オトラント城綺譚
ウォルポール/平井呈一訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
解説
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登場人物
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マンフレッド……オトラント城主。
マチルダ……十八歳になるマンフレッドの娘。
コンラッド……マンフレッドの息子。イサベラと婚約し、非業の死をとげる。
イサベラ……マンフレッドの世話になっているヴィツェンツァ侯フレデリックの娘。
ヒッポリタ……マンフレッドの妻。
ジェローム神父……マンフレッドの聴聞僧。
セオドア……神父の息子。
フレデリック……ヴィツェンツァ侯。十字軍に加わり行方不明になっている。
アルフォンゾ公……先々代ヴィツェンツァ候。
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第一章
オトラントの城主マンフレッド公には一男一女があり、総領はマチルダ姫といって、芳紀《とし》十八、容色なかなかにうるわしい処女《おとめ》であった。弟君のコンラッドというのは姉よりも三つ年下で、これはうまれつき病弱な、ゆくすえの見込みのない凡庸な子であったが、姉のマチルダには日ごろ情愛らしいものをついぞ見せたことのない父親の、またとない掌中の珠珠《たまたま》であった。
マンフレッド公はかねてから、ヴィツェンツァ侯の息女イサベラ姫をわが子に妻《めあ》わすことを約して、伜《せがれ》コンラッド本復のあかつきには、早々に婚儀の式をあげさせるつもりで、すでに付け人をつけて、姫を自分の手もとに引きとっていたのである。その晴れの挙式の日を一日千秋の思いで待ちわびるマンフレッドの胸中を、一家一門、および領内のひとびとは、いろいろに取り沙汰していた。しかし家中《かちゅう》の面々は、日ごろから癇癖《かんぺき》のはげしい殿の気性をよくこころえていたから、殿の心中のあせりについては、だれひとり、めったな憶測を口に出していうものもなかった。
奥方のヒッポリタというのは、これは温厚貞淑な婦人で、彼女はおりにつけわが子の若年のこと、あまつさえ病身であることをかんがえて、一粒だねの跡取りをそんなに早く縁組させるのは、なにかにつけて心もとないことを、しばしば夫に申し立てたけれども、そのたびに夫から受ける返事は、だいじな世継ぎの胤《たね》を一人しかもうけぬわが身の石女《うまずめ》のふがいなさを、いまさらのように事改めて思い知らされるばかりであった。
とかく口さがないのは領内の百姓町人どもで、かれらは、御城主が若君の御婚礼をあのようにむたいに急がれるのは、あれは昔からここのお城に言い伝える古いお告げが、いよいよあらわれることになったので、それが怖いからじゃと、みんなそのせいにしていた。――「オトラントの城およびその主権は、まことの城主成人して入城の時節到来しなば、当主一門よりこれを返上すべし」というお告げが、遠い昔に宣下されたのだそうな。お告げの意味はどういうことなのか、よくわからなかったし、さらにそれがこんどの婚儀とどういう関係があるのか、それもにわかに計りがたかったが、とにかく、このお告げが謎かまことか口論乙駁、領民たちは思い思いの意見をいよいよ固くした。
婚儀の日どりは、若君コンラッドの誕生日と定められた。その日、賓客《まれびと》たちは城内の礼拝堂にうちつどい、いよいよおごそかな神前の儀式をとりおこなう準備万端ととのったという時になって、かんじんのコンラッドの姿がどこへ行ったか見えなくなった。一刻の猶予も待ちきれず、気ばかりあせっているマンフレッドは、わが子が席をはずしたところを見ていなかったので、ただちに近侍の一人に命じて、若殿を呼びにやった。近侍は中庭をわたって、コンラッドの居間まで行くほどもないうちに、息せききって駆けもどってくると、目をむき口に泡をためて、ものもいえず、ただしきりと中庭のかたを指さす狂顛《きょうてん》のていたらくに、並みいる客たちはいずれもみなおどろき、かつ唖然とするばかりであった。奥方のヒッポリタは、なんのことやらわからぬながら、わが子の上を気づかうあまり、その場にバッタリ気を失う。マンフレッドは心配よりか、婚儀のおくれることと、家来のうつけぶりに腹を立てて、いたけだかに、なにごとじゃ? とたずねたが、家来は答えもやらず、なおもつづけて中庭のかたを指すばかり。やがてかさねて問われると、ようやくのことに、「あの! お兜が! お兜が!」とさけんだ。
とかくするうち、数人の客たちがいち早く中庭へと走り出ていったが、まもなくそちらの方から、なにやら恐怖と驚愕の叫び声が、騒がしくきこえた。マンフレッドもようやくわが子の見えないのが心配になりだし、ただならぬあの騒ぎは何事だろうと、自分もやおら席を立って行った。マチルダはあとにのこって母の介抱につとめ、イサベラもおなじ目的で席にのこっていたが、イサベラが席をうごかなかったのは、じつは、まえまえから情愛などつゆほどもおぼえていない花婿に対して、ここで自分がジタバタあわてさわぐような不覚を、はたの目に見られたくないためであった。
マンフレッドの目をまず第一に射たものは、なにやら黒い鳥毛の山のように見えるものを、下人《げにん》どもの群れがエイヤエイヤと懸命になって持ち上げている姿であった。目をこらしてよく見たものの、自分の目が信じられなかったので、マンフレッドは怒気をふくんでどなりつけた。「きさまら、何をしてさらす! 和子《わこ》はどこにおるのじゃ?」すると、異口《いく》同音の声がいっせいに、「おお上《うえ》様! 若君さまは! 若君さまは! このお兜が! お兜が!」と涙まじりのその答えに、あるじはギックリ。なんのことやらわからぬまま、こわごわ前にすすみ出てみると、こはそもいかに、わが子はグッシャリ木っ葉みじん、さながら尋常の人間のためにつくられた兜の百層倍もあるような大兜の下にうち敷かれて、その上を、大兜にふさわしい山のごとき黒い大|鳥毛《とりげ》が、くろぐろと蔽っていたのである。
身の毛もよだつそのありさま。しかも、この災難のおこったときのもようを、まわりにいるものは誰ひとりとして知らない。いや、それよりなにより、いま自分の目の前にあるこの恐ろしい惨事が、マンフレッドの口から言葉を奪った。悲しみがこみあげてくるよりも、沈黙の方が長くつづいた。一場のまぼろしと信じたいが、それもむなしいこの場のありさまに、マンフレッドはややしばらく、つくづくと目をすえて眺め入るばかりであったが、どうやらかれの心は、失ったものに意《こころ》をそそぐよりも、このことを引きおこしたこの途方もない大きな兜に、思いをこらす方が急のようであった。かれは命とりのその兜にさわってみて、あちらこちらを調べてみたけれども、鮮血《あけ》に染まったわが子のいたましい亡骸《なきがら》すら、目前に降ってわいたこの不吉な前兆から、かれの目をそらさせることはできなかったようである。日ごろからコンラッドのことを、目のなかに入れても痛くないほど可愛がっていた父親の慈愛のほどを見知っている連中は、もちろん兜の不思議に肝《きも》をつぶされたことはいうまでもなかったが、それと同じくらいに、殿の無情さにも舌をまいて驚き、かつ呆れた。やがて一同は、マンフレッドからは一言も指図もうけずに、いまは変わりはてた若君の遺骸を、ひとまず城内の大広間にはこび移した。城主は、礼拝堂にのこっている奥方や姫たちのことも、おなじように、とんと気にとめていなかった。ところが豈《あに》図らんや、そういうマンフレッドの口からはじめてこぼれた言葉というのは、不幸な奥方やマチルダのことはなにもいわずに、「イサベラ姫をいたわってとらせよ」という一言であった。
家来どもは、このいいつけの異《い》なことには気もつかずに、ふだんからみな奥方のことを慕い申している連中のことだから、それにひかされて、殿さまは御台《みだい》奥方さまのことを案じていわれたものと思いこみ、それとばかりに奥方を助けにとんで行った。そして生きたけしきもなく、ただわが子の最期《さいご》のほかは、聞かされた珍事のもようにもいっこう無頓着でいる奥方を、みんなしてお部屋へかつぎ移した。マチルダは母君の歎きと驚きをなだめながら、ひたすら介抱につくし、苦しみ悩む母君にかしづいて慰めるほかに余念がなかった。一方、イサベラは、日ごろヒッポリタから実の娘のような扱いをうけ、自分も実の母にたいするような、義理と情愛をこめた柔順さで仕えていたので、いまも奥方にはすくなからぬ心づかいを払っていたが、同時に彼女は、つね日ごろ友情にあふれた温かい思いやりを自分によせていてくれるマチルダが、さいぜんからしきりとこらえていると見た悲歎の重荷を、なんとか自分も分け持って、すこしでも軽くしてあげたいと一所けんめいにつとめた。
でも彼女は、自分の立場も考えなければならなかった。若君コンラッドの横死については、自分としてはただお気の毒というよりほかに、べつになんの関心もおぼえないし、また、うれしくもないおめでたを約束されていた婚儀から――むりやり押しつけられた、のっぴきならない花嫁御寮から、ひいてはあのマンフレッドのはげしい癇癖からのがれられたことにも、彼女はなんの未練もなかった。なるほどマンフレッドは、これまで自分のことを大きな寛容をもって別物扱いにしてくれてはきたけれど、でも、ヒッポリタやマチルダのような柔順な奥方や娘へのあのいわれもない厳格ぶりを見るにつけ、彼女はとうから心のうちに、怖いという思いを刻みこまれていたのである。
姫たちが、哀れな母君を褥《しとね》にうつしている間、マンフレッドはまだ中庭にのこって、不吉な兜をうちながめながら、椿事を聞いてまわりに集まってきた群集のことなど、まるで念頭にないようであった。ただ一つ、かれの聞きたがっていることは、いつこのことが起こったのか、それを知っている者はないかということで、口に出した言葉も、ほとんどその問いに限られていた。でも、誰もそれに答えることのできるものはなかった。しかし、どうやらそのことがかれの詮索の唯一の目的であるらしく、この悲劇が前代未聞の不思議なものだけに、いろいろ突拍子もない臆測をあれこれとめぐらしていた見物の連中も、まもなく城主と同じ考えになってきた。みんなが寄ってたかって、非常識なあてずっぽうをいいあっている最中へ、うわさを聞いて近くの村からやってきた一人の若い百姓が、やあ、このふしぎな兜は、御城内の聖ニコラス院にある先々代の御城主、明君の誉れ高いアルフォンゾ公の黒石のお像の兜に、そっくりじゃな、といいだした。「コリャ下郎! その方、なにを申す?」夢うつつの境からハッとわれに返ったマンフレッドは、そういってどなりつけると、たちまち持ちまえの癇癖をおこして、
「さような慮外《りょがい》をいいつのるとは不届きなやつ。一命にもかかわるぞ」とやにわに若者の胸ぐらをつかんだ。並みいる見物の衆は、殿の立腹の原因が最前からの殿のそぶりと同じく、なにがなにやらさっぱりわからないので、この新しくもちあがった悶着をさばくのに途方に暮れた。当人の百姓も、自分のいったことが、なんで殿さまの癇にさわったのかわからないから、これもあっけにとられたような顔をしていた。が、やがて気をとりなおすと、若者はいんぎんにへりくだりながら、まず胸倉をとっている殿の手をふりほどき、ここは一番、ヘドモドうろたえるよりも、身の潔白を用心するに如《し》くはなしと、ズンと下手《したて》に出て、恐れながらやつがれに、いかような罪科《つみとが》あってのお咎めでござりましょう? とうやうやしく尋ねた。マンフレッドは、相手がたしなみをもって下手《したて》に出たのはいいが、自分の手をふりほどいたその気勢にムラムラとなって、こと穏便にすましてやろうという気持よりも、癇にさわったほうが強かったものだから、ただちにこの男を召し捕れと家来に命じた。おそらく、婚賀に招かれた客たちが止めに出なかったら、マンフレッドは、高手小手に取り押さえられたこの若者を、刺し殺していただろう。
この口論のあいだに、見物のなかのお先走ったのが四、五人、それっというので、城の近くにある大きな寺院へ駆けだして行ったが、まもなく、あいた口をして戻ってくると、兜はアルフォンゾ公の石像から消えてなくなっている、と申し立てた。この知らせを聞くや、マンフレッドは完全に乱心したようになり、まるで自分のなかに嵐をまきおこしたものを捜し求めるように、またもや百姓につかみかかり、「おのれ不埒者! 人非人! 験者《げんざ》め! おのれがやりおったな! 和子を殺したのはおのれよな!」とさけび立てた。見物のわいわい連は、なんでもいいから自分たちの手に合う相手で、しかも自分たちの屁理屈をおっかぶせられる相手がほしい矢先だったから、この時とばかり、殿の言葉の尻にのって、みなみな鸚鵡《おうむ》がえしに、「えい、えい、こやつじゃ、こやつじゃ! こやつが先々代アルフォンゾさまの御墓所からこの兜を盗み出し、それを若君さまのおつむに投げつけ、脳味噌をぶちまけたのじゃ! そうじゃ! そうじゃ!」と、目の前にある鉄《くろがね》の大兜と、寺院にある黒石の兜と、大きさの釣りあわぬことも考えず、また、うち見たところ二十歳《はたち》になるやならずのこの若者に、千鈞《せんきん》の重みのあるこの大兜が持てるか持てぬかも考えずに、ただやみくもに、こやつじゃ、こやつじゃ! そうじゃ、そうじゃ! とわめきたてた。
このばかげた喚声が、マンフレッドを正気にもどらした。――待てよ、この男は二つの兜の似ていることを知っておる。しからばそこのところを糺問して、そのうえで寺の兜の紛失を糺明するか。それとも、好ましからざる想像から生ずる新しい風評を封ずることにするか。いずれをとるにしても、この若者はまさしく妖術者である。寺方《てらかた》が事件の裁きをつけるまで、一同が見破ったこの憎っくき妖術者めを、兜のもとに縛っておけと、マンフレッドは重々しく申し渡すと、近従に命じて若者をひっ立てさせ、大兜の下に引きすえさせた。そして、飲食《おんじき》をあたえると妖術がはたらくから、食物はいっさいあたえるな、と厳命した。
この理不尽な申し渡しに、若者は反対をとなえたが、その効はなかった。マンフレッドの知友たちも、この乱暴千万な、根拠のない処罰を、なんとか翻《ひるがえ》させようといろいろ手をつくしてみたが、それも無駄におわった。大方の連中は、お上《かみ》のお裁きに一も二もなく、みな感服した。妖術者というものは、御領主さまがお咎めになったような手段によってこそ罰せられるべきものなんだから、お上のお裁きは、りっぱな御正道をお示しになったものだと考えたのである。また、若者が餓死しはしないかということもそういう連中はなんら良心にとがめるところがなかった。なぜかというと、妖術者というものは、自分の持っている妖法魔術によって、栄養は自分の手で容易に補給ができるものだと、堅く信じていたからである。
こんなぐあいに、マンフレッドは、自分の命令がやんやのうちに承服されたのを見たので、番卒を一名任命し、囚人《めしうど》にはいっさい食いものをはこぶことを固く禁じたうえ、知友や家中のものを解散させ、城内には下人婢女《げにんはしため》以外のものはおかせぬように、城の大門に錠をおろさせたのち、ようやく自分の居間にひきとった。
そのあいだに、奥方のヒッポリタは姫たちの手あつい介抱の甲斐あって、ようやく気分もなおり、悲歎にかきくれながらも、殿の様子を案じてなんども問いたずねては、しきりと腰元たちに様子を見せにやりたがっていたが、そのうちにとうとうマチルダに、父君《ちちぎみ》をお見舞いして慰めてまいるようにと、いいつけた。マチルダは父のきびしさを怖れて、親としての情愛を今さら父に求める心はさらさらなかったけれども、イサベラに母のことをやさしく頼むと、すなおに母のいいつけに従った。父の近侍にきいてみると、殿はすでに居間におさがりになって、誰も入室させてはならぬとのきついお達しだとのことに、さては弟の死の歎きにかきくれておいでなのであろうとマチルダは察し、そのようなおりに、ひとり生き残った子の顔など見られたら、かえって涙を新しくされるのではなかろうかと案じられたが、でも父に気がねをすれば母のいいつけにそむくことになるので、彼女は思いきって気をひきたて、父の厳命とやらを破ることにした。
うまれつき内気のおとなしさが、部屋の入口でしばらく彼女をためらわせた。なにやらとり乱した足どりで、父が部屋のなかをあちらへこちらへと歩いているのがきこえた。そのけはいが、いっそう彼女の理解を深くした。ところが、入室の許しを乞おうとしたとたんに、いきなり中からマンフレッドが扉をあけた。あたりは早くもたそがれ時、それに心の乱れも手つだってか、城主はすぐには誰とも見分けがつかずに、「誰じゃ?」とつっけんどんに尋ねた。マチルダはおろおろしながら「お父上、わたくしでござります。娘にござります」と答えると、マンフレッドはあわてて一、二歩下がって「行け行け、娘などに用はない」といいざま、ついと背を向けたとおもうと、すくみあがるマチルダの目の前に、音荒らげて扉をピッシャリ。
マチルダは日ごろの父の癇癖を知っているから、このうえ押してはいることはできなかった。木で鼻くくるよりまだひどい、辛い仕打ちから受けた心の痛手がおさまると、マチルダは母に知られてはまた心配の上塗りをするとおもい、涙をきれいに拭きとって部屋へもどると、母はいかにも気づかわしげに、父君にはお障《さわ》りないか、愛子《まなご》をなくされたことをどのように耐えておいでかと、案じ顔なる矢文《やぶみ》の問い。マチルダは、父上は大事ない、男らしう剛毅なお心で不幸を耐えておいでになります、といって母を安心させた。「して父君には、このわたしに目通りは許して下さらぬのか?」とヒッポリタは声を曇らせて、「この母の歎きをば、つれ添うお人の胸には流させて下さらぬのか? それともマチルダ、そなたこの母を騙《たば》かるのではないか? 殿が若《わか》を慈《いつく》しんでおられたことは、わたしもよう知っている。それを思うたら、殿にはこの上の憂き目はないであろう。その歎きに打ち沈んでおられるのではないのか? ――そなた返事をせぬところを見ると、……ああ、何か恐ろしい凶事が! ……皆のもの、わたしを起こしておくれ。わたしは……わたしは今から殿に会うてきます。さ、早く、早く。わたしを御前へつれて行っておくれ。娘には会わいでも、わたしは御台《みだい》じゃ、妻じゃ、子どもらよりも深い仲じゃ!」マチルダは母を立ち上がらせぬようにと、イサベラに目くばせをする。二人の姫が馴れぬ優手《やさで》に力をこめて、御台《みだい》をとどめしずめているところへ、マンフレッドに仕える召使がやってきて、殿にはイサベラ姫に折り入って御|談合《だんごう》のすじあり、急ぎお召しにござりまする、とつたえた。
「え、わたくしに御談合!」とイサベラが叫ぶと、ヒッポリタは殿からの伝言にホッとして、「イサベラどの、行ったがよい。マンフレッドは家族のものの姿を見るに忍びぬのじゃ。そなたなれば、われらより取り乱すことも少ないと思いやって、殿はわれらの愁歎をおそれておいでなのじゃ。イサベラどの、どうか殿をば慰めてあげて下さい。よいの、われらが行って殿の悲しみをいや増すよりも、わたしはここにいて煩悩をしずめますると、そなた、いうて下さい」
あたりはもう夜になっていたので、案内の召使は松明《たいまつ》をともして、イサベラの先に立った。マンフレッドは画廊のあたりを、待ちかねたように行きつ戻りつしていたが、イサベラが来たのを見ると、ハッとして、「案内の者は灯火《あかり》を持って、退《さが》れ」と急《せ》くようにいって、さて扉を荒々しく締めると、壁ぎわの床几《しょうぎ》にどっかと腰をおろし、イサベラにここへ来て坐れといった。イサベラはいわれるままに、おどおどしながらそばに坐ると、「今、そなたを呼びにやったが……」とマンフレッドはいいさして口ごもり、なにやらひどくおちつかぬ様子である。イサベラが「はい」と答えると、「いや、じつは火急なことがあって、そなたを呼んだ。もう泣きゃるな、姫。――そなたは婿がねを失った。むごい悲運であったのう! わしは世継ぎの望みを失うたぞ! しかし、コンラッドはそなたの美しさには釣り合わぬやつであったよ」「なにをまあ! 殿さま」とイサベラはいった。「殿さまにはこのわたくしを、女子《おなご》のつねの辛気《しんき》をば、思わぬ女とは思召めされませぬのか! わたくしとて日ごろから、義理人情は――」マンフレッドはイサベラにみなまでいわせず「あれのことはもう考えるな。あれは病身の益体《やくたい》もない子であった。神はこのわしに、わが家門の礎《いしづえ》浅からぬことを思えとて、あれをば召しあげ給うたのであろう。マンフレッドの血筋には、かずかずの応護援助があってな。――わしは愚かにも和子《わこ》を偏愛したために、分別のまなこが昏《くら》んだが、今となってみれば、そのほうがなんぼかよかった。わしも一、二年もたつうちには、コンラッドの非業《ひごう》な最期《さいご》を、大手をふって喜べるようになりたいものじゃて」
イサベラのそのときの驚きは、言葉ではとうてい述べることはできない。はじめ彼女は、悲歎のあまりマンフレッドの思慮が乱れたものと解したのであるが、だんだん考えるうちに、どうやらこの妙な話は、自分に|かま《ヽヽ》をかける下心なのだと、イサベラは気づいた。してみるとマンフレッドは、まえまえから自分がコンラッドに気のないことを知っていたのであろうかと、それが気がかりになった。そこでその考えから、彼女は次のように答えた。――「殿さま、わたくしが情にもろいことをお疑い下さいますな。御婚約のことはつね日ごろ、片時も忘れたことはござりませぬ。コンラッドさまは、さだめしわたくしの心づかいを一人占めになされたことでござりましょう。このさき、どのような運命に押し流されましょうとも、わたくしはあの方の思い出をだいじに守り、殿さまと御台《みだい》さまをば父とも母とも思うて――」
「うーん、憎っくきヒッポリタめが!」とマンフレッドは叫んだ。「コレ姫、わしも忘れるほどに、今日今宵この時かぎり、御台のことはすっぱりと忘れてしまえ。そなたはそなたの美しさに釣り合わぬ夫を失ったのだ。そなたの美しさは、わしがいずれよしなに扱うてとらす。病身な子供のかわりに、こんどはズンと男ざかりの夫をそなたに持たせてやるぞ。こんどの相手は、そなたの美しさを大事にする仕方をこころえている男じゃ。子種をたんと授けてやれる男じゃぞ」
「め、めっそうもない! 殿さま。わたくしの心は、たった今おこった、お家の御災難のことでいっぱいでございます。またの縁組のことなど、思いもよりませぬ。いずれ父が戻ってまいり、父も満足しますれば、コンラッドさまの時のように、いかような仰せにもしたがいますほどに、父が戻ってまいりますまでは、どうか今までどおり、こちらさまのお慈悲の屋根の下に置いていただき、御台さまやマチルダさまをお慰めまいらせ、晴れぬ日々をば過ごさせていただきとうござります」
マンフレッドは逆《さか》目立ち、「御台のことは口にするなと、最前も申したではないか。今宵この時より、おこととあれとは赤の他人のはず。それはこのわしも同じことじゃ。――いうなれば、イサベラ、わしは和子をおことにやれなんだによって、わしがおことに身をささげるのじゃ」
「これはしたり!」とイサベラは自分の思いちがいから目がさめて、「なんということを仰せられます。わが君さま! かりにもあなたさまはコンラッドの父御《ててご》さま、わがためにはお舅御《しうとご》、して御貞節なヒッポリタさまの旦那さまでは……」と声をはりあげると、マンフレッドは嵩《かさ》にかかり、「これイサベラ、よっく聞け。ヒッポリタはもはや御台でもない、妻でもない、今宵この時かぎり、縁切ったわい! かれめが石女《うまずめ》に祟《たた》られること年久し。わが家運はかかって男子をもうくるにある。今宵こそは、わが希望は新しき約束をする、首途《かどで》の夜じゃ!」といいながら、マンフレッドは、怖れと驚きに生きた色もないイサベラの冷たい手を握った。イサベラは悲鳴をあげて立ちかかる。それを追おうとマンフレッドが立ち上がるおりしも、天心高くかかる月光が、向かいの窓にこうこうと照りわたるなかに、かの命とりの大兜の大鳥毛が、かれの目のまえにありありとあらわれた。大鳥毛は窓より高くそびえたち、嵐にもまれるごとく、前後左右に揺れうごくにつれて、サワリサワリと音をたてた。イサベラはここぞと渾身の勇気をふるい、マンフレッドのいうことなど恐れるけしきもなく、「殿さま、御覧なされませ。ソレソレあのとおり、神さまはおまえさまの御非道な魂胆に、反対をとなえてでござりまするぞ!」
「たとえ神でも悪魔でも、わが計略に邪魔立てさせてなるものぞ」とマンフレッドは、またぞろ姫をとらえに行く。と、その刹那であった。二人が腰かけていた床几の上にかけてあるマンフレッドの祖父の画像が、ひと息ふかい吐息をついて、胸を高く張った。イサベラはそちらへ背を向けていたので画像の動きを見なかったから、吐息の音がどこからおこったのか知らなかったが、たしかにどこかで息をつく声がしたのにハッとして「お静かに、殿さま! 今の音はなんでござりましょう?」といいつつ、そのまに入口の方へ行きかけた。
マンフレッドは階段口へ逃げかかるイサベラの前に立ちふさがったが、動きだした画像から目をはなせないので、二足、三足イサベラを追いかけたところで、ヒョイと画像をふりかえってみると、こはそもいかに、画像は絵から抜け出して、なにやらきびしい憂いの色をふくみながら、床にスックと降り立った。「わしは夢を見ているのか?」とマンフレッドはあとへ引きかえしながら「それとも天魔|羅刹《らせつ》が寄ってたかって、このおれに刃向かうのか? ――ヤイヤイ、もの申せ、幽霊め! 汝わが祖父ならば、高い代価を払った汝の子孫に、なにゆえあって逆らうのだ?」といいも終らぬうちに、魍魎《もうりょう》はまたもや深い息をついて、マンフレッドにあとについて来いと合図をした。「どこへなりと連れて行け!」とマンフレッドは叫んだ。「地獄の底までついて行こうわ! さあ連れて行け!」魍魎《もうりょう》は陰々と打ち沈んださまで、画廊のはずれのところまでしずしずと進んで行くと、右手の部屋のなかへスーッとはいった。マンフレッドは不安と恐怖でいっぱいであったが、臍《ほぞ》をきめ、すこし離れて魍魎のあとについて行った。そして自分も部屋へはいろうとしたとたんに、扉は見えない手によって、烈しい音をたてて締まってしまった。ひと足ちがいではいり遅れたマンフレッドは、つけ元気を出して、締まった扉を足で蹴破ろうとしたが、渾身の力をこめても扉はビクとも開かばこそ。「どうで悪魔のやつばらが、こっちの洒落《しゃれ》気を受けぬとあらば、わが一門の血統は、人間の力で保ってくれるわい! そうとなれば、こりゃどうでもイサベラは逃がされぬぞ」
さてそのイサベラは、マンフレッドの手は遁れたものの、初手《しょて》の覚悟はどこへやら、ただもう怖いの一心で、大階段の下までは逃げてきたものの、さてそこからどっちへ足を向けてよいやら、あのマンフレッドのがむしゃらから、どうやったら逃げのびられるか、かいもくわからなかった。城の木戸木戸には錠がおりている。中庭には番卒がおいてある。いっそのことヒッポリタのところへ行って、奥方を待っているむごい運命に覚悟の用意をさせてあげようか。しかし彼女は、どうせマンフレッドが自分を捜しにくることは疑わなかったし、それにまた、あのせっかちながむしゃらを避《よ》ける余地をどこかに残しておかないと、あの乱暴な人のことだから、いつなんどきカッとなって、肚《はら》にもくろんでいる損傷を倍にするかもしれない。そのことも彼女は疑わなかった。なんとかしてここを引きのばせば、あの恐ろしいもくろみの胸算用を、考え直させる時間があたえられるかもしれない。すくなくとも今夜ひと晩、あの憎むべき目的が避けられれば、こちらの思う|つぼ《ヽヽ》どおりの事態がうみだせるかもしれなかった。だが、それにしても、どこへ身を隠そうか? 城内くまなく探索する追手の連中を、どうやって避けようか? ……こんな考えが、まるで走馬灯のようにめまぐるしく頭を掠めるうちに、ふっと彼女は、この城の地下倉から、聖ニコラス寺院へ通じる地下道のあったことをおもい出した。そうだ、追手に追いつかれないうちに、あのお寺の祭壇へ行ってしまえば、いくら乱暴非道なマンフレッドでも、まさかあの神聖な場所を汚すようなことはすまい。なに、ほかのどうしても救いの手だてが求められなければ、あすこの尼寺へ逃げこんで、永遠の聖処女たちのなかに、この身を閉じこめてしまえばいい。……彼女はそう心に思いさだめた。尼寺は聖ニコラス寺院のすぐ隣にあった。こう考えがきまると、彼女は大階段の下にともっていたランプを手にさげて、秘密の抜け道をさして急いだ。
城の下層部は、いくつかのこみ入った回廊で、地下へ降りるようになっている。心にかかることの多いおりに、窖《あなぐら》へとひらく戸口をみつけるのは容易ではなかった。地底の世界は、どこもかしこもうそ寒くなるような静けさが領していて、いまくぐってきた出入口の戸を揺する風の音、錆びついた蝶番《ちょうつがい》のギーと鳴る音が、まっくらな長い迷路のなかに木魂《こだま》するほかには、なんの物音もしない。そのしんとした静けさのなかへ、どこか遠くの方でガヤガヤ人声がするたびに、イサベラは新しい恐怖におののいた。それにもまして恐ろしいものに聞こえたのは、家来どもを下知《げち》しているマンフレッドの怒声であった。気のせく心をおさえながら、足音をぬすんでそっと歩をはこびながらも、彼女はときおり足を止めて、もしや追手が来はせぬかと耳をすました。そんなひとときのことであったが、ふっと彼女はどこかで人の息をつく声がきこえたような気がして、思わずギクリとして、二足、三足あとへさがった。とたんに、足音がきこえたように思った。全身の血がいっぺんに凍りついた。てっきり、マンフレッドにちがいないと断定した。恐怖があおりたてるさまざまな妄想が、いちどに頭に吹き上げてきた。――むこう見ずに逃げだしたりして、とんだことをしたと、彼女は後悔した。おかげで、泣いても叫んでも助けも呼べないこんなところで、マンフレッドの怒りに身をさらすようなことになってしまった。
――でも、待てよ、足音はどうやら自分のうしろでしたのではなかったようだ。こちらのいる場所がわかれば、マンフレッドなら当然追いかけてくるはずである。イサベラはまだその時は地下の回廊にいたのであるが、耳にきこえた足音は、彼女がはいってきた通路の先の方でしたのであった。それがわかると、急に彼女はうれしくなった。そして、ここを先へ進んでいけば、城主ではない誰か知った人に会える、と思った。そのとき左手の、すこし離れたところにある入口の扉が、しずかにあいた。イサベラはそっとランプを掲げてみたが、相手が誰だかしかとわからないうちに、その人は灯影《ほかげ》を見るとサッと身をひっこめた。
イサベラはそれこそ、針が落ちてもビクリとするほどだったから、先へ進もうかどうしようかと、迷った。でも、マンフレッドの怖さに比べれば、ほかの怖さなど、なんでもないと思った。だいいち、相手がこちらを避けたということが、彼女に一種の気強さをあたえた。きっとこれは、城にいる家来の一人にちがいないと彼女は思った。自分はふだんから城のなかではおとなしくしているから、自分に敵意をもっている者は一人もいないはずだ。だから、自分を捜し出せと殿にいいつかって追手に出された者ならいざ知らず、それでなければお城に仕える者は、自分の逃げるのを邪魔するどころか、むしろみんな自分に手を貸してくれるはずだと、彼女は自分に落度《おちど》のないことを意識して、そんな希望を持った。そしてその考えで自分を護り固めながら、あたりの様子を見てみると、今いるところは、どうやら地下の洞穴の入口に近いところにちがいないと思われた。そこで彼女は、今しがたあいた戸口の方へソロリソロリと近づいて行った。ところが、扉のそばまで行くと、とつぜん、一陣の風がサッと吹きつけ、あっというまにランプの灯が消えて、彼女はまっ暗闇のなかにとりのこされた。
このときの姫のおかれた立場の怖さ、これはとうてい言葉ではいいつくせない。まっ暗闇のなかにたった一人で、しかもその日起こった恐ろしい出来事は一つ一つ、まだ生《な》ま生まと心に刻まれている。逃げたいにも逃げられる望みはなし、そういううちにも刻々にマンフレッドはやって来そうだし、そのうえ誰だか知らないが、なにかわけがあってそこらに隠れているらしい人の、すぐ手のとどくところに自分はいる。――それを知ったときの彼女の心は、およそ沈着などというものからはほど遠いものであった。乱れた心に思いは千々《ちぢ》に群がりおこり、どうしてよいのやら、いまにも彼女は不安の下にくず折れそうであった。天なる諸聖に自分を訴え、心のなかでもろもろの神々の御加護を一心不乱に祈りながら、かなりの時を彼女は絶望の苦悩のなかに投げ出されていたが、ようやくのことに覚悟をきめて、できるだけそっと扉の方へ手さぐりの手をのばしてみた。そして、入口のありかがわかると、さきほど吐息をつく声と足音がきこえた窖《あなぐら》のなかへ、わなわな震えながら、恐るおそるはいって行った。すると、窖の天井から、雲間をもれたおぼろな月のかげがさしこんでいるのが見えたので、彼女は一瞬、はかない喜びのようなものをおぼえた。どうやらこの窖は、陥没でもしたものとみえて、地面だか建物の一部らしいものがめりこんでいるところを見ると、中へ崩れ落ちたもののようである。その割れ目のあるほうへと夢中ですすんでいくと、ついそこの壁ぎわに、ぴったりと身をよせて立っている人の姿が、ぼんやりと見えた。
