解放された世界
H・G・ウエルズ/水嶋正路訳
目 次
序章 太陽をつかむもの
第一章 新エネルギー源
第二章 最終戦争
第三章 戦争終結
第四章 新局面
第五章 マーカス・カレーニンの最後の日々
訳者あとがき
[#改ページ]
序章 太陽をつかむもの
一
人間の歴史は、外的な力を獲得する歴史である。人間は道具をもちい、火をもやす唯一の動物である。地上に現われた当初から人間は、一匹の野獣としての生まれつきの体力と、その手足という肉体的武器を、そまつな石の道具と、火の熱とで補っている。だから、人間は猿を追いぬいた。そこから人間は発展していく。人間はやがて、牛や馬の力をわが物とし、水の運搬力や風の動力を使うことをおぼえる。空気を吹きつけて火力を強める。そして、はじめは銅、ついで鉄の先のついた簡単な道具類が、量も種類も豊富になっていって、だんだんと精巧になり、能率的になる。家をつくって、そのなかで火をまもり、小道や道路をつくって歩きやすくする。分業をおこなうことで社会関係を複雑化し、ひとりひとりの人間の能率性を向上させる。知識の蓄積を始める。工夫に次ぐ工夫のおかげで、着々と人間の力量が増していく。ときどき逆行現象があっても、歴史の進行につれて、つねに人間の力は増大の一途をたどる……。
しかし、二十五万年前、人類のもっとも遠い先祖は野蛮人であった。ろくろく物も言えない一匹の動物であった。岩穴にひそみ、粗末な細工の燧石《すいせき》の道具とか、火で先を焼いた棒切れで身をまもり、ちいさな家族集団をつくって、裸で生きていた。そして、男性的活動力がおとろえ始めたとたんに、若い者の手にかかって殺されていった。地上の広い荒野のどこを探しても、これらの先祖の姿はほとんど見当らなかったことであろう。ただ、温帯や亜熱帯の少数の川の流域に、ちいさな群、それも男一人に女二、三人、子供が一人か二人の、ちいさな群のひそむねぐらが見つかる程度であった。
人間は当時、なんの未来も知らず、今の自分の生活以外になんの生活も知ることはなかった。穴熊に追われて岩の上を逃げながら、その岩の下に鉄鉱石がたくさんあることも知らず、それで剣や槍がつくれることも知らなかった。石炭の層の上で凍死することもあった。粘土でにごった泥水を飲んでいても、その粘土で磁器が出来ることも知らなかった。野生のコムギの穂をつみとって噛みながら、ぼんやりと考えるような目付きで、手のとどかない空中へ舞いあがる鳥などを眺めていた。かと思うと、誰か他の男の匂いを感じて、突然、怒りの声をあげながら立ちあがることもあったが、この叫び声は、いわば道徳的警告の、ぼんやりとした前ぶれのようなものであった。人間のもっとも遠い先祖は、偉大な個人主義者というか、つまりその原型であり、自分以外の誰をも許さなかったのである。
こういう具合に、この鈍重な先輩、つまり、今の人間の先祖は、ながい世代のあいだ、戦い、生殖し、死に、ほとんど目につかないような僅かな変化をつづけていった。
しかし変化したのである。虎の爪をだんだんと鋭いものにし、不恰好なオロヒッパス〔キツネ位の大きさの馬の先祖〕を足の早い美しい馬に変えていったあの必要という鑿《のみ》の鋭い刃が、人間の上にも作用していたわけで、それは現在でも作用している。人間のうちの不器用で、獰猛で愚かな者ほど、もっとも早く、もっとも多く殺され、手先の器用で、目先のきく、頭脳の大きな、身体の均衡のとれた者ほど優勢になっていった。そして年月のたつうちに、道具類がすこしずつ上手につくられるようになり、人間はその能力をすこしずつ巧妙に発揮するようになっていった。人間は社交性を増し、その群を大きくし、男親が、成長してくるわが息子を殺したり、追い出したりすることも、もうなくなった。タブーが出来たために、父親は息子たちに対して寛大になったし、いっぽう息子らも、生きているうちは父親をうやまい、やがては、死んでからも、うやまうようになった。そして父親の味方になって、野獣や他の人間たちに対抗するようになった。(しかし、息子らは、部族の女たちに触れることは禁じられていて、外に出ていって自分の女を捕える必要があった。また息子たちは継母から逃れて姿をかくしたものだが、これには父親の怒りを避けるという意味があった。今日でも、この古い、おきまりのタブーの名残が世界のいたる所に見られる)いまや洞穴にかわって小屋や家畜小屋が出来てきた。家のなかでは、火をまもることも容易になる。さらに、肩掛け、衣類なども作られる。こういうものに助けられて、人間は、食料を運び、たくわえながら、寒い土地へとひろがっていったが、やがて、誰もかえりみる者もない草の種が芽を出すようなことが時々あって、ここに農業の最初の暗示があたえられたのであった。
このころにはもう余暇や思考の徴候が見え始めていた。
人間は考えることを始めたのである。満腹して、いろいろな欲望や恐怖がしずまり、太陽がねぐらの上に暖かく照るとき、ものを考えて彼らの目がぼんやりと光るようなことがあった。一本の骨の上をひっかく。すると、出来たキズが何かに似ているのに気がついて、またひっかく、というふうにして、絵画芸術が始まった。川ぶちの柔かい暖かい粘土をこねていると、そこに、いろいろな面白い模様がくり返し現われる。こね上げて器の形にすると、水をいれても洩れない。また、流れる川水を見ていると、たえまなく流れるこの水は、どんな豊かな乳ぶさから流れてくるのか、という疑問がおこる。太陽をふりあおいでは、ひょっとすると、こいつをつかまえられるかもしれない。こいつが、あの遠い山々のうしろのねぐらに降りていくときに、ワナにかけて捕えられるかもしれない、などと考える。そのうちに、じつは、おれは、前に一度、それをやったことがあるのだ、などと思い切って弟に打ち明けたりする。いや、少なくとも、それをやった奴がいるのだ、という話をしたりする。こういう話をするとき、彼は、マンモスを一頭とりかこんで攻めたてたこともあるのだ、というような同じような大胆な夢の話もいっしょにしたことだろう。こういうところから架空の物語――ひとつの目標を指し示す空想の物語が始まり、荘厳な予言的な物語がつぎつぎと生まれていったのである。
何万世代のあいだ、こういう先祖たちの生活はつづいた。人類史のこの段階の始まりから、その段階の成熟期まで、つまり、最初の不恰好な、粗末な、削《そ》いだ燧石の道具から、みがいた石で出来た最初の道具類が出てくるまでの間に、年数にしておよそ二、三千世紀、世代にして約一万、ないし一万五千世代の年月が過ぎさった。人類が野獣のぼんやりした知覚から脱出するのに、人間の目から見て、こんなにも長い時間がかかったわけである。そして、あの最初の思索のひらめきこそ、太陽をつかまえるというあの話こそ、びっくりして口をあけている相手の手首をひっつかんで、目を輝かせ、手を振り立てながら、髪の毛をモジャモジャにして、赤い顔で、しゃべりまくっていたあの野蛮人こそ、この世界はじまって以来の最もすばらしいものの始まりであった。そのためにマンモスの運命は尽きたのであり、太陽をつかまえるワナの据えつけも始まったのである。
二
しかし、こういう夢も、人間の生活の一瞬の出来事にすぎなかった。やはり本来の暮らしは野獣の仲間らしく食物をあさったり、仲間を殺したり、子供を生んだりすることだと思えたのである。彼らのまわりには、ほんの薄い幕にへだてられるようにして、まだ誰の手も触れたことのない力の源泉が存在していた。今日では誰ひとり疑う者もない巨大な源、原始人のあらゆる夢を可能にする力の源である。人類の祖先は足をそこへ向けてはいたが、まだ気がつかずに死んでいったのであった。
やがて方々の暖かい、川の流域の、食物のゆたかな、生活の非常に楽な、ゆたかな平地に住んで、人間らしくなってきた者たちが、昔ながらのお互いのねたみを抑えるようになってきた。生活の必要に苦しむことが少なくなったので、社交的になり、寛大になり、友好的になってきて、ついに大きな地域社会を打ちたてることになった。それから分業がおこり、老人のある者は知識と指導を専門にやるようになり、体の強い者は戦争での指揮者となり、僧侶や王たちが人間の歴史の第一幕での役割を、はなばなしく演じるようになった。僧侶がたずさわったのは種まきの時期や収穫や繁殖の事柄であり、王が指導したのは、平和や戦争の事柄であった。地上の気候温暖な地域をめぐる多くの川の流域には、二万年前には、もう町や寺院が出現していた。これらの寺院や町は、過去も未来も知らずに栄えていたが、記録に残っていないのは、まだ文字がなかったためである。
きわめて緩慢に、「力」の資源に対する人間の需要が増してきた。しかも、その富は、人間のまわりのいたる所に、無尽蔵に転がっていたのである。ある種の動物が飼われるようになった。大昔から無計画に、でたらめにやってきた農業がきちんと儀式のように行なわれるようになった。つぎつぎと金属が利用されて、ついに銅、錫、鉄、鉛、金、銀などが石の補充品として使われるようになった。さらに、木を切ったり刻んだりして細工をし、土をこねて陶器もこしらえた。川を漕ぎくだって海も発見すれば、車輪を発明して、はじめて車道を開いたりもした。しかし、百世紀以上のあいだ人間が主としてやっていた活動は何かというと、それは次第に大きくなっていく社会に自分を適応させることであった。人間の歴史は、外的な力を身につけるだけの歴史ではない。歴史とは、人間が財産を相続していく時の邪魔になる互いの不信や野蛮な性質、自己中心主義や、激しい獣欲を征服する歴史でもある。人間の中にある獣性は、いまでも協力することを嫌っている。磨製石器時代の始まりから「世界平和」の達成の時まで、人間は主として自分自身と仲間とにかかわって、貿易をしたり、商取引をしたり、法律をつくったり、相手をなだめたり、奴隷にしたり、征服したり、皆殺しにしたりしてきた。そして「力」が少しでも増すと、ただちに人間は、自分と他人との関係、つまり社会関係を調整する複雑な、混乱に充ちた仕事にとりかかったし、いまでも、それに変わりはない。人間仲間を、目的をもった一つの社会にまとめて、包みこむことが人間最大の最後の本能となったのである。磨製石器時代の終わりまでに、もう人間は政治的動物になっていた。先ず、数をかぞえ、次に文字を書いて記録をつくるという驚くべき能力を、人間は自分の中に発見したが、これとともに、地域社会は領土へと拡大していった。ナイル川、ユーフラテス川、中国の大河などの流域に、世界最初の帝国が出現し、世界最古の成文法が生まれた。戦闘と支配を専門にする兵士や騎士が出てきた。のちに、船が海の航行に耐えるようになると、交通のじゃまになっていた地中海が公道になって、いろいろの海賊国家の混乱のなかから、ついに、カルタゴとローマとの大衝突が起こった。ヨーロッパの歴史はローマ帝国の勝利と崩壊の歴史である。ヨーロッパの野心的な君主は、みな最後まで、ローマ皇帝シーザーを模倣して、カイザーだとか、ツアーだとか、イムペラトールだとか、カシール・イ・ヒンドだとかと号している。人間の生命の持続という面で見ると、エジプト第一王朝から飛行機出現までは、ずいぶん長い年月だが、人類最古の石器の製作者までを望む目で見た時は、その年月は、ほとんど、きのう一日の歴史にすぎない。
さて、この二百世紀以上の期間、諸国家が争い合って人間が政治とか相互の侵略に心を奪われていた間は、外的な「力」を身につけるという人類の進歩の歩みは遅かった。旧石器時代とくらべると速かったが、今日のような、計画的に発見する時代とくらべると遅かった。初期エジプト人からクリストファ・コロンブス(一四五一〜一五〇六)の少年時代にかけて、武器、戦術、農耕技術、航海術、地理的知識、家庭的生活技術や器具類などの面で、それほどの大変化はおこっていない。もちろん発明や変化はいろいろとあったが、逆行現象もあって、いろんな事柄が発見されては、また忘れ去られ、全体として見ると進歩を示してはいるが、段階的な進歩は全く見られない。農夫の生活は全く変化しなかったし、また、この時期の初期にはすでに、僧侶、法律家、職人、領主、地主、医者、魔女、兵士、船乗りなどがエジプト、中国、アッシリア、ヨーロッパ東南部などにいて、西暦一五〇〇年当時のヨーロッバの同業者たちとほとんど変わりない仕事をし、ほとんど同じ暮らしをしていた。だから、バビロンやエジプトの遺跡を一九〇〇年に英国発掘隊が掘りおこして、法律文書とか家計簿とか家族の手紙類などを発見した時も、それらのものを完全な共感をもって読むことができたのであった。この時期には宗教や道徳の面での大変化があり、また、帝国や共和国がつぎつぎと交替した。イタリアでは奴隷制度の大規模な実験がおこなわれた。じつは奴隷制度はたびたび試みられては失敗を繰りかえし、新世界で、もう一度試みられては、また棄てられる運命にあった。また、キリスト教と回教が無数の特殊な宗教を一掃したのであったが、本質的には、両宗教とも、永遠不動のものと見えた物質的条件に対する人類の漸進的な適応であった。生活の物質的条件が革命的に変化するなどということは、この時期の人間には全く考えられないことだったであろう。しかし、あの夢想家、あの空想物語の作者は、やはり存在していたわけで、毎日のいそがしい気懸りや、些事、戦争や行列、城や寺院の建築、芸術や恋愛、ちいさな外交的駆け引きや不和対立、中世の十字軍遠征や商業旅行などの最中にも、自分の機会の来るのを待っていたのである。彼らはもう石器時代の野蛮人のような自由奔放な空想はしなくなっていた。あらゆる事柄に権威ある説明がおこなわれて、自由な空想の道がふさがれていたからである。しかし、夢想家は、昔より優秀になった頭脳をもって思索し、じっとすわりこんで、空をめぐる星をみつめたり、手に持った金貨や銀貨、あるいは水晶などを眺めたりしていた。これらの時代には、ものを考えるある程度のゆとりが生まれると、必ず、世間の事情や、世間で、ふつうおこなわれている物の考え方に不満をもち、まわりにはまだ、わからない未解決なものがいろいろあるという不安な思いにとらえられて、学者の断定的な説に疑問をいだくという人たちが現われた。歴史のどの時代にも、まわりから語りかける、いろいろと不思議なものの声をきく人びとがいたのである。この声をきくと、もう二度と世間なみの生活はできず、世間一般の事柄には満足できなくなるのであった。ところが、彼らが考えることには共通性があった。それは、この世界全体は、いわば一枚の色のついた幕であり、そのうしろに、人がまだ考えたこともない物が隠されている。この隠されているものとは「力」である、という考え方であった。これまで、「力」は偶然によって人間の手に入ってきたのであるが、いまや、こういう探究者は、めずらしい、不思議な、わけのわからないものを、しきりに研究しては、なにか変な、役に立たぬものを見つけたり、大発見をしたと錯覚したり、大発見をしたと偽ったりするのであった。世間の者は、風変りな連中だ、と笑ったり、めいわくな連中だといって、いじめたり、ある時は、こわがって、聖人あつかいにしたり、妖術使い、魔法使いだと言ったり、あるいは欲を起こして、手厚くもてなしたりしたが、しかし、たいていは完全に無視していた。だが、これらの探求者は、みな一人ひとりが、マンモスを襲撃する夢をはじめて見たあの野蛮人の血族であり子孫であって、みな、全く無意識に、共通して、太陽をつかまえるワナをもとめていたのであった。
三
呆然と、しかも、いかめしく思索にふけりながら、ミラノ公スフォルツァの宮廷を歩きまわっていたレオナルド・ダヴィンチもその一人であった。彼の控え手帳を見ると、初期の飛行家のさまざまな方法に関する詳しい予言、巧妙な予想図などがたくさん記してある。デューラー〔アルブレヒト・デューラー。一四七一〜一五二八。植物の習性の研究で有名〕もその同類であったし、フランシスコ派の修道会に口を封じられたロジャー・ベイコン〔十三世紀のイギリス人哲学者、兼科学者。オクスフォード、パリにて学び、フランシスコ修道会に入る。その著述を異端とされて、フランシスコ修道会のために、二度、監禁される〕も同族であった。また蒸気がはじめて実用化される千九百年も前に、その原理を知っていたアレクサンドリアのヒロン〔紀元前二世紀頃のギリシアの数学者、物理学者、機械工学者。多くの著書が残っている。蒸気機械の発明者として知られる〕もその同族であったし、もっと昔のシシリー島の港町シラキュースのアルキメデス〔紀元前三世紀のあまりにも有名なギリシアの数学者、土木工学者、物理学者〕も、さらに、それより昔の、クレタ島クノソスの伝説的人物ダイダロス〔もとアテネの人。クレタ島の迷路の制作者といわれる。クレタ島を脱出する時、ロウで作った翼を背負い、空を飛んで逃れたが、息子のイカロスは墜落した〕も同じ仲間であった。歴史の記録を見ると、大昔から現代まで、戦争の野蛮行為から離れて、すこしゆとりが生まれると、かならず、こういう探求者が出てくるが、錬金術師の半数も、その仲間であった。
ロジャー・ベイコンが、はじめて一束の火薬を爆発させたとき、当時の人びとは、ただちに大砲の製作にとりかかったことだろう、と想像する人があるかもしれないが、じつは、それは当時では考えもつかぬことであった。まだ夢にも思いつかないことであった。というのは、その頃の冶金術が、まだ貧弱すぎて、たとえ大砲を思いついたとしても、そんな物を作れるわけがなかったのである。弾丸を飛ばすという簡単な操作にも新しい力が必要だが、その新しい力に耐えうるだけの強度を持った道具が、まだ製作できない状態であった。そのころ出来た最初の銃器類には、桶か樽のような恰好の材木製の銃身がついている。大砲が出来るまでには、まだ五百年以上またねばならなかったのである。
探求者が実際に何かを発見したときでも、それは最初、きわめてお粗末な、つまらぬ用途に用いられるだけで、真の有用性を世間が知るまでには長い年月がかかった。一般の人間は、旧石器時代の先祖ほど、まわりの未征服のエネルギーに対して全盲ではなかったにしても、すくなくとも、まだ半盲であった。
四
石炭の潜在エネルギーや蒸気力は、人間生活に影響をおよぼし始める前、発見一歩手前という状態が長いあいだ続いた。
王侯貴族の宮殿や大邸宅では、ヒロン〔注前出〕の製作した玩具に似た考案物が、いろいろと発明されては、次つぎと忘れられていったに違いないが、こういう物が珍しいと言うだけではすまされない、と世間が気がつくまでには、石炭を掘りだして、大量の鉄を用意して、燃やす段階が必要であった。蒸気を使う思いつきが最初に記録に見えているのは戦争での利用を考えたものだが、これは注意しておく必要がある。熱湯を詰めた鉄製ビンにコルクの栓をして、これで弾丸を発射するという案が、エリザベス朝〔一五五八〜一六〇三〕のある小冊子に見えている。燃料用石炭の採掘、従来にない規模での鉄の精錬、蒸気ポンプ式エンジン、蒸気エンジン、蒸気船、というふうに一種の論理的必然性をもって連続してきたわけだが、蒸気が先ず人間の意識にのぼり、大型のタービン・エンジンが完成し、ついで分子内エネルギーの実用化へとつながっていくこの経過は、人間知性の歴史での、もっとも興味深い、もっとも有益な一章である。ほとんどすべての人間が蒸気を見てきた。何千年という長い年月、ぼんやりと何も考えずに眺めてきたに違いないのである。とくに女たちは、いつも水を火にかけ、沸かし、蒸気が吹き出して、その激しい勢いで器の蓋が踊るさまを見てきた。何百万という人たちが、これまで幾度も、蒸気のために火山の上から、まるでボールのように岩石が吹きあげられ、軽石が泡のように吹き飛ぶ有様をみてきたに違いないのだが、しかし、手紙や書物、碑文や絵など、ありとあらゆる人間の記録をしらべつくしても、ここに力がある、ここに借りて利用できるエネルギーが存在するという認識のかけらすら見られないのである。ところが突如として、人間はその認識に目ざめた。そして鉄道が地球上を網の目のようにおおい、どんどん大型になる鉄製の蒸気船が風と波に対して驚嘆すべきたたかいを始めたのである。
蒸気は新エネルギーの最初の登場者であり、ここに、ながい「国家間の戦争」の歴史を終結させる「エネルギー時代」がはじまったのであった。
しかし、ながい間、人間はまだ、この新奇なエネルギーの重要性を理解しなかった。根本的な重大事件が人間生活に起こったということを理解しようとしなかった、と言うより、理解できなかったのである。だから、蒸気エンジンを「馬力」などと言って、ほんの部分的な交替をおこなったつもりでいた。蒸気で動く機械と工場生産のために、工業生産の条件が見る見るうちに大変化を起こし、田園地帯から人びとがたえず流れこんで、少数の都市の中心部に、いままで考えられなかったような大集団になって人口が集中した。この大人口を養うために、ひじょうな遠距離から食料が運ばれてきたが、その規模の大きなことは、ただ一つの前例であるローマ帝国の穀物輸送船団など比較にならないほどであった。他方では、ヨーロッパと西アジアおよびアメリカ間の民族大移住がすすんでいた。しかし、誰ひとりとして、人間生活に新しい事態が起こったことに気がついた者はなかったようである。長い間に水がふえてきて、渦を巻きながらも流れなかったものが、ついに水門が開きだしたときに起こる渦。以前の円運動や変化とは全く違う渦巻きが始まったことに気がついた者は、誰ひとりいなかったようである。
十九世紀末の英国人は、落ち着いて朝食のテーブルにすわると、セイロン茶かブラジル・コーヒーのどちらかに決める。それからフランス輸入のタマゴに、デンマーク産のハムを添えて食べ、ニュージーランド産の羊肉を一切れ食べ、食後のくだものに西インド産のバナナを一本たべる。おわると、世界各地から寄せられた最新の電報に目をとおして、南アフリカ、日本、エジプトなどにひろく投資してある株の値動きをにらんでおいてから、二人の子供にむかって教訓を垂れる(彼自身は八人の子供のうちの一人である)。おとうさんが思うに、世界というものはほとんど変化しないものだ。おまえたちはクリケットをやり、ちゃんと散髪して、おとうさんのかよった学校にかよい、おとうさんのさぼった授業はさぼり、ホラティウスとかウェルギリウスとかホメロスなどの古典をほんのちょっと噛っておいて、下等な連中を煙にまいてやればいい。そうすれば、すべてうまくいく、などと説教して、のんきなものであった。
五
電気の場合は研究の方は早かったのだろうが、人間生活に入ってきたのは蒸気利用より二、三十年おくれた。いつも目と鼻の先にあったのに、電気にも人間は、途方もなく長い間、まったく盲目であった。
およそ電気ほど、人間の注意を強く引こうとしたものが他にあっただろうか。雷になって人の耳を打ち、目のくらむような閃光を発して人に信号を送り、ときには人を殺すこともあったのに、それでも人間は電気を、研究に価するほど自分にかかわりがあるものと考えることは出来なかった。晴れた日には電気は猫といっしょに家のなかに入ってくる。猫の毛をなでると、パチパチと音を立てて人の気を引こうとする。金属をいくつか、いっしょにしておくと、電気で腐食する。ところが、なぜ猫の毛が音を出すのか、なぜ霜の降りた日にはブラシが髪にあたりにくいのか、という疑問が発せられた記録は、十六世紀以前にはただの一例もない。ずいぶん長いあいだ人間は、電気のことを考えないように懸命の努力をして、みごと成功してきたようだが、ついに「探究者」のこの新精神が、そういうものに向けられるようになった。
思索の目が向けられ、理解の一瞬が来るまでに、人間はどれほど、いろいろなことを見ながら、それを無意味なこととして打ちすててきたことだろうか。摩擦したコハク、ガラス、絹、ワニスの原料であるシェラックの破片などを前にして、はじめて疑問をもって研究し、その結果、あらゆる所に存在する電気というものに人の注意を向けたのは、エリザベス女王の侍医ギルバートであった。それでも、その後二百年ちかくの間、電気学は、おそらく磁気現象や――(これは推測にすぎないが)――電光などに関連した、ほんのひと握りの物めずらしい事実の集積にすぎなかった。蛙の脚を銅の掛け鉤《かぎ》にひっかけて、鉄の手すりにぶらさげ、それがピクピクふるえるさまを人は何百回、何千回と見てきたに違いないのであるが、ガルバーニ〔一七三七〜九八。イタリアの生理学者、物理学者〕がそれを見るまでは意味がわからなかった。避雷針は別として、電気が、科学上の珍品を収めた物入れから出て、ふつうの日常生活にはいってきたのは、ギルバートの死後二百五十年のことである。ところが、一八八○年から一九三〇年にかけての半世紀に突如として、電気は蒸気にとってかわり、輸送を引き受け、家庭の他のあらゆる暖房の方法をしりぞけ、無線電信や電送写真の完成によって距離を征服したのであった。
六
ところが、科学革命が始まってから少なくとも百年間は、発明や発見に対して、ひじょうな精神的抵抗があった。新しいものはみな、時には敵意にまで高まる懐疑主義にさからって実用化されていったのである。ある人が、これに関連して、家庭内での、ちょっとした、こっけいな会話について書いているがこれは一八九八年、つまり、世界最初の飛行機がついに空を飛んでからまだ十年たたない頃の話だという。ある日、書斎の机に坐って自分のちいさな男の子と話をした。
この男の子はひじょうに悩んでいた。父親に重大な話があるのだけれど、気のやさしい少年なので、あまりきつい話し方をしたくなかったのだという。
「ねえ、おとうさん」と少年は話の要点に触れて言いだした。「この空を飛ぶっていう話、書くのやめてほしいの。みんなにひやかされるんだ」
「ほほう!」
「ブルーミー先生、校長先生だよ、校長先生だって、ひやかすんだもん」
「しかしねえ、やがてみんなが飛ぶようになるんだよ……もうすぐだよ」
少年は躾がよかったから、それについてどう思うか、口答えをしなかった。
「でも、ぼく、そのこと、おとうさんに書いてほしくないんだけど」
「お前だって飛ぶんだよ、何十回と……一生のうちにはね」
少年は悲しそうな顔をした。父親は迷ったが、やがて机の引き出しを一つあけて、一枚のぼんやりした、現像の不充分な写真を出して、「こっちへ来てごらん」と言った。
少年がそばへいって見たものは、ひとつの川と、その向こうにあるひとつの牧草地と何本かの木の写真であった。空中に黒い鉛筆のような物がひとつ浮かんでいる。その両側に平たい翼がついていた。これこそ、機械の力で、空中に浮かんだ世界最初の空気より重い装置の世界最初の記録であった。写真のはしに、「われわれは上へ上ヘとのぼる……S・P・ラングリー〔サミュエル・ピエモント・ラングリー。一八二四〜一九〇六。米国の天文学者、物理学者、航空学者〕、ワシントン在、スミソニアン研究所」と書いてあった。父親は、この確かな証拠が少年にどんな効果をもつかを見まもって、
「どうかね?」
と言うと、しばらく、じっと考えていた少年は、
「これはただの模型でしょう」
「きょうは模型でも、あしたは人が乗るよ」
少年はどちらを信じたものか迷った様子だったが、やがて、全知の人をかたく信ずる方をとって、
「でも、ブルーミー先生が、きのう、クラスの生徒全部に人間は空を飛ぶことはない、と言われたよ。飛んでいるキジやライチョウを射ったことがある者なら、人間が空を飛ぶなんていう話は、およそ信じられないって、きのう、おっしゃったところなんだよ……」
しかし、この少年は結局、のちに大西洋を横断飛行して、父親についての回想録を編集することになった。
七
やけどするような熱い蒸気、空にひらめいて大きな音を出す電気などを、ついにうまく使いこなすようになったことが、十九世紀末には、人間の知能と知的勇気との絶頂をきわめた驚くべき事件だと考えられたことは、当時の文献の多くが証言しているとおりである。ルカ伝二章のシメオンの賛歌のように、歌っている文章もいくつかある。ジェラルド・ブラウン〔一八四九〜一九三二。美術史家。エディンバラ大学美術教授〕は、「偉大な事柄が発見されている。われわれに残されているのは、ただ細かい点を仕上げることである」と、十九世紀を要約して言っている。しかし、それにしても世界にはまだ、探究者的精神はまれであった。教育も、方法が未熟で、刺激にとぼしく、古典語教育にかたより、ほとんど重視されていなかった。だから、科学がまだ、ほんの粗末な素描の段階に達したにすぎず、発見もやっと始まったばかりというようなことを人が理解するのは無理だったのであろう。また科学や、科学の持ついろいろの可能性について不安を抱く人も皆無だったようである。しかし、そうは言うものの、探究者の数はずいぶんと増えた。以前の二、三十人に対して、それは数千人になったし、一八〇〇年当時には、たった一本の針が現象という幕の背後をさぐっていたのに対して、いまや、その数は数百本にも達した。そして化学もまた、百年ちかく原子とか分子の研究で満足していたのに、いまや、人間生活を根底から変革する次の一大進歩の準備にかかっていた。
その頃の科学がどんなに粗雑なものだったかということは、空気の成分の場合を考えた時によくわかる。空気の成分は十八世紀末に、あの奇妙な天才的隠者、あの神秘的人物、あの知能の権化のようなヘンリー・キャヴェンディシュ〔一七三一〜一八一〇。名門出のイギリスの化学者、物理学者。酸素、水素の結合で水が出来ることを最初に実験した人。電気に関する先駆的研究者としても有名。また奇人としても有名〕によって解明されたものだが、彼の研究は、それなりに、じつにりっぱなものであった。まったくみごとな正確さで、空気の全成分を分離しているし、窒素の純粋さについてはすこし疑問があるとまで記録している。その後、百年以上のあいだ、彼の測定が世界中の化学者によって繰りかえされた。そして、その器具はロンドンで大切に保管されて、彼は「古典」になったのである。ところが、キャヴェンディシュの実験が何度繰りかえされても、いつもあのアルゴン元素は、ひっそりと窒素のなかに潜んでいて……(少量のヘリウム、その他の物質の形跡もあり、ここに二十世紀化学の新発展の糸口も隠れていたわけだが)……彼の実験を繰りかえす大学教師の指の間をすり抜けたのであった。
こういう不正確なところがあったわけだから、二十世紀の初めになってもまだ科学的発見が、順序を踏んで行なわれる自然の征服というよりも、幸運な偶然の連続だったとしても、なんの不思議があるだろうか。
しかし探究の精神は着実に世界にひろがっていった。もう学校の先生も抑えることは出来なかった。十九世紀には、おとなになって自然のいろいろな不思議について驚嘆と好奇心を感じる人間がほんの一握りしかいなかったのに対して、いまや二十世紀が始まると、日常の習慣の限界から脱出しようとする者が、ヨーロッパ、南北アメリカ、日本、中国そして世界中に数万と出てきた。
一九一〇年のこと、少年ホルステンが両親といっしょに、フィエゾレとフィレンツェの中間のサント・ドメニコの近くの別荘に滞在していたことがある。「ヨーロッパ最高の化学者」とやがて謳われることになるホルステンの十五歳の時のことであった。この頃、少年はもう数学が非常に出来ることで有名になっていたばかりか、猛烈な知識欲にとりつかれていた。とくに燐光に興味をもっていて、他の光源と全然関係がなさそうに見えるのに光を出す、その不思議さに関心があった。のちに彼は回想記で語っているのだが、暖かいイタリアの、青い夜空の下の、別荘の暗い庭木立の中を、ホタルが流れとぶ有様をじっと眺めていたこと、そのホタルをつかまえて、かごに入れて、それから解剖したこと、はじめはホタルの体全体を念入りに調べ、それから、ホタルの光にいろいろとガスを当てたり、さまざまに温度を変えたりして効果を調べたことなどを述べている。そのうちに、偶然、スピンサリスコープという小さな科学的なおもちゃを人からもらった。これは、サー・ウイリアム・クルックス〔一八三二〜一九一九。英国の物理学者、化学者〕が発明したもので、ラジウム分子が亜鉛硫化物に衝突して、それを光らせるという装置である。この装置を使っているうちにホルステン少年は、それとホタルの燐光とを結びつけて考えるようになったが、これは彼の研究にとって幸運な連想であった。また、数学の才能を持つ者が、こういう物珍しい現象にひかれたことも珍しい幸運であった。
八
さて、ホルステン少年がフィエゾレで、ホタルをぼんやり眺めていた頃、エディンバラ大学で、ルーファスという物理学の教授がラジウムと放射能について午後の連続講演をしていた。これは、ずいぶん世間の注目を引いた講演で、ちいさな階段教室は講演がすすむにつれて混雑していったが、最後の日には、うしろの天井ちかくまで人がいっぱいになり、そこに疲れることも忘れて人が立っている有様であった。それほど教授の話が面白かったのである。とくに山国出の頭のにぶい、ボサボサの髪の若者がひとり、大きな赤い両手で膝をかかえこんで、目を輝かせ、ほおと耳を紅潮させながら、一言もききもらすまいと食い入るようにしてききいっていた。「そういうわけで」と教授の講演はつづいた。「はじめは途方もない例外と見えたこのラジウム、物質の構成における最もたしかな基本を狂気のごとくひっくり返しているように見えたこのラジウムが、じつは、他の元素と同じであることがわかったわけです。おそらく他のあらゆる元素が目に見えないような遅い速度でやっていることを、このラジウムは強力に、目立つようにやっているわけです。いわば、ラジウムは、闇のなかで息をひそめている大群衆の存在を知らせる、大声でよばわる一声のようなものであります。ラジウムは砕け、飛び散りつつある元素でありますが、おそらく、すべての元素も同じことを、もっと目立たない速度でしているのでありましょう。たしかに、ウラニウムはそうですし、トリウムも……このガス燈の白熱性の発光体の物質がそれですが……アクチニウムも同じことです。まだ他に、いろいろとあるのでしょうが、ようやく分かりかけてきた段階です。こうして、昔は、固くて侵入できないもの、分割することの出来ないもの、最終的な、生命なきもの、そう、生命なきものとされていた原子が、じつは膨大なエネルギーの貯蔵庫であることがわかったわけであります。ここが、この研究のもっともすばらしい点であります。ほんの少し前までは、原子はまるで煉瓦のようなものだと人は考えていました。煉瓦のような、中身のつまった建築材料、ガッシリとした頑丈な物質、非生命質の単位的なかたまりと考えていたのですが、どうでしょう、その煉瓦は、箱、宝箱、強大無比なエネルギーのいっぱい詰った箱であることが判明したのであります。ここにありますこの小さな瓶には、約一パイントのウラニウム酸化物がはいっております。つまり、約十四オンスのウラニウム元素ですが、値段にして、およそ一ポンド。ところが皆さん、この瓶に入った原子のなかには、少なくとも、石炭百六十トンを焚いて得られるエネルギーがねむっているのであります。いまもし、わたくしが、ひとこと号令をかけて、そのエネルギーを、この場で、一瞬にして解放することができたならば、わたしたちも、まわりのすべてのものも、こっぱみじんに吹っとんでしまうことでしょう。だがもし、そのエネルギーを、このエディンバラ市に明りを供給する機械のなかへ流しこむことが出来るならば、エディンバラ市は、一週間、煌々たる照明につつまれるのであります。しかしながら現在では、どうすれば、この小さな物資のかたまりから、その中身を急速にとり出すことが出来るか、その糸口を掴んだ人はまだ一人もおりません。が、やけどの傷から液がチョロチョロ出てくるように、たしかに、この物質はエネルギーを少しずつ放出しているのであります。ゆっくりとウラニウムはラジウムに変わり、そのラジウムは、ラジウム・エマナチオンと呼ぶガス体に変わり、このガス体はまた、ラジウムAと呼ばれる物質に変わるという具合に、どんどん経過していって、その各段階でエネルギーを発散するのでありますが、最後には、現在知られている最終段階の鉛に到達するのであります。しかし、この変化の速度を早めることが出来ないのであります」
「なるほど、話はわかるぜ。それから! それから! よくわかるぜ!」
と、頭のにぶい若者は、赤い両手で、膝を力いっぱいつかみながら、つぶやいていた。教授は、少しして、すぐまた話をつづけた。
「なぜ、この変化の速度はゆるやかなのでありましょうか? なぜ、一秒間に、ほんの微量しかラジウムは分解しないのでしょうか? なにゆえに、その微量は、こんなにゆっくりと、こんなに正確に出てくるのでしょうか? なにゆえに分解が少量ずつ起こって、ひとまとめに起こらないのでありましょうか? やがて、もし、この分解の過程を早める方法がわかったならば、どういうことになるのでしょうか?」
頭の回転のにぶい若者は、続けざまにうなずいた。すばらしい話が始まるのだ。若者は、膝を顎の方に引きよせて、椅子の上で興奮に体をゆすった。
「そうだ、なぜ、それが出来ないんだ、なぜだ?」
教授は人指し指を立てた。
「もし、その方法がわかったならば人間に何が出来るか、ここをよくおききください。そのときは、このウラニウムとかトリウムが使えるようになるだけではありません。一つの都市に一年間明りをつけたり、一艦隊を相手に戦闘をしたり、あるいは、巨大な一隻の大西洋航路の船を動かしたりする強力なエネルギー源を、ひとりの人間が片手に握れるようになるのであります。それだけではありません。それだけではなく、分解が非常にゆるやかで、いかに精密な機械をもってしても、まだ測定できない他のあらゆる元素の分解の過程を、早める方法の糸口が掴めるのであります。世界に存在するあらゆる物質のひとつひとつが、利用可能な、エネルギー源となるのであります。こういうことが、人間にどういう意味をもつか、皆さん、おわかりでしょうか。これは人間の生存条件の一つの変化を意味するものでありますが、これは、火の発見、つまり、人間を野獣の域から引きあげたあの第一の発見に匹敵するものだと言うよりほかに、わたくしは今、その形容の方法を思いつかないのであります。原子核が分裂してエネルギーを放射する現象を放射能といいますが、この現象に対して人間がいま立っている立場は、人類の祖先が、まだ自分で燃やす方法を知らない火に対して立っていた立場と同じであります。わたしたちの祖先にとっては、火はその頃、全くどうすることも出来ない不思議なものでありました。火山の頂上の赤いひらめきであり、森林をゴウゴウと走る赤い破壊力でありました。こんにちの人間もまた、放射能をそういうものとして捉えているのでありますが、こんにちという時期は、人類史上における新しい時代の夜明けに相当するのであります。野蛮人が火打ち石をたたいて、棒切れに火をつけた時に文明は始まりました。その文明が絶頂期に達して、今のエネルギー源では、絶えず増大していく必要に応じきれない、ということがはっきりしたのが、現在でありますが、丁度この現在に、わたしたちは突如として、ひとつの全く新しい文明の可能性を発見したわけであります。われわれ人間の生存のために必要なエネルギー、『自然』がまだ豊かにあたえてくれないエネルギーが、じつは、わたしたちの周囲に、考えられないほど大量に存在していたというわけであります。だが今のところ、人間には、このエネルギーの倉庫の錠前をあけることができません。しかし――」
と、ここで教授は言葉を切ったが、声がひじょうに低くなったので、聴衆はみな、耳をすまさなくてはならなかった。
「――われわれは、それをあけることでありましょう」
と言って、ここでまた教授は細い人指し指を立てた。これだけが教授の身振りだった。
「その時は、生存のためのあの永遠のあがき、『自然』の持つエネルギーの、僅かばかりの、お余りのエネルギーをちょうだいしての、あの絶えまない生存の苦しみは、人間の運命であることをやめるでありましょう。そして人間は、現代の文明の頂上から次の新文明への始まりへと歩みを進めるのであります。みなさん、わたくしは、自分の目の前にひらける人間の物質的運命の光景を表現するだけの雄弁を持ちあわせておりません。わたしの目に見えるのは、砂漠の大陸が緑の土地に変わり、北極、南極がもはや氷の荒野ではなくなり、全世界が、いま一度エデンの園にかえる眺めであります。わたくしの目には、人間の力が星の世界にまでとどく有様が見えるのであります……」
急に息をつまらせて教授は、ここで話を中断したが、それは俳優や演説家もうらやむほどの効果があった。
講演は終った。聴衆は、しばらく声もなく静まっていたが、やがて溜息がもれ、ザワザワと物音が起こり、チラチラと動きが見えて、退場の用意が始まった。明りがたくさんついて、ぼんやりとしていた人影のかたまりが、明るく動きだした。合図をかわす人もあり、演壇に向かって階段を降りてきて、講演者の使った器具を見たり、図表をうつしとろうとする者もあった。だが、バサバサの髪の、あの頭のにぶい若者は、頭のなかに充満しているすばらしい興奮を、そんなことで消したくなかった。その興奮を一人だけで抱きしめていたかった。荒っぽい勢いで、彼は人を押しわけ、牛のように体をゴツゴツと突っぱって、誰にも話しかけてほしくない、誰にもこの興奮のなかに踏みこんでほしくない、という気持で出ていった。
まぼろしを見る聖者のような、うっとりした顔で、若者は街を歩いていった。腕がひじょうに長く、足がおかしな位大きい。
ひとりになりたい。ごみごみした平凡なこの日常生活から離れた、どこか高い所にのぼりたいという気持に、彼は駆り立てられていた。
若者は、「アーサー王の椅子の山」〔エディンバラ市南東部にある山。標高八二二フィート。市を眺望する〕の頂きにのぼって、ながいあいだ、黄金色の夕日のなかで、身動きもせずに坐り、ときどき、頭にこびりついた名文句をつぶやいていた。
「もし、その錠前が人間にあけられたら、……」
太陽が遠い山々のうしろに沈んでいく。光線をうしなった赤味がかった金色の球になって、大きな雲の固まりの上にかかり、やがてそこへ呑みこまれていく。
「なあ! なあ、そうなったら!」
と、つぶやいて、若者は、やっと恍惚からさめたような顔になった。気がつくと、太陽が目の前にあった。はじめは、ぼんやりと眺めていたが、やがて、だんだんと思い出すように若者の心によみがえってくるものがあった。それは、あの石器時代の野蛮人、つまり二十万年前の堆積のなかに骨となって散らばっている先祖たちの空想のこだまであった。
「おい、おまえ」と若者は、太陽に向かって、目を輝かせ、片手でつかむような恰好をしながら言った。
「おい、おまえさん、いまに、つかまえてやるぜ」
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第一章 新エネルギー源
一
二十世紀のはじめにすでに、ラムジイ〔一八五二〜一九二二。サー・ウイリアム・ラムジイ。イギリスの化学者。ロンドン、ユニバーシティ・カレッジ教授。一九〇四年ノーベル化学賞受賞〕、ラザフォード〔アーネスト・ラザフォード。一八七一〜一九三七。イギリスの物理学者。マンチェスター、ケンブリッジ各大学教授。一九〇八年、ノーベル化学賞受賞〕、ソディ〔フレデリック・ソディ。一八七七〜一九五六。イギリスの化学者、経済学者。一九二一年ノーベル化学賞受賞。ラムジイ、ラザフォードの共同研究者。グラスゴー大学講師、アバディーン大学、オクスフォード大学教授〕などが提出していた問題、すなわち、重い元素のなかの放射能を誘発して、内的な原子エネルギーをとらえるという問題は、早くも一九三三年に、ホルステンが帰納と直感と幸運とに助けられて解決した。放射能現象がはじめて知られ、これが人間の用途のために征服されるまでのあいだに、僅か四分の一世紀しかたっていない。その後の二十年間は、たしかに小さな問題がいろいろとあって、これにさまたげられて、ホルステンの研究成果が目ざましく実地に応用されるということは無かったが、しかし、重要な基本は解決したわけで、人間が進歩の境界線を一九三三年に越えたという事実には変わりはない。ホルステンは、蒼鉛《そうえん》の一微分子中の原子核分裂を引きおこしたのである。分子は猛烈な勢いで爆発して、強力な放射能をもつ濃厚なガスに変化した。そして、このガスもまた七日間にわたって分解を続けたのだが、その後もう一年の研究の末、ようやくホルステンは、この急激なエネルギー放出の最終的な結果が、じつは金であることを証明したのであった。が、とにかく、胸のやけどと指の傷という犠牲をはらって、事は成就した。そして、肉眼には見えない蒼鉛のかけらが、閃光を発して破壊的エネルギーに変化したその瞬間にホルステンは、自分が人類の新しい道、まだ狭くて暗いけれども、とにかく無限のエネルギーをもつ世界に至る道をひらいたことを知ったのであった。世に残した奇妙な日記的伝記に、そう彼は書いている。その瞬間までは思索と計算のかたまりのような日記だが、突然、これが、驚くほどこまやかな、人間的な感覚と感情の記録になって、誰が読んでも理解できる読物になり、しばらく、それが続いている。
複雑な網の目のような計算と推測が正しかったことが証明されたその実験の後の二十四時間の記録を、彼は断片的な語句で記している。単語だけが並んでいる箇所も多い。しかし、それにしても、生き生きとした記録である。「ねむれそうになかった」……省略された部分はかっこのなかに補っておく……「手胸《とが》痛いのと、よろこびでいっぱい(になって、)ねられそうに(もなかった)……子供のようにねむった」
明くる朝、目がさめるとホルステンは、妙に落ち着かない気分だった。何もすることがないのだ。ブルームズベリー区に一人でアパート住いをしていたのだが、何もすることがなければ、今日はハムステッド遊園地に上がっていこうと思った。ここは、ちいさな子供のとき、楽しい遊び場だと思った記憶があった。そこで、地下鉄に乗ったが、これは当時、ロンドン市内を移動するときのふつうの交通手段だった。地下鉄を降りて、野外の遊園地にむかってヒース通りを上がっていく。家屋解体屋の板囲いが両側につづいて、そこに厚板を積みあげたり、工事の足場が組まれたりして、通りはまるで一本の溝のようになっていた。せまい、傾斜のきつい、まがりくねったこの大通りにも時代の波が寄せていて、新ジョージ王朝風の美意識に合わせて、住み心地よく、美しく改築している最中なのであった。人間は、よくよく不合理に出来たもので、ホルステンは、現代文明を根底から崩す爆破装置のような仕事をしてきたばかりなのに、通りのこういう変化を見ると残念という気持にならずにはいられなかった。ヒース通りには、これまで何度となく上がってきたものだった。この小さな、たくさんの店の窓はみんな覗いて知っているし、いまはなくなったが、昔ここにあった映画館では、よく映画も見たものだ。この古い溝のような大通りの西側にそびえ立っていた古いジョージ王朝風の家並を感心して見上げたこともあったのだ。ところがいま、こういう古い物がみんな消えてしまってみると、ホルステンは奇妙な気持に襲われるのであった。ようやく、溝や穴や起重機の並ぶ、息のつまりそうなこの小道を抜けて、ホワイト・ストン池あたりの昔なじみの景色が目に入ると、ほっと安心した。すくなくとも、ここは昔とそっくりだった。右にも左にも、まだ昔のりっぱな赤煉瓦の家が立っている。池は大理石の柱廊式玄関ができて、りっぱになっていた。それとは別にもう一つ柱廊式玄関があり、その上の方の白い正面の壁面に、群がりさく花をからませた旅館がある。この旅館も、十字路のわきに、まだ以前のままのクッキリとした姿で立っていた。そして、ハロー山と、山の上のハロー教会の尖塔を望む青い眺め、つまり山々や木々、光る水、風に流れる雲影などを望む眺めは、通りをのぼっていくホルステンにすれば、大きな窓の開いていくような気分にさそわれるのだった。なにもかもほんとうにホッとするものばかりである。たくさんの人が相変らず、ブラブラと歩いている。相変らず自動車が手品のように、たくみに人混みのなかをすり抜けて、ロンドンのうっとうしい休日をのがれて、田舎へ、田舎へと走っていく。バンドも演奏している。婦人参政権の集会もある……群衆は、すこし軽蔑しながらも、ふたたび、そういう集会を黙認するようになっていた。社会主義の演説家たち、政治家たち、バンド演奏、それに、週に一度、裏庭の鎖から解き放たれて、嬉しくて気ちがいのようになって吠えたてている犬の声までする。そして、通りからスパニヤーズ街道までずっと、ずいぶん大勢の人通りがゾロゾロとつづいて、きょうはロンドンの眺めが、とくによく見える、などと相変らずのことを言っていた。
ホルステン青年の顔は真青だった。神経の過度の緊張と運動不足のときによくある、あの、いやにのんびりとした雰囲気をよそおいながら、それでいて、あやふやな恰好で彼は歩いていた。ホワイト・ストン池の所へ来ると、ここで左へいくか右へいくか、と迷った。それから、道路の交差点で、また迷った。ステッキをしきりに持ちかえたり、ときどき歩く人のじゃまになったりする。歩き方があやふやなので、人に押しのけられることもある。ふつうの生活ができないような気分だった、と彼は書いている。自分が何かほかの人間とは別の、人に害をおよぼす生物になったような気がする。まわりの人は、みんな、かなり裕福で、かなり幸福で、毎日の生活にかなりうまく適応しているように見える。一週間働いて、日曜日には晴着をきて、のんびりと散歩するという生活にうまく適応しているらしい。それなのに、ぼくは、こういう人たちの満足と野心と安心を支えている基礎をひっくり返すような物を作り出したのではないか。「保育園に、弾をこめたピストルを箱に一杯つめこんで寄付したような、まるで、バカみたいな気持だった」と日記に書いている。
彼は途中で、ローソンという昔の学校友だちに出会った。顔の赤い男で、一匹のテリヤを連れていたとしか、今ではわからない。ローソンとホルステンは、連れ立って歩いたが、あまり青い顔をして、いらいらしていたので、働き過ぎだ、休みをとらなくてはいかんよ、とローソンに言われたという。コルダーズ・ヒル公園の公営レストランの外の小さなテーブルに坐り、一人の給仕に命じて、ブル・アンド・ブッシュ亭のビールを二、三本買いにやらせたが、これはきっとローソンの提案だったのだろう。ビールのおかげで、生気を失っていたホルステンの体も暖まってきた。そこで、ローソンを相手に、できるだけ分りやすく、自分の大発見がどういう意味をもつのか、という説明を始めた。ローソンは、いかにも注意してきいているような様子をしていたが、じつは、彼には話を理解するだけの知識も想像力もなかった。「結局だね、そう何十年もしないうちにだ、この発見のおかげで戦争も、輸送も、照明も、建築も、ありとあらゆる製造工程も、農業も変わるんだ。およそ、あらゆる人間の物質的関心事が変わる……」
と言いかけていて、ホルステンは急に話をやめた。相手が、いきなり椅子から立ちあがったのだ。「あの犬め!」と、ローソンは叫んだ。「あれを見ろ! おーい、こら! ピーッ・ピーッ。こっちへ来い、ボブ、こっちへ来るんだ!」
片手に包帯をした若い科学者は、緑色のテーブルの前に坐っていたが、もう疲れてしまって、長い間自分がもとめてきたものの素晴しさを語る元気もなかった。友だちは、口笛を吹き、大声をあげて、犬を呼んでいる。日曜の行楽客は、春の陽ざしを浴びて、ゾロゾロ歩いていく。しばらくホルステンは、あきれてローソンの顔を見つめていた。自分の話に夢中になっていたので、相手が、ほとんど聞いていなかったことにも気がつかなかったのだ。
「やれやれ」とホルステンはつぶやくと、かすかな微笑を浮べて、前にあるジョッキのビールを飲みほした。ローソンが、また坐り直した。
「犬は世話が要るんでねえ。それで、何の話だったかね?」
二
夕方、ホルステンはまた外出した。セント・ポール寺院へいって、しばらく扉のそばにたたずんで、夕方の礼拝の様子に耳を澄ましていた。祭壇にゆらめくロウソクの火を見ているうちに、妙にフィエゾレのホタルの火を思い出した。それから彼は、灯のついた通りをウェストミンスターまで引きかえした。重苦しい気持だった。じつは、自分の発見のもつ重大な意味を感じて、おびえていたのだった。この研究結果はまだ公表する段階ではない。まだ早すぎる。なにか賢者の秘密協会のようなものの手にゆだねて、世界がその実用化に踏みきれるほど充分成熟するまで、後世に伝えてもらう方がよくはないだろうか、と、そんなことを、ホルステンは、その夜、ぼんやりと考えていた。きょう、すれちがったあの何千人という人間のなかには、変化ということが本当にわかっている人は一人もいないのだ。あの連中は、世界をいま目の前にあるとおりのものだと思っている。あんまり急には変わらないものだと思っている。自分たちの信頼や安心、習慣や毎日のささやかな商売、やっと得た地位などを尊重してくれるものだ、と思って暮らしているのだ。
こんなことを、ぼんやりと思いながら、ホルステンは、あかあかと灯のついた、見上げるばかりのサヴォイ・ホテルとホテル・セシルの下の小さな庭園に入っていって、一つのベンチに腰をおろした。すると、隣りのベンチにいた男女の話が耳に入ってきた。たしかに、もうすぐ結婚するらしい若い二人だった。男は、やっと本雇いになったと言って、よろこんでいる。
「会社では、ぼくを気に入ってくれてるし、ぼくはあの仕事が好きなんだ。だんだん上がって……十二、三年もしたら、きっとかなりの給料がもらえるよ。それが常識というものさ、ヘティ。これできっと、ぼくらは、ずいぶんりっぱにやっていけるよ、ずいぶんとりっぱにね」
安定した条件下での幸福の願望か! 「地球全体がそういうものだと、わたしは思った」と、彼は日記に書いている。
「地球全体がそういうもの……」というのは、人間が住んでいる世界を、一つの全体として彼が千里眼的に捉えたことを言っている。地球上のあらゆる都市や町や村、公道、公道横の旅館、庭園、農園、高原牧場、船頭、水夫、大洋航路の汽船、時刻表、約束、支払、税金等々をふくむ世界全体を、いわば一つにまとまって進行する見せ物として千里眼的に見たことを言っているのである。ときどきホルステンには、こういうふうに物が見えることがあった。一般化にも慣れ、細かい点にも敏感な彼の頭脳は、その頃の一般人とは比較にならないほど広範囲に事を理解したのである。人間や物を満載した地球は太陽の周りを急速力で堂々と回りながら、定められた目的にむかって進んでいく。それは、すべて自分の目の下で部分的に変化する生の進歩なのだ、というふうに、いつもホルステンは見ていた。ところが、疲労した彼には、いま、不断に生が先へ進むというこの感じが、少し鈍ってしまい、生は、ひとつの循環運動でしかない、と見えてきた。少しずつ変化しながら進んでいくのが生の営みなのだというふうに、いつもは、ホルステンは見ていた。ところが、疲労した彼には、いま、不断に生が先へ進むというこの感じが少し薄れてきて、一つの循環運動でしかないような気がしてきた。人間の生は、しっかりと定まって動かぬもの、循環を繰りかえすもの、という世間並の考えに傾いてきたのである。野蛮人の歩いていた遠い過去や未来の避けられない変化が、目の前から薄れていって、ただ、昼と夜、種子を蒔く時期と収穫期、愛することと子供を生むこと、誕生と死、夏の日の散歩と冬の炉辺の物語、つまり、希望、行動、老年という昔からの反復が、永遠に渦巻きながら続いていくのだ、というふうに感じられてきた。ただ、少し昔とちがうのは、いま、研究という不遜な奴が手をあげて、この人間の生の独楽《こま》を倒そうとしていることだ。眠くなるような穏やかな音を立てて、日なたで回転を続けている人間の生の独楽を、傲慢にも研究がひっくり返そうとしている……。
戦争、犯罪、憎悪、迫害、飢餓、疫病、野獣の残酷、疲労、寒風、狩猟や収穫の失敗、食料不足、退行という人間の歴史を、しばらく忘れてホルステンは、いま横のベンチに坐っている、日曜日の、つつましい恋人たちの中に全人類を見ていたのだった。みじめな見通しを立てて、情けなくなるようなことで満足しようとしている恋人同士のうちに、全人類を見たのだった。
「この地球全体がこんなものだ、とわたしは思った」
ホルステンの知性は、しばらく、この気分と闘い、闘って負けた。自分という人間は、ふつうとは違う人間ばなれした変な奴なのかもしれない。人の群から一人離れて、美しい生の地下に潜む闇と燐光の中を長い間さまよったあげく、悪の贈り物を持ってかえってきた、はみ出し者なのかもしれない、という不気味な思いを、彼は打ち消そうとした。しかし、人間は、いつもそんなものではなかったはずだ。ちいさな家庭や、ささやかな土地への本能、欲望だけが人間の性質ではない。人間は、冒険者、実験者なのだ。不断の好奇心、飽くことのない欲望なのだ。たしかに人間は、数千世代の間、土地を耕し、季節にしたがい、祈りを捧げ、穀物を碾《ひ》き、秋のブドウ酒づくりにはげんできた。しかし、それでもまだ、人間のうちには、やむことのない疼《うず》きが充満している……。
「家庭や、日常生活や、畑などがあった。しかし、同時に、驚嘆があり、海があったのだ」と、ホルステンは思った。
ふりむいて、ベンチのうしろにそびえる大ホテルを見上げると、やわらかな、シェイドをかけた灯がたくさんついている。宴会のざわめきや色や輝きに満ちている。ぼくの人類への贈り物は、こういう物をふやすだけのことだろうか?
