H・G・ウェルズ/能島武文訳
モロー博士の島
目 次
序詞
一 レイディ・ヴェイン号の小艇にて
二 どこかへ行く男
三 奇妙な顔
四 小帆船の舟べりにて
五 どこかへ行かねばならぬ男
六 凄い様子の男たち
七 鍵のかかったドア
八 ピューマの悲鳴
九 密林中の怪物
十 人間の悲鳴
十一 人狩り
十二 おきての語り手
十三 交渉
十四 モロー博士の説明
十五 獣人について
十六 血の味を知った獣人
十七 破局
十八 モロー博士の捜索
十九 モンゴメリーの大っぴらの休日
二十 ただひとり獣人とともに
二十一 獣人、本性にもどる
二十二 孤独の人間
あとがき
序詞
一八八七年の二月一日、帆船レイディ・ヴェイン号は、南緯一度、西径一〇七度の付近で、漂流船と衝突して消息を絶った。
一八八八年の一月五日――つまり、その消息を絶ってから十一か月と四日の後――確かに、南米ペルーの海港カラオで、レイディ・ヴェイン号に乗船したために溺死《できし》したものと思われていた、わたしのおじで、無職のエドワード・プレンディックが、南緯五度三分、西径一〇一度で、一|艘《そう》の小さなボートに救い上げられた。そのボートの名前は、しかとはわからなかったが、行方不明のスクーナー型帆船イペカキュアナのものと考えられている。
おじは、おそらくは、ひどい精神錯乱状態にあったものらしく、つぎのような世にも奇妙な身の上話をして聞かせた。その話をした後で、おじは、沈没するレイディ・ヴェイン号から逃がれたその瞬間から、自分の記憶がまったく空白だということを口に出した。おじの症状は、肉体的ならびに精神的ストレスにもとづく、奇怪な記憶喪失の一例として、当時、心理学者たちの間で論議をかもした。以下つぎに記す物語は、甥《おい》であり、相続人であり、下記に署名するわたしの手で、おじの遺《のこ》した種々な書類の中から発見されたものである。が、ぜひともという、はっきりした要請があって発表するものではない。
わたしのおじが救出された地域に存在するものとして知られている唯一の島は、ノーブル島という、ごく小さな火山性の無人の島である。そこには、一八九一年、帝国軍艦スコーピオンが、巡航の途中、寄港した。そのおり、水兵の一隊が上陸したが、ある種の奇妙な白い蛾《が》と、何頭かの豚とウサギと、ちょっと変わったネズミのほかには、生き物らしいものの姿は、なにもそこには発見されなかった、かつ、ここに述べられているような種類の生物については、いままで全然採集されたことも、確認されたこともなかったのだから、この物語は、そのもっとも本質的に特異な点において、嘘でもあれば真実でもあって、確証の外に立っているものである。そういう考えに立った上で、わたしが信じるとおり、この世にも珍しい物語を、おじの意図に従って公表するのは、なんらの害もないように思われる。すくなくとも、そのために大したことは起こらないという気がする。
わたしのおじは、南緯五度、西径一〇五度のあたりで、人類の経験の外に出てしまい、そして、十一か月の空白の期間をおいた後、その大洋の同じ辺りに再び現われたのであって、その間、どんなふうにかして、おじは生きつづけていたのに相違ないのである。そして、酔っぱらいの船長ジョン・デイビスの乗っていたイペカキュアナというスクーナー型帆船は、一八八七年の一月、一頭のピューマと、ほかにある種の動物類を積んで、アフリカの海港を出帆したもののようである。その船のことは、南太平洋のいくつかの港で評判だったが、最後には、(かなりの数のコプラを積んだまま)一八八七年の十二月、バニヤから、その測り知れない運命に向かって帆を上げた上、それらの海域から姿を消してしまったもののようで、その日時は、わたしのおじの物語とまったく一致する。
チャールズ・E・プレンディック
一 レイディ・ヴェイン号の小艇にて
帆船レイディ・ヴェイン号の遭難事件については、これまですでに、詳しく書きつくされているので、わたしは、こと新しく、なんにもそれ以上に書き加えようというつもりはない。周知のとおり、このレイディ・ヴェイン号が漂流船と衝突したのは、南米ペルー南西部にある海港カラオを出帆してから、十日目のことだった。船体はもちろん、乗組員もすべて、あっという間に、海に呑まれてしまった。ただ七人の乗組員の乗った船載の大型ボートだけが、それから十八日の後、イギリス帝国海軍の砲艦マートル号によって救助された。そして、これら七人の生存者の苦難を極めた漂流の物語から、この事件は、あのはるかに恐怖に満ちたメジューサ号の遭難事件にもおとらず、全世界に知れわたることになった。
が、それはそれとして、わたしはいま、新聞雑誌等によって世間に発表された、レイディ・ヴェイン号の遭難事件のほかに、それよりももっともっと恐ろしく、世にも不思議な物語を付け加えなければならない。というのはほかでもない。これまで、その救助された大型ボートのほかにも、艀《はしけ》のような小さなボートを船に積んでいたので、それに乗って逃がれた乗組員が四人あったのだが、四人とも残らず海の藻屑《もくず》と消えてしまったと思われているらしいのだが、しかし、それは必ずしも正確ではない。なぜ、こうまではっきり断言するかといえば、わたしがなによりもの証拠だからで――ほかでもない、かくいうわたしこそ、その四人のうちの一人だからである。
しかし、それよりも先に、まずいっておかなければならないことは、その艀《はしけ》に乗り込んだのは、四人ではなくて、三人だということである。『艀に飛び込むところを、船長が見た』(一八八七年、三月十七日付、デイリー・ニュース紙)というコンスタンスという男は、わたしたちにとっては幸運であり、かれにとっては不幸なことであったが、かれは、わたしたちの乗り込んだ艀に、うまく飛び込むことができなかったのだ。かれは、折れた船首の第一|斜檣《しゃしょう》の支柱の下に、むやみにからまっているロープを掻《か》いくぐるようにして飛び降りた。が、どれかそのロープが、飛び降りようとするかれの足を、くわえるように捉えた。かれは一瞬、頭を下にして宙ぶらりんに吊り下げられた。と思うと、あっと思う間もなく、水中に落ちて行った。そして、海面に浮流していた、帆桁《ほげた》だか、板っ切れだかに、はげしく体ごと、頭からぶつかって行った。わたしたちは、必死になって、かれの方に救いの手を伸べようとしたが、かれは二度と浮きあがっては来なかった。
はっきりいえば、かれが、わたしたちの艀に乗り込めなかったのは、わたしたちにとっては幸運であった。と同時に、かれ自身にとっても幸運であったといったほうがいいのかもしれない。というのは、艀には飲料用の水のはいった小さな水樽《みずたる》と、水びたしになったわずかばかりのビスケットがあるだけだったからだ――それほど衝突はとっさのことであり、船には惨事の場合の準備が、まったく欠けていたのだ。わたしたちは、大型ボートのほうの人間の手もとには、もうすこしましな食糧の用意があるにちがいないと思った。(実際には、そうではなかったらしいのだが)それで、わたしたちは、力のかぎり声をかけてみた。しかし、かれらの耳には、わたしたちの声はとどかなかった。
翌《あく》る朝、霧雨が霽《は》れて――それも、正午過ぎのことだったが――あたりが見えてきたが、かれらの姿も、大型ボートの影も、目にははいらなかった。ボートが、はげしい勢いで揺れるので、立ちあがって、見渡して見ることもできなかった。海は、大きくうねりにうねって、横波をくらって転覆しないように、ボートのへさきを大波と直角に向けておくのは、たいへんな仕事だった。わたしといっしょに本船を逃がれた二人というのは、わたし自身と同じような乗客であるヘルマーという男と、名前は知らぬが、船員の一人で、背は低いが、がんじょうな体つきの、どもりの男とだった。
わたしたちは、波のまにまに漂流をつづけた――腹はぺこべこで、水がなくなってからは、耐えられないほどの咽喉《のど》のかわきに責めさいなまれながら、八日間というもの漂流をつづけた。二日目から、波はおもむろに鎮まって、海面は、鏡のように穏かになった。しかし、その後の八日間にわたる苦しみは、そういう経験のない世間一般の読者には、とうてい想像することさえできないほどのものだった。そういう読者はまったくかれ自身にとって幸せなことには――そういう苦しみを夢にも考えるほどの記憶さえも持っていないのだから。
最初の日が過ぎると、わたしたちは、お互いに口をきかなくなった。ボートの底にひっくり返って、まじまじと、遠い水平線を眺めたり、じっと見守った。その目が、一日一日、日が経つごとに、大きくなって行き、落ちくぼんで行った。苦痛と衰弱とが、そばに寝転がっている仲間の上に、強く拡がって行った。太陽は、一日ごとに、情け容赦《ようしゃ》もなくなって行った。水は、四日目に底をついた。わたしたちは、もう奇径な、予想外のことばかりを考えるようになっていた。口を動かすのもものうく、お互いに目だけでものをいっていた。しかし、たしか六日目のことだったという気がするが、お互いにみんな胸の中に持っていたことを、ヘルマーが口に出していった。わたしは、わたしたちの声が、どんな声だったかを忘れもしない――乾からびて、か細い声だった。しかし、わたしは、自分のわずかに残った全力を振りしぼって、反対した。そんな人でなしの所業をするくらいなら、むしろボートの底に穴をあけて、わたしたちをつけているサメの群れの中に身を投げて、ともに海の藻屑《もくず》となったほうがましだと言い張った。しかし、ヘルマーが、自分の説を受け入れれば、水が呑めるのだというと、水夫は、意見を変えて、ヘルマーの説に同調の色を見せた。
けれども、わたしは、あくまでもくじを引こうとはしなかった。夜になると、水夫は、ヘルマーの耳に繰り返し繰り返し、ささやいていた。そして、わたしといえば、へさきに腰をおろして、手にしっかりと、大型の折りたたみナイフを握りしめていた――もっとも、わたしの内に闘うだけの力があったかどうかは、わからない。ついに朝になると、わたしもヘルマーの提案に賛同した。そして、わたしたちは半ペニー銅貨を投げ合って、貧乏くじの人間をきめることにした。
くじは、水夫に落ちた。しかし、わたしたちのうちで一番力の強いかれは、その取りきめに従おうとはしなかった。それどころか、いきなり両手をのばしてヘルマーに襲いかかった。二人は、取っ組み合って、ほとんど立ちあがりそうになった。わたしは二人に近づこうと、艀の中を這いずって行き、ヘルマーに力を借そうとして、水夫の脚につかみかかった。水夫はよろめいて、ボートは、ぐらっと大きく揺れた。二人は、舟べりに倒れ、組み合ったまま、海へ落ちた。二人は、さながら石のように、水中深く沈んで行った。わたしは、それを見て、ただげらげらと声を立てて笑っていた。なぜ笑ったのか、わたしにはわからない。その笑いは、なにか、わたしの身内《みうち》以外から来たもののように、いきなりわたしをぐっと捉えたのだ。
わたしは、艀の横木に倒れたまま、どれくらいの間そうしていたのか、わからない。頭の中では、気力さえあれば、この満々たる海の水を飲めるものなら、腹いっぱい飲んで、そくざに死んでしまってもいいと考えていた。
そして、わたしは、そのままその場に倒れていながら、帆が一つぽっかりと、水平線の上を、わたしのほうに近づいて来るのを見ても、絵でも見ているほどの関心も持たないで、ぽかんと見ていた。わたしの心も、とりとめもなくさまよっていたのに違いない。しかも、わたしは、はっきりとその出来事をおぼえている。わたしは、波のまにまに、わたしの頭も揺れていたのを忘れない。帆を浮かべた地平線も、上に下に踊っていた。そればかりではない。わたしは、自分が死んでしまったのだと信じてしまっていたことを、ちびりちびりと死んでしまおうとしているのに、冗談じゃない、いまごろ帆船があらわれるのは、ちっとばかり遅かったと思っていたのも、はっきりとおぼえている。
際限のない時間のような気がする間、わたしは、ボートの横木に頭をのっけて倒れたまま、踊るように上下に揺れるスクーナー型帆船が――小さな船だったが、船首から船尾いっぱいに、スクーナー式縦帆を張って――海面から立ちあらわれるように、近づいて来るのを見つめていた。船は、羅針盤いっぱいに進路をとって、右に左に帆を操《あやつ》りつづけている。それというのも、死んだように風一つない中を、帆をあげていたからだった。わたしの頭には、その船の注意をひいて、救助してもらおうという気さえも、全然浮かばなかった。そして、狭い船尾の船室で気をとりもどすまで、その船の舷側をこの目に見てから後のことは、なんにも、はっきりとは思い出せない。舷門《げんもん》までかつぎあげられ、そばかすだらけの、まっ赤な髪の毛を顔のまわりにたらした、大きな赤ら顔が、帆柱の上から、じっとわたしを見つめていたのを、ぼんやりとおぼえている。それからまた、何のつながりもない印象のひとこまとして、法外もなく大きな目をした、黒い顔が、わたしの顔にぴったり近づいたのもおぼえている。しかし、もう一度、その顔にぶつかるまでは、それは悪夢だったとしか思っていなかった。わたしは、わたしの歯の間に、なにか飲み物を流し込んだのをおぼえているような気がする。おぼえていることといえば、それだけである。
二 どこかへ行く男
わたしが横になっているのに気のついた船室は、どちらかというと乱雑にとり散らかした狭い部屋だった、亜麻色の髪の毛に、麦藁色《むぎわらいろ》の、ごわごわとした口ひげをはやして、下唇の垂れさがった、まだ年の若い男が、そばにすわり込んで、わたしの手首を握っていた。一瞬、二人は、口もきかずに、じっとお互いの目を見つめ合った。かれは、妙に表情のない、涙っぽい灰色の目をしていた。
そのとき、頭のま上から、鉄製の寝台の枠でもたたきつけるような音と、なにか大きな猛獣の、たけり立つような低いうなりごえがきこえてきた。同時に、相手の男が、また口を開いた。
かれは、さっきからの質問を繰り返した。
「気分はどうだね?」
わたしは、大丈夫なような気がすると、いったように思う。どうしてここにいることになったのか、わたしは思い出そうとしてみたが、思い出せなかった。そのわたしの顔色を見て、相手は、わたしが尋ねようとする胸の中を読んだのにちがいない。というのも、わたしの声はかすかで、わたしの耳にさえ聞こえるか聞こえないほどだったのだ。「きみは、ボートに乗っていたところを救いあげられたのだよ――いまにも、飢え死にしかかっていたんだぜ。ボートには、レイディ・ヴェイン号つて名前がついていたし、船べりには点々と血痕《けっこん》があったようだね」
それを聞いたとたん、わたしの目が自分の手に走った。ひどく痩《や》せ細った手で、ばらばらの骨を包んだ、うすぎたない皮財布のような気がした。とともに、ボートの中でのいっさいの出来事が、わたしの脳裡《のうり》によみがえってきた。
「これを飲みたまえ」そういって、かれは、なんか深紅の色をした飲みものを、わたしにくれた。氷のように冷たかった。
血のような味がした。とともに、前よりもしっかりしてきたような気持になった。
「きみは、ほんとに運がよかったんだぜ」と、かれはいった。「救いあげられた船に、医者までが、乗り組んでいたんだからね」かれは、舌でももつれるように、一語一語、だらだらした口調でしゃべった。
「この船は、どういう船です?」わたしは、のろのろといった。長いことものをいわなかったので、声がしわがれるようだった。
「アフリカから南米のカラオヘ行く、小さな商船さ。そもそもは、どこの港から出帆したのか、聞いてみたことは一度もないがね、たぶん、あほうの国からでも出たんだろうよ。ぼくは、アフリカから乗船した船客というわけさ。船の持ち主というのは、ぐうたらのばかでね――その男が、船長でもあるんだが、デイビスという男さ――船員免状もなにも、とうにどっかへなくなしてしまったような、たいへんな代物《しろもの》さ。わかるだろう。そういうたちの男のことは――船につけた名前だって、イペカキュアナなんて、下剤にする草の名なんだから――まったく、話にもなんにもならない、ばかばかしい名さ。もっとも、あまり風が吹かないときには、まったくおあつらえむきに、うまく走ることは走るがね」
そのとき、またしても、頭の上の騒がしい物音がはじまった。猛獣のうなり声に、人間の叫び声もまじった。すると、また別の声が、「このろくでなしのばか野郎」と、叱咤《しった》するように響いた。
「きみは、もう死んでいたといってもいいくらいだった」と、相手はいった。「まったく、いまにも死にそうだったんだぜ。だけど、ぼくが薬をくれたから、もう大丈夫。腕が痛むだろう? 注射したんだよ。きみは、かれこれ三十時間も人事不省《じんじふせい》だったんだぜ」
わたしは、おもむろに考えていた。たくさんの犬が吠え立てる声で、いまでは、わたしの頭は落ちついて考えられないほど掻きまわされていた。
「なにか身のある食べ物はもらえませんか?」と、わたしはたずねた。
「ぼくに礼をいってもらいたいね」と、かれはいった。「いわれるまでもなく、いま、羊肉《マトン》を煮させているところだよ」
「そうですか」と、わたしは、確かめるように、いった。「羊肉《マトン》がいただけるんですね」
「しかし」と、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》してから、かれはいった。「ねえ、ぼくは、どうしてもきみに聞きたいんだが、いったい、きみはどうして、たった一人で、ボートなんかに乗って漂流することになったんだね」
かれの目に、はっきりした疑惑の色が浮かんでいるのを見たと、わたしは思った。
「ちくしょう、なんて吠えやがるんだ!」
かれは、いきなり船室を出て行った。誰かとはげしく言い争うかれの声が聞こえた。相手も負けずに、なにかちんぷんかんぷんなことをしゃべっているように、わたしには聞こえた。そのあげく、誰か殴りつけられたような気配だったが、それは、わたしの耳の聞きちがいだったかという気がした。それから、かれは、犬の群れに向かってどなりとばしてから、船室にもどって来た。
「それで?」と、かれは、戸口に立っていった。「きみはいま、話し出そうとしたところだったね」
わたしは、話して聞かせた。名前は、エドワード・プレンディック、気楽に、独立して暮らせるだけの収入のある単調な生活から、気晴らしに自然科学の研究に身をゆだねるようになったということを話して聞かせた。かれは、その話に興味を感じたようだった。
「ぼくも、いくらか科学をやったことがある――大学のとき、生物学を研究したもんだ――ミミズの卵巣を摘出したり、蛇の舌を調べてみたり、いろいろとやってみた。やれやれ! 十年前の夢さ。いや、そんなことはどうでもいい、さあ、さあ――ボートのことを話してもらおうか」
かれは、わたしの話の率直さに、明らかに満足したようだった。その話を、わたしは、ごく簡単な言葉で述べたのだ――というのも、おそろしく疲労しているような気がしていたからだった――そして、わたしの話がおわると、たちまち、かれは話題を、自然科学の問題や、その専門の生物学の研究へともどして行った。それがすむと、トテナム・コート通りや、ゴウワー街の現状ついて、熱心に質間しはじめた。
「キャプラッチーは、まだ繁昌《はんじょう》しているかい? まったく、なんというすばらしい店だったろうね!」
かれは、誰が見ても、ごくふつうの医学生だったらしく、だらしがないほど、ミュージック・ホールのことなどを話してやめなかった。かれは、その当時のいろいろな隠れた逸話をも話して聞かせた。
「話はそれくらいでおしまいとしよう」と、かれはいった。「十年前のことだ。あんなことばかりして、ばかな真似《まね》をしたものだ! だが、ぼくも若かったからな……そのむくいというか、二十一にならないうちに、すっかり疲れきってしまっていたというわけさ。はっきりいうが、いまじゃもう、すっかり変わってしまった……だが、そんなことよりも、あのコックのばかやろうを見てこなくちゃいけない、きみの羊肉《マトン》をうまく煮てりゃいいが」
頭の上の騒ぎが、また新しくはじまった。ひどくものすごい、乱暴な怒りようだったので、わたしは、肝《きも》をつぶした。
「なんです、あれは?」わたしは、出て行くかれのうしろに声をかけた。が、ドアはばたんとしまった。
かれは、やがて、煮えた羊肉の皿を手にして、またもどって来た。わたしは、うまそうなその匂いをかいで、胸がわくわくしたので、猛獣の咆哮《ほうこう》の声のことなど、たちまち忘れてしまった。
食っては眠り、食っては眠り、睡眠と食事との一日がすぎると、わたしは、すっかり元気を回復して、寝床から立ちあがって、小窓のところまで歩み寄って、緑の海面を眺めることができるようになった。見たところ、この小帆船《スクーナー》は、追い風にうまく乗って走っているようだった。モンゴメリー――というのが、亜麻色の髪の毛の男の名前であったが、かれも、またはいって来て、立っているわたしのそばにならんだ。それで、わたしは、なにか着る物がほしいのだがと、頼んだ。かれは、自分のやつを貸してくれた。ボートの中でわたしが着ていた物は、海の中へ捨ててしまったからだというのが、かれの挨拶だった。かれは、大男だったので、服は、わたしにはちょっとだぶだぶだったし、袖もズボンも長すぎた。
かれがさりげなく話したところによると、船長は、一日の四分の三は酔っぱらって、自分の船室で寝ているということだった。服を着てしまったところで、この船の行先きはどこなのだと、いろいろ、かれにたずねはじめた。船はハワイに向けて走っているのだが、その前に、途中でかれを降すことになっているのだと、かれは告げた。
「どこで?」と、わたしはいった。
「ある島でね……ぼくの住んでいる島さ。ぼくの知っているかぎりでは、名前なんてないんだよ」
かれは、下唇の垂れさがった顔で、じっとわたしの目を見ていた。ことさら、ひどくばかげたような顔色だったので、それ以上、わたしの質問を避けたがっているのだなという考えが、ふいにわたしの頭に浮かんだ。それで、わたしは、それ以上の質問は、さし控えた。
三 奇妙な顔
二人|揃《そろ》って船室を出ると、行く手をふさぐようにして、仲間の男が一人立っていた。かれは、わたしたちに背を向けて、梯子の中途に立ち、艙口《そうこう》から外をのぞいていた。一見しただけで、奇形児だということがわかった。ちびのくせに、肩幅が広く、せむしの上に、毛深い首をしているばかりか、頭は両肩の間にめり込んだようで、まったく不恰好《ぶかっこう》な様子だった。濃紺《のうこん》のサージの服を着て、特別に濃《こ》いごわごわのまっ黒な頭髪をいただいていた。目にははいらないが、犬の群れが猛烈に吠え立てるのが聞こえた。男は、あわてて後ずさりしかけ、わたしとぶつかりそうになった。それをかわそうとして差し出したわたしの手が、相手のからだに触れると、かれは、さっと、動物のようなす早さで、振り向いた。
なんといっていいかわからないほど、さっと、わたしのほうを振り向いたまっ黒な顔に、わたしは心の底から強い衝撃を受けた。驚くべき醜怪な顔だった。顔の部分が、ぐっと突き出していて、なんとなく、けものの鼻づらといったらよさそうである。半開きの大きな口は、人間の口にある歯としては、これまでに見たこともないほどの、大きな、まっ白な歯をむき出しにのぞかしている。両眼は、へりのほうがまっ赤に血走り、薄茶色の瞳孔《どうこう》をとり巻く白目というものが、ほとんど見られない。奇妙な興奮の光が、その顔に強く浮かんでいた。
「こんちくしょう!」と、モンゴメリーがどなりつけた。「なんだって、どかないんだ?」
黒い顔の男は、ひと言も口をきかないで、飛びのいた。
わたしは、昇降口をのぼって行った。見まいとしても、本能的に、その男のほうに、わたしの凝視の目は行かずにはいなかった。モンゴメリーは、一瞬、階段の下にとまっていた。
「ここは、お前の来る場所じゃないことは、よく知っているんだろう」と、落ちついた口調でかれがいった。「お前の居場所は、前甲板じゃないか」
黒い顔の男は、おずおずとした顔色で、「あいつらが……前甲板へ行かせねえんです」かれは、のろのろとしゃべった。その声には、変なしわがれた響きがあった。
「前甲板へ行かせないって!」モンゴメリーは、おどすような声でいった。「だが、おれは、行けっていったろう」
かれは、まだなにかいおうとしたが、ふっと、わたしの顔を見上げると、黙って、わたしの後から階段をのぼって来た。わたしは、艙口を抜けようとして途中で立ちどまって、後ろを振り返った。この黒い顔をした生き物の怪奇そのもののような醜悪さを見た、はかり知れないほどの驚きが、まだ胸の中にくすぶっていた。生まれてからまだ一度も、こんないやらしい、驚くべき顔を見たこともない。それでいて――もし、矛盾というものが信用できるとしたら――わたしは、いま、わたしを驚かした生き物やその動作と、どこかで、これまでに出会ったことがあるという奇妙な感情を、同時に味わった。後になって、たぶん、ボートから救いあげられる時に見たのだろうという考えが頭に浮かんだが、それでも、以前にどこかで見たのではないかというわたしの疑念は、なかなか消えるまでには到らなかった。それにしても、これだけの異様な顔を、ありありとその目に見たものが、どうして、そのようなことを忘れるなどということがあるのだろうという考えが、わたしの頭の中を通りすぎた。
わたしの後からついて来るモンゴメリーの動きが、わたしの注意をそらしたので、わたしは振り向いて、この小帆船の平甲板を見まわした。それまでに聞いていた騒がしい物音から、何がわたしの目にはいるかということについては、すでに半ば腹づもりはできていた。まったく、これほどに不潔な甲板には、いまだかつてお目にかかったことがない。人参《にんじん》の切れっぱしや、野菜のこまかい屑《くず》が、ところかまわず散らかっていて、なんともいえないほどの汚さだ。大檣《だいしょう》の下には、シカ狩りに使う、ものすごい猟犬が何頭も鎖でつながれていて、わたしの姿を見ると、飛びかかろうとしたり、吠え立てたりしはじめた。後檣《こうしょう》のそばには、巨大なピューマが、身動きする余地もないほど狭くるしい、小さな鉄の檻《おり》にうずくまっている。ずっと向こうの右舷の手すりの下には、無数のウサギを入れた大きな小動物用の小室がある。そのすぐ前には、ただ二頭のラマ(南米産のラクダの一種)が、檻とは名ばかりの小さな箱の中で、押しつぶされそうにうずくまっている。犬どもはみんな、革の口輪《くちわ》をはめられている。甲板にいる人間といっては、舵輸をとっている、物もいわぬ、痩《や》せこけた水夫たった一人きりだった。
継ぎはぎだらけの、うすよごれた後檣縦帆《こうしょうじゅうはん》は、追い風を受けていっぱいにふくらんでいた。この小さな帆船は、ありったけの帆をあげて走っているようだった。空は晴れ渡り、ま昼の太陽が、ちょっと西へ傾きかけていた。大きな波のうねりが、波頭に白い泡をのせて、船の後を追っていた。わたしたちは、舵手の脇を通って、船尾の手すりのところまで行ってみた。船尾の下では、泡立ちながら波が追って来る。泡が、船の航跡の中で、踊ったり消えたりしている。わたしは振り向いて、汚れきった甲板を、ずっとへさきのほうまで見渡した。
「まるで、海上動物園じゃありませんか?」と、わたしはいった。
「そんなところだね」と、モンゴメリーがこたえた。
「この動物たちを、どうするんです? 売り物ですか、珍品というだけですか? 船長は、どこか南海のほうででも売りはらうつもりでいるんですか?」
「そう見えるかね?」そういって、モンゴメリーはまた、泡立つ波の方を向いた。
突然、はげしい咆哮《ほうこう》の声と、猛烈な悪態をつくつづけざまの声が、艙口の階段のほうから聞こえてきた。と思うと、まっ黒な顔の醜悪な男が、あわただしく階段をのぼって来た。そのすぐ後から、白い帽子をかぶった、ひどい赤毛の大男が追って来た。もうその時には、わたしに向かって吠え立てるのに疲れきっていた猟犬の群れが、醜悪な男の姿を見ると、興奮したように狂い立って、鎖をいっぱいに引っぱって、吠え立て、飛びついた。黒い男は、犬の前でたじたじとなった。その間に、赤毛の大男は追いついて、相手の肩岬骨《けんこうこつ》の間に、ものすごい一撃をくらわした。哀れな男は、なぎ倒された牛のように倒れて、猛り狂っている猟犬の群れの足もとのごみの中にころがった。犬に口輸がはまっていたのは、かれには運がよかった。でなかったら、どんなことになっていたかわからない。赤毛の男は、狂気したような叫び声をあげ、よろよろとよろめきながら突っ立っていた。わたしには、いまにもうしろ向きに階段のほうへ落ちるか、ばったり犠牲者の前に倒れるか、まったくあぶないという気がした。
そこへ、別の男があらわれたと見る間もなく、モンゴメリーがさっと飛び出していた。「そこを動くな!」と、かれが、押しとどめるような強い語調で叫んだ。水夫が二人、前甲板にあらわれた。
黒い顔の男は、奇妙な声でわめきながら、犬の群れの足もとをころげまわっていた。かれを助けようとするものは誰もなかった。畜生どもは、鼻づらをかれのほうに突きつけて、精いっぱい、かれを困らせているようだった。しなやかな灰色の体を、さっと踊りでもするように、不恰好に倒れている人間の上を跳ねたりした。水夫たちは、愉快な競技でも見るように、がやがやとわめき立てながら集まって来た。モンゴメリーは、腹立たしそうな叫び声をあげて、大股に甲板のほうへ降りて行った。わたしも、その後からついて行った。
と、そのとき、黒い顔の男が、むずむずと起きあがって、よろよろと前によろめいたと思うと主檣《しゅしょう》から左右に張ったロープのわきの手すりに、よろめくようにつかまって、息をはずませながら、肩越しに犬の群れのほうを睨《にら》みつけていた。赤毛の男は、いかにも満足そうに声をあげて笑った。
「きみ、船長」と、モンゴメリーは、赤毛の男の腕を、ぐっとつかんで、ちょっと語調を強めて、いった。「乱暴な真似《まね》はやめてもらおう」
わたしは、モンゴメリーのうしろに立った。船長は、ぐるっと半分ほど身をまわして、酔っぱらい特有の、どろんと濁った、そのくせものものしい目つきで、かれを見返した。
「なに、なにをやめろってんだ?」そういってから、ほんの一瞬、眠そうな目で、モンゴメリーの顔を見てから、船長はつけ加えていった。「この、ろくでなしの、やぶ医者め!」
いきなり、かれは、両腕を振りまわした。二度ほどむだにそんなことをしてから、そのしみだらけのこぶしを両のポケットに突っ込んだ。
「あの男だって、船客のうちなんだぞ」と、モンゴメリーがいった。「いっとくが、あの男に手なんか出さないほうがいいぞ」
「うるせえ!」船長は、大声にわめいた。かれは、突然、くるっと向き直って、ひょろひょろと脇のほうへよろめいて、「おれの船じゃ、おれの好きなようにするんだ」といった。
モンゴメリーも、こんなやつはほっといたほうがいいのにと、わたしは思った――見れば、やつは酔っぱらっているんだから。しかし、モンゴメリーは、ちょっと顔を青ざめさせて、船長の後を追って、舷側の手すりのほうに近づいた。
「もう一度いうぜ、船長」と、かれはいった。「ぼくのつれのあの男を、虐待なんかしないでくれ。この船に乗り込んでから、きみたちは、あれをいじめてばかりいるじゃないか」
ほんの一瞬、アルコールの毒気が、船長の舌をしばりつけて、言葉を吐き出させなかった。
「ろくでなしの、やぶ医者め!」とどなり返すのが、頭に浮かぶ精いっぱいの言葉だった。
わたしの見るところでは、モンゴメリーという男は、強情な性質で、そのくせぱっと発散しない、ゆっくりと日が経つにつれて白熱のように燃えあがるたちで、その代わり、いったん燃えあがった以上は、けっして醒《さ》めて許すことのないという性分のようだった。だから、この二人の間の争いも、いつからか根をひいているものだということがうかがわれた。
「船長は酔っているんですよ」と、たぶんよけいたおせっかいだろうが、わたしはそういった。
「なにをいってもむだですよ」
「おれの船は」と、船長は、ふらふらと、手を檻のほうに向けて振りながら、いった。「きれいな船だったんだぞ。それが見ろ、いまは、どうだ」そういえば、まったく義理にもきれいとはいえなかった。「乗組員だってな」と、船長は、またいいつづげた。「きれいな、りっぱな乗組員なんだぞ」
「動物を積み込むことは、きみが承知したんじゃないか」
「おれは、おめえさんのいやらしい島なんか見たくもねえや。いったい、どうしようってんだ……あんな島なんかへ動物を上陸させて? それに、おめえさんのつれっていう、あの男さ……あれで人間だってさ。あいつは、気ちがいじゃないか。それに、あいつが船尾なんかに、用なんかねえはずじゃねえか。おめえさんは、この立派な船が、おめえさんの物だとでも思ってるのかい?」
「きみの船の水夫たちは、この船に乗り込むとすぐに、あのかわいそうな男をいじめはじめたじゃないか」
「あたりめえさ、あいつの顔を見りゃ、いじめたくもなるさ――あいつは魔物だぜ、ふた目と見ちゃいられねえ魔物だぜ。おれの水夫たちは、あいつを見ただけで、胸がむかむかしてくるっていうんだ。おれだって、我慢ができねえんだ。誰だって、我慢のできるものなんかいねえ。おめえさんだって、そうだろう」
モンゴメリーは、顔をそむけて、
「とにかく、あの男はひとりにしておいてもらいたい」ひと言いうたびに、うなずくようにしながら、かれはいった。
しかし船長のほうは、いまでは、喧嘩《けんか》をするつもりになっていた。かれは、ますまま声を張りあげて、
「もしも、あいつがまた、後甲板なんかへ立ちまわりやがったら、おれは、やつの咽喉首をぶった切ってくれる、いいか。ほんとうに、やつののろわれた首を、ぶった切るぞ! おれのすることに指図をするなんて、おめえさんは、いったい誰だい。いっとくがな、おれは、この船の船長だぞ――船長で、船主さまだ。ここでは、おれが絶対なんだ、いいか――絶対であり、神なんだ。なるほど、おれは、一人の野郎とそれのつれを乗っけて、アフリカまで往復して、けものを積み込んで来る約束はした。だけど、気の狂った魔物だの、もうろくやぶ医者だのを運んでやるとは、約束しなかったんだからな――」
そうだ、相手がモンゴメリーをなんといおうと、気にすることはない。わたしは、モンゴメリーがひと足進み出たのを見て、わってはいった。
「相手は、酔っぱらっているんじゃないか」と、わたしは、押しとどめるようにいった。船長は、前よりもいっそう口ぎたなく罵《ののし》り出した。わたしは、「黙れ」とどなって、鋭く船長のほうを振り向いた。モンゴメリーのまっ青な顔に、危険な色を見たからだった。それで、わたしは、自分自身にたいへんなことを覚悟した。
けれども、それで、船長の酔っぱらったあげくの悪口雑言をうけることにはなったが、危く稀れに見るほどのとっ組み合いになろうとするのを、とめることができただけでも、わたしはうれしかった。これまでにも、たびたび風変わりな仲間に出会ったこともあったとはいっても、これほど口ぎたない言葉が、人間の口から、ひっきりなしに吐き出されるのを、かつて聞いたことはなかった。聞くに耐えられない言葉だと、わたしは思った――もっとも、わたしは、おとなしい気性ではあった。しかし、たしかに、黙れと、船長に向かってどなった瞬間、この船に助けられた、ただの漂流者あがりの人間にすぎないということを忘れていたのだ。一文の金もなく、船賃も払えぬのに、ふとこうして運んでもらっているにすぎない人間なのだ。船長も、それをわたしに思い出させようとして、はげしく食ってかかったのだ。しかし、とにかく、わたしは、そのお陰で、二人の争闘を防ぐことができた。
四 小帆船の舟べりにて
その日の夕方、太陽が落ちてから、はるかかなたの海上に、島の影が目にはいった。小帆船《スクーナー》はそれに針路を向けた。モンゴメリーは、あれが、ぼくの目的地なのさ、と、わたしに告げた。はるか遠くで、こまかいことはなんにもわからなかった。そのときには、ただ、暮れなずんで紺色がかった灰色の海に浮かぶ、ぼうっとした青味を帯びた低い地面としか、わたしには思われなかった。ただ煙がひとすじ、空に向かって、ほとんど一直線に立ちのぼっていた。
島影が見えたときには、船長は、甲板にはいなかった。わたしに向かって、さんざん悪口雑言をあびせたあげく、かれは、蹌踉《そうろう》と下へ降りて行った。たぶん、自分の船室にもぐり込んだあげく床にでも寝て、眠り込んでしまったのだろう。実際に水夫たちに命令を下しているのは、航海士だった。昼間、舵輪の前に立っているのを見た、痩せて無口な男だった。この男も、モンゴメリーには悪感情を抱いているようで、わたしたちのどちらにも、ほんのわずかばかりの気も使わず、無視しきっていた。わたしとしては、すこしばかり話しかけようとしてみたが、むだということがわかったので、それから後は、食堂でテーブルを同じにしながら、むっつりと黙り込んだまま、わたしたちはかれと食事をともにしていた。
それからまた、わたしの友人やかれの動物たちに対しても、乗組員たちが、驚くべきほどの敵意を含んだ扱いをしているのも、わたしの胸に強くひびいた。またモンゴメリーという男も、なんのために、こんな動物を大洋のまん中の孤島まで運んで行くのか、目的地でなにをしようとするのか、かたく口を噤《つぐ》んだまま語ろうともしなかった。そして、わたしはといえば、だんだん好奇心が強くなっていくのを感じたが、強いてかれから聞き出そうともしなかった。
わたしたちは、すっかり夜のとばりが降りて、空いっぱいに星がきらめくまで、後甲板で語りつづけていた。黄色い灯《あかり》の見える前甲板で、ときどき物音がするのと、檻の中の動物がおりおりごそごそと身動きするだけで、夜はおそろしく静まり返っていた。ピューマは、鉄檻の隅っこのほうに、黒い塊りのようにうずくまっていて爛々《らんらん》と光る目でじっとわたしたちを見つめていた。猟犬どもは眠っているようだった。モンゴメリーは、葉巻を取り出して、わたしにもすすめた。
かれは、わたしを相手に、ロンドンの様子を、遠い想い出を懐しむかのように、また心の古傷に触れるのが苦しいといったような口振りで、あれこれと、その後に起こった変化の様子などを、根掘り葉掘りたずねていた。かれは、そのロンドンで送っていた生活を、十分に享楽していたのだが、ふいに、二度ともどれないほどの理由で、そこを離れなければならなかった人間のような口振りであった。わたしは、あれこれと、知っているかぎりの噂話《うわさばなし》をして聞かせた。その間じゅう、かれの妙に打ち解けないことや、その一風変わったことが、わたしの心に強く形をとって行った。わたしは話しつづけながら、わたしの背後の、羅針盤を照らしている、ぼうっとしたランプの灯に照らされた、妙に青ざめたかれの顔を、そっとうかがった。と、そのとき、すっかり黒ずんでしまった海のほうに目をやった。モンゴメリーの目的地である小さな島も、その暗い闇の中に、かくされてしまっていた。
この人物は、ただわたしの命を救うためだけに、この広大な空間からあらわれたのだという気が、わたしにはした。明日になれば、この船の舷側からおりて行って、再びわたしのいるところからは消えてしまうのだろう。たとえ、それはごくありふれた事情であったかもしれないとしても、すくなからずわたしを考えに耽《ふけ》らせずにはおかなかった。それよりもまず何よりもわたしが考えさせられたのは、かれのように相当に教育もある人間が、このような人にも知られない孤島に住むということの異常さであった。それとともに、かれの荷物の並はずれた内容のことであった。わたしは、船長の質間と同じような質問を、胸の中で繰り返している自分自身に気がついた。
いったい、この男は、この動物たちをどうしようというのだろうか? 最初に、この動物たちのことを尋ねたとき、どうしてまた、この動物たちが自分のものではないというふりをしたのだろうか? それからまた、かれが個人的につれている従者に、奇怪な特質があるということが、深い印象をわたしに与えていた。こういう事情が、この人物のまわりに、怪奇の靄《かすみ》を深く投げかけていた。それらのことごとくが、わたしの想像を押しとどめ、深く問いただそうとするわたしの舌の動きを妨げていた。
ま夜中近くになって、ロンドンについてのわたしたちのおしゃべりの種もつきた。わたしたちは肩を並べて、舷側によりかかって立ち、星を映して静まり返っている海を、夢見るように見つめては、めいめい自分自身の考えを追っていた。まったく多感な気分に満ちていた。わたしは、改めて感謝の気持が芽を出してきた。
「こんなことをいって何ですが」と、しばらくして、わたしはいった。「あなたは、わたしの命の救い主です」
「偶然さ」と、かれはこたえた。「ほんの偶然ですよ」
「いずれ、わたしの弁護士にいってやって、お礼をさせるつもりでおります」
「礼なんかいわれると恐縮するよ。きみの体が手当てを必要とした。ぼくには医学の知識があった。注射をしたり、食物を与えたというのも、研究資料でも集めるというだけのことだったのさ。退屈しきっていたんで、なにかすることがほしかっただけのことなんだ。もし、あの日、疲れているとか、きみの顔が気に入らなかったら、そうさね――きみがいまどうなっていたかわかったものではないね」
この言葉は、わたしの気持を、すくなからずがっかりさせた。
「とにかく――」と、わたしはいいかけた。
「とにかく偶然だよ、はっきりいうが」と、かれは、わたしの言葉をさえぎった。「人生においては、なにからなにまで偶然なんだよ。ただ、ばかには、それがわからないだけなんだ。なぜ、ぼくがいま、こんなところにいるか――文明から見はなされた人間として――ロンドンのあらゆる楽しみも享楽できる幸福な人間でいられるのに、こんなところにさまよっているのはなぜか? なんでもない、そのわけは――十一年前――霧の深い夜、わずか十分間、ぼくの理性がうしなわれたからなんだ」
かれは、そこで口を噤《つぐ》んだ。
「そうして?」と、わたしは先をうながした。
「それだけのことさ」
わたしは、またしても沈黙に落ちた。しばらくして、かれは、声を出して笑った。
「この星のきらめきの中には、ぼくの舌をほぐす何かがあるらしいね。ぼくも、ばかな男だね、きみの顔を見ているうちに、なんとなくきみにしゃべりたくなってきたよ」
「どんな話か知りませんが、信用してください、絶対にしゃべりませんから……もらしていけないことなら」
かれは、いまにも話しはじめようとしていたが、そのときになって、どうかしらというように、首を振った。
「やめてください」と、わたしはいった。「わたしにとっては、同じことかもしれません。いずれにしても、あなたの秘密は、あなたひとりの胸にしまっておかれたほうが賢明でしょう。あなたの打ち明け話を伺ったとして、すこしばかり気休めになるだけで、ほかに得るところは何もないと思います。しかも、もし、そうでないとすれば……ねえ、そうじゃありませんか?」
かれは、どちらとも決しかねるように、咽喉をならした。わたしは、自分の思慮のない気分に相手を引き込んで、ばつの悪い立場に相手を追い込んだという気がした。ほんとうのことをいえば、一人の若い医学生が、ロンドンから追い立てられた理由を、ぜひとも聞いてみたいという気も、わたしにはなかった。わたしも、想像力というものを持ち合わせている。それで、肩をゆすって、わたしは、くるっとうしろを向いた。船尾の手すりによっかかって、黒い人影が黙々として星を見つめていた。それこそ、モンゴメリーの怪しげな連れであった、その人影も、振り向いたわたしの動きを感じたのか、さっと肩越しに、わたしのほうを見た。それからまた、向こうを向いた。
たぶん、そんなことは、読者諸君にとっては、つまらないことかもしれない。が、わたしにとっては、いきなり叩きのめされたような強い衝撃だった。わたしたちの身近かにある明かりといえば、舵輪のそばにあるランプの灯だけだった。その船尾のうす暗がりから、ほんの一瞬、黒々とした顔が、その明かりのほうに振り向けられたとたん、ちらっとわたしのほうを見た二つの目が、青白い、緑がかった光を帯びて光ったのを、わたしは見たのだ。
そのときには、わたしは、赤味がかった光輝をはなつということが、人間の目にあって珍しいものではないということを知らなかった。だから、爛々《らんらん》と燃えあがる光は、まったく非人間的な、残忍なもののように、わたしを打ってきた。あの火のように燃える目を持ったまっ黒な姿は、大人であるわたしの思想や感情を残らずなぎ倒した。ほんの一瞬の間、永い間忘れていた子供のときの恐怖が、わたしの心によみがえってきた。と思うと、来るのも早かったが、その印象の去るのも早かった。不恰好な人間の形をした黒い姿が、なんの変わった意味もない人の姿が、星の光を背にして、船尾の手すりの上に乗り出していた。気がついてみると、モンゴメリーが、わたしに話しかけていた。
「さあ、そろそろ部屋へはいるとしようか」と、かれはいっていた。「もう、たっぷり話したからね」
わたしは、いいかげんな返事をした。わたしたちは下へ降り、かれは、わたしの船室のドアのところで、おやすみといった。
その夜、わたしは、おそろしく不愉快な夢に悩まされつづけた。かけた月が、遅く昇った。その幽霊のような、弱い、青ざめた光が、わたしの船室の窓から射し込んで、寝床のわきの板張りに、不吉な影をつくった。すると、シカ狩りの猟犬が目をさまして、吠えたり、長い遠吠えをはじめたので、わたしは、発作的に夢を見て、ほとんど、夜明けが近づくまで、ぐっすりと眠ることができなかった。
五 どこかへ行かねばならぬ男
あくる朝早く――わたしの意識が回復してから二日目の朝で、この帆船《スクーナー》に救いあげられてから四日目だったと思うが、わたしは、つぎからつぎとつづく、おそろしい悪夢から目をさました。大砲がとどろき。暴漢が喚声をあげてさわいでいる夢だった。すぐに、頭の上のほうで、胴間声《どうまごえ》をあげて叫んでいるのに気がついた。わたしは、目をこすりながら、まだ横になったまま、それらの物音を耳にして、しばらくは自分がどこにいるのか、はっきり思い出せなかった。そのとき、ふいに、ばたばたと歩きまわるはだしの足音や、重い物を投げ出す音や、荒々しく、ききとなる音や、鎖がからからという音が聞こえてきた。すると、突然、船がぴたっととまって、水が大きくはねかえる音が聞こえたと思うと、黄緑色の泡立つ波が、小さい円窓にぱっとはね返って、流れ込んで来た。わたしは、急いで服を着かえて、甲板へ出て行った。