イサベラは、てっきり自分の許婿《いいなづけ》のコンラッドの亡霊が出たものと思って、キャッと悲鳴をあげた。するとその人影が、ついと進み出てきて、押し殺したような低い小声で、「コレお女中、驚くことはねえ。おめえさまに危害を加えるようなものではねえだから」といった。イサベラは、見ず知らずの男のいうことと、声の調子にいくらか励まされて、さっき扉をあけたのはこの人にちがいないと思って、返事をする勇気をとりもどした。「どなたさまかは存じませんが、破滅の瀬戸ぎわに立っている哀れな姫に、御憐憫のほどを。どうかお手を貸して、この命とりのお城から、わたくしを逃がして下さいまし。でないと、あと数刻のうちに、わたくしは永久にみじめなものになってしまいます」
「ハテサテ弱ったのう!」と見知らぬ男はいった。「わしにおめえさまを助けてやれるかのう? おめえさまを守るためなら、おいらは死んでもかまわぬが、なにせこの城は、おいらはからきしの不案内。それに――」イサベラは相手のことばを奪って、「いえいえ、たしかこのあたりにあるはずの、揚げ戸を捜して頂くだけで結構でございますから、お手を貸して下さいまし。それを見つけて下されば、大助かり。もう一時《いっとき》もぐずぐずしてはおられませぬ」といいながら、イサベラは床の敷石を足でまさぐり、相手にも捜してもらうようにしむけながら、この敷石のどこかに打ちこんである真鍮の金輪を捜した。「錠前でござります。揚げ戸をあける錠前でござります。あけかたは知っております。それが見つかれば、逃げられます。見つからないと、あなたさままで巻きぞえに。――マンフレッドはかならずあなたさまのことを、わたくしの逃亡に同腹の者と思うにちがいござりません。そうなれば、あなたさまはマンフレッドの遺恨の犠牲に――」
「おいらは命なんか惜しかねえ。ことに、おめえさまをあの暴君の手から救うためなら、喜んで命を投げ出しやす」
「テモマア、お心のひろいお方! なんとお礼を申してよいやら――」というおりしも、崩れ落ちた天井のすきまからさしこむ一条の月かげが、二人の捜す錠前の上をまっすぐに照らし出した。「やれ、うれしや、揚げ戸はここに」イサベラは手早く鍵をとりだし、錠前の弾機《ばね》にあてがうと、弾機は横にピンとはねて、鉄の輪があらわれた。「この戸を上にあげて」とイサベラがいうままに、見知らぬ男は揚げ戸を上へあげると、その下に、まっくらな地下道へ下りる階段が見えた。「さ、ここを下りましょう。わたくしのあとについて。暗くて、ものすごいところでござりますが、道に迷うことはございません。ここをまいると、聖ニコラス院へまっすぐに出られます」とイサベラは相手を促がしたが、「でも、あなたさまはお城をお出になることもなし、わたくしももうお手を拝借することもございません。もうあと数刻で、マンフレッドの乱暴からぶじにのがれることができます。このうえは、どうか御恩をこうむりましたあなたさまのお名前を」
「おいら、おめえさまを安全な場所へおくまでは、けっして手放しにはしねえよ」と見知らぬ男は熱心にいった。「おめえさまのことは何よりも気がかりだが、でも、心のひろい男だなどと買いかぶらねえで……」といいかけて、男はにわかにこちらへやってくるらしい人声に、言葉を切った。まもなく、二人の耳に、こんな言葉が聞きとれた。
――「妖術者のことなど、聞きともないわい。よいか者ども、姫はかならず城内におるぞ。妖術魔術などいかほど用いようとも、きっと見つけだしてくれようわ!」
「や、あの声はマンフレッドの声。ささ、急ぎましょう、急ぎましょう。さもないときはこの身の破滅。さあ、あとの揚げ戸を締められて――」といいながら、イサベラは足早に石段を下りていく。男も急いでそのあとを追おうと、うっかり揚げ戸を手からはなすと、揚げ戸は落ちて元どおり、弾機《ばね》はその上にピンと下りた。いくらあけようとしてみても、戸はもうあかなかった。先刻イサベラが弾機をいじった時に、手もとをよく見なかったし、錠のかかりぐあいを見ておくひまもなかったのである。この揚げ戸の落ちる音を聞きつけたマンフレッドは、手に手に松明《たいまつ》をもった家来どもをひきつれて、音を目あてにこちらへやってきた。
「いま聞こえたあの音は、イサベラにちがいない」とマンフレッドは、地下倉へはいらぬ先から大声をあげて、「姫め、地下道をつたって逃げおるが、まだ遠くまで行くまい」とがなりたてた。ところが松明のあかりに、図らずもそこに見つけたのは、さきほどかの不吉な兜の下に縛っておいた、例の百姓の若者だったから、イヤ驚いたのなんの!「ヤ、ここな裏切り者めが! きさまは一体どうしてここへ? 上なる中庭にくくりおきしと思うたに!」
「おら、裏切り者でもなんでもありゃしねえ」と若者は悪びれずに答えた。「勝手にそっちで考えてることには、返事はできましねえ」
「うぬ猪口才《ちょこざい》なやつ! 余が立腹をけしかける気か? キリキリ申せ、上からどうして逃げてきたのじゃ? スリャ番卒どもに賄賂《まいない》をかませたな。さすれば彼奴《きやつ》らが命を引換えに吐かしてくりょう」
若者はおちつき払って、「この貧乏じゃ、賄賂もできぬわ。虎の威をかる手先の衆は、みんな殿さまに忠義だてをするだろうが、いくらなんでも嘘で固めたいいつけには、そうそういい顔しちゃあ従えますめえ」
「ウヌ、どこまでも予の返報に立てつく気か? この上は拷問にかけて、実を吐かしてくれるぞ。さあ申せ、同腹のやつらを明かせい」
「同腹の者はつい今そこにいましたぜ」と若者はニヤニヤしながら、天井を指した。マンフレッドが「ソレ灯火《あかり》を」と松明《たいまつ》を高くかかげるように命じると、かの怪しい兜の頬立《ほおだて》の一枚が中庭の敷石をつらぬいて、天井にめりこんでいるのが見えた。これはさきに、下人《げにん》どもがかの兜を百姓の上に転《こ》かそうとしたおりに、兜が地下倉を壊してめりこみ、そこに割れ目をつくり、百姓はその割れ目をくぐって地下にもぐりこんで、まだ間《ま》もないところを、イサベラに見つかったのであった。
「その方が下りたのは、その道だったのか?」とマンフレッドはいった。「そのとおり」と若者はいった。「しかし、回廊へはいったおりに聞こえた音は、あれは何の音じゃ?」
「そういえば、どこかで戸がバタンと鳴ったな。それはおいらも聞いた」
「どこの戸だ?」
「おいらはお城の勝手は知らねえし、城へはいったのは生まれて初めて。この地下倉もはじめてだ」
「しかし、よく聞け」とマンフレッドは、若者が揚げ戸を見つけたかどうかを聞き出したいと思って、「おれが物音を聞いたのは、この方角であったぞ。家来どもも聞いたぞ」家来の一人がおせっかいに横合から、「殿、あれはたしかに揚げ戸の音、こやつ逃亡いたす魂胆で――」
「黙れ黙れ、たわけが!」とマンフレッドは叱りつけて、「逃げるつもりなら、どうしてこんな方へくる? おれが聞いた音が何の音であったか、おれは本人の口から聞くのだ。さあ、まことを申せ。そちの一命は、そちの正直一つにかかることだぞ」
「おいらには正直は命より大事でがす。取り返《け》えっこするのは、御免こうむりだ」
「なるほど、若いに似合わず賢いやつじゃな」と城主は嘲り顔に、「しからば、なんの物音だったか申せ」
「殿さま、おいらに答えられることを聞いてくんろ。おいらが嘘こいだら、首|吻《は》ねたらよかっぺさ」マンフレッドは若者の剛毅と平然たる態度に、ジリジリしてきた。
「うん、よし。しからば正直者、返答せい。おれが聞いた音は、あれは揚げ戸の落ちた音か?」
「あい、その通り」
「ナニその通りだと! しからば、どうして揚げ戸のここにあることが知れたのだ?」
若者は答えた。「お月さんの光で、真鍮板を見ただ」
「しかし、錠前のあることを何者に教わった? 錠前のあけ方がどうしてわかった?」
「アハハ、おいらをあの兜から助けて下すった天道さまが、錠前のバネをおしえてくれなすっただ」
「天道ならば、いま少々先を越して、おれの怒りのとどかぬところへ貴様を置きそうなものだが」とマンフレッドはいった。「おおかた天道は、貴様に錠前のあけかたを教えたとおりに、こやつは天道の恵みの使いかたを知らぬうつけ者と思って、貴様を捨てたのであろうよ。その方、なぜそのおり、せっかく知った逃げ道を逃げなんだのだ? なぜ石段を下りぬうちに、揚げ戸を締めたのだ」すると、若者はたずねた。
「殿さま、そんでは聞くべえが、ここのお城を知らねえおいらに、石段を下りたらどこへ出られるか、どうしてわかるかね? まあしかし、せっかくの殿さまのお尋ねを、はぐらかすのはよしますべえ。ここの石段がどこへ出る石段だろうと、おら、逃げ道はさがせたはずだ。絶好の立場にいただものな。しかし実際は揚げ戸を落としただ。追手がすぐそこまで来たからよ。おいら、警告をあたえてやった。一刻早いか遅いかが大事の瀬戸だったでのう」
「年の若いにしては腹のすわった悪党だぞ。しかし考えてみると、貴様このおれをからかっておるようだな。それが証拠には、錠前のあけかたをまだ答えておらぬぞ」
「お安い御用だ。見せてやるべえ」と百姓はいって、さっそくそこらに落ちていた石ころを拾うと、揚げ戸の上にどっかりと|あぐら《ヽヽヽ》をかいて、戸に張ってある真鍮板をコツコツ石ころで叩きはじめた。こうして、姫の逃げる時間をいくらかでもかせぐつもりだったのである。腹蔵のない若者の正直さに加うるに、このおちつき払った肝《きも》の太さに、マンフレッドはややたじたじの形であった。かれは罪もないのに罪に落とした男を許すほうに心が傾くのを覚えさえした。一体マンフレッドという男は、正当な理由もない残虐を恣《ほしいま》まにするような、野蛮な暴君ではないのである。運命の事情がかれの気質に邪慳なものを与えたのであって、本性はごく人情にあつい人間なのであった。激情が理性を曇らさないときには、かれの徳性はいつでも働きだす用意があったのである。
城主がどっちつかずの中ぶらりんの気持でいるところへ、地下倉の遠くの方から、ガヤガヤと騒がしい人声がひびいてきた。だんだんこちらへ近づいてくるにつれて、その声はイサベラを捜しに城内にばらまかれた家来どもの騒ぎの声とわかった。「殿はいずれに? お館《やかた》さまはいずれに?」と呼んでいる。「ここじゃ、ここじゃ」とマンフレッドは、面々が近くへやってきたのでいった。「姫は見つかったか?」一番がけにやってきた者が答えた。
「これはこれは、殿さまが見つかって御恐悦」
「ナニおれが見つかったと。姫が見つかったかと尋ねておるのだ」
「ヘイヘイ、それがその、姫君さまを見つけたと思いしところ――」と家来はなにやら怯えている様子。
「いかが致した? 逃げたのか?」
「ヘイ、手前とジャケズの両人が――」
「ヘイヘイ、手前とディエゴの両人が――」とあとから来たのが横から出しゃばるから、
「コレコレ、一度に一人ずつ申せ。姫はどこにおるかと尋ねておるのだ」
「それがいっこうに知れませぬ」と二人の家来は声をそろえて、「イヤモウ気を失うほど吃驚《きっきょう》いたしおります」
「大方そんなことであろう、たわけめらが。して、なんでそのようにコソコソと逃げもどったのじゃ?」
「ヘイヘイ大殿さま、じつはこのディエゴめが、お殿さまのお目にはとてもとても信じられぬようなものを見ましてな」
「ハテ、またしてもそのようなたわけたことを。まっすぐに返答せい。さもないときは――」
「まあまあ、やつがれの申すこと、一通りお聞きなされて下さりませ。このディエゴとわたくしが」
「ハイハイ、わたくしとこのジャケズとが――」
「コレ、先ほど両人一度に物申すなというたではないか。さらばジャケズ、その方答えろ。今一人のたわけ者は、そちより頭が狂っておるようじゃ。して事の次第は?」
「ハイハイお殿さま、御下問ありがたく存じ上げまする」とジャケズがいった。「ディエゴとわたくしめは、君の御下命により姫君さま御探索にまいりましたるところ、若君いまだ御埋葬の式も受け給わねば、魂魄|中有《ちゅうう》に迷いたまい、われら両人、若君さまの御亡霊に出会いしものと――」
「黙れ、酔いどれ!」とマンフレッドは烈火のごとく憤って、「貴様らが見たのは、ただの幽霊じゃ。なんじゃ、幽霊の一つや二つ――」
「いえいえお殿さま、一つや二つならよろしゅうございますが、われらは十も見ましたので」
「エイエイもう我慢がならぬわ! こんな頓馬《とんま》を相手にしていては、こっちの頭まで狂うてくるわ。ディエゴ、下がりおろう! さてジャケズ、一言でいえ、その方は正気か乱心か? 先には正気であったか? 相棒のかれめは吃驚したと申すが、きさまもか? かれめが見たと申すのは何なのか、すみやかにいうてみよ」ジャケズはガタガタ震えながら、
「ヘイヘイ、それでは申しあげますが、若君御不慮の御最期にて、日ごろ忠義の家中一統、はしたのわれわれにいたるまで、なにとぞ御魂《おんたま》安かれと祈らぬものはござりませぬ。ところが、その御家中一統が、二人ずついっしょに組みませぬと、お城のまわりをよう歩かないしまつでございます。さきほどもディエゴとわたくしが、姫君さまは広間においでのことと存じ、そちらへ捜しにまいり、殿が姫君になにかお話がおありだと――」
「黙れ、たわけが! 貴様たちが、化け物などを怖れているから、そのすきに姫は逃げたのだ。たわけめが! おれは廊下で姫と別れた。おれはそこから一人で来たのだ」
「ソレソレ、そういうことなれば、姫君はまだそこらにおられるはず。しかし姫君をそっちへ捜しにいかぬうちに、どうやらこっちは魔のとりこになりそうだわい。不便《ふびん》やディエゴは、まず本復はおぼつきませぬて」
「本復とは何のことだ。貴様らを怯《おび》やかしたものはいっこうにわからぬ。いや、埒《らち》なきことで大きに手間どった。者ども、続け。廊下に姫がおるか、見てまいろう」
「ヤアこれはしたり、わが君さま」とジャケズが叫んだ。「そのお廊下へお成りは平《ひら》におとどまりを。あのお廊下の隣のお部屋には、魔性のものがおりまする」
いままで家来どもの恐怖は、いわれもないただの騒ぎとあしらっていたマンフレッドは、この新しい事実にギックリした。あの画家の魍魎《もうりょう》、廊下のはずれの部屋の戸がにわかに締ったあの不思議。マンフレッドは思わず声がふるえ、心乱れて、「あの部屋に何がいるのだ?」とたずねると、ジャケズが答えた。
「はいはいお殿さま、ディエゴとわたくしめがあのお廊下へまいりますと、――ディエゴのやつはわたくしより豪胆ゆえ、先に立ってまいりましたが、さてお廊下へはいってみれば人影なく、床几の下やお調度のかげを隈《くま》なく捜しましたが、誰もおりませぬ」
「画像はちゃんと掛かっておったか?」
「はい、掛かっておりました。でも、額の裏まで見ることは考えませなんだ」
「よしよし、先を申せ」
「で、お部屋の口まで行ってみますと、扉が締まっておりました」
「その扉は明けられなんだか?」
「ヘイその通りで、どうやっても明けられませぬ。いえ、明けられなかったのはわたくしではなく、ディエゴでござりました。あいつ馬鹿なやつで、わたくしが止せと申すのに、意地になってなんでもかんでも明けようといたしましてな。わたくしはどうせまた締める戸を明けたところでと」
「下らぬことをつべこべと。それより扉を明けたときに、部屋の中に何を見たと申すのだ」
「はい、それが殿さま、わたくしはディエゴのうしろにおりましたゆえ、なにも見えませなんだが、物音が聞こえました」マンフレッドはキッとなって、
「これジャケズ、余は先祖の諸霊にかけて厳命するぞ。その方が見たのは何、耳に聞いたのは何か、包まず申せ」
「ヘイ、見ましたのはディエゴのやつで、わたくしではございません。ディエゴは扉を明けたとたんに、キャッと叫んで、夢中でもと来た方へ逃げだしましたゆえ、わたくしも夢中で駆けもどりながら、『出たのか、幽霊が』と尋ねますと、『幽霊? 違う違う』とディエゴは髪の毛を総立ちにして、『大入道だ。鎧《よろい》を着てな、足と脛《すね》とを見ただけだが、まず中庭の兜ほどもある大入道だ』と申すとたんに、お部屋の方で、なにやら烈しい動きと鎧のガチャガチャ鳴る音。さてはディエゴが見たという、長々と足腰のばして寝ていた大入道が立ち上がったナと、あとをも見ずに一目散、お廊下のはずれまで行くか行かないうちに、お部屋の扉がバタンと締まったのを聞きましたが、イヤモウその怖かったの何の。大入道があとから追いかけてくるかどうか、とても振りかえって見られず、もっとも追いかけてくれば足音が聞こえたはず。とにもかくにもお館《やかた》さま、なにとぞここは一つ、お城のお上人さまをお召しになって、魔物がついたにちがいない、お城のお祓《はら》いをお願い申し上げまする」
「エーイ、なにとぞ上《うえ》様、よしなにお願い申し上げまする。さもない時はわれら一統、殿への御奉公もなりかねまする」と家来一同、みなみな口をそろえて言上した。
「鎮《しず》まれ、腰ぬけども。おれについて来い。怪しき正体見とどけてくれるわ」すると、家来どもは異口同音に、
「イヤモウ滅相もない! いくらお碌《ろく》のためとはいえ、あのお廊下ばかりはお供ができませぬ」
そのとき、先刻から黙ってつっ立っていた、かの百姓の若者が口をききだした。「殿さま、景気のいいその乗っ込みを、おいらにやらして下せえ。おいらの命は誰にもかけかまいのねえもの。悪魔が来たって怖かあなし、善魔が来たって咎めをうける筋はねえというもんだ」マンフレッドは驚き入りつくづく感に堪えつつ若者を見やって、
「ホ、見かけによらぬ振舞いじゃな。嚮後《こうご》、その方の勇気にはきっと酬いてやろうが、今日のところはちと仔細あって、おのれの目で見ねば納得がいかぬのじゃ。もっとも、そちがいっしょに来るというなら、そちの勝手じゃが」
マンフレッドは、先にイサベラを二階の廊下で追いかけたときに、あれからすぐに、ヒッポリタがすでに部屋に引きとったかどうか、御台の部屋へ様子をたしかめに行ったのである。ヒッポリタは夫の足音と知って、わが子が亡くなってからまだいちども顔を見ていない夫が心配で、ぜひ会いたいとの思いで、いそいそと立ち上り、うれしいやら悲しいやら、夫の胸にくずれ折れかかるのを夫は手荒く突きのけて、
「イサベラはどこじゃ?」ヒッポリタは呆れた体《てい》で、「イサベラはどこにとえ?」
「そうじゃ、イサベラじゃ。イサベラに用がある」と相も変わらぬ権柄《けんぺい》声に、マチルダはいつもの父の振舞いがまた母に歎きをあたえてはとハラハラしながら、
「お父上、イサベラはさきほど父上がお部屋へお召しになってから、ここにはおりませぬ」
「どこにいるか教えろ、どこにいたかを聞いておるのではないわえ」
ヒッポリタも見かねて、そばから口を添えた。
「わが君、マチルダの申すのは真《ほん》のこと。おまえに召されて、ここを出たまま、まだ戻っては来ませぬ。さあさあそのことよりも、わが君にはお心静めて、早や早や御寝《ぎょしん》遊ばしませ。不吉かさなる今日《きょう》いちにち、さぞお心乱れてござりましょう。イサベラには明朝お召しを待たせましょう」マンフレッドは声荒らげ、
「なに、さては姫のありかを知ってよな、さあまっすぐに申し立てい。一刻の猶予もならぬのじゃ」と御台にむかい、「ヤイそこな女、即刻、寺の坊主めに出仕するよう、いいつけよ」ヒッポリタは詞《ことば》しずかに、
「今宵はイサベラも、はや部屋へ退《さが》ったことでござりましょう。このような夜更《よふ》かしには慣れませぬゆえ。――したが、わが君には、なんでまたそのようにおいらだち? イサベラがなんぞ逆らいましたのか?」
「つべこべと、いらざる問い立て煩わしいわえ。それより姫のありかを――」
「そんなら、マチルダに呼んで来させましょう。ま、お坐りなされて、いつものようにどっかりと落ち着かれたがよいわいの」
「ナニナニ、さてはおこと、イサベラとの会見に立ち会おうというのじゃな。すりゃイサベラを嫉《や》きおるのじゃな?」
「これはしたり、わが君、今のお詞《ことば》のこころはえ?」
「エエ先ほどよりよほどの時がたつ。このうえは坊主を呼んで、吉報を待つとしよう」といい捨てて、マンフレッドはイサベラを捜しに、そそくさと部屋を出て行った。あとに母娘《おやこ》は顔見合わせ、夫のことばと狂気のそぶりに呆れながら、男ごころが何をたくらむのか、見当がつかぬ思いであった。
さて、マンフレッドはかの百姓の若者と、いやがる家来数人をむりやり引きつれて、地下倉から戻ると、すぐにその足で大階段を一気にのぼって、二階の大廊下へまっすぐに行った。すると、廊下の入口のところで、ヒッポリタと牧師に出会った。じつは、さきほど家来のディエゴは揚げ戸のところで、ひと足先に殿の前をさがると、自分が見たものの驚きをヒッポリタに告げに、御台《みだい》の部屋へ飛んでいったのである。御台は殿と同じように、魍魎《もうりょう》の実在を疑ったが、それはおまえたちの気の迷いで、そのようなものが見えたのであろうと、一応とりなしておいた。しかし、この上さらに夫に衝撃をあたえてはと、彼女はそれを気づかって、もし今、運命が一家の破滅をきめつけているものなら、まだまだどんな悲しいことが続出してこまいものでもない、そのときの用意におろおろしない覚悟をして、自分がまっさきに犠牲になろうと臍《ほぞ》をかためた。そして、お母さまといっしょにいるときかなかったマチルダを、不承不承《ふしょうぶしょう》に寝かしにやり、自分は牧師だけをつれて、大廊下と部屋の検分にきたのであった。そんなわけで、彼女は数時間前よりはずっとおちついた心持になって、いまマンフレッドと出会って、家来から聞いた大入道の足とやらは、あれはみんなたわいもない作り話、さらでもない夜ふけの暗がりで、怖い怖いの一念から、家来どもの心に映じたまぼろしにちがいないと断言した。そして問題の部屋を牧師といっしょに調べてみて、なにもかもふだんと変わりのないことがわかった。
マンフレッドは御台と同じように、まぼろしは妄想のしわざであったことがわかって、今日一日、いろんな思いがけない出来事から受けた心の動揺が、すこしおさまってきた。そうなると、イサベラに道ならぬことをしかけた自分の行為が恥ずかしくなった。どんな辱しめを受けても、そのたびにやさしさと義理の新しいしるしを返してくれた姫のすなおさ、それを思うと、おのずから目のなかに恋しさが戻ってくるのを覚えたが、それだけに心の奥では、ますます苦い憤りを含んでいる人に対して悔いを感じる良心もなく、自分の欲望を抑えるのが精いっぱいで、可哀そうだなどという気持にはなろうともしなかった。そういうかれの心は、次は巧妙な悪事をたくらむことに移って行った。ヒッポリタのあの大|磐石《ばんじゃく》ともいいたい柔順さを考えると、離別だって忍んで黙従するだろうし、いやそればかりか、それが夫の喜びならば、おれと夫婦《みょうと》になれとイサベラを口説くことにも、いうままに従うだろうと、マンフレッドはうぬぼれたのである。
だが、それにしてもこの恐ろしい望みを思いのままにするには、とにかくイサベラを見つけ出さなければ、とかれは考えた。そこでわれに返ると、かれは城へ出入りの大手、搦《から》め手、要所要所を厳重に警備することを命じ、城中の者は苦しかろうが、命をかけて城の外へは一人も出さぬようにと、それぞれ人数を配置した。かれは例の百姓の若者にも愛想のいい言葉をかけて、階段の上の小部屋でやすむように命じた。小部屋には、わらぶとんを敷いた寝台がそなえてある。マンフレッドは小部屋の鍵を自分で持ち、明朝また話をしようと若者にいった。それから従者たちを退《さ》げさせ、ヒッポリタに怖い目をしてうなずくと、自分の部屋へ引きあげて行った。
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第二章
マチルダは母ヒッポリタのいいつけで、自分の部屋にさがったものの、おちおち心もおちつかず、とても床にはいるなどという気にはなれなかった。弟の非業《ひごう》の最期《さいご》が彼女の心をふかく揺りうごかしていたのである。それにしても、イサベラの姿の見えないのが不審であったが、さきほど父がもらした妙な言葉、それとあの怒り猛《たけ》った振舞い、えたいの知れぬ母君への威《おど》しよう、それがおとなしい彼女の心を恐れと驚きでいっぱいにしていた。
イサベラの様子を聞かせにやった、若い腰元のビアンカが戻って来るのを待ち遠しく思っているところへ、まもなくビアンカが戻ってきていうには、女中たちに聞いたところによると、イサベラ姫はどこにも見えないとの話。ビアンカは女中達のとりとめもない話に尾鰭《おひれ》をつけて、お城の地下倉で見つかったという若い百姓の話だの、ことに二階の大廊下のお部屋で見たという、大入道とやらの大きな足のことなどを、くどくど語った。この怪しい大入道の話は、ビアンカもだいぶ怖かったものだから、マチルダが今宵はとても眠られそうもないから、母君がお目ざめになるまでわたしは起きているといったときには、鬼の首でもとったように喜んだ。
マチルダは、イサベラの逃げたこと、また父マンフレッドの母への威嚇について、さんざん気をまわして考えに考えあぐねた末に、いった。「それにしても父上は、御神父さまに、なんの火急の御用がおありなのだろうねえ? 弟コンラッドの亡骸《なきがら》を、こっそりお寺へはこばせるおつもりなのかしらねえ?」すると、ビアンカが膝をたたいて、
「オオソレソレ、姫君さま、当てましょ当てましょ。……ハテ読めましたぞえ。――殿さまが和尚さまをお呼びのわけはな、おまえさまもいよいよこれでお家のお跡目なれば、お父君にはおまえさまにお婿とりの御相談でござりまするぞえ。日ごろから御男子《ごなんし》をほしがっておいでのお殿さま、こんどはお孫さまのほしいはお請け合い。……オオマア、これでようやくわたくしも、おまえさまの花嫁すがたが拝《おが》めまするな。どうぞ姫君さま、こののちともにこの忠義なビアンカをお見捨て下さいますな。……イヤモウそうなれば、おまえさまは押しも押されぬお后《きさき》さま。どうか意地悪なドンナ・ロザラのようなお局《つぼね》などは置いて下さりまするな。今からこのとおり、きっとお頼みお頼み」
「まあビアンカ、いつもの癖の早合点。わらわが后じゃなどと、埒《らち》もないことを。――弟コンラッド亡きあとのお父上の振舞い、すこしはこちにおやさしくなられたと、そもじは見やるかえ?……いやいや、お父上への愚痴はいうまい。たとえ神様は、父上のお心をわらわの上には閉じられようと、わらわの拙ない天分は、母上のおやさしいお心のなかに開いて下さるはず。そうじゃとも、そうじゃとも。父上のあの御癇癖、わらわに辛くあたる父上の無慈悲は、なんぼでも忍ぶけれど、あのいわれもない母上へのひどい仕打ち、あれを見ると、もうもうこの胸が痛うなって……」
「オオ姫君さま、とかく殿御というものは、妻女房に倦きますると、みなあのような仕打ちをするものでござります」
「オヤ、それでもそもじたった今、父上がわらわに婿がねをとらせるというて、祝着したではないかや」
「イエナニ、姫君さまは別でござります。わたくしの大事な大事な姫君さまは、どんなことがござりましょうとも、この忠義なビアンカが、きっと偉《えら》ァい奥方さまにして御覧に入れまする。ひと頃そんなお心が萌《きざ》されたように、尼寺なんぞでキナキナなさる姫君さまは、トント見とうもございませぬ。たとえ性悪《しょうわる》な夫《つま》じゃとて、持たぬより持つがましじゃとは、母君さまが骨の髄からよう御承知のはず、なんで止め立て遊ばすはずもなし。――アレッ、あの音は何の音? ハア桑原桑原!」
「コレ、またそのような転合《てんごう》を。あれは物見の|はざま《ヽヽヽ》を、風が吹きぬける音じゃわいの。耳に|たこ《ヽヽ》のできるほど聞いた音ではないか」
「ほんにわたくしとしたことが……べつに悪いこというたではなし、御縁組の話が何の罪になりましょ。――そこで姫君さま、今も申したように、もし殿さまが美しいお婿殿をおすすめ遊ばしても、おまえさまはお父上の御好意をふり捨てて、わたしゃ尼になるわいなと申されまするのか?」
「その心配はいらぬこと。そもじも知ってのとおり、殿方よりのこちへの申し出は、今までなんども父上がお断わりじゃ」
「それをおまえさまは、さも孝行娘のように、アイアイとありがたがっておいでのか? 阿呆《あほ》らしい! まあまあお聞き遊ばせ。まずもって……こうっと、オオソレソレ、かりに明朝お父上が、おまえさまを御評定《ごひょうじょう》の間《ま》へお呼び出しになりまする。お父上のわきには、水の滴るような、それはそれは美男子の御公達《ごきんだち》が控えておいでになりまする。ぬば玉の黒目もすずやかな、白いお額のすっぺりとした、イヤモウ男らしい黒々とした波うつお髪《ぐし》。ソレいつもおまえさまが長々とお坐りになって見とれておいでの、あの大廊下のアルフォンゾ様の絵姿に似も似たり、瓜二つといいたいくらいの若勇士」
「コレ、あの絵のことを軽々しうにいやるまいぞ」とマチルダは腰元のいうのを遮って、溜息をつき、「なるほど、あの絵姿に見とれるわらわのあこがれは、そもじも知る通り並々ではないけれど、まさか絵に描いた姿に惚れやせぬわい。あの徳高いお方の御気性を、母君はいこうに尊ばれて、くさぐさの昔語りにわらわを励まして下さるが、なぜか知らぬが母君は、よくあの方の御墓所の前へわらわを連れて行《い》て、お祈りをささげられたものじゃ。それやから、わらわの運命《さだめ》はあのお方と、切っても切れぬ御縁があると知ったのじゃ」
「シテその御縁とは、どのような? かねがねこちらさまの御一門は、あの方とはかかわりがないと伺っておりまするが、御台さまが雨ふり風間《かざま》に、朝早うからおまえさまをお連れ遊ばして、あの御墓所へ御参拝なさるわけが知れませぬ。アルフォンゾ様は、暦の上にも御聖人にはのっておらず、おなじ日参遊ばすなら、聖ニコラス様へいらっしゃればよいものをなあ。ニコラス様はほんの御聖人、わたしゃいつも縁結びの願をかけておりまする」
「そのわけを明かしたら、わらわの執心がさめるとでも母君は思召しなのであろう。われながら、なぜこのように執心するのやらみずからにもわからねど、母君がわらわの執心を御存じなのが、いっそ不思議なくらいじゃ。もとより気紛れになさるはずもないことゆえ、なんぞ母君の御心底には、のっぴきならぬ秘密がおありなさるにちがいない。それが証拠には、弟の不慮の死を歎かるる言葉のはしばしに、ふいと洩らされたことがあった」
「そのお言葉とはどのような?」とビアンカが腰をのりだすと、マチルダは、
「いやいや、親御が洩らされた言葉をいえといわれても、それはいわれぬ」
「すると御台さまは、それをいうたことを悔《くや》んでおいでのか?……エエモウ、姫君さまにはこのわたくしを、御信用下さりませぬのか?」
「わらわにある秘密なら、そりゃ何なりとそもじに明かそうが、母君のお心は明かされぬ。子というものは、親御の指図するほかは、目も耳も持ってはならぬものじゃ」
「マアマア、姫君さまはお生まれながらの御聖人。ほんに人それぞれの行く道には、関は立てられぬものにござりまするなあ。しょせん、おまえさまは尼寺入り。でも、あのイサベラさまが何でもこちらに打ち明けて下さるから、よいわいの。あの姫《ひい》さまはな、こちに殿御の話をせいなどとおっしゃりましてな、いつぞやもお城へよい男ぶりの若武者がまいったおり、ああ、コンラッドさまも、せめてあの武者に似ていたらなどと、そんなお話も出たくらい――」マチルダはそれを聞くと、急に気色《けしき》ばんで、
「これ、ビアンカ、そもじわらわのお友だちを蔑《なみ》することは許さぬぞよ。イサベラさまはあのとおりのカラリとした、御闊達なお気性なれど、心は高邁《こうまい》なお方じゃ。さだめしそなたの転合《てんごう》なおしゃべりをご存じで、ときにはそれに水を向け、日ごろ父上が守りきびしう籠《こ》めておられる心の憂さ晴らし、寂しさを紛らされるのであろう」その時またもやビアンカは、飛び上がるようにびっくりして、
「ハア、マリヤ様マリヤ様、またしてもあの音が! 姫君さまはなにも聞こえませぬか? アア怖《こ》わや、このお城には幽霊が!」
「これまあ、騒ぎゃるな」とマチルダはたしなめて、「なるほど、なにやら声が聞こえたようでもあるが、ナニ気のせいじゃ。そもじの怖がりが、こちにも移ったのであろう」ビアンカは半分泣きべそになって、
「じゃと申して姫君さま、たしかに声が聞こえましたぞえ」
「この下のお部屋に、誰ぞ寝ていやるか?」
「はい。まえかた、コンラッドさまのお師匠さまで、身投げをなされた星占いの先生がお泊りになってから、下のお部屋には誰一人寝るものはおりませぬ。きっとあの先生と若君さまの幽霊が、下のお部屋でお出会いになり……オオ怖《こ》わ怖わ、サ、早う母君さまのお部屋へ逃げてまいりましょうぞえ」