ホルステンは立ちあがって、庭園を出た。暖かい明りに照らされたアスファルトの歩道が、夕暮の濃い青のなかに浮きあがって見えた。歩道が光を反射して、ながい光の帯を引きずっている。エンバンクメント通りを渡って、彼は、しばらくテムズ川の暗い川面を眺めたり、ときどき振り返って、明るく灯のついた建物や橋を眺めていた。そうするうちに彼の頭の中に、いまや、こういうゴタゴタとしたものに替る新しいものを作り出す計画が動き出した。
日記に次のようにある。「事は始まったのだ。自分にわからない先の結果を考えることは無理だ。わたしは全体ではなく、一部なのだ。『変化』の兵器庫の中の一個の小さな道具にすぎない。たとえ、あの研究書類全部焼きすてたとしても、二十年としないうちに、また誰かが同じ研究をするだろう……」
三
ホルステンは存命中に、原子エネルギーが他のあらゆるエネルギー源を圧倒する有様を見る運命であったが、しかし何年かの間は、細かい点や応用面での難問題が網の目のように無数にからんできて、この新発見が、日常生活に効果的に浸透していくことを阻んでいた。実験室から工場への道は、時として、曲折にみちたものである。マルコーニが実用化するまでに、電磁放射線は二十年間の宣伝と実証を必要としたが、それと同様に、誘発された放射能が実用化されるまでには二十年を要した。放射能は、もちろん、ずいぶん議論の的になった。おそらく、技術的応用の時よりも発見当時の方が議論は盛んだったが、それでも放射能が巨大な経済革命を意味するということには誰一人まだ気がついたものは無かった。一九三三年当時のジャーナリストの関心は、蒼鉛から金ができるということ、利益は上がらないが、錬金術師の夢が実現したことに集中していた。科学の発展につねに関心をもつ世界文明諸国の一部知識人の間では、たしかにかなりの議論があり、期待も寄せられたが、世界の大部分の人は、可能が不可能であるかのように、不可避的なことが、多少おくれているからといって、まるで永久に延期されたかのように、毎日の生活を続けていた。ちょうどスイスの村の住民が、頭の上に張り出した岩石や山々の危険の下に暮らしながら、日常生活を続けているのと同じである。
一九五三年、ついにホルステン・ロバーツ・エンジン第一号が完成して放射能が工業生産の分野に導入された。そして、これがはじめて広く採用されて、発電所の蒸気エンジンに交替することになった。これを追うようにして現われたのがダス・タータ・エンジンであった。これは当時のインド思想近代化の影響で、銀河のように輝かしく現われはじめていたベンガルの発明家の二人が発明したものであった。これは主として、自動車、航空機、水上機などの乗用目的に用いられた。原理はだいぶ違うが同じく実用的なアメリカのケンプ・エンジン、ドイツのクラップ・エアランガー・エンジンなどが、すぐそのあとに続き、一九五四年の秋までには、工業生産方法や工業機械面での大規模な交替更新が、世界中のいたる所で進行していた。こういう初期の原子力エンジンのコストを、それより前の古いエネルギーのコストと比較すれば、こういう交替の理由も納得できるはずである。注油は別として、ダス・タータ・エンジンは、いったん動き出すと、三十七マイル走るのに要する費用は一ペンス、駆動する車体にかかる重量は僅かに九ポンド半だった。重いアルコールを燃やして走る当時の自動車が、法外に高くつくばかりか、外観まで滑稽に見えたのは無理もない。数十年前から、石炭ほか、あらゆる液体燃料の価格が上昇を続けていて、駄馬の復活を考えるところまで来ていたが、この緊張が突然ゆるんだかと思うと、全世界の道路交通の様相が一変した。四十年間、世界中でブーブーと警笛を鳴らして、煙を吐きちらし、騒音を立てていた恐ろしい甲虫のような怪物どもは、三年のうちに古鉄業者に売り払われて、高速道路には軽快な銀色の鉄製車体がきらめきながら走るようになった。また、原子力エンジンは重量のわりには出力が巨大なので、航空業界が新しい刺激を受けた。これまで航空機の唯一の推進方式だった水平式プロペラに、ついにレドメインの発明した垂直上昇下降方式ヘリコプター・エンジンをとりつけて、しかも機体の重量を、そんなに大きくしないでもすむようになった。こうして空中を疾走することは勿論、滞空も、垂直上昇も下降も自由自在という飛行機が出来あがった。こうして空を飛ぶ最後の恐怖も消えて、その頃のジャーナリストの言うように「空中飛躍時代」が訪れた。新しい原子力飛行機が熱狂的に流行して、こんなに使い易い、こんなに道路交通の危険と不潔とから安全な乗物は無いというわけで、金持ち連中が夢中になって買った。フランスだけでも、一九四三年に新型機は三万機生産され、操縦許可証も出て、小さな音を立てながら空に舞いあがっていた。
同じ調子で、さまざまな型の原子力エンジンが産業界に浸透した。各鉄道会社は、原子力機関車の引き渡しを急がすため莫大な割り増し金を払った。また、原子力による精錬工程が、あまりに熱狂的に始まったために、新エネルギー使用の経験不足が原因で、ひどい爆発事故が多数発生したりした。建築方面では、資材や電気料が革命的に安くなったので、一般家屋の完全な建て直しも、建築業者と家具取り付け業者の方法の改革再編成だけの問題になった。新エネルギーの側、また新エンジンの製造者とか資材購入の融資者の立場からすると、「空中飛躍」時代は、驚くべき繁栄時代であった。特許保有会社は、やがて、五、六百パーセントの配当を払うようになり、新発展に関係する人びとのなかには巨万の富を成す者、莫大な賃金を受ける者が出てきた。この繁栄に大きく拍車をかけたものが二つある。その一つは、ホルステン・ロバーツ型原子力エンジンでも、ダス・タータ型エンジンでも、その回収可能な廃棄物のなかに金がふくまれていたという事実である。ダス・タータ・エンジンでは蒼鉛の分解物質から金が出たし、ホルステン・ロバーツ型では鉛の分解物質から金が出た。第二に、この金の新生産によって、ごく自然に世界中に物価の上昇が起こったことであった。
この企業熱の壮観は、生産性の大きさと、その幸福な富める人びとが、飛行機で大挙して空を飛ぶ眺めであった。世界中の大都市が、突然ウヨウヨと蟻のはう蟻塚になって、それが空中に飛び上ったかのような観を呈した。だがこれは、人類史の新時代開幕期の明るい一面にすぎなかった。その明るさの下には、迫りくる闇、深まる恐怖があったのである。生産の大発展が行なわれている一方で、価値の大崩壊が起こっていた。昼夜兼行で操業する大工場、道路を音もなく疾走する銀色の新車、空中を上昇旋回するトンボの群のような飛行機群は、じつは、世界が黄昏と夜に沈もうとする時に光るランプの輝き、火の色にすぎなかったのである。目ざましいはでな繁栄のすきまに、災害が、社会的破局がせまりつつあったのである。炭坑閉鎖が遠からず起こることは目に見えていた。巨大な石油資本は不振になり、数百万の炭坑労働者、古い生産工程の製鋼労働者、無数の職種の無数の未熟練労働者が、新型機械の優秀性に押されて職を失っていった。輸送費が急激に下って、人口密集地の高い地価が値くずれを起こし、家屋の値が不安定になった。金の価値は下落の一途をたどり、世界の信用取引の土台である全ての担保が減価し、銀行は危くなり、証券取引所は狂熱的パニックを示していた。これが、繁栄の壮観の裏側であり、これが「空中飛躍」の下にある奇怪な、暗黒の潮流であった。
ある気の狂ったロンドンの株屋さんが、スレッドニードル街に走り出して、服を引き裂きながら、「鉄鉱トラストが工場全部をスクラップにするぞう。国有鉄道が機関車を全部スクラップにするぞう。なにもかも、スクラップになるんだあ。なんにもかんもだぞう。みんな来い、造幣局をスクラップにしにいこう!」と、叫んでいたという話が残っている。
一九五五年にはアメリカ合衆国の自殺率が以前の最高の四倍になった。また世界中に暴力犯罪が激増するという現象が見られた。まるで人間社会がその膨大な富によって押しつぶされそうに見えて、人びとは狼狽したものであった。
狼狽したのも無理はなかった。じつは、こういう事態を予想した人は一人も無かったのである。安い新エネルギーが洪水のように溢れ出した時に、人間生活にどういうひずみが起こるかということについて、まだ何の研究も始まってはいなかったのである。その頃の世界には、まだ後世で言うような真の意味での政治がなかったということである。その頃の政治は、妥協の産物で計画にしたがって行なわれるものではなかった。だから、裁判所的、保守的、論争的、盲目的、非思考的、非創造的なものだった。絶対王制が消えずに、まだお気に入りの臣下とか、忠実なしもべが残っているような所は別として、その頃の世界各国は、すべて法律家が支配していた。つまり訓練を受けた唯一の階級として途方もなく有利な法律家階級が牛耳っていた。彼らは、その職業教育のせいもあり、また驚くべき単純愚直な選挙手続を操作して権力の座に這い上るせいもあって、いつも事実というものを軽視する癖があり、想像力を抑えることを良心とし、利益を主張し、それを掴むことに敏感で、寛大な人間を疑うという傾向が強かった。政治とは、精力的な派閥闘争に明け暮れするただの厄介物であり、進歩は、政治の公務外のところで、公務に逆らって行なわれている有様であった。緊急の必要が起こり、いろいろと事実が明らかになり、どうにも無視できない規模になって、裁判官の薄暗い部屋のなかに侵入していき、鈍感な政治体制を脅やかすほどの勢いになったとき、やっとのことで不充分な立法がおこなわれるという始末であった。
つまり世界には、政治がほとんど行なわれていなかったのである。だから満ち溢れる富の満潮に乗って宝物がもたらされたというのに、つまり人間の欲求を満足させるに必要な全ての物、当時の人間のあらゆる意志と目的を実現するのに必要な物すべてが手に入ったというのに、まだ世のなかには、生活難、飢餓、怒り、混乱、衝突、筋の通らぬ苦しみなどが存在していたのだった。人間はついに膨大な富を手に入れようとしていたのに、この富を分配する計画は全くなく、分配が可能だという明確な認識すらなかった。この新時代開幕期をひろく見渡して、後の時代の発展と比べたとき、原子力前の時代の盲目、偏狭、その鈍感で想像力にとぼしい個人主義が明らかに浮かび上がってくる。空が希望の光に輝きわたって、エネルギーと自由の壮大な朝が明けようとするとき、科学が、恵み豊かな女神のように、暗い人間界の上にそびえて立って、その豊かな腕に、安全、富、謎の解明、勇敢な冒険の鍵などの贈り物をかかえて人間にあたえようとしている時に、その女神の面前で、しかも女神の贈り物の手付まで法廷に持ち出して、ダス・タータ・エンジンの特許権をめぐる訴訟事件のような、見ぐるしい光景が繰りひろげられていた。
一九五六年の異常に暑い五月のこと、ロンドンの暑苦しい法廷の、きたない長方形の箱のような部屋のなかで、特許権使用料が高いとか、安いとか、ダス・タータ会社が、ホルステン・ロバーツ会社の新エネルギー利用法を妨害する怖れがあるとか、ないとかというくだらない問題をめぐって、当時の一流弁護士が大声を張りあげて議論していた。ダス・タータ会社は、じつは原子工学の世界独占権を確保しようと懸命になっていたのだった。判事は、その頃の流儀にしたがって、法廷の一段高い所に、こっけいな法服とバカでかいカツラをつけておさまり、弁護士たちもまた、きたならしい小さなカツラをかぶり、お定まりの妙な黒服を平服の上に重ねていた。不潔な木のベンチには、ずるそうな顔をした補助弁護士たちが、ザワザワと身動きしては、ヒソヒソ話をしている。いそがしくペンを走らせている記者連中、原告、被告、証人に立つ学識経験者、利害関係者、出頭命令を受けた人びと、(最も有名な、痛烈な弁護士を見習って、修業しようとしている)はやらない若手弁護士連中、そのほかに、戸外の太陽よりも、この不正の穴倉の方が好きだという変り者の見物人たちもつめかけていて、みなが暑くて、じっとりと汗ばんでいた。尋問に当たった王室顧問弁護士が、きれいに剃った、大きな口元に手をやって汗をふいている。欲と人いきれの立ちこめるこの部屋に、見るからに汚れた窓から日光が洩れてくる。判事の左側の二列の席には、ゴミ穴に落ちた蛙たちのように居心地の悪そうな恰好で陪審員たちが坐っていた。そして、証人席には、強欲なダス氏が反対尋間を受けて、それに対してインチキ答弁をしているのであった。
ホルステンはこれまで、研究が次の段階へ進むところまで来たと思うと、直ちにこれまでの研究成果を発表するのが習慣だった。このホルステンの率直な性質と、ひとつの幸運な応用的発明の閃きが敏感なダス氏の主張の根拠になっていた。
しかし研究成果のあれやこれやの特徴に食いついて、特許権とか先取り占有権とか独占権などを主張していた連中は、ほかにも無数にいて、みんなが、この巨大な翼のようなエネルギーを自分のちっぽけな欲望に役立てようと躍起になっていたわけである。だからこの裁判は、同じような無数の論争のうちのほんの一例に過ぎなかったのである。一時は、世界中に特許をめぐる訴訟事件が腫れ物のようにひろがっていた。しかし、ホルステンが二日間、乞食が金持の門前で待つように裁判所の近くで待たされて、受付係にこづかれ、警官に監視されたあげくに、証人台に立たされ、弁護人たちに手荒く扱われ、本人は出来るだけ明快に陳述しているつもりなのに、判事から「へりくつ」を言わぬように命令されたという事実、ここに、この裁判の持つひとつの奇妙に劇的な特徴があったと言える。
判事は、鵞ペンで鼻先をかきながら、大きなカツラの下から、びっくりしているホルステンの顔にじろりと嘲笑の目を向けた。これが大科学者か、フン。法廷では大科学者でもおとなしくするもんだ、という目付である。
「本法廷が知りたいのは、原告が、これに何か新しいものを付け加えたか、どうか、という点です。フィリップ・ダス卿の行なった改良が単なる表面的な応用だったとか、あるいは、それらの改良が、あなたの研究論文のなかに、すでに含まれていたとか、いなかったとか、そういうことで、あなたの見解をききたいのではありません。今後、発明されそうなものは、ほとんどが自分の研究論文のなかに含まれている、と明らかに、そう発明家の癖で、あなたは考えておられる。それからまた、今後付け加わるもの、あるいは修正されるものは、ほとんど表面的な事柄に過ぎない、と明らかにお考えのようだが、これも発明家の癖と言うべきです。しかし法は、そういうものとは、かかわりがない。法は、発明家の虚栄心とは、なんら関係がないのです。法の関心は、これらの特許権が、原告の主張するところの新鮮味を有しているか否かの一点にあるのです。有していると認めたとき、いかなる事が終るかとか終らないかとか、他にもいろいろと、あなたは言われた。質問以上の不要な余計な答えをしようという熱心さのあまり、ほかにも、いろいろと言われたが、そういう事は目下の事件とは、まったく、一切、関係がないのです。あなたがた科学者は、日頃、正確と真実とを熱心に説いておられる。しかるに、いったん証人台に立つや、本題をはなれて、脱線また脱線の陳述をされるのを、本法廷で目撃して、本官はまことに驚きにたえない。これほど不満足な部類の証人を本官はいまだかつて知らない。明快に単純に質問しましょう。フィリップ・ダス卿は、この問題についての現在時における知識、および方法に、なにか、真に、付け加えたでしょうか? 付け加えなかったでしょうか? 大きなものを付け加えたとか、いや、小さかったとか、御自分が何かを認めた時に、その結果がどうなるかだとか、そういうことを知りたいのではないのです。そういう判断はわれわれにおまかせ下さい」
ホルステンは沈黙した。
「たしかですね?」
と判事は、まるで哀れんでいるような調子で言った。
「はい、付け加えておりません」
とホルステンは答えたが、こまかい点を無視させられるのは初めてだわい、と思っていた。
「ほう! それなら、弁護人が、その質問をした時に、どうして、そうお答えになれなかったのでしよう」
と判事は言った。
ホルステンの日記兼自叙伝の五日後の記事に次のようにある。「いまだに驚きが消えない。法律は、わが国における最大の危険物であり、しかも数百年の骨董だ。何の考えもない。古瓶の中でも一番古くさい古瓶と、この新酒。最も爆発力の強い酒。連中は、いずれ、やられるだろう」
四
「法律は数百年の骨董」というホルステンの考えは、かなり真実を突いていたと言える。当時の世間に通用していた思想や、広く受けいれられていた物の見方からすると、法律は古くさいものだった。生活のほとんどあらゆる物資、あらゆる方法が急速に変わってきて、現にいよいよ急激に変わりつつあるという時に、世界じゅうの裁判所や立法機関が必死にもがいて時代的要求に応えようとしていたが、その工夫や手続きたるや、なんとこれが野蛮時代の粗雑な妥協に始まった権利や財産の観念、権威や義務の観念なのであった。英国裁判官の馬毛のカツラ、古くさい法服、カビ臭い裁判所、裁判官の横柄な態度などは、じつは、根の深い時代錯誤的精神の表われに外ならなかった。二十世紀中頃の世界の法的、政治的組織は、じつは、どこを見ても、一枚の複雑な、ゴテゴテした服のような物であった。着古されたものだが、まだまだしっかりしていて、昔は体を保護したこともあるが、いまでは、成長する政治という肉体の妨げになっている、そういう服のようなものだった。
しかし、自由に物を考え、遠慮せずに発表するという精神、つまり自然科学の分野で自然の征服を始めた精神が十八、十九両世紀を通じて、動いていたのであり、古い世界の崩れていく肉体の中で、新しい精神を育てていたのである。この頃の文学には、個人利益や世間の既成の制度を人間の集団的未来のために大きく従属させるという考え方が、だんだん明瞭に表われてきている。また、社会でも、つぎつぎと運動が起こって、法的、社会的、政治的秩序の各面に批判をくわえ、反対の叫びを上げては、むなしく消えていった。早くも十九世紀はじめに、詩人シェリー〔パーシー・ビッシュ・シェリー。一七九二〜一八二一。英国ロマン主義を代表する抒情詩人の一人。理想主義者、哲学者、改革者として、詩でも散文でも革命的姿勢が顕著〕が、世界の全支配者を、すべて正真正銘の無政府主義者だとして糾弾している。また、社会主義という名でまとめられる思想や提案の全体系は、とくに、その国際的側面において創造的提案や移行方法の点で貧弱なところがあったにしても、それでも、当時の複雑な財産法的な考え方に替えて、近代的な相互関係制度を打ち立てるべきだとする考え方の成長してきたことを証言するものである。「社会学」という言葉をつくったのは、十九世紀中頃に活躍して哲学問題を論じた人気著述家ハーバート・スペンサー〔一八二〇〜一九〇三。イギリスの哲学者。進化論に基づく多くの著書は一九世紀思想界に大影響をあたえた〕であった。しかし、電気で牽引する装置が以前の装置とは無関係に設計されているような具合に、新しい科学的な方針に基づいて国家を組織するという考え方が世界の人びとに強く訴えるようになったのは、ようやく二十世紀に入ってからのことである。二十世紀になるとアメリカ人は、自国のバカげた選挙手続から発生してきた奇怪な政党制度、社会を麻痺させる政党制度にいらだってきて、ついに、「近代国家」運動と、やがて呼ばれることになった運動を始めた。すると、アメリカをはじめ、ヨーロッパや東洋に、キラ星のごとく、すぐれた著述家が現われて、社会相互関係、財産、雇用、教育、政治などの大胆な再編成の思想を説いて、世界を刺激したのであった。こういう「近代国家」思想は、二百年にわたって進行してきた物質的大革命の、社会思想、政治思想面への反映であったが、しかし、それは、ルソーやヴォルテールの著作と同じことで、しばらくは、現実の制度の上には大した影響は及ぼさなかったようである。しかし、この思想は、人びとの心のなかで発酵をつづけていたのであって、原子力機械が現われて、社会的、政治的ひずみが出てくると、すぐにその思想は表面に押しだされてきて、粗雑ながら驚くべき形をとって現実化したのであった。
五
フレドリック・バーネットの『修業時代』は、二十世紀の三、四十年代に流行した自伝的小説の一冊である。出版は一九七〇年だが、「修業時代」という言葉は、精神的、知的な意味で理解しなければならない。これは、たしかに、一世紀半前のゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』を思い起こさせる暗示的な表題である。
著者フレドリック・バーネットは、十九歳の誕生日から二十三歳の誕生日までの生活と考え方の詳しい興味ある歴史を書いている。ひじょうに独創的だとか、はなばなしい作家というわけではないが、周囲の状況を浮かび上がらせるコツを心得た作家ではあった。これという確かな肖像画は残っていないが、ふと書きとめる言葉の端々から、背の低い、がっしりとした、肥り気味の体格で、「ちょっとふくれたような不細工な顔」で、かなりとび出した青い目の持ち主だったことがわかる。一九五六年の金融界の大混乱までは、かなり裕福な階級に属していた。ロンドンで学生生活を送り、イタリアへ飛行機で飛んだかと思うと、今度は、ゼノアからローマへ徒歩旅行をし、空路、ギリシア、エジプトへ渡って、バルカン諸国やドイツ上空を飛んで帰るというような生活をしていた。ところが経済界の大混乱に見舞われると、銀行や炭坑、家屋などに大部分投資してあった財産がふっとんでしまったのである。一文無しになったバーネットは、生活の道を求めなければならなくなり、大変な苦労をしたが、やがて戦争が起こって、一年間軍務についた。最初は英国歩兵部隊の将校だったが、次いで治安維持部隊に属した。こういう事が、ひじょうに素朴に、しかも、ひじょうに明瞭に書かれているので、現在でも、この本はいわば一つの目の役割を失っていない。ひとりの人間が「大変化」の時代をどういうふうに受けとったか、それを後世の人びとが見る際の目として役立つのである。
ところで、バーネットは、最初から、「本能的に」「近代国家」思想に共鳴したと言っている。テムズ川南岸の古めかしく、いかめしいサマセット館の向かいに、優雅な長い正面を見せて、カーネギー財団学院が立っていたが、ここの教室や理科教室で、バーネットは、その思想を吸収したのだった。英国の教育復興期の先駆的なこの学園には、その骨格そのものに、この思想がからみついていたと言ってよい。交換学生制度でパリとハイデルベルクに数年をすごしたのち、ロンドン大学の古典学科に入学した。英国の先生方の教える昔風の「古典教育」というものは、人生の浪費という点で最も愚劣な、非能率的な、生気を枯らせる課業だが、この優秀な大学では、もうそんなものは一掃されて、近代的な方法が採用されていた。前に、ドイツ語、スペイン語、フランス語を学んだと同じ方法で、バーネットはここでギリシア語、ラテン語を学んだ。その結果、ギリシア語、ラテン語が自由に書け、話せるようになり、無意識に、らくにこれを使って、ヨーロッパ世界の基礎文明を勉強したのだった。ギリシア語、ラテン語はヨーロッパ基礎文明への鍵である。(この古典語教育の変化は、そのころまだ、ひじょうに新しいものだった。バーネットは、ローマで、あるオクスフォード大学の教師に出会ったことを語っているが、この先生は、「ラテン語をウィルトシャ地方のなまりで話し、ずいぶん話しにくそうだった。ギリシア文字を書く時は、バカにしたような顔で書くし、ギリシア語が引用で出てきた時は魅力的だが、それ以外の時は見ぐるしいと思っていたらしい」と言っている)
バーネットは、イギリス鉄道から石炭蒸気機関車が消えていく有様、それから、煙を出す石炭が電気暖房に移行するにつれて、だんだんとロンドンの空気が澄んできた模様などを見ている。また、その頃まだ、ケンジントンの科学研究施設が建設中だったが、彼はアルバート記念館とりこわし作業の遅れる原因になった学生騒動にも参加している。おもてに「われらは、こっけいな像を好む」と書き、裏に「像に椅子と屋根をあたえよ。偉大なる故人は何ゆえに雨の中に立たねばならないのか」と書いた旗を持って、バーネットはデモ行進に参加したという。彼は、また、ロンドン郊外シドナムにあった大学のグラウンドで、その頃の運動競技的な飛行技術を学んだが、ウォームウッドの森にあった政治的中傷者を入れる新しい監獄の上空を、「受刑者を激励するような飛びかた」で飛んだという理由で罰金刑を受けたりしている。裁判の批判をことごとく封じこめようとした時代だったので、監獄には、アブラハム裁判長の痴呆性に注意をうながそうとした記者たちがいっぱい入れられていた。あまり上手な飛行機乗りではなかったから、いつも少しこわがっていたし(不恰好な昔の飛行機がこわいのは当然である)、急降下とか高空飛行など一度もやったことはない、と告白している。また、油で走るあのモーター・バイクを一台もっていたと言っているが、おそろしく不恰好で複雑な、もの凄く不潔なあの機械は、南ケンジントンの機械博物館をたずねる人には、いまだに驚きのたねである。犬をひき殺したとか、サリー州の「鳥料理」はずいぶん高くつく、とこぼしたりしているが、「鳥料理」というのは、ひきつぶした鶏の俗語らしい。
バーネットは、兵役を最少限に食いとめるのに必要だった試験に合格した。ところが、べつに何の科学的な、あるいは技術的な資格も持っていなかったし、それに年の割りには早く肥えてきて、飛行機に乗るのもむずかしくなったので、歩兵が適当だと考えた。歩兵は、もっとも一般的な兵役だった。戦術理論は、四、五十年間、実戦がないので、ほとんど進歩していなかった。最近あった戦闘といえば、農民兵とか野蛮な兵隊を持ち、近代兵器を僅かしか装備していない小国、もしくは非文明国の戦闘であった。そのため、世界の列強はほとんど、三、四十年前のヨーロッパの戦争の伝統を伝える軍隊を維持して、それで満足している状態だった。バーネットは歩兵種に属したが、これは、ライフル銃をもって、歩いて戦闘をし、軍の主力を成すということになっていた。騎兵種(馬に乗る兵隊)というのもあったが、これは一八七一年の独仏戦争の経験を土台にして歩兵との比率が決められていた。それから砲兵種。これは理由は不明だが、大部分まだ馬が引っぱっているという軍隊であった。だがヨーロッパの軍隊には、少数ながら自動車砲隊というのもあって、これはデコボコの地面を走れるように出来た車輌を使っていた。それから、大規模な工兵種というのもあったが、これは自動車による輸送、オートバイ偵察、航空その他同種のことを担当していた。
一流の頭脳をもとめて、新兵器による近代的条件下での戦争の問題を専門的に研究解決するということは、これまで行なわれていなかったが、ホールデン卿、ブリッグズ主席判事、優秀な王室顧問弁護士フィルブリックなどの有能な法律家がぞくぞくと現われてきて、英国軍の徹底的再建をくり返すとともに、国民徴兵制度を採用して、ついに一九〇〇年には、国民の目からみると、まことに強大な軍隊ができあがっていた。大英帝国は、いまや世界政策の論議のうえで、相当な問題となる百二十五万の軍を即時に動員できる態勢に立ったのである。日本とか中欧諸国の軍隊は貴族的な伝統に立っていて、議論に左右されることが少なかった。中国はまだ軍事国家になることを固く拒んで、アメリカ方式の小規模な常備軍を維持していたが、このアメリカ方式は、限度はあるものの、きわめて能率的なものといわれていた。ロシアはきびしい政治統制で国内の批判を封じこめていたので、二十世紀初期以来、軍服の型も、砲兵隊組織もほとんど変化していなかった。バーネットが軍事教練をバカにしていたことは明らかである。「近代国家」思想のせいでそう見るのは自然だったし、また常識からみても無用のものだと思っていた。それに肉体的習慣からしても、軍務の疲労、苦痛には彼は特に敏感にできていた。「三日間ぶっつづけに、わが部隊は夜明け前の出発だった。おまけに朝食ぬきというのは、どういう訳かさっぱりわからない」と書いている。「いざ戦闘というとき、まず徹底して具合のわるい、不快な気持になるということを教えようとしていたのかもしれない。朝食ぬきで出発すると、上の連中の訳のわからない考えに従って、クリークスピールへ向かった。最後の三日めは、早朝というのにガンガン照りつける陽を浴びて、三時間をかけて八マイル前進し、ある地点に到着したのだが、バスで来れば九分三十秒ですむ距離だった。明くる日バスに乗って、その時間でいったのだ。到着後、わが軍は、ざんごう陣地に対して総攻撃をかけたが、もし審判が許したならば、ざんごう側は三度ほど繰りかえして、わが軍を射撃で全滅させることが出来たであろう。それが終ってから、ちよっとした銃剣術の練習があった。だが、この長いナイフを生き物の体に突っこめるほど、わたしは野蛮人に出来ているだろうか。とにかく現実にこういう戦闘が起これば、まず、わたしには生き残れるチャンスはないだろう。もし奇蹟的に、三度繰りかえして射ち殺されることがなくても、敵陣に近づいた時には、きっともう息切れがして、暑くて、銃を構えることもできないはずだ。突きさすどころか、あべこべに突き刺されることだろう……」
「しばらくの間、わが軍は二機の敵機によって監視されていた。そのうちに、わが方の飛行機がとんできて、やめてくれと頼んだ。すると実際の空中戦がまだ知られていなかったせいだが、敵機は、おとなしく監視をやめて飛び去り、フォクス山脈上空で何度も急降下をしたり、じつに魅力的な旋回飛行をしたりしていた」
軍事訓練に関する彼の説明は、万事この調子で、半分バカにしたような、半分抗議するような口ぶりである。バーネットは、自分が実戦に参加する可能性はほとんど無いと考えていた。万一、参加したとしても、実際の戦争は、こんな平和時の演習とは全然ちがっているはずだから、理性人として新事態の特殊性、可能性が呑みこめるまで細心の注意をもって出来るだけ危険から遠ざかっていなくてはならない、と考えていた。こういう考えを、彼はじつにあけすけな態度で語っているが、これほど英雄ぶらない男は、以前には出たことがないだろう。
六
原子力エンジンが出現したとき、バーネットはこれを、新機械に対する若い男の熱中ぶりをもって歓迎した。この新エンジンのもつ、いろんな素晴らしい可能性が、自分の家の経済的苦境と関係があることは、彼には、しばらくの間、明らかに、わかってはいなかったのである。「父が悩んでいることは知っていた」と書いているが、それでも新しい原子力飛行機に乗って、気の合った仲間三人といっしょに、イタリア、ギリシア、エジプトを目指して、喜々として飛び立ったときの彼の心には、心配の影さえ差してはいなかった。チャンネル諸島〔イギリス海峡、ノルマンディー沖にある英領の島々〕、トゥレーヌ〔フランス西部の州〕を通過し、モンブランを旋回し、(新型ヘリコプターには昔の飛行機のエア・ポケットによる急落下の危険や緊張は全然なかったと言っている)ピサ、ペスタム〔イタリア南部の古代都市〕、ギルジェンティ〔アグリジェンティの古名。シシリア島の古代ギリシア植民都市〕、アテネを経由して、エジプトのカイロまで飛び、ここからピラミッドの月夜の見物飛行に飛び、さらにナイル川上流のカートゥーム〔白ナイルと青ナイルの合流点。スーダンの首府〕まで達するという計画であった。今から見ても、若い人にとって、ずいぶん愉快な休暇旅行だったにちがいないが、それだけに彼の後の経験は暗い悲劇になった。旅行から帰って一週間後に、やもめ暮らしだった父親が破産を告げて、予定外のアヘン性催眠剤をのんで自殺したのである。
一撃のもとにバーネットは、裕福な金遣いの荒い享楽的な階級から叩き落とされて、一文なしの、生活の道もない失業者に転落した。学校教師をしたり、ジャーナリズムに首を突っこんだりしたが、たちまち世間の暗い底辺に落ちてしまった。こういう経験は、ひじょうに多くの人を精神的に心理的に破滅させてきたが、バーネットは、楽をしたいという肉体的な癖にもかかわらず、試練に会うや、かなり勇敢な現代人的素質を発揮した。彼の内には、すでに明けようとしていた英雄時代の創造的ストイシズムが充満していたのであって、彼は、身にふりかかる困難や不快な事件を運命として、たくましく受けとり、これを文学に表現したのであった。
バーネットはじっさい、著書のなかで自分の運命に感謝している。「あの上の方の、贅沢を保証された、こぎれいな愚者の楽園で暮らして死んだかもしれないのである。押しのけられて激昂している大衆の膨らんでゆく怒りや悲しみが、全然わからずに終ったかもしれないのである。安楽に裕福に暮らしていた頃は、世の中は、じつにうまく出来ていると思っていた」。ところが、いまや新しい立場から眺めてみると、世の中は全然なにも出来ていない。なんの計画もないのだ。政治は、攻撃と権力と倦怠と妥協の産物であり、法律は利害と利害との申し合わせであり、貧しい者、弱い者には、いいかげんな主人はたくさんついていても、味方はほとんどいないのだ、ということが分かってきた。
「世の中には、うまく面倒を見てくれる人びとがいるのだと思っていた。ところが、飢えてトボトボと通りを歩いてみて、べつに誰ひとりとして、面倒を見てくれる者はいないのだ、とわかった時は、一種呆然たる驚きに打たれたものだ」と書いている。
バーネットは、ロンドンの裏町の下宿を追い出されたのだった。
「下宿のおかみさんに頼んで、やっとのことで一つの古箱を置いてもらうことにした。わずかばかりの手紙や記念品などを入れて鍵をかけた箱である。おかみさんは、気の毒に、貧しい未亡人で、わたしはもう、いくらかの借金をつくっていた。彼女は保健倫理監督官を怖れてビクビクしていたが、それは奴らにチップをやる金もないことが時々あったからだ。だが、とうとうわたしの頼みに根負けして、階段下のタイルを張った、暗い物置に、それを入れてくれた。こうして、わたしは先ず食事を、つぎに、ねぐらを見つけようとして世間へ出ていったのである」
ロンドンのにぎやかな下町の雑踏のなかへブラブラと入っていったが、ここは一、二年前に彼が浪費家として名を売った所であった。
ロンドンには煙害防止法という法律があって、理由のいかんを問わず、目に見える煙を出すと罰金をとられることになっていた。それで、ヴィクトリア時代の煤でよごれた薄暗い感じは町から無くなっていたし、昔の建物が建て直され、また絶えず建て直し工事が進んで、目抜き通りは、もう二十世紀後半の様子を見せはじめていた。不衛生な馬や大衆的な自転車は車道から追放されて姿を消し、いまや車道はガラスのように滑らかに光って弾力性をもち、しみ一つない清潔さであった。歩行者は車道の両側の昔の人道の名残りのような狭いところに押しやられて道路の横断を禁じられていた。横断して、さいわい命があれば罰金を取られた。人は、この狭い歩道で車から降り、商店の中を抜けて歩行者専用の新道へ上がっていくわけだが、この歩道は家並の前に二階の高さで続いていて、途中で多くの橋に接続していたから、ロンドンの新開地のあたりは奇妙にヴェネチア的な景色を見せていた。町筋によっては、三階、四階の高さの歩道になっているところもあった。昼夜の別なく、ほとんど二十四時間中、商店の窓には明るい電燈がついていて、多くの商店には窓面積を増すために、運河のような通路が中を走っていた。
バーネットは、この夜の町をビクビクしながら歩いていったが、それは、貧しい身なりの人間が歩いていると、警官がやってきて、労働手帳を見せろと要求し、失業者だとわかると、下の車道わきの歩道へ追っぱらう権限をもっていたからだった。
だがバーネットにはまだ充分、紳士の雰囲気が残っていたし、警官にも、その夜は他にやることがあったので、無事レスター広場周辺の歩廊に、つまりロンドンの生活と歓楽のあの大中心地に到着することができた。
彼はその夜の情景を生きいきと描写している。広場の真中にアーチで支えられた一つの庭園があり、電燈の花づながこれを照明していた。庭園には八本の優美な橋が通じていて、これが例の高架歩道と接続していた。橋の下には自動車の川が幾筋もからみあうようにして流れていて、信号が変わると東西へ南北へと流れの向きを変えていた。上を見ると、いくつも大建築が正面を見せて立ちはだかっている。美しいというより複雑な模様をもった強化陶器の壁面だった。明りがたくさんついて大胆な照明広告がいくつも横に走り、光の反射で壁面が赤く浮きあがって見えた。この広場には二つの歴史的な演芸場があった。それからシェイクスピア記念劇場もあり、市立劇団がシェイクスピア劇を繰りかえして上演していた。ほかにも食事や娯楽のための大建築が四つあり、それぞれの屋上にある小尖塔が青い夜空の中へぼんやりと伸びあがっていた。広場の南側は暗く、ほかの三方とは対照的だったが、ここはまだ建て直し工事の最中だった。格子状に組んだ鋼材が、ヴィクトリア建築跡の掘り返した用地の上に立っていた。鋼材の骨組みの上に、巨大なクレーンの腕が、凍りついたようにくねっていた。
この骨組みにバーネットは、しばらく注意を奪われて、じっと見入っていた。骨組みはシンと静まりかえって、死んだように固く動かない。誰ひとり働いている者もなく、機械類もすべて静まりかえっている。ところが、建築業者が真空燈をつけていて、それで骨組みの中がすみずみまで青くふるえる月のような光で照らし出されていて、そこに緊張して動かない兵隊の姿が幾人か見えた。兵隊が見張りに立っていたのだ。
バーネットは通りかかった一人の通行人に、あれは何ですか、とたずねてみた。すると、きょう、労働者たちが、原子力鋲打ち機を使うのに反対してストライキを打ったのだという。
これを使えば一人の能率が二倍になり、鉄鋼労働者の人数が半分ですむ。「連中が爆弾でやられないのが不思議ですな」と言って、その通行人は、しばらくたたずんでいたが、やがてアルハンブラ演芸場の方へ去っていった。
バーネットは広場の四隅の新聞売場あたりがザワついているのに気がついた。何かひじょうに刺激的な事件が電光板に報じられたらしい。一文無しだということも忘れて、バーネットは橋を渡って新聞を買いにいこうとした。その頃の新聞は金属製の薄い板に印刷されて、免許を受けた新聞売りが、定められた場所で売ることになっていた。橋の中途まできた時に、下の車の流れが変わったことに気がついて、彼は急に立ちどまった。驚いたことに、警官たちが信号灯を振って、車の流れを車道の片側に寄せている。ヴィクトリア時代のポスターに取って替わった電光掲示板の見える所に、やがて彼は近づいてきた。すると失業者の大行進がウェスト・エンド地区を進行中だと報じている。これで新聞を買わずにすんだ。
バーネットは橋の上から見ていた。警察が取り締まるのは危険だと判断した行進、昔の失業者行列をまねて自然に出来あがったこの行進を、彼は著書のなかで描いている。ワイワイ騒ぐ烏合の衆だろうと思っていたのに、ついに現われたのは陰気な規律をもった行列だった。続々とつづいて、しばらく終りそうもない人びとの列は、グッタリとした疲労のなかを進んでくる。どうしようもない空しい雰囲気につつまれて車道を行進してくるのだ。バーネットはそれに加わりたい衝動を感じた。しかし、その気持をおさえて見つめていたと言っている。うす汚なく見すぼらしい無力な群衆。時代おくれの不用になった労働しかできない連中が大半だった。「お慈悲でなく仕事をあたえよ」という古くさい文句を書いた旗がちらほらと見えるだけで、ほかには何も持っていない。
歌うでなく、しゃべるでなく、獰猛《どうもう》性とか攻撃性などは全く見られない。何の明確な目的もなく、ただロンドンの目抜き通りを行進して、自分らの姿をさらしものにしているだけのことだった。安価な機械のために、永久に不用化された、安価な未熟練労働者の大群の一つの見本であった。馬が「スクラップ化」されたように、彼らもスクラップにされようとしているのだった。
バーネットは欄干に乗りだすようにして見ていた。自分もせっぱつまっていたから頭は明敏に働いていた。しばらくは行進を眺めていて、ただ絶望しか感じなかったと言っている。何をしたらいいのか? この種の余分な人間がふえていくが、彼らのために何ができるのか? 明らかに彼らは不用な人間だ……無能力なのだ……かわいそうに。
何を彼らは求めているのか?
