ダヴィドソンの眼の異常な体験
H・G・ウェルズ/浜野輝訳
目 次
ダヴィドソンの眼の異常な体験
手術を受けて
近い将来の物語
この惨めな靴
解説
[#改ページ]
ダヴィドソンの眼の異常な体験
シドニー・ダヴィドソンの一時的な精神変調は、それ自体とても異常であって、もしウェイドの説明を信じなければならないとすれば、さらにいっそう驚くべきことだ。それは人にこういう夢を見させる――未来における最も風変わりな交際の可能性、世界の向こう側で、差しこまれた五分間を過ごすこと、あるいは、われわれの最も秘密な行動を確実な眼によって見守られていることなどである。この一件はたまたま起きたが、わたくしはダヴィドソンのあの状態の直接の目撃者であった。だから当然、その物語を書くのはわたくしの仕事ということになった。
わたくしがかれの事件の直接の目撃者であったというのは、わたくしがその光景にぶつかった最初の人間だったという意味である。それはたまたまハーロー・テクニカル・カレッジで起きた。それはハイゲイト・アーチウェイのちょうど向こう側にある。かれはそこの大きいほうの実験室でひとりで仕事をしていた。そのときその事件が発生したのだ。わたくしは小さいほうの部屋にいた。そこには秤《はかり》があって、わたくしは簡単な記録をいくつか書きとめていた。もちろん雷雨はわたくしの仕事を台なしにしてしまった。何回かの大きな雷鳴の直後、わたくしは別の部屋でガラスの砕ける音を聞いた。で、わたくしは書くのを止めた。ぐるっと体をまわして耳をすました。しばらくの間、なにも聞こえなかった。霰が波形のトタン屋根を激しく叩いた。するとまた別の音が聞こえた。ガジャン――たしかに今度はその音であった。なにか重いものが仕事台から落ちたようだ。わたくしは飛び上がり、歩いて大きな実験室に通ずるドアを開けた。
驚いたことになんとも奇妙な笑い声がした。ダヴィドソンが部屋の真ん中に突っ立ってよろよろしていた。なにかまぶしがっているような表情を浮かべていた。最初、酔っぱらってでもいるのかなと思った。わたくしには気づかない。かれは自分の顔の一ヤードぐらいの前のところを、眼に見えないものに掴みかかるような仕草をしていた。手をゆっくりと、どちらかというと、ためらいがちに差し出し、そして空を掴《つか》んだ。「なにかの再来かな?」かれは顔の前に手を上げて指を広げた。それからかれは、ぎごちなく足を上げはじめた。あたかも足が床にくっついているとでも思っているみたいだった。
「ダヴィドソン」とわたくしは叫んだ。「いったいどうしたんだ?」かれはぐるっとわたくしのほうに向き、まわりを見わたして、わたくしを探した。かれの眼はわたくしの頭の上のほうを、それからわたくしを、わたくしの両側を見た。しかし、わたくしを見ているという感じは全然しなかった。「波だ」とかれは言った。「びっくりするくらい小ぎれいな帆船だ。神かけて誓うぞ、あれはベローズの声だ。ハロー!」かれはかん高い声で突然叫んだ。
わたくしはかれが最初なにか馬鹿げた振舞いでもしようとしているのかと思った。そのとき、かれの足もとに砕け散っているいちばんいい電位計を見た。「こりゃいったいどうしたんだい、きみ?」と、わたくしは言った。「電位計をこわしてしまったじゃないか!」
「やあ、ベローズ!」とかれは言った。「仲間が置き去りにしたんだ、だれもいなかったらな。なんだ、電位計って。きみは、どっちにいるんだ、ベローズ?」かれは突然よろめきながら、わたくしのほうに向かってきた。「奴ら、バターのようにおれを切り離したんだ」とかれは言った。仕事台のほうに真っすぐ歩いていってぶつかり、たじろいだ。「だれもあんなにへつらいはしないさ!」とかれは言った。そして体を前後に大きく動かしながら立ち止まっていた。
わたくしは恐くなった。「ダヴィドソン」とわたくしは言った。「どうしたんだよ?」
かれはまわりを見まわした。「ぼくは、あれがベローズだと断言できる。どうしてきみは、人間の姿になれないんだ?」そのときわたくしは思った、こりゃあ、あいつ、突然盲になったのにちがいないと。机のところをまわって、かれの腕にさわった。わたくしは今までこれほど驚いたような顔をした人は見たことなかった。かれは跳び上がって身を避け、そして、ぐるっとまわってまたやって来たが、すっかり身がまえたような様子になっていた。顔は恐怖ですごくひきつれていた。「これはびっくりした」とかれは叫んだ。「あれはいったいなんだろう?」
「それはおれだ――ベローズだ。ごっちゃにするな、ダヴィドソン」
そう返事をすると、かれは飛び上がり、じっと見つめた――なんてそれを表現したらいいか?――まるでわたくしの体を見すかすかのようであった。かれはしゃべりはじめた。それもわたくしに向かってではなく、かれ自身にであった。「ここじゃあ、明るい砂浜の太陽のもとじゃ、どこにも隠れる場所がない」かれはまわりを乱暴に見わたした。「こんなところに! ぼくはひとり取り残されてしまったんだ」かれは突然向きを変え、大きな電磁石にもろにぶつかった――そのぶつかり方がとても激しかったので、あとでわかったのであるが、肩と顎の骨に目も当てられない傷をつくってしまった。ぶつかって一歩ほどうしろへ下がった、そして子供がすすり泣きでもするかのように叫び声を上げた。「いったいどうしたんだろう?」ぶつかったところに立ち、恐怖で真っ青になり、激しく身を震わせ、右手で左手を掴んでいた。
そのときまでに、わたくしも興奮し、かなり恐怖にとらわれていた。「おい、ダヴィドソン」とわたくしは言った。「恐がるんじゃないぞ」
かれはわたくしの声にぎょっとした。だが、前ほどひどくはなかった。わたくしはできるだけはっきり、しかも、しっかりした調子で、繰り返して言った。
「ベローズ」とかれは言った。「あれはきみなのか?」
「おい、見えないのか、ぼくだってことが?」
かれは笑った。「自分の体だって見えないのさ。畜生、おれたちはどこにいるんだろうな」
「ここだ」とわたくしは言った。「実験室の中だ」
「なに、実験室だって!」と、当惑したような調子で答えた。そして額に手を当てた。「あの閃光のときまで実験室にいた。しかし、今もそこにいるのか、ぼくにはわからない。あっ、あれはなんの船だ?」
「おい、船なんてないぞ」とわたくしは言った。「きみ、しっかりしろよ」
「船がないって!」とかれは繰り返した。そして、わたくしの否定をすぐ忘れているかのように見えた。
「きっと」とかれはゆっくり言った。「おれたち二人は死んでるんだ。しかし、片方はまだ肉体を持っているように思っているみたいだなあ。急にこだわるなよ、なあ。あの古い船は雷光に打たれて沈んだと思う。陽気で利口なやつに、おい、ベローズ――そうだろう?」
「馬鹿言うな。おまえはちゃんと生きている。しかもな、へまやって、今、実験室にいるんだ。新しい電位計をめちゃめちゃにしたばっかしだ。ボイスが来ても知らんぞ」
かれはわたくしのいるところから眼をそらし、含水体の図表のほうをじっと見つめた。「つんぼになってしまったのかな」とかれは言った。「かれらは大砲を打ったぞ。砲口から煙が出ているからな。しかし、音が全然聞こえない」
わたくしはかれの腕にまたさわった。すると、今度は前ほど驚かなかった。「おれたち、眼に見える一種の肉体を持っているようだ」とかれは言った。「あれ! ボートが一隻、へさきを回ってくる。なんだかんだ言って、いつもの生活によく似ているぞ――ちがった気候の土地での」
わたくしはかれの腕をゆすった。「ダヴィドソン」とわたくしは叫んだ。「目を覚ますんだ」
そのとき、ちょうどボイスが部屋に入ってきた。かれが口をきくやいなや、ダヴィドソンは叫んだ。「おい、ボイス! おまえも死んでいるのか! こりゃ面白い!」わたくしは急いで、ダヴィドソンが一種の夢遊病的な人事不省におちいっていることを説明した。ボイスはすぐに興味を示した。わたくしたち二人は、その異常な状態から仲間を目覚めさせるためにベストをつくした。かれはわたくしたちの質問に答えた。また、わたくしたちに、かれ自身についていくつか質問した。しかし、かれの注意は浜辺と船についての幻想によってそらされているように思えた。いぜんとして、ボート、ダビット、風をはらんだ帆だとかについて話をしていた。薄暗い実験室の中でこんなことをしゃべっているかれの話を聞いていると妙な気持ちになってきた。
かれは目が見えないで孤立しているのだ。わたくしたちはかれの肘をつかんで、ボイスの私室へつれていかなければならなかった。そしてボイスがかれと話をし、船のことでかれをうまくあやしている間に、わたくしは廊下を出て、ウェイドのところに行き、ちょっとダヴィドソンの様子を見てくれと頼んだ。われわれの学生監の声は多少かれを落ち着かせた、しかし、充分ではなかった。ウェイドは、かれの乗組員がどこにいるのか、そしてなぜいざって歩きまわらなければならなかったのか訊いた。ウェイドはかれについて長い間いろいろ考えていた――おわかりでしょう、かれがいかに眉を八の字に寄せていたかを――それからかれは寝椅子のところにダヴィドソンの手を引っぱってさわらせた。「それは寝椅子だ」とウェイドは言った。「ボイス教授の私室にある寝椅子だ、馬の毛がぎっしり詰まっているやつだ」
ダヴィドソンは撫でまわし、当惑した様子であった。やがて、感じたけれども、しかし、見えないと答えた。
「なにが見えるんだ?」とウェイドがたずねた。するとダヴィドソンは答えた、たくさんの砂、それからこわれた貝がら、それ以外なにも見えない、と。ウェイドはかれにほかのものをさわらせ、それがなんであるかを教え、鋭い眼差でかれを見守った。
「船がほとんど水平線の下に沈んで見える」と、ダヴィドソンがだしぬけに言った。
「船のことなんて心配するな」とウェイドが答えた。「わたしの言うことを聞け、ダヴィドソン、幻覚ってなんだか知っているか?」
「多少はね」とダヴィドソンが言った。
「よろしい、きみの見ているのは全部幻覚からきているんだ」
「バークレー主教」とダヴィドソンが言った。
「間違えちゃいかん」とウェイドが言った。「きみは生きているんだ、しかも、ちゃんとボイスの部屋にいるんだ。しかし、きみの眼になにかが起きてるんだろうなあ。見ることができない――感じたり聞いたりすることはできる、しかし、見えない。わたしの言うことわかるか?」
「ぼくにはよく見えるように思えますよ」と、ダヴィドソンはこぶしで眼をこすった。そして「そうかなあ?」とかれは言った。
「これでいい。これ以上、きみを苦しめるわけにはいかん。ベローズはここにいる、だからきみの家まで馬車で送ろう」
「ちょっと待ってくれ」ダヴィドソンは考えこんだ。「腰かけさせてくれ」とやがて言った。「さて、お手数かけて申し訳ない――でも、いままでのこともう一度聞かせてくれないか?」
ウェイドはすごくいらいらしながらさっきのことをまた繰り返して言った。ダヴィドソンは眼を閉じた、そして額に両手をじっと当てた。「そうだ」とかれは言った。「まったくそのとおりだ。いま、ぼくの眼は閉じている。わかっている。あなたのおっしゃるとおりだ。あれはおまえだ、ベローズ、寝椅子に横になっているぼくのそばにいるのは。ぼくたちはふたたびイングランドにいる。そして暗闇の中にいる」
それから、かれは眼を開いた。「そこは」と言った。「ちょうど太陽の昇るところだ。船の帆桁、荒れた海、飛んでいる二羽の海鳥も見える。ぼくはこれほど生き生きとした光景を見たことない。そしていま、ぼくは砂浜の斜面に首までつかっている」
かれは前かがみになって、手で顔をおおった。それからまた眼を開けた。「暗い海と日の出! でも、ぼくはボイスの部屋のソファに坐っているって……おお、神よ、助け給え」
それは始まりであった。三週間、ダヴィドソンの眼の、この奇妙な病は治らないままであった。それは盲よりなお始末が悪かった。かれは自分で自分をまったくどうすることもできなかった。だから、孵《かえ》ったばかりのひな鳥に餌を与えるように食事をさせなければならなかった。手を引っぱってやったり、衣服を脱がしてやったりしなければならなかった。歩こうとするとつまずき、壁やドアに体をぶつけたりした。一日、二日たつと、かれはだいたいわたくしたちの声を聞けるようになった。しかし、わたくしたちを見ることはなかった。また、かれが自分の家にいることは認めた。ウェイドは、かれがダヴィドソンに言ったことに関しては正しかった。わたくしの妹は――ダヴィドソンと婚約していたが――かれに会いに行くと言ってきかなかった。彼女は、かれが例の浜辺について話をしている間、毎日、何時間も、そのそばに坐っていたものだ。彼女の手を握っていることがかれにとってとても励みになるように思えた。かれの説明するところによると、わたくしたちがカレッジをあとにして、かれを馬車で送っていったとき――かれはハムステッド村に住んでいたが――わたくしたちは砂丘の中を――それは出るまで真っ暗であったというが――それから岩や木や固い障害物の中を通っていったように思えたという。そして、かれが自分の部屋に連れこまれたとき、かれは落下の恐怖で目まいがし、気も狂わんばかりになった。なぜならば、二階に上がってゆくことが、まるでかれの想像上の島の岩の真上三〇フィートあるいは四〇フィートのところへ引き上げられてゆくように思えたからだ。かれは卵を全部たたきつぶさなければならないと言いつづけていた。それで、かれの父の診察室に運びこまれ、そこの寝椅子に横にしておかなければならなかった。
かれは、島のことをこんなふうに述べていた。それは全体として荒涼とした感じの場所で、泥炭のようなものをのぞいて草木はまばらで、すごくむき出した岩がたくさんあった。種々様々のペンギン鳥がいた。かれらは岩を糞で白くして目に不愉快な感じを与えた。海はしだいに荒れた。一度、雷雨があった。かれは横になり、静かな雷光の閃きに向かって叫んだ。一、二度、あざらしが浜辺に苦労しながら上がってきた。しかし、それも最初の二、三日だけであった。
かれは、ペンギン鳥がいつもそばをよちよち歩いている様子がとても面白かったと、また、かれがペンギン鳥たちをびっくりさせないで、どんなふうにかれらの間に横になっていたかを語った。
わたくしは風変わりなことをひとつ思い出す。それはかれがすごく煙草を吸いたがったときのことであった。わたくしたちはかれの手にパイプを渡し――かれはそれに眼を突き出さんばかりであったが――そして火をつけた。だが、かれは味わうことができなかった。以来、それがわたくしの場合にも同じだと知った――つまりそれがいつもそうであるかどうかは知らないが――煙草の煙を見ることができなければ、煙草を楽しむことはできないということである。
しかし、かれの視覚の最も奇妙な役割は、ウェイドがかれに新鮮な空気を吸わせようとして、病人用の車椅子に乗せて外出させたときに見られた。ダヴィドソンは椅子を借りた。そして、かれの家のあのつんぼで強情な家僕、ウィンジャリーをお供にさせた。健康な遠出についてのウィンジャリーの考えは変わっていた。わたくしの妹はドッグス・ホームのほうを歩いていたが、キングス・クロスのほうに向かうかれらとカムデン・タウンで会った。ウィンジャリーは、ひとりで悦に入って小走りに車を押していた。そしてダヴィドソンは、明らかにひどくやつれ、かれの弱々しい、盲のやり方でウィンジャリーの注意をひこうとあせっていた。
かれは、わたくしの妹が話しかけたとき、たしかに泣いていたという。「おお、きみ、この恐ろしい暗闇からぼくを出しておくれ!」と、彼女の手にさわりながら言った。「ぼくはここから出なければならない、でなきゃ、死んでしまう」どうしてなのか、かれにはまったく説明がつかなかった。しかし、妹は、女の直感で、かれを家に帰さなければならないと判断した。やがて、かれらがハムステッドのほうに向かって丘を登っていくにつれ、恐怖はかれから去っていくように見えた。かれは言った、また星が見られて幸福だと。だが、そのときはちょうど昼下がりで、空は明るく輝いていたのである。
「そうだ」とかれはあとでわたくしに言った。「自分がぐいぐい海のほうに引っぱられていくようだった。最初、それほど驚かなかった。もちろん、夜だった――美しい夜だったよ」
「もちろんだって?」とわたくしは訊いた。なぜならば、それはとても奇妙なふうにわたくしに聞こえたからである。
「もちろん」とかれは言った。「そこは、こちらが昼であるときはいつも夜だった……そうだ、わたくしたちは、静かな、月の光にきらきら輝く海の中に真っすぐ入っていったんだ――わたくしがその中に入ったとき、大きなうねりがやってきて、それはしだいに幅広く、しだいに平らになっていったように思えた――海の表面は肌のように光っていた。それは、たしかにそうでないと言えるにもかかわらず、下のほうは空洞であったかも知れない。ひじょうにゆっくりと。なぜならば、上向きになってぼくは斜めに水の中に入っていったので、水が眼のところに這い上がってきた。それから水面下にもどっていった。肌のような水面がわたくしの眼を開き、癒《いや》したように思えた。月が空に躍り出た。そして緑色になって、だんだんかすんでいったんだ。魚がかすかに光りながら、わたくしのまわりに突進するようにやってきた――それから、明るいガラスでつくられているようなものが見えた。からまった海草の中を通っていった。それは油のような|つや《ヽヽ》を放って輝いていた。そういうわけで、ぼくは海の中にひきずりこまれたのだ。星がひとつずつ見えなくなった。月はしだいに緑色っぽくなり、暗くなってきた。そして海草は明るい紫色がかった赤になってきた。すべてがかすんで神秘的であった。すべてが震えているように見えた。その間、ぼくには病人用の車椅子の車輪のきしむ音、そばを通る人びとの足音、遠くのほうでペル・メル紙の特別号を売っている声が聞こえた。
ぼくは水の中にどんどん深く沈んでいった。ぼくのまわりはインクのような黒一色になり、上からの光はもうあの暗闇にはとどかなかった。燐光を放つものがしだいしだいに輝きを増してきた。より深いところに海草の蛇のような枝がアルコールランプのようにゆれていた。しかし、しばらくすると、海草も見えなくなった。魚が、じろじろ見ながら、大口を開けながら、ぼくのほうにやってきた。そしてぼくの体の中に入ってそのまま通っていった。これまでこんな魚を想像したことはなかった。わきっ腹に火の線がいくつもあった。まるで発光ペンシルでかかれたようだ。より合わせたようなとてもたくさんのひれで、うしろ向きに泳いでいくぞっとするようなやつがいた。それから、とてもゆっくり、暗闇の中をぼくのほうに向かってやってくる、ぼうとかすんだ光のかたまりに見えた。それは魚の群に近づくにつれて、漂っているなにかと争い、そしてそのまわりに突進しようとしていた。ぼくはそれに向かって真っすぐ進んだ。やがてぼくは、その騒動の真っ只中に、またその魚の光によって、ぼくの上のほうにぼうと現われた一本の裂けた帆柱、傾いた暗い船体、それから燐光の輝きをましてゆくいくつかの物影を見た。その物影はあの魚が食いつくと揺れ動き、もだえた。そのときだった――ぼくがウィンジャリーの注意をひこうとしはじめたのは。恐怖が襲ってきた。うっ! ぼく.は半分食いちぎられたこんなもののなかに突っこまなければならないのか、と。もし、きみの妹が来なかったらだ! それはみんな大きな穴があいていた。ベローズ、そして……心配するな。しかし、身の毛がよだったぞ!」
三週間、ダヴィドソンのこの不思議な状態がつづいた。その間かれは、わたくしたちがいかにも幻影の世界だと想像していたものを見ていたのである。かれは、周囲の世界にはまったく盲であった。それからある火曜日の日に、わたくしがかれの家に立ち寄ると、廊下でダヴィドソンの父親に会った。「親指が見えるんですって!」と老紳士は有頂天になって言った。かれはコートを着こもうとしてもがいていた。「親指が見えるんだそうですよ、ベローズ君!」と眼に涙を浮かべて言った。「そのうち、いずれ完全によくなるでしょう」
わたくしはダヴィドソンのところに飛んでいった。かれは顔の真上に小さな本を開き、それを読みながら、弱々しそうに笑っていた。
「これは驚いた」とかれは言った。「あそこに帆みたいのがやってきたぞ」かれは指でさした。
