月世界最初の人間
H・G・ウェルズ/赤坂長義訳
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目 次
一 ベッドフォード氏、リンプネでケイヴァー氏と出会う
二 ケイヴァーリットを、はじめて製造する
三 球体の製作
四 球体の内部で
五 月世界への旅
六 月世界着陸
七 月世界の朝
八 いよいよ、探険をはじめる
九 月世界の迷子となる
一〇 月牛の牧場
一一 月人の顔を見る
一二 ケイヴァー氏、意見を述べる
一三 月人との交際の試み
一四 目もくらむ橋の手前で
一五 ふたりの意見が対立する
一六 屠殺者の洞穴で戦う
一七 太陽の光の下で
一八 ベッドフォード氏、ひとりぼっちとなる
一九 ベッドフォード氏、無限の空間を飛ぶ
二〇 リトルストーンのベッドフォード氏
二一 ヴェンディゲー氏のおどろくべき報告
二二 ケイヴァー氏からの最初の六つの通信
二三 月人たちとその生活
二四 グランド・ルナー
二五 地球に宛てた、ケイヴァー氏の最後の通信
訳者あとがき
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一 ベッドフォード氏、リンプネでケイヴァー氏と出会う
いま、こうして、南イタリアの青空の下、涼しいぶどうの葉かげにすわってペンを走らせていると、あのとき、ぼくが、ケイヴァー氏のすばらしい冒険旅行に参加したのは、結局のところ、まったくの偶然のなりゆきからそうなったのだ、ということが思い出されて、いまさらのように、なにか、おどろきに似た気持ちがよみがえってくる。でも、あんな偶然に出会っては、ぼくでなくても、だれでも、同じことになったかも知れないのだ。
ぼくが、あの事件にまきこまれたのは、ちょうど、ぼくを悩ましていたいっさいのごたごたから、きれいさっぱり逃げ出そうと考えていた、その時だった。ぼくがリンプネにいったのは、そこが、世界中でいちばん静かで平和なところのように思われたからだった。
(少なくとも、ここならば、ゆっくり落ちついて、仕事をはじめることができるだろう)
ぼくは、そう考えて、リンプネにいったのだった。
そして、その結果、できあがったのが、この本なのだ。運命という奴は、われわれ人間どもがたてる小さな計画なんてものとは、まったく、もののみごとに食いちがってしまうものだ。
じつは、ぼくは、そのすこし前のこと、ある事業に手を出して、大失敗をやらかしたばかりだった、ということを告白しておかなくてはならない。でも、すっかり金まわりのよくなっている現在では、そのころのぼくの落ちぶれ方も、なにか、ゆったりした気持ちで思い出すことができる。考えてみると、あのころぼくの身に起こったいろいろなまずいことは、ある程度まで、みずから招いたことだった。
ぼくだって、なにかしら才能らしいものを持ち合わせていないはずはないのだが、あいにく、事業を経営する才能だけは欠けているらしい。でも、あのころは、ぼくも、まだ、若かったし、若さというものは、よく、ものごとに反対したがるという形であらわれるものだが、ぼくもまた、ぼくの事業的手腕にうぬぼれを持っていたのだ。
年からいうと、ぼくは、いまだってまだ、若い。だが、ぼくの身におきた事件は、ぼくの心から、なにか、若々しさといったものをうばい去ってしまった。かといって、そうした事件が、若さのかわりに、|分別《ふんべつ》というものをあたえてくれたかどうかというと、それはいっそうあやしいものだ。
ぼくをケント州のリンプネに行かせたのは、どんな事情からだったか、こまかく説明する必要はあるまい。現代は、ごくありふれた事務処理にさえも、なにか、冒険めいた強烈な刺激を必要とする時代なのだ。
とにかく、ぼくは、いちかばちか、やってみて、失敗した。取り引きで、収入と支払いの間のバランスがとれているうちは、まだいい。そのうちに、とうとう、ぼくのほうが、いやというほどたくさん支払わなければならない羽目に落ちてしまったのだ。
ぼくが完全にすっからかんになってしまったあとも、一人のたちの悪い債権者が、ぼくをいじめつづけた。おそらく、あなただっていちどくらいは、ああいう敵意に充ちた侮辱におあいになったか、あるいは、それをお感じになったことがおありだろう。
奴は、ぼくを、しつっこく追いまわした。それで、とうとう、ぼくは、日雇いの事務員かなにかに落ちぶれて、その日ぐらしの生活をしたくないなら、脚本家になって戯曲でも書くほかに生きる途はないと考えるようになった。
ぼくだって、相当な想像力と上品な趣味を持っているはずだ。そこで、ぼくは、運命という奴がぼくを打ちたおす前に、そいつと|華々《はなばな》しい一戦をまじえてやろうと、もくろんだのだった。
実業家としての力量に対するうぬぼれに加えて、ぼくは、そのころ、いつも、ぼくにはすばらしい戯曲を書く才能もあるのだ、という考えを持ちつづけていた。それは、そんなに非常識な考えではない、とぼくは信じる。
ぼくは、知っていた。男にとってやり|甲斐《がい》のある仕事は、合法的な取り引きのほかにありはしない。ぼくは、そう、思いこんでいた。だから、ぼくは、そのまだ書いたことのない戯曲を、取り引きのうまくゆかない万一の場合にそなえての、お手軽な、ちょっとした予備の仕事ぐらいにしか考えていなかった。
ところが、その、万一の場合がやって来たのだ。ぼくは、さっそく、戯曲の仕事にとりかかった。
だが、戯曲を書くという仕事は、考えていたより時間のかかるものだ、ということが、すぐにわかった。実は、ぼくは、はじめ、十日間ばかりあればできると思っていた。そこで、ぼくは、仕事をする間の仮の宿を借りるために、このリンプネにやってきたのだ。
ぼくは、運よく、ちょっとしたバンガロー〔ベランダ付き平屋の住宅〕を借りることができた。三年契約ということにした。いくつかの家具を運びこみ、仕事中は自炊することにした。ぼくの迷コックぶりは、家主のビートン夫人をびっくりさせたらしかった。でもね、自炊ってやつもなかなか味なもんだと思いませんか!
コーヒー・ポットが一つ、たまご用と、じゃがいも用のソース・パンが一つずつ。それに、ソーセージと、ベーコンのためのフライ・パンが一つ。ぼくを、ゆったりした気持ちにさせるには、これだけの簡単な仕掛けでじゅうぶんだった。人間という奴は、いつもご馳走ばかり食べているわけにはいかない。どちらかというと、質素で簡単な食事のほうが、永つづきするものだ。
仕事が一段落ついて休息する時のためには、十八ガロン入りのビール|樽《だる》を、かけで買いこんだ。また、パンのほうは、信用のできるパン屋が、毎日のようにやってきてくれた。こういった生活は、昔話のシバリス人のようなぜいたくさとはいえないまでも、それまでのぼくの人生には、もっと悪い時期だってあったのだ。そのパン屋は、なかなかいい男だった。気の毒だったが、彼には、毎日、来てくれるように頼んだのだった。
たしかに、孤独を愛する人にとっては、リンプネは絶好のところだ。リンプネは、ケント州の粘土層地帯にある。ぼくのバンガローは、古い断崖の上に建ち、眼下にひろがるロムニーの|沼沢《しょうたく》地帯と呼ばれる湿地の向こうには、海が見えていた。
大雨が降ると、この沼沢地帯へはほとんど近づくことができなくなる、ぬかるみの多いところを通る郵便配達夫などは、靴に板切れをつけて歩くことにしているという話だった。ぼくは、郵便配達夫がそうしているところを見たことはないが、そういう情景は、じゅうぶん、想像できる。
現在、村を作っているわずかばかりの小屋や家の入口のそとには、この土地特有の、たちのわるい粘土を|掃《は》いてすてるための、大きなかばの木の|箒《ほうき》がたてかけてある。まったく、こうした様子が、永遠に過ぎ去ってゆく昔のもののなごりとして残っていなかったとしたら、こんな村がここに存在したとは、だれも信じることができないだろう。
この村は、ローマ時代のイングランドの大きな港で、そのころは、レマニスの港と呼ばれていた。もっとも、現在では、海は、四マイルもむこうに退いてしまっているが……。
けわしい丘陵の|裾《すそ》には、波で丸くなった岩石や、ローマ時代の|煉瓦《れんが》工事の残がいが転がっている。さらにそこからは、昔のワトリング街道が、ところどころ鋪装した跡をみせながら、北方へ向かって矢のように一直線にのびている。ぼくは、よく、その丘の上に立って、海に浮かんだガリー船や軍団、捕虜たちや役人たち、女たちや商人たち、それから、中には、ぼくのようないっかく千金を夢みる山師たちなど、そういった連中が、ひしめきあいながら、港を出たり入ったりする光景を想像したものだ。
ところが、いまの様子ときたらどうだ。草深い斜面の上に、いくつかの|瓦礫《がれき》の山と、一、二頭の羊と、そして、ほかには、このぼくだけだ。かつて港のあったところは、平らな沼地になってしまった。その沼地は、なだらかにカーブしながら、遠くダンジネスのほうへとひろがっている。そのあちこちには、木々の茂みや、古い中世の町の教会の塔などが点在しているが、そうした町々も、あのレマニスの港町のあとを追って、だんだんと滅びてゆくのだ。
だが、この沼沢地帯の眺めは、ぼくにとって、まさに、最高だった。ダンジネスまでは、おそらく、十五マイルはあるだろう。それは、海の上に、ちょうど、|筏《いかだ》のように横たわってみえた。さらに遠く、西の方角には、ヘスティングスに近い丘陵が、夕陽を浴びてつづいていた。その丘陵は、あるときは近くはっきりと、またあるときは、ぼんやりと遠くみえた。天候の具合で、まったくみえなくなってしまうことも、よくあった。そして、沼沢地帯のこっちのほうは、掘割りや小さな水路にふちどりされて、まるでレース飾りでもしたように、キラキラと輝いていた。
仕事部屋の窓からは、山頂のスカイラインがみえた。ぼくが、はじめて、ケイヴァー氏の姿を発見したのも、この窓からだった。
ちょうどそのとき、ぼくは、戯曲の仕事がうまくゆかないので苦しんでいた。むりやりに仕事に精神を集中しようとしていたときだった。だから、ぼくが、彼、ケイヴァー氏の出現に心を奪われたのも、ごく自然のなりゆきだったのだ。
太陽はすでに沈み、空は、落ちついた黄色と緑色の夕焼けに輝いていた。その空をバックに、ケイヴァー氏は、黒い影のように、その奇妙な、ちっぽけな姿を現わしたのだ。
彼は、背が低く、まるまると肥った、そのくせ、おそろしく足の細い男で、その動作は、どことなく、ぎくしゃくしていた。クリケット帽にオーバー・コート、サイクリング用のニッカー・ボッカーに靴下、といった彼のいでたちは、いかにも変わった人のようにみえた。ところが、彼が、どうしてそんな格好をしていたのか、ぼくには、さっぱりわからないのだ。というのは、彼は、自転車に乗ったことも、クリケットをやったこともなかったからだ。たぶん、ただなんとなく集まったものを身につけていたにちがいない。
彼は、ひっきりなしに、手や腕を動かし、頭を振り、ぶつぶつとつぶやいていた。まるで、電気が|唸《うな》っているように、ぶつぶついっていた。この世の中のだれだって、あんな奇妙なぶつぶつ声は、聞いたことがあるまい。そして、絶えずぶつぶついっているかと思うと、こんどは、たいへんな音をたてて|咳《せき》ばらいをするのだ。
雨上がりだったので、道は、ひどく滑りやすくなっていた。そのせいで、彼特有のけいれんするような歩き方は、いっそう、ひどくみえた。
ちょうど、沈んだ太陽の真正面にきたとき、彼は、立ち止まって、時計をひっぱり出し、考えこみ、それから、一種独特な、けいれんするような身ぶりで向きを変えると、全速力でもどってきた。こんどは、あの奇妙な身ぶりはせずに、大股でやってきたので、ぼくには、彼の足が、体のわりに大きいことがわかった。おそらく、彼の足は、べたべたとこびりついた粘土のために、気味が悪いほど大きく――これ以上は大きくなれまいと思われるほど、大きくなっていたのだろう。
事件が起きたのは、ぼくがこの家に住むことになった最初の日、ちょうど、戯曲の執筆に精力を集中していたときだったので、ぼくは、このできごとを、ただ、ちょっとした邪魔がはいっただけのことだと思った――ほんの五分ばかりの時間のむだだと。ぼくは、すぐに、仕事にもどった。
だが、次の夕方、彼は、おどろくほど正確に、おなじ時刻に、おなじ様子で、姿を現わした。次の日も、おなじだった。そして、まさに、雨さえ降らなければ、毎夕、彼は、おなじように出現したのだ。こうなっては、ぼくも、戯曲に精神を集中するのに、そうとうな努力が必要となってきた。
(あんちくしょう、くたばっちまえ!)と、ぼくは、思った。
(あやつり人形にでもなるつもりなのか!)そして、それから幾晩というもの、本心から、そいつのことを|呪《のろ》ったものだ。
ところが、ぼくのいらだちは、だんだんとおどろきと好奇心に変わっていった。
いったいぜんたい、どうして、あんなことをしなければならないんだろう?
二週間目の夕方、ぼくは、とうとう、がまんができなくなった。そこで、|奴《やっこ》さんの姿が現われるやいなや、観音びらきのドアから飛び出すと、ベランダを横切って、奴さんがいつも立ち止まる場所へ近づいていった。
ぼくがそこへ着いたとき、彼は、ちょうど時計を取り出したところだった。彼は、まるい赤ら顔で、赤みを帯びた褐色の眼をしていた――ぼくは、いままで、太陽の逆光の中でしか彼をみたことがなかったのだ。
ふりむいた彼に、ぼくは、声をかけた。
「ちょっと、失礼します」
彼は、おどろいたように、ぼくをみつめた。
「|ちょっと《ヽヽヽヽ》、ですか……」と、彼はいった。
「いいでしょう。それとも、もっとゆっくりわたしとお話なさりたいとおっしゃるんでしたら、そう長いことでなかったら、喜んでお相手しましょう――もっとも、こうやってしゃべっている間に、あなたの|ちょっと《ヽヽヽヽ》は、とっくに過ぎてしまっているんですがね――、どうです。ご迷惑でなかったら、ごいっしょにぶらつきませんか?」
「迷惑どころか……」
ぼくは、そういって、彼と肩を並べた。
「わたしの毎日は、とても規則的でしてな、ひとさまとおつき合いする時間は、ごくわずかしかないのですよ」
「いまは、運動なさる時間じゃないんですか?」
「そうです。わたしは、入り日を見に、ここへくるのです」
「そんなことはないでしょう」
「そんなことはないですって?」
「あなたは、入り日なんかごらんになっていたことはありませんよ」
「入り日を見ていたことがないって?」
「ええ。ぼくは、十三日間も、あなたのなさることを拝見していたんです。その間、ただのいちどだって、あなたは、入り日をごらんになったことはありませんでしたよ。ただのいちどもね」
彼は、なにか難しい問題にでもぶつかったように、眉をしかめた。
「さよう。わたしは、日の入りを――つまり、その、雰囲気を楽しんでいるのですよ。この小道に沿ってきて、あの門をくぐって……」
彼は、頭をぴくりと動かし、肩越しにあたりを見まわしながら、いった。
「それから、ぐるっとこの辺を……」
「いいえ。そんなことはなさいませんでしたよ。あなたのおっしゃることは、ぜんぶ、でたらめです。筋道が立っていません。たとえば、今夜にしたって……」
「ああ、今夜のことね。ちょっと待ってくださいよ。そうそう。わたしは、時計をみました。それで、わたしが、きっかり三十分をちょうど三分だけよけいに過ごしてしまったことに気がついたものですから、もうひとまわりする時間はないと決めて、ひっかえした、というわけなのですよ」
「それは、今夜だけのことじゃありませんよ。あなたは、いつも、そうなさるじゃありませんか」
彼は、ぼくをみつめ、話題をそらすようにいった。
「たぶん、そうなんでしょう――あなたにいわれて、やっと、思い出しましたよ。……ところで、あなたが、このわたしにお話しになりたいというのは、なんなのですか?」
「それは、つまり、そのことなんです」
「そのこと?」
「ええ。いったい、なぜ、あなたは、そんなことをなさるんですか? 毎晩、毎晩、へんてこな雑音をおたてになりながら、ここへやってきて――」
「へんてこな雑音を立てるですって?」
「こんなぐあいにね」
ぼくは、ケイヴァー氏の、ぶつぶついう音をまねして聞かせた。彼は、ぼくをみた。あきらかに、そのぶつぶつを、不愉快に感じたようだった。
「わたしが、そんな音をたてるのですか?」
「気持ちのいい夕方には、いつもですよ」
「そいつは気がつかなかった」
彼は、立ち止まって、深刻な表情でぼくの顔をみつめた。
「もしかすると、そいつは、わたしの|癖《くせ》になってしまったんじゃないですかな?」
「そうですね。そうみえないこともありませんね」
彼は、二本の指で、下唇をひっぱりながら、足もとのぬかるみをみつめた。
「わたしときたら、ほんとにうっかりやで、なんにでもうわの空なんですよ」
彼は、つづけた。
「で、あなたは、わたしがなぜ奇妙なふるまいをするのか、その理由を知りたいとおっしゃる。ところが、あなた、誓っていいますが、わたしは、なぜ、そんなことをするのか、自分でもわけがわからないのですよ。それどころか、そんなことをやったということにさえ、気がつかなかったのです。でも、考えてみると、まさに、あなたのおっしゃるとおりだったとしても、わたしは、あの草地を越えてあなたの地所にはいりこんだりしたことは、いちどもないのですよ。……それでも、わたしのすることが、なにか、あなたのご迷惑になっているとおっしゃるのですか?」
なぜか、ぼくは、彼が、かわいそうになってきた。
「ご迷惑っていうわけじゃありませんが――」
ぼくは、いってやった。
「かりに、あなたが、戯曲を書いていると想像してみてください」
「そんなことは、とても、想像できませんな」
「じゃ、なにか、精神の集中を必要とするような書きものをしているというようなことは?」
「ああ、もちろん、それだったら」
彼は、そういって、考えこんでしまった。ぼくは、みるみる苦しそうに変わってゆく彼の表情をみているうちに、いっそう、かわいそうになった。実のところ、ぼくは、この天下の往来で、なんのためかだれにもわからない奇妙な唸り声を出す男に、そいつをやめさせようとする攻撃的な気持ちを、ほんの少しだが持っていたのだ。
「ごぞんじのように、これは癖でしてな」
彼は、よわよわしくいった。
「わかっていますとも」
「わたしは、この変な癖をやめなくてはなりませんな」
「でも、それで、あなたがお困りになるのでしたら、結構なんですよ。要するに、ぼくには関係のないこと、つまり、個人の自由の問題なんですから」
「どういたしまして、あなた」
彼は、いった。
「それどころか、わたしは、あなたに感謝せにゃならん。そういう癖は直さなければなりません。今後は、そう心がけましょう。ところで、たいへんご迷惑だが、もういちど、さっきの音を出していただけませんか」
「こんなぐあいですよ」
ぼくは、やってみせた。
「ズズー、ズズー。……でも、実際にはですね……」
「いや、おかげさまで。じつのところ――自分でもわかっているんですが――むちゃくちゃにぼんやりしてしまうのですよ。まさに、あなたのおっしゃるとおりだ。ぜんぜん正しい。いや、ほんとうに感謝します。わるい癖はやめますとも。さて、と、これは、いかん。最初の予定よりもだいぶ遠いところまであなたを歩かしてしまいました」
「ぼくこそ、ついうっかりして、失礼しました」
「どういたしまして。あなた、どういたしまして」
ぼくたちは、しばらく顔をみあわせていた。ぼくは、帽子をとり、さよならを告げた。彼は、れいのぎくしゃくした動作でそれに答えた。それから、ぼくたちは、めいめい、自分の道を引きかえしたのだった。
階段の上り口で、ぼくは、遠ざかってゆくケイヴァー氏の姿をふりかえった。その姿は、さっきまでとは、はっきりと変わってみえた。しょんぼりして、なにか、縮こまってしまったようにみえた。手を振り、ズーズーと音をたてながらやってきたときの彼との、あまりの変わりようにAぼくは、妙にしめっぽい気持ちになってしまった。ぼくは、彼が見えなくなるまでみまもっていた。すると、やりかけの仕事がやたらとやりたくなって、バンガローにかえるやいなや、さっそく、戯曲の執筆にとりかかったのだった。
次の夕方には、彼は、現われなかった。その次の夕方も。だが、ぼくの心は、彼のことでいっぱいだった。そして、いいことを思いついた。ぼくの戯曲に、ケイヴァー氏を、センチでこっけいな性格の人物として登場させたら、筋書を面白く発展させるのに役に立つのではないだろうか。
三日目、彼は、ぼくをたずねてきた。しばらくの間、ぼくは、彼の来訪の目的がわからなかった――彼は、きわめて儀礼的に、つまらないことばかり|喋《しゃ》べっていた――それから、突然、用件をきり出した。彼は、ぼくのバンガローを買い取って、ぼくを追い出そうというのだ。
「わかっていただけますな」
彼は、いった。
「わたしは、決して、あなたを責めるつもりはありません。だが、しかし、あなたは、わたしの習慣をぶちこわしてしまった。おかげで、わたしの毎日の生活はめちゃめちゃになってしまったのですぞ。わたしは、何年も――そう、何年もの間、この道を散歩してきました。もちろん、ぶつぶつ唸りながらね。……ところが、あんたは、そいつをだめにしちまったんだ!」
わたしは、彼に、どこか、別の方角を散歩したらどうかと、提案してみた。
「だめです。別の方角なんかあるもんですか。この方角しかないのです。わたしだって、いろいろ調べてみたのですよ、その結果は、毎日、午後四時になると――わたしは、絶望の壁にぶちあたってしまうのです」
「しかしですよ、それほどだいじなことだったら――」
「命がけなのです! わたしは、ごらんのとおり――研究家です。わたしは、科学の研究を天職としている人間なのです。わたしは――」
彼は、ことばを切って、考えこんだ。
「すぐそこなのです」
突然、彼は、ぼくの眼のすぐそばを指さした。ぼくは、危く、指を突っこまれるところだった。
「ほら、あの|梢《こずえ》の向こうにみえる白い煙突の家なのです。わたしの生活は変わっています――たしかに変わっています。わたしは、いままさに、最も重要な発明を完成しようとしているところなのです。断言しますが、この発明は、いままでの、ありとあらゆる発明のなかで、最も重要なものなのです。そのためには、絶えざる思索と、精神の安静と活力とが必要です。それで、わたしにとって、午後の時間は、新しいアイディアや、新しいものの見方が泉のごとく湧き出る最もすばらしい時間だ! というわけなのです」
「しかし、そんなにだいじなことだったら、どうして、いままでどおり、散歩なさらないんですか?」
「いや、それはちがう。わたしは、反省しなければならん。戯曲を書いているあなたのことを、考えてあげなければならない。いつもいらいらしながら、わたしのことをみつめておられるあなたのことを! 自分の仕事のことばかり考えないでね。いや! だからこそ、わたしは、このバンガローを買い取ってあげなければならないのです」
ぼくは、すっかり、考えこんでしまった。当然のことだが、ぼくは、ケイヴァー氏が、なにか決定的なことをいい出す前に、この件について、てってい的に考えてみたいと思ったのだ。
ふつうなら、そのころのぼくは、取り引きにはいつでも喜んでとびついたものだ。もともと、ものを売ることには、いつも、興味を持っていた。だが、まず第一に、バンガローはぼくのものではなかった。それに、たとえ、バンガローをケイヴァー氏に高く売りつけたとしても、現在の持主が、その取り引きのことを嗅ぎつけたとしたら、建物を明け渡すときになって、めんどうなことが起きるかも知れなかった。また、第二に、ぼくは、その――事業に失敗して負った借金の返済を、まだすませていなかったのだ。それは、明らかに、微妙な取り扱いを必要とする取り引きだった。
その上、ぼくには、彼が一生けんめいやっている貴重な発明がどうなるのかということも、興味があった。いやしい気持ちからではなく、ただ単に、それがどんなものであるかを知ったら、戯曲を書くという苦しみを少しでもまぎらわすことができるかも知れないと、考えたのだ。そこで、ぼくは、おもむろにさぐりを入れてみた。
彼は、喜んで情報を提供してくれた。いちど喋りはじめると、あとは、まさに、彼の一人舞台だった。彼は、長い間閉じこめられていた人のように、喋りまくった。おそらく、彼は、その話を、心の中で、自分自身と、なんども繰り返して話し合ってきたにちがいない。彼は、一時間近くも話しつづけた。正直いうと、それは、ぼくには、かなり固苦しい話だった。しかし、また、そこには、仕事に束縛されている男が、その仕事を怠けている時に感じている満足感といったようなものが、全体を通じて、流れていた。
この最初の会見では、ぼくは、彼の仕事がどんな傾向のものか、ほとんど理解できなかった。彼のことばの半分は専門用語で、ぼくには、まったく、チンプンカンプンだった。そこで、彼は、二、三の点について図解して説明してくれた。それは、彼が好んで呼ぶ基礎数学という方法で、封筒の上に、コピー用インクの筆で計算してみせてくれたのだったが、そのやり方では、なおさら、わかりにくいような気がした。
「なるほど」
ぼくは、そういうほかはなかった。
「どうぞ、つづけてください!」
にもかかわらず、ぼくは、彼が、単なる奇想天外な発明遊びにふけっているのではないということに、じゅうぶんな確信を持つにいたったのだ。
一見、きちがいじみてはいるが、そうは信じさせない力が、彼の身のまわりに漂っていた。とにかく、それは、機械学的な可能性を持つ、ある物体の問題だった。彼は、自分の仕事場のことや、自分が仕込んだという、もとは手間仕事の大工だった三人の助手のことを、話してくれた。彼の仕事場での発明は、いまや、特許庁へ持ちこんで特許をとる寸前まできているというのだ。彼は、ぼくに、仕事を見にくるようにいってくれた。ぼくは、喜んでその招待を受け、その上、ちょっとした意見を述べたりして、招待を喜んでいることを強調してみせた。
おかげで、申し出のあったバンガロー譲渡の件は、うまいぐあいに、お流れということになった。
最後に、彼は、帰宅のために立ち上がって、長居したことを謝った。自分の仕事について話をすることは、めったにない楽しみだと、彼は、いった。また、あなたのような教養のある聞き手には、めったにお目にかかれるものではない、ともいった。
彼は、専門の科学者たちとは、ほとんど、つき合いがなかった。
「みんな、ひどく卑劣で、陰険な奴らばかりです!」
彼は断言した。
「実際のところ、誰かが、なにか、一つのアイディアを思いついたとしたら――それが、新しくてみのり多いアイディアだったら――ぼくは、冷たい扱いをしたりはしませんね。ところが、奴らときたら――」
ぼくは、人生意気に感じるたちだ。そこで、あとから考えると軽率かも知れないと思われるような提案をしてしまったのだ。だが、考えてもみたまえ。ぼくは、ひとりぼっちで、戯曲を書きながら、十四日間も、リンプネで暮していた。しかも、ケイヴァー氏の散歩を邪魔したことに対しては、まだ、気がとがめていたのだ。
「なぜ、これが、あなたの新しい習慣にならないのですか?」
ぼくは、いった。
「ぼくが台なしにしてしまったあの習慣の代わりに。少なくとも、バンガローの話が決まるまででもいいじゃありませんか。あなたの願いは、お仕事のことを繰り返し考えつづけることです。あなたは、あの午後の散歩の間に、いつも、それをやっていらっしゃった。ところが、運わるく、それがだめになってしまいました――もとどおりにすることもできないのです。しかし、それだったら、なぜ、ぼくのところへいらっしゃって、お仕事のことについてぼくに話してくださらないのですか? ぼくを一種の壁のように使って、あなたのお考えを投げつけたり受けとめたりなさらないのですか? ごぞんじのように、ぼくには、あなたのアイディアを盗むほどの知識はありませんし、それに、科学者の友人もいないのですから……」
ぼくは、口をつぐんだ。彼は、考えこんでいた。明らかに、彼の気持ちをそそる話だったのだ。
「しかし、あなたを退屈させてしまうといけませんからな」と、彼は、いった。
「ぼくを、そんなに鈍い男とお考えですか?」
「とんでもない! しかし、専門用語ってやつは――」
「とにかく、今日の午後は、たいへんおもしろくすごさせていただきましたよ」
「もちろん、わたしも、とても助かりました。とにかく、ある考えが浮かんだとき、それをだれかに説明してみせるほど、その考えをはっきりさせることはありませんからな。いままでは――」
「いや、もう、けっこうです」
「しかし、あなたは、実際に、そんなおひまがおありなのですか?」
「仕事を変えてみることほど、いい休息の方法はありませんからね」
ぼくは、心からそう確信して、そう、答えた。
話はついた。ベランダの階段のところで、彼は、ふりかえっていった。
「わたしは、いままでにもう、ずいぶん、あなたのお世話になってしまった」
ぼくは、なんのことかよくわからないというような声を出した。
「あなたは、わたしのぶつぶついうあの奇妙な癖を、すっかり直してくださったじゃありませんか」
彼は、そう、説明してくれた。
ぼくは、お役に立てて嬉しいと答えたように思う。彼は、むきをかえた。
すると、たちまち、ぼくらの会話が暗示したにちがいない一連の考えが、彼をとらえた。彼の腕は、まえとおなじように動きはじめた。あの、ズーズーという唸り声が、微かなこだまとなって、そよ風に|交《まじ》ってかえってきたのだ。
そう――、けっきょくのところ、ぼくにとっては、どうでもいいことだったんだ……。
彼は、次の日も、また、次の日も、やってきた。そして、ぼくらふたりがお互いに満足するまで、物理学についての講義をするのだった。彼は、ごくわかりきったことを喋っているのだといったようすで、≪エーテル≫とか、≪力の管≫とか、≪重力の潜在性≫とか、そういったことがらについて話した。ぼくはといえば、折りたたみ式の椅子に腰をおろしながら、
「なるほど」
「それから?」
「わかりますとも」
などと合槌を打って、彼の話をつづけさせるだけのことだった。それは、おそろしくむずかしい、ばかげた役割だった。それでも、彼は、ぼくが彼のいうことをあまり理解していないのではないかと疑ったりはしなかったと思う。ときどき、ぼくは、自分がうまくやっているのかどうか、心配になることもあったが、とにかく、戯曲で頭をなやますということからは解放されていたのだ。
ときによると、ある考えが、天啓のようにひらめくことがあった。しかし、それをとらえたと思ったときには、あとかたもなく消え去っているのだ。また、あるときは、ぼくの注意力はまったく不足していて、放心して椅子にすわりこみ、けっきょくのところ、この男は、なにかおもしろい道化芝居の主人公として使って、そのほかのこうしたばかげたことは、ぜんぶ、うっちゃらかしてしまったほうがいいのではないか、などと思い迷いながら、彼をみつめていた。そのくせ、しばらくすると、また、ちょっぴり、なにかがわかってきたような気になるのだった。
とりあえず、ぼくは、彼の家にいってみた。大きな家で、家具調度がむぞうさに置いてあった。三人の助手のほかには、召使いの姿はなく、彼の食事や日常生活は、学者にふさわしく簡素なようすだった。彼は、禁酒主義者であり、菜食主義者でもあり、すべての合理的で克己的なことを実行しているらしかった。
ところが、彼の家の設備をみると、いままでわからなかったいろいろなことが、はっきりしてきた。その設備は、地下室から屋根裏部屋までぶっとおして使うような仕事のために作られたにちがいない。人里はなれた村の中では、そんな場所は、めったにないといってよかった。一階の部屋には、ベンチや道具類がおいてあり、パン焼き小屋と洗い場のボイラーは、すばらしい熔鉱炉に改造され、直流発電機は地下室を占領し、庭には、ガスタンクがあった。長い間、孤独な生活をつづけてきた人によくあるように、彼は、人なつっこく熱心に、これらのものをみせてくれた。彼の|隠遁《いんとん》生活は、いまや、他人への過度の信頼となってあふれ出していた。そこで、運よく、ぼくが、その恩恵に浴したのだ。
三人の助手は、その生まれた≪職人階級≫の典型ともいうべき、信頼のおける連中だった。教養こそないが、まじめで、頑健で、おとなしくて、しかも、進んでことにあたるといったふうだった。料理と金属細工の一切を引き受けているスパーガスという男は、もと、水兵だった。二番目のギブスは指物師、三番目はもと庭師だった男で、いまでは、助手頭といった格だった。連中は、単なる肉体労働者で、頭のいる仕事は、みんな、ケイヴァー氏がやっていた。連中の考えときたら、ぼくの混乱した頭とくらべてさえ、まったくの無知そのものだった。
さて、ぼくが調べあげたことが、どんなものだったかについて申し上げよう。だが、残念ながら、ここで、ぼくは、大きな困難にぶつかってしまうのだ。
ぼくは、科学の専門家ではない。だから、もし、ぼくが、ケイヴァー氏の程度の高い科学用語をつかって、彼がその実験でなにをしようとしたのかを説明しようとしても、おそらく、読者ばかりではなく、ぼく自身をも混乱させてしまうだろうし、また、必ずや、なにか大まちがいをしでかして、わが国の数学的物理学の現代の研究者たちの全員から、嘲笑をうける結果を招くにちがいない。
だから、ぼくにできる最上のことは、ぼくのうけた印象を、文句のつけられないほどりっぱな知識で飾りたてようなどとは思わずに、ぼく自身の正確なことばで述べてみることだと思う。
ケイヴァー氏の研究の対象は、≪不透明≫な性質を持ったある物質だった。彼は、ほかのことばを使ったのだが、ぼくは、忘れてしまったが、≪不透明≫ということばは、あらゆる形の|輻射《ふくしゃ》エネルギーに対して、それをとおさない、という考え方を示しているのだ。
ぼくの理解したところでは、≪輻射エネルギー≫とは、光や熱や、一年ばかり前にかなり問題になったあのレントゲン線とか、マルコーニの電波とか、重力とかいうものらしかった。
これらは、すべて、物質の中核から|放射《ヽヽ》され、遠くはなれた人体に作用を及ぼす。輻射エネルギーということばは、そこからきているのだそうだ。
さて、ほとんどすべての物質は、輻射エネルギーのどれかに対して、≪不透明≫、つまり、それをとおさない性質を持っている。たとえば、ガラスは、光はとおすが、熱はそんなにとおさない。だから、火除けとして役に立つ。また、ミョウバンは、光はとおすが、熱は完全にとおさない。二硫化炭素に溶解したヨードは、その反対に、光は完全にさえぎるが、熱はよくとおす。それは、火をかくしてくれるかわりに、その熱は、ぜんぶ、感じさせてくれるだろう。金属は、光や熱をとおさないばかりでなく、まるで、なにもないようにヨードの溶液やガラスをとおしてしまう電気エネルギーもとおさない。と、いったぐあいだ。
いままでに知られているあらゆる物質は、引力に対して≪透明≫だった。いろいろな種類の膜を使えば、太陽の光や熱や、電気エネルギーや、地球の地熱をさえぎることができる。金属の膜を使えば、マルコーニ線でさえ|遮断《しゃだん》することができる。だが、太陽や地球の引力を遮断できるような物質は、一つもないのだ。
けれども、なぜ、一つもないのか、ということは、ひとくちにはいえない。そんな物質の存在しない理由は、ケイヴァー氏だって知らなかったし、だいいち、ぼくが、彼に教えてやれるはずはなかった。なにしろ、ぼくときたら、こんな問題のありうることを、いままで、考えてみたこともなかったのだから。
彼は、なにやら、紙の上に計算してみせてくれた。だが、その計算ときては、たしかに、ケルヴィン卿や、ロッジ教授や、カール・ピアソン教授のような大科学者たちならば、その計算から、そういう物質の存在が可能であるばかりでなく、それが、ある条件を満足させていなければならないということを、理解することもできただろうが、ぼくには、ただ、絶望的な困難におとしいれるだけだった。
そいつは、まったく、わけがわからなかった。そのとき、あんまりびっくりして、頭をなやましたものだから、いま、ここで、その感じを再現することができないくらいだった。ぼくは、なにからなにまで、
「はあ」
「はあ、それから」で、すませてしまった。
いまは、ただ、彼が、いくつかの金属と、ある新しい――新しい元素――たしか、『ヘリウム』と呼ばれていた元素との複雑な合金から、この不透明な物質を製造することができると信じていた、ということを伝えればじゅうぶんだろう。その『ヘリウム』というやつは、封印された石のビンに入れて、ロンドンから送られてきていた。そいつは、たしか、なにかしら稀薄な、気体のようなものだったらしい。
あのとき、もしも、ぼくがノートをとっておきさえしたら……。でも、そのとき、どうして、ノートをとる必要なんてものを予見できただろう。ちょっとでも想像力のある人なら、そのような物質の可能性が途方もないものであることがわかるだろうし、ケイヴァー氏独得の難解なことばの|霞《かすみ》の中から、そのことを理解したときのぼくの感動に、すこしは共感してくれるはずだ。ぼくは、まさに、芝居の退屈さを救う喜劇役者の役割をはたしていたのだ!
彼のいうことを正しく解釈できたと信じるようになったのは、しばらくたってからのことだった。それまでは、毎日、彼の説明がまるっきりわかっていないということを知られるようなへまな質問をしやしないかと、びくびくしていたのだ。
だが、この話を読んでいる人はだれも、このぼくにじゅうぶん同情してはくれないだろう。というのは、ぼくのたどたどしい話からでは、このおどろくべき物質が、まさに作り出されようとしているのだというぼくの確信の強さを推量することはできないだろうからだ。
考えてみると、彼を訪問してからというもの、ぼくは、いつも、一時間と戯曲の仕事ができたためしはなかった。ぼくの想像力は、ほかの仕事でいっぱいだった。この計画の可能性には、際限がないようにみえた。どう考えてみても、ぼくは、奇跡的な、革命的なことがらにぶつかってしまうのだ。
たとえば、だれかが、なにか重いものを持ち上げたいと思ったら、それが、どんなに大きなものでも、この物質を一枚、その下に敷さえすればいい。そうすれば、ワラ一本で持ち上げることができる、といったぐあいだ。
ぼくは、まず、ごく自然に、この原理を、鉄砲や、軍艦や、その他、あらゆる戦争の武器や方法に応用したいという欲望にかられ、それから、さらに、船舶、機関車、建物など、人間の考えうる全産業にまで及ぼしたいとまで考えるようになった。歴史に一エポックを画するような、この新しい時代の生誕の場に、ちょうど、ぼくが立ち合うことができたという、このチャンスは、まさに千載一遇のものだった。
ぼくの考えは、いったんほどけはじめると、どんどん拡がっていった。とりわけ、ぼくは、自分の実業家としての再起を夢みた。いろいろな種類の父子会社、姉妹会社の数々、ぼくらの左右に山と積まれた申請書、独占企業や合同企業の組織、そして、さらに、どんどん増えてゆく特権や利権など、そういったあらゆるものを、ぼくは、つぎつぎと想像した。
それは、しまいには、ぼう大なケイヴァーリット会社にまで発展し、全世界を支配するにいたるのだ。
そして、ぼくは、もちろん、その一員なのだった。
ぼくは、目的に向かってまっすぐに進もうと、決心した。もちろん、すべては|賭《かけ》だということは知っていた。だが、ぼくは、踏みきったのだ。
「ぼくらは、いまだかつてない偉大な発明を完成しようとしているんですよ」
ぼくは、≪われわれ≫ということばを、とくに強調して、いった。
「いまさら、ぼくを除け者にしようというのでしたら、鉄砲で追っぱらわなければならないでしょう。明日から、ぼくは、あなたの四番目の助手にしていただくつもりなんですから」
彼は、ぼくののぼせ方に、びっくりしたようだった。でも、ぼくを疑ったり、警戒したりしているようすは少しもなかった。むしろ、自分の仕事をそれほどに思っていないようすだった。
彼は、ふしぎそうに、ぼくをみつめた。
「まさか、あなた、ほんとうに、そんなことを考えていらっしゃるのですか――? では、あなたの戯曲のお仕事は? あの戯曲のほうはどうなさるおつもりです?」
「もう、どうでもいいんです!」と、ぼくは、さけんだ。
「ね、あなたは、ご自分が、どんなお仕事をなさったのか、おわかりにならないんですか? これからなさろうというお仕事が、どんなすばらしいことなのか、おわかりにならないんですか?」
だが、これは、単に、ことばのいいまわしにすぎなかった。実際には、彼は、なにもしていなかったからだ。
はじめのうちは、信じられなかったのだが、彼は、自分の発明を事業にしようなどということは、はなから、考えてみもしなかったのだ。この、おどろくべき小男は、いままで、ずっと、純理論的な基礎の上でだけ、仕事をつづけてきたのだった!
だから、彼が、自分の仕事は、≪世界で最も重要な≫研究だ、というときには、彼は、ただ、それが、いままでのたくさんの理論をひっくりかえし、いままで問題となっていた多くの理論を解決した、という意味のことをいっていたのだ。したがって、鉄砲を造る機械が悩んだりしないように、自分の作り出そうとしている物質の使われ方なんかに、頭を悩ますということはなかった。
要するに、この物質は作り出すことができる。自分は、それを、作り出そうとしている!
「それだけのことさ!」
フランス人の、よくいうことばだ。
それどころか、彼のこどもじみていることといったら! 彼の考えでは、その物質が完成したら、それは、ケイヴァーリット、または、ケイヴァーリンとして後世に伝えられ、彼は、国立科学協会員に推せんされて、彼の肖像画は、科学界の恩人として学界誌『ネーチュア』にけいさいされるだろう、とかなんとか、それに類したことだった。そして、それが、彼の想像できるすべてだったのだ!
もしも、たまたま、このぼくというものが現われなかったら、彼は、この全世界にぶちこまれる砲弾ともいうべき大発明を、あたかも、ブヨの新種を発見したのと同じような軽い気持ちで、発表してしまっただろう。そうなれば、この大発明も、世間の科学者たちが、火をつけて、落としてよこした、二、三、の、ちっぽけな発明や発見とおなじに、そこらに転がっているうちに、いぶって消えてしまったにちがいないのだ。
このことに気がついたころには、しゃべっているのは、もっぱら、ぼくのほうで、「それから?」と、聞き手にまわっているのは、ケイヴァー氏のほうだった。
ぼくは、はねまわり、まるで、二十歳の青年のように、派手なみぶりで、部屋の中を歩きまわった。ぼくは、この仕事における彼の義務と責任を――いや、|われわれの《ヽヽヽヽヽ》義務と責任とを、彼にわからせようと努力した。ぼくは、彼に、われわれは、自分たちの夢見るありとあらゆる種類の革命的事業をやりとげるにじゅうぶんな富を手に入れることができるということを、そして、この全世界を所有し、支配することもできるということを、保証してやった。
ぼくは、彼に、会社のこと、特許のこと、それから、いろいろな秘密な取り引きのやり方を教えた。それらのことは、彼の数学がぼくをおどろかしたように、彼をおどろかしたようだった。彼の小さなあから顔に、困惑の色が浮かんだ。彼は、自分は、富には無関心だという意味のことを、口ごもりながら、いったが、ぼくは、聞きながした。彼は、金持ちにならなくてはならない。口ごもったりすることは、なんの役にも立ちはしないのだ。
ぼくは、ぼくの人物と、相当な事業的経験を持っていることを、わからせた。もちろん、ぼくが、まだ負債を負って、破産しているなんてことは、話さなかった。それは、ほんの一時的な問題だったが、ぼくは、いまの自分が金に不自由しているということで、負債のほうは償却してしまったような気がしていたからだ。
こうして、そうした計画が発展してゆくうちに、いつとはしらず、ケイヴァーリット専売に関する了解が、われわれのあいだに、成立していった。彼がその素材を作り、ぼくが景気をあおりたてよう、というのだ。
ぼくは、血を吸うヒルのように≪われわれ≫ということばに、しがみついた。ぼくには、≪あなた≫とか、≪わたし≫とかいうことばは存在しない、といってよかった。
彼の考えでは、ぼくのいう利益なるものは、いずれは、研究のために使われるのだろうが、その細目は、もちろん、われわれが、そのときになって決めなければならない、というのだ。
「これで、いい! ぜんぶ、きまったぞ!」
と、ぼくは、大声でいった。ぼくの主張するように、問題の大きなポイントは、計画を、具体的に、どう、運ぶか、ということなのだ。
「家だって、工場だって、要塞だって、船だって、こいつがなくてはやってゆけないという物質が、ここにあるんだ!」
ぼくは、さけんだ。
「そいつときたら、そこいらの特効薬なんかとは、くらべものにならないくらい応用範囲が広いんだ。ケイヴァーさん。この物質の何千、何万という可能性のどの一つをとり上げてみても、われわれの夢見る以上に金持ちにしてくれないようなものはないんですよ!」
「なるほど! わたしにも、わかってきましたよ」
と、彼は、いった。
「話し合いっていうやつは、ものの見方を変えるのに、すごく役に立つものですな」
「そうですとも。ちょうど、あなたが、それにふさわしい人間と話しているうちに、そうなったようにね」
「巨万の富を頭からけぎらいする人間はいないと思う。たしかに、それは、そうなんだが……」
彼は、ことばを切った。ぼくは、次のことばを待っていた。
「ねえ、こういうことも、ありうるんじゃありませんか? われわれは、けっきょく、富を作ることができないかも知れない。理論的には可能でも、実際的にはばかげているというようなことも、ありうるかも知れないのです。かりに、われわれが成功したとしても、そいつは、ごくちいさな|障碍《しょうがい》のために――!」
「そんな障碍がおきたら、そいつにタックルすればいいんです」
と、ぼくは、いった。
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二 ケイヴァーリットを、はじめて製造する
しかし、ケイヴァー氏の心配は、ケイヴァーリットの実際の製造に関するかぎり、まったくの杞憂だった。一八八九年十月十四日、この、信じることのできないほどすばらしい物質が、製造された。
おかしなことに、それは、ケイヴァー氏がまったく期待していないときに、まったく偶然に造り出されたのだ。
彼は、数種の金属と、なにかその他の物質を――いまになって考えると、その詳細を教わっておけばよかったのだが――|熔《と》かし合わせていた。そして、その熔解物を一週間ばかり放っておいて、それがゆっくりと冷えるのを待つつもりでいた。
彼の計算にあやまりがなければ、仕合の最終段階は、それらの素材が、華氏六十度まで冷えたときに、起きるはずだった。ところが、まずいことに、ケイヴァー氏の知らない間に、熔鉱炉の火の世話をすることで、助手たちの間にいざこざが起きてしまったのだ。
炉の火をみるのは、もともと、ギブスの役目だったが、奴さんは、突然、その役目を、もと庭師だった男と交代しようとしたのだ。その理由はといえば、石炭は、地面から掘りだされた土のようなものだから、もと指物師だった自分の領分には属していない、というのだ。ところが、もと庭師だった男は、石炭は、金属のような、また、鉱物のような物質だから、スパーガスひとりに料理させるべきだと主張した。すると、スパーガスのほうでは、ギブスはもと庭師だったし、石炭は明らかに木の化石したものなのだから、石炭をくべ、温度をみるのは、ギブスの仕事だといって、がんばった。
その結果、ギブスは、炉に石炭をくべることをやめてしまった。ほかの二人も、やらなかった。折から、ケイヴァー氏は、空気の抵抗や、そのほか、二、三の点を考慮にいれないですむケイヴァーリット飛行機の問題に関する興味ある問題に没頭していたので、この憂うべき事態には気がつかなかった。
こうして、彼の発明は、彼がいつものように、原っぱを横切ってぼくのバンガローへやってきて、午後の討論とお茶を楽しんでいる間に、月足らずのまま、生まれてしまったのだった。
ぼくは、そのときのようすを、はっきりと思い出すことができる。
ぼくの部屋では、お湯がにえたぎり、お茶の支度はすべて整っていた。ぼくは、彼の≪ズーズー≫という音を聞いて、ベランダへ出た。
腕をふりながらやってくる彼の小さな姿が、秋の入り日をバックに黒く浮かんでみえた。その右のほうには、彼の家の煙突が、入り日に華やかに彩られた木立の上に、そびえていた。遠くには、ウィールデンの丘陵が、かすかに、青く、つらなり、その左のほうには、ぼーっと霞んだ沼沢地帯が、ひろびろと、落ちついて、ひろがっていた。
そのとき、だった!
煙突が、空に向かって飛び上がったのだ。こなごなに砕けた煉瓦は、一条の竜巻のように舞い上がり、屋根や、ごちゃまぜになった家具の類が、それにつづいた。それから、その後を追って、巨大な、白い炎が噴き上がった。建物の付近の木々は、はげしく揺れ、ねじくれ、ばらばらに裂けて、炎の方向に飛び散った。ぼくの耳は、その雷鳴のようなひびきに打たれて、そのときから、片一方がつんぼになってしまった。ぼくのまわりの窓という窓のガラスは、めちゃめちゃに砕けて、飛んだ。
ぼくは、ケイヴァー氏の家のほうへゆこうとして、ベランダから、三歩ばかり歩き出した。ちょうどそのとき、突風がおそってきた。たちまち、ぼくの上着は頭にかぶさってしまい、とんだりはねたりもがいているうちに、ぼくは、自分の意志とはまったく逆に、ケイヴァー氏のほうへ歩いていた。ちょうどおなじとき、ケイヴァー氏も、立往生して、きりきり舞いをしながら、ビュービュー吹きまくる風にもまれていた。
ぼくの家の煙突のてっぺんについていた通風管が、ぼくから六ヤードとはなれないところに落ち、二十フィートもはね上がって、大きくはずみながら、さわぎの震源地たる彼の家のほうへすっとんでいった。
ケイヴァー氏は、けつまずいたり、ぶつかったりしながら、ぼくのほうへやってきた。地面の上を、ごろごろ転がったりしながら、やっとはね起きると、ものすごい速さで突っ走り、とうとう、彼の家のまわりで身をよじって苦しみ、もだえている木々の間に、姿を隠してしまった。
ものすごい煙と灰の中に、四角い、青く光る物体が、中天高く舞い上がった。大きな垣根の破片が、ぼくをかすめて飛んできて、角をぶっつけたり、地面を|叩《たた》いたりしながら、平らに落ちた。それを最後に、最悪の事態はおわりを告げた。
揺れ動いていた空気は、たちまち、ただの強風ていどになった。ぼくは、われにかえって、自分が息をしてることや、足があって立っていることを思い出した。ぼくは、しばらく、風によりかかるようにして、立っていた。それから、やっと、残されていた理性というやつを、とりもどすことができたのだ。
全世界は、一瞬にして、その姿を変えてしまったのだ。おだやかな入り日は消え、空は立ちさわぐ雲のために暗黒となり、すべてのものは、荒れ狂う強風のためになぎたおされ、なびき伏したのだった。
ぼくは、ふりかえってみた。ぼくの家は、まだ、もとどおりに立っているだろうか? それから、ケイヴァー氏が姿を消した木立ちのほうへ、よろめきながら、歩いていった。その背の高い、葉という葉がみんなふっ飛んでしまった梢の間からは、彼の家の燃えている炎が、赤々とみえた。
ぼくは、木立ちの中にはいり、木から木へと走りまわり、木という木にしがみつくようにして、彼の姿を探した。しばらくは、みつからなかった。だが、まもなく、庭に面した壁の一か所に吹き寄せられて積もった、ばらばらになった枝や垣根の山の中に、なにかがうごめいているのをみつけた。
ぼくは、そのほうへ走った。だが、ぼくがそこへ着く前に、その褐色の物体は、起き上がって、泥だらけの足で立ち、だらんとした血まみれの両腕をさし出した。その体のなかほどには、ぼろぼろになった衣服のきれはしがぶらさがり、そいつが、風に吹かれてひらひらしているのだ。
一瞬、ぼくは、この泥の塊りがなんであるか、わからなかった。だが、やがて、それが、転がったときの泥で固まったケイヴァー氏だということがわかった。彼は、眼や口についた泥をこすり落としながら、風に向かってやってきた。
彼は、手についた泥の塊りをはらい落とし、ふらふらしながら、ぼくのほうへ進んできた。
その顔には、まだ、小さな泥の塊りが、たくさんこびりついていた。けれども、なぜか、その顔は、生き生きと、感動に輝いていた。
彼は、いまだかつて見たこともないほど、うちのめされ、あわれなようすにみえた。だから、彼が、ものをいったとき、ぼくは、自分の耳を疑ったのだ。
「喜んでくれ!」と、彼は、あえぎながらいった。
「祝福してくれたまえ!」
「おめでとう!」
ぼくは、たずねた。
「だが、いったいぜんたい、なにが、おめでたいんです?」
「成功したんだ」
「成功ですって? じゃ、いったい、この爆発は、なんなんです?」
一陣の風が、彼のことばを吹きとばした。だが、ぼくには、彼が、あれは、単なる爆発なんかじゃない、といったことはわかった。風が強かったので、ぼくたちは、ぶつかってしまって、お互いに支えあって立っているだけでやっとという状態だった。
「ぼくのバンガローにもどりましょう」
ぼくは、彼の耳もとで、わめいた。だが、彼は、ぼくのことばには耳もかさず、≪三人の科学への殉教者≫だとか、≪喜んでばかりはいられない≫とか、さけんでいた。そのとき、彼は、三人の助手たちが、あのつむじ風の中で非業の死をとげてしまったという考えに、とりつかれていたのだ。
幸いなことに、それは、まちがいだった。彼が、ぼくのバンガローにでかけると、すぐに、三人の助手も、ちょいといっぱいやりながら熔鉱炉の問題を議論するために、リンプネの居酒屋へとでかけてしまったのだった。
ぼくは、ぼくのバンガローにくるように、なんどもすすめた。こんどは、彼も承知した。
われわれは、腕を組んで、出発した。そして、ようやくの思いで、辛うじて屋根だけが残っているぼくの家にたどり着いた。しばらくの間、安楽椅子に腰をおろし、息をしずめていた。窓という窓はこわれ、軽い家具類はめちゃめちゃになっていたが、まだ、取り返しのつかないほどの損害は、うけていなかった。幸い、台所のドアは、あの爆発の圧力にもびくともせず、食器や調理道具はみんな無事だった。石油ストーブはまだ燃えていた。ぼくは、お茶をいれるために湯をわかした。準備ができると、ぼくは、彼の説明を聞くために、部屋にもどった。
「まちがってなかったのです」
彼は力説した。
「まったく、正しかった。わたしは、成功したのです。うまくゆきました」
「しかし――」
ぼくは、抗議した。
「うまくいったですって? このあたり二十マイルばかりは、無事に立っている乾草の山なんてありはしないし、やられていない垣根やワラ屋根もありそうもないっていうのに!」
「いや、ほんとうにうまくいったのですよ。もちろん、わたしは、こんなさわぎが起きようとは、予想もしなかった。わたしの心は、ほかの問題でいっぱいでした。そのために、こういう実際的な問題の起きることを無視しがちだったのです。しかし、とにかく、うまくいったのです……」
「ちょっと待ってくださいよ」
ぼくは、さけんだ。
「あなたは、なん千ポンドという損害を受けたということを、忘れたんですか?」
「それは、あなたの判断にまかせましょう。もちろん、わたしは、実際的な人間ではありません。しかし、世の中の人が、あれを、ただの旋風だったと思いこむだろうとは、考えられませんか?」
「でも、あの爆発は――」
「あれは、爆発ではありませんよ。まったく単純なことなのです。いわば、わたしが、ごく小さなことを見のがし勝ちだということにすぎないのです。あれは、わたしのぼんやり仕事がスケールをひろげただけなのです。わたしは、ついうっかりして、わたしのあの物質、ケイヴァーリットを、広い膜にして造ってしまったのです……」
彼は、ことばを、きった。
「あなたもよくごぞんじのように、この物質は引力に対して、それをとおさない性質を持っています。お互いに引き合う力から、物体をきりはなす性質を持っています」
「わかっています」
ぼくは、いった。
「わかっていますとも」
「さて、それが、華氏六十度になり、製造工程が完了すると、たちまち、その上にある空気や、屋根や天井や床の部分は、重さを失ってしまいます。ごぞんじだろうが――こんにちでは、だれでも知っていることなのだが――ふつうの物体とおなじく、空気も重さというものを持っています。地球上のあらゆるものに、あらゆる方角に向かって、一平方インチあたり、十四・五ポンドの圧力をかけているのです」
「知っていますとも」
ぼくは、いった。
「それが、どうしたんです?」
「わたしも、知っています」
彼は、つづけた。
「この事実から、知識というものは、それを応用しなければ、なんの役にもたたないものだということだけは、わかります。きみ、われわれのケイヴァーリットの上では、そうした事実は通用しなくなってしまったのですよ。つまり、そこにある空気は、圧力を失ってしまった。そこで、そのまわりの、ケイヴァーリットの上でない空気が、この、急に目方のなくなった空気の上に、一平方インチあたり十四ポンド半の圧力をかけてきた、というわけなのです。さあ、わかってきたでしょう。ケイヴァーリットのまわりの空気が、ぜんぶ、ものすごい力で、その上の空気めがけてのしかかってきたのです。そのために、ケイヴァーリットの上の空気は、荒々しく吹き上げられ、それを追い出してかわりにはいってきた空気も、たちまち目方を失い、圧力がなくなって、前の空気とおなじように、天井を突きぬけ、屋根を吹き飛ばし……ねえ、おわかりでしょう?」
彼は、つづけた。
「ケイヴァーリットは、一種の空気の噴水のようなもの、つまり、空気のなかに一種の煙突のようなものを作りだしたのです。もしも、このケイヴァーリットがなくならないで、その煙突が空気や物体を吸い上げることをやめないとしたら、いったい、どんなことが起こるでしょうか?」
ぼくは、考えた。そして、いった。
「おそらく、あのいやらしい物質の上へ上へと、空気が吹き上がっていることでしょうね」
「そのとおり」
彼は、いった。
「まさに、巨大な噴水です!」
「空間への噴出だ! おそろしいことだ! 地球上の空気が、ぜんぶ、噴き出してしまうかも知れない! 世界中の空気がうばわれてしまうだろう! 全人類の滅亡だ! あの、ちっぽけな物質の塊りのために!」
「正確にいうと、空気はなくなってしまうわけじゃない」
ケイヴァー氏は、いった。
「でも、実際には、おなじようにひどいことになるでしょう。あの物質は、バナナの皮でもむくように、地球から空気をはぎとって、それを、何千マイルもむこうへ投げすててしまうんです。空気は、もちろん、また、落ちてくるでしょう――でも、それは、全人類が窒息して死に絶えてしまった世界へ、なんです。われわれからみれば、空気が永遠にかえってこないのとおんなじなんです!」
ぼくは、目をみはったままだった。まだ、びっくりしていて、この、ことごとにぼくの予想をうらぎるできごとが、どうにも理解できなかったのだ。
「これから、どうするつもりなんです?」と、ぼくは、たずねた。
「まず、だいいちに、庭ごてを一丁、拝借できませんか。わたしにこびりついているこの地球の一部を取り除きたいのです。それから、あなたの家庭的な設備を利用させていただけるならば、わたしは、一風呂浴びたいのですが。それがすんだら、ゆっくりと話し合いましょう。この際、りこうなやり方はですな……」
彼は、泥だらけの手を、ぼくの腕においた。
「こんどの事件の真相は、われわれ以外には絶対に口外しないことです。わたしは、たいへんな災害をひき起こしてしまったことを知っています。おそらく、この村のあちらこちらで、たくさんの住居が破壊されていることでしょう。ところが、わたしには、この損害を弁償する力はありません。それに、もし、この事件のほんとうの原因が知れわたったら、わたしは、みんなの|恨《うら》みを買い、わたしの仕事は妨害をうけるにきまっています。人間は、すべてをみとおすことは不可能です。そうでしょう? わたしは、自分の理論を進めてゆく上に、わずらわしい実際的な問題がからまることを、ここしばらくの間は、賛成できませんな。もっと時間がたってから、つまり、あなたが、その実際的な頭脳で参画してくださって、ケイヴァーリットが発売されたときになってから――発売なんて、ちょっと気のきいたことばじゃありませんか――あなたの計画が実現してから、被害者たちと正当な話し合いをすればいいじゃありませんか。でも、それは、いまじゃない。まだ、早すぎます。ほかに説明のしようがないとしたら、現在の気象学の幼稚な段階では、連中は、すべてを旋風のせいにするでしょう。そうなれば、一般の寄付金も集まるにちがいない。わたしの家だって、壊れたり燃えたりしたのだから、そういう場合には、相当な額の賠償金の分け前をもらえるはずです。その金は、われわれの研究をつづけてゆく上で、たいへん役に立つでしょう。ところが、もし、わたしがさわぎをひき起こした張本人だということがバレたら、寄付金をもらうどころか、みんなにたたき出されてしまうかも知れません。実際、二度と落ちついて研究をつづける機会は得られないでしょう。三人の助手は、死んでしまったのか、生きているのかわかりません。でも、そんなことは、ささいなことです。やつらが死んでしまったとしても、それは、たいした損害ではありませんよ。やつらは、能力もないくせにのぼせ屋で、こんどの早すぎた事件も、そのほとんどが、やっこさんたちがそろって炉の世話をサボッたせいなんです。たとえ、やつらが生きていたとしても、この事件を説明するだけの知恵があるかどうか、あやしいものです。やつらも、旋風説をうけいれることになるでしょう。ところで、わたしの家が住めるようになるまで、このバンガローの空いている部屋を貸していただけませんか――」
彼は、ことばをきって、ぼくをみつめた。
ぼくは、考えた。こういう才能の持主には、ふつうのもてなしじゃ間に合わないぞ!