彼らは意外な事情、予測もしなかった状況に追いつかれ、追い抜かれてしまったのだ。誰ひとり、それを予見したものはなかったのだ。
突然、バーネットの頭に、足を引きずって歩くこの群衆の謎の意味がひらめいた。そうだ、意外な事情に対して抗議しているのだ。運よく何物かを……「よい頭脳」……を持ち合わせているために自分らより賢く強く見える人びとに対して訴えているのだ。疲れた足を引きずりながら、続々とゆくこの声なき群衆は、誰か、この混乱を予知した者があったはずだ。とにかく誰かが予知して手を打つべきだった、と訴えているのだ。
この敗残の群衆が感じていること、声なくして主張しようとしていることは、これだ。
「暗い部屋にパッと明りがついたように、わたしは理解した。これらの労働者は、かつて神に祈ったように、人間仲間に祈っているのだ。どんなものでもよいが、とにかく、命のないものを命のないものと認識することは、これから先も、人間には絶対に出来ないことなのだ。人は、自分たちの命が、神でなく、人類から来たものだ、と考えを変えてしまったのだ。だから、どこかに知性がある、たとえそれが無頓着なもの、あるいは悪意あるものだとしても、どこかに知性がある、と人は、いまだに信じている……それは、目をさましてやれば、良心の痛みを感じて動きだし、努力をはじめる……と信じている。ところが、そんな知性は、今の今まで、存在したためしが無かった、ということも、わたしには分かっていた。世間は知性を待ち望んでいる。しかし、そういう知性はこれからつくり出されなくてはならぬものである。善と秩序へのそういう意志は、衝動のかけらや、方々にまとまりもなく散らばっている善意の種子や、われわれの魂の中にある全てのすぐれたもの、創造的なものなどをかき集めて、共通の目的へと、これから、まとめあげていかねばならない。それは未来に現れるものである……」
バーネットのような、さほど英雄的でもない若者は、昔ならば、自分ひとりの必要事に心を奪われて、それでおわってしまったかもしれないのに、こういうふうに、そこに立ちどまって、人類のいろいろな必要事について、ひろく意見を述べることができるということは、これは当時の、ひろがっていく思想の目立った特色である。
しかし、この混沌期のいろいろな矛盾や圧迫のうえにも新時代の夜明けの光は差しはじめてはいたのである。人間の精神は個人への極端な執着から脱却しようとしていた。この頃でさえ脱却しようとしていた。数千年来、宗教が意識的に目標にしてきた自我からの解放。つまり難行苦行、荒野での孤独な生活、瞑想その他いろんな風変わりな方法で求めてきた激しい自我からの解放が、やっと自然に、人の会話や書物や無意識の行動や新聞や日常の心がけや行為のなかへ入ってくるようになってきたのである。探求者精神が明らかにしてくれた広々とした水平線、すなわち数々の魔法のような可能性のおかげで、これまで地獄の恐怖や拷問の怖れをもってしても追っぱらうことのできなかった古い本能的な囚われの心から、人はやっと救い出されようとしていたのであった。だからこそ、バーネット青年も、家もなく、当座をしのぐ金もなしに社会の混乱のなかに放り出されて苦しみ悩んでいたにもかかわらず、燃えあがる歓喜の炎につつまれて、次のように考えることができたのである。
「わたしには、生の姿がはっきりと見えた。人間の前にすえられた大きな仕事が見えたのだ。しかもその仕事の複雑で途方もないむずかしさ、すばらしさを思うと、胸が歓喜でみたされた。これから政治を発見しなければならないのだ。そして政治と表裏一体をなす教育を発見しなければならないのだ。この現在というもの、チリのような小さな自分を呑みこんでいる現在というもの。ギリシア、ローマ、エジプトなどを含む過去というもの。そんなものは無にひとしいのだ。いわば事の始まりの砂ぼこりのようなものだ。やがて目ざめようという人の身動きか、ぼんやりとした呟きのようなものにすぎないのだ……」と彼は記している。
七
それから先の文章には、この幻想からの墜落が語られているが、その素朴な語り口には一種の魅力がある。
「やがてまた自分に気がついて、空腹とさむけを感じた」
そして、テムズ・エンバンクメント通りにあるジョン・バーンズ失業者救済事務所を思いだした。それで、たくさんの書店の並ぶ歩廊を通り、ロンドン国立美術館(もう二十年以上、身なりのととのった人には昼夜の別なく開放されていた)の中を通りぬけ、トラファルガー広場のバラ庭園を横ぎり、ホテルの歩廊を歩いて、エンバンクメント通りへむかった。この事務所は、ロンドンの町筋から乞食やマッチ売り、その他すべての困窮者を一掃した功績があって、バーネットは前から噂をきいていたのである。だから、ここへ行けば、当然、食事切符がもらえ、一晩とめてくれ、仕事のめどもつく、と思っていたのだった。
ところが新しい労働不安という事態が彼の計算からは抜けていた。エンバンクメント通りに来てみると、事務所がずいぶんの混雑で、まわりにかなり不穏な群衆がつめかけている。事務所をとりかこむ群衆の端で、バーネットはまごついて、うんざりして、しばらく突っ立っていたが、やがてある動きに気がついた。鉄道の駅がすっかり川の南側に移転したときに出来た大ビルディングのアーチを失業者連中が少しずつ、くぐり抜けて、ストランド街の屋根付き歩道の方へ移っていくのである。その動きにさそわれて来てみると、真夜中のギラギラした電燈の光のなかで、失業者連中が物ごいをしているのだった。ただの物ごいではない。小さな劇場、その他この大通りに集まっている娯楽施設から出てくる人たちに、驚くべき図々しさで物ごいをしているのだった。
これは全く前例のない事件だった、それまでの四分の一世紀のあいだ、ロンドンの町筋には物ごいは全然なかったのである。ところが、ふだん平穏なこの界隈に侵入してきた貧民に対して、警察はこの夜、明らかに取り締る意志を欠いていた、と言うより、取り締ることができなかったのである。警察は、明らかな混乱以外には全く目をつむっていた。
バーネットは、さすがに物ごいをする気にはなれず、群衆の間をぬって歩いたが、その態度が実際の彼の環境とは裏腹に毅然としていたのだろう、二度ばかり物ごいをされたと言っている。トラファルガー広場庭園の近くでは、頬を赤くぬり、眉を黒く引いた若い女がひとりで歩いていたが、いやに親しい調子で話しかけてきた。
「ぼくは飢えているんだ」
と、バーネットがぶっきら棒に答えると、
「まあ、お気の毒ねえ!」
と言って、女はあたりをチラッと見まわし、その種族特有の気前のよさで、彼の手に一枚の銀貨を握らせた。
ド・クィンシイの先例もあるが〔トマス・ド・クィンシイ、一七八五〜一八五九。英国散文の大家。その著『阿片飲みの告白』の中に、著者が十七歳のとき、ロンドンで餓死寸前のところを十六歳のかれんな娼婦の情けで救われるという話がある〕、こういう贈り物を受けとると、当時の抑圧的な社会立法の下では刑務所送りになったかもしれないのである。しかし、バーネットは受けとったと告白している。そして、心から御礼を言って、よろこんで食物を買いに出かけたのだった。
八
それから一日か二日後、バーネットはブラブラと郊外へ出かけた。どの道でも好きな所を自由に歩けたということは、社会の解体が進んできた印であり、警察がまごついていた一つの証拠だろう。
この金権政治時代の道路が、「有刺鉄線を張って、無産者たちを中に入れまいとしていた」こと、あるいは高い庭壁をめぐらしたり、立入禁止の札を出したりして、ほこりっぽい狭い公道に押し込めようとしていたことなどを彼は語っている。空中には金のある幸福な連中が、ちょうど二年前の彼自身のように、まわりの不幸には無関心に飛行機にのって飛んでいる。道路には軽くて速いすばらしい自動車がスイスイと流れていく。野道やひろびろとした丘陵地を歩いていても、その警笛の響き、ベルの音、サイレンの声などが耳から離れることがない。どこの職業紹介所へいっても、役人たちは過労におちいって、いらいらしている。臨時宿泊所は超満員で、あふれ出した浮浪者が掘立小屋の中でザコ寝したり、野宿したりしている有様。ところが、道を歩いている者に物をやる行為が法律で罰せられることになっているので、道わきの農家の人や、ごくたまに道を歩いている人が、浮浪者に親切にしたり、助けてやったりすることが全然ない……。
「だが、腹は立たなかった。巨大な利己主義である。社会の上の方の連中はみな、快楽と所有だけに関心があって、他のことには一切無関心という、奇怪な巨大な利己主義ぶりを見せているが、これは避けられないことだとわたしは考えた。たとえ最高の金持ちと最低の貧乏人が入れかわっても事情は絶対に変わらないだろう。科学とか、科学の生みだすいろんな新製品を使い、すべての頭脳、すべてのエネルギーを投入して富と道具の生産にはげんでいるくせに、しかも政治と教育は、数百年まえの錆びついた伝統にまかせておくようなことで、何が期待できるものだろうか。いまの政治、教育などの伝統は、物資がまだ不充分だった時代の産物だ。たとえ表面をどんなにとりつくろっても、生活するということが避けられぬたたかいだった暗黒時代の遺物なのだ。この火事場泥棒的傾向、この激しい強奪的傾向は、そういう物質と教育との不調和から当然起こるべくして起こるのだ。金持が下劣なのは当然だし、貧乏人が獰猛になるのも当然だ。人間が新しい力を手に入れるたびに、金持ちがいよいよ富み、貧者がますます無用になって自由を失ってきたのも当然だ。臨時宿泊所や失業者救済事務所で出会った男らはみな不満が欝積して、暴動をもとめ、正義や不正や復讐を語っていた。しかし、そういう話には、わたしはなんの希望も見出せなかった。忍耐以外に何物にも……」
だが忍耐といっても、ただおとなしく耐えることを考えていたのではない。彼が言おうとしたのは、社会再建の方法はまだ謎だということ、この謎のあらゆる複雑な面が解決されるまでは、社会の効果的再編成は不可能だということであった。「わたしは不満の欝積したこの連中と話し合おうとしたが、しかし、わたしと同じ考え方をさせるのはむずかしかった。忍耐が必要なのだ、より大きな計画が必要なのだと説いても、『そんなことを待っていたら、おれたちはみんな死んでしまうよ』と答えるだけだった。それはいま問題ではないのだということ、わたしにすれば実に簡単なことが、どうしても理解できないのだった。人間一生の単位で物を考える人は政治には無縁である」
こういう調子でフラフラ出歩いていたバーネットは新聞も読んでいなかったようである。ビショップズ・ストートフォドの市場まできて、ふと見ると、新聞売場の電光板に「国際状勢緊迫」と出ている。が、大して興奮も感じなかったのは、近年緊迫した国際状勢があまりにも多すぎたためだった。中欧列強がスラヴ同盟国を突然攻撃し、フランス、イギリスがスラヴ側救援につくと報じていた。
ところがその翌晩、臨時宿泊所でバーネットはかなりの食事にありつくことが出来、所長から、軍事教練を受けた健康な男子はみな、翌日、各人の動員集結所に送りかえされることになっていると知らされた。英国参戦の前夜だった。バーネットはロンドンからサリー州へ帰らねばならないわけだった。その知らせをきいたとき、ほっと心から安心した、と彼は書いている。「文明の底面を懸命に押しても、どうにもならない」という失望の毎日がやっと終ったという深い安心だったという。やることが見つかった。準備するべき目標ができたと思ったわけだが、いざ集結所に来てみると、動員計画がいいかげんで、急ぎすぎたせいだろう、エプソムの臨時駅で三十六時間ちかく、コップ一杯の水をもらったきりで、一口の食料の配給もないという始末であった。駅には食料のたくわえは全然なく、しかも駅を離れることは禁じられていた。
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第二章 最終戦争
一
未来に抱負をもつ正常な社会秩序の立場から見たとき、二十世紀中頃の歴史に大きな位置を占めるあの戦争に、どうして人類が飛びこんでしまったのか、その理由を理解するのは困難だし、その動機を追跡するのは退屈なことであろう。
だが、つねに忘れてはならないのは、当時の世界のどこを見ても、その政治的構造が、異常なほど集団的知性に遅れをとっていたという点である。これが、この時代の歴史のもっとも重要な点である。二百年間、政治ないしは法律の方法や主張には大きな変化は全然なかった。せいぜい管轄領域の変動とか、ちいさな手続上の調整程度のことであった。ところが、他のあらゆる生活分野では、繰りかえし、根本的な大改革があり、大解放があって、人間の視野、物の考え方などが非常に拡大したのであった。法廷のばかばかしさ、代表議会政治のみにくさなどに、他方面での活動の機会が大きく開けたことが追討ちをかけて、もっとも優秀な頭脳はますます公務から離れていった。二十世紀世界のいわゆる各国政府は、世のいわゆる宗教と同じ道をあゆんでいた。各国政府はもはや二流の人材しか得られなくなっていたのである。十八世紀中期以後には、世人の記憶に残るような大宗教人は一人も出ていないし、二十世紀に入ってからは大政治家は一人も現われていない。どこを見わたしても、権力の座についているのは、精力的、野心的、近視眼的凡人で、新しい可能性には盲目のくせに、過去の伝統となると、口角に泡をとばして、しがみつくという連中ばかりである。
そういう古くさい伝統のなかでおそらく最も危険なのが「主権国家」の国境線であり、また、世界の人間を広く支配しようとするどこかの国の支配欲だったと言えるだろう。ローマ帝国、アレクサンダー帝国などの記憶が、浮ばれぬ亡霊のように人間の想像力の中に巣食い、脳の奥のほうへ恐ろしい寄生虫かなにかのように食い入り、人間の頭脳を狂った考えや激しい衝動などで充満させたのであった。フランスは百年以上にもわたって、その活力を好戦的な痙攣《けいれん》で消耗させたが、それが、ヨーロッパの心臓部を成すドイツ語諸民族に伝染し、さらにスラヴ諸国にもひろがった。この邪念の膨大な気ちがいじみた文献が、後世に収集保管されて、かえりみる者もなく放置されたわけだが、それを見ると、複雑な条約あり、秘密の協定あり、政治学者の途方もない知ったかぶりあり、明瞭な事実を否定拒否する狡猾な手口あり、さらに戦略上の策略、用兵上の駆け引き、動員、対抗的動員の記録あり、というにぎやかさである。過ぎてしまえば、本当にあったこととも信じられないのだが、原子力の新時代が明けようとしているこの朝に、いまだに政治屋たちは、古くさいロウソクの火をともして、新奇な反射や見なれぬ光や影のなかを、なおも喧喧ごうごう、ヨーロッパと世界の地図をぬり変えようと画策していたのであった。
こういう専門家の世界外にあった何百万の男女が、この物々しい活動に対してどの程度、同調し同意していたのか、それは後で精細に研究されることになったが、一派の心理学者は一般人の心理的参加はほとんど無かったという意見に傾いていた。しかし、いろいろな証拠を比較検討してみると、こういう戦争画策者の宣伝には大きな反応があったという点は動かしがたい。原始人は猛烈に戦闘好きな動物であった。以後、かぞえ切れない世代にわたって人間は、部族戦争に明け暮れしてきたわけで、そういう伝統の重み、歴史の手本、忠誠と献身の理想などが国際的陰謀家の煽動に、じつに簡単に利用されたわけである。一般人の政治についての考えが、手軽に、でたらめに取り上げられて利用されたのであった。一般人の受けていた教育には市民としてふさわしく訓練する配慮などは全然なされていなかった(そういう考えは「近代国家」思想の発達とともに現われたに過ぎない)。だから一般人の空虚な頭に腹立たしい疑惑や国家的敵意などの騒音をみたすのは比較的容易なことであった。
たとえばバーネットの部隊がフランス国境にむかう軍用列車に乗りこもうとして地方の駅からロンドンに到着したとき、ロンドンの群衆が騒々しい愛国心を発揮していた模様について彼は書いている。子供、女、若者、老人たちが、拍手したり叫んだりしていたし、通りや家並みには連合国の旗がひるがえっていたという。貧窮者や失業者までがほんとうに熱狂していた。職業紹介所までが一種の入隊事務所に変貌して、愛国的興奮のるつぼに化していた。英仏海峡の英国側でもフランス側でも、鉄道沿線の便利な場所には、どこでもかしこでも熱狂した見送り人が出ていたし、連隊内の空気も、暗い予感に、少し固く暗くなってはいても、それでも意気揚々たるものがあった。
しかし、こういう興奮は、はっきりした考えを持たぬ人びとが見せるいいかげんな興奮であった。集団行動を見たとき、いさましい音や色に接したとき、漠然とした危険を感じて心が鼓舞された時に、人が見せる自然な反応であって、この点は自分も同じだったとバーネットも言っている。それに、あまりにも長い間、戦争の危険と準備に圧迫されてきたために、本当に戦争が始まったとき、人びとは、一種の解放感を感じたのであろう。
二
連合国側の作戦計画によって、ミューズ川〔フランス北東部からベルギー、オランダを貫流し、北海に注ぐ〕下流の防衛は英国軍の担当になった。それで、イギリスの各駅から軍用列車がアルデンヌ〔フランス北東部のベルギーに接する県〕の防衛陣地予定地点にむかって直行した。この作戦に関する文書は、戦争中にあらかた処分されたが、最初から連合軍の計画には混乱があった模様である。しかし、この地域に空軍物資集結所をつくって、ここからライン下流の大工業地帯を攻撃すること、および、エルベ河口のドイツ海軍基地に対して、オランダから側面攻撃をかけることが、最初の計画に含まれていたという点はほぼ確実と見てよい。しかし、そういうことは、バーネットや彼の部下の兵隊のような将棋の駒のような下っぱには分かるはずもなかった。彼らの仕事は、パリに本部を置いて、すべてを指揮する正体不明の頭脳の命ずるがままに行動することであった。イギリスの指導部もパリに移されていた。はじめから終りまで、このパリの指導的頭脳は「命令」という名に隠れて軍隊には正体がわからなかった。兵士の忠誠心を吸収するナポレオンやシーザーは一人もいなかったわけである。「『彼ら』とわれわれ兵隊は呼んでいた。『彼ら』がわが軍をルクセンブルグに派遣する。『彼ら』が中欧を正常化しようとしている」というふうにバーネットは書いている。
このぼんやりとした幕のうしろに身を隠した小さな指導者の一団、つまり司令部の連中は、自分たちの任務の重大さに、やっと気がつきだしたところだった。最高司令部の大広間の窓から、セーヌ川ごしに、トロカデロ宮殿や西区の宮殿が見える。この大広間にテーブルをいくつも並べて、そこに一続きの大縮尺の立体地図をひろげて、一目で戦況がわかる仕組みになっていた。隣接した各部屋の電信部局へ報告や情報が入るたびに、司令部の参謀たちが小さなブロックを忙しくその地図の上に動かしては戦況を再現していた。ほかの小さな部屋では、詳細な地図がひろげられていて、これにはイギリス海軍省の報告とか、スラヴ軍司令部の報告などが入りしだいに記入されていった。こういう地図を将棋の盤のように使って、デュボワ元帥が、ヴィアール将軍やデリー伯爵と協議しながら、世界制覇を目ざして、中欧諸国相手の大試合を始めることになっていた。試合については、はっきりとした考えがあったのだろう。一貫した見事な計画が頭のなかに、きっとあったのだろう。
しかし、新しい空軍戦略とかホルステンが人類のために開いた原子エネルギーの可能性については、デュボワ元帥には正確な認識が欠けていた。ざんごう陣地とか、国境突破とか、国境戦とかいう伝統的な戦闘を元帥が考えている最中に、敵の中欧軍参謀本部は、いまや、相手の目と頭脳をたたこうとしていたのであった。デュボワ元帥がその夜おずおずしながら、ナポレオンやモルトケ流の戦術にしたがって、手はじめの軍事行動に出たとき、彼の麾下《きか》の科学兵団は、まさに反乱の勢いで、ベルリン攻撃の準備をととのえていた。「あの老いぼれのバカどもが!」というのが科学兵団の考えであった。
七月二日の夜のパリの最高司令部には、二十世紀前半に考えられたかぎりでの科学的な軍組織の、各方面からのお歴々が、ものものしく顔をそろえていた。こういう司令官たちの協議する姿を見て、まるで世界を支配する神々のようだ、と思った人が少なくとも一人はいた。
それは、一分間に六十語ちかく打つ熟練タイピストだった。ほかの何人かの、同じような女たちと交替しながら、彼女は、各命令をタイプで打って、正副二通つくり、それをタイピスト付きの初級将校に手わたす。するとそれが転送されて、とじ込みに整理される、という仕事に従事していたのだった。仕事が一段落したので、彼女はタイプライター室からしばらく解放され、大広間の前のテラスに出て一息いれ、仕事がまた始まる前に、持ってきたささやかな軽食を食べようと思った。
テラスに立つと、下を流れる幅広いセーヌ川のうねりが見えた。凱旋門からサン・クルー宮殿にいたるパリ東側の全景が見えた。大きな建物や大きな黒いかたまり、薄黒いかたまりがあちこちにあって、そこにピンクや金色の照明がきらめいている。ポツポツと光の散った帯が幾筋もからみ合って、星もない静かな夜空の下を果てしもなく続いている。テラスから見えるのはそれだけではなかった。最高司令部の大広間のひろびろとした内部まですっかり見えた。ほそい柱があちこちに立ち、優雅な弓型の電燈が群がって光っている。むこうのたくさんのテーブルの上には巨大な地図が拡がっている。まるで小さな国のような大縮尺の地図である。伝令や従卒が絶えず行ったり来たりして、数百、数千の軍隊を表わす小さなブロックをちょっと取りかえたり動かしたりしている。最高司令官デュボワ元帥と二人の参謀は、その地図の真中の、戦闘が一番近い所に立って、計画を練ったり命令を出したりしていた。この三人が一言命令を出せば、たちまち現実の世界では、何千何万の兵が正確に動き、立ち上り、前進して死ぬのだ。諸国家の運命はこの三人の頭脳に宿っている。ほんとうに神のような人たちだ。
だが一番神に似ているのはデュボワ元帥だった。決断をくだすのはこの人で、ほかの二人は、せいぜい案を出すだけ。若いタイピストのおんな心は本能的な崇拝的熱情をこめて、この深刻な物静かな端麗な老人に引きつけられた。
前に一度、元帥の命令を直接タイプライターで打ったことがあった。幸福と恐怖のいりまじった恍惚とした気持で元帥の言葉を待ったものだが、それは何か失敗をして、恥をかくのがこわかったせいだ。
いま彼女は、元帥を、熱情にくもった女の鈍感な目で、ガラスごしに、まじまじと見つめていた。
元帥がほとんど口をきかないのに彼女は気がついた。地図もろくろく見ていない。元帥の横に立つ背の高いイギリス人のデリー伯爵は、たしかにいろいろと思い迷っているらしい。地図の上の、赤や青、黒や黄色の小さな木片が動かされるたびにのぞきこんで、あれやこれやと元帥の注意を引こうとしている。元帥は聴き、うなずき、一語発してはまた沈黙して、紋章の鷲のようにじっと考えこんでいる。
目は、深く白い眉の下にくぼんで、見えない。命令を発する口の上には、口ひげがおおっている。ヴィアール将軍もほとんど口を開かない。将軍は色の黒い、うつむきかげんの、暗い鋭い目付きをした人だった。彼は、いまアルザスを通過してライン川を目指しているフランス軍の右翼部隊に気をとられていた。将軍がデュボワの古い仲間だということを彼女は知っていた。デュボワ元帥は、なじみのない英国人の参謀より、よく知っているこの古い仲間の方を信頼しているにきまっている、と彼女は思った。
しゃべらないこと、無表情にしていること、できるだけ横顔に構えていること、これがデュボワ老人が何年も前に学んだ教訓であった。なにもかも分かっているような顔をして、驚きを見せず、あわてないこと……あわてるだけでも誤算を告白したことになる……こういう単純な規則をまもることで、デュボワは有望な若手将校時代から着実に評判を高めてきたのであった。ものしずかな、ほとんどぼんやりした青年に見えたが、慎重な、しっかりした将校で、その頃から、みんなが「あれは出世するぞ」と噂していた。五十年間の平和時代に、ただの一度も彼は失敗したことがなかった。大演習では、その無感動な頑張りに、彼より頭の回転の速いたくさんの将校がまごつかされ、判断を狂わされて負けてしまったのである。魂の奥に、デュボワは、現代戦術に関する一つの大発見を隠していた。これが彼の出世の鍵であった。それは、戦争の勝敗は誰にも分からないということ。だから行動すれば失敗する。しゃべれば、分からないことを白状することになる。したがって、着実に、じっくりと、とくに沈黙のうちに行動するものこそ、勝ち残る最大のチャンスを掴む、という発見だった。いま、この戦略で、彼は中欧軍司令部の誰か知らない参謀たちを粉砕するつもりだった。デリー伯爵は、オランダを行軍通過して、大側面攻勢に出、英国の全潜水艦、全高速モーターボート、全魚雷艇をもってライン川をさかのぼり、攻撃部隊を支援するのが上策だという。ヴィアール将軍は、オートバイ部隊、空軍、スキー部隊をスイスの山中に進め、一挙にウィーンを急襲して、はなばなしい戦果を上げるという。しかし大事なのは聴くこと、そして、敵の実験の始まりを待つことだ。すべては実験なのだと、こう考えてデュボワ元帥は横顔を向け、自信ありげな様子を見せているのだった。その恰好は自家用運転手に行先を告げたあと、車の中に落ち着いて坐っている人のようであった。
すると、まわりの者はみな、その静かな顔、その何もかも心得ている様子、平然たる自信ありげな態度に力づけられて安心するのだった。群がる燈火で元帥の影が何十となく地図の上に伸びている。そのたくさんの影、指導者の複製が、濃く、薄く、戦場を支配して四方八方に伸びているさまは、いかにも元帥の統率を象徴するように見えた。無線電信室から伝令が入ってきて、ゲーム盤の駒をあれこれと取りかえる。修正報告が入って、中欧軍一個連隊を二十個連隊と訂正したり、連合軍のあちこちの兵力を後退、前進、あるいは散開させたりする。そういうときも、元帥は横をむいて、見ないような顔をしている。見ても、軽くうなずくだけで、まるで先生が、生徒の自発的に行儀をよくするのを見て、「そう、それでいいんだ」とうなずいているような恰好だ。
なんて素敵な方なんだろう。なにもかもが、なんてすばらしいんだろう、と若いタイピストは窓のそばで思った。これが西欧世界の頭脳なのだ。ここはオリンポスの山で、そのふもとで地上の人間どもが戦っている。あのかたはフランスを復帰させようとしていらっしゃる。長いあいだ帝国主義に取り残されて無念の思いを噛みしめていたフランスを、昔の支配的な地位に復帰させようとしていらっしゃる。そんな大事業に参加するのは、女の分にすぎたことではないか、と彼女は思った。
女の身で、個人に献身しようとする熱烈な衝動をもつ女の身で、非個人的になり、抽象的になり、時間を守り、万事に正確になるのはむずかしい。でも、わたしは自分を抑えなくては……と思いながらも彼女は空想に身をゆだねた。戦争が勝利におわった日、その日には、おそらくこの厳しさも、この堅い鎧もはずされて、神々も微笑することだろう。彼女は瞼《まぶた》を伏せた。
ハッとして彼女は目を開いた。夜の気配に何か騒然としたものを感じたのだ。下の橋の上で人が騒いでいる。街を人が走っていく。どこか、トロカデロ宮殿の向こうの高い所から探照燈が幾筋も伸び上って、雲の間をさぐっている。たちまち、その興奮が彼女の横を走り抜けたかと思うと、大広間へ侵入していった。
テラスの歩哨の一人が広間の上手の入口に立って、手振りをしながら、何事か大声で叫んでいる。
すると、あたりが一変してしまった。なにか、ズキズキと音がする。彼女は何が何やらわからなかった。下町の通りの地下の水道管や機械類、ケーブル線が脈打っているような感じがする。血管のように脈打っている感じだ。それに、あたりに風のようなものが吹いている……気味のわるい風のようなものが。
タイピストは、おびえた子供が母親を見るような目で元帥の方を見た。元帥は相変らず平然としていた。かすかに眉をしかめている、と彼女は思ったが、それも無理はなかった。デリー伯爵が、やせ細った手を振って元帥の腕をつかみ、テラスへ開いた大扉の方へ引っぱっていこうとしているのだ。ヴィアール将軍も大窓の方へかけよってきた。首を突き出して、目を上にあげたおかしな恰好で、バタバタとかけよってくる。
なにか、上にあるのかしら?
その時、上空で雷のような音が起こった。なぐられたような感じがして、彼女は壁に体をつけてしゃがみこみ、空を見あげた。裂けた雲間から黒い物が三つ、すーと降りてきたと思うと、すこし離れた一番下のその黒い物から、もう赤い火が帯のように幾筋も吹き出していた。
彼女は体中がしびれ、無限に思われる一瞬を身動きもできずに、その赤いロケット弾が回転しながら飛んでくるのを見つめていた。
彼女は世界から切り離されたような気持だった。どぎつい赤紫の光と鼓膜の破れるような轟音。すべてを包んで絶えまなく続く音と赤紫のどぎつい光以外、世界には何もないのだ。ほかのあらゆる明りが消えうせて、このギラギラする赤紫の光の中で壁が斜めにかしぎ、柱がクルクルまわり、軒下飾りが飛び出して崩れ、大きな窓ガラスがギザギザになってバラバラと飛んでいった。
大きな赤紫の火のかたまりが、狂った生き物のように、崩れる建物のなかを物凄い勢いで跳ねまわり、気ちがいのように地上に襲いかかり、火でつつまれたウサギのように地中にもぐりこんでいく、という印象を彼女は受けた。
夢からさめる時そっくりの感覚を彼女は味わった。
ふと気がつくと、彼女は土の斜面に、うつ向けに倒れていたのだった。片足の上を湯がチョロチョロと流れている。立ち上がろうとしたが脚がひじょうに痛い。夜か昼かわからない。ここがどこかも分からない。もう一度起きあがろうとしたが、痛くて身がすくみ、うなり声が出た。ゴロリと寝返りを打って身を起こし、あたりを見まわした。
物音一つしない。じつは、あたりは大騒音につつまれていたのだが、鼓膜が破れていたので何ひとつ聞こえなかったのである。
はじめ、彼女は何が何だかわからなかった。
見知らぬ別世界、荒廃した、音なき世界、破壊されたものが積み重なった世界だった。しかし明るかった。紫がかった赤い光がチラチラしている。なぜか、この光の方がまわりのどの景色よりも親しい感じがした。そのとき、すぐ近くに、瓦礫の山の上のほうに、トロカデロ宮殿のそびえ立っているのが見えた。まえとは違う。何かが抜けたような感じだが、その輪郭はトロカデロ宮殿に間違いなかった。そのうしろに、赤い光に染まった一本の蒸気の柱が渦巻きながら、ビュウビュウと吹きあがっている。それを見て彼女は、パリを、セーヌ川を、暖かく曇った夜を、美しく照明された最高司令部の内部を思いだした……。
倒れていた斜面を少しはい上がって、あたりを見まわすと、だんだんと様子がわかってきた。
自分が倒れていた場所は、ひとつの岬のように川の中へ突きだしていたのだ。すぐそばに、せきとめられた水があふれ出しそうになった湖のようなものがあり、ここから温い湯が何本も小川になって、あるいは奔流になって溢れ出していた。その湖の、鏡のような水面から三十センチほどの所に、幾筋も蒸気が立ちのぼって輪をえがいている。すぐ手前の水面に、見おぼえのある一本の石の柱の上半分がくっきりと映っていた。湖から自分の脇のほうへ目をむけると、瓦礫が積みかさなってゴタゴタした急斜面があり、そのてっぺんがギラギラと光っている。このギラギラとした光の上の方に、その光を反射しながら、ふとい柱状の蒸気が幾本も天空めがけて奔騰していた。瓦礫の山のてっぺんから、その無気味な輝きが発して、あたりを照らしているのだが、やっと、この廃墟の山が、消えうせた最高司令部の建物だと、タイピストは気がついたのである。「でも!」と彼女はつぶやいて、暖い地面に身を伏せるようにして、しばらく目を大きく見ひらいたまま、瞬きもしなかった。
だが、やがてまた、この人間の残骸は、あたりを見まわし始めた。仲間がほしくなってきたのだ。質問をしたり、おしゃべりをしたり、自分の経験を語ったりしたくなってきたのだ。だが、足が恐ろしく痛む。救急車が来なくてはいけないのに、と不満が彼女の心をよぎった。これはきっと大惨事なんだわ! 災厄が起こったときは救急車や救護班が走りまわるはずなのに……。
彼女は首をのばした。何か、あそこに見える。でも、なんて静かなんだろう!
「あのう、もし!」
と声をかけたが、耳の具合のおかしいことに彼女は気がついた。耳の具合が悪くなったのかしら、と彼女は、このとき、はじめて気がついた。みんな体の具合がおかしくなったのかもしれない。
見なれぬこの混乱の世界は、おそろしいほどさびしかった。あの男の人は……男だろうか? よくわからない……気を失っているだけかもしれない、じっと動かないけれど。ショックで気絶しているのかもしれない。
むこうの光がギラリと輝いて、その男の倒れているあたりに光線が射しこみ、一瞬、隅々まではっきりと照らし出した。デュボワ元帥だった。大きな板のような戦略地図を体をくっつけるようにして倒れている。地図には小さな木片がひっついたり、ぶら下ったりしているが、これは国境に配備した歩兵、騎兵、大砲などのしるしだった。元帥は、自分の背中にあるこの地図に気がつかないような様子だった。注意していない様子と言っても、無関心なのではなく、何か、考えごとをしているような感じだった。
ふさふさとした眉の下の目は見えないが、たしかに元帥は眉をしかめていた。かすかに眉根を寄せている。邪魔されたくないという顔だ。その顔にはまだ、あの自信満々の表情、わたしにまかせてくれたら、フランスは安心してよいのだ、という確信の表情がみちていた。
若いタイピストは、もう声はかけずに、にじり寄っていった。不安な推測に彼女は目を大きく見ひらいていた。痛いのをこらえて、よじるようにして身を起こすと、石や煉瓦の破片の上からグッとのぞきこんだ。手に何か濡れたものが、ベッタリとついた。ブルッと身ぶるいして彼女はこわばってしまった。
そこに倒れていたのは人間ではなかった。人間の破片だった。首と両肩があり、その下はズルズルと黒いぼろぎれのようになって、黒い水たまりのようなものに浸かっていた。
じっと彼女がそれを見つめている間も、上のほうの小さな丘がゆれ、崩れて、熱湯がドッと降りそそいできた。そのとき、彼女はグッと下の方へ引きこまれるような気がした……。
三
フランス特殊科学兵団司令官は、丸い頭の黒い髪を、ブラシのように短く刈りこんだ、若い、かなり粗暴な男だったが、まもなく、最高司令部壊滅の知らせを聞いて、大声を上げて笑った。自分の専門以外のことには想像力が全然働かない男で、パリが炎上していても、大して問題ではなかったのだ。両親と妹はコードベクに住んでいるし、初恋の人は……これがまた貧弱な初恋だったが……ルーアンにいるから、関係がないというわけだった。彼は副官の肩を叩いて言った。
「さあ、こうなったら、ベルリンへ行って奴らに仕返しをしてやるぞ。邪魔する奴は、一人もおらんぞ……戦略とか外交政策とかそんなものは、もうおしまいさ。さあ、いこう。ここらの婆さん連中に、ちょっと見せてやるか、思いどおりにさせてくれたら、なにが出来るか」
五分間、電話をかけると、彼は宿舎にしていた城館の中庭に出ていって、大声を上げて自動車を呼んだ。夜明けまでには一時間半もないから、迅速に事を運ばなくてはならない。空を見ると、青白い東の空に分厚い層雲がひろがっている。これでいい。
頭がじつによく回る青年だった。部隊の機材や航空機の類は、田舎の方々に疎開させて、納屋に隠したり、乾草でおおったり、森の中に隠したりしてあった。たとえ鷹が、銃で射ち落とされるほど低いところへ降りてきても、絶対に見つけられないほど巧みに隠してあった。だが彼が、その夜、必要としたのは、ただ一機の飛行機だった。しかもその一機は、二マイルも離れていない二つの麦わら山の前に、防水布をかけて、準備もすっかりととのえて待機していた。この飛行機に一人だけ仲間をつれて乗りこみ、ベルリンへ飛ぶというのだが、彼の目的には、人間は二人で充分だというのだ。
この飛行将校の手には、悔い改めぬ人類に科学が押しつけようとしている沢山の贈り物を補う一つの黒い贈り物、つまり破壊の贈り物があった。しかも、この男は同情的というより冒険型の人間だった。
色の黒い青年で、テラテラと光る顔には、なんとなく黒人的な感じがあった。うまく事が運んで、これから大きな楽しみが待っているというような顔でニコニコと笑う男だった。
「奴らにしっぺい返しをしてやるぞ。しっぺい返しをな。さあ、みんな、ぐずぐずする時間はないぞ」
と命令する声には、異国風な豊かな響きがあり、なにかクックッと笑っているような雰囲気があった。命令しながら振り立てる長い指は、毛むくじゃらで、異常なほど太かった。
まもなく一機の高速機が、ウェストファリヤとサクソニー上空の層雲の上を矢のように中欧軍の心臓部めがけて飛んでいった。原子力機なので、エンジンは、一筋の日光のように、また、機に装置した発光性回転羅針儀のように、音も立てなかった。機は高空へは上昇せず、下界をさえぎる暗い層雲の上、三、四百フィートの所を、かすめるように飛んでいったが、これは万一、敵機を発見したときに、ただちに湿った積雲の中へ突っこもうと考えていたためである。
緊張した操縦士は、上に光る星に注意して目じるしにする一方、下界を隠してひろがる蒸気層の乱雑な表面にも気を配っていた。この雲の層は、広大な範囲にわたって、凍りついた溶岩の流れのように、平坦に静かに拡がっていた。やがて、あちこちに透明なギザギザの破れ目が見え、完全に突きぬけた亀裂部が現われて、ここから遥か下にぼんやりと下界が光って見えた。一つの大きな鉄道の駅が明りや信号燈で、はっきりと輪郭を見せていたし、大きな丘の斜面にモクモクと煙を這わせて、麦わら山が赤く鈍く燃えているのも見えた。しかし下界は、雲に隠されてはいても、にぎやかな音を立てていた。蒸気の床を突きぬけて、汽車の轟音や自動車の警笛の音が昇ってくる。はるか南の方からは銃声もきこえる。目的地にせまるにつれて、鶏の声が……。
雲の海のもうろうとした水平線の上の空には、はじめ、たくさんの星があったが、北から東へ夜明けの明りがせまってくるにつれて、青白く薄れていった。銀河は青空のなかにかすみ、小さな星々は消えていった。操縦ハンドルをにぎっている冒険家の顔が、羅針盤の緑の楕円形の光のなかに、ときどき、ぼんやりと浮かびあがるが、そこには意志を集中するときに表われる厳しい美しさがあった。がまた、白痴の子どもがマッチをやっと手にいれた時のような、幸福の表情も見えた。仲間の搭乗員はさらに想像力のとぼしい男で、長い柩のような恰好の箱の上に、両脚を大きくひろげて馬乗りになっていた。この箱の仕切りのなかに、三個の原子爆弾が入っていた。連続的に無限に爆発する爆弾、これまで誰も、現実にその爆発を見たものがない新型爆弾である。この爆弾の基礎成分のカロリナムは、周りを鉛で固めた鋼鉄製の小部屋の中で、これまで、ほんの極少量を実験したにすぎなかったのである。おれの尻の下には、巨大な破壊力を秘めた黒い球形爆弾がある。おれは、命令を正確に果すのだ、という気持以外に、この男の頭の中はからっぽだった。星あかりに浮かんだ鷲のようなその横顔には、ただ深い暗さが見えるだけだった。
中欧の首都が近づくにつれて、下の空が澄んできた。
これまで一度も、敵機の迎撃を受けなかったのは珍しい幸運だった。きっと夜陰にまぎれて、敵の国境哨戒機をやりすごしたのだろう。おそらく敵機はほとんど、雲の下を飛んでいたのであろう。世界はひろい。ただの一機の哨戒機にも接近しなかったのは幸運であった。原子力機は、薄い灰色に塗ってあるので、雲海の上を飛んでいると、ほとんど雲と見分けがつかなかった。しかし、いまや、太陽が昇ろうとして、東の方が赤く染まってきた。ベルリンまで、あとわずか二十マイルである。まだ、フランス機の幸運はつづく。ごくわずかずつ、下の雲が切れてきた。
ずっと北東の方角の、だんだんと明るさをましていく雲の切れ間に、ベルリンが見えた。まだ夜の燈火があかあかとついている。操縦士は左手の指先で、ハンドルにとりつけた雲母張りの四角の地図の上をおさえながら、下の道路や空地を確認していった。あそこの、湖の連続しているようにひろがって右へ伸びているのがハーフェル川だ。あの森林を越えた所が、きっとシュパンダウだ。あそこの、川の分かれる所がポツダム島。真正面がシャールローテンブルクだ。真中を大通りが割って走っている。それが王宮の方へ一直線に標識燈のように伸びている。あそこに、はっきり見えるのが動物園。その向こうにそびえるのが王宮。右の方の、あのかたまって立っている高い建物群、旗やマストの立ったあの屋上群、あれが、中欧軍参謀本部にちがいない。すべてが寒いほど澄みきった、色のない夜明けだった。
ふと、操縦士は目を上げた。ブンブンという音がきこえ、たちまち大きくなってきた。ほとんど真上の非常な高空から、一機のドイツ機が旋回しながら襲いかかってきたのだ。操縦士は、うしろの陰気な男に左手で合図をすると、小さなハンドルを両手でつかみ、その上に身を伏せるようにして、首をねじって上を見あげた。張りつめるように緊張して注意していたが、じつは彼は、ドイツ軍飛行士を頭から軽蔑していて、奴らの誰が、おれ以上に飛べるものか。いや、フランス空軍の最優秀の奴だって同じことだ、という自信があった。奴ら、鷹のように襲ってくるぞ、と彼は思っていたが、ドイツ機は、非常に寒い高いところから降りてくる。しかも朝の空腹どきの元気の出ない時刻なので、だらけた男が剣をぶらさげるような恰好で、ななめに突っこんできた。しかも速度も大したものでないので、フランス機はその下をすり抜けて、後を追われながら、ベルリンヘ向かって飛ぶことができた。まだ一マイルも離れているのに、敵機は拡声機を通じて、ドイツ語で誰何《すいか》してきた。しゃがれ声が、かたまりになって聞こえるが、言葉はききとれない。こちらが陰気に黙りこんでいるので、ドイツ機は不安にかられて追跡し、舞いおりてきた。約百ヤード上空、二百ヤード後方だ。こっちが何者か、分かってきたのだ。フランス機の操縦士は、相手を監視するのをやめ、前方のベルリン市に全神経を集中した。両機は、しばらく追いつ追われつ全速力で飛んだ。
紙を引きさくような音がして、横を一発の弾が流れた。また一発。パン、と一発当った。
行動の時だ。広い並木通り、公園、王宮が下に、グングンとひろがりながら迫ってくる。
「投下用意!」
と操縦士は叫んだ。
やせた顔を陰気に引きつらせ、爆撃手は、両手で、大きな爆弾を箱から持ちあげると、箱の横につけて、ささえた。直径六十センチの黒い球形爆弾だ。二つの取手の間に、小さなセルロイドのボタンがついている。爆撃手は、うつむいて、唇をこれに当てた。起爆装置に空気を送りこむのにこれを噛むのだ。唇がつくのを確かめると、彼は、機体の横に首を突き出して、距離と速度を計り、素早く、前にかがんで、セルロイド・ボタンを噛み、爆弾を横に出し、
「一発」
と口のなかでつぶやいた。
爆弾は、空中で、パッと目もくらむ真紅の閃光を発すると、旋風をおこしながら一本の火の龍巻になって落下していった。追いつ追われつ飛んでいた両機は、羽根のように、いきなり横ざまに高く跳ねあげられた。フランス機の操縦士は、歯をくいしばり、目をギラつかせて、大きく傾いた機を必死に立て直そうとする。爆撃手は両手、両膝で箱にしがみつき鼻孔をひろげ、歯を食いしばっている。ベルトで体がしっかりと、とめてあるのだ。
爆撃手がやっと下を見ると、まるで小さな火山の噴火口を見おろすようだった。王宮前の広々とした庭園に、凶悪な華麗な輝きをはなつ、一つの星が、いきなり飛びだしてきたかと見ると、まるで、こちらの機を告発するかのように、モクモクと煙と火を上空へ吹きあげてきたのである。高すぎて、人間もよく見えないし、建物への爆撃の効果もよくは見えなかったが突然、炎の前に建物の正面がゆれ、砂糖が水にとけるような恰好で崩れ落ちた。爆撃手は一瞬それを見つめたかと思うと、ニュッと長い歯をむき出して、ベルトでしめた不自由な体で、何とかフラフラと中腰になり、もう一個の爆弾を持ちあげ、ボタンを噛み、放り出した。
今度は爆発が機の真下ちかくで起こった。機は上にほうりあげられて横転した。爆弾箱が留め金から外れそうなほど傾き、爆撃手は、三つめの爆弾の上につんのめって、顔がセルロイドのボタンの前にきた。彼は、その爆弾の取手をつかみ、こいつを放してなるものかと、いきなり、セルロイド・ボタンに噛みついた。ところが、それを機外に投げるよりも早く、単葉機がななめに滑りだした。なにもかもが、ななめに落ちる。本能的に爆撃手は、物をつかもうとして両腕で爆弾にしがみついた。
そのとき爆弾が爆発した。操縦士も、爆撃手も、飛行機も、ぼろくずと、金属片と、水滴となってとび散り、三つめの火の龍巻が下の建物めざして落下していった。
四
これ以前の戦争には、連続的爆発物などというものは、一度も存在したことがなかった。実際、二十世紀中頃までは、およそ爆発物といえば、瞬間的に爆発する可燃性物質だけを指していた。だから、この夜、科学が世界に押しつけたこの原子爆弾は、使った当人も知らない新爆弾であった。連合軍の使った原子爆弾は、純粋カロリナムの塊りで、外側に、酸化前の膨張性起爆剤を塗り、これを膜質のケースで気密状に包んだものであった。爆弾を持ちあげるために二つの取手があるが、その取手の中間に、セルロイドのボタンがついている。これは簡単に引きちぎれるようになっているが、これをちぎると、空気が起爆剤に触れて、これが直ちに活動をはじめ、カロリナム球の外層に放射能をひき起こす。これが、新たな起爆剤の活動を起こし、こうして二、三分のうちに、爆弾全体が連続爆発の火のかたまりとなる。中欧軍の爆弾も同じ原理で出来ていた。ただ、もっと大型で、起爆剤を活動させる装置がもっと複雑に出来ていただけの違いしかない。
以前の戦争では、発射された砲弾や、ロケット弾は、瞬間的に爆発するだけで、いったん破裂すれば、それで終りであり、衝撃力や破片の飛散する範囲に、生き物や、貴重なものが存在しなければ、爆発の効果は無であり、終りであった。しかし、カロリナムは、ヒスラップ〔ジイムズ・ハーヴェイ・ヒスラップ。一八五四〜一九二〇。アメリカの哲学者、物理学者、心理学者〕の言う「留保性崩壊性元素」のベータ群に属する物質で、いったん崩壊過程が誘発されると、猛烈なエネルギーの放射をはじめて、絶対に、これをとめられなくなるのだった。ヒスラップの人工元素のうちで、カロリナムは最もエネルギーの貯蔵量が大きく、製造、取扱いの面でもっとも危険な物質であった。今日でも、もっとも強力な崩壊性物質とされている。二十世紀初期の化学者がカロリナム半期と言ったのは十七日間であった。つまり、カロリナムは、十七日間かけて、分子中の膨大な貯蔵エネルギーの半分を放出し、それから第二期の放出が起こり、また次が起こる、というふうにしてつづいていく。いろいろな放射性物質の場合と同じく、このカロリナムは、十七日毎にエネルギーが半減し、たえず減少をつづけていくが、決して完全にエネルギーが消滅することはない。だから今日まで、人類史のあの狂乱時代の方々の戦場や被爆地には、発光性の物質がばらまかれていて、厄介な光線を発しているわけである。
セルロイド・ボタンを開いたときに、起爆剤が酸化し、活動をはじめる。すると、カロリナム表面の分解がはじまって、この分解が、ゆっくりと爆弾内部におよんでいく。爆発直後には、まだ爆弾は、表面が爆発している球体にすぎず、火炎と轟音に包まれた大きな不活発な核にすぎない。飛行機から投下された爆弾は、この状態で落下していって、まだ大部分が固体のままで地上に達し、土砂と岩石を溶解しながら地中にもぐっていったのである。地中で活動するカロリナムの量が増すにつれて、爆弾はひろがって、熱エネルギーの巨大な洞穴となって、その上部に、たちまち小型火山が出来あがったわけである。カロリナムは拡散できないときは、地中に突っこんでいって、沸騰した溶解土砂や、過熱した蒸気と混り合って、猛烈な旋回運動と噴火をつづけるのであった。その噴火が何年つづくか、何カ月つづくか、何週間つづくか、それは、爆弾の大きさと、拡散の偶然に支配された。いったん発射されると、この爆弾は絶対に、そばには近づけないから、そのエネルギーがほとんど消えるまで、手のほどこしようがない。爆弾の上の方に開いた火口からは、白熱性の重い蒸気が吹きあがり、カロリナムをたっぷりふくんだ岩や泥のかたまり、つまり、一つ一つが灼熱のエネルギーの中心となった恐ろしい岩や泥のかたまりが、空高く舞いあがって、はるか四方に飛び散る。
勝敗の鍵をにぎるという最終爆弾、すなわち軍事科学最高の勝利とは、こういうものであった。
五
ある最近の歴史家が当時の世界について、「出来あがった言葉を信じて、一目瞭然の事実に対して、どうしようもなく盲目だった世界だ」と評している。今日の目から見れば、戦争が急速に不可能になっていくという事実ほど、二十世紀初期の人びとにとって明らかなことはなかっただろうと思えるのに、しかし、彼らに、それが分からなかったことも、また同じく確かなのである。原子爆弾が彼らの不器用な手の中で爆発して、はじめて、それに気がつく始末であった。しかし知識人には、それは火を見るよりも明らかな事実だったにちがいない。十九、二十両世紀を通して、人間に使えるエネルギーの量は絶えず増大をつづけていた。ということは、戦争になった場合、打撃をあたえる力、破壊する力が絶えず増大していたということである。しかし、その破壊をのがれる能力には全然なんの増加も見られなかった。あらゆる受動的防衛力、つまり、防衛武器、防禦施設その他は、破壊力の物凄い増大の前にどんどん後退をつづけていた。破壊はじつに簡単なことになって、ごく小さな不満分子の集団でも、破壊行為に出ることができ、そのために、警察や国内治安の問題は根本的に改革されようとしていた。一人の人間が、ハンドバッグに、一都市の半分を破壊できる潜在エネルギーを入れて、歩くことが出来るということは、最終戦争の始まるまえから常識になっていた。誰でも知っていたのである。街で遊ぶ子供でも知っていたのである。それなのにまだ世界は、軍備とか、戦争の大義名分とかと騒ぎたてて、アメリカ人のいいぐさではないが、「バカさわぎ」を演じていた。
科学的、知的動向と法律的政治家の間にひらいた、この途方もない深い溝を見たときに、はじめて、後世の人びとは、この不合理な世界の状態がわかってくる。社会組織はまだ野蛮段階にあったわけである。たしかに、多くの知識人がいて、大きな個人的、商業的文明は存在した。しかし、全体としての社会は、無目的で、訓練や組織に欠け、ほとんど白痴的状態であった。集団的文明、すなわち「近代国家」はまだ未来に託されていた。
六
だが、話をフレドリック・バーネットの『修業時代』にもどして、戦時中の一平凡人の体験を見ることにしよう。パリとベルリンに、恐るべき科学の可能性が実現して原子爆弾が落ちているときに、バーネットの中隊は、ベルギー領ルクセンブルグで、せっせと塹壕ほりをしていた。
バーネットは、動員の模様とか、フランス北部およびアルデンヌ地方を夏の一日、汽車で輸送された時の様子などを、生き生きとした調子で語っている。そのあたりは、温い夏の日に茶色に色づいて、木々は僅かに秋の色に染まり、小麦はもう黄金色に光っていた。部隊の列車がイルソンで一時間停車したとき、三色旗のバッジをつけた男女たちがプラットフォームに現われて、喉のかわいた兵隊たちのために、ケーキやビールを配り、さかんな交歓がおこなわれた。「じつにうまい冷えたビールだった。イギリスのエプソム以来、わたしは何ひとつ飲み食いしていなかったのだ」と書いている。
「大きな燕のような、たくさんの単葉機が、ピンク色の夕空を哨戒飛行していた」
バーネットの属する大隊は、セダン地区〔フランス北東部アルデンヌ県の町でベルギー国境に近い。一八七〇年以来しばしば独仏間の大戦場となる〕を通過して、ヴィルトン〔セダン東南にあるベルギー最南端の町〕という所に向かい、ここから沿線の森の中の一地点を経由して、ジェメレ〔ヴィルトンの北の方に当るベルギーの町〕へ送られた。ここで部隊は列車から降ろされ、列車や物資が一晩中通過するのを見送りながら、不安な野営の一夜をすごした。明くる日、寒く曇った夜明けをついて出発し、やがて炎天になった午前中をかけて、東の方角に行軍し、森林の散在する広々とした田園地帯を通過して、アーロン〔ベルギー東南部にある要塞市〕へ向かった。ここで、歩兵部隊は、サン・ユヴェールからヴィルトンにかけて設けられた掩蔽《えんぺい》塹壕線と掩蔽銃座陣地の補強作業についた。これらの陣地はミューズ川沿いの防衛線に対して東側からの進撃があったときに、これを阻止、遅延させるための陣地であった。部隊は部隊としての命令を受けていた。だから、二日間、敵影も見ず、また、突然全ヨーロッパ軍の首を切り落としたあの大変事、つまりパリの西部とベルリンの中心部を炎上させ、ポンペイ壊滅の小型版を演じたあの大事件のことなど、夢にも知らずに塹壕掘りをしていたのである。
ところが、その知らせが、やっととどいた時も、かなり薄まった弱いものになっていた。「パリが空襲で被害を受けたと聞かされたが、しかし、『彼ら』がまだ、どこかで、計画を練り、命令を出していないわけでもあるまいと思っていた。だから、敵が前方の森から現われたときは、わが軍は喚声を上げて、猛烈な射撃を開始した。当面の戦闘以外のことは、大して気にもとめていなかった。ときどき目を上げて、上空で何をやっているか見ようとすることがあっても、たちまち弾が飛んできて、また目は地上にもどった」とバーネットは書いている。
北のルーヴァンから南のロングウイにいたる広大な戦線で三日間戦闘はつづいた。戦闘は本質的に銃撃戦、歩兵戦であった。飛行機は、数日間は、実際の戦闘に決定的な役割を演じることはなかったようだが、もちろん、奇襲作戦を防止することによって、最初から戦略に影響をあたえていたことは明らかである。原子力エンジンを装備した飛行機だったが、原子爆弾は積んでいなかった。原子爆弾は、野戦には明らかに不向きだったからである。また、他の何の効果的な爆弾も積んでいなかった。それにまた、両軍機は、たがいに策をつくして飛びちがったり、地上からの銃撃、飛行機どうしの銃撃があったりはしたが、本格的な空中戦はすくなかった。飛行士たちが空中戦に気乗りがしなかったのか、それとも両軍の指揮官が、飛行機を哨戒用に保有しようとしていたのだろうか……。一日か二日、塹壕掘りをしたり、計画を練ったりしているうちに、いつのまにか、バーネットは最前線の戦闘に参加していた。これよりまえ、バーネットは、連絡路になっている深い乾いた溝に沿って、受け持ち区の射撃壕を堀り、隣接した畑には土をまき、壕の上には、麦束のかたまりやケシのかたまりを置いたりして、これを隠しておいたのだった。敵が下の方の野原を、何も知らずに、がむしゃらに前進してきた。味方のはるか右翼の方の誰かが、早まって発砲しなかったならば、敵はきっと、大損害をこうむったことだろう。
「敵兵が見えたときは、ゾクゾクしたものだ。大演習そっくりの気分だった」とバーネットは告白している。「森の端の所で、しばらく止まり、やがて散開して前進してきた。歩いて、どんどん接近してくる。こちらの方は見ずに、ずっと右の方に目を向けている。弾に当る者が出てきて、将校たちの笛の音に、ハッと緊張しはじめてからも、こちらの方は見えていないらしかった。一人か二人が立ちどまって発砲すると、やがて敵軍はまた森へ退いていった。最初は、ふり返ったりして、ゆっくりと後退していったが、森で守られると思うのか、やがて引っぱられるように駈け足で走っていった。わたしは、機械的に発砲した。弾ははずれた。もう一度撃った。それから、今度こそ当てるぞという気を起こして、麦畑の中へ隠れようとする一つの青い背中に、じっと狙いをつけた。ところが、背中の動きが、痙攣するように震えて、あやふやなので、最初、狙いに満足できず、撃つのをひかえた。すると、その敵兵が、溝か何か、障害物にゆき当って、ちょっと動きがとまった。『やったぞ』とわたしはつぶやいて、引き金を引いた。
「じつに奇妙な感覚を味わった。最初当ったと感じたときは、喜びと誇りに顔中が光るような気持がした。
敵兵はクルクルと回り、パッと跳ねあがると、両手をワッと差しあげた……。
それから、麦の穂がゆれ、彼がバタバタとノタ打っているのが見えた。急にわたしは胸が悪くなった。死ねないのだ。どこかに当って重傷を受けたが、それでも、もがくことは出来るのだ。わたしは考え始めた……。
二時間ちかく、プロシャ兵は麦畑のなかで苦悶していた。大声を上げて叫んでいた。あるいは、あの声は、誰かが、彼に叫んでいたのかもしれない。すると彼は急にパッと立ちあがった……最後の力を振りしぼって立ちあがったらしいが、立ちあがったとたんに、ドサリと袋のように倒れて、それきり動かなくなった。
彼は、たまらないようた叫び声をあげていた。きっと誰かが撃って、とどめを刺してやったのだと思う。しばらく、わたしも、そうしようかと思っていたほどだから。
敵は、下の方の森の中につくった遮蔽陣地から、わが軍の射撃壕をねらって撃ってきた。わたしの横の壕に入っていた兵士が撃たれて、カンカンに怒りだし、ののしり、わめきだした。溝の中を這いよって見ると、血だらけになって苦しんでいる。右手の半分がグチャグチャにつぶれ、怒りで半狂乱になっていた。『これを見ろ。なんてバカな! なんてバカな! おれの右手が、おれの右手が!』と、その兵士は、つぶれた手をだきこんだり、伸ばしたりしながら、わめきちらしていた」
しばらく、バーネットは、どうすることも出来なかった。一発の弾丸で、一瞬にして技術兵としての技能と有用性を粉砕してしまった戦争の凶悪さ、おろかしさがわかって、その兵士は苦悶していたのだった。兵士は、自分の手の小さな残骸を見つめて、その怖ろしさに混乱してしまい、なんと言っても聞きいれようとしなかった。が、やっと、バーネットは出血している手の切り株をしばり上げ、その体を支えながら、溝のなかを移動し、迂回して、射程外に連れ出した。
バーネットがもどって来てみると、部下たちは、しきりに水をほしがっていた。射撃壕陣地の兵隊たちは、一日じゅう、のどの乾きで非常に苦しめられた。食料は、パンとチョコレートだった。「最初は、砲火の洗礼を受けて、わたしはいやに興奮していたが、やがて、暑い日中の時間がやってくると、たまらなく不快な気分になり、もてあましてきた。ハエがたくさん飛んできて、うるさくてたまらない。その上、小さな墓場のようになったわたしの射撃壕に、アリが侵入してきた。ところが、立ちあがることも、動き回ることもできない。敵が木に登って、狙い撃ちにしてくるのだ。麦畑の中に倒れているプロシア兵のこと、部下の兵士の苦しい叫び声のことを、わたしは考えつづけていた。なんてバカなことなんだ! じつに、愚劣きわまることだ。しかし、この責任は誰にあるのか? どうして、こんなことになったんだろう?……
「正午をすぎると間もなく、一機の敵機が飛んできて、ダイナマイト爆弾を落して、わが軍を壕から追い出そうとしたが、一、二度弾をくらうと、森の向こう側に、急に姿を消した。
『きょう、オランダからアルプス山脈にかけて、身をかがめたり、地面に腹ばったりして、たがいに、二度と回復できない大損害をあたえようと戦っている兵士の数は百五十万を下らないにちがいない。あんまり白痴じみていて現実とも思えない。これは夢だ。やがて、醒めるだろう……』
それから、その言葉が心の中で変わった。『やがて人類は目ざめるだろう』
壕の中で身を伏せながら、この何十万の兵隊のうちで、果たして何千人が、こういう古くさい軍旗と帝国の伝統に対して、精神的に反抗しているだろうか、とわたしは考えていた。われわれは、すでに、最後の危機の苦しみの中にあるのではないか? 悪夢の恐怖がどん底に達して、睡眠者が、もう耐えられなくなり、目をさます時期に来ているのではないか?
