの時あなたは憎まれていると信じていて、どんなに愛されているか知らなかった。全世界の海は、あなたを失ったわたしたちの悲しみで震え、波は塩辛い涙をながし、絶望して岩にわが身を打ちつけたのよ≫[#≪≫は《》の置換]
「それで、ぼくに何を望むのだ?」
≪あなたの愛だけを。あなたの愛だけを≫[#≪≫は《》の置換]
彼女はそういいながら、右手を水面に伸ばした。その手は五本の白い丸太を並べた筏《いかだ》のように、そこに漂った。実際、それは指紋が領分の地図になっていたあの食人鬼の手と同じだった。
≪わたし美しくない? わたしの肌より綺麗な肌を、わたしの唇よりも赤い唇を、どこかで見た?≫[#≪≫は《》の置換]
「息が止まるほど綺麗だよ」わたしは本気でいった。「しかし、ぼくがバルダンダーズと一緒にいる時に、なぜ、バルダンダーズのほうに注目するのか教えてくれないか? おまえが注目したいのはぼくのほうだろうに」
≪巨人に注目するのは、彼が成長するからよ。その点では、彼はわたしたちと同じだし、わたしたちの父−夫≠ナあるアバイアと同じなのよ。しまいには、陸地が彼を支えきれなくなって、彼は水中に入らなければならなくなるわ。でも、あなたは、今、水中にきてもいいのよ。その気があるならね。呼吸も――わたしたちの贈り物として――ここの薄く弱い風を呼吸するのと同じくらい容易にすることができるわ。そして、帰りたくなったら、いつでも陸に戻して、王冠をかぶせてあげる。このセフィソス川はギョルに流れこみ、ギョルは平和な海に流れこんでいるの。海にいけば、潮流が洗う珊瑚と真珠の野原を、イルカの背に乗って駆け回ることができるのよ。わたしたち姉妹が、忘れられた古代都市を見せてあげるわ。そこでは、閉じこめられたあなたの同胞が百世代も生き伸び、上のあなたがたに忘れられた時に、死滅したの≫[#≪≫は《》の置換]
「ぼくにはかぶるべき王冠などないぞ」わたしはいった。「だれか他の人と間違えているのだろう」
≪その海底都市の、ライオン・フィッシュの群れ遊ぶ赤や白の公園で、わたしたちのすべてがあなたのものになるのよ≫[#≪≫は《》の置換]
|水の精《ウンディーネ》は、話しながら、ゆっくりと顎を上げ、頭を後ろに倒していき、しまいに顔全体を水面下すれすれに水平にした。白い喉がそれに続き、それから真赤な乳首のついた乳房が水面に現われ、その側面を漣《さざなみ》が洗った。水中に無数の泡がきらめき、数呼吸のうちに彼女は、雪花石膏のような足から、もつれた頭髪まで、少なくとも四十キュビットはある巨体を伸ばして、流れに漂った。
たぶん、これを読む人は、わたしがどうしてこのような怪物に引き寄せられたりするのか、とても理解できないだろう。しかし、わたしは溺れる人が空気を求めてあえぐように、彼女を信じたいと思ったし、彼女についていきたいと思った。もし、彼女の約束を完全に信用していたら、わたしは他のすべてを忘れて、その瞬間に澱《よど》みに飛びこんだことだろう。
≪あなたはまだ気づいていないけれど王冠を持っているのよ。多数の海を泳ぐわたしたちが――星々の間の海さえ泳ぐわたしたちが、単一の瞬間に閉じこめられていると、あなた思う? わたしたちはあなたの未来の姿を見ているし、過去の姿も見ているのよ。ほんの昨日もあなたはわたしの掌のくぼみで寝たのよ。そして、ギョルの中で死なないように、固まった水草の上に持ち上げて、この瞬間のためにあなたを救ったのも、わたしだったのよ≫[#≪≫は《》の置換]
「水中で呼吸する能力を与えてくれ」わたしはいった。「そして、砂州の向こう側でそれを試させてくれ。もし、おまえのいうことが本当だったら、ぼくはいくことにする」
わたしはその巨大な唇が開くのを見つめた。ここの、空気中に立っているわたしのところに、彼女の声が聞こえるためには、川の中でどのくらいの声を出さねばならないか、わたしには見当もつかない。しかし、彼女が喋るとまた魚が跳び上がった。
≪そんな簡単にできることではないわ。信用してわたしと一緒にこなくてはだめよ。ほんの一瞬のことだけれどね。いらっしゃい≫[#≪≫は《》の置換]
彼女はわたしの方に手をさし延べた。それと同時に、わたしはドルカスの、助けを求める苦悶に満ちた声を聞いた。
わたしはそちらに駆け出した。もし水の精がそのまま待っていたら、わたしは戻ってきたと思う。だが、彼女は待たなかった。川そのものが、まるで襲いかかる津波のように、川床から立ち上がったように見えた。まるで、一つの湖がわたしの頭に飛びかかってきたようであった。それは石のようにわたしの頭を打ち、水に浮いた小枝のようにわたしを水中に転ばした。一瞬の後、波が引くと、わたしは岸のずっと上の方に打ち上げられていた。ずぶ濡れで、打ち傷だらけで、剣がなくなっていた。五十|歩《ペース》ほど先で、水の精の白い上半身が川の水の上に出ていた。水の支えがないので、その肉はみずからの重みに負けて、今にも骨からはがれてしまいそうに垂れ下がり、その髪の毛は細い筋になって濡れた砂に垂れていた。見ていると、血の混じった水がその鼻孔から流れ出した。
わたしは逃げた。そして、焚火のそばのドルカスのところに着いた時には、砂州の下流の川の水が渦巻く沈泥で黒くなっているのが見えるばかりで、水の精の姿はなかった。
ドルカスの顔にはほとんど血の気がなかった。「あれはなに?」彼女はささやいた。「どこにいっていたの?」
「では、きみも彼女を見たんだな。こわかったなあ……」
「ああ恐ろしい」ドルカスはわたしの腕の中に飛びこみ、わたしにしがみついた。「恐ろしい」
「しかし、きみが悲鳴をあげたのは、あれを見たからじゃないね? ここからでは、彼女が澱みから立ち上がるまでは、見えなかったはずだから」
ドルカスは黙って焚火の向こう側を指さした。すると、ジョレンタの寝ている地面に血が流れているのが見えた。
彼女の左の手首に二つの細い切り傷があった。それぞれが親指の長さくらいあった。わたしはそれに〈鉤爪〉を当ててみたが、傷からにじみでる血は固まる気配はなかった。ドルカスの乏しい衣服の蓄えから裂き取った数本の包帯で血を吸い取ってしまうと、彼女が持っている小鍋で、糸と針を煮て、傷口を縫いあわせた。その間ずっと、ジョレンタはなかば意識がないように見えた。時々目を開けたが、ほとんど開けると同時にまた閉じてしまい、目には意識ある表情はなかった。一度だけ口を開いて、こういった。「ほら、ごらん。あんたが自分の神だと思っているこの人が、あたしの提案のすべてに賛成し、そうしろと忠告しているのよ。〈新しい太陽〉が昇らないうちに、二人で新しく始めようよ」これが彼女の台詞の一部だとは、その時にはわたしは気づかなかった。
彼女の傷から出血しなくなると、われわれは彼女を汚れていない地面に移し、洗ってやった。それから、わたしはさっき波が引いた時に立っていた場所に取って返した。しばらく探しているうちに、濡れた砂の上にテルミヌス・エストの柄頭と柄が、指二本分くらい突き出ているのを発見した。
わたしは剣を拭って油を塗った。そして、これからどうすべきかドルカスと話しあった。わたしは彼女に、夢のこと、パルダンダーズとタロス博士に会う前の夜のこと、彼女とジョレンタが眠っている間に水の精の声を聞いたこと、そして、そいつの喋ったことなどを話した。
「彼女はまだあそこにいると思う? あなたは剣を探しにあそこにいったけれど、もし彼女が水底の近くにいたら、水を透して彼女を見ることができたかしら?」
わたしは首を振った。「あそこにまだいるとは思えない。彼女はぼくを引き止めるために川から出ようとした時、どこか怪我をした。そして、彼女の皮膚の白さから判断して、晴天の直射日光の下で、ギョルよりも浅い水の中に長く留まっているはずはないと思う。しかし、たとえ彼女があそこにいたとしても、その姿は見えなかったと思う――水があまりにも濁っていたから」
ドルカスはしばらくの間、黙って地面に坐り、片方の膝に顎をのせて――この瞬間ほど彼女が魅力的に見えたことはなかった――夜明けの、永遠の神秘の希望で火がついて桃色に染まっている東の雲を、見つめているように思われた。そして、しばらくしていった。「彼女はよほどあなたが欲しかったのね」
「あのように水から出てくるなんて、といいたいのかい? 彼女はあんなに大きくなる前は地上にいたにちがいないと思う。そして、もはや水から出ることができなくなっていることを少なくとも一瞬、忘れたんだな」
「でも、その前に汚れたギョルをさかのぼって、それからこの狭い小川を上がってきたのよ。これを渡る時に、あなたを掴んでやろうと考えていたにちがいないわ。でも、砂州の浅瀬から上に出ることができないとわかって、あなたを呼び寄せたの。全部ひっくるめて考えると、星々の間を泳ぐのに慣れている者にとって、快い旅であったはずはないわ」
「では、彼女をそういう者だと信じるのだな?」
「タロス博士と一緒にいて、あなたがいなくなってしまった時、彼とジョレンタはよくわたしにいったものよ。おまえはずいぶん単純な人間だな、道で出会った人間を信じるなんて。そして、他人が口から出まかせに言うことを信じるなんて、とね。それでもやっぱり、人は嘘をつくよりもずっと多く真実を語ると、わたしは思うのよ。そのほうがずっと容易なんだもの! もし、あなたを救ったという話が事実でないとしたら、なぜそんなことをいうの? それを思い出してあなたが恐がるだけじゃない。そして、もし彼女が本当に星々の間を泳がないとしたら、そんなこといっても無意味じゃない。でも、あなた何かを気にしているわね。わたしわからないわ。なんなの?」
わたしは独裁者に会ったことを細かく説明する気にならなかった。「少し前に、ある絵を見た――ある本の中でね――深淵に住んでいる生物の絵だ。彼女には翼があった。鳥の羽根のようなものでなくて、薄い、着色した物質の切れ目のない広大な平面なんだ。それは星の光を叩いて飛ぶ翼なんだ」
ドルカスは興味を引かれた顔をした。「あの茶色の本にあるの?」
「いいや、別の本だ。ここには持っていない」
「でも、それを聞くと、あの茶色の本が〈調停者〉のことをどういっているか、調べようとしたことを思い出すわね。まだあの本は持っている?」
持っていた。わたしは、それを引き出した。わたし自身がずぶ濡れになったので、それも濡れていた。わたしはそれを開いて、頁に日光が当たる位置に――ウールスの顔がふたたび太陽に向いた時に吹き出した微風が、それらの頁の上で遊ぶことができる位置に――置いた。その後は、われわれが話すにつれて、頁は静かにめくれて、男や女や怪物たちの絵が、われわれの言葉の合間にわたしの目を捕え、そうすることによって、みずからをわたしの心に刻みつけた。そのためにそれらはまだわたしの心の中に留まっているのである。また、時々、光が金属インキの光沢を捉えたり、離したりするにつれて、句や短い文章までも明るく光ったり、薄れたりした。「魂のない戦士!」「澄んだ黄色」「溺死刑によって」また後に、「これらの時代は古《いにしえ》の時代であり、世界は古い」また「地獄に限界はなく、境界線を引くことはできない。なぜなら、われわれのいる揚所が地獄であり、地獄のある場所にわれわれはいなくてはならないからである」
「今は読みたくないのね?」ドルカスが尋ねた。
「ああ。ジョレンタに何が起こったか聞きたいんだ」