「とにかく、庭ごてを探してきてからにしましょう」
そして、温室の痕跡がちらばったあたりへ彼を案内してやった。
彼が一風呂浴びている間に、ぼくは、ひとりになって、すべての問題について考えてみた。これからさき、どうなってゆくかわからないが、ケイヴァー氏の仲間にかえってゆかなければならないことは、明らかだった。
今回は、地球上の人類の絶滅をわずかにまぬがれたが、このうかつさが、いつなんどき、なにかほかの重大な事件をひきおこすかも知れなかった。だが、ぼくは、若かったし、ぼくの生活はめちゃめちゃになっていた。それで最後には成功するようなチャンスをみつけて、向こう見ずな冒険をしてみたい、という気持ちにかられていた。こんどの仕事に関しては、少なくとも五十パーセントの可能性があると、ぼくは、信じこんでいた。幸いなことに、ぼくは、バンガローを持っていた。すでにいったとおり、こいつは、三年契約で借りたもので、自分で修繕しなくともよかったし、家具はといえば、ごらんのとおりのしろもので、急いで買いこんだので、支払いもすんでいないのに、保険がかかっていたりして、ぜんぜん、調和がとれていなかった。とどのつまり、ぼくは、ケイヴァー氏とのつき合いをつづけてゆき、最後まで仕事をやりぬこうと、決心した。
事物の様相は、完全に一変していた。ぼくは、この物質の巨大な可能性については、もはや、疑いを持たなかったが、砲架だとか、パテントからくる利益については、疑念を|抱《いだ》くようになっていた。
われわれは、ただちに、彼の工場を再建するための仕事に、とりかかり、実験をつづけていった。ケイヴァー氏の話は、まえよりも、ぼくでも理解できるていどに、わかり易くなっていた。以前には、その物質を、実際にどういうふうにして造り出すかなんてことは、二のつぎだったのだ。
「もちろん、われわれは、もういちど、それを造り出さなければなりません」
彼は、想像できないほどの喜びの色を浮かべて、いった。
「そいつをもういちど造り出さなければならないことは、たしかです。たしかに、われわれは、いちどは、この厄介ものをつかまえることには成功しましたが、その理論のほうは、永久にそのままになっています。でも、それで、われわれの住む、この小さな惑星を破滅させないですむなら、そうしようじゃありませんか。だが――危険をおかさなければならないなら! いや、おかさなければならない。実験という仕事には、危険は、つきものなのだ! だから、この際、実際的な人間として、あなたに参画してもらわなければならないのです。わたしの役割は、この物質を、きちんとした形に、おそらく、ごく薄く、作り出すことだと思う。わたしにも、まだ、わからないのだが――、なにか、ほかに方法がありそうな気が、ぼんやりと、しているのです。まだ、説明できないのですが、とても、奇妙なことに、それは、わたしが、風のために泥の中を転がりまわりながら、とにかく、わたしにとっては、一つの使命ともいうべきこの冒険を、どうやって終結させたらいいのか、わからなくなっていたとき、ふっと、心の中に浮かんだのです」
ぼくが参加してからも、なにかしら、小さなごたごたは起きたが、とにかく、われわれは、実験室を再建する仕事に没頭していた。
われわれの第二次計画の正確な形式や方法を決定することも絶対に必要なことだったが、そのまえに、しなければならない仕事が、たくさん、あった。
ちょっとした障碍は、ぼくが指導者として働くことに反対する三人の助手のストライキだった。だが、その問題は、二日後には、解決した。
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三 球体の製作
ぼくは、ケイヴァー氏が球体に関する彼のアイディアを話してくれたときのことを、はっきりと覚えている。
彼は、まえから、ぼんやりとした考えは持っていたのだが、そのとき、急に、はっきりした考えが、心に浮かんだようだった。
われわれは、お茶のために、バンガローにかえるところだった。その途中で、彼は、れいの唸り声をたてはじめた。突然、彼は、さけんだ。
「そうだ! これで解決だ! 捲き上げのブラインドのようなものだ!」
「なにが解決なんです?」
ぼくは、たずねた。
「空間の問題ですよ。――どこへでも! 月までだって!」
「どういう意味なんです?」
「意味? つまり――そいつは、球体でなくてはならんということさ! 要するに、そういうことなんだ!」
ぼくには関係のないことらしかった。そこで、しばらくは、彼のしゃべりたいようにしゃべらせておいた。ぼくには、彼の話がどんなところに落ちつくのか、まるっきり、けんとうもつかなかった。だが、そのことは、お茶のあとで、彼が説明してくれた。
「つまり、こうなんだ」
彼は、いった。
「このまえ、ぼくは、れいの物質を平たいタンクに投げこんで、浮き上がらないように重しをのせておいた。それで、そいつが冷えて製造工程が完了すると同時に、あの大さわぎが起こった。その上のものは、すべて、目方を失って、空気は噴き上がる、家も噴き上がった。もし、れいの物質そのものも噴き上げられなかったとしたら、どんなことになっていたか、わかりゃしない! だが、考えてごらんなさい。あの物質は、地面にしばりつけられているわけじゃない。だから、自由に、空に舞い上がっていけるはずじゃありませんか?」
「もちろん、たちまち、舞い上がっていったでしょうね」
「そのとおり。大砲を発射するよりもやすやすとね」
「でも、それが、なんの役に立つんです?」
「その物質といっしょに、上がっていくんですよ」
ぼくは、茶碗をおいて、彼をみまもった。
「一つの球体を、考えてごらんなさい」
彼は、説明をはじめた。
「二人の人間と、その身の廻りの品物を入れるのにじゅうぶんな大きな球体です。鋼鉄でできていて、厚いガラスで内張りされ、固体化した空気の相当な貯えと、圧縮食糧と水、その蒸溜装置、といったようなものを積みこみ、その外部の鋼鉄の上には、つまり、その、かぶせてあって――」
「ケイヴァーリットがですか?」
「そうです」
「ですが、中へは、どうやってはいるのですか?」
「それは、蒸し団子を作るのとおんなじように、簡単な問題ですよ」
「団子の作り方なら知ってますがね。でも、この場合は、どうして?」
「たやすいことですとも。要するに、空気を逃がさないマンホールのようなものさえあれば、いいんです。もちろん、それには、ちょっとした仕掛けは必要でしょうがね。それには、バルブがあって、必要なときには、たいして空気を逃がさずに、中のものを運び出すことができるのです」
「ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』の中に出てくる、あの器械のようにですか?」
しかし、ケイヴァー氏は、小説なんか読むような人ではなかった。
「やっと、わかってきましたよ」
ぼくは、ゆっくりと、いった。
「あなたは、ケイヴァーリットがまだ温かいうちに、球体の中にはいり、席をしめることはできるでしょう。ところが、それが冷えると同時に引力をとおさなくなって、あなたは、どこかへ飛んでいってしまう――」
「とんでもない方角へね」
「いや、まっすぐに飛んでゆくはずです――」
ぼくは、急に、ことばを、きった。
「あなたが、大空にむかって、永遠に、一直線に飛んでゆくのを、いったい、なにが妨げることができるでしょう?」
ぼくは、さらに、たずねた。
「でも、どこへ到着するのかわかりませんよ。もし、どこかへ着いたとしても――どうやってもどってくるつもりですか?」
「いま、それを、思いついたところなんですよ」と、ケイヴァー氏は、いった。
「これで解決だといったのは、そのことだったんです。球体の内側のガラスの部分は、空気を逃がさないように、マンホールのところ以外はきれめなしに作られています。ケイヴァーリットを張った、外側の鋼鉄の部分は、いくつかの区分にわかれていますが、その各区分は、ローラー・ブラインドのように捲き上げられるようになっています。これらの仕掛けは、スプリングで、簡単に動かすことができます。ガラスの中にとおされた白金線を伝わる電気の力で、おろしたり上げたりできます。でも、こんなことは、みんな、つまらないことです。そう、おわかりになったろうが、ブラインド捲き上げのための厚い部分をのぞいては、球体の外側のケイヴァーリットを張った部分は、たとえていうなら、窓、または、ブラインドでできているといってもよいのです。さて、この窓を、ぜんぶ、閉めてしまうと、光も、熱も、引力も、そのほか、あらゆる放射エネルギーは、球体の内部にはいることができません。そこで、球体は、あなたのいうとおり、大空を、一直線に飛んでいくでしょう。ところが、その窓の一つを、あけたと想像してみたまえ! たまたま、その方角に、なにか重力のあるものがあったとしたら、それは、われわれを引きつけるにちがいない――」
その話に耳を傾けながら、ぼくは、腰をおろした。
「おわかりですか?」
「ええ」
「われわれは、実際に、大空の中を、思うように行動して廻ることができるのです。この星、あの星と、その引力に引っぱられて」
「いや、たしかに。そのことはよくわかりましたよ。ただ――」
「ただ……?」
「ぼくには、それが、なんのためなのか、さっぱりわからないんです。地球を飛びだして、またもどってくるというだけのことが」
「そうかも知れん。でも、たとえばですね、月にいけるかも知れませんよ!」
「月にいったとしてですね、そこで、なにをみつけようっていうんです?」
「われわれは、ものを知らなければならないのです。新しい知識というものをだいじにしましょう!」
「月には、空気なんて、あるんでしょうか?」
「たぶん、あるでしょう」
「それは、美しい理想にすぎませんよ」
ぼくは、頭を振りながら、いった。
「でも、そいつは、すべてのほかの理想とおなじように、偉大な秩序として、ぼくを感動させます。ああ、月世界! でも、ぼくは、なにか、もっと手近なことから始めたほうがよかったんじゃないかと思うんですが?」
「そんなことは、問題じゃないんだ。問題は、われわれの吸う空気をどうするか、ということなんだ」
「このバネ仕掛けのブラインド、つまり、丈夫な鋼鉄のわくにはめられたケイヴァーリットのブラインドというアイディアを、どうして、重いものを持ち上げるのに使わないんですか?」
「そりゃ、役に立つでしょうよ。でも……」
彼は、いい張った。
「けっきょくのところ、宇宙に飛びだしてゆくということは、まったくすばらしいことだ、とはいえないとしても、極地探険ほどひどい仕事ではないでしょう。なにしろ、いまだに極地探険をつづけている連中だっているのですからな」
「連中は、商売人じゃありませんよ。それに、極地探険をやれば、報酬がもらえます。万一失敗しても、救済パーティをひらいてもらえるじゃありませんか。ところが、この仕事ときたら――まさに、なんの報酬もなしに、自分自身をこの地球から発射してしまうようなものです」
「資源調査といってください!」
「あなたは、そうおっしゃればいい……。たぶんだれかが、本に書いてくれるでしょうよ」
「わたしは、月には、いろんな鉱物資源があるはずだと信じます」と、ケイヴァー氏は、いった。
「たとえば、どんな?」
「そう、硫黄だとか、いろいろな鉱物、おそらくは、金もあるでしょうし、もしかすると、新しい元素を発見できるかも知れません」
「運送費は?」
ぼくは、いった。
「あなたは、ごじぶんが実際的な人間じゃないことを、よくごぞんじのはずです。月は、地球から、二十五万マイルもはなれているんですよ」
「ケイヴァーリットのケースにいれさえすれば、どんな重いものでも、どこへ運ぶのでも、運送費はかからないと思うのですがね」
「そいつは、忘れていました。でも、買い手にただで配達してやろうっていうんですか?」
「あなたは、まるで、月だけのことをいっているようですが、そうじゃないのですよ」
「と、いうと――?」
「火星があるじゃありませんか――澄んだ空気、目あたらしい環境、|爽《さわ》やかな光――。火星にいくのも面白いかも知れませんよ」
「でも、火星には、空気があるんですか?」
「ありますとも!」
「まるで、サナトリュームにでもいくみたいにおっしゃいますね。ついでに伺いますが、火星までは、どれくらいあるんですか?」
「現在、二億マイルです」
ケイヴァー氏は、軽く、いった。
「あなたは、それだけ、太陽に近づくことになるのです」
ぼくの想像力は、ふたたび、活動を開始した。
「けっきょくのところ――」と、ぼくは、いった。
「ケイヴァーリットは、役に立つのですね。たとえば、宇宙旅行とか――」
ぼくの心には、そのすばらしい可能性を信じる気持ちが湧いてきた。突然、豪華なケイヴァーリット張りの球体で結ばれた全太陽系が、ぼくの目の前に浮かんできたのだ。
≪先取権≫ということばが、ぼくの頭に浮かんできた――惑星の先取権だ。ぼくは、昔のスペインが、アメリカの黄金を独占したことを思い出した。それも、この星、あの星なんていうケチなものじゃない――宇宙の惑星の全部なんだから!
ぼくは、ケイヴァー氏の赤ら顔をみつめた。すると、ふたたび、ぼくの想像力が飛躍しはじめ、踊りはじめた。ぼくは、たちあがって、あちこちと歩きまわった。ぼくの舌は、ほどけてきた。
「ぼくらは、とりかかってるじゃありませんか」
ぼくは、いった。
「仕事は、はじまっているじゃありませんか」
とにかく、びくびくしていたぼくが、夢中になるまでには、ほとんど、時間なんか、かからなかったらしい。
「だが、こいつはすごい仕事だぞ!」と、ぼくは、さけんだ。
「こいつは、堂々たる事業だ。こんなすばらしい仕事を、ぼくは、まだ、夢にだってみたことはない!」
ひとたび、ぼくの冷淡な反対がなくなると、彼のおさえられていた興奮が目をさました。
彼も、立ちあがって、そこらを歩きまわった。大げさなみぶりで、大声をたてた。われわれは、物に|憑《つ》かれた人のように行動した。まさに、われわれは、ケイヴァーリットに憑かれていたのだ。
「そんなことは、みんな、かたづけてしまいましょう!」
ぼくがかかり合っていた、ある難しい問題に対して、彼は、こう答えた。
「そんな問題は、いますぐに、かたづけてしまいましょう。球体の形のほうの設計は、今夜から始めたいから」
「いや、いま、はじめましょう」と、ぼくは、答え、われわれは、ただちにこの仕事をはじめるために、実験室のほうへ急いだ。
その夜は、一晩じゅう、ぼくは、不思議の国へいったこどもみたいだった。明け方になっても、われわれふたりは、まだ働いていた。昼になっても気づかずに、電灯をつけっぱなしにしていた。
ぼくは、いまでも、その設計図がどんなだったか、正確に覚えている――ぼくは、ケイヴァー氏が線をひいている間、その線に陰影をつけたり、色彩をほどこしたりしていたのだが――その線は、よごれていて、走り書きしてあったが、おどろくほど正確だった。
われわれは、その夜の仕事の結果必要になった鋼鉄製のブラインドと|枠《わく》とを発注した。ガラスの球体は、一週間たらずで設計できた。午後のおしゃべりや、そのほかの古い日課は、ぜんぶ、やめてしまった。
われわれは、よく働いた。空腹と疲労のためにもはやこれ以上は働けないというときだけ、食べ、そして、眠った。
われわれの熱心さは、三人の助手にまで、伝わった。彼らは、この球体がなんのために使われるのか、なにも知らなかったというのに。ギブスという男にいたっては、この間じゅう、歩くことをやめてしまい、どこへゆくのにも、部屋を通りぬけるときにさえも、ばたばたと走りまわるのだった。
こうして、球体は、完成に近づいていった。十二月が過ぎて、一月――ぼくは、バンガローから研究所までの道を、一日がかりで雪かきをした――二月が過ぎ、三月がきた。三月の末には、完成は、目前に迫っていた。
一月には、一群の馬が、大きな外側のケースを運んできた。厚いガラスの球体は、すでに完成して、その鋼鉄の外殻の中に吊りこむために組み立てられたクレーンの下に置いてあった。
二月には、鋼鉄製外殻の支柱やブラインドが、ぜんぶ、到着して、その下半分にとりつけられた。外殻は、まんまるな球体ではなくて、幾つもの面を持つ多面体で、その面ごとに、ローラー・ブラインドがついていた。
ケイヴァーリットは、三月には、半分、できあがっていた。ケイヴァーリットをくっつける仕事は、その生産工程に応じて、二段階をふんで進められた。まず、そのちょうど半分が、糊状にされて、鋼鉄の支柱やブラインドに塗りつけられた。
計画を進めてゆくと、それが、ケイヴァー氏の最初のインスピレーションに、あまり近いので、おどろいてしまった。球体のボルトをぜんぶ締めてしまうと、彼は、仕事場と炉とを兼ねている仮研究所のちゃちな屋根を、とりのぞいてしまおうといいだした。
こうして、糊状になったケイヴァーリットが、ヘリウムの蒸気の中で、にぶい赤色光を放つまで熱せられて、球体の表面に塗りつけられたとき、ケイヴァーリットとりつけの最後の段階が終了したのだった。
つぎに、われわれは、どんな準備をするべきか、議論し、決定しなければならなかった。
圧縮食糧や、濃縮エッセンスの類、予備の酸素をいれた鋼鉄の筒や、空気から炭酸ガスや老廃物をのぞいて過酸化ナトリュームによって酸素を補給する装置、または、水を凝縮させる器械などなど。いま思い出すと、ブリキの罐だとか、巻いた布や紙とか、いろいろな箱だとか――どう考えても実用的な品物が、片隅に、ちょっとした山になって積まれていたような気がする。
当時は、夢中になって働いていたので、ものを考えるひまは、ほとんどなかった。ところが、われわれの仕事が完成に近づいていたある一日、突然、ぼくは、妙な気分におそわれたのだ。
ぼくは、午前中、ずっと、炉を煉瓦で積みあげていた。疲れきったぼくが、炉のそばにすわりこんでいたとき、急に、あらゆるものが、生気を失った、ばかばかしいものに思われてきた。
「でも、ねえ、ケイヴァーさん!」
ぼくは、いった。
「けっきょくのところ、これは、いったい、なんのためなんでしょう?」
彼は、微笑した。
「計画は、できあがろうとしているんですぞ」
「月世界か……」
ぼくは、おうむがえしに、いった。
「あなたは、月になにがあると思っているんですか? ぼくは、月は、死の世界だと思っていたのに!」
彼は、肩をすくめた。
「なにがあると思っているんですか?」
「われわれは、それを見にいこうとしているんですよ」
「われわれ?」
ぼくは、そういって、彼をみつめた。
「あんたは、疲れているんだ」
彼は、ぼくの顔色をみて、いった。
「午後は、散歩でもしたほうがいいんじゃないか」
「いや」
ぼくは、強情に、いいはった。
「ぼくは、この煉瓦工事を完成してしまうつもりですよ」
ぼくは、そうした。そして、その結果、確実に、一晩じゅう、不眠症で苦しんだ。
こんなひどい夜は、いまだかつてなかった。事業に失敗する前にも、なんどもひどいときを経験したが、そのいちばんわるいときでも、この不眠症の果てしない苦しみにくらべれば、甘いまどろみといえるていどだった。
ぼくは、急に、われわれがこれからやろうとしていることが、恐ろしくてたまらなくなってきた。
あの夜までは、われわれがおかそうとしている危険のことなんか、考えたこともなかった。ところが、やつらは、昔、プラーグを包囲した幽霊の行列のようにやってきて、ぼくのまわりに陣をしいた。われわれのやりかけていることは非常識なことであり、ばかばかしいことであるという考えが、ぼくをうちのめした。ぼくは、安らかな夢からたたき起こされて、恐ろしい環境の真っただ中につれこまれた人間のようだった。目を大きくみひらいたまま横になっていると、ますます、あの球体が、たよりなく、貧弱なものに思われてきた。ケイヴァー氏は、実在の人物ではなくて、空想の世界の人物のような気がしてきた。そして、この計画全体が、刻一刻、いよいよきちがいじみたもののように思われてきた。
ぼくは、ベッドから起き出して、部屋の中をあるきまわった。窓際に腰をおろして、広大な宇宙をみつめた。
星と星との間には、空虚な、はかり知れぬ暗黒しかなかった!
ぼくは、乱読の結果得た天文学の断片的知識を思い出そうとつとめた。だが、それは、あまりにも漠然としていて、これからどうなるのか、についての考えは、なにひとつまとまらなかった。
とうとう、ぼくは、また、ベッドにもどって、ほんのしばらく、眠った――というより、むしろ、うなされた。その悪夢の中で、ぼくは、大空の奈落の底へと、永遠に、どこまでもどこまでも、落ちつづけていたのだ。
朝食のとき、ぼくは、ケイヴァー氏をびっくりさせた。ぼくは、ずばりといってやった。
「ぼくは、あなたといっしょに球体にはいるのは、やめにしました」
彼は、いろいろと異議を申したてたけれど、ぼくは、ふくれっ面をして頑張っていた。
「この計画は、あまりにもきちがいじみています」と、ぼくは、いった。
「だから、いきたくないんです。とにかく、狂気の沙汰だと思うんです!」
ぼくは、彼と研究所へでかけることを断った。しばらくの間、いらいらしながら、バンガローの中を歩きまわっていた。それから、帽子とステッキを持って、ただひとり、家を出た。どこへいこうというあてもなかった。
たまたま、すばらしい朝だった。そよ風は肌にこころよく、空は深い青に晴れわたって、あたりは、春の新緑がいちめんに芽を出し、たくさんの小鳥がさえずっていた。
ぼくは、エルハムに近い小さなレストランで、牛肉とビールの昼食をとりながら、お天気に関するぼくの意見を開陳して、おやじをおどろかせた。
「こんないい天気のつづく季節に、この地球を飛び出すなんてやつは、大ばか野郎じゃあるまいか!」
「わしも、その話を聞いたとき、おんなじことをいってやりましただ」と、おやじは、いった。そのおやじのことばで、ぼくは、ひとりのあわれな男が、この世の苦しみにたえかねて、のどを切って自殺したということを知った。ぼくは、ジンとブランディーのカクテルをもう一杯注文して、ぼくの問題を考えつづけることにした。
午後、ぼくは、日あたりのいい場所で気持ちよく昼寝をし、元気をとりもどして歩いていった。
カンタベリーの近くに、泊り心地のよさそうな宿屋があった。つる草が壁にはい茂って、輝いてみえた。
小ざっぱりした、年よりのおかみさんが、目にはいった。ぼくは、ちょうど、ここに泊るだけの持ち合わせがあった。そこで、ぼくは、一晩、ここですごすことに決めた。
おかみさんは、とても話し好きな女で、いろいろなことをしゃべったが、彼女は、まだロンドンにはいったことがない、ということだった。
「カンタベリーだって遠すぎますもの、まだ、いったことがないんですよ」と、おかみさんは、いった。
「なにしろ、あたしゃ、あんたがたみたいに、ぶらぶら歩きのできるようなご身分じゃありませんからね」
「いっそのこと、月世界旅行にでも、でかける気にはならんかね?」と、ぼくは、大声で、からかってやった。
「わたしゃ、あんな、気球乗りのやつらのいうことなんざ、いちどだって、まにうけたことはありませんね」
彼女は、あきらかに、ぼくの話をごくふつうの旅行の話だと思いこんでいるようすで、いった。
「わたしゃ、気球なんかに乗りたかありませんよ――ええ、ぜったいに、いやですよ」
このことばは、ぼくには、皮肉にきこえた。
夕食後、ぼくは、宿屋の入口に近いベンチに腰をおろして、二人の労働者と、煉瓦焼きや、自動車や、去年のクリケットの試合などの|噂《うわさ》をかわした。空には、かすかな新月が、青く、霞んで、遠くみえるアルプスの頂きのように、沈んでゆく太陽の上に傾いていた。
つぎの日、ぼくは、ケイヴァー氏のところへ、かえった。
「かえってきました」
ぼくは、いった。
「ちょっと頭がおかしくなっていたんです。それだけのことです」
ぼくが、われわれの計画に、本気で疑いを持ったのは、後にも先にも、このときだけだった。ただ、神経のせいだったのだ。
その後は、ぼくも、もうすこし注意して仕事をし、毎日、一時間ずつ散歩をすることにした。
こうして、とうとう、炉で熱する仕事を最後にのこして、われわれの労働は終わりを告げた。
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四 球体の内部で
「さあ、はいってみたまえ」と、ケイヴァー氏が、いった。
そのとき、ぼくは、マンホールのふちにまたがって、まっくらな球体の内部をのぞいていた。われわれは、二人っきりだった。夕方で、太陽はすでに沈み、たそがれの静けさがあたりをおおっていた。
ぼくは、もう一方の足を中に入れ、なめらかなガラスの壁をすべって、球体の底におりていった。それから、食糧の罐や、そのほかの荷物をケイヴァー氏から受け取るために、上を向いた。
球体の中は温かく、寒暖計は、華氏の八十度をさしていた。この温度は、放射熱の力で、ほとんど下がらないことになっていたから、われわれは、スリッパをはき、薄いフランネルのシャツを着ているだけだった。もっとも、万一の事故にそなえて、厚い純毛の洋服や、五、六枚の厚い毛布の包みも用意してあった。
ケイヴァー氏の指図にしたがって、ぼくは、包みや、酸素の筒や、そのほか、いろいろなものを、いいかげんに足もとにおいた。積みこみは、すぐ、おわった。彼は、なにか忘れたものはないかと、屋根のない部屋の中をしばらく歩きまわっていたが、やがて、ぼくの後を追って、はいってきた。ぼくは、彼が、なにか持っているのに、気がついた。
「なにを持ってきたんです?」と、ぼくは、たずねた。
「あんたは、なにも読むものを持ってこなかったのかね?」
「ああ、しまった。持ってきませんでした」
「あんたにいっとくのを忘れたんだ。もしかすると、こんどの旅行は、どのくらいつづくか――場合によると、何週間もかかるかも知れないんだ」
「でも……」
「われわれは、その間、この球体に乗って、あてどもなく漂っていることになるんですよ」
「そうと知っていたら……」
彼は、マンホールの外をのぞいた。
「みたまえ!」と、彼は、いった。
「あそこに、なにかありますよ」
「まだ、時間はありますか?」
「一時間はね」
ぼくは、のぞいてみた。それは、助手たちのだれかが持ってたらしい、古い日付の豆記事だった。隅のほうには、破れたロイド日報があった。ぼくは、それらを持って、球体の中に|這《は》いもどった。
「あなたは、なにを持ってこられたんですか?」
ぼくは、彼の手から本をとりあげて、その標題を読んだ。
『ウィリアム・シェイクスピア作品集』
彼は、ちょっと、あかくなった。
「わたしの教養は、あまり科学的なことにかたよりすぎていたものだから……」
彼は、弁解するように、いった。
「シェイクスピアを読んだことがないのですか?」
「ええ、いちども」
「彼は、ちょっと、風変わりな作家として有名でしてね……」
「たしかに、そういう話ですね」と、ケイヴァー氏は、いった。
ぼくは、彼がマンホールのガラスぶたをねじこむのを手伝ってやった。彼は、ボタンを押して、外側の連動式ブラインドを閉めた。小さな長方形の黄昏の光が消えて、われわれのまわりは、暗やみになった。
しばらくの間、われわれは、口をきかなかった。われわれの乗り物は、音はとおすのだが、すべては静まりかえっていた。ぼくは、出発のショックをうけたとき、つかまるものがないことに気がついた。また、椅子がなくてはつらいだろうと、思った。
「どうして椅子を持ちこまなかったんですか?」と、ぼくは、たずねた。
「必要なものは、ぜんぶ、用意してありますよ」と、ケイヴァー氏はいった。
「椅子なんかいらないでしょう」
「なぜ、いらないんです?」
「いまにわかります」
彼は、これ以上話したくない、という口ぶりだった。
ぼくは、口をつぐんだ。そのとき、急に、こんな球体の中にいるぼくは、たいへんなばか者だという気持ちに、おそわれたのだ。ぼくは、自分にたずねてみた。
(抜け出そうったって、いまからでは、おそすぎるのではないかしら?)
この球体の外は、ぼくにとって、ひどく冷酷で住みごこちがわるいはずだ、ということは知っていた――ぼくは、この数週間というもの、ケイヴァー氏の金で生活していたのだ。でも、ここから抜け出したとしても、世の中というやつは、宇宙の無限の虚無とおなじくらい冷酷で、空っぽの空間とおなじくらい住みにくいのじゃないだろうか?
臆病者と思われる心配がなかったら、そのときでも、まだぼくは、外に出してもらうことができた、と思う。しかし、ぼくは、いろいろと損得を考えながら、ためらっていた。ためらっているうちに、だんだんと、いらいら、腹が立ってきた。そして、時間が、すぎていった。
そのとき、急に、ガクンときたのだ。となりの部屋でシャンペンでも抜いたような小さな音がした。それから、かすかにヒューヒューという音が聞こえた。一瞬、ぼくは、体じゅうがすごい力で緊張するのを感じた。ほんの一瞬のことだったが、ぼくの足が、なんトンとも知れぬ力で、下のほうへ押しつけられているという感じがした。それは、ほんのすこしの間、つづいた。
だが、ぼくは、われにかえって、行動にうつった。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、くらやみの中で、いった。
「ぼくの神経が、また、あばれだしたんです。なぜだかわかりませんが……」
ぼくは、口をつぐんだ。返事は、なかった。
ぼくは、どなった。
「ちくしょう! ぼくは、大ばかだ! こんなところで、なにをやらかそうっていうんだ!? ぼくは、いやだ。ケイヴァーさん! この計画は、危険すぎます。ぼくを出してください!」
「出られませんよ」と、彼は、いった。
「出られないって! 出られるか出られないか、いますぐに、みせてやるぞ!」
彼は、十秒間ほど、答えなかった。
「いい争ってみても、もう、おそいんだよ、ベッドフォード君」
彼は、いった。
「さっきガクンときたのが出発だったんだ。われわれは、すでに、鉄砲だまのような速さで、宇宙の深淵へむかって、飛行中なんだ」
「ぼくは……」
ぼくは、いった。なんだか、このできごとがたいしたことのように思われなくなってきた。しばらくの間、ぼくは、目をまわしたようになって、なにもいうことができなかった。まるで、この地球を飛びだそうという計画のことなんか、いままで、聞いたことがなかった、とでもいうように。
やがて、ぼくの肉体感覚が、わけのわからない変化をうけているのに、気がついた。体が軽くなったような、この世のものではなくなったような感じだった。それにともなって、頭の中が奇妙な感じで、まるで卒中にでもなったように、耳の中で血管が、どきんどきんと、鳴っていた。
こういう状態は、時間がたってもなくならなかったが、そのうちに馴れてしまって、なんの不自由も感じなくなってしまった。
カチッ、と音がして、小さなランプがついた。
ケイヴァー氏の顔は、蒼白だった。ぼくの顔だっておなじにちがいなかった。われわれは、だまって、顔を見合わせていた。窓ガラスをとおしてみえる宇宙の暗黒を背にして、彼は、真空の空間に浮いているようにみえた。
「いよいよ、死なばもろとも、ですね」
最後に、ぼくは、いった。
「そうだ」
彼も、いった。
「死なばもろともだ」
「動いちゃいけない!」
ぼくが、ちょっと、動こうとすると、彼は、さけんだ。
「筋肉を緩めておくんです。眠っているときのように。われわれは、われわれだけの小宇宙の中にいるのです。あれを、ごらんなさい!」
彼は、球体の底の毛布の上においてあった容器や包みを指さした。おどろいたことに、それは、球体の壁から一フィート近くも浮きあがっていた。
その影からみて、ケイヴァー氏も、もはや、ガラス窓にもたれてはいないということがわかった。
ぼくは、手をのばして、体のうしろのほうをさぐってみた。そして、ぼく自身もガラスの壁からはなれて、空間に浮いていることを知ったのだ。
ぼくは、さけんだりあばれたりはしなかったが、恐怖におそわれた。まるで、なにものとも知れぬ怪物に持ちあげられ、支えられているような感じだった。ぼくの手が、ガラスの壁にちょっとさわるだけで、ぼくの体は、すばやく動いた。ぼくは、なにごとが起きたのか理解した。でも、それは、ぼくの恐怖を忘れさせてはくれなかった。
われわれは、すべての外部の引力から遮断されていた――ただ、この球体の中の物体の引力だけが働いていた。その結果、ガラスの壁に固定されていないものは、すべて、この小宇宙の引力の中心へ向かって、落ちつづけていた――われわれの質量はきわめて小さいから、その速度は遅かったが――。その引力の中心は、この球体の中心のあたりにあるらしかった。ぼくのほうが目方が重いので、ケイヴァー氏よりも、ぼくのほうに近かったはずだ。
「わたしたちは、ぐるぐるまわりながら、背中あわせになって、ふたりの間にある荷物といっしょに、浮かんでいなくてはなりませんな」と、ケイヴァー氏は、いった。
こうやって、ふわふわと空間に浮かんでいるのは、なんともはや、奇妙な感じだった。たしかに、はじめはこわいような気持ちがしたが、こわさがなくなると、そんなに不愉快ではなく、むしろ、ひじょうに楽な感じになった。
ぼくの知っている地上での体験で、これにいちばんよく似た感じを求めるならば、それは、まさに、厚くてやわらかい羽根ぶとんに横になっているときの感じだ。
しかし、こっちは、なんにもさわっていないし、なんの力の影響もうけないのだ!
ぼくは、いままでに、こんなことがあり得るとは、想像したこともなかった。ぼくは、ただ、出発のときのはげしいショックと、目のくらむようなスピードのことだけしか、考えていなかった。ところが、そんなものは感じないで、まるで、魂を抜き取られたような感じを味わっているのだ。
それは、旅行のはじまりのような感じではなく、夢のはじまりのような感じだった。
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五 月世界への旅
ほどなく、ケイヴァー氏は、灯りを消した。彼の言によれば、われわれは、余分なエネルギーを貯えてないので、本を読むために、電力を節約しなければならない、というのだ。しばらくの間、それが長い間だったか短い間だったかわからないが、そこにあるのは、真の暗やみだけだった。
その暗やみの中から、一つの質問が発せられた。ぼくは、いった。
「どこをめざして飛んでいるんです? どの方角へ?」
「われわれは、地球から切線の方角へ向かって飛んでいるのです。月は、いま、第三弦の大きさまで、欠けはじめているから、われわれは、いずれは、その方角へ向かうことになるでしょう。とにかく、ブラインドをあけてみましょう……」
カチッ、と音がして、外側の窓が大きくひらかれた。外部の大空は球体の内部とおなじようにまっくらだったが、その、ひらかれた窓の形は、その中に輝いている無数の星の存在で、はっきりとみえた。
地上からしか星空を眺めたことのない人たちには、大気のぼんやりした、半ば霞んだヴェールをひきはがしたときの状景は、想像することができないはずだ。ぼくたちが地上で見る星は、水蒸気の多い地球の大気ににじんでみえる光の強い一部の星にすぎないのだ。
ところが、いまこそ、ぼくは、大空の主、ということばの意味が理解できた! たいていのものは、見てもすぐに、忘れてしまう。だが、この真空の、星をちりばめた大空の眺めのすばらしさ! ぼくは、ほかのものはぜんぶ忘れてしまっても、これだけは、死ぬまで忘れることができないだろう!
小さな窓が、カチッと閉まり、その隣の窓が、ちょっと開いて、すぐに閉められた。
第三の窓が開かれたとき、一瞬、ぼくは、目をつぶらなければならなかった。下弦の月の光がまぶしかったからだ。
しばらくの間、ぼくは、ケイヴァー氏や、月の光に白く輝くあたりのものをみつめて、目を馴らさなければならなかった。やがて、あたりは、もとの、蒼白い明るさにもどった。
月の引力が球体内部のすべての物質に働きかけることができるように、四つの窓が開かれた。もはや、ぼくは、自由に空中に浮かんでいるのではなく、ぼくの足は、月の方向にあるガラスの上にとまっていた。
毛布や、貯蔵品の容器類も、ガラスの壁をゆっくりと這いおりて、足もとにたまった。たちまち、外界の眺めは、悪くなってしまった。
当然のことだが、ぼくが、月をみていたときには、≪見おろして≫いたのだ。地球上では、≪下のほうへ≫といえば、|地球のほうへ《ヽヽヽヽヽヽ》という意味であり、物の落ちてゆく方角で、≪上のほうへ≫といえば、その逆の方角を意味している。いまや、引力は、月に向かって働いていたし、ぼくがいままで知っていたこととは正反対に、地球は頭の上にあった。
そうなると、これも、当然のことなのだが、ケイヴァーリットのブラインドを、ぜんぶ、閉めてしまうと、≪下へ≫とは、この球体の中心のほうへ、ということを意味し、≪上へ≫とは、壁のほうへ、ということを意味していた。
また、光が下からさしてくるのも、地上の経験とちがって、珍しかった。地球上では、光は上からくるか、横からななめにさしてくるかだが、ここでは、光は、足もとからさしてきて、自分の影を見るためには、上を向かなくてはならなかった。
はじめのうちは、ただ、こうして厚いガラスの上に立って、何十万マイルとも知れない虚無の空間をとおして月を見おろしていると、めまいがするような気がした。だが、この不快さは、すぐに、消えた。そして、それからは、それは、すばらしい眺め! と、感じられるようになった。
読者は、せめて、こう想像したらいい。ある暑い夏の庭、地面に寝転がって、高く上げた両足の間から、月を見おろしたような感じが、それに近いのだ。ただ、どういうわけでか、たぶん、空気がないということが、いっそう光を鮮明にするせいだろうか、月は、地球からみるよりも、はるかに大きくみえた。月の表面のどんな微細な部分も、正確に、はっきりとみえた。
空気をとおさないから、その輪かくは、くっきりと輝いてみえた。
月は、にじんだり、かさをかぶったりしてはいなかった。空いっぱいの星屑は、月のふちのごく近くまでちりばめられ、月のまわりをキラキラとふちどりしていた。
だが、こうして、ガラスの上に立ち、足の間から月を眺めていると、出発いらい、ぼくにつきまとっていたあの絶望感が、何十倍もの強さで|甦《よみがえ》ってくるような気がした。
「ケイヴァーさん」と、ぼくは、いった。
「こうしていると変な気持ちになってくるんです。われわれのやろうとしている会社や、月にあるという鉱物のことやなんか……」
「ほほう」
「ここじゃ、なんにも見えませんね」
「そうですとも」と、ケイヴァー氏は、いった。
「だが、君は、ぜんぶ手に入れるようになるんだ」
「ぼくは、正しいんだと、なんども考えました。でも、いまでもまだ、なにかというとすぐに、いまのこれは現実じゃないんだというほうがほんとうなような気がしてくるんです」
「ま、そのロイド日報の記事が、君を力づけてくれますよ」
ぼくは、その新聞をとりあげて、しばらくみつめていた。顔より高く持ちあげると、とても読みやすくなることがわかった。
ぼくは、広告欄に目をとめて、読んだ。
『金貸したし。当方、個人資産家』
ぼくは、その資産家を知っていた。それから、カッタウェイ式の自転車を熱心に売りたがっている人がいた。
『新品同様 十五ポンド』
のものを、五ポンドで譲るというのだ。また、金に困った婦人が、
『結婚の贈物』
の魚用ナイフとフォークを処分したがっていた。
ぼくが、こうして、読んでいるときだって、おそらく、だれかお人好しが、もったいらしいようすでナイフやフォークを調べているだろうし、また、ある人は、得意になって、カッタウェイ式自転車を乗りまわしているだろうし、さらにまた、ある人は、情深い資産家さまを信頼しきって、金融の相談をしているだろう。
ぼくは、笑いだして、新聞を手からはなした。
「ぼくたちは、地球からみえるでしょうか?」と、ぼくは、たずねた。
「なぜです?」
「ぼくは、天文学に興味を持っている友人を知っています。それで、もし、その友人が、ぐうぜん、望遠鏡をのぞいていて、ぐうぜん、われわれをみつけたとしたら、さぞかし妙な感じがするだろうと思いましてね」
「世界中でいちばん強力な望遠鏡でも、いまのわれわれは、小さな点ぐらいにしかみえないでしょう」
しばらくの間、ぼくは、だまって、月を眺めていた。
「あれも、一つの世界なんだ」と、ぼくは、いった。
「地上でみたときよりも、はるかにはっきりと、そう感じますよ。たぶん、人々は……」
「人々ですって!」
彼は、さけんだ。
「およしなさい! そんなことは、みんな、忘れてしまいなさい! 自分は、前人未踏の空間を探険している超人的な極地旅行者の一人だと思っていればいいんだ。そんなことより、あれをごらんなさい!」
彼は、足もとに、白々と輝いている月のほうへ手をふった。
「あれは、死だ――死の世界だ! 巨大な死火山や、熔岩の荒地、雪や凍った炭酸ガスや空気のごろごろした残骸、どこにも、地すべり、断層、亀裂、絶壁ばかり――。ここには、もう、なにも起こらないのです。人類は、二百年以上も、組織的に、望遠鏡を使って、この衛星を観察してきました。その間に、どれだけの変化がみられたと思いますか?」
「なんにも」
「ところが、二つの歴然たる地すべりの跡がみとめられたのです。また、はっきりしないが一つの亀裂と、かすかだが、周期的な色の変化が起きています。それだけで、ぜんぶなんですがね」
「そんなことがあったなんて、知りませんでした」
「そうでしょうとも。でも、人々としては……!」
「ついでに……」と、ぼくは、たずねた。
「いちばん大きな望遠鏡でみると、月の上では、どのていどまで小さいものがみられますか?」
「相当な大きさの教会ぐらいなら、みえるでしょう。場合によると、なにか、町だとか、建物だとか、人工のものがみえるかも知れません。月には、たぶん、昆虫、たとえば、蟻のように、太陰の夜には、深い穴の中へかくれていることのできるような虫が、いるかも知れません。それとも、地球のものとは似ても似つかないような新しい動物がいるかも知れません。もし、あの月世界で、生命というものをみつけだせるとすれば、そういった動物が、いちばん可能性があるでしょう。生存の条件のちがいというものを考えてみたまえ! 月で生きるには、地球の十四日間にあたる長い昼間に自分を適合させ、その間、雲一つない灼熱の太陽に堪えなければならない。また、同じ長さの夜、この冷たく残酷な星の光に照らされて刻一刻と冷えきってゆく寒い寒い夜にも堪えなければならないのです。月の世界は、夜になると、極度に冷えて、絶対〇度、つまり、地球上の氷点下二七三度になるにちがいない。だから、月に住む生物は、すべて、夜は、深い穴の中で眠っていて、昼間になるとでてくるといったふうにして生きるほかはないのですよ」
彼は、考えにふけっていた。それから、いった。
「イモ虫のようなものを考えたらいい。ちょうど、ミミズが土を食べながら進むように、固形化した空気を持っているんですよ。それとも、皮の厚い、なにか、怪物みたいなしろものか……」
「ちょっと」と、ぼくは、口をはさんだ。
「どうして鉄砲を持ってこなかったんですか?」
彼は、この質問には、答えなかった。
「いや」
彼は、こう、結論をまとめた。
「とにかく、われわれは、いかなくちゃならないのです。すべては、月に着けばわかることです」
ぼくは、あることを思い出した。
「もちろん、月には、われわれの求めている鉱物は、あるにちがいありません」と、ぼくは、いった。
「月における生存の条件のいかんを問わずですよ」
そのうち、彼は、ちょっとの間、地球にわれわれをひっぱらせて、コースを少し変えたいといいだした。地球に面したブラインドを三十秒だけあけようというのだ。彼は、頭が動き出さないように、ぼくに注意をしてくれた。また、体が地球のほうへ落ちてゆかないように、手をひろげて、ガラスの壁に突っぱっているように、忠告してくれた。
ぼくは、彼のいうとおりにした。食糧|行李《こうり》や|圧搾《あっさく》空気の筒が落ちかかってこないように、足でおさえつけた。カチッ、と音がして、窓があいた。ぼくは、手と顔を下にして、間抜けな格好で逆立ちしていた。一瞬、ぼくのひろげた指の間から、母なる地球――ぼくの頭の下の空に浮かんでいる一つの惑星がみえた。
われわれは、まだ、地球に近いところを飛んでいた。ケイヴァー氏は、地球との距離は、たぶん、八百マイルぐらいだろうといったが、その地球という巨大な円盤は、天空いっぱいにひろがってみえた。しかし、すでに、地球が球形であることは、明らかにみとめられた。
眼下の陸地は、|黄昏《たそがれ》の光の中に霞んでいた。だが、西のほうにひろがる灰色の太平洋は、沈んでゆく太陽の下で、熔けた銀のように輝いていた。
ぼくは、フランスや、スペインや、南部イングランドの雲に霞んだ海岸線をみたように思う。カチッ、と音がして、ふたたびブラインドが閉められた。ぼくは、滑らかなガラスの壁を、月のほうへゆっくりと滑り上がりながら、自分の頭がますます混乱しているのを感じていた。
そのうち、頭の中がはっきりすると、月が、≪下のほう≫、つまり、ぼくの足の下にあることが、ちっともふしぎではないことがわかってきた。地球は、いま、どこかで、地平線の上にあるのだ。その地球っていうやつは、天地かいびゃくいらい、ぼくや、ぼくの親類たる人類にとって、≪下のほう≫にあったのだが――。
われわれは、ほとんど、疲労を感じなかった。実際に目方がなくなったので、われわれの仕事はとても楽にやれた。だから、(ケイヴァー氏の時計によると)出発いらい六時間になろうというのに、休んで元気回復しようなどという気は起こらなかった。
ぼくは、時間のたつのが早いのにおどろいた。ぼくは、まだ、働き足りないような気がしていた。ケイヴァー氏は、炭酸ガスと水分の吸収装置を点検して、それが満足すべき状態で、われわれの酸素の消費量はごくわずかだ、といった。
そのころには、われわれの話も、たねがつきていた。この上することもなし、われわれは、急におそってきたはげしい眠気に身をまかせて、月の光ができるだけはいってこないように、球体の底に毛布をひろげ、おたがいの安眠をいのり合って、横になった。そして、ふたりとも、すぐに、眠ってしまった。
こうして、眠りながら、ときどきは起きて話をしたり、たまには、本を読んだりした。ときには、食事もしたが、食欲はあまりなくて(*)、ほとんど、覚めるでもなくまどろむでもないような静寂にひたりながら、音もなく、静かに、そのくせ、すごいスピードで、月めがけて落ちていったのだ。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]* 奇妙な話だが、ぼくたちは、球体に乗っている間、ほとんど食欲を感じなかった。食物を食べないでいても、欲しくなかった。はじめは、無理をして食べていたが、後になると、完全に絶食してしまった。われわれは、持っていった圧縮食糧のわずか二十分の一も使わなかった。われわれの|吐《は》き出した炭酸ガスの量も、ふしぎなほど少なかった。だが、なぜそうだったのかは、ぼくには、まったく、説明がつかないのだ。
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六 月世界着陸
ある日、突然、ケイヴァー氏は、六つのブラインドをあけはなした。そのまぶしさといったら、ぼくは、目がくらんで、思わず大声をあげてしまったほどだった。
見わたすかぎりの月の世界。まっ白な暁の光にギラギラと輝く巨大な蛮刀。その輪かくは、底しれぬ暗黒の深淵にふちどられて、鋭く浮かびあがっていた。また、その暗黒の退き潮にかこまれた弦月形の岸辺からは、山々の頂きが、灼熱する太陽の光の中に顔をのぞかせていた。
読者諸君は、月世界の絵か写真をごらんになったことがおありだろう。だから、ぼくは、この景観の広大無辺な眺めを、くどくどと説明しようとは思わない。ここには、地球上のどんな山よりも広い環状火山の峰々が、太陽の光にギラギラと輝き、その影は、荒々しい線をみせて暗黒の中に沈みこんでいた。また、灰色のでこぼこした荒野、山脈、丘陵、噴火口、そうしたすべてのものが、火のように輝く明るさから、いちめんの神秘的な暗黒の中へと、つづいていた。
この眼下の月世界を横切って、われわれは、山々の頂きからわずか一〇〇マイルの上空を飛んでいたのだ。
やがて、われわれは、人類がまだ見たことのないものを目にすることができた。燃える太陽の直射をうけて、荒地の岩山や、峡谷や、火口のぎざぎざした輪かくは、だんだんと濃くなるもやの下で、灰色にぼやけていった。表面が白く光るそのもやは、吹きはらわれてはまたあつまって|縞模様《しまもよう》を作ったり、またも流されてはちりぢりとなり、消えていった。そして、そのあちこちに、褐色やオリーブのふしぎな色彩が生まれて、それが、いちめんにひろがっていった。
だが、われわれには、それをゆっくり眺めている時間はなかった。いまや、われわれは、この旅行の中での、実務的な危険に直面していたからだ。われわれは、月のまわりをまわりながら、少しでも月に近づいてゆかなければならなかった。スピードをゆるめ、月の表面に安着するチャンスをみつけなければならなかったのだ。
それは、まさに、ケイヴァー氏の独壇場だった。ぼくはといえば、はらはらしているばかりで、なにもできなかった。ぼくは、その間じゅう、肩身のせまい思いをしていた。
ケイヴァー氏は、球体の中を、地上では考えられないような身軽さで、あちこちと飛びまわった。彼は、絶えず、ケイヴァーリットの窓を開けたり閉めたり、ランプの光で計算をしたり、時計をみたりしていた。これが、最後の忙しい時間だった。
それから長い間、われわれは、窓をぜんぶ閉め、球体の中であちこちぶつかりながら、ものもいわず、暗やみの中に浮かんでいた。
やがて、彼は、ブラインドのボタンを押した。四つの窓が、さっとひらいた。ぼくは、よろめいて、目をおおった。ぼくの足もとから照りつける太陽のものすごい光をまともにうけて、焼けて盲になるかと思うほどだった。
ふたたびブラインドが閉められたが、ぼくは目をおさえたまま、頭の中がぐるぐるとまわりつづけているのを感じていた。
そして、そのまま、ぼくは、宇宙の暗い静寂の中に浮かんでいたのだった。
そのうちに、ケイヴァー氏が、電灯のスイッチをいれた。着陸のショックにそなえて、荷物をぜんぶ毛布で包んだほうがいいというのだ。
われわれは、窓をぜんぶ閉めたまま、この仕事をした。つまり、窓を閉めておけば、荷物は、ひとりでに球体のまんなかへんにとまっているからだ。これも、また、変わった仕事だった。われわれふたりは、球体内の空間にふわふわと浮いたまま、荷物を包んだり、ロープをかけたりしていたのだから。
考えてみたまえ。上も下もなく、ちょっとでも力をいれると、とんでもない方向へ動いてしまうのだ。
あるときは、力いっぱいケイヴァー氏に押されて、ガラスの壁に押しつけられたかと思うと、次には、空中でバタバタやっている。いま、電灯が星のように頭の上にあったかと思うと、たちまち、足の下にある。また、ケイヴァー氏の足が、ぼくの目の前に浮かんだかと思うと、こんどは、いれちがいにかさなりあってしまう。と、まあ、そんな具合だったのだ。
だが、とうとう、荷物は、安全にまとめられて、大きなやわらかい包みにされ、われわれ自身を包むための、頭の孔をあけた二枚の毛布だけが残った。
それから、ケイヴァー氏は、月に面した窓を、ちょっとあけた。われわれは、巨大な噴火口の真っただ中へと落下してゆくところだった。そのまわりには、無数の小さな噴火口が、ごたごたと集まっているのがみえた。つぎに、彼は、|灼《や》けつくようにまぶしい太陽の側の窓をさっと開けた。おそらく、彼は、太陽の引力をブレーキに使っていたのだろう。
「毛布をかぶりたまえ」
彼は、ぼくを押しはなしながら、さけんだが、それが、どういう意味なのか、しばらくの間は、わからなかった。
その意味がわかると、ぼくは、足もとから毛布を拾いあげ、体を包み、頭と目とをおおった。
彼は、すばやくブラインドを閉め、また一つ開けて、閉じた。それから、急に、ぜんぶを開けはじめた。ブラインドは、つぎつぎと、安全な鋼鉄のローラーの中におさまった。
はげしいショックがきて、われわれは、ごろごろ転がり、ガラスの壁や、荷物の大きな包みとぶつかり、おたがいにつかまえ合って身を守った。窓の外では、まるで、雪のスロープを転がり落ちているように、なにか白いものが、はねかえっていた。
転がったり、つかまったり、ぶつかったり、つかまったり、ぶつかったり、転がったり……。
どしん、と大きな音がして、ぼくは、荷物の包みの下敷きになった。しばらくは、しーんとしていた。やがて、ケイヴァー氏のふうふういう鼻息と、ブラインドがその|枠《わく》の中でガタガタいっている音が聞こえた。ぼくは、やっとの思いで、毛布包みの荷物を押しのけ、その下から這いだした。
窓からの眺めは、まるで、無数の星をならべた、まっ黒な宝石箱のように、すばらしかった。
われわれは、まだ、生きていたのだ! そして、われわれが落ちてきたこの大噴火口の壁のまっ暗な影の下に、生きているのだ!
われわれは、すわったまま、いきをとりもどした。手足は、打ち身で、ずきずきと痛んだ。あこがれの月世界に着陸しようというのに、こんならんぼうな取扱いをうけようとは、ぼくもケイヴァー氏も、夢にも思わなかったのだ。
ぼくは、痛みをこらえて、立ちあがった。
「さて……と」と、ぼくは、いった。
「お月さまの景色でも拝見しましょうか! でも、ずいぶん、暗いですね、ケイヴァーさん!」
ガラス窓は、曇っていたので、ぼくは、毛布で拭きながら、そういった。
「昼までは、まだ、三十分かそこらはあるようです」と、彼は、いった。
「われわれは、待たなければなりません」
なにひとつ、みわけることはできなかった。たとえ、みわけることができたとしても、われわれは、この鋼鉄の球体を出ようとはしなかったろう。
いくら毛布でこすってみても、ガラス窓はよごれるばかりだった。拭うと、たちまち、ガラス窓は、新しく凝縮した湿気で曇ってしまう。おまけに、そいつには、こするたびにふえる毛布の毛がまじっているのだ。もちろん、毛布なんか使ってはいけなかったのだが。
ガラスをきれいにしようと奮闘しているうちに、ぼくは、その湿った表面で滑ってしまい、包みからつきだした酸素管の一本に、むこうずねをぶつけてしまった。
腹のたつことばかりだ――じつに、ばかげたことだ!
いま、こうして、月に着陸したというのに、まわりには、おどろくほどのものは、なにもありやしない。みることのできるものといったら、われわれがとびこんだこの月のあばたの、灰色の熔岩の壁ばかりなのだ。
「ちくしょう!」と、ぼくは、いった。
「こんなことなら、うちにいればよかった!」
ぼくは、荷物の上にしゃがんで、がたがたふるえながら、毛布をかき合わせた。
みるみる、湿気は、凍りついて、きらきら光るシダの葉のような霧の結晶を作った。
「電熱器に手が届くかね?」
ケイヴァー氏が、いった。
「そう、その、黒いボタンだ。このままじゃ、ふたりとも、凍え死んでしまう」
いわれるまでもなく、ぼくは、ボタンを押した。
「さて」と、ぼくは、いった。
「つぎには、なにをしたらいいんです?」
「待つのです」と、彼は、いった。
「待つ?」
「もちろんです。われわれは、もういちど空気が温かくなるまで待たなければなりません。そうすれば、この窓ガラスもきれいになる。それまでは、なんにもできないのです。いまは、まだ、夜ですよ――われわれは、昼がくるまで待たなければなりません。ところで、君、腹がすきませんか?」
しばらくの間、ぼくは、返事もせず、いらいらしてすわっていた。ぼくは、しぶしぶ、いままで|覗《のぞ》いていた噴火口の壁から目を転じた。氷原に並ぶ丘は雪の山らしかった。そのとき、ぼくは、そう思ったのだが、それは、雪ではなかった――それは、凍った空気が集まってできた丘だったのだ!
はじめは、こんな状態だった。だが、それから、突然、びっくりするような速さで、太陰日〔月が子午線を通過してから、ふたたび、同じ子午線を通過するまでの時間。二四時間五〇分二八秒三〕がはじまった。
太陽の光が、絶壁の上からさしこんできた。ふきよせられてたまった凍った空気の山を根もとまで照らすと、たちまちのうちに、ものすごい早さで、われわれのほうへと伸びてきた。
はるかな絶壁は、揺れながら動いているようにみえた。太陽の光があたると、灰色の水蒸気の霧が火口の底から舞いあがり、渦をまき、乱れ散り、灰色の幽霊のようにただよいながら、だんだんと厚くなり、ひろがり、濃くなっていった。しまいには、西側の平地は、火にかざされた濡れたハンカチのように水蒸気でいっぱいになり、西側の絶壁は、そのために屈折する太陽の光のようにみえた。
「あれは、空気です!」と、ケイヴァー氏は、いった。
「空気にちがいない――さもなければ、こんなぐあいに――ちょっと日光があたっただけで――蒸発するはずはないんだ。だから、この調子だと……」
彼は、上のほうをのぞいて、いった。
「ごらんなさい!」
「なんです?」
ぼくは、たずねた。
「ほら、あの空に、あの暗やみの中に――ほんのすこし、青みがかったところがある! みたまえ! 星がいままでよりも大きくみえるじゃないか! われわれが、いままで、空のかなたに眺めていたのは、小さな星と、ぼんやりした星雲だけだったんです――この大きな星は、みえなかったんですよ!」
太陽は、ぐんぐんと近づいてきた。灰色の山頂は、つぎからつぎへと、太陽の光を浴びて、強烈なまっ白い煙をあげた。そして、ついに、われわれの西のほうは、岸打つ波のように湧きかえる霧と、絶え間なく乱れさわぎながら立ち昇る雲のようなもやでいっぱいになってしまった。
はるかにそびえていた絶壁は、そのもやの中で、ますます遠ざかり、ぼやけてゆき、とうとう、渦巻きの中に没してみえなくなってしまった。
湧き上がる蒸気の雲は、どんどん、近づいてきた。そして、その雲の影が球体に届くと同時に、南西の風が吹きはじめた。球体のまわりには、われわれが予期していたとおり、薄いもやのようなものがたちこめた。
ケイヴァー氏が、ぼくの手を握った。
「どうしたんです?」と、ぼくは、たずねた。
「みたまえ! 日の出だ! 太陽です!」
ぼくは、ふりむいて、彼の指さした東側の絶壁の上をみた。その絶壁は、われわれをとりかこむもやの上にぼんやり浮かび、まるで、暗い空に溶けこんでいるようにみえた。だが、だんだんと、その輪かくが、みなれない、赤みがかった――朱色の炎の舌が、身をよじって踊っているような――形になって、くっきりと浮かんできたのだ。
ぼくは、想像した。あれは、渦巻きのようになった蒸気にちがいない。それが光って、あの絶壁の頂きを、空に燃えあがる炎の舌のようにみせるのだ。
しかし、実際は、ぼくが見たのは、太陽のすばらしさだったのだ。朱色の炎の舌のような輝きは、地球上では、空気のベールのために永遠に見ることのできない、太陽をとりまく冠状の炎の|環《わ》、コロナの実体だったのだ。
やがて、太陽が、のぼった!
はじめは、ゆっくりと、なにものも避けることができないほど強く、一筋の輝かしい光がさしてきた。その容赦ない輝きは、その薄いふちで、一つの円を描いていたかと思うと、弓となり、また、炎の王杖となって、槍のように灼熱した電光を投げてよこすのだ。
まるで、目を射られたような気がした! ぼくは、さけび声をあげて、目をおさえ、包みの下の毛布を探した。
その白熱する光の中に、ある音が聞こえていた。それは、地球を出発してからはじめて聞いた球体の外からの音だった。シューシューいうような、ズルズルいうような、昼が前進しながら空気の服を荒々しくひきずっているような音だった。
その光と音がすると、球体はぐらりと傾き、目がくらんで、なにもみえなくなった。われわれは、危なっかしくよろめきながら、手をとり合って立っているのがやっとだった。
球体は、ふたたび傾き、シューシューいう音が高くなった。ぼくは、仕方なく、目をつぶり、毛布を頭からかぶろうと、もがいた。だが、二度目の揺れがきたとき、ぼくは、みじめに足をとられてしまった。
荷物の包みにぶつかって、目をひらいてみると、ガラス窓のすぐそばの空気が、ほんの一瞬、ちらりとみえた。空気は、湧き立っていた――つまり、雪の中に白熱した鉄の棒を突っこんだように、ふっとうしていたのだ。凍っていた空気は、太陽の光に照らされると、たちまちのうちに、糊や泥のようなどろどろした液体となり、シューシュー、ブクブクいいながら気化してゆくのだ。
またもや、球体がぐるっとまわり、われわれは、ぶつかりあった。つぎの瞬間には、きりきり舞いをさせられていた。われわれは、あちこち転がり、ぼくは四つんばいになってしまった。われわれは、月の夜明というやつに、いいようにされていた。そいつは、このちっぽけな人間であるぼくたちに、月は、おまえたちを、どんな扱い方でもできるのだということを、みせつけるつもりだったのだ。
ぼくは、もういちど、外界を眺めた。もうもうと蒸気がたちのぼり、半ばとけて、どろどろした液体となった空気が、その白い塊りに穴をあけて、滑っては落ち、落ちては滑りしていた。と、われわれは、また、暗闇に突き落とされた。ぼくは、ケイヴァー氏の膝を胸に抱いていた。でも、すぐに、どこかへ飛んでいったらしい。
ぼくは、息を殺して横になり、じっと上のほうをみつめていた。
いわば、われわれをおそった溶けかかった空気の巨大な地すべりは、われわれを埋めつくし、それから、ふっとうしながら蒸発してゆくのだ。上方のガラス窓の上に、ブクブクおどりながら蒸発している空気の泡がみえた。
ケイヴァー氏は、弱々しい声で、なにか、さけんでいたようだ。
こんどは、溶けかかった空気の大なだれにまきこまれた。おたがいに気をつけあいながら、われわれは、斜面をどんどん転がり落ちていった。岩の裂け目を飛びこえ、岸にはねかえり、だんだんとスピードを増して、西のほうに、白熱して湧きかえっている月世界の昼の混乱の中へ、転がっていったのだ。
われわれは、つかまり合ってぐるぐるとまわり、あっちこっちへぶつかった。荷物の包みがわれわれにとんできて、ごつごつとあたった。ぼくとケイヴァー氏も、ぶつかり合い、しがみつき合い、はなればなれになった――頭が鉢合わせすると、全宇宙が破裂して、目から火花が散るような気がした!
地球の上だったら、われわれは、なんども、粉々になってしまったはずだが、月世界では、幸運にも、われわれの目方は地球上の六分の一しかないために、うまく助かったのだと思う。でも、ぼくは、まったくいやな気分になっていた。まるで、ぼくの脳みそが、頭蓋骨の中でさかさまになってしまったようないやな気持ちだった。また、そのほかの不愉快さといったら――。
だれかが、ぼくの顔になにかしたような気がした。だれかが、ぼくの耳になにかささやいたような気がした。
眼をあけてみると、ぼくは、青い色眼鏡をかけていることに気がついた。その色眼鏡のおかげで、周囲の景色の強烈な光が、やわらげられていたのだ。
ケイヴァー氏が、ぼくを、のぞきこんでいた。ぼくは、彼の顔をさかさまに見あげた。彼も、色眼鏡をかけていた。彼の呼吸は平静にもどっていたが、唇をぶつけたらしく、血が流れていた。
「すこしはよくなったかね?」
唇の血を手の甲で拭いながら、ケイヴァー氏は、いった。
しばらくは、すべてのものが揺れ動いているようにみえた。だが、それは、ぼくのめまいのせいだった。ケイヴァー氏は、ぼくを、太陽の直射光から守るために、外側のブラインドをなん枚かおろしてくれたらしかった。
ぼくは、まわりが、とても明るくなっているのに気がついた。
「おやおや!」と、ぼくは、あえぎながら、いった。
「これは、いったい……」
ぼくは、首をあげて、見た。外は、目もくらむばかりの明るさだった。最初の陰うつで暗黒な印象とは、一変していた。
「ぼくは、よっぽど長いこと気を失っていましたか?」と、ぼくは、たずねた。
「さあ……、時計がこわれてしまいましたからね。なに、ちょっとの間ですよ。……だが、君、心配しましたよ……」
ぼくは、この声を聞きながら、そのまま、横になっていた。彼の顔には、明らかに感動の色が残っていた。しばらくは、ぼくも、無言だった。ぼくは、手をのばして、打ち身の上をさぐってみた。彼の顔にも、おなじような傷があった。ぼくは、右手の甲を、いちばんひどくやられていた。皮がむけて、ぴりぴりしていた。おでこも打っていて、血がにじんでいた。
彼は、なにか回復薬――その名前は忘れてしまったが――のはいった目盛コップをわたしてくれた。
しばらくすると、気分がよくなってきた。ぼくは、そろそろと、手足をのばしてみた。まもなく、話ができるようになった。
「まだ、だいじょうぶですね?」
ぼくは、せきたてられるように、いった。
「もちろん、|まだ《ヽヽ》、ですとも!」
彼は、ひざに手をおいたまま、考えこんでいた。
彼は、ガラス越しに外を|覗《のぞ》いた。それから、ぼくをじっと見て、いった。
「よかった! まだ、でよかったんだ!」
「いったい、どうしたんです?」
しばらく考えて、ぼくは、たずねた。
「月の熱帯地方へでも、とびこんじまったんですか?」
「予想したとおりだった。ここの空気は、蒸発してしまったのです。それが、空気だったとしての話ですがね。とにかく、そいつは蒸発してしまって、月の表面がみえているのです。われわれは、いま、地面の岩山の上にいるのです。あちこちに、地肌が露出していますが、奇妙な種類の土ですよ」
彼は、これ以上説明することはむだだと思ったらしく、ぼくを助けて、窓際にすわらせてくれた。おかげで、ぼくは、自分の目で、月世界の朝を、ゆっくりと見ることができたのだった。
[#改ページ]
七 月世界の朝
さっきまでの、黒と白との荒涼とした風景は、あとかたなく消えていた。太陽の光は、かすかに|琥珀《こはく》色を帯び、噴火口の絶壁の上に落ちる影は、深い紅色をていしていた。東のほうには、まだ、うす暗い霧が堤防のようにひろがって停滞して、日光をさえぎっていたが、西のほうは、空が青く、澄んでいた。ぼくは、だんだんと、自分が、どれほど長い時間気を失っていたかが、わかってきた。
われわれの周囲は、もはや、真空ではなく、蒸発した空気が、まわりをとりまいていた。物の輪かくは、その形をとりはじめ、だんだんとはっきりとみえはじめてきた。日かげには、あちこちに白い物が残っていたが、その白いものは、もう、空気ではなく、ほんとうの雪だった。さっきの、北極地方へでもいったような眺めは、まったくなくなっていた。いたるところに、裸の、石のごろごろした地面が赤錆色にひろがって、太陽の光にさらされていた。あちこちに吹き寄せられた雪のふちのところには、ときどき、小さな水溜りと渦巻きがみえた。この広漠たる不毛の土地にあって、動くものといえば、ただ、それだけだった。
日光が、われわれの球体の上部の三分の二を照らしたとき、内部の温度は夏の暑さに一変した。だが、われわれの足もとはまだ日かげになっていたので、球体は、雪のふきだまりの上に乗って、動かずにいることができたのだ。
斜面のあちこちには、なにか杖のような形をしたものが散らばっていた。その日かげになった部分には、糸のように消えのこった雪が乗っていて、日なたの部分よりもはっきりみえた。乾いた、ねじりん棒のようで、下の岩とおなじ赤錆色をしていた。
あれをみたら、きっと、だれでも考えただろう。
杖だって! この、生命のない月世界に!