こんな思いが、どういうふうにして終ったのか、それは分からない。終ったというよりも、ナムール〔ベルギー南西部の州の首都・要塞地〕に対する長距離砲撃のドスンドスンという遠い砲声で、気が散ったのだと思う」
七
しかし、バーネットは、まだやっと近代戦の極く穏やかな緒戦を見たにすぎなかったのである。ほんのちょっとした射撃戦に参加したにすぎなかったのである。二十マイル以上離れたクロワ・ルージュという地点で、最前線陣地が敵の銃剣突撃を受けて突破されると、その晩、夜陰にまぎれて、部隊は、射撃壕を放棄した。そして、バーネットは、これ以上損害を受けることなく、部下の中隊を脱出させた。
バーネットの属する連隊は、ナムールとセダンを結ぶ要塞線の背後へゆうゆうと後退し、メテットという駅で列車に乗りこみ、アントワープ、ロッテルダムを経て、北のバーレムへ送られた。ここで列車を降ろされ、行軍して北オランダへ入った。ここで初めてバーネットは、自分を小さな歯車として組み入れているこの戦争の、巨大な破滅的な様相を理解しはじめたのであった。
ブラバン地方の山々や野原をゆく行軍の模様を、彼はじつに楽しい筆致で描いている。ラインの流れを右へ渡ったり、左に渡ったりする様子。ベルギーの起伏する景色が平坦な豊かな牧草地に変わる有様。日ざしを浴びた土手道路、オランダ平原の無数の風車のたたずまいなどを、彼は楽しく描いている。当時は、アールクマーやライデンから、ドラート湾にかけては坦々たる平地であった。南オランダ、北オランダ、ゾイダーゼーラントの大きな三県は、十世紀初期から一九四五年にかけて、何度も埋め立て工事があり、堤防の外の水面よりずいぶん低地になっていたが、その青々とした干拓地は、北国の太陽の下にひろびろとひらけて、稠密な勤勉な人口を養っていた。そして、法律、慣習、伝統が複雑な網の目のようになって、まわりの海をたえず監視し、これを警戒していた。ヴァールヘレンからフリースラントまで二百五十マイル以上の距離にわたって、堤防とポンプ施設が一線につづくその見事さには、世界は称賛をおしまなかったものである。
もしだれか、好奇心のつよい神が、側面を迂回するこのイギリス軍の行軍の最中の北方三県の様子を見物したいという気を起こしたとすれば、あの積雲の上が、つまり、あの大破滅の前の、いろいろと事件の多かった日々、青空を流れていたあの大きな積雲の上が便利な観測所になったことだろう。暑い、晴れた、ちょっとほこりっぽい天気だった。積雲の上から見おろす神には、明るい日ざしを浴びて、ひろびろとひろがる緑の野原が雲の流れる影の所だけ黒くなる景色、あるいは、空を映した湖が、こんもりとした柳に縁どられたり、大きくひろがる銀色の雑草区域に区分けされている景色などが見えたことだろう。あるいは、白い道路が太陽の下にむき出しに伸びている有様、また、網の目のようにひろがる運河の模様なども見えたことだろう。牧場には牛が生きいきと草を食べ、道路には、家畜、自転車、色とりどりの農夫の自動車などが忙しく行き交い、運河にも無数の発動機付きのはしけが、色とりどりにのぼりくだりして、陸路のにぎやかさと競い合っている。そして、干し草山や納屋に囲まれて立つ孤独な農家にも、また、道端に五、六軒かたまって立つ部落にも、あるいは、古いりっぱな教会をもった方々の部落にも、運河をめぐらし、橋や刈りこんだ樹木のたくさんある小ぢんまりとした町々にも、とにかく、いたるところに、人びとが住んでいたのである。
この地域の人びとは交戦国民ではなかった。オランダ人の利益や同情は非常にまちまちで、結局、最後までオランダは、世界列強の闘争の渦中にあって、態度を決せずに受身の姿勢をとっていた。いろんな軍隊の通る沿道のいたる所に、これを公平な目で見物する人だかりや群集が出ていた。特殊な白い帽子をかぶり、古めかしい木靴をはいた女や子供たちに、長い煙管を静かにくゆらしている年輩の、きれいにひげを剃った男たちの群衆だった。彼らは、侵入者たちを全くおそれていなかった。「兵隊」という言葉が、みだらな略奪者の集団を意味した時代は、遠い昔のことであった。
雲間から見おろしている神には、カーキ色の軍服の兵隊や、カーキ色に塗った軍需物資が、オランダ低地全域に、ひろびろと散らばっている有様が見えたことだろう。また、兵隊をギュウギュウ詰めにした列車、大砲や軍需物資を満載した列車などが、破壊工作員を警戒しながら、のろのろと北へ向かって走る有様も見えたことだろう。また、シェルト川、ライン川が、つぎつぎと集まる大量の兵員、大量の物資の積みこみや積みおろしで、ごった返している景色が見えただろう。大休止や糧食補給や降車の模様も見えただろう。騎兵、歩兵の長い毛虫のような、にぎやかな行列、ウジ虫のようにつづく荷馬車輸送隊、巨大なカブト虫のような大砲などが、堤防や道路を北に向かって、ポプラ並木の下を見え隠れしながら、進んでいく様子も見えたことだろう。その道の両側に、どちらにも味方しないオランダ人の平静な見物人が、のんびりと、たたずんでいる姿があった。各運河のあらゆるはしけ、あらゆる船舶は、軍の輸送用に徴発されていた。あの晴れた暖かい天気では、上から見おろせば、すべてが、何か動く玩具の大きなお祭り騒ぎのように見えたことだろう。
太陽が西に沈むときは、黄金色のモヤがかかって、眺めは、少しぼやけたにちがいない。太陽が沈みかけると、なにもかもが、暖かくなり、輝きを増してきたにちがいない。そして、影が長く伸びてくると、すべての物がくっきりと浮き出すように見えてきたことだろう。高い教会の建物の影が、どんどん伸びて地平線にとどき、宇宙の影の中にとけこむと、やがて、ゆっくりと柔らかに夜が迫り、深まりゆく青で、世界を一襞《ひとひだ》一襞とつつみこんでいく。はじめは、ぼんやりとした夜だが、そのうちにあちこちに、ポツリポツリと微かな点がともり、ついには、濃くなる闇の中に、何十万という燈火の宝石がともる。その闇とチラチラ光る灯の混り合う夜の底から、絶えることのない生活の物音が起こってきたことだろう。もはや、目を引かれるものもなく、その音は、いよいよ高く、はっきりと聞こえたことだろう。
澄んだ星空を雲に乗って漂う神は、一晩中徹夜して見おろしていたかもしれない。ウトウト眠ったかもしれない。しかし、そういう自然の欲求に負けたとしても、イギリス軍側面行軍四日目の夜には、神は、目をさましたはずである。この夜、オランダの運命を決した夜間空中戦がおこなわれたのであった。
ついに空中戦が開始された。叫び声、咆哮が聞こえたかと思うと、天のあらゆる方角から飛行機がとび出してきて、雲に乗る神のまわりで、突然、空中戦が開始された。撃ち合い、急降下し、宙返りし、急上昇し、地上めがけて突っこむ。地上の大軍を攻撃するため、これを防衛するため飛来した両空軍であった。
中欧軍はひそかに飛行機を集結していたのであって、いま、巨人が片手に握った一万本のナイフを投げつけるような調子で、これをオランダ低地へ投入したのであった。その飛行機の群れのなかに、原子爆弾を積んで、オランダの海岸堤防めざして、一筋に飛んでいくものが五機あった。北や西や南から、連合国側の戦闘機が舞いあがってこの奇襲部隊を迎撃し、こうして、空中戦が始まったのである。その夜、男たちは旋風に乗って駆けめぐり、大天使のように戦っては、倒れ、空は英雄の雨を降らせて地上を驚かせた。たしかに、人類の最後の戦いこそ、最もはなばなしい戦いであった。ホメロスの世界の激しい剣士の斬り合いも、戦車をきしませながら疾走する勇士の突撃も、この迅速な空中疾走、この墜落、この目もくらむ勝利、この死への真逆さまのさか落としと比べたら、なにほどのことがあったろうか。
天の星と地の灯の間の虚空で、飛びかかり、とっくみ合い、倒れるこの旋風のような猛烈な空中決闘の向こうの方から、一陣の烈風が吹きつけてきて、雷鳴よりも大きな爆発音がひびいた。すると、オランダの堤防めがけて、最初は一匹、やがては、何十匹という火の蛇が、飢えたもののように、スルスルと伸びながら飛びかかっていって、陸と海の境界線をたたき、真赤な煙と光と水蒸気の巨大な柱を吹きあげながら、そのなかをまたギラギラと跳ねあがっていった。
すると、闇のなかから、小さなこの国土がパッと浮かんで見えた。教会の尖塔や木々は蒼ざめていたが、まだあたりは静かで、くっきりと輪郭を見せていた。しかし海は、怒りでふるえ、血の海のような赤い泡を吹いていた。
下界の、大勢の人が住んでいる地域一帯に、ザワザワと不思議などよめきが起こって、カンカンとあわただしい警報の鐘が鳴りだした。
撃ち落とされずにまだ飛んでいた飛行機は、向きを変えて突然罪におびえるもののように姿を消した。
堤防の十数箇所の裂け目から、どんなに水を注いでも消すことのできない轟々たる火炎が吹きあがっている。そこから、うなり声を上げながら海水がなだれこんできた……。
八
「その夜、アルクマーの宿舎まで行き着けないのが残念だといって、われわれは、いまいましがった」とバーネットは書いている。
「そこへいけば、タバコでも食料でも、何でもほしい物がそろっていると聞かされていた。ところがザーンダムやアムステルダムから通ずる幹線運河が、ギュウギュウ詰めで動きがとれない。そこで、たまたま隙間があいたのを幸い、われわれは船列から離れて、小さな港のような所に、はしけをのり入れた。ここは、ひどくさびれた、草ぼうぼうの場所だった。一軒の無人の人家があるので、その前にはしけをつけた。家へ入って見ると、樽詰めのニシンがあった。いろんなチーズも山ほどあった。地下室には石壷詰めのジンまであった。腹のへった兵隊たちは大喜びだった。焚火をたき、チーズを焙り、ニシンを焼いた。われわれは四十時間ちかく、一睡もしていなかった。この休息所で一晩ねむり、朝、まだ運河がいっぱいで動けないようなら、はしけを棄てて、徒歩でアルクマーまでいこう、とわたしは決めた。
はしけを入れたこの場所は、運河から百メートルも離れない所で、小さなレンガ造りの橋の下から、まだ、はしけの船団が見え、兵隊たちの声がきこえる距離だった。すぐに、他のはしけが、五、六艘、橋の下をくぐりぬけてきて、入江の、われわれの横にとまった。このうちの二艘は、北アイルランドのアントリム連隊の兵隊を満載していたが、わたしは、彼らにも、さっき見つけた食料を分けてやった。そのお返しに、こちらはタバコをもらった。西の方に大きく入江は広がっていて、その向こうに、屋根の群がっているのが見えた。教会の塔も一つ二つ見えた。われわれのはしけは、かなり混雑して窮屈だったから、五、六分隊……三十人か四十人だったと思うが……の兵隊を陸に上げて、岸で野営させた。家の中には、家具を傷めてはいけないと思って、入らせなかった。食物の礼状を書いて、家の中に置いておいた。蚊がたくさんいたから、タバコと焚火はとくに有難かった。
食物を見つけた家の門には、『平和ありて喜びあり』という銘が刻んであった。家には、快適な生活を好む家人の忙しい隠居生活の模様が、ありありとうかがわれた。大きな茂みにバラやノバラの咲く、はなやかな楽しい庭の中を歩いて、一つの風雅な小さなあずまやに来ると、ここで腰をおろして、わたしは部下がかたまって炊事をしたり、岸辺にしゃがんだりしている様子を眺めていた。太陽が、ほとんど雲のない空を沈んでいく。
この二週間、わたしは全く暇のない忙しい生活をしてきた。上から来る命令に従うことのみに懸命になっていた。この間ずっと、精神力と体力のギリギリの限界まで働いて、唯一の休息の時間は、ただもう盗むようにして眠ったものだ。ところが今、思いがけなくも、この長閑な一ときにめぐまれて、わたしは、いま自分がしていることを静かな気持で眺め、その何ともいえない素晴らしさを胸にしみるように感じた。また、部下の兵隊への愛情をしみじみと感じた。われわれの服従的な立場、そのやむをえない、いろいろな気苦労を、こころよく朗らかに受けいれる彼らの態度には、わたしは全く心を打たれた。彼らの動き、彼らの声の、なんという快活さだろう。よろこんで指導にしたがい、集団的な目的に自分というものを忘れている! この二週間の緊張、苦労に、なんと彼らは男らしく耐えたことか。どれほど、ゆすぶられ、たたかれて仲間意識を育ててきたことか。そして結局、この愚かしい人間の血の中には、なんという美しいものがあるのだろう。結局あの兵隊たちは、人種の中の任意の見本にすぎないのだ……彼らの忍耐、彼らの自発性は、原子エネルギーと同様に、まだ眠っていて、正しく使われる日のくるのを待っているのだ。ふたたび、わたしの胸に圧倒的な力をもって迫ってきたのは、われわれ人類が最も必要としているのは、指導されることだ、という考えであった。最高の責任は、指導を受けることを発見すること、人類共通の目的を実現するために自己を忘れることだ。ふたたび、わたしの目に、生がはっきりと見えてきた」
こういう考え方は、この「ふとり過ぎの若い士官」の大きな特徴であって、のちに彼は、これを全部『修業時代』に書きとめることになった。しかし、こういう考え方は、その頃、すでに人類史の新局面を開こうとしかけていた人心の変化の一つの大きな特徴でもあった。バーネットは、さらに、科学や公務の面での個人性からの脱却について、また、この「救い」を自分で発見したことについて語っている。たしかに、それは、当時にすれば、感動的、独創的なことだったかもしれないが、今から見れば、人間生活の平凡きわまる常識としか見えない。夕映えがうすれ、黄昏が深まって夜になった。焚火はいよいよ赤く燃え、入江の向こう岸でアイルランド兵が歌いだした。しかし、バーネットの部下は疲労のために、そんな元気もなく、やがて、岸辺にも、はしけにも、転がってねむる兵隊の姿が見られた。
「わたしだけは、ねられないような気がした。疲れすぎていたのだろう。はしけの舵柄のそばで、ほんの少し、熱っぽいうたたねをしたかと思うと、また、身を起こした。目が冴えて、なにか不安な気がする……
あの夜は、オランダ全体が、空になったような感じだった。下の方に、ほんのちょっとした黒い縁がついたように見えるのは尖塔か、ポプラ並木なのだろうが、その上に、ひろびろと空がひろがって、われわれの頭上に達している。空には、やはり何も見えないが、しかし、わたしの不安は、その空に何となく引っかかるものがあった。
それにいま、わたしは憂うつな気持だった。まわりに転がって眠っている兵隊たちを見ていると、なにか妙に悲しい無力感に襲われる。こんな遠くまで行軍してきた彼ら。ちゃんとした日常の生活をすてて、こんな気ちがいじみた作戦に駆り出されてきた彼ら。なんの意味もないくせに全てを消耗するこの軍事行動、この下らぬ戦争熱に追い立てられて、はるばるこんな所までやってきた兵隊たち。人の生活とは、なんとちっぽけな、はかないものだろうか。偶然にもてあそばれ、ほんのつつましやかな夢一つ実現する意志さえ起こせないとは。これから先も、永久にこの調子だろうか。最後まで人間は、絶対に、わが運命を自らの手におさめて、それを意志によって変えることの出来ない呪われた存在だろうか。人間は、親切で嫉妬ぶかく、願望をもちながら、その方向になかなか進まず、能力はあるのに、つまらぬ衝動に走り、ついには、神話のように、クロノスに食われてしまうという、そんなことをいつまでも続けていく存在なのかもしれない。
突然ハッとして、われに返った。はるか北東の、はるか高空に、一飛行機編隊が飛んでいるのに気がついたのだった。真夜中の青空に、すっと引いた横線の集まりのように見えた。はじめは、渡り鳥の群のように、ぼんやりと、見あげていたことをおぼえているが、やがてそれが、国境方面から長い列になって急速に近づいてくる大編隊の一番はしの隊だと気がつくと、わたしは、にわかに緊張した。
その大編隊に気がついたとたん、どうして今まで気がつかなかったのか、とわれながらあきれた。
わたしは、まわりの仲間を起こさないように、そっと立ちあがったが、驚きと緊張とで激しく動悸していた。わが軍の前線で砲声でもしないか、と耳をすまし、それから、本能的に保護をもとめて南と西をふりむいて、目を凝らした。すると、まるで闇の中から湧いて出るように、飛行機が三列になって、ぐんぐんと迫ってくるではないか。ひじょうな高空を飛んでくる編隊と、一、二千フィートのところを飛んでくる主力編隊と、低いところを、姿をくらますようにして飛んでくる機数不明の編隊だった。主力は雲霞のごとき大群で、星がたびたび見えなくなるほどだった。やっぱり空中戦があるんだな、と思った。
眠る地上軍の上空に、ほとんど目にも見えない戦士たちが、音もなく急速に集まってくるこの有様には、異常に無気味なものがあった。まわりの兵隊は、まだ気がつかない。大運河に浮かぶ船舶にも、まだ何の動きもない。運河には、のんびりと灯がつき、焚火が縁どるように燃えていたから、上からは、川筋がはっきりと見えたことだろう。そのとき、はるかアルクマーの方角でラッパの声がした、と思うと、数発の銃声がひびき、ついで、激しく鐘が鳴りだした。わたしは、部下を、出来るだけねかせておこうと思った。
すると、たちまち空中戦が始まったのである。中欧空軍の出現に気がついてから、両空軍の接触までに、ものの五分もかからなかったと思う。北国の空の明るい青を背景にして、両空軍の接触の様子が影絵になってはっきりと見えた。連合軍機は……たいていフランス機だったが……敵編隊の真中に、猛烈な雨降りのように襲いかかった。まるきりそれは豪雨のはじまりのようだった。バチバチとはじけるような音がきこえた……これが初めて聞こえた音だった。この音で北極光を思い出したが、あれは、空中戦の銃撃音だったと思う。夏の稲妻のような閃光がひらめき、空一面が旋回する飛行機の乱戦の場になったが、それでも、ほとんど音はきこえなかった。中欧軍機が何機か、攻撃を受けて横転し、また何機かが、大破して、墜落していき、パッと白い火を吹いて燃えあがった。あまりに強い火で、目がくらみ、他の空中戦の模様がかき消されたように見えなくなった。
こういうふうに、片手をかざして光をさえぎり、目を凝らしているときに、まわりの兵隊がザワザワと身動きを始めたときに、原子爆弾が堤防に向かって投下されたのだった。原子爆弾は、空中で轟然たる大音響を発し、絵で見る反逆天使ルシファーのように、炎の筋を引いて落ちていった。ちいさな物までよく見えた澄みきった夜、いろんな事件のあった夜に、いきなり黒い暗幕が引かれ、そこに物凄い火柱が立ちのぼったように見えた。
爆発音がしたかと思うと、たちまち轟々たる風が吹いてきて、空じゅうに、チカチカと電光がひらめき、雲が疾走した……
この衝撃には、なにか不連続的なものがあった。一瞬前まで、わたしは、眠っている世界での孤独な観察者だったのに、つぎの瞬間には、まわりにたくさんの兵隊が立っていて、オランダじゅうの人びとが目をさまし、びっくり仰天していたのだった。
そのとき、風がなぐりつけるように吹いてきて、わたしの鉄甲が吹っとんだ。『平和ありて喜びあり』の家のあずまやも、鎌で草がなぎとばされるように、吹っとんだ。爆弾の落ちるのが見えたかと思うと、一発一発の衝撃にこたえて、真紅の大きな炎がパッと跳ねあがり、山のような赤い蒸気と瓦礫が、モクモクと立ちのぼる。この赤い光のなかに、数マイル四方が黒ぐろと、くっきりと浮かびあがった。教会、木々、煙突などがはっきりと見えた。このとき、頭にひらめくものがあった。敵は堤防を破壊したのだ。あの炎は堤防決潰のしるしだ。もうすぐ海水が押し寄せてくる……」
これから先のバーネットは、この大変な危機に際して彼がとった、いろんな処置について語るのだが、かなり調子が冗漫になる。しかし、そのときの状況を考えてみると、なかなか適切な処置をとっている。部下に声をかけて、はしけに乗せ、近くにいたはしけにも声をかける。はしけの機関士の兵隊を持ち場につかせ、エンジンをかけさせ、自分で、ともづなを解いた。そのとき、食料のことを思いついて、五人の兵隊を陸に上げて、チーズ二、三十個を運びこませ、洪水がくる前に、また兵隊をはしけに収容した。
この冷静な行動を誇らしげに彼は語っているが、それももっともなことかもしれない。エンジンを全速前進にして真向から波に向かうというのが彼の考えだった。大運河の交通停滞の中にいなかったのは幸運だった、と絶えず神に感謝したと言っているが、わたしに言わせれば、彼は水流の力を過大視していたと思う。水に押し流されて、家や木々にぶち当てられるのを怖れたのだ、と彼は説明している。
堤防が破壊されてから水が押し寄せてくるまでに、どれ位時間がたったか、そのことについては何も言っていないが、おそらく二、三十分はあったことだろう。いまやバーネットは、携帯用ランプひとつを頼りにして、闇と大風の中で作業をすすめた。彼は、へさきと船尾に灯をつるした。
押し寄せてくる海水から、蒸気が渦巻きながら吹き出している。海水は、堤防のほとんど白熱した決潰箇所から流れこんできたわけで、爆発した炎上箇所は、この大量の蒸気に、たちまち、すっぽりと包みこまれたのだ。
「ついに水が押し寄せてきた。前進する滝のような恰好でせまってくる。はばの広いローラーが土地の上を押し進んでくるような形だった。深いうなり声を上げている。ナイヤガラの滝のような水が襲ってくると思っていたが、水の前面の高さは、せいぜい四メートル程度だったと思う。われわれのはしけは一瞬、たじろいだようだったが、へさきを一度、水に突っこむと、またグッと持ちあげた。わたしは全速前進の合図をし、へさきを上流に向け、そこから外れないよう必死になって、舵をおさえて頑張った。
洪水もひどかったが風もひどかった。海との間にあった、いろんな物が浮かんでいて、それにはしけが突き当る。唯一の明りは、われわれのはしけの灯で、二十メートルも離れると、先はモウモウたる蒸気にさえぎられて何も見えない。それに、風と水のたけり狂う音にはばまれて、ほかの音が全然きこえなかった。黒く光る水が渦巻きながら流れて、うるしのような闇の中から、はしけの明りの中に現われては、また闇へ消えてゆく。水の上を、いろいろな物が流れていくが、ほんの一瞬ちらっと光って見えるだけだ。沈みかけたボート、牛、家の建材の大きな切れ端が見えたかと思うと、荷造り用の箱や建築現場の足場のゴタゴタともつれたのが流れていく。カメラのシャッターを開くように、一瞬ちらっと目の中にとびこんだかと思うと、ドスンと激しく突き当るものもあり、横を突っ走って流れ去るものもあった。一度は、一人の男の真青な顔もはっきりと見えた。
前の方に半分、水につかった木立ちが必死に流れにさからっているのが見えたが、それがゆっくりと近づいてきた。それに突き当らぬように、わたしは舵を回したが、木々は、黒い蒸気の雲を背景に、狂ったような絶望の姿をくねらせていた。一度、太い枝が一本折れて、ふるえながら横を押し流されていった。われわれは、まずまず無事に前進をつづけていった。『平和ありて喜びあり』の家を、夜の闇に消える前に見たとき、それは、ほとんど、はしけのまうしろに見えた……」
九
朝になってもまだ、バーネットは水の上に浮かんでいた。はしけのへさきが、ひどく損傷して浸水したので、兵隊たちが順番にポンプを押したり、水をくみ出したりした。近くで船がひっくり返って、十二、三人の溺れかけた連中を助けて乗せている上に、三艘のボートまでひっぱっていた。ここがアムステルダムとアルクマーの間だということは確かだが、どこなのか分からない。夜のような朝だった。濃い灰色の空の下に、灰色の水が四方八方にひろがり、その水の中から、家々の上半分が突きでている。家はたいてい崩れている。木々の梢、風車なども突きでている。事実、親しいオランダ風景の上半分が突きでているのだ。その水面に、はしけの船団がおぼろげに漂っているのが見えた。それにまた多くの転覆したボート、家具、いかだ、材木、その他、雑多な物がうかんでいた。
溺死者は、その朝まだ、水中に沈んでいた。だが、あちこちに溺れ死んだ牛が見えるとか、箱、椅子その他、浮く物にしがみついた水死体が見えて、まだ水中に、たくさんの溺死者が沈んでいることが察せられた。木曜になって、ようやく、かなりの溺死者が水面に浮かんだが、それは、東西南北を灰色のモヤにとざされ、頭上にも灰色のモヤが天蓋のようにおおった光景の中だった。午後になって空が晴れた。すると、はるか西の方の、いくつも蒸気とチリで出来た大きな雲の重なりの下に、原子爆弾がいくつも赤く燃えあがる噴火の有様が、茫漠とした水面のむこうに見えてきた。
それらの噴火は、それぞれがロンドンの日没の光景のように、モヤににじんで、平べったく、むっつりと陰気に見えた。「海の上に、それらの噴火は、すり切れた炎の水蓮の花々のように坐っていた」と、バーネットは書いている。
バーネットは、その朝、運河で救助作業に従事したらしい。漂流している人を助けたり、遺棄されたボートを収容したり、水没しかけた家から人をたすけたりしたようである。他の軍用はしけも、同じような救助作業をしていたが、時間がたって、当面の救助作業も大体かたがついたときに、ようやくバーネットは、部下の食料や水のこと、それから、今後の方針などについて考えはじめた。チーズは少しあったが、水が全然ない。どこからともなくやって来る『命令』は、ついに完全に消えてしまった。こうなればもう、自分の責任で行動するほかないことをバーネットは知った。
「破壊は徹底的におこなわれ、世界は様相を一変したから、どの方角へいっても、戦前の状態を発見できると期待するのはバカげている、と思った。わたしは、機関士ミーリウスとケンプ、それから他に下士官二名を呼んで後甲板に坐りこみ、今後の方針を相談した。われわれには食料もなく目標もない。戦闘力はいちじるしく低下している。目下の急務は食料を手に入れ、再び命令系統に接触することだという点で意見がまとまった。われわれの行動を決定した作戦計画は、すべて明らかに粉砕されている。この上は、進路を西にとって、北海を渡って英国にもどるのがよい、というのがミーリウスの意見だった。このはしけのエンジンだと、二十四時間以内にヨークシャー海岸に到着できる計算だと言う。しかし、食料が不足していること、またとくに、水が緊急に必要だという理由で、わたしは、この案をしりぞけた。
どのボートに近づいても、水をくれ、と声をかけてくる。求められると、かえって激しく喉がかわいてくる。南に向かえば、山岳地帯に出るだろう。すくなくとも水没していない土地が見つかる。そうなれば、上陸して、渓流でも見つけて水を飲み、食料を補給し、情報も入手できるだろう、とわたしは考えた。あたりに、モヤに包まれて漂っているはしけの多くは、英国兵を満載していた。たいていは、ノルトゼー運河(北海運河)から上がってきたものだが、われわれ以上に情報をもっているものは皆無だった。『命令』は事実上、消えていた。
ところが、その夜おそく、また一時的に『命令』が現われた。英国の魚雷艇が拡声機を通じて、休戦を報じたのだった。それから、食料と水が現在、ライン川を急送中で、ライデン上流の古ライン水域のはしけ船団で、配給されることになっている、という嬉しい知らせも、もたらしてくれた」
しかし、バーネットの奇妙な陸上航海の模様を、彼の文章を追ってたどるのは止めにしておこう。樹木や家屋の間を縫って、はしけを進め、ザーンダムを経由し、ハーレムからアムステルダムを経て、ライデンに達する船旅だった。赤く照らされたモヤの中、蒸気にぼやけた影絵の世界をいく航海である。奇妙な声がしきりにきこえる。何だろうと不安になる。そのほかは、ただもう熱病のように激しく喉が乾いて、何も考えられない。「われわれは後甲板に小さくかたまって坐り、ほとんど口もきかなかった。前の方にいる兵隊たちは、数人ずつかたまって、黙りこくって、じっと耐えていた。ただ一つ、たえず聞こえてくるのは、猫のしつこいなき声だった。ザーンダムの近くで、流れていた乾草の山から一人の兵隊が助けてやった猫だった。ミーリウスが持ちだしてきた時計の鎖に付いていたコンパスを頼りにして、われわれは、一筋に南へのコースをとった」とバーネットは書いている。
「われわれの中には誰一人として、敗残兵だと感じている者はなかったと思う。また戦争という大きなものに支配されているという強い実感もなかった。それよりも巨大な自然的災害に襲われたという感じの方がはるかに強かった。原子爆弾は、いろいろな国際問題を全く無意味にした。はしけの上での当面の問題から心が離れると、われわれは、世界が完全に破壊されないうちに、なんとか、この怖ろしい爆弾の使用を禁ずる方法はないものかと、いろいろ考えたものである。この原子爆弾、それに、この原子爆弾に続いて現われる更に強力な破壊力をもってすれば、人類のあらゆる関係、あらゆる制度は、いとも簡単に粉砕されてしまうということは、きわめてあきらかだと思えた。
『連中は何をするんだろう? どうするんだろう? 戦争を終らせる必要があることは、はっきりしている。なんらかの方法で事を運ばなくてはいかんということは、はっきりしているんだ。これではいかん。こんなことではだめだ』とミーリウスは言った。
わたしは、すぐには、これには答えなかった。なぜか、わたしは、戦闘第一日目に負傷したあの兵士の姿を思い浮かべていた。腹を立てて、涙を浮べていたあの目。つい五分前まで技術を持っていた手をもぎ取られて、ドクドク血を吹き出している切株のような腕を突き出して、『なんてバカげたことだ! なんてバカげたことだ! この右手が! おれのこの右手が!』と、あの兵士は荒れくるい、すすり泣いていた。
わたしの人間への信頼感は、さっきから完全に消えていた。『人間は、あまりにも……あまりにも愚かで、戦争がやめられないんだ、と思うね。もし戦争をやめる分別があれば、こんなことにならないうちにやめていたと思うね。これが……』と言って、わたしは、一つの潰れた風車の黒い骨のような輪郭を指さした。赤く血のように照らされた水の上に、滑稽な醜悪な姿をさらした風車の残骸だった。『これが最後だ』」
十
だが、これから先はフレドリック・バーネットと、そのはしけに満載された飢えた兵隊たちとは、別れねばならない。
いちじは、少なくとも西ヨーロッパでは、文明は最終的に崩壊したかの如き観があった。ナポレオンが植え、ビスマルクが水をやって育てた伝統に、とうとう、つぼみがふくらみ、ほころんで、それが、破壊された国々、粉砕されて水没した教会、廃墟と化した町、永久に失われた畑地、水死体となって浮遊する百万の人間の上に、大きな「炎の水蓮」となって花ひらき、キラめき、燃えあがった。これは人類にとって充分な教訓になったであろうか。それとも、戦火はまだ廃墟の中にも燃え続けるのだろうか。
バーネットも、その仲間も、この問いに対して確答ができなかったことは明らかである。人類史において、すでに一度、アメリカで、白人の渡来前に、一つの整備された文明が、特殊な残酷な戦争崇拝の宗教に乗っとられた例があるが、世界は再び、この戦士の支配を、つまり人類の破壊本能の勝利を、より大きな規模で繰り返そうとしているのではないか。多くの思慮ある人びとは、いちじはそう思ったのである。
バーネットの著書のこれから先の部分は、この悲劇的な不安を実体化した記事と言ってよい。彼は、文明がほとんど回復不能と思われるほど破壊された有様を一連の短文につづっている。ベルギーの山中に難民が群がり、コレラに倒れてゆく有様。敵対する軍隊の残存部隊が実際の戦闘は交えないものの、今までの習慣から敵意を棄てきれずに休戦の秩序を守っている様子、それから、いたる所に見られる無計画性などを描いている。
頭上には何の目的があるのか、何機も飛行機が飛んでゆく。ベルギーのセモイ川の谷やフランス北東部のアルデンヌの森林地帯で食人がおこなわれたとか、異常な狂信的運動が起こったとかいう噂。中国と日本がロシアを攻撃したとか、アメリカで大規模な革命的蜂起が起こっているとかいう報道もあった。とにかく、これらの地域では、いまだかつて無いほどの荒天で、雷鳴が響き、稲妻がひらめき、豪雨が降り注いだのであった。
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第三章 戦争終結
一
スイス南部の町ブリサーゴの上にそびえる山腹に、棚状になった、一つの牧草地がある。ここからは、下の方にマッジオーレ湖〔スイスとイタリアにまたがる湖〕の二つの長い水面がよく見えるし、東の方にはベルリンツオーナの町、南の方には、イタリアのルイーノの町が望まれる。この牧草地は、春になると野花が一面に咲いて、ひじょうに美しい。とくに美しいのは六月の初旬で、聖者ブルーノのユリと呼ばれるほっそりとしたツルボランが、白い穂のような花を咲かせる。この美しい牧草地の西の方に、こんもりとした森になった深い溝がある。幅一マイルかそこらの青い大きな裂け目で、ここから非常に高い、じつに荒涼とした大断崖が立ちあがっている。ツルボランの野原の上の所から、山々は岩肌の斜面を見せながら這いあがっていき、陽を浴びた石コロだらけの、ひっそりとした尾根に達するが、尾根はゆるやかな曲線を描いて、あの壁のような大断崖とつながり、空に一続きの輪郭を描いている。この荒涼とした厳しい背景と、じつに鮮やかな対照を見せて、下の方に、穏やかに輝く大きな湖があり、南と東の方には、肥沃な丘々、道路、村々、島々などの、ひろびろとした眺めがひらけている。南には、マッジヤ川の流域の、いかにも暑そうな黄金色の平坦な稲田が見える。
ここは、あの災厄の年のかずかずの悲劇を遠く離れた土地であった。燃える都市、飢える群衆を遠く離れた、さわやかな、おだやかな、ひっそりとした、名もない僻地であった。名もない僻地であればこそ、ここに、世界の指導者たちが会合して、できれば手おくれにならぬうちに、文明の壊滅を食いとめようと図ったのであった。この土地で、あの熱烈な人道主義者、駐米フランス大使ルブランの不屈の精力によって集められた世界の諸大国が、「人類救出」のための最後の必死の会議を開こうとしたのであった。
平和な時代には、名も知られずに埋もれてしまったろうが、ある悲劇的な危機が訪れて、物事が極度に単純化されたために、歴史上の不滅の名声に押しあげられてしまったという人びとがいる。ルブランは、そういう人であった。アブラハム・リンカーンもガリバルデイも、そういう人であった。ところが、ルブランは澄明な子供のような純粋さと、完全な没我的献身をもって、不信と複雑な災厄にみちた乱世の真只中に登場し、誰が見ても明らかな正気の行動を、抵抗しがたい熱情をもって訴えたのであった。ルブランが語るとき、その声は「せつせつたる抗議にみちていた」という。ルブランは、小柄な、頭の禿げた、眼鏡をかけた男で、知的理想主義に燃えた人物だったが、知的理想主義こそ、人類へのフランス独特の贈り物のひとつであった。ルブランは、戦争を終らさなければならぬ。戦争を終らせる唯一の方法は、人類がただ一つの政府を持つことだ、という一つの明快な信念を抱いていて、その他一切のことを問題にしなかった。戦争が勃発して、交戦国の二つの首府が破壊されるや直ちに彼は、この提案をひっさげて、ホワイト・ハウスにおもむき、当然のことのように大統領に面会した。ルブランが駐米大使としてワシントンに在住していて、アメリカ人の特徴である、あの巨大な子供っぽさと接触したことは幸いだった。アメリカ人もまた、世界を救った素朴な国民の一つである。ルブランは、大統領とアメリカ政府をだいたい説得した。とにかく、アメリカは彼を支持して、懐疑的なヨーロッパ各国政府と交渉する足がかりを作ってくれたのである。この支援をもって、ルブランは、全世界の指導者を一堂に集めて、これを結合させるという世にも奇想天外な大事業に着手したのであった。無数の手紙を書き、メッセージを送り、危険な旅行をし、得られるものならどんな支持でも嬉んで受けた。とにかく、彼にすれば、いかなる微力な同志といえども喜ばしい味方だったし、いかなる頑固な反対者にでも、熱心に接触を求めていった。あの恐ろしい秋のような戦争中には、この小柄な、眼鏡をかけた不屈の理想家は、さぞかし嵐の中にも、さえずり続ける希望のカナリヤと見えたことであろう。いかなる惨事が、つぎつぎと世界を襲おうとも、それを終らせることが出来るのだという彼の信念には、いささかの動揺もなかった。
全世界は、その頃、途方もない破壊時代に炎を吹きながら突入していった。武装した世界中の強国が、相ついで侵略行動に出て、先制攻撃をかけようとした。自国の原子爆弾を先に投下しようとして、狂ったように戦争に突入していったのである。中国と日本はロシアを攻撃して、モスクワを破壊し、アメリカは日本を攻撃し、インドには無政府主義者の暴動が起こって、デリー市は炎上し、死者が続出していた。「バルカン諸国の恐るべき王」は動員の真最中であった。当時は誰の目にも、全世界がまっさかさまに無政府状態にすべり落ちていく有様が、やっとはっきり見えたにちがいない。一九五九年の春ごろには、もう二百箇所ちかくからの原子爆弾による真紅の大火が、消すことのできない大火が、轟々と炎を吹きあげていたし、その数は毎週ふえていった。もろい世界信用経済は消えて無くなったし、産業は完全に麻痺して、あらゆる都市、あらゆる人口稠密な地域が飢餓状態におちいっているか、その寸前であった。世界中の大都市はおおかた炎上中で、すでに数百万の死者を出し、広大な地域に無政府状態が生まれていた。当時のある人が、その頃の人間のことを評して、睡眠中にマッチをすって、目をさましたら、自分が火につつまれているのを発見した人のようだ、と言っている。
はたして人類には、この事態に対処して、社会秩序の崩壊を食いとめる努力をするだけの意志と知性があるのか、と疑問視された時期が何十カ月と続いた。いちじは戦争熱が、保存と建設の力を結集しようとする努力に打ち勝っていたのである。ルブランの努力が、まるで地震に対する抗議のように見え、エトナ山の火口に理性を期待しているように見えたこともあった。粉砕された各国政府が声を大にして平和を叫んでも、妥協を知らぬ連中、救いようのない愛国者集団、纂奪者、冒険家、ゴロツキ政治屋たちが、いたる所で、簡単な原子力装置を所有している有様では、あらたな破壊がひき起こされる危険があった。原子爆弾は、ある種の精神の持ち主には、たまらない魅力があったのである。簡単に敵を撃滅できるのに、なぜ、あきらめるのか? なぜ降伏するのか? 敵を粉砕するチャンスがまだあるのに、というわけである。かつては政治の最終的特権だった破壊力が、いまや世界に残る唯一の力になり、しかも、それは、世界のいたる所に存在しているという状態であった。燃えあがるこの世界の荒廃期に、バーネットと同じく絶望的気分を味わい、彼と共に、「これが終りだ」と叫ばなかった知識人は、ほとんどいなかったはずである。
しかしルブランは、眼鏡を光らせながら、絶えず各地をとびまわり、自説の明らかな道理を、尽きることのない説得力をもって説きつづけたので、ついには人びとも無関心ではいられなくなってきた。たとえ一瞬でも、ルブランは、この混沌たる闘争がすべて終ることを疑ったことはなかった。育児室の大さわぎが、結局は静まらずにはいないことを信じる乳母も、これほどの確信はなかったことだろう。そういうわけで、ルブランは、はじめは愛すべき空想家扱いされたが、いつのまにか、じつに注目すべき意見の持ち主だということになり、やがては、その案は実行可能とまで見えてきたのである。一九五八年には、微笑を浮べながらも、じれったい気持で彼の話を聞いていた人びとが、翌年に入って、まだ四カ月もたたぬうちに、はっきりしたところ、何が出来ると思うか、そこを聞かせてほしいと、膝を乗り出してくるようなことになった。これに対してルブランは、哲人的忍耐とフランス人的明晰さをもって答えた。こうして、だんだんと希望的な反応が得られるようになってくると、彼は、大西洋を渡って、イタリアにやって来て、ここで、この会議出席の約束をとりつけ始めた。彼がスイス南部の町ブリサーゴの山の上の牧草地を会議場に定めた理由は、すでに述べたが、「われわれは昔の連想から脱しなければならない」と、彼はその訳を説明している。まず彼は、会場設営の資材を自信ある態度で要求したが、その自信のほどは反応によって裏打ちされた。やがて、世界に新秩序を打ち立てようとする会議が、軽い懐疑の目で見られながらも、徐々に形をなしてきた。ルブランはつつましやかに会議を招集し、きわめて謙虚な態度で、これの管理に当たった。高原の斜面に無線電信の機具類を持った者が現われたかと思うと、天幕や食料を運びあげてくる者があり、下のロカルノ街道沿いの便利な一地点に、上から一本の軽便ケーブルが通じた。やがて、ルブランが到着した。彼は、会議の調子に影響するあらゆる細かい点まで気を配って熱心に指図した。その様子は、会議の発案者というよりもまるで、一足先に到着した旅行世話係のようであった。それから、この会議に呼ばれて世界情勢を協議することになっている人びとが到着しはじめた。ケーブルで上がって来る者もあったが、たいていは飛行機であった。この会議には名を冠しないことになっていた。参加者の顔ぶれは、君主九人、共和国大統領四人、大臣、大使、有力ジャーナリスト若干名、その他同種の有名有力者だったが、科学者まで加わっていた。あの世界的有名人のホルステン老まで、しろうと政治学を世界的危機に役立てようとして参加していた。しかし、君主、実力者、あるいは知識人をこういうふうに招集し、しかも彼らの意見を和合統一させようという勇気を持ち合せた人間は、ルブラン以外には一人もいなかったことであろう。
二
会議に呼ばれた人の中に、徒歩でやって来た者が少なくとも一人はいた。ヨーロッパ一の古い王国の若き君主エグバート王である。王は反逆者であり、昔から王というみずからの高い位に対して意識的に反逆の態度をとりつづけてきた人だった。彼は長い徒歩旅行と野宿を好んだので、サンタ・マリア・マッジオーレ峠を越え、ボートで湖を北上して、ブリサーゴに到着すると、ここから徒歩で、樫の木や美しい栗の木の楽しい山道をのぼってきたのであった。急ぎたくなかったので、途中の弁当にと、ポケットいっぱいに、パンとチーズを詰めこんでいた。身の回りの世話と公式の場合に必要な小人数の随行員は、先にケーブル・カーで送っておいて、いま、王といっしょに歩いているのは王の私設秘書ファーミン一人であった。この人はロンドン経済政治大学の世界政治学教授の地位をすてて、王の秘書になった人であった。頭脳明敏というより、しっかりと物を考える人物だった。王の秘書ともなれば大変な権力だろうと思っていたのに、五、六年たって、やっと、その勤めの大部分が王の話をきくことだ、と分かりかけてきたところだった。もともとファーミンは国際政治に関するかなりの学者で、関税や国際政策の権威者であり、高級評論誌の寄稿者として高く評価されていたけれども、原子爆弾が登場するや、あまりの意外さに衝撃を受けて、いまだに原爆前の自分の考え方と原爆の衝撃的、沈黙的効果から完全に立ち直れない状態であった。
エグバート王は、儀礼的な束縛からは、完全に自由になっていた。理論的には……王は理論が豊富だった……王の作法は純粋に民主的であった。ファーミンが下の町の小さな店で、一つのリュックサックを見つけると、それにビール瓶を二本入れて運ばせたのも、ついうっかりして、今までの習慣が出たからにすぎない。王は、これまで実は一度も、自分で物を持って歩いたことがないし、それに気がついたこともなかった。
「誰も従者は連れていかないことにしよう。一人も。質素そのものにするのだ」
と王が言うので、ファーミンがビールを担ぐことになったのだった。
山道をのぼりながら……歩調を決めたのもファーミンよりは王の方だった……二人は、これから始まる会議のことを話題にしていた。ファーミンは、王の考え方をはっきり頭に入れておきたいと思って、言い出したのだが、大学教授時代の自分ならば、われながら驚くような自信の無さであった。「大ざっぱな見方からすると、たしかに、このルブランの計画は、ある程度うなずけるものがあるのですが、しかし、国際的事件の何か一般的な管理機関……大きな権限を持ったハーグ国際法廷のようなものをつくるというのは得策かもしれない、とは思うものの、しかし、それだからと言って、国家的、帝国的自治の原則まで見失ってしまうことはないと思いますが」
「ファーミン、わたしは、王の仲間たちに良き模範を示すつもりなんだよ」
ファーミンが恐れを包みかくして、好奇心を示すと、
「そういう下らぬことをすっかり棄てて模範を示すのだよ」
と王は言った。少し息切れがしてきたファーミンが、それに答えようとすると、王は歩調を早めて、
「そういう愚劣なことは、すっかり棄てるつもりだ。わたしは、王位も帝国も、テーブルの上に投げ出して……駆引きするつもりはないのだと、直ちに宣言するよ。駆引きすることなんだ……権利についての駆引きだよ……世の中を毒してきたのは。いつも、そうだった。そういうバカげたことは止めるよ、わたしは」
ファーミンはパタリと立ちどまって、
「しかし、陛下!」
王は五メートルほど先を歩いていたが、振りかえって、汗を浮べている相談役の顔を見ると、
「ファーミン、きみは、わたしがここまでやって来て、度し難い政治屋のように、自分の王冠とか、国旗とか、鎖やら何やらを持ち出して、平和のじゃまをするつもりでいる、とそう本気で思っているのかね? あの小さなフランス人の言っていることは正しいんだよ。あれが正しいことは、きみも知っているだろう。そういうことは、もう終ったんだ。わたしたちが、つまり、王とか、支配者とか、代表者とかが、そもそも諸悪の根源だったわけだ。わたしたちが存在すればこそ、当然、分離も考えられる。分離していれば、自然に戦争のおそれも起こる。戦争のおそれが起これば当然、原子爆弾がますます貯蔵されていく道理だ。古いゲームは終ったんだよ。しかし、終ったからといって、立ち止まっているわけにはいかないんだよ、そうだろう。世界は待っているんだ。古いゲームは終ったと思わないのかね、ファーミン?」
ファーミンは、リュックサックの紐をしめて、汗にぬれた額を拭くと、先へ行く王の背中を懸命に追いながら、「陛下、なんらかの指導権が要るという点は、それは、わたしも認めます。なんらかの国家連合的な会議、つまり古代ギリシアのアンフィクチオン的な会議が……」
「世界全体に、ひとつの単純な政府が必要なのだよ」
と王は、振り向きながら言った。
「しかし、無分別な、無条件的な放棄には、陛下、わたしは……」
「ズドン!」
と大きな声で王が叫んだ。
ファーミンは、これには、べつに何の返事もしなかったが、汗ばんだその顔に、チラリと苛立ちの影が走った。
「きのう、日本軍が、もう一歩のところで、サンフランシスコを破壊するところだったよ」
と王が説明した。
「それは初耳です、陛下」
「さいわい、アメリカ軍は、日本機を海に撃墜して、そこで原子爆弾は爆発したがね」
「海中でですか、陛下?」
「そう、海中火山だね。蒸気がカリフォルニア海岸から見えるそうだ。それほど近かったんだね。こんなことが起こっているというのに、きみは、わたしに、山をのぼって駆引きをやらせたいのかね。そんなことをしたら、わたしの従兄にどんな影響があるか。従兄だけではない。ほかの全ての者にどんな影響があるか!」
「従兄様は駆引きをなさいますぞ、陛下」
「そんなことはないよ」
「しかし、陛下」
「ルブランが、そうはさせないよ」
ファーミンは、急に立ちどまって、厄介なリュックサックの紐を、ギュッと腹立たしげに引っぱり、
「陛下、従兄様は顧問たちの意見を聴かれますぞ」
と言ったが、その口調には、なにか微妙に、王を厄介なリュックサックの問題にひっぱり込もうとする響きがあった。
王は、そのファーミンの顔をしげしげと見て、
「もう少し上へあがろう。あの無人の村という噂の所を見たいから。それから、ビールを飲むことにしよう。ビールを飲んだら、瓶はすてよう。ところで、ファーミン、もっと、きみは、物事を広い目で見てほしいね……なぜかというとだね、きみは……」
