H・G・ウェルズ/石川年訳
透明人間
目 次
一 よそ者の出現
二 テッディ・ヘンフリー君の話
三 おびただしい壜
四 カス氏の会見談
五 牧師館の盗難
六 気違い家具
七 よそ者の正体をはぐ
八 逃亡
九 トーマス・マーヴェル君の供述
十 浮浪者マーヴェル、アイピング村へ
十一 はたご屋にて
十二 透明人間、怒りだす
十三 マーヴェル君の辞職願い
十四 ポート・ストウで
十五 逃げ去る男
十六 酒亭「陽気なクリケット選手」
十七 ケンプ博士の客
十八 透明人間眠る
十九 ある重要な原理
二十 ポートランド街の邸で
二十一 オックスフォード街で
二十二 百貨店で
二十三 ドルーリィ・レーンで
二十四 破れた計画
二十五 透明人間狩り
二十六 ウィックスティード家の殺人
二十七 ケンプ博士邸の攻防
二十八 逆にとらわれた追跡者
むすび
訳者あとがき
一 よそ者の出現
その男がやって来たのは二月の寒い日だった。身を切るような風と、その年最後の吹雪《ふぶき》が横なぐりに吹きつけるなかを、ブランブルハースト駅から、丘を越えて歩いて来たのだ。男は厚手の手袋をぴっちりとはめた手に、小さな黒い鞄《かばん》を一つだけ、ぶら下げていた。
頭のてっぺんから足の爪先《つまさき》まで、すっかりくるみこんで、ソフトを目深《まぶか》にかぶっていたから、顔もすっぽり隠れ、わずかに、赤らんだ鼻の先だけが、帽子のふちからのぞいていた。
雪は男の肩と胸に積もり、おまけに手の鞄の上にまで、白い羽飾りのように吹きかけていた。息もたえだえの様子で、馬車宿によろめき込むと、黒い鞄をほうり出して「火にあたらせてくれ」と、大声で「頼むよ。部屋《へや》と火だ」
酒場の入口で立ち止まり、雪を払い落としてはいり、おかみのホール夫人の案内で客待ちへ通り、宿賃のかけあいをした。くだくだしい挨拶などあったあとで、おかみの言い分ににっこりうなずくと、男は金貨を二枚、テーブルにほうり出した。それで宿がきまったのだ。
おかみのホール夫人は、暖炉に火をつけると、男をそこに待たせたまま、手料理の食事の支度をしに、出て行った。アイピング村に、冬の季節に泊まり客が来るなんて、なんて間《ま》がいいんだろう、しかも、そのお客が「旅商人《たびあきんど》」でないときているんだから、おかみさんはせいいっぱい、誠意を尽くそうと張り切った。ベーコンの料理にとりかかるとすぐ、のろまな女中のミリーをしかったりおだてたりして追いまわし、テーブル・クロス、皿、グラスなどを客間に運び、せいいっぱいの愛嬌《あいきょう》をふりまきながら並べ始めた。ところが、驚いたことに、暖炉がよく燃えているのにお客は、まだ帽子《ぼうし》もつけたままで、おかみさんの方へ背を向けて、窓から、雪の降る中庭をながめていた。手袋をはめたままの手を後ろで組み、何かに思いふけっているようだった。よくみると、肩の雪がとけて、絨毯《じゅうたん》にしたたり落ちていた。
「お帽子と外套をおとりいたしましょうか」と、おかみが「お台所で、お干しいたしますわ」
「結構」と、客は振り向かずに言った。
おかみは、声が聞こえなかったのかと思って、もう一度、言おうとしかけた。
そのとき、客はくるりと首だけねじ向けて肩ごしに「着たままでいたいんでね」と、おだやかな声で言った。気がつくと、わきガラスつきの青い大きな眼鏡《めがね》をかけていて、顔をすっぽり隠している外套の襟《えり》のすき間から、もじゃもじゃの頬《ほお》ひげがのぞいていた。
「さようでございますか」と、おかみが「およろしいように。すぐ、お部屋も暖まりますわ」
客は返事もせずに、また顔をそむけた。おかみは、よけいなおしゃべりが、気にさわったのかなと思い、あわてて、食器類をテーブルに並べると、そそくさと出て行った。やがて、もどってみると、客はまだ、さっきのまま石のように立ちつくしていた。背をまるめ、外套の襟を立て、雫《しずく》のたれている帽子のふちを深く下ろして、顔も耳もすっぽり隠していた。おかみは、わざと音をたててベーコン卵の料理をテーブルに置き、かなりこわばった声で「お支度ができました」
「どうも」と、客はすぐに受けたが、おかみが出てドアが閉じるまで、身動きもしなかった。ドアがしまると、くるっと向き直り、待ちかねたように、すばやくテーブルに近づいた。
おかみが酒場の後ろを通って台所へ行くとき、一定の間《ま》をおいて、チューチューチューとスープを吸う音が聞こえ、スープ皿の底をすくうスプーンの気ぜわしい音もした。「そうそ、あの女中《こ》」と、おかみは「なんてぐずなんだろう。あら、すっかり忘れてたわ」と、自分でカラシをかきおえると「早くおしよ」と、ミリーをしかりつけた。それから、ハム・エッグをつくって、テーブルに置き、盛りつけなどをやっている間も、ミリーときたら(役立たずで)相変わらず、ぐずらぐずらと、カラシをつつきまわしていた。せっかく、お客が来て、一日も長く泊まってもらいたいというのに、そんなおかみさんの気持ちなんか、さっぱり通じない女中《こ》だ! おかみは、カラシを壺《つぼ》に入れ、金色と黒の盆にのせると、うやうやしく、食堂に運んで行った。
軽くノックして、すぐ部屋にはいると、お客はさっと動いた。あまりすばやいので、白っぽいものが、ちらっとテーブルの後ろに隠れたとしか見えなかった。客は、床からなにかひろいあげようとしているようだった。おかみはカラシ壺をそっとテーブルに置き、横目で見ると、外套と帽子が暖炉の火の前の椅子《いす》に脱ぎすててあり、ぬれ靴《くつ》が炉囲いの上にのせてあった。金物がぬれてさびるのもおかまいなしに。
おかみは、つかつかと、脱ぎすてに近寄り「かわかしてさしあげますわ。よろしんでしょう」と、いやおうなしの口調《くちょう》できめつけた。
「帽子はほっといてくれ」と、客は、もぐもぐやりながら言い、顔を上げて、腰かけたまま、おかみを見つめていた。
その顔を見ると、おかみははっと驚いて、しばらく、口がきけなかった。
客は白い布で――手にしたナプキンで――顔の下半分をおおっていたから、口も顎《あご》もすっかり隠れていたし、声もくぐもり声になっていたのだ。だが、おかみのホール夫人が驚いたのは、そのせいではなかった。青い眼鏡の上の額《ひたい》が白い包帯ですっかり包まれて、耳まで隠れ、見えるところといったら、ただ鼻の先がちょっぴり、ピンク色にとがっているだけだったからである。その鼻は、最初に見たときと同じように、やけに赤くて、てらてらしていた。客はこげ茶のビロードの上衣《うわぎ》をつけ、黒い麻でふちどった高い襟《えり》を返して、ぴっちりと首を隠していた。縦横《たてよこ》十文字の白い包帯から、はみ出している髪の毛はまっ黒で、ねじれたり、とがったり、なんとも奇妙な恰好《かっこう》だった。そのくぐもり声と、包帯だらけな頭が、全く意外だったので、おかみは、しばらくぎょっと立ちすくんでいた。
客はナプキンをどけようともせず、茶色の手袋をはめた手で持ったままで、妙な青い眼鏡の下から、じろりとおかみをにらみ「帽子はほっといてくれ」と、ナプキンのかげで、はっきり言った。
おかみはやっと気をとり直した。そして、帽子を、火の前の椅子にもどすと「少しも、存じませんでして――」と、おそるおそる「あのう――」と、口ごもった。
「いいんだよ」と、客は、そっけなく言い、ちらりとドアに目を移して、また、おかみに目をもどした。
「すぐに、よくかわかしてまいりますわ」と、おかみは外套をかかえて部屋を出た。ドアを出ながら横目で白い包帯にくるまれた頭と、ぎょろっとした青眼鏡を、もう一度見直した。だが、客は、まだ、顔の前からナプキンを動かそうとしなかった。後ろ手にドアをしめたとき、おかみは、ちょっと身ぶるいした。その顔に、まざまざと、驚きと困惑の色がうかんでいた。「まさか」と、つぶやいた「あんなこわい人とは!」おかみは、足音を殺して台所へもどった。いつまでも客に気をとられていたので、台所にはいってからも、何をぐずぐずしているのと、ミリーに小言をくわすのさえ忘れていた。
客は、腰かけたままで、おかみの足音が遠ざかるのを聞いていた。それから、警戒するように窓を見、ナプキンをどけて、食事にもどった。一口ほおばっては、ちらりと窓を見、また一口ほおばったが、やがて立って、ナプキンを持ったまま、部屋を横切り、窓のブラインドを、いちばん下の窓ガラスをおおっている白いモスリンの上まで引き下げた。それで、部屋が薄暗くなった。そうしてから、少しくつろいだ様子でテーブルにもどり、食事をはじめた。
「気の毒な方だわ。事故にあったか、手術でも受けたのね」と、ホール夫人がつぶやいた。「それにしてもあの包帯ときたら、本当にぞっとするわ」
おかみは炉に石炭をたして、衣桁《いこう》を開き、客の外套をかけてかわかした。
「それにあの色眼鏡ときたら。あれじゃ、まるで、人の顔というより、潜水帽みたいじゃない」と、客のマフラーを衣桁の隅《すみ》にひろげながら「いつも、ハンカチで口を隠したまま話しているところを見ると……口もけがしてるんだわ……きっと」
おかみは、ふと思い出したように、くるっと向き直って「おや、しっかりしなくちゃあ――」と、横っとびに近づき「タルタル・ソースはまだかい、ミリー」
ホール夫人は客の食事のあとかたづけに行ったとき、やっぱり事故かなんかで口をけがしてみにくくなっているのを気にしているのだという予想が当たったと思った。客はパイプをくゆらしていたがおかみが室内にいる間は、顔の下半分をおおっている絹マフラーをゆるめて、パイプの吸い口を唇《くちびる》に持っていこうとしなかったからである。しかも、吸い忘れていたわけではない。パイプが消えかかるのを気にしてじっと見つめていたから。客はブラインドを下ろした窓を背にして、部屋の隅に腰かけ、前よりも、いくぶんゆとりとやわらかみの出た口調で話した。よく食べ、よく飲み、火にあたたまったせいだろう。大きく冷たい青眼鏡に、炉の炎が赤々と映って生気を与えていた。
「ブランブルハースト駅に、荷物が置いてあるんだがね」と、言い、取って来てもらえまいかときいた。そして、おかみの返事に、いちいちうなずきながら、包帯だらけの首を丁寧に、動かしていた。
「明日かね」と、客は「もっと早く配達させる方法はないかな」
「ございませんよ」と、おかみが答えると、いかにもがっかりした様子で、本当かね、だれか馬車で行ってくれる者はいないかね、などと言った。
ホール夫人は、少しもものおじせずに、客と受け答えして、会話をつづけた。
「駅へは、下りの坂が急なんですのよ」と、馬車の件については答えた。そして、それをおしゃべりの口火にして、いきなり「一年ほど前に、馬車がひっくりかえったことがありますの。お客さまが、おひとり、御者《ぎょしゃ》もろともおなくなりになりましてね。あっという間のできごとだったんですのよ」
だが、客はやすやすとおしゃべりにのってこなかった。「そうかね」と、マフラーごしに言い、こちらからは見通せない色眼鏡の底から、静かにおかみを見ていた。
「それで、けがをなさった方も、なおるまでにはずいぶん長くかかったんですのよ、本当に……。あたしの妹の子のトムも、草刈場で、鎌《かま》の上に転びましてね、ほんのちょっと腕を切ったんですけど、かわいそうに、三か月も包帯がとれませんでしたの。嘘《うそ》みたいな話ですけど、それからってもの、鎌を見ますと、ぞうとしちまうんですのよ」
「よくわかるよ」と、客が言った。
「いちじは、手術をしなければならないほどだったんですわ――それほど悪かったんですの」
突然、客がげらげら笑い出した。それまで、口の中でおし殺していたらしい笑い方だった。
「そうかね」と、客が言った。
「そうですのよ。笑いごとじゃなかったんですのよ、妹たちにとっても、あたしにとっても――妹は、とても、あの子を可愛がっているんですものね。包帯を巻いたり、ほどいたり、大変でしたわ。それで、失礼でございますけど、あなたさまも――」
「マッチを取ってくれんか」と、客が、いきなり「パイプが消えそうなのでね」
ホール夫人は、とたんに、むっとした。話の腰を折るなんてたしかに失礼だ。おかみは、ちょっと、あっけにとられて客を見つめていたが、前払いに二枚の金貨を置いた気前のよさを思い出して、マッチを取りに出て行った。
「ありがとう」と、おかみからマッチを受けとると、客は、ぷつりと言って、背を向けたきり、また窓から外をながめていた。それでふたりとも妙に気まずくなった。全然、相手の気にさわるような、失礼なきき方をしたわけでもないのになんということだろう。こんな、ぶっきらぼうなことってあるだろうかと、おかみはむっとした。おかげで、その日の午後は、ミリーがおかみの八つ当たりでひどい目にあった。
客は四時まで部屋にこもったきりで、だれにも部屋にはいる口実を全然与えなかった。その間じゅう、ほとんどもの音もたてずに、暖炉の前にすわり込んで、薄暗い中でタバコを吸うか、うたたねでもしていたらしい。
聞き耳を立てていれば、一度か二度は、石炭をいじったり、五分間ほど、足音をさせて室内を歩きまわるのが聞こえたかもしれない。ひとり言をいっていたかもしれないし、椅子に腰かけるときに、肘掛《ひじかけ》椅子がきしんだかもしれないのだ。
二 テッディ・ヘンフリー君の話
四時には、とっぷり日が暮れた。ホール夫人は勇気をふるいおこして、お茶にするかどうかを、お客に訊きに行こうとしていた。そこへ、時計職人のテッディ・ヘンフリーが、ふらりと、酒場にあらわれて「やあ、おかみさん。ひどい大雪だね。安靴じゃ、こたえまさあ」と、言った。外の雪はますます激しく降っていた。
ホール夫人は相槌《あいづち》を打って、ふと見ると、大きな仕事鞄を持っているので、妙案を思いついた。「いいところへ来てくれたわ、テッディさん。ちょっと、客室の古時計を見てくれるといいんだがね。動いてるし、元気よく時を打つんだけど、針が六時をさしたっきりなのよ」と言って、テッディをつれて、客部屋のドアに近づき、軽くノックして、はいった。
ドアをあけてみると、お客は暖炉の前の肘掛椅子に腰かけて、うたたねしているらしく、包帯だらけの頭が片方に、かしいでいた。部屋の中は、ただ、炉の炎の赤い光だけで――それが色眼鏡に反射して鉄道の信号灯のように光らせていたが、客のうつむいた顔は暗くて見えなかった――それに、あけ放しのドアから、ぼやけたたそがれの昼のなごりが流れこんでいた。だからおかみには、何もかも、ぼんやりと薄暗くてほとんど見分けがつかなかった。それまで、ランプをあかあかとつけた酒場にいたからよけいに、目がばかになっていたのだ。だが、すぐに、自分が見ているお客の口が、おそろしく大きく裂《さ》けているように思えた――信じられないぐらいばかでかくて、顔の下半分をひとのみにしているほどだった。瞬間、どきっとした。白い布まきの頭と、怪物じみた色眼鏡と、その下にぽっかりとあいた深い割れ目。そのとき、お客ははっとして、すっくと立ち、急いで手を顔に持って行った。ドアを広くあけておいたので、部屋はかなり明るくなり、さっきナプキンでやっていたように、今はマフラーで顔を隠しているお客の姿が、おかみには、かなりはっきり見えた。薄暗いので、あんなに、おそろしく見えたんだなと、おかみは思った。
「すみませんが、このひとが時計を修繕に来ましたの」と、どきどきする胸の騒ぎをおさめていった。
「時計を直す?」と、まだねぼけているようにゆっくり振り向きながら、ハンカチごしに言い、やっと目がさめたらしく、はっきりと「いいとも」
ホール夫人はランプを取りにもどり、お客は立って、のびをした。ランプが来たとき、テッディ・ヘンフリー君は部屋にはいりかけて、包帯だらけな顔と、まともに向き合った。後日、ヘンフリー君はその印象を「ぎょっとして、足がすくみました」と言っている。
「やあ、今日は」と、お客は、ヘンフリー君を見つめながら言ったそうだが、色眼鏡ばかりぎらつかせて「ちょうど、エビみたいでした」と、言っている。
「すみません」と、ヘンフリー君が「おじゃまして――」
「かまわんよ」と、お客は言い、ホール夫人の方を向いて「だが、この部屋は、僕の専用という約束だったじゃないか」
「はい。でも、あたくし」と、ホール夫人が「時計だけは」――「直しておいたほうがいいと存じまして」と、言おうとした。
「そりゃそうだ」と、お客が「むろんそうだが――僕はひとりきりでいたいんだ。ともかく、だれもはいって来ないようにしてほしいな。だが、時計を直してくれるのは結構だよ」と、ヘンフリー君がもじもじしているのを見ながら「さあ、やってくれたまえ」
ヘンフリー君は、あやまって引き下がろうとしていたが、その言葉を聞いて安心した。お客は暖炉に背を向けて立ち、両手を後ろに組んだまま「時計が直ったら、すぐ、お茶にしてほしいな。時計が直ってからでいいよ」
ホール夫人は部屋を出て行きかけていた――夫人はヘンフリー君の前でお客の小言をくうのがいやだったので、その時には、何も言おうとしなかった――そのとき、お客は、ブランブルハースト駅の荷物の手配はすんだかねと、おかみさんにきいた。おかみが、配達屋に頼んだから、明日の朝には運んでくれるだろうと、答えた。
「それより早くはいかんのかね」
おかみが不愛想に、だめですわと、答えた。
「話しとくが」と、お客がつづけた。「僕は発明家なんだよ。今までは、からだが冷えきって、ひどく疲れていたので、実験をする気になれなかったんだが、やっと元気をとりもどしたから、早く仕事にかかりたいんだ」
「まあ、さようですか」と、おかみは、ひどく感心して言った。
「あの荷物の中に、実験の材料と道具がはいっているんだ」
「そりゃ、さぞ、大事なお品なんでしょうね」と、おかみが言った。
「うん。それに、むろん、僕は、すぐにも実験をつづけたいんだ」
「そりゃあ、そうでございましょうね」
「僕がアイピング村に泊りに来たわけは」と、お客は、いかにもついでというふうに、つづけた。「実は――ひとりでいたいからなんだ。仕事のじゃまをされたくないんでね。それに、仕事中に、事故でね――」
「そうだと思ったわ」と、おかみはつぶやいた。
「――少しばかり休養したいのさ。目が――視力が弱って痛むから、何時間もまっ暗にして、とじこもってなくっちゃならんのさ。部屋にとじこもってなくっちゃね。時にはね――時々だが。むろん、今はいいんだが、そんな時に、ちょっとでもじゃまされたり、ひとが部屋にはいって来たりすると、とても腹が立つ因《もと》になる――この点をよく了解しといてもらいたいな」
「承知いたしました」と、ホール夫人が「あの、失礼ですけれど、もしや――」
「それだけさ、いいね」と、お客はきっぱりと念を押して、冷たく、質問を突っぱねた。おかみは、いずれいいおりを見て、きいたり、慰めればいいと思い、質問を引っこめた。
ホール夫人が出て行ってからも、お客は、暖炉の前に立ったまま、ヘンフリー君が時計の修繕をするのを、じっとながめていた。ヘンフリー君は時計の針と、文字盤をはずしたばかりか、機械までとり出した。そして、できるだけ、ゆっくりと静かに、念入りに仕事にかかった。ランプを、ごく手もとに引きよせて仕事をしたから、みどり色の傘《かさ》が明るい光を手先の歯車やフレイムに集め、部屋の他の部分は薄暗かった。ヘンフリー君が目を上げると、色眼鏡がきらりと光って見えた。ヘンフリー君は、もの好きな性質《たち》だったから、仕事がかたづいたのに――全く意味もないことをぐずぐずしながら――このよそ者と、あわよくば、なんとかして話をしようと、わざと部屋を出て行くのを引きのばしていた。だが、よそ者は、相変らず無言で立っていて、とりつくしまもなかった。あんまり、しんとしているので、少々気味が悪かった。まるでこの部屋にひとりでいるような気がするので、あわてて見まわすと、相手は、たしかにいるのだ。薄暗い中に、ぼんやりと姿があり、包帯を巻いた頭が、大きな青い眼鏡で、じっとこっちを見つめているのだ。レンズの表面が青白く光っていた。ヘンフリー君には、ひどく不気味な様子に見えたので、ふたりは、ちょっとにらみ合うような格好になった。やがて、ヘンフリー君が目を伏せた。実に不愉快な感じだった。ひと言ぐらい口をきいたらよさそうなものだ。季節のわりには寒すぎる天気だなぐらい言ってもよさそうなのにな、とヘンフリー君は思った。それで、きっかけをつけようとして、顔を上げた。
「どうも、お天気が」と、言いかけた。
「さっさとかたづけて、でていかんのかね」と、相手は、明らかに骨を折って癇癪玉《かんしゃくだま》をおさえているらしい、肩をいからして「あとは軸棒に短針をはめるだけで済むじゃないか。なにを、ぐずぐずしてるんだね――」
「どうもすみません、旦那――すぐ済みますよ。見落としたところがありましたんで――」と、ヘンフリー君は手早くかたづけて出て行った。
だが、腹の中では、かっかとしていた。「ちくしょうめ!」と、ひとり言をいいながら、激しくなった雪の中を、村の方へ、よろめくように歩きながら「あいつぁ、時々、タンポポみたいな頭をしやがるにちがいない、きっと、くわせ者だぞ!」と、くさしたり「面《つら》を見られたくないんだろう――ひどい面をしてやがるんだろう」と、毒づいてみたり「まてよ。もしかすると。警察のご用……とくれば、もっと、ぐるぐる巻きに人相を隠したいんじゃねえかな」などと、うがったりした。
グリーソンの邸《やしき》の角《かど》で、ひょっこりホールの馬車が近づいて来るのと出会った。あの客の泊まっている「馬車宿」のおかみと最近結婚したばかりの男だ。時々、頼まれるとシッダー・ブリッジ駅へ馬車を走らせるのが仕事で、今も、そこからアイピング村へもどって来たところである。馬車の走らせ方から見ると、たしかに、ホールは、シッダー・ブリッジ駅でかなり油を売っていたらしい。
「よう、テッディ」と、声をかけて通りすぎようとした。
「お前のところに妙なやつが泊まってるな」と、テッディが言った。
ホールは、つきあいよく馬車をとめて「そりゃ、どういうこったね」
「馬車宿に妙な野郎が泊まってるってことさ」と、テッディが「たまげたぜ」
それから、グロテスクな客の様子を、なまなましくホールに説明して「ありゃ、どうも変装くさいぜ。おれなら家に客を泊めるときにゃあ、顔ぐらい見とくぜ」と、ヘンフリーが「だが、女ってもなァ、信用しがちだからな――どこの馬の骨ともわからないやつでもさ。第一、やつは、宿をとっときながら、名も言わねえってんだからあきれるぜ、ホール」
「そういったもんでもねえさ」と、のみこみの悪いホールが答えた。
「ところがさ」と、テッディが、かぶせて「一週間の約束だそうだ。やつがどんな男だって、一週間は追い出せないんだからな。それに、明日、ごまんと荷物を持ち込むらしいぜ。やつがそう言ってたからたしかだ。鞄の中が石っころでなけりゃいいってもんさ、ホール」
それからヘンフリーは、ヘイスティングスで宿屋をやっている叔母《おば》が、からっぽの旅行鞄を持ち込んできたよそ者を信用して、ころりとだまされた話をくどくどと聞かせた。
それを聞いているうちに、ホールも少し不安になってきて「そら行くぞ、どう、どう」と馬車をすすめながら「そいつぁ、ちょっくら調べてみなきゃァなるめいな」と去って行った。
テッディは、かなり胸が晴れた思いで、帰り道を急いでいた。
ところが、調べてみるなどと言いながら、ホールは家へ帰りつくとすぐ、シッダー・ブリッジ駅で油を売っていたことで細君に手ひどくとっちめられる始末でおそるおそるお客のことをきくと、要領を得ない返事で、あっさり済まされてしまった。しかし、テッディが植えつけた疑惑の種は、出鼻をくじかれたけれど、ホールの胸の中でだんだんにふくらんでいった。「お前にだって、何から何までわかってるってわけじゃあるまい」と、テッディに悪たいをついて、できるだけ早い機会をつかまえて、よそ者の正体を確かめてやろうと決心した。それで、九時半ごろになって、お客が、やっと寝室へ引きあげると、亭主のホールは緊張した顔で客室へはいり、かみさんの家具類に異常がないかを調べ、お客が勝手にいじりまわしていないのを見ると、ほっとし、お客がちらかしていった数字の計算をした紙を小首をひねって見て、ふふんとせせら笑って引きあげた。しかし、床にはいってからも、明日、お客の荷物が着いたら、よく調べるようにと、かみさんに注意した。
「あんたは、余計なことに口出しをしないでもいいわよ」と、おかみが「うちのことは、あたしが、しっかりやりますからね」
そうはいっても、かみさんは、どうしても亭主のホールにとばっちりを浴びせることになった。というのは、たしかにお客は奇々怪々な人物で、とてもおかみの一存では、正体がつかめなかったからである。夜中に、大きな白い蕪《かぶ》みたいな頭に追いかけられ、にっちもさっちもいかないところへ追いつめられ、大きな黒い目で見すくめられる夢を見て、とびおきた。しかし、分別のある女なので、恐怖をおさえつけて、寝がえりを打つと、また、ぐっすり眠ってしまった。
三 おびただしい壜
こんな次第で、このよそ者が、どこからかぶらりとやって来て、アイピング村に姿をあらわしたのは、その年の雪も終りの二月九日だった。
次の朝、ぬかるみ道を、客の荷物が運ばれてきた。おそろしく大げさな荷物だった。普通の旅行者が使うような鞄は二個だけで、その他には、本箱が一つ――大きな分厚い本がつまり、中には、見てもわからない手写本もまじっていた――それに、十二、三個の籠《かご》、箱、こも包みなどがあった。亭主のホールが好奇心にかられて、麦藁《むぎわら》の詰め物のしてある中に手を突っ込んでみると――どうやら、中味は、いろいろな壜《びん》らしかった。お客は、帽子を目深にかぶり、外套を着、手袋をはめ、肩かけにくるまって、せかせかととび出して来て、フィアレンサイドの馬車を迎えた。そのとき、ホールは御者のフィアレンサイドと無駄口をききながら、荷物を下ろす手伝いをしようとしていた。客はとび出して来ると、ホールの足もとを、物好きそうにかぎまわっているフィアレンサイドの犬になど目もくれずに「さあ、箱を運んでくれ。さんざん待っていたんだ」と、言った。
そして、玄関の前の踏み段を下りると馬車の後ろにまわって、小ぶりな籠に手をかけようとした。ところが、それを見るや、フィアレンサイドの犬が、いきなり、いきり立って荒々しくうなり、客が踏み段を下りると、がむしゃらにとび上がり、客の手めがけてとびかかった。
「ワァー」と、ホールが叫んで、とびのいた。犬には弱いのである。フィアレンサイドが「こらっ!」と、どなって、鞭《むち》をつかんだ。
犬の歯が、客の手にかみついたと見ると、犬をけとばす音がし、犬が横っとびに逃げ、今度は客の足にとびかかり、ズボンの裂ける音がした。そのとき、フィアレンサイドの鞭が、ぴしりと犬をなぐりつけたので、犬はきゃんきゃんなきながら車輪の下に逃げこんだ。すべてが、あっという間のできごとだった。だれもが口もきかず、あっと言ったきりだった。
客は手袋の裂け目を見、かがみ込んでズボンの穴を調べると、くるりと背を向けて、踏み段をかけ上がり、宿にかけ込んでしまった。
あわただしく廊下をかけ抜け、敷物の敷いてない階段を寝室へかけ上がる足音が聞こえた。
「悪いやつだぞ、やい!」と、フィアレンサイドが、鞭を握って、御者台から下りながら、車輪の間から様子をうかがっている犬をにらみ「やい、出て来い!」と、呼びつけて――「見舞いに行ったほうがいいぜ、ホール」
ホールは、息をのんで、ぼんやり突っ立っていたが「あの旦那、かまれなさったぜ」と、言い「見舞って来なきゃなんねえ」と、あわてて客のあとを追ってかけ出した。廊下でかみさんと顔が会うと「馬車屋の犬が、くらいついたぜ」
亭主が二階にかけ上がってみると、お客の部屋のドアはすき間があいていた。それで、断わりもせずにドアを押しあけてはいろうとした。むろん、お客のけがを心配していたのだ。
窓のブラインドが下りていて部屋の中は薄暗かった。亭主の目に写ったのは実に奇妙な光景だった。手首のない腕がにゅっと伸びて来た。白一色の中にぱっくりと大きな黒い穴が三つ口をあけている顔は青白いスミレの花のようだった。あっと思うまに、胸をつきとばされ、廊下に押し出され、その鼻面にぴしゃりと、ドアがしまって、がちゃりと錠《じょう》が下ろされた。ろくに何も見えないほどのすばやさだった。わけのわからないものが、ふわふわと伸びてきて、どしんと胸を突いただけだった。亭主は暗い階段の踊り場に立ったままで、しばらく、いったい何が見えたんだろうと考えていた。
間もなく、亭主は下に降りて、馬車宿の玄関の前に集まっている連中の中にはいった。フィアレンサイドができごとの話を二度もくり返しおわったところだった。おかみのホール夫人が、うちのお客にかみつくなんて、ろくでなしな犬だと文句をならべていたし、筋向こうの雑貨屋のハックスターは、くどくどとたずねていたし、鍛冶屋《かじや》のサンディ・ヴォッジャーズは、どっちが悪いかを論じていた。その他にも女子供が大ぜい集まって――みんながやがややっていた。
「あたしならかみつかせやしませんよ」とか、「そんな犬なんか飼ってるのが悪いわよ」とか「なんだって食いついたりしたんでしょう」などという取りとめもない話だった。
ホールは、玄関の踏み段で、みんなをながめながら聞き耳を立てていたが、今の二階で出会《ぶつか》ったできごとが、実に不思議でしようがなかった。しかし、どう説明しようにも、口では説明しようがないのだ。
「手はいらないってさ。そう言ってるぜ」と、くどくど訊くかみさんに答えて「荷物を運び込んだほうが、よさそうだぜ」
「すぐ手当したほうがよかないか」と、雑貨屋のハックスターが「あとで、炎症をおこさなきゃいいがなあ」
「あたしなら撃ち殺してやるわ。そうしなきゃあだめよ」と、女連のひとりが言った。
急に犬が、また、ほえだした。
「おい、早くしてくれ」と、玄関口で怒る声がした。見ると、例のよそ者が、襟を立て、帽子を目深にかぶって立っていた。
「荷物を、少しも早く運び込んでくれなくちゃ困るじゃないか」
そのときには、手袋もズボンも変えていたと、やじ馬のひとりが述べている。
「おけがはどうでがすか、旦那」と、フィアレンサイドが「なんとも申し訳のねえこってして、うちの犬のやつが――」
「大したことはないよ」と、よそ者が「かすり傷もしやしないんだから。そんな心配より、早く荷物をかたづけてくれよ」
それでも、亭主のホールが、くどくど見舞いを言うので、お客は、本当にけがなんかしやしないときっぱり言った。
お客のさしずで最初のこも包みが客間に運び込まれると、客は異常な熱心さで、それに飛びつくようにして、ほどき始めた。おかみが絨毯を気にするのなどには目もくれずに藁をとり散らした。そして中からいろいろなガラス壜を取り出した――粉のはいっている平たい小壜、白や有色の液体のはいっている首の細い小壜、「毒薬」とレッテルのはってある細長い青い壜、首が細くてずんぐりした壜もあれば、大きなみどり色のガラス壜も、大きな白いガラス壜も、ガラス栓《せん》でくもりガラスのも、りっぱなコルク栓のも、注ぎ口のついている壜も、木の栓のも、酒壜も、サラダ油の壜みたいなのも、実に千差万別の壜が出てきた。――客は、それらの壜を、化粧台《けしょうだい》や、炉棚《ろだな》や、窓の下のテーブルや、まわりの床《ゆか》や、本棚の上に、置き並べた。――いたるところが壜だらけになった。
大げさに言えば、ブランブルハーストの薬屋でも、この半分もないほどだ。実にみごとな見ものだった。籠をあけるたびに、続々と壜が出てきて、しまいには、六個の籠が空《から》になり、テーブルに藁が積み上がった。それらの籠から壜のほかに出てきたものは、おびただしい数の試験管と、厳重に包装された天秤衡《てんびんばかり》だけだった。
籠の荷をほどき終わると、よそ者はすぐ窓のところへ行って、仕事にとりかかった。藁屑《わらくず》などはてんで気にならないらしい。暖炉の火をつけようともせず、まだ外に置いてある本箱や、二階に運び上げられた他の荷物やトランクなどはほうったままだった。
おかみのホール夫人が食事を運んで来たときも、仕事に夢中になっていた。小さな壜から試験管に薬品を数滴たらしたりしていて、おかみがテーブルの上の藁屑を払いのけ、わざと音をたててお盆を置くのにも、さっぱり気がつかないようだった。おかみは床が藁屑だらけなのにむかついていた。
やがて、よそ者は、ちょっと振り向きかけて、すぐあわてて顔をそむけた。しかし、おかみは、相手が眼鏡をはずしているのを目ざとく見てとった。眼鏡はそばのテーブルの上に置いてあって、その眼が、なんだかくり抜かれたように深くくぼんでいるような気がした。お客は眼鏡をかけると、おかみの方へ向き直った。おかみが床の藁屑の文句を言おうとすると、その先手を打った。
「ノックしてはいってもらいたいね」と、もちまえの異常に強い口調で言った。
「ノックしましたよ。でも、あなたが――」
「したかもしれんな。だが、僕の仕事中は――実に大事な緊急な仕事なんだ――ちょっとでもじゃまされちゃ困る。ドアがあく音だけでも気が散る――言ったことは守ってもらわなくちゃ――」
「かしこまりました、旦那さま。それでしたら、鍵《かぎ》をおかけになりましたら、よろしいですわ――そりゃ――いつ、だれかが――」
「なるほどな」と、よそ者が言った。
「よろしければ、この藁をかたづけましょうか――」
「さわらんどいてくれ。もしも、こいつが余計な手間をかけたとしたら、かまわんから、勘定書につけといてくれればいい」と、ぶつぶつ文句を言った――どうやら、おかみにかみつきそうな気配《けはい》だった。
けわしい顔つきで立ったまま、片手に壜を、片手に試験管を持って、いまにも癇癪玉が破裂しそうなので、おかみさんは、すっかりおびえてしまった。しかし、根がしっかり者なので「では、どのくらい、お掃除代《そうじだい》をいただけましょうか――」
「一シリングでよかろう。一シリングつけときなさい。それで十分だろう」
「結構ですとも」と、ホール夫人は言って、テーブル掛けをテーブルにひろげ。「それでよろしければ、むろん、結構ですわ」
お客は近付いて来て、食卓についたが、上衣の襟を立てて、おかみの目を避けていた。
その日の午後は、ドアをしめきって、一日じゅう、ほとんど、もの音も立てずに、仕事をしていたと、ホール夫人が証言している。だが一度だけ、テーブルに物がぶつかったように、壜がぶつかって触れ合う音がし、床に落ちて、ガチャンとわれた。部屋を横切って、かけつけるあわただしい足音がした。何事かと思って、おかみはドアにかけ寄ったが、ノックをしようとしないで、聞き耳を立てた。
「うまくいかんぞ」と、客がどなっていた。「どうも、うまくいかん。三十万、四十万と、どえらく取りやがって! だまされたかな。これじゃ一生かかっちまう。辛抱《しんぼう》! 辛抱! くそいまいましい詐《かた》りめ!」
そのとき、酒場の床を鋲《びょう》を打った靴でコツコツとはいって来る足音がしたので、それをしおに、ホール夫人はドアを離れたから、あとは聞きのがした。やがて、おかみが引き返してみると、客の部屋は、もう静まりかえっていて、椅子の軋《きし》りや、時々、壜の触れあう音が、ごくかすかに聞こえるだけだった。騒ぎはおさまり、客はまた仕事をつづけているらしかった。
そのあとで、お茶を運んで行ってみると、部屋の隅の、はめこみ鏡の下に壜の破片が散らばり、無造作にふいたらしい金色のシミがついていた。おかみはそれを指さして文句を言った。
「それも勘定に入れておきなさい」と、お客は、めんどくさそうに「お願いだから、僕のじゃまをせんでくれ。損害があったら、遠慮なく、勘定書につけといてほしいな」と、目の前の、実験ノートのリストに見入っていた。
「こいつぁ内証話だがな」と、御者のフィアレンサイドが、秘密めかして言った。その日の午後おそく、ふたりはアイピング村の小さなビヤホールで、しゃべっていた。
「なんだい」と、時計屋のテッディ・ヘンフリーがきいた。
「お前の噂《うわさ》してる男さ、おれの犬がかみついたやつさ――いいかい、やつは黒ん坊だぜ、きっと。少なくとも足だけは間違いねえ。おれはこの目で、やつのズボンの破れ目と、手袋の切れ目から見とどけたんだぜ。お前なんか、ピンク色の肌だぐらいに思ってるんだろう――そうだろう。どっこい――そうはいかねえのさ。まっ黒なんだぜ。おりゃ、断言するが、おれの帽子と全く同じでまっ黒さ」
「本当かい」と、ヘンフリーが「そりゃ、まったくおかしいぜ。だって、あの男の鼻はペンキみたいに桃色だったじゃないか」
「そりゃそうさ」と、フィアレンサイドが「そりゃ、おれも知ってるさ。だからさ、考えてみりゃ、あの人はぶちなんだぜ、テッディ。あっちが白こっちが黒っていうふうに――ぶちなんだよ。そいつを恥ずかしがって包帯を巻いてるにちがいないぜ。ありゃ、混血児《あいのこ》で、色がうまく混ざり合わないで白と黒のぶちになってるんだ。前にも、そんな話を聞いたことがあるが、馬なんかには、ざらにあるこったよ。よくお目にかからあね」
四 カス氏の会見談
僕は、よそ者がアイピング村に出現した次第を、かなり事細かに述べてきたが、それも、彼の出現によってまき起こされた実に奇妙な印象を読者諸君に理解してもらうためだった。だが、あとで述べる二つの妙な事件を除いては、教区の春のクラブ祭りの日までは、その滞在も、さして事なく済んだ。むろん、おかみのホール夫人との間には、日常生活のことで、多少いざこざもあったが、四月までは、そのつど、余分の費用を払うという術《て》で、なんとか切り抜けていた。ところが、四月になってからは、そろそろ手もとが苦しくなってきたらしかった。亭主のホールは、もともと気にくわない客なので、おりにふれては、追い出してしまえと細君に忠告していた。だが、面と向かっては、そんな気持はおくびにも出さずに、できるだけ顔を合わせないようにつとめていたのだ。
「夏まで待ちましょうよ」と、ホール夫人が、とりすました顔で「絵描きさんたちが来始めるまではね。それから考えてもいいわよ。あの人は少しやりきれないけど、きめただけのものは、きちんきちんと払ってくれるんですから、なんてったっていいお客さんよ」
お客は、教会へも行かなければ、日曜日もおかまいなしで、週日と同じ服をつけていた。その仕事ぶりは、気まぐれじみているように、ホール夫人には思えた。いく日かは早朝から起き出して、ぶっ続けに精を出しているかと思えば、いく日かは、朝寝ぼうして、部屋の中を、何時間もぶつぶつ言って歩きまわったり、炉の火の前で、ぼんやりタバコをふかして、肘掛椅子でうつらうつらやっているというふうなのだ。村の外から手紙などは、一通も来なかった。
たえずいらいらして落ち着きがなく、行動もおさえきれぬ腹立たしさにいつも悩んでいるようで、しばしば、かっとなると、ものを引き裂いたり、たたきつけたり、ぶちこわしたり、発作的な暴力を示すのだった。日によっては、その重圧にすっかりいらだってしまうかのようだった。低い声でひとり言をいう癖も日ましにひどくなって、そのたびにホール夫人は意識して聞き耳を立てるのだが、聞いてみても、まるで、ちんぷんかんぷんだった。