「知らないのよ。わたしは眠っていたし、夢を見ていたから……いつも見るような夢をね。わたし玩具屋に入っていったの。壁に沿って人形の置いてある棚があり、床の中心に井戸があって、その縁の笠木にも人形が坐っていた。わたしの赤ん坊は人形で遊ぶには小さすぎると思ったことを覚えているわ。そして、赤ん坊のために一つ買って取っておくことにしたの。赤ん坊が大きくなるまでの間に、わたしは時々それを取り出して眺めることもできるし、たぶん、部屋の鏡の前に立てておくこともできると考えたのよ。わたしは一番美しい人形を指さした――それは井戸の笠木の上に坐っているものの一つだった――そして、店の人がわたしのためにそれを取り上げた時、それがジョレンタだとわかったの。そして、それが店の人の手から滑り落ちて、ずっと底の黒い水に向かって落ちていくのが見えた。そこで目が覚めたのよ。当然、わたしは彼女が無事かどうかと思って、彼女の方を見た……」
「そしたら、彼女は血を流していた?」
ドルカスはうなずいた。その薄い金髪が光を受けてきらめいた。「それで、あなたを呼んだのよ――二度もね。それから、あなたが砂州のそぱに降りているのが見え、それから、あれがあなたの後ろの水中から現われるのが見えたのよ」
「きみがそんなに青い顔をする理由はないよ」わたしは彼女にいった。「ジョレンタは動物に噛まれたんだ。それははっきりしている。どんな種類のものかわからないが、噛み跡から考えると、かなり小型のものらしい。だから、恐れることはない。どんなやつにせよ、歯が鋭くて、気質の荒い小型動物という程度のものだから」
「セヴェリアン、ずっと北の方に吸血こうもりがいるという話を聞いた覚えがあるわ。まだほんの子供のころ、わたしを恐がらせようとして、だれかがよくその話をしたものよ。そして、もう少し大きくなった頃、一匹の普通のこうもりが家の中に入ったの。だれかがそれを殺したのだけれど、わたしは父に尋ねたわ。それは吸血こうもりではないか、そういうものが実際にいるのではないか、とね。すると父は、いることはいるが、それは北の方で、世界の中心の湯気の立ちこめる密林の中だ、といったわ。それは眠っている人間や、放牧してある家畜を夜に襲うのよ。その唾液には毒が含まれていて、噛み傷の出血が止まらないんですって」
ドルカスは言葉を切って木々を見上げた。「父はいったわ。町は最初、ギョルの河口の土民の村として始まり、歴史全体を通じて、川に沿って北に這い上がってきたのだと。やがて、町が吸血こうもりの飛ぶ地域に入って、こうもりが廃屋に巣くうようになったら、どんなに恐ろしいだろうとね。〈絶対の家〉の人々にとって、すでに恐ろしいことになっているにちがいないわ。わたしたち、あそこからまだそれほど遠くまで歩いてきてはいないのよ」
「独裁者には同情するよ」わたしはいった。「それにしても、きみが自分の過去について、これほど多くを喋ったのは聞いたことがないぞ。今、お父さんのことや、こうもりが殺された家のことを思い出したんだね?」
彼女は立ち上がった。そして、勇気のある顔を見せようと努力した。しかし、震えていることがわかった。「毎朝、夢を見た後で、少しずつ思い出すの。でも、セヴェリアン、わたしたち、もう行かなくてならないわ。ジョレンタが衰弱するわよ。食べ物を食べさせ、綺麗な水を飲ませないとね。ここに止まっていることはできないわ」
わたし自身、猛烈に腹が減っていた。茶色の本を|図 嚢《サパタッシュ》にしまい、刃に油を塗りなおしたテルミヌス・エストを鞘に収めた。ドルカスは持ち物を小さな包みにまとめた。
それから出発し、砂州のずっと上の方で川を渡った。ジョレンタは一人で歩くことができなかったので、われわれが両側から支えてやらねばならなかった。彼女の顔はやつれ、二人で立ち上がらせてやった時には意識を回復したが、ほとんど口をきかなかった。たまにきいても、ひと言かふた言だった。わたしは初めて、彼女の唇がいかに薄いか気づいた。そして、今は下唇は張りを失って、歯から離れて垂れ下がり、歯茎が露出していた。昨日まであれほど華麗だった彼女の肉体全部が今は蝋のように軟らかくなり、(かつては)それと比べればドルカスが赤子に見えるほど熟れた女体に見えたものが、今はドルカスが春だとすれば、彼女は夏のいちばん終わりの長く咲きすぎた花のように思われた。
このようにして、すでにわたしの背丈よりも高くなっている砂糖|黍《きぴ》が両側に生えている、埃っぽい細道をたどっていきながら、わたしはいつの間にか、彼女と知りあったこの短い期間に彼女をどんなに欲したかを、繰り返し繰り返し考えていた。あまりに完全で生々しくて、どんな阿片剤よりも強力な記憶が、初めて会った(とわたしは信じていた)時のこの女の姿を再現してくれた。それは、あの夜ドルカスとわたしが小さな森の縁を回っていって、明かりのともったタロス博士の舞台を野原の中で見つけた時のことだった。その晩に瞬く燭台の明かりで見た時と同様に、次の朝――あの覚えているかぎりの最も壮麗な朝に北に向かって出発した時に、昼間の光で見てもなお、彼女が完全な美しさをたたえているのを発見して、どんなに不思議な気持ちになったことか。
愛と性欲は従兄弟《いとこ》にすぎないといわれる。そして、ジョレンタの弛緩した腕を首に回して歩くまで、わたしはそのとおりだと思っていた。だが、実はそうではなかった。むしろ、女性への愛は、ヴァレリアやセクラやアギアの夢や、そしてドルカスやジョレンタや、ハート型の顔で鳩のような優しい声で話すヴォダルスの情婦の夢を基にして、わたし自身が育んできた女性の理想像の、陰の部分だったのだ。それで、こうして砂糖黍の壁の間をとぼとぼ歩いていきながら、性欲が逃げ去り、ジョレンタを憐れみの情をもってしか見ることができないようになると、今まで自分が好きだったのは、彼女のしつこい、薔薇色の赤みのさした肉体と、ぎごちなくもあり優雅でもあるその動きだけだと信じていたけれども、やはり、自分は彼女を愛しているのだと、悟ったのであった。
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29 牛飼い
午前中の大部分は、だれにも会わずに砂糖|黍《きび》の間を歩いた。わたしに判断できたかぎりでは、ジョレンタは回復もせず、衰弱もせずにいた。やがて、空腹と、彼女を支える疲れと、そして情け容赦もなく照りつける太陽が、二倍にも三倍にも体にこたえるようになった。この頃には横目で彼女をちらりと見ると、それがジョレンタではなく、見覚えはあるが、だれか思い出すことのできない女のように感じられてきた。ところが、首を回してしっかりと見ると、この印象は(もともと非常にかすかなもので)完全に消えてしまうのであった。
このようにして、ほとんど口もきかずに、われわれは歩きつづけた。パリーモン師からテルミヌス・エストを受け取って以来初めて、この剣が重荷に感じられた。その飾帯の当たる肩の部分がすり剥けてひりひりした。
わたしはみんなのために砂糖黍を切り取り、みんなでそれを噛んで甘い汁を吸った。ジョレンタはいくらでも水分をほしがった。だが、彼女はわれわれに支えられなければ歩けなかったし、また、支えられていると自分の砂糖黍を持つことができなかったので、しばしば立ち止まらなければならなかった。くるぶしは細く、股《もも》は豊かに、それほど美しく形成されているその脚が、まったく役に立たないのを見るのは、妙な感じだった。
われわれは一日で砂糖黍畑の端に達し、そこから真の草原《パンパ》に、草の海に、出た。立木はまだあったが、非常にまばらに散在していたので、一本の木のところから、せいぜい二、三本しか他の木が見えなかった。これらの木のそれぞれに、なんらかの肉食獣が縛りつけられていた。それらは前肢を人間の腕のように前に突き出し、後肢で立たされて、木の幹を背負うような形に生皮の紐でくくりつけられていた。大部分はこの地方でよく見かける斑点のある虎だったが、中には人間のような髪の毛を持つアトロクスや、剣のような歯を持つスミロドンなども混じっていた。たいていは白骨化していたが、中には生きているものもあって、家畜を食いにくる他の虎やアトロクスやスミロドンを脅す役目をする(と人が信じている)恐ろしい声を出していた。もっとも、本当にその効果があるかどうかわからなかったけれども。
われわれにとっては、これらの猫族よりも家畜のほうがずっと危険だった。牛の群れは何がそばにきても突きかかかってくるのである。だから、われわれは牛の群れに行き逢うたびに、その近視の目に見られないように距離を置き、しかも風下に移動しなければならなかった。そのたびに、ドルカスにジョレンタの体重をできるだけ支えさせて、わたしが前に出て、多少なりとも牛に近いところを通らねばならなかった。一度は突きかかってきた牛から飛び退いて、その首を打ち落とさねばならなかった。後で、枯れ草を焚いて、それで焼肉を作ったけれども。
次の機会に、〈鉤爪〉が猿人の攻撃を止めたことを思い出したので、取り出してみた。すると、檸猛な黒い牛が小走りにやってきて、わたしの手に鼻面をすりつけた。それで、その背にジョレンタを乗せ、ドルカスも乗せて彼女を支えさせ、自分は宝石を持って、その青い光が牛の目に入るようにしながら、その頭の横を歩いた。
次に通りかかった木には一頭の生きたスミロドンが縛られていた。それはわれわれが見たほとんど最後のものだった。そいつがわれわれの牛を脅すのではないかと心配だった。しかし、そばを通り過ぎると、鳩の卵ほどもあるそいつの大きな黄色い目が、わたしの背中を見つめているように感じられ、わたし自身の舌が、そいつの喉の渇きでふくれ上がるように感じられた。わたしは宝石をドルカスに渡して、持っているようにいい、それから、その後ろに回って綱を切ってやった。そうしながらも、その獣が襲いかかってくるものとばかり思っていた。ところが、そいつは弱りきっていて、立つ力もなく地面に倒れた。彼に水を与えることのできないわたしは、そのまま立ち去るしかなかった。
正午すこし過ぎた頃、真上の空の高いところを、一羽の腐肉をあさる鳥が輪を描いているのに気づいた。この種の鳥は死を嗅ぎつけるといわれている。この時、わたしは昔の出来事を思い出した。職人たちが審問室で非常に忙しかった時に、われわれ徒弟が狩り出されて、壊れた幕壁の上に住み着いた人たちに投石しなければならないことが、一、二度あったのである。彼らを追い払わなければ、もともと評判の良くない〈城塞〉の名声がますます下落するからだった。ジョレンタが死ぬかもしれないと思うと、やりきれなかった。どんな犠牲を払ってでも弓を手に入れて、あの鳥を空中から射落としてやりたいと思った。だが、そのたぐいのものは何もなかったので、ただそう願うしかなかった。
際限もなく長い時間がたったと思われた頃、この最初の鳥に、もっとずっと小型の二羽の鳥が加わった。このようにずっと下からでも時々見えるその派手な首の色から、それらはカタルティダエ([#ここから割り注]禿鷹の一種[#ここで割り注終わり])だとわかった。また、最初の鳥は、羽根を広げた長さが彼らの三倍はあるから、山のテラトルニスだとわかった。この種の鳥は、登山者を襲って、毒のある鉤爪で顔を掻きむしり、巨大な翼の肘で打ち倒し、登山者を殺すといわれている。時々、二羽の小さいほうがそばに寄りすぎると、大きな鳥が彼らに襲いかかった。そうすると、彼らの空の城の塁壁から、甲高い鳴き声が時々下界まで流れてきて、われわれの耳に届くのであった。一度は、死に取りつかれた気分で、鳥たちに向かって、ここに降りてこいと身振りをした。すると三羽そろって急降下してきたので、びっくりして剣をふるって追い返し、その後、二度とそんな真似をするのをやめた。
