新しい太陽の書1[#1は○+1]
拷問者の影
THE SHADOW OF THE TORTURER
[#地付き]ジーン・ウルフ Gene Wolfe
[#地付き]岡部宏之訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)スラックスの警士《リクトル》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)老|管理者《クラトール》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから本文]
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日本語版翻訳独占
早川書房
C[#○+C] 1986 Hayakawa Pablishing, Inc.
THE SHADOW OF THE TORTURER
by
Gene Wolfe
Copyright C[#○+C] 1980 by
Gene Wolfe
Translated by
Hiroyuki Okabe
First published 1986 in Japan by
HAYAKAWA PUBLISHING, INC.
This book is published in Japan by arrangement
with VIRGINIA KIDD AGENCY, INC.
through TUTTLE-MORI AGENCY, INC. TOKYO.
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汝の見し一千の齢は
過ぎ去りし一夕の如し、
日の出前の夜の最後の
時間の如く短かし。
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目 次
1 復活と死
2 セヴェリアン
3 独裁者の顔
4 トリスキール
5 絵画清掃人、その他の人々
6 管理者の師匠
7 女反逆者
8 話好き
9 紺碧の家
10 最後の年
11 祭
12 裏切り者
13 スラックスの警士《リクトル》
14 テルミヌス・エスト
15 バルダンダーズ
16 古着屋
17 果たし状
18 祭壇の破壊
19 植物園
20 イナイア老の鏡
21 ジャングルの中の小屋
22 ドルカス
23 ヒルデグリン
24 殺戮の花
25 失恋亭
26 ラッパの合図
27 死んだか?
28 |刑 吏《カルニフェクス》
29 アギルス
30 夜
31 拷問者の影
32 芝居
33 五本の脚
34 朝
35 ヘトール
翻訳についての原作者のノート
訳者あとがき
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拷問者の影
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1 復活と死
自分の未来について、すでにある程度の予感があったのかもしれない。われわれの前には鎖され錆びついた門が立ちはだかり、その忍び返しの刺の間を、峠を越える山道のように河霧が流れていた。あの情景が、自分の流刑の象徴としていまだに心に残っている。だから、拷問者の徒弟であったわたしセヴェリアンは、あの溺死しかけた水浴の結果をもって、この物語の発端とするのである。
「門番がいないぞ」仲間のロッシュがドロッテにいったが、ドロッテはすでに気づいていた。
小さいイータが回り道をしたらどうかと、自信なさそうにいい、そばかすのある細い腕を上げて、長々と続く城壁を指さした。城壁は貧民窟を横切り、丘を登ってえんえんと続いて、最後に〈城塞《しろ》〉の高い幕壁につながっていた。もっとずっと後になって、わたしはその距離を歩くことになる。
「それで、安全通行権も持たずに櫓《やぐら》を通り抜けようというのか? グルロウズ師に通報されちまうぞ」
「しかし、なぜ門番がいなくなったんだろう?」
「そんなことはどうでもいい」ドロッテは門をがたがた鳴らした。「イータ、おまえ柵の間から潜りこめるかどうか、試してみろ」
ドロッテはわれわれの大将だった。イータは片腕と片足を鉄柵の間に突っこんだが、それに続く体は通り抜けられないとすぐにわかった。
「だれかくるぞ」ロッシュが小声でいった。ドロッテはイータを乱暴に引き出した。
わたしは道のずっと先の方を見た。足音と人声を包みこんだ霧の中に、ランタンの光が揺れるのが見えた。隠れようとしたが、ロッシュがわたしをつかまえていった。「待て、矛《ほこ》が見える」
「門番が帰ってきたのかなあ?」
彼は首を振った。「人数が多すぎる」
「少なくとも一ダースはいるぞ」ドロッテがいった。
われわれはまだギョルの水で濡れている体で待った。わたしの心の奥底では、われわれは今でもまだ震えながらあそこに立っている。ちょうど、不滅に見えるものすべてがそれ自体の崩壊に向かって進んでいくように、当時は最もうつろいやすく見えた瞬間が、わたしの記憶(最後の清算でも何物も失われない)の中だけでなく、心臓の鼓動や逆立つ髪の中でも、みずからを再生し――ちょうどわれわれの共和国が毎朝、それ自身のけたたましいクラリオンの響きとともにみずからを再構成するように、蘇るのである。
濃い黄色のランタンの光で、その男たちが鎧《よろい》を着けていないことがすぐにわかった。しかし、ドロッテがいったとおり矛を持っており、棒や手斧も持っていた。リーダーはベルトに長い諸刃《もろは》のナイフをつけていた。さらに興味あることに、そいつは大型の鍵に紐を通して首に掛けていた。それは門の鍵穴にぴったり合いそうに見えた。
小さいイータは不安そうにみじろぎした。すると、そのリーダーはわれわれを見てランタンを頭上にかざした。「ぼくらは中に入りたくて待っているんだよ、おじさん」ドロッテが呼びかけた。ドロッテは背の高い少年だったが、その黒い顔に神妙なうやうやしい表情を浮かべていた。
「夜明けまではだめだ」リーダーはぶっきらぼうにいった。「おまえら若い者は家に帰ったほうがいい」
「おじさん、門番はぼくらを入れてくれることになっていたのに、いなくなっちゃったんだよ」
「今夜は入れんぞ」リーダーはナイフの柄に手を掛けて、近寄ってきた。一瞬、われわれの正体がばれたのではないかと思った。
ドロッテが後ずさりした。われわれは彼の背後に隠れた。「おじさん、だれだい? 兵士じゃないね」
「おれたちは民兵だ」ほかの男がいった。「同胞の死骸を守りにきたのだ」
「それなら、中に入れてくれてもいいじゃないか」
リーダーはすでに向こうを向いていた。「われわれ以外はだれも入れんぞ」彼の鍵が錠の中できしった。そして、門がギーッと開いた。あっという間もなく、イータが門の中に駆けこんだ。だれかが、畜生といい、リーダーと他の二人がイータの後を追ったが、その身軽さにはとうていかなわなかった。彼の二色の髪とつぎの当たったシャツが、窪んだ貧民の墓の間をジグザグに走っていくのが見え、それからもっと上の彫像の森の中に消えるのが見えた。ドロッテは彼の後を追おうとしたが、二人の男に腕を掴まれた。
「あいつを捕まえなくちゃ。ぼくらはおじさんたちの死骸を盗んだりはしないよ」
「では、なぜ中に入りたがる?」民兵の一人が尋ねた。
「薬草を取るためさ」ドロッテはそいつにいった。「ぼくらは医者に生薬を納めているんだ。病人を治したくないのかい?」
その民兵は彼をじっと見つめた。鍵を持った男はイータを追いかける時にランタンを落としていってしまったので、ここには二個しか残っていなかった。その薄暗い光の中で、その男はお人良しで間抜けのように見えた。なんらかの種類の労働者だろうと、わたしは思った。
ドロッテは続けた。「あのねえ、ある種の薬草は、最高の効き目を発揮させるには、月夜に墓場の土から抜き取らなければならないんだ。まもなく霜が降りて、なにもかも枯れてしまう。だから、先生たちは冬の蓄えが必要なんだよ。ぼくらが今夜、中に入ることができるように、三人の先生が取り計らってくれたんだ。そして、あの小僧は手伝いをさせるために、父親から借りてきたんだよ」
「薬草の入れ物を持っていないではないか」
ドロッテはさらに舌を巻くような事をやってのけた。彼はいった。「乾燥させるために、束ねなければならないんだ」そして、少しもためらわずに、ポケットからなんの変哲もない紐を引き出して見せたのだ。
「わかった」その民兵はいった。わかっていないのは明らかだった。ロッシュとわたしは門の方ににじり寄った。
ところがドロッテは門から後ずさりした。「薬草を取らせてくれないなら、帰ったほうがましだ。今から中に入ったって、あの小僧は見つかりっこないし」
「いやだめだ。あいつを連れ出さなければならないぞ」
「それじゃ」ドロッテはしぶしぶ答えた。こうしてわれわれは中に入り、民兵たちが後に続いた。ある秘教の高僧は、世界は人間の精神によって構築されていると断言している。なぜならば、われわれは人為的にカテゴリーを作って、その中に基本的に区別のないもの、それを指すわれわれの言葉よりも弱いものを置き、そのカテゴリーによって、われわれの行動は支配されているからであると。この夜に、民兵の最後の一人がわれわれの後ろで門を閉めた時に、わたしは本能的にこの原理を理解したのだった。
それまで口をきかずにいた男が、この時にいった。「おれはおふくろの番をしにいく。もうずいぶん時間を無駄にしてしまった。今ごろは一リーグ([#ここから割り注]約四・八キロメートル[#ここで割り注終わり])も先に運ばれてしまっているかもしれないぞ」
他の何人かが小声で同感の意を示した。それから、グループはちりぢりになり、一つのランタンは左にいき、もう一つのランタンは右の方にいった。われわれは残りの民兵とともに中央の道を進んでいった(それは〈城塞〉の崩れた部分に帰るのに、われわれがいつも通っていく道だった)。
何物も忘れない、というのがわたしの性質であり、喜びであり、呪いでもある。鎖の響き、風のささやきの一つ一つ、あらゆる光景、匂い、そして味が、変わることなくわたしの心の中に残っている。そして、だれもがこのようではないと知ってはいるが、そうでないということが、いったいどういうことなのか、わたしには想像もつかない。眠ってしまうと、実際には一つの経験がただ遠のくだけなのに。あの日に登っていったあの白い道の段々が、いま目の前に立ち現われる。あの時は寒かった。そしてますます寒くなっていった。灯火はなかった。ギョルからは、もうもうと霧が湧きはじめていた。松や糸杉をねぐらにしていた数羽の小鳥が、木から木に不安そうに飛び回った。自分の腕をこすった時の自分自身の手の触感を、わたしは覚えている。少し離れた墓石の間で、ランタンが揺れていた。そして霧が、シャツにしみこんだ河の水の匂いと、新たに掘り返された土の刺激のある匂いを引き出したことを、わたしはまざまざと覚えている。あの日、わたしは絡みあった水草の根の間で窒息して、溺死するところだった。あの夜は、わたしの成人としての生活の始まりをしるすものであった。
射撃があった。それはわたしが今までに見たことのないものだった。紫色のエネルギーが稲妻のように閃いて、暗闇をくさびのように引き裂き、雷鳴がそれを鎖した。どこかで石碑がどさりと倒れた。そして静寂……その中にわたしのすべてが溶けこんでしまうように思われた。われわれは走りだした。ずっと遠くの方で、男たちが叫んでいた。鉄のリングが石に当たる音が聞こえた。だれかが墓標の一つに青竜刀《バデレーア》をぶつけたようだった。わたしはまったく見知らぬ(少なくともその時にはそう思えた)小道を突っ走っていった。二人がやっと並んで通れるほどの、砕いた骨を敷きつめたリボンのような道で、小さな谷間に向かってくねくねと下っていた。やがて、道は足の下からひったくられたように、突然消えてしまった――たぶん、曲がり角を見落としてきてしまったのだろうとわたしは思った。そして、目の前に突然そびえ立ったように見えるオベリスクを避けようとして身を翻し、バランスを失った拍子に、黒い衣服の人にどさりとぶつかった。
その人は立木のように動かなかった。その衝撃で、わたしは一瞬息がつまり、ぱったりと倒れた。彼が小声で罵るのが聞こえた。それから、ひゅっと音を立てて武器か何かを振ったのがわかった。別の声が呼びかけた。「どうした?」
「だれかが走ってきてわたしにぶつかりました。だれかわかりませんが、もういなくなりました」
わたしはじっと横たわっていた。
一人の女がいった。「ランプをつけなさい」それは鳩の鳴き声のようだったが、緊迫した響きがこもっていた。
わたしがぶつかった男が答えた。「そんなことしたら、彼らはドール赤狼の群れのように襲いかかってきます、奥様」
「どうせ、すぐにやってきますよ――ヴォダルスが射撃したから。あなたも聴いたでしょうに」
「むしろ、彼らを近寄らせない効果があるだろう」
最初に口をきいた男が独特のアクセント(それが高貴人《エグザルタント》=m[#ここから割り注]貴族のこと。平民よりも背が高いので、このシリーズの中で皮肉な気持ちをこめて使われている[#ここで割り注終わり]]の口調とは、未経験のわたしにはわからなかった)でいった。「これは持ってこないほうがよかったな。この種の人々に対して要るはずはなかったのに」彼は今はもっとずっとわたしのそばにきていた。そして一瞬、霧を透してその姿が見えた。非常に背が高く、ほっそりしていて、帽子はかぶっておらず、わたしがぶつかった男のそばに立っていた。黒衣に身を包んだもう一つの人影は、あきらかに女だ。わたしは息がつまると同時に、四肢から力が抜けてしまったが、なんとか像の根もとまで地面を転がっていくことができた。そこに身をひそめると、また彼らの方を窺《うかが》った。
暗闇に目が慣れてきたので、その女のハート形の顔を識別することができ、また、彼女がヴォダルスと呼んだ男と同じくらい背が高いこともわかった。太った男の姿は消えていたが、声は聞こえた。「もっとロープを」その声から、彼はわたしがうずくまっている場所からほんの一、二歩しか離れていないことがわかった。それなのに、水を井戸に注いだように、彼は姿を消してしまったように思われた。やがて、痩せた男の足もとに何か黒い物(彼の帽子のてっぺんだったにちがいない)が動くのが見えた。そして、まさにそうなったのだとわかった――つまり、そこに穴があって、その中に入ったのだと。
女が尋ねた。「彼女はどう?」
「花のように新鮮です、奥様。ほとんど屍臭もありません。まったく心配ありません」彼は意外な身軽さを見せて、ぱっと穴から飛び出した。「さあ、ロープの端をこちらにください。そして、殿様、あなたが片方を持ってください。そうすれば彼女を人参のように引き出すことができます」
女が何かいったが、聞き取れなかった。すると痩せた男がいった。「きみは来るにはおよばなかったのに、セア。わたしがなんの危険も冒さなかったら、他の者にどう見えるだろう?」彼と太った男は唸り声をあげて引っぱった。すると、彼らの足もとに何か白いものが現われた。彼らは身をかがめてそれを持ち上げた。まるでアムシャスパンド([#ここから割り注]拝火教の六人の天使の一人。善神アフラ・マツダに仕える[#ここで割り注終わり])が光の杖で触れたように、霧が渦巻いて裂け、緑色の月光が射しこんだ。彼らが抱えているのは、女の死骸だった。その黒髪が今は乱れて、土色の顔にかかっている。死骸は青白い何かの織物の長いガウンを着ていた。
「ほら、ごらんなさい」太った男がいった。「わたしがいったとおりでしょう、殿様、奥様。十中八、九まで何事もないと。後はもう彼女を担いで城壁を乗り越えるだけです」
この言葉が彼の口から出るか出ないうちに、だれかの叫び声が聞こえた。三人の民兵が谷間の縁の道をやってきた。「彼らを防いでください、殿様」太った男は死骸を担ぐと、うなるような声でいった。「これと、奥様の安全はわたしが引き受けます」
「これを」ヴォダルスがいった。彼が渡したピストルが月光を受けて、鏡のように輝いた。
太った男はそれを掴んで、息を弾ませた。「これは使ったことがありません、殿様……」
「持っていろ。必要になるかもしれないぞ」ヴォダルスは身を屈め、それから黒い杖のようなものを持って立ち上がった。木に金属が当たる音がした。杖のように見えたのは、ぎらぎら輝く細身の剣だった。彼は呼びかけた。「各自、身を守れ!」
まるで、鳩が一時的にアークトテール([#ここから割り注]絶滅した大熊[#ここで割り注終わり])に命令を下すように、女が男の手から輝くピストルをひったくった。そして、二人そろって後ずさりして霧の中に消えた。
三人の民兵はためらっていたが、やがて、一人は右に、もう一人は左にいって、三方から襲いかかろうとした。真ん中の(白い骨の破片を敷きつめた)道に残った男は、矛を持っていた。そして横に回った一人は斧を持っていた。
三人目は、ドロッテと門の外で言葉を交したリーダーだった。「おまえはだれだ?」彼はヴォダルスに呼びかけた。「そして、エレボス([#ここから割り注]冥界の神[#ここで割り注終わり])のいかなる力がおまえに、ここにきて、こんなことをする権利を与えたのだ?」
ヴォダルスは答えなかった。しかし、彼の剣の尖端が目のように相手を一人一人見すえた。
リーダーがしわがれ声でいった。「さあ力を合わせて、こいつを捕まえよう」だが彼らはためらいがちに進み出た。そして、彼らが押し包む前に、ヴォダルスがぱっと前に飛び出した。薄暗がりの中で彼の剣が閃き、それが矛の先を擦る音がした――まるで鋼鉄の蛇が鉄の丸太の上を這うような金属的な音。矛を持った男は大声でわめいて、跳びすさった。ヴォダルスも跳びすさったが(他の二人は恐がって背後から襲いかかろうとしていたのだと思う)、バランスを失ったらしく、倒れた。
このすべては暗闇と霧の中で起こった。それをわたしは見た。もっとも――さっきのハート形の顔をした女がそうであったように――男たちの大部分はぼんやりした影にしか見えなかったが。しかし、何かがわたしの心に触れた。その女性が大切な人らしく思えたのは、たぶん、彼女を救うために進んで命を捨てようとするヴォダルスの態度のせいだったろう。また、彼への賛嘆の念をわたしの心に燃え上がらせたのは、たしかにそのひたむきな態度だった。それ以来、市《いち》の立つ町の広場のぐらぐら揺れるプラットフォームの上で、テルミヌス・エストを台に置き、惨めな浮浪者を足もとにひざまずかせ、群衆の憎悪のささやきを耳にし、歓迎とはほど遠いものを感じ取り、そして、自分のものでない苦痛と死に不安な喜びを見出す人々の感嘆を感じ取りながら、わたしはしばしば墓地のヴォダルスを思い出し、これを振り降ろす時は、彼に代わって切りつけるのだと、なかば自分にいいきかせながら、愛剣を振り上げるようになったのである。
今のべたように、彼はつまずいた。その瞬間に、わたしの生命全体が彼と調子を合わせてよろめいたと、わたしは信じる。
両翼に回った民兵は彼に向かって走りだしたが、彼は武器をあくまでも手放さずにいた。光る刃がきらりと上がったのが見えた。しかし、その持ち主はまだ地面に倒れたままだった。わたしは、ドロッテが徒弟頭になった日に、あのような剣があったらどんなによかったろうと思い、ヴォダルスを自分自身になぞらえたことを覚えている。
斧を持った男は、彼に剣を突きつけられて、後退した。もう一人は、長いナイフを持って前進した。この頃にはわたしは立ち上がって、玉髄の天使の肩ごしに格闘を見つめていた。すると、ナイフが振り降ろされ、親指の幅だけヴォダルスの体をそれて、地面に柄まで突きささったのが見えた。それからヴォダルスはリーダーに切りつけたが、剣の長さにくらべて相手が近すぎたので、切り損じた。リーダーは後退する代わりに武器を捨てて、レスラーのように相手に組みついた。かれらは口を開けた墓穴の縁すれすれにいた――ヴォダルスが掘り出された土に足を取られたように見えた。
第二の民兵が斧を振り上げ、それから、ためらった。リーダーが近すぎたのだ。それで、彼は打撃を加えやすい位置を求めてぐるぐる回り、わたしが隠れている場所にあと一歩のところまできた。そいつが足場を確保している間に、ヴォダルスがナイフを抜き取って、リーダーの喉に突き立てるのが見えた。斧が振り上げられ、まさに振り降ろされようとした。わたしはほとんど反射的に、その柄の付け根を握った。そしていつの間にか、格闘に巻きこまれて、蹴ったり殴ったりしていた。
まったく突然に格闘は終わった。わたしが血みどろの武器を奪い取った相手の民兵は死んでいた。そのリーダーはわれわれの足もとでもがいていた。矛を持った男の姿はなく、矛だけがむなしく道に落ちていた。ヴォダルスは近くの草むらから黒い杖を拾い上げて、剣をそれに納めた。
「きみはだれだ?」
「セヴェリアンといいます。拷問者です。いや、そうではなく、拷問者の徒弟です、殿様。真理と悔悟の探求者の結社≠フ者です」わたしは深呼吸した。「わたしはヴォダラリウスだ。きみはその存在を知らないだろうが、何千ものヴォダラリアイの一人だ」これはわたしがほとんど聞いたことのない言葉だった。
「これを」彼はわたしの掌に何かを乗せた。油でも塗ってあるかと思われるほどなめらかな一枚の小さなコインだった。わたしはそれを握りしめたまま、発《あば》かれた墓のそばに立って、彼が大股に立ち去るのを見送った。彼が墓地の端に達するずっと前に、霧がその姿を飲みこんだ。そして、しばらくすると、一台の銀色の飛翔機《フライヤー》が矢のように鋭いヒューッという音を立てて頭上を飛び去った。
死者の首からどういうわけかナイフが抜けていた。たぶん、苦しみもだえているうちに、引き抜いてしまったのだろう。身を屈めてそれを拾い上げようとした時、コインをまだ握っているのに気づき、ポケットに放りこんだ。
われわれは記号を発明したと信じている。しかし、真実は、記号がわれわれを発明したのである。われわれは、それらの定義を下す固い刃によって形成された創造物なのである。兵士たちは宣誓をすると、独裁者の横顔を刻んだアシミ、つまり一個のコインを与えられる。それを受け取ることは、軍隊生活の特別の義務と重荷を引き受けることである――たとえ、武器の扱いを少しも知らなくても、彼らはその瞬間から兵士になるのである。この時、わたしはそんなことは知らなかった。しかし、そういうものによって影響を受けるには、そういうことを知らねばならないと信じるのは、大きな誤りである。そして、事実、そう信じることは、最も卑しい迷信的な魔法を信じることなのである。自称魔法使いだけが、純粋な知識の効力を信じるのであり、理性ある人は事物は自然に作用するか、または全然作用しないかどちらかだと知っているのである。
このようにして、コインがポケットに落ちこんだ時、わたしはヴォダルスが率いる運動の主張について何も知らなかった。しかし、まもなくすべてを知るようになった。なぜなら、それらが肌に感じられたからである。彼とともにわたしは独裁制を嫌悪した。もっとも、それを何と置き換えたらよいか、見当もつかなかったけれども。また、独裁制に対抗して立ち上がることをせず、みずからの最愛の娘を独裁者の儀式的妻妾の地位に縛りつけている高貴人たちを、わたしは彼とともに軽蔑した。また、規律と共通の目的に欠けた一般大衆を、わたしは彼とともに唾棄した。マルルビウス師(わたしが少年の頃、この人が徒弟たちの師匠だった)がわたしに教えようとし、パリーモン師が今もなお分け与えようと努力している諸価値の中で、わたしが受け入れた価値が一つだけある。それは結社への忠誠心である。その点ではわたしはまったく正しかった――ヴォダルスに仕えながら拷問者のままでいることは、予想していたように、完全に実行可能なことだった。まさにこうしたやりかたで、わたしは長い旅を始め、それによって玉座に戻ったのである。
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2 セヴェリアン
記憶が重くのしかかる。拷問者の中で育てられたので、わたしは父も母も知らない。仲間の徒弟がみんな親を知らないのと同じである。時たま、たいていは冬がやってきた時にだが、哀れな人々が〈屍の扉〉にやってきて、われわれの古来の組合に入れてくれと大声で騒ぎ立てる。彼らは暖房と食物の代償として、喜んで加える用意のある拷問の話をして職人のポーターを喜ばせる。時には、仕事の見本として動物を連れてくる。
そのすべては、追い返される。われらの栄光の日々からの伝統――現在の退歩時代より以前の、そしてそれ以前の、そしてまたそれ以前の、今では学者すらほとんど覚えていない時代から、彼らのような連中は採用しないという伝統があるのだ。わたしが今書き記している時代、つまり、組合が、二人の師匠《マスター》と二十人以上の|職 人《ジャーニーメン》にまで縮小してしまった時代においてさえ、これらの伝統は尊重されている。
わたしは一番最初の記憶から、すべてを覚えている。最初の記憶は、〈古い庭〉で小石を積んでいたことだ。その庭は〈魔女の高楼〉の南西にあり、〈大きい庭〉とは仕切られていた。われわれの組合が防御を手伝うことになっているその幕壁は、当時でさえも荒れ果てていた。〈赤い塔〉と〈熊の塔〉との間に大きい割れ目があり、そこでわたしは脱落した溶解不可能な灰色の金属の厚板の上に登って、〈城塞の丘〉のそちら側の下りの斜面にある共同墓地をよく眺めたものである。
もう少し年を取ると、そこはわたしの遊び場になった。くねくねと続く道は、日中はパトロールされていたが、衛兵は主として下の方の地面の新しい墓に注意を向けていたし、われわれが拷問者の仲間だということを知っていたので、糸杉の森の中の隠れ家から、われわれを追い出そうとすることはめったになかった。
われわれの共同墓地はネッソスで最も古いものだといわれている。確かにこれは間違いであるけれども、間違いが存在するということ自体が、真の古さの証明である。もっとも、独裁者たちは、この〈城塞〉が彼らの本拠であった時にさえ、そこに葬られたことはなかったし、また、高貴な家族は――今と同様に、当時も――自分たちの手足の長い死者を自分の領地の洞穴に葬るのを好んだ。しかし、市の大郷士《アーミジャー》や上流人《オプティメート》は城壁のそばの一番高い斜面を好んだ。そして、もっと貧しい庶民の墓は、その下から低地の一番端までの間に横たわり、ギョルの河べりに達している私有地に押し寄せ、陶工の原を占領していた。わたしは子供だったから、そんなに遠くまで、いや、その半分もいったことはなかった。
仲間はいつも――ドロッテ、ロッシュ、そしてわたしの――三人だった。後に、徒弟の中では二番目に年上のイータが加わった。われわれのだれも、拷問者の間に生まれた子供ではなかった。なぜなら拷問者には子はないからである。大昔には組合に男も女もいて、息子や娘が生まれて、現在、ランプ作り師や、金細工師や、その他多くの組合がやっているように、職業的技能が身につくように育てていたということである。だが、ほとんど正しいイマール≠ェ、女はいかに残酷であって、いかにしばしば過酷な処罰をするかを見て、もう女性は拷問者に加えないと宣言し、そう命じたのである。
それ以後、組合員の補充は、もっぱら、われわれに処刑された人々の子供によってなされた。われわれの〈剣舞《マタチン》の塔〉([#ここから割り注]マタチンは本来スペイン語で畜殺人、または剣を持って仮面をかぶったダンサーのこと。拷問者の職人は聖キャサリンの祭りの時に、仮面をかぶり、斬首剣を持って踊るので、そう呼ばれる[#ここで割り注終わり])には、大人の股間の高さに壁から突き出している鉄の棒がある。その下に直立することのできる男の子はわれわれ自身の子として育てられる。また、身ごもった女が送られてくると、われわれはその女の体を開き、もし赤子が生きており、男子であれば乳母を雇う。女子は魔女たちに下げ与えられる。これはイマールの時代からであり、今では忘れられて何百年にもなる昔からのことである。
だから、われわれの中に自分の血統を知る者はいない。だれも、できれば高貴人《エグザルタント》でありたいと思っている。そして、高貴な血筋から多くの人がわれわれに下げ渡されているのは事実である。われわれはみな子供心に、それぞれの推測をする。そして、年上の職人に質問を試みるが、彼らはみな不機嫌な殻の中に閉じこもって、ほとんど喋ってくれない。イータは、今わたしが話している年齢の頃、自分は北方の偉大な士族の一家系の子孫であると信じて、寝台の天蓋にその系図を描いたものだった。
わたしはというと、ある霊廟の扉の上の青銅の板に彫られた紋章を、すでに自分のものと決めていた。それは、水面から上がっている噴水と、空を飛ぶように疾走している船と、それらの下の薔薇の花から成り立っていた。扉そのものはとうの昔に開けられており、床には空の棺が二つあった。さらに、重くて持ち上がらない無傷の棺が三個、壁ぎわの棚の上に待っていた。閉まっている棺も、開いている棺も、この場所の魅力の構成要素になっていたわけではないが、わたしは時々後者の柔らかい、色あせた詰物の残骸の上に身を横たえたものである。むしろ、その魅力は、部屋の狭さ、石壁の厚さ、一本だけ棒がはまっている唯一の細い窓、それに、永遠に開いたままになっている(恐ろしく大きくて重い)建造者の信頼を裏切った扉が、渾然一体となって醸し出していたのだろう。
わたしは外から見られずに、窓と扉の間から、外の木や藪や草の明るい生命のすべてを見ることができた。わたしが近づいた時に逃げたムネアカヒワや兎も、そこにいるわたしの音を聞くことができず、匂いを嗅ぐこともできなかった。わたしの顔から二キュピット([#ここから割り注]キュピットは肘から中指の先端までの長さ[#ここで割り注終わり])ほどのところで、大鴉が巣を作って、二羽の雛を育てるのを見た。狐が尻尾を上げて、小走りに通り過ぎるのも見えた。そして、最も背の高い猟犬以外のどんな獣よりも背の高い、人々がたてがみのある狼とよぶあの大狐が、想像のつかぬ用事で、南の廃墟から黄昏の中を跳躍していくのを見た。ハヤブサはわたしのために毒蛇を狩り、鷹は松の木のてっぺんから風の中に舞い上がった。
これらを思い浮かべるには、ほんの一瞬で充分である。なぜなら、わたしはあまりにも長いことそれらを眺めていたからである。みすぼらしい徒弟だった当時のわたしにとって、それらがどんなに大切なものであったかを書くには、一サロス([#ここから割り注]日食、月食の循環する周期。約六千六百日[#ここで割り注終わり])の年月でも充分ではない。二つの(ほとんど夢に近い)考えがわたしにとりついて、それらを限りなく貴重なものにした。一つは、それほど遠くない時期に、時間そのものが止まるだろう……魔法使いのスカーフの鎖のように、あまりにも長く引き伸ばされていた色彩ゆたかな日々が終わり、不機嫌な太陽がついに目をつぶるだろうという考えであり、また、もう一つは、どこかに奇蹟の灯火――時には蝋燭のように思われ、時には松明《フランボー》のように思われた――が実在し、その上に落ちるどんな物体にも生命の火を点す。それで、藪からむしられた一枚の葉に細い足と揺れる触角が生え、ざらざらした茶色の毛玉が黒い目を開けて、ちょこちょこと木にかけのぼるのだという考えだった。
しかし、時には、とくに正午近くの眠い時間には、眺めるものはほとんどなかった。そうすると、わたしはまた扉の上の紋章の方を向いて、船と薔薇と噴水がわたしとどんな関係があるか考え、また、死者の銅像(わたしはそれを見つけて、綺麗に磨いて、一隅に据えておいたのである)を見つめるのだった。死者は、重い目蓋を閉じて、長々と横たわっていた。小さな窓から射しこむ光で、わたしはその顔を調べ、また磨かれた金属に映る自分の顔を見て思いをめぐらせた。わたしのまっすぐな鼻、深くくぼんだ目、そして、削げた頬は、その死者にとてもよく似ていた。そして、彼の髪もまた黒かったかどうか、とても知りたく思うのだった。
冬にはめったに共同墓地にいかなかった。しかし、夏には、その発《あば》かれた霊廟やその他の墓が、観察や涼しい休息の場所を与えてくれた。ドロッテとロッシュとイータもやってきたが、わたしは自分のお気に入りの隠れ家には決して連れていかなかった。そして、彼らもまたそれぞれ秘密の場所を持っているのを、知っていた。彼らと一緒にいる時には、わたしはめったに墓に潜りこむことはなかった。その代わりに、木の枝を剣にして、戦ごっこをやったり、兵士たちに松ぼっくりを投げつけたり、新しい墓の土に線を引いて盤をつくり、その上で、石でチェッカーをやったり、ロープス・アンド・スネイルをやったり、ハイ・トス・コックルをやったりした。
また、〈城塞〉を迷路に見立てて遊んだり、〈鐘楼〉の地下の大きい貯水池で泳いだりした。その丸天井の下の、黒い水をたたえた底なしの丸いプールのそばは、夏でも涼しく湿っていた。そして、冬もほとんど同じ状態だった。しかも、そこは禁断の場所であるというこの上もない利点があった。だから、われわれは他の場所にいなければならない時に、胸をわくわくさせながら、こっそりとそこまで降りていった。しかも、背後でハッチを閉めてかんぬきを掛けるまで松明を点さずにいて、それから、火をつけると、燃える松脂から炎がぱっと立ち上り、われわれの影がひんやりと湿った壁に踊るのであった!
すでに述べたように、われわれのもう一つの泳ぎ場所はギョルという河の中だった。河は巨大な疲れた蛇のようにくねくねとネッソスの町の中を流れている。暖かい季節になると、われわれはそこに行く途中に、ぞろぞろと共同墓地の中を通っていった――まず、城壁に最も近い盛り上がった古墳のところを通り過ぎ、それから普通の石碑の森の中を通っていった(無愛想な番人が腕木に寄りかかっているところを通らねばならない時は、われわれは精いっぱい上品に見えるように努力した)。そして、最後に平原を、貧民の土葬の跡を示す剥き出しの土まんじゅう――ひと雨降れば沈下して水溜りになってしまう――の間を通っていった。
共同墓地の一番下の縁に、先に述べた鉄の門が立っている。陶工の原を目指す死体はそこを通って運ばれていく。われわれはその門を過ぎると、初めて本当に〈城塞〉の外に出たという気分になり、建前ではわれわれの出入りを規制することになっている規則に、疑いの余地なく逆らっている、ということになるのであった。この規則違反を年上の職人に見つかれば、拷問を受けると信じて(いや、信じているふりをして)いた。実際には、殴られる以上の折檻は受けなかった――それは拷問者の優しさなのだが、やがてわたしは彼らを裏切ることになる。
それよりも、われわれが歩いていく不潔な街路の両側の高層住宅の住民のほうが危険だった。組合がこれほど長い間迫害を受けている理由は、それが、大衆の憎悪の焦点としての役割を果たし、独裁者、高貴人、軍隊、そして、遙かなる星々から時々ウールス([#ここから割り注]この物語の舞台になっている惑星の名[#ここで割り注終わり])を訪れる青白い退化人《カコジェン》からもある程度まで、憎悪を引き離しているからだと、わたしは時々考えるのである。
番人たちにわれわれの身分を知らせるのと同じ服装が、しばしば住宅の住民を刺激するらしかった。上の窓から汚水を浴びせられたり、腹立たしげなつぶやきが後を追ってきたりした。しかし、この憎悪を生み出す恐怖心が同時にわれわれを守ってもくれた。真の暴力が加えられることはない。そして、独裁的な森林族の首領とか、金銭に汚い市民が組合の慈悲の手に委ねられた時に、その人物の処分について、大声の提案を受け取ったことが一、二度あった――たいていは猥雑で、多くは実行不可能だったけれども。
われわれが水浴びをする場所では、ギョルは何百年も前にその天然の堤を失っていた。そこでは、河は石の壁の間にはさまれ、睡蓮の青い花に覆われた二チェーン([#ここから割り注]一チェーンは約二十一メートル[#ここで割り注終わり])ばかりの幅の流れになっていた。数ヵ所で、船着場として使う階段が水の中まで降りていた。暖かい日には、それぞれの階段が、十人から十五人の騒々しい若者の集団によって占領された。われわれ四人にはそれらの集団をどかすだけの力はなかった。しかし、彼らはわれわれがそこにいくのを拒否することはできなかった(いや、少なくとも拒否しようとはしなかった)。もっとも、どの仲間に入ろうとしても、われわれが近づいていくと彼らは脅し、また中に入ってしまうと、今度は嘲るのであるが、結局、皆立ち退いてしまい、われわれだけが取り残されて、次の水泳日までその場所をわがものにできるのであった。
今、これらすべてを述べることにしたのは、ヴォダルスを助けた日以後、二度とあそこにいっていないからである。ドロッテとロッシュは、わたしが締め出されるのを恐がっているからだと信じた。イータは、睡蓮のせいだと察したと思う――少年は、成人すれすれに成長する前に、しばしば女性にも匹敵する洞察力を持つものだから。
共同墓地はわたしには決して死の町とは思われなかった。わたしはその紫の薔薇(それを他の人々は非常に不気味なものだと思っている)の花が、何百もの小動物や小鳥を宿していることを知っている。執行されるのをわたしが見、またわたし自身があまりにもしばしば執行した処刑は、一つの商売にすぎない。大部分は家畜ほど無邪気でなく、家畜ほどの価値もない人間の駆除にすぎない。わたし自身の死や、わたしに優しかった人の死や、太陽の死さえ考える時、心に浮かぶのは、あの光沢のある青白い葉と空色の花をつけた睡蓮のイメージである。その花と葉の下には髪の毛のように細くて丈夫な黒い根が生えていて、暗い水中に下がっている。
若者のこととて、われわれはこれらの植物になんの関心も払わなかった。われわれはそれらの間でばしゃばしゃと水をはね飛ばして泳いだり、浮かんだりして、それらを押しのけ、無視した。植物の良い香りはある程度まで水の悪臭を消した。ヴォダルスを救うことになった日に、わたしはそれ以前に何千回となくやったように、睡蓮の密集した水面の下に潜った。
わたしは浮かんでこなかった。どういうわけか、今まで出逢ったこともないほど密集した根の間に入ってしまったのだ。何百本もの根の中に捕まってしまった。目を開けていたが――黒いくもの巣のような根以外には――何も見えなかった。わたしは泳いだ。手足がその無数の細い触手に沿って動くのは感じたが、体は動かなかった。わたしは根を手いっぱいに掴んで引きちぎったが、そうしても、体は相変わらず動かなかった。肺が喉のところまでせり上がってきて、わたしを窒息させようとするかに思われた。まるで、肺がひとりでに水中に弾け出そうとでもしているようだった。息を吸いたいという欲望、周囲の暗い冷たい液体を吸いこみたいという欲望に、わたしは飲みこまれそうだった。
水面がどの方向にあるか、もはやわからなかった。そして、もはや水を水と意識しなくなっていた。手足から力が脱けてしまった。自分が死にかけていると、いや、たぶんすでに死んでしまったと、わかったが、もう恐くはなかった。耳の中に非常に大きな、不愉快な鐘の音が聞こえ、幻影を見はじめた。
何年も前に死んだマルルビウス師が、スプーンを壁に打ち鳴らしてわれわれを起こしていた。それがわたしが聞いた金属性の騒音だった。わたしは起き上がることができずに、寝棚の上に横たわっていた。だが、ドロッテやロッシュやもっと幼い少年たちはみんな起き上がって、あくびをしながら、もそもそと衣服を着ていた。マルルビウス師のマントは後ろにはねのけられていて、寄る年波で筋肉や脂肪がなくなってしまった胸や腹の弛んだ皮膚が見えた。そこには三角形の毛があったが、それは白カビのように灰色だった。わたしは声を上げて、自分は目覚めていると知らせようとしたが、声が出なかった。彼はなおもスプーンを打ちつけながら、壁に沿って歩きだした。非常に長い時間がたったと思われた頃、彼は丸窓のところにやってきた。そして立ち止まって、身を乗り出した。彼は下の〈古い庭〉にいるわたしを探しているとわかった。
だが、彼は遠目がきかなかった。わたしは審問室の下の独房の一つに入っていた。わたしはそこに上向きに横たわって、灰色の天井を見上げていた。一人の女が泣いたが、わたしにはその姿は見えなかった。そして、わたしは彼女の泣き声よりも、チリチリ、チリチリ鳴るスプーンの音のほうに気を引かれていた。暗闇がわたしを包んだ。その暗闇から一つの女の顔が現われた。月の緑色の顔のように幅の広い顔が。泣いていたのは彼女ではなかった――すすり泣きの声はまだ聞こえていたが、その顔には苦悩の跡はなく、実際には、筆舌に尽くしがたい美しさに満たされていたから。彼女の手がわたしの方に差し延べられた。わたしはすぐに雛鳥になった。それは、前の年に、指に止まるように慣らそうと思って巣から捕えた雛鳥だった。彼女の両手はそれぞれ、わたしが時々休息する秘密の霊廟の棺ほどの長さがあった。その手がわたしを掴み、引き上げ、そして、彼女の顔とすすり泣きから引き放すようにして、下の暗黒の中に投げ落とした。わたしはついに底の泥らしいものにぶつかり、それを突き抜けて、黒に縁取られた光の世界に飛びこんだ。
それでもまだ呼吸ができなかった。もはや呼吸をしたいとも思わなかった。そして、わたしの胸はもはや自然の動きを止めていた。どうしてそうなるのかわからなかったが、わたしは水中を滑っていた(後で、ドロッテがわたしの髪を掴んでいたと知った)。わたしはすぐに冷たい、ぬるぬるした石の上に横たわった。そばにロッシュがいた。それからドロッテが、それからまたロッシュがそばにきて、わたしの口に息を吹きこんだ。ちょうど人が万華鏡の反復模様に包まれるように、わたしは目に包まれた。そして、わたし自身の視覚がどこかおかしくなって、イータの目がいくつにも見えるのだろうと思った。
ついにわたしはロッシュから身を引いて、大量の水を吐いた。その後は気分がかなり良くなった。体を起こすことができ、けいれんしながらもまた呼吸ができるようになった。そして、体に力が入らず、手は震えていたが、腕を動かすことができるようになった。周囲の目は本物の人々の目だった。河沿いの住宅の住民たちの。一人の女が熱い飲物の入った椀を持ってきた――それがスープだったか、お茶だったかはっきりしない。だが、それが火傷するほど熱く、なんとなく塩からく、煙の匂いがしたことを覚えている。わたしはそれを飲むふりをしたが、後で、唇と舌をちょっと火傷したことがわかった。
「わざとあんなことをしたのか?」ドロッテが尋ねた。「どうやって浮かび上がった?」
わたしは首を振った。
群衆の中のだれかがいった。「彼は水中から飛び出してきたんだ!」
ロッシュはわたしの手の震えを止めるのを手伝った。「おれたちはおまえがどこか他の場所に浮き上がると思っていたぞ。おれたちをからかうつもりだと思ってたんだ」
わたしはいった。「マルルビウスさんに会ったぞ」
タールで汚れた服装から船頭とわかる老人が、ロッシュの肩を掴んだ。「だれのことだ?」
「もと徒弟の師匠をしていた人です。もう死んだけれど」
「女じゃないのか?」老人の手はロッシュを掴んでいたが、その目はわたしを見ていた。
「違う、違う」ロッシュはいった。「ぼくらの組合には女はいませんよ」
熱い飲物と、暖かい気候にもかかわらず、わたしは寒かった。時々われわれと喧嘩をする若者の一人が、汚れた毛布を持ってきてくれたので、わたしはそれにくるまった。しかし、共同墓地の門に着いた時には、まだとても歩くだけの力はなかった。対岸の隊商宿の屋上の〈夜〉の彫像が、炎の広場のような太陽に比べて小さな黒い傷のように見えた。そして門そのものは閉まって鍵が掛かっていた。
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3 独裁者の顔
ヴォダルスがくれたコインを見る気になったのは、次の日の午前もなかばを過ぎた頃だった。いつものように朝食を先にすませ、食堂で先輩の職人たちに給仕をしてしまってから、教室でパリーモン師に会い、それから簡単な予備的な講義を受けた後、前の晩の仕事を見るために、師について下の階にいった。
もっと筆を進める前に、われわれの〈剣舞《マタチン》の塔〉の性質をもっと説明しておくべきだろう。それは〈城塞〉の西側にあり、だいたいその背後にあたる。一階には師匠たちの書斎があり、そこで司法官や、他の組合の長たちとの協議が行なわれる。われわれの控室はその上にあって、キッチンと背中合わせになっている。その上に食堂があり、それは食事の場所であると同時に集会場としても使われる。その上に師匠たちの個室がある。最盛期にはこれはもっとたくさんあった。その上には、職人の部屋があり、その上に徒弟の宿舎と教室と、そして、一連の屋根裏部屋と、使われていない小部屋がある。頂上の近くに銃器室があり、そこに残っている武器は、万一〈城塞〉が攻撃された場合に備えて、組合のわれわれに依託されているものである。
われわれの組合の真の仕事は、これらすべての部屋の下でなされた。その真下の地下に審問室があり、そのまた下の、当然、塔本体の外に(なぜなら、審問室は本来の構造物の|推 進 室《プロバルション・チェンバー》だったから)、ウブリエット、つまり忘却の場所――つまり地下牢が迷路のように広がっていた。その三層は使用可能で、中央の階段吹抜けを通ってそこにいくことができた。質素な独房は、乾燥していて、清潔で、小さなテーブルと椅子があり、床の真ん中に狭いベッドが固定されていた。
地下牢の明かりは、永久に燃えつづけるといわれるあの大昔の灯火だったが、今はそのいくつかは消えている。その朝、そこの陰鬱な回廊にいったわたしの気分は、陰鬱ではなく喜ばしかった――職人になったら、わたしはここで働くのだ、わたしはここで太古からの職業に従事し、師匠の階級に上るのだ。わたしはここで、われわれの組合に昔の栄光を取り戻す基礎を築くのだ。この場所の空気さえもが、まるで清浄な香を焚いた火の前で温められた毛布のように、わたしを包むかのように思われた。
われわれはある独房の扉の前に止まった。すると当直の職人が、その錠に鍵をかちゃかちゃと差しこんだ。中の客人が頭をもたげ、黒い目を大きく見開いた。パリーモン師は黒テンの毛皮の縁取りをしたマントをまとい、その階級を示すビロードの仮面をかぶっていた。この衣裳か、または彼に視力を与える突き出した光学装置が、女の客人を脅えさせたにちがいない。彼女は口をきかなかった。そして、もちろんだれも彼女に話しかけなかった。
「ここに」パリーモン師が持ち前の乾ききった口調で話しはじめた。「司法的懲罰の常套的な手法の枠からはみ出した、近代技法のよい例証となるものがある。この客人は昨夜、尋問された――たぶん、きみたちの中にも聞いた者があろう。折檻の前に二十ミニム([#ここから割り注]ミニムは液量の最小単位[#ここで割り注終わり])の、そして、事後に十ミニムのチンキが与えられた。この投与量では、ショックと失神の防止にはほんの部分的な効果しかないから、処置は右足の皮剥ぎの後、停止された。ごらんのとおりだ」彼はドロッテに合図した。ドロッテは包帯を解きはじめた。
「ハーフブーツ([#ここから割り注]ふくらはぎのなかば[#ここで割り注終わり])ですか?」ロッシュが尋ねた。
「いや、フルブーツだ。彼女は侍女だった。そしてグルロウズ師が見たところ丈夫な皮膚だったそうだ。この例では、師が正しかったことがわかった。膝の下にぐるりと簡単な切込みを入れ、その縁を八個の締金で掴んだ。グルロウズ師、オズ、メナス、およびアイジルが注意深く作業した結果、それ以上ナイフの助けを借りることなく、膝から爪先までの間のすべてを取り除くことができた」
われわれはドロッテを取り囲んだ。幼い少年たちは、見どころを知っているふりをして、その間に割りこんだ。動脈と主な静脈はすべて無傷で、しかも、全体からゆっくりと血がにじみ出していた。わたしはドロッテが新しい包帯を巻くのを手伝った。
われわれがそこを去ろうとした時に、女がいった。「わたしは知らないんです。知っていて喋らないなんて、あなたがた本当に、そう思っているんですか? あの方は森のヴォダルスと出ていったんです。どこへいったか、わたしは知らないんです」わたしは知らんふりをしてパリーモン師に、森のヴォダルスとはだれかと尋ねた。
「尋問中に客人のいった事を聞いてはならないと、何度説明したかな?」
「何度もです、師匠」
「それでも効果がないとみえる。まもなく仮面着用の日がくる。そしてドロッテとロッシュは職人になる。そして、おまえは徒弟頭になる。若い者にこんな手本を見せたいのかな?」
「いいえ、師匠」
その老人の後ろで、ドロッテが、ヴォダルスのことはいろいろ知っているから、そのうち都合の良い時に話してやろう、という顔つきをして見せた。
「昔は、われわれの組合の職人は、耳をつぶされた。今日でもまたそうしてもらいたいのかな? わたしの話を聞く時にはポケットから手を出しなさい、セヴェリアン」
わたしがポケットに手を突っこんだのは、師匠の怒りをそらすためだった。だが、手を出した時に、前の夜にヴォダルスがくれたコインに触ったのを感じた。忘れていた格闘の恐ろしさを思い出し、今はそれを見たくてたまらなくなったがそうするわけにはいかなかった。なぜなら、パリーモン師の明るいレンズがわたしを見すえていたからである。
「客人が喋っても、セヴェリアン、おまえは何も聞かないのだ。絶対に何もだ。鼠のことを考えなさい。鼠の鳴き声は人間にはなんの意味も伝えない」
わたしは鼠のことを考えていることを示すために、顔をしかめて見せた。
教室までの、うんざりするような長い階段を上っていく間じゅうずっと、わたしは握りしめている薄い金属の円板を見たくて見たくてたまらなかった。しかし、もしそうすれば、後ろの少年(たまたま、若い徒弟の一人、エウジグニウスだった)に見られるにきまっていた。教室ではパリーモン師は死後十日の死体について、退屈な講義を続け、コインは燃えている石炭のように感じられたが、わたしはあえて見ようとはしなかった。
プライバシーを見出したのは午後になってからだった。わたしは崩れた幕壁の光り苔の間に身を隠して、日光の中におずおずと握り拳を差し出した。なぜなら、やっとそれを見た時に、耐えられないほど大きい失望を味わうのではないかと、恐れたからである。
その価値を気にしたからではない。わたしはもうほとんど成人になっていたが、無一文といってよく、どんな貨幣でもひと財産のように思われた。むしろそれは、そのコインが(今はとても神秘的に思われるが、いつまでも、そのままであるはずはない)、前の夜とわたしとの唯一の絆であり、ヴォダルスとあの美しい頭巾の婦人と、そしてシャベルをふるってわたしに殴りかかった太った男との唯一の絆であり、発《あば》かれた墓場の決闘からの唯一の戦利品であったからである。自分の知っている唯一の生活は組合の中の生活であって、それは、あの貴族の剣の閃きや、墓石の間にこだました射撃音に比べれば、自分の着ているぼろぼろのシャツと同様に、生気のないものであった。手を開いたら、あの夜のすべてがなくなってしまうのではないかと思われたのである。
快い恐怖の残りかすを飲み干してしまってから、わたしはついに見た。そのコインは黄金のクリソス貨幣だった。わたしは真鍮を見まちがえたのかもしれないと思って、また手を閉じて、勇気がもう一度湧いてくるまで、待った。
黄金に触れたのはこれが初めてだった。オリカルク貨幣ならかなりたくさん見ているし、自分でもいくらか持ってさえいる。銀のアシミ貨幣なら、一度か二度、垣間見たことがある。しかし、クリソスについては、このネッソスの町の外に世界があるとか、この大陸以外に北と東と西に大陸が存在するとかいうことを漠然と知っているのと同様に、ごく漠然としか知っていなかったのだ。
このコインには肖像がついていた。最初は女の顔だと思った――冠をかむった女で、若くも年寄りでもなく、レモン色の金属の中に静かに、完全に納まっていた。それからついに、その宝物をひっくり返した。本当に息が止まった。裏側には、あの秘密の霊廟の扉の上の紋章にあるような空飛ぶ船の刻印があったのだ。これは想像を絶することだった――あまりにも思いがけなかったので、その瞬間には、それについて想像をめぐらそうとさえ思わなかった。どんな想像をしても無駄だと頭から決めこんでしまったのである。その代わりコインをまたポケットに突っこんで、一種の放心状態に陥って、仲間の徒弟のところに戻っていったのであった。
そのコインを持ち歩くなどは問題外だった。わたしは機会を見つけるとすぐに、一人で共同墓地に忍びこみ、自分の霊廟を見つけ出した。その日は気候が変化していた――わたしはびしょ濡れの藪を押し分け、冬のために倒れはじめた萎れた長い草を踏んで、よろよろと進んでいった。隠れ家に着くと、そこはもはや、涼しく居心地の良い夏の洞穴ではなくて、漠然として名前さえわからない敵――つまり、わたしがヴォダルスに忠誠を誓った支持者であることをすでに知っている、ヴォダルスの敵――の気配が身近に感じられる、氷の罠と化していた。わたしが中に入るやいなや、彼らがぱっと飛び出してきて、蝶番に新たに油を差したあの黒い扉を閉めるのではないかと思われた。もちろん、そんなことはナンセンスだとわかっていた。しかし同時に、これには真実が含まれていると、つまり、まもなくそうなる予感がすると、思った。数ヵ月、または数年たてば、あれらの敵が待ち伏せしている場所に到達するかもしれないと。あの斧をふるった時に、わたしは闘うことを――つまり、普通なら拷問者がやらないことを――選んでしまったのだと。
わたしの隠れ家の、死者の青銅像の足もとの床に、緩んだ石があった。わたしはそれをこじて持ち上げ、その下にクリソスを置き、何年か前にロッシュに教わった、隠したものを安全に保ってくれる呪文を唱えた。
[#ここから3字下げ]
置かれた場所に、じっとしていろ、
決して他人に見られるな、
わたし以外のだれの目にも、
草が生えているように見えろ。
ここにじっとしていろ、動くでないぞ、
もしも手が近づいたら、欺いてやれ、
他人の目には信じさせるな、
わたしが見るまでは。
[#ここで字下げ終わり]
この呪いが本当に効果を発揮するためには、真夜中に人魂を持ってその場所のまわりを回らなければならなかった。だが、そう思うとわたしは吹き出してしまった――真夜中に墓場から薬草を引き抜くという、ドロッテの嘘を思い出したのである――それで、呪文だけの効果に頼ることにした。もっとも、真面目にそうするには、自分がもう年を取りすぎていると気づいて、ちょっと驚いた。
日々がたっていった。しかし、霊廟を訪れた記憶はいきいきと残っていたので、宝物が無事であることを確かめるために出かける気にはならなかった。もっとも、時には、ひどくそうしたくなることもあった。やがて初雪がやってきて、幕壁の廃墟を、ほとんど通過不可能な滑りやすい障壁に変え、墓石は新雪の衣をまとって突然ひどく大きくなり、草木は雪のために半分の大きさに押しつぶされて、見慣れた共同墓地を、人目をあざむくハンモックがたくさんある見知らぬ荒野に変えてしまった。
最初は容易でも、成人に近づくにつれて重荷が次第次第に大きくなるのが、われわれの組合の徒弟制度の習いである。最年少の子供はぜんぜん仕事がない。六歳になると仕事が始まるが、最初はメッセージを持って〈剣舞《マクチン》の塔〉の階段を駆け上がったり、駆け下りたりするだけであって、当の幼い徒弟は用事を言いつけられたことが嬉しくて、ほとんどそれを労働とは思わないのである。しかし、時がたつにつれて、仕事は次第に厄介なものになっていく。仕事のために〈城塞〉の他の部分――櫓《パービカン》にいる兵士のところ――に、いくことがある。そして、そこで、軍隊の徒弟は太鼓やラッパやオフィクレイド([#ここから割り注]楽器の一種[#ここで割り注終わり])やブーツや、時には鍍金《めっき》した胴甲を持っていることを知る。また〈熊の塔〉にいけば、自分と年がいくらも違わない少年たちがあらゆる種類のすばらしい格闘獣――ライオンと同じくらい大きい頭を持つマスチフ犬、人間よりも背が高く、くちばしに鉄の鞘をはめたディアミトリー([#ここから割り注]今は絶滅した殺人ダチョウ[#ここで割り注終わり])など――の扱いを習っていることを知る。また、その他、何十ヵ所ものそうした場所にいき、そこで彼は初めて、自分の組合の仕事を利用している人々(事実上そのような人々の大部分)から、憎まれ、蔑まれていることを知る。まもなく、掃除や台所の仕事が始まる。コックは面白そうな、楽しそうな料理をするが、徒弟は野菜の皮剥きをやらされたり、職人の給仕をやらされたり、果てしない皿の山を抱えて地下牢への階段を下りていったりするのである。
その時には知らなかったが、わたしが覚えている限り、次第次第に辛くなってきていたこのわたしの徒弟生活は、まもなくそのコースが逆転して退屈さが減り、興味が増してくるはずであった。上級の徒弟が職人に昇格する前の年には、後輩の徒弟の仕事を監督する以外にはすることはほとんどない。食物や衣服さえも良いものになる。若い職人がほとんど対等に扱ってくれるようになる。そして、とりわけ、その徒弟の責任の重荷が増加し、命令を発したり、強制したりする喜びも増すのである。
昇格すると、成人になる。彼は習得した仕事しかしない。そして、義務をすませば〈城塞〉を出ることも自由であり、そういうレクリエーションのために小づかいが支給される。万一、最後に師匠《マスター》の地位にまで上がれば(これは生きているすべての師匠の賛成投票が必要な、名誉ある地位である)、自分にとって興味があり、楽しくやれる役割を選ぶことができ、また組合そのものの事業を指導することができる。
しかし読者諸君は、わたしが書いている年、つまりヴォダルスの命を救った年には、これらはまったくわたしの意識になかったということを、理解しなければならない。冬のために北方の軍事行動ができなくなったので、独裁者と主要な役人や顧問たちが裁きの座に戻ってきた(という噂が流れた)。「だから」とロッシュが説明した。「こんなに大勢の客人がきたんだ。そして、もっとやってくるぞ……何十人も、ことによったら何百人もな。第四層をまた開かなければならないかもしれないぞ」彼はそばかすのある手を振って、どんなことが必要になっても、少なくともその用意があるということを示した。
「ここにいるのか?」わたしは尋ねた。「独裁者が? この〈城塞〉に? 〈大天守閣〉に?」
「もちろん、いないさ。もし彼がやってくれば、わかるはずだろ? パレードとか査閲とか、いろいろとあるはずだ。あそこには彼の部屋があるが、ここ百年間、扉が開かれたことがない。彼は秘密の宮殿にいるんだろうよ――町の北のどこかにある――〈絶対の家〉に」
「どこか知らないのか?」
ロッシュは受け太刀になった。「どことは言えないんだ。なぜなら、そこには〈絶対の家〉そのもの以外に何もないんだから。それがある場所としか、言えないんだ。北の方だよ、対岸の」
「〈壁〉の向こうかい?」
彼はわたしの無知を笑った。「そのもっとずっと先だ。歩けば何週間もかかるんだぞ。独裁者なら当然、ここにきたければ、飛翔機に乗って一瞬にやってくることができる。〈旗の塔〉――あれが飛翔機の着く場所だ」
だが、われわれの新しい客人は飛翔機ではやってこなかった。重要性の低い者は、十人から二十人ずつ首に鎖をつけられて、数珠つなぎになってやってきた。彼らは竜騎兵――実戦用に作られ、実際に激戦をくぐりぬけてきた跡の残る鎧を着た百戦錬磨の騎兵たち――に監視されていた。客人はそれぞれ銅の筒を持っていた。それにはその人物の書類、つまり、その人物の運命が入っているはずだった。もちろん彼らはみんなその封を破って、自分の書類を読んでしまっていた。中にはそれを捨ててしまったり、他人のものと取り替えたりしている者もいた。書類なしで到着した者は、処分について追って沙汰のあるまで留め置かれる――たぶん、その生涯の残りの期間ずっと。他人と書類を交換した者は、運命を取り替えたことになる。そういう者は他人の代わりに釈放されるか、拷問されるか、または処刑されることになる。
より重要な者は装甲車で到着する。これらの乗物の鋼の側面や、格子のはまった窓は逃走を防止するため、というよりは奪還を阻止するためのものである。そして、それらの最初の一台が〈魔女の高楼〉の東側を回って〈古い庭〉に入ってくるやいなや、組合全体が、ヴォダルスが大胆な襲撃を企んでいるとか、仕かけてくるという噂でもちきりになった。なぜなら、わたしの同僚の徒弟のすべてと職人の大部分は、これらの客人のほとんどが彼の部下か共謀者か同盟者だと信じたからである。わたしとしてはその理由で彼らを逃がすことはない――そんなことをすれば、組合の恥になるし、いくらわたしが彼とその行動に親しみを感じていたとしても、まだそんなことをする用意はなかったし、どうせそんなことは不可能だったから。しかし、自分の戦友と考える人々に、できる範囲内でささやかな慰めを与えたいと願った。たとえば、より価値の少ない客の皿から盗んだ食べ物とか、時には、炊事場から掠めてきた少しばかりの肉などを。
ある風の吹きすさぶ日に、彼らがだれか知る機会を与えられた。わたしがグルロウズ師の書斎の床を磨いていた時に、師は何かの用事で呼ばれて、机の上に新しく届いた書類を山積みにしたまま出ていった。師の背後で扉がバタンと閉まるやいなや、わたしは大急ぎでそこにいき、師の重い足音がふたたび階段に聞こえる前に、その大部分を盗み見することができた。わたしが書類を読んだ囚人のうち一人も――一人も――ヴォダルスとは関係なかった。彼らは、軍需物資で大儲けを企んだ商人とか、アスキア人のためにスパイをつとめた非戦闘従軍者とかで、それに、民間の卑しい犯罪者がちらほら混じっていた。他の種類の者はいなかった。
〈古い庭〉の石の流しに、バケツの水をあけにいくと、装甲車の一台がそこに止まり、それを引いてきたたてがみの長い馬たちが湯気を立て、足を踏み鳴らしているのが見えた。毛皮で縁取りをしたヘルメットをかぶった監視兵たちが、組合の用意した香料入りの温かいワインの、湯気を立てている酒杯を、おどおどした態度で受け取っていた。わたしはヴォダルスの名前を空中に聞いた。しかし、その瞬間にそれを聞いたのはわたしだけのように思われた。そして突然、ヴォダルスはわたしが想像力によって霧から創り出した幻影にすぎなかったのだという感じがした。そして、相手の斧によってわたしが殺したあの男だけが、現実だったのだと。ちょっと前に、ぱらぱらとめくって見た書類が、風に吹き飛ばされた枯葉のように顔に当たったように思われた。
自分がある意味で正気を失っていることに初めて気づいたのは、この混乱の時期だった。それを、わたしの生涯で最も悲惨な時期だったと主張することもできたろう。わたしはグルロウズ師やパリーモン師や、まだ生きていた頃のマルルビウス師に、しばしば嘘をついた。またドロッテには――彼が徒弟頭だったから、そしてロッシュには――彼が年上で強かったから、そして、イータやその他の幼い徒弟たちには――尊敬されたかったから、嘘をついた。そして今、わたしはもはや、自分自身の心が自分に対して絶対に嘘をついていないとはいえない。自分の嘘のすべてがわたしに跳ね返ってきた。そして、すべてを覚えているわたしは、これらの記憶が自分の夢以上のものだと確認することができない。わたしは月光に照らされたヴォダルスの顔を思い出す。しかし、あの時、わたしはそれを見ることを望んでいた。わたしに話しかけた彼の声を思い出す。しかし、わたしはそれを聞くことを欲したのだった。また、あの婦人の声だって、そうなのだ。
ある凍えるように冷たい夜に、わたしは例の霊廟にこっそり戻っていき、あのクリソス貨幣をふたたび取り出した。その表面の、擦り切れた、男のようでもあり女のようでもある落ち着いた顔は、ヴォダルスの顔ではなかった。
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4 トリスキール
わたしはちょっとした違反の罰として、凍った排水孔を棒で突ついて通すように命じられた。その時に、彼を見つけたのである。彼は、〈熊の塔〉の管理者たちが廃棄物、つまり仕事で傷ついて死んだ動物の死骸を投げ捨てる場所に捨てられていた。われわれの組合は自分たちの死者を城壁のそばに、そして客人の死骸を共同墓地のずっと下の方に埋める。しかし、〈熊の塔〉の管理者たちは自分らの出した死骸を遺棄して、他人の持っていくにまかせる。彼はそれらの死骸の中で一番小さかった。
なんの変化も起こさない出逢いというものがある。ウールスはその年老いた顔を太陽に向け、太陽はその雪に光を投げかける。雪はきらきら輝き、しまいに、塔のふくれた側面から垂れ下がる小さなつららの一つ一つが、最も貴重な宝石〈調停者の鉤爪《つめ》〉のようになる。やがて、最高の賢者以外のだれもが、雪は溶けるにちがいない、そして、夏の先の延長された夏に、道を譲るにちがいないと信じる。
しかし、そのような事はまったく起こらない。楽園は一刻か二刻は続くが、やがて、水で薄めた乳のように青白い影が、雪の上に伸びる、それは東の風の拍車を受けて方向を変えて踊る。夜がくる。そしてすべてがもとどおりになる。
わたしがトリスキールを見つけたのは、それと同じだった。ひょっとしたら、これですべてが変わるだろう、変わるはずだと、わたしは感じた。しかし、それはほんの二、三ヵ月のエピソードにすぎず、それが終わり、彼がいなくなってしまうと、また一つの冬が去っただけのことであって、聖キャサリンの祭がまたやってきて、そして、なんの変化もなかった。彼に触れた時に、彼がいかに哀れだったか、そしていかに喜んだか、諸君に話すことができればよいと思う。
彼は血だらけになって、倒れていた。血は冷えたタールのように固まっていた。そして、寒気が守っていたので、それはまだ鮮やかな赤い色をしていた。わたしはそばにいき、彼の頭に手を置いた――なぜそうしたか、わからない。彼は他の獣と同様に死んでいるように見えたが、片目を開け、それをぎょろりと動かしてわたしを見た。もう最悪の事態は去ったのだという確信が、その動作にはあった――おれは自分の役目を果たした(そういっているように見えた)、そして頑張った、やるだけのことはやったのだ、今度はあんたがおれに対して義務を果たす番だ、と。
もし夏だったら、わたしは彼を見殺しにしただろう。ところが夏ではなかったので、生きた動物といえば、残飯を漁るティラコドン([#ここから割り注]今は絶減している原始的なフクロネズミ[#ここで割り注終わり])を時々見かけるだけだった。頭をもう一度撫でてやると、彼はわたしの手をなめた。そうされると、わたしはもう、背を向けることができなくなった。
わたしは彼を抱き上げ(その重さにびっくりした)、どうしようかと思いながら、あたりを見回した。宿舎の中では蝋燭が指の幅一つ分も燃えないうちに、見つかってしまうとわかっていた。
〈城塞〉は広大であり、いろいろな塔の中や、塔と塔の間に建てられた建物の中や、それらの下に掘られた地下道の中に、あまり人の入らない部屋や通路があって、非常に入り組んでいる。しかし、それらの場所でも、途中で五回も六回も人に見られずに行くことのできる場所は、思いつくことができなかった。それで結局、わたしはその哀れな獣をわれわれ自身の組合の居住区に運びこんだ。
それから、独房の列に続く階段のてっぺんに立って見張りをしている職人のところを、彼を抱いて通り過ぎなければならなかった。最初、洗濯をした客人の寝具を降ろすのに使う籠に彼を入れようかと思った。ちょうどその日は洗濯日だったし、実際に必要な階層よりももう一層下まで下りるのは容易であったろうし、職人が不都合なものに気づく可能性はほとんどないだろうと思われた。しかし、そうするには、洗った敷布が乾くまで一刻は待たなければならないし、また、第三層に勤務している同僚の質問を受けるという危険を冒さなければならなかった。そうすれば、人のいない第四層に下りていくのを彼らに見られるからである。
わたしはそれをやめて、犬を審問室に置き――彼は弱っていて動くことができなかった――斜路の上の見張りに交替を申し出た。当直の職人は用を足すチャンスができたことを喜び、遠くから見れば替え玉とわからないように、持っていた広刃の斬首剣(理屈上では、わたしはそれに触れてはならないことになっていた)と、煤《すす》色のマント(それを着ることは禁じられていたが、わたしはすでにたいていの職人よりも背が高くなっていた)を渡してくれた。わたしはそれを着て、彼がいってしまうとすぐに剣を隅に立てかけ、犬を抱き上げた。われわれの組合のマントはすべてかさばっているが、このマントは特にかさばっていた。なぜならわたしと交替した組合員は、大きな体格をしていたからである。しかも、黒よりももっと黒い煤色という色合いは、目で見た限りでは不思議なほど、しわや、ふくらみや、ひだをよく隠してしまい、ただのっぺりした黒としか見えないものである。それを着て、頭巾を引き上げたわたしは、各層で食事をしている職人の目には(それも、彼らが階段の方に目をやってわたしを見たらの話だが)、ちょっと太めの同僚が下の層に降りていく、と映ったにちがいない。第三層――そこでは理性をすっかり失った客人たちが泣きわめいたり、鎖を揺すったりしている――の当直さえ、一人の職人が四層に降りていくのを見ても、おかしいとは思わなかっただろう。地下四層を新しく作りなおすという噂が流れていたし、また、その職人が上にあがっていった直後に、徒弟が駆け降りてきたとしても、不審の念を抱くことはなかったろう。職人が下に何かを置き忘れたので、徒弟に取りにやらせたのだと思うことだろう。
そこは怪しまれるような場所ではなかった。大昔の灯火の半分ばかりがまだ燃えていた。しかし、通路に泥が浸み出してきていて、人の手の厚さほど積もっていた。当直の机は、たぶん二百年前に置かれた位置にそのまま残っていた。木はすっかり腐っていて、ちょっと触れれば全部壊れてしまうのであった。
しかし、水はここまで上がってきてはいなかった。そして、わたしが選んだ通路の奥には、まだ泥さえたまっていなかった。わたしは犬を客用のベッドの上に降ろし、審問室から持ってきたスポンジで、できるだけ体をきれいにしてやった。
こびりついた血糊の下の毛は短く、固く、黄褐色をしていた。尻尾は短く切られていて、切株の直径のほうが、長さよりも大きかった。耳は完全に切除されていて、わたしの親指の第一関節よりも短く固い突起しか残っていない。最後の戦いでかれの胸はぱっくりと傷口を開いたままになり、眠っている大蛇のような、幅の広い薄赤い筋肉が見えた。右の前足は――上半分がぐしゃぐしゃに砕けて――下半分はなくなっていた。わたしは彼の胸をできるだけ縫いあわせてから、その足を切断した。するとまた出血しはじめた。わたしは(パリーモン師に教わったとおりに)動脈を見つけて縛り、切株をきれいにまとめるために皮膚の下端を折り畳んだ。
その作業中に、トリスキール([#ここから割り注]三本の足が三つ巴になった図案の名前[#ここで割り注終わり])は時々わたしの手をなめ、縫合の最後の一針がすむと、彼は熊のように、そして、傷口をなめれば新しい足が生えてくるとでもいうように、それをゆっくりとなめはじめた。彼の顎はアークトテールの顎と同じくらい大きく、牙はわたしの人差指くらい長かったが、歯ぐきは白かった。これらの顎には、骸骨の手に力がないと同様に、力がなかった。彼の目は黄色で、一種の澄んだ狂気を宿していた。
その日の夕方、わたしは客人に食事を運ぶ少年の仕事を買って出た。食事を取ろうとしない客人が何人かいるので、いつも余分の皿がある。そして今、わたしはそういう皿を二つ持って、まだ生きているだろうかと思いながら、トリスキールのところに降りていった。
彼は生きていた。どのようにしてか、彼は乗せてやったベッドから這い降りて――立つことはできない――水が少したまっている泥の縁まで這い出してきていた。持っていってやった食べ物は、スープに黒パンに水の入ったガラス瓶が二本だった。彼は一皿のスープを飲んだが、パンを食べさせようとすると、噛んで飲み下すことができなかった。わたしはもう一皿のスープにパンを浸して食べさせた。それから、皿に水を注ぎ足していって、ついに水の瓶を二本とも空《から》にした。
われわれの塔の最上階に近い自分のベッドに横たわっていると、彼の苦しい息づかいが聞こえるような気がした。わたしは何度も起き上がっては、耳をすました。そのたびごとに、音は消え去った。そして、横になってしばらくすると、また聞こえてくるのだった。たぶん、それはわたしの心臓の鼓動にすぎなかったのだろう。もし一、二年前に発見していれば、彼はわたしにとって神の使いになったことだろう。わたしはドロッテやその他の少年に話したことだろうし、彼はわれわれみんなの神の使いになったことだろう。今は、見たとおりの哀れな動物だとわかる。しかし、死なせることはできなかった。なぜなら、そんなことをすれば、わたし自身の内部の何かを壊すことになるからだ。(本当に大人かどうかはともかくとして)わたしはこんなに短い間に大人になっていた。そして、子供の自分とあまりにも違った大人になってしまったと考えることには、耐えられなかった。わたしは自分の過去のあらゆる瞬間を、とりとめのない思考や光景のすべてを、あらゆる夢を覚えている。その過去を、どうして壊すことができようか? わたしは両手を上げて、見ようとした――今は手の甲に静脈が浮いていることも知っていた。手に静脈が浮き出した時が、人が大人になった時なのだ。
夢の中で、また地下の第四層を歩いた。そして、そこにだらりと口を開けた巨大な友達を見出した。彼はわたしに話しかけた。
翌朝、わたしはまた客人のところに食事を運んだ。そして食べ物をくすねて犬のところに持っていった。だが、彼が死んでいてくれればよいと思った。しかし、死んでいなかった。彼は鼻先を上げて、顔が二つに割れて見えるくらい大きい口を開けて、わたしに向かってにっこりと笑ったように思えた。しかし、立とうとはしなかった。わたしは彼に餌を与え、帰ろうとしかけて、ふと彼の境遇の惨めさに心を打たれた。彼はわたしを頼りにしている。このわたしを! 今まで彼は大切にされ、走者が競走のためにコーチを受けるように、訓練士によってコーチされていた。彼は人間の胸と同じくらい広いその胸をふくらませ、円柱のような二本の前足を踏ん張って、誇り高く歩いていたのだ。その彼が今は幽霊のように生きながらえている。名前さえも、血糊とともに洗い流されてしまって。
わたしは暇を見ては〈熊の塔〉にいき、そこの動物使いたちとできるだけ親しくなった。彼らは彼ら自身の組合を作っていて、それはわれわれの組合よりも小さかったけれども、たくさんの不思議な伝承を持っていた。もちろん、その奥義はわたしの測り知るところではないが、われわれのと同じ伝承であることを知って、わたしはちょっと驚いた。師匠に昇格するには、候補者は金属の格子の下に立って、血を流している雄牛に踏みつけられる。また人生のある時期に組合員はそれぞれ雌ライオンか雌熊と結婚し、その後は人間の女性を避ける。
これはとりもなおさず、彼らと、彼らが闘獣場に連れてくる動物との間に、ちょうどわれわれの客人とわれわれ自身との間にあるのとそっくりの絆があることを物語っている。今は、わたしは自分の塔からずっと遠くまで旅をした経験があるが、それでも常にわれわれの組合のパターンが、あらゆる職業の社会において、(〈絶対の家〉のイナイア老の鏡の反復のように)無意識に反復されているのを知っている。だから、彼らもすべてわれわれと同じ拷問者なのだと知っている。獲物が狩人に抵抗するのは、われわれの客人がわれわれに対抗するのと同じである。買い手と売り手、共和国の敵と兵士、被支配者と支配者、男と女。みんな自分の亡ぼすものを愛している。
地下牢にトリスキールを匿《かくま》って一週間後、降りていくと泥の中にトリスキールの頼りない足跡しか残っていなかった。彼はいなくなっていた。もし斜路から上にあがったなら、職人のだれかがそう言うはずである。わたしは探した。まもなく足跡が、わたしがまったく知らなかった明かりの消えた迷路のような地下道に向かって、狭く開いている扉のところに続いていることがわかった。暗闇の中ではもはや彼の足跡を追うことはできなかった。しかし、それにもかかわらず、よどんだ空気の中で彼がわたしの匂いを嗅ぎつけて、そばにくるだろうと思って、わたしは無理やりに進んだ。まもなく道に迷った。そして帰り道がわからないがために、先に進んでいった。
これらのトンネルがどのくらい古いか知るすべはない。しかし、理由はほとんど言えないが、上の〈城塞〉よりも古いのではないかと思う。もっとも〈城塞〉そのものが太古のものであって、それは、飛行の衝動、つまりわれわれの太陽以外の新しい太陽を探そうとする外向的な衝動が(その飛行を成就させる手段が、消えかかった炎のように沈みつつあったにもかかわらず)まだ残っていた時代の、まさに終わったところからわれわれに伝えられたのだ。そのような遙かな昔のことであり、その頃の名前一つ思い出すのも難しいが、それでも、われわれはまだその時代を覚えている。その前に別の時代があったにちがいない。現在ではまったく忘れ去られている穴掘りの時代、暗い地下道を作り出す時代が。
それがどのようなものであれ、わたしはそこにいて怖かった。わたしは走った――そして、しばしば壁に衝突したが――ついに日光の青白い点を見つけ、頭と肩がやっと通るくらいの穴から外に這い出した。
そこは、おびただしい面がそれぞれ違う時間を示す、あの切子面を持つ昔の日時計の一つの、氷に覆われた台座の上だった。それは、疑いなく、後年に下のトンネルに入った霜がその土台を持ち上げたために、横滑りして、とうとう、それ自体の指時針《ノーモン》の一つででもあるかのような角度に傾いてしまい、しるしのない雪の上に短い冬の日の静かな通過をしるすようになってしまったのだ。
その周囲の空間は夏の庭園だった。しかし、なかば野生化した木々と、起伏する牧場のような芝生が生えているわれわれの共同墓地の庭園と異なり、ここでは、モザイク模様の舗道に置いた瓶《クラテル》の中に薔薇が咲いていた形跡があった。図体の大きいバリラムブダ([#ここから割り注]現在は絶減している、大きな草食獣[#ここで割り注終わり])、熊族の王であるアークトテール、グリプトドン([#ここから割り注]アルマジロと関連のある大型獣、現在は絶減している[#ここで割り注終わり])、剣のような牙を持つスミロドン([#ここから割り注]サーベル・タイガーの一種[#ここで割り注終わり])などの、いろいろな獣の像が庭の四方の壁に背を向けて立ち、目を、傾いた日時計の方に向けて眺めていた。それが今はすべて雪をかぶっていた。わたしはトリスキールの足跡を探した。しかし、彼はここにきていなかった。
庭の壁には高く狭い窓があった。しかし、そこから明かりは射してこず、何かが動く気配もなかった。〈城塞〉のいろいろな尖塔があらゆる方角に見えた。それで、自分は〈城塞〉の外に出ていないと――まだ一度もいったことのないその中心に近いどこかにいるらしいと、わかった。わたしは寒さに震えながら、一番近くの扉のところにいって、ドンドンと叩いた。さっきわたしは、地表に出る道が見つからないままにトンネルの中を永久にさまようのではないかと感じていた。そして、あの道を戻るくらいならむしろ、必要ならば窓の一つくらい叩き割ってもよいと心を固めていた。扉の板に何度も何度も拳を打ちつけたが、中からはなんの物音も聞こえてこなかった。
見つめられているという感覚は、実際に表現のしようがない。それは首の後ろをチクチク刺されるような感じだと聞いたこともあるし、また、暗闇に漂っている目の意識だとさえいう人もいるが、そのどちらも――少なくともわたしにはあてはまらない。それは原因のない当惑と、振り返らなければならないという感じが一緒になったものに近い。なぜなら、根拠のない虫の知らせに促されて振り返ることは、馬鹿みたいに見えるからである。もちろん、結局は振り返る。わたしは日時計の土台の穴からだれかがわたしの後をつけてきたようなぼんやりした感じを抱いて、振り返った。
ところが、そこではなくて、庭の奥の扉の前に、毛皮をまとって立っている若い女が見えた。わたしは彼女に手を振り(寒かったので、急いで)そちらに向かって歩きだした。すると、彼女はわたしの方に進んできた。そして、われわれは日時計の裏側で出会った。彼女はわたしが何者か、そしてここで何をしているか尋ね、わたしはできるだけ詳しく説明した。毛皮の頭巾に囲まれた彼女の顔だちはこの上もなく美しく、しかもそのコートや毛皮で縁取りされたブーツは、いかにも柔らかく豊かに見えたので、わたしは話をしながら、自分のつぎの当たったシャツやズボンや泥だらけの足がひどく惨めに思えて、気になった。
彼女の名前はヴァレリアだった。「ここにはあなたの犬はいませんよ」彼女はいった。「嘘だと思ったら、探してもいいわよ」
「いるとは思ってなかったよ。ただ、ぼくの住処に、〈剣舞《マタチン》の塔〉に、帰りたいだけさ。またあの地下道を通らずにね」
「とても勇気があるのね。わたしはあの小さい穴を幼い子供の頃から見ているけれど、入っていく勇気はとてもないわ」
「中に入りたいな」わたしはいった。「いや、そちらの中に」
彼女は自分が出てきた扉を開けて、タペストリーの掛かった部屋に入れてくれた。そこには古めかしい椅子が、まるで凍った庭の彫像のように、それぞれの場所に固定されているように見えた。一方の壁ぎわに暖炉があって、小さな火が煙を上げていた。われわれはその前にいった。わたしが両手を広げてその火にあたると、彼女はコートを脱いだ。
「トンネルの中は寒かった?」
「外ほど寒くはなかった。それに、走ってたし、風もなかったから」
「ああ、そう。トンネルが〈時の広間《アトリウム》〉に通じているなんて、なんと不思議でしょう」彼女はわたしよりも若く見えた。しかし、彼女の金属の縁取りのあるドレスや、忘れられた昨日の住人であるパリーモン師よりも年寄りに見せる、彼女の黒髪の影のあたりには、なんとなく古代の雰囲気が漂っていた。
「きみたち、あれをそう呼ぶのかい? 〈時の広間《アトリウム》〉と? たぶん、それは日時計があるからだろうな?」
「いいえ、日時計は、その名前にちなんであそこに置かれたのよ。あなた、死語はお好き? あれには格言が刻んであるのよ。ルクス・デイ・ヴィタエ・ヴィアム・モンストラト=Aつまり新しい太陽の光は生命を照らす=Bフェリキブス・ブレヴィス、ミゼリス・ホラ・ロンガ=B人々は長い間、幸福を待つ=Bアスピケ・ウト・アスピキアル=v
わたしは自分たちの言葉以外は知らないし、自分たちの言葉さえ少ししか知らないのだと、ちょっと恥ずかしく思いながら、彼女に伝えなければならなかった。
衛兵の一勤務時間か、それ以上お喋りしてから、わたしはそこを去った。彼女の一族がそれらの塔を占めているのだった。彼らは最初、その時代の独裁者とともにウールスを去る時を待っていた。そのあとも、彼らには待つことしか残っていなかったので、待っていた。彼らの中から、この〈城塞〉の城主がたくさん出た。しかし、最後の城主は何世代も前に死んでしまった。今は貧しくなり、そして、彼らの塔は廃嘘になってしまった。ヴァレリアは下の階から上に登ったことは決してなかった。
「塔は丈夫にできているのもあれば、そうでないのもあるんだ」わたしはいった。「〈魔女の高楼〉だって中は荒れ果ててるよ」
「本当にそんな場所があるの? 子供の頃、その話を乳母がしてくれたわ――わたしを恐がらせるためにね――でもわたし、そんなものはおとぎ話だと思っていたわ。〈拷問の塔〉というのもあるはずだって。そこに入った人はみんな苦しみ悶えて死ぬんだって」
それは少なくとも、おとぎ話だと、わたしはいった。
「これらの塔の最盛期は、わたしにとってもっとすばらしいものだったのよ」彼女はいった。
「今はわたしの血筋で、剣を持って共和国の敵に立ち向かう者は一人もいないし、わたしたちのために〈蘭《らん》の井戸〉に人質になる者もいないわ」
「たぶん、きみの姉妹のだれかがまもなく召されるだろう」わたしはいった。どういうわけか、彼女自身が行くとは考えたくなかったので。
「わたしはわが一族が生み出す姉妹のすべてであり」彼女は答えた。「息子のすべてであるのよ」
年取った下僕がお茶と小さくて固いケーキを持ってきた。それは本物のお茶ではなく、北方のマテ茶で、値段がとても安いため、われわれも時々、客人に出すものだった。
ヴァレリアは微笑した。「ほら、あなたはここでなんらかの慰めを得たでしょう。あなたはその犬が足が悪いからかわいそうだと心配していたけれど、彼も優しい扱いを受けているかもしれないわ。あなたが愛するように、他にも彼を愛する人がいるかもしれないし、あなたは彼を愛するように、他の犬を愛するかもしれないわ」
わたしはそのとおりだといった。しかし、他の犬を飼うことは決してないだろうと、心の中で密かに思ったが、結局そのとおりになった。
ほとんど一週間のあいだトリスキールの姿をふたたび見かけることはなかった。やがてある日、櫓《バービカン》に手紙を届けにいった時、彼がわたしに跳びついてきた。彼はまるで金ぴかの玉の上で逆立ちする軽業師のように、一本だけの前足を使って走ることを覚えていた。
その後、雪が積もっている間、月に一度か二度は彼を見た。彼がどんな人を見つけたのか、どんな人が餌をやり、どんな人が世話をしているのかは、ぜんぜんわからなかった。しかし、その人が春になったら北のテントの町に彼を連れていき、山岳地帯での戦闘に連れていってやると良いと思った。
[#改ページ]
5 絵画清掃人、その他の人々
聖キャサリンの祭は、それによってわれわれがみずからの伝統に呼び戻される、組合にとって最も大切な日であり、また、|職 人《ジャーニーメン》が師匠《マスター》に(万一なるとすれば)なる日であり、徒弟が職人になる日である。この日のいろいろな儀式の説明は、わたし自身の昇格の話をする機会まで、とっておくことにする。しかし、この話の年、つまり墓地での格闘があった年には、ドロッテとロッシュが昇格し、わたしは徒弟頭として残った。
この身分の責任の本当の重さは、儀式がほとんど終わるまで、わたしの肩にかかってこなかった。わたしは礼拝堂の廃墟に坐って、盛大な祭りの行事を楽しみながら、その最後の行事が終われば、自分が徒弟全員の中で一番年上になるということだけを(この祭について想像していたとおりの楽しい気分で)意識していた。
しかし、一種の落ち着かない気分がゆっくりとわたしを捉えはじめた。自分がもはや楽しくないと意識する前に、わたしは惨めな気分になっており、責任を負っていることをまだ完全に理解しないうちから、責任の重さでうなだれていた。われわれに秩序正しい生活をさせるために、ドロッテがいかに多くの困難に遭遇したか、わたしは思い出した。今は彼の助けを借りないで、わたしがそれをしなければならないのだ。しかも、ドロッテにとってのロッシュのような、同年配の補佐役はわたしにはいないのだ。最後の聖歌がすさまじい響きをあげて終了し、金の隈取りのある仮面をつけたグルロウズ師とパリーモン師がゆっくりとした足どりで扉から出ていき、年配の職人が(これから外で行なう花火のために、ベルトにつけた|図 嚢《サパタッシュ》([#ここから割り注]本来はサーベルのベルトにつけた地図や書類をいれる平たいケース[#ここで割り注終わり])をすでにまさぐりながら、新しく職人になったドロッテとロッシュを肩に担ぎあげた時には、わたしはすでに心を鬼にして、基本的な作戦[#「作戦」に傍点]さえも立ててしまっていた。
われわれ徒弟は宴会の給仕をすることになっていた。そして、その前に、儀式のために与えられた比較的新しく綺麗な衣服を脱ぐことになっていた。最後の爆竹が破裂し、砲兵隊《マトロッス》が、友好関係のしるしとして毎年やるように、〈大天守閣〉で最大の礼砲を発射して空を引き裂いてしまうと、わたしは預かっている少年たち――すでにわたしを恨めしそうな目で見はじめている……とにかく、わたしにはそのように感じられる――を、われわれの宿舎に向かって追いかえし、扉を閉め、それに寝台で突っかい棒をした。
わたしを別にすればイータが最年長だった。そして、わたしにとって幸運なことに、過去に彼ととても親しくしていたので、彼はわたしを少しも疑わず、有効な抵抗をする機会を逸してしまった。わたしは彼の喉首を掴み、その頭を壁に数回叩きつけ、下からその足を蹴り上げた。
「おい」わたしはいった。「おれの子分になるか? 答えろ!」
彼は口がきけなかったが、うなずいた。
「よし。おれはタイモンをやっつける。おまえはその次に大きい奴をやっつけろ」
呼吸を百回(それも、非常に速い呼吸だったが)するうちに、少年たちは腕ずくで服従を誓わされてしまった。その後三週間、彼らはあえてわたしに逆らおうとしなかった。そして、それ以後も、集団的な反抗は起こらなかったし、あるとしても個人的な仮病くらいのものであった。