日中はほとんど外に出なかったが、日暮れには人目につかぬように全身をくるんで、よく出歩いた。天気が悪かろうが、陽気が寒かろうが、おかまいなしに全身をくるんで、森かげや堤《つつみ》の下のような人気《ひとけ》のない道をえらんで歩きまわるのだった。色眼鏡をかけた、帽子のひさしの下の包帯にくるんだ不気味な顔が、暗闇《くらやみ》からぬっと出るのに出っくわして、たまげた仕事帰りの労働者たちも、ひとりふたりはいた。テッディ・ヘンフリーも、ある晩、九時半ごろ、ほろ酔いきげんで、赤マント亭を出たとき、出会いがしらに、よそ者の骸骨《がいこつ》じみた頭にぶつかって、ぎゃあっと叫んだことがある。(よそ者は、帽子を手に持って歩いていたので)のっぺらぼうの包帯を巻いた首から上が、酒場のドアをあけたときの光で、急に照らし出されたのだ。日暮れごろ、彼の姿を見かけた子供たちは、夜、夢でうなされるような始末で、子供たちのほうが彼をきらいなのか、彼のほうで子供たちをきらうのかわからないが――どっちがよけいに相手を好かないのかわからないが――お互いにひどくきらい合っていることはたしかだった。
こんな風変わりな奇妙な人物が、アイピング村のような静かな土地で噂の種にならぬはずはない。まず、その職業の点だが、みんなの意見は、まちまちだった。ホール夫人は、その点に関しては慎重だった。きかれると、言葉じりをつかまれないように、とても気をつけて「偉い発明家の先生ですわ」と、答えるのだった。どんな発明をしようとしているのかねという質問には、いかにも誇らしげに、「教育のある人にならわかるんだけど」、つまり「今までにないものを発明なさろうってのよ」と、言った。「実験中に事故がおきて、顔と両手をやけどなさったのよ。でも、慎み深い方なので、そのことをみんなに知らさないようにしていらっしゃるのよ」とも言った。
ところが、おかみさんの言葉とはちがう噂が、まことしやかに流されていた。つまり、そのよそ者は、警察の目をくらますために、全身を包帯でくるんで、法の手をのがれている犯罪者なのだというのだった。それは、時計職人、テッディ・ヘンフリーがまき散らした噂の種なのだが、あいにく、その年の二月の中旬から末にかけては、そんな凶悪な犯罪は、てんでおこっていなかった。ところが、小学校見習教員グールド君の空想にかかると、この説が、次のように変わってくるのだ。つまり、そのよそ者は、地下にくぐって爆弾の製造をしている無政府主義者にちがいないというのだ。それで、グールド君はできるだけの余暇をさいて、捜査することにきめた。そして、怪人物に出会うたびに熱心に観察したり、怪人物を見かけたことのない連中にまで、聞きこみをして歩いたりしたが、何もつかめなかった。
もう一つの説は、御者のフィアレンサイドが唱えたもので、怪人物の皮膚のまだら説か、その修正説だった。たとえば牧師のサイラス・ダーガンの言いぐさのようなものだ。「もし、その怪人物が、祭りの見世物に出る気になれば、たちまち一財産つくれるだろうがね」というのだが、少しは宗教家らしく、人間、だれにもとりえがあるものだという説教にひっかけての話だった。その他にも、あの怪人物は無害な狂人にしかすぎないとかたづけてしまう一派もあった。こういう説は、あらゆるものを、簡単に説明しうる利点をもつ説だ。
これらの主要な説のほかにも、さまざまな中間説や折衷説《せっちゅうせつ》がひろがっていた。もともとサセックス地方の人々は迷信をもたないほうだが、その年の四月の初めごろになって、村人たちの口に、不思議だという言葉が、ささやかれるようなできごとがおこった。といっても、そんなことは女どもが信じるだけだった。
というわけで、その男の評判はさまざまだったが、アイピング村では、全般的に、みんなからきらわれていたことは事実である。しじゅういらいらしている男などというものは、都会の頭脳労働者の中なら理解してもらえるだろうが、おっとりしたサセックス地方の村人にとっては、異常な存在だった。その気違いじみた行動はしばしば村人たちを驚かせたし、日暮れなどに、もの寂しい場所でいきなり出会ったりすると、好奇心の強いこわいもの知らずな連中も縮み上がる始末で、今では、夕暮れを楽しむどころか、どの家も日暮れとともにドアを閉じ、窓かけを下ろして、ろうそくやランプの灯を消す騒ぎだった。――こんなありさまだから人気のよかろうはずがない。村人たちは、目に見えて、彼をさけた。若いむちゃな連中は、彼の奇妙な身ぶりをまね、外套《がいとう》の襟《えり》を立て、帽子のつばを引き下げて、こわごわ、跡をつけて歩いたりした。当時、村では「妖怪男」という歌がはやりだした。スタッチェル嬢が(教会募金の)演芸会で歌ったのが始まりで、それ以後、村の連中が二、三人集まったり、彼の姿を見かけたり、酒場にたむろしたりすると、必ず連中の中からこのメロディーがとび出すというぐらいなものだった。時には大声で時には小声で。それに、夜おそくまで眠らぬ子供たちは、妖怪男を呼ぶぞと、親たちからおどしつけられるのだった。
村医者のカス先生は、ひどく好奇心にかられた。包帯姿が職業がら気になったし、いろいろな壜がどっさりあるという噂も、聞き捨てにできない気持だった。四月から五月にかけて、カス先生は、そのよそ者に話しかけるチャンスを辛抱強くねらっていたが、聖霊降臨節が近づくころには、もう我慢ができなくなった。おりもおり、村の看護婦を雇うために、奉加《ほうか》帳をまわすという、うまい口実ができた。
その段になって、驚いたことには、宿の亭主のホールは、その客の名さえ知らなかったのだ。
「名前は、おっしゃったがね」と、おかみさんが――あいまいな言い方で――「はっきり聞かなかったもんですからね」と、お客の名前をきかなかったことを大して気にもとめていない様子だった。
そこでカス先生は客室のドアをたたいて、はいった。内から、ぶつぶつ文句を言うのが聞こえた。
「おじゃましてすみませんが」と、カス先生が言ってドアをしめたので、あとの話は、おかみさんには聞こえなかった。
それから十分ほど、低い声で話し合っていたが、いきなり、あっと叫ぶ声がし、とび上がる音がし、椅子が倒れ、げらげら笑い声が聞こえ、ドアにかけよる足音とともに、カス先生が、まっ青《さお》になってとび出し、目をむいて肩ごしに、ふり返って見た。それから、ドアをあけ放したまま、廊下に立っているおかみには目もくれずに、玄関の階段をかけ下りて行った。道路をかけ去るカス先生の足音が、聞こえていた。先生はあわてて帽子を手に持ったままだった。
おかみは、あいたままのドアのわきに立って、客室をのぞいてみた。客の笑い声は、少しおさまり、つかつかとドアに近づく足音がしたが、おかみのいる場所からは、客の顔は見えなかった。やがて客室のドアが、ぱたんとしまり、ふたたび、しんとしずまりかえった。
カス先生は、むらのバンティング牧師のところへ、とんで行った。
「わしは気が狂ったかな」と、カス先生は、みすぼらしい牧師の書斎にはいると、いきなりきいた。「気違いに見えますかな」
「どうしたんだね」と、牧師は、次の日曜日の説教の草稿に手を入れていたペンを置いてきいた。
「あの、宿にいる男は――」
「どうかしたかね」
「何か飲み物をくれんかね」と、カス先生は言って、腰を下ろした。
一杯の安シェリー酒で神経がおちつくと――それが人のいい牧師さんがご馳走できる唯一の飲みものだった――カス先生は、すぐさっきの会見談を話しはじめた。
「はいってね」と、カス先生は息をはずませて「看護婦|招聘《しょうへい》募金の奉加帳を取りり出すとね。やっこさんポケットに両手を突っこんで、もそっと、椅子に腰かけたままなんだ。そして鼻先でふんふん言っとるんだ。そこで、科学方面に興味をお持ちだそうですなと、話しかけた。やっこさんは、ええと言って、また、鼻を鳴らすばかりさ。それが、ずっと、鼻の鳴らしつづけなんだからな。たしかに、ごく最近、性《たち》の悪い風邪《かぜ》をひいたのだろうよ。なにしろ、あんなに着ぶくれとるんだからね。わしは募金の話をしながら、よく注意して見まわした。壜と――化学薬品――だらけなんだ。天秤衡と、台に立て並べた試験管と――月見草みたいな匂いがしとった。寄付をしてくれるかときくと、考えておくと言うのだ。そこで単刀直入に、何かご研究かなときくと、そうだと答えた。長い間ご研究かときくと、しかめ面をしおったよ。(うんざりするほど長くかかっとる)と言うんだ。壜の口を抜いたような言い方でな。そうかねと、わしが言った。やつはいきなり不機嫌になった。いらいらしとるところを、わしの質問で、いっそういらだったらしい。やつは一度は、その研究の結果を処方箋にまとめたそうだが、実に貴重なその処方箋が――どんなものかを言おうとはしなかったんだ。そりゃ薬品だね、ときくと。よしたまえ、いったい、何をさぐり出そうとしているんだと、おこり出したので、わしはあやまった。すると、もったいつけて咳《せき》ばらいをして、話しだした。――つまり、その処方箋を読みかえしてから、台に置いて、それから目を放した。処方箋には五種の成分が書いてあったそうだ。そのとき、窓から、さっと一陣の風が吹きこみ、処方箋を吹き上げた。暖炉の口が広くあいていたので、ひらひらと処方箋が舞うと見るまに、炉にとびこみ、火がついて、煙突の方へ吸いこまれそうになったので、いきなりかけよった――そう言いかけた、ちょうどそのときだよ、その様子を見せようとして、いきなり、やつが手を、ポケットから出した」
「へえ――」
「なんと、手首がないんだ――袖口《そでぐち》がからっぽさ。おや、おや、片輪者かと、わしは思ったよ。ちょうど、義手をはずしたところだったのだろうと思った。ところが、何か妙なんだな。手がないとすると、いったい、どうして袖口が持ち上がっているんだろう。たしかに、袖口はからっぽなんだ。肘《ひじ》のつけ根まで、何もないんだ。服の裂け目から光がさし込んでいて、肘のつけ根までよく見えたから、間違いない。わしが、あっと叫んだので、やつは手をとめて、色眼鏡の底で、じっとわしを見つめてから、自分の腕をながめとった」
「それで、どうしたね」
「それきりさ。やつは急に黙りこんで、目をすえると、急いで、袖をポケットにねじ込んでしまったんだ。『処方箋のメモが燃えたところまで話しかけていたね』と、やつは言って、怪しげな咳ばらいをした。『いったい、どうやって、からっぽの袖口が動かせるんだね』と、わしはきいてやった。『からっぽだって、袖が』と、やつがとぼけた。『そうさ。たしかに腕が見えないよ』と、わしが言いはった。『たしかに袖が、からっぽかな。腕なしに見えるかね』と、言って、やつは、すぐ立ち上がった。わしも立ち上がった。やつは、ゆっくりと三歩近づいて、わしのすぐ前に立ち、憎々しげに鼻を鳴らした。こんな包帯と色眼鏡に、にじり寄られたら、だれだってうす気味悪くなるだろうが、わしは、いっこう平気だったよ。
『袖がからっぽに見えると言いましたね』
『そのとおりさ』
すると、やつは、ゆっくりと、袖をポケットから引き出して、もう一度見せるように、わしの鼻先に腕を突き出した。やつは実に、そろそろ伸ばした。わしは、一年もかかったような気がして、じっと見ていた。『やはり、中はからっぽだね』と、わしは咳ばらいして言った。何か言いたいんだが、こわくなっちまって声が出ないんだ。ただ、まじまじと見守るばかりさ。やつは、じりっ、じりっと、ゆっくり、ゆっくり腕をのばしてくる――そんなふうにして――しまいには、袖口のカフスが、わしの鼻っ先六インチのところまで近づいた。からっぽの袖が、あんなふうに伸びてくるのは気味が悪くて、実にたまらんよ。すると、そのときだ――」
「どうしたね」
「何か――親指と人差指みたいなものが、さわった――わしの鼻をつまんだ」
バンディング牧師が、ふきだした。
「何も目には見えないんだぜ」と、カス先生が悲鳴に近い声になって「なんにもな」
「笑うがいいさ。だが、とても恐ろしかったぜ。わしはびっくりして、やつのカフスを力いっぱい払いのけると、くるりと背を向けて、部屋をとび出したんだ――やつをほったらかしてね――」
カス先生はほっと一息入れた。先生がびっくり仰天しているのは間違いのない事実だった。先生は、やりきれんというふうに目を伏せ、牧師のご馳走の安シェリーを、もう一杯、ひっかけた。
「ところで、やつのカフスを払いのけたときだが」と、カス先生が「たしかに、腕をなぐりつけた手ごたえがあったんだ。たしかに、ありゃ腕だった。間違いなく、腕はからっぽじゃなかった」
バンディング牧師は、じっくり考えこみながら、カス先生を、いぶかしそうに見守って「そりゃ、実に奇妙な話ですな」と、いかにも考え深く、わけ知り顔で「それが本当なら」と、分別くさく「実に奇妙な話ですな」
五 牧師館の盗難
牧師館に泥棒がはいったことは、牧師夫妻の口から知れ渡った。はいったのは聖霊降臨節の月曜日の早朝で――アイピング村ではその日を祭日として祝うしきたりだった。バンディング牧師夫人は、夜明け前の静寂の中で、寝室のドアが、そっと開き、そっと閉じた気配を感じて、むっくりと起き上がった。初めのうちは、牧師を起こさずに、ベッドにすわりこんで、耳を澄ませていた。すると、はっきり足音が聞こえた。はだしの足音は、隣の化粧室から出て来て、廊下を階段の方へ歩いていくようだった。その音をたしかめると、夫人はできるだけ静かに、バンティング牧師をゆり起こした。牧師は灯をつけずに、眼鏡をかけ、細君の化粧着を着、浴室用のスリッパをひっかけて、階段の踊り場に出て耳を澄ました。階下の書斎の机を探しまわっている音がはっきり聞こえ、はげしいくしゃみがひびいた。
それを聞くと、牧師は寝室へもどって、火かき棒をひっつかみ大げさに武装すると、できるだけ足音を忍ばせて、階段を降りて行った。バンティング夫人は踊り場に出て見張っていた。
午前四時ごろで、夜の暗さも少しは明るんでいた。廊下《ホール》にはかすかに灯がともっていたが、書斎の入口は明かりがとどかず、黒々と口をあけていた。バンティング牧師が階段を下りる、かすかにきしる足音と、書斎の中で動きまわる低い音のほかは、あたりはしんとしていた。やがて、ばちっという音がし、ひき出しがあけられ、かさかさと紙をかきまわす音が聞こえ、畜生という声がし、マッチをする音とともに、黄色い光が書斎に流れた。バンティング牧師はホールにいた。ドアのすき間から、机と、開いているひき出しと、机の上の灯のついているろうそくが見えた。だが、泥棒の姿は見えなかった。顔面|蒼白《そうはく》な牧師夫人が、夫のあとから、階段を忍び足で下りて来たときには、牧師はホールに立って、どうしようかと心をきめかねていた。牧師の勇気を支えている頼みの縄《なわ》は、この泥棒が村人に違いないという確信だけだった。
金貨のチャラチャラいう音を聞くと、夫妻には、泥棒が貯金箱を見つけたのがわかった――半サヴリン金貨で、二ポンド十シリング貯めてあったのだ。その音を聞くと、バンティング師はじっとしてはいられなくなった。火かき棒を握りしめて、部屋におどり込んだ。夫人も、つづいてとび込んだ。
「この野郎!」と、バンティング師が大声でどなりつけ、いきなり立ちすくんで、目をぱちくりした。たしかに部屋にはだれもいなかったのだ。
その時でも、たしかに、だれかが部屋の中を動きまわる気配がしていた。おそらく、三十秒ほど、ふたりはぽかんとして立ちすくんでいたが、すぐ夫人は部屋を横切って行って、ついたてのかげをのぞき、バンティング師のほうは、かっかとして、机の下を捜した。それから、ふたりは手の打ちようがなくなり、あきれ顔で、うろんくさく見合ったまま、立っていた。
「たしかに、間違いないんだがな――」と、バンティング師が、「見ろ! ろうそくがついてる。だれがつけたんだろうな」
「ひき出しもあいていますわ」と、夫人が「お金もなくなっていてよ」
夫人は急いで戸口にかけよった。「こんな奇妙なことって、あるかしら」
廊下ではげしい、くしゃみが聞こえた。ふたりが、とび出したとき、台所のドアが、ばたんとしまった。
「灯を持って来い」と、牧師が言って、台所へかけつけた。ドアのかんぬきを、あわてて引き抜く音がした。
牧師が台所のドアをあけて見ると、調理台の先の、裏口のドアがあいたばかりで、暁のかすかな光が、その先の庭の黒々とした景色を浮かび上がらせていた。たしかに、だれもその戸口を出て行かなかった。それなのに、戸はあき、しばらくあいていてから、ばたんとしまった。しまったとき、バンティング夫人が書斎から運んで来たろうそくの灯が、ゆらめいて、燃えあがった。ふたりは、すぐに台所に入って調べはじめた。
そこには人影はなかった。ふたりは、裏口のドアをしめて、台所、調理台、流しを、すっかり調べて、しまいには地下室へ下りてみた。いくら調べても、家の中にはだれもいなかった。
いつか日が高くなっていたが、男女あべこべの寝間着姿の牧師夫妻は、まだ、けげんそうに、一階を捜しまわっていた。もういらなくなっているのにろうそくの灯を、ともしながら。
六 気違い家具
さて、聖霊降臨節の月曜日の早朝のことだった。宿屋のおかみさんと亭主は、女中のミリーが起き出す前に起きて、こっそりと地下室に降りて行った。ふたりの仕事は何か内緒ごとで、お客に出すビールの味を濃くすることだった。地下室へはいるとすぐ、おかみは、隣の部屋からサルサ根液の壜を持ってくるのを忘れたのに気づいた。この調合の仕事は、おかみさんの受持ちで、おかみさんが主任だから、当然、亭主のほうが二階へ壜をとりに上がった。
階段の踊り場まで来ると、例の客部屋のドアがあいていたのでびっくりした。しかし、亭主のホールは自分の部屋へもどり、言いつけられたとおりに壜を見つけ出した。
だが、壜を持って地下室へもどりかけたとき、玄関のドアのかんぬきがはずれているのに気がついた。そのドアは、ただかんぬきがかけてあるだけなのだ。それをみると、とっさに、二階の客室のドアがあいていたことと、時計屋のテッディ・ヘンフリーが注意してくれた言葉などが、思い合わされた。昨夜、細君が戸締まりをして歩くのに、灯を持ってついて行ったのもはっきり思い出した。それなのに玄関のドアがあいている。亭主は、はっと立ち止まって、ぽかんと口をあけていたが、壜を持ったまま、もう一度二階へ引き返した。そして、客室のドアをノックしてみたが、返事がなかった。もう一度、ノックしてから、ドアを広く開いて部屋に入った。
思ったとおりだった。ベッドにも、部屋の中にも客はいなかった。その上、あきれたことには、かなりなインテリのくせにだらしなくも、ベッドのそばの椅子とベッドのわくには、例の着たきり雀の一張羅《いっちょうら》や包帯が、ひっちらかっていたし、つばの広い帽子も、ベッドの柱に、だらんと、ひっかけてあった。
あきれて立っている耳に、地下室の底で、じれったがる女房の、例の早口で聞きとりにくい尻《しり》上がりの西サセックス弁のわめき声が聞こえてきた。
「ジョージ。何をぐずぐずしているのよ!」
それで、亭主は急いで下りて行った。
「ジャニー」と、地下室へ降りる階段の手すりで「ヘンフリーが言ったことは本当だぜ。お客は部屋の中にいねえぜ。どこかへ行っちまったぜ。おまけに。玄関のかんぬきがはずれてるぜ」
かみさんには、最初、なんのことかのみこめなかったが、事情がわかるとすぐ、自分の目で、からっぽの客室をたしかめに行くことにした。亭主は、壜を持ったまま先に立った。
「どこかへ行くったって」と、亭主が「服がぬいであるんだぜ。はだかで、いったい、どうしたってこった。全く奇妙きてれつだぜ」
夫婦が地下室の階段を上ったとき、玄関のドアが開いて閉じたような音が聞こえたようだったが、たしかにだれの姿も見えなかったし、そのときはふたりとも、そのことについては何も話し合わなかったと、後日証言している。かみさんは廊下で亭主を追いこして、先に立って階段をかけ上がっていった。だれかが階段の上で、くしゃみをした。かみさんより六段下にいた亭主は、かみさんのくしゃみだと思ったし、先を行くかみさんのほうは、てっきり、亭主のくしゃみだと思った。かみさんは客室のドアをさっとあけて、立ったまま、見まわした。
「あら、どうしたってことでしょう」と、言った。
すぐ、頭の上で鼻息が聞こえたようだったので、ふり向くと、亭主は十二フィートも後ろの階段のてっぺんにいるではないか。そして、すぐ、かみさんのそばにやって来た。かみさんは、かがんで、枕と、ふとんの下をさわってみた。
「冷えてるわ」と、かみさんが「こんな時間に、もう起きてらっしゃるのね」
かみさんが、そんなことをしているときに、とてつもないことがもちあがった――ふとんがひとりでにまき上がって、いきなり、もこもことはねとび、パッとベッドのふちにはねのけられた。まるでだれかが、ふとんのまん中をつかんで、はねのけたようだった。と、すぐに、客の帽子がベッドの柱からはずれ落ちて、ヒューッとばかり空中をひとまわりすると、かみさんの顔にまともにぶつかってきた。と、さっとばかりに、洗面台のスポンジがとんで来た。それから、椅子が踊り出して、客のコートやズボンが、やたらにはねとばされ、客そっくりなかわいた笑い声がひびき、椅子が自然にひっくり返って四本|脚《あし》を、かみさんに向けたかと思うと、ねらいをつけて、おそいかかってきた。かみさんが悲鳴をあげて逃げ出すと、椅子の脚は、少しおだやかになったが、なお、かみさんの背中にぴったりとくっついて、亭主もろともに部屋から追い立てるのだった。それから、ドアがばたんと閉じて、錠をかける音がした。しばらくの間、椅子とベッドが勝ちほこるように小躍りしている様子だったが、やがて、ぴたりと静かになった。
階段の踊り場まで来ると、かみさんは気を失いかけて亭主の腕に倒れ込んだ。かみさんの悲鳴でかけつけた女中のミリーと亭主は、大骨折りで、かみさんを階下へ運び下ろし、こんな場合の常備の気付薬をあてがった。
「幽霊だわ」と、かみさんが「たしかに、幽霊よ。新聞で読んだことがあるよ。テーブルや椅子が、踊り出してさ」
「もう少し、薬をのみなよ、ジャニー」と、亭主が「しっかりしなくちゃだめだぜ」
「あのひとをしめ出してちょうだい」と、かみさんが「二度と、家に入れないどくれよ。うすうす気がついてたんだけど――こんなことになるなんて。もっと早く知ってたらね。色眼鏡で、包帯だらけの頭で、日曜日にも教会へ行こうともしないでさ。それに、あの怪しい壜だらけ――なんてったってたくさんありすぎるものね。あいつが、家具に魂を吹き込んだんだよ――あたしの大切な家具がだいなしじゃないか。あの椅子は、あたしの子供のころに、やさしいおっ母《か》さんがいつもかけてたんだよ。それが、とび上がって、あたしに向かってくるなんて!」
「さあ、もう一服のむんだ、ジェニー」と、亭主が「すっかり、お前、とりのぼせちゃってるぞ」
ふたりが、女中のミリーを、お向かいの鍛冶屋へやって、サンディ・ウォッジャーズさんをたたき起こさせたのは、朝五時の朝日がきらきらと輝き出したときだった。ところが、亭主ホールのぐち話も、二階の家具の一件も、ウォッジャーズさんには信じられなかった。だが、分別のあるもの知りだったから、一応はまじめに、このできごとを考えてみた。
「どうやら、あの男は、魔法使いらしいぜ」と、ウォッジャーズさんが考えをのべた。「ああいう男には、蹄鉄《ていてつ》が魔よけにきくぜ」
ウォッジャーズさんは、非常に慎重だった。二階の部屋の様子を見て来てくれと頼まれても、うかつに腰を上げようとはしなかった。まず、廊下で評定《ひょうじょう》した方がいいと言うのだ。そのとき、向かいの雑貨屋ハックスターの小僧が外に出て来て、タバコのウィンドーの日よけを下ろし始めた。小僧も呼ばれて評定に加わることになった。そうこうするうちに、主人のハックスターも一枚加わるなりゆきになった。かくして、はからずも、議会政治を作り出したアングロ・サクソン人の才能が発揮される次第となり、例の議論百出の小田原評定が始まり、結論は何も出なかった。
「まず事実を見ようじゃないか」と、鍛冶屋のサンディ・ウォッジャーズが主張した。「わしらにあのドアをぶち破って押し入る権利があるかどうか、たしかめにゃならんぜ。それに、押し入るにゃドアをぶちこわさにゃならんが、お前さんがたが、さっきはいって調べたばかしだから、もう一度はいってみる必要があるかどうかだ」
そのとき不意に、怪しくも二階の部屋のドアがひとりでにあき、一同があっけにとられて目をむいている前に、包帯だらけのよそ者が姿をあらわし、怪しげな例の大きな色眼鏡をぎらつかせて、いつもよりよそよそしく、一同に無関心な様子で、階段を下りて来た。やつはゆっくりと一同をみまわしながら、どこかぎこちなく廊下を通りすぎかけて、ふと立ちどまった。
「あれを見ろ」と、言って手袋をはめた指で指す方へ一同が目を向けると、地下室の降り口のドアのすぐそばに、サルサ根液の壜が置いてあった。それから、するりと広間へ通り、いきなり、すばやく、ぴしゃりと一同の顔の前にドアをしめた。ドアのひびきが完全に消えるまで、だれも口をきかなかった。一同はただ、あきれて目を見合わせていた。
「ようし、こんなこっちゃすませんぞ」と、ウォッジャーズが、その言葉にふくみをのこして言った。
「行ってわけをきいてくるんだ」と、ウォッジャーズが亭主に向かって「釈明してもらわねばならんぞ」
その役目を亭主がすることに決まるのに少し話し合いの時間がかかった。その結果、亭主はドアを、おそるおそるノックしてあけ「ごめんなさいまし――」と、言うか言わぬうちだった。
「うるさい」と、よそ者が、恐ろしい声で「あとをしめて行け!」と、どなりつけた。
そんなわけで、あっという間に会見は終わった。
七 よそ者の正体をはぐ
そのよそ者がはたご屋の小さな客間へはいったのは午前五時半ごろで、そのまま正午近くまで窓のブラインドを下ろし、ドアをしめきって閉じこもっていた。そして亭主が追い返されてからは、だれも近づこうとはしなかった。
その間じゅう、やつは何も食べなかったにちがいない。ベルを三度鳴らした。ことに三度目のは、はげしくいつまでも鳴らしていたが、だれも返事をしようとしなかった。
「悪魔にくわれちまうがいいよ」と、おかみが言った。やがて、牧師館の盗難の噂が、伝わってきた。みんなはこの二つの事件を結びつけて騒ぎたてた。だれも二階へ上がろうとする者はなかった。よそ者が何をしているか、さっぱりわからないからだ。時々、どしんどしんと歩きまわる様子で、二度ほど、呪いのわめき声がし、紙を引きさく音や、壜をたたきつける音が聞こえた。
こわごわながらも物見高い連中が集まって来た。雑貨屋の細君、ハックスター夫人もやって来た。おりから聖霊降臨節の月曜日だったので、威勢のいい村の若衆たちも、おそろいの黒服、あぜ織りのネクタイで、がやがや騒ぎの連中に加わって来た。アーチー・ハーカーという若者が、これ見よがしに内庭にはいって行き、窓によじ登って、ブラインドの下から、よそ者の部屋をのぞき込んだ。何も見えなかったが、見て来たような嘘をならべたてたので、アイピング村の若衆連中も、すぐに、その口車にのった。
例年になくにぎやかな聖霊降臨節の月曜日で、村の大通りには十二ほどの射的の掛け小屋が並び、鍛冶屋の横の野原には、黄色とチョコレート色に塗りたてた馬車が三台もとまり、けばけばしい身なりの男女のお上《のぼ》りさんたちが、ヤシの実あてのボール投げに興じていた。旦那連は青いメリヤスセーターを着、婦人連は白いエプロンと大きな羽飾りつきのみごとな帽子をかぶっていた。「青い仔鹿《こじか》」の亭主ウッディヤーと、靴屋で中古自転車屋のジャガーゴ氏が、英国旗と紋章をつらねた縄を(いつもの祭日の飾りなのだ)道路の上に張りめぐらせていた……
わざわざ暗くした部屋の中では、日の光もほとんど差しこまないところで、例のよそ者が、さぞ空腹だろうに、びくびくと、不快きわまるむしろ暑い包帯に身をひそめて、黒っぽい壜から何かを紙にたらしたり、きたならしい小壜をカチャカチャいわせたりしながら、時々、外向きの窓からのぞき込む若衆たちを、口ぎたなくどなりつけていた。その声はすれども姿は見えずだった。暖炉の隅には、こわれた壜の破片が六本もころがり、鼻をさすような塩素の匂いが、空気を汚していた。時々聞こえるもの音や、前にちらりと見た部屋の様子から察して、だいたいこんなことらしい。
正午に、やつはいきなり客室のドアをあけて、突っ立ったまま、酒場にたむろしている三、四人の連中をにらみつけた。
「おかみさんは?」と、言ったので、だれかが、おとなしく、ホール夫人を呼びに行った。
おかみさんが、息を切らせて、すぐかけつけた。いつにないけんまくだった。亭主はまだもどっていなかった。さっそくの思案で、勘定書を小盆にのせて持って来た。
「お勘定の残りですわ」と、かみさんが言った。
「なぜ朝食にしないんだい。食事の支度もしないで、勘定の催促かい。ベルを鳴らしても返事もせんで。ものも食わずに生きているとでも思ってるのかね」
「お勘定をいただきませんと」と、おかみが「そのほうは、いかがでしょうか」
「三日前に言ったじゃないか、送金を待ってるんだよ――」
「送金があるまでお待ちできませんわ。そのことを二日前に申し上げたでしょう。朝ご飯の支度が、ちょっとおくれたと文句をおっしゃいますがね。こちらはお勘定を五日も待っているんですよ」
客は、ちょっとぶつぶつ悪《あく》たれた。
「そうだ。そうだ」と、酒場から声がかかった。
「どうぞ、文句はご自分におっしゃっていただきますわ」と、おかみがやり返した。
よそ者は潜水帽みたいな頭に、怒りをこめて、にらみつけていた。酒場にいる連中には、だれの目にもこの勝負はおかみの勝ちだった。客の言いぐさでもそれがわかった。
「ねえ、おかみさん――」と、やつは何か言いかけた。
「さんづけはよしてちょうだい」と、おかみが言った。
「だからさ、僕は送金を待っているといってるんだぜ」
「本当に、送金がくるんですか」と、おかみがきいた。
「だがね、ひょっとすると、ポケットに――」
「二日前には、銀貨で一サヴリンしか持っていないと、おっしゃってましたね――」
「ところが、もう少し出てきたのさ――」
「本当か、おい」と、酒場から声がかかった。
「どこから出てきたんですの?」と、おかみがきいた。そのひと言で、よそ者はかんかんになった。足をふみ鳴らして「そりゃ、どういう意味なんだい」と、とがった。
「どこから手にお入れになったかと思いましてね」と、おかみが「お勘定をいただくにしろ、お食事の支度をするにしろ、何をするにしろ、その前に、あたしの不審な点を、一つ、二つ説明していただかねばなりませんわ。だれにも見当のつかないことでみんなも不思議がって、ぜひおききしたいと言っていますのよ。うちの二階の椅子に、いったいどんな魔法をかけたんですか。それに、どうやってお部屋から抜け出して、どうやっておもどりになったんですか。うちでは、お客さまは玄関からはいっていただくんですの――そういうきまりなんですが、あなたはそうなさいませんでしたわね。それで、どこからおはいりになったか、おききしたいのよ。それに、もう一つ、うかがいたいのは――」
よそ者は、いきなり手袋をはめた手を振り上げて握りしめ、じだんだふんで「黙れ!」と、すごい勢いでどなりつけたので、おかみは、ぴたりと口をつぐんだ。
「わからんとみえるな」と、やつは「おれがどんな男か、何者か。よし、わからせてやろう。いいか、よく見ておけよ」
やつは掌《て》を開いて顔に当てると、つるりとなぜまわした。すると、顔のまん中にぽかっと黒い穴があいた。
「さあ、これだ」と、言い、おかみに、にじり寄って何かを手渡した。おかみは、がらりと変貌した相手の顔に、気をのまれて、無意識に受けとり、ちらりと見ると、キャッと大声で叫び、それを投げすて、たじたじとたじろいだ。鼻だった――相手の鼻なのだった。桃色でぴかぴかしている――そいつが、床をころがった。
それから、やつが眼鏡をはずした。ひと目見て、酒場にいる連中が、はっと息をつめた。つづいて、やつは帽子を脱ぎすて、手荒く頬ひげと包帯をむしり取った。それには、少し手間どった。恐ろしい予感が、酒場の連中の頭の中をかすめた。「こりゃたまらん」と、だれかが言った。そのとき、頬ひげと包帯がはぎとられた。
ひどいなどというもんじゃなかった。おかみは、おびえて、ぽかんと口をあけて立っていたが、相手をひと目見ると、キャッと叫んで、戸口の方へかけ出した。みんなもぎょっとして、たじろいだ。包帯の下からは、ひきつりや、傷あとや、ぞっとするような醜さが、むき出すだろうと予期していたのに、なんと、何もないではないか。包帯とつけひげが、廊下をひらひら飛んで酒場にはいり、よけようとする連中に、ふざけるようにとびついた。みんなは、押し合いへし合い玄関の階段をころげ落ちた。というのも、立って何かわけのわからないことをわめきちらしている男の、身ぶりたっぷりないかめしい姿は、上衣の襟まで見えて、その上は――首なしなのだ、てんで何も見えないのだ。
村の連中は、けたたましい悲鳴を聞き、いっせいに、はたご屋の方をふり向いて見ると、玄関から、宿の連中が、はじけるように、とび出して来た。おかみのホール夫人が倒れた。時計屋のテッディ・ヘンフリーが、おかみにけつまずかないように、とびこえた。それから、女中のミリーの、おびえきった悲鳴が聞こえた。酒場の騒ぎを聞きつけて、台所からとび出したミリーは、いきなり、首なしの背中に、ぶつかってしまったのだ。しかし、この騒ぎが、不意に、ぴたりと、やんだ。
通りにいた連中、ボンボン売りや、ヤシの実あての主人と小僧や、ブランコ乗りや、少年少女たちや、めかしこんだ若衆たちや、着飾った娘たちや、野良着のままの老人たちや、エプロンをかけたジプシーたちが、はたご屋に向かって、かけ集まり、たちまちのうちに四十人ぐらいになり、どんどん増えて、わいわいがやがや、騒ぎ立てて、はたご屋の前は、やじ馬で埋まった。聞く者あり、叫ぶ者あり、いいかげんに答える者あり、みんなが一度に口をききたがったので、ひどい混乱状態になった。二、三人が、気絶しそうなおかみをささえていた。話し合いがはじまった。目撃者たちが、信じられないような事実を、わめきたてた。
「お化けだぜ」
「いったい、何をしてやがったんだろう」
「娘っ子をけがさせやしめいな」
「ナイフをふりまわしてあの娘を追っかけたに違えねえ」
「たしかに、頭がねえんだ。ばかだって意味で言うんじゃねえ、本当に頭がくっついていねえんだ」
「ばかいえ。何か仕掛けがあるんだろう。手品だよ」
「着てるものを、脱ぎすてたってじゃねえか――」
群集はわれ勝ちに宿のあいている戸口から中をのぞき込もうとして、おし合いへし合いしながら列をなして、こわごわ、戸口ににじり寄っていた。
「やつはちょっと立ちどまった。そのときあの娘《こ》の悲鳴がしたんで、やつがふり向いた。あの娘がスカートをひるがえして逃げるのが見えた。やつも追っかけて行った。十秒と経たんうちに、やつはナイフとパンを持って姿をあらわして、あたりをにらみまわすように立っていたんだ。やがて、あのドアに姿を隠したんだ。たしかに、やつあ、首なしだったぜ。まちがいねえよ――」
みんなの後ろでざわめきが起こったので、話していた男が、口をつぐみ、わきへ寄って道をあけた。人ごみを押し分けて、つかつかと宿へ向かって来る連中は――先頭が、顔をまっかにして決心のほどを示している宿の亭主ホール、つづいて、村の巡査のボビー・ジェファーズ君、しんがりは、慎重な顔つきの鍛冶屋のウォッジャーズだった。連中は逮捕状を持って来たのである。
人々はわれがちに、思い思いの情報をわめきたてた。
「首なしだろうとなんだろうと」と、ジェファーズ巡査が「そいつを逮捕しなけりゃならん。逮捕する義務がある」
亭主のホールは先に立って階段を上がり、客部屋のドアへ直進して、さっとドアをあけると「おまわりさん。つかまえてくだせえ」と叫んだ。
巡査を先頭に、亭主のホール、鍛冶屋のウォッジャーズがひとかたまりになって乗り込んだ。目の前の、ほの暗いなかに、首なしの男がぬっと立って、手袋をはめた片手にかじりかけのパンを、もう一方の手にチーズの厚切れを持っていた。
「そいつですさ」と、亭主がどなった。
「こりゃ、いったい、何ごとだ」と、首なしのカラーのあたりから、おこった声が、とび出した。
「こりゃ変わったやつだな」と、巡査がずかずかと進み出て「首があろうとなかろうと、逮捕状によって、からだだけでも逮捕する。いいか」
「近寄るな!」と、首なしが叫んで、とびさがった。
そして、いきなり、パンとチーズを投げすてた。その間に、亭主のホールはテーブルのナイフをつかみとろうとした。怪人の左の手袋が、さっとのびて巡査の顔をぴしゃりと打った。とたんに、巡査は、逮捕状をよみ上げるのをはしょって、腕の見えない手首をひっつかむと、目に見えないのど首をしめ上げた。とたんに、向こう脛《ずね》をしたたか蹴とばされて悲鳴はあげたが、それでも、しめ上げている手はゆるめなかった。亭主は、とり上げたナイフを、テーブルの上を鍛冶屋の方へすべらせてやった。鍛冶屋は、いわばゴールキーパーのように攻撃を見守って、前へのり出した。ジェファーズ巡査と、怪人は、なぐり合いつかみ合いしながら、よろけて、こちらへ寄って来た。間にあった椅子が音をたててすっとび、ふたりが組み合って倒れた。
「足を押えろ!」と、ジェファーズ巡査が、歯をくいしばって言った。
亭主のホールは、命令されたとおりに足を押えにかかり、あばらっ骨をいやというほど蹴とばされて、しばらくは身動きもできなかった。鍛冶屋のウォッジャーズは、首なしがジェファーズ巡査をはねのけて馬乗りになったのを見ると、ナイフを持ったまま戸口の方へ逃げかけたが、官憲援護のためにかけつけて来た雑貨屋のハックスターと馬方《うまかた》のシッダーモートンとにぶつかった。そのとき、箪笥《たんす》から壜が三、四本ころがり落ちて、鼻をつく異臭が部屋に満ちた。
「観念したよ」と、怪人はジェファーズ巡査を組みしいているくせに、大声で言い、息を切らせながら、手なし、首なしの妙な姿で立ち上がった――右手の手袋も左手のと同様に、脱げてしまっていたから、手が見えなくなっていたのだ。
「もうだめだ」と、まるで、すすり泣きするように、あえぎながら、怪人が言った。
空間から声が聞こえるというのは、世にも不思議なことだった。それに、サセックス地方の農民ときたら、おそらく天下一の現実主義者ときている。ジェファーズ巡査も立ち上がって、手錠をとり出し、使う段になって、あわてた。
「まずいな」と、ジェファーズは、調子の悪さに気づいて、とまどいながら「弱ったぞ。手首が見えないからな。手錠が、うまくかけられん」
怪人が腕をチョッキにそって動かすと、不思議にも、からっぽの袖口の動きにつれて、ボタンがはずれていった。それから、足のことを何か言いながら、かがみこんだ。どうやら、靴や靴下をいじっているらしい。
「おやおや」と、雑貨屋のハックスターが、いきなり言った。「全然、からだがないじゃないか。服の中はからっぽだぜ。見ろよ。襟と、服の型が見えるだけで、もぬけのからだぜ。どれ、さわってみるか――」
手をのばしてみると、からっぽのところで何かがさわったらしい、きゃっと叫んで手を引っこめた。
「目なんか突っつかんでもらいたいぜ」と、空間の声が、おこってしかりつけた。
「たしかに、おれはここにいるんだ。頭も手も、足も、ちゃんと五体そろっとる。ただ、お前たちに見えないだけだ。困ったことだが、事実だからしようがないじゃないか。だからって、アイピング村の田吾作どもに、からだじゅう突っつきまわされて、黙っていなければならんわけもないだろう」
服のボタンが全部はずれると、中はからっぽで、服だけが目に見えない洋服かけにだらりとかかっているように、しゃんと、肘を張って立っていた。
五、六人の村人たちも、はいってきたので、部屋の中はごたごたとこみ合った。
「そら、見えないだろう」と、ハックスターが怪人の文句を無視して「こんな話って聞いたこともないぜ」
「たしかに妙なことだが、別に罪になることでもあるまい。警官にこんな不当な目にあわされるわけでもあるというのかね」