「ぼくはいつものように岩の上にいる。ペンギン鳥もいつものようによちよち羽ばたいている。ときどき、鯨が姿を現わす。でもかなり暗くなってきたのでもう姿は見えない。なにか着てろよ。見える、たしかに見えるぞ。とてもぼんやりとしているが。いくつかの場所に現われている。しかし、みな同じだ。なんとなくぼうとした幽霊のようだ。みんながね、ぼくに服を着せているとき、それをぼくは発見したんだ。この地獄の幻の世界にあいた穴みたいだ。ちょっと、おまえの手をぼくの手のそばに置いてくれ。いや、そこじゃない。ああ! そうだ! 見えるぞ、おまえの親指のつけ根とカフスの一部が! まるで暗い空に突き出た小さなおまえの手の幽霊のようだ。ちょうどそのそばに、十字のような一国の星が現われてきた」
以来、ダヴッドソンはよくなりはじめた。その変化に関するかれの物語はかれの視覚に関する物語と同様奇妙にもなるほどと思わせるものがあった。かれの視界にある帆の上にあった世界はしだいに薄れてゆき、いわば、しだいに透明になっていった。これらの半透明な切れ目を通して、かれはまわりにある現実世界をぼんやり見はじめたのだ。帆は大きさにおいてもしだいに大きくなり、数においてもしだいに増えていった。そしていっしょになり、広がっていった。かれの眼の上の盲点はもうあちこちにしか残らなかった。かれは起き上がり、自由に歩き、ふたたび自分で食事をとり、本を読み、煙草を吸い、ふつうの市民のように生活できるようになった。最初、移り変わる幻燈の画面のようにたがいにだぶり合うこれら二つの世界を見てとても混乱した、しかし、しばらくすると、かれは幻想の世界と現実の世界とを見わけた。
最初、かれはほんとうに心から喜んだ。そして、運動したり、強壮剤を飲んだりして、かれの回復をほんものにしようと大変気づかっているように思えた。しかし、あの奇妙な島が、しだいに色あせてゆくにつれて、かれはふたたびそれにおかしなほど興味を持ちはじめた。またもや、かれは海の深いところにもぐろうとした。そしてかれの時間の半分を、ロンドンの低地のあたりでぶらぶら過ごし、かつて漂流しているのを見たという水びたしの難波船を発見しようとつとめた。本物の日光の輝きがすぐかれをとても生き生きと印象づけたので、かれの影のような世界のすべてを駆逐してしまった。しかし、夜になって、暗い部屋の中で、かれはいぜんとしてあの島の白くよごれた岩、あちらこちらよちよち歩きしているペンギン鳥の姿を見た。しかし、これらでさえも、しだいに薄れていった。そしてついに、かれがわたくしの妹といっしょになって間もなく、それらを見ることがなくなった。
さて、なかでもいちばん奇妙なことをお話しよう。かれの病気が治ってから二年ほどたって、わたくしはダヴィドソンと食事をした。それが終ったころ、アトキンスという人がやって来た。かれは海軍中尉で、愉快な話好きの男であった。そしてかれはわたくしの義兄弟と親しい間柄にあった。それですぐわたくしとも仲好しになった。かれがダヴィドソンのいとこと婚約しているのがわかった。たまたまフィアンセの最近の姿を見せようとして小さな写真ケースみたいなのを取り出した。「ついでだが」とかれは言った。「ここに昔のファルマー号の写真がある」
ダヴィドソンはなんとなくそれを見た。すると、突然、かれの顔が輝き出した。「おや、こりゃ大変だ」とかれは言った。「これはたしかに――」
「なんだって」とアトキンスが言った。
「あれだ、前に見えたことのあるあの船だ」
「また夢なんて見るなよ、どうしてそんなことがあるんだ。その船はね、六年前、南太平洋で沈んでしまったんだぜ、そして、それまでは――」
「しかし」とダヴィドソンは話しはじめた。そしてそれから「そうだ――これはわたくしが夢にみた船だ。たしかに夢にみた船だ。ペンギン鳥の群れている島を遠ざかっていった。そして大砲を撃った」
「ほう!」とアトキンスは言った。かれは例の夢遊状態のことをこまかく聞いて知っていた。
「なぜ、それが夢にみた船だって結論できるんだい?」
それから少しずつわかってきたことは、ダヴィドソンが例の状態におちいったちょうどその日、ファルマー号は小さな岩礁から離れて、アンティポード島の南部に向かっていた。前の晩、ペンギン鳥の卵をとりに上陸した一隻のボートが遅れてしまった。雷雨がやってきたので、ボートに乗っていた者は、本船と合流するのに翌朝まで待っていたのである。アトキンスはそのひとりであった。そしてかれは、一語一語、ダヴィドソンが島やボートついて話した記述を確証した。ダヴィドソンがその場所を実際に見たということはわたくしたちのだれも疑わない。説明できないあるやり方で、かれがロンドンのあちらこちらを歩きまわっていたとき、かれの視覚もそれに応じた仕方であちらこちら動いていたのである。なんと神秘的なことか。
それはダヴィドソンの眼の驚くべき物語を仕上げた。これは実際には見えないはるか遠いものを見る能力の存在を証明する最善の例であろう。それについては、ウェイド教授が与えた説明をのぞいて、いま手近に用意されているものはなにもない。しかし、かれの説明は、四次元、それからまた理論的な種類の空間に関する論文に触れてくる。「空間におけるよじれ」の存在を語るのは、わたくしにはナンセンスにすぎないように思われる。それはたぶんわたくしが数学者ではないからであろう。わたくしがなんであれその場所がここから八千マイルも離れているという事実を変えはしないだろうと言ったとき、かれはこう答えた。紙の上の二点間は一ヤード離れているかもしれない。しかしながら、その紙をまるめることによっていっしょにすることができるだろう、と。読者にはかれの議論がおわかりになるかもしれない。しかし、わたくしにはとんと理解ができない。かれの考えはこういうことなのだ――つまり、ダヴィドソンは、大きな電磁石の柱の間に立っていたので、雷光による力の場の突然の変化によって、ある驚くべきよじれが、かれの網膜の元素に起きたのだ、と。
かれの考えでは、これによって視覚的には世界のある地方で生活し、一方、肉体的には別のところで生活するのが可能になったのかもしれないという。かれはその見解を証明するためにある実験までした。しかし、いままでのところ、数匹の犬を盲にしただけである。それが、かれの実験の掛け値のない成果であったと信ずる。しかし、わたくしは、数週間、かれの姿を見かけない。最近、セイント・パンクラスと関係のある仕事で大変忙しかったので、かれと会うために家を訪れる機会がなかった。しかし、かれの理論の全体はわたくしにはいかにも空想的であるように思われる。ダヴィドソンに関係する事実はまったく異なった足場に立つ。わたくしは自分が説明したこまかいことがらの正確さを個人的に証明することができる。
(The Case of Davidson's Eyes 1895 )
[#改ページ]
手術を受けて
「死んだらどういうことになるのだろうか?」その思いはハドンの家からの帰り道なんどもなんどもわたくしの頭に浮かんだ。それは純粋に個人的な問題であった。わたくしは結婚した男の深い悩みは考えないことにした。わたくしが死んでも、お悔やみをしなくちゃならないと言って面倒くさがる親友はひとりもいまいと思った。しかし、ほんとうに驚いたのは、どちらかというといささか恥ずかしくなったのであるが、その問題をいろいろ思いめぐらしているうちに、お義理以上のことをするのがいかに少ないかに思いついたときである。
それはわたくしがハドンの家からプリムローズ丘を越えているとき、魔法からとけたように、じりじりとした白日の中にはっきりとわかった。わたくしには若いころからの友人が何人かいた。今、わたくしはわかったが、われわれの友情はひとつの伝統なのであって、それをどちらかというと苦労して維持するためにわれわれは集まるのだ。長じて、わたくしには何人かのライヴァル、何人かの味方がいた。ところで、わたくしには――一方はたぶん他方を意味するのだろうが――冷たい一面が、あるいは感情を外に表わさないところがあった。それはこういうことなのかもしれない、すなわち、友情の資格さえ体質の問題だということである。
わたくし自身の人生にもひとりの友人の死をいたく嘆き悲しんだ一時期があった。しかし、その日の午後、家に向かって歩いているとき、わたくしの想像力の情緒的な側面は眠っていた。わたくしは自分を憐れむことも、友人たちのために悲しむことも、またわたくしのために嘆き悲しむ友人たちのことを思いえがくこともできなかった。
わたくしは自分のこの情緒的な性質のなさに関心を持った――疑いもなく、それはわたくしのうっとおしい体調に伴うものであった。わたくしの考えはそうした方向に向かっていった。昔、血気盛りのとき、大量に出血し、あわやというときがあった。いまでも覚えているが、わたくしの愛情と熱情はわたくしの体から――静かな諦めとわずかな自己憐憫の情をのぞいて――ほとんどなにも残さないで完全に出て行ってしまった。昔の野心、優しい心、それから男の複雑な道徳的葛藤がふたたび現われてくるまで何週間かかかった。
さて、またもや、わたくしは貧血気味であった。一週間、いやそれ以上にわたって食欲が衰えて行った。しかし、空腹感はなかった。そして、ふとわたくしに思い当たったのは、この喪失感の本当の意味は、動物的な人間が本来持っている苦と楽というあの導きからしだいに離れつつあることによるのかも知れないということであった。わたくしは信ずるが、なんであれこの世で証明されているのと同じぐらい徹底的に証明されているのは、より高度の情緒、道徳的な感情、いや愛の繊細な優しさでさえも、低級な動物の本能的欲求や恐怖から生み出されたということである。いわばそれらは馬具である。それで人間の精神的な自由をかちとるのだ。あるいはこういうことなのかもしれない、すなわち、死の影がわれわれに及んでくるにつれ、またわれわれの活動の可能性が衰えてくるにつれ、バランスのとれた行動、性癖、それから嫌悪感(その交互作用がわれわれの行為を刺激する)、こういうものから生まれてきたこの複合物が、人間の精神的な自由をかちとるのだと。あとになにがあるのか?
わたくしは肉屋の小僧が持っていた入れ物と衝突しそうになって、はっとわれに返った。ちょうどそのとき、わたくしはリージェント公園の堀にかかる橋の上を歩いていた。その堀は動物園のと平行して走っていた。青い服を着た小僧はゆっくりと進んでくる黒いはしけを振り向いて眺めていた。はしけはやせた白い馬に曳かれていた。動物園のほうで、ひとりの保母が三人のしあわせそうな幼児を引き連れて橋を渡っていた。公園の木は緑に映え、希望にみちた春はまだ夏の|ちり《ヽヽ》に汚されていない。堀の水に映る空は明るく澄んでいたが、はしけが進むにつれてゆらゆらと大きく波に揺れ、そしてこまかに震える黒いしま模様によって乱された。そよ風が立ちはじめていたが、いつもの春のそよ風とちがって、わたくしを感動させなかった。
このもの憂さはひとつの予見なのか? 奇妙なことにわたくしは、同じようにはっきりと網の目のような暗示の意味を判断し、追究していくことができた。少なくともわたくしにはそう思えた。わたくしにやって来たのはもの憂さというよりもむしろ平静さであったろう。死の予感という確信の根拠がなにかあったのか? 死に直面した男が――冷たい手がかれの体にふれる前に――本能的に物質と感覚の網目からわが身を引き揚げさせたのか? わたくしは奇妙なほど孤独を、後悔の伴わない孤独を感じた。わたくしのまわりにある生活、その他すべてから切りはなされた。さんさんと輝く太陽の下で遊び戯れながら人生という営みに必要な力と経験を積み重ねつつある子供たち、保母とおしゃべりをする公園係、子供をあやす母親、わたくしのすぐそばを通りながら夢中になっている若い二人連れ、陽光に向かって嘆願するかのような若葉を広げる道ばたの木立、その枝に感じられる息吹き――わたくしもそういうものの一部であった、しかし、わたくしはそれらとはいっさい無縁であったのだ。
ブロード・ウォークのほうへしばらく行くと、わたくしは疲労を感じ、足が重くなってきた。その日の午後は暑かった。それでわたくしは横に曲がり、道ばたに並ぶ緑色の椅子のひとつに腰をおろした。一分たつかたたぬかのうちに、まどろんで夢を見た。わたくしの思案の潮は復活の光景をいっさい洗い流した。わたくしはいぜんとして椅子にもたれていた。しかし、自分自身、実際、死んでいるものと思った。肉体はしぼみ、ぼろぼろになり、かさかさに乾いて(わたくしが見た)片方の眼は鳥についばみ出された。「目を覚ませ!」という声がした。すると小道にほこりが立ち、草の下の土が激しく盛り上がった。これまでわたくしは、リージェント・パークが共同墓地だなんて考えてもみなかった。しかし、どうだろう、木の間から見渡すかぎり、のたうちまわる墓、横にかしぐ墓石の真っ平らな原っぱが見えるではないか。なにか争いごとでもあったかのようだ。起き上がった死者は立ち上がろうと息苦しそうにもがいていた。血が流れていた。そして赤い肉が白い骨からぼろぼろはがれた。「目を覚ませ!」という声がした。だが、わたくしはこんな恐怖には絶対まきこまれまいと決心した。「目を覚ませ!」かれらはわたくしを放ってはおかない。「旦那、起きなよ!」と、怒った声がした。ロンドン乞食だ! 椅子の切符を売りつける男がわたくしをゆり動かし、金を催足したのである。
わたくしは金を払い、切符をポケットにしまい、あくびをして足をぐっと伸ばした。そしていくらか元気になったような気がして立ち上がり、ランガム・プレースのほうに向かって歩き出した。わたくしはすぐ死についてのうつろい易い思索の迷路の中に入ってしまった。マリレボーン通りを横切り、ランガム・プレースのはずれにある、あの三日月状の街路の中に入ると、危ういところで馬車のかじ棒にぶつかりそうになった。胸をどきどきさせ、肩にあざをつけて歩きつづけた。突然、わたくしはこんなことを思った、もしわたくしの死に関するこの瞑想がその日のうちにわたくしを死に至らしめたならば奇妙だろうと。
しかし、わたくしは、その日と、翌日の経験のことで、あなたをこれ以上わずらわそうとは思わない。わたくしはいよいよはっきりと知った――手術を受けて死ななくてはならないと。ときどき、わたくしは、自分自身にもそういったポーズを取ろうとしたと思う。家ではすべて用意がととのえられていた。わたくしの部屋の中は不必要なものはことごとく片づけられていた。そして白い布も下げられていた。看護婦がきていて、前からいる家政婦とすでに喧嘩していた。彼女たちはわたくしに早く床に着くようにと言った。わたくしは多少逆らったあとで、それに従った。
翌朝、とてもだるかった。新聞と、それから着いたばかりの手紙を読んだけれど、全然面白くなかった。わたくしの古い学友アディソンから友情あふれる短い手紙がきていた。それは今度出されたわたくしの本に矛盾点が二ヵ所あること、それから印刷屋のミスを指摘していた。またラングリッジからも手紙が届いていた。それはミントンのことでいくぶん怒りを洩らしていた。ほかの手紙は仕事についての連絡であった。お茶を一杯飲んだが、しかし食べものはなにも与えられなかった。わたくしの苦痛の高まりはいっそう重くのしかかってくるように思われた。わたくしは知った、それが苦痛であると。しかしながら、もしあなたが理解できるならば、わたくしはそれがとても苦痛だとは思わなかった。その夜、わたくしは起きていて、暑苦しく、のどがかわいた。しかし、朝、ベッドは心地よかった。夜、横になりながら過ぎた昔のことを考えていた。朝、うとうととしながら不死の問題を考えた。ハドンは一分も遅れずに手に小ぎれいな黒い鞄をぶら下げてやってきた。モーブレイもすぐそのあとからやってきた。
かれらの到着はいくぶんわたくしを興奮させた。わたくしは手術の処置にいっそう個人的な関心を持ちはじめた。ハドンは小さな八角形のテーブルをベッドのそばに近づけ、肩幅の広い、黒い背をわたくしに向け、鞄からいくつかの器具を出しはじめた。金属と金属の軽く触れ合う音がした。わたくしの想像力は完全に衰えてはいないと思った。「うんと痛い目にあわすんじゃないだろうね?」とぶっきら棒な調子で訊いた。
「いやあ、ちっともね」と肩ごしにハドンが振り向いて言った。「クロロフォルムの麻酔をかける。だから、心臓だって鐘の音と同様しっかりしたもんさ」そんなことをかれが言っているうちに麻酔の刺激的な甘い臭いをぷっとかがされた。
かれらはわたくしの体を伸ばし、手術のやりやすいように広げた。なにか起きているなと気づくか気づかないうちにクロロフォルムがききはじめた。鼻孔をつんと刺激され、最初、息のつまるような感じがした。わたくしは知った、死ななければならない――これがわたくしにとって意識の終りだろうと。すると突然、わたくしは死ぬなんて思わなくなった。無視されていた漠然とした義務感にとらわれた。それがなんでだか、わたくしにはわからなかった。なすべきことについて、人生に残された願わしいことについてもうなにも考えることはできなかった。しかしながら、死に対する奇妙な嫌悪を感じた。肉体的な感覚は苦痛にみちて重苦しかった。もちろん医者たちはわたくしを殺そうなんて思ってもいなかったであろう。たぶん、そのときわたくしはもがいたに相違ない。それからぐったりとなり、大きな沈黙、怪奇な沈黙を感じた。奥の知れない暗闇がわたくしの上をおおった。
おそらく、絶対的な無意識が数秒、あるいは数分つづいたであろう。それから冷ややかな、非情緒的な透明さで、わたくしがまだ死んではいないということに気がついた――まだ自分の肉体の中にいたのである。だが、意識の背景を作り上げるべく肉体から殺到してくるさまざまな感覚は消えてしまった。したがって、わたくしは肉体から完全に自由であった。いや、それからは自由ではなかった。なぜならば、いぜんとしてなにかが、わたくしをベッドの上に横たわっている哀れな、こわばった肉体にくっつけていたからである――たしかにくっつけていた、しかしながら、ひじょうにしっかりとではなかったので、わたくしはその外部にあって、それと独立して、それから引っぱられて、どうも気分が悪かった。わたくしは自分が見たとも聞いたとも思わない。しかし、手術を受けているということはわかった。だから、わたくしはあたかも見たような、聞いたような感じであった。ハドンはわたくしの体の上にかがみこみ、モーブレイはわたくしのうしろにいた。外科用のメス――それは大きなメスであったが――肋軟骨の下のところの肉を切除していた。劇痛を感ずることもなく、目まいを感ずることなく、チーズのように切られているわたくしの肉体が見られたらさぞ興味があるだろう。その興味はどちらかというと、知らない同士の間で行なわれるチェスを見ていて感じられるものであったろう。ハドンの表情は力強く、手さばきはしっかりとしていた。しかし、知って驚いたことに――どうしてわたくしが知ったのかわからないが――かれは手術中自分の知識について大変重大な疑問を抱いていたということである。
モーブレイの考えもわたくしにわかった。かれは心の中で思っていた――ハドンのやり方はあまりにも専門家的であると。新しい思いつきがぶつぶつあわ立つ熟考の流れの中からあぶくのように浮かんでくる。そして、それがかれの意識の小さな明るいところにつぎからつぎへと破裂する。かれは自分の嫉妬深い性質、|けち《ヽヽ》をつけようとする癖にもかかわらず、ハドンの素早く動く手先の器用さに目を見張り、感心しないわけにはいかなかった。わたくしは自分の肝臓が人目にさらされるのを見て当惑した。わたくしは自分が死んだとは思わなかった。けれども、わたくしが元気に生活していたときの自分とはなにか違ったものだということを感じた。灰色の沈滞した気分――それは一年あるいはそれ以上にわたってわたくしの上に重くのしかかり、わたくしの考えに影響していたが、消えてしまった。そして、いかなる情緒的な色合いもなく知覚したり考えたりした。わたくしは、クロロフォルムによってだれもがこんなふうに知覚し、そして、それからさめたとき、ふたたびそれを忘れてしまうものなのかどうかいぶかった。だれかの頭の中に入り込んで見たものを忘れなかったら厄介であろうに。