階段をのぼりつめると、輝くばかりの空を背景にして――というのは、いまや太陽が昇ろうとしているところだったが――船長のひろい背中と、まっ赤な髪の毛とが見えた。そして、その船長の肩越しに、後橋の帆桁に装置された巻揚機が、ピューマの檻を吊るしあげているところだった。哀れな猛獣は、ひどくおじけづいている様子で、小さな檻の底にうずくまっていた。
「みんな揚げてしまうんだ!」と、船長はわめいていた。「みんな揚げるんだ! 全部かたづけてしまったらすぐに、船をきれいにするんだぞ」
かれは、わたしの行く手に立ちはだかっていたので、わたしは、甲板へ出るのに、やむを得ず、かれの肩を叩かないわけにはいかなかった。かれは、びくっとして身をまわし、よろよろとふた足ほど、うしろへよろめきながら、わたしの顔をじろじろと見た。相も変わらず酔っぱらっているなということは、馴れた目でなくてもよくわかった。
「やあ」と、ばかのような口振りで、相手はいった。その目に、きらっと鋭い光を浮かべて、「だれかと思ったら、ミスター――なんとかいったな?」
「プレンディックですよ」と、わたしはこたえた。
「プレンディックだって、とんでもねえ!」と、かれはいった。「黙れ、てえのが、おめえさんの名前だろう。黙れさんてんだな」
こんな畜生のような男に、返事をしたところで何の役に立つものでもなかった。ところが、このつぎのかれの行動が、なにをするか、わたしはまったく予期もしていなかったのだが、かれは手をぐっと伸ばして、歩み板のほうを指さしたのだった。そこではモンゴメリーが、明らかにいま乗り込んで来たばかりと思われる、汚れた紺のフラノの服を着た、どっしりした白髪の男と立ち話をしているところだった。
「あそこだ、黙れさん。おめえの行くところは、あすこだ」と、船長は、吠えるようにいった。
モンゴメリーとかれの相棒とは、その声を聞いて、驚いて振り返った。
「なんですって?」と、わたしは聞きかえした。
「あの歩み板だよ、黙れさん――そういってるんだ。上陸するんだよ、黙れさん――大急ぎでな。おれたちは、この船から、追っばらうんだ、いまいましいものをいっさいがっさい、この船から追っぱらって、きれいさっぱり清めるんだ。だから、おめえにも降りて行ってもらおうってんだ」
わたしは、あきれてものもいえずに、かれを見つめた。すぐに、それはまさに、こちらの望むところだという考えが、頭に浮かんだ。こんな喧嘩好きな飲んべえ相手に、たった一人の船客として、面白くもない船旅をつづけるなんて、考えただけでもみじめなものだ。わたしは、モンゴメリーのほうを振り向いた。
「おことわりします」と、モンゴメリーの相棒が、ぶすっといった。
「つれて行っていただけないとおっしゃるんですね!」わたしは、びっくりしていった。
かれは、わたしがかつて見たこともないような、とりつくしまもないほど、とても決然とした顔をしていた。
「ねえ、きみ」と、船長のほうを振り向いて、わたしはいいかけた。
「下船してくれ」と、船長はいった。「この船は、野獣を乗せる船じゃないんだ。野獣よりももっと悪い、人食い人種は、ごめんだ。降りてもらうぜ、おめえさんにも――黙れさん。あの連中が、おめえをおことわりだというんなら、漂流でもするんだね、おめえは。だが、とにかく、おめえは行くんだね! おめえの友人たちといっしょにな。おれは、もうこんないまいましい島とは、永久に縁切りだ! もうたくさんだよ」
「だけど、モンゴメリー」と、わたしは助けを求めた。
しかし、かれは、下唇をゆがめて、自分には救ける力がないといわんばかりに、かれのそばに立っている白髪の男のほうに、力なく首を振って見せた。
「いずれ、そのうちにまたおめえに会うよ」と、船長はいった。
それから、奇妙な三つどもえの言い合いがはじまった。わたしは、三人の男をつかまえて、かわるがわる哀願して行った。最初に、白髪の男に上陸させてくれといい、ついで、酔っぱらいの船長に、このまま船においてくれと頼んだ。水夫たちにまで、大声で嘆願までもした。モンゴメリーは、首を振るだけで、ひと言も口をきこうともしなかった。
「はっきりいっとくが、おめえは降りるんだ」と、船長は繰り返しいった……「法律なんて、くそをくらえだ! ここじゃ、おれが王さまなんだからな」
とうとう、力いっぱい、おどすようにまくし立てていたそのまっただ中に、ふいに、わたしの声が割ってはいったのを告白しなければならない。わたしは、ヒステリーのような、暗い激情を感じて、つかつかと船尾に行き、陰気に、呆然と中空を見つめた。
その間、水夫たちは、あわただしく、包装した荷物や、檻に入れた動物たちの積みおろし作業を進めていた。小帆船《スクーナー》の風下には、四角な縦帆を二本立てた大型のランチが横づけになって、その中に、見馴れないいろいろな荷物が吊りおろされていた。そのランチの船体は、スクーナーの船腹の陰になっているので、どんな人間が島から来て荷物を受けとっているのか、そのときは、わたしには見えなかった。
モンゴメリーも、かれの相棒も、わたしには、ほんのいささかも注意を払わなかった。それどころか夢中になって、荷物を積みおろしている四人か五人の水夫たちの手伝いをしたり、命令をしたりしていた。船長は、手伝うどころか、むしろ邪魔でもするように、ずうずうしくでしゃばっていた。わたしは、あきらめてみたり、必死になってみたりしていた。自分のみじめな窮境を考えて、大声に笑い出したくなるような衝動を押さえることができなかった。朝食さえもとらなかったので、ひどくみじめな気がしていた。飢えと血液の欠乏とは、人間から人間らしさまでも奪ってしまうもののようだった。わたしは、わたしを追い出そうとする船長に抵抗するか、モンゴメリーやかれの仲間に、むりに自分を押しつけるか、どちらかをする気力さえもなくなっていることを、身にしみてはっきりと感じた。それで、わたしは強いてさからわないで、運命の赴くままに待っていた。モンゴメリーの持ち物をランチに運ぶ作業は、まるで、わたしなどはその場にいないかのように、どんどんと進行した。
やがて、その作業がおわると、今度は、わたしの番になった。じたばた揉《も》み合ってみたところで、わたしの抵抗などはまことに弱いもので、たちまちのうちに、踏み板のところに引っ張って行かれた。そんな時でも、わたしは、モンゴメリーといっしょにランチに乗っている人間たちの、茶褐色した顔の異様さに気がついた。しかし、ランチには、いまでは荷物が満載されていて、あわただしくスクーナーから離れようとしていた。緑色を帯びた水面のすきまが、一刻一刻幅広く、わたしの下にあらわれてきた。わたしは、まっさかさまに落ちるのを避けようとして、全力を振り絞って、引きとどまろうとした。
ランチにいた乗組員たちが、あざわらうように、大声ではやし立てた。モンゴメリーが、かれらに怒鳴りつけるが聞こえた。すると船長と航海士と、船長に力を貸していた一人の乗組員とが、わたしのいる船尾のほうへ走ってきた。船尾には、そのうしろのほうにレイディ・ヴェイン号の小さなボートが綱で曳《ひ》かれていた。ボートには半ば水が満ちていて、オールもなければ、まったく食糧品の積み込みもなかった。わたしはそんなものに乗せられてはたまらないと、力のかぎり抵抗し、甲板にふんぞり返って動こうともしなかった。とうとう、船長たちは、わたしをロープに縛りつけて、ボートに吊るしおろした――船には、船尾の梯子がなかったのだ――そして、曳綱を切ってしまった。
わたしのボートは、ゆっくりとスクーナーから離れて、海面を漂流した。茫然自失の形で、私は、乗組の全員が帆をあげにかかるのを眺めていた。そして、張られた帆の一つ一つがいっせいにはためき、風をはらんでふくれあがった。風雨にさらされた船腹が、わたしのほうへ鋭く傾くのを、わたしは見守っていた。そうして、スクーナーは通りすぎて、わたしの視界から去っていった。
わたしは、首をまわして、その後を見ようともしなかった。最初は、いっさいの出来事を、ほとんど信ずることもできなかった。わたしはボートの底にうずくまり、呆然として、むなしく、脂ぎった海を、うつろに眺めていた。やがて、自分が再び、あの以前のような、哀れな地獄に落ちて、もはや半ば溺れかけているのだと悟った。船べりのほうを見返ると、赤毛の船長が、船尾から乗り出して、わたしのほうを見てあざ笑っていた。島のほうを振り返ると、ランチは、小さく小さくなって海岸さして近づいていた。
ふいに、このように捨て去られたことの残酷さが、はっきりと、胸に沁《し》みてきた。なにか偶然の幸運でもあって流されていかないかぎり、陸地に辿《たど》りつく手だては、わたしにはなかった。読者諸君もお忘れにはなるまいが、長いことボートで太陽にさらされていたことから、いまもまだすっかり衰弱しきっていた。わたしは、空腹で、すっかり気力がなくなっていた。でなければ、もうすこしは力が出せるはずであった。わたしは、小さい子供の時以来、かつて覚えたことのないほど、ふいに、泣き出した。涙は、後から後からと頬を流れ下った。自暴自棄の情にかられて、ボートの底にたまった水を、こぶしをかためて打ちつけ、荒々しく船べりを蹴《け》った。わたしは、大きな声で、いっそひと思いに死なしめたまえと、神に祈った。
六 凄い様子の男たち
ところが、島の人間たちは、わたしが実際に波間に漂っているのを見て、さすがに哀れを感じたらしい。わたしは、ひどくゆっくりと、東の方に流されて、島の方に近づきかけていた。そのうちに、ランチが急に向きを変えて、わたしの方にもどって来るのを見つけて、わたしは、狂喜するほど安心した。ランチには、積み荷がいっぱいだった。近づいたランチを見ると、肩幅の広い、白髪のモンゴメリーの相棒が、船尾の薄板の上に、犬の群れや、数多くの荷物の間に、窮屈そうにすわっているのが見うけられた。その人物は、身動きもせず、ものもいわず、じっと目をはなさずに、わたしを見つめていた。まっ黒な顔の片輸者は、ピューマのそばのへさきから、これもじっとわたしを睨みつけていた。そのほかに、妙にけだものじみた顔の男が三人乗っていた。その連中に向かって、猟犬どもは、歯をむき出して猛烈にうなりつづけていた。舵を操っていたモンゴメリーは、ランチをわたしのボートに近づけると、立ちあがって、わたしにボートのもやい綱を投げさせ、舵の柄にしばりつけて、ボートを曳航して行くようにした――ランチには、わたしを乗せる余地がなかったからだ。
もうそのときには、わたしも、気ちがいじみた気持から、落ちつきを取りもどしていた。そして、かれが近づくと、男らしく大きな声でかれを迎えて、ボートは水がいっぱいで沈みかけているのだと知らせた。すると、モンゴメリーは、片手桶をほうってよこした。ボートとランチとの間のロープが、ぐいと強く引かれた。わたしは、水を掻い出すのに夢中だった。
それからしばらくして、水が引いていって――必死になって、ボートの水を汲み出し、完全にボートが安全になったからだが――わたしは、改めてランチに乗っている人たちを見る余裕ができた。
白髪の男は、相も変わらず、わたしをじっと見つめたままでいたということに気がついた。が、その顔には、困ったことになったものだといわんばかりの表情が浮かんでいるような気が、わたしにはした。わたしの目が、かれの目とぶつかると、かれはあわてて目を伏せて、その膝《ひざ》の間にうずくまっている猟犬に目をやった。かれは、前にもいったとおり、力に満ちあふれた体つきで、秀いでた額《ひたい》に、どちらかというと激しい気性をあらわすような顔だちをしていたが、そのくせ瞼《まぶた》の上の皮膚が、時として妙にたるむ目のあたりを見ると、ひどく年をとっているのではないかという気がするとともに、また大きな口縁が、ぐっとへの字に曲がっているのは、不屈不撓の決心の強さを、ありありと示してもいた。
かれは、モンゴメリーと何か囁《ささや》き合っていたが、声が低すぎて、わたしには聞きとれなかった。かれから、わたしの目は、かれらの仲間の三人の男たちのほうへさまよって行ったが、まったく奇怪としかいいようのない仲間たちだった。ただかれらの顔を見ただけだったが、かれらの顔には、何かがあった――それが何かは、わからなかったが――しかし、その何かは、吐き気を催すほどの奇怪な発作を、わたしにおこさせた。わたしは、じっとかれらの顔に目をこらした。そして、何がそういう気をおこさせたのか見定めることはできなかったが、その強い印象は、わたしの頭から消えなかった。
かれらは、その時には、茶褐色の人間のような気が、わたしにはした。が、その手足とも、手の指先、足の先まで、何か薄いよごれた白い物で、妙に包みかくしていた。東洋の女ででもなければ、こんなに肌を包みかくしている男を、これまで一度も見たこともなかった。かれらはまた、頭にはターバンを巻きつけて、その下からは、小鬼めいた顔が、わたしのほうをのぞいている。顎をだらんと突き出して、目ばかりぎらぎら光らせている顔だ。まっ黒な毛を、ほとんど馬のたてがみのように、長く垂れさがらしている。そして、かれらがすわって漕《こ》いでいるところは、これまで見たどの人種の体格よりもすぐれているような気がした。白髪の男にしても、見たところでは、身の丈《たけ》六フィートは優にあるのだが、それでいてその連中のそばにすわると、やっと肩にとどくくらいであった。
ところが、後になってわかったことだが、実際のかれらの背丈は、わたし自身よりもちっとも高くはないのだった。が、ただ胴体ばかりが異様に長くて、脚のももの部分が極端に短く、奇妙なふうに曲っているのだった。何にしても、驚くべき醜悪な連中で、頭の上のほうの、前に突き出した下に、まっ黒な人間の顔がのぞいていて、その目という目が、まっ黒に光っているのだ。
じっと、かれらの顔を見つめているわたしの視線が、かれらの目とぶつかると、まず最初の一人が、つづいてつぎの者というように、だんだんに、あからさまなわたしの視線を避けるように、目をそらしながら、なお変に人の目をぬすむようなそぶりで、わたしのほうを見るのだった。たぶん、わたしが気が高ぶってるせいなのだろうという気が頭に浮かんだので、わたしは、近づいている島のほうに注童を向けた。
島には、高所というところがなく、一帯に低いところばかりで、密林におおわれていた。主としてヤシの一種で、わたしには目新しいものだった。島の一角から、まっ白な、細い煙がひとすじ斜めに、無限の空高く立ち昇っていて、その先は、羽が落ちるように宙に消えている。わたしたちの舟は、西側から低い岬にかかえこまれたようになっている広々とした入江の中にはいって行った。海岸は、くすんだ灰色の砂浜で、いきなり、海面から六、七十フィートはあるかと思われる隆起まで、険しくそそり立っていて、いろいろな木々や藪などが、ところ構わず植え込んである。その中段に、四角な、白黒まだらの石で囲んだところがある。後で知ったが、一部は珊瑚《さんご》、一部は軽石のような熔岩で作ったものだった。この囲いの中から、藁葺《わらぶき》の屋根が二つ見えていた。
一人の男が、波打ち際に、わたしたちの近づくのを待っていた。わたしたちの舟が、まだずっと沖にいるとき、その男のほかに何か、恐ろしく怪異な恰好をした生き物が、斜面の藪の中へあわてて逃げ込んだような気がしたが、ずっと近づいてみると、そんなものはなんにも見えなかった。この待っていた男は、わたしたちと同じくらいのふつうの背丈でまっ黒な、ニグロのような顔をしていた。大きな、ほとんど唇のない口に、異常なほどひょろ長い腕、痩せて、ひょろ長い脚を、弓のようにがに股《また》に曲げたまま、不恰好な顔をぐいと突き出すように立ちはだかって、じろじろと、わたしたちのほうを見ていた。かれもまた、モンゴメリーや、白髪の男と同じように、紺サージの上着とズボンを身に着けていた。
わたしたちの乗った舟がさらに近づくと、その人間は、とても奇怪な動作をしながら、砂浜を右に左に駆けまわり出した。モンゴメリーが、ひと言、命令の言葉を口から出すとランチに乗っていた四人の男が、妙にぎこちない身のこなしで、いっせいに立ちあがり、縦帆をおろした。モンゴメリーは、ランチを操って、海岸に掘りこんである狭い、ささやかな船着場へ乗り入れた。すると、海岸に立っていた男は、急いでわたしたちのほうにやって来た。もっとも船着場とはいっても、いまのように満潮になったときにだけ、かろうじてランチを入れられるだけの、実際は、ほんの堀割り程度のものだった。
二艘の舟のへさきが、砂浜をかむ音を聞いて、わたしは、片手桶でランチの舵機を避けながら、もやい綱をといて、砂浜に降り立った。体じゅうを布で巻いた三人の男も、とびきり不細工な動きで、もぞもぞと砂浜の上にはい出して来て、すぐに船の荷を揚げにかかった。浜辺にいた男も手つだった。わたしは、ぐるぐると布で手足を巻いた三人の男の、なんとも奇妙な脚の動きを見て、とりわけ奇怪な感じに打たれた――とにかく、かれらの脚は、ただ硬直しているというのではなくて、なんだかおかしな恰好にねじれているのだ。まるで、関節がまちがったところについているといってもいいほどだった。犬の群れは、まだうなっていた。白髪の男につれられて陸へ揚がると、鎖がいっぱいに伸びきるほどに引っぱって、この異様な連中に吠えかかった。
三人の大男は、船尾に積んだ荷物を運びながら、咽喉の奥から吐き出すような口調で、お互いに話し合った。浜辺で待っていた男も、興奮した様子でおしゃべりをはじめた――変な、どこか他国の言葉だ、と、わたしは思った。どこかで、以前、こんな声を聞いたようでもあったが、どこで聞いたか、はっきり思い出せなかった。白髪の男は、六匹の犬の騒々しく吠え立てるのを押えつけて、騒ぎをどなりつけていた。舵機をはずしおわったモンゴメリーも、ランチから降りて来て、みなといっしょに荷揚げの仕事にとりかかった。わたしは、長いこと物も食べずに、むき出しの頭を太陽に照りつけられて、すっかり衰弱しきっていたので、手つだおうともいい出せなかった。
そのうちに、白髪の男は、わたしのいることに気がついたらしく、そばへ寄って来て、「どうやら、あんたは」と、いった。「朝の食事は、まだのようでしたな」
かれの小さな目が、濃《こ》い眉《まゆ》の下で、きらきらとまっ黒に光っていた。
「どうも失礼しました。いまは、あんたは、われわれの客人だから、せいぜい不自由のないように、してあげなければなりません――もっとも、お招きしたというわけではないのですがね」
かれは、きっと、わたしの顔を見た。
「モンゴメリーの話では、あんたは、相当、教養のある方だそうですな、プレンディックさん――いろいろ自然科学のこともご存じだという話だが、どんなことか、うかがわしていただけませんですかな?」
わたしは、王立科学学校に、数年間学び、ハックスリー教授のもとで、生物学の研究をしたと語った。かれは、それを聞いて、かすかに眉をあげた。
「それだとすると、事情がすこし変わってきますな、プレンディックさん」と、いささか敬意を含んだ態度で、かれはいった。「偶然というんですかね、ここにいるわれわれも生物学者でしてね、ここは、生物学研究所――と、まあ、いったようなものなんですよ」と、一生懸命に、ピューマの檻をローラーの上をころがして、囲いのほうへ運んでいる人間たちのほうに目をとめながら「すくなくとも、わたしとモンゴメリーとはね」とつけ足していった。
それから、
「いつあんたが、ここを離れられるかは、わたしにはいえません。ここは、どこへ行く航路からも離れているので、船が通るのを見るのも、一年に一度あるかなしですからね」
そういうと、かれは、だしぬけに、わたしのそばを離れて、そこにいる連中のそばを通り越し、海岸をのぼって行った。たぶん、囲いの中へはいって行ったのだろう。ほかの二人の男たちは、モンゴメリーといっしょに、船から揚げた小さい荷物を、低い荷車に積みあげていた。ラマは、ウサギの檻といっしょに、まだランチに残したままだった。猟犬もまだ横木につないだままになっていた。やがて、荷物は積みおわった。三人は、荷車に手をかけて、おびただしい重荷を、ピューマの檻とともに荷車に乗せて、押しにかかった。それを見て、モンゴメリーは、かれらのそばを離れ、わたしのそばへもどって来て、手を差し出した。
「これでよかった」と、かれはいった。「ぼくも安心した。あの船長は、ばかなやつなんでね。だいぶ、きみにも乱暴なことをしたようだが」
「いや、あなたのおかげです」と、わたしはいった。「今度もまた、あなたに助けていただきました」
「そういう、まわり合わせになっただけですよ。そのうちには、この島がひどく変てこな島だということに気がつくにちがいないと、いまから、約束しておいてもいい。ぼくがきみなら、用心だけは忘れんつもりさ。あの男にしても――」と、いいかけたことを、はっきりいうのを躊躇した。唇まで出かかったことを、気を変えたようで、「このウサギを片づけたいんだが、手をかしてもらえるとありがたいんだがな」といった。
かれのウサギについての始末の仕方が、また奇抜だった。かれに手つだってウサギの檻を浜辺に揚げた。すると揚げるなり、かれは、その戸口を開き、片方のはしを持ち上げたと思うと、なかの生き物を地面にぶちまけた。ウサギの群れは折り重なるようにしてこぼれ落ちた。それと見て、かれが両手を強く叩くと、ウサギは、十匹か二十匹もいたであろうか、ピョンピョンと飛び跳ねながら、浜辺から上の叢林のほうへ逃げこんで行った。「産めよ、ふやせよだ、わが友よ」と、モンゴメリーは、それに向かっていった。「島じゅういっぱいになれ。そうすれば、ぼくらも、ここで肉食にこと欠かなくなるんだ」
ウサギの群れが、そこらに身をかくすのを見つめていると、白髪の男が、ブランデーの瓶と、ビスケットを持って、もどって来た。「なんとか、これで腹をこしらえなさい。プレンディック君」と、すっかり前よりは打ちとけた口振りで、かれはいった。
わたしは、遠慮などしなかった。それどころか、すぐにビスケットを食べにかかった。その間に、白髪の男は、モンゴメリーに手つだって、さらにたくさんのウサギの群れをはなしにかかった。けれども、大きな檻三つだけは、ピューマとともに、家のほうへ運ばれて行った。ただし、わたしは、生まれてから酒は一滴も口にしなかったので、ブランデーには手を触れようともしなかった。
七 鍵のかかったドア
読者諸君は、最初、わたしの身のまわりが何から何まで、おそろしく変わっていてもの珍しかったということは、たぶん、わかっていただけることと思う。第一、わたしの境遇からしてが、あのような思いももうけない冒険の結果だったので、自分の身辺のあれこれについて、その奇怪な不思議なこととの間にどういう関連があるのか、まるきり、わたしにはわからなかった。わたしは、最後に浜辺に揚げられたラマの後について行くと、モンゴメリーに呼びとめられて、石の囲いの中へははいらないようにしてくれ、といわれた。そのときになって気がついてみると、檻にはいったピューマも、いろいろな荷物の山も、みなその囲いの入口の外においてあった。
振り向いて浜辺のほうを見ると、ランチはもう荷物をすっかりおろしてしまって、浜辺に引き上げてしまってあった。すると、そこへ白髪の男が、わたしたち二人のほうに歩み寄って来て、モンゴメリーに話しかけた。「ところで、この招かれざるお客の間題だがね。いったい、この人をどうしたらいいだろうね?」
「この人には、自然科学の素養があるんですよ」と、モンゴメリーがいった。
「わしはまた、研究にとりかかりたくて、うずうずしているんだがね――この新しい材料で」といいながら、白髪の男は、石の囲いのほうを顎でさし示しながらいった。その目は、前よりもいっそう、きらきらと光を帯びていた。
「そうでしょうな、よくわかりますよ」と、モンゴメリーは、心からそう思うような口調で言った。
「この人をあちらへやるわけにはいかんし、かといって新しい小屋をたててやるひまなんか、かけてはいられない。といって、まだいまのところ、信用されるところまではいってはおらんからね」
「わたしは、どんなことでも、あなたのお手つだいをさせてもらうつもりですよ」とわたしはいった。〈あちらへやる〉とかれのいったことがどういう意味か、なにも、わたしにはわからなかったのだ。
「ぼくも、同じようなことを考えていたところだったんですがね」と、モンゴメリーがこたえた。「ぼくの部屋はどうかしら、外に出入りのドアもあるし――」
「なるほど、それだ」と、老人が、そくざに、モンゴメリーの顔を見ていった。そして、わたしたち三人は、石囲いの方へ行った。「隠しごとをしているようですまん。プレンディック君――だが、あんたが招かれざる客だってことも、忘れないでいてもらいたい。わしらのこの小さな建物には、秘密というか、そんなようなものがあってね。まあ青ひげの部屋のようなものなんだ、実際はね。といっても、ほんとうにひどく恐ろしいものは、全然ないのさ――正気の人間にとってはね。だが、いまのところは――わしらは、あんたという人のことがよくわからないのでね――」
「はっきりと申しあげますが」と、わたしはいった。「あなたがたの信頼を裏切るような、ばかなことはしないつもりです」
かれはその大きな口を曲げて、かすかに微笑した――かれは、口のへりを下げて微笑するだけの癖のある、あの陰気な人々の一人だった――そして、わたしの素直な気持ちを受け入れるように、軽く頭を下げた。わたしたちは、石囲いの正門を通りすぎた。鉄の枠がついた頑丈な木の門扉《もんぴ》がついていて、鍵がかかるようになっていた。ランチから運んだ荷物は、門の外に積みあげてあった。正門を通りすぎて来ると片隅に、それまで気のつかなかった小さな戸口があった。白髪の男は、脂じみた紺の上衣のポケットから鍵束を取り出すと、このドアを開けて、中にはいった。そのかれのたくさんの鍵と、念入りに、その後の鍵をかける動作とは、かれの目の前ではあったが、一風変わったものとして、わたしの心に残った。
かれの後について行くと、そこは小さな部屋になっていた。質素な調度が備えつけてあったが、あまり居心地はよさそうではなかった。奥のほうに、すこし開いたままのドアがあって、石畳みになった中庭がのぞいていた。この奥のドアを、モンゴメリーは、すぐにしめてしまった。うす暗い部屋の隅に、ハンモックが吊ってあった。鉄枠のはまった、ガラスのはめてない小さい窓から、海の方が見えた。
これが、わたしの部屋だ、と、白髪の男がいった。そして、『万一の用心のために』外側から鍵をかけておくことにするが、この奥のドアが限度で、そこから中へははいらないようにと、わたしにいい渡した。かれは、窓の前の、ごく簡単なデッキ・チェアや、ハンモックのそばの棚に並んだ古びた書籍のほうに、わたしの目を向けさせた。その書籍類はよく見ると、主として外科関係の医学書で、ほかは、ラテンとギリシャの古典類で――なんかの慰めに読めるような故国の言葉のものはなかった。かれは、二度と奥のドアをあけたくないといったふうで、外側のドアから部屋を出て行った。
「ぼくたちは、いつも、ここで食事をすることになっているんだがね」といいながら、モンゴメリーは、どうしたのだろうという顔つきで、その後を追って行った。「モロー」と、わたしは、かれが白髪の男に呼びかけるのを耳にした。その瞬間には、それに気づいたようには、わたしは思わない。その後で、書棚に並んだ書物を手にとって見ているうちに、ふっと、モローという名前は、以前、どこかで聞いた名前じゃなかったかしら? という考えが、意識の底に浮かんで来た。
わたしは、窓の前のデッキ・チェアに腰をおろして、まだ手もとに残っていたビスケットを取り出して、食べた。すばらしくうまかった。
『モロー?』
窓から見ると、あのなんとも不思議な白い服を着た男たちのうちの一人が、荷造りした箱を一つ、砂浜の上を引っ張っていた。やがて、窓枠にさえぎられて、その男の姿は見えなくなった。そのとき、背後の鍵穴に鍵がさしこまれて、かちっとまわる音が聞こえた。しばらくすると、鍵のかかったドアの向こうから、ついさきほど海岸からつれて来た猟犬の鳴き声が聞こえた。鳴き声といっても、吠え立てているのではなかったが、妙なふうに、鼻をならし、うなっているのだった。その犬たちが、せわしなくぱたぱたと走りまわる音や、モンゴメリーが、その機嫌をとっている声がはっきり聞きとれた。
わたしは、この建物のなかのことを、この二人がひた隠しにするのに、非常に強い印象を受けた。それで、しばらくの間、そのことだとか、モローという名前を、いつ、どこでとはいえないが、たしかにどこかで聞いたのだがと、考えていた。だが、人間の記憶などというのはおかしなもので、そのときには、この有名な人物の名前を、その特殊な結びつきの点で思い出すことができなかった。それにつづいて、わたしの物思いは、海岸で見かけた、白い包帯を巻いた、醜い男の、なんとも口にはいえない奇怪さにもどって行った。
あのような歩き振り、あの男が箱を引っ張っていたときの、あのような奇妙な動作を、わたしは、かつて見たことがなかった。わたしは、あの男たちが一人として、わたしに口をきいたことがなかったということを思い出した。もっとも、ほとんどの男たちが、おりおり、変にこっそりぬすみ見るような目つきで、わたしのほうを見るのには気がついていた。が、その目つきたるや、誰でも知っているような、人ずれのしていない野蛮人たちが見馴れない人に向ける、あの無遠慮な視線とはおよそ似ていないものだった。いったい、どこの国の言葉をあの連中は話しているのだろうと、わたしはいぶかった。連中はみんな、おそろしく口数がすくないようだった。が、しゃべるときには、とても薄気味の悪い声で話し合っていた。いったい、あの連中は、どこが悪いのだろう? そのとき、わたしは、あの不恰好なモンゴメリーの連れの目のことを思い出した。
ちょうど、かれのことを考えていると、かれが部屋へはいって来た。いまは、純白の服を着て、コーヒーと野菜の煮たのとをのせた小さな盆を持っていた。かれがはいって来たとたん、ぞっと身の毛がよだつように後ずさりするのを押えることができなかった。かれは、慇懃《いんぎん》に身をかがめて、わたしの前のテーブルの上に、その盆をおいた。
が、つぎの瞬間、驚愕《きょうがく》のあまり、わたしは、全身がしびれたようになってしまった。かれのまっ黒な巻き毛の下にのぞいている、かれの耳を、わたしは見た! その耳が、わたしの顔のすぐ近くに、わたしに飛びかかるように、びんと跳ね返った。その男は、見事な茶褐色の毛におおわれた、そのとんがった耳を持っているではないか!
「朝のお食事でございます、だんなさま」と、かれはいった。
わたしは、返事をしようともせずに、かれの顔を凝視していた。かれは、くるりと向き直って、ドアのほうへ歩んで行った。ドアのところで立ちどまって、肩越しに、変な目つきで、じろりとわたしを見た。
わたしは、目で、かれの後を追っていた。と、そのとたん、全意識の脳の働きのいたずらといおうか、わたしの脳裏に、さっと、一つの言葉が飛び込んできた。『モロー――モロー、だったかしら? モロー――だったな? ああ、そうだ!』わたしの記憶は、十年の昔にもどって行った。『モローの恐怖』その言葉が、しばらくの間、わたしの脳裏を、羽を拡げて飛びまわった。鈍い黄色のパンフレットに、赤い活字で印刷してあったその言葉が、まざまざと眼前に浮かんできた。それを読んで、恐ろしさにぞくぞくと身ぶるいしたことが、現在のことのように記憶によみがえってきた。そのことについてのいっさいのことが、はっきりと思い出された。あの久しい間忘れていたパンフレットのことが、驚くほど鮮明に、わたしの頭によみがえってきた。そのころ、わたしは、まだほんの若者にすぎなかった。おそらく、モロー博土は、五十ぐらいだったろう。卓越した、腕のすぐれた生理学者として、常識を超えた洞察力と、討論に際して示す旺盛な闘争心とで、科学者仲間での有名な存在であった。
この人が、あのモロー博土と同じモローであろうか? かれは、輸血に関連して、いくつかのまったく驚嘆すべき研究事実を発表していたし、さらに、癌《がん》についても貴重な業績をあげようとしていることでも、あまねく知られていた。ところが、突然、かれの一生の行路がおわってしまった。かれは、イギリスを去らなけれぱならなくなってしまった。ある新聞記者が、研究室助手の資格で、かれの研究室にはいり込むことに成功した。おそらくは、この高名な科学者の研究室について、センセイショナルな暴露記事を書こうという計画的な意図があったのだろう。そして、世間をあっといわせるような出来事によって――それが不幸な偶然だったとしても――かれの研究のいきさつを記したあのいまわしいパンフレットが評判になった。そのパンフレットが公表されたその日に、皮を剥がれ、どこかからだの一部を切除された、世にもみじめな一匹の犬が、モローの家から逃げ出したのだった。
折り悪しく、八、九月という、新聞種のすくない時期だった。身内の男を探訪記者として、臨時の研究室助手にもぐりこませた、頭の切れる新聞編集長は、でかでかと書き立てて、国民の良心に訴えた。博士の研究方法に対して、一般の道義心が嫌悪を抱いていたのは、それがはじめてではなかったのである。その結果、博士は、いとも簡単に、国外に追放された。そういう目に会わなければならなかったのも、かれとしては、当然だといえるかもしれなかったが、かれの仲間の研究者たちの援護がきわめてなまぬるいものであり、かつ、有力な科学者の団体が、かれを見殺しにしたのは、学会の恥ずべきことであったと、いまでも、わたしは思わずにいられない。そうはいっても、かれのいくつかの実験は、その新聞記者の報道によれば、きわめて残忍なものであった。おそらく、彼がその研究を放棄すれば、かれの社会的な地位は保たれたかもしれなかったのだが、ひとたび、圧倒的な研究の魔力の手中に陥った、ほとんどの者が、いまさらやむにやまれぬのと同じように、かれは、敢然として、自分の研究を続行する道をえらんだ。かれは、独身であった。そして、かれ自身の研究以外、実に考慮をはらうべきものは何物もなかったのだ……。
わたしは、この人物こそ、往年のモロー博士と同じ人物に相違ないという確信を抱いた。あらゆることが、それを裏書きしていた。いろいろな荷物類といっしょに、家のうしろの囲いの中に、いま運びこまれたピューマや、そのほかの動物類の運命が、どうなるかということが、わたしには、明らかにわかってきた。かすかにただよう異様な臭気、嗅《か》ぎなれたおぼえのある悪臭、これまで、わたしの意識の奥深く眠っていた臭気が、ふいに、わたしの思考の前面に浮かびあがってきた。手術室の消毒薬の匂いだった。石壁の向こうから、ピューマのうなり声が聞こえた。犬が一匹、殴りつけられたらしく悲鳴をあげた。
しかし、いうまでもなく、わたしもまた、特に科学者のはしくれである。生体解剖という事実を、こうまで秘密にしているからといって、それほどまでに恐れおののくことは何もなかった。そして、わたしの胸の中に、モンゴメリーがつれていた男の、ピンと尖った異様な耳や、暗闇の中に青白い光を放っていた凄い眼が、思いもかけず、これ以上もないほど鮮明に、再びわたしの前によみがえってきた。わたしは、さわやかな徴風をうけて波立っている、目の前にひろがる緑色を帯びた海を見つめながら、この数日のうちに出会った不思議な数々の記憶を、あれやこれや、頭の中で追いかけていた。
いったい、どういうことになるのだろう? 孤島の中の鍵をかけた石の囲い、評判の生体解剖学者、そして、これらの片輸の、手足の曲がった人間たちは、いったい、どういうことになるのだろう?
八 ピューマの悲鳴
わたしが、その一事についての神秘と疑惑に陥っていると、モンゴメリーが、その思考を中断した。例の異様な従者が、かれの後からついて来た。パンや、野菜や、そのほかの食べ物や、ウイスキーの瓶を一つと、水指しとともに、グラスとナイフを三つずつ載せた盆を捧げている。ちらっと横目で、この奇怪な男を見ると、相手もまた怪しげな、落ちつきのない目で、わたしを眺めているのに気がついた。いっしょに昼食をしようと、モンゴメリーはいいながら、モローは、ちょっと手が離せない仕事があるので、来られないといった。
「モローだって!」と、わたしはいった。「その名前にはおぼえがある」
「とんでもないことをいった!」と、かれはいった。「なんてばかなことを、きみにいってしまったもんだ。ぼくも考えなしだったな。とにかく、これで、きみにも見当がついたのじゃないかな、われわれの――秘密に。ウイスキーはどうだね。」
「ありがとう――わたしは、酒はやりません」
「ぼくも、酒なんか飲まなければよかった。しかし、いまさらくやんだところで後の祭で、馬が盗まれてから、厩舎《きゅうしゃ》の戸に錠をおろしたところでなんの役にも立ちはしない。ぼくが、こんな島まで来るようになったのも、その悪魔のような酒のせいなんだ。こいつと、霧の夜のせいなんだ。モローに出かけないかと誘われた時、そのときのぼくは幸福だと思ったものなんだが、おかしなもんで……」
「モンゴメリーさん」と、外のドアをしめて例の男が出て行くのを見て、いきなり、わたしはいった。「どうして、あの男は、あんな尖った耳をしているんです?」
「なんだって!」と、最初のひと口、料理をほおばったところで、そういったかれは、一瞬、じっとわたしの顔を見てから、繰り返していった。「尖った耳だって?」
「ふつうの耳にしちゃ、ちょっと尖っているんです」と、わたしは、できるだけ穏かに、ひと息にいった。「しかも、その先のほうを黒い、きれいな毛がおおっているんです」かれは、おそろしくゆっくりと、ウイスキーと水を、自分でついで飲みながら、
「ぼくは、気がつかなかった……いつも、髪の毛が、耳にかぶさっているんでね」
「さっき、あんたがコーヒーを持って来させたとき、テーブルに置こうとして、ぼくの前でかがみこんだときに見つけたんです。それに、あの男の目は、暗闇の中で光りますね」
もうそのときには、モンゴメリーは、わたしの思いがけない質問への驚きから、落ちつきをとりもどしていた。
「ぼくも、常に考えていたんだ」と、かれは、特有の舌のもつれるような発音で、考え考えいった。「あの男の耳には、何かいわくがあるとね。あいつが、耳を隠しているところから見てね……なにに似ていたというんだね?」
わたしは、かれの態度から、ことさら知らないふりをしているのだと思わないわけにはいかなかった。しかしそれでも、相手を嘘つきだと思うとは、いい出しかねた。
「先がとんがっているんだよ」と、わたしはいった。「どっちかというと小さくて、毛でおおわれて――たしかに毛でおおわれているんだ。だが、ぼくが、これまで目をつけた人間が全部、ひどく奇妙なんだ」
鋭い、苦痛に耐えかねたような動物の、しわがれた悲鳴が、わたしたちのうしろの囲いの中から聞こえてきた。その悲鳴の強さといい、その高さといい、ピューマのものに相違なかった。わたしは、モンゴメリーがたじろぐのを、目にした。
「それで?」と、かれはいった。
「きみは、あの男をどこからつれて来たんです?」
「うむ――サンフランシスコさ……あの男は、たしかに醜悪なやつだということは、認めるよ。あのとおりの、うすばかだろう。だが、ぼくは、あの男にはもう慣れっこになってしまっているんだ、ねえ。われわれ二人ともね。いったい、あの男が、どうして、きみを驚かしたんだろう?」
「あの男は不自然すぎますよ」と、わたしはいった。「あの男はなんかわけがある……気まぐれすぎると、ぼくを思わないでください。ですが、あの男がそばに来ると、体中が固くなるようないやな気がするんです。なんかこう……悪魔的なもののような気味がするんです、実際のところ」
わたしが、そういっている間、モンゴメリーは、食べるのをやめていた。
「へんだね」と、かれはいった。「ぼくには、よくわからないね」
かれはまた、料理にとりかかった。
「ぼくには、全然、そういう感じはないね」と、かれはいって、料理を噛《か》んでいた。「スクーナーの乗組員たちも……きっと同じような気持になったにちがいない……あの哀れなやつを、さんざんやっつけていたっけな……きみも、船長の扱いを見ていたろう?」
ふいに、ピューマがまた吠え立てた。今度は、いっそう苦痛に耐えかねているような声だった。モンゴメリーは、なにか口の中で、ぶつぶつとつぶやいていた。わたしは、海岸で見かけた男たちのことを、かれに聞きただしてみようと思っていたところだった。がそのとき、哀れな動物が、立てつづけに、きれぎれの、鋭い悲鳴を張りあげた。
「さっき、海岸にいた連中ね」と、わたしはいった。「あれは、なんという人種ですか?」
「すばらしいやつらじゃないかね?」と、動物の、鋭い叫び声に眉を深く寄せながら、かれは、うわの空でいった。
わたしは、それ以上、もう何もいわなかった。前よりもいっそうひどい悲鳴が聞こえてきた。
かれは、陰気な灰色の目で、わたしを見た。それから、さらにウイスキーを飲んだ。かれは、わたしをアルコールについての議論に引っ張りこもうとした。わたしの命を救ったのも、そのおかげだというのだった。かれのおかげで、わたしの命が救われたということを、強調したいようなふうだった。
やがて、わたしたちの食事がおわると、例の耳のとんがった奇形な怪物があらわれて、テーブルを片づけて行き、モンゴメリーもまた、わたし一人を部屋に残して行ってしまった。食事の間じゅう、生体解剖であげるピューマの悲鳴が聞こえるたびに、かれは、変に興奮を押し隠しているような様子だった。その癖、自分は妙に気にはならないのだなどといい、わたし一人を、明らかにいらいらさせるままにしていた。
わたしは、その悲鳴が変にいらいらさせるものだということを感じていた。その悲鳴は、午後の時間が経過するにつれて、ますます強く、激しくなって行った。はじめは、痛ましいほど苦しそうだったが、最後には、小止みもなく、つぎからつぎと悲鳴がおこるので、わたしの精神の平静を、すっかり転倒させてしまった。わたしは、読んでいたホラティウスの訳本を投げ出して、拳を握りしめ、きっと唇を噛みしめて、部屋じゅうを歩きはじめた。
やがて、わたしは、指で耳をふさがないではいられなくなった。
感情をゆすぶらないではおかない、泣き叫び訴えるような悲鳴は、絶え間なく、わたしの胸をゆすぶり、とうとう最後には、鋭い苦痛の極隈に達するほどになったので、わたしは、それ以上、その狭苦しい部屋にじっとしていられないほどになった。わたしは、ドアをあけて、午後もやや遅くなった、眠気を催すような暑気の中に飛び出し、正門をぬけ――気をつけて、鍵をかけ――石壁の隅のほうに向かって歩きかけた。
ドアの外へ出ても、悲鳴はさらに高く響いた。まるで世界中の苦痛が、この声一つにこりかたまったようだった。しかも、このような残忍なことが隣室で行なわれていると知っていて、かりに、わたしが|おし《ヽヽ》かつんぼだったとしたら――と、それ以来、考えるのだった――わたしといえども、十分に我慢していることができたかもしれないが、耳の聞こえるわたしにはとうていじっと辛棒してなどいられなかった。苦痛が、声一つにこりかたまって、わたしたちの神経をゆすぶりつづけるとき、そのあわれさは、わたしたちを苦しめずにはおかないのである。ところが、この石畳みの壁にかこまれた家からおこる悲痛な叫び声の届かぬところまで行ってしまわぬかぎり、太陽は燦々《さんさん》とかがやき、木々の緑の葉は、心を静めるような海からの微風にゆれているにもかかわらずこの孤島の世界は、吹き寄せる黒と赤のまぼろしによごれきって、何が何だかわからなかった。
九 密林中の怪物
わたしは、建物の裏手の小山をびっしりおおっている叢《くさむら》を、大股に進んで行った。どこへ向かっているのか、ほとんど気にもかけなかったが、叢を越えて、まっすぐに枝を張った木々の、びっしり繁った深い影を通りすぎて行くと、いつか小山の反対側の斜面に出ていた。そして、狭い谷間をぬって流れている細流のほうに降《くだ》って行った。わたしは、立ちどまって、耳を澄ました。よほど遠くへ来たせいであろうか、それともまた、木々の茂みにさえぎられているせいであろうか、石の囲いの中からの悲鳴も、ここまでは届いてこないようだった。あたりは静かで、空気さえも動かないようだった。すると、かさかさと音を立てて、ウサギが一匹飛び出して来たと思うと、跳ねるようにして、わたしの前の斜面を駆けのぼって行った。わたしは、どうしたものだろうかとためらいながら、木陰のはずれに腰をおろした。
気持のいい場所だった。小川は、こんもりと生い茂った土手の草木にかくされていて、ただ一か所だけが、草におおわれていないので、そこだけ、きらきらと輝く水面が三角形の斑点のように、目にうつった。ずっと向こうのほうの斜面には、青味を帯びた靄を通して、数知れぬほどの木々や、つる草がもつれからまっているのが見え、それらのはるか上のほうにはまた、限りないほど色鮮かな青い空が澄み渡っている。あちらこちらには、白や赤の斑点をちりばめたように、蛇のようにからんだつる草の花が、くっきりと咲いている。しばらくの間、わたしは、この場の景色に、目をさまよわしていた。そうして、モンゴメリーのつれの男の、世にも不思議な風変わりなことを、また心の中で、あれこれと反復して考えはじめた。しかし、とても暑気がひどくて、念入りに考えることなどできなかった。そして、いつか、わたしは、半醒半睡の、うっとりした状態に陥ってしまった。
どれくらいの間、そうしていたかおぼえがないが、流れの向こう岸の緑の中ほどで、がさっと、いう音を聞いて、わたしは、その夢のような状態から目をさまされた。一瞬、シダの葉やアシの先が動くほかには、何も見えなかった。そのときふいに、流れの土手に何かがあらわれた――はじめは、それが何物か、はっきり正体が見分けられなかった。が、相手の物は、頭を水面に近く下げて、ごくごくと水を飲みはじめた。そのときになって、はっきりとわかった。野獣のように四つん這いになって歩きまわっている、人間ではないか!