徒弟頭として、今までになかったような自由を得ただけでなく、新しい仕事もできた。当直の職人に温かい食事を出すように手配するのもわたしだったし、また、客人に出す皿の山の下で重労働をする少年たちの監督をするのもわたしだった。炊事場では預かっている少年たちの尻を叩いて仕事をさせ、教室では勉強の指導をした。また今までよりもずっと頻繁に〈城塞〉の離れた部分へメッセージを届けるために使われ、組合の事業さえも少しはさせられた。このようにして、すべての道筋に精通し、あまり人の行かない多くの片隅も知るようになった――高い貯蔵箱があり化物のような猫のいる穀物倉、壊死しかけている貧民窟を見下ろす風の吹き抜ける塁壁、そして、絵画館《ピナコテーケン》など。この絵画館の煉瓦の丸天井には、棒で突き刺して穴を開けたような窓があり、床には板石が敷きつめられていて、壮大な回廊にはあちこちにじゅうたんが敷かれている。そして壁に暗いアーチ形の開口部がいくつもあって、ずっと連なった小部屋に通じている。それらの小部屋にも廊下にも絵がかかっている。
それらの絵はとても古く、煤《すす》けていて、何を描いてあるか識別できないものが多い。また何を意味しているか見当がつかないものもある――吸血鬼のような翼をもつ踊り子、両刃の短剣を持ち、埋葬用仮面の下に坐っている静かな表情の婦人など。ある日、わたしはこれらの謎めいた絵の間を少なくとも一リーグは歩いてから、高い梯子の上に登っている老人に出逢った。わたしは道を尋ねたかったが、その人があまり熱心に仕事をしているので、邪魔をするのがためらわれた。
彼が清掃している絵は、荒れ果てた風景の中に立っている鐙兜《よろいかぶと》姿の人物だった。武器は持っていなかったが、奇妙なこわばった旗のついた旗竿を持っていた。この人物の兜の面頬は全体が黄金製で、目の細孔も呼吸孔もなく、そのぴかぴか輝く表面には、死のような砂漠の風景が映っているばかりで、それ以外には何も見えなかった。
この死の世界の戦士はわたしに深い感動を与えた。もっとも、それがなぜなのか、いや、自分が感じたのはどんな感情なのかさえわからなかったけれども。そして、この絵をわれわれの共同墓地にではなく、そのモデルとなっている山中の森林――われわれの共同墓地はそれの理想化されてはいるが堕落した模型である(当時においてさえもわたしはそのように理解していた)――の一つに持っていって、木立の中の若草の上に、額に入れたまま立て掛けて眺めたらどんなに良いだろうと、ぼんやり考えたものであった。
「――そんなわけで」わたしの後ろで声がした。「みんな逃げた。ヴォダルスは欲しいものを手に入れたのだ」
「おい」もう一人がわたしに向かって横柄な口調でいった。「おまえ、ここで何をしている?」
振り返ると、精いっぱい上流階級の衣裳に似せた派手な衣服をまとった、二人の大郷士《アーミジャー》がいた。わたしはいった。「公文書保管係に手紙を届けにきた」そして、封筒を持ち上げて見せた。
「よろしい」わたしに声をかけた大郷士がいった。「公文書保管所の位置を知っているか?」
「それを聞きたいと思っていた」
「では、おまえは手紙を届けるのにふさわしい使者ではないな? 手紙をよこせ。おれが小姓に渡してやる」
「そうはいかない。届けるのがおれの役目だから」
もう一人の大郷士がいった。「この若者にそう辛く当たるにはおよぶまい、ラーチョ」
「こいつが何者か、知っているのか?」
「きみは知っているのか?」
ラーチョと呼ばれた男がうなずいた。「おい、使い走り、この〈城塞〉のどの部分からきた?」
「〈剣舞《マタチン》の塔〉からだ。グルロウズ師から、公文書保管係のところへ行くように言いつかった」
もう一人の大郷士の顔が厳しくなった。「では、貴様、拷問者だな?」
「ただの徒弟だがね」
「では、おれの友人が貴様の姿を消したがるのも無理はない。この画廊をずっといって、三つめの扉のところを曲がり、百歩ほど進んで、階段を登り二つめの踊り場に上がり、廊下を南に進んで、突き当たりの両開きの扉だ」
「ありがとう」わたしはそういって、彼の指し示した方向に一歩踏み出した。
「ちょっと待て。先に歩くと、おまえの姿がおれたちの目にいやでも入る」
ラーチョがいった。「後からくるよりも、むしろ前を歩かせたほうがよいな、おれとしては」
とにかくわたしは梯子の脚に片手を置いて立ち止まり、二人が角を曲がるまで待った。
夢の中で、雲の上から声をかけてくる、あのなかば霊的な友人の一人のように、その老人がいった。「そうか、おまえさん拷問者なのか? わしはなあ、おまえさんたちのところには一度もいったことがないよ」彼は弱々しい目つきでちらりとこちらを見た。その鼻と顎がくっつきそうな表情は、ギョルの堤でわれわれ少年が時々いじめる、ある種の亀を思い出させた。
「道理で、あそこであんたに会ったことがないね」わたしはおとなしくいった。
「わしにはもう恐いものはない。おまえさんたち、わしらのような者に何ができる? 何かされたら、わしの心臓はこういう具合にぴたりと止まるだろう!」彼は持っていたスポンジをバケツの中に落として、濡れた指を弾いて鳴らそうとしたが、音はしなかった。「だが、場所は知っているよ。〈魔女の高楼〉の後ろだ。そうだろう?」
「うん」魔女のほうがわれわれよりも有名だと知って、ちょっと驚きながら、わたしはいった。
「だと思った。あそこの話はだれもしないがね。おまえさん、あの大郷士たちには腹が立ったろう。無理もない。しかし、連中のことも理解してやるべきだ。彼らは高貴人のようにしていなくてはならない。ただし、高貴人ではないがね。死ぬのは恐い、痛い目にあうのは恐い。しかし、そういうように振舞うのを恐れている。彼らもなかなか大変なんだよ」
「あんな奴らは根絶やしになればいいんだ」わたしはいった。「ヴォダルスなら彼らに石切りをやらせるだろう。あいつらは昔の遺物にすぎないよ――いったい、世間にどんな貢献ができるんだ?」
老人は頭を上げた。「そうだ、そもそも彼らは最初からなんの役に立った? おまえさん、知ってるかい?」
わたしが知らないというと、彼は両手、両足、それにしわだらけの首だけで体ができあがっている年取った猿のように、梯子を駆け降りてきた。彼の手はわたしの脚くらい長く、曲がった指には青い静脈が網の目のように浮き出していた。「わしは管理者《クラトール》のルデジンドだ。おまえさん、ウルタンじいさんを知っているだろ? いや、知るわけないな。知っていれば、図書館に行く道も知っているはずだ」
わたしはいった。「これまでに〈城塞〉のこの部分にきたことがないんでね」
「ここにきたことがないと? なんたることだ、一番良い場所なのに。絵画、音楽、それに書物。フェッチンの作品があるぞ。三人の娘が、もう一人の娘を花で飾っている絵だ。あまり真に迫っているので、絵の中から蜂が飛び出してきそうな感じがするぞ。クォルティローザもある。クォルティローザはもう忘れられているがな。さもなければここに彼の作品があるわけはない。だが、彼が生まれた頃には、今日幅をきかせているポタポタ屋やピシャピシャ屋よりも優れた素描画家だったのだ。われわれは〈絶対の家〉が欲しがらない物を持っているのだよ。つまり、古い物が手に入るということだ。そして、たいてい古い物が最上の作品なんだ。あまり長いあいだ掛かっていたので汚れたやつが、ここに入ってくる。それをわしが綺麗にするのだ。ここにしばらく掛けられていた物を、ふたたびわたしが清掃することもある。ここにはフェッチンがあるのだぞ。本物だ! いや、今ここにあるこれを見ろ。良いだろう?」
ええ、と答えるのが安全のようであった。
「これは三度[#「三度」に傍点]目だ。新米の頃、わしはプランウォラダー老師の徒弟をしていた。あの師匠がわしに清掃の仕方を教えてくれたのだ。これはその時の教材に使われたものだ。なんの価値もないからと師匠はいった。師匠はここの、この隅で仕事を始めた。そして、片手で隠れるくらいの面積を仕上げてから、残りを全部やるように、わしに任せた。女房がまだ生きていた頃、わしはふたたび清掃した。あれは二番目の娘が生まれた後だったろう。まだこんなに黒ずんではいなかったが、気持ちが落ちこんで、何か仕事をしたかったのだ。今日、また清掃してやろうという気になった。ちょうど、清掃の時期がきていた――ほら、見事に光り輝いたろう? 彼の肩の上にふたたび、もとの青いウールスが昇っている、独裁者の魚のように新鮮にな」
この間じゅうずっと、わたしの心の中にヴォダルスの名前がこだましていた。この老人が梯子から降りてきたのは、わたしが彼の名を口にしたからにちがいないと思われた。彼のことを尋ねてみたかった。しかし、たとえ尋ねたところで、会話をどう進めてよいかわからなかった。それから、あまり長い間黙っていると、老人がまた梯子を登って清掃作業に戻るのではないかと心配になったので、わたしはやっといった。「それは月かなあ? もっと肥沃なところだと聞いていたが」
「そう、今はそうだ。これが描かれたのは、灌概《かんがい》をする前だったのだ。ほら、灰褐色だろう? 当時は、月を見上げると、こう見えたのさ。今のように緑ではない。また、それほど大きくも見えなかった。なぜなら、それほどそばにきて[#「そばにきて」に傍点]――ブランウォラダー老師がよくこの言葉を使ったものだ――いなかったからな。今は、諺にもいうように、ニラモン([#ここから割り注]古代エジプトの高僧、人目を避けて隠れていたという[#ここで割り注終わり])が隠れることができるほど、樹木が茂っている」
わたしはこの機会を捉えた。「ヴォダルスが、ともいうね」
ルデジンドは甲高く笑った。「ああ、あいつか。そのとおりだ。おまえさんたちの仲間は、もみ手をして、彼が捕まるのを待っているんだろう。何か特別な計画があるのかい?」
組合が特定の個人のために特殊な責め苦を用意しているかどうか、わたしはまったく知らなかった。だが、わたしはせいぜい賢く見せたいと思っていった。「何か考えるよ」
「そうだろうなあ。だがおまえさんたち、少し前に彼を受け入れる用意をしてたように思ったぞ。それにしても、彼が〈月の森〉に隠れているとしたら、まだまだ待たねばならないだろうよ」ルデジンドはいかにも良い絵だという思い入れをしてその絵を見上げてから、わたしの方を振り返った。「忘れていた。おまえさんはウルタン師を尋ねてきたんだったな。それなら、さっき入ってきたあのアーチに戻って――」
「道は知っている」わたしはいった。「さっきの大郷士が教えてくれた」
老|管理者《クラトール》はこれらの指示を、気難しい顔でプッと空中に吹き飛ばした。「あいつの言った道順では閲覧室にしかたどり着けん。あそこから、たとえウルタンの所にいけるとしても、一刻はかかってしまうだろう。だめだ。あのアーチまで戻りなさい。あれをくぐって、むこうの大部屋のずっと端までいく。それから階段を降りるのだ。すると鍵のかかった扉のところに出る――それを叩いていれば、だれかきて中に入れてくれる。そこが書庫の底で、そこにウルタンの書斎があるのだ」
ルデジンドが見つめているので、わたしは気がすすまなかったけれども、その指示に従った。なぜなら、その鍵の掛かった扉という部分が気に入らなかったし、また、階段を降りるということは、トリスキールを探しにいって迷子になったあの古代の地下道に近づくことを意味するからである。
城内の知っている部分にいる時よりも、一口にいってはるかに頼りない気分になっていた。
〈城塞〉を訪れる他所者がその規模に度胆を抜かれることを、後になって、わたしは知ったが、実はこれは、周囲に広がっている都市の中のほんの一部分にすぎないのである。そして、この灰色の幕壁の内側で育ち、迷子になるのを防ぐのに必要な百ヵ所もの目印の名前と相互関係を覚えているわれわれは、精通している区域から離れてしまうと、まさにその知識そのものによってまごついてしまうのである。
老人が教えてくれたアーチをくぐっていく時のわたしが、まさにそういう状態にあった。アーチは、あの丸天井のホールの他の部分と同様に鈍く赤みがかった煉瓦でできていたが、柱頭に眠った人の顔がついている二本の円柱で支えられていた。声を立てないその唇や青ざめて閉じた目は、われわれの塔の金属に描かれている苦悶の顔よりも、もっと恐ろしく感じられた。
その先の部屋の絵には、どれも一冊の書物が描かれていた。たくさんの本が描いてあることも、はっきり目立つように描かれているものもあった。時には、しばらく眺めていて、やっと婦人のスカートのポケットから背表紙の端が覗いているのがわかるものがあったり、また、奇妙な作りのリールに紐のように言葉が巻きついているのに気づくこともあった。
階段は狭く、急で、手すりがなく、曲がりくねって下に降っていた。それで、三十段も降りないうちに上の部屋の明かりがほとんど完全に遮られてしまった。しまいには、扉に頭を打ちつけないように、両手を前に突き出さなければならなくなった。
しかし手探りする指の先が扉に出逢わないうちに、階段は終わりになり(存在しない階段をもう一段降りようとして、あやうく転ぶところだった)、真暗なでこぼこした床の上を手探りしながら横切っていかなければならなくなった。
「だれだ?」一つの声が呼んだ。それは、まるで洞穴の内部で鳴った鐘の音のように奇妙に反響の伴った声だった。
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6 管理者の師匠
「だれだ?」声が暗闇にこだました。わたしはできるだけ勇気を出していった。「伝言を届けにきた」
「では聞かせてもらおう」
ようやく目が暗闇に慣れてきた。そして、ぼんやりした非常に背の高い人影が、もっと丈の高い黒いごつごつした形のものの間を動いてくるのが見えた。「手紙なんだよ」わたしは答えた。
「あんた、管理者のウルタン?」
「そうだ」彼は今、わたしの前に立った。最初、白っぽい衣だと思ったものが、今は腰まで届きそうな顎髭だとわかった。すでにわたしは、大人といわれている多くの人と同じくらい背が伸びていたが、彼はそのわたしよりも頭一つぶん高く、真の高貴人だった。
「じゃ、これ、受け取りな」わたしはそういって手紙を差し出した。
彼は受け取らなかった。「おまえはだれの徒弟だ?」わたしはふたたび青銅の響きを聞いたように感じた。そして、まったく突然に、彼とわたしは死んでいるのであり、周囲を取り巻く暗闇は墓場の土であり、それがわれわれの目のあたりに押し寄せ、地底に存在するであろうなんらかの神殿に額《ぬか》ずけと鐘が呼びかけているのが、墓場の土を通じて聞こえてくるのだ、というように感じられた。前に墓地から掘り出されるのを見たあの鉛色の女が、わたしの前に立ち上がった。その印象があまり生き生きしていたので、わたしに向かって喋っている人影のほとんど発光しているように見える白さの中に、彼女の顔が見えるように感じられた。「だれの徒弟かね?」彼はまた尋ねた。
「だれのでもない。いや、つまり、組合の徒弟さ。グルロウズに言いつかってきた。おれたち徒弟の教育を大部分受け持っているのはパリーモンだけどさ」
「だが、言葉づかいは教えていないようだな」その背の高い人の手が非常にゆっくりと手紙の方を探った。
「いや、言葉もです」わたしが生まれた時にはすでに老人になっていたこの人に、子供のような口をきいていたことを悟って、わたしは慌てて改めた。「読み書き計算ができるようにならなければいけないと、パリーモン師にいわれています。なぜなら、わたしたちの時代がきて、わたしたちが師匠になった時に、手紙を出したり、法廷からの指示を受け取ったり、記録や計算を保存しなければならないからだと」
「このようにだな」わたしの前のぼんやりした人影が歌うようにいった。「この手紙のようにだな」
「はい、さようでございます」
「それで、なんと書いてある?」
「存じません。封印がありますから」
「わしが開けば――」(彼の指の力で、砕けやすい封蠣がはがれる音がした)「――おまえが読んでくれるかな?」
「暗いですから」わたしは自信なさそうに答えた。
「ではサイビーを呼ばなければならない。失礼」暗がりの中で、彼が後ろを向いて手でメガホンの形を作るのが、かろうじて見えた。「サイ・ビー! サイ・ビー!」その名前が、まるで響きのよい青銅の鐘の片側を鉄の舌が打ち、また反対側を打ったように、周囲に存在することが感覚でわかる回廊全体に鳴り響いた。
ずっと遠くから返事が聞こえた。わたしたちはしばらく黙って待っていた。
切り立ったでこぼこの石の壁に囲まれている(ように見える)細い路地のずっと先に、やっと明かりが近づいてきた五本に枝分かれした燭台を、平たい、青白い顔をした四十歳くらいの、がっちりした、非常に姿勢の良い男が持ってやってくるのだった。わたしのそばの顎髭の男がいった。「やっときたか、サイビー。明かりを持ってきたかな?」
「はい、師匠。この人だれですか?」
「手紙を届けにきた、使いの者だ」ちょっと口調を改めて、ウルタン師はわたしにいった。「これは、わし自身の徒弟、サイビーだ。われわれにも組合がある。われわれ管理者もな。司書はその組合の一部門なのだ。ここでは、わしが司書の唯一の師匠だ。そして、われわれの習慣では、上級の会員に徒弟を割り当てることになっている。サイビーはもう何年もわしの徒弟をしている」
わたしはサイビーに、あなたに会って光栄だと伝え、それからちょっと遠慮がちに、管理者の祭はいつやるのかと尋ねた――こんな質問をしたのは、サイビーが一人前の職人に昇格するまでには、さぞたくさんの祭が過ぎ去ることだろうという考えが浮かび、それに刺激されたからだろう。
「もう過ぎた」ウルタン師はいった。彼はわたしの方を見て喋ったので、蝋燭の光で、彼の目が水で薄めたミルクのような色をしていることがわかった。「早春に行なうのだ。美しい日に。その季節には木々の若葉が萌え立つ。たいていの年にはな」
〈大きい中庭〉には木が生えていなかったが、わたしはうなずいた。それから彼の目が見えないことに気づいて、いった。「はい、そよ風が吹いて気持ちがよろしゅうございます」
「そのとおりだ。おまえは若いが、気持ちの通じる男だ」彼はわたしの肩に手を置いた――その指が汚れて黒くなっているのが、妙に気になった。「サイビーも、わしの心が通じる若者だ。わしが死んだら、ここの司書頭になるだろう。われわれ管理者は行列を作ってねり歩く。イウバー通りをだ。その時には彼はわしの隣を歩く。二人とも灰色の衣を着る。おまえの組合の色は何色だ?」
「煤《すす》色です」わたしはいった。「黒よりも暗い色です」
「木々が生えている――シカモアの木、樫の木、砂糖楓の木、ウールスで一番古いといわれるダックフットの木。イウバー通りの両側に木々が木陰を作り、センターの先の遊歩道にはもっとたくさんの木がある。古雅な管理者を見ようと、商店主たちが戸口に出てくる。もちろん、本屋や骨董品屋が、われわれに向かって歓声をあげる。われわれは、ささやかながら春の見物《みもの》の一つになっていると思う」
「とても、感銘深いものにちがいありません」わたしはいった。
「そうとも、そうとも。寺院もとても見事だぞ。あそこまで、一度行く。小さな灯明が何列にも並んでいて、まるで夜の海に照る太陽のようだ。そして、〈鉤爪〉を象徴する青いガラスの灯火がある。われわれは高い祭壇の前で、光に包まれて儀式を執り行なう。ところで、おまえの組合は寺院にいくのか?」
わたしは、〈城塞〉の中の礼拝堂を使うことを説明し、また、司書やその他の組合が城壁の外に出るとは驚いたといった。
「われわれにはその資格があるのだよ。図書館そのものがそうなのだ――違うか、サイビー?」
「そのとおりです、師匠」サイビーの額は高く角張っていて、灰色の髪の生えぎわが後退していた。それで、彼の顔は小さく、ちょっと赤ん坊の顔のような感じがした。ウルタンは、ちょうどパリーモン師が時々わたしの顔を指で撫でるように、その顔を撫でるにちがいないから、それで彼がまだほとんど少年だと思っているのだと、わたしは理解できた。
「では、あなたがたは市内の対等者と密接な関係を保っているんですね」わたしはいった。
老人は髭を撫でた。「これ以上密接な関係はない。われわれがそれなのだから。この図書館は市の図書館であり、そういえば、また〈絶対の家〉の図書館でもあるし、多くの他の図書館でもあるのだ」
「ということは、市の大衆があなたがたの図書館を使うために〈城塞〉に入ることを許されているということですか?」
「ちがう」ウルタンはいった。「図書館そのものが〈城塞〉の壁の外に広がっているということだ。また、ここでそのようにはみ出している施設は、図書館だけではない。つまり、われわれの砦の内容物はその容器よりもずっと大きいということだ」
彼は話しながらわたしの肩を掴み、そびえ立つ本棚の間の狭く長い通路の一つを歩きはじめた。サイビーは枝つき燭台を掲げて後からついてきた――それはわたしのためというよりはむしろ彼自身のためのように思われたが、とにかくわたしもその光のおかげで、通過していく黒い樫の書架にぶつからずにすんだ。「おまえの目はまだ駄目になっていないな」ウルタン師はしばらくしていった。「この通路の端がわかるか?」
「いいえ、先生」わたしはいった。事実わからなかった。蝋燭の明かりが届くかぎり、床から高い天井に届く書物の列また列ばかりだった。乱れている棚もあれば、整頓されている棚もあった。一度か二度、鼠どもが本の間に巣を作っている証拠が見えた。彼らは勝手に本を積みなおして二階建か三階建の居心地のよい家を作り、表紙に糞をして彼らの言語の粗野な文字を記していた。
しかし、どこまでいっても本また本であり、子牛革、モロッコ革、布、紙、その他無数の得体の知れない材質の本の背が並んでいた。金箔で光り、黒い文字が書いてあるものが多かったが、古く黄ばんで枯葉のような色になった紙のラベルの貼ってある本もいくらかあった。
「インキの跡には限りがない=vウルタン師はいった。「とかいった賢い人がいたな。ずっと昔の人だ――彼が今日のわれわれを見ることができたら、いったい何というだろう? また、こういった人もいた、集めた書物をひっくり返して、一生を終わる人もいる≠ニ。わしは、この本でも、どの本でも、ひっくり返すことのできる人に会いたいものだ」
「わたしは装丁を眺めていました」わたしはちょっと間の抜けた感じで答えた。
「幸福な奴だ。だが、よろこばしいことだ。わしはもはやそれらを見ることができない。しかし、昔、見た喜びは覚えている。あれはたしか、司書長になった直後だった。たぶん五十歳ぐらいだったろう。わしは長い長い間、徒弟をやっておったのでな」
「さようですか、先生?」
「ああ、そうだ。わが師匠はゲルボルドだった。あの人は何十年も死にそうにないように見えた。わしにとって年月の経過は時間との格闘のようなものだった。そして、その間、わしは本を読んでいた――これほどたくさん読んだ人間はあまりいないのではないかと思う。最初は、たいていの若者がそうするように、面白いと思うものから読みはじめた。だがやがて、それでは、そういう本を探すのに大部分の時間を取られて、自分の楽しみを狭めると気づいた。やがて自分で勉強する方法を考案した。知識の曙《あけぼの》から現在までの謎に包まれている諸科学を一つ一つ跡づけることにした。それさえも、しまいには種が尽きた。そして、独裁者スルピキウスの帰還に備えて図書館のわれわれが三百年間維持してきた(そして、結局まだだれも入ってこない)部屋の中央に立っている大きな象牙のケースから読みはじめ、十五年間にわたって、だいたい一日に二冊の割りで、外側にむかって猛烈に読みふけった」
後ろでサイビーがつぶやいた。「すばらしいですね、師匠」彼はこの物語を何度も聞いているのではないかと、わたしは思った。
「やがて、予期せぬ出来事[#「予期せぬ出来事」に傍点]がわしの着物をつかんだ。ゲルボルド師が死んだのだ。三十年前だったら、先入的愛好、教育、経験、若さ、家族関係、そして彼の跡を継ぎたいという野心などの理由で、わしは理想的な跡継ぎになったことだろう。ところが、実際にそうなった時には、わし以上に不適切な者はなかったと思う。あまり長いこと待っていたので、待つことしか理解できなくなっていた。そして無用な事実の重みで窒息した精神の持ち主になっていた。だが、わしは無理やりにこの職務を引き受けた。ところが、いつかやってくる継承の時に備えて、大昔に心に思い描いていたいろいろな計画やモットーを思い出すのに、現在のおまえたちには信じられないほど長い時間がかかったものだ」
彼は言葉を切った。そして、わたしは彼がこの大図書館よりももっとずっと広くて、暗い心の中をまた掘り返していることがわかった。「だが、読書という古い習慣がまだつきまとっていた。わしのリーダーシップを期待する施設の運営を考えなければならない時に、何日も、あるいは何週間も読書に没入していた。やがて、時計が時を打つように、突然に、新しい情熱が湧いて、古い感情を一掃した。それが何か、すでに察しがついているだろう」
わたしは、いや、ついていないと言った。
「わしは四十九階のあの張出窓の席で、読書をしていた――いや、読書をしていると思っていた。あの席からは、ほら、あれが見下ろせる――忘れたぞ、サイビー、何が見下ろせたんだっけ?」
「室内装飾業者の庭です」
「そうだ、思い出した――あの緑と茶色の小さな四角い庭を。彼らはたしか、枕にいれるローズマリーをあそこで干していたぞ。今いったように、ある日わしは、あそこに何刻もの間坐っていた。その時に、ふと、自分がもはや何も読んでいないことに気づいたのだ。しばらくは、自分が何をしていたかわからなかった。思い出そうとしても、手にした書物の中で論じている事柄とはなんの関係もなさそうな、ある種の匂いや手触りや色彩だけしか心に浮かんでこなかった。結局、自分は読書をしていたのではなく、書物を物体として観察していたのだと悟った。思い浮かんだ赤い色は、しおりにするために本の上端に縫いつけたリボンからきたものだった。まだ指先に残っている触感は、本が印刷されている紙のものだった。鼻孔に残る匂いは、まだバーチ油の残り香のする古いなめし革だった。この時になって初めて、つまり、書物そのものを見て初めて、わしはそれらの世話ということを理解しはじめたのだ」
肩に置かれた彼の手に力が加わった。「ここにある書物の中には、ハリモグラやクラーケンなど、ずっと昔に絶滅してしまい、化石以外には生き残っている痕跡はないとおおかたの研究者が考えているような動物の革で装丁されているものがある。また、全体を未知の合金で装丁されているものもあり、きわめて厚い宝石で覆われているものもあり、また、創造の信じられないような深淵を越えて運ばれてきた香木のケースに入っていて――それを読むことのできる人がウールスに一人もいないがゆえに、二重に貴重な本もある。
奇妙なアルカロイドを発生する植物を紙にした本があって、ページをめくっているうちに、読者が無意識に奇怪な幻想や妄想的な夢に捉えられるものもある。また、ページが全然紙ではなくて、白い翡翠や象牙や貝殻の薄片でできた本もあるし、また、未知の植物の乾燥した葉をページにした本もある。また、見た目にはまったく本でない、本もある。巻物や、さまざまな物質に記録したものがある。ここに立方体の結晶があって――どこにあるか、もはや教えることができないが――おまえの親指の関節ほどの大きさもないが、それにはこの図書館そのものの蔵書以上に多くの書物が入っている。遊女が飾りとして片耳にぶらさげることもできそうな代物だが、世界じゅうの本を全部集めて反対側の耳にぶらさげても、釣り合いが取れないほどなのだ。このすべてのことに、わしは思いいたり、これらを安全に守ることを生涯の仕事にした。
七年間、その仕事に没頭した。そうして、保存という当面の表面的な問題が片づき、この図書館の設立以来初めての総調査を開始しようとした矢先に、この目が眼|窩《か》の中で弱りはじめた。すべての書物の保管をわしの手に委ねたそのお方が、保管者たちがだれによって保管されているかを知らせるために、わしを盲目にしたのだ」
「お持ちした手紙を、お読みになれなければ」わたしはいった。「読んでさしあげますが」
「そうだ」ウルタン師はつぶやいた。「それを忘れていた。サイビーが読むだろう――彼は読むのが上手だ。これ、サイビー」
彼の代わりにわたしが枝つき燭台を掲げると、サイビーはがさがさと羊皮紙を広げ、布告書を読み上げるように持って、読みはじめた。周囲を膨大な書物に囲まれて、われわれは小さな光の輪の中に立った。
「真理と悔悟の探究者の結社グルロウズ師より――=v
「何と」ウルタン師はいった。「おまえは拷問者なのか、若者よ?」
わたしはそうだといった。それから沈黙があまり長く続いたので、サイビーはもう一度、手紙を読みはじめた。「真理と悔悟の探究者の結社の――=v
「待て」ウルタンはいった。サイビーはまた黙った。わたしは灯火を掲げたまま、頬に血が上るのを感じながら、立っていた。ウルタンがやっとまた口を開いた。その声は、さっきサイビーは読むのが上手だといった時と同様に、ごく事務的なものだった。「わしがこの組合へ加入を許された時のことは、ほとんど覚えていないが、たぶんおまえはわれわれの会員の募集方法を知っているだろうな?」
わたしは知らないといった。
「昔からの規則で、あらゆる図書館に子供用の部屋が用意してある。そこに、子供たちの喜びそうな綺麗な絵本と、いくらかの単純な驚異の物語が置かれている。多くの子供たちがこれらの部屋にやってくる。そして、彼らがその分野に留まっているかぎり、彼らに対しては何の関心も持たれない」
彼はためらった。そして、その顔には何の表情も認められなかったが、これから言う事がサイビーに苦痛を与えるのではないかと恐れているような印象を、わたしは受けた。
「しかし、まだいたいけな年齢で、子供室から一人でさまよい出て……しまいにまったくそこに戻らなくなる子供がいることに、時々、司書が気づく。そのような子供はしまいに、どこか低くて薄暗い書棚に『黄金の書』を見つける。おまえはこの本を決して見たことはないし、これから見ることも決してないだろう。それに出逢う年齢を過ぎているから」
「きっと、すごく美しいでしょうね」わたしはいった。
「たしかに美しい。わしの記憶が誤りでなければ、表紙は黒いバックラム([#ここから割り注]にかわで固めた亜麻布[#ここで割り注終わり])で、背の部分はかなり色があせている。背丁のいくつかが露出している。そして、挿絵のあるものは取られている。だが、それは驚くほど美しい本だ。もう一度あれを見つけたいものだ。もっとも、今はすべての書物からわしは締め出されているがな。
その子供は、今いったように、やがて『黄金の書』を発見する。その時に、司書がやってくる――吸血鬼のように、という者もあれば、洗礼式の介添えの妖精のように、という者もある。彼らはその子供に話しかけ、子供は彼らの仲間に加わる。それ以後、彼はどこにいるにしても、図書館の中にいることになり、その両親はまもなく子供の消息を聞かなくなる。たぶん、拷問者の間でも大体同じだと思うが」
「わたしたちは、自分たちの手に落ちた子供を採用します」わたしはいった。「非常に幼い子供を、ですが」
「われわれも同じだ」老ウルタンはつぶやいた。「だから、おまえたちを非難する権利はほとんどないわけだ。読みなさい、サイビー」
「真理と悔悟の探究者の結社のグルロウズ師より、〈城塞〉の公文書保管者へ。拝啓。法廷の意志により、われらは高貴人・女城主《シャトレーヌ》セクラの方《かた》の身柄を保管しております。さらに同法廷の意志により、拘禁中のセクラの方に対して道理と分別のらち[#「らち」に傍点]を越えぬ範囲で、慰めを与えることになりました。つきましては、彼女がわれらとともに過ごす時間がくるまで――いや、むしろ、彼女の主張に従えば、壁も海も知らぬ自制心の持ち主である独裁者の心が、彼女の祈りに応えて、彼女に向かって和らぐまで――しばしの時を楽しく過ごすために、その職にふさわしくあられる貴殿に、ある書物を提供してくださるように要請いたします。それらの書物は――=v
「書名は読むにおよばぬぞ、サイビー」ウルタンはいった。「何冊だ?」
「四冊です」
「では問題ない。先を読め」
「以上よろしくお願い申し上げます。公文書管理者殿=B署名。俗に拷問者組合と呼ばれる名誉ある結社の長老、グルロウズ=v
「グルロウズ師のリストの書名に知ったものはあるか、サイビー?」
「三つは知っています」
「よろしい。ご苦労だが、持ってきてくれ。そして、もう一冊は?」
「『ウールスと天空の驚異の書』というのです」
「ますます、よろしい――ここから二チェーンも離れていないところに、その本がある。おまえはその三冊を取り出しなさい。この若者――もう、あまり長く引き止めすぎた――が書庫に入ってきたあの扉のところで落ち合うことにしよう」
わたしは枝つき燭台をサイビーに返そうとした。ところが彼は、身振りでわたしに持っているように伝えると、狭い通路を小走りにいってしまった。ウルタンはまるで目が見えるような確かな足どりで反対の方に向かった。「あれはよく覚えている」彼はいった。「茶色のコードバンの装丁で、金箔の縁取りがあり、グゥイノックのエッチングがある。手で彩色したものだ。床から三つめの棚にあり、緑色の布の二折判の本――あれはたしかブレイスメイクの『十七人のメガテリアンの生涯』([#ここから割り注]メガテリアンは本来は巨獣の意味。ここでは後出のバルダンダーズのような巨人を指す[#ここで割り注終わり])だった――によりかかっている」
主として、わたしがまだそばにいることを(背後のわたしの足音を、疑いなく彼の鋭い耳は捉えていたが)知らせるために、わたしは尋ねた。「それは何ですか? そのウールスと天空とかいう本は」
「おや」彼はいった。「司書にそんな質問をするとは、分別がないな。われわれの関心はな、若者よ、書物そのものについてであって、その内容ではないのだ」
彼の口調には楽しんでいるような雰囲気が感じられた。「あなたはここにあるすべての書物の内容をご存じかと思いました」
「まさか。だが『ウールスと天空の驚異』は権威ある書物で、三、四百年前のものだ。それにはよく知られている古代の伝説が収められている。わしにとって最も興味深いのは歴史家たち≠フ話だ。それはある時代について述べているが、そこでは、すべての伝説のもとをたどると、なかば忘れられた事実に突き当たるのだ。これは自家撞着だと、おまえにもわかるだろう。その時代に、その伝説そのものが存在しただろうか? そして、もし存在していなかったとしたら、どうしてそれが存在するようになったのだろうか?」
「大蛇や、空飛ぶ女たちの話はありませんか?」
「ああ、あるとも。しかし、それは歴史家たち≠フ伝説の中ではない」彼はそう答えて、足を止め、装丁のなめし革が粉のようになってぽろぽろと落ちる小さな本を、勝ち誇ったように持ち上げた。「これを見てくれ、若者よ。正しい本かどうか確かめてくれ」
わたしは枝つき燭台を床に下ろして、そのそばにしゃがまなければならなかった。受け取った本はあまりに古く、かび臭くなっていて、過去一世紀以内に開かれたことは決してなかったろうと思われた。しかし、その標題紙を見ると、老人の自慢が正当であることがわかった。副題は歳月のためにそれらの意味が曖昧になってしまった時代の、宇宙の秘密に関する印刷された原資料からの集成≠ニなっていた。
「どうだ」ウルタン師が尋ねた。「正しいか、間違っているか?」
わたしはでたらめに開いて読みはじめた。「……その方法を使えば、絵画は、たとえ破壊されていても、一つの小部分から(それはどの部分であってもかまわない)全体を復元することのできる技術をもって、彫刻《グレーヴン》されるのである」
この時に、クリソスを受け取った夜に目撃した出来事を思い出したのは、たぶんそのグレーヴン([#ここから割り注]グレーヴ=墓地からの連想[#ここで割り注終わり])という言葉のせいだろう。「師匠」わたしは答えた。「恐れ入りました」
「なーに。めったに間違うことはない」
「わたしの答えが遅れたのは、この本をちょっと盗み読みをしていたからだと申し上げても、先生ならお怒りにならないでしょう。先生はきっと屍《しかばね》を食う者のことをご存じでしょうね。ある種の薬剤《ファルマコン》とともに死者の肉を食うことによって、彼らはその死者の生命を再生できると、聞いています」
「それらの術に深入りするのは賢明とはいえない」その公文書保管者はつぶやいた。「だが、ロマンとかヘルマスなどの歴史家の魂を共有することを考えると……」人間の顔が心の奥底の感情をいやでも写し出すものだということを、盲目になってからの長い年月の間に、彼は忘れてしまったにちがいない。蝋燭の明かりの中で、彼は、顔をそむけたくなるような激しい欲望で歪んだ表情を見せた。だが、その声は荘厳な鐘の音のように冷静だった。「しかし、わしの聞くところによれば、そのとおりだ。もっとも、おまえの持っている本にその事が書いてあるかどうか、もう覚えていないが」
「先生」わたしはいった。「あなたがそのような事をなさるとは、夢にも考えませんが、教えていただきたいのです――もし二人の人物が協力して屍《しかばね》を盗み出し、一人が右腕を取り、もう一人が左腕を取るとします。そうしたら、右腕を食った者はその死者の命の半分しか得ず、もう一人が後の半分を得ることになるのですか? そして、もしそうなら、もう一人やってきて、その足を食ったらどうなりますか?」
「おまえは拷問者にしておくには惜しい」ウルタンはいった。「哲学者になればよかったのに。それは間違っている。この不健全な事柄について、わしが理解しているところによれば、それぞれが全部の命を得るのだ」
「では、人の全生命はその右にも左にも入っているのですか? 指の一本一本にも?」
「この術の効き目を得るためには、各参加者は一口以上食べねばならないと思う。しかし、少なくとも理屈の上では、おまえのいうことは正しいだろう。全生命が指の一本一本に含まれている」
われわれはすでに、さっきやってきた方向に戻りはじめていた。通路は二人が並んで歩くには狭すぎたので、わたしが燭台を持って彼の前を歩いた。だから、知らない人が見たら、きっとわたしが彼の行手を照らしていると思ったことだろう。「でも、先生」わたしはいった。「どうして、そうなるのですか? その論法でいけば、命は一つ一つの指の関節にも宿っていることになります。そんなことはあり得ないでしょうに」
「人の生命の大きさはどのくらいあるかな?」ウルタンは尋ねた。
「知りようがありません。しかし、指の関節よりは大きいのではないでしょうか?」
「おまえたちは最初から見て、多くを予想する。わしは終わりから回顧して、いかに少ししかなかったかを知る。だから、屍《しかばね》を食う堕落した者たちは、より多くを求めるのだろう。では、尋ねる――息子はしばしば驚くほど父親に似るということを知っているか?」
「はい、そのように聞いていますし、そう信じています」わたしはそう答えながら、決して知ることのない両親について、考えないわけにはいかなかった。
「では、おまえも賛成するだろう。それぞれの息子がその父親に似、一つの顔が何世代も継承されることが、ありうると。つまり、もし息子が父親に似、その息子がその人に似、そしてまたその息子がその父親に似るとすれば、四代目つまり曾孫は曾祖父に似ることになる」
「はい」わたしはいった。
「ところが、彼らすべての種は、一ドラクマ([#ここから割り注]約一・八グラム[#ここで割り注終わり])のねばねばした液体の中に含まれている。もし、彼らがそこから生じないとすれば、どこから生じるのか?」
わたしはこれには答えられず、当惑したまま歩いているうちに、さっき自分が入ってきた、この大図書館の最下層の扉のところに着いた。そこで、グルロウズ師の手紙に書かれてあった他の本を持ったサイビーと落ち合った。わたしはそれらの本を受け取り、ウルタン師に別れを告げ、非常に感謝しながら図書館の書庫の窒息しそうな雰囲気を後にした。その後、あの場所の上の方の階には何度も出かけていったが、あの墓場のような地下室には二度と入らなかったし、また、入りたいとも思わなかった。
サイビーが持ってきた本の一冊は小さなテーブルの表面ほどの大きさがあり、幅一キュビット、高さ一エル([#ここから割り注]約一メートル[#ここで割り注終わり])ほどあった。そのサフィアン([#ここから割り注]スマックでなめして鮮やかな黄色または赤色に染めた羊の革[#ここで割り注終わり])の表紙に押印された腕の図案から、それはたぶんどこかの身分の高い旧家の歴史だろうと、わたしは思った。その他の本はもっとずっと小さかった。一冊の緑色の本は、ほとんどわたしの手の大きさくらいしかなく、厚さは人差指の太さくらいしかなかった。それは祈祷書らしく、宝石のように美しい衣をまとい、黒い後光が射している禁欲的なパントクラトール([#ここから割り注]本来は万能運動家の意味だが、ここでは形而下学をマスターし、しかも万物の創造主の化身と考えられる人のこと[#ここで割り注終わり])とハイポスタシーズ([#ここから割り注]神学上の三位一体論でいう位格=A自存神の構成要素の一つ[#ここで割り注終わり])の、エナメルで描いた挿絵がいっばい入っていた。わたしは、忘れられた小さい庭園の、冬の日差しをいっぱい浴びている涸れた噴水のそばにしばらくたたずんで、それらの絵を眺めた。
しかし、他の書物のどれかを開くか開かないうちに、わたしは時間に急き立てられていることを――これは、幼年時代が終わったことを告げる最も確実なしるしだ――意識した。こんなに簡単な使いに、すでに少なくとも二刻は使っているにちがいない。そして、まもなく暗くなるだろう。わたしは本をまとめて、道を急いだ――女城主セクラの方の中で自分の運命に出逢うことになるとは、そして、結果的に、自分自身に出逢うことになるとは、夢にも知らずに。
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7 女反逆者
すでに、地下牢で勤務についている職人たちに食事を運ぶ時間だった。地下第一層の当直はドロッテだった。わたしは地上に上がってくる前に彼と話をしたかったので、彼の食事を最後に運んだ。実は、わたしの頭は、公文書保管者を訪ねたことから生じた様々な思いでいっぱいになっていた。そして、それらについて彼と話をしたかったのである。
彼の姿が見当たらなかった。わたしはあの四冊の本を彼のテーブルに載せて、大声で名前を呼んだ。ちょっと間を置いて、さほど遠くない独房の中から、彼の返事が聞こえた。わたしはそこに駆けていって、扉の、目の高さにある格子つきの窓から中を覗いた。客人――憔悴した姿の中年の女――が、寝台の上に伸びていた。ドロッテがその上に身を屈めており、床に血が流れていた。
彼は仕事にかかりきっていて、振り返らなかった。「セヴェリアンか?」
「そうだ。きみの食事と、女城主セクラの方の本を持ってきた。何か手伝おうか?」
「なんとかなるだろう。この人は包帯を剥ぎ取って、出血させて、死のうとしていた。だが、手遅れにならないうちに発見した。おれの食事はテーブルに載せておいてくれ。もし暇なら、おれの代わりに他の客人の食事を差し入れてやってくれ」
わたしはためらった。徒弟は、組合に依託された人たちを扱ってはならないことになっていたからである。
「かまわんよ。皿を孔の中に突っこむだけでいいんだ」
「本を持ってきたんだよ」
「それも孔から突っこめばいい」
寝台の土色の女の上にかがみこんでいる彼をもう少し眺めてから、わたしはもとの場所に戻った。そして、まだ手のついていない皿を見つけて、彼に言われたとおりにしはじめた。独房の中の客人の大部分は、わたしが食事を差し入れてやると、まだ起き上がって受け取るだけの体力があった。だが、そうでない者も少しはいたので、彼らの食物は扉の外に残して、後からドロッテに運び入れさせることにした。貴族的な様子の女は何人かいたが、女城主セクラの方らしい人、つまり――少なくとも当分の間は――敬意をもって扱われる新来の高貴人はいなかった。
当然、察しがついてもよかったのだが、彼女は最後の独房にいた。そこには普通の寝台、椅子、小テーブルに加えて、カーペットが敷いてあった。彼女は、お定まりの粗末な衣服ではなく、広い袖のついた白いガウンを着ていた。その袖の端と、スカートの裾は今は痛ましくも汚れていたが、ガウンそのものは、この独房にとっても、わたしにとっても、異質で優雅な雰囲気をまだ保っていた。最初に見た時、彼女は銀色の反射板で光を強めた蝋燭の明かりで刺繍をしていた。だがわたしの視線を感じたにちがいない。ここで、彼女の顔に恐怖の色がなかったといえばよいのだが、それでは嘘になるだろう。そこには恐怖があった。しかし、それはほとんど目に見えない程度にまで抑制されていた。
「なんでもありません」わたしはいった。「食事を持ってきたのです」
彼女はうなずいて礼をいった。それから立ち上がり、扉のところにきた。彼女は予想以上に背が高く、独房の中でまっすぐに立つことができないほどだった。その顔は、ハート形というよりもむしろ三角形で、ヴォダルスと一緒に共同墓地にいた女を思い出させた。あのマントの頭巾を連想したのは、たぶん、目蓋に青い翳りのある大きいすみれ色の目と、そしてV字形を作って額からずっと下まで垂れ下がっている黒い毛髪のせいだろう。理由はともあれ、わたしはひと目で彼女に恋をしてしまった――少なくとも、愚かな少年が恋をするのと同じくらいに。しかし、事実わたしは愚かな少年だったので、それがわからなかった。
皿をわたしから受け取る時に、彼女の白く冷たい、かすかに湿った、そしてこの世のものとも思われないほど細い手が、わたしの手に触れた。「これは通常の食事です」わたしは彼女にいった。「要求なされば、もう少しましなものを食べられると思います」
「あなたは仮面をつけていないのね」彼女はいった。「ここにきて、あなたに会って、初めて人間の顔を見たわ」
「わたしはただの徒弟です。来年までは仮面はつけないでしょう」
彼女は微笑した。わたしは〈時の広間《アトリウム》〉から暖かい部屋に入って食事をした時に感じたのと同じことを感じた。彼女の幅の広い口の中の歯は細く、とても白かった。その目は、どちらも〈鐘楼〉の地下の貯水池のように深くて、微笑すると輝いた。
「すみません」わたしはいった。「今なんとおっしゃいました?」
また微笑。彼女は美しい首を傾げた。「あなたの顔を見て、とても幸せだといったのよ。そして、この先ずっとあなたが食事を運んでくれるかどうか、そして、あなたが運んでくれたこれはなんという食べ物かと、尋ねたのよ」
「いいえ。わたしが運んでくることはないでしょう。今日だけです。今日はドロッテが忙しかったので」わたしは彼女の食物がなんだったか思い出そうとした(彼女は皿を小さいテーブルに置いたので、その中身を、格子ごしにわたしが見ることはできなかったのだ)。脳が吹っ飛ぶほど考えたが、思い出すことができなかった。結局、つっかえ、つっかえいった。「それをおあがりになったほうがいいでしょう。でも、ドロッテに頼めば、もっとましな食物をもらえると思います」
「ええ、食べるつもりよ。人々はいつもわたしのほっそりした姿にお世辞をいうけれど、わたしは恐ろしい狼みたいに食べるのよ」彼女は皿を持ち上げて、わたしの方に差し出した。まるで、その中身の謎を解くためにわたしがあらゆる援助を必要としていることを知っているかのように。
「ニラネギです、女城主様」わたしはいった。「その緑色のものは。それから、茶色のものはレンズマメです。そして、それがパンです、女城主様」
「女城主様ですって? そんなに堅苦しくしなくてもいいのよ。あなたはわたしの牢番だから、好きなように呼べばいいの」今はその深い目に、陽気な色が浮かんでいた。
「あなたを侮辱したくないのです」わたしは彼女にいった。「それとも、何か別の呼び方をしてほしいのですか?」
「セクラと呼んで――それがわたしの名前だから。称号は公式の場合のもので、名前は私的な場合のものよ。そして、今は私的な場合にほかならないわ。でも、わたしが罰を受ける時は、非常に形式ばったものになるでしょうね?」
「高貴人の場合は、普通はそうです」
「きっと、総主教代理《エクサルク》も立ち会うでしょう。あなたがたが彼も入れれば、の話だけれど。真赤なつぎはぎの衣を着ているのよ。他にもいろいろといることでしょう――たぶん|一代領主《スタロスト》のエギノなどが。本当にこれパンなの?」彼女は一本の長い指でそれを突ついたが、その指があまりに白かったので、パンの汚れに染まるのではないかと思うほどだった。
「そうです」わたしはいった。「女城主様でも、パンを召し上がったことはおありでしょう?」
「こんなのは初めてだわ」彼女はみすぼらしい薄切りをつまみ上げると、さっと綺麗に噛み切った。「でも、まずくないわね。もし頼めぱ、もっと上等の食事をくれると言ったわね?」
「そう思います、女城主様」
「セクラと呼んで。わたし、本を頼んだの――二日前にここにきた時に。それがまだ届かないのよ」
「ありますよ」わたしはいった。「ここに」わたしはドロッテのテーブルにとって返して、本を持ってきて、一番小型のやつを孔から差し入れた。
「まあ、うれしい! 他のもあるの?」
「あと三冊あります」茶色の本も孔を通った。だが、後の二冊、緑色の本と、表紙に腕の絵のある二折判の本は幅が広すぎた。「これらは、後でドロッテが扉を開けて、差し上げるでしょう」
「あなたではだめなの? この孔から見えるのに、触ることができないなんて、恐ろしいことだわ」
「わたしは、あなたに食事を差し上げることさえ、本当はできないのです。ドロッテがやらなければならないのです」
「でも、あなたがやってくれたわ。それに、それらの本も持ってきてくれた。それも、あなたがわたしに与えてはならなかったのでしょう?」
わたしは弱々しく言いかえすのがやっとだった。なぜなら、理屈の上では彼女の言うとおりだったから。徒弟が地下牢で働くことを禁じている規則は、客の逃走を防ぐためだった。そして、いかに背が高くても、この細身の女性が力でわたしを圧倒することはありえないし、また、たとえそうしたとしても、誰何《すいか》を受けずに脱走するチャンスはないとわかっていた。わたしは、みずからの命を断とうとしたあの客人の世話をドロッテがまだしている独房の扉のところにいって、彼の鍵束を持って戻ってきた。
彼女の独房に入り、扉の鍵を掛けて、彼女の前に立つと、わたしは口がきけなくなった。テーブルの上には燭台、食事の盆、水差しが載っていて、本を置く余地はほとんどなかったが、なんとか本を載せた。それがすむと、立ち去らなければならないとわかっていながら、そうすることができなくて、わたしは立ったままぐずぐずしていた。
「腰を降ろしたらどう?」
わたしは椅子には触れずに、寝台に腰を降ろした。
「ここが〈絶対の家〉のわたしの続き部屋なら、もっとましなもてなしができるのにね。残念ながら、あなたはわたしがあそこにいる間に訪ねてきてくれなかったから」
わたしは首を振った。
「ここでは、お愛想はこれしかないわ。あなた、レンズマメはお好き?」
「それはいただけません、女城主様。まもなくわたし自身の夕食になりますから。それだけでも、とても足りない分量なのに」
「そうね」彼女はニラネギをつまみ上げ、まるで、それをどうしてよいかわからないような様子だったが、結局、大道芸人が毒蛇を飲んで見せるみたいに、喉に落としこんだ。「あなたがたは何を食べるの?」
「ニラネギとレンズマメとパンと羊肉です」
「ああ、拷問者は羊肉を食べるのか――そこが違うわけね。あなたの名前はなんというの、拷問者様?」
「セヴェリアンです。無駄です。どうにもなりません」
彼女は微笑した。「何が無駄なの?」
「わたしと親しくなってもです。わたしはあなたに自由をあげることはできません。そのつもりもありません――たとえ、世界じゅうにあなたしか友達がいないとしてもです」
「あなたにできるとは思っていないわよ、セヴェリアン」
「では、なぜわたしにわざわざ話しかけるのですか?」
彼女は溜息をついた。そして、乞食が寄りかかって暖を取ろうとしていた石から日差しが去ったように、彼女の顔から嬉しげな表情が消え失せた。「他にだれと話をしろというの、セヴェリアン? わたしはあなたとしばらくの間、数日か数週間、話をして、それから死ぬかもしれないのよ。あなたが考えていることはわかるわ――万一わたしが家に帰ったら、あなたになんか目もくれないだろうと思っているのね。でも、違うわ。あまりにも大勢の人がいるから、だれとでも話をするというわけにはいかないのよ。でもね、捕まる前の日に、馬丁としばらく話をしたわ。待っていなければならなかったので、話をしたの。その時に、彼は面白いことを言ったわ」
「今後、二度とお目にかかることはありません。あなたの食事はドロッテが運んできます」
「あなたではないの? あなたにやらせるように、彼に頼んでくれない?」彼女はわたしの手を取ったが、その手は氷のように冷たかった。
「頼んでみます」わたしはいった。
「ぜひそうしてね。わたしがもっとましな食事をほしがっていると、そして、あなたに給仕をしてもらいたがっていると――待って、自分で頼むわ。彼はだれの指図に従わなければならないの?」
「グルロウズ師のです」
「ドロッテといったかしら? その人に言うわ――師匠と話をしたいと。あなたのいうとおり、彼らはそうしなければならないでしょう。独裁者はわたしを釈放するかもしれないからね――彼らは知らないけれど」彼女は目を輝かせた。
「あなたが師に会いたがっていると、ドロッテの手があいたら伝えます」わたしはそういって、立ち上がった。
「待って。なぜわたしがここにきたか、尋ねないの?」
「あなたがここにきた理由は知っています」わたしは扉を引き開けながら、いった。「結局、拷問を受けるためです。他の人と同様に」これは残酷な言葉だった。わたしは若者らしい思慮のなさから、心にあったままを喋ってしまったのだった。だが、これは事実だった。そして、錠の中で鍵を回しながら、そう口にしたことを、ある意味で喜んだ。
われわれはこれまでにも、しばしば客人として高貴人を受け入れた。彼らは、到着した時には、今のセクラの方のように、みずからの境遇について、たいていある程度、理解をしている。しかし、数日たって拷問が行なわれないと、希望が彼らの理性を投げ捨てて、釈放の話を始める――友達や家族が、彼らの自由を得るためにいかに奔走しているか、そして、自由になったら何をしたいか、など。
ある人は、自分の領地に引きこもって、もはや独裁者の法廷に面倒はかけないつもりだといい、また、ある人はヴォランティアとして北の傭兵隊の指揮を執るつもりだ、などという。それから、地下牢に勤務する職人は、猟犬や遠方の荒地や、どこかわからないよその土地で、太古から生えている木々の下で行なわれる、地方のゲームの話などを聞かされる。女性はたいてい、もっと現実的であるが、彼女らでさえもいずれは、自分たちを決して捨てはしない高貴な恋人(この何カ月か、何年かは引き離されているが)の話をし、それから子供を生むとか、浮浪児を養子にするとか言う。これらの決して生まれることない子供に名前が与えられると、遠からず、衣服の話が続いてくる。釈放されたら、新しい衣料|箪笥《たんす》を買い、古い衣服は燃やしてしまうとかいう。そして、衣服の色の話をし、新しいファッションを発明するとか、古着を再生するとか言う。
男にも女にも等しく、その[#「その」に傍点]時がやってくる。食物を持った職人ではなくて、たぶんグルロウズ師が、三、四人の職人と、そしてたぶん尋問官と|電光占い師《ファルグレーター》を率き連れて現われる。わたしはセクラの方に、そのような無駄な希望を抱かせたくない。わたしはドロッテの鍵を壁のいつもの釘に掛けると、今は彼が床の血をモップで拭っている独房のところを通っていき、そこで、女城主が彼に話をしたがっていると伝えた。
一日おいた次の日、わたしはグルロウズ師に呼び出された。われわれ徒弟が普通やるように、彼のテーブルの前に手を後ろに組んで立つつもりでいたら、彼は坐るように言い、黄金の隈取りのある仮面を脱いで、共通の大義と親しい間柄を暗示するような態度で、わたしの方に身を乗り出した。
「一週間たらず前に、おまえを公文書保管者のところに使いにやった」彼はいった。
わたしはうなずいた。
「おまえは本を持ってきて、自分で客人に届けたと聞いている。それは事実か?」
わたしは事情を説明した。
「別に差し支えはない。その罰としてよけいな労働を命じられるなどと思わんでよろしい。まして、椅子の上に身を屈めろなどというつもりはない。すでにおまえ自身、ほとんど職人になっている――わたしがおまえと同じ年齢の頃には、交流機のクランクを回すように命じられたものだ。問題はな、セヴェリアン、あの客人は身分が高いことだ」彼は声をひそめて、かすれた声でささやいた。「非常に高いところと関連がある」
わたしは理解しているといった。
「ただの大郷士の家系ではなくて、高貴な血筋だ」彼は振り向き、椅子の後ろの乱雑な棚を探して、小型の本を取り出した。「高貴人の家系がいくつあるか、見当がつくか? このリストにはまだ存続している家系だけを収録してある。断絶した家の総目録を作れば、大百科事典ぐらいになるだろう。そのいくつかはわたし自身が断絶させたものだ」
彼は笑い、わたしも一緒に笑った。
「それぞれの家に約半ページずつ与えてある。全部で、七百四十六ページある」
わたしはわかったということを示すために、ゆっくりとうなずいた。
「それらの大部分は、だれも宮廷に出仕していない――その余裕がないか、またはそれを恐れているのだ。これらは小さな家だ。大きな家は否応なしに出仕しなければならない。彼らがふらちな行為を始めた時に抑えることのできる婦人たちを、独裁者は求める。今は独裁者は五百人の女性とカドリル([#ここから割り注]トランプの一種[#ここで割り注終わり])をすることはできない。たぶん二十人ぐらいだろう。その他は互いにお喋りをしたりダンスをしたりするだけで、月に一度彼を見るにしても、一チェーン以内に近づくことはない」
わたしは、独裁者はこれらの内妻と実際に同衾《どうきん》するのだろうかと、(平静な声を出すように努力しながら)尋ねた。
グルロウズ師は目をぎょろぎょろさせ、大きな手で顎を引っ張った。「それはだ、彼らは体面上、いわゆるカーイビット、つまり陰の女を使っている。女城主たちとそっくりの平民の娘だ。そういった娘をどこで手に入れるのか知らないが、彼女らは本物の女城主の|代理をつとめる《スタンド・イン・ブレース》ことになっている。もちろん、彼女らはそれほど背は高くないがな」彼はくすくす笑った。「今、|そこに立つ《スタンド・イン・ブレース》といったが、横たわっている時には背の高さはあまり問題にはならないのだろう。しかし、この慣行は本来の目的とは逆の方向に働くことがしばしばあるということだ。これらの陰の女がその女主人のために義務を果たす代わりに、女主人が彼女らの代わりに務めを果たすというのだ。もっとも、現在の独裁者は、することなすこと、この名誉ある組合の口の中の蜜よりも甘いといっていいだろう。また――今の独裁者の場合には、わたしの理解しているところによれば、そのような女性から快楽を得ているかどうか、きわめて疑わしいといえるだろう」
ほっとした気分がわたしの心にあふれた。「そういうことはまったく知りませんでした。とても面白いです、師匠」
グルロウズ師は、そのとおりだというように首を傾けた。そして、腹の上に指を組んだ。
「いずれ、おまえ自身も組合の命令を受けるようになるかもしれない。だから、こういったことを知る必要があるだろう。わたしがおまえの年齢の頃には――たぶん、もうちょっと若かったろうが――自分は高貴人の血筋の者だと空想したものだ。事実そういう者もいくらかいたがね」
わたしはふと思った――これが初めてでないが――グルロウズ師とパリーモン師はもともと、すべての徒弟と若い職人の入会を許可したのだから、われわれの出自を知っているにちがいないと。
「自分がそうであるか、ないか、わからない。わたしは騎乗者の体格をしていると思う。そして、辛い幼年時代を過ごしたにしては、身長は平均を少し越えている。四十年前には、もっともっとずっと辛かったのだぞ」
「そのように聞いています、師匠」
彼は溜息をついた。なめし革の枕の上に腰を降ろすと時々聞こえるような、鼻をすする音を立てて。「だが、自存神《インクリエート》がわたしのためにこの組合の仕事を選んでくださって、わたしのためになるように働いてくださったことを、時の経過とともに理解するようになった。わたしが前世で善根を積んだことは疑いない。この世でも同じく善根を積んでいることを希望するがな」
グルロウズ師はテーブルに山と積まれている法官からの指示書や客人の一件書類などをじっと見つめて(わたしにはそう思われた)、黙りこんだ。それで、もうこれ以上話はないかと尋ねようとした時になって、彼はやっといった。「わたしの在職中に、わが組合員で折檻を受けた者は一人もいない。組合員の人数はたぶん数百人におよぶだろうが」
石に叩きつぶされる蝶になるよりも、石の下に隠れているひきがえるになったほうがましだ、というありふれた諺をわたしは口にした。
「われわれの組合の者はひきがえる以上だと思う。だが、もう一つ付け加えるべきだった。わたしはここの牢獄で五百人以上の高貴人を見ているが、独裁者に最も近い妻妾の、中心に近いグループの婦人を預かったことは、これまでない」
「セクラの方はそういう身分の人なのですか? 今の言葉はそういう意味ですね、師匠」
彼は陰鬱にうなずいた。「もし彼女がただちに折檻を受けるなら、そう悪くない。しかし、そうはならない。たぶん何年も先になるだろう。もしかしたら、全然ないかもしれない」
「釈放されるかもしれないと信じていらっしゃるのですか、師匠?」
「彼女は独裁者とヴォダルスとのゲームの歩《ふ》にすぎない――わたしでも、それくらいは知っている。彼女の姉妹のセアの方は〈絶対の家〉から逃げて、ヴォダルスの情婦になった。彼らは少なくともしばらくの間はセクラと交渉を持つだろう。それが続いている間は、彼女に良い食事を出さなければならない。といって、良すぎてもいけないのだがな」
「そうですか」わたしはいった。そして、セクラの方がドロッテになんといったか、そして、ドロッテはグルロウズ師になんといったかわからなかったので、わたしは胸が痛くなるほどの不安を感じた。
「彼女はもっと良い食事を要求した。それでわたしはそうするように手配した。また、彼女は話し相手を求めている。外からの訪問は禁じられていると伝えると、少なくともわれわれの一人が時々相手をするようにといった」
グルロウズ師は言葉を切って、マントの頭巾の縁でてらてら光る顔を拭いた。わたしはいった。
「わかりました」次に何を言われるか実際にわかったと、わたしはかなり自信を持っていた。
「彼女はおまえの顔を見ているので、おまえを求めている。だから、食事の間、おまえをそばにいさせるといっておいた。おまえの了解は求めない――なぜなら、おまえはわたしの指示に従順であるだけでなく、忠実であるとわかっているからだ。彼女に不快感を与えないように、しかも、あまり喜ばせすぎないように、注意しなさい」
「最善を尽くします」自分の落ち着いた声を聞いて、わたしはびっくりした。
グルロウズ師はそれを聞いて安心したように、にっこり笑った。「おまえは頭が良い、セヴェリアン、だが、まだ若い。これまでに女性と一緒に過ごしたことがあるかな?」
われわれ徒弟がお喋りをする時には、この主題ででたらめの作り話をするのが習慣だった。しかし、今は徒弟たちとのお喋りではなかった。それで、わたしは首を振った。
「おまえは魔女のところにいったことはないか? いったことがあれば、一番良いのだが。性的交渉についてのわたし自身の知識は、彼女らから与えられたものだ。だが、若い頃のわたしと同じような若者を、また彼女らのところに送ってよいかどうか、自信がない。とにかく、女城主はたぶん寝床を温めてくれというだろう。それに応じてはならぬぞ。彼女の妊娠は普通の場合とは違うだろう――そんなことになれば、彼女の拷問は否応なしに遅延し、組合にとって不名誉なことになる。言っていることがわかるか?」
わたしはうなずいた。
「おまえの年頃の少年は惑う。だれかに命じて、そのような病気をすみやかに治す場所に、おまえを連れていかせよう」
「よろしいようにしてください、師匠」
「おや? 礼をいわんのか?」
「ありがとうございます、師匠」わたしはいった。
グルロウズは、わたしの知った最も複雑な人間の一人だった。なぜなら、彼は単純になろうと努力している複雑な人だったから。単純ではない、複雑な人の、単純な考えだったから。ちょうど、廷臣が、みずからを輝かしくそして複雑なものにし、舞踏の師匠と外交官の中間ぐらいの存在にして、それに、必要に応じて暗殺者の要素をちょっぴり加えた人物に自分自身を仕立て上げるように、グルロウズ師は、紋章官補や廷吏がわれわれの組合の頭を召喚する時に会うことを期待するような、そういう鈍い人物にみずからを仕立て上げていた。そして、そのようなタイプの人物こそ、真の拷問者がなり得ないものなのである。その疲れが外に現われるのだ。グルロウズ師のすべての部分は、まさにそうあるべき姿をしていたが、それらの部分のどれ一つとして彼に似つかわしくはなかった。彼は深酒をして、悪夢に悩まされた。それも、彼の場合には酒を飲んでいる時に悪夢を見るのである。あたかもワインが、彼の心の扉にかんぬきを掛ける代わりにそれをばたんと開いて、夜の最後の時間に、まだ現われていない太陽を彼の大きな居室から物の怪どもを退散させて、彼に衣服を着ることを許し、職人たちを仕事に送りださせてくれる太陽を――ひと目なりとも見るために、外に千鳥足でよろめき出させてくれるかのように。時にはわれわれの塔の銃器室の上の屋上にいって、そこで独言をいいながら、燧石よりも固いといわれる眼鏡を覗いて、曙光《しょこう》を待ち望むこともある。その場所には、いろいろのエネルギーが働いており、目に見えない口がいくつもあって、時々、人間に話しかけたり、他の塔や天守閣の他の口に話しかけたりすることがあるが、彼はわれわれの組合でそれらを恐れない唯一の人物――パリーモン師は勘定に入っていない――であった。彼は音楽を愛好するが、音楽に合わせて自分が坐っている椅子の腕木を親指で弾くことしかしない。そして、一番好きな種類の音楽の場合には、非常に元気よくそうするが、それらの音楽のリズムはあまりにも微妙で、規則的な拍子には合わない。彼はごくたまにしか食事をしないが、食べる時は大食いをする。そして、だれも気づいていないと自分で思う時に読書をする。そして、地下の第三層の人を含めて、ある種の客人のところを訪れ、外の廊下でわれわれが立ち聞きしても決して理解できない事柄について話をする。彼の目には輝きがあり、どんな女の目よりも明るい。彼は次のような、ごくありふれた言葉の発音を誤る――アーティケイト=i[#ここから割り注]イラクサで鞭打つ[#ここで割り注終わり])、サルピンクス=i[#ここから割り注]トランペットの一種[#ここで割り注終わり])、ボールデロー=i[#ここから割り注]書類の一覧表[#ここで割り注終わり])。わたしが最近〈城塞〉に戻った時に、彼の健康状態がどんなに悪そうに見えたか、現在どんなに悪い状態にあるか、わたしはとうてい諸君にうまく話すことはできない。
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8 話好き
翌日、初めてセクラの方のところに夕食を持っていった。一刻ほど彼女のところに留まっていたが、その間、ドロッテがしばしば独房の扉の孔から覗いて、われわれを監視していた。われわれは言葉遊びをしたが、彼女のほうがはるかに上手だった。そして、しばらくすると、死から蘇った人たちが話すといわれる死の彼方にある物事について、話をした。彼女は、わたしが持ってきた書物の中の一番小さい本で読んだことを、詳しく話してくれた――一般に受け入れられている秘儀解説者の見解だけでなく、さまざまな奇矯な説や、異端の説をも。
「釈放されたら」彼女はいった。「わたし、独自の宗派を創設するの。皆にこういうの。拷問者のところに一時逗留していた時に、その知恵が啓示されたのだと。これなら、みんな耳を傾けるわ」
どんな教えを説くのかと、わたしは尋ねた。
「|善 霊《アガサデーモン》とか死後の生とかいうものはない、ということよ。精神は死の中では、眠りの中と同様に消滅するが、その程度がもっと深いのだと」
「でも、だれがそれをあなたに啓示したと、おっしゃるつもりですか?」
彼女は首を振り、尖った顎を片方の手の上にのせた。そのポーズを取ると、彼女の首の優雅な線がいやがうえにも引き立って見えるのだ。「まだ決めてないわ。氷の天使、とでもいおうかしら。それとも幽霊か。あなた、どちらのほうが良いと思う?」
「それには矛盾があるのではありませんか?」
「そうなのよ」彼女はこの質問がとても気に入ったらしく、嬉しそうな張りのある声でいった。
「その矛盾の中にこそ、この新しい信仰の魅力があるのだから。〈無〉の上に斬新な神学を創建することはできないし、矛盾ほど確実な土台はないのよ。過去の偉大な成功の例を見なさい――自分たちの神々は全宇宙の主であるといいながら、自分を守ってくれるお祖母さんが必要だと言っているわ。まるで、家鴨を怖がる子供みたいにね。あるいは、改心の可能性がある時にだれも罰しない権威は、罰してもだれも良くなる可能性がない時に皆を罰する、とも言っているわ」
わたしはいった。「そういう事は、わたしには複雑すぎます」
「そんなことないわよ。あなたは誰にも劣らず頭の良い若者だと思うわ。でも、おそらくあなたがた拷問者は宗教を持っていないのでしょうね。信仰を捨てるという宣誓をさせるのかしら?」
「そんなことはまったくありません。わたしたちは、他の組合と同様に、天界の守護聖女と戒律を持っています」
「わたしたちにはないのよ」彼女はいい、しばらくその事を考えているふうだった。「そういうものを持っているのは、各種の組合だけなのね。それと、軍隊と。あれも一種の組合だから。わたしたちにもそういうものがあったら、もっとうまくやっていけたと思うわ。それでも、祭の日や勤行の夜はすべてショーになってしまっているわね。新しい着物を着るチャンスにね。これどうかしら?」彼女は立ち上がって腕を広げ、汚れのついたガウンを見せた。
「とても美しいです」わたしは、あえていった。「刺繍と、小粒の真珠が縫いこんであるところが」
「ここでは、これが一張羅なのよ――捕まった時に着ていたの。実は、正餐の衣裳なのよ。午後が終わって、夕暮れになる前だったから」
もし要求すれば、グルロウズ師はきっと着替えを差し入れてくれるだろうと、わたしはいった。
「もう要求したわ。そして、彼が〈絶対の家〉に人をやって着物を持ってこさせようとしたら、〈家〉が見つからなかったというのよ。ということは、〈絶対の家〉は、わたしという人物が存在しないふりをしはじめているということね。とにかく、わたしのすべての着物が北の城館か別荘の一つに送られてしまったということは、あり得ることなのよ。それらを取り寄せるために、グルロウズは秘書に手紙を書かせてくれるでしょう」
「師匠がだれを送ったかご存じですか?」わたしは尋ねた。「〈絶対の家〉はほとんどわれわれの〈城塞〉と同じくらい大きいはずです。それをだれかが見損なうなんてことはあり得ないと思いますが」
「とんでもない。あれは目に見えないから、現場にいっても運が良くなければ気がつかない、ということはあり得るのよ。それに、道路を鎖せば、後はもう、ある特定のグループに対して間違った方向を教えるように、スパイたちに指示するだけでいいの。しかも、いたる所にスパイはいるしね」
〈絶対の家〉が目に見えないなんてことが、どうしてあり得るのかと、わたしは質問しかけた(なぜなら、それはきらめく塔や丸屋根の広間のある広大な宮殿だと、わたしはいつも想像していたから)。ところがセクラはすでに、大|鳥賊《いか》の形をしたブレスレット――その脚が彼女の腕の白い肉に巻きついており、カボション・エメラルド([#ここから割り注]原石をカットせずに研磨したもの[#ここで割り注終わり])の目を持った大|烏賊《いか》のブレスレット――を撫でながら、まったく別の事を考えはじめていた。「彼らはこれを取り上げなかったわ、とても貴重なものなのにね。プラチナなのよ、銀ではなくて。驚いたわ」
「ここには買収できる人はいません」
「着物を買うために、これをネッソスで売ってもいいわ。友達のだれかが、面会したいといってこなかったかしら? あなた、知ってる?」
わたしは首を振った。「いってきても許可されないでしょう」
「まあ、そうでしょうね。それにしても、だれか試みるくらいのことはしてもいいのに。〈絶対の家〉の人々の大部分はこの場所の存在を知らないということを、あなた、知っているかしら? その顔では、わたしのいうことを信じていないのね?」
「その人々は〈城塞〉のことを知らないと、おっしゃるのですか?」
「もちろん、それについての知識はあるわよ。その一部はだれに対しても開かれているし、いずれにしても、ギョルのどちら側にいても、生きている都市の南の端まで下れば、いくつもの尖塔を見逃すことはありえないんですもの」彼女は独房の金属の壁を片手でぴしゃりと叩いた。「彼らはこれ[#「これ」に傍点]のことは知らないのよ――いや、少なくとも彼らの大部分は、これがまだ存在していることを否定するでしょう」
彼女は偉い偉い女城主であり、わたしは奴隷以下の存在だった(われわれの組合の職能を真に理解しない普通の人々の目から見れば、という意味だが)。しかし、時がたって、ドロッテが扉をどんどんと叩けば、立ち上がって牢獄を出て、すぐに黄昏のきれいな空気の中に上がるのはわたしであり、後に残って他の客人たちのうめき声や悲鳴を聞くのはセクラなのであった(彼女の牢屋は階段吹抜けからかなり離れているが、それでも、話し相手がいない時には、第三層からの笑い声が聞こえた)。
その夜、わたしは宿舎に帰ると、グルロウズ師が〈絶対の家〉を探しにいかせた職人の名前を、だれか知っていないかと仲間に尋ねた。だれも知らなかった。しかし、この質問は激しい議論を巻き起こした。少年たちはだれもその場所[#「その場所」に傍点]を見るどころか、見たという人と口をきいたことすらなかったけれども、その噂[#「その噂」に傍点]は全員が聞いていた。噂の大部分は、黄金の皿とか絹の鞍敷《くらしき》とかいうような、伝説的な財宝についてだった。もっと興味深いのは、独裁者の姿についての様々な説で、怪物ででもなければその全部にあてはまるとは思えなかった。彼は立つと背が高いとか、坐っている時は普通の身長だとか、年取っているとか、若いとか、男装をしている婦人だとか、様々に言われた。もっと途方もないのは、彼の大臣《ヴィジェル》であるあの有名なイナイア老のことで、彼は猿のような姿をしており、この世界でもっとも年取った男だということだった。
われわれが口角泡を飛ばして様々な驚異について喋りだした時、扉をノックする者があった。一番幼い少年が扉を開いた。すると、そこにロッシュがいた――組合の会則で定められている煤色のズボンにマント姿でなく、普通の服を着て。それも、新しい、流行のズボンとシャツとコートを。彼はわたしに合図をした。わたしが扉のところにいって話を聞こうとすると、彼はついてくるように身振りで示した。
しばらく階段を降りてから彼はいった。「あの小僧を驚かせてしまったな。おれがだれか、あいつ、わからなかったぞ」
「その服装では無理だな」わたしはいった。「いつもの服装をしているところを見れば、あんたを思い出すだろうが」
彼はそれを聞いて嬉しそうに笑った。「おい、あの扉を叩かねばならないというのは、妙な気分だぞ。今日は何日だ? 十八日目か――三週間たらずだな。おまえの調子はどうだい?」
「まずまずだ」
「小僧どもを掌握しているようじゃないか。イータが助手だな? あいつは四年間は職人にならないから、おまえの後、三年間、徒弟頭を務める勘定になるな。経験を得るのは、あいつにとって良いことだ。今になってみると、おまえがこの職をやらされる前に、もっと経験を得ておかなかったことを気の毒に思っている。おれが邪魔をしていたんだ。しかし、当時は全然それに気づいていなかったよ」
「ロッシュ、どこにいくんだい?」
「うん、まずおれの部屋に降りて、おまえに服を着せる。おまえも一人前の職人になりたくてばたばたしているかい、セヴェリアン?」
この最後の言葉は、わたしの前の階段をとんとんと降りていく彼の口から、肩越しに投げ出された。そして、彼は返事を待ってはいなかった。
わたしの衣裳も、色は違っていたが、彼のものと大同小異だった。二人分のオーバーコートと帽子もあった。「これがあって、ありがたいと思うだろうよ」わたしがそれらを身につけていると、彼はいった。「外は寒い。雪が降りはじめている」彼はわたしにスカーフを渡し、はいているぼろぼろの靴を脱いで、ブーツにはきかえるようにいった。
「それは職人のブーツじゃないか」わたしは文句をいった。「それをはくわけにはいかないよ」
「かまうもんか。みんな黒いブーツをはいているんだ。気づく奴はいないよ。サイズは合うか?」
大きすぎたので、彼はわたしの靴下の上に、彼自身の靴下をもう一足はかせた。
「さて、財布はおれが持っていなければいけないんだが、離ればなれになる可能性が常にあるから、おまえもいくらか金を持っていたほうがいいだろう」彼は数枚のコインをわたしの掌に落とした。「準備はいいな? いこう。なるべくなら、早目に帰って少しは寝たいよ」
われわれは塔を出て、着慣れない衣服の襟元を掻き合わせて、〈魔女の高楼〉を回り、〈円形砲台〉のところを通って〈壊れた中庭《コート》〉と呼ばれる庭まで、人目につかないように歩いていった。ロッシュのいったとおり、雪が降りはじめていた。親指の先ほどのふわふわした雪片が空中に舞っていたが、その動きは、何年もかかって落ちてきたにちがいないと思われるほどのろかった。風はなく、見慣れた世界が新しい薄い変装の衣をまとっていた。それを踏み抜く自分たちのブーツの、きゅっきゅっという音が聞こえた。
「おまえは運が良い」ロッシュがいった。「どうしてこんな手配をしたか知らないが、礼をいうぞ」
「手配って、なんの?」
「〈反響動作地区《エ コ プ ラ ク シ ア》〉への小旅行と、おれたちにそれぞれ女をつけるということさ。わかってるくせに――グルロウズ師がすでにおまえに伝えたといっていたぞ」
「忘れてた。とにかく、あの人が何をいっているかよくわからなかったんだ。歩いていくのか? きっと遠いぞ」
「おまえが想像しているほど遠くはないが、さっきもいったように、おれたちには金がある。〈苦渋の門〉のところに辻馬車がいるだろう。いつもいるんだ――人々が絶えず出入りしているからな。おれたちのささやかな住処にいては、想像もできないことだが」
〈絶対の家〉ではわれわれの存在を知らない人が多いというセクラの方の話を、わたしは話の種として彼に話した。
「そうだろうな、きっと。おれたちは組合の中で育てられたから、組合が世界の中心のように思っている。しかし、ちょっと年を取れば――これはおれ自身が気づいた事であって、おまえがでたらめをいうような男でないと信用しているからいうんだが――何かが頭に浮かんでくる。そして、組合は結局この宇宙の要《かなめ》なんてものじゃないと悟る。報酬は充分だが、人気のない職業に、たまたまはまりこんだだけだとな」
ロッシュが予言したように〈壊れた中庭〉に馬車が三台、待っていた。一台はドアに紋章があり、派手なお仕着せを着た馬丁つきのやつで、高貴人のものだった。しかし、他のは小型で質素な貸し馬車だった。毛皮の帽子を目深にかぶった御者たちが、道路の敷石の上で焚火をしていた。降ってくる雪を通して遠くから見ると、その焚火は小さな火の粉ほどにしか見えなかった。
ロッシュは手を振って、大声をあげた。一人の御者が、御者台に乗りこみ、鞭を鳴らして、こちらの方に馬車をがらがらと走らせてきた。それに乗りこんでから、わたしはロッシュに、御者はわれわれの素姓を知っているだろうかと尋ねた。すると彼はいった。「おれたちは〈城塞〉に仕事があってやってきた二人の上流人で、これから〈反響動作地区《エ コ プ ラ ク シ ア》〉に繰り込んで、ひと晩楽しむところなんだ。御者はそう思いこんでいるし、それで充分だ」
このような快楽について、ロッシュはわたしよりももっとずっと経験豊かなのだろうか? という疑問が浮かんだが、そうは思えなかった。われわれの目的地を彼が前に訪れたことがあるかどうか探るために、〈反響動作地区《エ コ プ ラ ク シ ア》〉がどこにあるか、尋ねてみた。「|歓  楽  街《アルジェドニック・クォーター》の中さ、噂を聞いているか?」
わたしはうなずいた。そして、そこは市の中で最も古い地区の一つだと、パリーモン師が前にいったことがあると答えた。
「実は違うんだ。もっとずっと南の方に、もっと古い地区がある。〈生肉食い《オモファジスト》〉しか住んでいない石ころだらけの荒地だ。〈城塞〉はネッソスの北にちょっと離れて立っていたのさ。このことは知っていたか?」
わたしは首を振った。
「都市は絶えず上流に這い上がっている。大郷土と上流人はより綺麗な水を求める――飲むためでなく、養魚池や、水浴や舟遊びのためだ。それからまた、あまり海のそばに住む者は、常にいくらかうさん臭く思われる。だから最も下の地域、つまり、水が最も汚れている地域は、だんだん放棄されていき、結局、法の手も及ばなくなる。それで、後に残った連中は、煙が注意を引くことを恐れて、火を焚かなくなったのさ([#ここから割り注]だから生肉しかたべない[#ここで割り注終わり])」
わたしは窓から外を覗いていた。車はヘルメットをかむった衛兵のそばを通って、すでにわたしの知らない門を通り抜けていた。しかし、ここはまだ〈城塞〉の内側で、車は両側に鎧戸《よろいど》を降ろした窓が並んでいる細い路地を下っていた。
「一人前の職人になれば、勤務中でさえなければ、いつでも好きな時に町に入っていけるんだ」
もちろん、わたしだってそんなことはすでに知っていた。だが、町は面白いと思うかと尋ねた。
「面白くはない、実際はな……白状すると、まだ二度しかきていないんだ。当然、こちらの素姓がばれるから」
「御者にはわからないといったじゃないか」
「たぶん、わからないだろうといったのさ。これらの御者たちはネッソス全体を走り回る。住む場所も規制はない。そして、〈城塞〉には年に一度ぐらいしかやってこないんだ。だが、土地の住民にはわかる。兵士が喋るんだ。あいつらがみんな知っていて、みんな喋ってしまうということだ。兵士は外出する時に制服を着てもなんともないんだぜ」
「このへんの窓はみんな暗くなっているな。〈城塞〉のこの部分にはだれも住んでいないみたいだな」
「すぺてがだんだん縮小していくのさ。これについては、だれも大したことはできない。〈新しい太陽〉がくるまでは、食料が減少すればするほど、人口も減少するのさ」
寒さにもかかわらず、わたしは馬車の中で、息がつまるように感じた。「まだずっと遠いのかい?」わたしは尋ねた。
ロッシュはくすくす笑った。「不安になってきたな」
「いいや、そんなことはない」
「そうにきまってる。無理するなよ。当然のことなんだから。不安になることを不安に思ってはだめだ。おれのいっていることがわかると思うが」
「ぼくはまったく平静だよ」
「早くすますこともできる。もし、そうしたいならな。女と口をききたくなければ、きかなくてもいいんだ。女は気にしない。もちろん、おまえが望めば、女は話をする。おまえは金を払っているんだから――この場合には、おれだが――とにかく、理屈は同じだ。当然、女はおまえの言いなりになる。もし女を叩くとか、ねじ伏せるとかすれば、料金は余分にかかるがね」
「人はそういうことをするのか?」
「するんだよ、アマチュアが。おまえがやりたがるとは思わなかったし、酔っ払っていればともかく、組合のだれかがやるとは思われないよ」彼は言葉を切った。「女どもは法律を破っているんだから、文句は言えないのさ」
馬車はびっくりするような横滑りをして、路地から飛び出し、くねくねと東に向かうもっと細い路地に入った。
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9 紺碧の家
われわれの目的地は市の古い部分(わたしの知る限りでは、そこだけ)に見られるあの癒着した構造物の一つだった。そこでは、最初は別々だった建物が積み重なり、絡みあい、いろいろな棟が突き出し、最初の建設者はただの屋根にするつもりであった場所に尖った物がついたり、小塔が載ったりし、さまざまな建築様式が混じりあって渾然一体となっていた。ここでは雪がもっと激しく降っていた――いや、われわれが馬車に乗っている間に降っただけかもしれない。雪は玄関先の高い柱廊《ボーチコ》を包み、玄関の輪郭をやわらげ、曖昧にし、形のはっきりしない白い塊りに変え、窓の下枠を枕に変え、屋根を支えている木製の女人像柱に衣をかぶせて覆い隠し、いかにも静けさと安全と秘密を約束してくれそうに見えた。
下の方の窓には薄暗い黄色い明かりが点っており、上の方の階は暗くなっていた。雪がちらついているにもかかわらず、中のだれかがわれわれの足音を聞きつけたらしい。ロッシュがノックしないうちに、大きくて古くて、もはや最善の状態にはない扉が開いた。中に入ると、そこはまるで宝石箱のような細長い小部屋になっていて、天井も壁も青いサテンのキルティングで覆われていた。われわれを中に入れてくれた人物は厚いかかとの靴をはき、黄色いローブを着ていた。広くて丸みを帯びた額から上に、白い頭髪をなめらかにとかし上げていて、その顔には髭もしわもなかった。戸口で彼とすれちがった時に、わたしは彼の目を覗きこんでしまったが、それはまるで窓を覗きこんだような感じだった。その目は本当にガラスでできているといってもよいくらいで、まったく血管が見えず、のっぺりしていてまるで、夏の渇水期の空みたいだった。
「良い時にお見えになりました」彼はそういって、われわれのめいめいに酒杯を渡した。「あなたがた以外にどなたもいらっしゃいません」
ロッシュが答えた。「さぞ女たちが淋しがっていることだろう」
「さようです。おや……お笑いになりました。信じていただけないんですね。でも、本当なんですよ。お客さまが多すぎれば文句をいうし、だれもこなければしょんぼりするのです。今夜はめいめいがあなたがたに気に入られるように努力します。見ていてごらんなさい。あなたがたがお帰りになった後で、自分たちが選ばれたことを自慢したいのです。それに、お客さまは二人とも若くてハンサムでいらっしゃるし」彼は言葉を切った。特にロッシュを見つめたようでもなかったが、彼の方をよく見たらしい。「あなたは前にもいらっしゃいましたね? その赤い髪と、よい血色を覚えています。ずっと南の小さな国で、野蛮人が火の精の絵をあなたそっくりに描きますよ。そして、お友達の方は高貴人の顔をしていらっしゃる……うちの若い娘《こ》たちに最ももてるタイプです。この方を連れていらっしゃったわけがわかります」彼の声は男のテノールまたは女のコントラルトといってもよいものだった。
別の扉が開いた。その扉には〈荒野の試み〉を描いたステンドグラスがはまっていた。中に入ると、そこは(きっと、今までいた部屋が狭苦しかったためもあって)建物そのものの収容能力を超える広さがあるように思われた。高い天井は白絹のように見える布の花綱で飾られていて、パヴィリオンのような雰囲気が漂っていた。ふたつの壁は柱列で縁取られていた――といっても、これは見せかけで、壁の青く塗られた表面に、半分だけ丸みのあるまがい物[#「まがい物」に傍点]の円柱が圧着されているだけだった。その|台 輪《アーキトレーヴ》は塑造物にすぎなかった。しかし部屋の中心部にいるかぎり、その効果は印象的で、完全に近かった。
窓と反対側の、この部屋の突き当たりに、玉座のような背の高い椅子があった。亭主は自分でそれに坐った。それとほとんど同時に、家の中のどこかでチャイムが鳴るのが聞こえた。ロッシュとわたしはその澄んだエコーが消えるのを黙って聞きながら、もっと小さい椅子に坐って待った。戸外では物音はしなかったが、雪が降っているのが感じとれた。その寒さを、ワインが寄せつけないと約束した。二、三回口をつけると、カップの底が見えた。まるで、廃墟の礼拝堂で何かの儀式が始まるのを待っているような気分だったが、これは現実性が薄くもあり、同時にもっと真剣なものでもあるように感じられた。
「女城主《シャトレーヌ》バルビアの方」亭主が告げた。
背の高い女が入ってきた。彼女があまりに落ち着きはらい、あまりに美しく大胆な服装をしていたので、しばらく時間がたってからでなくては、彼女が十七歳以上ではありえないということがわからなかった。その顔は卵形で、一点非の打ちどころがなく、目は清らかに澄み、鼻は小さくまっすぐで、小さい口はなおさら小さく見えるように紅が塗られていた。頭髪は金糸のかつらと見まがうばかりの光り輝く黄金色。
彼女はわれわれの前を一、二歩気取って歩いて見せ、それからゆっくりと体を回して無数の優雅なポーズを見せた。その頃、わたしはプロの踊り子というものを見たことがなかった。いまだに彼女のように美しい踊り子は見たことがない。あの時あの不思議な部屋で彼女を見つめて、自分がどう感じたか、わたしには表現することができない。