わたくしは死んだとは思わなかったけれども、自分がいずれ死のうとしているのがはっきりわかった。これがわたくしをハドンの処置の考察へとおもむかせた。わたくしはかれの心の中をのぞきこんだ。そしてわかったが、かれは門脈の枝脈を切り離しはしないかと恐れていた。わたくしの注意はかれの心の中に起きつつあった奇妙な変化によってこまかいことからはそらされた。かれの意識は検流計の鏡に映し出されるあの小きざみに震える小さな光の点みたいであった。かれの考えはその下をひとつの流れのように動く。あるものは明るくはっきりとした焦点の下を通り、あるものは端っこのあまり明るくないところを影のように通ってゆく。ちょうどいま、小さな白く熱した光がずっと続いている。モーブレイのちょっとした動き、外部からのかすかな音、切除していた肉体の緩慢な動きのわずかな変化でもその光点を震わせ回転させる。新しい感覚的な印象が思考の流れの中から飛び出してくる。すると見よ! その光点は、ものに驚いた魚よりも素早く、それに向かってぐいと動く。考えてみるとまことに不思議であるが、あの覚つかない気まぐれなものに、その男の複雑なすべての動作が、したがって、つぎの五分間のわたくしの生命がかかっているということだ。
かれはますます仕事にぴりぴりする。それは切られた血管の小さな心臓がだんだん明るくなってゆき、短く切りすぎた血管の別の心臓をかれの脳から追い出そうと戦っているみたいであった。かれは恐怖におちいった。あまり小さく切ったのではないか、あるいは、あまり大きく切りすぎたのではないかと心配していた。
そのとき、突然、水門の扉の底のほうから噴き出す水のように、これはいかんという恐ろしい思いの大きな盛り上がりがかれの考えをもみくちゃにした。と同時に、わたくしは血管が切られたとわかった。かれはしゃがれた叫び声を上げて飛び退いた。わたくしは赤黒い血が見る間にひとつの玉になり、したたりおちていくのを見た。かれはおののいた。そして血で赤く染まったメスを八角形のテーブルの上に投げ出した。そしてただちにふたりの医者はわたくしの体に飛びかかり、そのミスを取り返そうと慌てふためいた不手際な努力を傾けた。
「氷だ!」と、モーブレイはあえぎながら叫んだ。しかし、わたくしは自分が殺されたのを知った、けれどもわたくしの肉体はいぜんとしてわたくしにかじりついていた。わたくしはこまかなことまで知っているが、わたくしを助けようとするかれらの手遅れの努力についてはなにも語るまい。わたくしの知覚は肉体が生きていたときよりも鋭く素早く回転した。わたくしの考えは信じられないぐらいの速さで、しかも完璧な明確さで心の中をかけめぐった。それらの込み合った明確さをわずかに比較できるものといったら適量のアヘンの効果ぐらいであろう。
一瞬、肉体は離れ、わたくしは自由となった。わたくしは不死なのを知った。しかし、なにが起きるのか、わからなかった。わたくしはほどなく、銃口から吹き出す煙のように、ある種の半物質体、わたくしの物質的な自己を希薄化したものへと漂流しなければならないのか? わたくしは突然、自分を無数の死者の中に見出さなければならないのか? また、わたくしのまわりにある世界を、昔からいつもそう思われていた走馬燈の光景として認めなければならないのか? わたくしはある精神的な降神術会にまぎれこみ、そして愚鈍な霊媒に影響を与える馬鹿馬鹿しい不可能な試みをしなければならないのか? それは非情緒的な好奇心、あるいは無色な期待の状態であったと言えよう。それからわたくしが気がついたのは、ひとつのしだいに強まりつつある精神的な圧迫がわたくしに加わったということである。あたかも巨大な人間の磁力が、わたくしの肉体からわたくしを上のほうに引っぱり上げているかのような感じであった。その圧迫はしだいに大きくなっていった。わたくしは怪奇な諸力が作用している原子みたいであった。しばらくすると恐ろしい危機感がわたくしに舞い戻ってきた。悪夢によく現われる真っさかさまに落下してゆくあの気持、それを千倍にも強くしたようなあの感情、あの、黒い恐怖がわたくしの考えの中を激流のように横切っていった。それからふたりの医者、切りとられたところのある裸の肉体、小さな部屋、それらがわたくしの下のほうを通って泡が渦になって消えてゆくように去っていった。
わたくしは空中に浮かんでいた。はるか下のほうにロンドンのウエストエンドが急速にかすんでいった――なぜならば、ものすごい勢いで上のほうに飛んで行くみたいであったからだ――そして、かすんでいくにつれ、パノラマのように西のほうへ過ぎていった。わたくしは見た、ぼんやりかすんだ煙を通して無数の煙突のついた屋根、人間と乗物が点々と見える狭い道路、小さな点のような広場、建物から突き出す刺《とげ》のような教会の塔を。それは地球が地軸を中心に回転していくにつれてぐるぐる回っていた。数秒のうちに(そのように思われたが)イーリングのまわりに点在する町の上に、南のほうに流れる青い糸のようなテームズ河の上空にいた。そしてチルタン丘陵やノース・ダウンがお盆のふちのように、はるかかなたに、霞にかすんで視野の中に現われてきた。すごい勢いで昇っていった。最初、上空へすごい勢いで昇っていくのがなぜだかまったくわからなかった。
刻々と眼下のまるい地平線の光景が広がってゆく。町や畠、それから丘や谷間のこまかいところがだんだんとぼやけ、青味を帯び、かすんできた。明るい灰色が丘の青、広々とした牧場の緑とまじり合ってきた。小さな断雲が、低く西のほうに広がり、まぶしいほど輝いていた。そしてわたくし自身と、地球の外の空間との間にある大気のヴェールが薄くなるにつれて、空の上のほうは、最初、澄んだ春めいた青であったが、しだいに深く濃くなってゆき、さえぎるような夕闇へと変化し、ついにそれは真夜中の青空と同じくらい暗くなり、やがて冷たい星の光の背景の暗黒と同じぐらい黒くなってきた。最後にこれまで見たいかなる暗黒でもない黒い色になった。
最初、星がひとつまたたき、それから多くの星がまたたきはじめた。そして無数の空の軍勢が出現した――地上からはだれも見たことのない実に多くの星が。なぜならば、空の青い色は太陽や星の光なのであって、それが地球にめくらめっぽうに注ぎこんで拡散したものだからである。冬の最も暗い空でさえも放散した光がある。日中、われわれに星が見えないのは太陽のまばゆい光のせいにすぎない。しかし、いまそれを見た――どういうわけだか知らないが、たしかにわたくしは不死の眼で見た――あの眩惑という欠陥はもはやわたくしを盲にしなかった。
太陽の姿は信じられないぐらい奇妙ですばらしかった。その本体は目をくらます白い光の円盤であった。地上に住む人びとに見えるような黄色味を帯びた色ではなく、鉛色の白で、赤い|しま《ヽヽ》が稲妻のように走っていた。そして荒れ狂う赤い舌でふちどられていた。またその両側から天空をなかばまで横切ってのび、しかも銀河よりも光り輝く銀白色のふたつの翼は、太陽が地上で思い出せるほかのどれよりもかつてエジプトの彫刻に見たあの翼のついた地球に似ているようであった。これが太陽のコロナだということは知っていた。もちろんわたくしは、地上では絵以外けっしてそれを見ることはなかったが。
わたくしの注意はふたたび地上に向けられたが、それは今やわたくしのいるところからはるか下のほうに見えた。畠や町はかなり前から見わけがつかなくなっていた。田園のさまざまな色合いは一様に明るい灰色になりつつあった。しかし、アイルランドとイングランド西部の上空に点々と浮かぶ綿のようなかたまりの明るく輝く白い雲だけはくっきりと眼についた。なぜならば、今やわたくしは、フランス北部とアイルランドの輪郭、それからブリテン島の全部を見ることができた――ただし、北のほうの地平線にかくれているスコットランドの一部、あるいは雲でぼうっとかすむ、あるいは全然見えない海岸線をのぞいて。海は鈍い灰色に見え、陸地より暗かった。そしてパノラマのようなその光景はゆっくりと東のほうへ回転していた。
これらのことがらはきわめて急速に起きたので、わたくしが自分のことを考えるに至ったのは、地球から数千マイルも離れたところであった。ところで、わたくしにわかったのは、自分に手も足も、それから体のほかの部分、臓器もなかった。心配も苦痛もなかった。わたくしのまわりには人間の想像を絶する冷たい真空があった(なぜならば、わたくしはすでに空気から離れていたからである)。しかし、それはわたくしをひとつもわずらわさなかった。太陽光線は途中なにかぶつかるものがなければ、光にも熱にも無力な真空の空間を通っていった。わたくしはまったく澄んだ自己忘却の状態でものを見た――あたかも自分が神であるかのように。そして、下のほうの灰色の小さな暗い点がロンドンの場所を示しているが――それはまったく数えきれないぐらいの秒速で遠ざかっているけれども――そこでふたりの医者が、すでにわたくしの棄てた切り刻まれたぼろぼろの哀れな脱けがらに生命をよみがえらそうとして奮闘していた。わたくしがそのとき知ったのは、かつて経験したいかなるこの世の喜びにも比較できないような解放感、清澄感であった。
地球のあのすさまじい動きの意味がわかりはじめたのは、わたくしがこれらのことを認めた直後であった。しかしながら、それはとても単純であり、とても明白であったので、むしろ起こりつつあった事態を予言することのできない自分に驚いた。わたくしは突然物質から切り離されて漂っていたのだ。わたくしの素材であった物質はすべて空間の中をぐるぐる回転する地球にあった。それは引力によって地球に引きつけられ、地球の慣性とともに動いていた。その地球はまた太陽の周転円を渦巻きながら動き、空間の中を太陽や星といっしょに壮大な行進をしていたのである。
しかし、非物質的なものには慣性はなかった。物質と物質の引っぱり合いなどなにも感じなかった。肉体の衣を脱いだところで(空間に関するかぎり、それはもはや)空間にじっとしているのである。だから、わたくしが地球を後に残していったのではない。地球がわたくしを置いていったのである。いや、地球ばかりではない、太陽系のすべてが流れ去っていった。そして、空間の中のわたくしのまわりには、わたくしには見えないが、地球の通った跡に散らばって、無数のさまざまな霊魂があったに相違ない。かれらはわたくしと同様、物質の|から《ヽヽ》を脱ぎ、同じように個人の情熱や群棲的な野獣の寛大な情緒から解放され、急にかれらのところにやってきた奇妙な解放にびっくりする裸の知性、新しく生まれた驚きと思想の存在であった!
わたくしが暗黒の天空にかかる奇妙な白い太陽から、またわたくしが生まれた広大な光り輝く地球からしだいに遠く離れてゆくにつれて、わたくしはなにか信じられない仕方でひじょうに大きくなっていくように思われた。もちろん、それはわたくしが残した世界に関するかぎり巨大なのである。人間の生命の時間と期間に関するかぎり巨大なのである。やがて間もなく、わたくしは地球の丸い円周を見た。少し膨れていて、満月の前の月に似ていたが、しかし、とても大きかった。銀色の形をしたアメリカがちょうどいま真昼の輝きの中にあり、そのとき小さなイギリスは少し前まで太陽の光に当たっていたようだ。最初、地球は天空の大部分を占めて大きく輝いていた。だが、時々刻々としだいに小さくなって遠のいていった。地球が小さくしぼむにつれて月齢十日ぐらいの大きな月が地球のふちのところに見えはじめた。わたくしは星座を探した。牡羊座が太陽のうしろに見えた。獅子座――それは地球のかげにかくれて見えなかった。曲がりくねってずたずたに裂けた一団の銀河がやがて認められ、それといっしょにヴェガが見えた。それは地球と太陽の間に明るく輝いていた。またシリウスやオリオンが天空の反対側で底知れぬ暗黒をバックに光り輝いていた。北極星が頭上にあって、大熊座は地球のへりにかかっていた。そして太陽の輝くコロナの下のほうの離れたところに奇妙な一団の星があった。わたくしはいままでそれをはっきりと見たことはなかったが、短剣のような形をした星で南十字星と呼ばれてた。すべてこれらの星は、それが地上で輝いているのを眺められていたときよりは少しも大きくはなかった。しかし、ほとんど肉眼では見えない小さな星は、いまや暗い真空を背景に一等星と同じ明るさで輝いていた。一方、より大きな星は言葉で表すことのできない美しい色で輝いていた。アルデバラン星は血のように赤く輝き、一点に凝縮したシリウス星はサファイアの光のように、しかも、しっかりと輝いていた。けっしてまたたかなかった。静かに、荘厳に輝いていた。わたくしはダイヤモンドのような固さと輝きの印象を受けた。かすむような柔らかさはいかなるものもなかった。いかなる大気も存在しなかった。無慮無数のこれらの鋭い、光り輝く光の点と|しみ《ヽヽ》の存在する無限の暗黒以外なにもなかったのである。
やがてふたたびわたくしが眺めたとき、小さな地球は太陽より少しも大きいように見えなかった。それは見ている間にだんだん小さくなり、向きを変え、ついに二番目の空間において(わたくしにはそう思えたが)半分になってしまった。そしてそのままどんどん急速に小さくなっていった。反対側のはるかかなたに小さなピンク色のピンの頭のような光がたえず輝いていた。火星である。わたくしは真空の中に静止したまま浮かんでいた。恐怖とか驚きとかは全然なく、わたくしは遠ざかってゆく、いわゆる宇宙塵の|しみ《ヽヽ》を眺めていた。
やがてぼんやりとわかってきたのは、わたくしの持続感覚が変化していたということである。わたくしの心は、より早くではなく、無限に遅く動いていたのである。それぞれ別々の印象の間には、ひじょうに多くの日々からなる時間が存在した。わたくしがこれに気がついたとき、月が地球のまわりをぐるりと回った。そしてはっきりと、火星がその軌道の上を動いているのに気づいた。加うるに、思考と思考の間の時間がしだいに大きくなっていくように思われた。それは一千年がついにわたくしの知覚において一瞬にすぎないぐらいまでになったのだ。
最初、星座は無限の空間の暗黒を背景にじっと静止して輝いていた。だがやがて、ヘラクレス座とさそり座のまわりの一群の星がたがいに引っぱり合っているかのように見えた。一方、オリオン星とアルデバラン星、そしてそれらの周辺にある星はたがいに離れてゆくように見えた。
突然、暗黒の中から光を発しながら多数の光の塊が飛んできた。それはまるで太陽光線の中のほこりのようにぎらぎら光り、かすかに明るいもやに取りかこまれていた。そしてわたくしのまわりを渦巻き、ふたたびきらきらまたたきながら後のほうに消え去っていった。そのときわたくしは、明るく輝く光の点、それはわたくしの通り道の片側に小さく輝いていたが急速に大きくなってきた。土星だということがわかった。わたくしのほうに向かって突進してきた。しだいに大きくなり、そのうしろにある天空を呑みこみ、刻々と新しい無数の星をかくしつつあった。わたくしはその平らな、ぐるぐるまわる本体、その円盤のような環、それから七つの小さな衛星を見た。しだいに大きくなり、ついにぐっと大きくそびえ立った。それからわたくしは、無数のぶつかり合う石、踊るようなほこり、ガスの渦巻き、そういった流れの中に突っこんだ。そして、一瞬、わたくしの上のほうに、月光のように輝く三つの同心円のアーチみたいな三つの部分からなる巨大なベルト、下のほうには沸きかえるような騒ぎの上に映るその暗い影を見た。
これらのことがらは、それを話す時間の十分の一ぐらいの間に起こった。土星は電光の閃きのようにそばを過ぎ去っていった。数秒間、それは太陽をおおいかくした。そしてそこに、またそのとき、光に逆らって小さくなって飛び去って行く|ほくろ《ヽヽヽ》のようなものが現われた。地球である。瞬間、わたくしの母なる微小な|ちり《ヽヽ》をもはや見ることができなくなった。
そのように威厳のある素早さで、最も深い沈黙のうちに、太陽系は――かつて一枚の衣であったけれども――わたくしから脱げおちた。ついに太陽はたんなる星、無数の星のひとつにすぎなくなった。そしてその周囲を渦巻くように回る点みたいな衛星といっしょに、もっと遠い無数の光のきらめきの中に姿を没した。わたくしはもはや太陽系の住人ではなかった。わたくしは外側の世界にやってきた。わたくしは物質世界の全体をつかみ、理解しているように思えた。さらに急速に太陽系は、アンテェアリーズとヴェガが明るいかすみのようになって消えていったあたりに姿を没した。ついにその空の部分は渦巻く星雲となった。
そして、たえずわたくしの前には真空の暗闇の巨大な裂け目が口をあけ、星の輝きはしだいに少なくなっていった。わたくしはオリオン星座のベルトと剣の間の一点に向かって動いているかのようであった。そしてその辺りの空間は秒ごとに大きく広がり、信じられないぐらいなにもない裂け目を開いた。それに向かって今わたくしは落下しつつあった。しだいに速く。そしてたえず加速しながら、宇宙はもの凄い勢いでわたくしのそばを過ぎ、渦巻くような|ちり《ヽヽ》が大急ぎで、最後のスピードを上げて、静かにその空間に突っこんでいった。
しだいに明るさを増すいくつかの星は、わたくしがそれに近づくにつれて、幽霊のようにその星の光をとらえていた周囲の衛星といっしょに輝き出し、そしてふたたび非実在の世界に姿を没した。かすかな彗星、隕石の群、またたく物質のしみ、渦巻く小さな光点は(ぴゅっと音をたてて過ぎ)、あるものはせいぜいわたくしのところから一億マイルぐらいのところを、少数のものはもっと近いところを、あの黒い広大な夜の中を想像できないスピードで旅をし、星座、瞬間的な火の槍を投げつけていた。ほかのなににもまして、それは太陽光線に照らされたほこりっぽい下絵であった。より広大に、より幅広く、より深く、星のない空間は広がっていった。はるかかなたの真空へと広がっていった。
その中にわたくしは引きずりこまれていった。ついに天空の四分の一は真っ暗でなにもなかった。そして星の世界の全体のすさまじい突進は、たがいに寄り集められて一つの光のヴェールのようにわたくしのうしろのほうに姿を没した。まるで風にあおられた怪奇な鬼火のようにわたくしから遠ざかっていった。わたくしは荒涼たる空間の中にやってきた。たえず真空の暗闇は広くなっていった。ついに星の軍勢は遠ざかりゆく一群の燃える火のような点にしか見えなくなった。もう信じられないぐらい遠くなってしまった。暗闇、無、空虚がわたくしの周囲のあらゆる方向に広がっていた。間もなく物質の小さな世界、点々とした星くずの籠は――その中でわたくしは存在するに至ったのであるが――今や渦巻くような明るいきらめきの小さな円盤にまで、今やぼんやりした光の小さなひとつの円盤にまで縮まっていってしまった。しばらくすると、それは点にまで小さくなり、ついに完全になくなってしまうであろう。
突然、感情が戻ってきた――圧倒的な恐怖という形で感情が……。言葉では言い表わせないようなこれらの暗い広がりから生ずる恐怖、同情と社交的な欲求の情熱的な復活、この暗闇の中のわたくしのまわりには――かれらには見えないわたくしのように、わたくしに見えない――ほかの魂がいたのか? あるいはほんとうにわたくしは、たしかに感じていたように、一人なのか? わたくしは存在の世界から存在でも非存在でもないものの中に飛びこんでしまったのか? 肉体のおおい、物質のおおいがわたくしからむしり取られていた。そして友情や安全の幻覚も。すべては暗黒と沈黙であった。わたくしは存在ではなくなっていたのである。わたくしは無であった。なんにもなかった――あの裂け目の中に小さくしぼんでいった極微の光の点だけをのぞいて。わたくしは聞こうと、見ようと一生懸命つとめた。そして、しばらくの間、無限の沈黙、我慢のならない暗闇、恐怖、それから絶望以外なにもなかった。
そのときわたくしは、物質の全世界が小さくしぼんでできた光の点のまわりに、かすかに赤みがかっているところがあるのに気がついた。そして、その両側の帯状のところは、暗闇が絶対的ではなかった。わたくしはそれを長い間、見守っていたように思われた。しばらくずっとそうしていると、そのぼうっとしたところが、わからないぐらいではあるが、いっそうはっきりとしてきた。ついでその帯状のまわりに、とてもかすかな、とても青ざめた褐色の不規則な雲が現われた。わたくしは体がかっかするほどいらいらしてきた。しかし、それはきわめてゆっくりと明るくなってきたので、変化したとはほとんど思えなかった。なにを聞こうとしているのか? 永久につづく空間の夜のこの奇妙な赤味を帯びた夜明けはなんであるのか?