と言って王は、また振り向いて歩きだした。しばらくの間、二人の耳に聞こえるのは、山道のゴロゴロした石を踏む自分たちの編上靴の音と、ファーミンの乱れた息づかいだけだった。
やっとのことで……とファーミンには思えたが、たちまちに、と王には思えた……山道の勾配がゆるやかになり、道幅が増してきて、じつに美しい場所に出てきた。小屋や家がかたまった高原の部落で、北イタリアの山中には、今でもこういう所がある。夏の盛りにだけ人が住み、それがすむと錠をおろして、冬も春も人っ子ひとりいない無人の村と化すが、六月初旬になると、また人がやって来るという所である。栗の木陰におおわれた、やわらかな灰色の色調の石づくりの家々が、深緑の芝生に埋もれているその脇に、パッと燃え上がるように明るく黄色のエニシダの花が咲いていた。こんな見事なエニシダは、王は見たこともなかった。あまりの明るさに、「アッ」と王は声を上げた。陽を浴びる以上に、照り返しているように見える。王は、思わず、地衣におおわれた石の上に腰をおろした。そして、パンとチーズをポケットから引き出すと、ビールを木陰の草の中に突っこんで冷やすようにと、ファーミンに命じた。
「ファーミン、飛行機に乗る連中は、惜しいものを見落としているねえ」
と言われて、ファーミンは、冷淡な目であたりを見まわすと、
「今がいちばんよい季節なんですよ、陛下。百姓たちがまた登ってくれば、きたない所になります」
「それでも、美しさには変わりないだろうねえ」
「表面だけですよ、陛下。しかし、これは、どんどん消えていく一つの社会秩序の象徴ですね。石のあいだや小屋の中に、草が生えていますが、今でも人が住むのでしょうかねえ」
「この花咲く牧草地の青草が刈りとられたら、すぐ登ってくると思うね。クリーム色ののんびりした牛、下の道路で見るああいう牛とか、黒い髪に、赤いハンカチを巻いた、色の黒い娘たちが登ってくるだろうなあ。そういう昔ながらの美しい生活が、どれほど長い間つづいたか、と思うのもいいものだな。ローマ時代にも、ローマ人の噂がこの辺りに入ってくるずっと前にも、夏がやってくれば、人びとは、家畜をこの辺りへ追い上げてきた。この辺りは、どれほど過去の雰囲気につつまれていることか。争いがあり、希望があり、子供らが遊び、大きくなって、皺くちゃばあさん、皺くちゃじいさんになって死んでいった。そういうことが何千世代と続いたのだ。恋人たち、数え切れないほどの恋人たちが、この黄金色のエニシダの中で抱擁を繰りかえして……」
と王は言いながら、パンとチーズを頬ばり、
「ビールを入れるジョッキを持ってくればよかったね」
と言った。
ファーミンは、アルミニウムの折りたたみ式コップをとり出した。王は喜んで、これでビールを飲んだ。
突然、ファーミンが言いだした。
「陛下、せめて、御決定を延期ねがえないものでしょうか」
「その話は無駄だよ、ファーミン。わたしは、もうすっかり決めたんだから」
「陛下よ、陛下は御自分の国王という地位に、全然敬意の御気持がないのでしょうか?」
と言うファーミンは、口いっぱいに、パンとチーズを頬ばってはいたが、純粋の感情も、じゅうぶんこもった声だった。
王は、しばらく黙っていたが、やがて、いやにまじめな声で、
「ファーミン、わたしはね、この国際政治というゲームで、もう、操り人形になるのは御免なんだ」
と言うと、ちょっとファーミンの顔を眺め、
「王位か! きみは一体、王位というものをどれだけ知っているのかね、ファーミン?」
「いいかね」と王は、大声を上げて、相談役をびっくりさせた。「わたしは、生まれてはじめて、王になろうとしているのだよ。わたしは指導者になる。自分自身の権威によって指導者になろうとしているのだ。十二、三代の間、わが一族は顧問官たちの操り人形だった。顧問官か! わたしは今こそ、ほんものの王になるぞ。そして、奴隷のように自分を縛ってきた王冠を廃し、処分し、棄てるのだ。だが、この大爆音の原子爆弾は、世間をがんじがらめに縛りあげてきた虚飾、インチキを粉砕してくれた。硬直した古い世界は、もう一度るつぼの中に入って溶かされるわけだ。王衣の中の詰め物にしか見えなかったわたし、このわたしこそ王の中の王になるのだよ。わたしは指導の頂点に立って、この流血と火と白痴じみた混乱に終止符を打たねばならないのだ」
「しかし、陛下」
「このルブランという男の言うことは正しい。全世界は、一つの分割不可能な共和国にならねばならない。きみにも、それは分かっているはずだ。それを容易にするのがわたしの義務だ。国民を指導するのが王の務めだろう。それなのに、きみはわたしに、国民の背中に『海の老人』の如くへばりつけと言う。きょうという日を王たちの最終塗油式の日にしなくてはならない。人類への王たちの務めは終ったのだよ。われわれは、王衣を脱ぎ、人類に王位を引きわたし、『今や、各人の内なる王が世界を支配せねばならない』と告げる必要があるのだ。きみは、今というこの時機のすばらしさが分からないのかね、ファーミン。きみは、わたしにあそこへ登っていって、くだらないケチな弁護士みたいに駆引きしろと言うのかね。なにがしかの金か、補償か、なにかの資格をよこせと駆引きしろと言うのかね」
ファーミンは肩をすくめて、がっかりした顔になったが、それでもやはり食わねばならないという顔だった。
しばらく二人は黙っていたが、王はパンを食べながら、会議でする演説の文句をしきりに考えていた。古い王家だというので議長をつとめることになっていて、それならば、りっぱにつとめようという気持なのだった。よし大丈夫、雄弁をふるってみせる、という自信が持てると、王は、ふきげんな顔をして沈んでいるファーミンを、しばらくじっと眺めて、
「ファーミン、きみは王位というものを理想化していたんだよ」
「王につかえるのが、わたしの夢でした」
とファーミンは悲しげな声だった。
「影響をおよぼす立場に立ってだろう?」
「それは誤解です、陛下」
ファーミンは、ひどく気を悪くした。
「わたしは、そこから抜け出したいのさ。なあ、ファーミン、きみは、わたしのことを全然考えてくれないのか? わたしだって、生身の人間だよ。それだけじゃない。想像力もあり、権利もある生身の人間だ。わたしは、みんなが掛ける鎖に反抗している王なのだ。目ざめた王なのだ。祖父母陛下は、一生に一度も目ざめられた瞬間がなかった。陛下らは、きみ、きみたち顧問からあたえられた仕事を愛して、一度も、疑問を持たれたことがなかった。子供を持つべき女に人形を持たせるようなものだ。行列とか、開館式に出たり、祝辞を受けたり、三つ子や九十を越した老人を訪ねたり、とにかく、そういうことを喜んでおられた。ひじょうに喜んでおられた。いろんな写真入り新聞から、御自分たちの写真を切り抜いては、アルバムを作っておられた。切り抜きの束が小さくなると、悩んでおられたが、およそ悩みといえば、これ位のものだった。しかし、わたしには、何か先祖返り的なものがあるのだ。憲法に縛られない昔の君主にわたしはひかれる。名前のつけ方が、古くさすぎたのだろう。自分で何かやりたかった。退屈だった。あの調子では、乱行に走ったとしても無理はない。知的で精力的な王子は、たいてい、そういうものだ。だが宮廷の躾が異常に徹底していて、わたしは、世にも稀な、きよらかな宮廷に育った。鋭敏といってよいくらいきよらかな……それで、わたしは読書をしたんだよ。ファーミン。そして質問をしてまわった。遅かれ早かれ、王子の誰かに、こうした事は起こるはずだった。それに多分、わたしは放蕩者には出来ていなかったんだろう。放蕩者とは思っていないよ」
王は、しばらく考えて、また、「放蕩者ではない」と言った。ファーミンは咳ばらいをして、
「陛下が放蕩者などとは思っておりません。陛下は、むしろ……」
「話をするのがお好きな方です」と言いそうになって、「思想を好まれる方です」と言い変えた。
「王族の世界というのは、じつに大変なものだよ。もうすぐ、あの世界を理解できる者は一人もなくなるだろう。謎になるだろうな。いろいろとあるが、ひとつには、いつも最上の服装をしている世界だ。そして、すべてのものが最上の装いをして、旗まで上げてくれているという世界だ。映画のカメラが見つめているんだから、それも当たり前とは思っていたがね。きみがもし王ならばだ、ファーミン、どこかの連隊に見学に出かけるとするとだね、すぐに、その連隊は、何をやっていても、ピタリとそれを止めて、完全礼装に着換えて、捧げ銃をするよ。父母両陛下が汽車に乗られると、炭水車に積んだ石炭が、いつも白く塗ってあった。ほんとうだよ、ファーミン。石炭が黒くなくて、白いものだったら、きっと鉄道当局は、黒く塗りかえたと思うね。それが王族待遇の精神というものだ。人は、いつも、顔をこちらに向けて歩くから、子供の頃は、わたしは、人の横顔を全然見たことがなかった。とにかく、狂っているのかと思うほど、世間がこちらを注目しているという印象だった。わたしが、大法官や大僧正や、そういう連中に、人がもし、こちらに背を向けたら何が見えるのか、と子供心からききはじめると、『殿下、それは王族の心得をわきまえぬ御質問ですぞ』と叱られたものだ」
王は、しばらく考えこんでから、また続けた。
「しかし、ファーミン、王位にも、たしかに、いいところはある。ともかく、王だというので、小さな御体の祖父陛下はキリッとしておられたし、祖母陛下にも、一種奇妙な威厳があった……御機嫌ななめなときにも威厳があった……御機嫌ななめなことは、よくあったが。とにかく、両陛下とも深い責任感をおもちだった。父陛下は、短い在位中、御健康がすぐれなかったが、どれほど頑張っておられたか、それは内輪の者以外には知っている者はない。『国民がそれを期待しているから』と、いつも、その厄介な義務のことを言っておいでだった。その義務とやらで、押しつけられる仕事というのが、たいてい、バカげたことばっかり……それも、くだらない伝統だが、しかし、その仕事をされる父陛下の態度には、いささかもバカげた点はなかった。王位の精神は、りっぱなものだよ、ファーミン。それは、わたしには本能的にわかるのだ。王でなかったら、わたしはどんな人間になるか分かったもんじゃない。王だからこそ、国民のために死ねるのだよ、ファーミン。しかし、きみには、そんなことはできない。いや、わたしのために死ねるなんて言わないでくれ。そんなものでないことは分かっているのだ。わたしが王であることを忘れるなんて、そんなことは思ってくれるな、ファーミン、そんなことを考えてはいけない。わたしは王だよ.神受権による王らしい王なのだ。おしゃべりの若者だからといって、そのことには、何の影響もない。しかしね、ファーミン、国王のための正しい教科書は、きみたちが読ませたがっている宮廷回顧録とか、世界政策の本ではないのだ。フレイザー老の『金枝篇』〔ジェイムズ・フレイザー。一八五四〜一九四一。民俗学研究の古典的大著〕だよ。読んだかね、ファーミン?」
「読みました」
「あそこに出てくる王たちがほんとうの王なのだ。最後に、王たちは、切りきざまれて、肉一片ずつが各人に配られた。彼らは、諸民族に王権をばらまいたわけだ」
ファーミンは振り向いて、王の顔をまともに見ると、
「陛下、何をなさる御考えですか? わたしの申すことを御聴きいれないとすると、今日の午後、何をしようと御考えなのでしょうか?」
王は、パン屑を服からはらい落とすと、
「そりゃ、ファーミン、戦争を終わらせなければいけないことは、はっきりしているだろう。それをするには、全世界を一つ政府の下に置くしか無いこともはっきりしている。わたしたち王らの王冠や旗が、その邪魔になっている以上、明らかに、そういうものを棄てなくてはいかんわけだ」
「なるほど、陛下。しかし、政府といっても、いかなる政府なのでしょうか? 王族のいっせい退位によって、いかなる政府ができるのか、そこが、合点がいきません」
「そりゃ」と言って、王は両膝に手を置いた。「わたしたちが政府になるのだよ」
「会議がですか?」
「それ以外に誰がいるのかね?」
と王は素朴な調子で言った。ファーミンがびっくりして沈黙しているのを見ると、
「じつに簡単なことだよ」
とつけ加えた。
「しかし、承認が要ります! たとえば、選挙のような形式は全然ないのですか?」
「どうして、そんなものが必要なのかね?」
と王が知的好奇心から質問すると、
「統治される者の同意です」
「ファーミン、いいかね、みんなで意見の対立を棄てて、統治を引きつごうというのだよ。全然、選挙なしにだ。全然、承認もなしにだ。統治される者は、沈黙によって同意を示すだろうよ。もし何か強い野党でも起こってきたら、彼らにも参加を求めて、助力してもらうことになるだろう。王権の真の承認は王笏《おうしゃく》を握ることだ。人びとに承認の投票をわずらわすようなことはしないよ。一般大衆は、そういうめんどうな事はきっと望んでいないと思うね。関係者がみんな参加するような方法を考えるさ。民主主義としては、それで充分だ。おそらく、いずれは……故障が起こらなければ……ちゃんとわたしたちが政治をするだろうよ。政治がむずかしくなるのは法律家が政権をとったときだ。こういう厄介な問題が起こってからは、法律家連中は臆病になっている。しかし、考えてみると、あのたくさんの法律家どもは、どこにいるのだろうね? どこだろう? もちろん、たくさん逮捕したよ。連中に、わたしの立法部がめちゃくちゃにされたときに、一番悪質な奴は何人かつかまえた。きみは知らないが、前の大法官は……。
必要は権利を葬る。そしてまた生みだしもする。法律家というものは、死んだ権利を掘りおこして生活するものだが……。そういう生活の仕方は、もう終りだ。これからは、法典に入りきらないような法律は必要としない。法典以外の所では、政治は自由に……。
今日という日が終らないうちに、ファーミン、王たちは、すべて、退位を宣言して、最高の唯一不可分の世界共和国の樹立を宣言していることだろうよ。祖母陛下が御覧になったら、どうおっしゃるだろうな。わたしの全ての権利は……その上で、わたしたちは統治を続けるのだよ。それ以外に何をすることがあるだろうか。もはや、私のものも、汝のものも無く、われわれのものしかないと全世界に宣言するわけだ。中国、アメリカ合衆国、ヨーロッパの三分の二の国々が必ず、同調して、ついてくるはずだ。そうせざるを得ないのだ。他に何ができるだろうか。それらの国の正式の支配者が、この会議に加わっているのだよ。われわれの考えに逆らうような案は出せないだろう。そのつぎに、すべての種類の財産は、世界共和国のために委託されたものであることを宣言して……」
「しかし、陛下! これはもう計画ずみのことなんですか?」
ファーミンは、はじめて気がついたのだった。
「おいおい、ファーミン、ながながとみんなで議論するために、ここへやって来たとでも思ってるのかい。話し合いは五十年前からやってきたんだよ。話したり、書いたりすることは。ここまで出てきたのは、新しいことを、つまり単純で、明らかに必要なことを実行に移すためなんだよ」
と言って、王は立ちあがった。
ファーミンは二十年間の習慣を忘れてしまって、坐ったままだったが、「やれやれ、わたしは何も知らなかったんですね!」
と、やっと言った。
王は、ニッコリと朗らかな笑顔を見せた。ファーミンとこういう話をするのが王は大好きなのであった。
三
ブリサーゴ牧草地での会議は、およそ、これまでに例のない異質な有力者の会合であった。引きむしられ、叩きつぶされて、誇りも神秘も完全に失った公国や強国が、信じがたいほどの謙虚さをもって集合していた。首都を火の海にされた国王や皇帝。国を混沌におとしいれられた政治家。おびえた政治屋、財界人。むりやりに引き出されてきた思想界の指導者や科学者などの総勢九十三人で、ルブランの考える世界の指導者たちであった。彼らはみな、ルブランがこれまで力説して止まなかった素朴な真理をようやく理解したのであった。そこで、イタリア王の援助で、ルブルランは、その素朴な性格にふさわしく、素朴に、おおらかに、会場を設営して、ついに、ここに、その驚くべき、しかも実に合理的な呼びかけをすることが出来たのである。ルブランは、エグバート王を議長に指名していた。この青年の人柄をルブランは深く信じて、彼を完全に牛耳っていた。そして、自分は議長の左側に坐って、秘書のような口のきき方をしていたが、会議員のみんなに、何をなすべきかを告げているのが自分だということは、自分では、さっぱり分かっていない様子だった。自分では、議員たちのために、世界情勢の要点をかいつまんで説明しているだけのつもりだった。身に合わない白い絹服を着て、うす汚れた小さな覚え書きの束をのぞきながら、彼はしゃべった。覚え書きが混乱していて弱った。今まで、覚え書きを持って話したことは一度もないのだが、これは特別の場合なので、と彼は説明した。
それから、エグバート王の演説があったが、期待を裏切らぬもので、じつに魅力的に、軽やかに表現される気高い感想の流れに、ルブランの眼鏡は曇った。「わたしたちは、儀式ばってはいけないのです。わたしたちは世界を治めなければなりません。今まで、いつも、世界を治めるような振りをしてきましたが、今こそ、その機会がやってきました」と王は語った。
「そのとおり、そのとおり」
とルブランは、せわしなくうなずきながら、つぶやいていた。
「世界は叩きつぶされました。この世界をもう一度、動き出すように立て直すのが、わたしたちの仕事です。すべての者が力を貸し、誰一人として利益を求めないというのが、この危機に際しての単純な良識であります。これが本会議の基調ではないでしょうか?」
議員たちは、年老いた、鍛えられた、各方面からの顔触れの集まりだったから、決して熱狂することはなかったが、それでも、それが基調だという点には異存はなかった。そして会議は、みずからも驚きながら、そして、なぜかだんだんと陽気になりながら、辞職したり、権限を放棄したり、会議の意図を宣言したりし始めたのであった。ファーミンは、王のうしろの席で覚え書きをとりながら、黄色いエニシダの中での予言がことごとく実現していくのを聞いていた。まるで夢を見ているような気持で、ファーミンは、世界国家の樹立宣言に立ち会い、そのメッセージが、世界のすみずみにまで伝えられるために、無線技師の所へ持ち出されていくのを眺めていた。「つぎに」と、王は朗らかな興奮を響かせながら言った。「わたしたちは、あらゆるカロリナム原子と、そのすべての製造施設を本会議の管理下に置かねばなりません……」
信じられないような気持で見まもっていたのはファーミン一人ではなかった。会議に出ていた人びとは、みな、心の底では、物のわかった、愛すべき、善良な人たちばかりであった。生れつきで権力の座についた者もあり、たまたま偶然に権力を握った者もあり、権力とは何か、権力にともなう責任の何たるかも知らずに、努力して権力を手に入れた者もあったが、しかし世界的な惨害の代償を払ってまで、権力を保持しようとする頑固者は一人もいなかった。彼らは、世界情勢の現状と、ルブランの熱心な説得で、もう心がまえができていたので、いまエグバート王が指導していく広々とした明らかな道筋を、奇異と必要の感のいり混った確信をもって、歩んだのである。会議は、ひじょうになめらかに進行した。イタリア王は、会議場を奇襲攻撃から守るためにとった措置について説明した。射撃の名手を一名ずつ配備した飛行機二千機をもって会議の防衛に当たらせ、巧妙な交替制をとっていること、夜は、探照燈数十基をもって空をくまなく警戒していることを説明した。ルブランは、なぜこの場所を会議場にえらび、ただちに行政の本拠地としたか、その明快な理由を告げた。二十年以上前、たまたま、妻といっしょに休暇旅行をしていたときに、ここへやって来たのだという。「今のところは、周囲の国々が不安定な情勢にあるので、食事は非常に質素なものですが、しかし、新鮮なミルク、上等の赤ブドウ酒、パン、牛肉、サラダ、レモンなどは上質のものがありますから、数日すれば、もっと優秀な、まかないにまかせて……」
新世界政府の要員たちは、脚立にのせた三つの長いテーブルで食事をした。メニューは粗末でも、それぞれのテーブルには、端から端まで、ルブランの心づくしの、美しいバラの花がいっぱいに飾られていた。山の、もう一つ下の段地には、秘書や付き添い人のために同じような食卓が用意されていた。会議員は会議のときと同様に野外で食事をしたが、暗い断崖から西の空にかけて赤く染める六月の夕日が宴席を明るく照らしていた。九十三人の会食者には席順などは全然なかった。エグバート王の一方には、眼鏡をかけた小柄な、感じのよい日本人が坐り、もう一方には、中欧の親類が坐り、向かいには、一人の偉大なベンガルの指導者とアメリカ合衆国大統領が坐っているという具合だった。その日本人の向こうに老化学者ホルステンが坐り、ルブランは向かい側のすこし先に坐っていた。
エグバート王は、まだ朗らかにおしゃべりをして、盛んに、いろいろな思いつきを語っていたが、やがて、アメリカ大統領と物柔らかな議論をはじめた。大統領は、世界政府の発足に当っての、ふさわしい雰囲気が欠けているのを残念がっている様子であった。
物事を、はでに大袈裟に強調するというアメリカ人的傾向についての議論であった。これは、公的な問題を、大きく目立った方法であつかう必要から起こって来た癖に違いないが、大統領もやはり、この国民的な欠点を持っていた。新時代が始まるわけだから、きょうという日を、新年の第一日にしてはどうか、と大統領は言うのであった。
王は反対した。
「しかし、きょうから人類は、その相続財産を引きつぐわけですよ」
「しかし、人類は、いつでも、その相続財産を引きついでいきますよ。こんなことを言っては失礼かもしれないが、アメリカのお方は、特に記念日がお好きなようですね。そう……アメリカの方は、どうも演劇的効果が大好きというところがある。あらゆることが、あらゆる時に起こっていますよ。それなのに、あなたたちは、これこそが真の大事だと言って、他のすべてをそれに従属させようとなさる」
だが、これに対して、大統領が、きょうという日は一新紀元を画する日なのだから、と反駁すると、王はさらに、これに反駁して、
「しかし、この六月四日という日を永久に、このさき永久に、全世界の記念日に指定せよと、まさか、そんなことをおっしゃっているのじゃないでしょうね。いろいろと宣言を出した、この必要な、この無害な日のために、そうせよ、と言われるのじゃないでしょうね。およそ、きょうという日ほど、それに不適当な日はないですよ。ああ、あなたは御存じないが、わたしはよく知っているのです。記念日というのは、いやはや、大変なものですよ。わたしの亡くなった祖父母がじつは、暦に赤じるしの付いた記念日だったんです。こういう大きな記念行事の一番の欠点は、人の日頃の厳粛な感情の流れを乱すというところです。感情の連続を中断させるのですよ。堰きとめてしまうわけです。突然、旗が出てきて、花火があがって、古びた熱情の錆を落として、みがきたてるということでしょう……これでは結局、つねに持続すべきものが完全に破壊されてしまいます。一日を祝うには一日で足れり。過去は過去をして葬らしめよ、ですよ。どうやら、暦のことになると、わたしは民主主義者だが、あなたは貴族主義者と見えますね。あらゆるものは尊厳なものであって、それ自身の価値によって、それを経験する価値がある、とわたしは主張しますね。いかなる日も、過去の事件の墓の上に捧げるべきではないと思いますよ。きみはどう思う、ヴィルヘルム」
「高貴な者には、当然すべての日が高貴であるべきだな」
「わたしの立場と完全に同じだね」
と王は言って、いままでの自分の言葉に満足したのであった。
ところが、アメリカ大統領がなおも、自説を押してくるので、王は、新時代を祝うという話題を、将来の可能性という話題にうまく変えてしまった。すると、みんなが遠慮して口をつぐんでしまった。世界はひとつになり、平和になった。しかし、この一つになった世界から、これから何が起こってくるか、という細かい点になると、みんなは議論する気になれない様子だった。この様子を見て、王は、ふしぎな気持になり、一気に、科学のもつ可能性という話題に飛びこんでいった。これまで、非生産的な陸海軍の軍備に使われていた膨大な出費を、いまや科学研究に使って、研究を新しい基礎の上に打ち立てなければならないのだ、と王は力説した。
「いままで研究者が一人だったところに、千人の研究者がでてくるのです」と王は言うと、ホルステンに向かって、「われわれは、科学の可能性がやっと見えはじめた段階ですが、あなたは、ともかく、その宝庫の地下室を調べられたのですね」
「地下室は無尽蔵の宝の倉ですよ」
とホルステンは笑顔で言った。
このとき、アメリカ大統領が、チラチラする王の反対を押しもどして、もう一度、自説を弁護して、自分を大きく押し出そうという露骨な気持から、
「人類は、ようやく、相続財産を受けつごうとしているところですよ」
と言った。
「人間がやがて、どんなことを知ると思っていらっしゃるか、その点すこし話してもらえませんか? 人間がこれから何をするか、その点、お話ねがえませんか?」
と王は、ホルステンに向かって言った。
ホルステンは、それにこたえて、人類の未来を展望して見せた。
それを聞いて、「なるほど、科学は世界の新しい王ですねえ」と王が感嘆の声をあげると、
「いや、わたしたちアメリカ人は、主権は人民にある、と考えておりますよ」とアメリカ大統領が言った。
「いや、それはちがいます! 主権は、もっと微妙な存在ですよ。それに、もっと非算術的なものです。わたしたちの一家でもなく、アメリカの解放された人民でもない。われわれのまわりや上や体の中を漂っているものです。あの人間共通の、非人格的な意志と、共通の必要の感覚、つまり科学がその一番わかり易い、もっとも典型的な一面となっているもの、つまり、人類精神ですよ。人間をここまで持ってきたものは、これです。人間をすべて、その要求に服従させてきたのは、これですよ」
と言って、王は口をつぐんだが、テーブルの向こうのルブランの方をチラリと見ると、もう一度、さっきの論敵に向かって言いだした。
「この集まりが、いかにも何か重大な事をやっていると、つまり、わたしたち九十余名の者が、みずからの自由意志と知恵とによって、世界をひとつにしようとしているのだ、と、そういうふうに考える向きがあります。わたしたち自身を段違いに優秀な人間だとか、雄大な人物だとか、そういうふうに考えたくなる誘惑があります。しかし、わたしたちは、そんな人間ではない。ほかに九十何人か、でたらめに選んだとして、それと比べて、われわれの方が平均点が上だと言えるかどうか、あやしいと思いますよ。われわれは創造者では決してない。結果の方です。海難救助者……いや、被救助者の方でしょうね。こんにちの重要事、重大事件は、わたしたちというこの集会の人間ではなく、ここへわれわれを吹き寄せた確信の風ですよ」
アメリカ大統領は、王の平均点の考え方には賛成しかねる、と告白した。
「ホルステンとか他の二、三人のおかげで平均点はちょっと上がるかもしれませんが、しかし、その他の者はどうでしょうか?」
と言って王は、また、チラッとルブランの方に目をやると、
「ルブランをごらんなさい。彼はじつに素朴な人物ですよ。何百、何千と彼のような人はいます。たしかに、ある程度の手ぎわよさ、ある程度の頭脳明晰という点は認めます。しかし、フランスのどこの田舎町でもいいから、午後の二時頃に、そこの大きなコーヒー店にいってごらんなさい。ルブランの一人や二人は、かならず見つかりますよ。彼が複雑な人間でないこと、超人とか何とかではないということ、これですよ、これが、彼のあの大きな業績を可能にしたのです。しかし、これがもっと幸福な時代だったら、彼は、その父親と全く同じ裕福な食料品屋のあるじ、ひじょうに清潔で、ひじょうに秤の正確な、ひじょうに正直な食料品店のあるじでおわった、と思わないかね、ヴィルヘルム? 日曜日になると、奥さんといっしょに小舟に乗る。奥さんは編物を持ちこむ。小舟には、口あたりの柔らかい酒を入れた壷をひとつ持ちこんで、おとなしい緑色の裏地を張った大きな日傘をひろげて、その下に坐って、じつに手際よく、さかんにカマツカを釣りあげる、というような生活だったと思いますよ」
大統領と眼鏡をかけた日本の王子が、口をそろえて反対した。
「ルブランに失礼なことを言っているとしたら、それは、ただわたしの論点を明らかにしたいと思ったからですよ。人とか時代とかいうものが、いかに小さなものか、それに比べたら人類がいかに偉大なものか、そこを明らかにしたいと思って……」
と王の話はつづいた。
四
世界の統合を宣言したのち、こういうふうにエグバート王は語ったのであった。それから毎夕、会議員は、いっしょに食事をし、打ちくつろいで談じ合い、おたがいに親しくなり、おたがいの考えをみがき合った。そして毎日、彼らはいっしょに仕事をして、いちじは本当に、ひとつの新しい世界政府を発明しようとしているのだ、と信じたこともあった。それで、憲法の議論がはじまったが、緊急を要する問題がいろいろとあって、憲法より前に当分は、こういう問題の処理に当ることになり、憲法問題は後まわしになった。そのうちにやがて、エグバート王が予想したとおり、憲法問題は無期延期にしたほうがよいということになり、一方、会議は、いよいよ自信をつけながら統治をつづけていった。
会議の初日の晩、長時間しゃべり、かつ、ルブランが手に入れてきた素朴な地酒の赤ブドウ酒を飲み、その味を盛んにほめたあと、エグバート王は、まわりに気の合った者を数人あつめて、素朴さということについて談じたのだった。素朴さこそ全てのものにまさるものであって、芸術、宗教、哲学、科学、ともにみな単純化すること、素朴にすることを究極の目標にしているのだ、と論じ、自分も素朴の信奉者であると言明し、さらに、ルブランこそ、この素朴の美の華である、と論じた。この点には、みなが賛成した。
やっと食卓の一座が散りはじめると、王は、ルブランに対する深い愛情と尊敬に心がみちあふれるのを感じて、彼のそばに寄り、彼を脇へ連れだして、ちょっと話があるのだが、と切りだした。じつは、わたしが授与することになっている一つの勲章があるのだが、これは世界中の他のあらゆる勲章、勲位とちがって、いままでただの一度も、賄賂などで汚されたことがない。最高の功績がある年輩者で、その鋭い才能がすでに円熟しはじめた人にだけ与えられる勲章だが、わたしの一家の顧問たちが確認したかぎりでの、各時代の最大の偉人がこれまでに受けている。今のところ、星章とか記章とかいうものは、他の重大事のために影がうすれているし、わたし自身としても、そういう物をこれまで、全然、重要視したこともなかった。しかし、こういう物が、少なくとも人の関心をひく時代が、いずれはやって来るかもしれない。つまり、要するに、ルブラン、きみに功労勲章を授与したいのだ。その動機は、きみに対する私個人の敬意を表したい強い願望、これだけだ、と、まるで兄弟のような愛情をこめて、終始ルブランの肩に片手をかけて語ったのだった。ルブランは、つつましい態度で、まごつきながら聞いていたが、その態度が、なおさら、その感嘆すべき素朴さへの王の敬愛の情をかきたてた。ルブランは、こういう栄誉にはとびつきたい気持は山々ながら、いまの段階では、人の反感を買う怖れがある。だから、わたしの仕事が終ったときに、その冠りとして、結論として、その勲章がいただけるように、授与の日を先にのばしてはいただけないものか、と答えた。王が、いかに熱心に説いても、この決心はゆるがず、二人は、たがいに敬意の言葉を交わしながら別れた。
そのあとで王は、ファーミンを呼んで、きょうの自分のかずかずの発言の短い覚え書きをとらせたが、二十分ばかり、そんなことをしていると山の空気にこころよい睡気をさそわれたので、ファーミンを退らせて、ベッドに入り、すぐに眠りに落ち、快眠した。こころよい楽しい一日だった。
五
こういうふうに、じつに人間的に始まった新秩序の建設は、以前の時代の尺度で計れば、急速な歩みだったと言わねばならない。世界の闘争心は疲労しきっていた。ほんの所々に戦闘が残っているだけの状態であった。人間の戦闘的側面を、数十年の長きにわたって途方もなく誇張してきたのは、政治区分の偶然にすぎなかったことが、いまや火を見るよりも明らかになったのである。各国の軍備を長らく支えてきた力の最大のものは、戦争への恐怖と、好戦的隣国への恐怖であり、こういう恐怖ほど強い攻撃性をもつものはなかった。実際に戦闘のため集められた男たちの集団の大きな部分が、流血と危険をもとめて、歴史上、本当に飢えるようなことが、かつてあったのか、それは疑問である。野蛮段階を過ぎた人類には、おそらく、この種の渇望は決して強くはなかったであろう。軍隊というものは、殺人が最終的確実というより、不愉快な可能性になった職業であった。この頃の新聞や雑誌が軍国主義の持続に大いに役立ったのであるが、こういうものを読んでみると、戦争の栄光、冒険などを書き立てたものはほとんど見当らず、かえって、侵略と征服の不愉快さを、しきりに訴えている。つまり簡単に言うと、軍国主義とは恐れであった。二十世紀の武装したヨーロッパの戦争の決意は、おびえきった羊の盲めっぽうに走り出そうとする決意だった。ところが、武器が手の中で爆発しはじめると、ヨーロッパは、夢中になって武器を棄てようとし、戦争というこの見当ちがいの暴力的な逃避手段を棄てさろうとしたのであった。
全世界がひどい衝撃を受けて、率直な態度をとるようになっていた。これまで、昔ながらの戦闘的対立の立場を支持してきた頭のよい連中のほとんど全部が、いやおうなしに、素朴な態度と素直な気持ちの必要性を認識させられたわけで、いまや、この道徳的再生の雰囲気の中では、新秩序に抵抗して利益をおさめようという取引の試みは、ほとんど無くなっていた。人間はたしかに、ずいぶん愚かではあるが、それでも、火事を逃れようとする非常階段の上で、わざわざ立ちどまって喧嘩をするような者は、ほとんどいない。そういう連中にはブリサーゴ会議は対応の方法を心得ていた。日本の大阪市近郊にあった研究所と軍需工場を占領して、「人類共和国」への日本併合に反対する国家的反乱を起こそうとした「愛国者」集団があった。ところが彼らの、民族の誇りに関する計算には誤りがあって、「愛国者」たちは、たちまち、同国人の復讐を受けた。軍需工場での戦闘は、戦争の歴史の最終章における、なまなましい一事件であった。「愛国者」たちの間には、敗北の際、原子爆弾を爆発させるか否かについて、最後まで対立があり、工場のイリジウム元素の扉の前で、過激派と穏健派がたがいに日本刀で切りむすぶ戦闘をおこなったが、穏健派が追いつめられ、手傷を負わぬ者がわずか十人になり、全滅寸前のところまできたとき、共和国派が救援に突入したのであった。
六
しかし新体制への世界的賛成のなかにあって、ただひとりだけ反抗する君主があった。それは、あの中世主義の奇妙な遺物、バルカン諸国の王、「スラヴの狐」であった。彼は世界国家への帰順を検討して延期していた。ブリサーゴからの、たび重なる召喚に対しても、狡滑さと無鉄砲ぶりとをじつにたくみに織りまぜて、すり抜けるのだった。健康がすぐれないと言ったり、新しい公然の情婦のことで目下ひじょうに多忙である、などと口実をかまえた。なにしろ彼の半野蛮な宮廷は、もっともロマンチックな手本を模倣して出来ていたのである。彼の手練手管をたくみに助けていたのが、その総理大臣ペストヴィッチ博士であった。完全独立の主張に失敗すると、フェルディナンド・チャールズ王は、保護国家として処遇してほしいという案を出してブリサーゴ会議を悩ませ、それにも失敗すると、結局、世界国家に対して服従する意志を表明したが、これがまた、胡散くさいもので、新政府に官吏を移管するについて、さんざん厄介な問題をもちだしては妨害工作をした。こういう策略を熱狂的に支持したのが彼の国民であるが、その国民というのが、大部分文盲の農民であって、見当はずれの熱狂的愛国心をもっている反面、原子爆弾の実際の効果について全く何の知識もないという有様だった。とくに問題なのは、王が、全バルカンの航空機を統制しているという事情であった。
このときばかりは、さすがのルブランの無類の純真さにも策略のかげりが差したかに見えた。ルブランは、バルカン半島の帰順が本心から誠意をもっておこなわれたものだと、いかにも信ずるような恰好で、世界和平の仕事をつづける一方、きたる七月十五日をもって、これまで、ブリサーゴ会議を防衛してきた空軍部隊を解散すると発表した。しかし、そのじつ、七月十五日に、彼は空軍部隊を二倍に増強し、その配備に、さまざまな工夫をこらしたのであった。ある種の専門家に相談し、またエグバート王にもひそかに計画を打ち明けたが、その明確な見通しを聞かされたとき、王は、緑色の日傘の下で釣糸をたれているルブランの姿、忘れかけていたあの空想の姿を思い出したものであった。
七月十六日の朝五時ごろ、ガルダ湖の南端上空をひそやかに飛んでいたブリサーゴ防衛空軍の外辺哨戒機一機が、西にむかって飛ぶ一機の国籍不明機を発見した。確認の信号を発したが満足な応答がないので、無線通信機を入れたままで、追跡を開始した。すると、西の山々の上空に、たちまち防衛空軍の僚機が群をなして現われ、国籍不明機がコモ市を見るよりも早く、十二、三機が急追し肉迫した。不明機のパイロットは、まよったらしく、急に、山間に高度を落とし、南へ転じて振り切ろうとしたが、その鼻先へ、退路を絶とうとして、一機の複葉機がななめに飛びこんできた。すると逃走機は、機首を転じて、のぼろうとする朝日の目のなかへ飛びこんでいき、最初の追跡機と八十メートル足らずのところですれちがった。
このときすかさず、その追跡機の射手が発砲したが、まず、爆撃手を狙いうちにしたのは、情勢をつかんだ適切な処置だった。パイロットは、うしろで、アッという声をきいたことだろうが、追跡をのがれるのに夢中で、振りかえるゆとりもなかった。そのあとで二度、射撃音がきこえたにちがいない。パイロットはエンジンを全開にして、前かがみになって操縦ハンドルを握りながら、弾が飛んでくるのを二十分間は待ちうけていたにちがいないが、一発も弾は飛んでこなかった。ようやく振りかえって見ると、大きな飛行機が三機、すぐうしろに迫っていて、三度の銃撃を食った仲間は、爆弾の上に体をふせるような恰好で死んでいた。追跡機は、明らかに、こちらをびっくりさせる気も、撃つ気もないらしい。ただ、下へ下へと遮二無二に押してくるので、とうとう平坦な米畑、トウモロコシ畑の上、百メートル足らずのところを、カーブを描きながら飛ぶようなはめになってしまった。前方に、朝日を浴びて、一つの村が黒く見えてきた。ひじょうに高い、ほっそりとした鐘楼があり、金属の旗をつけた一本のケーブルが張ってある。これを飛びこえることはできない、と見るや、パイロットはエンジンを急にとめて、パタンと不時着した。不時着したとき、パイロットは爆弾をつかもうとしたかもしれないが、追跡機が、その真上を飛びこしざまに発砲して、これを射殺した。
他の三機がカーブを描いて飛んできて、くだけた飛行機のそばの草のなかに着陸した。射撃手たちが降りてきて、手に手に軽ライフルを持って駆けよってきた。不時着機の真中にあった、ひつぎ型の箱がこわれて、黒い物が三つ、ガラクタのなかにおとなしく転がっていた。それぞれ水差しの取手のようなものが二つ付いている。
これこそが重大な物で、射撃手たちは、目をそれに奪われて、血まみれで転がっている死体など、田舎の小道に死んでいる蛙ほどにも思わなかった。
「ああ、あった!」
と最初に駆けつけた男が言った。
「無事だ」
と、つぎに駆けよったのが言う。
「はじめて見たよ」
とまた、はじめのが言う。
「思ったより大きいな」
と相手が言った。
そのとき、もう一人の男がそばに寄ってきて、ちょっとの間、じっと爆弾を見つめてから、死体の方に目を移した。飛行機の中央部の下の、青草のなかの、ぬかるみに倒れている。胸がつぶれていた。
「うかうかした事はできないな」
とこの男は、かすかに弁解じみた調子で言った。
他の二人も死体の方を眺めた。「通信しなくてはいかんぞ」と、はじめの男が言ったとき、頭上に一つの影が通りすぎた。見あげると、最後の銃撃でとどめを刺した機だった。「通信しておこうか?」とメガフォンで呼びかけてくる。
「爆弾三発」
と三人がいっせいに答えた。
「どこの爆弾だ?」
三人の射撃手は、たがいに顔を見合せると、二つの死体の方へ歩きだした。一人が、ふと思いついて、「調べている間に、まず、それを通信してくれ」と言った。三人のパイロットも降りてきて、六人総がかりで何か手がかりになるものを、と調べだしたが、いそいでいるので、どうしても手つきが荒っぽくなった。死体のポケット、血で汚れた服、飛行機の機械、枠組みなどを調べる。それから、死体をひっくり返して、横へほうり出して見たが、刺青一つ見あたらない。どこの飛行機か分からないように、あらゆるものから、念入りに目じるしが消してあった。
「わからないぞ!」
と、とうとうみんなが叫んだ。
「しるしがないか?」
「ない」
「おれも降りる」
と頭上のパイロットは声をかけた。
七
スラヴの狐は、美しい新美術宮殿の金属製の露台に立っていた。光りかがやく小さな首都の上に、のしかかるようになった崖の上に立った宮殿である。王の横には、白髪頭の狡猾なペストヴィッチ首相が興奮をおさえかねる表情で立っている。うしろに窓が開いて、一つの大きな部屋に通じているが、この部屋は、アルミニウムと真紅のほうろう細工で豪華な装飾がしてあった。王が、ときどき振りかえって、その中に目をやると、奥に、青い壁にぬった小さな控え室の、小さな二つの扉が開いていて、その向こうに、無線技師が作業台の上で、ひっきりなしに電文をうつしとっているのが見えた。二人のおおげさな派手な軍服姿の伝令が、この控え室に、落ち着かない様子で立っていた。王のうしろの部屋には、堂々とした気品ある調度品が入っていて、部屋の中央に、緑色のラシャ布をかけた大きなテーブルがすえてある。テーブルの上には、ずっしりとした感じの、白い金属製インキつぼや、古風な吸取り砂箱などが置いてあり、いかにも新しい、しかし、ロマンチックな君主国にふさわしい雰囲気だった。ここは王の会議室であった。あちこちに、王の内閣の六人の大臣がたたずんでいるが、いままで何か陰謀をこらしていたのを、一時休憩したような恰好に見える。十二時と指定されて召集を受けたのに、十二時半になっても、まだ王は露台から出てこず、何か知らせのとどくのを待っている様子である。
王と首相は、はじめ小声で話し合っていたが、いまや二人は沈黙におちいってしまった。漠然とした不安以外に話すこともないのである。ずっと向こうの山腹に、長い農家の建物がならび、白い金属の屋根が見えるが、その屋根の下に、原子爆弾製造工場と原子爆弾が隠してあるのだった。(工場や爆弾をつくった化学者は、ブリサーゴ会議の宣言後に急死した)この工場や爆弾のことを知っているのは、王と首相と、ほかに三人の忠実な付添いがいるだけだった。山の下のオートバイ選手の練習場で、ギラギラする真夏の太陽を浴びて、爆撃機と共に、飛行士や爆撃手たちが待機していたが、いまになってもまだ、彼らは、積んでいく爆弾がどこにあるのかも知らされてはいなかった。もし、ペストヴィッチ首相の計画どおりにゆけば、爆撃機が出発すべき時刻はもうきていた。それは壮大な計画であった。世界帝国建設の計画であった。はるかブリサーゴにある理想主義者や大学教授どもの政府を、原子爆弾でこっぱみじんに吹きとばした上で原子爆弾を積んだ全飛行機を、東西南北、四方八方へ雲霞のごとく飛ばせ、武装解除した全世界に向かって、フェルディナンド・チャールズ王を新しきシーザー、全地球のあるじ、帝王と宣言するという大計画であった。
たしかに壮大な計画だった。しかし、最初の一撃の成功の知らせを待つこの緊張は相当なものだった。
スラヴの狐は、青白いばかりに色白で、鼻がひじょうに高かった。口ひげは濃く短く、目は小さく青かったが、互いにちょっと寄りすぎていて、感じがよいとは言えなかった。気持が落ち着かないときは、きまって神経質に、イライラと口ひげを引っぱる癖があったが、いま、ひっきりなしに、ひげを引っぱって見せるので、ペストヴィッチはイライラしてきた。
「無線電信機がどうなっているのか、見てまいります。何の知らせもきませんから」
と言って首相は王のそばから離れていった。ひとりになると、王は思い切り、癖を丸だしにすることが出来た。露台に両肘をついて、白い長い両手で、口ひげを引っぱっているのは、青白い犬が骨をかじっている恰好そっくりだった。もし、奴らがあの飛行士をつかまえたら、どうしよう。もし、つかまったら、どうする。下の町の、明るい金色の帽子をかぶった鐘楼の時計が、やがて十二時半を知らせた。
王とペストヴィッチが、その時のことを充分考えていたことは言うまでもない。たとえ捕まっても、あの連中は秘密を守るという誓いを立てている。おそらく捕まるときに殺されるだろう。とにかく否定すればいいのだ。最後までシラをきればいい。シラをきってやる。
そのとき王は、青空のはるか高いところに、キラキラと光るものを五つ六つ発見した。
ペストヴィッチがすぐに露台に出てきて、
「陛下、政府の発表が全部、暗号に変わりました。それで一人の技師に……」
と言いかけると、王が、
「見ろ!」
と叫んで、長い細い指で空をさした。
ペストヴィッチは一目、見上げてから、王の真青な顔にチラッとうかがうような目を向けると、
「陛下、乗り切らねばなりませんぞ」
と言った。
しばらく二人は、急激な旋回運動を繰りかえしながら降りてくる飛行機を見あげていたが、やがて、大急ぎで相談をはじめた。そして、ブリサーゴ会議に最終的に降伏するについての細かい点を協議する会議を催しているのだということにすれば、王としても涼しい顔をしていられるということになった。そういうわけで、ブリサーゴ会議の使節、前王エグバートが王宮に到着したときは、フェルディナンド王は、宮廷の真中で、顧問官たちの上席に坐って、芝居がかった姿勢をとっていた。無電室の扉はしめてあった。
ブリサーゴ使節は、カーテンの間をすりぬけ、廷臣たちの間を隙間風のように軽々と通りぬけて近よってきたが、フェルディナンド王の気持とはずいぶんの違いだった。しかし、その自信ある気楽そうな様子とは裏腹に、使節の目には、ある種の強い光がやどっていた。付添いとして、うしろからファーミンがトコトコとついてきたが、ほかには一人の従者もいなかった。使者をむかえるため、立ちあがったフェルディナンド・チャールズの胸の中に、また、あの露台で感じたゾッとする感覚がよみがえった……だが、それも客人の気楽な様子を見て、消えた。こんな、おしゃべりのバカ者ならだますのは簡単だ。眼鏡をかけた小さなフランスの合理主義者の考えを聞いて、その命令を受けて、世界最古の王冠をほうり出すようなバカ者なんだから。とにかく、徹底的にシラを切ること、シラを切ることだ。
だが、話しているうちに、だんだんと、何もシラを切って頑張ることもないのだ、と分かってきた。ずいぶんこいつ、しゃべるなあ。疲れてしまう。愛想よく気楽な調子で、ブリサーゴ会議と余との間で議論になっているあらゆる問題をしゃべる。だが、あの事だけが出てこないのは……
飛ぶのが遅れたのだろうか? 修理で着陸でもして、まだ逮捕されていないのだろうか? このバカ者がペラペラしゃべっている今にも、あの連中は、山の中に爆弾を投下しているだろうか?
妙な望みで、スラブの狐の尻尾が、ちょっと上がってきた。
この男、何を言っているんだろう。とにかく話して、こいつの肚のうちを探らねばならぬ。いまにも、うしろの小さな真鍮の扉が開いて、ブリサーゴ吹っ飛ぶという知らせがとどくかもしれないのだ。そのとき、こいつを即刻逮捕したら、どんなにスッとして、気分がいいことだろう。多分、死刑だな、こいつは。なに?