「コレ、そうバタバタと騒ぐでない。もしも苦しみ悩む幽霊ならば、わらわがそのわけをよく尋ねて、幽霊の苦しみをらくにしてやりましょう。かくべつ幽霊は、われらに危害《あだ》をするつもりはないはず、むこうが危害《あだ》をするつもりなら、よそのお部屋へまいるよりも、ここにこうしているのが身の安全。ビアンカ、お数珠《じゅず》をとってたもれ。サアサアお祈りをしたうえで、幽霊に話してみましょう」
「まあまあ姫君さま、幽霊に話をするなどと、真平《まっぴら》でござんすわいな」ビアンカが声高でそういった時、マチルダのいる真下の部屋の窓が、ギーと明く音が聞こえた。二人が耳をそばだてて聞いていると、誰やら歌をうたうのが聞こえた。しかし、歌の文句ははっきり聞きとれなかった。マチルダは小さな声でビアンカにいった。
「あれは幽霊ではないぞえ。きっとお城の誰かにちがいない。そこの窓をちゃっと明けてごらん。声がわかろうほどに」
「とてもとても、そのようなことは――」
「そもじもよっぽど馬鹿じゃなあ」といってマチルダは自分で立って行って、部屋の窓をしずかに明けはなった。すると、その音が下の人に聞こえたとみえ、歌声がハタリと止んだ。二人は、やっぱり窓を明けた音が下に聞こえたのだと判断した。
「下に誰かいるのかえ? いやるなら、返事をおし」マチルダがそういって声をかけると、知らない声が下から答えた。
「ヘイ」
「誰じゃ?」
「御存じのねえ者で――」と声は答えた。
「知らぬお方とおいやるが、お城の御門はどこもきびしい固め。しかも夜ふけのこの時刻に、どうしてそこへ来やったぞ?」
「イエ、なにも自分で勝手にここにいるわけじゃごぜえやせん」と声は答えた。「夜分お騒がせして、申し訳ねえ、どうか勘弁しておくんなせえまし。イヤア上で聞かれているとは知らなんだ。どうもさっきから寝つかれねえもんだから、慣れねえ床をはい出して、この城を逃げ出したくってならねえから、退屈しのぎに夜の白むのを眺めておりやした」
「聞けば、なにやらお困りの様子」とマチルダはいった。「お困りならばお気の毒。失礼ながらもしや真《ほん》にお困りならば、いうて下さんせ。御台さまにわらわから言上すれば、慈悲ぶかい心ゆえ、きっと御不幸をやわらげて、そなたを助けて下さりましょう」すると、見知らぬ男はいった。
「イヤモウほんに不運な者で、栄耀《えよう》も富もからきし知らねえ身でごぜえますが、これも天がさだめた運命《さだめ》と、愚痴も不服も申しちゃおりやせん。こうして年は若えし、五体も丈夫、腕一本の見すぎ世すぎを、ちっとも恥とは思っちゃいねえ、トマア豪儀《ごうぎ》をいうようだが、けっして高慢だの、そちらのお心ひろい申し出を蔑《なみ》するのと、毛頭思って下せえますなよ。おまえさまのことはこれから先、せいぜいお祈りのおりに思い出し、どうか御台さまとやらと末長く、おしあわせをお祈り申しやしょう。なあに、困った困ったと溜息をつくのは人のためで、わがことではねえから、御安心下せえまし」
「姫君さま、やっとわかりました」とビアンカはマチルダにささやいた。「あの下のお部屋にいる方は、たしかにあの若いお百姓さんでございますよ。まずわたくしの勘《かん》から申すと、あの方は恋をしておいででございます。――恋とはまあ、しおらしい。――姫君さま、一つあの方に根問いしてみようではござりませぬか。あちらは姫君とは知らないで、御台さまのお腰元とまちがえているのでございますよ」
「ビアンカ、よいほどにしや」とマチルダはたしなめた。「あの方の心の秘密をさぐるなどと、どこにそのような権利があるかいな。どうやらもの堅そうな、正直らしいお方じゃ。お話のもようでは、おふしあわせなご様子。なんとかわれらが手を打てば、土地田畑なりと持たせてあげられるような事情なのか。……それにしてもビアンカや、どのようにしてあの方の信用をえたものかのう」
「これはしたり、姫君さま、おまえさまはまあ、恋のいろはも、よう御存じない」とビアンカは答えた。「そもそも殿御というものは、好いた女子《おなご》の話をするのが第一の楽しみ」
「スリャそもじはこのわらわに、お百姓さんの思いものになれというのかや?」
「そのとおり、そのとおり」とビアンカはひとり呑みこみ顔に、「そんならこのわたくしから、ちゃっとあのお方に、ものいうてみましょうわい。ナンノナンノ、御台さまのお腰元勤める名誉の身じゃとて、つねからそれほど偉ぶってもいぬこのわたくし。それに恋に上下の隔てはないもの。お百姓さんでもどなたさんでも、恋するお方は吾《あ》が仏」
「コレはしたない、静かにおしや」とマチルダはいった。「あのお方は御不運じゃと申されたが、じゃというて、恋をなされているとはかぎるまいではないか。考えてもみい、早い話が今日このお城でおこった不運なことども、あの因《もと》が恋じゃといえるかや?」マチルダはそういってビアンカをたしなめてから、また若者に話しかけた。
「アノそこなお人! 聊爾《りょうじ》ながら、御不運がお身の科《とが》からおこったものではなく、御《み》台所ヒッポリタのお力で除《の》けられるものなれば、かならず御台におかれては、そなたの後楯《うしろだて》になることはおうけあい。そしてお城を出られたならば、聖ニコラス院のお隣の尼寺におわするジェローム御神父に面会なされ、逐一お身の上をお明かしなされば、御神父は御台にそのまま言上。御台は、どなたなりと助けを求めるお人の母御。では夜も更けますれば、このうえ殿方とお話しするのもいかがなれば、これにてお別れいたしまする」すると百姓は答えた。
「これはまあ御親切の段々、お礼のことばもねえしだいですが、できればお願えついでに、貧乏人の見ず知らずに、もういっとき伺わせて頂きてえが、いかがなものでごぜえやしょう。さいわい窓は明いてるし、伺ってもようごぜえやすかい?」
「お話があるなら、お早くどうぞ」とマチルダはいった。「そろそろもう夜も明けますれば、畑に人が出てくると、見つかりましょう。――して、お尋ねの趣きとはどのような?」
「サテハヤ、どう申そうか――こんなことお尋ねしてよいかどうかわかりませぬが」と若者はいい渋りながら、「でも、おまえさまが言葉かけて下すった情けが身にしみて――ほんとにおまえさまを信用してもようござんすかい」
「とはまた、どういうことぞいな? なんでまた念を押して信用などと? なにかお隠しごとがあって、それが正しいお人に信じられることなら、遠慮のうお話しなされませ」
「ではお尋ねしましょうが」と百姓は気をとりなおして、「御家来衆からわしが聞いたこと、ありゃ真《ほん》のことでごぜえやすか? 姫さまが城から逃げたというは、ありゃ真《ほん》のことでごぜえやすかい?」
「サそれ知って、そなた何になりまする? はじめのうちは殊勝な物言い、しだいに募るゆゆしき問いごと。いや読めましたわい、そなたはマンフレッドの秘密を探りにおじゃった間者じゃな。さらばじゃ。そなたを見損うたわいの」とマチルダは若者に答えるひまもあたえず、窓の戸ピッシャリ締めきって、「エエモウ、もっと意地悪いってやりゃよかったわいの」となにやら烈しい調子でビアンカに向かい、「のう、おまえにあのお百姓と話をさせたら、たがいに双方探り合うて、ホホ、さぞよい勝負になったことであろうな」
「お言葉を返すようなれど」とビアンカも負けてはいずに、「このわたくしが尋ねたら、おまえさまが気をようしてお尋ねなされたよりは、もそっと壷にはまったことを尋ねたでござりましょうなあ」
「ホホそれもそうかいな。おまえはたいそう目はしがきいて、用心がよいそうじゃからの。オオソレソレ、そもじであったらこうも尋ねようか、後学のため教えてやろうかいな」
「岡目八目と申して、差し手よりはた目のほうが勝負はようわかるものでござります」とビアンカは答えた。「それはさておき姫君さまには、今の男がイサベラ姫のことを尋ねたことを、あれはただの詮索じゃとお思いになられまするか? 違いますぞよ。あれについてはおまえさまより、家《か》中の者がみな知っておりまする。さきほどもロペツからちょっと小耳に聞きましたが、イサベラさまがお逃げになったを唆《そその》かしたはあの若者と、下々《しもじも》の者はみなそう信じておるとやら。さらば、おまえさまとこのわたくしだけが知っている、イサベラ姫が御舎弟さまを好いておらなんだことは、いよいよ必定《ひつじょう》。御舎弟さまはだいじな時にあの御最期、そりゃどなたの罪とも申しませぬが、お父上は兜は月から落ちてきたなどとおっしゃりますが、ロペツや下々《しもじも》の者は、あの美男の若者こそ妖術者、兜はかれがアルフォンゾ様の御墓所から盗みしものと、みなそう申しておりまするぞ」
「ビアンカ、そもじそのような辻褄《つじつま》のあわぬ話にのったのか」
「いえいえ、とんでもない、わたくしは姫君さまのお心のまま。そんな話にのるものではございませぬ。でもなあ、イサベラ姫が同じ日にお行方《ゆくえ》が知れなくなったも不思議、またあの若い妖術者が揚げ戸の口で見つかったも不思議。――ああ若君さまが死んで誠を――」
「コレ出過ぎたことを! イサベラさまのお清らかな御名分《ごみょうぶん》に、疑いかけるようなことをいうではない」
「お清いかお清くないか、イサベラさまは行ってしまい、見つかったのが誰も知らないあの若いお方。そのお方に、おまえさまがお尋ねになると、恋に落ちたとやら不仕合わせとやら。恋と不運は同じこと。――いやいや、不運は人から蒙ったとあの男は申しておりましたな。あほらしい、恋もせいで、誰が人をふしあわせにしますものかいな。その舌の下から、イサベラさまのお行方《ゆくえ》が知れぬはほんとうかなどと、テモしらじらしい」
「なるほど、そもじのいやることも、まんざら根のないことでもない。イサベラどのの逃げなさんしたことは、わらわも驚いた段ではない。あの見も知らぬお人の詮索も異なことではあるが、――でも、イサベラさまはこれまで、御自分の思うことをわらわに隠されたことはついぞなかったが……」
「じゃほどに、姫はおまえさまのお心の秘密をほじくり出そうとおっしゃったのでござんすぞえ。したが姫君さま、あの見も知らぬお方な、あれはどこぞの御公達《ごきんだち》が姿をやつしているのやら知れませぬぞ。ナア姫君さま、ちゃっと窓をあけて、わたくしに尋ねさせて下さんせいな」
「そりゃなりませぬ。問うことあらば、わらわが問います。もしあのお方がイサベラ姫をほんに知っておいでなら、いまさらわらわがつべこべと、言葉をかけることはないわいな」マチルダが窓を明けようとするおりから、この部屋のある塔の右手の、城の小門の鈴が鳴ったので、マチルダは見知らぬ男と改めて話を交わすことを妨げられた。
ややしばらく沈黙がつづいたのち、マチルダはビアンカにいった、「イサベラ殿が逃げられた因《もと》は何であれ、そのきっかけは些細なことではあるまい。もしあの見も知らぬお方が加担者ならば、イサベラ殿はあのお方の忠義立てに満足されたにちがいあるまい。ビアンカ、そもじも聞いたであろうが、あのお方の言葉のふしぶしには、並々ならぬ御信心の深さがこもっていた。あれは下賎の人の言葉ではない。生まれのよいお方のお言葉つきじゃ」
「じゃによって、姫君さま、どこぞの御公達《きんだち》が身をやつされて、と申し上げたではございませぬか」
「したが、もしあのお方がイサベラ殿の逃げなされた陰の黒幕じゃとしたら、なぜごいっしょに逃げなされなんだのか。なぜ用もないところへ身をさらけ出て、お父上のお怒りになどあわれたのであろうな?」
「サアそれは……オオソレソレ、それはなあ姫君さま、兜の下から出さえすれば、殿さまのお怒りを逃れる道があるからでございましょう。きっと護符か何か肌身はなさず持っているに違いございませぬ」
「おまえは何でもかでも魔法にきめてかかるけれど、悪魔と交わるような者が、まさかあのような信心ぶかいお言葉をつかいはせまい。あのお方はお祈りのなかでわらわを思い出そうといったではないか、イサベラ殿も、きっとあのお方の信心深いところをお認めになったのであろう」
「へえ、若い男と若い娘の駆落ちに、御信心ごころが出てくるのでござりまするか? オオ笑止《しょうし》! アノナ姫君さま、イサベラ姫はな、姫君さまがお考え遊ばすより、お人柄のちがうお方でござりまするよ。ソリャモウ、あちらはおまえさまの御聖人なことはよう御承知ゆえ、おまえさまとごいっしょの時は、せいぜい溜息をついたり、上目づかいもなさろうけれど、おまえさまがお背中を向ければ――」
「ビアンカ、そなたイサベラ殿をくさすのか? イサベラ殿は表裏《ひょうり》のあるお人ではない。献身的な帰依のお心の深いお人じゃ。御自分の持っていぬ使命を持っているふりなど、けっしてせぬお人じゃ。それどころか、わらわが尼寺へ行きたがるのを、あの方はいつも攻めていやった。それじゃによって、イサベラ殿が逃げられたも、わらわのせいかと思い、なにやら日ごろの二人が仲にも違《たが》うこととびっくりしたが、つねづね尼にはなるなとの、あの欲得はなれた姫の温かい情が、こちゃ忘られぬ。こちの縁づくのを見たい見たいとあの方はいっていた。そりゃわらわが縁づかねば、財産の分け前で、あのお方にも弟の子たちにも御損になったこともあろうが。とにもかくにも、この上はイサベラ殿のおために、あの若いお百姓をよいお方と信じましょうぞ」
「そんならおまえさまは、あのお二人がよい仲じゃとお思いでござんすか?」といっているところへ、あわただしく女中が部屋へ駆けこんできて、イサベラさまが見つかりましたとマチルダに告げた。
「まあ、どこでじゃ?」
「聖ニコラス院の御内陣で。御神父ジェロームさまが御自身でお知らせにお越しになり、只今下で殿にお目どおりでございます」
「して、母上はどちらに?」
「御台さまはお部屋においでで、あなたさまをお召しでございます」
マンフレッドは、これよりさき、東の空が白むとともに起きでて、イサベラの行方《ゆくえ》がわかったかどうかを聞きに、ヒッポリタの部屋へ行った。城主がそのことを御台に尋ねているところへ、ジェロームが殿に話があるといって登城したとの知らせがあった。マンフレッドは神父の早朝出仕のいわれは心当たりがなかったから、どうせまたヒッポリタに喜捨でも頼みにきたのだろうと思って、それなら二人に話をさせておいて、自分はイサベラを捜しに行くつもりで、目どおりを許した。
「なんじゃ用向きは? わしにか、それとも御台にか?」
「はい、お二人さまに」と神父は答えた。「じつはイサベラ姫が――」
「なに、イサベラがどういたしたと?」とマンフレッドは神父のことばを奪って、膝をのりだした。
「――聖ニコラス院の御内陣におられましてござります」と神父は答えた。
「そりゃヒッポリタの用向きではないわい」とマンフレッドはあわてふためきながら、「御坊、わしの部屋へ行こう。イサベラが寺へ行った仔細《しさい》は、あちらでとくと聞こう」
「アイヤ御城主」と、神父は果断のマンフレッドさえたじたじとなるほどの、キッパリとした威厳のある態度で答えた。聖者のような徳をもったジェロームには、さすがのマンフレッドも一目《いちもく》おいていた。「愚僧は御城主御台様御両所に仕えおりますことゆえ、お二方おそろいのところで申し上げたいと存じまする。さてまずお方《かた》様に伺わねばなりませぬが、イサベラ姫が城を出られた原因について、なにかお心当たりがござりますかな?」
「いえいえ、神かけて」とヒッポリタはいった。「イサベラは御台がひそかに知っていると申しおりますか?」
「御坊」とマンフレッドが横合いからいった。「おれはそこもとの聖職にはそれ相応の尊敬を払っておるつもりだが、しかしおれはここのあるじじゃぞ。内々《うちうち》のことに口出しするような|せっかい《ヽヽヽヽ》坊主は許せぬぞ。主命じゃ、来いというたら、わしの部屋へ来い。わしは女房には、政事《まつりごと》の内情は知らせぬことにしている。さようなことは女のあずかる領分ではないわえ」
「これはまたお言葉とも思われませぬ」と神父はいった。「愚僧はなにもお内々《うちうち》の内証ごとにさし出るのではござらぬ。愚僧の勤めはどちらにも波風の立たぬよう、不和いさかいあればこれを和らげ正し、悔い改めることを説き聞かせ、片意地な恋慕などは抑えるように、人に教えるのが役目でござるて。愚僧が殿の慈悲もない人の呼びつけ方を、まあまあと許しておるのは、愚僧のつとめを知っておっての上のことでござってな、マンフレッド公よりはもっともっと力のある大帝王の、わしゃお使いでござるぞ。その大帝王は、お使いのわしの口を通して、ものをいいなさる。だによって、まあ大帝王の申されることを聞きなされいよ」
マンフレッドは怒りと恥にブルブルと身を震わした。ヒッポリタの顔いろは、この結末がどこへ行くかを知ろうとして、驚愕と我慢をあらわしていた。彼女の沈黙は、マンフレッドへの恭順をいっそう強く語った。
「イサベラ姫はな」と神父は語りだした。「お二方によろしくと申されて、お城で懇《ねんご》ろに遇されたことをお二方に感謝しておられまする。また御子息を亡くされたことを心から悼まれて、親とも仰ぐ高貴なお方の娘になれなんだ御不運を悔まれ、お二方がこの末ともに睦じう、共白髪《ともしらが》までめでたく(ここでマンフレッドの顔色が変わった)暮らされることをひたすらに祈っておられまする。そこで、この上いつまでも御厄介になってもおられぬによって、父君の消息が知れるまで、このお寺に身を寄せることを御承引ありたい。父君の死がたしかとなれば、そのおりは後見人の賛同をえた上で、身分相応のところへ嫁ぐつもりだと、こう申しておられまする」
「おれは不承知じゃ」と城主はいった。「ともあれ、一刻も早く城へ帰ってくるようにいえ。身柄については、付き人どもにわしが保証する。わしの手以外には、誰にも指一本さわらせぬわ」
「そんなことが通るか通らぬか、いずれ殿にもおわかりになる時がござろう」
「エエイ、差し出口は無用じゃ」とマンフレッドは色をなしていった。「イサベラの振舞いには、いろいろ疑わしき節がある。オオそれにあの若造じゃ。あれが原因ではないまでも、かやつは姫の逃亡の加担人じゃ」
「原因とは!」と神父は遮って、「なにか若い男が原因でござったのかな?」
「さようなことがあってたまるか!」マンフレッドはどなった。「ヤイわが王城におりながら、おれははっつけ坊主にひげを抜かれにゃならぬのか? ハア読めた、糞坊主、きさま、あの兜の秘密の黒幕じゃな」
「まあまあ、愚僧はそのような無慈悲な殿の邪推|僻目《ひがめ》を払うように、神に祈りましょうて」とジェロームはいった。「わしを咎めなさる殿が曲がっておることにお気づきがなければな。無慈悲、慳貪《けんどん》は許されましょう、神にも祈ってさし上げようが、しかし悪いことはいわぬによって、アノ姫は聖所の安らかに置いておやりなされ。あすこにおれば、たとえどのような男から色恋を仕掛けられようとも、浮世の妄念に乱されるようなことはござらぬからの」
「フン、空《そら》念仏のいらざる講釈するひまに、とっとと帰って姫をつれて来い」
「わしの勤めは、あいにくと姫を寺から返さぬことなのでのう」とジェロームはいった。「あすこにおれば、親のない子もおぼこ娘も、世間の|わな《ヽヽ》やたくらみからは安全じゃ。親の権利以外には、姫をあすこから連れては来られませぬ」
「おれは姫の親びとだぞ。だから要求するのじゃ」
「姫は殿を親びとには持ちとうないというておられる」と神父はいった。「そういう関係を禁じられた神は、殿との間のすべての絆《きづな》を永久に断ち切られましたことでの。わしから殿に申し渡すことは――」
「黙れ、売僧《まいす》!」とマンフレッドはいった。「おれの気にさわると、怖い目にあうぞよ」
「御神父さま」とヒッポリタがいった。「なるほど、人を依怙《えこ》ひいきなさらぬがあなたのお勤め。そのお勤めどおりに、あなたはおっしゃらなければなりませぬ。――さりながら、夫の気に入らぬことは聞きとうないのが、わたしの勤め。さ、どうぞ殿さまとごいっしょにお部屋へ行って下され。わたしはこれより御祈祷所へさがって、聖母さまの御助言があなたのお力になるように、まったわが君のみ心を波おだやかに返すよう、せいぜいお祈りをいたしましょうほどに」
「サテサテ見上げたお方じゃ!」と神父はいった。「それでは殿、お心のままにお供いたしましょうかな」
マンフレッドは神父をつれて自分の居間にはいると、あとの扉をぴしゃり締めて、いった。
「御坊、いま聞いた話だと、イサベラは御坊にわしの腹づもりを話したとみえるな。となれば、わしの決意をきいて、それに従ってもらおう。今わが封土の事情、すなわち、わしと領民の焦眉の事情は、ぜひともわしが伜を一人持つことを要求しておる。ヒッポリタに世継ぎをもうける見込みは、まず望めぬ。そこで、わしはイサベラに白羽の矢を立てた。そこで、御坊にさっそくイサベラをここへ連れ戻してもらわねば相成らん。まだそのほかに、御坊にはいろいろしてもらうことがある。御坊は日ごろからヒッポリタには権力があることじゃし、あれの心はおぬしの手のうちにある。あれがこれという瑕瑾《きず》のない女であることは、わしもよう知っておる。あれの心は天にあり、浮世のつまらぬ栄耀《えよう》はことごとにけなしつけておるが、御坊なれば、そういう心持からあれを根こそぎひきはなすこともできよう。そこでな、今申したような縁組に、このわしが踏みきったことに満足して、喜んで尼寺へはいるよう、御坊より因果をふくめてもらおう。あれにその志があるなら、一寺を与えてもよい。こののちどのように暮らしていくかは、あれと御坊の望むがまま、なんなりと自由にさせよう。万事がそうなれば、御坊はわれらが頭上にかかる不幸を退散させ、オトラントのあるじを破滅から救う大手柄を立てることになろうぞ。御坊は分別のある仁《じん》じゃ。な、そなたの熱い気性が、ときには無礼な言葉をわしに浴びせようとも、わしはそなたの徳をたたえ、わしの生涯の安定と一門のしげりこそそなたのおかげと、いついつまでも恩に着たいのじゃ」
「天意には背《そむ》かれませぬ」と神父はいった。「やつがれごときは、まことにもってとるにも足らぬ神のお道具。神はそのようなやつがれの舌頭を用いられて、殿の邪《よこしま》な野望を諭《さと》されまする。殿はあの貞淑なヒッポリタさまを傷つけ傷つけ、今日まで憐憫《れんびん》の王座に昇って来られた。その御台を縁切るという殿の横道を、愚僧、きつくお叱り申しまする。まったこの城に引きとられし姫君に、近親姦通のたくらみなど押しつけぬよう、御警告いたしまする。神は殿の非道な考えより姫を救われ、殿に考えを改めさせ、近く御一門に下る審判のおりには、姫をお守り下さるでござろう。一介の貧僧にすぎぬ愚僧でさえ、姫をばそこもとの無道から守ることができ申すのじゃ、罪深き糞坊主、売僧《まいす》めと口汚く罵られ、恋のいろはも心得ぬものを同腹呼ばわりされた上、乞食坊主の忠義立てをうまくおびき出してやったと喜ばれるような、そんな手には乗りませぬぞ。愚僧はおのれの道理を愛し、信心のまごころを名誉とし、御台の敬神を尊しと敬《うやま》いおりまする。されば御台の御信頼を裏切らず、邪悪不正の罪深き屈従による信心には、いっさい奉仕はいたしませぬぞ。さりながら、なるほどこの国の福祉は、御領主が跡目をもうくるにありとは、たしかにその通り。しかし神は人間の鼻元思案を、おろかなものよと軽蔑なされまする。ついきのうの朝までは、御一家はマンフレッド公の御一門として御繁昌でござった。ところが今日、コンラッド若君はどこにおらるる? 殿の涙は愚僧とても尊敬いたす。咎めるつもりは毛頭ござりませぬ。殿、涙をして存分に流れさしめよ。涙は神の御照覧あって、縁組などより家来の福祉となること必定なり。欲情政略より生じたる福祉は、けっして豊かには実りませぬぞ。アルフォンゾ一族から殿の一族に出た物の怪《け》は、寺の許さぬ相手では鎮めることが出来ませぬぞ。マンフレッドの名が消滅せねばならぬのが神の御意志であるならば、殿は天意のままにお諦《あきら》めなされい。さすれば、王冠はどこへも逃げずに保たれまするぞ。ささ、御台のお部屋へ戻りましょう。御台は殿が縁切るなどという大《だい》それた心づもりは御存じないはず。愚僧もこのうえ殿をたしなめるつもりもなし。今も見らるる通り、御台はなにごともおとなしく殿への愛ひとすじに我慢をなされ、このうえ殿の罪にひろがるのは聞きともない御様子。御台は殿を腕に抱きしめて、変わらぬ情愛を殿に明かしたい御所存なのでござりまするぞ」
「御坊」と城主はいった。「御坊はわしの本心を曲解しておるようじゃな。まっことわしはヒッポリタの貞節には感じ入っておる。あれは聖女じゃ。わしの心がすこやかならば、二人を結ぶ絆《きづな》はもっと堅くなろうと願っておるのだ。残念ながら、御坊はわしの心の辛いところがわからぬ。わしはな御坊、わしら夫婦の縁組に迷うた時がある。ヒッポリタはわしには第四親等にあたる。なるほど、わしらは一子を得た。そして、またあとが出来たと知らされた。わしの心を重くするのは、このことなのじゃ、コンラッドの死という形でわしに下《くだ》った不幸は、この道ならぬ夫婦の契《ちぎ》りのせいだとわしは思うておる。そこでこの重荷の意識をらくにするには、この縁を解き、御坊がすすめる神の御訓戒のあらたかな営みを成しとげることにある」
腹黒い城主に、話をたくみにすりかえられた時の神父のくやしさは、身を寸断される思いであった。神父はヒッポリタのために歯がみをしてブルブル身を震わした。御台の身の破滅はすでにきまったかとかれは見た。そうなると、マンフレッドが跡とりほしさに、領主という自分の地位にまどわされるという、前と同じ証拠にならぬような相手をさがすために、イサベラを戻す望みを捨てるかどうか、神父はそれを心配した。かれはややしばらく考えこんでいた。そして、だいぶ時間がたったころに一縷《いちる》の望みをかけ、イサベラを取り戻す望みのないことを城主に考えさせないための、最も賢明な行動を考えた。神父は、イサベラのヒッポリタによせる愛情から、彼女の解決はうまくできるとわかっていた。教会が姦通の罪を譴責するまで、イサベラがこちらの意見に同意してくれていれば、マンフレッドの求愛のことでイサベラが神父に打ち明けた拒否は、なんとかうまく処置できると、神父は認めをつけていた。その肚《はら》で神父は、あたかもマンフレッドの躊躇にびっくりしたようなふりをして、やがていいだした。
「イヤ只今仰せの段々、よくよく考えまするに、殿が御台をお嫌いになられた真の動機が、実もって仰せのごとき細かいお心遣いより発することでござれば、愚僧とて殿のお心に辛く当たるようなことを、なんで致しましょう。教会は寛大なる母にござりまする。さあそこで、殿のお歎きを神にお打ち明けなされよ。殿の良心を満足させ、殿の御躊躇をよく見きわめた上にて、殿を自由な立場におき、御血統をつなぐ正しい手段をとくと御勘考させ申し、殿に心からなる御満悦をあたえうるものは、ひとり神御一人あるのみでござりまするぞ。お血筋のことも、イサベラ姫さえウンと申せば――」――マンフレッドは、まんまと神父を騙《だま》しおおせ、自分のはじめて見せた温情が感謝をもって受けられたので、事の急転にすっかり気をよくして、御坊の考えたとおりにうまく事が運べば、なんでも望むことを叶えてやるぞとくりかえしていった。肚に善意の一物《いちもつ》ある神父は、城主に騙されたと思いこませておいて、いまはとやかくいわずに、自分の考えを押し通そうと肚をきめたのである。
「さあ、これで双方了解がついた」と城主はいった。「そこでな、御坊にもう一つ聞いて安堵させてもらいたいことがある。あの地下道で見つかった若者は、あれは一体何者じゃな? かやつ、イサベラの逃亡に加担したやつにちがいないが、真相を話してくれ。あの男は姫の恋の相手か、それとも恋の手引をなすやつかな? イサベラが死んだ愚息に気のなかったことは、わしもまえからいろいろ感づいておったが、わしが大廊下で談じたときも、姫はわしの推量を見こして、自分がコンラッドに冷たかったわけを、しきりと弁明しておった」
神父は、その若者のことはなにも知らなかったが、イサベラからたまたま聞いた話や――イサベラもあれからあと、男がどうなったかは知らなかった――マンフレッドの性急な気性を考えると、どうやらそれがまずいことに、城主の心に嫉妬の種を蒔いたらしいことは察しがついた。でもこれは、城主がどこまでもイサベラとの契りを主張するなら、イサベラに対する城主の僻《ひが》みを利用して、事態を転回することもできようし、でなければ悪い手がかりの方へ注意をそらせておいて、架空の陰謀というようなことに思考を向けさせ、新しい追及にかかることを留めることもできるだろう。あまり名案ともいえないこの考えを肚に入れておいて、神父はイサベラと若者との間に、なんらかの関係があることをマンフレッドに思いこませるような口ぶりで答えた。
城主は、どんな細い薪でも投げこんで火をガンガン燃やしたがっている矢先だから、神父がそれとなくほのめかした話を聞くと、たちまち怒り心頭に発して、「よし、この陰謀は底の底まで洗ってやる」と叫んだ。そして、おれが戻るまで御坊はここにいろよといいつけ、足もとから鳥が立つようにバタクサ部屋を出ていくと、城の大広間へ飛んでいき、かの百姓に目通りするから引っ立てて来いと、家来に命じた。城主は若者を見るがいなや、喚きたてた。
「ヤイ、ここな情|剛《ごわ》の騙《かた》り者め! おのれがさきに広言ほざいた誓詞《せいし》は、どうなったのだ? やれ月の光がどうとやら、揚げ戸の錠が見つかったのと、あれがそもそも、天の助けであったのか? サアサアとくとく神妙に申しひらけ。大胆不敵の小童《こわっぱ》め、おのれは一体どこの何者じゃ? いつから姫と近づきになったのじゃ? 昨夜のようないい抜けせずと、イザ返答に心せい? さもないときには拷問にかけても、まことの筋を吐かせるぞ!」
若者はマンフレッドのことばから、さては姫の逃亡に、自分もひと役買っていることがばれたと知って、こいつはうかつなことはいえない。もはや姫を助けることも叶わず、かえって仇となったかと思い、
「ヘイヘイ、わたくしは騙《かた》り者でもなんでもございませぬ。さような汚らわしい言葉で呼ばれるような者では、けっしてございませぬ。ゆうべ殿さまの御詮議に一々お答え申しましたとおり、只今もそれに変わりはございませぬ。ヘイ、それもね、拷問が怖いからではございません。生得、嘘は大嫌えだからでござんす。ヘイ、どうぞ何なりとお問いただしをお願え申します。わたくしの力の及ぶかぎりのことは、御満足頂けると思います」城主は答えた。
「おのれ、詮議の筋を承知の上で、いいのがれには勿怪《もっけ》の時と思ってであろう。キリキリ立って、まっすぐに申せ。おのれは一体何者じゃ? して、いつから姫に知られたのじゃ?」
「ヘイ、わたくしめは隣り村に住む作男でごぜえます。名前はセオドアと申します。お姫《ひい》さまにはあの時がはじめて、それより前にはお目にかかったことはごぜえませぬ」
「マアそれは信じるとして、それだけではまだ満足せぬぞ」とマンフレッドはいった。「そのことを詮議する前に、まずおのれの話を聞くが、姫は城を逃げだすわけを、おのれに明かしたか、それを申せ。返答によっては、一命にかかわることだぞ」
「ヘイお姫《ひい》さまがおっしゃりますには、みずからはいま破滅の寸前にある。もしこの城より逃げられぬときは、御自分は永久に不幸の身の上になる、その危険が数刻のうちに迫っていると、こうおっしゃりました」
「たかが愚かな小娘のいうそれしきのことに、おのれはおれの不興を賭けたのか?」
「イエわたくしは、窮鳥《きゅうちょう》ふところに入るときは、人の腹立ちなどちっとも気にはいたしません」
この詮議の最中に、マチルダはヒッポリタの部屋へ行くところであった。格子窓のはまった廊下を通って、マンフレッドの控えている大広間のはずれまでくると、マチルダとビアンカはそこの窓ごしに父親の声をききつけ、家来たちが集まっているのが見えたので、なにごとがあるのだろうと足をとめた。すると、囚人《めしうど》の姿が目にとまった。ちょうど返答をしている毅然とした、すこしも悪びれぬ様子と、それから最後にいったいかにも義侠心に富んだ返答が、前からどんな様子のお方だろうと興味をもっていた人から、はじめてマチルダがじかに聞いた言葉であった。人品骨がら卑しからぬ美丈夫で、きびしい調べの席なのに、すこしも悪びれずに平然としている。ことにマチルダを夢かとばかりびっくりさせたのは、その容貌であった。
「まあ、ビアンカや」マチルダは腰元にそっとささやいた。「夢ではないか。ごらん、あの若いお方。お廊下のアルフォンゾさまの絵姿にそっくりではないか?」
その時、城主の声がひと言ひと言高くなったので、マチルダはそれ以上いえなくなった。城主はいった。
「ヤイ夜前の横柄にもました今の空《から》威張り。愚弄の罪軽からず、キット痛き目みせてくれるぞ。ヤイ者ども、こやつを捕え、ひっくくっておけ。フム、いずれイサベラには、おのれがために首打ち落とされた加担者の知らせが、第一番にまいるであろう」
「お領主さまがおいらのようなものを罪に落とすなんて、そんな曲がったことをなさるなら、おいらはそんな乱暴無体なお人の手から、あのお姫さまを助けてやって、ほんにいいことをしたと思いますだ。おいらはどうなってもいいから、どうかあのお姫さまだけはおしあわせにな!」
「ソレソレ、それが恋人の証拠じゃ」とマンフレッドは怒っていった。「百姓の分際が死を目前にして、恋など口にするとは不審千万。やい小伜、キリキリ身元を白状せい。さもないと、力づくでも秘密を剥ぐぞ」