やがて、その杖がどんなものかがわかってきた。よくみると、表面は、ほとんど、繊維組織でできていて、松の木の下に生える褐色のじゅうたんのような針葉植物によく似ていた。
「ケイヴァーさん!」と、ぼくは、いった。
「え?」
「ここは、いまでこそ、死の世界かも知れませんが、むかしは……」
ぼくは、あるものに、気がついた。その針のようなものの間に、たくさんの小さな丸いものをみつけたのだ。その中の一つが動いたようにみえた。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、ささやいた。
「どうしました?」
ぼくは、すぐには、答えなかった。ぼくは、たしかめるように、みつめていた。しばらくは、われとわが目を信じることができなかった。ぼくは、わけのわからない叫び声をあげて、彼の腕をつかみ、指さした。
「み、みてください!」
どもりながら、ぼくは、さけんだ。
「あそこです! そう! ほ、ほら、あそこですよ!」
彼は、ぼくの指さすほうを目で追った。
「どれどれ?」
彼は、いった。
ぼくがそのとき見たものを、なんと形容したらいいだろう? ものを口づてで説明することぐらいくだらないことはないのだ。
とにかく、それは、まさにおどろくべきもので、見るものに深い感動をあたえずにはおかないようなものだった。
ぼくは、さっき、杖のようなものが散らばっているまんなかに、まるいものがあるといったが、そのまるいものは、ごくちいさい水晶の玉ともいえるような、卵型をしていた。
やがて、はじめに一つ、つぎに二つ目が、動きだし、転がり、ぽっかりと割れた。その割れ目からは、浅みどり色をした細い筋のようなものが出てきて、昇ったばかりの太陽の暖かい刺激をうけるために、外のほうへ伸びてくるのだ。しばらくの間は、二つだけだったが、やがて、三番目が動きだし、ぽっかりと割れた。
「あれは、種子です」と、ケイヴァー氏は、いった。それから、静かにつぶやくのが聞こえた。
「|生命《ヽヽ》です!」
「生命ですって!」
ぼくは、急に、嬉しくなった。われわれの大旅行は、むだではなかったのだ。われわれは、無味乾燥な鉱物ばかりの不毛の地へきたのではなくて、生物が動いている世界へきたのだ! われわれは、なおも熱心に、見まもりつづけた。ぼくは、ごくわずかな曇りにもいらいらしながら、目の前のガラスを、袖で拭きつづけていたのを、覚えている。
景色が明瞭にはっきりとみえたのは、平地の中央だけだった。そのまわりの部分では、繊維も種子も、ガラスの屈折のために、大きく歪んで、生命のないもののようにみえていた。それでも、見るには、じゅうぶんだったのだ!
太陽のあたった斜面いっぱいに、このふしぎな小さな褐色の玉は、つぎつぎと裂けて口を開いた。まるで、種子のさやのように、あるいは果物の皮のように、大きな口をあけて、昇ったばかりの太陽から滝のように注がれる熱と光を呑みこもうとあがいているようだった。
刻々と、裂けるさやの数はふえていった。その間にも、前の種子はふくらみつづけて、膨張したさやの裂け目からあふれだし、成長の第二段階にはいっていた。確実に、しかも、かなりな早さで、このおどろくべき種子は、地面にむかって細い根をおろし、空にむかっては、奇妙な、束のような形の芽をのばしていた。ほんのわずかの間に、全斜面は、点々と太陽の光を求めてのびつづけるこの小さな植物によっておおわれてしまったのだ。
その小さな植物は、長くは立っていなかった。その束のような形をした芽は、ふくらみ、のび、パッと開くと、さきが赤く鋭い冠のようなものが出てきて、輪生する固く尖った褐色の葉をひろげながら、われわれの見まもっている前で、どんどんと、のびていった。
その動きは、動物よりはおそかったが、いままでに見たことのあるどんな植物よりも早かった。その成長のようすを、諸君に伝えるには、どういったらいいのだろう?
要するに、その早さは、われわれが見ていても、葉のさきが上のほうへ動いてゆくのがわかるほどの成長ぶりだった。褐色のさやのほうは、それと同じ早さで、しぼみ、吸収されていった。
諸君は、寒い日に、寒暖計を温かい手でにぎると、管の中を、水銀の細い線が昇っていくのを見たことがあるだろう。この月世界の植物は、ちょうどそんなぐあいに、成長したのだ。
数分と思われるうちに、ふえつづけるこの植物の芽は、のびて、茎になり、その茎からは、二度目の輪生した葉まででてきた。
ついさっきまで、生命のない、ワラ屑をちらかしたようにみえていた斜面も、いまは、穂のようなものの密生した、オリーブがかったグリーンの背の低い草でいっぱいになっていた。その穂のようなものは、のびようとする生命力で、ざわざわと揺れ動いていた。
ぼくは、みまわした。そして、発見した! 東のほうの岩のふちにそって、おなじ植物が、おなじような成長ぶりで、揺れ動いたり、なびいたりしていた。それは、まぶしい太陽の光を背にして、暗い影になってみえた。そして、この火口のふちかざりのような植物の上には、一群の植物が、黒いシルエットとなって、サボテンのようにぶかっこうに枝をひろげ、空気のはいっていく浮袋のように、みるみる、ふくらんでいくのだった。
西のほうにも、おなじような植物が、ふくらみながら、背の低い草むらの上にのびていくのをみつけた。こちら側は、日光があたって、明るかったので、その植物が、あざやかなオレンジ色をしていることがわかった。それは、見ているまにぐんぐんのびて、ちょっとでも目を放していると、その形が変わってしまうほどだった。そいつは、ぶかっこうな、充血したような色の枝を出し、わずかの間に、何フィートもあるサンゴのような形に成長してしまうのだ。この早い成長ぶりに比べると、一晩のうちに直径一フィートも太くなることがあるという地球のホコリ|茸《だけ》などは、問題にならないほどのノロマだといえるだろう。もっとも、ホコリ茸は、月の六倍もある地球の引力にさからって成長するのだから、比較にはならないかも知れないが――。
さらに、われわれからはみえなかったが、生命力をあたえる太陽の光を浴びていた峡谷や平地から、ぎらぎら光る岩の裂け目や土手の上に、釘のようにやせた植物や、肉の厚い植物ののぎの多い穂先がのびあがってくるのが見えた。その植物は、短い一日をできるだけ成長に利用しようとでもいうように、大さわぎして、急いでいるようだった。その短い一日のうちに、花をひらき、実をならせ、種子を作って、死んでいかなければならないのだ。
その成長ぶりは、まさに、奇蹟といってもよかった。
天地創造のとき、木や草が発生して、創り出されたばかりの地球の不毛の土地をおおったときの光景も、こうだったかも知れない。
想像してみたまえ! この月世界の夜明けの光景を心に思い描いてみたまえ!
凍りついた空気の復活。大地の目覚めと生命の誕生。それから、植物の静かな発生と、この肉の厚い植物や釘のようにやせた植物の地球上では考えられないような成長――。
それらのすべてが、地球上で最も強い日光でも、これに比べたら淡く弱いと思わせるほどの強烈な太陽の光に照らされているところを、想像してみたまえ。
この成長をつづける植物の間には、いたるところ、まだ影になっているところがあって、青みがかった雪が土手のように残っていた。
われわれのうけた印象を完全に描いてみるには、諸君は、つぎのことを思いだしてくれればいい。
ぼくとケイヴァー氏は、すべての風景を、厚い、曲面のガラスをとおして見ていたのだ。そして、そのガラスは、物がレンズによって屈折されるように、風景を屈折させ、その中心のあたりだけが正確で、明るく、その周辺へいくにつれて、拡大され、ぼやけてみえたのだ。
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八 いよいよ、探険をはじめる
われわれは、外をみるのをやめた。そして、おなじ考え、おなじ疑問をいだきながら、目と目を見合った。
これらの植物が成長するためには、いくらかでも空気があるにちがいない――たとえ、どんなに稀薄だとしても――われわれも、その空気を呼吸することができるにちがいないのだ。
「マンホールをあけますか?」と、ぼくは、いった。
「ええ」
ケイヴァー氏が、いった。
「いま、われわれの見ているものが、ほんとうに空気だったらね!」
「まもなく、あの植物は、われわれぐらいの高さになるでしょう」
ぼくは、いった。
「でも、考えてみてください――とにかく、考えてみてくださいよ――あの物質が空気だなんて、たしかなことなんですか? どうして、それが、わかるんですか? そいつは、窒素かも知れませんよ。それどころか、炭酸ガスかも知れないじゃありませんか!」
「それをみわけるのは、わけないことです」
彼は、そういって、その証明にとりかかった。彼は、荷物包みの中から、大きなしわくちゃの紙をとりだし、それに火をつけて、マンホールのバルブから手ばやく外へほうりだした。ぼくは、身をかがめて、厚いガラス越しに、その紙がどうなっていくか、のぞいてみた。なにしろ、月に空気があるかどうかということは、ひとえに、その小さな炎がどうなるかにかかっていたのだから。
紙が、雪の上にふわりと落ちたのがみえた。燃えていたピンク色の炎が消えた。一瞬、火は、まったく消えてしまったようにみえた。……だが、すぐに、青白い炎の舌が、紙のふちから、ちらちらと燃えひろがっていくのがみえた。
紙は、雪に直接さわっているところのほかは、焦げて縮みあがり、ゆらゆらと立ちのぼる煙とともに燃えつきてしまった。
もはや、疑うところはなかった。月の大気は、純粋の酸素か空気にちがいない。したがって、それが、稀薄すぎさえしなければ、われわれ外来者の生命を支えることは可能なのだ。
われわれは、球体から外に出ることができる――そして、生きていくことができるのだ!
ぼくは、マンホールの両側に足をふんばって、蓋をあける準備をはじめた。ところが、ケイヴァー氏がとめて、こういった。
「まず最初に、ちょっとした用心が必要です」
彼は、たとえ外気が酸素をふくんでいることは確かだとしても、それは、まだ、稀薄で、われわれの身に重大な障害をひき起こすかも知れないことを指摘した。彼は、高山病や、急上昇のスピードの早すぎる場合、飛行家たちを悩ます出血のことなどを、ぼくに思いださせた。
彼は、しばらくかかって、胸のわるくなるような味の飲み物を作り、むりやり、ぼくにも飲ませた。飲んでみると、ちょっとしびれるような感じがしたが、そのほかには、なんの影響もないようだった。それから、彼は、蓋をあけることを許してくれた。
マンホールのガラスの蓋の止め金は、すぐにゆるんだので、球体の中の圧縮された空気が、ねじのみぞを伝って逃げはじめ、やかんの湯がふっとうするまえのような音をたてた。彼は、いそいで、ぼくをとめた。外界の圧力が内部よりだいぶ小さいということが、すぐにわかった。だが、どれくらい小さいのか、ということを知る方法は、なかった。
ぼくは、マンホールの蓋の止め金を握ったまますわっていた。われわれの熱烈な期待にもかかわらず、万一、月世界の空気が、われわれの堪えられないほど稀薄だということがわかったら、すぐに閉めようと用意していたのだ。
ケイヴァー氏は、内部の圧力を回復するための酸素管を持ってすわっていた。
われわれは、ものもいわず顔を見合わせていた。それから、外部の奇妙な植物が、揺れ動きながら、音もなく、みるみる大きくなっていくようすを眺めた。シューシューいいながら空気の出ていく音は、まだ、つづいていた。
血管が、耳の中でがんがん鳴りはじめた。ケイヴァー氏のがさごそ動く音は、ほとんど聞こえなくなった。ぼくは、空気が稀薄になると、すべての物音がいかに静かになるかということを知った。
空気が蓋の|捻《ね》じ合わせ目から噴きだすとき、その湿気は、凍って、細い煙のようになった。
まもなく、ぼくは、妙に呼吸が早くなったのを感じた。この感じは、われわれが月の外気にさらされている間じゅう、つづいた。耳や、指の爪や、首のあたりに、かなり不愉快な感じがしてきたが、それは、やがて、おさまった。
つぎに、目まいと吐き気がおそってきた。ぼくは、急に不安な気持ちになった。マンホールの蓋を半回転だけ閉め、いそいで、ケイヴァー氏にいいわけをいった。だが、その時には、彼の顔も、充血で真赤になっていた。
彼は、なにか答えたが、その声は、音を伝える空気が稀薄になっているために、すごく小さく遠く聞こえた。
彼は、ぼくに一杯のブランディーをすすめ、自分も、飲んだ。すぐに、ぼくは、気分がよくなった。
ぼくは、マンホールの止め金をひねって、もとどおりにあけた。耳鳴りの音は、また、大きくなったが、そのうちに、ぼくは、空気の噴きだすシューシューいう音が止まったことに気がついた。だが、しばらくの間は、それがたしかに止まったのかどうか、確信が持てなかった。
「さて」と、ケイヴァー氏が、ほとんど聞きとれないほどの声で、いった。
「さて?」と、ぼくも、いった。
「でかけますか?」
ぼくは、ちょっと考えて、いった。
「これでいいんですか?」
「あんたさえよければね」
返事するかわりに、ぼくは、再び、マンホールの蓋をはずしはじめた。円い蓋をとりはずして、そっと荷物の包みの上に置いた。外界の稀薄なそして吸い馴れない空気が球体にはいってくるとき、一、二片の雪が舞いこんできて、消えた。ぼくは、這い出て、それから、マンホールのふちに腰をおろして、あたりを見まわした。すぐ下に、ぼくの顔から一ヤードとはなれないところに、まだ、人に踏まれたことのない月世界の雪が、横たわっていた。
しばらくは、そのままでいた。やがて、二人の目が合った。
「あんたの肺にはこたえるんじゃないか?」と、ケイヴァー氏が、いった。
「いいえ、ごらんのとおりです」と、ぼくは、いった。
彼は、手をのばして毛布をとり、そのまんなかの穴から首をだして、身にまとった。彼は、マンホールのふちに腰をかけ、月世界の雪から六インチほどのところまで足をおろした。一瞬ためらったのち、体をのりだし、その高さから飛びおりた。彼は、まだだれも踏んだことのない月世界の土の上に立ったのだ。
彼が歩きだすと、その姿は、ガラスのふちのために、グロテスクに屈折してみえた。
彼は、しばらく立ちどまって、あちこち見まわしていた。それから、身をかがめて、ピョン、と、跳躍した。ガラスのために、あらゆるものは歪んでみえたのだが、それにしてもこの跳躍は極端に大きいように思われた。
彼は、一跳ねで遠くのほうまでとんでいってしまった。二十フィートか三十フィートもとんだようだった。彼は、高い岩山の上に立ち、ぼくにむかって合図をしてみせた。おそらく、なにかさけんだのだろうが、ぼくのところまでは聞こえなかった。いったいぜんたい、どうしてあんなことができたのだろう? ぼくは、まるで、新しい魔法の手品でもみているような気がした。
なにがなんだかわからないまま、ぼくも、マンホールからとびおりた。ぼくは、立ちあがった。すると、ちょうど目の前に、吹きだまりの雪がとけて溝のようになったところがあった。ぼくは、ふみきって、とんだ。
するとどうだ。ぼくは、自分が空を飛んでいるのに気がついた。彼の立っている岩がみるみるぼくに近づいた。ぼくは、びっくりぎょうてんして、夢中でそれにつかまり、しがみついた。ぼくは、息がとまるほど笑った。まったく、わけがわからなくなっていたのだ。
ケイヴァー氏は、ぼくのほうに身をかがめて、虫の鳴くような声で、気をつけろ! と、どなった。
ぼくは、地球の質量のたった八分の一で、直径では四分の一の月の上では、自分の目方が、地球上のやっと六分の一しかないということを忘れていたのだ。
だが、いまでは、もう、いやでもその事実を忘れないようにしなければならなかった。
「いまや、われわれは、母なる地球のあやつり糸から切りはなされているんだから、気をつけたまえ」と、彼は、いった。
ぼくは、用心深く、まるで、リューマチ患者のようにそろそろと、岩のてっぺんまでよじのぼって、日光の下に、彼と並んで立った。
ふりかえってみると、われわれの乗ってきた球体は、ここから三十フィートばかりのところに、だんだんとけて小さくなっていく雪の吹きだまりの上に、横たわっていた。
みわたすかぎり、この広大な岩のごろごろした火口の底には、われわれのまわりにあるのとおなじような|棘《とげ》のある灌木が、生長をはじめていた。そのところどころには、サボテンの形をしたふくらんだ植物の群や、岩の上を這うようにどんどん成長する緋色や深紅色のコケの類が、景色に変化をあたえていた。
まさに、火口の全体は、まわりの絶壁のきわまで、おなじような荒れはてた土地がつづいているにちがいないのだ。
絶壁は、そのふもとのところを除いては、明らかに、植物はなにも生えていなかった。
建物のせりもちみたいになったところや、張り出しや、台地のようになったところがあったが、そのときには、あまり、われわれの注意をひかなかった。絶壁までは、どの方角へ向かっても何マイルもありそうだった。われわれは、火口の、ほとんどまん中あたりにいるらしかった。まわりの絶壁は、風に舞いあがるもやのようなものの間から、みえたのだ。
というのは、いまや、この稀薄な空気の中に風まで吹いてきたからだ――早いが、弱い風で、ものすごく冷たいが、風圧は、さっぱり感じなかった。それは、太陽を背にした絶壁の下の霧のたちこめた暗がりから、暖かい明るい側へと火口の中をまわっているらしかった。
この東側の霧の中を見ることはむずかしかった。ほとんど動かない太陽が強烈に照りつけているので、われわれは、手をかざし、目をなかば閉じて、見なければならなかったのだ。
「生き物なんかいそうもありませんな」
ケイヴァー氏はいった。
「まったくの不毛の地だ」
ぼくは、あらためて、あたりを見まわした。
それでもなお、ぼくは、なにか、人間の住んでいる形跡が、建物の尖塔が、家屋か乗物かがあるかも知れないという希望に、しがみついていた。しかし、いたるところ、れいのごつごつした岩が絶壁のてっぺんまでそびえ立ち、棘のある灌木や、あのどんどんふくれるサボテンがひろがっていくだけなのだ。ぼくの希望は頭から否定されたようなものだった。
「まるで、あの植物どもだけの世界みたいですね」と、ぼくは、いった。
「なにか、ほかに、生物のいる形跡なんかありやしません。虫も、鳥も、なにもいないんだ! なにか、動物が生きていた痕跡も、ちょっとした残骸だって、ありやしない。だいいち、あったとしたって、夜はどうするんだ? いや、いやしない。この植物どもだけなんだ!」
ぼくは、小手をかざして、あたりを見た。
「まるで、夢の中の景色みたいだ。こいつらは、地上の植物というよりは、海の底の岩の間に生えているように見えるじゃないか。あれをごらんなさい。向こうのほうを! まるで、トカゲがそのまま植物に変わったみたいじゃありませんか! それにまた、なんという太陽の熱さだ!」
「まだ朝になったばかりですよ」と、ケイヴァー氏が、いった。彼は、ため息をついて、あたりを見まわした。
「とても人間の住める世界じゃありませんね」
彼は、いった。
「でも、なんというか……こいつは……」
彼は、ちょっと、口をつぐんだ。それから、彼が瞑想にふけるときの、れいの唸り声がはじまった。
なにかが、そっとさわったので、ぼくは、とびあがった。見ると、鉛色の薄べったいコケが、ぼくの靴に這いあがろうとしていた。ぼくが、そいつをけとばすと、粉々にくだけて、その一つ一つが、また成長をはじめた。
ケイヴァー氏が、鋭いさけび声をあげた。みると、灌木の剣のような棘に刺されたのだ。
彼は、こわごわと、あたりの岩の間を眺めていた。そのとき、突然、紅色の炎が、けわしい崖の柱のようにそそり立った岩を這いのぼってきた。それは、非常に変わった紅色――鉛色を帯びた深紅色をしていた。
「ごらんなさい!」
ぼくは、そういって、ふりかえった。すると、どうだ。ケイヴァー氏の姿が消え失せてしまっていたのだ。
一瞬、ぼくは、棒立ちになった。それから、急いで岩のはしにいって、あたりを見まわした。だが、彼がいなくなったことにびっくりして、ぼくは、また、月の世界にいることを忘れてしまった。
ぼくが大股にふみだす足は、地球上では、一ヤードしかぼくを運ばないのだが、月世界では、六ヤードも運んでくれる――そのために、ぼくは、ゆうに五ヤードは跳んで、岩のふちを越えてしまったのだ。
その瞬間は、なにか、どこまでも墜落していく悪夢をみているような感じだった。というのは、地球では、最初の一秒間に十六フィートも落ちるのに、月では、目方が六分の一だから、二フィートしか落ちないからだ。
ぼくは、約十ヤードほど、落ちた。というよりむしろ、跳びおりたといったほうがいい。五秒か六秒だったと思うが、ずいぶん長い間かかったような気がした。ぼくは、空中をふわふわと羽根のように落ちて、雪の吹きだまりの中に膝まで埋まった。そこは、青みがかった灰色で白い筋のはいった岩地の、溝の底のようなところだった。
ぼくは、あたりを見まわして、さけんだ。
「ケイヴァーさん!」
だが、ケイヴァー氏の姿は、どこにもなかった。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、声高くさけんでみた。だが、その声は、岩にこだまするばかりだった。
ぼくは、もうれつな勢いで岩にかじりつくと、てっぺんまでよじのぼった。
「ケイヴァーさーん!」
また、ぼくは、さけんだ。ぼくの声は、迷える小羊の声のように、あわれっぽく響きわたった。
われわれの乗ってきた球体も、みえなくなっていた。と、急に、恐ろしい孤独感が、ぼくの心を締めつけた。
そのとき、彼がみつかった。彼は、笑いながら、ぼくの注意をひくために手を振っていた。彼は、二、三十ヤードはなれた、なにも生えていない岩の上にいた。声は聞こえなかったが、手まねで、≪跳べ!≫といっているのがわかった。
ぼくは、ちょっと、ためらった。跳ぶには遠すぎると思ったからだ。だが、すぐに、ぼくはケイヴァーさんよりも跳べるはずだと、考えなおした。
ぼくは、一歩さがって身がまえると、|渾身《こんしん》の力をこめて、跳んだ。ぼくの体は、二度と落ちてこないのではないかと思われるほど、空中高くとびあがった。恐ろしくもあり、愉快でもあった。まるで、そうして、夢の中で飛行しているように、いい気持ちになっていたのだ。
だが、ぼくの跳躍は、まったく、乱暴すぎた。ぼくは、もののみごとに、ケイヴァー氏の頭上を跳び越えてしまった。見ると、岩の裂け目に、棘だらけのごちゃごちゃした灌木が、ぼくの落ちてくるのを大手をひろげて待ちかまえているではないか! ぼくは、おどろいて、声をあげ、手をつきだし、足をつっぱった。
ぼくは、とうとう、巨大なキノコに衝突した。キノコは、ぼくのまわりにくだけ散り、たくさんのオレンジ色の胞子を四方にまきちらし、ぼくをオレンジ色の粉まみれにした。ぼくは、その粉をまき散らしながら、ころころと転がり、息もできないほど笑って、やっと、とまった。
ぼくは、垣根のようになった棘だらけの灌木の間から、ケイヴァー氏の小さな丸い顔がのぞいているのに、気がついた。彼はなにかどなっているようだったが、よく聞こえなかった。
「えーッ?」
ぼくもどなりかえそうとしたが、息が苦しくて、できなかった。彼は、慎重に、草|藪《やぶ》をかきわけながら、ぼくのほうへやってきた。
「われわれは、慎重にやりましょう!」
彼は、いった。
「この月世界には、地球上の秩序なんか役に立たないのです。まごまごしていると、自滅するほかはありませんよ」
彼は、ぼくを立たせてくれた。
「あんたは、力をいれすぎるんだ」
ぼくの服についた黄色い粉を手ではらいおとしながら、彼は、そういった。
ぼくは、あえぎながら立ちあがって、彼のするままになっていた。彼は、ぼくの膝や|肘《ひじ》についたゼリーのようなものをたたきおとしながら、ぼくの災難について教訓をたれた。
「われわれは、まだ完全に、月の引力に適応したとはいえないのです。われわれの筋肉は、まだ、ほとんど訓練されちゃいない。あんたの呼吸がおさまったら、すこし練習しなけりゃいけませんな」
ぼくは、手に刺さった二、三本の棘をひっこ抜いて、しばらくの間、丸い岩の上にすわっていた。ぼくの筋肉は、まだ、ふるえていた。まるで、地球上で、自転車を習いはじめた人がはじめて転んだときのような、なにか人格を傷つけられでもしたような気がしていたのだ。
ケイヴァー氏は、熱い日光にさらされたあとで、この谷底の冷たい空気に触れて、ぼくが熱を出すかも知れないと、心配になったらしかった。そこで、われわれは、日のあたっているところまで這いあがった。
転んだとき、二、三のかすり傷をうけただけで、それ以外には、たいした怪我をしていないことがわかった。そこで、ケイヴァー氏の提案で、つぎに跳ぶためにどこか安全でやさしい着地点をさがすことにした。われわれは、グリーンがかったオリーブ色の棘の小さな藪によってへだてられている、十ヤードばかりはなれた平らな岩をえらんだ。
「あれがそこにあるつもりで跳びたまえ!」
ケイヴァー氏は、コーチ気取りでそういうと、ぼくの足もとから四フィートばかりのところを指さした。
こんどは、やすやすと跳べた。白状するが、ぼくは、ケイヴァー氏が一フィートかそこら跳びたりないために藪に落ちて、棘の痛さを味わっているのを見たとき、一種の満足感を抱いたものだ。
「用心しなけりゃいかん。わかったでしょう?」
彼は、棘をひっこ抜きながら、いった。それ以来、彼は、指導者ぶるのをやめ、月世界を移動する技術に関しては、ぼくの弟子になった。
われわれは、もっとやさしい跳躍目標をえらんで、らくらくと跳んでみた。それから、また、もとのところへかえって、あちこちへ五、六度跳んでみて、筋肉を新しい標準に馴らすようにした。ぼくが自分で体験したことでなかったら、あんなに早く月世界の状況に適応できたなんて、とても信じられないほどだ。
ほんとうに、ごく短い間に、たしか、三十回近く跳んだだけで、われわれは、地球にいるときとおなじくらい的確に、距離に対して必要な力のていどを判断できるようになった。
一方、この間にも、ずっと、月世界の植物たちは、われわれのまわりで、ますます高いところまで、いちめんに、もつれ合って、成長をつづけていた。棘だらけの植物や、緑色のサボテンのような草むらや、キノコのような、肉のような、コケのようなものや、奇妙な放射状や波状の形をした植物が、どんどん繁茂し、生長をつづけていたのだ。
ところが、われわれは、跳躍の稽古に夢中になっていたので、これらの植物のわがもの顔の繁殖のことなど、まったく、意に介さなかった。
われわれは、得意の絶頂だった。たしかに、いくぶんは、あの球体の中の生活から解放されたという気持ちもあっただろう。だが、大部分は、稀薄だがさわやかな月世界の空気のせいだったような気がする。たしかに、この月世界の空気は、地球の空気よりも、はるかに大きい比率の酸素を含んでいた。
まわり全体の景色が、こんなに奇妙だったにもかかわらず、ぼくは、はじめて山の中にはいったロンドンっ子とおなじくらいの冒険的な、試験的な気持ちしか持たなかった。だから、われわれは、ふたりとも、まったく未知の体験に直面していながら、恐ろしくてたまらないほどの気持ちにはなったことがないように思われる。
われわれは、なんでもやってみようという気分に駆りたてられた。そこで、十五ヤードほどはなれたコケの生えた岩山をえらんで、跳んでみることにした。われわれは、つぎつぎと、うまくその頂上に着陸した。
「うまいぞ!」
われわれは、お互いに、いいあった。
「うまいぞ!」
ケイヴァー氏は、さらに三歩跳んで、ゆうに二十ヤード以上はなれている気持ちのよさそうな雪のスロープへいってしまった。
一瞬、ぼくは、彼の飛んでいる姿――汚れたクリケット帽、針のように逆立った髪の毛、その小さな丸っこい体、その両腕、魔法の世界のように広い月世界の光景に対してこぢんまりとまくりあげられたニッカーボッカーをはいた両脚などを、妙にグロテスクに感じた。
ぼくは、思わずふきだしてしまった。それから、彼のあとを追って跳んだ。ぱたん! ぼくは、彼のかたわらに、かるがると落ちた。
われわれは、巨人のような歩幅で二、三歩あるいてから、さらに、三、四回跳び、コケの生えている谷間に腰をおろした。息が苦しくなっていた。
われわれは、ならんで腰をおろし、呼吸をととのえながら、お互いを観察しあった。ケイヴァー氏は、あえぎながら、彼のいわゆる≪おどろくべき感覚≫に関してなにごとかしゃべりたてていた。
そのとき、あることが、ぼくの頭に浮かんだ。はじめは、特別にびっくりするような考えではなく、ただ、まわりの状況からひとりでに出てきた疑問にすぎなかった。
「ところで」と、ぼくは、いった。
「われわれの乗ってきた球体は、どこにあるんでしょうね?」
ケイヴァー氏は、ぼくの顔を見て、いった。
「え?」
ぼくの言おうとしていたことの意味が、ぼくを鋭く打った。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、彼の腕をつかんで、さけんだ。
「球体は、どこにあるんですか?」
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九 月世界の迷子となる
彼の顔にも、ぼくとおなじ恐怖の色が浮かんだ。彼は、立ちあがった。そして、われわれを取り囲んで、ものすごい勢いで上へ上へとのびながら成長をつづけている灌木の|藪《やぶ》越しに、あたりを見まわした。
彼は、確信の持てないようすで、手を口のところへ持っていった。それから、急に自信を失ったように、おずおずと口をきった。
「たしか、その……、どこか……、あのあたり……においてきたはずなのですが……」
彼は、ためらいながら、ふるえる指で、弧をえがくようにあちこちを指さした。
「自信はないのです」
彼のおどろきは、さらに強くなったようだった。
「とにかく……」
彼は、ぼくに目をもどして、いった。
「そんなに遠くはないはずです」
われわれは、二人とも、ぼんやり立ちつくし、意味のないことばを口ばしっているだけだった。
われわれのまわりの、日あたりのよい斜面には、棘だらけの灌木の藪や、ふくれるように育ってゆくサボテンや、這うように拡がってゆくコケの類が、いちめんに泡立ち波打っていた。また、日蔭になっているところにはどこにも、雪の吹きだまりが白く消え残っていた。東西南北、どの方角を見ても、みなれない形をした植物が、同じ単調さでひろがっているばかりだった。
そして、いまでは、このめちゃくちゃにからまり合った植物の中に、われわれの根拠地であり、食糧倉庫である、われわれの球体が埋もれてしまっているのだ。その球体こそ、われわれが迷いこんだ、この、植物がかげろうのようにはかない成長をつづけている荒れはてた夢幻的な世界から脱出するための、ただ一つの希望だというのに!
「けっきょく……」
突然、彼は、はるか向こうを指さしながら、いった。
「あのあたりかも知れない」
「ちがいますよ」と、ぼくは、いった。
「われわれのやって来た方角は、曲線をえがいています。ほら、ここに、ぼくの靴のかかとの跡があります。明らかに、球体は、もっと東のほうにあるはずです。そうですとも! 球体は、あのへんにあるにちがいありませんよ」
「わたしには、跳んでいる間、ずっと、太陽は、ぼくの右側にあったような気がするんですがね」と、ケイヴァー氏は、いった。
「ぼくには、跳ぶたびに、いつも、ぼくの影が前のほうにあったように思われます」
ぼくは、そういいかえした。
われわれは、顔を見合わせた。火口の中は、想像を絶するほどの広大さで、成長をつづける植物の茂みは、もはや、脱け出すことができないほど深くなっていた。
「ああ、なんてばかだったんだ、われわれは!」
「とにかく、球体をみつけださなくてはならないことだけは、たしかだ」
ケイヴァー氏が、いった。
「日光は、ますます強くなる。もし、これほど空気が乾燥していなかったら、われわれは、とっくの昔に、気が遠くなってしまっていたはずだ。そして……、とにかく、腹がへったな」
ぼくは、彼をみつめた。事態がこんなことになろうとは、予想もしなかった。しかし、さっそく、ぼくも、はげしい食欲を感じはじめていた。
「そうです」
ぼくは、力をいれて、いった。
「腹ペコなんです。ぼくも」
彼は、決然として、立ちあがった。
「ぜったいに、あの球体を探しださなくてはなりません!」
われわれは、できるだけ冷静に、火口の底を埋めている岩床と茂みの果てしない広がりを見まわした。二人とも、このまま熱さと空腹のために倒れてしまわないうちに、球体を発見することがだいいちだと、暗黙のうちに決心していたのだ。
「ここから五十ヤードとははなれていないはずです」
ケイヴァー氏は、自信なさそうなようすで、いった。
「こうなったら、球体にぶつかるまで、このあたりを跳んでまわるより仕方がありませんな」
「できることは、それだけですよ」とは答えたものの、ぼくには、すぐに捜索をはじめようという気力さえなかった。
「このいまいましい棘だらけの藪が、こんなに早くのびさえしなかったら!」
「まったくだ」
ケイヴァー氏は、いった。
「でも、あの球体は、雪の吹きだまりの山の上にあるはずです」
ぼくは、球体の近くにあった丘か、藪のようなものがみつかりはしないかと、あたりを見廻してみた。だが、それは、むだだった。
どこもここも、おなじようなごちゃごちゃした植物の茂みでいっぱいで、高くのびる藪や、どんどんふとるキノコ類や、ぐんぐんやせていく雪の山などが、着々と変わっていく姿をみせているばかりだ。
太陽は、肌を焦がすばかりにはげしく照りつけ、われわれは、計り知れない空腹と、果てしない混乱のために、気が遠くなりそうだった。
まさに、そのときだった。われわれがいまだかつて経験したことのないものの中に迷いこんで、混乱しきっていたときに、われわれが月世界へきてはじめての音を耳にしたのだ。それは、植物の成長する音でもなく、かすかな風のささやきでもない、また、われわれ自身のたてる音でもないような、耳なれないもの音だった。
ゴォーン……ゴォーン……ゴォーン……。それは、足の下から響いてきた。地面の中で鳴っているのだ。耳に聞こえるとおなじくらいに、足にも聞こえてくるような気がした。その鈍いもの音は、遠くはなれているためにとぎれがちで、また、間に存在する物質のために太く聞こえた。
これほど、われわれをおどろかした音は、なかった。また、これほど、われわれの周囲のものの性質を完全に変えてしまった音は、なかったと思う。なぜならば、この、ゆたかでゆっくりとしたもの音は、地中に埋められた大時計の時を告げる鐘の音のように思われたからだ。
ゴォーン……ゴォーン……ゴォーン……。
静寂な修道院を思わせるような、人間でいっぱいな大都会の眠られぬ夜を思い出させるような、また、キリスト降誕の前夜祭を思わせるような音だ。そして、規則正しく整然とした地上の生活を思わせるようなその音が、なにか意味ありげに、神秘的に、この超現実的な不毛の地に響きわたっているのだ!
目にみえるかぎりは、なにも、変化していなかった。荒れた藪やサボテンは、音もなく風に波打ち、遠い絶壁のほうまで切れ目なしにつづいていた。静かな暗い空は、雲もなく頭上にひろがり、灼熱する太陽が燃えていた。
そして、このすべてのものをとおして、なにごとかを警告するように、おびやかすように、あの謎のもの音がひびいてくるのだ。
ゴォーン……ゴォーン……ゴォーン……。
われわれは、かすれた声で、そっといいあった。
「時計だろうか?」
「時計のようにも思えますね!」
「だが、なんなのだろうね?」
「なんだと思われますか?」
「勘定してみよう」と、ケイヴァー氏がいったときには、手おくれだった。彼のことばと同時に、もの音はやんでしまったからだ。
まるで周期的なリズムのように次々と起こる失望が、われわれを沈黙させた。それは、新しいショックだった。
しばらくは、音を聞いたことがあるかどうか、もういちど考えてみるべきだ。
それとも、音は、まだ、つづいているのだろうか!
やっぱり、ほんとうに音を聞いたのだろうか?
ぼくの腕に、ケイヴァー氏の手がおかれた。彼は、まるで、眠っているものを起こすことを恐れるように、声を落として、ささやいた。
「とにかく、はなれないようにしよう。そして、球体をみつけるのだ。われわれは球体にもどらなければならない。このことについては、改めて考える必要はありません」
「どっちへいったらいいんです?」
彼は、ためらった。
われわれのまわりに、そして、ごく近くに目にみえないなにものかが存在しているという強い確信が、われわれの心を支配していた。
いったい、それは、なんだろう? どこにいるのだろう? 凍るほど寒くなったり、|灼《や》けるほど熱くなったり、交代で変化するこの無味乾燥の月世界の荒地は、その地下に隠された未知の世界のたんなる|上《うわ》っ|面《つら》にすぎないのだろうか? もしそうだとすれば、その地下の世界というのは、いったい、どんな世界なのだろう? いまや、その世界からは、どんな生きものが現われるのだろう?
すると、そのとき、重苦しい静寂の中から突然、雷鳴のような音が、思いもかけず、はっきり、ガラガラと鳴りひびいた。それは、まるで、大きな金属製の門をいきなり押しあけたような音だった。
その音が、われわれの足を釘づけにした。われわれは、口をあけたまま、おそるおそる立っていた。そのうちに、ケイヴァー氏が、そっと近づいてきた。
「さっぱり、わけがわからん!」
彼は、ぼくに顔をよせて、ささやいた。わけもなく手を空に向かって振った。そして、わけのわからぬことばを口ばしっていた。ぼくには、ますます、わけがわからなかった。
「隠れ場所をさがさなけりゃ! もしも、なにかが、やってきたら……」
ぼくは、あたりを見まわした。それから、賛成のしるしにうなずいてみせた。
われわれは、もの音を立てないように、最大で細心の注意をはらいながら、そろそろと動きだした。茂った灌木の藪に向かって歩いた。
こんどは、ハンマーでボイラーをたたくようなカランカランという音が聞こえてきたので、足を早めた。
「藪をかきわけていかなければなりませんな」と、ケイヴァー氏が、ささやいた。
棘のある植物の下のほうの葉は、上のほうの新しい葉のために蔭になって、すでに、しおれてしぼみはじめていたので、われわれは、たいして怪我もせずに、茂っている植物の間をつき進んでいくことができた。顔や腕の刺し傷などは気にかけなかった。
茂みのまん中で、ぼくは、立ちどまった。そして、息をはずませながら、ケイヴァー氏の顔をみつめた。
「地面の下ですよ」と、彼は、ささやいた。
「地下です」
「出てくるかも知れませんね」
「それよりも、球体をみつけなければ!」
「それはそうですとも」
ぼくは、いった。
「でも、どういうふうにして……?」
「みつかるまで、植物をかきわけていくのです」
「もし、みつからなかったら?」
「そのときは、隠れているのです。地下の連中が、どんなやつらか、見てやりましょう」
「とにかく、はなれないようにしなけりゃ」と、ぼくは、いった。
「ところで、どっちのほうへいったらいいだろうね?」
彼は、考えこんでしまった。
われわれは、あちこちを、眺めた。それから、きわめて用心深く、茂みの下のほうをかきわけて進みはじめた。その茂みというのは、われわれの判断できたかぎりでは、丸い形に生えていた。われわれは、キノコが揺れるたびに立ちどまり、なにかもの音のするたびに立ちどまりしながら、いまはもう、われわれが愚かにも飛びだしてきてしまったあの球体だけを目的に、歩きつづけていった。
その間じゅうにも、われわれの足もとの地面の下からは、震動音や、打撃音や、そのほか説明しにくい機械的な奇妙な音が、絶えず聞こえていた。また、たびたび、ガラガラというさわがしい音が、空気を伝わってかすかに聞こえてくるような気がした。
しかし、われわれは、恐ろしかったので、火口内を見渡せるような有利な地点に立って調査しようとはしなかった。そのため、長い間、こんなにいろいろの、はっきりした音をたてる生物を見ることができなかったのだ。
そのうちに、気が遠くなるほど、腹がへりのどが乾いてきた。われわれの前進は、まるで白昼夢のようだった。それが現実のこととは、どうしても考えられなかった。現実とすこしでも関係のあることといったら、ただ、このもの音だけだった。
つぎのことを想像してみたまえ。われわれのまわりは、夢の世界のようなジャングルで、頭上には、棘のある葉が音もなくつきだしている。手や膝の下には、日光のこぼれたような生き生きとしたコケの類が、風をはらんだジュウタンのように波打っている。また、風船のようなキノコの類が、日光を浴びて、つぎからつぎへとふくれあがり、ぼんやりとそびえてみえる。あとからあとから、新しい形の植物が鮮やかな色で生まれてくる。この植物の細胞は、親指ぐらいの大きさで、色のついたガラス球のようにみえた。
そして、これらすべてのものが、太陽が出ているのに、まだいくつかの星が残ってキラキラと光ってみえる青い暗い空と対比して、容赦ない太陽の光の中に浸みこんだようにみえているのだ。
奇妙だった。石の形や地肌まで、変わっていた。あらゆるものがすべて変わっていた。体の調子も、まだ経験したことがないほどおかしくなっていた。どう体を動かしてみても、おどろくほど妙な感じがした。息を吸っても、空気はほとんどのどを通らないのだ。血液は、耳の中で海の潮のように鳴っていた――ドック、ドック、ドック、ドック……。
そして、また、あのがやがやいう声や、ハンマーを打つ音、ガチャガチャいう音、機械の震動する音などが、突風のように聞こえはじめた。そのうえ、いまや、巨大な獣のほえるような声まで聞こえはじめたのだ!
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一〇 月牛の牧場
さて、こうして、われわれ、地球からやってきたふたりの遭難者は、この猛烈な勢いで成長する月世界のジャングルに迷いこみ、聞こえてくるもの音におびえながら、藪の中を這いすすんでいった。われわれが、月人や月牛に出会ったのは、かなりすすんだあとだったような気がする。もっとも、その間にも、ずっと、だんだん近づいてくる月牛のほえる声や、鼻を鳴らす声は、聞こえていた。
われわれは、石だらけの谷間を通り、雪の斜面を越え、キノコの中をかきわけてすすんでいった。キノコは、われわれが突くと、薄い風船のように割れて、水っぽい液体を、ホコリ茸のいちめんに生えた上や、果てしなくひろがっている藪の茂みの中まで、撒きちらした。いまはもう、われわれの置き忘れた球体がみつかるという希望は、なくなりつつあった。
月牛の声は、ときには、大きく、単調で、まるで仔牛が鳴くように聞こえた。あるときは、おどろいたような、怒ったようなほえ声をあげたが、また、あるときには、餌を求めてほえるときのような、飢えた荒々しい声をだした。
われわれがはじめて月牛を見たのは、ほんの一瞬のことだったから、正確とはいえない。もちろん、それが不正確だったからといって、ちっともかまわないのだが。
そのときは、ケイヴァー氏が、先に立ってすすんでいたので、最初に、月牛が近くにいることに気づいたのだった。彼は、立ちどまり、ぼくにも、とまれと合図をした。
ばりばりと灌木のふみ折られる音が、われわれのほうにむかって、まっすぐに近づいてくるように思われた。われわれは、その場にうずくまって、その音がどっちの方角からどのへんまで近づいているのかをはかろうとした。そのときだった。すぐうしろで、恐ろしいほえ声が聞こえた。その声が、あんまり近く、猛烈だったので、灌木の藪のてっぺんはねじ曲がり、ぼくは、そいつの熱くて湿っぽい息を感じたほどだった。
はっとしてふりかえると、揺れている灌木の幹のむこうに、月牛のつやのある脇腹らしいものがみえた。また、その長い背中の線が空をバックにぼんやりとみえた。
もちろん、そのとき、ぼくが、どれだけ正確に月牛を見たかといわれても、いまとなっては、むりだ。なにしろ、そのときの印象は、あとあとの観察によって修正されているからなのだ。
まず、だいいちに、それは、非常に大きかった。胴まわりは約八十フィート、長さは、おそらく、二百フィートはあっただろう。その脇腹は、はげしい呼吸とともに、あがったりさがったりしていた。巨大な、ぐにゃぐにゃした体は、地面に横たわっていた。皮膚はしわだらけで白く、その上に、背骨に沿って黒い斑点があったのを見た。
ところが、月牛はあまり大きすぎて、ぼくは、なんにも見なかったのとおなじような気がするのだ。
たとえば、ぼくは、また、そのとき、少なくとも、あの脳みそのほとんどないような頭の形と、肥って邪魔そうな首筋のあたりと、よだれをたらしながらなんでも食べてしまいそうな口と、小さな鼻の穴と、しっかりと閉じた目を見たように思う。(なぜなら、月牛は、日のあたるところでは、いつも、目を閉じていたのだ)
われわれは、月牛がほえるために口をあけたとき、その大きな赤いのどの奥を見ることができた。それから、この怪物は、船のように地面をすべりだした。体じゅうの皮膚をしわだらけにして、なんども転がり、のたくりながらわれわれのそばを通りぬけ、藪の中に道をつけながら、かなりのスピードで、深い茂みのかなたに姿を消した。もっと遠いところに、別のやつが姿をあらわした。と、思うと、また別の月牛が。
そのときだった。一瞬、月人らしいものが、目にはいったのだ。その月人らしいものは、ちょうど、この食糧となる生物を彼らの牧場へ追いこんでいるようにみえた。月人を見た瞬間、ぼくは緊張のあまり、ケイヴァー氏の脚をぎゅっとつかんでしまった。そして、われわれは、月人がみえなくなってからも、長いこと、身動きもせずに見おくっていたのだった。
月牛とは対照的に、月人は、ひどく小さくみえた。まるで|蟻《あり》のような形をしていて、五フィートそこそこしかなかった。
月人は、革のような物質でできている服を着ていたので、その体のほんとうの部分は見ることができなかった――もちろん、そんなことについて、われわれは、完全になにも知らなかったのだ。
だから、ちょっと見たところ、月人は、小ぢんまりした、体じゅうに剛毛の生えた動物のようだった。鞭のような触角を持ち、円筒形の光るケースのような胴体から、がちゃがちゃ音のする腕が突きでていた。頭のかっこうは、大きな、釘のたくさんでているヘルメットで隠されていた――あとで発見したのだが、月人は、その釘を、強情で手におえない月牛を突くために用いるのだった――。そして、黒っぽい色ガラスの眼鏡をかけていたが、横から見ると、顔を隠している金属製のかぶとにつけたつぼみのようだった。
腕は、体より長くはなく、短い足で歩いていた。その足は、温かそうなもので包まれていたが、われわれ地球人の目から見ると、異常に弱々しい感じがした。|腿《もも》の部分が非常に短くて、|脛《すね》が長く、足は小さかった。
いかにも重そうな服を着ているにもかかわらず、月人は、地球人の見方からすれば、たいへんな大股で歩いていた。がちゃがちゃ鳴る腕は、忙しそうに動いていた。歩きながらの動作から察すると、月人は、なにか、急いでいるようでもあり、怒っているようにもみえた。
月人の姿がみえなくなると、すぐ、月牛のほえる声は、短く、鋭い、悲鳴のような声に変わったが、つづいて、だんだんとはげしくなって喧嘩のような声に変わった。だが、やがてその声もおさまり、それから、探していた牧草地に到着したのか、声は聞こえなくなった。
われわれは、耳をすませた。しばらくの間、月世界はもとの静寂にかえった。しかし、われわれは、すぐに、見失った球体を探すために、藪の中をすすみはじめた。
われわれが、つぎに月牛を見たのは、われわれからすこしはなれた岩の上だった。傾斜した岩の表面は、点々と、緑色の草が、密生していた。びっしりとコケのように生えている草の上で、月牛たちは、それを食べていた。
それを発見したとき、われわれは、すすんでいた蘆のような草原のへりに歩みをとめ、もういちど月人の姿を見ようと思って、草原にかくれてあたりを見まわした。
月牛たちは、巨大なナメクジのように、脂ぎった船のような姿で横たわり、すすり泣くような音をたてながら、がつがつと彼らの餌をむさぼり食っていた。やつらときたら、やたらと脂ぎってぶかっこうな、肥りすぎの怪物のようにみえた。
まったく、その肥り方といったら、地球上のスミスフィールド種の牛でさえ、|敏捷《びんしょう》さの典型と思わせるほどのすごさだった。
やつらの、忙しそうにもぐもぐさせている口や閉じた目は、ムシャムシャという食欲をそそるような音とともに、いかにも生きている喜びを味わっているような感じがして、われわれの空っぽの胃袋を異常に刺激するのだった。
「豚め!」
ケイヴァー氏は、吐きすてるようにいった。
「いやらしい食いしんぼうの豚め!」
そういうと、怒ったような羨望の一べつを残して、ケイヴァー氏は、右手の藪をかきわけていってしまった。
ぼくは、なおしばらくの間、そこにとどまっていた。だが、月牛の食べているその草はとても人間の食物にはならないということがわかった。そこで、ぼくも諦めて、その一片を口にいれ、歯で噛みながらケイヴァー氏のあとを追ったのだった。
われわれは、また、立ちどまった。不意に月人が近づいてきたからだった。こんどは、もっとはっきりと観察することができた。
月人の着ているものは、甲殻類の外皮のようなものではなくて、まさに、衣類そのものだった。前にちらりと見たときとおなじ服装をしていたが、ただ、襟のところから、つめ綿のようなもののはしがはみだしているのがみえた。月人は、岩角に立って、火口の中を調べているように、あちらこちらと首を動かしていた。
われわれは、身動きすると月人に気づかれはしないかとびくびくしながら、じっとかくれていた。やがて、月人は、むきを変えるとあちらのほうへいってしまった。
それから、われわれは、ほえながら谷間を登ってくる月牛の別の群れに出会った。それから、また、機械の音のするところの上を通った。まるで、地下の大工場かなにかが、この地表のすぐ下まできているような音だった。
この音がまだ聞こえている間に、われわれは、直径が二百ヤードはあろうかという大きな平地のはずれまできた。そこは、完全に平らな土地だった。
この平地には、ふちに生えているわずかなコケの類のほかにはなにもなく、その表面は、黄色い粉のような土におおわれていた。この平地を横切るのはちょっとこわかったが、藪の中を這ってすすむよりは、障碍物が少ないようにみえた。そこで、われわれは、じゅうぶんに用心しながら、平地のふちに沿ってまわりはじめた。
しばらくの間、地下の騒音がとまり、植物の成長するかすかな動きのほかは、すべて、ひっそりとしていた。それから、突然、前に聞いたよりも大きく強烈な騒音が、すぐ近くで聞こえはじめた。
それは、たしかに、地下から聞こえてきた。われわれは、本能的に、できるだけ身を低め、なにかあったら傍の茂みの中へ飛びこんで、急いで隠れようと身がまえていた。トントンと叩くような音や、ドックドックと脈打つような音の一つ一つが、われわれの体をふるわせた。その音は、だんだんと高くなり、その不規則な震動のために、月世界全体がけいれんし、脈打つかと思われるほどになった。
「かくれろ!」と、ケイヴァー氏が、ささやいた。ぼくは、藪のほうへ走った。
その瞬間、ドシン! と、砲弾の落ちたような音がした。
そのとき、あのことが起こったのだ――あのときのことは、いまもなお、夢の中まで、ぼくにつきまとってはなれないのだが――。
ケイヴァー氏の顔を見ようとして、ぼくは、頭をあげ、いつものように、手を前につきだした。だが、ぼくの手は、空をつかんだ!
突然、ぼくは、底なしの穴に墜落したのだ!
ぼくは、なにか堅いもので胸を打ったらしい。気がついてみると、ぼくは、突然ぼくの足もとにひらいたはかり知れない奈落のふちに、あごでひっかかり、硬直した手を宙にのばしていた。
あの円形の平地は、まさに、巨大な|蓋《ふた》だったのだ。そして、いまや、その蓋が、そのために作られた細長い溝の中へおさまりながら、すこしずつ、地下への通路をひらきはじめていた。
もしも、ケイヴァー氏の助けがなかったら、ぼくは、硬直したまま、穴のふちにぶらさがって、この底知れぬ深淵をのぞきながら、最後には、穴のふちから滑り落ちて、深みに呑みこまれていくほかはなかったと思う。
しかし、さいわいにも、ケイヴァー氏は、ぼくをしびれて動けなくさせた、このショックを受けなかった。
はじめて蓋があいたとき、彼は、穴のふちの少し内側にいた。それで、ぼくが危険にさらされたのを見るや、ぼくの脚をつかんで、ひきあげてくれたのだった。
やっとの思いでもとの場所にもどったぼくは、四つん這いのまま、穴のふちから遠のいた。それから、ふらふらしながら、立ちあがると、ケイヴァー氏のあとについて、雷のような音をたてて震動する金属板の上をつっ走った。その金属板は、揺れながら、加速度的な早さでひらいていくので、目の前の藪は、走るぼくといっしょに、横に動いているようにみえた。
どんなに急いでも、急ぎすぎではなかった。ケイヴァー氏の姿は、棘だらけの茂みの中に消え、そのあとを追って、ぼくがとびこんだとき、この巨大な蓋が、きしりながら開いたのだ。長い間、われわれは、穴に近づこうともせず、あえぎながら、横になっていた。
だが、やがて、われわれは、用心に用心を重ねながら、すこしずつ、穴の中をのぞきこめる場所まで這っていった。あたりの藪は、穴の中に吹きおろす風に、きしりながら波打っていた。
はじめのうちは、底知れぬ暗黒の中に消えていく滑らかな垂直な壁のほかには、なにもみえなかった。だが、そのうち、だんだんと、たくさんのごく微かな小さな光が、その暗黒の中をいったりきたりしているのがみえてきた。
しばらくの間、われわれは、このおどろくべき深淵の神秘さに心を奪われて、かんじんの球体のことまで忘れてしまっていた。やがて、暗さに馴れてくると、その針の先ほどの光にまじって、ごく小さいぼんやりとした人影がうごいているのが、見えてきた。
われわれは、口もきけないほどおどろいて、なおも熱心にのぞきこんだ。だが、それが、どういうことなのか、さっぱりわからなかった。われわれの見たぼんやりとした人影が、いったいなにを意味するのかを知る手がかりは、なにひとつなかった。
「いったい、あれは、なんなのでしょう?」と、ぼくは、たずねた。
「工事をしてるのです!……やつらは、夜の間はこの洞穴の中にいて、昼になると出てくるのですよ」
「ケイヴァーさん!」
なおも、ぼくは、たずねた。
「やつらは、いったいぜんたい……|あれ《ヽヽ》……つまり、よく似ていたけど……人間なんでしょうか?」
「|あれ《ヽヽ》は、人間じゃありません」
「人間じゃないですって?」
「君子、危きに近よらず!」
「球体をみつけるまでは、なにもしないことにしましょう」
彼は、賛成のうめき声を残して、動きはじめた。しばらくの間、あたりを見まわしていたが、やがて、溜息をつくと、ようやく、方角を定めた。われわれは、密生した藪の中を突きすすんだ。はじめのうちは、勇ましく這っていったが、そのうちに、力が抜けてきた。すると、まもなく、大きくてぶよぶよした紫色の植物の間で、どしんどしんと歩く音や、さけび声が聞こえてきた。われわれは、ぴたりと地面に身を伏せた。長いこと、その音は、すぐ近くでいったりきたりしていた。だが、なにもみえなかった。
ぼくは、ケイヴァー氏に、なにか食べなくては、もうこれ以上一歩もあるけないと、ささやこうとした。ところが、口の中が乾ききってしまって、小声でいうことができないのだ。ぼくは、ようやく、いった。
「ケイヴァーさん、なにか食べなくちゃ、もう、だめです」
彼は、困惑しきった顔で、いった。
「とにかく、がんばりとおすんだ」
「でも、なにか食べなくちゃ……。ぼくの唇を見てくださいよ!」と、ぼくは、いった。
「わたしだって、ずっと、のどが乾きどおしなんだ」
「あの雪が、すこしでも残っていたらなあ!」
「雪なんか、とっくの昔に、きれいに消えちまってるさ! われわれは、北極から熱帯へむかって、一分間に一度という割合いで移動しているんですからね……」
ぼくは、思わず、自分の手を噛んだ。
「とにかく、球体を探すことだ!」
彼は、いった。
「球体のほかに、助かる方法はない」
われわれは、残っている力をふるい起こして、ふたたび、前進を開始した。
ぼくの頭の中は、食い物のことでいっぱいだった。真夏に飲むシューシューいう清涼飲料のありがたみが、のどにこたえていた。もっとくわしくいうと、ビールが飲みたくてたまらなかった。ぼくは、リンプネの地下室に鎮座ましましている十八ガロン入りのビール樽の記憶につきまとわれていたのだ。また、その隣の食糧倉庫、とりわけ、焼肉や腎臓のパイ――軟らかい焼肉やたくさんの腎臓、その間にあるたっぷりした濃い肉汁のことなどを考えつづけていた。
ぼくは、空腹からくる生あくびの発作に、絶えず悩まされていた。
われわれは、赤い肉のような植物や、サンゴの化け物のような植物がいちめんに生えている平地に出た。
その植物は、押してみると、ぱちんとはじけて割れた。ぼくは、表面の割れた部分を調べてみた。そのごちゃごちゃした組織は、どうやら、食べられそうに思えた。
ぼくは、一きれ拾って、匂いを嗅いでみた。
「ケイヴァーさん」と、ぼくは、かすれた低い声で、呼んだ。
彼は、ふりむいて、ぼくを見ると、いった。
「食べちゃいかん!」
ぼくは、仕方なく、かけらを捨てた。そして、そのまま、われわれは、この食欲をそそる肉のような植物の間を、しばらく、這いすすんだ。
ぼくは、たずねた。
「ケイヴァーさん、なぜ、いけないんですか?」
「毒ですよ」という声は聞こえたが、こちらのほうは見ようともしなかった。
しばらく這いすすんでから、ぼくは、ようやく決心した。
「ぼくがためしてみます」と、ぼくは、いった。
彼は、ぼくをとめるような身ぶりをしたが手おくれだった。ぼくは、口いっぱい、キノコをほおばっていた。彼は、その場にしゃがみこんで、世にも奇妙な表情で、ぼくの顔をみつめた。
「うまい!」と、ぼくは、いった。
「ああ、いかん!」と、彼は、さけんだ。
彼は、ムシャムシャやっているぼくを、じっとみつめていた。彼の表情は、食べたくて仕方ない気持ちと、ぼくを非難する気持ちとの間で、もみくちゃにされているようにみえた。だが、突然、食欲に負けたのだろう。彼も、大きいやつを砕いて、口いっぱいにほおばりはじめた。
しばらくの間、われわれふたりは、食べることに夢中になっていた。
そのキノコみたいなやつの味は、地球のマッシュルームに似ていないこともなかった。だが、もっとぶよぶよしていて、のどを通るとき、温かいような感じがした。
はじめのうちは、食べることに、機械的な満足を味わっているだけだった。だが、そのうちに、血液がまわって、体が温かくなってきた。われわれは、さかんに舌鼓を打っていた。すると、こんどは、当面の問題とは関係のないちょっとした考えが、心の中にふくれあがってきた。
「うまい!」
ぼくは、くりかえした。
「いまいましいほど、うまい! ここは、人口過剰の地球人にとって、なんてすてきな住家なんだろう! ああ、わが地球にあふれるあわれな人口過剰の人たちよ!」
そして、ぼくは、もうひとつ、大きいやつをちぎって、口にいれた。
月世界にこんなすばらしい食べ物があるということを考えると、ぼくの心は、妙に慈愛に充ちた満足感でいっぱいになった。
空腹のためにまいっていたぼくの気持ちは、わけもわからず、陽気になってきた。いままでぼくをとらえてはなさなかった恐怖や不快さは、完全に消えていた。いまでは、月は、ぼくが一生けんめい脱出の手段を探していた惑星ではなくて、地球人が|困窮《こんきゅう》したときの最上の避難所のように思えてきたのだ。
おそらく、ぼくは、月人のことも、月牛のことも、地下の出入口の蓋のことも、あのもの音のことも、このキノコを食べたとたんに、完全に忘れてしまったらしい。
ぼくが、≪人口過剰≫ということばを三度目にくりかえしたとき、ケイヴァー氏も、おなじようなことばで賛成の意を表した。ぼくは、頭がふらふらしてきた。ところが、ぼくは、それを、長い絶食のあとで急に食べた食物のききめでそうなったのだと思いこんでいた。
「す、すばらしい発見ですよ。あなたの……。ケイヴァーさん」
ぼくは、もつれる舌で、いった。
「ジャ……ガイモのつぎに……う、うまい……ですよ」
「な、なんだって?」
ケイヴァー氏が、たずねた。
「月のハ、ハッケンが、どうったって……? マネギを……ガイモに……おくれだって?」
彼の声が急にしわがれて、発音があやしくなったので、ぼくは、ぎくりとして彼の顔を見た。彼は、キノコで酔っぱらったにちがいない。一瞬、そう思った。それから、また、彼は、月に到着しただけで、月を発見したわけではないのに、発見したと錯覚しているのだということに気づいた。ぼくは、ケイヴァー氏の腕をとって、この間違いを説明しようとした。だが、そういった話は、いまの彼の頭には細かすぎて、さっぱり通じなかった。
ぼくにとっても、自分の考えを表現することが、予想外に難しかった。
ほんのちょっと、ぼくを説得しようとしたあとで、彼は、自分自身の考えを述べはじめた。ぼくは、もしかすると、キノコを食べたために、自分の目も彼とおなじに魚の目のようにドロンとなっているのではないかと、心配しながら聞いていたのを、覚えている。
「わ、われわれはーッ」
彼は、しきりとしゃっくりをしながら、もったいぶって宣言した。
「飲んだり食ったりするところォのォ……どうぶっであーるッ」
彼は、これをくりかえした。ぼくも、いまや、妙な気分になってきていたので、ケイヴァー氏の意見に反対してやろうと思った。おそらく、ぼくも、すこしはピントはずれだったろう。ところが、ケイヴァー氏のほうでは、ぼくなんかには、全然、見むきもしないのだ。
彼は、やっとこさで立ちあがると、失礼にも、ぼくの頭に手をおいて体をささえ、月世界の生物の恐ろしかったことなんかまるっきり忘れてしまったように、悠然と、あたりを見まわしていた。
ぼくは、自分でもはっきりしない理由で、ケイヴァー氏の行動が危険だということを指摘しようとした。ところが、その≪危険な≫ということばが、どうしてか、≪軽率な≫ということばとまじってしまい、それがこんどは、そのどちらともちがう≪有害な≫ということばとなって飛びだしてくるのだ。そして、これをうまく解決しようとしたあげく、ぼくは、原則として、あまり親しめないが魅力のあるサンゴのような植物について、その二つの性質に関する議論をつづけていった。
ぼくは、いますぐ、月とジャガイモの間に存在するこの混乱を解決することが、必要だと感じていた。ところが、やっぱり、議論における正確な定義の重要性についてしゃべりはじめ、長たらしい横道にはいりこんでしまったのだ。
ぼくは、自分の体の調子が、もはや、安心できる状態ではなくなってきているという事実を、できるだけ無視しようとつとめた。
どういう風の吹きまわしだったか、ぼくの頭は、さっきの植民計画にもどってきた。
「われわれは、こ、この月世界を併合しなければならん!」と、ぼくは、わめいた。
「一刻のゆうよも許されん。これは、われわれ白人の義務の一つなんだ。ケイヴァー……われわれは……ヒック……坊さま……じゃなかった……王さまなんだ! かのジュリアス・シーザーでさえ、夢想だにしなかった月世界の大帝国だ。すべての新聞が書きたてるぞ。ケイヴァー王国。ベッドフォード王国。ベッドフォーデシヤは――ヒック――有限だ。いや、つまり、無制限だ! 実際には……」
たしかに、ぼくは、酔っていた。ぼくは、われわれの到着が月世界に無限の利益をもたらしたということを論証する議論をおっぱじめていた。その結果、コロンブスのアメリカ到着が、けっきょくのところ、アメリカにとって利益があったのだという、かなりむずかしい証明に首をつっこんでしまっていた。そのうちに、自分が追求しようとしていた議論の本筋を忘れてしまっていることに気がついた。そして、とうとう、「コロンブスとおんなじさ」と、いつまでもくりかえすようになってしまった。
このあたりから、あのいまいましいキノコのきき目に関するぼくの記憶は、混乱してくる。ぼくの、おぼろげながら覚えているところでは、われわれは、もはや、あの虫けらのようないまいましい月人なんかにばかにされてはいないぞ、と宣言し、地球の衛星にしかすぎないこの月の上で、びくびくして隠れているなんて、頭がどうかしているのだと決議したらしい。それから、飛道具かなにかのつもりだったのだろう、大きなキノコを両腕でかかえて、棘だらけの灌木に刺されるのもかまわず、日のあたる場所へ出ていったのだった。
ところが、出ていくのとほとんど同時に、われわれは、月人にでっくわさなければならなかった。月人たちは、六人いた。岩の上を一列になって、笛の鳴るような、犬の鳴くような、ひどく変わった音を立てながら、歩いていた。やつらも、すぐに、われわれに気がついたらしかった。顔をこちらにむけたまま、一瞬にして、口もきかず体も動かさない動物のようになってしまった。
ぼくは、酔いがふっとんだような気がした。
「虫けらめが!」
ケイヴァー氏が、つぶやいた。
「虫けらどもが!――やつらは、このわたしが、胃袋で這いまわってると思っているんだ――背骨のある胃袋でだぞ!」
「胃袋で、だ……」
彼は、その軽蔑のことばをかみしめるように、ゆっくりとくりかえした。
それから、突然、彼は、怒りがこみあげてきたように、大股に三歩すすんで、やつらにとびかかった。ところが、彼は、跳びそこねて、空中でいくつかトンボがえりを打ちながら、やつらの頭の上をきれいに飛び越え、ものすごい水しぶきとともに、サボテンの水袋の中にみえなくなった。この、よその惑星からやってきた、ぼくでさえ恥かしいと思うような、おどろくべき侵入者を、月人たちがどう思ったかは、想像するすべがないのだ。
ぼくは、やつらが|蜘蛛《くも》の子を散らすように八方へ逃げていったようすを覚えているような気がする――あまり確かではないのだが。
ぼくが気を失う直前に起こったこの事件については、いっさいの記憶が、ぼんやりとしている。ぼくは、ケイヴァー氏のあとを追って、一歩ふみだしたとき、なにかにつまずいて、岩の間にまっさかさまに落ちたのを覚えている。たしか、ぼくは、急に、ものすごく気分がわるくなった。それから、大格闘をやり、とっつかまって、金属製の手錠をはめられたところまでは覚えているような気がする。
つぎにわれにかえったとき、われわれは、月の地下の、どれくらいの深さかわからないところに、とらわれの身となっていた。われわれは、|暗闇《くらやみ》の中にいて、あたりは、奇妙な、わけのわからない音でいっぱいだった。われわれの体は、ひっかき傷や打ち身だらけで、頭が割れるように痛かった。
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一一 月人の顔を見る
ぼくは、騒々しい暗闇の中に、身をかがめてすわっていた。いったいどこにいるのか、どうしてこんなわけのわからないことになったのか、理解できなかった。こどものころ、よく入れられた戸棚の中や、病気のとき、寝かされた暗くてうるさい寝室のことなどを、思いだした。しかし、あたりのもの音は、聞いたことのない音だった。かすかに、うまやの風のような匂いがただよっていた。
ぼくは、まだ、球体を作るために働いているのだと思い、なんとなく、ケイヴァー氏の家の地下室にいるような気がしていた。そのうちに、ぼくは、球体を完成したことを思いだした。そして、自分は、いま、球体の中にいて、宇宙を飛んでいるのだと考えた。
「ケイヴァーさん」と、ぼくは、呼んだ。
「なんとか、あかりをつけることはできませんか?」
返事は、なかった。
「ケイヴァーさん」
ぼくは、大声で呼んでみた。
返事のかわりに、うなり声が、聞こえた。
「頭が!」
ケイヴァー氏の声だった。
「頭が!」
思わず、ぼくも、がんがん痛む自分の頭に手をやろうとした。ところが、ぼくの手は、しばられているのだ。ぼくは、びっくりした。ぼくは、手を口もとに持っていった。すると滑らかな金属性のものが、ひやりとさわった。手は、|鎖《くさり》でしばられていたのだ。両足を動かそうとしてみたが、おなじようにしばられていて、胴体のまんなかあたりも、かなり太い鎖で巻かれて、床につながれていた。
ずいぶんいろいろな変わった経験もしたが、こんなにおどろいたことはなかった。
しばらく、ぼくは、ものもいわず、もがいていた。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、鋭くさけんだ。
「なぜ、ぼくは、しばられているんです? なぜ、ぼくの手や足をしばったりしたんです?」
「わたしじゃない」と、彼は、答えた。
「しばったのは、月人だよ」
月人! ぼくは、しばらく、そのことばを心の中でくりかえしていた。やがて、いろいろな記憶がよみがえってきた。雪の荒野、それから空気がとけて、植物がすごく成長したこと、火口の中を岩から岩へと跳び、植物の間をかきわけてすすんだこと。つまり、気ちがいのようになって球体をさがしたときのあらゆる苦しみが浮かんできた。……そして最後に、地下の洞穴をおおっていた巨大な出入口の蓋がひらいたのだった!