「宮廷の美女のすべてがここにいて、あなたがたにお仕えします」亭主はいった。「この〈紺碧の家〉に気晴らしを求めて、夜ごとに黄金の壁から飛びきたり、あなたがたと遊びます」
わたしはなかば催眠術にかかっているような気分になったが、この幻想的な保証の言葉は真面目に言われたと思った。わたしはいった。「まさか」
「あなたは快楽を求めてここにいらっしゃったのでしょう? もし、夢があなたの楽しみを増すなら、それをけなすことはないではありませんか?」この間じゅうずっと、金髪の女は伴奏のないゆっくりした踊りを続けていた。
刻々と時間が経っていった。
「彼女はお気に召しましたか?」亭主がいった。「この子になさいますか?」
わたしはまさに言おうとした――わたしの中にあって女性を恋い求めていたもののすべてが、今ここで動きだしたように感じて、むしろ叫ぼうとした――この女にする、と。ところが息を吸いこまないうちに、ロッシュがいった。「他の女たちを見てみよう」その女はすぐに踊りをやめ、お辞儀をして、部屋を去った。
「一人に限ったことはありません。別々にでも、ご一緒にでも、遊んでいただけます。とても大きなベッドがございますから」また扉が開いた。「グラシアの方」
この女はまったく違っていたが、それでも、先に出てきたバルビアの方≠ニかなり似た雰囲気があった。その髪は窓の外に漂う雪片と同じくらい白いので、その若い顔がいっそう若々しく、その黒い目鼻立ちがいっそう黒く見えた。彼女の乳房はもっと大きく、唇はもっと豊満だった(そのように思われた)。しかし、これは結局同じ女で、先の女が引っ込んでこの女が出てくるまでの間に、衣服を変え、かつらを変え、化粧品で顔色を黒っぼくすることは可能だと思われた。馬鹿げた考えだった。だが、多くの馬鹿げた事の中に真理の要素があるように、この中にも一片の真理の要素は含まれていた。両方の女の目に、口の表情に、身のこなしやジェスチャーの滑らかさに、同一のものがあった。それは、どこかよそで(どこだったかは思い出せないが)見た何かを思い出させた。それでいて、目新しくもあった。そして、前に知ったもう一つのもののほうが好ましいと、なんとなく感じた。
「おれはこれでいい」ロッシュはいった。「さあ、この友人のためにだれか選ばなければならないぞ」その色の黒い女は、さっきの女のように踊りを踊らずに、ごくかすかに微笑みながら、部屋の真ん中で向きを変え会釈をして、立ったままでいたが、この時にほんのわずか微笑を広げると、ロッシュのそばにやってきて、その椅子の腕に腰を降ろして、彼にささやきはじめた。
また扉が開くと、亭主がいった。「セクラの方」
それは本当に彼女みたいで、記憶にある彼女とそっくりだった――どうして逃げてきたか、見当もつかなかったけれども。それが違うということをわたしに告げたのは、観察力より、むしろ理性だった。二人を並べて立たせても、どんな相違を感じ取ることができるかわからないけれども、この女は確かに本物よりも背が低いように感じられた。
「では、彼女でよろしゅうございますね」亭主はいった。わたしは言葉を忘れてしまった。
ロッシュは貴重品袋を持って進み出て、二人分の金を払うといった。わたしはクリソス貨幣の輝きが見えるかと期待しながら、彼がコインを取り出すのを見守った。クリソスは入っておらず――数枚のアシミ貨幣があるだけだった。
セクラの方≠ェわたしの手に触れた。彼女がまとっている芳香は、本物のセクラのかすかな香水よりももっと強かった。しかし、それは同じ匂いで、燃える薔薇を思い出させた。「いらっしゃい」彼女はいった。
わたしは後に続いた。薄暗い灯の点った、綺麗でない廊下があり、それから狭い階段があった。宮廷からここに何人きているのかと、わたしは尋ねた。すると彼女は立ち止まって、わたしを斜めに見下ろした。その顔には、満たされた虚栄心、愛、いや、むしろ今まで|戦い《コンテスト》であったものが|演 技《パーフォーマンス》に変わる時にわれわれが抱く、漠然とした感情のようなものが浮かんでいた。「今夜はとても少のうございます。雪が降っておりますからね。わたしはグラシアとそりでまいりました」
わたしはうなずいた。わたしは充分に知っていると思った――この晩、彼女はわれわれがいるこの家のそばのみすぼらしい路地の一つから、ショールを頭からかぶり、古靴にしみこむ寒さを我慢しながら、おそらく歩いてきたにちがいないと。しかし、彼女が言ったことに、現実以上に意味があると思った。そして、降りしきる雪の中を、汗をかいた軍馬がいかなる機械よりも速く駆けてくるのをわたしは感じることができ、ひゅうひゅう強る風を感じることができ、真赤なべルベットのクッションに黒てんと黒山猫の毛皮にくるまって身を埋めている、輩翠《ひすい》をつけた若く美しい女たちを感じ取ることができた。
「いらっしゃいません?」
彼女はすでに階段のてっぺんに上がっていて、ほとんど視野の外に出ていた。だれかが彼女に声をかけ、「まあ、お姉さま」と呼んだ。そして、さらに数段上がって見ると、それはヴォダルスと一緒にいた女、つまり、ハート形の顔をした黒頭巾の女と瓜二つだとわかった。そいつはこちらには目もくれずに、わたしが道をあけるやいなや急いで階段を降りていった。
「もう一人お待ちになれば、どんな女が出てきたか、これでおわかりになったでしょう」どこかで知ったとわたしが気づいていたあの微笑が、この売春婦の口の片隅に隠れた。
「それでもやはりきみを選んだろうよ」
「まあ、嬉しい[#「嬉しい」に傍点]ことをおっしゃる――さあ、一緒にいらっしゃい。この隙間風の入るホールにいつまでも立っているつもりはないでしょう。真面目な顔をしていらっしゃるけれど、目玉は子牛のようにきょろきょろ動いていますわよ。あの子は綺麗でしょ」
そのセクラにそっくりな女は扉を開けた。中は寝室になっていて、途方もなく大きいベッドが置いてあり、天井から銀|鍍金《めっき》の鎖で冷たい香炉がぶらさがっており、片隅に桃色の灯火を支える燭台があった。また、鏡のついた化粧台と狭い衣裳戸棚があって、身動きする余地はほとんどなかった。
「着物を脱がせたいですか?」
わたしはうなずいて、彼女の方に手を伸ばした。
「では、ご注意申し上げておきますけれど、この着物には注意してくださいよ」彼女は背を向けた。「これは後ろで止めてあるのです。上の、首の後ろからやってください。興奮してどこかを破ったりすると、亭主に弁償させられますよ――知らなかったなんていわないでくださいね」
わたしの指は小さな止金を見つけ、それを外した。「セクラの方、着物ならいくらでもあるだろうに」
「ええ。でも、破れ衣で〈絶対の家〉に帰りたくありませんもの」
「ここに他の着物も持っているにちがいない」
「少しはね。でも、この場所にたくさん置いておくことはできません。留守中にだれかに取られてしまいます」
わたしの指につままれたものは、階下の柱列のある青い部屋で見た時には、あれほどきらびやかに豪華に見えたのに、実際は薄く安っぽいものだった。「どうやら、サテンではないな」わたしは次の止金を外しながら、いった。「黒てんも、ダイヤもない」
「もちろんでしょ」
わたしは彼女から一歩後に退った(すると、背中が扉に当たりそうになった)。この女に、セクラに似たところはどこにもなかった。あるのは、偶然の類似と、ちょっとした仕種と、衣服の類似だけだった。わたしは小さい冷たい部屋の中で、どこの者とも知れない貧しい若い娘の首と、剥き出しの肩を眺めているのだった。たぶん彼女の両親はロッシュの払った小銭の分け前をありがたそうに受け取り、そして、自分たちの娘が夜どこにいくか知らないふりをするのだろう。
「きみはセクラの方ではない」わたしはいった。「これから、ここできみと何をするんだ?」
きっとわたしの意図以上のものがわたしの声に含まれていたのだろう。彼女はこちらに向き直った。着ていたガウンの薄い布がその胸から滑り落ちた。鏡の反射光が当たったように、彼女の顔に恐怖の表情がひらめいた。彼女は以前にも同じ状況に陥ったことがあるにちがいない。そして、彼女にとって不快な結果になったにちがいない。「わたしはセクラよ」彼女はいった。「あなたがそう望めばね」
わたしが手を上げると、彼女はあわててつけ加えた。「ここには用心棒がいるのよ。悲鳴をあげれば、すぐにやってくるわ。一度は殴ることができても、二度は殴れないわ」
「用心棒なんかいるものか」わたしはいってやった。
「いや、いるわ。男が三人もね」
「一人もいないさ。この階全体が空っぽで冷えている――ひどく静まりかえっているのを、ぼくが気づかないとでも思っているのか? ロッシュとその相方は下にいる。たぶん、もっと良い部屋に入っているだろう。彼が金を支払ったからな。階段の上で会った女は帰ろうとしていた。そして、その前にきみと話をしたがっていた。そら」わたしは彼女の腰を掴み、空中に持ち上げた。
「悲鳴をあげてみろ。だれも来やしないさ」彼女は黙っていた。わたしは彼女をベッドの上に降ろし、ちょっと間をおいて、その側に自分も腰を降ろした。
「わたしがセクラでないので、腹を立てているのね。でも、あなたのためにセクラの役を務めるつもりだったのよ。今でもまだそのつもり」彼女はわたしの肩から借り着のコートを脱がせ、落ちるにまかせた。「あなた、とても強いのね」
「いいや、そんなことはない」わたしを恐がっている少年の何人かは、すでにわたしよりも強くなっていることを、わたしは知っていた。
「とても強いわ。たとえほんの短い間でも、現実を支配するほど強いのではないかしら?」
「どういう意味だ?」
「弱い人々は自分たちに何が押しつけられているかを知っている。強い人々は自分たちが信じたいと願っていることを――それを無理やりに現実のものにすることによって――信じるのよ。独裁者とは、自分が独裁者だと信じて、その力によって、他人にそれを信じさせる人間でないとしたら、いったい何なの?」
「きみはセクラの方ではない」わたしはいった。
「でも、わからない? どちらも彼女ではないのよ。あなたが前に会った人だって、セクラの方だったかどうかいや、わたしが間違っているわね。あなたは〈絶対の家〉にいったことがあるの?」
彼女の小さくて暖かい手がわたしの右手に、ぎゅっと押しつけられた。わたしは首を振った。
「時々、〈絶対の家〉にいたという客人がくるんだ。彼らの話を聞くのが楽しみでね」
「その人たちはそこにいたの? 本当に?」
彼女は肩をすくめた。「わたしがいうのはね、セクラの方はセクラの方ではない、つまり、あなたの心の中のセクラの方ではないということよ。あなたが問題にするセクラの方はそれしかないのにね。わたしも、それではないわ。だとしたら、わたしたちの間にどんなちがいがあるのかしら?」
「たぶんない、だろうな」
わたしは服を脱ぎながらいった。「にもかかわらず、われわれはみんな何が本物か発見しようと懸命になっている。なぜなんだ? たぶん、われわれは|神の知識《セオセンター》に引かれているのだろう。秘儀解説者が言うのはそのことなんだ。それだけが真実だとね」
彼女は自分の勝ちだと知って、わたしの太股にキスした。「あなた、本当にそれを見出す用意ができている? いいこと、あなたは恩寵に包まれていなければならないのよ。さもないと、拷問者に渡されてしまうわ。それはいやでしょう」
「ああ」わたしはいった。そして、彼女の頭を両手で抱えた。
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10 最後の年
わたしがセクラにあまり夢中にならないように、たびたびあの家に連れていけと指示したのは、グルロウズ師だったと思う。しかし実際には、わたしはロッシュにその金を懐に入れることを許し、自分は二度とあそこにいかなかった。その苦痛はあまりにも快く、その快感はあまりにも苦痛だった。そのために、自分の精神がやがて自分の知っているものではなくなってしまうのではないかと怖くなったのである。
それから、また、ロッシュとわたしがあの家を去る前に、あの白髪の男が(わたしの目を捉えて)衣の懐から何かを引き出した。最初それを聖像《イコン》かと思ったが、それは勃起した男根を形どった金色のガラス瓶だとわかった。男は微笑していた。そして、その微笑には友情しか含まれていなかったので、それも怖かった。
心の中のセクラから、性愛的遊興と男女の歓楽の手ほどきをしてくれた偽のセクラの印象を拭い去るのに、何日もかかった。もしかしたら、これはグルロウズ師の意図と逆の効果を持ったかもしれない。しかし、自分はそうは思わない。彼女を自由に楽しんだ印象が記憶に新しい時ほど、あの不幸な女性への愛情が薄れたことはなかったと信じる。自分の愛が真実でないことが次第に明らかになるにつれて、わたしはそれを正しいものに変えたいという気持ちに駆られ、また(当時はほとんど意識していなかったが)彼女を通じて、彼女が象徴する古代の知識と特権の世界に引かれていったのであった。
彼女のところにわたしが持ってきた書物がわたしの大学になり、彼女はわたしの託宣者になった。わたしは教育のある人間ではない――パリーモン師からは、読み書き計算および、自然界に関する二、三の事実と、われわれの秘伝の諸要素以外のことは、ほとんど教わらなかった。もし教育のある人が、わたしのことを自分と同等の人間とは思わないにしても、少なくともつき合って恥にならない人間だと思うことがあるとすれば、それはひとえにセクラのおかげである。わたしの覚えているセクラ、わたしの中に生きているセクラ、それとあの四冊の本のおかげなのである。
われわれが一緒に何を読んだか、そして、それについて何を話しあったかは、お話ししないことにしよう。ほんの少し物語るだけでも、この短い夜を使い果たしてしまいそうだ。〈古い庭〉が雪で白くなっていたあの冬の間ずっと、わたしはまるで眠りの底から起き上がるように、地下牢から上がってきて、自分の足が残した足跡と、雪の上の自分の影を見て、ぎくりとするのだった。その冬、セクラは悲しげだった。しかし、過去のいろいろな秘密や、高層の天体で構成される神秘的象徴の解釈(上流階級で行なわれている種々の憶測)や、何千年も昔に死んだ英雄の武勇伝や歴史について話す時には、楽しそうだった。
春がきた。そして共同墓地に、紫の縞模様や白い斑点のある百合の花が咲いた。それらを摘んで彼女のところに持っていくと、彼女はわたしの髭が野の草のように芽生えているといい、人並以上に髭が濃くなるだろうといった。そして、翌日には、もうそうなっているといって謝った。暖かい天候と、そして(たぶん)わたしが持っていった花のために、彼女は元気になった。古い家の紋章を辿っていた時に、彼女は自分と同じ身分の友達のことや、彼らがした幸福な結婚や不幸な結婚の話をし、また、これこれの人は荒れ果てた砦を夢に見たために、それと自分の未来を取り替えてしまったとか、また、子供の頃に一緒にお人形遊びをしただれそれは、今は何千平方リーグもの土地の女主人になっているなどと語った。「そして、いずれ、新しい独裁者や、ことによったら女独裁者が出るにちがいないのよ、セヴェリアン。世の物事は従来どおり長い間継続することもあるけれど、永久に続くことはないわ」
「宮廷のことはほとんど知らないのです、奥方」
「知らなければ知らないほど、幸福でいられるのよ」彼女は言葉を切り、デリケートな曲線を描いている下唇を白い歯で噛んだ。「わたしの母は陣痛を感じた時に、召使いに命じて未来を告げる〈予言の泉〉に自分を運ばせたの。そしたら泉は、わたしが玉座に上ると予言したのよ。セアはそれをいつも羨んでいたわ。でも、独裁者はね……」
「はい?」
「あまり喋らないほうがよさそうだわ。独裁者は他の人たちと違うのよ。百万言を費やしても言いつくせないわ。ウールス全体で、彼のような人はいないのよ」
「それは知っています」
「では、あなたにとってはそれで充分ね。あのねえ」彼女は茶色の本を持ち上げた。「ここに、こう書いてあるわ。サレリウス大王の考えは、デモクラシー=\―つまり人民のことね――は自分らよりも優れた力によって治められることを欲する、ということであった。そして、イリーリックス賢者の考えは、平民は自分らと異なる者が高い地位につくことを決して認めないだろう、というものだった。それにもかかわらず、どちらも〈完全なる師〉と呼ばれている=v
わたしは彼女が何を言おうとしているかわからなかったので、黙っていた。
「独裁者が何をするか、だれも本当は知らないのよ。そういうようになっているの。また、イナイア老のこともね。わたしが初めて宮廷に出仕した時に、重大な秘密だとして、共和国の政策を実際に決定するのはイナイア老だと教えられたものよ。ところが、二年ほどして、非常に高い地位の人――名前を挙げることもできるのよ――が、こういったわ。支配しているのは独裁者だけれど、〈絶対の家〉の人々の目には、支配しているのはイナイア老であるように見えるかもしれない、と。そして、去年、ある婦人が――その人の判断をわたしは他のどんな人の判断よりも信用しているのだけれど――次のように打ち明けたわ。どちらにしても実際上、相違はないと。なぜなら、彼らはどちらも深海の底のように、測り知れない心の持ち主であって、もし一人が月が満ちている間に物事を決定し、もう一人が東の風が吹いている時に物事を決定しても、どうせだれにも相違はわからないからと。わたしはそれは賢明な解釈だと思ったけれど、そのうちに、これは半年前に自分が話したことを繰り返しているにすぎないと気づいたの」セクラは黙りこみ、枕の上に黒髪を広げて、狭いベッドに体を横たえた。
「少なくとも」わたしはいった。「あなたがその婦人を信頼したのは正しいことでした。彼女は信頼すべき出所からその意見を得たのですから」
彼女はこの言葉が聞こえなかったかのように、つぶやいた。「でも、これはまったく正しいのよ、セヴェリアン。彼らが何をするか、だれも知らないのだから、わたしは明日にでも釈放されるかもしれないわ。それは充分にありうることなのよ。わたしがここにいることを、今頃は彼らも知るはずだから。そんな目でわたしを見ないで。友達がイナイア老と話をするでしょう。もしかしたら、だれかがわたしのことを独裁者にとりなしてくれさえするかもしれないわ。わたしがなぜここに入れられたか、知ってる?」
「何かご姉妹の事だと聞きましたが」
「腹違いの姉妹のセアがヴォダルスのところにいったの。彼女は彼の情婦だという噂だけれど、それはきわめてありうることだわ」
わたしは〈紺碧の家〉の階段のてっぺんで見たあの美しい女を思い出して、いった。「わたしはあなたの腹違いの妹さんを一度見たように思います。共同墓地でした。彼女と一緒に、仕込杖を持った、とてもハンサムな高貴人がいました。その人は、自分はヴォダルスだといいました。その女の人はハート形の顔で、鳩を思わせるような声でした。あれがその方だったのでしょうか?」
「たぶん、そうよ。宮廷では、彼女がわたしを救うためにヴォダルスを裏切ることを望んでいるのよ。でも、彼女がそんなことをしないのは、わたしにはわかっているわ。しかし、彼らがそれに気づけば、わたしを釈放しないはずはないでしょう?」
わたしがそれと反対のことをいうと、彼女はついに笑っていった。「あなたはとても頭が良いのね、セヴェリアン。一人前の職人になったら、歴史上最も知的な拷問者になるわ――考えると恐ろしいわね」
「このような議論がお好きだという印象を受けましたので、奥方」
「それは今だけよ。外に出ることができないから。あなたにとってショックかもしれないけれど、自由でいた頃には、形而上学になんかめったに時間を割かなかったわ。その代わりに舞踏会に出かけたり、パーダイン・ライマーズ([#ここから割り注]獰猛な猟犬の一種[#ここで割り注終わり])とぺッカリー追ったりしていたの。あなたが感心する学識は少女の頃に身につけたものよ。それも家庭教師に鞭でおどされながらね」
「そのようなお話をするには及びません、奥方、お気がすすまなければ」
彼女は立ち上がり、わたしが彼女のために摘んできた花束の真ん中に顔を埋めた。「草花は二折判の書物よりも良い神学だわ、セヴェリアン。あなたがこれらを摘んできた共同墓地は美しい? まさか、墓の花を持ってきたんじゃないでしょうね? だれかが持ってきた切花を?」
「違います。これらはずっと前に植えられたものです。毎年生えてくるんです」
扉の細長い穴のところでドロッテがいった。「時間だぞ」そしてわたしは立ち上がった。
「あなた、また彼女に会うかもしれないと思う? 妹のセアの方に?」
「そういうことはないと思います、奥方」
「もし万一、セヴェリアン、会うことがあったら、わたしのことを伝えてくれるかしら? 彼らは彼女に便りを出すことができなかったかもしれないの。これは決して反逆にはあたらないのよ――独裁者の仕事をすることになるのだから」
「そうしましょう、奥方」わたしは戸口を通り抜けた。
「彼女がヴォダルスを裏切らないことはわかっているけれど、何か妥協をするかもしれないわ」
ドロッテは扉を閉めて、鍵を回した。彼女の姉妹とヴォダルスがなぜ、われわれの古い――そして、あのような人々から忘れられている――共同墓地にやってきたか、セクラが尋ねなかったという事実に、わたしは心を留めた。独房の中のランプに慣れた目には、金属の扉が並び、壁が冷たい汗をかいている廊下は、暗く感じられた。ドロッテは、ロッシュと一緒にギョルの向こうのライオンの巣穴に出かけた遠征談を始めた。彼の声に重なって、セクラが叫んでいるかすかな声が聞こえた。「一緒にジョゼファの人形を縫った頃のことを、彼女に思い出させてね」
百合は、百合の花の萎れる時期になると萎れた。そして、黒ずんだ死の薔薇が咲いた。わたしはそれを切ってセクラのところに持っていった。深紅の斑点のある黒紫色の花を。彼女はにっこり笑って朗誦した。
[#ここから3字下げ]
ここに貞節のローズならぬ恩寵のローズ、眠る。
立ち昇る香りはローズの香りにあらず。
[#ここで字下げ終わり]
「もし、この匂いがお嫌いなら、奥方……」
「とんでもない、とても良い香りよ。お祖母さんがよく言っていた言葉を引用しただけよ。あの人は娘時代に浮名を流したの。とにかく、本人がわたしにそういったわ。そして、彼女が死んだ時、子供たちがみんなこの詩を朗誦したのよ。わたしの推測では、これは実際はもっとずっと古いもので、その出所は、すべての善きもの、悪しきものの始まりのように、時の中に失われているのではないかと思っているけどね。男たちは女を欲するというわね、セヴェリアン。なぜ彼らは手に入れた女を軽蔑するのかしら?」
「皆が皆そうだとは思いません、奥方」
「あの美しいローズはわが身を与えた。そして、そのためにわたしが知っているようなあんな嘲笑を浴びせられた。もっとも、彼女の夢はずっと昔にその滑らかな肉体とともに塵に返ってしまったけれどね。さあ、ここにきてわたしの側に坐りなさい」
わたしが言われたようにすると、彼女はわたしのシャツの擦り切れた裾の下に手を滑りこませて、頭からシャツを脱がせた。わたしは文句をいったが、どういうわけか抵抗することができなかった。
「何を恥ずかしがっているの? 隠すべき乳房もないくせに。こんな白い肌と黒い髪が同居しているのは見たことがないわ……あなた、わたしの肌を白いと思う?」
「とても白いです、奥方」
「みんながそういうわ。でもあなたの肌に較べれば灰褐色よ。あなたは拷問者になったら、日射しを避けなければだめよ、セヴェリアン。あの仕事は恐ろしく日焼けするからね」
いつもは垂れ下がるにまかせてある彼女の頭髪が、今日は黒い宝冠のように頭に巻きつけてあった。彼女が腹違いの姉妹のセアとこれほどそっくりに見えたことはなかった。そして、彼女をまるで血が床にこぼれて、心臓の一収縮ごとに体力が欲する気持ちがあまりにも高まったので、弱り、気が遠くなっていくように感じられた。
「なぜ扉を叩いているの?」彼女の微笑はわたしの気持ちを彼女が察していることを示していた。
「行かなければなりません」
「行くなら、その前にシャツを着たほうがいいわよ――そんな姿を友達に見られたくはないでしょう?」
その夜、無駄と知りつつわたしは共同墓地にいき、静まりかえった死者の家の間を数刻の間さまよった。次の夜も出かけていき、その次の夜も出かけた。しかし四日目の晩に、ロッシュがわたしを町に連れていった。そしてある酒場でわたしは、物知りらしい男が、ヴォダルスはずっと北の方の霜に鎖された森のなかに隠れていて、集団旅行者《カ フ ィ ラ》を襲っていると言うのを聞いた。
日々が過ぎていった。セクラはあまりにも長く無事に過ごしてきたので、今では拷問にかけられることは決してないと確信して、ドロッテに頼んで書画の道具を持ってこさせ、それを使って、共和国の最も僻遠の地にあり、最も美しいといわれるディウトルナ湖の南岸に建てるつもりの別荘の設計図を引いた。わたしは自分の務めと考えて、徒弟たちの集団を引率しては水泳に出かけていたが、水底に深く潜るとかならず恐怖を感じた。
それから、いかにもだしぬけに感じられたが、天候が水泳には冷たすぎるようになった。ある朝〈古い庭〉の擦り切れた敷石の上に、霜がきらめき、夕食の皿の上に新しい豚肉が出た。これは、寒さが市街の下の丘陵地帯に達したしるしだった。グルロウズ師とパリーモン師がわたしを呼び寄せた。
グルロウズ師がいった。「おまえについて、いろいろなところから良い報告を受けているぞ、セヴェリアン。それに徒弟奉公の年季もほとんど務め上げた」
ささやくように、パリーモン師が付け加えた。「少年時代は終わり、これから成人時代に入る」彼の声には愛情が籠っていた。
「そのとおりだ」グルロウズ師が続けた。「われわれの守護聖女の祭が近づいている。そのことはおまえも考えているだろうな?」
わたしはうなずいた。「わたしの後はイータが徒弟頭になるでしょう」
「それでおまえは?」
この質問の意味がわからなかった。パリーモン師がそれに気づいて、優しく尋ねた。「何になりたい、セヴェリアン? 拷問者か? それとも、もし組合を去りたければ、そうしてもよいのだぞ」
わたしは彼にきっぱりといった――それも、この示唆にちょっと驚いたという表情で――夢にもそんなことは考えていなかったと。これは嘘だった。成人して、組織との結びつきに同意するまでは、最終的に組合の一員と決まったわけではないと、すべての徒弟が知っていた。もちろんわたしも知っていた。そして、組合を愛していたが、また憎んでもいた――なぜなら、客人の中には無実の人も混じっているにちがいないし、罪によって正当化される以上の処罰を受ける人がしばしばいるにちがいないのに、そういう客人に苦痛を与えなければならないからであり、また、非能率であるばかりでなく疎遠でもある権力に仕えて、そのような仕事をするのは非能率的で効果がないように思われたからである。つまり、それはわたしを飢えさせ恥をかかせるがゆえに、わたしは憎む。そして、それはわたしの家であるがゆえに愛する。そして、それが古い物事の典型であるがゆえに、弱いがゆえに、破壊不可能に見えるがゆえに、憎みまた愛するのだ、とでもいう以外にはこの感情をうまく表現する手段が見つからない。
当然、パリーモン師にこんなことは言わなかった。もっとも、グルロウズ師がいあわせなかったら、言ったかもしれない。それにしても、ぼろをまとった高潔なわたしの職業が、真剣な考慮の対象になりうるとは信じられなかった。しかし、実際はそうだった。
「ここを去ろうと思うか、去るまいと思うかは」パリーモン師がいった。「おまえの自由だ。たいていの者は、辛い徒弟奉公の期間を務め上げて年季が明けた時に、組合の職人になるのを拒否するのは、馬鹿者だけだというだろう。だが、おまえがそう望むのなら、それでもよいのだぞ」
「ここを去って、どこにいくんですか?」師匠たちに言うことはできなかったが、これが、わたしが留まっている真の理由だった。〈城塞〉の壁の外には――事実上、われわれの塔の外側には広大な世界が広がっていることを知っていた。だが、そこに自分が場所を占めることができるとは考えられなかった。奴隷の境涯か、自由のむなしさかの選択の岐路に立たされて、わたしはつけ加えた。「わたしはこの組合で育てられました」それは、この疑問の答えを、師匠たちに先に出されるのが怖かったからである。
「そうだ」グルロウズ師が精いっぱい堅苦しい態度を見せていった。「だが、おまえはまだ拷問者ではない。煤色の衣をまとっていない」
パリーモン師はそのミイラのような干からびた、しわだらけの手で、わたしの手をまさぐっていった。「宗教の秘儀を伝授された者の間では、こういわれる。おまえは永遠に|秘儀を伝授された者《エ   ポ   プ   ト》なのだ≠ニ。これは、その知識に言及しているだけでなく、その目に見えないしるしである聖油は、拭い去ることができないということを、言っているのだ。おまえはわれわれの聖油を知っているな?」
わたしはまたうなずいた。
「それは、彼らのものよりももっとずっと拭い去りがたいのだぞ。仮に今おまえが去れば、世間の人々はただ彼は拷問者に育てられた≠ニいうだけだ。だが聖油を受けてから去れば、こういわれる。彼は拷問者だ≠ニ。そして、おまえが農夫になろうと、兵士になろうと、やはり彼は拷問者だ≠ニいわれるだろう。わかるか?」
「他の呼び方はされたくありません」
「よろしい」グルロウズ師はいった。そして、突然、二人ともにっこり笑った。パリーモン師はわずかに残った乱杭歯を見せて、グルロウズ師は四角い黄色い歯を見せて。「では、究極の秘密をおまえに説明すべき時だ」(これを書きながらも、この言葉に力をこめていった、あの時の師匠の声が耳に聞こえる)「儀式の前に、そのことをおまえが考慮するほうがよいからな」
それから、パリーモン師はわたしにむかって、組合の中心に存在し、またいかなる典礼もそれを祝わず、万物主《バンクリエーター》の膝にじかに載っているがゆえに、いやがうえにも神聖な秘密を、縷々《るる》説明してくれた。
そして、今彼らがしたように、組合の秘儀を授けられようとする者以外には、決してこれを洩らさないことを、わたしに誓わせた。その後、わたしはたくさんの誓いを破り、この誓いもやはり破ってしまった。
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11 祭
われわれの守護聖女の祭の日は、冬の終わりにやってくる。その時には大いに楽しむ。職人たちは行列をしながら、飛んだり跳ねたり、幻想的な仕種をして剣の舞をし、師匠たちは、〈大きい庭〉の礼拝堂の廃墟に香入りの蝋燭を無数に点し、われわれ徒弟は祭の準備をする。
組合では、例年の式典を三つに分類する。つまり大=i職人が師匠に昇格する場合)、中=i少なくとも一人の徒弟が職人になる場合)、そして小=i昇格がまったくない場合)、である。わたしが職人になった時は、師匠に昇格する職人がいなかったので――これは驚くに当たらない。なぜなら、そのような場合は何十年に一度しかないのだから――わたしの職人になる儀式は中≠フ祭になった。
それでも、準備に何週間もかかった。百三十五もの組合が〈城塞〉の壁の内部で働く会員を持っているといわれている。これらのうち(管理者組合がそうであるように)会員が少なすぎて礼拝堂で守護聖人の祭を行なうことができず、市内の同業者組合の祭に参加しなければならないものもある。もっと会員の多い組合では、世間の評価を高めるために、できるかぎり華麗な祝祭行列を行なう。この種類に入るのは、ハドリアンの日を祝う兵士の組合、パルバラの日を祝うマドロス組合、マグの日を祝う魔女の組合、その他いろいろある。彼らは組合以外の人々がなるべく大勢式典に参列してくれることを願って、美々しい行列をし、不思議な出し物を考案し、無料の食物や酒の大盤振舞いをする。
拷問者の組合はこれらと違う。昔から聖キャサリンの祭の日には、組合の外の人々が参加することを、われわれは決して拒まない。ところが、三百年以上も前に、衛兵の副官(だといわれている)が賭をして、やってきた。その結果、彼がどうなったかについて、曖昧な話がいくつもある――赤熱した鉄の椅子に坐らせて食卓につけた、といった類いの話が。しかし、真実の話は一つもない。われわれの組合の伝承では、彼は歓迎され、たっぷりご馳走を振舞われた。ところが、われわれは客人に与えた苦痛の話もせず、新考案の拷問法の話もせず、われわれが肉を裂いたために早く死にすぎた客人の悪口も言わずに、肉料理やキャサリンのケーキを食べていた。すると彼は、われわれが最後に罠に掛けるために、恐怖を与えないようにしているのだと勝手に想像して、次第に不安になった。そのために食べ物があまり喉を通らず、酒ばかりたくさん飲んでしまった。そして、自分の住居に帰ったとたんにひっくり返って頭を打ち、それ以来時々、頭がおかしくなったり、非常な苦痛を味わうようになった。やがて、彼は自分の武器の銃口を口にくわえてしまった。しかし、それは決してわれわれの仕業ではないのである。
それ以来、聖キャサリンの日に礼拝堂にやってくるのは拷問者ばかりになった。しかし、われわれは毎年(高い窓から眺められているのを知っているから)他のすべての組合と同じように準備をするし、それも、もっと盛大にやるのである。礼拝堂の外では、われわれのワインが百本の燭台の火に映えて宝石のように燃え、肉牛はべークト・レモンの目をむいて、肉汁の池の中で湯気を上げてのたうち、カピバラとアグーチは生きたままの姿勢で、煎りココナッツと彼ら自身の剥いだ皮を混ぜた毛皮をまとって、ハムの丸太や焼きたてのパンの丸石の上によじ登っている。
師匠たち(わたしが職人になった時には二人しかいなかった)が、花々を織って作った垂れ幕の掛かった輿《こし》に乗って到着する。通路にはカーペットの代わりに、色とりどりの砂で模様が描かれている。それは組合の伝説を物語るものであって、職人たちが何日も精魂をこめて一粒一粒置いたもので、師匠たちの足の下で一瞬に壊れてしまうものである。
礼拝堂の中には、刺《とげ》を植えた大きい車輪と、一人の乙女と、一振りの剣が待っている。この車輪のことはよく知っている。なぜなら、徒弟としてそれを運び上げて据えつけ、また運び降ろすのを何度も手伝っているからである。使われない時には、塔の最上部の銃器室のすぐ下にしまわれている。剣は――一、二歩離れたところから見れば、まぎれもなく斬首剣のように見えるが――実は、古い柄を付けた木剣に錫箔を貼って光らせたものにすぎない。
乙女については、何も話すことができない。とても幼かった頃には、わたしはその乙女についてなんの疑念も起こさなかった。それらはわたしが思い出すことのできる最も古い頃の祭である。すこし成長して、ギルダス(わたしが書いている時代には、もうとっくに職人になっていた)が徒弟頭になった頃には、その乙女はたぶん魔女の一人だろうと思っていた。そして、さらに一年たつと、そのような失礼は許されるわけがないと知った。
おそらく、彼女は〈城塞〉のずっとはなれた片隅から連れてきた下女だったのだろう。あるいは、市の住民であって、報酬のためか、またはわれわれの組合と、なんらかの古い縁故があって、その役割を演じることに同意したのだろう。よくわからないが。ただ、わたしが知っていることは、毎年の祭に彼女はその場所にいて、わたしに判断できるかぎりでは、それに変更はないということだけである。彼女は長身でほっそりしているが、そうかといってセクラほど長身で細身だというわけではない。肌は黒く、目は黒く、髪はからすの濡れ羽色で、顔は他の場所では決して見たことのないような顔で、森の中に見つかる澄んだ池のような感じである。
彼女は、パリーモン師が(年上の師匠として)組合の創建の話や、氷がやってくる前の時代の先輩たちの話――この部分は年ごとに違っていて、その師匠の学識によって内容が左右される――をしている間、車と剣の間に立っている。そして、一年にこの一日しか歌われないが、徒弟が暗記していなければならない組合の聖歌〈恐怖の歌〉[#〈〉は《》の置換]を合唱する間も、彼女は黙って立っている。そして、われわれが壊れた椅子の間にひざまずいて祈っている間にも、彼女は黙って立っている。
やがて、グルロウズ師とパリーモン師が数人の年配の職人に助けられて、聖女伝を始める。ある時は一人だけが語り、ある時は全員が声をそろえて朗詠し、ある時は二人が別々の語りをし、同時に他の者たちが大腿骨で作ったフルートを吹いたり、人間のように悲鳴を上げる三絃のレベックを弾いたりする。
聖女伝の内容が、われわれの守護聖女がマクセンティウスによって死の宣告を下される件《くだり》にさしかかると、仮面をかぶった四人の職人が走り出て、彼女を捕まえる。今まであれほど静かに落ち着いていた彼女が今は抵抗し、もがき、大声をあげる。だが、彼らが彼女を掴んで車輪の方に差し出すと、車輪は形が崩れ、変化するように見える。灯火の明かりで見ると、それは最初、たくさんの蛇、深紅と淡黄色と白の宝石をちりばめた緑錦蛇が、車輪から這い出してくるように見える。やがて、それらは花であり薔薇のつぼみであるとわかる。乙女がそれにあと一歩というところにくると、それらの花が開く(それらは紙の花であって、車の各部分に隠されていたものだと、わたしはよく知っている)。職人たちは恐れをなしたふうを装って、引き退がる。だが、マクセンティウスとして声をそろえて語っているグルロウズ師、パリーモン師、その他の語り手が、彼らに仕事を進めるように催促する。
それから、まだ仮面をつけず、徒弟の服装をしたままのわたしが進み出て、いう。「抗《あらが》っても無駄だ。おまえはこの車輪で砕かれることになっている。しかし、それ以上の侮辱を与えるつもりはない」
乙女は返答をせずに、手を伸ばして車輪に触る。すると、車輪はたちまちがらがらと床に崩れ落ち、薔薇の花は全部消えてしまう。
「首を斬れ」マクセンティウスが要求する。わたしは剣を持ち上げる。剣はとても重い。
彼女はわたしの前にひざまずく。「あなたは全知の神の相談役です」わたしはいう。「わたしはあなたを殺さなければなりません。しかし、あなたはわたしの命をお救いください」
初めてその乙女がいう。「斬れ、恐れるな」
わたしは剣を振り上げる。その一瞬、剣の重さで自分のバランスが崩れるのではないかと心配したことを覚えている。
あの時のことを思い返すと、最初に蘇ってくるのがあの瞬間である。さらに思い出すと、わたしはそれから前かまたは後ろに動かなければならなかった。記憶の中では、わたしは灰色のシャツに粗末なズボンをはき、頭上に剣を振りかぶったまま、ずっとそこに立っていたように思われる。剣を振り上げている間はわたしは徒弟であり、振り下ろした瞬間に真理と悔悟の探究者の結社≠フ職人になることになっていた。
処刑者は、被処刑者と灯火の中間に立つことになっていた。そして、乙女の頭は陰になったブロックの上にあった。剣を振り下ろしても彼女が無傷でいることは、わかっていた――わたしは剣を一方に逸らせて、血まみれの蝋の首を上昇させる精巧な仕掛けを動きださせることになっていた。一方、乙女は頭に煤色の布をかぶるのだ。それでもわたしは、剣を振り下ろすのをためらった。
彼女はわたしの足下の床から同じ言葉をいった。その声は耳に鳴り響くように感じられた。
「斬れ、恐れるな」わたしは必死に力を奮い起こして、偽の剣を振り下ろした。一瞬、剣は抵抗に遭ったように感じられた。それから、剣はぐさりとブロックに食い込み、ブロックは二つに割れて倒れた。乙女の血まみれの首は、見守っている組合員のほうに転がっていった。グルロウズ師がその髪を掴んで持ち上げ、パリーモン師が左手をカップにして、その血を受けた。
「これを、われらの聖油とする」彼はいった。「セヴェリアン、おまえに聖油を塗布する。永遠にわれらの同胞であれ」彼の人差指がわたしの額にしるしをつけた。
「そうあれかし」グルロウズ師と、わたしを除く職人の全員が声をそろえていった。
乙女は立ち上がった。その頭は布に隠れているだけだと知っていてさえ、首がないように見えた。わたしはめまいと疲れを感じた。
彼女はグルロウズ師から蝋の頭を受け取り、それを肩の上に載せるふりをして、かなり巧妙な早業で、それを煤色の袋に滑りこませ、それから、われわれの前に五体満足な姿で立った。わたしは彼女の前にひざまずき、他の者たちは退いた。
彼女は、わたしが遅ればせながら首を打ち落とした剣を、持ち上げた。その刃は今は蝋と接触したことによって血まみれに見えた。「おまえは拷問者の仲間に入った」彼女はいった。わたしはその剣が両方の肩に触れるのを感じ、それと同時に、熱意のこもった手が組合の仮面をわたしの首にかぶせ、それからわたしを持ち上げるのを感じた。何が起こったかよくわからずにいるうちに、わたしは二人の職人――当然察しがついてもよいはずなのに、後になってやっと知ったのだが、それはドロッテとロッシュだった――の肩の上にいた。彼らはわたしを担いで、礼拝堂の中央の通路を進んでいき、皆は大歓声をあげた。
外に出るやいなや、花火が始まり、クラッカーが足下や、耳もとでさえ弾け、礼拝堂の何千年もたっている壁に魚雷がぶつかって大音響を上げ、赤や黄色や緑のロケットが空中に舞い上がった。〈大天守閣〉から大砲が発射され、夜の闇を引き裂いた。
中庭のテーブルに、さきに述べた美味そうな肉のすべてが並ぺられた。わたしは上座のパリーモン師とグルロウズ師の間に坐り、大酒を飲み(わたしの場合、いつもほんの少しで大酒なのだ)、歓声を浴びせられ、乾杯を受けた。あの乙女がどうなったか、わたしは知らない。彼女は、わたしが覚えているかぎりの毎年のキャサリンの日と同様に、姿を消した。そして、二度と彼女を見ていない。
どうやって寝床にたどりついたか、まったく覚えがない。大酒を飲む人たちは、飲んだ夜の後半に自分に何が起こったか完全に忘れてしまうことがあるというが、たぶんわたしもそうなったのだろう。しかし、もっと妥当な解釈は次のようなものだと思う(わたしは何事も決して忘れないし、法螺を吹いているように思われるかもしれないが、一度だけ真実を告白させてもらえば、他の人々が忘れる≠ニいう意味がわたしにはわからないのだ。なぜなら、わたしの場合、すべての経験はわたしという存在の一部になるのだから)。だから事実は、ただ眠って、あそこに運びこまれた、というだけのことなのだろう。
何はともあれ、目覚めた時には、宿舎のあの見慣れた天井の低い部屋ではなくて、床の広さよりも天井の高さのほうがずっと高い小部屋、つまり職人の個室の中にいた。そして、わたしは職人の中で最も年下だったから、その部屋は塔の中で最も居心地の悪い部屋で、牢屋と同じくらいの広さしかない、窓のない押し入れ同然の部屋だった。
寝床が体の下で揺れたような気がした。ベッドの横を掴んで上半身を起こすと、それは静まった。ところが、頭を枕につけるやいなや、また揺れはじめた。わたしは完全に目が覚めてしまったように感じた――それから、今は目覚めているが、ほんの一瞬前には眠っていたように感じた、そして、この小さい居室の中に自分以外にだれかいるのを感じた。そして、なぜそうなのか理由を説明することはできなかったが、その人物は、われわれの守護聖女の役を演じたあの若い女だと思った。
わたしは揺れる寝床の上に起き上がった。扉の下から薄暗い明かりが射していた。そこにはだれもいなかった。
ふたたび横になった時に、部屋がセクラの香水の匂いに満たされた。では、〈紺碧の家〉から偽のセクラがきていたのだ。わたしは寝床から出て、ばたんと扉を開いた。だが、外の通路にはだれもいなかった。
寝床の下に便器が用意されていた。わたしはそれを引き出して、それに吐いた。胆汁とワインの混合物の中におびただしい肉片が泳いでいた。どういうわけか、自分のしたことが裏切りであるかのように感じた。その夜、組合がわたしに与えてくれた物を全部吐き出すことによって、組合そのものを投げすててしまったように感じた。咳をし、すすり泣きながらわたしは寝床のそばにひざまずき、最後に口を拭い、それからまた横になった。
疑いなくわたしは眠った。わたしは礼拝堂を見たが、それは自分の知っている廃墟ではなかった。屋根は無傷でしっかりしていて、高く、まっすぐで、そこからルビーのようなランプがさがっていた。座席も無傷でそろっており、磨かれてぴかぴかに光っていた。古い石の祭壇は金色の布で包まれていた。祭壇の後ろには、青い素晴らしいモザイクがそびえていた。ちょうど、雲も星もない空の断片が引き裂かれて、曲線を描いた壁にばらまかれたような。
わたしは通路を通ってそちらに向かっていった。そして、歩いていきながら、それが本物の空よりももっとずっと明るいのにびっくりした。本物の空は、最も明るく晴れた日でも、ほとんど黒に近いのに。ところが、これは何層倍も美しいのだ! 見ていると、心身が震えてくるほどだった。まるで、その美しさによって空中に持ち上げられて、祭壇を見下ろし、真赤なワインの杯を覗きこみ、供物のパンと古風なナイフを見下ろしているように感じた。わたしは微笑した……
そして目覚めた。夢の中で外の通路に足音を聞いていた。そして、夢の中ではそれがだれの足音か聞き分けたという意識があった。しかし、今はもう、それがだれのものだったか思い出せなくなっていた。わたしは必死になって、その音を思い返した。それは人間の歩みではなかった。ただ、柔らかい足が立てる鈍い音と、そしてほとんど聞き取れないほどの、かすかな引っ掻く音。
その音がまた聞こえた。だが、あまりかすかだったので、しばらくの間、記憶と現実がごっちゃになったのだと思った。しかし、それは本物で、通路をゆっくりと進んできて、またゆっくりと戻っていった。頭をちょっと上げただけでも、めまいがした。わたしはまた頭を落として、行きつ戻りつしているのがだれであっても、自分の知ったことではないと、自分に言い聞かせた。香水の匂いはもう消えていた。そして、気分が悪かったけれども、もはや非現実を恐れる必要はないと感じた――もう実体のある物と平明な光の世界に、戻っているのだから。扉がちょっと開いて、マルルビウス師がわたしの様子を確かめるように覗きこんだ。彼にむかってわたしが手を振ると、彼はまた扉を閉めた。彼はわたしがまだ子供の頃に死んだのだと思い出したのは、それからしばらくたってからだった。
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12 裏切り者
翌日は頭が痛く、気分が悪かった。そして、(ずっと昔から確立している習慣によって)〈大きい庭〉と礼拝堂の掃除を免除された。しかし、会員の大部分がそちらにいってしまったので、地下牢のほうの仕事をさせられた。少なくともしばらくは、歩廊の朝の静けさが、わたしの気分を慰めてくれた。やがて、徒弟たちが客人の朝食――大部分は宴会の残飯で、冷たい肉だった――を持ってがたがたと降りてきた(今はもうそれほど小さくはない少年のイータが、はあはあ息を切らし、得意そうに目を輝かせていた)。わたしは何人もの客人に、今日は一年じゅうで食事に肉が出る唯一の日だと、説明しなければならなかった。また、一人ひとりに今日は折檻はしないと安心させて歩かなければならなかった――祭の当日と次の日は免除されるのだと。そして、たとえこれらの日に拷問をするように宜告が要求していても、延期されるのだと。セクラの方はまだ眠っていた。わたしは彼女を起こさなかったが、扉の鍵を開けて、食べ物を自分で運び入れ、テーブルの上に載せた。
午前の中頃、また足音のこだまが聞こえた。踊り場に出てみると、|鎧 兜《よろいかぶと》に身を固めた二人の兵士と、祈りを唱えている一人の朗読者と、グルロウズ師と、一人の若い女が見えた。グルロウズ師はわたしに空いている独房はあるかと尋ねた。そして、わたしは空き部屋の説明を始めた。
「では、この囚人を受け取りなさい。すでにサインはすんでいる」
わたしはうなずいて女の腕を掴んだ。鎧兜の兵士は彼女から手を放し、銀の自動人形のように回れ右をした。
彼女のサテンの衣裳(今はいくぶん汚れて、破れている)の精巧さが、彼女が高貴人であることを物語っていた。女郷士だったら、もっと単純なラインのもっと薄い布地の服をまとうだろう。そして、それよりも下の階級の出身者だったら、これほど良い身なりをすることはできなかったろう。朗読者はわれわれの後について廊下を進んでいこうとした。だが、グルロウズ師はそれを押しとどめた。兵士の鋼鉄に包まれた足が階段を踏み鳴らすのが聞こえた。
「わたしは、いつ……?」その声は恐怖でちょっと上ずっていた。
「審問室に連れていかれるの?」
彼女は今はまるでわたしが父親か恋人ででもあるかのように、わたしの腕にしがみついていた。
「そうなるのでしょ?」
「はい、マダム」
「どうしてあなたにわかるの?」
「ここに連れてこられる人はみんな、そうなるのです、マダム」
「必ず? 釈放される人はないの?」
「たまには」
「では、わたしも釈放されるかもしれないわね、そうでしょ?」この時、彼女の声に混じった希望の響きは、日陰に咲く花を思い出させた。
「ないことはありませんが、ごく稀です」
「わたしが何をしたか知りたくないの?」
「はい」わたしはいった。たまたま、セクラの独房の隣が空いていた。一瞬、この女をそこに入れるべきかどうか迷った。彼女は話し相手になるだろう(二人はそれぞれの扉の細い孔を通じて、話しあうことができる)。しかし、今は彼女の質問や扉の開閉がセクラを目覚めさせるかもしれない。それから、やはりそうすることに決めた――話し相手の存在は、ちょっとした眠りの損失を補って余りあると思ったのだ。
「わたしはある士官と婚約していたの。ところが、その男が女を囲っているとわかったのよ。そして、彼がその女を手放す気がないとわかったので、わたしは刺客を雇ってその女の草葺き屋根に火をつけさせたの。彼女は羽根布団と二、三個の家具と、数枚の着物を失ったわ。その罪のために、わたしは拷問に掛けられるのかしら?」
「知りません、マダム」
「わたしの名前はマルセリナよ。あなたの名前は?」
わたしは彼女の独房の鍵を回しながら、なんと答えようかと思案した。疑いなくセクラ――今、起き上がった音が聞こえるが、いずれわたしの名前を教えるだろう。「セヴェリアンです」わたしはいった。
「そして、あなたは他人の骨を砕くことによってパンを得ているのね。夜にはさぞ良い夢を見ることでしょうね」
セクラの目――間隔が広くあいていて、井戸のように深い――が、その扉の孔のところにあった。「セヴェリアン、あなたと一緒にいるのはだれ?」
「新しい囚人です、女城主様」
「女なの? その人、わたし知っているわ――その声に聞き覚えがあるもの。〈絶対の家〉からきたの?」
「いいえ、奥方」この二人がふたたび互いに目見《まみ》えることができるのは、いつのことだろうと思いながら、わたしはマルセリナをセクラの扉の前に立たせた。
「また女ね。これは異常だと思わない? 何人いるの、セヴェリアン?」
「今、この層には八人です、奥方」
「きっと、それ以上に女がくることも、たびたびあるのでしょうね?」
「四人以上いることはめったにありません、奥方」
マルセリナが尋ねた。「わたしはここにどのくらい留まらなければならないの?」
「長くはありません。ここに長く留まる人は少ししかありません、マダム」
不健康な真剣さを見せて、セクラがいった。「あのね、わたしは今すぐにでも釈放されるのよ。彼に聞いてみなさい」
われわれの組合の新しい客人は関心をそそられて、その位置から見える部分を見つめた。「あなたは本当にすぐに釈放されるのですか、奥方?」
「彼に聞いて。彼はわたしのために手紙を出してくれたのよ――ねえ、セヴェリアン? それに、彼はこの数日間、さようならと言いつづけているわ。本当はむしろ優しい子なのにね、それなりに」
わたしはいった。「もう、入ってください、マダム。お話をしたければ、続けることはできますから」
客人たちへの給食が済むと、わたしはほっとした。階段のところで出会ったドロッテが、寝たらどうかと忠告してくれた。
「仮面を被っているせいだよ」わたしは彼にいった。「仮面をつけているぼくを、見慣れないからさ」
「目が見える。それだけ見えれば充分だ。会員のみんなを、目だけで見分けることができるだろう? そして彼らが怒っているか、それとも冗談を言いたい気分でいるか、わかるじゃないか。おまえ、寝るべきだぞ」
わたしは、その前にする事があるといって、グルロウズ師の書斎にいった。案のじょう、彼は留守だった。そして、テーブルの上の書類の中に、虫の知らせでそこにあるとわかった書類を見つけた。セクラの拷問命令書である。
その後、わたしは眠れなくなった。それで、子供の頃よく遊んだ墓場にいった(自分では知らなかったが、これがそこを訪れる最後になった)。昔の高貴人の青銅の死者像は、手で擦る機会がなかったので、光を失っていた。そして、半開きの扉の間から舞いこんだ落葉の数が二、三枚増えていた。それ以外に変化はなかった。この場所のことは前に一度セクラに話したことがあった。そして今、彼女とここに一緒にいることを想像した。彼女はわたしの助けで脱走したのだ。そしてわたしは、ここにいればだれにも見つからないと彼女に保証し、食べ物を運んでくると約束し、捜索が下火になったら商人のダウ([#ここから割り注]一本マストに大三角帆をつけた沿海貿易用の船[#ここで割り注終わり])にこっそり乗せてあげるから、それで人目につかずにギョルの曲がりくねった流れに沿ってデルタ地帯に出て、そこから海に逃れることができると請け合った。
もしわたしが、彼女と一緒に読んだロマンスの中のヒーローだったら、その晩のうちに当直の仲間の職人をやっつけるか、または薬を盛って、彼女を逃がしていただろうに。だがわたしはそういう人間ではないし、薬もなければ、キッチンから持ってきたナイフ以上の凶器も所持していなかった。
そして、もし真相を語れというなら、わたしの奥底の実体と、必死の試みとの間に、その朝――わたしの昇格の朝――に聞いたあの言葉が存在していた。セクラの方はわたしをむしろ優しい子≠ニいったのだ。そして、すでに成熟しているある部分は、たとえ自分がこれらの不利な条件に打ち勝ったとしても、やっぱりむしろ優しい子≠ネのだろうと知った。その時には、それが問題だと思ったのだ。
翌朝グルロウズ師はわたしに折檻の助手を務めるように命じた。ロッシュも一緒にきた。
わたしは彼女の独房の鍵を開けた。最初、彼女はわれわれが何のためにきたか理解できなかった。そして、訪問者があるのか、それとも釈放されることになったのか、とわたしに尋ねた。
目的の場所に着いた時には彼女も察しがついていた。失神する人が多いが、彼女はしなかった。グルロウズ師は、さまざまな仕掛けの説明をしてもらいたいかと、礼儀正しく彼女に尋ねた。
「あなたがたが使おうとしている道具を、という意味かしら?」彼女の声には一抹の戦慄《せんりつ》が混じっていたが、耳につくほどではなかった。
「いや、いや、それは説明しません。通っていく間にあなたの目についた、好奇心を引かれた器具だけです。とても古いものもあるし、ほとんど使われたことのないのもあります」
彼女は答える前に周囲を見回した。審問室――われわれの作業室――は小部屋に分かれておらず、一つの大部屋になっていて、太古のエンジンのチューブが円柱のように立ち並び、秘儀の道具が乱雑に置かれていた。「わたしに使われるのも――そんなに古いものなの?」
「すべての中で最も神聖なものです」グルロウズ師は答えた。師は彼女がさらに何かいうのを待っていたが、結局なにもいわなかったので、話を続けた。「凧はよく知っておられるにちがいない――あれはだれも知っている。その後ろにあるのは……もう一歩こちらに寄ると、もっとよく見えます……いわゆる、〈装置〉と呼ばれるもので、要求されるどんなスローガンをも客人の肉体に記入できることになっていますが、正常に働く状態になっていることはめったにありません。古い柱《ポスト》を見ておられるが、あれはご覧のとおり、手を固定するための杭です。それに、矯正のための十三人力の鞭が付属しています。もとは〈古い庭〉に立っていたのですが、魔女たちが苦情をいうので、城代がここに移させたのです。一世紀ばかり前のことですがね」
「魔女とはどんな人たちなの?」
「残念ながら、今その話を始める時間がありません。独房に戻った時にセヴェリアンからお聞きになるとよいでしょう」
彼女はいかにも、「やっぱり、本当に戻るのね?」とでもいうような目つきでわたしを見た。わたしは、グルロウズ師の反対側にいるという立場を利用して、彼女の氷のような手を握った。
「あの向こうにあるのは――」
「待って。わたしが選択することができるの? もしや、あなたがたを説得して……あるものから他のものに変更してもらうことができる?」彼女の声にはまだ勇気がこもっていたが、それも今では弱くなっていた。
グルロウズ師が首を振った。「その点については、われわれには発言権がないのです、奥方。あなたにもありません。われわれは届けられた宣告書を実行するのであって、命令以上にも以下にもしないし、また、変更することもありません」彼は当惑して咳払いした。「次は面白いものだと思います。〈アロウィンのネックレス〉と呼んでいます。客人はあの椅子に縛りつけられます。そして、あのパッドが胸骨に当たるように調節されます。それ以後、客人が息をするごとに、鎖が締まっていき、呼吸をすればするほど、少ししか息が吸いこめなくなるのです。理屈の上では、うんと浅く呼吸をしていれば、ごく少ししか締まらず、永久に呼吸を続けることができます」
「なんと恐ろしい。その後ろのあれはなんですの? あのテーブルの上のワイアーのもつれたものと、大きなガラスの球は?」
「ああ」グルロウズ師はいった。「これは〈革命機〉と呼ばれるものです。被術者はここに横たわります。どうぞ、奥方」
長い間、セクラはじっと立ちつくしていた。彼女はわれわれのだれよりも背が高かったが、ひどい恐怖の表情を顔に浮かべたその長身には、もはや威厳はなかった。
「横たわっていただかないと」グルロウズ師が続けた。「職人が強制しなければなりません。それはおいやでしょう、奥方」
セクラはささやいた。「全部、説明してくれると思っていたのに」
「この場所にくるまでです。客人には別のことを考えさせておくほうが良いですからね。さあ、どうぞ横になってください。お願いするのは、これが最後です」
彼女はすぐに、素早く、優雅に横たわった。独房で横たわるのを、わたしがしばしば見たように。ロッシュとわたしは彼女の体に革紐を回して止金を掛けたが、その革紐は、あまりにも古くてきしきし鳴ったので、持ちこえられるかどうか心配だった。
審問室の一隅から一隅にケーブルを張り渡し、加減抵抗器や磁気増幅器を調節しなければならなかった。真赤に血走った目のような古風な明かりが制御パネルに点り、巨大な昆虫の羽音のようなブーンという音が部屋全体を満たした。ごく短時間、塔の太古のエンジンが蘇った。一本のケーブルが緩んでいて、燃えるブランデーのように青い火花が、その青銅の取付け部品のあたりに踊った。
「稲妻です」グルロウズ師が緩んだケーブルをぐいと押しこんだ。「他の呼び名があったが、忘れてしまいました。とにかく、この〈革命機〉は稲妻で働きます。もちろん、あなたが雷に打たれるわけではありません、奥方。原動力が稲妻だということです。
セヴェリアン、おまえのハンドルを、この針がここにくるまで押し上げなさい」ちょっと前に触った時には蛇のように冷たかったコイルが、今は暖かくなっていた。
「それがどうなるの?」
「説明はできません、奥方。わたし自身はこれに掛けられた経験がないものですから」グルロウズ師の手が制御パネルのノブに触れた。すると、セクラは白い光に浸された。その光は、照らされるすべてのものの色を奪った。彼女は悲鳴をあげた。物心がついて以来ずっと悲鳴を聞きつづけているが、これは最も大きい悲鳴ではないとしても、最も凄惨な悲鳴だった。それは車輪の軋りのように、いつまでも、いつまでも続くように思われた。
白い光が消えた時、彼女は失神してはいなかった。その目は見開かれ、上を凝視していた。だが、わたしの手を見ている様子もなかったし、また、彼女の体に触った時、それを感じた様子もなかった。呼吸は浅く早かった。
ロッシュが尋ねた。「彼女が歩けるようになるまで、待ちますか?」こんなに背の高い女を運ぶのは厄介だと思っているのだろう。
「今連れていきなさい」グルロウズ師がいい、われわれは担架を取り出した。
その他の自分の仕事が全部終わると、わたしは彼女の様子を見るために独房に入っていった。この時には彼女は正気に戻っていた。もっとも、立つことはできなかった。「わたし、あなたを憎んで当然ね」彼女はいった。
彼女の言葉を聞き取るためには、彼女の上に身を屈めなければならなかった。「かまいません」わたしはいった。
「でも、それができないの。あなたのせいではない……もし最後の友人を憎んだら、後に何が残るかしら?」
返す言葉がなかったので、わたしは黙っていた。
「どんな具合だったかわかる? それを考えることができるようになったのは、ずいぶん時間がたってからよ」
彼女の右手が這い上がっていった。目に向かって。わたしはそれを掴んで、無理にもとに戻した。
「わたしは最悪の敵を見たように思ったわ。一種の悪魔をね。そして、それはわたしだったの」
彼女は頭から血を流していた。わたしはそこに綺麗なリント布を当てて、テープで止めた。だが、すぐに取れてしまうのはわかっていた。彼女の指の間に、黒い巻き毛がからまっていた。
「あれ以来、わたしは自分の手をコントロールすることができなくなったわ。特別に意識すれば、手が何をしているか知れば、できるけれど。でも、それはとても大変なことなのよ。それに、もう疲れてきたわ」彼女は首をごろりと向こう側にむけて、ぺっと血を吐いた。「口の中を噛んだわ。頬の内側や舌や唇を。一度など、この手が自分を締め殺そうとしたのよ。もう今にも死ぬかと思った。でも、失神しただけ。目醒めたので、手の力がなくなったにちがいないわ。あの機械みたいじゃない?」
わたしはいった。「〈アロウィンのネックレス〉ですね」
「でも、もっと悪いのよ。今はこの手が自分を盲目にしようとしているの。目蓋を引き裂こうとしているの。わたし、盲目になるのかしら?」
「はい」わたしはいった。
「あと、どのくらいで死ぬの?」
「一ヵ月です。あなたの中にあってあなたを憎むものは、あなたが弱れば弱ります。〈革命機〉がそれに命を吹きこんだのですが、そのエネルギーはあなたのエネルギーであって、最後には一緒に死にます」
「セヴェリアン……」
「はい?」
「わかったわ」彼女はいった。それから、「これはエレボスから、アバイアから、くるものなのね。わたしにふさわしい伴侶よ。ヴォダルスは……」
わたしは彼女の上に身を屈め、そしてついにいった。「わたしはあなたを助けようとしたのです。助けたかったのです。ナイフを盗んで、一晩チャンスを窺《うかが》って過ごしました。でも、独房から囚人を連れ出すことができるのは師匠だけなんです。わたしがそうするには殺さなければならないのです――」
「あなたの友達を」
「そうです、わたしの友達を」
彼女の両手がまた動いていた。そして、口から血が滴った。「そのナイフをここに持ってきてくれないかしら?」
「ここに持っています」わたしはいった。そして、マントの下からそれを取り出した。それは刃渡り一スパン([#ここから割り注]約二十センチ[#ここで割り注終わり])ほどの普通の料理用のナイフだった。
「切れそうね」
「切れます」わたしはいった。「刃の扱い方は心得ています。そして、丁寧に研いでおきました」これがわたしが彼女にいった最後の言葉だった。わたしはそのナイフを彼女の右手に載せ、外に出た。
しばらくは、彼女の意志がそれを押し留めているだろうとわかっていた。一つの考えが千回も繰り返し繰り返し心に浮かんだ。もう一度彼女の独房に入って、ナイフを取り戻すこともできる。そうすれば、だれにもわからない。そして、わたしは組合の中で一生を終えることができる、と。
たとえ彼女の喉がごろごろ鳴ったとしても、わたしには聞こえなかった。だが、彼女の独房の扉を長いこと見つめていると、その下から小さな深紅の流れが這い出してきた。それからわたしはグルロウズ師のところにいき、自分のしたことを話した。
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13 スラックスの警士《リクトル》
それから十日間、わたしは最上層の独房(実はセクラの入っていた独房からさほど遠くない)の中で、客人の生活をした。組合は法的手続きをせずわたしを拘留したという非難を避けるために、扉に鍵を掛けなかった。だが、扉の外側には剣を持った二人の職人が立っていて、二日目に事情聴取のためにパリーモン師のところにちょっと引き出された以外は――わたしの裁判だったと解釈されても、けっこうである――一歩も外に出なかった。残りの時間で、組合はわたしへの宣告を考えていたのだ。
事実を保存するのが時の独特の性質であるといわれ、また、時はわれわれの過去の虚偽を真実に変えることによって、そうするのだといわれている。わたしの場合も、そのとおりだった。わたしは組合を愛する――その抱擁の中に留まる以外に何も望まない――といって嘘をついた。いつの間にか、それはわたしにとって真実になっていた。職人の生活、いや徒弟の生活でさえも、限りなく魅力あるものに見えた。それは、わたしが死ぬ運命にあるからというだけでなく、自分がそれを失ってしまったがゆえに、それ自体が真に魅力あるものになったのである。今やわたしは客人の立場で組合員を見ていた。するとわたしの目には彼らが、敵意ある、ほぼ完全な機構の、強力で活発な動因として映った。
自分の立場が絶望的だと知りながらも、わたしは子供の頃に一度マルルビウス師から強く印象づけられた事を、自分自身の体で悟った。それは、希望というものは外部の現実に影響されない心理作用である、ということだった。わたしは若かったし、適切な食べ物を与えられ、眠ることも許されていた。それゆえ、わたしは希望を持った。自分がまさに死のうとする時にヴォダルスがやってくるだろうという夢を、目覚めている時も眠っている時にも、繰り返し繰り返し見た。共同墓地で闘っている彼を見たばかりでなく、何世紀にもわたる腐敗を一掃し、われわれをふたたび星々の主人にしてくれる軍隊の先頭に立っている姿を見たのだった。その軍隊の足音が廊下に鳴り響くのをしばしば聞き、また、暗闇にヴォダルスの顔を見たような気がして、扉の細い孔のところに蝋燭を持っていったこともあった。
前にもいったように、わたしは殺されると考えていた。これらののろのろとたっていく日々に、わたしの心をもっとも多く占めていた疑問は、その方法だった。わたしは拷問者のすべての技術を修得していた。今わたしはそれらを――時には、教えられた順序に従って一つ一つを、そして時には、苦痛とともに全部いっぺんに――思い出した。地下の独房の中で、責め苦のことを考えながら、一日また一日と生きているのは、それ自体が拷問だった。
十一日目にパリーモン師に呼び出された。わたしはまた太陽の赤い光を見た。そして、春がもうほとんどそこまできていることを告げる湿った風を吸った。しかし、開いている塔の門を見、しかも、その外に、幕壁の死者の門が見え、そこに同僚のポーターがのんびりと寛いでいるのを見ながら通り過ぎていくのは、ああ、なんと辛かったことだろう。
パリーモン師の書斎に入っていくと、そこはとても広く見え、しかもとても貴重に見えた――まるで、そのかびくさい書籍や書類がわたし自身のもののように感じられた。彼はわたしに坐るようにいった。彼は仮面をつけておらず、わたしの記憶よりも年寄に見えた。「おまえの事件を話しあった」彼はいった。「グルロウズ師とね。そして、他の職人や徒弟たちにさえも秘密を明かさねばならなかった。皆が真相を知るのは良いことだ。おまえの行為は死に価するという点で、皆の意見が一致した」
彼はわたしが何か言うのを待ったが、わたしは黙っていた。
「しかしながら、おまえを弁護する意見もたくさん出た。何人もの職人が内密で、わたしやグルロウズ師に会いにきて、おまえに苦痛のない死を許すべきだと熱心に主張した」
理由はわからないが、そのような友人が何人いるかが、わたしの最も重大な関心事になった。それで尋ねた。
「二人以上、いや三人以上だ。正確な人数は問題でない。おまえは苦痛ある死に価するとは信じないのか?」
「〈革命機〉に掛けてください」その死を恩典として望めば、聞き入れられないだろうと期待して、わたしはいった。
「ああ、しかし、それは適当でない。しかし……」
ここで彼は言葉を切った。一秒たち、二秒たった。新しい夏の最初の金蠅が窓のところでぶんぶん羽音を立てていた。わたしは窓を破りたかった。蠅を捕えて逃がしてやりたかった。パリーモン師に喋ってくれと怒鳴りたかった。その部屋から逃げ出したかった。だが、これらのことは何一つできなかった。わたしは師のテーブルの横の古い木の椅子に坐り、自分はすでに死んでいるが、さらに死ななければならないと感じていた。
「われわれはおまえを殺すわけにはいかないのだよ。それをグルロウズに納得させるのが大変だった。だが、そうなのだ。もしも裁判所の命令なしにおまえを殺せば、われわれはおまえと五十歩百歩になる。おまえはわれわれに背いたが、そんなことをすればわれわれは法に背くことになる。のみならず、組合を永久に危機に陥れることになる――取調官は、それを殺人と呼ぶだろう」
彼が言葉を待っていたので、わたしはいった。「でも、わたしのした事を考えると……」
「宣告は正しいだろう。それはそうだ。だが、われわれはみずからの権威において生命を奪う法的権利はない。その権利を持つ人々は当然、その権利を守ることに汲々としている。もし、われわれが彼らのところに行けば、評決は確実だ。だが、もし行けば、組合の名声は公に、そして取り返しがつかぬほど汚される。現在、われわれに寄せられている信頼の多くは、消え失せることだろう。それも永久に。だからこの問題は、密かに将来の人々の判断に委ねたほうがいいだろう。客人が兵士に護送されていくのを見て楽しめるかね、セヴェリアン?」
昔、溺れそうになった時にギョルの中で見た幻が目の前に蘇った。そして(その頃と同様に)その幻は陰膨ではあるが強力な魅力を持っていた。「むしろ自分で自分の命を取りたいです」わたしはいった。「水泳を装います。そして助けの手が届かない水路の真ん中で死にます」
パリーモン師の年老いた顔に苦笑の影がよぎった。「その申し出の相手がわたしだけでよかったな。グルロウズ師だったら、水泳が不自然でなく見えるようになるには、少なくとも一ヵ月は待たねばならぬと、喜び勇んで指摘したことだろう」
「わたしは真剣です。わたしは苦痛のない死を探し求めました。でも、探し求めたのは生の延長ではなくて、死でした」
「たとえ真夏だったとしても、おまえの提案を認めることはできなかったろう。取調官はやはり、われわれがおまえの死を画策したと結論するかもしれない。おまえにとって幸運なことに、われわれはより罪の少ない解決策をとることに意見が一致した。地方都市におけるわれわれの同業組合《ミステリー》の状態を、何か知っているか?」
わたしは首を振った。
「きわめて低調だ。ネッソス以外のどこにも――〈城塞〉内のここ以外のどこにもわれわれの組合の支部はないのだ。小さな町には|刑 吏《カルニフェクス》しかいない。その者がその土地の審判人《ユディカートル》の判決に従って命を取ったり、折檻を加えたりするのだ。そういう者は一般に憎まれ、恐れられている。わかるか?」
「そのような地位は」わたしは答えた。「わたしには高すぎます」この言葉に偽りはなかった。その瞬間には、組合を軽蔑するよりもはるかに強く自分を軽蔑していたのである。これはわたし自身の言葉だったが、それ以来、わたしはしばしばこの言葉を思い出した。そして、この言葉はいろいろと困った時に、わたしにとって慰めになってくれた。
「スラックスと呼ばれる町、別名窓のない部屋の町≠ニいうのがある」パリーモン師は続けた。
「そこの執政官《アルコン》――アブディエススという名だが――その人が〈絶対の家〉に書簡をよこした。それを司法秘書官が城代に転送し、そこからわたしのところに回ってきた。スラックスでは、今説明した役人を火急に欲しがっている。過去においては、かれらは死刑囚を、その職務を受け入れるという条件で赦免してきた。現在では、田舎は欺瞞で腐っているし、この地位は必然的にある程度の信用を必要とするものだから、町当局はふたたびそのような任命の仕方をするのを渋っているのだ」
わたしはいった。「わかりました」
「以前に二度、組合員が僻遠の町に派遣された例がある。もっとも、それらが今度と同じような事情によるものかどうかは、年代記は触れていないがね。それはそれとして、先人は前例と、そして、この迷路からの脱出口を、残してくれたわけだ。おまえは、スラックスにいくことになったぞ、セヴェリアン。むこうの執政官とその審判人たちに宛てて紹介状を書いておいた。おまえはわれわれの秘術に長けていると書いたぞ。あのような町にとっては、嘘にはならないだろう」
わたしはすでに決定に従うつもりになって、うなずいた。だが、服従することだけを考えている職人らしい無表情な顔でそこに坐っているうちに、新しい恥ずかしい気分が身内に燃え上がった。それは、組合の名誉に泥を塗ったことにたいする恥ずかしさほど熱いものではなかったけれど、もっと生々しいものであった。古い方の恥ずかしさと違って、こちらはそのいやな気分にまだ慣れていなかったので、それだけよけいに心が痛んだ。なぜなら、わたしは行くことに喜びを感じ――わたしの足はすでに草の触感に恋い焦がれ、目は珍しい景色に恋い焦がれ、肺は遙か彼方の無人の地の新鮮な空気に恋い焦がれたのだから。
スラックスの町はどこにあるか、パリーモン師に尋ねた。
「ギョルの下流だ」彼はいった。「海のそばだ」それから、よく老人がやるように、急に言葉を切って、いった。「いや、違う、わたしとしたことが、何を考えているのかな? ギョルの上流だ、もちろん」わたしにとって、何百リーグもの押し寄せる波も、砂浜も、海鳥の叫びも、すべて消えた。パリーモン師は戸棚から地図を取り出し、わたしの前に広げ、このようなものを見る時に使うレンズが羊皮紙に接触するほど、その上に身をかがめた。「ここだ」かれはそういって、若い川の低いほうの滝のそばの一点を示した。「金を持っていれば船で行くこともできるが、事情が事情だから、歩いていかねばならない」
「わかりました」わたしはいった。そして、隠し場所に安全に隠してあるヴォダルスに貰ったあの薄い黄金の小片を思い出したが、あれにどのような価値があろうとも、あれを利用することはできないと覚悟した。若い職人が普通に持っている程度のわずかな金だけをわたしに与えて、追放するということが組合の意志であったし、また名誉のためだけでなく、慎みのためにも、わたしは歩いていかなければならなかった。
だが、これは公正でないと知っていた。もし、あのハート形の顔をした女を垣間見ず、あの小さな金貨を手に入れなかったならば、セクラにナイフを差し入れて、組合内の自分の地位を棒に振るなどということは、起こり得るはずがなかった。ある意味で、あのコインがわたしの命を買い取ってしまったのだ。
よろしい――古い生活は後に捨てていこう……
「セヴェリアン!」パリーモン師が大きな声を出した。「話を聞きなさい。教室では決して上の空でいる生徒ではなかったのに」
「すみません。いろんな事を考えていたのです」
「無理もない」初めて彼が本当に微笑した。そして、ほんの一瞬、彼の年老いた素顔が覗いた。わたしの子供の頃のパリーモン師の素顔が。「それにしても、おまえの旅について、あんなに良い忠告を与えておったのに。これで、おまえはそれらの知識なしに旅をしなければならなくなった。たとえ聞いたとしても、どうせ全部忘れてしまうだろうが。道路のことは知っているな?」
「道路は使えないということだけは、知っています」
「独裁者マルサスが閉鎖したのだ。あれは、わたしがおまえぐらいの年齢の時だった。旅行は叛乱を助長する。そして、彼は品物が川を通じて市に出入りすることを望んだのだ。そのほうが税金をかけやすかったからだ。それ以来その法律が効力を持っている。そして、五十リーグごとに砦があるそうだ。しかし、道路はまだ残っている。修理はほとんどなされていないが、夜間には通る者がいるということだ」
「ああ、そうですか」わたしはいった。閉鎖されていようといまいと、道路を行くほうが、法律が命じるように田舎を横切っていくよりも楽だろう。
「それはどうかな。そうしないほうがよいと警告しておく。道路でだれかを見かけたら殺すように命令を受けて、槍騎兵がパトロールしている。そして、彼らは殺した者の金品を奪うことを許されているから、通行人の言い訳をあまり聞き入れないだろう」
「わかりました」わたしは答えたが、心の中で、彼はいったいどうやって旅行の知識をそんなに得たのだろうかと思った。
「よろしい。もう一日の半分が過ぎた。よかったら、今夜はここで寝て、明朝出発するがよい」
「独房で寝ろという意味ですね」
彼はうなずいた。彼にはほとんどわたしの顔が見えないことはわかっていたが、なんとなくわたしは観察されているように感じた。
「では、今出発します」われわれの塔に永遠に背を向ける前に何をしなければならないか、わたしは考えようとした。何も思い浮かばなかったが、たしかに何かあるにちがいないと感じた。
「準備のために一刻の猶予をいただけませんか? その時間がたったら、出ていきます」
「それは問題なく許可できる。だが、去る前にここに戻ってきてほしい――おまえに与えるものがある。よいな?」
「もちろん、そうします、師匠がそうおっしゃるなら」
「それからセヴェリアン、気をつけるのだぞ。組合にはおまえの友達が大勢いる――彼らはこんな事が決して起こらなければよかったと思っている。しかし、おまえはわれわれの信頼を裏切ったのだから、拷問と死がふさわしいと感じている者もいるのだ」
「ありがとうございます、師匠」わたしはいった。「後者が正しいのです」
わたしの少しばかりの所持品はすでに独房に運んであった。それらをまとめると、ごく小さくなって、ベルトにさげた|図 嚢《サパタッシュ》に入ってしまった。愛と、そして、しでかした事への後悔の念に動かされて、わたしはセクラの独房にいった。
そこはまだ空になっていた。床の彼女の血は拭き取られていたが、大きな黒い血の錆が金属を腐食した跡が残っていた。衣服はなくなっていた。化粧品も。だが、一年前にわたしが運んできた四冊の本は、他のものと一緒にテーブルの上に積み重ねられていた。一冊持っていきたいという誘惑に抗うことができなかった。図書館にはあれほどたくさんの本があるのだから、一冊ぐらいなくなっても、なんということもないだろう。どれを選ぶか心が決まらないうちに、手が伸びた。紋章学の本は最も美しかったが、あまりに大きすぎて、とても田舎で持ち歩くことはできない。神学の本は最も小さかった。しかし、茶色の本もそれより大きいとは、ほとんどいえないくらいだ。結局わたしが取ったのは、消滅した世界の話が収録されているその本だった。
それからわれわれの塔の階段を登り、倉庫を通り過ぎ、純粋の力の揺り籃の中に、攻城戦に備えた武器類が憩っている銃器室にいき、それから、もっと上の、灰色のスクリーンがあって、奇妙に捻れた椅子のあるガラス天井の部屋にいった。そこから狭い梯子を登ると、つるつる滑るガラスの表面そのものに立った。わたしが現われると、黒いムク鳥が煤の粉を振り撒いたように空に飛び立った。そして、頭上の旗竿には組合の煤色の三角旗がへんぽんと翻っていた。
足下の〈古い庭〉は小さく、むしろ狭苦しく見えたが、同時に、限りなく居心地が良さそうに、寛ぐことができそうにも見えた。幕壁の裂け目は想像以上に大きかった。もっとも、その両側にそれぞれ〈赤い塔〉と〈熊の塔〉が依然としてがっしりと力強く立っていたけれども。われわれ自身の塔の最も近くにある〈魔女の高楼〉はほっそりとして、黒ずんで、背が高かった。一瞬、風が彼女らの荒々しい高笑いの声を、わたしの耳元に運んできたので、わたしは昔の恐怖を感じた。しかし、われわれ拷問者は昔から魔女たちとは最も仲が良かったので、彼女らはわれわれの姉妹のようなものであった。
城壁の向こうには、共同墓地がギョルに向かって長い斜面を起伏しながら下っていた。ギョルの水面が、河岸のなかば朽ちた建物の間からちらちらと見えた。川の満々たる水の向こうに、隊商宿《カーン》の丸いドームが小石ほどに見え、それを取り巻く都市が、昔の拷問者の師匠によって踏みにじられた色とりどりの砂の広がりのように見えた。
船首と船尾が高く鋭く反り上がり、帆いっぱいに風をはらんだ軽帆船《カイーク》が黒い流れに乗って南に進んでいくのが見えた。意志に反して、わたしの目はしばらくその後を追った――デルタ地帯まで、それから沼沢地まで。そして最後に、氷河前時代に宇宙の果ての海岸から連れてこられたあの巨大怪獣アバイアが、その中でのたうちながら、彼とその種族が大陸をむさぼり食う瞬間がくるのを待っているという、きらめく海まで。
それからわたしは南方と、そして氷が詰まっている南の海についてのすべての想いを放棄して、北方の山岳地帯と川の上流の方を向いた。長い間(どのくらい時間がたったか知らないが、太陽の位置に二度目に注意を向けた時には、その位置が変わっていた)、わたしは北の方を眺めていた。山岳地帯は心眼では見えたが、肉眼では見えず、ただ、何百万とも知れない屋根が起伏する都市の広がりしか見えなかった。そして、本当のことをいえば、〈天守閣〉の巨大な円柱の束とそれを取り囲むたくさんの尖塔が、わたしの視野をなかば遮っていた。しかし、それらはまったく気にならなかったし、実際、ほとんど目に入らなかった。北には〈絶対の家〉があり、大滝がいくつもあり、そして窓のない部屋の町<Xラックスがあった。北には広大な草原《バンバス》があり、道のない百もの森林があり、そして、世界の胴のくびれに朽ち果てていくジャングルがあった。
これらすべてのことを考えると、気が狂いそうになったので、わたしは下に降りてパリーモン師の書斎にいき、出発の準備ができたと伝えた。
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14 テルミヌス・エスト
「おまえに贈り物がある」パリーモン師がいった。「その若さと体力を考えれば、重荷にはなるまい」
「贈り物をいただくような立場ではありません」
「それはそうだが。覚えておきなさい、セヴェリアン、贈り物を貰って当然だという場合には、それは贈り物ではなくて支払いなのだ。真の贈り物といえる唯一のものは、今おまえが受け取るようなもののことだ。わたしはおまえのやったことを許すことはできない。しかし、おまえという人間を忘れることができないのだ。グルロウズ師が職人に昇格して以来、おまえのような優秀な学生を教えたことはなかった」彼は立ち上がり、壁のくぼみの方にぎごちなく歩み寄った。そして、そこで、「ああ、まだわたしにも、それほど苦労せずに扱えるぞ」といった。
彼は何か持ち上げたが、それは影に溶けこんでしまうほどひどく黒ずんでいた。わたしはいった。「手伝います、師匠」
「いや、いい、いい。上げるのに軽く、降ろすのに重い。それが業物《わざもの》の特徴だ」
彼はテーブルの上に、棺桶になるほど長いが、もっとずっと細い漆黒のケースを置いた。その銀色の止金を開くと、鐘のような音がした。
「ケースはやらないぞ。邪魔になるばかりだからな。これは剣だ。それと、旅行中に剣を保護する鞘と、肩に掛ける飾帯をやる」
何を貰ったかまだよくわからないうちに、それはわたしの手の中にあった。真黒な人間の皮が、剣の柄頭近くまで覆っていた。わたしはその鞘を払い(それは手袋のなめし革のように軟らかかった)、剣そのものを持った。
その剣の素晴らしさ、美しさを並べ立てて、諸君を退屈させることは控えておこう。それを正しく判断するには、自分で見て、自分で持つ以外にないのだから。その鋭い刃の長さは一エルほどで、まっすぐで、この種の剣が当然そうであるように切っ先は四角になっていた。男刃と女刃は鍔《つば》から一スパン以内の部分まで、髪の毛を切ることができた。鍔は厚い銀でできており、両端に首の彫刻がついていた。柄はオニキスを銀の帯で巻いたもので、長さ二スパン、先端にオパールがついていた。この剣には芸術の粋が尽くされていた。しかし、この種の物に魅力と意義を与えるのは、その機能であって、それなしでは何の価値もないわけだから、芸術そのものはこの剣に何の寄与もしていなかった。剣身には不思議な美しい文字でテルミヌス・エストと彫られていた。そして、わたしは〈時の広間《アリウム》〉から帰って以来、古代語を充分に学んでいたので、その意味はこれが分割線≠セとわかった。
「心配しなくてよい。よく砥がれている」パリーモン師は、わたしが男刃に親指を当てて切れ味を調べているのを見て、いった。「引き渡される囚人のために、手入れを怠るでないぞ。心配なのは、これがおまえの友として重すぎはしないかということだ。持ち上げてごらん」
わたしはテルミヌス・エストを、昇格の儀式で偽の剣を握ったように握り、天井にぶつけないように注意しながら、頭上に振りかぶった。剣は、まるで大蛇と格闘しているような感じで動いた。
「無理はないか?」
「ありません、師匠。でも、持ち上げる時に、うごめきました」
「その刃の峰に溝があって、その中を|水 銀《ヒドラルジルム》――鉄よりも重い金属だが、水のように流れる――の川が流れるのだ。だから、刃が上にある時には、重心が手の方に移るが、下に落ちる時にはそれが切っ先にくるのだ。最後の祈りが終わるのを待ったり、審問官の手の合図を待ったりしなければならないことがよくある。そんな時に、おまえの剣が揺れたり震えたりしてはならない――いや、こんなことはすべて知っているな。このような道具は大切にしなければならないと、言って聞かせる必要もあるまい。では、セヴェリアン、モイラ([#ここから割り注]運命の女神[#ここで割り注終わり])の御加護があらんことを」
わたしは鞘のポケットから砥石を取り出して、図嚢に入れた。そして、スラックスの執政官《アルコン》宛に師が書いてくれた手紙をたたんで、油を引いた絹布に包み、鞘のポケットに入れた。そして、師匠のもとを辞した。
幅広の剣が左肩の後ろで揺れるのを感じながら、わたしは死者の門を通って、風の吹きすさぶ共同墓地の庭園に入っていった。川に最も近い一番下の門の衛兵は、ひどく不審そうな顔をしながらも、文句を言わずに通してくれた。そして、わたしは狭い街路を縫って、ギョルに沿って通っている〈水の道〉に出た。
ここで、もう済んでしまったことではあるが、いまだに恥ずかしく思っていることを書かねばならない。その日の午後の数刻は、わたしの生涯の最も幸福な時間だった。組合に対する憎しみのすべてが消え失せてしまっていた。そして、組合への愛、パリーモン師や同僚や徒弟にさえも感じる愛、その伝承と慣習への愛、決して完全には死んでいなかった愛情だけが、後に残ったすべてだった。これらの愛するものすべてを完全に汚してしまった後に、わたしは出てきたのだ。泣いてもよいはずだった。
だが、泣かなかった。わたしの内部の何かが空高く舞い上がった。そして、風がマントを翼のようにはためかせると、自分も舞い上がったように感じた。われわれは、師匠、同僚、客人、徒弟以外の、いかなる人の前でも笑うことを禁じられている。仮面はかぶりたくなかったので、頭巾を引き上げ、首を垂れて、通行人に顔を見られないようにした。なぜなら、どうしても笑いがこみ上げてくるからであった。後から見れば間違いであったが、その時には、自分は、旅先で朽ち果てると思っていた。同様に間違いであったが、自分は〈城塞〉に、あの塔に決して戻ることはあるまいと思っていた。しかし、やはり、これも間違いであったが、このように楽しい日々がこれから先も、ずっと続いてくると信じたからであった。
世間知らずのために、わたしは暗くならないうちに町から外に出ることができ、比較的安全な木の下で眠ることができるだろうと想像していた。だが実際は、西の地平線が上って太陽を隠さないうちに、古い貧しい地域をやっと通り過ぎただけだった。〈水の道〉沿いの倒れそうな建物の一つに、泊めてくれるように頼んだり、その片隅で休んだりすることは、死への招待になりかねなかった。それで、わたしは風のために明るく見える星々の下を、とぼとぼと歩いていった。わたしはもはや、通り過ぎる人々の目には拷問者ではなく、黒いパテリッサ([#ここから割り注]上端に十字架のついた杖[#ここで割り注終わり])を背負っている、陰気な服装の旅人にすぎなかった。
時々、水草がいっぱい生えている水面を船が滑っていき、その帆や綱で風が音楽を奏でていた。貧弱な船は灯火をつけず、流れていく塵埃とほとんど区別がつかなかったが、船首と船尾に灯火をつけて、金箔をきらきら輝かせながら金持ちの豪華船《サラメギー》が通っていくのを何度も見た。それらは襲撃を恐れて水路の真ん中を通っていくのだが、それでも、その甲板に立ってオールを漕いでいる漕ぎ手の歌声が、水面を渡って聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
漕げよ、兄弟、漕げよ!