西の地平線が太陽に届くほど上昇した頃、われわれは一軒の低い家のそばにきた。それは泥炭でできた小屋としか言いようのないものだった。その前のべンチに、革の脚絆をつけた屈強な男が坐って、マテ茶を飲みながら、雲の色を眺めるふりをしていた。実際には、彼は、われわれが見るずっと前から、われわれを見ていたにちがいなかった。なぜなら、彼は小柄で茶色だったから、この小さな茶色の家に溶けこんで目につかなかったのに、われわれは空を背景にしてシルエットになって、よく見えていたのだから。
この牛飼いを見ると、わたしは〈鉤爪〉を急いで隠した。もっとも、それが見えなくなったら牛がどうするか、見当がつかなかったけれども。だが結局牛は何もせず、今までどおり二人の女を背中に乗せて、とことこ歩いていった。その泥炭の家に着くと、わたしは彼女らを降ろした。
すると牛は鼻面を上げて風の匂いを嗅ぎ、それから片目でわたしを見た。わたしは、もうおまえに用はないということと、もう宝石を持っていないぞということを示すために、波打っている草原の方に手を振って見せた。牛はくるりと向きを変えて、とことこ歩み去った。
牛飼いは唇から錫のストローをはなして、いった。「あれは牛だったな」
わたしはうなずいた。「この気の毒な女を運ぶのに必要だったんだよ。病気なんだ。だからあの牛を借りたのさ。あれはおたくのかい? 気を悪くしないでもらいたいな。結局、あいつには何も害を加えなかったんだから」
「いや、いや」牛飼いは漠然と打ち消すような仕草をした。「最初おまえさんたちを見た時に、軍馬に乗っていると思ったから、聞いてみただけだ。わしの目はもう若い頃のように良くない」
彼は昔どのくらい目が良かったか語った。そのとおりなら、本当に良い目だと言えた。「だが、おまえさんがいうように、あれは牛だった」
今度はドルカスとわたしはそろってうなずいた。
「年を取るとはどういうことか、知っているだろう。若かったら、このナイフの刃をなめたことだろう」彼はベルトの上に突き出ている金属の柄をぴしゃりと叩いた。「そして、それを太陽に向けて誓ったことだろう。牛の股間に何かが見えたと。しかし、よほどの馬鹿でないかぎり、草原の牛の背に乗って歩くやつはいないぐらいのことは、知っている。赤豹ならそうするがね。といっても、豹は爪を立ててしがみつくんだが、それでも、振り落とされて死ぬことがある。とすると、あれはたぶん、やつが母親から受け継いだ乳房だったのだろう。あいつの母親なら知っているが、確かに乳房がついていたからな」
わたしは、都会育ちだから家畜のことはほとんど知らない、といった。
「ああ」彼はいった。そしてマテ茶をすすった。「わしのほうがあんたより無知な男さ。このあたりの人間は、わし以外はみんな、ものを知らない折衷主義者([#ここから割り注]他人の文化を適当に寄せ集めて、自分たちの文化を作っている人々。アメリカ人を暗示している[#ここで割り注終わり])ばかりだ。あんた、折衷主義者といわれる連中のことを知っているだろう? 奴らは何も知らない――近所がそうだから、わしが何かを知っているわけがないだろう?」
ドルカスがいった。「お願いです。この女の人を中に入れて、寝かせてくれませんか? 死にそうなんです」
「わしは何も知らない、といったろう。あんたはここのこの[#「この」に傍点]人に頼むべきだ――この人は牛を――うっかり雄牛《ブル》というところだった――犬みたいに連れて歩くことができるんだから」
「でも、この人は彼女を助けることができないんです! 助けられるのは、あなただけです」ドルカスがそういうと、牛飼いは心得顔にわたしを見た。それで彼が、牛を手なずけたのはドルカスではなくてわたしだと、勝手に決めこんでいることがわかった。「気の毒に」彼はいった。
「見たところ、昔は美人だったにちがいない。しかし、わしはここに坐りこんで、おまえさんたちに冗談なんかいっているが、実はわしにも友達がいて、ちょうど今、中で寝こんでいるんだ。そちらは、そちらの友達が死にそうだと心配しているが、こちらの友人も死にそうなんだ。だから、邪魔をしないでそっとしておいてやりたいんだよ」
「わかった。しかし、われわれはその人の邪魔はしない。もしかしたら、彼を助けることさえできるかもしれないよ」
牛飼いはドルカスからわたしに視線を移し、また彼女を見た。「おかしな人たちだ――わしに何がわかる? ここらの無知な折衷主義者と五十歩百歩なんだよ。じゃ、お入り。だが静かにしてくれよ。そして、わしの客だということを忘れないでな」
彼は立ち上がって、ドアを開いた。それはあまり低かったので、わたしは腰をかがめて通らなければならなかった。その家は一部屋しかなく、暗く、煙の匂いがした。炉の前の藁布団に、わたしよりもずっと若く、亭主よりもずっと背の高い一人の男が横たわっていた。肌の色は同じような茶色だったが、その色の下には血の気がなかった。頬と額は泥で汚れていたのかもしれない。その病気の男が寝ている藁布団以外には寝具はなかった。だが、われわれはドルカスのぼろぼろの毛布を土の床に敷いて、その上にジョレンタを横たえた。一瞬、彼女の目が開いた。だが、その目には意識がなく、かつては綺麗な緑色であったものが、今は日にさらされた安物の布のように色あせてしまっていた。
亭主は首を振って、ささやいた。「この人は、この無知な折衷主義者のマナヘンより長くはもたないな。たぶん、あれほどはね」
「彼女に水を飲ませないと」ドルカスが彼にいった。
「裏に天水桶がある。持ってきてやろう」
彼が出てドアを閉める音が聞こえると、わたしは〈鉤爪〉を引き出した。今度は、壁を貫通するのではないかと心配になるほど強烈な、青い光がほとばしった。藁布団に寝ていた若い男が深く息を吸いこみ、それから、溜息のようにフーッと吐きだした。わたしはすぐに〈鉤爪〉をしまった。
「彼女には効かないのね」ドルカスがいった。
「たぶん、水が効くだろう。たくさんの血液を失ったから」
ドルカスは手を伸ばして、ジョレンタの髪をなでた。その髪は、老婆や、ひどい熱病を患った人のように、抜けはじめていたにちがいなかった。ここはずいぶん暗いにもかかわらず、はっきりと目に見えるほど、ドルカスの湿った掌にたくさんの抜毛がくっついていた。「この人はずっと病気だったように思うわ」ドルカスがささやいた。「わたしが彼女と知り合ってからずっとよ。タロス博士が、一時だけ綺麗に見えるような薬を与えたのよ。でも、今は追い払ってしまった――彼女が今まであまりにわがままだったから、復讐したのね」
「こんなにひどい結果になるように、彼が意識的にやったとは信じられないなあ」
「それはそうだけど。ねえ、セヴェリアン、聞いて。彼とバルダンダーズはきっと、芝居や、国じゅうのスパイをするのをやめると思うわ。もしかしたら、また会うことができるかもしれないわよ」
「スパイ、だって?」驚きの感情がそのまま、顔に表われたにちがいなかった。
「少なくとも、彼らは金を儲けるのと同じくらい熱心に、世の中の出来事を知るために放浪して歩いている、という印象をわたしはいつも受けていたわ。そして、一度など、タロス博士がわたしに向かって、それらしいことを認めたのよ。もっとも、彼らが何を探していたかは、わたしには全然わからなかったけれど」
牛飼いが、瓢箪《ひょうたん》に水を入れて持ってきた。わたしはジョレンタを抱き起こし、ドルカスがそれを彼女の唇に当てがった。水がこぼれて、ジョレンタのよれよれのシフトドレスが濡れた。だが、いくらかは喉を通った。そして、瓢箪が空になると、牛飼いがまた水を汲んできた。今度は彼女は飲むことができた。わたしは牛飼いに、ディウトルナ湖はどこにあるかと尋ねた。
「わしは何も知らないってば」彼はいった。「そんな遠くまで出かけたことがないんだ。人の噂では」指さして、「北西の方角だということだ。そこに行きたいのかね?」
わたしはうなずいた。
「それでは、悪い場所を通らなければならないよ。たぶん、たくさんの悪い場所をね。とにかく、石の町を通ることは確かだ」
「では、この近くに町があるのか?」
「町は、たしかにある。しかし、人はいない。その近くに住む無知な折衷主義者たちは、人間がどちらの方向にいっても、石の町がひとりでに移動して、その行手に待っていると信じている」
牛飼いはそっと笑って、また真顔に戻った。「そんなことはありえない。しかし、石の町は人が乗っている馬の道を捻じ曲げるのだ。だから、迂回していったつもりでも、行手にその町が現われるのだよ。わかるかね? わからないだろうな」
わたしは〈植物園〉を思い出して、うなずいた。「わかる。話を続けて」
「しかし、北西にいくなら、どのみちその石の町を通過しなければならないよ。町が道を捻じ曲げるまでもない。そこには壊れた壁しかないという人もある。宝を見つけた人もいるということだ。新しい話を持って帰ってくる人もいれば、帰ってこない人もいる。これらのご婦人は二人とも処女ではないだろうね」
ドルカスがあきれた声を出し、わたしは首を振った。
「それはよい。帰ってこないのは、たいてい処女だから。そこを通るのは昼間にするんだよ。朝、太陽を右肩の上にして、その後は、左目に入れるようにするんだ。夜になっても、止まったり、片方に向きを変えてはいけない。イファイブルの星が最初に輝きだしたら、それを目標にしていくんだ」
わたしがうなずいて、さらに質問しようとした時、病気の男が目を開いて、起き上がった。その毛布が滑り落ちた。見ると、その胸には血に染まった包帯が巻かれていた。彼ははっとして、わたしをまじまじと見つめ、それから何か叫んだ。その瞬間、わたしは牛飼いのナイフの冷たい刃を喉もとに感じた。「この人は何もしない」彼は病人にいった。彼も病人と同じ方言を使ったが、ゆっくり喋ったので、わたしにわかったのである。「おまえの素姓を、この人が知っているはずはない」
「ねえ、父さん、これはスラックスの新しい警士《リクトル》だよ。町の衆が呼び寄せたんだ。こいつがくると棍棒持ち≠ェいっていた。殺して! こいつは、まだ死んでいない人を、みんな殺してしまうよ」
彼がスラックスのことをいったので、わたしはびっくりぎょうてんした。スラックスはまだずっと遠かったので、そのことを彼に尋ねたいと思った。彼とその父親に話をすれば、ある種の和解をすることができると信じた。だが、ドルカスがその年配の男の耳を瓢箪で打ってしまった――弱い女の力だったから、瓢箪が砕けただけで、ほとんど苦痛を与えることはできなかったけれども。彼は持っていた反りのある両刃のナイフで彼女に切りつけた。だが、わたしはその腕を掴んで、骨をへし折り、ナイフもブーツのかかとで踏みつけて折ってしまった。息子のマナヘンは立ち上がろうとした。しかし、〈鉤爪〉は少なくともその命を回復させたとしても、力までは回復させていなかった。ドルカスが押すと、彼はまた藁布団に倒れた。
「わしらは飢死にするだろう」牛飼いはいった。その茶色い顔は、悲鳴をこらえる努力で歪んでいた。
「おまえは息子を介抱した」わたしは彼にいった。「まもなく彼が回復して、おまえの面倒を見てくれるだろう。彼は何をしたんだ?」