かれもまた、紺の服を着ていた。まっ黒な髪の毛に、赤銅色の皮膚をしている――例の奇怪な醜悪さが、この島の住民の誰にも共通の特徴かと思われるような顔つきをしていた。水を飲むのに、唇を水につけて、びちゃぴちゃと吸う音が聞こえた。
わたしは、もっとよく見ようとして、体を前に乗り出した。そのとき、思わず手が、そばの熔岩のかけらに触れると、からからと音を立てて、斜面をころがり落ちて行った。相手は、悪いことでも見とがめられたような目つきをあげて、こちらを見た。相手の目が、わたしの目とぶつかった。さっと、相手は立ちあがり、不恰好な手で口をぬぐって、わたしを見つめた。脚は、ほとんど胴体の半分にも足りないほどだった。そのまま、呆然と、お互いに目を向け合ったまま、おそらく、一分間ほどというもの、二人は身動きもしなかった。そのうちに、一度か二度、立ちどまって振り向いただけで、わたしの右手のほうの藪《やぶ》の中に、こそこそと逃げこんで行った。シダの葉の葉ずれの音が聞こえたが、それも遠くで、かすかにしか聞こえなくなり、やがて消えて行った。振り返るたびに、かれは、わたしを強い目つきで見た。かれが姿をくらましてから後も長い間、わたしは、じっと腰をおろしたまま、かれが逃げて行った方向を見つめていた。眠くなるような平静さはなくなっていた。
背後でまた物音がしたので、あわてて振り返ってみると、ウサギの白い尾の先が、斜面をのぼって消えていった。
この怪奇な半獣半人の出現は、突然、わたしから、午後の静安を奪ってしまった。わたしは、なんとなく不安な気持で、身のまわりを見まわし、武器を持っていないことまでが、心に暗い影を残した。そのとき、わたしは、いま見たばかりの男が、野蛮人のようにまっ裸でなく、文明人のように紺色の服を着ていたのを思い出した。つまり、顔つきの、鈍感そのものといった獰猛《どうもう》さとはうらはらに、たぶん、本心は、平和な、温和な性質の人間ではないだろうかと、自分で自分の胸にいいきかせようとしていた。
そうはいっても、かれの出現で、わたしは、ひどく心がかき乱された。足を運んで、斜面を左のほうに進みながら、絶えず顔を振り向けては、まっすぐに伸びた木々の幹の間を、あちらこちらとうかがっていた。いったい、なぜ、あの男は、四つん這いになって、ぴちゃぴちゃと唇で水を飲むんだろう? すると、やがてまた、泣きわめくような動物の声が聞こえてきた。ピューマの悲鳴ででもあろうか。わたしは、くるっと向き直って、号泣の聞こえてくるほうとは正反対の方向に歩き出した。そのほうに行くと、渓流にぶつかった。その流れを渡って、わたしは、向こう岸の茂みをつきぬけて進んで行った。
わたしは、地面に、色あざやかに、大きな深紅色のものがあるのを見て、ぎょっとなった。近づいて見ると、ひどく変わったキノコで、葉状の地衣類の植物のように、分枝し、波形のものだが、触《ふ》れれば液状にとけてしまうのだった。とそのとき、よく葉を茂らせたシダの陰で、気持の悪いものにぶつかった。ウサギの死骸で、ぎらぎらした青バエがびっしりたかっているのだが、まだ生あたたかく、しかも、頭はひきちぎられている。わたしは、飛び散った血を見て、びっくりして立ちどまった。すくなくとも、きょう島にあげられたものの一匹が、ここに、食い殺されているではないか!
あたりを見まわしても、ほかには手荒らなことが行なわれた痕跡《こんせき》はなかった。どうやら、いきなり、引っつかまえられて、殺されたもののようだった。哀れなけものの死骸を眺めているうちに、どうしてこんなことをやったのだろうかという気持が胸に浮かんできた。その場に立っていると、渓流のそばで、残忍そのもののような非人間的な男の顔を見て以来、わたしの胸から離れなかった漠然とした恐怖の念が、ますます強く際だってきた。こういう得体の知れない人々の中をさぐることの大胆にすぎることを、改めて痛感しはじめた。身のまわりの叢林が、わたしの想像に、変化をもちきたらした。物蔭という物蔭が、もはや、ただの物蔭ではなく、わたしを襲おうとするものの待伏せの場所となり、がさっという物音が、わたしを威嚇するものとなった。目に見えぬものが、わたしを見張っているようだった。
わたしは、海岸の石の囲いのところへ引き返そうと決心した。急に、くるっと向き直って、その場を離れ、がむしゃらに――おそらくは、気ちがいじみるかと思うほど――藪の中を突き進んで行った。もう一度、はればれとしたところへもどりたい一心だった。
わたしは、広々とした場所へ出た気がして、立ちどまった。何かの陥没か崩壊のために、森の中にできた空地の一種だった。実生《みしょう》の植物類が、もう芽を出して、そのなんにもない場所を、われ先に占めようとしているし、向こうのほうでは、びっしりと生い茂った茎や、手をからませかけたつる草や、キノコ類や、名も知らぬ花々が、再びびっしりと、その空地を埋めている。ふと前を見ると、巨大な倒木のくされかけた幹の、キノコが頭をのばしている上に、わたしの近づくのにも気がつかずに、奇怪な人間の姿をしたものが三人、うずくまっていた。一人は、たしかに女性だった。あとの二人は、男性で、腰のまわりにまっ赤な布を巻いただけで、三人とも裸体だった。皮膚は、くすんだ桃色がかった黄褐色で、これまでいろいろな野蛮人も見たが、こんな色の皮膚をした野蛮人は見たこともなかった。肉づきのいい大きな顔には、顎のところが削ぎおとしたように低く、頭には剛《こわ》い毛が、ほんのすこし生えているきりだ。およそ、これほどけもののような顔つきをした生き物は、これまで一度も見たこともなかった。
かれらは、なにやら話し合っていた。というよりも、すくなくとも、男のうちの一人が、ほかの二人に話しかけていた。三人とも自分たちの話に夢中になっていたので、わたしの近づく足音にも気がつかないようだった。かれらは、頭や肩を、左右に振りながらしゃべっていた。話し手の言葉は、不明瞭なだみ声で、だらしのない語調のように聞こえた。もっとも、はっきりとは耳に聞きとることはできたのだが、何をいっているのか聞き分けることはできなかった。何かよほどこみ入ったちんぷんかんぷんをまくし立てているようだった。やがて、かれの発音がいちだんとかん高くなったと思うと、その男は、両手をひろげて立ちあがった。
すると、ほかの二人も、いっせいに、ちんぷんかんぷんの言葉をしゃべりはじめ、これもまた立ちあがり、両手をひろげて、わけのわからぬを唄《うた》をうたいながら、その唄のリズムに合わせて、体を振って踊り出した。そのときになって、かれらの脚が、異常なほど短く、足も細くて不恰好なことに気がついた。三人は、ゆっくり輪になり、足をあげたり踏み鳴らしたり、腕を波のようにくねくね振りはじめた。ある種の、リズムを帯びた唄の間に、繰り返しの文句が――『アルーラ』とか、『バルーラ』とかいっているように聞こえたが、そういう、繰り返しの文句がまじった。唄と踊りにつれて、かれらの目という目が、きらきらと光りはじめ、醜悪な顔は、奇妙な歓喜の色を浮かべて、晴れ晴れとなって行くようだった。唇のない口から、よだれがだらだらと垂れていた。
かれらの奇怪な、なんとも説明のつかない身振りに、じっと目を凝らしていたわたしは、突然、なにがこうまで、わたしに不快な感じを与えていたのかを、はじめて、はっきりと心の中で感じとった。まったく見たこともない奇怪さと、しかも、これ以上の不思議さがないほどの親近さとの、二つの矛盾をした、相反した印象を、わたしに与えているのは何かということが、はっきりとのみこめたのだ。この怪奇に満ちた儀式に熱中している三つの生き物は、姿形だけは人間であった。しかし、その身のまわりには、何かよく知っている、身近かな動物のような、世にも不思議きわまる空気をただよわせている人間であった。これらの生き物の各々は、人間の姿形をし、ぼろとはいいながら人間の服を身にまとい、その体の形は、だいたいにおいて人間に近い形状は備えているとはいうものの、その動作、その顔の表情、その体全体の中には、どういい逃れることのできない豚というか、豚の名残りを、どうまちがえようもないほど動物のおもかげを残していた。
わたしは、この驚嘆すべき現実に圧倒されて、その場に立ちすくんだ。すると、もっとも恐ろしい問いかけが、わたしの胸にはげしく襲ってきた。かれらが、ぴょんぴょん飛び跳ねはじめたからだった。はじめは最初の一人だったが、つづいてほかのものたちも、おおうと叫びかわし、鼻をならしながら、跳ねつづけた。そのうちに、一人が足をすべらし、ほんの一瞬の間であったが、四つん這いになったと思うと、すぐに立ちあがった。しかし、その一瞬の動作は、これらの怪物のまことの動物性のきらめきを、十分に示すものだった。
わたしはできるかぎり物音を立てないようにして、まわれ右をした。おりおり、木の枝が音を立て、木の葉がかさかさと鳴ったりするので、見つけられはしないかと、はっと身を固くしながら、茂みの中にあとじさりした。大胆に、自由に動きまわるようになるまでには、長いことかかった。
その間、わたしのただ一つの考えは、これらの不潔な怪物から逃げ出すことしかなかった。そして、木立ちのまん中の、かすかな人の歩いた踏み跡に出たことにも、ほとんど気がつかなかった。とそのときふいに、狭い林間の空地を横断していると、不恰好な脚が二本、木々の間を気持悪く動くのが見えた。たぶん、わたしのいる場所から三十ヤードほど離れてはいるが、わたしの道筋と平行に、物音も立てずに足を運んでいた。頭と体の上のほうの部分は、つる草の茂みでかくれて見えなかった。わたしは、相手がわたしに気がつかなければよかったがと思いながら、ふいに立ちどまった。わたしが立ちどまると、足音もとまった。わたしは、すっかり落ちつきをうしなってしまって、猛然と突っかかって行こうとする衝動を押さえるのが、とてもむつかしいほどだった。
そのとき、じっと瞳をすえて見ると、網のようにからみ合ったつる草の間を通して、さっき溪流で水を飲んでいるのを見た獣人の顔と体とを、はっきり見分けた。かれは、頭を動かした。木の蔭から、ちらっとわたしの顔を見たとき、かれの目にはエメラルド色の光が閃《ひらめ》いた。半ば光を発するような色であったが、かれが再び首を振り向けると、その光は消えた。一瞬の間、かれは身動き一つしなかったが、つぎの瞬間、足音一つ立てずに、緑の茂みの中を縫って走り出した。そして、あっという間もなく、藪の奥に見えなくなっていた。わたしは、相手をよく見ることはできなかった。が、どこかそこらに立ちどまって、またもや、わたしを見張っているにちがいないと感じた。
いったい、やつは何だろうか――人間だろうか、動物だろうか? わたしを、どうするつもりだったのだろう? わたしは、武器を持ってもいなければ、ステッキさえも持っていなかった。闘うということは、気ちがい沙汰《ざた》だ。とにかく、あの怪物は、何だか知らないが、わたしに襲いかかろうという勇気はないらしかった。歯をきっと噛みしめて、わたしは、かれのほうへまっすぐに向かって行った。ぞくぞくと背筋に伝わってくる恐怖を、顔にあらわさないように、わたしは一心に気を使った。わたしは、丈の高い、白い花の咲いている藪の茂みを縫って、突き進んだ。すると、二十ヤードほど向こうに、肩越しにわたしのほうを見ながら、もじもじとしているかれの姿を見た。わたしは、相手の目を凝視しながら、ひと足ふた足、進み出た。
「だれだ、おまえは?」と、わたしは叫んだ。
相手も、わたしの視線をまともに迎え受けようとしていた。
「いや!」と、ふいにいったと思うと、くるっと向き直り、飛ぶようにして、下草の茂みを通って、相手は、わたしから離れた。そこで、くるっと向き直って、また、じっとわたしを見つめた。その両の目が、木々の下の夕闇の中から、きらきらと光っていた。
心臓が、口もとまで飛び出してきそうだったが、わたしのただ一つの活路は、思いきってぶつかって行くことだと感じて、じりじりと、かれのほうへ進んで行った。かれは、再びくるりと向き直って、夕闇の中へ消えて行った。もう一度、かれの目がきらっと閃《ひらめ》くのを見たと思ったが、それでおしまいだった。
そのときになってはじめて、時間の遅くなることが、どのように、わたしに悪い結果をもたらすかということを、身にしみて感じた。太陽が落ちてから、もうしばらくたっていた。暮れるにはやい熱帯の夜は、もう東の空から闇に沈んでいた。最初に飛び出した蛾《が》が、わたしの頭のそばを、音もなくひらひらと舞った。この怪異に満ちた森の、何が出て来るかわからない危険の中で、この夜をすごすつもりのないかぎり、何よりも急いで、あの石の囲いのところへもどらなければならないと思った。
あの悲痛な号泣のつきまとっている隠れ家にもどるということは、考えるだけでも、とてもいやだったが、暗闇のたちこめたそんな空地にとじこめられていなければならないと思うと、それこそ、いっそういやだった。わたしは、その奇怪な生き物をのみ込んでしまった陰鬱な蔭の中に、もう一度視線を向けてから、自分が来たと思う方角に見当をつけて、渓流のほうへ斜面を下って行った。
わたしは、後から後からと、降って湧いたように起こってきたさまざまのことに、頭はいっぱいになりながら、夢中になって歩いて行った。やがて、木立ちがまばらになった平坦なところに出たことに気がついた。落日につづく夕焼けの後にくる、色彩感のない明かるさも、いまはそれもすぎて、あたりは暗くなってきた。梢の上の青い空も、一刻一刻と深さを増して行き、小さな星が、一つ二つと、弱い光を放ちはじめ、昼間の明かりの中で、薄ぼんやりとした青さを見せていた、ずっと遠くの野菜畑も、木立ちの隙き間も、怪奇が充満しているように見えてきた。
わたしは、せっせと歩きつづけた。目に見える世界から、色という色は消えてしまった。木々のてっぺんは、鮮やかな青い空を背景にして、墨を流した影法師のように立ちあがった。その影法師の輪郭の下のものはいっさい、形のない黒一色に溶けてしまった。やがて、木立ちは前よりもいっそうまばらになり、灌木じみた茂みが多くなった。そのうちに、白い砂におおわれた荒れ果てた空地に出たと思うと、つづいてまた、びっしり藪の生い茂った広々とした場所に出た。
わたしは、右手のほうから聞こえる、かすかなかさかさという音に悩まされていた。はじめは自分の気のせいだと思っていた。というのは、わたしが立ちどまるたびに、木々の梢の先で夕べのそよ風が鳴るほかには、しんとして物音一つ聞こえなかったからだ。それで、また歩きつづけると、わたしの足どりに合わせて、同じような足音が響いてくるのだった。
わたしは、茂みから離れるようにしながら、前よりもいっそう開けた地上に足をおろすように進んだ。そして、たびたびくるりと急に振り向いて、相手の怪物を驚かしてやろうとした。かりに、そういう怪物がいるなら、わたしに襲いかかろうとして、こっそり動いているかもしれないと思ったのだ。が、何にも見えなかった。それでも、何か目には見えないが、別の怪物が身近かにいるという気が、だんだんに強くなって行った。わたしは、歩調を速めた。しばらく行くと、すこし高くなった尾根のようなところに出た。それを越して、急に振り向いて、ずっと離れたところから、じっと怪物を凝視した。そいつは、暗くなった空を背中にして、くっきりと、まっ黒に浮き出して見えた。
と思うと、何か形のない、山のようなかたまりが、空を背にして、瞬間的に高く盛りあがったと思うと、また消えてしまった。例の黄褐色の顔をした怪物が、またこっそり忍び寄っているのだなと、いまわたしは、確かに感じた。とともに、道を迷ったなという、もう一つ、いやな感じが強くなってきた。
しばらくの間、こそこそと近づいて来るものにつきまとわれながら、とほうにくれつつ、やみくもに急いだ。どんな怪物かわからなかったが、その怪物は、わたしに襲いかかるだけの勇気がないか、それとも、何らかの不利な立場に、わたしを陥し入れようと待っているかのどちらかにちがいなかった。わたしは、努めて広々としたほうにと、足を速めた。おりおり、わたしは振り向いて、耳を澄ました。やがて、わたしを追跡している物は、追うのを断念したか、それとも、わたしのおかしくなった頭の中で、でっちあげたものにすぎなかったのだろうと、半ば胸中で考えた。そのとき、波の音が聞こえた。わたしは、足を速めて、ほとんど走り出していた。たちまち、うしろのほうで、つまずいてよろめく音がした。
わたしは、急にくるっと向き直って、うしろの、ぼうっと定かでない木立ちのほうを、じっと見つめた。まっ黒な影が一つ、影の中へ飛びこんだような気がした。わたしは、全身を固くして耳を澄ました。耳の中で、血がとくとくと強く打つ音のほかには何も聞こえなかった。神経が弱っていて、幻覚で迷わされているのだと思って、決然ともとに向き直って、ふたたび波の音のするほうへ急いだ。
一、二分もすると、木立ちがずっとまばらになった。そして、わたしは、黒ずんだ海に突き出ている、立木一つない低い岬へ出た。夜は、静かに澄みわたっていた。しだいに数を増してきた星の光が、穏かに起伏する波にふるえていた。すこし向こうでは、波が砂浜にくだけ、不規則な帯のように、くだけるにつれて青白い光をはなっていた。西の空では、宵の明星の黄色味を帯びた光が、黄道光に溶けこんでいるのが見えた。砂浜は、わたしの立っていた位置から東に向けて、下りかげんにのびていたし、西のほうは、岬の肩に隠れていた。そのときになって、モローの浜は、西のほうにあったということを、わたしは思い浮かべた。
背後で、小枝が折れ、かさかさという音がした。わたしは、くるっと向き直って、まっ暗な木立ちに向かって立った。何も見えなかった――というよりも、あまりにもよく見えすぎたというのが正しいかもしれない。ぼうっとした薄明の中のまっ黒な姿が、どれもこれもみんな、不気味に、油断なくわたしを見つめている、その奇怪な様子だった。そこで、わたしもたぶん一分間、立ちはだかっていたろうか。それから、じっと木立ちのほうに目をつけたまま、西のほうに向かって岬を横切って行った。わたしが動き出すと、木立ちの闇にひそんでいる影のうちの一つが、わたしをつけて動いた。
わたしの心臓は、はげしく打った。やがて、入江が西のほうに向けて広く開けているのが、はっきり見えてきた。わたしは、また立ちどまった。音一つ立てない影も、わたしから十二ヤードほどのところに立ちどまった。ずっとカーブを描いている先のほうに、一点の小さな明かりが光っていた。灰色に大きく曲がった砂浜が、星の光の下にぼんやりと横たわっていた。その小さな光の点までは、おそらく二マイルも離れているのだろう。海岸へ出るためには、奇怪な影どもが、ひそんでいる木立ちを通りぬけて、藪の多い斜面を下らなければならなかった。
いまでは、怪しい物の姿を、いままでよりいっそうはっきりと見ることができた。ちゃんとまっすぐに立っているところを見れば、けものではなかった。それで、わたしは口を開いて、声をかけた、ところが、痰《たん》が咽喉にからんで、しわがれた声しか出なかった。わたしは、もう一度、咳払《せきばら》いをして、大きく叫んだ。
「誰だ、そこにいるのは?」
返事はなかった。わたしは、一歩、前に出た。怪物は動かなかった。ただ、きっと身構えた様子だった。わたしの足が、一つの石にあたった。
そのはずみに、いい考えが、頭にひらめいた。目の前の、まっ黒な怪物から目を離さずに、かがみこんで、その石ころをひろいあげた。ところが、わたしの動作を見ただけで、怪物は、犬のような敏捷《びんしょう》さでくるっと向き直ると、横っ飛びに、さらに深い暗闇の中へ逃げこんだ。そこで、小学生が大きな犬に向かってやるお得意のやり方を思い出して、その石ころをハンカチにくるんで、ぐるぐると振りまわした。怪物は逃げ去って行くらしく、陰の中を遠く離れて行く物音が聞こえた。と同時に、張りつめていたわたしの興奮が、ふいに、身内から消えて行った。わたしは、流れる汗をぬぐって、ぶるぶるふるえながら、相手を追っ払ったと思い、その武器を手にしたまま、その場にすわりこんだ。
木立ちをぬけ、岬の側面の藪をぬけて、砂浜におりて行こうという決心をするまでには、だいぶかかった。とうとう、わたしは思い切って、走り出した。密林から砂の上に出たとたん、また誰かうしろから荒々しく追って来る足音が聞こえた。
それを耳にすると、わたしは、恐怖のために、完全に夢中になって、砂の上を走り出した。とすぐに、そっと足音を忍ばせたような、素速いぱたぱたという音が追って来た。わたしは、わっと叫び声をあげて、速力を倍にして走った。ウサギの三、四倍ほどの大きさの、うす黒い怪物どもが、海岸から藪のほうへ、わたしが通るにつれて、ぴょんぴょんと跳ねるようにして、走った。命あるかぎり、あの追っかけられた怖ろしさは、忘れようとしても忘れられまい、わたしは、波打ち際の近くまで走り、わたしに追っつこうとして、波を跳ね返す音までも、たびたび聞いた。遠く離れたところに、手の届きそうにないほど遠くに、黄色い光がまたたいていた。まわりの夜という夜はすべてまっ黒で、静かだった。ぱしゃ、ぱしゃと、波を跳ね返しながら追いかけて来る足音は、だんだん近くなってきた。走る訓練などしたこともなかったので、わたしは、いまにも息がきれてしまいそうな気がした。息を吸うたびに、咽喉がぜいぜいと鳴り、脇腹にナイフを突き立てられるような痛みを感じた。死にもの狂いになり、むせぶような息を吐いて、わたしは、くるっと振り向きざま、追い迫って来た怪物を殴りつけた――あらんかぎりの力をふるって殴った。そのはずみにハンカチから、石が飛んだ。
向き直ると、それまで四つ足で走っていた怪物が立ちあがっていた。石が、左のこめかみに命中したのだ。頭蓋骨がくだけて、獣人は、わたしの胸もとに倒れかかりわたしを砂の上にひっくり返したまま、もがきながらわたしの脇をぬけて、頭からまっさかさまに砂の上に倒れ、顔を水中に突っこんだ。そして、そのまま動かなくなった。
わたしはそのまっ黒な山のような物に、近づくだけの勇気がなかった。死骸をそこに、静かな星の下で、波に洗われるままにして、黄色い光を放つ家のほうに進んで行った。するとやがて、はっきりとほっとさせるように、哀しそうなピューマのうめき声が聞こえてきた。その声こそ、もとはといえば、わたしをこの怪奇に満ちた島の探検に追い出したものだった。その声を聞いて、おそろしく疲れきって、弱り果てていたが、あらんかぎりの力を振りしぼって、わたしはまた、光のほうに向かって走りだした。わたしには、だれかの声が、わたしを呼んでいるような気がした。
十 人間の悲鳴
建物に近づくと、さっきから見えていた灯は、開けひろげたわたしの部屋の戸口から、さしていたものだということがわかった。そのオレンジ色をした長方形の脇のくらがりから、モンゴメリーの声が、「プレンディック」と呼んでいるのが聞こえてきた。
わたしは、走りつづけた。やがて、また、かれの呼ぶのが聞こえた。わたしは、かすかな声で、
「おうい!」とこたえるとともに、つぎの瞬間には、よろよろと、かれの胸もとに倒れかかった。
「どこへ行っていたんだ?」そういって、かれは腕をいっぱいに伸ばして、わたしをささえたので、戸口からさしている明かりが、わたしの顔にあたった。「ぼくたち二人とも、とてもいそがしかったので、三十分ほど前まで、すっかり、きみのことを忘れてしまっていてすまなかった」
かれは、部屋の中にわたしをつれこんで、デッキ・チェアにかけさせてくれた。しばらくの間、灯火に目がくらんで何も見えなかった。
「きみがまさか、ぼくたちに黙って、ぼくたちのこの島を探検に出かけようとは思わなかったぜ」といった。それから、「気にしていたんだ! それにしても……なんだって……おい、きみ!」
かれがそんな声を出したというのも、その言葉を聞いているうちに、最後に残っていたわたしの気力が、すうっとわたしから消えて、頭をがっくりと前に垂れたからだった。かれがようやく安心したのは、わたしにブランデーを飲ませてからだったろうと思う。
「お願いだ」と、わたしはいった。「そのドアをしっかりしめてくれたまえ」
「きみは、ぼくたちの珍品にぶつかったんだね?」と、かれはいった。
かれは、ドアに鍵をかけると、また、わたしのほうに向き直った。それ以上、なにも質問はしないで、さらにブランデーと水とを飲ませた上で、食事をとるようにとすすめた。わたしは、虚脱したような状態だった。かれは、わたしに注意するのを忘れていたとか何とか、何かあいまいなことをいってから、いつごろ、ここを出かけたのだとか、何を見かけたのかと、手短かにたずねた。わたしは、簡単に、ぽつりぽつりとこたえた。
「ねえ、いってくれたまえ、あれはいったい、なんなのです」と、ヒステリックに近い口調で、わたしはいった。
「それほど、ひどく恐ろしいものじゃないんだよ」と、かれはいった。「しかし、きみは、たった一日にしちゃ、十分すぎるほどのことにぶつかったんだと思うよ」とそのとき急に、隣室のほうからピューマが、鋭い苦痛のわめき声をあげた。それを耳にして、モンゴメリーは小声で、きっといった。「くそったれ」と、かれはいった。「ロンドンのゴウワー通りが――あそこの猫にとって――いやなほど、ここがいやなところでなけれはいいんだが」
「モンゴメリー君」と、わたしはいった。「わたしを追ってきたあの怪物は、なんなんです。あれは、けものですか、それとも、人間だったんですか?」
「きみは、今晩、よく眠らなけりゃ」と、かれはいった。「あすは、気が変になるぜ」
わたしは、かれのまっ正面に立ちはだかって、
「わたしを追って来た、あの怪物は、なんなんです?」とたずねた。
かれは、わたしの目をまっ正面に見て、口をぎゅっとゆがめた。ほんの一瞬前までは、生き生きとしていたようなその目が、さえない色になった。
「きみの話によると」と、かれはいった。「そいつは、妖怪だったんだろうと思うね」
わたしは、思わずかっとしたが、それでも、すぐに平静に返ったわたしは、また、どすんと椅子に身を落して、両手で額をおさえた。ピューマがまた、吠えはじめた。
モンゴメリーは、わたしの背後にまわって、そっと、わたしの肩に手をかけて、「ねえ、プレンディック君」といった。「ぼくは、きみに、われわれのこのばかげた島の中を、うろうろと歩きまわってもらいたくないんだ。しかし、きみが思っているほど、それほどいまわしい島でもないんだぜ、きみ。きょうのところは、きみの神経が疲れすぎているんだ、何か、睡眠薬をあげることにしよう、そうすれば……何時間か眠っていられるだろう。なんでもない、きみに必要なのは、熟睡することだ。でなけりゃ、きみの質問にも応じられないね」
わたしは、こたえなかった。わたしは、頭を下げて、両手で顔をおおった。やがて、かれは、黒味を帯びた液体を入れた小さな容器を手にして、もどって来た。それを、かれはわたしに渡した。わたしは、無抵抗にそれを飲んだ。それから、かれに助けられて、ハンモックにのぼった。
目をさますと、もう日は高く昇っていた。しばらくの間、わたしは、あお向けに横になったまま、頭の上の天井を見つめていた。|たるき《ヽヽヽ》は、見たところ、すべて、船材で造ってあった。そのとき、頭をまわしてみると、テーブルの上には、食事の用意がしてあった。急に空腹が感じられてきたので、ハンモックから降りにかかろうとした。すると、ごていねいにも、ハンモックのほうで、わたしの気持を察したものか、くるりと一回転して、わたしを投げ出した。わたしは、床の上に四つん這いになった。
わたしは、立ちあがって、食べ物に向かって腰をおろした。頭が、ひどく重い気がした。はじめは、ゆうべのさまざまな出来事が、ただごくぼんやりと思い出されるだけだった。ガラスのない窓から、午前のそよ風が、とても気持よく吹き込んでいた。その風の快さと、食べ物のおかげで、わたしは、動物的な楽しみを味わった。やがて、わたしのうしろの、石囲いの中庭に向いたドアが開いた。振り返るとモンゴメリーの顔が、そこにあった。
「気分はどうだね?」と、かれはいった。「ぼくは、おそろしくいそがしくてね」そういって、かれはドアをしめた。後になって、かれがそれに鍵をおろすのを忘れていたことを、わたしは見つけた。
そのとき、前の晩の、かれの顔の奇妙な表情が、わたしの頭に思い浮かんできた。その奇異な表情に続いて、きのう経験したことのすべての記憶が、わたしの目の前にありありとよみがえってきた。そのときの怖ろしさが、胸に戻ってきたとたん、またドアの中から身の毛のよだつような悲鳴が聞こえてきた。しかし、今度は、ピューマの悲鳴ではなかった。
わたしは、唇まででかかった言葉を、ぐっと押さえて、耳を澄ました。朝のそよ風がさやさやと鳴るほかには、音もなく静まり返っていた。聞きちがいだったのかと、わたしは考え出した。
長い間をおいてから、わたしは、また食事をつづけたが、まだ用心深く聞き耳を立てていた。やがて、何かこれまでとはちがった、非常に弱々しい、低い声を、わたしは聞いた。わたしはその場に凍りついたような姿勢で、すわっていた。かすかに、低い声ではあったが、これまでの壁の奥から聞いた、いまわしいピューマの悲鳴などとはくらべようもないほど深く、わたしの心を動かした。今度は、そのかすかな、とぎれとぎれに聞こえてくる声の|たち《ヽヽ》に、まちがえようはなかった。その悲鳴のもれてくるそのもとに、疑いはない。というのは、啜《すす》り泣きにつれて、とぎれとぎれになる呻《うめ》き声であり、苦痛のあえぎであった。今度のその悲痛は、動物のものではなかった。苦痛にあえいでいる人間の悲鳴であった!
そう悟るとともに、わたしは飛びあがった。三歩で、部屋を突っ切り、中庭に出るドアのハンドルをつかんだ。
「プレンディック、きみ! とまれ!」とモンゴメリーが叫んで、立ちはだかった。驚いた猟犬が、歯をむき出して、吠え立てた。わたしの目に、茶褐色に、かと思うと、真紅の色を帯びた血が、下水溜にたまっているのが飛び込んできた。石炭酸特有の、つんとする臭気が鼻を突いた。そのとき、中庭の向こうの、開いたままの戸口を通して、物陰から照らしてぼんやりした明かりの中に、台の上に縛りつけられ、傷痕から真っ赤に血を噴出し、包帯に包まれている痛々しい姿を、わたしは見つけた。とそのとき、その様子をかくすように、老いたモロー博士の姿があらわれた。蒼白な、世にもものすごい形相だった。
とっさに、かれは、まっ赤に血にまみれた手で、わたしの肩をぎゅっとつかむと、ぐいとわたしを持ちあげて、わたしを猛然と部屋の中に投げつけた。まるで、小さな子供でもあるように、わたしを持ちあげたのだ。わたしは、床の上に大の字に倒れた。ドアは、ぱたんとしまり、激怒で燃えているようなかれの顔を見えないようにしてしまった。続いて、鍵のかかる音がし、しきりといさめているモンゴメリーの声が聞こえていた。
「生涯のかけての仕事が、めちゃくちゃにされるじゃないか!」と、モロー博士のいう声が聞こえた。
「あの男は、何も知らないんですから」と、モンゴメリーはいい、ほかにも何かいっていたが。それは聞きとれなかった。
「わしは、まだ、ぐずぐずしてはおれんのだ」と、モロー博士がいった。
そのほかの言葉は、聞きとれなかった。わたしは起きあがり、慄《ふる》えながら立っていた。わたしの心には、この上もなく怖ろしい不安が渦を巻いていた。そんなことがありえるだろうか、と、わたしは思った。人間を生体のまま解剖するなどという、そのような残虐なことが、あり得るだろうか? その問いが、激動する空を突っ走る電光のように、閃《ひらめ》いた。とふいに、暗く雲にとざされていたわたしの胸の恐怖が、あざやかな現実として、わたしの危険を、はっきりと描き出した。
十一 人狩り
わたしの部屋の外に向いたドアが、あいたままになっていることが、ただ別にこれというわけもなく、逃げ出そうという望みが、わたしの心に強くなった。モロー博士が人間の生体解剖に従事しているのだという考えが、いまでは、わたしには、ぜったいにまちがいないものと信じられてきた。かれの名を耳にしてからというものずっと、わたしは心の中で、この島の住民たちの奇怪なけものじみた体の原因を、かれのいまわしい所業と結び付けて考えようとしていた。いまや、その想像がすっかりあたっていたのを、まざまざと見せつけられたと、わたしは思った。昔評判になった、輸血についてのかれの業績の記憶が、わたしの胸によみがえってきた。わたしがこの目で見た、あれらの奇怪な生き物たちこそ、ある種の身の毛のよだつほどいまわしい実験の犠牲者たちだったのだ!