「殿さま、おめえさまたった今、おれを殺すと威《おど》しなすった。そりゃおいらが本当のことをいったからだ。それに励まされたら、ちっとは真面目になったらどうだね。こっちはこれ以上、つまらねえそっちの詮索には乗らねえぜ」
「しからば、これ以上物をいわぬと申すのか?」
「アアいわねえよ」と若者は答えた。マンフレッドは家来にいった。
「この者を中庭へまわせ。こやつの首と胴がはなれるのを見てやろうわい」マチルダはこの言葉を聞いて、気絶した。
「アレー! どなたか、お助けを! 姫君さまが死にゃはりまする!」とビアンカが金切り声を立てて叫ぶ声に、マンフレッドは、ギックリして、なにごとじゃと尋ねる。若者もそれを聞いて、同じくギックリ、どうなされましたと同じことを尋ねたが、マンフレッドは若者に、早く中庭へまいって打ち首を待てと命じておいて、自分はビアンカの叫んだわけを問いただした。そして気絶したわけがわかると、女子《おなご》によくある病と見立て、マチルダの部屋へ運ぶようにいいつけ、自分は庭先へと急いで出て行った。そして家来の一人に、セオドアを白洲に坐らせて、打ち首の用意をするように命じた。
きびしい処刑の宣告を受けても、泰然自若、すこしもひるまぬ若者の態度は、マンフレッドを除いた家来たちを感動させた。若者は仕置の宣告をあきらめをもって受けたのであった。かれは姫のことで城主のいった言葉の意味を、しきりと知りたいとおもったが、うっかりしたことをいえば、姫に対する暴君の気持をよけいあおることになるのを恐れて、聞くのは思いとどまった。ただこれだけは頼みたいとおもった願いは、いまわのきわに懺悔の聴聞僧を呼んでもらい、それでさっぱりと、神とともに安らかな心にさせてもらいたいことであった。マンフレッドは聴聞僧ときくと、こいつは若者の身分素姓が聞けるぞと思って、若者の要望をいれてやってもいいと思った。そして、ちょうど今ジェローム神父がそれに関心があるところから、神父を呼んで罪人を聴聞させることにした。まさか城主の恥知らずから、こんな破局がくるとは予見していなかった神父は、城主の前にひざまずくと、キッとした態度で、無辜《むこ》の血は流さぬようにと、ひたすら歎願した、神父は口をきわめて自分の不明だったことを責め、若者の弁護につとめ、なんとかして暴君の怒りをしずめようと、あらんかぎりの手段をつくしてみた。
マンフレッドは、ジェローム神父のとりなしによって心をしずめるどころか、かえって嵩《かさ》にかかって、処刑を取りやめろというのは、二人が共謀《ぐる》になって自分を騙しにかかるのだろうと気をまわし、懺悔の時間も数分しかあたえぬぞといって、早く勤めをはたすように神父に命じた。
「エエモウ、頼まねえやい」と不幸な若者はいった。「おかげさまでね、まだこの年だから、年相応、大した罪は犯しちゃおりませんよ。御神父さま、どうかその涙をお拭きになって、早えとこ始末をつけてしまいましょうぜ。どうせこんな悪い世の中だ。娑婆をお暇《いとま》したって、未練はさらさらござんせんや」
「おお、哀れな若いお人よ」とジェローム神父はいった。「そなた、どうしてそんなに平気でわしの顔が見られるのか? わしはそなたの首斬り役じゃぞ。このような悲しい時をそなたにもたらしたのは、このわしなのじゃぞ」
「とんでもねえ。おいらは御神父さまに恨みなんかありゃあしねえ。神さまはこのおいらを許して下さると思っておりやす。どうか御神父さま、懺悔をお聞きなすって下せえ。そして祝福しておくんなせえまし」
「どうしてこのわしに、そなたの道がつくれようか? そなたはな、仇敵《かたき》を許さんければ救われぬのじゃぞ。あすこにおられる無道なお人を、そなたは許すことができるかな?」
「できますよ、許しますよ」とセオドアはいった。
「これほどまでにそなたにひどい目を見せる、あの非道な城主をか?」するとマンフレッドがきびしくいった。
「ヤイヤイ、お坊を呼んだのは、そやつに実を吐かせるために呼んだのだ。つべこべと庇《かば》い立てをするな。そいつに向かってこのわしを怒らせたのは、御坊ではないか。御坊はそいつの血を頭からかぶるがよいわ!」
「はいはい、そうしましょう、そうしましょう」と神父は悲しい思いに悩みながら、「イヤハヤ殿も愚僧も、この若者が行く天国へは、とても行かれませぬなあ」
「早くせい」とマンフレッドはいった。「おれは女の泣きごとと坊主の哀れ声には、騙されぬわい」
「ナ、ナ、なんと!」と若者はいった。「スリャなんたる因果か、やっぱりおれが聞いたとおり、姫はふたたびそっちの手に?」
「ムハハハハハ、きさまはおれの怒りを思い出に、いいから覚悟をするがいい。これがきさまの最後の時じゃわ」
このとき若者は、ムラムラと怒りが胸先につきあげ、じっと涙をこらえている神父をはじめ、並みいる家来一同の心におのれが湧かした悲しみを見るや、若者はハッとばかりに胸を打たれ、いきなり胴衣をかなぐりぬぐと、襟のボタンをバラリとはずし、その場にドウと膝をつくなり、手を合わせて祈りだした。すると、体を前にかがめたときに、下着のシャツが肩の下へとずり落ちて、血染めの矢の印があらわれ出た。
「ヤヤ、こはこれ!」と神父は思わず声をあげて、若者のそばにすすみ寄り、「今わが目に見るは! わが一子、セオドアなるか!」
万感一時に発すると見ゆるその場のありさまは、彩管《さいかん》のよく描けるところではない。介添え役の家来たちの涙は喜びに止まったというよりも、むしろ怪訝の思いに中断された。居ならぶ一同の目は、自分らが当然感じたものを、城主の目のなかに探ると見えた。当の若者の顔には、意外の驚き、疑念、やさしい尊敬、そういうものがつぎつぎにあらわれた。かれは老人の涙と抱擁の雨を、神妙に、謙虚に受けた。だが、今の今までの事情から、かれはマンフレッドのかたくなな気性を察し、希望にゆるみをあたえることを恐れながら、きさまというやつはこういう場面を見ても心に感動を受けないのか、というように、城主の方へ睨みすえるような視線を投げあたえた。
さすがにマンフレッドの心も感動せずにはいられなかったようであった。かれはこの驚奇に今までの怒りを打ち忘れたけれども、しかしかれのいこぢな自負心が、人情に負けることを禁じた。かれはこの思いがけない発覚を、神父が若者の一命を助ける詐略ではないかという疑念さえ持った。
「これはまたどういうことじゃ? この男が、どういうわけで御坊の伜なのだ? 道ならぬ色恋のはてに、百姓の子をもうけるなどとは、神職の身にも似あわぬ、神の道を汚すことではないか?」
「これはしたり!」と神父はいった。「殿にはこれなる者が愚僧のものかとのお尋ねか? しんじつ血をわけた父親でなくば、なにこのような苦しみを感じましょうや。殿、この者を御|宥免《ゆうめん》下され! 御宥免下され! そのうえで、存分に愚僧をお罵り下されい」家来たちも口々に叫んだ。
「なにとぞ御宥免を! 御宥免を! ほかならぬ御神父のために、ひとえに御宥免のほどを」
「黙りおろう!」とマンフレッドは頑としていった。「許してやるまいでもないが、その前にその故由《ゆえよし》を聞かずばならぬ。聖僧の子が聖人とはかぎらぬわい」
「イヤモウよく毒づく殿さまだなあ!」とセオドアはいった、「無体非道のその上に、無礼なことをいわぬがいい。おいらがこの坊さまの伜なら、そりゃおめえさまのような王侯ではねえにしろ、この五体に流れる血は――」
「そうじゃ」と神父は横合いから若者の言葉をとって、「その血は貴人の血、殿のいわるるような下賎の身ではない。これは愚僧の正嫡《せいちゃく》の子、しかもシチリア第一の旧家と、所の者が自慢の家柄、ファルコナラ家の嫡子でござる。――さりながら、血筋が何ぞ、家柄が何ぞ? 人間はみな、大地をウヨウヨ這いまわる蛇や虫けら同然、みじめな、罪ふかい生きものでござる。人はみなおなじ塵芥《ちりあくた》より生まれて、同じ塵芥に帰らねばならぬ、その塵芥から人を見分けることのできるものは、ひとり神のみにござりますぞ」
「エエイくどい、講釈談義は止めい止めい!」とマンフレッドはいった。「コレ忘れたか、おのれはもはや神父ジェロームではのうて、ファルコナラの伯爵じゃろうが。どうじゃ、おのれの来歴を聞かしてくれい。まあまあ、そこな強情な罪人の赦免がえられぬときに、法談はゆるりとできようぞ」
「ああ、マリアさま!」と神父はいった。「いかに殿とは申せ、長年ゆくえの知れざりし、たった一人のわが子の命を、よもやその父から奪うことはできますまい。わが君、どうかこの身を踏みつけて、どのようなお咎めを受けるは愚か、たとえわが一命をさし上げても、伜の命ばかりはお助け下され!」
「そりゃおのれの胸のうちはそうでもあろうが」とマンフレッドはいった。「そのたった一人の子を失ったは、何とするのじゃ! つい小半時まえに、おのれはおれに諦めろと説教したではないか。――しょせん、運命がそうなることを喜ぶならば、わが一家は滅びなければならぬのじゃ。――じゃがの、ファルコナラ伯爵――」
「ああ、殿」とジェロームはいった。「愚僧のあやまちでござりました。しかし、この老いの身の苦労を、どうかこのうえ苦しめて下さいますな。愚僧も神の僕《しもべ》のはしくれ、おのれの門地家柄など鼻にかけてはおりませぬ。さような見栄《みえ》外聞は考えておりませぬ。ただ伜の身の上を歎願するはこれは親の情。これを生んだ女の形見ゆえ。――セオドア、母はどうしておる? 死んだか?」
「久しいあとに天国へ召されました」とセオドアは答えた。
「おお、そうであったか? して、どんな様子であった?」とジェロームはおのずと声高になり、「そのもようを、話してくれ。――いやいや、あれはしあわせじゃ。今となれば、心にかかるはそなたひとりじゃ。――殿、重ねてくどいようなれど、伜の一命、御宥免下さりましょうや?」
「御坊、尼寺へもどれ」とマンフレッドはいった。「あちらでイサベラ姫を監督せい。ただし、寺方以外のことは、おれのいいつけ通りにせよ。伜の一命は請け合ったぞ」
「おお、殿、ありがたき仕合せにござりまする。――伜の一命無事のためには、わが正直も売らねばならぬか?」
「エッ、おいらのために!」とセオドアは叫んだ。「おら、おめえさまの良心に|しみ《ヽヽ》をつけるくれえなら、千たび死んだってかまわねえ、死なして下せえ。あの暴君《がりむくれ》がおめえさまに、どんな無理をいおうてんです? お姫さまはまだあいつの手ごめにあっちゃいませんかい? どうか姫を守って上げて下せえ、御老僧。殿さまの怒りなんざ、みんなおいらにぶっかけておくんなせえ」
神父は、若者の慮外を一所けんめいに控えさせるようにつとめた。マンフレッドがなにか答えようとしたそのとき、突如として城の大門の外にあたって、時ならぬ馬のひづめの音がきこえ、ラッパのひびきが高らかに鳴りわたった。すると、こはそも不思議、それとまったく同時に、中庭の片隅にまだそのままにして置いてあった、かの怪しい兜の黒い大鳥毛が、にわかに嵐になびくがごとくにザワザワとそよぎ立ち、さながら目に見えぬ武人がうなずくように、三たび、大きくうなずいたのである。
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第三章
ラッパのひびきにつれて怪しい兜の大鳥毛が揺らいだのを見て、マンフレッドは肝を奪われた。
「御坊!」と城主は、神父のことをファルコナラ伯として扱うのをやめて、もとの呼び方で呼びかけた。「あの不思議はどういうことじゃ? わしがもし罪を犯したとならば――」といいかけると、鳥毛は前よりもさらに烈しく揺れた。「――なんたるわしは不幸な城主じゃ! 御坊、おのれ祈祷をもってわしを助けてはくれぬのか」
「いやいや、神はわれら下僕《しもべ》たちを殿が嘲弄なされたのが、お気に召さぬのに相違ござりませぬテ。だによって、殿御自身、教会の申すことによく服して、聖職にある者を迫害することは止めになされませい。そしてこの罪もない若者を宥免なされて、愚僧が帯びているこの聖なる御印《みしるし》を崇《あが》められよ。さすれば、神もつまらぬ揶揄《からかい》はなさらぬはずでござる。おわかりかな」――ラッパがふたたび鳴りわたった。
「われながら、わしも少々|急《せ》きすぎたようだな」とマンフレッドはいった。「ときに御坊、足労ながら小門まで行って、城門にまいったは何者なるか、聞いてくれぬか」
「して、セオドアは御助命下さりましょうな」
「オオ叶えるぞ」とマンフレッドはいった。「そのかわり、門外の者は誰か聞いてまいれ」
ジェローム神父は、わが子の襟元にくず折れると、われを忘れてうれし涙にかきくれた。
「コレコレ、城門へ行くと申したぞ」とマンフレッドが催促すると、神父は答えた。
「殿、まずもって老衲《ろうとつ》が心からなる深謝を御嘉納あられたし」すると、セオドアが側からいった。「ササ父者《ちちじゃ》、殿さまがああいってなさるから、行って下せえ。おいらのために、殿さまをじらすこともありますめえ」
ジェロームが、門外の方はどなたかと尋ねると、「使者でござる」との答えであった。「いずれよりの御使者かな?」と聞きかえすと、「大太刀の武士よりの使者でござる。オトラントの横領者に談合の筋あって推参つかまつった」と使者はいった。
ジェロームはすぐに城主のもとに引きかえして、使者の口上をいわれたとおりに言上した。マンフレッドは、大太刀の武士と聞いてビックリしたが、自分のことを横領者といわれたのに烈火のごとく憤って、きゅうにブルブル武者ぶるいをして、どなった。
「ナニ、横領者じゃと! 無礼者めが! わが封位《ほうい》に異議をはさむやつは、何奴じゃ? ……御坊、そちは退《さが》れ。坊主の出る幕ではない。生意気千万なるでしゃばり男には、余が直々《じきじき》に会おう。御坊は尼寺へまいって、姫の帰参の用意をせい。それからな、ここな伜はそちの忠誠のしるしに、しばらく人質にとっておく。よいな、伜の一命は、一にそちの恭順にかかると心得おけ」
「イヤ、これはしたり、わが君」とジェロームは叫んだ。「殿にはたったの今、伜を御助命下されたのに、早くも天の配剤をお忘れになられたのか?」
「天が正当な王位に文句をつけに、使者など差し向けるものか」とマンフレッドは答えた。「おれはな、神が坊主めらごとき者を通じて、みこころを示さるるものかどうか、それさえ疑わしいものに思っておるのだ。――ま、しかし、それはそちの関わること、おれの知ったことではない。肝心なのは、神のみこころなぞより、おれのみこころじゃ。それはおのれ、心得ておろうな。イサベラを連れて戻らずば、おのれの伜を助くるのは、小|賢《ざか》しい使者なんぞではないぞ」
こうなっては、神父がなにを答えようが無駄であった。マンフレッドは神父に小門から退出するように命じ、かれを城から締め出しておいて、さて家来どもに、セオドアを黒い櫓《やぐら》に押しこめて厳重に警護するようにいいつけ、父子《おやこ》に別れの抱擁をかわすことさえ許さなかった。そして自分は城内の大広間へ出向いて、定めの座につき、使者に目通りを許すことを伝えさせた。
「オオ、高慢者はその方か!」と城主はいった。「身になんの用があってまいったぞ?」すると、使者は答上した。
「拙者儀、大太刀の大将としてその名天下に轟く主人の命により、オトラントの横領者マンフレッド公に推参まかりこしたり。さて今日まかりこしたる用件の趣きは、去んぬるころ、わが君ヴィツェンツァ侯フレデリックが不在のみぎり、貴殿が付け人どもに賄賂《まいない》なし、卑怯にもむり無体に手に入れし御息女イサベラ姫をば、今日この場において御返却ありたい。まったわが君には、御先代の正主アルフォンゾ公に血縁最も近きフレデリック侯より貴殿が横領なせし、当オトラントの城主の位より御退譲あるべしとの御諚《ごじょう》でござる。以上の純正なる要望に、貴殿が即刻御同意なきときは、わが君におかれては最後の一兵を賭しても一戦をまじえる所存にござる。この儀よろしく御賢察のほどを」口上をおわると、使者は権杖《けんじょう》をハッタと床に投げ置いた。
「して、そちをここへ送ったその大|法螺《ぼら》ぼら吹きは、今いずれにおる?」とマンフレッドがいうと、使者は答えた。
「主君の命にて貴殿に備え、ここより一里ほど離れたところにおりまする。憚りながらかれはまことの武士、貴殿は横領者、凌辱人でござる」
この挑戦は侮辱もはなはだしいものであったが、マンフレッドは、ここで相手の侯爵を怒らせては、こちらの分《ぶ》が悪いと考えた。フレデリック侯の言い分の筋の通っていることは、かれも十分承知していたし、それを聞かされたのはこれがはじめてではなかった。フレデリックの先祖は、子なしであった明君、アルフォンゾの死後、このオトラントの城主の名跡《みょうせき》をついだが、マンフレッドの祖父および父はヴィツェンツァ家よりも力が強かったので、この城を乗っ取った。フレデリックは軍《いくさ》も好きなら色にも強いという若い公子で、かねてからその色香を慕った美しい婦人と、願いかなって夫婦になったが、その夫人はイサベラがまだいとけない頃に世を去った。夫人の死はフレデリックをいたく歎かせ、そのために悲しみやる方なく、十字架を負うて聖地に赴いたが、向こうで異教徒との間になにかいさかいを起こし、交戦中に負傷をして獄に投ぜられ、獄死したと伝えられた。この知らせがマンフレッドの耳にはいったとき、かれはイサベラ姫の後見人たちに賄賂をつかって、わが子コンラッドの嫁に姫をもらい受け、その縁組によって両家の権利を一つに結びつけようと画策したのであった。ところが、コンラッドの不慮の死が契機となって、この計画は水泡に帰し、いっそそれなら自分が姫の婿になろうと、きゅうに思い立つような運びとなって、前とおなじ策略から、ぜひこの結婚にはフレデリックの承諾をとりつけようと思っていた矢先であった。さいわい、フレデリックの恩顧の武士が近くに来ているというから、それを城へ招いてやろうという、勿怪《もっけ》の計画がマンフレッドの頭に浮かんだ。それには、イサベラが逃げたことを先方に知られてはまずい。そこでマンフレッドは、家来どもに、武士の随行者の誰にも事の露顕せぬように、きびしく申しつけた。
この考えを腹にのみこむがいなや、マンフレッドはいった。
「使者《つかい》大儀。その方いったん主人のもとに立ち戻って、伝えてくれい。刀で黒白つけるまえに、マンフレッドに、ちと面談の儀があるとな。身もまことの武士じゃ、城に迎えれば丁重な饗応をもよおし、主賓はもとより随員の諸子にいたるまで、けっして粗そうには扱わぬ。たとえ和議おんびんに調停かなわぬことあるとも、そのおりには武人の体面掟にしたがい、双方無事に袂をわかち、じゅうぶん満足をえさせるであろう。この上はひたすら神冥の庇護を祈り、三位一体を願うばかりじゃ」使者の武士は、三拝して退出した。
この会見のあいだに、ジェローム神父の心は、千の相反する思いに動揺した。かれはわが子の一命におびえおののき、まず第一番におもうことは、イサベラに城へもどるように説得することであった。だが、マンフレッドの強引《ごういん》無法な縁組のことを考えると、気が気ではなかった。神父は、奥方ヒッポリタが城主の意志を手ばなしで許すことをおそれた。もし自分が奥方に面謁するおりがえられれば、もちろん、信心ぶかい御台に離婚を承諾しないよう警告はできるけれども、でもその結果、自分が水をさしたことがマンフレッドに知られれば、そのままそれはセオドアの生死につながることになる。神父は、マンフレッドの王位に異議を唱えながらも、べつにしかとした方策もない使者が、どこから来たのか知りたくてならなかったが、さりとて、イサベラが逃げ出せば自分の落度になるから、うっかり尼寺をるすにはできない。どうしたらよいか、ほとほと困りきって、これという腹もきまらずに、神父は思い屈したまま修道院にもどると、玄関口でばったり会った道僧が、方丈の浮かぬようすを見て、
「方丈さま、ヒッポリタさまがお亡くなりになられたというのは、やはりほんのことでござりますか?」とたずねた。神父はエッと驚いて、
「これ、それはまたどういうことじゃな。わしは今しがた城を出てまいったばかりじゃが、御台さまはお健やかにあられたぞ」すると、べつの道僧が答えた。
「イエ、ほんの十五分ほど前に、お城の戻りにここを通りかかったマルテリが、御台さまがおかくれ遊ばしたと申しますゆえ、われら一同さっそくに礼拝所にまいって、御台さまの御回向を祈り、方丈さまのお帰りをお待ちしていたところでござります。御台さまの御|帰依《きえ》には、方丈さまも日ごろより深い御執心ゆえ、さぞかしお力落としであろうと、一同案じておりました。とにもかくにも、御台さまはこの尼寺の母ゆえに、なにごとも涙の種。なれども、人の一生は巡礼なれば、悔むことは禁物。ただわれら同職《どうしょく》は御台さまのあとにつづき、どうかわれらの最後も、あのようにありたいと願うばかりでござりまする」
「夢にもそうありたいものじゃが、今も申すとおり、わしは御台の御壮健を拝見して戻ったところじゃ。――ときに、イサベラ姫はどこにおられる?」
「おいたわしや、姫にも悲しいお知らせをわたくしから申し上げて、お回向をおすすめいたしました。人の身のはかないことを改めてお考えになって、僧門にはいられるよう、アラゴンのサンチャ姫の例など引いて、勤説《かんぜい》いたしておきましたが」
「それは殊勝な志」とジェロームはいったが、心|急《せ》くまま、「じゃが、今はそれも無用となった。御台にはお健やかとの殿のお言葉に、嘘はあるまい。御不例などとはつゆ聞かなんだぞ。ただし、殿はしきりと――そうじゃイサベラ姫はどこにおじゃるな?」
「サアそれは……」と道僧はいった。「いこう御愁歎なされて、お部屋へさがろうとおっしゃっておられましたが」
ジェロムはあわただしく僧たちのそばを離れると、いそいで姫の部屋へ行ってみた。イサベラは部屋にいなかった。尼院の下男どもに尋ねてみたが、だれも姫の動向を知っているものがなかった。神父は修道院と教会のなかを隈なくさがしてみたが、見当たらない。そこで近隣へ人を出して、姫を見かけた者があるかと尋ねてまわらせたが、それも徒労におわった。神父の困惑にこたえるものは、なにひとつとしてなかった。ひょっとするとイサベラは、マンフレッドが御台の死を早めたものと早合点をして、この尼寺よりもさらに身を隠すのに秘密な場所へ行ったのだろうと判断した。この新規の逃亡は、おそらくマンフレッドの怒りを最高潮にまでもっていくだろう。御台が死んだといううわさは信じられなかったけれども、神父の狼狽はそれによって倍加された。かれはもう一度城へ行ってみることにして、城主がすでに知っているかどうかを見に、二、三人の修道僧をつれて行った。そしてもし必要があれば、セオドア助命の交渉に、修道僧たちにも加わってもらってもいいと思った。
そのあいだに、城主のほうは、まだ顔も知らない武士とその随員たちを接待するために、大広間へ出て行って、城の大門を真一文字にあけ放っておくようにいいつけた。やがてほどなく、一行の行列が到着した。まず先がけが儀杖をささげもった露はらいの兵卒二名。つづいて、小姓両名とラッパ手二名をひきつれた使者一人。そのあとからは、それぞれ馬を引いた供まわり百人。つづいて、騎士の色服の黒と猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織を着した徒士《かち》五十人。つぎが先導の馬一匹。馬の背にまたがる従者の両わきには、ヴィツェンツァ家とオトラントの家の紋を四分割りにしるした旗《はた》を持ったる使者二人。この堂々たる行列のありさまを見て、マンフレッドは心中おだやかでなかったが、場合が場合なのでグッと怒りをこらえていた。さてそのあとにつづくは小姓二名。そのあとから、主人の懺悔僧とおぼしい僧侶が、粛々と数珠をつまぐりながら来るのにつづいて、同じく黒と緋の陣羽織を着した徒士のもの五十余人。そのあとから、ものものしく甲冑に身をかため、厚ラシャの直垂《ひたたれ》をつけた両名の武士は、頭目の武士と同僚とみえる。この両名の武士の従者は、それぞれ楯と紋章をかついでいる。頭目の武士は従者をつれていた。百人のりっぱな供まわりは、おのおのみごとな太刀を佩《は》き、重い太刀に少々弱っている様子である。頭目の武士はりりしい甲冑姿で栗毛の駒に打ちまたがり、手に槍をたずさえているが、その顔は、緋と黒の大鳥毛の立った兜の頬当にまったくかくれている。しんがりは太鼓とラッパを持った徒士《かち》まわりがつとめ、これは頭目の武士の左右に、ほどよい間隔の輪をつくって練ってきた。
行列が城の大門に着いて、頭目の武士が駒をとめると、使者が前にすすみでて、もう一度重ねて果たし状の文言を読みあげた。このとき、マンフレッドの目は、ひたすら大太刀に吸いよせられていたようで、挑戦状の文句など、うわの空であった。と、そのおりしも、かれの注意は、とつぜんうしろの方で起こった時ならぬ一陣の風にそらされて、なんだろうとうしろをふり向いてみると、こはそもいかに、またしてもかの怪しい兜の鳥毛の冠が、前と同じような奇怪なかっこうをしてそよいでいるのを見たのである。それを見たとき、マンフレッドはいかにもかれらしく、おのれの運命を告げるらしい事件があとからあとから一時に発生することに、むしょうに腹が立ったけれども、まさか初対面の客のまえではそれもならず、ふだんのがむしゃらをじっと胸にこらえた上で、不遠慮な調子でいいはなった。
「ヤアヤア、おのおのにはいずれの仁《じん》にせよ、そこもとらが死を怖れぬ仁ならば、武勇にかけてはいくらでも相手になろうぞ。今聞いた条々、天から降ったか地から湧いたか知らぬが、まことに筋のとおった言分《いいぶん》、この家の守護は聖ニコラスのおかげに相違なし。まあ上へあがって、ゆるりと休息されい。野に立って、天に正しい側《がわ》についてもらうのは、また明日のこととしよう」
武士はそれには返答もせず、馬から下りるとマンフレッドに案内されて、城内大広間にとおった。供奉《ぐぶ》の衆も一同おなじく広間に通ったが、そのとき頭目の武士はふと足をとめて、広間の片隅にあった奇随《きずい》の大兜に見入ると、そこにひざまずいて、しばらく祈りをささげるようすであった。やがて立ち上がると、しからば御案内よしなにと、城主に目顔で挨拶をした。一同が広間へとおると、マンフレッドは正客に向かって、御一同、甲冑その他腰のものをとられるようにと申し出たが、客はお断わり申すというしるしに、首を横にふった。
「ヤ、これはいかなこと、ちと礼儀に欠ける挨拶だが、マアよかろう、しいて逆らうまい」とマンフレッドはいった。「あとでオトラント公に泣言《なきごと》こかぬようにさっしゃい。もとよりこちらは謀叛の下心などさらになし、そこもとらに意趣をもつものもあるまい。まっこのとおり、安心なされい。(とマンフレッド、はめていた指環を相手に渡す)さて、おのおのにはゆるりと饗応を楽しまれよ。酒肴が運ばれるまで、ここで寛《くつろ》いでもらおう。わしは家来衆の宿の手はずなど下知してまいるから、後刻また」
三人の武士は心づくしを受納して辞儀した。マンフレッドは随員の従者供まわりの者たちを、かねてヒッポリタが巡礼者の接待所に建てた、城のとなりの救護所へ案内するように指図した。そして武士たちといっしょに広間を一巡して、大門の方へもどろうとしたとき、頭目の武士の佩《は》いている大太刀が、突然ひとりで鞘走《さやばし》ったとおもうと、あれよと見るうちに、かの大兜の据えてある前の地面まで太刀はヨロヨロと転がっていって、そこでピタリと止まった。この不思議を見て、マンフレッドは五体が堅くなったほどであったが、やっとのことでこの新しい怪異の衝撃をのりこえて、ふたたび大広間へ戻ってくると、すでに広間では宴の準備がととのっていたから、黙りこんでいた客たちをそれぞれ設けの席に招じた。
内心、マンフレッドは気がすすまなかったが、つとめて連中に酒のとりなしをした。そして二言三言客に問いかけてみたが、相手の返答は、首を横にふるか縦にふるかするだけであった。面々、いずれも兜の面当《めんあて》をあげるだけで、けっこうそれで飲んだり食ったりしているが、それもごく控え目であった。
「おのおの方」とマンフレッドはいった。「見受けるところ、お身たちはわしと友好するのを蔑《なみ》している衆と見たが、そういう衆をこの部屋でもてなすのは、わしもはじめてじゃ。見も知らぬ客人や、ものもいわぬ唖《おし》づれに、かりにも領主ともあろうものが地位と威厳を落として会うなどとは、イヤまったくもって前代未聞じゃ。お身たちはヴィツェンツァのフレデリックの名代《みょうだい》といわるるが、ヴィツェンツァ侯は武勇に秀で、礼節をわきまえた武士と聞きおよぶ。なれば、あえて申そうが、そういう武人がおのれと同等の王侯とうちとけた話をするさいに、身を低うして友好することを考えず、武具甲冑を身につけて臨まねば、相手に知られぬとも考えてはおられまい。どうじゃ? ……ハハこれほどにまで申しても、お身たちは黙《だん》まり案山子《かかし》の一点ばりか。マ、それもよかろう。武士接待のおきてによれば、この屋根の下ではお身たちが主《あるじ》じゃ。せいぜい歓をつくされい。そのかわりに、サア、わしにも一つ盃をくれい。よもや御息女の姫の健康を祝しての乾盃に、異存不服はあるまい?」
すると、頭目の武士は吐息をついて十字を切り、食卓から立ち上がった。
「イヤ待たれい、お使者《つかい》どの」とマンフレッドはいった。「いまのは座興じゃ。異存とあれば、むりには申さぬ。好きにされるがよかろう。陽気な酒宴は気に染《そ》まぬようだから、せいぜい陰気にまいろう。そのほうがよい思案も浮かぼうというもの。わしはここらでおひらきにする。御免。こちらより申さねばならぬことがあれば、耳を借りるが、酒席の興をつとめるも無駄ゆえ、あとは勝手によきようにくつろがれい」
そういいのこして、マンフレッドは三人の武士を小部屋に案内して、あとの扉をしめ、それぞれに席をすすめると、ここではじめて頭目の武士に話をはじめだした。
「お身がヴィツェンツァ侯の名代で、主人の息女イサベラ姫をひきとりにまいったことは、とくと承引いたしたが、姫は法定後見人が同意のうえ、この寺で愚息と縁組の盃をすませた。お身は、今、御先代アルフォンゾ侯に最も近い縁辺たるお手前の主君に、わが領地を譲れと、こういいにきたのじゃな? ――さてまず、姫を返せとの第一条は置くとして、領土を返せという第二条について申そう。よいかな、そちの主人も知っておるが、おれは親びとドン・マヌエルが、そちの主人の親びとドン・リカルドより受けた、このオトラントの城主をつとめておる。先々代アルフォンゾ公は子なくして聖地で没し、おれの祖父《じい》ドン・リカルドが忠誠を尽くすものと考えて、これに当封土を譲ったのじゃ」客の武士は頭をふった。マンフレッドはさらに熱心に説き語った。――「リカルドは勇気もあり、正しいお人であった。敬神の念も深く、みずから建立《こんりゅう》した寺院と修道院が二つもある。とりわけて聖ニコラスの加護を受けての、――祖父にはそれだけの力はなかった。――いやさ、ドン・リカルドにはそれだけの力はなかった。――そこもとが口をはさむので、話の調子が狂ったぞ。――わしは祖父の霊をあがめておる。祖父はこの土地をよく持ちこたえた。武力と聖ニコラスの加護によって持ちこたえたのじゃ。というわけでの、いずれまあ、おれの身には何かが起こるであろうよ。――しかし、おのおの方の主人フレデリック侯は、血筋から申すと一ばん近いお人じゃ、――わしは城主の位は刀で決着をつけたかった。――わしの王位はよこしまなものだ、とおのおのは申すのであろう? 最前尋ねようと思ったのだが、主人フレデリックは只今どこにおられるな? 風のたよりに聞くと、捕われて死んだとやら申すが、おぬしたちの口上によると、存命とやらだな。マ、それは尋ねまい。尋ねてもよいが、まあ尋ねまい。天下諸公のなかには、さだめし力ずくで乗っとれと、フレデリックをけしかけるものもあったろう。しかしその諸公らとて、ただ一度の戦いにおのれの威勢をかける所存はなかったろうし、――さりとて名もなき|はした《ヽヽヽ》侍どもの蹶起《けっき》に任せもせられなんだろう。――まあまあ許せ、つい話に熱がはいったのでな。――しかし、かりにじゃ、そこもとらがわしの立場になったら、さてどうであろうかな? とくにお身たちは剛毅勇豪の面々ゆえ、疑念を受けるようなおのれの名分や先祖の名分を立てることなどに、早まった心を動かすことはあるまい。そんな気にはなるまい。――さ、そこが問題なのじゃ、貴公たちは、イサベラ姫を返せとわしに望まれる。そこで尋ねるが、お身たちは姫を受けとる権限を公認されておるのか?」頭目の武士がうなずいた。「そうか。よろしい、公認とあれば姫をお渡し申そう。ただし、念のために尋ねるが、貴公らにそれだけの力がおありかな?」武士たちは首を縦にうなずいた。「なれば、結構じゃ」とマンフレッドはいった。「しからば、当方の申し出をよく聞かれよ。貴公ら、よう見てくれよ、いま貴公らの目の前におる男はな、天下にもっとも不仕合わせな男なのじゃ。(マンフレッド、男泣きに泣きだす)おのおの方、御同情下されい。わしは当然それを受けてよい男じゃ。げにまっこと、このわしは……よいか、このわしはな、おのれが只《たんだ》一つの望み、喜び、イヤサわが一門の支えを失った人間じゃよ。――一子コンラッドが、昨朝、……みまかり申した」三人の武士はエッとばかり、たがいに驚く顔と顔。「さればよ、運命はわが子を片づけおった。そこでイサベラは自由の身となり申した」