それから、われわれがこんな苦しい羽目におちいるまでのそれ以後の行動を思いだそうと考えていると、ぼくの頭はたまらなく痛んできた。そして、乗り越えられない厚い壁、どうしようもない記憶の空白な部分にぶつかったのだ。
「ケイヴァーさん!」
「ここにいるよ」
「われわれは、どこにいるんでしょう?」
「わたしにもわからないのです」
「われわれは、死んでるんでしょうか?」
「ばかな!」
「じゃ、やつらにつかまったんだ!」
彼は、返事するかわりに、怒ったように鼻を鳴らした。キノコの毒がまだまわっているせいか、妙におこりっぽくなっているようだった。
「どうするつもりですか?」
「そんなこと、わかるもんか!」
「そうですか。じゃ、けっこうです」
ぼくは、そういって、口をつぐんだ。だが、ぼくは、すぐ、われにかえった。
「ああ!」
ぼくは、大声を出した。
「そのブーブーいうのはやめてください!」
われわれは、また、もとの沈黙にかえった。そして、街路や工場の騒音がほかの音を消してしまうように、耳の中いっぱいに響いている鈍い騒音に、聞き入った。
だが、そんなことをしてもなにも役に立たなかった。ぼくは、まず一つのリズムを聞きわけ、つぎに、ほかのリズムを聞きわけようとしたが、なんの音だかわからなかった。
ところが、しばらくすると、新しいもっと鋭い音が聞こえてきた。その音は、もとの音にまじって、というよりも、いわば、もとの音をバックにして、きわ立ってひびいてきた。
それは、パタパタとたたくような、なにかをこするような、小さい、はっきりしない音の連続で、きづたの小枝が窓をたたく音や、小鳥が箱の上を歩きまわる音によく似ていた。
われわれは、耳をすまして、あたりを見まわした。だが、やはり、ビロードの黒幕をはりめぐらしたように暗かった。つづいて、油のよくきいた錠前をまわすようなかすかな音がしたかと思うと、この底知れぬ暗闇の中に、一筋の細い糸のような光がさしこんできた。
「見たまえ!」と、ケイヴァー氏が、声をひそめて、ささやいた。
「なんでしょう?」
「さあ……」
われわれは、じっと、その光をみつめた。細い光の線は、帯のようになり、さらに広がりながら、ますます青白く変わっていった。それは、白壁に落ちた青みがかった光といった色調をみせていた。
まず、光が左右平行して広がっていたのがとまると、片側だけがどんどん広がっていった。
ぼくは、このことをケイヴァー氏にいおうと思ってふりむいた。すると、おどろいたことに、ほかの部分はすっかり影になっているのに、彼の片一方の耳だけが、明るい光に照らしだされているのだった。
ぼくは、しばられている鎖の許すかぎり、首をねじむけて、いった。
「ケイヴァーさん! 光は、うしろです!」
すると、彼の耳がみえなくなって、片方の目がみえてきたではないか!
突然、光がさしこんできている割れ目がいっぱいにひらいた。それが、この部屋の出入口の広さを示していた。
外界はサファイヤ色に輝いていた。そして、ドアのところには、その輝きをバックに、グロテスクな姿が、|影絵《かげえ》のように浮かびあがった。
われわれは、体をむけようとして、はげしくもがいたが、だめだった。そこで、仕方なく、すわったまま、首だけひねって、自分の肩越しに、その姿を見ることにした。
ぼくの最初の印象では、それは、なにか、頭を下げて四つん這いになったぶかっこうなけもののようにみえた。
だが、やがて、月人は、ほっそりとやせた体と、短くて極端に細い、ひものような足を持ち、いつも、首を肩の間に埋めるようにしているのだということがわかってきた。
この月人は、外界で着ていたようなヘルメットも、胴着もつけていなかった。
われわれのほうから見ると、光を背にうけて、月人は、ただの黒い影としかみえなかったが、われわれは、直感的に、その人間によく似た輪かくにふさわしい顔を想像した。少なくとも、ぼくは、やつの姿をひとめ見ただけで、やつらが多少猫背ぎみで、額がひろくて長い顔をしているということがわかった。
月人は、三歩ばかり近づいて、立ちどまった。彼は、まったく音を立てないで歩いた。それから、また、近づいてきた。彼は、鳥のように歩いた。一方の足をもう一方の足の前に出すようにして――。彼が扉からさしこんでいる光の中からふみだすと、その姿は、影の中に消えてしまったようにみえた。
しばらく、ぼくは、見当はずれのところをさがしていた。だが、すぐに、われわれ二人の真正面に、光を全身に浴びて立っているそいつをみつけた。そいつには、ぼくが考えていたような人間らしいところは、どこにもなかった!
そんなことは、当然、予想していなければならなかったことだが、ぼくがそうしなかっただけのことだ。
ぼくは、たいへんなショックをうけた。一時は、うちのめされたようなショックを感じていた。
顔なんていうしろものじゃない。仮面とでもいったほうがいいような、恐ろしい、簡単には説明できないほどの奇形だった。鼻はなく、でっぱった目のようなものが、両脇についていた――シルエットだけ見たときには、ぼくは、それを耳だと思ったのだ。ぼくは、その先っちょをひっぱってやろうと思ったが、できなかった。
口は、残忍な表情を浮かべている人間のように、下向きに曲がってついていた。頭をのせている首は、|蟹《かに》の脚の短い関節のように三つの部分で連結されていた。また、手足は、この生物の着ているただ一つの着物である巻ゲートルのようなひもを巻きつけているために、見ることができなかった。
そのときのぼくの頭は、この動物の、想像を絶した奇妙な姿でいっぱいになっていた。
やっこさんのほうだって、びっくり仰天したにちがいない。おそらく、われわれよりもびっくりしたとしてもふしぎはないはずだ。だが、ちくしょうめ! やつは、それを、そぶりにもあらわさなかった。少なくとも、ぼくだって、この似ても似つかぬ動物たちの顔合わせが、どんな感じをもたらすかということぐらいは、わかった。
考えてもみたまえ。たとえば、ロンドンのハイドパークの羊たちの中に、人間とおなじ大きさの、ほかのどんな地球上の動物とも絶対に似ていないような二匹の生物があらわれて、いっしょに走りまわっていたとしたら、上品なロンドン市民たちは、いったい、どう感じるだろうか?
月人は、ちょうど、そんな感じを持ったにちがいない。
そのときのわれわれの姿を、想像してみてくれたまえ! 手足はしばられ、疲れはて、よごれきっていた。ひげは二インチものび、顔じゅう、ひっかき傷で血だらけになっていたのだ。
ケイヴァー氏はといえば、灌木の棘であちこち破れたニッカーボッカーをはき、イェイガーの毛織のシャツを着て、古びたクリケット帽をかぶり、針金のような髪の毛はもじゃもじゃに乱れて、一本ごとに勝手な方向に天にむかって逆立っていた。この青白い光の中では、彼の顔は赤味を失って、あおざめてみえた。唇や手についた血は、乾いて黒くなっていた。
もしかすると、ぼくは、あの黄色いキノコの中にとびこんだのだから、ケイヴァー氏よりももっとひどいようすをしていたのかも知れない。ジャケツのボタンははずれ、靴は脱げてしまって、足もとに転がっていた。
こうして、われわれは、奇妙な青い光を背にして、デューラーの画にでも出てきそうな怪物と、むきあってすわっていたのだ。
まず、ケイヴァー氏が沈黙をやぶった。彼は、しゃべりはじめたが、のどがかすれて、咳ばらいをした。そのとき、部屋の表で、月牛が苦しんでいるような恐ろしいほえ声が起こった。だが、それも、悲鳴となっておわり、すべては、また、もとの静寂にもどった。
やがて、月人も、むきを変えると、影の中へ去っていった。戸口のところで一瞬ふりかえったが、扉をしめた。あたりは、ふたたび、われわれが正気にかえったときとおなじように神秘的な暗黒につつまれ、れいの物音だけがかすかに聞こえていた。
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一二 ケイヴァー氏、意見を述べる
しばらくの間、二人とも、黙っていた。われわれの出会ったことをまとめてみようとしたが、ぼくの頭では無理なような気がした。
でも、やっとのことで、ぼくは、いった。
「月人のやつらが、われわれをつかまえたんです」
「いや、あのキノコのせいだ」
「そう……、でも、あれでも食べなかったら、腹が空いてノビてしまってましたよ」
「いや、球体がみつかったかも知れない」
ぼくは、彼の頑固さに気を悪くして、自分自身を毒づいた。すこしの間、二人は、無言で反目していた。ぼくは、膝の間の床を指でトントンたたき、足かせの鎖をギシギシこすり合わせた。
でも、また、すぐに、話したくてたまらなくなってきた。
「とにかく、あなたはどうするつもりですか?」と、ぼくは、下手に出て、たずねた。
「やつらは、理性のある動物です。物を作ったり、したりすることができる。われわれが見たさっきの光だって……」
彼は、口をつぐんだ。明らかに、彼にも対策はなかった。
ふたたび、彼が口をきったときは、告白の調子だった。
「要するに、やつらは、われわれが考えるよりもずっと人間的なんだ。考えてみると……」
「え?」
「考えてみると、とにかくですね、知的動物のいる星ならば、どの星においても、そいつは、その脳みその|容《い》れ物を体の上のほうに持っていて、手があり、直立して歩くはずなのです」
そこで、彼は、突然、話題を転じた。
「われわれは、相当深いところに――多分、二千フィートかそれ以上の深いところにいるらしい」
「なぜです?」
「地上より涼しいよ。それに、われわれの声も、地上より大きく聞こえるじゃないですか。だいいち、あの地上のはっきりしない気分がすっかり消えている。耳やのどの感じがちがうと思いませんか?」
そういわれてみれば、そんな気もした。
「空気が濃くなっている。われわれは、深いところにいるにちがいない――月の中の――そう、一マイルもあるかも知れない」
「月の中の世界なんて、考えたこともありませんでしたね」
「まったく」
「考えなかったのも当然ですが」
「いや、考えられないこともなかったさ。ただ、人間というやつは、型にはまった考え方をしがちなものでね――」
彼は、しばらく、考えこんでいた。
「さて」と、彼は、いった。
「いまや、事情は、はっきりした。こうなるのは、当然のことだったんだ! 月の世界は、穴だらけで、その穴の中には、空気があり、その穴の中心には、月の海があるにちがいない。月が、地球より比重が低いということは、わかっていた。月の表面には、空気も水も少ないということも、わかっていた。また、月が地球の親類みたいな星でありながら、その構成は、はかり知れぬほどちがっているということもわかっていた。月に穴があいているという推論は、白日のごとく明らかだった。ところが、事実としてそれを確認したものは、いまだかつて、なかったのだ。もちろん、あのケプラーだって――」
彼の声は、すばらしい推理の結論を発見した人のように、はずんでいた。
「そうだ」と、彼は、いった。
「結論として、ケプラーが、彼の著作でいっていたことは、正しかったんだ」
「そのことを、なんとかして、ここへくる前に発見していてくれたらよかったのに」と、ぼくは、ぼやいた。
彼は、答えようともせず、かすかに唸りながら、自分の考えを追っていた。ぼくは、いらいらしてきた。
「とにかく、われわれの球体はどうなったんでしょうね?」と、ぼくは、聞いてやった。
「なくなっちまったんですよ」
彼は、まるで興味のない問題に答えるように、いった。
「藪の中にですか?」
「もし、やつらがみつけなければね」
「みつけなければ、あのまま、あるんでしょうか?」
「そんなこと、わかるもんですか」
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、いらだって、ヒステリックな調子で、いってやった。
「われわれの会社は、まさに、前途洋々たるもんですな」
彼は、答えなかった。
「やれやれ!」
ぼくは、さけんだ。
「こんなひどいことになるまで、われわれがどれだけの苦労をしてきたか、考えてみてくださいよ! われわれは、なんのためにきたんです? このあと、どうなるというんです? われわれにとって、月はどういう意味を持っていたのか、また、月にとって、われわれは、いったい、どういう意味を持っていたのか、聞かせてください。われわれは、欲ばりすぎたんです。やりすぎたんです。もっと小さなことから始めればよかったんですよ。それを、月へいこうなんていいだして! あのケイヴァーリットの捲き上げ式ブラインドなんてやつもそうです! こいつを地球の上で活用することもできたはずです。いや、たしかにできたはずだ! あなたは、ぼくのいいだしたことを、ほんとうにわかっていたんですか? たとえば、鋼鉄製の筒を……」
「ばかいいたまえ」と、ケイヴァー氏が、いった。二人は、話をやめた。
しばらくの間、ケイヴァー氏は、とぎれとぎれのひとりごとをいっていたが、ぼくにはなんの役にもたちはしない。
「もしやつらがみつけたとしたら」
彼は、はじめた。
「もし、やつらがみつけたとすれば……それをどうするかな? さて、それが問題だ! おそらく、それが問題だな。とにかく、やつらには、球体がなんだか、わからんだろう。わかるくらいだったら、やつらは、とっくの昔に地球にやってきていたはずだ。きたことがあっただろうか? いや、きたはずはない。でも、やつらは、地球に、なにかを送ったかも知れない――やつらが、そんな可能性に手をつけずにいるなんて考えられないからな。考えられんとも! だが、とにかく、やつらは球体を調べるだろう。やつらに知能があって|詮索《せんさく》好きなことはたしかだからな。球体を調べるだろう……中にはいって……ボタンをいじくりまわす。出発だ!……ということは、そのあと一生、われわれは月世界で暮らさなければならないことを意味しているんだ。珍しい動物――珍しい知識――」
「珍しい知識だったら――」と、ぼくは、いいかけたが、あとのことばが出てこなかった。
「おいおい、ベッドフォード君」と、ケイヴァー氏が、いった。
「あんたは、この探険に、自由意志で参加したんですぞ」
「あなたは、ぼくに、『探険』とは呼ばずに『調査』と呼ぼう、と、いったじゃありませんか」
「調査には、いつも、危険がともなうものです」
「あなたが、武器も持たず、起こり得るあらゆる可能性を考えない場合には、特にね」
「わたしは、球体のことで頭がいっぱいだった。仕事がわれわれをせきたてて、こういう羽目に追いこんだのです」
「|わたしを《ヽヽヽヽ》せきたてた、と、いってください」
「わたしをといってもおなじことですよ。わたしだって、分子物理学の研究をはじめたとき、その結果が、わたしを、ところもあろうにこんな月の世界へ連れてくることになろうとは、どうして知っていたろう?」
「そいつは、この|呪《のろ》われた科学というやつのせいですよ」
ぼくは、さけんだ。
「まったく、悪魔そのものだ! 中世の坊主や科学の迫害者たちは正しかったんだ。現代は、みんな、まちがってる。あなたは、科学に手をだした。科学は、あなたに贈物をした。あなたは、それを正直に受け取り、その結果、思いもかけない方法で打ちのめされようとしているんです。古ぼけた情熱と新しい武器――いまや、この二つが、あなたの信仰をくつがえし、あなたの社会常識を失わせ、あなたをこの荒れはてた悲惨な世界にまきこんだんです!」
「とにかく、いま、ここで、あんたと喧嘩していたってなにもならん。あの動物ども――月人――あるいは、どう呼ぼうと勝手なんだが、あいつらが、われわれをつかまえて、手足をしばっているんだ。あんたが、どんな気分でここをきり抜けるにしろ、とにかく、きり抜けなければならないのです……われわれは、いま、われわれの全冷静さを必要とするような事態に直面しているのですぞ」
彼は、ぼくの同意を求めるように、口をつぐんだ。だが、ぼくは、ふてくされて、すわったまま、いった。
「あなたの科学なんか、くそくらえだ!」
「問題は、意志の伝達だ。おそらく、身ぶりじゃだめだろう。たとえば、指さすことなんだが、ヒトとサルのほかには、指さして示す動物はいないからな……」
ぼくは、その考えは、明らかに間違っている、と、思った。ぼくは、大声でいった。
「ほとんどすべての動物が、目か、鼻で、ものを指し示すことをしますよ」
ケイヴァー氏は、だいぶ、考えていた。
「そうだ!」
彼は、最後に、いった。
「そして、われわれは、目や鼻では、やらない。こういう違いがあるんだ! こういう違いは、どうしようもないんだ!」
彼は、さらに、つづけた。
「もしかすると、伝達は可能かも知れんぞ……。でも、どうしたら話せるようになるだろう? やつらにも会話はある。やつらのたてるフルートのような笛のような音だ。だが、どうやってまねたらいいのかわからないのです。あんなのが、やつらの会話なのだろうか? やつらは、ちがった感覚と、ちがった伝達の方法を持っているのかも知れない。もちろん、やつらにも、われわれにも、心というものはあるんだから……共通ななにかがあるにはちがいない。もっとも、お互いが、どのていどまで深い了解点に達することができるかなどということは、だれにもわかりはしないのだが……」
「やつらは、別世界の生き物なんですよ」と、ぼくは、いった。
「やつらは、地球上のどんな動物よりも、われわれとちがっているんです。神さまが、全然ちがう粘土でお作りになったんですよ。こんなことを話していたって、なんにもならないじゃありませんか」
ケイヴァー氏は、ちょっと考えて、いった。
「それは、わかりませんよ。心というものがあれば、そこに、共通のなにかがあるはずです。たとえ、お互いに別々の惑星の上で、別々に進化したとしてもね。もちろん、それが本能の問題だとすれば……われわれかやつらか、どっちかが動物にすぎないとすれば……、意志の伝達なんかは望めないでしょうが……」
「へん、じゃ、やつらは動物以上だっていうんですか? やつらは、人間なんていうより、後足で立っている蟻に似ているじゃありませんか? いままでに、蟻と意志の疎通ができた人間というのがいましたかね?」
「だが、あの機械や衣類をみたまえ! わたしは、あんたの意見には、同意できない。ベッドフォード君。われわれとやつらとのちがいは大きいが……」
「まさに、越えがたい相違ですよ」
「その相違は、類似点で橋わたししなければなりません。わたしは、かつて、ガルトン教授が、惑星間の意志伝達の可能性について書いた新聞記事を読んだことがある。残念なことに、当時、わたしは、そんなことが物質的利益をもたらそうとは思えなかったので、ことがらのこういった状況に関して払わなければならない注意を怠っていました。しかし……、いまだったら、注意して読んだでしょうが!」
彼は、さらに、話しつづけた。
「ガルトン教授の考えは、考えられるありとあらゆる知的存在が持っている幅の広い真理からはじめて、それに基礎を置くというのです。つまり、幾何学の大原則からはじめようというのです。彼は、あるユークリッドの定理をとりあげ、われわれが、それが真理であることを知っていると作図によって示せといっている。たとえば、二等辺三角形の二角は相等しいとか、二辺が等しければ、底角も等しいとか、あるいは、直角三角形の斜辺の上の正方形の面積は、ほかの二辺の上の正方形の和に等しい、というようなことを証明してみせろというのです。要するに、こういうことがらについてのわれわれの知識を示すことによって、われわれが理性的な知能を持っていることを示すことができる……、そら……、こうやって、指先を濡らして幾何学の図をかくことができるし、少なくとも空中にえがいてみせるぐらいのことはできる」
彼は、また、黙りこんでしまった。ぼくは、彼のことばを考えてみた。ここしばらくは、この気味の悪い生き物と意志の伝達や交換ができるという彼の大ざっぱな希望をあてにするほかはなかった。だが、すぐに、疲労と、肉体的な苦痛からくる腹立たしい絶望感が、ぼくをおそった。ぼくが犯した、ひどくばかげた失敗のすべてが、突然、あらためて、まざまざと浮かんできたのだ。
「ばかだった!」と、ぼくは、ぼやいた。
「なんてばかだったんだろう! ぼくは、ばからしいことをするためにだけ生きているようなもんだ。……どうして球体からとびだしたりしたんだろう? 特許権や利権を探しながら、月の火口の中を跳んでまわるなんて!……せめて、棒の先にハンカチを結びつけておくだけの才覚があったら、球体のあり場所なんかすぐにわかっただろうに!」
まもなく、ぼくの腹立ちは、おさまった。
「月人にも知性があるということはたしかだ」
ケイヴァー氏は、考えながら、いった。
「人間は、確かなものなら担保にしてもいいはずだ。やつらはわれわれをその場で殺そうとしなかったのだから、少なくとも慈悲の心は持っているにちがいない。人の情けというやつをだ! とにかく、殺さないでしばっておくという情を。話し合いに応じるという情もあるかも知れない。やつらは、われわれに会ってくれるかも知れない。われわれをこの部屋にほうりこんで、ときどきのぞきにくるのも保護しているつもりなんだ! この鎖だってそうだ! やつらは、高度の知能を……」
「ああ、死んじまったほうがましだ!」
ぼくは、さけんだ。
「ぼくは、二回だけ、よく考えればよかったんだ。それなのに、突進また突進だった。一回目は、まぐれあたりではじまった。そして、二回目も、べつのまぐれあたりだ。それというのも、あなたを信じていたからだ。ぼくは、どうして戯曲の仕事にかじりついていなかったんだろう? あれこそ、ぼくにふさわしい仕事だったのに。あれこそ、ぼくの生まれついた世界であり、人生だったのに。あのままつづけていれば、あの戯曲は完成していただろう。たしかに……あれは、いい戯曲だった。ぼくの脚本は、傑作になるところだったんだ。ちょうどそのとき……考えてもみたまえ! ぼくは、月にむかって跳びだしてしまったんだ! 実際、ぼくは、人生を投げすててしまったんだ! あのカンタベリーの宿屋のおかみさんは、いいことをいっていたんだ」
ぼくは、顔をあげた。そして、ことばなかばで黙ってしまった。暗闇は、ふたたび、あの青みがかった光に変わっていた。扉が開かれて、数人の月人が、音もなく部屋の中にはいってくるところだった。ぼくは、体をかたくして、やつらのグロテスクな顔をみつめていた。
それから、突然、ぼくの不快な気味わるさの感じは、興味に変わった。ぼくは、先頭のやつと二番目のやつがなにかのいれ物をもってくるのを見た。われわれと月人とは、少なくとも一つの基本的欲求を理解し合えたらしい。そのいれ物は、足かせと同じような金属でできていて、青みがかった光の中に黒っぽくみえた。そして、その中には、白っぽいかたまりが、いくつか、はいっていた。
ぼくを悩ましていたぼんやりとした苦痛と敗北感が、いっせいに襲いかかって、激しい空腹感に変わっていた。ぼくは、そのいれ物を餓えた狼のような目で見た。月人の一人がぼくにさしだした腕の先は、人間の手のようではなく、平べったい部分と親指だけで、まるで象の鼻の先のようだった。
いれ物の中身は、ぶよぶよした白みがかった褐色をしたもので、卵の白身で作った冷たい料理によく似ていた。かすかに、マッシュルームのような匂いがした。われわれがそれから間もなく目撃した切りわけられた月牛の死骸から考えて、ぼくは、それが、月牛の肉だったと信じたい。
ぼくは、しっかりと手かせをはめられていたので、そのいれ物に手が届くのがやっとだった。だが、ぼくの苦心を見て、二人の月人は、手首の錠の一つを器用にはずしてくれた。やつらの触手のような手が、やわらかく、冷たく、ぼくの肌にさわった。
ぼくは、いそいで食物をつかみ、口いっぱいほおばった。それは、月世界のすべてのものとおなじように、ぶよぶよした性質のしろもので、薄いワッフル菓子かメレンゲ菓子のような味で、どっちにしろ、そうまずくはなかった。ぼくは、もうふた口、ほおばった。
「ああ、食べたかった!」
ぼくは、そういいながら、もっと大きいやつをちぎった。
しばらくの間、われわれは、まったく夢中で食べていた。まるで、台所にはいった乞食のように、がつがつと食べた。あとにもさきにも、こんなにひどいことになるほど餓えたことはない。そして、このひどい経験がなかったら、地球から二十五万マイルもはなれたところで、心は混乱しきったまま、悪夢の中に出てくるいちばんいやらしい動物よりもグロテスクな人間ばなれのした生き物にとりまかれ、眺められ、さわられながら、そんなことはみんな忘れて物を食べるなんていうことができようとは、信じることができなかっただろう。
やつらは、われわれのそばに立って、みつめていた。そして、それが話のかわりになるのだと思うが、かすかでとらえどころのないさえずるような音を、しょっちゅうたてていた。ぼくは、やつらにさわられても、身ぶるいもしなかった。そして、一まず、夢中になって食べおわったとき、ぼくは、ケイヴァー氏も、ぼくとおなじに、恥も外聞もないようすで食べることに没頭しているのを、見ることができた。
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一三 月人との交際の試み
われわれが食事をおわると、月人たちは、もとどおりにわれわれの手を|鎖《くさり》でしばったが、足の鎖はほどいてくれた。あるていどの行動の自由をあたえてくれるつもりらしかった。腰の鎖もはずしてくれた。こうしてくれる間じゅう、やつらはわれわれを勝手にいじくりまわした。やつらの奇妙な頭は、しょっちゅうぼくの顔に近づき、その触手のような手は、ぼくの頭や首に柔らかくさわってきた。
やつらがすぐそばにいることが、こわかったか、不愉快だったか、よく覚えていない。
われわれは、やつらをどうしても人間になぞらえて考えていたので、その仮面の下には人間の頭があるような気がしてならなかった。皮膚は、ほかのすべてのものとおなじように青みがかっていたが、それは光のせいだった。まるで、カブト虫の羽根のように硬くて光っていた。そして、地球の脊椎動物のように、柔らかくもなく、湿り気もなく、毛も生えていなかった。頭のてっぺんにそって、うしろからまえに、白っぽい脊椎のような隆起が走り、それよりも大きな隆起が両側の目の上に盛りあがっていた。ぼくをほどいてくれた月人は、手の仕事を口で助けていた。
「やつらは、われわれを解放してくれるんだ」と、ケイヴァー氏はいった。
「われわれは月の上にいるんだということを忘れてはいけない! 急に、動いたりしちゃいかん!」
「さっきの幾何学をやってみますか?」
「機会があったらね。だが、当然、やつらのほうからはじめるかも知れない」
われわれは、されるままになっていた。われわれの鎖をときおわると、月人は、うしろに立って、われわれを眺めているように思われた。思われたというのは、やつらの目は前ではなく横についていたので、やつらがどっちの方向を見ているかを知ることは、ちょうどニワトリかサカナの場合とおなじように難しかったからだ。
やつらは、お互いに、ぼくには真似することも説明することもできそうもないような、細い笛のような声で話しあっていた。
われわれのうしろの扉が、ふいに、さらに広くひらかれた。肩越しにふりかえってみると、扉のむこうのずっと広いところに、月人たちがむらがっていた。そいつらは、好奇心で集まってきた雑多な野次馬らしかった。
「やつらは、あの音を真似してほしいんでしょうか?」
ぼくは、ケイヴァー氏に、たずねた。
「そうは、思いませんがね」
ケイヴァー氏は、答えた。
「やつらが、われわれに、なにかをわからせようとしているような気がするんです」
「ぼくには、やつらの身ぶりの意味なんかわかりませんよ。ところで、あなたは、きゅうくつなカラーをつけた人間のように頭を振っているやつに気がつきませんか?」
「じゃ、われわれも頭を振ってみせてやろう」
われわれは、やってみた。そして、なんにもならないことだとは知りながら、月人の動作を真似してみせようと試みた。ところが、やつらは、それが面白かったらしい。とにかく、やつらは、全員で、その動作をやりはじめた。だが、そんなことをしていても、なんの結果も得られそうもなかったので、われわれは、やめてしまった。すると、やつらもやめた。こんどは、お互いに、例の笛のような声で議論をはじめた。そのうちに、月人の中でいちばん背が低くて、かなり肥っていて、特に大きな口をしたやつが、突然、ケイヴァー氏のそばにかがみこみ、手足をしばられているケイヴァー氏とおなじかっこうで、器用に立ちあがってみせた。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、さけんだ。
「やつらは、立てといってるんですよ」
彼は、ポカンと口をあけて、みまもっていた。
「そのとおりだ!」と、彼は、いった。そして、われわれは、手足をしばられているために、かなり苦しんで、フーフーいいながら立ちあがろうと、もがいた。月人たちは、ぶざまにもがくわれわれに道をあけ、いっそううるさくさえずりあった。一人の月人がやってきて、その触手のような手でわれわれの顔をたたき、先に立って開かれた扉のほうへ歩きはじめた。その意味はよくわかったので、われわれは、彼のあとにつづいた。扉のところには、ほかの月人よりも背の高い四人の月人が立っていた。その四人は、月の火口で見たのとおなじように、釘の生えたヘルメットと筒形の胴着をつけ、食器とおなじ鈍く光る金属でできた釘と|鍔《つば》のついた棒を持っていた。われわれが、あの光のさしてくる洞穴の中へ部屋から一歩ふみだすと、一人ずつわれわれの両わきにぴったり寄りそった。
はじめのうちは、われわれは、洞穴の中をよく見なかった。われわれの注意は、すぐそばにいる月人たちの動作や態度や、われわれの動きをセーブすることに向けられていた。さもなければ、あまり大股すぎて、やつらをおどかし、警戒の念を抱かせたかも知れなかった。
われわれの前には、さきほどわれわれを立たせるという問題を解決した、背の低いがんじょうな月人が、そのほとんどぜんぶがわれわれに理解できるようなジェスチャーで、自分についてこいと招いていた。彼のじょうごのような顔は、好奇心いっぱいに、われわれの顔を交互に見比べていた。そうだ。しばらくの間は、われわれのほうでも、こういったことに気をとられていたのだ。
だが、ついに、いままでわれわれの活動の舞台となっていた広場が、その姿をあらわした。キノコの麻酔からさめてからずっと、耳の中いっぱいに鳴っていた騒音のほとんどが、活動している無数の機械から出ているということが、明らかになった。宙を飛んだり、回転したりしているその機械の部分が、われわれのまわりを歩きまわっている月人たちの頭越しに、また体の間から、はっきりとみえた。
あたりいっぱいの騒音ばかりでなく、この広場全体を照らしている特殊な青い光も、その機械から出ているのだ。われわれは、当然、地下の洞穴が人工的に照明されているはずだと思っていた。しかし、その事実が目の前で明らかになったいまとなっても、現実に暗闇がおそってくるまでは、その重要性をほんとうに把握することができなかった。
この巨大な装置の意味と構造については、説明できない。われわれは、二人とも、それがなんのためで、どうやって動かすか、ということを月人に教えられなかったからだ。
装置の中心から、金属製の大きな軸がつぎつぎと跳ねあがり、その先端は、|放物線《ほうぶつせん》の軌道をえがいて動いていた。おのおのの軸は、軌道の頂点に跳ねあがるたびに、垂れさがった腕を落とし、垂直な円筒の中に押しこむのだ。その装置のまわりには、われわれのそばにいるやつらとはひどくちがった形をした、小さな労働者たちがはたらいていた。
機械の三本の垂れさがった腕がふりおろされるたびに、ものすごい金属音と轟音が起こり、垂直な円管の先からは、白熱した物質が、広場を明るく照らしながら、ミルクわかしから噴きこぼれるミルクのようにあふれて、下のタンクの中に、キラキラとしたたり落ちてゆくのだ。それは、一種の燐光のような冷たい青い光だったが、それよりもずっと明るく、タンクから洞穴をよこぎる|樋《とい》の中に流れだしていた。
ドシン、ドシン、ドシン、ドシン。この理解できない装置の腕は、宙を|掃《は》くように動き、発光物質は、シューシューとあふれだしていた。
はじめのうちは、その装置は、ふつうの大きさにすぎなくて、すぐそばにあるようにみえた。ところが、その上にいる月人がひどく小さくみえることを知って、ぼくは、はじめて、この洞穴全体の広大さ、機械の壮大さを理解した。
ぼくは、このすばらしいことがらから、あらたな尊敬の念をもって月人たちの顔を見なおした。ぼくは立ちどまった。ケイヴァー氏も立ちどまった。そして、この雷のような轟音をたてて動いているエンジンをみつめた。
「それにしても、これは、たいしたもんだ!」と、ぼくは、いった。
「でも、なんのための機械なんでしょう?」
青白い光に照らされたケイヴァー氏の顔には、学者らしい尊敬の念があふれていた。
「夢にも思わなかった! たしかに、この機械ときたら……人間には、こんな機械は作れないだろう! あの腕をみたまえ。あれは、金属の棒をつぎあわせて作ったのだろうか?」
ずんぐりした月人は、気づかずに、すこしさきへいってしまっていた。やっこさんは、ひっかえしてくると、われわれと機械の間に立ちふさがった。たぶん、われわれに先に進むように合図するつもりにちがいないと思ったので、ぼくは、そっぽをむいていた。彼は、われわれを連れてゆきたいほうへ歩いていったが、ふりかえって、もどってくると、注意をうながすために、われわれの顔を軽くたたいた。
ケイヴァー氏とぼくは、顔を見合わせた。
「われわれがこの機械に興味を持ったということを、知らす方法はないでしょうか?」と、ぼくは、いった。
「うん、やってみよう」
ケイヴァー氏は、答えた。彼は、案内役の月人のほうに向き直り、にこにこ笑ってみせた。それから、くりかえして機械を指さしてみせ、つぎには、自分の頭を、そしてまた、機械を指さした。いくらか理性を失ったのか、彼は、かたことのことばが、このジェスチャーのたしになるとでも思ったらしかった。
「わたし、あれ、見てる」と、彼は、いった。
「わたし、あれ、とても、すばらしい、思う。ほんと……」
彼の行動は、しばらくの間、月人たちに、われわれを歩かせることを忘れさせたらしかった。
やつらは、顔を見合わせ、その奇妙な頭を動かした。そして、早口にペチャクチャやりだした。
すると、やつらの中の、やせて背の高い、ほかのやつの着ているゲートルのような服の上にマントを羽織ったやつが出てきて、象の鼻のような手をケイヴァー氏の腰にまわし、案内人の進むほうへついてゆくように、そっと、ひっぱった。
ケイヴァー氏は、抵抗した。
「もうそろそろ、われわれがなにものであるかを説明しはじめてもいいころだ! やつらは、われわれを新しい動物、おそらく、月牛の新種かなにかと思っているかも知れん! かんじんなのは、はじめから、われわれの知的関心をやつらに示すことなんだ」
彼は、はげしく、頭をふりはじめた。
「ちがう、ちがう。わたし、もうすこし、ここにいたい。わたし、あれ、見てる!」
「こういう場合に応用できるような幾何学的な問題はないもんですかね?」
月人たちがふたたび協議をはじめたすきに、ぼくは、たずねた。
「おそらく、放物線の……」と、ケイヴァー氏は、いいかけた。とたんに、彼は、大声でさけんで六フィート以上も跳びあがった。四人の武装した月人の一人が彼を釘のついた棒で突いたのだ。
ぼくは、すばやく、おどすような身ぶりで、後ろにいる棒を持ったやつをふりかえった。やつは、うしろへさがった。このことと、ケイヴァー氏の突然のさけび声や跳躍が、月人ども全員をおどろかしたことは、明らかだった。やつらは、こちらをむいたまま、すばやく、あとずさりした。
われわれは、バラバラと半円形にとりまいたこの人間とは似ても似つかぬ生物の間で、怒りに燃えて突っ立っていた。ほんとうに、その一瞬は、永遠につづくかと思われるほど長く感ぜられた。
「やつがわたしを突いたんだ!」
ケイヴァー氏は、怒りのあまり、かすれ声で、いった。
「見てましたとも!」と、ぼくは、答えた。
「ちくしょうめ!」
ぼくは、月人に、いった。
「もうがまんできないぞ! いったいぜんたい、おれたちをなんと思っているんだ!?」
ぼくは、すばやく、左右を見た。洞穴の青い光に照らされた荒地を横ぎって、はるかむこうから、無数のほかの月人どもが、こちらへむかって走ってくるのがみえた。
肥ったのや、やせたのや、一人だけ、ほかのやつより頭の大きいのがいた。洞穴の中は、低い天井の下に広くひろがって、まわりは、闇につつまれていた。天井は、われわれを閉じこめている厚い岩の重さに堪えかねたように垂れさがってみえた。どこにも、逃げだす道はなかった。上も下も、前後左右、どの方角も知らないところばかりだった。その上、この怪物どもが、手に手に釘のついた棒をふりかざして立ちふさがっているのだ。そして、われわれ二人は、まったく無防備の状態だったのだ!
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一四 目もくらむ橋の手前で
にらみ合いは、しばらく、つづいた。おそらく、われわれも月人たちも、頭の中は、目まぐるしく回転していたのだ。ぼくのうしろだてとなるものはなにもなく、われわれは取り巻かれて殺されるほかはないのだという考えが、はっきりと浮かんだ。この事態に直面すると、とりかえしのつかないばかなことをしてしまったという後悔の念が、黒雲のように湧き起こり、ぼくの心をさいなむのだった。いったい、どうして、ぼくは、こんなきちがいじみた野蛮な探険旅行にでかけたのだろう!?
ケイヴァー氏が身をすりよせてきて、ぼくの腕に手をおいた。彼の青ざめた恐怖にみちた顔は、青い光を浴びて、幽霊のようだった。
「どうすることもできない」と、彼は、いった。
「まちがいだ。やつらには、わからないんだ。いかなくてはならん。やつらのいうとおりに」
ぼくは、彼を見おろし、それから、仲間を助けにやってきた新しい月人たちを見た。
「手の自由がききさえしたらなあ」
「きいたって、どうにもならんさ」
彼は、あえぎあえぎ、いった。
「いや、しかし……」
「いこう」
彼は、向きを変えて、示されたほうへ歩きはじめた。ぼくも、できるだけ服従しているようにみせかけて、手首の鎖を探りながら、あとにつづいた。はらわたの煮えくりかえる思いだった。
その洞穴を通り抜けるのには、長い時間がかかったようだったが、なにも目にはいらなかった。たとえ、なにかを見たとしても、見たそばから忘れてしまったのだろう。思うに、ぼくの注意は、手首の鎖と月人たち、特に、あの釘のついた棒を持った、かぶとをかぶったやつに集中していたのだ。
はじめのうち、やつらは、適当な距離を保って、われわれと平行して歩いていたが、そのうちに、新手の三人が加わると、ふたたび、手の届く近さまでもどってきた。やつらが近づくと、ぼくは、拍車をかけられた馬のようにびくびくした。背の低い肥った月人は、最初は、ぼくの右側にそって歩いていたが、まもなく、また、われわれの前を歩くようになった。
あのときのわれわれ一行のようすは、いまでも、ぼくの頭にしっかりときざみつけられている。ぼくのすぐまえを歩いていたケイヴァー氏の意気消沈してがっくりと肩を落した後姿、絶え間なくびくびくと体を動かしている案内役の月人のあくびをしているようなおかしな顔、まだ口をあけたままわれわれを見まもりながら両わきを歩いていく棒を持った月人――それらは、すべて、青一色の絵のようだった。
そして、最後に、ぼくは、純粋に人間に関することのほかに、あることを思いだす。それは、あの洞穴を通り抜けるとすぐ、われわれが歩いていた岩のごろごろした小道にそって溝のようなものがあり、その中を、あの大きな機械からあふれ出ていたのとおなじ青い発光物質が流れていたということだ。
ぼくは、その溝のすぐそばを歩いていたので、それが、ほんのわずかでも熱を発散しない物質であることを確かめることができた。それは、明るく輝いてはいたが、洞穴の中にあるほかのどんな物よりも、温かくもなく冷たくもなかった。
ガラン、ガラン、ガラン。われわれは、別の大きな機械がレバーをふりおろしている下を通り、やがて、広いトンネルに出た。そこでは、われわれのはだしの足のペタペタという音まで聞こえ、右側をチョロチョロと流れる細い糸のような青い光だけが、あたりを明るくしていた。われわれや月人たちの影は、でこぼこした壁や天井にうつって、こっけいな巨人のようにみえた。トンネルの壁には、いたるところ、結晶が宝石のようにきらめき、あちこちで道は|鍾乳洞《しょうにゅうどう》のように広がったり、さらに小さい枝道にわかれたりしていた。そして、その先は、すべて、暗闇の中に消えていた。
われわれは、長いこと、トンネルを降りつづけてきたらしい。青い光が静かに流れるチョロチョロという音と、われわれの足音のパタパタという音とがいりまじり、不規則なピシャピシャというこだまとなって反響していた。
ぼくは、手首の鎖のことばかり考えていた。この鎖の環を一つでもはずすことができたら、ああしよう……、それから、これをねじきることができたら、こうしよう……。
もし、ぼくが、ごく目につかないように、そろそろとやったとしても、やつらは、ぼくが手首の鎖のゆるいほうの環をはずそうとしていることに気がつくだろうか? もし気がついたら、やつらは、どうするだろうか?
「ベッドフォード君、降りていくようだね。どんどん降りていってるようだ」
彼のことばで、ふきげんに考えこんでいたぼくは、われにかえった。
「もしも、やつらがわれわれを殺す気だったら……」
彼は、ちょっと、ぼくのほうへもどってきながら、いった。
「とっくの昔に殺してないわけはない」
「そのとおりです」
ぼくは、同意した。
「そいつは、たしかです」
「やつらには、われわれがわからないんだ」と、彼は、いった。
「ただの、みなれない動物ぐらいに思っているんだ。たぶん、野生の月牛の一種かなにかだとね。やつらがわれわれをもっとよく観察してからでないと、われわれが心を持っているということはわからないだろう……」
「あの幾何学の問題を証明してみせたら?」
「それがいいかも知れん」
われわれは、しばらく、重い足をはこんだ。
「ねえ、君、こいつらは、月人の中でも、下層階級の連中かも知れませんよ」
「このいやらしいばかどもが!」と、ぼくは、やつらのいまいましい顔をちらりと見て、悪たいをついた。
「とにかく、やつらのすることをがまんさえしていたら、なんとか……」
「ずいぶんがまんはしてきましたけどね」と、ぼくは、まぜかえした。
「とにかく、やつらより、もうすこし利口な連中がいるかも知れない。ここは、まだ、やつらの世界のほんのとば口なんだ……もっともっと下のほうへつづいているにちがいない。洞穴を抜けて小道を通り、トンネルをくぐって、最後には、なん百マイルも地面の下に、月の海があるんだ」
このことばを聞いて、ぼくは、思った。現に、いまでも、われわれの頭上には、一マイルやそこらの岩やトンネルがあるかも知れない。そう思うと、その重さが自分の肩にのしかかってくるような気がした。
「太陽や地上の空気から絶縁されると……」と、ぼくは、いった。
「たった半マイルの深さの炭坑だって、呼吸困難になりますからね」
「ところが、ここはちがうんだ――とにかく。……おそらく、換気装置があるんだ! 空気は、月の暗いほうの側から、日に照らされているほうにむかって吹いているらしい。そして、たまった炭酸ガスは外へ出ていって、あの植物どもを成長させるんだ。たとえば、このトンネルの上のほうだって、風が通っているじゃないか。こいつは、いったい、どんな世界なんだ? あの軸にしたって、この機械にしたって、真剣に考えてみると……」
「それと、あの釘のついた棒……」
ぼくは、つけくわえた。
「あの|金棒《かなぼう》を忘れないでくださいよ!」
彼は、しばらく、ぼくのすぐ前を歩いていった。
「あの金棒にしても……」
「え?」
「わたしも、あのときは、腹が立った。だが、おそらく、われわれのほうから馴れる必要があるのかも知れない。やつらは人間とはちがった皮膚を持っている。たぶん、ちがった神経を持っているはずです。やつらは、われわれの不満がわからんらしい。だが、それは、ちょうど、火星からやってきた生物が、地球上の人をうながすときにひじで突っつく習慣を好まないかも知れんということとおなじなんだ」
「ぼくを突っつくときは、手心してもらいたいもんですね」
「幾何学にしたってそうだ。やつらもやつらなりに理解しようとしているらしい。ただ、やつらは、われわれを取扱うのに、頭の問題からではなく、生活的な要素、つまり、食べ物とか、おどかしとか、痛みとか、そういったものからはじめたってわけだ。要するに、基本的な問題から攻めてきたんだ」
「それは、たしかですよ」と、ぼくはいった。
彼は、われわれが捕えられてきたこの巨大なおどろくべき世界について語りつづけた。その声の調子から察すると、彼は、この人間ばなれのした星の洞穴の中へより深くはいりこんでいくことがわかっているいまでさえ、そうひどく絶望してはいないようだった。彼の心は、機械や、ぼくを取り巻く無数の不安の種子をとりのぞく工夫でいっぱいだった。それをなにか役に立てようというのではなく、ただ、それを知りたいだけなのだ。
「けっきょくですね……」と、彼は、いった。
「これは、すばらしい機会なんだ。二つの世界が出会ったんだ。われわれは、これから、なにが見られるだろう? それには、われわれの足の下にあるものを考えてみたまえ」
「光がもっと明るくならないと、そうたくさんはみえないでしょうよ」と、ぼくは、いった。
「ところが、ここは、まだ、外側の皮の部分にすぎないのです。下のほうには……このぶんでは……いろんなものがあるにちがいない。あんたは、やつらが、それぞれ、ひどくちがってみえることに気がついたかね? こいつは面白い|土産《みやげ》話じゃないか」
「ある種の珍しい動物は……」と、ぼくは、皮肉をいってやった。
「動物園に連れていかれる途中で、そんなことをいって嬉しがっているでしょうよ。……でもわれわれは、やつらをぜんぶ拝見できるとはかぎらないんだから……」
「やつらが、われわれに理性のあることを発見したときには……」と、ケイヴァー氏は、いった。
「おそらく、地球のことを知りたがるでしょう。たとえ、やつらが寛大な心を持っていないとしても、習うためには、伝達のなかだちとなるようなことがらを、教えてくれるでしょう。……やつらが知らなければならないこと! 夢想もしなかったこと! それを知るためにはね!」
このように、彼は、地球では考えもしなかったようなことを、月人たちが知っている可能性について、あれこれと思索をめぐらしていた。ところが、現実には、彼の皮膚には、れいの釘のついた棒の生々しい傷あとが残っていたのだ!
ぼくは、自分たちの歩いているトンネルが、ますます広くなっていくのに心を奪われていたので、ケイヴァー氏のいったことは、ほとんど忘れてしまった。空気の感じからすると、ずっと広いところへ出ていくらしかった。だが、そこは照明されてなかったので、実際にどれくらい広かったかは、わからなかった。
光の流れは、ますます小さく細くなって、先のほうは、遠く暗闇の中へ消えてしまっていた。突然、両側の岸壁が、いっぺんにみえなくなった。みえるものはといえば、前方の小道を、チョロチョロと青い燐光を発して流れる光の小川だけだった。ぼくの前をいくケイヴァー氏と案内の月人の姿は、光の小川に面した側だけが、頭も足も、青くはっきりと光ってみえた。その暗い反対側は、トンネルの壁からの反射がなくなって、みわけがつかないように、暗闇の中に吸いこまれていた。
そのうちに、青い光の流れが、突然、深くなって、みえなくなった。ぼくは、なにか、急な崖のようなものに近づいていることを感じた。
つぎの瞬間、われわれは、崖のふちにたっしたらしい。光の小川は、ためらうようにまがり、それから、キラキラと輝きながら落ちていった。その落ちる音が、われわれの耳に、全然届かないほどの深さだった。はるか下のほうは、青白い霧のようなものが輝いていた。小川の落ちていったあとの空間は、まったくなにもない真っ暗闇だった。ただ、板のようなものが、崖っぷちから突きだされて、前方へのび、次第にみえなくなり、やがて闇の中に、完全に消えてしまっていた。崖の下のほうからは、なま温かい風が吹きあげていた。
しばらくの間、ケイヴァー氏とぼくは、できるだけ崖のふちに近づいて、青みを帯びた深みをのぞいていた。すると、案内の月人がぼくの腕をひっぱった。
それから、彼は、ぼくからはなれて、板のはしのところへいき、一歩ふみだしてふりかえった。そして、われわれが見ていることを知ると、向きを変えて歩いていった。まるで、ちゃんとした地面の上を歩くようなしっかりした足どりだった。はじめは、彼の姿もはっきりしていたが、だんだんと青くぼやけ、もうろうとして消えていった。ぼくは、暗闇の中におぼろげにみえている影のような姿をみつめていた。
沈黙がつづいた。
「これはこれは!」と、ケイヴァー氏が、いった。
月人の一人が、板の上を二、三歩進んで、むぞうさに、われわれのほうへふりかえった。ほかの連中は、われわれのあとへつづこうというようすで待ちかまえていた。案内の月人も、待ちかねたように、もどってきた。やつは、われわれがなぜ進もうとしないのか、見に、もどってきたのだ。
「あの向こうには、なにがあるんでしょう?」と、ぼくは、たずねた。
「わたしには、なにもみえない」
「なんといわれたって、ぼくには渡れませんね」と、ぼくは、いった。ケイヴァー氏も、おなじだった。
「わたしだって、三歩と歩けん。たとえ、この手が自由だとしてもだ」
われわれは、おそろしさのあまり蒼白になった顔を見合わせた。
「やつらには、目がくらむ、などということは、わからないんだ」と、ケイヴァー氏は、いった。
「この板の上を歩くなんてことは、ぼくには、絶対にできませんよ」
「やつらがわれわれとおなじにしかものがみえないとは、信じられん。やつらをよく見ていると、これがわれわれにとっては真の暗闇にみえるということに、やつらが気がついているのかどうか、疑わしくなる……。と、いって、それを、どうやって、やつらにわからせたものか……?」
「でも、とにかく、わからせる必要があります」
こういったとき、われわれは、まだ、月人たちが、なんとかわかってくれるだろうというはかない希望を持っていた、と思う。うまく説明できさえすれば、なんとかなると信じていた。
ところが、やつらの顔を見たとき、ぼくは、説明は不可能だとさとった。われわれとやつらとの相違点を橋渡しするような類似点は、ここには、なに一つないのだ。
こうなったら、なにがなんでも、あの板は渡らないつもりだった。ぼくは、ゆるんでいたほうの鎖の輪から、すばやく手首をひき抜いて、両方の輪を逆にねじりはじめた。ぼくは、板のすぐそばに立っていた。ぼくがそうやっているとき、二人の月人が、ぼくをつかまえて、静かに板のほうへひっぱっていこうとした。
ぼくは、はげしく、首をふった。
「いかないぞ。ひっぱったってむだだ。きさまたちに、なにがわかるもんか」
別の月人が加わって、ぼくをむりにひっぱった。ぼくは、すこし、ひきずられた。
「いい考えがあるんだ」と、ケイヴァー氏がいったが、ぼくには、彼の考えなんか、わかっていた。
「おい、こら!」
ぼくは、月人どもを、どなりつけた。
「あわてるんじゃない! きさまたちにとっちゃわけないことかも知れないが――」
ぼくは、くるりとかかとでまわると、怒りを爆発させた。武装した月人の一人が、釘のついた棒で、ぼくの背中を突き刺したのだ!
ぼくは、片方の手首をおさえていたちっぽけな触手のような手をふりはらい、棒を持ったやつにむきなおった。
「ちくしょうめ!」
ぼくは、さけんだ。
「いっといたはずだぞ! いったいぜんたい、このおれがなんでできていると思って、突いたりするんだ!? もし、こんど、おれにさわったりしたら……!」
返事のかわりに、ただちに、やつは、突きかえした。
ケイヴァー氏の、おどろきと歎願のまじった声が聞こえた。ことここに至っても、彼は、このけだものどもと妥協しようというのだろうか!
「ねえ、ベッドフォード君!」
彼は、さけんだ。
「いい方法があるんだ!」
しかし、この二度目の突きの痛みが、ぼくの体の中に押さえに押さえていた怒りを爆発させた。手錠の鎖は、すぐにちぎれた。それと同時に、いままで、無抵抗のまま月の生物どもの手にゆだねられていた思慮分別も、ちぎれてふっとんでしまった。少なくとも、その瞬間、ぼくは、恐怖と憤怒のために、きちがいのようになっていたのだ。
ぼくは、棒を持ったやつの顔を、正面から一撃した。ぼくのこぶしには、鎖がまきつけられていた――。
月の世界は、またもや、大恐慌におちいった。
ぼくの武装したこぶしは、やつの顔を、きれいに突き抜けたように思われた。やつは、液体のはいった砂糖菓子かなにかのように、砕けてしまった。ビシャッ! という音がして、飛沫がとんだ。まるで、湿った毒キノコを殴ったようだった。そのたよりない体は、十二ヤードもきりきり舞いをしてとび、ぐにゃりと地面に落ちた。これには、ぼくのほうも、びっくりした。こんなによわよわしい生物がいようとは、とても信じられなかった。一時は、すべては夢にちがいないと思ったほどだった。
まもなく、ぼくは、われにかえった。ケイヴァー氏も月人たちも、ぼくがふりむいたときから、死んだ月人が地面に落ちるまで、ただ、手をつかねて眺めていたらしい。月人たちは、われわれ二人から遠のいて、油断なく身がまえていた。この静けさは、月人が落ちてから、少なくとも一秒間はつづいたような気がした。全員が事態を理解しようとつとめているにちがいなかった。ぼくじしんも、腕を半分ひっこめたまま、おなじ努力をつづけていたような記憶がある。
(つぎは、なんだ!)
ぼくの心は、やかましくさわぎたてた。
(つぎに起こるのは、なんだろう!?)
だが、つぎの瞬間には、あらゆるものが動きだしていた。
まず、鎖をゆるめなければならない。だがその前に、月人どもを追っぱらわなければならないのだ。
ぼくは、棒を持った三人組のほうへ向きなおった。間髪をいれず、一人が、ぼくに、棒を投げつけた。棒は、シュッ! と音を立ててぼくの頭をかすめ、うしろの谷へ落ちていったらしい。
棒が頭上をかすめた瞬間、ぼくは、|渾身《こんしん》の力をふりしぼって、相手にとびかかった。やつは、ぼくがとびあがったと見るや、うしろをみせて逃げだした。
ぼくは、やつの上に落ちて、地面にたたきふせた。やつの砕けた体で滑って、たおれた。やつが、ぼくの足の下で、うごめいているのが感じられた。
ぼくは、やっとのことで、すわりなおすことができた。そうしてもがいている間に、月人たちは、青い光に背中をみせながら、闇の中に退却していった。ぼくは、力いっぱい鎖の輪をまげ、くるぶしのあたりにまつわりついていた邪魔な鎖を解くと、それを持ったまま、跳び起きた。
とたんに、また一本の棒が、ぼくの頭をかすめて、唸りをたてて通りすぎた。ぼくは、その飛んできた方角の闇にむかって突進した。だが、すぐ、ケイヴァー氏のところへもどってきた。彼は、まだ、谷の近くに、小川の光を浴びて立ったまま、けいれんしたように手首を動かし、錠をはずそうとしていた。そうしながら、ほとんど無意味な考えを口ばしっていた。
「いきましょう!」
ぼくは、さけんだ。
「手が!」と、彼は、答えた。けれども、ぼくは、歩幅をまちがって谷のふちを跳びこえてしまうかも知れないと思って、彼のそばへもどろうとしなかった。それを察した彼は、手を前につきだしたまま、すり足でぼくのほうへやってきた。
ぼくは、ただちに、彼の鎖をはずしにかかった。
「やつらは、どこへいったんだ」
あえぎながら、彼は、たずねた。
「逃げていきましたよ。でも、すぐ、もどってくるでしょう。やつらは、ものが投げられるんですよ! どっちへ逃げたらいいでしょう?」
「明るいほうへ。あのトンネルのほうがいいんじゃないか?」
「そうしましょう」と、ぼくは、答えた。そのとき、やっと、彼の手は自由になった。ぼくは、ひざまずいて足首の鎖をはずしにかかった。ピシャッ!