これらの唾棄《だき》すべき悪党どもは、わたしを引きとめ、いかにも安心できるように見せかけて、わたしをだまし、やがては、わたしを襲って、死ぬことよりももっと恐ろしい、苦痛に満ちた運命にひきおとし、そして、苦痛の後には、考えることさえできないような、とてもいまわしい変性――わたしを消し、魂をうしなった動物に、かれらの仮面劇の群集のもう一匹に化かそうと企んでいるだけなのだ。
なにか武器はないかと、そこらを見まわした。何も見当たらなかった。とそのとき、さっと心に浮かぶものがあって、わたしは、デッキ・チェアに目を向け、片足をそのふちにかけて、片方の肘《ひじ》かけをもぎとった。木といっしょに、釘がついたままではずれてきた。釘が突き出ていて、触れればあぶなかったが、その代わり、てごろな武器の役に立つ。そのとき、外で足音がして、さっとドアがあいたと思うと、一ヤードと離れていないところに、モンゴメリーが立っていた。外側のドアに鍵をかけようというつもりだったのだろう。
わたしは、その釘のついたままの腕木を振りあげて、かれの顔に打ちかかったが、かれは、うしろへ飛びすさった。わたしは、一瞬ためらっていたが、すぐにくるっと身をひるがえして、家の角をまわって走り出した。
「プレンディック、きみ!」かれが驚いてあげた叫び声が聞こえた「ばかな真似《まね》をするんじゃない、きみ!」
つぎの瞬間、かれは、わたしを部屋にとじこめるつもりだったのだ、もうちょっとで、実験用のウサギになる運命だったのだと、わたし思った。かれが、建物の角から出て来て、大声で叫ぶのが聞こえた。
「プレンディック!」
つづいて、わたしを追って走りはじめた。いろいろなことをどなりながら、走って来る。めくらめっぽうに走りながら、今度は、前の探検の時とはちがって直角の方向に――つまり、北東をさして走った。一度、わたしは、むてっぽうに海岸まで駆け降りた。ちらっと肩越しに振り返ると、例の船の中にいたかれの連れがいっしょにいる。わたしは、猛然と斜面を駆けあがった。その斜面を登りきると、向きを変えて、両側がジャングルになっている岩塊のごろごろころがっている渓谷を、東の方へ道をとった。わたしは、おそらく、全部で一マイルばかりを走った。胸が苦しく、心臓の音が、どくどくと耳で高くなった。そこまでくれば、モンゴメリーの声も、その連れの男の声も、何も聞こえなかった。ぎりぎりのところまで疲れたのを感じて、鋭く海岸の方に向かって引き返し、トウの木の茂みの蔭に這いこんで横になった。
そこで、わたしは、長い間じっとしていた。動くことが怖ろしかった。まったく、どういう行動をとるか考えるさえ、怖ろしくて考えもつかなかった。身のまわりの荒涼とした情景は、物音一つなく、眠ったように静まり返っている。身近に聞こえるただ一つの物音といえば、わたしを見つけた小さなブヨの、か細いぶんぶんという音だけだった。やがて、わたしは、眠くなるような、息づく物音――波打ち際に打ち寄せる、ざっざっという波の音に気がついた。
一時間ほどして、はるか遠くの北の方で、わたしの名を呼んでいるモンゴメリーの声を聞いた。それを聞いて、わたしは、どういう行動をとったらいいか、考えにかかった。それまでの自分の判断では、この島に住んでいるものといえば、二人の生体解剖学者と、かれらのために獣人化した犠牲者だけである。これらの獣人たちは、疑いもなく、必要とあれば、かれら二人が、自分たちのために、わたしに手向かいさせるように強要することができるにちがいない。モロー博士もモンゴメリーとともに、ピストルを持っていることを、わたしは知っている。それにひきくらべて、わたしは、小さな釘がついているというだけの、ただ一本の棒切れだけ、武器らしいものは皆無である。
それで、わたしは、その場にじっと体を横たえたままでいたが、そのうちに、食べ物と飲み水のことを考え出した。そのとたん、心から自分の立場の絶望に近いことが、胸にこたえてきた。どうして食べ物を手に入れるか、その方法がわからなかった。植物学の知識については、まったく無知だったので、身のまわりにあるかもしれない、どの木の実、どの草の根をさがしたらいいのかもわからなかった。島にいるウサギを罠《わな》にかけて捕まえる手だてもわからなかった。これからさきのことを考えれば考えるほど、いっそう何もわからなくなって行った。
とうとう、自分のいまの境遇に自暴自棄になったあげく、わたしの心は、自分がこれまでにぶつかった獣人のほうに向かって行った。わたしは、かれらをおぼえているということに、何らかの希望を見出そうとした。つぎつぎに、これまでに見かけた一人一人のことを思い出して、わたしの記憶の中から、助けてくれそうなものを思い描こうとしてみた。
そのとき、突然、猟犬の吠え声を聞いた。それを聞いて、新しい危険が身に迫ったことを知った。しばらく考えていようと思ったが、そんなことをしていれば、つかまえられてしまうにちがいない思ったので、釘のついた棒をつかみあげると、隠れ場所から飛び出して、波の音のするほうに向かって、まっしぐらに駆け出した。とげのある針の多い植物の茂みに飛びこんで、ナイフのように突き傷を負うたことをおぼえている。手足から血を流しびりびりに服を裂かれて、ようやくにして、北のほうにひらけた、長い入り江の口に出た。
わたしは、一刻も躊躇《ちゅうちょ》せずに、まっすぐに、波の中へはいって行った。入江を上流に向けて徒渉して行くと、やがて、小さな流れの、膝《ひざ》までの深さにいるのに気がついた。そこでついに流れをさかのぼるのを諦めて、西側の岸に這いのぼった。心臓が、大きな音を立てて肩で打つのをこらえて、シダのもつれからまった中にはらばって、どういう結果になるかを待った。犬の吠える声を聞いた――一匹だけだった――が、だんだん近づいて来て、とげのある茂みのところまで来て、吠え立てた。それだけで、もう何も聞こえなくなった。やがて、わたしは、逃げおおせたと思いはじめた。
何分か時がすぎて行った。静寂は、ますます深まって行った。とうとう、何事もなく一時間ほどたつと、元気がもどってきだした。
もうその時には、そうひどく怯《おび》えてもいなければ、そうひどく悲しんでもいなかった。それというのも、いってみれば、恐怖と絶望の極限を通り過ぎていたからだった。わたしの命は実際にはうしなわれたのだと感じ、やろうと思えば、何でもできるんだという信念を持つにいたった。モロー博士とだって、面と向かってぶつかってやろうという、しっかりした気持さえ抱いていた。そして、水の中を渡渉していたとき、もし、あまりひどく苦しめられた場合には、すくなくとも、苦悩から逃れる一つの途が、なおわたしには開けているのだ――つまり、かれらといえども、わたしが自ら溺れ死ぬのを、とうてい妨げることはできないのだということを、わたしは忘れなかった。そのときには、半ば心の中では溺れ死ぬつもりでいたのだ。ところが、この冒険のいっさいを最後まで見届けてやろうという、妙な希望が、わたしを押しとどめて死なせなかった。わたしは、とげだらけの植物に突き刺されて、ひりひり痛む手足をのばして、まわりの木々を見まわした。すると、ふいに、緑の枝と枝がからみ合って格子模様をつくっている中に、わたしをじっと見つめているまっ黒な顔を、ふと見つけた。
わたしが見たのは、ランチが海岸に着いたときに会った類人猿に似た男だった。かれは、ヤシの木の斜めになった幹にしがみついていた。わたしは、棒切れをにぎりしめて、かれに向かって立ちあがった。かれは、しゃべりはじめた。
「おまえ、おまえ、おまえ」と、最初、聞きわけられたのは、それだけだった。突然、かれは、木から飛び降りたと思うと、つぎの瞬間には、シダの葉をつかみながら、珍しそうに、わたしを見つめた。
わたしは、ほかの獣人どもに会ったときに感じたのと、同じような嫌悪を、この男には感じなかった。
「おまえ」と、相手はいった。「ボートにいた人だな」
そうだ、この男は、人間にはちがいない――すくなくとも、モンゴメリーがつれていた男程度には、人間である――だって、しゃべることができるではないか。
「そうだ」と、わたしはいった。「おれは、ボートに乗って来た。船から来たんだ」
「おお!」といって、かれはそのきらきらとした落ちつきのない目を、わたしの体や、わたしの手や、わたしの持った棒切れや、足や、ずたずたに裂けた衣服や、とげのある木から受けた切り傷や、かすり傷に、つぎからつぎと走らせた。なにか戸惑っているようすだった。かれの目が、また、わたしの両手のほうにもどってきた。かれは、自分の手をひろげて、ゆっくり指を数えた。
「ひとつ、ふたつ、三つ、四つ、五つ――え?」
その時には、相手のいう意味がわからなかった。後になって、これらの獣人の大部分が、不恰好な指しか持っていないばかりか、時には、三本の指さえ欠いていることに、わたしは気がついた。それでも、これが、何かのやり方の挨拶だろうと信じて、それにこたえるつもりで、同じことをやってみせた。かれは、すてきに満足だというように、歯をむき出して、にやっと笑ってみせた。つづいて、また、素速くきょろきょろと見まわしたと思うと、素速い動きで、姿を消してしまった。かれが立っているあたりで、シダの葉がすれ合って鳴った。
わたしは、シダやワラビをかき分けて、かれの後を追っかけたが、頭上の葉の茂みから垂れさがっているつる草に、細長い片腕で、その男がうれしそうにぶらさがっているのを見て、驚かされてしまった。
「おーい!」と、わたしはいった。
相手は、身をよじって飛び降りると、わたしに向き合って立った。
「ねえ」と、わたしはいった。「どこかに、食べ物を手に入れられるところはないか?」
「食う!」と、かれはいった。「人間の食う物を食えよ、いまは」そういって、その目を、ゆれているつる草のほうへもどした。「小屋の中でさ」
「だけど、どこに小屋はあるんだ?」
「おお!」
そういうと、相手はぐるっとまわれ右をして、急ぎ足に歩き出した。その動作はどこからどこまで、奇妙なほど敏捷だった。「やって来いよ」と、かれはいった。わたしは、最後までこの冒険を見届けてやろうと思って、かれについて行った。小屋といっても、粗末な隠れ場所で、そこに、かれや、仲間の獣人どもが住んでいるにちがいないと、わたしは想像した。もしかしたら、人なつこい連中が見つかるかもしれないし、すがりつける手がかりがつかめるかもしれない。かれらに残っていると思っている人間性を、どれくらいまで、かれらが忘れてしまっているかは、わたしにはわからなかった。
わが猿に似た仲間は、両手をだらりと垂らし、顎を前に突き出しながら、小走りに、わたしに並んで歩いていた。わたしは、この男は記憶というものを持っているのかしらと、いぶかしくなった。
「おまえは、この島に来て、どのくらいになるんだ?」と、わたしは聞いてみた。
「どのくらい?」と、かれは聞き返した。そして、同じ質問を繰り返したあげく、かれは、指を三本さし出した。この男は、ばかよりは、すこしはましなようだった。その三本の指で、どういうことをいうつもりなのか、わたしは、聞き出そうとしてみた。どうやら、わたしの質問は、かれを困らせたようだった。さらにまた一つ二つ、質問をしていると、突然、かれはわたしの脇を離れて、一本の木からぶらさがっている何かの実に飛びついた。とげだらけの木の実を手にいっぱい、もぎとって飛びおりると、中の実を食べながら歩きつづけた。わたしは、満ち足りた思いで、それを見ていた。というのは、すくなくとも、ここに食べ物がとれると暗示するものがあったからだ。わたしは、またほかの問いをかけてみたが、かれのぺらぺらとしゃべる即坐のこたえは、しばしば、わたしの問いとは、まったくくいちがっていた。いくらかは、うまくあたることもあったが、ほかのこたえは、まったくおうむそっくりで、こちらのいうことを口真似《くちまね》で繰り返すだけだった。
わたしは、そういう奇妙な癖に、すっかり余念がなかったので、二人が辿って来た道については、ほとんど注意を払っていなかった。やがて、木々の肌がすっかり黒く焼け焦げて、茶褐色になっている木立ちのところに、つぎには黄白色を帯びた木の皮におおわれた空地に着いた。その向こうからは、煙が立ちのぼり、鼻や目に、つんとはげしく刺激するものが漂っていた。右手の方には、裸の岩の肩越しに、海の水平線が見えた。小道は、ぐるぐるととぐろを巻くように降って行ったかと思うと、いきなり狭い山峡の、二つの黒味がかった熔岩の間へとつづいていた。二人は、その中へはいりこんで行った。
その道は、硫黄《いおう》を含んでいる土の反射で、目をくらませるような陽光の下を通って来た後では、ひどく暗かった。その両側の壁は、切り立ったようになり、いまにも両側がくっつきそうだった。緑と深紅の斑点が、わたしの目の前にちらちらとした。わたしを案内して来た男が、突然、足をとめて、
「ウチだ」といった。
わたしは、岩の割れ目の床に立っていた。はじめは、わたしには、完全にまっ暗だった。何か、聞き馴れない妙な音が聞こえ、不潔な猿の檻に似た、いやな悪臭に気がついた。その向こうには、岩がまた開けて、ゆるい斜面になり、青葉が日の光を受けて、輝いていた。そして、左右どちら側にも、狭い峡|間《はざま》のようなものがあり、それを通して、中央の薄暗がりに光が落ちてきていた。
十二 おきての語り手
そのとき、何かひやりとするものが、わたしの手に触れた。わたしは、はっとして飛びあがった。見ると、ぴったりわたしに寄り添うようにして、うす桃色の怪物が立っている。世の中に、こんなにつるりと皮をはがれた子供は、ほかにはあるまいと思われるほどのからだつきだった。そいつは、まったくおとなしそうだったが、ナマケモノそっくりの、世にもいやらしい目鼻立ちだった。ナマケモノと同じような低い額に、のろのろとした動作だ。明かりが変化したための、最初の驚きがすぎると、わたしは、さらにはっきりと、身のまわりを見渡した。小さなナマケモノそっくりのやつは、突っ立って、じろじろとわたしを見ていた。わたしを案内したやつは、いなくなっていた。
その場所は、熔岩が高い壁のように突っ立った間の狭い道で、流れ出した熔岩が固まった間の割れ目のようなところだった。両側には、アミ貝や、ヤシの葉や、アシなどをまぜ合わせて高くし、岩に寄せて立てかけ、簡単な、ちょっとはいりこめない、まっ暗な穴倉のようにしてあった。こういうものの間をうねりうねりのぽって行く道は、ほとんど三ヤードの幅もないほどで、腐りかけた木の実やそのほかの屑やがらくたが、山のように散らばって、ふた目と見られたものではない。あたりの鼻をつくいやな悪臭も、そのためであろうと思われた。
例の桃色をした小さなナマケモノに似たやつが、相も変わらず、目をぱちぱちとさせて、わたしを見ているところへ、一番近くの穴倉の入口に、わたしをつれて来た猿人があらわれて、なかへはいるようにと手招きをした。やつがそういう合図をしているとき、この奇怪な道のずっと上の方にある穴倉の一つから、前かがみの不細工な歩き方の怪物が、のたくるような格好で出て来て、前方の明るい緑を背景に、これという特徴のない影法師のように立ちあがって、じっとわたしを見つめていた。わたしは、躊躇して――やって来た道を逃げ出そうかと、半ばそういう気になった――が、この冒険をやりぬいてみようと心にきめて、釘の出た棒切れのまん中へんをつかんで、案内者の後について、この小さな悪臭のただよう小屋の中に、のろのろとはいって行った。
中は半円形の、ハチの巣をまっ二つに割ったような形をしたところだった。奥の側を仕切っている岩の壁に寄せて、さまざまの木の実や、ココナッツやそのほかのものが、うず高く積みあげられてある。床のあたりには、溶岩や木で作りあげた粗末な容器のようなものがいくつかおいてあり、そのひとつは、粗末な腰掛台の上においてあった。火の気は、なかった。小屋の中の、一番まっ暗な隅の方に、黒々とした不恰好な塊りのようなものがすわっていて、わたしがはいって行くと、「やあ!」と、うなり声でいった。わたしのつれの猿人は、入口の薄明かりの中に立ったまま、ココナッツを二つに割ったのを、わたしに差し出した。わたしは、片隅へのろのろとはいって行って、うずくまった。わたしは、ココナッツを受け取って、齧《かじ》り出した。心は強く緊張しておののき、小屋の中は、ほとんど耐えられないほど息苦しかったが、できるかぎり落ちついていた。桃色のナマケモノに似たやつは、小屋の入口に立っていたが、なにか別の、にぶい黄褐色の顔をして、きらきらとした目をしたやつが、そのナマケモノの肩越しに、こちらを見つめていた。
「おう」という声が、反対の隅の、怪奇なかたまりから出た。
「これ、人間だ! これ、人間だ!」とわたしの案内の男が、しゃべった――「人間、人間、生きている人間、おれとおなじ」
「だまれ!」と、暗闇からの声がいって、うめくように咽喉の奥を鳴らした。わたしは荘厳といってもいい静寂の中で、ココナッツを齧っていた。じっとまっ暗な暗闇の中をすかして見たが、なんにも見分けられなかった。
「これ、人間だ」と、声だけが繰り返していっていた。「ここへ来たのは、おれたちといっしょに住むためか?」
なにか、一種の口笛でも鳴らすような音を含んだ、だみ声で、独特の響きを持っているという気がしたが、その英語のアクセントは、不思議なほど立派だった。
猿人は、何事か待ち構えるように、わたしの顔を見ていた。返事を待っているのだなと、わたしは見てとって、
「きみたちといっしょに住みに、やって来たのだ」といった。
「これは人間だ。人間は、|おきて《ヽヽヽ》を知らなければならん」
わたしの目は、いまでは暗闇の中の、とりわけいっそう深いまっ暗な中に、背中を盛りあげた姿の輪郭だけが、ぼんやりと見分けられてきた。そのとき、入口の明かりが暗くなって、さらに頭がふたつあらわれたのに、気がついた。暗闇の中の怪物は、前よりも高い調子て繰り返した。
「言葉を用いよ」
その最後に、何かいったのを、わたしは聞きもらした。
「四つ足で這い歩くなかれ。これ、|おきて《ヽヽヽ》なり」
それは、単調な歌のように繰り返された。
わたしは、唖然としていた。
「言葉を用いよ」と、猿人も、同じ言葉を繰り返していった。入口に立っているものたちも、それぞれの声の調子で、おどしでもするように、おうむ返しに、そういった。わたしは、このばかげた文句を繰り返さなければならんのだなと、気がついた。こうして、これ以上はないほどの気ちがいじみた儀式がはじまった。
暗闇の中の声が、誰かがでっちあげた連祷《れんとう》を、一句一句、となえはじめた。すると、わたしをはじめ、そのほかのものたちが、それを操り返した。そのように、みんな唱和しながら、体を左右にゆすり、両手で膝を打った。わたしも、みんなの例にならった。わたしは、自分はすでに死んで、別の世界にさまよいこんだのだと、心に思い描くことができた。暗い小屋、これらの奇怪な、ぼんやりとよく見えない姿は、かすかな光線がもれるたびに、あちらこちらに、ちらっちらっと醜悪な姿を浮き出させながら、いっせいに体をゆすり、詠唱していた。
「這い歩くなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
「口をよせて、水を吸うなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
「肉、魚を食うなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
「木の皮にて、爪をみがくなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
「他の人を追うなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
そういう、ばかげた行為の禁制から、やがて、もっとも気ちがいじみた、とうていできそうにもない、人間として考えられるかぎりのみだらな行為だという気のした禁制にまで及んだ。
一種のリズミカルな熱情が、わたしたちみんなの上に降りかかった。わたしたちは、このあきれるばかりのおきてを繰り返しながら、だんだん早く、口々におきてを唱え、体をゆすった。これらの獣人の興奮に、わたしも、うわべだけは包まれていたが、胸のうちの深い奥底では、嘲笑と嫌悪とがうずまいていた。
わたしたちは、長々と禁制の唱和をつづけていた。がやがて、おきての唱和は、新しい形式に移っていた。
「かれの家は、苦しみの家なり」
「かれの手は、創る手なり」
「かれの手は、傷つくる手なり」
「かれの手は、癒《いや》す手なり」
そのほか、|かれ《ヽヽ》とは誰のことかわからないが、かれについて、わたしにはとうてい理解できないようなちんぷんかんぷんが、長々とつづいた。夢だと思えば思うこともできるのだが、夢の中で頒歌をとなえるのは、いまだかつて聞いたこともなかった。
「かれの光は、電光《いなずま》なり」と、わたしたちは歌った。「かれは、底知れぬ海なり」
みんなの頌歌に合わせて歌いながら、モロー博士は、この連中を動物化した後、かれらの知能の萎縮《いしゅく》した頭脳に、自分自身を神として崇《あが》める考えを吹きこんだのにちがいないという、恐ろしい想像が、わたしの頭に浮かんだ。けれども、わたしが唱和をやめれば、そのために、まわりにいる連中が、白い歯をむき出し、鋭い爪をみがくだろうということも、十分すぎるほど気がついていた。
「かれは、空の星なり」
とうとう、歌がおわった。猿人の顔が、汗でてらてらと光っているのが見えた。いまでは暗闇に馴れたわたしの目には、最初の声を唱えた片隅の人の姿が、はっきりと見えた。そいつは、ほぼ人間と同じくらいの大きさであったが、全身銀灰色の毛におおわれていて、ほとんどスコッチテリアそっくりだった。いったい、こいつは何だろう? この連中はみんな、いったい何だろう? これ以上もないほどの身の毛のよだつような不具者や気ちがいじみたものどもに、まわりをとり囲まれることを考えるなんて、そんなことが考えられるだろうか。人間そのものを嘲弄するような、このようなグロテスクな戯画中のやつどもにとり囲まれたわたしの胸の中を、いささかでも理解してもらえるだろうか。
「かれは、五本指の人間だ、五本の人間だ、五本の人間だ……おれとそっくりだ」と、猿人がいった。
わたしは、両手をひらいて差し出した。隅の暗闇にいる銀灰色の男は、身を前に乗り出して、
「這い歩くなかれ、これ、おきてなり。われら、人間にあらずや?」といった。
かれは奇怪なほどにゆがんだ長い爪のついた指を出して、わたしの指をつかんだ。この怪物は、ほとんどシカのような有蹄《ゆうてい》動物そっくりでいながら、爪を伸ばしているのだった。驚きと痛さとでわたしは、あやうくうめき声をあげるところだった。かれは顔をぐっと前に出して、わたしの爪をじっと見つめながら、小屋の入り口からくる明かりの中に、身を乗り出した。わたしは、身ぶるいの出るほどの嫌悪をおぼえながら見たが、その顔は、人間の顔でも、動物の顔のようでもなく、ただここに目が二つと口があるとわかるだけに、三か所にものすごいアーチ型のものがある、まったくの銀灰色の毛のもじゃもじゃのものだった。
「かれの爪は、小さな爪だ」と、髪の毛のようなあごひげをした、このものすごい生き物がいった。「なかなかよろしい」
かれが、わたしの手をはなしたので、わたしは、本能的に棒切れをつかんだ。
「木の根、草の葉を食え――これ、かれのみむねなり」と、猿人がいった。
「おれは、おきてを語る役だ」と、その銀灰色の者がいった。「新しく来るものはみな、おきてをならうことになっている。おれは、この暗闇にいて、おきてを語ることになっている」
「そのとおり」と、入口にいた獣人の一人がいった。
「おきてにそむくものは罰せられる。なにびとものがれることを得ず」
「なにびとものがれることを得ず」と、獣人たちはいって、たがいにそっと顔をぬすみ見た。
「なにびとも、なにびとも」と、猿人がいった。「なにびとものがれ得ず。わかったな! おれは、たった一度、ちょっとしたことをした、悪いことをした。おれは、きゃっきゃっと鳴いた、きゃっきゃっとないた、しゃべることをやめた。だれにもわからなかった。おれは、火で焼かれた、手に焼き印をおされた。かれは、偉大である、かれは、すぐれたものだ!」
「なにびとものがれることを得ず」隅にいる銀灰色の男がいった。
「なにびとものがれることを得ず」獣人たちが、たがいに横目で見ながら、いった。
「なにびとであれ、物をほしがることは悪いことだ」と、銀灰色のおきての語り役がいった。
「なにがほしいか、われわれにはわからない。しかし、それは、すぐにわかる。ほしがるやつは、動くものの後をつける、うかがって、こそこそと歩き、待ち構えていて飛びかかる、噛みついて殺す。深く、十分に噛みついて、血をすする……これは、悪いことだ」
「他の者を追うなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
「肉や魚を食うなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?
「なにびとものがれることを得ず」と、入口に立っている、斑《まだら》の毛をした獣人がとなえた。
「なにびとも、物をほしがること、これはいかん」と、銀灰色のおきての語り役がいった。
「歯や手で、草の根をほじくる、鼻でくんくん地面を嗅《か》ぐ……これは悪いことだ」
「なにびとものがれることを得ず」戸口にいるものどもがとなえた。
「木を爪で掻きむしること、死んだものの墓をひっかいて掘ること、額とか、足とか、爪とかで闘うこと、ふいに噛みつくこと、みんなやめなければいかん。きたないものを好く、これもいかん」
「なにびとものがれることを得ず」と、猿人が、自分のふくらはぎを引っ掻きながら、いった。
「なにびとものがれることを得ず」うす桃色の小さなナマケモノのようなやつがとなえた。
「罰は、きびしく、まちがいなくくる。だから、おきてを学べ。頌歌をとなえよ」
そして、すぐにまた、銀灰色の怪物は、奇妙なおきての頌歌をはじめた。そしてまた、わたしも、ほかの獣人どももみな、歌い、からだをゆすりはじめた。わたしの頭は、このちんぷんかんぷんの歌と、ここのひどい悪臭とに、ぐらぐらと目まいがしそうになっていた。が、わたしは、唱和をつづけながら、やがて、何らかの新しい情勢の動きの機会が見つかるにちがいないと信じていた。「這い歩くなかれ、これ、おきてなり。われら、人間ならずや?」
頌歌は、相も変わらずつづいていた。
そのように騒がしい声を立てていたので、わたしは、外の騒ぎには全然気がつかなかった。突然、それは、わたしが見かけた二人の豚に似た男のうちの一人だと思うが、うす桃色の小さなナマケモノの肩越しに、頭をぬっと突き出して、興奮して何か叫び声をあげた。なんと叫んだのかは、わたしには聞きとれなかった。すぐに、小屋の入口にいた連中の姿も消えてしまった。猿人もあわてて飛び出して行った。暗闇にすわっていた怪物も、その後を追った――そのときはじめて、その怪物の姿をよく見たが、全身銀灰色の毛におおわれた、大きな、不恰好なやつだった――そして、わたし一人だけが、後に残された。
とそのとき、入口に達する前に、猟犬の吠える声を聞いた。
つぎの瞬間、わたしは、小屋の外に立っていた。手に、椅子の腕木を握りしめて、体じゅうの筋肉という筋肉がふるえていた。わたしの前にはたぶん、二十人ほどの獣人どもの不恰好な背中が並んでいた。かれらの奇形な頭が、その肩甲骨に半ばかくれている。みんな興奮して、手真似で何事かしゃべり合っている。そのほかにもいくつかの半ば動物のような顔が、何がおこったのかと不審げに、ぎらぎらとした目で小屋から外をうかがっている。連中が向いている方向を見て、小屋の小道のはずれの先の、木立の下の靄を通して、こちらへ近づいてくるモロー博士の怖ろしげな青白い顔と、黒々とした姿を、わたしは見つけた。かれは、跳ねまわる猟犬をしっかり引きとめている。すぐそのうしろには、モンゴメリーが、ピストルを手にしてやって来る。
一瞬、わたしは、慄然《りつぜん》として立ちすくんだ。
振り返って、背後の道を見ると、そこは、もう一人の、巨大な獣人にふさがれていた。驚くほど、大きな灰色の顔に、これまた驚くほどの小さな目を光らして、わたしの方へ進んで来る。わたしはぐるっとまわりを見て、右手の方を見た。五、六ヤードほど前のところに、岩壁の間に狭い割れ目があって、そこから一本の光線が、陰の中に斜めに射しこんでいる。
「とまれ!」
わたしがその割れ目の方に進むのを見て、モロー博士が叫んだ。「その男をつかまえろ!」
それを聞いて最初の一人が、わたしの方に顔を向け、つづいて、ほかの顔も、わたしの方を向いた。さいわいにも、獣人どものにぶい頭では、そくざの行動はとれなかった。
モロー博士のいうことがわかって、わたしの方を向いた不恰好な怪物に、わたしは、自分の肩をどんとぶつけた。すると、そいつは、はずみでまたつぎのやつを撫《な》ぎ倒した。やつが手をぐるぐる振りまわして、わたしをつかんだが、またつかみぞこなったのを、わたしは感じた、うす桃色の小さなナマケモノのようなやつが、おどりかかってきた。手にした棒切れで、その顔を殴りつけた。棒についた釘で、その醜悪な顔に深い切り傷がついた。つぎの瞬間、峡谷の間に斜めになった煙突状の裂け目のような、険しい脇の通路を這いのぼって行った。うしろで、「かれをつかまえろ!」「取りおさえろ!」と、わめき叫ぶ声を聞いた。灰色の顔をしたやつが、わたしのうしろにあらわれたが、そいつの巨大な体が、岩の裂け目につまって動きがとれなくなった。「つづけ、つづけ!」と、かれらは、口々にわめいた。わたしは、岩の中の狭い裂け目を、骨を折って攀《よ》じ登った。そして、獣人部落の西側の、硫黄が一面に地をおおっているところに出ていた。
その裂け目は、わたしにはまったく幸せだった。上に向かって斜めに傾斜しているその狭い道は、ごく近くの追跡して来るものを阻止したにちがいないからだ。わたしは、まっ白な硫黄の空地を走りぬけ、まばらな木立ちをぬけて、険しい斜面を駆け降りた。そして、丈高いアシの生い茂った湿地に着いた。そこを通りぬけて、まっ暗な、足もとのじくじくとする、黒々とした深い藪の中へ突き進んで行った。わたしがアシの茂みの中へもぐりこんだころ、追跡して来た先頭のやつが、裂け目から顔を出した。しばらく、この藪の中を通るうちに、わたしは道に迷った。うしろも、身のまわりも、大気は、すぐに、おびやかすような叫び声でいっぱいになった。
わたしは、斜面の裂け目の方から、追っ手の騒々しい声を耳にした。つづいて、アシがくだけたり折れたりする音や、おりおりは、ぼきっと木の枝の折れる音も聞こえてきた。追っ手のうちには、興奮したけものが獲物を見つけて吠えるように、吠え立てるやつもあった。猟犬も左手の方で吠え立てている。同じ方向で、モロー博士とモンゴメリーとがどなっているのも、耳にはいってきた。そのときになっても、モンゴメリーが、わたしの命を助けようとして走っているのだと叫びつづけているのを聞いたような気がした。
やがて、足もとの地面が、やわらかな、泥のようなたちのものになったが、わたしは必死になって、膝《ひざ》のあたりまで泥につかりながら、がむしゃらに、もがき進んで行った。そして、やっとの思いで、丈の高いシュロ竹の間を、うねうねと通っている小道へ出た。追っ手の足音は、左手の方に遠ざかっていた。途中で、猫ぐらいの大きさの、ぴょんぴょんと飛びはねる、桃色の妙な動物が三匹、わたしの足の前をさえぎった。この道は、丘の上の方へとつづいていた。それを登りつめると、またしても、まっ白な硫黄の鉱滓《こうさい》におおわれた広々とした空地に出た。それを突っきって、再びシュロ竹の茂みにはいりこんで行った。
その道は、険しい岩壁の裂け目のふちと平行に通っていたのだが、そのとき、突然、前ぶれもなしに、イギリスの公園の隠れ垣のようなところに出た――思いもかけず、いきなり曲がっていたのだ。わたしは、なおも全力をふりしぼって走っていて、この落ち口が目につかなかったので、そのまま、まっさかさまに空中にほうり出されてしまった。
わたしは、両の前腕と頭を先にして、いばらのまん中へ落っこちた。そして、耳を裂き、顔じゅう血だらけにして起きあがった。わたしは、ごつごつした岩だらけ、いばらだらけの、険しい峡谷に落ちたのだった。身のまわりには髪のあたりまでも、深い靄《かすみ》のような霧がいっぱいに立ちこめ、細い小流があって、そこからこの霧が湧き立って、ゆらゆらと中央部の方へ降りてきているのだった。わたしは、日中の強い光の中で、この薄い濛気《もうき》を見てびっくりしたが、そのときは、立ちどまって、それを不思議がっているひまなどはなかった。わたしは、そちらの方へ行けば、海に行きつけるだろうし、自ら溺れ死ぬ道も開けるだろうと思いながら、その流れについて、右の方へ降って行った。落ちたはずみに、釘のついた棒切れを落したことに気がついたのは、ずっと後のことだった。
やがて、峡谷は、しばらくの間ずっと前よりも狭くなった。うかつにも、わたしは、流れの中に足を踏み入れた。そのとたん、あわてて流れから飛び出したほとんど煮え沸《た》ぎるばかりの湯だった。そればかりか、その巻いている流れに、硫黄の湯の花が浮いてただよっていることにも気がついた。それから、ほとんどすぐに峡谷はぐっと曲がっていて、行く手に、はっきりとはしないが、青味がかった水平線がひらけた。ずっと近くの海は、数知れぬ波にくだけて、太陽がきらきらと反射していた。わたしは、自分の死が、もう目の前にあると思った。が、わたしは暑さにあえいでいた。熱した血が、顔から流れ出すような気がし、血管を気持ちよく流れた。追っ手を引き離してしまったということで、また、狂喜以上の気持を感じた。その刹那《せつな》には、海の中へはいりこんで行って、自ら溺れ死ぬなどという考えは、わたしの胸の中にはまるきりなくなっていた。わたしは、自分が逃げ出して来た道の方を、振り返ってじっと見つめた。
じっと聞き耳を立てた。かすかにブヨがぶうんという音といばらの間を飛びかう小さな昆虫の羽音をのぞけば、大気は、まったく静寂そのものだった。そのうちに、犬の吠える声が、とてもかすかに聞こえ、またぺちゃくちゃと、わけのわからないことをしゃべる声や、ぴしゃと鞭《むち》で打つような音につづいて、人間の話し声が聞こえてきた。それらの物音は、ずっと大きくなったと思うと、やがてまた、弱くかすかになった。物音は、流れについて上流の方へうすれて行き、遠くに消えていってしまった。一時、わたしを追っかけることをやめてしまったもののようだ。
しかし、この獣人たちを相手にして、助かる見込みのないことが、いまのわたしにはよくわかっていた。
十三 交渉
わたしは、ふたたびまわれ右して、海の方に向かって降りて行った。見ると、熱湯の川は、浅い雑草の多い砂地にひろがっている。そのあいだに無数のカニが匍《は》いまわっていて、長い胴体をした、むやみに脚の多い、その不気味な生き物が、わたしの足音に驚いては、ごそごそと逃げまわった。わたしは構わず、波打ち際まで進んで行き、そこまで来て、もう危険の恐れのないことを感じた。そして、振り返って――手を腰にあて肱《ひじ》を張って――背後の深い緑の茂みを眺めた。その密林の中に、切り傷がくすぶっているように、いまそこから出て来た湯気の立ちこめる峡谷が、切れたように、ばっくり口をあけていた。しかし、わたしは、いまもいうとおり、すっかり興奮していて――いつわりのないところをいえば、危険というものを一度も経験しなかった人はそんなことを疑うかもしれないが――ただ向こう見ずに死のうとしていた。
そのとき、わたしの頭に、まだ一つ、わたしの前に機会が残っているという考えが浮かんだ。モロー博士や、モンゴメリーや、かれらの獣人たちが、わたしをつかまえようとして島じゅうを駆けまわっているその隙に、浜辺をまわって、あの石壁の囲いに行き着けないだろうか?――ほんとうに、こっそり近づいて、あのざつに造った石壁から引き抜いた石塊で、あの小さなドアの錠前を一撃すれば、おそらくは簡単にこわれてしまって、見つけられると思う――ナイフか、ピストルか、なにかそんな武器が見つかって――かれらがもどって来た時に、一戦を交えることもできるのではないだろうか? いずれにしても、わが命の助かるだけの価値のある機会が得られるのではないだろうか。
そう気がついたわたしは、西に向かって、波打ち際を進んで行った。西に傾きかけている太陽が、強い熱気をわたしの目に照りつけて、目先が見えなくなるほどだった。静かな太平洋の潮が穏かなさざなみを立てて、砂浜に打ち寄せていた。
やがて、浜辺を南に離れたので、太陽が右手の方にまわった。そのときふいに、ずっと前方に最初に一人、つづいていくつかの人の姿が、叢林から出て来るのを、わたしは見とめた――灰色の猟犬をつれたモロー博士と、それにつづいてモンゴメリーと、もう二人の姿だった。それを見て、わたしは立ちどまった。
かれらもわたしを見つけると、何か手振り身振りをしながら、進んで来た。わたしは、かれらが進んで来るのを見守りながら立っていた。獣人が二人、奥の叢林から出て、わたしの退路をたとうと駆け出して来た。モンゴメリーも、まっすぐわたしの方に向かって走って来た。モロー博士は、犬をつれて、その後からゆっくり近づいて来る。とうとうわたしは、静止の状態から身を立て直した。くるっと海の方に向くとまっすぐ海の中に歩み入った。はじめ、水は非常に浅かった。三十ヤードほど行くと、波は腰にまで達した。海の中のいろいろな生物が、あわてて足もとから逃げて行くのが、おぼろげに見えた。
「なにをしているんだ、おーい?」と、モンゴメリーが叫んだ。
わたしは振り返り、腰まで波につかりながら立って、かれらの方をじろじろと見た。
モンゴメリーは波打ち際に突っ立って、はっはっと息をはずませていた。その顔は、力のかぎり走りまわったので、きらきらと紅潮し、亜麻色の長髪は頭のまわりにみだれ、垂れた下唇からは不ぞろいな歯がのぞいていた。モロー博士は、その場に着いたばかりで、その顔面は蒼白で、固く引き締まっていた。その手にした犬が、わたしの方に吠え立てた。二人とも、頑丈な鞭を持っていた。ずっと向こうの浜辺では獣人たちが、じっとその場の様子を見つめていた。
「わたしが何をしているかっていうのか?――この海の中で、溺れて死のうというのさ」と、わたしはいった。
モンゴメリーとモロー博士とは、顔を見合わせた。
「どうして?」と、モロー博士がたずねた。
「あんたのために、ひどい目にあわされるよりは、ずっとましだからだよ」
「ぼくがいったとおりでしょう」モンゴメリーがいい、モロー博士が低い声で、何かいった。
「わしが、きみをひどい目にあわせるなんて、どうして、そんなことを考えるんだ?」とモロー博士がたずねた。
「わたしは、この目で見ているんだ」と、わたしがいった。「それに、そいつらを見ればわかるじゃないか――そこにいるやつらを」
「黙って!」と、モロー博士はいって、手をあげた。
「いや、黙らない」と、わたしはいった。「あの連中だって、もとは人間だったのだ。それが、いまは、どうだ? わたしは、すくなくとも、あの連中のようにはならないぞ」
わたしは、相手のうしろの方に目をやった。浜辺には、モンゴメリーのおとものムリングと、白い包帯を巻いた獣人の一人とがいた。そのずっと奥の、木立ちの陰のところには、小さな猿人の姿が見え、そのうしろには、まだいくたりかの姿がおぼろに見えた。
「いったい、あの連中たちは誰だ?」と、その連中を指さし、かれらに自分の声がとどくかと思うほど、高く声を張りあげて、いった。「あの連中にしたって、もとは人間だったんだ――あんた自身のように人間だったのだ。それを、あんたたちは動物化して、奴隷にしてしまったのだ。しかし、怖れているのだ、おい、お前たち、よく聞け」わたしは叫ぶような声で、モロー博士を指さしながら、獣人たちに向かってどなり立てた。「お前たち、よく聞いておけ! この二人が、お前たちを怖れ、おびえているのがわからないのか? それなのに、なぜ、お前たちはこの二人を怖れるのだ? お前たちは大勢で――」
「頼む」と、モンゴメリーが叫び声をあげた。「そんなことをいうのをやめてくれ、プレンディック!」
「プレンディック君!」とモロー博士も叫ぶようにいった。
二人は、わたしの声を消してしまおうとでもするように、声を合わせてどなり立てた。そのうしろにたっている獣人たちは、じっとこちらを見つめていた顔を伏せて、片輪の手をだらりとたらし、めいめい背を弓なりにまげて、訝《いぶか》しげな面持《おももち》をしていた。わたしのいうことを理解しようとし、自分たちの人間だった過去のことを思い出そうとしている様子だと、そのときのわたしは考えた。
わたしはどなりつづけた。何をどなったのか、ほとんどおぼえていない。モロー博士もモンゴメリーも、殺そうと思えば殺せるのだ。ちっとも恐れることはないのだ。私自身の最後の破滅に対して、わたしは獣人どもの鈍い頭に吹き込むのに懸命になったのが、わたしの本当の胸の内だった。この島についた夕方、会ったことのある、黒っぽいぼろをまとい緑色の目をした男がまっ先に立ち、それに続いて、ほかの連中も、わたしのいうことをもっとよく聞きとろうとして、木立ちの中からぞろぞろと出てくるのを、わたしは目にした。
やがて、息切れがしてきて、わたしは言葉をきった。
「ちょっとの間、わしのいうことを聞いてくれたまえ」と、モロー博士がしっかりした声でいった。「それを聞いてから、きみのいおうとすることをいってくれたまえ」
「なんだ?」
モロー博士は咳《せき》をして、考えてから、また叫んだ。
「ラテン語でいおう、プレンディック君! へたなラテン語だ! 中学生のようなラテン語だ! だが、努めて、理解してくれたまえ。ヒ、ノン、スント、ホミネース。スント、アニマリア、クイ、ノス、ハベームス……(人間からではない、獣類から作ったのだ)……生体解剖でな。人間化したのだよ。くわしく説明するから、とにかく陸地へ来たまえ」
わたしは、声を立てて笑った。「おもしろい話だ」と、わたしはいった。「あの連中を見るがいい、立派に言葉をしゃべり、家を建て、料理を作っている。かれらは人間だったのだ。それこそ、わたしが陸へ行けば、おあつらえ向きだろうがね」
「きみがいま立っているところから先は、急に深くなっているんですぞ……それに、サメがいっばいいるのだから」
「それこそ思うつぼだ」と、わたしはいった。「簡単で気がきいている。さよならだ」
「ちょっと待ってくれ」そういいながら、かれはポケットから、何か、日にぴかっと反射するものを取り出して、足もとにすてて、「こいつは、弾丸のはいっているピストルだ」といった。
「モンゴメリーも、同じことをするだろう。さあ、きみが安全だと思うところまで離れているから、さあ安心してやって来て、ピストルを取りたまえ」
「ぼくは行かないよ。もう一挺ぐらい隠しているかもしれないじゃないか」
「プレンディック君、ようく考えてくれたまえ。まず第一に、わしは、この島へ来るようにと、けっして、きみを誘ったりなんかしたことはなかったんだぜ。つぎに、わしたちは、ゆうべ、きみに睡眠剤をのませたが、何か、きみに危害を加えようとしたかね。そのつぎに、どうやらいまは、きみは、最初の恐慌がすぎたようだから、すこしは落ちついて考えることができると思うのだが――ここにいるモンゴメリーは、きみが考えているような人間に見えるかね? わしたちが、きみを追っかけたのは、きみのためだったのだ。それというのが、この島には……悪いことをしようというやつがいっぱいいるからなんだ。きみが、自分から溺れ死のうというのに、どうして、わしたちが、きみを射ったりなんかしようと思うはずがないじゃないか?」
「じゃ、どうして、あんたたちは……ぼくが小屋にかくれていた時に、あの連中にけしかけて、ぼくを襲わせたんだ?」
「わしたちは、きみを危険から救おうとして、きみをとらえようと思っただけなんだ。後になって、手がかりはあったのだが、身を引いたのさ――きみのために」
わたしは、じっと考えをめぐらした。まさにそのとおりのような気がした。そのとき、また、あることを思い出した。
「だが、ぼくは見たぞ」と、わたしはいった。「石壁の囲いの中で――」
「あれは、ピューマだったのだよ」
「おい、プレンディック」と、モンゴメリーもいった。「きみも、あきれたばか者だな。早く水からあがって、そのピストルをひろったらいいじゃないか。そして話し合おうじゃないか。われわれに、いまできること以外、何にもできやしないのは、よくわかっているじゃないか」
わたしは告白するが、そのときはもちろん、いままでからずっとモロー博士のほうは、信用してもいなかったし、恐れてもいた。が、モンゴメリーのほうは、よく了解していると感じていた人間だった。
「浜辺からずっと後ろへ寄っていてもらおう」と、わたしはいった。しばらく考えていてから、つけ加えていった。「二人とも、両手をあげていてもらおう」
「そんなことはできないよ」といって、わかっているだろうというように、肩越しに顎をしゃくって、「威厳にかかわるじゃないか」
「さあ、木立ちのところまでさがっていてもらおう」と、わたしはいった。
「まったくばかげたお祭り騒ぎだ」と、モンゴメリーがいった。
二人は、うしろを向いた。夕日を浴びて立っている六、七人の醜悪な獣人どもと、面と向き合った。かれらは、固く寄り合い、長く影を落しながら、もぞもぞと動いていたが、しかも、とうてい信じられないほど現実離れがしていた。モンゴメリーが、かれらに向けて、いきなり鞭を鳴らすと、さっと獣人どもは向き直って、あたふたと木立ちの中へ逃げこんだ。モンゴメリーとモロー博士が十分に離れていると判断して、わたしは、浜辺へあがり、ピストルを拾いあげて調べて見た。ぺてんでないかどうかためしに、ころがっていた溶岩の塊りに、一発、発射してみた。岩は粉々に砕けて、弾丸といっしょにぱっと散ったのを見て、わたしは、ようやく安心した。
それでも、わたしは、しばらく躊躇していてから、やがて、
「いちかばちか、きみたちのいうようにやってみよう」といって、両手にピストルを一挺ずつ持って、二人の方へ進んで行った。
「そりゃ結構だ」と、無感動に、モロー博士がいった。「おかげで、きみは、自分のまちがった想像力のために、わしの一日の最良の部分をめちゃくちゃにしてしまったよ」
そして、いかにも、わたしを軽蔑したようなふうに、モロー博士とモンゴメリーとはくるっと向き直り、ものもいわずに、わたしの前を行ってしまった。
獣人たちの一団は、まだ何か怪しんでいるようなふうで、木立ちの間に立っていた。わたしは、できるだけもったいぶったふりをして、かれらのそばを通りすぎた。そのうちの一人が、わたしについて来ようとしかけたが、モンゴメリーがぴしっと鞭を鳴らすと、また引っこんだ。後の連中は、ものもいわずに立っていた――じっと見つめながら。かれらも、かつては動物であったのだろう。が、わたしは、いまだかつて、動物が物事を考えようとするのを見たことは、一度もなかった。
十四 モロー博士の説明
「では、プレンディック君、いちおう説明しておくとしよう」と、酒を飲み、ものを食べおわるとすぐ、モロー博士はいった。「それにしても、きみみたいにこの上もない横柄《おうへい》な客をもてなしたのは、はじめてだと白状しなければなるまいね。いっておくが、これが最後だよ、きみに親切にするのもね。このつぎ、きみが自殺するなどとおどしたって、わしは構わんからね――たとい、個人的に不愉快なことがあるからといってね」
かれは、わたしのすわりつけのデッキ・チェアにかけ、吸いさしの葉巻を、まっ白な器用らしい指にはさんでいた。吊りランプの光を、そのまっ白な髪の毛に受けながら、小窓から、夜空に輝いている星の光を眺めていた。わたしは、できるだけかれから離れ、二人の間にテーブルを置き、身近かにピストルをおいて、席をしめていた。モンゴメリーは、その場にはいあわせなかった。こんな小さな部屋に、いっしょにいる気にはなれなかったのだ。
「きみのいう、人間の生体解剖をしていたというのが、要するに、ピューマにすぎなかったということを、きみも認めてくれるんだね?」と、モロー博士がいった。残虐行為だというわたしを納得させるために、かれは、奥の部屋の、あの恐怖の現場へ、わたしをつれて行って確かめさせた。
「なるほどピューマにちがいない」と、わたしはいった。「しかも、まだ生きていますね。が、こんなふうに切開、切除されている、生きたままの生き物は、二度と見たくはありませんね。ひどいといっても、これほどひどいのは――」
「そんなことは、気にすることはないのだ」と、モロー博士はいった。「すくなくも、そういう青年らしい嫌悪は、わしにはごめんだね。モンゴメリーも、はじめは同じことをいっていた。とにかく、きみは、あれがピューマだということを認めたのだ。さて、きみに生理学の講義をして聞かせるから、ひとつ落ちついて聴いてもらうとしよう」
そしてただちにひどく退屈した人間といった口調ではじめたが、やがて、いくらか熱を帯びた調子で、かれの業績をわたしに説明して聞かせた。かれは、非常に単純で、自信に満ちあふれていた。おりおり、かれの声には、皮肉な感じがまじった。やがて、わたしは、われわれの共通な立場に気がついて、恥ずかしさに身内があつくなるのを感じた。
この島でわたしが見た生き物は、人間ではなかったのだ。一度だって人間だったことはなかったのだ。かれらは、すべてもとは動物だったのだ――人間化した動物であり――生体解剖の勝利の結果だった。
「きみは、熟練した生体解剖学者ならば、生きているものを相手にして立派に成果をあげられるのだということを、忘れているのじゃあるまいね」と、モロー博士はいった。「わし自身のことについていえば、この島へ来てから、わしが成就したような成果が、なぜ、以前には成就しなかったか、不思議に思っておるくらいだ。つまらない業績は、もちろん、あげておった――足の切断とか、舌の切開とか、切除とかはね。もちろん、きみだって、斜視が外科手術によって、生ずることもあれば治癒することもあるくらいのことは、知っておるだろう。ところが切除の際、さまざまの種類の二次的変化をひきおこす場合もある。色素障害をおこすとか、情念に増減を生ずるとか、分泌機能に狂いを生ずるとかね。きみだって、こういうことぐらいは、まちがいなく承知しておるはずだね?」
「もちろんです」と、わたしはいった。「でも、あなたのおつくりになった、ああいう不潔な生き物どもは――」
「まあ待ちたまえ」と、わたしの方へ手を振りながら、かれはいった。「まだ、はじめたばかりじゃないか。ところで、いまあげたような変化は、ごくつまらない事例にすぎん。外科手術によれば、もっともっと、それ以上の変化を与えることができるはずだ。ある機能を停止させたり、変化させたりするのと同じように、新しい機能を作りあげ、別の機能を組成させることも可能なのだ。きみは、鼻がつぶれたときなんかに行なう、ごくふつうの外科手術のことも、たぶん、聞いておるだろう。前額部から皮膚を切り取って、鼻梁の上に移して、新しい位置に癒着させるじゃないか。これはつまり、動物の一部を、そのものの新しい他の位置に移植する方法だ。その動物の部分でなく、他の動物から手に入れたばかりの肉体の部分もまた、移植が可能なのだ。――歯科医の場合などが、その例だ。皮膚や骨の移植は、治癒を促進させるために行われることもあるのだ。外科医は、患者の傷口に、殺したばかりのいけにえから取った骨の一部や、他の動物から切り取った皮膚を置くこともある。キツネ狩りに用いられる猟馬の蹴爪《けづめ》を――おそらくきみも聞いておるだろうが、――雄牛の頚《くび》に、飾りとしてくっつけた者もある。アルジェリアの軽歩兵のような格好の、一角鼠を作りあげることも考えられる――怪物としかいいようがないが、ふつうの鼠の尾を切断して、その鼠の鼻の先に移植させれば、立派に作りあげることができるわけだ」
「怪物を作りあげるんですって!」と、わたしはいった。「するとあなたは――」
「そうだよ、きみが見たあれらの生き物は、切ったり、つぎ合わせたりして、新しい形に作りあげた動物なのさ。そのことに――生命のある組織の適合性ということについての研究に、わしは、自分の生涯を捧げてきたのだ。わしは、ごく一般的な知識をものにするだけにも、何年も何年も、研究に費やした。見れば、きみは、ぞっとしたような顔色をしているが、しかしわしは、何も新奇なことをいっているわけじゃない。そのことは、実用的な解剖学の表面に、何年も前からあらわれていたことなのだ。が、それに手をつけようとする勇気のあるものは、一人もいなかった。むろん、動物の外形を変化させることだって、そう簡単にいくものではない。生きている物の生理機能にしても、科学的な循環運動にしても、長時間にわたって変化を与えれば、思いのままにすることもできるのだ。そのことについては、種痘とか、そのほかの生命のあるものとか、死んだものの成分を接種する方法とかが、その実例として存在することは、きみだって、疑いもなく、よく承知していることだろう。
それに似た手術は、移血法だ。その問題の研究から、実に、わしは第一歩をはじめた。実例は、すべて人がよく知っていることばかりだ。それほどではないとしても、おそらく広く知れわたっているのは、中世の開業医が、こびとや、いざり乞食《こじき》や、見世物小屋の奇形の人間を、メス一本で作り出した手術のことだ。その連中たちの技術の名残りは、若い大道山師や曲芸師仲間が手はじめにやるごまかしの芸の中に残っている。ヴィクトル・ユゴーが、その小説『笑う男』のなかで、いとも詳しく描写しているのがそれだ……が、これで、たぶん、わしのねらっているところも、もう明らかになったろう。きみにも、ある動物のある部分を他の部分になり、またある動物から他の動物に、細胞組織を移植して、その化学的な反応や、成育の順序に変化を与えるとか、その手足の関節に修正を加えるとか、また実に、そのもっともよく知られた構造に変化をきたさしめることが、可能なことだということが、きみにも、よくわかりはじめただろうね?