「スリャ姫をばお返し下さるか?」と頭目の武士ははじめて沈黙を破って叫んだ。
「ママ早まらずに、わしの申すことをひと通り聞いてくりゃれい」とマンフレッドはいった。「まずもって貴公らの善意により、血を見ずして事を納めることができるとは、イヤモウ願ってもないこと。この上なんの言い分もないことをくどくどいう気はさらさらないが、貴公らさだめし身がことを、世の中がつくづくいやになった男と見らるるであろうの。正直、伜が無《の》うなっては、世俗の苦労がほとほといやになり申した。権力も偉さも、もはやわが目にはなんの魅力もござらぬわい。わしは先祖から誉《ほま》れをもって受けついだ王位を、早く伜に譲りたいと願っておったが、それも今となってはやんぬるかなじゃ! イヤモウ生きること自体がどうでもよいようになったゆえに、こうしてお身たちの挑戦も甘んじて受けておるようなしだいでな。武士たるものは天運まさに尽きんとするときこそ、従容《しょうよう》として墓穴に行けるものであろうよ。その天の意志が何であれ、わしはそれに従うのみじゃ。のう、おのおのがた、わしはそれほど多くの悲しみをかかえた男じゃ。マンフレッドは人に怨みを買うような筋は毛頭ござらん。お身たちもわしの素姓はよう知っておろう」
三人の武士は「知らぬ」という身ぶりをした。三人とも、マンフレッドがそんな話をしだしたのを奇異に思うふうであった。――マンフレッドはさらに話をつづけた。
「わしの来歴素姓がお身たちに隠されているとは、笑止《しょうし》笑止。ならば、わしと御台ヒッポリタとの関係についても、なにも聞いておらぬな?」三人の武士は首をふった。「そうか。イヤかくなるうえは、お明かし申そう。お身たちはこのマンフレッドを、野心満々の男と思うだろうが、そもそも野心とは、哀しいかな、もっともっと汚れた穢《きたな》いものでできておるものでな、このわしが野心の人間なりゃ、なにもこうまで多年、良心ある躊躇遠慮の地獄の餌食になっておりはせぬわな。――しびれが切れようから、手短に話そう。聞いてくりゃれ。わしは久しいこと、御台ヒッポリタとの縁組のことで、深く心に悩んでおったのだ。お身たちも会えばわかるが、御台はりっぱな女じゃ。わしはあれを女王のごとくに敬慕し、友人のように心にいだいておった。――なれど、男というものは、なにもかもが仕合わせには生まれついておらぬものでのう。わしの遠慮をあれもわかってくれて、あれの同意をえて、わしは二人の縁組を教会に持ちこんだのじゃ。二人は禁じられた関係の仲じゃったのでな。そんなわけで、わしらの仲は今に裂かれる、今に裂かれる時がくる、その決着の宣告が今に来るか今に来るかと、思わぬ時は一刻とてなかったものじゃ。そのわしの気持はわかってもらえよう。ナソレ、そのとおりわかってくれるわ。――不覚の涙、許してくれい!」三人の武士はどうなることかと訝《いぶ》かりながら、顔を見あわした。マンフレッドはさらにつづけた。「その苦患《くげん》に悩むうちに、伜の不慮の死がおこり、わしはもう領地を捨てて、世間の目から永久に退いてしまおうと、いちずに考えた。ところが、ここに一つの難儀というのは、跡目を定めることじゃ。いやしくも跡目となるものは、領民のよき監督者、しかもイサベラ姫の気に入る者であらせたい。さいわい姫は、わしには実の子のごとくなついておる。わしとしては、たとえ遠い血筋にしろ、アルフォンゾ公の血筋は残しておきたい。ま、いうなれば、かれの嫡流のかわりに、リカルドの血と入れかえてもらえれば、こちらは重畳《ちょうじょう》。となると、さてその縁引きをどこに求めたらよいか? そこもとの主家には、フレデリックのほかには誰もおらぬし、そのフレデリックが異教の徒に捕えられ、かりに生きて本土に戻ったところで、オトラントのごとき微々たる小藩の主《あるじ》となるために、ヴィツェンツァごとき大藩を捨てることはあるまい。フレデリックにその意志なくば、何条《なじょう》忠誠なるわが家臣ら領民どもの上に、酷薄無情の太守を迎えようなどと考えらりょうか? さいわい、われ不敏なれども家臣領民を愛撫し、民人草《たみひとくさ》もわれを慕いくれること、身にとりて千万の福禄じゃ。――とまあ、この長話どこへおちつくかと、方々《かたがた》には不審に思《おぼ》すであろう。そこで手短に申そうが、神は貴公らの入来《じゅらい》で、今申すような難儀とわが不幸に、どうやら霊薬をさずけて下されたようじゃて。イサベラ姫は、さきにも申したごとく、いまは自由気ままの身分。わしもまもなく同じ身分になる。そこでの、わしも家人たちになんぞよいことをしておきたいが、お身たちの主家との間の領地封土を明らかにする手段《てだて》として、これが一番とはいえないまでも、――かりにじゃ、わしがイサベラ姫を妻にめとらば――イヤマア、そう驚かれるな。――ヒッポリタの貞節、これは身にとりて大切じゃが、王侯なるものは、おのれの身をよくよく考えねばならぬ。王侯は、すなわち家臣領民のために世に生まれたものじゃ」――といっているところへ、近習の一人が部屋へはいってきて、只今ジェローム神父が侍僧両三名をつれて、直々《じきじき》お目通りに見えられました、と告げた。
マンフレッドは、まずいところへ邪魔がはいったと、ムッとしたが、イサベラが寺へ逃げこんだことを客たちにばらされては困るので、ジェロームがここへ来るのを止めに部屋をはずした。ところが、神父は姫が戻ったことを知らせにきたと知って、マンフレッドはほっとして、また部屋に戻り、中座したことを客に詫びているところへ、神父たちが許しもなくズカズカはいってきた。マンフレッドは怒って、僧たちの闖入《ちんにゅう》を叱りつけ、部屋からむりやり追い返そうとしたが、神父はえらく気が立っているようで、追い返すどころではなかった。神父は大|音声《おんじょう》にイサベラが逃げたことを告げ、これは愚僧のまったく知らぬことだと明言した。マンフレッドは、客にそのことが知られるよりも、この新しい出来事の知らせにカッとなって、なにやらわけのわからぬことを口走った。神父を叱りつけるかとおもうと、武士たちに侘びをのべたり、イサベラの消息は知りたいが、武士たちに知られては困るし、彼女を追跡したいのは山々だが、武士たちをそれに参加させてはまずい。とにかく、さっそくイサベラの捜索に人数を出せと命じたが、こうなると頭目の武士も黙っていない。はげしい言葉で、マンフレッドのうしろ暗い、あいまいな態度をきびしくなじり、まずもって姫が城を逃げ出したそもそもの原因を聞こうと詰めよった。
マンフレッドはジェローム神父をハッタと睨みつけ、黙っていろという意味をかよわせておいてから、武士に向かい、じつはコンラッドの不慮の死に際して、姫の身柄をどう計らうか、それがきまるまで一時寺に預けたのだと、嘘をついた。神父のほうは、自分の伜のセオドアの一命にハラハラしている矢先だから、マンフレッドの嘘を反駁することができなかったけれども、そんな心配のない侍僧のなかの一人が、姫は前の晩に寺へ逃げてみえたのだと、事実のままを平気であけすけに喋《しゃべ》ってしまった。マンフレッドが止めようとしても、止めきれなかった。この暴露は、城主を恥と狼狽に動顛させた。
頭目の武士は、いま聞いた話の食い違いにあきれかえり、姫が逃げたというマンフレッドの申し立ての裏をかいて、さてはマンフレッドが姫を隠しおったなと半分以上信じこみ、スワヤとばかり、扉口に走りよるなり叫んだ。「ヤイ、ここな嘘つきの狸領主め! 姫君はわれらが手にて見つけてくりょうわ!」
マンフレッドは「待て!」と押さえにかかったが、残りの武士両人が加勢に出たので、そのすきに頭目の武士はマンフレッドをふり放ち、随行の家来どもを呼び立てに中庭へと急いだ。マンフレッドは、もうこうなっては敵方の追跡をとどめることは無駄と見たので、自分もいっしょに行くことを申し出で、ただちに家来どもを呼び集め、ジェローム神父と侍僧数名を案内役とし、早々に城を立ちいでた。マンフレッドはひそかに使者の一行を逃がさぬように警備することをいいつける一方、頭目の武士には、お身たちを援《たす》けるために先ぶれを一名出しておいたといって、機嫌をとりなしておいた。
さて話変わって、一行が城を出たのとほとんど同時に、マチルダ姫もおなじく城を出た。マチルダは、例の若い百姓が大広間で死刑をいい渡されていたのを垣間《かいま》見てから、かれに心をよせ、なんとかして助けてやりたいものと、いろいろ手だてを考えていたところへ、女中たちから、殿さまがイサベラさまの追手に御家来衆をあちこちへくり出された、ということを聞いた。追手の命令は、なにしろ急ぎの際のこととて、マンフレッドもいちいちこまかな下知《げち》を出したわけではない。セオドアにつけておいた護衛まで追手に狩りだすつもりはなかったし、だいいち、そんなことは忘れていたのである。しかし家来たちは、ふだんから殿の強引な命令には、なにがなんでも服することに慣らされていたし、それに時ならぬにわかの捕物となれば好奇心もあり、珍らしい物好きの連中はそれ行けというので、るす番一人を残して、みな城を出払ったのである。マチルダは腰元たちからひそかに抜け出すと、ひとりでこっそり黒い櫓に上がって行って、板戸の閂《かんぬき》をはずし、驚きあきれるセオドアの前に姿をあらわした。
「ア申しお若い衆、わらわがここへまいりしは、子としての務め、女子《おなご》の道にはずれたれど、神の御慈悲は法《のり》をこえ、かならず御照覧下さるはず。獄屋《ひとや》の扉は明けてあるゆえ、片時も早うお逃げなされませ。父上も家来衆も、ただいま城中にはおりませぬが、ほどなく戻ってまいりましょうほどに、どうぞお気をつけて、御無事にまっすぐ行かれますように、天使の御加護を祈りまする」
「ヤそういうあなたさまこそ、まことの天使!」とセオドアの狂喜はいかばかり。「ヤモウそのお言葉、そのおとりなし、そのお姿、こりゃあもう聖女でなけりゃできっこねえ。失礼ながら、わっちのお守護神のお名前をお伺いしてえが、お父っさまと御同姓ですかい! いやあ、そんなわけはねえ。あのマンフレッドの血が、なんで神の御慈悲なんぞ感応するものか。――ねえ姫君さま、ウンともスンとも御返事がねえが、それはそれとして、どうやってお一人でここへおいでなされました? ご自分の安否も考えずに、なぜわっちみてえな百姓の小伜のことなんぞを思召しなさるのです? さあ、こうなるうえは、ごいっしょにここから逃げやしょう。命がけでお出で下すったあなただ、これから先はわっちが身をもってお護りいたしやす」
「アコレそれはおまえの思い違い。なるほどわらわはマンフレッドの娘、危いことなどさらさらありませぬ」
「こいつあ恐れ入りやした。でもね、昨夜《ゆうべ》わっちはあなたのお情けが身にしみて、その万分の一の御恩返しを……」
「ソレソレ、そのとおりまだ思い違い。したが、今はそのわけをいうひまもなし。とまれ、お助けする力はこちにあるゆえ、お逃げなされませ。父が戻ってまいれば、わらわもそなたも、ともに恐ろしいことになるは必定《ひつじょう》」
「だからさ、その恐ろしい不幸が降りかかるほどの危険を冒してまで、なぜわっちの命を助けようなんて思召しになるんですい? 姫さまにそんな難儀をかけるくれえなら、わっちは百万遍死んでも、そのほうがましだ」
「こうしている間も寸善尺魔。さ、片時も早く。今なら逃がしたことが知れるはずもなし」
「それじゃあ、天なる諸聖にお願えして、そっちに嫌疑のかからぬよう。――ナニ城さえ出りゃあ、こっちのもの。なんとかきっとなりまさあネ」
「たのもしいそのお大気。こちに嫌疑はかからぬゆえ、お案じなされますな」
「嘘でねえしるしに、そのお美しいお手を頂かして下せえ。お礼の涙でそのお手を洗わして下せえまし」
「そりゃなりませぬ。御辛抱御辛抱」
「ああ、今の今まで艱難苦労のほかは知らねえこの身。こんないい目は二度と来めえ。このすがすがしい感恩感謝、天にも昇りてえ心持とはこのことだ。どうかこの心血をそのお手にしるしてえものだなあ」
「なにごとも今は御辛抱。ササ早くお立ち遊ばせ。わらわの足もとにひざまずいているところを、イサベラに見られでもしたら、どうなりましょうぞいな」
「イサベラとは、どなたのことで?」と若者は意外のおももちで尋ねた。
「オヤ、どうやらこちはふた役勤めているのかいな。――コレ、そなた今朝、あれほど根ほり葉ほり聞きやったのをお忘れか?」
「どうも御様子といい、お振舞いといい、またそのお美しさといい、まるで後光がさすようだが、そのくせおっしゃることがあいまいで、まるで謎みてえだ。姫さま、打ち明けておくんなせえ。おまえさまの下僕《しもべ》にわかるように、お話しなすっておくんなせえ」
「そなたにはようわかっていやるほどに、サ早う行かしゃれ、こうして時を費《つい》やすうちにも、せっかくわらわが守るそなたの血が、わらわの頭にかかろうも知れませぬ」
「ヘエ、では参《めえ》ります」とセオドアはいった。「わっちもおめえ様のお父っさまの白髪《しらが》首を、墓まで運びたかアござんせん。わっちはただおめえさまが哀れをかけて下すった、おやさしい心だけを胸に抱いてめえりますよ」
「待ちゃれ」とマチルダはいった。「イサベラが逃げた地下道まで案内《あない》しましょう。あれより聖ニコラス院へ出られるゆえ、御内陣へお行きやれ」
「ナニ、あの地下道を見つけてくれたのは、おまえさまではなくて、まだほかに?」
「あい。――もうお聞きやるな。こんなところでウロウロしていると、わらわまでビクビクじゃ。サ早う御内陣へ……御内陣へ!」
「姫さま、寺の御内陣はかよわい女子《おなご》か罪ある者が行くところだ。セオドアの心はまだ罪に汚《けが》れちゃいねえし、そんなざまになることもありますめえ。それより姫さま、お願えだ、わっちに刀を一振《ひとふり》やっておくんなせえ。そうすりゃおまえさまのお父っさまに、わっちが穢《きた》ねえ籠抜けはしねえという証拠を見せてやれます」
「コレ、そのような若気の無分別を! おまえ、夢にもそのような無分別な手を、父上にあげるようなことはないであろうな?」
「イエ、お父上にはあげやあしません。どんなことがあっても、そりゃあしねえ。――勘弁しておくんなせえ、うっかり忘れていたっけ。どうもこうして拝見していると、おまえさまがあの暴君マンフレッドからお生まれなすったことを忘れて――そうだ、マンフレッドはおまえのお父っさまだ。まあこの時かぎり、わっちの受けた傷も、西の海へさらアりさ」と、この時、塔の上からウーンとひと声|呻《うめ》くような声がしたのに、姫とセオドアはギックリした。
「アアどうしょいぞい。この場のようす、聞かれたわいな」二人は耳をそばだてたが、それきりなんの音も聞こえないので、たぶん籠《こも》っている空気の作用だろうと判断した。そこで姫は足音をしのばせながら、セオドアを父の甲冑がおさめてある部屋へつれて行き、ありあう武具ですっかり支度をさせてから、くぐり戸まで案内した。「町方とお城の西側は、只今父上と家来衆がたずねているゆえ、その反対の方角へお逃げなされ。ずっと向こうの森のうしろの東寄りに岩山があって、そこに迷路のような洞穴がいくつもある。そこまで行けば海べに出られる。海べに出たら、寝そべって身をかくしていると、舟がくるゆえ、合図をすれば、その舟がいっしょに乗せて逃げてくれましょう。ササ、行きなされ。神のお導きを祈っておりまするぞえ。そなたもお祈りのおりには、ときたま思い出してたもれ、――このマチルダをな」
セオドアはマチルダの足もとにひれ伏して、百合《ゆり》の花のような姫の手をとるのを、姫は身をもがきながらも、男の口づけを受けた。セオドアはこれで身も心も騎士になりすまし、姫の足下から立ちあがると、自分は末長くあなたの身を守る騎士になると固い誓紙を誓わせてくれといって、せがむように許しを乞うた。すると姫がそれに答えもあえぬうちに、なにごとやらん、にわかに百雷一時に落つるがごとき轟然たる大音響が鳴りひびいて、城の壁がガラガラと揺れうごいた。セオドアは嵐も夕立ちもそっちのけで、まだグズグズといでたちをととのえているので、マチルダはもはや匙《さじ》を投げ、足早に城内へひき返すと、もうこれぎりという意気込みで、早く行くように合図をした。セオドアもようやく踏んぎりをつけ、くぐりの門をキッと見こみながら、ものもいわずに姫をあとに去って行った。マチルダはあとのくぐり戸をぴったり締めて、はじめて味わう愛の盃を、たがいの心にくみかわしたこの出会いの幕を閉じたのである。
セオドアは思いに沈みながら、まず自分が逃れ助かったことを父ジェロームに知らせに、修道院へ行った。ところが行ってみると、ジェロームはイサベラのあとを追いに行ってるすと知り、また、こみいったイサベラの身の上のことも、そこではじめて道僧たちから聞かされた。それを聞くと、義侠の気に富むかれのことだから、なにがなんでもイサベラを助けたい思いに駆られたが、道僧たちはいっこうに道しるべの灯火《あかり》一つ貸してくれない。セオドアとしても、いまはマチルダのことが心に深く残っているから、彼女のいるところからそう遠く離れてしまっても困るので、イサベラを追いに遠方まで行くのは気のりがしなかった。この逡巡をさらに強くしたのは、ジェロームが自分のために見せてくれたあの恩愛の情であった。なるほど、自分が城と修道院の間をウロウロしている最大の理由は、ほかでもないこの親子の情愛だったのだと、かれは改めて自分にうなずいた。道僧たちに聞くと、夜になればジェロームも帰ってくるだろうという話なので、そのひまにかれはマチルダにおそわった森まで行ってみることにした。
森へつくと、セオドアは、いま自分の胸のなかを支配している、甘い物悲しい気分にふさわしいような、ほの暗い木蔭をさがして歩いた。そんな気分にひたりながら、かれは話にきいた洞窟のほうへと、木深いところをブラブラ分け入って行った。なんでもその洞窟は、むかし隠者たちにかっこうな隠れ家を提供していたところとかで、近年はそのあたり一帯に、なにか悪い妖怪が住んでいるという噂があるとか。そんな噂を耳にしたことがあるのを思いだしながら、もとより冒険好きな、もの怖《お》じしないたちだから、よし、一つその迷路の秘密の穴を探検してやろうと、急にかれは好奇心をたのしもうという気になった。すると、まだそれほど穴の奥のほうまで行かぬうちに、ふと誰か自分の行くてを逃げていくらしい人の足音を聞いたような気がした。
セオドアは、善人が理由なくして闇の力の悪意に見殺しにされるなどということは、全然考えていなかった。この洞窟も、旅人を苦しめたり迷わしたりするといわれている妖怪|変化《へんげ》が住んでいるよりも、どうやら盗賊追剥が出没する場所のように、かれは思った。このところ、だいぶ久しく我慢をして剛勇を見せていないから、内には烈々たるものが燃えていた。かれは刀を抜くと、奥の方でなにかガサガサいっている音を目当てに、そっちへ足を向けながら、洞窟のなかへのしのしはいって言った。着ている甲冑は、こちらを避けている相手には、この上もない看板だ。この扮装《いでたち》を見れば、胡乱《うろん》な者でないことが相手にもわかったと見たから、セオドアは大股で中へ進んでいくと、いよいよ慌てふためいて逃げていく人影が見えたので、そのままズカズカ行ってみると、息も絶えだえになって一人の女が倒れている前に出た。急いで抱きおこしたが、だいぶ怖かったものとみえて、女はかれの腕のなかにかかえられたまま、今にも失神しそうであった。セオドアは女の驚愕をしずめてやるために、言葉やさしく、ここなら危害をうけることもなし、自分が命に賭けても守ってあげるからといって、女を安心させた。女もセオドアの親切なとりなしに、ようやく元気をとりもどし、自分を助けてくれた人の顔を見まもりながら、
「アノ、お声はたしかに前に聞いたお声!」といった。
「ヤ、もしやおまえさまはイサベラ姫では――」とセオドアがいうと、女は飛びたつ思いで、
「エ、マア、うれしや、ありがたや! スリャおまえは追手の人ではありませぬな」というより足もとにガッパと伏し、どうか自分をマンフレッドのもとへ連れて行かないでくれと、手を合わせて頼むので、セオドアは、
「ナニ、マンフレッドのもとへ! とんでもねえ姫さま、わっちは前に一度おまえさまをあの暴君の手から助けてあげた人間だ。おかげでひでえ目にあいやしたが、おまえさまのことは、あいつの手のとどかねえところへ必ず置きやすから御安心なせえまし」
「スリャおまえは昨夜《ゆうべ》お城の地下道で、お目にかかったあのお方。そんならただのお人ではない、わが守り神の天使じゃ。このとおり、膝ついて御礼を――」
「姫さま、マアそのお手をお上げなすって下せえ。わっちみてえな友なし鳥の若造の前で、なにもそんなに御卑下《ごひげ》なさるにゃおよばねえ。もし神さまがわっちをおまえさまの助人《すけっと》に選んでおくんなすったのなら、せいぜい励んで、腕っ節も磨きやしょう。姫さま、そこは端近《はしぢか》、洞穴の入口に近すぎるから、もそっと奥の方に休む所を見つけやしょう。危なくねえ所へお移ししねえことには、わっちの気がおちつきやせん」
「滅相もない! それはもう、おまえさまのお働きは貴いし、清いお心からでた御真情なれど、こんなわかりにくい岩屋のなかで、もしひょっとして二人でいるところを人に見られたら、口さがない世間の常、不義いたずら者と譏《そし》られなば……」
「イヤモウその御潔癖はごもっともでごぜえやすが、失礼ながらわっちの名誉を傷つけるようなお疑いは、どうか御遠慮願いやしょう。この岩屋のかくれた穴へ御案内申したのは、命にかけてもおまえさまをお守りしてえからで。それにね、姫さま」とセオドアは溜息をついて、「そりゃもうおまえさまは、この通りお姿の美しい、どこから見ても非の打ちどころのねえお方だから、わっちもふっと大それた望みをもたねえとも限らねえが、それも御安心下せえ。わっちの心はとうに別のお方に献げてごぜえやす。それにね――」といいかけたとき、にわかに騒がしい外の物音が、セオドアの口を封じた。二人の耳にはっきり聞こえたのは、――「イサベラやーい! イサベラやーい!」と呼び叫ぶ声であった。おののきふるえるイサベラ姫は、たちまち、先ほどまでの恐怖の悩みに逆戻り。セオドアが元気をつけても、その効もなかった。セオドアは、あなたを二度とふたたびマンフレッドの手のなかへ返すくらいなら、自分はむしろここで死ぬといい、どうかしばらくこのままここにそっと隠れていてくれと頼んでおいて、自分は彼女を捜しにきたやつを近づかせぬように、洞窟の入口へと出て行った。
洞窟の入口のところに、かれは甲冑をつけた一人の武士がいるのを見つけた。その武士は、百姓を一人案内役につれていた。百姓は、たしかに高貴な女のひとがこの岩穴へはいったのを見たといっていた。甲冑の武士が捜しにはいろうとすすみ出るその前に、セオドアは刀を抜いて立ちふさがり、これから先へ一歩でもはいれば命はないものと知れと、大|音声《おんじょう》に呼ばわった。
「邪魔立てするのは、どこの何者だ?」と相手の武士も高飛車にいった。
「しゃら臭えことをしやがると、飛んで火に入る夏の虫だぜ」とセオドアがいうと、武士は、「おれはイサベラを探すものだ。姫はこの岩穴にかくれたと心得る。そこ除《の》け! おれの怨みを買うと、あとで後悔するぞ」
「貴様の怨みも片腹痛えが、見こんだ穴も笑止くせえ。いいからとっとと帰《けえ》れ帰れ! さもねえと、どこのどいつの怨みがいちばん怖えか、目に物見せてくれるぞ」
この見知らぬ武士は、ヴィツェンツァ侯から送られてきた例の頭目の武士であった。じつはマンフレッドが姫の報告を手に入れるのにあせって、かれら三人の武士の手に姫を渡さぬようにと、手をかえ品をかえ、家来どもにいろんな下知《げち》を出しているので、この武士はさっさとマンフレッドのそばを離れて、一人でこのあたりを駆け歩いていたのであった。かれは、イサベラ失踪の黒幕はマンフレッドだと、はじめから睨んでいた。そして今自分に無礼を加えた男は、姫をかくまうためにマンフレッドがひそかに配置しておいた手先の者と見こみ、その見こみは今の問答で動かぬものとなったので、有無をいわせずいきなり刀をひっこ抜くや、セオドアに斬ってかかった。ここでもし、相手の武士をてっきりマンフレッドの手下《てした》の大将の一人と思いちがえたセオドアが、敵の太刀を受ける用意をするよりも一足早く太刀を楯で受けなかったら、すべての邪魔はたちどころに片づいていたことだろう。ところが、最前からセオドアの胸のなかにプスプスくすぶっていた剛勇が、ここでいっぺんに爆発して飛びだした。
かれは猛然と相手の武士に斬ってかかった。侍の誇りと怒りが、果敢な行為に強力な刺激となった。斬り合いは烈しかったが、長くはなかった。セオドアは相手の武士に、三ヵ所ほど深傷《ふかで》を負わせた。そして出血のため力尽きて、相手はついに刀を捨てた。最初の斬り合いにぶったまげて逃げだした案内役の百姓は、さっそくこの急をマンフレッドの家来たちに告げた。家来たちは主人の命で、イサベラの追手に、付近の森のなかに分散していたのである。知らせを聞いた家来たちが、急いで倒れた武士のところへ駆けつけてみると、負傷《ておい》の武士は城へきた客の大将であることがわかった。セオドアは、マンフレッドへの怨みはともかくも、自分のえた勝利、倒した相手への憐憫、そんな感慨で胸がいっぱいであったが、相手の身分がわかり、しかもマンフレッドの家来ではなくて敵方の武将だと知らされたときには、いっそう胸を打たれた。かれは手早く武具をぬがせるマンフレッドの家来どもに手つだって、傷口から流れる血をとめるのに懸命につとめた。そのうちに、負傷《ておい》の武士も口がきけるようになり、かすかな、たどたどしい声でいった。
「敵ながら天晴れの義侠人じゃな。イヤそもそも、われら両人とも粗忽であった。わしはそこもとを暴君の手先とあやまり、そこもとも同じ誤りをされたとお見受けいたす。――今さら詫びても後の祭。……はや末期《まつご》じゃ。……イサベラが近くにあらば……呼《よ》、呼《よ》んで下され。……い、いわねばならぬ、大《だ》、大事《だいじ》がござる……」
「ヤ、はや御最後か!」と従者の一人が、「ヤアたれぞ十字架を持っておらぬか? アンドレア、御引導御引導!」
「水を持ってこい」とセオドアがいった。「咽喉をしめしてさしあげろ。おいらはその間《ま》に急いで姫を――」セオドアはそういうなり、イサベラのもとに一目散。手短にこれこれしかじか、城から来られたお客人が、時の不運で負傷《ておい》となり、いまわのきわに、あなたになにかいいのこしたいことがあるといっていると語った。セオドアの声を聞いて、ヤレうれしやと心も空なるイサベラは、そのセオドアに岩屋の外へ出てこいといわれたので、びっくり仰天。聞いた話も上《うわ》の空で、セオドアに手をひかれながら、この若者の剛勇の新しい証拠に元気をとりなおし、朱《あけ》に染まった武士が言葉もなく地面に横たわっているところまで出てきたものの、そこに居ならぶマンフレッドの家来たちを見ると、またもや追手の恐怖が彼女にもどってきた。そのときセオドアが、この連中は武装をしていないことを彼女に見せなかったら、そして家来どもも臨終におろつかずに彼女を捕えにかかりでもしたら、おそらく、イサベラは、そのままふたたび逃げ出していたろう。負傷《ておい》の武士はしずかに目をひらくと、イサベラを見ていった。
「オオ、そなたか――どうかまことのことをいうてくれ。――そなたは、ヴィツェンツァのイサベラか?」
「あい。――神の御加護で御本復を――」
「そなた――そなたはな――」と瀕死の武士は、ものをいうのも苦しげに身をもだえ、「コレ見い、――そなたの父じゃぞ。――顔見せてたもれ――」
「シェー! マ、おそろしや! 今聞いたことわいのう! 見たことわいのう!」とイサベラは気もそぞろ。「父者人《ちちじゃひと》! 父上さま! おまえはどうしてここへ来やったえ? サ、そのわけいうて下さりませ!――ア、ア、たれぞ助けを! 父は死にまする!」ヴィツェンツァ侯は死力をしぼっていった。
「まっことわしはフレデリックじゃ、そなたの父じゃ。――わしはな、そなたを助けにまいったのじゃ。……サ、早く別れの口づけをしてくりゃれ。……そして、どこぞへ連れて行ってくれ」
「殿さま、お気をたしかに」とセオドアがいった。「これからわれわれの手でお城へお移し申しやす」
「ナニ、城へ!」とイサベラはいった。「城より近くに助けはありませぬか? おまえはお父上をあの暴君にさらすお気かえ? 父上が城へおいでなら、わたしゃお供はできませぬ。――といって、このまま父者《ちちじゃ》を置き去りには――」
「コレ姫」とフレデリックはいった。「わしはどこへ運ばりょうとかまわぬぞ。危いことのないところへ、しばらくそっと置いてくれ。――ただの、わしの目がそなたの愛に濡るるうちは、そちも見捨てずいてくりゃれよ! この雄々《おお》しい武士《もののふ》は、なんというお人か知らぬが、このさきそなたの潔白を守って下さるじゃろう。――のう、そこなお方、娘をばお見捨てあるまいの?」
セオドアはおのれが手を下した犠牲者の前に涙を流して、かならず命にかけても姫さまはお守り申すと誓い、とにかく城まで案内することを承知させた。そこで一同して、傷の手当をできるだけしたうえで、家来の一人がのってきた馬に、フレデリックをのせた。馬のわきにはセオドアが付き添い、行列はしずかに城をさして進んだ。イサベラは苦衷をいだきながらも、セオドアから離れることは耐えられないので、そのあとから悲しみに沈みながら、トボトボとついて行った。
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第四章
悲しい行列が城に着くやいなや、ヒッポリタとマチルダが出迎えに出てきた。これはイサベラが前もって家来を一人やって、一行のくることを知らせておいたのである。后《きさき》をはじめ女衆たちはとりあえずいちばん手近な部屋へフレデリックを運びこむことにし、そのあいだに医者が手当をした。マチルダはセオドアとイサベラがいっしょにいるのを見ると、ハッと顔をあからめたが、つとめてそれをかくすようにして、イサベラと抱きあい、父君の災難のことをしきりと慰めた。
まもなく、フレデリックの傷の手当をすませた医者がヒッポリタのところへきて、侯爵の傷はかくべつ重傷ではないこと、また、娘と公妃たちに会いたがっている旨を告げた。セオドアは、その医者の話をきいて、フレデリックにとにかく自分が致命傷を負わせたという意識から解放されたことを知り、うそにもうれしい顔をしたけれども、そのじつ、早くマチルダのそばへ行きたい気持でウズウズしていた。イサベラは、マチルダがセオドアと目があうたびに、すぐと目を伏せてしまうし、セオドアもしきりとマチルダの方ばかり気にして見ているのを見て、なるほど、さいぜんセオドアが岩屋のなかで、べつのお方とすでに愛の約束がしてあるといったのは、さてはマチルダのことだったのかと、すぐにピンと来た。
三人三様のこの|だんまり《ヽヽヽヽ》劇が演じられていた間に、ヒッポリタはヒッポリタで、自分の実の娘を返してもらうのに、どうしてあんな奇妙な手段をとられたのかとフレデリックに尋ねたり、また双方の子供たちの間に夫がとりきめた縁組のことで、いろいろ詫びたり言い訳をしたりしていた。フレデリックは、マンフレッドに対しては腹を立てていたけれども、ヒッポリタの礼儀の厚いことと慈悲心の深いことを感ずるのに吝《やぶさ》かではなかった。それよりもかれは、マチルダの美しい容色にことのほか驚いた。この母と娘をベッドのそばに引きとめておきたいので、かれはヒッポリタに、自分の身の上話を語りだした。
――自分は異教徒の獄屋につながれていた間に、ふしぎな夢を見た。囚《とら》われの身となって以来、消息をまったく聞いていない自分の娘が、さる城に拘留されて、明日をも知れぬえらい不幸な目にあっている。お父さまが自由の身になられたら、ジョッパ森の近くへきてくれ、そうすればくわしいことがわかる。――そんな夢であった。ハッと思って目がさめたが、夢のおしえた指図に従うことはできないので、鎖につながれている身がつくづく歎かわしくなった。寝ても醒《さ》めても、なんとかして自由の身になりたいと、その手だてばかり考えているうちに、思いがけない耳よりな吉報を受けた。それはパレスチナで戦っていた同盟の国の王たちが、自分の保釈金を払ってくれたという知らせであった。そこで自由の身になれたから、さっそく夢のなかで教えられた森へ出かけ、三日のあいだ従者たちと森のなかをさまよったが、人影らしいものが見つからない。ちょうど三日目の夕方、とある岩屋にきてみると、なかに一人の隠者が瀕死の苦しみをしているのを見つけた。さっそく貴重な気つけ薬をのませてやると、聖者のようなその人は、ようやく口がきけるようになった。
「みなの衆、せっかくこうしてお恵みにあずかったが、今はその効《かい》もない。まもなくわしは神の心を果たす満足をいだいて、永遠の眠りにつきましょう。おもえば、この国が不信者どもの餌食となったのを見て、わしがこの人里はなれたところに籠ったのも、はや五十年の昔。いろいろ恐ろしい世のありさまを見たものだが、そのおり、聖ニコラスがわが前に出現ましまして、汝にひとつの明かすことあり、汝この世を去る臨終《いまわ》のきわのほか、このことゆめゆめ他言すべからずとお告げがあったが、今がすなわちその時ぞ。そなたは一定《いちじょう》、神の御宣《みこと》を伝うべく選ばれたお方にちがいない。よいかな、わしの屍《かばね》に最後の勤行《つとめ》を果たされたら、この岩屋の左手《ゆんで》、七本目の木の下を掘りたまえ。さすればそなたの苦労は――おお、もはや天なる神のお迎えがまいった、さらばじゃ!」こういって、その信心ぶかい隠者は最後の息をひきとった。