流れは逆だぞ。
漕げよ、兄弟、漕げよ!
それでも、神がついている。
漕げよ、兄弟、漕げよ!
風は逆だぞ。
漕げよ、兄弟、漕げよ!
それでも、神がついている。
[#ここで字下げ終わり]
といった具合に。一リーグ以上も上流にいってしまって、灯火が火の粉くらいになっても、歌声は風に乗って流れてきた。後で見たのだが、彼らは繰り返しの文句でオールを引き、一行おきの文句でそれを戻し、そうして、何刻も何刻も漕いでいくのだった。
まもなく今日の行程を終わりにしなければならないと思った頃、幅の広い黒いリボンのような河面に、船の灯火とは違う、対岸まで一列に並んで静止している灯火が見えた。それは橋だった。暗い道を長々と歩いて、やっとそこに着いた。ぴちゃぴちゃと水が舌を鳴らしている岸辺を後にして、〈水の道〉から欠けた階段を登り、その上にある橋の街路に出た。すると、わたしはたちまち新しい場面の登場人物になった。
〈水の道〉が暗かっただけに、橋の照明が明るく感じられた。約十|複歩《ストライド》([#ここから割り注]二歩を一つに数える[#ここで割り注終わり])ごとに、ぐらぐら揺れる柱があって松明が燃えており、また、約百複歩ごとに、橋脚にしがみつくように張出し櫓があって、その窓が花火のようにこうこうと輝いていた。ランタンをつけた馬車ががらがらと通っていき、歩道に群れている人々の大部分は松明持ちを連れているか、自分で灯火を持ち歩いていた。首から吊した皿に商品を載せて、大声で売り歩く行商人がおり、粗野な言葉でがなり立てている外人《エクスターンズ》([#ここから割り注]ウールス生まれだが、共和国外で生まれた者を指す[#ここで割り注終わり])がおり、古傷を見せ、フラジオレットやオフィクレイド([#ここから割り注]ともに管楽器の名[#ここで割り注終わり])の物真似をし、わが子をつねって泣かせている乞食がいた。
わたしの受けた教育は、ぽかんと口を開けてそれらに見惚れることを禁じたが、そのすべてを、ひどく面白く感じたことを白状せねばならない。わたしは頭巾を引っ張って顔を隠し、目をきっと前方に据えて、それらにまったく関心がないふりをして、群衆の中を通っていった。しかし、短い時間ながら、疲労が溶け去るのを感じた。そして、そこに留まりたいという願望ゆえに、かえって足の運びが大股に、早くなったと思う。
張出し櫓の衛兵は市の巡回者ではなく、半甲胃を着けて透明な楯を持った小楯兵《ペルタスト》だった。あと少しで西岸に着くという時に、そういう二人がぎらぎら光る槍を持って、わたしの前に立ちふさがった。「そのような衣裳を着けて出歩くことは重大な犯罪だぞ。冗談か策略のつもりならば、それだけで危険な目に遭うことになる」
わたしはいった。「わたしは自分の組合の衣服を着る資格がある」
「では、本気で刑吏《カルニフェクス》だと言い張るつもりか? そこに所持しているのは剣か?」
「そうだ。だがわたしはそのような者ではない。真理と悔悟の探究者の結社≠フ職人だ」
しーんとした。たちまちのうちに百人ばかりの群衆がわれわれを取り巻き、口々に質問をして、わたしに答えを要求した。それまで口をきかずにいた小楯兵《ペルタスト》が同僚にむかって大|事《ごと》になるぞ≠ニいう表情で目くばせをし、視線を群衆に移した。
「中に入れ。百人隊長が話があるそうだ」
彼らはわたしを先に立てて狭い戸口をくぐった。内部は一つの小部屋になっていて、テーブルと椅子が二、三あるばかりだった。それから、土足で踏まれてひどく擦り減った小さな階段を登った。上の部屋では、胴甲を着けた一人の男が高い机に向かって書き物をしていた。わたしを捕えた兵士たちが続いて上がってきて、彼の前に立ち、さっき口をきいた奴がいった。「この男です」
「わかっている」百人隊長は目を上げずにいった。
「拷問者の組合の職人だと自称しています」
それまですらすらと滑っていた羽根ペンが、一瞬止まった。「本のページの外で、こんな奴と出会うとは思ってもみなかった。しかし、おそらく、こいつの言っていることは本当だろう」
「では、釈放しなければなりませんか?」兵士が尋ねた。
「いや、まだだ」
ここで、百人隊長はペンを拭い、それまでせっせと書いていた手紙に砂を掛けてインキを乾かし、目を上げてわれわれを見た。わたしはいった。「あなたの部下が、わたしのこの外套を着る権利を疑って、呼び止めた」
「おれが命令したから、呼び止めたのだ。そう命じた理由は、おまえが騒ぎを引き起こしていたからだ。東の小塔から報告がきている。もし、おまえが拷問者組合の会員なら――正直な話、そんなものはとうの昔に消滅してしまったと思っていたが――ずっと生活してきたのだな、あそこで――なんてったっけ?」
「〈剣舞《マタチン》の塔〉」
彼は指を鳴らし、面白がっていると同時に口惜しがっているような表情をした。「その塔がある場所のことをいっているのだ」
「〈城塞〉」
「そう、〈昔の城塞〉だ。あれはたしか川の東で、アルゲドン地区の真北だったな。おれは士官候補生の時に、〈天守閣〉を見に連れていかれたことがある。おまえたちはたびたび市内に出てくるのか?」
わたしは水泳のための遠出を思い出して答えた。「しばしば出てくる」
「今のような服装でか?」
わたしは首を振った。
「そのままの服装でいるつもりなら、その頭巾をはずせ。おまえの鼻がうごめくのしか見えん」百人隊長は椅子から立って、橋を見下ろす窓に大股に歩み寄った。「ネッソスにはどのくらいの人間がいると思うか?」
「見当もつかない」
「おれもだ、拷問者。だれもそうだ。人口を数えようとする試みはいつも失敗する。組織的にかれらに税を課する試みが必ず失敗するのと同様にな。壁の落書と同様に、町は夜ごとに成長し、変化するんだ。暗闇で道路の敷石を剥がして、そこを自分の地所だと主張する利口な奴らによって、街路に家が建てられる――そういうことがあるんだぞ。高貴人タラリカンは、人間の存在の最低の側面に猛烈な興味を燃やす気ちがいだが、こう主張している。他人の残飯をむさぼり食って生活している者は約二千人いると。乞食芸人が一万人いて、その半分ちかくが女だと。仮に、おれたちが息をするたびに、この橋の欄干から貧民が一人身投げをするとすると、おれたちは永久に生きるそうだ。なぜなら、この都市はおれたちが呼吸をするよりも早く、人間を産み出しては殺しているからだと。このような群衆の中では、平穏に代わるものはない。擾乱を許すことはできない。なぜなら擾乱は消し止めることができないからだ。おれの話がわかるか?」
「秩序という選択肢がある。まあ、それが成就されるまでは、そういうことだろうが」
百人隊長は溜息をつき、わたしの方に向き直った。「少なくとも、それだけわかればよろしい。では、おまえはもっと普通の衣服を手に入れる必要があるだろう」
「〈城塞〉に戻ることはできない」
「では今夜は人目につかぬようにして、明日、何か買え。金はあるか?」
「少しなら」
「よし。何か買うとか、盗むとか、あるいは、次にその剣で首を斬られる運の悪い奴の衣服を剥ぎ取るとかしろ。部下に命じて、おまえを旅籠に連れていかせようとも思ったが、そうすると、ますます人目を引き、噂が広がることになる。川で何か事故があったらしく、今でも、やたらに幽霊話がささやかれている。今は風が静まり、霧が湧きはじめているだから、なおさら始末が悪い。おまえはどこに行くのだ?」
「スラックスの町に行くことになっている」
前に口をきいた小楯兵《ペルダスト》がいった。「隊長、こいつを信じるんですか? こいつの話の証拠はないんですよ」
百人隊長はまた窓の外を見ていた。そして、今はわたしにも黄土色の霧の筋が見えた。「頭が使えないなら、鼻を使え」彼はいった。「こいつと一緒にどんな匂いが入ってきた?」
小楯兵《ベルタスト》は曖床な笑いを洩らした。
「錆びた鉄、冷たい汗、腐った血。詐欺師なら新品の衣服の匂いか、トランクから盗んだ古着の匂いがするものだ。早く目を覚まして仕事に精を出さんと、ペトロナックス、北に送って、アスキア人どもと戦わせるぞ」([#ここから割り注]アスキアンは影のない人≠フ意味。赤道地方では正午に影がなくなることから出た名称。共和国の人々は敵がそちらからやってくると思っている[#ここで割り注終わり])
小楯兵《ペルタスト》はいった。「しかし、隊長――」彼はわたしにあまりにも強烈な憎悪の視線を向けたので、わたしはこの櫓から出たら危害を加えられるかもしれないと感じた。
「この男に、おまえが本当に拷問者組合の者だという証拠を見せてやれ」
その小楯兵《ペルタスト》は油断していたので、たいして困難はなかった。わたしは右腕で彼の楯を払い除け、左足でその右足を踏んで動けないようにしておいて、首にある痙攣を起こす神経を押し潰した。
[#改ページ]
15 バルダンダーズ
橋の西のたもとの町は、さっき出てきた町とは非常に異なっていた。第一に、角ごとに松明があり、橋そのものの上とほとんど同じくらい賑やかな馬車や荷車の往来があった。わたしはこの夜の残りをどんな場所で過ごしたらよいか、張出し櫓を去る前に百人隊長に聞いてきた。今は、ほんの短い間忘れていた疲労が表面に出てくるのを感じながら、旅籠の看板を探して、とぼとぼと歩いていった。
しばらくすると、一歩ごとに闇が濃くなり、どこかで曲がり角を間違えてしまったように思われた。もとの道に引き返すのは気が進まなかったので、たとえ道に迷ったにしても一足ごとにスラックスに近づいていくのだと考えて、自分を励ましながら、大体北の方向に進んでいくことにした。やっと小さな旅籠が見つかった。看板はたぶんないらしく目に入らなかったが、料理の匂いがし、酒杯の触れあう音が聞こえた。わたしは扉を押し開けて入っていき、そこがどんな場所か、どんな人たちの中に入ったかあまり気にせずに、戸口のそばにあった古い椅子に坐りこんだ。
ずいぶん長いことそのまま坐っていて、呼吸が回復し、ブーツを脱ぐことができる場所がほしいと思う余裕ができた頃(立ち上がってそのような場所を探す状態には、まだとてもなっていなかったけれども)、隅で飲んでいた三人の男が立ち上がって出ていった。そして、一人の老人が、たぶん、わたしが商売の邪魔になると見てとったらしく、そばにきて、何か用かと尋ねた。わたしは部屋が欲しいといった。
「ないよ」
わたしはいった。「まあ、同じことだ――どうせ払う金がないのだから」
「では、出ていってくれ」
わたしは首を振った。「まだだ。くたびれていて動けない」(町でこのトリックを使うことは、職人仲間から教わったのである)
「おまえ、刑吏じゃないか? 首をちょん斬るんだな」
「今、匂いがしている魚を二匹ここに持ってきてくれ。首だけ残してやろう」
「市警を呼ぶぞ。摘み出させるぞ」
その口調から、本気でいっているのでないことがわかったので、呼びたければ呼ぶがいい、だがその間に魚を持ってきてくれといった。すると、彼はぶつぶつ言いながら行ってしまった。それから、わたしはテルミヌス・エストを膝の間に立てて、まっすぐに坐りなおした(それを肩から降ろさなければ、ちゃんと腰を下ろすことができなかったのだ)。部屋にはわたしの他にまだ五人の男がいた。だが、だれもわたしと目を合わそうとせず、まもなく二人は出ていった。
老人が、ぼろぼろのパンの薄切りの上に臭い小魚をのせて戻ってきた。そして、いった。「これを食って、出ていってくれ」
彼はわたしが夕飯を食べている間、立って眺めていた。食事が終わると、わたしはどこで眠ったらよいか尋ねた。
「部屋はないと、いったろう」
たとえ半チェーン先に御殿が扉を開けて待っているといわれても、わたしはこの旅籠を出てそちらに行く気にはならなかったろう。わたしはいった。「では、この椅子の上で寝る。今夜はどうせ、ほかに客はきそうもないからな」
「待て」彼はそういって、離れていった。別室で彼が女と話しているのが聞こえた。
目が覚めると、彼がわたしの肩を揺すっていた。「三人で一つの寝床に寝てくれないか?」
「だれと?」
「二人の上流人だ、絶対に間違いない。とても良い人たちで、二人で旅をしているんだ」
女が台所で何かわけのわからないことを叫んだ。
「あれを聞いたか?」老人は続けた。「その一人がまだきていない。こんな夜更けだから、もう、たぶんやってこないだろう。たぶん、あんたがた二人だけになる」
「しかし、その人たちが寝室を借りているとすると――」
「あの人たちは文句はいわない、約束する。実はな、刑吏、彼らは弱みがあるんだ。三晩ここにいるのに、最初の晩の分だけしか金を払っていないんだ」
こうしてわたしは立退き要求書≠ニして利用されることになった。これはわたしにとってあまり気にならなかった。そして、実際、なんとなく前途有望な感じになってきた――もし、今夜そこで寝ている人が出ていけば、その部屋を独占できそうな雲行きだったからである。わたしはよろよろと立ち上がり、老人の後について、曲がりくねった階段を登っていった。
入った部屋は鍵は掛かっていなかったが、墓場のように暗かった。重い息づかいが聞こえた。「おい、おまえ!」老人は、泊まり客が上流人だといったことを忘れて、怒鳴った。「なんてったっけ? ボールディ([#ここから割り注]はげの意[#ここで割り注終わり])か? バルダンダーズか? 仲間を連れてきてやったぞ。宿賃を払わないなら、下宿人を受け入れてもらうよ」
返事はなかった。
「さあ、刑吏さん」老人がわたしにいった。「明かりをつけてやる」彼は一片の付け木をふうふう吹いて燃え上がらせ、短い蝋燭に火をつけた。
部屋は狭く、ベッドが一つあるだけで、他に家具はなかった。その上で(見たところ)こちらに背を向けて足を縮めて横になっているのは、これまでに見たこともない――巨人と呼んでもよいほどの――大男だった。
「同居人がどんな人か、起きて見る気はないのかい、バルダンダーズの旦那?」
わたしは眠りたかったので、もう行ってくれと亭主に頼んだ。彼は抵抗したが、扉から押し出し、いってしまうと、わたしはすぐにベッドの空いている側に腰を降ろして、ブーツと靴下を脱いだ。蝋燭の暗い明かりで、足にいくつも豆ができているのがわかった。それから外套を脱いで擦り切れたベッドカバーの上に広げた。一瞬わたしはベルトをはずしズボンを脱ぐか、それとも、そのままで寝るか、迷った。用心と疲労が、後者を支持した。そして、巨人が完全に服を着たままでいるのに気づいた。言いようのない疲労と安堵を感じながら、わたしは蝋燭を吹き消し、〈剣舞《マタチン》の塔〉の外での、思い出すかぎりの最初の夜を過ごすために、横になった。
「まっぴらだ」
その声は(まるでオルガンの最低音のように)もの凄い低音で響きが豊かだったので、最初はその言葉の意味が、いや、そもそもそれが言葉だったかどうか、わからなかった。わたしはもごもごいった。「なんだって?」
「バルダンダーズだ」
「知っている――宿の亭主から聞いた。ぼくはセヴェリアンだ」わたしは同宿者との間にテルミヌス・エストを(安全のためにベッドに持ちこんだのである)置いて、上向きに寝ていた。暗いので、相手が寝返りを打ってこちらを向いているかどうか、わからなかった。しかし、もしそうしたら、この途方もない図体の動きを感じたはずだと思った。
「あんた――首を斬る」
「では、入ってきた時の話を聞いたな。眠っていると思ったのに」唇がひとりでに動いて、わたしは刑吏ではなく、拷問者組合の職人だと言おうとした。だが、わたしは、自分のしでかした不始末と、スラックスが処刑人の派遣を要請していることを思い出した。「そうだ、ぼくは首斬り役人だ。だが恐がることはない。礼金を貰った事しかやらないから」
「じゃ、また明日」
「ああ、明目は会って話をする時間がたっぷりあるだろう」
それから夢を見た。もっとも、バルダンダーズの言葉もまた夢だったのかもしれないが。だが、そうは思わない。そして、もしあれが夢だったとしたら、種類の違う夢だったのだ。
雲行きの怪しい空の下で、わたしはなめし革のような翼のある巨大な動物にまたがっていた。ちょうど、雲の棚と薄明の陸地との間でバランスを取りながら、われわれは空気の丘を滑り降りた。指に翼のあるその飛行生物は、長い翼端をほとんど一度も打ち合わせなかった。前方には死にかけた太陽があった。そして、どうやら、われわれのスピードがウールスの自転と一致しているらしく、太陽は地平線上に動かずにいて、われわれだけがどんどん飛びつづけた。
ついに、陸地に変化が見えた。最初は砂漠だと思った。遙か彼方に、都市も農場も森も野原も見えず、ただ黒ずんだ紫色の、なんの特徴もない、ほとんど不毛の平らな荒地しかなかった。なめし革の翼の生物もやはりそれを認めたか、または、空気からその匂いを嗅ぎ取ったらしい。わたしの下で鉄の筋肉が緊張するのがわかり、そいつは三回羽ばたきをした。
紫の荒地には白い斑点が見えた。しばらくすると、その不動の外観は、一様性から生じる錯覚だとわかってきた――つまり、どこもかも同じだが、どこもかも動いている――つまり、海だと――つまりウールスを抱えている〈世界河・ウロボロス〉だと。
それから、初めて後ろを見ると、夜に飲みこまれている人類の全世界が見えた。
それが見えなくなってしまうと、下界はすべて荒地のような海原だけになり、獣が振り返ってわたしを見た。そのくちばしはトキのくちばしであり、その顔は醜い老婆の顔であり、頭には骨の司教冠をかぶっていた。一瞬、わたしたちは見つめあった。すると、彼女の考えがわかるように思われた。おまえは夢を見ている。だが、もしおまえが覚醒状態《ウェイキング》から|目覚め《ウェイク》たら、わたしはそこにいるだろう≠ニ。
彼女の動きが、小帆船《ラガー》がタッキングをするように、変化した。一方の翼端を下げ、もう一方の翼端を天を指すように上げた。わたしはその鱗の生えた表皮をかきむしり、一直線に海中に落下していった。
その衝撃で目覚めた。体じゅうの関節が痛み、巨人が眠ったままぶつぶつ言うのが聞こえた。わたしも同じようにぶつぶつ言い、手探りをして剣がまだ横にあるかどうか確かめて、ふたたび眠りこんだ。
水がわたしを押し包んだが、溺れることはなかった。水を呼吸できるかもしれないと思ったが、それは駄目だった。あらゆるものがあまりにもはっきり見えるので、まるで空気よりも透明な空間に落下したような感じだった。
ずっと遠くに巨大な形がそびえているのが見えた――人間より何百倍も大きい物たち[#「物たち」に傍点]。船のように見える物もあれば、雲のように見える物もあり、体のない生首もあれば、首が百もある胴体もあった。青い霞がそれらをぼんやりと包んでいた。そして、わたしの下には潮流に刻まれた砂の国が見えた。そこにはわれわれの〈城塞〉よりも大きい宮殿が立っていたが、それは廃墟になっており、いくつもの広間は庭園と同様に屋根がなくなっていた。それらの中を白いおびただしい姿が動いていた。
わたしがそばに落下していくと、それらは顔を上げてわたしを見た。それらの顔は、かつてギョルの下流で見たような顔だった。それらは女で、裸体だった。海の泡のように緑色の髪、珊瑚の目。彼女らは笑ってわたしの落下を眺めており、その笑い声が泡になってぶくぶくとわたしのところに上がってきた。その歯は白くて尖っており、それぞれ指ほどの長さがあった。
さらに近くまで落下していった。彼女らは手を差し上げて、母親が赤子を撫でるようにわたしを撫でた。宮殿の庭園にはスポンジやイソギンチャクや、その他、名も知らぬ無数の美しいものが生えていた。大きい女たちがぐるりとわたしを取り巻いた。わたしは彼女らの前では人形でしかなかった。「おまえたちはだれだ?」わたしは尋ねた。「そして、ここで何をしている?」
「わたしたちはアバイアの花嫁だよ。アバイアの恋人、遊び相手、玩具、友達さ。陸地はわたしたちを支えることができない。わたしたちの乳房は破城鎚《バタリング・ラム》。尻は雄牛の背骨を折る。わたしたちはここで食物を食べて、漂いながら成長し、しまいにアバイアと夫婦になることができるまでに大きくなる。そして、アバイアはいつか大陸をむさぼり食う」
「では、わたしはだれだ?」
すると彼女らはいっせいに笑った。その笑いはガラスの海岸に打ち寄せる大波のようだった。
「見せてやろう」彼女らはいった。「見せてやろう!」ちょうど姉妹が姉妹の子供を連れて歩くように、両方の手を一人ずつ持って、わたしを持ち上げ、一緒に泳いで庭園を通り抜けていった。彼女らの指には水掻きがあり、その指は、わたしの腕の肩から肘までの長さと同じくらい長かった。
彼女らは止まり、足が砂につくまで、沈没する武装商船《カテック》のように水中を沈下していった。そこには目の前に低い壁が立っており、その上に、ちょうど子供の演芸に使われるような小さな舞台と幕があった。
われわれが水を掻き乱したので、そのハンカチほどの幕が動いた。それは漣《さざなみ》のようにゆらゆらと揺れ、まるで目に見えない手で押されるように後ろに引かれはじめた。同時に、棒人形のような小さい人の姿が現われた。その手足は小枝で、まだ樹皮や緑色のつぼみがついていた。胴体は四分の一スパンほどの木の枝で、太さはわたしの親指ほどだった。頭は木の節で、渦巻き状の文様が目と口になっていた。彼は棍棒を持っていて(それをわれわれに向かって振り回し)、まるで生きているように動いた。
その木の男がわれわれに向かって飛び上がり、その武器で小さな舞台を叩いて敵意を示した時、剣で武装した少年の姿が現われた。この操り人形は、相手が粗末な作りであるのに対して、精巧な仕上げになっていた――ことによったら、廿日鼠の大きさに縮小された本物の子供であったかもしれない。
小さな人形は、そろってわれわれにお辞儀をすると、闘いはじめた。木の男は途方もない跳躍をし、棍棒をふるって舞台狭しと暴れ回った。少年は日光に浮かぶ細かい塵の粒のように躍って、それを避けながら、木の男に向かって突進し、ピンほどの小さい剣で切りかかった。
ついに、木の男が倒れた。少年はその胸に足を置こうとするかのように、大股に進み出たが、そこまでいかないうちに、木の人形が舞台から浮かび上がり、ぐったりしたまま、ゆっくりと回りながら上昇していって、視界から消え去り、後には、少年と折れた棍棒と剣――両方とも折れていた――だけが残った。わたしは玩具のラッパの吹奏を聞いたように思った(実際は、外の街路を通る荷車のきしる音だったにちがいない)。
三人目の男が部屋に入ってきたので、わたしは目覚めた。彼は小柄できびきびした男で、燃えるような赤毛で、立派な、むしろ洒落た服装をしていた。彼はわたしが目覚めたのを見ると、窓を覆っていたシャッターを押し開き、赤い日光を部屋に射しこませた。
「わたしの相棒は」彼はいった。「いつもぐうぐう眠る。いびきで鼓膜が破れなかったかい?」
「ぼくもよく眠っていました」わたしは彼にいった。「だから、この人がたとえいびきをかいたとしても、聞こえませんでした」
この言葉は、小男を喜ばせたようだった。彼はたくさんの金歯を見せて笑った。「こいつはいびきをかくんだ。ウールスを揺るがすほどのやつをね。とにかく、きみも休息が取れてよかった」彼はデリケートな、よく手入れの行き届いた手を差し出した。「わたしはタロス博士だ」
「職人のセヴェリアンです」わたしは薄いベッドカバーをはねのけて立ち上がり、その手を握った。
「ほほう、黒装束をしているな。なんの組合だね?」
「これは拷問者の煤色です」
「ああ!」彼はつぐみのように首を傾げて、あちこち飛び歩いていろいろな角度からわたしを眺めた。「背の高い男だな――残念なことに――しかし、その上から下まで煤色の衣裳は、なかなか見事だ」
「われわれはこれを実用的だと考えています」わたしはいった。「地下牢は汚い場所だし、煤色なら血痕も目立たないし」
「ユーモアがあるじゃないか! 素晴らしい! いいかい、ユーモア以上に人を利する長所はあまりないんだよ。ユーモアは人々を引きつける。ユーモアは暴徒を鎮静させたり、保育園の子供を元気づけたりする。ユーモアはうまく事を運ばせてくれるし、いやな事から逃れさせてもくれるし、磁石のようにアシミ貨幣を引き寄せもする」
彼が言っていることはあまりよくわからなかったが、愛想の良い感じだったので、わたしは思いきって言ってみた。「お邪魔ではないでしょうね? 亭主がここで寝ろと、そして、ベッドにはもう一人分の余地があると、いったんです」
「かまわん、かまわん! わたしはもう二度と戻ってこないから――夜を過ごすもっと良い場所を見つけたんだ。わたしはね、ほんの少ししか眠らないし、しかも、眠りが浅いのだよ。だが、昨夜はよく眠った。素晴らしい夜だった。きみ、今朝はどこにいくのかね?」
わたしはベッドの下のブーツを探りながらいった。「たぶん、まず朝食を探すでしょう。それから、町を出て北に行きます」
「素晴らしい! わたしの相棒は朝食をとても喜ぶだろう――それは彼にとってこの上もない薬になる。われわれは北に向かって旅をしている。市内巡業は大成功だった。これから家に帰るところなんだ。東岸を芝居をしながら下っていって、今度は西岸を芝居をしながら上っていくわけだ。たぶん、北に向かう途中で、〈絶対の家〉に止まるだろう。あれはね、職業上の夢なんだよ。独裁者の宮殿で芝居をすることは。いやつまり、あそこで芝居をやって、帰ってくることがね。クリソス貨幣を帽子にいっぱい頂戴してさ」
「少なくとも、帰っていくことを夢見ている人に、よそで会いましたよ」
「そんなに暗い顔をしてはいけない――そのうちにぜひ、その人の話をしてくれよ。だが、今は、一緒に朝食を食いにいくとしよう――バルダンダーズ! 起きろ! おい、バルダンダーズ、おい! 起きろ!」彼は踊るようにしてベッドの裾にいき、巨人のくるぶしを掴んだ。「バルダンダーズ! きみ、こいつの肩を掴むんじゃないよ!」(わたしはそんなことをするつもりはなかった)。「時々手をばたつかせるからね。バルダンダーズ[#「バルダンダーズ」に傍点]!」
巨人はぶつぶつ言い、もぞもぞ動いた。
「新しい日だ、バルダンダーズ! まだ生きている! 食ったり排泄をしたりセックスをしたり――いろんなことをする時だ! さあ、起きろ。さもないと、家に帰り着けないぞ」
この声を巨人が聞いたしるしはなかった。まるで、一瞬前のつぶやきは、夢の中で言った文句か、または臨終の喉鳴りみたいなものだった。タロス博士は汚い毛布を両手で持って、引っぱがした。
彼の道連れの怪物のような姿が剥き出しになった。そいつはわたしが想像していた以上に身長があり、ベッドからはみだすほどだったが、顎に膝がつくほど縮こまって眠っていた。肩幅は一エルほどもあり、盛り上がっていて、猫背だった。顔は枕に埋めていたので、見えなかった。その首と耳には奇妙な傷があった。
「バルダンダーズ[#「バルダンダーズ」に傍点]!」
頭髪は灰色で、前の晩に宿の亭主がわざと間違ったふりをして|はげ《ボールデイ》≠ニ呼んだにもかかわらず、非常に濃かった。「バルダンダーズ! きみ、すまないが、その剣を貸してくれないか?」
「いいや」わたしはいった。「駄目です」
「いや、彼を殺すとか何か、そういうことをしようというのではない。その平《ひら》を使いたいだけだ」
わたしは首を振った。タロス博士はわたしが頑固に断わりつづけているのを見ると、部屋じゅうを掻き回しはじめた。「杖を階下に置いてきてしまった。悪い癖だ。盗まれてしまうだろう。足を引きずって歩くことになるなあ、まったく。ここには何もないぞ」
彼は扉から跳び出していき、すぐに、鍍金《めっき》した真鍮の握りのついた鉄木の杖を持って戻ってきた。「それじゃ、こうしてやる! バルダンダーズ[#「バルダンダーズ」に傍点]!」杖の打撃が、雷雨の先触れの大粒の雨のように、巨人の広い背中に落ちた。
巨人ががばと起き上がった。「目が覚めたぞ、先生」彼の顔は大きくてごつごつしていたが、分別もあり、悲しげでもあった。「とうとう、おれを殺す決心をしたのかね?」
「何をいっているんだ、バルダンダーズ? ああ、この旦那のことをいっているのか? この人はおまえに危害は加えない――おまえと一つ寝床で眠って、これから朝食を共にしようというのだ」
「この人がここで寝たって、先生?」
タロス博土とわたしはうなずいた。
「じゃ、おれの夢がどこから生じたかわかったぞ」
わたしはなんとなくこの巨人が恐かったが、心の中はまだあの怪物の住む海底の巨大な女たちの姿でいっぱいになっていたので、彼の夢はどんなだったか尋ねてみた。
「地底の洞穴の夢。石の歯が血を滴らせていた……砂の道で、体から引っこ抜かれた腕を見つけた夢。それから、暗闇で鎖を揺すっている奴の夢」彼はベッドの縁に腰かけると、驚くほど小さくて、まばらな歯を、一本のすごく大きい指で磨いた。
タロス博士がいった。「さあ、いこう、二人とも。今日のうちに、飯を食って、話をして、何かやろうと思ったら――もう、取りかからねばならないぞ。話すことも、やることも、たくさんある」
バルダンダーズは片隅に、ばっと唾を吐いた。
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16 古着屋
今後、わたしに取りつくことになる悲しみが、初めて全力をふるってわたしを掴んだのは、この朝、まだまどろんでいるネッソスの街路を歩いていく途中だった。組合の地下牢に捕われていた時には、自分のしでかした事件の大きさと、そして、まもなくグルロウズ師の手のもとで、自分が必ずすると思っていた罪の償いの大きさによって、この感覚は鈍っていた。前の日に〈水の道〉を威勢よく下っていた時には、自由の喜びと流刑の厳しさが、それを払い退けていた。だが、今はわたしにとってセクラの死という事実以外に、世界じゅうに事実はないように思われた。物陰の特に暗い部分の一つ一つが彼女の髪を思い出させ、白い輝きの一つ一つが彼女の肌を思い出させた。〈城塞〉に取って返して、彼女がまだあの独房に坐っているかどうか、あの銀のランプの光で読書をしているかどうか、確かめたいという衝動を、ほとんど抑えきれないほどだった。
街路の縁に、テーブルを並べてあるカフェーがあった。まだ早朝だったので、人通りはほとんどなかった。街角に死人が横たわっていた(兜頭巾《かぶとずきん》で首を絞められたのだと思う。そういうことをする連中がいるのである)。タロス博士はそのポケットを探っていたが、引き出した手は空だった。
「さてと」彼はいった。「考えなくてはならん。何かプランを練らなくてはならん」
ウェイトレスがモカのカップを運んできた。バルダンダーズはその一つを自分の方に押しやり、人差指でそれを掻き回した。
「セヴェリアン君、どうやらわたしはこの状況から逃れる手段を考えなければならないらしい。バルダンダーズは――わたしの唯一の患者だが――彼とわたしはディウトルナ湖地方の出身だ。われわれの家は焼けてしまった。それを建てなおすのにちょっとした金が必要だったので、思いきって旅に出る決心をした。この友人はもの凄い力持ちだ。わたしが見物人を集めると、彼は材木を折ったり、いっぺんに十人も人間を持ち上げたりする。そして、わたしは薬を売る。たいした稼ぎにはならないと思うだろう。だが、まだある。芝居があるんだ。小道具もそろっている。状況が良ければ、彼とわたしはある場面を演じ、見物人のだれかに参加を呼びかけさえする。ところできみ、きみは北に行くところだといった。そして、昨夜のベッドから察するに、所持金がなくもないようだ。そこで、どうだろう、合弁会社をやってみないか?」
バルダンダーズは相棒の演説の最初の部分しか理解できなかったらしく、のろのろといった。
「家は全部駄目になったわけじゃない。壁は石で、とても厚い。丸天井の一部も残った」
「そのとおりだ。あのかけがえのない旧居を復旧するつもりなのだ。ところが、ジレンマがある――われわれは今、帰りの旅の途中にある。ところが、貯めた資金は充分というにはほど遠い。そこで、提案だが――」
ぼさぼさの髪をした痩せた女給が、バルダンダーズのための病人用の粥《かゆ》と、わたしのためのパンと果物と、そしてタロス博士のための練り粉菓子を運んできた。「なんと素敵な娘さんだ!」彼がいった。
彼女は彼に笑顔を見せた。
「腰かけないか? 他に客もないようだし」
彼女は調理場の方をちらりと見てから、肩をすくめて、椅子を引き寄せた。
「これをちょっと食べてもいいぞ――わたしは話に忙しくて、こんなに固く焼いた物は食べている暇がない。それから、モカも一口やれよ、わたしが口をつけた後で気持ちが悪くないなら」
彼女はいった。「お客さん、主人が無料で食べさせると思ってるんじゃない? どっこい、そうはいかないわよ。何から何まで、がっぽり代金を請求するわ」
「そうか! じゃ、あんたは店主の娘じゃなかったのか。そうじゃないかと思ってたんだがなあ。あるいは、女将《おかみ》かと。こんな綺麗な花を摘まずに咲かせておくなんて、いったい亭主はどういうつもりだろう?」
「わたしはこの店で働くようになってから一《ひと》月しかたっていないのよ。お客さんがテーブルに置いていく心づけだけが、わたしの実入りになるの。今は、あんたがた三人をあてにしているのよ。何も置いていってくれないと、わたしは只働きになるんだからね」
「なるほど、なるほど! では、こうしたらどうだろう? もし、われわれがあんたに高価な贈り物をするつもりだとしたら。それでも、あんたは断わるかね?」タロス博士はそういいながら彼女の方に身を寄せかけた。その時、彼の顔が狐の顔(もじゃもじゃの赤い眉毛と尖った鼻がすぐにそれを連想させるので、この比喩を思いつくのはごく容易だろう)、それも、縫いぐるみの狐になっているのを見て、わたしはびっくりした。穴掘り人夫が、何処を掘っても過去の破片の出ない場所はない、というのを聞いたことがある。鋤《すき》がどこの土を引っくり返しても、必ず壊れた舗装とか、腐食した金属とかが現われると。そして、絵描きが色彩砂と呼ぶ物(なぜなら、その白さの中にあらゆる色の小片が混じっているから)は実は砂ではなく、太古のガラスであって、激動する海の中で計り知れない長い年月にわたって揉まれたために、今では粉末になってしまったものだと、学者がいっている。もし、われわれが歩いている地面の下に歴史の層があると同様に、われわれに見える現実の下に現実の層があるとすれば、そのような層の中により深い現実があることになる。タロス博士の顔は壁掛けの狐の面であり、今やそれが女に対して向きを変えたり、うつむいたりしているのを見て、わたしは舌を巻いた。なぜなら、それらの動作によって、鼻や額の影が変化して、その顔面に様々な表情や思想が現われ、驚くほど生き生きとした現実的な顔つきになるのだから。「断わるかね?」彼はまた尋ねた。すると、わたしは目が覚めた時のように身震いが出た。
「どういう意味なの?」女は知りたがった。「あんたがたの一人は刑吏ね。死の贈り物のことをいっているの? 毛穴さえも星よりも強く光を放っているという独裁者は、臣民の命を守ってくださるのよ」
「死の贈り物だと? いや、とんでもない!」タロス博士は笑った。「違うよ、きみ。それだったら、きみは一生涯、持っている。われわれが提供する贈り物は、美だ。そして、それから生じる名声と富だ」
「何かを売りつけようというなら、わたしは無一文よ」
「売る? とんでもない! その逆だ、きみに新しい職場を提供しようといっているのだ。わたしは魔術師で、これらの紳士は俳優なのだ。きみは俳優になりたいと思ったことはないかね?」
「おかしな身なりをしていると思った。三人とも」
「われわれほ清純派の女優を求めている。きみが望むなら、その地位を提供してもよい。しかし、今一緒に来なければ駄目だ――無駄にする時間はない。そして、この方面には二度とやってこないからね」
「わたし、女優になったって、綺麗にはならないよ」
「女優として、欲しいんだから、われわれが綺麗にしてやる。それもわたしの魔力の一つなんだ」彼は立ち上がった。「今決めるか、やめるかだ。さあ、来るか?」
女給も、やはり彼の顔を見ながら、立ち上がった。「部屋に行かないと……」
「どうせ、ろくなものはないだろう。きみに魔法を掛けて、台詞を教えなければならないのだ。それも一日で全部を。待ってはいられないよ」
「朝食のお代をください。そしたら、店をやめるって主人にいってきますから」
「馬鹿をいいなさい! きみはわが劇団の一員として、きみの衣裳代にあてる金《かね》の保存に協力しなければならないのだぞ。わたしの朝食を食べたことは言うまでもない。きみが自分で支払いなさい」
一瞬、彼女はためらった。バルダンダーズがいった。「この人は信用していいよ。博士は独特な世間の見方をするが、一般に信じられているほど、嘘をつくわけではない」
その低い、ゆったりとした声が彼女を安心させた。「いいわ」彼女はいった。「いくわ」
しばらくすると、われわれ四人は、まだ大部分が鎧戸《よろいど》を降ろしている商店街を通り過ぎて、何丁も離れたところにきていた。しばらく歩いてから、タロス博士が宣言した。「さて諸君、われわれは分散せねばならぬ。わたしはこの風の精ちゃん[#「風の精ちゃん」に傍点]の能力強化に専念しようと思う。バルダンダーズ、おまえは崩壊寸前のわれわれの|舞台装置《プロセニアム》や、その他の財産を、昨夜泊まった旅籠から、取り戻してきなさい――きっと、なんの困難もないだろう。セヴェリアン、われわれは芝居をしようと思う、ツェシフォンの辻でね。場所は知っているな?」
わたしはうなずいた。もっとも、その場所がどこかまったく見当がつかなかったけれども。実を言えば、わたしはこの一座に参加する意志はまったくなかったのだ。
さて、タロス博土が小走りについていく女給とともに、足早に立ち去ると、わたしとバルダンダーズだけが人気のない街路に取り残された。彼もまた行ってしまうと困ると思ったので、わたしは彼にどこにいくつもりかと尋ねた。それは人間と話すというよりはむしろ、石碑に話しかけているような感じだった。
「川のそばに、昼間は寝ていられるが、夜は寝ていられない公園がある。おれは暗くなってきたら目を覚まして、荷物を取りに行くつもりだ」
「ほくは眠くないんだけどなあ。町の見物をして歩こうと思う」
「じゃ、ツェシフォオンの辻で落ち合おう」
彼がわたしの胸の内を知っていると、なんとなくわかった。「よし」わたしはいった。「じゃ、そうしよう」
彼は牛のような鈍い目をして、長い足で地響きを立てながら、ギョルの方に歩み去った。バルダンダーズのいう公園が東にあり、タロス博士は女給を西の方に連れていったので、わたしは北に歩き、窓のない部屋の町<Xラックスへの旅を続けることに決めた。
しばらくの間、不滅都市<lッソス(わたしはほとんど見ていないけれども、物心がついて以来ずっと暮らしてきた都市)が、周囲に広がっていた。燧石《フリント》で舗装した大通りを、その地区の脇道か主要道路か知りもせず、気にもせずに、わたしは歩いていった。両側に一段高くなった歩道があり、中央に、南から北に向かう車が通る道があった。
右にも左にも、密植しすぎた穀草が互いに相手を押し退けて場所を奪いあっているように、建物が地面から伸び上がっていた。それらが何の建物であるにせよ――〈大天守閣〉より大きいものや、それと同じくらい古いものはなかった。そして、われわれの塔の金属の壁のように、通り抜けるのに五歩も歩かなければならないような厚い壁のある建物は一つもないように見えた。だが、それらの色彩や着想の創造性は、とても〈城塞〉とは比較にならなかった。それぞれが他の何百もの建物の間に建っているのだが、これほど一つ一つが斬新性と幻想性に富んでいる都市をわたしは見たことがない。この都市の一部の様式として、これらの建物の大部分は下の方の階が商店になっていた。もっとも、本来は商店として建てられたものではなくて、組合集会場、聖堂、闘技場、音楽院、宝庫、祈祷堂、アルテロ|ス《*》、収容所、製造所、秘密集会所、旅人接待所、避病院、製粉所、大食堂、死体仮置場、畜殺場、劇場として建てられたものであった。それらの構造がそうした機能を反映しており、種々雑多な趣味がせめぎあっていた。おびただしい小塔や尖塔が空に伸び上がり、頂塔、丸屋根、円形建物などが煤けていた。切り立った壁を梯子のように急な階段が上っており、バルコニーが建物の正面を包み、シトロンや柘榴の茂る平庭のプライバシーの中に、建物を覆い隠していた。
わたしはこれらのピンクや白の大理石、紅縞瑪瑙、青灰色やクリーム色や黒の煉瓦、そして緑、黄、ティリアン紫のタイルなどの森の中の、空中庭園を感心して見物して歩いた。すると、兵営の門を守っている傭兵の姿が目に入り、前の晩に小楯兵《ペルタスト》の士官と約束したことを思い出した。所持金は少なかったし、夜には組合のマントの暖かさが必要なことがわかっていたので、最善の策は、それをすっぽり覆うことのできる、安い生地の特大のマントを買うことだと思われた。店が開きはじめていた。しかし、衣服を売っている店はどれもわたしの目的に合う物は売っておらず、また値段も、とてもわたしの払えるようなものではなさそうだった。
スラックスに着く前に、自分の職業で金を稼ぐという考えはまだ浮かんでいなかった。だが、たとえ浮かんだとしても、それを退けたであろう。拷問者のサービスにお呼びがかかるような場合はほとんどないから、そういう求人を探して歩くというのは現実性がなかった。要するに、わたしのポケットの中の三枚のアシミと、オリカルクとアエスだけで、はるばるスラックスまで行かなければならないと信じていたのだった。しかも、わたしに提供される報酬がどのくらいの額になるものか、まったく見当がつかなかった。こうしてわたしは、ポードソイ([#ここから割り注]丈夫な絹繊物[#ここで割り注終わり])やマテラーセ織りや、その他何百もの高価な布地でできたバルマカーン([#ここから割り注]短いラフなオーバー[#ここで割り注終わり])やシュルトウー([#ここから割り注]長いきっちりしたオーバー[#ここで割り注終わり])やドルマン([#ここから割り注]袖つきの寛衣[#ここで割り注終わり])やジャーキン([#ここから割り注]袖なしのジャケット[#ここで割り注終わり])などを、店内に決して入らず立ち止まって調べもせずに、見て歩いた。
まもなく、他の商品に注意が引かれた。その時は何も知らなかったが、何千人もの傭兵が夏の陣のために備品の調達をしていたのだった。派手な軍隊のケープ、馬の毛布、股間を保護する装甲前橋のついた鞍、赤い略帽、柄の長い薙刀《ケーテン》、銀の軍配、騎兵用の反り返った弓、十本とか二十本が一組になった矢、鍍金した鋲と真珠貝で装飾されたなめし革の弓のケース、そして、弓弦から左の手首を保護する射手の腕当などがあった。これらのすべてを見た時、わたしは着面式の前にパリーモン師が、兵士になっても云々《うんぬん》と言ったのを思い出した。また従来〈城塞〉の砲手のことをちょっと軽蔑して考えていたが、彼らのパレードへの集合を呼びかける合図の太鼓の連打や、胸壁から吹き鳴らされるトランペットの派手な呼びかけを、心の中で聞いたように感じた。
自分に必要な物を探すことをすっかり忘れてしまったちょうどその時に、二十歳か、そのちょっと上ぐらいのほっそりした女が、暗い店の格子を外すために外に出てきた。彼女は驚くほど手のこんだ、しかも、ぼろぼろの孔雀色のプロケード織りのガウンを着ていた。そして、わたしが見とれていると、日光がその腰のちょっと下のほころびに当たり、その部分の皮膚をごく薄い金色に染めた。
わたしが彼女に感じた欲望は、その時も、後になってからも、説明がつかない。わたしが知った大勢の女の中で、おそらく彼女は最も美しくはないだろうし――またわたしが最も愛した女よりも優雅でなく、もう一人の愛した女よりも肉感的でなく、セクラよりも遙かに気品が欠けていた。身長は普通、鼻は低く、頬骨の幅が広く、そのような骨相の顔によくあるように、目は茶色で細かった。わたしは彼女が格子を持ち上げるのを見た。そして、命がけではあるが真剣ではない愛情をもって、彼女を愛した。
もちろん彼女のそばにいった。崖縁を踏み外せばウールスの盲目の貧欲な力に抵抗できないと同様に、わたしは彼女に抵抗できなかった。彼女になんといってよいか、わからなかった。そして、わたしの剣や煤色のマントを見て、彼女が怖がって尻込みしはしないかと、ひどく心配になった。だが、彼女は笑顔を見せ、わたしの姿に感嘆してさえいる様子だった。ちょっとの間、何も言えずにいると、彼女は何か用かと尋ねた。それでわたしはマントを買える場所を知らないかと尋ねた。
「本当にマントが要るの?」彼女の声は想像していたより低かった。「そんなに美しいマントをすでに着ているのに。触ってもいいかしら?」
「お望みなら、どうぞ」
彼女はマントの縁を摘み上げ、両手ではさんで布地を優しく擦った。「こんな黒い布地は見たことがないわ――あまり黒いのでしわも見えないわね。中に手入れると、まるで手が消えてしまったみたい。それから、その剣。それはオパールなの?」
「これも手で触ってみたいかい?」
「いえ、いえ、とんでもない。でも、もし本当にマントが欲しいのなら……」彼女はウィンドの方に手を振った。そこにはジェラブ([#ここから割り注]ゆったりした、頭巾つきのジャケット[#ここで割り注終わり])、カポート([#ここから割り注]緩やかな頭巾つきのマント。セヴェリアンの組合のマントはこれの一種らしい[#ここで割り注終わり])、スモック([#ここから割り注]上っ張り[#ここで割り注終わり])、シマール([#ここから割り注]婦人用の質素な寛衣[#ここで割り注終わり])など、あらゆる種類の古着がいっぱいに展示されていた。「とても安いわ。本当にお値打品よ。中に入れば、欲しいものがきっと見つかるわ」わたしはちりんちりんと鈴の鳴るドアをくぐって中に入った。しかし、その若い女は(わたしが熱望していたように)わたしについて中に入ってはこなかった。
内部は薄暗かった。だが、見回すとすぐに、なぜ女がわたしの姿を怖がらなかったか理解できたように思った。カウンターの向こうの男はどんな拷問者よりも恐ろしい姿をしていた。その顔は骸骨か、またはそれに近いもので、黒い穴のような目、萎んだ頬、唇のない口をしていた。もし、それが動きも話しもしなかったら、それが生きている人間だとはとても信じられず、過去の所有者かなにかの遺志を実現するために、カウンターの向こうに死骸を立て掛けてあると思ったことだろう。
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*註 これはマルテロス(円筒砲塔)の誤植らしい。そうでなければ、セヴェリアンが何をいおうとしたか不明である。
[#ここで字下げ終わり]
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17 果たし状
だが、そいつは実際に動いた。わたしが入っていくと、こちらを向いてわたしを見たのである。そして、実際に口をきいた。「大したものだ。なるほど、大したものだ。旦那さん、あんたのマントは――見せてくれるかね?」
わたしは擦り減った、でこぼこのタイルの床を横切って、彼のところにいった。われわれの間を引き裂く剣のように、細かい塵がいっぱい浮いて動いている赤い日光が、さっと射しこんだ。
「大した着物だね、旦那さん」彼は、わたしが左手でマントの端を摘んで差し出すと、さっき若い女が外でしたのとそっくりの仕種で、その布地に触った。「ああ、とても見事だ。柔らかい。羊毛のようだが、もっと、もっとずっと柔らかい。リンネルとヴィクーニャ([#ここから割り注]ラマの一種[#ここで割り注終わり])との混紡かな? それに、素晴らしい色だ。拷問者の衣服ねえ。たとえ本物でも、この半分もすばらしいとは、だれも思わないだろうよ。しかし、これだけの布地を見せられたら議論の余地はないな」かれはカウンターの下に身をかがめて、一掴みのぼろ布を取り出した。「その剣を見せてもらえないだろうか? うんと注意して扱うからさ」
わたしはテルミヌス・エストの鞘を払い、そのぼろ布の上に置いた。彼はそれに触りもせず、口もきかずに、その上にかがみこんだ。この頃にはわたしの目は店の暗さに慣れた。そして、彼の耳の上の髪の毛から指くらいの幅の黒いリボンが突き出ているのに気づいた。「あんた、仮面をつけているんだな」わたしはいった。
「三クリソス、この剣に。そして一クリソス、このマントに」
「売りにきたんじゃない」わたしは彼にいった。「金をしまってくれ」
「そうかね。よし、四クリソス、この剣に」彼が両手をちょっと上げると、その中に死の顔が落ちた。素顔は頬骨が平たくて、日焼けしていて、外で見た若い女とそっくりだった。
「ぼくはマントを買いたいんだ」
「これに五クリソス。絶対にこれ以上は出さんよ。一日働かなければ、それだけの金額は稼げんよ」
「今いったように、この剣は売り物ではない」わたしはテルミヌス・エストを持ち上げて、鞘に納めた。
「六クリソス」かれはカウンターごしに手を伸ばしてわたしの腕を掴んだ。「この値段はその品の値打以上だよ。いいかい、これが最後の付け値だ。ぎりぎりだ。六クリソス」
「マントを買いにきたんだってば。あんたの妹さん――たぶんそうだと思うが――が、妥当な値段の品があるといったぞ」
彼は溜息をついた。「わかった。マントを売ろう。だが、その前にその剣をどこで手に入れたか教えてくれないかね?」
「組合の師匠から頂戴したんだ」彼の顔を何とも説明のつかない表情がよぎったのを、わたしは見た。それで、尋ねた。「ぼくの話を信じないのか?」
「信じるさ。だからまごついているんだ。ねえ、あんたは何者だね?」
「拷問者組合の職人だ。われわれは川のこちら側にきたり、こんなにずっと北の方にきたりすることは、めったにない。しかし、本当にそんなに驚いたのか?」
彼はうなずいた。「まるで、|冥土の案内者《サイコボンプ》に出会ったみたいだ。なぜ、町のこの地区にいるか、尋ねてもいいかい?」
「いいよ。しかし、答える気にはならないな。ぼくはスラックスに行く途中だ。向こうで仕事を引き受けることになっている」
「ありがとう」彼はいった。「これ以上、根掘り葉掘り尋ねるのはやめておこう。実際その必要もないしね。さて、マントを脱いだ時に友達を驚かせたいんだったら――そうだろう?――その着物と対照的な色のものにすべきだ。白が良いかもしれないが、白自体がむしろドラマチックな色だ。そして、綺麗にしておくのが恐ろしく難しい。鈍い茶色はどうだろう?」
「仮面を止めていたリボンが」わたしはいった。「まだ、ついたままになっているよ」
彼はカウンターの後ろからいろいろな箱を引き出しているところで、返事をしなかった。一、二瞬の後、ドアの上のベルがちりちり鳴ったので、彼は手を止めた。新しく入ってきた客は若い男で、その顔は象眼をしたクローズ・ヘルメットの陰に隠れていた。その、下に向かって湾曲して、絡みあっている角が面頬を形作っていた。そして漆塗りのなめし革の鎧《よろい》を着ており、その胸板には無表情に見つめる狂女の顔と、黄金のキメラ([#ここから割り注]頭がライオン、胴が山羊、尻尾が蛇で、火を吐く怪物[#ここで割り注終わり])が羽ばたいていた。
「これはこれは、騎兵隊長様」店主は箱を下ろして、うやうやしくお辞儀をした。「どんなご用でしょうか?」
籠手《こて》をつけた手がわたしの方に伸びた。その指はコインでも渡そうとするかのように、何かを摘んでいた。
「受け取りなさい」店主は怯えた小声でいった。「なんでもいいから」
わたしは手を伸ばして、干しぶどうほどの大きさの黒光りする一個の種子を受け取った。店主が息を飲むのが聞こえた。鎧兜姿の男は向きを変えて出ていった。
彼が行ってしまうと、わたしはその種子をカウンターの上に置いた。店主が甲高い声でいった。
「わたしに回そうなんて、ごめんだよ!」そして後ずさりした。
「なんだ、これは?」
「知らないのか? アヴァーンの種じゃないか。近衛騎兵連隊の士官を怒らせるような事をしたのかね?」
「してないよ。なぜこれをよこしたのかな?」
「果たし状だ。呼び出されたんだよ」
「決闘するためにか? そんな事はありえない。闘争階級の出じゃないんだから」
彼は肩をすくめた。その仕種は言葉よりも雄弁だった。「決闘しなくてはいけないよ。さもないと、暗殺されるだろう。唯一の問題は、あんたがあの騎兵隊長を本当に怒らせたかどうか、あるいは、この背後に〈絶対の家〉の高官が絡んでいるかどうか、ということだ」
店主の姿がはっきり見えていると同様に、あの共同墓地で三人の民兵と対決していたヴォダルスの姿がはっきりと見えた。そして、警戒心が、アヴァーンを投げ捨てて町から逃げ出せと盛んに忠告したにもかかわらず、わたしはそうすることができなかった。だれか――たぶん独裁者その人か、陰の人物イナイア老――がセクラの死の真相を知って、組合に泥をかぶせずにわたしを亡ぼそうとしているのだろう。よし。それなら闘ってやろう。もしわたしが勝てば、彼は考えなおすかもしれない。もしわたしが死ねば、正義が行なわれたというだけのことだ。それでもなお、ヴォダルスの細身の剣を思い出しながら、わたしはいった。「ぼくが扱える剣はこれしかないぞ」
「剣を交えるのではない――実際、それをわたしのところ置いていくのが一番良いんだがなあ」
「絶対だめだ」
彼はまた溜息をついた。「わからない人だ。とにかく、あんたは夕方に命を賭けて決闘することになったんだよ。よろしい、あんたはわたしのお客さんだ。そして、わたしはお客さんを決して放り出したことはない。マントが欲しいといったね。さあ、どうぞ」大股で店の奥にいき、枯葉色の長い上着を持って戻ってきた。「これを着てごらん。これが合えば、四オリカルクにしておくよ」
こんなに大きくてだぶだぶの上着なら、途方もなく短いか長いのでなければ、着られるはずだ。値段は高すぎると思ったが、支払った。そして、そのマントを着て、この日があくまでもわたしに望んでいるように、役者になる方向に一歩踏み出した。実際、わたしはすでに想像以上に大掛かりなドラマに参加していたのであった。
「それでは」店主はいった。「わたしは店を見なければならないから、ここに残るが、妹を一緒にいかせて、アヴァーンを買うのを手伝わせよう。あいつはしょっちゅう〈血染めが原〉にいくから、たぶん、アヴァーンを使う決闘の手ほどきもできるだろう」
「だれか、わたしのことをいった?」店の前で会った若い女が、今度は奥の暗い物置の一つから出てきた。その上向きの鼻と奇妙に釣り上がった目が兄にそっくりだったので、この二人は双生児にちがいないとわたしは思った。だが、彼らの細身の体型と繊細な目鼻立ちは、兄には不釣り合いだったが、彼女の場合は強烈な魅力になっていた。兄がわたしの身に起こった事を彼女に説明したにちがいなかった。といっても確かではない。わたしの耳には聞こえなかったのだから。とにかく、わたしは彼女を見つめるばかりだった。
さて、また書きはじめる。たった今諸君が読んだ行を書いてから、長い時間がたっている(書斎の扉の外の衛兵の交替の音を二度聞いた)。これらの場面をそんなに詳しく記録することが、適当かどうか確信がない。もしかしたらわたし自身にだけ重要なのかもしれない。全部を圧縮することは簡単である。つまり、わたしは店を見て、中に入った。北方人《セプテントリオンズ》([#ここから割り注]本来は北斗七星の意[#ここで割り注終わり])の士官に挑戦された。店主はわたしが毒花を摘むのを手伝わせるために妹をつけてよこした。わたしは先輩たちの伝記を読んで退屈な日々をすごしている。それらは、些細ではあるが次のような記述から成り立っている。たとえぽ、イマールについて――
[#ここから2字下げ]
彼は姿を変えて田舎に足を延ばした。すると、鈴懸の木の下で聖者が瞑想していた。この独裁者はそこにいって、ウールスが太陽を踏みつけはじめるまで、一緒に木の幹にもたれて坐っていた。派手な軍旗を持った兵隊がギャロップで通っていき、商人が黄金の重みでよろめく驢馬《ろば》を追っていき、美女が宦官《かんがん》の肩に担がれていき、最後に一匹の犬が埃の中を小走りに通っていった。イマールは立ち上がり、笑いながらその犬の後を追っていった。
[#ここで字下げ終わり]
この逸話が真実だとすると、なんと容易に説明できることか。この独裁者は、世をたぶらかしたからでなく、意志の働きによってその活動的な生活を選んだことを示しているのだ。
セクラのように大勢の教師を抱えていれば、その教師たちは同じ事実をそれぞれ異なった方法で説明することだろう。だから、この場合、ある教師は、独裁者は普通の人間が魅力を感じるような事柄には動かされないが、狩猟を好む気持ちを抑える力がなかったと、言うことだろう。
また別の教師はこういうだろう。独裁者は聖者への軽蔑の念を示したかったのだと。なぜなら、この聖者は教えを垂れて、さらに多くを受け入れてもよかったのに、黙っていたから。また、道連れがいない時に立ち去っても意味がない。なぜなら孤独は賢人にとって大いに魅力のあるものだから。そうかといって、兵隊が通過した時も、富を持った商人が通った時も、女が通った時も、やはり具合が悪い。なぜなら、悟りを開いていない人は、これらのすぺてを欲するから。そして、彼もまたそのような凡人の一人だと、その聖者は思うだろうから。
また、別の教師はこういうだろう。独裁者はその犬を供にした。なぜなら、兵士には他の兵士がおり、商人には驢馬がおり、女には奴隷がいるのに、犬は孤独だったから。それなのに、聖者はいかなかったからと。
それにしても、なぜイマールは笑ったのか? だれが答えよう? 商人は兵隊の戦利品を買うために兵隊についていったのか? 女は唇と陰部を売るために商人についていったのか? その犬は猟犬だったのか、それとも、眠っている間にだれかが触りにこないように、女が番犬として飼うような足の短い種類の犬だったのか? 今、だれが答えよう? イマールは死者であり、後継者たちの血の中にしばらく残っていた生前の彼の記憶は、とうの昔に消えてしまっている。
同様に、わたしについての記憶もいずれ消えるであろう。次の事だけは確実だと、わたしは感じる。イマールの行動の説明はどれ一つ正しくないと。真相は、どのようなものであれ、もっと単純で、もっと微妙なものだと。わたしに関しては、なぜわたしが――それまでずっと、真の道連れを持たなかったわたしが――商店主の妹を道連れとして受け入れたのかと、質問が出るかもしれない。そして、商店主の妹≠ニいう部分だけを読んだ者が、このわたし自身のこの物語におけるこの時点で今まさに起ころうとしている事件の後に、なぜわたしが彼女とともに残ったか、理解できようか? だれにもできない、それは確かだ。
彼女に対する自分の欲望が説明できないと、わたしはいった。それは事実である。わたしは渇くような死にもの狂いの愛情をもって彼女を愛した。われわれ二人は、世間の人々が見たら我慢できないと思うような極悪非道の行為をやってのけるかもしれないと感じた。
死の淵の向こうに待つあれらの者の姿を見るのに、知力は要らない――明暗いずれにせよ、めくるめく栄光に輝き、宇宙よりも古い権威に包まれている彼らのことを、子供たちはみんな知っている。彼らはわれわれの末期の幻であると同様に、最も幼い頃の夢の材料でもある。われわれがかれらに導かれて生活していると感じるのは当然であり、また、想像もできないものの建設者であり、存在の総計を超える戦いの戦士である彼らにとって、自分たちがいかに微小な取るに足らぬものであろうかと感じるのも当然である。
難しいのは、同様に偉大な力を、われわれ自身が内包していると覚ることである。われわれは言う、「わたしはそうするつもりだ」とか、「そうするつもりはない」と。そして、(自分は毎日没趣味な人間の命令に従っているのに)自分は自分の主人だと想像する。ところが、本当はわれわれの主人は眠っているのである。われわれの内部で主人が目覚めると、われわれは獣のように追い立てられる。しかし、この乗り手は、自分自身の、それまで考えてもいなかった部分にすぎないのだ。
たぶん、実は、これがイマールの物語の説明なのだろう。真相はわからないが。
それはともかくとして、マントを上手に着るのを店主の妹が手伝ってくれた。このマントは首のところをしっかりと締めることができるようになっていた。そうやって着ると、組合の煤色のマントは隠れて見えなくなった。しかも、素姓を知られることなしに、マントの前面または横の隙間から手を出すことができた。このマントを着ている間は、テルミヌス・エストを飾帯から外して、杖として持ち歩くことにした。この剣の鞘は鍔の大部分を覆い、先端には黒い金具がついているので、わたしを見る人々の多くは、疑いなくそれを杖だと思った。
わたしが変装によって組合の制服を隠したのは、生涯にこの時だけだった。変装に成功しようとするまいと、この手の着物を着ると間の抜けた気分になるという人がいる。確かにわたしもこれを着て、間が抜けた気分になった。しかしながら、これは変装というほどのものではなかった。これらの幅の広い、時代遅れのマントは元来、羊飼いが着はじめたもので(今でもまだ着ている)、それが、この寒い南の地方でアスキアンとの戦いが起こった時代に、軍隊に伝えられ、そして、軍隊から宗教的な巡礼たちに引き継がれたのであった。彼らは疑いなく、非常に実用的な、多少なりとも満足できる小さいテントに転用できる長い上着を見つけたのであった。宗教の衰退は、ネッソスにおけるこのマントの絶滅に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。なぜなら、わたしが着たようなマントはこの町ではほかに見かけなかったからである。古着屋でこのマントを着た時に、もしこれらについてもっと知っていたら、これに似合う柔らかな、つばの広い帽子も一緒に買ったことだろう。だが、そうしなかった。そして店主の妹は、わたしが善良な巡礼に見えるといった。彼女はどんな事でもちょっと冗談めかしていう癖があって、疑いなくこの言葉もそうだったが、わたしは自分の姿にだけ注意を引かれていたので、それに気づかなかった。わたしは彼女とその兄に、宗教のことをもっと知っていれば良いのに、といった。
二人は微笑した。そして兄のほうがいった。「それを最初に言えば、だれもその話をしたがらないだろうよ。しかも、それを着て、宗教の話をしない[#「しない」に傍点]でいれば、良い奴だという評判が立つだろう。口をききたくない相手と出会ったら、施しを乞えばいい」
こうして、少なくとも外観は、北方の神殿を目指して旅をする巡礼のようになった。時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
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18 祭壇の破壊
早朝の静けさは、古着屋にいた間に消え失せていた。荷車や橇《そり》が、獣と材木と鉄の雪崩のような地響きを立てて通っていった。店主の妹とわたしが扉の外に出るやいなや、飛翔機が町の塔の間をかすめて飛び去る音が聞こえた。見上げると、窓ガラスについた雨の雫のように滑らかな機体が、ちょうど目に入った。
「きっと、あなたを呼び出しにきた士官よ」彼女はいった。「〈絶対の家〉に戻っていくのね。北方防衛軍の騎兵隊長だとか――アギルスはそういった?」
「きみの兄さんだね? ああ、そんな事をいっていた。きみの名は?」
「アギアよ。それで、あなたは決闘のことは何も知らないのね? だから、指導者を紹介してほしいのね? それなら、高潔なヒポジェオンがいいわ。その前にまず植物園にいって、アヴァーンを切り取ることから始めなければならないの。幸い、ここからあまり遠くないわ。辻馬車に乗るだけのお金はある?」
「と思う。もし必要なら」
「ではあなたは、本当は、仮装した大郷士ではないのね。そして――」
「そう、拷問者だ。あの騎兵隊長といつ落ち合えばいいのかな?」
「午後遅くなってからよ、〈血染めが原〉で決闘が始まるのも、アヴァーンの花が咲くのも。時間は充分にあるわ。でも、その時間を使って、アヴァーンを手に入れ、それを使う決闘の方法を習ったほうがいいわね」二頭のオナジャー([#ここから割り注]西南アジア産の野生のロバ[#ここで割り注終わり])に引かれた辻馬車が車の流れを縫ってわれわれの方に向かってきた。彼女はそれに手を振った。「あのねえ、あなたは殺されるために行くのよ」
「きみの話からすると、そうらしいね」
「事実上、確定しているわ。だからお金を出し借しみする必要はないのよ」アギアは車馬の往来の激しい道の真ん中に出ていき、(あまりにも見事に彫られた繊細な顔立ちと、片手を上げた胴体のあまりにも優雅な曲線のために)まるで、未知の婦人の記念立像のような姿で、しばらくたたずんでいた。彼女自身も死ぬ覚悟だな、とわたしは思った。辻馬車がそばにやってきた。その臆病な動物は、まるで彼女がタスマニア・ウルフででもあるかのように、ばっと横に跳ねて避け、止まった。彼女は跳び乗った。その体は軽かったが、小さな車は揺らいだ。わたしはその横に上った。そして、二人で尻と尻を接してそこに坐った。御者が振り返った。アギアがいった。「植物園の踊り場までやって」馬車はぐいと動きだした。「どうやら、死ぬことは気にしていないみたいね――さばさばしてるもの」
わたしは御者台の背にしがみついた。「そりゃ、死は異常なことではないからね。ぼくのような人間はきっと何千人も何万人もいるよ、死に慣れている人間は。人生のうちの本当に重要な部分はもう終わってしまったと感じている人はね」
太陽はちょうど今、最も高い尖塔の上にあり、降り注ぐ光は埃っぽい道を赤みがかった黄金色に染めていた。それを見ていると、哲学的な気分になってきた。図嚢の中のあの茶色の本に、ちょっとした使いか何かでウールスにやってきて、子供の矢に当たって死んだという天使の物語があった(たぶん、本当は独裁者に仕えていたという翼のある女戦士の一人だったのだろう)。彼女は大天使ガブリエルと出会った。彼女のきらめく衣は、あたかも太陽の末期の命で並木道が染まっているように、心臓から流れる血で真赤に染まっていた。ガブリエルは片手に輝く剣を持ち、もう片方の手に双頭の大斧を下げ、背中には、虹の緒に付けた天国の戦いのラッパを下げていた。
「どこにいってきたのか、子供よ」ガブリエルが尋ねた。「駒鳥よりも赤い胸をして?」「わたしは殺されました」天使はいった、「だからわたしの物質をふたたび万物主と合体させるために帰ってきたのです」「馬鹿をいいなさい。おまえは天使だ、清らかな精霊だ。だから死ぬはずはない」「それにもかかわらず」と天使はいった、「死にました。この出血がごらんになれるでしょう――血はもはや勢いよくほとばしり出ないで、じくじくと浸み出してくるだけです。これがわかりませんか? この顔の青さを見てください。天使の手触りは温かく陽気なものではありませんか? この手を握ってごらんなさい。澱んだ水溜りから、気味の悪い物を引き上げたような感じがするでしょう。わたしの息を味わってごらんなさい――悪臭がし、油の焼けた匂いがしませんか?」ガブリエルが答えなかったので、天使はついにいった。「お兄さま、これだけの証拠をお見せしても納得していただけないなら、どうぞ脇にどいてください。わたしは宇宙から、わたしという存在を取り除くのですから」「よくわかった」ガブリエルはいって、脇にどいた。