「ああ、そりゃ、別問題だ」と、ジェファーズ巡査が「お前にはいささかわけがわかりにくいだろうが、わしは逮捕状を持っとる。そりゃ、たしかなんだ。見えないからつかまえるんじゃない――窃盗《せっとう》容疑なんだ。押し込みがあって、金がとられたんだ」
「それで?」
「いろいろの状況からみて、どうやら、それが――」
「ばかばかしい」と、透明な人間がどなった。
「ならいいがね。とにかく、わしは命令を受けて来たんでね」
「そうか」と、怪人が「じゃあ、出頭する。出頭すればいいんだろう。だが、手錠はごめんだ」
「こりゃ、きまりでね」と、ジェファーズ巡査が言った。
「手錠はいやだ」と、怪人が、がんばった。
「まあ、そう言わんで」と、ジェファーズ巡査が言ったとたん、首なし姿が腰を下ろした。そしてどうなるのか、みんなには見当がつかないうちに、スリッパと靴下と、ズボンを脱いで、テーブルの下へ蹴込んだ。それから、とび立つと、上衣をほうり出した。
「おい、やめろ!」と、巡査が叫んだ。相手の行動の意味を、はっと、悟ったのだ。巡査はいきなり、チョッキをひっつかんだ。とっくみ合いになった。するりとシャツが脱げて、もぬけの空《から》のまま、だらんと巡査の手に残った。
「つかまえろ」と、ジェファーズ巡査が大声で「みんな脱いじまったらことだぞ――」
「つかまえろ」と、みんなは口々に叫んで、ひらひらとびまわる白いシャツ目がけて殺到した。怪人は、もう、白い肌着だけしか見えなくなっていた。
肌着の袖がひるがえると見ると、両手をひろげて突進してくる亭主ホールの顔に、ものすごい一発をくらわせたので、亭主は後ろにいた寺男ツースサムじいさんの腕にへたばり込んだ。次の瞬間、肌着は両腕を上げて、ちょうど、脱ぐときに頭をくぐらせるかのように、もぞもぞ、ひらひらと動き出した。すぐジェファーズ巡査が袖口につかみかかったが、結局、脱ぐのを手伝うことになってしまっただけで、しかも、やぶから棒に、口のあたりをしたたかなぐりとばされた。あわてた巡査は、いきなり棍棒をひき抜いてふりまわしたので、時計屋テッディ・ヘンフリーの頭のてっぺんを、思いきり、どやしつけてしまった。
「気をつけろ!」と、みんなは、口々に叫びながら、思い思いに攻撃したが空をつくばかりだった。
「つかまえるんだ! ドアをしめろ! 逃がすんじゃないぞ! つかんだぞ! いたぞ、いたぞ!」
てんやわんやの大騒動になった。相手をつかまえるどころか。どうやら、みんなは互いになぐり合っていたらしい。一部始終を見ていた鍛冶屋のサンディ・ウォッジャーズも、したたか鼻をなぐりつけられると、臆病風《おくびょうかぜ》が吹きつのって、入口のドアをあけて廊下へ逃げ出した。すると、他の連中も思わず外へとび出そうとして、出口の角で、わいわいもみ合った。廊下へ出てもなぐり合いはつづいていた。新教徒のフィリップスは前歯をへし折られ、時計屋のヘンフリーは耳たぼをひきちぎられた。ジェファーズ巡査は下あごをつき上げられて、ふり向くと、後ろにいる雑貨屋のハックスターとの間に何かがはさまっているような感じがした。ぎゅう詰めになっているのに、ふたりの間が妙にあいているのだ。それが、むっくりした胸らしいと感じるとすぐに、ぱっととびついたまま、興奮してもみ合っているみんなと一緒に、大混乱の廊下へはじき出された。
「つかまえたぞ」と、ジェファーズ巡査は、姿の見えない敵に、のどをしめつけられて、顔を紫色にし、血管をふくれあがらせながらも、相手に組みついたまま、かすれ声で叫んだ。人々は右に左によろめきながら、もみにもんで玄関の方へなだれて行き、宿の玄関の五、六段の階段を、ころげ落ちるように、外へ出た。
ジェファーズ巡査はしめつけられながら、かすれ声で叫んでいたが――相手をしっかりつかまえて、膝《ひざ》で蹴上げた――だが、はねとばされて、まっさかさまに砂利道へ投げ出された。とうとう、つかんでいた手をはなしてしまった。
人々は口々にいきり立って、わめいた。「つかまえろ!」「見えないぞ!」などと。名もわからない、ひとりの土地っ子でない若衆が、すぐにとび出して、何かをつかまえたが、ふりほどかれて、倒れている巡査のからだにつまずいて転んだ。
少し離れた道の向かい側で、何かにつきとばされた女が悲鳴をあげたし、蹴とばされたらしい犬が、キャンキャンなきながら、雑貨屋ハックスターの裏庭に逃げこんだ。かくして、透明人間は首尾よく逃げ失せてしまったのだ。
しばらくの間、人々は、あきれてがやがややっていたが、やがて、いきなりこわさが身にしみて、秋風に散る木の葉のように、一目散にちらばって、それぞれの家へ帰ってしまった。
あとには、ジェファーズ巡査だけが、とり残されて、あお向いて、膝《ひざ》を立てたまま、身動きもせずのびていた。
八 逃亡
この第八章では、ごく簡単に、この地方のアマチュア科学者ギビンズ氏の話を書くことにする。氏は、見晴らしのいい丘の上で、うつらうつらしていた。あたりには人影もない様子だったのに、いきなり耳もとで、咳《せき》やくしゃみが聞こえたので、びっくりしていると、その声は、ひとりで、ぶつぶつ悪口雑言を言いちらした。それで、きょろきょろ見まわしてみたが、何も目につくものはなかった。しかも、まぎれもない人声なのだ。
悪口雑言は、だんだん声高になり、その文句もいろいろなので、声の主は、どうやら百姓ふぜいではなく、教養のある人間らしいと判断した。
声はひときわ高くなると、また、しだいにうすれて、だんだん遠ざかっていった。声の主は文句を言いながら、アダーディーンの方へ向かって行くように思えた。そして、時々、くしゃみをしながら、ついに消えた。
ギビンズ氏は、今朝《けさ》の村のできごとを聞いていなかったが、あまりにも思いがけないその現象のために、すっかり驚いて、哲人的な平静さを失ってしまった。氏は、あわててとび起きると、けわしい丘をかけ下りて、一目散に村へ向かった。
九 トーマス・マーヴェル君の供述
トーマス・マーヴェル君というのは、天狗鼻《てんぐばな》で、しまりの悪い大口で、たわしのようなひげ男で、おしゃべりなたよりない男と心得ていただきたい。どうみてものんだくれで、からだつきが、むくんでいる。手足が短いので、いっそう、それが目につく。すり切れた山高帽をかぶり、靴は、二つボタンの代わりに靴ひもで間に合わせているというていたらくで、そんな服装の特徴からみて、天涯《てんがい》のひとり者なのがわかる。
そのトーマス・マーヴェル君は、アイピング村から一マイル半ばかりはなれた、アダーディーンに向かう丘の下の道ばたの溝《みぞ》に、足をなげ出して腰かけていた。穴だらけな靴下をはいているはだし同様な足の先が、平べったく太く、番犬の耳のように突っ立っていた。のろくさく――いつものそのそしているのだが――長靴《ながぐつ》を、はこうかはくまいかと迷っていた。かなり前に、拾っておいた、どこもいたんでいない長靴だが、少し足に大きすぎるのだった。それまではいていた靴は、足にぴったりで、お天気には申し分なしだが、底がすりきれていて雨がしみこむのだ。ぶかぶかの靴もいやだが、水のしみ込むのもやりきれない。どっちを我慢したらいいか、いくら考えても、うまく結論が出てこなかった。天気はいいし、ほかに忙しい仕事もないしで、二足の靴を芝生の上に、きちんと並べて、じっくりながめていた。芝とキンミズヒキの新芽の上に置いて見ているうちに、どちらの靴も、あまりみっともいいものじゃないなと、ふと思った。それで、いきなり背後から声をかけられても、大して驚かなかった。
「どっちも長靴にゃちがいないな」と、声がかかった。
「こりゃあ――もらいもんでさあ」と、トーマス・マーヴェル君は、首をかしげて、いやらしそうに靴を見ながら「世間にゃ、これほどいやらしい靴は、たんとないだろうね。そうと知ってりゃあ、もらわなかったがね」
「ふーん」と、声が言った。
「もっとひどいのをはいたこともありまさ――全くさ。はだしだったこともありまさ。でもね、こんなみっともねえのははじめてだね――いってみりゃあね。あっしゃ長靴をねだって歩いたんでさ――わざわざね――ここいくん日《ち》もね。どうしても欲しかったんでね。むろん、こりゃりっぱな長靴ですぜ。でも、浮浪人に見つかるのは、こんなひどい靴しかありゃしませんやな。このあたりをずっと物乞いして歩いて、手にはいったのは、この靴なんですからね。本当ですぜ。よく見て下さいよ。しかも、普通、この辺で靴をもらうのは、やさしいことなんですぜ。あっしゃちょっと運が悪かったんでさ。あっしゃ、この十年、靴はこの辺で手に入れることにしてたんでさ。それなのに、こんなざまですからね」
「とんでもない、この辺は、ひどい地方だ」と、声が「いやないなか者ばかりだ」
「そうですかね」と、トーマス・マーヴェル君が「もったいないことを! でも、この靴が手にはいったんですぜ、なんてったって」
マーヴェル君がふり向いて、右の肩ごしに、相手の靴と見くらべようとした。ところが、相手の立っていそうな場所には、靴どころか足も見当たらなかった。あわてて左側の方をふり向いてみたが、そこにも影も形も見当たらなかった。先生、やっと、驚きはじめて「旦那はどこなんですかい」と、四つんばいになって、きょろきょろ見まわした。丘のあたりには人影もなく、はるかに、点々とみどりをなしているエニシダの茂みが、風になびいていた。
「酔ってんのかな」と、ひとり言をいって「夢でも見たのかな。ひとり言をいってたのかな。いったいこりゃ――」
「こわがらなくてもいいよ」と、また声がした。
「腹話術はよしてくだせえ」と、トーマス・マーヴェル君が、すっくと立ち上がって「どこにいなさるんですかい。こわいよ、まったく」
「こわがらなくてもいいぜ」と、また言った。
「ははあ、おどかしてんだね、いけないお人だ!」と、マーヴェル君が「どこだね。姿をあらわしてくださいよ」
「墓の中にいるんかね」と、しばらくして、マーヴェル君が、また言った。だが、何の返事もない。トーマス・マーヴェル君は、ぽかんと、はだしで立っていた。上衣がずり落ちそうになっていた。
「ピーピー」と、遠くで、田げりが鳴いた。
「なんだ、田げりが鳴いたのか」と、トーマス・マーヴェル君が「冗談じゃねえや」丘は、東西南北、見わたしても人影がなく、道は浅い溝と白い柵《さく》を、坦々と南北にのばしていて、空とぶ田げりのほかは、青空の下には人っ子ひとりいなかった。
「やれやれ」と、トーマス・マーヴェル君はつぶやき、上衣を肩にひきもどしながら「おれは、酔っぱらってるんだな。きまってるじゃないか」
「酔っぱらってやせんよ」と、声がした「お前はしらふでしっかりしとるよ」
「おお」と、マーヴェル君はとび上がって、膏薬だらけの顔をまっ青《さお》にした。「たしかに酔ってるんだな」と、声をころして、くり返した。そして、少しあとずさりしながら、きょろきょろと、みまわした。「たしかに声が聞こえたんだがな」と、つぶやいた。
「むろん、聞こえたさ」
「また、聞こえたぞ」と、マーヴェル君は、目を閉じ、悲劇的な身ぶりで、額をたたいた。そのとき、いきなり、カラーをつかんで、激しくゆすぶられた。それで、いっそう頭がぼやけてきた。
「しっかりしろよ」と、声が言った。
「おりゃ――頭がどうかしちまったぞ」と、マーヴェル君が「まずいな。いまいましい靴のことを、あんまりくよくよしてたもんだから、頭がどうかしちまったらしい。それとも、幽霊のしわざかな」
「どっちでもないよ」と、声がした。「いいか、おい」
「どうも、頭が」と、マーヴェル君がつぶやいた。
「おちつけよ」と、声が、とげとげしくなった――じれったがって、ふるえをおびていた。
「わかったよ」と、トーマス・マーヴェル君は、胸を指でつつかれたような、妙な感じがしていた。
「これでも僕を幻だと思うかい。単なる幻だと」
「じゃあ、旦那はなんだね」と、トーマス・マーヴェル君は首筋をなぜながらきいた。
「ようし」と、声が、ほっとしたような調子で「じゃあ、その考えが変わるまで、石をぶつけてやろう」
「でも、旦那はどこなんで?」
声は答えず、ヒュッと石が宙を飛んで来て、マーヴェル君の肩をすれすれにかすめた。マーヴェル君がふり向くと、石が、宙に飛び上がり、くるりと大きく一回転して、宙にとまるかとみると、目にもとまらぬ早さで、自分の足をねらってとんできた。マーヴェル君は、すっかり驚いてしまって、避けようともしなかった。石は、ヒュッと、とんで来て、むき出しの足の指に当たって、溝へはねた。マーヴェル君は片足でとび上がって、大声でわめき、逃げかけたが、目に見えないものに、押しもどされ、おさえつけられて尻もちをついた。
「そらいくぞ」と、声が言い、三度目の小石が宙にもちあがり、浮浪者の頭の上に、とまった。「これでも、僕は幻か」
マーヴェル君は答えるかわりに、よろよろと立ち上がったが、すぐにまた転がされた。そして、しばらく、じっと転がっていた。
「まだ手向かうなら」と、声が「頭に石をぶつけるぞ」
「どうにでもするがいいさ」と、トーマス・マーヴェル君は、半身おこして、けがした足の指に手を当てながら、宙にとまっている三番目の石を見つめた。
「さっぱりわからねえな。ひとりでに小石が飛んで来たり、しゃべったりするんだからね。よしてくれよ。ばかばかしい。降参するよ」
三番目の小石がぽとりと地に落ちた。
「簡単なことさ」と、声が言った「僕は透明人間なんだよ」
「説明してくれなきゃわからねえよ」と、マーヴェル君が、苦しそうに、はあはあ言いながら「旦那は、どこに隠れてなさるんだね――どうやって隠れてるんだね――さっぱり合点《がてん》がいかねえよ」
「もうよせ」と、声が「僕は見えないんだ。それがわかってもらいたいんだよ」
「そんなこと、だれにもわかりっこねえさ。そんなこって、じりじりするこたあないでしょ、旦那。ようがす。じゃあ、合図してください。どうやって隠れてるのか」
「くどいな、僕は見えやせんよ。その点がかんじんなんだ、それがわかってもらいたいところ――」
「でも、どこにいなさるんだね」と、マーヴェル君が、相手の言葉をさえぎった。
「ここだ。目の前六ヤードのところさ」
「おお、よしてくれ。わしはめくらじゃないんですぜ。おつぎにゃ、わしゃ空気だと言いなさるつもりだろうけど、こっちが浮浪人だからってあんまりばかにしなさんな」
「そうさ――僕は空気みたいなもんさ。透き通ってるから、見えないんだよ」
「なんだって? 旦那のからだはガランドウなんですかい? 声だけで――つまりそのう――しゃべってるわけですかい。え?」
「ちゃんとした人間だよ――五体そろってるし、飲み食いも必要だし、服もいるさ――ただ透明なだけなんだ。わかるかね。見えないだけさ。言葉どおり、見えないんだよ」
「からだはあるんですかい」
「うんあるさ」
「手をさわらしてくだせえよ」と、マーヴェルが「からだがあるんならね。そうすりゃ、こんなにたまげることもねえわけだ! おや、こりゃ、驚いたな……イチ……、そんなに強く手をつかんじゃいけねえ」
マーヴェルは、あいているほうの手で、おずおずと相手の手を二の腕のほうまで探り、たくましい胸をポンポンと軽くたたき、顎《あご》ひげのはえた顔までたしかめた。そして、あきれ顔で言った。
「驚いたな、どうも」と、驚いて「こりゃ、とってもおもしろいな。すごいよ、まったく。――旦那のからだを透かして、一マイル向こうの兎《うさぎ》も見えらあ。しかも、旦那は、まるっきり見えねえ――ただね――」
マーヴェルは瞳《ひとみ》をこらして、何もない空間をじっと見つめていた。
「旦那はパンもチーズも食べてねえんでしょう。食べてりゃ見えそうなもんだよ」
「そのとおりだ。消化するまではからだみたいにすき通るわけにはいかんよ」
「なるほど」と、マーヴェルが「どっちにしたって、化けものじみてまさあ」
「そりゃそうだが、お前が思ってるほど不思議なことじゃないんだ」
「どう考えたって、こりゃ、とても不思議でさあ」と、トーマス・マーヴェル君が「どうして見えなくなれたんですかい。いったい、どうしてこんなことになっちまったんですい」
「話せば長いことなんだ。それに――」
「本当に、こんなことって、ぶったまげましたぜ」と、マーヴェル君が言った。
「とりあえず話しておきたいんだが、僕は助手がほしいんだ。散々探していたところへ――おりよく、不意にお前とぶつかったわけなんだよ。実は、めちゃめちゃに腹を立てて、はだかで歩きまわってたんだが、どうしようもなかったのさ。危うく人も殺しかねないところだった。そこへ、つごうよくお前を見かけたんだ――」
「おやおや」と、マーヴェル君が言った。
「お前のあとをつけて――相談をかけようかどうしようかと迷いながら――ここまで来たんだ――」
マーヴェル君は赤くなったり青くなったりした。
「――そして、ここでふんぎりがついたんだ。ここにも僕みたいな宿なしがいる、この男が、助手としては適任だと、さとってね。それで、声をかけることにしたんだよ」
「おやおや」と、マーヴェルが「あっしゃあ頭がぼやけてましてね。おっしゃることが、よくのみこめねえんでさ――どんなことなんですい。助手ったって、どんなことをしろとおっしゃるんで?――姿の見えねえ人だってのにさ」
「服を手に入れる手伝いをしてほしいんだ――寝るところもだ――それから、身のまわりのものもだ。ずっと不自由しているんでね。それだけは、いやおうなしに、ぜひなんとかしてもらいたいんだ」
「まあまあ」と、マーヴェル君が「あっしゃ、すっかり、おったまげてるんですぜ。そうそう、こづきまわさねえでくだせえ。ほっといてもらいたいね。少しゃ、おちついて考えないじゃあ。旦那は石をぶつけて、あっしの足の指をぶっつぶしそうにしたんですぜ。まったくむちゃな話じゃねえですか。人っ子ひとりいねえ丘の上で、雲ひとつない空の下で見渡すかぎり、何マイルも大地ばかしで、人気のねえところで、いきなり、声が聞こえたんですぜ。声はすれども姿は見えずってやつでさあ。そいから、石がとんで来た。拳骨《げんこつ》がとび出したってわけだよ――まったく」
「しっかりしろよ」と、声が「僕がお前ときめたんだから、これから働いてもらわなければならないんだからな」
マーヴェル君が頬をふくらませて目をむいた。
「僕はお前ときめたんだ」と、声が「透明人間がいるなんてことを知っとるのは、下の村のばか者どものほかは、お前だけなんだよ。だから、お前には助手になってもらわなくてはならないのだ。助手になってくれ――お礼はたっぷりするからな。透明人間ともなれば不可能なことなしだ」と、ちょっと言葉をとぎらせて、大きなくしゃみをした。
「そのかわり、裏切ったり、言いつけどおりしなかったひにゃ――」と、口をつぐんで、マーヴェル君の肩をポンとたたいた。肩をたたかれたマーヴェル君は縮み上がって、悲鳴をあげた。
「けっして裏切りなんかしませんぜ。旦那」と、マーヴェル君は、透明人間の指先から身をずらせながら「そんなこたあ、考えないでくらっせ。なんでも、旦那の言いなさるとおりしますだ。よろこんでお手伝いしますだ――何んでもいいつけてくらっせ。おねがいでさあ。一生懸命にやりますだ」
十 浮浪者マーヴェル、アイピング村へ
あの、最初の恐怖の嵐《あらし》が吹き通って以来、アイピング村の連中は、よるとさわると井戸端会議をするようになった。さしあたりは、懐疑論が首位を占めていた――それも、全然根拠のない、どちらかと言えばあやふやな懐疑論だが、ともかく、懐疑論にはちがいなかった。透明人間などというものは、信じるより、疑ってかかるほうがずっと楽なものだ。それに、透明人間が空中に消え去るのを実際に見たり、その腕力を目《ま》のあたりにした村人は、両手の指の数より少ないのだった。その目撃者のうち、鍛冶屋のウォッジャーズ君は、事件以来、無言で自宅に引きこもり、戸締まりを厳重にし、人前には姿をあらわさぬし、巡査のジェファーズ君は、はたご屋の一室で絶対安静中なのだ。そんなわけで事件そのものも、今では証人不足だったし、由来、超経験的な偉大|奇矯《ききょう》な観念というものは、つまらない常識的な観念よりも、大衆にとっては影響力の弱いものなのだ。
その日、アイピング村は万国旗を飾り、村人たちも晴着で、うきうきしていた。なにしろ、一月《ひとつき》の上も、前から、待ちに待った聖霊降臨節の月曜日だったのだ。
午後になると、透明人間の実在を信じていた連中も、もう、そいつはどこかへ行ってしまったものという論拠で、頭から信じていない懐疑的な連中とともに、楽しい祭日を送る気になっていた。そんなわけで、村人たちは、賛否を問わず、ともかく、その日だけは、みんなとても、ご機嫌だった。
ヘイマン牧場には、はなやかなテントが張られ、牧師夫人や村の大家《おおや》の奥さん連が茶菓の接待に当たり、外では、日曜学校の生徒たちが、見習い牧師やカス夫人やサックバット夫人のかけ声で、徒競走や競技をしていた。そんなわけで、一見うきうきとしていたが、村人たちの胸の底には、午前中に経験したあの不思議に対する疑惑の念が、ひそんでいた。村の共有地の急斜面の下では、ブランコ遊びに興ずる若者たちが、相手のブランコを手でつかまえたり放したり、ぶつかり合ったりしながら、わいわい騒いでいた。玉転がしや、射的場も大したにぎわいだった。人々はぞろぞろ歩きまわり、ブランコの伴奏をする自動《スチーム》オルガンが、こげくさい油の匂いと、刺激的な音楽であたりの空気をかき立てていた。
午前中、教会のミサに出ていた村の長老たちもピンクとみどり色のけばけばしいバッジをつけていた。はで好きな連中は山高帽にピカピカ光るリボンをまいて得意になっていた。いつも一風変わった祭の迎え方をするフレッチャーおやじの姿が、ジャスミンの花を飾った窓や戸口から見える(どっちからでも見えるが)。今年も、例のとおり、椅子にかけ渡した板の上で、うまく調子をとりながら、表部屋の天井のあく洗いをやっていた。
午後四時ごろ、丘のふもとの方から村へはいって来た浮浪者がいた。ずんぐりむっくりで、ぼろぼろのシルクハットをかぶり、見るからに息せき切っていた。青ざめた頬をふくらませたり、へこませたりしていた。おびえた目を白黒させて、あたふたとぎこちなく歩いていた。そして、教会の角を曲がると、例の|はたご屋《ヽヽヽヽ》の方へ向かった。村人の中でも、特にフレッチャーおやじが、はっきり、その男の姿を見ていた。事実、その男のただならぬ様子に気をとられて、ながめているあいだに、うっかりしてあく洗いの石灰液をつけたブラシを上衣の袖口につけてしまったのだ。
この浮浪者は、玉転がし屋のおやじが耳にしたところでは、はっきりひとり言をいっていたというし、雑貨屋のハックスターも、たしかに聞いたそうだ。その男は、はたご屋の戸口の段の前で立ちどまり、はいろうかどうしようかと、かなり思い迷っていたらしいと、ハックスターは言っている。やがて、その男が段を上がって左手の例の客室のドアをあけたのを、ハックスターは見とどけている。そのとき、部屋と酒場の中から、注意する男の声がハックスターにも聞こえたというのだ。
「その部屋はふさがってるんですぜ」と、亭主のホールの声がし、その男は不器用にドアをしめて、酒場にはいった。
二、三分すると、また姿をあらわし、いかにも満足そうに手の甲で口をふいているのが、ハックスターの注意をひいたそうだ。しばらく、あたりの様子をうかがうようにしていたが、ハックスターが見ていると、足音を忍ばせて中庭の木戸の方へ歩いて行った。その木戸の上が客室の窓になっているのだ。しばらくためらっていたが、片方の門柱によりかかり、短い陶製のパイプをとり出すと、タバコをつめ始めた。その手が少しふるえているようだった。それから、どうにか火を吸いつけると、ものうそうにくゆらしていたが、時々、ちらりちらりと鋭い目をくばるあたり、油断もすきもならない様子だった。
このいっさいの様子を、ハックスターは、ショーウィンドーのタバコ罐《かん》ごしに見とどけたのだが、その男の様子がただごとでなくて、目が離せなかったのだそうだ。
突然、浮浪者はしゃんとなり、パイプをポケットに収めた。そして、中庭に姿を消した。こそ泥だと見当をつけたハックスターは、帳場をとびこして、道へとび出し、現場を押えようとした。その間に、浮浪者マーヴェル君は、シルクハットを斜めにかぶり、片手には青いテーブル布にくるんだ大包み、片手には、紐でくくった三冊の本という恰好《かっこう》で出て来た――後日、その紐は牧師が盗まれたズボン吊りだということが判明した。
ハックスターと、ばったりぶつかると、浮浪者は、あっと叫び、さっと左へ曲がって逃げ出した。
「どろぼうだあ!」と、叫んで、ハックスターがあとを追った。ハックスターの勘は当たっていた。浮浪者は教会の角を曲がり、丘の方へ、あわてふためいて逃げ出した。目の先に、旗がひらめき、お祭で騒いでいる村があり、こっちをふり向いている顔も見えた。
「とまれ!」と、ハックスターは、もう一度、どなった。だが、十歩もかけぬうちに、妙なぐあいに向こう脛《ずね》をさらわれて、走るどころではなく、さっとばかりに宙でもんどりを打ち、すごい勢いで地面が顔の方へせり上がってくるかと見る間に、目鼻から無数の火花がとびちり、それから先の経過は、まるっきりわからなくなってしまったのである。
十一 はたご屋にて
さて、はたご屋での事件をはっきり知るためには、浮浪者マーヴェル君が、ハックスター雑貨店のタバコ・ウィンドーに、姿をあらわしたときまで、さかのぼらなければならない。ちょうどそのとき、カス先生とバンティング牧師が、宿の客間にいた。ふたりは、その朝の不思議な事件にひどく興味をひかれ、宿の亭主ホールの許可を得て、透明人間の荷物を徹底的に調べていたのである。ジェファーズ巡査は一時的に意識を回復したので親切な友達に送られて家へ帰ってしまった。
例のよそ者のとり散らしていった衣類は、おかみさんが運び出して、あとの部屋は、きれいにかたづいていた。怪人物が仕事をしていたらしい、窓の下のテーブルに、「日誌」と、ラベルのはってある大きなノートが三冊のっているのを、カス先生が、すぐに見つけた。
「日誌だぜ」と、カス先生が、その三冊をテーブルに置き「ともかく、これで、少しは事情がわかろうというものだ」牧師はテーブルに手を支えて、目を向けた。
「日誌か」と、カス先生は、腰を下ろして、その二冊に一冊を立てかけて、開きながら「ふーん――見返しに、名も書いてないぜ。――なんと! 中味は記号と、数字ばかりじゃないか」
牧師がテーブルをまわって来て、肩ごしにのぞき込んだ。
カス先生はページをめくって、急にがっかりした顔で「こりゃ――なんてこった。全部記号ばかりだぜ、バンティング君」
「絵図もないのかね」と、バンティング牧師が「何かわかるような図解が――」
「見てみたまえ」と、カス先生が「数学らしいのと、ロシア文字みたいなものだな(字からみてそうらしい)それと、ギリシア語みたいなものだ。そうだ、ギリシア語なら君に――」
「読めるさ」と、バンティング牧師が老眼鏡をとり出してふきながら急に気まずそうに顔をくもらせた――とりたてて言うほど、ギリシア語を覚えちゃいなかったのだ。「うん――ギリシア語が読めれば、むろん、手がかりがつかめるな」
「ここのところだが」
「まず、全体に目を通したいね」と、バンティング師が、まだ眼鏡をふきながら「まず全体の印象をつかむことだよ、カス君、そうすれば、手がかりを捜せるようになるだろうじゃないか」
牧師は咳ばらいして、眼鏡をかけ、いくども位置を直してから、もう一度咳ばらいをした。そして化けの皮がはがれないですむようなことが起こらないかなと、思っていた。やがて、カスの差し出す、そのノートを、気乗りのしない様子で受けとった。そのとき、思いがけないことがおこった。
さっとドアがあいた。
ふたりは、ぎょっとして、ふり返ると、毛ば立った古シルクハットをかぶり、ちょっと赤くなった顔が見えたのでほっとした。
「ここは酒場じゃねえんですかい」と、その顔がきいて、目をまるくしていた。
「ちがうね」と、ふたりが一緒に答えた。
「向こう側だよ、君」と、バンティング師が言い「ドアをしめて行ってくれ」と、カス先生が、いらいらして言った。
「ようがす」と、侵入者が、最初の甲高い声とは打ってかわって、低い声でおちついて答えたのが、妙だった。
「合点でさあ」と、侵入者は、また前の甲高い声で「じゃ錨《いかり》を上げまさあ」と言ってドアをしめて姿を消した。
「船乗りらしいね」と、バンティング師が「おかしな連中だよ、やつらは。錨を上げるとくるからね。船乗り言葉では、部屋を出て行くのを、ああ言うのかな」
「それにしても」と、カス先生が「きょうは、すっかり神経がいかれちゃってるんでね。とび上がるほど驚いたよ――いきなりドアが開いたんで」
バンティング師が自分はさらに驚かなかったかのようにニヤニヤしながら「じゃ、そろそろ」と、ため息をついて「解読にかかるかな」
「ちょっと待って」と、カス先生は立ってドアにかけ金をかけ「これで、もうじゃまは、はいるまいよ」
そのとき、だれかが鼻をすすった。
「これだけはたしかに言えるね」と、バンティング師は、カス先生のそばに椅子を寄せて「この、二、三日中にアイピング村では奇妙なできごとがあった――実に奇妙な。むろん、わたしは目に見えない人間などというばからしいものを信じるわけにはいかないが――」
「信じられないよ」と、カス先生が「――たしかにそいつの袖《そで》の中はガランドウだった――」
「本当かね――たしかかね。たとえば、鏡を使えば――幻覚を作り出すなんてのは造作ないことだからね。君が本当にうまい手品を見たことがあるかどうかは知らないが――」
「今さら、その点を論じ合ってもしようがないな」と、カス先生が「わしらはたしかに、やつをなぐりつけたんだからね。バンティング君。さあ、この三冊のノートだ――そら、ここにギリシア語らしい個所がある。たしかにギリシア語だ」
カス先生はページの中ほどを指さした。バンティング師は、ちょっと赤くなって、ページに顔をこすりつけた。どうやら、眼鏡のぐあいが悪いらしい。そのとき、いきなり首筋にひやりと何かさわったような気がした。あわてて、頭をもちゃげようとしたら、ぎゅっと押さえつけられているような妙な圧迫感が加わり、強い手にしっかりつかまれているようで、どうしようもなく、顎はテーブルに押しつけられていた。
「動くんじゃないぞ」と、ささやく声がした。「さもないと、ふたりとも粉々にしちまうぞ」
牧師はこれもすぐ鼻先のカス先生と顔を見合わせた。ふたりとも、びっくり仰天して、おびえあがった目の色をしていた。
「乱暴な扱いをしてすまないが」と、声が「やむをえないんだ。だが、君らは、いつから、発明家の大事なノートを、盗み見るなんてまねをし出したんだね」と言いながら、ふたりの顎を、ぎゅうぎゅう、テーブルに押しつけたので、ふたりは、かちかちと歯を鳴らした。
「それに、不幸な目にあっている人間の部屋に忍び込むなんてまねを、いつからやっとるのかね」またしても、ふたりの顎がテーブルに、こつこつと、ぶつけられた。
「僕の衣類を、どこにかたづけたんだね」
「よく聞けよ」と、声がつづけた。「窓はみんなしめきってあるし、鍵は取り上げてあるから、外からはドアがあかんぞ。それに、僕はとても腕っぷしが強いし、いつも、火かき棒をもっとる――しかも、姿は見えないときてる。やる気なら、少しも疑われずに、君らを殺して逃げることだって造作ない。――どうだ、わかるか。わかればいい。僕の言いつけどおりにして、ばかなまねをしないと約束するなら、手を放してやってもいいよ」
牧師と医者は顔を見合わせた。医者が首をすくめた。「言うとおりにする」と、バンティング師も、医者も言った。すると、首を押さえつけていた力がゆるみ、ふたりはやっと胸を起こせた。ふたりとも、まっ赤な顔で首を左右に振ったりした。
「そのまますわっているんだ」と、透明人間が「僕が火かき棒をもっとることを忘れるんじゃないぞ」
「僕がこの部屋にはいったとき」と、言葉をつづけて、ふたりの鼻先に火かき棒をちらつかせながら「まさかお前たちがいるとは思いがけなかったぞ。僕は、覚え書のノートのほかに、衣類をとりにもどったんだ。どこにあるかね。いや――立つんじゃない。自分で捜せるからな。ちょうど今ごろは暖かい陽気で、透明人間にとっては、はだかでかけまわるのも苦にならんが、夜になるとまだ冷え込むから、僕は衣類を取りに着たんだ――それに手まわりの品と、特に、その三冊のノートはどうしてもいる」
十二 透明人間、怒りだす
ここでまた、どうしても話の腰を折らなければならない仕儀《しぎ》に立ちいたったのは、次に述べるような、やむをえぬ事情が生じたからである。客室でご承知のような事態が進展していたとき、雑貨屋のハックスターは、中庭の木戸によりかかってタバコをくゆらしている浮浪人マーヴェル君を見張っていたし、そこから十二ヤードほどの酒場では、宿の亭主ホールと時計職人テッディ・ヘンフリーが、アイピング村の椿事《ちんじ》について口角泡《こうかくあわ》をとばしていたのである。
そのとき、いきなり、客室のドアにどさっとぶつかる音がし、鋭い叫び声がおこり――すぐに、しんとなった。
「なんだい――ありゃ」と、テッディ・ヘンフリーが言った。
「なんだろうな――ありゃ」と、亭主が言った。
亭主のホール君は、慎重に、のろのろと「ただごとじゃねえ」と、言い、酒場のカウンターをまわって、客室の方へ近寄った。
亭主とテッディは、緊張した顔でドアへ近づき、目でうなずき合って「変だぜ」と、亭主が言い、テッディがこっくりした。ぷーんと化学薬品のいやな匂いがし、ふくみ声の早口な話し声が聞こえてくる。
「大丈夫ですかい」と、亭主が、ノックしてきいた。
低い話し声がぴたりととまって、しばらく静まり、やがて、ひそひそ声が聞こえ、鋭い叫び声になった。「いかん。絶対にいかん」急にどたばたがはじまり、椅子がひっくりかえり、しばらくもみ合っていたが、ぴたりと静まった。
「いったい、どうしたんだろ」と、ヘンフリーが声をひそめて、言った。
「旦那がた、大丈夫かね」と、亭主が声をとがらせた。
牧師が妙にひきつった声で「大丈夫だ。向こうへ行っててくれ」
「妙だね」と、ヘンフリーが言った。
「変だぜ」と、亭主も言った。
「向こうへ行ってろと言ったぜ」と、ヘンフリーが言った。
「たしかに、そう言ってたな」と、亭主が。
「それに、咳がした」と、ヘンフリーが。
ふたりは聞き耳をたてていた。おそろしく早口で低い声がした。
「そんなことはできんよ」と、バンティング師の声が高くなり「きっぱり、お断わりする」
「ありゃ、なんだい」と、ヘンフリーがきいた。
「断わってるんだな」と、亭主が「わしらに言っとるんじゃねえとすると、だれに言っとるんだろ」
「不名誉きわまる」と、室内でバンティング師の声がした。
「不名誉だとさ」と、ヘンフリーが「はっきり――そう聞こえたぜ」
「今、話しているのはだれだろ」と、ヘンフリーがきいた。
「カス先生だろさ」と、亭主が「何か、聞こえるかい」
しんとしていた。室内のもの音は、ぼやけて、聞きとれなかった。
「テーブルかけをひろげとるような音だぜ」と亭主が言った。
宿のおかみが、酒場のカウンターに姿をあらわした。亭主が静かにするようにと合図して、手招きした。それが、かみさんの神経にさわった。
「そんなとこで、何を立ち聞きなんかしてるんだね、あんたは」と、おかみが訊き「役にもたたないことばかりしてさ――こんな忙しい日だってのに」
亭主は、手まね口まねで事情を説明しようとするが、かみさんはてんで受けつけなかった。そして大声をあげるので、亭主とヘンフリーは、しぶしぶ、爪先《つまさき》立ちで酒場にもどり、身ぶりもにぎやかに、事情を伝えようとした。
初めのうちは、ふたりの言うことなど、てんで本気にしなかったかみさんも、やがて、亭主を黙らせておいて、ヘンフリーの話に耳をかたむけた。だが、ばかばかしい話だと思い込んでいるらしく――たぶん室内のふたりが家具でも動かしているのだろうと思っていた。
「おりゃ、たしかに、不名誉だと言うのを、聞いたんだぜ」と、亭主が言った。
「わたしも聞いたんですぜ。おかみさん」と、ヘンフリーも言った。
「言ったっていいじゃないかね――」と、おかみさんが、言いかけたとき「しっ!」と、ヘンフリー君が押えて「窓のあく音がしたようですぜ」
「どこの窓さ」と、かみさんがきいた。
「客室の窓でさ」と、ヘンフリーが言った。
みんな、しんけんに耳をすました。おかみさんは、目をまっすぐに向けて、宿の玄関口の飾りつけた枠《わく》などには目もくれず、その先の白くにぎやかな大通りと、雑貨屋ハックスターの店先にふりそそぐ六月の日の光を見つめていた。いきなり、ハックスターの店のドアが開き、ハックスターがとび出してくると、目をむき、手を振りまわして、「この野郎」と叫び「泥棒だ」と、どなり、ななめに、宿の玄関口をかすめて、中庭の方へかけ去った。
それと同時に、客室でドタバタ始まり、ばたんと窓をしめる音がした。
亭主とヘンフリーと、酒場にいた連中が、すぐあわてふためいて通りへとび出した。見ると、向こうの町角を曲がってかけ去る男があり、それを追いかけるハックスターが宙にもんどり打って頭からへたり込んだ。通りにいた連中が、あっけにとられて立つ者あり、追いかける者ありだった。
ハックスター君は気絶していた。ヘンフリーは、それを見て立ちどまったが、亭主のホールと、酒場からとび出したふたりの労働者が、何かわめきながら町角へかけつけてみると、浮浪人マーヴェル君が教会の壁を曲がって姿を消すところだった。みんなは、その姿を、てっきり透明人間の正体だと早合点して、すぐに追跡に移った。
だが亭主のホールは、ものの十ヤードもかけ出さぬうちに、あっと叫ぶ間もなく、横に突きとばされ、そばを走る労働者につかまったので、ふたりとも地面に投げつけられた。ちょうど、フットボールで、タックルした恰好だった。あとからかけて来た、もうひとりの労働者も、折り重なって転びそうになったが、ホールが何かにつまずいたのだと見てとり、追跡をつづけようとした。だが、すぐに、ハックスターと同じように足のくるぶしを、蹴とばされてへたばり込んだ。そのとき、亭主と一緒に転んだ労働者が、ようやく立ち上がったが、牡牛でもぶっ倒すような、くそ力で、一撃のもとに蹴倒されてしまった。
その男が倒れたとき、村の共有地の方からかけつける連中が、町角を曲がって来た。先頭は、玉転がしのおやじで、青いセーターのたくましい男だった。三人がだらしなく転がっているほかには、通りに人っ子ひとりいないのを見て、びっくりした。するうちに、いきなり、ふくらはぎのあたりを蹴とばされて、つんのめって倒れたので、すぐあとからかけて来た弟と仲間がその体《からだ》に足をすくわれてしまった。つづいて、ふたりの男が蹴上げられて、膝をつき、折れ重なって倒れ、あわててかけつける大ぜいの連中が将棋《しょうぎ》倒しになった。
ところで、亭主のホールとヘンフリーと労働者が家からかけ出したあとも、おかみは長年の経験から、酒場の銭箱にへばりついていた。すると、急に、客室のドアが開き、カス先生がとび出してくると、おかみには目もくれずに、すぐ、町角めがけてかけつけた。
「やつを押えろ!」と、先生が大声で「持ってる包みを捨てさせるな。包みを持っている間は、やつが見えるからな」
カス先生は、浮浪人マーヴェルのことなど、てんでご存知なかった。透明人間がすでに本と包みを中庭でマーヴェルに手渡したことなど知るよしもなかったからだ。
カス先生の顔は、怒りで、断固たる決意を示していたが、その服装たるやさんざんで、白い木綿《もめん》の下ばきみたいなものを着けているだけで、ギリシア時代ならともかく、今日のイギリスでは、とても通りそうもない、ていたらくだった。