どちらの男も、頑として口を割らなかった。
わたしは折れた骨を整骨して副木を当てた。そして、今夜はドアが開く音が聞こえただけでも、また、ジョレンタに何らかの害を加えたりしたら――おまえたちの命はないぞと言って聞かせた。
それからドルカスと一緒に家の外で食事をして、寝た。翌朝、まだ彼らが眠っているうちに、わたしは牛飼いの折れた腕に〈鉤爪〉を当てた。家からそう遠くないところに軍馬が繋がれていた。それに乗っていくと、ドルカスとジョレンタのためにもう一頭の馬を捕えることができた。それを引いて戻ると、泥炭の壁は一夜にして緑に変わっていた。
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30 穴熊との再会
牛飼いの話にもかかわらず、わたしはサルトゥスのような場所があることを願った。そうすれば、綺麗な水を飲むことができ、多少のお金で食事と休息が取れるだろうから。ところが、見つかったのは、町の残骸とさえいえないような場所だった。かろうじて残っている昔の道の敷石の間に荒い雑草が生えていて、遠くから見ると周囲の草原《パンパ》とほとんど見分けがつかなかった。この雑草の中に、まるで大暴風雨の吹き荒れた森林の中の倒木のように、倒れた円柱が横たわっていた。しかし、まだ立っているのも数本あり、日光を浴びて痛々しいほど白く見えた。きらきら輝く黒い目をして、背中にぎざぎざのあるとかげ[#「とかげ」に傍点]が、日溜りに凍りついたようにじっとしていた。建物はただの小山のようになっていて、風に吹き寄せられた土に、やはり草が茂っていた。
コースを変える理由も見当たらなかったので、われわれは馬を小突きながら、北西に進み続けた。前方の山脈が、初めてわたしの意識に上った。それは、廃墟のアーチを額縁にして、地平線上の一本のかすかな青い線にしか見えなかった。しかし、それは一つの存在だった。ちょうど、組合の地下牢の第三層の発狂した客人たちが、絶対に階段を一段も登ることがなく、それどころか、独房から一歩も外に出られないとしても、やはり一つの存在であるように。あの山岳地帯のどこかにディウトルナ湖がある。スラックスもあるはずだし、また、わたしの知ったかぎりでは、ペルリーヌ尼僧団もあれらの山頂や割れ目のどこかを放浪しながら、果てしないアスキア人との戦争の負傷者を看護しているはずであった。そう、果てしない戦争が山岳地帯で続いているのだ。あそこでは、一つの峠を取るために、何千人も何万人もの命が消えているのである。
しかし今われわれは、鳥の声以外には、なんの声も聞こえない町にやってきてしまった。あの牛飼いの家から、革袋に水を入れて持ってきたが、それももうほとんど空になっていた。ジョレンタはますます弱っている。もし夕方までに水を見つけなければ彼女は死ぬだろうと、ドルカスとわたしの意見は一致した。ウールスの回転が太陽を隠しはじめた頃、壊れた供物台に行き当たった。その水盤にまだ水が溜まっていた。水は腐って悪臭がしていたが、背に腹は代えられないので、それをジョレンタが二口三口飲むのを許した。しかし彼女はすぐに吐いてしまった。ウールスの回転が月を昇らせた。満月をかなり過ぎていたので、日光が消えた後は、その弱々しい緑がかった光だけが頼りだった。
小さなキャンプ・ファイアーにでも行き逢えば、それこそ奇蹟だと思われた。しかし、実際に出会った火は、風変わりではあるが、ぎょっとするほどのものではなかった。ドルカスが左の方を指さした。そちらを向くと、一瞬遅れて、流星のようなものが見えた。「流れ星だよ」わたしはいった。「前にも見たろう? シャワーのように落ちてくることもあるんだよ」
「ちがう! あれは建物よ――見えないの? 空を背景にして黒く見える部分を探してごらんなさい。平らな屋根があるにちがいないわ。そして、その上にいるだれかが、火打石を持っているのよ」
きみは想像力が強すぎるといいかけた時、火の粉の落ちた場所に、ピンの頭とさほど変わらぬ大きさの鈍い赤い光が現われた。さらに二呼吸する間に、それは小さな炎の舌になった。
遠くはなかった。だが、暗闇と、馬が乗り越えていく瓦礫のために、そう感じられただけだった。そして建物のところに着いた時には、焚火は、その回りに三人の人影がうずくまっているのが見えるほどの明るさになっていた。「手助けしてもらいたい」わたしは呼びかけた。「この女が死にそうなんだ」
三人がそろって頭を上げた。そして、老婆のきーきー声が尋ねた。「そういうのはだれだ? 男の声がきこえるが、姿は見えない。だれだ?」
「ここだ」わたしはそういって、煤色のマントと頭巾を後ろにはねのけた。「あんたの左側だ。黒い服を着ているんだ」
「そうか……そうか。だれが死にそうだって? 小さな白っぽい髪のほうではなくて……大きい赤金色のほうだな。ここにワインと焚火はあるが、ほかに薬はないよ。回っておいで。向こうに階段がある」
わたしは言われたとおりに、馬を引いて建物の角を回っていった。低い月が石の壁の陰に隠れたので、真暗闇になった。だがそこで、粗末な階段につき当たった。それは建物の側面に崩れ落ちた構造物の石材を使って、作られたものにちがいなかった。二頭の馬を繋ぐと、ドルカスに前方を手探りして歩いてもらい、危険を知らせてもらいながら、わたしはジョレンタを抱いて登っていった。
上がってみると、屋根は平らではなかった。そして勾配は、ひと足ごとに、滑り落ちるのではないかと心配になるほど急だった。表面は固く、でこぼこしていて、スレートで葺いてあるようだった。その上を伝わっていくうちに一枚が緩んだ――それはがちゃがちゃと他のスレートに当たりながら滑り落ちていき、屋根の縁を越えて落下し、下のでこぼこの板石に当たって砕ける音が聞こえてきた。
わたしがまだ徒弟で、最も基本的な仕事しかさせてもらえないほど幼かった頃、われわれの塔から〈古い中庭〉を隔てた〈魔女の高楼〉に、手紙を持っていくように命じられたことがあった(われわれと近い関係にある魔女へ職務上のメッセージを伝えるのに、思春期以前の少年だけを選ぶのは、充分な理由があってのことだと知ったのは、ずっと後になってからだった)。今は、われわれ自身の塔が、その地域の住民だけでなく(城塞〉そのものの中にいる他の住民にとっても、〈魔女の高楼〉と同等またはそれ以上に恐怖の念を呼び起こすものであることを、わたしは知っている。しかし、自分自身のこの恐怖の思い出の中に、古き良き純真さの風味を感じるのである。とはいえ、幼くて魅力のない少年であった当時のわたしにとっては、その恐怖は現実そのものであった。年上の徒弟たちから怪談を聞かされたし、自分よりも問題なく勇気のある少年が怯えるのを実際に見た。〈城塞〉の無数の塔のなかで最もひょろ長いその高楼では、夜ごとに怪しい色の火が燃えた。われわれの宿舎の丸窓を通して聞こえてくる絶叫は、こちらの塔のように地下の審問室から聞こえてくるのではなく、その塔の最上階から聞こえてくるのだった。そして、そのような絶叫を上げているのは魔女自身であって、彼女らの客人ではないと、われわれは知っていた。なぜなら、われわれが使っているその言葉の意味において、彼女らのところに客人はいなかったからである。また、それらの金切り声は、われわれのところのとちがって、狂気の絶叫でも、苦痛の悲鳴でもなかった。
封筒が汚れないように、わたしは手を洗わされた。そして、中庭に点在する凍った水溜りを避けて歩きながら、自分の手の湿り気と赤さをひどく気にしていた。わたしの心は一人の魔女の姿を描き出した。それはとても威厳があって、人を見下す態度をしており、無礼にも赤い手で手紙を届けにきたわたしを、特別にいやらしい方法で情け容赦もなく折檻し、また、軽蔑に満ちた手紙をマルルビウス師のところに持ち帰らせるのであった。
実際、わたしはとても小さかったにちがいない。飛び上がらなければ、ノッカーに手が届かなかった。すり切れて深くくぼんでいる魔女の家の戸口の上がり段が、薄い靴のかかとに当たって、びしゃっと鳴った音が、いまだに耳に残っている。
「なに?」わたしの顔を覗きこんだ相手の顔は、ほとんどわたし自身の顔と同じくらい低い位置にあった。それは――わたしがこれまでに見たその類の何百何千という顔の中でも、特に――美と病気が同居していることがひと目でわかる顔だった。その顔の持ち主である魔女は、子供のわたしには年寄に見えたけれども、実際には二十歳前後だったにちがいない。しかし、彼女は背は高くなく、ひどい高齢者のように腰を曲げて歩いた。だが、その顔はとても美しく、しかも血の気がなくて、まるで名彫刻家によって象牙に刻まれた仮面のように見えた。
わたしは黙って手紙を差し出した。
「ついていらっしゃい」彼女はいった。これこそ、わたしが恐れていた言葉だった。そして、今や声に出して言われてしまうと、季節の移り変わりのように、避けることのできないものに感じられた。
中に入ると、その塔はわれわれのものとはひどく様子が違っていた。われわれの塔は威圧感を覚えるほど堅牢で、金属板はあまりにもぴったりと密着しているので、長い年月の間に互いに溶けあって一つの塊りになってしまっており、下の方の階は暖かく、水が滴っていた。しかし、魔女の塔にはがっしりと堅固に見えるものは何一つなく、品物もほとんどなかった。ずっと後になってパリーモン師が説明してくれたところによると、魔女の塔は〈城塞〉の他の部分よりもはるかに古くて、塔の設計がまだ、人間の生理機能を生命のない物質で模倣した段階を、ほとんど出ない時代のものであるので、脆い物質の構造を支えるのに鉄の骨組みが使用されているということだった。ところが、何世紀も経過するうちに、その骨組みは大幅に侵食されて溶けてしまい――ついに、元来その骨組みが支えていた構造物そのものが、過去何世代かにわたって断続的に行なわれてきた修理のおかげで、かろうじて自立している、という状態になってしまったのだった。大きすぎる部屋は、垂れ幕と較べてもさほど厚くない壁で仕切られ、床はどこも平らでなく、階段はどこもまっすぐでなかった。そして、手すりや欄干を掴むと、どれもこれも今にも外れてきそうだった。壁には霊知的《グノスティック》な模様が、白、緑、紫のチョークで描かれていたが、家具はほとんどなく、空気は外よりも冷たいように思われた。
いくつもの階段と、そして、何か香りの良い木の、皮がついたままの若木を縛り合わせて作った梯子を登ってから、わたしは一人の老女の面前に招じ入れられた。その老女は、それまでに見た唯一の椅子に腰かけて、ガラスケースに入った箱庭のようなものを覗きこんでいた。その中は、毛のない、不具の獣たちが住んでいる人工的な風景だった。わたしは彼女に手紙を渡した。そして、導き去られようとする瞬間に、彼女がちらりとこちらを見た。このようにして、その老女の顔は、わたしを案内してくれたあの若いような年寄のような女の顔とともに、わたしの心に刻まれて残ったのである。
今このようなことをくどくどと述べた理由は、焚火のそばのタイルの上にジョレンタを横たえた時に、火の上にかぶさるようにしてうずくまっている女たちが、あの魔女と同じだと思われたからである。そんなことがあるはずはなかった。わたしが手紙を渡したあの老女がもう死んでいることは、ほとんど確実であるし、若いほうは(たとえまだ生きているとしても)、わたし自身がそうであるように、見分けがつかないくらい変わってしまっているはずである。にもかかわらず、こちらを向いた二つの顔は、見覚えのある顔であった。もしかしたら、世界には魔女は二人しかいなくて、それが何度も何度も生まれ変わっているのかもしれない。