「しかし、われわれも滅びることがあると知っていたら、いつもいつもあんなに大胆にはやれなかっただろうにな」
わたしはアギアにいった。「物語の中の大天使みたいな気分なんだよ――自分の命がそんなに容易に、そんなにすぐに費やされるものだと知っていたら――たぶん――こんなことはしなかっただろうとね。きみ、あの伝説を知っているだろ? しかし、ぼくはもう決心をしてしまった。これ以上言うことも、することもない。今日の午後、あの北方人は何を使ってぼくを殺すんだって? 植物? 花? なんとなくわけがわからないなあ。ちょっと前には、ぼくはスラックスというところにいって、何はともあれ、そこで待っている生活をすることができると思っていた。そして、昨夜は巨人と一つの部屋に泊まった。どちらも、途方もないという点では五十歩百歩だった」
彼女は返事をしなかった。それで、しばらくしてわたしはいった。「あそこの、あの建物は何だい? 朱色の屋根に、フォーク状の円柱のあるあの建物は? あのモルタルにはオールスパイスが撞きこんであるみたいだぞ。少なくとも、あそこから、そんな匂いが漂ってくる」
「修道僧の給食所《メンサル》よ。あなたは自分が恐ろしい人間だということを知っているの? あなたが店に入ってきた時、わたしはまだら[#「まだら」に傍点]服を着た若い大郷士がまたやってきたと思ったわ。ところが、実は拷間者だとわかって、本当はそれほど恐い存在ではないんだなと思ったの――あなたも他の普通の若者と同じ、ただの若者だとね」
「それでは、きみはさぞ大勢の若者を知っているんだろうな」実は、彼女がそうならよいと思っていたのだ。わたしよりも経験豊かであればよいと。そして、自分自身を一瞬たりとも清い存在とは考えなかったけれども、彼女はもっとずっと清らかでない[#「ない」に傍点]と考えたかったのである。
「でも結局、あなたには何かそれ以上のものがあるわ。あなたは二つの|公 国《パラティネート》と、どこかの聞いたこともないような島を受け継ぐ資格がある人のような顔をしているし、靴屋のような態度をしている。また、死を恐れないという時には、本気でそう思っている。そして、その裏で、実際は違うと信じている。でも、心の奥底では、本気なのよ。だから、たとえわたしの首をはねることになっても、少しも狼狽しないんじゃないかしら?」
われわれの周囲にはあらゆる種類の交通が渦巻いていた。機械類。動物か奴隷の引く車のある乗物、車のない乗物。歩行者。ヒトコブ駱駝《らくだ》、牛、角なし犀、栗毛の馬などの背に乗っていく人。この時、われわれの乗っているのと同様の屋根のない辻馬車がそばによってきた。アギアはそれに乗っている二人連れの方に身を乗り出して叫んだ。「追い越してやるからね!」
「どこへいく?」相手の男は叫びかえした。見ると、それは、ウルタン師のところに本を受け取りにいった時に一度会ったことのあるラーチョ氏だった。
わたしはアギアの腕を掴んだ。「気でも狂ったのか、きみたちは?」
「植物園の踊り場まで、一クリソス賭けるわ!」
相手の乗物は、われわれを後にして一目散に走り出した。「もっと速く!」アギアはわれわれの御者に向かって叫んだ。それからわたしに向かって、「短剣を持っている? それを彼の背中に突きつけるのが一番いいのよ。そうすれば、止められた時に、御者は脅迫されて走らせたと言うことができるから」
「なぜ、こんなことをするんだ?」
「テストよ。あなたが変装しているとは、だれも信じないでしょう。仮装服を着ている大郷士だと、みんな信じるでしょうよ。それをたった今、証明したところなの」(われわれの馬車は砂を積んだ荷車を、車体を傾け急カーブして、よけた)「それに、わたしたちが勝つわよ。この御者と馬は仕事を始めたばかりだけれど、相手はあの売春婦を夜中からずっと乗せて走っているんだから」
この時わたしは、もしわれわれが勝てば、わたしはアギアにその金を与えることを期待されており、また、相手が勝てば、相手の女がわたしの(存在しない)クリソスをラーチョに要求するだろうと、覚った。それにしても、彼の高慢な鼻をへし折るのはなんと気持ちのよいことか! スピードと、間近に迫った死のために(本当にあの騎兵隊長に殺されると信じていたのだ)、わたしはかつてないほど向こう見ずになっていた。テルミヌス・エストを抜くと、長い剣なので容易に驢馬に届いた。彼らの横腹はすでに汗びっしょりになっていて、わたしがそこに作った浅い切り傷は、炎のように燃えたにちがいない。「短剣などより、このほうがいいぞ」わたしはアギアにいった。
御者の鞭の前に群衆が道をあけた。母親たちは子供を抱き上げて逃げ、兵士たちは槍を高跳の棒のように使って窓台に避難した。競争はわれわれに有利に進んだ。前の馬車はある程度、われわれのために道をあける役目を果たしたし、また向こうのほうがわれわれよりもよけいに他の乗物に邪魔された。それでも、われわれはごくゆっくりとしか距離をつめられなかった。そして、勝てばたっぷりとチップをもらえると期待しているわれわれの御者は、わずか数エルの距離を稼ぐために、驢馬を叱咤激励して玉髄の広い階段を駆け上がらせた。大理石の彫像や記念碑や円柱や柱形が、顔にぶつかってくるように思われた。車は家ほどの高さがある緑の壁のような生垣を突き抜けて、|糖 菓《コンフェッツ》を満載した荷車を引っくり返し、アーチを駆け抜け、九十度にカーブした階段を駆け降り、だれかの家の中庭を荒らして、また街路に飛び出した。
羊に引かれたパン屋の車が、われわれの車と相手の間に、のんびりと割りこんだ。するとわれわれの乗物の大きい後輪がそれを動揺させて、舗道に焼きたてのパンの雨を降らせた。アギアの軽い体がわたしの体にぶつかってきた。それがあまり心地良かったので、わたしは手を回して彼女の体をそのまま抱きかかえていた。以前にもこうやって女体を抱いたことがあった――しばしばセクラを、そして、町で買った女の体を何度か。しかし今回は、わたしを捕えて放さないアギアの強烈な魅力から生じた新しい甘酸っぱい感情が伴っていた。「こうして抱いてくれて嬉しいわ」アギアが耳元でいった。「乱暴に体をつかむ男は嫌いよ」そして、わたしの顔をキスで覆った。
御者は狂ったように走る馬たちに道の選択を任せて、後ろを向き、得意そうに笑った。「〈九十九《つづら》折りの道〉を抜けた――もう、追い抜いたぞ――公有地を突っ切れば、百エルの差をつけて向こうに着くよ」
辻馬車はがらがらと疾走し、灌木の障壁にあいた入り口に飛びこんだ。目の前に馬鹿でかい建物が立ちはだかった。御者は馬を回そうとしたが手遅れだった。車はその側面に激突した。まるで夢を見ているような感じだった。われわれは薄暗い、干草の匂いのする空間にいた。前方には、青い灯が点々とともった、一軒の家ほどもある大きい階段つきの祭壇があった。わたしはそれを見て、それが妙によく見えすぎることに気づいた――御者が座席から吹っ飛んで、いなくなってしまったのだ。アギアが悲鳴をあげた。
われわれは祭壇に激突した。説明不可能なさまざまな物体が飛び散った。まるで天地創造の前の混沌のように、あらゆるものが渦巻き転がりながら決して衝突しない、といった感じだった。地面がこちらに飛びかかってくるように思われた。それは耳ががーんと鳴るほどの衝撃をもってぶつかった。
わたしは空中を飛んでいきながら、テルミヌス・エストを掴んでいると思っていた。しかし、それはもう手の中になかった。探すために立ち上がろうとしたが、呼吸ができず、力も出ないことがわかった。どこか遠くで男が叫んだ。わたしは横に転がって、感覚のない足を何とか体の下にもってくることに成功した。
われわれは、周囲が〈大天守閣〉ほどもあるのに内部は完全に空っぽの建物の中心近くにいるようだった。そこには内壁も、階段も、どんな種類の家具もなかった。金色の埃っぽい空気を透かして、木に塗料を塗ったように見える、捻れ曲がった柱が何本か見えた。頭上に、一本またはそれ以上の鎖に、ただの光点にしか見えないランプが下がっていた。その遙か上に、色彩豊かな天井が、ここでは感じられない風にはためいたり、さざなみを立てたりしていた。
麦藁の上に立つと、麦藁は果てしない黄色いカーペットのようにあたり一面に広がっていた。まるで、収穫の後の巨人の畑のように。周囲には、祭壇を構成していたさまざまな形のもの、つまり、金の葉で飾り、トルコ石や紫水晶をはめこんだ木の板の破片が、散乱していた。わたしは剣を探そうとぼんやり考えながら歩きだしたが、そのとたんに辻馬車の砕けた車体につまずいた。
一頭の驢馬がそれから遠くないところに倒れていた。その時、こいつは首を折ったにちがいないと思ったことを覚えている。だれかが叫んだ。「拷問者さん!」見まわすと、アギアが見えた――震えてはいるが、ちゃんと立っていた。わたしは彼女に怪我はないかと尋ねた。
「とにかく生きているわ。すぐ、ここから逃げ出さないと。その馬は死んでる?」
わたしはうなずいた。
「生きていれば、乗っていけたのに。これであなたは、わたしを担いでいかなくてはならなくなったわ。できれば、の話だけど。この右足は体重を支えられないと思うの」彼女はそういいながらも、よろめいた。わたしは飛びついて、倒れかかった彼女を抱き止めなければならなかった。
「さあ、いかなくちゃ」彼女はいった。「まわりを見て……ドアが見える? 急いで!」
見えなかった。「なぜそんなに慌てて逃げなければならないんだ?」
「この床を見る目が使えないなら、鼻を使いなさいよ」
わたしは鼻をひくひくさせた。空中の匂いはもはや麦藁の匂いではなく、麦藁の燃えている匂いだった。そして、それとほとんど同時に、暗がりに明るい炎が見えた。しかし、それはまだ小さくて、ほんの火の粉程度になるにしても、もう少し時間がかかりそうだった。わたしは走ろうとしたが、おぼつかない足どりで歩くことしかできなかった。「ここはどこだ?」
「ペルリーヌの寺院よ――〈鉤爪《つめ》の寺院〉と呼ぶ人もいるわ。ペルリーヌというのは大陸を旅する尼僧の団体のことよ。この人たちは決して――」
アギアは絶句した。なぜなら、深紅の衣の一団がこちらにやってきたからである。いや、たぶん彼らは少し前から忍び寄っていたのだろう。なぜなら、前触れなしに突然、中間距離に出現したように思われたから。男たちは頭を剃っており、ぎらぎら輝く半月刀を持っていた。高貴人独特の体型の長身の女が、鞘に納めた両手使いの剣を抱きかかえていた。つまり、わたし自身のテルミヌス・エストを。彼女はフードを被り、長い房の垂れた綱い肩掛けをしていた([#ここから割り注]この肩掛けがペルリーヌでこれを制服とする尼僧団の名称になった[#ここで割り注終わり])。
アギアがまたいった。「馬が暴走したのです、ドムニセラエ様……」
「それはどうでもよい」わたしの剣を持つ女がいった。彼女は非常に美しかったが、その美しさは欲望を抑制している女の美しさではなかった。「これは、おまえを抱いている男のものですね。おまえを下ろして、これを受け取るように、いいなさい。おまえは歩けますね」
「少しは。拷問者さん、いわれたとおりにして」
「彼の名前を知らないのですか?」
「聞いたけれど、忘れました」
わたしはいった。「セヴェリアンです」そして、片手で彼女を支えながら、もう片方の手でテルミヌス・エストを受け取った。
「争いを終わらせるために、それを使いなさい」深紅の衣の女はいった。「争いを始めるためにでなく」
「この大テントの麦藁の床が燃えています、教母様。お気づきですね?」
「消えるでしょう。シスターや召使いたちが今踏み消しています」彼女は口をつぐみ、視線をアギアからわたしにちらりと移し、またアギアに戻した。「あなたの乗物が壊した高い祭壇の残骸の中で、あなたがたのものらしくて、しかも価値のありそうなものを一つだけ見つけました――その剣です。お返ししましたよ。今度は、あなたがたが見つけた価値のあるものがあったら、こちらに返してくれませんか?」
わたしは紫水晶を思い出した。「価値のある物は見かけませんでした、教母様」アギアも首を振ったので、わたしは言葉を続けた。「貴石をはめこんだ板の破片がありましたが、手を触れませんでした」
男たちは持っていた武器を握りなおし、足場を固めた。だが背の高い婦人はじっとたたずんだままわたしを見つめ、それからアギアを見つめ、それからもう一度わたしを見た。「ここに来なさい、セヴェリアン」
わたしは進み出た。といっても三歩か四歩だったが。男たちの刀から身を守るためにテルミヌス・エストを抜きたいという強い誘惑を感じたが、自制した。女主人はわたしの両手首を取り、目の中を覗きこんだ。彼女自身の目は冷静で、奇妙な明かりの中でエメラルドのように固く見えた。「彼に罪はない」彼女はいった。
男たちの一人がつぶやいた。「それは誤りです、ドムニセラエ」
「罪はありませんよ。お退り、セヴェリアン。その女をここにこさせなさい」
わたしはいわれたとおりにした。アギアは足を引きずりながら、彼女から大股で一歩ぐらいの距離に近づいた。アギアがそれ以上そばにこないとわかると、背の高い女は自分からそばにいき、わたしにしたと同様に彼女の手首を取った。しばらくすると、彼女は剣士たちの後ろに控えていた他の女たちの方をちらりと見た。何が起こったかわたしがわからずにいるうちに、二人の女がアギアのガウンを掴み、それを首から引き上げて脱がせた。一人がいった。「何もありません、教母様」
「今日が予言にあった日だと思います」
アギアは腕で胸を隠しながら、わたしにささやいた。「このペルリーヌ尼僧団は正気じゃないのよ。そのことはみんな知っているわ。時間があれば説明してあげたのにねえ」
背の高い女がいった。「着物を返してやりなさい。〈鉤爪《つめ》〉は生者の記憶の中では消えてはいません。しかし、それは意のままにそうしているのであって、われわれがそれを止めることは不可能だし、許されもしないのです」
女の一人がつぶやいた。「まだ残骸の中に見つかるかもしれません、教母様」もう一人が付け加えた。「彼らに償いをさせるべきではありませんか?」
「殺しましょう」男がいった。
長身の女はそれらの言葉を聞き流した。彼女はすでにわれわれのところから離れて、麦藁の上を滑っていくように見えた。女たちが顔を見あわせながらその後に従った。男たちはぎらぎら光る刀を下ろし、後ずさりした。
アギアは苦労してガウンを着ようとしていた。わたしは彼女に、〈鉤爪《つめ》〉とは何か、このペルリーヌ尼僧団とは何か、知っているかと尋ねた。
「ここから連れ出して、セヴェリアン。それから教えてあげる。彼女らの本拠で彼女らの話をするのはまずいわ。あそこの壁に裂け目があるんじゃない?」
われわれは柔らかな麦藁の上で時々つまずきながら、彼女の指さす方向に歩いていった。穴はあいていなかったが、絹布の壁の下を持ち上げて、その下を潜って外に出ることができた。
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19 植物園
日光がまぶしかった。まるで、黄昏から白昼に歩み出たようであった。あたりの爽やかな空気の中に、金色の麦藁の粉が漂っていた。
「やれやれ」アギアがいった。「ちょっと待って、ここで方角を確かめさせて。どうやら、この右手がアダミニアの階段になるらしいわ。あの御者もまさかここを下るつもりはなかったでしょうよ――いや、そのつもりだったかな、かなり無茶な男だったから――とにかく、あそこをいけば最短距離であの踊り場に着くわ。また腕を貸して、セヴェリアン。足がまだちゃんと治っていないのよ」
今度は草地を歩いていった。見ると、あのテント寺院は、なかば砦となっている家々に囲まれた平原に立っていたのだった。その実体のない鐘楼が、それらの家々の手すり壁を見下ろしていた。広い舗装された一本の道が広々とした芝地の縁を走っていた。そこに着いた時に、わたしはまたペルリーヌ尼僧団とは何かと尋ねた。
アギアは横目でわたしを見た。「ごめんなさい。わたしの裸を見たばかりの男の人に、プロ[#「プロ」に傍点]の処女たちのことは、ちょっと話しにくいのよ。状況が違えば、また話も別だけど」彼女は深呼吸した。「実は、あの人たちのことはあまりよく知らないの。でも、うちの店にあの教団の衣裳がいくらかあってね、前に兄に話を聞いたことがあるのよ。それで、それ以後はなんなりと耳に入る事に注意しているの。あれは仮面劇の衣裳によく使われるのよ――あんなに真赤だから。
とにかく、あれは因習尊重主義者の団体なのよ。きっと、もう察しがついているでしょうけれど。赤は〈新しい太陽〉から|射す光《ディセンド》を表わすの。そして、テント寺院を持って国じゅうを歩きまわって、地主たちのところに突然|天降り《ディセンド》、それを立てるだけの土地を取り上げるのよ。あの教団は、存在する最も貴重な遺物、つまり〈調停者の鉤爪《つめ》〉を持っていると主張しているわ。だから、赤は〈鉤爪の傷〉をも表わしているかもしれないわ」
わたしは冗談めかしていった。「〈調停者〉に鉤爪があるとは知らなかったな」
「本物の鉤爪ではないのよ――宝石だといわれているわ。あなたも噂を聞いているはずよ。なぜ、それが〈鉤爪〉と呼ばれるか知らないわ。あの尼僧たち自身も知っているとは思えない。でも、それが本当に〈調停者〉となんらかの関係があるとすれば、大切なものとされるのは理解できるでしょ。なんてったって、彼についての現在のわたしたちの知識は――彼が遠い昔にわれわれの種族と接触していたということを、肯定するにせよ、否定するにせよ――純粋に歴史的なものなんだから。もし〈鉤爪〉が、ペルリーヌ尼僧団のいうとおりのものだとすれば、彼はかつて生きていたことになるわ。今は死んでいるかも知れないけれど」
ダルシマー([#ここから割り注]楽器の一種[#ここで割り注終わり])を持った女が、ぎょっとしたような目でちらりとわたしを見たので、アギアの兄の店で買って着ているマントが乱れて、その下から組合のマントの煤色が覗いているとわかった(何も知らないその女には、空っぽの暗い穴があいているように見えたにちがいない)。わたしは乱れをなおし、|留め針《フィピュラ》をつけなおしながらいった。「こういう宗教論争の例に洩れず、この話も続ければ続けるほど無意味になってくる。たとえ〈調停者〉が大昔にわれわれの間を歩いていて、そして今は死んでいるとしても、歴史家や狂信者以外の人にとって、どんな重要性がある? ぼくは彼の伝説を聖なる過去の一部として尊重する。しかし、今日、意味があるのはその伝説であって、〈調停者〉の遺骨ではないと思うよ」
アギアは日光で手を温めようとでもするように、手をこすりあわせた。「もし彼が――この角を曲がるのよ、セヴェリアン、階段の頂上が見えるでしょ。ほら、あの名祖《なおや》たちの彫像の立っているところ――もし彼が生きていたとすれば、定義上、彼は力の支配者≠セったことになるわ。それは、現実の超越を意味し、時間の否定を含むことになるのよ。これ、正しくない?」
わたしはうなずいた。
「とすると彼は、そうね、三万年前のある位置から、わたしたちが現在と呼ぶ時点に入ってくることに、なんの妨げもないわけね。死んでいようと、いまいと、もし彼が実在したのなら、この道の次の曲がり角の向こうか、この週末に、現われるかもしれないのよ」
われわれは階段の始まりに着いていた。段は塩のように白い石でできていて、場所によって、一つの段の上を数歩あるかなければ次の段に下りられないほど勾配の緩やかな部分もあれば、梯子のように急な部分もあった。ところどころに菓子屋とか猿売りとかいった商人が露店を出していた。どういうわけか、こうして階段を下りながら、アギアと神秘的な事柄を論じるのがとても快かった。わたしはいった。「あの女たちが彼の輝く指の爪を持っているというところから、この議論のすべてが出てくるんだ。たぶん、それには奇蹟的な治癒力があるんだろうね?」
「時にはね。そういわれているわ。それに、傷害の罪を許したり、死者を蘇らせたり、土から新しい生物の種族を引き出したり、煩悩を清めたり、様々な力があるともいわれているわ。彼がみずから行なったといわれることを、すべてね」
「今、ぼくを見て笑っているな」
「ちがうわ。日光に対して笑っているのよ――日光が女の顔にどんな作用をするか知っているでしょ」
「色を黒くする」
「醜くするのよ。まず肌を乾燥させて、小じわを作るとかね。しかも、どんな小さな欠点も全部さらけ出すわ、ほら、ウルヴァシはプルラヴァスを愛したでしょ――明るい光の中で二人が出会う前にはね。とにかく、わたしは顔に日があたっているのを感じて、こう考えていたの。あなた[#「あなた」に傍点]なんか、どうなってもかまわない。わたしはあなたの心配をするには年が若すぎる。来年になったら、うちの在庫の中からつばの広い帽子を買おう≠チてね」
今、まともに日があたっているところで見ると、アギアの顔は完全というには、ほど遠いものだった。しかし、彼女はそれを少しも気にしていなかった。わたしの恋心は、その不完全さにも、同様に激しく喰らいついた。彼女には貧乏人特有の、希望に満ちてもいるし絶望的でもある勇気があった。たぶんこれは人間すべての特質の中で、最も魅力的なものだろう。そして、わたしにとって彼女をより現実的なものにする様々な欠点を見つけて、わたしは喜んだ。
「とにかく」彼女はわたしの手を握って、続けた。「白状するけれど、わたしはどうしても理解できないのよ。なぜペルリーヌ尼僧団のような人たちが、俗人は煩悩を清めてもらわなければならないと、いつも考えているかがね。わたしの経験では、彼女らはそれを自分自身で上手に抑えているのね。それも、ほとんど毎日。わたしたちの大部分に必要なことは、自分に溜った煩悩の受け皿になってくれる人を見つけることなのよ」
「では、ぼくがきみを愛することを、きみは望んでいるんだな」わたしはなかば冗談めかしていった。
「女はみんな、自分が愛されているかどうか気にするものよ。それも、愛してくれる男が多ければ多いほどいいの! でも、そのお返しに、わたしはあなたを愛するつもりはないわよ。それがあなたの聞きたいことなら。今日はこうやってあなたと町の中を歩き回るのは、ごく気楽だけれど、もし今晩、あなたが殺されれば、わたしは二週間も辛い思いをすることになるんだから」
「ぼくだってそうさ」わたしはいった。
「いいえ、あなたはちがうわ。気にかけもしないのよ。その事でも、どんな事でも、二度と気にすることはないんだわ。死人は痛みを感じないもの。あなたは特に詳しいはずだけど」
「この事件全体が、きみか、きみの兄さんの仕掛けたトリックのように思われてきたぞ。あの北方人がきた時、きみは外にいた――あいつがぼくに腹を立てるように、きみが焚きつけたんじゃないのか? あいつはきみの愛人なのか?」
アギアはこれを聞くと、歯を日光にきらめかせて笑った。「わたしを見てちょうだい。わたしは刺繍のあるガウンを着ているけれど、その下がどうなっているか見たばかりでしょうに。足ははだしよ。指輪かイヤリングが見える? 首に銀のラミア([#ここから割り注]女の顔に蛇の胴体がついた女吸血鬼[#ここで割り注終わり])でも巻きついてる? 腕に金の輪が巻きついている? もしそういうものがなければ、近衛連隊の士官を愛人に持っていないと考えて間違いないわ。しつこく同棲を迫る、醜い、貧乏な老水夫はいるけれど。それ以外には、そう、アギルスと共同で店を持っているわ。これは母さんの遺産なの。そして、これを担保にいくらかでも金を貸そうと思うほどの愚か者が見つからないばかりに、わたしたちは借金をせずにいられるのよ。時々、在庫の品を引き剥がして紙屑屋に売るから、レンズマメの椀を買って二人で分けることができるのよ」
「何はともあれ、今夜はうまいものをくうべきだな」わたしはいった。「きみの兄さんにこのマントの代金をたんまり払ってあるから」
「おや?」彼女の上機嫌が戻ったようだった。彼女は一歩退き、口を開けて、驚いたふりをした。
「今晩はわたしにご馳走してくれないつもりなの? 一日じゅう相談相手になり、案内して回ったのに?」
「あのペルリーヌ尼僧団が建立した祭壇の破壊に、巻きこんでくれたしなあ」
「あれは悪かったわ。本当に。あなたの足を疲れさせたくなかったのよ――決闘の時に足を使う必要があるからね。それから、あの競争相手の馬車が現われたでしょう。それで、あなたがお金もうけをするチャンスがあると見て取ったのよ」
彼女の視線はわたしの顔を離れて、階段の両側に並んでいる怪獣の半身像の上に止まった。わたしは尋ねた。「本当にそれだけかい?」
「白状すると、あなたが大郷士だと、人がずっと思っていてくれればいいと思ったのよ。大郷士たちは仮装服で出歩くことが多いの。だって、いつも祝宴や武芸大会に出かけていくし、あなたはそれらしい顔をしているからね。それで、わたし自身も最初にあなたを見た時に、そうだと思ったのよ。そして、ほら、もしあなたがそういう人なら、わたしは大郷士とか、ことによったらいかれ[#「いかれ」に傍点]高貴人のような人々に好かれるタイプだということになるかもしれないじゃない。たとえ、それがほんの戯れだとしても。そうなったら、どんな事が起こるか知れないじゃないの」
「わかった」わたしはいった。突然、笑いがこみ上げた。「ぼくらはずいぶん馬鹿に見えたろうな、辻馬車で暴走するなんて」
「わかってくれたなら、キスして」
わたしは彼女を見つめた。
「キスして! チャンスはどのくらい残っているの? もっとあげるわよ、欲しいものを――」彼女は言葉を切り、それから、やはり笑った。「たぶん、夕食の後でね。もし、人目につかない場所を見つけたら。でも、決闘のためには良くないでしょうけど」それから彼女はわたしの腕の中に飛び込み、背伸びをして唇を押し付けてきた。彼女の乳房は固くて高かった。そして、わたしは彼女の腰が動くのを感じた。
「ほら、あそこ」彼女はわたしを押しのけた。「あそこを見て、セヴェリアン。円錐塔と円錐塔の間よ。何か見える?」
水面が日光を受けて、鏡のようにきらきら輝いていた。「河だ」
「そう、ギョルよ。今度は左手の方。睡蓮があまりたくさんあるから、島が見にくいけれど。でも、芝生はもっと明るい薄緑でしょ。ガラスが見えない? 光を受けた時に?」
「何か見える。建物はガラスでできているのか?」
彼女はうなずいた。「あれがわたしたちの目指す植物園よ。あそこでアヴァーンを切らせてくれるわ――あなたは自分の権利に基づいてそれを要求しさえすればいいの」
下り坂の最後の部分を、われわれは黙って降りた。アダミニアの階段は長い山腹を九十九《つづら》折りになって続いていた。ここは絶好の散策地だったので、乗物を雇って登り降りする人も多かった。大勢の着飾った二人連れや、老齢の苦労が顔に刻まれている老人や、遊び戯れている子供たちが目についた。また、いろいろな地点から、対岸の〈城塞〉の黒い塔が見えたので、悲しみがつのった。そして、二度目か三度目にそれが見えた時に、昔、東岸から泳ぎ出したことや、岸の階段から飛びこんだことや、住宅地の子供たちと喧嘩したことなどを思い出し、また、対岸のずっと上流の視界ぎりぎりのところに、この階段が細い白い線のように見えていたことを思い出した。
植物園は岸に近い島の上に、ガラスの建物(そんなものは今までに見たこともなく、存在しうるとも思っていなかった)に囲まれて建っていた。塔とか狭間胸壁のようなものはなく、切子面のある周柱円形堂《ト  ロ  ス》だけが、頂上が空の中に消えて見えなくなるほど高くそびえていた。そして、それが時々きらりと輝くさまは、まるでかすかな星々と見まがうばかりだった。わたしはアギアに、庭園を見物する時間があるかどうか尋ねた――だが、彼女が返事をしないうちに、時間があろうとなかろうと見物するつもりだといった。実は、死の場面に遅れて到着することに、少しも気がとがめなかったし、また、花を使って決闘するということが、次第に真剣に受け取れなくなってきたのである。
「最後の午後を庭園を見て過ごしたいというなら、そうしなさい」彼女はいった。「わたしもしょっちゅうここに来るのよ。入場は無料で、独裁者が経営してるの。あまり神経質にならなければ、けっこう楽しいところなのよ」
われわれは薄緑色のガラスの階段を上がった。わたしはアギアに、この途方もなく巨大な建物は花と実を取るためにだけあるのかと、尋ねた。
彼女は笑って首を振り、前にある広いアーチの方を指さした。「この歩廊の両側に部屋があって、それぞれの部屋が一つの生態展示館になっているの。でも、断わっておくけれど、歩廊は建物そのものよりも短いから、部屋は奥に入っていくにつれて広くなるのよ。それで面くらう人もいるわ」
中に入ると、しーんと静まり返っていた。それはまるで、世界の夜明けにはきっとそうであったにちがいないと思われるような、人類の始祖が初めて青銅の銅鑼《どら》を打ち鳴らす前のような、キーキー鳴る荷車を作る以前の、船のオールで勢いよくギョルの水面を打つ以前のような、静けさだった。空気は芳香を含み、湿っていて、戸外よりわずかに暖かかった。市松模様の床の両側の壁もまたガラスだったが、非常に厚いものだったので、向こう側はよく見えなかった。これらの壁を透かして、草木の葉や花や、見上げるような大木さえもが、水を透かしてみるようにちらちらと揺らめいて見えた。一つの大きいドアにこう書いてあった。
眠りの園
「どこでも、好きなところに入ってよろしい」片隅の椅子から、老人が立ち上がっていった。
「好きなだけ多くのものを見なさい」
アギアが首を振った。「一つか二つしか見る時間がないの」
「初めてきたのかね? 初めての人はたいてい〈パントマイムの園〉を喜ぶよ」
彼は色あせた寛衣を着ていた。それを見ていると、何かを思い出しそうになったが、結局、なんだかわからなかった。それで、それは組合かなにかの制服かと尋ねた。
「そのとおり。われわれは管理者だ――以前にわれわれの同僚に会ったことはないかね?」
「二度あったよ、たしか」
「われわれの人数はごく少ない。だが、われわれの預かっている物は、社会が誇る最も重要な物だ――消滅した物をすべて保存している。〈古代の園〉を見たかね?」
「まだ」わたしはいった。
「見るべきだ! これが最初の訪問なら、〈古代の園〉から見ることを勧めたい。何千何万もの絶滅した植物がある。中には何億年も前に絶えたものもあるのだよ」
アギアがいった。「あなたがとても自慢にしていたあの紫色の匍匐《ほふく》植物が――コブラーズ公有地の山腹に自生しているのを見つけたわよ」
管理者は悲しそうに首を振った。「残念ながら、胞子が飛んだのだ。そのことは知っている……屋根のガラスが割れて、飛び去ったのだ」単純な人々の苦悩が流れ去るように、彼のしわだらけの顔から残念そうな表情がたちまち消えた。彼は微笑した。「今は順調に育っているらしい。あれの敵のすべては、あれの葉が治す病気と同様に、絶えてしまった」
ごろごろ音がしたので振り返った。すると戸口の一つから、二人の労働者が車を引いて出てきた。わたしは、彼らは何をしているのかと尋ねた。
「あれは〈砂の園〉だ。作りなおしているのさ、サボテンとかユッカとか――そういうものを。あそこは今は見るべきものはあまりないだろうよ」
わたしはアギアの手を取っていった。「おいで。ぼくは作業を見たい」彼女は管理者に笑顔を向けて、なかば肩をすくめてみせたが、結局、おとなしくついてきた。
砂はあったが、庭園はなかった。大きな玉石が点在している、一見果てしのない場所にわれわれは踏みこんでいった。背後の断崖には、さらに多くの岩がそびえており、われわれが抜けてきた壁を隠していた。戸口のすぐ脇に一本の大きい植物が拡がっていた。それはなかば灌木、なかば蔓草のようなもので、まがまがしい湾曲した刺があった。もとの展示植物の最後の残りで、まだ取り除かれていないものだろうと思った。他に植物はなくて、管理者がいったように植物を新たに導入している形跡は、岩の間を曲がりくねって消えている荷車の二本の轍以外にはなかった。
「見る物はないわ」アギアはいった。「ねえ、案内するから、〈歓喜の園〉にいってみない?」
「うしろのドアは開いているのに、なぜ、この場を立ち去ることができないように感じるのかな?」
彼女は横目でわたしを見た。「これらの庭園の中では、だれも遅かれ早かれそういう感じを持つのよ。普通はそんなに早くはないけれど。もう外に出たほうがいいわ」彼女は他にも何かいったが、聞き取れなかった。ずっと遠くの方で、世界の涯に打ち寄せる大波の音を聞いたような気がした。
「待って……」わたしはいった。だが、アギアはわたしを歩廊に引っ張り出した。子供が一握りしたくらいの砂が、われわれの足についてきて歩廊を汚した。
「本当にもうあまり時間がないのよ」アギアがいった。「〈歓喜の園〉に案内するわ、それからアヴァーンを抜いて、帰りましょう」
「まだ午前も、なかばをそれほど過ぎていないはずだ」
「正午過ぎているわ。〈砂の園〉だけで一刻以上たってしまったのよ」
「もう、わかったぞ。きみは嘘をついているんだ」
一瞬、彼女の顔に怒りの色がひらめいた。それから、哲学的皮肉という油が広がってそれを覆い隠した。ちょうど傷ついた自尊心に塗り薬を塗るように。わたしは彼女よりもずっと強かったし、また貧しくはあっても、彼女よりは豊かだった。今、彼女は、このような侮辱を受け入れることによって、逆にわたしを征服したのだと自分に言い聞かせたのである(彼女の声が彼女自身の耳の中でささやくのが、ほとんど聞こえるように思えた)。
「セヴェリアン、あなたは文句ばかりつけるのね。でも結局、わたしがあなたを引きずり出さなければならなかったのよ。この植物園はそういう人――ある種の暗示にかかりやすい人に影響を与えるの。世間の噂では、独裁者はそれぞれの場面の現実性を強調するために、それぞれの庭園にいくらかの人を残しておきたいと思っているんですって。それで、彼の大魔術師のイナイア老が魔法をかけたんですって。でも、あなたがあれにあんなに引きつけられたとすると、他の庭園はそれほどあなたに影響を与えるとは考えられないわ」
「自分はあそこの者だという感じがしたんだよ」わたしはいった。「あそこで、だれかと出逢うことになっているような……そばにだれか女性がいるが、視界から隠されているような」
われわれはもう一つのドアをくぐろうとしていた。そこにはこう書かれていた。
ジャングルの園
アギアが答えなかったので、わたしはいった。「他の庭園はぼくに影響を与えないというなら、ここに入ろう」
「ここで時間をつぶすと、〈歓喜の園〉に行く時間がまったくなくなってしまうかもしれないわ」
「ほんのちょっとだけ」彼女が他の庭園には脇目もふらずに、断固として自分の選んだ庭園に連れこもうとするので、そこに何があり、何がわたしに取りつくか、次第に恐くなってきたのだった。
〈ジャングルの園〉の重いドアが手前に開くと、湯気の立つ空気がどっと吹き出した。内側のライトは暗く、緑色だった。蔓生植物が入り口を半分隠していた。そして、数歩先に、ぼろぼろに腐った大木が通路をふさぐように倒れていた。その幹にはまだ小さい標識がついていた。≪カエサルピニア・サッパン≫[#≪≫は《》の置換]
「本物のジャングルは、太陽が冷えるにつれて、北方では死滅しつつあるのよ」アギアがいった。
「ある知り合いの人は、ジャングルは何世紀にもわたって枯れつづけているといっているわ。ここでは、昔のジャングルが、太陽の若かった頃の状態でちゃんと保存されているのよ。さあ入って。見たがっていたでしょう」
わたしは歩み入った。背後でドアがばたんと閉まって消えた。
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20 イナイア老の鏡
アギアがいったように、本物のジャングルはずっと北の方では病んでいた。わたしは見たことはないけれども、この〈ジャングルの園〉はそれを見たような気分にしてくれた。今こうして、〈絶対の家〉の筆記机の前に坐っていてさえも、遠くで何かの物音がしただけで、胸が紫紅色で、背中が青緑色で、白い隈取りのある目でわれわれを非難がましく見つめながら、木から木にパタパタと飛び移る、あのオウムの甲高い鳴き声が耳の中に蘇ってくる。もっとも、これは疑いなくわたしの心がすでにあの幽霊屋敷[#「幽霊屋敷」に傍点]に帰っているからだが。その金切り声を透して、別の新しい音――新しい声――が、まだ思考によって征服されていない血みどろの世界から聞こえてきた。
「なんだ?」わたしはアギアの腕に触れた。
「剣歯虎《スミロドン》よ。でも、ずっと遠くだし、あれは鹿を驚かせて、口の中に転げこませるために吠えているだけよ。あれはあなたを見れば逃げるし、あなたの剣のほうが、あなた自身が彼から逃げるよりも、ずっと早いでしょ」彼女のガウンは木に引っ掛かって破れてしまい、片方の乳房があらわになった。そのために彼女は不機嫌になっていた。
「この道はどこに続いているんだい? そして、その猫[#「猫」に傍点]はどうしてそんなに遠くにいられるんだい。これ全体が、アダミニアの階段の上から見えたあの建物の中のたった一つの部屋にすぎないとすると?」
「そんなに、この園の奥に入ったことはないわ。ここにきたがったのは、あなたでしょ」
「質問に答えてくれ」わたしはいって、彼女の肩を抱いた。
「もしこの道がほかのと同じだとすると――つまり、ほかの園のものと同じだとすると――これも大きな輪を描いて、結局、入ってきたドアのところに戻ってきてしまうでしょう。怖がる理由はないわ」
「ドアは、ぼくが閉めたら消えてしまったぞ」
「ちょっとしたトリックよ。部屋の片側から見ると、敬虔主義《パイアティズム》の行者が瞑想している顔が見えるけれども、反対側の壁のところにいくとそれが目を見開いてあなたを見据えている、という絵を見たことない? このドアも、反対の方向から近づけば、見えるのよ」
紅玉髄の目をした一匹の蛇が道を這ってきて、鎌首をもたげてわれわれを見て、それから、にょろにょろといってしまった。アギアがきゃっと叫んだので、わたしはいってやった。「おや、怖がっているのは、どっちかな? あの蛇は、きみがあれから逃げるのと同じぐらい早く逃げるかな? さあ、剣歯虎《スミロドン》についての質問に答えろ。あれは本当にそんなに遠くにいるのか? もし、そうなら、どうしてそんなに遠くにいられるんだ?」
「知らないわ。ここのすべてに答えがあると思っているの? あなたがきた場所では、そういうようになっているの?」
わたしは〈城塞〉と、組合の大昔からの慣例を思い浮かべた。「いいや」わたしはいった。
「ぼくの故郷にも説明のできない儀式や習慣がある。だがそれらは、最近の堕落した時代に実用性を失ってしまったものだ。また、だれも入ったことのない塔や、あかずの間や、入り口の見つかっていないトンネルなどがある」
「では、ここにも、同じことがあるのがわかるでしょ? あの階段の一番上からこれらの園を見下ろした時に、建物の全体が見えたかしら?」
「いいや」わたしは認めた。「三角錐や尖塔などが邪魔になっていた。そして、築堤の角もあった」
「それなのに、見えたものの範囲をはっきりと定めることができるの?」
わたしは肩をすくめた。「ガラス製だから、建物の縁がどこにあるかよくわからなかった」
「では、なぜそんな質問をするの? いや、質問するのはいいとしても、わたしが必ずしも答えを知っているわけではないということが、わからないの? 剣歯虎《スミロドン》の吠え声から、ずっと遠くにいると思っただけよ。もしかしたら、もともとここにはいないのかもしれないし、距離というのは、時間的なものかもしれないわ」
「この建物を見下ろした時、切子面のあるドームが見えた。だが、今見上げても、葉っぱや蔓の向こうには、空しか見えない」
「切子面は広いのよ。その端が木の枝に隠れているのかもしれないわ」アギアがいった。
われわれは水の流れている場所を歩いて渡ったが、その水中には物凄い歯を持ち、背中に鰭のある爬虫類が浮かんでいた。それらがこちらの足に跳びつくと恐いと思ったので、わたしはテルミヌス・エストを抜いた。わたしは彼女にいった。「どうやら、ここは植物が茂りすぎていて、両側が遠くまで見えないようだな。しかし、ほら、この水の流れている場所の隙間を見てごらん。上流にはジャングルが続いているのしか見えない。下流には輝く水面が見える。まるで湖に川が注ぎこんでいるみたいだ」
「この部屋は広がっているといったでしょ。それで、面食らうかもしれないって。また、これらの場所の壁は鏡《スペキュラ》であって、その反射力が、広大な空間の感じを生み出すともいわれているのよ」
「イナイア老に会ったという婦人に会ったことがある。彼女は彼のことを話してくれた。そのことを話してやろうか?」
「お好きなように」
実は、その話を聞きたいのはわたし自身だった。そして、好きなようにした。つまり、わたしは心の奥底で自分自身に物語り、雨水の溜った墓場から摘んできた百合の花のように白く冷たいセクラの手を両手で握りしめながら初めてそれを聞いた時とほとんど同じように、心の奥底でそれを聞いた。
わたしは十三歳だったのよ、セヴェリアン、そして、ドムニナという友達がいたの。彼女は実際の年齢よりも何歳も若く見える美少女だった。だから、たぶん彼に気に入られたのね。
あなたは〈絶対の家〉のことを何も知らないから、わたしのいう事を言葉どおりに受け取らなくてはだめよ。〈意味の広間〉の中のある場所に、二面の鏡がある。それぞれ、幅が三、四エルで、上は天井まで届いている。その二面の鏡の間には、二、三十歩の大理石の床しかない。つまり、〈意味の広間〉を通る人はだれも、そこで自分自身が無限につながっている像を見るのよ。それぞれの鏡が相手の鏡の像を反射するから。
当然、自分が少女で、それもちょっと綺麗な子だと思っている少女なら、そこは魅力的な場所よ。ドムニナとわたしはある晩そこで、ぐるぐる回って新しいチュニックを見せびらかしながら、遊んでいたの。わたしたちは枝つき燭台を移動させて、一つを片方の鏡の左側に置き、もう一つを、それに向きあう鏡の左に置いた――つまり反対の隅にね。わかると思うけれど。
わたしたちは自分の姿を見るのにあまり夢中になっていたので、イナイア老がほんの数歩先にくるまで気がつかなかった。あなたもわかるでしょう、いつもなら、わたしたちは彼がくるのを見れば、逃げて隠れたわ。といっても、彼の身長はわたしたちより高いなんていえないくらいだけれど。彼は玉虫色のローブを着ている。それをよく見ようとすると色があせて、まるで霞で染めたような灰色になるのよ。「子供たち、そのように自分の姿を見るのは、用心したほうがよい」彼はいったわ。「銀を塗ったガラスの中に小鬼が待っていて、覗きこむ者の目の中に這いこむよ」
わたしは彼のいうことを理解して、赤面したわ。でも、ドムニナはこういったの。「わたし、そいつを見たような気がするわ。涙の粒みたいな姿をしていて、体じゅうきらきら光っているんじゃない?」
イナイア老はためらいもせず、瞬きもせずに彼女に答えたけれど――それでも、彼がはっとしたことが、わたしにわかった。彼はいった。「いいや、それは何かほかのものだ、かわい子ちゃん。それをはっきり見ることができるかい? できない? では、明日、正午の祈りの少し後に、わたしの謁見室においで。見せてやるから」
彼がいってしまうと、わたしたちは恐くなった。ドムニナは絶対にいかないと、百回も誓った。その気が変わらないように、わたしは彼女の決心を褒めそやした。それだけでなく、その夜と次の日はわたしのところに泊まるように段取りをつけた。
それも、すべて無駄だった。約束の時間のちょっと前になると、わたしたちのどちらも、それまでに見たことのないお仕着せを着た召使いが、おびえているドムニナを連れにきた。
わたしは二、三日前に、ある人から紙人形のセットを贈られていた。腰元、若い官女、踊り子、道化者、端役などのそろった――よくあるのをね。わたしは午後はずっと、窓辺の椅子に坐ってドムニナを待った。それらの小さな人形であそびながら、彼らの衣裳に色鉛筆で色をつけたり、いろいろに並べたり、彼女が戻ってきたら二人でする遊びを考案しながら。
とうとう、乳母が夕食だといって呼びにきた。わたしは、この時までにイナイア老はドムニナを殺してしまったか、または、二度とわたしの家を訪ねてはならないという命令を添えて、母親のところに送り返してしまったろうと思った。ところが、ちょうどスープを飲みおえた時に、扉にノックがあり、母の侍女が戸口に出ると、ドムニナが飛びこんできた。彼女の顔をわたしは決して忘れない――人形の顔みたいに蒼白だったのよ。彼女は泣き、わたしの乳母がそれを宥めた。そして、やっと、何が起こったか、彼女から聞き出すことができた。
彼女を迎えにきた男は、そんな廊下があるとは知らなかった廊下を通って、彼女を連れていったのよ。セヴェリアン、わかるでしょ、それ自体が恐ろしいことなのよ。わたしたちは二人とも、〈絶対の家〉の自分たちの住んでいる棟は完全に知り尽くしていると、思っていたから。結局、彼は彼女を謁見室だと思われる部屋に連れこんだ。彼女の話では、そこは広い部屋で、固い暗赤色の壁掛けが一枚下がっていて、人間の背丈ぐらいの高さの、彼女が両手を広げても抱えきれない太さの花瓶がいくつかある以外は、ほとんど家具のない部屋だったそうよ。
その中心に何かがあった。最初、彼女は部屋の中にもう一つ部屋があると思った。その構造物の壁は八角形をしていて、迷路の絵が描かれていた。その上に、謁見室の入り口に立っている彼女のところからちょうど見える位置に、いままでに見たこともないような明るいランプが燃えていた。彼女の話では、青白い光で、鷲さえもそれを見つめていられないほど明るかったというわ。
彼女の背後で扉が閉まった時に、かちりとかんぬきの掛かる音がした。他には出口は見当たらなかった。彼女はカーテンの陰に別の出口があるかもしれないと思って、カーテンのところに駆け寄った。しかし、彼女がカーテンの一枚を片側に引くか引かないうちに、迷路が描かれた八つの壁の一つが開いて、イナイア老が歩み出た。彼の後ろには、彼女の言葉を借りれば、光のつまった底なしの穴が見えた。
「やあ、きたね」彼はいった。「ちょうど間に合った。お嬢さん、もうすぐ捕まるからね。釣り針の仕掛けを見れぽ、どんな方法で、彼の金色の鱗がわれわれの手網《たも》にすくわれるかわかるだろう」彼は彼女の腕をつかんで、八角形の囲いの中に連れこんだ。
ここでわたしは、アギアに手を貸して道の草の茂りすぎた部分を通らせるために、物語を中断しなければならなかった。「あなた、独言をいっているわ」彼女はいった。「後ろで、あなたがぶつぶついっているのが聞こえるもの」
「さっき話そうかといった物語を、自分に聞かせているのさ。きみは聞く気がないようだったが、ぼくは自分でもう一度聞きたかったから――しかも、これはイナイア老の鏡《スペキュラ》の話で、われわれの役に立つヒントを含んでいるかもしれないから」
ドムニナは後ずさりした。その囲いの中心の、ランプの真下に、黄色い光の霧があった。それは決して静止しないと彼女はいった。それは上下、左右に急速にチラチラと動いていて、縦横四スパンぐらいの空間から外に出ることは決してなかった。それは、実際に魚を思い出させた。〈意味の広間〉のあの鏡の中に彼女がちらりと見たあのかすかなフラガエよりももっとずっと魚に似た印象で――目に見えない鉢に閉じ込められた、空中を泳いでいる魚のようだった。イナイア老は八角形の壁を背後で閉めた。それは鏡になっていて、彼の顔や手や、はっきり見えない輝く寛衣などが写って見えた。彼女自身の姿も、そしてその魚も……だが、そこにはもう一人の少女がいるみたいだった彼女の眉の後ろから彼女自身の顔が覗いていた。そして、それぞれの顔の後ろに、次々により小さい顔が覗いており、それが無限に続いて、ドムニナの顔が次第にかすかになりながら、果てしもなく続いていた。
彼女はそれらを見ると、八角形の囲いの自分の入ってきた壁が、他の鏡と向きあっていることに気づいた。事実、他のすべての壁も鏡だったのだ。青白いランプの光は全部それらに捕えられ、ちょうど子供たちが銀のボールを投げ合うように、次々に反射しあって、絡みあい、もつれあって、果てしないダンスをすることになる。その中心に、いわば光の収束によって形成されたもの、つまり、〈魚〉がチラチラときらめくのだ。
「ほら、彼が見えるだろう」イナイア老がいった。「少なくともわれわれと同じくらいに、あるいは、もっとよく、この作用を知っていた古代人は〈魚〉を鏡《スペキュラ》の住民の中で最も重要性の低い、ありふれたものだと考えた。彼らが呼び出したこの生き物が鏡の奥に存在しているという考えは誤りであるから、われわれが気にする必要はない。やがて、彼らはより重大な疑問に直面した。出発点が、到着点から天文学的な距離にある場合に、いかなる方法で旅行が可能となるか? という問題だ」
「魚のところに手を出してもいい?」
「この段階では差し支えないよ、お嬢さん。もっと後になったら、勧められないがね」
彼女はそうした。すると滑らかな暖かさを感じた。「退化人《カコジェン》たちは、この方法でやってきたの?」
「お母さんはきみを飛翔機《フライヤー》に乗せてくれたことがあるかい?」
「もちろんよ」
「そして、もっと大きい子供たちが夜の楽しみに玩具の飛翔機を作るのを見たことがあるだろう。紙の胴体に羊皮紙のランタンを使ったやつだ。そういう玩具の飛翔機が本物の模型であるように、今ここできみが見ているのは、太陽と太陽の間を旅行するのに使われる手段の模型なのだ。だが、これらを使って〈魚〉を呼び出すことができる。そして、たぶんその他のものもね。そして、子供たちの飛翔機が時にはパビリオンの屋根を火事にするのと同様に、われわれの鏡もまた、集中力は強くはないが、危険がなくもないのだよ」
「星々へ旅行するには、鏡の上に坐らなくてはならないと思っていたわ」
イナイア老は微笑した。彼が微笑するのを彼女が見たのは初めてだった。そして、その笑いは、ただ彼が彼女のいうことを面白がったか、または喜んだかしたことを示すだけだとわかっていたけれども(たぶん大人の婦人よりも彼女のほうがずっと彼を喜ばせただろう)、気持ちの良いものではなかった。「ちがう、ちがう。問題を簡単に説明してあげよう。物体が非常に速く――きみの家庭教師が明かりをつけると、子供部屋の見慣れた物が全部いっぺんに見えるのと同じくらい速く――移動すると、その物体は非常に重くなるのだ。いいかい、大きくなるのではなく、重くなるだけなのだよ。そして、ウールスとかその他の世界により強く引きつけられる。もし、それが充分に速く動けば、それ自身が一つの世界になって、他のものを自分に引きつける。こんなことは実際に起こりはしないが、もし起こるとすれば、そうなるというのだ。しかし、きみの部屋の蝋燭の光でも、太陽と太陽の間を旅行するのに充分な速度で走ることはないのだ」
(魚が上下左右にゆらめいた)
「もっと大きい蝋燭を作ることはできないの?」ドムニナはきっと、毎年、春に見る大人の太股よりも太い復活祭の蝋燭のことを考えていたのだろう。
「そういう蝋燭はできるけれど、その光は、決してより速く走ることはないのだ。だが、光《ライト》は、軽《ライト》いというくらい重量の少ないものだけれど、それが当たるものに圧力を及ぼす。ちょうど、風は目に見えないが風車の羽根を押すようなものだ。だから、対面する鏡に光を当てると何が起こるか、わかるだろう。それらが反射する映像は片方から片方に移動し、また返ってくる。もし、それが、戻ってくるそれ自身と出会ったら――その場合に何が起こると思うかね?」
ドムニナは恐かったけれども、笑った。そして、想像がつかないといった。
「それは自分を打ち消すのさ。二人の少女がやみくもに芝生の上を駆け回っていると考えてごらん。鉢あわせしたら、もう少女たちは走っていないことになる。しかし、もし鏡がよくできていて、相互の距離が正確なら、映像は出会わない。その代わり、一つはもう一つの後ろからくる。たとえそうなっても、光が蝋燭や星から出たものなら、何の効果も発生しない。なぜなら、先の光も、場合によってはそれを前に押しやる力を持つ後の光も、ともに不規則な白色光にすぎないからだ。睡蓮の池に少女が一掴みの砂利を投げこんだ時にできる不規則な波のようなものだ。しかし、もしその光が位相のそろっている光源から出たものであって、それが光学的に正確な鏡から反射された映像を形成するとすれば、映像は同じだから、波面の方向は同じになる。われわれの宇宙では何物も光速を超えることはできないから、加速された光はこの宇宙を去って、別の宇宙に入る。その速度がふたたび衰えれば、またわれわれの宇宙に復帰する――当然、別の場所にね」
「これはただの反射なの?」ドムニナは尋ねた。彼女は〈魚〉を見ていた。
「結局は、実在の物といえるだろう。もし、われわれがランプを暗くするとか、位置を変えるとかしなければね。反射された映像が、それを発生させる物体なしに存在するとすれば、われわれの宇宙の法則が破られることになる。だから、ある物体が存在することになるのだろう」
「ねえ」アギアがいった。「何かあるわ」
熱帯樹の影があまりにも濃かったので、道に点々と落ちる日光が、まるで融けた黄金が燃え上がっているように見えた。わたしは眉をしかめて、日光の燃える光線を透かして、先の方を覗いた。
「黄色い木の脚柱にのった高床式の家があるわ。屋根は椰子の葉で葺いてあるわね。見えない?」
何かが動いた。すると、緑と黄色と黒の模様から突然一軒の小屋が現われて、目に飛びこんできたように思われた。暗い斑点が戸口になり、二本の斜めの線が屋根の傾斜になった。明るい色の衣服の男が、小さなベランダに立って、道にいるわれわれを見下ろしていた。わたしはマントを整えて身繕いをした。
「その必要はないわ」アギアはいった。「ここでは服装は問題にならないの。暑ければ、脱ぐといいわ」
わたしはマントを脱ぎ、畳んで左腕に掛けた。ベランダの男は見まちがえようのない恐怖の色を浮かべて、くるりと背を向けて、小屋の中に入った。
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21 ジャングルの中の小屋
ベランダに梯子がかかっていた。それは小屋と同じ材質の節だらけの木材を、植物繊維で縛って作ったものだった。「まさか、あれを登るというんじゃないでしょうね?」アギアが先回りして文句をいった。
「もし、ここで見るべきものを見るつもりなら、登らなければならないさ」わたしはいった。
「それに、きみの下着の状態を思い出すと、ぼくが先に登ったほうが、きみの気分が落ち着くだろう」
驚いたことに、彼女は赤面した。「これを登っても、大昔に熱帯地方で使われていたような家があるだけよ。すぐに退屈するわ。きっとよ」
「そしたら降りてくればいい。そうしても、大して時間が無駄になるわけじゃなし」わたしは梯子に飛び乗った。それはしなって、びっくりするようなキーキーいう音をたてた。だが、公共の遊園地で、本当に危険なものがあるわけはないとわかっていた。わたしが途中まで上がると、彼女が後に続いてくるのがわかった。
内部はわれわれの組合の独房とほとんど変わらないくらいの狭さだった。しかし、似ている点はそれだけだった。われわれの地下牢には、堅牢さと質量の圧倒的な印象があった。壁の金属板がどんなに小さい音でも反響した。床は歩く職人の足の下でガンガンと鳴り響き、歩く者の体重で、髪の毛ほどもしなうことはなかった。天井は絶対に落ちなかった――もし万一落ちたりしたら、その下のあらゆるものが潰れてしまうだろう。
もしも、われわれの一人一人に対極的な兄弟がいるというのが本当ならば、つまり、われわれが黒ければ白い奴が、そして、われわれが白ければ黒い奴がいるとすれば、この小屋はたしかにわれわれの独房の、そういう取替え子≠セった。われわれが入ってきた開け放しの入り口のある壁を除いて、すべての面に窓があった。そして、それらには格子もガラスもはまっておらず、いかなる種類の閉ざすものもついていなかった。床も壁も窓枠も、黄色い木の枝でできていた。それも平らな板にしたものではなく、丸いままだったので、壁のところどころから日光が射しこんでいるのが見えた。そして、もし擦り切れたオリカルク貨幣を落としたら、おそらく下の地面まで落ちるだろうと思われた。天井もなく、屋根の下の三角形の空間があるだけで、そこに鍋や食料袋がぶらさがっていた。
片隅で、一人の女が声をたてて本を読んでいた。そして、その足もとに裸の男がうずくまっていた。道から見えた男は、入り口と反対側の窓のそばに立って外を見ていた。彼はわれわれが入ってきたことを知っているのに(そして、たとえさっきわれわれを見なかったとしても、われわれが梯子を登ってきた時に小屋が揺れたのをきっと感じたにちがいないのに)、知らない振りをしたがっているのだと、わたしは感じた。目が合わないように人が向きを変えた時には、その後ろ姿の線に何かがあるものだ。彼の場合には明らかにそれがあった。
女は読んだ。「それから、彼は平野からネボ山に登った。そこは町を見渡す岬のようになっていた。〈同情者〉は国全体を彼に見せた。遙かかなたの〈西の海〉までの全土を。そして、いった。これが、おまえたちの息子らに与えることになっている土地だと、わたしがきみたちの父親に話した土地だ。きみたちはこれを見たが、まだ足を置いてはならない≠サして、彼はそこで死に、その谷間に埋葬された」
彼女の足下の裸の男がうなずいた。「われわれのマスターたちはそのとおりだよ、女先生。贈り物は小指で与えられるが、親指が引っ掛かっている。人間はただ受け取って、家の床に穴を掘って、敷物で覆い隠すしかない。ところが、そのとたんに、親指が引っぱりはじめ、贈り物は少しずつ地面から持ち上がり、天に上っていき、見えなくなってしまうのだ」
これを聞くと女はいらいらした様子で、言いかけた。「おやめなさい、イサンゴマ――」だが、窓のところの男が振り返ってそれを遮った。「黙って、マリー。わたしは彼の話を聞きたい。きみの説明は後でよい」
「甥の一人が」裸の男が続けた。「魚を取りにいった。おれと同じ焚火仲間《ファイアーサークル》に入っている男だ。三叉の槍を持って池にいった。そして、樹木と間違えられるくらい静かに、水面に体を乗り出した」裸の男はそういいながら、飛び起きて、その筋張った体で、女の足を空気の槍で突き刺そうとでもするかのような姿勢を取った。「長い長い間、彼は立っていた……しまいには、猿も恐れなくなって、戻ってきて、水中に小枝を落とした。ヘスパローン([#ここから割り注]すでに絶滅した、魚を喰うダチョウ[#ここで割り注終わり])もばたばたと巣に戻った。一匹の大きい魚が、沈んだ木の幹の隠れ家から出てきた。甥はそいつがゆっくりゆっくりと泳ぎ回るのを見守った。魚は水面の近くを泳いだ。だが、甥が今まさに三叉の槍を突き出そうとした瞬間に、その魚の姿は消え、一人の美しい女が現われた。最初甥は、その魚は魚の王様で、突き刺されないように姿を変えたのかと思った。ところが、魚がその女の顔の下を動いているのが見えた。それで、女の姿は水に映っているのだとわかった。すぐに目を上げたが、何も見えず、草の蔓しかなかった。女は消えてしまった!」裸の男は目を上げて、その漁夫の驚きの表情を巧みに真似した。「その夜、甥は〈誇り高き者〉ニューメンのところにいき、若いオレオドンド([#ここから割り注]現在は絶滅している、羊ぐらいの草食獣[#ここで割り注終わり])の喉を裂いて、言った――」
アギアがわたしにささやいた。「|神 人《セオアンスロポス》の名において、あなた、ここにいつまでいるつもりなの? これは一日じゅうでも続くのよ」
「小屋を見物させてくれ」わたしはささやきかえした。「それから、行こう」
「強力なるかな、〈誇り高き者〉。聖なるかな、彼のすべての名。彼の葉の下に見出されるものは、すべて彼のものである。嵐は彼の腕に抱かれて運ばれる。毒は、その上に彼の呪いが唱えられなければ、死をもたらさない!」
女はいった。「あなたの物神を誉め讃える言葉を全部聞く必要はないと思います、イサンゴマ。でも、夫はあなたの物語を聞きたがっているから、長たらしい説明は抜きにして、話してちょうだい」
「〈誇り高き者〉は嘆願者をお守りくださる。彼を崇拝する者が死んだら、彼の恥になるではないか?」
「イサンゴマ!」
窓のところから、男がいった。「彼は恐れているのだ、マリー。声の調子で、わからないか?」
「〈誇り高き者〉の徴《しるし》を身につけている者に、恐れはない! 彼の息は、|尾なし猿《ウアカリス》の子を野猫《マルゲイ》の爪から守る霞だ!」
「ロベール、これに対してあなたが何もしないなら、わたしがします。イサンゴマ、黙りなさい。さもなければ、ここから出ていって、二度と戻ってきてはいけません」
「〈誇り高き者〉は、イサンゴマが女先生を愛していることを知っている。できれば、彼女を救ってくれるだろうに」
「わたしを何から救うの? ここに、あなたの恐れている獣たちがいると思っているの? もしいれば、ロベールが鉄砲で射つでしょう」
「トコロッシュだ、女先生。トコロッシュがくる。だが、〈誇り高き者〉はその息の露の中でわれわれをお守りくださる。彼はすべてのトコロッシュの強力な指導者だ。彼が大音声をあげれば、彼らは落葉の下に隠れる」
「ロベール、この人は頭がおかしくなっていると思うわ」
「彼には目があるよ、マリー。だが、きみにはない」
「それ、どういう意味? そして、なぜあなたはその窓から外を眺めつづけているの?」
ごくゆっくりと、彼は顔をこちらに向けた。そして、一瞬、アギアとわたしを見て、それから顔を背けた。その表情はちょうど、グルロウズ師が|最初の審問《アナクリシス》に使う拷問道具を客人に見せた時に、客人が浮かべるのと同じ表情だった。
「ロベール、お願いだから、何が気に入らないのか教えて」
「イサンゴマがいうように、ここはトコロッシュがいる。彼のものではなくて、われわれのものだと思う。死と女≠セ。きみは彼らのことを聞いたことがあるかい、マリー?」
女は首を振った。彼女は座席から立ち上がって、小さな収納箱の蓋を開けていた。
「たぶん、聞いてはいないだろうな。それは一つの絵むしろ、絵画のテーマなのだ。いろいろな画家が描いている。イサンゴマ、おまえの〈誇り高き者〉はこれらのトコロッシュに対して、あまり力はないだろう。これらはパリから――わたしは昔あそこで学生時代を過ごしたのだ――このために絵画をやめるように、わたしをいさめにやってきたのだ」
女はいった。「あなたは熱があるのよ、ロベール。明らかよ。何か薬をあげるわ。そうすれば、すぐに気分が良くなるでしょう」
男はまたわれわれの方を向き、アギアの顔とわたしの顔を見た。まるで、本人はそうしたくないのに、目の動きをコントロールすることができなくなったかのように。「もしわたしが病気なら、マリー、病人というものは、健康な人が見逃したものに気づくものだよ。イサンゴマも彼らがここにいることを知っている。これを忘れてはいけない。きみが彼に本を続んで[#校正1]聞かせていた時に、床が揺れるのを感じなかったか? あの時に、彼らは入ってきたのだと思う」
「あなたがキニーネを飲むように、グラスに水を注いでおいたのに、それは揺れませんでしたよ」
「彼らは何者だね、イサンゴマ? トコロッシュだということはわかるが――それにしても、トコロッシュとは何なのだ?」
「悪い精霊のことだ、先生。男が悪いことを考える時、女が悪いことをする時には、それぞれ別のトコロッシュがくる。それは後ろに隠れている。男は考える。だれも知らない、みんな死んでいる≠オかし、トコロッシュは世の終わりまで残っている。その時に皆が見て、彼が何をしたか知る」
女はいった。「なんと恐ろしい考えでしょう」
彼女の夫の手が窓枠の黄色い枝を掴んだ。「彼らはわれわれのした事の結果にすぎないということがわからないのか? 彼らは未来の精霊なのだ。彼らを作るのはわれわれ自身なのだ」
「それらは異教徒の途方もないナンセンスよ。わたしにはそう思われるわ、ロベール。聞いて。あなたの幻影はとてもはっきり見えるのね。しばらく耳をすませて、音を聞くことはできないの?」
「聞いているよ。何をいいたいのだ?」
「何も。ただ、あなたに耳をすませてもらいたいだけよ。何か聞こえる?」
小屋は静まりかえった。わたしも耳をすませた。そうしたくないと思っても、耳をすまさずにはいられなかったろう。外では、前と同様に、猿どもがお喋りをし、オウムが金切り声をあげていた。その時、ジャングルの雑音を透して、かすかなブーンという音が聞こえた。それはまるで、ボートほどもある大きな昆虫がずっと遠くを飛んでいるようだった。
「何だ、あれは?」男が尋ねた。
「郵便飛行機よ。運が良ければ、まもなく見えるはずよ」
男は窓の外に首を伸ばした。そしてわたしは、彼の探している物に興味をそそられて、窓のそばの彼の左側にいき、同じように窓の外を見た。葉の茂みがあまり濃いので、最初は何も見えるはずがないと思われた。だが、彼は、草葺き屋根の端ぎりぎりのところから、ほとんどまっすぐ真上を見上げていた。わたしはそこに青いしみを見つけた。
ブーンという音が大きくなった。そして、視野に、今まで見たこともないような奇妙な飛翔機が入ってきた。それには翼があり、しかも鳥のように羽ばたきをしなかった。まるで、胴体から凧のように浮力を発生させることは不可能ではないということを、まだ理解していない種族が作ったもののように見えた。銀色の翼の両側に球根のような形のふくらみがあり、胴体の先端にももう一つのふくらみがあった。これらのふくらみの前に光がひらめいているように見えた。
「三日たてば飛行場に行くことができるわ、ロベール。次の便を、待つことにしましょうよ」
「もし主がわれわれをここにお送りになったとすれば――」
「そうだ、男先生、おれたちは〈誇り高き者〉が望むとおりにしなければならない! 彼に優るものはない! 女先生、〈誇り高き者〉への踊りを踊らせてくれ。そして彼の歌を歌わせてくれ。そうすれば、トコロッシュは去るだろう」
裸の男は女から本をひったくって、掌でそれを打ちはじめた――まるで太鼓《タンブール》を叩くようにリズミカルに。彼の足はでこぼこの床をこすり、声は、最初はしわがれた甲高い声で歌っていたが、やがて子供の声のようになった。
[#ここから3字下げ]
夜、すべてが寝静まった時に、
梢で叫ぶ彼を聞け、
火の中で踊る彼を見よ!
彼は矢の毒の中に住む、
黄色いほたるのように小さく、
流れ星よりも明るい!
毛深い人が森の中を歩く――
[#ここで字下げ終わり]
アギアがいった。「もう行くわよ、セヴェリアン」そしてわたしの後ろの戸口から歩み出た。
「あなたがここに残って、これを見たいというなら、残ってもいいのよ。でも、そうすると、あなたは自分でアヴァーンを手に入れて、〈血染めが原〉へ自分でいかなくてはならなくなるわ。もし、あなたがそこに現われない場合、どうなるか知っているの?」
「彼らは刺客を雇うと、きみはいったぞ」
「そして刺客は〈黄色い顎鬚〉という蛇を雇うのよ。最初は、あなたにではなくて、あなたの家族に対してね。家族があれば、家族にね。それに友達にも。わたしはあなたと一緒に町内を歩き回ったから、刺客はたぶんわたしに差し向けられることになるわ」
[#ここから3字下げ]
太陽が沈む時、彼はやってくる、
水の上の彼の足を見よ!
水の上を横切る炎の足跡を!