雲の形は怪奇であった。その下のふちに沿ってぐるぐる渦巻く四つの突き出たものが見えるようだ。そして上のほうは一方の真っすぐな線になっていた。いったいなんの幻なのか? わたくしははっきりと感じた。前に見たことがあると。だが、それがなんであるのか、どこで、いつだったのか思い出せなかった。そのとき、突然、閃いた。それは握りしめた手だったのだ。わたくしは空間でひとりぼっちであった。その巨大な影のような手とともに――その上に物質の全世界があるかないかのほこりのしみのように乗っかっていたが――ひとりぼっちであった。わたくしは、ほんとうに長い間、それをじっと見つめていたように思われた。人差し指に指輪が光っていた。わたくしのやってきた世界は指輪のわん曲部の上の光の点にしかすぎなかった。そしてその手が握っていたのは黒い棒みたいであった。とても長い間、わたくしは指輪と、それから棒を握ったこの手を見守った。
つぎにいったいなにが起きるのか……不思議に思いながら、恐怖におびえながら、また心細い思いをして待っていた。何事もつづいて起こりえないかのように思われた。わたくしは永久に見守っていなければならないかのようであった――ただその手と、それからそれが握っていたものだけを見守るために。しかも、その重要さについてまったくわからぬままに――。全宇宙はより偉大な存在の上に屈折して見える|しみ《ヽヽ》にすぎないのか? われわれの世界は別の宇宙の原子にすぎないのか、別世界の繰り返しなのか、そしてそのようにずっと繰り返してつづけられていくものなのか? そしてわたくしはなんであるのか? 実際、わたくしは非物質なのか? 肉体のぼんやりした説得がわたくしのまわりに集まってきて、わたくしのどっちつかずの気持ちの中に入りこんできた。あの手のまわりにある奈落の闇は、実体のない暗示で、ぐらぐらした、たえず揺れ動く形でみたされていた。
音がした、晩鐘の音のようだ。かすかに、無限の遠くのほうから、包みこまれた、あたかも厚く巻いた暗闇の包帯の中から聞こえてくるようだ。深い、震えるような響きであった。その音の間には大きな沈黙の裂け目が開いているかのようであった。そして手は棒をしっかりと握っているように見えた。わたくしは手のはるか上のほうに、暗闇の頂点のほうにぼんやりした燐光の環、これらの音がそこから聞こえてくるように思われる影のようなところを見た。最後の鐘の音がすると手が消えた。なぜならば時がやってきていたのだ。そして騒々しい水の音を聞いた。しかし、黒い棒は空を横切る大きな帯のように残っていた。それから、だれかの声がした――それは空間の最も遠く離れたところにまでとどくように思われたが――「もう、痛くはないだろう」と言いながら、なにかしゃべっていた。
その声にまったくどうしようもない喜びと輝きがわたくしにどっと襲ってきた。そしてわたくしは、白く明るく輝いている環、黒く輝いている棒、それからはっきりとした明白な、ほかの多くのものを見た。環は時代の文字盤であった。そして棒はベッドの横木であった。ハドンが足のほうの横木にもたれ、手に小さな二丁の|はさみ《ヽヽヽ》を持っていた。かれの肩の上のところに見えるマントルピースの上の時計の針は十二時過ぎのところで止められていた。モーブレイは八角形のテーブルの上にある洗面器の中でなにか洗っていた。そしてわたくしのほうは、ほとんど苦痛とは言いえないような押えつけられた気持を味わった。
手術はわたくしを殺していなかったのだ。そして、わたくしが突然気がついたのは、半年つづいた気だるい憂鬱さがわたくしの心の中から消えたということであった。
(Under the Knife 1896)
[#改ページ]
近い将来の物語
一 愛の治療法
まことに非の打ちどころのないモリス氏はイギリス人であった。かれは敬愛すべきヴィクトリア女王のよき時代に生きていた。裕福な暮しをし、大変繊細な人物で、タイムズを読み、教会に通った。中年近くになると、自分と同じように落ち着いた表情をしていない人びとにおだやかであるがいかにも満足そうな軽蔑の色を顔に出すようになった。
かれという男は、常に公正で礼儀正しい常識的なことがらを、これまた常に変わらざる几帳面さで行なうそういった人びとのひとりであった。そしていつも申し分のないそれ相応の服を着ていた。しかも、それを新調のばりっとしたようでも着古したようでもなく上手に着こなしていた。寄付はまともな慈善事業だけに行ない、その金額も見栄をはるわけでもけちるわけでもない、ほどほどというところを実によくわきまえて与えていた。髪の毛も常にぴたりと手ごろな長さに刈りこむのをけっして怠らなかった。
かれはまた、かれぐらいの地位にある人間だったら持っているのが当然でふさわしいものはすべて所有し、そうでないものはいっさい持たなかった。
当然でふさわしい所有物の中には、とりわけかれの妻子があった。言うまでもなく、妻はこれまた非の打ちどころのない女で、子供たちも素直で、その数もほどほどであった。モリス氏の見たところ、家族のうちだれひとりとして、うわついた、あるいは非難がましいところはなにもなかった。かれらは実にきちんとしたよそおいをしていた。どこから見ても、いやにハイカラぶったり、肌をあらわにしたり、奇抜な恰好をしたりすることはなかった。そしてヴィクトリア王朝後期クイーン・アン・スタイルまがいのなかなかしゃれた家に住んでいた。それはチョコレート色の漆喰を塗ったハーフティンバーまがいの切妻、リンクラスター・ウォルトンまがいの彫刻をほどこしたオーク材の鏡板、石のようなテラコッタのテラス、大会堂風のステンドグラスのついたフロント・ドア。
子供たちは校風のしっかりした立派な学校へ通っていた。そして世間的にみてひとつも見っともなくない職業についた。娘たちは例によって取りとめのない抵抗をしていたけれども、結局、将来性のある、真面目な、やや老けては見えるが、まあまあお似合いの青年とみな結婚をした。そのように家の中がすべて片づいたとき、モリス氏は死んだ。その墓は大理石でできていた。芸術的なごてごてした装飾も、あるいは大げさな称賛の碑文もなにもなかったけれども、静かに堂々としている印象を与えた――かようなつくりは当時のならわしであったのだろう。
これらの場合において、かれも生前受け入れた習慣にしたがってさまざまな変化をたどっていった。かれの骨そのものまで、この物語がはじまるずっと昔に塵と化して四散してしまった。そして、かれの曽孫たち、曽々孫たちも塵と化し、灰となり、同じように四散してしまった。かれがどうしても想像できなかったのは、かれの曽々孫の骨までも風に散っていく日がやがてやってくるということであった。もしだれかがそんなことをかれにほのめかしたとしたら、かれは腹を立てたかもしれない。要するにかれという人は、人間の将来なんかこれっぽっちも関心を持っていないいわゆる名士のひとりであったのだ。実際かれは、自分が死んだあと、人間に未来なんてあるかどうかに大変疑問を抱いていた。
かれの亡きあと、なにか起きるなどと想像するのはかれにとってまったくできない相談であり、そんなこと全然興味もなかった。しかしながら、事実はそうではなかった。かれの曽々孫も死に、腐り、そして忘れさられた。ハーフティンバー・スタイルをまねた家もすべてのまがいと同じ運命の道をたどった。そしてタイムズが廃刊になった。シルクハットも馬鹿馬鹿しい前世紀の遺物になった。モリス氏の霊を祭った静かにあたりをはらうばかりに堂々として立っていた墓石もモルタル用の石灰をつくるために火にくべられてしまった。そしてモリス氏が真実で重要なものと考えたすべてのものはしなびて生気を失った。しかし、世界はいぜんとして存続していた。人びともいぜんとして、かつてモリス氏がそうであったように、未来など無視し、自分自身と自分の財産以外についてはいっさい気にもとめないで生活していた。
言うのもおかしな話であるが、そしてもしだれかがそんなことを生前モリス氏に話したら、かれもいたく怒ったであろうが、この世界にはモリス氏の血を受けついだ生命のいぶきにあふれているひじょうに多くの人びとがいるけれども、しかし、これと同じように、将来いつの日にか、この物語を読んでいる読者に凝集しつつある血を受けついだ生命が、あらゆる想像を越えて、そしてその跡をたどるのが不可能なぐらいまでにひろがってゆき、ひじょうに多くの異なった血とまざり合うかもしれないということである。
このモリス氏の子孫の中に、その先祖と同じぐらい思慮分別のある、頭のいい男がいた。かれは十九世紀のあの先祖と同じようにがっしりした背の低い男であった。その名も先祖からもらいモリスといった。しかし、かれはそれをムウレスとつづっていた。かれもあの先祖と同じようになかば人を小馬鹿にしたような表情をしていた。ときがたつにつれ同じように裕福になった。かれは「流行」をきらった。未来とか下層階級とかをわずらわしがったところなど、まことに先祖のモリス氏とそっくりであった。タイムズなんて読まなかった。実際、かれは、タイムズなんてものが昔あったなどということは全然知らなかった。そんなものはながい歳月のへだたりのどこかで沈没して姿を消してしまったのである。
しかし、音声機械があった、それが、朝、身じたくしているとき、かれにいろいろなことを伝えた。世界情勢を伝えているときは、まるでブロウィッツの化身が発する声かと思われた。この音声機械の大きさと形はオランダ日時計と同じであった。表の下のところに電気式晴雨計、そしてまた電気時計とカレンダー、約束時間自動注意装置までついていた。時計のあるあたりにラッパ状の口がついていて、ニュースが入るとラッパが七面鳥のように「ゴブル、ゴブル」と鳴り出し、それから、そう、トランペットが鳴り出すようにニュースを伝える。堂々と、ゆたかな、しわがれた声で、昨夜の世界一周便の事故、チベット高級避暑地に最近到着した知名人の消息、とりわけ昨日行なわれた独占企業の会議の模様をこまかく伝えた。その間、ムウレスは服を着替えていた。もしムウレスがそれを聞くのがいやになったら、ボタンを押すだけでよかった。すると、それはちょっとのあいだ声をつまらせ、やがてほかのことを話し出すだろう。
もちろん、かれの服装は先祖のそれとはまったく異なっていた。もし、今、たがいに服を交換して着たとしたら、どちらがよけいに驚き、苦痛を感じるか、それはわからない。ムウレスがかならずや感じるにちがいないのは、昔、モリス氏を憂鬱な自尊心でみたしたシルクハット、フロックコート、灰色のズボン、時計の鎖を身につけなければならないんだったら、むしろ素っ裸で人なかに出ていったほうがまだましだと思ったことであろう。
ムウレスはひげなどそる必要は無かった。熟練した外科医がずっと前に顔から毛根をすべて抜きとってしまったからである。空気の入っている毛でつくられた気持ちのいいピンクとコハク色のずぼんをはいていた。そして隆々たる筋肉を示そうとして、それを小さな精巧なポンプの力をかりて膨脹させた。その上に気嚢《きのう》服を着こみ、さらにコハク色の絹の長めの上着を着た。だから空気でからだをつつむことになるので、突然、酷寒酷暑におそわれても実に快適だということだ。この上にさらに緋色のマントをひっかけたが、すそは奇妙に曲がっていた。髪の毛が一本残らずみごとに取られた頭の上には明るいこれまた緋色の小さな可愛らしい帽子をかぶっていた。それはゴムの吸いつきで止められ、水素ガスでふくらまされていた。しかし、それはなんだかおかしくなるぐらい雄鶏のとさかに似ていた。これでかれのよそおいは一通りおわった。取りすまし、相応にかざり立て、これからはおだやかな眼差で友人といつでも会えることになった。
ムウレス――ミスターなんていう敬称はとっくの昔になくなっていた――はウィンド・ウェイン・アンド・ウォーターフォール・トラストの一社員であった。それは全世界のあらゆる風車と滝を独占していた。またすべての地下水を汲み上げ、最近需要のある電気エネルギーを一手に供給していた。かれはセヴンス・ウェインと呼ばれたロンドンのある地域の近くにある豪壮なホテルに住んでいた。その十七階にあるだだっ広い居心地のいいいくつかの部屋がその住まいだった。一戸建ての住宅とか家族生活とかいうものは風俗・習慣がしだいに改められて、かなり前から姿を消してしまった。実際、地代・家賃・土地の価格がたえまなく上がっていったこと、召使いがいなくなったこと、それから料理が凝ってきたことなどは、ヴィクトリア女王時代のような一戸建ての住宅を――かりにぽつんと離れて生活するというような習慣にノスタルジアを感ずる人がいたとしても――-存続させることを不可能にしていた。
さて、かれの身じたくがすむと、二つあるドアの一つのほうに歩いていった――部屋の両側に向きあってドアがあり、それぞれ大きな矢印で方向が示されていた――ボタンを押すとそれが開き、広い廊下が現われた。それは左のほうに向かって一定の速さで動き、その中央部分に椅子がずらりと並んでいた。何人かの派手な服装をした男女が腰かけていた。かれは知人に黙って挨拶をかわした――というのは、この時代には朝食前に口をきくのはエチケットに反したからである。かれも椅子に腰かけた。やがてエレベーターの前についた。それに乗って豪華な食堂に降りて行った。そこでは朝食が自動的に運ばれてきた。
ヴィクトリア女王時代の朝食とはあまりにもちがった食事であった。あの当時のぞんざいなパンの塊は、食べる前にまずナイフが入れられ、動物の脂がぬられなければならなかった。ぞっとするほど黒焦げにされ、切りきざまれていたが、それでもついさっき殺されたばかりの動物の肉片だと見わけがついた。いやがるめん鶏のはらの下から情容赦なく取り上げられた卵――こういったものがヴィクトリア女王時代のふつうの献立でもあった。けれども、それは、その後の時代の人びとには恐怖と嫌悪感を呼びおこすだけであったろう。そういったものの代りに食堂で出されたのは、気持ちのいいさまざまな形をしたペーストとかケーキとかであった。それは、肉と肉汁を奪われたあの不運な動物たちの姿をいっさい思い出させなかった。
料理はテーブルの端にある小さな箱からレールに乗ってやってくる小皿に盛りつけられてあった。テーブルの表面は、目と手で判断すると、十九世紀の人びとには、良質のダマスク織りの白い布がかぶせてあると思うだろうが、実際には酸化させられた金属であった。だから、食事がすめば、それをふいてすぐにきれいにできるわけである。食堂にはこういう小さなテーブルが数百も並んでいた。そのほとんどの席に、この時代の市民たちがグループで、あるいはひとりで坐っていた。ムウレスがその優雅な食卓の前に腰を落ち着けると、見えないところで、しばらく休んでいたオーケストラがふたたび演奏をはじめ、美しいメロディーをホールいっぱいにひびかせた。
しかし、ムウレスは、その献立や音楽にはたいして興味を示さなかった。かれの眼はたえずホールのあちこちをおくれてやってくるお客でも待っているかのように探していた。ついにかれは待ってましたとばかり大きく手をふった。するとホールを横切って、黄とオリーヴ・グリーンの服を着た背の高い陰気そうな男が姿を見せた。この男が一歩一歩まるでものをはかって歩くような足どりで近づいてくるにしたがい、ムウレスの青ざめた表情と、いつになく真剣に光る眼の色もますますはっきりしてきた。ムウレスはふたたび腰をおろし、そしてとなりの席を指さした。
「いやあ、お見えにならないのではないかと思ってました」とかれは言った。ながい歳月がたっていても、英語自体は敬愛すべきヴィクトリア女王時代のそれとほとんど変わっていなかった。蓄音器とかその種の録音機の発見、それからこういったものが本にとって代ったので、人間の視力が衰えなくなったばかりでなく、これまで避けられなかったアクセントの変化が起きなくなったのである。
「いや、どうも、ちょっとばかし面白い患者が見えておりましてね、それですっかりおくれてしまったんですよ」とグリーンと黄色の服を着た男が返事した。「有名な政治家でしてね――えへん!――仕事のやり過ぎで悩んでるみたいでしたなあ」かれはちらりと朝の献立を見て腰をおろした。「四十時間、わたくし、一睡もしてません」
「いや、いや」とムウレスは言った。「それはおどろきましたね! なにしろ、あなたがた、催眠術師はおいそがしくていらっしゃいますからな」
催眠術師はとてもうまそうなコハク色のゼリーに手をのばした。「おかげさまで、だいぶはやっております」と、かれはおだやかに言った。
「そうでしょうとも、あなた方がおられなかったら、わたくしども、いったいどうしたらいいか、わかりませんからね」
「いや! おっしゃるほど、かけがえのないもんではありませんよ」と、催眠術師はゼリーをうまそうに食べながら言った。「わたくしたち催眠術師がいなくたって何千年もの間、この世界はうまくやってきたんだからなあ。二百年前には――なんと、催眠術師なんてひとりもいなかったんですよ! ただし、職業としてです。むろん、医者はいっぱいいました――大方、ぞっとするぐらい不器用な連中でしたろうね。羊みたいに人のあとばかりくっついていて――でも、心の医者はまったくいませんでした。しかし、少数の人びとですけどね、いろいろ経験をかさね、苦しみながらさまざまな方法をあみ出していましたね」
しゃべりながら、かれはゼリーを一生懸命食べていた。
「しかし、あれですか、当時の人びとは、そんなに正気だったんですか」とムウレスは話しはじめた。
催眠術師は首をふった。「いや、当時は、万事、あまりかまわなかったんですよ、少しぐらい馬鹿でもちょんでも、生活がとても呑気だったんでしょうね。お話するほどの競争も――それからこれといったストレスもなかったんでしょうね。それに人間なんて、当然なこととして、最初から、馬鹿とか気違いとかいうふうに決められていたんでしょう。だから、ごぞんじのように、そういった連中は、いつも精神病院にほうりこまれていましたよ」
「ええ、そうですね」とムウレス氏は言った。「みんなが聞きたがっている馬鹿げた歴史小説には、かならずと言っていいほど、精神病院とか、そういった場所から救い出されるみめうるわしい娘がいましたね。あなたがそういったお話を好きかどうかは知りませんがね」
「いや、いや、これでも、結構好きなんですよ」と催眠術師は言った。「ほんとうにわれを忘れてしまいますね。十九世紀のこういった奇妙なスリルにみちた時代がかった話を聞いていると。そのころは、実際、男はたくましくて、女はやさしかったんでしょうね。わたくしも、肩で風を切るような、勇ましいのが好きなんです。おかしな時代でしたね、黒くなったレール、ぽっぽっぽっぽっと煙をはく古ぼけた汽車、不恰好な小さな家、馬車。ところで、あなた、本なんてお読みにならないんでしょう?」
「ええ、もちろん、読みませんよ」とムウレスは答えた。「わたくしは、現代風の学校に行ってましたからな、あんな馬鹿げたものとは縁がなかったんですよ。音声機械があればじゅうぶんでした」
「むろん、そうでしょうとも」と催眠術師は言って、つぎになにを食べようかとテーブルの上を見まわした。「ごぞんじのとおり」と、かれはダークブルーの色をしたうまそうなキャンディーに手をのばしながらしゃべりはじめた。「当時、わたくしどもの職業なんて、考えられもしなかったでしょうね。わたくしは断言しますが、かりにだれかがみんなにこう言ったとしますよ、つまり、二百年以内に、ひとかたまりの人間が、催眠の方法で、人にあることを記憶させたり、それから不愉快な考えを心から消したり、本能的な、しかし好ましくない衝動をコントロールしたり克服したりする、そういった仕事にかかわりあうだろうとね。すると、そんなこと可能だなんて思う人は、おそらく、これっぽっちもいなかったでしょうよ。今でも多くの人は知りませんね、催眠状態のときに与えられた命令――それが忘れろという命令にしろ、求めろという命令にしろ――催眠状態が解けたあとでも、被術者は命令どおり行動するということをですよ。でも当時、そういうことが、ちょうど金星が太陽面を通過するのと同じように絶対に起きるということをみんなに説明してやれるような者がいなかったわけじゃないんです」
「では、その人たちは、催眠術を知っていたんですか?」
「ええ、知っていましたとも! それを使ってもいたんですよ――無痛の歯科医術なんかに!――この青いキャンディー、ずいぶんおいしいですね、なんですか、これは?」
「いや、なんだかわかりませんね」とムウレスは答えた。「でも、わたくしも、とてもおいしいと思いますね、よろしかったら、もっとどうぞ」
催眠術師は繰り返しほめた。それを味わう間ちょっとばかり話が切れた。
「歴史小説のことで」と、ムウレスはくつろいだ、無造作な態度をよそおって言った。「あることを思い出したんです。それは、わたくしがー、あーあなたにおたずねしたときー、お会いしたいと申し上げたとき、心の中にあったことなんですが」そこで話を切って、かれは深く息を吸いこんだ。