なんだかわからないが、飛んできて、あたりにキラキラ光る小川の飛沫をあげた。はるか右のほうから、れいの笛のようにヒューヒューいう声が、ふたたび聞こえはじめた。
ぼくは、すばやく、彼の足の鎖をはずし、彼にわたして、いった。
「そいつでぶん殴るんです!」
そして、返事も待たずに、もときた道にそって、大股に跳びだした。ぼくは、やつらが暗がりから跳びだして、背中に跳びつくのではないかと、いやな予感におそわれた。うしろからついてくるケイヴァー氏の足音が聞こえていた。
われわれは、大股に走った。と、いっても、おわかりのように、月の上で走ることは、地球で走ることとはまったくようすがちがっていた。地球では、一跳びしても、つぎの瞬間には、すぐまた地面を蹴らなければならない。しかし、月の上では、引力が弱いために、ふたたび地面につくまでに、五、六秒間は空中を飛行することになるのだ。われわれは、非常に急いでいたにもかかわらず、跳躍と跳躍の間隔が長くて仕方がないような気がした。その間隔は、七つか八つ数えられるほどだった。
一歩、踏みきる。すると、ぐーんと宙を跳ぶのだ。その間に、あらゆる種類の疑問が、ぼくの心を走りすぎた。
「月人どもは、どこにいるんだろう? やつらは、どうするつもりなんだろう? われわれは、あのトンネルまでいけるだろうか? ケイヴァーさんは、だいぶおくれたな? やつらは、ケイヴァーさんを、ぼくとひきはなそうとするんじゃなかろうか……?」
それから、やっと、パチャッ! と、足が地面につき、またつぎの一歩を踏みだす、といった具合なのだ。
ぼくは、前方を走っていく一人の月人を見た。その足は、人間が地球上を走るように正確に動いていた。やつは、肩越しにちらりとふりかえり、ぼくのいこうとする道から暗闇のほうへそれていきながら、鋭い声でさけんだ。そいつは、れいの案内役の月人だったと思うのだが、はっきりしない。
それから、もう一跳び大股に踏みだすと、両側の岩壁がみえてきた。さらに、もう二歩ばかり跳んだら、トンネルの中にはいった。それから先は、歩幅を低い天井に合わせて進んだ。
曲り角まできて、立ちどまって、ふりかえった。パチャ、パチャ、と、足音がして、ケイヴァー氏が追いついてきた。一足ごとに青い光の流れにしぶきをあげながら、次第に大きくなって、ぼくのところに転がりこんできた。われわれは、つかまり合って、立っていた。少なくとも、その瞬間は、われわれは、追跡者をのがれて、二人っきりだった。
二人は、息をはずませ、あえぎながら、かたことでしゃべり合った。
「あんたは、なにもかも、めちゃくちゃにしてしまったんだ!」
ケイヴァー氏が、息もたえだえで、いった。
「そんなこといったって……」
ぼくは、さけんだ。
「ああしなければ、殺されるところでしたよ」
「どうしたらいいんだ?」
「とにかく、かくれるんです」
「どうしたら?」
「暗いからだいじょうぶです」
「でも、どこへ?」
「どこか脇道にはいるんです」
「それから、どうする?」
「考えるんです」
「よろしい。いこう」
さらに進むと、放射状にわかれている暗い洞穴に出た。ケイヴァー氏が、先にたった。彼は、ちょっとためらってから、かっこうのかくれ家になりそうな、真っ暗い入口をえらんだ。彼は、そのほうへ進んだが、ふりかえって、いった。
「暗い」
「あなたの足が照らしてくれますよ。あなたの足は、あの発光物質で濡れていますから」
「そんなこといったって……」
騒々しい音が、とくに、鐘を打ち鳴らすような音が、トンネルの本道のほうから近づいてくるのが聞こえた。それは、恐るべき追跡のさわぎにちがいなかった。われわれは、ただちに、暗い洞穴の中に逃げこんだ。ケイヴァー氏の足が、走る足もとを照らしてくれた。
「やつらに靴をとられたのは幸運でした」と、ぼくは、息をきらして、いった。
「さもなかったら、そこらじゅう、足音がひびきわたったでしょう」
われわれは、洞穴の天井にぶつからないように、小走りに走りつづけた。騒音は、一時、追いせまってくるようだったが、そのうち、遠ざかり、小さくなって、消えてしまった。
ぼくは、立ちどまって、ふりかえった。パタ、パタ、前をいく、ケイヴァー氏の足音が聞こえたが、彼も、立ちどまった。
「ベッドフォード君」と、彼は、ささやいた。
「前方に、光のようなものがみえる」
はじめは、なにもみえなかった。だが、そのうちに、彼の頭や肩の輪かくが、暗闇の中のかすかな光をバックにぼんやりと浮きだしてみえてきた。ぼくにも、この闇をやわらげている光が、月の内部のほかの光のような青ではなく、青みを帯びた灰色がかった白、つまり、日光の色であることが、わかってきたのだ。
もちろん、ケイヴァー氏は、ぼくと同時に、いや、ぼくよりも早くから、この相違に気がついていたにちがいない。そして、ぼくとおなじはげしい希望に胸をふくらませていたのだと思う。
「ベッドフォード君」と、彼はいった。その声は、かすれ、ふるえていた。
「あの光だ! おそらく……もう……」
彼は、心の中の希望を口にださなかった。二人とも、黙っていた。突然、ぼくは、足音で、彼がその光のほうに歩きだしたことを知った。ぼくは、胸をどきどきさせながら、彼のあとを追った。
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一五 ふたりの意見が対立する
進むにつれて、その光は、強くなった。そして、まもなく、ケイヴァー氏の足の燐光とほとんどおなじ明るさとなった。やがて、トンネルは、ひらけて洞穴となった。この新しい光は、向こうのはしからきていた。ぼくは、あることに気がつき、ぼくの希望は、ふくらみ、はずんだ。
「ケイヴァーさん!」
ぼくは、いった。
「光は上からきていますよ! たしかに、上からです!」
彼は、返事もせず、足を早めた。
疑いもなく、灰色の光だった。銀色の光だった。
まもなく、二人は、光の下まできた。光は洞穴の割れ目をとおしてさしこんでいた。ぼくが見あげたとたん、ポトリ! と、大粒の水滴が、ぼくの顔に落ちてきた。ぼくは、とびのいて、わきへよけた。すると、また、ポトリ! 別の水滴が大きな音をたてて、岩床の上に落ちた。
「ケイヴァーさん」
ぼくは、いった。
「もし、どちらかが持ちあげれば、あの割れ目に届きますよ」
「わたしが持ちあげてやろう」
彼は、即座に、ぼくを、まるで赤ん坊かなにかのように、持ちあげてくれた。
ぼくは、割れ目に手をつっこみ、指先で、ぼくひとりを支えるだけの小さなでっぱりを探しあてた。いまや、白い光は、いちだんと輝きを増していた。ぼくは、二本の指で、なんの苦もなくぼくの体をひっぱりあげ、もっと高い岩角に手をのばして、足を、その小さなでっぱりにのせた。地球では、ぼくの体重は、一六〇ポンドもあったのだが――。
ぼくは、立ちあがって、指で岩の上のほうを探った。割れ目は、上のほうが広くなっていた。
「登れますよ!」
ぼくは、ケイヴァー氏に、いった。
「ぼくが手をおろしたら、それにとびつけますか?」
ぼくは、割れ目に体を押しこみ、脚と膝をでっぱりの上において、手をのばした。ケイヴァー氏の姿はみえなかったが、跳ぶために身をかがめるときの、服のすれる音が聞こえた。それから、パチャッ! という音がして、彼は、ぼくの腕にぶらさがった――それは、ネコの子ほどの重さも感じられなかった。ぼくは、彼がでっぱりに手をかけて、ぼくの腕をはなせるところまで、ひっぱりあげてやった。
「なんのこった!」
ぼくは、いった。
「月の世界では、だれだって登山家になれるぞ」
そして、夢中になって登りはじめた。しばらくは、休まずによじ登りつづけた。それから、また、上を見あげた。割れ目は、次第に広くなり、光は、ますます強くなっていた。
だが――けっきょく、それは、日光ではなかったのだ!
つぎの瞬間、それがなにかわかった。それをひと目見たとたん、ぼくは、失望のあまり、頭を岩にぶつけてしまった。ぼくの見たものは、ただ、でこぼこの傾斜地と、その斜面いっぱいに生えている、小さな、棒のような形をしたキノコの群落だけだった。そのキノコの一つ一つが、桃色と銀色のまざった光で、キラキラと輝いているのだ。
ぼくは、しばらく、そのやわらかい光をみつめていた。それから、急に、キノコの間を前に上に跳びまわりはじめた。ぼくは、キノコを半ダースもちぎって、岩にたたきつけた。そして、ケイヴァー氏の赤ら顔があらわれたときには、地面にすわりこんで、大笑いしていた。
「またしても、燐光ですよ」と、ぼくは、いった。
「おいそぎになる必要はありませんね。ひとまず腰をおろして、おくつろぎください」
ところが、ぼくの落胆ぶりに対して、ケイヴァー氏が、また、ぶつぶついいだしたので、ぼくは、仕方なく、キノコをもっとちぎっては、割れ目の中に投げこみはじめた。
「日光だとばかり思っていたんだがなあ」と、彼は、ぼやいた。
「日光ですって!」
ぼくは、さけんだ。
「夜明けに、夕日に、雲、それに、風のある空! ああ、そんなものは、もう、二度と見られませんよ!」
そうやってしゃべっていると、なつかしいわれわれの世界が、一幅の絵のように、目の前に浮かんでくるような気がした。それは、古いイタリアの絵の背景にでもあるような、明るく、優雅で、澄みきった風景なのだ。
「変化する空、変化する海。太陽に輝く丘や緑の木立。町や都会――。夕陽に濡れた家々の屋根を考えてごらんなさい。ケイヴァーさん! あなたの家の西側にあるあの窓を思いだしてごらんなさい!」
彼は、返事をしなかった。
「われわれは、ここにこうして、それとはちがう野蛮な世界にもぐりこんでいるんです。下のほうのどこか気味の悪い暗闇には、インクのような色の海がかくれています。外は、灼けつくような真昼の太陽と、死のような夜の沈黙があるだけです。そして、いま、われわれを追いかけているのは、まるで悪夢の中から脱けだしたような、あの皮をかぶったけだもの野郎――虫けら野郎なんです。でも、けっきょく、やつらとしては、正しいんですよ! われわれは、ここになんの用があるんでしょう? やつらを粉々にして、この世界をひっかきまわして……。われわれの知るかぎりでは、すでに、月全体が立ちあがって、われわれを追いかけているんです。いますぐにでも、やつらの声や鐘の音が聞こえてくるかも知れないんです。いったい、どうしようっていうんですか? どこへいったらいいんですか?」
「そいつは、あんたのせいだよ」
ケイヴァー氏が、いった。
「ぼくのせいですって!」
ぼくは、さけんだ。
「とんでもない!」
「わたしには、いい考えがあったんだ」
「あなたの考えなんて、クソくらえだ!」
「もし、あのとき、われわれが、動くことを拒絶していたら……」
「あの釘のついた棒の下でですか?」
「そうですとも。そうすれば、やつらは、われわれを運んでいっただろう」
「あの橋をわたって?」
「ええ。少なくとも、やつらは、われわれを外から運びこんだにちがいないんだから」
「あんなやつらに運ばれるくらいなら、天井をとんでいるハエにでも運んでもらったほうがいい。ちくしょうめ!」
ぼくは、キノコを折るのをやめた。そのとき、突然、ぼくは、またまたぼくをびっくりさせるある物を発見したのだ。
「ケイヴァーさん!」と、ぼくは、呼びかけた。
「この鎖は、金ですよ!」
ケイヴァー氏は、そのとき、手で頬をつまみながら、なにごとか夢中で考えていた。彼は、ゆっくりとこちらをむいて、ぼくの顔をみつめ、そして、ぼくがもういちどおなじことばをくりかえしたとき、はじめて、自分の右の手首にまきついている鎖を見た。
「そうだ、これは、金だ」
彼は、くりかえした。
「そうだ。これは、金だ」
だが、彼の顔からは、鎖を見たときの興味も、たちまち消えてしまった。彼は、ちょっとためらったが、また、さまたげられた瞑想にはいっていった。
しばらくの間、ぼくは、すわったまま、なぜいままでこのことに気がつかなかったのか、考えていた。そして、最後に、われわれがいままでいたところの青い光が、金の色をわからなくしていたのだろうということに気づいた。この発見から、さまざまなぼくの空想が広く遠く、その翼をひろげはじめた。ぼくは、ついさっき、月になんの用があるんだ、などといったことを、きれいに忘れてしまっていた。とにかく、金だ……。
最初に、口をきったのは、ケイヴァー氏だった。
「われわれには、二つの道があるように思われる」
「ほう?」
「われわれは、どちらを選ぶこともできる。一つは、必要なら、戦ってでも、外へ出て、われわれの球体をみつけだす道。それをみつけるか、夜の寒さがわれわれの命を奪うまで探すか、さもなければ……」
彼は、ことばをきった。
「なるほど」と、ぼくはいったが、つぎにくることばは、もう、わかっていた。
「われわれは、もういちど、月世界の人々の心と、ある種の了解を成立させようと努力してもいいはずです」
「ぼくに関するかぎりでは、最初のほうがいいと思いますね」
「さあ、どうかな」
「ぼくは、そう信じます」
「ねえ、きみ」
ケイヴァー氏は、いった。
「いままで見てきたことだけで、月人というものを判断してかかることはまちがっています。やつらの中心世界、やつらの文明世界は、深い洞穴のずっと下のほうの海のそばにあるのでしょう。いまわれわれがいるこの外側の区域は、へんぴな地方、つまり田舎とでもいうべきところなのです。少なくとも、ぼくの解釈だと、そうなる。だから、われわれが見たあの月人どもは、せいぜい、牛飼いか機関手といったていどの連中にすぎないらしい。やつらが棒で突いたりしたことだって――あれは月牛を突く棒にきまっています――やつらにできることならわれわれにもできると思いこんでいる想像力の貧弱さや、あのどうにもならない野蛮さなど、それは、みんな、やつらの低級さを示しているように思われる。だが、もし、われわれが、がまんさえすれば……」
「われわれは二人とも、あの底なしの穴にかかったたった六インチの板の上じゃ、そう長くがまんはできないでしょうよ」
「そりゃできないだろう。しかし、あのとき……」
「ぼくは、絶対にいやです」
と、ぼくは、がんばった。彼は、また、一連の新しい可能性をみつけだした。
「よろしい。では、われわれが、この|田舎《いなか》者や労働者連中から身を守ることのできるようなところにかくれたらどうだろう? もし、たとえば、一週間かそこらみつからないでいたとしたら、われわれが現われたというニュースが、もっと知識階級の多い地方に伝わってゆくことだってあり得ます……」
「そういう連中がいるとすれば、ですね」
「いるにちがいないさ。さもなければ、あのすばらしい機械が、どうして作られたと思うね?」
「あり得ることですね。でも、そいつは、二つのチャンスのうちのいちばん悪い方法ですよ」
「壁に幾何学の図解でも描いておいたら?」
「やつらの目に、それがみえるかどうか、どうしてわかるんです?」
「じゃ、刻みつけておけば……」
「もちろん、それならだいじょうぶですが」
ぼくは、ここで、新しい話題に移った。
「けっきょくのところ」
と、ぼくは、いった。
「あなたは、月人たちが、人間よりも、そんなにかけはなれて知恵が発達しているとは考えていないんでしょう?」
「やつらは、ずっと多くのこと――いや、少なくとも、多くの変わったことを知っているにはちがいありません」
「そうでしょう。しかし、ですね……」
ぼくは、ちょっと、ためらった。
「そういってはなんだけれど、ケイヴァーさん。あなたは、かなりの変人ですね」
「どうして?」
「そう、あなたは……あなたは、かなりの淋しがりやですね。いや、いままでは、そうでしたね、それに……。まだ、結婚もしていないし……」
「したいと思わなかったんですよ。しかし、なぜ……?」
「それに、あなたは、生まれたときから、ちっともそれ以上の金持ちにならなかったし……」
「そうなりたいとも思いませんでしたね」
「あなたは、ひたすら、知識ばかりを追っていらした」
「そうですとも。ある種の好奇心というものは、自然なもので……」
「あなたは、そう思っている。それが問題なんです。あなたは、ほかの連中も、あなたとおなじように、知識だけを求めていると考えていらっしゃる。ぼくは、いまでも覚えているんですが、いつか、あなたに、どうしてこんな研究をしているのかとうかがったとき、あなたは、国立科学協会員になりたいとか、できあがった物質をケイヴァーリットと呼ばせたいとかいうようなことを、いっておられましたね。でも、ほんとうは、そんなことのために研究しているんじゃないということは、よくごぞんじでした。ただ、あのときには、ぼくの質問にびっくりして、なにか、動機らしくみえることがなくてはいけないと考えただけなんです。実際は、あなたがやりたくて仕方ないからやっていたというにすぎないんです。これが、あなたが変わり者であるゆえんだと思います」
「たぶん、そうでしょうな」
「こんな変わり者は、百万人に一人だって、いやしませんよ。たいていの人は、欲望を持っています――そう、いろんなものを欲しがっています。でも、知識のために知識を求めるような人は、ごくまれです。ぼくだって、そんなことはしません。自分で、よくわかっています。
いま、ここの月人どもは、忙しそうに、働いているようにみえます。しかし、月人の中のいちばん頭のいいやつでも、われわれやわれわれの世界に関心を持っているかどうか、わかりゃしません。やつらが、われわれにも世界があるなんていうことを知っているとは信じられません。なにしろ、やつらは、夜には、表へ出ないんですからね……、そんなことをしたら凍え死んでしまうんですから。
やつらは、おそらく、ギラギラ燃える太陽のほかには、天体なんてものを見たこともないんです。それなのに、どうして、ほかの世界があることを知ることができるでしょう? やつらが、いくつかの星や、三日月型の地球を見たとしたって、それがなんだっていうんです? こういった月の内部で生活しているやつらが、どうして、わざわざ苦労して、そんな物を観察する必要があるでしょうか? 人間だって、四季のうつりかわりや、航海というものがなかったら天体観測なんかしなかったでしょう。それを、どうして、月人どもがするはずが、あるもんですか。
そう、かりに、月にもあなたとおなじような哲学者がなん人かいるとしましょう。でも、やつらは、われわれの存在することなんか、決して耳にすることはないでしょうよ。たとえば、あなたがリンプネにいるとき、一人の月人が地球にやってきたとしても、あなたはそのことを最後まで知らないはずです。なにしろ、あなたは、新聞を読まない人なんだから。知るチャンスはないわけです。そう、それが、こうやってなにもしないですわりこんで、貴重な時間のすぎ去ってゆくのを眺めているいまの場合とおなじなんです。いいですか、われわれは、動きのとれない状態にあるんですよ。武器もなく、球体を見失って、食糧もなく、月人どもの前にさらされているんです。そして、月人どもには、奇妙で強くて危険きわまりない動物だと思わせてしまった。やつらがどうしようもないばかでないなら、いまごろはもう、探しはじめていますよ。みつかるまで探して、みつけたときには、できるならつかまえようとするでしょうが、できないときには殺してしまうでしょう。そうなれば、一巻のおわりです。また、つかまえたとしても、なにかの誤解のために、やつらは、おそらく、われわれを殺すでしょう。われわれが殺されたあとで、きっといろいろと論じられるかも知れませんが、そんなことは、われわれにとって、なんのたしにもならないんですからね」
「それで?」
「一方、ここには、金が、|鋳物《いもの》の鉄かなんかのように、ごろごろ転がっています。そのいくらかでも持ってかえれさえしたら……、やつらがみつける前に球体を探しだして、地球に帰ることができさえしたら、そうしたら……」
「そうしたら?」
「われわれは、もっとしっかりした基礎の上に計画を組み立て、武器を積んだもっと大きな球体に乗って、月にかえってきますよ」
「こいつはおどろいた!」
ケイヴァー氏は、恐ろしい計画でも聞いたように、さけんだ。
ぼくは、また、光るキノコを割れ目にほうりこんだ。
「さあ、ケイヴァーさん」
ぼくは、いった。
「とにかく、ぼくは、このことに対して半分の投票権を持っているんです。そして、これは実際家の処理すべき問題です。ぼくは実際家だし、あなたはちがいます。ぼくは月人や幾何の図解なんか信用したくありません。もういちどあなたのお手伝いができるとしてもね。……ぼくのいいたいことは、それだけです。考え直してください。そうやってなにもいわずに秘密めかしたような態度をやめて、出直そうじゃありませんか」
たしかに、彼は、考え直した。
「月にくるときには」
彼は、いった。
「一人でくるべきだった」
「議論よりも、いかにして球体にかえりつくかということが、先決問題です」と、ぼくは、答えた。
しばらくの間、二人は、膝をかかえて、だまりこんでいた。だが、やがて、ぼくの理屈を受けいれる決心をしたらしかった。
「球体を探すためのデーターはつかめると思う」と、彼は、いった。
「太陽が月のこちら側にある間は、空気は、このスポンジのように穴だらけの惑星を通って、暗い側からこっちのほうへ吹いている、ということは、確かです。そして、こちら側では、空気は膨張して、月の洞穴から火口の中へ噴きだしています。……ほら、ね。ここでは、空気が流れています」
「なるほど、流れていますね」
「ということは、ここは行きづまりじゃないってことです。われわれのうしろのどこかで、この割れ目は上のほうへひらいているはずです。空気は上のほうへ動いています。そのほうへゆけばいいわけです。もし、われわれが、そこにある狭い岩の裂け目が峡谷のようなところを登りさえすれば、もうしめたものです。やつらがわれわれを追ってくるこの道から脱けだすことができるばかりでなく……」
「もし、その裂け目も、また、狭すぎたらどうします?」
「また、おりてくるんですね」
「シーッ」
突然、ぼくが、いった。
「あれは、なんでしょう?」
われわれは、耳をすました。はじめは、はっきりしないつぶやきのような音だったが、そのうち、鐘の音がはっきり聞こえてきた。
「やっぱり、やつらは、われわれのことを月牛だと思っているにちがいない」と、ぼくは、いった。
「あんなものでおどかせると思ってるんですよ」
「あの道をやってくるぞ。そうにちがいない」
ケイヴァー氏が、いった。
「やつらは、この割れ目には気がつくまい。知らずに行っちまうだろう」
ぼくは、また、しばらく、聞き耳を立てた。
「こんどは、やつらも、なにか武器を持ってくるでしょうね」と、ぼくは、ささやいた。
そのとき、突然、ぼくは、とびあがってさけんだ。
「しまった! ケイヴァーさん! やっぱりきますよ。やつらは、ぼくが投げこんだキノコをみつけるでしょう。やつらは、きっと……」
いいおえる間もなく、ぼくは、むきを変えると、キノコの上を跳びこえて、広場の上のはずれまで走った。だが、そこは、まだ、上のほうにのびていて、ふたたび、空気の流れる裂け目になっていた。しかも、その上は、みとおしのつかない暗闇なのだ。ぼくは、そこをよじのぼりかけたが、ふと名案を思いついてもどってきた。
「どうするんです?」と、ケイヴァー氏が、たずねた。
「さきへいってください」
そういって、ひっかえしたぼくは、光るキノコを二本とった。そして、一つは、自分のフランネルのジャケツの胸ポケットにさしてよじ登る足もとを照らすようにし、もう一つをケイヴァー氏に持っていってやった。
月人たちのさわぐ音は、いまは、もう、はっきりと聞こえていた。やつらは、すでに、割れ目の下まできているらしかった。ただ、やつらには割れ目にはいって登ることがむずかしいのかも知れない。さもなければ、われわれの抵抗をおそれて、登るのをためらっているのかも知れない。とにかく、われわれは、いまや、別の惑星に生まれたおかげで、筋肉の力がすばらしいということを知って、得意だった。だが、つぎの瞬間、ぼくは、ケイヴァー氏の光るかかとのあとを追って、巨人のような勢いで、よじ登りはじめた。
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一六 屠殺者の洞穴で戦う
どれくらいよじ登ったか、ぼくには、わからない。われわれは、とうとう、船の昇降口の格子のようになったところにつきあたった。われわれが登ったのは、せいぜい数百フィートにすぎなかったのかも知れない。だが、そのときは、体をひきずったり、割れ目におしこんだり、跳んだりしながらつき進んで、ほとんど垂直な登りを一マイル以上もつづけたような気がした。そのときのことを思いだすと、いつも、体を動かすたびに鳴る金の鎖のガチャガチャいう重いひびきが、頭の中によみがえってくる。
たちまち、ぼくの指の関節や膝がしらはすりむけ、片方の頬には青あざができた。だが、しばらくすると、はじめ無我夢中だったあせりもなくなり、ゆっくりと楽に登れるようになった。
追跡の月人たちのさわぎは、まったく聞こえなくなった。割れ目の下には、ふみにじられたキノコが証拠の山となってつもっていたにもかかわらず、けっきょく、やつらは、上までは追ってこないように思われた。
ときどき、裂け目はひじょうにせまくなっていて、かろうじて通れるほどだった。またあるときは、ひろがって、ギザギザした結晶でちりばめられたり、鈍く光るキノコのようなぶつぶつでびっしりとかこまれた大きな晶洞になっていた。ときどき、それは、らせん状に渦を巻いたり、またあるときは、ほとんど垂直に近く急傾斜していた。ときおり、すぐ近くで、ポトリ、ポトリと水滴が落ちたり、チョロチョロ流れだしたりしていた。一、二度、小さい生き物が、サラサラと音をたてて逃げていったが、どんなかっこうをしているのか、見ることはできなかった。毒のある生き物だったかも知れないが、われわれには、なんの害もあたえなかった。でも、馴れてくると、その気味の悪い這いまわるしろものが多いか少ないかなんていうことは、気にならなくなった。
そして、ついに、はるか上のほうから、あのなつかしい青白い光が、ふたたび、さしこんできた。われわれは、その光が、行く手をさえぎる格子の間からもれていることを知った。われわれは、その光を指さして、ささやき合い、さらに注意をしながら登った。まもなく、格子の下についた。ぼくは、格子の|桟《さん》に顔をおしつけた。そのむこうに洞穴の一部がみえた。それは、明らかに、大きな広場だった。そして、前に見たのとおなじ、ドシンドシンと動くあの機械から溢れ出る青い光の流れに照らされていた。断続してチョロチョロ流れる水は、顔をおしつけた格子の|桟《さん》の間から、絶えず滴り落ちていた。
当然のことだが、ぼくは、まず、洞穴の床の上になにがあるかを知ろうとつとめた。だが、格子はくぼみにあったので、くぼみのへりが視野をさえぎっていた。そこで、われわれは、聞こえてくるいろいろな音から、なにかを判断しようと、注意を集中した。そのとき、突然、はるか頭上にある暗い天井に、たくさんのかすかな影がおどっているのが、目にはいった。
明らかに、そこには、数人の月人がいた。やつらの話し合う声や、足音と思われるかすかな音から考えると、その広場には、かなりの人数がいるはずだ。
ピシッ、ピシッ、ピシッ。規則的に連続してくりかえされる音が、はじまったり、やんだりした。その音は、ナイフか|鋤《すき》のようなもので、なにかやわらかいものをたたき切っているようすを連想させた。それから、鎖のガチャガチャいう音や、ヒューヒューいう音、くぼんだ場所をトロッコが走るようなゴロゴロいう音が聞こえて、そこで、また、ピシッ、ピシッ、という音がはじまるのだった。影を見ていると、規則的な音に調子を合わせて、すばやく、リズミカルに動きまわり、音がやむと、その動きもとまることがわかった。
われわれは、頭をよせあい、これらのことについて、ひそひそと議論をはじめた。
「やつらは、夢中です」
ぼくは、いった。
「やつらは、なにかに夢中なんです」
「そうらしいね」
「われわれのことなんか、探してもいないようだし、考えてもいないようです」
「おそらく、われわれのことを知らんのでしょう」
「ほかのやつらは、下のほうを探しまわっているんです。ここで、もし、われわれが、急に出ていったら……」
二人は、顔を見合わせた。
「話し合いのチャンスがあるかも知れませんね」と、ケイヴァー氏が、いった。
「いや、われわれとはちがいますよ」と、ぼくは、反対した。しばらくの間、二人は、じっとして、それぞれの考えにふけっていた。
ピシッ、ピシッ、ピシッ。なにかをきざむような音がつづき、月人たちの影が、あちらこちら動いていた。
ぼくは、格子に目をうつした。
「こいつは、弱いぞ」と、ぼくは、いった。
「|桟《さん》を二本曲げれば、這いだせるかも知れませんよ」
われわれは、しばらく、意味のない議論に時間をついやした。それから、ぼくは、一本の桟を両手でにぎり、両足を頭とほとんどおなじ高さまであげて岩につっぱった。それから、桟を、ぐいとおした。桟が急に曲がったので、ぼくは、すべりそうになった。ぼくは、あわてて這いあがり、となりの桟を反対側に曲げた。そして、光るキノコをポケットからとりだすと、裂け目へ捨てた。
「あわてちゃいけない」
ぼくが、いまひろげた隙間から、身をよじって体をだしたとき、ケイヴァー氏が、ささやいた。
格子を通り抜けると、ぼくは、忙しそうに働いている月人たちをちらりと見て、急いで身をかがめた。格子のあるくぼみのへりが、やつらの目からぼくをかくしてくれた。そして、身を伏せたまま、つづいて格子を通り抜けようとしているケイヴァー氏に、注意信号を送りつづけた。まもなく、二人は、くぼみの中に並んで、そのへり越しに、洞穴と、その住人たちのようすをうかがっていた。
洞穴は、最初見たとき想像したより、はるかに大きかった。われわれは、その傾斜した床のいちばん低い部分から見あげることになった。それは、遠くへいくほど広く、屋根は低くなって、遠くの部分を、まったく隠してしまっていた。たくさんの巨大な形をしたもの、巨大な青白い胴体が、たてに一列となって並び、月人たちが、その上で働いていた。その列は、はるかむこうまで、広大な透視画のようにつづき、末のほうはみえなくなっていた。
その胴体は、はじめは、わけのわからない大きな白い筒のようにみえた。だが、やがてその上に、こっちを向いておいてある頭に気がついた。それは、肉屋の店にある羊の頭のように目をくりぬかれ、皮をはがれていたが月牛の死骸だとわかった。ちょうど、捕鯨船の乗組員たちが、けい留されたクジラを始末するように、切りきざまれていたのだ。
月人たちは、細長い肉片に切りとっていた。遠くのほうの胴体からは、白い肋骨がのぞいていた。さきほど、ピシッ、ピシッ、と聞こえていたのは、やつらの手斧の音だったのだ。
すこしはなれたところでは、ぐにゃぐにゃした肉を山と積んだ車が、洞穴の傾斜した床を、綱でひきあげられていった。このように、食料となるべき月牛の胴体が舗道のようにつづいて並んでいる広大な活気のあるようすをみていると、はじめて機械をみたときの感動につづいて、月世界の人口がいかにぼう大かという実感が、ひしひしと迫ってくるのだった。
最初、ぼくは、月人たちは、板の足場の上に立っているにちがいないと思った。だが、よく見ると、足場板も、支柱も、手斧も、白い光が効果を示す前、ぼくの手錠が青い光に照らされていたときとおなじに、たしかに、鉛色をしていた。
ぼくは、月世界で、木製のものが用いられているのを見たことがない。扉にしろ、テーブルにしろ、われわれ地球の家具に相当するものは、すべて、金属製だった。その大部分は、金でできていたと信じる。金というものは、もちろん、ほかの物質とおなじに、金属として、その細工しやすさ、強さ、耐久力によって、当然、貴重なものとされているのだ。
床の上には、たくさんの金のカナテコが転がっていた。それは、明らかに、月牛の死骸をひっくりかえすのに使うものだ。長さは、約六フィート、おあつらえむきのとっ手までついていて、武器にしても具合がよさそうにみえた。広場中が、三本の交叉して流れる青い光の流れによって照らされていた。
われわれは、長いこと、身を伏せたまま、黙って、すべてのものをみまもっていた。
「さてと……」
ケイヴァー氏が、とうとう、口をひらいた。
ぼくは、うずくまったまま、彼のほうをむいた。すばらしいことを思いついたのだ。
「月牛の死骸をクレーンでおろしたのじゃないとしたら」と、ぼくは、いった。
「われわれは、思ったより、地面の近くにいるにちがいありませんよ」
「なぜです?」
「だって、月牛は跳びもしないし、翼もありませんからね」
彼は、また、くぼみのへり越しにのぞきこんだ。
「そうかも知れん……」
彼は、口をひらいた。
「けっきょく、われわれは、地表からそう深いところまではいってなかったのです」
突然、ぼくは、彼の腕をにぎって、ことばをさえぎった。下の割れ目のほうから、騒音が聞こえてくるではないか!
われわれは、身をかがめ、全神経を緊張させて、死んだように伏せていた。まもなく、なにものかが、静かに、割れ目を登ってくることはたしかだった。ぼくは、ゆっくり、音のしないように、手にした鎖をしっかりとにぎりなおした。そして、なにかが現われるのを待った。
「もういちど、手斧を持ったやつらを見てください」と、ぼくは、いった。
「異常ないようだ」と、ケイヴァー氏が、答えた。
ぼくは、いそいで、格子の隙間に注意をむけた。こんどは、はっきりと登ってくる月人たちのひそひそとささやきかわす声や、手が岩をたたく音、登りながら岩をつかんで落とす土砂の音などが、聞こえてきた。
そのとき、ぼくは、格子の下の暗闇に、なにかが、ぼんやりと動いているのを見た。だが、それがなにかは、わからなかった。息づまるような一瞬だった。カチャッ! ぼくは、とびあがり、ぼくをめがけて突きだされたものに、猛然ととびかかった。それは、鋭い槍先だった。割れ目がせまく、槍先が長すぎたので、うまくぼくまでとどかなかったらしい。とにかく、槍先は、ヘビの舌のように格子から突きだされ、はずれてはひっこみ、また、突きだされる。二度目、ぼくは、槍をつかんで、もぎとってしまった。と、同時に、別の槍が突きだされたが、ぼくには当たらなかった。
槍を持った月人は、ぼくのひっぱるのにちょっと抵抗したが、負けて手をはなした。ぼくは|凱歌《がいか》をあげた。そして、|桟《さん》の間から、突きおろした。そのあたり、暗闇の真っただ中に悲鳴が起こった。一方、ケイヴァー氏も、別の槍を折りとって、ぼくのわきで、跳びまわりながら、勢いよく振りまわし、めったやたらと突きまくっていた。
ガン、ガン! 鐘の鳴る音が格子の間から聞こえてきた。
そのとき、一つの手斧が空をきって飛んできて、はなれた岩にガチンとぶつかった。それを見て、ぼくは、洞穴の上のほうの月牛の死骸のところにいた肉屋どものことを思いだした。
ふりかえってみると、やつらも、全員、散らばり、手に手に斧をふりかざしながら、おしよせてくるところだった。やつらは、背が低く、ふとっちょのチビ野郎で、長い腕をもち、前に見たやつらとは、だいぶちがっていた。やつらの状況判断は、信じられないほど早かった。おそらく、前からわれわれのことを聞いていたに違いなかった。
一瞬、ぼくは、槍をかまえて、やつらをにらみつけた。
「ケイヴァーさん、格子のほうをたのみます」
そうさけぶと、ぼくは、やつらをおどすために、わめきながら突進して、戦った。まず二人のやつが手斧でかかってきた。だが、かなわないとみるや、ほかの連中も、さっさと逃げだした。二人のやつも、こぶしを握りしめ、頭を下げて、洞穴のほうへ全速力で走り去った。ぼくは、いまだかつて、人間がやつらのようなかっこうをして走るのを、見たことがない。
ぼくの手にしていた槍が、あまり役に立たないことは知っていた。細くて弱く、突くだけにしか役に立たないのだ。また、突きだした槍をたぐりよせるにも長すぎた。そこで、ぼくは、月人たちをいちばん近くの死骸のところまで追っぱらい、そこにふみとどまって、転がっていたカナテコを拾いあげた。重さも手ごろだし、月人どもがいくらこようと、やつらを木っぱみじんにするにはじゅうぶんだ。ぼくは、手にした槍を投げ捨てて、もう一本のカナテコを拾いあげた。槍を持っていたときより、勇気百倍だった。
ぼくは、洞穴の上のほうで、一かたまりになって止まっている月人どもにむかって、おどかすように二本のカナテコを振ってみせた。それから、ケイヴァー氏のほうをふりかえって見た。
彼は、格子のはしからはしへ跳びまわりながら、折れた槍で威かく的に突きまくっていた。これでいい。少なくとも、しばらくの間は、月人どもを食いとめられるだろう。
ぼくは、ふたたび、洞穴のほうを見あげた。いったいぜんたい、これから、どうしたらいいんだろう?
われわれは、すでに、追いつめられてしまったのだ。だが、上のほうにいる牛殺したちは、不意|討《う》ちをくらっていたのだ。おそらく、おびえているだろうし、ちっぽけな手斧のほかには、なにも特別な武器は持っていないのだ。逃げるとすれば、そっちのほうだ。やつらは頑丈そうな体――ほかの牛飼いたちよりもずっと背が低く肥っていた――をしていたが、斜面に散らばっているようすは、いかにも意気地がなさそうにみえた。ぼくは、道のまんなかにいるきちがい牛のように、どんなに暴れても、道義的責任など感じないでいいはずだった。
だが、問題は、やつらがうじゃうじゃいるにちがいないっていうことだ。きっと、多勢いるはずだ。それに、下のほうにいる月人どもは、たしかに、おそろしく長い槍を持っていた。そのほかにも、びっくりするようなものを持っているかも知れない……。しかし、ちくしょう! もし、われわれが、洞穴の上のほうを攻撃すれば、下のやつらが、うしろからやってくるだろうし、下のほうを攻めれば、上のほうのこのチビ野郎どもが人数をふやしてくるにちがいない。われわれの足もとにあるこの未知の世界、われわれがまだその表皮をつついてみたにすぎないこの広大な世界が、われわれを撃滅するために、いかなる恐ろしい兵器――鉄砲や、爆弾や、地雷など――を、即刻、動員しないとはかぎらないのだ。とすれば、明らかに、もう、攻撃あるのみ! だった。洞穴を駈けおりてくる無数の新手の月人たちの足を見たとき、その決意は、さらに、はっきりした。
「ベッドフォード君!」と、ケイヴァー氏は、さけんだ。
見ると、これはどうだ! 格子をはなれて、ぼくとの中間まできているではないか。
「もどってください!」
ぼくは、さけんだ。
「どうしようっていうんです……」
「やられた。鉄砲らしい」
格子をむりにくぐりぬけて、護身用の槍の間から変てこにやせて骨ばかりごつごつした月人の頭と肩があらわれた。そいつは、なにか、複雑な武器のようなものを手にしていた。
ぼくは、ケイヴァー氏が、まったく戦闘能力を失っていることに気がついた。一瞬、ためらったが、すぐに、ケイヴァー氏を通り越して突進し、カナテコを振りまわしながら、喚声をあげて、月人のねらいをくるわせにかかった。やつは、その機械を腹にあてて、奇妙なやり方でねらいをつけていた。
シュッ! その妙な機械は、鉄砲ではなかった。それは、むしろ、石弓のように発射され、跳びあがりかけていたぼくを、うちおとした。
だが、ぼくは、倒れたわけではなかった――要するに、うたれなかったときよりも少しばかり早く地面におりただけのことだ。肩にうけた感じでは、矢は、当たって、それたようだった。ところが、左の手がなにか棒のようなものにさわったので、見ると、ぼくの肩を槍がなかばつらぬいていた。一瞬ののち、ぼくは、その月人に近づいて、右手のカナテコをまっこうから打ちおろした。そいつは、砕けてつぶれ、くちゃくちゃになってしまった――やつの頭は、卵のようにつぶれた。
ぼくは、カナテコを捨て、槍を肩からひき抜いて、格子の下の暗闇を突きまくった。一突きごとに、悲鳴とさわぎが起こった。最後に、ぼくは、満身の力をこめて槍を下のやつらに投げつけ、カナテコを拾って、洞穴の上の多勢のほうへかけだした。
「ベッドフォード君!」
そのそばを走りぬけたとき、ケイヴァー氏が、さけんだ。
「ベッドフォード君!」
うしろから、彼の足音が聞こえていたような気がする。
踏みきって、跳んで……、地に着き、踏みきって、跳んで……。そのひと跳びが、なん年もつづくような気がした。ひと跳びごとに、洞穴はひろがり、目にみえる月人の数がふえていった。はじめ、やつらは、こわされた蟻塚の中を走りまわる蟻のようだった。ひとりふたりは、手斧をふりかざして、ぼくにとびかかってきたが、そのほかのやつらは逃げていった。なん人かは、横っとびに逃げて、月牛の死骸の列にかくれた。すると、すぐに、別の槍を持った連中が現われた。さらに、別のやつらが……。身をまもるためにつきだされた手と足しかみえない変てこな連中だ。洞穴の上のほうは、やつらのために暗くなってしまった。
ヒューッ! なにかが、頭をかすめて飛んでいった。ヒューッ! ぼくが空中に跳び上がったとき、左手の月牛の死骸に一本の槍が刺さって、ブルンとふるえるのがみえた。下におりたとたん、もう一本が、すぐ目の前の地面に突き刺さった。遠くで、シュッ! という音が聞こえた。れいの機械が発射されたのだ。ヒューッ! ヒューッ! 一斉射撃は雨あられとつづいた!
ぼくは、まさに、立往生だった。
そのとき、意識がたしかだったとは、思えない。ぼくは、なにか、≪銃撃戦にあっては、まず、遮蔽物を探すべし!≫というような月並みな文句が、頭の中をかけまわっていたような気がする。月牛の死骸の間にとびこんで、兇暴な気持ちで、あえぎながら立っていたことだけを、おぼえている。
ぼくは、ケイヴァー氏を探して、あたりを見まわした。しばらくは、まるで、この世から消えてしまったように、彼の姿はなかった。だが、すぐに、彼は、月牛の死骸の列と洞穴の壁の間から、姿を現わした。その顔は、青黒く、汗と興奮のために、光ってみえた。
なにかいっていたようだったが、それがなんだか、耳を傾けるひまはなかった。ぼくは、月牛から月牛へと、洞穴を上っていけば、やつらの本拠を攻撃できるだろう、と、考えた。
攻撃か、然らずんば、死だ!
「いくぞ!」と、いって、ぼくは、先にたった。
「ベッドフォード君!」
彼は、さけんだが、ききはしなかった。
死骸と壁の間のせまい道を登りながら、ぼくは、忙しく頭をはたらかせていた。うまいぐあいに、岩壁は曲がりくねっていたので、やつらは、射ることができなかった。われわれも、こんなせまいところでは、跳ぶこともできなかったが、そこは地球生まれの強みで、月人よりはまだずっと早く走ることができた。やがて、やつらのまん中と思われるあたりまできた。われわれが、ひとたび攻撃をはじめれば、やつらはアブラ虫のようにたわいないだろう。ただ、なによりもまず、あの一斉射撃をうけるにきまっている。ぼくは、策略をめぐらした。そして、走りながら、フランネルの上着を脱いだ。
「ベッドフォード君!」
うしろから、ケイヴァー氏が、あえぎながらいった。ぼくは、ちょっとふりかえって、いった。
「なんです?」
彼は、月牛の死骸越しに、上のほうを指さしながら、いった。
「白い光だ! また、白い光がみえるぞ!」
ぼくは、見た。まさに、そのとおりだった。遠い洞穴の天井に、白いうすあかりが、ぼんやりと、かすかにあたっていた。ぼくは、勇気百倍した。
「はなれないで!」と、ぼくは、いった。
のっぺりと背の高い月人が暗闇の中から突撃してきたが、悲鳴をあげて逃げていった。ぼくは、とまって、ケイヴァー氏を制した。それから、カナテコの上に上着をひっかけ、となりの月牛の死骸のまわりを一まわりしてから、それをおいてぼくがそこにいるようにみせかけ、さっとかけもどってきた。
「シュッ! ヒューッ!」
ただ一発、きただけだった。ぼくたちは、月人のすぐそばまできていた。やつらは、デブもチビもノッポも、一団となって、れいの飛道具の砲列をしいて、こちらをねらっていた。三、四本の矢が、つづいてきたが、それで、やんだ。
ぼくは、頭をつきだして、すぐひっこめた。危機一髪。こんどは、十数発、やられた。月人どもが、自分たちの射撃で興奮したように喚声をあげ、さえずるようにしゃべっているのが聞こえた。ぼくは、上着とカナテコを拾いあげた。
「それ!」と、いって、上着をつきだした。
シュッ、シュシュシュシュ、シューッ! 上着は、一瞬にして、針ネズミのようになり、うしろの月牛の死骸にも、一面に矢がつきささって、ブルンブルンとふるえていた。ぼくは、ただちに、カナテコを抜いて、上着をおとし、やつらにむかって突進した。そのときのことは、上着が月世界に置きざりにされているのと反対に、すべて、よくおぼえている。
おそらく、はじめの一分間で、大ぎゃく殺となった。たけりくるったぼくは、みさかいなしにあばれた。月人たちは、たぶん、戦意を喪失していたのだろう。とにかく、抵抗らしい抵抗はなかった。文字どおり、真赤な血の海だった。ぼくは、背の高い草を、右に左になぎたおし打ちたおしながらすすむように、この骨なしの革のようなひょろひょろしたやつらの間をあばれまわり、ぶちのめしてまわった! ぼくは、血しぶきをあげてかけまわり、たたきつぶされてヒイヒイいっているぬるぬるになったやつらをふみにじった。月人の群れは、散ったり集まったり、水のように流れ動いた。やつらは、集団としての作戦はなにもないらしかった。あいかわらず、ぼくのまわりには、槍がふりそそぎ、一本は、ぼくの耳をかすめて飛んだ。また、一度は腕を、一度は頬に刺さったが、血が流れて、冷たく、ぬるっとした感じをおぼえるまでは、気がつかなかった。
ケイヴァー氏がなにをしていたかは、知らなかった。しばらくは、この戦いは、一年もつづいたような、また、永久につづけなければならないような気がした。だが、それは、突然、終わった。四方八方に逃げていく月人たちの頭が、やつらが走るにつれて上下にゆれて動くのがみえるばかりだった。……ぼくは、無傷も同様だった。ぼくは、数歩前進して、大声をあげ、もとへもどった。ぼく自身もびっくりしていたのだ。
ぼくは、やつらの間を、とぶようにかけまわった。やつらは、みんな、ぼくに背をむけて、隠れ場所を求めてうろうろするばかりだった。
ぼくは、いちかばちかはじめてみたこの大激戦が終わってしまったので、ひどく驚いていた。ちっとも勝ったような気がしないのだ。月人が意外に弱かったとは思えなくて、ぼくが意外に強かったような気がしていた。そして、ばかみたいに大笑いした。なんて、奇妙な月世界なんだ!
ぼくは、一瞬、もっと暴れてやりたいような、漠然とした気持ちにおそわれながら、洞穴の床に散乱した、砕かれてもがいている月人たちを一べつした。それから、いそいで、ケイヴァー氏のあとを追った。
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一七 太陽の光の下で
まもなく、洞穴の前方が、ぼうっとかすんだ空間となってひらけていることが、わかってきた。つぎの瞬間、ぼくたちは、広大な円形の空間にかかった傾斜した回廊にでた。その空間は、巨大な円筒状のたて穴で、上下に垂直に走っていた。このたて穴をとりまいている回廊は坂になっていて、その曲がり角にも、手すりらしいものはなにひとつなく、はるか上のほうでは、岩のかげにはいってみえなくなっていた。なんとなく、セント・ゴザードを通っている鉄道のらせん形をした折り返し点を連想したが、とにかく、それは、おそろしく巨大だった。そこにあったすべてのものの巨人的なつり合い、それがあたえた巨人的な印象、そういったものを諸君にお伝えすることは、とても望めない。
われわれは、その広大なたて穴の内壁の傾斜した回廊にそって、上方へ、視線をうつしていった。頭上はるかに、かすかに星のまたたいている丸い出口がみえた。その口の上半分は、太陽の白い光のために、ほとんどみえなかった。これを見るや、われわれ二人は、異口同音に、大声で、喚声をあげた。
ぼくは、先にたって、いった。
「いきましょう!」
「でも、ここは……?」
ケイヴァー氏は、そういって、近くの回廊のはしに、慎重に、足をかけた。ぼくも、彼をみならって、首をさしのべて、下のほうをのぞきこんだ。だが、ぼくは、太陽の光に目がくらんで、この底なしの暗闇の中に、深紅や紫の気味悪い光が斑点のように浮かんでいるのを見ることができただけだった。けれども目はだめでも、耳のほうはたしかだった。暗闇の中から音が聞こえてきた。ハチの巣をつついたような音が、足の下、何マイルもあろうと思われる深い穴の中から聞こえてくるのだ。
しばらく、耳を傾けていたが、やがて、ぼくは、カナテコをにぎりなおして、先にたって回廊を登りはじめた。
「これは、まえに見おろしたことがあるあのたて穴にちがいないと思う」と、ケイヴァー氏は、いった。
「あの金属の大きなふたの下なんだ」
「われわれがあの光を見たのは、この下なんですね」
「あの光!」
彼は、いった。
「そうだ! われわれは、二度とふたたび、あの世界の光を見ることはあるまい」
「かえりましょう!」と、ぼくは、いった。うまく逃げだしたいま、ぼくは、球体を見つける希望にかられて、わくわくしていたのだ。
彼の返事は、聞きとれなかった。
「え?」
ぼくは、聞きかえした。
「いや、なんでもない」と、彼は、答えた。そして、二人は、黙って、道をいそいだ。
壁にそって坂になった回廊は、カーブの分も勘定にいれて、四、五マイルはあったと思う。そして、地球では考えられないほどの急勾配で斜面を登っていたが、われわれは、楽々と歩くことができた。そうして逃げていく間は、二人の月人に出会っただけだったが、やつらは、われわれに気づくやいなや、一目散に逃げ去った。われわれの強さと兇暴さが、やつらの間に知れわたっていたからにちがいない。
表への道は、予想外に平坦だった。らせん状の回廊は、いつの間にか急傾斜したトンネルに変わった。その床には、たくさんの月牛の足あとが残っていた。そのアーチの巨大さに比べると、長さは短く、まっすぐで、まったくの暗闇というところは、どこにもなかった。それが、いきなり明るくなりはじめると、はるかかなた、上のほうに、目もくらむばかりに明るく表への出口が現われた。その、アルプスのように険しい斜面には、棘のある灌木の藪がくび飾りのように生え、その背の高い、踏みしだかれ、かわいて枯れた藪が、太陽をバックに棘だらけのシルエットを浮かばせていた。
おかしな話だが、われわれ二人には、ちょっと前には、気味の悪いおそろしいもののように思われたこの植物が、いまは、家に帰りついた放浪者が、久方ぶりに生まれ故郷を眺めたときのような、なつかしい気持ちで眺められたのだった。走ると息がきれ、話をかわすことも容易でなくなる空気の稀薄さまでが、嬉しかった。
上にみえる丸い光は、ますます大きくなり、近くのトンネルの壁は、みわけもつかない暗黒の緑に沈みこんでいった。
枯れた棘のある灌木の藪は、もはや、緑はどこにもなく、茶色に乾いて密生していた。上のほうのみえない枝の影が、ごろごろした岩の上に、複雑な模様を織りなしていた。また、トンネルの口のすぐ前のところは、出入りする月牛にふみならされて、平らになっていた。
われわれは、ついに、太陽の光と熱がふりそそぐ、この広場へ出ることができたのだ。なにも身をかくすもののない場所をやっと横ぎって、灌木の林のある斜面をよじ登り、ひねくれてかたまった熔岩のかげの小高いところに、息をはずませながら、腰をおろした。日かげでも、岩は、焼けて、熱かった。
空気は極度に熱かったし、肉体的には非常に不愉快だったが、われわれはもう、悪い夢にうなされているわけではなかった。昼間の星を見ていると、本来の領分にかえってきたような気がした。地下の裂け目やうす暗い通路を脱出したときの恐怖や圧迫感のすべては、あとかたもなく消えていた。あの最後の戦いで、われわれは、月人に関するかぎり、絶大な自信をつけたのだった。
われわれは、いま抜けだしてきたばかりのまっ黒な出口を、信じられないような気持ちでふりかえってみた。あの下で、いま、完全な暗黒のつぎに思いだされる青い光の中で、われわれは、人間を小ばかにしたようなきちがいじみたやつら、ヘルメットのような頭をしたやつらに出会ったり、びくびくしながらそいつらの前を歩いたり、忍従しかねる状態まで忍従したりしたのだ。それが、どうだ。やつらは蟻のようにつぶされ、もみがらのように散らばり、夢の中の化け物のように逃げて消え失せてしまったではないか!
われとわが目をこすってみた。われわれはあのキノコを食べたせいで、眠っていたのではないだろうか? 夢をみていたのではないだろうか? ぼくは、突然、顔に血がついているのを発見した。その上、シャツが肩や腕にへばりついて、ぴりぴりと痛むのに気がついた。
「ちくしょう!」
ぼくは、傷のていどをしらべながら、いった。すると、急に、遠くのほうのトンネルの口が、ぼくを見張っている目玉かなにかのように思われてきた。
「ケイヴァーさん!」と、ぼくは、いった。
「やつらは、いま、どうしようとしてるんでしょうね?」
彼は、トンネルの口をじっとみつめながら、首をふった。
「どうするつもりだか、わかりゃしないさ」
「そいつは、やつら次第なんです。でも、どうしてそれを知ったらいいか、わからないんですよ。そいつは、やつらがなにを持っているかにもよると思うんです。ケイヴァーさん、あなたのおっしゃるとおり、われわれは、この世界の、ほんの上っつらを撫でたにすぎません。やつらは、この内部に、あらゆる種類のものを持っているかも知れませんよ。あの飛道具でも、ぼくらをやっつけることができたはずですからね……。そうなんですよ。けっきょくのところ……」
ぼくは、つづけた。
「たとえ、いますぐ球体をみつけることができないとしても、チャンスはあります。夜通しだって、がんばりとおすことはできます。もういちど、地下へおりていって、球体にもどるために戦うことだってできるんです」
ぼくは、考えをめぐらしながら、あたりを見まわした。景色のようすは、灌木の藪が成長しすぎて、その結果枯れてしまったために、すっかり変わってしまった。われわれのすわっている場所は、高くて、火口のようすは、あたりの風景をみわたすことができた。いま、月の世界は、あらゆるものがひからび乾いて、晩秋のようにみえる月の午後のようすをみせていた。
ふみつけられて褐色になった長い斜面や野原がつぎからつぎへとつづき、月牛が放牧されていた。また、遠くあふれるばかりの太陽の輝きのなかで、月牛たちが眠そうに日なたぼっこをしていた。そこに散らばった月牛の姿は、それぞれ、羊のような影を点々と地面に落としていた。だが、月人のいるようすは、まったくなかった。われわれが脱出したときのさわぎにおどろいて逃げてしまったのか、月牛を追いだしたあとは休憩する習慣なのか、ぼくには、わからない。ただ、そのとき、ぼくは、前者の理由によるものだと信じていた。
「この植物に火をつけたら」と、ぼくは、いった。
「灰の中に、球体を発見できるかも知れませんね」
ケイヴァー氏は、聞いてないようすだった。彼は、手をかざして、星空をのぞいていた。強烈な太陽の光がさしているのに、空には、たくさんの星が見えた。
「われわれは、どれくらい、ここにいたと思いますか?」
しまいに、彼は、たずねた。
「どこに、ですって?」
「月の上に、ですよ」
「地球でいえば、たぶん、二日ぐらいでしょう」
「もっとですよ。十日近くなる。太陽がもう頂点を通りすぎて、西のほうへ沈みはじめているのがわかりませんか? あと四日か、それより早いうちに、夜になるでしょう」
「でも……、その間、一度しか食事していませんよ」
「そんなことは、わかってます。そして……、それよりも、ほら、星がでているじゃありませんか!」
「でも、小さい星の上にいるからって、どうしてその時間がちがって感じられるんです?」
「それは、わかりませんね。そら、そこに、星がでてる!」
「じゃ、どうやって時間がわかるんです?」
「空腹……、疲労……。そんなことが、ぜんぶ、ちがうんですよ。こどごとにね……。わたしにとって、球体を出た最初のときから、ただ一つの問題というのは、時間のことだったような気がする……長い時間の問題にすぎなかったような……。せいぜい……」
「十日ですよ」と、ぼくは、いった。
「すると、残りは……」
ぼくは、ちょっと、太陽をみあげた。そして、それが、頂点から西の地平線への、ちょうど中間あたりにきていることを知った。
「四日しかない!……ケイヴァーさん、こんなところでぼんやりすわってはいられませんよ。いったいどうしたらいいとお考えですか?」
ぼくは、立ちあがった。
「はっきり見わけのつくような目印をたてなくちゃなりません。旗か、ハンカチか、なにかをかかげればいい……。それから、地面を区分けして、しらみっつぶしに探すんです」
彼も、立ちあがって、ぼくのそばにやってきた。
「そうです」と、彼は、いった。
「球体を探す以外に方法はないんだ。なにもね。もし、探すことができたら……いや、探しだせるにきまってる……。でも、もし、だめだったら……」
「ただ、探しつづけるだけです」
彼は、キョロキョロして、空を見あげたり、トンネルのほうをふりかえったり、その落ちつかない動作が、ぼくをおどろかした。
「おお、しかし、なんてばかなことをしでかしたんだろう! こんな困ったことになるなんて! どうなるはずだったか、なにをしたらよかったのか、考えてみたまえ!」
「まだなんとかなりますよ」
「もう、どうにもなりません。この足の下に、一つの世界があるんですよ。それが、どんな世界だったか、考えてみたまえ! われわれの見たあの機械や、あの出入口や、たて穴のことを! あれらは、ただ、ほんの上っつらのことを教えてくれただけなんですよ。われわれが見たり戦ったりしたあの連中は、無知な百姓や辺境の住人や田舎者や、けだもの同然の労働者にすぎなかったんです。もっと下のほうへおりてみたまえ! 洞穴の下に洞穴が、トンネルが、建物が、道路があるんですよ。下のほうへいくにつれて、ひらけて、大きく、広くなり、人口も多くなるにちがいありません。たしかに、そうなんだ。まっすぐにおりていけば、最後には、月の中心に広がっている海に達するはずなんです。その海のインクのような水が、かすかな光に照らされているようすを想像してみたまえ! やつらの目が、光を必要とするならば、だがね。たくさんの支流がその水路を流れて、滝となって注ぐ壮観を思い浮かべてみたまえ! その海の表面の潮流と、潮の干満によって起こる奔流や渦巻きを考えてみたまえ! おそらく、海に浮かぶ船もあるだろう。大都会や雑踏する街路や、人間には思いもよらないような叡知や秩序があるにちがいない。そして、われわれは、その上のほうで死んでしまうんだ。それらすべてを統治する親玉がどんなやつだか、知ることもできないでね! われわれは、ここで、凍えて死んでしまうかも知れない。すると、空気が、われわれの上で凍り、また溶ける。それから……! やつらは、われわれを発見する。硬直して、沈黙したわれわれの屍体にでくわして、それから、われわれのみつけられなかった球体を発見する。やつらは、最後に、ここで雄図空しく挫折した計画と努力のすべてを理解する……。だが、それは、時すでにおそし、なんです!」
こうしてしゃべっている間、彼の声は、まるで、電話から聞こえてくるかのように、よわよわしく、遠くひびいていた。
「とにかく、問題は、暗闇です」と、ぼくは、いった。
「なんとかできるはずです」
「どうやって?」
「それは、わかりません。わたしにわかるはずがないじゃありませんか。たいまつを持っていくこともできるし、ランプをつけることもできますし……ほかに……いわなくたってわかるでしょう」
彼は、しばらくの間、手をだらりと下げ、悲しそうな顔をして、非情な荒野をみつめていた。それから、思いなおしたようにぼくのほうをむいて、球体を組織的な方法で探しだすことを提案した。
「帰ることはできます」と、ぼくは、いった。
彼は、あたりを見まわした。
「なによりもまず、地球に帰ることさ」
「われわれは、懐中電灯や、登山用の道具やいろんな必要なものを持ってこれたんですよ」
「それはそうだ」と、彼は、いった。
「この金を持って帰れば、大成功です」
彼は、ぼくの持っている金のカナテコを見たが、しばらくは、なにもいわなかった。そして、立ったまま、手をうしろ手に組んで、火口を見わたしていたが、やっと、ため息をついて、しゃべりだした。
「ここへくる道をみつけたのはわたしだったが、道をみつけたからって、その道のことをよく知っているとはかぎらない。もし、わたしが、人に知られずに地球に帰ったとしたら、どんなことが起きるだろう? この秘密を、一年間、いや、数か月も保ちつづけられるかどうかわかりませんよ。おそかれ早かれ、秘密はばれてしまうにちがいない。万が一、ほかの人間どもが、改めて発見しなおしたとしてもね。そして、そうなると……、各国の政府や有力者たちが、先を争ってここへやってきて、お互いに喧嘩したり、月世界の人々と戦争したりすることになるだろう。それは、ただ、戦争を拡大し、戦争のチャンスを増大するだけのことです。近い将来に、いや、わたしがこの秘密をもらしたら、すぐにでも、この月世界は、回廊のいちばん下まで人間の死骸でいっぱいになるのです。いや! 科学は、あまりにも長い間、ばか者どもが使う武器を作ることに苦労しすぎてきたのです。科学は、もう、手をひくべきです。そのことを、また、人間にわからせなければなりません……たとえ、千年万年かかろうとです」
「秘密を守る方法はありますよ」と、ぼくは、いった。
彼は、ぼくを見あげて、微笑した。
「けっきょく」と、彼は、いった。
「心配することはなにもないのです。球体をみつけるチャンスはほとんどないし、下では、われわれのために騒ぎが起ころうとしています。帰ることを考えるなんて、死ぬまで希望を捨てないという、人間のたんなる性癖にすぎないのです。われわれの困難は、まだはじまったばかりだ。われわれは、月世界のやつらに乱暴なところをみせ、それが本性だと思わせてしまったのです。われわれの運命は、|檻《おり》から逃げだして、ハイド・パークで人間を|咬《か》み殺した虎の運命とおなじなのです。われわれのニュースは、回廊から回廊へと、中心部までつたわっているにちがいない。分別のあるやつなら、あれだけのことをしでかしたわれわれが、球体に乗って地球に帰っていくのを、だまって見のがすはずはありませんよ」
「ここにこうしてすわっていたら運命がひらける、ってわけでもありませんね」と、ぼくは、いった。われわれは、肩を並べて、立ちあがった。
「やはり」
彼は、いった。
「二人は、別々になろう。ハンカチをこの高い棘にむすびつけて、しっかりと突き立て、それを中心として、火口の中を探すのです。あんたは、西のほうに、沈みかけている太陽にむかって半円を描いて探していき、また、もどってくるのです。はじめは、影を右にみて進み、影がハンカチの方向と直角になったら、こんどは、影を左手にみて進みたまえ。わたしは、東のほうに、おなじことをする。谷という谷はぜんぶのぞき、岩という岩の間はくまなく調べて、全力をつくして球体を探すのです。月人にでくわしたら、できるだけうまく隠れるんだ。飲み物には雪を持っていこう。腹が空いたときには、できたら、月牛を殺して、そいつの肉を、生でもいいから食べるといい。あとは、まあ、お互いに、適当にやるのですね」
「もし、どっちかが、球体をみつけたら?」
「この白いハンカチのところへもどってきて、そのそばに立って、もう一人に合図するんです」
「もし、どっちもみつけられなかったら……?」
ケイヴァー氏は、ちらっと太陽を見あげて、いった。
「夜になって、寒さがおそってくるまで、探しつづけるのです」
「月人たちが、球体をみつけて、隠してしまっていたらどうします?」
彼は、肩をすくめた。
「さもなくて、いますぐにでも、やつらがわれわれを探しにきたら?」
彼は、答えなかった。
「棒かなんか持ってらしたほうがいいですよ」と、ぼくは、いった。
彼は、首を横にふると、ぼくから目をはなして、荒地のむこうのほうを眺めた。
だが、彼は、しばらくは、でかけようとしなかった。おずおずと、ぼくのまわりに視線をやりながら、ぐずぐずしていた。
「さようなら」と、彼は、いった。
ぼくは、なにか奇妙な感情が突きあげてくるのを感じた。われわれ二人は、お互いに、どんなに気持ちを傷つけあっていたことか、ことに、ぼくが、どんなにケイヴァー氏をなやましていたかということが、頭に浮かんできたのだ。
(ちくしょうめ!)