「つかまえろ!」と、先生はわめいた。「わしのズボンをはぎおったぞ。牧師の服も、すっかり、やられたぞ!」
「この男を介抱してやってくれ」と、先生は、へたばっているハックスターのそばをかけ抜けながら、ヘンフリーに言いのこして、角を曲がり、押し合いへし合いの連中の中にとびこんだが、とたんに、足を蹴りつけられて、ぶざまに四つんばいになった。大股《おおまた》でとんで来たやつが、先生の指先を、いやというほど踏みつけた。先生は悲鳴をあげて、もがきながら、やっと立ち上がると、またしても蹴りつけられて、四つんばいになった。そして、捕虜《ほりょ》にはされなかったが敗北したことを悟った。みんな、村をさして逃げ出していた。先生はやっと立ち上がったが、いやというほど、耳の後方をなぐりつけられた。それで、びっこをひきながら、はたご屋の方へ退却し出した。途中で、やっと正気にもどったハックスターが起き上がろうとしているのも見すてて逃げ帰ったのだ。
宿の玄関の踏み段を半分も上がらないうちに、先生は背後に、怒りにみちたわめき声を聞いた。そのわめきは、みんなの叫び声や、だれかが顔をなぐられる音の中から、くっきりと、きわだって聞こえた。透明人間の声と、いきなりなぐりとばされて絶叫する者の声とが、先生には、はっきり区別できた。
次の瞬間、カス先生は客室にとび込んでいた。
「やつがもどって来るぞ、バンティング!」と、言って、とび込むと「気をつけろ! やつはかんかんにおこっとるぞ!」
バンティング師は、窓ぎわに立って、炉敷きと、ウェスト・サリー新聞を使って、はだかの身づくろいに余念がなかった。
「だれが来るって?」と、訊き、驚いたとたんに、せっかくの衣装が、ばらばらに解けかかった。
「透明人間だよ」と、カス先生は言って、窓にかけより「ここを引き上げたほうがいいぞ。やつは狂ったようにあばれとる。気違いだ!」
先生は、あわてて中庭へとび出した。
「おお、神さま」と、バンティング師は言って、狂人を避けるか、醜態をさらすかの瀬戸ぎわに立って、迷っていた。宿の廊下で、恐ろしい格闘の音がするので、やっと、決心がついた。牧師はあわてて窓をはい出し、紙と炉敷きではだかをくるんでいる身ごしらえを手で押えながら、ずんぐり短い足の許すかぎりの早さで、村へ逃げのびて行った。
透明人間が憤怒《ふんぬ》の叫びをあげ、バンティング牧師が名誉ある逃走を行なっている間にも、アイピング村には数々のできごとがあったのだが、それをいちいち記録するいとまはない。おそらく、透明人間の最初のもくろみは、ノートと服を持って逃げさせる浮浪人マーヴェルを援護することだけだったらしい。ところが、いつもくさくさしていたやつの癇癪玉が、どうかしたはずみに全く爆発して、それから先は、ただ人をいためつけるために、なぐりまわり、あばれまわったものと見える。
往来を逃げまわる人々、ばたばたと戸をしめる家々、隠れ場所を求めてもみ合う人々を想像していただきたい。この騒ぎに驚いたフレッチャー老人が、椅子にかけ渡した板の上で、あく洗いの最中にバランスを失ってひっくり返り――目も当てられないざまになったところなども目に浮かべていただこう。それに、肝をつぶしたカップルが、ブランコで気が遠くなった図も想像してください。
やがて騒ぎが静まると、アイピング村の往来には、旗や飾りだけが風にそよぎ、目に見えぬ男があばれまわっているだけで、人っ子ひとりいなくなった。玉転がしのヤシの実が散乱し、布地の絵甲板などがちらかり、駄菓子屋のボンボンが投げ出されていた。あちこちから、戸を下ろし、かんぬきをかける音が聞こえるばかりで、人のいる気配といっては、ときどき窓ガラスの隅から、眉《まゆ》をあげてのぞいている連中の目が見えるぐらいだった。
透明人間は、しばらくの間、はたご屋の窓ガラスを片っぱしからこわして楽しんでいたが、やがて、街灯のランプをグリッブル夫人の客間の窓から投げ込んだ。アダーディーン街道のヒギンスの小屋の付近で、電信線を切ったのも、透明人間にちがいない。それからは、透明人間という言葉どおりに、姿を消して全く人の目につかなくなってしまった。もう、アイピング村では、二度と、その声を聞いたり、姿を見かけたり、感じたりするなどということはなくなった。完全に消え去ったのだ。
だが、人気《ひとけ》のないアイピング村の往来に、村の連中がこわごわ出て来るようになるまでには、たっぷり二時間もたっていた。
十三 マーヴェル君の辞職願い
夕暮れが迫って、めちゃめちゃにされたアイピング村の銀行休日(聖霊降臨節)の祭に、また村人たちが、こそこそと集まり始めたころ、古ぼけたシルクハットをかぶった、ずんぐりむっくりの男が、ブナの木かげの、夕闇《ゆうやみ》を縫って、ブランブルハースト街道を、痛む足を引きずりながら歩いていた。青いテーブルかけでくるんだ包みと、ゴムの飾り紐でくくった三冊のノートを持っていた。その赤ら顔には、深い驚きと疲れの色が浮かんでいた。時々、思い出したように足をはやめる様子だった。自分以外の声の命令に服従させられているらしく、見えない手にこづかれて、たえず、しかめっ面をしていた。
「今度おれをまいて逃げようとしてみろ」と声が「そんなことしてみろ、ただじゃすまんぞ」
「頼みますよ、旦那」と、マーヴェル君が「それじゃあ、あっしの肩が傷だらけになっちまいまさあ」
「――きっと」と声が「殺してやるからな」
「あんたをまこうとなんて、思ってみたこともありませんぜ」と、マーヴェルが泣きべそで「誓って、そんなことしたんじゃありませんや。ただ、どこで曲がっていいか、わからなかっただけでさ。第一、いい曲がり角を知ってるはずがねえでしょう。だからって、こうなぐられつづけじゃあ――」
「もっと、なぐられてもいいのか」と、声が言うと、マーヴェル君は、急に黙りこんだ。そして、頬をふくらませ、目に絶望の色を浮かべた。
「あんな、うすのろの土百姓どもに、おれの秘密をあばかれてたまるものか。お前がそのノートを、さらって来たからよかったものの、さもないと大変だった。やつらにしても途中であきらめて、逃げ出したから、死なずにすんで運がよかったんだ。おれだって、黙っちゃおれんからな――おれが目に見えないことが、みんなに知られちまったぞ。さて、これからどうしたものかな」
「どうかしようってんですかい」と、マーヴェルが、声をひそめてきいた。
「それを考えてるんだ。新聞が書き立てるだろうしな。みんながおれを捜しまわるし、みんな用心深くなるだろうしな――」と、声が、荒っぽく悪罵《あくば》しはじめて、やがてやんだ。
マーヴェル君はいっそう絶望的な顔になり、歩みがのろくなった。
「急ぐんだ」と、声がしかった。
マーヴェル君の赤ら顔に灰色のかげがさした。
「そのノートを落とすなよばか」と、声が鋭く言って――マーヴェルを縮み上がらせた。
「実は」と、声が「おれは、お前を役立てなければならないんだ。お前はつまらん道具だが、必要なんだ」
「みじめな道具でさあ」と、マーヴェルが言った。
「そうだな」と、声が言った。
「いちばん役に立ちそうもない道具を手に入れなさったね」と、マーヴェルが「あっしゃ、力なしでさ」と、しばらく、情けなさそうに黙りこんでいてから言った。
「あんまり強いほうじゃねえでさ」と、もう一度言った。
「そうか」
「それに、心臓も弱いしね。さっきぐらいの喧嘩なら――むろん、どうにかやれることはやれるがね――でも、旦那、あっしゃ、もう少しで、ぶっ倒れるところでしたよ」
「それで?」
「旦那のねらってるようなことをやらかす、度胸も力もねえですよ」
「おれが力をつけてやる」
「ごめんこうむりますよ。旦那のねらいをぶちこわすようなこたあしたくねえですがね。あっしゃあだめでさ――とてもおっかなくって、うまくいきませんや」
「こわがらんほうがいいぞ」と、声がしずかな凄味《すごみ》をこめて言った。
「死んだほうがましでさ」と、マーヴェルが「まっとうなこっちゃねえんですからね、言ってみりゃあ――あっしにだって、お断りしようと思えば、そのくらいの権利は――」
「歩くんだ!」と、声がしかった。
マーヴェル君はまた足を早めて、しばらくふたりは黙って歩いた。
「とても、つれえこってさ」と、マーヴェルが言ったが、てんで手ごたえがなかったので、こんな不当な扱いには耐えられないという調子で、もう一発、追い討ちをかけた。
「あっしが、どんな役に立つって言うんで?」
「おい。黙っとれ」と、声が急にいきいきと気負って「おれがお前を守ってやる。だから、指図どおりに動いていればいいんだ。お前はそうするだけでいいんだぞ。どうせお前は、利口な人間じゃないが、役には立つ――」
「旦那、とても、あっしゃ、その人《にん》じゃねえんですぜ。ねえ旦那――なんてったって――」
「黙らんと、また、腕をねじあげるぞ」と、透明人間が「おれは少し考えごとをしたいんだ」
やがて、木立《こだち》の向こうに黄色い窓の灯が二つ見えてきて教会の四角い塔が夕闇の中に浮かび上がった。
「お前の肩をつかんどるからな」と、声が「村を通り抜けるまでな。さっさと行くんだ、ばかなまねなんかするんじゃないぞ。じたばたすると、ひどい目にあうぞ」
「わかってますよ」と、マーヴェル君が、ため息をついて「千万ご存知でさ」
ぼろシルクハットをかぶった、みじめな顔つきの男が、荷物をかかえて、小さな村の往来を通りすぎ、やがて窓の灯が遠ざかり、闇が深まるかなたへ消えて行った。
十四 ポート・ストウで
あくる朝の十時に、マーヴェル君はポート・ストウ村のはずれの小さな宿屋の前のベンチに腰かけていた。ひげだらけで、うすよごれて、ほこりだらけで、旅やつれしたまま、両手をポケットに深くさし込んで、いかにも不機嫌そうに、いらいらと絶えずふくれっ面をしていた。そばには例のノートが紐でくくって置いてあった。包みのほうは、透明人間の計画変更で、ブランブルハーストの先の松林に捨てて来たのだ。ベンチに腰かけているマーヴェル君を気にとめる者は、だれもいなかったが、マーヴェルはかんかんに腹をたてていた。妙に手をふるわせながら、からだじゅうのポケットを、いくども探りまわしていた。
たっぷり一時間もそうしているところへ、宿屋から新聞を持って出て来た老水夫が、マーヴェルの隣に腰をおろして「いい天気だね」と話しかけた。
マーヴェル君は、おびえるように、その男をちらりと見て「そうだね」と、答えた。
「このごろの陽気としちゃ上々だ」と、老水夫は、ひとりのみこみに言った。
「全くね」と、マーヴェル君が。
老水夫は爪楊子《つまようじ》をとり出してしばらくは一心に使いながら、相手に気がねもしなかった。そのあいだも、ほこりだらけなマーヴェル君の姿と、そばのノートをじろじろ見くらべていた。近づいて来たときに、マーヴェル君がポケットに金貨を落としているような音がたしかに聞こえていたようだったので、そのみすぼらしい様子と、金貨の音との不釣合いに、不審の念を抱いていた。やがて、不審の念を抱いたまま、水夫はさりげなくさぐりを入れてきた。
「ノートだね」と、急にきき、爪楊子を使い終わって、チューチュー歯をならした。
「ノートにゃ妙なことが書いてあるもんだね」と、水夫が言った。
「そうらしいね」と、マーヴェル君が受けた。
「そのノートにも書いてあるかい」
「まあね。そうでさ」と、マーヴェル君が言って、目をとがらせて相手を見、あたりを見まわした。
「新聞にも妙なことが出てるぜ。たとえば」と、水夫が言った。
「そうかね」
「この新聞にもよ」と、水夫が言った。
「へえ――」と、マーヴェル君が、驚いて言った。
「この記事だが」と、水夫は図星だろうといわんばかりにマーヴェル君を見つめて「透明人間てのがあらわれたそうだぜ」
マーヴェル君は唇《くちびる》をゆがめて頬をかいた。耳のあたりがほてるような気がした。
「どこへあらわれたといってるんだね」と、心細い声で「オーストラリアですかい、それともアメリカ」
「ちがうね」と、水夫が「ご当地さ」
「へえ――」と、マーヴェル君は、びっくりした。
「ここったって」と、水夫が「この場所ってわけじゃないぜ、この近在さ」と、言ったので、マーヴェル君は、ほっとした。
「透明人間か?」と、マーヴェル君が「そいつ、いったい何をたくらんでいるんですかね」
「なんだってやるのさ」と、水夫はマーヴェルの様子を見張りながら、追い討ちをかけるように「したいことのしほうだいさ」
「あっしゃ、この四日間、新聞を見てねえんでね」と、マーヴェルが言った。
「やつが最初に姿をあらわしたのはアイピング村さ」と、水夫が言った。
「本当ですかい」
「そこにあらわれたのが最初だが、どこから来たのか、さっぱりわからねえらしいぜ。ここに出てらあ。『アイピング村の椿事《ちんじ》』とな。記事によれば、絶対たしかな怪事件で――証人もたしかだそうだ」
「へえ――」と、マーヴェル君が言った。
「だがよ、本当に不思議な事件だぜ。牧師さんと、お医者さんが証人になってる――ふたりがちゃんと見とどけたってさ――いや、そうじゃねえ、見えなかったってわけかな。とにかく、やつは村のはたご屋に泊まってて、だれもやつが透明人間だなんて気がつかなかったそうだぜ。頭にまいていた包帯がとけたんで、正体がばれたってことだぜ。包帯の下はからっぽで何も見えねえってんだからね。すぐ、とっつかまえようとしたら、着てるものを片っぱしから脱ぎすてて、姿を消しちまったってんだ。だが、逃がす前に、大乱闘したんだってさ。そんとき、やつは、りっぱな巡査のJ・A・ジェファーズさんを大けがさせたってこったよ。どうだい、まともな話だろう、えっ! 名前だってみんなちゃんと出てるんだぜ」
「へえ――」と、マーヴェル君は言って、おずおずとあたりを見まわし、思わず知らず、ポケットの中の金貨をまさぐりながら、今さらのように、妙な気分になった。「驚いたなあ」
「それどころじゃねえ、不思議なこったよ。生まれてから、透明人間なんてもなあ聞いたこともねえよ。だけど、きょう日じゃ、そんな妙なことが、いくらでもあるってもんだね――まったく――」
「新聞に出てるのは、それだけですかい」と、マーヴェルが、念を押すようにきいた。
「それだけじゃ、足りねえとでも言うのかい」と、水夫が、やり返した。
「ひょっとすると、もどって来やしませんかい」と、マーヴェルが「ただ逃げただけじゃすまなくて」
「すまねえって?」と、水夫が「冗談じゃねえ――あれだけあばれまわってさ」
「たくさんさね、もう」と、マーヴェルが。
「むろんたくさんさ」と水夫が「あれだけやりゃあ」
「相棒はいねえんですかい――新聞に出てませんかね」と、マーヴェルが身を乗り出した。
「あんなのは、ひとりでたくさんじゃねえか」と、水夫が「幸せなことに、あばれたのは、ひとりっきりらしいぜ」と、ゆっくり首をふりながら「正直なところ、そんなやつがこの辺を、うろつきまわってると思うと、いい気持がしないぜ。やつはどうやら、いろんな証拠からみて、こっちへ来たか――来てるらしいんだ――つまりよ、ポート・ストウ街道に向かったらしいってんだ。おれたちが今いるこの村へな。おめえさんのいう、アメリカどころじゃねえんだよ。やつあ、どんなことをしでかすか知れたもんじゃねえ。いきなり、おめえにとびかかって、追いはぎするかもしれねえが――だれにも防ぎようがねえじゃねえか。なにしろ透明なんだから、忍びも盗みも自由自在ってわけだぜ。巡査《おまわり》の非常線だって、すいすい、抜けてっちゃうぜ。盲人ってやつあ、とても耳ざといからな。やつあ、酒がほしいとなれば、どこへだって――」
「たしかに、とても便利なからだだからね」と、マーヴェル君が「それに――そう」
「そうともよ」と、水夫が「こっちに見えねえんだからね」
話してる間、マーヴェル君は注意深くあたりを見まわし、かすかな足音にも聞き耳を立て、ものの気配にも気をくばっていた。やがて、重大な決意をしたらしく、手の甲で口を押えて咳ばらいした。
そして、もう一度あたりの様子をうかがい、耳をすませながら、水夫の方へ顔を近づけて声をひそめて「実は――あっしゃ、偶然のことで――その透明人間についちゃ、ちょっとばかし知ってるんでさ。内緒なんだがね」
「えっ」と、水夫が目を光らせて「おめえさんが」
「そうさ」と、マーヴェル君が「あっしがさ」
「本当かい」と、水夫が「で、どんなことだい――」
「驚くようなこってすぜ」と、マーヴェルが押えた口の下から「とてつもねえこってすよ」
「そうだろうな」と、水夫が言った。
「実あね」と、マーヴェル君が、低い、真実味のあふれる声で、しんけんに話しかけたが、突然、その顔がひんまがった。いちちちちと言い、ぎこちなく棒立ちになり、明らかに、どこかが、ひどく痛むらしく、うちちちちちと言った。
「ど、どうしたんだ」と、水夫が気をもんだ。
「歯がね」と言いながら、マーヴェル君は耳を押えた。そして、急いでノートをひっつかむと、「急いで行かなきゃならねえんでさ」と言いながら、妙な腰つきで、椅子をまわり話相手から離れていった。
「おい、おめえ、透明人間の話をしかけていたじゃねえか」と、水夫がとめたが、マーヴェル君がどぎまぎしていると「でたらめだ」と、声がした。それで、マーヴェル君が「でたらめでさ」と言った。
「でも、新聞に出てるんだぜ」と、水夫が。
「どっちみちでたらめでさ」と、マーヴェルが「デマをとばしたやつを、あっしゃあ知ってるんだ。どこにも、透明人間なんていやあしねえよ――嘘《うそ》っぱちさ」
「じゃあ、この新聞に出てるなぁ、どうしたってことだ。まさか、おめえ――」
「全然、でたらめでさ」と、マーヴェルが、はっきり言った。
水夫は新聞を持ったまま、じっとマーヴェルを見つめた。マーヴェルはしきりに顔をしかめた。
「ちょいと待ちな」と、水夫は立ち上がって、ゆっくりした口調で「まさか、おめえそんな――」
「そうでさ」と、マーヴェルが言った。
「じゃ、なぜ、こんなばかげた記事の話を、おれに長々としゃべらせてたんだ。おれをばかにするつもりで、そんなことをさせてやがったのか。え、おい」
マーヴェル君が頬をふくらました。水夫はいきなりかんかんになって、拳《こぶし》を握りしめた。
「おや、こんなばか話を十分の上もさせられたんだぞ。よくもてめえは。出《で》っ尻《ちり》の、しなびっ面の、どた靴野郎め! のめのめと聞いてやがったな。人をばかにしやがって!」
「あっしゃ、喧嘩するつもりはねえよ」と、マーヴェル君が言った。
「喧嘩を売るのか。こんな善人に――」
「行くんだ」と、声がした。マーヴェル君は、いきなり背を向けると、妙に、ぴょこぴょことびながら歩き出した。
「逃げるのか」と、水夫が、いどみかかり「逃げるものか」と、マーヴェル君が言い返したが、妙に急ぐ様子で、ふらふらと歩き、時々前へつきとばされるように去って行った。少しはなれてから、ぶつぶつとひとり言をいい、反抗的な言葉を出し、しきりに言いあらそうようだった。
「ばか野郎」と、水夫は両足をひろげて立ち、両手を腰に当てて、去り行く相手をながめていた。「痛い目にあわせてくれるぞ、うすのろめ!――ばかにしやがって。たしかに――新聞に出ているんだぞ」
マーヴェル君は、よろよろ、びっこをひきながら曲がり角に姿を消したが、水夫は大道のまん中に威丈高《いたけだか》に突っ立っていた。肉屋の馬車が危うく水夫をひきそうになった。やがて、水夫はポート・ストウ村の方へ引き返した。「なんて、大ばか野郎だ」と、おだやかな声で「ちょっと、かつぎやがったんだな――つまらねえ冗談をしやがって――ちゃんと新聞に出てるってのにさ」
ところが、間もなく、すぐ身近かで、妙な事件にぶつかった話をきく、はめになった。夢のように、ひと握りの金貨が、セント・マイクル小路の角の壁にいきなり降って来たというのだ。あたりには全く人影もなかったそうだ。その朝、それを見たのは仲間の水夫で、その金貨を拾おうと、とびついて行ったら、いきなりなぐり倒され、やっと起き上がったときには、金貨は蝶《ちょう》のように翅《はね》がはえて、消えて行ったというのだった。さすがに、なんでも信じがちな老水夫も、この話ばかりは、のみこみにくいと突っぱねたが、しまいには、そうかなあと思うようになってしまった。
金貨の飛んだ話は事実だったのだ。その日は、付近の至るところで、ロンドン銀行の支店から、地方銀行の窓口から、宿屋や小店の銭箱から、――いいお天気なのでドアが広くあけっぱなしだったので――一握りのお金や、巻封したお金が、音もなくこっそりと舞い上がって、ふわふわと壁ぎわやものかげに飛んで行き、人目が近づくと、ふっと消え去ってしまった。そして、だれにも行き先をつきとめられなかったが、その行き先は、ポート・ストウ村はずれの小さな宿屋の前のベンチにおどおどとすわっている、古シルクハットの主のポケットへ、こっそり飛び込んでしまうに、ちがいなかったのである。
十五 逃げ去る男
その夕方、ケンプ博士は、バードックの町を見下ろす丘の豪邸《ごうてい》の書斎にすわっていた。気持のいい小部屋で、北、西、南に向いて窓が開き、本棚《ほんだな》にはぎっしり本や科学文献がつまり、中央に広い書き物机があり、北窓の下には、顕微鏡、スライド、小器具類、培養液、試薬の壜などが散らばっていた。まだ落日の光が明るかったが、室内には太陽灯のランプがつけられ、外からのぞかれる心配がないので、窓のブラインドはみんな巻き上げてあった。ケンプ博士は背がすらりと高い青年で、亜麻色の髪、白っぽい口ひげをはやし、目下研究中の業績で、長年あこがれている王位科学協会員の資格を得たいと思っていた。ふと、研究に疲れた目をあげて、その部屋の向かいの丘の背に沈みかけて、赤々と燃える夕日をながめていた。
しばらくの間、博士は丘の頂を染める金色の夕日の美しさに見とれていたが、ふと気づくと、尾根を越えて、転がるように、こちらへ向かってかけてくる、黒インキのシミのような、ずんぐりむっくりした男の影が、目についた。
「あれもばかのひとりだろう」と、博士はつぶやいた。「今朝、町角で出会ったあのばかは、『透明人間があらわれたそうですぜ、旦那』と、言っていたが、ああいう気違いの言うことは、私にはさっぱりわからないな。まるで十三世紀にでも生きてるつもりらしい」
博士は立って窓辺に行き、暮れ行く丘を、かけ下ってくる小さな黒い人物をながめていた。
「よほど急いでいるらしいが」と、博士はつぶやいた。「うまく走れないようだな。ポケットに鉛でもつめこんでいるのかな。さっぱり道がはかどらないぞ。しっかり、しっかり」
やがて、バードックの町から丘へはい上がっている屋敷町の上あたりまで来ると、その男の姿が見えなくなり、またあらわれ、また隠れ、またあらわれて、三つの邸《やしき》をかけ抜けると、その下の邸のテラスの後ろにはいってしまった。
「ばかだなあ」と、博士は言って、くるりと向きを変えると、書き物机にもどって来た。
しかし、道に出ていて目《ま》近にそのかけている男を見れば、博士のように簡単には軽蔑《けいべつ》し去ることはできないはずだった。汗まみれの男の顔には恐怖がはりついていたし、転がるようにかけるたびに、金貨のつまった財布が左右にゆれるようにチャラチャラと音がしていたからだ。男は左右に目もくれず、まっすぐ目の下の、明るく灯がつき、人々の群れている町を見つめていた。だらんとした唇をあけ、口に泡をため、はアはアぜいぜい息をきらせていた。その男にすれ違った連中は、みんな立ちどまって、男の前後を見まわし、なぜあんなに急いでいるのか見当がつかないので、みんないぶからずにはいられなかった。
すると、そのとき丘の上の道で遊んでいた犬どもがほえたてて尾をまいて門に逃げこみ、更に不思議なことには、何か風のように――パタパタパタと――息のはずむような音が――みんなのそばをかけすぎた。
人々は悲鳴をあげた。そして、歩道にとび上がって道をあけた。恐怖は悲鳴によって伝えられ本能的に丘の下へ伝って行き、マーヴェルが半分も来ないうちに町中に悲鳴がひろがっていた。町の連中は、かけがねを下ろし、ドアをピタリとしめた。マーヴェルはその音を聞きながら、死にもの狂いでかけていた。恐怖が大股で追いかけて来、追い抜き、たちまち、町じゅうをふるえあがらせた。
「透明人間の来襲だあ!」
「透明人間だあ!」
十六 酒亭「陽気なクリケット選手」
酒亭「陽気なクリケット選手」は、丘のふもとにあって、そこから鉄道馬車が出ていた。酒亭のおやじは、太い赤みがかった両腕をカウンターについて、貧血症の馬車ひきを相手に競馬の話をしていたし、灰色の服を着た黒い顎ひげの男がチーズつきのビスケットをつまみ、ウィスキーをのみながら、非番の巡査と、アメリカなまりでしゃべっていた。
「なんだ、あの騒ぎは?」と、青白い馬車ひきが、急いで窓に近寄り、店の低い窓の黄色くくすんだブラインドのすき間から、丘の方をながめようとした。だれかが、店の外をかけていった。
「火事かな」と、亭主《おやじ》が言った。
息せき切ってかける足音が近づいたかと思うと、いきなり店のドアがさっとあいて、浮浪人マーヴェルが、髪をふりみだした泣きっ面でとび込み、ふるえながら、あわててドアをしめようとした。例の古シルクハットはすっとび、上着の襟が破れていた。あいにくドアは皮紐でくくって、半分しかしまらないようになっていた。
「やつが来るぞ」と、おびえた金切り声で、わめいた。「やつが来るんだ。透明人間がよ。追っかけてくるんだ。たのむ、助けてくれ、助けて」
「ドアをしめろ」と、巡査が「だれが来るって? いったいどうしたんだ」と言い、ドアへ行って、皮紐をほどき、ぱたんとしめた。アメリカなまりの男が、他のドアをしめた。
「かくまってもらいてえ」と、マーヴェルが、よろめきながら、泣きっ面で頼んだ。手には、まだ例のノートをしっかり持っていた。「かくまってくらっせ。どこかへ入れて――鍵をかけてくらっせ。あいつが、追っかけてくるんでさ。やっと、抜けて来たんでさ。そんなことをしたら殺すと言っとったが、本当にやりかねねえんでさ」
「安心しろ」と、黒い顎ひげの男が「ドアはしまってる。一体、どうしたって言うのかね」
「かくまってくらっせ」と、言いかけたとき、しまっているドアをどんどんたたく音がし、外で気ぜわしく、どなる声が聞こえたので、マーヴェルは、また金切り声をあげた。
「だれだ!」と、巡査が大声で「何者だ!」
マーヴェル君は、あわてて、ドアのように見える羽目板に、頭からとびついて「殺される――やつはナイフかなんか持ってまさあ。おお神さま」
「大丈夫だよ」と、おやじが「こっちへはいんな」と、カウンターの、はね板を上げた。
マーヴェル君がカウンターの下へもぐり込んだとき、巡査が外の男に尋問をつづけていた。
「ドアをあけちゃなんねえ」と、マーヴェルが金切り声で「どうか、あけねえでくらっせ。あけたら隠れようがねえんでさ」
「ほう、すると、やつが透明人間かね」と、顎ひげの男が、身構えるようにして「そろそろ、正体をばらしてやるころだな」
突然、酒場の窓ガラスがぶちこわされて、叫びながら逃げまどう町の騒ぎが聞こえた。
巡査は長椅子の上に立って、首をのばしてドアの外をのぞいていたが、長椅子を下りると眉をひそめて「どうやら、本ものらしいぞ」と言った。
マーヴェル君を奥の部屋に入れて鍵をかけて来たおやじは、こわれた窓をじろりと見て、巡査たちのところへもどって来た。
不意にあたりがしんとなった。「警棒を持ってくればよかったな」と、巡査が言い、こわごわドアに近寄り「あけたら最後、はいってくる。とても防ぎようがない」
「よく考えてからあけなさるがいいぜ」と、青白い馬車ひきが、心配そうに言った。
「かんぬきを抜けよ」と、黒い顎ひげの男が「はいって来てみろ、見舞ってやる」と、拳銃を握りしめた。
「そりゃいかん」と、巡査が「殺人になる」
「ここがイギリスだってことは心得とるよ」と、顎ひげが「足に一発くわしてやる。かんぬきを抜けよ」
「あっしの後ろから、ぶっぱなさんでくださいよ」と、おやじが、首をのばして、ブラインドの上から外をのぞいた。
「わかってるさ」と、顎ひげが、腰をおとして、射撃の用意をし、かんぬきを引き抜いた。おやじと、馬車ひきと、巡査が、ドアを見つめた。
「はいって来い」と、ひげ男が、拳銃を背にかくして、身構えながら、低い声で言い、かんぬきをはずした表ドアをにらんでいた。
だれもはいって来ず、ドアはしまったままだった。五分ほどして、もうひとりの馬車ひきが、こわごわ首をのばして、ドアからのぞいた。みんなは、まだ待ち構えていた。そのとき、酒場の奥からマーヴェルの心配そうな顔がのぞいて「家中のドアはしまってますかい。やつが、外をぐるぐるまわってますぜ。悪魔みてえにずるがしこいやつですからね」
「しまった」と、はげ頭のおやじが「裏口を忘れてた。ちょっくら見まわってくる。いいかい、頼むよ――」と、心細そうにみんなを見まわした。
奥の部屋のドアがしまり、錠をかける音がした。
「庭口と通用口のドアも忘れてたぞ――」と、おやじが、とび出して行った。そして、すぐもどってくると、肉切包丁をぶら下げていて「庭口のドアがあいてたぞ」と、肉の厚い下唇をかみしめた。
「じゃ、やつは、もう、この家へはいってるかもしれねえな」と、馬車ひきが言った。
「台所にゃいなかった」と、おやじが「あそこにゃ、女どもがふたりいたし、この包丁で隅々まで、ひっかきまわしてみたからな。女どもは、はいったらしくないと言ってる。だが、気がつかなかったのかもしれないしな――」
「ドアはしめてきたんだろうな」と、馬車ひきがきいた。
「抜かりはないさ」と、おやじが言った。
ひげ男が拳銃を持ち直した。と、その瞬間に、カウンターのはね板が、ぱたんとしまり、かけ金がカチカチ鳴り、奥の部屋の錠前がはげしくきしんで、ドアがさっとあいた。マーヴェルがつかまった小兎のように悲鳴をあげたので、一同はカウンターをとびこえて助けに殺到した。ひげ男の拳銃が火を吐くと、部屋の奥の姿見が、音をたててくだけた。
おやじが部屋へとび込むと、マーヴェルが、裏口へ通じる台所のドアのところで、妙な恰好《かっこう》に身をくねらせもがいていた。おやじがとまどっている間に、そのドアがさっと開き、マーヴェルが台所へ引きずり込まれた。叫び声や、鍋《なべ》の落ちる音がした。首うなだれたマーヴェルが、むりやりに後ろ向きに引きずられて、裏口のドアに押しつけられ、ドアのかけ金《がね》がはずされようとしていた。
そのとき、巡査が、おやじを押しのけて、とび込み、後に続いた馬車ひきと一緒に、マーヴェルの襟首をつかんでいる、見えない手首にとびかかろうとしたが、顔をなぐりつけられて、ひっくり返った。ドアがあき、マーヴェルは死にものぐるいで、柱にしがみついた。そのとき、馬車ひきの手が、何かに触れた。「つかまえたぞ」と、馬車ひきが叫ぶと、おやじの太い腕が、何か見えないものにつかみかかった。「野郎いたぞ」と、おやじがどなった。
いきなり、つかんでいた手が放されたので、マーヴェルは、地面に転がり、あわてて、四つんばいになって、とっ組み合っている連中の足のかげに、はい込もうとした。戸口では、どたんばたんと組み討ちが始まった。このとき透明人間が初めて声を出した。鋭い叫び声で、巡査がやつの足を、ふんづけたかららしい。それを聞くと、巡査は火の玉のようになり、うなりながら、両の拳を、麦打ち棒のようにふりまわした。急に、馬車ひきが、みぞおちの下を蹴上げられて、うっと叫び、くの字なりになった。奥の部屋から台所へ通じるドアが、ぴしゃりと閉じて、マーヴェル君の退路を遮断してしまった。台所にいた連中は、いっせいにとびかかったが、みんな空《くう》をついてしまった。
「どこへ行きゃあがったんだ」と、ひげ男が大声で「外へ出たか」
「こっちだ」と、巡査が庭へとび出しかけて、やめた。瓦が一枚、うなりをたてて頭をかすめ、ぱしっと、調理台の皿小鉢にぶつかった。
「目にもの見せてくれるぞ」と、ひげ男が叫び、巡査の肩ごしに、銃弾をパンパンと五発、続けざまに、瓦がとんで来た方をめがけて、夕闇せまる中へぶち込んだ。発射するとき、ひげ男は銃を水平にまわしたので、弾は狭い庭へ、車輪の輻《や》のようにひろがった。
銃声がぱたりとやむと「五発くらわせた」と、ひげ男が「こいつに限るて。絶対だ。だれか灯を持って来い。やつの死体を捜し出そう」
十七 ケンプ博士の客
ケンプ博士は銃声が聞こえるまで、書きものをつづけていた。パン、パン、パンと、次々に銃声がつづいた。
「おや」と、博士はペンをとめて、口にくわえ、耳を澄せた。「バードックで、だれかが発砲したかな。ばかども、今度は何をはじめたのかな」
博士は南側の窓に歩みより、あけて、乗り出しながら、灯《ひ》のちらつく町の家々をながめた。きらめくガス灯や店々の灯や、黒々とした屋根屋根が町の夜景を描いていた。
「丘の下は、人だかりがしているようだな」と、博士は「あれは、酒場のあたりらしい」と、つぶやきながら見入っていた。それから、もっと先の港へ目を向けると、船の灯が輝き、桟橋《さんばし》が明るく、黄玉のようにキラキラ光る小さな遊園会場のようだった。西の丘の頂には新月がかかり、きらめく星は南海の夜空のようだった。
五分ほど、博士は遠い未来のついには時間を超絶してしまうにちがいない時代の社会像について、はるかな思いをはせていた。それから、ため息をつき、窓をしめて机にもどった。
玄関のベルが鳴ったのは、それから一時間ほどたったころらしかった。博士は銃声を聞いてから、どうも気が散って、仕事がはかどらなくなっていた。ベルの音に、すわり直して、耳を澄ました。女中が出たらしいので、階段を上がってくる女中の足音を待っていたが、音沙汰なしだった。「なんだろう」と、博士はつぶやいた。
仕事にもどろうとしたが、気がおちつかないので、立って、書斎を出、階段の踊り場に行ってベルを鳴らし、下のホールに女中が姿を見せたので、手すりごしにきいた。
「郵便だったのかい」
「子供のいたずららしいんですの、旦那さま」と、女中が答えた。
「どうも、おちつかん晩だな」と、博士はつぶやいた。そして書斎にもどり、意を決して仕事にとりかかった。しばらく仕事に熱中していて、室内に聞こえるもの音は、時計の時のきざみと、卓上スタンドの光の下で低く、せわしなくきしむ鵝《が》ペンの音ばかりだった。
その夜の仕事を切り上げたのは、午前二時ごろだった。博士は立って、のびをし、階下の寝室へ下りて行った。そして、上着とチョッキを脱ぎ終えたときに、のどのかわきを覚えたので、燭台を持って食堂へ、ウィスキーとサイフォンを捜しに行った。
科学の研究に打ち込んできた博士は非常に注意深い人柄になっていたので、ホールをもどって来るとき、階段の下の敷物のそばのリノリュームに、黒いシミがあるのに、すぐ気づいた。博士は二階へ上がったが、ふと、あのリノリュームの上のシミはなんだろうと考えた。明らかに第六感が働いたのだ。ともかく、博士はウィスキーとサイフォンを持ったまま、ホールに降りて、それを置くと、しゃがんで、シミにさわってみた。かわいて凝固《ぎょうこ》しかけている血の色なのがわかったが、博士は大して驚かなかった。
博士はウィスキーとサイフォンをもって、二階へもどりながら、あたりを見まわして、その血痕のついた理由を解こうとしていた。踊り場まで登りついたとき、何かが目について、はっとして足をとめた。自分の部屋のドアのハンドルが血まみれになっているではないか。
博士は自分の手を見たが、きれいだった。そのとき、さっき書斎から下りたときにはこの部屋のドアがあけ放ちになっていたから、そのハンドルに全然手を触れなかったのを思い出した。博士は、顔色も変えずに、すたすたと部屋にはいった。――おそらく、いつもより、少しはこわばった顔をしていただろう。博士のとがった視線が、ベッドにそそがれた。枠に血がつき、シーツが裂けていた。さっきはそれに気がつかなかったから、まっすぐに化粧テーブルに向かって行ったのだった。ベッドの向こうのはじがくぼんでいる。今までだれかが腰かけていたらしい。
そのとき、たしかに大声で「やあ、しばらく――ケンプ」というのが聞こえたので、博士は変だと思った。だが、空耳を信じるような博士ではなかった。
博士は立ったまま、皺《しわ》のよったシーツを見つめていた。今のは、たしかに声だったろうかと思って、また見まわしたが、目にはいるのは、乱れた、血まみれのベッドだけだった。そのとき、手洗いのそばへ、かすかに歩いて行く動きが、はっきり聞こえた。どんなに教養のある男でも少しは迷信じみたものを残しているものだ。博士は、ふと、幽霊かなと思った。しかし、部屋のドアを閉じて、化粧テーブルに歩みより、手の荷物を下ろした。いきなり、はっとした。ねじれて血まみれな包帯を巻いた姿が、そこと手洗いの間の宙に浮いてあらわれた。
博士は、あっけにとられて見つめていた。包帯の中がからっぽなのだ。うまく巻けているが、中味がない。博士が歩みよって、それをつかもうとすると、何かがその手を押えて、すぐ耳もとで声がした。
「ケンプ」と、声が言った。
「えっ!」と、博士は、呆然《ぼうぜん》とした。
「しっかりしてくれたまえ」と、声が「僕は透明人間なんだ」
博士は、しばらくは口もきけず、あっけにとられて、包帯姿を見つめるばかりだった。そして「透明人間か」と、つぶやいた。
「僕は透明人間なんだよ」と、声がくり返した。
今朝《けさ》がた、その話をきいて、そんなばかなと思ったばかりなのを、思い出した。とっさには博士は、大して驚きもせず、こわいとも思わなかった。真相をのみこむまでには、少し間があった。
「つくり話だと思っていたよ」と、博士は言い、その朝の、つまらない噂話を、すぐ思い返しながら「君は包帯をしているんだな」と、きいた。
「そうさ」と、透明人間が答えた。
「おお」と、博士が、やっと冷静をとりもどして「そうか。だが、冗談だろう。手品の種はなんだい」と、進み出て、手をのばして包帯にさわろうとすると、いきなり、透明人間の手とぶつかった。あわてて、博士は手をひっこめて、顔色を変えた。
「おちついてくれよ、ケンプ。頼むよ。僕は助けがいるんだよ。さわるのはよせ!」
透明人間の手が博士の腕をつかんだが、博士はそれを払いのけた。
「ケンプ」と、声が叫ぶように「ケンプ、おちついてくれ」と、相手がいっそう強くつかんだ。
なんとしても相手の手を振りほどこうとしたが、その包帯を巻いた手は、博士の肩をしっかりつかみ、いきなり足をすくったので、博士は、あお向けにベッドに投げ出された。大声をあげようとすると、シーツを口にかまされた。透明人間に組みしかれてはいたが、手が自由なので、博士は相手をなぐりつけ、思い切り蹴とばした。
「わけを聞いてくれよ」と、透明人間は、あばらをなぐられながら「頼むよ。しまいには僕もおこり出すぞ」
「じたばたするんじゃない。ばかめ」と、透明人間が博士の耳もとで、どなった。
博士は、しばらく、もがいていたが、やっと静かになった。
「大声をあげると、顔をなぐりつけるぞ」と、透明人間が、博士の猿ぐつわをはずしながら「僕は本当の透明人間なんだ。嘘でもごまかしでもない。本物なんだ。君に助けてもらいたいのだ。君をいたい目に合わせる気は、さらさらないが、あくまでも、そんな暴《あば》れ方をするとなると、いたしかたないことになるよ。君は、僕を覚えてないかい、ケンプ。グリッフィンだよ。大学で同窓の」
「起こしてくれ」と、ケンプが「逃げたりはしない。ちょっと、起きて考えさせてくれ」
博士は起きて、首をさすった。
「僕は、大学の同級のグリッフィンだよ。自分で透明人間になったんだ。五体そろった人間だよ――君の知ってる男さ――ただ、目で見えなくなってるだけさ」
「グリッフィンか」と、ケンプが言った。
「そうさ」と、声が「学生のころは、色の白い、肩幅の広い、背は六フィート。ピンクがかった顔で、目が赤っぽかった、あの、グリッフィンさ――化学の賞をとった」