使者は、繰りかえして言っていた。「会議では、あなたの自信は、原子爆弾を持っているところから来ている、などとおかしなことを考えているのですよ」
フェルディナンド・チャールズ王は、体を引きしめて、とんでもないと否定した。「そうでしょうとも。全くですよ」
と使節は調子を合わせた。
「どんな根拠で、そんなことを考えるのでしょうか?」
使節は手を振って、かすかにクックッと笑った。……どうして、こいつ、笑うんだろう?……
「ほとんど根拠は無いのです。しかし、言うまでもないことですが、こういうことには慎重でないといけませんからな」
と言ったそのとき、ほんの一瞬だが、何かが……かすかな軽蔑の影のようなものが……使節の目に走って、またフェルディナンド王は、背骨にゾッと冷たいものを感じた。
ペストヴィッチ首相も、さっきから、引きつれたようなファーミンの緊張の表情を見ていて、意気消沈していた。だが、彼は主君を助けようとして、そばに寄ってきた。どうも抗議の言葉が多すぎるような気がしたのだ。
「捜査なさるのか! わが国の航空機を飛行禁止にするですと!」
「いや、ほんの一時的な処置ですよ、捜査をするあいだの」
フェルディナンド王は、会議に訴えた。
「国民がそれを決して許しませんぞ、陛下」
と豪華な軍服を着た、せわしげな小男が言った。
「みなさんの力で、国民に納得させてもらうことですね」
と使節は、おだやかに顧問官全員に向かって言った。
フェルディナンド王は、無線室の閉じた真鍮の扉をチラリと見て、
「その捜査はいつから始まりますか?」
ときいた。
使節は晴ればれとした顔で、
「明後日から始めるのがやっとですね」
「首都だけですか?」
「ほかに、どこか調べる所がありますかな?」
と使節は、いよいよ朗らかな顔を見せる。
それから打明け話のような親しい調子になって、
「わたしとしては、こんなことをするのはバカげてると思うのですよ。原子爆弾を隠すなんて、そんなバカがいるでしょうか? そんな奴はいませんよ。つかまったら確実に絞首刑ですよ……確実です。つかまらなくても、大変な処置を食うことは目に見えています。だが今の時勢じゃ、バカげているとは思っても、わたしも世間同様、命令に服する立場なので、こうして、やって来たわけです」
こんな、いやらしい親しさは、はじめてだと王は思ったが、チラッとペストヴィッチの顔をうかがうと、かすかにうなずいている。が、とにかく、こいつがバカなのは助かる。熟練の外交官を送ってこられても仕方がなかったんだから。
「もちろん、その、圧倒的な力が……一種の論理が……たしかに、ブリサーゴの命令にあることは認めます」
とフェルディナンド王が答えると、
「わかっていただけると思っていました。それでは、手筈を相談して……」
と使節は、ホッとした様子で言った。
こうして二人は、ある種の打ち解けた調子で相談をはじめて、その結果、バルカンの飛行機は捜査終了まで一機も離陸せぬこと、その間、世界政府の空軍が上空の警戒に当ること。さらに、町々には、原子爆弾発見に協力する者には報酬を出すという布告をはり出すことに話がまとまった。
「その布告に、あなたの署名をいただけますか?」
と使節が言うと、
「どうしてです?」
「そうすれば、わたしたち世界政府の者が、あなたに何ら敵対していないことが明らかになりますからね」
ペストヴィッチが、目顔で、「よし」と王に合図を送った。
「そうなれば、ここに世界政府の者を大勢呼んで、あなたの警察の力もお借りして、この国のすべてを調査できます。それで終りです。そのあいだ、わたしは、ここで客人にしていただいて……」
やがて、王とペストヴィッチの二人だけが部屋に残されたが、王はもう、気持がめちゃくちゃだった。風に叩かれる海面のように大荒れに荒れていた。「あのバカ野郎め、捜査とはなんだ!」と興奮してののしるかと思うと、ストンと恐怖のどん底に落ちて、「ペストヴィッチ、あれが見つかるぞ。見つかったら、首吊りだぞ」と、うめくのだった。
「首吊りですと?」
王は、高い鼻を大臣の顔に突きつけるようにして、
「あのニタニタ顔のバカめは、われわれを首吊りにしたがっているぞ。ちょっとでも口実を見つけてみろ、それこそ首吊りだぞ」
「しかし、彼らは『近代国家文明』と言っておりますよ」
「ああいう神を信じぬ連中、ああいう道徳家ぶりながら生体解剖をやるやつらに、憐れみの気持なんて、あると思うのかね」と最後のロマンチックな王は大声をはり上げた。「ペストヴィッチ、あんな連中に、高邁《こうまい》な志、すばらしい夢というものが理解できると思うか。われわれのすばらしい、高貴な冒険が、あいつらに、すこしでも分かると思うかね。わたしは、最後の、最大の、そして、もっともロマンチックな帝王だぞ。奴らは、わたしを犬のように吊り、穴の中のネズミのように殺す機会が来たら、かならず、そうする。それを見のがす連中だと、きみは思っているのか。それに、あの裏切者めが! 昔は、奴は神聖な王だったのに……。あの目付きはいやだな。笑いながら、にらんでいる。わたしは、ここに坐っていて、魅入られたウサギみたいに捕まるのはいやだ。あの爆弾をよそへ移そう」
「賭けましょう、陛下。あのままにしておきましょう」
「いや、それはいかん。国境付近にうつせ。奴らがここで見張っているうちに……奴らの目はここに釘づけにされている……そのすきに、外国の飛行機を一機買って、それに爆弾を積んで……」
その夜、王は一晩中、イライラと火のように熱した気分だったが、それでも、じつに狡猾な計画をいろいろとめぐらした。爆弾をどうしても移さねばならないが、それには、乾草を積んだトラックが二台いる。乾草の下に爆弾をかくすのだ……ペストヴィッチが行ったり来たりして、信頼できる部下に指図した。それからまた計画、計画の練りなおし、という具合だったが、一方、表面では、王と前王とは、いろいろな事を話題に、じつに愉快な雑談をたのしんでいた。しかし、心の裏では、フェルディナンド王は、行方不明の例の飛行機のことが引っかかって、イライラしていた。つかまったとも、うまくいったとも知らせがない。この使者の背後のあの権力は、今にも、すべて崩れさるかもしれないのだ……。
真夜中を過ぎたころだった。小農園主か中産階級の男でも似合いそうなマントと、前の垂れたソフト帽をかぶって、王は宮殿を脱けだした。宮殿の東側の目立たない通用門をこっそり抜けて、こんもりと木のしげった庭園にしのびこんだ。庭園は段々になって、下の町へ降りていく。ペストヴィッチと、その従者兼護衛のピーターが、王と同じような身なりをして、庭園の小道のわきの月桂樹の木立ちから出てきた。暖い、空気の澄んだ夜だが、星々が異常に小さく遠くに見えるのは、飛行機が、それぞれ、探照燈の尾を引くようにして、青い空をあちこちと飛んでいるせいだった。王が宮殿を出たときに、一本の大きな光線が一瞬、王の上にとどまったように見えたが、また、すぐに、安心したように、スーと去っていった。ところがまだ三人が宮殿の庭にいるときに、また一本の光につかまって、照らし出された。
「奴らが見てるぞ」
と王は叫んだ。
「見ても、わかりませんよ」
とペストヴィッチが答えた。
王は目を上げて、光の穏やかな丸い目を見た。それは瞬きしたかと思うと消えた。王は目がくらんだ。
ペストヴィッチが錠をはずしておいた庭園の柵の小さな門のわきに、一本のヒイラギの木が立っていた。この木陰で王は立ちどまって、宮殿をふりかえった。ひじょうに高い細い建築で、中世建築の二十世紀版というか、鋼鉄と青銅と模造石と不透明ガラスで作った中世建築であった。空を背景にゴテゴテとたくさんの尖塔が突き立っている。東の翼部の高いところにエグバート前王の部屋の窓が見える。いま、その一つの窓にあかあかと灯がともって、一つの黒い人影が、じっとたたずんで、外の闇をみつめていた。
王はそれを見て、うなり声を上げた。
「われわれが指の間からすり抜けていくとは気がつかないでしょう」
とペストヴィッチが言った。
そう言っているときに、エグバート前王が、あくびでもするのか、両腕をゆっくりとのばし、両目をこすったかと思うと、中の方を振りむいた。きっと、べッドに入るのだろう。
古い曲りくねった裏通りを、下へ下へといそいで、指定の町角までくると、そこに、見すぼらしい一台の原子力自動車が三人をまっていた。最下級のタクシーで、車体はデコボコにへっこみ、座席のクッションはぺちゃんこという代物だった。運転手は首都のふつうの運転手だったが、その横に、ペストヴィッチの青年秘書がひかえていて、この男が、原子爆弾をかくした農園への道を知っているのだった。
車は古い首府の狭い町通りを走っていった。町筋は、まだ明りがついて、ざわついていたが、それは、空に飛行船の船団が飛んでいるので町のコーヒー店があいて、人が出あるいているせいだった。車は町を抜けると、大きな新しい橋をわたり、人家のまばらな郊外を過ぎて田舎へむかう。シーザーより偉大な帝王になろうとした王は、深く坐って身動きもせず、また誰一人口を開く者もなかった。暗い田舎に入ると、探照燈が何本も、巨人の不安な幽霊のようにあたりをウロウロとさまよっていた。王は前にのりだして、この白いフラフラとした光を見、ときどき頭上の飛行船を見あげたりした。
「いやだな」
と王は言った。
やがて一本の青白い光が車をつつんで、車の動きを追ってくるように見えたので、王は奥に身を引っこめた。
「いやに静かだな、この連中は。やせた白猫につけられるような気分だな」
と王は言い、もう一度、外をのぞいて、
「あいつ、監視してるぞ」
と言った。そう言うと、王は突然、恐怖におちいり、大臣の腕をつかんで、
「奴らは監視しているぞ。この計画は中止だ。監視されている。引き返すぞ」
ペストヴィッチが、なだめると、
「引きかえすと運転手に言え」
と王は言って、ドアを開けようとした。しばらく車の中で激しい揉み合いがあって、手首を掴んだり、なぐったりの騒ぎが起こった。
「だめだ。わしはもうだめだ。こんなことはできん、もうだめだ」
「しかし、見つかれば絞首刑ですぞ」
「いや、いま自首すれば、そんなことはない。爆弾を引き渡せば大丈夫だ。お前だぞ、こんなことに引っぱりこんで……」
ようやくペストヴィッチは妥協した。例の農園から半マイル程のところに旅館が一つあるから、そこで降りて、王はブランディでも一杯飲んで、しばらく神経をやすめられるのがよい。その上でまだ、引きかえすと言われるのなら、引きかえされたらよい、という案だった。
「ほら、光はいってしまいましたよ」
王は上をのぞいて、
「きっと、明りをつけないで、あいつは、つけて来るんだ」
と言った。
きたない古びた旅館に着いて、王はしばらく迷っていたが、結局、引きかえして、ブリサーゴ会議の慈悲に身をゆだねることにする、と言った。
「ブリサーゴ会議があれば、の話ですよ。いまごろは、陛下の爆弾で、会議のかたがついているかもしれませんぞ」
「それなら、こういう飛行機は去っているだろう」
「いや、まだ知らないのかもしれません」
「しかし、ペストヴィッチ、わたしを抜きにして、きみ一人で、これをやってくれないか?」
ペストヴィッチは、しばらく黙っていたが、やがて、「わたしは、爆弾をあのままにしておくのがいいと思います」と言って、窓のそばに寄った。外を見ると、車のあたりを丸く、あかあかと探照燈が照らし出している。このとき、ペストヴィッチは、うまい手を思いついた。
「秘書を外にやって、運転手と喧嘩のまねごとをやらせてみます。そうすれば、上の奴らが注意するでしょう。そのすきに、陛下とわたくしとピーターの三人で、裏から抜け出して、生け垣づたいに農園に……」
これは、さすがに大臣の評判どおりの名案で、じつにうまく事は運んだ。
十分すると、三人は農園の中庭の壁を、息を切らして、ずぶぬれの泥まみれという恰好で這い上がっていたが、それでも発見だけはまぬがれた。ところが、納屋に向かって走りだしたときに、王が、うめき声とも罵りともつかぬ声をあげた。すると、まわりに、パッと明りがついて……スッと去っていった。
しかし、明りは、すぐに去ったか、それとも、一秒ほど、とどまっていたろうか?
「見られてませんよ」
とピーターは言う。
「見てはいないだろう」
と王は答えて、光をにらんだ。光は山肌をズーと這いあがっていき、一つの乾草の山のあたりを一秒ほど照らしてから、また、グーと、もどってきた。
「納屋のなかだ!」
と王は叫んだ。王は何かに向こうずねをぶつけた。三人が飛びこんだところは、鋼鉄の梁を使った巨大な納屋のなかで、爆弾を運びだす予定の乾草運搬用トラックが二台入っていた。昼のうちに、ピーターの二人の弟のクルトとアベルが、ここへ廻しておいたトラックだった。乾草の荷の上半分が降ろしてあって、爆弾がどこに隠してあるか、王が明かし次第、すぐにも積みこめる手筈になっていた。「ここに穴倉のようなものがある。もう灯をつけるなよ。この鍵で、掛け金が外れる……」と王が言った。
しばらくの間、納屋の暗がりの中では声もきこえなかった。石の蓋を上げる音がして、それから穴倉のなかへ梯子を降りていく足音がした。それから、ヒソヒソと囁く声、フウフウと荒い息の音がして、クルトが一発目の爆弾をかかえて上がってきた。
「まだ大丈夫だ」と言って、王は、ハッと息をのんだ。「しまった。一体どうして扉をしめなかったんだ」。大きな扉がいっぱいにあけっぱなしになっていて、外のガランとした中庭も、扉も、納屋の二メートルほど中までも、探照燈の青い光の中に、むきだしになっていたのだ。
「扉をしめろ、ピーター」
とペストヴィッチが言った。
「やめろ」
と王が叫んだが、もう遅く、ピーターは明りの中に踏みだしていた。
「姿を見せるな!」
クルトが一歩踏みだして、兄をつかんで引きもどした。しばらく、五人は立ちすくんでいた。探照燈も動かず、じっと照らしていたが、急に、パッと消えて、五人は、しばらく目がくらんで見えなくなった。
「いまだ。扉をしめろ」
と王が不安な声で命令した。
「完全にしめるな。出ていくすきまを残しておけよ」
とペストヴィッチが叫んだ。
爆弾を動かす作業は大変だった。納屋の中は暑かった。王は、しばらくの間、まるで平民のように働いた。クルトとアベルが穴倉のなかから運び上げてくるのを、ピーターが手押し車に積んで、それを王とペストヴィッチが助けて、乾草の中に入れるという作業だ。できるだけ音を立てないようにして働いた。
「シーッ! あれは何だ?」
と王が言ったが、穴倉の中のクルトとアベルには聞こえるはずもないので、最後の爆弾をかかえて、二人はヨタヨタしながら梯子をのぼってきた。
「シーッ!」
ピーターが穴倉の口に駆けよって注意すると、二人は静かになった。
納屋の扉が少しひらいて、外のぼんやりとした青い光の中に、一人の男の、黒い姿が浮かびあがった。
「ここに誰かいるのか?」
とイタリア風の抑揚をもつ声がかかった。
ドッと全身に冷汗が吹きだすのを王は感じた。
「まずしい農夫が乾草を積んでいるところですよ」
とペストヴィッチが答えた。そして、大きな乾草用の熊手をとり上げて、そっと扉にちかづいた。
「乾草を積むにしては時間がわるいな。明りの具合も、ずいぶんわるいし。ここには電燈がないのかね」
と、戸口の男はのぞきこみ、急に懐中電燈をつけた。その瞬間にペストヴィッチが飛びだし、「出ていけ!」と叫ぶなり、相手の胸に熊手を力いっぱい突き刺した。こうすれば、相手を黙らせることができると漠然と考えたのだった。ところが、刺されて、うしろに突きもどされたとたんに、その男は大声を上げた。すると、バタバタと中庭を走ってくる音がした。
「爆弾だ!」
刺された熊手を胸から抜こうとして、もがきながら男がさけぶ。男は倒れたまま、熊手をつかんで必死にもがいている。ペストヴィッチは、突き刺したときの勢いで、ヨロヨロと外に出たが、その瞬間に、駆けつけた男の一人に撃たれた。
倒れている男は重傷を負いながらも、なおも、「爆弾だ!」とさけび、必死で片膝をつくと、懐中電燈の光を、まともに王の顔にあて、「撃て、やつらを撃て」と咳こみ、血を吐きながら怒鳴った。懐中電燈の光が王の頭のまわりで揺れる。
駆けつけた二人の男は、ふるえる光の輪のなかに、王が手押し車のなかで膝をついて伸びあがり、ピーターがその横に立っている姿を見た。古狐は、追いつめられて、横目でこちらを見ている。真青のいやらしい顔だった。そのとき、まごまごしながらも、一種の自殺的勇気をもって、王は、前にあった爆弾にだきついた。その瞬間、こちらの二人は、同時に発砲して、王の頭をぶち抜いた。顔の上半分が消えた。
「撃て、みんな、撃ち殺せ!」
と刺された男がまた叫んだかと思うと、懐中電燈が消え、うなり声を上げて、仲間の足元にころがった。
だが仲間もそれぞれ懐中電燈をもっていたから、すぐに納屋じゅうのものが明るく照らしだされた。降伏のしるしにピーターは両手を上げたが、その瞬間に撃ち殺された。
クルトとアベルは、梯子のてっぺんでちょっとまごついて、すぐまた穴倉のなかへ飛びこんでいった。
「殺さないと、爆弾で吹っとばされるぞ。あの蓋の下だ。こい!……」
「やあ、いた。手を上げろ! 光を当ててくれ、おれが撃つ……」
八
ファーミンと従者が二人でやってきて、仕事が終った、とエグバート前王に報告したのは、まだ朝も真っ暗な時刻だった。
王は、ハッとして身を起こし、ベッドの端に坐ると、
「彼は出ていったのかね?」
「死にました。射殺されました」
エグバート前王は、じっと考えこんで、
「それが一番よかったのかもしれないね。爆弾はどこにあった? あの農家、あの向かいの山腹の! ほほう、あんな見えるところにあったのか! いこう。服を着るよ。ファーミン、誰か、ここに、コーヒーをつくってくれる者はいないのかね」
夜明けの薄暗がりの中を、自動車を駆って前王は、反乱王が爆弾のなかに転がって死んでいる農家へといそいだ。空の端がキラキラと光って、東の方が明るくなり、太陽が丘の上にちょうど出かけたころ、農家の中庭に車が着いた。王やファーミンが見まもる中を、乾草トラックが納屋から引き出されてくる。おそろしい爆弾がまだ積まれたままである。数十人の飛行士が中庭の警戒にあたっているが、外には、五、六人の農夫がかたまって、まだ何があったのかも知らずに、じっと見物していた。中庭の石塀につけて、五つの遺体がきちんと並べてあるが、ペストヴィッチの顔には、まだ驚きの表情が残っていた。王の方は、長い白い手と金色の口ひげで、それと分かるだけだった。負傷した飛行士は下の旅館へ運ばれていった。チューリヒの北に、原子爆弾を塩素ガスの中で解体する設備をもった新しい特殊研究所ができていたが、ここへ原子爆弾を送る指図をしてから、王は、五つの死体の方を振りむいた。五組の足が、奇妙にこわばって、そろって突き出ている。
「ほかに何かできることがあっただろうか?」
王は、心の中で責める声に答えた。
「ねえ、ファーミン、ほかにまだあるだろうか?」
「爆弾が、でしょうか?」
「いや、こういう王が、さ……。バカげてるよ。情なくなるなあ! ファーミン、国際政治の前教授として、これを埋葬するのは、きみの責任だと思うよ。あそこ? いや、あの井戸のそばはいかんね。あの井戸は、人が水を飲むから。向こうの、どこか、畑のなかにでも埋めたまえ」
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第四章 新局面
一
既成事実として眺めると、物事は明瞭に見えてくるものだが、いま、ブリサーゴ会議の直面した仕事を既成事実として見た場合、大きな面では、それは比較的単純な仕事であった。人間の知識が急速に加速度的に進歩したために、社会組織を新しい基礎の上に置く必要が生じたのであるが、ブリサーゴ会議の仕事は本質的には、これであった。会議は、海難救助でも始めるように急いで召集され、難破船にのぞんだわけである。ところが、これは手のつけられない海難事故であった。人類を、やっと苦労して這いあがってきた、もとの野蛮な農業的段階に逆もどりするのにまかせるか、それとも、発達した科学を、社会新秩序の基礎として受けいれるか、二つに一つの道しかなかった。嫉妬、猜疑心、党派根性、闘争性という人間の古くからの性向は、科学の非情の論理が生みだした新しい武器の怪物的破壊力とは両立しえないものであった。均衡を回復するには、現代的な装置類をもう生産できなくなる程度にまで、文明そのものを破壊するか、さもなければ、いろいろな制度の中で活動する人間性そのものを、新しい諸条件に適合させるか、いずれかの方法をえらぶしかなかった。そして、後者の方法のために会議は存在したのである。
おそかれ早かれ、人類はこの選択をせまられたことであろう。火打ち石がはじめて打ち削られた日以来、はじめて焚火がもやされた日以来、たえずすすんできた新しいものと習慣的なものとの対立や衝突が、原子力科学の急速な発達で、いっきに劇的に起こっただけのことであった。道具をつくり、自分以外のオスが自分に近づくのをゆるしたその日から、人間は、完全な本能の動物、迷いのない確信の動物であることをやめたのである。その日から、自己中心的激情と社会の必要のあいだの裂け目が広がりはじめたのだと言える。徐々に人間は、農場の生活に適応しはじめ、そのいろいろな激情的衝動は広がっていって、いろいろな氏族的さらには部族的要求となっていった。だが、いかに人間のいろんな衝動が広がるとはいえ、人間の想像力の中にある狩人、放浪者、探求者は、そういう衝動の発達を追い抜いたのである。人間は、けっして完全に土に縛りつけられたり、家庭に飼いならされてしまうことはなかった。農耕生活、家畜飼育生活という範囲のなかに人間をとじこめでおくには、牧師と教師が必要だったわけで、この事情は世界中、どこを見ても変わりはない。そのうちに、人間を、そういう農耕者、そういう家畜世話人に仕立てるのに見事に適した巨大な伝統的な命令の体系が、徐々に人間の本能の上にかぶせられてきて、農耕者、家畜世話人こそが、二万年間、正常人とされたのであった。
ところが、農耕による蓄積のなかから、思いがけなくも、望んだわけでもないのに、文明が生まれ出てきた。文明は農業の余剰物であった。文明は、商業や小道や道路となって現われ、河川に船を押し出し、やがては海に進出した。そして、原始的な宮廷とか、豊かになり余裕ができた寺院、あるいは、方々に出来たいろいろな港町などで、思索、哲学、科学がおこり、やがて、新しい秩序が芽生え、それが人間生活として定着した。その経過は本書のはじめに、ゆっくりと、たどったとおりである。それから徐々に速度を早めて、いろんな新しい力がつくり出されてきたが、なにもそれは人類全体が、もとめ望んだわけではなく、人間の手に無理に押しこまれたと言った方があたっているだろう。しばらくのあいだ人間は、こういう新しい力をとりあげて使っていた。何の気もなく、さきのことなど気にもせずに使っていたのである。何千、何万世代のあいだ、変化の人間に対する当りはじつに柔かだった。ところが、人間がかなりのところまで変化してきたときに、変化の速度が増した。立てつづけに衝撃を食って、やっと人間は、昔の生活がだんだんと消え、新しい生活の中にいよいよ呑みこまれていくことを理解しはじめたのである。
原子力エネルギーの解放以前にも、すでに古い生活様式と新しい様式とのあいだの対立には激しいものがあった。それは、ローマ帝国崩壊のときよりもはるかに大きな緊張であった。一方には古い家族生活、小さな地域社会、小産業があるかと見れば、他方には、広大な視野と、今までにない目的意識をもった大規模な新しい生活があるという有様で、人がいずれか一方をえらばねばならないということは、すでに明らかになりつつあったのである。小商人とシンジケート企業が同一市場に存在することはできないし、居眠りをしている荷馬車屋とトラックが同じ道路を走るわけにもいかない。弓矢と、飛行機の射撃手が同じ軍隊に所属することができないのと同様に、文盲の農民の営む工業と、動力で作動する工場が同じ世界に存在するわけにはいかなかった。いわんや農民的な考え、野心、欲望、嫉妬などに新時代の巨大な機械類を装備させることなどは、出来るはずもなかった。たとえ原子爆弾が爆発して、世界の指導的知性がブリサーゴで急いで会議を開くというようなことがなかったとしても、やはり、この世界的な生活様式の対立、矛盾からくる厄介な問題をめぐって、責任のある、理解力のある人びとが、広い地域にわたって、かなりの時間をかけて、多少とも形式のととのった会議をひらくことになったであろう。ホルステンの研究が数百年をかけておこなわれ、ほんの少しずつ世界に知らされていったとしても、それでも、人びとは、未来について協議して計画を立てる必要にせまられたことであろう。実際、すでに危機以前の百年間に、先見の明ある文献が蓄積されていて、ブリサーゴ会議が参考にできる「近代国家」設計の文献は山ほどあったのである。原子爆弾は、すでに発展しつつあった問題を強調して、これを演劇のように人目に見せたにすぎない。
二
ブリサーゴ会議は、並はずれた精神、桁ちがいの知性が突如として政治を担当した、というようなものでは決してなかった。よい考えは素直に受けいれるし、会議員は、一生懸命に考えたことを会議に持ちこんでくるという具合だった。が、これも原子爆弾が人類にあたえた「道徳的衝撃」の結果なのであって、なにも、会議の個々人が、並はずれて、りっぱな人たちだったと考える根拠は全然ない。会議員の責任で、会議の行動が失敗したとか、能率が悪くなったという例は、無数に指摘できる。要するに、会議は、かなりの実験をおこない、しばしば大間違いを犯したということである。たしかに、ホルステンという人は高度に専門的な才能を持った人だが、この人を除けば、この集まりの中に、一流の資質を持った人が一人でもいたかどうかは疑わしい。しかし、この集会には、みずからに対する謙虚な不安というものがあり、そこから一つの率直さが生まれ、これが会議全般の特徴になった。もちろん、ルブランには高貴な素朴さがあったが、この人も、真の意味での偉大な人というより、むしろ善良で正直な人だった、という方が当っているのではなかろうか。
前王エグバートは、英明な人で、ロマンチックな颯爽とした雰囲気があり、数百万人中の一人とまではいかなくとも、数千人のうちの一人という人物であった。だが彼の回想録と、回想録を書こうとするその決心のうちに、彼自身の性質と仲間の会議員の性質が表われている。この回想録は、みごとな、しかも、驚くべき読み物である。ここで前王は、会議のしている偉大な仕事を、当たりまえのこと、子供が神を当然のことと受けとるように、まるで当然のことという調子で語っている。その偉大さを全然感じていないような調子である。いとこのヴィルヘルム、秘書のファーミンのことで、ちょっとした面白い話をしたり、アメリカ大統領(この人は代表的アメリカ人というよりも、じつは、政治機構が生みだした小さな偶然だが)をからかってみたり、あるいは、自分がたった一人の日本人の会議員といっしょに、三日間、山中で迷った話などを、くわしく語ったりしている。この二人がいなくても、会議の仕事には、別に何の支障もなかったようである。
ブリサーゴ会議のことは、その後、たびたび書かれているが、まるで、人類の精華の会合だったような書き方がしてある。ルブランの気まぐれか、知恵のおかげで、山の上で開催された会議だから、たしかに、オリンポス山の集会の趣きがないでもなかった。それに、似たものと見ると、念をいれたくなるのが人情だから、会議員を神々に見立てたくもなってくるのだろう。しかし、同じ理屈で、これを、ノアの大洪水直後にあったに違いない山頂の緊急集会の一つにたとえることもできるのではなかろうか。要するに、ブリサーゴ会議の強みは、会議そのものにあったのでなく、会議員の知力を活発に働かせ、その虚栄心を追っぱらい、会議につきものの野心や敵対心をはぎ取った、その環境にあったわけである。この会議は、過去何世紀かにわたって蓄積されてきたもの全てをはぎとられた裸の政府であって、裸であるがために、あらゆる行動が自由にできたのである。しかも、この会議の扱うべき問題は、前の時代の複雑な、厄介な、あいまいさとは比較にならない単純な姿で、その前に引きすえられていた。
三
会議がながめた世界の情勢は、たしかに、会議内部で、いたずらに対立に明け暮れることを許さない巨大な、緊急の問題を提出していた。国家間で戦争がおこなわれた時代の終りのころの、つまり、原子力エネルギー解放翌年の危機の年の、人類の情況を概観するのも興味があるかもしれない。後世から見た場合、それは非常に狭い世界であった。その狭い世界が、いまや、この上もないひどい混乱と苦難のうちにうめいているのであった。
このころの地球の表面には、まだまだ、広大な地域が無人状態のまま放置されていたことを忘れてはならない。広漠とした無人の山地、森林、凍土、砂漠などが残っていたのに、人間は、いまだに、温帯や亜熱帯の水や耕地のそばにしがみついている有様だった。人間が大勢すみついていたのは、川の流域くらいのもので、大都市はみな、航行可能な大河川の沿岸とか、海港周辺に集中している状態だった。居住に適した大地域でさえ、伝染病をもったハエや蚊が棲息していて、人間の侵入をこばみつづけ、そのために方々の森林は、人の手が入らぬままに残されていた。じっさい、当時の世界は、人口がもっとも密集した地域でさえ、不潔なハエが飛んでいたり、無用な虫がウヨウヨ這っていたりして、こんにちでは全く信じられないような状態であった。一九五〇年の人口分布図をつくるとすれば、海岸線とか河川の線に沿ってびっしりと黒い色がつけられるから、ホモ・サピエンスとは、両棲類なのかと疑われるほどである。道路や鉄道も、低等高線にそって走っていて、ほんのときたま、どこかの山の障害を突き切ったり、どこか行楽地に向かおうとするときだけ、三千フィート以上に登るという有様だった。海の交通はどうかというと、きまった航路を往復するだけで、何十万平方マイルという海域は、海難事故でもないかぎり、いまだに一隻の船も通ったことはなかった。
足の下の固い地球の内部の神秘はどうかというと、まだ人間は、五マイル以上もぐったことはなかった。北極や南極は、というと、悲劇的なねばりを発揮して、そこへやっと人間がたどりついてから、まだ四十年もたっていないという時期であった。南極や北極の無限の鉱物資源は、まだ巨大な太古の氷の堆積の下にうずもれ、また地殻の奥の秘密の富は、未開発どころか、まだそんなものが存在すると知る人さえなかった。高い山岳地を知っている人は、案内人に連れられて登る僅かばかりの登山家とか、荒涼とした山のホテルをおとずれる一握りの人たちにかぎられていた。ゴビからサハラ、さらに、アメリカの背骨を成す山脈にかけて、大陸塊に横たわる巨大な乾燥地帯は、空気がすみきって、日中は燃える陽を浴び、夜はひんやりと冷えて、空には星が燃え、深い湖水に満々と水がたたえられているという土地なのに、まだ一般人の頭の中では、恐怖と死の荒地にすぎなかった。ところが、当時の薄ぎたない巨大な都市圏に集中していた大人口は原子爆弾の衝撃を受けて、家や土地を失うや、周囲の田園地帯にみじめに散っていったのである。人間の盲目ぶりにとうとう腹を立てた何かの怪物が、人口をもっと健全な線にそって再配分しようという意図をもって、怪力を発揮して世界をゆすぶったような観があった。原子爆弾をまぬがれた大工業地帯や大都市も、経済的に完全に崩壊したために、爆弾で炎上した地域におとらぬ悲劇的苦境に立っていて、その周辺の田園地域もまた、大勢の無法な浮浪者のために混乱におちいっていた。世界のある地域には激しい飢饉が荒れくるい、多くの地域では疫病が流行していた……北インドの平原は、鉄道や大灌漑水路に依存度を増しながら、一般の生活を引き上げてきた土地だが、この水路を一派の非常に有害な愛国者に破壊されて、とくにひどい苦しみをなめていた。数カ村が共倒れになっても、誰一人かまってくれる者もなく、やせほそった生き残りの人間を餌食にした虎やヒョウまでが、疫病に感染して、ジャングルに帰っては死んでいった。中国では、方々の大きな地域が強盗団の掠奪にまかされていた。おかしなことに、原子爆弾の爆発に関する当時の完全な記録は、まったく残っていない。もちろん、言及とか部分的な記録は無数にあるので、これらをつなぎ合わせて、後世の者は当時の惨害の模様を想像するよりほかない。
原爆による荒廃は、爆発をつづける原子爆弾が移動していって、物を吹きとばしたり、水や新しい地面に接触するたびに、その様相を日一日、いや刻一刻と変化させていたことを忘れてはならない。バーネットは、十月初旬にパリから四十マイル足らずの地点に達して、主として、パリ郊外の社会的混乱の様子や、自分の隊の指揮上の問題などを記録しているが、それとともに、雲塊のような蒸気が「空をずっと南西の方角にかけて」積みかさなっていたこと、その雲の下には夜、赤い光がギラついていたことなどを記している。パリの各地は、まだ炎上中で、大勢の人が、こんなに離れた畑の中にまで野宿して、火事場から救いだしてきた分捕品の宝の山の見張り番をしていたという。また、遠くで雷のように響く爆発音のことにも触れて「鉄橋を渡る汽車の音のようだ」とも言っている。
この記事は他の記録とも一致していて、みな「たえず響く震動」だとか、「ズシン、ズシンと腹にこたえる響き、ガンガンと激しく叩く音」とか、そういう言葉で説明している。どの記録を読んでみても、巨大な蒸気の幕が張って、そこから突然、雨が土砂降りに降ってきたり、稲妻が光ったりした、と証言している。もし観察者がパリに近づいていけば、こういう火事場救出品のキャンプがふえてきて、村々にあふれている様子、飢えたり病気にかかったりしている大勢の人が、ほかに行き場がないので、急ごしらえのテントを張って野宿している姿などを見たことだろう。空は、いよいよ色濃く曇ってきて、ついに陽さえ見えなくなり、残るはただ、「異常にうっとうしい」鈍い赤い光だけになった。この赤黒い輝きのなかで、大勢の人がまだ、家にしがみついて生きているが、たいていのものが、家の庭にできる野菜を食べたり、食料品店の貯えにたよったりして、なかば飢餓の状態で生きながらえていた。
さらにパリに接近すれば、警察の非常線にぶつかったことだろう。家にもどろうとする人びと、家にもどって「危険区域内」から大切な品物を救いだそうとする必死の人びとを食いとめようとする非常線である。
「危険区域」は、かなりでたらめに決めてあった。たとえ非常線を通過して中に入ることを許されても、ここは、やはり轟音がひびき、たえず雷鳴のような音がとどろき、奇妙な紫がかった赤い光がさして、放射性物質の絶え間ない爆発のために、ふるえ、ゆれつづけているのであった。ビルディングが幾区画も全体的に燃え立って猛烈な火を吹きだしていたが、そのふるえる火勢も、背後のネットリとした真紅の光とくらべると、青白い亡霊のようにしか映らなかった。燃えつきた他の大建築の殻が、黒い窓跡を何列もひらいて、赤いモヤを背景にして、いくつもそびえ立っている。一歩すすめば、活火山の火口のなかへ一歩おりていくほどの危険がある。煮えたぎり、旋回する原子爆弾落下地点は、意外なときに、場所を移動したり、新しい土地にもぐりこんでいったりして爆発する。そのたびに、吹きあげられる土の固まりや排水管、石や煉瓦などが、いつ頭の上に飛んでくるともしれないし、いつ足元の地面が火の墓をひらかないともかぎらない。こういう破壊地域に入りこんでいって、さいわい命を落とさずにすんだ者でも、もう一度冒険を繰りかえそうとする者はほとんどなかった。発光性の放射性蒸気が噴きだして、それが時に、爆弾落下地点から数十マイル流れていって、これに触れた人を皆殺しにしたり、火傷させたりしたという話がいくつも伝えられている。パリの爆心地に発生した最初の大火災は、西へひろがり、海への距離の中程にまで達したのである。
さらに、この赤い光に照らされる廃墟の地獄のような中心部では、空気が変に乾燥していて、火ぶくれを発生させる性質があり、そのために皮膚や肺が痛み、これがまた、なかなか直らないのであった。
これが、パリの最後の様相であり、これを、もっと大規模にしたのが、シカゴの状態だった。そして、同じ運命が、ベルリン、モスクワ、東京、ロンドンの東半分、ツーロン、キール、その他二百十八箇所の人口密集地、あるいは軍需工場地域を襲ったのであった。それぞれの都市は、赤く火を吹きあげながら燃えていたが、その火は時が来なければけっして消えることのない火であった。じつは、いまだに燃えつづけている都市も多い。火勢はつねに弱まり、騒音も減少してはいくけれども、こんにちまで、これらの爆発はつづいている。世界中のほとんど全ての国の地図に、三つか四つ、あるいはそれ以上、赤丸がついている箇所があるが、これは直径二十マイルの円をあらわすもので、おとろえていく原子爆弾の位置、人びとが立ちのきを余儀なくされた死の地域を示したものである。この赤じるしの地域で、博物館、大寺院、宮殿、図書館、傑作を陳列した美術館、その他の巨大な人間の業績が滅び去ったのであって、その黒焦げになった残骸は、いまだに地下に埋もれたままである。いつの日か、未来の世代のものが発掘して調査することもあろう。
四
最終戦争直後の秋の暗い日々、家を失った都会の人びとが、田園地帯にあふれて、おびただしく死んでいったが、彼らの心は絶望の黒一色にぬりつぶされていた。バーネットは、治安維持部隊に属しているときに、シャンパーニュ地域のブドウ園に野宿していたこういう人びとを見て、つぎつぎとスケッチ風の文章を書いている。エペルネの町を出た東側の道路わきの小高い畑から、ひとりの婦人帽子屋の男が出てきて、パリはどうなっているか、とたずねたという。丸顔の男で非常にきちんとした黒い服を着ていた。あんまりととのった身なりなので、すぐ横の、じゅうたんで作ったテントに住んでいると、きかされたときは、あっけにとられた、とバーネットは言っている。「ていねいだが、しつこいところがあり」、口ひげや顎ひげをきれいに刈りそろえ、眉は表情ゆたかで、髪には、とてもきれいにブラシがかかっていた。
「パリには誰もいかないんですよ」
とバーネットが答えると、
「しかし、あなた、それはずいぶん臆病なことですね」
「危険が大きすぎるんですよ。放射能で皮膚がやられるんです」
「しかし、どうにもならないのですか?」
と眉を大きくしかめる。
「どうしようもないですね」
「しかし、あなた、なんとも不便なことなんですよ、こういうふうに家から追い出されて待っている暮らしというのは。家内と小さな男の子の苦しみときたら、それはもう大変です。生活の慰めというものがないんです。それに、冬も近づいてくる。食物を手に入れる費用とか苦労のことは何も言いますまい……あなた、ねえ、いつ頃、パリを……住めるようにしてくれると思います?」
バーネットは相手の顔をじっと見て、
「わたしの聞いたところでは、五、六世代は住めそうにないということですよ」
「そんな! そんなとんでもない! 考えてくださいよ、あなた! その間、人にどうしろというんですか。ねえ、わたしは、婦人服屋ですよ。わたしのお得意先、利益、とくに、わたしの生活には、パリというものが、どうしても必要なんです……」
バーネットは、パラパラと雨の降りだした空をながめ、農作物のとり入れのすんだまわりの広い畑を見わたし、道ばたの、刈りこんだポプラの木々を見て、
「そりゃ、パリに帰りたいと言われるのは、もっともです。しかし、パリという所は終ったんですよ」
「終った!」
「おしまいなんです」
「しかし、そしたら、どうなるんですか、このわたしは?」
バーネットは、白い道路のつづいている西の方に顔をそらした。
「パリのほかに、たとえば、どこに、見つかるのでしょうか……商売の機会が?」
バーネットは無言だった。
「たぶん、リヴィエラなら、いいかもしれないですね。それか、ハンブルクとか。どこかの海岸がいいかもしれない」
と男は言ったが、バーネットは、何週間か前から、はっきりと考えていたことを、このときはじめて口に出して、
「そういうところもみんな、きっと、おしまいですよ」
と言った。
二人は、しばらく沈黙していたが、やがて男が、
「しかし、あなた、そりゃひどいですよ! それじや、何もできないですよ」
「そう、大してできませんね」
「いまさら、きゅうに、ジャガイモづくりをするわけにもいかないし」
「そうなさるのがいいと思いますよ……その気になれるなら」
「百姓の暮らしをやれって言われるんですか! 妻が……あなたは御存じないが、わたしの家内は、とっても繊細なたちなんです。たよりなげな、洗練された風情というか、人に頼りたげな特殊な魅力というか。こう、ほっそりとした熱帯の蔓《つる》植物があるでしょう……大きな白い花の咲く……バカな話をしてごめんなさい。しかし、パリが、いままで数々の不運に生き残ってきたパリがですよ、今度は復活できないなんて、そんなこと、ある筈がないですよ」
「もう復活するとは思えませんね。パリは終りです。ロンドンも、そうだそうです。ベルリンも。世界中の大都会がみんなやられて……」
「しかし、あなた、失礼ですけど、わたしはそうは思いませんよ」
「そうなんですよ」
「そんなはずはないですよ。文明がこんなふうに終ることはないです。人類は断乎主張しますよ」
「パリを?」
「パリを」
「それは、大渦巻のなかへ降りていって、そこで商売を再開しようというようなものですよ」
「あなた。わたしは、自分の信念で満足なんです」
「冬が近づいてくるから、家をさがされたほうがよくはないですか?」
「パリからもっと離れたところに、ですか? それはダメです。それはできません。あなたは、とんでもない誤解をしていらっしゃる。ほんとうに、間違いをしていらっしゃる……わたしはただ、パリの様子をおききしただけなのに……」
別れたとき、この男は丘の頂上の標柱の下に立って、パリの方角を、なつかしそうに、しかし、今はなんとなく、不安そうな様子で、ながめていた。ほそい雨が降って、ズクズクにぬれるのにも一向かまわず、パリの方をながめて、たたずんでいた。
五
バーネットの記録が、だんだんと冬に移ってゆくにつれて、ひやりと寒けのするようなみじめさ、というか、まだ、おぼろげにしか察しられぬ悲惨の雰囲気が深まっていく。一時代が終ったのだということ、以前なら援助や指導もあったが、それももはや無いのだということ、どんなに待っても、昔どおりの世の中は帰ってこないのだ、というようなことは、こういう難民の群れに突き落とされた大群衆には、どうしても理解できないことだった。きびしい一月の初雪が舞いはじめたときも、まだ多くの人びとが遠くパリの空を望んでいた。話はいよいよ悲惨になっていく……。
バーネットが英国に帰ってからは、パリほどの奇怪な悲劇性は無いにしても、話は、もう少しきびしい様相を見せる。英国では、恐怖のために陰険になった住民が、食物をかくし、泥棒をたたき出し、飢えた放浪者が道でフラフラしているのを追い立てたりしていた。うっかり、門口の階段ででも怨みがましく死なれては具合がわるいからであった。
イギリス軍残存部隊は、オルレアン臨時政府からの、もうこれ以上イギリス軍部隊を維持することは不可能との切迫した要請を受けたのち、三月、ついに、フランスを引きあげた。かなり規律はきびしかったようだが、終始ずいぶん寄生的な部隊だったらしい。しかし、散発的な略奪行為の鎮圧とか、社会秩序の維持の上では、ずいぶん働いた、とバーネットは断言している。イギリスヘ帰ってきてバーネットが見たのは、飢餓の国であった。その春の英国は、バーネットの描くところでは、みじめな忍耐と必死の便法の国であった。イギリスは従来から、食料の供給を海外にあおいでいたから、それがとだえたいま、フランスどころの苦しみではなかった。バーネットの部隊は、ドーヴァーに着くと、パン、干し魚、ゆでたイラクサの配給をうけ、それから内陸のアッシュフォードまで行軍して、ここで給与の支払いを受けて部隊は解散になった。アッシュフォードヘの道路わきの電柱から四人の男がぶら下って死んでいたが、カブラを盗んで、つるされた連中だった。ケントの労働者保護所では、浮浪者の群衆に食わせているパンに、粘土とかカンナ屑をまぜていた。バーネットは、ロンドン周辺の原子爆弾で汚染された地域を避けて、田舎を突ききってウィンチェスターめざして歩いたが、ここに着くと、運よく、中央郵便局の無電助手の一人として雇われて、規定の配給食料を受けることになった。局は、町を東から見おろす白亜の丘の上の、見はらしいのよいところに立っていた。
ここで、彼は、ブリサーゴの会議に先立つ数々の暗号電報の中継を手伝ったにちがいないのである。そして、ここで彼は、ブリサーゴ会議による戦争終結宣言、世界政府樹立宣言を知ったのである。
その日、バーネットは、体の調子がわるくて、気分が乗らず、いま自分が転写しているのが何かわからないような有様だった。退屈な仕事の一つとして、うわの空でやっていた。
宣言の出たあと、いっときにドッと電報の仕事がきて、ひじょうに疲れたが、夕方、交替して、とぼしい夕食をすませると、局の前の小さな露台に出て、タバコをすい、この訳のわからない、急な大量の仕事で疲れた頭をやすめようとした。ひじょうに美しい、しずかな夕暮れだった。このとき、仲間の技師に話しかけて、「そのときやっと、さっきの電報の意味がわかりかけてきた」と言っている。「この四時間、この手で、どんな重大な問題をあつかってきたのかがわかりだした。しかし、最初の興奮がしずまると、どうも、これはあやしいぞ、という気がしてきて『これは、何かのインチキだよ』とわたしは吐き出すように言った。
ところが、仲間はもっと楽観的で、
『これで、爆弾を落として破壊するのも終りだな。これで、もうすぐ、アメリカから小麦がくるなあ』と言う。
『かねの値打がないのに、誰が小麦を送るのかね?』
とわたしが言ったとき、突然、下の町の方から大きな音が鳴りだしたのにはびっくりした。大寺院の鐘だった。わたしがここへ来てから、ずっと沈黙をまもっていたその鐘が、いま、リューマチのように、鳴りにくそうな音を立てて鳴り出したのだ。やがて鐘らしい響きになってきたときに、その鐘の意味がわかった。祝典の鐘楽を鳴らしていたのだった。信じられない気持で耳をすまし、お互いの黄色い顔を見つめ合っていると、
『本気だぜ』と仲間が言う。
『しかし、今となって何ができるだろう? 何もかもが破壊されたあとなのに……』
とわたしは答えた」
ここで、巧まざる技巧をもって、突然、バーネットは話を終っている。
六
新政府は、はじめから、ある種の雄大な精神をもって事にあたった。たしかに雄大な行動に出ざるをえない情勢であった。最初から、この丸い地球をひとつの問題として扱わざるをえない情勢であり、もはや地球を断片的にあつかうことは許されなかった。この地球全体を、新しい原子爆弾の爆発から守らねばならない。そのためには、世界中を永久に平和化しなければならない。この丸い地球全体を掌握して、これを支配し、用いる能力があるか否かに、新政府の存在はかかっており、これ以上の行動に出る自由はあたえられていなかった。
現存する原子力兵器とカロリナム合成装置の差し押さえがおわると、ただちに世界各国の、まだ武装している膨大な軍隊の解体、もしくは社会利用の方法を講じ、それと同時に、その年の収穫物を確保し、家を失って放浪している数百万の難民に衣食住を給する方策を講じる必要があった。カナダ、南アメリカ、ロシア領アジア地域には、膨大な貯蔵食料があるのに、通貨制度、信用制度が崩れたというだけで、これを移動することができない状態であった。完全な人口絶滅を防ぐには、この食料を急速に飢餓地域へ運びこむ必要があったが、その輸送と交通手段一般の回復に、ある程度の兵員と失業者が吸収された。住宅建築はたいへんな大事業で、ブリサーゴ会議の住宅委員会は、難民収容キャンプの建築から、たちまち、もっと永久的な住宅の建築へと移っていった。こういう建築労働には難民が当てられたが、予想したより、はるかに抵抗はすくなかった。苦しみと飢えの一年で、人びとは非常におとなしくなっていた。今までの伝統に幻滅し、頑固だった偏見をはぎとられていたのである。はじめて放りだされた世界なので心ぼそく、確信ある指導にはどこまでも従う気持になっていたのである。それに、新政府の命令には、もっとも有効な信用証明書、つまり配給食料がついていた。どの地域の人びとも素直になっていて、新時代まで生き残った昔の労働問題の専門家の一人は、「新しい土地での移民労働者のようにおとなしかった」と証言している。
そしてまた、この頃、原子エネルギーの社会的可能性が明らかになってきたのであった。最終戦争前にできていた新機械類が、どんどん大量に出まわってきて、そのためにブリサーゴ会議は、数百万の労働者だけではなく、最初の事業計画があまりにも小規模で臆病だったと見えるほどの動力、機械類を自由につかえるようになった。それで、はじめは鉄とひき板でつくる予定だった難民キャンプが、石と真鍮でつくられ、はじめ、ただの鉄板のはずだった道が、ひろい道路になって、りっぱな建築物を必要とするようなものに変わった。さらに、緊急の配給食料用だったはずの農作物の生産が、合成薬品、肥料、化学光線、科学的管理などのおかげで、やがて、あらゆる需要を上まわるようになった。
新政府は、はじめ、原子力エンジン発明以前の社会、経済制度を一時的に再建する構想をもって出発したのだが、それは、世界中の大部分の難民の物の考え方や習慣が、その制度に慣れていたためである。一時的に前の制度を復活させて、のちの再調整は、政府の今後の後継者にゆだねる予定であった。ところが、これが絶対に不可能だということが、だんだんと明らかになってきた。そういう計画は、まるで奴隷制度の復活を提案するようなものであった。資本主義制度は、無限の金とエネルギーとの出現によって、すでに、完膚なきまでに粉砕されていて、もう一度立ち直らせようとする最初の試みのときに、倒れて粉みじんになったのである。戦争以前に、すでに、工業労働者の半数は失業していたから、彼らを、もう一度、従来の賃金雇用制度の中へもどそうという試みは、そもそも、最初から失敗であった。通貨制度が完全に崩れていたという一事をもってしても、その失敗は当然であった。だから、この世界中の難民に衣食住をあたえるという課題は、なんら労働という対価も要求せずに、おこなうことが必要であった。こうなると、世界中のひじょうに大勢の人間が何もすることがないということが、たちまち、社会的に危険な問題になってきた。そのために政府は、木や石の単純な装飾細工、手織りの布地の製造、果実や花の栽培、造園事業などを大規模におこすという手を打って、社会的不適応者の犯罪を防ごうとしたり、あるいは、青年に賃金を払って、新しい原予力機械に習熟させる学校にかよわせたりするという手段を講ぜざるをえなくなった。こういうふうにして、いつのまか、ブリサーゴ会議は、都市生活、工業生活の完全な再組織という仕事に移行していき、ひいては、全社会制度の再編成へとすすんでいったのである。
政治的陰謀とか経済的考慮にわずらわされぬ案は、圧倒的な勢いをもつものである。ブリサーゴ会議の記録を見ればあきらかなように、一年としないうちに、会議は、大好機をつかむその能力を発揮して、会議の直接的管理と一連の特別委員会を通じて、地球全人類のための、一つの新しい共通の社会秩序を計画していたのであった。「世界各地の大地域や、大きな階級の人びとが、他の圧倒的な大部分と異なる文明段階にあるときは、真の社会的安定や、人間一般の幸福などはありえない。世界人口の大きな区分が、ひろく承認されている社会的目的を誤解したり、他の人口区分にたいして経済的に不利な立場に立つことは、いまや、これを放置するわけにはいかない」と会議は、みずからの課題を定義している。農夫、野外労働者その他すべての野蛮な耕作者たちは、ほかのもっと移動性のある、教育のある階級とくらべた場合、「経済的に不利な立場」に立っていたわけだから、当然の論理として、会議は、もっと生産を能率的に組織化して、この社会層の消滅を計画的に押しすすめることをせまられたわけである。そのために会議は、全世界に「近代的農業方式」を漸進的に確立していく計画を立てた。これは、あらゆる農業労働者を完全な文明生活の恩恵に浴させる方式であって、この古いものと、新しいものとの入れ替えは、こんにちまで継続しておこなわれている。近代方式の中心的思想は、従来の個人的耕作者とか、農家的、村落的生活を完全に廃して、これに耕作組合を代置するという考えであった。これは一定の耕地、もしくは牧場地を受けもって、ある平均的な一定量の農産物生産の責任をもつという男女の結社である。こういう組合はふつう、厳密に民主的基礎に立って運営できる程度の小さな団体であると同時に、全労働力を供給できるほどの大きさをもつ。ただし収穫期には、農地で必要な一定量の援助は、町の人から受けられることになっている。耕作地には、番人用バンガロー、もしくはシャレー風の宿舎があるが、近代的交通手段が安楽で安価なために、組合員は最寄りの町に住居を維持することができる。また町には組合員共用の食堂兼クラブ・ハウスがあり、さらに、首府か地方大都市には、ふつう一つの組合会館をもっている。この制度のために、古い世界の広大な地域に、いつとも知れぬ大昔から住みついていた、はっきりそれとわかる「田舎風」の人びとは消滅した。さびしいあばらやの、退屈な、恥ずかしい生活、ちいさな村の偏狭な醜聞、けちくさい意地悪や迫害、書物や思想や社会的参加から遠ざかり、牛や豚や鶏や、その汚物を相手にして、コツコツと金をためていく、あの半分死んだような生活は、いまや、人間生活から消えてゆく。もう少しすれば、完全に消滅することだろう。十九世紀においても、こういう生活は、もう必要ではなくなっていたが、知識人が協力することがなかったことや、頑丈で無知な兵隊が必要だとか、下層社会に多産な階級が必要だとかと世間が考えたために、その時代には、計画的に、そういう生活を除去することがはばまれたのであった。