[#ここで字下げ終わり]
歌は続いた、だが、歌い手はわれわれが去ろうとしていることを知った。そして、歌に勝ち誇った響きが加わった。わたしはアギアが地面に着くまで待ち、それから彼女の後についていった。
彼女はいった。「あなたは絶対に立ち去らないと思ったわ。ここにきたんだから、本当にここがそれほど好きなんでしょうね?」彼女の破れたガウンの金属的な色は、不自然に黒ずんだ木の葉の冷たい緑色に対して、彼女と同じくらい腹を立てているように見えた。
「いいや」わたしはいった。「でも、面白く感じたんだ。きみ、彼らの飛翔機を見たかい?」
「あなたとあの家人が窓の外を見た時の? わたし、そんな馬鹿じゃないわ」
「これまでに見たこともないようなものだった。植物園の屋根の切子面が見えてもいいはずなのに、それは見えなくて、あいつが見ることを期待していた飛翔機が見えた。少なくとも、あれはそのように見えた。どこかよそからきた物みたいだった。さっきぼくは、友達のまたその友達の少女がイナイア老の鏡に捕えられた話をきみに、しようと思っていた。その少女は、気がついたら別の世界に入っていたんだよ。そして彼女はセクラ――これがぼくの友達の名前だがね――のところに戻ってからでさえも、本当の出発点に帰ってきたかどうか自信が持てなかったそうだ。ところで、あの人々がわれわれの世界にいるのではなくて、われわれがまだ、あの人々が去った世界にいるんじゃないだろうか?」
アギアはすでに道のずっと先を見つめていた。彼女が振り向くと、その頭に木洩れ日が当たって茶色の髪が暗い金色に変わったように見えた。彼女は肩ごしにいった。「ある見物人はある景観に引きつけられるといったでしょ」
わたしは小走りに彼女に追いついた。
「時間がたつにつれて、見物人の心はその環境に合うように捻じ曲がるのよ。そして、たぶん、彼らもわたしたちの心を捻じ曲げるんだわ。あなたが見たのは、おそらく普通の飛翔機よ」
「彼はわれわれを見た。あの野蛮人もだ」
「聞くところによると、部屋の住民の意識を捻じ曲げれば捻じ曲げるほど、より多くの残留感覚が残るみたいなの。わたしはこれらの園内で怪物や野蛮人などに出会うと、彼らは他のものよりもずっと多くわたしを、少なくとも部分的には、認識しているように感じるわ」
「あの男のことを説明してくれ」わたしはいった。
「これを作ったのはわたしじゃないのよ、セヴェリアン。わたしが知っているのは、たとえここで振り向いても、さっき見た場所はたぶん消え失せているだろう、ということだけよ。ねえ、お願い。ここを出たら、まっすぐに〈果てしない眠りの園〉にいくと約束して。他を回る時間はないのよ。〈快楽の園〉さえも覗く時間はないわ。そして、本当は、あなたはここを見物するのに適した人間ではないのよ」
「ぼくが〈砂の園〉に留まりたがったからか?」
「一部は、そうよ。あなたはここで遅かれ早かれわたしを困らせることになると思うわ」
彼女がそういった時、われわれは一見、際限もなく思われる道の湾曲部の一つを曲がった。種類標識以外の物とは考えられない、小さな白い長方形の札のついた丸太が道に転がっていた。そして、左手の密集した木の葉の間に、壁が見えた。その緑がかったガラスは、群葉にとって邪魔にならない背景になっていた。わたしがテルミヌス・エストを別の手に持ち替えて、彼女のためにドアを開けようとした時には、アギアはすでにドアの外に一歩あゆみ出ていた。
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22 ドルカス
初めてアヴァーンのことを聞いた時には、わたしはその花が〈城塞〉の温室の花のように、ベンチの上に列をなして咲いているところを想像した。その後、アギアに植物園のことをもっと詳しく聞いて、それが咲く場所は、子供の頃に遊び戯れていたあの共同墓地――木々が生えていて、崩れた墓があり、骨で舗装された通路があった――のような場所だと思った。
しかし、現実はひどく違っていた――底なしの沼沢地の中の暗い湖だった。足は菅《すげ》の茂みに沈み、寒風が、海に届くまで遮る物が何もないかのように、ひゅうひゅうと吹きすさんでいた。歩いていく小道の両側に藺草《いぐさ》が茂り、霞のかかった空を背景に、一、二度、黒い水鳥の影が渡っていった。
わたしはアギアにセクラのことを話しつづけた。彼女はわたしの腕に触れた。「ここから見えるわ。あれを摘むには湖を半分回っていかなければならないけれどね。指さす先を見て――あの白いしみ[#「しみ」に傍点]のように見えるところ」
「ここからは危険なものには見えないがなあ」
「保証するけど、あれは大勢の人の命を奪っているのよ。その幾人かはこの植物園に葬られていると思うわ」
では、やっぱり墓はあるのだ。霊廟はどこに建っているのか、とわたしは尋ねた。
「そんなものはないわ。棺桶とか、骨壷とか、そんな厄介なものはないのよ。ブーツにびちゃびちゃあたる水を見て」
わたしは見た。紅茶のように茶色い水だった。
「この水には死体を保存する性質があるの。死体の喉から体内に鉛の重りを押しこんで、ここに沈めるのよ。そして、その位置を地図に記入しておいて、見たい人があれば、後で引き上げて見ることができるようにしてあるの」
われわれが立っている場所から一リーグ以内に、死体など沈んでいるものかと、わたしはいいかけた。いや、少なくとも(もし、このガラスの建物の中の区分が、一般にいわれているほどの面積を実際に包含しているとすれば)〈果てしない眠りの園〉の中にはないだろうと。だが、アギアの言葉が終わるか終わらないうちに、十歩ほど先の葦の葉の上に一人の老人の頭と肩が現われた。「それは正しくない」彼は呼びかけた。「人々はそういっているが、それは正しくない」
腰の上が破れて垂れ下がったガウンをそのまま着ていたアギアは、あわててそれを引き上げて、いった。「エスコートしている男以外に、話を聞いている人がいるとは知らなかったわ」
老人はその立腹を無視した。疑いなく、すでに彼の思考は立ち聞きした事に深入りしていて、他に注意がおよばなくなっていた。「ここに図面がある――見たいか? あんた、若い紳士のほうだ――あんたに教養があることは一目瞭然だ。見るか?」彼は杖を持っているように見えた。それの先端が何度も上下するのをしばらく眺めていて、ようやく彼が竿を使って舟をこちらに進めてくるのだとわかった。
「また邪魔が入った」アギアがいった。「行きましょう」
わたしは、池の周囲をずっと迂回していくのを省くために、その舟で向こうに渡してくれないかと、彼に頼んだ。
彼は首を振った。「この小さな舟には重すぎる。キャスとわたしが乗る場所しかない。あんたがたのような大きい人たちが乗ったら、転覆してしまう」
舟のへさきが見えてきた。そして、彼のいったとおりだとわかった。彼は腰が曲がり、老齢のために(パリーモン師よりもずっと年寄に見えた)十歳の子供よりも体が軽いと思われるほど萎んでしまっていたが、それでも、彼を乗せて浮いていろ、とその舟に要求するだけでも無理だと思われるほど小さい舟だった。同乗者はいなかった。
「失礼ながら」彼はいった。「わたしはこれ以上そちらに近寄れない。彼女は|濡れて《ウエット》いるかもしれないが、わたしにとっては|冷た《ドライ》すぎる。また、あんたは水草の上を歩くことはできない。だから、岸にそってこちらにきてくれないだろうか? そうすれば図面をお目にかけるが」
わたしは彼が何を見せたがっているか、好奇心を燃やして、いわれるままにした。アギアもしぶしぶついてきた。
「さあ、これを」彼は着物に手を差し入れて、小さな巻物を取り出した。「ここに位置が記されている。見てくれ、若い人」
その巻物には、最初に名前が書いてあり、それから、その人物がどのような暮らしをしていたかについて長い説明がついていた――死者は彼の妻だった――それから、夫が何で生計を立てていたか記されていた。相手にとって失礼だったかもしれないが、わたしはそのすべてを、ほんのちらりと見ただけのような態度を取った。これらの説明の下に、大雑把な地図と、二組の数字が記されていた。
「ほらね、ごく簡単に思えるだろう。その最初の教字はファルストラムから見通した歩数《べース》、第二の数字は上《かみ》に向かっての歩数《べース》だ。ところで、わたしがここ何年もずっと彼女を見つけようと努力してきたが、まだいっこうに見つかっていないといったら、あんたは信じるかな?」彼はアギアを見ながら、ほとんど正常の姿勢に近いくらい体を伸ばした。
「信じるわ」アギアはいった。「そういえぱ、おたくは満足でしょうけど、わたしはそれを聞いてがっかりしたわ。でも、これはわたしたちにはなんの関係もないことよ」
彼女は背を向けて行きかけた。だが、老人は竿を突き出して、わたしが彼女の後を追うのを妨げた。「彼らのいうことに耳を貸しなさんな。彼らは死体を彼らのいう位置に沈めるが、死体はそこに留まっておりはせんのだ。川の中で見つかることだってあるんだよ」彼は漠然と地平線の方に目をやった。「ずっとあちらの方の」
わたしは、そんなことがありうるとは思われない、といった。
「ここの水はすべて、どこから来ると思っているのかね? 地下に導水管があるのだ。そうでなければ、この場所全体は干上がってしまう。死体が動き回りはじめれば、一体が管内を流れ抜けることを、何が妨げる? 二十体を何が妨げる? 問題にするほどの流れはありえないかね? あんたと彼女は――アヴァーンを取りにきたのだろ? そもそも、あれがここに植えられた理由を、あんた、知っているのかね?」
わたしは首を振った。
「マナティーのためさ。彼らは川に棲んでいる。そして、昔は導水管を通ってここに泳ぎこんだものだ。湖に彼らの顔がひょこひょこ現われるのを見ると、ここの同類が怖がる。それで、イナイア老が園丁に命じてアヴァーンを植えさせたのだ。その時、わたしはここにいて、それを見たのだよ。彼は小さな男だった。首が曲がり、足はがにまただった。今はマナティーがやってくれば、これらの花が夜のうちに殺す。ある朝、ほかに仕事もなかったので、わたしはいつものようにキャスを探しにやってきた。すると、岸に鈷《もり》を持った管理者がいた。彼らは湖にマナティーの死骸があるといった。だが、わたしが鉤《かぎ》を持って湖面に出て、引き寄せてみるとマナティーではなく人間だった。その死体は鉛の重りを吐き出してしまったか、あるいは、重りが充分でなかったのだ。その人は、あんたや彼女のように、そして、わたしよりもよっぽど、丈夫そうに見えたよ」
「その死体は死んでからずっと時間がたっているものだったかね?」
「それはわからない。ここの水は死体を保存する性質があるから。この水は死体の皮膚をなめし革に変えてしまうといわれているが、そのとおりだ。といっても、あんたのブーツのようななめし革を想像してはいけない。むしろ、婦人用の手袋のようになる」
アギアはずっと先の方に行ってしまっていた。わたしは彼女のあとを追いはじめた。老人は菅の浮き道に沿って竿で小舟を押しながら、われわれのあとをついてきた。
「その時に管理人にいってやった。わたしは四十年間努力して駄目だったが、今日は運よく、あんたがたのためにたった一日でそれ以上の仕事をしたとね。これがわたしの道具だ」彼は長い綱の先につけたひっかけ鉤を見せた。「いろいろなものをたくさんひっかけなかったわけではないが、キャスはかかってこない。彼女の死の翌年に、まず数字の位置を探したが、そこにはいなかった。それで、先の方を探っていった。そうして五年間探しつづけているうちに、記入されている場所からずっと遠くの方にまでいった――その時にはそう思った。それから、やっぱり、彼女は最初の場所にいるのではないかと心配になってきた。だから、最初からやりなおした。まず、記入された場所を探し、それからだんだん先の方に進んでいった。こうして十年たった。また心配になってきた。それで今朝は、記入された位置で作業を開始し、そこで最初の鉤を投げこんだところなのだ。この次は、前に中止した位置にいって、もう少し円を広げてやってみる。彼女は図面の位置にはいない――それはわかっている。今あの位置にいる死体は全部知っている。何度も何度もひっかかってくる者もある。だが、彼女は放浪しているのだ。しかし、ことによったらもとの場所に戻ってくるかもしれないと、わたしは思いつづけている」
「奥さんだったんだね?」
老人はうなずいた。だが、驚いたことに、何もいわなかった。
「なぜ、彼女の死体を引き揚げたいのかね?」
それでも彼は黙っていた。彼の竿は水面から出入りする時に音を立てなかった。その小舟はほんのかすかな航跡しか残さなかった。ふなべりに打ち寄せる漣《さざなみ》が、小猫の舌のようにピチャピチャとかすかな音を立てるばかりだった。
「そんなに長い年月がたっていても、彼女を探り当てれば、彼女と必ずわかるだろうか?」
「わかるとも……わかるとも」彼はうなずいた。最初はゆっくりと、それから激しく。「すでに彼女をひっかけていると、あんたは考えているのだな。彼女を引き揚げ、その顔を見て、また水中に投げこんでしまったと。そうだろう? そんなことはあり得ない。キャスがわからないだと? あんた、なぜわたしが彼女を引き揚げたがっているか尋ねたね。その理由の一つは、わたしが抱いている彼女の記憶だ――最も強烈な記憶は――彼女の顔を覆い隠したこの茶色の水だ。彼女は目をつぶっていた。あんた、そのことを知っているか?」
「おたくが何をいおうとしているか、よくわからないが」
「死者の目蓋にセメントを塗る。それは永久に目蓋を閉じておくと考えられている。だが、水が彼女の目蓋に触れた時に、彼女の目が開いたのだ。それを説明してくれ。これがわたしの記憶に残っていることだ。眠ろうとすると、心に入ってくるのだ。この茶色の水が彼女の顔の上で逆巻き、その茶色を透して彼女の目が青く開いているのが見えた。わたしは毎晩、五たびも六たびも目を覚まして、眠りなおさなければならない。わたし自身がここに葬られる前に、もう一度あの姿を見たいのだ――たとえ、この鉤の端にひっかかってあの顔が上がってくるだけだとしても。わたしのいっていることがわかるかな?」
わたしはセクラと、セクラの独房の扉の下から流れ出たあの血の糸を思い出し、うなずいた。
「それから、もう一つ話がある。キャスとわたしは小さな店をやっていた。主にクロワゾンネ([#ここから割り注]七宝[#ここで割り注終わり])の品物だった。彼女の父と兄弟がその製作を仕事にしておって、われわれにシグナル通りに店を持たせてくれた。真ん中からちょっと先、競売場の隣にね。建物はまだあそこにある。もうだれも住んでいないが。わたしはその義理の親のところにいっては、箱を肩に担いで帰り、それを開き、店の棚に商品を並べたものだ。キャスがそれらに値段をつけ、売り、店内をいつもぴかぴかに磨いてた! それがどのくらい続いたか、あんた知ってるかね? われわれのささやかな店がさ?」
わたしは首を振った。
「四年に、ひと月と一週間足りなかった。そして、彼女は死んだ。キャスは死んだ。すべてが終わるのに、長くはかからなかったが、それがわたしの生涯の最大の部分なのだ。今は、ある屋根裏部屋をねぐらにしている。何年か前から――といってもキャスが死んでから何年もたってからだが――知り合いが、そこに寝かせてくれるようになったのだ。そこには、クロワゾンネの一片も、服の一着も、もとの店の釘一本すらもない。一個のロケットと、キャスの櫛をとっておこうとしたが、全部なくなってしまった。さあ、教えてくれ。これが夢でなかったと、わたしはどうやって知ればいい?」
わたしには、この老人は黄色い木の家の人々がそうであったように、呪縛されているのかもしれないと思われた。それで、いった。「わたしにわかるわけがない。もしかしたら、あなたのいうように、それは夢だったかもしれない。あなたは自分を痛めつけすぎていると思う」
彼の気分がたちまち変わった。ちょうど子供の気分が突然変わるように。そして、笑いだした。
「見ればすぐにわかる、若い人、そのマントの下の衣裳にもかかわらず、あんたが拷問者でないということは。あんたとその女をこの舟で渡してやりたいと心から思うが、それは無理だ。ずっと向こうにもっと大きい舟に乗っている人がいる。彼はしばしばこちらにやってきて、あんたと同じようにわたしと話をする。あんたがたを渡してやれとわたしがいっていたと、彼に頼みなさい」
わたしは彼に礼をいって、急いでアギアを追った。彼女はこの時にはもうずっと先までいってしまっていた。彼女が足をひきずっていたので、彼女が今日、足をくじいてからどんなにたくさん歩いたか思い出した。早く彼女に追い着いて、手を貸してやろうと思って、走りだした。そのとたんに、その時には大失敗であり、ひどく自尊心を傷つけられたように思われても、後で考えれば噴飯ものであるような、へま[#「へま」に傍点]をしてしまった。そして、それによって、文句なしに風変わりなわたしの経歴の中でも特に奇妙な事件の一つを引き起こしてしまったのである。わたしは走りだしたが、走っているうちに道のカーブの内側に寄りすぎた。
ある瞬間に、わたしはふかふかした萱を踏み――次の瞬間には、氷のような茶色の水の中でもがいていた。マントのためにほとんど身の自由がきかなかった。一呼吸する間に、また溺死の恐怖を味わった。それから、体を起こし、顔を水面に上げた。あれらの夏のギョルでの水浴びの時に身についた習慣が、ふたたび表面に現われた。わたしは鼻と口から水を吹き出し、深呼吸をし、顔からずぶ濡れになったフードを押し上げた。
冷静になったとたんに、テルミヌス・エストを落としてしまったことに気づいた。そして、その瞬間には、あの剣を失うことは死の可能性よりも恐ろしいものに思われた。わたしはブーツを蹴り捨てもせずに水中に潜り、純粋な水ではなく、葦の繊維質の茎が絡みあって濃密になっている琥珀《こはく》色の液体の中に強引に入っていった。これらの茎は、溺死の脅威を数倍増したが、同時にわたしのためにテルミヌス・エストを救ってもくれた――それらのために沈下が妨げられなければ、きっと剣はわたしよりも先に底に達して、鞘の中に多少の空気を含んでいるとしても、水底の泥の中に沈んでしまったことだろう。だが、そうはならず、ありがたいことに、水面から八キュビットか十キュビット下で、必死に探る片手に、オニキスの柄《つか》の握り慣れた形が触れた。
同時に、もう一方の手がまったく別の種類の物体に触れた。それは他の人間の手だった。そして、その握り(というのは、それはわたしが触れた瞬間に、わたしの手を掴んだのである)はテルミヌス・エストの回収とあまりにもよくタイミングが合っていたので、まるでその手の持ち主が、あのペルリーヌ尼僧団の背の高い女教主と同様に、わたしの持ち物を返してくれたように感じられた。狂おしいほどの感謝の衝動が湧き上がり、それから恐怖が十倍にもなって戻ってきた。
その手はわたしの手を引っばり、水底に引きこみ、わたしを溺れさせた。
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23 ヒルデグリン
残っている最後の力を振り絞って、わたしはなんとかテルミヌス・エストを菅の浮き道の上に投げ上げて、また沈まないうちに浮き道のぼろぼろの縁にしがみついた。
だれかがわたしの手首をつかまえた。アギアだと思って目を上げた。それは彼女ではなく、流れるような黄色い髪の、もっと若い女だった。わたしは懸命に礼をいおうとしたが、口から出てくるのは言葉ではなく、水ばかりだった。彼女は力をこめて引っ張り、わたしは必死に努力した。そして、ようやく菅の上に完全に抱きかかえられて横たわった。わたしは弱りきっていて、それ以上何もできなかった。
そこに、少なくとも、|み告げの祈り《アンジェラス》を唱えるのに必要なくらいの時間、いや、ことによったらもっと長い間、ぐったりしていたにちがいない。寒さを感じ、それが次第にひどくなるのを感じ、また腐った植物繊維でできている道全体が自分の体重で沈下するのを感じた。そして、結局、また体がなかば水に浸った。激しく呼吸したが、肺は満足しなかった。そして、水にむせた。水は鼻孔からも滴り落ちた。だれかがいった(それは男性の声で、ずっと昔に聞いたことのあるような感じの大声だった)。「彼を引き上げろ。さもないと沈んでしまうぞ」わたしはベルトを握って、持ち上げられた。それから数分たつと、立ち上がることができたが、足が震えて、倒れそうだった。
アギアがそこにいた。そして、わたしを菅の上に引き上げてくれたブロンドの娘と、赤ら顔の大男がいた。アギアがどうしたのかと尋ねた。わたしは意識がもうろうとしていたが、それでも、彼女が真青になっていることがわかった。
「もう少し待ってやれ」その大男がいった。「すぐに元気になる」それから「一体全体《イン・プレゲトーン》おまえはだれだ?」
彼は娘を見ていた。そして娘はわたしと同じくらい意識がもうろうとしているように見えた。彼女はどもるような声を出した。「ド・ド・ド・ド」それから、うつむいて黙りこんだ。彼女は頭のてっぺんから足の先まで泥だらけだった。そして、身にまとっているものといったら、ぼろも同然だった。
大男はまたアギアに尋ねた。「この子はどこから来た?」
「知らない。セヴェリアンがだれに捕まっているのかと思って振り向くと、あの子が彼を浮き道の上に引き揚げていたのよ」
「彼女は良いことをしたし、とにかく、この人も良いことをしてもらった。彼女は気が狂っているのかね? それとも、ここで魔法にでもかかったのだろうか?」
わたしはいった。「彼女が何者であろうと、とにかくぼくを助けてくれた。何か彼女の体を覆う物をやってくれないか? 凍えているにちがいない」わたし自身、凍えていた。今はそれを意識するほど、元気を回復していた。
大男は首を振り、自分の上着をいっそうしっかりと着こむような仕種をした。「彼女の体が綺麗になるまでは、貸さないぞ。だが、綺麗になるためには、もう一度水に浸かってじゃぶじゃぶやらなくてはならないな。しかし、その代わりになるものがここにある。いや、もっと良いものかもしれない」彼は上着のポケットの一つから、犬の形をした金属の酒瓶を取り出し、わたしによこした。
犬のくわえている骨が栓だとわかった。ブロンドの娘にそれを渡すと、彼女は最初それをどうしてよいかわからないように見えた。アギアはそれを取り上げて、彼女の唇にあてがい、数口飲ませ、それからわたしに返した。中身は李《すもも》のブランデーらしかった。その火のような衝撃が、沼の水の苦味を気持ちよく洗い流してくれた。犬の口に骨を戻した頃には、たぶん、犬の腹は半分|空《から》になっていたと思う。
「それでは」大男がいった。「おまえさんたちがだれで、ここで何をしているか、おれに教えるべきだと思う――もちろん、ちょっと植物園を見物にきただけだ、なんていったって駄目だ。最近はぼんやりした見物人が多いが、そういう連中は、声の届く距離にくる前にわかるんだ」わたしの方を見やって、「とにかく、旦那さん、ものすごく立派な肉切り包丁を持っているじゃないか」
アギアがいった。「この大郷士は仮装をしているのよ。果たし状を受け取って、アヴァーンを切りにきたのさ」
「この人は仮装をしているが、おまえはしていない、といいたいらしいな。紋織物の舞台衣裳を、おれが知らないとでも思っているのかね? しかも、見れば、裸足じゃないか」
「わたしは仮装をしていないとも、彼と同じ身分だとも、いった覚えはないよ。靴のことなら、この水で台なしにならないように、外で脱いできたのさ」
大男は、信じたかどうか手掛かりを与えないような具合に、うなずいた。「今度は、おまえだ、金髪娘。この刺繍袋[#「刺繍袋」に傍点]姐さんはすでに、おまえを知らないといった。そして、おまえがこの人を彼女に代わって引き揚げた――それにしても見事な手際だった――この彼女の連れの表情を見ると、おれ以上におまえを知っているとは思われない。ことによったらおれ以下かもしれん。だから、いったいおまえはだれなんだ?」
金髪の娘はごくりと唾を飲んだ。「ドルカス」
「それで、どうやってここにきた、ドルカス? そして、どうやって水の中に入った? おまえが水中にいたのは一目瞭然だ。この若い旦那を引き揚げるだけでは、そんなにずぶ濡れになるはずはないからな」
ブランデーのおかげで娘の頬に血の気が浮かんだ。だが、その顔はあいかわらず空白で、途方に暮れているか、または、それに近い表情をしていた。「知らない」彼女はかすかな声でいった。
アギアが尋ねた。「ここにきたことを、自分で覚えていないの?」
ドルカスはうなずいた。
「じゃ、覚えている最後のことは?」
長い沈黙があった。風がいつになく激しく吹いてくるように思われた。酒を飲んだにもかかわらず、わたしは寒くて寒くてたまらなかった。ドルカスがやっとつぶやいた。「窓のところに坐ってた……窓の中に綺麗なものがたくさんあった。お皿や箱があって、十字架もあった」
大男がいった。「綺麗なもの? ふーむ、おまえがそこにいたというなら、そういう場所がきっとあったのだろうな」
「この子は頭が変なのよ」アギアがいった。「だれかが世話をしていたのに、この子がさまよい出たか、それとも、だれも世話をしないので、さまよい出たか、どちらかよ。この姿を見れば、後のほうが正しいみたいだけど。そして、管理人が見ていない時にここに入ってきたのね」
「ひょっとしたら、だれかが彼女の頭をぶんなぐって、持ち物を奪い、死んだと思ってここに投げこんだのかもしれないぞ。管理者が知らない入り口がたくさんあるんだよ、泥だらけの姐さん。それとも彼女はただの病気か、眠っていただけなのに、だれかがここに連れてきて沈めようとしたのかもしれないぞ。俗にいう正体がない℃桙ノさ。それが冷水に浸かって目が醒めたのだ」
「だれが彼女を連れてきたにしても、そいつが彼女を見つけたことは確かだね」
「長い間、正体がなくなっていることがあるというからな。しかし、いずれにしても、それは今あまり問題にならない。彼女はこうして目を醒ました。だから自分がどこからきたか、自分がだれか知るのは、本人の責任だと思う」
わたしは茶色のマントを脱いで、組合のマントを絞って乾かそうとしていた。だが、アギアがこういったので、目を上げた。「あんた、こっちがだれか、ずっと尋ねているけれど、あんたはだれなのさ?」
「確かにおまえさんたちは知る権利がある」大男はいった。「それは間違いない。だから、あんたがた以上の善意をもって答えることにしよう。残念ながら、それがすんだらおれは自分の仕事に戻らねばならないがね。おれはこの若い大郷士が溺れているのを見たので、ここにやってきたんだ。善良な人間なら、だれでもすることだ。だが、ご多分に漏れず、おれにはおれの仕事がある」
彼はそういいながら、かぶっていた高い帽子を脱ぎ、その中に手を入れて、〈城塞〉で時々見たことのある名刺の二倍ほどの大きさの、油じみたカードを取り出した。そして、アギアに渡した。わたしは彼女の肩ごしにそれを覗きこんだ。それには花文字で、次のような言葉が書かれていた。
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穴熊のヒルデグリン
各種穴掘り承ります。
坑夫一人でも四百人でも結構。
どんなに硬い石でも、柔らかい泥でもおかまいなし。
御用命はアーゴシ|イ《*》通りの左記の看板の店へ。
〈ブラインド・ショベル〉
または、ヴェリーアティの角を曲がって
アルティカメルスで尋ねられたし。
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「というわけだ、泥だらけの姐さんに、若旦那――あんたがたに声をかけたことを悪く思わんでくれ。なぜなら、第一に、あんたがたはおれよりも若いし、第二に、旦那は彼女よりもかなり若く見える。もっとも、旦那のほうがほんの二、三年早く生まれているかもしれないがね。では、これで失礼」
わたしは彼を引き止めた。「沼にはまる前に、小舟に乗った老人に会ったが、その人がこういっていた。この道のずっと先にいる人が、舟で沼の向こう岸に渡してくれるだろうと。彼がいったのは、あんたのことにちがいないと思う。渡してくれるかね?」
「ああ、おかみさんを探している人だな。かわいそうに。あの人はたびたびおれに親切にしてくれた。だから、あの人の薦めとあれば、従ったほうがいいと思う。おれの大舟は無理をすれば四人まではなんとかなるだろう」
彼はわれわれについてくるように身振りをして、大股に歩きだした。彼のブーツは油が塗ってあるように見えたが、それがわたしのブーツよりもずっと深く菅のなかに沈みこむのがわかった。アギアがいった。「あの子は連れていかないよ」それでも、彼女(ドルカス)がアギアのあとをついてくるのは明らかだった。その姿があまりにも哀れに見えたので、わたしは彼女が追いつくまで待っていて、慰めてやろうとした。「ぼくのマントを貸してあげたいが」わたしはささやきかけた。「こんなに濡れていなければいいのにね。これでは、今よりももっと寒くなっちまう。しかし、この道を反対の方にいくと、沼地から完全に脱け出して、回廊に入る。あそこなら、もっと暖かいし、もっと乾いているよ。それから、〈ジャングルの園〉と書かれた扉を見つけて中に入れば、お日さまがもっと暖かく照っていて、とても気持ちよくなると思うよ」
わたしはそう言ってしまったとたんに、あのジャングルで|盤 竜《ベリコザウル》を見たことを思い出した。しかし、たぶん幸いなことに、ドルカスはわたしの言葉を聞いた徴候を示さなかった。顔の表情の何かが、彼女がアギアを恐れていることを、いや、少なくとも、救いようもなくアギアの機嫌を損じてしまったと自覚していることを、伝えていた。しかしそれ以外には、夢遊病患者ほども周囲の状況を気にしている徴候はなかった。
彼女の惨めな状態を救うことができなかったことを意識して、わたしはまた言いはじめた。
「あそこの回廊には人がいる。管理人だ。きっとその人が、少なくとも何か着る物を探してくれ、火に当たらせてくれるよ」
アギアが栗色の髪を風にはためかせて振り返り、こちらを見ていった。「そんな乞食女はいくらでもいるから、かかりあいになっていてはきりがないよ、セヴェリアン。いいかげんにしなさいよ」
アギアの声を聞くと、ヒルデグリンが肩ごしにちらりと振り返った。「彼女を雇ってくれるかもしれない女を知っているよ。そうだ。あいつなら彼女を綺麗に磨いて、着物もくれるだろう。あの泥の下には高貴な生まれの体が隠されている。痩せてはいるがね」
「とにかく、あんたはここで何をしているのさ?」アギアがぴしゃりといった。「その名刺によると、土建屋だろ。それがここで何をしているのさ?」
「仰せのとおりだよ、姐さん、おれの商売は」
ドルカスはぶるぶる震えだしていた。「ねえ」わたしはいった。「後戻りしさえすればいいんだよ。あの回廊の中はもっとずっと暖かいんだ。だが、〈ジャングルの園〉に入ってはいけない。〈砂の園〉がいいかもしれない。あそこは日当たりがよくて、乾燥しているからね」
わたしのいった言葉のどれかが彼女の心の琴線に触れたらしい。「はい」彼女はかすかな声でいった。「はい」
「〈砂の園〉かい? あそこが好きなのかい?」
ごくゆっくりと、「お日さまが」
「さあ、ここにぼろ舟がある」ヒルデグリンが告げた。「あまり大勢だから、乗り方を考えなくちゃならない。それから、動き回っちゃいけないよ――船体がずっと水に沈むから。女子の一人はどうぞへさき[#「へさき」に傍点]に。そして、もう一人と若い大郷士さんはとも[#「とも」に傍点]に」
わたしはいった。「オールを漕がしてくれないかなあ?」
「前に漕いだことはあるのかね? そうは見えないが。いいや、いわれたとおりにとも[#「とも」に傍点]に坐っているのが一番いい。二本のオールを漕ぐのも一本のオールを漕ぐのも、たいした違いはない。それに、いいかね、おれは何度も漕いだ経験があるんだよ。もっとも、この舟は半ダース程のオールを積んでいるがね」
彼の舟は、彼自身とよく似ていた。つまり、幅が広く、骨太で、重そうに見えた。へさき[#「へさき」に傍点]もとも[#「とも」に傍点]も四角くなっていて、そのために、オール受けのある胴体の中央部からほとんど水平線に対して勾配がなかった。もっとも、船体の両端は上がっていたけれども。ヒルデグリンがまず乗りこみ、股を開いてベンチの両側に足を置いて立ち、一本のオールを細かく使いながら、舟を岸のわれわれの方に寄せた。
「あんた」アギアはドルカスの腕を取っていった。「前に坐りな」
ドルカスは喜んで従うそぶりを見せたが、ヒルデグリンがそれを止めた。「差しつかえなかったら、姐さん」彼はアギアにいった。「あんたにへさきに坐ってもらいたいんだがなあ。ほら、彼女が後ろにいてくれないと、漕いでいる時におれの目が届かないんでね。これだけは、あんたもおれも意見が一致するだろうが、彼女は正気じゃないし、船体が下がるから、動きまわらないように見ていたいんだよ」
するとドルカスがこういったので、みんなびっくりした。「わたしは気ちがいじゃないわ。ただ……目が覚めたばかりのような気分なのよ」
にもかかわらずヒルデグリンは、彼女をわたしと一緒にとも[#「とも」に傍点]に坐らせた。「さて、これは」彼は舟を押し出しながらいった。「これは、以前に経験がなければ、二度と忘れることのできないものになるのよ。〈果てしない眠りの園〉の真ん中のこの〈鳥の湖〉を渡るというのはね」彼が水につけるオールは、なんとなくもの憂い鈍い音を立てた。
わたしはなぜ〈鳥の湖〉と呼ばれるのか尋ねた。
「湖にとてもたくさんの鳥の死骸が見つかるからだ、という人もいる。けれども、ここにそれだけ多くの鳥がいるから、というだけのことかもしれない。人間てものは、いやでも死を免れることができないから、死を厭う言葉がいろいろあるし、死神の姿を、袋を担いだしわくちゃ婆に描いたりすることもある。だが、彼女つまり死神は、鳥たちにとって良い友達なんだ。死人と静けさがある場所には、必ずたくさんの鳥がいる。おれの経験からいうと間違いないね」
わたしはあの共同墓地にさえずっていたツグミたちを思い出して、うなずいた。
「ほら、おれの肩ごしに見ると、前方の岸がよく見えるだろう。そして、以前には見えなかったたくさんの物が見えるだろう。後ろの岸にはずっと藺草《いぐさ》が茂っていたからね。あまり霞んでいなければ、ずっと先の方で土地が隆起していることがわかるだろう。湿地はあそこで終わって、木立が始まっている。見えるかね?」
わたしはうなずいた。ドルカスも一緒にうなずいた。
「それはなぜかというと、この覗き芝居全体が、死火山の火口に見えるようにできているからだ。死人の口のように、という人もいる。だが、それは本当じゃない。もしそうなら、歯を植えたはずだ。しかし、覚えているだろうが、あんたがたがここに入ってくるには、地中の管を通ってきただろう」
ふたたび、わたしとドルカスはうなずいた。アギアはわれわれから二歩も離れていないところにいたが、彼女の姿はヒルデグリンの幅の広い肩とフィアノート([#ここから割り注]重目の紡毛織物[#ここで割り注終わり])の上着に隠れて見えなかった。
「あそこに」彼は角張った顎で方向を示しながら、説明を続けた。「黒い点が見えるはずだ。ほら、沼と縁の中間の半分ほど上がったところに。あれを見て、自分たちが出てきた場所だと思う人がいるが、それは後ろのもっとずっと下にさがったところで、もっとずっと小さい。今、見えているのは〈クーマイの巫女《みこ》の洞穴〉だ――〈クーマイの巫女〉というのは、未来も過去も、何もかもわかる女のことだ。おれは信じないが、この場所全体はその女のためにだけ作られたという人もいる」
ドルカスがそっと尋ねた。「そんなことがあるかしら?」ヒルデグリンはその意味を取り違えた。いや、少なくともその振りをした。
「独裁者が彼女をここに置きたがっている、と世間ではいうんだ。世界の裏側まで旅をしなくても、彼女と話ができるからな。その点は、おれには測り知れないが、時々だれかがあのあたりを歩いているのを見かけることがある。金属か、たぶん宝石が、一つ二つきらめくのが見える。それがだれか知りようもないし、また、自分の未来を知りたいとも思わないから――過去のことなら彼女よりよく知っているつもりだがね――おれはあの洞穴のそばには行かないんだ。結婚はいつになるだろうかとか、商売は成功するだろうかとか、知りたい人が時々やってくる。しかし、見ていると、帰ってくる人はめったにないな」
われわれはほとんど湖の中心に近づいた。〈果てしない眠りの園〉はわれわれの周囲に、まるで広大な椀の側面のように盛り上がって見えた。椀の縁のあたりの松の木が緑の苔のように見え、下のほうは蚊帳《かや》釣《つり》草と菅が浮き粕のように見えた。わたしはまだとても寒かった。他人が漕いで、自分は舟の中にじっと坐っているだけなので、いっそう寒さが身にしみた。テルミヌス・エストを早く拭いて油を塗らないと、水に浸かったことが刃にどんな作用を及ぼすか、心配になりはじめた。にもかかわらず、わたしはこの場所の魔力に囚われていた(この植物園には確かに魔力があった。それが水面に鳴り響いているのをほとんど聞くことができそうに思われた。知ってはいないが理解できる言語で、歌を歌っているその声を)。それはあらゆる者を、ヒルデグリンさえも、アギアさえも、捉えていたと思う。しばらくの間、みんな黙りこくっていた。舟は進んでいった。ずっと遠くに水鳥が、見たかぎりでは生きて、満足しきって、浮かんでいるのが見えた。そして、一度など、まるで夢の一場面のように、二、三スパンの茶色の水を透して、人間に似たマナティーの顔がわたしの顔を覗きこんだ。
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*註アーゴシイは財貨を満載したベニスの大商船の意味。ヴェリーアティは行動に現われない単なる願望の意味。アルティカメルスはすでに絶滅したキリンに似た一種のラクダ。ここでは旅籠の看板をいう。
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24 殺戮の花
わたしの隣でドルカスがウォーターヒヤシンスの花を摘んで髪に挿した。それは、少し先の岸のぼんやりした白い斑点を別にすれば、〈果てしない眠りの園〉で初めて見る花だった。ほかにないかと見回したが、ひとつも見当たらなかった。
ドルカスが手を差し延べたことで、そこに花が咲いた、ということがあり得るだろうか? 白昼だったら、わたしも人並みにそんなことはあり得ないとわかる。しかし、わたしがこれを書いているのは夜なのだ。そういえば、あの時わたしはあの舟の中に坐って、わずか一キュピット足らずの距離にあるウォーターヒヤシンスの花を見ながら、妙にあたりが薄暗いのを不審に思ったものだった。そして、ちょっと前のヒルデグリンの言葉を思いだしたのだった。つまり、巫女の洞穴が、したがってこの庭園が、世界の裏側にあることを(おそらく彼としてはまったく無意識に)暗示する話を。そこでは、マルルビウス師がずっと昔に教えてくれたように、すべてが逆さまなのだ。南のほうが暖かく、北のほうが寒い。夜に光があり、昼に闇がある。夏に雪が降る。ならば、わたしの感じた肌寒さはあたりまえなのだろう。なぜなら、風にみぞれが混じって、まもなく夏が来るのだから。わたしの目とウォーターヒヤシンスの青い花の間にさえ暗さが漂っていたのも、やはりあたりまえなのだろう。なぜなら、すでに空に光があり、まもなく夜になる時間だったから。
自存神《インクリエート》は万物の秩序を維持される。そして神学者は、光は彼の影だという。とすると、暗闇の中では秩序はほんの少ししか進展せず、花は、春の光によってただの泥の中から空中に飛び出してくるように、無から少女の指のなかに生じることもあるにちがいない、といえるのではないか? おそらく、夜がわれわれの目をふさぐと、秩序はわれわれが信じる以上に減少するのだ。おそらく、われわれが暗闇と感じるのは、実はこの秩序の欠如なのであって、われわれの幻惑された目――それは自力では成就できない秩序を、光によって与えられる――の前に立ち現われる暗黒、つまり、(海のような)エネルギーの波の放縦な乱れ、(畑のような)エネルギーの様々なフィールドを、現実の世界として感じ取るのだろう。
水面から霞が立ち昇りはじめていた。それを見ると、わたしはあのペルリーヌ尼僧団の実体のない伽藍の中で、藁屑の細片の渦が舞い上がった最初のシーンを、それから、組合の職人のクックが冬の午後に食堂に運びこんだ釜からのスープの流れを、思い出した。魔女たちはあのような釜を掻き回すというが、わたしは一度も見ていない。彼女らの高楼は、われわれの塔から一チェーンも離れていない場所に立っていたけれども。また、ある火山の火口を船で漕ぎ渡ったことを思い出した。ひょっとして、あれはクーマイの釜ではなかったろうか? マルルビウス師が教えてくれたように、ウールスの火はずっと昔に消えてしまった。人類が野獣の地位から出世して、ウールスの顔を都市でふさぐずっと以前に、その火が冷えてしまったということは充分にあり得ることである。しかし、魔女たちは死者を蘇らせるといわれた。ひょっとしたら、〈クーマイの巫女〉が自分たちの釜をかけるためにその死んだ火を蘇らせたのではないだろうか? わたしは指を水に浸した。それは雪のように冷たかった。
ヒルデグリンはわたしの方に身をかがめてオールを押し、わたしからのけぞるようにしてオールを引いた。「死に近づいていく」彼はいった。「あんた、そう思っているね。顔をみればわかる。〈血染めが原〉に近づいていく、そして、彼があんたを殺すだろうと。彼とはだれか知らんがね」
「そうなの?」ドルカスはそう尋ねて、わたしの手を掴んだ。
わたしが黙っていると、ヒルデグリンがわたしの代わりにうなずいた。「絶対にそうしなくてはならない、というものではないんだぞ。規則に従わずに、逃げのびる者もある」
「思い違いだよ」わたしはいった。「そんなことを考えていたわけじゃない、決闘のことも――死ぬことも」
耳もとで、ドルカスがそっといった。ヒルデグリンにも聞こえたと思う。「いや、考えていたわ。あなたの顔は美しさと、ある種の気品に溢れていたもの。世間が恐ろしいものになると、思想は高尚になり、優雅さと偉大さに満ち溢れたものになるのよ」
わたしはドルカスがからかっているものと思って、彼女を見た。だが、そうではなかった。
「世間の半分は悪に、半分は善によって満たされている。わたしたちはそれをこちらに傾けて、より多くの善が自分の心に流れこむようにすることもできるし、また、向こうに傾けて、より多くがこの中に流れこむようにすることもできるのよ」彼女は目をくるりと動かして、湖全体を取り入れるような仕種をした。「でも、量は同じだから、わたしたちはあちらとこちらの比率を変えるだけなの」
「ぼくだったら、できるだけ向こうに傾けて、悪が全部、流れ出てしまうようにしたいな」わたしはいった。
「そうしたら、流れ出すのは善かもしれないのよ。でもわたし、あなたが好きよ。わたしだったら、できれば時を反対向きに捻じ曲げたいわ」
「それからぼくは、美しい思想――いや賢い思想――が、外的な辛苦によって生じるとは信じられないよ」
「美しい思想とはいわなかったわ。優雅で偉大な思想といったのよ。もっとも、それも一種の美だろうけれど。教えてあげる」彼女はわたしの手を持ち上げて、彼女の粗宋な着物の中に滑りこませ、右の乳房を押さえさせた。桜桃のように固い乳首を感じ、その下の羽毛のように柔らかい、流れる血潮で脈打っている優しいデリケートな、肉の盛り上がりの温か味を感じた。「さあ」彼女はいった。「あなたの思想は、いまどうなってる? もしあなたのために外界を快いものにしてあげたら、あなたの思想はさっきと違ったものになったんじゃない?」
「いったい、こういうことをどこで習ったんだい?」わたしは尋ねた。彼女の顔からすべての知恵が流れ去り、それが目の隅に凝結して、水晶のような雫になった。
アヴァーンが生えている岸は、前の岸よりも水気が少なかった。長いこと浮いている菅の上を歩き、それから水上の舟に乗っていたので、軟らかいとはいえ本物の土の上に足を載せると、妙な感じがした。われわれはその植物から少し離れたところに上陸したが、それでも、もはやそれらはただの白い色の連なりではなく、明確な色と形をもった植物に見え、その大きさも充分に推し量れる距離にきていた。わたしはいった。「あれはここに自生したものではないな。ウールスのものではないな」だれも答えなかった。(ドルカスは別として)他のだれにも聞こえないほど小さい声だったにちがいないと、わたしは思った。
アヴァーンには一種の固さと、幾何学的な正確さがあって、どこか他の太陽の下で生まれたものであることは確かだった。葉は玉虫の背中の色をしている。だが同時に、より深い、より透明な色彩が浸みこんでいる。それは、どこか測り知れない遠方に光が存在していることを、世界を堕落させ、あるいは高尚なものにしたであろうスペクトル――もしそのようなものがあれば――の存在を暗示しているように思われた。
アギアが先頭に立って――その後ろにわたしがつき、その後ろにドルカス、またその後ろにヒルデグリンがついて――近寄っていくと、葉の一枚一枚が、先端が尖り、縁がグルロウズ師をも満足させるほど鋭くて、短剣の刃のようになっていることがわかった。これらの葉の上に、対岸から見えていたなかば閉じた白い花が、まるで、百本ものナイフに守られた純粋な美の創造物、汚れなき処女の幻想のように見えていた。花は幅広く、豊麗で、花弁は捻れていた。もしそれが、回転する円板に描かれた渦巻き模様のように目を引きつける複雑な螺旋《らせん》形に形成されていなかったならば、くしゃくしゃに乱れてしまうにちがいない、と思わせる捻れかただった。
アギアがいった。「形式にちゃんと則れば、あなたが自分で摘まなくてはならないのよ。でも一緒にいって、どうやるか教えてあげる。こつ[#「こつ」に傍点]はね、腕を一番下の葉の下に置いて、根もとから茎を折り取るのよ」
ヒルデグリンが彼女の肩を掴んだ。「それはやめておきな、姐さん」彼はいった。そして、わたしに向かって、「あんたが行くんだ。あんたはその気になってるからな、若旦那。ご婦人たちの安全はおれが引き受ける」
わたしはすでに彼よりも何歩か先に進み出ていたが、彼がそういった時に足が止まった。幸いにもドルカスが、「気をつけて!」と呼びかけたので、わたしはその警告のために立ち止まった振りをすることができた。
実はそうではなかった。わたしはヒルデグリンと出逢った時から、以前にどこかで会ったことがあるような気がしていた。ところが、ラーチョ氏に再会した時にはあんなに早くやってきた認識のショックが、今度はずっと遅れていて、今になってやっと届き、一時的に足を麻痺させたのであった。
すでに述べたように、わたしはあらゆることを覚えている。しかし、一つの顔、一つの事実、一つの感覚、を思い出すのに、長いこと探さなければならないことがしばしばある。たぶんこの場合には、問題は、菅の浮き道の上で彼がわたしの上にかがみこんだ瞬間から彼の顔がはっきりと見えたのに、以前には彼の顔をほとんど見ていなかったことだと思う。わたしの記憶が彼の声とはじめて一致したのは、彼が、「ご婦人たちの安全はおれが引き受ける」といった時だった。「葉っぱに毒があるの」アギアが叫んだ。「マントをしっかり腕に巻きつければ、いくらか防御になるわ。でも、葉っぱには触らないように注意して。それから、絶えず気をつけるのよ――自分で考える以上にアヴァーンの近くにいるのだからね」
わたしはわかった、というしるしにうなずいた。
アヴァーンがそれ本来の世界の生物に対して、命取りになるかどうか、わたしには知るすべはない。おそらくそうではないだろう。たまたまそちらの自然がわれわれの自然と反りが合わないというだけの理由で、われわれにとって危険なのだろう。これが当たっているかどうかは別として、その植物の下や間の地面は、ほかの場所に生えている荒い下生えとはまったく違う非常に目のつんだ細かい草が生えており、その短い草の上に蜂の丸まった死骸が散乱し、小鳥の白い骨が点々と散らばっていた。
植物から二、三歩の距離に近づいた時に、わたしはそれまで考えてもみなかった問題を思いついて、突然足を止めた。自分が選ぶアヴァーンが、来たるぺき決闘の武器に使われる――だが、まだ闘い方をまったく知らないのだから、どの植物が最も適しているか判断する方法がない。後戻りしてアギアに尋ねることもできる。しかし、そんなことで女の知識を試すのは非常識に思われたので、結局、自分の判断を信じることにした。どうせ、最初に選んだものが使いものにならなければ、彼女が別のを取ってこいと、もう一度わたしを送り出すにちがいないからである。
アヴァーンの高さは、わずか一スパンに満たない生えたてのものから、三キュビット足らずの古木[#「古木」に傍点]まで、様々だった。それらの古い植物の葉は、若いものに較べて枚数が少なく、幅が広かった。小さい植物の葉はもっと細くて、茎が完全に隠れるほど密生していた。大きい植物の葉は、その長さに比較して横幅がずっと広く、肉質に見える茎にいくらかまばらについていた。もし(どうも、そう思われるのだが)、あの北方人とわたしがこの植物を棍棒《メイス》のように使うとすると、できるだけ茎が長く、できるだけ固い葉のついた、できるだけ大きい植物が最適だということになる。しかし、そのような植物はすべて、栽培地の端からずっと奥に生えており、それを取るにはたくさんの低い植物を倒していかねばならなかった。そして、アギアが教えてくれた方法では、それは明らかに不可能だった。なぜなら、低い植物の葉はたいてい地面すれすれのところから生えているからである。
結局、わたしは二キュビットほどの高さのやつを選んだ。そして、その近くに膝を突き、手をさし延べていた。その時、まるでべールが突然剥ぎ取られるように、一番手前の葉の針のような先端からまだ何スパンも離れていると思っていた自分の手が、突然、それに突き刺されそうに感じて、あわてて手を引っこめた。実際には、その植物に手は届きそうもなかったし――実際、うつぶせになっても、それを掴むことができるかどうかあやしかったのに。剣を使おうという誘惑を強く感じたが、そんなことをするのはアギアやドルカスの手前、恥ずかしいように感じられた。そして、いずれにしても決闘の間、わたしはそれを手掴みにしていなければならないと覚悟をきめた。
今度は前腕を地面につけたまま、注意深く、ふたたび手を伸ばした。すると、上腕が一番下の葉に刺されるのを充分に防ぐためには、肩を地面に押しつけていなければならなかったが、ごく容易に茎を掴むことができるとわかった。顔から半キュビットのところに現われた尖端が、息で揺れた。
アヴァーンの下に短くて柔らかい草しか生えない理由がわかったのは、茎を折り取っている――決して楽な仕事ではなかった――間だった。わたしが折っていた植物の葉の一枚が、大柄なホウレンソウのような葉を半分ほど切断した。するとその差し渡しが一エルもある草全体が、萎れはじめたのである。
当然、予想しておくべきだったが、いったん摘み取ると、この植物は大きな厄介物になった。死人の一人か二人出なければ、ヒルデグリンの舟で運ぶのが不可能なことは明らかだった。そこで、ふたたび舟に乗る前に、わたしは斜面に登っていって、若木を一本切り取ってこなければならなかった。その小枝を払ってしまうと、アギアとわたしはそのひょろ長い幹の一端に、折り取ったアヴァーンを縛りつけた。そのため、後で町の中を通っていく時に、わたしは何かグロテスクな軍旗を担いでいるような姿になったのだった。
それから、アギアはその植物の武器としての使いかたを教えてくれた。そして、わたしは(彼女の反対にもかかわらず、そして、自信過剰になっていたので、たぶんもっとずっと大きな危険を冒したのだろうが)、もう一本の植物を折り取って、彼女に教わったことを実地に練習した。
アヴァーンは、想像していたような単なる毒蛇の歯を植えた棍棒《メイス》ではなかった。葉の縁と尖端に手を触れないように注意しながら、親指と人差指で摘むと、その葉をむしり取ることができた。すると葉は、毒を塗った剃刀のように鋭利な、柄のない短剣になり、手裏剣として使うことができた。決闘者はその植物の茎の根もとを左手で握り、右手でその下の方の葉をむしって投げるのである。しかし、自分の植物を敵の手の届く位置に持っていてはならないと、アギアが注意してくれた。葉がなくなると茎が露出するから、敵はそこを握って、植物をこちらの手からもぎ取ることができる、というのだ。
二本目の植物を振り回して、それで敵に打ちこんだり、葉をむしって投げる練習をしてみると、自分自身のアヴァーンが、北方人のアヴァーンと同じくらいに危険なものになりそうだとわかった。もし、体に近づけて持つと、自分の腕や胸を下の葉で刺すという重大な危険があるし、また渦巻き模様になっているその花は、葉をむしろうとして視線を下げるたびにわたしの目を捉えた。そして、あからさまな死の欲望をもってわたしを死に引き寄せようとした。このすべては実に不愉快なものであった。しかし、そのなかば閉じた花から目を逸らしているこつを会得してしまうと、相手も同じ危険に曝されていると考える余裕ができた。
葉を投げるのは思ったよりも容易だった。その表面は〈ジャングルの園〉で見た多くの植物の葉と同様にすべすべしていたので、手放れが良く、重さも充分あったので、遠くまで正確に飛び、ナイフのように尖端を先にして投げることもできれば、その鋭利な刃で飛んでゆく道筋にある何物をも薙ぎ倒すように回転させて飛ばすこともできた。
わたしはヴォダルスのことをヒルデグリンに尋ねたいとしきりに思ったが、彼が舟を漕いで静かな湖の対岸にわれわれを連れ帰るまで、その機会がなかった。それからひと時、アギアがドルカスを追い払うのに夢中になっている間に、わたしは彼をわきに呼んで、自分もまたヴォダルスの友人だとささやくことができた。
「おれをだれかと勘違いしているようだね、若旦那――あの無法者のヴォダルスのことをいっているのかね?」
「ぼくは人の声を決して忘れることはない」わたしは彼にいった。「いや、どんな事も忘れはしないんだ」それから、熱心さのあまり、たぶん最悪の言葉をいってしまった。「きみはシャベルでぼくの頭をなぐろうとしたじゃないか」と。その瞬間、彼は仮面のように無表情な顔になって舟に歩み戻り、茶色の水面に漕ぎ出してしまった。
アギアとわたしが植物園を去ったとき、ドルカスはまだ一緒にいた。アギアは彼女を追い払おうと懸命になっていたし、わたしもしばらくの間はアギアのしたいようにさせておいた。ドルカスがくっついていたのでは、アギアに一緒に寝てくれと口説くことができないというおそれが、心の一部にあったからである。しかし、もっと大きい動機は、もし万一わたしが死ぬのを見たら、すでに頼るものもなく途方に暮れているドルカスが心を痛めるだろうと、漠然と察知したからである。ほんのちょっと前に、わたしはアギアに、セクラの死から受けた悲しみの心情を吐露したばかりだった。今や、これらの新しい懸念がそれに取って代わると、わたしは実際に、人が酸っぱいワインを地面に吐き出すように、それを吐き出してしまったと悟った。悲しみの|言 語《ランゲージ》を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った――言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なもの[#「もの」に傍点]に弱めてくれるのである。
わたしの動機がなんであったにせよ、そして、アギアの動機がなんであったにせよ、そして、われわれの後をついてきたいというドルカスの動機がなんであったにせよ、アギアはまったく成功しなかった。そして、結局わたしは彼女に断念しなければ殴るぞと脅し、五十歩ほど遅れてついてくるドルカスを呼び寄せた。
それから後は、三人そろって多くの人からおかしな目で見られながら、黙ってとぼとぼと歩いていった。わたしはずぶ濡れになっており、もはやマントが煤色の拷問者の外套を覆い隠しているかどうかすら、気にならなかった。アギアはアギアで、その破れた紋織物の着物はわたしに劣らず奇妙に見えたにちがいない。ドルカスはまだ泥だらけだった――その泥は、今は町を包んでいる暖かい春風のためにすでに乾いていて、その金髪にこびりつき、青白い肌を茶色の粉を塗ったように汚していた。われわれの頭上にはアヴァーンが旒旗《りゅうき》のように垂れ下がり、それから没薬のような香りが漂っていた。そのなかば閉じた花はまだ骨のように白く輝いていたが、その葉は日光を受けてもほとんど真黒に見えた。
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25 失恋亭
自分の生活が主に関わっていた場所が、ごく少数の例外を除いて、最も恒久的な性格のものであったことは、わたしにとって幸運――いや、もしかしたら不運――であった。もし望むなら、明日にでも〈城塞〉に、それも、徒弟時代を過ごしたあの粗末な寝台そのものの上に、帰ることができる。ギョルはまだわが町ネッソスのそばを蛇行して流れているし、植物園は、内部に独特な雰囲気を一つずつ蓄えているあれらの奇妙な囲いの切子面を、いまだに日光にきらめかせている。人生のはかない事どもを思い出す時は、たいてい男や女に関することになるけれども、建物を思い浮かべることも少しはある。そして、それらの記憶に残っている建物の中で、まず思い出されるのは〈血染めが原〉の端にあるあの旅籠《はたご》である。
その日の午後、われわれは大通りを行き、狭い路地を抜けて、ずっと歩いていった。周囲の建物はすべて石造りか煉瓦造りだった。しまいに、大きな広場に出た。べつに大邸宅が中心にそびえているわけではないので屋敷の敷地とはいえないが、どこか敷地のような感じがした。その時、嵐が来るぞと、アギアに警告したことを覚えている――なぜなら、地平線に沿って不気味な黒い線が見え、嵐が迫っているような気配を感じたからである。
彼女はわたしを笑った。「あなたが見、あなたが感じてるのは、〈市の壁〉にすぎないのよ。あれはいつも、ああしてあそこにあるの。〈壁〉が空気の動きを妨げるのよ」
「あの黒い線がかい? あれは空に向かって半分ほども立ち上がってるぞ」
アギアはまた笑った。だが、ドルカスはわたしに体を押しつけてきた。「恐いわ、セヴェリアン」
アギアは彼女を笑った。「〈壁〉が? あんたの上に崩れ落ちてこないかぎり、害はないわ。あれは何世代も前から立っているのよ」わたしが説明を求めるように彼女を見たので、彼女は付け加えた。「少なくとも、古そうに見えるでしょ。見かけよりもっと古いかもしれないわ」
「世界を締め出すこともできそうだな。あれはこの町を完全に囲んでいるのかい?」
「定義の上ではね。都市というのは囲まれているものなのよ。もっとも、北の方には空いた土地があると聞いているけれど。そして、南の廃墟から何リーグも何リーグもいくと、だれも住んでいない場所に出るそうだけど。でも、今は、あそこを見て。旅籠が見えるでしょ?」
見えなかったので、見えないといった。
「あの木の下よ。食事をおごってくれると約束したわね。わたし、あそこで食べたいの。あなたが北方人と対決する前に、ちょうど食事をする時間があるわ」
「今はだめだ」わたしはいった。「決闘が終わったら、喜んで食事をおごろう。お望みなら今、注文しておいてもいい」まだ建物は見えなかったが、その木に妙なところがあるのがわかってきた。その幹に、丸木造りの階段が巻きついていたのである。
「では、そうして。もしあなたが殺されたら、あの北方人を招待するわ――もし、あいつがこなければ、しつこく誘いにくるあのやくざ[#「やくざ」に傍点]水夫を呼ぶわ。そして、あなたを弔って飲んであげる」
その木の枝の間のずっと高いところに、一つの明かりが見えた。そして、今は道がその階段に向かって通じていることがわかった。その前に、血だらけの剣を引きずって泣いている女を描いた看板が見えた。陰から、ものすごく肥満した男が歩み出てきて、その側に立ち、われわれがやってくるのをもみ手をしながら待ち受けていた。今は、鍋がガチャガチャ鳴っているのが、かすかに聞こえた。
「アッパンがご用を承ります」われわれがそばにいくと、その太った男がいった。「何を御注文なさいますか?」わたしの持っているアヴァーンに、彼が絶えず落ち着かない視線を投げているのがわかった。
「二人分の食事を頼む。出してもらう時間は……」わたしはアギアを見た。
「今度、時計が鳴る頃にね」
「かしこまりました。でも、そんなに早くはできませんよ、旦那。支度をするのに時間がかかります。冷たい肉とサラダとワインでよければ間に合いますが?」
アギアはいらいらした表情を見せた。「鳥の蒸焼を食べたいのよ――若鳥をね」
「わかりました。これからコックに支度をさせます。旦那がお勝ちになった後で鳥料理ができるまで、焼き菓子をおあがりになっていてください」アギアはうなずいた。この時、この二人の間にある種の表情が閃いた。それを見てわたしは、彼らは前にも会っているなと直感した。「その前に」亭主は続けた。「まだ時間がおありなら、こちらの若いご婦人にお湯の金だらいとスポンジをお持ちします。そして、皆さんメドック酒とビスケットで、お寛ぎになってはいかがでしょう?」
わたしは突然思い出した。夜明け方にバルダンダーズやタロス博士と朝食を取って以来、何も食べていなかった。また、アギアとドルカスは今日はまだ何も食べていないかもしれなかった。わたしがうなずくと、旅籠の亭主はわれわれを案内して、幅の広い丸木の階段を上っていった。その階段が周囲を回っている幹は、直径がたっぷり十|歩《ペース》はあった。
「旦那は以前にお見えになったことがありますか?」
わたしは首を振った。「これはどういう旅籠かと、今尋ねようとしていたところだ。こんなのは見たことがないよ」
「よそにはありません、旦那。でも、以前においでになったことがあるはずです――当家の料理は有名で、野天の食事はおいしいものですから」
このように、すべての部屋に階段伝いでいかなければならないのに、彼がこれだけの胴回りを維持しているとすると、実際にここの料理は旨いにちがいないと思ったが、口には出さなかった。
「ほら、旦那、〈壁〉のそばにはいかなる建物も建ててはならないという法律があるでしょう。でも、当家は許可されているのです。なにしろ壁も屋根もありませんからね。〈血染めが原〉にやってくる人々が当家を訪れるのです。有名な剣闘士や英雄や、立会人や医師や、審判官さえもいらっしゃいますよ。さあ、ここがあなたがたの部屋です」
それは丸くて完全に平らなプラットフォームになっていた。周囲と上には薄緑色の群葉が視界と音を遮っていた。アギアはカンバスチェアに腰を降ろした。そしてわたしは(白状すると、とても疲れていた)、なめし革とカモシカと水牛の角を繋いで作った長椅子のドルカスの隣に、体を投げ出した。そして、その後ろにアヴァーンを置くと、テルミヌス・エストを抜いて、刃の清掃を始めた。下女がドルカスのところに湯とスポンジを持ってきた。そして、わたしのしていることを見ると、ぼろ布と油を持ってきてくれた。わたしはすぐに本格的な手入れをするために、柄頭を叩いて柄から剣身を抜き出す作業に取りかかった。
「自分で体を洗えないの?」アギアがドルカスに尋ねた。
「湯浴みしたいことはしたいけれど、あなたが見ているところではいやよ」
「セヴェリアンは、頼めば、向こうを向いていてくれるよ。今朝一緒にいた場所では、ちゃんとそうしてくれたわ」
「あなたもです、マダム」ドルカスはそっといった。「できれば、あなたにも見られたくないんです。湯浴みするなら、人目のないところでしたいわ」
アギアはこれを聞いて笑った。だがわたしはまた下女を呼び、一オリカルクやって、屏風《ぴょうぶ》を持ってくるように頼んだ。屏風が立てられると、もしこの旅籠でガウンが手に入るなら一着買ってやろうと、ドルカスにいった。
「いいです」彼女はいった。わたしは小声でアギアに、これはどういうわけだろうか、と尋ねた。
「明らかに、今着ているものがよいということよ。わたしのほうは、手を上げてこの胴着を押さえて歩かなければ、一生涯恥ずかしい思いをするだろうと考えてるのにね」彼女は手を下げた。すると、その高い乳房が夕日を受けて輝いた。「それにしても、この子のぼろ服は足と胸を充分に見せてくれるわねえ。股のところにも裂け目があるわ。たぶん、あなたは気がつかなかったでしょうけれど」
話の最中に、練り粉菓子の皿と、酒瓶とグラスを持った給仕を連れて、亭主が入ってきた。わたしは自分の着物が濡れていることを説明した。すると彼は火鉢を持ってこさせた。そして――まるで自室にでもいるかのような態度で――自分でそれにあたりはじめた。「好い気分ですね。この季節は」彼はいった。「太陽は死んでいるのに、まだそれに気づいていない。でも、わたしたちは知っています。もし、旦那が死ねば、次の冬を迎えることはできませんな。もし、旦那が重傷を負えば、部屋に閉じこもっていなければなりませんな。わたしはいつも皆さんにこういうんですよ。もちろん、決闘はたいてい真夏の頃の夕方におこなわれます。そのほうが、まあ、よりふさわしいといえますがね。決闘する人が快く感じるかどうか知りませんが、他の人には害になりません」
わたしは茶色のマントと組合の外套を脱ぎ、ブーツを火鉢のそばの台に載せると、彼の横に立ってズボンと靴下を乾かしながら、こちらに決闘にやってくる人は皆この店で腹ごしらえをするのかと尋ねた。自分が死ぬことになりそうだと感じている人間がだれもそうであるように、自分がある種の確立された伝統に参加していると知ることが、嬉しかったのだろう。
「みんな[#「みんな」に傍点]? とんでもない」彼はいった。「わたしの中庸主義と聖アマンド様が、旦那を祝福しますように。来る人みんながわたしどもの旅籠に滞在したら、わたしの旅籠ではなくなってしまいます――そんなことになったら、売ってしまいますよ。そして、大きな石の家に住んで、戸口に厄除けの鬼面《アトロクス》でも掛けて、ナイフを持った若い衆を二、三人、用人棒に雇って、安楽に暮らしますよ。いいや、こちらを見向きもせずに通っていく人が大半です。今度ここを通る時には、うちのワインを飲むには手遅れになっているかもしれない、なんてことは夢にも考えないでね」
「ワインといえば」アギアはそういって、わたしにグラスを渡した。それには黒ずんだ深紅のワインがなみなみと縁まで注がれていた。たぶん、良い酒ではなかったろう――舌に刺激があり、味は良かったが、どことなくざらついた感じがした。しかし旨いワインだった。わたしのように疲れて、体が冷えきった者の口には上等すぎるくらいに感じられた。アギア自身も自分のグラスになみなみと注いで持っていた。しかし、その燃えるように赤い頬と、きらきら輝く目を見ると、すでに少なくとも一杯は飲んでいるようであった。ドルカスにも少し残しておいてやるようにいうと、彼女はいった。「あの乳臭い小娘に? あの子は酒など飲みはしないわよ。それに、これから勇気を必要とするのはあなたなのよ――あの子じゃなくて」
かならずしも正直ではなかったが、わたしは怖がってはいないといった。
亭主が叫んだ。「そうこなくちゃ! 怖がっちゃいけませんぜ。死とか最後の審判について、低俗なことを考えてはいけません。決死の覚悟が大切なんです。よくおわかりでしょうが。ところで、旦那は食事の注文をなさろうとしていたと思いますが。あとで、あなたとこの若い二人のご婦人がお食べになると?」
「注文はもうすませたじゃないか」わたしはいった。
「注文はいただきましたが、前金をいただいていないという意味です。それに、これらのワインもあるし、この干菓子もあるし。ここでお食べになる時に、そして、お飲みになる時に、即金で払っていただきたいのです。ディナーの分は前金として三オリカルク、お戻りになってお食べになる時にあと二オリカルク払っていただきます」
「もし、戻ってこなかったら?」
「その場合は、後金はいただきません。こういうやりかたをしているからこそ、こんなに安いお値段で、ディナーをお出しできるんですよ」
この男の完全な無神経さに、わたしは兜を脱いだ。金を渡すと彼は去った。アギアは、下女の手を借りて湯浴みをしているドルカスの様子を、屏風の縁から覗き、わたしは長椅子にまた腰を降ろし、ワインの残りを飲みながら干菓子をつまんだ。
「この屏風の蝶番を動かないようにすれば、セヴェリアン、しばらく、わたしたちだけで水入らずでいられるのにね。椅子を立てかけてもいいけれど、きっとあの二人は最悪の瞬間に、わめきだして、何からなにまでひっくり返してしまうでしょうね」
それに冗談めかした返事をしようとした時、わたしは給仕の持ってきた盆の下に、幾重にも折った、走り書きのある紙片が、この位置に坐った人の目にしか入らないようにはさんであるのに気づいた。「本当にかなわないな」わたしはいった。「挑戦を受けるかと思えば、今度は謎の手紙だ」
アギアはそれを見ようとして、そばにきた。「何をいっているの? もう、酔っ払ったの?」
わたしは彼女の豊満な丸い尻に手を当てた。そして、彼女が文句をいわないのを確かめると、その触感のよい把手[#「把手」に傍点]を利用して、紙を見ることができる位置にまで、彼女を引き寄せた。「なんと書いてあると思う? 共和国は貴殿を必要としている――ただちにお出でを乞う……∞貴殿に声をかける者が貴殿の同志である、秘密結社《カマリラ》は……∞桃色の髪の男に用心せよ……=v
アギアはこの冗談に調子を合わせた。「窓に小石が三つ当たったら、出てこられたし……≠アの場合は、木の葉[#「木の葉」に傍点]がというべきね。薔薇は菖蒲《しょうぶ》を刺し、その蜜は……≠アれは明らかに、あなたのアヴァーンがわたしを殺すってことね。貴殿は彼女の赤き腰巻によって誠の愛を知るであろう……=v彼女は身をかがめてわたしにキスし、わたしの膝に坐った。「さあ、見てみない?」
「もう[#「もう」に傍点]見てるよ」彼女の破れた胴着がまたずり落ちてしまっていた。
「そこじゃない。そこはあなたの手で蓋をして。それから手紙を見ればいいわ」
わたしは彼女のいうとおりにした。だが、手紙はそのままにしておいた。「本当にかなわないよ。さっきもいったけれど。あの謎の北方人に、あいつの挑戦に、それからヒルデグリンに、今度はこれだ。女城主セクラの方の話はもうしたかな?」
「一度ならず。歩いていた時にね」
「ぼくは彼女を愛していた。彼女はたいへんな読書家だった――ぼくがそばにいない時は、本を読んで、縫物をして、眠る以外に、本当になんにもすることがなかったからな――そして、ぼくが一緒にいる時は、いろいろな物語の筋を馬鹿にして笑ったものだよ。あれらの物語の登場人物には、こんなことがいつも起こっているんだ。そして彼らは、関わる資格のないような、高貴でメロドラマ風の事件に、絶えず巻きこまれているんだよ」
アギアはわたしと声をそろえて笑い、またキスをした。長々としたキスを。唇が離れると、彼女はいった。「そのヒルデグリンのことって、なんなの? 彼はごく普通の人に見えたけれど」
わたしは練り紛菓子をもう一つ取り、それで手紙に触り、それからその角を彼女の口に入れた。
「少し前に、ぼくはヴォダルスという名前の人を救った――」
アギアはわたしから体を引き離し、菓子のかけらを吐き出した。「ヴォダルスだって? 冗談でしょう!」
「とんでもない。彼の仲間がそう呼んだんだ。ぼくはまだほんの少年だったが、間一髪で斧の柄を押しかえした。あの打撃が当たれぽ彼は死ぬところだった。それで、彼はぼくに一クリソスくれたんだぞ」
「待って。それとヒルデグリンとどんな関係があるの?」
「最初にヴォダルスに会った時、一人の男と一人の女が一緒にいた。敵が彼らに襲いかかった。そして、ヴォダルスが踏み留まって戦い、もう一人の男が女を連れて無事に逃げたのだ」(屍のことと、斧を持った敵を自分が殺したことは、黙っていたほうが安全だと思った)
「わたしだったら自分も戦ったろうに――そうすれば、戦士は一人でなく、三人になったのに。先を話して」
「ヒルデグリンはヴォダルスと一緒にいた男だった、というだけの話さ。もっと早く彼に会っていたら、あの北方防衛軍の騎兵隊長がなぜぼくとの決闘を望むか、ある程度見当がついただろうに。いや、見当がついたような気がしただろうに。また、なぜだれかがこの内密の手紙みたいなものをよこす気になったかも、見当がついただろうに。ほら、スパイとか陰謀とか、仮面の集会とか、後継者の失踪とかいう類のことはすべて、昔セクラの方とぼくがよく馬鹿にして笑っていたことだからね。どうした、アギア?」
「わたしが気に入らないの? わたしそんなに醜い?」
「きみは美人だよ。しかし、病気になりそうな顔をしているな。イッキ飲みをするから悪いんだ」
「ねえ」アギアは素早く体を一ひねりして、玉虫色のガウンを脱ぎ捨てた。それは彼女の茶色の汚れた足のそばに、宝石を積み重ねるように落ちた。彼女の裸体は前にペルリーヌ尼僧団の伽藍で見ていた。しかし、今は(わたしが飲んだワインのせいか、それとも彼女が飲んだワインのせいか、それとも、今は明かりが暗いせいか、明るいせいか、それとも、ただ単に怯え、それから恥ずかしくなかったせいかわからないが、彼女は胸を覆い、股の間の女性自身を隠して)わたしをずっとそばに引き寄せた。わたしは馬鹿みたいに欲望を感じ、頭も舌も働かなくなって、彼女の温かい体を自分の冷えた体に押しつけた。
「セヴェリアン、待って。わたし、淫売婦じゃないのよ。あなたがどう思っているか知らないけれど。でも、代償が欲しいの」
「何を?」
「その手紙を読まないと約束して。それを火鉢に投げこんで」
わたしは彼女を放し、後ずさりした。
彼女の目に涙が浮かび、それが岩間の泉のように溢れた。「あなたが今、どんな目でわたしを見ているのか、あなたにわかればいいのに、セヴェリアン。いいえ、それに何が書いてあるかわたしは知らないのよ。でも――超自然的な知識を持っている女のことを聞いたことない? 予感とか? 知るはずのない事を知っているとか?」
それまで感じていた欲望はほとんど消えていた。腹も立ったが、恐くもあった。もっとも、その理由はわからなかったが。わたしはいった。「ぼくらの〈城塞〉に、そのような女の組合《ギルド》があった。ぼくらの姉妹だった。しかし、彼女らの顔も体も、きみには似ていないぞ」
「自分がそういう種類の女でないことはわかっているわ。でも、だからこそ、あなたはわたしの忠告に従わなくてはならないのよ。生まれてから、どのような強さのものであろうと、予感なんて一度も感じたことがないのに、今は感じるの。ということは、つまり、これは間違いのないものであって、あなたにとって非常に重要なものだから、無視することはできないし、また、無視してはならないということなのよ。わからない? さあ、その手紙を焼いて」
「だれかがぼくに警告しようとしているんだぞ。それを、きみはぼくに見せたくないというんだな。あの北方人はきみの恋人ではないかと、ぼくは前に尋ねた。そしたらきみは違うといった。ぼくはそれを信じた」
彼女は何か言いかけたが、わたしは黙らせた。
「今でも信じている。きみの声には真実がこもっている。だが、きみはある意味でぼくを裏切ろうとしている。さあ、ここでいってくれ、そうではないと。最もぼくのためになるように行動しているし、それ以上の意図はない、そういってくれ」
「セヴェリアン……」
「いってくれ」
「セヴェリアン、わたしたちは今朝会ったのよ。わたしはほとんどあなたのことを知らないし、あなたはほとんどわたしのことを知らないのよ。もしあなたが組合の庇護のもとを去ったばかりでなかったら、何を期待できるの、何を期待するつもりなの? わたしは何度もあなたを助けようとしたわ。今も助けようとしているのよ」
「着物を着ろよ」わたしは盆の下から手紙を取り出した。彼女はわたしに掴みかかった。だが、彼女を片手で遠ざけておくのは難しくなかった。その手紙は鴉の羽根のペンで、乱暴に走り書きされていた。薄暗い明かりの中で、ほんの数語だけ読み取れた。
「あなたの気をそらせて、それを火に放りこむこともできたのよ。そうすべきだったわ。セヴェリアン、もう帰らせて――」
「静かにしろ」
「ナイフがあったのよ。先週だったらね。蔦《つた》の根の柄がついた|鎧通し《ミゼリコード》だった。おなかが空いていたので、アジルス[#校正2]が質に入れてしまったけれど。まだあれが手もとにあったら、今、あなたを刺してやるのに――」
「たとえあっても、ガウンに入れていただろ。だが、ガウンはあちらの床の上だぜ」わたしが一押しすると、彼女はよろよろと後退してカンバスチェアに転げこんだ(これは彼女の腹にたっぷりとワインが入っていたからで、必ずしもわたしの動作が乱暴だったからではない)。そしてわたしは、密集した群葉の間から射しこむ夕日の当たる場所に、手紙を持っていった。
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あなたと一緒にいる女は、前にもここにきた。
彼女を信用してはいけない。その男は拷問者だと
トルドーがいっている。あなたはわたしの母の再来だ。
[#ここで字下げ終わり]
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26 ラッパの合図
この言葉の意味を飲みこむか飲みこまないうちに、アギアは向こうの椅子から飛び出してきて、わたしの手から手紙をひったくり、プラットフォームの縁から投げ捨てた。それから、わたしの前に立ったまま、視線をわたしの顔からテルミヌス・エストに移した、その剣はこの時までには手入れを終えて、もとどおりに組み立てて、長椅子の片方の腕に立てかけてあった。彼女は、わたしがそれで彼女の首を打ち落とし、手紙と同様に投げ捨てるのではないかと、恐れたのだと思う。わたしが何もしないでいると、彼女はいった。「あれ読んだの、セヴェリアン? 読まなかったといって!」
「読んだ。だが意味がわからない」
「では、そのことを考えないで」
「ちょっと静かにしてくれ。あれはぼくに宛てたものでさえなかった。きみに宛てたものだったかもしれないが、それならなぜ、ぼくにしか見えない場所に置いたんだろう? アギア、きみは子供を生んだかい? きみは何歳なんだ?」
「二十三歳。もうかなりのお婆さんよ。でも、子供はいないわ。信じないなら、おなかを見せてもいいわ」
わたしは暗算をしようとしたが、女性の成熟について充分な知識がないことに気づいた。「初潮はいつだった?」
「十三歳の時。もしわたしが妊娠したとすれば、その子が生まれたのは、十四歳の時だったでしょう。知りたいのは、こういうことなの?」
「ああ。すると、その子供は今は九歳になっているはずだ。もし、利口な子なら、あのような手紙を書くことは可能だろう。なんと書いてあったか知りたいか?」
「いいえ!」
「ドルカスは何歳だといった? 十八歳? ことによったら十九歳かな?」
「そのことを考えてはいけないわ、セヴェリアン。それが、なんであっても」
「今はきみと冗談を言いあうつもりはない。女ならわかる――彼女は何歳だ?」
アギアは唇をつぼめた。「そうね、あの得体の知れない冴えない娘は、十六か十七ね。まだほんの子供よ」
だれも言うことだが、噂をすれば影、ということがある。ここでも、そのとおりになった。屏風の一片が開いて、ドルカスが姿を現わした。それはもはやわれわれが見慣れてしまった泥の塊りではなく、ふくよかな乳房の、まれなほどの気品をたたえたほっそりした少女になっていた。これまでに彼女よりも白い肌を見たことはあるが、それは健康な白さではなかった。ドルカスは光り輝いているように見えた。汚れが取れてみると、その髪は薄い金色だった。目は今までどおりで、夢に見る、世界を取り巻く大河ウロボロスの、深い青色だった。彼女はアギアが裸でいるのを見ると、屏風の陰に戻ろうとしたが、給仕女の太い体が邪魔になった。
アギアはいった。「あなたのペットが気を失わないうちに、着物を着たほうがよさそうね」
ドルカスはつぶやいた。「わたし、見ずにいます」
「見たってかまわないわよ」アギアは彼女にいったが、わたしが注意していると、彼女はこちらに背を向けて、ガウンを着た。そして、木の葉の壁に話しかけるようにして、いった。「さあ、本当に行かなければならないわ、セヴェリアン。もう、いつなんどきトランペットが鳴るかもしれないから」
「それ、なんのこと?」
「知らないの?」彼女はくるりとこちらに顔を向けた。「お日さまが〈市の壁〉のてっぺんの出し狭間[#「出し狭間」に傍点]にかかると、〈血染めが原〉に――最初の――トランペットが鳴り渡るのよ。それはあそこの決闘を規制するだけだと思っている人もいるけれど、違うの。本当は、〈壁〉の中にいる守衛に、門を閉めろという合図なのよ。それはまた決闘を始めろという合図でもあるの。そして、それが鳴っている時にあなたがあそこにいれば、それがあなたの決闘が始まる時間なのよ。お日さまが地平線の下に沈んで本当の夜がくると。〈壁〉の上のラッパ手が帰営ラッパを鳴らすの。それは、たとえ特別な通行証を持っている人に対しても、もう二度とふたたび門は開かないという合図であるし、また、挑戦をしたか受けたかした人が、もしもまだ〈原〉にきていなかったら、その人は名誉ある決闘を放棄したとみなすという合図でもあるのよ。その人はどこで襲撃されても文句はいえないし、相手の大郷士か高貴人は、刺客を使っても不名誉にはならないの」
階段のところに立って、一部始終をうなずぎながら聞いていた給仕女が、やってきた亭主のために脇にどいた。「旦那」亭主はいった。「もし本当に命のやりとりの約束がおありなら――」
「この連れが、たった今それを話していたところだ」わたしは彼にいった。「われわれは行かなくちゃならない」
この時ドルカスが、少しワインを飲んでもいいかと尋ねた。わたしはちょっと驚いて、うなずいた。亭主がグラスにワインを注ぐと、彼女はそれを子供のように両手で持った。わたしは彼に、客に書き物の道具を貸すかと尋ねた。
「声明文をお書きになりたいのですね、旦那? では、こちらへどうぞ――当店ではその目的で東屋《あずまや》を一つ用意してあります。使用料はいただきません。そして、お望みなら、小僧にいいつけて、その書類を遺言執行人に届けさせます」
わたしはテルミヌス・エストを持ち上げ、アヴァーンの番をさせるためにアギアとドルカスを後に残して、彼の後についていった。亭主が自慢そうにいっていた東屋は、小さな枝に乗っていて、机が一つやっと置けるくらいの広さしかなかった。しかし、そこには、腰掛けと、数本の鴉の羽根ペンと紙、インキ瓶が一つあった。わたしは腰を下ろして、さっきの手紙の言葉を書きつけた。判断できたかぎりでは、ここの紙は、あれが書いてあった紙と同一であり、インキも同一の薄い黒い線を引くことができた。わたしは自分の書いたものに砂をかけて乾かし、折り畳み、図嚢のめったに使わない仕切りの中に押しこんだ。そして、小僧の使いはいらないと亭主にいい、トルドーという名前の人物を知らないかと尋ねた。「トルドーですか、旦那?」彼は面食らった。
「そうだ。ごくありふれた名前だ」
「そうですな。それはわかっております。ただ、思い出そうとしているだけです。わたしを知っている人間で、また――わかっていただけるでしょうが――旦那と同じくらい身分の高い人をね。大郷士か何かで――」
「どんな人間でも」わたしはいった。「どんな人間でもかまわない。たとえば、ひょっとしたらわれわれに給仕したウェイターが、その名前だ、なんてことはないだろうか?」
「違います、旦那。彼の名前はオウエンです。昔、トルドーという人が隣に住んでいましたが、あれは何年も前のことで、わたしがこの店を買い取る以前でした。お尋ねの人が、そいつだということはないでしょう? それから、当店の馬丁がいます――あいつの名前がトルドーです」
「それと話がしたい」
亭主はうなずいた。すると首を取り巻いている脂肪の中に顎が隠れた。「かしこまりました。あいつがあなたにお話しするようなことが、たくさんあるとは思えませんがね」階段は彼の体重を受けてきしった。「お断わりしておきますが、彼はずっと南の出身ですよ」(彼がいったのは、ほとんど木のない、氷原に沿った荒地のことではなく、町の南部という意味である)「おまけに、川向こうから来た奴です。ほとんど意味のわかる話は聞けないでしょう。もっとも、ひどく勤勉な男ですがね」
わたしはいった。「そいつが町のどの部分からやってきたか、何となくわかるような気がするぞ」
「今、ですか? ほほう、それは面白いですね、旦那。とても面白い。服装とか言葉から、そういうことがわかるという人がいますが、あなたがすでにトルドーを見ているとは知りませんでした」われわれは今は地面近くに降りてきていた。彼が怒鳴った。「トルドー! トルー・ドー!」それから、「ば・て・いー!」
だれも現われなかった。階段の下に、大きなテーブルくらいの面積の一枚岩の敷石があった。われわれはそれに降り立った。
物の長く伸びた影が、まったく影でなくなって、まるで〈鳥の湖〉の水よりももっとずっと黒ずんだ液体が地面から湧き出してきたように、黒い水溜りのようになったのは、ちょうどこの瞬間だった。町の方角から何百人もの人々が――一人きりの人もいたし、小さなグループになっている人もいた――急ぎ足に草地を踏んでやってきた。みんな、熱心さを荷物のように肩や背中に担いで、背を丸めて、せっせとやってくるように見えた。わたしが見たかぎりでは、大部分の人は武器を持っていなかったが、決闘剣《ラピエ》のケースを携えている者も二、三いた。そして、ちょっと離れたところに、ちょうどわたしのアヴァーンと同様に、竿か杖につけた白いアヴァーンの花らしいものが運ばれていくのが、見えた。
「あの人たちがここに立ち寄ってくれないのが残念です」亭主はいった。「といっても、何人かが帰りにここに寄ってくれないといっているわけじゃありません。でも、お金になるのは、その前の腹ごしらえなんですから。率直なところ、旦那はお若いが、商売はすべて金のためだということを知りたくない、というほどうぶ[#「うぶ」に傍点]には見えないから、お話しするんですよ。値打ちのあるものをお出しするように努力しているんです。それに、さっきもいったように、当店の料理は有名ですからね。卜ルードー! それも当然です。他の種類の食べ物ではわたしが満足しませんから――たいていの人が食べているような、ありふれた食物を食べなければならないとしたら、旦那、わたしは餓死してしまいますよ。トルドー、あの田吾作め、どこにいった?」
幹の後ろのどこかから、腕で鼻水をこすりながら薄汚い小僧が現われた。「あいつはまだ戻ってきません、親方」
「おや、どこにいった? 探してこい」
わたしはまだ続々とやってくる何百人もの人々を見つめていた。「では、彼らはみんな〈血染めが原〉に行くところなのか?」ここで初めてわたしは、月の出る前に自分が殺されるらしいということを完全に理解したと思う。手紙の究明など、不毛で子供じみたことに思われた。
「もちろん、全部が全部、決闘するためにいくわけじゃありません。大部分は野次馬です。中にはただ一度だけやってくるという人もいます。知り合いが決闘をするからとか、そういう噂を聞いたからとか、そういう記事を読んだからとか、歌を聞いたからとかいう理由でね。普通、そういう人たちは気分が悪くなります。なぜなら、彼らはここにやってきて、たいてい一瓶か二瓶ひっかけて、出かけていくからです。
しかし、毎晩くる人もいるし、一週間に、何はともあれ四晩か五晩やってくる人もいます。そういうのは専門家でして、一つか、ことによったら二つだけの武器に詳しいのです。彼らは、武器を実際に使う人よりも、その武器に詳しい振りをします。ほんとに詳しい人もいるでしょうがね。旦那、あなたがお勝ちになった後、二、三人やってきて、一杯おごりたいというでしょう。それを受け入れると、彼らはあなたがどんなへまをやったとか、相手がどんなへまをやったとかいうでしょう。でも、彼らの意見はまちまちなんですよ」
わたしはいった。「われわれのディナーに他人は入れないぞ」この時に、後ろの階段を裸足で降りてくるかすかな音が聞こえた。アギアとドルカスだった。アギアがアヴァーンを持っていたが、それは黄昏の光の中で、いっそう成長して大きくなったように見えた。
わたしがどんなに激しくアギアを欲したかは、すでに述べた。われわれは女性に話しかける時には、まるで愛と欲望が二つの別のものであるかのような口振りをする。そして、女性も、しばしばわれわれを愛し、時にはわれわれを欲するが、やはり同様のフィクションを維持する。実際には、それらは同一のものの別の相《アスペクト》であって、この亭主に説明するとしたら、この店の木の南面と北面のようなものだといえばよいだろう。もしわれわれがある女を欲し、その女が従順に身を任せれば、われわれはすぐに彼女を愛するようになる(実際、これはセクラに対するわたしの愛の最初の土台だった)、そして、もしわれわれが彼女を欲すれば、彼女は少なくとも想像の中では常に身を任せるから、ある程度の愛の要素は常に存在することになる。一方、もしわれわれが彼女を愛すれば、われわれはすぐに彼女を欲するようになる。魅力というものは、女が所有すべき属性の一つであり、また、われわれは彼女にそれがまったくないとは考えがたいからである。このようにして男たちは、たとえ足が麻痺して動かないような女をも欲するようになるし、女たちは、同性の男性以外が相手では不能になるような男すら、欲するようになるのである。
しかし、われわれが(ほとんど随意に)愛≠ニか欲望≠ニか呼ぶものがどこから生まれるかは、だれにもわからない。アギアが階段を降りてくる時、その顔の片側は夕日の光を受けて輝き、反対側は陰にのみこまれていた。ほとんど腰のところまで裂けたスカートから、太股の絹のような肌がちらりとのぞいた。そして、ちょっと前に彼女を手探りしているときには感じていながら、彼女を押し退けた時に消えてしまったもののすべてが、二倍にも三倍にもなって戻ってきた。わたしにはわかったのだが、彼女はわたしの顔にそれを読み取り、また、すぐ後ろに続いていたドルカスも、それを読み取って顔をそむけた。しかし、アギアはまだわたしに腹を立てていた(たぶん彼女にはその権利があったのだろう)。だから、表面的には笑顔を見せており、また、腰の痛みを隠すべくもなかったが、それでも懸命に自己を抑制していた。
ここから、女性には二つの種類があって、その間に真の相違があるとわたしは思う。つまり、われわれが男でいたければ、命を捧げなければならない女と、そして(やはり、われわれが男でいたければ)その女より体力において優らねばならず、またできれば知力においても優っていなければならず、そして、獣とはまったく違うやりかたで、使役しなければならない女である。そして、第二の種類の女は、われわれが第一の女に与えるものを、自分に与えることを決して許さないだろうとわたしは思う。アギアはわたしの感嘆を楽しみ、場合によってはわたしの愛撫によって恍惚境に入っただろう。しかし、たとえわたしが百回も自分自身を彼女の中に注ぎこんだとしても、われわれは赤の他人として別れることになるだろう。彼女が片手でガウンの胴着の裂け目をふさぎ、片手でアヴァーンをかかげて、その棒を杖として、バカルス([#ここから割り注]権威を象徴する杖[#ここで割り注終わり])のように持ちながら階段の最後の数段を降りる間に、わたしはこのすべてを理解した。それでもなおわたしは彼女を愛した。いや、可能ならば愛したろうに。
小僧が駆け寄ってきた。「トルドーは出ていったと、コックがいってます。女中がいないので、マックが外に水汲みにいったら、彼が逃げていくのが見えたそうです。それから、彼の荷物も、寝床から消えています」
「では、本気で出ていったのだな」亭主はいった。「いつ出ていった? たった今か?」
小僧はうなずいた。
「どうやら、奴は旦那が探しているのを聞いたんですな。旦那があの名前を尋ねているのをだれかが聞いて、急いで奴に知らせたんでしょう。あいつ、旦那から何か盗んだんですか?」
わたしは首を振った。「いや、何も悪いことはしていない。何をしたにしても、ぼくのためを思ってやったのだと思う。下男を一人失わせて、損をさせたな」
旅籠の亭主は両手をひろげた。「まだ給料を払ってありません。だから損にはなりませんよ」
彼が背を向けた時、ドルカスがささやいた。「わたしもごめんなさい。二階で、あなたの楽しみを奪ってしまって。邪魔したくはなかったんだけど。でもね、セヴェリアン、わたし、あなたを愛しているの」
どこか、あまり遠くないところから、トランペットの銀のように澄んだ音が、光りだした星々に呼びかけた。
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27 死んだか?
〈血染めが原〉の噂は、読者はみんな聞いていると思うが、幸いにもまだ一度も行ったことのない人もいくらかいるだろう。これはわれわれの首都のネッソスの、建物のある地区の北西にあり、都市の大郷士たちの住居になっている包領と、〈青い機甲部隊〉の騎馬隊の厩舎との中間にある。ここは、わたしのように〈壁〉のそばにいったことのない人間には、そのすぐそばにあるように感じられるが、実際に〈壁〉の根もとに行くとすれば、曲がりくねった街路をまだ何リーグも、てくてくと歩いていかなければならないのである。幾組の決闘者を収容する能力があるかわたしは知らないが、それぞれのグラウンドの限界を示す横木――見物人は思い思いにそれに寄りかかったり、その上に腰かけたりする――は、移動が可能で、その晩の必要に応じて調整されるらしい。わたしはたった一度しか行ったことがないが、そこは草が踏みしだかれ、見物人は沈欝に黙りこんでいて、奇妙な憂欝な場所に思われた。
わたしが玉座についてからの短い期間に、決闘よりももっと差し迫って心配せねばならぬ争点がたくさんあった。決闘というものは、善であろうと悪(わたしはそう考えたいが)であろうと、われわれのような社会ではたしかに根絶できないものである。社会はそれ自体を存続させるために、他のいかなるものよりも軍事的価値を高く評価しなければならず、ここでは、大衆の治安維持に当たらせるためだけに、武装家臣団を割くことなど、国家にはほとんどできないのである。
それにしても、決闘は悪だろうか?