「よくわからんな頭が混乱していて」と、博士は「そのグリッフィンが、どうしてこんなことに?」
「僕は、まぎれもなくそのグリッフィンさ」
博士はしばらく考え込んだ。
「恐ろしいことだな」と、博士が「いったい、どうして、人間が透明になるなんてことが」
「悪魔の術じゃない。きわめて、正常合理的な方法にすぎないよ」
「それでも、恐ろしいことだ」と、博士が「なんということだ――」
「恐ろしいといえば恐ろしいさ。ところで、僕はけがが痛むし、疲れているんだ――頼むよ、ケンプ。君を男と見込んで頼むんだ。おちついてくれよ。頼むから、食物と酒をくれよ。それから、しばらく休ませてくれよ」
博士は、包帯が部屋を横切って、籐椅子《とういす》をひきずって来て、ベッドのそばに置くのを、あきれて見ていた。椅子がきしり、座席が四分の一インチほど沈んだ。博士は目をこすり、首をなでてみた。
「まるで幽霊だな」と、言って、げらげら笑った。
「それ以上さ。助かった、君がようやくおちついてくれて」
「ばかになったのかもしれんよ」と、ケンプは目をこすりながら言った。
「ウィスキーを少しくれないか、死にそうなんだ」
「そうは思えないな。どこにいるのかわからないよ。僕が立ったら、ぶつかりそうだな。そこか。よし。ウィスキーだね。ここにある。どうやって壜を渡せばいいんだ」
椅子がきしみ、博士の手からグラスが、すっと、さらわれた。博士はがまんして、成り行きにまかせていた。腹の奥では相手をおさえつけてやろうと思ったががまんしていた。グラスは椅子の正面の座席の二十インチほど上で静止した。博士はなんとも不可解な気持ちで、ながめていた。
「これは――きっと――催眠術だろう。自分が見えないのだという暗示を人に与えているのだろう」と、博士が言った。
「冗談じゃない」と、声が言った。
「気違いじみてるな」
「僕の言うことを、よく聞いてほしいよ」
「今朝、透明人間の噂を、さんざん、ぶちこわしたんだよ」
「君がどう打ち消そうと、そりゃかってだ――とにかく、僕はすきっ腹なんだよ」と、声が「それに、はだかんぼうにゃ――夜はとても寒いよ」
「食い物かい」と、博士が言った。
ウィスキーのグラスが傾いた。「ほしいな」と、透明人間が言って、グラスを手の平でとんとんやりながら「部屋着がほしいね」
博士は低く、うんと言いながら、洋服|箪笥《だんす》へ行き、よごれた緋色《ひいろ》のガウンを出した。
「これでいいか」というと、ガウンが博士の手をはなれ、ちょっと宙にぶらさがっていたが、ゆらゆらとゆれたかと思うと、中味がはいり、ひとりでに、きちんとボタンがかかり、首のないガウンが椅子にかけた。
「ズボン下と靴下とスリッパがほしいな」と、声が、手短かに言った。「それと食い物」
「なんでもやるよ。だが、こんな気違いじみたことは、生まれてから初めてだぜ」
博士はひき出しから、言われた品をとり出して渡し、階下の食料部屋へ下りた。そして、冷えたカツレツとパンを持ってもどり、小テーブルをひき寄せて、それを客の前に並べた。
「ナイフはいらない」と、声が言い、カツレツが宙に浮いて、かみしめる音がした。
「本当に見えないな」と、博士は言って、ベッドのわきの椅子に腰を下ろした。
「僕はいつも、食事のときには、しゃべっていないと気がすまないんだ」と、透明人間は口いっぱいもぐもぐやりながら「妙な癖《くせ》でね」
「腕は立つらしいね」と、博士がきいた。
「安心してくれ、乱暴はせんよ」と、透明人間が言った。
「何から何まで、奇妙きてれつだな――」
「そうだろうな。それにしても、包帯を捜しにはいった家が君のところとは、奇遇だったよ。さい先がいい。とにかく、今夜はここで泊めてもらうぜ。な、いいだろう。血でよごして、すまなかったね。だいぶ、よごしちゃったな。血の色だけは凝固してくると見えるんだ。もう、三時間以上も君の家にいたからね」
「ところで、どうしてこんなことになったのかね」と、博士が、驚きをこめて「実に不思議だ一《ピン》から十《キリ》まで――まるっきり説明がつかんよ」
「きわめて合理的さ」と、透明人間が「まったく明瞭《めいりょう》なことさ」
透明人間は手をのばしてウィスキーの壜をとった。ケンプ博士は、飲み食いするガウンをあきれて見ていた。右肩の透明な部分を、すかしてさす燭台の光が、左の足もとに三角形の光の縞《しま》をつくっていた。
「さっきの、あの銃声はなんだい。どうして射ち合いが始まったのかね」と、博士が。
「ばかなやつがいてね――僕の相棒みたいなやつだが――畜生め――そいつが、僕の金を盗もうとしたんだ。そのせいでね」
「その男も透明かね」
「いや」
「それで?」
「すっかりしゃべる前に、もう少し食わせてくれないか。とても腹がすいてるし――傷も痛む。どうせ、すっかり、しゃべらせたいんだろう」
博士は立ち上がって「君が射ったんじゃないのか」と、きいた。
「射つもんか」と、声が「あんなめちゃくちゃにぶっぱなすやつを見たことがない。大ていのやつは僕をこわがる。僕に、ふるえあがるんだが、あいつだけは畜生!――ねえ――もっと食い物はないかい、ケンプ」
「階下へ行って捜してくるが、大してなさそうだよ」と、博士が言った。
やっと食事がすみ、腹いっぱいになると、透明人間はタバコをくれと言った。博士がナイフを捜す前に、葉巻のはじを、食いちぎって、火をつけ、外側の葉がほどけたので、ぶつぶつ言った。タバコをのむ様子が実に奇妙だった。煙の渦《うず》が流れるにつれて、口、のど、鼻孔、というふうに、形が見えてくるのだった。
「うまいな、タバコは」と、言って、ふーっと煙を吹き「君とめぐり合って実に運がよかったぜ、ケンプ。ぜひ、僕を助けてくれよ。まさか君のところへ転がりこむとは思いがけなかったな。僕はさんざんな目にあってたんだよ。それで気違いみたいになってたんだったろうな。とてもひどい目をみたんだから。だが、苦しみはまだまだこれからさ。実はね――」
透明人間はウィスキー・ソーダを、自分でおかわりした。ケンプ博士も立って、あたりを見まわし、控えの間からグラスをとって来ると「失敬だが――僕も飲ましてもらうよ」
「君はちっとも変わらないな、ケンプ。あれから十二年もたつのに。君なら失敗しないだろうな。いつも冷静でてきぱき処理するからな――たとえ、失敗があったとしてもね。ぜひ頼みたいよ。一緒に仕事しようじゃないか」
「だが、どうして透明になんかなったんだね」と、博士が「そのいきさつをききたいよ」
「頼むから、しばらく、静かにタバコを吸わせてくれよ。それから、ぼつぼつ話すからね」
しかし、その夜は、話ができなかった。透明人間の腕の傷が痛み出し、熱が出た。疲れもひどく、マーヴェルを追って丘を下り、酒場で活劇を演じたことを思い出しては、くやしがっていたらしい。それでも、せかせかとタバコを吸いながら、ぷりぷりした口調で、ぽつりぽつりとマーヴェルの件をしゃべった。博士は、なんとかして、とりとめのある話を聞き出そうとした。
「やつは僕を恐れていたし、僕はそれを知っていたんだ」と、透明人間が、くどくどと「やつは、僕に一杯くわせようとしてたんだ――いつも、すきをねらってたんだ。僕は実にばかだったよ。あの野良犬め! ぶち殺してやるんだった!」
「その金貨は、どこで手に入れたんだね」と、不意に博士がきいた。
透明人間は、しばらく口をつぐんでから言った。
「今夜は、その話はよそう」
そして、見えない頭を見えない手でかかえこんで、突然、うめきながら、うつぶせになった。
「ケンプ。僕は三日ほど、おちおち眠っていないんだよ――一、二回、一時間ほど、とろとろしただけでね。すぐ、寝かせてほしいんだ」
「いいとも。僕の部屋で寝るといい――ここで」
「でも寝ちゃいられないな。僕が寝れば――やつが逃げ出すだろう。うっ! 痛い! どうしたってんだ」
「撃たれたところが痛むのか」と、急に、博士がきいた。
「なんでもないさ――ひっかき傷に血が出たってぐらいだ。ああ、神さま。こんなに眠いのになあ」
「なぜ、眠らないんだね」
透明人間はことさらのようにケンプ博士を見つめて「そのわけはだね。君に裏切られて、つかまりたくなんかないからな」と、ゆっくり言った。
博士はびっくりした。
「つくづくばかだよ、僕は」と、透明人間は、テーブルをぽんとたたいて「君に秘密を打ち明けちまったんだからな」
十八 透明人間眠る
透明人間は疲れて、傷ついていたが、身の安全は必ず守るという博士の言葉を、なかなか信じなかった。寝室の二つの窓を調べ、ブラインドをあけ、鎧戸《よろいど》を開いてみて、いざというときはそこから逃げ出せるという、博士の言葉をたしかめてみた。戸外は夜も静まり、新月が丘にかかっていた。次に、寝室と二つの化粧室の鍵を調べて、逮捕の危険がないのをたしかめるまで満足しなかった。やがて、満足がいったようだった。そして炉敷きの上に立って、あくびをするのが博士に聞こえた。
「失敬したね」と、透明人間が「僕がこんなことになった事の次第を、今夜は、全部はなせないんだよ。なにしろ、くたくたなんだ。透明になるなんて、たしかに、グロな話さ。恐ろしいことだよ。だがね、ケンプ、今朝、君がなんて説明したかわからんが、事実、透明にはなれるんだぜ。その方法を僕は発見したんだ。しかし、けっして公開はしないつもりだ。そんなことはできないさ。しかし、これには、どうしても協力者がいる。つまり君になってもらうよ――いろいろなことをしようじゃないか――だがその話は明日のことにしよう。今は、ケンプ、僕は死ぬほど眠りたいんだ」
ケンプ博士は部屋のまん中に立って、首なしガウンを、呆然と見つめていた。
「じゃあ、向こうへ行くよ」と、博士が「なんとも――信じられん。いきなりこんなことにぶつかって、僕の頭の中はひっくり返っちまって、気が狂いそうだ。しかし、こりゃ夢じゃないんだからな。ほかに、何かすることがあるかい」
「おやすみを言うだけさ」と、透明人間、グリッフィンが言った。
「おやすみ」と、ケンプ博士が言い、見えない手と握手した。そして横向きにドアへ寄って行った。とつぜん、ガウンが、すると寄って来て「大丈夫だね」と、言った。「僕を捕えたり、たたき起こしたりしないだろうね」
博士はちょっといやな顔をして「約束しただろう」と言った。
ケンプ博士が、後ろ手にそっとドアをしめると、すぐ内側で鍵をかけた。驚きあきれた顔で、そこに立っていると、室内では、化粧室へ急ぐ足音がし、そこのドアにも鍵をかける様子だった。ケンプ博士は額をたたきながら「夢じゃないかな。世間がひっくり返ったか、それとも――こっちの気が狂ったか――」と、つぶやいてから、錠の下りたドアをたしかめた。「どうやら、極悪非道なやつのために、寝室をしめ出されたか」と、苦笑した。
博士は踊り場まで歩いて、鍵のかかったドアをふり返って見ていた。「しかし事実だな」と、少しすりむけた首筋を手でなぜながら「否定できない事実だな。だが――」と、しょんぼりと首を振り、向きを変えて階下へ下りた。
博士は食堂のランプをつけ、葉巻をくわえて、ぶつぶつ言いながら、室内を歩きまわった。ときどき、自問自答していた。
「透明か」と、言った。
「透明な動物がいるかな。たしかに、海にはいるな。何千種も、何百万種もいる。幼虫類、甲殻類の子の発生期のもの、微生動物、くらげ、など、みんな目に見えない。海中には見えないもののほうが見えるものより多い。今まで、こんなことを考えても見なかったな。池の中でもそうだ。池の微小生物類も――無色透明なゼリー状の生物だ。しかし、空中にはいないな。たしかにいない。
いるはずがない。
だが一体なぜ――いないんだ。
人間がガラス体になってもまだ見えるはずだ」
博士はだんだん深く考え込んだ。葉巻が三本煙になり、白い灰になって絨毯《じゅうたん》の上にとび散るまで、口をきかなかった。やがて、うんとうなずくと、くるりと身を返して、部屋を出、小さな診察室にはいって、ガスをつけた。ケンプ博士は臨床医ではないので、診察室は小さい。その小部屋には今日の朝刊が置いてあった。新聞は無造作に開いて、ほうってあった。博士は取り上げてページをめくり「アイピング村の椿事」という記事を読みはじめた。つまり、ポート・ストウで、水夫が浮浪者マーヴェル君にくどく聞かせたあの記事だ。博士はすばやく目を通した。
「包帯でくるんでいると、出てるな」と、博士は「変装しとるのだな。包帯で透明なからだを隠していたのだな。『だれもその奇妙な正体に気づかなかった』と出ているが。一体、あの男は何をしようとしているのかな」
博士はその新聞を置いて、目で何か捜していたが、ああとつぶやいて、配達されたまま折り重ねてあったセント・ジェームズ・ガゼット紙を手にとった。
「これで真相がわかるだろう」と、言いながら、新聞を開いてみると、二段抜きの記事が目についた。見出しは[サセックスで全村発狂す]となっていた。
「おやおや」と、ケンプ博士は、その前日の午後アイピング村での怪事件の記事を、むさぼり読んだ。ここでも、朝刊の記事がそっくり出ていたのだ。
博士は読み直した。「左右の人間をなぐり倒しながら町をかけ抜けた。ジェファーズ巡査は人事不明。ハックスター氏は重傷――いまだに事件の経過が話せない。醜態を演じたのは――牧師。宿のおかみは恐怖で寝込んでいる。多くの窓ガラスがぶちこわされた。実に非常識な話で、作り話かもしれないが、とりあえず記録しておく――|話半分として《クムグラノ》」
博士は新聞を置いて、ぼんやりと目を上げた。「作り話だろうな」
博士はもう一度新聞をとって記事を読み直した。「だが、あの浮浪者はいつ村にはいり込んで来たのか。一体、なぜ、やつは浮浪者を追いまわすのか」
博士は診察用の長椅子に、どっかと腰かけた。
「あの男は透明人間であるだけじゃなくて気が狂っているな」と、つぶやいた。「殺人狂だな」
ランプの灯とタバコの煙でにごっている食堂に朝の光がにじみ込むころまで、ケンプ博士は、信じ難い事実の真相をつかもうとして、歩きまわっていた。
興奮して眠れなかったのだ。召使いが眠そうに起きて来て、博士を見つけ、過労で頭が変になったのではないかと思った。博士は召使いたちに、いつになく、はっきりと、朝食を二人前、二階の書斎に運ぶように言いつけて――そのあとは地下室か階下にいて、二階に上がってはならないと命じた。そして、朝刊が来るまで食堂を歩きまわっていた。
朝刊の記事は、前日のそれとあまり進展していなかったが、ポート・バードックの怪事件が毒々しく書きたててあった。その記事で、博士は[陽気なクリケット選手]酒場の事件のあらましとマーヴェルの名を知った。
『あの男は、私に二十四時間、とっついてたんでさ』と、マーヴェルが証言していた。アイピング村の事件について、ほとんど追加記事がないのは、おそらく、連絡電線が切られたためだろう。しかも、透明人間と浮浪者の関係の説明は、どの新聞にも書いてなかった。というのも、マーヴェルが三冊のノートと預かった金貨については、ひと言ももらしていなかったからだ。すでに、真偽を論ずる段階を越えて、記者も警官も、事件解決のために、捜査活動を始めているようだった。
ケンプ博士は、こまかい記事で残らず読み、女中をやって、あらゆる新聞を買い集めさせた。そして、むさぼり読んだ。
「あの男は目に見えないんだ」と、博士は「しかも、怒りで、気が狂いかけていると書いてあるな。なんでもやれるだろうな。何をやるかわからないな。そいつが、うちの二階で、空気のように自由にしているんだ。一体、どうしたらよかろうか。
かりに、そんなことをすれば、信頼を裏切ることになるだろうし――いや、なったとしても――」
博士は部屋の隅《すみ》のとり散らかしたテーブルに行って、紙にペンを走らせた。書きかけて破り、もう一枚書いた。読み返して考え込んだ。そして封筒に入れて、あて名を書いた。『ポート・バードック所長、アダイ警部殿』
そのときには、透明人間も起きていた。とても、不機嫌らしく、いきなり、上の寝室でどしんどしんとかけまわる足音がひびき、次いで椅子が投げとばされ、洗面台のコップがたたきつけられた様子だ。ケンプ博士は二階にかけ上がり、はげしく、ドアをたたいた。
十九 ある重要な原理
「どうかしたのかね」と、ドアをあけた透明人間に、博士がきいた。
「どうもしない」と、声が答えた。
「だって、めちゃめちゃじゃないか。あばれたな」
「ちょっと癇癪《かんしゃく》がおきたのさ」と、透明人間が「腕のけがをうっかりしてて、また痛み出した」
「君には昔からそんな癖があったね」
「そうさ」
博士は部屋を歩きまわって、ガラスの破片をひろい集めた。そして、手にガラスを乗せたまま立って言った。
「君のおこした事件は、みんな新聞に出てるぜ。アイピング村の事件も、丘のふもとの騒ぎもね。透明人間のことは世間に知れ渡っているぜ。だが、君がここにいるのはだれも知らない」
透明人間がいまいましそうにぶつぶつ言った。
「君の秘密はもうばれてる。今までは秘密だったろうがね。これからどうするつもりか知らないが、むろん、できるだけは助力するよ」
透明人間は、ベッドに腰を下ろした。
「朝食は二階に持ってくる」と、博士は、わざとさりげなく言った。奇怪な客人が、こころよく立ち上がったらしいので、ほっとして、せまい階段を先に立って見晴らしのいい書斎へ案内した。
「何はさておき」と、博士が「君のからだが透明になった点を、少し詳しく聞かせてほしいな」
博士は、神経質そうに、ちらりと窓から外をのぞいてから、腰を下ろして、ぜがひでも、聞かなければすまさないぞという態度に出た。こんなことをしているやましさが一瞬心をとがめたが、食卓の向こう側にすわっているグリッフィン――その首も手もないガウン姿――を見ると、心のやましさなど吹っとんでしまった。奇妙に宙に浮いているナプキンが、透明人間の見えない唇をふいた。
「簡単なことさ――十分根拠のあることなんだ」と、グリッフィンがナプキンをわきに置き、見えない手で見えない頭を支えた。
「君には、たしかにそうだろうが、僕にはさっぱり――」と、博士が笑った。
「そりゃ、そうだろう。最初は僕にとっても、たしかに不思議だったからな。しかし、今じゃ、しめしめさ。――まだ、君とふたりで世間を、あっと言わせられるぜ。僕はこの薬品を、最初、チェジルストウで偶然に発見したのさ」
「チェジルストウ?」
「僕はロンドンを去ってチェジルストウへ行ったんだ。君も知ってのとおり、医学をやめて、物理学の研究を始めた。いや――医学を捨てたわけじゃないが、まあ、そんな形になっちゃったのさ。光学にひどく興味をひかれたんでね」
「なるほど」
「光の密度が研究題目だった。この問題はまだ未開拓の分野なんだ――開明されそうで、されない問題がどっさりあるんだ。僕は二十二歳の情熱をたたき込んだよ。『こりゃ、やりがいのある仕事だから、生涯《しょうがい》をぶち込んでやろう』と思ったものさ。お互い、二十二歳のころには思慮分別の浅いものだからね」
「昔と今と、どっちが無考えかな」と、博士が「知識だけが人類の幸福を築くものでもないのにね」
「だが、とにかく、僕は研究にうち込んだよ――がむしゃらにね。それから六か月ほど、寝食を忘れて実験し、思索した。そのあげく、ふと、網の目を通すように、はっきりと、僕の頭にひらめいたものがあった。僕は色と光の屈折の根本原理をつきとめたのだ――つまり、四次元の世界を三次元で表現する法則なのだ。実際、世間のやつときたら、多少数学を習った連中でも、量子物理学の分野では常識になっているようなことさえ、まるっきり知らないんだから、ばかな話じゃないか。僕のノートには――あの浮浪者が持ち去ったノートには――奇々怪々、一見奇蹟ともみえる、そんな問題がいっぱい書いてあったんだ。まだ整理されていないアイディアだけだが、いずれは整理してりっぱな理論を確立する可能性があるんだ。つまり、固体、液体のいかんを問わず、およそ物質である以上、その属性を変化させずに――ただし色彩だけは変わっちまうが――その物質の光の屈折率だけを、実際に必要な限度に応じて引き下げて、空気の屈折率と同じにすることができるという理論なんだ」
「へえ――」と、博士が目をむいて「奇抜なアイディアだな。だが、まだ僕にはのみこめないな――その理論で、宝石を無価値なものにしちまうというならともかくも、人体を透明にしちまうなんて、沙汰《さた》の限りじゃないか」
「そりゃそうだ」と、透明なグリッフィンが「だがよく考えてみてくれよ。物が見えるということは、その物体の光に対する反応だろう。物体が、光を吸収したり、反射したり、屈折したりして生ずる現象なのだ。だから物体が、光を吸収、反射、屈折しなかったらその物体は見えなくなるわけだ。たとえば、不透明な赤いものを見るとしよう。赤く見えるのは、その物体が、光線の赤色部分だけを反射して、ほかの部分を全部吸収してしまうからだ。もし、その物体が、どの部分の光も吸収しないで、全部反射するとすれば、その物は白くきらきら輝いて見えるはずだ。銀がその例だ。ダイヤモンドは、表面全体としては、あまり光を吸収も反射もしないが、ところどころ、つごうのいい角度になった面だけが光を反射したり屈折したりするから、あんなふうにきらきら反射したり、透明だったりする、きらめく外観を呈するのだ――つまり、一種の、光線の化け物なんだ。ガラスが、ダイヤモンドほど輝きがなく、清らかでもないのは、屈折率や反射率が低いからだよ。わかるかい。観点をかえてみれば、全くよくわかるはずだよ。ある種のガラスは他のガラスよりよく見える。フリントガラスは普通の窓ガラスよりずっと光って見える。普通の薄ガラスは、光の乏しいところでは見にくいが、その理由は、光を吸収しにくいし、反射、屈折の度合も少ないからなんだ。また、もし普通の透明ガラスを水か水より密度の濃い液体に入れてみると、すぐに見分けられなくなってしまうが、その理由は、水を通す光線がほとんど反射も屈折もしないし、実際に何の変化も及ぼさないからなんだ。炭酸ガスや水素が空中で見えないのと、ほとんど同じなんだ。いや、全く同じ理由といってもさしつかえないんだ」
「なるほど」と、博士が「明快な話だな」
「まだ、君が正しいと認める事実があるぜ。板ガラスを砕いて粉々にすると、窓にはまっていた時より、ずっと、見分けやすくなる。ガラスはしまいに白い粉末になる。それは、粉々になると、ガラスの表面が無数に増え、したがって光の屈折や反射が増えるからなんだ。一枚の板ガラスには光の作用する表面は裏と表しかないが、粉末にぶつかる光線は、その一粒一粒の面に反射し、屈折して通過することになる、しかも、粉末を通過する光線は、ほとんどないといっていいから、全部が反射してガラスの粉がはっきり見えることになるのさ。また、白い粉ガラスを水に入れると、たちまち見えなくなる。粉ガラスと水とがほとんど同じ屈折率を持っているからで、つまり、水をくぐって粉ガラスに達する光線は、ほとんど屈折も反射もせずに、その両方を通過してしまうからなんだ。
ガラスをそれと同じ屈折率のある液体に入れれば見えなくできるわけだ。それと同じ理由で、透明なものは、それと同じ屈折率の媒体《ばいたい》の中では見分けられなくなる。だから、ちょっと考えてみれば、空中でガラスの粉を見えなくすることなどなんでもない。その屈折率を空気と同じにしさえすればいいんだからな。そうすれば空中でガラスを通過する光線が、反射も屈折もしなくなるんだから」
「なるほど、そうだね」と、ケンプ博士が「しかし、人体は粉がラスのようなわけにはいくまい」
「いや」と、透明なグリッフィンが「人体はガラス以上に透明だよ」
「ばかな」
「ばかなとはなんだい。人間って忘れっぽい動物なんだな。君は十年前に学んだ物理をもう、お返ししちゃったのかい。透明な物質だが、透明に見えないものがたくさんあるじゃないか。たとえば紙さ、透明な繊維でできているくせに、粉ガラスと同じ理由で、白く半透明に見えるじゃないか。白い油紙は、紙の分子の隙間《げきかん》を油が埋めているから、表面以外の反射や屈折がなくなる。それで、ガラスみたいに透《す》き通るようになるんだぜ。紙ばかりじゃない、木綿の繊維も、麻の繊維も、羊毛の繊維も、木材の繊維も、骨も、肉も、毛髪も、爪《つめ》も、神経も、みんな透明な物質なんだぜ。ケンプ。事実、血液の赤と髪の黒との色素を除けば、人体組織の大部分は、無色透明な物質で成り立っているんだ。ほんのちょっと工夫すれば、人体なんか見えなくなる。生物の組織なんて、大部分半透明な水みたいなものだからな」
「そうとも」と、博士が声を高めて「むろん、そうだとも。僕も昨夜、海の微生物やクラゲを考えたばかりだよ」
「やっとわかったな。こんなことを思いついたのはロンドンを去って一年ほどしてからで――ちょうど六年前のことだ。だが僕は、その考えを、ひとりで胸におさめて、実に悪条件のもとで研究をつづけなければならなかったんだ。主任教授のオリヴァーは、風上《かざかみ》にもおけぬ科学者で、天性のジャーナリストで、他人のアイディアを盗む男だったよ――いつも餌物《えもの》をあさっているふうでね。それに、知ってのとおり、科学者の世界にはいまだに徒弟制度があるんだからな。僕は自分のアイディアを発表して、あの男に、うまうまと乗っとられたくなかったので、こっそりと研究をつづけた。そして、僕の理論はだんだん完成に近づき、実現の可能性が出てきた。僕がだれにももらさなかったのは、一夜にして学界に名声をあげようと意図するところもあったんだ。ともかく僕は僕の理論の欠陥を埋める、色素の問題にとり組んでいた。するうちに、突然、全く思いがけない偶然から、生理学上の発見をしたんだ」
「ほう?」
「知ってのとおり、血が赤いのは、血の中に赤くする物質があるからだ。だから、しようと思えば白くも――無色にもできるはずだ――血液の全機能を現在のままにしておいてね」
ケンプは半信半疑のていで、あっと叫んだ。
透明人間は立って、小さな部屋の中を、歩きまわった。
「驚くのも無理はないな。僕は、あの夜のことを、はっきり覚えている。夜ふけだった――昼間は、訪問客や低能な学生どもにじゃまされるから――当時はよく、夜明けまで勉強したものさ。その夜、突然、すばらしいアイディアが浮かんだんだ。僕はひとりきりだった。研究室はしんとして、高い天井の電灯が煌々《こうこう》と輝いていた。僕の一生で一番すばらしい瞬間を、ひとりきりで迎えたんだ。『動物でも――組織でも――透明にできる。姿を見えなくできる。色素の他は全部――自分さえ見えなくできることを発見したぞ』と、僕は叫んだ。すると、この知識が、僕みたいに、生来色素の薄い人間にとって、どういう意義があるかという考えが、ふと、わいてきた。それは圧倒的な思いだった。僕は薬品の濾過《ろか》中だったが、それをほうり出して、窓にかけより、美しい星空を見上げたもんだ。
『おれは透明になれるんだ』と、自分に言いきかせたものさ。
そんなことができたらすばらしい魔法じゃないか。僕はなんらの疑念もなく、人間が透明になるということが、いかにすばらしい夢であるかを、しみじみと考えていた――その神秘性、その力、透明がもたらす無限の自由性をね。自由にあらゆる障害から脱出できるんだぜ。考えてもみたまえ。いなか大学の学生相手に心に染まぬ教鞭《きょうべん》をとっている、一介《いっかい》の貧乏教師が、突然、こんな大発見をしようとは――どうだい、ケンプ。だれにも想像もつくまい――。しかも、これまで、だれひとりこんな研究に身を打ち込んだ者はいないんだぜ。その後、僕は三年間、研究に研究を重ねた。困難なひと山越えれば、またひと山で、おいそれとは頂上に達しられなかった。実にこまかく、わずらわしい仕事の連続だった。その上、腹だたしいことに――主任教授、あのいなか教授が、いつも鵜《う》の目|鷹《たか》の目でねらっていたんだからね。『君はいつ論文を発表するつもりかね』と、くどくきいてね。それに、ばかな学生どもを相手にし、研究の金もなしとくるんだからね。僕は三年も、そんな状態に耐えて来たんだ。
こんな三年間の辛抱のあとで、研究の完成が不可能だとわかったんだ――不可能だと」
「どうして」と、ケンプがきいた。
「金がないのさ」と、透明人間が、また窓へ行って外をながめながら言った。そして、いきなりふり向くと「僕は、おやじの金を盗んだんだよ――おやじから。ところが、それがおやじの金じゃなかったので、おやじはピストル自殺しちまったんだ」
二十 ポートランド街の邸で
しばらくのあいだ、ケンプ博士は黙って腰かけたまま窓のそばの、首なし男の背中を見つめていた。やがて、博士はふと気がついて、あわてて立って行き、透明人間の腕をつかんで、外を見えないように、引きもどした。
「疲れたろう」と、博士が「僕がすわっている間じゅう、君は歩きまわっていたからね。僕の椅子にかけたまえ」
博士は透明なグリッフィンとすぐそばの窓の間に立ちはだかっていた。
透明なグリッフィンは、腰をおろしてちょっと黙っていたが、いきなり、また話し出した。
「あの事件がおきたころは」と、透明人間が「すでに、チェジルストウの家を引き払って、ロンドンへもどっていたんだ。去年の十二月さ。グレート・ポートランド街付近の裏町のがらんとして、手入れの悪い下宿屋の一室を借りていた。その部屋は、おやじから盗んだ金で買った実験材料で、たちまちいっぱいになった。実験は順調にすすみ、徐々に完成に近づいた。そのとき、まるで森から出て来て何かにつまずいた人間のように、僕は悲劇にぶつかったのだ。自殺したおやじの埋葬《まいそう》に行かなければならなかった。僕は研究にとりつかれていたので、おやじの汚名《おめい》を救ってやるどころではなかった。あの葬式の日のことを、よく覚えているよ。安っぽいお棺、寂しい墓地、風の寒い丘の中腹でね。おやじの年老いた学友が、聖書を読んでくれたんだ――みすぼらしい背の曲がった年寄りが水っぱなをすすりながらね。
それから、おやじのいないがらんとした家へもどったのだが、その途中のもと村のあったあたりに、毒々しい色と形のつぎはぎだらけな安普請がたてこんで、醜い都会まがいの町になっているのを見た。どっちを見ても、道は宅地にされた畠につづき、切石がごろごろ転がり、陰気な雑草がしげっていた。薄ら日のさすぬかるみ道を黒い影のように歩きながら、僕だけが卑俗な因習や、あたりのきたならしい商業主義から全く切り離されているような奇妙な感情を味わっていた。
僕は父に少しも同情しなかった。自身のばかげた感傷主義の犠牲にすぎないと思えたからだ。世間並みに葬式には出たものの、僕にとっては空々しい気持ちだった。
だが、町の大通りを歩いていると、ちょっと、少年時代のことを思い出した。それに、十年前に仲のよかった少女とであった。互いの目が合った。引き返して、話してみようと心が動いた。ごく十人並みの少女だったがね。
育った土地をたずねるのは、夢の中にいるようなものだな。そのときは、僕も孤独を感じなかったし、世間を離れて、人里離れた土地に来たとも感じなかった。僕は父の死をいたむ気持にもならないのを反省してみたが、弔意なんてくだらないものだときめこんでいた。
自分の部屋にもどると、再び現実がよみがえるような気がした。部屋には、目慣れた気に入ったものがそろっていた。実験の道具や装置が立ち並んで、僕が仕事にかかるのを待っていた。研究はほとんど目鼻がつき、あとは些細《ささい》な点が残っているだけだった。
発明のくわしい経過は、いずれ話すことにするよ、ケンプ。さしあたり話す必要もないからね。二、三のこまかい点を除いて、その成果の大部分は、あの浮浪者が持ち去ったノートの中に、暗号で書いてあるんだ。だからあいつを、とっつかまえなければならないんだ。あのノートを取りもどさなければな。研究の重要な部分は、エーテル状の波動の二つの中心点の間に置いた透明な物質の屈折率を同一点まで低下させることなんだが、それについては、いずれ、もっとくわしく話すよ。いや、ちがう。レントゲン線の波動じゃない――この研究をした者は、僕以外にはないだろうな。そして、この研究には絶対自信がある。
実験には小さな発電機が二個必要だったが、僕は安いガス・エンジンで間にあわせた。最初の実験には白い羊毛を使った。その白くやわらかい繊維が、二つの仄光《せんこう》の中で煙の輪のように薄れて、やがて目に見えなくなるのは、実に不思議なながめだった。僕はその成功が自分で信じ難かった。羊毛の消えたあたりの空間に手を伸ばしてみると、たしかに手ざわりで、羊毛は前のとおりにあるのがわかった。そっと、とり出して、床に落としてみた。全然見えない。また探し出すのが、かなりやっかいだった。
次には妙な経験にぶつかった。後ろで猫《ねこ》の鳴き声がするので、ふり向いてみると、きたない白いやせ猫が、窓の外の水槽に乗っていた。見たとたんに、ふとある考えが浮かんだので『いいところへ来たな』と、言いながら、窓をあけて、やさしく呼んでやった。すると、のどを鳴らしながらはいって来た。――ひどく腹をへらしていたんだな――僕はミルクをやった。部屋の隅のカップボードに、食料が入れてあったんでね。ミルクを飲み終わると、やっこさん、部屋じゅうをかぎまわった――すっかり、なれついた様子を示しながらね。ところが、目に見えない羊毛のかたまりにぶつかって、すっかり肝《きも》をつぶしたらしい。ふーっと、背中の毛を立てた様子ったら、見ものだったぜ。僕は猫を万年床の枕《まくら》に乗せてやって、気をしずめさせた。それから、バターなどなめさせて、ごきげんをとり、きれいに洗ってやった」
「その猫で実験したんだな」
「やってみたよ。だが、猫に薬品をのませるのは、並大ていじゃないぜ、ケンプ。その実験は大失敗さ」
「失敗したのか」
「特に二つの点でね。爪と色素――ありゃなんていったっけ――猫の瞳の奥の色素、知ってるかい」
「脈絡膜《タピータム》か」
「そう、そう、脈絡膜。あいつが消えないんだ。僕は血液の色を消す薬品を与えて、一応の処置をみんな済ませ、阿片で眠らせてから、枕ごと実験装置にのせた。すると、たちまち、他の部分は全部、消え失せたが、細い二つの目だけが、幽霊のように、空中に残って光った」
「不気味だな」
「なんとも言いようがないぜ。むろん、包帯を巻いてしばりつけておいたから――見えない姿で逃げ出されないですんだがね。そのうちに、阿片がさめてきて、まださめきれないまま、いやな声でニャアニャアやり出した。すると、だれかがドアをノックした。階下《した》のばあさんが来たんだ。僕が猫の生体解剖でもやってやしないかと思ったらしい。いつも酒びたりのばあさんで、その白猫だけがこの世の頼りなのさ。僕はクロロホルムをとり出して猫にかがせてから、ドアをあけてやった。
『猫が鳴いてたようだがね。わたしの猫じゃないかね』と、ばあさんがきくので『ここじゃありませんよ』と、僕はくそ丁寧に答えた。
ばあさんはまだ疑いが晴れぬような顔で、僕をかきのけて部屋の中を見まわしていた――ずいぶん様子の変わった部屋だったろうよ――なにしろ、裸壁だし、窓のカーテンはないし、車つきの粗末なベッドだし、ガス・エンジンがうなってるし、ヒューヒューと花火が音を立ててるし、いやに鼻をつき刺すようなクロロホルムの匂いがただよっているしね。ばあさん、最後には気がすんだらしく、また、引き返して行ったよ」
「処置に、どのくらいかかったね」と、博士が。
「三、四時間だな――猫の処置は。骨も腱も脂肪もついには、色のついている毛の先の部分も消えた。しかし、前にも言ったように、瞳の奥の玉虫色に光る色素だけは、どうしても消えようとしないんだ。
仕事が終わるずっと前に、外は、すっかり夜になっていたので、細い目と爪のほかは、何も見えなくなっていた。僕はガス・エンジンをとめ、手さぐりで、まだ眠っている猫をなぜてやったが。やっこさん全然無感覚だった。するうちに、僕も疲れたので、枕ごと透明になった猫を、そのまま寝かしといて、ベッドにもぐり込んだ。なかなか寝つけなかった。横になったまま、ぼんやりと、とりとめのないことをいつまでも考えていた。くり返しくり返し実験のことを考えているうちに、望みどおりだんだんにあたりが、ぼやけてきて、あらゆるものが僕の立っている地面までが消え失せて、よくある、あの悪夢にうなされて闇の底に落ちていくような気分になった。
二時ごろ、猫が鳴きながら部屋をうろつきだしたので、声をかけて黙らせようとしたが、だめなので、外へ追い出してやろうと思い、灯をつけた。そのときの驚きといったらない――猫の声のあたりには――ただ、まるい二つの目が、みどり色に光っているだけだったんだからね。ミルクをやろうと思ったが、あいにく手元になかった。やっこさん、黙るどころか、すわって、ドアに向かって鳴き立てるんだ。窓からほうり出してやろうと思って、つかまえにかかったが、つかまるもんじゃない。見えないんだからね。さっと消えると、外のところから鳴き声がする。ついには、窓をあけて、声をあげて追い出してやったから、多分、出て行ったろうよ。あれ以来、あの猫を見かけないからね。
そのとき――どうしたわけか――ふと、おやじの葬式のことを思い出してね、あの、惨めな寒い風の吹きすさぶ丘の中腹が、朝まで目にちらついていた。ついに眠れないと観念して、部屋に錠を下ろし、早朝の町にさまよい出た」
「まさか、透明の猫が野放しになっているというわけじゃあるまいね」と、ケンプ博士が。
「まだ殺されていなければ、いるさ」と、透明人間が「気になるか」
「気になるってこともないがね」と、博士が「話の腰を折るつもりじゃないんだ」
「大てい殺されてるさ」と、透明人間が「あれから四日ぐらいは生きてたらしいな。たしか、チッチフィールド街のあたりで、鳴いているのに出会ったが、まわりに人だかりがして、どこから声が聞こえるのか不思議がってたからね」
透明人間は、口をつぐみ、かなり黙っていてから、不意にまた話し始めた。
「僕が透明になった前日の朝のことをまざまざと思い出す。なぜか、僕はポートランド街へ行かずにいられなかった。オルバニー街の兵舎から騎兵隊の兵士たちが出て来たのを覚えている。そして、気がついてみると、いつしか、プリムローズ丘の頂上の日だまりに腰を下ろして、ひどくみじめな、奇妙な気持で、うずくまっていた。一月の天気のいい日で――その日は、その年の最初の雪のくる前によくある、あの寒く晴れ上がった日だった。僕は疲れきった頭で、いよいよかねての計画を実行に移すにあたっての心構えをつくろうとしていた。
とうてい達し得られないと思っていた目的に、いまや、手がとどくようになったのに気づいて僕は、むしろ呆然としていた。事実、僕は疲れ切ってしまったのだ。ほとんど四か年にわたる不断の努力と、極度の精神の緊張のあげく、僕は無感動な人間になってしまっていた。感情を失った心で、最初に研究にとりかかったところのあの熱情や、発明熱にとりつかれて、父の死さえ省みなかったあの熱意を取りもどそうとしてみたが、もうだめだった。何事にも熱意が持てないのだ。てっきり、これは過労と睡眠不足からの一時的な精神状態で、睡眠薬を飲むか、休養をとれば、また元気を取りもどせるだろうと思い込んだ。
それでも、なんとしてでも研究は完成しなければならないということだけは、頭にこびりついてはなれなかった。そして、その観念が僕を支配していた。しかも、早急に完成しなければならなかった。というのは、手持ちの金がほとんどなくなっていたからだ。僕は、丘で遊びまわる子供たちや子守たちをながめながら、自分が透明人間になれたら、この世でいくらでも、うまいことができるだろうなどと、空想していた。やがて、のろのろと家へ帰り、食事をして、相当の量のストリキニーネを、飲んだ。そして、服を着たまま、ベッドにもぐり込んだ。ストリキニーネは、よくきく薬だぜ、ケンプ、あれで眠ると、無気力なんか、ふっ飛んじまう」