「実は」とムウレスは言った。「わたくしにはー、えー、実は、そのー、ひとり、娘がおるんです。ごぞんじのように、娘にはー、えー、それはできるだけの教育をして上げました。いくつかの講義――ひとりの有能な、それも離れている講師ではなく、直通電話までひかせてやって……ダンス、礼儀作法、会話、哲学、美術批評といったふうに、なにからなにまでですよ……」かれは手をいっぱいにひろげて、あらゆる教養を、という恰好をしてみせた。「それで、わたくしは、娘をですね、わたくしの大の親友と結婚させようとしたんです――その男は、ザ・ライティング・コミッションというところにつとめているビンドンという男ですがね――地味な、小柄な男ですよ、でも、ちょっと不愉快なくせのある奴です。ところがなかなかどうしてどうして、優秀な男なんですよ――ほんとうに、うむ」
「ほうー、そうですか」と催眠術師は言った。「で、さきをどうぞつづけてください、ところで、お嬢さん、おいくつですか?」
「十八ですよ」
「いやあ、危険な年ごろですな、それで」
「ええ、それで、どうも娘は近ごろ、この歴史小説にこっちゃいましてね――それもひどいもんですよ、ほんとうに。そのあげく、哲学の勉強なんてそっちのけで、お話にならんような、馬鹿げた兵士の話なんかで頭をいっぱいにして――えー、なんでしたっけね? だれかを相手にして戦う――そう、エトラスカ人でしたかな?」
「エジプト人でしょう」
「エジプト人――ええ、十中八九、そうでしょう。剣でめった斬りにして、ピストルやなんかをぶっ放し――阿鼻叫喚の大惨事ですな――なんともまあ恐ろしい! それから水雷艇にさっそうと乗っている若者たちのことなんかですよ、だれでしたっけ、吹っ飛ばすのは――そう、スペイン人だったと思います――まあ、そういうふうに、ありとあらゆる種類の、突飛もない冒険談を読みふけってるんですよ。その結果ですよ、うちの娘は思いこんじゃったんですね――結婚は、愛のためにしなくちゃならんとね。なんともかわいそうな奴ですよ、あのビンドンは――」
「いや、わたくしも同じケースを取り扱ったことがあります」と催眠術師は言った。「で、お嬢さんの、ほかの相手はだれなんですか?」
ムウレスはもうあきらめたというような静けさを表情に出していた。「よく言ってくれましたね」と、かれは答えた。「そいつは」と、恥ずかしさで声が沈んだ――「パリからの飛行機械が着陸する場所につとめている、しがない係員なんですよ。ところが、そいつがまた、歴史小説に登場してくる主人公そっくりの表情をしておるんです。とても若くてすこぶる変わっとる。古代文化を愛し、なんと読み書きまでできる! 娘もできますけど。だから、分別ある人びとのように、電話なんかで話をしない、ふたりとも書いて渡しているんですよ――なんでしたっけ、あれ?」
「手紙でしょう?」
「いや、いや、――手紙じゃありません……ええと――あっ、そうです、詩です、詩ですよ」
催眠術師はおどろいてまゆを上げた。
「また、そりゃどんなきっかけで、そんな男とお嬢さんは知り合ったんですか?」
「それが、それがですよ、パリ発の飛行機械からおりるとき、よろけて――そしてその男の腕に抱きかかえられたというんですな。いやあ、なんとも災いは、あっという間におきちゃったんです!」
「ほう?」
「まあ、事情はともかくそうなんです。しかし、あの話は、絶対にやめさせなくちゃいかん。わたくしがあなたにご相談するのは、そのことなんです。いったいどうしたらいいでしょうか? なにかいい方法はないもんでしょうか? むろん、わたくしは催眠術師ではありません。知識もせまい、しかし、あなたは?――」
すると、グリーンの服を着た男は、両腕をテーブルの上におきながらこう言った。「でもね、催眠術は魔法じゃありませんよ」
「ええ、それはごもっともです! しかし、そこをなんとか――!」
「しかし、本人の同意がなければ催眠術はかけられませんよ。お嬢さんが、ビンドン氏との結婚にあくまで反対なさるんでしたら、おそらく催眠術をかけられることにも反対なされるでしょうね。でも、いったん、お嬢さんを催眠状態におけるんでしたら――なにもわたくしでなくても――それは片がつくはずですがね」
「あなたはできるんでしょう――?」
「ええ、できますよ! いったん、お嬢さんをおとなしくさせられればね、暗示はかけられますよ――ビンドン氏と結婚しなければならない――そうするのがお嬢さんの運命だとね、あるいは、あの若者にね、嫌悪感をもたせることも、それから男の姿を見ると、めまいがして、気が遠くなるような暗示もかけられます。あるいはまた、お嬢さんを完全に催眠状態におちいらせることができたら、あの男のことなんて、完全に忘れさせることができますよ」
「いや、いや、ごもっともで」
「ですからね、問題はお嬢さんを催眠状態にさせることなんですよ。もちろん、どんな種類の提案や思いつきでも、あなたの口から言っちゃ絶対だめですよ――というのは、疑いなく、お嬢さんは、このことについて、あなたを信用なさっておりませんからね」
催眠術師は頬杖をつきながらじっと考えこんでいた。
「まったく、実に辛いもんです。親が自分の娘を思うようにできないなんて」と、ムウレスは見当ちがいなことを言った。
「ところで、お嬢さんのお名前と住所を教えてください」催眠術師は言った。「それからその件についてのあらゆる情報もです。そして、ついでですが、それにはなにか金銭上のことがからんではいませんか?」
ムウレスはとたんに口をもぐもぐさせた。
「ええ、いくらか――ほんとうのことを申し上げると、かなりの金額が――ラテント・ロード・カンパニーに投資されています。娘の母親からですがね。それがこの問題をひどくこじらせているんです」
「よくわかりました」と催眠術師は言った。そしてかれは、その問題全体についてムウレスにことこまかに質問をつづけた。
ながい面談であった。
そのころ、「エリザベス・ムウレス」――これは本人のつづりによるものだが――あるいはエリザベス・モリスは――十九世紀の人間だったらこうつづるだろうが――パリからの飛行機械が着陸する大きな発着台の下にある静かな待合室に腰をおろしていた。そのそばに、背のすらっとしたハンサムな恋人が座って、その日の朝、仕事の合間に書いた自作の詩を彼女に読んできかせていた。読みおわると、ふたりとも黙っていた。そのとき、いかにもふたりを特別に楽しませるかのように、その朝、アメリカから飛んできた大きな飛行機械が空からものすごい音を立てておりてきた。
それは最初、はるか遠い空に浮かぶ羊の毛のような雲の中に映った、ぽつんと青い長方形の小さな点であったが、見る間にそれは大きく白くなり、さらに大きく白くなってきた。ついに幾層にも別々に並んだ長さ数百フィートの翼、つづいてそれを支えているひょろながい機体、最後に点々とならんだ乗客の席のゆれ動くところまで見えた。それは、実際には降りているのだが、ふたりの眼には空にかけ昇ってゆくように見えた。眼下に見える街のならぶ屋根の上に影をおとしながらふたりを目がけて飛んできた。まわりの空気を切りさくかのような音、発着台の人びとに警告する大波のような金切り声を上げるサイレンの音が聞こえた。突然、そのひびきが数オクターヴ低くなって、飛行機械がごうと目の前を過ぎていった。空はまたもや澄んで広びろとひろがった。彼女はそばにいるデントンをやさしい眼差でふたたび見上げた。
ふたりの沈黙はおわった。デントンはややブロークンな英語で話しはじめた。それはかれらふたりだけの空想じみた話だった。しかしながら、恋人たちというものはいつの世でも、そもそもこの世の始まりから、そうしたふたりだけの話を子供っぽく語り合うものなのだ。その例にもれず、デントンも、どうしたら今のふたりを阻んでいるすべての障害と困難を乗り越え、ある日の朝、空中に飛び上がり、地球を半周して、日本の、あの太陽の光にあふれた悦楽の都にいけるだろうかと、そんなことをエリザベスにささやいていた。
彼女はそういう夢みたいな話を好んだ。だが、同時に、現実からの、そういう飛躍を恐れた。だから彼女は常にかれのせっかちな訴えには、「いつか、そのうちにね、きっと、そのうちよ」と言って引きのばしていた。そんなことをしているうちにかん高い呼子《よぶこ》の音がした。発着台の仕事に戻らなければならない時刻がきたのである。それでふたりは別れた――何千年もの間、恋人たちが繰り返してきた切ない別れを。
彼女は廊下に出てエレベーターの前にきた。そして、ロンドンの街路のひとつに出た。それは上のほうをすべてガラスでおおわれて雨と露から守られていた。しかも、ロンドンのあらゆる地域に通ずる動く歩道であるプラットフォームがあった。これらのプラットフォームに乗って、彼女は今住んでいる婦人専用ホテルの自室に戻った。そのホテルの部屋はすべて電話で世界中の講師たちと話ができるようになっていた。しかし、太陽の光に輝く発着台で働くかれの姿が彼女の心の中にあった。だから、世界中で最良の講師たちの語る知識などあの光景にくらべれば愚かなたわ言にすぎないように思われた。
彼女は、その日の昼間、体育のジムですごした。そして昼食をほかのふたりの女性と、共通の付添い婦人といっしょにとった――というのは、比較的裕福な階級で母親のいない場合には、付添い婦人がいっしょにいるのが習慣だったからである。その日、付添い婦人にひとりの来客があった。グリーンと黄の服を着こみ、顔色は白く、眼はきらきらして、驚いたように話をする人であった。とりわけ、かれはひとつの新しい歴史小説を誉め上げた。その歴史小説は、そのころ、大変有名な作家たちのひとりによって書きあげられたばかりの作品であった。もちろんそれは、なにごともあけっぴろげなヴィクトリア女王時代のものであった。その作家は、とくに人を娯しませる小説の中で、その物語の各章の冒頭に、旧式の書物の冒頭の言葉を真似して、ちょっとした筋の要旨をかかげていた。たとえば「ピムリコの馭者たちがヴィクトリア風の乗合馬車をとめたいきさつ、および宮殿の広場でのすばらしい決闘のこと」それから「ピカデリーの警官が巡回中に殺害されたしだい」
グリーンと黄の服を着た男はこの新しい試みを誉め上げた。「力のこもったこれらの文章は実にたいしたもんです。ちょっ、ちょっと読んだだけでも、これらの無鉄砲な騒々しい時代をうかがわせますね。男たちや動物の群れが汚い通りにひしめき合い、どこの町角にでも死が待ちかまえているという、そういう時代をですよ。いやあ、実に生き生きとしています! 世界はなんとすばらしく思えたことでしょうかね! まだ世界には人跡未踏の地があったんですよ。今じゃ驚異なんてほとんどなくなってしまいました。わたくしどもは、あまりにも小ぎれいな、小じんまりした生活をしているんで、勇気だとか忍耐だとか信念だとか、そういった高貴な美徳が人間からだんだん消え失せていくように思われますね」
といった調子で話をつづけ、娘たちの関心をしだいに自分のほうに引き入れていった。その結果、彼女たちの送っている日々の生活、二十二世紀の広大で複雑なロンドンでの生活、飛行機械で地球上のどこにでも行ける生活が、波乱にとんだ過去の世界にくらべるとなんとも単調でみじめなものに思われてきたのだ。
最初、エリザベスはその会話に加わらなかった。しかし、そのうち話がとても面白くなってきたので、彼女も多少遠慮しがちに二、三の言葉をはさんだ。しかし、その男はいくらしゃべっても、エリザベスのことなど眼中にないというような様子であった。かれは人を娯しませる新しい方法について語った――まず人を催眠状態におとしいれさせる、それから暗示が大変じょうずにかけられる、人は古代世界で生活しているような気持ちになる、そして、過去のささやかなロマンスを現実であるかのように心の中で一生懸命演ずる、最後に目覚めたとき、自分の見たすべてが実際あったかのように記憶しているんですよ、と説明した。
「これこそ、わたくしどもが長年にわたって追い求めてきたものなんです」とその男は言った。
「事実上、人間の手でこしらえられた夢なんです。とうとうわたくしどもはその方法を探りあてたのです。考えてごらんなさい、それがわたくしどもに与えてくれるすべてを――それはわたくしどもの経験をゆたかにし、冒険をよみがえらせ、それからわたくしどもの住んでいるこのむさ苦しい競り合いの生活から逃げ場所を与えてくれるんですぞ! どうです!」
「あなたにはそれができるんですね!」と付添い婦人がすごい勢いで言った。
「ええ、それがとうとうできたんです」と催眠術師が答えた、「お好きな夢をあつらえて差し上げますよ」
その付添い婦人は催眠術をかけられる最初の人となった。目覚めたとき、彼女は言った、すばらしい夢だったと。
ほかのふたりの娘も、付添い婦人の熱心な勧めに勇気づけられて、催眠術師にまかせた、そしてロマンティックな過去の世界にとびこんだ。しかし、この新奇な娯楽をエリザベスもぜひためすべきだとはだれも言わなかった。結局、それは、彼女自身の求めに応じて行なわれることになった。彼女は夢の国に連れてゆかれた――そこはいかなる選択の自由も意志の自由もないところなのだ……
このようにして危害がエリザベスに加えられたのである。
ある日、デントンが発着台の下にある静かな待合室に行ってみると、いつもきているはずのエリザベスの姿が見えなかった。かれはがっかりすると同時にいささかむっとした。つぎの日も見えなかった。そしてつぎの日も。かれは不安になった。自分自身にこの心配をかくすために、かれは、彼女がふたたび姿を現わしたときに渡す十四行詩をつくりはじめた……
三日間、かれはこういう詩作に気をまぎらせながら、その不安と戦っていた。それからついにエリザベスがこないということがかれの前に明らかに否定しようもなく示された。病気なのかもしれない、死んだのかもしれない。しかし、まさか裏切られたとは信じなかったであろう。まったくみじめな一週間がつづいた。そのときかれが知ったことは、彼女こそ、この地上で最も大切な存在であったということであった。だから、どうしても彼女を探さなければならない、それがいかに絶望的な探索であっても、彼女の姿がもう一度見つけ出されるまではと決意した。
かれは多少の財産があった。それでかれは発着台のかれの仕事を放り出した。そして、かれにとってはすべてであるエリザベスを探し出すことになった。かれは彼女の住んでいるところは知らなかった。彼女の境遇についてもまったくなにひとつ知らなかった。なぜならば、エリザベスは、自分のことについて、ふたりの社会的な地位の相違についてデントンがなにも知らないということに、いかにも娘らしいロマンスの喜びを一部感じていたからである。
ロンドンの道はかれの眼の前を東へ、西へ、南へ、北へと走っていた。ヴィクトリア女王時代においてさえ、ロンドンは迷路のかたまりみたいなものであった。あの小さなロンドンは貧しい四百万人の人びとをかかえていた。しかし、かれの探し歩いたロンドン、二十二世紀のロンドンは、人口三千万人のロンドンであった。最初、かれは精力的にがむしゃらに歩いた。寝食を忘れて探しまわった。何週間も何ヶ月間も探した。疲労と絶望、過度の興奮と立腹について想像しうるあらゆることがらを経験した。希望がないと知ったあとも、しばらくのあいだ、ただ願望だけであちこち歩きまわった。人の顔をのぞきこみ、こっちの方向、あっちの方向を見、とめどもなく人ががやがやと集まるロンドンのあのたえず動いている歩道のプラットホームやエレベーターや人通りの中をうろうろうろうろしていた。
ついにチャンスがめぐってきた。彼女の姿を発見したのだ。
それはちょうど祭日であった。おなかが空いていた。かれは食事代を払って、市の巨大な食堂のひとつに入っていった。テーブルの間を通りながら、もうただ習慣で通りかかる人の顔をひとりひとりのぞき見た。
はっ、とかれは立ちすくんだ。眼は大きく見開き、唇はぽかんと半開きになったままであった。なんと、エリザベスが二十ヤードも離れていないところで、かれのことを真っすぐに見ているではないか。しかし、彼女の眼差はかれに対して彫像の眼のように冷たかった。かたくて無表情で無関心であった。
彼女はちょっとかれを見つめたが、視線はかれのうしろのほうに流れていった。
だから、もしかれが彼女の眼だけで判断しなければならないとしたら、その人が実際にエリザベスであったかどうか疑ったかもしれない。しかしかれは、彼女のことを、手のふり方で、頭をふるとき耳もとにふわりとかぶさる可愛い巻毛のやさしさで知っていた。なにか言われたのだろうか。エリザベスはそばにいる男ににっこりとやさしく振り向いた。男は、尖んがった飾りのある――奇妙な気嚢式の角のある太古の爬虫類そっくりの――馬鹿げた服を着ていた。
一瞬、デントンは立ちつくした。顔は蒼白で眼はぎらぎらしていた。それから気がすっと遠くなってゆき、小さなテーブルにへなへなと坐りこんだ。かれは彼女に背を向けて坐った。しばらの間、彼女のほうを見ようともしなかった。ついにかれが見たとき、エリザベスとビンドンとほかのふたりがちょうど席を立つところであった。ほかのふたりとは彼女の父親と付添い婦人であった。
デントンは、四人の姿が遠く離れ小さくなるまで、動けないかのようにじっと坐っていた。それからかれは立ち上がった。あとを追おうという一念が燃え上がったのである。しばらくの間、かれら四人の姿を見失ったのではないかと心配した。しばらくして、エリザベスとその付添い婦人に追いついた。そこはロンドンを交錯して走る動く歩道のある街路のひとつであった。かれはがまんができなかった。すぐさま話しかけなければならない、さもなければ死ぬかどっちかだという切っぱつまった感じであった。それでかれはふたりの前に入りこみ、そのそばに坐った。デントンの白い顔はなかばもうヒステリックな興奮でひきつれていた。
かれは手を彼女の手首の上においた。「エリザベス?」と言った。
彼女はびっくりしたように顔を横にそむけた。その表情には、見知らぬ男からいきなり話しかけられた恐怖しか浮かんでいなかった。
「ねえ、エリザベス」と叫んだ。自分の声がかれにも奇妙に聞こえた。「いとしい人、エリザベス――ぼ、ぼくだよ、ぼくだってば?」
だが、エリザベスの顔にあらわれたのは驚きと当惑以外のなにものでもなかった。エリザベスはからだをさけていた。付添い婦人が前かがみになって間に入ってきた。彼女は小柄な、しらがまじりの婦人で、表情ゆたかな顔つきをしていた。きびしく光る眼でデントンをじろじろ見た。
「なんとおっしゃったんですか?」と彼女は言った。
「この人」とデントンが答えた。「ぼくのよく知っている人なんだ」
「お嬢さん、この方、ごぞんじなんでしょうか?」
「いいえ」とよそよそしい声でエリザベスは答えた。そしてひたいに手をあてて、まるでレッスンを繰り返す人のように言った。「いいえ、知りませんわ、この人のこと、たしかに、どなただか、わたし知りませんわ」
「えっ、なんだって、エリザベス……ぼくのことを知らないだって! ぼくだ――デントンだってば! いつもきみと話していた、忘れちゃったのか、あの発着台のことを、あの下の小さな座席のことをさ、ぼくの詩も――」
「いいえ」とエリザベスが叫んだ――「いいえ、ぞんじてませんわ、わたし、知らないわ、なにか思いちがいなさってるんじゃありませんか……ほんとに知らないわ。わたしの知っていることと言ったら、この人、知らないってことだけよ」彼女の顔はまったく困りはてたという表情をしていた。
付添い婦人の鋭い眼は、娘から男、男から娘へと忙しく動いた。「あなた、わかったでしょう」と、彼女はうすら笑いを浮かべながら言った。「あなたのことはぞんじ上げていないんですって」
「わたし、あなたのことぞんじてませんわ」とエリザベスが言った。「たしかですわ」
「しかし、きみ――あの歌――ぼくのあの小さな詩――」
「しつこい男ね、あなたのこと、知っていないって言っているじゃないの」と付添い婦人が声を強めて言った。「いけませんね……人ちがいなんですよ。もういい加減に話しかけないでください。人前で迷惑をかけないでくださいな」
「しかし――」とデントンが言った。一瞬、憐れにもやつれはてたその顔は、あたかも運命に哀しく訴えかけているかのようであった。
「しつこくなさってはいけませんよ、お若い方」と付添い婦人は文句を言った。
「エリザベス!」
かれの顔は苦しみもだえた人の表情であった。「知りませんわ」とエリザベスはまゆのところに手をやりながら叫んだ。「知らないのよ、この人のことなんか!」
一瞬、デントンはあっけにとられ、へなへなと坐りこんだ。それから立ち上がって、大きくうめいた。
かれは遠くの街路のガラス屋根に向かってなにか訴えるような奇妙な真似をした。それから身をひるがえし、むちゃくちゃに前のほうに進み、ほかの動く歩道に乗りかえた。そしてぞろぞろ歩く人ごみの中に姿を消した。付添い婦人の眼はかれのうしろ姿を追った。それから好奇心にそそられて見ていたまわりの人びとの顔を見た。