決闘を非合法化した時代(わたしが読書によって知ったかぎりでは、何百もの時代がそうした)は、それを殺人と置き換えてしまった――それも、だいたいにおいて、決闘がそれらを防ぐ役割を担っているように見える殺人――つまり家族、友人、知己などの間の争いによって生じる殺人、と置き換えてしまったのだ。これらの場合には、一人死ぬ代わりに二人が死ぬ。なぜなら、法律は殺人者(性格的な犯罪者ではなく、たまたまそうなったにすぎない)を追及して、あたかも、その者の死が被害者の命を回復するとでもいうかのように、その人を殺すのだ。このようにして、たとえば、もし個人間で一千の合法的な決闘が行なわれ、その結果一千の死者が出るとしても(このようなことはほとんど起こり得ない、なぜなら、これらの決闘はたいてい死ぬまでやることはないから)、五百の殺人を防止できれば、国家はより悪いことにはならないのである。
さらに、このような決闘の生存者は、国家の防衛に最も適した個人であることが多いし、また、健康な子孫を残すのにも最も適しているのである。しかるに、たいていの殺人には生存者は残らない。そして殺人者は(たとえ生き残ったとしても)、たいてい性悪でしかないし、また強くも、素早くも、知的でもないのである。
しかも、このやりかたは、いかに容易に陰謀の温床になることか。
まだ百|複歩《ストライド》ほど離れている時に、名前が大声に呼ばれるのを聞いた。名前は、蛙の鳴き声に負けずに、大声で、儀式ばって告げられた。
「十七石のキャドロウなり!」
「分家の牧場のサバスなり!」
「竪琴の家のローレンシァなり!」(これは女性の声)
「十七石のキャドロウなり!」
こうして呼ばわっているのはだれかと、わたしはアギアに尋ねた。
「挑戦した人か、挑戦を受けた人自身よ。自分の名を大声で名乗ることによってあるいは、従僕に叫ばせることによって――自分がきたことを宣伝し、また、相手がきていないことを世間に知らせるの」
「十七石のキャドロウなり!」
今や夕日は、その円盤の四分の一が貫通不可能な黒い〈壁〉の向こうに隠れ、空を藤黄色《ガンボジ》と桜桃色に、橙色と毒々しい紫色に染めていた。これらの色がごった返す決闘者と見物人たちの上に降りかかるありさまは、さながら、聖なる恩寵の金色の光が高僧たちに降りかかり、彼らのすべてがほんの一瞬前に布の一振りによって出現し、また笛の音とともに空中に消滅するかのような、非物質的で呪術的な様相を彼らに与えているような、絵画を見る思いがした。
「堅琴の家のローレンシァなり!」
「アギア」わたしはいった。どこか近くで、だれかが喉を詰まらせて息絶えるのが聞こえた。
「アギア、きみが呼ばわってくれ、〈剣舞《マタチン》の塔〉のセヴェリアンなりと」
「わたしはあんたの下僕じゃないわ。怒鳴りたければ、自分で怒鳴ればいいでしょ」
「十七石のキャドロウなり!」
「そんな目でわたしを見ないで、セヴェリアン。一緒にこなければよかったわ! セヴェリアンなり! 拷問者のセヴェリアンなり! 〈城塞〉のセヴェリアンなり! 苦痛の塔の者なり! 死なり! 死がきたれり!」わたしは彼女の耳のすぐ下を打った。すると彼女はぐったりして倒れた。その体と平行してアヴァーンの棒も倒れた。
ドルカスがわたしの腕をつかんだ。「そんなことしてはいけないわ、セヴェリアン」
「平手で打っただけだ。大丈夫だよ」
「この人の憎しみがつのるわよ」
「では、彼女は今、ぼくを憎んでいると思うんだな?」
ドルカスは答えなかった。そして、次の瞬間にはわたし自身、質問をしたことを一時忘れてしまった――少し離れたところに、一本のアヴァーンが見えたからである。
グラウンドは平らな円形で、直径が十五複歩ほどあり、両端の入り口を除いては横木に取り囲まれていた。
役人が呼ばわった。「アヴァーンの裁きが申し出され、受理された。場所はここ、時は今。残るはこのまま裸体で行なうか、または、着衣で行なうか決めることだ。どうする?」
わたしが口を開かないうちにドルカスが叫んだ。「裸体で。あの男は甲冑をつけています」
北方人のグロテスクな兜《かぶと》が左右に揺れ、不同意を示した。それは、たいていの騎兵の兜と同じく、信号ラッパや上官の号令がよく聞こえるように、耳を露出させていた。わたしはその面頬の陰に黒い細い紐を見たように思い、そのようなものを以前どこで見たか、思い出そうとした。
役人が尋ねた。「きみは拒否するのだな、騎兵隊長?」
「わが国の男は、女の前に出る時以外は、裸体にはならぬ」
「彼は甲冑を着けています」ドルカスがまた叫んだ。「この人はシャツさえも着ていません」彼女の声はこれまでずっとひどく小さかったが、今は鐘の音のように黄昏の光の中に鳴り響いた。
「よし、脱ごう」北方人はケープを後ろに投げ捨てると、籠手をはめた手を上げて、胴甲の肩の止金を外した。胴甲は外れて足もとに落ちた。その胸はグルロウズ師の胸のようにがっしりと厚いだろうと予想していたが、そこに見えた胸はわたし自身の胸よりも細かった。
「兜も」
ふたたび北方人は首を振り、役人が尋ねた。「きみの拒否は絶対的なものか?」
「そうだ」そこには、ほとんど感じ取れぬほどのためらいがあった。「これを脱ぐなという指示を受けている」
役人がわたしの方を向いた。「われわれはだれも、この騎兵隊長を困惑させようとは思わないし、ましてや、彼が仕える人物――それがだれであるか言うのはひかえるが――を困惑させたくはない。それで、最も賢明な方法は、この代償として、きみに何か有利な条件を与えることだと思う。何か望みはあるか?」
わたしに打たれてからずっと沈黙していたアギアが、この時口を開いた。「決闘を拒否するのよ、セヴェリアン。でなければ、必要になるまで、その条件を保留するのよ」
アヴァーンを縛っていた紐を解きながらドルカスがいった。「決闘を拒否して」
「もう後には引けない」
役人がわが意を得たとばかりにいった。「決心されたか?」
「まあね」わたしの仮面は図嚢に入っていた。それは、組合で使用されているすべての仮面と同様に、薄いなめし革でできており、それを細長い骨で補強したものだった。これで、投げられたアヴァーンの葉を防ぐことができるかどうかわからなかった――しかし、それをパチリと開くと、見物人がはっと息を飲む音が聞こえたので、わたしは満足した。
「さあ、用意はいいか? 騎兵隊長は? きみは? ああ、きみはその剣をだれかに預けておかねばならない。アヴァーン以外の武器の携行は許されない」
わたしはアギアを目で探したが、彼女は人混みの中に消え失せてしまっていた。ドルカスが恐ろしいアヴァーンをわたしに渡した。わたしはテルミヌス・エストを彼女に渡した。
「始め!」
一枚の葉がヒュッと風を切って耳もとをかすめた。北方人は不規則な動きをしながら、左手でアヴァーンの一番下の葉の下を持ち、わたしのアヴァーンをもぎ取ろうとするように右手を前に伸ばして、前進してきた。わたしは前にこの危険をアギアから警告されたことを思い出し、自分のアヴァーンを思い切って体に近づけて握った。
五呼吸ほどの間、われわれは輪をかいて回った。やがてわたしは彼の伸ばした手めがけて打ちかかった。それを彼は植物で受け止めた。わたしは自分のを剣のように頭上に振りかぶった。その時、この姿勢が理想的であることがわかった――つまり、敵に掴まれやすい幹は敵の手の届かないところにあり、わたしは植物全体をいつでも意のままに振り降ろすことができ、しかも、右手で葉をむしることもできるから。
この最新の発見をすぐに試すことにして、わたしは一枚の葉をむしると、彼の顔めがけて飛ばした。彼は兜で守られているにもかかわらず、首をすくめた。そして、彼の後ろの群衆はその飛道具を避けるために散った。わたしは続けてもう一枚飛ばした。そしてまた一枚。これは彼の投げた葉にぶつかった。
その結果は目覚ましいものだった。二枚の葉は、無生物の剣がそうであるように、相手の運動量を吸収して一緒に落下せずに、互いに身をくねらせて、相手の刃の部分を避け、尖端の部分で素早く切りつけ打ちかかったように見えた。そして、一キュビットも落下しないうちに、二つとも暗緑色のただのぼろぼろの細片になり、様々な色に変わって、子供の独楽《こま》のように回転し……
何かが、またはだれかが、わたしの背中を押していた。まるで、未知のものと背中合わせに立って、軽く押しているような感じだった。わたしは寒かったので、そのものの暖かさがありがたかった。
≪セヴェリアン!≫[#≪≫は《》の置換]ドルカスの声がした。だが、彼女はよろよろと遠ざかってしまったように思われた。
≪セヴェリアン! だれか彼を介抱する人はいないの? わたしにやらせて!≫[#≪≫は《》の置換]
カリヨンの響き。格闘している葉の色だと思っていた色が、空にあった。オーロラの下に虹が掛かっていた。一個の巨大な|過越しの祭《パ ス カ ル》の卵のように、世界にパレットのすべての色がごたごたと塗りつけられていた。頭のそばで一つの声が尋ねた。≪死んだか?≫[#≪≫は《》の置換]すると、だれかが事務的に答えた。≪勝負あった。必ず死ぬ。それとも、彼が引きずられていくのを見たいかね?≫[#≪≫は《》の置換]
北方人の(奇妙に聞き覚えのある)声がいった。「勝利者の権利として、彼の衣服と武器を要求する。その剣をくれ」
わたしは上半身を起こした。わたしのブーツから二、三|歩《ベース》のところに、まだかすかにうごめいている何枚かの葉があった。北方人はその向こうに、まだアヴァーンを持って立っていた。何が起こったか尋ねようとして息を吸いこんだ時、何かが胸から膝に落ちた。それは尖端に血がついた葉だった。
わたしを見ると、北方人はさっと向き直って、アヴァーンを持ち上げた。役人が両手を広げてわれわれの間に割って入った。手すりのところから、見物のだれかが叫んだ。≪紳士の猶予を! 紳士の猶予を、軍人さん! 彼を立たせて武器を持たせてやれ≫[#≪≫は《》の置換]
わたしの足はほとんど体重を支えることができなかった。自分のアヴァーンはどこにあるかと、馬鹿のように見回した。ドルカスの足もとに落ちていたばかりに、それが目に入った。彼女はアギアともみあっていた。北方人が叫んだ。「彼は死ぬはずなのに!」役人がいった。「死んでいない、騎兵隊長。彼が武器を取り戻したら、決闘を続けてよい」
わたしは自分のアヴァーンの柄に触った。一瞬、冷血ではあるが生きている動物の尻尾でも掴んだような手触りだった。それは手の中で動くように感じられた。そして葉がさらさらと鳴った。アギアが叫んでいた。「死から蘇るなんて、神への冒涜だ!」わたしはちょっと彼女を見、それからアヴァーンを拾い上げて、北方人の方に向き直った。
彼の目はヘルメットの陰になっていたが、その体のあらゆる線に、恐怖の色が浮かんでいた。一瞬、彼はわたしからアギアの方に視線を移したように見えた。それから、こちらに背を向けて、後方の囲いの切れ目に向かって逃げ出した。見物人が彼の退路をふさいだ。すると彼は持っているアヴァーンを鞭のように左右に振り回した。一つの悲鳴があがり、それがたくさんの悲鳴の合唱になった。わたし自身のアヴァーンがわたしを後ろに引っ張った。いや、むしろ、わたし自身のアヴァーンがなくなり、だれかがわたしの手を掴んだ。ドルカスだった。どこかずっと遠くでアギアが金切り声をあげた。「アギルス!」そして別の女が呼ばわった。「竪琴の家のローレンシァなり!」
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28 |刑 吏《カルニフェクス》
翌朝わたしは、避病院で目を覚ました。天井が高く、細長い部屋で、われわれ病人や怪我人が狭いベッドに寝かされていた。わたしは裸だった。そして、眠り(ことによったら死だったかもしれない)が目蓋を引っぱっている間、わたしは傷を探して体じゅうをゆっくりと手探りしながら、まるで他人事のように、おれは服も金もなくてどうして生きていけばよいのだろうか、パリーモン師がくれた剣と外套をなくしたことを、師に対してどのように申し開きしたらよいのだろうかと、思案していた。
なぜなら、それらを失ったと信じこんでいたからである――いや、むしろ自分自身が、ある意味でそれらからはぐれてしまった、と。犬の頭を持つ猿が通路を走ってきて、わたしのベッドのところで立ち止まり、わたしを見て、それからまた走っていった。それは、見えない窓から射して毛布に当たる光と同じくらい、奇妙でないことのように思われた。
わたしはまた目覚め、起き上がった。一瞬、本当に昔の宿舎に帰ったように、自分が徒弟頭であるように、そして、それ以外のすべては、仮面の着用も、セクラの死も、アヴァーンの決闘も、夢でしかなかったように感じられた。こう感じたのは、これが最後ではなかった。それから、天井が見慣れた昔の金属のものでなく、漆喰だとわかった。そして、隣のベッドに寝ている人は包帯を巻いていることもわかった。わたしは毛布をはねのけて、足を床に降ろした。ドルカスが、わたしのベッドの頭部の壁にもたれて、坐ったまま眠っていた。その膝の上にわたしの持ち物の大きな包みが載っており、その両端からテルミヌス・エストの柄と鞘の先が突き出ていた。彼女を起こさないように注意しながら、わたしはやっとの思いでブーツをはき、胴衣をつけ、ズボンをはき、マントを着、|図 嚢《サパタッシュ》のついたベルトを締めた。しかし剣を取ろうとすると、彼女がぶつぶついってそれを握り締めたので、テルミヌス・エストは彼女のところに残していくことにした。
大勢の病人が目を覚まして、わたしを見つめたが、だれも口をきかなかった。部屋の端にドアがあり、それを開けると階段があり、それを降りると軍馬が足を踏み鳴らしている中庭に出た。一瞬、わたしはまた夢を見ているような気分になった。城壁の狭間に狒狒が登っていたのだ。だがそれはまぐさをばりばり食べている馬と同様に、現実の動物で、ごみを投げつけると、トリスキールと同じように印象的な歯を剥き出した。
長い鎖帷子《ホーバーク》を着た一人の騎兵が、鞍嚢から何かを取り出すために外に出てきたので、わたしは彼を引き止めて、ここはどこかと尋ねた。すると彼は、砦の中のどの部分かと尋ねられたと思い、一つの小塔を指さして、あの後ろが裁判所だといった。それから、自分と一緒にくれば、たぶん食べ物にありつけるだろうともいった。
そういわれたとたんに、わたしは飢えていることに気づいた。それで、彼について暗い歩廓をいき、避病院よりも天井が低くて暗い部屋に入った。そこには彼自身と同様の四、五十人の機甲部隊の兵士がいて、新鮮なパンと肉と野菜の煮付の昼食を食べていた。この新しい友人は、皿を持って料理人のところに行き、ここで食事をするように指示されたといえと、教えてくれた。そのとおりにすると、わたしの煤色のマントを見て、彼らはちょっとびっくりした顔をしたものの、文句をいわずに食物をくれた。
料理人たちは好奇心が強くなかったようだが、兵士たちは好奇心の塊りだった。彼らはわたしの名前を尋ね、どこからきたか尋ね、階級は何かと尋ねた(われわれの組合が軍隊と似た組織になっていると想像していたのである)。また、斧はどこにあるかというので、剣を使うのだというと、それはどこにあるかときかれた。それで、一緒にいる女性に預けてあるというと、その女が持ち逃げするかもしれないから注意しろ、と忠告してくれた。それから、マントの下にパンを忍ぱせて彼女に持っていってやれといった。なぜなら、その女はこの食堂にくることは許されないだろうからと。話していてわかったのだが、年配の兵士たちは皆、今はほとんどそうしていないにしても、いずれかの時期に女性を――たぶん、最も役に立ち、しかも最も危険の少ない従軍慰安婦のたぐいを――養っていた。彼らは前の夏を北方の戦線で過ごし、それから冬を過ごすためにネッソスに送られて治安維持に当たり、今は、一週間後にふたたび北に送られると予想していた。彼らの女は自分の親兄弟と暮らすために、それぞれの村に帰っていた。わたしは、女たちはむしろ彼らについて南にきたかったのではないかと尋ねた。
「むしろ、きたかった、だと?」わたしの友人はいった。「もちろん、彼女らはそうしたかったさ。しかし、どうやってついてくる? 歩兵とともに北に向かって戦いながら進んでいく騎馬隊についていくのとは違うんだぞ。その場合には、最もうまくいった日でも、一、二リーグ以上は進めない。そして、たとえ一週間に三リーグ進んだとしても、次の週には二リーグ押し返される。しかし、都市への帰り道を、いったいどうやって追いかける。一日に十五リーグだぜ。それに、道中に何を食べる? 彼女らは自分の村で待っているほうがいい。われわれの古い扇形戦区に新しい騎馬隊がくれば、彼女らは新しい男どもを得ることになる。新しい女も何人かやってくることだろう。そして、古い奴の何人かは脱落するだろう。そうすれば、皆に、望めば気分を変えるチャンスができるんだ。昨夜、聞いたんだが、おまえのような刑吏が一人収容されたそうだぞ。もう会ったか?」わたしは会っていないといった。
「パトロール隊が、そういう者を見たと報告した。それを連隊長が聞いて、収容させたんだ。一日二日のうちに刑吏が一人必要になると考えているのさ。パトロールの連中はそいつに指一本触れなかったと言い張っているが、とにかく、担架に乗せて連れてこなければならなかったそうだ。そいつがおまえの同僚かどうか知らないが、ひょっとしたら、おまえが会いたいというかもしれないと思ってね」
わたしはぜひ会いたいといった。そして、兵士たちに親切にしてもらった礼をいって、そこを去った。ドルカスのことが心配だった。そして、彼らの質問は、明らかに善意のものであったが、わたしを不安にした。説明のつかないことがあまりにもたくさんあった――たとえば、自分はどうして怪我をするようなことになったのか、そして、もし自分が、前夜収容された男だと認めたらどうなるか、そして、ドルカスはどこからきたか、等々。これらの事を本当に理解していないことは、ひどく不安なものであった。少なくとも、自分の生涯に明るみに出せない部分がまるまる一つあって、最後の質問がその話題からいかに遠いものであったとしても、次の質問は的を射るかもしれない、というのと似た状況に置かれているのだから。
ドルカスは目覚めて、ベッドわきに立っていた。そこにだれかが湯気のたつ肉汁を一椀持ってきてくれてあった。彼女がわたしを見てあまり喜んだので、こちらも嬉しくなってしまった。まるで、喜びが伝染するみたいだった。「あなたが死んだと思ったわ」彼女はわたしにいった。
「あなたの姿はないし、衣服もなくなっていたでしょう。だから、それを着せてあなたを埋葬するために持っていったのかと思ったの」
「ぼくはこのとおりぴんぴんしている」わたしはいった。「昨夜は何があったんだ?」
ドルカスはたちまち深刻な顔になった。わたしは彼女を自分と一緒にベッドに坐らせて、持ってきたパンを食べさせ、肉汁を飲ませながら、答えさせた。「きっと、あの奇妙な兜の兵士と闘ったことは覚えているわね。あなたは仮面をつけて、そいつと一緒に闘技場に入ったわ。わたしはやめてちょうだいと頼んだけれど。始まるとほとんど同時に、彼はあなたの胸に命中させ、あなたは倒れた。わたし、あの葉を見たのを覚えているわ。鉄でできたひるのように恐ろしいもので、あなたの体に半分突き刺さり、血を吸って赤く変わったのよ。
それから下に落ちたの。どう話していいかわからないわ。まるで、見たすべてが間違って[#「間違って」に傍点]いたみたい。でも、間違いではないわ――見たものを覚えているもの。あなたはまた立ち上がった。その姿はまるで……わからないわ。まるで、あなたは気を失ったみたい、いや、あなたの一部が遠くに離れてしまったみたいだった。彼はすぐにあなたを殺すだろうと思ったけれど、役人があなたを守ったの。あなたにアヴァーンを拾うのを許さねばならぬといってね。彼のアヴァーンはじっとしてたわ。あなたがあの恐ろしい場所からあなたのアヴァーンを引き抜いた時と同じように。ところが、あなたのアヴァーンはうごめきはじめ、花を開きはじめていたの――わたしはもっと前に花が開いたと思っていたわ。あの渦を巻いた花弁のあるあの白いものが花だとね。ところが、今になってみると、わたしは薔薇のことを考えすぎていたのね。あれはまだ、全然開いていなかったのよ。あれの下側に、何か、何か他のものがあったの。毒なら持っていると思われるような顔がね。毒に顔があればの話だけれど。
あなたは気づかなかった。あなたがそれを取り上げると、それはゆっくりと、まるで半分眠っているようなぐあいに、あなたに向かって反り返りはじめたの。でも、相手の人、あの騎兵隊長は自分の目が見たものを信じることができなかったのよ。彼はあなたを見つめており、あのアギアという女は彼にむかって叫んでいたわ。それから、だしぬけに彼は背を向けて、逃げ出したの。見物人は彼を逃がしたくなかった。だれかが殺されるのを見たかったのね。それで、彼らは彼を引き止めようとし、彼は……」
彼女の目に涙が溢れた。それを見られまいとして、彼女は顔を背けた。わたしはいった。「あいつはアヴァーンで何人も打ったな。たぶん彼らは死んだことだろう。それから、どうなった?」
「ただ彼が人々を打っただけではないのよ。最初の二打ちの後は、アヴァーンが人々に襲いかかったの、蛇のように。葉で切られた人々はすぐには死なないの。彼らは悲鳴をあげ、そのうち何人かは走っては倒れ、また走っては倒れたわ。まるで目が見えない人みたいに、他の人々を打ち倒しながら走っていったわ。そして、とうとう大きな男の人が彼を後ろから殴り、どこかよそで闘っていた女の人が|短 剣《ブラクマール》を持って駆けつけてきて、そのアヴァーンを切ったのよ――横にではなく、縦に茎を裂くようにね。やがて、見物人の一部があの騎兵を取り押さえたの。そして、彼女の短剣が彼のヘルメットにがちゃんと当たる音が聞こえたわ。
あなたはただあそこに立っていたの。彼が逃げてしまい、あなたのアヴァーンがあなたの顔に向かって反り返っていることさえ、知っていたかどうかわからないわ。わたしはその女の人がやったことを思い出して。あなたの剣でアヴァーンに切りつけたの。剣は重かった。最初はとても重かった。それから、ほとんど重さを感じなくなった。でも、打ち下ろした時には、まるで野牛の首でも切り落とせそうな感じだった。鞘を払うのを忘れていたけれどね。それでも、剣であなたの手からアヴァーンを叩き落とすことができたわ。そして、わたしはあなたの手を取って、連れ去ったの……」
「どこに?」わたしは尋ねた。
彼女は身震いをし、パンをちぎって肉汁に浸した。「わからない。どこでもよかったのよ。あなたと一緒に歩き、アヴァーンを取る前にあなたがわたしの面倒を見てくれたように、自分があなたの面倒を見ていると思うと、とても嬉しかった。でも、夜がくると寒くなった。とても寒かった。それで、あなたをすっかりマントでくるみ、前をとめたの。すると寒くなくなったように見えたので、わたしはこちらのマントにくるまったのよ。ドレスはぼろぼろに剥げて落ちかけていたからね。今もそうだけれど」
わたしはいった。「あの旅籠で、着物を買ってあげようと思っていたんだよ」
彼女は首を振り、固いパンの皮を噛んだ。「知ってる? わたしが食事をするのはずいぶん久し振りだということを。お腹が痛いの――だから、あそこでワインを飲んだのよ――でも、この食べ物のおかげで気分が良くなったわ。自分がどんなに弱っているか、自分で気づいていなかったのね。
でも、あそこでは新しい着物を買いたくなかったの。なぜなら、それを長い間着ることになるだろうし、その間じゅうずっと、その日のことを思い出すだろうから。でも、まだその気があるなら、今なら、買ってもらってもいいわ。なぜなら、それは今日のことを思い出させてくれるから。今日は、あなたが死んだと思ったのに、こうして元気でいるから。
とにかく、わたしたちは市内に戻ったの。あなたが横になることのできる場所を見つけたかった。でも、テラスとか高欄とか、そんなものがあるお屋敷ばかりだった。やがて、兵隊が数人駆けてきて、あなたは|刑 吏《カルニフェクス》ではないかと尋ねたの。わたしはその言葉を知らなかったけれど、あなたの話を思い出して、あなたは拷問者だといったの。なぜなら、わたしにとって兵隊はいつも一種の拷問者のように思われたから、そういえばわたしたちを助けてくれると思ったのよ。彼らはあなたを馬に乗せようとしたけれど、あなたは滑り落ちてしまうの。そこで、彼らはケープを二本の槍の間に縛って、あなたをその上に乗せて、槍の端を二頭の軍馬のあぶみの綱に引っかけて運ぶことにしたの。兵士の一人はわたしを鞍の上に乗せたがったげれど、断わったわ。そして、ずっとあなたの側を歩いてきたのよ。そして時々あなたに話しかけたけれど、あなたには聞こえてなかったみたい」
彼女は肉汁の残りを飲み干した。「さあ、今度はわたしに質問させて。わたしが屏風の陰で体を洗っていた時に、あなたとアギアが手紙のことをささやきあっているのが聞こえたわ。その後で、あなたはあの旅籠のだれかを探したでしょう。あの説明をしてくれない?」
「なぜ、もっと早く尋ねなかったんだ?」
「なぜなら、アギアが一緒にいたんですもの。もしあなたが何かを発見していたら、彼女にそれを知られたくなかったんですもの」
「ぼくが何かを発見したら、きっとそれを探り出すような女だよ、彼女は」わたしはいった。
「ぼくは彼女をよく知らない。実際、きみを知っているのと同じくらい知っているとは思えないんだ。しかし、彼女のほうがぼくよりずっと利口だということがわかる程度には、知っている」
ドルカスはまた首を振った。「あの人は、他人のためにパズルを作るのは上手だけれど、自分が作ったパズル以外のパズルを解くのは得意でない、といったタイプの女よ。彼女は――なんといったらいいか――横向きに考える、のだと思うわ。だから、他人はそれについていけないんだわ。彼女は、男のように物事を考える、と人々がいう種類の女なのよ。でも、あのような女は全然本物の男のようには考えないわ。実際は、たいていの女がする以上に、本物の男のようには考えないものなのよ。ただ、女のように考えないというだけなの。彼女たちが考えることはたしかに、ついていくことが困難だけれど、それは決して明晰だとか、深みがあるとか、いうことではないのよ」
わたしは彼女に例の手紙のことを話し、その内容を伝え、実物はなくなってしまったけれど、旅籠の紙に写し取ってあり、また、その紙とインキが手紙と同じものだとわかったと、付け加えた。
「では、だれかがあそこで書いたのね」彼女は考えながらいった。「たぶん旅籠の使用人の一人でしょうね。なぜなら、彼はあの馬丁を名指しで呼んだから。でも、これはいったいどういうことでしょうね?」
「わからないなあ」
「あれが、なぜ、あの場所に置かれたかは説明できるわ。わたしはあそこに坐っていたのよ。あなたが腰を降ろす前に、あの骨の長椅子にね。あの時は嬉しかった――なぜなら、あなたが横に坐ってくれたんですもの。あなた覚えているかしら? 給仕が――書いたかどうかは別にして、あの手紙を持ってきたのは彼にちがいないのよ――わたしが湯浴みに立つ前に、盆をあそこに置いたのかしら?」
「ぼくはあらゆる事が思い出せるんだ」わたしはいった。「昨夜のことは別だがね。アギアは折り畳み式のカンバスチェアに坐った。きみはあの長椅子に坐った。そのとおりだ。そして、ぼくはきみの横に坐った。ぼくは剣と一緒に、竿に縛ったアヴァーンを持っていた。そのアヴァーンを長椅子の後ろに横たえた。調理場の女中がきみのところに湯とタオルを持ってきた。それから、彼女は出ていって、ぼくのところに油とぼろ布を持ってきた」
ドルカスがいった。「彼女に何かやるべきだったわね」
「屏風を持ってこいといって、一オリカルク与えたよ。あれはたぶん彼女の一週間分の給料に匹敵するだろう。とにかく、きみは屏風の後ろにいった。そして、一瞬遅れて亭主が、盆とワインを持った給仕を連れて入ってきた」
「だから、わたしはそれを見なかったのね。でも、あの給仕はわたしがどこに坐っていたか知っていたはずよ。なぜなら、他に場所はなかったから。それで、彼はわたしが出てきて見ればよいと思って、盆の下にあれを置いていったのよ。最初の部分は何と書いてあった? もう一度いって」
「あなたと一緒にいる女は前にもここにきた。彼女を信用してはいけない=v
「それはわたしに宛てたものにちがいないわ。もしあなたに宛てたものなら、たぶん髪の色か何かで、アギアとわたしを区別しなければならなかったでしょうから。そして、もしアギアに宛てたものなら、わたしでなくて彼女が見るように、テーブルの反対側に置かれていたはずよ」
「すると、きみはだれかに、そいつの母親を思い出させたことになるな」
「ええ」また彼女の目に涙が浮かんだ。
「きみは、あの手紙を書くことができるような子供がいる年齢ではないよ」
「記憶がないの」彼女はいった。そして、茶色のマントのゆるやかなひだに顔を埋めた。
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29 アギルス
当直の医者はわたしを診察して、治療の必要がないことを見きわめると、避病院から出ていってほしいと要望した。患者が、わたしのマントと剣におびえるから、というのがその理由であった。
兵士たちと食事をした建物の反対側に、彼らの必要を満たす商店があった。そこには、兵士が愛人に与える偽の宝石とか金ピカの安物に混じって、ある程度の婦人服が置いてあった。そして、わたしの所持金は、ついに戻って食ベる機会のなかった〈失恋亭〉の食事のために、かなり減っていたが、それでも、ドルカスに一着のシマー([#ここから割り注]裾広がりの外着[#ここで割り注終わり])を買い与えることができた。
この店から裁判所の入り口までは、遠くなかった。その前に百人くらいの群衆がつめかけていた。しかし、その人々がわたしの煤色の衣服を見ると、互いに目引き袖引きしたので、われわれはまた軍馬が繋がれている中庭に戻った。裁判所からの町役人――水差しの横腹のように高くて白い額をした、横柄な男だった――が、そこでわれわれを見つけた。「おまえが刑吏だな」かれはいった。「職務を執行するだけの体力があると聞いたが」
あんたの主人が要求するなら、今日、なんなりと必要な事をすることができる、とわたしはいってやった。
「今日? だめ、だめ、それは無理だ。裁判は今日の午後までは終わらないだろう」
わたしに刑を執行するだけの体力があるかどうか確かめにきたとすると、あんたはその囚人が有罪になると確信しているのだな、とわたしはいった。
「ああ、それは間違いない――絶対に。なんてったって、九人も殺されたのだ。しかも、そいつは現行犯で逮捕されたんだ。まったく取るに足りない人物だから、恩赦や上訴の可能性もない。法廷は午前のなかばに再招集されるだろうが、おまえは正午までは呼ばれないだろう」
わたしは裁判官とか法廷とかについて直接の経験はなかったので(〈城塞〉では客人は常に向こうから送られてきたし、また、事件によってはその処理の仕方を尋ねるために時たま役人がやってきたが、それらはグルロウズ師が応対した)、また、わたしは長い間訓練を受けてきた実務を実際に執行したくてたまらなかったので、千人隊長は今夜、松明儀式を行ないたいというかもしれないよと、水を向けた。
「それはあり得ないだろう。彼は自分の決定を静かに考えなければならない。どう思われるだろうか? と。軍の判事はそそっかしくて気まぐれだと、すでに大勢の人が感じている。そして、率直な話、民事の裁判官ならたぶん一週間は待つだろう。裁判はそのほうがずっと良いんだ。なぜなら、余裕がたっぷりあって、その間にだれかが新しい証拠を持ってくることもあるからな。もちろん、実際にはそんなことはないだろうが」
「では、明日の午後だ」わたしはいった。「そうすると、夜、われわれが泊まる場所が必要になる。それから、断頭台と首置きブロックを点検し、客人に用意をさせなければならない。彼に面接するには、許可証が必要なのか?」
町役人は、わたしが避病院に泊まることはできないかと尋ね、わたしが首を振って見せると、一緒に病院にいって、当直の医師と談判するといった。わたしの予言どおり、医者は拒否した。続いて、騎兵隊の下士官と長い議論が行なわれた。下士官は、われわれが兵営に兵士と一緒に寝ることは不可能であり、また、高官のために取ってある部屋の一つを、もしわれわれが使えば、今後そこに泊まりたいという人がいなくなってしまう、と説明した。結局小さな、窓のない物置が明け渡され、二台のベッドと他のいくらかの家具(すべてひどく使い古されたもののように見えた)が運びこまれた。わたしはドルカスをそこに残し、必要な点検を行なって、決定的な瞬間に腐った板を踏み抜いたり、自分が客人を膝の上に押さえていて、その首を助手に鋸で引き切らせなければならない、などという事態が起こらないことを確認すると、伝統的に行なうことになっている面接をするために、牢屋にいった。
少なくとも主観的には、馴染みになっている拘置施設と、馴染みになっていない施設とでは、大変な差異がある。もし、わたしが〈剣舞《マタチン》の塔〉の地下牢に入っていくのだったら、まったく文字どおり、わが家に帰るように感じたことだろう――たぶん、死ぬために帰るのだが、やはり帰郷は帰郷である。われわれの地下牢の曲がりくねった金属の廊下や狭い灰色の扉が、閉じこめられている男女に恐ろしい感じを与えるだろうということは、観念的には理解できる。しかし、わたし自身はそのような恐怖は少しも感じないだろう。そして、もし感じるはずだと囚人のだれかがいったら、わたしは即座に、ここには様々な慰め――清潔な敷布、充分な毛布、規則的な食事、適当な照明、めったに妨げられることのないプライバシーなど――があると、指摘したことだろう。
今、われわれの施設の百分の一くらいの施設の中に、細くて曲がりくねった石段を降りて入っていくと、わたしはあそこで感じたであろう気分と正反対のものを感じた。ここの暗闇と異臭は、まるで重りのようにわたしを圧迫した。なんらかの事故(たとえば、誤解による命令とか、町役人の側の思いもよらない敵意など)によって、自分がここに監禁されてしまうのではないかという考えが、押し退けても押し退けても浮かんできた。
女のすすり泣きが聞こえた。しかし、町役人の話では客人は男だということだったので、その泣き声は別の独房から聞こえてくるのだと思った。彼の独房は右から三番目だと教えられていた。わたしは数えた。一、二、そして三。扉はただの木で、それを鉄で補強してあった。しかし、錠前には(さすが軍隊だ!)油が差してあった。かんぬきがはずれると、中で、すすり泣きがためらいがちになり、ほとんどやんだ。
中では、藁の上に裸の男が横たわっていた。鉄の首かせから一条の鎖が壁に繋がっている。彼の上に一人の女――やはり裸――がうつぶせになっており、茶色の髪の毛がその顔を通り越して男の顔まで垂れていたので、まるで、髪が二人を繋いでいるように見えた。彼女は振り返ってわたしを見た。それはアギアだった。
彼女は歯の間からいった。「アギルス!」すると、その男が上半身を起こした。彼らの顔は瓜二つで、まるでアギアが鏡に顔を映しているようだった。
「おまえだったのか」わたしはいった。「しかし、こんなことはあり得ない」わたしはそういいながら、〈血染めが原〉でのアギアの振舞いと、騎兵隊長の耳のそばに見えたあの黒い紐を思い起こしていた。
「あんた」アギアがいった。「あんたが生きたために、彼が死ななければならないのよ」
わたしはこう答えることしかできなかった。「これは本当にアギルスなのか?」
「もちろんだ」わたしの客人の声はその双子の妹の声よりも一オクターブ低かった。もっとも、より落着きがなかったけれども。「おまえ、まだ腑に落ちないだろう?」
わたしはうなずくしかなかった。
「店にきたのはアギアだった。北方人の衣裳をつけてな。おれがおまえに話しかけていた時に、彼女は裏口から入ってきた。そして、おまえが剣を売るなんて論外だといっていた時に、おれは彼女に合図したんだ」
アギアがいった。「わたしは喋るわけにはいかなかったのよ――女の声を出せば、あんたにばれてしまうからね――でも、胴甲で胸が隠れ、籠手で手が隠れたわ。男のような歩き方をするのは、男が考えるよりも楽なのよ」
「おまえはその剣を見た[#「見た」に傍点]ことがあるのか? 中子《なかご》に銘があるはずだ」アギルスはちょっと手を上げた。あたかも、まだ可能ならば、自分でその剣を取ったろうにとでもいうように。アギアは無表情な声で付け加えた。「あるわ。≪ジョヴィニアン作≫[#≪≫は《》の置換]よ。旅籠で見たの」
彼らの背後の壁のずっと上の方に一つの小窓があった。そして、そこから突然、まるで太陽よりも下に屋根か雲の峰が下がったかのように、一条の光が射しこみ、二人を照らした。わたしは彼らの金色の顔を見較べた。「おまえたちは、おれを殺そうとしたんだな。この剣のために」
アギルスがいった。「おまえがそれを手放せばよいと思っていた――覚えているだろう? おれは説得しようとした。それを手放して、変装して逃げるようにと。衣服と、できるだけの金を、おまえに与えるつもりでいたのだ」
「セヴェリアン、わからないの? それはわたしたちの店の十倍もの価値があって、しかも、わたしたちにはあの店しかなかったのよ」
「おまえたちは前にも、こういう事をしたな。したにちがいない。何から何まで、あまりにも手際が良すぎた。合法的な殺人、だれかに重りをつけてギョルに沈める必要もない」
「これから、あんたアギルスを殺すのね? だから、ここにきたにちがいないわ――でも、あんたはこの扉を開くまで、わたしたちだということを知らなかった。あんただって、似たようなことをするんじゃないの?」
アギアほど押しつけがましくなく、その兄が続けた。「あれは公正な決闘だった。同じ武器を使ったし、おまえはその条件に同意したんだ。明日、同様な決闘をさせてくれないだろうか?」
「おまえは知っていた。夕方になるとおれの手の温かみがアヴァーンを刺激して、あれがおれの顔を刺すことをな。おまえは手袋をはめていたから、待つだけでよかった。現実には、それさえも必要なかった。なぜなら、その前に何枚も葉を投げたから」
アギルスは微笑した。「だから、籠手の問題は結局、添え物にすぎなかった」彼は両手を広げた。「おれが勝った。しかし、実際はおまえの勝ちだ。妹もおれも知らない秘密の技でな。これで、三度、おまえにだまされた。昔の法律では、三度だまされた者は、だました者にどんな恩恵を求めてもよいことになっていた。その昔の法律はもはや効力を失っていることは認める。しかし、この子の話では、おまえは過去の時代に、おまえの組合が偉大であり、おまえの砦が共和国の中心であった時代に、愛着を感じているということだ。おれはおまえに恩恵を求める。逃がしてくれ」
アギアが立ち上がり、膝と丸みのある股から藁を払った。彼女はこの時はじめて裸でいることに気づいたように、わたしがあまりにもよく覚えているあの青緑色の刺繍織りのガウンを拾い上げ、前を隠した。
わたしはいった。「おれがおまえをだましたとはどういうことだ、アギルス? おれにとっては、おまえがおれをだました、だまそうとした、と感じられるぞ」
「第一に、おれを罠に掛けた。おまえは自分の持っているものが何であるかを知らずに、大邸宅一戸分にも価する祖先伝来の家宝を携えて、市中を歩き回った。その価値を知ることは、所有者としてのおまえの義務だ。そして、おまえの無知のおかげで、おれはもし今夜逃がしてもらえなければ、明日命を失う瀬戸際に立たされている。第二に、買収のいかなる申し出も拒否したことだ。われわれの商業社会では、値段は自分の思うままにどんなに高くつけてもかまわない。しかし、どんな値段でも売らないというのは、裏切りなのだ。アギアとおれは野蛮人のけばけばしい鎧兜を着けていた――だが、おまえは野蛮人の心を持っていた。第三に、おまえが決闘に勝った巧妙な技にだ。おまえと違って、おれは理解を絶する力と戦っていると悟った。だれでもそうだろうが、おれは度を失った。そして、今はこのざま[#「ざま」に傍点]だ。だから要求する、おれを逃がしてくれ」
わたしは思わず笑ってしまったが、その笑いには胆汁の味が混じっていた。「おまえは頼むのだな。軽蔑すべきあらゆる理由のあるおまえに対して、おれがほとんど自分の命よりも愛していたあのセクラにもしてやらなかった事をしてくれと。ご免だね。おれは馬鹿なんだ。たとえ、前には馬鹿でなかったとしても、おまえの可愛い妹が馬鹿にしてくれたのは確かだ。しかし、おまえの願いを聞くほどの馬鹿にはならなかったぞ」
アギアはガウンを落とすと、激しくわたしにむしゃぶりついた。一瞬、わたしに襲いかかったのかと思った。だが、そうではなくて、わたしの口をいくつものキスで覆い、わたしの手を取って乳の上に置き、もう片方の手をなめらかな尻に置いた。そこにはまだ腐った藁くずがついていた。そしてわたしは、やはり藁くずがついている彼女の背中に、すぐ両手を移した。
「セヴェリアン、愛しているわ! 一緒にいた時に、わたしはあんたに恋焦がれていた。そして、何十回もあんたにわたしの体をあげようとしたのよ。〈快楽の園〉のことを覚えていない? あんたをあそこに、どれほど連れていきたかったことか! そうすれば二人とも恍惚境を体験できたのに、あんたは行きたがらなかったのよ。一度だけ、正直になって」(彼女の口ぶりだと、正直は躁病のように異常な状態であるかのように聞こえた)「わたしを愛してくれないの? さあ、抱いて……ここで。アギルスはきっと、向こうを向いていてくれるわ。大丈夫よ」彼女の指がわたしのウェストバンドの間に、ズボンの中に滑りこんだ。そしてわたしは、彼女のもう一方の手がわたしの図嚢の蓋をはね上げたのに気づかなかった。だが、そこで紙の擦れる音がした。
わたしは彼女の手首をぴしゃりと叩いた。たぶん必要以上に強く叩いたのだろう。彼女はわたしに飛びかかり、目に爪を立てようとした。ちょうど、昔セクラが監禁と苦痛の想念に耐え切れなくなった時に、時々やったように。わたしは彼女を押しのけた――今度は椅子にではなく、壁に向かって。彼女の頭がごつんと石に当たった。豊かな髪の毛が緩衝物になったはずなのに、その音はまるで石工のハンマーのように鋭かった。彼女の膝からすべての力が脱けてしまったようにみえた。彼女はずり落ちて、藁の上に尻をついた。アギアが泣くことがあるとは夢にも思っていなかったが、彼女は泣いた。
アギルスが尋ねた。「彼女は何をしたんだ?」その質問には好奇心以外には何の感情も含まれていなかった。
「見えたはずだぞ。おれの図嚢に手を突っこもうとしたんだ」わたしはコインの入っている仕切りから、なけなしのコインをすくい出した。真鍮のオリカルク貨幣が二枚、銅のアエス貨幣が七枚。「いや、もしかしたら彼女は、スラックスの執政官への手紙を盗もうとしたのかもしれない。前にその話を彼女にしたことがあるからな。だが、それはここには入っていない」
「彼女はきっと貨幣をほしかったんだ。おれは食事をもらったが、彼女は死ぬほど飢えていたにちがいない」
わたしはアギアを引き起こし、その腕に破れたガウンを押しこむと、扉を開けて、彼女を外に出した。彼女はまだぼんやりしていたが、わたしが一オリカルクを与えると、それを投げ捨てて、唾を吐きかけた。
わたしが房内に戻ると、アギルスは壁によりかかって、あぐらをかいて坐っていた。「アギアの事を聞かないでくれ」彼はいった。「すべて推察どおりだ――これで充分だろう? おれは明日死ぬだろう。そして彼女は、あれに惚れている老人かだれかと一緒になるだろう。早くそうしてやればいいと、おれは思っている。あの爺は、兄であるこのおれに彼女が面会にくるのを、やめさせたくてもやめさせることができなかった。今度おれがいなくなれば、そういう心配もなくなる」
「そうだ」わたしはいった。「おまえは明日死ぬ。だからおれがその話をしに、ここにきたのだ。断頭台で自分がどのように見えるか気になるか?」
彼は、自分のほっそりしていてむしろ柔らかい両手を、じっと見つめた。その手は、さっきまで彼とアギアの頭に金色の後光を与えていた日光の細い線の中に、置かれていた。
「ああ」彼はいった。「彼女がくるかもしれない。こなければいいが。しかし、そう、気になる」
そこでわたしは(教えられたとおりに)、大事な時に気分が悪くならないように、朝食をほとんど取らないように、そして、膀胱を空にしておくように教えた。それは打撃を受けると緩むからである。また、すべての死刑囚にわれわれが教える偽りの手順を、彼に教えこんだ。そうすれば、死刑囚は実際の死がやってくる瞬間に、それを予想していないことになる。つまり、いくらかでも少ない恐怖心をもって彼らが死んでくれるように、偽りの手順を教えるのである。彼がこれを信じたかどうかわからないが、信じてくれればよいとわたしは思った。もし万物主のみそなわすところで嘘が正当化されるとすれば、それはこの嘘である。
わたしが外に出てくると、オリカルク貨幣は消えていた。その代わりに――疑いなくその縁を使って――汚れた石の上に一つの模様が走り書きされていた。それは、ジュルパリ([#ここから割り注]ウアペ族の悪魔[#ここで割り注終わり])の怒りの顔のようにも、また地図のようにも見えた。そして、それを取り囲んで、わたしの知らない文字が書いてあった。わたしはそれを足で拭き消した。
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30 夜
五人いた。三人が男、二人が女。ある意味で、彼らは扉の外で待っていた。しかし、その近くでではなく、十数|複歩《ストライド》離れたところにたむろしていた。待ちながら、仲間どうしで喋っていた。二人か三人がまるで叫ぶように同時に口をきき、笑ったり、腕を振ったり、小突きあったりしている。わたしはしばらくの間、物陰から眺めていた。物陰に煤色のマントにくるまっていれば、彼らからはわたしが見えない――いや、彼らは見なかった。そして、こちらは彼らが何をしているか知らない振りをすることができた。彼らはパーティの帰りだったのかもしない。みんなちょっと酔っ払っていたから。
彼らははねつけられるかもしれないと思いながら、どうしても前に出たい、といった様子で、熱心に、しかし、おずおずと、やってきた。一人の男はわたしよりも背が高く、きっと高貴人の落とし子だろうと思われ、年齢は五十歳か、あるいはもう少し上。〈失恋亭〉の主人に負けないほど肥満していた。その横を、痩せぎすの女がまるで彼に体を押しつけるようにして歩いていた。彼女はこれまでに見たことのないような飢えた目つきをしていた。太った男がわたしの前にきて、その図体でわたしの行く手をふさぐと、彼女はほとんどわたしに抱きつきそうになった(実際に、抱きついたわけではない)。しかし、あまりにもそばにきたので、体が接触しないのが不思議なくらいだった。彼女の指の長い手が、わたしの胸を撫でたがっているように、マントの合わせ目に向かって動いた。わたしはまるで、女怪《サカバス》([#ここから割り注]睡眠中の男と情交する[#ここで割り注終わり])か魔女《ラミア》([#ここから割り注]上半身は人、下半身は蛇[#ここで割り注終わり])のよう吸血鬼の餌食になりそうな気分になった。
「明日だろう? どんな気持ちだね?」「おまえの本名は?」「あいつは悪い奴だろう? 怪物みたいな奴か?」だれも自分の質問に答えを待っていなかった。いや、わたしにわかったかぎりでは、答えを全然期待していなかった。彼らは親近感を求め、わたしに話しかけたという経験を求めているのだった。「最初に骨を折るのかね? 焼|鏝《ごて》を当てるのかね?」「女を殺したことはあるのかね?」
「ああ」わたしはいった。「あるよ、一度」
男の一人で、背が低く、痩せぎすで、知識人らしい高いごつごつした額をもった奴が、わたしの手に一枚のアシミを握らせようとしていた。「おまえたちは実入りが少ないのだろう。それに、あの男は貧乏人で、心付けが払えないと聞いている」白髪が顔にふりかかっている女が、レースの縁取りのあるハンカチをわたしに受け取らせようとした。「これに血をつけてちょうだい。どんなにたくさんでもいいし、ほんの少しでもいい。後でお金を払うからさ」
彼らはみんないやな感じだったが、哀れを催すほどわたしの心を動かした。中でも、一人の男が特に気にかかった。彼はお金を恵んでくれた男より、もっと背が低く、白髪の女よりも、さらに白い髪をしていた。そして、その鈍い目の中には一種の狂気が――心という牢獄の中で完全に磨滅して情熱は消えてしまったが、エネルギーだけは残っている、なかば抑圧された関心の影、とでもいうようなものが――宿っていた。彼は他の四人が話しおえるまで待つつもりのようだった。しかし、そういう時がきそうもないことが明らかになった時、わたしは身振りで彼らを黙らせて、彼にどんな用事かと尋ねた。
「マ・マ・マスター、おれはクエーサー号に乗っていた時に、パラコイタ([#ここから割り注]セックス相手の女[#ここで割り注終わり])、つまり人形、ほら、想像上のセックスのパートナーを持っていた。井戸のように暗い大きい瞳の、美しいやつだった。ひ・ひ・ひとみは夏のアスターかパンジーの花のような紫色だった。マスター、あれらの温床の花を全部集めて、あの目を作ったと、おれは思っていた。あの肉体はいつも日なたで温まっているような感じだった。い・い・いま、彼女はどこにいる? おれだけのあの絶世の美女は、おれのお人形さんは? 彼女を盗んだ手に、か・か・鉤が刺さればいい! その手を石で砕いてやってくれよ、マスター。彼女のために作ってやったあのレモンの木の箱から、彼女はどこにいってしまったのだろう? 彼女は一睡もしなかった。なぜなら一晩じゅうおれと寝ていたから。箱の中でじゃないよ。レモンの木の箱は、一日じゅう彼女が待っている時に使うんだ。一回おきの当直でね、マスター、おれが彼女をその中に横たえてやると、にこにこ笑うんだ。取り出してやる時に笑うように、笑うんだよ。彼女の手の何と柔らかかったことか。あの小さい手は。鳩みたいだった。おれが選んで一緒に寝ることにならなかったら、鳩たちと一緒にキャビンのまわりを飛び回ったかもしれない。お・お・おまえの|巻き揚げ機《ウィンドラス》に奴らの腸《はらわた》を巻きつけろ。奴らの目を奴らの口に詰めこんでやれ。奴らを去勢しろ。しも[#「しも」に傍点]を綺麗に剃ってやれ。情婦に奴だとわからなくなるようにな。妾が奴らを非難するようにな。奴らを放り出して、ば・ば・ば・売春婦の厚かましい口の、騒々しい笑いに曝してやれ。あれらの罪人を、あんたの好きなようにしてくれ。奴らは罪のない者にどんな慈悲を垂れた? 奴らはいつ震え、いつ泣いた? どんな種類の人間なら、奴らと同じことができる? 泥棒、偽りの友達、裏切り者、悪い船員仲間、船員仲間じゃない、殺人者だ、誘拐者だ。あんたがいなかったら、奴らは悪夢にうなされるか? 大昔から約束されている損害賠償ができるか? 奴らの鎖は、足かせは、手かせは、首かせは、どこにある? 奴らの目をつぶすアバシネーション([#ここから割り注]熱した金属の鉢を目に当てて、盲目にする刑罰[#ここで割り注終わり])は、どこでやる? 奴らの骨を砕くデフェネストレーション([#ここから割り注]窓から投げ落とす死刑[#ここで割り注終わり])はどこでやる? 奴らの関節をばらばらにするエストラパード([#ここから割り注]体の一部――主に手首か足首――に長い綱を結んで、高いところから落として吊す拷問[#ここで割り注終わり])はどこでやる? 彼女はどこにいる、おれのいなくなった恋人は?」
ドルカスは雛菊の花を見つけて、髪にさしていた。だが、城壁の外側を散歩している間に(わたしは組合のマントにくるまっていたから、二、三歩以上離れた人には、彼女が一人で散歩しているように見えたにちがいない)、それは花弁を閉じて眠ってしまったので、彼女は代わりに、月の緑色の光に当たると緑色に見えるムーンフラワーと呼ばれるラッパ形の花をさした。これから二人だけで孤立して生きていくことになるだろう、ということ以外には、どちらもあまり話題はなかった。きつく握りあっているわれわれの手が、それを物語っていた。
食料品供給業者が行き来していた。なぜなら、兵士たちが出発の準備をしているからである。北東の方角では、〈壁〉がぐるりとわれわれを取り巻いており、それと較べると、兵舎や管理棟を取り囲んでいる壁は、まるで子供の砂遊びの産物みたいで、ちょっとした事故でたちまち崩れてしまう砂の壁のように見えた。南西には〈血染めが原〉が広がっていた。そちらからはトランペットの音が聞こえ、相手を探している新たな決闘者の叫び声が聞こえた。われわれはどちらも、相手が、あそこに歩いていって決闘を見ようと言いだすのではないかと、ちょっと心配した。だが、どちらも言いださなかった。
夜間外出禁止令の最後の警告が〈壁〉の上から聞こえてくると、後戻りして、借りてきた灯火を持って、窓も火の気もない自分たちの部屋に戻った。扉にはかんぬきがなかったので、食卓を押しつけ、その上に燭台を置いた。わたしはドルカスに、出ていきたければ今のうちに出ていくがよい、これがすんだ後は、永久に拷問者の女と呼ばれることになるぞ、といった。血のついた金のために断頭台の下で身を任せる女だといわれるのだぞ、と。
彼女はいった。「そのお金が、わたしに着物と食べ物を買ってくれたのよ」今、彼女は茶色のマント(それは、かかとのところまで垂れ下がっていて――彼女がうっかりしていると、その縁はさらに下がって泥に届いた)を脱いで、新しいシマーの黄褐色の布のしわを伸ばした。
わたしは、恐いかと彼女に尋ねた。
「ええ」彼女はいった。それから、あわてて、「といっても、あなたのことじゃないのよ」
「では、何が恐い?」わたしは衣服を脱ぎはじめていた。もし彼女が頼んだら、わたしは一晩じゅう、彼女に手を触れることを控えただろう。そして、わたしは彼女にそう頼んでほしかった――実際、そのように懇願してほしかった。そうすれば、禁欲から得られる喜びは、少なくとも、欲望を遂げたために得られるであろう(と自分で思っている)喜びと同じくらい大きいものになっただろう。なぜなら、今夜手をつけなければ、明日の晩に彼女はよけいに恩義を感じるとわかっているから、その分だけ喜びが増すのである。
「自分自身が恐いの。男の人とまた[#「また」に傍点]寝たら、どんな記憶が戻ってくるかと思うと、恐いのよ」
「また[#「また」に傍点]? 前にそういうことがあったという覚えがあるのか?」
ドルカスは首を振った。「でも、処女でないことは確かよ。昨日も今日も、何度もあなたが欲しくなったわ。体を洗ったのはだれのためだと思ったの? 昨夜はあなたが眠っている間、あなたの手を握っていたのよ。そして、満ち足りて抱きあって寝た夢を見たわ。でも、わたし、欲望だけでなく、満ち足りることも知っているのよ――だから、少なくとも一人は男を知っていることになるわ。蝋燭を吹き消す前に、これを脱いでもらいたい?」
彼女は細身で、乳房が高く、腰が細く、妙に子供っぼく見えたが、それでも成熟した女だった。
「きみはずいぶん小さく見えるな」わたしは言い、彼女を抱き寄せた。
「そして、あなたはずいぶん大きいのね」
この時、どんなにそうしないように努力しても、この夜も、それから後も、彼女に痛い思いをさせることになるだろうと知った。また、自分は彼女に手を触れずにいることはできないと知った。一瞬前だったら、彼女が頼めば、わたしは我慢しただろう。しかし、もう駄目だ。たとえ猪突猛進して犬釘に体当たりするようなことになるとしても、これから彼女のいうままに、彼女と合体しようと思った。
しかし、刺し貫かれるのはわたしではなく彼女の肉体だった。わたしは立ったまま彼女の体に手を回し、乳房にキスした。それらは二つに切った丸い果実のようだった。今、わたしは彼女を持ち上げ、一緒にベッドに倒れこんだ。彼女はなかば喜びのために、なかば苦痛のために、大声を出した。そして、いったんわたしを押し退けるようにしてから、しがみついた。「嬉しいわ」彼女はいった。「すごく嬉しいわ」そして、わたしの肩を噛んだ。彼女の体は弓のように反り返った。
その後、われわれは並んで寝ることができるように、二つのベッドを押しつけた。二回目はすべてがもっとゆるやかだった。そして三回目は、彼女は同意しなかった。「あなたは明日、力が必要なんでしょ」彼女はいった。
「じゃ、いやではないんだな」
「もし、わたしたち女の思うとおりにできたら、男はみんな放浪したり、血を流したりする必要はなくなるでしょうに。でも、女が世の中を作っているわけじゃないのね。あなたがた男はみんな、なんらかの意味で、拷問者なのよ」
その夜雨が降った。大変な豪雨で、雨水が屋根のタイルを打ち、洗い、ざあざあと際限もなく流れ落ちる音が聞こえた。わたしはうとうとと眠り、世界が逆さまにひっくり返った夢を見た。今はギョルが頭上にあり、魚や泥や花を含む濁流をわれわれの上に注いだ。昔、溺れそうになった時に水底で見たあの大きな顔が、また見えた――空で、珊瑚色と白色の不吉な顔が、針のように尖った歯を見せて、笑った。
スラックスは窓のない部屋の町≠ニ呼ばれる。この窓のない部屋はスラックスの予行演習なのだ、とわたしは思った。スラックスはこのような場所なのだろう。それとも、ことによったらドルカスとわたしはすでにそこにいるのではないだろうか。その町はわたしが思っていたほど遙か北方に、信じこまされていたほど遙か北方にあるのではなく……
ドルカスが起き上がって、外に出ようとした。こんなに大勢の兵隊がいる場所で、夜間に彼女が独り歩きするのは危険だとわかっていたので、わたしも一緒に出た。部屋の外の廊下は外壁に沿って続いており、外壁に空いている銃眼の一つ一つから、水が細かい飛沫になって中にほとばしり入っていた。テルミヌス・エストを鞘に納めておきたかったが、このような大きい剣を抜くのは、とっさの間には合わないのである。部屋に戻ると、テープルを扉に押しつけた。そして、砥石を取り出して、剣の男刃の、これから使う切っ先から三分の一までの部分を、空中に投げた糸さえも切れるほどに、研ぎ上げた。それから拭いて、刃全体に油を引き、頭のそばの壁に立てかけた。
明日、千人隊長が最後の瞬間に恩情の処置をとる決心をしなければ、わたしの断頭台への初登場となる。恩赦の可能性は常にある。その危険は常にある。歴史は、各時代に自分で意識しないなんらかの神経症があることを示している。パリーモン師はかつて、わたしに教えてくれた。恩情はわれわれ人間のものであり、一引く一は零より多いということを表現する一つの方法であり、人間の法律は必ずしも自己整合性の必要はないから、正義もそうである必要はない、ということを言う一つの方法なのだと。あの茶色の本に、二人の神秘家の対話がのっていた。そこでは一人がこう論じている。文化は論理的かつ正当な自存神《インクリエート》の想像力の所産であって、彼の約束と脅しを成就するために内的整合性によって縛られていると。もし、これが正しいとすると、今やわれわれは必ず滅びるだろうし、あれほど大勢の者が抵抗するために死んでいる北からの侵略は、すでに腐っている木を倒す風にすぎないと、わたしは思う。
正義は高尚なものである。そして、あの夜、雨の音を聞きながらドルカスの側に横たわっていた時、わたしは若かった。だから、高尚なことだけを欲したのであった。だからこそ、われわれの組合がかつて保っていた地位と尊敬を回復することを、わたしは熱望したのだと思う(そして、わたしはいまだにそれを欲しており、組合から追放された当時でさえも欲していたのであった)。たぶん、これと同じ理由で、子供の頃あんなに強く感じていた生き物に対する愛情が、〈熊の塔〉の外で血を流していた哀れなトリスキールを見つけた時には、わずかに一つの記憶にまで衰えてしまっていたのだろう。結局、命は高尚なものではなく、いろいろな点で清純とは逆のものなのだ。わたしはたいして年を取ったわけではないが、今は賢くなっている。そして、高尚なものだけでなく、高いものも低いものも、すべてを持つほうが良いと知っている。
それで、もし千人隊長が慈悲を垂れる決心をしなければ、わたしは明日アギルスの命を取ることになる。それにどんな意味があるか、だれもいえない。肉体は細胞《セル》のコロニーである(パリーモン師がそういうと、わたしはいつも組合の地下の牢獄《セル》を思い浮かべたものだ)。それは、二つの主要な部分に切り離されると滅びる。だが、細胞のコロニーの破壊を悲しむ理由はない。そのようなコロニーは、パンの塊りがオーブンに入れられるたびに死ぬ。もし人間がこのようなコロニーにすぎないとすれば、人間は無である。だが、人間はそれ以上のものだとわれわれは本能的に知っている。では、それ以上だというその部分に何が起こるのだろうか?