さて、こういうふうに地方の農業改革がすすんでいる一方、ブリサーゴ会議の活動初期の都市キャンプは、会議の指導や、情勢そのもののもつ勢いやらで、急速に近代的な町に発展していった。
七
ブリサーゴ会議は、その行政初年の最後になって、やっと、しかも全く不承不承という調子で、世界があきらかに必要としている国際語の件をとりあげることになったのだが、これは、いろいろな大計画に直面せざるをえなくなったときの、会議の目立った特徴である。いろいろと候補にのぼった理屈っぽい世界共通語には、会議はほとんど注目しなかったようである。あわてものの単純な人びとを、出来るだけわずらわすことを避けたいという配慮があって、会議は最初から、英語が世界に広く分布している点に好感を持った。文法がひじように簡単な点も英語に有利に作用した。
しかし、英語を話す民族が、自分たちの言葉が世界中で話されるのをきいて満足したとしても、それには、多少の犠牲がともなっていた。つまり、英語の持ついくつかの文法上の特殊性が削り落とされたのである。たとえば、仮定法の目じるしの形式とか、不規則な複数形などは大てい廃止になった。綴り字は整理され、ヨーロッパ大陸でもちいられている母音の発音に合わされた。さらに、外国語の名詞や動詞を英語に組みいれる手続きがはじまり、たちまちこれが膨大な規模に達した。世界共和国の樹立から十年としないうちに、『オクスフォード英語辞典』はふくれあがって、二十五万語の語彙をおさめていたから、一九〇〇年生まれの人は、ふつうの新聞を読もうと思っても、かなり苦労したことだろう。しかし他方、新時代の人は、まだ、以前の英文学を鑑賞することができた。まだこのほかに、こまかい画一的な改革がいろいろとおこなわれた。共通の理解、意思疎通の一般的単純化という考えは、いったん受けいれられると、きわめて自然に、度量衡におけるメートル法の確立、さらに、これまで年表混乱のもとになっていた種々雑多な、間に合わせの暦の廃止へとつながっていった。一年は、各四週から成る十三カ月に分割され、元日と、うるう年の一日は休日になって、ふつうの週のなかには全然ふくまれないことになった。それで週と月とが調和するようになった。その上に、王がファーミンに言ったように、「復活祭を固定する」ことに決まった……他のいろんなことと同様、こういう問題において、新文明は昔の複雑な問題の単純化として現われたのである。世界中において、暦の歴史は、不充分な調整の歴史であって、人間社会のはじまったときから、種まきの時と冬至とを固定しようとする試みの歴史である。しかし、この最終的な暦の改正には、その実用的便宜を全く越えた一つの象徴的価値があった。しかし、ブリサーゴ会議は、軽卒な、性急な革新策は好まず、月の名前を変にかえたり、年数計算を変えたりすることは全くしなかった。
世界はすでに、一つの共通の通貨的基礎の上に置かれていた。会議出現後の数カ月間は、世界は全然なんの通貨もなしに運営されていた。とは言っても、まだ大きな地域において金銭がもちいられてはいたが、価格の変動が極端に激しいので、一般人の信用も激しく動揺していた。昔は金が珍らしいものだったというこの制度の根本的基礎が崩れて消滅していたのである。金はいまや、原子力エネルギー放出のさいの廃棄物であったし、いかなる金属もふたたび通貨制度の基礎になりえないことは明らかであった。今後、あらゆる硬貨は擬貨でなければならなかった。そうは言っても、全世界は金属貨幣に慣れているし、現行の大部分の人間関係も、現金を基礎にして発展してきたもので、金銭という便利な清算手段ぬきでは、ほとんど考えられない。というわけで社会生活には何らかの通貨が絶対に必要だと考えられた。そこで会議は、通貨の基礎にする何か真に価値あるものを発見する必要にせまられた。土地とか労働時間とか、一見安定した価値が候補にあがったけれども、結局、最終的には、ほとんどのエネルギー放出物質を所有する世界政府が、一定量のエネルギー単位を金貨一ポンドの価値をもつものとさだめて、一ポンドを二〇マルク、二十五フラン、五ドル等々と、世界の他の通貨に換算したのである。そして、修正したり、条件をつけたりして、一ポンド金貨を差し出すたびに要求に応じて、エネルギーを支払うということをはじめた。これが全体として、うまく働いて、これでポンド金貨の面目がすくわれた。硬貨は地位をとりもどし、しばらくして値動きの時期が過ぎると、はっきりとした換算値に落ち着いて、また使われだした。しかも、その名前や日常の価値は、一般人にはおなじみのものであった。
八
はじめ、難民の一時的キャンプだとくらいに考えていたものが、急速に新しい型の大都市に発展してきたと分かったとき、そしてまた、その気もないうちに、世界改造の仕事をしているのだと気がついたとき、ブリサーゴ会議は、非農業人口を再配分するというこの仕事を、もっと緊密にまとまった、有能な一つの特別委員会の手にゆだねることに決定した。今では、この委員会は、ブリサーゴ会議や、また、会議の権限を委託された他のどの委員会よりも、はるかに、活動的な世界政府として機能している。もともと、この種の委員会は、十九世紀の八、九十年代にヨーロッパか、アメリカに(どちらが先だったかについては議論がある)いつのまにか起こった「都市計画」という、目に見えないような小さな芽から発達してきたものであった。しかし、世界を人間の居住する場所と考えて、たえず活発に計画を立てては、また練り直すというその仕事は、現在では、いわば、全人類的な重要な共同活動である。人口が自発的に、不規則にひろがったり、しりぞいたりする動きは、こぼれた水がチョロチョロと流れるさまと同じく、無目的で惰性的なものだが、これが大昔からの歴史の実体であった。この無目的、惰性的な人口の伸び縮みが、あちこちに混雑を引きおこし、慢性的、破滅的な戦争を誘発し、いたる所で、不快や不規則を生みだしていた。不快や不規則の取柄と言えば、せいぜい見た目に趣きがあるくらいのことだった。しかし、こういう状態はもう終ったのである。現在では、人びとは、人類のもつあらゆる力に助けられて、地球上の、およそすべての居住可能な地域にひろがってゆく。都市も、もはや、河川や耕作地の近辺にしばられることはなく、都市設計も、いまや戦略的考慮とか社会不安への配慮にわずらわされることもない。飛行機と、ほとんど金のかからない自動車のおかげで、商業道路は不要になり、世界共通の国際語と世界共通の法律のおかげで、無数の不便な制約が消え、こうして、驚くべき人口拡散がはじまったのである。人は、いまでは、どこにでも住める。だから現在のわれわれの都市は、真に社会的な集団になり、一つ一つが独自の性格と、明確な関心事をもち、大ていの都市が一つの共通の職業をもっている。現在の都市は、ながいあいだ荒廃していた人類の日光浴場とも言うべき砂漠の奥に位置するものもあり、万年雪のなかにそびえ立つものもあり、遠い海の彼方の島々にかくれているものもあり、広い礁湖の上で陽を浴びているものもあるという具合である。いちじは、全人類は、過去五十万年間はぐくまれてきた川の流域を見すてる傾向を示したが、ハエ、羽虫などの害虫駆除戦争が効をそうして、いまや、こういう有害な生物はほとんど絶滅したので、ふたたび人間は、川の流域に向かって帰る傾向を見せ、以前に倍する興味をもって、水の流れる庭園や島や屋形船や、橋のそばでの楽しい暮らし、あるいはまた、海面に映る夜の提燈などの眺めを楽しんでいる。
人間は農業的動物の域を脱し、いまや、いよいよ建築家、旅行家、製作家になりつつある。どのていど人間が耕作者の段階を脱しようとしているか、それは人口再配分委員会の報告書がしめしている。科学研究所の研究成果のおかげで、毎年農業労働者の生産性が伸び、労働が単純化し、現在、全世界に食料を供給しているのは、世界人口の一パーセント以下であり、この数字は、なおも減少の傾向を見せている。農業生活の訓練を受けた者や、農業生活に入りたいものを吸収しようにも、農業は、そういう人びとを受け入れる必要がなく、人手が大きく余る。この過剰な農業への関心の結果、園芸生活の面、つまり、木や芝生を植えたり、美しい花々を一面に咲かせたりする活動が大きくひろがり、現在でもさかんにひろがっていく。農業方法が能率化され、割り当て量が引きあげられるにつれて、農業組合は、つぎつぎと、一九七五年の規定を利用して以前の畑地のかわりに公園や遊園地をつくろうとする。こうして、ひろびろとした美しい場所がふえていく。化学者のすぐれた研究成果で、今では完全な人工合成食料もできるが、自然の食物を食べ、そういうものを育てる方がはるかに楽しいし、興味もあるから、そういう化学の研究成果も用いられず、いまや大部分が一時的休止状態にある。毎年、果物の種類はふえ、花も美しさをましていく。
九
世界共和国の初期の頃には、あるていど、政治的野心の再燃現象が見られた。かなり興味深いことだが、フェルディナンド・チャールズ王の顔が世界から消えてからは、分離主義の復活ということは全然なかった。しかし、衣食住の当面の切実な欲求がみたされるにつれて、多くの地域において、一つの共通の特徴をもった、いろんな人物が現われてきた。厄介な政治問題をむし返して、それをテコにして、重要な地位に、つまり虚栄心を満足さす地位に這いあがろうとする連中である。さすがに国王を名乗ろうとするものが一人もいなかったのは、明らかに、君主制が、二十世紀に入る前に、とっくに時代おくれになっていた証拠であろう。しかし、この連中は、どこにでも大量に残っている国家主義的、民族的感情のおりかすに訴えて、ブリサーゴ会議は、民族的、国民的習慣を踏みにじり、宗教的規則を無視するものだと主張した。
この主張はかなり当っていたと言えるだろう。とくにインドの大平原には、こういう煽動家が多く現われた。通貨制度がくずれたために、戦争直後の恐ろしい一年間は、ほとんど新聞が出なかったが、それも復活してくると、新聞が、こういう不平不満を媒介し組織化する役目をはたした。はじめ、ブリサーゴ会議は、勢力をましてくるこの反対勢力を無視していたが、やがて、これを、お話にならない率直さをもって認めたのであった。
もちろん、これまでに、こんな臨時的な政府は存在したことがなかった。ブリサーゴ会議は、違法このうえもない政府であった。じつは、一つのクラブ程度のもので、しかも会員約百人のクラブだった。出発当初は九十三名だったが、のちに、亡くなった人数を上まわる招待状が出されて、いちじは百十九人にもなった。はじめから雑多な構成員になっている。招待状が出るときに、これが何かの権利を認めるものだという但し書きのついたためしは一度もない。こういう新体制を考えてみると、古い制度もしくは君主制が意外によく見えたのだった。政府の最初の議員のうち九人が、個別的主権を放棄した旧国王で、その後、王族議員が六人を下まわったことは一度もなかった。おそらく旧王族議員の場合には、統治権にたいする一種の微弱な要求権があったかもしれない。しかし、こういう旧王族議員と、そのほかに、一人か二人の旧共和国大統領のさらに微弱な要求権を除くと、ブリサーゴ会議の議員のなかには、一人として、会議権力に参加する権利のかけらすら持ったものはなかったのである。だから、反対勢力が、声をそろえて、やかましく代表制攻府を要求し、議会制度復活に野望をかけたのも無理のないところはあった。
ブリサーゴ会議は、反対勢力の望むものすべてをあたえることに決定した。が、彼らの野心には都合の悪い形にした。会議は一挙に代表制になった。じつに雄大な代表制をとったのである。政治家たちが、票の洪水に溺れるほどの徹底的代表制であった。北極から南極にいたる全世界の全成年男女に投票権があたえられ、世界を十の選挙区にわけ、この十の選挙区が、世界郵便を簡素化するという方法で、同日に投票することになった。政府の議員は終身制とし、解任の場合の特例だけを認めた。だが、選挙は、五年目ごとにおこなわれて、一回ごとに、議員五十名をおぎなうことになった。移譲票一票付きの比例代表方式が採用されたが、投票者はまた、投票用紙のとくにしるしを付けた箇所に、誰でも一人、解任したい議員の名前を書いてもよいことになっていた。議員解任には、選挙されたときの割り当てと同じ票数があれば足りることとし、会議発足当時の議員の解任には、そのいずれかの選挙区の第一回選挙の当選割り当て数と同じ票数が必要とされた。
こういう条件をつけた上で、ブリサーゴ会議は、まことに朗らかに、みずからを世界投票にゆだねたが、投票の結果は、誰一人として解任されたものはなかった。あらかじめ会議が推せんしておいた二十七名をふくむ五十人の新しい同僚が選出されてきたが、彼らはすべて種々雑多な人びとから成っていたから、会議の基本方針に混乱の起こる怖れはなかった。面倒な規則や形式がないから、会議はじつに円滑にはこんだ。インド地方自治を目指す二人の新選出議員の一人が、法案を提出するにはどんな手続きがいるのかと、調べてみると、そんな手続きはないということがわかった。そこで議長に面会したいと申しいれると、旧王エグバートが出てきて、その円熟した知恵をたっぷりと聞かされるという光栄に浴した。エグバート旧王は、いまや長老議員の仲間であることを自認していたのであった。その後は、インド議員は、どうしてよいのか、わからなくなってしまった……。
だが、すでにこのころ、会議の仕事は終りに近づいていた。会議は、会議自体の組織づくりを続けるよりも、むしろこれまでの成果を、政治家の芝居がかった本能から守ることの方に配慮していた。
人類の生活は、いよいよ形式的な政府から離れて独立してゆく。ブリサーゴ会議は、出発当初、英雄的な精神を発揮した。龍退治の勇者のように、古くさい物の考え方や、複雑にからまる用心ぶかい所有権のきまりなどを、一刀のもとにたたき切って、これを葬った。そして、さまざまな警戒手段から成る、一つの雄大な制度的体系をつくることによって、調査の自由、批評の自由、教育と理解の共通の基盤である通信交通の自由、さらには経済的圧迫からの自由を確保した。こうして、その創造的な業績は成しとげられたのである。
やがて会議はだんだんと安定した安全保障機関となり、だんだんと活発な介入は差しひかえるようになっていった。論争的な雰囲気のなかで、たえずコセコセと法律をつくって、法律を錯雑させるのが、十九世紀における憲法の歴史のもっとも厄介な点であろうが、こんにち、これに相当するものは全くない。十九世紀では、たえず法律をつくっていたところを、こんにちでは、規則の一部変更ですませている。この変更という仕事は、こんにちでは特定の方向をもった種々の科学的委員会、つまり必要な特殊な知識をもち、それ自体、社会の大きな知的動向に支配される科学的な委員会に委任されるが、十九世紀では、変更は、立法手続と切りはなすことができなかった。しかも、こまかい点をめぐって争ったものだが、そんなことで争うくらいなら、一つの機械の部分品の取りつけのことで喧嘩する方がましだ、というのが、こんにちの考え方である。生活が土と空との間で営まれるように、そういう変更は、法律の枠内にとどめるのが一番よく、新しい法律はつくらない方がよい、ということが今日では分かっている。そういうわけで、現在では、あの政府は年に一日か二日、ブリサーゴの太陽の下で、聖ブルーノのユリの咲くころに会合をひらいて、各委員会を祝福する程度のことしかしていない。そして、これらの委員会も最初のころとはちがって、独自の発想を打ちだすよりもむしろ、世界の人の一般的考えを表現する方向にむかっている。世界の特定の指導的人物を指摘することはむつかしくなってくる。人間がどんどん非個人的になってくるからである。いまでは、あらゆるすぐれた考えが貢献し、あらゆる有能な頭脳が、あの気らくな、拡散した王権のなかに参画して、人類のエネルギーを一つの目標に向かってしぼっている。
十
今後「政治」が、つまり、世界を統治する正気の人びとにたいする党派的干渉が、まじめな人たちの支配的な関心事になるようなことが歴史にふたたび起こってくるかどうかというと、そういうことは、もうないように思える。人類は、すでに一つのまったく新しい時代に入っているようである。競い合うこととは区別される意味での争いごとというものが、一挙に、ふつうの人間の仕事ではなくなり、せいぜい人目に立たない、恥ずかしいことになった、そういう時代が来ているようである。争いを事とする職業は、人間のまともな職業ではなくなってゆく。国家間の平和は、また、個人間の平和でもある。現代の世界は、子供時代を脱して、成年期に達しようとしている。戦士としての人間、法律家としての人間、また、争い、喧嘩する生活のいとなみはすべて影がうすくなり、まじめな空想家、つまり好奇心のつよい学習者、創造的芸術家としての人間が、前面に出てきて、もっと高尚な冒険をすることによって、それらの野蛮な生活を追いしりぞけていくのである。
人間には自然な生活というものは全然ない。人間は昔から、いろいろな可能性、ときには相矛盾する可能性をおさめた一つのサヤであり、遺伝的性質をかさね書きした羊皮紙のようなものであった。二十世紀初期の多くの著述家は、闘争とか、商売、節約、猜疑的孤立といったせまい私的な生活を、まるで人間という存在に、特にふさわしいもののように説き、率直なこころとか、所有よりも業績を尊ぶ性質を、まるで異常な空疎なもののように評するのがならわしであった。しかし、それが、どんなに間違った考え方であったか、それは世界共和国樹立直後の二、三十年の歴史が証言している通りである。生活のたたかいは、集団的な目から見ると無計画で、個人的立場からすると、ひどい疲労をともなうものだが、いったん、世界が、こういう心を硬化させる生活不安から解放されると、いかに、いままで長いあいだ、多くの人びとの心のなかに、物をつくろうとする熱情が抑圧されていたかが明らかになった。世界中が一度に製作をはじめたのである。しかも最初、主として美的製作をはじめたのであった。いまの時代もまだ、この時期に当っていて、「開花期」と呼ばれているが、当っていないこともない。世界人口の過半数は芸術家であって、世界の活動の大部分は、もはや生活必要品の製作ではなく、その精巧な仕上げ、装飾、洗練に向けられている。近年、この製作の性質に、一つのいちじるしい変化が起こっているが、それは、前よりも目的意識が出てきて、初期の優雅さ、美しさが幾分か減り、力強さが目だってきたという点である。だが、これは性質の変化というよりも、色合の変化と言うべきだろう。哲学の深まり、教育の健全化の結果である。最初の喜々とした空想力の働きにかわって、より建設的な想像力の、落ち着いた深まりが見えてきたのである。こういうことには自然な順序というものがある。芸術よりも先ず、基本的な生活の必要をみたす必要があるように、また、一定の目的を追求する前の段階として人生には遊びと楽しみが現われるように、科学よりも先きに芸術が現われるのである。
数千年来、この創作の衝動は、社会的愚鈍さのために人間が背負ってきた数々の制約に逆らって、人間の内部で、もがきつづけてきたにちがいない。ながいあいだ、くすぶりつづけてきた火が、ついに炎を吹いて、燃えだしたのである。何かを創りだそうとする切実な欲求が、たえずくじかれてきた証拠こそ、十九世紀のわれわれの父母たちの遺物や記録の、もっとも哀れをそそる点であろう。
ロンドンの原子爆弾落下地点周辺の死の地域に、ちいさな無人の家屋の集まる地区があるが、ここが昔の状態を、じつに雄弁に説明している。家屋は、みなひどく不快なものである。みんな同じ作りで、四角くて、ずんぐりとして、中の釣合がまるでとれていない上に、居心地がわるく、薄ぎたなく、いくつかの点で、かなり不潔にできている。よほど貧しくて、これ以上のものは望めないのだと完全に絶望した者でないかぎり、とても住めたものではないけれども、それでも一軒一軒に、おかしなくらいに小さな「庭」と呼ばれる長方形の土地がついている。そこには、ふつう、物干し用の支柱があり、胸のわるくなるような生ゴミ入れやゴミ箱があって、タマゴのカラ、灰などのゴミ屑がいっぱいつまっている。放射能が、このあたりでは、減少して、ほとんど無害になっているから、歩きまわっても比較的安全だが、こういう庭のほとんど全部に、なんらかの製作の努力の痕跡が認められるのである。板ぎれ作りの、貧相な、小さな、あずまやがあるかと思えば、煉瓦と牡蠣の貝ガラでこしらえた「池」のある庭。「築山」をしつらえたものもあれば、「仕事場」を立てたものもある。そして、どこの家のなかにも、不恰好な模型やへたな絵のような、哀れな小さな装飾品がかざってある。こういう作品は、まるで、目隠しをした人の画いた絵のように、ほとんど信じられないほど不細工なもので、古い牢獄の壁に見られる引っかき疵の哀れさよりは僅かにましだ、と心やさしい観察者ならば、言うかもしれない。その程度のものではあるが、しかし、たしかに、そこに存在していて、光をもとめて必死に這いあがろうとする、哀れな埋もれた本能の存在を証明している。われわれの気の毒な先祖たちが無意識にもとめた喜ばしい表現の神は、いまの世の自由によって、世界に現われたのである。
昔、素朴な人びとが、みなひとしく憧れたのは、ささやかな財産と僅かばかりの土地と他人に管理されぬ一軒の家をもつことであった。英語でいう「独立できる資産」をもつことであった。ところで、自由と繁栄へのこの願望を、それほどまでに強くしたものは何かと言うと、それは、自己表現の夢、その資産で何かをやろうという夢、その資産をいろいろとつかって個人的喜び、特色を打ち出そうとする夢だったという点には疑う余地がない。資産は、けっして目的への手段以上のものではなく、貪欲でもなければ偏執でもなかった。自由に行動せんがための所有であった。ところが、人がみな自分自身の住居と自分自身の私生活を確保したいま、この所有への性向は、新しい方向へと解放されたのであった。人びとは、どこか公共のアーケードに一続きのパネル画をのこそうとして、あるいは街路や木立や記念館に一列の彫刻を残そうとして、研究し、節約し、製作にはげんでいる。あるいはまた、かつて富の蓄積に熱中したように、いまだに解明されない自然現象の謎の研究に懸命になっている人びともある。昔は社会生活の全部を占めた生活を立てるという仕事も、いまや、昔の登山家が山にのぼろうとして食料のリュックサックを背負う程度の仕事でしかない。これまで労働力を提供してきた人たちの大部分が、新しい美や知恵も生みださず、いまや、ただ生きる実感をもとめて楽しい仕事や趣味にかかずらって、ひたすら忙しく暮らしていても、解放された現代の、のんびりした慈善事業には、ほとんど問題にもならないのである。こういう人たちは、受容と反響によって世の益になることはあっても、何の邪魔にもならないであろう。
十一
さていま、われわれの周囲で、人間生活の輪郭や外見上の巨大な変化が進行している。これは、人が野蛮な少年時代をへて、青春期の急速な成熱から成年期に入っていく変化におとらぬくらい急激で、すばらしいものであるが、これと関連して同じく前代未聞の道徳的、精神的変化が平行的に進んでいる。古いものが去って、新しいものが登場してくるというのではなくて、むしろ、環境の変化のために、これまで抑圧されてきた人間性のなかの諸要素が刺激される一方、従来あまりにも刺激されて、過度の発達をとげてきたものが抑制されていくという現象である。人間が成長して、その本質の一部に変化が起こったというよりも、本質の新しい面が表面に出てきたということである。こういう新しい態度への転回という事態は、以前にも小規模ながら何回か世界にはあった。たとえば、十七世紀のスコットランド高地人は、残虐で血に飢えた盗賊であったが、十九世紀の子孫は、目だって立派な信頼できる人たちである。二十世紀初期には、おそろしい大量虐殺をやってのけられるような国民は西ヨーロッパには全く存在しなかったが、しかし、十八、十九世紀に大量虐殺をしなかった国民は、と言うと、これまた全然ない。最終戦争前のヨーロッパ諸国の富裕階級のいとなむ、のびのびとした、率直な、やさしい、おだやかな生活は、貧しい階級の薄ぎたない、疑ぐり深い、秘密的な、不親切な生活、あるいは最下層階級の日常的な肉体的暴力、不潔、幼稚な激情の生活とくらべたとき、思考と感情の別世界を見るような観がある。しかし、じつは、この両世界には、血や遺伝的性質の差異というものは全くない。差異はすべて環境と理想と精神の習慣にあるにすぎない。ひるがえって、もっと個人的な例を見ても、宗教的回心の結果、ひとつの人生に画然とした変化が現われるという例が、つねに見聞されるが、これなども、人間性にひそむ、多方面の可能性を示す、ひとつの不変の証拠である。原子爆弾による大惨害で、人間は、都市、商業、経済関係から放りだされたが、また同時に、古い、きまりきった思考の習慣や、昔から受けついできた、いいかげんな信念や偏見からも放り出された。旧式な科学者の言葉で言うと、人間は発生段階に逆もどりした。人間は、古い絆から解放されて、良きにつけ悪しきにつけ、新しい連想を受けいれる態勢に立たされたわけである。ブリサーゴ会議は、これを善の方向へ押しすすめたわけだが、もし、チャールズ・フェルディナンド王の原子爆弾が目的地に到着していたならば、人間は、つぎからつぎへと連鎖的に、切りもなく、悪の方向へ逆行したかもしれない。しかし、その場合、王の仕事は、ブリサーゴ会議のそれよりも、むつかしいものになったことだろう。原子爆弾の倫理的衝撃は甚大なものがあった。しばらくのあいだ、人間動物は、再建がほんとうに必要だということを痛感して、自分の狡滑な面を陰にかくしていた。法律的論争の精神、取引きの精神も、みずからのまねいた結果におびえて、おとなしく声をひそめていた。人びとは、新しい熱望を実現しようとする並々ならぬ熱意を目の前に見たとき、いやしい利益を得ようとする気持を抑えたのであった。ところがまたついに、雑草が息を吹きかえしてきて、「主張権」がまた芽を吹き出した。ところが、その芽が出てきた土というのが、改革された法廷の、過去ではなく、未来を向いた法律の、石ころだらけの土壌だったわけで、その上から、変化していく世界の燃えあがるような太陽が、ガンガン照りつけていたというわけである。新しい文学、新しい歴史観が芽ばえ、学校では、すでに新しい教育がおこなわれ、若者には新しい信念が生まれていた。どこかのお偉い男で、つぎつぎと土地を買って、サセックス丘陵に英国の研究都市を建てる計画の先手を打って、とんでもない補償金を要求した奴がいたが、けっきょく土地を没収され、笑いものになって法廷から追い出された。信用をうしなったダス特許権の所有者が、歴史に最後に現われたのは、『正義を叫ぶ声』という破産した新聞の発行者としてであるが、彼は、この新聞で、一億ポンド返せ、と世界に対して借金の催促をしている。ホルステンの一つの発見に、一枚の紙屑をひっつける程度の仕事をしたから、自分は毎年約五百万ポンドの支払いを受ける権利があるというのが、発明家ダスのいう正義であった。ダスは、けっきょく、最後には本気で自分の権利をかたく信じるようになって、ニースの私立病院で、陰謀性障害患者として死んだ。さきの不動産屋にしても、このダスにしても、二十世紀はじめの英国ならば、おそらく大金持として、そして、もちろん貴族に列せられて、世をおわったことであろうが、彼らの運命のこの新奇さにこそ、新時代の性質が示されている。
新政府は早くから、新政府の世界統治の偉大な思想に人を慣らせるための全世界的教育の必要性に気づいていた。しかし、当時の世界を、憎悪と不信のまだら模様に染めあげていた地方的、民族的、宗派的宗教には、政府は、なんら論争的な攻撃はおこなわず、おのおのの宗派が、その好むときに神と和解するにまかせた。ただし政府は、すべての者に犠牲が期待されること、すべての者に敬意を払わねばならぬこと、とまるで世俗的真理のように宣言した。そして、世界中に学校を復活させ、新設校を発足させたが、ここでは戦争の歴史と、最終戦争の影響、教訓などが教えられた。そして、世界中のいたる所で、世界を荒廃と闘争から救うことが、あらゆる男女共通の義務であり仕事である、ということが感情の問題でなく、事実の問題として教えられた。こういう教育方針は、いまでは人間の交わりの基本的な常識のように見えるけれども、最初これを宣言したときは、ブリサーゴ会議の議員にすれば、多少の不安がないでもない、ずいぶん大胆な発見に思えて、興奮に頬を紅潮させ、目を輝かせたものである。
ブリサーゴ会議は、この教育再建の仕事を一つの教育委員会にゆだねたが、この委員会は、その後の二、三十年間、じつに広範囲に能率的に機能した。この教育委員会は、人口再配分委員会の精神的、心理的側面と密接につながっていたし、現在でも、それに変わりはない。ところで、この教育委員会の目立った存在で、じつは、しばらく、これを完全に指導していたのが、カレーニンというロシア人だが、この人は先天的不具者だった。この人は、体が折れまがっていて、歩行が困難で年齢がすすむにつれて苦痛がひどくなり、とうとう二度の手術を受けねばならず、二度目の手術で亡くなった。中世では、人が群がるところ、必ず奇形が見られて、不具の乞食は、中世の風物からは切っても切れない存在だったが、新世界では不具は珍らしいものになりかけていた。珍らしいだけに、カレーニンの同僚たちは、奇異な感じをうけ、気の毒とは感じながらも、なにか意地の悪い気持になり、理性よりも慣れることで、この気持を抑えなければならなかった。カレーニンは、深く落ちくぼんだ小さな目に強い光をやどし、うすい唇の、大きな口元をきりっと引きしめた、たくましい顔付をしていた。顔色は、ずいぶん黄ばんで、しわがあり、髪は鉄灰色だった。短気な癖があって、ときどき猛烈に腹を立てるが、体のなかを焼けた針金が走るような痛みがあることが見るからにわかるので、人は大目に見て許していた。しかし晩年には、たいそう尊敬されていた。自己放棄、世界精神との一体化を世界の教育の基礎と定めたのは、だれよりも、この人の功績である。現代教育の基調とされているあの教職者への一般的覚え書きは、おそらく全く、この人の筆になったものだろう。
「おのが魂を救おうとする者はみな、それを失うことであろう〔ルカ伝九章、二十四節〕。これは、この文書の印章の銘句であり、われわれがなすべきあらゆることの出発点である。これを、事実の平明な陳述以外の意味に受けとることは誤りである。これは、諸君の仕事の基礎である。諸君は、自己放棄を教えなければならない。諸君の教えねばならぬ他のことは、すべて、この目的に貢献し、この目的に従属する。教育とは人間の自己からの解放である。諸君は、子供たちの視野をひろげ、彼らの好奇心と創造的衝動を刺激し、強化し、彼らの同情の気持を育成し、拡大しなければならない。そのために諸君は存在する。諸君の指導と、諸君のあたえる影響のもとで、子供らは、人間の欠点である本能的猜疑心、敵意、激情をすて去り、宇宙の大いなる存在に再び合体しなければならない。子供たちの自己中心主義の卑小なる円を引きひろげて、これを、人間の大いなる目的のための弧としなければならない。しかもまた、人に教えるこのことを、諸君はみずからも熱心に学びとらねばならない。哲学、発見、芸術、あらゆる技術、あらゆる奉仕、愛。これらはすべて、せまい孤独な欲望、すなわち自己と自己中心主義的な人間関係にとらわれた陰欝な心からの救いの手段である。自己にとらわれた心は、個人にとって地獄であり、人間にたいする裏切りであり、神からの追放である……」
十二
物事は、出来あがり、完成されてくるにつれて、はじめて、人の目に明瞭に見えてくるものである。新しい時代から振りかえってながめると、大きな、広がりゆく流れのような文学の姿を完全な理解をもって見ることができる。無関係と見えたものが、つながり、かつては過激で無目的と非難されたものが、じつは、ある大問題を指摘する要素でしかないことが判明する。十八、十九、二十世紀のまじめな文学の大部分が、いまや意外にも一本にまとまって、ひとつの事を訴えている。一つの主題をさまざまに語る一枚の巨大な織物と見えるのである。一つの主題とは、人間の自己中心主義、個人的熱情、偏狭な想像力と、より広い必要、より大きな生活についての深まりゆく認識との間の衝突である。
この衝突は、たとえば、ヴォルテール〔一六九四〜一七七八。フランス啓蒙主義の哲学者、文学者〕の『カンディード』のような古い作品にも現われているが、ここでは、幸福や正義への願望が、人の反対にぶつかって、ついに、やむをえず、ささやかなものに満足を見出すというスッキリしない避難所に逃げこむことになっている。『カンディード』は、不安な不満を訴える文学の一先駆にすぎず、やがて、この種の書物は洪水のように世にあふれた。単なる物語作者は考えないことにして、小説、とくに、十九世紀の小説は、努力を要求するいろんな変化を実感しながら、その努力の欠如を知った不安な実感をつたえている。悲劇的に、あるいは喜劇的に、あるいは滑稽にも神のごとき超越をよそおいながら、無数の証人たちが、夢と限界のあいだにいらだつ自らの人生を物語っている。生長していく人間精神が、あるときは用心深く、あるときは熱心に、またときには猛烈な勢いで、その継ぎはぎだらけの、身に合わぬ、腹立たしい古着に体を入れようとして、いつも失敗するという、この膨大な率直な記録に接すると、人は、泣き、笑い、ときには呆然たる驚きに打ちのめされてしまう。ところが、こういう小説では、問題の核心に近づくと、いつも問題回避の姿勢が現われて、まごつかされる。作家は宗教に触れてはならないというのが当時の奇怪なしきたりであった。宗教に口を出そうものなら、ほとんどの職業的宗教教師の嫉妬と憤激を刺激して、蜂の巣をつついたような騒ぎになるのである。宗教内の不和をのべることは許されても、和解の可能性を一瞥することは禁じられていた。宗教は、聖職者の特権とされていたのである。宗教をはぶいたのは小説だけではない。新聞までが無視した。商業取引の話し合いではペダンティクにも無視されるし、公務の場でも、ちいさな申訳ていどの役割しか演じなかった。しかしこれは、軽蔑ではなく敬意の表われであった。古い宗教組織は、まだまだ人の大きな敬意に支えられていて、日常生活に宗教を関連させて考えることさえ、不敬の感じがともなうほどだった。この宗教のふしぎな停滞情況は、新時代の初期までかなり尾を引いていたが、ふたたび宗教を人間生活の現実のなかに引きもどしたのは、なんといってもマーカス・カレーニンの明確な理想であった。彼は、幻想や迷信的尊敬の気持をはなれて、食物や空気、土地やエネルギーと同様に、宗教が、人間生活と世界共和国の福祉にとって必要なものであり、日常的なものである、と考えた。彼は、宗教がすでに、寺院、僧職階級、象徴的儀式などから外へ洩れてしまって、いまでは、世界国家を受けいれて、じみな活動をつづけている有様を見たのである。そこで彼は、この宗教に、より明確な表現をあたえ、新しい夜明けの光と展望とに合わせて、それを別の言葉で言いかえたのであった……。
だが、話を小説にもどして、もしそこに時代精神の証拠をもとめようとするならば、たしかめられる限り時代順に読みすすんでいって、十九世紀末、二十世紀初期に近づくにつれて、作家は以前の作家にくらべて、はるかに鋭敏に世俗的変化についての意識を深めてくることが明らかになる。昔の小説家は「あるがままの人生」を表現しようとしたが、新しい作家は変化していく人生の姿を描いている。近代小説の登場人物は、変化に適応しようとする姿で描かれようとするか、それとも世界の変化に苦しむ姿で示されようとするかのいずれかである。最終戦争時代まで下ってくると、日常生活を加速度的発展への反応とするこの新しい見方は、いよいよ明瞭に表面化してくる。これまでずいぶんバーネットの著書は役立ってくれたが、この著書は率直に言って、風上にむかって進む船のように、世界が方向転換する有様を描いたものである。彼以後の新しい作家たちが、おびただしい作品で描いているのは、古い習慣や風俗、限界のある物の見方、冷淡な性質、先天的固定観念といったものが、この現代の世界にはじまった生活の大発展と衝突したときに起こる個人的苦しみの物語である。住みなれた環境から引きはなされた老人たちの感情を描き、彼らが、まだしっくりとなじめぬ不安な日常生活のいとなみに慣れ、それを受けいれていく物語がある。かと思えば、青年の芽生えてくる自己中心主義と、変化する社会生活からくる漠然とした制約との衝突の物語もある。あるいはまた、人の魂をとらえて、これを不具にする嫉妬の物語もある。ロマンチックな失敗の物語、世界的動向の悲劇的誤解の物語。あるいは、冒険精神や激しい好奇心、こういうものが、いかに世界的傾向に貢献するかを描いた物語などもある。こういう小説は、結局は幸福をとりにがしたとか、つかまえたとか、災厄に終ったとか、救済に達したとか、という結末をもつものだが、作家の想像力が透徹し、その芸術が微妙であればあるほど、そこには、たしかに、全世界救済の可能性が語られているわけである。およそ人生のいかなる道も、それを深く歩もうとする者にとっては宗教に通じるからである。
こんにちの世界が、完全にキリスト教的世界なのか、それとも全くちがう世界なのか、いまだに、はっきりとしないというのは、昔の人にすれば奇妙に思えることだろう。だが、現代人がキリスト教精神をもっていることは確実であり、またキリスト教の現世的形式の多くをすて去ったことも、また確かである。キリスト教は、世界宗教の最初のものであり、部族主義、戦争、論争の世界最初の完全な廃棄宣言であった。たちまち昔の古くさい儀式の弊害におちいったとはいえ、その事実には変わりはない。人類の良識は、二千年のきびしい経験をなめて、ついに、キリスト教の聞きなれた章句に、いかに健全な意味がやどっているかを認識したのである。科学的に思考する人は、集団生活の道徳問題に思考をひろげていくとき、必然的に、キリストの言葉に思いあたる。そしてまた同様に必然的に、キリスト者は、思考が明確になるにつれて、世界共和国に到達するのである。各教派の主張とか、名前の使い方とか、いろいろな系列、継承とかの問題はどうかと言うと、われわれの住むこの世界は、そういう主張や一貫性などからは解放されている。
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第五章 マーカス・カレーニンの最後の日々
一
マーカス・カレーニンは、二度目の手術をパーラン〔ネパールの都市。首府カトマンズの南郊。カーペット織物で有名〕の新しい外科医学研究所で受けた。サトレジ川がチベットから流れくだってくる峡谷を下に見おろす、ヒマラヤ山中の、高い場所である。
これほど自然のままの美しさにみちた場所は世界にも類がない。研究所の、低い建物の周りにめぐらされた花崗岩のテラスから、四方の山々が望まれる。はるか下の方の薄暗く青い峡谷の底を、川が、人口の密集するインドの平原に向かって、あわただしく流れているが、その轟々たる水音も、この閑寂な高地まではいっこうに聞えてこない。その青い峡谷のなかに大ヒマラヤ杉の森林がいくつもあるが、それも、小さく貼りついた苔のようにしか見えない。その青い峡谷の向こうに、さまざまな色合の岩石から成る巨大な絶壁がそそり立っている。上の方が磨滅して、雪の縞がつき、あちこちに、とがった峰々が突きたっている。これは氷と雪の荒涼とした高原の北側の壁だが、この高原は南に向かって、盛り上るにつれていよいよ高く、荒々しく、大きくなっていって、ついに地球最高の山々、ダウラギリ山、エヴェレスト山に達する。この北壁の絶壁のようなものは、よその土地では絶対に見られないものだし、ここにはまた、モン・ブラン程度の山ならば、スッポリと入ってかくれてしまうような深い亀裂もいくつかある。内海のように広い氷原もいくつかあるが、そこには丸石が一面に、散りしかれているので、ガンガン照りの太陽にてりつけられても、名もない小さな花々が石のかげでひっそりと咲いている。北の方に、チベット高原の眺めをさえぎるようにしてそびえているのが、あの磁器で出来た砦、あのゴシック風の大建築リオ・ポルギアルである。城壁と塔と峰々より成る要塞、川のうえ一千二百フィートの高さにすっくとそびえ立つ縞模様の、割れた岩石である。そのうしろと、東の方と西の方には、青黒いヒマラヤの空を背景にして、峰また峰が奥の方へつづく眺めがある。はるか南の方には、インドの雨雲が、いきなり中空に盛りあがるようにして固まり、目にみえぬ手で押しとどめられている。
ラージプターナ地方の灌概水路の上、北端のデリー州の町々や丸屋根の上を夢のような速力で飛んで、カレーニンが運ばれてきたのはこの土地だった。ちいさく固まって立つ建物は、南の岩面が五百フィートちかい切り立った断崖になっているのに、飛行機で降下していくカレーニンの目には、まるで山の荒地に落としたオモチャのように見えた。ここには一本の道路もなく、空路が通じているだけだった。
飛行機は、大きな中庭に着陸した。カレーニンは秘書の手をかりて、翼の中の通路をとおって機外にで、出むかえに現われた研究所員の方へ歩いていった。
病菌汚染、騒音、その他あらゆる邪魔物を離れたこの山中に、外科医学は、その研究と治療の砦を建設していたのであった。エネルギーが貴重だった時代の、薄手な建築になれた目には、建物そのものまでが、じつにすばらしく見えたことだろう。花崗岩づくりで、外側は、もう、霜で少しザラザラしていたが、内側は磨きたてられて、おどろくべき頑丈さだった。蜂の巣のようにたくさんある部屋には、やわらかな照明がついて、しみ一つない研究台や手術台、真鍮製、プラチナ製、金製などの道具類がならべてあった。全世界から研究や実験的調査のために人びとが集まってくる。彼らはみな共通の白の制服を着て、長テーブルでいっしょに食事をするが、患者たちは、上の方の階に住んで、看護婦や熟練の係の世話を受けていた。
はじめ、カレーニンに挨拶の声をかけたのは、ここの研究理事チアーナだった。そのそばにいるのが役員会主任のレイチェル・ボーケンという女性で、「お疲れになりました?」と彼女が声をかけると、「きゅうくつでした。こういう所に前からきたかったんですよ」と老カレーニンは答えた。
まるで遊びにきたような言い方だった。
しばらく、みんなは黙っていた。
「研究に来ている人は何人おられるんですか?」
とカレーニンがきいた。
「ちょうど三百二十九人ですわ」とレイチェルが答える。
「患者とか係とか、そういう人は?」
「二千三十人です」
「わたしも患者になります。ならなければならんのです。だが、それよりも先ず、いろいろと見せていただきたいものですな。すぐに患者になりますよ」
「わたしの部屋においでになりませんか?」
とチアーナ理事が言うと、
「それでは、このお医者さんと相談があるわけですね。しかし、その前に、ここを、ちょっと見物させてもらって、何人かの人たちとお話したいものですね」
とカレーニンは言うと、ちょっと痛そうに身をちぢめて、歩きだし、
「仕事は、もう大方整理がついたので」
と言った。
「いままで、ずいぶん忙しいお仕事だったんでしょう?」
とレイチェルがきくと、
「そうです。だが、もうすることもなくなりました。妙な気がしますね……それに厄介なことですね。この病気と、自分のことに、こうして目を向けねばならないというのは。この戸口と向こうの窓の列は、よく出来ている。灰色の花崗岩に、あの金色の線一筋、それに、あのアーチの向こうに見える山々。じつによく出来ている……」
二
カレーニンが、やわらかい白い膝掛けを巻いてベッドで横になっているそばに、担当医のファウラーがすわって、話をしていた。ベッドのうしろの陰になった所に、一人の助手が静かにすわっている。検査が終ったのである。これからどうするのか、カレーニンにはわかっていた。疲れてはいたが、心は平静だった。
「それじゃ、手術をしないと、わたしは死ぬというんですね?」
ファウラーはうなずいた。
「それじゃ、たぶんわたしは死ぬな」
とカレーニンは笑顔になった。
「かならず、というわけではありません」
「死なないとして、仕事ができるようになりますか?」
「チャンスはあります……」
「それじゃ、まず死ぬ確率が高いわけだ。それから、たとえ助かっても、どうにもならぬ病人になるということですね?」
「助かれば、生きられると思います……いまの調子で生きられると思います」
「ふむ、それでは、ひとつやってみなくてはいけませんな。しかし、ファウラー、薬をかけて、こう、一時的応急処置をしておくということはできないものかね。こういうふうに生体解剖みたいなことをするんじゃなくて。何日か、薬でもたせて活動させておいて、それから……終るというぐあいに」
ファウラーは考えてから、
「まだそこまで出来る知識がありませんねえ」
「しかし、やがてその日が来るよ」
と言われて、ファウラーはうなずいた。
「きみと話していると、わたしは人類最後の不具者のような気がしてくるね。不具は不安なものだ……不正確なものだよ。わたしのこの体は不安な動き方しかできない。死ぬのか、生きるのか、それさえはっきりしない。わたしのような肉体が、もう世のなかに生まれてこなくなる日も遠くないという気がするね」
ファウラーはしばらくして、
「あなたのような精神が生まれてくることは必要ですよ」
と言った。
「わたしの精神は有効に働いてきたんだろうと思う。だが、それが、この体のせいだと思ったら、それは誤解だよ。体の欠陥には何の取得もないからね。わたしは、たえず苛立たしい思いをしてきた……この体に。健康で、もっと自由に、もっと広い生き方ができたら、もっと大きな仕事ができたと思う。だが、いつの日か、きみたち医者は、ひどくいたんだ体でも、きれいに直すだろう。医学はまだはじまったばかりなんだからね。医学は、物理とか化学より微妙なものだ。奇蹟を生みだすには、もっと時間がかかる。それまでは、もう少しわたしのような体の者がおとなしく死んでいくわけだ」
「りっぱな研究をやっていますよ、それも大量に。わたしは、それに関係していないので、それくらいしか言えませんが。研究結果を学んで、ほかのもっと優秀な人たちの発見したことを仕入れて、そのうえでこの両手をつかう、というのがわたしの仕事ですが、この優秀な人たち、たとえば、ピグー、マスターソン、ライなどという人は、すごい速さで未来の知識の開拓をやっていますよ。いままで、この人たちの研究を追跡して読む時間はおありでしたか?」
カレーニンは首を横にふって、
「しかし、その範囲は想像できるね」
と答えた。
「ずいぶん大勢のものが研究していますよ。十九世紀に一人だったとすると、いまでは少なくとも千人が、考え、観察し、実験しているでしょうね」
「記録する人を別にして?」
「別にしてです。もちろん、研究の目録をつくること自体たいへんな仕事で、それがちゃんと出来るようになったのは最近です。しかし、その効果はもう現われていて、われわれは恩恵を受けていますよ。目録をつくっても収入にならないから、今では奉仕活動になりました。だから、それに向いていると思う人だけが従事しているわけです。ここにも、百科辞典風の目録がありますから、お見せしましょう。きっと興味をおもちになりますよ。毎週、学術研究省から飛行機で送ってくる新しいぺージを綴じこんで、古いページを抜くわけです。だんだん正確になる目録です。こういうものは前にはありませんでしたね」
「わたしが教育委員会に入ったときは、そういう知識の目録づくりは、とても無理だった。混沌とした大量の調査や研究の結果が出てくるうえに、それが、いろんな外国語の、無数の型の出版物……」
とカレーニンは思い出してニッコリすると、
「あれには、まいったねえ」
と言った。
「その混沌の整理はほとんどおわっていますよ。お見せしますが」
「自分の仕事で忙しくて、ひまがなかったが……そう、喜んで見せてもらいましょう」
と言って、カレーニンは、しばらく自分の担当医を興味深そうな目で見ると、いきなり、
「きみは、いつもここで働いているんですか?」
「いいえ」
「しかし、たいていは、ここにいるんでしょう?」
「この十年のうち七年ほどはここで働いています。ときどき、休暇をとって、向こうの下の方へ降りていきます。必要なんですよ。すくなくとも、わたしには必要です。ここに暮らしていると、何もかもが灰色に見えてくるような時があるんです。生きることに飢えるというか。ほんとうの個人的な、熱情的な生や恋に飢えるというか、飲み食いの楽しみ、ごった返す人混み、冒険、笑い……とくに笑いですね、そういうものにたいする渇望を感じるわけです」
「なるほどねえ」
「そのうちに、ある日、突然また、こういう高い山々のことを思いだします」
「そういうふうに、わたしも生きたかった。この、この体の、故障がなければね。経験のない人には、体の異常からくる苛立ちはわからない。体が悪くて健全な日常生活ができないとか、思いのままに、こういう高い場所にのぼって来られないとか、そういう不自由をする人が一人もいない世の中というものは、いいものだろうね」
「そういう日はやがてきますよ」
「ながいあいだ人間は、肉体の侮辱、魂の侮辱に抗して向上してきた。苦痛、無力、なさけない恐怖、暗い気分、絶望などに耐えてね。わたしは、そういうものをいやというほど味わった。休日全部を合わせたより、まだたくさんの時間を取られたよ。人間というものは、誰でも、ある程度は、不具者や野獣のようなものではないだろうか。他の人に比べて、わたしは、そういうことを、もう少し深く経験しただけのことだ。人間が野獣や不具者にならないように、自分を支配できると、ほんとうに分かったのは、やっと現代のことですよ。肉体の支配を脱して、はじめて人間は、充実した肉体の生活が出来るわけだ。しかし、もう一世代としないうちに、医学は、そういう研究を完成するでしょう。昔からの人間の古い性質、肉体や精神にひそんでいるけものや爬虫類の痕跡を、医学は思いのままに処理することになるだろう。そうじゃないだろうか」
「大胆な想像ですね」
そう言われてカレーニンは、朗らかに声をあげて笑うと、
「ところで、手術はいつやりますか?」
ときいた。
「明後日です。あした一日は、わたしの指示するとおりの食事をしていただきます。考えたり、話したりするのは御自由です」
「ここを見学したいものだが」
「きょうの午後、案内しますよ。二人の者にあなたを担架に乗せて案内させます。あしたはテラスに出て、横になってください。このあたりの山の美しさは世界一ですからね」
三
明くる朝、カレーニンは早起きして、山からのぼる朝日を見まもり、それから軽い朝食をとった。そのあと、秘書のガードナー青年が現われて、きょうは人に会われますか、痛みがひどくて無理ということはありませんか、などと話しながら、きょうの予定を相談した。
「きょうは、話がしたいな。ここには、きっと頭の活発な人がたくさんいる。そういう人に来てもらって、話がしたいよ。気がまぎれるだろう。この世での最後の日の朝を迎えると、あらゆるものが、口では言えないほど興味しんしんたるものになってきてねえ」
「最後の日ですって!」
「ファウラーの手にかかって死ぬからね」
「そんなことはないって、ファウラーは言ってますよ」
「いや、だめだろうな。死なずにすんだとしても、わたしという人間はもう終りだろう。だから、いずれにしても、きょうが最後だ。きょう以後の日が、たとえ来るとしても、糸屑みたいなものだろう。わかっているんだよ……」
ガードナーが口を出そうとすると、また、カレーニンが、
「ファウラーの手にかかって死ぬのがいいと思っているんだよ、ガードナー。いや、やめなさい、古い慰めの言葉はいらないよ。わたしが一番こわいのは、その生の終りにくっついた最後のボロぎれみたいなやつさ。ひょっとすると、ただ生きているだけという状態で……苦しむ肉体の織り物のはしにくっついた傷だらけの織り端しといった状態で、生きながらえるかもしれないだろう。もしそんなことになったら、いままで隠して、おさえつけてきたもの、無視してきたもの、あとで訂正して取り繕ってきたものが、全部出てきて、わたしは負けてしまうだろう。おこりっぽくなって、わがままな気持を、おさえることもできなくなるかもしれない。わたしの自己抑制は、けっして強いものではなかったからね。いや、いや、ガードナー、そんなことはない。きみは知ってるじゃないか、何度も見てきたじゃないか。手術がおわって、命があってもだ、ケチくさい、見えっぱりな、意地のわるい中身をさらけ出して、これまでの世間の評判を利用して、なにか病人のつまらない我がままを通している自分の姿なんか想像するとね……」
カレーニンは、しばらく沈黙して、遠くの絶壁のあいだに立ちこめるモヤを見つめていた。モヤは、朝日のさぐるような光線にあたると、あかるい雲に変わり、流れて散っていった。
「そうなんだ、わたしは、麻酔薬がこわいんだよ。麻酔にかけられて、ボロぎれのようになって生きることがこわいんだ。人間はみな、生きることをおそれている。死ぬことなんて! 死ぬことだけなら、誰も気にしてやしない。ファウラーは、しっかりした医者だ……しかし、外科医学がもっとすすんでくれば、命を助けることだけに、こだわることはなくなるだろうね。ピクピクと動いてさえいれば、助けるなんて、そんなことには、それほどこだわらなくなるだろう。ファウラーの手術を受けたあとは、きっと、わたしは仕事ができない……仕事以外にわたしに何がある?……仕事ができないことはわかっている……。
人生が、なぜ、その最後の糸のように細く残る日々で判断されるのか、わたしには納得できない……人生とは、そのすばらしい部分を指すのだ、と思う。最後の糸屑の部分ではないはずだ。一生病人だったわたしには、それがわかる。人生は中身に意味があって、その外側の殻じゃないよ。このことを忘れないでくれ、ガードナー。もしやがて、心臓のぐあいがわるくなって、わたしが絶望するとか、断末魔のちょっとした苦痛におそわれて、感謝もわすれ、人の顔も見えなくなったとき……わたしの断末魔の言葉なんか、本気にするんじゃないよ。織り物がよければ、その織り端しなんか問題ではない。問題ではありえない。生きているときは、たぶん人間は、その一瞬かもしれないが、死んだときは、最初から最後までの全生涯だからね……」