「この人はどうしたの?」若い女が尋ね、ドルカスとわたしはできるかぎりの説明をした。
われわれの説明が終わるずっと前に、年上の女がジョレンタの頭を自分の膝に載せて、その喉に、素焼の瓶からワインを無理に流しこんでいた。「この酒が害になるほど強ければ、害になるだろうが」彼女はいった。「四分の三は真水なんだ。おまえさんたちがこの人の死を見たくないなら、たぶん、わたしたちと行き逢って幸運だったよ。彼女も幸運かどうかは、知らないがね」
わたしは礼をいった。そして、火のそばにいた三人目の人はどこにいったのかと尋ねた。
老女は溜息をつき、しばらくわたしを見つめてから、ジョレンタに注意を戻した。
「わたしたちは二人だけよ」若いほうの女がいった。「三人に見えた?」
「ごくはっきりとね。焚火の光で。あんたのお祖母さん――もし、この人がそうなら――は目を上げてこちらに声をかけた。そして、あんたと、だれか知らないがそばにいたもう一人が頭を上げて、それからまたうつむいた」
「この人はクーマイの人よ」
この言葉は前に聞いたことがあった。しかしこの時は、どこで聞いたか思い出すことができなかった。若いほうの女の表情は、絵にある|山の精《オレイアス》のように動かず、なんの手掛かりも与えなかった。
「巫女《みこ》のことよ」ドルカスが教えてくれた。「それで、あなたはだれなの?」
「わたしはその助手《アコライト》。名前はメルリン。それにしても、意味ありげね。三人連れのあんたがたが、焚火にあたっているわたしたち三人を見たのに、わたしたち二人は、最初あんたがたを二人しか見なかったんだから」彼女は確認を求めるようにクーマイの巫女の方を見た。それから、いかにも確認を受け取ったかのように、また視線をわれわれに戻した。もっとも、わたしには彼女らの間に目くばせが交されたようには思われなかったけれども。
「あんたがたのどちらよりも大柄な、三人目の人を、たしかに見たよ」わたしはいった。
「不思議な晩だ。夜の風に乗って飛ぶもので、人間の姿を借りるものが時々いる。問題は、なぜそのような物の怪《け》が、おまえさんに姿を見せようとしたか、ということだ」
彼女の黒い目と落ち着いた顔の効果があまり大きかったので、ドルカスがいなければ、わたしはこれを信じたと思う。しかし、ドルカスはほとんどわからないくらいの頭の動きで、火のそばにいたグループの三人目のやつが、屋根を横切って、棟の反対側に隠れているかもしれないと暗示した。
「この女は助かるかもしれないよ」クーマイの巫女はジョレンタの顔から目を上げずにいった。
「もっとも、本人はそれを望んでいないがね」
「あんたがた二人がワインをたっぷり持っていて、彼女は運が良かったよ」わたしはいった。
老女はこの餌には飛びつかずに、ただ、こういった。「そうだよ。おまえさんにも、たぶん彼女にとってもね」
メルリンは小枝を掴んで、火を掻いた。「死は無いね[#「死は無いね」に傍点]」
わたしはちょっと笑った。たぶん、ジョレンタのことを、もはやそれほど心配していなかったからだと思う。「われわれ処刑人は逆の考え方をする」
「あんたの同業者は間違っているのさ」
ジョレンタがつぶやいた。「博士?」これは今朝以来、彼女が発した最初の言葉だった。
「もう医者はいらないよ」メルリンがいった。「ここにはもっとましな人がいるから」
クーマイの巫女がつぶやいた。「彼女は恋人を求めている」
「それはこの煤色の衣の男ではないのね、お母さん? 彼女にとって、平凡すぎると思ったわ」
「彼はただの拷問者だよ。彼女の求めているのは、もっとひどいやつだよ」
メルリンは納得して、またわれわれにいった。「今夜はこれ以上この人を動かしたくないでしょうね。でも、そうしてもらわなくてはならないのよ。この廃墟の反対側に、もっとましなキャンプの場所がいくらでもあるわ。あんたがたはここにいると危険なの」
「死の危険かい?」わたしは尋ねた。「今、それは無い[#「無い」に傍点]といったじゃないか――それを信じるなら、恐れる必要はないだろう? そして、信じることができないのなら、どうして今信じなければならないんだ?」それにもかかわらず、わたしは行こうとして、立ち上がった。
クーマイの巫女は目を上げて、「この子の言うとおりだ」と、しわがれ声でいった。「本人はわけがわからず、籠のむくどりのように機械的に喋っているだけだが、死は無なのだ[#「死は無なのだ」に傍点]。だからこそ、恐れねばならないのだ。それ以上に恐いものがあろうか?」
わたしはまた笑った。「あんたのような賢い人とは議論ができない。それに、あんたがたはできるだけの手助けをしてくれたから、もう立ち退くことにする。それがお望みのようだから」
クーマイの巫女は、わたしが彼女からジョレンタを受け取るのを黙認した。しかし、いった。
「わたしが望んでいるわけではない。この助手はまだ、宇宙を支配するのは自分だと信じているんだよ。宇宙とは、その上で数取りを動かして、自分の気に入るどんなパターンをも作ることができる盤だとね。魔術師たちはね、彼らの短い名簿にわたしを加えてもよいと考えている。でも、わたしたちのような者はほんの小魚なんだよ。だから、餌を見つけられずに死ぬのがいやなら、目に見えぬ潮に乗って泳がねばならない、ということを承知していなければ、たちまちその名簿から外されてしまうだろうよ。さあ、その気の毒な人をあんたのマントでくるんで、焚火の側に置いておやり。この場所がウールスの影から脱け出したら、もう一度、傷を見てやるからね」
わたしはジョレンタを抱いたまま、行くべきか留まるべきか判断がつきかねて、立っていた。クーマイの巫女の意図は充分に親切なものに思えた。しかし、彼女の隠喩はあの|水の精《ウンデイーネ》の不愉快な思い出を呼びさました。そして、彼女の顔を子細に観察しているうちに、彼女がそもそも老女であるかどうか疑わしくなり、また、バルダンダーズが暴れこんだ時の、仮面を脱いだ退化人《カコジエン》の奇怪な素顔が、あまりにも生々しく思い出された。
「まあ恥ずかしい、お母さん」メルリンはいった。「彼を呼ぶ?」
「彼はこの話を聞いているよ。呼ばなくても出てくるさ」
そのとおりだった。わたしはすでに、屋根の反対側のスレートの上にだれかの靴の擦れる音を聞いていた。
「おまえさん警戒しているね。剣を抜いて愛人を守るために、その女を降ろしたほうが良くはないかい? でも、その必要はないだろうよ」
彼女が話しおえる頃には、夜空を背景に、高い帽子、大きい頭、幅の広い肩が見えてきた。わたしはジョレンタをドルカスのそばに降ろし、テルミヌス・エストを抜いた。
「その必要はない」低い声がいった。「その必要は全然ないよ、若い人。旧交を温めるために早く出てきたかったんだが、ここにいるこの女城主《シャトレーヌ》がそれを望むかどうかわからなかったもんでね。おれの――そして、きみの――主人が、よろしくとのことだった」それはヒルデグリンだった。
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31 清 め
「メッセージは伝達しましたと、あの人に伝えてくれてもかまわないよ」わたしはいった。
ヒルデグリンは微笑した。「そして、返事のメッセージはあるかね、大郷土《アーミジャー》さん? あのねえ、おれは樫の奥の院からやってきたんだよ」
「いや」わたしはいった。「べつに」
ドルカスが目を上げた。「わたしが聞いているわ。〈絶対の家〉の庭園で会った人が、わたしにこういったのよ。このように自己紹介する人に出会うだろうと。そしたら、その人に、葉が茂ったら、森は北に進む≠ニ言えって」
ヒルデグリンは鼻の横に指を当てていった。「森全体かな? 彼はそういったんだね?」
「今いったとおりの言葉をいったのよ。それ以上でも以下でもないわ」
「ドルカス」わたしは尋ねた。「なぜそのことをぼくにいわなかった?」
「あの辻で出逢って以来、二人きりで話す機会がほとんどなかったんですもの。それに、これを知ってるのは、危険なことだとわかったのよ。その危険をあなたに負わせることはできないと思ったの。その言葉を言ったのは、タロス博士にあの大金を与えた人だったのよ。でも、あの人はタロス博士にこのメッセージを託さなかった――わたしは彼らの話を聞いていたから知っているの。彼はただあなたの友達だと、博士にいっただけなの。そうして、これをわたしに伝えたのよ」
「そして、それをぼくに伝えろといったんだね」
ドルカスは首を振った。
ヒルデグリンは太い喉でくすくす笑った。その声はまるで地底から聞こえてくるようだった。
「それはもう、どうでもいいじゃないか? 伝えられてしまったんだから。そして、おれとしては、それが伝わるのがもう少し遅くても困りはしなかったといっても、差し支えないんだ。しかし、ここにいるわれわれはみんな味方だ。もっともこの病気の女はたぶんちがうだろうがね。われわれの話を聞くことはできないだろうし、たとえ聞けたとしても理解できないだろう。名前は何といったかね? 棟の向こう側では、声がよく聞こえなかったが」
「それはそうだろう。名前はいわなかったんだから」わたしは彼にいった。「しかし、名前はジョレンタだ」わたしはジョレンタ≠ニ発音しながら彼女を見た。そして。焚火の光で彼女を見ながら、彼女はもはやジョレンタではないと覚った――ジョナスが愛していたあの美女の面影は、このやつれた顔のどこにも残っていなかった。
「そして、こうもりに噛まれて、こうなったのかね? とすると、こうもりも最近はよほど強くなってしまったんだな」わたしがきっと見つめると、ヒルデグリンは説明した。「ああ、そうだよ。おれは以前に彼女を見ているよ、若いお侍さん。あんた自身や、可愛いドルカスちゃんと同様にね。まさか、あんたと、この姐ちゃんが〈植物園〉から出ていくのを、このおれが、みすみす手をこまねいて、見送ったとは思わないだろう? それも、北の方にいって、北方軍の士官と決闘をするといっているあんたを、だよ。おれはあんたが決闘するのを見たし、あの男の首をはねるのも見た――ついでながら、彼を捕えるのを手伝いさえしたんだぜ。なぜなら、あいつは、実は〈絶対の家〉の回し者ではないかと思ったからだ――そして、あの晩おれは、処刑台の上のあんたに見とれている野次馬の後ろにいたんだよ。あの翌日に、あの門のところで騒ぎが起きるまでは、あんたを見失わずにいた。あんたを見張っていたし、彼女をも見張っていた。もっとも、今はその髪の毛以外は、彼女の面影はほとんど残っていないがね。しかし、その髪の毛さえも変わってしまったようだなあ」
メルリンはクーマイの巫女《みこ》に尋ねた。「わたしが話そうか、お母さん?」
老女はうなずいた。「話せるなら、話しておやり、子供よ」
「彼女は魅力《グラマー》([#ここから割り注]魔法の意味もある[#ここで割り注終わり])を吹きこまれて、美しくなったのだよ。それが、今は急速に薄れつつある。なぜなら、多量の血を失ったし、また激しい運動をしてきたから。朝には、ほんの痕跡しか残っていないだろうよ」
ドルカスが後ずさりした。「魔法……なの?」
「魔法なんてものはない。知識があるだけさ。ある程度、隠されたものがね」