「あのう」とエリザベスが言った。付添い婦人の手をにぎり、あまりにもふかく心を動かされたので、まわりの人びどのことなど忘れていた。「あの男の方、いったいだれなのでしょうか、ほんとうにだれなのでしょうか?」
付添い婦人はまゆをしかめた。彼女ははっきり大きな声で言った。「どこかの間抜けですよ、まったく、あんな人、見たことありませんわ」
「全然?」
「まったくですよ。こんなこと、いつまでも心配しないでくださいね」
このことがあってから間もなく、黄と緑の服を着たあの有名な催眠術師のところにひとりの患者がやってきた。その若者は治療室の中を青白い顔して取り乱しながらうろうろ歩いていた。
「ぼくは忘れたい」と叫んだ。「忘れなければならないんだ!」
催眠術師は静かな眼でかれを見つめていた。そして若者の顔と服装と態度とをじっと観察していた。
「忘れることなんて、あなた、楽しいことであれ苦しいことであれ――わりあい簡単ですよ。でも、わかっているんでしょうね、あなた自身のこと、高いですよ、料金は」
「いやっ、忘れることさえできればいいんだ――」
「あなたの場合、とても簡単ですよ。望みどおりにして上げます。もっともっとむずかしいのを手がけたことがありますからね。つい最近ですよ、うまくゆくとは思わなかったんですがね、それも被術者の意志に反してやったんです。恋愛沙汰でしたなあ、やっぱりあなたのように。娘さんでしたよ、だから、安心しなさい」
すると若者は催眠術師のそばにやってきてわきに腰をおろした。その物腰はしいて冷静をよそおっているようであった。じっと催眠術師の眼をのぞきこんだ。「お話して上げましょうか。もちろん、それがどういうものだったのか知りたいでしょうからね。ひとりの娘さんがいました。名前は、たしか、エリザベス・ムウレスと言いましてね、ええ……」
催眠術師ははっと口をつぐんだ。若者は催眠術師の顔に瞬間的な驚きの表情を見てとった。その瞬間、かれはすべてを悟った。つっと立ち上がり、そばに座っていた男に威圧するようにおおいかぶさり、緑と黄の肩をぎゅっとつかんだ。しばらくの間、怒りでからだががたがたふるえて声も出なかった。
ついに言った。「この野郎、あの人を返せ! 返せってんだ!」
「きみ、なんのことかね?」と、催眠術師はあえぎながら言った。
「あの人を返すんだ!」
「えっ、だれを返せって?」
「エリザベス・ムウレスだ――おまえの言ったその娘だ――」
催眠術師は手をふりほどこうとして立ち上がった。しかし、デントンの手はかたくつかんではなさなかった。
「おい、はなしてくれ!」と、催眠術師はデントンの胸にぐんと腕を突き出しながら叫んだ。
一瞬、ふたりの男はぶざまな取っ組みあいになった。両方とも全然からだをきたえていなかった――なぜならば、スポーツはすでに見物とか賭のチャンスを与える以外、この地上から姿を消してしまったからだ――しかし、デントンは若かっただけでなく、催眠術師よりも力があった。かれらは部屋中大立ちまわりを演じたが、とうとう催眠術師はデントンのからだの下になってどっと倒れた……
デントンははね起き、かれ自身の狂暴さに狼狽した。しかし、催眠術師はぐったりしたまま横になっていた。腰掛けにぶつけたひたいの小さな白っぽい跡から真っ赤な血がひと筋流れ出した。しばらくの間、どうしたらいいのかわからないまま、デントンはその様子を見おろし、からだをふるわせていた。これはいったいどうなるのか、そういう怖れが上品に育てられたかれの心の中にわいてきた。ドアのほうに歩いた。「いやっ、いけないんだ」と大きな声で言った。そして部屋の真ん中に戻ってきた。一度も腕力沙汰におよばなかった人にありがちな本能的な自己嫌悪感を抑えながら、相手のそばにかがんで心臓の音をたしかめ、傷口を見た。急に立ち上がってまわりを眺めた。状況をよく見はじめたのである。
やがて催眠術師が意識を取り戻したとき、頭ががんがん痛み、背中をデントンにささえられ、顔までふかれていた。
催眠術師は口をきかなかった。やがてかれは顔をふかなくてもよいと手ぶりで示した。
「起こしてくれ」と言った。
「まだ、駄目だ」とデントンが言った。
「よくもなぐったな、この悪党め!」
「今、ここにいるのはふたりだけだ」とデントンが言った。「それにドアもしまっている」
考える間があった。
「顔をふかなきゃいけない」とデントンが言った。「でないと、ひたいに大きな傷のあとが残るぞ」
「じゃ、ふいてくれ」と催眠術師がむっとした顔して言った。
しばらく沈黙がつづいた。
「ふたりとも、石器時代に生きてるんだ」と催眠術師が言った。「暴力! そして乱闘だ」
「ふん、なに言ってんだ、石器時代に男と女のおせっかいをやく奴なんて、だれがいるもんか」
催眠術師はふたたび考える余裕をもつようになった。
「じゃ、きみ、どうしろと言うんだ」と催眠術師は言った。
「ぼくはね、あんたが気絶している間に、便箋の上にエリザベスの住所が書いてあるのを見つけた。前は全然知らなかったけど、それで電話したんだ。だから、彼女はおっつけここにやってくるだろう。そのとき――きっと彼女の付添い婦人もいっしょにくるだろう」
「それは結構だね、しかし、それがどうしたと言うんだ――? いったい、きみはどうするつもりなんだい」
「ぼくは武器をさがしておいた。しかし、驚いたもんだ、今じゃ、武器なんてどこにも見当たらない、石器時代には武器以外これといった持物はなにもなかったのに。それでぼくは、このランプに目をつけた、コードや付属品を引きちぎって、こうして今持っているんだ」とかれは催眠術師の肩ごしにぐっと突き出した。
「これで、あんたの頭なんて、簡単にぶち割れるんだ。ひとつやって見るか――言うことをきかなければ」
「いや、きみ、暴力は薬にあらずだ」と、催眠術師は『現代人道徳金言集』から引用してデントンをたしなめた。
するとデントンもそれから引用して「ふん、なにを言ってんだ、暴力は欲せざる病なりだ」とそれにむくいた。
「じゃ、きみ、いったいどうするんだ?」
「さあ、いいかね、あんたは、あの付添い婦人にこう言う、これからこの娘にあのイタチみたいな眼つきをした赤毛のこぶだらけのちび助野郎と結婚するよう命令するつもりだと。どうだ、そんなところだろう?」
「うん――そのとおりだ」
「そういうふうにみせかけて、あんたは、彼女にぼくの記憶を取り戻させる」
「いや、きみ、それは、その、職業の道にはずれるじゃないか」
「おい! なにを言うんだ、ぼくは、エリザベスといっしょにいられないんだったら、死んだほうがましなんだ。あんたのことなんか、かまっちゃいられない。いいか、うまくやらなかったら、あんたは五分と生きちゃいられないんだぞ。このランプは間にあわせの武器だ、だから、息のたえるまで相当苦しむだろう。でも、ぼくは殺す。今どき、こんなことするなんて、よくよくのことだ――それに、暴力をふるうだけの値うちのあるものなんて、この人生、そうざらにあるもんじゃないからな」
「付添い婦人がやってきたら、きみのこと、すぐばれるぞ――」
「いや、ぼくは隅にかくれている、あんたのすぐうしろだ」
催眠術師は考えこみながら言った。「きみは、なかなか、意志の強い男だ。でも、よくしつけられていないようだ。わたくしは依頼人への義務を果たそうとしたが、しかし、このことで、きみはあくまで我を通したいようだから……」
「じゃ、ぼくの言うとおりにしてくれるんだな」
「そうだ、こんなくだらんことで、頭をめちゃくちゃにされるなんて真っぴらごめんだ」
「じゃ、あと、どうする?」
「うむ、まあ、スキャンダルほど、催眠術師や医者のきらうものはない。それにわたくしは、少なくとも、野蛮人じゃないからな、腹も立つが……しかし、一日か二日すれば、恨みも消えるだろう……」
「ありがとう、そうと話がわかりゃ、いつまでも、あんたを床の上に坐らせておくことはない」
[#改ページ]
二  人の住まない田園
よく言われているように、この世界は一八〇〇年から一九〇〇年までの百年間にそれ以前の五百年間に起きたよりもいっそう大きな変化をとげた。あの世紀、つまり十九世紀は人類史上における新紀元の夜明けだったのだ――大都市の時代、田園生活という古い秩序の終末だったのである。
十九世紀のはじめのころ、人類の大部分はいぜんとして田園に住んでいた。そこでのかれらの生活様式はまったく数えられないぐらいの世代の間ずっとつづいてきたのである。当時、世界のどこへ行っても、人びとは小さな町や村に住んでいた。そして、直接に農業の仕事に、あるいは間接的に農業の補助になるような仕事にしたがっていた。人びとはめったに旅なんかしなかった。かれらは死ぬまで仕事にぴったりしたがっていた。というのは、スピードの速い交通手段がまだ実現していなかったからである。旅をした少数の人も、徒歩か、のんびりした帆船か、あるいは一日六十マイルぐらいしか走れないのろのろとした馬車でしか行けなかった。あちこちに――これらのろのろした時代に――ひとつの町が、港として、あるいは政府の中心として近隣の町よりも少しずつ大きくなっていった。しかし、世界中で十万以上の人口をもつ都市は指で数えられるぐらいしかなかった。要するに、そんな状態だったのである。ところが、十九世紀末までに、鉄道、電信、蒸汽船、それから複雑な農業用機械が発明されて、これらの状態がまったく変えられてしまった。以前の状態にまた戻ろうなんていう希望など全然不可能なまでに変えられてしまった。大都市の巨大な工場、娯楽機関、無数の便利な設備が突然可能になった。そしてそれが出現するやいなや田舎の中心でもあった町にあるドメスティックなものと争うようになった。人間は圧倒的な魅力によって都市にみなひきつけられた。機械の増大とともに労働に対する需要が落ちた。地方市場は完全に都市に奪われてしまった。より大きな都市の急速な発展が見られたが、すべてそれは田園を犠牲にして行なわれた。
人口の都市への流入ということは、ヴィクトリア女王時代の作家の頭の中にこびりついて離れなかったテーマである。大英帝国やニューイングランドにおいて、インドや中国において、まったく同様のことが目撃された。あらゆるところで。少数の膨脹した都市がはっきりと見てとれるぐらいに古代から伝わった秩序にとってかわりつつあった。しかしながら、これらの事態が改善された旅行や輸送の手段の必然的な結果であったということ――それから、スピードの早い輸送手段が与えられたならばものごとはこうならざるを得ないということに気づいた人はごくまれであった。それでほとんど子供だましに近いかずかずの試みが、都市の神秘的な磁力を断ち切るために、また、人びとを土地にしばりつけておくために考えられた。
しかし、十九世紀の数多くの発展は、新しい秩序の夜明けにすぎなかった。新時代の最初の大都市はおそろしいぐらいに不便で、スモッグで空が暗くおおわれ、不衛生で騒々しかった。だが、新しい建築方法の発見、新しい暖房のやり方はすべてこれを変えた。一九〇〇年と二〇〇〇年の間にかけて、変化の足どりはいっそうテンポを上げた。そして二〇〇〇年と二一〇〇年にかけて、たえず加速された発明の進歩は敬愛すべきヴィクトリア女王時代の治世をついにまったく信じられないような静かな牧歌的な時代の幻影のように思わせてしまった。
鉄道の登場は、最終的に人間の生活を変革したこれらの交通手段の発展における一歩にすぎなかった。二〇〇〇年ごろまでに、鉄道と道路は完全に消えてしまった。鉄道はレールを外され、雑草の生い茂ったうねとみぞになって、見る影もない姿を地上にさらした。旧式の道路、つまり石と泥でできた奇妙な野蛮な小路は、手でぺたぺた叩かれ、お粗末な鉄のローラーで固められ、いろいろな汚物をまき散らされ、鉄の馬蹄や車輪で跡や水たまりをしばしば数インチの深さにまでつけられたが、それもまたイードハマイトと呼ばれた物質でつくられた新案の道路にとって代わられてしまった。このイードハマイトは――その名前は特許権所有者にちなんでつけられたが――印刷や蒸気機関の発明とともに人類史上における画期的な発見のひとつとして肩をならべている。
イーダムがこの物質を発見したとき、かれは自分でも単にインドゴムの安い代用品を発見したにすぎないと思っていた。トン当たり数シリングであった。しかしながら、ひとつの発見のもたらすすべての結果を軽々しく語るわけにはいかない。その使用目的を指示したのはウォーミングという男の才能であった。それはタイヤとしてではなく、道路の舗装用資材として使われた。そしてかれは、急速に世界をおおったあの広大なハイウェイの道路網を組織したのである。
この道路はきちんと通行区分がわけられていた。いちばん外の両側は自転車と時速二十五マイル以下の車、そのつぎの部分は百マイルまでのスピードを出せる自動車、そして中央部分は時速百マイル、あるいはそれ以上のスピードで走る自動車のためにつくられた。もちろんそれは、ウォーミングの配慮によったが、当時、この計画が世人によって嘲笑を浴びせかけられたのは言うまでもない。
十年間というものは、内側の路面はがらがらであった。しかし、かれが死ぬまでにはものすごく混雑した。直径二十フィートから三十フィートの車輪のあるひじょうに大型の、それでいて軽量の自動車が、その道路を年々歳々、着実に時速二百マイルに向かってスピードを上げながら走っていた。この革命が完成されたころ、それと平行的な革命が常に成長してゆく都市を変えてしまった。応用科学の発達以前に、ヴィクトリア女王時代をおおった霧と汚物は消えた。電気暖房が炉に代わり(二〇一三年に、少しでも煙を出す火による照明は起訴の対象物として扱われた)、そして、すべての都市の道路、公共広場は最近発明されたガラスのような素材を用いた屋根でおおわれた。だからロンドンの屋根は実際にはひとつづきになっていた。高層ビルを禁止したいささか近視眼的な馬鹿げた法律は廃止された。それでロンドンは――デザインにおいて古代的な面影の残る――ちゃちな家の平べったい広がりから、着実に空に向かって高く伸びてゆく都市となった。水道、照明、下水という市営事業にほかのものがつけ加えられた。それは通風換気であった。
しかし、この二百年がもたらした人間の生活の便宜さに起きた変化をすべて語るとなると、デントンと恋人エリザベスの物語から大いに脱線してしまうことになるであろう。わたくしどもはこれからもまだまだ、予見されていた飛行機械をめぐる発明のながい物語を語らなければならないし、家庭生活がついにながながとつづくホテルでの生活にしだいにとって代わられたこと、農事にいぜんとして関心を抱いていた人びとでさえもついに都市に住みついて、毎日、仕事場に往復するようになったこと、それからついにイギリス全土に四つの都市しかなくなり、それぞれ何百万という人が住みつき、その結果、地方に人の住む家がなくなったということなど、すべてそういったことがらを述べなければなるまい。
さて、かれらふたりはいったんへだてられたが、ふたたび結ばれるにいたった。しかしながら、いぜんとして結婚はできなかった。なぜならば、デントンには――それがたったひとつの欠点であったが――金がない。エリザベスにしても二十一歳になるまではなかった。彼女はまだ十八である。二十一歳になると、母親の全財産が彼女にころげこむことだろう。というのは、それが当時の習慣であったからである。しかし、彼女は将来自分に財産が入るなんて知らなかった。しかし、デントンは知っていた。だが、かれはとてもデリケートな心の持主であったので、そのことを恋人に教えてやれなかった。だから、いろいろなことが絶望的なまでに、ふたりの間につきまとっていた。エリザベスは悲しげに言った――自分はとてもふしあわせだ、しかも、それをデントン以外だれも理解してくれない、デントンから離れるとすごくみじめだ、と。そしてまたデントンは、自分の心は夜も昼もエリザベスを求めていると言った。それでふたりとも機会があれば、できるだけ顔を合わすようにした。そしてふたりの悲しみをいろいろ議論して楽しんでいた。
ある日、かれらは発着台の下にある小さな座席のところで会った。デートの場所の正確な位置は、ヴィクトリア女王時代のころのウィンブルドンから道路がその広場に出ようとしたところにあった。しかしながら、ふたりはその地点よりは約五百フィート上のところにいた。かれらの座席からはロンドンが一望のもとに見わたせた。その光景を十九世紀の読者に伝えるのは困難だろうと思う。読者に話をするには、まず水晶宮殿《クリスタル・パレス》のこと、それから新しく建てられた「マンモス」ホテルのこと――あんな小っぽけなものがこんな大きな名で呼ばれていたのだが――それから当時のより大きな鉄道駅のことを考えてもらわなければなるまい。さらにかような建物が数十倍にまで巨大化され、それがいっしょにつなげられ、全ロンドン地区を一面におおうところを想像してもらわなければなるまい。それから、もし読者がこのひとつづきになった屋根の上に林立して回転する風車の巨大な森のような有様を考えてくれれば、このふたりが毎日見なれていた風景がいかなるものであるか、大変ぼんやりとではあるが、ようやっと想像することができるにちがいない。
ふたりの眼には、その光景はまさに刑務所を思わせるものがあった。だからふたりは、まるでこれまでに百回も語ったかのように、いかにしてそこから脱出してふたりとも完全に幸福になれるかを語りあった。そこからの脱出はあの定められた三年がたたぬうちでなければならない、三年も待つなんてとても不可能であるばかりでなく、そんなことほとんど罪悪に近い、ということでふたりの意見が一致した。
「それまでにね」と、デントンが言った――かれの声はすばらしい低音であった――「ぼくたちは死んでしまうかもしれない!」
元気なふたりの手はこの言葉に思わず固くにぎられた。そして、エリザベスにはさらにいっそう胸をしめつけられるような思いがあったので、きれいな眼に涙をいっぱい浮かべ、ほんのり赤い頬をぬらしていた。「わたくしたちのどちらかかもしれないわ――」
エリザベスは息をつまらせ、あとの言葉は言えなかった。若くて幸福なふたりにとってそれほど恐ろしい言葉であったのだ。
しかしながら、あのころの都会で、結婚していて、しかもすごく貧乏であるということは――とくにかつて楽な生活をしたことのある人にとっては――とても恐ろしいことであった。古い農耕時代においては――それは十八世紀で終りを告げてしまったが――あばらやの中での美しい愛の詩があった。実際、これらの時代にあっては、地方の貧乏人たちは花におおわれた、ダイヤモンドのような形をした窓のある白い漆喰とかやぶき屋根の小屋に住んでいた。かれらのまわりには甘い空気と黒い土があった。からまるように茂った生垣と鳥のなき声にかこまれ、頭の上には常にさまざまに変わる空があった。しかし、これがまったく打って変わったように消滅してしまった(その変化はすでに十九世紀にはじまっていた)。そして新しい種類の生活が貧乏人を待ちかまえていた――都市のスラムにおいて。
十九世紀においては、スラムはまだ空の下にあった。それは粘土にしろほかの感心しない土壌にしろ地面の地域であった。洪水に見舞われやすく、あるいはもっと幸福な地区からの煙にさらされ、水の供給も不充分で、富裕階級によって感じられた伝染病の大きな恐怖なんてなんとも思われなかったほど不衛生であった。しかしながら、二十世紀になると、上へ上へと空高く伸びる都市の成長とビルの合同化は異なった状況をもたらした。裕福な連中は新しい都市構造の上のほうのフロアとホールにある華美なホテルのひとつづきのひじょうに広い部屋に住んでいた。労働者階級は下のほうにある途方もなく広い部分、いわば一階と地階に住んでいた。
生活とマナーの向上という点では、これらの下層階級の連中は、かれらの祖先、すなわちヴィクトリア女王時代のイーストエンドの住民たちとほとんど変わらなかった。しかし、かれらは独得のはっきりとした言葉を生み出した。これらの下層の仕きたりの中で、かれらは生き、そして死んだ。だから、仕事の用以外で社会の表面に姿を現わすことはめったになかった。かれらのほとんど大部分の者にとって、これは、かれらが生まれながらにして身についた種類の生活であったので、かような環境にはいっこうみじめさを感じなかった。しかし、デントンやエリザベスのような人びとにとって、かような生活に落ちこむのは死よりももっと恐ろしいように思えたであろう。
「でも、ほかになにかやりようがあるの?」とエリザベスが訊いた。
デントンは、知らない、と正直に返事した。かれ自身の繊細な感情を別にしても、かれが確信を持てなかったのは、エリザベスが彼女の遺産をかたにして借金しようという考えに賛成するかどうかであった。
ロンドンからパリヘ行く費用さえないわ、とエリザベスが言った。パリでも、いや世界中のどこの都市でも、生活にはロンドンと同じように金がかかってとても不可能であろう。
デントンが大声を出して叫んだとしても無理からぬことであろう。「ぼくたち、あのころの時代に生きていたらなあ! 過去に生きていたらなあ!」なぜならば、十九世紀のロンドンの東部地区であるホワイトチャペルでさえも、ロマンティックなもやの中に見えたからである。