しかしながら、学問上、この特異な部門は、研究の目的として、組織的に扱う近代の科学者はいなかった、わしが取り上げるまではね! 外科的手術の最後の手段として、ある程度、このようなことも施されたことがないでもなかった。それにもっとも類似した例としては、不慮の事故の場合に――また、暴君によって、犯罪者の手によって、または馬や犬の飼養者の手によって、同じようなことが行われたということが、きみの胸にも浮かびあがるだろう。その場合の実際の手術は、さしあたっての目的さえ遂げればいいというので、学問的な知識など皆無な、しろうとに近い、無器用な腕しかない人々の手で行なわれたものなのだ。消毒薬を用意して、細胞組織の生長に関しての、実際の科学的知識を身につけた男として、この問題を取り上げたのは、わしが最初の人間だったのだ。
もっとも、以前は、ごく秘密裡に行なわれていたにちがいないと思われる。たとえば、シャム双生児などというのがそれだ……それに、異端者|糾問《きゅうもん》所の地下牢に設けられた拷問室の中でも行なわれた。いうまでもなく、かれらの主たるねらいは、相手に肉体的苦痛を与えることにあったのだが、糾問官のうちのあるものには、すくなくとも、科学的好奇心に燃えていたものがあったに相違ない……」
「ですが」と、わたしはいった。「あの連中たちは――あの動物たちは、ものをいうじゃありませんか!」
かれは、いかにもそのとおりだといった。さらに語をついで、生体解剖の可能性は、被術者に肉体的な変化を与えるだけに止まらないということを指摘した。豚にだって、教育をほどこすこともできるといっていい。精神的な組織は、肉体的な構造より、かえって決定的なものではないのだ。最近、科学的に長足の発展をとげた催眠術において、代々受け継いできた固定概念を、接合し取り換えるように、新しい暗示を与えることによって、古い先天的な本性を取り換えることができる見込みがあるということを、われわれは発見している。いうまでもないが、実際、われわれが精神教育と称しているものは、本能を人為的に倒錯せしめるにすぎない。人類本来の闘争性を、強い自己犠牲に作り直したり、性欲を抑圧して宗教的感情にするといったたぐいなのだ。そして、人間と猿との間の大きな相違は、喉頭にある、と、かれはいうのだった。考えたことをうまく表現する、微妙な変化のある音質を出す能力を欠いているところが、猿と人類との根本的な相違だというのが、博士の意見だった。その点については、わたしは、博士に賛同することはできなかった。が、博士は、無礼といってもいいほど、わたしの異論に一顧《いっこ》も与えなかった。かれは、自分の説がまちがいないということを繰り返し、自分の業績の話をつづけた。
ところで、わたしは、なぜ、理想的な形体として人間の姿を選んだのかと、かれに質問の矢を放った。そのときのわたしに、そういう気がしたばかりか、いまもなおそういう思いが消えないのは、かれが人間の形態をよしと考えたその心の底には、何か予想外に邪悪なものがひそんでいるのではないかということである。しかし、博士は、人間の形態を選んだのは、偶然にすぎぬと告白した。
「羊をラマに、ラマを羊にしてもよかったのかもしれない。しかし、わしは、人間形態の中には、精神機能に素質を与える際に、どんな動物形態よりも、何か強烈に訴えるものがあると考えたというわけだ。とはいっても、人間をつくりあげることだけに、きめていたわけではなかった。一度か二度は……」と、おそらく一分間ほど、かれは、沈黙していた。「長い年月だった! あっという間に、年月がすぎ去って行ってしまった! そして、こうして、きみの命を救うために、一日を無駄にしてしまい、自分のしてきたこと、自分の肚《はら》の中を説明するために、もう一時間も無駄にすごしている!」
「しかし」と、わたしはいった。「ぼくにはまだ、よくわからないですね。いくら相手が動物だからって、こんな苦痛を与えるのが正当だという、あなたの理由は、いったいどこにあるんです? ぼくにとって、生体解剖が許されると思われる、ただ一つの場合は、相手の申し出があって――」
「まさにそのとおりだ」と、かれはいった。「だが、わしが違った使命を持っているということは、きみにもわかるだろう。わしたちは、ことなった立場に立っているのだ。きみは、唯物論者だからね」
「ぼくは、唯物論者なんかじゃありません」と、わたしは、はげしくいいかけた。
「いや、わしの見るところではね――わしの見るところでは、きみは、唯物論者なのだ。つまり、わしたちを引き離しているのは、この苦痛という問題だけなのだ。目に見えるかぎり、耳に聞こえるかぎり、苦痛がきみをさいなみ、きみ自身の苦痛が、きみをかり立てているかぎり、苦痛が、罪というものについてのきみの考えの底にあるかぎり、そのかぎりにおいて、わしははっきりいうが、きみは動物なのだ。暗々裡に、動物の感じていることと、いささかも変わりはないことを考えているのだ。この苦痛というやつは――」
そんな詭弁《きべん》に、わたしは、聞く耳を持たぬということを示すように、肩をすぼめた。
「ああ! だが、苦痛なんて、まったくつまらぬことなんだ。忠実に、科学が教えるところのものに目ざめた精神というものは、そのような苦痛などは、取るに足らぬささいなものだということを知らなければならん。この小さな遊星、この小粒のような宇宙の塵、もっとも近距離にある星が達し得る前でさえ久しく目にも見えないもの以外では、そういうこともあるかもしれない――そうさ、苦痛と称すべきものは、どんなところでも起こるということがないのかもしれないのだ。しかし、われわれが向かおうと感じているおきては……いや、それよりも、なぜ、この地上においてさえ、生きているものの間においてさえ、苦痛とは、いったいどんなものなのだ?」
そういいながら、かれは、ポケットから小さたナイフを取り出して、小さいほうの刃を立て、股がわたしのほうに見えるように、椅子をずらした。それから、悠々とその場所をきめてから、太股にずぶりとその刃を突き刺したと思うと、ぐいと引き抜いた。
「いままでにも、きみは、こういうのを見たことがあったろうね。こんなものは、ちくりと、針で刺したほどにも痛くはないのさ。だが、これをいったい、どう説明するんだね? つまりこうだ。苦痛というものの大きさは、筋肉には必要なんかないのだ。苦痛を感じるものは、筋肉にはない、皮膚に、いささか感じるだけなのだ。ただ太股のある部分にだけ、苦痛を感じるものなのだ。痛みとは、ただ単に、われわれを刺激し、警告を発する、われわれの体内の医学的な助言者にすぎないのさ。生命の通《かよ》っている肉体のすべてが、痛みを感じるものではないし、神経だってすべてがそうだというものでもないし、知覚神経にしてもすべてが痛みを感じるというものではない。視神経の感覚にも、痛いという感じ、つまり、ほんとうの痛みというものはないのだ。視神経に傷をつけたところで、ただ一瞬、閃光を見るだけで、痛みというものは感じない。聴神経の病気にしても、耳にぶんぶんいう音が聞こえたり、耳鳴りがしたりするというだけにすぎんのだ。植物は、苦痛というものを感じない。下等動物にしても――ヒトデとか、ザリガニのような動物は、やはり、だいたいにおいて、苦痛は感じないもののようだ。ところで、人間はどうかというと、知能が高くなればなるほど、いっそう聡明《そうめい》に、かれら自身の幸福を追い求めるようになり、危険から身を防ぐためには、刺激や痛みを避けようとするものなのだ。わしは、進化の法則によって、無用なものが、いつかは存在の基礎をうしなわなかったということを、いまだかつて聞いたことがない。どうかね? そして、苦痛などというものは、むろん、無用な、不必要なものなのだ。
こういったからといって、プレンディック君、すべての穏健な人間が、そうなくてはならんように、わしは、良心的な敬虔《けいけん》な人間なのだ。おそらく、わしは、この世の創造者である神のみ旨を、きみよりはずっと研究してきたと思う――きみは、チョウを収集してきたのだと、わしは思っているが、その間も、わしは、生涯を通じて、わしのやり方で、神のおきてを求めてきたのだからね。ところで、はっきり、きみにいうが、快楽と苦痛とは、天国と地獄には、何の関係もないことなのだ。快楽と苦痛か――考えれば、下らんことさ! きみたちの神学者の法悦というものも、秘密の回教の女神以外に、なにがあるというのだね? この快楽と苦痛に取りつかれている既成の男や女は、プレンディック君、かれらの身に野獣のしるしをつけているのだ。かれらがそこから生まれてきた野獣の痕跡なのだ。苦痛か! 苦痛と快楽ね――この二つは、われわれだけにあるのだ、ただ、われわれが塵あくたの中にうごめいているかぎり……
だからねえ、きみ、わしは、その考えの命ずるままに、この研究をつづけて行った。それが、わしが承知しているかぎりの研究をつづける、ただ一つの方法なのだ。わしは、問題を求めて、なにか解決を得る手段はないかと頭をしぼった、そして答えを得た――新しい問題をね。この方法が可能か、あの方法が可能か? とね。きみには想像することもできないだろう、一人の研究者にとって、これが、どういうことを意味するか、どんな知的な激情が、かれの身の内で成長して行ったかは。こういう知的な欲求が生まれたときの、世にも不思議な、透明な喜びというものを、きみなどは想像することさえできまい。目の前にあるものは、もはや、動物でもなければ、仲間の生き物でもなく、ただ一つの解決すべき問題にすぎないのだ。同情をそそる苦痛――わしが知っているすべての苦痛は、何年も何年も前から、わしを苦しめていたものとしておぼえている――それは、わしが求めていたただ一つのものだった――適応性の極限を、生きているものの形の中に発見したいというのが、唯一の願いだったのだ」
「しかし」と、わたしはいった。「どうも、そういうことは、嫌悪すべきことでは――」
「今日まで、わしは、一度だって、その内容の倫理性について、思い悩んだことはなかった。自然の研究は、ついに、人間を自然そのもののように、冷酷無慈悲にするものなのだ。自分の追求している問題のほかには、なにものにもわずらわされることなく、わしは研究をつづけてきた。必要な物は……あそこの小屋にいくらでもある……われわれが、わしとモンゴメリーと六人のカナカ土人とが、この島へ来てから、もうかれこれ十一年という月日がたっている。緑のあふれたこの島の静寂と、一物も目につくもののなかったまわりの大洋とを、ついきのうのことのようにおぼえている。わしのために、神が用意しておかれた土地のような気がしたものだ。
荷物を揚げ、家を建てた。カナカ土人は、峡谷の近くに小屋を作った。わしは、携えて来たもので、実験にとりかかった。もちろん、はじめのうちは、いろいろ不愉快なことがおこった。まず最初、羊を手がけたが、手術刀の使い誤まりで、一日半で死んでしまった。引きつづいて、もう一度羊を使った。苦心惨憺、手術をおわり、包帯をぐるぐる巻いて、癒えるのを待っていた。手術がおわったときは、わしには、まったく完全な人間ができあがったという気がした。が、仔細に調べて見て、わしはがっかりした。想像以上に、きもをつぶした。というのは、羊の知恵しか持っていなかったのだ。見れば見るほど、不恰好なやつでね。とうとう、わしは、この怪物を殺してしまったよ。勇気などまるでない動物で、絶えず恐怖に取りつかれていて、苦痛に追っかけられているような、苦しみに面と向かって行こうとする闘争的なエネルギーのかけらもないやつだった――結局、羊というやつは、人間を造る材料としては、まったく適していないものなんだね。
そのつぎには、手もとにあったゴリラを材料にした。細心の注意を払って作業にとりかかった。困難につぐ困難を克服して、やっと最初の人間を作りあげた。それから一週間というもの、昼も夜も、その男を作るのに専心した。主として作りあげるのに力を要したのは、脳髄だった。つけ加えなければならんものも多かったし、変えなければならんものも多々あった。手術をおえて、包帯に包まれ、縛られて、身動き一つせず、わしの前に横たわっているかれを見たとき、これでやっと、黒人《ニグロ》型の立派な標本ができたと、わしは思った。その安心もほんのしばらくの間で、かれの生命が吹きこまれたと確かめて、かれをその場において、つぎの部屋へ来てみると、モンゴメリーが立っていた。現在のきみと同じですっかり興奮しきっていた。そのものが人間に変りつつあるときの叫び声を、きみを驚かしたのと同じような悲鳴を、かれも耳にしたとみえるのだ。最初は、わしの胸のうちを、まだ完全に、かれに打ち明けてはいなかったのだ。
それから、カナカの土人もまた、何かそのことに気がついたらしい。かれらは、かれら相当の知恵で、わしの姿を見ておびえるようになった。わしは、モンゴメリーには、すっかり打ち明けてわかってもらった――研究についてね。だが、わしとモンゴメリーとは、カナカ土人が逃げ出すのを食いとめるために、たいへんな骨を折った。とうとう最後には、逃亡だけは食い止めたが、そのために、わしたちはヨットをうしなってしまった。わしは、この獣人の教育に、長い時間を費やした――全部で、三、四か月、かれにかかりきりだった。英語の初歩を教え、数を数えることを教え、アルファベットを読むことまでも教えた。が、それにしても遅々たるものだった――つまり、精神的には、白紙からはじめたといってもいいので、自分の前身についての記憶など、かれの頭には全然残っていなかったのだ。かれの傷がすっかり癒ったとき、ひどい痛みなどは、どこにも残っていなかったし、すこしは会話も交わせるようになっていた。そこで、わしは、かれを部屋からつれ出して、なかなかおもしろい密航者だといって、カナカ土人たちに紹介した。
はじめ、カナカ土人たちは、どういうものか、かれの形相のすさまじさに、ひどく恐れをなしたらしい――わしは、いささか気を悪くした。それというのも、わしは、かれのことについて鼻を高くしていたのだからね――が、かれの性質が温和で、非常に従順らしいということがわかると、しばらくすると、カナカ土人たちもかれを受け入れるようになり、教育に協力するまでになった。かれは、なかなか物おぼえが早くて、非常に模倣と順応性に富んでいた。そして、カナカ土人たちの掘立小屋よりも、ずっとみごとな小屋とわしには思えるほどのものを、自分で建てたくらいだった。土人のなかに一人、すこしばかり教育のあるのがいてね、その男が、読むこととか、すこしは文字を書くことを教えたり、ごく初歩的な倫理観を聞かせたりしていたそうだったが、どうもそれは、野獣の習性には、好ましいものではなかったようだ。
わしは、数日間、作業を休んで、いっさいの事情を詳しく書いて、イギリスの生物学界の注意を喚起しようという気になった。ところが、ある日、偶然、林を通りかかると、かれが高い木の上にうずくまって、かれを相手に一生懸命しゃべりかけている二人のカナカ土人に、わけのわからぬことを叫んでいるのに出くわした。わしは、腹を立てて、かれをおどしつけた。そんな人間らしくないことをして、恥ずかしいとは思わぬかと叱りとばした。そして、わしの業績をイギリスへ送り返すに先だって、もっと立派な仕事をしなければならんと決心して、ここへ帰って来た。いっそう立派な人間を、つぎつぎと作りあげたのだが、どういうものか、すぐまた野獣性にもどるのだ。立派な頑丈な人間ができあがるのだが、つぎからつぎと、また元へもどって行く……そんなわけで、いまだに立派な人間を作ろうという気でいるし、あくまで克服せずにはおかないという気なのだ。このピューマにしても、その材料の一つで……
だが、実際の話をすれば、そのとおりだ。カナカ土人も、いまでは、残らず死んでしまった。一人は、ランチから海に落ちて死んだ。一人は、踵《かかと》の傷が原因で死んだ。植物の液で毒でも作っていたのだろうと思うのだ。三人は、ヨットで逃げ出した。おそらく途中で溺れて死んだのだろう。あとの一人は……殺された。それでつまり――わしは、かれらの代わりを見つけた。モンゴメリーも進んでやってくれた。はじめは、きみが取ったのと同じ態度ではあったが、そのうちに……」
「その、あとの一人というのは、どうなったのです?」と、わたしは、鋭い口調でいった。「殺されたという、あとのカナカ土人は?」
「事実をいうとね、その後、獣人を何人も作りあげてから後のことだが、わしは、一つの物を作りあげてね――」とそこまでいって、かれは口ごもった。
「それで?」と、わたしはいった。
「そいつは、殺されたよ」
「わたしには、よくわかりませんね」と、わたしはいった。
「そいつが、カナカ土人を殺したのだ――そうなんだよ。そいつは、手あたり次第に、ほかの獣人どもをつかまえて、何人も殺したのだ。わしたちは、二日間、そいつを追っかけまわした。偶然のことからぬけ出しただけでね――絶対に逃げ出したという意味ではない。そいつは、まだ未完成だったのだ。まったく試験的な作品だった。そいつは手足のない、凄い顔をしたやつでね、蛇のように地上をくねくねと這いまわるというやつなんだ。すばらしく強くて、腹が立つほど厄介な代物《しろもの》でね、イルカが水の中を泳ぎまわるように、すいすいと元気よく動きまわるんだ。そいつが、何日間か森の中に潜《ひそ》んでしまってね、ぶつかった相手には、みんな構わずに危害を加えるんだ。それで、とうとう、追跡して狩りにかかったわけなんだが、そのうちに、島の北部地方へ逃げこんでしまったので、わしたちは、全員を二つの部隊に分けて、そいつに接近して襲おうとした。モンゴメリーは、わしといっしょに行くといい張って承知しない。そのうちにライフル銃を持っておったカナカ土人が、そいつに襲われてね、その男の死体が見つかったとき、銃身がSの字型にひん曲げられていて、ほとんど噛み切られんばかりになっておった……最後には、モンゴメリーが、そいつを射ち殺したがね……その騒ぎがあってから後は、わしは、もっぱら実験は、人間の形態をとることにきめた――ただ例外として、ごく小さなものだけは別としてね」
かれは、沈黙に陥った。わたしも、椅子にかけたまま、無言で、かれの顔を見守っていた。
「こうして、すべてで二十年間――イギリスにいた九年を加えて――わしは、研究をつづけてきた。それでもまだまだ、克服しなければならないこと、さまざまのことがあり、わしを満足させないこともあり、さらにいっそうの努力を要することもあるというわけだ。時には、水準をはるかにぬいた結果を見ることもあるが、時にはまた、水準以下に落ちることもしばしばだ。が、常に、わしが考えているような物には達しないのだ。人間の形態をとるのは、いまでは、ほとんど易々《やすやす》たるものなのだ。だから、柔軟な優美なものでも、あるいは、がっしりとした強いものでも、思いのままなのだ。が、厄介なのは、手と爪とだ――これだけは、なかなか骨の折れる仕事で、自由に形を作りあげることができない。しかし、最大の難関は、脳髄に対する微妙な移植と、別の新しい形を与えることが必要なことだ。知能が、しばしば、奇妙に低くて、なんとも説明のつかない変化のない結果に終わったり、思いもよらない相違が出たりするのだ。それに、すくなくとも、満足な結果を得るには、わしの手の届かない何かがあるのだ、どこかに――それが、どこだとは、はっきりいいきれないが、感情のあり場所にあるんじゃないかという気がするのだ。人間性に反する、穴を掘ることや、本能や、欲望など、奇妙に潜んでいた病原といえるようなものが、突発的に爆発して、生き物全部を憤怒と憎悪と、あるいは恐怖で、いっぱいにさせてしまうのだ。
わしがかれらを作りあげた直後は、議論の余地のないほど人間になったという気がするのだ。だが、かれらを観察していると、確信が薄らいで行く。最初に作ったやつは、動物のような顔だちだったし、そのつぎのやつは、地面に腹這いになって、わしをじっと見つめていた……だが、わしは、いまに、克服して見せるつもりだ。わしは、燃えあがる苦しみの火の中に、生きているやつどもをほうり込むたびに、今度こそすべての獣性を燃やしつくしてしまってやって、今度こそ、わし自身のような物の道理をよくわきまえた生物を作りあげるぞと、決心するのだ。結局、十年がなんだ? 人間が、現在の人間に作りあげられるには、十万年の歳月が通過しておるんじゃないか」
かれは陰気に考えこんでいた。
「だが、わしは、ほぼ固定したものに近づきつつあるのだ。このわしのピューマこそ……」
そういいかけて、しばらく沈黙していてから、
「だが、かれらはもとの状態にもどるのだ。わしの手が、かれらから離れるなり、野獣は、こそこそと這いはじめ、本来の性質をあらわしはじめるのだ、ふたたび……」
また長い沈黙に陥った。
「ところで、あなたは、作りあげた物たちを、あの小屋につれてお行きになるのですね?」と、わたしはいった。
「やつらが行ってしまうのだよ。やつらのうちに獣性を感じはじめると、わしは、かれらを追い出してしまうのだ。すると、やつらは、あそこへ迷い込んで行ってしまうのさ。やつらはみんな、この家とわしとを非常に恐れておるのじゃないか。あすこには、一種の人間性を真似《まね》た滑稽《こっけい》しごくなものがあるらしい。モンゴメリーは知っておるらしい。おりおり、かれらのすることに口を出しているらしいんでね。やつらのうちの一人か二人を、かれは仕込んで、わしらの用を足すように仕立てあげたからね。かれは、それを恥じておるらしい。が、かれは、あれらの獣人のうちのあるやつらを、半ば好いているらしいと、わしは信じている。だが、それは、かれに関係したことで、わしには関係のないことだ。かれらは、失敗だという感じで、わしの胸にいやな思いを与えるだけで、かれらには、何の関心も持ってはいない。わしの想像では、カナカ土人のうちに神の教えのことを知っていたものがあったのだが、その土人がきめた線に従って、人間生活の合理的な面を強調した、一種の茶番劇じみた生活を送っているらしい――哀れな獣人どもさ! おきてと称しているものがあるそうだ。『全能者』を賛美する歌を歌うのだ。かれらは自分たちの手で小屋を作り、木の実を集め食用になる草の葉を採り――結婚さえもしているようだ。しかし、わしは、そういうこといっさいを通して、かれらの魂の中まで見ることができる。怒りと、生きることと、欲望を満足させようとする獣類の魂以外、何もない……それにしても、かれらは妙な生き物だ。あらゆるほかの生命力のあるものと同じように、複雑な生き物だ。向上心も人並みにあるし、虚栄心の要素も、無駄な性的感情の要素も、好奇心もある。だがそれは、わしを模倣しているだけなのだ……わしは、いま、あのピューマに希望を抱いておる。あいつの頭脳に、特に心血をそそいでおる……そして、いま」
かれは、そういって、長いこと黙りこんで考えていた後、立ちあがった。その長い沈黙の間、二人は、各々自分自分の考えを追っていた。
「いったい、きみはどう思うね? きみは、いまでも、わしのことを怖れているかね?」
わたしは、かれの顔に目をあてた。冷静な目をした、まっ白な顔の、白髪の老紳士としか見えなかった。かれの平静さ、断固とした落ちつきから生まれる、ほとんど美的といってもいいほどの感じは、何百人の気楽そうな老紳士の間でも、立派に衆目をそば立たしめるものがあるものだろう。その姿を眺めているうちに、なぜか、わたしは身内がおののくのを覚えた。かれの二度目の質問にこたえる代わりに、わたしは、それぞれの手に持っていたピストルを、かれの前にさし出した。
「それは、きみがしまっておきたまえ」かれはそういって、あくびをした。立ちあがって、しばらく、わたしの顔を見つめていたが、にっこり笑いを浮かべて、「きみには、波瀾《はらん》の多い二日間だったね」といった。「すこし睡眠をとらなくちゃいかんね。それにしても、すべてがはっきりして、わしもうれしい。おやすみ」
かれは、しばらく、わたしのことを考えめぐらしているらしかったが、やがて、奥へ行くドアから出て行った。わたしは即座に、外側のドアに鍵をかけた。
わたしは、もう一度、椅子に腰をおろした。いっときの間、全身からすべての気力が抜けて行ってしまったような気持で、すわっていた。感情の点からも、精神的にも、肉体的にも、ひどく疲れてしまって、かれが、わたしに残して行った話の要点以上には、何も考えることができなかった。まっ黒な窓が、人間の目ででもあるかのように、じっとわたしのほうを見つめていた。最後に、やっとの思いで、ランプを消して、ハンモックにもぐりこんだ。すぐに、深い眠りに落ちこんでしまった。
十五 獣人について
わたしは、夜明けとともに目をさました。目がさめたその瞬間から、ゆうべ、モロー博士がわたしに話して聞かせた説明が、はっきり、明確に、わたしの心の前に立ちふさがっていた。ハンモックから降りて、ドアのところへ行き、鍵がかかっているかどうか確かめた。それから、窓の横木も調べて見た。しっかり固定していた。あの、人間に似た生き物どもは、実際に、獣類のような怪物であり、奇怪しごくな、人間の単たる模倣物にすぎないということが、はっきりとした恐怖よりもはるかに怖ろしいことを、いつ何時《なんどき》、かれらが起こすかもしれないという漠然とした不安な考えを、わたしの胸にいっばいに満たした。ドアを叩く音がして、ムリングが何かものをいう、舌っ足らずのような声が聞こえた。一挺のピストルをポケットに (それに、しっかりと手を添えたままで)ドアをあけてやった。
「おはようございます、だんなさま」といいながら、いつもどおりの野菜の朝食と、まずい料理のウサギの肉とを持ってはいって来た。その後から、モンゴメリーがはいって来た。かれの不安そうに、きょろきょろとした目が、わたしの腕の位置にとまった。かれは、流し目で、にっこりと笑いを浮かべた。
ピューマは、きのうの手術の跡を回復させるために、休んでいるようだった。が、習慣から妙にひとりぼっちでいたがるモロー博士は、わたしたちと同席しようとはしなかった。わたしは、モンゴメリーに話しかけて、獣人どもがどんな生き方をしているのか、はっきり知りたいと思った。ことに、これらの人間ではない怪物どもが、モロー博士やモンゴメリーに襲いかからないように、またかれらがお互いに仲間割れをしないように、どういう手段をほどこしているのか、ぜひとも知りたいと思った。
モロー博士とかれ自身が、比較的に安全なのは、あの怪物たちの知能の働きの範囲が、ある程度に制限されているせいなのだと、モンゴメリーは、わたしに説明して聞かせた。かれらの知能が増大するのと合わせて、かれらの動物としての本能が、ふたたび目ざめてくる傾きがあるにもかかわらず、かれらの心には、モロー博士によって注入されたある決定的な観念があって、それが獣人どもの想像力を完全に縛りつけているのだった。かれらは、実際に催眠術をかけられて、ある一定のことは、とうていできることではなく、ある一定のことはしてならないと、教えられているのだった。そして、そういう禁制の条項は、禁制に違反するとか、抵抗するとかが可能な以上に、かれら獣人の心の組織の中に、しっかりと織り込まれているのだった。
そうはいっても、古くからの本能に関したことでは、あまり安定した状態ではなかった。わたしが、すでに、かれらが繰り返し唱えているのを聞いたことのある、一連の|おきて《ヽヽヽ》と称するものは、かれらの心の中で、深く根ざし、かつてどうあらがいようのないほどの渇望に満ちていた、かれらの動物としての天性と、常に闘いつづけているのだった。このおきてを、かれら獣人が繰り返して唱えるのを、わたしは見た、が――また常に、そのおきては破られるのだった。モンゴメリーもモロー博士も、かれらに血の味を知らせないように、特別に気を配っていた。二人は血のうまさを、いささかでも暗示することを恐れているのだった。
モンゴメリーの話によると、おきては、ことにネコ科の獣人の間で、日暮れごろに、妙に弱くなるということだった――そのころになると、動物性が最も強くなり、薄暮とともに、異常な行動に出ようとする活気が、かれらのうちに目をさまし、日中には夢にも考え及ばなかったようなことを、大胆にしようとするというのだった。それには、この島に着いた夜、わたしがこっそり歩いていたときに、豹人《ひょうじん》につけられた思い出がある。しかし、島に滞在したはじめのころ、ただ一度、こっそりと、薄暗くなってから、かれらは、おきてを破った。日中の明るい光の中では、そのいろいろな禁制の条項に対して、だいたいはそれを重んじているような気配だった。
ところで、ここらで、この島と獣人とについて、概略の事実をすこしばかり述べておくほうがいいかもしれない。島は、全面積は、おおよそ七、八平方マイルもあったろうか、四面を広々とした海に囲まれ、不規則な輪郭を描いて低く横たわっていた。もともとは火山島であったが、いまでは、三方を珊瑚礁《さんごしょう》にかこまれていた。北の方には噴気孔がいくつかあるのと、温泉が一か所わき出しているのが、久しい以前に噴火していたことの唯一の名残りであった。おりおりは、軽微な地震の震動を感じることもあり、時には、煙の塔が立ち昇るように、はげしい音を立てて水蒸気が吹き出すこともあった。しかし、それだけのことで、ほかにはどこにも被害を及ぼすようなことはなかった。島の住民は、モンゴメリーの話によれば、モロー博士のメスがつくりあげた、あの不思議きわまる生き物だけで、六十人を越す数に達しているそうだ。それには、人間の形態をしてはいないが、叢林の中に住んでいる、たくさんのずっと小さな怪物どもは、勘定にはいっていないということだった。
とにかく、全部を合わせれば、百二十近い怪物を、博士はつくりあげたのだが、大半は死んでしまったということだ。そのほかに、博士が話して聞かせた、手足のない匍《は》いまわる怪物のように、変死をとげたものもあった。わたしの質問にこたえて、モンゴメリーのいうところによれば、意外なことだが、かれらもまた子供を生むが、だいたいにおいて、生長しないで死ぬということだ。そして、生まれたものは、親が博士の手術によって身につけた、後天的な人間の形質を遺伝しているという形跡がどこにもなかった。たまたま生き長らえるものがあると、モロー博士は、すぐに、それをつかまえて、人間の形態を与えてしまった。女は男よりもずっとすくなかった。したがって、おきての定める、一夫一婦の制度を守るかわりに、多くこそこそと相手を追いまわすという悪習に陥りがちだった。
これらの獣人の行状を、詳細にわたって記述することは、わたしには不可能である――わたしの目は、細部にわたって観察するように訓練されてはいなかった――それで、残念ながら、わたしには描写することができないのである。かれらの一般的な風采で、おそらく、もっとも著しい特徴は、かれらの脚と、胴体の長さとの間に、全然釣合いがとれていないということだった。とはいっても――美についてのわたしたちの観念というものは、なんと相対的なものだろう――わたしの目が、かれらの姿を見慣れてしまったというのだろうか、やがては、わたし自身の脚のほうが、長すぎて見苦しいという感じに陥ってしまったほどだった。もうひとつ異様な点は、前額部の形と、背骨が、人間離れがしたほど彎曲していることと不恰好なことだった。猿人でさえ、人間の姿勢を非常に優美なものにしている、胸の方に向かってゆるく曲がっている背中の曲線を欠いていた。ほとんどのものが、不恰好に両肩を瘤《こぶ》のようにもりあげているばかりか、短い前腕を弱々しく両脇に垂らしていた。なかには、目立って毛深いものもいた――すくなくも、わたしが島にいた終りまでは、そうだった。
つぎにもっとも目に立つ醜悪さは、かれらの顔だった。ほとんど全部といっていいほど、顎が突き出し、耳のへんが畸形《きけい》であり、鼻は大きく、人目をうばうほど盛りあがり、髪の毛は、毛皮に似て、ひどくごわごわとして密生し、しばしば、目の色も位置も、不思議なほど一風変わっていた。猿人だけが、歯をがたがた鳴らして忍び笑いをしたが、そのほかには、声を出して笑うなどということのできるものはなかった。こういう一般的な特徴以上に、かれらの頭に共通しているということは、小さいということだった。めいめいが、それぞれの種属の特質を保存していた。豹《ひょう》は豹なりに、牛は牛なりに、雌《めす》の豚は雌の豚なりに、またそのほかの動物もそれぞれの動物なりに、人間の顔や手足をしているにすぎなくて、それぞれの動物が作りあげられた、元の特質をすっかり隠してしまってはいなかった。声もまた、非常に違っていた。手も奇形で不恰好だった。もっとも、中には思いがけないほどの人間らしい手をしていて、わたしを驚かせるものもあったが、ほとんど全部のものが、手足の指の数が満足に五本揃ってはいず、指の爪ときたら恐ろしく不恰好で、触感を欠いていた。
恐ろしい獣人が二人いた。ひとりは豹人で、もう一人は、ハイエナと豚とから作りあげられたやつだった。この二人の獣人よりもずっと大きいのが、牡牛から作られた三人の獣人で、最初ランチに乗りこんでいたのがこの連中である。つぎにくるのが、おきての語り役の銀毛の男、モンゴメリーがつれていたムリング、狼と山羊《やぎ》から作りあげられた牧羊神のような生き物、ほかに男の豚人三人と、女の豚人が一人いた。雌馬とサイの合成物と、そのほかの雌たちは、何から作りあげたものか、わたしには確かめられなかった。数人の狼人、熊と牡牛、セント・バーナード犬人もいた。猿人のことは、すでに述べたが、雌|狐《ぎつね》と熊とで作った老女で、とりわけいやらしい(その上、吐き気がするほど、いやな臭気のする)のがいて、わたしは、最初からきらいだった。そのくせ、この老女は、とりわけ熱心なおきての崇拝者だということだった。そういうものより、もっとずっと小さい生き物といえば、まだら馬の若いのと、例の小さなナマケモノとがあった。しかし、そういうものを並べ立てることは、もうこれで十分だろう!