ぼくは、思った。
(もっとうまくだってやれたはずなのに)
ぼくは、彼に握手を求めようとしているところだった――ちょうど、ぼくは、そんな気持ちになっていたのだ。だが、そのとき、彼は、足をそろえて跳びだし、北のほうへいってしまった。彼は、枯葉のように空中に舞い、軽やかにおりては、また、跳び立った。
ぼくは、しばらく、彼を見おくっていた。それから、しぶしぶ西のほうをむいて身をかがめ、足場をえらびながら、この月世界の半分をひとりで探険するために跳びだした。まるで、氷の海にでもとびこむような気持ちだった。
ぼくは、いささか無器用に岩の間に落ち、立ちあがってあたりを見まわし、厚板のような岩をよじ登って、また、跳びだした。そして、すぐにケイヴァー氏を探してみたのだが、その姿は消えて、高い棘の先のハンカチばかりが、太陽の光の中で真っ白に見えていた。
ぼくは、どんなことが起ころうと、あのハンカチだけは見失うまいと、決心した。
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一八 ベッドフォード氏、ひとりぼっちとなる
そのうちに、ぼくは、この月世界にずっと一人っきりでいたような気持ちになってきた。それでも、しばらくは、かなり熱心に球体を探した。だが、暑さは、相変わらずきびしく、空気は稀薄で、胸はたがをはめられたように息苦しかった。
間もなく、谷間の低いところにきた。その低地のへりには、乾いて茶色になっただけの高いシダが、ぐるりと生えていた。ぼくは、すこし休んで熱くなった体を冷やそうと思って、腰をおろした。ちょっと休もうと思っただけだった。ぼくは、棒をおき、すわって手の上にあごをのせた姿勢で休息した。その辺の岩の、あちらこちら、コケがパリパリに乾いてちぢんでなくなったところには、金の鉱脈が、いちめんに、水滴の走ったような|露頭《ろとう》を見せていた。枯れた草のところどころに、丸いのや、しわのよったのや、つぶのようなのや、いろいろな形をした金が突きだしていた。こういった風景を、ぼくは、なんの感動もなく眺めていた。いまは、それが、なんだっていうんだ? ぼくは、身も心も、一種の倦怠感にとらえられ、一瞬、この広大なひからび果てた荒野で、球体を探しだすことが可能だとは、信じられなかった。ぼくは、月人がやってくるまでは動きたくないような気がしていた。でも、やがて、ぼくは、どんな事態に直面しても、自分の生命を守り維持しようとする、あの人間の盲目的本能にしたがって、なんとか努力をしてみようという気持ちになってきた。それが、たとえ、もっと苦しんで死ぬための、ちょっとした時間かせぎにすぎないのかも知れない、としても。
なんだって、われわれは、月世界なんかへやってきたんだろう?
それが、ひどく難しい問題のように思われてきた。人間を日常の幸福と安全の中に安住させず、わざわざ苦労をしに、ときには、死ぬことがわかりきっている危険をさえおかすために出ていかせる魂というものは、いったいなんだろう?
ぼくは、月世界にきてはじめて、人間というものは、ただ、安全で気持ちよく暮らし、うまいものを食べて享楽を追うためにばかり生きているものではないということがわかりかけてきた。それは、人間が、常に心得ていなければならないことなのだ。人間というものは、利益に反し、幸福にそむいてまでも、絶えず、不条理にむかって駈りたてられているのだ。自分からではなく、別のある力が人間を動かし、出ていかせるのだ。
だが、なぜだろう? なぜなんだろう? なんの役にも立たない月世界の金に埋もれて、なんの関係もないいろいろなものに取り巻かれてすわりながら、ぼくは、自分の全生涯について考えをめぐらしていた。
ぼくが、月世界の遭難者として死んだと仮定すると、自分がなんのために努力してきたのか、まったくわからなくなってしまうのだ。この点については、はっきりした見解を持っていないのだが、ぼくの人生において、いままでよりもはっきりしてきたことは、ぼくが、自分だけのためにやってきたのではないこと、また、ぼくの全生涯を、個人的な生活のためにだけついやしてきたのではなかったということだ。では、だれのために働いてきたのか?……ぼくは、なぜ、月世界へやってきたのか、などということを考えるのをやめて、大きく飛躍した。
ぼくという人間が、どうして、地球上に現われたのか? いったい、どうして、個人的生活などいうものを持ったのか?……こうして、ぼくは、果てしない考えに夢中になっていた。
頭がぼんやりしてわけがわからなくなったので、もはや、筋道の立った考えは浮かんでこなくなった。だるいとか、疲れたというふうには感じなかった……月の上では、だれもそんな感じ方はしないらしい……だが、やっぱり、とても疲労していたのだろう。とにかく、ぼくは、眠ってしまったのだった。
そうやって一眠りしたことが、非常に休息になった。ぼくが眠っている間に、太陽は、どんどん西に傾き、猛烈な暑さも|和《やわ》らいでいった。とうとう、遠くから聞こえてくるさわぎのために目をさましたときには、ぼくは、元気を回復し、なんでもやれそうな気分になっていた。ぼくは、目をこすって、大きくのびをした。立ちあがって、しこっていた体をほぐし、ただちに、球体の捜索をはじめることにした。両肩に金の棒を一本ずつかつぎ、金の鉱脈のある岩の谷間を出発したのだ。
太陽は、たしかに、まえよりもずっと低くなり、空気も、かなり冷えてきていた。ぼくは、しばらくは、眠ったにちがいない。西のほうの絶壁には、青いもやのようなものが、ひとはけ、かかっているようにみえた。小さな岩のでっぱりの上に跳んで、噴火口の中を見わたした。月牛や、月人の影はなく、ケイヴァー氏の姿もみえなかったが、はるかむこうの、棘のある植物の茂みの上に、ぼくのハンカチがひろげられているのがみえた。ぼくは、あたりを見まわし、つぎの見とおしのききそうな岩の上に、跳びうつった。
ぼくは、半円をえがいて跳び、さらに遠くまで弧をえがいて、かえってきた。それは、くたびれるだけで、なんの役にもたたなかった。空気は、ますます冷えてきて、西の絶壁の下の影は、広がる一方だった。ぼくは、絶えず立ちどまってはあたりを探したが、ケイヴァー氏の姿はなく、月人の姿もみえなかった。月牛たちは、ふたたび、月の内部へ追いこまれてしまったらしく、一頭も見ることができなかった。ぼくは、ますます、ケイヴァー氏に逢いたくてたまらなくなった。ぐんぐんと速さを増して傾いていく太陽は、いまや、地平線から、ほとんど、その直径ぐらいの距離まで沈んでいた。
もうじき、月人たちが、あの出入口のふたを閉めてしまい、閉めだされたわれわれに、あの非常な月世界の夜がやってくると思うと、ぼくの胸はしめつけられるようだった。ぼくには、もう、ケイヴァー氏のいう球体の捜索を断念して、改めて二人で相談しなおすときがきているように思われた。一刻もはやく、われわれの方針を決めるべきだ、と、あせる気持ちでいっぱいだった。ついに、われわれは、球体をみつけることに失敗したのだ。もうこれ以上、探しつづける時間はなかった。
われわれを外においたままで、ひとたび、あの出入口が閉ざされたら、われわれは、見捨てられてしまうのだ。恐ろしい宇宙の夜がわれわれの上におりてくるだろう。その虚無の暗黒は、絶対の死を意味している。そいつがやってくることを考えただけで、ぼくの体はちぢみあがってしまった。たとえ、殺されても、月の内部へ、もう一度、はいりこまなくてはならないのだ。われわれが凍え死んでいくようすや、最後の力をふりしぼってあのたて穴のふたをたたいているようすが、幻影となってぼくの心につきまとい悩ますのだった。
ぼくは、もう、球体のことなど、まったく念頭になくなっていた。ただ、ケイヴァー氏を探しだすことだけを考えていた。彼をみつけるまで探して、とりかえしのつかないことになるよりは、彼のことを諦めて、ひとりで月の中にかえったほうがいいのではないかと思いはじめていた。ぼくは、すでに、ハンカチにむかって、半分ばかり、もどってきていた。と、そのとき、突然……
球体がみつかったのだ!
ぼくは、そいつが目の前に現われるまでは、全然、気がつかなかった。そいつは、ぼくがまえに通ったところよりも、ずっと西のほうにあった。沈んでいく太陽の斜めの光線がそのガラスに反射してギラギラと輝いたので、その存在がわかったのだ。一瞬、ぼくは、月人どものわれわれに対するなにか新しい策略かと思った。だが、すぐに、そうでないことがわかった。
ぼくは、両手をさしあげ、わけのわからないさけび声をあげて、そのほうへ大股に跳びだした。跳んでいくうちに、ぼくは、一度やりそこなって、深い谷間に落ちて、足首をくじいた。それからあとは、一跳びごとに、よろめきながら跳んでいった。ぼくは、ヒステリーのような興奮状態になって、球体までまだだいぶあるうちから、はげしく震えだし、息がきれて仕方なかった。そのために、少なくとも三度は立ちどまり、脇腹をおさえて休まなければならなかった。空気は稀薄で乾燥していたのに、ぼくの顔は、汗びっしょりだった。
球体に着くまで、それ以外のことはなにも考えなかった。ケイヴァー氏の行方を心配することも忘れていた。ぼくは、最後に一跳びして球体に突進し、ガラスに強く手をついた。しばらくは、球体によりかかって息をしずめ、≪ケイヴァーさん! 球体がありましたよ!≫と、さけぼうとしたが、声が出なかった。
すこし落ちついてから、厚いガラス越しに球体の中をのぞいてみた。中のものは、ひっくりかえされているようにみえた。ぼくは、もっと近づいて見ようとかがみこんでのぞいた。つぎには、中にはいってみようと考えた。
ぼくは、マンホールに頭をつっこむために、球体をすこし持ちあげなければならなかった。ねじ止めはちゃんと内側にあって、なにもさわられてなく、なんの被害も受けていないことがわかった。球体は、われわれが雪の中へおりていったときのままになっていた。
しばらくの間、ぼくは、品物の明細を調べなおすのに夢中になっていた。ふと、自分ががたがた震えているのに気がついた。球体の内部のこのなつかしい暗がりをまた見ることができるなんて、すばらしいことだ! なんといっていいかわからないほど、嬉しかった。
ぼくは、急いで這いこむと、いろんな品物の間にすわりこんだ。ガラス越しに月世界を見て、身震いした。二本の金の棒を荷物の上におき、食べ物を探しだして、すこし食べた。だが、そんなにお腹がすいていたからではなくて、ただ、そこにあったからだった。
まもなく、ぼくは、外に出ていって、ケイヴァー氏に合図をするときだということを、思いだした。だが、ぼくは、すぐには、そうしなかった。なにかが、ぼくを球体の中にとどまらせ、外に出ていかせなかったのだ。
要するに、すべては、うまくいっているのだ。人間に人間を支配する力をあたえるこの魔法の石をもっとたくさん集めるだけの時間は、まだ、じゅうぶんにあるはずだ。金は、いくらでも拾えるし、球体は、半分くらい金を積んでも、まるで空っぽのように楽々と飛行することができるはずだ。いまや、われわれは、自由をとりもどして、地球にかえることができる。そうなったら――。
最後に、ぼくは、立ちあがって、苦心して球体の外へ出た。出たとたん、ぼくは、ふるえあがった。夕方の空気は、すごく冷えこんできていたのだ。ぼくは、くぼみに立って、あたりを見まわした。それから、まわりの藪を注意深く調べてから、すぐそばの岩だなの上に跳びあがり、もう一度、月にきてはじめてのときとおなじように跳んだ。だが、こんどは、およそなんの苦労もなしに跳べた。
植物の成長と腐朽は急速にすすんでいて、岩のようすは、すっかり変わってしまっていた。だが、それでも、まだ、あの種子が芽をだしていた斜面や、われわれが最初に火口を見わたした岩のごろごろしたあたりは、ちゃんと見わけることができた。しかし、斜面に生えている棘のある灌木は、いまは、茶色にひからびて、三十フィートの高さにそびえたち、長い影をおとして、その先のほうは、みえなくなっていた。その上のほうの枝には、褐色に熟した小さな種子が群がってついていた。
植物どもは、その使命をおわり、その種子のさやは砕けやすくなって、日が暮れるやいなや、地に落ちて、凍る空気の下でしわくちゃになるための準備をしていた。また、ずっとまえに見たときにはふくらんでいた、巨大なサボテンは、破裂して、その胞子を、月の四方八方にふりまいていた。
この宇宙の一角に、なんと驚くべき場所があるのだろう! しかも、ここが、人類のはじめての着陸地点なのだ!
いつの日にか、と、ぼくは、思った。あのくぼみのちょうどまん中に、記念碑を建ててやろう。その瞬間がどんなに重大かということを、この世界の内部でうようよしている月人どもが知ったとしたら、とんでもないさわぎになるだろう。ぼくの頭には、そんな考えがひらめいたのだった!
だが、いままでのところでは、まだ、月人たちは、われわれがきたことの重要さを、ほとんど、想像さえできないでいるようだ。もしも、ほんとうのことを知ったら、この火口は、きっと、われわれを追いかけるために、大さわぎとなるだろう。
ぼくは、ケイヴァー氏に合図をおくるのに都合のいい場所を、あちこちと、探した。すると、彼が以前に、ぼくのいま立っているところから跳んだことのある岩の一部が、まだなにも生えないまま、日光に照らされているのが目にはいった。一瞬、ぼくは、球体から遠く離れることをためらった。だが、すぐに、ケイヴァー氏を探しにいくのをためらったことに良心の呵責を感じて、思いきって跳びだしたのだった……。
この見やすい場所から、ぼくは、火口の中を、もう一度、見まわした。はるか彼方、ぼくの巨大な影の先端に、小さな白いハンカチが灌木の上にはためいていた。それは、ひどく小さく遠くみえた。ケイヴァー氏の姿は、いぜんとしてみえなかった。いまごろは、彼のほうでもぼくを探しているはずだった。それが約束だったのに、彼の姿は、どこにも見あたらなかった。
ぼくは、立ちどまって、彼を待ち、いまにもみつかりはしないかと、手をかざしてあたりを見まわした。おそらく、そこに立っていたのは、かなり長い間だったろう。ぼくは、大声で呼んでみようとしたが、空気の稀薄なことを思いだして、やめた。ためらいながら、球体のほうへもどっていった。しかし、月人たちにみつかるおそれがあるので、近くの藪に毛布をかかげて、ぼくの行方を合図することは見あわせた。そこでぼくは、もういちど、目で火口の中を探しはじめた。
空虚さがひしひしと感じられて、ぼくの気力はおとろえはじめた。地下の世界の月人どもは、死んだように静まりかえっていた。
立ちはじめた微風に、あたりの藪がそよぐほかには、なんの物音もしなかった。物音のする気配さえなかった。微風は、冷たく、吹いていた。
「ケイヴァー氏のやつ!」
ぼくは、深く息を吸いこんで、手を口の両側にあてた。
「ケイヴァーさーん!」と、ぼくは、どなった。だが、その声は、小人かなにかがどなったようにしか響かなかった。
ぼくは、ハンカチを見た。それから、うしろのほうにひろがっていく西の絶壁の影を見た。そして、また、小手をかざして、太陽を見た。太陽は、西の空に、目に見えて沈んでいくように思われた。
ケイヴァー氏を助けるなら、いますぐに行動を開始しなければならない。ぼくは、手早くチョッキを脱ぐと、うしろの藪のひからびた棘の上に投げかけて目印にして、ハンカチにむかって一直線に歩きだした。おそらく、二マイルぐらいはあっただろう――数百回跳んで歩いた。月世界の一跳びの間に、どんなに長い間、宙に浮いているように感じるか、については、すでに述べたとおりだ。一跳びして宙に浮かぶたびに、ぼくは、ケイヴァー氏を探し、なぜ姿をみせないのか、不思議に思った。また、一跳びごとに、ぼくのうしろで、太陽が沈んでいくのが感じられた。ぼくは、足が地に着くたびに、球体にひきかえしたくなった。
最後の一跳びで、ぼくは、ハンカチの下のくぼ地に達し、さらに、もう一歩で、ハンカチから手のとどく範囲にある、まえに登ったことのある見はらしのいい場所に立つことができた。ぼくは、のびあがって、長々とのびた影の間から、まわりの世界をくわしく調べた。
はるかかなたの、長い下り坂のはてに、われわれの逃げてきたトンネルの出入口があった。ぼくの影は、次第にのびて、いまや、夜の指のようにそれにさわっていた。
ケイヴァー氏は、やはり、影も形もなかった。万物は、静まりかえって音もなく、動くものといえば、藪と、のびていく影だけだった。突然、そして、はげしく、ぼくは身震いした。
「ケイヴ……」と、さけびかけたが、この稀薄な空気の中では、人の声なんか役に立たないということを、改めて、思いだした。
静かだった。まさに、死の静けさだった。
そのとき、ぼくは、なにかを見つけた――小さなものだった。それは、およそ五十ヤードばかり下の斜面の、曲ったり折れたりした枝が散らばっているまん中に転がっていた。なんだろう? いや、ぼくには、わかっていた。ただ、なんとなく、わかりたくなかったのだ。
ぼくは、近くへいってみた。それは、ケイヴァー氏がかぶっていた小さなクリケット帽だった。ぼくは、それにさわろうともせず、ただ、じっとみつめていた。
それから、ぼくは、散らばった枝が、はげしく押しつぶされ、ふみつけられているのを発見した。ちょっとためらったが、歩みよって、それを拾いあげた。
ぼくは、ケイヴァー氏の帽子を手にして、ふみにじられたアシやイバラを見まわしていた。その中のあるものには、なにか黒っぽい汚れがついていた。それにさわるのが恐ろしかった。そのとき、十ヤードばかりむこうで、なにか小さな真っ白いものが、風に舞いあがって、ぼくの目にみえるところまで飛んできた。
それは、小さな紙片で、しっかりと握りしめられていたらしく、しわくちゃになっていた。拾いあげてみると、赤いしみがついていた。かすかな鉛筆のあとが目にとまった。しわをのばしてみると、乱れた、とぎれとぎれの字が書いてあり、おわりのほうは、カギ型に曲ったすじが引いてあった。
ぼくは、一生けんめい、判読した。
≪わたしは、ひざのところをけがをした。ひざの皿が割れたらしい、走ることも這うこともできない≫
はじめのほうは、かなり、はっきりしていた。それから、読みづらくなって、≪やつらは、ずっと、わたしを追ってきている。やつらにつかまるのも≫――≪時間≫という字が書いてあるらしいのだが、くしゃくしゃとした線で読みとれなかった――≪の問題だ。やつらは、わたしのまわりを、しらみつぶしに探している≫
そのあとは、筆蹟がふるえだして、≪やつらの声が聞こえる≫というのは、追跡してくる音のいみだと思われたが、それから、少しの間全然読めないところがあった。つぎには、≪まったくちがった種類の月人が現われて指揮――≫と、はっきりとした行がつづいて、それから、急いだためか、文章は、ふたたび、混乱におちいっていた。
≪やつらは、大きな頭を持っている――とても大きい。細い体と短い足を持っている。やさしい声をだし、組織だった慎重さで行動するようだ……≫
≪わたしはけがをしていて、孤立無援の状態だが、やつらの出現は、ぼくに、まだ一るの望みを持たせてくれる≫このことばは、まさにケイヴァー氏らしい。≪やつらは、ぼくを射ちもしなければ、傷つけようともしない。ぼくのつもりでは――≫
そこで、突然、鉛筆の線が、紙片を横ぎってひかれていた。そして、その裏やふちには――血がついていたのだ!
ぼくは、この途方もない遺品を手にして、バカみたいにぼうっとして、そこに、つっ立っていた。
ちょうどそのとき、なにか、ひどくやわらかく、軽く、冷たいものが、一瞬、ぼくの手にさわり、そして、消えた。やがて、その、小さな白い粒が、影をよぎって落ちてきた。
それは、小さな雪の粒だった。最初の雪の一片、月世界の夜の先ぶれだった。
ぼくは、どきっとして、空を見あげた。空はもう、ほとんど、真っ暗になっていた。そして、無数の星が、いちめんにひろがって、冷たく、くっきりと、輝いていた。東のほうを見ると、このちぢかんだ世界は、黒ずんだブロンズ色を帯びた光に満ち、また、西のほうを見ると、太陽は、その熱と光を、次第に濃くなっていく白いもやになかば奪われて――、いまや火口のへりに落ちかかり、視界から没し去ろうとしていた。すべての灌木やノコギリの刃のようにけわしくごろごろした岩は、太陽をバックに、黒々とした不規則な形を浮きださせていた。西のほうの大きな湖のような暗がりへ、もやが巨大な渦となって沈んでいった。冷たい風が、噴火口の内部をふるえあがらせはじめた。突然、雪が、さっと降ってきた。あたりは、いちめんに、灰色に|霞《かす》んでしまった。
すると、あの音が、また、聞こえてきた。はじめてのときのような心に浸み入る大きな音ではなく、かすかな、ぼんやりした、消え入るような音だった。それは、鳴っていた。あの昼がはじまったのを喜んで迎えたのとおなじ鐘の音だった。
ゴォーン、ゴォーン、ゴォーン――。
その音は、火口じゅうにひびきわたった。それは、大きな星のまたたきと鼓動を合わせているようだった。その音が鳴りひびくと同時に、血のように赤く火口のへりに残っていた半円形の太陽も沈んでしまった。
ゴォーン、ゴォーン、ゴォーン――。
いったい、ケイヴァー氏は、どうなったのだろう? 鐘の鳴っている間じゅう、ぼくは、ふぬけのようにそこに立っていた。やがて、鐘の音は、やんだ。すると、急に、下のほうにあるトンネルの出入口が、目を閉じるようにしまってみえなくなってしまった。
こうして、ぼくは、まさに、ひとりぼっちになってしまったのだ。
ぼくの上へ、まわりへ、ぼくを抱きしめるように、永遠が迫ってきた。この世のはじまるまえから存在し、この世のおわりにはかちどきをあげる永遠。その果てのない虚無の中にあっては、どんな光も、生命も、存在も、降る星の淡いかすかなきらめきにすぎないのだ。永遠とは、寒さと静寂と沈黙の――無限の宇宙の最後の夜なのだ。
孤独と寂寥の意識は、なにか圧倒的なものの存在を信ずる気持ちに変わり、そいつは、ぼくに触れんばかりにのしかかってきた。
「いやだ!」と、ぼくは、さけんだ。
「いやだ。まだ諦めはしないぞ! まだ! がんばるんだ。がんばれ! おお、がんばれ!」
だが、ぼくの声は、弱々しい悲鳴となった。ぼくは、しわくちゃになった紙片を捨てて、自分の位置をたしかめるために、岩のてっぺんに向って這いもどった。そして、全精神を集中して、残してきた目印めがけて跳びだした。その目印も、いまは、もう、かすかに見えるだけで、遠い影のはしのほうにあった。
跳んだ。跳んだ。跳んだ。一跳びごとに、なん年もたっているような気がした。
ぼくの前には、青白いヘビのようなものが扇形に光を放射する太陽を帯状にとりかこんで、ぐんぐん沈んでいた。岸壁のおとす影は、ますます広くなって、ぼくが着く前に、球体をつつんでしまいそうだった。球体までは、まだ、二マイルも離れていた――百歩か、それ以上もあるだろう――あたりの空気は、ポンプで吸い取られるように稀薄になっていき、寒さは、ぼくの関節をこわばらせた。だが、死ぬなら、跳びながら死ぬんだ。一度ならず二度までも、降り積む雪に足をすべらせ、跳躍の幅は短くなった。一度は、藪の中に跳びこんで、藪を粉々にくだいてしまった。また、一度は、落ちたときに転んで、かかとを溝につっこみ、起きあがるときにけがをして血を流した。そのために、方角がわからなくなってしまった。
だが、そんな失敗は、跳んでいる間の苦しみに比べれば、物の数ではなかった。押しよせてくる夜の潮にむかって宙を跳んでいるときの恐ろしさといったらなかった。呼吸するたびに、のどは笛のようにヒューヒュー鳴り、肺は、ナイフでえぐられるように痛んだ。心臓は、頭のてっぺんまで、どきどきとつきあげた。
≪球体に着けるだろうか? おお、神よ! 着くことができるだろうか?≫
ぼくの体は、苦しさではり裂けんばかりだった。
≪横になって休むといい≫
苦痛と絶望のあまり、からだの中で悪魔がさけんでいた。
≪横になって休むんだ!≫
近づこうともがけばもがくほど、球体は、とても近づけないほど遠いような気がした。凍えた体は感覚を失い、転んでは、打ち傷や切り傷を作ったが、もう、血も出なかった。
球体がみえてきた。ぼくは、倒れて四つんばいとなり、肺は破裂しそうだった。
ぼくは這った。ぼくの唇は、霜がおりたようになり、ひげからは氷柱がさがり、凍りついた空気で、体は真っ白になってしまった。
球体から十二ヤードばかりのところにきたが、ぼくの目は、かすんでいた。
≪横になって休め!≫絶望の悪魔がさけんだ。≪横になって眠ってしまえ!≫
ぼくは、やっと球体にさわり、足をとめた。
≪もうだめだ!≫
絶望の悪魔が、また、さけんだ。
≪横になって眠るんだ!≫
ぼくは、頑強にその声と戦った。感覚を失い、半分死んだようになりながら、マンホールのふちに登った。まわりは、すっかり雪だった。体をひきずって、中にはいった。
内部には、いくらか温かい空気が残っていた。凍えた手でふたを閉め、ねじを締めていると、雪片が――いや、凍った空気の粒が舞いこんできた。ぼくは、はなをすすった。
「やるぞ!」
歯をガチガチと鳴らし、ブルブル震えるかじかんだ手で、|鎧戸《よろいど》のボタンを押しはじめた。
以前に動かしたことがなかったので、ぼくは、いろいろなスイッチを不器用にひねりまわした。そのとき、曇ってきたガラス越しに沈んだ太陽の赤い光が、吹雪の間にチラチラとおどっているのがみえた。また、藪の黒い形も、だんだん濃くなり、降り積む雪の重みで、ゆがんでこわれていくのがみえた。吹雪は、光をバックに、黒い影となり、ますますはげしく降りしきっていた。
いまとなって、スイッチが思うようにならなかったら、いったい、どうなるだろう?
そのときだった。ぼくの手の下で、なにかカチッという音がしたかと思うと、この月世界の最後の眺めは、一瞬にして、ぼくの視界から消えうせたのだ。
いまや、ふたたび、ぼくは、宇宙の惑星と惑星の間の、音も光もない空間を、飛行しているのだった。
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一九 ベッドフォード氏、無限の空間を飛ぶ
ぼくは、まるで、殺された人間みたいだった。実際のところ、だしぬけに、乱暴な殺され方をした人間は、ぼくとおなじような感じがするだろう。はじめに、ひどい苦痛の感覚と恐怖が、つぎには、光も生命もない、太陽も星もない暗黒と静寂、真っ黒い無限の不安が襲ってきた。
すべては自分でしでかしたことだったが、また、ケイヴァー氏がいっしょのとき、すでに、こういったことは経験していたのだが、ぼくは、おどろきのあまり、ぼうぜんとなり、ただ圧倒されていたのだ。
ぼくの指は、ボタンを離れ、ぼくの体は、重力を失って宙に浮かんでいた。だが、やがて、球体のまん中に浮いている荷物や、金の鎖やカナテコのほうへ寄っていった。
どれほど長いこと、そうやって浮いていたか知らない。球体の中では、もちろん、月の上でよりも、もっと、地球上の時間感覚などは役にたたなかった。荷物にさわったので、ぼくは、深い眠りからさめたように、われにかえった。眠らずにはっきりしているためには、球体の中を明るくするか、窓をあけてなにかを見ているかしなければならない、と、さとった。そればかりか、ぼくは、ひどく寒かった。
そこで、ぼくは、荷物をけとばし、ガラスの内側にあるほそい綱をつかみ、それをつたわって、マンホールのへりまでたどりついた。つぎに、あかりとブラインドのスイッチの方向にむかって跳びだした。荷物のまわりを一まわりしたとき、なにか大きな薄っぺらなものがほどけてただよっているのにおどろかされた。ぼくは、スイッチに近いところの綱をつかまえて、やっとたどりついた。そして、なによりも先に、さっきぶつかったものがなんだったかを見るためにあかりをつけた。それは『ロイド日報』の古いコピーで、しばってあったのを抜けだして、宙にただよっていたのだった。そのことが、ぼくを、無限の永遠からつれもどし、ふたたび、自分本来の次元にかえらせた。ぼくは、笑いだした。ちょっと息がきれた。そして、ボンベから酸素をすこし補給することを思いついた。つぎに、暖房をつけて体を温め、それから、食事をした。最後に、球体がどうやって飛行しているかを推測するために、ケイヴァーリットのブラインドを慎重なやり方で操作しはじめた。
最初にあけたブラインドは、すぐ閉めて、しばらくは、そのまま浮いていなければならなかった。太陽の光に目をやられ、なにもみえなくなってしまったからだ。
すこし考えて、ぼくは、そのブラインドと直角の方向にある窓をあけにかかった。すると、まず巨大な半円形の月がみえ、そのうしろには、小さな半月形の地球がみえた。ぼくは、月からこんな遠くまできてしまったことを知ってびっくりした。ぼくは、月を出発するときには、地球を出るときのような衝撃はうけないだろうと計算していた。月の自転が与える切線の方角への遠心力は、少なくとも、地球の二十八分の一ぐらいなはずだ。そして、ぼくは、まだせいぜい火口の上あたりで、月世界の夜をぬけだしている頃ぐらいに考えていたのだ。ところが、いま、目にみるものといったら、空いっぱいの大きな白い半月形の輪かくの一部にすぎないではないか!
ところで、ケイヴァー氏は、どうなってしまったのだろう?
彼は、すでに、無限の|彼方《かなた》の点のようなものになってしまったのだ。
ぼくは、彼がどうなったか、考えてみようとした。だが、そのとき、頭に浮かんできたのは、彼が死んだということばかりだった。ぼくには、彼が、あの果てしなく高い青い滝の下で打ちのめされてたおれているのが、目に見えるような気がした。そして、彼のまわりで、あのばかげた虫けらどもが見まもっているのだ……。
漂っている新聞にぶつかってわれにかえったぼくは、また、すぐに、実際家の本領をとりもどした。いまや、ぼくにとって明らかなことは、地球にかえらなければならない、ということだ。ところが、実際は、こんなに遠くまで、地球から離れていきつつあるのだ。ケイヴァー氏がどうなったとしても、たとえまだ生きているとしても、あの血のついた紙片を見たあとでは、ぼくには信じられないような気がする。ぼくには、彼を助ける力がないのだ。彼は、あのまっ暗な夜のとばりの蔭で、生きているか、死んでいるか、どっちにしろ、少なくとも、ぼくが、仲間を集めて彼を助けにいくまでは、そこにいなくてはならないのだ。
ぼくは、そうすべきだろうか? ぼくは、そんなことを考えていた。それが可能だったらという話なのだが、まず、地球にかえって、少数の思慮分別のある人たちに球体をみせて説明し、その人たちといっしょに行動するか、あるいは、また、だれにも話さずに、持ってかえった金を売って、武器や食料を手にいれ、助手を一人連れて月にもどり、あの弱い月人どもと、対等の交渉をはじめるか、については、もっといい考えが浮かぶかも知れない。そして、ケイヴァー氏を救うことが、まだ可能だとしたら、まず、彼を救ってから、しっかりした足がためをした上で、いくらでも転がっている金を拾い集める仕事にとりかかるのだ。
だが、それは、まだ、ずっとさきのことだった。なによりも、まず、地球に帰らねばならない。ぼくは、どうしたら地球に帰りつけるか、という問題に没頭することにきめた。その問題を考えているうちは、地球に帰ってからどうするかなどということは、心配しないことにした。ぼくは、ただ、地球に帰ることだけを考えることにした。
そして、とうとう、ぼくは、いちばんいい方法を考えだした。それは、まず、スピードをつけるために、できるだけ月の近くまで落ちていき、それから、窓を閉めて、月のうしろ側を飛び、ちょうどいいときに東側の窓を開いて、地球に向かって進路をとる、と、いうのだ。
だが、このやり方で、うまく地球に帰りつけるものか、それとも、なにか双曲線か放物線のような曲線をえがいて地球のまわりをぐるぐる回るだけになるか、ぼくには、なんともいえなかった。
やがて、ぼくにも、霊感のようなものが湧いてきた。月に面している窓のうちのいくつかをあけることによって、その窓は、宇宙では、地球のほうをむいてもいるのだから、地球すれすれに飛ぶように進路を変えることができるはずだ。そうすれば、あとはもう、そんなわかりきったことはしなくとも、地球の向こう側へ抜けることができるにちがいない。ぼくは、数学者じゃないから、こんな問題を考えるにもいろいろと頭を悩ました。そして、最後には、ぼくが地球につけるかどうかは、理論よりも幸運を信じるほかはないことがわかってきた。もし、そのとき、ぼくがいま知っているように、数学的なチャンスがほとんどないということを知っていたとしたら、なんとかしようとしてスイッチをいじりまわすような気には、とてもなれなかっただろう。
だが、とにかく、ぼくは、やるべき方法を思いついたので、月に面した窓をぜんぶ開けはなし、それから、しゃがみこんだ。ところが、力を入れたはずみに、ぼくは、五、六フィートも宙に浮かび、なんとも奇妙なかっこうでただよいはじめた。とにかく、ぼくは、ぶつからないていどまで、半月形の月が大きく近づいてくるのを待った。それから、適当なときに窓をしめ、月の引力で得たスピードで、月を飛び抜けようと思った――月にぶつかって粉々に砕けてしまいさえしなければ――そのまま、地球めざして飛びつづけようと思った。
そして、ぼくは、そのとおりにした。
とうとう、ぼくは、もうじゅうぶん、月に近づいたと感じた。そこで、月に面した窓を閉めた。そして、いまも思いだすのだが、ぼくは、信じられないほど、不安や圧迫感から解放されたような気持ちで、地球につくまでつづくこの無限の空間の中の小さな点のような球体にすわりこんで、時を待ちはじめたのだった。
ヒーターのおかげで、球体の中はちょうどよく温められていたし、空気は酸素を放出したので新鮮に保たれていた。地球を出てからずっと頭が充血しているような気がするだけで、体の調子は快適そのものだった。あかりは、節約のために消してしまった。足もとの地球の光と星のまたたきのほかは、真の暗闇だった。万物は、完全な沈黙と静寂につつまれ、この広い宇宙に、ただひとりいるような感じだった。けれども、ふしぎなことに、ぼくは、地球の上でベッドに寝ているほどの淋しさも恐ろしさも感じなかった。このことは、まったく、奇妙な感じがした。と、いうのは、月の火口の中で最後にすごした数時間、ぼくの孤独感はまさに苦痛に近いものだったからだ。
信じ難いことかも知れないが、ぼくが宇宙ですごしたこの時間は、ぼくの生涯のほかのどんな時間とも比較できない。あるときには、自分がハスの葉に乗ったホトケのように、無限の空間を飛んでいるような気がしたし、また、あるときは、月から地球への旅行は、わずか一瞬にしかすぎないような気がした。実際には、それは、まるまる、地球上の数週間の時間を要したのであるが……。
もちろん、ぼくは、その間じゅう、腹をすかせ、恐怖をおさえながら、不安と心配に神経をたかぶらせていたのだった。ぼくは、宙に浮かんだまま、ぼくが経験したすべてのこと、ぼくのいままでの人生や動機、ぼくという存在の意味、などについて、ふしぎにのびのびとした、こだわりのない気持ちで、考えめぐらしていた。ぼくは、自分がどんどん大きくなってきて、動いているという感覚がなくなったまま、宇宙の星の間にただよっているような気持ちになってきた。そして、ちっぽけな地球と、その地球に住むぼくのちっぽけな生活について考えつづけていた。
正直いうと、ぼくは、そのとき、ぼくの心の中になにが起きていたか、説明することができない。そのときのぼくの心は、直接、または、間接に、奇妙な肉体的条件に影響されていたことは、たしかだ。ここでは、ただ、どんなことを考えたかということに重点をおいて、説明ぬきで述べてみよう。
ぼくの心をいちばん強くとらえたのは、自分はなにものなのか、という、しつこい疑いだった。
そういういい方が許されるならば、ぼくは、ベッドフォードから分裂して、ぼくが偶然関係を持ったつまらない人間として、ベッドフォードを見くだしていたのだった。ぼくは、非常に意気軒昂たる、力量のある人間としてのプライドをもって、そのベッドフォードを、一頭のロバかあわれな動物のように、あらゆる角度から観察していたのだ。ぼくは、そのベッドフォードを、ロバとしてばかりではなく、数代にわたるロバの子孫としても見ていた。その学校時代、青年時代、初恋時代を、砂の中の蟻の行動を見るように見た。……その清らかな時代の名残りが、まだ身のまわりに残っているのを哀惜の思いで|眺《なが》めた。そして、ぼくには、もうその純真な青年時代の青春の血にあふれた感激が、ふたたび|甦《よみが》えってこないのではないかと疑った。だが、そのときには、その疑いは、全然、苦痛にはならなかった。なぜならば、ぼくは、事実、ベッドフォードであると同時に、ほかの誰かであり、心だけがこの静寂な宇宙にただよいでているのだという、異常な信念を抱いていたからだ。
なぜ、ぼくが、こんな、ベッドフォードなどという奴の欠点について悩まなければならないのだ? ぼくには、やっこさんにも、その欠点なんかにも、なんの責任もありはしないのに。
しばらくの間、ぼくは、この、ひどくグロテスクな妄想とたたかっていた。なんとかして、はっきりした記憶や、微妙な、あるいは強烈な感情を思いだして、妄想をおいはらおうと努力した。ぼくは、なにか、ひどく痛い思いでもしたら、だんだんひどくなるこの精神の分裂を食い止めることができるかも知れない、と、感じた。だが、ぼくは、そうしなかった。
ぼくは、学校時代のベッドフォードが、帽子をあみだにかぶり、上着のすそをひるがえしながら、チェーンスリーの小道を走っていくのを見た。学校の試験にいくところだ。また、彼が、よけたりぶつかったりしながら歩いていき、人のごみごみした雑踏の中で、自分とおなじようなつまらない連中と|挨拶《あいさつ》をかわしているのを見た。なんとまあ、ぼくは見た。ベッドフォードのやつは、その晩、ある女性の居間にいたのだ。そばのテーブルの上に置いた帽子は、ブラシなどかけたことがないように汚れていたし、おまけに、彼は、涙をながしていた。ぼくは見た。ベッドフォードは、その女性と、さまざまな態度や感情を示しながら、いっしょにいたのだ。ぼくは、いままで、こんなに分裂した感じを持ったことはない……ぼくは、ベッドフォードが、脚本を書くためにリンプネに急ぎ、ケイヴァー氏に話しかけ、長袖のシャツを着て球体の建造作業に従事し、月にいくのが恐ろしくなって、カンタベリーまで歩いていくのを見た。まったくのところ、ぼくは、われとわが目を疑った。
それでも、ぼくは、それらのすべてが、孤独と、無重力状態からくる幻覚だということは知っていた。ぼくは、手をつねったり、握り合わしたりして、球体の中に浮いているのだという現在の感覚をとりもどそうとつとめた。とりわけ、ぼくは、あかりをつけて、破れた『ロイド日報』の写しをつかまえ、そのはっきりと現実的な広告欄を読みなおした。カッタウェイ式自転車のこと、大金持ちの紳士のこと、ナイフやフォークを売りたがっている貧乏な婦人のこと……。そこには、たしかに、そういう人々が存在していることは、疑う余地がないのだ。そして、ぼくは、ひとりごとを、いった。
「これが、おまえの世界なんだ。そして、おまえは、ベッドフォードで、これから、こういったすべてのものの中で残りの一生を送るために、地球に帰っていくところなんだ」
だが、ぼくの心の中には、またもや、疑いが頭をもたげてきた。
「いま新聞を読んでいるのは、おまえじゃない。あれは、ベッドフォードなんだ。おまえは、ベッドフォードじゃないんだぞ。わかったか! このことが、まちがいのもとなんだぞ」
「くそくらえ!」
ぼくは、さけんだ。
「このおれがベッドフォードじゃないっていうんなら、いったい、おれは、だれなんだ?」
しかし、そんなことは、なんのききめもなかった。ますます、奇妙な空想が頭に浮かんできて、遠い影のような疑惑がはるかかなたから迫ってくるばかりだった。
そもそも、諸君には、このぼくは、どこか、この世界のまったく外にいるというばかりでなく、あらゆる世界の外に、時間と空間を超越した四次元の世界にいるのであって、このあわれなベッドフォードなる男は、ぼくが人生をのぞく一つののぞき穴にすぎないのだという観念を持っていることが、わかってもらえるだろうか?
ベッドフォード! たとえ、ぼくが彼を認めないとしても、ぼくと彼とは、固く結びつけられていて、ぼくがどこにいようと何者であろうと、彼の人生が終わるまで、彼の欲するように欲し、感ずるように感じて、喜びも悲しみも共にしなければならないということは、わかっていた。でも、そのベッドフォードが死んだら――いったい、どういうことになるのだろう?
ぼくの経験したことのうち、特筆すべき点については、すでに、じゅうぶんに述べてきた。ぼくが、こんなことを述べるのは、人間が地球を離れてひとりぼっちになることがいかに、肉体の各器官の機能と感覚に影響するばかりでなく、また、精神の構造そのものにまで、奇妙な好ましからざる障害をあたえるか、ということを示したかったからだ。
この広大な宇宙旅行の大半を通じて、ぼくは、こういった抽象的なことがらばかり考えていた。この宇宙の虚無の中で、精神は分裂して無感覚となり、いわば、誇大妄想狂のようになっていたのだ。そして、これから帰っていこうとする世界ばかりでなく、あの青い光に照らされた月人の洞穴や、そのヘルメットのような顔、巨大なおどろくべき機械、あわれにも、その世界にひきずりこまれたケイヴァー氏の運命など――そういったすべてのことが、無限に小さい、まったくとるにたりないことのように思われるのだった。
だが、ついに、ぼくをほんとうの人間の生活にひきもどしてくれる地球の引力を、体に感じはじめた。そして、ぼくが、けっきょくは、ベッドフォードにまちがいないということが、ますますはっきりしてきた。ぼくは、いま、おどろくべき冒険旅行から地球に帰るところであり、ぼくの命は、地球に着くときに失われるかも知れないということもわかってきた。そこで、ぼくは、無事に地球におりるにはどうしたらいいかを、夢中になって考えはじめた。
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二〇 リトルストーンのベッドフォード氏
球体が上空の大気に突入したとき、飛行の方向は、地表と、ほぼ併行していた。球体の温度は、たちまち昇りはじめた。すぐ着陸しなければならないと思った。はるか下には、薄暗いたそがれの光の中に、広大な海がひろがっていた。ぼくは、全部の窓をあけて落ちはじめた――太陽の輝く昼から夕方へ、夕方から夜へと。地球は、ぐんぐん大きくなってきた。星は呑みこまれるように球体のうしろに去っていき、その星の光に銀色に半透明に光る雲のヴェールがひろがって、球体をつつみこんだ。
地球は、もう、まん丸な球ではなく、平らになり、さらに凹面になってきた。もはや、単なる惑星ではなく、人類の住む世界となったのだ。
ぼくは、地球に面した窓を、みんな一インチほどにしめて、もっとゆっくり落下するようにした。海は、ぐんぐんひろがって近づいてきた。波の暗いきらめきがみえるほどになった。ぼくは、窓をのこらずしめて、顔をしかめてすわり、歯をくいしばり、手足をつっぱって、着地のときの衝撃にそなえた――。
球体は、海面に落ちて、ものすごいしぶきをあげた。しぶきは幾尋もあがったにちがいない。しぶきと同時に、ぼくは、ケイヴァーリットのブラインドをぜんぶひらいた。球体は、ゆっくりと海中に沈んでいった。まもなく、ぼくの足を押しあげるように球体が浮きあがりはじめ、泡が昇るように昇っていった。そして、ついに、ぼくは、海面に浮きあがりゆらゆらとただよいはじめた。それが、ぼくの宇宙旅行のおわりだったのだ。
夜は、まだ、暗く、曇っているようすだった。はるか沖合いの、針の先ほどの黄色い二つの光は、通りすぎてゆく船にちがいない。もっと近いところを、赤い光が往き来していた。球体のサーチライトの電気がきれてしまっていなかったら、この夜の情景をもっとよく見ることができたはずだった。異常に疲れていたにもかかわらず、ぼくの感覚は鋭くなっていた。ぼくは、興奮して、しばらくは、どうやってぼくの旅行をおわらそうかと、むやみにあせってばかりいた。
しかし、最後にぼくは、動きまわるのをやめ、手を膝の上においてすわり、遠くの赤い光をみつめていた。その光は、上下に揺れつづけていた。見ているうちに興奮はおさまってきた。少なくとも、もう一晩、球体の中ですごさなくてはならないことがわかった。そうなると、どうもならないほど体が重く、疲れているのが感じられた。やがて、ぼくは、眠りにおちていた。
体の揺れているリズムが急に変わったので、目をさました。|覗《のぞ》き窓のガラスをとおしてみると、球体は、大きな浅瀬に乗りあげていた。遠くのほうに、家々や木立がみえ、沖のほうには、海と空の間に、大きな船が浮いているのが、ガラスの屈折で曲って|歪《ゆが》んでみえた。
ぼくは、立ちあがろうとして、よろめいた。ぼくのただ一つの願いは、外へ出ることだった。出口のマンホールは上のほうにあった。ぼくは、苦労してねじをはずし、ゆっくりと、マンホールのふたをあけた。ついに、空気が出ていったときとおなじような音を立てて、はいってきた。こんどは、体がその圧力になれるまで待つなどということはしなかった。つぎの瞬間、ぼくは、マンホールのふたにかかる空気の重さを手に受けて、いっぱいにひらいた。あのなつかしい地球の空のほうへ、あけはなったのだった。
空気がぼくの胸のなかにとびこんできたので、ぼくは、あえいだ。ガラス窓のねじをとりおとして、大声をあげて、手を胸にあて、へたへたとすわりこんでしまった。しばらく、そうして苦しんでいたが、やがて、大きく深呼吸をした。それからやっと、また、立ちあがって動きまわれるようになった。
マンホールから首をだそうとすると、球体は、ひっくりかえりそうになった。ぼくは、首をもぎとられそうになって、あわててひっこめた。さもなければ、ぼくは、海水に顔をつっこんでしまっていただろう。しばらく、もがいたり押しわけたりした後、ようやく、砂の上に這いだすことができた。その砂には、また、波がよせたりひいたりしていた。
ぼくは、立ちあがろうともしなかった。ぼくの体は、急に|鉛《なまり》と化したように重く感ぜられた。ケイヴァーリットという障碍物がなくなったので、母なる大地が、いまこそ、ぼくを、しっかりととらえてはなさないのだ。ぼくは、海水で足が濡れるのもかまわず、その場にすわりこんだ。
夜明けだった。空は、灰色で、かなり曇っていたが、あちこちに、緑がかった光がひろがりはじめていた。すこしはなれたところに船が一隻、|錨《いかり》をおろしていて、その船の淡い影絵には、黄色いあかりがついていた。
右のほうには、陸地が遠くまで彎曲して、石で築いた堤防には小さなあばらやが点々とならび、その突端には航海の目印となる灯台があった。陸地には、平らな砂地がひろがり、ところどころは水たまりとなって、一マイルほどさきは、藪の生えた岸でおわっているらしかった。北東のほうには、いくつかの人気のない湖が見え、目に見えるいちばん高いものといったら、荒涼とした旅館の建物が並んでいるだけで、それは、明けてゆく空をバックにぼんやりと浮かびあがっていた。こんな広いところに、こんな垂直に石をつみあげた家なんかを建てたやつは、いったい、どんなおかしなやつなんだろう? やつらは、ブライトン海岸の石ころのように、この荒野の中に見すてられて暮らしているのだ。ぼくは、あくびをしたり、眼をこすったりしながら、長い間、そこにすわっていた。なんとかして立ちあがろうとしたが、まるで重いものでも持ちあげるような気がした。だが、とうとう、ぼくは立ちあがった。
ぼくは、遠い家々をみつめた。月の噴火口で飢餓になやまされてからはじめて、ぼくは、地上の食物のことを考えた。
「ベーコン……」
ぼくは、つぶやいた。
「卵と、おいしいトースト、うまいコーヒー……。こいつらを食べにリンプネにいくには、いったい、どうしたらいいだろう?」
ここはどこだか、考えてみた。とにかく、ここは、どこかの、東海岸にちがいない。ぼくは、着陸する前に、ヨーロッパを見ているのだ。
ぼくは砂をざくざくと踏む音を聞いた。みると、小柄で丸顔の人なつっこそうな青年が、フランネルを着て、湯上げタオルを肩にまき、海水着を腕にかけて、浜辺を降りてくるのだ。その青年のようすで、ぼくは、すぐ、ここはイギリスにちがいないと、さとった。
青年は、球体とぼくとを熱心に見くらべていた。彼は、さらに近づいて、みつめた。
あえていうと、ぼくは、そのとき、恐ろしい野蛮人かなにかのようにみえたはずだ――体じゅうよごれきって、髪は、なんともいえないほどぼうぼうとしていた。だが、そのときには、気がつかなかった。彼は、二十ヤードばかりの距離で立ちどまると、疑わしそうな声で、いった。
「もしもし、こんにちは!」
「やあ」
ぼくは、答えた。それに力をえた青年は、近づいて、たずねた。
「いったい、それは、なんですか?」
「ここは、どこですか?」と、それには答えず、ぼくのほうからたずねた。
「リトルストーンです」
彼は、そういって、家のほうを指さした。
「あれが、ダンジネスです。いま、お着きになったんですか? あなたの乗ってきたのは、いったいなんですか? なにかの機械なんですか?」
「ええ」
「岸まで流れてきたのですか? 難破でもして……? あれは、なんですか?」
ぼくは、すばやく、考えた。近づいてくる青年の外見から、その人間を判断しようとした。
「誓ってもいいけど!」
彼は、いいつづけた。
「あんたは、あれに乗ってきたんだ。あんたは、きっと……そう……どこで難破したんですか? あれは、救命用の浮袋みたいなものですか?」
ぼくは、当分は、そういうことにしておこうと決心した。そして、あいまいに肯定の返事をしてやった。
「ぼくは、助けてもらいたいんです」
ぼくは、しわがれ声でいった。
「なにか、食べるものが欲しくて岸にあがったのです。この近くで、手に入れることはできませんか?」
そのとき、ぼくは、三人の快活そうな青年が、タオルと水着を持ち、ムギワラ帽をかぶって、砂浜をやってくるのに気がついた。明らかに、いまは、リトルストーンの朝の水浴時間なのだ。
「とにかく、なんとか助けてください!」と、ぼくは、はじめの青年に、いった。
彼は、いくらか積極的になったようだった。
「実際問題として、なにがしてほしいのですか?」
彼は、ふりむいて、合図をした。三人の青年は、いそいでやってきた。一分後には、彼らはぼくをとりかこみ、ぼくを質問攻めにした。ぼくは、なんにも答えたくなかった。
「みんな、あとで話そう」
ぼくは、いった。
「ぼくは、ひどいショックで、ぼろきれのようになってしまってるんだ」
「ホテルへいらっしゃい」と、はじめの小柄な青年がいった。
「ぼくらが、ここで、あれの見張りをしてますから」
ぼくは、ためらった。
「いや、それはだめです。実は、あの球体の中には、大きな金ののべ棒が二本あるんです」
彼らは、疑わしそうに顔を見合わせ、それから、また、ほんとうのことを知りたそうにぼくの顔を見なおした。ぼくは、球体のところにいき、かがんで這いこんだ。そして、手早く月人のカナテコと壊れた鎖をとりだして、青年たちの前においた。もし、ぼくが、あれほどひどく疲れていなかったら、彼らのようすを見て、笑いだしてしまったことだろう。
彼らは、カブト虫のまわりの子ネコのようだった。それを、どう扱ってよいかわからないようだった。小柄で肥った青年が、まず、金の棒の一方のはしを持ちあげ、うんうん唸りながら、それをおろした。ほかの青年たちも、みんな、そうした。
「こいつは、鉛か金だ」と、一人が、いった。
「いや、金だ!」
ほかのが、いった。
「正真正銘の金さ」と、三人目が、いった。
それから、彼らは、みんな、ぼくをみつめ、さらに、みんな、沖に|錨《いかり》をおろしている船をみつめた。
「いったいぜんたい」
小柄な青年が、いった。
「これを、どこで、手にお入れになったんです?」
ぼくは、あまり疲れていたので、嘘をつきとおすことができなかった。
「月から持ってきたんです」
青年たちは、目を丸くして、顔を見合わせた。
「ねえ、きみたち」
ぼくは、いった。
「ぼくは、いま、ここで、きみたちと議論するつもりはないんだ。とにかく、この金の塊をホテルへ運ぶのを手伝ってくれませんか? きみたちは二人で一本ずつ持てるでしょう。ぼくは鎖を運びますよ。そして、なにか、食べたあとで、もっとくわしくお話しましょう」
「あれは、どうします?」
「あのまま、あそこに置いてもだいじょうぶでしょう」と、ぼくは、いった。
「とにかく……ええ、めんどくさい!……いまはあそこに止めておかなくちゃならない。潮がさしてきたって、うまく浮いているだろうからね」
青年たちは、ひどくおどろいていたようだったが、それでも、きわめて柔順に、ぼくの宝物を肩にかついだ。ぼくは疲れて鉛のように重い手足をひきずって、遠い≪海岸通り≫にあるホテルめざして、先頭にたった。途中で、鋤のような道具を持った二人の少女が、おどろいてぼくらを見送った。それから、もうすこしいくと、もの珍しそうに鼻をぴくぴくさせたやせっぽちの少年に出会った。ぼくの記憶では、その少年は、自転車に乗っていて、そのまま、われわれの右側を約一〇〇ヤードばかりはなれて、ついてきた。まもなく、あまり面白くなさそうだと思ったらしく、自転車に乗ると、平らな砂地を、球体の方角へ走り去った。ぼくは、少年のほうをふりかえった。
「あれにさわったりはしないでしょうよ」
がっしりした青年が、ぼくを安心させるようにいった。そして、ぼくも、また、ただただ、安心しきっていたのだ。
最初は、なにか、灰色に曇った朝だと思っていた。だが、太陽は、突然、水平線にたなびく雲をはなれて、世界を照らし、鉛色の海をぎらぎらと輝かせはじめた。
ぼくは、元気をとりもどした。自分のやってきたこと、これからやらねばならぬことの重大さが、太陽の光とともに、ぼくの心の中にはっきりと浮かびあがってきたのだ!
はじめの小柄な青年が、金の棒の重みでよろけたとき、ぼくは、思わず、大声で笑ってしまった。実際、ぼくがこの世界で、ぼくの占めるべき地位についたとしたら、世界は、どんなにおどろくだろう!
もし、ぼくが異常に疲れていなかったら、リトルストーンのホテルの主人が、一方にぼくの金の棒と、ぼくの尊敬すべき仲間を見、また一方に、ぼくのきたならしいかっこうを見て、泊めるべきかどうかとまどったとき、大いに面白がったにちがいない。でも、とうとうぼくはやっと地球の風呂にはいることができたのだ。ぼくは温かいお湯で体を洗い衣服を着かえた。その衣服はひどく小さかったが、さっぱりしていて、あの小柄な青年がぼくに貸してくれたものだ。彼は、また、ぼくにかみそりを貸してくれたが、ぼくは、顔じゅうに生えたもじゃもじゃなひげの先にさわる気さえしなかった。
ぼくは、イギリスの朝食のテーブルにつき、あまり食欲のすすまぬままに食事をとった。
ぼくの食欲は、何週間も前からおとろえきっていた。ぼくは、気をとりなおして、四人の青年たちの質問に答えた。今度は、本当のことを話しだした。
「さて……」と、ぼくは、いった。
「きみたちが聞きたがるからいいますが……これは月から持ってきたのです」
「月からですって?」
「ええ、あの空の月からです」
「でも、それはどういうことなんです?」
「どうでもいい、ぼくのいうとおりさ!」
「すると、あなたは、いま、月からかえってきたばかりだとおっしゃるんですか?」
「そのとおり! 宇宙を通って、あの球体に乗ってね」
そしてぼくは、たまごを口いっぱいほおばった。ぼくは、こんど月にかえるときには、たまごを箱いっぱい持っていこうとひそかに考えていた。
青年たちが、ぼくのいうことなんかひとことも信じていなくて、明らかに、ぼくのことを、いままでにであったもっとも尊敬すべき嘘つきだと考えていることは、よくわかっていた。彼らは、互いに顔を見あわせ、燃えるようなまなざしをぼくにそそいだ。彼らは、まるで、ぼくが塩をふりかける手つきからなぞをとく手がかりをみつけだそうとするようにみえた。ぼくがこしょうをかけるときにも、なにか、重大なことが発見できるかのようだった。彼らがよろめきながらかついできたこの奇妙な形をした金塊のことが、彼らの心をとらえてはなさなかったのだ。金塊は、ぼくの前に置いてあった。それぞれが数千ポンドのねうちがあって、それを盗むことは、家や土地を盗むよりもむずかしかったはずだ。コーヒー茶碗ごしに彼らの好奇心にみちた顔をながめていると、これから、また、彼らにわからせるために、どんなひどいでたらめを説明しなくてはならないかということが、わかってきた。
「あなたは、ほんきでおっしゃっているのですか」
いちばんわかい青年が、強情なこどもにいうような調子で、はじめた。
「ちょっとそのトーストたてをとってください」
ぼくは、そういって、彼の口を完全にふさいでしまった。
「でも、ねえ」と、もう一人が、はじめた。
「ぼくたちは、そんなことを信じやしませんからねえ」
「ああ、そう」と、ぼくはいって、肩をすくめた。
「このひとは、ぼくたちに、ほんとうのことをしゃべりたくないんだ」
いちばんわかい青年が、わざとらしい調子で仲間にいった。それから、さらに、興奮をおさえた態度でいった。
「たばこをすってもよろしゅうございましょうか?」
ぼくは、ていねいに同意を示し、朝食をつづけた。ほかの二人は、離れた窓のところへいって、外をながめながら、ぼくに聞こえないように話していた。ぼくは、あることを思いだした。
「潮は、ひいていますか?」と、ぼくは、いった。
一瞬、だれが答えるか、迷っていたようだった。
「もうじき、ひき潮です」と、ふとった小柄な青年が、答えた。
「まあ、とにかく」
ぼくは、いった。
「そんなに遠くへは流れていかないでしょう」
ぼくは、三つめのたまごを割ってから、ぼつぼつしゃべりだした。
「ねえ、きみたち。どうか、ぼくが話したくないとか、失礼なうそなんかをいっているとおもわないでください。ぼくには、少ししかいえないことや、秘密なことがあるんです。こんなことがまったくおかしなはなしだということも、きみたちがそうおもうにちがいないということも、よくわかります。断言しますが、きみたちは、記念すべきときにぶつかっているのです。でも、わたしは、いま、それをはっきりとおはなしすることができないのです……不可能なんです。ぼくの名誉にかけていいますが、ぼくは、たったいま月からかえってきたところなんです。で、それ以上のことはいえません。……おなじようにたしかなことは、ぼくが、非常に、きみたちの世話になっているということです。ねえ、たいへんなお世話になっています。どうか、決してぼくの態度に気を悪くしないでください」
「とんでもない、少しも、気を悪くなんか!」と、いちばんわかい青年が、にこにこしていった。
「よくわかりますとも」
そういいながら、彼は、ぼくの顔をじっとみつめて、|椅子《いす》がひっくりかえりそうになるほど身をそらした。そして、苦労して身をおこした。
「ちっとも、おこってなんかいませんよ」と、ふとった青年がいった。
「そんなことは、お考えにならないで……」
彼らはそろってたちあがると、てんでばらばらに部屋の中を歩きまわり、煙草に火をつけ、それぞれ完全な親愛の念を示しながら、ぼくや球体なんかには、まるっきり興味はないというようすをよそおった。
「どっちにしろ、ぼくがいって、あの船を見張っていよう」
彼らのひとりが、低い声でそういうのが聞こえた。もし彼らが、どうしてもそうしようと思ったら、ぼくを置いて、出ていったにちがいない。ぼくは三つめのたまごを食べているところだった。
「すばらしい天気じゃありませんか。こんなすばらしい夏には、であったことがありませんよ……」
ボン、シューッ!