――「そこで夜の明けぬうちに」フレデリックは話の先をつづけた。「わしらは教えられた場所を祓《はら》い清めて、指図どおりに掘ってみたところが、ナント驚いたことに、地下六尺ほどのところから一振りの大太刀が出てまいってな、――その大太刀が紛う方なく今あちらの広間にある、あの品じゃ。掘り出したときに、刃渡りが鞘から少々走っておったのを、みなして力をこめて納めようとしたが、どうしても納まらん。その剣の刃に、こういう文句が記してあってな。――サ、その剣の文句は――」とフレデリックはヒッポリタを見返り、「その文句は憚ろう。失礼ながら、ほかなき御台《みだい》の身分をおもえば、連れ添うお人を傷つけるような、いやなことをお耳に入れる罪は犯したくはござらぬからな」フレデリックがそういって言葉を切ると、ヒッポリタは思わず揺らぐ心の内。さては、フレデリックはお家に迫る悲運の決着をつけるよう、神より運命づけられたお人に相違ないと思えば、不愍《ふびん》いやますわが子マチルダをそっと尻目に眺めやり、無言の涙がハラハラと頬をつたい落ちた。これではならぬと御台《みだい》は気をとりなおして、
「サ、お話の先を承わりましょう。神はなにごとも無益にはなさりませぬ。人たるものは神のおいいつけを謙虚にお受けいたさねばなりませぬ。神のお怒りをこうむらぬよう、ひたすらお許しを願い、御神慮に頭を下ぐるが人たるものの役目。サ、その剣の文句をお聞かせ下さりませ。われらはすなおに聴聞いたしまする」
フレデリックは今さらながら、話を深入りしすぎたことを歎いた。それにしても、ヒッポリタの威厳と我慢づよい心のしっかりしていることが、尊敬をもって心にしみこみ、御台と姫とが無言の情愛でたがいの身をやさしく思いあっているその心根が、涙を催さんばかりにかれの心を和らげた。相手がこれほどいうのに、それでもいい控えるのは、かえってよけい心配させることになると思ったので、侯爵は口ごもるような低い声で、次のような句を復誦した。――
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この大太刀に適《ふさ》わしき甲冑のあるところ、
汝が娘、陰謀に巻きこまるる危険あり、
乙女を救い、年久しく浮かばれぬ故王の霊を鎮むるは、
アルフォンゾの裔《のち》よりほかになかるべし。
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「今のその文句の中に」とセオドアが待ちきれずに尋ねた。「このお三|方《かた》にさしさわることがあるんですかい? 根も葉もねえそんなことに、おかしな心遣いから、なぜそんなにびっくりなせえやした?」
「これはちと言葉が乱暴だな、お若いの」と侯爵はいった。「さっきは運に恵まれたが……」
「ナンノマア、お父上としたことが」とイサベラは、さきほどからマチルダに対する様子ぶりを見て、セオドアの親切がちと妬《や》けていたので、「百姓の小伜どのの小理屈などに、お取りみだし遊ばしまするな。目上にたいし慮外ないい分、まだ世慣れぬとみえまする」
一座のけはいが熱をおびてきたのを心配したヒッポリタは、セオドアの暴言をとりしずめ、そなたの怒るのももっともだと目顔でなだめておいて、さて話をかえ、侯爵が城主とどこで別れたのかと尋ねた。侯爵がそれに答えようとしたおりから、部屋の外がにわかに騒がしくなり、なにごとかと立ち上がるところへ、途中で知らせを聞いたマンフレッドを先に、ジェローム神父と追手組の一部が、ドヤドヤとなだれこんできた。マンフレッドは急いでフレデリックの枕べによって、とんだ御災難をと見舞いの挨拶をのべ、斬り合いのもようなどを聞いていたが、とつぜん何を思ったか、怖れと驚きに愕然として座を立つと、大声に叫んだ。
「ヤ、こやつ何者じゃ! 恐ろしや、わりゃ亡霊よな! ウーン、わが時ついに来れるか!」
「モウシわが君」とヒッポリタはマンフレッドを両手でしっかりとかかえ、「なにを御|覧《ろう》ぜられました? 何をそのように目を据えて?――」
「な、なんじゃと!」マンフレッドは息もつけずに叫んだ。「こりゃヒッポリタ、そちにはなにも見えぬか? この恐ろしい亡霊は、このおれだけに出おるのか? おりゃ何もせぬ。身に覚えなきおれだけに――」
「マアマア、こちの人、お心お鎮めなされませい。コレここにはこの通り、ソレみな顔知った者ばかり」
「ナ、ナ、ナント、それではアルフォンゾではなかったか? そちも見ぬ、そこも見ぬ……おれの迷いであったるか?」
「わが君、これこのとおり、この男はセオドア、あの不運であった若者でござります」
「セオドアであったか!」とマンフレッドは悲しげに額をたたいて、「セオドアだか幽霊だか知らぬが、マンフレッドの心をいこう乱しおったわい!――しかし、かやつがどうしてここに来ておる? しかもまた、どうして甲冑などつけて来ておるのだ?」
「イサベラを捜しにまいったものと思われます」
「なに、イサベラをか!」とマンフレッドはムラムラとして、「いや、そうであろう。それに疑いない。――しかし、おれが監禁しておいたところから、どうして逃げたのかな? 察するところ、きゃつの赦免をとりもちしは、イサベラか、さなくばこの老いぼれの売僧《まいす》坊主か……?」
「殿さま」とセオドアがいった。「親が子を助けることを考えると、その親は罪になるんですかい?」
ジェローム神父は、伜が自分のことを咎めているように聞いて、目をまるくしたが、べつに咎められる筋もないので、伜がなにを考えているのかわからなかった。ジェロームは伜がどうやって逃げたのか、またどうして甲冑を身につけてフレデリックと出会ったのか、いっこうに腑に落ちなかった。それを尋ねたいところだったが、うっかり尋ねると、また伜に対するマンフレッドの怒りをかき立てることになりかねないので、よけいなことは尋ねないことにした。マンフレッドは、神父が黙っているので、こいつ、セオドアを放すことを企てたのだな、と睨んで、こっちから声をかけた。
「ヤイ、恩知らずの老ぼれ坊主。おぬしその手で、おれとヒッポリタの大恩を仇で返したのだな? しかもおれのせっかくの望みを邪魔するだけでは気がすまず、その|どらっ子《ヽヽヽヽ》に武装をさせ、おれの寝首をかきに城中へおびきこんだのだな?」
「殿さま」とセオドアがいった。「なんだか知らねえが、わっちのおやじのことをたいそう悪くこなしなさるが、おやじもわっちも、殿さまの御安泰を乱すような考えは毛頭持っちゃおりやせんぜ。ヘエ、これこの通り。殿さまの御意どおり服しているのが、どこが気に食わねえんだ、イヤサどこが無礼なんだ?」とセオドアはマンフレッドの足もとに、佩《は》いたる太刀をうやうやしく横たえ、言葉もあらためて、「イザまっこのとおり、わが胸中を御照覧下されい。もしこの胸に不義不忠の妄念宿れりと御疑念あらば、只今この時、この素っ首、すみやかにお討ち召されい。憚りながらわが胸三寸、殿御一門を敬わぬ心は、微量微塵《みりょうみじん》も刻んではござりませぬわい!」と呼ばわった。
この言葉を吐露したセオドアの威儀と熱意とは、そこに居ならぶひいきの人々を感心させた。マンフレッドさえ感動したくらいだったが、それでもなおまだ、かれがアルフォンゾに似ていることが心を離れず、感動は内心の不安をもって吐きだされた。
「立て立て、そちの命など、今のわしの目当ではないわえ。それより、その方の来歴を語って聞かせい。一体、そちゃここにいる売僧爺《まいすじじい》とは、どのようにしてつながりがつくようになったのじゃ?」
「殿――」とジェロームが烈しくいいよると、マンフレッドは振り切るように、
「黙れ、売僧! 口添えはまかりならぬぞ!」
セオドアは、「殿さま、わっちは口添えなんざいりません。来歴といやあ簡単なものでござんす。五歳のときにおふくろと、シチリアの浜から海賊船にのせられ、アルジェへつれて行かれましたが、おふくろは一年たらずで悲嘆のあまり亡くなりやした」――聞いて思わず落涙するジェローム老人の顔には、無量の憂《う》き思いがまざまざとあらわれていた。――「おふくろは亡くなる前に、なんだか書いた物をわっちの腕にくくりつけて、おまえはファルコナラ伯爵の子じゃぞと明かしてくれ――」
「そのとおりじゃ」とジェロームはいった。「わしが不埒なその父親じゃ」
「コレ、さし出口はならぬと申すに」とマンフレッドは叱りつけ、「話をつづけい」
「ヘイ。わっちはそのままずっと奴隷でおりやした。二年ばかり船のなかの親方についているうちに、海賊に勝ったキリスト教徒の船に助けられ、この船長が腹の大きな人でわっちをシチリアの浜におろしてくれましたが、残念なことにおやじは見つからず、浜べにあった領地はおやじの留守中、おふくろとわっちを捕えて行った賊の手ですっかり荒らされ、城は焼かれて崩れ落ちたことを知ってガッカリ。なんでもおやじは残った物を売り払って、ナポリ王国の寺へ入道されたとやらで、たよりはなし、金もなければ知りびともなし、親に抱かれる喜びもさっぱり望みなし。五、六日たつうち、ようようのことでナポリへ渡る便船をえて、それからまあ自分の手で、どうやらこうやら働いて身すぎをしながら、流れ流れてここの土地へめえりやしたが、ほんにわっちはついきのうの朝まで、天道さまは貧乏と気楽しかおいらにゃ授けてくれねえものと思っておりやした。――ざっとこんなところが、わっちの来歴。今じゃおやじどんも見つかったから、こんな嬉しいことはございやせんが、どうも生まれつき不運な男とみえて、事の善悪、黒い白いは別として、殿さまの御不興を招いているのが残念でなりやせん」
いい終わると、聴いている者のなかから、もっともだという囁きが静かにおこった。
「それだけではない」とフレデリックがいった。「いま遠慮していわなんだことを、わしから申し添えておこう。なかなか遠慮ぶかい男だが、わしは遠慮なしにいおう。かれはキリスト教国の最大勇士の一人じゃな。それに心も暖かい。わしがえた乏しい知識からいうても、かれの誠実にはわしゃ太鼓判を押すぞ。真実でなければ、自分のことは何一つ口に出さぬ。そういう男だ、かれは。わしなら、かれの生まれながらにして持っておる、あの率直を賞《め》でるな。わしを躓《つまづ》かしたが、その体内を流れる貴族の血は、いずれその源をたどれた時に、じゅうぶんに煮えたぎってほとばしることじゃろうよ。――ところで御城主」とマンフレッドのほうを向いて、「わしがかれを許せば、お身もきっと許してやって下さろうな。お身がかれを幽霊と間違われたのは、なにもかれの落度ではないからの」
この痛い嘲弄はマンフレッドには苦かった。マンフレッドは空うそぶいた。「あの世から来たものなら、怖いと心に感じさせるものがある。それは人間の力以上のものじゃ。この青二才の腕には、そいつはできぬわ」
ヒッポリタが横から口をはさんで、「ササわが君、お客人もそろそろおやすみになる時分、このへんでお暇《いとま》しようではござりませぬか」といいながら、マンフレッドの手をとると、フレデリックに暇《いとま》の挨拶をし、一同をひきつれてゾロゾロ部屋を出て行った。マンフレッドは、自分の心の底に秘しかくしている思いが|ばれる《ヽヽヽ》ような話が出なかったのに内心ホッとして、セオドアには明朝また城へ来ることを条件に(セオドアはこの条件を喜んで受諾した)、今夜は父親といっしょに修道院へ帰ることを許したのち、ヒッポリタに手をとられながら、自分の部屋へひきあげて行った。
マチルダとイサベラは、これは思い思いの考えごとが多すぎた上に、おたがいになんとなくわだかまりがあって、その夜はもっと話しあいたいと思いながらも、それが果たせなかった。子供のころから心にかよいあった愛情も、今宵はなんとなく薄らいだようで、ほんの形ばかりのお義理の挨拶をして、それぞれの部屋へ別れて行った。
しかしマチルダもイサベラも、ほんとに心の底から薄情な気持で別れたのだったら、翌朝日が昇るのも待ちきれずに会うなんてことはなかったろう。二人の心は、おちおち眠ってなぞいられないような状態にあった。二人とも床のなかで、夜を徹していろいろ相手に聞きだしてみたかった問いごとを、あれこれ思い出した。マチルダは、イサベラが二度までせっぱ詰った危急の時にセオドアに助けられたことを考えると、どうもそれが偶然に起こったこととは、どうしても考えられなかった。さきほどフレデリックの部屋にいたときに、セオドアの目がじっと自分の上に注がれていたことは事実だけれど、でもそれは、ひょっとするとイサベラに対する思いを、双方の父の目から隠すためだったのかもしれない。このことははっきりさせた方がいい。彼女は、自分がイサベラの恋人に対して恋情を持ちつづけることで、イサベラへの友情を傷つけないためにも、ぜひとも真相を知りたいと思った。嫉妬はつのる一方、その詮索を正当化するために、友情の口実を借りたわけである。
イサベラも心のおちつかないことは、マチルダに劣らなかった。ただ彼女は、自分の疑心暗鬼には、一つの確証を持っていた。それはセオドアの舌と目が、かれの胸中にすでに固い約束ができていることを語っていたことである。でも、マチルダはたぶんまだ、セオドアの恋情には答えていまい。どうも今までの様子から見て、マチルダは恋を知ってはいないようだ。マチルダの考えは、あいかわらず、もっぱら天なる神の上におかれている。イサベラはひとり悔んだ。――「なぜお諫めなどしたのであろう? なまじ気前のよいところを見せた罰じゃ。それにしてもあの二人、いつどこで会ったのか? いやいや、そんなはずはない。みんなこちらの空頼み。二人がはじめて会ったのは昨夜《ゆんべ》のことであろうが、前からあのお方の心をとらえた別の仔細があったにちがいない。それならこちとて、まんざらこちが思うほど不仕合わせというでもない。これがお友達のマチルダでなければ、どうなったであろうな。ばったり出会ったお方はまるで無関心、そんなお方にこちらから身をかがめて、お情けをなどといわれたものかいな。しかもあの夜は、通りいっぺんの四角四面の御挨拶。――よいよい、これからちゃっとマチルダさまに会って来よう。マチルダさまは殿御をえられて誇らしう、きっぱりといってくれるであろ。殿方は不実なもの、――こういって、尼になることを勧めてやりましょう。この談合はマチルダさまも喜んで下さるはず。尼寺へはいることに、こちゃもういっせつ反対はせぬと、そういってやりましょうわいな」
そういう心ぐみで、イサベラはマチルダに胸襟をひらいて語ることにきめて、姫の部屋へ出かけて行った。マチルダはすでに朝服に着かえ、片手にもたれて物案じのようす。心のなかをそのままあらわしたようなその格好を見ると、イサベラはまた疑心が蘇《よみがえ》って、友だちの上に置こうと思っていた信頼が、またガラガラと崩れてしまった。二人は会ったとたんにたがいに顔を染めながら、どちらも話しかけたい気持をかくしあうのに忙しかった。あたりさわりのない挨拶を二言三言やりとりしてから、マチルダがまずイサベラの城を逃げ出したわけを尋ねた。イサベラは今の自分の気持でいっぱいだったものだから、マンフレッドの横恋慕のことなどはいつのまにかどこかへ忘れて、マチルダの問いは前の晩自分が尼寺から逃げた時のことと思って、「あれはマルテリが、御台さまがおかくれ遊ばしたと尼寺へ知らせに来たゆえ――」と答えると、マチルダは皆までいわさず、「いえ、それは間違いの知らせであったとビアンカがいうていた。わたしが気絶しかけたのを見てビアンカが『姫さまが死にそう……』と呼ばったを、お城へ喜捨をうけにきたマルテリが……」
「なぜまたあなたは気絶をば――?」とイサベラは、ほかのことには耳もかさずに問い詰めると、マチルダは顔を染めつつモジモジと、「サ、それは父上が……罪人のお裁きに御出座になり……」
「その罪人とはどのような?」とイサベラは膝をのりだした。
「あい、若いお方で……あのお方であったかと思うけれど……」
「すりゃあの、セオドアが?」
「あい。――あのお方にはお目もじしたこともなし、また父上がなんでお怒りやら、それも知らなんだけれど、でもあなたを助けたお人とやらゆえ、父上が許されてほんによかったと思うていました」
「これはまた異なことを。わらわを助けたとは、父が瀕死の怪我をされたということかいな。みずからが父上を知って喜んだのは、つい昨日よりのこと、なんぼう親子の情にうといわらわじゃとて、あのようなイケ図々しい……イエナニ大胆不敵な若者には、腹が立ってなりませぬが、しかしまた、げんざい産みの親に手をあげた殿御じゃとて、情愛の道はまた別なもの。わたしゃあのお方を慕うておりまする。さればいのう、幼い時から口につがえていわしゃんした通り、おまえが変わらぬ友情をお持ちなりゃ、この身を不幸の分かれ道に立たせたあの人は、さぞ憎いでござんしょうなあ?」
マチルダはうつむく顔をあげて答えた。「イサベラさま、わたしゃおまえに友情を疑うてもらいとうない。あのお方はつい昨日まで見たこともないお方、ほんに赤の他人じゃ。昨夜お医者さまがお父上の御容態は危険を脱したというたおり、あの方はまだあなたがたが親子だとは御存じなく、それを腹が立つの怒るのとは、ちと筋違いな話ではありませぬか」
「御自分で赤の他人と申されながら、ようまあ肩を持たれまするなあ。嘘なら、あちらからたんと御返礼をおもらい遊ばせ」
「そりゃまたどういうことかいな?」
「なんでもござりませぬわいな」とイサベラは|しら《ヽヽ》を切ったが、セオドアがマチルダに傾倒しているという暗示を与えてしまったことを、内心後悔した。そこでイサベラは話をかえて、昨夜マンフレッドがセオドアを幽霊とまちがえたのは、あれはどういうことで起こったのだろうと尋ねた。
「ソレソレ、そのことじゃわいな。イサベラどの、おまえお城の画廊にあるアルフォンゾさまの絵姿に、あのお方がよう似てあることに気づかれなんだか? あのお方の甲冑姿を見るまえに、ビアンカにもそのことをいってやったが、それがまあ兜をかぶられたら、あの絵姿に生き写し」
「サイノウ、わたしゃあの絵姿はしみじみと見たこともないゆえ、おまえが御覧遊ばしたように、ジロジロと見もせんだわいな。――マチルダどのえ、聞けば聞くほど、そなたはまあ、いま危い瀬戸におられますぞや。お友達がいに御忠言申そうなら――申し、あのお方はなあ、自分は恋路に踏み迷うたと、わらわにはっきり申されましたぞえ。でもそのお相手は、どうやらおまえさまではないらしい。おまえさまは昨日はじめての御現《ごげん》……ではなかったかいな?」
「そのとおりじゃわいな。したがイサベラどの、おまえ何を根にそうきめてかかられるのか?」といってマチルダは言葉を切ったが、すぐにあとをつづけて、「あのお方は最初におまえさまに会われましたな。こちのような見栄《みばえ》もない女子《おなご》が、なんでおまえに御熱心の殿御のお情けなどが得られましょうぞ。そんな自惚《うぬぼれ》は持ちあわせませぬ。わらわの運命《さだめ》はどうあろうと、イサベラどの、こちゃおまえのおしあわせを祈るばかりじゃぞえ!」
根が正直のイサベラは、相手にこうまで親切にいわれてみると、とてもそれを押し返していうことはできなかった。「なにをいうぞいな、マチルダ殿、セオドアさまが慕うているのは、おまえじゃぞえ。わらわはこの目でそれを見て、とっくりと胸に納めたのじゃ。この身のしあわせを考えて、おまえのしあわせに茶々を入れるなどとは、このイサベラはようしませぬ」
この嘘もかくしもない率直さが、おとなしいマチルダの涙をさそった。そして、ほんの一時《いっとき》この愛すべき二人の乙女の間に冷たい風を巻きおこした嫉妬の思いは、二人の心に生まれながらに具《そな》わっている誠実と正直に、たちどころに道をゆずった。二人はおたがいに自分の心に映ったセオドアの印象を打ち明けあった。そしてこの信頼は、そのまますなおに、自分の求めるものの譲りあいを双方が主張するという、寛容のせりあいにつづいた。そのあげく、さすがにイサベラの高潔な思慮は、セオドアが彼女に洩らしかけた、恋がたきのマチルダに惹《ひ》かれている言葉を思い出して、自分の恋慕を思いきり、愛する人を親しい友に譲る覚悟をきめたのであった。
この仲のいい親睦くらべの最中へ、ヒッポリタが娘の部屋へはいってきた。
「おお、イサベラもここにいたかや」と御台はイサベラ姫にいった。「そなたは日ごろより、マチルダにいこうやさしうしてたもる上に、このあさましい一家におこることどもに親身《しんみ》な心を寄せていてくりゃるほどに、そなたの耳に入れるは本意《ほんい》でない話も、こうしてわが子とともども隠し隔てなく語れまする」
二人の姫は、御台《みだい》がなにをいいだすのかと、注意と心配をあつめた。
「そこでイサベラもマチルダも、よう聞きや」とヒッポリタはつづけた。「過ぐるこの二日の間、事しげかりしかずかずの出来事は、そもじたちも知っての通りじゃ。それによって見るに、神はいよいよオトラントの王位をばマンフレッドの手よりフレデリック侯の御手《みて》に渡すべしとの御心《みこころ》と相見ゆること、両人ともによう心得ておきゃれ。さればこの御台もこのところ心を砕き、一門の瓦解を避くるには、確執する両家を結ぶよりほかに手だてはなしと考えて、わが君マンフレッドに卑見を話し、いとしい愛娘《まなご》のマチルダを、そもじの父御《ててご》フレデリックにさし出すことを言上《ごんじょう》しました」
「エッ、スリャこのわたくしをフレデリック公に!」とマチルダは叫んだ。「シェー、母上さま、父上にそれを言上なされましたのか?」
「オオ言上しましたぞや」とヒッポリタはいった。「わが君には、わらわの申し出を懇篤に聴聞されて、只今侯爵にそのことを打ち明けにまいられたぞや」
「エ、マア、あさましや御台さま」とイサベラが叫んだ。「おまえさまはまあ、なんということをなされました? おまえさまの迂闊《うかつ》なお人よさが、おまえさまはいうにおよばず、わたしのため、またこのマチルダどののために、なんたる破滅を用意してきたことか!」
「ナニわらわをはじめ、そなたやわが子に破滅とは! そりゃまたどういうことじゃ?」
「ああ、お情けなや! おまえさまにはお心がお清いゆえ、人の悪心がお見えになりませぬのじゃ。おまえの殿さまマンフレッド、あの横道なお人はなあ――」
「コレ待ちゃ!」とヒッポリタはいった。「わらわの面前において、マンフレッドに不敬なものいい、許しませぬぞ。マンフレッドはわが君じゃ、わらわの夫《つま》じゃ」
「サ、それも長くは続きますまい」とイサベラはいった。「あの邪《よこしま》な魂胆は、お処刑《しおき》うけるが当然じゃ」
「驚き入ったるその言葉」とヒッポリタはいった。「イサベラ、そもじはつねから感情の激しいお人じゃが、それほどはしたない女子《おなご》とは、今の今まで知らなんだ。マンフレッドのどのような所行を人殺しじゃ、謀殺人じゃときめつけなさるのじゃ?」
「おまえさまはなあ、ソリャモウ徳の高い、あまりといえば人を信じやすいお方じゃ」とイサベラは答えた。「あのお人はおまえさまの命こそ覘《ねら》わぬけれど、――おまえさまを引き離して――イエサおまえさまと縁切って……」
「ナニ、わらわと縁切って!」
「母上を御離縁!」とヒッポリタとマチルダは同時に叫んだ。
「さればいのう。しかもその上、おのれの罪を仕上げるために、テモ恐ろしいたくらみ。――サ、それはわたくしの口からは申せませぬ」
「イエモウ、それだけ聞けばもうたくさん、その上なにがあろうぞえ」とマチルダはいった。御台はしばらく黙っていた。悲歎が言葉を封じたのである。そしてマンフレッドのこの両三日のあいまいな素振《そぶり》が、いま聞いたことがらを動かぬものにした。
「御台さまいのう! 母《かか》さまいのう!」とイサベラは激情に狂いしごとく、御台の足もとにガッパとまろび伏し、「わたくしを信用して――わたくしを信じて下さりませ。お二人さまを傷つけて、あのようないやらしいことにこの身をまかせるくらいなら、こちゃ死んだがましじゃわいなあ――」
「エエ、そりゃまたあんまりな!」とヒッポリタはいった。「一つの罪はどのような罪をひきだすことか! イサベラ、立ちゃ。御台はそもじの貞節を疑いませぬぞ。おおマチルダ、この打撃はそなたには重すぎる。泣きゃるな、コレ、うずうずいうなや。そなたのことはこの母に任せや。忘れまいぞ、マンフレッドはまだそなたの父御《ててご》なるぞ!」
「でも、おまえはわたしの母《かあ》さまじゃ」とマチルダは心をこめていった。「おまえは御貞女、おまえに罪はあるまいに。これでも文句いうてはなりませぬか?」
「ならぬならぬ、ならぬてや。いずれ万事はよしなになろう。マンフレッドはな、そなたの弟を失った苦しみで、なにをいうたやら御自分でもわからぬのじゃ。イサベラもそのへんを誤解したのであろうがな。あのお方は心はよいお人なのじゃ。――マチルダはなんにも知らぬが、いまわれらの上には、一つの運命がさしかかっている。神の御手《みて》が伸びている。そなたを瓦解から救えるのは、この母だけじゃぞ。そうじゃ」とヒッポリタはきっとした調子になって、「この身が犠牲になれば、四方八方、万事の償《つぐな》いになるのじゃ。スリャこれより御前へ行って、みずからより離縁を申し出《い》できましょうぞ。たとえこの身は縁切られても、どうなるものではない。わらわはあの尼寺に身を引いて、余生をわが子とわが君のため、祈りと涙のうちに送るつもりじゃ」するとイサベラがいった。
「御台さまは、あの憎たらしいマンフレッドがいるようなこの世には、よいお人でありすぎまする。でも、そのお気の弱さがわたくしに覚悟さしょうなどとは思召しまするな。お二人の天使がたに、わたくしの申すことを聞いて頂きましょう」
「待ちゃ、イサベラ、それをいうてはなりませぬぞ」とヒッポリタが叫んだ。「忘れまいぞ、そなたは身一つではござらぬぞ、りっぱな父御《ててご》がおわすのじゃぞ」
「サ、その父上は」とイサベラは御台の言葉をひきとって「――その父上は信心篤く、気位高く、とうてい無道な行ないを制することなどできぬお方。でも、やらねばならぬとなったら、一人の父親の無道な振舞いを禁ずることができようか? わたくしはそのお人の御子息と婚約をさせられましたが、そのわたくしがその父親と縁組などできましょうか? とんでもないこと、いやじゃいやじゃ、こちゃ力ずくでも、マンフレッドのいやな床へなど引きこまれませぬぞ。エエモ穢《けが》らわしいお人、こちゃ大嫌いじゃ。神の法も人間の法も禁じていることじゃ。――これはこれはマチルダさま、わたしとしたことがおまえの母上に悪態ついて、さぞ胸が痛んだことであろう。おまえさまの母上は、こちにも母上。――こちゃほかに母者は知らぬわいなあ」
「オオ、そうともそうとも」とマチルダは叫んだ。「この母上は二人の母。のうイサベラ、この母はいくら愛しても、愛しすぎることはないぞえ」
ヒッポリタはハラハラと落涙して、「オオ二人ともかわいいわが子じゃ、わが子じゃ。そなたたちのやさしい心根に、わらわは負けましたぞや。しかし、負けてはならぬ。道を選ぶのはわれらではない、神じゃ、父じゃ、つれそう夫《つま》じゃ。マンフレッドとフレデリックがどのような取りきめをなされたか、それを聞くまで辛抱しや。もし侯爵どのがマンフレッドの申し出を受くるときは、もちろんマチルダは承服のはず。あとは神がお仲人《なこうど》、よきようにお導き下さる。マチルダ、そなたはどういうつもりじゃ?」と御台は足もとに無言の涙にかきくれている娘を見下ろしていったが、「いやいや、返事はせぬがよい。この母は、そなたの父上のお喜びに違《たが》うことばは聞きとうない」
「母《かあ》さま」とマチルダはいった。「このわたくしが父上母上の仰せのままになることは、疑うて下さんすな。でも、これほどのおやさしさ、これほどのお慈しみを受けるわたくしが、自分の思うことを母上におかくしなどできましょうか?」
「おまえまあ、なにをいわしゃんすぞえ? しっかりなされませいな、マチルダ殿」とイサベラはハラハラしながらいった。
「いいえ、イサベラ」とマチルダがいった。「もしもわらわが心の奥に、母上のお許しなされぬことを思うていたら、それこそだいじな両親《ふたおや》に大不孝。――それどころではない、わたしは母に叛きました。母上のお許しもなく恋を心に宿しました。それはここでは申し上げませぬ。ここでは神と母上の――」
「コリャ、娘!」とヒッポリタは柳眉を立て、「そりゃ何の言葉じゃ? まだほかにわれらの上に新しい不幸が待ちおるのか? そなたいま恋というたな? コレ、一門瓦解の切羽《せっぱ》の時じゃぞ!」
「あい、この身の罪がようわかりまする」とマチルダはいった。「母さまにお歎きをみせるこの身が厭《いと》わしい。おまえはこの世で大事な母者人、もうもうけっして、あのお方にはお目にかかりませぬ」
「イサベラ」とヒッポリタはいった。「そなた、この不吉な隠しごとは、知っておるのであろうな。いうてみやれ!」
「マア何じゃいの、わらわに罪をいわせもせいで、イサベラ殿にいえとは、こちゃそれほど母さまに見はなされましたのか? オオ悲しや悲しや、マチルダはみじめじゃ……」
「御台さま、そりゃあんまりむごいお仕打ち」とイサベラはヒッポリタにいった。「この操正しい娘ごころの苦しさを、あなたは見殺しになされるのか、不憫とは思召されぬのか?」
「わが子を不憫と思わぬとな!」とヒッポリタはマチルダを両手に抱きしめながら、「おお、この子はよい子じゃ、操正しく、やさしくて、義理わきまえた従順な子じゃ。コレ、たんだ一人の頼みの娘、母は許しますぞえ」
二人の姫はそこでヒッポリタに、自分たちは二人ともセオドアに心をひかれていること、そしてイサベラが諦めてマチルダに男を譲ったことを打ち明けた。ヒッポリタは娘たちの不謹慎をたしなめ、相手は貴族の生まれとはいえ、あのとおりの貧しい男、それを跡取りにすることは双方の父御《ててご》がまず承知すまい、といった。御台は、姫たちの恋がついきのう今日にはじまったことを聞き、さいわいセオドアがそれを感づくこともなかったらしいのを知って、いくらか安心した。彼女は二人に、今後セオドアとのいっさいの文通を避けるようにきびしく命じた。マチルダは心をこめてそれを承知したが、イサベラは二人をなるべく早く結ばしてやろうという下心から、セオドアを避ける決心がつきかねたので、返事をしなかった。
「それでは」とヒッポリタはいった。「わらわはこれより尼寺へ参じ、そうした不幸をのがるるよう、新しい弥撒《みさ》をあげるようにいいつけて来ましょうぞ」
「スリャ母上さまには」とマチルダがいった。「わたくしたちをこのままに尼寺へ御参籠、お父上に一か撥《ばち》かの魂胆を遂《と》げる機会をお与えなさるおつもりか? お願いじゃ、思いとどまって下さりませ、こうして拝《おが》んで頼み入りまする。どうでもこちをフレデリックさまに添わせるおつもりなら、わたしゃおまえについて尼寺へまいりまする」
「コレ娘、おちつきゃいの」とヒッポリタはいった。「すぐに戻ってくるほどに。それが神の御心《みこころ》とわかり、そなたのためによいこととわかるまでは、母はそなたを見捨てはせぬぞや」
「そのお口には乗りませぬわいな」とマチルダはいった。「母上のいいつけなりゃ詮ないけれど、フレデリックさまに嫁ぐのは、こちゃいやじゃ。ああ、どうしよう、この身はどうなろうぞいのう?」
「エエ姦《かしま》しい、なぜそのように喚きたてる。すぐに戻るというたではないか」
「母上さま、どうぞここにいて、お助け下さいまし。母上に顔しかめられては、父上のきびしさよりも、こちゃなんぼうか辛うござりまする。いったん捨てた心をば、思い出させて下さるのはおまえばかり」
「もうよいわ。二度とふたたびもとに戻ることはなりませぬぞ」
「セオドアさまを諦めることはできるけれど、ほかへ縁づかねばならぬとは。母さま、尼寺へおまえといっしょに行かしてたも。もうもう、こんな浮世からいついつまでも締め出してたも」
「そなたの運は父《とと》さましだいじゃ」とヒッポリタはいった。「それにつけても、父上より上のものを敬うことを教えておいたら、この母のやさしさを悪用しておったろう。ではまた後刻。そなたのことをよくお祈りしてきますぞよ」
ヒッポリタが尼寺へ行く本当の目的は、じつは離縁に同意しないがいいかどうかを、ジェロームにきくことにあったのである。彼女は前からマンフレッドに、王位を退くことをしばしば勧めていたのであるが、それが彼女のやさしい良心に、このところだんだん重荷になっていた。この遠慮、ためらいが、夫と離別することなど、ほかの事情に比べたら、なにもそれほど恐ろしいことではないと、彼女に思わせていたのであった。