はじめ、わたしは、身ぶるいするほどの嫌悪を、これらの獣人に抱き、なんといわれようと、やはり恐ろしい畜生ではないかと、強く感じていた。が、きわめてわずかずつではあったが、すこしずつ、かれらに慣れるようになった。その上、わたしが動かされたのは、かれらに対するモンゴメリーの態度だった。かれは、もう久しい間、かれらといっしょにいたので、いまではもう、かれらを、ほとんどふつうの人間と見なすようになっていたのだ――かれがロンドンで生活した日々のことは、とうてい手の届かない輝かしい過去になっていた。ただ、一年に一度かそこら、モロー博士の代理として、動物を買い入れるために、アフリカまで出かけて行くのだった。スペインの混血児たちの船乗り部落へ足を踏み入れるたびに、船員たちの姿形が――はじめの間、獣人たちの姿形がわたしに奇妙に感じたのと同ように――奇妙な気がしたということである。船員たちの脚が、不自然なほど長く、顔は異様に平っぺたく、額が出っ張っているばかりか、猜疑《さいぎ》心が強く、危険で、冷酷な心の持ち主だという気がしたというのである。
かれがつれていた、まっ黒な顔をしたムリングという男は、わたしが遭遇した最初の獣人だったが、かれは島内いたるところにいるほかの連中とはいっしょに住んではいなかった。かれだけは、石壁の家のうしろの、小さな犬小屋のような掘立て小屋に住んでいた。猿人ほどには知恵もなかったが、その代わり、はるかに素直で、獣人中、いちばん人間らしい様子をしていた。モンゴメリーは、料理を作ることを教えこみ、必要な日常の家事を扱わせていた。モロー博士の恐るべき技術の勝利の記念品とでもいうか、熊を主材に、犬と雄牛の長所を付け加えた獣人で、モロー博士の作りあげた生き物中の、もっとも精巧なものの一つであった。そいつは、奇妙なほどの好意と献身的な行為で、モンゴメリーに仕えた。モンゴメリーも、それに気がつくと、軽くそいつを叩いたり、半ばからかうような、半ば冗談のような名で、そいつを呼んだりして、飛び跳ねるほど、ひどく喜ばせたりしていた。かと思うと、ひどい扱いをすることもあり、ことにウイスキーに酔っぱらったりした時などは、蹴ったり、殴りつけたり、石を投げつけたり、マッチをすって投げたりすることもあった。しかし、モンゴメリーの機嫌のよしあしにかかわらず、モンゴメーのそばにいるほどうれしいことは、ほかにはないといった様子だった。
こうして島に暮らしているうちに、わたしは獣人たちに慣れて行ったといわなければならない。不自然だとか、いやらしいとかいう気のした無数のことが、あっと気がついた時には、わたしには自然でふつうのことになっていた。まわりに存在しているすべてのものが、わたしたちの周囲の平均的な色合いから、そのもの特有の色彩を奪ってしまうのだろうという気がする。モンゴメリーとモロー博士とは、特別に変わっていて、独特のものを備えていたので、わたしが考えている人間としての印象を十分に保っていた。わたしは、島に着いた時、ランチで働いていた不恰好な、牛のように鈍重なやつの一人が、藪の中を、どすんどすんと歩いて行くのを見かけることがあると、はっきりとは思い出せないが、本物のいなか者の男が、一日の機械労働からとぼとぼと家路へ急ぐのと、いったいどう違っているのだろうかと、自問している自分に気づくのだった。あのずるそうな顔の、なんとなく抜け目のなさそうな妙な人間といった、あの狐と熊で作られた老女と出会ったときもそうだ。この顔は、どこか都会の横町で、前に出会ったことがあるように、思いさえしたものだった。
そうはいっても、おりおりは、わたしに向かって獣性がひらめくのも、疑いもなければ、否定もできないことだった。汚ない小屋の入口にうずくまっていた、醜悪な顔つきのせむしの人間の姿をした獣人が、両腕をのばし、あくびをしたかと思うと、驚くほどの早さで鋏《はさみ》の刃のような門歯と、ナイフのように鋭くきらきらとした軍刀のような犬歯を剥《む》いて見せることもあった。かと思うと、狭い小道で、白い布をまとった、しなやかな女の姿とぶつかって、その目の中に、ちらと挑《いど》みかかるような色を見ると、わたしはふいに(発作的な反作用で)細く裂けたようなひとみを持っているのだなと思い、ちらと目を伏せて見ると、曲がった爪をしていて、それで、不細工に身にまとった白布をおさえるのに気づくのだった。それはそうと、奇妙なといえば奇妙なことで、そういうしぐさについて、くわしく説明することは、わたしにはできないが、こういうこの世のものでない怪しげな生き物――女ということだが――それが、まだすっかり馴染《なじみ》にならない、わたしの滞在の初期に、自分自身のいやらしい醜さを本能的に意識して、そのために、人間の女性以上に、うわべの衣裳の不体裁なことや、身だしなみに気を使って、そういったしぐさをして見せたのだろう。
十六 血の味を知った獣人
しかし、物を書くことに慣れていないわたしの未熟さが、常にわたしの意に反して、話の本筋から、筆を遠ざけがちになる。前章で記したとおり、モンゴメリーと朝食をともにした後、かれは、島内の見物に、わたしをつれ出した。噴気孔や、きのう、わたしが誤って足を踏み入れた、熱湯の流れの元である源泉を見せてやろうというのだった。二人はともに、鞭と弾丸をこめたピストルを携えた。道をジャングルの方にとって、木の葉のこんもりと茂った中を通って行くと、きいっと鳴くウサギの声が聞こえた。立ちどまって耳を澄ましたが、それだけで、後の物音は聞こえなかった。そのまま、しばらく道をつづけて行くうち、その出来事は、わたしたちの心から消えていた。突然、長い後足の小さな桃色の動物たちが、藪の中をぬけて飛び跳ねるように逃げて行くのを、モンゴメリーがわたしに知らせた。かれの話によると、そいつらは、獣人の子孫から生まれたもので、モロー博士がこしらえあげたものだということだった。モロー博士の考えでは、食用として役立てようというつもりだったのだが、自分たちの生まれたばかりのこどもを食べるという、ウサギに似た習性が、その意図をくじいてしまったのだということだ。それまでに、それらの生き物に何度かぶつかっていた。一度は、わたしが月光の中を豹人から追いかけられている間に、一度は、きのう、わたしがモロー博士に追いかけられている間にぶつかった。たまたま、一匹は、風に倒された木が根こぎにされたためにできた穴の中に、わたしたちの目をくらまそうとして飛び込んだ。しかし、わたしたちの目から姿をくらます前に、わたしたちは、どうやら、そいつをつかまえた。そいつは、猫のように歯をむき、後足で引っ掻いたり、乱暴に蹴《け》ったり、また噛みつこうとしたが、そいつの歯はとても弱くて、指でつねったよりも痛みを感じなかった。わたしには、どちらかというと、可愛らしい小さな生き物のような気がした。モンゴメリーの説では、穴を掘ったりして芝生を痛めたりすることもけっしてない上に、非常にきれい好きな習性を持っているということなので、ふつうのウサギとして貴族たちの庭園に放ち飼いするには好適な物ではないかという気が、わたしにはしないでもなかった。
わたしたちはまた、途中で、一本の木の幹が、長く皮を引きむかれて、深く掻きむしられているのを見つけた。モンゴメリーは、わたしの注意をそれに促して、「爪で木を掻きむしるなかれ、これ、おきてなり」といった。「たいていのやつは、それを気にかけているのだがね!」
わたしたちが、猿人と半羊神めいた獣人に出会ったのは、その後だったと思っている。この半羊神は、いくぶんかはモロー博士の古典に関する思い出のあらわれで、顔は、表情が羊で――それも、粗悪なヘブライの雛形《ひながた》に似ていて――声といえば、しわがれた羊の鳴き声のようで、下半身は悪魔じみていた。わたしたちのそばを通りすぎながら、サヤ豆のような果物のさやをかじっていた。猿人も牧羊神とともに、モンゴメリーに挨拶した。
「やあ」と、二人はいった。「鞭を持った、第二の人にご挨拶します」
「鞭を持った第三の人がおいでだぞ」と、モンゴメリーがいった。「だから、ご挨拶を忘れんように、気がつけたほうがいいぞ!」
「この人は、作られたのじゃないのか?」と、猿人がいった。「この男がそういってたぞ――作られたのだといってたぞ」
半羊神に似た男も、不思議そうに、わたしの顔を見ていた。
「鞭を持った第三の人だって。力のない白い顔はしているが、泣きながら、海へはいって行ったぞ」
「見ろ、長い鞭を持っておいでになるじゃないか」と、モンゴメリーがいった。
「きのう、その人は、血を流して、泣いていた」と、半羊神がいった。「あんたは、血を流したり泣いたりしない。ご主人は、血を流したり、泣いたりはしない」
「ばか者!」と、モンゴメリーが叫んだ。「気をつけんと、きさまのほうが、血を流したり、泣いたりすることになるぞ」
「この人は、指を五本持っている。おれと同じ、五本指の人間だ」と、猿人がいった。
「さあ、行こう、プレンディック」といって、モンゴメリーは、わたしの腕をとり、わたしは、かれといっしょに歩いて行った。
半羊神と猿人とは、わたしたちのうしろ姿を見つめて立ちつくしながら、お互いにつぎのようなことを話し合っていた。
「あの男は何もしゃべらない」と、牧羊神がいった。「人間なら、声を持っているはずだ」
「きのう、あの男は、食べる物をくれと、おれにいったよ」と猿人がいった。「あの男は、知らなかったのさ」それから、二人は何かしゃべっていたが聞こえなかった。ただ、牧羊神が声高く笑うのが聞こえた。
わたしたちが、ウサギの死体にぶつかったのは、その帰り道でのことだった。哀れな小動物のまっ赤に血に染まった死体は、ずたずたに引き裂かれ、無数のあばら骨が白くむき出しになり、背骨が噛みくだかれたのが一見して明らかだった。
それを見たとたん、モンゴメリーは、その場に立ちどまって、
「こりゃ、たいへんだ!」といった。そして、腰をかがめて、くだかれた背骨をひろいあげ、念入りにあらためてみてから、「たいへんだ!」と繰り返していった。「いったい、どういうことだ?」
「肉食獣時代の、昔の習性がよみがえったんでしょうな」しばらく間をおいてから、わたしがいった。「この背骨は、すっかり噛みくだかれているじゃありませんか」
かれは、顔を蒼白にし、唇をまげて、じっと見つめながら、立ちつくしていた。
「どうも、こいつは気に入らん」と、かれはゆっくりといった。
「ぼくも、これと、同じようなのを見ましたよ」と、わたしはいった。「ここへ来た、最初の日に」
「とんでもないものを見たものだね、きみも! どんなふうだった?」
「ウサギが、首をねじ切られていましたよ」
「この島へ来た日なんだね?」
「ぼくがここへ来た日ですよ。夕方、外へ出た時、石壁の囲いの裏の藪の中でね。首は完全にねじ切られていましたよ」
モンゴメリーは、低い口笛を長く鳴らした。
「それもね、きみたちの畜生どもがした仕業だという気がしますね。それは、そうじゃないかという疑念にすぎませんがね、もちろん。ウサギの死骸を見つける前に、怪物の一人が、渓流で水を飲んでいるのを見かけたんです」
「口をつけて飲んでいたのかね?」
「ええ」
「口をつけて水を飲むなかれ、これ、おきてなり。たいていの獣人どもは、おきてを忘れていないものなんだがね、え――モロー博士がいない時なんだね?」
「その獣人は、ぼくを追っかけましたよ」
「もちろん」と、モンゴメリーがいった。「それは、まさに食肉獣のやり方ですよ。獲物を殺した後で、水を飲む。血の味がするんでしょうな」
「それにしても、どんなやつでした?」と、かれはたずねた。「もう一度、見ればわかるかね?」かれは、散乱したウサギの死骸の上に両足を踏ん張って立ちながら、ちらっとあたりを見まわした。かれの目は、わたしたちのまわりを取りまいている、こんもりとした緑の陰や緑の幕の間や、深い森や、潜んでいそうな場所の方に、きょろきょろと走った。
「血の味だ」と、かれはまた、いった。
かれは、ピストルを取り出し、その中の薬莢《やっきょう》をあらためてから、またこめ直した。それから、垂れ気味の下唇を、きっと引き締め出した。
「もう一度見れば、わかると思います。石をぶつけましたから、額には、かなりの傷がついているはずです」
「ぼくたちは、やつがウサギを殺したという証拠を、つかんでしまったのだ」と、モンゴメリーがいった。「ことを、ここまでもたらしたくなかったのだがね」
わたしは、早くその場から離れたかった。が、かれは、ずたずたに引き裂かれたウサギの死骸を見つめたまま、とほうにくれた様子で、いつまでも考えこんでいた。その間に、わたしは、ウサギの残骸が目に見えなくなるほどの距離まで離れた。
「さあ、行きましょう!」と、わたしはいった。
やがて、はっと目がさめたように、かれもわたしの方に近づいて来た。
「きみもわかっているだろうが」と、ほとんどささやくような声で、かれはいった。「やつらはみんな、地上を走るものは食べてはならぬという固定観念を持っていると思うのだ。やつらのうちのだれかが、偶然のことから、血の味を知ったとしたら……」
わたしたちは、しばらく無言のまま、歩きづづけた。
「どうして、こんなことになったのだろう」と、かれは独り言をいった。それから、しばらく間をおいてから、「この間、ぼくはばかなことをしてしまったよ。ぼくの召使のムリングにさ……ウサギの皮のむき方や料理の仕方を教えてやったんだが……そのとき、手についた血をなめているのを見たんだよ……そのときには、ぼくは全然、そんなこと夢にも考えなかったんだがね」
それから、しばらく考えに沈んでいた後で、「これだけは、ぜひともやめさせなくちゃいかん。すぐにでも、モロー博士に報告しなくちゃならん」と、強く意を決したような口振りでいった。
帰る途中も、かれは、ほかのことはなんにも考えられないような様子だった。モロー博士は、この問題を、モンゴメリー以上に重大に考えた。わたしの目にもはっきりわかる、かれらの狼狽《ろうばい》に、わたしがまきこまれてしまったことはいうまでもあるまい。
「厳重にみせしめてやらなくちゃならん」と、モロー博士がいった。「犯人は豹人にちがいないと、わしは信じる。だが、どうして、それを証拠立てられるだろう? モンゴメリー、どちらにしても、この際、肉食はさしひかえてもらいたい。でないとわれわれまで、とんだ危険にさらされるようなことになりかねないぞ」
「ぼくは、とんだばかでした」と、モンゴメリーがいった。「しかし、もう、できてしまったことですからね。そして、あなたは、ぼくが、やつらに血の味を教えたとおっしゃるんでしょうね」
「われわれは、すぐに、ことを処理しなくちゃならん」と、モロー博士がいった。「なんか変わったことがおこったら、ムリングが知らせてくるだろうね?」
「ムリングだからって、安心できません」と、モンゴメリーがいった。「あの男に、よく知らせておくべきだったと思うんです」
その日の午後、モロー博士、モンゴメリー、わたしとムリングとは、峡谷の小屋に向かって、島を突っきって行った。わたしたち三人は、武装していた。ムリングは、薪を割るのに使っていた小さな手斧《ておの》と、針金の巻いたのを携えていた。モロー博士は、牛飼いが使う大きな角笛《つのぶえ》を、肩にかけていた。
「獣人の集合するのが見せてもらえるぜ」と、モンゴメリーがいった。「なかなかおもしろい見物だよ」
モロー博士は、陰気な、白皙《はくせき》の顔にかたい表情をうかべたままで、途中、ひと言も口をきかなかった。
もうもうと湯気を立てて熱湯の流れ下る峡谷を渡り、うねうねと曲がる小道に沿って、深く生い茂ったシュロの林を通りぬけると、広い空地に着いた。一面に黄色い粉のようなものがおおっているのは、硫黄だろう。雑草の生い茂った土手の上に、海がきらきらと光っていた。自然にできた、浅い円形劇場のようなところに来ると、わたしたち四人は、その場に立ちどまった。すると、モロー博士は、肩にした角笛を吹き鳴らし、眠ったような熱帯の午後の静寂を破った。博士は、よほど強い肺を持っていたのに違いない。その音は、木霊《こだま》を返しながら、しだいしだいに高く鳴り渡り、ついには耳をつらぬくほどに響き渡った。やがて、その曲がった楽器を脇におろして、モロー博士は「ああ!」と、大きな溜め息をついた。
と思うとすぐ、黄色いシュロの林の中で、物を踏み砕く音がした。と同時に、きのうわたしがその中を走り抜けた湿地の、緑の木々の密生したジャングルから、話し声が響いてきた。すると、硫黄の広場のはしの三、四か所から、異様な獣人たちの姿があらわれて、わたしたちの方へ急いできた。木々の間とか、アシの間とかから、一人二人とつぎつぎに小走りに、硫黄の粉末を蹴立《けた》てて、ひょこひょことあらわれて来たのを見たとたん、むずむずと恐怖が背筋を這うような思いを感じないではいられなかった。しかし、博士とモンゴメリーとは、じっと身動きもせず、落ちつき払って立っていた。わたしも、二人のそばに寄り添って、立ちつくしていた。最初にやって来たのは、世にも不思議なほど非現実的な半羊神だった。とはいえ、架空な物でない証拠には、ちゃんとその影を足もとにおとし、蹄《ひづめ》でほこりを蹴立てていた。そのつぎに茂みの中から出てきたのは、怪物のようにぶこつな、馬と犀《さい》の混血獣人で藁《わら》のようなものを噛みながらやって来た。つづいて、豚女に、狼女が二人あらわれ、その後から、痩せこけてまっ赤な目をした、狐と熊の老女も、そのほかつぎつぎに――みんな一生懸命にいそいでやって来た。かれらは、前に進み寄りながら、モロー博士の方に向かってこびへつらうように、お互いにはまったく無関係に、|おきて《ヽヽヽ》の言葉の後半分を唱えはじめた。
「かれは、傷つくる手なり」
「かれは、癒す手なり」などと、口々に唱えた。
かれらは、わたしたちから三十ヤードほどのところに来ると、ぴたっととまって、膝と肱《ひじ》を地につけて頭を下げ、手に手にまっ白な土ぼこりをつかんで、頭の上に撒《ま》きちらしはじめた。できれば、その場面を心に思い描いてごらんになるといい、まったく世にも不思議な奇怪きわまる光景だった。わたしたち、紺色の服をまとった三人の男と、まっ黒な顔をした不恰好な従者が、灼熱の青空の下、ぎらぎらと日に輝く黄色い土ぼこりの立つ広々とした地上に立ちはだかっていると、そのまわりには、怪物どもがうずくまったり、身振り手真似をしたりしながら、輪になって取りかこんでいる。ある者は片輪者、あるいは、わたしたちの気ちがいじみた夢の中にあらわれるもののほかには似たもののないほど、奇怪きわまる醜悪な姿をした者のほか、ほとんど人間の姿形をしたものもいる。そして、その向こうには、一方にはシュロの茂みがひょろひょろと並び、一方にはヤシの木がびっしりと生い茂って、小屋のある渓谷を隔て、北の方には、太平洋の水平線がかすんで見える。
「六十二、六十三」と、モロー博士が数えあげた。
「もう四人、いるはずではないか」
「豹人が見えませんね」と、わたしがいった。
しばらく間をおいて、モロー博士が、また大きく角笛を吹き鳴らした。その音を聞くと、獣人どもはいっせいに身もだえして平身低頭した。やがて、シュロの茂みからこそこそと、地上を這うようにしながら豹人が近づいて来て、モロー博士の背後で、土ぼこりを撒きちらしている仲間の輪に加わろうとした。わたしは、その額に傷があるのを見つけた。最後にあらわれたの小さいほうの猿人だった。早くから集まっていた獣人どもは、暑熱と、いくども平身低頭するのに倦《う》み疲れて、猿人のほうに、悪意に満ちた視線を投げた。
「やめい」と、断乎とした大きな声でモロー博士は叫んだ。その声に、獣人どもは尻をおとして身をおこし、その礼拝を中止した。
「おきてを語るものは、どこにいる?」と、モロー博士がいうと、毛深い灰色の怪物が埃《ほこり》のなかに顔を深く下げた。
「おきてを語れ」と、モロー博士がいった。とすぐに、獣人どもはひざまずいて集まり、からだを左右にゆすり、両手で硫黄を投げあげた。最初は、右手で土ぼこりを投げ、つぎに左とまきちらして、かれらの奇怪な連祷《れんとう》を唱和しはじめた。
かれらの連祷が、
「肉または魚を食うなかれ、これ、おきてなり」というところまでくると、モロー博士は、やせた白い手を高くあげて、
「やめい!」と叫び、獣人どもの上には、完全な静寂が襲うように、一度に落ちた。
つぎに、どんな恐ろしいことがおこるかを、かれら獣人どもは、みんなよく知っていたのだと、わたしは思う。わたしは、かれらの奇怪な顔を見まわした。かれらの身をすくませた態度や、そのぎらぎらとした目にひそかに恐怖におののいている色を見たとき、わたしがかれらを人間と信じていたのはまちがいではなかったのではないだろうかという気がした。
「おきてが破られたのだ」と、モロー博士が、つづいて叫んだ。
「なにびとも、のがれることを得ず」
銀色の毛に深くおおわれて、顔も見えない獣人が叫ぶと、
「なにびとも、のがれることを得ず」と、ひざまずいた獣人どもの輪が繰り返して唱和した。
「おきてを破ったのは、だれだ?」と、モロー博士が、大きな声で叫んで、ぐるっとひざまずいた獣人どもの顔を見まわし、鞭を鳴らした。ハイエナと豚の男と、豹人とが、顔をそむけたような気が、わたしにはした。モロー博士は、豹人の顔をま正面から睨みつけた。豹人は、拷問の恐ろしさとともに、そのことを思い出した顔つきで、モロー博士のほうに媚《こ》びるような目を向けた。
「おきてを破ったのは、だれだ?」と、雷のような声で、モロー博士は繰り返した。
「おきてを破るものは、わざわいなるかな」と、おきての語り役が唱えた。博士は、豹人の目を、その魂の底まで射抜くように、睨みつけた。
「おきてを破ったものは――」と、その当の相手から目をはなし、みんなのほうに向けて、モロー博士はいった。かれの声には、ひどく喜び勇んでいるような気味があるような気が、わたしにはした。
「――苦しみの家に帰れ」と、獣人たちは、声をそろえてわめいた。――「苦しみの家に帰れ。おお、主よ!」
「苦しみの家に帰れ――苦しみの家に帰れ」と、猿人までがわめき立てた。かれには、その考えが、ひどく気に入ってるかのようだった。
「あれが聞こえるか?」と、モロー博士は、罪人のほうを振り返っていった。「わが友よ……どうだ!」
豹人は、モローの目をかわして、立ちあがっていたが、その声とともに、とつじょ、双眼《そうがん》を怒らし、鋭い牙をひんまげた口からむき出しにして、かれを責める博士のほうにおどりかかっていった。耐えられないほどの恐怖のあまり気が狂ったために、この暴挙に出たのだろうという気が、わたしにはする。六十人を越える怪物どもの輪がいっせいに、わたしたちのまわりに立ちあがったような気がした。わたしは、ピストルを抜きだした。目の前で、二人のからだがもつれた。豹人の一撃で、モロー博士がよろめくのが見えた。おそろしい咆哮が、わたしたちのまわりにおこった。誰もかれも、あわただしく動きまわっていた。一瞬、獣人どもみんなが暴動を起こしたのだと、わたしは思った。
豹人の怒り狂った顔が、ムリングに追いせまられて、わたしの顔のそばで燃え立っていた。ハイエナと豚の男の黄色い目が、興奮にぎらぎらと光っているのを、わたしは見た。かれの様子は、わたしに襲いかかろうと半ば決心したようだった。半羊神も、ハイエナと豚の男の盛りあがった肩越しに、わたしを睨んでいた。モロー博士のピストルが轟然《ごうぜん》と鳴るのが耳にはいり、赤い閃光が、騒ぎをつんざいて飛んだ。獣人の群れがいっせいに、閃光の走った方向をくるっと向いたようだった。わたしも、その動きに引きずられて、振り向いた。つぎの瞬間、逃げ出して行く豹人を追っかけて、騒々しく口々にわめき立てて行く群れにまじって、わたしも走っていた。
はっきり、わたしがいえるのはそれだけである。わたしは、豹人がモロー博士に殴りかかるのを見た。それから後は、誰もかれもが、わたしのまわりで走りまわっていた。そして、気がついたときには、わたしは、猛然と走っていた。
ムリングが先頭に立って、いまにも逃亡者に追いつこうとしていた。それにつづいて、もうすでに舌をだらりと垂らしながら、狼女たちが、それでも、大きな跳びはねるような足取りで走っていた。興奮して何かきいきい叫びながら行く豚人と、白布をまとった牛人が二人、それにつづいた。その後から、獣人たちの一団とともに、モロー博士が来た。片手にピストルを握りしめ、つば広の麦藁帽子は、どこかへ飛ばしてしまったものとみえて、まっ白な長髪をなびかせていた。ハイエナと豚の男が、わたしに歩調を合わせて、わたしのかたわらを走りながら、ずるそうな目つきで、ちらちらと、ぬすむように、わたしを見ていた。そのほかの者たちも、口々にしゃべったり、わめいたりしながら、わたしたちの後からやって来ていた。
豹人は、丈の高いシュロの林の中に飛び込んで行った。シュロは、かれが通るにつれてはね返って、ムリングの顔にあたった。その後からついて行ったわたしたちは、密林のところに行きついたとき、足もとに踏みつけた道がついているのを認めた。密林の中の追跡を、おそらく四分の一マイルほどつづけると、いっそう深い密林になり、わたしたちは一団となって進んでいったが、わたしたちの動きは、ひどく遅々たるものとなり――シダの葉が、ぱちっぱちっと、わたしの顔を打ちつけ、なわのようなつる草が顎にからみ、踵《かかと》にまつわり、とげのある植物が、服や皮膚にひっかかり、服を引き裂いた。
「やつめ、この中を、四つん這いになって逃げておるんだ」と、わたしのすぐ前を行く、モロー博士が、息をはずませていった。
「なにびとも、のがれることを得ず」と狼熊人はいって、この狩り立てに狂喜した様子で、わたしの顔を見て、大声に笑い立てた。
わたしたちは、再び岩山の間に飛び出した。見れば、獲物は前方を、四つん這いになって軽々と走りながら、肩越しにわたしたちに向かって唸《うな》り声をあげた。それを見て、狼人はどっと歓声をあげた。豹人は、まだ服を着けていた。そして、離れて見ると、その顔はまだ人間らしさをとどめているようだったが、その四肢の動きは、猫属特有の柔軟な身のこなしで、その肩をそっとおろして行くようすなどは、まぎれもなく狩り立てられている動物のそれだった。そいつは、黄色い花の咲いているとげの多い叢《くさむら》をおどり越えると、見えなくなってしまった。ムリングは、岩山の途中へんまで行っていた。
ほとんどのものが、いまでは、追跡の最初のときのスピードを失って、いままでよりも、ずっと間のびした、だらしのない足取りになっていた。広場を進みながら見ると、縦隊になって追跡していたのが、いまでは、横隊にひろがっていた。ハイエナ豚人は、相も変わらず、わたしにぴったりくっついて走りながら、たびたび、うなるような笑い声を立て、その鼻づらに皺《しわ》をよせて、じろじろとわたしを見ていた。
わたしがこの島に着いた夜、かれが、こっそりわたしに忍び寄った岩山のはずれの出っ張りを盾として、豹人は、茂みの中に隠れこもうとしていた。が、モンゴメリーがその動きを見つけて、かれをまた追い出した。
そのようにして、息を切らし、岩にぶつかってころび、イバラに膚《はだ》を引っ掻かれ、シダや、アシに行く手をさえぎられながら、わたしは一同に力を合わせて豹人を追跡していた。ハイエナ豚人は、獰猛《どうもう》な笑い声を立てながら、わたしと並んで走っていた。わたしは、よろめきながら、走りつづけた。頭はふらつき、心臓ははげしい速さで胸を打ち、いまにも死ぬかと思うほど疲れていた。それでも、この恐ろしい仲間とだけで残されるのは、たまらなくいやだった。極端に疲れ果て、熱帯の午後のはげしい暑熱にもかかわらず、わたしは、よろよろと走りつづけた。
そしてついに、狩り立ての熱狂が、すこしずつ弱くなるときがきた。わたしたちは、憎むべき凶悪な豹人を、島の一角に追い詰めてしまったのだ。モロー博士は鞭を手に、わたしたちを一列に配置した。わたしたちは口ぐちに、隣の獣人と大声でどなり合いながら、|かも《ヽヽ》が逃げ出さないよう警戒線をかたくしながら、いまはそろそろと前進して行った。相手は、物音一つ立てず、目立たないように、藪の茂みに身を潜めていた。この間のま夜中、かれに追っかけられて、わたしが走りまわった茂みだ。
「落ち着け!」と、モロー博士が叫んだ。一列横隊のはしが、這いながら薮の茂みをまわって、相手を取り囲もうとするのに気づいて、かれは「落ち着いて!」と叫んだ。
「むやみに、突っ込むな!」というモンゴメリーの声が、叢の向こうから飛んできた。
わたしは、藪の上の斜面にいた。モンゴメリーとモロー博士とは、下の海岸線に沿って狩り立てていた。わたしたちは、からみ合った枝や葉を押しわけながら、ゆっくり進んだ。獲物は、音も立てず、身動き一つしなかった。
「苦しみの家へ帰れ、苦しみの家に、苦しみの家に!」と、猿人の声が、つづけざまに叫んだ。ほぼ二十ヤードほど、右手のほうだった。
その声を聞いたとたん、わたしは、この哀れなやつが、それまでわたしに与えていた恐怖をすべて、大目に見る気持になった。
ぴしっと小枝の折れる音が聞こえたと思うと、ひゅうと大きな木の枝を押しのけた陰から、馬犀人のどっしりとした足音が、わたしの右手でした。そのときふいに、一枚のぎざぎざの緑の葉を通して、こんもりした茂みの下の薄暗がりの中に、狩り立てられている生き物の姿を、わたしは見つけた。わたしは、はっとして、足をとめた。かれは、これ以上小さくはなれないほどちぢこまり、その爛々《らんらん》と光る緑色の目をくるっとまわして、肩越しにわたしを見あげていた。
たしかにそれは、奇妙な矛盾のような気がする――その事実を、どう説明したらいいのか、わたしにはうまくいいあらわせない――が、いま、その目をきらきらと光らせて、完全に動物本来の姿にもどってうずくまりながら、不完全しごくな人間の顔を恐怖に引き歪《ゆが》めている相手を見ると、あらためて、そのうちにある人間性について考えさせるのだった。間もなく、ほかの追手が、かれを見つけ出すにちがいあるまい。そして、力尽きて、捕えられ、あの石壁の囲いの中で、恐るべき苦悶を、もう一度経験することになるであろう。いきなり、わたしは、ピストルをぬき出して、その恐怖におびえた目と目の間をねらって、引き金を引いた。
ピストルの音で、ハイエナ豚人も相手を見つけた。そして懸命の唸り声もろとも、相手におどりかかり、血に渇した歯を、そののど首に突き刺した。同時に、あたりの深い緑の茂みをどよめかして、獣人どもがいっせいに飛び出して来た。一つの顔につづいて、つぎつぎと、顔があらわれて来た。
「殺すんじゃないぞ、プレンディック君」モロー博土が叫んだ。「殺すんじゃないぞ!」そして、大きなシダの葉をかきわけて、のぞきこんでいる博士の姿が、わたしの目にうつった。
つぎの瞬間、かれは、鞭の柄でハイエナ豚人を追っぱらった。博士とモンゴメリーとは、猛り狂った、肉好きな獣人どもを、懸命に近寄せないようにしていた。ことに、まだふるえている死体から、ムリングを追っぱらうのに骨を折っていた。毛深い銀毛の獣人も寄って来て、わたしの腕の下から死骸に向かって、ふんふんと鼻を鳴らした。そのほかの獣人たちも、動物特有の熱心さで、もっと近くよってその場のようすを見ようと、ぐいぐいとわたしを押した。
「困ったことをしてくれたな、プレンディック君!」と、モロー博士がいった。「わしは、こいつに用があったのだ」
「すみませんでした」と、肚《はら》ではそう思っていなかったが、わたしは、そういってあやまった。
「時のはずみで、つい、やっちまったんです」
わたしは、力を出したのと興奮しすぎたのとで、胸がむかついて気持が悪くなってきた。くるりと向き直ると、獣人の群れを押しわけて、岬より高くなった方に向かった斜面を、ただひとりで登って行った。大きな声でどなるモロー博士の命令のもとに、白布をまとった牛人が三人、海の方へ死骸を運んでいた。
いまは、ひとりでいるほうが、わたしには気が楽だった。獣人どもは、死体についてまったく人間のような好奇心をあらわしていた。牛人たちが波打際の方へ死体を引きおろして行く後から、びっしりひと塊りになってついて行った。わたしは、岬の先へ行き、夕空を背にまっ黒に見える牛人たちの姿を見守っていた。かれらは、かえって生前よりも重くなった死体を、海の中へかついで行く。この島にいる、物をいうこともできなければ、目的もない獣人どものことが、実感として、波のようにわたしの心をよぎった。
わたしの下の方の、岩の間の砂浜には、モンゴメリーとモロー博士のまわりに、猿人や、ハイエナ豚人や、そのほか数人の獣人どもが立っていた。かれらはみんな、まだひどく興奮していた。みんな、忠実におきてに従おうという、はげしい表情をいっぱいにみなぎらせていた。とはいいながら、わたしは胸の中で、ハイエナ豚人が、ウサギ殺しに関係していたにちがいないと、かたく信じていた。奇怪な信念が、わたしの胸に浮かんできた。一同の愚鈍さ、その形態の奇怪な異様さをのぞいて、そのもっとも単純な形において、本能や、理性や、宿命など、全部の相関作用という、人間の生活のいっさいの調和の縮図が、ここに、わたしの前にあるのだった。豹人は、偶然のことから死ぬ羽目になったのだ。それはみんな、運命の相違というものだったのだ。
哀れな獣人どもよ! わたしは、モロー博士の残酷さを、さらに不道徳という面から考えはじめた。モロー博士の手を離れた後に、これらの哀れないけにえに襲ってくる苦痛や災難については、わたしは、これまで考えたこともなかった。わたしはただ、あの石壁の囲いの中で現実に行なわれていた拷問や苦痛の日々に、興奮してふるえていただけだった。しかし、いま、そんなことは、ずっと軽いものにすぎないような気がしていた。以前には、かれらは、野獣であった。かれらの本能は、かれらの周囲にぴったり適応していた。そして生ある物が、そうであるように幸せであったのだ。ところがいま、かれらは、人間という手かせ足かせをはめられて、よろめき歩き、絶対に消えることのない恐怖の中に生きつづけ、とうてい自分には理解することのできないおきてに悩まされ、気力をすりへらされているのだった。死の苦しみのなかにはじまった、かれらの偽りの人間という存在は、一つの長い内面の苦闘であり、モロー博士についての一つの長い怖れであった――そして、そのほかに何があるというのだろう? わたしを動かしたのは、その無法についてだった。
モロー博士が、なんらか意義のある目的を持っていたのなら、わたしといえども、すくなくとも、すこしはかれに同感を持つことができるはずであった。が、あのような拷問に近い苦痛について、わたしは神経質すぎるほど潔癖な人間であった。たとい、かれの動機を憎んでいたとしても、すこしは、かれを許すことができたのだ。ところが、かれは、まったくといってもいいほど責任を感じもしなければ、全然、気にもかけていなかった。かれの好奇心、かれの気ちがいじみた意欲、目的のない研究欲だけが、かれを駆り立てていたのだ。そして、その結果、作りあげられた獣人たちは、一年かそこら命をつなぐために、もがき苦しみ、まごまごと彷徨《ほうこう》し、悩み苦しんだあげく、最後には、苦痛のうちに死んで行くのだった。かれらは、もともと、哀れにもみじめなものだった。昔からの動物としての憎しみが、かれらを揺り動かして、お互いに騒ぎや争いをおこさせるのだ。おきてというものが作られて、強烈な闘争をごく瞬間のものにとどめさせ、かれらの生来の憎悪に決定的な終止符を打たせるようにしているのだった。
これまで島にいた日々の間に、獣人たちについてのわたしの恐怖はモロー博士に対する、わたし個人的な恐怖に変わって行った。わたしは、まったく、深い、永続的な、恐怖とはちがった病的な状態に陥ってしまっていた。そして、わたしの心に永久に傷を残してしまった。わたしは、獣人たちが、この島の苦しい無秩序に悩んでいるのを見た時、この世の健全さというものに信頼をうしなってしまったということを告白しなければならない。
一寸先の見えない運命や、巨大にして、無慈悲なこの世のからくりは、生存の組織を作りあげているかと思うと、また切りくずしているような気がした。そして、わたしも、モロー博士も(かれは研究に対する情熱によって)モンゴメリーも(かれは飲酒に対する熱愛によって)、本能と知的な制限にしばられた獣人たちも、そのやむことのない歯車の無限の複雑さの中に、容赦なく、必然的に、引き裂かれて、粉《こな》みじんに砕かれていたのだった。しかし、こういう状態は、突然に、きたのではなかった……いま、そのことを物語るのは、すこしばかり先走りすぎているような気が、わたしにはする。
十七 破局
モロー博士の、このような恥ずべき実験を憎み、嫌悪するほか、あらゆる感情をうしなってしまうまでには、ほとんど六週間もかからなかった。わたしのただ一つの考えは、一刻も早く、造物主の意図を戯画化した、このいまわしい世界から逃げ出して、人間との甘美な健全な交わりに帰りたいということばかりだった。こういうふうに隔てられてしまった仲間たちのことが、わたしの思い出の中で、牧歌的な徳と美しさをそなえているように、懐かしく浮かびあがってくるようになってきた。
モンゴメリーとの最初の友情も、あれ以上は深くはならなかった。かれが、長い間、人間社会から隔離された生活を続けていたこと、ひそかに飲酒にふける悪癖のあること、誰の目にもそれとわかる獣人たちとの共鳴などが、わたしをしてかれと親しくさせないようにした。たびたび、かれは獣人たちのところへ出かけて行ったが、わたしは、かれのしたいままに、ひとりで行かせておいた。わたしは、なんのかのと、できるだけのことをいって、獣人と付き合うことを避けていた。
わたしは一日の大半を砂浜の上ですごして、けっしてあらわれるはずのない、自分の身を自由の世界へつれもどしてくれる船の帆が見えはしないかと、待ちうけもしたのだが、とうとう、そういう一日、実に身の毛もよだつような惨事が、わたしたちの身に降りかかってきて、わたしの不思議な四囲の状況を、まったくそれまでとは違った方向に変えてしまった。
それは、わたしが上陸してから、七、八週間――それよりももうすこしたってからのことだったかという気がする。もっとも、こうしたところでは、時日を勘定することなどは気にしなくなるものだったが――とにかく、そのころ、この破局が勃発した。事件が起こったのは、早朝――たぶん、六時ごろだったという気がする。わたしは、獣人が三人で、石壁の囲いの中に薪を運ぶ物音に目をさまして、早く起きて朝食をとった。
朝食をすませてから石壁の囲いのあけっぴろげになったままの戸口のところに行き、立ってタバコをすいながら、新鮮な早朝の空気を味わっていた。しばらくすると、モロー博士が石壁の角をまわってやって来て、わたしに声をかけた。
かれは、わたしの脇を通りすぎて行った。背後で、かれがドアの鍵をあけ、実験室へはいる音が、わたしの耳にはいった。その時には、わたしはもう、あの部屋のいまわしさにもすっかり感情を動かされなくなっていたので、またきょうも、ピューマの犠牲がはじまるのを、何の感動もなしに聞いた。ピューマは、腹を立てたヒステリー女そっくりといってもいいような悲鳴を立てて、自分に迫害を加える男を迎えた。
そのとき、何かがおこった。はっきり何が起こったのか、きょうまでも、わたしにはわからない。とにかく背後で、けたたましい叫び声を聞いた。と同時に、物の倒れる音。振り返ると、すさまじい顔が、突風の勢いでわたしに襲いかかってきた。人間ではない。かといって、動物でもない。が、身の毛のよだつような、茶褐色の顔で、まっ赤な縦横の傷を縫い合わせたその傷口から、まっ赤な血のしずくが吹き出し、まぶたのない目がぎらぎらと燃えていた。わたしは、とっさに腕をあげて防いだ。が、一撃のもとに、わたしを突き倒し、あげたわたしの前腕をへし折ると、巨大な怪物は、まっ赤に血に染まった包帯をひらひらとひるがえしたまま、わたしを飛び越えて、走り去った。
わたしは、ごろごろと砂の上をころがった。起きあがろうとしたが、腕が折れたとみえて、へたへたとくず折れた。そのとき、モロー博士があらわれた。かれの重々しい、まっ白な顔は、その額からしたたっている血のために、いっそう恐ろしく映った。かれは、片手にピストルを握っていた。ちらっとわたしに目をくれたかくれないで、たちまちピューマを追って駆け出して行った。
わたしは、ためしにもう一方の腕を使って、身をおこした。包帯でからだじゅうをぐるぐると巻いた怪物が、浜辺づたいに大股で飛ぶように、前を走って行く。その後を、モロー博士が追っていた。怪物は、首をまわして、博士を見ると、いきなり足を速めて、密林の方に道を変えた。怪物はひと足ごとに博士を引き離した。見る間に、怪物は、密林の中に飛びこんで行く。モロー博士はその行く手をさえぎろうとして、斜めに走りながら、ピストルをうった。が、ねらいははずれて、ピューマの姿は消えた。つづいて、博士の姿も、緑の茂みの中に消えた。
わたしは、まじまじと、二人の後を見つめていた。そのときになって、腕の痛みが、かっと燃えあがってきた。思わずうめき声をあげて、よろめきながら立ちあがった。モンゴメリーが、身支度をととのえて、戸口にあらわれた。手にピストルを持っていた。
「たいへんなことになったぞ、プレンディック!」と、わたしが傷を受けていることには、まだ気づかぬようすで、かれはいった。「あの畜生め、逃げ出しおったのだ! 壁から足の鎖を引きぬいたらしい。二人を見かけなかったか?」そのときになって、わたしが腕を支えているのを、きっと見て、「どうしたんだ、その腕は?」
「戸口に立っていたんだ」と、わたしはいった。
かれは、近寄って、わたしの腕に手をかけ、
「袖に血がついているじゃないか」といい、下着の袖をまくりあげた。かれは、ピストルをポケットにしまいこみ、さぞ痛いだろうとでもいうように、わたしの腕のあたりに手をかけ、わたしを中につれこんだ。「きみの腕は、折れているよ」といい、それから、
「どうして、こんなことになったのか――なにがあったのか――はっきり話してくれたまえ」
わたしは、自分がこの目で見ただけのことを、しりめつれつの話しかたであったが、かれに話して聞かせた。そのあいだあいだには、痛さから、あえぎながら言葉をつづけた。かれは、その間に、手際よく、素速く、わたしの腕に副木《そえぎ》をあてて縛りつけた。かれは、それをわたしの肩からつるしてから、立ちあがり、わたしを見て、
「これでよし」といった。「さて、それでは?」と、かれは、しばらく考えていた。それから、石囲いの門に鍵をかけて出て行った。しばらくの間、かれは姿を見せなかった。
わたしは、主として、自分の腕のことにだけ気を取られていた。今度の出来事は、数多くの恐ろしいことに、もう一つつけ加わっただけのような気がしていた。わたしはデッキ・チェアに腰をおろして、心の底からこの島を呪《のろ》っていたことを認めなければならない。
腕の傷が、はじめの鈍痛から、灼《や》けつくような痛みに変わったころ、モンゴメリーが帰って来た。
かれの顔色はやや蒼白だった。いままで以上に下のはぐきを見せて、
「博士の姿が、見えもしなければ、声も聞こえなかった」といった。「ぼくの助けを求めているんだろうと思っていたんだがね」かれは、無表情な目でわたしをじっと見て、「あいつは檸猛《どうもう》なやつだからな」といった。「足かせだって、わけもなしに、壁からねじきってあるんだ」
かれは、窓のところへ行き、つづいてドアのところへ行き、そこで、わたしのほうを振り向いて、
「ぼくは、かれを追って行ってくる」といった。「もう一挺、ピストルがあるから、きみにも残しておける。ほんとのことをいうと、ぼくは、なんとなく、不安な気がするんだ」
かれは、ピストルを手にすると、わたしの手の届くようにテーブルの上においてから、後に不安な空気を残して、出て行った。かれが去った後、わたしは、長く腰をおろしてはいなかった。ピストルを手にして、戸口ヘ出て行った。
朝は、死のように静かだった。風はそよとも音を立てず、海は磨いた鏡のようだった。空には雲一つなく、浜辺には物の影もなかった。わたしは半ば興奮した、半ば熱っぽい状態の中で、このいっさいの静けさが、かえってわたしを圧迫するような気がした。
わたしは、口笛を吹こうとしてみたが、そんな気分も消えてしまった。わたしは、また呪った――けさから、もう三度目だった。それから、石壁の囲いの角まで行って、モロー博士やモンゴメリーの姿をのみこんでしまった、緑の密林の奥をじっと見つめた。いつ、あの二人はもどって来るだろう? そして、どのようにして?
そのとき、遠くの砂浜の上の方に、小さな灰色の獣人があらわれたと思うと、水際の方へ駆け降りて、水をはねかえしはじめた。わたしは、ぶらぶらと戸口に引返し、また角のところへ歩いて行った。そういうふうにして、張り番をするのが仕事でもあるかのように、あちらこちらと歩きはじめた。一度、遠くの方でどなるモンゴメリーの声に、足をとめられた。
「おおーい……モーロー!」
腕は、あまり痛くなくなったが、ひどく熱を持っていた。わたしは、熱っぽく、のどのかわきをおぼえた。太陽が中天に昇ったとみえて、わたしの影が短くなって行った。遠くの人の姿を見つめているうちに、その姿はまた遠くへ行ってしまった。
モロー博士やモンゴメリーは、もどって来ないのではないだろうか?