ヒルデグリンは深く考えこむ表情でジョレンタを見つめていた。「容貌がこんなに変わるものだとは思わなかったなあ。そうだ、ひょっとしたら、これは役に立つかもしれないぞ。あんたの女主人は、こういうことができるのかね?」
「これよりもっとすごいことができるよ。その気になればね」
ドルカスはささやいた。「でも、どうしてこんなことができるの?」
「獣の腺から抽出されたいろいろの物質を血液に加えて、彼女の肉体がはめこまれているパターンを、変化させたのよ。そのために、腰がほっそりしたり、乳房がメロンのようなったり、いろいろの変化が生じたのよ。それらの物質は、足のふくらはぎをふくらますためにも使われたわね。顔は清掃し、皮膚に賦活性液を塗ることによって、ぴちぴちした美肌になった。歯も清掃され、何本かは研磨して低くし、人工歯冠をかぶせられた――見ればわかるけれど、その一つが今は脱け落ちているわ。頭髪は染められ、頭蓋に彩色した絹糸を縫いこむことによって、髪の分量を増した。また、体毛の多くが殺されたことは確かね。少なくとも、その状態は残るでしょう。いちばん大切なことは、彼女がトランス状態で美を約束されたことね。このような約束は、どんな子供よりも強い信念によって信じられ、また彼女の信念は、あんたがたの信念に強く働きかけるのよ」
「彼女に何もしてやれないの?」ドルカスが尋ねた。
「わたしでは駄目ね。クーマイの巫女のする仕事でもないわ。絶対に必要だという場合は別だけど」
「でも、彼女は助かるのかしら?」
「お母さんがいったように――本人はそれを望まないだろうけどね」
ヒルデグリンは咳払いをして、屋根の端に唾を吐いた。「では、結論が出た。彼女のためにわれわれはできるだけのことをした。もう種ぎれだ。だから提案する。われわれは本来の仕事にとりかかろう。あんたがいったように、クーマイの巫女さん、この人たちが来合わせたのは都合が良かった。おれは期待していたメッセージを受け取ることができたしね。この人たちはおれと同様に、木の葉の君主≠フ味方なんだよ。ここにいるこの大郷士《アーミジャー》さんは、アプ・プンチャウを呼び起こすのを手伝ってくれるだろう。おれの二人の部下は道中で殺されたから、彼が参加してくれれば、ありがたい。さあ、ぐずぐずしている理由はないだろう?」
「ない」クーマイの巫女がつぶやいた。「運勢は上り坂だ」
ドルカスがいった。「あんたがたが何かするのを手伝うんだったら、わたしたち、それが何か知るべきではないかしら?」
「過去を蘇らせるのだ」ヒルデグリンが重々しく彼女にいった。「昔の、ウールスの偉大な時代に飛び込むのだ。われわれが今坐っているこの場所に、昔、ある人が住んでいた。その人の知識は重大な効果を生むことができる。その人物をこれから呼び起こすつもりなのさ。はばかりながら、すでに有識者の間で、かなり目覚ましいと考えられている経歴の中でも、これはハイライトになるだろうよ」
わたしは尋ねた。「墓を発《あば》くつもりだな? きっと、アルザボの助けさえ借りて――」
クーマイの巫女は手を差しのべてジョレンタの額を撫でた。「墓と呼んでもいいが、彼のではない。むしろ彼の家だ」
「あのね、おれはこの女城主さんのそばで働いていたから」ヒルデグリンが説明した。「この人の役にはずいぶん立っているんだ。言わせてもらえば、一度や二度ではない。そのつけ[#「つけ」に傍点]を払ってもらう時がいよいよきたというわけさ。お察しのとおり、おれはこのささやかな計画を森の主人≠ノ話した。そして今、ここにこうしているわけさ」
わたしはいった。「クーマイの巫女はイナイア老に仕えているとばかり、思っていたんだがなあ」
「負債は支払ってもらわなくちゃね」ヒルデグリンはすましていった。「高貴なお方は必ず支払ってくださる。そして、敵が勝った場合に備えて、敵方にいくらかの友人を作っておいたほうが賢明だということは、必ずしも賢明な婦人でなくてもわかることだ」
ドルカスがクーマイの巫女に尋ねた。「そのアプ・プンチャウってだれですか? そして、なぜ町の他の部分がただの瓦礫になっているのに、この宮殿だけがまだ立っているんですか?」
老女が答えずにいると、メルリンがいった。「伝説にさえなっていないのよ。今は学者でさえ彼の生涯を覚えていないわ。お母さんの話では、その名前の意味は|日の頭《ヘッド・オブ・デイ》≠ネんだって。大昔に、彼はここの人々の中に現われて、たくさんの素晴らしい秘密を教えたのよ。彼はしばしば姿を隠したけれど、いつも帰ってきたの。でも、ついに帰らなくなって、侵略者が町を荒廃させてしまったんだって。今度、帰ってくれば、それが最後になるでしょう」
「実際にそうなるのね。魔法でなくて?」
クーマイの巫女は星のように輝く目でドルカスを見上げた。「言葉は象徴だよ。メルリンは魔法を存在しないものとして、明確に叙述しようとしている……だから、存在しない。もしあんたが、われわれがここでやろうとしていることを魔法と呼ぶつもりなら、その場合には、われわれがそれをしている間は、魔法が生きることになる。大昔に、ずっと遠くの土地で、二つの帝国が山脈をはさんで対峙していた。片方は兵士に黄色の服を着せた。他方は緑色だった。彼らは百世代も戦った。連れの男の人は、この話を知っているようだね」
「そして、百世代の後」わたしはいった。「一人の隠者がやってきて、黄色軍の皇帝に、兵士に緑色の服を着せるようにいい、そして、緑色軍の支配者に、兵士に黄色い服を着せるようにすすめた。しかし、戦争は今までどおりに続いた。ぼくの|図 嚢《サパタッシュ》に『ウールスと天空の驚異』という本が入っている。それにこの話は書かれているんだ」
「それは、人間のすべての本の中で最も賢い本だ」クーマイの巫女はいった。「もっとも、それを読んで利益を得る人はほとんどいないがね。子供よ、この人は――今に聖人になるかもしれないよ――さあ、今夜わたしたちがすることを説明しておあげ」
若い魔女はうなずいた。「すべての時が実在する。これは大司教《エポプト》が話す伝説を超えた真実よ。もし未来がいま存在していなければ、どうしてわれわれがその方向に移っていくことができる? もし過去がまだ存在していなかったら、どうしてわれわれはそれを後に残すことができる? 精神は眠っている時に、その時間に取り巻かれている。だからこそ、眠りの中で人は死者の声をしばしば聞き、そして、未来の物事の情報を受け取るのよ。お母さんのような人々は、目覚めたままでその状態に入るすべを知っているから、自分自身の全生涯に取り巻かれて生きていることになる。ちょうど、アブラクサスが時間のすべてを永遠の瞬間として知覚するようにね」
この夜は少し風が出ていたが、今気づくと、その風は完全に静まってしまっていた。あたりに静寂が立ちこめた。それで、ドルカスの声は小さかったけれども、あたりに鳴り響くように思われた。「では、クーマイの巫女と呼ばれる人がするのは、それなのね? その状態に入って、死者の声で、彼が知りたいと思っていることを、彼に聞かせるのね?」
「彼女にそれができるのではないのよ。彼女はとても老齢だけれど、この町は彼女が生まれるずっとずっと前に荒廃してしまったから。彼女自身の時が、彼女を共鳴させるのよ。なぜなら、それだけが、直接の知識によって彼女の精神が理解することのできるものなんだから。この町を回復するには、これが完全であった頃に存在していた精神を利用しなければならないのよ」
「では、世界にそんなに年取った人がいるというの?」
クーマイの巫女は首を振った。「世界にいるかと? いないよ。しかし、そういう精神なら存在する。わたしが指さす先をごらん、子供よ。あの雲の上だ。あの赤い星は魚の口≠ニ呼ばれている。あれには生き伸びている世界が一つあって、そこに太古の、そして鋭敏な、一つの精神が住んでいる。メルリン、わたしの手を取りなさい。そして穴熊、あんたはこちらの手を取って。拷問者は病気の友人の右手と、そしてヒルデグリンの手を取って。その恋人は病気の女のもう片方の手と、メルリンの手を取るのよ……さあ、これで輪になった。片側に女、片側に男」
「さあ、早く仕事をすませたほうがいい」ヒルデグリンが唸るようにいった。「どうやら、嵐が来そうだから」
「たぶん、早くすむだろう。これから、皆の精神を使わなければならない。この病気の女はほとんど役に立たないだろうがね。わたしがあんたがたの思考を導いていくように感じるよ。わたしの言うとおりにするんだよ」
老女は(そもそも本当に人間の女であるとしての話だが)、ちょっとメルリンの手を放して、自分の胴着に手を差し入れ、一本の棒《ロッド》を取り出した。それは短剣ほどの長さもない短いものだった。にもかかわらず、その先端は、まるで視野の縁にかかっているかのように、夜の闇に消えていた。彼女は口を開いた。それを歯でくわえるのだろうと、わたしは思った。ところが、彼女はそれを飲みこんでしまった。一瞬の後、その発光するイメージがかすかな赤い色合いを帯びて、彼女の喉の垂れ下がった皮膚の下に見えた。
「目をつぶって、みんな……おや、知らない女がここにいるよ。背が高くて、鎖につながれている……ああ、わかった。いいよ、拷問者。手をひっこめないで……だれも、わたしの手から、手をひっこめないで……」
ヴォダルスの宴会の恍惚境の中で、わたしは他人と精神を共有するということが、どういうことか、知った。だが、これはそれとは違っていた。クーマイの巫女は、それまでわたしが見ていた姿にも、また若い頃の姿にも、いや、何者のようにも、見えなかった(ようにわたしには思われた)。むしろ、自分の思考が、ちょうど金魚鉢の中の金魚が目に見えない水の球の中に浮いているように、彼女の思考に包まれているように感じられた。セクラはそこにわたしと一緒にいた。だが、彼女の全体像を見ることはできなかった。ちょうど、彼女はわたしの背後に立っているようで、一瞬間、肩の上に彼女の手が見え、そして、次の瞬間には頬に彼女の息を感じることができた。
やがて、彼女はいなくなり、それとともにすべてがはなれていった。わたしの思考が夜の闇の中に飛びこんでいって、廃墟のなかに消えていくように感じられた。
気がつくと、わたしは焚火のそばのタイルの上に倒れていた。口は、血が混じった唾液の泡で濡れていた。自分の唇や舌を噛んだのだ。足の力が脱けていて立つことができなかった。しかし、さっきのように坐った姿勢に戻った。
最初、他の人たちはいなくなってしまったと思った。体の下の屋根はしっかりしていたが、目には、幽霊のようにもうろうと見えた。幻影のようなヒルデグリンがわたしの右側にのびていた――その胸に手を差し入れてみた。すると、彼の心臓が、逃げようともがいている蛾のように胸郭を叩いているのがわかった。ジョレンタは皆の中で最ももうろうとしていて、ほとんど存在していないかのようだった。彼女に対して、メルリンが説明した以上に多くの細工がなされていた。肉の下に針金や金属帯が見えたが、それらさえも霞んでいた。それから、わたしは自分の足や爪先を見た。すると、ブーツの革を透して、〈鉤爪〉が青い炎のように燃えているのが見えた。わたしははっとして、それをつかんだ。だが、指に力が入らず、それを取り出すことはできなかった。