「ほかに、なにかいい方法がないの?」とエリザベスは急に涙を流して叫んだ。「ほんとうにわたしたち、三年ものながい間、待っていなければならないの? デントン、考えてみて、三年もの間よ――三十六ヶ月もあるのよ!」
人間の忍耐力は時代がたってもひとつも成長しなかったのである。
そのとき、急にデントンはあることを言おうとした。それはすでにかれの心をちらっと横切った考えでもあった。それは最後に思い当たったものである。しかし、いささか乱暴な考えであるように思われたので、半分、冗談に言ってみた。しかし、考えを口に出して言ってみるということは、ただ心の中で黙って思っているよりは、ものごとを現実化していくよい方法であった。かれの場合もそうであった。
「ねえ、エリザベス」と、デントンは言った。「田舎に行ってみないかい?」
彼女はかれを見つめた。ほんとうにかれがこんな冒険を提案しているのかどうかたしかめようとしたのだ。
「田舎ですって?」
「うん、そうだよ――あの向こうさ、丘の向こうだ」
「でも、そんなところで、どうやって暮していくの?」と彼女は訊いた。「第一、住むところがあるの?」
「いや、できなくはないさ」とかれは答えた。「だって、昔はみんな田舎に住んでいたんだよ」
「でも、そのころ、家があったじゃないの」
「いや、今だって、村や町の廃屋があるさ。もちろん、低地にあったのはなくなってしまっただろう。でも、たしかに牧草地には残っているはずだ。それをこわしてどかすのはとても金がかかって、食品トラストには勘定が合わないからね。あることはたしかだ。飛行機から見ている人もいるんだ。そうだ、これらの家のどれかに雨、風を避けることができるだろう。そしてぼくたちの手で修理するんだ。ねえ、エリザベス、ぼくの考え、そんなに乱暴ではないだろう。毎日、作物や家畜の様子を見にくる人たちのだれかから金を払って食べものも買えるだろう……」
エリザベスはかれの前に立ち上がった。「でも、そんなことほんとうにできたら、不思議だわ」
「どうして、できないっていうの?」
「だって、デントン、そんなこと、だれもしていないでしょう」
「しかし、だれもやっていないからといったって、それが駄目だという理由にはならないじゃないか」
「そうでしょうね――ああ! できさえすれば、それほどロマンティックで奇妙なことはないわ」
「どうして、できないって言うんだい?」
「でも、デントン、心配しなくてはならないことたくさんあるでしょう。まず、持ちもののこと、ここに置いてゆかねばならないもののこともあるでしょう」
「ぼくたちそれを置いていかなくちゃいけないのか? しかし、どっちみち、ぼくたちの送っている生活なんて、どだいほんものじゃない――みんなつくりものなんだ」かれはいい気になってその見解をそれからそれへと拡げはじめた。その説明に熱中していくにつれて、かれの最初の提案の幻想的な性質も色あせてきた。
彼女は考えこんでいた。「でも、わたし、放浪者のこと聞いたわ――それから脱走犯人のことも」
デントンはうなずいた。だが、返事をするのをためらった。というのは、その返事がいかにも子供じみていたからである。それで顔を赤らめてしまった。「ぼくはね、剣をこしらえてくれる人、知っているんだ」
彼女は眼に熱意をただよわせ、かれのことをじっと見つめた。かつて剣のことを聞いたことがある。博物館で見たことがある。彼女は剣を当然なものとして持ち歩いていた古代のことを想像した、デントンの提案はなんだかできない夢のように思われた。おそらく、そのせいであろう、彼女はもっとこまかく話を聞きたがった。デントンは、その話の大部分を、話してゆくうちにでっち上げ、まるで古代人にでもなったつもりで、ふたりがどのように田舎で暮していけるかを語った。くわしく話せば話すほど、彼女の関心は強まった。なぜならば、ロマンスや冒険にこのうえなく魅力を感じる娘たちのひとりであったからだ。
その日、かれの語った考えは、彼女には実現できない夢のように思われた。しかし、翌日になって、ふたりでまたそのことを語り合うと、奇妙なことにそれほど実現困難なことのように思えなくなった。
「まず、なんといったって食糧だ」とデントンが言った。「十日か十二日分の食糧は運べるだろう」凝縮人工食糧の時代であった。このぐらいの食糧は十九世紀だったらともかく、たいして荷厄介な提案ではなかった。
「でも、デントン、わたしたちの家にね」と彼女がたずねた――「わたしたちの家に住めるまで、どこで寝るの?」
「エリザベス、今、夏だよ」
「えっ……それ、どういう意味なの?」
「昔、家なんてなかったときがあったということさ。すべての人間が野原に寝ていたときがあったんだ」
「まさか、わたしたちが! なんにもないところに! 壁も、天井もないところにですって!」
「ねえ、エリザベス」とデントンは言った。「ロンドンじゃ、たしかに美しい天井があるかもしれない。芸術家が美しく彩り、照明をちりばめているからね。しかし、ぼくはね、ロンドンのどこにも見られない、もっと美しい天井を見たことがあるんだ」
「どこで?」
「いつも、ふたりっきりの天井だ」
「それ、どういう意味――?」
「エリザベス」とかれは言った。「それはね、もうこの世が忘れてしまったものなんだ。空だよ、群がるあの星空だ」
語り合うにつれ、それはふたりにいっそう可能な、いっそう望ましいもののように思えてきた。一週間ぐらいすると、それはすっかり可能になってきた。もう一週間すると、やらねばならない当然のことがらになってきた。田園への強い憧れがかれらをとらえ、すっかりそのとりこにしてしまった。ふたりは、町の不潔な騒音がかれらを圧倒したのだ、と語り合った。かれらが驚きあきれたのは、かれらの悩みから逃れるいちばん簡単なこの方法にどうして今まで気がつかなかったのかということであった。
四季支払い日の六月二十四日に近いある日の朝、発着台に新しい係員が配置されて、デントンは職場を去ることになった。
ふたりはこっそりと結婚した。そして、かれらと、かれらの先祖が日々を送ったロンドンから勇ましく田園に向かって立ち去った。エリザベスは時代おくれの新しい白のドレスを着ていた。そしてデントンは食糧の包みをななめに背中にしょっていた。そして手に、紫色のマントにかくして――いくぶん照れていたような顔をしていたのはほんとうだ――古代の道具である鋼鉄製の十字の柄のついた剣をにぎっていた。
ふたりのいで立ちを想像してごらんなさい! そのころは、すでにあのヴィクトリア女王時代の広びろとした郊外――あのでこぼこ道、小っぽけな家、かん木やゼラニュームの植えてある間の抜けたせまい庭、あの役にも立たないもったいぶった隠居所は姿を消していた。そして今や、新時代の高層ビル、機械で動く道路、電気、水道の本管、そのすべてが集まって、高さ四百フィートに達するまで壁のように、絶壁のように切り立つがごとくけわしくそびえていた。ロンドンのまわりには、食品トラストのにんじん、スウェーデンかぶ、かぶらなど、種々さまざまな食品の原料となる野菜畑が広がり、生い茂った雑草やかん木の列は完全に根だやしにされていた。小規模な、無駄の多い古代の農作業において、年々歳々行なわれていた雑草刈りというひっきりなしの手間と費用を、食品トラストは雑草根絶計画によってもう永久的になくしてしまった。しかしながら、そこかしこに真っすぐに立った黒いちごの木やそれから幹を水漆喰で白く塗られたリンゴの木がきれいに列をなして畑と交じり合っていた。ところどころに、オニナベナのとても大きな群落が、だれにでも好かれているあの穂状花《すいじょうか》を咲かせていた。そこかしこにまた防水カバーをかぶった巨大な農業用機械がこぶのように突き出ているのが見える。ウエイ川とモール川とワンドル川の合流した水が、細長い水路にそそいでいた。なだらかに隆起しているところには脱臭された下水が噴水となって、その恵みをまわりにまき散らし、それが陽に輝いて虹をなしていた。あの巨大な都市の壁にある大きなアーチをくぐると、ポーツマスに通ずるあのイードハマイト道路に出る。朝の光をあびてひじょうに多くの車がひしめきあい、作業に出かける青い服を着た食品トラストの労働者がいっぱい乗っかっていた。
疾走する車にくらべると、歩くデントンとエリザベスのふたりの姿はまるで止まっているふたつの点にすぎなかった。巨大な道路の外側の通行区分のところを、ロンドン市から二十マイルぐらい離れた地点を目ざしてゆくのろい旧式の車がうなりを上げて走っていた。その内側をもっと大きな車――二十人ぐらい乗せたスピードの速い一輪車、ひょろながい多輪車、重い荷を積んで車体がぐっとさがっている四輪車、今はからだが夕暮れになると荷をいっぱい積んで帰ってくる巨大なトラック、どれもこれもがエンジンをとどろかせて走っていた。タイヤは音を立てなかったが、フォンや鐘がけたたましく鳴っていた。その道路のいちばん外側のまたはじっこを、このふたりの男女は、結婚したばかりなのでおニューの服を着て、なにか妙に恥ずかしそうな顔をして黙って歩いていた。大声上げてふたりをひやかしてゆく者もいた。なぜならば、二一〇〇年には徒歩旅行者なんてイギリスではとても珍しかったからである。それは一九〇〇年のイギリスで自動車がもの珍しかったのと同じであろう。しかし、ふたりはこのような叫び声には知らん顔をして、ひたすら田園に向かって歩いた。
やがて、ふたりの目の前に、南のほうに樹の生えていない丘陵が見えてきた。最初、青くかすんでいたが、近づくにつれ緑色に変わってきた。そして、その頂上はロンドンの屋根の風車の力をおぎなう巨大な風車におおわれ、ぐるぐる回る風車の羽根が朝日を受け、そのながい影がとぎれとぎれに映り、なにか落ち着かない感じであった。午ごろ、丘陵の近くまできたので、そこかしこに青白いぽちぽちしたものからなる大きなはん点が見えてきた――食品トラストの食肉部が飼っている羊であった。一時間ぐらい粘土地帯、それから野菜畑とそれを囲う一重の柵を過ぎていった。それから先は立ち入り禁止にはなっていなかった。平らなその道はやがて車の走っている切通しにぶつかるのが見えたのでふたりはその道を離れた。芝の生えた原っぱの上を歩き、開けた丘の斜面を登っていった。
当時の子供たちはこんな淋しいところにいっしょにくるようなことはけっしてなかった。
ふたりとも腹がすいた。足も痛くなってきた――なぜならば、歩くなんてことはめったにやらなかったからである――やがてふたりは雑草のない短く刈った芝生の上に腰をおろした。そこではじめて、ふたりが脱け出してきたロンドンのほうを振り返って見た。それはテームズ川の流域の青いもやの中に広くさんぜんと輝いていた。エリザベスは斜面の上のほうにいる放し飼いの羊をちょっとこわがっていた――これまで飼いならされない大きな動物の近くに寄ったことがなかったからだ――しかし、デントンが大丈夫だよと言ってくれた。白い羽を広げた鳥が青い空に輪をえがいていた。
ものを食べるまで、ふたりはあまりしゃべらなかった。やがて口をきくようになった。今、ふたりが手にしている幸福について、現代のあの壮大な刑務所から早く逃れなかったことの愚かさについて、世界から永久に過ぎ去ったロマンティックな時代について語った。それから得意になってそばにおいた剣を取り上げた。エリザベスもそれを手に取って、ふるえる指で刃を撫でてみた。
「でも、あなた、できるの」と彼女は言った。「あなたに――これ振りまわして、人斬れて?」
「ぼくに斬れないって、なぜそんなこと言うんだい? 必要がありゃ、いつでもばっさりさ」
「でも」と彼女は言った。「とてもこわいわ。ばさっと……すると、そうでしょう」――彼女の声は沈んだ――「血が吹き出すんでしょう」
「昔の物語でずいぶん読んでたろう……」
「ええ、知ってるわ、物語の中では――そうね。でも、デントン、あれ、ちがうわ。血じゃなくて、赤インクみたいなもんだわ――でも、今あなた――ほんとうに殺すのよ!」
彼女は疑いぶかそうにかれを見つめて剣を返した。
休んで食事をとってから立ち上がり、またほかの丘に向かって歩いた。羊の大きな群れのすぐそばを通った。羊たちは見なれぬ人影を見つめて、声を上げてないた。エリザベスはこれまで羊を見たことがなかった。彼女はこんなにもやさしい動物が食料として殺されるのを考えて身ぶるいがした。一匹の牧羊犬が遠くのほうから吠え立てた。するとひとりの牧夫が風車の支柱の間からのっそりと姿を現わし、ふたりのほうへやってきた。
近くまでくると、男はどこへ行くのだと訊いた。
デントンは口ごもった。それで、かれに簡単に言った。この丘陵地帯の中に、なんでもいい、ともかく住む家を、ふたりで住める家を探しているのだと。デントンは、ごく当然のことをやっているのだと言わんばかりに、ぶっきら棒に話そうとした。その男は信じられないというような顔をして見つめた。
「あんたたち、なんか、しでかしたんですか?」とかれは訊いた。
「いや、べつに」とデントンが応えた。「ぼくたちは、ただもう、都会に住みたくなくてね。なんで都会に住まなくちゃならないんですかね?」
牧夫はいっそう信じられないような顔をしてじっと見つめた。「ここじゃ、あんたたち、住めないよ」とかれは言った。
「でもぼくたち、住もうと思っているんですよ」
すると牧夫はふたりをかわるがわる見た。
「明日になったら、あんたたち、きっと戻るだろうよ」とかれは言った。「明るい日の下では楽しいように思えるけど……でも、ほんとうかい、あんたたち、なにもしでかしていないっていうのは? おれたち牧夫はね、警察の旦那とはそんなに親しくないから、心配しなさんな」
デントンはかれをじっと見つめた。「いや、ちがう」とかれは言った。「ただ、ぼくたちはとても貧しくて都に住めないんだ。それにね、粗い布の青い作業服を着て、あくせく働くなんて、考えただけでもぞっとする。だからここで、自然のシンプルな生活をしようとしているんですよ、昔の人たちのように……」
その牧夫はひげを生やした考えぶかそうな表情の男だった。かれはエリザベスのひ弱そうな美しい顔をちらりと見た。
「昔の人は純朴だったな」とかれは言った。
「ええ、でもぼくたちもそうですよ」とデントンが言った。
牧夫はほほえんだ。
「ここをずっと行くとね」とかれは言った。「風車のところの尾根づたいに行くと、右手にちょっとした土まんじゅうと廃墟の跡が見える。それは昔、エプソムと呼ばれていた町だ。そこにはもう一軒の家もなくて、煉瓦は羊の囲いに使われている。その先へ進みなさい。すると丘のふもとの外れにべつの土まんじゅうが見える、それがレザーヘッドの跡だ。それから丘は谷のへりにそって遠ざかってゆく。ぶなの森があるよ。でも、そのまま尾根づたいにずっと行きなさい。すると、とても荒れ果てたところに出る。雑草とりをやったけど、ところによっては、羊歯とかつりがね水仙とか、そういった役にも立たない草がまだ生い茂っているだろう。そこんところを、今じゃ風車の下になっているが、石で舗装された真っすぐな小道が走っている。それは二千年前のローマ時代の道だよ。それを右に折れて谷にさがってゆく、それから川の土手づたいにゆきなさい。しばらくすると、家のならんだところに出る。まだしっかりした屋根がついてるよ。おそらく、そこに、あんたたちのかくれ家が見つかるだろう」
ふたりは牧夫に礼を言った。
「そこはとても静かなところだ。日が暮れると全然明かりはない。泥棒が出るという話も聞いたことがあるよ。音声機械も映画もニュース伝達機械も――そういったものは全然ない。おなかがすいても食べものもない、具合が悪くなっても医者もいないよ……」そこで男は話をやめた。
「とにかく、やってみますよ」と、デントンは歩き出しながら言った。ふと、ひとつの考えが浮かんだ。それでかれは牧夫とひとつの約束をした――と同時にかれと会える場所も教わっておいた――その約束とは、ふたりが必要とするものを都市から買い、それを持ってきてもらうことであった。
夕暮れにふたりはその廃村に着いた。そこに立ちならぶ家は、かれらの眼にとても小さく、そのうえ異様に映った。夕映えに明るく輝き、荒涼としていて静寂につつまれていた。ふたりは一軒一軒見て歩き、風変わりなほど質素なのに驚き、どれにしたらいいか論じあった。ついに、そと壁のない一室であったが、夕日のあたるその片隅に一本の野の花、食品トラストの草刈り人夫が見逃したブルーの可憐な小さな花を見つけた。
その家にきめることにした。しかし、ふたりは、その晩、そこにはながくいなかった。というのは、大自然の中でごちそうを食べることにしたかったからだ。そのうえ、日没後、そこにある家なみがとても気味悪く、いやに暗い感じがしてきたからでもある。そこでふたりは、ちょっと家の中で休んだあとすぐ、丘の尾根に登り、自分たちの眼で、昔の詩人たちが歌いつづけた、あの星空の静けさを見ようとした。すばらしい眺めであった。デントンは降る星のように語った。丘をおりたとき、ついに空は夜明けをむかえ青白んできた。かれらは眠ったが、それもわずかの間であった。ふと目が覚めると、つぐみが枝でさえずっていた。
このようにして二十二世紀の若人たちは、流浪の生活をはじめたのである。あの朝、かれらは、これからシンプル・ライフをいとなもうとしていたこの新しい家の世帯道具を探すのにとても忙しかった。ふたりは、そんなに早くは、あるいはそんなに遠くへは探しにいけなかった。なぜならば、どこへ行くにも手をとり合っていたからである。しかし、家具のもとになるようなものを発見した。その村のはずれに、食品トラストの羊にやる冬場の飼料貯蔵所があった。デントンはベッドをつくる材料をそこから家までひきずってきた。何軒かの家の中に、ふたりの眼には粗雑で、洗練されない、不恰好な家具のように映った木製の、ぼろぼろになった古びた椅子とテーブルがあった。前の日に話した多くのことをまた繰り返して語り合った。そして夕方近くなってべつの花を見つけた。つりがねにんじんの花だった。午後おそく、何人かの牧夫が大きな多輪車に乗って渓谷をおりてきた。ふたりは身をかくした。なぜならば、かれらがいては、せっかく、この古い世界のロマンスを片なしにしてしまうように思われたからだ。
こんなやり方で、ふたりは一週間すごした。その間、ずっとお天気もよく雲ひとつなかった。夜は夜で星がきらめいていた。それはじょじょにまる味をます月の光でぼやけてきた。
しかしながら、最初にここにやってきたときのすばらしさは、わからないぐらい少しずつ、日一日と色あせてきた。デントンの雄弁は気まぐれになってきた。そしてインスピレーションをかき立てるような新鮮な話題に欠けてきた。ロンドンからのながい道のりの疲れが手足のしこりになって現われた。そしてふたりとも理由のわからない軽い風邪をひいた。加うるにデントンは、仕事のない時間をもてあますようになった。無造作に積み上げられた古材の間に錆ついた鋤《すき》を見つけた。それを使って、雑草がぼうぼうと生い茂ったそのめちゃくちゃな庭を気まぐれに掘りくりかえしてみた――もっとも、手もとには蒔《ま》いたり植えたりするものはなにもなかったけれど。そんな仕事を一時間半ばかりやったあとで、顔から汗を流してエリザベスのところに戻ってきた。
「昔は、きっと巨人がいたんだ」と、かれは習慣や訓練の結果がいかなるものかも理解しないでそんなことを言った。その日、ふたりは丘にそって散歩してみた。谷のはるかかなたにちらちら光るロンドンの町が見えた。「今ごろ、あそこでなにが起きているんだろうな」と、かれは言った。
そのうち、空模様が突然おかしくなってきた。「あなた、きて、はやく。ごらんなさい、あの雲を」と、エリザベスが叫んだ。すると、どうだろう! 北東の空を暗い紫色に染めて、巨大な積乱雲が天頂に向かってものすごい勢いで湧きかえっていた。ふたりが丘の上にのぼると、みるみるうちに広がった雲は夕暮れの空を一面におおった。突然、冷たい風が吹きだし、ぶなの木の幹をゆり動かし、葉をざわざわと激しくそよがせた。エリザベスは身ぶるいした。はるかかなたの空に雷光が、突然引き抜かれた剣のように、さかんにひらめいてた。遠雷の音も、やがて空いっぱいにとどろきわたってきた。ふたりが驚いて立ちつくしたとき、嵐の前ぶれの激しい大粒の雨が音をたてて降り出した。一瞬にして、西の空にまだかすかに残っていた一条の光も、どっと降るひょうのカーテンによってかき消されてしまった。ふたたび雷光がひらめいた。雷鳴はますます激しく鳴り、ふたりのまわりは暗いなんとも異様な世界に変わってしまった。
手をしっかりにぎり合って、これらふたりの都会の子たちは、言いつくせぬ恐怖におののきながら丘を駆けくだり家に向かった――家に着くや、エリザベスは驚きのあまり泣き出した。暗闇に沈んだ地面は、叩きつけるように降るひょうでほのかに白く浮き上がり、くだけ散り、激しく活動した。