海鳥が三羽、浜辺に打ちあげられた食べ物らしいものを得ようと、喧嘩をはじめた。
そのとき、ずっと遠くの石囲いの裏の方で、ピストルの音を一発聞いた。長い静寂の後、またピストルの音がした。つづいて、ずっと近くで、わめくような叫び声がし、また不気味な静寂が襲ってきた。わたしの不幸な想像が、わたしを悩ましにかかった。そのときまた、ふいに、ごく近くでピストルの音がした。
わたしは、石壁の角へ行って、はっと驚いた。見ればモンゴメリーが、顔じゅうを血に染め、髪を乱し、ズボンの膝が、ずたずたに引き裂けているではないか。かれのうしろに、獣人ムリングがうつむきがちに従っているのだが、そのムリングの顎のあたり一帯にも、不吉な血の色がしみていた。
「かれは、もどったかい?」と、かれがいった。
「モローか?」と、わたしはいった。「いいや」
「困ったことだ!」モンゴメリーは、あえぎあえぎ、ほとんどむせぶような息づかいをしていた。
「まあ、なかへはいろう」といって、わたしの腕をとった。「やつら、気ちがいだ。気がちがったように暴れまわっている。いったい、なにがあったというんだろう? ぼくにはわからん。落ちついたら、くわしく話して聞かせる。それよりも、ブランデーはどこだ?」
かれは、びっこを引き引き、わたしの前を通って部屋にはいり、デッキ・チェアに腰をおろした。ムリングも戸口のすぐ外に、身を投げ出して、犬のように荒い息をはきはじめた。わたしは、モンゴメリーに、ブランデーと水とを与えてやった。かれは腰をおろしたまま、茫然と前を見つめていたが、どうやら、息づかいが回復してきた。しばらくして、何があったのか、話しはじめた。
かれは、しばらくの間、モロー博士と怪物の足跡をつけて行った。はじめは、藪が踏みくだかれたり、下枝が折れたりしているし、ピューマの包帯から裂けた白いぼろが落ちていたりしたので、はっきり後をつけることができた。ところによると、丈の低い灌木や下草の葉に、血の匂いのするところもあった。
けれども、獣人が水を飲んでいるのをわたしが見かけた渓流を越えた、岩の多いところで、足跡はなくなっていた。それから後は、あてもなくモローの名を呼びながら、西の方へさまよって行った。
そのころ、ムリングが小さな手斧を手にして、追いついて来た。ムリングは、ピューマのことは、何も見てはいなかった。ただ木を切り倒していて、人を呼んでいるモンゴメリーの声を聞いたのだ。二人は、ともに叫びつづけながら進んで行った。獣人が二人、うずくまるようにしてやって来て、茂みをすかしながら、変な身振りをしたり、うさん臭い態度をして、二人の方をうかがっていた。その二人の妙に変わった態度に、モンゴメリーはぎょっとした。かれが、その獣人たちに声をかけると、悪事を見咎《みとが》められたように、こそこそと逃げて行った。かれは、その後ろからとまれと大声でどなった。しばらくの間、どこともわからぬ道をさまよったあげく獣人たちの小屋へ訪ねて行ってみることにした。
峡谷には、獣人の影もなかった。
ことごとに、意外な事実に驚かされて、かれは、来た道を引き返しはじめた。そのとき、かれは、二人の豚人に出会った。わたしがこの島に着いた夜、踊っているのを見た豚人だ。二人とも口のまわりを血だらけにして、ひどく興奮していた。かれらは、シダの葉を踏みしだいてやって来て、モンゴメリーを見ると、狂暴な顔をして立ちどまった。
かれは、いくらかうろたえて、ぴしっと鞭を鳴らした。と時を移さず、やつらは、かれに向って突進して来た。獣人が、そんな挙に出るなどということは、かつてなかったことだった。かれはピストルをうって、一人の頭を打ちぬいた。ムリングは、もう一人の方におどりかかり、二人は、取っ組み合って、ごろごろところげまわった。
とうとう、ムリングは、相手を組敷いて、咽喉笛に噛みついた。モンゴメリーの弾丸が、ムリングとつかみ合って争っているやつの息の根をとめた。かれは、ムリングを掴んだ相手から引き離すのに、非常に骨を折った。
それで、二人は急いで、わたしのところへ引き返して来た。途中、ムリングがふいに、深い茂みの中へ飛びこんで行ったと思うと、並みの大きさより小さいヒョウネコ人を追い出したが、これも血に染まって、足に傷を受けてびっこを引いていた。この獣人は、すこしばかり走ったと思うと、向きを変えて、めちゃくちゃに入江の方へ向かって行った。モンゴメリーは――ただ気まぐれだと、わたしは思ったのだが――そいつを射ち殺した。
「いったい、これはどういうことなんだ?」と、わたしはいった。
かれは、首を振って、またもや、ブランデーの方に目をやった。
十八 モロー博士の捜索
モンゴメリーが、三杯目のブランデーを飲みほすのを見て、わたしは、もうここらでとめるほうがいいと思った。かれはもう、泥酔以上に酔っぱらっていた。わたしは、そのときまでに、何か重大なことがモロー博士に起こったに相違ないということを、かれに話して聞かせていた。それとも、かれは帰って来るかもしれないが、あの破局がどんなものだったかということを確かめる必要が、わたしたちにはあると、かれにいった。モンゴメリーは、何か弱々しい異議をとなえていたが、しまいには、わたしの言葉に同意した。わたしたちは、食事をとってから、三人はそろって出発した。
その時のわたしの気持が緊張していたのは、当然のことである。が、いまもなお、熱帯の午後の、灼熱の静寂の中を出発して行ったことは、異常に生々とした印象として、わたしの頭に残っている。ムリングが先頭に立っていた。両肩を隆々と盛りあげ、その奇妙にまっ黒な頭を、すばやくさっと動かしては、はじめは右に、すぐ左にというふうにまわして、あたりをうかがっていた。かれは、身に武器を帯びていなかった。手斧は、豚人と格闘したときに、落としてしまっていた。闘いになった場合には、歯がかれの武器であった。
モンゴメリーは、両手を左右のポケットにつっこみ、顔をうつ向けて、蹌踉《そうろう》とした足取りで、その後について行った。かれは、わたしにブランデーをとめられたので、ひどく不機嫌らしいようすだった。わたしは左の腕を首から吊って――負傷が左の腕であったのは幸せであった――右手にピストルを握っていた。
わたしたちは、島の密林地帯を通る細い道を、北西の方向にとって進んで行った。しばらく行くと、ムリングが立ちどまって、きっと身を構えて、油断なく目をくばるようにした。モンゴメリーは、よろよろとして、かれに突きあたりそうになってから、また立ちどまった。やがて、じっと耳をすますと、木立ちの間を通して、獣人たちの声と、わたしたちに近づいて来る足音とが、聞こえてきた。
「かれは、死んでいる」と、のぶとい、ふるえる声がいった。
「死んではいないよ、死んではいないよ」と、別の声が、きゃっきゃっとなくような調子でいった。
「おれたちは見たぞ、おれたちは見たんだ」と、いくつかの声がいった。
「おーい!」と、ふいに、モンゴメリーがどなった。「おーい、そこにいるのか!」
「ばかなことはよせ!」と、わたしはいって、ピストルを握りしめた。
物音一つしなかった。しばらくすると、びっしり生い茂った叢林の中で、がさっという音が、はじめはこちらで、つぎにはあちらでと、つぎつぎに聞こえたと思うと、やがて、半ダースほどの、奇怪な顔が、奇妙な光をうかべてあらわれた。猿人の顔が見えた――ほんとのところ、それまでにもう、かれの声は聞きわけていた――それと、モンゴメリーのボートで見かけた、白いものをまとっていた、茶褐色の顔つきの二人を認めた。その三人といっしょに、からだの毛のまだらなやつが二人、あのおきてを語る、灰白色のおそろしく腰のまがった獣人、こいつは、流れるように頬にたらした銀灰色の髪の毛に、太い灰色の眉毛、銀灰色の巻毛を、その低い額の上で中央から左右にわけた、奇怪なほどまっ赤な目をした、どっしりとした顔のない怪物、こいつらが、茂みの中から、じっと詮索するような目つきで、わたしたちのほうを見つめていた。
しばらくの間、口をきくものもなかった。と、モンゴメリーがしゃっくりをした。
「誰が……そういったのだ、かれが死んだと?」
猿人が、銀毛の獣人のほうを、とがめるように見た。
「あの人は死んだのだ」と、その怪物がいった。「みんな、見ていた」
その超然とした口調には、すくなくとも、おどすような気ぶりはいささかもなかった。みんな、おそれ、戸惑っているようなふうだった。
「どこにいるのだ、あの人は?」と、モンゴメリーがいった。
「向こうだ」と、銀色の怪物が指さした。
「いまも、おきてはあるのかい?」と、猿人がたずねた。「ここにも、あすこにも、まだあるのかい? ほんとに、あの人は、死んだのか?」
「おきては、あるのかね?」と、白い布をまとった獣人が繰り返していった。
「おきてはあるのか、鞭を持てる第二の人よ? あの人は、死んだのだが」と、毛深い銀色の怪物までがいった。
そして、かれらはいっせいに立ちあがって、わたしたちを見詰めていた。
「プレンディック」と、モンゴメリーは、陰気な目をわたしに向けて、いった。「かれは、死んだらしいな――たしかに」
この会話の間、わたしは、モンゴメリーの背後に立っていた。獣人たちが、どのように動揺しているか、わたしにはわかりかけてきた。さっと、かれの前に踏み出し、声をはりあげて、
「おきてに従う者よ」と、わたしはいった。「あのひとは、死んではいないのだぞ」
ムリングが、鋭い目を、わたしに向けた。
「あの人は、姿を変えたのだ――からだを変えたのだ」と、わたしは叫びつづけた。「しばらくの間、お前たちには、あの人の姿は見えぬだろう。あの人は……あすこにおいでになるのだ」――わたしは、空を指さして――「あの人は、あすこから、お前たちを見張っていることがおできになるのだ。お前たちには、あの人を見ることはできない。だが、あの人は、お前たちを見ることがおできになるのだ。おきてを恐れろ」
わたしは、決然とかれらを見まわした。かれらは、ちぢみあがった。
「あの人は、えらいお方だ、よいおひとなのだ」と、猿人が、密林の間から、恐ろしそうに空の方を振り仰ぎながら、いった。
「それで、片方のやつはどうした?」わたしが聞いた。
「血だらけになって、泣きわめきながら逃げて行ったが――やはり死んだ」と、銀毛の怪物が、まだわたしを見つめながら、いった。
「そいつはよかった」とモンゴメリーがうなり声でいった。
「鞭を持てる第二の人よ」と、銀毛の怪物がいいかけた。
「それで?」と、わたしがいった。
しかし、モンゴメリーは、まだ茫然としていて、モロー博士が死んではいないというわたしの肚《はら》が読めないようだった。
「あの人は死んだといったが、あの人は死んではいない」と、かれは、ゆっくりいった。「全然死んだのではない。わしのように、死ぬようなことはない」
「誰か」と、わたしはいった。「おきてを破ったものがある。かれらは死ななければならん。さあ、あの人のもとのからだがどこにあるか、わしたちに教えるのだ。あのひとは、からだが不要になったので、捨てて行かれたのだ」
「こちらだ、海の中へ歩いて行った人よ」と、銀毛の怪物がいった。
そして、これらの六人の獣人が、わたしたちを導いて、北西の方へ、シダやつる草や木の幹の生い茂った中を通って行った。そのとき、悲鳴があがり、枝を踏み折る音がして、桃色の小人が、泣き叫びながら飛び出して来、すぐその後から、からだじゅうに血を浴びた凶暴な怪物が、猛然と追っかけて来た。やつが疾走をやめるかと見る間に、わたしたちのまん中に立ちはだかっていた。
銀毛の怪物が、さっと脇へ飛びのいた。ムリングは捻り声とともに、怪物におどりかかった、が、たちまち、はね飛ばされた。モンゴメリーがピストルをうったが、弾丸はあたらなかった。と、かれは、頭をさげ、片手を身を守るようにあげて、逃げ出した。わたしのピストルが火を噴いた。それでも、相手の怪物は、ひるまずに突っこんで来た。さらに、相手の醜悪な顔をめがけて、まともに発射した。閃光とともに、その顔が消えてなくなったのが、目にはいった。顔が飛んで行ってしまったのだ。しかも、その怪物は、わたしのそばを飛び越えて、モンゴメリーにつかみかかり、しっかりかれを抱きしめ、いっしょになってその場に倒れ、モンゴメリーのからだの上であがいていた。
気がついてみると、立っているのは、わたしとムリングだけで、怪物は死に、モンゴメリーはぶっ倒れていた。やがて、モンゴメリーは、ゆっくりと身を起こして、かたわらに獣人が打ち倒されているのを、茫然と見つめた。まだ半ば酔っぱらいでもしたようなようすで、よろめきながら立ちあがった。やがて、銀毛の怪物が、木立ちの間からおずおずともどって来るのが、目にはいった。
「見ろ」と、死んだ怪物を指さして、わたしはいった。「これでも、おきてが生きていないというのか? おきてを破ったものは、こうなるのだ」
かれは、そっとその死骸をうかがった。
「かれは、殺す火をあびせるのだ」と、銀毛の怪物は、のぶとい声でいって、おきてのその部分の唱和を繰り返した。
ほかの獣人たちもまわりに集まって来て、しばらくは死骸を見つめていた。
やがて、わたしたちは、島の西端に近づいた。噛みくだかれた上に、ずたずたに手足をもぎとられているピューマの死骸を発見した。肩の骨を一発の銃弾で粉砕されていた。それから二十ヤードほど先に、ついに、わたしたちの捜していたものを見つけた。シュロの茂みの中の踏み荒らされたところに、うつ伏せに倒れていた。
片手は、手首のあたりで、ほとんどねじ切られ、銀のような髪の毛には、べっとり血がついていた。頭は、ピューマの足かせでたたきつぶされていた。死体の下になって折れたシュロには、血が赤くしみついていた。ピストルは、発見できなかった。
モンゴメリーが、かれのからだを仰向かせた。
途中、たびたび息を入れ、七人の獣人の手をかりて――というのは、モロー博士は、がっしりとした体格だったのだ――わたしたちは、かれの遺骸を、石壁の囲いのところまで運んで来た。気味の悪いほど、暗い夜だった。目に見えない生き物が、吠え立て、悲鳴をあげながら、わたしたちの小さな一隊のそばを二度通りすぎ、一度は、桃色の小さなナマケモノがあらわれて、じっとわたしたちを見つめていたが、また暗闇の中へ消えて行った。しかし、わたしたちは、また襲われるようなことはなかった。囲いの門のところで、獣人どもは、わたしたちを残して行ってしまった――ムリングも、みなといっしょに行ってしまった。中へはいって鍵をかけ、モロー博士のめちゃめちゃにされた死体を、中庭に運びこみ、柴の山の上にねかした。
それから、わたしたちは研究室にはいって行って、そこで見つけた生き物全部を殺した。
十九 モンゴメリーの大っぴらの休日
それだけのことをしとげてしまってから、わたしたちは、からだを洗い、食事をすませ、モンゴメリーとわたしとは、わたしの小さな部屋にはいって、はじめて、真剣に、わたしたちの立場を相談した。
もう、ま夜中に近かった。かれの酔いは、ほとんどさめていたが、非常に心が動揺してしまっていた。かれは、不思議なほどモロー博士の人格から影響を受けていた。モローが死ぬなどということは、いまだかつて一度も、かれの頭には浮かんだことなどなかったのだろうという気が、わたしにはした。この惨事は、十年かそれ以上も、かれがこの島で送った単調な年月の間に、かれの性質となってしまったいろいろな習慣が、突然崩壊したことだった。かれは、曖昧《あいまい》に物語り、わたしの質問にことさらつむじ曲りの返事をし、あれかこれかと、一般的な質問に、話は横道へそれてばかりいた。
「なんてこの世の中は、ばかげているんだ」と、かれはいった。「なんてつまらいなものばかりなんだ! ぼくは、生活というものを、どんな生活もしたことがなかったんだ。いったい、いつ生活がはじまるというんだろう。十六年というものは、看護と教師として、かれら教師の調子のいい意志のままにいばり散らされていた。ロンドンでの五年間は、めちゃくちゃに医学のことでいじめぬかれた――まずい食事、みすぼらしい下宿、ぼろのような服を着て、卑劣な悪徳を重ねてへまばかりやっていて――ぼくらは、すこしでもましな生活は、知らなかった――そしてだ、この不快きわまる島に押しこめられていた。ここに十年だぜ! いったい、こんなことはみんな、何のためだ、プレンディック? ぼくたちは、赤ん坊にぷうと吹き飛ばされたシャボン玉みたいなものなのか?」
このような狂乱に近いたわごとを相手にしているのは、楽ではなかった。
「いま、ぼくたちが考えなければならないことは」と、わたしはいった。「どうして、この島から逃げ出すかということだよ」
「脱出してみたところで、どんないいことがあるというんだ? おれは、世間から追い出された人間だ。どこに、おれを仲間に入れるところがあるというんだ? きみには、おあつらえ向きのいいところがあるだろう、プレンディック。哀れなモロー老人! おれたちは、かれをここにすてておいて、かれの死骸がしゃぶり取られるままにしておくことはできん。それに反して……それに、そのほかに、あれらの獣人どもの、あの人間並みなところは、どうなるというんだ?」
「さあ、もういい」と、わたしはいった。「それは、あすのことにしよう。ぼくは、薪を積んで、かれの死体を火葬にしたほうがいいんじゃないかと思っていたんだがね――そのほかの、いろいろなものもいっしょにね……ところで、あの獣人たちはどうすればいいだろうね?」
「おれにはわからない。ああいう野獣をつかまえてきて作ったものは、早晩、もとの木阿弥《もくあみ》にもどるだろうな。いくらぼくたちだって、そうむやみに虐殺するわけにはいくまい。それとも、できるかい? 人情として、きみが遠まわしにいっているのは、そういうことだろう?……だが、やつらだって変わらずにはおかない。現に、たしかに変わってきているよ」
かれは、こんなふうに要領を得ないことばかりいっていたので、とうとう、わたしは、癇癪《かんしゃく》をおこした。
「ちくしょう! くだらない」と、わたしの不機嫌に腹を立てて、かれは、叫ぶように大きな声を出した。それから立ちあがって、ブランデーを取りに行った。「飲もう」と、もどって来ると、かれはいった。「おい、理屈ばかり並べている、青白い顔の、無神論者の聖者さん、さあ、飲めよ」
「飲まんよ、ぼくは」そういって、黄色い石油ランプのゆらめく炎の下で、飲むにつれて、むやみに悲惨な境遇をぺらぺらとしゃべり立てるかれの顔を、わたしは椅子にかけたまま、陰気に見守っていた。わたしには、たまらないほどあきあきする思い出があった。かれのおしゃべりは、獣人やムリングについての、とりとめもない涙もろい弁護へとはいって行った。
ムリングというやつは、かれのことに心から気を使っている、たった一人の獣人だと、かれは、いった。とそのとき、ふいに、ある思いつきが、かれの頭に浮かんだらしい。
「おれってやつは、なんてやつだろう!」そういって、かれは、ブランデーの瓶をつかんで、よろよろと立ちあがった。直感的に、かれのねらっていることが、わたしにはわかった。
「あのけものに、酒を飲ませようというんじゃないだろうね!」といいながら、わたしは立ちあがって、かれに面と向き合った。
「けものだって!」と、かれはいった。「けものは、おめえじゃねえか。やつらだって、キリスト教徒みたいに、酒ぐらい飲むんだ。どいてくれ、プレンディック」
「たのむから、やめてくれ」と、わたしはいった。
「そこを……そこをどけ」と、咆哮《ほうこう》するような大声を立てて、かれは、さっとピストルを取り出した。
「よかろう」といって、わたしは、脇へ寄って立った。かれがドアの掛けがねに手をかけたら、かれに飛びかかろうと、半ば決心していた。が、そんなことをしたって、自分の無力な腕ではとめることができないと気がついて、思いとどまった。「きみは、自分から自分をけものにしているんじゃないか。けものどものところへ、行くがいいさ」
かれは、勢いよくドアをあけると、その場に立って、黄色いランプの炎と、青白い月光の境目で、半ばわたしの方を向いた。かれの短くて剛い眉毛の下で、その眼窩《がんか》はまっ黒な二つの点のようだった。
「おめえは、もったいぶった気取り屋だよ、プレンディック、罪のないばか者だよ! おめえは、しょっちゅう、おびえたり、考えにふけったりばかりしているだけだ。おれたちは、いま、ぎりぎりのどたん場にいるんだぜ。あしたは、自分で自分ののどをかき切ろうというところへきているんだ。あしたの晩は、大っぴらに休めることになろうというもんだ」
かれは、くるっと向き直ると、月光の中へ出て行った。
「ムリング」と、かれは叫んだ。「おい、ムリング、おい、じじい!」
銀色に降りそそぐ月光の中を、ぼんやりした影が三つ、青白い砂浜のはずれを伝ってやって来た。一つは、白い物をまとった牛人らしかったが、それにつづいて来る二つの影は、まっ黒なはん点としか見えなかった。
かれらは立ちどまって、じっと見ているようすだった。そのとき、ムリングの盛りあがった肩が見え、家の角をまわってやって来た。
「さあ、飲むんだ」モンゴメリーが叫ぶようにいった。「飲め、きさまら、けものたち! 飲んで、人間になれ。けものめら、おれは、いちばん頭がいいんだぞ! モローも、これには気がつかなかったんだ。これが、最後の集まりだ。さあ、飲め、おれがいいつけるんだ」そうして、手にした瓶をゆらゆらと振りまわしながら、西の方に向かって、走るような早い足取りで行ってしまった。ムリングは、かれと、ついて行く三人のぼんやりした影との間でうろうろしていた。
わたしは、戸口のところまで出て行った。みんなはもう、月光のもやの中で、はっきり見わけられなくなっていたが、その中に、モンゴメリーが立ちどまったようだった。どうやら、かれがムリングに生《き》のブランデーを飲ませているらしいのが見え、五つの影が、からみ合って、一つのぼうっとしたかたまりに溶けこむのが見えた。
「さあ、歌え」と、モンゴメリーのどなるのが聞こえた。「みんないっしょになって歌うんだ。『プレンディックのばか野郎』って……よし、そのとおりだ。さあ、もう一ぺん、『プレンディックのばか野郎』」
まっ黒なひと塊りが、五つの別々の影にわかれて、きらきらと光る波打ち際ぞいに、ゆっくり、わたしから遠ざかって行った。めいめい、自分自分の楽しい考えを吠え立て、わたしをばかにする言葉をわめき立て、このはじめてブランデーにかき立てられた望みを、仲間に向かってぶちまけていた。
しばらくして、遠くで「右へまがれ」とどなるモンゴメリーの声が聞こえ、みんなはどなったり、吠え立てたりしながら、陸地の木立ちの暗闇の中へ通りすぎて行ってしまった。じょじょに、非常にじょじょに、そのわめき声も、しじまの中に消えて行った。
平和に満ちた夜の輝きが、再び帰ってきた。月は、いまでは天頂をすぎて、西に傾いていた。満月が、雲一つない青い空に浮かんで、皎々《こうこう》と照り渡っていた。
まわりの壁の影が、一ヤードほどの幅に落ちて、わたしの足もとは、墨を流したようにまっ黒だった。東の方の海は、暗く神秘をたたえて、何一つない灰色に沈み、海とその影との間には、(火山性のガラスと結晶体との)銀灰色を帯びた砂が、ダイヤモンドをばらまいた浜辺のように、きらきらと光をはなっていた。背後では、石油ランプが熱いほど赤く燃えていた。
やがて、わたしはドアをしめ、鍵をかけて、モロー博士が、その最後のいけにえ――その狩りの猟犬たちや、ラマや、そのほかのみじめな野獣たち――をかたわらにして横たわっている石壁の囲いの中へはいった。かれのどっしりとした顔は、凄惨な死のあとにもかかわらず穏やかで、きびしい両眼をかっと開いて、空高くの死んだようにまっ白な月を眺めているかのようだった。わたしは、下水溝のはしに腰をおろして、銀のような月光を受けたぞっとするほどの火葬用の薪と、不吉な影の上に目を落としながら、胸の中で、自分の計画をあれこれと考えはじめた。
朝になったら、あの上陸用のボートに食糧を積み込んで、目の前の火葬用の薪に火をつけてから、もう一度、荒涼たる大波の中に乗り出してみようと考えた。モンゴメリーには、救いの手をのべようがないという気がした。かれこそは、ほんとうのところ、あれらの獣人どもと半ばは同類であり、人間同士の関係には適していなかった。
どれぐらいの間、そこに腰をおろして計画を練っていたのか、わたしはおぼえていない。おそらく一時間か、それくらいだったに相違ない。とそのとき、モンゴメリーが、わたしの近くにもどって来たので、わたしの計画を練っているのはさえぎられてしまった。たくさんの咽喉から出るわめき声や、騒々しい狂喜の叫び声が、わあっという声をあげたり、吠えたり、興奮した金切り声をあげながら、浜辺の方へ下って行き、波打ち際の近くでとまったような気配が耳にはいった。底抜けの騒ぎがおこったと思うと、ぱたっと静まった。凄い殴りつける音と、木を引き裂くような音が聞こえたが、そのときには、わたしを困らせるようなことはなかった。
調子っぱずれの歌がはじまった。
わたしの考えは、また島を脱出する手段にもどって行った。立ちあがり、ランプを持って、そこで見かけた小さな樽《たる》を調べてみようと、物置へはいって行った。
そこで、ビスケットの鑵《かん》を見つけ、中味に何がはいっているだろうかと気になって来て、あけてみた。とそのとき、何か、まっ赤な姿が目尻から見えたので、くるっと振り向いた。
背後には、中庭が、月光を浴びて黒と白とにあざやかに浮き彫りになり、薪とそだの山の上には、モロー博士の死体と、かれに切りきざまれたいけにえの死体が、積み重ねておかれていた。見たところ、最後の執念深い格闘を演じて、おたがいにつかみ合いでもしているようだった。モロー博士の傷は、まるで夜のようにまっ黒に大きく口をあけて、それから流れ出た血が、点々と砂の上に黒い斑点を残している。とそのとき、自分の頭では納得できなかったが、わたしには、まぼろしのように見えていたものの原因がわかった。反対側の壁の上を行ったり来たり、踊ったりしている血の色をした光だった。わたしは、これをまぼろしか幽霊かと、まちがって考えていて、ちらちらと揺れるランプの反射光のせいだと思っていたのだった。それで、また物置の貯蔵物の方に向き直った。
わたしは、片腕の人間としてできるかぎりの熱心さで、それらの貯蔵品の間をさがしつづけて、あれこれ必要な品々を見つけ、あす、ランチに積み込めるように、脇へのけて行った。わたしの動作はのろのろしていて、時間はさっさとたって行った。やがて、夜明けの明るさが、わたしの上に這い寄ってきた。
浜辺での歌声がとだえて、わいわいという騒ぎに取ってかわったと思うと、また歌声がはじまった。とふいに、おそろしい騒ぎになった。「もっと、もっとだ!」という叫び声や、喧嘩のような物音にまじって、突然、はげしい悲鳴が聞こえた。音の性質の変わり方が、とても大きかったので、わたしの注意がいっぺんに、それにとられた。わたしは、中庭へ出て行って、耳をすました。と、その混乱を鋭いナイフで引き裂くように、ピストルの轟音が伝わってきた。
その音を聞くと同時に、わたしは飛ぶように、わたしの部屋を通りぬけて、小さい戸口ヘ駆けて行った、走りながら、背後で、荷物が倒れ、がちゃんとガラスが物置の床に砕けたような音を聞いたが、そんなものに気を向けてはいられなかった。さっとドアをあけて、外を見た。
砂浜の、艇庫のそばで、たき火が燃えていて、暁闇《ぎょうあん》の中に火の粉が降るようだった。そのまわりで、黒い影の塊りが、乱闘してもつれ合っていた。わたしの名を呼ぶモンゴメリーの声を聞いた。わたしは、ピストルを握りしめて、すぐに火の方に走り出していた。その刹那、モンゴメリーのピストルからまっ赤な舌が、砂をなめて走るのを見た。かれは倒れていた。わたしは、力のかぎり大声にどなって、空へ向けてピストルをうった。
誰かが「ご主人だぞ!」と叫ぶのを聞いた。
もつれ合って乱闘していた黒い影が、ぱっと四方に散った。たき火がひとしきりはぜて、火力が衰えた。獣人の群れは、あわてふためいて、わたしの前をすぎて、海岸を駆けあがって逃げて行った。興奮していたわたしは、逃げて行くかれらの背に向かって、ピストルをはなつと、かれらは密林の中へ消えて行った。それで、わたしは、砂の上の黒い山に目を向けた。
モンゴメリーは、あおむけに横たわり、その上に、銀毛の獣人が、折りかさなって倒れていた。獣人は死んでいたが、その鋭く曲がった爪で、モンゴメリーの咽喉をぎゅうっとつかんだままだった。そばに、ムリングもうつ伏せに倒れ、身動き一つしなかった。頸《くび》が噛み切られて、ぱっくり口をあけていたが、手には、粉砕されたブランデーの瓶の口の方の部分を、かたく握りしめていた。ほかにも二人、獣人が火のそばに倒れていた。一人は、もう身動き一つしなかったが、一人の方は、断続的にうなり、ときどき、ゆっくり頭を持ちあげては、またがくりと前へ落としていた。
わたしは、銀毛の怪物をしっかりつかんで、モンゴメリーのからだから引きはなした。モンゴメリーのからだから引き離すはずみに、かれの爪が、引き離されまいとするように、上衣を引き裂いて引きずってきた。
モンゴメリーの顔は黒ずんでいて、ほとんど息をしていなかった。わたしは、その顔に海の水をざぶっとかけ、その頭の下に、ぐるぐる巻いたわたしの上衣を枕にかってやった。ムリングは死んでいた。傷を受けて、火のそばの獣人は――顎《あご》ひげをはやした灰色の顔をした狼人で――気がついてみると、まだ燃えている木の上に、前半身を乗せたままで倒れていた。哀れなやつは、ひどく傷を受けていたので、さすがに可哀そうになって、すぐに、その頭を引きずり出してやった。もう一人の獣人は、白い物をまとった牛人のうちの一人で、かれも死んでいた。
そのほかの獣人たちは、残らず浜辺から姿を消してしまっていた。わたしは、あらためてモンゴメリーのそばへ行って、ひざまずいたが、医術の心得のないのが腹立しかった。
わたしのそばの火は、すっかり消えてしまっていて、ただ木の燃えさしが、まん中になったはしの方で赤く焦げてるのが、そだの灰色になった灰とともに残ってるだけだった。いったい、モンゴメリーは、どこからこの薪を手に入れてきたのだろうと、わたしは、ふといぶかしく思った。そのとき目をあげて見ると、暁の光が、わたしたちの上にさしていた。空はすっかり晴れ渡り、沈もうとしている月は、光り輝く紺碧《こんぺき》の空に、薄青く、光をうしないかけていた。東方の空は、まわりをまっ赤に染めていた。
そのとき、背後に、どすんと物の崩れ落ちる音とともに、ぱちぱちとはぜる音を聞いて、振り返ったわたしは、思わず恐怖の叫びをあげて跳ねあがった。朝焼けの赤い空に、大きなむくむくとしたまっ黒な煙の塊りが、石壁の囲いから渦巻き昇っているではないか。そして、舞いあがる黒煙のなかから、血のように赤い炎が、ちらちらとした糸になってはき出されている。と見る間に、わらぶき屋根に火がついた。急勾配の屋根を、炎が這って行くのが、手にとるように見えた。わたしの部屋の窓からも、火が噴き出していた。
わたしには、すぐに、何がおこったのかわかった。わたしは、ガラスの割れる音を聞いたのを思い出した。モンゴメリーを助けに飛び出した時、ランプをひっくり返したのだった。
石壁の囲いの中の物を救い出すこともできないという絶望の思いが、わたしの顔にありありと浮かんだ。脱出の計画に、わたしの心が行ったとたん、すばやく振り向いて、浜辺にあった二艘のボートはどこだろうと見定めるように目をやった。二艘ともなくなっているではないか! そばの砂の上に、手斧が二梃すててあった。木の切れはしや木《こ》っ端《ぱ》が、あたり一面に散らばっているし、たき火の灰が黒ずんで、暁の光の下でくすぶっていた。モンゴメリーは、わたしに復讐して、人間社会にもどらせないようにしようと、ボートを焼いてしまったのだ。
突然、憤激の大波がわたしを大きく突き抜けた。力なく足元に横たわっている、愚劣なその頭を、あやうく、つづけざまにぶちのめしてやろうという衝動をおぼえたほどだった。そのとき、ふいに、かれの手が動いた。それも、ほんのかすかに、ひどく憐れみを乞うようだったので、わたしの憤怒は消えてしまった。かれは、うめいて、ほんの一瞬、その目をひらいた。
わたしは、そのそばにひざをついて、頭を持ちあげてやった。かれは、また目をあけて、暁の空を静かにまじまじと見あげた。やがて、その目が、わたしの目にあうと、まぶたがたれた。
「すまん」と、やがて、苦しみの中からようやくの思いで、かれはいった。かれは、何かを考えようとしているようだった。「おわりだ」と、かれは、口の中で咳くようにいった。「このばかげた世界もおわりだ。なんてきたならしい――」
わたしは、耳をそば立てて聞いていた。かれの頭が、ぐたっと一方に傾いた。酒でもあれば、かれを元気づけることができるかもしれないと、わたしは思った。が、酒もなければ、手近かに酒を持って来る容器もなかった。かれの容態は、ふいにひどくなってきたようだった。わたしの胸は、ひやりとつめたくなった。
わたしは、かれの顔にのしかかるようにして、そのシャツの胸もとから手を差し入れた。かれの心臓はとまっていた。かれは、白熱の一線が切れるように死んでしまったのに、太陽のはしは、入江の突端の向こうの東に赤々と昇り、その輝きを空いっぱいにぶちまけ、黒々とした海を、目もくらむほどの明るい光に満ちた、打ち返す大波と変えていた。その暁の燃え立つ光は、死んでちぢまってしまったようなかれの顔に、天国の栄光を知らせるかのように降りそそいでいた。
かれのためにこしらえた砂の枕の上に、わたしは、そっとかれの頭を乗せてやって、立ちあがった。わたしの前には、きらきらと光る荒涼たる海がひろがっていた。その身の毛もよだつ淋しさは、わたしがすでに苦しめられたものだった。背後には、黎明《れいめい》の光の下で静まり返っている島があり、その島の獣人どもは、物音一つも立てなければ、目にもはいらなかった。石壁の囲いは、そこにあったすべての食糧や弾薬とともに、音もなく燃えてしまっていた。と思うと、ふいに、ぱっと一陣の炎をあげたり、断続的に火薬が破裂したり、おりおりは、がちゃんと物のこわれる音を立てたりしていた。わたしから遠く離れた浜辺を、陰気な煙がもくもくと吹き流されて、峡谷の小屋の方の、遠く隔った木々の梢の上を低く漂っていた。そして、わたしのかたわらには、黒焦げになったボートの残骸と、五人の死骸が横たわっていた。
そのとき、密林の中から、三人の獣人が出て来た。隆々とした肩に、前に突き出した頭をし、不恰好な両手をおずおずとにぎり、ものほしげな敵意に満ちた目をしながら、もじもじとした身振り手振りをして、わたしの方に進んで来た。
二十 ただひとり獣人とともに
わたしは、この三人の獣人どもに面と向かって立った。独力で、というより、片手で、わたしの運命を賭《か》けて、かれらに面した――いまでは、片腕を折っていたわたしは、文字どおり、使えるのは片手だった。ポケットにはピストルを忍ばせていたが、もう二発はうってしまって、からだった。砂浜に散らばっている木片の間には、ボートをぶった切るのに使った手斧が二挺ころがっていた。潮が、すぐ背後までさしていた。
勇気のほか、頼るものは、何もなかった。進んで来る怪物どもの顔に、わたしは、まともに目を向けていた。やつらは、わたしの目を避けて、鼻のあたまをひくひくさせて、わたしのうしろに倒れている死骸を嗅いだ。わたしは、五、六歩前へ出ると、狼人の死骸の下の、血に染まった鞭をとりあげて、ぱちんとひと振り鳴らした。
やつらは、立ちどまって、わたしの顔をまじまじと見つめた。
「あいさつをしろ」と、わたしはどなった。「ひざまずくんだ」
やつらは、しばらく躊躇していた。一人が膝をついた。わたしは、繰り返して命令した。心臓が口もとまであがってくるのを、じっとおさえて、やつらの方に進んだ。ひとりが膝を折ると、つづいて、後の二人もそれにならった。
わたしは、振り向いて、死骸の方へ足を運んだ。三人の獣人どもがひざまずいている前を、俳優が、観客の方に顔を向けたまま、舞台を通りぬけるように、獣人どもから、顔をそらさないようにした。
「やつらは、おきてを破ったのだ」と、おきての語り手の死骸に、足をかけて、わたしはいった。「やつらは、そのために殺されたのだ。おきての語り手といえども、おきてをのがれることはできない。鞭を持つ第二の人とても、おきてばかりはのがれることはできぬのだ。おきては偉大なるかな! さあ、ここへ来て、このざまを、よく見ろ」
「なにびとも、のがれることを得ず」と、やつらのうちの一人が、前へ進み、うかがって見ながら、いった。
「なにびとも、のがれることはできぬ」と、わたしはいった。「だからこそおれの命令を聞いて、そのとおりにするのだぞ」
やつらは、立ちあがって、いぶかしそうに、お互いの目を見合せていた。
「そこに立っておれ」と、わたしはいった。
わたしは、二挺の手斧をひろいあげて、腕をつるした布に、つり下げた。モンゴメリーの死体をくるりとひっくり返して、ピストルを取りあげ、ポケットをさぐって、六発の弾薬筒を取り出した。
「この男をかつげ」と、鞭でモンゴメリーの死体をさし示して、わたしはいった。「この男をかついで行って、海の中へほうりこめ」
やつらは、進んで来た。明らかにまだモンゴメリーを恐れているようだったが、それ以上に、わたしがぱちっと鳴らす、血に染みたまっ赤な鞭の先の方がこわかったとみえて、しばらく、もじもじと、いじりまわしていたが、鞭を鳴らし、どなり立てると、用心深くかれの死骸を持ちあげ、砂浜のところまで運んでおろしたが、水しぶきをあげながら、きらきらと輝くうねりの中へはいって行った。
「もっとさきだ」と、わたしはいった。「もっと先へ行くんだ――もっと遠くまで、かついで行くんだ」
やつらは、脇の下のあたりまで波の中へはいって行って、立ちどまって、わたしの方を見た。
「すてろ」と、わたしがいうと、モンゴメリーの死体は、しぶきをあげて、水中に消えた。さすがに、その瞬間、何物かが、わたしの胸を、ぐっと締めつけるような気がした。「ようし!」という、わたしの声が響くとともに、やつらは、恐れおののくように、あわてふためいて、波打ち際まで逃げもどって来た。銀色に輝く水面に、黒く、長い水脈《みお》が残っていた。やつらは、波打ち際まで来ると、そこで立ちどまって、振り返って、すてた場所からモンゴメリーが立ちあがって来て、きびしく復讐するとでも思っているかのように、じっと海面を見つめた。
「さあ、今度は、こいつらだ」と、わたしは大声をあげて、ほかの死骸の方を指した。
やつらは、モンゴメリーの死体をほうりこんだあたりには近づきたくないようすで、四人の獣人どもの死骸を、わざと波打ち際ぞいに百ヤードほども離れたところまでかついで行き、そこから波の中へはいって行ってすてて来た。
やつらが、むざんに切りさいなまれたムリングの遺体を片づけているのを見守っているとき、背後で、そっと忍び寄る足音を聞き、さっと振り返って見ると、大きなハイエナ豚人が、十二ヤードほど離れたところにいた。頭を前かがみに垂れ、太くて短い手をぎゅっと握りしめ、ぴったり両側につけたまま、そのぎらぎらとした目を、じっとわたしにつけていた。わたしが振り向くと、そのかがみこんだ姿勢のまま立ちどまり、その目をすこしそらした。
一瞬、わたしたちは、目と目を見合わしたまま、立っていた。わたしは、鞭をおとして、ポケットのピストルをつかんだ。というのは、わたしは、この畜生を殺すつもりでいたのだ――いま、この島に浅っている獣人のうちでも、もっとも恐るべきやつだ――というのが、最初の考えだった。いつ何時《なんどき》、刃向かってくるかもしれないやつだ。だから、殺してしまおうと、そう決めていた。ほかの二人の獣人よりも、はるかに、わたしは、こいつを恐れていた。こいつの命がつづいてるかぎり、わたしの生命に対する脅威だということを、わたしは知りつくしていた。わたしは心を落ち着けるのに、おそらく十二秒ほどかかった。それから、大声でどなった。
「あいさつをしろ、ひざまずけ!」
やつは、わたしに向かって白い歯をむき出して、うなり声をあげた。
「なんだ、お前はおれが――」
いささか発作的すぎたが、わたしはピストルをとり出して、狙いをつけるが早いか、ぶっぱなした。ぎゃっとやつの叫ぶ声が聞こえ、横っ飛びに、やつが飛び、くるっと向き直って走って行くのが見え、たまのはずれたのがわかった。つぎを撃とうとして、かちんと撃鉄を親指でおこした。が、やつはすでに、右に左にと飛び跳ねながら、むちゃくちゃに走っていた。わたしは、たまを無駄にするのを恐れて、あえて撃とうとはしなかった。走りながら、たびたび、かれは肩越しにわたしの方を振り返った。しばらくの間、わたしはかれの後を見つめて立ちつくしていた。それから、くるっと、素直な三人の獣人の方を振り向いて、まだそいつらのかついでいる死骸を、海の中に落とせと合図した。それから、死骸が倒れていた火のそばのところへもどって行って、血に汚れて赤っ茶けた砂が、すっかり隠れてわからなくなってしまうまで、足で蹴ってならした。
わたしは、手を振って、三人の獣人を追っぱらい、浜辺を通って叢林の中にはいって行った。わたしは、手にピストルを携え、鞭を脇にさし、腕をつるした包帯に手斧をぶらさげていた。自分がいまおかれた立場を考えることも、ただひとりになることも、不安でたまらなかった。
わたしが身に沁《し》みて感じはじめていた、ただ一つの恐ろしいことは、いまでは、この島じゅうに、ただひとりでいられる安全な場所もなければ、確実に身を休めるところも、眠るところもないということだった。この島に上陸して以来、自分でも驚くほど体力を回復していたが、まだともすれば神経質になり、ひどく緊張すれば気持が挫折《ざせつ》する傾きがあった。わたしは、島を横断して、獣人たちに自分というものを認めさせ、かれらの信用をしっかり掴まなければならないと思った。しかし、わたしの心臓は衰えて、自分の思うようにならなかった。わたしは、浜辺へ引き返し、珊瑚《さんご》の砂が砂州の方に流れ出して、低い岬のようになっている地点に向かった。そこでなら、ゆっくり腰をおろして、考えることもできた。
背を海の方に向けていれば、どんな危急に対しても面と向かうことができる。わたしは、そこに腰をおろして、膝《ひざ》に顎《あご》をのせた。太陽は、頭の上から照りつけていた。胸にむくむくとふくれあがる恐怖をかみしめながら、わたしが救われる(かりに救いが来るとして)までの時間を、どのようにすれば生きつづけられるだろうかと考えつづけた。わたしは、できるだけ平静に、いっさいの情勢を振り返ってみようとした。が、暗い感情を払いのけることは不可能だった。
わたしは、頭の中で、モンゴメリーが絶望した理由を、あれこれと考え出していた。「やつらは、いまに変わるよ」と、モンゴメリーはいった。「やつらは、まちがいなく変わる」そして、モロー博士だ――モロー博士はなんといったっけ?「頑強な動物の肉体は、一日一日と、ふたたびもとにもどるようになる……」そうモロー博士はいったではないか! すると、ハイエナ豚人のことが、わたしの胸にうかんできた。あいつを殺さなければ、やつが、きっとわたしを殺す、と、わたしは確実に感じた……おきての語り手は死んだ――あれは、運が悪かった!……やつらは、自分たちも殺されるように、鞭を持った人間も殺すことができると、いまでは知ったのだ。
やつらは、向こうのシダやヤシの葉の茂みから、いままでにも、わたしをうかがっていたのではないか――やつらが躍りかかれるところまで、わたしが近づくまで、じっと見つめていたのではないか? わたしに立ち向かうつもりを、やつらはしていたのだろうか? ハイエナ豚人は、やつらの仲間に、なにをいっていたのだろうか? わたしの想像は、実体のない恐怖の泥沼の中へ、わたしをともなって駆けまわって行った。
わたしの思索は、海鳥の叫び声に断ち切られた。海鳥は、石壁の近くの浜辺に、波で打ちあげられた、なにか黒い物の方に飛んで行くのだった。黒い物がなんであるか、わたしはよく承知していた。が、そこまで行って、海鳥を追っ払う気もしなかった。わたしは、浜辺を、反対の方向に歩き出した。島の東の隅の方へまわって行って、おそらくは待ち伏せのありそうな茂みを通らずに、小屋のある渓谷に行ってみようというつもりだった。
浜辺伝いに半マイルほど行ったころ、三人の獣人のうちの一人が、陸地の奥の藪の中から、わたしの方に近づいて来るのに気がついた。わたしは、いまは、自分自身の考えにひどく気が立っていたので、すぐにでもピストルをとり出そうとしたほどだった。相手が馴れ馴れしそうな身振りをしてさえも、わたしに武器をすてさせることはできなかった。
かれはもじもじとしながら、近づいて来た。
「行ってしまえ」と、わたしはどなりつけた。
相手のへつらうような態度には、何かひどく犬を思わせるような卑屈さがあった。家へ帰れといわれた犬そっくりに、すこし後ずさりはするが、立ちどまって、犬そのままの茶色っぽい目で、哀願するように、わたしを見ている。
「行ってしまえ」と、わたしはいった。「そばへ寄るな」
「おそばに寄ってはいけないか?」と、そいつはいった。
「いかん、あっちへ行け」と、わたしは強くいって、鞭を振った。それから、鞭を口にくわえて、石をひろいあげた。そのおどしで、やっと相手は逃げて行った。
そうして、たったひとりになって、獣人のいる峡谷に近くまわって来て、そのさけ目を海からわけているアシや雑草の間に身を隠して、モロー博士とモンゴメリーの死や、苦痛の家の焼け落ちたことが、どのように獣人たちに影響しているか、かれらの身振りや、その様子から判断しようとして、どんな様子で、かれらが出て来るかを見守っていた。いまでは、自分のばかげた臆病さに気がついていた。けさの明け方と同じくらいの強さに、自分の元気を保っていて、たったひとりになったという考えに、元気を衰えさせさえしなかったならば、空位になったモロー博士の主権をこの手に把握して、獣人どもを支配していたかもしれなかったのだ。ところが、事実は、その好機を逸《いっ》してしまって、同輩の間の単なるリーダーの位置に落ちてしまったのだ。