もしかしたら、それはやはり滅びるのだけれど、もっとゆっくりと滅びるということかもしれない。幽霊の出る家とかトンネルとか橋とかがたくさんある。だが、その霊が人間のものであって、四元素の精霊のものでない場合には、幽霊の出現は次第に減っていって、しまいに消滅してしまうと聞いている。歴史編纂者は、人間は太古にはウールスというこの一つの世界しか知らず、また、当時そこにいた獣を少しも恐れず、またこの大陸から北に自由に旅行していたと言うが、このような人々の幽霊を、いまだかつて見た人はいない。
ひょっとしたら、それはただちに滅びるか――または、星座の間をさまようのかもしれない。きっと、このウールスは、広大な宇宙では、一つの村とさえいえないものなのだろう。そして、もしある人がある村に住んでいて、隣人が彼の家を燃やしたら、その人はたとえそれで死なないとしても、その場所を去る。とすると、彼がどのようにしてやってきたか、われわれは問わねばならない。
非常に多くの処刑を行なってきたグルロウズ師は、よくこういっていた。血で足を滑らせるとか、客人が鬘《かつら》を着けているのを気づかずに髪をつかんで首を持ち上げようとするとか、そういう失敗を儀式の際にするのではないかと心配するのは馬鹿者だけだと。より大きい危険は、度を失って腕が震え、不器用な打撃を与えたり、正義の行為をただの復讐に変えてしまうような懲罰的な感じを与えたりすることだという。わたしはふたたび眠る前に、この両方に対して心を固める努力をした。
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31 拷問者の影
客人が連れてこられる前に、マントを脱ぎ、仮面をつけ、抜身の剣を持って、断頭台の上に長い間立っているのがわれわれの職務の一部である。これは正義が眠ることなく遍在していることを象徴するためだという人もあるが、わたしは、この真の理由は群衆に焦点を与え、これから何かが起こるという感じを与えるためだと信じている。
群衆は、それを構成している個人の合計ではない。むしろ、それは群衆が集まった時に生まれ、解散した時に死ぬ、一種の野獣であって、言葉も真の意識を持たないものである。裁判所の前には、騎馬隊《デイマルキ》が出動し、槍を持って断頭台を取り囲んだ。また、その士官が携帯しているピストルは、だれかがそれをひったくって、その士官を道路のくり石に叩きつけて殺そうと思ったら、その前に五、六十人の死人が出るだろうと思われるほどの恐ろしい武器だった。それでも、焦点を与え、権力のあからさまな象徴を示すほうが良いのである。
処刑を見にきた群衆は、決して全部が全部、いやその大部分が、貧乏人だというわけではなかった。〈血染めが原〉は市の高級地区の一つの近くにあり、たくさんの赤や黄色の絹の衣服と、その朝、香水入りの石鹸で洗ってきた顔が見えた(ドルカスとわたしは中庭の井戸で、水をひっかけてきただけだ)。このような人々は貧乏人よりも狂暴化するのはずっと遅いが、いったん立ち上がると、はるかに狂暴になる。なぜなら、彼らは権力に威圧されるのに慣れていないし、民衆煽動家たちの宣伝にもかかわらず、非常に大きな勇気を持ちあわせているからである。
こうしてわたしは、手をテルミヌス・エストの十字形の鍔《キヨン》の上に置き、いろいろと向きを変えて、首置きブロックの上に自分の影がさすようにその位置を修正した。千人隊長《キリアルク》の姿は見えなかったが、後で、彼が窓から眺めていたと知った。群衆の中にアギアを探したが見つからなかった。ドルカスは裁判所の階段の上にいた。そこは、わたしの要請によって町役人が彼女のために取った席であった。
前の日にわたしを待ち伏せしていたあの太った男は、そのかさばったコートに衛兵の槍の火が燃え移りはしないかと思われるほど、断頭台のそばまできていた。その右側にあの飢えたような目つきの女がいて、左側には白髪の女がいた。わたしは彼女のハンカチをブーツの口につっこんでいた。アシミをくれた背の低い男と、どもりながらひどく奇妙な事を口走っていたあの鈍い目の男の姿はどこにも見えなかった。背が低い人でもよく見える屋根の上を、わたしは目で探した。彼らの姿は見えなかったが、たぶんそこにいるのだろう。
高い礼装ヘルメットをかぶった四人の下士官がアギルスを引き立ててきた。群衆が彼らのために、ヒルデグリンの舟の後ろの水のように左右に分かれるのが見えたので、その姿がまったく見えないうちから、彼らがくるのがわかった。まず、真赤な羽根飾りが見え、それから鎧のきらめきが見え、それからアギルスの茶色の髪と、上向きに傾いた、幅の広い子供っぽい顔が見えた。顔が上を向いているように見えるのは、腕を鎖で縛られているために肩甲骨の間が狭まってそうなるのである。思い出せば、彼が胸に黄金のキメラが跳ねている防衛軍将校の鎧を着ていた時には、なんと優雅に見えたことか。その彼が今は、ある意味で彼のものであった部隊の兵士に護衛されずに、丁寧に磨いた鋼鉄を身に纏った傷だらけの正規兵に護送されてくるのは、悲劇的でさえあった。今、彼は美しい服装のすべてを剥ぎ取られ、わたしは彼と闘った時に着けていた煤色の仮面を着けて、彼を受け取るのを待っている。愚かな老女たちは、裁きの神は、われわれを敗北によって罰し、勝利によって報いると信じているが、わたしは欲した以上に報いられたと感じた。
しばらくして彼は断頭台に登った、それから短い儀式が始まった。それがすむと、兵士が彼をひざまずかせ、わたしは剣を振り上げ、太陽を永久に覆い隠した。
剣がしっかりと研いであり、打撃が正確に行なわれれば、脊椎が切断されるごくかすかな抵抗を感じるだけで、次の瞬間に刃が台にがっちりと食いこむのが感じられる。誓っていうが、彼の首がどさりと籠に落ちる前に、わたしは雨に洗われた空気の中にアギルスの血の臭いを嗅いだ。群衆は後ずさりし、それから横にした槍に向かって押し寄せる。あの太った男の叫びがはっきりと聞こえた。それは買った女の上で汗をかいてクライマックスに達する時に、彼が発する声そのものだと思われた。ずっと遠くで悲鳴が聞こえた。稲妻に照らされた顔がくっきりと見えるように、アギアの声だとはっきりわかった。彼女は、まったく見ていなかったにもかかわらず、自分の分身が死んだ時を知ったのだと、その音色に含まれている何かが物語っていた。
行為そのものよりも、その後始末のほうがしばしば厄介である。首は群衆に示されるとすぐに、籠に投げこんでもよいことになっている。しかし首のない胴体は(心臓の鼓動が止まった後、長い間、多量の血液を流しつづけることがある)、威厳はあるが不名誉な方法で運び去らねばならない。さらに、それはただ運び去る[#「去る」に傍点]だけではいけない。弄《いじ》られることのない特別の場所に運んでいかなければならない。高貴人の場合には、習慣上、その人自身の軍馬の鞍に横たえてよいことになっており、また、遺骸はただちに遺族に下げ渡される。しかし、もっと地位の低い者には、食屍者たちの手の届かない安置所を与えてやらねばならない。そして、少なくとも人目につかない所まで、引っばっていってやらねばならない。この仕事を処刑人が行なうことはできない。なぜなら、彼はすでに首と剣という重荷を持っているからである。そして、関係者のだれか――兵士や法廷の役人など――が、それを進んですることはめったにない。〈城塞〉では、これは二人の職人によって行なわれたから、なんの困難もなかった。
千人隊長は、騎兵の訓練を受けていたし、また疑いなくそういう性癖もあって、死体を役畜で曳いていくように命令して、この問題にけりをつけた。だが、その動物はそんな相談[#「相談」に傍点]を受けていなかったし、どちらかというと戦士というよりはむしろ労働者の性格を持っていたので、血を見ておびえ、逸走しようとした。それでなかなか面白いことがあったが、結局、哀れなアギルスを、大衆を締め出した区画に入れることができた。
わたしがブーツを清掃していると、そこに町役人がやってきた。その姿を見た時、わたしは彼が謝礼をくれるためにやってきたのかと思った。しかし彼は、千人隊長がみずから謝礼を渡したいといっていると伝えた。それは、わたしが彼にもいったように、予想外の名誉なことであった。
「あの人は一部始終を見ていた」町役人はいった。「そして、とても気に入って、よかったら、今夜、その伴侶の女性と一緒に泊まりにくれば歓迎すると、伝えるようにいわれた」
「われわれは夕暮れに出発する」わたしは彼にいった。「そのほうが安全だと思うのでね」
彼はしばらく考えて、予想以上の知性を見せてうなずいた。「あの悪党にもおそらく家族や友人がいるだろう――そのことはおまえもわたしも関知しないことだが。とにかく、おまえたちはしばしば困難に直面するにちがいない」
「組合の、より経験のあるメンバーから戒められているのでね」わたしはいった。
わたしは夕暮れに出発するといったが、結局、真暗になるまで待った。その理由は、一つには安全のためであり、一つには出発の前に夕食を取ったほうが賢明だと思われたからである。
もちろんわれわれはすぐさま〈壁〉にいき、それからスラックスに向かうことはできなかった。門(とにかくその位置をわたしは漠然と知っているだけだった)は閉まっているだろうし、また、兵舎と〈壁〉との間には旅館はないと、皆から聞かされていたからである。だから、われわれのすべきことは、まず自分らの姿をくらまし、それから、宿泊することができて翌朝には困難なく門にいくことのできる場所を見つけることであった。わたしは町役人から詳細に道を聞いていたので、途中で迷いはしたものの、すぐ迷ったことに気づき、それから元気に歩きはじめることができた。千人隊長は、わたしの足もとの地面に報酬を投げ出す代わりに、手渡そうとしたので、彼の名誉のためにそれはやめてくださいと頼まなければならなかった。この出来事を、わたしはドルカスに詳しく話した。それは自分がお世辞を言われるのと同じくらい気分のよいものだった。わたしが話しおえると、彼女は事務的に尋ねた。「じゃ、彼はたっぷり支払ったのね?」
「一人の職人の仕事の、正当な報酬の倍以上だ。これは師匠の料金だ。それから、もちろん、儀式に関して多少のチップをもらった。あのねえ、アギアと一緒にいた時に金を全部使ってしまったが、今は塔を出た時よりも金持ちになったんだよ。組合の専門技術を売り物にしながら、きみと旅をしていけば、生活ができるような気分になってきたぞ」
ドルカスは茶色のマントの胸をかき合わせるように見えた。「あなたが二度とその技術を使わなければよいと、わたしは望んでいるのに。少なくとも、相当の期間はね。あの後、あなたはひどく気難しくなったけれど、それも無理ないわ」
「神経質になっただけさ――なにか故障が起こるんじゃないかと、心配していたんだ」
「あなた、彼を憐れんでいたわね。わたしにはわかったわ」
「たぶん、そうだろう。彼はアギアの兄だった。そして、セックス以外はすべて彼女と同じだったと思う」
「アギアがいなくて淋しいんでしょう? そんなに彼女が好きだったの?」
「知って一日しかたっていなかったんだぞ――すでにきみと知り合っている時間と較べれば、ずっと短いんだ。彼女の思うとおりになっていたら、今頃は死んでいただろう。あの二本のアヴァーンのうちの一本が、ぼくに止《とど》めを刺していたろうよ」
「でも、あの葉はあなたを殺さなかったわね」
彼女がこういった時の口調を、わたしは今も思い出す。実際に今、目を閉じると、彼女の声がまた聞こえてくるし、また、あの時に自分が起き上がって、アギルスがまだ植物を掴んでいるのを見て以来、それを考えるのを避けてきたことに気づいてひどいショックを受けたことを、改めて思い起こすことができる。あの葉はわたしを殺さなかった。だがわたしは、ちょうど死の病にとりつかれた人が、数限りないトリックを使って、決して死をまともに見つめようとしないのと同様に、あの時に生き延びたことから自分の心を背けていたのだった。いやむしろ、広い家に一人住まいをしている婦人が、時々階段で聞こえる足音の主を見ないように、鏡を見るのを避け、些細な仕事に専念するのと同様に、といったほうがよいかもしれない。
わたしは生き延びた。死ぬはずだったのに。わたしは自分の命という幽霊にとりつかれた。わたしはマントの中に手をつっこんで、体を撫でた。最初はいやいやながら。そこには傷のようなものがあり、皮膚にまだ小さいかさぶたがついていた。しかし、出血してもいず痛みもなかった。
「あれでは死なないんだ」わたしはいった。「それだけさ」
「死ぬと、彼女がいったわ」
「彼女はいくらでも嘘をついたぞ」われわれは薄緑色の月光を浴びて、なだらかな丘に登っていった。前方には、ちょうど山脈が実際よりも信じられないほど近くに見えるように、〈壁〉の漆黒の線があった。後ろには、ネッソスの町の明かりが偽りの夜明けを作り出していたが、それは夜が進むにつれて少しずつ消えていった。わたしは丘の頂上に止まって、それを感心して眺めた。ドルカスがわたしの腕をつかんだ。「ずいぶんたくさんの家があるのね。市内に人は何人ぐらいいるのかしら?」
「だれも知らないさ」
「わたしたち、あのすべてを、後にするのね。スラックスまでは遠いの、セヴェリアン?」
「うんと遠い、前にもいったように。最初の大滝の麓だ。一緒にいってくれと、きみに無理に頼むわけにはいかない。わかってるね」
「いきたいの。でも、もし……セヴェリアン、もし後になってわたしが帰りたがったら、あなたは引き止める?」
わたしはいった。「きみが一人で旅をするのは危険だ。だから、やめるように、ぼくは説得するだろう。しかし、きみを縛ったり、幽閉したりするつもりはない。もし、きみがそのことをいっているなら」
「あの旅籠でだれかがわたし宛に書いた手紙の写しを取ったと、あなたはいったわね。覚えている? でも、それを決して見せてくれないのね。今、見たいわ」
「内容は正確に話したよ。しかも、それは本物じゃない。本物は、ほら、アギアが投げ捨ててしまったから。きっと、彼女はだれか――たぶん、ヒルデグリン――が、ぼくに警告を与えようとしたと思ったんだろうな」わたしはすでに図嚢を開けていた。手紙の写しを掴むと、指が何か別のものにも触れた。何か冷たくて、奇妙な形をしたものに。
ドルカスがわたしの表情を見ていった。「どうしたの?」
わたしはそれを引き出した。それはオリカルク貨幣よりも大きかった。といっても、それほど大きいわけではなく、ごくわずかに厚みがまさっているという程度だった。その冷たい物質(それが何であるにせよ)は、寒々とした月光に対して、デリケートな空色の光線を反射した。わたしは町じゅうから見える峰火《のろし》を手にしているように感じて、それをもとの仕切りに突っ込み、図嚢の蓋を下ろした。
ドルカスがあまり強くわたしの腕にしがみついていたので、まるで、成人女性の体と同じ大きさの、象牙と黄金の腕輪をはめたような気持ちがした。「それ何なの?」彼女はささやいた。
わたしは考えを整理するために首を振った。「ぼくのものじゃない。こんなものを持っていることさえ知らなかった。宝石か、貴石か……」
「そんなものであるはずないわ。温かみを感じなかった? あなたの剣を見てごらんなさいそれが宝石よ。それにしても、あなたが今取り出したのは、なんだったのかしら?」
わたしはテルミヌス・エストの柄の黒オパールを見た。それは月光を浴びて、ぼーっと光っていたが、婦人のガラス玉が太陽に似ていないのと同様に、図嚢から出てぎた物体とは似ても似つかなかった。「〈調停者の鉤爪《つめ》〉だ」わたしはいった。「アギアがここに入れたんだ。あの祭壇を壊した時に、入れたにちがいない。身体検査されても、自分の体から見つからないようにね。彼女とアギルスは、アギルスが勝利者の権利を主張する時に、取り戻すつもりだったんだろう。しかし、ぼくが死ななかったので、彼女はアギルスの独房で、ぼくから盗もうとしたんだ」
ドルカスはもはやわたしを見つめてはいなかった。彼女は顔を上げて町の方に向け、無数の灯火の朝焼け[#「朝焼け」に傍点]を見つめていた。「セヴェリアン」彼女はいった。「それはあり得るわね」
その都市の上空に、夢に出てくる空飛ぶ山のように、一つの巨大な建物が懸かっていた――いくつもの塔と|控え壁《バットレス》と、そして一つのアーチ形の屋根のある巨大な建物が。その窓から深紅の光が射していた。わが目で見ているにもかかわらず、わたしはその奇蹟を否定しようとして、口を開きかけた。ところが、一語も発しないうちに、その建造物は泉の泡のように消え失せ、後には火花の大滝しか残らなかった。
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32 芝 居
わたしがドルカスを愛するようになったと自覚したのは、あの巨大な建物が都市の上空に懸かり、それから消滅した後になってからだった。われわれは道路を下って――丘の頂上を越えると新しい道が見つかったのだ――暗闇の中に入っていった。そして、われわれの心は完全に今見たもののことで満たされていたので、二人の魂はそれぞれ、まるで、以前に決して開いたことがなく、また今後も二度と開くことのない扉を通過したかのように、あの数秒の幻を通過して、何物にも妨げられずに抱擁しあったのであった。
どこを歩いているのかわからなかった。覚えているのは、山腹を曲がりくねって下っていく道と、一番下のアーチ形の橋と、一リーグばかりの間、不細工な木の柵が続いているもう一本の道である。行先がどこであるにせよ、われわれは自分たちのことはまったく話さずに、今見たもののことと、それにどんな意味があるかということばかり話したことを覚えている。また、こうして歩きだした最初の頃は、ドルカスについて、どんなに好ましい人物であるにせよ、どんなに哀れな存在であるにせよ、偶然に出会った道連れとしか思っていなかったことを覚えている。しかし、終わり頃には、他人を今までに一度も愛したことがないと思われるほどに、ドルカスを愛するようになったのであった。セクラへの愛情が減ったために彼女を愛したのではなかった――というよりはむしろ、ドルカスを愛することによって、よけいにセクラを愛したのである。なぜなら、ドルカスはわたしのもう一つの分身であって(セクラは、ある意味で、これから恐ろしい存在になり、もう片方のドルカスはその分だけ美しくなるのだが)、もし、わたしがセクラを愛すれば、ドルカスもまた彼女を愛したからである。
「ねえ」彼女は尋ねた。「わたしたち以外に、だれかあれを見たと思う?」
そのことは考えていなかったけれども、わたしはこう答えた。あの建物が空中に懸かっていたのは、ほんの一瞬しか持続しなかったけれども、あれが起こったのは数ある都市のなかでも最大の都市の上空であったから、たとえ見逃した人が何百万、いや何千万いたとしても、それでも何百人かは見たにちがいない、と。
「あれはただの幻で、わたしたちだけに見えた、という可能性はないかしら?」
「ぼくはこれまでに幻を見たことはないよ、ドルカス」
「わたしは見たか見ないか、わからないわ。あなたを水中から助け上げる以前のことを思い出そうとしても、自分が水の中にいたということしか思い出せないから。それ以前のすべては、ばらばらに砕けた幻のようで、小さな明るい破片とか、昔ビロードの上にのっているのを見た指貫《ゆびぬき》とか、ドアの外で吠えていた小犬の声、というようなものばかりで、こういうものはなかったわ。わたしたちが見たようなものはなかったわ」
彼女の言葉を聞いて、わたしはあの手紙を思い出した。それを手探りしていた時に、指が〈鉤爪〉に触ったのだった。それで今度は茶色の本のことが頭に浮かんだ。それは図嚢のその隣の仕切りに入っていた。泊まる場所が見つかったら、かつてセクラのものであったその本を見たくないかと、わたしはドルカスに尋ねた。
「ええ」彼女はいった。「あの旅籠でしばらく休んだように、今度、火のそばに腰を降ろしたらね」
「この聖宝を見つけたことと――もちろん、これは町を出る前に返さなければならないだろうが――そして、今まで話していたことがきっかけになって、昔あの本で読んだある事を思い出したよ。きみは宇宙への鍵を知っているかい?」
ドルカスはかすかに笑った。「いいえ、セヴェリアン、自分の名前さえ知っているかどうかあやしいわたしが、宇宙への鍵なんて知るものですか」
「ぼくと同程度に知っているか、と聞いたんじゃない。つまり、宇宙には秘密の鍵があるという考え方に、きみは親しんでいるかということだ。それは一つの文章、あるいは一つの句、あるいはただ一つの単語だという人もいる。そういう言葉が、ある種の彫像の唇から絞り出されるとか、または、天空に出現するとか、あるいは、海の彼方のある世界の隠者が弟子に教える、とかいうんだけれど」
「赤子も知っている」ドルカスはいった。「赤子は喋ることを覚えないうちからそれを知っている。ところが、話ができる年齢になった頃には、その大部分を忘れてしまっている。少なくとも、だれかが前にそう教えてくれたわ」
「それだ、そのようなことだ。あの茶色の本は過去の神話集で、宇宙の鍵のすべてを羅列した章がある――人々が遙か彼方の世界の秘儀伝授者と話をした後とか、魔法使いの木簡を研究した後とか、あるいは、神木の幹の洞にこもって断食した後に、これが秘密≠セといったすべての事をね。セクラとぼくはそれらをよく読み、話しあったものだった。その中に、こういう事があった。何が起ころうとも、あらゆるものは三つの意味を持つ、というのだ。第一は、実用的な意味で、その本が農夫が見るもの≠ニ呼ぶもの。牛が草を口いっぱい食んだ。これは現実の草であり、現実の牛である。この意味は、この二つのうちどちらもそうであるように、等しく重要であり、真実である。第二は、その周囲の世界の反射である。すべての物体は他のすべてのものと接触している。だから、賢者は第一のものを観察することによって他者について知ることができる。これは占い師の意味と呼んでもよい。なぜなら、これは、そういう人々が蛇の這った跡から幸運な出会いを予言したり、ある組のトランプの王様を他の組の女王の上に乗せることによって、恋愛事件の結果を確認したりする時に、利用する意味であるから」
「それで、第三の意味は?」ドルカスは尋ねた。
「第三は、変質した意味だ。すべての物体の究極の根源は万物主にある。そして、すべては彼によって始動された。だから、すべては彼の意志を表現しているはずである――これがより高度の現実だ」
「つまり、わたしたちが見たものは一つの徴《しるし》だといっているのね」
わたしは首を振った。「その本は、あらゆるものが徴だといっている。あの柵の柱は一つの徴だ。そして、それにあの木が交差している様子も、やはりそうだ。第三の意味をよりはっきりと示す徴もあるし、それほどはっきり示さない徴もある」
約百|歩《ペース》ほどの間、われわれは黙っていた。それからドルカスがいった。「もし、セクラの方の本に書いてあることが正しいとすると、人々はすべてを後向きに持っていることになるような気がするわ。わたしたちは、巨大な建造物が空中に飛び上がって、それから落ちてなくなるのを、見たわね?」
「ぼくはあれが空中に懸かっているのを見ただけだ。あれは飛び上がったのかい?」
ドルカスはうなずいた。彼女の白っぽい頭髪が月光にきらめくのが見えた。「あなたが第三の意味といったものは、とても明瞭だと思うの。でも、第二の意味は見出しがたく、最も易しいはずの第一の意味は、ありえない、ということになるわ」
わたしが、彼女のいうことは理解できる――少なくとも、第一の意味については――と言おうとした時、どこか遠くの方で、雷が長々と鳴るような音が聞こえた。ドルカスが叫んだ。「あれは何?」そして、わたしの手を小さい温かい手で握った。とても良い気持ちがした。
「わからない。しかし、ずっと向こうの低林から聞こえたような気がする」
彼女はうなずいた。「今度は人声が聞こえるわ」
「じゃ、ぼくよりきみのほうが耳がいいんだ」
また、ごろごろいう音が聞こえた。もっと大きく、もっと長々と。そして、今度は、たぶんわれわれがいくらか接近したからだろうが、前方の若いぶなの林の幹の間に、光がきらめくのを見たように思った。
「あそこ!」ドルカスがいって、林よりもいくぶん北によった方向を指さした。「あれは星であるはずはないわ。低すぎるし、明るすぎるし、早く動きすぎるもの」
「ランタンだと思う。たぶん荷車につけたものか、人が持って歩いているんだろう」
ごろごろいう音がまた聞こえてきた。今度はその正体がわかった。太鼓の乱打だった。今はわたしにも人声がごくかすかに聞こえた。そして、特に、太鼓よりも低い音で、ほとんどそれと同じくらいの大きさに聞こえる一つの声が、耳についた。
低林の端を回っていくと、小さなプラットフォームのまわりに五十人くらいの人々が集まっているのが見えた。そのプラットフォームの上には、あかあかと燃える松明の間に、一人の巨人がティンパニをタムタムのように腕で抱えて立っていた。その右側には、もっとずっと小さい男が豪華な衣裳を着て立っており、左側には、ほとんど全裸の、今までに見たこともないような官能的な美女が立っていた。
「役者がそろった」その小さな男が大声で早口にいっていた。「役者がそろった。諸君は何が欲しい? 愛と美か?」彼は女を指さした。「力か? 勇気か?」彼は持っていた杖を巨人にむけて振った。「偽りか? 謎か?」彼は自分の胸を叩いた。「悪徳か?」彼はまた巨人をさした。
「そして、あれを見よ――今やってきた者を! われわれの仇敵〈死〉だ。遅かれ早かれ、必ずやってくる奴だ」彼はこういってわたしを指さした。そして、観衆の顔がみんなこちらを見た。
それはタロス博士とバルダンダーズだった。彼らだとわかるやいなや、彼らの出現は避けられない事実のように思えた。わたしの知っているかぎりでは、その女は見たことがなかった。
「〈死〉だ!」タロス博士がいった。「〈死〉がやってきた。この二日間、おまえさんがくるんじゃないかといやな予感がしていたんだ、昔なじみだからな。油断していたのがいけなかった」
この暗い冗談に観衆が笑うのではないかと思ったが、笑わなかった。数人がぶつぶつ独言をいい、一人の老婆が自分の掌につばを吐き、二本の指で地面をさした。
「そして、一緒に連れているのはだれだ?」タロス博士は松明の光でドルカスを見ようとして、体を乗り出した。「きっと〈純潔〉だ。そうだ、さあ、これで全員がそろった! あと一、二分で芝居が始まる。卒倒させるようなものじゃない! 諸君が今までに見たことのないようなものだ。まったく見たことのないようなものだ! さあ、これで役者がそろった」
美女はいなくなっていた。博士の声の威力があまりにも強かったので、わたしは彼女がいなくなったのに気づかなかった。
タロス博士の芝居を、わたしの(出演者の一人としての)観点から記述すれば、混乱した結果しか出ないだろう。また観衆の立場から記述すれば(この物語のどこか適当なところで、そうするつもりだが)、たぶんわたしは信用してもらえないだろう。出演者が五人で、そのうち二人はこの初日に自分の役を習っていない、この芝居の中で、軍隊が行進し、オーケストラが演奏し、雪が降り、ウールスが震えた。タロス博士は観衆の想像力から多くのものを引き出した。そして、語りや、単純だが巧妙なからくりや、場面に投げかける影や、ホログラフの投射や、録音した物音や、反射する背景幕や、その他、思いつくことができる限りのありとあらゆる策略を使って、観客の想像力を補った。そして、全体的には、驚くほどの成功を収めた。その証拠に、すすり泣きや、叫び声や、溜息が、時々暗闇からわれわれの方に漂ってきたから。
このすべてに成功しながら、それでも彼は失敗した。なぜなら、彼の願いは理解してもらうこと、つまり、彼の心の中にだけ存在していて、普通の言葉で表現することのできない偉大な物語をすることであったのに、この公演に立ち会った人はだれ一人として――彼の指示に従ってステージを横切ったり、台詞をいったりしたわれわれはなおさらのこと――どんな物語であったか明瞭に理解して去った人はなかったと、わたしは思うのである。それは(タロス博士のいうところでは)鐘が鳴り、雷鳴の轟く中でのみ、そして時には儀式的構成によってのみ、表現されうるものだった。ところが、最後にわかったように、そういうものによってさえもそれは表現され得なかったのである。ある場面では、タロス博士はバルダンダーズと、両方の顔に血が流れるまで闘った。また、ある場面では、バルダンダーズが地下の宮殿の一室でおびえているジョレンタ(これはあの絶世の美女の名前)を探し、最後には彼女が隠れている長持ちの上に腰を降ろした。最後の幕では、わたしは舞台の主役となり、バルダンダーズ、タロス博士、ジョレンタ、およびドルカスが様々な装置に縛りつけられている審問室を取り仕切った。観衆の見守る前で、わたしはこの四人に代わる代わる最も奇怪な、そして(本物だったら)最も効果的でない拷問を加えた。この場面で、ドルカスの足を、外見上、根元からもぎ取る準備をしていると、観客が妙にざわめきはじめるのがわかった。わたしは知らなかったが、観客の方からはバルダンダーズが縛めから抜け出るのが見えるようになっていたのだった。彼の鎖がステージにじゃらじゃらと落ちると、何人もの女が金切り声をあげた。わたしは指示を仰ぐためにタロス博士のほうを盗み見た。だが彼はすでに、もっとずっと容易に縛めを解いて、観客のほうに飛び出していた。
「活人画です」彼は呼ばわった。「皆さん、この情景を想像してください」わたしは彼が承知でやっていると知って、動きを止めた。「慈悲深い皆さん、諸君はわれわれのささやかな芝居をまことに熱心に見てくださった。ここでわたしは、皆さんの時間だけでなく、懐の中身も少々申し受けたいのです。この芝居の結末がどうなるか、こうしてついに怪物が逃げ出したからには、諸君にも見当がつくでしょう」タロス博士は帽子を観客にむかって差し出していた。そして、何枚かの貨幣がそれに投げ入れられる音が聞こえた。彼はそれでは満足しないで、ステージから飛び降りて、人々の間を回りはじめた。「よいかな、彼がいったん逃げ出したら、彼と、彼の野獣的欲望の達成との間に、介入するものは何もないのですぞ。よいかな、彼の拷問者たるわたしは、今や縛られ、彼の意のままだ。よいかな、まだ諸君は決して知っていない――ありがとう、旦那――伯爵婦人が窓のカーテンごしに見た謎の人物の正体を。ありがとう。今、地下牢の上で、泣いている人物が――ありがとう――まだナナカマドの木の根もとを掘っているのが見える。さあさあ、諸君は時間を気前良く使ってくれた。今度はお金を出し惜しみしないようにしてもらいたい、とお願いしているだけだ。実際、少数の方は気前良くねぎらってくださった。しかし、われわれは少数の人の為に演技するつもりはない。残りの方々から、とっくにこの哀れな帽子に降り注いだはずの、輝くアシミ貨幣はどこにある? 大衆の代わりに、少数の方に払っていただくわけにはいきません! アシミがなければ、オリカルクでもよろしい。それがないとしても、一アエスも持ちあわせがない人は、ここにはいないはずだ!」
やっと充分な金額が集まると、タロス博士はステージに飛び上がって元の場所に戻り、刺にくるまれたように見える拘束具に、ふたたび器用にはまりこんだ。バルダンダーズは、前には見えなかったもう一本の鎖がまだ繋がっていることを観客に見せながら、大音声を上げて、手を延ばしてわたしに掴みかかろうとした。「彼を見ろ」タロス博士はそっとわたしに指示した。「松明で彼を押しやるんだ」
わたしはバルダンダーズの腕が縛めから抜け出ているのに初めて気づいたような振りをして、舞台の隅のソケットから一本の松明を抜き取った。両方の松明の炎が風になびいた。さっきまで深紅色の上に綺麗な黄色がかかっていた炎が、今は青と薄緑に変わり、ばちばち音を立てて火の粉を散らし、しゅうしゅうと恐ろしい音を立てて二倍から三倍の大きさになったが、結局、今にも消えそうに小さくなった。わたしは抜き取った松明を突き出して、叫んだ。「だめだ! だめだ! さがれ! さがれ!」またタロス博士がせりふを教えた。バルダンダーズは今まで以上に狂暴な声をあげてそれに応えた。彼は自分が繋がれている舞台装置の壁がきしり、外れそうになるほど力をこめて鎖を引っばり、文字どおり口から泡を吹きはじめた。濃い白い液体が唇の両端から流れ出して、その巨大な顎を濡らし、その錆色の衣服に雪のように点々と降りかかった。観客のだれかが悲鳴を上げ、鎖は家畜商人の鳴らす鞭のようなピシリという音を立てて切れた。この頃には巨人の顔はもの凄い狂気の形相になっていた。わたしは雪崩の前に立ちふさがる気にならないと同様に、彼の前に立ちふさがる気にはとうていなれなかった。だが、こちらが一歩動いて彼を避ける間もなく、彼はわたしの手から松明をもぎ取り、その鉄の柄でわたしを打ち倒した。
頭を上げると、ちょうど彼がもう一本の松明を置き場からひったくり、二本持って観客の方に突進するのが見えた。男たちの叫びが女たちの悲鳴をかき消した――それはまるで、われわれの組合が百人の客人をいっぺんに拷問に掛けているようであった。わたしが跳び起きて、ドルカスの手を掴み、林に避難しようとした時に、タロス博士が見えた。彼は悪意に満ちた上機嫌、とでもいうしかない表情を浮かべており、拘束具から抜け出そうとしてはいたが、妙にぐずぐずしていた。ジョレンタも抜け出しかけていた。そして、その非の打ちどころのない美しい顔になんらかの表情が浮かんでいるとすれば、それは安堵の表情だった。
「よろしい!」タロス博士は叫んだ。「よくできた。もう戻っていいぞ、バルダンダーズ。われわれを暗闇に残しておいてはいけない」わたしに向かって、「どうだね、初舞台の感想は、拷問者のお師匠さん? ぶっつけ本番の初心者としては、なかなかよくできた」
わたしはやっとうなずいて見せた。
「バルダンダーズがきみを打ち倒したのは別だ。あれは許してやらなければならない。彼はきみが倒れ方を知らないのを見抜いたんだ。さあ、一緒にきたまえ。バルダンダーズにはそれなりの才能があるが、草むらに落ちた小物を見つける良い視力はその中に含まれていない。舞台裏に明かりがあるから、きみも〈純潔〉ちゃんも一緒に拾うのを手伝ってくれ」
なんの事かわからなかったけれども、しばらくすると松明がもとの場所に戻り、われわれは暗いランタンを持って、舞台の前の踏みしだかれた場所を細かく探しはじめていた。「これは一種の賭だ」タロス博士は説明した。「白状すると、我輩はその種のことが大好きなのだ。帽子に入る金は確実なものだ――第一幕の終わりには、いくら入るか一オリカルクまで予言できる。だが、|落としもの《チ  ッ  プ》はね! リンゴ二個とカブラ一個しかないかもしれないし、想像力が抱擁できる限りのものがあるかもしれない。豚の赤ん坊を見つけたこともある。美味だと、バルダンダーズが食べて言っていた。人間の赤ん坊を拾ったこともある。黄金の柄のついた杖を拾ったこともある。それは取ってあるがね。骨董的なブローチ。靴……。靴はあらゆる種類のものがしばしば見つかるんだ。たった今、婦人用のパラソルを見つけた」彼はそれを持ち上げて見せた。「これは、明日、旅に出る時に、わが劇団の美人女優ジョレンタが日差しを遮るのにちょうどよい」
ジョレンタは、猫背にならないように努力している人がやるように、背筋を伸ばした。その上半身のクリーム色の塊りの豊満なことは、その重さと釣り合いを取るために背骨が後ろに反っているにちがいないと思われるほどだった。「もし今夜、旅籠に泊まるなら、今すぐにいきたいわ」彼女はいった。「わたし、とても疲れたのよ、博士」
わたしも疲れきっていた。
「旅籠だと? 金の犯罪的浪費だ。こう考えてごらん、きみ。一番近い宿でも、どんなに近く見積もっても一リーグはある。そして、バルダンダーズとわたしは、たとえこの愛想の良い拷問の天使に手伝ってもらったとしても、舞台装置や他の荷物を梱包するのに一刻はかかる。そのスピードでわれわれが旅籠に着いた頃には、地平線に日が出ているだろう。鶏は時をつくっているだろう。そして、おそらく千人もの馬鹿者が起き上がって、ドアをどんどん叩き、糞尿を投げ捨てていることだろう」
バルダンダーズは捻り声をあげ(肯定したのだと思う)、それから、まるで草の中に見つけた有害な物を踏みつけでもするように、ブーツで地面を踏んだ。
タロス博士は腕をぱっと広げて宇宙を抱き締めた。「しかしここにいれば、きみ、自存神《インクリエート》の大切な財産であるこの星々の下にいれば、われわれは人間が望みうる最も健康的な休息が得られるのだ。今夜は空気が冷えているから、ここで眠る者は夜具の暖かみと焚火の熱に感謝の念を抱くことができる。しかも、雨の兆候は少しもない。われわれはここで野宿をし、ここで朝飯を食べ、早朝の気持ちの良い時間に、元気を新たにして歩きだすのだ」
わたしはいった。「朝飯のことを何かいったが、今、食べ物があるのかね? ドルカスとぼくは腹が減っているんだが」
「もちろん、ある。バルダンダーズが、たった今ヤムイモの籠を拾い上げたぞ」
さっきの観客の中に、市場から売れ残った作物を持って帰る途中の農民が、たくさんいたにちがいない。結局、このヤムイモ以外に、ひと番《つがい》の若鳩と数本の柔らかい砂糖|黍《きび》が手に入った。寝具は充分ではなかったけれども、とにかく少しはあった。そしてタロス博士自身は、起きて焚火を見ているつもりだ、たぶんその後で、さっき独裁者の玉座と審問官のベンチに使った椅子で仮眠する、といって、寝具をまったく使わなかった。
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33 五本の脚
わたしは横になってから、一刻ほどのあいだ眠らずにいた。まもなく、タロス博士は眠らないつもりだとわかった。しかしわたしは、彼がなんらかの理由でそばを離れてくれるだろうという希望にしがみついていた。彼はしばらくの間、沈思黙考しているように見えた。それから立ち上がって、焚火の前をいったりきたり歩きはじめた。彼の顔は、動きはないが表情豊かで――片方の眉をほんのちょっと動かすとか、首をちょっと傾げるとかするだけで、その表情は一変してしまうのだった。そして、わたしのなかば閉じた目の前を行きつ戻りつする狐のような狡猾な彼の顔に、悲しみ、欲望、倦怠、決意、その他二十種類もの名づけようのない感情がチカチカとよぎるのが見えた。
ついに、彼は野生の花に向かって杖を振りはじめた。まもなく、焚火から十数歩以内の花は全部叩き落とされてしまった。わたしは、彼の背筋のぴんと伸びた精力的な姿が見えなくなり、そして、杖を振るひゅっという音がかすかに聞こえるだけになるまで待って、それからゆっくりとあの宝石を引き出した。
まるで、星を、夜に燃えるものを、持っているようだった。ドルカスは眠っていた。二人で一緒に宝石を調べることができればよいと願っていたのだが、彼女を起こすことは控えた。宝石が放つ氷のような青い光が次第に強くなって、しまいにはずっと遠くにいるタロス博士にも見えるのではないかと心配になるほどだった。わたしは、レンズのようにそれを透して焚火を見ようという子供っぽい考えを起こして、宝石を目に当てたが、あわてて離した――草と眠っている人々の見慣れた風景が、偃月刀《えんげつとう》によってめった切りにされた火花の踊りになっていたからである。
わたしが何歳の頃、マルルビウス師が死んだかはっきりしない。それはわたしが徒弟頭になる何年も前のことだった。だから、わたしはほんの子供だったにちがいない。しかし、パリーモン師が病床に伏した彼の後を継いで徒弟たちの師匠になった時のことは、とてもよく覚えている。マルルビウス師は、そういう地位が存在することをわたしが意識して以来ずっと、その地位を占めていた。そして、パリーモン師が(わたしはこの人を彼と同等かまたはそれ以上に好きだった)、マルルビウス師がそうであったというのと同じ意味で、真にわれわれの師匠といえるようになるまでには、何週間も、いや何ヵ月もかかった。マルルビウス師は死んではいない、いや遠くにいってさえもいない……実際は自室に横たわっているだけであり、彼がまだわれわれを教え統制していた頃に毎夜寝ていたのと同じベッドに、今も寝ているということを知っているだけに、秩序の崩壊と非現実の雰囲気が高まった。見えないことは、ないことと同じ、という諺があるが、この場合にはその逆であった見えないマルルビウス師は、今まで以上に生き生きとその存在を感じさせた。パリーモン師は、彼が決して復帰することはないとは断言しなかったので、あらゆる行為は二重の尺度で計られた。パリーモン師だったらこれを許すだろうか?≠ニかマルルビウス師だったら、なんというだろうか?≠ニいうように。
(結局、彼は何もいわなかった。拷問者はどんなに体の具合が悪くても〈癒しの塔〉にはいかない。真実かどうか知らないが、次のように信じられている――そこにいけば、積年の恨みを晴らされる、と)
この物語を、もし娯楽のために、あるいは教育のために書いているなら、目から〈鉤爪〉をぱっと離したその瞬間に、このように脱線して、ずっと昔に塵に帰ってしまったにちがいないマルルビウス師のことを、論じたりはしなかっただろう。だが、物語には、他のいろいろの事と同様に、様々な必要がある。わたしは文学のスタイルのことはほとんど知らない。だが、進歩するにつれて知ったのだが、この技術は、わたしの昔の技術と、一般に考えられているほど大きな相違はないのである。
何十人もの、時には何百人もの人々が、処刑を見にくる。そして、見物人の重さでバルコニーが壁から外れ、そのただ一回の崩壊によって、わたしが在職中に殺したよりも大勢の人が死ぬのを見たことがある。これらの何十人、何百人の人々は、書き記された物語の読者になぞらえることができるかもしれない。
しかし、満足させられるべきこれらの観衆のほかに、別の人々がいる。刑吏がその名において仕事をする権力、つまり、死刑囚を楽に(あるいは苦しめて)殺すように刑吏に金を与える人々がおり、刑吏その人がいる。
観衆は次のような場合は満足する――長い遅延がない場合、囚人が短い言葉を述べることを許され、うまく喋った場合、振り上げた剣が落ちる一瞬前に、日光を反射してきらりと光り、それによって息をのみ、たがいに突つきあうチャンスを観衆に与えた場合、そして、首が充分な血潮とともに転がり落ちた場合。同様にして、将来ウルタン師の蔵書を探究するであろう諸君は、長い遅延がないことをわたしに要求するだろうし、また、ほんのわずか話すことを許され、しかも上手に話す偉人を要求し、これから重大な事が起こる合図になるようなある種の劇的休止や興奮を、そして堪能できる量の血液を要求するであろう。
刑吏がそのために仕事をする権力、千人隊長または執政官は(話のあやを長引かせることを許していただけるなら)、囚人の逃亡が防止され、囚人が大衆をあまり刺激せず、囚人が法的手続きの結論として確実に死ねば、ほとんど苦情はいわないだろう。どうやら、わたしにこれを書かせる権力は、わたしを職務に駆り立てる衝動であるらしい。それは次のように要求する。この作品の主題はその中心に留まっているべきであり――それは序言や索引やまったく別の作品の中に、逃げこんではならない。美辞麗句がそれを圧倒することは許さない。そして、満足すべき結論に到達すること、と。
処刑という行為を、苦痛のないものに、あるいは苦痛のあるものにさせるため、刑吏に金を払う人々は、わたしが敬意を払わざるをえない文学的伝統や、受け入れた規範に、なぞらえることができるかもしれない。思い出せば、ある冬の日に、授業をしていた部屋の窓を冷たい雨が叩いていた時に、マルルビウス師はたぶんわれわれが重大な仕事をするにはあまりにも気が滅入っていると見たからかもしれないし、あるいは、彼自身、気が滅入っていたというだけのことだったかもしれないが――昔、われわれの組合にいたウェレンフリッド師という人の話をした。この人はのっぴきならぬ事情があって、死刑囚の敵からも、その友人からも、報酬をもらった。そして、一方のグループを断頭台の右側に置き、もう一方のグループをそれと反対側に置いて、巧妙な技量によって、その結果がどちらの側にも完全に満足すべきものに見えるようにしたというのである。まさにこれと同じ方法によって、伝統の反目する二つのグループが歴史作家を両方から引っ張る。そう、独裁者たちをも引っ張るのである。片方は易しさを欲し、片方は……筆記という職務の……執行に、経験の豊かさを欲する。そしてわたしは、ウェレンフレッド師のジレンマに陥り、しかもそれだけの能力がないのに、双方を満足させるべく努力しなければならないのである。わたしが試みているのは、それなのである。
さらに、刑吏その人が残っている。わたしがそれである。刑吏にとって、全員から賞讃を得るだけでは充分でない。さらに、自分の職務を、みずから完全に賞讃に価すると知っている方法で行ない、また、師匠たちの教えと古来の伝統に調和するように遂行しても、それでも充分ではない。このすべてに加えて、時≠ェ自分の切断された首を、髪を掴んで持ち上げた瞬間に、完全な満足を感じたいと思えば、どんなに些細なことであっても、完全に自分自身のものであり、他人に決して真似されないなんらかの特徴を、その処刑に付け加えなければならないのだ。このようにして初めて、自分が自由な芸術家だと感じることができるのである。
バルダンダーズと一つベッドに寝ていた時に、わたしは奇妙な夢を見た。そして、この物語を記述するにあたって、わたしはそれをためらわずに語った。夢の記述は完全に文学の伝統に含まれているからである。しかし、ドルカスとわたしがバルダンダーズおよびジョレンタとともに星空のもとに寝ており、タロス博士がそのそばに坐っている、この現在として記述している時点においては、夢よりも小さいようにも、また大きいようにも思われる一つの経験をした。そして、これはその伝統の外側にあった。後にこれを読むであろう諸君にあらかじめお断わりしておくが、このすぐ後に続く記述にはほとんど意味はない。わたしがこれを語っているのは、その時わたしが当惑し、またそれを語ることが自分に満足を与えるだろうという、それだけの理由からなのだ。しかしながら、それがわたしの心に入り、その時からこの時まで心に残っているという限りにおいて、この物語の後半のわたしの行動に影響を与えている、ということは言えるかもしれない。
〈鉤爪〉を無事に隠してしまうと、わたしは焚火のそばの古毛布の上に横になった。ドルカスは頭を、そしてジョレンタは足を、わたしのそばに置いて眠っていた。バルダンダーズは焚火の反対側に、残り火の中にかかとの厚いブーツを突っこむようにして、仰むけに寝ていた。タロス博士の椅子は巨人の手のそばにあったが、焚火と反対の方向を向いていた。彼が夜の闇に顔を向けて、それに坐っていたかどうかはいえない。なぜなら、これからお話しする時間の一部では、その椅子に彼が坐っていることを、わたしは意識していたように思われるし、また一部では彼がいないことを感じていたからでもある。空は完全な暗黒よりも、いくらか明るかったと信じる。
ほとんど眠りの邪魔にならない程度の、重くはあるが柔らかい、ばたばたいう足音が耳に届き、それから呼吸の音、獣の鼻を鳴らす音が聞こえた。もし目が覚めていたら、わたしは目を開けたことだろう。しかし、まだほとんど眠っていたので、首を回さなかった。その獣はわたしに近づき、衣服と顔の臭いを嗅いだ。トリスキールだった。トリスキールは背骨をわたしの体に押しつけて横たわった。その時は、彼がわたしを見つけたことを別に奇異には感じなかった。むしろ、また彼に会えて嬉しかったことを覚えている。
ふたたび足音が聞こえた。今度はゆっくりとした、しっかりした人間の足どりだった。マルルビウス師だと、すぐにわかった――昔、牢屋の巡回をしていた頃、あの塔の地下の歩廊に響いた彼の足音を、わたしは覚えている。この音はそれと同じだった。彼はわたしの視野に入ってきた。そのマントは、いつものように汚れていた(きれいなマントを着るのは、最も厳格な儀式の日だけである)。そして道具の入った箱に腰を降ろし、そのマントを体に巻きつけるようにした。
「セヴェリアン。統治の七つの原理をいってごらん」
言葉を喋るのは大変だったけれども、(もしこれが夢なら、夢の中で)なんとか喋った。「そんなことを学んだ覚えはありません、師匠」
「おまえはいつも、一番そそっかしい生徒だった」彼はそういって、黙りこんだ。
いやな予感がした。もし答えないと、何か悲劇的なことが起こりそうだと感じた。わたしはようやく弱々しく言いかけた。「無秩序……」
「それは統治ではない。その欠如だ。それはすべての統治に先行すると教えたぞ。さあ、挙げてごらん。七つの種類を」
「君主の人格への忠誠心。血統その他の王位継承の連続性への忠誠心。王位への忠誠心。統治機構を合法化する慣例への忠誠心。法律そのものへの忠誠心。法律の立案者としての大なり小なりの選挙人会議への忠誠心。選挙人の団体、それらを生み出す他の団体、および、主として観念的な多数の他の要素を含むと考えられる抽象概念への忠誠心」
「まあ、よかろう。それらの中で、どれが最も初期の形態で、どれが最も高級な形態かな?」
「発達は今述べた順序で起こります、師匠」わたしはいった。「ですが、どれが最高かという質問は、これまでになさった覚えがありません」
マルルビウス師は身を乗り出した。その目は石炭の火よりも明るく燃えていた。「どれが最高だ、セヴェリアン?」
「最後のものですか、師匠?」
「選挙人の団体、それらを生みだす他の団体、および、主として観念的な多数の他の要素を含むと考えられる抽象概念への忠誠心か?」
「はい、そうです」
「おまえ自身の神聖なる存在≠ヨの忠誠心は、セヴェリアン、どの種類に属するか?」
わたしは黙っていた。わたしは考えていたのかもしれないが、たとえそうだとしても、心はあまりにも眠りに満たされていたので、その思考を意識することはできなかった。その代わりに、周囲の物理的環境を深く意識するようになった。顔の上の雄大な空は、わたしの便宜のためにのみ作られたように思われ、今、わたしの検査を受けるために差し出されているように思われた。わたしは女の上に横たわるように、地面に横たわった。すると、わたしを包んでいる空気そのものが、水晶のように美しく、ワインのように流動的に思われた。
「答えなさい、セヴェリアン」
「わたしにそういうものがあるとすれば、最初のものです」
「君主の人格への忠誠心か?」
「はい。なぜなら、公《おおやけ》に承認された継承の手続きが存在しないからです」
「今おまえの横に休んでいる獣は、おまえのために死ぬだろう。彼のおまえへの忠誠心はどの種類のものかね?」
「最初のものでしょうか?」
今度は返事がなかった。わたしは起き上がった。マルルビウスとトリスキールはいなくなっていた。だが、わたしの横腹には、かすかな温かみが残っていた。
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34 朝
「目が覚めたな」タロス博士がいった。「よく眠れただろう?」
「おかしな夢を見た」わたしは立ち上がり、あたりを見回した。
「ここには、われわれ以外にはだれもおらんよ」タロス博士はまるで子供を安心させるようにそういって、バルダンダーズと眠っている女たちのほうを指し示した。
「犬の夢を見た――ずっと昔にいなくなった奴だが、そいつが戻ってきて、ぼくの隣で寝たんだ。目が覚めても、まだその温もりが体に残っている」
「焚火のそばに寝ていたからだ」タロス博士は指摘した。「ここには犬はこなかったよ」
「人がきた。ぼくと同じような服装だった」
タロス博士は首を振った。「わたしの目に入らぬはずはない」
「うとうとしていたかもしれないじゃないか」
「宵の口だけだ。二刻過ぎまで起きていたよ」
「舞台と荷物の番をしていてやろう」わたしはいった。「あんたがもし今眠りたいならね」実をいうと、わたしはもう横になるのが恐くなったのである。
タロス博士はためらっているようだが、やがていった。「それはどうもご親切に」そして、今は露に濡れているわたしの毛布に、ぎごちなく横たわった。
わたしは彼の椅子を焚火が見える方に向けて、それに坐った。しばらくの間、わたしはひとりぼっちでもの思いにふけっていた。最初は夢のことを、それから、偶然がわたしの手の中に落とした、あの霊験あらたかな聖宝〈鉤爪〉のことを。ジョレンタがもぞもぞ動きだし、やっと起き上がり、朝焼けの空に向かって官能的な手足を伸ばした時には、わたしは嬉しくなった。
「水はあるかしら?」彼女は尋ねた。「顔を洗いたいわ」
わたしは彼女に、夕飯の支度をする時にバルダンダーズが低林の方から水を汲んできたよ、といった。彼女はうなずいて小川を探しにいった。少なくとも、彼女の姿が気晴らしになった。わたしは思わず、遠ざかっていく彼女の姿と、ドルカスのうつぶせになった姿を、見較べた。ジョレンタの美しさは完全だった。これまでに見た他のどんな女も、その足もとにも寄れなかった――それに較べると、威厳のあるつんと澄ましたセクラは、ごつごつして男っぽい感じだし、繊細な金髪のドルカスは、昔、〈時の広間〉で出逢った忘れられた少女ヴァレリアと同様に、貧弱に子供っぼく感じられた。
しかし、わたしはアギアには惹かれたが、彼女には惹かれなかった。セクラは愛したが、彼女は愛さなかった。また、ドルカスとわたしの間に生じたような親密な思考と感覚を欲しもしなかったし、それが可能だとも思われなかった。彼女を見るすべての男がそうであるように、わたしは彼女を求めたが、それは絵の中の女を欲するのと同じだった。そして(前の夜に舞台でそうしたように)感心して彼女を眺めている間にも、静止している時にはあれほど優雅に見えるのに、歩く姿はなんとぶざまなのだろうと思わずにはいられなかった。互い違いに擦れあうはちきれそうな太股。その感嘆すべき肉体は彼女にどっしりとした重みを与え、普通の女が腹に胎児を抱えて歩くように、彼女は艶めかしさを抱えて歩くのであった。彼女がまつげに綺麗な水滴を光らせ、虹のカーブのように清らかで非の打ちどころのない顔をして低林から戻ってきても、それでもなお、わたしは自分がほとんど孤独であるように感じた。
「……ねえ、欲しければ果物があるって、いってるのよ。博士がね、朝食のために果物を取っておけって、昨夜、わたしにいったの」彼女の声はハスキーで、少し息が切れていた。この声を、人は音楽を聞くように聞くのである。
「ごめん」わたしはいった。「考えごとをしていたもんで。ああ、果物なら少し食べたいな。どうも、ご親切に、ありがとう」
「持ってきてあげるとはいっていないわ。自分でいって取ってきなさいよ。あそこ、あそこに立っている甲冑《かっちゅう》の後ろ」
彼女が指さした甲冑というのは、実は、針金の枠に布を張って銀色に塗装したものだった。いってみると、その後ろに古い籠があって、葡萄や林檎や柘榴が入っていた。「わたしも何か欲しいわ」ジョレンタがいった。「そうね、葡萄をちょうだい」
わたしは彼女に葡萄を与えた。そして、ドルカスはたぶん林檎を欲しがるだろうと思って、それを彼女の手のそばに置き、自分は柘榴を取った。
ジョレンタは葡萄を持ち上げた。「どこかの高貴人の温室で作ったのね天然物にしては時期が早すぎるもの。こういう旅回りの生活も悪くなさそうね。それに、お金の三分の一はわたしが貰うのだし」
これ以前に、博士や巨人と一緒に旅回りをやったことはないのか、とわたしは尋ねた。
「わたしを覚えていないのね? 無理もないわ」彼女は葡萄をひと粒口にほうりこむと、わたしの見るかぎりでは、丸ごと飲みこんだ。「ええ、ないわ。リハーサルはたしかに一回やったけれどね。でも、あの子があんまり出し抜けに物語に飛びこんできたので、何から何まで変更しなければならなかったのよ」
「彼女よりもぼくのほうが、よっぽど芝居を混乱させたはずだよ。彼女の出番はずっと少なかったから」
「ええ、でも、あんたは出ることになっていたのよ。リハーサルの時、タロス博士は自分の役と同時にあんたの役も引き受けて、わたしに対するあんたの台詞も言ったのよ」
「では、ぼくと出会うのを予定に入れていたんだな」
これを言うとほとんど同時に、タロス博士がばっと起き上がった。彼は完全に目覚めているようだった。「もちろんだ。朝飯を食べていた時に、どこで待っているか教えておいたじゃないか。もし昨夜、きみが現われなかったら、出し物を〈名場面集〉に変更して、もう一日待つつもりだった。ジョレンタ、もうきみの取り分は三分の一ではないぞ。四分の一だ――あちらのご婦人にも分けてやるのが、公平というものだ」
ジョレンタは肩をすくめて、また葡萄を飲みこんだ。
「もう彼女を起こしなさい、セヴェリアン。出発しなくちゃ。わたしはバルダンダーズを起こす。それから金を分配して、荷造りする」
「あんたと一緒にいくつもりはない」わたしはいった。
タロス博士は面食らって、わたしを見た。
「町に戻らねばならない。ペルリーヌ尼僧団に用事があるんだ」
「では、本道に出るまでは一緒にいける。戻るなら、それが最も手っ取り早い道だ」たぶん、彼がその理由を尋ねなかったためだと思うが、彼はこの言葉以上に何か知っているのだなと、わたしは感じた。
われわれの話を無視して、ジョレンタはあくびを噛みころした。「今日は日暮れ前にもっと寝る必要があるわ。さもないと、この目がしょぼしょぼして、魅力半減だからね」
わたしはタロス博士にいった。「そうしよう。だが、本道に出たら、必ず別れるぞ」
彼はすでに向きを変えて、巨人の肩を細い杖で叩き、揺り起こそうとしていた。「お好きなように」彼はいった。だが、ジョレンタにいっているのか、わたしにいっているのか、よくわからなかった。わたしはドルカスの額を撫でて、もう出かけなければならないと、ささやいた。
「起こしてくれなければよかったのに。とても素敵な夢を見ていたのよ……すごく細部まで真に迫ったのを」
「ぼくもそうだった――といっても、起きる前にだがね」
「じゃ、ずっと前に起きていたのね? この林檎、わたしのもの?」
「残念ながら、朝食はそれだけだ」
「これで充分よ。見て、真ん丸で、真赤よ。なんてったっけ? なんとかの林檎みたいに真赤だ≠チて言い方があったわね。思い出せないな。一口食べる?」
「もうけっこう。ぼくは柘榴を食ぺた」
「その口の汚れで、察するべきだったわね。一晩じゅう、血をすすっていたのかと思ったわ」これを聞いてわたしは、ショックを受けたような顔をしたにちがいない。彼女がこう付け加えたのだ。「あのう、あなたは本当にわたしに覆いかぶさっている黒コウモリみたいに見えたんですもの」
バルダンダーズは今、機嫌の悪い子供のように目をこすりながら、起き上がろうとしていた。ドルカスが焚火越しに呼びかけた。「こんなに早く起きるなんて、つらいわね、おじさん。あなたも夢を見ていたの?」
「いいや」バルダンダーズは答えた。「おれは夢はぜんぜん見ない」(タロス博士はわたしの方を見て、最も不健康だ≠ニでもいいたげに首を振った)
「では、わたしの夢を分けてあげるわ。セヴェリアンもたくさん夢を見るといっているわ」
バルダンダーズは完全には目が覚めていないようだったが、彼女を見つめた。「あんた、だれ?」
「わたしは……」ドルカスはおびえたようにわたしを見た。
「ドルカスだ」わたしはいった。
「そうよ、ドルカスよ。覚えてない? 昨夜、幕の陰で会ったじゃないの。あなたが……あなたのお友達がわたしたちを紹介してくれて、あなたを恐れてはいけないといったじゃないの。なぜなら、あなたは人々を傷つける演技をするだけだからと。芝居だからと。わたしは納得したわ。なぜなら、セヴェリアンも本当に恐ろしいものを持っているけれど、とても優しいから」ドルカスはまたわたしを見た。「覚えてるわね、セヴェリアン?」
「そうとも。彼が忘れてしまったというだけのことだ。きみはバルダンダーズを怖がらなくてもよいと思う。たしかに彼は大きいけれど、彼の大きさは、ぼくの煤色の着物みたいなものだ――それで実物以上に悪人に見えるんだよ」
バルダンダーズはドルカスにいった。「あんたは素晴らしい記憶力を持っている。そういうように、なんでも覚えているといいんだがなあ」彼の声は重い石を転がすようだった。
われわれが話をしていると、タロス博士が銭箱を持ち出してきた。そして今、それをじゃらじゃら鳴らして、われわれを遮った。「さあ、諸君、われわれの演技の収益を公正かつ公平に分配すると、わたしは約束した。そして、それが済んだら、出発の時間となる。バルダンダーズ、こちらを向いて、膝の上に手を広げろ。セヴェリアン氏、ご婦人がた、皆さんもわたしの周りに集まってくれないか?」
もちろんわたしは注意して聞いていたが、前夜、博士は集めた金の分配について話した時に、四つに分けるとはっきりいっていた。しかしその時にわたしは、バルダンダーズは彼の奴隷らしいから、金を受け取らないのはバルダンダーズだろうと想像した。ところが今、タロス博士は箱の中をかき回すと、その巨人の手に一枚の輝くアシミ貨幣を落とし、もう一枚をわたしに、もう一枚をドルカスに、そして一握りのオリカルクをジョレンタに与えた。それから今度は、オリカルクだけを分配しはじめた。「ここまではすべて良い貨幣だと、諸君も気づいたろう」彼はいった。「残念ながら、ここにはかなりの数の疑わしい貨幣が混じっている。疑う余地のない正金がなくなったら、めいめいそれらの疑わしいやつを貰うことになる」
ジョレンタが尋ねた。「あんたの分はもう取ったの、博士? わたしたち他の者は考慮に入れてもらったと思うけど」
コインを数えては、一人一人にぱっぱっと渡していたタロス博士の手が、一瞬止まった。「わたしは、この中から分け前は貰わない」彼はいった。
ドルカスは自分の判断を確かめるようにわたしの方を見て、ささやいた。「それは公平とは思えないわ」
わたしはいった。「それは公平ではない。博士、昨夜の芝居であんたは、われわれのだれにも劣らず大きい役割を演じたし、集金もした。しかも、ぼくの見たところでは、舞台も舞台装置も、あんたが提供した。だから分配するとすれば、あんたは二倍は取ってもいいと思う」
「わたしは何も取らん」タロス博士はゆっくりといった。彼が恥ずかしそうな顔を見せたのは初めてだった。「もう劇団と呼んでもいいだろうが、これを監督するのがわたしの楽しみなんだ。演ずる劇はわたしが書いたものだし、そして、あのう……」(譬えを探すように見回して)「……あそこの甲冑のように、わたしは自分の役割を演じる。これらがわたしの楽しみであり、求める報酬のすべてなのだ。
さあ、諸君、ごらんのとおりオリカルクのばら銭ばかりになってしまった。そして、もう一巡するだけの数はない。はっきりいえば、あと二枚しかない。だれでも、残っているアエス貨幣と疑わしい貨幣への請求権を放棄すれぽ、この二枚を取ってもよいぞ。セヴェリアン? ジョレンタ?」
ちょっと驚いたことに、ドルカスが名乗り出た。「わたしがいただくわ」
「よろしい。残りは判断せずに手渡してしまおう。警告しておくが、そういうのを受け取った者は用心して使うのだぞ。そういうものを使うと罰せられるが、〈壁〉の外なら――なんだ、あれは?」
彼の視線をたどると、ぼろぼろの灰色の衣服を着た一人の男がこちらに向かってくるのが見えた。
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35 ヘトール
車座になって坐っているところに他人がやってくるのが、なぜ屈辱に感じられるのか、わたしにはわからない。だが、とにかくそうなのだ。その灰色の人影が近づいてくると、女性が二人とも立ち上がったので、わたしもそうした。バルダンダーズさえもどしんと立ち上がったので、話のできる距離にその新来者がきた時には、坐っているのは、椅子に掛けているタロス博士だけになっていた。
しかし、これ以上貧相な人物はめずらしかった。もともと小柄な体格が、着物が大きすぎるために、いっそう小柄に見えた。その弱そうな顎は無精髭に覆われていた。その男はそばにやってきながら、脂じみた帽子を脱いだ。すると、髪の毛は両側から禿げ上がり、古く汚れたバージノット([#ここから割り注]縦にたてがみのついた丸い兜[#ここで割り注終わり])のたてがみ[#「たてがみ」に傍点]のような頼りない線が一本ついているだけの頭が見えた。どこかで見たような人物だと思ったが、思い出すのにちょっと時間がかかった。
「おう、創造のご主人がた」彼はいった。「そして、おう、創造の主婦たち。絹の帽子、絹の髪のご婦人がた、そして、諸帝国とわれらのこ・こ・光球の、て・て・敵軍に命令を下す男よ! 塔は強い、石のように強い、火をかぶった後にも芽ぶく樫のように強い! そして、わが主、暗黒の主、死の勝利、よ・よ・夜に対する勝利! おれは長いこと銀の帆を張った船に乗っていた。ほ・ほ・星に届くマストが百本もあった。それらの輝く三角帆《ジ  ブ》の間を、最上|檣《しょう》のほ・ほ・帆桁の彼方に燃えるプレヤデスとともに、おれは漂っていたが、いまだかつてあなたのような人を見たことがない! われこそはへ・へ・ヘトール。あなたに仕えるために参りました。そのマントの泥を拭うために、その偉大なる剣を研ぐために、主よ、太陽が消えた時のヴェルタンディ([#ここから割り注]北欧神話の運命の女神の真ん中、現在の化身。古い太陽系の別の惑星[#ここで割り注終わり])の死せる月の目のような、犠牲者の目が見上げるその籠をは・は・運ぶために、馳せ参じた。太陽が消えた時! その時にそれらはどこにあった、あの明るい遊び人たちは? その灯明はどのくらい長く燃える? 氷の手が彼らに向かって手探りする。しかし、灯明の火皿はどんな氷よりも冷たい、ヴェルタンディの月よりも冷たい、死者の目よりも冷たい! その時に、力はどこにあった、湖を打って泡立たせるあの力は? 帝国はどこにある、太陽の軍隊は、長槍と黄金の旗印は? われわれがゆ・ゆ・ゆうべだけ愛した絹の髪の女たちは、今どこにいる?」
「きみは観客の中にいたらしいな」タロス博士がいった。「芝居をもう一度見たいというきみの願望は同情できるが、夕暮れになるまではその希望に沿うことができない。そして、その時までには、ここからかなり離れたところにいっていたいと思っている」
ヘトール――彼はアギルスの牢獄の外で、あの太った男や飢えた目をした女やその他の人と一緒に会った男だった――の耳には博士の言葉は入らなかったようだった。彼はわたしをじっと見つめており、時々、バルダンダーズやドルカスの方にもちらちらと視線を走らせた。「彼はあなたを傷つけたでしょう? のたうちまわって。あなたに五旬節のように赤い血が流れるのが見えた。あなたにとって、なんたる名誉! あなたは彼にも仕える、そしてあなたの叫びはわたしの声よりも高い」
ドルカスは首を振り、顔をそむけた。巨人だけが見つめた。タロス博士がいった。「きみが見たのは芝居の演技だということはわかっているだろうね」(もし観客の大部分が、これは芝居だから危険はないという観念にもっと強く捉われていたら、バルダンダーズが舞台から飛び下りた時に、われわれは当惑すべきジレンマに陥っていただろうと思ったことを、わたしは覚えている)
「おれにはあなたが考える以上のり・り・理解力がある。もと船長、もと副官、彼の古いキッチンのもとり・り・料理人で、スープを作り、死にかけたペットたちのために肉汁を作っていたのだからな! わが主人は本物だ。だが、あなたの軍隊はどこにいる? あなたの本物の帝国はどこにある? 真の傷から偽の血が流れるだろうか? 血がなくなったら、あなたの力はどこにある、絹の髪の艶はどこにある? おれはそれをガラスの杯でう・う・受け止めよう。おれは古いぼろ船のもと船長。乗組員は銀の帆を背景に黒装束をしていた。その背後にはせ・せ・石炭袋=i[#ここから割り注]暗黒星雲[#ここで割り注終わり])があった」
わたしは消えない記憶を持っているので、彼の言葉を今ここで紙の上に再現しているけれども、あの時には、雄弁でもあり訥弁でもあるこのヘトールの言葉にほとんど注意を払っていなかったことを、たぶんここで断わっておかなくてはならないだろう。彼は歯の隙間から細かいつばきの霧を飛ばしながら、七面鳥のようにごろごろと単調に喋った。バルダンダーズは持ち前ののろいやり方で彼の話を理解したかもしれない。ドルカスは彼に対する嫌悪の念があまりにも強かったので、きっと彼の言葉はほとんど耳に入らなかったと思う。アルザボ([#ここから割り注]食べた獲物の性格を帯びる動物。子供が死んでいる親の家の戸口で、死んだ子供の声をで鳴き、親がドアを開けると、襲いかかる。ハイエナに基づくアラブの伝説[#ここで割り注終わり])が死体を食べる時に立てる、肉や骨を噛み砕く、くちゃくちゃ、ばりばりという音から人が顔をそむけるように、彼女は顔をそむけていた。そして、ジョレンタは自分に関係のない事には、まったく耳を傾けなかった。
「その若い婦人が傷ついていないことは、その目で見ればわかるだろう」タロス博士が立ち上がり、銭箱を片づけた。「われわれの芝居を褒めてくれる人と話をするのは、いつも楽しい。しかし、残念ながら仕事がある。失礼して、荷造りをさせてもらうよ」
ここで彼の会話はもっぱらタロス博士とのものになったので、ヘトールはまた帽子をかぶり、目が隠れそうになるほどその縁を引き下げた。「積込みか? それならおれほどの適任者はいない。もとふ・ふ・船荷監督、もと船舶雑貨商兼司厨長、もとお・お・沖仲仕だったからな。他にだれが、穀粒を穂軸に戻し、ひ・ひ・雛鳥をふたたび卵に納める? だれが、それぞれの翼が補助帆《スタンスル》ほどもある雄大な翼を持ったが・が・蛾を折り畳んで、|石 棺《サルコファガス》のように吊り下がっている破れた繭に納める? それもご・ご・ご主人への愛のために、おれがします。ご・ご・ご主人の御為に、おれがいたします。そして、ひ・ひ・火の中、水の中、どこにでもお供いたします」
わたしはなんといってよいかわからずに、うなずいた。バルダンダーズは他に何も理解できなかったにしても、とにかく荷造りという言葉を聞き取ったらしく――舞台から背景幕をすくい取り、その柱に巻きつけはじめた。ヘトールは意外な身軽さを見せて飛び上がり、審問官の部屋の装置を畳み、幻灯器のワイアーを巻きこんだ。タロス博士はバルダンダーズがわたしの責任であるように、今後、彼はあんたの責任だよ≠ニでもいうように、わたしを見た。
「このたぐいの連中は大勢いる」わたしは彼にいった。「彼らは苦痛に喜びを感じ、ちょうど正常な男がドルカスやジョレンタにつきまといたがるように、われわれにくっつきたがるんだ」
博士はうなずいた。「わたしも考えた。自然への愛情から農夫の境涯に甘んじる理想の田夫野人とか、性交への愛から一晩に十回も股を広げる理想の好色女を想像できるように、主人への純粋な愛から仕える理想の召使いを想像することはできる。しかし現実に、この者たちのような素晴らしい人物に出会うことは決してないぞ」
約一刻ばかりの間、われわれは道を歩いた。われわれの小劇場は手際よくまとまって、舞台の部分品で組み立てられた一台の巨大な手押し車に乗ってしまった。そしてバルダンダーズは背中にいくつかの半端な荷物を背負って、この珍妙な仕掛けを引いて歩いた。タロス博士は、ドルカス、ジョレンタ、そしてわたしを従えて、先頭に立った。そしてヘトールは百歩ほど遅れてバルダンダーズの後を追った。
「彼はわたしみたい」ドルカスはちらりと振り返っていった。「そして博士はアギアみたい。ただし、あれほど悪くないけれど。覚えている? 彼女はわたしを追い払うことができなくて、結局、彼女がわたしをいじめるのを、あなたがやめさせたわね」
わたしはよく覚えていた。そして、なぜ彼女があんなに断固としてわれわれを追ってきたのか尋ねた。
「わたしは、あなたしか知らなかったんですもの。たとえアギアがいても、また一人になるよりはましだと思ったのよ」
「では、実際はアギアが恐かったんだな」
「ええ、とっても。今でもまだ恐いわ。でも……わたし、それまでどこにいたか知らないの。ただ、孤独だったと思うわ。わたしがだれであったとしてもね。長い間そうだったのよ。もう、あれはごめんだわ。これは――こういうことは――あなたにはわかってもらえないでしょうけれど、でも……」
「なんだい?」
「たとえあなたが、アギアと同じくらいわたしを憎んでいたとしても、いずれにしてもわたしはあなたの後を追ったでしょうよ」
「アギアがきみを憎んでいたとは思わないよ」
ドルカスはじっとわたしを見上げた。そして、今はそのきびきびした顔が、まるで朱色のインキの静かな井戸に映ってでもいるように、よく見えた。それはたぶん、偉大な美しさというには、ちょっとやつれており、青ざめており、子供っぽすぎただろう。だがその目は、人間≠待っているどこかの隠れた世界の、藍色の空のかけらを填《う》めこんだようだった。それらはジョレンタの目と優劣を競うこともできただろう。「彼女はわたしを憎んでいたわ」ドルカスはそっといった。「今はもっと憎んでいるわ。あの決闘の後で、あなたがどんなに茫然としていたか、覚えている? わたしがあなたを連れて去った時、あなたは一度も振り返らなかったわ。でも、わたしは振り返った。彼女の顔を見たのよ」
ジョレンタは歩かなければならないことで、タロス博士に苦情をいっていた。今バルダンダーズの低い鈍い声が後ろから聞こえた。「おれが彼女を運ぶよ」
彼女はちらりと振り返って、彼を見た。「なんだって? それだけの荷物のてっぺんに乗せるつもり?」
彼は答えなかった。
「わたしが乗りたいという時には、あんたが考えるような、鞭打ち刑を受ける馬鹿者みたいな格好になることを、いっているんじゃないのよ」
わたしは想像の中で、巨人がうなずくのを見た。
ジョレンタは馬鹿のように見えることを恐れていた。そして、今、わたしが書こうとしていることは実際に馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、これは事実である。読者諸君はわたしをだしにして楽しんでくれればよいのである。この時、自分はいかに幸運であることか、そして、〈城塞〉を出て以来、いかに幸運であったことか、という考えがわたしの心に浮かんだ。ドルカスと知り合って、友人になった――出会ってからわずか数日しかたっていないのに、ただの恋人以上の、真の伴侶に。後ろに聞こえる巨人の重い足音は、このウールスを孤独にさまよっている人間がいかに大勢いるかを思い出させた。この時に、なぜバルダンダーズがタロス博士に従う決心をして、強力無双のその身体を折り曲げて、この赤毛の男が彼に負わせる仕事をするのか、わたしにはわかった(いや、わかったと思った)。
肩を触られて、白昼夢から醒めた。ヘトールだった。彼は殿《しんがり》の位置からこっそりと追い着いてきていたにちがいない。「師匠」彼はいった。
わたしは彼にそんな呼び方をするなといい、自分は組合のただの職人にすぎず、師匠の称号を得ることは決してないだろうと説明した。
彼は慎ましくうなずいた。その開いた唇の間から欠けた門歯が見えた。「師匠、どこにいくのですか?」
「門から出るのだ」わたしはいった。そして、彼に、わたしではなくてタロス博士の後をついていってもらいたいからそういったのだと、自分にいい聞かせた。しかし実は、〈鉤爪〉の不可思議な美しさを思い出していたのであり、ネッソスの町の中心部に引き返すのをやめて、それをスラックスに持っていったらどんなによいだろうと考えていたのだった。わたしは〈壁〉の方を指さした。それは今は遠くに、普通の城壁が鼠の前にそびえているかのようにそびえていた。それは入道雲のように黒く、頂上にはいくらかの雲がかかっていた。
「剣をお持ちしましょう、師匠」
この申し出は真剣なものに思えたが、アギアとその兄がわたしを陥れるために仕組んだ陰謀は、テルミヌス・エスト欲しさから生まれたものだったと思い返した。それで、できるだけきっぱりといった。「いや。今も、これから先も、断わる」
「心が傷むのです、師匠、あなたがそうやってそれを肩に担いで歩くのを見ると。とても重いにちがいありません」
わたしがごく真面目に、これは見かけほど重い荷物ではないと説明していると、道はなだらかな丘の側面を回り、半リーグほど先に、まっすぐなハイウェイが〈壁〉の開口部に向かって走っているのが見えた。そこは大小さまざまな馬車や、あらゆる種類の乗物や人の往来で賑わっていたが、〈壁〉ともの凄く高い門のせいですべてが小さく見え、人間はだに[#「だに」に傍点]のように、使役獣は小さな屑を運ぶ蟻のように見えた。タロス博士は振り向いて、後ろ向きに歩きながら、まるで自分で建てたかのように誇らしげに〈壁〉の方に手を振った。
「きみたちの中には、これを見たことがない人がいると思う。セヴェリアンは? ご婦人たちは? きみたちは以前にこのそばにきたことがあるかね?」
ジョレンタさえも首を振った。わたしはいった。「ない。物心ついて以来ずっと町の中心近くで暮らしていたからね。われわれの塔のてっぺんのガラス屋根の部屋から見ると、〈壁〉は北の地平線上の黒い一本の線にしか見えなかった。白状するが、たしかに度胆を抜かれたよ」
「古代人は建築が巧みじゃないか? 考えてもみたまえ――何千年もたった今でさえも、われわれが今日通ってきた空き地はすべて、市の発展予備地としてまだ残っているんだ。しかし、バルダンダーズが首を振っている。わからないかね、わが患者くん、われわれが今朝、旅をしてきたこれらの心地良い森や牧場が、いずれ建物や街路に変わっていくということが?」
バルダンダーズはいった。「これはネッソスの発展のための空き地ではない」
「もちろん、もちろん。確かにきみはあそこにいたし、そのことは全部知っている」博士はわれわれに目くばせした。「バルダンダーズはわたしよりも年上だ。そして、何から何まで知っていると考えるのだ。時にはね」
まもなくわれわれはハイウェイから百歩たらずのところにきた。すると、ジョレンタの注意は往来に釘付けになった。「輿《こし》のハイヤーが見つかったら、わたしをぜひ乗せてちょうだい」彼女はタロス博士にいった。「一日じゅう歩かなくてはならないなら、今夜の芝居はできないわ」
彼は首を振った。「忘れたな。わたしには金はないぞ。万一、輿が見つかって、それを雇いたいと思ったら、ご自由にどうぞ。もしきみが今夜出演しなければ、臨時代役がきみの役を引き受けるだろう」
「臨時代役?」
博士はドルカスを指さした。「彼女はきっとスターの役をやってみたくてうずうずしてるぞ。りっぱにやってのけるだろうよ。なぜわたしが彼女の参加を認め、収益を分けてやったと思う? 女優が二人いるよりも、台本の書替えが少なくていいよ」
「彼女はセヴェリアンと一緒に行くじゃないの、馬鹿ねえ。彼は何かを探しに戻ると、今朝いっていなかった――?」彼女はわたしのほうに矛先を変えた。怒っているだけに、なおさら美しい顔で。「なんていったっけ? ペリッセス?」
わたしはいった。「ペルリーヌ尼僧団」すると、人間と獣の流れの端のメリーチップ([#ここから割り注]絶減した馬の一種[#ここで割り注終わり])に乗っていた男が、これを聞くとその小さい乗馬の手綱を引いて、そばにきた。「ペルリーヌ尼僧団を探しているなら」彼はいった。「わたしと一緒に――門を出るがいい。町に戻らずにね。彼女らは昨夜この道を通っていった」
わたしは足を速めて彼の馬の鞍尾を掴み、それは確かかと尋ねた。
「宿の他の客たちが彼女らの祝福を受けるために、われさきに道路に飛び出していったので、びっくりしたよ」メリーチップに乗った男はいった。「それで窓から見たら、彼女らの行列が見えた。従僕たちが蝋燭を点した天国の宮廷のイコンを捧げ持っていたが、それらは逆さまになっていた。そして、尼僧たちの衣は引き裂かれていた」細長くて、痩せていて、ユーモラスなその顔が、苦笑してくしゃくしゃになった。「何があったか知らないが、信じてくれ、彼女らの出発は印象的で、間違いないものだった――熊に襲われたピクニックの人々が、あわてて逃げ出してきたような風情だったよ」
タロス博士はジョレンタにささやいた。「そこの苦痛の天使と、きみの臨時代役女優は、もうしばらくわれわれと一緒に行くぞ」
後でわかったのだが、彼の話は半分間違っていた。疑いなく、〈壁〉を何度も見たことのある、あるいはその門のどれかを何度も通ったことのある諸君は、いらいらすることだろうが、わたしはこの自叙伝を続ける前に、自分の心の平和のために、〈壁〉について少し話しておかねばならない。
その高さについてはすでに語った。これを飛び越えることのできる種類の鳥はほとんどないだろうと思う。鷲、大型の山のテラトルニス([#ここから割り注]絶滅したコンドルのような巨鳥[#ここで割り注終わり])、そして、たぶん野生の鴨とその同類は、飛び越えるだろうが、それ以外にはほとんどいないだろう。この高さは、その基部に着く頃には、予想できていた。その頃には〈壁〉は何リーグもの間はっきりと見えており、池に漣が立つように、その壁面に雲が行き来するのを見た者は、その高さを実感しないわけにはいかない。それは、〈城塞〉の壁と同様に黒い金属でできていた。そのために、他の材料でできているよりも、わたしにとっては恐ろしさが少なかった――市中で見た建物は石造か煉瓦造りだったので、今こうしてごく幼い頃から親しんできた材料にめぐりあうのは、決して不愉快なものではなかった。
しかし、門に入るのは鉱山に入るのと同様で、身震いを禁じることができなかった。また、タロス博士とバルダンダーズを別にして、周囲のだれもがわたしと同じ気持ちであることがわかった。ドルカスはいちだんと力をこめてわたしの手にすがりつき、ヘトールは頭を垂れた。ジョレンタは、今まで喧嘩をしていた博士が、自分を保護してくれると思っているようだった。しかし彼が、腕に触った彼女に鼻もひっかけずに、日向にいた時と同じように、そのまま杖で歩道を叩きながらずんずん歩いていくのを見ると、彼女は彼のそぱを離れて、驚いたことにメリーチップに乗っている男のあぶみ綱につかまった。
門の両側は頭上高くそびえたち、ガラスよりもっと透明で、もっと厚い何らかの物質の窓が広い間隔を置いて並んでいた。それらの窓の中には男や女や、男でも女でもない生物の姿が動いているのが見えた。そこには退化人《カコジェン》がいたのだと思う。彼らにとっては、アヴァーンなど、われわれにとっての金盞花や雛菊同様に、ただの草でしかないような、そういう種族が。また、人間的雰囲気のきわめて濃厚な獣もいた。角の生えた頭があまりにも利口そうな目でわれわれを見、また言葉を喋りそうな口には釘か鉤のような歯が見えた。これらの生物は何なのか、わたしはタロス博士に尋ねた。
「兵士たちだ」彼はいった。「独裁者のパンドゥール兵([#ここから割り注]体格、体力ともに並外れた兵士たちで、元来は個人の護衛や猟場番人として雇われた[#ここで割り注終わり])だ」
恐怖のために豊満な乳房の片方を、メリーチップに乗った男の太股にぴったりと押しつけているジョレンタが、つぶやいた。「独裁者様の汗は臣下の黄金」([#ここから割り注]独裁者への畏敬の念を表わすさまざまな句の一つ[#ここで割り注終わり])
「〈壁〉そのものの内部にいるのか?」
「鼠のようにね。もの凄い厚みがあるが、いたるところハニカム構造になっている――と、聞いている。この通路やあそこの回廊に無数の兵隊が住んでいる。北の大草原で白蟻が牛ほどの高さの土の巣を守っているように、油断なくこれを守っているのさ。バルダンダーズとわたしはこれを通るのは四度目だ。一度は、前にも話したように、南からきてこの門からネッソスに入り、一年後に〈悲しみ〉と呼ばれる門から外に出た。ごく最近、南から、そちらで得た少しばかりの収益を携えて帰ってきて、もう一つの南の門〈賞讃〉というのを通って入ってきた。それらの門を通るたびに、今きみが見ているような〈壁〉の内部を見たし、これらの独裁者の奴隷たちの顔がわれわれを見た。疑いなく、彼らの中に、ある特定の悪党を探している者がたくさんいて、もしそれが見つかると、どっと出てきてそいつを捕えるのだ」
これを聞くと、メリーチップに乗っている男(後で知ったのだが、名前はジョナスだった)がいった。「失礼だが、旦那、どうしてもあなたの話が耳に入ってしまう。よかったら、もっとよく説明してあげてもよろしいが」
タロス博土は目をきらりと光らせて、ちらりとわたしを見た。「そいつは面白そうだ。ただし、一つ条件がある。〈壁〉とその中の住民だけについて話すことにしよう。つまり、われわれはきみ自身に関することは質問しない。同様に、きみはわれわれに対して同じ配慮をしてもらいたい」
見知らぬ男はつぶれた帽子を押し上げた。すると、彼は右手の代わりに、関節のある鋼鉄の装置を着けているのが見えた。「おたくはわたしが望む以上に、よくわたしを理解したね。まるで自分の顔の前に鏡をさし出されたような気分だ。白状するが、わたしはおたくがなぜ刑吏と一緒に旅をしているのか、また、なぜこの絶世の美女が泥の上を歩いているのか、尋ねようと思っていたのだ」
ジョレンタはあぶみ綱を放していった。「見たところ、あんたは貧乏なようだね、おじさん。それに、もう若くもないようだ。わたしのことを尋ねるのは、ちょっと似合わないんじゃないの」
門の暗がりの中でさえも、その見知らぬ男の頬に血が上るのが見えた。彼女がいったことはすべて正しかった。彼の衣服はよれよれで、旅の塵で汚れていた。もっともヘトールの衣服ほど汚くはなかったけれども。その顔にはしわが寄り、風に吹かれて肌が荒れていた。十数歩あるく間、彼は返事をしなかった。それからやっと話しはじめた。その声は平板で、高くもなく低くもなく、乾いたユーモアがあった。
「古代には、この世界の君主たちは自分自身の人民以外に恐れるものはなかった。そして、人民からわが身を守るために、この町の北の丘の上に巨大な砦を築いた。それは当時はネッソスとは呼ばれていなかった。なぜなら、川は毒で汚染されていなかったからだ([#ここから割り注]ネッソスはケンタウロス族のひとりで、ヘルクレスの妻を犯そうとしたが毒矢で射殺された。またトラキア川の名[#ここで割り注終わり])。
その城塞の建設に人民の多くが腹を立てた。彼らは、望むならば、障害なしに自分たちの君主を殺す権利があると考えていたからだ。しかし、他の人々は星々の間を往復する定期船に乗って出かけていき、財宝や知識を持って戻ってきた。やがて、彼らに混じって一人の女が帰ってきたが、その女は一握りの黒い豆しか手に入れてこなかった」
「ああ」タロス博士がいった。「きみはくろうと[#「くろうと」に傍点]の語り手だ。最初からそういってくれればよかったのに。実は、もうわかっているにちがいないが、われわれも大体同じ職業の者なのだ」
ジョナスは首を振った。「いいや、これはわたしが知っている――まあ――唯一の物語だ」彼はジョレンタを見下ろした。「話を続けてもいいかね、絶世の美女さん?」
前方に日光が見えたので、わたしの注意は、そちらに引かれた。また、道路に渋滞している車の多くが引き返そうとして、鞭で獣を叩き、道を開けようとして騒いでいるのが気になった。
「――彼女はその豆を人間の君主たちに見せて、自分に従わなければ、これを海に投げこんで、この世を終わりにしてしまうぞといった。彼らは彼女を捕え、八つ裂きにしてしまった。彼らはわれわれの独裁者より百倍も完全な支配をしていたからだ」
「独裁者様が長生きして〈新しい太陽〉を見ますように」ジョレンタがつぶやいた。
ドルカスはわたしの腕を握る手に力を加えて、尋ねた。「なぜ、かれらはそう怯えたの?」この時、鞭の鉄の先端が彼女の頬をかすめた。彼女は悲鳴をあげて顔を両手に埋めた。わたしはメリーチップの頭を押し退けて前に出て、彼女を打った荷馬車の御者の足首を掴み、座席から引きずり降ろした。この頃には門全体に、怒声や罵声や、怪我人の悲鳴や、怯えた獣の吠え声が響き渡り、たとえこの男が物語を続けても、わたしの耳には入らない状態になっていた。
わたしが引きずり降ろした御者は即死したにちがいない。わたしはドルカスを感心させたかったので、〈二つのアプリコット〉という拷問をやって見せるつもりでいた。ところが、彼は旅人の足と荷車の重い車輪の下に落ちてしまった。悲鳴さえも聞こえなかった。
読者諸君を門から門に――錠が掛かっていて、霧に鎖されていたわが共同墓地の門から、煙の棚引くこの門、たぶん現存する最大の、そして、たぶん今後も存在するであろう最大のこの門に――連れてきたので、わたしはここで一休みする。あの第一の門を入ることによって、わたしはこの第二の門に通じる道に足を置いたのだった。そして、この第二の門に入った時に、確かに、わたしはふたたび新しい道路を歩みはじめたのだ。この道はこの巨大な門の先から、〈不滅の都市〉の外を、そして、森林や草原や山脈や、北方のジャングルの間を、長いあいだ通っていくことになる。
ここでわたしは一休みする。たとえきみがこれ以上わたしと一緒に歩きたくないと思っても、読者よ、きみを非難することはできない。それは決して容易な道ではないのだから。
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翻訳についての原作者のノート
本書――原本はまだ存在するに到っていない言語によって書かれている――を英語に翻訳するにあたって、単語を自作して使えば、多大の労力を容易に省くことができたかもしれない。しかし、わたしはいかなる場合にもそうしていない。従って、多くの場合において、まだ発見されていない概念を、二十世紀のそれに最も近い相当語句によって置き換えることを余儀なくされた。小楯兵《ペルタスト》∞両性具有人《アンドロジン》≠ィよび高貴人《エグザルタント》≠ネどがこの種の代用語であり、その意味を定義するよりもむしろ暗示するつもりで使っている。金属《メタル》≠ヘたいてい(必ずではない)この言葉が現代人の心に暗示する種類の物質を表わすために使っている。
原稿では、生合成操作によって生じた動物の種類や、太陽系外から輸入した家畜に言及する場合には、その代用として類似の絶滅種の名前が自由に使われている(実際、セヴェリアンが絶滅種を復元したと想像しているらしい場合が、時々ある)。原文では騎乗用、牽引用の動物の性質が、しばしば不明確である。これらの動物を馬≠ニ呼ぶことにわたしは疑念を抱いている。なぜなら、この言葉が厳密にいって正しくないことは確かであるから。≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換]の軍馬≠ェ、われわれの知っている動物よりも、ずっと足が早く、耐久力のある動物であることには、疑問の余地がない。そして、軍事目的に使用されるこれらの動物のスピードは、高エネルギー武装によって支えられている敵に対して、騎兵の突撃を可能にするほどのものらしい。
ラテン語が一、二回使われているが、それは、セヴェリアンが滅びたと考えているらしい言語で、記述されている部分を示すためである。実際に、それらがどんな言語であったか、わたしにはわからない。
後史時代《ポストヒストリック》の世界の研究における諸先輩、および、特に――あまりにも大勢で、ここにお名前を記すことはできないが――未来の非常に長い歳月を生き延びてきた人工遺物を調査することを許してくださった収集家諸氏、とりわけ、その時代のわずかに残っている建築物を訪れて写真撮影することを許してくださった方々に、心からお礼を申し上げる。
[#地から2字上げ]G・W
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訳者あとがき
これは一九八○年から八三年にかけて出版され、SF(ファンタジイ?)作家としてのジーン・ウルフの名声を不動のものにした四部作≪新しい太陽の書≫[#≪≫は《》の置換] The Book of the New Sun の第一巻 The Shadow of the Torturer の全訳です。
本書および、このシリーズについて、さまざまな賛辞が寄せられていますが、〈ファンタジイ&サイエンス・フィクション〉誌で書評欄を担当しているアルジス・バドリスは、第三巻『警士《リクトル》の剣』が出版された段階で、このシリーズがSFであるか、ファンタジイであるか、ながながと論じた後に、次のようにいっています。
「これは二十世紀のスペキュレイティブ・フィクションの中で、最も野心的であり、最も綿密に創造され、最も高度に個性化された作品の一つである(もっとも、これが最善≠フ作品の一つであるかどうか、また、われわれの社会の外で広く名声を得るかどうかは、一部はまだ作者の手の中に、そして一部はまだ神の膝の上にある問題である)。しかし、この作品が(SFか、ファンタジイか)どちらに分類されようとも、そして、物語の結末がどのようになろうとも、以上の特性は依然として明白に認められるだろう」
また、別の個所では、「ある人々は四冊のシリーズを書いて、それを四部作と呼ぶ。しかし、ウルフは明らかに四つの相《アスペクト》を持つ一つの本を書いた。だから、全部を総合したものは、各部の単純な合計よりもはるかに大きいものになる……(中略)……ウルフは読者に、完全な報酬を待ちながら、二十五万語にものぼる長い物語を読んでくれ≠ニ要求している。しかし、ご承知のように彼は当代の最善の作家の一人であり、決して読者の信頼を裏切ることはないと思う」と述べています。
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このシリーズの構成は次のとおりです。
1『拷問者の影』 The Shadow of the Torturer (1980) 八一年度世界幻想文学大賞、八一年度イギリスSF協会賞受賞
2『調停者の鉤爪《つめ》』 The Claw of the Conciliator (1981) 八一年度ネビュラ賞、八二年度ローカス賞ベスト・ファンタジイ賞受賞
3『警士《リクトル》の剣』 The Sword of the Lictor (1981) 八三年度ローカス賞ベスト・ファンタジイ賞受賞
4『独裁者の城塞《しろ》』 The Citadel of the Autarch (1983) 八四年度ジョン・W・キャンベル記念賞受賞
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わたしはこの本を読む少し前に、あるところから「ファンタジイについてどう思うか?」というアンケートを受け取り、「ファンタジイは好きではありません」と答えてしまいました。ところが、その後でこの本を読んだら、面白くて面白くて、ぐいぐいとのめりこんでしまい、年甲斐もなく、思わず、「ウルフは天才だ!」と叫んでしまいました。興奮がさめてから、ふと、このアンケートを思い出し、間違った返事をしてしまったかなあと、気になってきました。つまり、わたしはこれを無意識にファンタジイとして読んでいて、すっかり楽しんでしまい、先の回答と矛盾することに気づいたのです。
このように、この作品を読むと、だれも最初はファンタジイだと思ってしまうようです。なんてったって八一年度世界幻想文学大賞の長篇部門最優秀賞は、この『拷問者の影』に与えられているくらいですから! それから、シリーズを読み進んでいくうちに、いや、これはSFではないかと考えなおし、議論をしたくなるのです。
この問題についてのバドリスの議論をかいつまんで紹介すると次のようになります。
ファンタジイとサイエンス・フィクションは、スペキュレイティブ小説の二本の枝である。では、スペキュレイティブ小説は他のすべての小説とどう違うかというと、他の小説、つまり"普通《マンディン》の¥ャ説は、現実の背景の中に仮想の人物を置いて、それを動かすものであるのに対して、前者は|背  景《バックグラウンド》そのもの――たとえば社会の構造など――を|幻 想《ファンタサイズ》する。そして、その背景の土台に、サイエンスが現実であり、テクノロジーが宇宙に影響をおよぼす唯一の手段であるという社会的仮定があれば、サイエンス・フィクションになるのであり、その土台に、魔法が現実であり、その操作が宇宙に影響をおよぼす唯一の手段であるという仮定があれば、ファンタジイになる、と。
ここに、「充分に進歩した科学は魔法と区別がつかない」という例の有名なアーサー・C・クラークの言葉を導入したらどうなるでしょう? 作中人物の目から見ると魔法に見えるものは、すべて読者の目からみると科学≠ナあることが、次第にわかってきます。つまり、この四部作はファンタジイとしての性質と、SFとしての性質を兼ね備えているということになりはしないでしょうか? ここにも(後で述べる)ウルフの多重性が現われているように思われます。
わたしは次の点で、この作品が優れていると思います。
一、とにかく面白い――物語が、思いもかけない方向に発展していき、退屈しない。しかも、いちいち、なるほどと納得させられてしまう。長い作品の場合には、最初の本と最後の本との間に、長い年月がたったり、作者の考えが変化したりして、物語としての整合性を保つことがなかなか困難ですが、このシリーズの場合は比較的短期間に書き上げられ、第一巻の校正をしながら、第四巻を書いたということですから、その点は心配はありません。
二、内容が濃密であること。最近のアメリカのSFやファンタジイはやたらに長いものが多く、中には、語数の多さで内容の希薄さを覆い隠そうとしているのではないかと思われるものや、語数を増やしさえすれば文学になると勘違いしているのではないかと思われるようなものもないわけではありませんが、ウルフは質的に違います。
ウルフはこんなことをいっています。「どんなに短い物語でも、普通一つ以上のアイデアが必要であり、ある程度の長さを持った作品なら、少なくとも二つの衝動、またはインスピレーションを土台にしなければ、たいてい失敗する」また、「わたしは二つ以上のレベルで、読者を喜ばせようと努力している」と。つまり、ウルフは多面的、重層的であることを常に考えており、それが、独特の優れた言語感覚とあいまって、濃密な印象を与えるのだと思います。だから、浅読み(?)をしても充分に面白いし、同時に、いくらでも深読みができ、何度読んでも何らかの新発見があって楽しめる、という結果を生むのではないでしょうか。
ウルフはこの作品を書くにあたって、次の三つのことを念頭に置いたといっています。
a[#aは(a)の置換] 部分的ではなく、まるまる一つの世界を描き出したかった。b[#bは(b)の置換] 戦争に否応なしに引き寄せられていく若者の姿を、SFという舞台装置の中で描きたかった(この裏には、大学を中退し、徴兵されて朝鮮戦線に送られた作者自身の体験があります。そのせいか、作中に現われるちょっとした兵士の姿などに実感がこもっており、汗の臭いが漂ってくるようです)。c[#cは(c)の置換] 登場人物の衣服に特別に配慮する(これには面白いエピソードがあります。ウルフが心ならずも友達にひっばられて、『仮装大会で優勝する法』という講習会に連れていかれ、不機嫌[#「不機嫌」に傍点]になって眺めているうちに、ふと、自分が今まで作中人物の服装に考慮を払っていなかったことに気づき、今度の作品のヒーローに人目を引く服装をさせてやろうと考え、拷問者という職業を思いついたといいます)。
三、文章が優れ、語彙が豊かであること――これはあらゆる評者がいっていることで、わたしもまったく同感です(ということは、翻訳者泣かせでもあるということですが)。彼の文章にはどことなく、『泥棒目記』や『花のノートルダム』を書いたフランスの実存主義の作家、ジャン・ジュネを思わせるところがあります。
本書の文章について、ウルフ自身は付録の「翻訳についての原作者のノート」の冒頭でこういっています。「本書――原本はまだ存在するに到っていない言語によって書かれている――を英語に翻訳するにあたって、単語を自作して使えば、多大の労力を容易に省くことができたかもしれない。しかし、わたしはいかなる場合にもそうしていない。従って、多くの場合において、まだ発見されていない概念を、二十世紀のそれに最も近い相当語句によって置き換えることを余儀なくされた」
SFのように、現実に存在しない物や概念を表わす場合に、二つの立場があるようです。一つは、このウルフのように実在の言葉を工夫して使う。もう一つは、フランク・ハーバートのように、良く言えば自由自在に、悪く言えば恣意的に、言葉を創作する、です。ハーバートの場合は、そのこと自体が彼の魅力の一つになっているわけですが、波長が合わなければ、読者に通じないことになるし、また、造語そのものが英語の構造に根ざしているので、他国語への翻訳がきわめて困難になり、本人が死んでしまえば、その真意は永久にわからなくなることもないとはいえません。
それに引き換え、実在の言葉を使うウルフの立場は、しっかりと文献を調べ、辞書を引けば、意味は必ずわかるという安心感はありますが、翻訳となると事はそう簡単ではありません。なぜなら地《じ》の現代英語の文章の中に、英語の古語、方言だけでなく、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語などの単語が、さながらモザイク模様のように散りばめられており、不思議な雰囲気を醸し出しているからです。これを日本語に翻訳すると、どうしても日本語というフィルターを通すことになるので、その輝きの一部が消えてしまいます。本書の訳文に漢字が多くて、やや重苦しい文体になっているのは、そういう雰囲気を少しでも伝えたいという訳者の努力の結果だと解釈していただけると誠にありがたいのですが……
ここで一つだけ注釈をつけておきます。この物語の舞台になっている惑星の名、ウールスは、原語では Urth です。これは、ウル・ライカ、ウル・ファウストなどに使われている、ドイツ語の源初≠フ意味を表わす接頭語 ur と、英語の Earth とを組み合せた言葉だと考えられます。しかし、困ったことに綴りは違っても発音は同じなので、片仮名で表記すると両方アースとなり、区別がつかなくなります。そこで、こちらはウールスとしました。アースの未来なまり[#「未来なまり」に傍点]だと考えていただけば、けっこうです。
この物語の用語があまりにも難解なので、作者自身が解説書を別に書いています(The Castle of the Otter 『かわうその城』。この題名は、このシリーズの第四巻の標題 The Citadel of the Autarch 『独裁者の城塞《しろ》』を、そそっかしい人が聞き違えたものを、ウルフが面白がって採用したということです)。それがなかったら、わたしとしては、とうてい翻訳する勇気は湧かなかったと思います。
後回しになりましたが、ここでウルフの経歴を紹介しておきます。
一九三一年、ニューヨーク市に生まれ、テキサス州ヒューストンで育った。家系はオランダとスイス系。テキサス農工大で二年半学んだが、退学して徴兵され、朝鮮事変に従軍、戦闘歩兵徽章を受けた。終戦後、復員兵援護法の奨学金でヒューストン大学に学び、機械工学科を卒業。〈プラント・エンジニアリング〉誌の編集長を十一年間つとめたのち、一九八四年、フルタイムの作家に転身した。
純文学、青春小説、および多くの雑誌記事を書いているが、特に、SF作家として、百篇ちかくの短篇および、オムニバス長篇 The Fifth Head of Cerberus の作者として有名である。一九七三年に「アイランド博士の死」で、ネビュラ賞の中篇部門を受賞。長篇小説 Peace で、一九七七年のシカゴ文学賞を得た。また、"The Computer Iterares the Greater Trumps" はSF詩のためのライスリング賞を獲得。また、短篇集に The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories がある。
最後に、本書の訳出にあたって、度重なる訳者からの質問状に丁寧に答えてくれた著者のウルフ氏をはじめ、語学上の疑問に答えてくれたエドワード・リブセット氏、いろいろな資料を与えてくださった浅倉久志氏、早川書房の込山博実氏、村山裕氏、そして、The Castle of the Otter を貸してくださった高橋良平氏に、厚くお礼を申し上げます。
[#改ページ]
底本:新しい太陽の書1[#1は○+1] 拷問者の影 早川文庫 早川書房
1986年9月15日 発行
2005年9月15日 四刷
このテキストは
(一般小説) [ジーン・ウルフ] 新しい太陽の書1 拷問者の影.zip iWbp3iMHRN 69,293 fcd5a969f35ae0f082f1b3d39d0b3eca
を元に、OCRにて作成し、底本と照合、修正する方法で校正しました。
画像版の放流神に感謝します。
※本文中の割り注表記部が多いため注記表示が五月蠅くなっています(汁
***** 底本の校正ミスと思われる部分 *****
*行数は改行でカウント、( )は底本の位置
1641行目
(p262-12)   本を続んで
本を読んで
1971行目
(p314-06)   アジルス
アギルスでは?
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