四
カレーニンの希望で、やがて、人びとが話にやってきたので、彼は、ふたたび自分のことを忘れることができた。レイチェル・ボーケンが長いあいだ、話相手になって、おもに世間の女のことを話題にしてしゃべった。彼女といっしょに、イーディス・ヘイドンという若い女性がきたが、この人はもう細胞学者として、ひじょうに有名になっていた。そのほかに、数人の研究員、カーンという名の詩人の患者、それにエドワーズという演劇やショウの企画者も、しばらく話に加わっていた。話は、つぎつぎと移って、また元へもどり、その時の偶然で、まじめな話になったり、他愛のない話になったりした。だが、その後まもなく、秘書ガードナーが憶えていたことを記録したので、それをつなぎ合わせてみると、カレーニンの世界観や、人生の重要問題についての彼の感想が再現できる。
「われわれのこの時代は、いままでのところ場面変更をやってきた時代だと言える。終ったドラマ、退屈になってきたドラマの背景を片づけて、新しい舞台の準備にかかっているのが、いまという時代だ。新しい見世物の、せめて最初の二、三幕でも見られたら、と思うが……。
古い世界は、ずいぶん厄介なことになっていた。わたしの体が病んでいるように、古い世界は不必要な物をいろいろと背負いこんでいた。がんじがらめになって、発熱して、混乱におちいっていた。解放されることが、どうしても必要なところまできていた。おそらく、あの原子爆弾の暴力がなくては、解放して、健康な世界にもどすことは出来なかったのではないか、と思う。原子爆弾は必要だったと、わたしは思っている。熱のある体では、なにもかもが悪くなるが、それと同様に、旧時代の最後の頃は、すべてが悪化してゆくように見えた。世界中どこを見わたしても、古くさい役にも立たぬ組織が、科学の新しい、すばらしい贈り物につかみかかって、これを悪用している有様だった。国籍とか、いろんな政治団体、各教会、各宗派、所有権などが、科学の贈り物である大きな力や、無限の可能性をわが物にして、悪用しているのが世の姿だった。しかも、こういう死にぞこないの旧組織は、言論の自由をみとめず、教育をゆるさず、新時代の必要に応じて教育を受ける権利を、およそ何人にも認めようとはしなかった。きみたち若い人は想像もできないだろうが、科学の可能性を信じた当時のわたしたちは、原子力エネルギーの発見前、希望と絶望のいりまじった、どんな思いで暮らしていたことか。
大衆は注意を向けようともしなかった。理解しようともしなかった。それだけではない。ほんとうに理解している人にも、真の理解から来る力が欠けていた。いろんなことを言い、いろんなものを見ながら、それが彼らには何の意味もなかったのだ。
最近、昔の新聞を読んでいるが、わたしたちの親が、科学にたいして、どういう態度をとっていたか、それには全くあきれる。科学を怖れているのだ。憎んでいるのだ。ほんのわずかの科学者の存在だけをみとめて、研究をゆるしている……情けなくなるほど少数だ。『わたしたちのことは何も調べるな。べつに何も理解させてくれなくてけっこうだ。わたしたちのささやかな暮らしに、おそろしい理解の矢を射ちこまないでくれ。ただし、手品を見せてほしい。ちょっとした、ささやかな手品でいい。安い照明をつけてくれるとか、ある不愉快な病気を直してくれたらいい。癌とか結核を直してほしい。風邪とか、食べ過ぎをらくにしてくれたら、それでいい』。われわれの親は、こんなことを言っていた。だが、すっかり世のなかは変わったのだよ、ガードナー。科学はもう、わたしたちの召使ではない。科学は、ちっぽけな個人の自我を越えたもっと大きなものだ、ということがわかったのだ。科学は、めざめていく人類の精神だよ。もう少しすれば……もう少しのあいだ、ほんとうに見たいと思うんだがね、もう幕があがっているんだから……。
こうして、わたしが横になっているあいだにも、ロンドンの爆撃跡の整理がすすんでいる。整理がすんだら、こわれた建物や道路をなおして、爆撃前の状態にできるだけ近く修復することになっている。わたしの父がロシアから追放されたあと住んだセント・ジョンズ・ウッド地区の古い家も、あるいは掘りだされるかもしれない。わたしの思いだすロンドンは、まるで別世界のような気がする。きみたち若い人には、きっと存在するはずのない場所のように見えるだろうね」
「まだ残っているところはたくさんあるんですか?」
とイーディス・ヘイドンがきいた。
「南部と北西部には、ほとんど被害をうけなかったところが何平方マイルもあるそうです。それに橋とか、ドック地域の大部分も被害はなかったようです。官庁のかたまっていたウエストミンスター区は、国会議事堂に落ちた小さな爆弾でひどくやられました。昔のホワイトホール通りとか、そのあたりの官庁地区は、ほとんど跡形もありません。しかし、建物の図面はたくさん残っているから、寸法をとるには不自由はない。ロンドンの東区には、大きな穴があいているが、これは問題ではないのです。ここは貧民地区で、北区、南区にひじょうに似たところだった。ここは大部分修復できるでしょう。必要なんですよ。もう昔のことを、思いだすのもむつかしくなってきましたからね……昔をじっさいに見たわたしたちでさえ」
「わたしには、ずいぶん遠い昔のような気がしますわ」
とヘイドンが言った。
「不健康な世界だった。思いだしてみると、子供時代には、まわりにいた人がみんな病人だったような気がします。事実、病人だった。混乱して病人になっていたのです。みんなが金のことを心配して、自分に向かないことをやっていた。食物は、というと、変なものを取りあわせて食べるうえに、量が多すぎたり、少なすぎたり。しかも時間がでたらめだった。どれほど不健康だったかということは、広告を見ればわかります。いま発掘しているロンドンの町筋へ行ってみたら分かりますが、いたる所に、丸薬の広告が貼ってある。あの調子じゃ、きっとみんなが、丸薬を飲んでいたにちがいないのです。ストランド街のあるホテルの一室に、一つの女物のハンドバッグが瓦礫に埋もれて、焼けずにのこっているのが見つかりましてね。あけてみたら、九種類の丸薬と錠剤がはいっていたそうです。武器をもっていた時代のあとに丸薬をもつ時代がきたわけだが、どちらの時代もいまから見れば変なものです。皮膚もきっとひどいものだったにちがいない。ちゃんと体を洗う人なんか、ほとんどいなかった。数カ月の垢を服につけて、着ている服は、ぜんぶ古着。いまでは、一、二週間着ると服はパルプにしてしまうが、こんなことを見たら昔の人はびっくりするでしょうね。とても考えられないひどい服だった。それに、あの人間の雑踏! 町のなかときたら、それはひどいもので、みんなが押し合い、へし合いだった。ひどい騒音でねえ。何百人と、ひきつぶされて死んだものです。毎年、ロンドンで、バスや車だけで、二万人の死者や怪我人が出ました。パリはもっとひどかった。それに混雑した道では、酸素の欠乏で、バタバタと人が倒れて死んだものです。内的な意味でも外的な意味でも、きっとロンドンは、気の狂うようなところだったにちがいない。いや、世界じゅうが狂っていたのです。子供の病気のときと同じですよ。あせって、熱を出して、つまらない理屈に合わぬことで失望して。
歴史というものは子供時代の記録です。いや、かならずしも、そうは言えないかな。病気の子供は、なにかこう、すがすがしいところ、キリッとしたところがあるし、それに、あわれなところがある。ところが昔の世界は、どこをみても腹が立ってくる。やること、なすことが、なんとも愚劣をきわめているのです。どこまで頑固で傍若無人に愚劣にできているのか。子供のさわやかさ、若さと正反対ですよ。
つい最近のことだが、わたしは、ビスマルクについて書いた本を読んだ。ビスマルク。十九世紀の政治の英雄、ナポレオンの続篇、血と鉄の神のあのビスマルクです。ところが、ほんとうは、あれは、ただの酔っぱらいの、バカな頑固者です。これが彼の掛け値なしの正体です。いままで最高に出世した平凡な粗野な男です。いろんな肖像画を見ると、ずんぐりしたカエルのような顔をして、目が突き出ていて、ふとい口ひげを生やして貧相な口もとを隠している。彼の目標は、ただドイツ、ドイツ一本槍。ドイツの主張、ドイツの強化、ドイツの拡張、ドイツ、ドイツ内での自分の出身階級、それ以外になんの思想もなかった。思想など理解できない男だった。彼の頭脳は、カボチャ頭のバカ者の狡猾な悪だくみ以上のことは一瞬も考えたことがないという頭だった。しかるに、この男が、世界一の強大な影響力をふるった。これほど世界に深い跡形をのこした男はいない。なぜか。それは世界じゅうに、彼の太い声をきいて共鳴する下劣な連中がいたからです。彼は、無数の美しいものを踏みにじった。そういう彼のやりかたを見て、こういう下等な連中は痛快がったのです。いや、彼は、けっして子供ではなかった。国民の侵略性を代表した人物だった。子供っぽさではない。とんでもない。子供は希望だが、あれは過去の遺物です。
ヨーロッパじゅうが、奴に子供を捧げて、教育、芸術、幸福、未来の福祉の希望のすべてを犠牲にして、彼のガチャガチャ鳴るサーベルのあとにつづこうとした。あの、おいぼれの『鉄血』思想の崇拝熱が全世界をおおったのです。ところが、原子爆弾が落ちて、古いものが焼きほろぼされて、自由がまたよみがえって……」
「いまの人間は、彼のことを絶滅した太古の獣のように思っていますよ」
と一人の若い男が言った。
「合計すると世界中で、三百万の大砲と十万隻の複雑な船を作った。ただ戦争だけを目的にね」
「そのころは、そういう戦争崇拝に反対する正気の人がいなかったのですか?」
とさっきの青年がきいた。
「絶望してたのよ」
とイーディス・ヘイドンが言った。
「ビスマルクはずっと過去の人なのに……しかし、彼が死んだときにいた人が、まだ生きているんですね!」
と青年が言った。
五
「しかし、ビスマルクに、わたしは不当な評価をしたかもしれないな」と、カレーニンは考えを追いながら語った。「人間は、誰でも知っているように、時代環境の影響をのがれられないものです。ある共通の思考基盤に立ちながら、大地の上に立ったつもりでいる。こないだ、わたしは、ある感じのいい男に会った。ポリネシアのマオリ人です。曽祖父が人食い人種だったという男です。ところが、この男が、その曽祖父の写真をもっていましてね。見ると、二人は瓜二つなんです。ちょっと手品をして、時間を組みかえたら入れかわったかもしれない。それほど似ているのです。おろかな時代には、残酷なバカな人間でも、よい時代になると、おだやかな、すばらしい人間になる。世の中にも気分というものがあります。たとえば、ビスマルクの子供時代の精神的食物を考えてください。ナポレオンの戦勝による屈辱、ライプチッヒの戦いに勝ったときの群衆の歓声……あのころは誰でも、賢い者でも、愚かな者でも、みんな、世界が多くの政府に分割されるのはやむをえないことで、それが、これから先まだ数千年もつづくと信じていた。たしかに、それは、不可能になるまでは、やむをえないことだった。それを認めないような者は、バカ扱いにされたことでしょう。ビスマルクは、そういう世間一般の考えを、ほんのちょっと……強引に押し出しただけのことです。国民的政府が存在せねばならないものなら、それならば、国内で強力な、国外では無敵の、政府をつくってやろうと、そう、彼は考えたのです。いまから見れば、じつにバカげた思想だが、それを旺盛な食欲で頭に詰めこんだから、ああいう人間ができあがったわけだが、だからといって、バカ呼ばわりするのは当らないかもしれない。いまのわれわれには、彼にはない有利な点がいろいろとあります。統一と集産主義というものを頭のなかに焼きつけられている。それにまた、科学の恩恵がなかったら、いまの人間はどういうことになっているだろうか。わたしなら、恨みをふくんだ、敵意にみちた、踏みつけにされたロシアのインテリゲンチャの一人か、陰謀家か、囚人か、暗殺者になっていたでしょう。きみだって女権論者になって、きたない窓でもたたき割っていたかもしれないよ」
「そんなこと!」
とイーディスが強く打ち消した。
しばらく、話は、こっけいな人柄の話題に移って、若い人たちは、微笑をうかべてきいているカレーニンの前で、お互いに、からかい合ったりしていたが、やがて一人の若い科学者の話で、また話題が変わった。
「じつは、わたしは、あることを空想しているのです……もちろん、こんなことは証明などできない空想にすぎないんですが……文明は、原子爆弾に飛びこまれたあの頃、ちょうど崩壊寸前にあったのではないか、と思うのです。もしホルステンが現われず、放射能が誘導されなかったとすると、世界は完全に破滅していたろう、とそんな気がするのです。もちろん世界はひどく破壊されましたけどね。ただ、よりよき世界への道を開く破壊ではなく、回復なき完全な破滅だったかもしれない、と思うのです。経済学の勉強もかたわらで、やっているのですが、その経済学の観点から見ると、ホルステン以前の一世紀は、しだいに激しくなっていく浪費の百年にすぎなかった。その時代の極端な個人主義、集団的な理解、もしくは集団的な目的の完全な欠如ということでしか、この浪費は説明がつきません。人類は資源を使いはたしていたのです……まるで狂気の沙汰です。地球上の全石炭の四分の三を消費し、オイルのほとんど全部を使いはたし、森林をとり払い、錫や銅も、とぼしくなっていました。小麦生産地域は土地が痩せてきて、人口がふえてくる。大都市の多くは、周辺の山岳地帯の水位がひじょうに下がって、毎夏、渇水でくるしんでいました。経済構造全体が破産に向かって驀進していたのです。それなのに毎年、いよいよ膨大な量のエネルギーを軍備についやし、資本にたいする産業の依存度をたえず増大させていました。経済制度がもうグラつきだしたころに、ホルステンが研究をはじめたのです。しかし世間一般の人はどうかと言うと、危険など全然感じていないし、調査しようという気持すら、まったくなかった。科学が自分らを救ってくれるなんて考えたこともないし、救われる必要があることすら思いつかなかったのです。足元にひらいた奈落が見えなかった、と言うより、見る気がなかったのですね。こんなときに、なんらかの研究がおこなわれていたということは、一般の人類にとって、まったく稀有の幸運でした。だから、さっきも言いましたが、もしもホルステンが開いてくれた逃げ道が見つからなかったならば、いまごろは経済の崩壊が起こって、革命、パニック、社会の解体、飢饉、それに……完全な混乱状況が出現していた、と思うのです。いまごろは、汽車の走らなくなった鉄道線路はさびついて、電柱はくさって倒れ、港々では、大きな定期船が朽ちはてて鉄板になり、焼け落ちた都会は盗賊団のひそむ廃墟になり、わたしたちも、粉砕され貧しくなった世界の、泥棒集団というようなことになったかもしれません。ああ、笑っていらっしゃるけれど、そういうことは前にも起こっているんですよ。世界じゅうに崩壊した文明の廃墟が散らばっているでしょう。アテネのアクロポリスの神殿には野蛮な盗賊団が砦をつくったこともあるし、ハドリアヌス皇帝の墓が要塞になって、ローマの廃墟をはさんで、大円形劇場の廃墟を相手に戦争をしたことだってあるんですよ……。そういう反動の可能性はすべて、一九四〇年に終ったのでしょうか? そんなに確実に終ったのでしょうか? それはみんな、そんなに遠い過去のことになったのでしょうか?」
「いまでは、ずいぶん遠い過去のことに見えますわ」
とイーディス・ヘイドンが答えた。
「しかし四十年前ですよ?」
「いや」と、カレーニンが山々に目をすえたまま言った。「きみは、二十世紀のあの初期の二、三十年代の知性を過小評価しているように思いますよ。たしかに、公的、政治的にはその知性は無力だった。しかし、たしかにそれは、あそこにはあったのです。それから、きみの仮説にもわたしは疑問がある。あの原子力の発見は、ホルステンが現われなかったとしたら、はたして遅れただろうか。研究の進歩には、いまや一種の避けられない論理がある。もう百年以上のあいだ、思想や科学は、人間生活の平凡な事件とは無関係に、独自のあゆみを続けているんですよ。ねえ、思想や科学は解放されたんですよ。たとえ、ホルステンが現われなくても、誰か、ホルステンに似た人物が現われていたでしょう。ある年に原子力エネルギーが現われなかったとしても、またいずれか別の年には現われたと、わたしは思いますね。退廃期のローマでは、科学の歩みは、ほとんどまだ始まっていなかった。……ニネヴェ、バビロン、アテネ、シラキュース、アレクサンドリア、こういう所は、粗雑ながら人類最初の共同提携の実験場所で、ここに安全地域、休息の余裕ができて、こういうものから研究が生まれるわけです。人間は先ず実験をやってから、事を始める方法を発見しなければならなかった。しかし二百年まえに、すでに、人間はもう、本格的にはじめているのです……十九世紀、二十世紀の、政治とか地位とか名誉とか戦争とかいうものは、はじまったばかりの新文明の周囲に、旧文明が最後に吹きあげた火のようなものだった。われわれは、この新文明に奉仕しているわけです。
人類は永遠に夜明けに生きるものです。生命はいつでもはじまりです。はじまりでしかない。永久にはじまりを続けるものです。一歩一歩が前の一歩より大きく見えて、人をかき集めて、つぎの一歩へと押し出していくのです。いまの、この『近代国家』にしても、百年まえは夢の理想郷にすぎなかったが、いまでは日常の平凡事になっている。だが、ここにこうして坐って、『近代国家』に保護されて成熟していく人間精神の可能性を想像すると、このあたりの大きな山々も、所詮はちっぽけなものにしか見えませんね……」
六
十一時ごろ、カレーニンは昼食をとり、そのあと、人工毛皮の毛布と枕で二時間ねむった。目をさますと、お茶が運ばれてきた。それから、カレーニンには興味があると思って秘書ガードナーがもってきた、ラブラドル地方とグリーンランドの、モラヴィア人学校〔マルチン・ルターに百年ほど先だって、チェコスロバキアの一県モラヴィアに、宗教改革者ジョン・フスなどの影響で生まれたキリスト教一派。とくに未開民族への布教活動で知られる〕に関する、ちょっとした紛争の話に耳をかたむける。それがすむと、しばらく一人ですごしていたが、やがてまた、二人の女性が部屋を訪ねてきた。そのあとで、エドワーズとカーンの二人も加わって、話が、新世界における愛と女の地位という話題になった。ふるえる陽炎の下に低い雲海群が横たわり、燃えるような陽が東の断崖絶壁に降りそそいでいた。話をしている最中に、ときどき、その断崖にバリッと大きなひびが入って岩が縦に外れて落ちたり、また雪、氷、石などが一本の奔流のように滑りだして轟々たる音響を発しながら注ぎ落ちていき、一筋の濡れた糸のようになって、下の深い割れ目の中へかかってはとまる。
七
しばらくの間、カレーニンは、ほとんど口もひらかず、人気詩人のカーンが情熱的な愛について語っていた。情熱的な個人の愛は、人類はじまって以来の願望だったが、いまはじめて、それを経験することが可能になってきた。いままでは、つぎつぎと世代が追求をかさねて、いま少しのところで達成しようとしながら失敗してきた。執拗に求めようとする者は、たいてい悲劇におちいった。しかし現在では、惨めな苦しみを脱して、男女は愛の勝利の実現を望むことができる。現代は愛の黎明期なのだ、とカーンは語った。
カーンの話のつづくあいだ、カレーニンは、ぐったりと目をおとして、物おもいに沈んでいた。やがてカーンの声が、その沈黙を醒まそうとして、むなしく壁を叩いているような感じになってきた。はじめ、カーンの話はカレーニンに向けられていたのだが、やがてイーディス・ヘイドンとレイチェル・ボーケンに向けられてきた。しかし、イーディスの目は、じっとカレーニンに向けられて、ことさらカーンの目を避けるようにしていた。
やっとカレーニンが口をひらいた。
「そういうことを言う人の多いのは知っています。たしかに世界では大きく性愛が解放された。世界じゅうに、いまゆきわたっているこの装飾とか精巧化の流行が、この性の解放にも影響していることはたしかです。世界が解放されたというのを、世界が性愛のために開放されたという意味に解釈しているのですね? この山の下の方、雲の下の方では、恋人たちが集まっている。きみの歌は知っていますよ、カーン。古い固い世界が輝く愛のモヤに融けていく、というなんとなく神秘的な詩でしょう。しかし、そういう思想が、正しいとか、真実だとか、そうはわたしは思わない。きみは想像力ゆたかな若者だ。だから、生を青春の目で熱烈に見ようとする。ところが、この深い青黒い空の下の、この高い山のうえに人間を押しあげた力、さらに、巨大な畏怖すべき未来に、人間を呼びよせる力は、そういう激しい感情よりも、もっと成熟した、深い、大きなものですよ。
いままで一生……といっても、これは必要な仕事の一部だったが……この性愛の解放という問題と、人間が完全に自由になり、ほとんど無限の力をもったときに人間の魂はどこに向かうのか、という問題をわたしは考えねばならなかったのです。いま見れば、世界じゅうが美しい浪費に恍惚としている。『歌え、たのしめ、美しくあれ、すばらしくあれ』という有様です。浮かれ騒ぎは、はじまったばかりなんですよ、カーン……これは避けられないことだ。しかし、これは人類の目的ではない……
われわれがどういうものか、考えてみてください。生が夢をみるものだったのは、無限の時間の流れのなかの、ほんの、きのうのことですよ。ひじょうに深い夢で、夢をみながら、生は自分を忘れるほどだった。個々の生、個々の本能、個々の一瞬一瞬が生まれ、疑問をもったり、欲望をおこしたり、飢えたりして、疲れては死んでいった。限りなく連続していく夢だったのです。陽に照らされたジャングルの夢、ひと気もない荒涼とした川の夢、原生林の夢、はげしい欲望、互いに鼓動し合う心臓の夢、空飛ぶ翼、地を這う恐ろしいものの夢が熱い炎となって燃えあがり、そして、まるで、そんなものは無かったように消えていったのです。生とは、チラチラといくつかの明りがひらめいては消えてゆく一つの不安だった。そして、そこへ、われわれ人間が登場したのです。そして疑問をもって目をひらき、要求して手をのばして頭脳と記憶がはじまってきたのです。人が死んでも死なず、永遠に生きつづけて増大してゆく頭脳と記憶、つまり人類の大精神、人類を支配する意志が始まったのです。星まで達する疑問と渇望が始まったのです。飢え、恐怖、それから、きみがこれほど重要視する性愛などは、人類を生み出した要素にすぎない。こういう要素は、たしかに無視できません。面倒をみて満足させなければならない。しかし、こういうものを越えて進まなくてはいけないのです」
「しかし、愛は別ですよ」
「いや、性愛のこと、親しい男女の愛のことを言っているのですよ。きみが言っているのもこれでしょう、カーン。木の根元にとどまっていて、しかも木に登ることはできません」
と言ってカレーニンは首を横にふった。
しばらくしてカレーニンは、また言葉をついで、
「この性的興奮、この恋物語は、成長過程の一部にすぎない。だから、人間は成長すると、そこから脱け出るのです。今まで、文学とか美術とか、感傷とか、それから、人間のすべての強い感情の形式は、ほとんど全部が青春期のものだった。いろいろな芝居や物語、いろいろな喜びや希望、そういうものはすべて、恋愛という関心事のあのすばらしい発見に支えられてきた。ところが人間の寿命はのびていく。おとなの精神はそこから離れていくのです。昔は三十で死んだ詩人が、いまでは八十五まで生きる。きみだってそうですよ、カーン。まだまだ、きみは先が長い……しかも、その一年一年が学ぶべきことでいっぱいなんですよ……人間はいまだに性と性的伝統の荷物を背負いすぎている。だから、そこから解放されなくてはいけないのです。そして現に、解放されつつある。人間は無数の方法で死を先にのばすことを学んだ。だから、この性というものは、昔の野蛮時代には、死の埋め合わせをするのに、丁度うまく働いていたのに、今は、受けとめる金敷きを失った金槌のように、生を突き抜けてしまうのです。きみたち詩人や若い人は、性を楽しみにしたがる。楽しみにするのはよろしい。たしかに、それは一つの解決法かもしれない。しかし、それもしばらくすると、もし語るに足るだけの頭脳があればの場合だが、しばらくすると、それにも満足して、今度は、ここの、より高きものへと上がって来ますよ。古い宗教や、古い宗教から枝分かれした新しい宗教は、どうも見たところ、いまだにそういう態度を抑圧したがっているようだが、抑圧できるならするがよろしい、宗教の仲間のなかでね。いずれにしても、ここでやっているような、知識への永遠の探究、能力の大冒険へと結局は導かれてくるわけです」
「でも、話の途中ですけれど、人間にはあと半分が残っていますわよ、女性が。昔よりはずっと必要性が減った生殖とか、愛などに、特に適していますのよ、女性は」
とレイチェル・ボーケンが言った。
「両性とも、愛と生殖には適していますよ」
とカレーニンが答えた。
「でも女の負担の方が大きいですわ」
「しかし、想像力の点では、そういうことは、ないですよ」
とエドワーズが言った。
「愛は一つの段階だと言われるけれど、しかし、それは必要な段階じゃないでしょうか。生殖を別にしても、両性間の愛は必要です。想像力を解放したのは愛、性愛じゃないでしょうか。あの衝動がなかったら、自分を越えて、自分を棄てて、すばらしい人になろうとするあの衝動がなかったら、人間の生活なんて牛舎で満足して生きる牛みたいなものでしょう?」
とカーンが言うと、
「ドアをひらく鍵は旅の終点ではないのですよ」
とカレーニンは答えた。
「でも、女はどうなるのでしょう!」とレイチェルが大きな声で言った。「女がいるんですよ。女の未来は何なのかしら? 女は男の人のために、想像力の扉を開いてきただけなのかしら? 今度はこのことをお話しましょうよ。前から、わたしずっと、このことを考えていましたの、カレーニン。あなたは、女のことをどう考えていらっしやるのかしら。こういう厄介な問題はずいぶん考えていらっしゃるにちがいないわ」
カレーニンは言葉の重みを計るような調子で、ゆっくりと言いだした。
「あなたたちの未来、女としての未来には全然関心がないのです。男の未来、オスとしての未来にも全然関心がない。そういう特殊な未来はつぶしてしまいたい、とわたしは思っています。関心をもっているのは女性の知性としての未来、つまり人類の普遍的精神の一部としての、それに貢献する知性としての女性の未来です。人間は、こういう問題では、生まれつき、あまりにも専門化されすぎています。それだけでなく、あらゆる制度、習慣、何もかもが男女の違いを誇張し強化しているが、わたしとしては、そういう女を非特殊化したいと思うのです。これは何も新しい考えではありません。プラトンが望んだのも、まさしくこれです。男女の差異を強調するという今までのやりかたは、したくない。差異は否定しない。しかし、それを縮めていって、克服したいのです」
「でも……やっぱり女は女ですわ」
とレイチェル・ボーケンが言った。
「自分が女だと考えつづけることが必要ですか?」
「どうしても、そういうふうに強制されますもの」
とイーディス・ヘイドンが答えた。
「女が男のような服を着て、男のように働くからといって、べつに女でなくなるとは思いませんけどね」とエドワーズが言った。「ここにいる女性たち、つまり女性科学者たちは、男と同じ白衣を着て、髪を簡単に巻きあげて、まるで男も女もないように仕事をしている。それでもやっぱり、あの下の方の平野にいるお嬢さんたちと同じ女であることには変わりない、もちろん、あれほど女っぽくはないけど。あの人たちは、自分で楽しんだり、人に見せたりするのが面白くて、きれいな服をきて、いつも恋人のことばかり考えて、とにかく、ことごとに、女性を強調するけれど、あの人たちと同じ女性だという点は変わりないですよ……じつは、ぼくらは、きみたちの方を愛……」
「でも、わたしたちは、仕事がありますわ」
とイーディス・ヘイドンが言うと、
「すると、それが重要なんですか」
とレイチェルが言った。
「女の人が仕事をし、男が仕事をするのなら、それならぜひ好きなだけ女性的であってください」とカレーニンは答えた。「女の人が非特殊化してほしいというのは、べつに男女の性を無視して撤廃しようというのではなくて、性に囚われて、面倒な、邪魔な制約に縛られることを止めにしたいという意味なのです。たしかに、性が社会をつくったのだし、最初の社会は性で結合された社会だった。最初の国家も血縁者の連合だったし、最初の法律も性のタブーからできていた。つい最近まで道徳といえば、正しい性的行動を意味していたし、また、つい先ごろまでは、ふつうの男の一番の関心事、一番の行動の動機といえば、女や子供をやしない支配することだった。女の一番の関心も、男にそうさせることだった。これが生活というドラマだったわけです。こういう要求から来る心づかい、気づかい、これが世間の根本動機だった。ついさっき、カーン、きみは性愛が自我の孤独の扉をひらく鍵だと言ったね。しかし、わたしに言わせれば、性愛は自我の孤独の扉をひらいて、けっきょくまた、二人の孤独に閉じこめてきただけだ、と言いたいね。そういうことも、いままでは必要だった。しかし、もういまは必要ない。すべてが変わったし、いまも急速に変わっていくのです。レイチェル、女としてのあなたの未来は消えていく未来ですよ」
「女が男になるという意味ですか」
とレイチェルがきくと、
「男も女も、ともに人間にならねばならないのです」
「女を撤廃なさりたいのですね。でも、カレーニン。これは性だけの問題ではないのですよ。性を別にしても、わたしたちは男とはちがったものですわ。生活の受けとりかたがちがいます。女……雌ということを忘れても、やはり、わたしたちは違った用途をもった種類の人間ですわ。ある面では女は、あきれるほど二流に出来ています。わたしがここで働いているのは、管理のちょっとした才能があるからで、イーディスは辛抱づよい器用な手をもっているからですけれど、でも、だからといって科学というもの全体が、男性の手でつくられたという事実は変わりませんわ。やっぱり、歴史をつくるのは圧倒的に男だし、女の名前なんか一つも入れずに完全な世界史だって書こうと思えば書けますでしょう。でも一方、女には独特の才能があります。献身すること、インスピレイションを吹きこむこと、美しいものを心から愛する独特の能力をもっていること、生活への関心、行儀作法への特殊な鋭い目をもっているという点がありますね。こういう点では、男はめくら同然ですわね。男は落ち着きがなくて、気まぐれなものだけれど、女は、じっくりと落ち着いていますわ。女は決して大きなものを見通したり、新しい筋を発見したりしないけれど、それを確認して、支持して補充するのが女の未来の役割じゃないでしょうか? 男の役割におとらない大事なことじゃありません? 男が世界をおこしたのかもしれないけれど、それを支えるのが女ですわ、カレーニン」
「あなたの考えどおりのことを考えているのですよ。レイチェル。それはよくおわかりでしょう。わたしは女の撤廃を考えているわけじゃない。撤廃したいのは……女主人公、性的女主人公なのです。嫉妬を心の支えとし、所有欲にとりつかれている女、これを廃したいのです。賞品として獲得されるような女、美しい宝として箱のなかへしまっておくような、そういう女がいなくなってほしいと思うのです。はるか下の方の世の中では、そういう女主人公が女神のようにキラめいていますがね」
「アメリカでは、女をたたえて男が決闘をしたり、美の女王の前で模擬戦をやったりしてますよ」
とエドワーズが言った。
「そういえば、ラホール(パキスタン、パンジャブ州の首都)で、ある美少女を見たことがある」とカーンが言いだした。「金色の天蓋の下に女神のように坐って、りっぱな男たちが、古代の絵に出てくるような武器を持ち、服装をして、下の階段に坐って忠誠を示しているんです。しかも男たちは彼女のために戦う許可を求めているんですよ」
「それは、その男たちのすることですわ」
とイーディス・ヘイドンが言うと、
「男の想像力は女全体、つまり肉体と精神を含めた全体としての女より、はるかに性に向けられていると、わたしはたしかに言いましたよ。女で、そんなことをする人がいるでしょうか。女はそういうことを見ても黙っているか、利用するだけです」
とエドワーズが言った。
「男女間の悪はことごとく男女に共通した悪ですよ」とカレーニンが言った。「仲間としての美しい友情を、いろいろと恋歌をつくって、女をめぐる興奮にすり変えてしまうのが、カーン、きみたち詩人だが、しかしそういう挑発にこたえるものが、女のなかにはある。多くの女のなかにあるのです。女の人は、とくに教養的うぬぼれに弱い。自分を自分の芸術性の主人公に仕立てるのです。自分を、念を入れて仕立て上げるわけで、こういうことは、とても、男にはまねができない。みずから金色の天蓋をもとめるわけですよ。一見、こういうことに反撥するように見えても、やはり同じです。原子力の発見前に女性解放運動があって、最近それを古新聞で読んでいるのですが、最初、この運動は、性的制限、性的隷属からのがれようとする願望から始まったのに、最終的には、熱烈な性の主張、これまで以上に女主人公的な女性の主張でおわっているのです。女性刑務所のヘレンは、彼女なりに結局、トロイのヘレンに劣らぬ位、たいへんな厄介者に終ったわけです。だから、自分を女だと思っているかぎり」と言って、レイチェルを一本の指でさして、ニコニコしながら、カレーニンは言葉をついだ。「知的存在だと思わず、女だと思っているかぎり……ヘレニズムにおちいる危険がありますよ。自分を女だと考えることは、男と関連づけて考えることです。その結果から、のがれられないでしょう。わたしたちのために、そして御自分のために、太陽や星と関連づけて自分のことを考えることが必要ですよ。女の人は、男の冒険の対象であることをやめなくてはいけないのですよ、レイチェル。そして、男といっしょに冒険に出発するのです……」と言って、カレーニンは山頂の上の方の暗い空に向かって手を振った。
八
「こういう問題への答えは、これからの研究が出してくれるでしょう。こうして、ここに坐って、いま何が必要か、将来何が必要かと、ただ漫然と不正確な話をしているあいだにも、何百人という頭脳鋭敏な男女たちが、冷静に適確に、知識欲からそういう問題を解決しようとかかっていますよ。これから大きな収穫をもたらす科学は、心理学と生理学だと思いますね。こういう男女間の厄介な問題、頑固な自己中心癖から起こる厄介な問題、こういうものは一時的な、つまり、いまのこの時代の問題でしかないのです。いまは、いかにも永遠不変に見えても、こういうちょっとした食い違いは突然、崩れて消えてしまいます。こういう対立衝突は、まとまってきて、一つになります。いま、山を削ったり、海を埋めたてたり、風の流れを変えはじめたりしているのと同じように、やがて研究が押しすすんで、人間の肉体、感覚、感情まで大胆につくり変えるようになるでしょう」
「つぎの段階ですね」
と言ったのはファウラーだった。テラスに出てきて、黙って、カレーニンのうしろの椅子に坐っていたのだった。
「もちろん、昔は」とエドワーズが言った。「人間は自分の町や国にしばりつけられたり、家や仕事から離れられなかったけれど、しかし……」
「人間の自己変革の能力には、限界がないと思いますよ」
とカレーニンが言った
「そのとおりです」
とファウーラーは言って、カレーニンの顔が見られるように、椅子から立ちあがって歩いてきて、カレーニンの前のテラスの欄干に腰をおろした。「人間の知識や能力には、絶対の限界はありません……お話になっていて、お疲れになりませんか」
「いや、おもしろいんです。もう少したてば、人間は疲れなくなるでしょうね。もう少ししたら、何か疲労物質をすぐに取りのぞいて、一瞬にして疲労した筋肉繊維を回復させるという薬でもできると思いますね。そのときには、この古くなった機械でも、スピードを落とさずに、とまったりせずに、動くようになるかもしれない」
「それはありえることですよ、カレーニン。だがまだまだ、わからないことがありましてね」
「それから、食物の消化とか、ぼんやりして過ごす膨大な時間だが、どうです、こういう時間を節約する方法が何か見つかるとは思いませんか?」
ファウラーはうなずいた。
「それから睡眠がある。人間がガス燈とか電燈で町や家の夜を追っぱらったとき……百年か、そこら前にはじまったばかりだが……そのときにもう、八時間ねむって時間をつぶすことが不満になる日がやがてやって来る、ということになったのです。錠剤を一つ飲むとか、何か電気とか磁気の場に横になるとかして、一時間か二時間の睡眠で気分爽快になって起きあがる、というようなことが出来ないものですかね?」
「その方面の研究は、フロビッシャーとかアミーヤ・アリがもうしてますよ」
「それから老人の体の不自由の問題とか、年齢がすすむにつれて起こってくる内臓疾患などがありますね。医学の進歩で着実に老齢化を防いで、青春期の激情的興奮と老年期の衰弱あいだの時間がどんどんのびてきている。おかげで、歯が悪くなるにつれて昔は弱って死んだ人が、いまでは、どんどん寿命がのびて、ますます充実した生活が期待できるようになってきた。それからかつて多くの病気の原因になった箇所、つまり退化した器官とか、へんな体の有害な隅っこなども、ますます研究が進んできてますね。手術も進歩して、体をつくりかえて傷を残さなくなってきた。心理学者は心理学者で、精神の作り方がわかってきて、思考とか動機の異常を軽減して取りのぞく方法、圧迫を除いて思考をひろげたりする方法がわかりかけている。だから、人間は、学んだものをますます、人類のために伝達したり保存したりできるようになっていくわけです。人類、人類の知恵、科学がたえず力を増していって、個人を全人類的な目的に従属させていくわけでしょう。ちがいますか?」
そうだと、ファウラーは答えると、それからしばらく、彼は、現在インドとロシアでおこなわれている研究のことを語った。
「ところで遺伝のことはどうなっていますか?」
とカレーニンがきいた。
ファウラーは、それに答えて、チェンが、その天才を発揮して膨大な研究結果を蓄積し、整理したことを語った。この中国人学者は遺伝の法則を明確に定義し、どういうふうにして子供の性や皮膚の色、あるいは親の性質の多くが、決定されるのかを、明確に定義しはじめている、と語った。
「じっさいに出来るのですか、その……」
「いまのところ、まだ実験室で成功した段階ですが、もうあすにも実用化できます」
「ほら、ごらんなさい」とカレーニンは言うと、笑顔をレイチェルとイーディスの方に向けて、
「男と女のことで、いろいろと理屈を考えているうちに、科学が、そういう昔からの論争を終らせる力を発見してくれているわけですよ。女があんまり厄介な存在になってくると、数を減らして、少数派にしてしまうことだって出来るのです。ある型の男や女が望ましくないということになれば、そういう連中が生まれないようにすることも出来るということです。こういう古い肉体、こういう昔ながらの動物的制約、このくだらない、肉体的な、原始から受けついできた人間の限界は、成虫の体から萎《しな》びたマユがはずれるように、人間精神から落ちていくのです。こういう話をきくと、わたしは、まるで……まだ翼をひろげるのを恐がって、這いまわっている生まれたての、体のぬれた蛾のような気がする。科学の進歩は、どこまでいくのでしょうね?」
「人類を越えたところにいくのでしょう」
とカーンが言った。
「いや、そんなことはない。どこまで科学が進歩しても、それでも人間は、自分をつくった土に足をつけていることができると思いますよ。しかし、もう空気にいつまでも閉じこめられていることはない。この丸い遊星が、ガリー船の船漕ぎ奴隷の鎖玉のように、いつまでも、人間の足に結びつけられているということはない。もうすぐ、いろいろな、新しい重力や気圧変化や、慣れない薄いガスや、未知の恐ろしい宇宙空間に耐える方法を知って、人間はこの地球の外へ冒険に乗りだしていくことでしょう。この遊星だけでは、不充分になってくる。わたしたちの精神は地球を越えて……あのちいさな宇宙船が見えませんか。ちいさな宇宙船がキラキラ光りながら空にのぼっていって、輝きながら、だんだん小さくなっていって青空に消えていく有様が。青空の向こうで成功するかもしれない。死んでしまうかもしれない。しかし、死ねば、また他の人がつづく……大きな窓があいたようなものです」
九
夕方が迫ってくると、カレーニンたちは、日没や山々の赤く染まる様子や、そのあとの夕焼の景色がよく見えるようにと、建物の屋上へのぼった。そこへ、下の研究所から二人の外科医がのぼってきて、すぐあとで、カレーニンのために薄いガラスコップにスープを入れたのを持って、一人の看護婦がやってきた。
雲も風もない深い青空の夕暮れで、はるか北の方に、エヴェレスト山上の観測所をめざして飛ぶ二機の複葉機が、キラキラと光って見えた。エヴェレストは東の絶壁の二百マイル彼方にあった。屋上の小さな一団は、飛行機が山々の上を越えて青空に消えていくのを見送ると、しばらく、その観測所の仕事のことを話し合った。それから、話が世界じゅうでおこなわれている調査研究のことに移っていって、またカレーニンは、世界精神のこととか、人間の想像力のうちに開けていくすばらしい未来のことなどを考えだした。そして、外科医たちに、その専門の外科医学の未来の可能性について、くわしくいろいろと質問し、その答えにひじょうな刺激をうけ、興味をそそられた。
話をしているうちに、太陽が山の端にかかり、たちまちのうちに赤々と燃えあがるギザギザの半球になって沈んでいった。
ふるえながら沈む灼熱の太陽の最後の姿を、カレーニンは、手をかざして、まばたきながら眺め、沈黙していた。
やがて、彼は、ちょっとギクリとした様子を見せた。
「どうかなさいました?」
とレイチェル・ボーケンがきくと、
「忘れてましたよ」
「何を?」
「明日の手術のことですよ。現代の人間として、あんまり興味をそそられたものだから、マーカス・カレーニンのことを、ほとんど忘れてました。マーカス・カレーニンは、あした、きみの手術を受けなければならないが、ファウラー、おそらくかならず、マーカス・カレーニンは死ぬだろう」と言って、彼はそのかすかに萎びた片手を上げ、「いや、ファウラー、そんなことは、いいのです。わたしにさえ、死はほとんど問題ではないのです。死ぬのは、ここに坐って話をしていたカレーニンなのだから。しかし、わたしたちの間に漂っていたのは一つの共通の精神ではなかったろうか、ファウラー? きみとわたしと、ここにいるみんなは、いっしょになって思考に思考を積みかさねたのです。しかし、それを一本につなぐ糸は、きみでもなく、わたしでもない。真実は、みんなが持っているものです。個人が、表現の試練に、表現の篩《ふるい》に完全に自分をかけたときに、個人の仕事は終るのです。青春時代には、マーカス・カレーニンに、わたしはがっちりと完全におさえられていた。しかし、今はもう、その小さな器から抜けだしたような気持です。イーディスさん、あなたの美しさも、レイチェルさん、あなたの広い額も、ファウラーくん、きみのしっかりとしたその熟練の手も、いま、この椅子の肘を叩くこの手と、ほとんど同じ意味がわたしにはある。このささやかなわたしという人間と同じ意味があるのです。そして、知識をもとめる精神、行動を決意する精神、つまり、生きて、わたしたちの中できょう語った精神は、かつてアテネやフィレンッェに生きた精神で、永遠に生きつづけるものなのです。
そして、太陽よ、お前が炎の剣で、マーカスの哀れな目を焼くのもこれが最後だが、わたしに油断するな! わたしが死ぬと思っているんだろう。たしかに死ぬ。しかし、じつは、お前をつかまえようとして上着をもう一枚脱ごうとしているだけなのだ。一万年のあいだ、お前を脅やかしてきたが、もうすぐいくぞ。余計なものを脱ぎすてて、裸になったときだ。もうすぐ、太陽よ、おまえ目がけて飛びあがり、そのまだらの顔を踏みつけて、その炎の髪をひっつかんで引きまわしてやるぞ。太陽よ、おまえにはこれまで、百万回も話しかけてきた。ああ、思いだした。そうだ、ずっと、ずっと、大昔のこと、いまはもう、ちりとなって忘れられてしまった数千世代まえのことだ。あの頃、わたしは、毛むくじゃらの野蛮人で、おまえを指さして……そうだ、はっきり憶えているぞ! ……網でつかまえたことがあったぞ。忘れたか、太陽よ……。
太陽よ、わたしは、これまで自分をばらばらに散らばらしてきた個人という溜め池から、自分をかき集めてくるぞ。自分の何兆という思考を科学にまとめ、何兆という意志を一つの共通の目的にまとめるのだ。おまえが山のうしろに隠れようとするのも無理はない。身をちぢめるのも無理はない……」
十
カレーニンは、寝室になった個室にもどる前に、すこしぼんやりと時間を過ごしたいと言った。苦痛が始まってきて、楽にしたいというので、体に暖い毛皮が巻きつけられた。あたりがグッと冷えこんできたのだった。みんなが引きさがっていくと、長いあいだカレーニンは坐ったまま、夕焼が闇に移っていく景色をじっと見つめていた。
なにか注意を要するときの用心に、ひっそりと見まもっている人たちがいたが、彼らには、カレーニンがずいぶん深い瞑想にふけっているように見えた。
黄金色の空を背景にした白や紫の峰々が、ひややかな青の中にしずんでいき、急にまた明るく光りだしたかと見ると、また色あせていった。すると、月の光でも消せない、燃えあがる火のたまのようなインドの星々が光りだした。東の方にそそり立つ屏風のような暗い絶壁のうしろから、月がのぼった。だが、月が絶壁を離れるよりも、よほど前に、ななめに差すその光のために、下の峡谷は明るいモヤにみたされ、リオ・ポルギアルの塔や尖塔が、魔法の城のように、ふしぎな光のなかに浮かびあがった。
くろぐろとつづく岩尾根の上に、サッとまぼろしのような青い光がさすと、シャボン玉のように月がふわりと浮かんで、暗い深々とした空にのぼっていった。
するとカレーニンも立ちあがって、テラスを五、六歩あるいて立ちどまると、しばらく、じっと、あの大きな銀の円板を見あげた。宇宙征服のとき、かならず人間が最初に征服するにちがいない、あの銀の楯を見あげた。
やがてカレーニンは振りかえり、手をうしろに組んで、北の空の星々をながめた。
それから、やっと彼は個室にもどり、横になり、朝まで、おだやかにねむった。翌朝はやく、医者たちがやってきて、麻酔がかけられ、手術がおこなわれた。
手術は完全に成功したが、体が弱っていたので絶対安静が必要だった。その後、一週間ほどしたとき、手術の傷跡から一つの凝血がはずれて、血管をながれて心臓に達し、カレーニンは夜中に急死した。 (完)
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訳者あとがき
H・G・(ハーバート・ジョージ)ウエルズ(一八六六〜一九四六)は、ケント州、ブラムリーで、小さな陶器屋をいとなむ父と、もと地主屋敷の小間使いをしていた母とのあいだの三人息子の末子として生まれた。
父親は商売が下手で経済的に行きづまり、母は、十三歳のハーバートを連れて、結婚前小間使いをしていた同じ屋敷に家政婦として住みこんだのであるが、他の二人の息子は服地屋に奉公に出された。ハーバートはもともと読書好きな子供だったので、この屋敷の書庫にあった書物をむさぼり読んだといわれるが、ここで読んだ『ガリヴァー旅行記』、ヴォルテール、プラトンの『共和国』が彼の一生に影響をおよぼしたということである。ところが、こういう読書生活も、ほんのいっとき続いただけで、彼も兄と同様、丁稚《でっち》奉公に出されてしまう。服地屋、穀物商、薬屋と転々とするが、二年後の十五歳のとき、いやでたまらないこういう生活からきっぱりと絶縁した。この間の生活は、のちに長編Tono-Bungayの中で描かれることになる。その後、各種の試験に合格しはじめ、科学に特異な才能を示して、十八歳のとき、ロンドン、サウス・ケンジントンにあった科学師範学校の奨学金を得て、教師の道にすすむ機会をつかんだ。ここで三年間、物理、化学、地理、天文学を学び、とくに生物学を、当時の有名な進化論的生物学者トマス・ハックスリーについて学んだことは、後のウエルズに深い意味をもつ事件であった。
ここを卒業してのち、北ウェールズの町やロンドンで教師づとめをしているが、一八九〇年、二四歳のときに、ロンドン大学で動物学を専攻して、最優等の成績で卒業している。そして翌年二五歳で、ロンドン大学通信学部の生物学の教師に任ぜられた。
ところが一八九三年、肺を病んで喀血し、長期療養の必要から退職を余儀なくされた。だが、これより少し前から著作をはじめていて、喀血した一八九三年に『生物学教科書』という大著を出版し、二年後の九五年には、有名な科学小説『タイム・マシン』、その他の短編を発表して、一挙に文名を確立し、SFの世界における開祖となったのである。
その後、矢つぎばやにSFを発表しているが、長編『モロー博士の島』(一八九六)、『透明人間』(一八九七)、『宇宙戦争』(一八九八)、『月世界最初の人間』(一九〇一)、その他多数の短編は、わが国でも翻訳で広く読まれている。
この次の時期に入ると、すこし作風が変わって『キップス』(一九〇五)、『トーノ・バンゲイ』(一九〇九)、『ポリー氏の物語』(一九一〇)、『アン・ヴェロニカ』(一九〇九)などの社会小説を書いている。これらは、いわゆる伝統的な小説であるが、それぞれ英国の一流小説として評価されている。貧困な下層階級から出てきたウエルズが、これらの小説において英国社会を見る目は当然きびしいものがあるが、それは同じ階級の出身者であるディケンズのような改良主義的な批判ではなく、社会を根底から立て直すというラディカルなものである。ここには科学者としての実験的態度が現われているのであろう。
SFから社会小説へすすんだウエルズは、次の段階では、自然の勢いとして、この二つの視点を綜合した観念的、理論的小説へと移っていった。この時期には『結婚』(一九一二)、『情熱の友』(一九一三)、『サー・アイザック・ハーマンの妻』(一九一四)などを発表しているが、ここに訳出した『解放された世界』(一九一四)もこの時期の作品である。
『解放された世界』は、一九一四年、第一次大戦勃発の直前に出版されたのであった。ところが、この小説には、二十世紀のなかばに、原子爆弾を使用する戦争がおこることが、すでに予言されている。さらに、この爆弾をきっかけにして、科学が広範囲にわたって、急激に長足の進歩をとげる結果、世界中で、政治、経済の機構が再構成されることが必要となり、必然となることが指摘されている。この再編成のために、世界的規模で、社会生活に大混乱がおこること、その混乱にもかかわらず、科学は、とどまることを知らず前進をつづけ、人類は、生きんがために自らの精神に、変化と調整を強いながら、なおも先へ先へと、いやおうなしに進まざるをえなくなる、ということまで明確にされている。現時点での政治、経済、社会生活、それに深くかかわる科学を動きを見て、この作品のもつ深刻な予言性に打たれ、あらためて呆然たる思いにとらえられたことを、訳者は告白する。
こういう問題意識をもつ人は、自然と文学を越えた分野へも踏みだしていくことが期待されるわけであって、生物学、経済学、世界史などの大著があることも忘れるわけにはいかない。さらに、第一次戦後のウエルズは、レーニン、スターリン、ローズヴェルトなどと会談して、「国際連盟」の推進者となった。この「連盟」が現「国際連合」の母胎であることは言うまでもない。科学者、文学者、洞察力の鋭い予言者として、世界的政治家に伍して発言権をもち影響を与えたウエルズが、二十世紀前半の世界一流の人物だったという点は、動かしがたい。
この翻訳は、もともとサンリオSF文庫の一冊として一九七八年の末に出版されたものであった。ところが、このたび、思いがけなく、「グーテンベルク二一」社の大和田伸氏のご好意によって、同社の電子ライブラリーに入ることになった。これを機会に、もう一度読みかえしてみると、二十数年まえにはよくわからなかったところが、予言が多く成就しているために、はっきりと分かるようになっているのには、おどろいた。もう世間から消えた、と思っていたこの翻訳が、電子ブックという新世紀的な形になって、ふたたび世に出る機会をつくって下さった大和田氏に、あらためてお礼申しあげるとともに、先端科学の予言者H・G・ウエルズにも感謝をささげる。
翻訳の底本には、The World Set Free(CORGI BOOKS)を使った。なお、訳文中の注は、すべて訳者が入れたものであって、原文には注は一個所も入っていないことをお断りしておく。
二〇〇〇年九月二十二日
〔訳者略歴〕
水嶋正路(みずしま・まさみち)
一九三一年京都府(長岡天神、現長岡京市)に生まれる。大阪市立大法学部および文学部卒。京都女子大学、大阪市立大学を経て、帝塚山学院大学教授。訳書に、コンラッド『西欧の眼のもとに』(思潮社)、『ローレンス短編集』(共訳・太陽社)、H・G・ウェルズ『神々のような人びと』、ハリー・ハリスン『大西洋トンネル、万歳』、ガードナー・ドゾワ『異星の人』(以上三点、サンリオSF文庫)、W・H・ハドスン『ある羊飼いの一生』、ミス・リード『思い出の記…一女性教師の回想』(以上二点、帝塚山学院大学LANTERNA 所収)その他がある。