「ひどい話だな」と、ケンプ博士が「ありゃ、野蛮きわまる薬だぜ」
「目が覚めると、少しだるくて、いらいらしていた。わかるだろう」
「うん、あの薬だからね」
「だれかがドアをたたいていた。下宿のおやじのポーランド系ユダヤ人が、長い灰色の上着で油じみたスリッパーをはいた姿で、僕を詰問に来たのだ。昨夜、猫をいじめたというのだ――あの、ばあさんの告げ口らしい。すっかりわかっているぞとわめきたてた。イギリスでは生体解剖は法律で厳罰に処せられるぞ――おどしにかかった。僕は猫なんか知らんと言った。すると、小さなガス・エンジンで家じゅうが震動したと食ってかかった。そりゃ、たしかに、そうかも知れない。やつは僕の部屋に押し込んで来て、洋銀ぶちの眼鏡《めがね》の奥から、きょろきょろと隅々をのぞき込んだ。ふと僕は、秘密をかぎ出されはしまいかと、不安におそわれた。僕の苦心創案した実験装置をやつの目にかからせまいと、立ちはだかった。それが、いっそう、やつの好奇心をかきたてたらしい。君は何をやってるのか。なぜいつもひとりで秘密くさくしているのか。不法なことをしているんじゃあるまいね。危険のない仕事だろうね。普通の間代しかもらってないんだからね。うちの下宿は、このかいわいじゃこれでも、れっきとしたもんだからね。
ごたくを、聞いているうちに、かっと腹が立ってきた。僕は、出て行けと、どなりつけた。やつは、ぐずぐず文句を言って、家主は部屋にはいる権利がどうのこうのとぬかした。僕は、いきなり、やつの襟《えり》がみをつかんだ。何かがびりっと裂けた。やつはキリキリ舞して廊下にとび出した。僕はどかんとドアをしめ、鍵をかけて、怒りにふるえながら腰を下ろした。
これで事態が悪くなった。やつがどう出るか、どんな力を持っているかは、わからなかった。といって、新しい下宿に移るのもめんどうだった。おまけに、持ち金はたった二十ポンドしかない――それも、銀行に預けてあるので――右から左に使えるものではなかった。失踪《しっそう》するよりない。どうしてもほかに手がない。どうせ捜査が行なわれ、部屋をかきまわされるだろうからね――
完成を目の前にして、研究の秘密があばかれ、妨害されると考えると、僕はひどく腹が立ち、気が立ってきた。さっそく、三冊のノートと小切手帳――あの浮浪者が持ち逃げしたもの――を家から持ち出して、近くの郵便局からポートランド街の局まで、局留郵便で送り出した。こっそり抜け出して行って、帰ってみると、下宿のおやじが二階へ様子をうかがいに、忍び足で階段を上がるところだった。僕の出て行くドアの音に気を配っていたのだろう。僕がつきとばすようにして追い抜いたとき、やつがぎょっとして踊り場にとび退いたざまときたら、君だってふきださずにはいられまいよ。やつは、すれちがいに僕をにらみつけていたが、ぼくは家じゅうに響くようにドアをたたきつけてやった。やつが部屋の前を、うろつく足音がしていたが、ドアをあける元気もなく、立ち去って行った。そこで、実験を始める準備にとりかかった。
その日の夕方から夜にかけて、薬品をのみつづけた。血液を脱色する薬品のせいで、気分が悪くなり、うつらうつらと椅子にかけていると、またしても、ドアをノックするものがあった。ほうっておくと、やがて音がやみ、立ち去る足音がしたが、またもどってきてノックする。ドアの下から何かを差し込もうとしているらしく――それが青い紙だった。僕はむかっ腹が立って、いきなりドアをさっとあけて、今度はなんだ! と、どなってやった。
下宿のおやじが立退き要求書か何かを持って立っていた。それを差し出して、僕の手が妙に変わっているのに気がついたのだろう、目を上げてまじまじと、僕の顔を見つめ、しばらくあっけにとられていたが、ぎゃっと叫んで、ろうそくと書類を落とすと、まっ暗な廊下を階段の方へ、ばたばたとかけ出した。
僕はドアをしめて鍵をかけ、鏡の前に立ってみた。やつがこわがるのも道理、僕の顔がまっ白になっていた――白い大理石のようにね。
実に恐ろしいことだった。僕もこの苦しみは予想もしなかったことだ。その夜は、夜通し、気分が悪く、失神しそうな、地獄の苦しみだった。歯をくいしばって耐えたが、皮膚が燃えあがりそうだし、からだに火がついたようだった。だが、必死の思いで横たわっていた。あの猫が、クロロホルムをかがせるまで、あんなにも鳴いたわけが、やっとわかった。ひとり暮らしで、同室者がいないので助かった。僕は、すすり泣いたり、うめいたり、しゃべったりしながらも、苦痛に耐えたが、ついには気を失い、気がついてみると暗闇《くらやみ》でもがいていた。
苦痛は薄らいでいた。このまま死ぬかもしれないと思ったが、少しもかまわなかった。あの明け方のぞっとした気持は一生忘れられないな。見ると、僕の両手は曇りガラスのようになり、日が明るくなるにつれて、だんだん、透き通って色が薄くなり、しまいには、無気味にも手をすかして、散らかっている室内が見えるじゃないか。瞼《まぶた》も透明になっているから、目を閉じていても見えるんだ。手足もガラスのようになり、骨格も血管も色が薄れて目に見えなくなった。そして、最後に白い神経の筋も消えた。僕は歯をカチカチいわせながら、いつまでもそのままにしていた。とうとう残ったのは、死んだように青白い指先の爪と、指についた何かの酸のしみだけになった。
よろよろと立ち上がったが、最初はヨチヨチ歩きの子供のように――見えない足では、うまく歩けなかった。すっかり弱って、腹もすいていた。鏡に写してみると、自分が何も見えないので、すっかり驚いてしまった。目の奥の網膜の色素が、霧のようにかすかに残っているだけなのだ。僕は自分を見分けるのに、テーブルに両手をついて、鏡に額を押しつけるようにしなければならなかった。
自分を引きずるようにして装置の方へ行き、処理を完了したのは、全く強烈な意志の力のたまものだった。
その日の午前中は、シーツをかぶって、光が目にはいるのを防ぎながら寝ていた。昼ごろノックの音で、また目覚めた。体力がもどっていた。起き上がって耳を澄ますと、外でささやき合っている声が聞こえた。とび起きて、できるだけ音をたてないように、装置のつなぎ目をばらして部屋中にまき散らした。そうしておけばだれにも再生できないだろうからね。
またノックの音が激しくなり、呼びたてる声もした。おやじの声のほかにふたりいるらしい。時をかせぐために、僕は返事だけした。そして、透明な敷布と枕を手にすると、窓をあけて、水槽の蓋の上にほうり出した。そのとき、どしんと、ドアにぶつかる音がした。誰かが鍵をぶちこわすつもりらしい。だが、数日前に、しっかりしたかんぬきを取りつけておいたので、ドアははずれなかった。その音で、僕はびっくりして、腹が立ってきた。興奮してふるえながら、手ばやく事を運んだ。
屑紙《くずがみ》や藁《わら》や包み紙の類《たぐい》を部屋のまん中につみ上げて、ガスの栓をひねった。ドアをたたく音が激しくなった。マッチがみつからないので、腹が立って両手で壁をたたいた。ガスの栓を閉じて、窓から水槽の蓋の上に抜け出し、静かにガラス戸を下ろして、しゃがみこむと、絶対に見えないのを確信しながら、怒りにふるえて、成り行きを見ることにした。連中は、ドアのはめ板をはずし、みるまにかんぬきの受け金をぶちこわして、戸口に姿をあらわした。下宿のおやじと、二十三、四のがっちりしたふたりの養子どもだった。連中の後ろに、階下のばあさんまでが白髪頭《しらがあたま》をのぞかせていた。
部屋はからっぽなのだ。連中がどんなに驚いたか想像できるだろう。養子のひとりが、すぐかけよって、窓をあけると、首をつき出した。そのひげっ面と、どんぐりまなこが、僕の鼻先一フィートのところにあった。よほど、ばかっ面をなぐりつけてやろうかと思ったが、じっと我慢した。やがて、おやじはベッドの下をのぞき込み、それからみんなで一緒にカップボードに殺到した。僕がどこにもいないので、しまいには、ユダヤ語と人足言葉で、がやがや話し合っていたが、さっき僕の声が聞こえたのは、結局、空耳《そらみみ》だったということになった。僕の怒りはいつしか消えて、はちきれそうな喜びと代わっていた。そして窓の外から下宿の親子たちと猫の飼主をながめていた――おずおずとはいって来たばあさんは、猫のように疑い深い目であたりを見まわし、僕の行動の謎《なぞ》を解こうとしているようだった。
おやじは、どうやら僕にわかる言葉から判断すると、僕が生体解剖をやったという、ばあさんの言い分に賛成らしい。ところが、せがれたちは、なまりのひどい英語でそれに反対し、僕が電気技師だったのだと、発電機や放射器を指さしていた。連中は僕の来るのをおそれて、こちらはすでにご承知なのに、わざわざ表ドアにかんぬきをかけていた。ばあさんは、カップボードの中をのぞき、ベッドの下を改め、せがれの片方が暖炉の通風器をはずしてみたり、煙突をのぞきこんだりした。向かいの部屋に肉屋とふたりで住んでいる行商の八百屋《やおや》が、踊り場にとび出して来て、呼び込まれて奇妙なできごとを聞かされた。
突然、僕は、その放射器が、もし、教育のある頭のいい者の手にでもおちたら、大打撃だと思いついて、すきを見つけて部屋にはいり、放射器ののっている小さな発電機を取りはずして、装置もろとも、たたきつけてやった。連中がどうしてそんなことになったのかと、がやがややっているあいだに、僕はこっそりと部屋を抜け出し、静かに階下におりた。
僕は居間にはいり込んで、ああでもないこうでもないと論じ合いながら、二階から引き上げてくる連中を待ちかまえていた。連中は『化けもの』の正体がつかめなくて、いささか失望しているようだったし、僕をどう扱ったらいいかわからなくて困っているようだった。
やがて僕はマッチを持って、こっそりと二階にまいもどり、紙屑や書類の山に火をつけ、椅子や家具類を積み上げ、ゴム管を引っぱってガスを吹きつけると、四年間住みなれたその部屋に最後の別れを告げた」
「君は火をつけたのか」と、ケンプ博士が思わず叫んだ。
「つけたよ。僕の研究の秘密を守るためには――それしか方法がなかったからさ。それから、玄関のドアのかんぬきをそっとはずして、町へ出てしまった。僕は透明になっていた。そして透明がもたらす特権を、はじめて意識しはじめたのもこの時さ。どんな乱暴な不思議なことをしでかしても、もう罰せられることはないと悟ると、僕の頭には新しい計画が渦《うず》まいていた」
二十一 オックスフォード街で
「はじめ階下へ行こうとしたとき、思いがけない困難にぶつかったよ。それは自分の足が見えないことさ。事実、僕は二度もつまずいた。それに、自分の手が見えないもんだから、玄関のかんぬきも、なかなかうまくつかめなかったよ。だが、それにも慣れて、足もとを見ないでも、どうやらうまく歩けるようになった。
僕の気持は、意気揚々たるものだったよ。目あきが盲《めくら》の国にでもはいりこんだら、あんな気持になるだろうな。なにしろ足音をさせても、相手にはこっちの姿が見えないんだからね。ひとをからかってみたくてしようがなかったよ。いきなり話しかけて驚かしたり、背中をぽんとたたいてやったり、帽子をすっとばしたり、何をしようと、透明の特権で自由なんだからな。
ところが、ポートランド街に出るとすぐ、後ろでがしゃんと大きな音がし、背中にひどくぶつかられた(僕の下宿はあそこの大きな服地屋のすぐわきなんだ)。ふり向いてみると、ソーダ水のサイフォンを籠に入れて運んでいる男が、きょとんとして、荷籠を見つめていた。ぶつかられて、ひどく痛かったが、そいつのあきれ顔を見ると、ふきださずにはいられなかった。『籠の中の悪魔だぞ』と、どなって、いきなり、荷籠をひったくり、中味もろとも空高くほうり投げてやった。
ところが、ばかなことに、居酒屋の前にたむろしていた馬方が、いきなりとび出して来て、腕を振りまわし、いやというほど、僕の耳の下をなぐりつけた。僕は思いきりその馬方をなぐり倒したが、そのとき、騒ぎを聞きつけた連中が、店の中や、とまっている車の中から、わいわい言いながらかけつけて来た。なんてばかなまねをしたんだと、僕は自分の無分別をくやみながら、店の陳列窓によりかかって、騒ぎから抜け出そうとしていた。ぐずぐずしていると騒ぎにまきこまれて、たちまち正体を見破られるかも知れないからね。僕は肉屋の小僧をつきのけたが、うまいことに、こっちの姿がないので、小僧はふり向こうともしない。それから四輪馬車の下に隠れて、その場をはなれた。あとがどうなったか知らない。僕はまっすぐに道を横切って逃げ出した。幸いに道はすいていたが、どこへ行くのか、てんで気にもとめなかった。ただ、この騒ぎで、こっちの正体がばれたら大変だと、そればかり考えながら歩くうちに、いつしか、オックスフォード街の午後の雑踏の中に、まぎれ込んでいた。
群集にもまれて行こうとしたが、僕にとってはこみすぎていた。たちまち、後ろから踵《かかと》を踏みつけられた。それで、車道と歩道の間の溝《みぞ》をあるいたが、でこぼこがひどくて、すぐ足が痛んだ。おまけに、荷馬車の梶棒《かじぼう》が肩のあたりにひどくぶつかり、いまだに、ひどい傷あとを残しているほどだよ。それで、車道に出て、時々はっと立ちどまって車をよけないでもすむように、一台の四輪馬車の後ろについて行った。それはうまい考えだった。その馬車はゆっくり進んでいたから、すぐ後ろを歩きながら、ぶるぶる震えて、自分のむちゃさかげんに、いささかあきれていた。ぶるぶるどころか、がたがた震える始末だった、というのは、からりと晴れた一月の日だというのに、僕は素はだかなんだからね。しかも、道路のぬるみまで凍っているしまつだ。透明であろうとなかろうと、陽気の影響を受けるにきまっていることを、まるで計算に入れていなかったんだから、われながらばかもいいところだったよ。
やがて、すばらしいことを思いついた。僕は空馬車に追いついてもぐり込んだ。そして、震え、おびえながら、風邪《かぜ》をひきかけて、くしゃみをしつづけた。さっきぶつかられた背中のまん中の傷が、だんだん、うずき出すようだった。馬車はゆっくりと、オックスフォード街を行き、トテナム・コート通りを抜けていった。気分は、十分前に乱闘を演じていた時には、とても考えられなかったほど変わっていた。これが透明人間の運命なのか。どん底生活から抜け出して、一体、僕はどうなったんだ――僕は、そんなことばかり考えていた。
馬車がミューディ書店の前を通りかかった。五、六冊の黄表紙の本を持った背の高い女が馬車をとめて乗り込んできたので、僕はあわててとび降り、危うく後ろから来た鉄道馬車にひかれそうになった。僕はブルームズベリー広場の方へ、すたすた歩いて行った。博物館の北側をまわって行けば、人影もまばらなあたりへ出るだろうと思った。ところが、今度は寒さが身にしみ、自分の妙な立場が情けなくなって、僕は走りながら、べそをかいていた。
ブルームズベリー広場の北角まで来ると、一匹の白い小犬が薬剤師協会の事務所からかけて来て、鼻をくんくんさせながら僕について来た。それまで思ってもみなかったが、犬の鼻は、目あきの人間の目のような働きをするものだね。犬は人間の動きを、姿で見ずに、匂いで、かぎつけるものらしい。そいつが、とびついてほえかかるのは、たしかに僕をかぎつけている証拠だった。僕は小犬をふり返りながら、グレイト・ラッセル街の方へ急ぎ、わけもわからずモンターギュ街の方へ向かって走った。
やがて、人声が聞こえてきたので、見ると、赤いシャツを着、救世軍の旗を押し立てた連中が、ラッセル広場から元気よく行進して来た。その連中は行進しながら賛美歌をうたい、歩道にとまって説教していた。その人だかりにまじりたくもなかったし、もとへ引き返すのもいやだったので、とっさの思いつきで、博物館の柵に面している邸《やしき》の白いペンキ塗りの踏み段にかけ上がって、一行が通りすぎるまで立って待つことにした。うまいことに犬も楽隊の騒ぎにおじけづき、しばらく迷っていたが、くるりと向きを変えて、ブルームズベリー広場の方へかけもどった。
楽隊がやって来て、僕にとって、思いがけぬ皮肉な賛美歌を唱えた。『いつの日か、われら主の顔《かんばせ》を見ん』そのときは、僕のわきの歩道を、群集の波が洗っていくので、僕は、にっちもさっちもならなった。ドン、ドン、ドンと、太鼓《たいこ》のひびきが、寒空をゆるがした。ふと気がつくと、そのとき、僕のそばの柵にぶら下がっているふたりの子供が、しきりにしゃべっていた。
『見ろよ』と、ひとりが。
『何をさ』と、相手が。
『そら――その足あとさ――はだしだよ。なんだと思う』
見下ろすと、その子供たちが、しゃがみ込んで、最近塗ったばかりの白い踏み段に僕がつけた泥足のあとを、あきれて見つめていた。押し合いへし合い通りすぎる群集は、そんなことにはおかまいなしだった。
ドン ドン ドン いつの日か ドン ドン われら ドンドン 主の顔を見ん ドンドン。
『はだしの人がこの踏み段を上がったんだよ。そうにちがいないさ』と、ひとりが『上がったきり下りて来ないんだよ。足から血が出てらあ』
群集は通り過ぎていた。
『みろよ、テッド、あそこだ』と、子供探偵は驚きで声をとがらせてまっすぐに僕の足もとを指さした。あわてて目をやると、はねの上がった足の形が、おぼろげに現れているではないか。とたんに、僕は身動きがとれなくなった。
『そうだ、あいつだ』と、年上のほうが『おかしいな。幽霊の足みたいだよ』と、おずおずと、両手を広げて上がって来た。ひとりの男が立ちどまって、気をひかれたようにながめ出した。すぐに、ひとりの女も立ちどまった。子供の手が、もう少しで僕の足にさわりそうになった。こいつはいかん。僕が蹴ると、子供はキャッと叫んでころげ落ちた。そのすきに、僕はひらりと隣家の玄関にとび移った。ところが、チビのほうが目ざとく僕の動きを追って来て、僕の足がそこから歩道につくかつかぬに、はっと気を取り直してわめき出した。『足が塀《へい》をのり移ったよ』
みんながかけよって来て、すばやく踏み段を歩道へかけ下りる新しい足あとを見つけた。
『なんだろう』と、だれかが『足だぜ。見ろよ。走ってるぜ』
僕を追っていたふたりの子供とひとりの大人《おとな》のほかは、道路にいた連中はみんな救世軍のあとを、ぞろぞろとついて行こうとしていたのに、その叫び声でかけ集まって来た。驚きあきれてわいわい騒ぎ出した。いきなり、僕はひとりの若者をつきのけて、人だかりを抜け出し、次の瞬間、まっしぐらに、ラッセル広場をまわって走り出した。六、七人の屈強な若者が、僕の足あとを追って来た。弁解の余地など全然なかった。ぐずぐずしていたら、群集がみんなで追ってくるところだ。
二度角を曲がり、三度路を横切り、もとの道へかけもどった。足が熱くなり、かわいて来たので、ぬれた足あとが消え始めた。そして、最後に息抜きの場所をみつけ、手で足をきれいにふいたので、足あとは全然つかなくなった。追跡者の数は、ついに十二人ぐらいになり、タビストック広場のぬかるみのせいでついた半かわきの足跡を、なんとも不審そうに見つめていた――それはちょうど、無人島で、ロビンソン・クルーソーが、えたいの知れない足跡を一つ見つけたときのような顔つきだった。
逃げまわったおかげで、いくぶんからだが暖かくなった。それで、元気を出して、網の目のようなそこらの小路を、当てもなくほっつき歩いた。背中がこって痛んだし、馬方に首をつかまれたので扁桃腺《へんとうせん》もふくれ上がり、爪でひっかかれた首筋がひりひりするし、足も傷だらけで、片足が切れていたから、少しびっこをひいていた。
そのとき盲人が近づいて来たので、僕はびっこをひきながら逃げ出した。盲人の勘がこわかったのだ。逃げる途中、一、二度、どしんと人にぶつかったので、いきなり悪態をついてやると、みんな、あっけにとられていた。やがて、何か静かに顔に当たるものがある。気がつくと、広場に薄いヴェールをかけたように、しずかにゆるく雪が降り出していた。僕も風邪をひきこんだらしく、いくらつとめても、咳がとまらなかった。それに、犬が目につくたびに、その鋭い嗅覚《きゅうかく》が恐ろしかった。
そのとき、大人や子供がぞろぞろかけ出して来た。だんだん人数がふえて、口々に叫んでいる。火事だった。みんなが、前の僕の下宿の方へかけていくので、ふり向いてみると、まっ黒な煙が、屋根や電柱の上に、もくもくとあがっていた。僕の下宿が燃えているのだ。僕の衣類も、実験道具類も、持ち物全部が燃えているのだ。あとは、グレート・ポートランド街の郵便局に送りつけておいた三冊のノートと小切手帳が僕を待っているだけだ。燃えろ、燃えろ! 僕はいよいよ背水の陣をしいたわけなんだ――思い切ってね。下宿は、盛んに燃えていたぜ」
透明人間は口をつぐんで考え込んだ。ケンプ博士は、心配そうに窓の外に目をやった。
「なるほどね」と、博士が「それから?」と言った。
二十二 百貨店で
「こんなわけで、僕は一月の初めの大雪にぶつかったんだ――いやはやさんざんな目にあったというわけさ――疲れて、凍えて、傷が痛むし、なんともみじめな気持で、からだが透明になってご利益《りやく》があるものかないものか、半信半疑だった。だが、あえてこうなったのだから、新しい生活を続けないわけにはいかない。家もなく、友もなく、この世に信頼のおける者はひとりもいない。身の秘密をあかせば敗北だし――醜態をさらけ出すだけのことだろう。だが、だれか通りがかりの人の前に身をなげ出して、情けを乞いたいような気がした。そんなことをしたら、どんな恐ろしい残酷な目に会うかが、わかりすぎるほどわかっていた。どうしていいか、何の当てもなく、僕は雪の中に立っていた。さしあたりは、なんとかして雪をのがれて、暖かい家にはいりこみたかった。先のことはそれから考えればいい。ところが、透明人間たる僕にも手のほどこしようがなかった。というのは、ロンドンじゅうの家々が、錠を下ろし、かけ金をかけ、かんぬきを差し、戸締まり厳重なんだからね。見えるものといっては、ただ夜空に舞う雪の、みじめなひえびえとした景色だけだった。
そのとき、すばらしい考えがわいた。ちょうどカヴァー街からトテナム・コート通りへ出て、オムニマス百貨店の前へさしかかっていた。君もあの店なら知っているだろう――なんでも売ってる大きな店だ――肉も野菜も、布類も、家具、衣類、油絵具まである――商店というより、売場の一大集積というやつだな。どこか開いている入口はないか見まわしたが、どこも開いていなかった。それで、広い入口の前に立っていると、馬車がやって来てとまり、制服の男が――帽子に店の名を入れている男さ――そいつが、とび出して、ドアをあけた。僕はするりと店内にはいり、売場を見て歩いた――リボン、手袋、靴下などの売場だった――そして、少し行くと、ピクニック用の籠や籐椅子などを売っている、かなり広い場所へ出た。
しかし、そこも安全ではない、客たちがうろついているからだ。僕は、せかせかと歩きまわって、しまいに、階上の広い寝台売場にたどりつき、マットレスが山のように積み上げてある上によじのぼって、やっと休み場所をみつけたのだ。そこは明るくて、ふかふかと気持よく暖かだったから、閉店時間まで、もぐり込んでいることにした。だが、マットレスの山の間を、二、三組の店員とお客が品物を見てまわっているのからは目が放せなかった。閉店になったら、店で食料と衣服を手に入れて変装し、必要な品のあるところを見てまわり、うまくすれば陳列のベッドにもぐり込んで寝ることもできるだろうと思っていた。この考えは、うまくいきそうだった。服をつければ姿が浮かびあがり、金も手にはいる。そうすれば、ノートと小包を局留の郵便局で受けとり、どこかに部屋を借り、透明人間に与えられる(と思い込んでいた)特権をフルに利用して、すばらしい計画を実行し、世間のやつらをあっといわせてやれるのだ。
閉店時間はたちまちやって来た。マットレスの上にもぐり込んで一時間たつかたたぬうちに、気がついてみると、窓のブラインドが下ろされ、客たちは出口に向かっていた。すると、元気な若者たちが、張りきって、乱れた商品の整理をはじめた。
客足が退《ひ》いたところで、僕はねぐらからはい出し、人気の少ない場所をえらんで、こっそりと店内をぶらついた。若い男女の店員が、昼間のお客がとり散らした品物を、実に手ばやく整理するのを見て、びっくりした。箱入りの物は箱に入れ、吊るした布地、かけ渡したレース、食料品部の菓子箱まで、きちんと並べられ、そろえられ、たたまれ、適当にくくられて姿を消し、とり下ろしや片づけのきかないものには、いちいちズックのような粗《あら》い布のシーツがかけられた。椅子を全部さかさにしてカウンターにのせるのを最後に、あとは掃除《そうじ》するだけだ。仕事が済むと、その若い男女店員たちは、すぐに、かつて見たこともないほどいきいきとした表情で出口に向かって急いで帰って行った。すると、バケツと箒《ほうき》を手にした少年たちがゾロゾロとあらわれて、おが屑を床にまきはじめた。僕はあわてて身をかわしたが、それでも、踵におが屑がくっついた。しばらくは、薄暗くなった店内をあちこち歩きまわっていたが、聞こえるものは箒の音ばかりだった。
閉店してから、小一時間ほどして、やっと、ドアに戸締まりをする音が聞こえてきた。店内が静まりかえり、僕はがらんとした売場や、陳列場や、陳列室を、ひとりきりでさまよっていた。実に静かだった。トテナム・コート通りに面した入口を通りかかり、外を通る人の靴音に聞き耳を立てたが、あの音は今でも耳にこびりついている。
僕が最初に行ったところは、先に見ておいた靴下と手袋の売場だった。暗くなっていたので、一生懸命にマッチを捜しまわり、やっと、小さな勘定台の引出しで見つけた。次にはろうそくを見つけなければならなかった。それから、たくさんの箱や引出しをひっかきまわしたあげく、やっと目的の品を捜し出すことができた。箱には毛糸パンツ、毛糸シャツとレッテルがはってあった。次には靴下と厚手の襟巻《えりまき》を手に入れ、それから衣服売場に行って、ズボンと上着と外套とソフト帽――ふちのたれ下がった牧師のかぶるようなのをえらんだ。
それでやっと人心地《ひとごこち》がつくと、次には食い物が欲しくなった。
食堂は二階だったので、上がって行き、冷肉《コールドミート》を見つけた。コーヒーがまだポットに残っていたので、ガスに火をつけて暖めて飲んだ。それで腹のほうはまあまあだった。それから、毛布を捜して、店内をぶらついたが――羽根ぶとんの山でがまんしなければならなかった。――また食品部ではチョコレートやキャンディが山ほどあったが、実際あり余るほどだったぜ――それに白ブドウ酒も手にはいった。
そばの玩具売場で、僕はすばらしいことを思いつき、仮装用の付け鼻を見つけ出した――例の、くっつける鼻さ――それに色眼鏡もつけようとしたが、あの店には眼鏡売場がないんだ。付け鼻のほうも困ったもので――もう少し色がよくないと、うまくない。だが付け鼻を見つけたのがきっかけで、かつらや仮面のことを、それからそれへと考えてみた。そして最後に、羽根ぶとんの山にもぐり込んで、寝てしまった。ぬくぬくとして気持がよかった。
寝入る前の僕は、透明人間になってから、一番幸せな思いだった。身も心ものびのびというやつだった。朝になったら、盗んだ衣類をつけ、白いマフラーで顔をつつみ、人目につかずに店を忍び出て、盗んだ金で眼鏡などを買おう、そうすれば完全に変装できると、思っていた。そして、この数日のあいだのいろいろな妙なできごとを、とりとめもなく夢にみながら眠りに落ちた。チビのいやらしいユダヤ人の家主が部屋の中でわめきたてている夢、けげんそうに目を見張っているふたりのせがれの顔、皺くちゃばばあが猫をどうしたとなじる姿が、ちらついた。かと思うと、いくら捜しても衣服が見つからなくていらいらしている自分を夢見た。すると、僕は吹きさらしのあの丘の中腹に立っていて、年とった牧師が水っぱなをすすりながら『灰を灰に、土を土に』と、つぶやくように祈り、おやじの墓が、ぽっかり口をあけていた。
『いずれはお前もだ』と、声がすると、急に僕は墓に引きずり込まれそうになった。僕はもがき、叫びながら会葬者に助けを求めたが、みんなは石のように黙りこんで祈りつづけるばかり、老牧師も鼻をクスンクスンさせながら祈りつづけていた。ふと、気がつくと、僕は透明だし、声も聞こえないのだ。すると、僕を引きずり込もうとする力が急に強くなった。僕はがむしゃらにあばれまわったがきき目がなく、ずるずると墓のふちに引き込まれ、どさっと棺の上におちこみ、頭の上から小砂利がシャベルでかけられた。だれも僕をかばってくれないし、僕に気づかないんだ。僕はもがき苦しんで目がさめた。
青白いロンドンの夜明けが、店の窓々のブラインドのふちから寒い灰色の光を投げ込んでいた。起き上がってしばらくは、カウンターが並んでいるこの大きな部屋がどこなのか、見当もつかなかった。みれば、巻いた服地が積み上げてあるし、羽根ぶとんやクッションが山となっているし、ニョキニョキと鉄の柱が立っている。やがて、記憶がよみがえってきたとき、話し合う声が聞こえた。
店内のはるか向こうの売場で、ブラインドを上げたらしく、急に明るくなると、ふたりの男が話しながらこちらへ近づいて来るのが見えた。
立ち上がって逃げ道を捜していると、僕の動く気配で連中は僕に気がついたらしい。連中はちらりと、音もなく動く僕の姿を見たのだろう。
『だれだ!』と、ひとりが叫び『とまれ!』と、もうひとりがどなった。あわてて角を曲がると、いきなり、背のひょろ高い十五、六の少年と、出会いがしらにぶつかった――顔なしの人間なんだぜ、僕は――少年は悲鳴をあげた。僕は、相手をつきとばして、かけ抜け、角を曲がって、思いつくままに、カウンターの下に身を伏せた。すぐ、追跡の足音が走りすぎ、口々にわめいていた。
『出入口を、全部かためろ!』みんなは、どうしたどうしたと言いながら、互いに、僕をとらえる方法をしゃべり合っていた。
ぴったりと身を伏せながら、こわくてとほうにくれていた。だが――妙なもので――服を脱ぎさえすれば姿が見えなくなるのが分かっているのに、その気になれなかった。なんとか囲みを抜けようとばかり思っていたらしい。そのときカウンターの下を調べていたやつがどなった。
『いたぞ、いたぞ』
僕はとび立って、カウンターの椅子をひっつかむと、わめいているばか面に投げつけて、そいつをひっくり返し、身をひるがえしてかけ出すと、角を曲がり、階段をかけ上がった。相手は起き上がると、鬼みたいな面《つら》で、階段をかけ上がり、しつこく追って来た。階段の上には、色のあざやかな壷類がどっさり並べてあった――ありゃ、なんだったっけ」
「美術陶器だろう」と、ケンプ博士が教えた。
「それだ。その美術陶器だ。そいつを、僕は階段のてっぺんで、振り向きざまに一つひっつかみ、追いつきそうになった、そいつのくそ頭に、たたきつけてやった。そのはずみに、陶器の山が、ガラガラとくずれ落ちたので、店じゅうの店員どもが、あちこちから、叫びながらかけ集まって来た。
僕は死にもの狂いで食堂へとび込んだ。すると白い上っ張りのコックが追いかけて来た。僕はとっさに向きを変えて、走り込んでみると、電気の照明器具売場だった。そこのカウンターの下に隠れて、コックを待ち伏せ、やつが追跡の先頭を切って来るところを、スタンドでなぐりつけてやった。やつがへたばったので、僕はカウンターの下にしゃがみ込んで、手ばやく衣類を脱ぎすてた。外套、上着、ズボン、靴は造作なかったが、毛糸の下着は、肌《はだ》にぴたりとついているので、楽に脱げない。続々とみんながかけ寄って来る。コックがカウンターのはじでのびているので、みんなは、驚いて、ものも言わずに、僕を捜しまわる。それで、シャツのまま、もう一度、林から狩り出された兎のように、とび出さざるをえなかった。
『こっちだ、こっちだ! おまわりさん』と、叫び声がした。いつの間にか、また、寝具売場にまいもどっていた。追いつめられた僕は箪笥のあいだに逃げ込んだ。そして、身を伏せ、さんざん苦労してシャツを脱ぎすてると、透明の自由の身になってすっくと立ち上がった。おそろしく息が切れた。そのとき、警官と三人の店員が角を曲がって、はいって来た。連中は、脱ぎすてたシャツとパンツにかけより、ズボンをつまみ上げた。
『盗品を捨てて行きましたね』と、若い店員が『その辺に隠れてるかもしれませんよ』
だが、透明になれば、どっちみち見つかりっこないのさ。
連中が僕を捜しまわるのを、しばらく見ながら、衣類を失った不運をなげいた。それから、食堂にはいり、ミルクを捜して飲み、火のそばに腰を下ろして、からだを暖めながら、どうしようかと考えた。
するうちに、ふたりの給仕がはいって来て、ひどく興奮しながら、夢中になって今朝の騒ぎをしゃべり合っていた。僕は大泥棒に仕立てられ、僕の隠れ家がどこだろうなどと、デマもいいところだった。僕はまた、今後の方針を考えはじめた。警戒が厳しくなった今では、店内ではもう何も盗み出せっこない。倉庫まで下りて、荷造りして荷を送り出すチャンスがありはしないかと調べてみたが、出荷する方法がわからなかった。
十一時ごろになると、雪は降るはじから溶けて、天気もよくなり、前の日よりかなり暖かくなった。僕はデパートに見切りをつけて、また戸外に出た。失敗がいかにもくやしかったし、これからどうしていいかさえ思いつかなかった」
二十三 ドルーリィ・レーンで
「ところで、そろそろ君にもわかってきたろう」と、透明人間が「僕の透明人間たる特権がどんなものか。家もなければ、着る物もなしだ――服を着れば、特権の放棄だ。僕は化け物然たるものになってしまう。それにいつもすきっぱらでいなくてはならないんだ。食って、透明にならない食物で胃袋をふくらませたら、食物が宙に浮いて見えて、グロテスク至極だからな」
「それには思い及ばなかったな」と、ケンプ博士が言った。
「僕もだ。それに、雪がまたひどく危険なんだ。雪の中に出るわけにはいかない――僕のからだに積もれば、正体がばれちまうからね。雨も、肌をぬらすと、からだの表面だけがキラキラ光って、輪郭が浮かび上がるかもしれない――一種の影法師だ。それに霧もいけない――霧にぬれると、表面が、人間じみた油照りがして、あわい影法師になって見えるだろうよ。その上、外を出歩けば――ロンドンのよごれた空気で――肌は煤《すす》と埃《ほこり》だらけになり、足は泥だらけになるだろうから、これも危険だ。そんな原因でいつ姿が見えるようになってしまうか、見当もつかないが、いずれは、じきにそうなるにきまっている。
とにかく、ロンドンにはいないほうが無難だ。
いつしか、僕はグレート・ポートランド街の裏町にはいり、道のゆくてに以前の下宿屋があるあたりへさしかかった。だが、そっちへは近づけなかった。すぐ目の前に野次馬が群がって、僕の放火で、まだくすぶっている焼け跡を見物していたからだ。
僕にとって緊急な問題は衣類を手に入れることだった。それに顔もなんとかしなければならない。そのとき、小さな雑貨屋が目についた――新聞、菓子、玩具、文房具、売れ残りのクリスマス用仮面などがあり――いろいろの仮面や付け鼻が並べてあった。それを見たとたんに、問題がかたづいたと思った。すぐに方針がきまった。僕はくるりと向きを変えて、まっしぐらに、歩き出し――人ごみの道を避けて迂回しながら、ストランド街の北の裏町へ向かって行った。その辺に劇場相手の衣装屋があったのを、ぼんやりと思い出したからだ。
寒い日で、北に向かって走っている往来を、肌をさす風が吹き抜けていた。人目につかないように大急ぎで歩いた。どの四つ角も危険だったし、どの通行人にも、ぶつからないように気をくばらなければならなかった。ベッドフォード街の角を通りかかったとき、ひとりの男がいきなりとび出して来て、僕にぶつかりそうになったので、よけて車道に出たら、危うく通りがかりの馬車にひき殺されそうになった。何かがぶつかったような音がしたので、御者が妙な顔をした。その衝突にこりて、僕はコベント・ガーデンの青果市場にはいり、花売りの屋台のわきの静かな隅《すみ》に腰を下ろして、しばらく休んだ。息が切れ、寒さでふるえていた。風邪をぶり返したらしいが、くしゃみをして人に気づかれてはならないから、そうそうにそこを離れなければならなかった。
やっと目的の場所についた。ドルーリィ・レーンのそばの横丁のみすぼらしい小店だった。陳列窓には、ぺらぺらな衣装、まがいの宝石、かつら、スリッパ、仮面《ドミノ》、舞台写真などが、ごたごた並べてあった。その店は古家で、天井が低く、中は暗く、住居が店の上についている四階建ての、みるからに怪しげなものだった。陳列窓からのぞくと、だれもいないので、中にはいった。ドアを開くと、ベルがカランカランと鳴った。僕はドアをあけ放ちにして、何もかかっていない衣装かけをまわって、姿見の後ろの隅にはいった。しばらく、だれも出て来なかった。やがて、大股で急いで来る足音が聞こえ、ひとりの男が店に出て来た。
僕の腹は完全にきまっていた。家に押し込み、二階にひそみ、チャンスを見つけて、あたりが静まったら、かつら、仮面、眼鏡、衣装をさらって、外へ逃げるつもりだった。多少グロテスクだろうが、それでどうやら人間らしい恰好《かっこう》になれるだろう。ひょっとすると、必要とする金も盗み出せるかもしれない。
店にあらわれたのは、やせたチビで、猫背でがに股《また》で、手ばかり長くて、毛虫|眉毛《まゆげ》の男だった。食事をじゃまされたらしく、それでも、お客を迎える目つきで、店内を見まわした。ところがだれもいないので、きょとんとしていたが、いきなりおこり出した。
『しょうがない、がきどもだ』と、つぶやいた。そして、戸口へ行って首をつき出し、町の上下をにらみまわした。そして、すぐに首を引っこめると、チェッと、いまいましそうにドアを蹴り、ぶつぶつ言いながら部屋へ引っ込んでいった。
僕が、あとについてはいろうとすると、その気配に勘づいたらしく、ぴたりと足をとめた。僕も、すぐとまった。やつの耳ざといのに驚いた。やつは、僕の鼻づらに、ぴしゃりとドアをしめた。
どうしようかと立っていると、やつは急に、早足でもどって来て、またドアをあけた。そして、なっとくのいかない顔で店を見まわしてから、店に出ると、ぶつぶつ言いながら、カウンターの後ろや家具の裏をのぞき込んだ。まだなっとくのいかない様子で立っているすきに、あけ放ちのドアから、僕は奥の部屋へ忍び込んだ。
妙な小部屋で、家具はほとんどなく、隅に大きな面がかけてあった。テーブルにはおそい朝食が並んでいたが、とても僕には食えないような料理だったよ、ケンプ。そのコーヒーの匂いをかぎながら、やつがもどって来て食事を済ますのを立って見ていなければならなかったんだから、うんざりしたよ。しかもやつの食事の無作法なことといったら、全く、腹が立つほどだった。
その部屋にはドアが三つあって、一つは二階へ、一つは地下室へ、一つは店へつづいていたが、みんなしまっていた。だから、やつがいる間は僕は外に出られないばかりか、身動きもできないんだ。そんなことしたらやつが騒ぎ出すだろうからね。しかも、背中にすき間風が吹くんだ。二度ほど、僕は、目を白黒して、くしゃみをこらえた。
やつの食事が終わるずっとまえにくたくたになり、じりじりしていたが、他人の食うのを見ているってのも、珍妙な感じだぜ。だが、とうとう長飯が終わると、やつは粗末な食器類を、お茶のポットがのせてあるまっ黒になったブリキの盆にのせ、カラシのシミのついているテーブル・クロスに、パン屑をよせ集めて、両手で台所へ運んで行った。手がふさがっているので、ドアをしめることができないとみえて――しめようとしなかった。こんなに、きちんきちんとドアをしめるやつを見たことがないほど、几帳面《きちょうめん》な男なのにね。