ところでジェローム神父は、夜前城を退出したとき、セオドアに、なぜ自分がイサベラ逃走の黒幕だなどと、マンフレッドの面前で自分のことを責めたのだといって尋ねた。セオドアはそれに対して、いやそれは、マンフレッドがマチルダ姫に疑いをかけるのを防ぐための計略としていったのだと答え、それにつけ加えて、ジェロームの清浄潔白な生活と性格が、暴君の怒りから自分を守ってくれるものと考えたからだといった。ジェロームは自分の伜が姫君に傾いていることを知って、厄介なことになったと心から歎いたが、今夜はこれでゆっくり休め、明朝、おぬしの恋情を思いきるために大事なわけを話してやろうと約束した。このセオドアも、一方のイサベラと同じように、なにしろついきのう今日、はじめて父親の権利というものを知ったばかりであったから、自分の心にきざした恋のときめきを、親の裁断にまかせるなどということはできない気持であった。父親のいうわけを聞くことに、かくべつ好奇心も湧かなかったし、それに従おうという気にもならなかった。美しいマチルダ姫のほうが、父親の情愛などより深い感銘を、かれの心にあたえていたのである。その夜はひと晩じゅう、一人で恋のまぼろしを描いて楽しくすごした。そして翌朝、アルフォンゾ公の墓に参詣するように父からいわれていたのを思いだしたのは、朝の勤行が終わった後のことであった。
「なんじゃ、若いくせをして、その懈怠《げたい》がわしゃ気にくわん」とジェロームは伜の顔を見ると、さっそく小言をいった。「おやじのいいつけが、もうそんなに軽う見えるのか?」
セオドアは不承不承に詫びをのべて、遅くなったのはつい寝坊をしたからだといった。
「ばかもの、誰の夢を見ておったのじゃ?」と神父からきびしくいわれて、伜は顔をあかくした。「さあ、来い来い!」と神父はいった。「この、たわけめ、そんなことでは駄目だぞ。罪ふかい恋慕の情など、その胸から根絶やしにしてしまえ」
「罪ふかい恋慕?」セオドアは叫んだ。「ヘエ、あんな汚れのねえ美しさと貞淑なつつましさに、罪なんてものが宿れるんですかねえ」
「天なる神が滅ぼすときめておられる者を愛する、これすなわち罪業《ざいごう》じゃ。暴君の一族は三代、四代にわたって、この地上より一掃せにゃならん」
「でも神さまは、罪ふかい者を罰するためには、罪のねえ、汚れのねえ人のところへもお下《くだ》りになるんでしょう? あの美しいマチルダさまは貞淑で……」
「あのお方はな、きさまを破滅させるお方じゃ。あの野蛮なマンフレッドが二度もきさまに宣告したのを、早や忘れたのか?」
「いや、その野蛮なマンフレッドの娘御のお情けが、あの暴君の手からわっちを救ってくれたんですぜ。こいつは忘れられませんや。わっちは自分を傷つけられたことは忘れることができても、恩を受けたことは忘れられねえね」
「コレ、きさまがマンフレッド一族から受けた傷はな」と神父はいった。「きさまが考えるほど、なまやさしいものではないのだぞ。つべこべ口答えせずと、まあこの聖像をよく拝見せい! この大理石の碑の下には、アルフォンゾ公の灰が眠っておられる。アルフォンゾさまはの、百徳を身にそなえられた一門の御先祖。人類の喜びにおわす。さあ、石あたまの小僧め、ここにひざまずいて、父が聞かせる一場の恐ろしい話をよっく聞け。その物語を聞きわくるときは、神聖なる復讐の念以外のもろもろの雑念は、きさまの心魂から消しとんでしまうわ。南無、アルフォンゾ公! 受難の君! さぞや御不満多きこととは存ずれど、なにとぞわれらがおろがむ誦謡のうちに、御尊影を現わしたまえ。――ヤ、だれかあすこへ来るようじゃな」
「あい、世にもあさましい女子《おなご》がまいりましたぞ」といって、ヒッポリタが聖歌隊の席へはいってきた。「御坊、ただ今お閑暇《ひま》でござりまするか。――ハテ、これに跪拝しているお若いお人は? して、お二人の面に刻まるるその恐怖の色、そりゃまあどうしたわけ? それに、なぜまたこの御墓前に?――ハハア、さては御坊も御覧《ごろう》ぜられましたな?」
「イヤナニ。只今御祈祷をあげておりましたところでな」とジェロームはなにやらうろたえ気味。「嘆かわしき御領内の不幸災厄を払おうと存じてな。……ササ、こちらへおいで下され。このところ続いて起こる凶事の兆《しるし》は、とりもなおさずお家に対する天帝よりの御審判、心に一点の汚れもなき御台には、どうか御審判を免れ得さするよう念じておりまする」
「その御審判を転じさせんと、この身は日夜祈っておりまする」と信仰あつい御台はいった。「御坊も知ってのとおり、わが君と罪もない子供らに、なんとか祝福をえさせたい、これがわらわの一生の仕事であったものを、悲しやその一人マチルダがわが手もとから去りまする。娘のことにつき、つたなき心を神にお聞きとどけ願いたく、なにとぞ御坊よりもおとりなしのほどを」
「いや、あの姫さまなら、誰でも祝福を祈りますよ」とセオドアが雀《こ》躍りをしていうのを、ジェロームは、「コレ黙らっしゃい、粗忽者」とたしなめて御台に向かい、「御台さま、神の御力に立てついてはなりませぬぞ。神は与えたまい、神は奪いたもう。一念、神の御名を讃え、神の御心のままに従いなされよ」
「まごころこめて精進いたしまする。さりながら、この身のたんだ一つの慰めを神はお許したまいませぬか? マチルダも死なねばなりませぬか?――御神父、御子息にちょっと席をはずして頂くように。折り入ってちとこみ入った話もあり、お耳を拝借させて下さいませ」
「イヤモウおりっぱな御台さま、お願いごとはなにもかも、神さまがお聞きとどけなさるように祈りやす」といって、セオドアは退《さ》がって行った。神父は苦い顔をした。
やがてヒッポリタは、自分がマンフレッドに提案し、マンフレッドも賛成をして、さっそくフレデリックにじかに話しに行った、マチルダ提供の話を神父に語った。神父はこの提案を好ましくないと思う色を隠すことができなかった。もともとフレデリックはアルフォンゾ公にいちばん近い血筋だし、こんども家統の継承を主張しにやって来たのだから、自分の権利を横どりしたマンフレッドとの和睦を承知するはずはまずあるまいと、神父はそれを口実にして難色を示した。ところが、そのあとへヒッポリタは、離別の話をもちだして、自分には離別に応じる覚悟ができているが、はたして彼女の黙従が神の道にかなうかどうか、御意見をうかがいたいといわれたときには、神父の当惑は、まったく何物もこれに匹敵するものがないくらいであった。神父は御台がなによりも自分の忠告を切に願っているのを見てとって、マンフレッドとイサベラとの計略結婚に自分が反対する理由の説明はせずに、彼女の黙従の罪深いことを、どぎつい色彩で描いてみせ、もし彼女が離別を承知すれば、それこそごうごうたる世間の非難を浴びる。そんな申し出は極力いやだといって撥ねつけるようにときびしい言葉で断じつけた。
ところで、一方マンフレッドのほうはその間に、フレデリックに自分の意向をぶちまけて、二つの縁組を提議した。思わぬ怪我で心身ともに弱っていたフレデリックは、マチルダの容色にまいっていたので、マンフレッドの提案に熱心に耳をかたむけた。力ずくではとても取り戻す望みはないと見たかれは、マンフレッドに対する怨みを忘れて、どうせ自分の娘とこの暴君と結婚したところで、そうウマウマと子供は生まれまいと|たか《ヽヽ》をくくり、そのかわりこちらはマチルダと結婚すれば、王位の継承はそれだけ容易になると考えた。娘をやるという提案に対しては、ヒッポリタが離別に同意しなければ認められないような、そんな形では困るといって、一応軽く反対した。マンフレッドは、ヒッポリタのことは自分が引き受けるから、大丈夫だといった。
話がトントンと運んだので、マンフレッドはもう有頂天《うちょうてん》になって、さっそくもう、伜が何人も生まれる身分になれる自分を見るのが待ちきれぬふうで、こうなれば善は急げ、なんでもいいからヒッポリタの承諾をむりやりにもとりつけてやろうという肚で、御台の部屋へと急いだ。行ってみると、后は尼寺へおわたりで留守ときいて、ムラムラときた。脛《すね》に傷もつマンフレッドは、ウヌ后め、イサベラから自分のたくらみを聞きおったな、と先回りをして考えた。こいつ、尼寺へ参詣するのは、離別に故障を立てるまで、あすこへ立て籠るつもりなのではないかな、と疑った。疑いの目は、ジェロームにも前からかけていたから、きっとあの糞坊主めが、こちらの意見に反対するばかりか、奥に尼寺へ逃げこめとけしかけたにちがいない、と気がついた。そこで、この尻尾《しっぽ》を解きほぐして、敵の成功を粉砕してやろうと、一刻もじっとしていられず、やたけ心の何とやらで、マンフレッドは勢いこんで尼寺へ駆けつけ、ちょうどジェロームが御台に、離別はぜったいに承服してはならぬと、ひたむきに訓戒しているところへ乗りこんだ。
「ヤイ奥、そなた何用あってここへまいった? おれが侯爵のもとから戻るまで、なぜ待たなんだのだ?」
「御相談が首尾ようととのうよう、お祈りにまいりました」とヒッポリタは答えた。
「おれの相談ごとに、坊主のさし出口は無用じゃわい」とマンフレッドはいった。「そちがうれしがって相談相手にいたしおる、たんだ一人のこの男はな、生《しょう》ある人間のなかの髄一の裏切り爺じゃぞ!」
「不敬なり、御領主」とジェロームはいった。「場所もあろうに御神前において、ようも神の下僕《しもべ》を悪しざまにいわれましたな。――じゃがマンフレッドどの、そなたの不正邪曲なもくろみは知れましたぞ。神はもとより、ここにおわする有徳の御婦人も、見通しでござるぞ。――御領主、そう顔をしかめることもござるまい。寺はな、そなたの威《おど》しなど見くびっておるでの、いまに百雷のごとき非難が聞こえようでな。マアマア、離別などという罰《ばち》あたりのもくろみをドシドシお進めなされたがよかろう。そのうちに寺より宣下がくだり、愚僧がおぬしの頭に破門追放を申し渡すことに相なろうでな」
「ヤア、無礼なる反逆人!」とマンフレッドは神父の言葉にかきたてられた畏怖《おそれ》を、つとめて隠しながら、「おのれ売僧《まいす》の分際にて、法が決定《けつじょう》せしこの城主を威嚇する気か!」
「憚りながら、おぬしは決定《けつじょう》の王侯ではござらぬわい」とジェロームはいった。「ウンニャ、御城主ではござらぬわい。いうことがあらば、フレデリック殿と論談なされい。それがすんだら――」
「それはすんだ」とマンフレッドは答えた。「フレデリックはマチルダの手を受納なし、おれが世継ぎをもうけぬうちは、言い分《ぶん》預かりおくことに同意したわい」
マンフレッドがいっているうちに、ふしぎやアルフォンゾの像の鼻から、血のしずくがポタ、ポタ、ポタと三滴落ちた。マンフレッドは顔色たちまち蒼白となり、后《きさき》はその場にヘタヘタと、崩折れるように膝をついた。
「ソレ、よっく見られよ!」と神父はいった。「アルフォンゾの血はマンフレッドの血とは金輪際《こんりんざい》交わらぬと、神が見せたまいしこれが印じゃ!」
「わが君」とヒッポリタがいった。「われらも神の御心に従いましょう。日頃従順なこの妻が、なんで夫の権威に叛きなぞしましょうぞ。わらわは神の御心と君の御心以外には、なんの心も持ってはおりませぬ。ササ、あの御神前に願いましょ。われらをつなぐ絆《きづな》を切るは、われらの手で切るのではござりませぬ。教会がわれらの縁の切れるのを認めればそのようにすればよし。みずからもはや老先も短いゆえ、このような憂きことは早くにのいてもらいましょ。おまえとマチルダの無事安穏を祈って、この憂さを消すところは、この御神前よりほかにどこにござりましょうぞ?」
「だが、それまでそちをここには留めておかぬぞ」とマンフレッドはいった。「おれとともども城へ戻りゃれ。その上でゆるりと離別の正しい手だてを考えよう。しかし、このうるさい坊主は城へ来るな。客を遇するに厚いわが家に、裏切者を泊めるのはもう懲りごりじゃ。それからそちの神官とやらの小伜めは、わが領内より追放する。おれの思うところでは、かやつは格別神聖なる人となりでもなし、寺の庇護のもとにおくべき男でもない。イサベラと婚《めあ》う者は誰にもせよ、ファルコナラ神父の俄《にわ》か出来の小伜などにはやられぬわい」
「ムハハハハ、昔から一城一領の主の席に俄かに臨んだ奴輩《やつばら》はみんな俄か出来じゃテ。そういう不正の輩《ともがら》は、ことごとく枯草のごとく萎《しお》れ去って、それきり跡方も知れませぬテナ」
マンフレッドはジェロームにきっと咎めるように目を投げると、そのままヒッポリタの先に立って出て行ったが、寺の入口のところで家来の一人に、尼寺のあたりに身を隠し城からここへ戻ってくる者があらば、すぐに知らせろ、と小声でささやいた。
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第五章
神父のそぶり振舞いをいろいろふりかえって考えてみると、どうもマンフレッドには、イサベラとセオドアの仲はジェロームが糸を引いていると思われる節があった。これまでの従順に似てもつかぬジェロームのあの無遠慮な出しゃばりを考えると、さらに深い不安が感じられた。だいいち、フレデリックがやってきたことと、セオドアが突然あらわれたというこの偶然の一致には、どうもそこに一脈の相通ずるものがあることを語っているようだ。ひょっとすると、あの坊主は、なにかフレデリックから秘密の支持を受けているのではないかとさえ、マンフレッドは気をまわした。
それよりまだ気になるのは、セオドアがアルフォンゾの肖像にそっくりなことであった。自分の知っているアルフォンゾは、子なしで死んでいる。フレデリックはそのアルフォンゾに娘のイサベラをやることを、前から暗々裡に黙諾していた。こういうあれこれの矛盾が、マンフレッドの心に数知れぬ苦慮をあおった。かれはこの難しい局面から自分を救う手だては二つしかないと見た。一つは自分の封土をフレデリックに譲り渡してしまうこと。この考えにはしかし、多年の誇りと野心、子孫にそれを残しておく可能性を示した古い予言への依存、これが鬩《せめ》いだ。もう一つの手だては、イサベラとの縁組を強行することであった。かれは尼寺から城まで、ヒッポリタと口もきかずに黙々と帰る途々《みちみち》、こういう心配な考えごとに耽ってきたが、やがてかれはこの不安な問題について、后と膝づめで話し合った。そして是が非でも離別に同意するように、――それを促進するという約束だけでも后の口からひきだすように、つい口にのるような、もっともらしい論議のあの手この手を用いた。ヒッポリタのほうは、夫の喜びに添うためには、なんの説得もいらなかった。彼女はなんとかして領土を譲り渡す計画を、うんといわせるように夫に説得してみたが、その勧告も無益なことがわかると、自分の良心の許すかぎり、離別に反対しないことをあっさり明言した。ただ、夫の主張よりもべつによい根拠があってためらうのではないけれども、こちらから積極的に離別を要求することはしたくないといった。
この服従は、不十分ではあったけれども、とにかくマンフレッドの希望を高めるには十分であった。かれは自分の権力と富が、ローマの法定で、こちらの上訴申請を容易に進められるという自信があった。そこで、フレデリックをそのためにわざわざローマの旅につれて行く約束をすることにした。かれはフレデリックがマチルダに惚れこんでいるのを知っていたから、侯爵がこちらの意見に協力する意向のほどは、その様子にあらわれると見て、それによって娘の色香を提供するかひっこめるかで、こちらの願うことは思うままになると、気をよくした。こちらの保証の見込みが立ちさえすれば、フレデリックなんかいなくても、実質的な点はこっちのものになるにきまっている。
ヒッポリタを部屋へ退《さ》がらせ、マンフレッドはふたたび侯爵の部屋へ行こうと、大広間を抜けていくと、腰元のビアンカにばったり出会った。腰元のビアンカは、マチルダにもイサベラにも信用をえている。マンフレッドは、ちょうどいい折だから、イサベラとセオドアの問題について、この女に探りを入れてやろうと考えついた。そこで広間の出窓の出っぱりのところへビアンカを呼んで、あいそのいいことをいって彼女の気をそそっておいてから、このところイサベラの情愛の動きについて知っていることはないか、といって尋ねた。
「アノわたくし、……イエ、アノ殿さま……はいはい、姫君さまにはおいたわしや、父御《ててご》さまの不慮のお怪我に、イヤモウきつい御吃驚《ごきっきょう》。じきに御平癒なさりょうからと申し上げましたが、殿さまにはいかがお考えあそばしまするか?」
「いや、わしはあれの親父《おやぢ》のことを尋ねておるのではない。だが、そちはあの姫の秘密を知っておろう。な、よい子だから、わしに教えろ。姫の秘密のなかには、若い男がおるであろう。――ハハハハ、どうじゃ、わしの申すことがわかるな」
「これはまた畏れ多いお言葉。殿さまのお心がわかろうなどとは! はい、わたくしはお傷薬を塗ってお休みあそばすようにと申し上げて……」
「コレ、親父のことを申しておるのではないと申すに。親父の平癒したことはわしも知っておる」
「それは御重畳にござりまする。それを伺いまして、安堵いたしました。と申しますのは、姫君さまがお気を落とされてはならぬと思いましたなれど、太公さまのお顔色がすぐれず、それにつきまして去んぬる頃、若武士フェルディナンドがヴェネチアで傷つきましたみぎり――」
「コレ、どうもそちの話は要《かなめ》をそれる。さ、この宝石をとらせるぞ。これでちっとは気が散らぬであろう。イヤ辞儀はいらぬ。しだいによっては、まだもっともっと褒美の品をとらせるぞ。――さ、正直なところを申せ、イサベラの胸のうちは、どんなもようじゃ?」
「アレマア、わが君としたことがそのような……」とビアンカはいった。「畏まりました。それはよいとして、殿さま、これはズント内証ごと、その秘密がお守りになれまするかいな。もしも殿さまのお口から洩れますると、わたしゃもう……」
「そんなことはない、そんなことはないぞ」
「いえいえ、そうはまいりませぬ。しかと御誓言を遊ばしませ。もしもこのこと、わたくしが申せしと知れなば――でも真実は真実、そりゃもうイサベラ姫が亡き若君さまに、御情愛がたんとおありだったとは思いませぬが、――でも若君さまはあのとおりのおかわいらしいお方。わたくしが姫君だったならば――エエ、こりゃたいへんじゃ、たいへんじゃ! マチルダさまのお部屋へ行かねばならぬ。姫にはさぞやお待ちかね、どうぞしたかとお案じならん。それでは殿さま、御免なされて……」
「待て待て、そちはおれの問いごとを少しも満足させてくれぬぞ。これまでなにか伝言とか、文のようなものを持ってまいったことがあったかな?」
「このわたくしが! マアマア殿さま、このわたくしが文を? こちゃお后《きさき》に上がろうなどは思ってもおりませぬぞえ。殿さま、よう思召し下さりませ。わたくしはこのような賤《しず》の女《め》ながら、心は正直一徹。さいつとき、マルシグリ伯爵さまがマチルダ姫を御所望にて御来城のみぎり、このわたくしに何といい寄られたか、まだお聞きおよびになりませぬか?」
「たわけめ、そちののろけ話など聞くひまはないわえ。そちの正直一徹など問うてはおらぬが、このおれに何一つ隠し立てせぬが、そちの務めじゃぞ。イサベラはいつごろセオドアと知り合ったのじゃ?」
「いえいえ、殿さまのお目はなんでも見通しなれど、そのことばかりは何も存じませぬ。なるほどセオドアは尋常な若者、マチルダ姫のおっしゃるとおり、アルフォンゾさまのお像に瓜二つ。殿さまにもお気づきであられましょうがな?」
「うんうん。――いやどうも困ったやつだな。――して、どこで会うた! いつ会うた?」
「どなたがでござります? マチルダ姫でござりまするか?」
「違う違う。マチルダではない、イサベラじゃ。イサベラはいつセオドアと初《はつ》に知り合ったのじゃ?」
「さあ、それは。――どうしてわたくしが知りましょう?」
「いや、そちは知っておる。わしは知らねばならぬ。きっと知ってやる」
「殿さまは、あの年若なセオドアにもしや嫉妬を?」
「嫉妬だと! 違う違う、おれがなんで嫉妬をせねばならん。イサベラが嫌いでないとわかれば、わしは二人をいっしょにさせてやるつもりじゃ」
「お嫌い! なんのなんの、わたくしは姫さまを保証いたします。セオドアさまは昔キリスト教の国々を堂々と押し歩いたような美男の若人、わたくしどもはみなあの方に岡惚れをして、あんなお方が御領主になればと、思わぬものは一人もなく、きっと神さまも、ああいうお方を殿さまと呼ぶのをお喜びになる時がくるだろうと……」
「なるほど、もうそこまで行ったか!」とマンフレッドはいった。「ウヌ、あの売僧《まいす》めが! こりゃこうしてはおられぬわい。ビアンカ、そちはイサベラのもとへ侍《はべ》りにまいれ。したが、この場のことは一言もいうではないぞ。イサベラがセオドアにどのような気があるか、よく探って、吉報をもってまいれ。そうすれば、ソレ、さっきの指環にまた添え物をとらせるぞ。よいか、あすこの回り階段の下で待っておれ。おれはこれから侯爵を見舞いに行く。戻りにゆるりとそちと話そう」
マンフレッドはフレデリックの部屋へ行くと、二言三言さあらぬ挨拶をのべたのち、ちと火急なことで用談があるから、お供の侍両人にしばらく座をはずしてもらいたいといった。二人の侍が退座して、フレデリックと二人きりになると、さっそくかれはまことしやかな調子で、マチルダの話を持ちだした。そして侯爵が膝をのりだしてくるのを見すまして、じつはお二人の婚礼の式に出席するのが難しうなってな、と話しかけたとたんに、いきなりビアンカが血相かえて、部屋へとびこんできた。その顔と身ぶりには、極度の恐怖をかたる狂乱の体《てい》があった。
「殿さま、殿さま、もう駄目でござります。また、まいりました。またまた、まいりましたぞ!」
「なにがまたまたまいったのじゃ?」とマンフレッドはあっけにとられて、叫んだ。
「おう、手が! 大入道の手が! ――アア恐《こわ》やの恐やの、もうもう気が遠くなりそうな、どなたかしっかりかかえて下さりませ」とビアンカは叫んだ。「もうもう今夜は御城内には眠れませぬ。どこへ行こうかいのう? 荷物はあとから届けて頂きますほどに。――ああ、こんなことなら、いっそフランチェスコと夫婦《めおと》になっていたら、思い残りはなかったに。ハア、それも仇望みになってしもうたわいな」
「コレ女子衆《おなごしゅ》、なにをそのように恐れるのだ?」と侯爵がいった。「ここなら安全だ、怖がることはないぞ」
「あい、その御親切はありがたいけれど、とてもとてもわたくしには――どうか去らして頂きまする。もう何もかも置いて行っても、この屋根の下には一時なりともおられませぬ」
「行け行け、そちの頭は狂ったのじゃ」とマンフレッドはいった。「えい、邪魔じゃ邪魔じゃ。いま大事の用談の最中――。イヤモこの女はなにかというと気絶をする女でな、ビアンカ、おれといっしょに来い!」
「いえいえ、それは御勘弁を! もともとあれは殿さまへ警告に現われたもの。こちに出るはずはない。わたくしは朝に夕にお祈りをしておりまする。あのおり殿さまが、ディエゴの申したことを信じなさればよろしかったものを! ディエゴが画廊で大きな足を見たと申す、あれと同じ大きな手でござります。ジェローム御神父さまも、予言の通りのことがいずれ現われると、まいどおっしゃってでございました。ビアンカ、わしのいうことをよく憶えておれよと御神父さまは――」
「たわけたことを申すな、きちがいめ!」マンフレッドは叱りつけた。「行け行け。きさまの仲間どもに、今ぬかしたたわごといって、威して来い!」
「まあ、何ということを仰せられます、上様」とビアンカは叫んだ。「このわたくしが何も見なんだと思召しますのか? そんなら上様、あの大階段の下へおんみずからお越しなされませ。わたくしはな、この身が生きていると同じように、この目でまざまざ見たのでござりまするぞ」
「コレ女子衆《おなごしゅ》、そなた一体何を見たのだ、いうてみやれ。のう、何を見たのじゃ?」とフレデリックがいうと、マンフレッドは、「これサ、フレデリック殿、お身は幽霊を信ずる、この愚かな女の迷いばなしに耳貸しょうといやるのか?」
「いや、これはただの妄想ではござるまい」と侯爵はいった。「見受けるところ、この女子《おなご》の怖がりようはまことに自然、よほど心に強い感銘あっての上の想像のはたらきと相見える。さ、女子衆、なんでそれほどまでに吃驚されたのか、いうてみやれ」
「はいはい、さすがは御前《ごぜん》さま、よう仰言って下さりました」とビアンカはいった。「まだ顔色はまっ青と存じまするが、おかげでだんだん人ごこちがついてまいりました。じつはわたくし、殿さまのおいいつけで、イサベラさまのお部屋へまいろうと――」
「コレコレ、そんな回りくどいことはどうでもよいわ」とマンフレッドが横合いからいった。「御前が話せと申される上は、先をつづけるがよいが、なるべく手短に申せ」
「殿さまはいつも手短に手短にと話の腰をお折りになりますが」とビアンカはいった。「ほんに生まれてはじめて自分の髪の毛が――さいなあ、そこで只今申し上げましたように、殿さまの仰せをこうむりイサベラさまのお部屋へまいろうといたして、イサベラさまはあの階段の右手のお部屋に御寝《ぎょしん》なされますによって、わたくしは大階段のところまでまいって、殿さま御配料の指環をこう眺めておりまするとナ――」
「エエ、何をじゃらじゃらと!」とマンフレッドはいった。「いっこうに肝心なところへ来《こ》ぬではないか。娘にまめまめしくかしづいておる褒美に、安物の指環をとらせたが、そんなことが侯爵どのに何のお景物になる? こっちはそちの見たものが知りたいのじゃ」
「はい、それほどいえと仰せなら、これから申し上げまする。その御配料の指環をこう撫でながら、ものの二、三段も階段を上がるか上がらぬときに、戛《かつ》々と鳴る甲冑の音。ディエゴが画廊のお部屋で大入道に腰をぬかしたおりに聞いたという、あの世界中がガラガラと鳴りひびくような、それはそれは恐ろしい物音が……」
「御城主、この女子《おなご》の申すことは、どういうことでござるな? この城には大入道や妖怪が出ますかな?」と侯爵がいった。
「アレマア御前さまには」とビアンカが叫んだ。「御城内画廊の間《ま》の大入道のお話は、まだお聞きおよびがござりませぬのか? 殿様よりお話がないとは、これはまた希有《けう》なこと。そんならあの、予言のことも御存じござりませぬな?」
「ヤイヤイ、下らぬことをつべこべと」とマンフレッドが横合いから、「フレデリック殿、この愚かしき女は退《さ》げることにいたそう。そんなことより大事な相談――」
「まあまあ、マンフレッド殿」と侯爵がいった。「失礼ながら、これは下らぬことではござらぬぞ。わしが森で道をおしえてもらった大太刀といい、また、あちらにござるあの大兜といい、こりゃどうやらお女中の、ただのまぼろしではないようじゃテ」
「さすが御前さまはお目が高い。ジャケズもそのように申しておりました。どうでも今月この月は、なんぞ変わったことが起こらいでは納まるまいと、こんなに申しておりまするが、わたくしなどはあの甲冑の鳴る音を聞いて、身うちにグッショリ冷汗をかいたゆえ、明日が日になにが起ころうとも、ビクともギクともするものじゃござんせぬ。――さあそこで、わたくしが上を見上げまするとナ、御前さまなら信じて下さいましょうが、ちょうど大階段のいちばん上の手すりの上に、手甲《てっこう》をつけた手が見えまして、イヤモウその手の大きいこと、大きいこと、――わたしゃ今にも気絶しそうになって、後をも見ずにこちらへ駆けつけましたが、もうもうこんなお城はまっぴら御免でござりまする。そう申せば昨朝も、マチルダ姫がおっしゃいましたが、御台さまはなにごとか御存じとやら――」
「いよいよもって無礼千万!」とマンフレッドは叫んだ。「侯爵殿、この場の様子は、家中一統申し合わせての我への侮辱と相見えた。面目《めんぼく》なし。面目なし。股肱《ここう》と頼む家の子等は、主《あるじ》に仇なす妄談をひろぐることに身を売るか? 侯爵殿、もはやかくなる上からは、貴殿の要求を男らしく遂行さるるか、さなくば最前提案せしごとく、われらの娘の縁取り換え、これによって領土の安泰を計るか、道は二つに一つでござるぞ。だが、よいかな、お身も腰元|婢《はした》のごとき女どもの手に、やすやすと乗るような領主になられては、困りますぞ」
「アイヤ、その譏《そし》りが可笑《おか》しうござる」とフレデリックはいった。「今の今まで、それがしのこの女子衆は見たこともなく、ましてや宝石をとらせたこともござらぬが。――御領主、お身はおのれの良心と罪科に責められ、それがしにまで疑いをかけられるであろうが、しかし娘御はお手もとに置かれ、もうイサベラのことなどは考え召されぬがよい。すでに審判は、わしに乗りこむことを禁じた。お身の家の上に落ちたのだ」
マンフレッドは、こういう言葉を吐いたフレデリックの断乎たる調子に驚いて、しきりと相手の心を和《なご》めるのにつとめた。ビアンカを部屋から退《さが》らせると、かれは急に例の猫なで声になって、マチルダのことをあの手この手と言葉巧みに褒めだしたので、フレデリックはまたもやよろめきだした。なんといってもこの恋はまだ日が浅かったから、心に抱いたためらいをすぐに乗りこえることはできなかったのである。侯爵はビアンカの話から、神はおのずからマンフレッドに反対を宣しておられるのだということが、充分にのみこめた。提案された縁組の話も、かれの権利主張を遠くへ押しやった。オトラントの支配は、マチルダとの縁組で付随的に継承するなんてことよりも、もっと強い誘惑であった。でもかれは、その婚約から完全に身をひいてしまう気にはまだならなかったが、ただ時をかせぐつもりで、ヒッポリタが離婚に同意したというのは、事実上ほんとうなのかどうか、マンフレッドに尋ねてみた。マンフレッドは、ほかにどこからも故障の出ないのにすっかりいい気になっていたし、女房には絶対に力ありと信じていたから、そのとおりだ、嘘だとおもうなら、家内の口から事実を聞いて安心してもらいたいと、侯爵に保証した。
こんな話のやりとりをしているところへ、酒宴の用意ができたという知らせがきた。マンフレッドは大広間へ侯爵を案内した。大広間には、ヒッポリタと若い姫たちが待ちうけていた。マンフレッドは侯爵をマチルダの隣に坐らせ、自分は妻とイサベラの間に坐った。ヒッポリタはいかにも気のおけない威厳をもってふるまっていたが、若い姫たちのほうは二人とも黙りこくって、愁いに沈んだ顔をしていた。マンフレッドは、今夜はあとで侯爵と重要な点をじっくり煮つめる肚でいたから、誰憚ることもなくひとりで陽気にはしゃぎながら、夜のふけるまで酒盛りをひた押しにつづけ、フレデリックにさかんに盃を重ねさした。しかしフレデリックは、マンフレッドが望む以上に警戒心が強く、さきの流血で貧血をおこしていると見せかけて、しばしば盃を辞退していた。一方マンフレッドのほうは、酔いがまわってもいないくせに、だいぶ聞こし召してヘベレケになったふうをよそおい、前後不覚の体《てい》をよそおっていた。
夜もしだいに更けわたって、やがて酒宴もようやくおひらきとなった。マンフレッドはフレデリックといっしょに引き上げるつもりでいたところ、フレデリックは体が弱っているからちょっとひと休みしたいといい、あとでまた自分が出るまで娘に御機嫌をとりむすばせるからと、そつのない挨拶をして、部屋へひき上げて行った。マンフレッドは、ではまた後刻とこれを受けて、愁いに沈むイサベラを部屋まで送って行った。マチルダは母に侍《かしづ》いて、さわやかな夜の気分を吸いに城壁の上へ出て行った。
やがてのことにフレデリックは、供の侍たちもそれぞれかなたこなたに散ったので、そっと部屋をぬけ出し、御台所はお一人でおわすかと尋ねると、后の腰元の一人が、お出ましになったのは気がつかなかったが、いつもこの時刻には御礼拝所へおいでになるから、たぶんそちらにおわすだろうと教えてくれた。さきほど酒宴のあいだに、侯爵はマチルダ姫をまじかに見ているうちに、恋慕のこころがいよいよ募ってきた。だから今のかれとしては、マンフレッドがさっき保証したような気分になった后に会いたいと願っていた。さきに警告された予言のことなどは、当面の願望のなかに忘れ去られてしまっていたのである。足音を忍ばせながら、人目をはばかりつつ、かれはヒッポリタの部屋まで行って、そっと中へはいった。じつはマンフレッドが、マチルダをこちらの望みにまかせぬうちは、イサベラを手に入れることを交換条件にはしない肚でいることを見たので、侯爵は御台に離婚を承知することをすすめにやって来たのであった。
御台の部屋は、案の定《じょう》、しんと静まりかえっていたから、それではやはり御台は教えられたとおり、礼拝堂へ行ったのだと思って、かれはすぐにそちらへ足を向けた。礼拝堂の扉がすこし明いていた。夜は暗く、空は曇っていた。入口の扉をしずかに押しあけると、神壇の前に、だれかひざまずいているものがある。近づいてみると、どうやらそれは女のひとではなく、長い毛織りの粗服を着た人で、こちらへ背をむけている。なにやら祈祷に余念のないようすである。侯爵がひき返そうとすると、その人は体をおこして立ち上がり、侯爵のいることにはかまわずに、そのままじっと瞑想三昧の体《てい》で立っている。侯爵はその奇特な僧が自分のほうへやってくるものと思って、心ない邪魔をしたことを詫びるつもりでいった。
――「御坊、失礼をいたした。ヒッポリタのお方を捜しにまいった者でな」
「なに、ヒッポリタを!」とうつろな声が答えた。「この城へヒッポリタを探《たづ》ねに来られたのか?」といって、その人がおもむろにこちらをふり向いたのを見れば、こはそもいかに、その顔は隠者の衣をまとった骸骨の、肉なき顎《あご》とうつろな穴になった二つの眼《まなこ》であった!