そのとき、突然、巨大なロケットが爆発したような音がした。
同時に、どこかで窓ガラスの割れる音が……。
「あれはなんだ?」と、ぼくはいった。
「もしかすると……?」
小柄な青年がそうさけんで、窓のところへとんでいった。
ほかの青年たちも、同じように窓のところへとんでいった。ぼくは、すわったまま、彼らのようすをながめていた。
突然、ぼくは、とびあがった。三つめのたまごをひっくりかえしたまま、みんなと同じように、窓にはしった。ある考えがひらめいたのだ。
「なんにもみえなくなっています」
小柄な青年が、そうさけぶと、戸口のほうへはしっていった。
「あの子だ!」
ぼくはさけんだ。そして、怒りにしわがれた声でわめきたてた。
「あの、のろわれた小僧め!」
そういうと、ぼくは、身をひるがえして、ちょうど、トーストのおかわりをもってきた給仕をつきのけて、ものすごい勢いで部屋をとびだし、階段をかけおり、ホテルの前のちょっとした広場を横ぎって、走りだした。
いままでおだやかだった海は、にわかにまきおこった風にさかまき、球体のあったあたりは、いちめんに、船の出発のときのように海水が波だっていた。
空には、ちいさな雲が、けむりのようにうずまいてひろがり、浜辺には、三、四人の人が、思いがけない音のした空の一点を、何事があったのかと見あげていた。すべては、ただ、それだけのことだった。
ホテルの使用人や、給仕たち、ジャケツを着た四人の青年が、ぼくにつづいて走ってきた。そこらじゅうの窓や戸口から、さけび声がきこえ、あらゆる種類の人間たちが、びっくりして、心配そうな顔をのぞかせていた。
しばらくの間、ぼくは、このあたらしい事態に圧倒されて、それらの人々のことを考える余裕もなく、たちつくしていた。はじめは、あまりびっくりしていたので、この事件をひとつの事故として考えることもできなかった。ぼくは、ちょうど、ある突然の暴風におそわれたような状態だった。ひとはあとになってから、やっと、そのはっきりした損害のていどを計りはじめるのだ。
「たいへんだ!」
ぼくは、背中に水をあびせられたような気がした。脚がふらふらした。ぼくには、やっと、この災難が、ぼくにとってなにを意味するかがわかってきた。あの球体のなかには、れいのいまいましい小僧がいるのだ――あの高い空のかなたに! ぼくは、完全に≪おきざり≫を食ってしまったのだ。いまとなっては、ホテルの喫茶室にある金だけが、この地球上における、ぼくのただひとつの財産になってしまったのだ。いったい、どうしたらいいんだろう? ぼくは、すっかりあたまが混乱して、あらゆることが、まるでわからなくなってしまった。
「あの……」
ぼくのうしろで、小柄な青年の声がきこえた。
「あなたはごぞんじのはずですね」
ぼくは、ふりかえった。すると、そこには二、三十人のひとが疑惑と|猜疑《さいぎ》にみちた、もの問いたげな顔で、だまってぼくをみつめていた。ぼくは、彼らの目に圧迫されて、たえられなくなった。ぼくは、大声で、うなるようにいった。
「ぼくが知っているはずがないじゃないか!」
ぼくは、さけんだ。
「知らないって、いってるだろう! ぼくにもわけがわからないんだ! 勝手な想像をして……そして、自分たちを非難したらいいだろう!」
ぼくは、ヒステリックに両腕をふりまわした。青年は、ぼくが、おどかしでもしたように、一歩しりぞいた。ぼくは、やつらの間をとおりぬけて、まっすぐにホテルへ走りこんだ。そして、喫茶室へとびこむと、はげしくベルを鳴らした。給仕が、はいってくるやいなや、ぼくは、彼の腕をつかんでさけんだ。
「おい、よくきけ! いますぐに、だれかを呼んできて、この金の棒を、ぼくの部屋へ運びこむんだ!」
給仕は、ぼくのいうことが、よくわからないらしかった。ぼくは、気ちがいのように、わめきちらした。
みどり色のエプロンをつけた小柄な老人と、フランネルの上衣をきた二人の青年が、おどおどしながらとんできた。ぼくは、とびかかるように、彼らにサービスを要求した。金の棒が、部屋に運びこまれると、ぼくはもう、けんかになってもかまわないと思った。
「さあ、でていけ!」
ぼくは、どなった。
「きさまたちの目の前で、おれが気ちがいになるのをみたくなかったら、みんな、とっととでていけ!」
ぼくは、ドアのところでためらっている給仕の肩をつかんで、突きだした。それから、彼らをひとりのこらず閉めだすやいなや、あの小柄な青年の貸してくれたシャツをかなぐりすてると、そこらじゅうになげ散らし、そのままベッドにころがりこんだ。そして、そこに横になったまま、あえぎながらののしりつづけた。長いことそうしているうちに、やっと気がしずまった。
やっと冷静をとりもどしてから、ぼくは、ベルを鳴らし、目を丸くしてやってきた給仕に、フランネルの上着と、ウィスキー・ソーダと、上等の葉巻きを何本か、注文した。これらの品物を手にいれるまで、ぼくは、待ちかねていらいらしながら、何度もベルを鳴らさなければならなかった。それがやっと手にはいると、ぼくは、また、部屋にかぎをかけ、いま直面している事態の全貌を、ゆっくりと検討しはじめた。
この偉大なる実験の結果は、正味のところ、完全な失敗に終わったのだ。戦いは敗れ、ぼくは、ただひとりの生き残りなのだ。今までの冒険は、完全な失敗であり、こんどの事故が決定的な災難となったのだ。もはや、自分自身を救う道しか残されていない。さもなければ、われわれの事業は、一切、ご破算となるほかはないのだ。あの運命的な風のひと吹きで、もう一度やりなおそうというぼくのわずかな希望は、すべて、水泡に帰したのだ。
月にもどって、球体いっぱいの金をひろってくる。そして、ケイヴァーリットの一片を分析したのち、あの大きな秘密の事業をやりなおす。おそらく、最後にはケイヴァー氏の遺体まで収容されることになるだろう。そういった計画は、すべて、完全に消えてしまったのだ。
ぼくが、ただひとり、生き残った。そして、それがすべてだったのだ。
ぼくは、いままでの経験からして、苦しいときには寝るのがいちばんだと、考えた。実際ぼくは、ゆっくり頭を休めないと、なにか、とんでもない無分別をしでかしそうな気がしていた。だが、こうして、うるさい連中から逃げだして部屋に閉じこもっていると、現在の事態をあらゆる方向から考え、ゆっくりと対策を練ることができるようになった。
あの少年がどうなったか、ということは、もちろん、ぼくには、よくわかっていた。彼は、球体に這いこみ、ブラインドのスイッチをいたずらして、ケイヴァーリットの窓が閉まって、昇天してしまったのだ。少年がマンホールのふたをしめたとは、とうてい考えられない。たとえしめたとしても、地球にもどってくる可能性は、万に一つもあるはずがないのだ。少年は、球体のまん中あたりに、ぼくの荷物といっしょに浮かび、そのまま、地球本来の支配力を脱して、宇宙の遠い一角の住人となるだろうことは、明らかだった。
ぼくは、すばやく、その点について考えてみた。この事件で、ぼくが負わなければならないどんな責任に関しても、ぼくさえだまっていれば、かかわりになることはないのだということが、考えれば考えるほどよくわかってきた。もし、行方不明になった少年を探す悲しんでいる両親にであったとしたら、ぼくは、自分もなくなった球体を探してほしいといい……さもなければ、いったい何のことかとしらばっくれればいいのだ。はじめのうちは、泣き悲しむ両親や、保護者たちや、そのほかのあらゆる面倒なことがらばかり考えていた。しかし、いまやぼくは、ただ、口をとざしていなければならない。そうしていれば、何ごとも起こらないはずだ、ということがわかってきた。実際こうして寝て、煙草を喫いながら、考えていればいるほど、事件のえいきょうを受けないでいられるという知恵が、わいてきた。社会秩序を破壊したり、でたらめをしたりしないかぎり、突然、自分の好きなところに、好きなように、きたないぼろを着て現われようと、自分の責任で手に入れたのならば、どんな多量の純金を持って現われようと、だれもそれを|妨《さまた》げたり、ひきとめたりする権利はない。それが、英国市民の当然の権利なのだ。最後にぼくは、このことを、自分の自由のための私的なマグナカルタかなんかのように、なんどもくり返して、自分自身を納得させた。いちど、こういう考えが決まると、あとは、いままで考えてもみなかったようなことを、おなじように考えることができた。つまり、これは、ぼくが破産したときの状況とおなじだったのだ。いまの事情を、ゆっくりと、冷静に考えてみると、一時、ぼくが仮名を使い、二か月もそらないひげをそのままにして、ぼくの正体をかくしさえすれば、あの意地の悪い債権者たちからうける被害は、ほとんどなくなるにちがいない。それからあと、合理的な社会生活の一定の軌道にのるまでの間は、平凡な道を歩まねばならない。たしかに、そうできたらすばらしい。でも、ほかに何か手を打たなければならないことがあるのではないだろうか? なにをするにしても、ぼくは、世間なみのふつうの生活をつづけていこう、と決心した。
ぼくは、書くものを注文し、給仕が教えてくれたいちばん近い新ロムニー銀行に手紙を書き、支配人に、新しく口座を開きたいということと、自分の所有している数百ポンドの目方のある金ののべ棒を受けとりに、法律的に責任のもてる、信頼できる行員を二人、いい馬のついた馬車にのせてよこすように、といってやった。ぼくは、その書類に≪ウェルズ≫と署名した。この名前は、なにか非常に尊敬すべき名前のように思われたからだ。それがすむと、フォークストーンの人名録をとりよせ、一軒の洋服屋をえらんで、茶色のツィードの服を作りたいから寸法をとりに、裁断師をよこすように頼んだ。それといっしょに、旅行かばんやスーツ・ケース、茶色の靴、シャツ、それに合った帽子、といったようなものを注文し、また、時計屋に時計を注文した。そして、手紙をだしてしまうと、ぼくは、ホテルで最上等の昼食をとり、それから葉巻をすいながら、できるだけ静かに横になっていた。やがて、ぼくの注文どおりに、二人のしかるべき責任ある行員が、銀行からやってきた。そして、金ののべ棒の目方をはかって、もっていった。それからぼくは、ノックの音が聞こえないように掛けぶとんを耳までひっぱりあげ、いい気持ちで寝いってしまった。
ぼくは、ただただ眠りつづけた。これはたしかに、月世界からかえってきたばかりの男のすることとしては、散文的すぎるかもしれない。また、わかくて想像力に富んだ読者諸君は、こうしたぼくの行動に失望されるだろうということも想像にあまりある。だがぼくは、おそろしく疲れ、かつ、悩んでいたのだ。そして、ええ、ちくしょうめ! ほかになにをすることがあるというのだ。なにをいったって、信じてもらえるチャンスは、ほとんどないことはたしかだったし、一部しじゅうを話したとしても、耐えられないようなめいわくをこうむるだろうということもたしかだった。ぼくは、眠りつづけた。そして、最後に、目をさましたときには、自分がいままで何年間も勝手にしてきたように、世間に対してやっていこうという心がまえができていた。そうしてぼくは、このイタリアにきて、こうして、この物語を書いているのだ。世間が、この物語を事実として受けとらず、作り話として受けとったとしても、そんなことはぼくの知ったことではない。
そしていま、報告は終わったのだ。この冒険がどのようにして行なわれ、かつ、終わったかを思うと、ぼくは、いまさらのようにおどろくのだ。人々は、みんな、ケイヴァー氏は、リンプネで、自分のうちや、自分自身をふきとばしてしまったような、つまらない科学の実験家だと信じている。またぼくが、リトルストーンについたときに起こった大音響は、ここから二マイルほど離れたリッドにある、国立研究所で引きつづき行なわれている爆発実験に関係があると、解釈している。あの、マスター・トミー・シモンズという名前の少年の失踪に関して、自分にも責任があることを認めないできたということを、ぼくは、告白しなければならない。そのことを、証拠をあげて説明しつくすことは、おそらく、きわめてむずかしいことだろう。ぼくがぼろ服を着て、ほんものの金ののべ棒を二本もって、リトルストーンの海岸に現われたことも、世間の人々は、それぞれ適当にうまいこと解釈してくれている――人々が、ぼくのことを、どう考えようと、ぼくは少しも困らない。連中は、ぼくが、自分の富の源泉について、あまりせんさくされることをさけて、すべてを秘密にしているのだというだろう。まったく、このようにうまくできた話をでっちあげられる人がいたら、お目にかかりたいものだ。まさに、世間の人々は、作り話だとおもうにちがいない――だったら、それで結構だ。
これでぼくの話は終わった――これからは、また、わずらわしい地上の生活にもどらなければならないだろう。人間というものは、月世界にいたって、生きるためには働かなければならないのだ。だから、ぼくは、ここ、アマルフィーにきて、ケイヴァー氏が現われる前に、下書きしておいた戯曲にとりかかり、彼と出会う前のように、生活をたてなおそうと努力しているのだ。白状すると、ぼくは、窓に月の光がさしこんでくると、戯曲の仕事が手につかなくなるのだ。いまは、満月だ。ゆうべは、つる草におおわれたあずまやにでて、あの、多くのものを秘めて、夜空に輝いている月を、なん時間も眺めやっていた。
考えてもみたまえ! あの、金ずくめのテーブルや、いすや、足場や、カナテコなどを! ああ!――あのケイヴァーリットをもういちど作ることができさえしたらなあ!
だが、そんなことは、ぼくの一生のうちでは、二度と不可能なのだ。いまでは、ぼくは、リンプネにいたときよりも、いくらかはいい生活をしている。だが、それだけのことだ。ケイヴァー氏は、いままで人類がやってきたどんな方法よりも手のこんだ方法で、死をえらんだ。こうして、物語は、すべて夢のように終わったのだ。それは、地上の生活のあらゆるものと、ほとんど似ている点がなかったし、あらゆる人類の経験からまったくかけはなれていた。かるがると跳んだり、奇妙なものを食べたり、あの、無重力状態になったたびに呼吸困難におちいったことを、現に、この金ののべ棒があるにもかかわらず、いっさい、夢の中のできごとだったと信じるようになるときがくるかもしれない。
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二一 ヴェンディゲー氏のおどろくべき報告
ぼくは、リトルストーンで、地球にかえってきた報告書を書き終わり、≪おわり≫ということばを飾り文字で仕あげて、ペンをおいたとき、ぼくの『月世界旅行』の物語は、すべて語りつくされたものと信じていた。そうおもったばかりでなく、ぼくの原稿は、ある出版代理店の手をへて売りわたされ、その大部分が、ストランド・マガジンに掲載された。そして、また、以前、リンプネで書きはじめていた戯曲にとりかかろうとしたとき、物語は、まだ終わっていないことを知らされた。
いまから六週間ばかり前、イタリアのアマルフィーからアルジェにきたぼくを追いかけて、いまだかつて受けとったこともないような、おどろくべき報告がとどいた。てみじかにいうと、オランダの電気技師、ユリウス・ヴェンディゲー氏――氏は、アメリカの科学者テスラ氏と同じような装置を用いて、火星と通信するなんらかの方法を発見しようと実験をつづけているのだが――が、疑いもなく月世界にいるケイヴァー氏から発せられる奇妙なとぎれとぎれの英語のメッセージを、毎日受信している、という報告があったのだ。最初、ぼくは、ぼくの物語を読んだだれかが、念入りに仕組んだまことしやかないたずらだと思った。そこで、ぼくは、ふざけ半分に、ヴェンディゲー氏に返事を書いた。だが、彼の返事は、そんなかんぐりなどふっとんでしまうような、まじめな態度で書かれてあった。
ぼくは、ひどく興奮して、アルジェから、彼の働いているモンテ・ローザの小さな観測所へ急いだ。ぼくは、ヴェンディゲー氏の記録や装置――とりわけ、いまも聞こえてくるケイヴァー氏からの通信などを目の前にして、まだ残っていたぼくの疑いは、あとかたもなく消え失せた。ぼくは、すぐ、ここに滞在して毎日記録をつける手伝いをし、月に返信を送るために、自分といっしょに働いてくれという彼の申し出を承諾しようと決心した。
われわれの知り得たところによると、ケイヴァー氏は、生存しているばかりでなく、あの月の洞穴の青いうす暗闇の中で、あのアリのような動物、つまりアリ人間どもの、想像もできない社会のまん中で、自由を享受しているらしかった。彼は、びっこにはなったが、そのほかの点ではまったく健康のように思われた――彼がはっきりといってきたところによると、彼は、ふだん地球上で楽しんでいた以上の健康を保っているようだった。彼は、一時、熱病にかかったが、それはなんの悪い影響も残さずに治ってしまった。そして、当然ことだが、ぼくが、月の火口で死んでしまったか、この広い宇宙のどこかに、行方不明になってしまったという確信に苦しんでいたらしい。
ヴェンディゲー氏は、月からの最初の通信を受けとったとき、まったく違った研究に従事していた。むろん、読者諸君は、アメリカの有名な電気学者、ニコラ・テスラ氏が、今世紀のはじめに、火星からの通信を受けとったと発表したとき捲きおこった、あの、ちょっとした興奮を思いだされるにちがいない。
彼の発表は、あのマルコーニ氏が、彼の無線電信に使ったのとまったく同じ質の妨害電磁波が、どこか宇宙のかなたから地球に送られてきているという、つまり、科学者には、すでに、だいぶ前から知られている事実に、あらためて注意を喚起した。テスラ氏のほかにも、この周波を受信し記録するための装置を完成しようとしている何人かの学者がいるのだが、実際に地球外の発信者からきたと思われる通信を受けたものは、ごく少数であった。それは、少数ではあったが、ヴェンディゲー氏も、たしかに、その中の一人であった。
彼は、一八九八年以来ずっと、ほとんどまったく、この問題に専念していた。彼は、財産家であったから、このような観測にあらゆる点で適した場所であるこのモンテ・ローザの中腹に、観測所をたてたのだった。
ぼくの科学的知識がそう大したことはないことは認めなければならないが、ぼくに判断できるかぎりでは、ヴェンディゲー氏の宇宙における妨害電磁波を探知し記録するための発明は、きわめて独創的であり、かつ、精巧なものだった。いろいろな条件がうまく結びついて、その装置は、ケイヴァー氏がはじめて地球を呼びだそうとした約二か月前に組立てを完了し、操作が開始されていた。その結果、われわれは、ケイヴァー氏の通信の断片を、その始めから手にいれることさえできたのだ。
だが、残念なことに、それは、断片にすぎなかった。ケイヴァー氏が人類に告げなければならなかったすべての事柄のうち、もっとも重要なもの、彼の指示したかったこと、すなわち、ケイヴァーリットをつくる方法は、もし、事実、彼がそれを送信したとすれば、その電波は記録されずに宇宙に放散されてしまったことになる。われわれは、ケイヴァー氏に返事を送ることに、どうしても成功しなかった。だから、われわれが何を受信し、何を受信しそこなったか、また、地球上のだれかが地球に通信を送ろうとする彼の努力に実際気がついていたかどうか、彼は、いっさい、知らなかったはずだ。そして、彼が、月世界の地上についての十八もの長い記録――断片を整理するとそうなるのだが――を送ることに示した彼のがんばりは、彼が二年前に出発してからずっと彼の母なる星、地球にかえりたがっていた気持ちがどんなに強いものだったかを物語っている。
諸君は、ヴェンディゲー氏が、その妨害電磁波の記録の中に、ひたすらかえりたがっているケイヴァー氏の英語がまじっているのを発見したとき、どんなにおどろいたか、想像できるだろう。ヴェンディゲー氏は、われわれの無謀な月世界旅行のことなど、なにも知らなかったのだ。ところが突然、宇宙のかなたから、英語がきこえてきたのだ!
その通信が、どんな状況のもとで送られてくるかは、読者にもよく理解できるはずだ。おそらく、月の中のどこかで、ケイヴァー氏は、ときどきは、かなりの大きさの通信装置をつかうことができるらしい。彼は、たぶん、ないしょで、マルコーニ式の送信機を組み立てたのだろう。これを、彼は、不規則な間隔をおいてしか操作できないのだ。あるときはたった三十分、またあるときはつづけて三、四時間というぐあいに。
そのときには、彼は、月と地球の表面の相対的位置関係が絶えず変化しているという事実にはおかまいなしに、地球への通信を送っていたのだ。その結果として、また、われわれの記録装置のどうしようもない不完全から、彼の通信が、われわれの記録の中に、まったく気まぐれな状態ではいったりはいらなかったりした。また、不明りょうになったり、さらに、神秘的になったり、まったくいらいらするほどぼけて聞こえたりした。
そのうえ、ケイヴァー氏は、熟練した通信士ではなかった。彼は、符号のふつうの使い方の一部を忘れていたか、あるいは完全にマスターしたことがなかったのだろう。それで、疲れてくると、よくことばをおとしたり、へんなふうにつづりを間違えたりした。
だいたい、われわれは、たぶん、彼が送ってきた通信の半分は、完全に逃がしてしまっていたらしい。通信の大部分は、とぎれとぎれだったり、ところどころ消えたりしてだめになっていた。だから、読者諸君は、次に掲げる記録の|抜萃《ばっすい》にも、かなりの中断や落丁や話題の変化があることを覚悟してほしい。
ヴェンディゲー氏とぼくとは、協力して、ケイヴァー氏の記録の完全な注釈版を作った。
われわれは、それに使用した機械に関する細部にわたる報告書をつけて、来年の一月に、第一巻からはじめて出版したいと思っている。
それは、充実した、科学的な報告書になるだろう。この抜き書きは、その報告書の通俗的な最初の写しにすぎない。だが、それだけでも、少なくとも、ぼくがいままで書いてきた物語を完全にし、地球のすぐそばにあって親類のような、そのくせ地球とは似ても似つかぬ月の世界の、ざっとした輪かくをあきらかにするにはじゅうぶんなはずだ。
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二二 ケイヴァー氏からの最初の六つの通信
ケイヴァー氏の通信のうち、最初の二つは、分量が多すぎるので、保留したほうがいいかもしれない。
それらは、非常に簡潔に書かれていた。興味ある二、三の細かい点については、事実と相違するところもあったが、要するに、球体の製作と、地球からの出発に関する事実が述べてあるだけで、特に重要なことは、なにもなかった。
全体を通じて、ケイヴァー氏は、このぼくのことを、死んだものとして話していた。だが、話が月世界着陸のあたりに近づくにつれて、ケイヴァー氏の語調に奇妙な変化があらわれてくるのだ。
『気の毒なベッドフォード』
彼は、若いぼくを冒険に誘いだしたことに、自責の念を感じているらしい。
『この気の毒な青年は、このような冒険に対する準備が、全然できていなかった……』
冒険というのは、地球を飛びだすことだ。
『彼は、たしかに、成功する素質は持っていたようだ……』
そう、まさに、危険にさらされた大使命だった。
だが、彼は、ぼくの活動性と実際的能力が、はじめは、理論にすぎなかった球体を実現にまでもっていくのに果たした役割りというものを、低く評価しすぎている、と、ぼくは、思う。
『われわれは、到着した……』と、彼は、まるで、汽車旅行でもしてきたように書いているが、われわれが宇宙を飛んでいる間のことは、あまり考慮にいれていないようだ。
それから、彼は、だんだんと、ぼくに対して不公平になってくる。実際、真理探求の道をあゆんでいる人としては、夢にも考えられないほど不公平だった。ぼくは、自分が前に書いた報告書を読みかえしてみて、ケイヴァー氏がぼくに対するよりも、ぼくが彼に対するほうが、全体として、ずっと公平であることを主張せざるを得ない。ぼくは、ほとんど、情状酌量ということをしていないし、なにひとつ事実を隠しだてするようなことはしていない。
ところが、彼の話によると、こうなのだ。
『われわれの環境と周囲の状況の完全な異常さ――重力の激減、酸素は多く含んでいるが稀薄な空気、その結果からくる筋肉運動の過度の効果、奇妙な植物の小さな胞子からの急速な生長、青白く光る空――そういったものが、わたしの連れを過度に興奮させた、ということが、急速に明らかになった。月世界にきて、彼の性格は、悪化したようにみえた。彼は、衝動的になり、粗暴になり、戦闘的になった。しばらくの後、彼は、巨大なキノコのごとき植物をむさぼり食い、その結果として酩酊状態におちいるという愚行を犯し、われわれは、月人どもに捕えられることになった――そのために、われわれは、彼らのやり方を充分に観察する機会を持つ余裕が、ほとんどなかった……』
(ごらんのとおり、彼は、自分もこの≪キノコ≫の誘惑に負けたことを、ひとことも述べていないのだ)
彼は、こういう見地から、なおも、つづけていく。
『われわれは、月人どもに伴われて困難な通路へときた。ところが、ベッドフォードは、彼らのある身振りを誤解して……』
いやはや、けっこうな身振りだった!
『暴力を行使して、大混乱を招いた。彼は、荒れ狂って走りまわり、三人を殺した。その暴行のあとでは、やむを得ず、わたしも、彼といっしょに逃げなければならなかった。次に、われわれは、道をさえぎろうとした多数の月人どもと戦い、さらに、七、八名を倒した。後でわたしが再び捕われた時、その場で殺されなかったのは、ひとえに、彼らの寛大さによるものといえよう。
われわれは、地表へ出て、われわれの到着した火口の中に置きざりにされている球体を発見する機会は増えた。しかし、すぐに、わたしは、二人の月人が仲間の死体を運んでくるのにぶつかってしまった。この二人は、ほかの月人とは、妙に違っていた。形も、今までに見たどの月人とも違って、頭は大きく、体は小さく、着ているものも上等だった。わたしは、しばらく、彼らを避けていたが、地面の裂け目に落ちて、かなりひどく頭を切り、膝小僧を痛めてしまった。這って歩くことさえ苦痛になったので、もし彼らが降服することを許してくれるなら、そうしようと、決心した。彼らは、わたしの降服を許し、わたしのあわれな状態を見ると、ふたたび、わたしを、月の内部へ運び込んだ。そして、ベッドフォードに関しては、この後、わたしは、何事も見聞しない。わたしの収集した情報では、彼のことを見聞した月人も一人もいない。恐らく、夜が来て、彼は火口の内で死んでしまったか、それとも、球体を発見して、わたしを出し抜こうとしてそれに乗って行ってしまったのではなかろうか。ただ、わたしが恐れるのは、彼が球体を操縦できないということだ。その結果、彼は、いまもなお、宇宙を放浪する運命に陥っているのではないだろうか、ということだ』
さて、ここで、ケイヴァー氏は、ぼくのことについて述べるのをやめて、もっと興味のある話題にうつった。ぼくは、自分が彼の記録の編集者であるという地位を利用して、自分の利益になるように彼の物語を歪曲したと思われたくない。だが、彼がこの出来事を述べるときのいい回しに対しては、ここで抗議しておかざるを得ない。彼は、あの血のついた紙に書かれた息も絶えだえな伝言については、何もいっていない。そのなかで、彼がいっていた、あるいは、いおうとしていたことは、全然違う話だったのだ。彼が通信の中でいっている、あの威風堂々とした自発的な降服ぶりは、月世界の人々の中で身の安全を感じはじめてから、あらためて生まれてきた、まったく新しい考え方だ、といいたい。それからさらに、≪出し抜く≫ということばについては、彼がなにを根拠にそう思ったのか、ぼくと彼とどちらが正しいか、読者諸君に決めていただきたいものだ。ぼくは、自分が、聖人君子でないことぐらいは知っている――聖人君子だとみせかけようともしなかった。それでも、ぼくは、出し抜いたことになるのだろうか?
けれども、ぼくにも悪いところがあったのかも知れない。これからは、そんなことを気にしないでケイヴァー氏の記録を編集できるのだ。このあとには、もう、ぼくのことはでてこないのだから。
ケイヴァー氏の出会った月人たちは、≪大きなたて坑≫を、彼のいわゆる≪気球の一種≫にのって、彼を、月の内部のどこかに運びおろしたらしい。このことを説明しているかなり混乱したケイヴァー氏のいいかたと、それにつづくほかの通信になんどもあらわれた暗示から考えると、この≪大きなたて坑≫は、月の≪噴火口≫とよばれるところのひとつひとつから一〇〇マイルちかくも下にある、月の中央部につながる人工的なたて坑の巨大な組織の一部だということがわかる。これらのたて坑は、横にはしるトンネルによって連絡され、さらに、底知れぬ洞穴の枝をだし、ひろがって、大きな球形の広場につながっている。つまり、月という物質全体が、地表から約一〇〇マイルぐらい内部まで、岩でできた海綿のようになっているというのだ。『部分的には』と、ケイヴァー氏は、いっている。
『この岩の海綿体は、天然のものである。しかしながら、そのほとんどが、過去における月人達の大工事によるものである。そして、その時掘り出された岩や土が、トンネルのまわりに積まれて、大きな円形の堆積をつくり、それが、地球の天文学者達に、間違って類推されて、月の火山と呼ばれているのである』
彼は、このたて坑を、彼のいわゆる、『気球の一種』にのってつれおろされ、まず最初に、インクのような暗黒のなかにつれこまれ、それから燐光のような光が絶えずふえつづけている場所にでた。
ケイヴァー氏のたよりは、科学者のくせに、細部についてはふしぎなほどの無関心さを示していた。だが、われわれは、この光を、れいの青く光る水の流れと滝によるものだ、と判断した。その液体は、『疑いもなく、ある燐光を発する有機体を含んでいた』――そして、下のほうへいくにつれてますます豊かになり、月の中央の海にむかって流れつづけていた。
さらに下のほうへおりていくと、彼の言によれば『月人どもも、また、光を発するようになった』のである。
そして、ついに、はるか下のほうに、海の水が、まるで、熱のない火の湖のように、『青白く光るミルクが、まさに|沸騰《ふっとう》せんとする』直前のように、異常にみだれ動きながら、輝き、渦をまくのを見た、というのだ。
『この月の海は』と、ケイヴァー氏は、つづけている。
『不動の大洋ではなく、太陽の引力による潮流となって、常に、月の軸のまわりに、異常な暴風と波浪と奔流とを捲き起こしている。そして時折、冷たい風が、雷鳴を伴って、巨大なアリ塚のような地下の迷路を吹き上げてくる。この海が光を発するのは、水の動いている時だけで、ごくまれだが、海の静かな時期には、真っ暗である。通常は、海は油のようにうねって波立ち、微かに光るゆるやかな潮流とともに、大小の光が泡のように点滅しながら流れていくのが見える。月人は、その海の洞窟のような海峡や岩礁水域を、底の浅いカヌーのような形をした小舟に乗って航行している。わたしは、月の支配者たるグランド・ルナーの宮廷まで、ちょっとした海上旅行を許されたのだった。
洞穴や水路はひどく曲りくねっている。水路の大部分は、漁師の中でも老練の水先案内しか知らないのだ。そして、この迷路の中で、月人達が永遠に行方不明となることも稀ではない。わたしの聞いた話では、このずっと奥のほうには、珍しい動物が隠れ棲んでいて、そのあるものは極めて恐ろしく、かつ危険なので、月世界の科学を総動員しても根絶することは不可能だそうだ。ことに、ラファーという動物がいて、ものを掴む触手がからみ合って塊を作り、いくら切断しても増える一方だという話である。ツィーという動物は、まだ誰も見たこともないが、一種の跳ぶ動物で、極めて上手に、そして、不意に人を襲って殺す……』
ここで、ケイヴァー氏は、ちょっとしたヒントを与えた。
『わたしは、この海上旅行の途中で、かつて読んだことのあるマンモスの洞穴のことを思い出した。もし、この、周囲を照らしている青い光の代わりに、黄色い松明を持ち、そして、カヌーの後ろのほうでエンジンを操作している奇妙なヘルメットをかぶった月人の代わりに、頑丈な船頭がオールを操っているとしたら、わたしは、突然、地球に戻ったような錯覚を起こしたであろう。周りの岩石は、変化に富んでいて、ある時は黒く、ある時は青白く、何かの鉱脈が走っていて、ひとたびそれが光り輝くと、あたかもサファイヤの鉱山に来たかのようであった。また、目の下では、かすかに燐光をはなつ魚が、同じように燐光の散っている海の底で、キラリと光って消えて行くのが見えた。しばらくして、錯綜した運河の一つを下って行くと、突然、紺青色の風景が開け、船着場が見えてきた。そして、その活気に溢れた巨大なたて坑を見上げると、そこにも、一本の垂直な道がついていた。
ギラギラと輝く鍾乳石が重そうに垂れ下がっている広い港に、たくさんの小舟が錨をおろしていた。われわれは、それらの舟にそって進んだ。長い腕を持った月人の漁師たちが、網を巻き揚げているのが見えた。漁師たちは、小さくて背中が曲って昆虫のような形をしていたが、強い腕と、短い|紐《ひも》のような脚を持ち、皺だらけの顔をしていた。彼らが引き揚げるのを見ていると、その網は、月の世界でわたしが見たもののうちで、一番重いように思われた。それには|錘《おも》り――疑いもなく金でできていた――がついていて、引き揚げるには相当な時間がかかった。この月の海では、大きくて食用に適した魚類は深海に棲んでいるからであろう。
網にかかった魚が、上がって来る様子は、青い月が昇るように見えた――それは、青い光のように、跳びはねていた……』
『彼らの獲物の中には、たくさんの触手を持った恐ろしい目をした黒い生き物が一匹、兇暴にあばれていた。それを見ると、漁師たちは、悲鳴をあげ、大騒ぎをして、急いでそれをズタズタに切ってしまった。ところが、その生き物の触手はバラバラになっても、なお、いやらしく鞭打つように暴れたり、からみ合ったりしていた。後になって、わたしが熱病に罹った時、その、我慢のならないほど狂暴な生き物が、暴れまわりながら、見たこともない海から上がって来る夢に、たびたび悩まされた。それは、わたしが、月の内部のこの世界で見た生き物の中で、最も荒々しく有害なしろものだった……』
『この海の表面は、月の表面から少なくとも二〇〇マイル近く下にあるらしい。わたしの知ったところでは、月世界の都会は、すべて、この月の底の海に接してひらけていた。それらの都会は、わたしが今までに述べたように、洞穴のような広場と人工でできた回廊の中にあり、それぞれ、地球の天文学者によって、月の噴火口と呼ばれているところに向かってひらいている巨大なたて坑によって、月面と連絡していた。このたて坑の一つを隠していた蓋を、わたしは、月人どもに捕まる前、月面をさまよっていた時に、見たことがあったのである』
『月世界の中央部に近づかないうちは、わたしは、まだ、正確な知識を得ていなかった。月面に近いところには、夜の間、月牛が隠れている大きな洞穴がある。そこには、屠殺場や、それに類した場所――その一つで、わたしとベッドフォードが月人の肉屋たちと戦ったのであるが――があって、わたしが、それを知ったのは、月牛の肉をのせた気球が、上のほうの暗闇から降りて来るのを見たからであった。けれども、わたしが、これらのことをいくらたくさん知ったからといって、それは、ロンドンに来たアフリカのズールー族が大英帝国の小麦の全供給量について知ったと思いこむのと、ほとんど違いはないのである。これらの垂直なたて坑と、月面の植物とが、月の空気の通風と換気に主要な役割りを演じているに違いないということは明らかだった。一時は、ことに、わたしが牢屋から出された時には、確かに、冷たい風がたて坑を吹きおろしていた。それが、あとになると、わたしの熱病に関係のあるシロッコのような熱風が、吹きあげてきたのだ。
三週間目の終わりごろ、突然、わたしは、わけのわからない熱病に罹った。いくら眠っても、また、運良くポケットの中に持っていたキニーネの錠剤を飲んでも、病気は治らず、惨めにやせこけてしまい、それは、ほとんど、わたしが、月の支配者である、グランド・ルナーの宮殿に連れて行かれるまでつづいた』
『わたしは、自分の惨めな状態を誇張するつもりはない』と、彼は、述べている。にもかかわらず、彼は、細部にわたって多くを語っているが、ここでは省略しておこう。
彼はつづけている。
『病気中、わたしの体温は、長い間、異常に高く、食欲はまったくなかった。眠れない時間がつづき、眠ったかと思うと夢に悩まされた。一時は、ホーム・シックに罹り、ほとんどヒステリックな状態になるほど衰弱したことを覚えている。
わたしは、この永遠につづく青い色の単調さを破る何か別な色が欲しくて、たまらなかったのである……』
ここで、彼は、ふたたび、スポンジのような穴にはいっている月の大気に、話題をもどしている。天文学者たちや物理学者たちは、ケイヴァー氏のいったことは、すべて、月の状態についていままでに知られていることと完全に合致していると、ぼくに語った。
ヴェンディゲー氏のいうところによると、地球の天文学者たちに、もっと大胆な推論をおしすすめるだけの勇気と想像力があったとしたら、ケイヴァー氏が、月の一般的構造についてのべたようなことは、すべて、予言していただろう、とのことだ。
いまや、科学者たちは、月と地球とが、単なる衛星ではなく、もともと、ひとつの塊りから出た、その結果、同一の物質からできた大小の兄弟星であることを、かなりはっきりと知ったはずだ。そして、月の密度は、地球の五分の三しかないのだから、月は、洞穴の大組織によって穴だらけになっているとしか、考えようがないのだ。星についての、面白い、こっけいな説明者である、国立科学協会会員のジェイビズ・フラップ卿は、こんなやさしい推論をみつけだすために、わざわざ月にまででかけてゆく必要はないと、おっしゃった。そして、グリュイェールのチーズにひっかけたしゃれをいっている。しかし、それならば、月が穴だらけであるということについての知識を、もっと前から発表していてもよさそうなものだ。
もし、月が穴だらけだとすれば、月には空気も水もないというあきらかな事実は、もちろん、ごく容易に説明できる。海は、洞穴の底にあり、空気は、簡単な物理学的法則にしたがって、巨大な海綿のような回廊を通って動いているのだ。月世界の洞穴は、全体として、非常に風通しがよかった。太陽の光がさしてくると、その側の表面に近い回廊の空気は、熱せられて圧力を増し、その一部は、外部に流れだして、火口のなかの蒸発した空気とまざりあう。そして、その火口の中では、植物が、その炭酸ガスをとりのぞいてくれる。その間に、一方、残った大部分の熱せられた空気は、回廊をめぐって流れ、日光のあたらないつめたい側の収縮した空気といれかわるのだ。
その結果、表面に近い回廊では、風は絶えず東にむかって吹き、また、昼の間は、たて坑の中を空気が上にむかって流れるのだが、それは、もちろん、いろいろな回廊の形や、巧妙に工夫する月人の知恵によって、複雑な動きを示していた……。
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二三 月人たちとその生活
ケイヴァー氏の第六回目から第十六回目までの通信は、その大部分が、ひどく断片的で、重複が多いため、ほとんど、首尾一貫した話になっていない。もちろん、学術報告書のなかには、ぜんぶ掲載してある。しかし、ここでは、前の章とおなじように、ただ、抜粋と引用だけにとどめておいたほうがよさそうだ。
われわれは、彼のひとことひとことを、すべて、するどく批判的にしらべあげた。そして、月世界のできごとについてのぼくのちょっとした記憶や印象が、ぼくがいなかったら永遠にわからないはずのことがらを解釈するのに、はかりしれないほど役にたった。
そして、われわれも、また、生きものであるから、月世界の物理的状態よりは、ケイヴァー氏が立派な賓客として遇されている月人の社会、その昆虫の社会のような月世界の生活に関心が集中しがちなのは、当然のことだ。
ぼくは、すでに、月人が直立し四本の手足を持っているという点で人間に似ていること、また、頭の一般的な形や手足の関節のようすなどでは、昆虫に似ていること、などをあきらかにしたと思う。さらにまた、月の引力がきわめて弱いために、彼らの体がちょっとした打撃にもすぐくだけてしまうということにも言及したはずだ。ケイヴァー氏も、これらの点をすべてみとめている。彼は、月人を『動物』と呼んでいた。だが、もちろん、月人は、地球の動物のどの部類わけにも属するものではない。そして、彼は、『人間にとって幸いなことに、地球上では、昆虫のような構造をもった動物は、人間に比べて非常に小さくて大きくならなかった』ということを、指摘している。
実際問題として、地球上で生きている、あるいは、消滅した昆虫類のうちで、最大のものでも、長さ六インチに達するものはない。『しかし、月世界では、引力が弱いために、生物は、昆虫も脊椎動物も、人間ぐらいの大きさや人間よりはるかに大きくなることが可能なのだと思われる』
彼は、アリのことはいわなかったが、ぼくは、彼の通信を読んでいる間、絶えず、心のなかでアリを思いだしていた。不眠不休で働く点で、知能や社会組織の点で、特に、ほとんどほかのすべての動物によってつくりだされている男女両性の二つの形態のほかに、さまざまの種類の中性があるという事実において、月人はアリによく似ている。アリには、働きアリや、兵士アリや、その他の種類があって、互いに、構造や性格や能力や役割りが違っているが、すべて同じ種に属しているのだ。
そして、もちろん、月人たちは、あのように広く繁栄できる適応性をもっているという、ただ、それだけの理由で、アリとは比べものにならないくらい大きい。アリには、四、五種類の異なった形態しかないけれども、月人のほうには、無数の異なった形態がある。ぼくは、月面の火口のなかで、たまたま、そういった月人たちにであったときには、いつも、そのいちじるしい違いを指摘しようとつとめてきた。その大きさや、色や、形の違いは、もっともかけはなれた人種間の違いとほとんどおなじくらい大きかった。しかし、ぼくが見たような違いは、ケイヴァー氏の語っている違いとは、まったく比較にならないくらい小さなものだった。実際、ぼくが見たような月面に近いところに住んでいた月人たちは――月牛を飼う連中、屠殺人、肉屋など、大部分、おなじ種類で、おなじ職業に従事するもののように思われた。だが、月の内部では、実際、ぼくにも疑う理由はないのだが、たくさんの違った種類の月人がいるらしい。月の世界は、まさに、一種の巨大なアリ塚であった。働きアリ、兵士アリ、羽のある雄アリ、女王アリ、奴隷アリ、というアリの世界の五種類のアリの代わりに、月の世界には数百のかわった形態があるばかりでなく、そのおのおののなかにも、お互いに関係がありながら、こまかい段階があるのだった。そして、これらの月人たちは、単にアリに比べてすばらしく優れているばかりでなく、ケイヴァー氏のいうところによると、知能や道徳や、社会的訓練において、人間よりもはるかに高等だというのだった。
ケイヴァー氏は、ぼくとわかれると、すぐ、発見されてしまったらしい。ぼくが、彼の報告から知ったというよりも、推論したところによると、彼は、『大きな脳みその容れもの(頭のことか?)を持った脚のひどく短い』月人に指揮をされた牛飼いの月人たちに捕えられたようだ。彼が、金の棒でおどかされても歩こうとしないのをみると、彼らは、ケイヴァー氏を暗闇のなかに運びこみ、ぼくが渡るのを拒絶したのとおなじらしい、せまい板のような橋を渡らせ、はじめは、ある種のエレベーターのように見えたもののなかにおろした。それが、れいの気球だったのだ――暗闇のなかでは、まったく見えなかったのだが――。そして、ぼくに、暗黒にむかってかけられた板の橋だとしか思われなかったものは、疑いもなく、気球にはいる渡し板だったのだ。この気球にのって彼は、月の下層の、だんだんと明るくなるほうへと、降りていった。はじめのうちは、月人たちがささやきかわす声のほかには、何のもの音もしなかった。だが、やがて、彼らは、風のように身軽に動きはじめた。わずかのあいだに、彼の目は、暗闇になれて鋭敏になったので、あたりのものがだんだんとはっきり見えはじめ、ぼんやりしていたものが、しまいには、はっきりと形が見えるようになった。
『直径二十五マイルもある、巨大な円筒形の空間を想像してみたまえ』ケイヴァー氏は、彼の第七回目の通信のなかで、こういっている。
『最初は、ごくかすかに明るかったのに、次第に、その明るさが増してきた。大きなプラットフォームが、円筒の内側をらせん状に回りながらくだっていて、ずっと下のほうは、青い深みに消えていた。そして、光は、ますますその強さを増してくるばかりだった――どんなふうに、また、なぜそうなるのかは、わからなかったのだが。
いままでに諸君が見おろしたことのある、いちばん大きならせん状の階段か、エレベーターの、井戸のような穴のことを考えて、それを百倍にしてみたまえ。また、それを、たそがれどき、青いガラスごしにみえるところを想像してみたまえ。そして、その穴をみおろしても、ぜんぜん平気で、地球上で感じられる目のくらむような感じが少しもないのだということを想像してみたまえ――そうすれば、わたしの印象が最初どんなだったかおわかりいただけるだろう。
この巨大なたて坑の周りに、地球では考えられないほどの急勾配で走っている広い回廊があり、深い淵に落ちないためにはほんの小さな手すりがあるだけの急な道路になって、二マイルもつづいていて、そのずっと先のほうは見えなくなっている、という情景を想像してくれたまえ……』
『上を見ると、それは、下を見たときとまったく同じだった。非常に急な円錐形の中から見上げているような感じがした。風は、たて坑の上から吹き降ろしていた。はるか上のほうでは、月面で夕食の牧草を食べ終えて、また追い込まれてくる月牛の鳴き声がだんだんと微かになってゆくような気がした。らせん状の回廊を、かすかに青白い光を発する昆虫のような月人たちが、無数に散らばって昇り降りしながら、われわれのことを見守ったり、何かわれわれには解らない仕事に忙しい様子だった……』
『一瞬、氷のような風に乗って、雪の一片が、目の前を素早く落ちて行ったような気がしたが、錯覚だったかも知れない。ところが、しばらくすると、一片の雪のように落ちていったものは、小さな虫けらのような月人が、パラシュートにつかまって、月の中心部に向かって非常な速さで降りて行くのだ、ということがわかった……』
『わたしの側に坐っていた頭の大きな月人は、ぼくが、何かに気がついたように頭を動かしたのを見ると、はるか下のほうに見えてきた桟橋のような空間にかかっている小さな着陸場をそのゾウの鼻のような例の手で、指さして見せた。着陸場がみるみる近づくと、気球の速度は急に落ちて、数秒のうちに、それに接して止まった。気球は、繋留所に綱でつなぎとめられ、わたしは月人たちのむらがっている平らな場所に引き出された。奴らは、わたしを見ようとして、押し合いへし合いしていた……』
『それは、信じられぬほどの群集だった。突然、|否応《いやおう》なしに、わたしの注意は、この月世界の連中のなかに、それぞれ大変な相違があるということに向けられた……』
『実際、その押し合いへし合いしているすべての連中のなかに、二つと同じものはあるまいと思われるほどだった。連中は、形も大きさも、それぞれ、違っていた。ふくらんだ形をしたのや、尖った形をしたもの、また、あるものは、仲間の足もとをかけ廻り、さらに、また、あるものは、ヘビのようにもつれたり、とぐろを巻いたりしていた。連中は、すべて、人間を愚弄するために考え出された昆虫を思い出させるほどグロテスクで、わたしの心を落ち着かせなかった。それは、すべて、何か特別な形を、信じ難いほど誇張したもののように思われた。ある者は、いわば、巨大なアンテナのように発達した大きな右腕を持っていたかと思うと、また、あるものは、脚ばかりで、竹馬の上でつり合いをとっているように歩いていた。別の奴は、鋭く、思索的な目のわきに、巨大な鼻のような器官をつき出していて、彼の無表情な口もとを見るまでは、おどろくほど、人間に似ているように思われた。諸君は、伊勢えびのはさみで作られたこっけいな人形を見たことがおありだろう。この月人は、その人形によく似ていた。
奇妙な、そして、あごの骨と触角がないほかは、最も昆虫に似ている月の牛飼いたちの指揮者にいたっては、驚くほど、顔の形が変わっていた。横広がりだったり、縦に細長かったり、あるいは、のっぺりした額から角が突き出して、妙な格好をしていたり、二つに分れたひげが生えていたりしているかと思うと、また、グロテスクなほど人間に似た横顔を持っていたのもいる。何人かの脳みその容れ物は、巨大な袋のようにふくらんでいた。彼らの目も、また、おかしなほど変化に富んでいた。あるものの目はゾウのように細く、きょろきょろ動いていたが、また、あるものは、真っ暗な大きな穴のような目をしていた。また、頭は、顕微鏡で見なければ解らないほど小さくて、アミーバーのような体を持った、奇妙きてれつな形のものもいた。ただの広がりとしか思えないような、この世のものとも思えない、うすっぺらな奴が、白いふちどりのある目をぎょろぎょろと光らせていた。そして、とりわけ奇妙だったことは、太陽や雨から何百マイルの厚さの岩で守られている世界、この地下の世界のおかしな住人の中に、その触手のような手にこうもり傘を持っているものが二、三人いたことである!――それは、事実、地球でよく見かける、あのこうもり傘にそっくりなのである! やがて、わたしは、あのパラシュートのことを思い出した……』
『これらの地底に住む月人たちは、まさに、地球の群集が、同じ環境におかれた時のように行動していた。押し合いへし合い、他人を押しのけ、わたしを一目でも見ようと、他人の上によじ登ったりするものさえいた。彼らの数は刻々と増え、わたしの案内係りが作っている輪のところまで、押し寄せて来た……』
だが、ケイヴァー氏は、つぎのことばがなにを意味しているのか説明していない。
『次々と、新しい形をした月人が押しかけて来るので、わたしは、気も転倒してしまった。すると、すぐに、彼らは、わたしをうながして担架のようなものに乗せ、強い腕をした運搬人の肩にかつがせて、この月の世界で特にわたしのために用意されたアパートに向かって、沸きかえる群集の上を運んで行った。その騒ぎは悪夢のようで、わたしの周りには、さまざまな目や、顔や、仮面や、触手や、カブト虫が羽をこするようなキュウキュウいう音や、泣き叫ぶような、また、ベチャベチャおしゃべりするような月人たちの声があふれていた……』
われわれの推理によると、ケイヴァー氏は、『六角形のアパート』に運びこまれ、しばらくそこに監禁されていたらしい。だが、あとになると、彼は、ずっと多くの自由を与えられていたらしい。それは、じっさい、地球上の文明都市で享受されるのとほとんどおなじくらいの自由だったらしい。そして、月世界の統率者であり支配者である神秘的な存在者が、二人の、『大きな頭を持った』月人を指名して、彼を保護し、彼を研究させ、彼との何らかの精神的交流ができるようにさせようとした。まったく意外な信じられないことのようだが、これらの二人の生きもの、これらのふしぎな昆虫人間、これらの月世界の生きものたちは、たちまちのうちに、ケイヴァー氏と、地球のことばで話しあえるようになったというのだった。
ケイヴァー氏は、彼らのひとりを『フィウー』、もうひとりを『チパフ』と呼んでいる。彼の言によると、フィウーは、身長が五フィートほどで、長さ十八インチほどの短く細い脚をもち、月人に共通した形である小さな足をしていた。
この脚のうえに、小さな胴体がのっていて、心臓の鼓動につれて脈うっていた。彼の長くやわらかく、関節のたくさんある腕の先は、触手のようなこぶしになっていて、彼のくびはほかの月人たちとおなじように、たくさんの関節で頭とつながっていたが、ほかの月人たちとは違って、特に短く、ふとかった。
『彼の頭は……』と、ケイヴァー氏はつづける――彼は、あきらかに、前に述べたなにかについていおうとしているのだが、その報告は、空間に消えうせてしまって記録されていない。
『ふつうの月人のタイプなのだが、その造作は、奇妙だった。口はふつうの月人と同じように、無情に開いてはいるが、違っている点は、小さくて垂れ下がっていることである。仮面をつけた部分は、小さくなっていて、せいぜい平べったく開いた鼻くらいの大きさしかなかった。顔の両側に、小さなニワトリのような目がついている。頭の残りの部分は、大きな球のようにふくらんでいて、カニの殻のようなキチン質の表皮は、月の牛飼いたちの皮膚とは違って、うすい、ただの膜になっていた。その膜を透して、脳髄の脈動がはっきり見える。まさに、彼は、脳髄が異常に肥大した生物であり、ほかの器官は、それに比べると、どう見ても、ひどく小さかった……』
ケイヴァー氏は、フィウーのうしろ姿を、地球をささえている巨人アトラスになぞらえている。チパフも、昆虫に似ているという点ではフィウーとおなじだったらしいが、その『顔面』は、かなり長く張りだしていて、脳髄も、フィウーとはちがった部分が肥大していて、頭の形は、まんまるではなく、さかさに置いた梨のようだったということだ。
また、ケイヴァー氏の従者としては、担架の運搬人や、大きな肩の片一方がさがった荷物はこびや、クモによく似た案内人や、ひとりだけ、しゃがんで足の世話をする月人がいた。
フィウーとチパフがことばの問題にとりくんだ態度は、実にりっぱだった。ケイヴァー氏の檻禁されている『六角形の部屋』にくるやいなや、ふたりは、ケイヴァー氏の発する音を、まず|咳《せき》ばらいからはじめて、つぎつぎと、まねはじめたのだった。
ケイヴァー氏も、彼らの意図をすぐ把握したらしい。そして、彼らにむかってなんどもおなじことばをくりかえし、それから、実物をさし示して教えるようにしたのだ。その手順は、おそらく、いつもおなじだったようだ。フィウーが、まず、ケイヴァー氏に注意をむけ、それから、いま、ケイヴァー氏が指さしたものを指さし、いま聞いたことばをいうのだ。
彼がさいしょにマスターしたことばは、『マン《ひと》』で、次は、『ムーニー(月の人)』であった――ケイヴァー氏は、ときのはずみで、月世界の種族を『シレナイト(月人)』と、呼ぶかわりに、このことばをつかってしまったらしい。フィウーは、ひとつのことばの意味を理解すると、すぐ、チパフにくりかえして聞かせる。すると、チパフは、そのことばを間違いなくおぼえて決して忘れないのだ。こうして、彼らは、最初の勉強で、百以上の英語の名詞をおぼえてしまった。
のちになると、彼らは、スケッチと図解をつかって、説明に役だたせようとして、ひとりの美術家をつれてきたらしい。ケイヴァー氏は、絵がとてもにが手だったので、こういっている。
『彼は、よく動く腕と、注意深い目を持っていた』
その美術家は、信じられぬほどはやく、絵をかいたらしい。
第十一回目の通信は、たしかに、もっと長い報道の断片にすぎない。とぎれとぎれの文章と、わけのわからない記録につづいて、つぎのようにしるされている。
『もっとも、これは、言語学者だけが興味を持つことだろう。そして、こういったことが始められた熱心な打ち合わせのいきさつを、詳細に述べたてる余裕はない。また、事実、われわれが相互理解を求めておこなった紆余曲折を少しでも順序だてて話すことができるかどうかは、まことに疑わしいと思われる。動詞も、少なくとも、それが絵で説明できるような能動態の動詞ならば、すらすらと進んだ。いくつかの形容詞は、容易であったが、抽象名詞や、前置詞、さらにまた、地球でよく用いられる慣用句までくると、手も足も出なかった。
実際、この困難は、六回目のレッスンに、四人目の助手が来るまでは克服されなかった。
この助手は、大きな、フットボールのような頭を持っていて、一見して、むずかしい推理を解決することが、彼の特殊な才能のように思われた。彼は、何か思索にふけっているような様子ではいってくると、椅子にうずくまった。そして、むずかしい問題が起きると、すぐ、彼に示された。そして、その問題を彼が理解するまで、しばらくの間、さわいだり、たたいたり、つっついたりするのだった。しかし、一度、彼が、本気になると、その洞察力は、驚くべきものであった。問題が、どうしても、フィウーの考えうる範囲を超えると、いつも、このさいづち頭の月人にたずねることになるのだった。しかし、その月人は、問題の解答をフィウーにではなく、それを記憶させるために、チパフに告げるのが常だった。チパフは、常に、知識の貯蔵庫であった。こういう風にして、われわれは、さらに、勉強をつづけた……』
『わたしが、この月人たちと、実際に会話が交せるようになるまでには、長いようで短い――ほぼ数日の時間がかかった。始めは、どうしようもないほど退屈でいらいらしたが、知らず知らずの間に、理解は深まっていった。
そして、わたしの忍耐力は、その限界に達していた。しゃべるのは、いつも、フィウーだった。フィウーは、しゃべるときに、≪ムー、ムー(うーん、うーん)≫という唸り声を連発した。そして、彼は、≪いうならば≫と、≪いいですか≫のふたつのことばを覚えて、話すときには、いつも、それを使った……』
『一例をあげると、フィウーは、こういう風に話すのだ。彼が、その美術家のことを説明しているところを想像したまえ。≪うーん……うん……彼は……いうならば……描く。すこし、食べる……すこし、飲む……描く。描く、好き。ほかのこと、だめ。彼のように描かないひと、みんな、きらい。怒る。彼のように、もっとよく、描くひと、みんな、きらい。たいていのひと、きらい。世界中、描くためにあると思わないひと、みんな、きらい。怒る。うーん。ほかのこと、みんな、つまらない……彼には、描くことだけ。彼は、あなた、好き……いいですか……珍しいもの、描く。こわいもの……目立つもの。ね?≫……』
『フィウーは、チパフのことも、こういっている。≪彼は……ことば、覚えるの、好き。誰よりも、おどろくほど、たくさん、覚える。考えない。描かない……覚えるだけ……≫ここで、彼は、自分の天才的な助手に関して、特別な単語を使っている。≪歴史を、いう……みんな、いう。彼は、いちど、聞く……いつでも、いう≫……』
『この異常な生きものの話を聞くことは、彼らと仲好くなったあとでさえ、その外見からくる非人間的な印象を少しも弱めてくれないのだ。絶えず、ヒューヒューいいながら、ちゃんとした地球の言葉に近づき、質問をしたり、答えたりする彼らの声を聞いていると、わたしは、この上もなく不思議な夢をみているような気がする。わたしは、アリとバッタが喧嘩して、ハチがそれを仲裁したという、おとぎ話を聞いた幼年時代に戻ったような感じがする……』
こうして、語学の練習がつづけられているあいだに、ケイヴァー氏は、その檻禁状態から、かなり解放されたらしい。ぼくとケイヴァー氏が、運わるくひき起こしたあの恐怖と不信は、彼によれば、
『わたしのすべての行動が、思慮があり、かつ理性的であったことによって、次第にうすれていった……』と、いうことになる。
『今では、わたしは、部屋の出入りも自由である。わたしの行動が制限されているとすれば、それは、ただ、わたしの安全を計るためにそうされているにすぎないのだ。それで、わたしは、こうして、この通信装置をみつけることができた、というわけなのである。わたしは、運よく、この大きな倉庫に散らばっているもののなかから、これを発見し、この通信が送られるように、工夫したのだった。わたしは、地球に通信していることを、フィウーに打ちあけたが、彼らが、わたしの通信の邪魔をしようとする様子は、少しもない。
≪あなた、ほかのひとに、話す?≫
彼は、わたしをみつめて、たずねた。
≪ほかのひとたちに、です≫と、わたしは、答えた。
≪ほかのひとたちに? ああ、なるほど、地球の人間に、ですか?≫と、彼は、いった。
こうして、わたしは、今も相変わらず、送信をつづけているのである……』
ケイヴァー氏は、新しい事実が、あらわれるたびに、月人に関する前の報告書を絶えず訂正し、その結論を変更した。したがって、つぎに引用する報告も、あるていど、改訂されることがあるかもしれない。これは、第九回、第十三回、第十六回目の通信から引用され、どれも、あいまいな断片ばかりだが、人類が、現在、数世代にわたって知りたいと願ってきた、この珍しい社会生活の完全な記録をつたえてくれることが、おそらく、できるだろう。
『月世界では……』と、ケイヴァー氏は、いうのだ。
『住民は、全部、自分の階級を知っている。彼は、その階級に生まれついたのである。そして、彼が受ける規律ある訓練や、教育や、外科手術によって、その階級に適合させられ、分不相応な目的を持とうという意図も、器官も、なくされてしまうのである。≪一体、そんな必要がどこにありますか?≫フィウーならそうたずねるだろう。たとえば、一人の月人が、数学者になるように決められているとすると、彼の教師や調教師たちは、ただちに、その仕事にとりかかる。ほかの目的を追求しようとするどんな傾向も、初期の中に、除去され、その数学的な素質は、完全な心理学的な訓練によって、どんどん開発される。彼の脳髄は発達する、すなわち、少なくとも、彼の脳髄の数学的能力を司る部分は発達する。そして、ほかの部分は、この主要な部分を支えるのに必要なだけしか発達しない。ついには、彼のひとつの喜びは、休息と食事を除けば、自分の能力を訓練し、それを発揮することだけとなる。また、彼のただひとつの関心事は、それを適用することだけとなる。この、自分だけの孤独な世界で、彼は、ほかの専門家たちも、みな、自分と同じだと思いこんでいるのである。彼の脳髄は、成長をつづける。少なくとも数学に役に立つ部分に関するかぎりは、どんどんふくれあがり、彼の体のほかの部分から、すべての生命と活力を吸い上げているようである。その手足は縮み、心臓と消化器官は退化し、昆虫のような顔は、ふくれあがってくる顔の輪かくの下にかくれてしまう。声は、数学の公式を読みあげるに足るだけのきいきい声にすぎなくなってしまい、普通に発音された数学の問題以外には、つんぼ同然になってしまう。また、笑う能力は、たまたま、何か逆説を発見したときのほかは、失われてしまう。彼が最も深く感動するのは、ある新しい計算が展開できたときである。彼は、こうして、その一生を終えるのだ』
『また、さもなければ、月牛の世話係りと決められた月人は、その小さいときから、月牛のことばかり考えて生きるように指導され、月牛について勉強することに楽しみを見いだし、月牛を馴らしたり追ったりすることを、訓練されるのである。その結果、彼は、強靭で|敏捷《びんしょう》な体を持つように鍛えられ、彼の目はぱったりとおおわれ、その角ばった輪かくが、あの格好のよい≪牛飼いらしさ≫を作りあげるのである。そして、ついに、月世界のより深いところには、関心を持たなくなる。自分ほど月牛に精通していないほかの月人に対しては、無関心か、軽蔑か、敵意を抱くようになる。彼は、月牛の牧畜のことばかり考え、月牛に関するすぐれた技術のことばかりいうようになる。このように、彼もまた、自分の仕事を愛し、自分の存在理由である、月牛を飼うという義務を、完全な幸福感をもって遂行するようになる。そして、あらゆる種類、あらゆる状態の月人たちは、みな、このとおりであり、その一人一人が、月世界という機械の完全な単位となっていたのである……』
『これらの大きな頭を持った月人たちは、頭脳労働に従事していて、この奇妙な社会で、一種の上流階級を形成している。そして、彼らの上に、月世界の象徴にしてあの驚くべき巨大な中枢であるところのグランド・ルナーが、存在しているのである。わたしは、いずれ、彼のところに連れて行かれることになっている。
この知識階級の知能の無制限な発達は、月世界の解剖学には頭蓋骨がないということによって、可能にされている。人間には、頭蓋骨という奇妙な骨の箱があって、発達すべき脳髄を締めつけ、≪ここまではいい、これ以上はいけない≫と、傲慢不遜に主張して、人間のあらゆる可能性を阻止しているのである。
彼らは、三つのおもな階級に分れ、その勢力と社会的地位は、ひどく異なっている。その三階級の一つは、フィウーもその一人である、管理者階級で、素晴らしい支配力と、多様な能力を持ち、月の大部分をいくつかの立方体に区分したその一つずつに対して、めいめいの責任を持っていた。
また、技術者階級は、フットボールのような頭で考える連中で、ある特殊な操作技術を遂行するように訓練されている。
さらにまた、学識者階級は、あらゆる知識の貯蔵庫である。月世界で最初の地球語学者であるチパフは、この最後の階級に属している。この学識者階級に関しては、月人の頭脳が無限に発達したために、知識的研究のたすけになるような機械的発明が、まったく不必要であるということに気がついてみると、それは、ちょっとした面白い事実である。何しろ地球上では、そういった業績が、人間の立派な経歴となっているのだから。月世界には、いかなる種類の書物も記録もなければ、図書館も碑文もない。すべての知識は、アメリカのテキサス州にいるという蜜アリが、そのふくらんだ腹部に蜜を貯えるように、月人のふくらんだ脳髄のなかに、貯えられるのである。月世界のサマーセット・ハウス、月世界の大英博物館は、実に、生きた脳髄のコレクションなのである……。
念のためいっておくと、あまり専門化していない管理階級の連中は、大部分、わたしに出あうと、実に生き生きした関心を示す。彼らは、わざわざやって来て、わたしを見つめ、質問する。それに対しては、フィウーが答えるのだ。荷物はこびや、従者や、代弁人や、パラシュート持ちなどをお供に連れて、あちらこちらを歩き廻っているのを見かける――それは、奇妙な集団である。
技術者階級の連中は、大部分、わたしにまったく無関心である。お互い同士さえ、無関心で、わたしに気がついても、ただ、自分にだけしかわからない技術について、やかましくしゃべり始めるだけである。