正午近くになると、太陽に熱せられた砂の上に、獣人たちがやって来て、しゃがんで日なたぼっこをしはじめた。さし迫った飢えとのどの渇きとの声が、わたしの恐怖心を打ち負かした。わたしは、藪の中から出た。そして、ピストルを手にしたまま、砂の上に腰をおろしているやつらの方におりて行った。一人、狼の女が、首を向けて、じっとわたしを見た。つづいて、ほかのやつらも、わたしの方を見た。立ちあがって、わたしに挨拶をしようとするものもなかった。わたしは、すっかり気が弱くなり、疲れてもいたので、とうてい、これだけ多くのものを向こうにまわす気にはなれなかった。そして、その機会をやりすごしてしまった。
「食べるものがほしいのだ」と、ほとんどいいわけでもいうようにいって、わたしは、そばへ寄って行った。
「食べものは、小屋にあるさ」と、牛と熊の男が、ものうそうにいって、わたしから目をそらした。
わたしは、やつらのそばを通りすぎて、ほとんど人っ子ひとりいない峡谷の、陰《かげ》と悪臭の漂う中へ降りて行った。空き家のような誰もいない小屋の中へはいると、わたしは、たらふく木の実を食べた。それから、半ば朽ちた枝や小さな棒切れを、入り口にたてかけた。それから、入口の方に顔を向け、ピストルに手をのせたまま、身を横たえた。それまでの三十時間のはげしい疲労には、それは当然のことで、わたしは、すぐに眠りに陥ってしまった。わたしが立てたこの脆弱《ぜいじゃく》な防柵が、誰かが襲って来てそれを取りのけようとすれば、十分に音を立てて、わたしの目をさまさせてくれるにちがいないと、はかなくも信じていたのだ。
二十一 獣人、本性にもどる
こういったようにして、わたしは、モロー博士の島で、獣人の仲間になった。目をさました時、あたりは暗くなっていた。包帯をした腕は、ずきずきと痛んだ。起きあがって、どこにいるのだろうかと、はじめは思った。外で、がさつな声のしゃべっているのが聞こえた。気がついてみると、わたしの作った防柵がなくなっていた。そして、小屋の入口が、もとのように、きれいさっぱりとあいていた。ピストルだけは、まだしっかり手に握りしめていた。
何かの息をする音が聞こえ、わたしの脇にぴったり寄りそって、何物かがうずくまっているのが、おぼろに見えた、はっと固唾《かたず》をのんで、何物かを見定めようとした。そいつは、ゆるゆると、いつまでも止まるということもなく、動き出した。つづいて、何か、やわらかく、生温かい上に、しめり気のあるものが、わたしの手にさわった。
わたしの全身の筋肉が、ちぢまった。さっと手を引っこめた。びっくりして叫ぼうとしたが、喉がつまって声にならなかった。こんなことがおこるからこそ、指を引き金にかけていたのだと、わたしは、とたんに感じた。
「だれだ?」と囁くようなしわがれ声で、わたしはいった。ピストルは、じっと相手に向けたままだった。
「わたしです、ご主人」
「お前は、だれだ?」
「みんなは、もう支配する人はいないのだといっています。でも、わたしは知っています、よく知っています。わたしは、死骸を海へかついで行ったものです。おお、海を歩くお方、あなたが殺した死骸をすてに行ったものです。わたしは、あたたの下僕《しもべ》です」
「浜で会った男か?」と、わたしはたずねた。
「その男です。ご主人」
相手は、たしかに忠実なやつにちがいなかった。というのは、邪心があれば、眠っている間に、わたしに襲いかかったかもしれなかったからだ。
「ようし」と、わたしはいい、手を伸ばして、また舐《な》めるようにキッスするのにまかせていた。そいつのこの場にいる肚《はら》が読めてきかけて、元気が潮のさすように満ちてきた。「ほかのやつらは、どこにいるのだ?」と、わたしはたずねた。
「みんな、気が変になっています。みんな、ばかなやつです」と、その犬人がいった。「いまだって、みんな集まって、向こうでしゃべっています。みんなはいっています。『支配する人は、死んだのだ。鞭を持つ第二の人も死んだ。海を歩くもう一人の人は――あれは、おれたちと同じ仲間だ。おれたちには、もう、主人もなければ、鞭もない。苦しみの家もない。もうおわりだ。おれたちは、おきては好きだから、それだけは守らねぱならん。が、苦しみも、主人も、鞭も、もう二度とないのだ』そう、みんなはいっています。でも、わたしにはわかっています、ご主人、わたしは知っています」
わたしは、暗闇をさぐって、犬人の頭をなでてやった。
「よし、よし」と、わたしは、またいった。
「じきに、あいつらみんなを、殺してしまうんでしょう」と、犬人はいった。
「じきにな」と、わたしはこたえた。「やつらをみんな、殺してやる――時機が来たらな。お前ひとりを残して、どいつもこいつも、あとは残らず、殺してやる」
「ご主人が殺す気になれば、ご主人は殺すのですね」と、いかにも満足そうな声で、犬人はいった。
「そして、やつらの罪は、ますます増すだろうが」と、わたしはいった。「やつらの時機がみのるまで、やつらのばかげた暮らしをつづけさせるのだ。だがな、おれが支配する男だってことは、やつらに知らせるのじゃないぞ」
「ご主人の決心は、みごとです」と、犬人は、その持ち前の犬らしい如才のなさで、そういった。
「だが、一人だけ罪を犯したやつがいる」と、わたしはいった。「いつでもいい、そいつに会い次第、やつを殺してやる。おれが、『あいつだ』と、お前にいったら、いいか、お前は、すぐそいつに襲いかかるんだ――では、みんなの集まっているところへ行ってみよう」
犬人が出て行くので、しばらくの間、小屋の入口は暗くなった。それから、わたしは、かれにつづいて、モロー博士とかれの猟犬とが、わたしを追跡しているのを聞いた時に、わたしが隠れていたのと、ほとんど同じ場所に立った。しかし、いまは夜で、まわりの沼気《しょうき》の立てこめた峡谷は、まっ暗だった。その向こうには、太陽に輝く緑の斜面のかわりに、まっ赤な火が赤々と燃えているのが見え、その火を取りかこんで、背を丸めた奇怪な姿が、右に左にうごめいていた。ずっと遠くには、深い密林があり、上の方は、ずっと上の方の枝々でまっ黒に縁飾りでもつけたような、黒々とした勾配になっていた。月がちょうど峡谷のへりに昇ったところで、噴気孔から絶えず立ち昇っている蒸気が、帯のように渦巻のように流れて、月の表面をかすめていた。
「おれのそばを歩くんだ」と、勇気を奮いおこして、わたしはいった。そして、二人は肩を並べて狭い道を降って行ったが、小屋から、ぼんやりした影が、わたしたちをうかがっていたのには、ほとんど用心もしなかった。
火のまわりにいた連中で、わたしに挨拶をしようとしたものは、一人もなかった。たいていのものが、わたしを無視した――見栄でも張っているように。ハイエナ豚人はいないかと、ぐるっと見まわしたが、そこにはいなかった。みんなで、おそらく、二十人ぐらいの獣人がうずくまって、火をじっと見つめたり、話し合ったりしていた。
「あの人は、死んだ、あの人は死んだ、ご主人は死んだ」と、わたしの右手で、猿人の声がいった。「苦しみの家――苦しみの家も、もうない」
「あの人は、死んでなんぞいるものか」と、大きな声で、わたしはいった。「いまでも、あの人は、ちゃんとわれわれを見つめておいでになるのだ」
その言葉に、みんなは飛びあがるほどに驚いた。二十人の目が、いっせいに、わたしの顔を見た。
「苦しみの家はなくなった」と、わたしは言葉をつづけた。「が、またもどってくる。支配する人の姿は、お前たちには見ることはできぬ。が、いまもなお、あの人は、空の上からちゃんと、お前らの言葉を聞いておいでになる」
「本当だ、そのとおりだ!」と、犬人がいった。
わたしの確信に満ちた言葉に、みんなは動揺した。けものは、残忍で狡猾《こうかつ》かもしれないが、真の人間のつく嘘は看破することはできぬものなのだ。
「腕に包帯をした人は、不思議なことをいうな」と、獣人のうちの一人がいった。
「おれは、はっきりいって聞かせるが、そのとおりなのだぞ」と、わたしはいった。「ご主人も、苦しみの家も、またもどってくる。おきてを破る者は、わざわいなるかな!」
かれらは、いぶかしそうに、おたがいの目を見合った。わざと無関心なふりを装って、わたしは、前の地面を、手斧で打ちはじめた。そのたびに、芝生の上に、深い切り口ができるのを、かれらがじっと見ているのに、わたしは気がついていた。
すると、半羊神が疑問を発してきた。こたえてやると、毛並にまだらのあるやつが反対をとたえた。それから、活発な討論が、たき火をかこんでおこった。討論のすすむ一刻一刻に、わたしは、現在の自分の身の安全に、いっそうの自信を強く感じ出した。わたしは、もういまでは、はじめ苦にしていたような、強い興奮に引きずりこまれることもなく、じゅんじゅんと話していった。なかには、あやふやな態度でものをいうやつもあったが、一時間ほどのうちには、わたしの主張の真実さについて、数人の獣人が、心からわたしの言葉に納得するようになった。
わたしは、自分の敵のハイエナ豚人があらわれはしないかと、鋭く目をつけていた。が、やつは絶対に姿をあらわさなかった。ときどき、怪しげなそぶりを見せるやつもあって、わたしはどきっとしたが、やがて、月が中天をすぎるころには、つぎつぎに、聞き手も(消えようとするたき火の光に、この上もなく異様な歯を見せて)あくびをしはじめた。そして、最初の男につづいて、ほかのやつどももつぎつぎに、渓間の小屋の方へもどって行った。そして、わたしも、静寂と暗黒が無気味でもあったし、たった一人でいるよりも、安心のできる数人の獣人とともにいるほうが、まだしも安全だと思ったので、かれらとともに小屋へ行った。
こういった次第で、このモロー博士の島における、わたしの滞在の長い部分がはじまった。その夜から、島の滞在に終止符を打つまで、数えきれないほどの、ささいな不愉快な出来事と、絶え間のない不安にいら立つことのほかには、ただ一つの事件のほか、話すようなことはなかった。だから、これらの半ば人間化したけものたちの親しい仲間として送った、十か月の間の、ただ一つの主要な出来事を綴《つづ》るだけで、その間の空白の部分を埋める気持はない。書き記そうと思えば書くこともできぬほど、わたしの記憶からなかなか抜けきらないこともたくさんあれば、喜んで忘れたいことも山ほどある。しかしながら、そんなことは、この物語のおもしろさには何の役にも立ちはしないことばかりである。
振り返ってみれば、わたしが、いかに速かに、これらの獣人どもの暮らし方に同化し、ふたたびかれらの信頼をかち得たかということをおぼえているのは、まったく不思議としかいいようがない。もちろん争闘もした。いまでも、からだじゅうに、やつらの歯の痕が、いくつも残っているのをお見せすることができるほどだ。しかしながら、石を投げるわたしの早業と、手斧を振りまわす技倆に、かれらは瞬《またた》く間に、すっかりかぶとをぬいでしまった。セント・バーナード犬人が、わたしに忠誠をつくしたことが、かれらの心服をかちうるのに、無限に役立ったことも事実である。かれらの間で、優劣をきめる簡単な尺度は、おもに相手に、どれだけ痛烈な傷を負わせることができるかという、その能力にかかっていた。事実、わたしは――うぬぽれではない、と思うが――やつらの中では、抜群なものを持っていたといってもいいと思うが、一、二のやつらには、それぞれを相手にして争ったあげく、ひどい傷を負わせてやった。が、そいつらは、いつまでも、わたしに敵意を持っていた。しかし、そいつらも、主として、わたしのうしろで、しかも、わたしの飛び道具のとどかぬ遠いところで、歯をむき出して見せるくらいがせきのやまであった。
ハイエナ豚の獣人は、わたしを避けていたし、わたしも常に、やつには警戒を怠らなかった。わたしから離れない犬人も、やつを憎むとともに、ひどく恐れていた。わたしによくなついていたのも、根本の理由はそれだったのだろうと、わたしも、ほんとうはそう信じている。まもなく、この当面の敵なる以前の怪物が、血の味を知ったということが、わたしに明瞭にわかった。やつもまた豹人と同じ道を歩くことになったのだ。密林の中のどこかにねぐらを作って、ひとり暮らしをするようになっていた。一度、わたしは、獣人どもを総動員して、やつを狩り立ててみたのだが、それだけの権力がわたしに欠けていたために、とことんまで協力させるわけにはいかなかった。その後もたびたび、わたしは、やつのねぐらに忍び寄って、ふいに襲ってやろうとしたのだが、やつも常にわたしを警戒していて、わたしを見るか、嗅ぎつけるかすると、すぐに逃げて姿をくらましてしまうのだった。やつは、またどこに潜伏して待ち構えているかわからないので、わたしにも、またわたしの仲間にも、密林の小道という小道は、すべて危険なものとなった。
最初のひと月かそこらの間は、獣人たちは、それまでの状態と比較しても、十分に人間らしかった。わたしの友人の犬のほかの一、二のものに対しては、友だちとしての寛容さを感じてさえもいた。小さな、うす桃色のナマケモノなどは、おかしな愛情をわたしに示して、わたしの後ばかりをつきまとっていた。けれども、わたしをうんざりさせたのは、猿人だった。かれは、自分も五本、指があるという理由で、わたしと同格の権利があると見せびらかしたいようすで、絶えずわたしにぺちゃくちゃと話しかけてくるのだったが、話の内容は、この上もなく愚にもつかない、ばかばかしい考えばかりだった。
ただ一つ、すこしばかり、わたしに楽しい思いをさせることがあった。それは、新しい言葉を作り出す、気まぐれともいうべき才能だった。何の意味もない抽象的な名詞をしゃべることが、言語本来の目的だという観念を持っていたという気がする。かれは、これを『大きな考え』と呼んでいて、『小さな考え』――健全な、日常の生活の関心事――とを、厳密に区別していた。だから、かりに、わたしが、かれのよく理解できないようなことをいったとすれば、かれは、ひどくそれをうれしがって、もう一度いってくれとせがんでは、暗記するまでおぼえこむのだった。それから口の中で繰り返しながら出かけて行って、あちらこちらで、ほかのおとなしい獣人どもに向かって、まちがった言葉をしゃべって聞かせるのだった。かれは、簡単平明な、わかりやすいことは、いささかも考えようともしないのだった。わたしも、かれの特別な目的のために、とても奇妙な『大きな考え』を考え出してやったほどだ。
いまになって考えれば、かれこそは、わたしがこれまでにお目にかかったうちでも、もっとも罪のないやつだったといわなければならない。かれこそは、猿としての持ち前の愚かさをうしなうことなく、人類独特の愚劣さを、もっともすばらしい方法で発展させたものであったのだ。
いってみれば、これが、これらの獣人たちの間で暮らした、最初の数週間の、わたしの孤独な生活の実際であった。その間、かれらは、おきてによって確立されたしきたりを尊重し、だいたいに秩序正しくふるまっていた。一度、仲間以外のウサギが八つ裂きにされているのを見つけた――ハイエナ豚人の仕業だと確信している――が、それだけで、それ以外には、変わったこともなかった。ところが、たしか五月ごろのことであったが、わたしは、やつらの話しぶりや姿勢が、変調をきたしているのを、はじめてはっきりと感じとった。発音がひどくお粗末になり、しゃべるのも気が進まなくなっているのだった。わが親愛なる猿人にしても、しゃべることだけは、むやみやたらにしゃべるのだが、だんだんに、意味がわからなくなり、ますます猿くさいものになっていった。なかには、ぜんぜん、しゃべれなくなってしまったものもいたようだ。
もっとも、そのころは、わたしのいうことだけは、まだわかったようだった。ひとたびは、はっきり正確に、ものやわらかに流れるように発音された言語が、言葉の形式や含んでいる意味をうしなった上、ふたたび、ただの音が出るというようになるなどということが、諸君には想像ができるだろうか? それに、直立して歩くことが、だんだんむずかしくなってきた。もっとも、自分たちでも明らかに恥じているようすだった。わたしは、しばしば、足や手の指を地につけて走っている連中に、一人ならずぶつかるようになり、直立した姿勢にもどることは、まったくできなかったものも見かけるようになった。物を持つのも無器用になり、水を飲むにも、口をじかに水につけて飲み、物を食うにも、じかに歯をつけて噛み切るようになり、一日一日とたちが悪くなっていった。モロー博士が『頑固な獣性』について、わたしに話して聞かせてくれた以上のものを、さらに鋭く眼前に見せつけられたのである。かれらは、本性に復帰しつつあったのだ。非常に早く、生まれつきの獣に復帰しつつあったのだ。
かれらのうちのある者――その先鋒は、すべて雌であるのにわたしは気づいたのだが――その者たちが、おきての定める秩序を無視しはじめた――しかも、その大部分のものが、敢然と破るようになったことだ。なかには、公然と一夫一婦制を破ろうと企てるものさえもあった。おきての伝統は、その力をはっきりうしないつつあった。こういった不愉快な問題を、わたしは、あまりくわしく述べる気にはならない。
わが犬人も、いつか知らぬ間に、また犬そのものに返っていった。日ごとに、物をいわぬようになり、四つ足で歩きまわり、毛深くなっていった。わたしがほとんど気がつかぬうちに、わたしの片腕とも思っていた仲間から、わたしのそばにかしずくただの犬に移り変わっていた。もともと、この住まいにしていた峡谷は、いっときだって快適なところではなかったのだが、一日一日と日がたつにつれて、なにもかも投げやりになり、無秩序の状態がひどくなり、ここに住むのもひどく胸が悪くなってきたので、わたしは思いきって、そこを後にした。そして、島を突っきって、モロー博士の石壁の囲いの、まっ黒になった廃墟の中に、木の枝を材料にして、自分の手で小屋を作りあげた。とにかく、ここにはまだ苦痛の記憶が残っているらしく、この場所こそ獣人どもからはもっとも安全に、日々を送らせてくれるところだということに、わたしは気がついた。
こういう怪物どもが一歩一歩退歩して行くさまを、これ以上こまかく述べることは不可能に近い。要するに、一日一日と、人間的外観が、かれらからうせていった。包帯や身にまとっていたものを、かれらは捨ててしまった。最後には服という服は、こまかい切れはしまで捨て去ってしまった。いままでは、むき出しになっていた四肢にまで、すっかり毛がおおうようになった。額は後退し、顔が突き出てきた。わたしがただひとりでいた最初の一か月、かれらのうちの二、三のものに、いわゆる人間的な親密さを許していたことも、いまは思い出しても、ぞっと身ぶるいがでるほどになった。
変化は、じょじょではあったが、当然のことで避けられなかった。かれらにしても、わたしにしても、なんら明確なショックをともなわずに、その変化はおこってきた。相も変わらず、わたしは、無事にかれらの間へ出かけて行った。というのは、しだいに低下しながら転移していくために、人間性を放棄するような危険な獣性が、突発的に爆発するようなショックは起こらなかったからだ。しかしながら、もう間もなく、かならずそのショックがあらわれるにちがいないと、わたしは恐れを砲きはじめた。わがセント・バーナード犬人は、わたしについて石壁の囲いに移っていた。かれが寝ずの番をして見張っていてくれるので、わたしは、なんとなく安心して、時々は、眠ることができた。小さな桃色のナマケモノは、わたしの前に出るのをこわがるようになり、わたしのそばを離れて、ふたたび木の枝々の間の生まれつきの生活にもどって行った。
いうまでもあるまいが、こういう獣人どもが、もとの動物に低下したからといって、読者が動物園で見かける――世間ふつうの、熊や、狼や、虎や、牛や、豚や、猿になりさがったのではなかった。それぞれの動物には、まだ何か奇妙に変わったところがあった。モロー博士は、それぞれに、この動物にはあの動物をというふうに、別々の動物をまぜ合わせたので、おそらく、あるものは熊が主であり、あるものは猫が主であり、また他のものは牛属が主ではあったが、しかし、各々は、他の動物の痕跡をもとどめていて――つまり、それぞれの種族特有の特徴を保持しつつ、普遍化せられた一種の人間的動物といったものが作りあげられていたのだ。だから、衰退したとはいいながら、いまもおりおりは、人間性がちらっとあらわれて、わたしを驚かすのだった。たとえば、瞬間的にではあるが、あざやかな言葉が飛び出したり、思いもかけない手の器用な使い方をしたり、なんとかして直立して歩こうと、哀れな努力を重ねているのを見たりすると、驚嘆を新たにするのだった。
わたしにしても、妙な変化をまぬがれるわけにはいかなかった。わたしの服は、黄ばんだぼろのようになって、身のまわりにぶらさがり、そのやぶれ目から日に焼けた皮膚がのぞいていた。髪の毛は、長く伸び、もじゃもじゃもつれ合って、みるのようになっていた。動作は驚くほど敏捷であり、目の色にしても、異様な光をはなつと、いまだに人からいわれているほどに、目の色にも、動作にも、いままでと違ったものがあらわれてきた。
はじめのうちは、日の照っているかぎりは、南の浜辺に出て、水平線に帆影が見えてくれればいい、ぜひ浮かびあがってくれと願いながら、船があらわれるのを見つめてすごした。わたしは、一年たてば、イペカキュアナ号がもどって来るのではないかと、そればかりをあてにしていたが、あのスクーナー船は、影も形も見せなかった。帆船を五度、煙を三度見かけたが、島に近づこうとさえするものはなかった。わたしは、いつもたき火の用意をしていたが、火を燃して煙をあげてみたところで、この島は火山島としてよく知られていたので、火山の噴煙と見なされるのは疑う余地もなかった。
わたしがはじめて筏《いかだ》が作ることを考えるようになったのは、やっと九月か十月になったころであった。そのころには、わたしの折れた腕もなおっていたので、両手がまた使えるようになっていた。はじめは、自分の無器用さが、ほとほといやになった。生まれてから一度も、大工仕事などというものはしたことがなかったので、来る日も来る日も、木を切ったり縛《しば》りつけたりするのに、無駄なことばかりをしてすごした。縄というものもなかった。そればかりか、どうやって縄をつくったらいいものかも考えつかなかった。つる草はふんだんにあるのだが、しなやかすぎるような気がして、丈夫なものはまるきり見つからなかった。わたしの受けた科学教育をもってしても、筏を作る方法を工夫することはできなかった。
わたしは二週間以上を費やして、囲いの中のまっ黒になった廃墟や、モンゴメリーがボートを焼いた砂浜を掘り返してみた。なにか役に立ちそうな、釘とか、金属の類が落ちていはしないかとさがしてみた。時には獣人たちが、もの珍しそうにじっとわたしのすることを見ているのだったが、声をかけると飛ぶように逃げて行った。そのうちに、雷雨の季節が来て、はげしい雨が、わたしの仕事をひどく遅らせた。が、とうとう、筏はできあがった。わたしは、すっかりうれしくなった。が、いつでも、わたしの失敗のたねともいっていい実用向きの頭が欠けていたために、海辺から一マイル以上も離れたところで作りあげたために、砂浜まで引きずりおろさないうちに、せっかく苦心して作った筏もばらばらになってしまった。おそらく、そんな筏で大海に乗り出していたら、たちまち海の藻屑《もくず》となってしまっていたのだから、おかげで命が助かったといってもいい。しかし、その時には、自分の失敗の痛手は、身を切られるほど大きかったので、それから数日の間は、わたしは、砂浜に腰をおろして、ふさぎこんで、ぼんやりと海を眺めて、死ぬことだけを考えていた。しかし、死ぬつもりはなかった。
それどころか、そのように無為に毎日をすごしていることの愚かさを、はっきりわたしに警告する一つの事件が起こった――というのは、一日一日が、日ごとに増大してくる獣人どもからの危険を含んでいたからだ。ある日、わたしが石壁の囲いの陰に横たわって、沖を眺めていると、ふと冷たいものが、かかとの皮膚にさわった。びっくりして振り返ると、小さな桃色のナマケモノが、わたしの顔をのぞきこんでは、しきりとまたたきをしているのだった。かれはもう、人間の言葉や、積極的な動作をうしなってしまってから久しくなっていた。この小さなけものの細長い毛は、日ごとに濃《こ》くなり、ずんぐりした爪は、ますます曲がっていた。わたしの注意を惹《ひ》いたということがわかると、かれは唸《うな》り声を立て、すこしばかり密林の方へ行っては、振り返ってわたしを見た。
はじめは、なんのことか、わたしにはわからなかった。が、やがて、どうやら、わたしについて来てほしがっているのだなという、気がわたしの胸に浮かんだ。それで、とうとう、わたしはそのとおりにした、ゆるゆると――というのは、暑い日で、からだを動かすのさえものうかったのだ。木立ちのところへ着くと、かれはかたわらの木に攀《よ》じのぼった。現在のかれとしては、地上を歩くよりは、木からさがっているつる草の間のほうが、ずっと楽につたわることができるからだった。
ところが、突然、踏み荒らされた空き地で、わたしは、ぞっとするような仲間にぶつかった。わがセント・バーナード犬人が、死んで横たわり、かれの死骸のそばには、ハイエナ豚人がうずくまって、不恰好な爪で、まだひくひくと動いている肉をつかんでかぶりつき、さもうれしそうに唸り声をあげているではないか。わたしが近づくと、怪物はぎらぎらと光る目を、わたしの目に向けてあげ、唇を打ちふるわしながら、そっくり返して、まっ赤に血に染まった歯を剥き出し、威嚇《いかく》するように唸り声をあげた、こわがっているのでも、恥じているのでもなかった。人間性の最後のしるしも、消え去っていた。わたしは、一歩前進して、立ちはだかり、ピストルをとり出した。ついに、この宿敵と面と向かい合った。
畜生は、後に引きそうな身ぶりさえも示さなかった。かえって、両耳をぴたりとうしろに伏せ、毛を逆立て、からだをぐっとまげて、いまにも飛びかかろうと身構えた。わたしは目と目の間をねらって、ぶっぱなしたが、その瞬間、相手はさっとわたしに躍りかかっていた。そして、わたしは、ボーリングの柱のように倒されていた。相手は、その力の抜けた手で、わたしにつかみかかり、わたしの顔を殴った。やつは飛びかかった勢いで、わたしの上にからだごとぶつかっていたのだ。わたしは、やつのからだの後半身の下に倒れたのだが、幸いにも、わたしのねらいはあやまっていなかったのだ。やつは躍りかかったとき、すでに死んでいたのだ。わたしは、やつのけがれた重しの下からはい出して、ふるえながら立ちあがって、まだひくひくとふるえている敵の死骸を、じっと見つめた。やつからの危険は、すくなくも去ってしまった。しかしながら、これこそ、当然引きつづき起こってこなければならぬ、獣人がもとの野獣の性質へ復帰する最初のきっかけにすぎないということを、わたしは知っていた。
わたしは、薪を積みあげて、死骸を二つとも焼いた。いまになって、実に、この島を離れないかぎり、わたしの死は、時の問題にすぎないと、はっきり悟った。もうそのころには、獣人どもは、一、二の例外をのぞいて、のこらず峡谷の小屋をすてて、島の密林の中に、かれらの本性にしたがって、自分自分のねぐらを作っていた。日のある間、歩きまわっているものは、ほとんどなく、たいていのものが眠っていた。新しく上陸して来たものがあるとすれば、人も住んでいなければ、けものさえもいない島だと思ったかもしれない。が、夜になれば、島の空気は、かれらの叫び声と吠え立てる声とで、ぞっと身の毛もよだつほどだった。
わたしは、やつらを――計略にかけるか、あるいは、ナイフで闘って――皆殺しにしようと思っていた。十分に弾薬を手もとに持っていたら、一瞬の躊躇もなく、殺戮《さつりく》をはじめているところであった。やつらのうちで、ほかの連中以上に勇敢に立ち向かったものも、もうすでに死んでしまっていたので、危険な肉食獣で生き残っているものといっても、いまでは二十人と残っているはずはなかった。わたしの最後の友だちの、あの哀れな、わがセント・バーナード犬人が死んでからは、わたしもまた、夜は起きていて、自分の身辺の警戒をつづけるために、日のある間、ある程度は、眠るようにしていた。わたしは、例の石壁の囲いの中に、小さな部屋を再建し、それにはごく狭い入口をつけて、どんなものでもはいってこようとすれば、必ず相当大きな音を立てずにはいないように工夫した。獣人どもは、火を燃やす方法も忘れてしまっていて、火に対する恐怖がまたよみがえっていた。わたしは、もう一度、ほとんど熱情をそそぐほどにして、島を脱出するために筏を作ろうとして、棒切れや枝を集めにかかった。
そのためには、数えきれないほどの困難が横たわっているのに気がついた。わたしは、ひどく不器用な人間で――わたしの学生時代は、スウェーデン式の手工教育を学校で施す以前に、終了していた――しかし、筏を作るに必要なたいていの品物を、最後には、まことに気のきかない迂遠な方法で間に合わした。そして、今度は、強力な物を作ることに、特に気を使った。ただ一つ、どうしてもできない品物は、ほとんど航行する船もない、自分でも帆走したことのない海上へ乗り出した場合、どうしても必要な水を入れる容器がないということだった。わたしは、陶器を作ろうとさえしたほどだったが、島の土は粘土質のものを含んでいなかった。わたしは、このただ一つ残った難事を解決しようとして、全力をあげて、島じゅうを歩きまわるのが常だったが、それほどまでにしても、なんにも考えつくことはできなかった。
ところが、ある日、すばらしい日がやってきて、わたしは、狂喜して、その日一日をすごした。その日もぼんやりと沖を眺めていた。すると、南西の方に、帆影が一つ見えたのだ。小さなスクーナー式帆船の帆のような、小さな帆だった。時を移さず、大きな山のように薪を積みあげて、炎々と燃えあがらせた。その燃えさかる熱気を身に浴び、ま昼の灼熱する太陽を受けて立ちながら、じっと見つめていた終日、わたしは、水も飲まず、ものも食べず、その帆影を見守っていた。そのために、しまいには頭がぐらぐらして、目まいがしてきた。獣人どももやって来て、わたしをじっと見つめていたが、けげんそうなようすで、行ってしまった。
夜がきて、闇にのまれてしまったときも、ボートは相も変わらず遠くにいた。その夜は夜通し、わたしは、炎々あかあかと高く燃やしつづけた。獣人どもの目が、驚いたように、闇の中からきらきらと光っていた。夜があけると、ボートは、ずっと間近くなっていた。よく見ると、うすよごれた縦帆を一枚はっただけの、ごく小さなボートだった。わたしの目は、ゆうべからの見張りに疲れていて、よくすかして見たが、それにしても信じることができなかった。ボートには、人が二人乗っていて、ひとりはへさきに、ひとりは舵のところにいて、低く身をおとしたように腰をおろしていた。しかし、ボートは、妙な帆の張り方をしていた。船首を風の方に保っていず、針路も右に左にそれていた。
夜が明けきって、日が輝いてくるのを見て、わたしは、上着の最後のぼろを、かれらに振りはじめたが、かれらは、わたしの方に気がつくようすもなく、お互いに向き合ったまま、身動きもしないですわっていた。わたしは、低い岬のうちでもいちばん低い地点まで飛んで行って、手まねをしてみたり、声を限りにどなってみた。答えはなかった。それどころか、ボートはでたらめの進路をとって、ゆっくり、ごくゆっくりと、入江の方に進んで行った。突然、大きなまっ白な鳥が、ボートから飛び立った。二人とも身動きもしなければ、鳥を見あげもしなかった。海鳥は、ぐるりと大きく輪を描いてから、力強い翼をひろげて舞い降りた。
そこで、わたしは叫ぶのをやめて、岬のはなに腰をおろし、頬杖をついて、見つめた。ゆっくり、ゆっくり、ボートは西の方へ漂って行った。わたしは、ボートまで泳いで行こうかと思った。が、何か、ひやっとするような漠然とした恐怖が、わたしを引きとめた。午後になって、潮がそれを打ちあげた。石壁の囲いの廃墟から西の方、百ヤードほど離れた浜辺だった。
ボートの中の男は二人とも、死んでいた。死んでから相当長くたっていたとみえて、ボートを片一方に傾けて、二人を引きずり出すと、二人ともからだがぐずぐずと崩れてしまった。一人の方は、イペカキュアナ号の船長に似て、まっ赤な、もじゃもじゃの髪の毛をしていた。汚れきった白い帽子が、ボートの船底に落ちていた。わたしがボートのかたわらに立っていると、こそこそと密林から這い出して来て、わたしの方に鼻を鳴らしながら近づいて来るものがあった。ひどい嫌悪の衝動が、わたしの胸に湧いた。わたしは、その小さなボートを海に押し出して、それに飛び乗った。獣人のうち二人は、狼人で、鼻先をひくひくと動かし、目をぎらぎらと光らせて、進み出て来た。三人目は、熊と雄牛の何とも名状しがたい恐ろしいやつだった。
やつらが悲惨な遺体に近づくのを見、互い唸り合うのを聞き、剥き出した歯がぎらぎらと光るのを目にとめたとき、気が遠くなるほどの恐怖が、ただの嫌悪についで、わたしの胸におこった。わたしは、かれらのほうに背を向け、櫓《かい》の柄をつかんで、海に向かって漕ぎ出した。とうてい、うしろを振り向く気になどはならなかった。
だが、その夜は、珊瑚礁と島の中ほどに、ポートをとめた。そして、あくる朝、夜があけると、小川の方にボートをまわして、ボートにあった空樽に水を満たした。できるだけ根気よく、木の実をたくさん集め、待ち伏せしていて、残った三発の弾丸で、ウサギを二匹殺した。その間、ボートは、獣人どもの来襲に備えて、珊瑚礁の中の目につかないところにつないでおいた。
二十二 孤独の人間
夕方になって、わたしは帆を揚《あ》げた。南西からの微風を受けて、ゆっくり、しっかりと、ボートは、大洋にすべり出して行った。島は、だんだん、小さく、小さくなって行き、やせた塔のように立ち昇っている噴煙は、焼けるような落陽をうしろにして、一刻一刻、精巧な一木の線のように細くなっていった。あかあかとした、太陽のたなびく光輪が、空から流れるように消えて、なにか輝くカーテンをひいたように、光を隠してしまった。そして、やがて、無限のまっ青な深淵でも見るように、太陽の光が隠れてしまって、無数の星屑が輝き出した。海は静かだった。空も静かだった。わたしはたったひとりで、まわりには夜と静寂とだけがあった。
こうして、三日の間、ボートは大洋を漂流しつづけた。木の実を食べるのも、水を飲むのも控え目に控え目にとした。そして、この一年ほどの間に、自分の身の上に起こったいっさいのことをつくづくと考えつづけた。が、そのときには、もう一度、人間に会いたいというのぞみは、それほど強くは浮かばなかった。身にまとうものは、汚れきったぼろきれ一つで、頭の毛は、まっ黒なコンブのようにもじゃもじゃだった。確かに、わたしを発見した人たちが、わたしを気ちがいだと思ったとしても、けっしておかしいことではない。
不思議なことではあるが、そのときのわたしは、人間杜会にもどりたいという望みは感じていなかった。ただ獣人どもの醜悪な世界からのがれることができたのが、うれしかっただけだ。そして、三日目に、サモア群島のアピア港から、サンフランシスコに向かう二檣帆船《ブリッグ》に救われた。孤独と危険とが、わたしの気を狂わせたのだろうと判断して、船長も航海士も、わたしの話を信じてくれないにちがいあるまい。かれらの意見も、世間一般の考えも同じかもしれないと恐れるあまり、わたしは、自分の冒険談を深く話すのを差し控えた。そして、レイディ・ヴェイン号の遭難から、ふたたび救いあげられるまで――まる一年の空隙《くうげき》――を、自分に関係した出来事を、何ひとつ思い出すことができないといいはった。
精神異常の誤解から自分を守るために、わたしは、最大限度に慎重に、いっさいの行動をしなければならなかった。あの獣人どもの|おきて《ヽヽヽ》の記憶や、ボートの中で死んでいた二人の水夫の記憶や、暗闇の中で獣人どもが待ち伏せしていた記憶や、シュロの茂みの中に横たわっていたモロー博士の死体の記憶など、さまざまの記憶が、わたしにつきまとって悩ました。そして、なによりも奇怪だと思われることは、わたしが人間社会にもどるとともに待っていたものは、期待していた同情や信用ではなくて、島に滞在していた間、わたしが経験したものに数倍する、奇怪な不安と恐怖であった。わたしの話を信じようとする者は、一人もなかった。獣人どもにとってそうであったように、人間どもにとっても、わたしという人間は、ほとんど奇妙ないかがわしい存在であった。わたしは、わたしの仲間だった獣人どもの持ち前の野蛮性の何かを、からだじゅうに受けついでいたのかもしれない。
かれらは、わたしの恐怖心は、病気だという。いずれにしても、あれから数年たったいまも、落ちつくことのない恐怖が、わたしの胸に巣くっていると、はっきりいいきることが、わたしにはできる。半ば飼い馴らされたライオンの子が、感じるのではないかという気のする、そわそわとした恐怖である。わたしの悩みは、この上もなく奇怪な形をとってあらわれてくるのだった。わたしが出くわす男も女も、また獣人ではないと、自分に信じこませることができないのだった。これらの男も女も、やはりかなりに人間らしくはあるが、実は獣人にすぎないのであって、人間の魂を持った外見上の姿に作りあげたものではあるが、動物であって、やがては、本来の獣性に復帰しはじめ、まず獣類のような残忍性を見せはじめ、つづいて、あのような凶暴なものをあらわすときがくるのだ。そういう奇怪な恐怖が、わたしにとりついて悩ましつづけた。
しかし、わたしは、病状を打ち明けて相談することのできる、ある非常に敏腕な人に出会うことができた。かれは、モロー博士のことも知っていた精神病専門医だったが、ある程度は、わたしの話も信じてくれた――そして、かれは非常に力をつくして、わたしを助けてくれた。
とはいえ、あの島についての恐怖が、わたしからまるきりぬぐい去られるとは、わたしも期待してはいない。それはつねに、わたしの心のはるか奥の方に、遠くの雲のように、思い出として、かすかなかげのようにひそんでいた。が、いつまた、小さな雲が、空いっぱいに、暗くするまで拡がらないものでもない。すると、わたしは、身のまわりを見まわして、仲間の顔を見る。すると、不安を感じ出す。鋭敏な、元気のよさそうな顔がいくつも目にはいる。あるものは、頭の悪そうな、ぶっそうな顔をしているし、あるものは、落ちつきのない、不誠実らしい顔をしている。が、だれ一人として、理性の備わった魂を持った、冷静な威信を備えたものはない。かれらの中には、残忍な獣性が波立っているかのような気が、わたしにはする。いつなんどき、あの島の住人のようなむかしの獣性への後退が、いっそう大きな割合で、またぶり返してこないとは限るまい。
わたしは、これが妄想だとは、よく承知している。わたしの身辺にいる、これらの外見上の男や女が、実際に男や女であり、永久に男や女であり、完全に理性のある生き物であり、人間としての希望に満ち、やさしい心づかいを十分に持ち、本能からは解放され、狂信的なおきてにとらわれているものではなく――醜悪な獣人どもとは、まったく違った存在だということを、よく、わたしは知っている。しかも、わたしは、かれらから小さくなって尻ごみする。かれらの好奇に輝く目から逃げ出し、かれらの執拗《しつよう》な質問や、援助の申し込みを避け、長いこと、かれらから離れて、ただひとりになりたいと思いつめていた。
そういった理由のために、わたしは、この広々として気ままな高原の近くに住んでいる。ここなら、暗いかげが心にさしてきたとき、逃げ出すことができる。風が吹きまくる空の下で、なにものも目にはいらぬ高原は、まことに楽しい。ロンドンに住んでいたころは、例の恐怖に、ほとんど耐えられないほどだった。人間からのがれることができなかったのだ。人々の声という声が、窓越しに聞こえてくる。ドアというドアに鍵をかけても、安全装置としては、まったく頼りにならないほど脆弱《ぜいじゃく》なものだった。
自分の妄想と闘うつもりで街頭に出て行くと、相手をあさり歩いている女どもが、わたしの後を追って来て猫のように声をかけ、うさん臭そうな顔つきの、何かを待ち受けているような男どもが、ちらちらとねたましそうにわたしの顔を見る。疲れた青白い顔の労働者たちが、血をしたたらしている傷ついたシカさながらに、疲れきった目をし、必死の足取りで、咳きこみながら、わたしの脇を通りすぎる。そこで、わたしは、横町にまがって、目についた教会にはいって行くと、そこもまた、わたしを落ちつかせないで、不安にさせるだけであった。どうやらそこでも、牧師は、あの猿人が好んで口にしていた『大きな考え』とやらを、滔々《とうとう》とまくし立てているではないか。それならと図書館にはいればはいるで、深刻そうに書籍に見入っている顔という顔は、じっとえものがあらわれるのを待ち構えている、辛棒強い猛獣にすぎないような気がするばかりだった。
とりわけ胸がむかむかしてくるのは、汽車やバスで乗り合わせる人々の、ぽかんとした無表情な顔つきだった。かれらは、どう見たって、死骸と同じ顔つきで、それ以上に、わたしと同じ人間とは思えなかった。それで、たったひとりだということが確かめられないかぎり、わたしは、あえて乗り物は利用しないことにした。しかし、そうしたところで、わたしもまた、理性のある人間ではなく、ただ、奇怪な病気を脳に持って苦悩している一匹の動物にすぎなくて、旋回病におかされているヒツジのように、たったひとりで彷徨させられているにすぎないのではなかろうか。
しかし、こういった気持も――神さまのおかげで――いまでは、ごくたまにしか、わたしを襲ってこなくなった。わたしは、都会の喧騒と群集からぬけ出して、思慮深い多くの書籍と太陽と輝く窓々に取りかこまれて、光輝ある人々の魂によって照らされ伝えられたわれわれの、この活気ある生活の中で、日を送っている。見知らぬ人に会うことも、ごく稀にしかなくなった。そして、ごくわずかの家族のほかには、身のまわりにいるものもない。わたしの毎日毎日は、もっぱら、読書と科学の実験に費やされている。晴れ渡った夜のほとんどは、天文学の研究にふけっている。どうしてそうなのかとか、なぜかということはわからないが、満天にきらめく星の群れを見ていると、永遠の平和と、無限に守られているのを感じるのだった。
おもうに、われわれのうちにある獣性をこえるものは、日常の瑣事《さじ》をすて、人間の罪と悩みを去り、広大にして永遠なる宇宙の法則に身をゆだねたときにのみ、はじめてその慰藉《いせき》と希望とが見出されなければならないものなのである。わたしは、希望にすべてをかける。それがなくては、生きることができぬからだ。
かくて、わたしは希望と弧独のうちに、この物語をおわる。
エドワード・プレンディック (完)
あとがき
『モロー博士の島』は、ウェルズが発表した小説としては、第三番目のものにあたる。
その前年、ウェルズは、最初の小説『タイムマシン』を発表したが、それにつづいて、同じ一八九五年の夏の間じゅう、二つの小説にとりかかった。一つは、同年中に発表された The Wonderful Visit であり、もう一つが、さらに推敲の手を加えた上、翌一八九六年の四月に発表された、この『モロー博士の島』The Island of Dr Moreau である。そして、翌一八九七年に発表されたのが、『透明人間』であり、翌々一八九八年には『宇宙戦争』が発表された。
こう書き並べて来ると、当時は、ウェルズの空想力がもっとも旺盛に活動した時代であった。そして、今日のいわゆる空想科学小説が、その最初の萌芽をめばえさした時代であった。こういう空想力を自由に駆使した作品が、十九世紀後半のイギリス文学に現われたというのは、決して偶然のことではなかった。それは、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、文学精神を大きく揺り動かしたロマン主義運動のもたらした結果であった。
相対的にいえば、ロマン主義は古典主義に対立するものである。古典主義が、理性と秩序を重んじるのに対して、ロマン主義は、想像と自由を尊び、人間を「無限の可能性を宿す貯蔵所」と見なすものであった。従って人間性は、その本然に基づいて活動の自由を与えられるので、文学創作においては、その内容においても形式においてもともに、大きな自由性を享受することになったのである。
そして、その特質は、超自然的なものを好む情調となり、時間的及び空間的に遠く隔ったものに対する憧れとなって、現われることになったのである。ウェルズが、空想科学小説の筆をとったというのも、以上の時代の風潮を素早く把握したものであったといわなければならない。
が、この『モロー博士の島』は、同じく空想科学小説といっても、他のウェルズの同種の小説とは、いささかけたはずれであって、イギリス文学作品中にあっては、R・L・スティーヴンスンの『宝島』Treasure Island などと同列におくべき、大海の孤島の神秘な、伝説じみた物語であり、キプリングの『ジャングル・ブック』Jungle Book とも、一脈の相通ずるものを持った、怪奇な、興味満点の物語であるところに、この作品の特異な存在価値がある。(訳者)
◆モロー博士の島◆
H・G・ウェルズ/能島武文訳
二〇〇三年五月二十五日 Ver1