「梵天の諸神天女、われを守らせたまえ!」とフレデリックは思わず後ずさりをしながら叫んだ。
「その守りは叶うべし」と幽霊はいった。フレデリックはその場にどうとひざまずき、なにとぞ憐れみを垂れたまえと、一心不乱に祈った。
「お身ゃこのわれを忘れしよな。ジョッパの森を憶えておろうでな!」
「ヤヤ、さてはあのときの御隠者か?」とフレデリックは震えおののきながら叫んだ。「御魂《おんたま》御冥福のため、それがしがなすべきことは、いかにいかに?」
「コレよっく聞け。汝|囹圄《れいご》の身より解かれしは、五|濁《じょく》の欲をば追うためなりしや? 畏《かしこ》くも土中にありし大太刀の、刃《やいば》にきざみし神勅を、そちゃ妄念いたせしよな?」
「イヤイヤ妄念は仕らず、妄念は仕りませぬ」とフレデリックはいった。「して御亡霊、それがしへの御用命とは何でござるな? 仕残せしことは何々と、サ、のたまえのたまえ」
「マチルダを忘れることぞ!」といいはなつなり、亡霊のすがたはかき消えた。
フレデリックの血は、血管のなかで凍りついた。ややしばらく、かれは身うごきもならずにうずくまっていた。やがて神壇の前に顔をうつ伏せにして倒れると、神々に許しのおとりなしを懇願した。一心不乱になって祈っているうちに、涙がとめどもなくあふれてきた。そして思うまいとしても、マチルダの美しい姿がふっと浮かんでくるので、かれは床に倒れ伏したまま、悔恨と恋情の戦いに身をよじりもだえた。この断腸の苦悶もまだおさまらぬところへ、ヒッポリタが燭《あかし》を手にもって、一人で礼拝堂へはいってきた。御台は床の上に動きもせずに倒れている人を見ると、死んでいるものとおもって、アレッと驚きの声をあげた。
その声に、フレデリックはハッとわれに返った。かれは顔じゅう涙だらけにして、いきなり立ち上がると、后の前から急いで逃げようとするのを、ヒッポリタは押しとどめ、いかにもおちついた調子で、なにがもとでそのように取り乱されるのか、あのような体《てい》を拝見したのは、どういうまわりあわせなのか、そのわけを聞きましょうと、ことばしずかに問いかけた。
「ヤ、こりゃお后!」と侯爵は驚いたが、骨身をとおる愁嘆のために、あとがいえなかった。
「侯爵どの、神の愛のために、この場の入りわけ、お明かしなされましょう。なにやら御愁傷らしいその御様子、今のびっくりなされたようなお声は、マアいかなこと。ふつつかなこのヒッポリタに、この上まだどのような歎きを神は御用意なのか。――まだおいやらぬか、侯爵どの。哀れみ深い天使の御名《みな》によってお尋ね申すのじゃ」と御台は侯爵の足もとにまろびよって、「サ、その御胸中にわだかまる御趣意をお明かしなされませいな。なにやらお見受けするに、なんぞこの后を思いやっての御様子、いえば人を傷つけることを悲しんでの御様子じゃが、さ、お話しなされませ。なんぞ娘のことで御存じのことがござりまするな?」
「いえぬいえぬ、いえませぬわい」とフレデリックは后をふり切って、「おう、マチルダ!」と叫ぶとともに后をそこに残したまま、逃げるように自分の部屋へ戻って行った。すると部屋の入口で、マンフレッドにバッタリ出合った。酒と恋に元気百倍のマンフレッドは、今宵は酒と音楽にもうしばらく歓をつくそうと、侯爵を誘いにきたのであったが、フレデリックは今の自分の心持とはかけはなれたその誘いに気を悪くして、手荒く相手を押しのけると、そのまま部屋のなかへ逃げるようにはいったあとの扉を、マンフレッドの鼻の先に荒々しくバタンと締めて、中から閂をかけてしまった。
傲慢不遜なマンフレッドは、思いもかけぬ相手の振舞いに腹を立てて、ようし、こうなる上は矢でも鉄砲でも持ってこいという意気でひき上げて行った。中庭を渡っていくと、宵のうちにジェロームとセオドアの見張り役に、尼寺に立たせておいた家来にばったり出会った。家来は急いで駆けてきたので息をハアハア切らしながら、只今城内より忍びいでたるセオドアと女性《にょしょう》の者が、聖ニコラス院のアルフォンゾ公の墓所の前で、なにやら密談中だとマンフレッドに注進をした。なにぶん夜陰のことで、女のほうは何者とも見分けがつかないという。
それを聞いたマンフレッドの心は、たちまち火がついたように燃えあがった。さきほどイサベラは、こちらが無遠慮に思いのたけを打ち明けたときに、自分をふりはらって逃げて行ったが、どうもあのとき様子がソワソワしていたのは、さてはセオドアと逢いびきをするので、気がせいていたのにちがいない。この推測は、マンフレッドを一時にカッとさせた。そしてイサベラの父親の侯爵にも憤慨を感じながら、かれはこっそりそこから聖ニコラス院へと急いだ。寺の側廊を忍び足で滑るように抜けると、窓からさしこむほの暗い月の光をたよりに、そこからアルフォンゾ公の墓所のほうへと、ヒソヒソ聞こえる自分の捜す男女のささやき声を目あてに、マンフレッドは抜き足さし足で近づいて行った。最初に聞きとれたことばは、――「エ、そりゃわたくししだいと? とてもとても、この縁組をマンフレッドが許しますものか」
「そうとも、こうして邪魔をしてやるわい!」と叫ぶやいなや、暴君は短刀をひきぬき、女の肩ごしに、話の相手の胸先めがけて、ズブリと突き刺した。「あれエ、人殺し!」とマチルダは深傷《ふかで》にグッタリ落ち入りながら、「わたしゃもう天国へ……!」
「ヤイ、残忍無道の人非人、わりゃ何たることをしてくれた?」とセオドアはマンフレッドにとびかかりざま、短刀をねじりとった。「ア、勿体《もったい》ない、その手を止めて!」とマチルダは叫んだ。「そりゃこちの父上じゃ!」
マンフレッドは夢からハッとさめたように、胸を打ち、両手で髪をかきむしり、自分もここで自害をしようと、セオドアの手から短刀をとり返そうとした。セオドアはこの時すこしも騒がず、ただマチルダを助けようと、身も世もない歎きをこらえているところへ、声を聞いて、四、五人の道僧が助けにとびだしてきた。そしてそのうちの何人かはセオドアに協力して、瀕死の姫の出血をとめることにつとめ、あとの者はマンフレッドがわれとわが身に早まったことをしないように、しっかりととり押さえた。マチルダは自分の運命にじっとわが身をゆだねながら、セオドアのまごころを心からありがたいと思う、愛のまなざしで感謝した。でも、しだいに弱って口をきくのもやっとのなかから、しきりと父を安堵させてやってくれと頼んだ。ジェロームも危急の大事を聞いて、寺へ駆けつけてきた。神父の目はセオドアを咎めるように見えたが、すぐにマンフレッドのほうをふり向いていった。
「さて暴君、神をそしり、身勝手に耽りしお身の頭《こうべ》に下ったこの悲劇を、目を開いてよっく見なされよ。アルフォンゾ公の血は、復讐のために神に叫んだのじゃ。神はアルフォンゾ公の御墓所のまえで、お身の血を流させた闇打で、神壇を汚させたもうたのじゃぞ!」
「アコレ、父上のお歎きを、この上うわ塗りさしょうとは、まあむごいお方! 神さま、どうぞ父上を祝福なされて、わたくし同様お許しなされて下さりませ。のう、父上、おまえはわが子をお許しか? わたしゃセオドアに会おうため、お城からここへ参ったのではござりませぬぞえ。母上からおまえのため、仲裁のとりなししやと、ここへ呼ばれてきてみたら、セオドアさまがこの御墓所の前で、お祈りあげていやさんしたのじゃ。父上さま、娘のしあわせ願うなら、許すと一言いうてたもれいなあ」
「なに、そなたを許せと。むごいことをいうやつの」とマンフレッドは叫んだ。「かりにも人を殺《あや》めた者に、許すことができようかやい。わしはそなたをイサベラと間違えたのじゃ。神はわしの血なまぐさい手を、わが子の心臓に導かれたのじゃ。――おおマチルダ、おれはこの口から、そなたを許すとはよういえぬわい。怒りに目のくらんだこの父を、そちが許してくらりょうかい?」
「いいえ、許します、許します。神さまがわたしの御証人」とマチルダはいった。「それはまあよいとして、命のあるうち尋ねたいは母上のこと。母上はなんと思われよう? 父上、おまえは母《かあ》さまを慰めてあげるであろうな、母さまを捨てはしまいな? 母さまはな、しんじつおまえを愛しておられますぞよ。――ああ、もう目が見えぬ。わたしをお城へ運んでくりゃれ。母さまが目をつぶらせてくりゃるまで、こちゃ生きていらりょうかいな」
セオドアと僧侶たちは、尼寺へ運ぶことを彼女に懇願したが、彼女がなんでも城へ運んでほしいと頼むので、釣り台にのせて、彼女の希望どおり城へ運びこんだ。セオドアは片腕で彼女の首を支えながら、絶望的な愛の苦悶のうちに彼女の顔を打ちのぞき打ちのぞき、それでもなお、生きる希望を彼女に吹きこむことにつとめた。ジェロームは釣り台の反対側から、天国のはなしを聞かせて慰め、目のまえに十字架をかがげてやると、その十字架をマチルダは清らかな涙で洗い浄《きよ》め、死出の旅路の心支度をした。マンフレッドは深い苦悩に打ち沈んだまま、絶望にうなだれながら釣り台のあとからついて行った。
城へ着かぬうちに、恐ろしい不幸を聞き知ったヒッポリタが、殺害されたわが子を迎えに飛んで出てきたが、悲しい行列を見ると、悲歎の大きさが彼女の知覚をうばい、たちまちその場に気を失って、大地に正体もなく倒れてしまった。御台につき添って出てきたイサベラ父子も、ほとんど同じ悲しみに動顛した。自分の瀕死状態に気づかずにいるのは、当人のマチルダだけのようで、彼女はなにかを考えてもただもう母に対するやさしさばかり、ほかに余念はなかった。ヒッポリタが正気に返ると、マチルダはすぐに釣り台を母の前におろすように命じ、それから父のことを尋ねた。マンフレッドは釣り台のそばへ寄ったが、一言もものがいえなかった。マチルダは父の手と母の手をとると、二人の手を自分の手のなかで握らせて、それを自分の胸にしっかりと押しつけた。マンフレッドはこのやさしい孝心のしぐさを支持するに耐えられなかった。かれはいきなり地面にまろび伏すと、自分の生まれた日を呪った。こうした心の葛藤《かっとう》を、マチルダが耐える以上によくわかるイサベラは、出すぎたこととは思ったが、ここで思いきってマンフレッドに自室へ行くように命じ、マチルダを城内のいちばん近い部屋に運ばせた。マチルダよりもむしろ元気のない御台は、さっきから自分を除いた四方八方のことにあれこれと気苦労していたが、これもイサベラの配慮で、自分の部屋へやられようとするところへ、何人かの医者がマチルダの傷を診察にきた。
「なに、わらわにあっちへ行けといいやるのか。とんでもない。そりゃなりませぬ。そりゃならぬ。そなたも存ずる通り、わらわはこの娘《こ》を甲斐に生きてきました。この期《ご》におよび、死なば諸共《もろとも》じゃ!」マチルダは母の声高に目をあげたが、なにもいわずに、またその目を閉じた。しだいに微弱になっていく脈搏と、しっとりと冷たくなった手は、やがて回復の望みをすべて断《た》ってしまった。セオドアが医者たちのあとについて他の部屋へはいっていくと、あのからだを運んでくるとは気ちがい沙汰だといって、医者たちが最後の宣告をいうのを聞いた。
「どうせ生きていて自分のものにならないなら、死んで自分のものにしてやる!」とセオドアが叫んだ。「父《とっ》さま! 二人の手をつないで下さらぬか?」神父は侯爵といっしょに、医者たちについてきていたのである。
「馬鹿め! このうろたえ者が何をいいくさる?」とジェロームはいった。「これが縁組の時か?」
「いや、今こそその時だ! 今をおいたら、ほかにねえ!」
「コレコレ、お若いの、それはちと無分別というものだ」と侯爵がいった。「この大事の瀬戸ぎわに、そんな世迷いごとが聞かれると思うのか? お手前、あの姫になんの権利があるのだ?」
「オトラントを支配する領主の権利よ」とセオドアはいった。「おれの父者のこの神父が、おれの生い立ちを話してくれたのだ」
「おぬし、よくよくたわけだな」と侯爵がいった。「オトラントの領主は、このわしのほかに誰がある。マンフレッドはあの通り人を殺《あや》めたによって、神を涜《けが》せる人殺し、その罪によって、いっさいの権利を失ったぞ」
「アイヤ侯爵どの」と、ジェローム神父は急に相手を見下ろすような態度になっていった。「かれの申すことはまことでござる。この秘密をこんなに早くに明るみに出すは、いささか本意に悖《もと》るが、この場の仕儀となっては、致しかたもあるまい。頭ののぼせた伜の申したことは、このジェロームが確証いたす。侯爵どのも御承知であろうが、先君アルフォンゾ公が聖地にむけて船出をせし折――」
「ヤイヤイ、おやじどん、この大事なときに、そんなはなしをクドクドひろげるやつがあるものか」とセオドアが叫んだ。「さあさあ、父《とっ》さま、ここへ来て、姫とおれを結んでくれ。姫をおいらのものにしてやるのだ――。そいつをしてくれれば、おらもう父《とっ》さま、おめえのいうことは何でもいうままにきいてやる。かあいや、あのマチルダはおれが命だ!」といって、セオドアはふたたびそそくさと奥の部屋へ戻っていくと、瀕死のマチルダの耳もとで、「どうしてもおれのものにならないのか? せっかくのしあわせを――」とささやくのを、イサベラはマチルダの臨終の近いことをさして、静かにしなさいとセオドアに合図した。
「なに、このひとが死ぬ? そんなことがあるものか」とセオドアは叫んだ。この声に、マチルダはハッとわれに返った。そして目をあげて、母をさがしまわした。
「おお、わたしはここにいますぞ。側を離れずにいるから、安心しや」
「母《かあ》さまはよいお方。でも母さま、わたしのために泣いてくりゃるな。わたしはこれから悲しみのない国へまいりまする。イサベラ殿、久しう愛してくりゃったなあ。わたしが亡いあとは、どうかわたしの代わりになって母さまを大事にして上げてたもれや。――ああ、もう目が見えぬ!」
「おお、マチルダや、娘や!」とヒッポリタは滝津瀬の涙のうちから、「ああ、一時《いっとき》でよいから、そなたを引き止めることはかなわぬのか?」
「母さま、そのようなことをおっしゃると、わたしが天国へ行かれませぬ。――父《とと》さまはどこにじゃ?――母さま、父さまを許してあげて下さりませ。わたしがこうして死ぬるのを、父さまに許してあげて下さりませ。もとはついした過ちごと。許してあげて、のう母さま。――おお、忘れていたことがある。――わたくし、セオドアさまには二度と逢わぬとお約束をしましたなあ。――それがこんな不幸をひき起こして……でも、わざとにしたことではないゆえ、許して下さりまするな?」
「さ、もうもう苦しい母の心をこのうえ苦しめたもんな。なにそもじをこの母が咎めなどするものかいな。――や、誰かある。娘が死ぬるそうな! 誰か! 誰か!」
「まだいいたいことはあるけれど」とマチルダは苦しい息の下からいった。「――もういえぬ。――イサベラどの――セオドアさま――わたしのために……」
彼女はこと切れた。イサベラと腰元たちが、亡骸《なきがら》からヒッポリタをひきさくように引き離したが、セオドアをのかそうとすると、かれはのかそうとしたものに、なぜのかす、といって怒った。かれは土のように冷たくなったマチルダの手に、なんども口づけをしては、絶望と恋慕が語りうるあらゆる表現を言葉に吐いた。
イサベラは、やがて悲歎にかきくれるヒッポリタを御台の部屋へとつれだして行ったが、中庭のまんなかでマンフレッドに出会った。マンフレッドは、かれはかれなりの考えに狂ったようになって、今いちど娘の様子が見たくなり、これからマチルダの臥せっている部屋へ行くところであった。おりから月は中天高く昇っていたので、かれは行き会った連中の沈んだ顔のなかに、自分の怖れていた出来事のあったことを読みとった。
「なに、娘は絶命?」とかれは狂乱の体《てい》で叫んだ。と、その刹那、轟然たる落雷の音が、オトラントの城を礎《いしづえ》まで揺るがした。大地は濤《おおなみ》のように揺れ、そして人間の着る甲冑の何層倍もある鏗戛《こうかつ》たる響きが、うしろの方で聞こえた。フレデリックとジェロームは、いよいよ城の最後の日が近いな、と思った。ジェロームはセオドアをむりやりにひっぱって、いっしょに中庭へ駆けつけた。すると、セオドアの姿がそこへ現われたとたんに、マンフレッドのうしろの城壁が、ものすごい力でグワラグワラと崩れ落ちると見るや、雲突くような山のごとき巨きなアルフォンゾ公の姿が、崩れ落ちた廃墟のまんなかにびょうどうと立ち現われた。
「見よ、アルフォンゾ公が正嫡は、セオドアなるぞ!」とまぼろしはいった。この言葉を宣示すると、アルフォンゾの亡霊は天も裂くるばかりの雷鳴とともに、おごそかに昇天するとみえたが、その天には、雲の絶間《たえま》に聖ニコラスの御姿が赫奕《かくえき》と現われまして、アルフォンゾの御影《みえい》を迎えると、まもなく二つの姿は光まばゆい一面の光明につつまれて、人間《にんかん》の目からは見えなくなった。
これを見た人々は、みな面《おもて》を地にひれ伏して、神慮の然《しか》らしむるところを悟った。しばらくして、この場の沈黙をまず第一に破ったのはヒッポリタであった。
「わが君」と御台は力を落として悄然としているマンフレッドにいった。「人の偉さの空《むな》しさを、よう御覧なさりませ。コンラッドはあの世へ行き、今またマチルダもこの世になし! われらはこのセオドア殿をば、まことのオトラントの主《あるじ》と考えまする。いかなる奇蹟がありしかは存ぜねど、運命がそのように宣するからには、われらはそれで満足。われらはこのうえ神のお怒りを受けぬように祈りながら、生きねばならぬ残り少ない余生を、しずかに送ろうではござりませぬか。神はわれらを擯《しりぞ》けておられまする。あちらにあるあの尼寺がわれらの隠れ家、あれよりほかにいずれへのがれられましょうぞ?」
「罪なくして、よくよくそなたもふしあわせな人よのう。そのふしあわせも、みなこのおれがかずかずの罪ゆえ」とマンフレッドは答えた。「そのおれの心も、そなたの信心ぶかい誠告でようやく開かれた。できることなら――いや、できまいな――そなた怪訝《けげん》な顔をしておるが、おれに最後の正しいことをさせてくれ。この頭の上に恥を積むのがせめても咎める神にさしだす、おれのとっておきの償いじゃ。おれの越し方がこのような審判を招いたのだ。おれの懺悔を罪ほろぼしにさせてくれい。――いやしかし、この城を乗っ取ったことと、わが子を殺したことに、なんの罪ほろぼしがあろうぞ? しかもわが子を殺《あや》めしは、所もあろうにあの御墓所とは。――コレサ方々《かたがた》、おれの罪科の目録をつくり、血にまみれたるこの記録を、未来の暴君に戒めにしてくれい!
アルフォンゾはみなも知らるる通り、聖地でみまかった。――ここはお身たち、一言ありたいところであろう。イヤサりっぱな最期ではなかったといやるのじゃろ。――まさにその通りじゃ。そうでなくばこのマンフレッドが、この苦い杯《さかずき》をかすまで飲もうわけがない。――わしの祖父リカルドは、アルフォンゾの侍従であった。先祖の罪には蓋《ふた》をしておきたいが、それも今となっては無益。アルフォンゾは毒を盛られて死んだのじゃ。贋《にせ》の遺言書には、リカルドを跡目とするとしてあった。リカルドはこの罪に一生追われた。だがかれは、コンラッドも失わず、マチルダも失わなんだ。それからみると、わしは纂奪者の代償を全部払っておるわけだ。おのれの罪につきまとわれたリカルドは、自分がオトラントに行って住むようになったら、寺を一宇、それに尼寺を二つ建てると、聖ニコラスに誓った。この奉納は嘉納されて、聖ニコラスが夢枕に立たれ、リカルドの子孫は、男子居城の間にかぎり、正統なる持ち主が成人して城に住めるようになるまで、オトラントを治《おさ》むべしとのお告げがあったが、悲しいかな、男子にも女子にも、けがれし一門のうち、残れるものはこのおれ一人。そのおれのしたことは、この三日の間の出来事が語って余りあり。この若者がいかなる次第でアルフォンゾの相続なのか、わしは知らぬが、しかしべつにそれは疑わぬ。この領土はかれのものだ。わしは明け渡す。――だが、アルフォンゾに跡目があったことは、おれも知らなんだ。――いや、神の御意志を疑うわけではない。わしもリカルドに召さるるまでは、貧と神頼みに憂き世の年貢をおさめたいものじゃ」
「さてどんじりは、わしがいう番かい」とジェロームがいった。「アルフォンゾは聖地にむけて船出をしたとき、あらしに遭って、シチリアの浜へ流れ着いたのじゃ。殿もお聞きおよびのことと思うが、そのときリカルドとかれの一味をのせた別の船は、アルフォンゾから離れてしもうての」
「そういうことよ」とマンフレッドがいった。「御坊、いまわしのことを殿と呼んだが、イヤハヤ、宿なしには過分の呼び方ぞ。まあ、よい。それはそうしておいて、話をつづけられい」
ジェロームは思わず顔を赤くして、話をつづけた。「さて三|月《つき》のあいだ、アルフォンゾ公はシチリアで風待ちをしておるうちに、土地の娘でヴィクトリアという美しい女子《おなご》を見染められての。なにぶん信心の篤《あつ》い方じゃによって、娘を慰みものなどにはされんで、正式に縁組をされたが、しかし、いったんおのれが弓矢に誓った誓言の手前、この恋似合わしからずと考えられて、正妻として認めはしたものの、聖戦〔十字軍〕から還るまで、この結婚は秘しておこうと決心された。そこで公は、懐妊中の彼女をのこして出征し、その留守中に、彼女は女の子を産みおとしたが、この女も頼む夫が死んでリカルドが後継者になったという致命的なうわさを聞くまでは、母親としての苦労はほとんど知らなんだのだ。友もなく、頼るものを失った女子《おなご》に、なにが出来ましょう? 当人の証言をあげてもよいが――いや、たしかな書いたものがござるのでな――」
「それにはおよぶまい」とマンフレッドはいった。「あの恐怖時代、そのありさまは今も目にある。千の文書よりも、お身の証言がたしかな証拠じゃ、マチルダの死、そしてわしの追放――」
「まあまあ、そのようにお気を焦《い》られますまい」とヒッポリタがなだめた。「御神父は君の歎きを呼び返すつもりはないのじゃほどに」
そこでジェロームは話をつづけた。「さて、要もないところは飛ばすといたして、そのヴィクトリアが生んだ娘が成人ののち、縁あって愚僧と縁組をいたした。ヴィクトリアは他界いたし、秘密はわが胸中に鍵かけて、そのまま久しく秘しておりましたが、そのあとはセオドアめが語りました通りにござりまする」
神父は話を打ち切った。力を落とした連中は、それぞれ崩れ落ちた城の残っている部分へひきあげて行った。翌朝、マンフレッドは御台の同意をえたうえ、領主の権利放棄に署名をして、夫妻はめいめいに修道院で受戒を執した。フレデリックは新しい領主に、わが娘イサベラを提供した。これにはヒッポリタのイサベラに対するやさしい心の協力が、大きな促進力になったのである。ただし、セオドアは、まだかれの悲しみがあまりに生《な》ま生ましすぎたので、そうおいそれと別の愛に心を許すというわけにはいかなかった。そういうかれが、自分の魂を領している悲しみにいつまでも浸っていられる、そういう相手と暮らしていくよりほかに、自分の幸福はないことがわかったと自分にいい聞かせるようになったのは、愛するマチルダのことをよくイサベラと話しあうようになってからのことであった。 (完)
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解説
ある朝、日常の生活の渦の中では予測もしなかった、それこそ途轍もない夢に揺り起こされて、自分ではそれがこれまで生きてきた自分の人生に関わって何を言っているのか鋭角的にほぼの見当はついても、しかしこうだと言い切ってしまうには惜しい夢、だから何日かその後そのまわりに物語を組立てては楽しんでいる、おかしな夢。――人生の半ばを過ぎた男ならば誰だって、こうした経験はあるのではないだろうか。
――昨年六月のある朝、私はある夢から目を醒まして、その夢について思い出せるのはどこかの古い城の中にいるように思ったこと(私のようにゴシックな想像ばかり頭にある人間には至極自然なことかも知れない)、そして大きな階段の一番上の手すりの上に、具足を纏った途轍もなく大きな手が片方載っているのが見えた、ということだけ。そしてその日の夕方私は机に向かって、自分が何を言いたいのか、何を語ろうとしているのかまるで判らぬままに筆をとって書き始めたのです。作品はわが手に負えぬものとなり、また私は私でこの作品が大そう気に入って――一言申し添えるなら、私は何でもよい政治以外のことを考えられるのがとても嬉しかった……
と、ウォルポールは『オトラント城』刊行の翌年、このゴシック物語の由来を友人の牧師コール師に宛てた書簡に書き記している。まさしく一七六四年六月初頭のある朝、四十七才の国会議員、後に第四代オーフォード伯となるホーレス・ウォルポールが見たのはそのような夢であったのだ。
こうした夢を見るには何らかのきっかけというものがある筈だが、初版の序文にも「この舞台はどこかの実在の城であることは疑いを入れない」とあるこの古城が、ウォルポールが当時ですでに十八年間もそこに住んでいた、彼自身の手になるあの凝りに凝ったゴシック風の居城「ストローベリ・ヒル」ではないか、くらいのことは誰にだって容易に想像がつくだろうし、はたしてウォルポール自身、のちに「ストローベリ・ヒル」の解説パンフレットを作ったとき、そこに『オトラント城』の霊感と着想をその著者に与えたこれが場所であることを明記している。だがそれに劣らず、それにもまして興味深いのは、こうした夢には屡々あることだろうけれども、作品の刊行後十年たって彼がたまたま母校であるケンブリッジ大学を再訪した際、なんと執筆二十五年前に卒業したそこの塔や門、礼拝堂、ホールなどが作中のそれらと全く同じものであることに気づいて大そう驚いた、という話であって、彼はこれをパリ在住の心からの友、というより愛する人と言うべきだろうか、盲目のマダム・デュ・デファン宛て書簡に書き記しているのだが、こうしたことには篤学の士がいるもので、事実、オトラント城は「ストローベリ・ヒル」とトリニティ・カレッジを合わせたものであることが、舞台装置一つ一つの追跡調査によって実地に確認されている。
心の間歇、記憶の間歇ということを二十世紀になってマルセル・プルーストは言うのだが、ウォルポールがここで驚いているのはまさしくそうした不思議な心の働きについてなのだ。ウォルポールはさらに、オトラントという名前の町がイタリアに実在することも執筆時には知らなかった、とどこかで漏らしていて、これなど少々臭い話だというのが大方の意見であるようだが、今のトリニティについての記憶を思いあわせると、何だか信ずる方に賭けたい気にもなってくる。
ところで執筆前後のウォルポールは何をしていたか。彼自身の書き残した「人生メモ」によれば、彼はその時分、非道な一般逮捕状に反対の票を投じたかどで国王側近の要職を追われることになった、従弟で大の親友のコンウェイという男を弁護するため、二ケ月にわたって一つのパンフレットの執筆に精根を注いでいた。例の夢を見たのはそのパンフレットを書き終えた晩の眠りにおいてであったろう、とたとえば全五十巻と聞いただけで気の遠くなりそうな、尨大な彼の書簡集の編纂者であるW・S・ルイスは推測し、そして先に掲げたコール師宛て書簡に「政治以外のことを考えられるのがとても嬉しかった」とあるのは、このことを指している、と言うのである。『オトラント城』のテーマが不当な追放と復権にあることを想起するならば、夢の当夜の心理状況を説明するものとして、成るほどと頷かせるだけの説得力は持っている説、と言ってよいだろう。
また大変な好古家《アンティクエリア》であったウォルポールならば中世ゴシック期のヨーロッパ史に通じていたのは至極当然のことであるし、この線を押し進めていくならば、はからずも、十三世紀イタリアの実史に名をとどめる纂奪者マンフレッドというのが浮かび上がって来る。おまけにここには、フロイト流に言えば転位があるのは当然のこととして、コンラッド、フレデリック、という名前までが出て来るだけでなく、ストーリーのパターンも酷似している。『ゴシックの探求』を著わした碩学モンタギュー・サマーズに言わせると、――「オトラント城主マンフレッドというのは、また歴史の上の、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世の庶子マンフレッドであるのかも知れない。一二三三年に生まれて一二六六年の戦いに仆《たお》れたこのマンフレッドは、一二五八年シチリアの王座を纂奪し、そして当時まだ小さかったコンラッド二世は死亡したとの噂を流した。彼はまたオトラント城主の称号も有していた。われわれのロマンスのマンフレッドは、パレスティナで仆れたとされているヴィツェンツァ公フレデリックの所領を奪い、だがそのフレデリックが再び舞台に姿を現わすことになっている。歴史の方のマンフレッドは、フリードリヒ二世の財産を不当なやり方で手に入れるが、この皇帝は信じられているように一二五〇年に亡くなったのではない、という風説が流れていた。そして一二五九年、南イタリアでこの亡き皇帝にそっくりの一隠修士がマンフレッドに対して兵を起こし、彼に敵意を持つ多くの豪族がそれを支持した」というのである。
けれども残された最も肝心の問題は、あの突然大空から落ちて来る大きな兜、それから巨大な足、ウォルポールが夢に見た通りの巨大な手の出現、百人の太刀持ちが捧げ持つ巨大な刀の到来――といった、つまりこの物語最大の魅力であるあのシュルレアリスティックなイメージがどこから来たか、という問題であろう。がこれに関してはマリオ・プラーツが、十八世紀イタリアの狂気の銅版画家ピラネージの、たとえば「牢獄」といった作品の影響を、ヨルゲン・アンデルセンの「巨大な夢――ピラネージのイギリスへの影響」という論文を援用しながら紹介している。一般にピラネージはイギリス十八世紀のネオ・クラシシズム建築の隠れた部分に思わぬ影響を宿していることで有名だが、のちにウォルポールとはまた違ったゴシック・ロマンスの傑作『ヴァテック』を残すベクフォード、『阿片吸飲者の告白』のド・クインシー、さらには『老水夫行』の詩人コールリッジの心をとらえたこの銅版画中の大階段の上に羽根飾りをつけた堂々たる大兜があることに、そしてその効果にウォルポールはいち早く着目した、というのであって、ウォルポールがそのこれまた大著『イギリス絵画逸話集』の第四巻で、ピラネージの崇高美を声を大にして讃えたのはちょうどこの時分であったと、プラーツは補足しているのである。それを言うならば当然のこと、ホラチウスの「夢想は、頭も足も一つの像に帰しえぬ如くに描かれるもの」といった『アルス・ポエティカ』の一節をもじって、ウォルポールが翌年の『オトラント城』再版にそのエピグラフとして、「夢想はしかし、頭と足とが一つの像に帰しうる如くにも描かれるもの」と記した、あの事実にも言及すべきだ、あれはウォルポールの自己弁護だけではなかった筈だ、と思いながら、しかしさすがにこの指摘には、眼を開かれる思いを禁じえない。
こうして、いまや中年男の「ストローベリ・ヒル」の主が見た夢は欲求不満男の見る夢などではなくて、それはこれまでに至る彼のさまざまな生活の断片を一度に、重層的に見わたすことを可能にする、そんな願ってもない触媒を彼に授けてくれた、というわけだ。だからウォルポールの見た夢から話を始めて、ウォルポールの中で、『オトラント城』がどのようにして現在ある形をとるに至ったか、その事情にざっと眼を通すだけで、ぼくらはたとえば「ストローベリ・ヒル」のウォルポール、『書簡集』の、また国会議員の、また好古家の、そしてまた『イギリス絵画逸話集』のウォルポールの横顔に接しなければならなかった。類いまれなる緊密な構造をもつこのゴシック物語を掘り起こせば、彼の精神構造のもっと深部が、彼の幼児期、少年期の大切な経験までもがそこに顕れてくるかも知れない。
ところで彼があのように多方面に、まるで生の時間の一刻一刻を惜しむかのように忙しく精魂を傾けたのは何故か、何故あのように過ぎ去った中世に夢中になり、またそれと同時にあのように現代の年代記《クロニクル》作製に勤勉であったのか(有名な話だが、彼はあの尨大な量の書簡を、じつは意識的に一つの壮大な現代の年代記を拵えあげようという意図をもって書き続けたのだった)、これは一つ考えてみるに価する問題である。今考えられることを一つだけ言わなければならないとしたら、それは恐らく、常識的な言い方だがアブサードな現代のアブサーディティをあばき、それと並んで同時に(彼の再話した小さなイタリア中世伝説から言葉を借りると)「聖なるもの、神秘なるもの……この世のものならざるような不可思議な光のかげろう」中世、また(今度は彼の書簡から言葉を借りるならば)「われわれを欺く力を使い果たした」過去の文物を手もとにとり戻そうとした、ということではないだろうか。中世や過去の文物に夢中になることは、そこいらのごく常識的な十八世紀人の眼にはアブサードと映ったに違いなくて、そうであれば彼は『書簡集』という年代記においては、相手の逆手を取り彼流の優雅さでもって、だがぴりり、ぴりりと鋭く捩り返したというわけだろう。
そしてここでもう一度口早になることを許していただけるならば、結局このことは、彼に特徴的な或る内的時間感覚――時間を超えた遠いものが彼方に、ではなく常に彼の手もとにしまい込まれていて、しかもそれはなかなか直接には結びつくことなく現在と共存している、といった彼の内部にある時間構造につながるもののように思われる。そもそも「ストローベリ・ヒル」そのものがその表象というべきで、実のところこの邸には十八世紀のロココ、中世のゴシックとが同時にあり、それは見る人によればまことにナンセンスな取り合わせかも知れなくて、しかもウォルポールにとっては大変な意味を持っていたのである。『オトラント城』のあとの史論『リチャード三世弁護』も、またゴシック悲劇『不可思議なる母』も同巧の試みであって、それぞれに見るべきものはあるが、この『オトラント城』こそ彼の長年の夢のじつに奇蹟的な達成であったことは、後年のウォルポールが書簡に残した「私の全作品中、これが私の満足できた唯一のものです」という言葉にもうかがうことができる。 (井出弘之)