また、学識者階級の月人たちはごく少数の例外を除いては、何も感じないような、卒中に罹ったような自己満足にふけっている。彼らの博識を否定でもしないかぎり、その自己満足から目覚めさせることは、不可能であろう。彼らは、通常、小さな見張り人と従者たちに、案内されていたが、しばしば、背の低い、活発な生きものが一しょにいた。それは、普通、背の低い女性で、彼らの妻か何かであると思われる。しかし、深遠な学識を持ったあるものは、あまりに脳が大きくて、動き廻ることができず、箱型の桶のようなものにはいって運ばれる。その、知識をいっぱいつめこんでゼリーのようにぶるんぶるんとふるえている脳髄は、わたしをひどく驚かしたもののひとつであった。わたしは、この通信装置を操作することを許されている場所へ来る途中で、つるつるにそり上げて毛の一本もない、うすい皮膚をした大きな頭をぶるんぶるんふるわせながら奇妙な担架で運ばれて行く、学識者のひとりとすれ違った。その前後には、荷物運びたちがついていた。そして、奇妙な、まるでトランペットのような顔をした、ひろめ屋たちが、その学識者先生の名声を叫びたてていた……』
『すでにふれたとおり、知識者階級の大部分のものに同行している従者たち――案内人や、荷物はこびや、召使い――は、いわば、この異常に肥大した脳ばかりの肉体の力の代わりに、それを外部から支える、触手や、筋肉のようなものだ。そこには、クモのような脚と、パラシュートをつかむ≪手≫をもって、敏速に行動する使い番や、死人をよび覚ますことさえできそうな発声器官を持っている代弁人たちもいた。学識階級の統制がなくても、これら下層階級の連中は、傘立てにはさまったこうもり傘のように、無力で、何の役にもたたないのである。彼らは、ただ、服従すべき命令と、遂行すべき義務との関係においてのみ、存在しうるのである……』
『けれども、このらせん状の道を右往左往したり、昇って行く気球にぎっしりと乗りこんだり、また、頼りないパラシュートにぶら下がってわたしの側を落ちて行く、これらの月人たちの大部分は、おそらく、労働者階級なのであろう。≪機械の手≫――実際、彼らの中のあるものは、言葉の上だけではなく、事実としてそうなのである。
例えば、月牛の世話係りの一本の触手は、その先が、掴んだり、持ちあげたり、指さしたりするための、三本か、五本か、七本の指に分れているか、あるいは、それがさらに二本に分れるかしている。そして、そのほかの部分は、単に、この主要な部分を支えるための付属物にすぎないのである。
ベルを鳴らす機械を取り扱っているものは、目のすぐうしろに、ウサギのような大きな耳を持っているようである。また、微妙な科学的操作に従事しているものは、大きな嗅覚の器官を持っていた。さらに、ほかのものは、ペダルをふむために関節が発達した平べったい足を持っていたし、また、わたしがガラス吹きだと教えられたあるものは、ふいごのような肺だけしかないようであった。しかし、こうした一般の月人たちは、それぞれ、その社会的必要に、見事に適応している。きれいな仕事は、驚くほど小さい、小ぎれいな働き手によって行なわれる。そのうちのあるものは、わたしの手のひらに乗せることができるほどだった。また、一種の動力屋とでもいうべき月人がいる。ごく一般には、彼らは、いろいろな小さな機械に、動力を与えるのが義務で、それがまた、彼らのただ一つの喜びなのである。
そして、また、こういった連中を整理したり、何か正道をはずれた、間違った傾向を正すために、月世界の警察官ともいうべき連中もいる。彼らは、わたしが月世界で見たうちで、筋肉が最も発達していた月人である。彼らは、頭の大きな上流階級を、完全に尊敬し、それに服従するように、ごく小さいときから訓練されてきたに違いない……』
『こうしたいろいろの種類の職人を作りだすためには、きわめて奇妙な、面白い手順がふまれているに違いない。それについては、わたしは、まだあまりわかっていないが、ごく最近、壺の中に入れられて手だけを出しているたくさんの若い月人たちをみた。彼らは、特殊な機械工になるために、圧縮されているのだった。
この高度に発達した技術教育の組織のなかで拡大された≪手≫は、身体のほかの部分が餓えている間に、注射によって刺激をうけ養分を与えられる。
わたしが誤解したのでないとすれば、フィウーの説明はこうだ。この奇妙な小さな生きものたちは、そのいろいろに締めつけられた状態で受ける苦痛を訴えているが、そのうちに、たやすく与えられた運命に慣れて、無感覚になる。また、彼は、よく曲る手足を持った使い番になる月人たちが、ひっぱられたり、押し込まれたりしているところへ、わたしを連れて行った。自分でも、まったく、理性的でない、とは思うのだが、わたしは、こういった月人たちの教育の方法を見て、不愉快な印象を受けた。しかしながら、わたしは、それはそれとして、このおどろくべき社会秩序の様相をもっと見てみたいと思う。
あの、例の壺から突き出されていたみじめな格好の手は、失われた可能性を返してくれと訴えているようにみえた。もちろん、そのようすは、今もなお、わたしの頭にこびりついてはなれないのだが、実際、結局は、子供たちが人間として育つがままにしておいて、それから、彼らを機械に仕立てようとする地球上のやり方よりも、かえって、はるかに人間的な処置というべきであろう……』
『また、つい最近――多分、十一回目か、十二回目にこの通信装置のところへ来た時のことだと思うが――わたしは、これらの労働者たちの生活について、奇妙な体験をした。その時、わたしは、らせん状の道を通ったり、月の中心にある海のそばを通ったりする代わりに、近道を通って案内されているところだった。長い、暗い回廊の、迷路のように曲った道を抜けて、われわれは、土の匂いの充満した、ほの明るく光っている、広々とした低い洞穴に出た。その光は、|夥《おびただ》しく生い繁っている鉛色のキノコから発していた――その中のあるものは、まったく、不思議なほど、われわれ地球上のマッシュルームに似ていたが、背の高さは、人間の背丈くらいか、あるいはそれ以上もあるのだった。
≪月世界の人たちは、これを食べますか?≫と、わたしは、フィウーに聞いた。
≪はい、食べものです≫
≪あっ! あれは何だ!?≫
突然、わたしは、叫んだ。わたしの目に、ばかに大きな、不格好な月人が、キノコの茎の間に、身動きもせずうつぶせにねている姿が映ったからだった。われわれは立ちどまった。
≪死んでいるのですか?≫と、わたしは、聞いた。今まで、わたしは、月世界で死人を見たことはなかったので、ひどく好奇心をそそられたからである。
≪とんでもない!≫と、フィウーは、叫んだ。
≪彼――労働者――でも、仕事ない。少し呑ませる。そして――眠らせる――わたしたちが、彼、必要とするまで。彼、起きても、仕方ない、でしょ? 彼、歩きまわること、いらない≫
≪あ、あそこにもいる!≫と、わたしは、叫んだ。
そして、実に、その広大なマッシュルームの生えた地域全体に、月世界が必要とするまで、麻酔をかけられて眠っている月人たちが、あちらこちらに倒れている姿がみられた。そこには、あらゆる種類の月人たちが大勢眠っていたので、われわれは、彼らの中の何人かをひっくり返して、わたしが前にやったよりもより明確に調べることができた。ひっくり返されても、彼らは騒々しく呼吸をするだけで、目を覚ましはしなかった。だが、その中の一人を、わたしははっきりと覚えている。彼は、わたしに、強烈な印象を与えた。それは、ちょっとした光と、彼の格好の具合で、人間の水から引き揚げられた姿を、非常に強く、連想させたからだと思う。彼の前肢は長く、繊細な触手をもっていた――彼は、何かの機械の立派な操縦者であった――彼のまどろんでいる姿は、無抵抗な受難者を連想させた。もちろん、こんな風に彼の様子を解釈することは間違いだったのだが、わたしはそのように理解したのだった。そして、フィウーが、彼をふたたび鉛色のキノコの間の暗闇にころがしこんだ時、わたしは明らかに不快な感じを覚えた。フィウーにしてみれば、虫けらをころがすくらいにしか考えていないことは明らかだったが……』
『それは、まさに、人間が、考えたり感じたりする習慣を身につける時のでたらめなやり方を皮肉っているように思われる。雇用者が、不用な労働者に麻酔をかけて、わきにほうり出すことは、彼を工場から追い出して、飢えさせ、路頭に迷わせるよりは、はるかにましであるに違いない。あらゆる複雑な社会共同体においては、すべての専門化した労働者の就業の問題で、一種の断絶があることはやむを得ない。その結果、全面的に、困難な失業問題が惹き起こされるのである。けれども、いかに科学的に訓練された頭脳でも、何から何まで理性的、というわけにはいかない。わたしも、また、あの、生い繁ったキノコが光を発している静かなアーケードの中に、力つきたように倒れている月人たちの姿を思い出すことに不快を禁じ得ない。だから、わたしは近道をさけて、不便ではあるが、より遠く、より騒がしく、より混雑したもう一つの道を通ってここへくるのである……』
『その、もう一つの道を行くとき、わたしは、大きな、暗い洞穴のわきを通る。その洞穴は混雑していて騒々しいのだが、ここで、わたしは、一種のハチの巣の仕切り壁のような、六角形の窓から、じっと外を眺めたり、背後の大広場を練り歩いたりしている月世界の母親たち、いわば、ミツバチの巣箱における女王蜂のようなものを見かける。彼女たちは、また、下のほうの掘立小屋で働いている、指さきのないようなきゃしゃな指をした宝石商の作った、おもちゃやお守りの類を選んだりして遊んでいた。彼女たちは、この世のものとは思われないほど上品な様子をしていて、あるときは非常に美しく身を飾り、気高い身のこなしをしているが、その口を除いては、頭は極端に小さい……』
『月世界における、月人の間でのセックスの条件や、結婚や婚礼、出生などについては、わたしは、今までのところ、ほんの少ししか知っていない。しかし、英語の勉強におけるフィウーの着実な進歩によって、わたしの無知も、また、疑いもなく着実に消散していくに違いない。わたしは、この社会では、アリやミツバチの社会と同じように、ほとんど大多数のものが中性であろうという見解を持っている。もちろん、地球上のわれわれの都市においても自然な人間の生活であるところの親子関係というものをまったく持っていない人は多い。しかし、ここでは、アリの場合と同じように、こういう生活は、この種族にとって自然なことになっているのである。すべて、そういった事柄の代わりに、必然的に、この特別な、ごくわずかな婦人の階級、つまり、月世界の母親たちの階級が存在する。彼女たちは、大きく、威厳のある生きもので、月人の幼虫を生むのに、みごとにふさわしく作られている。フィウーの説明を間違って理解したのでなければ、彼女たちは、自分の生んだ子供たちを哺育することは、絶対に不可能である。やたらと可愛がる時期が過ぎると、荒々しく攻撃的な感情がやってくる。そこで、できるだけ早い時期に、まだ柔らかく、ぐにゃぐにゃして、青白い色をしている小さな生きものたちは、移されて、いろいろの種類の独身女性たちの手に委ねられる。彼女たちは、いわば、婦人≪労働者≫であって、ほとんど男性と同じくらいの大きさの脳髄を持っている場合もある……』
ちょうど、ここのところで、この通信は途絶えていた。この報告は、断片的で、もどかしいような感じで書かれてあるが、それでも、まったく奇妙で不可思議な世界について、ぼんやりした、大ざっぱな印象をわれわれにあたえてくれる。その不可思議な世界の評価は、おそかれ早かれ、われわれ自身の手で発表しなければならないのであるが。この、断続的に流れてくる通信、この山の斜面の暗がりで耳にする、受信器の針のかすかな音は、今まで、人間がほとんど想像もしなかったように変化した人間的条件についての最初の警告なのだ。あの月世界には、新しい固有の環境があり、その世界での圧倒的な傾向となっている新しい思想があり、われわれが巧妙に対処しなければならない変わった種族がいる――その世界には、金が、地球における鉄や木と同じように、ごろごろしているのだ……。
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二四 グランド・ルナー
終わりから二番目の通信は、ときおり苦心のあとがうかがわれるほど細部にわたる記述をまじえて、ケイヴァー氏と、月世界の支配者、すなわち、月の主権者であるグランド・ルナーとのであいについて伝えている。ケイヴァー氏は、その通信を、ほとんど何の妨害もなく送信してきたようだが、最後の結論の部分になって、中断されてしまったらしい。そして、その次の通信は、一週間ほど間をおいて送られてきた。
終わりから二番目の通信は、次のように始められている。
『やっと、わたしは、ふたたび、この通信を始めることができ……』
それから、しばらくの間、判読できなくなり、やがて、また、記述の途中から、はっきりと受信され始めた。
その、途中から受信できた報告のはじめに、受信しそこなったことばは、たぶん、『群集は』だったと、思う。
そして、そのあとに、はっきりした通信がつづいている。
『われわれが、グランド・ルナーの宮殿に近づくにつれ、ますます、その数を増した――宮殿といっても、洞穴の列をそう呼ぶことができるならであるが――。いたるところで、月人たちの無数の顔が、わたしをみつめていた――つるりとしたノッペラボー、カニの甲羅のような、キチン質の広いくちばしと仮面、おそろしく大きな鼻の上にのぞいているどんぐり|眼《まなこ》、また、奇怪な平べったい額の下からみつめている小さな目。そしてまた、彼らの足もとでは、小さな生きものたちが、藪の下草のようにあちこちに身をかわしながら鳴き叫んでいる。かと思うと、白鳥のくびのように曲りくねって長く伸びている|頸《くび》の上に乗っかっている異様な頭が、ほかの月人たちの肩ごしや、腋の下などから、にょきにょきと伸びて、こちらを見つめていたりする。ヘルメットをかぶった護衛兵たちは、わたしを歓迎するための道を開きながら、群集によって邪魔されがちな非常警戒線を進めて行った。彼らは、月世界の中心にある海から、運河を通って乗って来た舟から降りた時、われわれの一行に加わった連中である。小さな脳髄を持った、ノミのような芸術家たちもまた、われわれ一行に加わった。そうして、痩せた、大勢の、荷物はこびのアリが、一団となって、ふらふらしながら、夥しいわたしの身の廻り品を運ぶのに必死になっていた。その品々は、わたしの身分に絶対必要なものと認められたものであった。わたしは、われわれの行程の最後の段階を、担架に乗せられて運ばれた。その担架は、大へんしなやかな、わたしには黒く見えた金属で造られていて、網の目のように織られ、薄色の金属の棒がついていた。そして、わたしが前進するにつれて、わたしの周りには、自然に、長い煩瑣な行列ができていった……』
『まず、先払いの形式が整えられ、次に、行列の先頭に立つのは、トランペットのような顔をした四人の月人たちで、彼らは、こわれたラッパのような鳴き声をたてて行進した。次には、ずんぐりした、まるでカブト虫のような案内人たちが担架の前後をかため、両わきには、生きた百科事典たち、例の巨大な頭をした学者先生たちが、きら星のように並んで歩いていた。フィウーの説明によれば、彼らは、グランド・ルナーの|諮問《しもん》を受けるために来ているのだそうである。これらの素晴らしい生きものたちの頭の中に保持されていない、思考の方法とか、観点とかいうものは、月世界の科学の中には一つも存在していないのであった。つづいて、護衛兵たちと、荷物はこびたちの次に、フィウーのぶるんぶるんふるえる脳髄が、やはり担架に乗せられて運ばれていた。そして、その次に、チパフが、やや立派でない担架に乗って進み、そして、その後を、わたし自身が、ほかの誰よりもずばぬけて優美な担架に乗り、わたしの食べものや飲みものを捧げる、従者たちにとりかこまれて進んで行った。それから、さらに、前より大勢のトランペット奏者たちがつづき、その熱情的に鳴き叫ぶ声は、耳をつんざくばかりだった。そして、その後から、数人の、大きな脳髄をした、特別報道員と呼んだらよいか、あるいは、史料|編纂《へんさん》員とでもいうべきか、この画期的な会見を観察して、その詳細を記憶する任務を委託された月人たちがつづいていた。従者たちの一団は、いろいろの旗や、大量の香り高いキノコや、奇妙な標識のようなものを捧げ持ったり担いだりして、行列を申し分ないものにしていた。鋼鉄のような輝きを放つ盛装に身をつつんだ案内人たちや役人たちが一列に並んで、沿道をかためていた。そして、彼らの列の向こうには、夥しい群集の頭や触角が、波うち、どよめき、沿道の両側を埋め尽していた……』
『しかしながら、いまだに、わたしは、決してこの月人たちの外観からくる無気味な印象に慣れてしまってはいなかったことを認めなければならない。そしてまた、この海のように広がる熱狂的な虫けらどもの上で、わたし自身が、いわば、浮かび漂っているのを知ることは、決して、愉快なことではなかったことをも白状する次第である。一瞬、わたしは、何か≪|悪寒《おかん》≫のようなものを感じた。その感じは、以前、わたしが、月世界の洞穴の中で、時々、自分が何の武器も持たず、何のうしろだてもなく、これら月人たちの雑踏の真っただ中にいるのだと思った時におそわれた感じと同じだったが、それでも、こんなに強烈なものではなかった。それは、もちろん、よくわれわれが感じるような、まったく不合理な感情であるので、わたしは、少しずつ、この感情を抑制したいと思う。しかし、波のようにうねる、この巨大な群集の中に、しずしずと進み出たその時は、しばらくの間、ただただ、わたしの担架を握りしめ、全意志力を奮い起こして、大声をあげたり、あるいは、そういった表現をしそうになるのを、辛うじて抑えることができたのだった。そうして自分を抑えるのに、約三分くらいはかかり、それから、やっと、わたしは、自分自身をとりもどしたのであった……』
『われわれの行列は、垂直な方向につけられたらせん状の道路を、しばらくの間、登って行き、それから、壮麗な装飾がほどこされている丸天井のある大きな広間をいくつもいくつも通り抜けた。グランド・ルナーに近づく者は、すべて、彼の偉大さに対する強烈な印象に打たれないではいられなかった。広間という広間は、地球人のわたしの目には、すべて、じゅうぶんに愉しく、明るく光り輝いて見えたが、それらは、その広さと装飾とが一体となって、次第にその効果を高めていくように、巧妙に苦心して造られていた。徐々に広間の大きさが広げられていくような造形上の工夫は、照明の明るさを次第に弱めることによって、あるいは、通る人が進むにつれて強くなる芳香の、ほのかなただよいによって、一そう効果をあげていた。はじめのほうの広間は、生き生きとした明るい光が、すべてのものをくっきりと浮かび上がらせているように思われた。そして、進むにしたがって、すべてのものは、次第次第に、何となく大きく、ぼんやりとしてきて、実体のないもののように見えてきたのだった……』
『これらすべてが、あまりに見事だったので、わたし自身を非常にみすぼらしく、価値のないもののように感じたことを告白しなければならない。わたしは、髪ぼうぼう、服装はまったく汚らしかった。第一、わたしは、|剃刀《かみそり》を持って来ていなかったのである。それで、わたしのみっともない口髭は、わたしの口におおいかぶさっていた。また、地球上においては、わたしは常に、必要以上におしゃれをしている人に注意を払うことを、軽蔑したがる傾向があった。だが、今、置かれているような特殊な状況にあって、現に、わたしがしているように、人類と地球とを代表し、正当な接待を受けられるかどうかが、わたしの外見上の魅力に、大いに依存していることを考えると、何かわたしが今着ているぼろ服よりもましな、もう少し芸術的な、威厳を添えるようなものを着るためなら、どんな努力でもしただろう。わたしは、月には何も住んでいないと信じ込んで来たので、そのような用意が必要だろうなどとは夢にも考えなかったのである。で、事実は、わたしは、フランネルのジャケツに、ニッカーボッカー、ゴルフ用の靴下といった服装をして、しかも、それらはすべて、月世界に来てからのあらゆる汚れにまみれていたのだ。それに、左のかかとのとれた、寝室用の軽い上靴をはき、毛布には穴をあけ、そこから首を出して体に掛けていた。そういった格好を今でもしているのである。鋭く逆立ったわたしの剛い髪の毛や口髭も、わたしの容貌を立派に見せるどころではなく、また、ニッカーボッカーの膝のところは破れたままで、わたしが担架の上に坐ると著しく目立った。さらに、また、右足の靴下は、わたしのくるぶしのまわりを包むことによって、やっと靴下らしい形を留めている、といった有様なのである。わたしは、わたしの外見が、人類に対して不本意なことをしでかしてしまったということにじゅうぶん気づいていた。だから、もし、何らかの手段によって、少しでもそれを避けるもの、立派なものを、即座に作ることができたならば、わたしはそうしただろう。しかし、わたしは、何も思いつくことができなかった。わたしにできたことといえば、わたしの毛布を、幾分、古代ローマ人の衣装、トガにならうように、ひだをとって体に巻き、あとは、ゆらゆらと揺れる担架の上に、姿勢正しく坐っていることだけだった……』
『諸君が今まで入ったことのある最も大きな広間を想像してみたまえ。その広間は、青と、白みがかった青とのマジョリカ焼のような陶器で精巧に装飾され、どういったらわかってもらえるかわからないけれども、青い光で照明されている。そして、そこには、金属的な、あるいは、鉛色をした、わたしが先ほど述べたような、ばかばかしいほど種々雑多な生きものたちが、興奮に湧き返っている、そんなようすを想像してみたまえ。そして、また、この広間の先のほうには、アーチ型の広々とした通路が開け、その先には、なお一層大きな広間がある、そして、そのまた先には、さらに別の、もっと大きな広間がある、という風に、ずっと先までつづいている有様を想像してみてくれたまえ。その、見通しになった広間の最先端に、ローマのアラ・カリの階段のような真っ直ぐな階段が上のほうへ伸びていて、先のほうは見えなくなっている。その下に近づくにつれ、階段は、高く高く、つづいて現われてくる。だが、ついに、わたしは、巨大なアーチの下に達した。そして、その階段の頂上を仰ぎ見た。そこには、グランド・ルナーが、誇り高く、彼の玉座に坐っていたのである……』
『グランド・ルナーは、青白く輝く炎のような光の中に、坐っていた。あたり一面、かすみがたなびいているようで、玉座の壁は、目に見えないくらい、遠くのほうにあるように思われた。この有様は、グランド・ルナーが青黒い空間に浮かんでいるような効果をあげていた。始め、彼は、小さな、自分で光を発する雲のようで、それが緑青色の玉座にうずくまっているように見えた。彼の脳髄の容れ物は、直径何ヤードもあるに違いなかった。どういう仕掛けかわからないが、玉座の後ろからたくさんのサーチライトが光を放って、きらめく星のような輝きとなり、彼の周りを後光のように照らし出していた。彼の周りには、この、目も眩むばかりの輝きの中では、わずかに、ぼうっとしか見えなかったが、大勢の従者たちが、彼に仕え、彼を支えていた。彼の真下には、彼の知的な部下たち、すなわち、彼の記憶者たち、計算者たち、調査者たち、また、彼のご機嫌とりや召使いたちにいたるまで、月世界の宮廷における上流階級のあらゆる月人たちが、長い影を投げながら、巨大な半円形を描いて立っていた。さらに下のほうには、案内人たちや使者たちが立ち並び、そのまた下のほうの無数の段々には、護衛兵たちがぎっしりと立ち、階段の下のところには、数えきれないほど多くの、あらゆる種類の、月世界における二流の高官たちからなる、巨大な群集が、ぼんやりとざわめき揺れていた。彼らの足は、絶えず岩の床をこするような小さな音をたてていたし、彼らの脚は、ばさばさと、木の葉がざわめくような音をたてていた……』
『わたしが、最後から二番目の広間に入った時、音楽が起こり、堂々とした、荘厳な響きとなって拡がっていった。そうして、ニュース報道官たちの金切り声は聞こえなくなった……』
『わたしは、最後の、最も大きな広間へ入って行った……』
『わたしの行列は、扇のように拡がった。わたしの案内人たちや護衛官たちは、左右に分かれて行き、わたしと、フィウーと、チパフを乗せた三つの担架は、きらきら輝いている広々とした床の上を横切って、巨大な階段の下へと進んだ。すると、大きな、脈|拍《う》つようなハミングが、音楽に溶け込んで起こった。フィウー、チパフの二人の月人は、担架から降りたが、わたしは、坐ったままでいるように命ぜられた――多分、特別な儀礼だったのだろう。音楽は鳴り止んだが、ハミングはつづいていた。そして、数万の礼儀正しい視線が、一せいに動いたので、わたしは、われわれの上に浮かんでいる、後光にかこまれた、月世界最高の知性に、正面から注目したのだった……』
『はじめ、わたしが、放射されている強い光の中を見つめた時、この精粋ともいうべき脳髄は、うすい、形の定まらない浮袋に非常によく似ていて、その浮袋の中に、のたうちまわるうずまきのようなものが、ぼんやりとうねって見えた。だが、その巨大な脳髄のすぐ下の、ちょうど玉座のふちの上に、精巧な、ごく小さい、まるで小妖精のような目が、強い光の中からみつめているのを見て、飛び上がるほどおどろいた。顔はなく、まるで穴の中からのぞいているような目だけしかなかった。始めの中は、この二つの、じっとみつめている小さな目以外は何も見えなかった。だが、やがて、下のほうに、小さな、萎縮した体と、昆虫のような関節を持った脚とが、白く、しなびているのが見えた。その両眼は、異常な強烈さで、わたしを見下ろし、ふくらんだ眼球の下の部分には、皺が寄っていた。なんの役にも立ちそうもない、小さな手のような触角は、玉座の上で、自分の体が揺れないように安定させていた……』
『彼は偉大であった。そして、慈愛に満ちていた。ここへ来たものは、この広間をも、群集をも忘れてしまうほどだった……』
『わたしは、ぐんぐんと上のほうへ進んで行ったので、われわれの上のほうにある紫色の脳髄ケースが、わたしの上におおいかぶさってくるように思われ、そして、わたしが近づくにつれ、ますますその効果を高めていった。支配者の|許《もと》に集まっていた部下たちの列は、強い光の中に小さくなり、消えていくように見えた。また、長い影をひいた従者たちが、涼しい香料を入れた噴霧器で、彼の巨大な脳髄に霧を噴きかけたり、肩を叩いたり、体を支えたりして忙しく働いていた。わたしはといえば、ゆらゆらと揺れる担架をしっかりと掴みながら坐り、じっと、グランド・ルナーをみつめ、吸いつけられたようにその目をそらすことができないでいた。ついに、わたしは、玉座から、わずか十段くらいしか離れていない、小さな踊り場に着くと、見事に交響した音楽の調べは、そのクライマックスに達し、そして止んだ。わたしは、その広場の真ん中に、いわば、裸同然の状態で、グランド・ルナーの静かに吟味するような視線の下に置かれたのである……』
『グランド・ルナーは、いまだかつて見たことのなかった月世界最初の人間を、つくづくと眺めているようだった……』
『わたしは、やっと、彼の偉大さから目を転じて、彼のまわりの青いもやの中にいるぼんやりした月人たちの影を見、そして、階段の下のほうにいる月人の大群に目を落とした。静かな期待の感情をもって、何千という月人たちが、床にぎっしり詰まっていた。またもや、いわれのない|戦慄《せんりつ》がわたしに襲いかかってきた……が、通り過ぎて行った……』
『間もなく、挨拶の時が来た。わたしは、担架から助けおろされた。そして、二人のひょろひょろした役人によって、たくさんの奇妙な、そして、疑いもなく非常に象徴的な身振りが、わたしの代理として行なわれている間、ぶざまな格好で突っ立っていた。最後の大広間の入口までわたしについて来た、百科事典の学者たちのきら星のような一団が、わたしの立っているところから二段上の左右に現われ、グランド・ルナーのお召しを待った。フィウーの白い脳髄は、玉座とわたしとの中間のあたりに位置を占めていた。その場所は、グランド・ルナーとわたしとの会話を、彼の頭をどちらへも向け変えないまま、容易に取り次ぎができるのであった。チパフは、フィウーの後ろに控えた。機敏な案内人たちが、横から、グランド・ルナーのほうに顔を向けたまま、わたしのほうへにじり寄って来た。わたしは、トルコ風に坐った。そして、フィウーとチパフも、わたしの上のところでひざまずいた。しばらくの間があった。近くの宮廷人たちの目は、わたしからグランド・ルナーへ、そしてまた、わたしへと注がれた。そして、これから起こることを期待するシッシッという声や、ピーピーという声が、下のほうに隠れて見えない無数の月人たちの間を伝わり、やがて、静かになった……』
『あの、ハミングも止み……』
『月世界は、まったく静かになった。わたしがいる間に、この世界がこのように静かになったのは、この時が最初で、そして、最後であった……』
『やがて、わたしは、微かな、ぜいぜいいう音に気づき始めた。グランド・ルナーが、わたしに話しかけていたのだ。窓ガラスを指でこするような音だった……』
『わたしは、しばらく、彼を注意深くみまもり、それから、あの機敏なフィウーのほうを一べつした。このたよりない生きものたちの真っただ中にいると、わたし自身は、途方もなく大きく、肉づきがよく、そして硬い生きもののように思われた。その上、わたしの頭もあごも、真黒な毛でおおわれていたのである。わたしは、ふたたび、グランド・ルナーのほうに目を戻した。彼のことばは、もう終わっていた。彼の従者たちは忙しく立ち働き、彼の光っている外皮は、それを冷却するための水しぶきで輝きながら活動をつづけていた……』
『フィウーは、しばらく、考えていた。彼は、チパフに相談した。それから、彼の知っている英語で、ピーピーと話し始めた――最初は少し神経質に、したがって、あまりよく聞きとれなかった……』
『≪うーん――グランド・ルナーが――おっしゃりたかったことは――おっしゃりたいことは――かれは、あなたが――うーん――人間である――地球星から来た人間であろうと推断する、ということです。かれは、あなたを歓迎します――歓迎して――そして、学びたい――学ぶ、ということばを使えるならですが――あなたの世界の様子と、それから、なぜ、あなたが、ここへ来たか、という|訳《わけ》とを、学びたいのです……≫』
『フィウーはことばを切った。わたしが返事をしようとした時、彼は、ふたたび話し始めた。彼がつづけた話の趣旨は、あまりはっきりしなかったが、それは、儀礼上のことばだったと考えたい。彼の述べるところによると、地球の月に対する関係は、太陽の地球に対するそれと同じであるというのだった。また、月人たちは、地球について、特に、人間について、非常に知りたがっているということであった。彼は、さらに、これまた、疑いもなくお世辞だろうが、地球と月との大きさや直径の関係について、また、月人たちが、いかに絶え間のない驚異と考察の眼をもって、われわれの地球に注目しているかということについて語った。わたしは、目を落として熟考してから、次のように答えることに決めた。すなわち、人間もまた、月世界には何があるのだろうかと不思議に思ってきたこと、そして、月はもう死んでしまったと判断してきたこと、わたしが今日見たように立派な世界が存在しようなどとは、夢にも考えられていないこと、などを述べた。グランド・ルナーは、理解したという印しに、彼の青いサーチライトを、非常に複雑なやり方で回転させた。すると、大広間のいたるところに、ピーピーいう声や、ささやき声、わたしのいったことを知らせるバサバサいう音が伝わっていった。グランド・ルナーは、もっと簡単に答えられるたくさんの質問を、フィウーに与えた……』
『フィウーは、グランド・ルナーが、われわれ地球人が地球の表面に住んでいること、空気や海は天体の外側にあるということ、特に、後者については、すでに、彼の天文学者たちに聞いて、じゅうぶんに知っているということを説明した。グランド・ルナーは、彼がいうところの、この驚くべき事柄の実態について詳細にわたる知識を、非常に得たがっているというのであった。というのは、地球の中身がつまっていること、つまり、中空ではないということは、常に、住むのに不適当であるという風に理解される傾向にあったからである。グランド・ルナーは、まず、われわれ地球人がさらされている気候の酷烈さについて、確かなことを知ろうと努力した。そして、彼は、わたしの、雲や雨についての写実的な論述に、非常な興味を示した。このことに関しては、月世界の夜の、月の表面に近い回廊における大気には、いつも濃い霧が存在しているという事実によって、彼の想像は大いに助けられた。また、彼は、太陽の光が、われわれの目にとって、月の世界ほど強烈には感じられないということに、大変、驚いたようにみえた。そして、また、わたしが、空気の屈折作用によって、地球の周囲にある空は、柔らかな青色に見えるという説明を試みているとき、興味を示していた。だが、彼が、本当にそれを理解したのかどうかは、疑わしい。わたしは、人間の目の虹彩というものが、いかにして、瞳孔を小さくし、強すぎる日光から繊細な内部組織を保護することができるのかということを説明した。そして、瞳孔の構造が彼に見えるように、二、三フィートの近くまで、彼の面前に進むことを許された。こうすることによって、彼は、月人の目と地球人の目を比較する結果になった。月人の目は、地球人が見ることのできる光に対して、過度に鋭敏であるのみならず、それは、また、熱をも見ることができるのだった。そして、あらゆる温度の違いによって、月の内部にある対象が見えるのだった……』
『グランド・ルナーにとっては、虹彩は、まったく新しい器官であった。しばらくの間、彼は、わたしの顔に彼の光線をあてて、わたしの瞳孔がちぢむ様子を観察し、面白がっていた。その結果、わたしは、目が|眩《くら》み、一瞬、目が見えなくなった……』
『この不愉快さにもかかわらず、わたしは、この、質問したり、答えたりする合理的なやり方の中に、自分でも気がつかない程度だったが、何かしら心の安まるようなものを見いだしていた。わたしは、わたしの答えを考える時、目を閉じることができた。そうして、グランド・ルナーに顔がないことなど、ほとんど忘れてしまうこともできた……』
『わたしが、もとの席にもどると、ふたたび、グランド・ルナーは、われわれ地球人が、いかにして、熱や嵐から身を守るかということを聞いた。そこで、わたしは、家を建てることや、室内に造作を入れる技術について説明した。ところが、ここで、われわれは、まさに、誤解と食い違いの中に、大きく踏み迷ってしまった。それが、わたしの表現能力の不足からくるものと認めねばならないのだが、わたしは、長い間、グランド・ルナーに、家の本質について理解させようとして、非常な困難を感じていた。疑いもなく、彼にとって、また、彼の従者である月人たちにとっても、地球人だって、洞穴の中に潜ることができそうなものなのに、わざわざ家を建て驍ネどということは、まさに、最も奇妙なことなのであった。かてて加えて、わたしが、地球人の住いも、始めは洞穴であったこと、そして、現在では、地球の表面のすぐ下に、鉄道や、その他たくさんの設備を持つということの説明を試みようとしたことが、かえって、彼らを混乱させてしまったらしい。わたしが、知的な完全さを欲したことが、かえって、よくない結果となったのであった。わたしは、また、炭坑についての説明などをしたので、それが、同じような利巧でない試みとなって、当然、紛糾をもたらす結果ともなった。ついに、この問題は解決しないまま、グランド・ルナーは、われわれが、地球の内部で何をしているか、という質問をした……』
『この質問に対して、歴史が始まるずっと前から、われわれの先祖たちが、その上で、進歩発展してきた地球の内部については、われわれ人間どもは、まったく何も知らないのだということが明らかにされた時、さえずるような声や、ピーピーいう声が大きな潮のうねりのように、この大集会のすみずみにまで拡がっていった。三度にわたって、わたしは、地球の表面から中心にいたるまでの、全四千マイルの地中の物質のうち、人間が知っているのは、たった一マイルほどの深さのものであって、しかも、非常にぼんやりとしかわかってはいないのだということを、くり返し説明しなければならなかった。わたしは、われわれ地球人が、自分たちの地球については、まだほんの表面だけしか知らないということを知ったグランド・ルナーが、それならば、なぜ、わざわざ月なんかへやって来たのかと質問したことはもっともだと思った。しかしその時には、彼は自分のすべての観念が狂ったように逆転させられてしまったので、その詳細を追求することに夢中になってしまい、その質問に対して説明をつづけるようにしつこく強制はしなかった……』
『彼が、気候についての質問に戻ったので、わたしは、始終変化する空について、雪について、そして霜について、また、台風について、説明を試みた。≪しかし、夜になったとき、寒くはないのか?≫と、彼は聞いた……』
『わたしは、昼よりは寒いと答えた……』
『≪それでは、地球の大気は凍らないのか?≫』
『わたしは、彼に、凍らないと答え、それは、地球の夜は短いので、そんなに寒くはならないのだといった……』
『≪液体になることもないのか?≫』
『わたしは、ほとんど、≪はい、なりません≫と、答えかけていたのだが、しかし、ふとわれわれの大気の中の少なくとも一部分、すなわち、水蒸気は、時々、液化して露となりまた、時々は凍って霜となる――この経過は、すべての月世界の外側の大気が、その長い夜の間に凍っていく様子と、まったくそっくりであるということに気がついた。わたしは、自分からこの点について明らかにした。そして、それから、グランド・ルナーはわたしと、睡眠について、話をつづけていった。二十四時間ごとに、まことに正確に、すべてのものの上におとずれてくる睡眠の必要性も、これまた、われわれの地球上の遺伝の一部である。月世界において、月人たちは珍しく暇のできたときとか、特別に努力して働いた後しか休まない。そこで、わたしは、夏の夜のやわらかい輝きを描写しようと試み、それから、話を転じて、夜に餌をあさって昼間眠るけだものたちの説明にかかった。わたしは、彼に、ライオンやトラの話をしたのだが、ここで、話は停頓してしまった。というのは、彼らの海を除いて、月世界には、完全に飼いならされた、彼らの意志に絶対に服従する動物以外、何もいないからであって、それは、ずっと、有史以前からのことなのであった。月人たちの世界には、怪物のような水棲動物はいるが、有害な野獣はいない。だから、夜、≪|そと《ヽヽ》≫にいる何かしら強力な、大きな存在という概念は、彼らにとって、まったく把握しにくいものだったのである……』
(記録は、このあとひどく中断されていて、おそらく、二〇語あまりの部分は、転写することができない)
『わたしの推察するところによれば、グランド・ルナーは、地球人というものが、水中でも空気中でも、その他あらゆる空間を行くことのできる生きものであること、そして、また、同族たる人間を餌食にする野獣たちを打ち負かすために団結することすらできないくせに、それにもかかわらず、ほかの天体に、あえて侵入してくるような生きものであること、そして、このような地球人たちは、単に地球の表面にしか住んでいないということ、そういったこの奇妙な生きものの表面性について、あるいは、非合理性について、従者たちと話しあっていたようであった。彼らが話しあっている間じゅう、わたしは側で考え込んでいたが、やがて、また、グランド・ルナーの求めに応じて、違った人種の人間たちについて説明をしてやった。彼は、わたしに質問することによって探りを入れてきたのである。
≪では、あらゆる種類の仕事のために、あなたたちは、ただ一種類の人間しか持っていないというのか? だが、そうなると、誰が考えるのか? 支配するのは誰なのか?≫』
『わたしは、民主的方法というものの概要を述べた……』
『わたしが説明を終わると、彼は、彼の額を冷やすために霧を吹くことを命じ、それから、わたしに、幾らか聞きとれなかったところがあるようだから、説明をもう一度繰り返してくれと要求した……』
『≪それでは、地球人たちは、いろいろ、違うこと、しないのですか?≫と、フィウーがいった……』
『わたしは、思想家たちとか、ある種の役人たちとか、幾らかは異なった仕事をするということを認めた。たとえば狩猟をする人たちとか、職人たちとか、芸術家たちといった具合にである。≪ですが、≪みんなで≫支配するのです……≫と、わたしはいった……』
『≪では、地球人たちは、それぞれの職分に適するような違った形をしているのではないのですか?≫
≪みんな同じ形をしています。多分、彼らの服装は違うでしょうが……≫と、わたしはいった。だが、わたしは、反省していった。
≪でも、彼らの心は、多少、違っているかも知れません≫
すると、グランド・ルナーはいった。
≪地球人たちの心は、非常に違っていなければならないはずだ。さもなければ、彼らはみんな同じことをしたがることになるだろう≫』
『彼の予想と緊密に調和するように、わたし自身を合わせていこうとして、わたしは、彼の推測は正しいといい、そして、さらにいった。
≪地球人たちの心の違いは、全部、彼らの頭の中に隠されています。しかし、違いは、まさに、そこにあるのです。おそらく、もし、誰かが、地球人の心とか魂とかを目で見ることができたとしても、それらは月人たちと同様、多種多様であり、同一ではないでしょう。また、地球上には、大きな人間もいれば、小さな人間もいるし、遠くのほうまで幅広く手を伸ばすことのできるものもいれば、早く走れる人間もいる。あるものは、喧しくてトランペットのような心を持っているし、考えないで記憶することができる人もいます……≫』
(記録は、三字分だけ判明できない)
『グランド・ルナーは、わたしが前に話したことを、わたしに思い出させるために、話を中断させた。
≪しかし、あなたは、すべての人間が支配するといったのではなかったか?≫と、彼は、わたしに迫った』
『≪ある程度までは、です……≫と、わたしはいったが、この答えは、わたしの説明をあいまいなものにしたのではないかと思う……』
『彼は、明らかな事実をすぐにつかんで聞いた。
≪あなたは、地球には、地球の支配者というものはいない、というのか?≫』
『わたしは、数人の人物を思いうかべたが、最終的には、彼に、確かにいない、と答えた。わたしは、また、われわれが、今までに地球上で経験した独裁者とか、皇帝とかいう人々は、通常、大酒を呑んだり、不品行におちいったり、暴虐を行なったりしたので、わたしが属している、地球上の人々の中でもその指導的地位を占めているアングロ・サクソン民族も、そのようなことをふたたび試みようとはしないのだと説明した。グランド・ルナーは、この説明に、なお一そう驚いていた……』
『≪しかし、あなたたちは、どうやって、今あなたが持っているような知恵を保持しているのですか?≫と、彼はたずねた。そこで、わたしは、われわれが、われわれの≪  ≫の限界をおしひろげる方法を彼に説明した』
(ここのところの落ちているのは、多分、≪頭脳≫という言葉であろう)
『すなわち、たくさんの本から成る図書館という方法などである。わたしは、彼に、われわれの科学が、無数の小さな人間たちの労働を総合することによって、いかにして発展しつつあるかを説明した。そして、その点について、彼は、いかなる批評もしなかった。彼は、われわれの社会的な未開性ということを除いては、明らかに、われわれが、科学を高度に征服しているということを認めていた。また、そうでなければ、われわれは、月世界に来ることはできなかっただろうから。ここにいたって、月人と地球人との対照は、明らかとなった。知識というものによって、月人たちは成長し、そして、変化した。一方、地球人たちは、彼らの知識を彼らの周りに貯え、そして、野獣のことなどほったらかして――自身の装備をしたのである。グランド・ルナーは、このように述べた……』
(ここのところで、記録は、少しの間、不明瞭となっている)
『次に、彼は、われわれが地球上をどのようにして行き来しているかを、わたしに説明させた。そこで、わたしは、彼に、われわれの鉄道や船について述べた。しばらくの間、彼は、われわれが、たった百年しか蒸気を使っていない、ということが理解できなかったのだが、それを理解した時も、彼は、明らかに驚いていた。不思議なことに、月人たちは、年月を数えるのに、われわれが地球上でやっているのとちょうど同じように、一年、二年という数え方をしていた、ということをいっておこう。ただ、わたしは、彼らの計算方法については、まったく知らない。だが、それは、大した問題ではない。なぜなら、フィウーが、われわれの計算方法を理解しているからだ。次に、わたしは、彼に、地球人たちが都市に住むようになったのは、せいぜい、九千年か一万年くらいの間のことであり、その上、われわれは、いまだに一つの同胞として統合されていず、ただ、いろいろと違った形の政府によって治められているのだということを話した。このことが明らかにされた時、グランド・ルナーは、非常に驚いた。最初、彼は、われわれは、単に、管理上の区画によって分けられているのだ、と思っていたのである……』
『≪われわれの国家も、政府も、いずれの日にか到達するであろう秩序の、未完成の素描にすぎないのです……≫と、わたしはいい、それから、説明にかかった……』
(ここのところで、記録は、合計、三〇語か四〇語ほどの長さにわたる部分が、判読し難くなっている)
『グランド・ルナーは、さまざまのことばを用いる不便さに執着している、人類の愚かな行為について、強い感銘を受けたらしかった。
≪地球人たちは、お互いに意志を通じさせたいくせに、そうしようとはしないのだ≫と、彼は、いった。それから、長時間にわたって、戦争について、詳細な質問をした』
『最初のうち、彼は、当惑させられ、信じられない様子だった。
≪あなた方は、あなた方の地球の富については、ほんの少し、その|上《うわ》っ|面《つら》に手をつけ始めたばかりだというのに、地球の表面をかけまわって、野獣の餌食にするためにお互いに殺し合っているというのか。そういうことを、あなたはいおうとしているのかね?≫と、彼は、確証を求めながら聞いた……』
『わたしは、彼に、それは、まさに、そのとおりだ、と答えた……』
『彼は、彼の想像を助けるために、特別な質問を始めた。
≪しかし、そうすると、あなた方の船や、あなた方のあわれな小さな都市は、破壊されてしまうのではないか?≫と、彼はたずねた。財産や、便利な設備などを損傷することは、彼らにとっては、ほとんど殺人を行なうのと同じように感じられるらしい、ということをわたしは発見した。
≪もっと話してくれ。絵を描いて見せてくれ。わたしには、それらのことがよく理解できない≫と、グランド・ルナーは、いった』
『そこで、しばらくの間、いささかうんざりしながらも、わたしは、彼に、地球上の戦争の話をしてやった……』
『わたしは、彼に、戦争の最初の順序、形式、警告や、最後通牒、などについて、また、軍隊の整列や行進について話し、また、演習とか、陣地とか、交戦とかいう観念を与えた。また、包囲攻撃や突撃について、|塹壕《ざんごう》内での辛苦や飢餓について、あるいは、雪の中で凍える歩哨について語った。さらに、また、敗走や奇襲について、絶体絶命の最後の抵抗、かすかな希望、逃亡者に対する無慈悲な追跡、それから、戦場に倒れている死者などについて、話した。そうして、また、過去における侵略や、大虐殺の話もした。フン族やダッタン人のこと、マホメットや、彼の後継者、ハリハの戦いのこと、十字軍のこと、等々である。わたしが話を進めていくと、フィウーが通訳をした。月人たちは、次第に大きくなる感動に、くうくう鳴き声を立てたり、ぶつぶつ呟いたりしていた……』
『わたしは、さらにつづけて、装甲艦は一トンの弾丸を十二マイルむこうに発射することができ、また、二〇フィートの鉄板を射ちぬくことができること――それから、どのようにして魚雷を水中に進めることができるかという説明をした。その次には、機関銃が発射されている時の様子や、コレンゾーの会戦について、わたしが想像できることを描写して聞かせた。グランド・ルナーは、以上のようなことが、まったく信じられないので、わたしの説明を確認するために、通訳を中断させたほどだった。月人たちは、わたしの話の中で、地球人が戦場に出かける時に、喜び勇んで出かけて行くということが、特に、理解できなかった……』
『≪しかし、疑いもなく、人間たちは、戦争が嫌いなのです!≫と、フィウーが通訳した……』
『わたしのことばで、わたしたち、地球人が、戦争を、人生の最も輝かしい経験だと考えているということを確認すると、月人たちは、全員驚歎した……』
『≪しかし、その戦争というものの良さは、いったい、何なのか?≫と、グランド・ルナーは、彼の主題に固執しながらたずねた……』
『≪おお! 利益としてはですね! 戦争の利益は、人口を減らすことです!≫と、わたしは、答えた……』
『≪だが、しかし、どうして、人口を減らしたりする必要があるだろうか――?≫』
『ここで、しばらくの間があって、頭を冷やすための霧が、彼の額に力強く吹きつけられ、それから、彼は、ふたたび、話し始めた……』
(ここのところで、この記録に、突如として、強い電波の妨害がつづいて現われた。その電波は、明らかに、ケイヴァー氏が、グランド・ルナーについての最初の報告に触れる前からずっと、われわれを混乱させ、困惑させてきたものである。
これらの電波は、明らかに、月世界にある発信地から発せられる放射線の結果であった。そして、これらの電波が、ケイヴァー氏の発信と交錯するために、しつこく発せられつづけていることは、だれかほかの発信者が、計画的に、その電波をケイヴァー氏の通信と混信させて、その通信を判読しにくくしようとつとめていることを、はっきりと示している。はじめは、その電波は、弱く、定期的なものだったから、すこしの困難と、ほんのわずかのことばの欠如だけで、われわれは、ケイヴァー氏からの通信を読み解くことができたのだ。だが、やがて、その電波は、広範囲に大きく現われ、そして、突如、不規則になり、しかも、しまいには、書くそばから落書きをして消していくような効果をあらわすようになった。長いあいだ、この気違いじみたジグザグ電波の追跡によって、何の通信も受けとめることができなかった。だが、不意に、妨害がやんだので、二、三語は、明りょうに理解できた。が、やがて、ふたたび妨害がはじまり、それは、残りの通信全部にまでおよんだので、ケイヴァー氏が送信したいと意図したものはすべて、完全に抹殺されてしまった。もし、これが、計画的な干渉だとしたら、どうして、月人たちは、ケイヴァー氏に、その通信が抹殺されていることに全然気づかせずに、送信をつづけさせている必要があるのだろうか……月人たちは、ケイヴァー氏の通信をやめさせることぐらい、いつでもできるはずだし、そうしたほうが、ずっと、かれらにとって簡単でてっとりばやいことはわかりきっているのに……と、こういった問題については、ぼくは、なにひとつ、解決の手がかりを持っていないのだ。とにかく、この、グランド・ルナーに関する、ケイヴァー氏の報告の断片は、つぎのように、途中からはじまっている――)
『わたしの秘密について、非常にくわしく質問した。間もなく、わたしは、彼らとの相互理解に到達することができた。そして、ついに、彼らの科学の広大さを認識して以来、ずっと私にとって謎であったこと、すなわち、月人たちは、どうして、彼ら自身の力でケイヴァーリットを発見しなかったのかという疑問を、明らかにすることができた。彼らは、それを理論的に存在する物質として知っているが、実用にはならないものとみなしてきたのである。なぜならば、何らかの理由によって、月にはヘリウムがないからである。そして、ヘリウムは……』
(ヘリウムという最後のことばと交錯して、ふたたび、妨害電波が通信を消しはじめている。さきほどの、≪秘密≫ということばに注意していただきたい。ケイヴァー氏は、ずっと通信を送りたがっているのだということを、ヴェンディゲー氏もぼくも信じている。だから、ぼくは、この≪秘密≫ということばをもとにしなければ、ケイヴァー氏からの、つぎの、最後の通信について、判断をくだすことはできない、と思う)
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二五 地球に宛てた、ケイヴァー氏の最後の通信
このような不満足なかたちで、ケイヴァー氏からの最後から二番目の通信は、とだえてしまっていた。はるかに、ケイヴァー氏が、青く照らされた通信装置のまんなかで、彼とわれわれとの間におろされている妨害電波のカーテンにもまったく気づかず、また、決定的な危険が、自分にしのび寄りつつあるなどとは、夢にも考えずに、一心に、彼の報告の終わりまで送信をつづけている姿が、目に見えるようだ。
彼が、不幸にも、普通の常識を欠いていたということが、自分自身をすっかり敵の手に渡してしまうことになったのだ。彼は、戦争について話し、地球人のあらゆる強さと理性的でない兇暴さについて話し、そして、また、人間の飽きることを知らない侵略について、彼らの休みない争いから起こる無益な行為などについて、話したのだった。彼は、このようにして、われわれ地球人に対するよくない印象を、月人たちに与えてしまったのだ。そうして、彼は、明らかに、ほかの人間が月世界に到達できる可能性は――少なくとも、ここ当分の間は――ただ、彼のみにかかっているのだということに気がついたに違いない。あの冷たい、非人間的な月世界の理性がとりそうな方針は、ぼくには、じゅうぶんすぎるほど明らかだと思われる。彼は、そのことについて感知し、それから、多分、そのことについての鮮明な認識に到達するに違いない。彼が、この致命的な無分別について、次第に悔恨の念にかられながら、月世界を行ったり来たりしている姿は、想像するにあまりある。しばらくの間はグランド・ルナーも、きっとこの新しい事態について、熟考していたに違いない。だから、その間は、ケイヴァー氏は、月世界に到着して以来、かつてなかったほど、自由に歩きまわることができたのだろう。われわれは、前に述べた通信のあと、何らかの妨害によって、ケイヴァー氏は、自分の通信装置のところへ、ふたたび行くことができないでいるものと想像する。数日の間、われわれは、なにも受信していない。たぶん、彼は、あらたに引見され、そして、彼の前に述べたことについて、いいのがれをしようと努めているのではないだろうか。だが、そんなことは想像したくない。
ところが、突然、真夜中の悲鳴のように、沈黙の前の叫び声のように、最後の通信が、送られてきた。それは、大そう短い断片であって、二つの文章の、初めの部分だけひきちぎられたものだった。
最初のものは、
『まったく、気違いざただった。グランド・ルナーにあのようなことを知らせるとは――』
このあと、約一分くらいの間があった。おそらく、何らかの妨害が、外部からあったのだろう。機械からの離脱――ぼんやりと、青く照らされたあの洞穴のなかに、ぼうっと浮かびあがる装置の山のなかでの、おそろしいためらい――それから、突如、装置の前にとって返す。彼は、決心したのだ。だが、その決心も、今となっては手おくれだった。あわてふためいたように、通信が送られてきたが……
『ケイヴァーリットの製造は、つぎのようにして行なわれる、すなわち――』
その次には、まったく意味のわからないことばが、一つ――
『ダダ――』
そして、これで、すべて終わりだった。
彼の運命が、迫ってきたので、大急ぎで、彼は、『|無駄《むだ》だ』と、送信しようとしたのかもしれない。月世界の通信装置のまわりでどんなことが起こったにしろ、ぼくは、それを語ることはできない。それが何事であったにしろ、われわれは、二度とふたたび、月からの通信を受信することはないだろう。ただ、ぼく自身としては、生き生きとした想像力が、ぼくをたすけてくれる。で、ぼくは、それを、ほとんど実際にこの目で見たかのように、はっきりと想像することができるのだ。
青い光に照らしだされたケイヴァー氏は、髪をふり乱し、無数の、昆虫のような月人たちに押さえつけられて、気違いのようにあばれている。月人たちが、叫びながら、警告を発し合いながら、おそらく、最後には暴力をふるいながら、彼のまわりにむらがるとき、彼は、いっそう死にもの狂いに、ますます絶望的にあばれまわる。しかし、彼は、一歩一歩、次第に、彼の仲間である地球人たちに送りたいと思うすべてのことから、無理やり引き離されていく。永久に、だれも知らない――果てしない暗黒の世界へと……。(完)
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訳者あとがき
この「月世界最初の人間」は、二十世紀の初めの年、一九〇一年に出版された。
いま、ぼくらの生きている太陽系の宇宙には、すでに、多くの人工衛星が地球をめぐって飛行している。また、月や、火星や、金星にむかってさえ、調査のための人工衛星がなんども発射され、そのいくつかは、それらの天体への軟着陸に成功している。人類の夢であった月世界旅行は、空想ではなく、現実の可能性をもって目の前にせまっている。おそらく、現代の若者たちは、自分たちの生きている間に、人類の平和が実現されることよりも、月世界旅行が実現されることのほうをより強く信じているにちがいない。
しかし、本書の著者、H・G・ウェルズは、月世界旅行よりも、人類の平和の実現を信じ、かつ、それを願っていた。奇妙な話だが、フランスのジュール・ヴェルヌとともに、宇宙小説、空想科学小説の元祖のようにいわれているウェルズは、その生涯の関心を、宇宙や火星人や月人に対してではなく、宇宙からいえば一個の点のように小さなこの地球上の人類に対して持ちつづけて、死んだのだ。ウェルズにとって、空想科学小説の執筆も、すべて、地球や人類の問題を考えるための手段だった。
だが、それではウェルズの作品は、そういった理屈や観念に基づいた無味乾燥なものか? そうではないことは、すでに本書を読み、あるいは、「宇宙戦争」や「タイム・マシン」を読まれた方々は、ごぞんじのはずだ。ウェルズの作品を支えているものは、彼の豊かな学識と、若々しい理想主義と、その二つにも増して天才的な想像力なのだ。
たとえば、あの「宇宙戦争」に出てくるタコの化け物のような火星人を考えてみよう。ヴェルヌの潜航艇が現代の原子力潜水艦の原型として生きつづけているように、ウェルズの火星人も、宇宙生物の一典型として、ぼくらの空想の世界を這いまわっている。たとえ、太陽系宇宙の調査が完成して、火星や金星に生物の存在しないことが証明されたとしても、別の太陽系のどの星かには、タコのような、あるいは、人類そっくりの生物さえ存在しているかも知れない。ぼくらが、人類以外の、いわゆる宇宙人というものを考える時、あのタコのような形をした化け物しか思い浮かばないほど、ウェルズの想像力は独創的だった。
この「月世界最初の人間」では、その想像は、深い科学知識に裏打ちされ、さらに素晴らしい特色を発揮している。それは、彼が後年、「世界史大系」の中で集大成した≪文化人類的≫≪生物学的≫な視野を、未知の月世界に拡げ、そこに、地球の戯画、人類の未来国として月帝グランド・ルナーの王国を描き出しているというその点なのだ。
「月世界最初の人間」における月人の国は、明らかに、蟻の世界をモデルにしている。蟻たちの地下の生活は、巧みに月人の地下の世界に採り入れられ、しかし、その月人たちの生活は、地球人類の未来の生活のある局面を暗示し、ある時は苦笑を、ある時は恐怖をさえ感じさせる。あの巨大な脳髄の化け物のような月世界の支配者、グランド・ルナーは、非人間的な権力の象徴であり、記憶や推理や生殖や育児など、それぞれの機能だけが異常に発達した畸形の月人たちは、権力の支配のもとに人間性を喪失した未来の人類を暗示している。
本書で、最も劇的で意味の深い個所は、終わりに近く、一人取り残されたケイヴァー氏が、グランド・ルナーと対話を交すあたりであろう。ぶよぶよしたぶざまな脳髄の化け物の態度は、寛大で聡明さに充ちているようにみえる。ケイヴァー氏は、友好的、かつ紳士的に遇されているようにみえる。だが、それは、すべて、まやかしの寛大さなのだ。そこには、人間的なものがない。愛や、自由や、平等や、一切の人間を人間たらしめているものがないのだ。
グランド・ルナーが、ケイヴァー氏のことばの中から、地球の人間たちがいまだに失わないで持っている人間的な考え方、愛や、自由や、本当の平等などについての考え方が、自分の支配する月世界にとって、有害、かつ危険であることを悟ってゆくあたりは、不気味な感じさえする。そして、その結果、ケイヴァー氏からの月世界通信は妨害され、中絶させられてしまうのだ。
また、もう一人の月世界を最初に踏んだ人間、ベッドフォードという平凡な性格を通じて、人類という生物の、どうしようもない欲の深さと、闘争好きあるいは凶暴さが描かれているように思われる。そのベッドフォードが無事に地球に帰還して、ただの俗物としての余生を送ることになるのに対して、真理を探求する理想家、科学者ケイヴァー氏が月世界で蒸発してしまうという結末は、現実と理想のギャップに苦しみながら、世界連邦の実現に向かって、具体的な実践活動を続けた二十世紀の巨人的理想家、大啓蒙家、H・G・ウェルズの精神の深層を示しているような気がする。
ハーバート・ジョージ・ウェルズは、一八六六年、ロンドン郊外に生まれた。貧窮から身を起こしたウェルズは、苦学して中等学校の助教師となり、十八歳の時、ロンドンの科学師範学校に入学した。このころ、彼は、大生物学者トマス・ハクスリーに接し、将来、科学的思想家、大歴史家として、生物学や、人類史の著作をする基礎をきずいた。なおも研鑽をつづけたウェルズは、ロンドン大学へ進み、一八九一年に学位を得た。彼の最初の著作は、その後の教師生活の間に書いた「生物学読本」である。
やがて、ジャーナリズムの世界に進出したウェルズは、「盗まれた細菌、その他」(一八九五年)を手はじめに、「タイム・マシン」(一八九五年)、「モロー博士の島」(一八九六年)、「透明人間」(一八九七年)、「宇宙戦争」(一八九八年)など、空想科学小説を発表し、一作ごとにユニークな空想性と、それに加えて思想性を盛り込んでいった。そして、本書を契機として、社会小説から宗教小説のジャンルに移ってゆくとともに、世界の平和、人類の平等という理想のために、活発な実践行動に挺身するようになった。
ここまでの経歴でも明らかなように、ウェルズの思想の根底には、生物学がある。彼の代表的著作といわれる「世界史大系」(一九二〇年〜)にしても、その発想の根源には、ダーウィンからトマス・ハクスリーにつながる進化論の科学主義が存在している。≪人類の平和は、全人類が共通の歴史を持つことから始まる≫、というウェルズの理想こそ、世界連邦の実現に向かって、一九一九年、国際連盟の樹立に協力させ、「世界史大系」というぼう大な生物科学的人類史を三百万部以上も普及させた原動力なのだ。
だが、そうしたウェルズの理想、努力、祈願にもかかわらず、平和への道は、まだまだ遠かった。国際連盟は、第二次大戦の勃発を防ぐことはできなかった。彼の理想は、晩年において、ふたたび、みたび裏切られた。そして、一九四五年、人類は、初めて原子爆弾を使用するという愚行を犯した。時に、ウェルズは、七十九歳。さすがの大理想家も、生きることに疲れ果てていた。平和は永遠の幻想にすぎないのか? 彼は、その「世界史概観」(一九二二年〜)の改訂版の最終の章に、「行きづまりの精神」と題している。そして、自分の年老いたことに絶望し、希望を青年に託す心境を書いている。「青年は生命だ。青年たちの中にしか希望はない!」
こう書いた時、ウェルズは、若かった時の自分、青年としての自分をかえりみていたにちがいない。最大限三十五歳までを青年とみとめる、と、彼は書いている。自分たちが本質的に生きたのは、その年齢までだ、と。
とすると、面白いのは、この「月世界最初の人間」が書かれたのは、ウェルズの三十五歳の時、つまり、彼の青年期の最後の年だった、ということだ。彼が本質的に生きた最後の年の作品、とまでいってはいい過ぎかも知れないが、こういった事柄を考え合わせてみると、この作品が、単なる筋立てや、空想の面白さだけのものではなく、ウェルズの後年の業績、ジャーナリスト、啓蒙家、歴史家としてのすべての、その可能性と限界を示唆していることは当然だと思われる。
宇宙旅行の無重力状態を生き生きと描破し、核戦争の可能性を予言した彼の想像力も、二度の世界大戦を経て、いまだに混迷をつづけている人類の愚行に対して、明確な未来を示してはいない。ただ一ついえることは、人類が、すでに、愚かしき地球上の争いを超えて、宇宙時代を迎えつつあるという事実に、彼が触れたのが七十年前だったということだ。
H・G・ウェルズの空想科学小説の特色は、人類とその未来に対する深い関心、世界平和への高い理想という点にある。それが、彼の作品を単なる通俗的な読み物に終わらせない大きな理由なのだ。
一九四六年、H・G・ウェルズは、死んだ。八十歳だった。
その主著「世界史大系」と「世界史概観」とは、人類への大きな遺産として、改訂を続けながら残されている。
また、「タイム・マシン」「透明人間」をはじめとする科学小説は、いわゆるS・Fの古典として、さまざまなヴァリエーションを産みながら生きつづけている。
この「月世界最初の人間」も、ウェルズの思想と理想とを理解した上で読みつづけられる時、常に、宇宙と人類と生物に関する新しい興味と思索を呼び起こすであろう。