ドルカスはまるで眠っているかのように横たわっていた。彼女は唇から泡を吹いておらず、見掛け上、ヒルデグリンよりもしっかりと見えた。メルリンは黒服の人形のように崩折れていた。その姿はひどく痩せて、もうろうとしていたので、あのほっそりしたドルカスでさえ彼女と較べればたくましく見えるほどだった。今はもはや、知性がその象牙の仮面のような顔に生気を吹きこんでいないので、わたしの目には、それは骨を覆っている羊皮紙にしか見えなかった。
想像していたとおり、クーマイの巫女はまったく人間の女ではなかった。といって、〈絶対の家〉の庭園で見たあの恐ろしい生物でもなかった。何かぬめぬめした爬虫類のようなものが、発光する棒《ロッド》のまわりにとぐろを巻いていた。頭を探したが、そのようなものはなく、その爬虫類の背中の模様の一つ一つが顔になっていて、それぞれの顔の目が、恍惚の表情を浮かべて閉じていた。
わたしが一人一人を観察しているうちに、ドルカスが目を覚ました。「わたしたちに何が起こったの?」彼女はいった。ヒルデグリンがもぞもぞと身動きした。
「どうやら、われわれは単一の瞬間よりも長い視点から自分自身を眺めているらしい」
彼女は口を開けたが、叫び声は立てなかった。
今にも嵐のきそうな雲行きなのに風はなかった。それにもかかわらず、下の街路に塵が渦巻いていた。説明のしようがないが、しいていえぽ、次のようになるだろう。まるで、それまで粗雑な舗装の割れ目に隠れていた、蚊の百分の一ほどのサイズの、無数の微小な昆虫の大群が、今、月の光に誘い出されて婚姻飛行に飛び立ったかのようだった。彼らの運動には音もなく規則性もなかった。だが、しばらくすると、その画一的な塊りは大集団を形成し、前後に揺れ動き、どんどん大きく濃密になっていき、結局、また壊れた石のところに沈降した。
やがて、昆虫はもう飛ばなくなり、たがいの体の上を這いずり回り、たがいに集団の中心にもぐりこもうとしているように見えた。「あれは生きているぞ」わたしはいった。
だが、ドルカスがささやいた。「見て、死んでいるわ」
彼女が正しかった。一瞬前に、生命で沸き立っていた大群が今は漂白された小骨を見せていた。それらの微細な塵は、ちょうど学者が、何千年も前に砕けてしまった色彩窓を復元するために、古代のガラスの破片を繋ぎあわせるように、それぞれまとまって、たくさんの頭蓋骨になり、月の光を浴びて緑色に光った。それらの死者の間を、野獣が歩いた――アエルロドン([#ここから割り注]猫族の祖先[#ここで割り注終わり])、ずしんずしんと地響き立てて歩くスペリアエ([#ここから割り注]洞穴虎[#ここで割り注終わり])、こそこそ歩く名前もわからない動物の姿。それらのすべてが屋根の上から眺めているわれわれよりも霞んでいた。
死者は一人また一人と起き上がり、獣どもは消滅した。最初、彼らは自分らの町を再建しはじめた。石材はふたたび持ち上げられ、灰が固まって材木となり、復興された壁のソケットに填めこまれた。立ち上がった時には歩く死骸にしか見えなかった人々が、作業をしているうちに次第に力を増して、がに股の種族になり、水夫のような姿勢で歩き、幅の広い肩に力を籠めて巨石を転がした。やがて町は完成し、われわれは次に何が起こるか、待った。
夜のしじまを太鼓の音が破った。その響きから、最後の太鼓が鳴った時には、町の周囲に森林が伸び上がっていることがわかった。なぜなら、それらの音に、林立する大木の幹に反響する場合にしか聞かれない響きが伴っていたからである。その街路を、一人の剃髪した呪術師が行列を率いてやってきた。彼は裸で、その体には、見たこともない象形文字が描かれていた。それらの文字の形には、一見して意味を叫んでいるように思われるほど強烈な、印象があった。
彼の後ろから踊り手がやってきた。百人以上が一列になり、それぞれ前の踊り手の頭に自分の手を乗せて、飛んだり跳ねたりしながら密集行進をしてきた。彼らは顔を上に向けていたので、ひょっとしたら、(わたしはいまだにそうではないかと思っているのだが)彼らはわれわれがクーマイの巫女と呼ぶ百眼の蛇をまねて踊っているのではないかと思った。彼らはゆっくりととぐろを巻き、街路をいったりきたりして蛇行し、呪術師のまわりを回り、ふたたびもとに戻り、最後に、屋根にわれわれが乗っている家の、入口に達した。雷鳴のような響きを立てて、扉の板石が倒れた。没薬と薔薇のような香りが立ちこめた。
一人の男が進み出て、踊り手たちを迎えた。その顔を見て、わたしはびっくり仰天した。たとえ彼が百本の腕を持っていたとしても、いや、自分で自分の首をぶらさげていたとしても、それほど驚きはしなかったろう。実は、その男の顔は、わたしが幼年時代から知っていた顔、つまり、幼年時代に遊んでいたあの霊廟の、死者のブロンズ像の顔であった。彼の両手首には、ヒアシンス石、オパール、紅玉髄、それにきらめくエメラルドをちりばめた、大きな金の腕環がはまっていた。彼はゆっくりした足どりで進み出て、行列の中心に立った。踊り手たちは彼の周囲で体をゆらめかせた。やがて、彼はわれわれの方を向き、両手を上げた。彼はわれわれを見ていた。そして、そこにいる数百人の群衆のうちただ一人、彼だけが実際にわれわれを見たことが、わたしにわかった。
わたしは下の大絵巻にすっかり心を奪われていたので、ヒルデグリンが、屋根の上からいなくなったのに気づかなかった。今、彼は脱兎のごとく――そのような大男が脱兎といえるならの話だが――群衆の中に飛びこみ、アプ・プンチャウを捕まえた。
続いて起こったことはなんと記述してよいかわからない。ある意味でそれはあの〈植物園〉の森の黄色い家で行なわれたささやかなドラマと似ていた。といっても、それよりももっとずっと奇妙なものであった。なぜなら、あの時には、あの女とその兄とあの野蛮人が呪縛されたものであることを、こちらが知っていたのに、今度は、魔術に囚われているのは、むしろヒルデグリンとドルカスとわたしのほうだったから。踊り手たちにヒルデグリンが見えないことは確かだった。
しかし、彼らはなんとなく彼の存在に気づいて、彼に向かって怒声を浴びせ、石の刃のついた棍棒で空中をめった切りにした。
アプ・プンチャウは、屋根の上のわれわれを見たように、また、イサンゴマがアギアとわたしを見たように、確かに彼を見たと思う。しかし、わたしが彼を見るように、彼がヒルデグリンを見たとは信じられない。そして、たぶん彼が見たものは、クーマイの巫女がわたしにとって奇妙な姿に見えたように、彼にとって奇妙に見えただろうと思う。ヒルデグリンは彼を捕まえたが、彼を制圧することはできなかった。アプ・プンチャウはもがいたが、彼を振り切ることができなかった。ヒルデグリンはわたしを見上げて、助けを求めた。
なぜ自分が、それに応じたかわからない。わたしがもはやヴォダルスとその目的に仕える明確な意欲を失っていたのは確かである。たぶん、応じた理由は、アルザボの残留効果のためか、または、単に、ヒルデグリンがドルカスとわたしを船に乗せて〈鳥の湖〉を漕ぎ渡ってくれた記憶のためにすぎなかったろう。
わたしはがに股の男どもを押し退けようとした。だが、彼らがめちゃめちゃに振り回す棍棒がたまたまわたしの側頭部に当たり、わたしはがっくりと膝をついた。そして、ふたたび立ち上がった時には、アプ・プンチャウの姿は、飛び跳ね、金切り声をあげている踊り手の群れの中に消えてしまったようであった。その代わりに二人のヒルデグリンがいて、一人はわたしと取っ組みあいをしており、もう一人は何か見えないものと闘っていた。わたしは第一のヒルデグリンを乱暴に投げ飛ばし、第二のヒルデグリンを助けるために駆け寄ろうとした。
「セヴェリアン!」
上向きの顔に当たる雨で、気がついた――大粒の冷たい雨が当たると、雹《ひょう》に打たれたように痛かった。雷鳴が草原に轟き渡った。一瞬、わたしは盲目になったかと思った。だが、次の瞬間、稲妻が閃いて、風に吹き乱された草と倒れた石材が目に入った。
「セヴェリアン!」
ドルカスだった。わたしは立ち上がろうとした。すると手が泥と布に触った。わたしはその布を掴み、泥の中から引き抜いた――細長い絹の布で、先に飾り房がついていた。
「セヴェリアン!」その叫びには恐怖がこもっていた。
「ここだ!」わたしは叫んだ。「下にいるんだ!」また稲妻が閃き、建物と、その屋上で半狂乱になっているドルカスのシルエットが見えた。わたしは真暗な壁のところを回って、階段をみつけた。馬はいなくなっていた。屋上に上ると、魔女たちもいなくなっていた。ドルカスだけが、ジョレンタの死骸に覆いかぶさっていた。稲妻で死骸の顔が見えた。それば、ネッソスのカフェーで、タロス博士とバルダンダーズとわたしに給仕をしたあの女の顔だった。その顔からは、美≠ェ綺麗さっぱり洗い流されていた。差引き精算した残りは、愛だけ、あの神々しさだけだった。人間はありのままの存在でしかありえないということが、人間の許されざる罪として依然として残っている。
今ここで、読者諸君を町から町に――サルトゥスの村の小さな鉱山から、その名前がとうの昔に渦巻く年月の中に失われてしまった、荒廃したこの石の町まで連れてきたところで、わたしはふたたび休息を取る。サルトゥスはわたしにとって〈不滅の都市〉の先の世界への戸口だった。そして、石の町もまた戸口――その廃墟のアーチから瞥見した山脈への戸口だった。その峡谷や要塞や、山々の盲いた目やむっつりした顔のあいだを、これからわたしは遙々と旅をすることになる。
ここで一休みする。読者よ、たとえあなたがこれ以上わたしと一緒に歩きたくないと思っても、恨むつもりはない。決して生やさしい道ではないのだから。
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〈付録〉
共和国の社会関係
翻訳者の最も困難な仕事の一つは、身分や地位に関する事柄を、自分自身の社会の人々が理解できる言葉で表現することである。≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]の場合、支えとなる資料が欠けているから、その困難は倍加する。そして、ここにはほんのスケッチしか提供できない。
手記から判断できるかぎりでは、この共和国の社会は七つの基本グループから成り立っているらしい。これらの中で、少なくとも一つは完全に閉鎖的である。高貴人《エグザルタント》≠ノなるためには、それに生まれつかねばならないし、もしそれに生まれつけば、その男または女は一生涯、高貴人として生活することになる。たぶんこの階級の内部にも階層が存在するのだろうが、この手記には何も記されていない。この階級の女性は女城主《シャトレーヌ》≠ニ呼ばれ、男性はさまざまな称号で呼ばれる。わたしがネッソスと呼ぶことにした都市の外部では、この階級が日常諸事の管理を行なう。この世襲的な権力の継承は、共和国の精神と深く矛盾しており、高貴人階級と独裁権者との間に明らかに存在する緊張の原因となっている。とはいえ、こうした一般的状況のもとで、これ以上どんなに効果的な地方政府が構成できるか、その方法を見出すことは因難である――民主主義がただの押問答に堕落することは避けられないだろうし、任命制の官僚組織は、その職場を満たすための、教育はあるが金のあまりない行政官の膨大な予備軍なしでは成立しえない。いずれにしても、独裁者たちの知恵には、支配階級との完全な共感はその地位にとって最も恐ろしい病気であるという原理が、疑いなく含まれている。この手記の中では、セクラ、セア、それにヴォダルスが高貴人であることは疑問の余地がない。