それでやつの後ろから、地下の台所と洗し場へついていったが、いやきたないのなんの、ひどいもんだった。さいわいやつは水仕事をはじめたし、考えてみればこんな所にいてもどうにもならないし、煉瓦の床で足が冷えるので、僕は階上へまいもどって、暖炉のそばのやつの椅子にすわり込んだ。炉の燃えが悪いので、無考えにも、少し石炭をたしてやった。その音を聞きつけて、やつはすぐかけ上がって来て、目をむいた。そして、僕のすぐそばに立って、室内を見まわした。方々しらべたあとも、なっとくがいかないらしい顔つきで、戸口に立って、下へ降りる前に、念のためにもういちど見まわした。
僕はその部屋でしびれが切れるほど待った。やがてやつは上がって来て、二階へ通じるドアをあけたので、僕はやつのそばをすり抜けて通った。
階段の途中で、やつがいきなり立ちどまったので、危うく衝突しそうになった。やつは立ちどまって、僕の顔すれすれにふり向き、耳を澄ませて『気のせいかな』と、つぶやいた。毛むくじゃらの手で下唇を押え、階上の上下を見まわしてから、ぶつぶつ言いながら上がっていった。
手を二階の部屋のドアのハンドルにかけたままむっとした顔で立ちどまった。身辺で僕の動きまわる気配に気づいたらしい。やつは、地獄耳らしいのだ。いきなり、癇癪をおこして『どうも、だれかいるらしいぞ』と、いまいましそうに大声で言い、ドアをあけるのをやめて、ポケットに手を突っ込んだが欲しいものが見つからなかったとみえて、いきなり、僕の目の前をかすめて、どたどたどたと階段をかけ下りて行った。だが僕はついて行かずに階段のてっぺんで、やつがもどって来るのを待っていた。
間もなく、やつは、ぶつぶつ言いながらもどって来た。そして、ドアをあけると、僕が忍び込むすきもないほど、すばやく、しめきった。
僕は家の中を探検することにきめて、しばらく、足音を立てずに歩きまわった。ひどい古家でくずれる一歩手前だった。湿気もひどく物置の壁紙がはがれ、ねずみがかけまわっていた。ドアのハンドルがさびついているので気をつけてまわさなければならなかった。調べてみると、ろくに家具もない部屋もあり、見たところ古道具屋で買い集めたらしい芝居の小道具類が詰まっている部屋もあった。やつの部屋の隣に、古着が山と積まれていた。僕は夢中になって必要な古着を捜しているうちに、うっかり、やつの耳の鋭さを忘れてしまった。忍び足の音を聞いて、目を上げると、やつが旧式のピストルを手に、屑の山の間からのぞきこんでいた。僕がぴたりと動きをとめて立っていると、やつは、あきれ顔で不審そうに見まわしながら『ねずみのやつだな』と、ゆっくりした口調で『いまいましい畜生め』とつぶやいた。
そして静かにドアをしめると、すぐに、カチッと錠を下ろす音がした。足音が遠ざかった。閉じこめられてしまったのだ。しばらくは、どうしていいかわからなかった。僕はドアと窓を調べに行き、どれもしまっているので、とほうにくれた。いきなり腹がたってきた。だが、さしあたり、古着を選《よ》り出すことにした。まず上の棚から一包み取り下ろそうとした。その物音を聞きつけて、やつは不審そうに、もどって来た。今度は、見えない僕のからだに、実際に手が触れたので、やつは、ぎょっとしてとびすさり、部屋のまん中に突っ立っていた。
だが、じきに落ちつきをとりもどして『ねずみだな』と、低くつぶやき、唇に手を当てた。かなりびくびくしていた。そのすきに、僕は静かに部屋を抜け出したが、ミシリと床がきしんだ。
すると、いまいましい小男は、ピストル片手に家じゅうのドアを次々に調べてまわり、錠をかけて、鍵をポケットに入れた。やつのねらいがわかると、僕もカッとなった――もう、がまんして、チャンスを待っていられなくなったのだ。家の中にはやつひとりきりだ。いきなり僕は、やつの頭をなぐりつけた」
「頭をなぐったんだって」と、ケンプ博士が思わず声を高めた。
「そうさ――階段を下りかけてるところを――やったのさ。踊り場にあった椅子で、やつを後ろからなぐりつけた。やつは古靴の袋みたいに転がり落ちたぜ」
「でも、そりゃ、ちょっとむちゃな話だな――」
「世間のやつらからみればそうだろうさ。だが、いいかい、ケンプ、僕は変装して逃げるところを、やつに見られちゃまずいんだぜ。それには、そうするより仕方なかったのさ。それからルイ十四世時代風のピカピカの上衣を、やつの頭からかぶせ、垂れ幕でしばりあげてやった」
「垂れ幕でしばりあげたんだって」
「まるで袋へ押しこんだような恰好さ。あのばかを震え上がらせ、静かにさせるのには、なかなかいい思いつきだったぜ。それに、なまじっかのことでは、縄目《なわめ》をはずして、こっちを見るわけにいかないようにするにはね。おいおいケンプ、人殺しを見るような目つきをするなよ。そうしなくっちゃならなかったんだぜ。やつはピストルを持っていたし、ひと目でもこっちを見れば、こっちの風体《ふうてい》がわかっちまうんだからな――」
「でもさ」と、ケンプ博士が「このイギリスで――しかも現代に。しかも相手は自分の家にいたんだぜ。それじゃまるで、強盗じゃないか」
「強盗! よしてくれ。盗人《ぬすっと》よばわりをするのは。いいかい、ケンプ、君はそれほど頭のコチコチなばかじゃなかったはずだぜ。僕の立場がわからないのかね」
「相手の立場もあるだろう」と、ケンプ博士が。
透明人間はすっくと立って言葉鋭く「だから、どうだってんだい」
ケンプ博士は顔色をけわしくして、何か言いかけたが自分をおさえた。
「つまり、やむをえなかったと言うんだね」と、急に態度をやわらげて「君は追い詰められていたわけだ。だが、それにしても――」
「そうさ、僕は追いつめられて――にっちもさっちもいかなかったんだ。それに、やつは僕をおこらせたんだ――家じゅう追いまわして、ピストルは振りまわす、ドアは片っぱしからしめちまう、しゃくにさわることばかりしたんだ。僕のせいじゃないぜ。僕を非難することはないじゃないか」
「だれもせめてやしないよ」と、ケンプ博士が「いまさら責めてもはじまらないからね。それからどうしたね」
「腹がすいていたので、階下に降りて古チーズとパンを見つけて――一応空腹をみたすだけ食ったよ。それから、ブランディと水をのみ、次に即製の袋――その中にやつが静かに転がっている――のそばを通って、古着のある部屋へはいった。その部屋には通りに面して窓があり、茶色によごれた二枚のレースのカーテンがかかっていた。僕はカーテンのすきから外をのぞいてみた。
外は陽がまぶしく――僕のいる陰気な怪しげな家とは対照的に、ギラギラと明るかった。交通は激しく、果物を積んだ馬車、二輪馬車、四輪の荷馬車、魚屋の車などが通っていた。ふり向いて、暗い方を見ると、色のついた光の渦が瞼の裏でちらちらするほど明るかった。やや、興奮がしずまると、またしても、さし迫った自分の立場が、身にしみた。部屋には、古着をふいたらしいベンジンの匂いがかすかにただよっていた。
僕は順々に部屋の中を調べてみた。あの猫背の小男は、かなり長く、ここでひとり暮らしをしていたらしいのだ。変人なんだろう。
衣装置場で役に立ちそうなものをかき集めてから、何かないかと捜しまわっているうちに、かっこうなハンドバッグを見つけて、白粉《おしろい》、口紅、絆創膏《ばんそうこう》をつめこんだ。
自分を見せたいとき、顔に紅白粉をつけるつもりだったが、消えたいときに、テレピン油や他の化粧品などがいるし、おそろしく手間もかかるので、考えてみれば、かなり不便だ。それで、適当なマスクをつけることにした。少しはグロテスクでも普通人とあまり変わらないマスクをつけ、色眼鏡をかけ、半白のつけひげをし、かつらをかぶることにした。ところが、下着類が見つからなかったが、それはおいおい買うこととし、さしあたり、更紗《サラサ》の頭巾《ずきん》をかぶり、白いカシミヤの襟巻を首に巻くことにした。さて、足だが、靴下が見つからないので、猫背男の長靴が少しだぶつくが、それで間に合わせることにした。
店の机の中に、サヴリン金貨が三枚と、銀貨で三十シリングばかりあった。奥にはいって、錠の下りた食器棚に金貨が八ポンドあるのを見つけた。これで、ふたたび世間に出て行く準備ができたわけだ。
ところが、妙に気がかりで、僕の恰好《かっこう》は本当に――大丈夫だろうかと、心配になってきた。それで、寝室の小さな手鏡にあらゆる角度から写してみて、手落ちはないかと調べた。しかし、大丈夫らしい。舞台衣装をつけたへぼ役者みたいで、グロテスクだが、たしかに人間らしくはある。一応の自信を得たので、手鏡を持ったまま店に降りて、ブラインドを下ろし、隅の姿見で、もう一度、あらゆる角度から恰好を調べてみた。
勇気をふるいおこすのに五、六分かかったが、ついに、店のドアの錠をはずして通りへ出た。小男はシーツから出たいときに出ればいいと、ほうっておいた。五分ぐらいで、十二ほどの町角を曲がって、衣装屋から離れて行った。格別、だれも僕に目をつける者はいなかった。僕は最後の難関を突破したわけだ」
透明人間はひと息込れた。
「すると、君は、あの猫背男には、いっさい、かまわなかったのかい」と、ケンプ博士がきいた。
「そうさ」と、透明人間が「その後どうなったかも知らないよ。きっと、縄をほどいたか、しばられたまま、転げ出ただろうよ。結び目はきつくしといたがね」
透明人間は黙りこんで、窓へ近づき、外をながめた。
「ストランド街へ出てからどうしたね」
「おお――またしても幻滅さ。苦労はもうないと思っていたのにね。本当に好きかってにできると思っていたんだ、なんでもね――僕の正体がばれさえしなければね。そう信じていた。どんなことでもして、どんな結果になろうとも、いっさい、僕には関係がないとね。いよいよの時は衣類を脱ぎすてて消えちまえばいいんだとね。だれにもつかまりっこはないんだ。お金は見つけしだいもらっとけばいいし、ぜいたくな食事をし、一流のホテルに泊まり、どんどん財産を増やしていけばいいものときめこんでいた。
ところが、とんだ皮算用だったのさ――自分が大まぬけだったと思うとムカムカするよ。
僕は店にはいって、ランチを頼んでしまってから、ふと気がついたら、食べるためには透明な顔を出さなくてはならないじゃないか。注文をすませてから、給仕に、十分ほどして来ると断わって、ほうほうのていで逃げ出したんだ。すきっ腹のときに、こんなみじめな目にあったことは、君なんかにはないだろうな」
「そんなひどい目にあったことはないが」と、ケンプ博士が「想像はできるね」
「いまいましいったらありゃしない。しまいには、気が遠くなるほど、ご馳走にありつきたくなって、他の店へ入り、個室で食事したいと頼んだ。『ひどい傷あとがあるんでね』と言うと、妙な顔をしてのぞき込んでいたが、むろん、そんなことは商買にはかまやしないからね――そうして、やっと、ランチにありついたんだ。あまりご馳走でもなかったが、まあまあ空腹だけはみたせたよ。食後に、葉巻をくゆらせながら、これからの計画をねっていると、外は吹雪《ふぶき》になりはじめた。
考えれば考えるほど、透明人間なんてものは、てんでばかげたものなのがわかってきたよ、ケンプ――この寒い悪天候のもと、にぎやかな文明都市の中で、だれも相手にしてくれないんだからね。この気違いじみた実験を完成するまでは、無限の利益があると夢みていたのにね。
あの午後はことごとく失望つづきだった。僕はだれよりも先に、人間がそうありたいと願うものになった。たしかに、透明になれば、ほしいものが手に入れられる。だが、手には入れても、それを楽しむわけにいかないのだ。
功名心をみたして、りっぱな地位についたところで、姿をあらわせなければ、なんの役にもたたないじゃないか。女性の愛を得たところで、いつかはこっちの正体を敵に売る運命になるときまれば、なんにもならないじゃないか。僕には、政治欲も、名誉欲もないし、慈善やスポーツにも興味がない。そうなると、透明なんてなんの役にもたたない。結局、僕はぬいぐるみの怪人、包帯だらけの漫画の主人公になっただけだ!」
透明人間は口をつぐんで、キョロキョロと窓の外を見まわしているらしい。
「ところで、どうしてアイピング村に行ったのかね」と、ケンプ博士は、相手の話をつづけさせようと努力していた。
「研究のためさ。一縷《いちる》の望みはあるんだが、まだ未完成なんだ。今でも考えつづけているが、どうやら考えがまとまってきてる。つまり、もとへもどる方法だよ。僕の研究の成果を逆転する術さ。好きなときに透明になり、好きなときに、普通の人間に立ちもどる方法さ。今、君にぜひ相談にのってもらいたいのは、そのことなんだ」
「まっすぐにアイピング村へ向かったのかい」
「うん。例の三冊のノートと、小切手帳と、手まわり品と、下着類を、持ってただけだからね。この研究に必要な化学薬品と実験道具は、先に送っておいたんだ――あのノートが手にもどりしだい、君にも計数を見せるよ――ともかく、そんなことで、アイピング村へ向かって行ったのさ。ところがさ。あの日は今でも思い出すほどの大雪でね。紙製のつけ鼻をぬらすまいとして、さんざん苦労したよ」
「結局は」と、ケンプ博士が「おとといになって、村の連中が君の正体を見破った、それで君は暴れた――新聞によるとそういう話だが――」
「暴れたさ。暴れたどころじゃないよ。あのばかな巡査は死んだかい」
「いや」と、ケンプ博士が「なおるそうだ」
「そりゃよかった。僕は、すっかり逆上しちまったんだよ、あのばかどもに。僕をほっといてくれないんだろう。あの雑貨屋のまぬけにしても!」
「死んだ者はいないらしい」と、ケンプ博士が言った。
「あの浮浪者めどうしているかな」と、透明人間が無気味に笑った。
「なあ君、ケンプ、真の人間の怒りというものは、とても君にはわかるまい。長い年月努力して、プランを練り、実験を重ねた成果が、一瞬にして、目あき盲《めくら》のばかどもに、ふみにじられたらどうする? あらゆるずるいけだものどもが、襲いかかって僕のじゃましにかかったんだよ。
そいつらが多くなれば、僕だってあばれるだろうじゃないか――やつらを追っ払いにかかるさ。
本当なら、あいつら、あの千倍ぐらいひどい目にあったってあたりまえだ」
「君がおこったのも、無理がないようだね」と、ケンプ博士が、気もなさそうに言った。
二十四 破れた計画
「ところで、これから」と、ケンプ博士は横目で窓をながめながら「どうしようというんだね」と、透明人間ににじり寄って、丘を登って来る三人の男の姿をさとられないようにした。――なんてのろのろ歩いているのだろうと、博士はじりじりした。
「このポート・バードックに来たのには、何か目当てがあるだろう。どんな計画かね」
「国外へ脱出するつもりだったのさ。だが、君に出会ったから計画を変えることにするよ。透明人間でいるには気候の暑い地方がむくと思って、実は南国へ行くつもりだったのさ。秘密がばれてしまった今では、みんなが鵜《う》の目|鷹《たか》の目で、仮面と襟巻の男を捜しているだろうからもう駄目だ。ここからはフランス行きの便船がある。それに乗り込んでしまえばしめたものだ。あとは、造作なく汽車でスペインへでも、アルジェリアへでも行ける。そこなら、暖かいから、いつもはだかでいられるし、はだかでいれば人には見えない――りっぱに生きていけるわけだ。自由にふるまえるさ。あの浮浪者は、例のノートと手荷物をどこか安全な場所へ送り出すまで僕の財布と赤帽の役をさせるつもりだったんだ」
「ああ、そうか」
「ところが、あの畜生め、僕から、かっぱらう必要は何もないくせにさ。やつめ、僕の大事なノートを隠しちまったんだよ、ケンプ。とんでもないことをしやがって。今度、とっつかまえたら最後、ただじゃおかんよ」
「ノートを取りもどすのが先決問題だろう」
「やつはどこにいるんだろう。わからないかね」
「あの男は町の警察に自首して出て、厳重な留置場に入れてもらっているそうだ」
「畜生め」と、透明人間がうなった。
「君の計画がちょっと手間どるわけだね」
「なんとしてでも、あのノートは取りもどさなければならないんだ。かけがえのないノートだぜ」
「たしかにね」と、ケンプ博士は、相手が外の足音に気づきはせぬかと、はらはらしながら「そのノートはぜひ取り返さなければならないが、造作ないだろう。君にとってそれほど大事なものだとは思うまいからね」
「そうかな」と、透明人間は、何か考えていた。
ケンプ博士は、なんとかして話をとぎらせまいと考えていたが、うまいことに、相手はまた、身の上話をはじめた。
「君の家へ忍び込んだので、ケンプ、話はすっかり変わってきたぜ。君は話のわかる男だからね。いろいろな騒ぎもあったし、とんだ噂《うわさ》もひろまったし、ノートがなくなり、弱り目にたたり目だが、まだまだ大きな可能性が残っているぜ、どえらい可能性が――ね。だが、君は僕がここにいることはだれにも言わなかったろうな」と、いきなりきいた。
ケンプ博士は、どきりとしたが「むろんさ」と答えた。
「だれにもだな」と、透明なグリッフィンが念を押した。
「だれにも言わんよ」
「ああ。それなら――」と、透明人間は立って、両手を腰に当てて、書斎の中を大股で歩きはじめたらしい。
「間違ってたよ、ケンプ、これだけの大仕事を、全部、ひとりきりでやろうと思ってたんだからな、大間違いさ。時間と精力を浪費して、チャンスも失ったよ。個人の力なんて――実にちっぽけなものさ。少しばかり、盗み、傷つけただけで、一巻の終わりとくるんだからな。
そこで、僕が望むのはね、ケンプ、僕の監督と、助手と、安心して衣食住がみたせる隠れ家なんだよ。どうしても相棒がいる。相棒がいて、隠れ家があれば――どえらいことができるのさ。
僕は透明人間として今までやってきたが、透明ということでどんな得失があったかを考えてみなければならない。盗聴などというものは大して有利じゃない――こっちの足音がするからね。
ほんの少しだが役にたつのは――押し込みなどをする時だな。つかまえたら、造作なく拘置場へぶちこめるだろうが、一方、僕はなかなかつかまえにくいからね。透明なことが非常に便利な点は二つある。一つは、逃げるとき、一つは忍び寄る時さ。特に相手を殺すときには最高だな。気付かれずに相手の後ろにまわることができるから、どんな武器を持っていようが、どこからでもねらって、なぐり倒せるわけだ。逃げ出すのも、抜け出すのも思いのままさ」
ケンプ博士がひげに手を当てた。階下で何かもの音がしたようだった。
「人殺しをやるんだ、ケンプ」
「人殺しをするんだって」と、ケンプ博士が思わず言い返して「君の計画は聞くつもりだが、賛成できないな、そいつは、グリッフィン。なぜだね。なぜ人殺しをしなければならないんだ」
「でたらめに殺すんじゃない、正当な理由で殺すんだ。いいかい、世間のやつは透明人間のいることを知っている――たしかに、ここにいるんだ。そこで、今こそ透明人間を利用して、恐怖政治を樹立すべきだ。そうさ――たしかに驚くべきことだろうさ。僕はそいつを考えているんだ。恐怖政治をね。バードックみたいな町を、恐怖でおびえあがらせて統治するんだ。透明人間が命令を出す。方法はいくらでもある――一片の命令書をドアの下のすき間から差し込んでおくだけで、効果は十分だ。命令に違反するやつは殺す。違反者をかばうやつは皆殺しにする」
「ふーん」と、ケンプ博士はうなずいたが、もう相手の言葉を聞いていなかった。階下の玄関のドアが開いてしまる音がした。
「だがな、グリッフィン」と、博士は透明人間の注意をそらすように「相棒の立場はむずかしいだろうな」
「相棒がいることなど絶対にわからないさ」と、透明人間が力をこめて言いかけたが、いきなり「しっ! 階下で音がするぞ」
「なんでもないさ」と、ケンプ博士も急に大声で早口に「君の計画には同意できないな、グリッフィン。まあ、聞きたまえ。不賛成だよ。なんだって全人類を敵にまわすようなばかなことを夢みるんだね。そんなことで、君は幸福になれるとでも思ってるのかい。狼《おおかみ》になろうとするなよ。君の大発明を発表したまえ。全世界に――少なくともこのイギリスに君の秘密を打ち明けたまえ。数百万の協力者を得て、どんなりっぱな仕事ができるか、それを考えてみたまえ――」
透明人間が両手をひろげて、ケンプ博士の言葉をさえぎり、「二階へ上がってくる足音だ」と、低く言った。
「何も聞こえんよ」
「見てくる」と、透明人間がドアに近寄り、両腕を伸ばした。
事態が急変した。ケンプ博士はちょっとためらっていたが、すぐとびかかって相手の動きをさまたげようとした。透明人間はあきれて立ちすくんでいたが「裏切り者!」と、鋭く叫ぶと、部屋着の前をはだけ、しゃがんで脱ぎすてようとするらしい。ケンプ博士は三跳《みと》びでドアにとびついた。すると透明人間は――目に見えない足で、とび立つと、大声でわめいた。ケンプ博士はさっとドアをあけた。
そのとき、階段をかけ上がって来る連中の声が聞こえた。
ケンプ博士はすばやく、透明人間を突きのけて外へとび出すと、ぴしゃりとドアをしめた。鍵は、むろん外から差してあった。それで、透明人間グリッフィンは完全に書斎にとじ込められて、とらわれの身になるはずだった。ところが、思いがけないことがおこった。鍵穴に差されていた鍵が、博士があわててドアをしめたとたん、ころりと絨毯《じゅうたん》の上に抜け落ちてしまったのだ。
ケンプ博士はまっ青になった。両手で力いっぱいにドアのハンドルを押さえていたが、内から引く力に耐えられたのはほんのしばらくで、じきに六インチほどドアがあいた。必死になって、またしめ込んだ。すぐまた一フィートも押しあけられた。そのすき間から部屋着が乗り出してきた。見えぬ手が博士ののどをつかんだので、それを防ぐためにドアのハンドルから手を放した。瞬間、どんとつきとばされ、踊り場へぎゅうぎゅう押しつけられ、頭から、すっぽりと、部屋着をかぶせられてしまった。
アダイ警部は階段の途中だった。バードックの警察署長で、ケンプ博士の手紙でかけつけたのだ。警部は、あっけにとられて見ていた。いきなり博士がとび出して来たかと思うと、後ろから、脱ぎすてのような部屋着が、ふわっと追いすがった。実に不思議な光景だった。ケンプ博士はぶったおれて、よろよろと起き上がり、すばやく逃げかけると、また押し倒され、やがて、牡牛のようにへたばり込んだ。
あっけにとられていると、いきなり、ガンとなぐりつけられた。だれもいないのにだ。かなりの図体らしいやつが、とびかかってのどをつかみ、腰を蹴りつけた。不意をつかれて、警部はまっさかさまに階段を転げ落ちた。見えない足が警部の背中を踏みつけて、ぱたぱたと足音だけをたてながら、化け物のように階段をかけ下りた。ふたりの巡査が叫びながら走り寄ってくるさわぎと玄関のドアのしまる音が聞こえた。
警部は転がりながら、やっと起き上がって、あっけにとられた。ケンプ博士がよろよろと階段を下りて来た。埃だらけで、髪は乱れ、顔の半面はなぐられて青あざになり、唇は切れて血がたれていた。博士はピンク色の部屋着と、下着類を抱えていた。
「しまった!」、とケンプ博士が大声で「してやられた。あの男は逃げてしまった」と叫んだ。
二十五 透明人間狩り
ケンプ博士は、今の活劇の意味を、アダイ警部にのみこませようとしたが、うまく言葉が出なかった。階段の中途に立って、ケンプ博士は、透明人間グリッフィンのグロテスクな変装用品を抱えたまま、早口に説明していた。じきに、アダイ警部にも事情がのみこめてきた。
「あの男は気が狂っている」と、ケンプ博士が「ありゃ人間じゃない。全く排他的になっている。身の安全と利益しか考えられないんだ。あの男の今朝の追いつめられた野獣のような所業の噂は聞いたのだが、多くの人々を傷つけている。ほうっておけば、人殺しもやりかねない。町じゅうをおびえあがらせるだろう。食いとめようがないんだ。これからますます狂暴になっていくだろうよ」
「きっととらえますよ」と、アダイ警部が「間違いなしにね」
「どうやって?」と、ケンプ博士が叫び、ふとうまい術《て》を考えついて「すぐとりかかるんだ。全警官を召集してかかるんだ。あの男を、この地方から逃げ出せないようにするんだ。ひとたび逃げ出したら、国じゅうを自由にあばれまわり、殺人、傷害を重ねるだろう。あの男は、恐怖政治の国をつくろうと夢想している。いいかね、恐怖政治だよ。汽車、船舶、道路、全部に監視を配置したまえ。軍の出動も要請しなければならん。救援電報を打ちたまえ。あの男がこの地を離れられない唯一の理由は、なんとかして、あの大事なノートを取りもどそうと思っているからなんだ。警察にあの男は留置してあるだろうね――マーヴェルという浮浪者は」
「ぬかりはありませんよ」と、アダイ警部が「あのノートのことも、むろん、知っています」
「あの男に、いっさい、飲み食いさせないようにするんだ。眠らせてもいけない。夜を日についで、町全体で狩り立てるんだ。食い物を全部、鍵のかかるところに保管してしまえば、あの男は、なんとしてでも手に入れようとして押し込みをするだろう。町じゅうの家は全部戸締まりを厳重にして侵入されないようにする。さいわい、今夜は、冷えて雨になるかもしれない。町じゅうで、狩り立て、追いまわさなければならないぞ。いいかね、警部、あの男は、きわめて危険狂暴だよ。首根っ子を押さえつけてしまうまで、油断はできない。これから、どんなことがおこるか、考えるだけでも身の毛がよだつよ」
「そのほかに打てる術《て》は?」と、アダイ警部が「すぐ署にもどって、配備します。あなたもご一緒に、どうぞ、博士――来てくださるでしょうな。頼みますよ。作戦会議を開かなければなりませんからね――駅長のホップスにも使いをやって――参加させます。そうだ、ぐずぐずしてはおれん。さあ行きましょう――あとは道々話してください。ほかに手のうちようがあったら、なんでもおっしゃってください。あんなやつを野放しにしてはおけませんからね」
アダイ警部は、先に立って、階段をかけ下りた。玄関のドアがあいたままで、外に立っている巡査たちは、ぽかんとして、宙をにらんでいた。
「取り逃がしました、署長」と、ひとりが言うのに「わしはすぐ警察本部へ連絡に行かにゃならん。早くタクシーを呼んで来てくれ。それで、博士、ほかに何か」と、アダイ警部が言った。
「犬だね」と、ケンプ博士が「犬を集めるんだ。姿は見えなくとも、匂いをかぎつけるからね。犬を集めるんだ」
「はい」と、アダイ警部が「さあ、犬ね。そうそう、ハルステッド刑務所の監守が警察犬を飼っています。それを借りましょう。犬のほかには?」
「いいかね」と、ケンプ博士が「食べた食物が身をすけて見えるんだ。食後、消化するまでは胃の中の食物が見えている。だから、あの男は、食後しばらくは隠れていなければならないんだ。そこをねらって狩り出すんだな――木の茂みだの、寂しい場所だの。手をゆるめちゃだめだ。それに、武器や、武器の代わりになるようなものは、全部隠してしまうんだな。もっとも、あの男は、そんな目だつものを、長いこと持って入られない。だから、とっさに手にして、相手をなぐりつけることができるようなものは、全部隠してしまうほうがいいな」
「なるほど、なるほど」と、アダイ警部が「きっと、つかまえて、お目にかけますよ」
「それに、道路には全部」と、ケンプ博士が、ためらいがちに口ごもった。
「どうするんですか」と、アダイがうながした。
「ガラスの破片がまけるといいがな」と、ケンプ博士が「少し残酷なのは承知の上だが。あの男が、どんなことをやり出すかを考えれば、しかたがないな」
アダイ警部もさすがに驚いて、ヒューッと唇をならした。
「少し卑怯かもしれませんが、しかたがない、ガラスの破片を用意させましょう。高とびされると困るから――」
「いいかね、あの男はもう人間じゃない」と、ケンプ博士が「本気で恐怖政治を行おうとしているんだ。たしかだ。――この窮地を脱すればすぐやるだろうね――僕の言葉に間違いない。それを食いとめるのは先手を打つしかない。あの男にはもう人間らしい気持など少しも残っちゃいないんだ。すっかり逆上しちまってる」
二十六 ウィックスティード家の殺人
透明人間は、カンカンに腹を立ててケンプ博士邸をとび出したにちがいない。門のところで遊んでいた子供を、いきなりひっつかんで乱暴にほうり出したので、子供のくるぶしがくじけたが、それを見ても、やつが人間らしい心を、ずっと前に失ってしまったのがわかるというものだ。
どこへ行ったのか、何をしているのか、だれにも、さっぱりわからなかった。しかし、どうやら、六月の朝の暑い日盛りを、怒りと絶望とみじめな運命にさいなまれながら、丘をかけのぼり、バードック港の背後の高地に逃げこみ、疲労と暑さに攻められてヒントンディーンの森に身を隠して、人類攻撃の破れた計画を立て直そうとしているように思えた。その森が最適の隠れ場だったらしい。その証拠には、その森でその日の午後二時ごろ、きわめて残忍な行動に出て、その存在をあらわしてきたのだ。
それまでの間、やつがどんな心境で、どんな計画をねっていたか、知るよしもないが、ケンプ博士の裏切りに怒髪《どはつ》天をついていたことはたしかだろう。博士がそういう裏切りに出た動機もわからぬではないが、やつが驚異的な騒動をひきおこさずにいられなかった怒りにも、多少、理解同情すべき点がある。おそらく、オックスフォード街で経験したあの激しい驚きが胸によみがえったのだろう。なにしろ、恐怖政治を行う野望の中で、第一の協力者だと信じ込んでいたケンプ博士に裏切られたのだから。とにかく、やつは昼ごろは全く姿をくらましていて、午後の二時半ごろまでは何をしていたかだれにも見当がつかなかった。そのことは、世間の連中にとっては、運のいいことだったが、やつにとってはその休止時間が致命的なものになった。というのも、その間に、この地方一帯に非常線がひかれ、警官が、続々とつめかけていた。朝のうちは、まだ、透明人間は、単なるこわい噂にしかすぎなかったが、午後になると、ケンプ博士の決然たる声明によってれっきとした事実になった。博士は、人類の敵として、傷つけても、殺しても捕えるべきだと主張した。予想外の早さで、地方一帯に、自警団が組織された。
そのために二時までなら、汽車に乗って、この地を脱出することができたかもしれないが、それ以後は不可能になった。サウサンプトン、マンチェスター、ブライトン、ホースアムの四点を結ぶ四辺形内を走る列車は、すべてドアに錠がかけられ、貨物車は、ほとんど通行禁止になった。そして、すぐに、ポート・バードックのまわり、半径二十マイルの地域には、銃や棍棒を手にした三、四人一組の警備員たちが、警察犬をつれて、道といわず野といわず、けんめいに捜査しはじめた。
騎馬警察が村の家々をまわり、戸締まりを厳重にし、外出には武器を持つようにと注意した。小学校は午後三時で授業を打ち切り、おびえた子供たちは、組になって家路へ急いだ。
ケンプ博士の声明は――アダイ警部の署名入りで――午後四時か五時ごろまでに、この地区全般にはり出された。その声明には簡明に対策の要領が示されていた。透明人間に食物を与えぬこと、睡眠をさせぬこと、監視を絶やさぬこと、気配に気づいたらただちに連絡すること、等々であった。警察当局の活動が驚くほど迅速《じんそく》で徹底的だったので、怪物の噂はまたたく間にひろがり、日没までには、地方数百平方マイルにわたって非常態勢がとられていた。それと同時に、村人たちは戦々兢々として目をとがらしていた。そんなときに、ウィックスティード氏殺害の噂が、口から口へ、耳から耳へと、たちまちのうちに、地方全域にわたってひろがったのである。
透明人間がヒントンディーンの森に隠れたという推理が当たっているとすれば、あの日の午後になって、やつは、何か武器を使うような仕事を目的にして、森をさまよい出たにちがいない。その目的がなんであったかはわからないが、少なくともウィックスティード氏に出会う前に、鉄棒を用意していたことだけは、絶対間違いない。
ふたりがどんなふうに出会ったのか、くわしい状況はわからないが、出会った場所は、バードック卿の荘園の木戸から二百ヤードと離れていない、石切場の近くであった。死闘を行った形跡がある――地面は踏み荒らされ、ウィックスティード氏はめった打ちにあっているし、氏のステッキも折れている。だが、どうしてこんな襲われ方をしたのか――殺人狂のしわざとしか思えない――とても想像できない。全く狂人の心理はさぐりえない。ウィックスティード氏は四十五、六歳で、バードック卿の執事をつとめる温厚篤実な人がらで、こんな恐ろしい人類の敵を刺激するような人物とは、とうてい受けとれない。その氏に対して、透明人間は鉄柵から引き抜いた鉄棒で立ち向かったらしい。やつはこのおとなしい人物が静かに、中食へもどる途中を呼びとめて、ステッキをたたき落とし、腕をぶち折り、なぐり倒して、頭をぐしゃぐしゃにたたきつぶしてしまったのだ。
やつはむろん、氏と出会う前に、鉄柵からひき抜いた鉄棒を、たずさえていたに違いない。つまり持って歩いていたのだろう。以上述べた事実のほかに、この凶行については、二つの奇妙な事実が明らかになっている。一つは、凶行のあった石切場は、いつも、ウィックスティード氏が帰宅する道から、二、三百ヤードもはなれている所だという事実、いま一つは、学校帰りの少女が、途中で被害者を見かけたとき、被害者は野原を石切場の方へ、奇妙な恰好で、何かを追うように小走りで歩いて行ったと供述した点である。その少女の身ぶりによると、被害者は、ステッキで目の前の地面をたたきつけながら、駆けていたらしい。被害者の生存中の姿を最後に見かけたのはその少女だ。被害者が、最後の死闘を行なって殺された場所は、ブナの林のかげで、少しくぼみになっていたから、少女には見えなかったのである。
これらの点からみるに、少なくとも作者の私の今の感じでは、明らかに偶発的な無動機の殺人と考えられる。透明人間グリッフィンが、たしかに武器として鉄棒をたずさえていたとみていいが、さしあたりそれを使って殺人を犯すつもりではなかったろう。ウィックスティード氏は偶然、鉄棒が宙を動いてくるのに出会って、びっくりしたにちがいない。むろん、透明な人間がいるなんて思いも及ばなかったろう――と、いうのは、その辺はバードック港から十マイルも離れている――からだ。それで、宙に浮く鉄棒を追いかけた。おそらく、透明人間の噂は、まだ、ウィックスティード氏の耳にとどいていなかったとみるべきだ。透明人間のほうは逃走しようとして――足跡を隠すのにきゅうきゅうとしていたのに、ウィックスティード氏のほうは、奇妙に宙を動いていく鉄棒を見て、激しい好奇心にかられ、そのあとを追いかけて石切場の方へ行き――ついにはなぐり殺されるはめにたちいたったのであろう。
むろん、普通の状態のときなら、透明人間にとってこんな中年の追跡者などまくのは造作ないことだったろうが、ウィックスティード氏の死体発見場所からみて、不運にも、相手を、とげだらけなイラクサと石切穴の間の隅に追いつめてしまったらしい。せっぱつまった透明人間が、どう出たか、もともと非常に短気な男なのだから、あとがどうなったかは言わずと知れたことだ。
しかし以上述べたことは、単なる仮説にすぎない。唯一の確たる証拠は――子供の証言は往々にして信頼し難いものがあるが――ウィックスティード氏の死体が発見されたこと、凶器とみられる血まみれの鉄棒がイラクサの茂みに捨ててあったことである。
透明人間が鉄棒を捨てて行ったことから察するに、ウィックスティード氏を殴殺《おうさつ》したことの興奮にとりまぎれて、最初にその鉄棒で果たそうとしていた目的を放棄したと見るべきではあるまいか――なんらかの目的があったと仮定してみての話だが。たしかに、透明男グリッフィンは、非常に利己的で非情な男だが、さすがのやつも、最初の血まみれな犠牲者を足もとに見ては、一時的にもせよ、良心の呵責《かしゃく》が胸にこみあげてきて、鉄棒を捨てて行かずにはいられなかったのだろう。その鉄棒で実行しようとしていたどんな計画があったかはわからないが。
ウィックスティード氏を殺してから、町へ向けていた足をひるがえして、高地の奥へ逃げ込んだらしい。日暮れごろ、ファーン・ポトム付近の畠を耕していたふたりの農夫が、妙な声を聞いたと証言している。その声は泣き、笑い、すすりあげ、うめいて、いく度か絶叫したそうだ。その声はクロバーの牧草地の中ほどを横切って、丘の方へ、だんだん遠ざかって行ったそうだ。
その日の午後、透明人間は、ケンプ博士がばらす自分の弱点を、すぐに警察が捜査の役に立てるだろうと気づいたはずだ。家々の戸締まりが厳重なのも知ったろう。汽車で逃げようと駅にも立ちまわったろうし、食物を求めようと宿屋のあたりもうろついたろう。そして、警察の布告を読み、住民が透明人間逮捕のために、残らず立ち上がっている状態も知ったにちがいない。しかも、日暮れになるにつれて、空き地には、三、四人ずつ隊伍を組んだ自警団がたむろし、あちこちから犬の遠ぼえがかまびすしく聞こえた。自警団は巡回中に、何か起きたら、ただちに相互に緊密な連絡を持つようにと、きびしく訓令されていた。
透明人間は、自警団の連中の目にかからなかった。しかし、やつが布告を見て、どんなに驚いたか察するに余りがある。そして、当然のことだが、やつは、その布告に出ていた、逮捕上の注意を、逆に自分がつかまらないための注意事項として利用したにちがいない。
少なくとも、あの日は、絶望して鳴りをしずめていたろう。なにしろ、ウィックスティード氏にぶつかったとき以外は、まる二十四時間、やつは狩り立てられて、びくびくしていたのだから。
その夜は食物とねぐらにありついたのだろう。あくる朝には、すっかり力をとりもどし、凶悪な怒りにたけり狂って、人類を相手に、最後の戦いをいどんできたのである。
二十七 ケンプ博士邸の攻防
ケンプ博士はよごれた紙に鉛筆で走り書きした、妙な手紙を読んでいた。
『君は恐ろしく抜け目なく、まめに手を打ったな。そのために、どんな報いを受けるか、僕は知らんぞ。僕を敵にまわしたのだ。一日じゅう、僕を追いまわし、夜まで寝かさないようにした。だが、お気の毒だが、ちゃんと食物も手に入れたし、ぐっすり寝ることもできた。いよいよ戦闘開始だ。いいかい、戦闘開始だよ。
覚悟したまえ。僕の恐怖政治はもう始まっているんだ。防ぎようはないんだぜ。この手紙は、恐怖政治の開始を、ここに宣告する。バードック港は、もはや、ヴィクトリア女王の統治下にはなくなったのだ。警察署長ならびに関係筋に、その旨を伝達したまえ。
いまや、バードック港は僕の支配下にある――つまり、僕の恐怖政治がしかれたのだ。きょうは、その第一日目、新時代の元旦なのだ――透明人間の支配する時代のね。僕は透明人間一世だ。近く新法律を施行するつもりだが、とりあえず、その見本として、初日の手はじめに、死刑を執行することとする――処刑される男の名は、ケンプ博士、君だ。
処刑は本日行われる。いかに、戸締まりを厳重にして、身をひそめようとも、いかに身辺を護衛させて、武装しようとも、死が、目に見えぬ死が必ず訪れるであろう。かってに防備をかためるがよい。そうすれば、いよいよ人々の胸に恐怖心を植えつけることになるだけだ。
死は本日午後を期して、郵便ポストから、訪れる。郵便配達が、この手紙を届けたときが、処刑開始だ。戦闘開始、死刑執行だ。自らの死を恐れるものは、ケンプに協力するべからずだ。どんなことをしても、ケンプの死刑は本日行われるのだ』
ケンプ博士はこの手紙を読みかえして「こりゃ冗談ではない。本気で、そうするつもりだぞ」と、つぶやいた。
紙をかえして所書《ところが》きを見ると、消印は、ヒントンディーンで『郵税二ペンス不足』となっていた。
博士は中食を途中でやめて、ゆっくり立ち上がった。その手紙は午後一時の便で来たのだ。博士は書斎にはいり、家政婦を呼んで、すぐ家のまわりを見まわり、全部の窓のかけがねを調べて鎧戸をおろすように命じた。そして、書斎の鎧戸を自分でおろし、鍵のかかった引出しから小さな拳銃をとり出して、入念にあらためると、上衣のポケットに忍ばせた。
それから、何通か短い手紙を書き、アダイ警部宛の一通を、家政婦に渡して、届けるように命じ、出て行くときに、細々と道筋の注意までした。
「お前にはなんの危険もないから、安心するがよい」と、気をおちつかせるように言いきかせた。いっさいの手配をすますと、しばらく何か考えこんでいたが、やがて、冷えた食事にもどった。
考えながら、ぼんやりと食べていたが、やがて、トンとテーブルをたたいた。「そうだ、やつを捕らえることができるぞ。おれがおとりになればいいんだ。やつは、間もなく、やって来るぞ」
博士は、用心深く後ろのドアをいちいちしめながら、見晴らしのいい書斎に上がった。
「死ぬか生きるか。妙な勝負だが――勝ち目はどうやらこっちのものらしいぞ、グリッフィン君、いくら君の姿が見えなくてもね。人類の敵――復讐鬼《ふくしゅうき》グリッフィン君」
博士は窓のそばに立って、暑い日のさす丘の中腹をながめていた。
「やつは毎日、食い物あさりをしなければなるまい――おれは、あんなきょうぐうにならなくてよかったな。やつは昨夜は本当に寝れたのかな。どこか人気のない場所を捜して――野宿したんだろう。それにしても、陽気がこう暖くなく、雨で冷え込むと仕事がしいいのになあ。
今ごろは、どこかから、おれを見張ってるだろう」
博士が窓に顔をよせると、いきなり、何かが、煉瓦の窓枠に、バシンと投げつけられたので、驚いて、とびのいた。
「おびえているのかな」と、ケンプ博士はつぶやき、五分ばかり様子をみてから、また、窓に近づいた。
「雀だったのかな」と、自分に言いきかせた。
いきなり、玄関のドアの呼び鈴が鳴ったので、急いで階下に降りた。かんぬきをはずし、鍵をまわして、用心鎖をあらためてから、自分の姿を見せないようにしながら、ドアを細めにあけた。耳なれた声がした。アダイ警部だった。
「お宅の女中が襲われましたぞ、博士」と、ドアの外から言った。
「なんだって」と、ケンプ博士が、どなった。
「あなたの手紙が奪われましたよ。やつはこの近くに立ちまわっています。わたしを入れてください」
ケンプ博士が用心鎖をゆるめて、ドアをできるだけ細目にあけて、アダイ警部を通らせた。警部はホールにはいり、ケンプ博士がドアの戸締まりをするのを見て、いかにもホッとしたらしい。
「手紙はひったくられたのです。女中さんは、とてもひどく、おびえています。署にとめておきました。ヒステリックになっているのでね。やつは近くに来ています。変わりはありませんでしたか」
ケンプ博士は、いまいましそうに「僕は、実にばかだったな。つい、うっかりしちまって、ヒントンディーンからならここまで歩いても一時間かからない。もう来てるはずだ」
「何しに来るんですか」と、アダイ警部がきいた。
「こっちへ来たまえ」と、博士は、警部を書斎へ案内して、透明人間の手紙を渡した。アダイ警部は目を通して、軽く口笛を吹いた。
「すると、あなたは――」
「おとりになっているのさ――おかしいかね」と、ケンプ博士が「それを、女中に、知らせにやったのさ。わざわざ、やつにね」
アダイ警部は穴のあくほど博士の顔を見て「やつにそれが見抜けたでしょうかね」
「見抜けまいよ」と、博士が言った。
二階で、窓ガラスの破れる音が聞こえた。アダイ警部は、ケンプ博士のポケットからのぞいている銀色の小型拳銃がちかりと光るのを見た。
「二階の窓だ」と、ケンプ博士が言い、先に立ってかけ出した。階段の途中で、またしてもガラスの割れる音がした。書斎にかけつけてみると、二、三か所の窓がたたきこわされ、部屋の半分は砕けた破片でキラキラ光り、大きな破片が一枚、テーブルに載っていた。
ふたりは戸口で立ちどまり、破壊の跡をながめていた。ケンプ博士が畜生と歯がみしたとき、次の窓が拳銃を打ち込まれたように、ビシッといい、あっという間に、ガラスが粉々にこわれて、鋭い破片が、部屋じゅうに、光って、とび散った。
「どうしたってんだ」と、アダイ警部が言った。
「いよいよ、はじまったな」と、ケンプ博士が。
「ここには、よじ登れないでしょうな」
「猫でもだめだ」
「鎧戸がないんですね」
「ないよ。階下の窓には全部ついているがね。――畜生」
ガチャン! 続いて、今度は階下で羽目板をたたく音がした。
「畜生め」と、ケンプ博士が「ありゃあ――そうだ――寝室だぞ。外側の窓をみんなこわすつもりらしいが、ばかなやつだ。鎧戸がしまっているから、ガラスはみんな外に落ちる。いまに、自分の足を切るぞ」
また、次の窓がガチャンとこわされた。ふたりは、手のくだしようもなく、踊り場に立っていた。
「そうだ」と、アダイ警部が「ステッキか何かありませんかね。署へもどって警察犬を連れて来ますよ。犬がやつをかぎつけるでしょう。すぐにね――十分もかかりませんよ――」
また、次の窓が、ぶちこわされた。
「拳銃はありませんか」と、アダイ警部がきいた。
ケンプ博士はポケットに手をやり、ちょっと、ためらっていたが「もうほかにはないんだ――余分なのは」
「すぐに、持ってもどりますよ」と、アダイ警部が「ここにおられれば、博士は安全ですからね」
ケンプ博士は、とっさに冷静な判断を欠いたのを、ちょっと恥じ入りながら、拳銃を警部に手渡した。
「さあ、ドアをあけてください」と、警部が言った。
ふたりが、ホールでまごまごしているうちに、階下の寝室の窓が、ぶち破られる音がした。ケンプ博士は表ドアに行き、できるだけ物音をたてずに、かんぬきを抜きかけた。いつもより、顔が青ざめていた。「まっすぐにとび出すんだよ」と、ケンプ博士が注意した。
次の瞬間、アダイ警部は玄関の階段の上にとび出し、ドアのかんぬきはかけ金にもどりかけていた。警部はドアに背を寄せてためらっていたが、少し気をしずめると、胸を張り、肩をいからして、踏み段を下り、芝生を横切って門に近づいた。そよ風が草をそよがすようだった。何かが近づく気配がした。
「とまってもらおう」と、声がかかった。アダイ警部は、はっとして立ちどまり、思わず拳銃を握りしめた。
「なんだ」と、アダイ警部は、顔面を蒼白《そうはく》にして、全神経を緊張させた。
「邸へもどってもらいたいな」と、警部同様、こちこちに緊張した声が言った。
「すまんがだめだ」と、アダイ警部は少しかすれ声で言い、舌で唇をしめした。声は左前方から出ているな、と思った。思い切って、ぶっぱなしてやろうか。
「何しに行くんだね」と、声がとがり、さっとふたりは身がまえた。アダイ警部のポケットの口で、拳銃がキラリと日光に反射した。
アダイ警部は一発ぶっ放してやろうと考えながら「どこへ行こうと、おれのかってだ」と、ゆっくり言い終わらないうちに、いきなり、首に手がかかり、背に足が触れたと思うと、あお向けにひっくり返された。警部はあわてて、銃を抜き、めくらめっぽうに、ぶっ放したが、次の瞬間、口をなぐりつけられ、拳銃をもぎとられてしまった。すべすべする敵の足をつかもうとしたが、うまく逃げられ、身をもがいて起き直ろうとすると押し倒されてしまった。
「畜生」と、アダイが、うなった。
声がげらげら笑って「射ち殺してやりたいが、弾が無駄だからな」
見ると、拳銃が六フィートばかり先で宙に浮き、ぴたりとこっちをねらっていた。
「どうするんだ」と、アダイ警部は起き直った。
「立て」と、声が命じた。
アダイ警部は、すごすご立った。
「いいか」と、声が少しとがって「小細工をしようとするなよ。そっちには見えなくとも、こっちじゃ、お前の顔をおぼえてるぞ。さあ、邸へもどってもらおう」
「博士は、入れてくれんよ」と、アダイが。
「そいつは弱ったな」と、透明人間が「お前には、恨みもなにもないんだがな」
アダイ警部は、もう一度、唇をなめた。銃口から目をそらして、真昼の日に、まっ青《さお》なはるかな海と、なだらかなみどりの丘と、岬《みさき》につづく白い断崖《だんがい》と、家々のたて込む町々をながめると、ふと、人生がいとおしくなってきた。目をもどすと、六フィート先の天地の空間に、小さな拳銃が浮いているのだ。
「どうすればいいんだね」と、しぶしぶきいた。
「どうしろって?」と、透明人間が「お前の命は助けてやるさ。邸へもどりさえすればいいんだ」
「やってみよう。だが約束してほしいな。博士がドアをあけてくれたにしても、一緒にはいろうとしないと、ね」
「お前とやろうってんじゃないんだから、安心しろ」と、声が言った。
ケンプ博士は、アダイ警部を送り出してから、急いで二階へ上がり、ガラスの破片の散らばっている書斎に腰をかがめて、窓わくのふちから、注意深く外をのぞいて、アダイ警部が透明人間と問答している姿を見ていた。そのとき、拳銃が宙でちらりと動き、その反射が博士の目を射た。博士は手でひさしをつくり、キラリとした光源をつきとめようとした。
「しまった。アダイが拳銃を奪われたな」
「ドアを押し破らないと約束するかね」と、アダイ警部が「勝ち目は、あまり深追いするもんじゃないぜ。少しは相手にもチャンスを残しとくもんだよ」
「お前は邸へもどればいいんだ。はっきり言っとくが、約束は何もせんぞ」
アダイ警部は、とっさに決意したらしい。手を後ろに組んで、のそのそと邸へもどり始めた。その様子を見て――ケンプ博士は、どうしていいかわからなかった。拳銃が見えなくなり、またキラリと目に光り、また見えなくなり、目をこらしてみると、警部が近づくにつれて、その小さな黒い銃口がぴたりと警部の背をねらっていた。そのとき、いきなり、アダイ警部が、ふりむきざまに、とびついて、拳銃を奪いとろうとし、失敗して、両手を上に上げると、ばったり前のめりに倒れた。空中にパッと青い煙が立った。銃声はケンプ博士の耳にとどかなかった。アダイ警部はもがいて片腕で起き上がろうとしたが、ばったりと倒れて、動かなくなった。
しばらく、ケンプ博士は、無鉄砲なアダイ警部の行動をぼんやりと見つめていた。ひどく暑い午後で、邸と門の間の茂みで、二匹の黄色い蝶がもつれ合っているほかは、何も動くものがないほど、世界じゅうが、しいんと、静まりかえっていた。アダイ警部は門のそばの芝生に倒れていた。丘のふもとの別荘の窓々のブラインドはみんな下ろされていたが、遠くの小さなあずま屋に、白い人影が見えた。老人が昼寝しているらしかった。ケンプ博士は、目をこらして、邸のまわりを見まわし、拳銃の所在をたしかめようとしたが、影も形もなかった。その目が、もう一度、アダイ警部の上に落ちた。いよいよ戦闘開始だ。
そのとたんに、玄関のドアで呼鈴が鳴り、どんどんたたく音がだんだん激しくなったが、召使たちは、博士の命令どおりに、錠を下ろした各自の部屋に引きこもって、出て来なかった。やがて、ぴたりと音がやんで、家じゅうがしんとなった。ケンプ博士は、すわったままで聞き耳を立てていたが、やがて、三つの窓を次々に、用心しながらのぞいてまわった。階段のてっぺんに立って、不安そうに、耳をそば立ててから、寝室の暖炉の火かき棒を握りしめて、階下に下り、内側の窓の戸締まりを、また調べてまわった。どこにも異状はなかった。博士はまた書斎へ上がった。アダイ警部は、さっきのまま芝生のふちに、身動きもせず倒れていた。別荘地のわきの道を、女中がふたりの巡査と一緒にもどって来るのが見えた。
おそろしいほど、静かだった。女中とふたりの巡査は、実にのろのろ歩いて来るように思えた。敵は一体どうしたんだろうと、博士はいぶかっていた。
はっとした。階下でメリメリっと音がした。博士は一瞬ためらってから、また階下へ下りていった。いきなり、激しくたたく音がし、板が割れる音がひびいた。鎧戸の金具をたたきこわし、戸板を割る音なのだ。
博士は鍵をまわして、台所へのドアをあけた。そのとたんに、台所の鎧戸がぶち破られて木屑《きくず》が内側へとび散った。ケンプ博士はまっ青になって立っていた。しかし、窓枠はまだしっかりしてた。横木が一枚へし折れただけで、ふちにはガラスの破片がギザギザに残っていた。鎧戸は斧《おの》でぶちこわされたのだ。今度は、窓枠と窓の戸締まりの鉄のかんぬきをぶちこわそうとするらしく、さかんに斧が振り下ろされていた。と、見ているうちに、いきなり斧がひっこみ、ひょいと拳銃が突き出された。ケンプ博士は、はっとして身をかわした。一瞬おくれて、拳銃が鳴り、しめたドアのふちから、木屑がパッと博士の頭上に散った。博士はあわててドアをしめ、錠を下ろした。身を隠して聞いていると、透明男グリッフィンが台所の外で何かわめきながらげらげら笑っていた。やがて、また、斧でたたきこわす音と、木屑のとび散る音が、家じゅうに響きはじめた。
ケンプ博士は廊下に立って、どうしようかと思った。透明人間は、じきに台所へ侵入して来るし、そうなれば、こんなドアなど、なんの役にもたたないだろうし、このドアがぶち壊されれば次は――
また、玄関でベルが鳴った。巡査が着いたらしい。博士はホールをかけて行き、ドアの鎖をはずし、かんぬきを抜いた。博士は用心鎖をはずす前に、小声で注意したので、外の三人はひとかたまりになって、家へ転げ込み、すぐ、博士がぴしゃりとドアをしめた。
「透明人間だ」と、ケンプ博士が「拳銃を持ってるぞ、弾はあと二発だ。アダイ警部を射殺した。ともかく警部を撃ったんだ。君たちは芝生で警部の死体を見なかったかね。あそこに転がっている」
「だれがですか」と、片方の巡査が。
「アダイ警部だ」と、ケンプ博士が。
「裏道からはいりましたので、見えませんでしたわ」と、女中が。
「やつは台所にいる――いや、もうすぐはいって来るだろう。斧を見つけて持ってるんだ――」
いきなり、透明人間が台所のドアを激しくたたく音が、家じゅうに鳴りひびいた。女中は、あっけにとられて台所のドアを見、ガタガタふるえながら、食堂に逃げ込んだ。ケンプ博士は、せきこんで、どもりながら、説明しかけたが、そのとき、台所のドアがふっとぶ音がした。
「こっちだ」と、ケンプ博士は叫びながら、すばやく身をひるがえし、巡査たちをせきたてて、食堂へはいった。
「火かき棒だ」と、ケンプ博士は食堂の暖炉へとんで行って、そこの火かき棒を片方の巡査に、自分でそれまで持っていた火かき棒を、もうひとりへ渡した。そして、すばやく身を退《ひ》いた。
「来たぞ!」と、ひとりの巡査が、受け身になって、空をふり下ろす斧を、火かき棒で受けとめた。拳銃がパッと、最後から二発目の弾を発射したが、弾は、運よく、シドニー・クーパー巡査をかすめて飛んだ。相棒の巡査が、すかさず、拳銃めがけて、蜂をねらうかのように火かき棒を打ち下ろしたので、拳銃はひとたまりもなくたたき落とされ、カタカタと床をすべった。
最初のなぐり合いで悲鳴をあげた女中は、しばらくは暖炉のかげに隠れて金切り声をあげつづけていたが、やがて、窓にかけより鎧戸をあけようとした――窓から逃げ出すつもりだったのだろう。
斧が廊下に引き下がって、地上二フィートほどのところに浮いていた。透明人間の荒い息づかいが聞こえた。
「ふたりとも下がれ。おれはケンプだけに用があるんだ」
「こっちは、お前に用があるんだ」と、先頭の巡査が、すばやくとび出して、火かき棒で声を目当てになぐりつけた。透明人間は、身をかわしたはずみに傘立てにつまずいたらしいが、すかさず、空を打ってよろめいている巡査の頭をめがけて、斧を振り下ろした。ヘルメットが紙のように凹むと同時に、巡査は、台所の階段の下まで、ぶっとばされた。だが、もう一方の巡査が、火かき棒で斧の手元をねらってなぐりつけると、軟らかいものにぶつかった手ごたえがあり、バシッと音がした。
「痛い!」という悲鳴とともに、斧がバタリと床に落ちた。巡査は、むやみに火かき棒を振りまわしたが、空を打つばかりだった。だが、斧を足で踏みつけて押え、火かき棒で空をなぐりつづけた。やがて、火かき棒を握りしめたまま、耳を澄まして、ものの動く気配はないかと、様子をうかがっていた。
食堂の窓が開き、あわただしくとびこんで来る足音が聞こえた。なぐられたほうの巡査が、やっとのことでからだを起こした。目と鼻の間から血がたれていた。
「やつはどこへ行った」と、床にすわったままできいた。
「わからん。だが、たしかに手ごたえがあったぞ。玄関の辺に立っとるかもしれんぞ。君のそばをすり抜けて行ったのかもしれん。そうだ、先生! ケンプ先生!」
なんの返事もなかった。
「ケンプ先生」と、巡査がもう一度、どなった。
なぐられた巡査がよろよろと立ち上がった。不意に、台所の階段をかけ下りる素足の音が、かすかに聞こえた。
「いたぞ!」と、巡査は叫びざまに、火かき棒を振りまわしたが、小さなガス・ランプをぶちこわしただけだった。
すぐ、透明人間を追って、階下へ降りかけたが、引き返して、食堂にはいった。
「ケンプ先生!」と、呼んで、ちょっと間を置き――「ケンプ博士は、ここにいたはずなんだ」と、言った。同僚の巡査が、肩ごしに、あたりをながめまわした。
食堂の窓がひろくあけっ放しになっていて、ケンプ博士も女中も姿が見えなかった。
巡査は急に博士の身が心配になった。
二十八 逆にとらわれた追跡者
ケンプ博士邸に一番近い別荘の主、ヒーラス氏は、おとなりの邸で大騒動が持ち上がっていることなど夢にも知らずに、あずま屋で昼寝していた。ヒーラス氏は『透明人間などというばかげた噂』を、絶対に信じない、少数の頑固者《がんこもの》の中のひとりだった。細君はむろん、信じるほうの急先鋒だったが、氏は平常どおりに、庭を散歩し、午後には長年の習慣にしたがって、あずま屋で昼寝していた。隣の窓ガラスがこわれる音も耳にはいらぬほど、ぐっすり眠って、ふと目がさめてみると、何か変だなおかしいぞと思った。ケンプ博士邸の方をながめて、ねぼけているのかなと、目をこすって見直した。それから、庭に出て、腰を下ろして耳を済ませた。頭がどうかしたのかなとつぶやいてみたが、目にうつる光景はなんとしても異様だった。ケンプ博士邸は、何週間も空屋《あきや》だったように見える――大騒動のあとだからだ。窓ガラスはみんなこわれ、展望台のある書斎の窓のほかは、どれも内側のシャッターが下りていて中は見えない。
「わしが眠るときには、たしかにいつもどおりだったがな」――と、氏は懐中時計を見ながら――「二十分前には」
遠くかすかに、たたく音やガラスの砕ける音がするような気がした。あっけにとられて見ていると、もっと不思議なことが起こった。食堂の窓の鎧戸がさっとあき、外出着で帽子をかぶった女中が、気違いのように、窓枠を押し上げようと、もがいていた。不意に、女中のそばに男があらわれて、手伝い出した――ケンプ博士だ。みる間に窓が開き、女中が転がり出ると、庭の茂みに走り込んで姿を消した。
ヒーラス氏は思わず立ち上がって、この不思議な光景に、あっと声をあげずにいられなかった。すぐに、ケンプ博士が姿をあらわし、窓枠に上がると、庭にとび下りて、人目を避けるように背をまるくして小道を走り、茂みにとび込んだ。一度はキングサリの茂みに隠れた博士が、ふたたび姿をあらわして、邸境いの垣《かき》によじ上り乗り越えたとたんに、コロリと転んだが、とび起きると、すごいスピードで、ヒーラス氏の家の方へ、丘の斜面をかけ下りて来た。
「やはりそうか」と、ヒーラス氏は、とっさの勘で「透明人間の畜生だな。じゃあ、あの噂は本当だったんだな」と、叫んだ。
ヒーラス氏は即決即行の男だから、上の窓からあきれて見ていた料理女の証言によれば、時速十マイルぐらいの速度で家へかけもどったそうだ。
『旦那さまは少しも恐れてはいらっしゃいませんでした』と、料理女は証言している。『メアリー、ちょっと来てくれ』と、お呼びでしたと。
そのとき、氏は、ドンドンとドアをたたき、呼鈴を鳴らし、牛のようにほえた。「窓をしめろ! ドアをしめろ! どこもここもしめるんだ! 透明人間が来るぞ!」
たちまち、叫び声や、指図する声や、かけまわる足音で、家じゅうが上を下への大騒ぎになった。氏はヴェランダのフランス窓にかけよって手ずからしめた。そのとき、ケンプ博士の姿が、頭から肩、次に膝というふうに、庭の垣根の上にあらわれてきた。博士は見る間にアスパラガスの畑を飛びこえ、芝生のテニスコートを横切って、家に近づいた。
「あんたは入れられん」と、ヒーラス氏は、かんぬきをかけながら「気の毒じゃが、透明人間に追われとるんじゃろう。だから、入れるわけにはいかん」
ケンプ博士は恐怖にひきつった顔を窓にこすりつけて、気違いのように、フランス窓をたたいたりゆすったりしていたが、努力しても無駄だとあきらめたらしく、ヴェランダに沿って走り、横手のドアをたたきに行った。それから、横木戸をまわって玄関へ出たが、そこも見込みがないと知ると、丘へ向かう道を走り去っていった。
一方ヒーラス氏は、おびえた顔を窓に寄せて見ていた。――ケンプ博士の姿が消えるとすぐに畠のアスパラガスを見えない足が、右に左に、踏み分けて、かけつけてくる。それを見ると、ヒーラス氏は、縮み上がって二階へかけ上がってしまったから、透明人間の追跡が、その後どうなったかは、さっぱりわからない。だが、階段の窓からちらりと見たときは、横木戸がぱたんとしまるところだった。
丘の道に出たケンプ博士は、自然に下りの方向をとってかけ出したから、四日前に、自分の書斎の窓から見下ろして、ばかな奴だと批評してのけた浮浪者の役を、いまは自分が引き受けるはめになったのだ。慣れぬわりによく走った。顔はまっ青で汗まみれだったが、頭は最後まで冷静だった。博士は大股で走り、わざと切り株や藪《やぶ》のある所や、とがった石のごろごろしている所や、ガラスの破片がキラキラしている所などを、よって通った。後ろから追いかけて来る見えない素足を痛めつけてやろうと計算していたからだ。
丘の道が、こうも人気《ひとけ》がなくて長いとは、今までケンプは一度も思ってみたことがなかった。はるか下のふもとからひろがる町まで、まだかなり距離がある。走る以外に、もっと楽な苦しみの少ない方法があればいいんだが、今の場合そんなものはありっこなかった。
しゃれた別荘はみんな午後の太陽のもとで眠っているように、ドアを閉ざし、かんぬきをかけているようだった。たしかに戸締まりはしているはずだ――博士がその指令を出したのだから。しかし、とにかく、万一をおもんぱかって見張っていないという法はないじゃないか。
やがて町がせり上がり、その後ろに海が隠れて見えなくなり、ふもとの町で人々が立ち騒いでいた。ふもとをまわって鉄道馬車がはいって来るところだった。駅の向こうに警察署がある。そら、後ろに足音がしたようだ。がんばれ、がんばれ。
町の人々はびっくりして博士を見、中にはついてかけ出したのも二、三人いる。博士は息が切れて、のどが破れそうだった。鉄道馬車が駅にはいりかけていた。酒場[陽気なクリケット選手]では、大きな音をたてて戸締まりを始めていた。駅の構内には砂利が山とつまれ、杭《くい》のたぐいが転がっていた――排水工事の最中らしい。
ケンプ博士は、とりあえず鉄道馬車にとび込み、ドアを押えて隠れる気だったが、警察署へ逃げこんだほうがいいと思い直した。たちまち、博士は酒場の前を走り抜けて、工夫たちが立ち働いている工事場へとびこんだ。鉄道馬車から馬をはなしていた運転手も助手も、火がついたような勢いでとび込んで来た男に、びっくりしてふりかえった。砂利の山の向こうから、キョトンとした工夫たちの顔が、いくつものぞいていた。
ケンプ博士は少しスピードをおとしたが、すぐ後ろに追跡して来る足音がヒタヒタと迫るので、あわてて、前へすっとんだ。博士は手をふり「透明人間だあ!」と、工夫たちに向かって叫び、そのたくましい連中に、追跡者の始末を任せるつもりで、工事場の穴をとび越した。それから、警察へ行くのはやめて、小さな横丁に曲がり、八百屋の荷車のわきをかけ抜け、十分の一秒ほど菓子屋の前で、うろうろしてから、本通りへ出る小路にとび込んだ。遊んでいた二、三人の子供たちが、化け物でも見たかのように、キャッと叫んで、とび散り、とたんに、あちこちのドアや窓があいて、興奮した母親たちが顔を出し、金切り声をあげた。博士は、すぐに、本通りにとび出した。鉄道馬車の終点から三百ヤードも離れているその辺まで、もう騒ぎがひろまり、わいわい言いながら人々がかけ集まって来た。ひょいと坂上の方を見上げると、十二ヤードと離れていないところを、屈強な工夫が、シャベルを振りかざして、何かわめきながら追って来るし、そのすぐ後ろを、鉄道馬車の運転手が、拳骨をかためて走って来た。それにつづいて、町の連中が、口々にわめきながら、手を振りまわしてかけよって来た。坂下の方では、男も女もかけまわり、中には、ステッキを持って店からとび出してくる者もいる様子だ。どけ! どけ! と、だれかが叫んだ。
ケンプ博士は、すぐに、追跡者にとって、情勢が悪化したのに気づいたので、立ちどまり、はあはあ息を切らせながら、あたりを見まわした。
「この近くに来とるぞ」と、博士は大声で「散兵線を敷くんだ――」
「何を!」と、やつの声が叫んだ。
博士は、グヮンと耳の下をなぐられて、ふらつきながら、見えない敵に向かって、足をふみしめ、思いきりなぐりかえしたが、みごとに、のれんに腕押しだった。つづいて顎《あご》に一発くらって、パッタリと地面に四つんばいになってしまった。敵はすかさず、どてっぱらを蹴上げ、はいよるような両手でのどをしめあげた。だが、敵は片方の手に、妙に力がはいらないらしく、うまくしまらなかった。博士が弱い方の手首を力いっぱいひっつかむと、敵は痛そうに悲鳴をあげた。そのとき、かけつけた工夫のシャベルが、うなりをあげて、振り下ろされ、博士の鼻の先を、ヒュッとかすめたかと思うと、空中でバサッ! と、変な音がした。
博士の顔に、しずくがふりかかった。しめつけていた手の力が、ふいっと抜けたので、博士は必死の力をふりしぼって、敵の手をふりほどくと、肩先をひっつかんで、はね返して馬乗りになった。そして、見えない腕をつかんで、ギューギューと地面に押しつけた。
「押えたぞ」と、ケンプ博士は大声で「手を貸してくれ、手を! 押えつけたぞ。足を押えるんだ」
たちまち、みんながわっとふたりの上に、なだれかかって、特に荒っぽいラグビーが、おっ始まったかと思うようなもみ合いになってしまった。ケンプ博士がどなっただけで、あとはみんなものも言わずに――なぐる、蹴る、うなるという始末だった。
やがて、最後の力をふりしぼったのだろう、透明人間は敵を二、三人はねのけて、立ち上がったらしい。ケンプ博士は牡鹿《おじか》にかみつく犬のように相手の胸にくいさがった。やじ馬連中も、五、六人が、見えない相手につかみかかり、押えつけ、引き倒そうとしていた。するうちに、鉄道馬車の運転手が相手の首筋に手がかかったのをさいわい、肩をつかまえて後ろに引き倒した。
相手が倒れたので、それにつられて、もみ合っていた連中がひとかたまりになって、ひっくり返り、またしても上を下への押し合いへし合いが始まった。おそらく、思いきり蹴りつけたやつがいたのだろう。不意に「助けてくれ! 助けて!」と、苦しそうな悲鳴があがり、すぐ、絶息しそうな、しわがれ声にかわった。
「退《の》くんだ、みんな」と、ケンプ博士が、かすれた声で叫んだ。助かったとみて、博士の顔がいきいきとしていた。「やつはけがをしているらしい。手を引いてくれ」
ちょっとごたついたが、やがておさまり、みんなは円陣をつくって、膝をついたケンプ博士が、目に見えぬ腕を、地上十五インチほどのところに持ち上げて、熱心にのぞき込んだ。博士の後ろでは、かけつけた巡査が、透明な足首を押えつけていた。
「放すんじゃねえぜ」と、大男の工夫が、血まみれなシャベルを手に「のびたふりしてんのかもしれねえぜ」
「まねじゃないな」と、ケンプ博士は、用心しながら立ち上がって「もう逃がしゃせんよ」
博士の顔は傷つき、血がふいていた。唇も切れたとみえて、声が弱々しかった。持ち上げていた片手を放して相手の顔のあたりを探っていたが「口のあたりが血だらけだ」と、つぶやき、やがて「おお、こりゃア!」と、言った。
ケンプ博士は、いきなり立ち上がると、また目に見えぬ姿のそばにひざまずいた。押すな押すなの騒ぎで、あとからあとから押しよせる群集の足音がくわわった。町じゅうの家々から、みんなとび出して来ていた。酒場[陽気なクリケット選手]の表ドアが、急に広々と開いた。人々の話し声は、ほとんどしなかった。
ケンプ博士が、宙を探るような恰好で、診察していた。
「呼吸がとまっているようだ。どこが心臓かよくわからないが、ここが脇腹らしい――おお」
工夫のたくましい腕の下から、こわごわのぞいていた老婆が、いきなり金切り声をあげた。「ごらんよ、そこだよ」と、皺だらけな手で指さした。
指さす方に集まったみんなの目に映ったのは、奇妙なものだった。ガラス細工《ざいく》のように、かすかに透けて――静脈、動脈、骨格、神経が浮き上がり、ぐんなりした手の平の輪郭も見分けられた。しかも、みるみるうちに、透明から半透明になって、だんだん、はっきりしてくるのだ。
「うわっ!」と、巡査が叫び「足が見えてきたぞ」
じりじりと、手の先、足の先から始まった奇妙な変化が、四肢を伝い、からだの中心部に向かってひろがっていた。毒の作用が、ゆっくりとひろがるのに似ていた。
まず、白い細い神経があらわれ、ぼんやりと灰色な手足の輪郭が、ガラスのような骨格と、入り組んだ血管が、筋肉と皮膚が、次々に見えてきた。はじめは、ぼやけていたが、みるみる色が濃くなり、はっきりしてきた。やがて、傷ついた胸と肩があらわれ、血だらけの顔がひきつれて浮かび上がった。
群集が一足さがって、ケンプ博士が立ち上がったとき、そこには、三十歳ぐらいの青年の、傷だらけの死骸が、はだかのままころがっていた。髪もひげもまっ白だった――年のせいではなく、色素のない白さで、その目も柘榴石《ざくろいし》のような色をしていた。空《くう》をつかみ、クヮッと目を見ひらき、怒りと絶望のこもったすさまじい表情だった。
「顔にきれをかけてやれよ」と、だれかが言った。「顔を隠してやったほうがいい」子供が三人、人ごみからとび出して来たが、いきなり、親たちに引きもどされて、連れ去られた。
だれかが[陽気なクリケット選手]酒場からシーツを持って来て死体にかけ、みんなで酒場の中へ運びこんだ。
むすび
透明人間《インヴィジブル・マン》の奇怪な冒険談はこれで終わりです。もっとくわしく知りたい方はポート・ストウ村に近い、小さな宿屋へ行って、亭主と話されるがいい。その宿の看板には、帽子と長靴が描いてあって、この物語の題と同じ名がついています。亭主は、ずんぐりふとった小男で、天狗鼻で、針金のような髪をし、顔には赤いぶちがあります。
気前よく飲ませてやれば、亭主のほうも気前よくぺらぺらと、事件の一部始終を話してくれるし、あれから後、どんなに大ぜいの紳士たちが、亭主を利用して一儲《ひともう》けしようとしたかということまで、しゃべりまくりますよ。
「それってえのが」と、亭主は「あっしのからだで金を儲けるのに、だれに気がねもいらねえってことが、わかったからでさ。つまり、宝の山にはいって手ぶらで帰ってくる法はねえってんでさ。どうだね、あっしが、宝の山に見えるかね。なにしろ、エンパイヤ・ミュジック・ホールで、事件の話をすりゃ、一晩で金貨一枚くれるって旦那さえ、あらわれたんだからね――それも、あっしの、しゃべりてえことをなんでも、かってにしゃべりゃいいってんだよ――一つだけしゃべれねえことが、あるにゃあるがよ」
亭主の野放図もないおしゃべりがうるさくなって、やめさせたかったら、それは造作もないことです。話の中の三冊のノートはどうしたね、ときけばいいのです。
すると亭主は、あるにゃありましたがね、たしかに、あっしが、あの男から受けとったことにゃなってますがね、いつまでも持っているもんですか、などと、つべこべ言い出します。
「透明人間のやつが、とり上げて、隠しちまったんですよ。あっしが、このポート・ストウ村へ逃げ出したときにね。あっしが、あのノートを持ってるなんて、みんなに思い込ませたのは、ケンプ先生のせいなんですぜ」
そう言うと、いつもむずかしい顔になって、上目使いにこっちの顔色を読み、グラスをガチャガチャ鳴らして、さっと酒場を出て行ってしまうんです。
亭主はひとり者です――生粋《きっすい》の独身主義者で、家には女っ気なんか全然ありません。服装は見たところボタンどめにしていますが――本来の好みとしては――たとえば下着類のような人目につかない肌つきは――みんな紐《ひも》でくくるというふうです。宿の経営も商買っ気ぬきで、きちんとした品のよさがあります。動作はにぶいようですが、なかなか、思慮分別のあるほうで、村一番の物知りだが、大変なしまり屋だという評判です。それにイギリス南部の地理に明るいことといったら、コベット〔一七六三〜一八三五、イギリスの政治家。名著『辺地旅行』あり〕をしのぐという噂です。
それに日曜日の朝は、年じゅう通して毎日曜日の朝は必ず酒場を休んで閉じこもっているし、夜は毎夜十時すぎると酒場にはいり、少し水を割ったジンのグラスを手に、まず窓に鍵をかけ、ブラインドを調べ、テーブルの下までのぞいてみるのです。それから、だれにも見られないと得心《とくしん》すると、食器棚の錠をあけて、木箱を取り出し、木箱の鍵をあけて引き出しの中から、茶色のゴム紐でくくってある三冊のノートを取り出して、きまじめな顔で、それをテーブルのまん中にのせます。
ノートの表紙は、すっかりくすんで、みどり色のシミがついています――それは、ノートが、かつて溝につかったことがあるせいですし、そのときの汚水で、あるページはインクがすっかり流れてしまっています。
亭主は肘掛椅子に腰を下ろし、ゆっくりと、長い陶製のパイプにタバコをつめて――しばらくは、紐をほどかずに、ノートの束を見つめます。それから、一冊を抜き出してページを開き、じっくりと読み始めるのです――ページを裏に表にひっくり返しながら。
肩をしかめ、むずかしそうに唇をピクピクさせて「こりゃ眉つばだぞ、一か八《ばち》かだ。嘘か本当かわかりゃせん。畜生、こいつがわかるなんて、あいつはなんて頭のいいやつなんだ」と、つぶやくのです。
やがて、少し気を抜き、ゆったりと椅子の背にもたれ、部屋にこもるタバコの煙を透して、まるで他の人には見えない人がそこにいるかのように、片目をつぶって合図します。
そして「大した秘密だ」と、つぶやくのです「すばらしい秘密だ。だが、ひとたび、おれがつきとめたら最後――畜生め。あいつみたいなまねはけっしてしやしないぞ。ただ――そうさ、おれは――」
こうして、亭主はパイプをくゆらせながら、夢幻の世界に溶け入るのです――一生色あせない不思議な夢幻の世界へ。ケンプ博士の絶えざる追及も、アダイ警部のてきびしい尋問も、ついにむなしく、あのノートがここにあることは、神よりほかに知る人ぞなしです。ノートには極秘の透明法や、他にもいろいろ、奇怪な秘密が書きこまれていますが、そのノートが亭主の手もとにあることは、おそらく亭主が死ぬまでは、だれにもわかりっこないでしょう。 (完)
訳者あとがき
「父はだれとでも話せる人だった。というのも、父はこの世界のあらゆる現象に対して、広汎な理解と知識と、旺盛《おうせい》な関心を持っていたからだ。世界じゅうの人が、父と話しに来た」と、H・G・ウェルズの子息フランク・ウェルズが書いているとおり、H・G・ウェルズの人間的な特長は、実に、その識見の「普遍的な広さと、多様性」にあると言える。
一八六六年九月二十一日に、イギリス、ケント州のブロムリー町に生まれたハーバード・ジョージ・ウェルズは、父がクリケットの選手などをした貧しい家に育ち、独力で苦労しながらロンドン大学の学位をとり、ドイツに留学して優秀な科学者になった。そして、教師生活をしばらくしたのち文筆家になった。
下層階級出身のウェルズは、世間のごく普通の人々を、限りなく愛し、暖かい目で見つめていた。おりから時代は二十世紀初頭で、近代科学の発展はめざましく、やがて科学万能の時代にはいろうとしていた。
科学が人類の生活をたかめ、人類に真の幸福をもたらすだろうか。人類は科学の所産である機械の重圧に押しつぶされはしまいか。ウェルズの鋭い文明批評、警世的な予言は、そこから生じてきた。ユーモアを好むウェルズは、作品のいたるところに笑いをちりばめているが、笑いの底に、針があり涙があるのもそうした理由によるのである。
ウェルズが科学の可能性を追求し、科学の夢を小説として発表し出したのは、一八九五年作の「タイム・マシン」からで、当時はSFなどという言葉はなかった。ウェルズの科学小説が、他の作家たちの作品とちがう点のひとつは、単なる夢物語で終わらずに、科学的な裏打ちがあり、現代社会への批評が伴っているというところである。
二十世紀は、第一次大戦、第二次大戦の試練を経て科学は飛躍的な進歩をとげた。だがウェルズが憂いてやまなかった科学が人類に害悪を及ぼす日が近づいたように、彼には見えたのであろう。晩年のウェルズは、人間の利益追求のためにのみ使われる科学の前途を憂えて、ひどく、悲観論者になり、一九四六年八月十三日に、ロンドンのアパートの一室で寂しく息を引きとったのである。
本書「透明人間」は、彼の代表作であり、SFの古典である。人間が透明になれるか。人に見えない姿になったら、どんなに自由であろう。ウェルズは、この人類のひとつの夢を追求してみせる。
ところで、「透明」と「見えない」ということは、科学的には別のことで、原題は「目に見えない男」と訳すのが正しいのだが「透明人間」のほうが慣用されているので、それを題名にした。透明というものは、ある状態のもとでは見えるのだ。透明人間の主人公グリッフィンが、血液を脱色して透明になる点を学問的に研究したリチャード・マクリン博士によれば、血液を脱色すると、人体はうすみどりに透き通るようにはなるが、見えなくはならないと、その論文「不可視論」の中に発表している。
なお、「透明人間」は一九三四年に映画化され、多大の反響を呼んだ。主人公がほとんど姿を見せない映画だから、当然であろう。その映画を見た、寺田寅彦先生の随筆の一部を拝借して、このあとがきを終わる。
「ウェルズの原作にはたしか『不可視』になるための物理的条件が大体正しく解説されていたように思う。すなわち、人間の肉も骨も血も一切の組織物質の屈折率を略《ほぼ》空気の屈折率と同一にすれば不可視になるというものである。壜入の動物標本などで見受けるように、小動物の肉体に特殊な液体を滲透させて、その液中に置けば、ある程度まで透き通って見える。ウェルズは多分あの標本を見て、そこからヒントを得たものに相違ない。
併《しか》し、よく考えてみると、あらゆる普通の液体固体で、空気と略《ほぼ》同じ屈折率をもったものは実在しないし、又理論上からもそうしたものは予期することが出来そうもない。
仮に固体で空気と同じ屈折率を有する物質があるとして、人間の眼球がそうした物質で出来ているとしたらどうであろうか。その場合には目のレンズは最早《もはや》光を収斂《しゅうれん》するレンズの役目をつとめることが出来なくなる。網膜も透明になれば光は吸収されない。吸収されない光のエネルギーは何等の効果をも与えることが出来ない。換言すれば『不可視人間』は自分自身が必然に完全な盲目でなければならない」  (訳者)
◆透明人間◆
H・G・ウェルズ/石川年訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1