大郷士《アーミジャー》≠ヘ高貴人に非常によく似ているが、その地位はより低い。この名前は、彼らが闘争階級であることを示している(本来の意味は武器を持つ者)。しかし、彼らが軍隊の主要な役割を独占しているわけではないらしい。彼らの身分は、封建時代の日本の大名に仕えるサムライの身分と結びつけて考えてもよいかもしれない。ロマー、ニカリート、ラーチョ、そしてヴァレリアなどは大郷士である。
上流人《オプティメート》≠ヘ大体において富裕な商人であるらしい。全部で七つある階級のうちで、この手記に登場する回数は彼らが最も少ない。しかし、ドルカスが元来この階級の出であるというヒントはいくらかある。
どの社会でもそうであるが、平民《コモナリティ》≠ェ人口の大部介を占める。彼らは一般に自分たちの境涯に満足しており、国家が貧しくて彼らを教育する余裕がないので無知であるが、彼らは高貴人の傲慢さに腹を立て、独裁者を畏れ敬っている。しかし、つきつめて分析すれば、独裁者は彼ら自身を神格化したものにほかならない。ジョレンタ、ヒルデグリン、それにサルトゥスの村人たちは、この手記のその他の数えきれない登場人物と同様に、皆この階級に属する。
独裁者――高貴人を信用していないらしいが、それはもっともである――を囲んで、玉座の従者≠ェいる。彼らは独裁者の軍事・民事、両面にわたる行政官であり、顧問である。彼らは平民から登用されるらしい。また、彼らが、自分たちが受けた教育は貴重なものだと考えていることは、注目すべきことである(これと対照的に、セクラがそれを軽蔑し、嫌悪していることに注目されたい)。セヴェリアン自身と、〈城塞〉のその他の住民は、ウルタンを除いて、この階級に属するといってよいであろう。
宗教人《レリジャス》≠ヘ、彼らが仕える神――それは基本的には太陽と考えられるが、アポロ的ではない――と同様に、ほどんど謎である(〈調停者〉は〈鉤爪〉を与えられているので、ヨブの鷲を容易に連想する人がいるかもしれないが、それではたぶん、あまりに都合がよすぎるだろう)。今日のローマン・カソリックの聖職者と同様に、彼らは種々の教団のメンバーになっているらしいが、今日のものと違って、いかなる統一的権威にも従属しているわけではないらしい。彼らは明らかに一神論であるが、それにもかかわらず、どことなくヒンズー教のような感じもある。ペルリーヌ尼僧団=\―この手記の中で、これは他のいかなる宗教団体よりも大きな役割を演じている――は、明らかに女性司祭たちの伝道団体であって、(この時代この場所の放浪集団なら、当然そうしなければならないように)武装した男性の従者を引き連れている。
最後に退化人《カコジエン》≠ヘ、ある意味で、われわれとしてはほとんど感じ取る以外にどうしようもないのだが、外来者であるという共通点をもつ、すべての外来分子を表わしており、これはわれわれの知るほとんどすべての社会に存在している。この俗称は、彼らが大衆に恐れられていることを――少なくとも、憎まれていることを――示している。彼らが独裁者の祭に出席していたことは(たぶん強要されたものであろう)、彼らが宮廷に受け入れられていることを示しているように思われる。セヴェリアンの時代の大衆は、彼らを均質なグループと考えていたようだが、実際には種々雑多であったろう。この手記では、クーマイの巫女とイナイア老がこれに属している。
わたしがシュール(sieur)と訳した敬称([#ここから割り注]本書では殿様∞お侍さん≠ネど)は、最高の階級にのみ使われるもののように思われるが、実際には、この社会のもっと下の方の階層に広く誤用されているらしい。旦那《グッドマン》≠ヘたぶん家長を指すのであろう。
貨幣、尺度、および時間
≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]の原本に記載されている貨幣価値の厳密な評価をすることは不可能とわかった。はっきりしたことはわからないが、わたしはクリソスという言葉を、独裁者の横顔の刻印のある金貨を表わすために使った。これらは重量や純度が多少異なっていることは疑いの余地がないが、みな大体同じ価値を持っているように思われる。
この時代の銀貨にはもっとずっと多くのばらつきがあるが、それらを一まとめにしてアシミと呼ぶことにした。
大きな真鍮の貨幣(手記によると、これは一般大衆の交換の基本媒体となっている)はオリカルクと呼ぶことにした。
無数の小さな真鍮、青銅、銅の代用貨幣(中央政府が製造したものでなく、地方の執政官が必要に応じて製造し、局地的な流通だけを意図したもの)は、アエスと呼んだ。一枚のアエスで卵一個を買うことができる。一オリカルクは普通の労働者の一日の給料。一アシミは上流人の仕立の良いコート一着分。一クリソスは、良い軍馬一頭分である。
長さ、または距離の尺度は、厳密にいって、同一単位ではない。本書では、リーグは約三マイル([#ここから割り注]約四・八キロメートル[#ここで割り注終わり])の距離を表わす。これは都市間、およびネッソスのような大都市の内部では、正確な距離の尺度である。
スパンは伸ばした親指と小指の間の長さで約八インチ([#ここから割り注]約二十センチ[#ここで割り注終わり])である。一チェーンは百リンクの鎖尺の長さであり、一リンクは一スパンの長さであるから、これはおおざっぱにいって七十フィート([#ここから割り注]約二十一メートル[#ここで割り注終わり])にあたる。
一エルは軍隊の矢の伝統的な長さであり、五スパン、つまり四十インチ([#ここから割り注]約一メートル[#ここで割り注終わり])である。
ペースは、ここで使われている場合は、一歩を表し、約二フィート半([#ここから割り注]約七十六センチ[#ここで割り注終わり])であり、ストライドは複歩([#ここから割り注]二歩を一つと数える[#ここで割り注終わり])である。
最も普通の尺度は、肘から中指までの長さ(約一八インチ)で、わたしはこれを一キュビットと呼んだ。(わたしの翻訳全体を通じ、原語を――ローマ字で――再現するにあたって、みなさんが理解できる現代語を使っていることがおわかりいただけるだろう)
時の経過を表わす言葉は、この手記の中にはめったに出てこない。読者はときどき直感的に理解されるだろうが、原本の筆者および、筆者が属している社会の時間感覚は、アインシュタインの時間のパラドックスの影響を受けてきた、いやむしろ、それを乗り越えてきた知性体との交渉によって、鈍化している。時間の経過を表わす場合、一キリアドは一千年の期間を表わす。一時代《エージ》は、天然に産出するなんらかの鉱物その他の資源(たとえば硫黄)が枯渇して、またその次の資源が枯渇するまでの間を指す。月《マンス》は(当時の)太陰暦の二十八日の月を指す。そして週《ウィーク》は、われわれの週と厳密に同じであって、太陰暦の一月の四分の一、つまり七日である。一|刻《ウォッチ》は歩哨の当直時間であり、夜の十分の一、つまり約一時間十五分である。
[#地付き]G・W
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訳者あとがき
≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]四部作の第二巻をお届けします。
第一巻の『拷問者の影』で、美しい女死刑囚に恋をしてしまった若い拷問者セヴェリアンは、彼女の自殺に手を貸したために拷問者組合から追放され、師匠からもらった名剣テルミヌス・エストを背負って、流刑地スラックスに向けて旅立ちました。そして、拷問者組合のあるネッソスの〈城塞〉の〈剣舞の塔〉から、その町のはずれの〈壁〉に到達したところで、第一巻は終わっていました。
第二巻では、彼が〈壁〉の〈憐れみの門〉を出て、サルトゥスの町にゆき、それからさまざまな試練をくぐりぬけて石の町≠ノたどり着くまでが描かれています。目的地スラックスはまだ先です。登場人物は、第一巻に引き続いて、セヴェリアン、ヴォダルス、タロス博士、バルダンダーズ、ジョナス、へトールなどの男性陣と、ドルカス、ジョレンタ、アギア、魔女などの女性陣が活躍し、物語は意外な方向に展開していきます。第一巻で提出された謎のいくつかが解決され、また新たな謎が生じ、セヴェリアンが生きているウールスの世界の諸相が、読者の前に次第に明らかにされていきます。作者は、地の文だけでなく、古代の伝説集≠フ一部とか、タロス博士の奇妙な芝居の台本を引用[#「引用」に傍点]したりして、物語の奥行きを増すためにさまざまな技巧を凝らしています。
大都市の城塞に林立する塔は、実は飛び立つことができずに遺棄された太古の宇宙船であり、異星人や異星種の動植物も移入されており、過去の人類の文明の最盛期の科学技術が魔法として残っている、遙か未来の、一見、荒唐無稽の中世とも見まがう世界――太陽の冷えかかった、薄暮の、奇怪な世界――それが、生々しい現実感をもって迫ってきます。「この本と、その前の本(つまり、この『調停者の鉤爪』と『拷問者の影』)を読んで楽しまなければ、SFの進歩における一大イベント――それも、発達の可能性を秘めたもの――を見逃すことになる」という、アルジス・バドリスの言葉もうなずけます。前作が数々の賞を受けたのに続いて、この本は八二年度ネビュラ賞および、八二年度ローカス賞ベスト・ファンタジイ賞を受賞しました。
わたしは以前に、「どんなに空想的なSFやファンタジイであっても、主人公がホモ・サピエンスであるかぎり(といっても、この段階でセヴェリアンがホモ・サピエンスであるという保証はどこにもありませんが)、それなりの最低の生活必要条件というものがあるはずであり、それを心のどこかに[#「心のどこかに」に傍点]留めて置かなければ、良質な作品は生まれないだろう」という趣旨のことを書きました(SFM二九三号)。ウルフのこの四部作では、本人が意識しているかどうかは別にして、そこのところがきっちりと押さえられているのが、成功の秘密だろうと思います。
何はともあれ、この専門家にも種が割れない organized illusion (組織化された幻想、または錯覚)≠お楽しみください。
[#改ページ]
底本:新しい太陽の書2[#2は○+2] 調停者の鉤爪 早川文庫 早川書房
1987年2月15日 発行
2005年9月15日 二刷
このテキストは
(一般小説) [ジーン・ウルフ] 新しい太陽の書2 調停者の鉤爪.zip iWbp3iMHRN 65,078 436f8bc0d84d473d149ad5e6b4612a06
を元に、OCRにて作成し、底本と照合、修正する方法で校正しました。
画像版の放流神に感謝します。
※ 扉対応版は24章のレイアウトを変更してあります。
(改行天付き、折り返して2字下げに対応していないため)
※本文中の割り注表記部が多いため注記表示が五月蠅くなっています(汁
***** 底本の校正ミスと思われる部分 *****
*行数は改行でカウント、( )は底本の位置
1333行目
(p231-18) |厄除け地下洞《ヒポゲウム・アポトロパイック》〉
〈が抜けて居る
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