ふたりにとって異様な恐ろしい夜がはじまった。文明生活を送ってきたふたりにははじめてではあるが、鼻をつままれてもわからない闇の世界にいたのである。からだはびっしょり濡れ、寒さにがたがたふるえた。ひょうがまわりにものすごい音をたてていた。ながい間、放っぽり出されていた廃屋の天井から雨水がうるさい音をたてて落ちてきた。そしてきいきいきしむ床の上に小さな流れと水たまりをつくった。嵐のすさまじい吹きつけが襲うたびにそのボロ家はうめくような音をたててふるえた。そして、漆喰が壁からはがれて床にくだけ落ち、ゆるんだタイル瓦が屋根から音をたててはがれ、軒下にあるからの温室にぶつかってくだけた。エリザベスは恐怖にふるえてじっとしていた。デントンはその派手なうすでのコートを彼女にかけてやった。そしてふたりして、そのまま暗闇の中にうずくまっていた。雷鳴はますます大きくなって近づいてきた。雷光もいよいよ無気味にひらめき、ふたりのひそむ湯気っぽい雨だれのしたたり落ちる部屋にまで押し入り、瞬間的に部屋中を気味悪いぐらい明るく浮かび上がらせた。
かれらはこれまで太陽の輝くとき以外は野外に出たことはなかった。いつも都市の風通しのいい暖かな街路やホール、部屋の中にいた。その夜、ふたりはまるで別世界にでも、緊張と騒乱でめちゃくちゃになった混乱の世界にでもいるかのように思われた。そしてもう二度と、ロンドンの街の姿は見られまいという絶望に襲われた。
嵐は永久につづくように感じられたが、いつの間にかふたりは雷鳴の合間にうとうとと眠りにおちいった。それからまったく嘘のように嵐は弱まり、鎮まった。そして、最後の雨足が止んだとき、なにか聞きなれない音がした。
「あなた、あれなんでしょう!」とエリザベスが叫んだ。
また聞こえてきた。犬のなき声であった。それは荒野の道を駆けおりて過ぎていくようだ。窓から外を見ると、満月に近い月の光が、前の小屋の壁を白く浮き上がらせ、それに影絵のように窓枠や木の枝を映し出していた。
青白い夜明けがしだいにあけはなたれ、まわりのものがぼんやり眼に見えてきたちょうどそのとき、気違いのようになく犬の声がまたもや近づいてきたと思うと、急に静かになった。ふたりは耳をすました。すると、家のまわりを探しまわる早い足音と、短い、息をおし殺したようなうなり声が聞えた。すると、ふたたびしーんと静まりかえった。
「しっ!」とエリザベスがささやき、ドアのほうを指さした。
デントンはドアのほうに行きかけ、立ち止まって耳をすました。そしてなんでもないというような顔をして戻ってきた。「きっと、食品トラストの牧羊犬だろう」と言った。「なにも害は与えないよ」
かれはエリザベスのそばにふたたび腰をおろした。「まったく、なんという夜だったんだろうね?」と、鋭く耳をそば立てているのをかくすために、そう言った。
「デントン、わたし、犬きらいなのよ」と、しばらくたって、エリザベスが言った。
「だいじょうぶ、かみつきはしないよ」とデントンが答えた。「昔は、十九世紀のころは、みんな、犬を飼っていたんだ」
「でも、デントン、犬が人をかみ殺すって話、前に聞いたことがあるわ」
「いや、この手の犬じゃない」と、デントンは自信たっぷりに言った。「ああいった話はとかく大げさなもんだからなあ」
不意に、うなり声と階段を上がってくる音、それから、はあ、はあ、と激しくあえぐ音がした。デントンは立ち上がった。そしてふたりが横になっていたしめったわらの中から剣を取り上げてそっと抜いた。そのとき、戸口のところに一匹のものすごい形相をした牧羊犬が現われ、その場に立ち止まった。そのうしろにもう一匹、こちらをじっとうかがっている。一瞬、人間と野獣はとまどいながら真正面ににらみ合った。
そのときデントンは、犬のことを無視して、前へすっと一歩進んだ。
「畜生、出てゆけ」ぎこちなく剣をふるって言った。
犬は前ににじり寄り、低くうなった。デントンは、はっとして足をとめ「おお、よし、よし」と言った。
二番目の犬がうなり、そして吠えた。階段をおりてきた犬も吠えた。外にいた犬もいっせいに吠えた――だいぶたくさんいるな、とデントンは思った。
「これはやっかいだ」と、目の前にいる犬から眼を離さないで言った。「牧夫たち、あと二、三時間しないとやってこないぞ。だから、ぼくたちのこと、このわん公どもにわかんないのもしようがないな」
「あなた、なにをおっしゃっているの?」とエリザベスが叫んだ。彼女は立ち上がってデントンのそばに寄ってきた。
デントンはふたたび怒鳴った。だが、激しく吠える犬の声はかれの声をかき消してしまった。その声はかれの血にぞくぞくするような奇妙な興奮を伝えた。忘れ去られていた奇妙な感情が急によみがえってきた。かれの顔は叫ぶたびに変わった。もう一度、怒鳴ってみたが、犬はかれのほうを馬鹿にしているように思えた。そして、一匹が一歩前におどり出し、背中の毛を逆立てた。突然、かれはうしろを振り向き、下層民の使う、エリザベスにはまったくわけのわからない、野卑な言葉を、ひとこと、ふたことなにか言って、犬の群れに目がけて突き進んだ。突然、吠え声も、うなり声も、かみつこうとする身構えもなくなった。エリザベスはいちばん手前でうなっている犬の頭、むき出した白い歯、うしろに伏せるようにひいた両耳、それからふりおろされた剣の刃を見た。一瞬、犬は空中にとび上がって、うしろにすっ飛んだ。すると、デントンは叫び声を上げて、前にいる犬どもを追い払った。剣は突然勢いをえたかのようにかれの頭上でひらめき、かれの姿は階段の下に消えた。エリザベスはかれのあとを追おうとして、六歩進んだ。踊り場に血が流れていた。彼女は立ち止まった。そして犬の騒々しい吠え声とデントンの叫びが家から遠のいてゆくのを聞いて、窓際に駆け寄った。
九匹の狼のような牧羊犬が散らばって逃げてゆくところだった。一匹はポーチの前でのたうち回っていた。デントンはというと、文明によって最も教化された人間の血の中に今もなおいぜんとしてひそんでいるあの奇妙な戦いの喜びを味わいながら、叫び声を上げて庭の中を走り回っていた。そのときエリザベスは、今かれのわかっていないことに気がついた。犬の群れはあちこち輪をえがいては元のところに戻ってきていた。かれらはデントンを戸外におびき出したのだ。
彼女は状況を察した。呼べるものなら声を上げてかれを呼んだであろう。しばらく彼女は目まいと絶望を感じた。だが、それから奇妙な衝動に駆られ、スカートのすそをつまみ上げて、階下に駆けおりた。ホールにさびた鋤があった。これだわ! 彼女はそれをつかみ外に走り出した。
間に合った。一匹の犬がデントンの前にころがり、からだを真っぷたつに切られていた。しかし、二匹目がかれのももに食いつき、三匹目がかれのえりをうしろから食いついていた。そして、四匹目か剣の刃をくわえ、自分の血の味を味わっていた。デントンは五匹目が飛びかかってくるのを左腕で受けながした。
エリザベスに関するかぎり、それは二十二世紀ではなくて一世紀であったかもしれない。十八年間の都市生活で身につけたその優しさは、この原始時代の必要の前にこつぜんとして姿を消した。その鋤は一匹の犬をつよく正確に打ち、その頭蓋をぶち割った。二匹目は飛びかかろうとしていたが、この予期せぬ敵におどろいて吠えたてた。そして、わきに飛びのいた。二匹の犬はエリザベスのスカートのすそにかみついて貴重な時間を無駄にした。デントンの外套のえりは裂け、うしろへよろめいたとき引きちぎれた。その犬も鋤の一撃を見舞われ、デントンは助かった。かれのももに食いついていた犬を剣で突き殺した。
「あなた、壁際へ!」とエリザベスが叫んだ。三秒後、戦いは終った。ふたりは肩をならべてつっ立っていた。一方、残りの五匹は耳や尾に傷を負って、戦場からしっぽを巻いて逃げた。
しばらくの間、ふたりははあはあ息を切らしながら、勝利の快感にひたっていた。それからエリザベスは、鋤を地に投げ、両手で顔をおおい、地にくずれるようにわっと泣き出した。デントンはまわりを見、剣を手もとから離さぬようにその先を地面に突き立てた。そして身をかがめて彼女を慰めた。
ついにふたりの激しい感情がおさまった。そしてふたたび話ができるようになった。エリザベスは壁に寄りかかっていた。デントンは壁の上に腰をおろしていたので、また戻ってくるかもしれない犬を見張ることができた。少なくとも二匹の犬が、丘の斜面にいて、腹立たしげに吠えつづけていた。
エリザベスの顔は涙にぬれた。しかし、今はそんなにやつれはてた感じはなかった。なぜならば、一時間半ぐらい、デントンが彼女のことをとても勇敢で、ぼくの生命を救ってくれたとさかんに繰り返していたからである。だが、新しい恐怖が彼女の心に芽ばえてきた。
「あなた、あれ、食品トラストの犬でしょう」と彼女が言った。「きっと、問題おきてよ」
「うん、ぼくもそれを心配しているんだ。たぶん、ぼくたちを不法侵入で訴えるだろうな」
沈黙。
「昔はね、エリザベス」とかれは言った。「こんなこと、しょっちゅう起きていたんだよ」
「でも、きのうの夜だったら!」と彼女は言った。「あんな恐ろしい夜、わたし、もう二度と経験したくないわ」
かれは彼女を見つめた。睡眠不足のせいか、青白く、ひきつったようにゆがんで、ひどくやつれていた。かれは突然決意した。
「じゃ、戻ることにしよう」とかれは言った。
エリザベスは犬の死体に目をやった。そして身ぶるいした。「もうわたし、ここには絶対いられないわ」と、彼女は言った。
かれは敵が一定の距離のところにいるかどうかたしかめようとして肩ごしに眼を走らせながら、「うん、戻ることにしよう」と言った。「でも、エリザベス、ふたりともしばらくの間、幸福だったね……やっぱり、世界はあまりにも開けすぎてしまったんだ。今は都市の時代なんだ。こんなことしていたら、ふたりとも死んでしまう」
「でも、デントン、どうするの? どうしたら、わたしたち、あそこで生活できるの?」
デントンはためらった。腰かけたまま、かかとで壁を蹴っていた。「このこと、今までぼく、しゃべらなかったけど」と言った。そして、咳をして、「実はね……」
「え、なあに?」
「きみに、遺産が入るんだよ」と言った。
「わたしに?」と、彼女は真顔になって言った。
彼女は立ち上がった。顔がきらきら輝いていた。「デントン、なぜもっと前に教えてくださらなかったの」と彼女は言った。「こんなところに、わたし、ずっといたなんて!」
かれはしばらく彼女を見ていた。そして、にっこり笑った。すると微笑が消えて真顔になった。
「ぼくはね、実を言うと、その話、きみの口から出ると思ってたんだ」と言った。「きみのお金、ぼく、当てにするなんて好きじゃないからね。それにまた――最初、こうした生活もすばらしいと思っていたんだ」
しばらく話が途切れた。
「でも、すばらしかった」とかれは言った。そして肩ごしにもう一度あたりに眼をやった。「こうなるまではね」
「ええ、あなた、そうよ」とエリザベスが言った。「最初のころは、そう、最初の三日間くらいだったでしょうか」
かれらはしばらくの間、顔を見あわせていた。すると、デントンが壁の上からすべりおりて、彼女の手をとった。
「それぞれの時代にはね」と、かれは言った。「その時代の生活というものがあるのさ。今、そのことが、ぼくにもはっきりわかった。都会における――あれはね、ぼくたちの生まれついた生活なんだ。ほかのどんな形の生活も……ここへやってきたことも夢だったんだ。今――やっとそれに目覚めた」
「でも、あなた、楽しい夢だったわ」と、彼女は言った。「最初のうちはとても」
ながい間、ふたりは話をしなかった。
「ねえ、エリザベス、牧夫たちがやってこないうちに町に着く必要があるんだったら、もう出発しなくちゃならないよ」デントンが言った。「小屋から食糧を取ってきて歩きながら食べよう」
デントンはまたもやまわりを見わたした。やがてふたりは、犬の死体を避け、大回りして庭を横切り家の中に入った。食糧を入れたずだ袋があった。血でよごれた階段をふたたびおりた。ホールのところでエリザベスは立ち止まった。「ちょっとあなた、待ってて」と彼女は言った。「思い出したことがあるの」
彼女は部屋に入った。そこにはあの青い花が咲いていた。そこに立ち止まり、やさしくふれた。
「欲しいわ」と彼女が言った。「でも、わたし、摘めないわ……」
突然、かがみこみ、その花びらに口づけした。
それから、ふたりは無言のまま、肩をならべ、なにもない庭を突っきって、街道に出た。決意も固く、はるかなる都市へと足を向けた――二十二世紀の錯雑とした機械都市、人類を呑みこんだ都市へと。
[#改ページ]
三 都市の道路
人類史上、世界を変革したかずかずの発明の中で、最高でないにしてもきわめて顕著なのは、おそらくあの一連の交通機関の発明であったろう。それはまず鉄道ではじまり、一世紀ぐらいすると自動車と新しい道路を生み出した。これらの交通機関は、会社という株式組織の工夫と、それから性能のいい機械を使用する熟練労働者が小百姓どもを駆逐したこととあいまって、必然的に人類を前例のない大都市へと集中させた。そして人間の生活に全面的な革命をひきおこしたのである。こういう事実は、問題が起きてから大変明白になってきたのであるが、なぜそういうことがもっと前にわからなかったのか、むしろそっちのほうが意外であった。しかしながら、この革命にともなう悲惨なことがらを見越して、なんらかの措置がとられる必要があるということはなにも提案されていなかったようである。
ところで、十九世紀の人びとにはどうしても考えがおよばなかったことがある。それはなにかと言えば、過去の主要農業国を繁栄させた伝統的な道徳と制裁、特権と利権、財産と責任観念、慰安と美の価値などが新しく生じた機械文明というこのしだいに水かさをます激流の中に呑みこまれてしまうだろうということだ。それから、日常生活において親切で公平である市民もいったん株主になるやいなや、相手を殺しかねないほど貪欲になるということ、また、過去の田園時代では理にかない尊重された商売のやり方も、それが大規模に行なわれると殺人的なまでに強圧的になるということ、そして昔の慈善は現代にあっては積極的な貧民化政策となり、昔の雇用は現代の搾取に変わるということだ。実際、人間の義務と権利を修正したり拡大したりすることが焦眉の急だということは、古風な教育制度によって教育され、古風な思想、習慣に強いノスタルジアを感ずる人にとってどうしても想像するのが困難であった。当時すでに知られていた害悪といえば、人が都市にごちゃごちゃ住めば伝染病の前例のない流行をもたらすということぐらいであった。もちろん、公衆衛生の発展には眼を見はらすような発展があったであろう。しかし、ギャンブルや高利貸、ぜいたくや専制の病弊がやがて伝染性をおびて恐ろしい結果をもたらすということまでは、十九世紀の人びとにはどうしても考えおよばなかったようである。かくて、一種の無機的な過程であるかのように、創造的な人間の意志にいっさいさまたげられることなく、二十一世紀を特徴づけた巨大過密都市の成長が当然の勢いで進行した。
新しく出現した社会は三つの主要な階級にわけられた。トップには財産所有者がいた。かれらはべつに意図したわけではなく、むしろ偶然によってとんでもないほど富裕となり、意志と目的以外のことがらについては影響力を持ち、この世におけるハムレットの最後の化身であった。社会の底辺にはひじょうに多くの労働者がいた。かれらは巨大な独占企業によって雇用されていた。これらのふたつの階級の間に、その数をしだいに減らしつつある中流階級があった。かれらはさまざまな種類の官吏、職長、支配人、医者、法律家、芸術家、教師から成り立ち、それから大企業家の一挙手一投足の中であぶなっかしいぜいたくな生活や心もとない投機に身をやつしている、これまた中流階級の小金持ちがいた。
ところで、この中流階級に属するふたりの男女のラヴ・ストーリーや結婚のことについてはすでに述べておいた。いかにかれらがふたりの間の困難を克服したか、いかにかれらが地方での古臭いシンプル・ライフを試みたかを。さて、デントンには財産がなかった。そこでエリザベスは、父ムウレスが、彼女が二十一歳になるまで、彼女のために信託していた有価証券を肩に金を借りた。
彼女の支払う利息のパーセンテージはもちろん高かった。というのは、担保となった証券の価値が不安定であるからである。しかも、恋人たちの計算というものはえてして大まかで楽天的である。しかも、ふたりはロンドンに帰ってきてから大変楽しい日々を送った。かれらは快楽の都から遠ざかった。それから飛行機械に乗って世界のあちこちを飛びまわって時間を浪費しないよう心がけた。なぜなら、幻滅を一度味わったものの、ふたりの趣味はいぜんとして古風であったからだ。ふたりの住む部屋の中には珍しいヴィクトリア朝風の家具がそなえつけられてあった。セヴンス・ウェイの四十二階に昔の本を売っている店を見つけた。音声機械を聞くかわりに印刷された本を読むことはふたりにとってちょっとした気取りでもあった。
やがて可愛い女の子が生まれたとき――当時の習慣では子供を託児所にあずけることになるのだが――エリザベスは、ふたりの間の仲をいっそうよくするために、それをことわって家庭で育てると主張した。それで、これだけのことで部屋代を値上げされてしまった。しかし、ふたりはべつに気にしなかった。もう少し余分にお金を借りればよいというだけのことだった。やがて彼女は二十歳の成年に達した。それでデントンはエリザベスの父と会った。しかし、結果は満足のいくものではなかった。それにつづいて、ふたりに金を貸している相手に会ったが、それもいたって不愉快な結末に終った。デントンは青白い顔して家に戻ってきた。すると、エリザベスは待ちかねていたように、娘が今日はじめて奇妙な「グー」という声を出したと言ってそのことを夢中になって話した。しかし、デントンには耳に入らなかった。その話の最中、いよいよ彼女の話が佳境に入ろうとしたとき、かれはその話の腰を折った。
「エリザベス、あといくらお金が残っていると思う。今、あの借金を全部清算したとしたら?」
彼女は眼をみはった。そして、彼女の話にさかんにそえていた「グー」の天才についての得々とした身振りをはたと止めた。
「まさか、あなた……」
「いや、そうなんだ」とかれは答えた。「実際そのとおりなんだ。ぼくたち、だらしがなかった。それにさ、利息も高すぎたんだ。ほかにもたくさん原因があるけど、きみの株が暴落しちゃったんだ。お父さんは知らん顔だった。それはわしの知ったことではない、すんだことは仕方がなかろう、って言うんだよ。お父さんは再婚するつもりなんだってね……とにかく――ぼくたちにはあと千ポンドしかないんだ!」
「たった千ポンドなの?」
「そうだ、たった千ポンドしかないんだ」
エリザベスはへなへなとそこに坐りこんだ。そしてしばらくの間、青白い顔をしたデントンを見つめていた。それから中期ヴィクトリア女王時代の家具や本物の油絵風石版画の置いてあるちょっと変わった古風な部屋を見わたした。そして、最後に両腕に抱いている小さな子供に眼をおとした。
デントンは彼女のほうをちらりと見て、うつむいたまま立っていた。それから向こうを向くと、とてもせわしげに部屋を行ったり来たりした。
やがてかれは「さし当たってなにか仕事を見つけなくてはならない」と言った。「ぼくは怠け者だったんだなあ、ほんとうに。こんなことは、当然、もっと前に考えておくべきだったんだ。自分勝手な愚か者だったんだよ。なにしろ一日中、きみといっしょにいたかったからなあ……」
デントンは立ち止まって、彼女の青白い顔を見つめていた。突然、エリザベスのそばに寄って彼女とその胸に抱かれた小さな顔にキスした。
「でも、心配することはないよ」と彼女を見おろしながら言った。「それに、もう淋しくないだろう――ディングスがおしゃべりをはじめたからね。今にすぐ仕事も見つかるよ。すぐにね……簡単だと思う……最初はちょっとショックだったろう。でも万事うまくゆくさ。いや、きっとうまくゆく。すこし休んだら、さっそく出かけるからね。なにかいい仕事を見つけてくるから。ほかのことは当分考える余裕はない……」
「わたし、この部屋から出るのつらいわ」とエリザベスが言った。「でも、仕方がないわ――」
「いや、エリザベス、そんな心要はないさ――ぼくにまかしときな、ねっ」
「でもあなた、お家賃、高すぎるわ」
デントンは手を振って打ち消した。そしてかれのできる仕事について話しはじめた。かれはそれがなんであるか、はっきりさせなかった。しかし、幸福な中流階級として安楽に暮すことのできるなにかがあると確信していた。実際、中流階級の生活様式こそかれらふたりの知っている唯一のものだったのである。
「ロンドンにはね、三千三百万もの人間がいるんだ」とかれは言った。「だから、そのうちのだれかひとりぐらい、ぼくのことを必要としているだろう」
「きっと」
「しかし、問題は……そうだ、ビンドンだ。お父さんが、ほら、きみと結婚させたがっていた、あの茶色の髪した中年の小男だよ。かれはとても重要な役職についている……ぼくはもう発着台の仕事には戻れないだろう。というのはね、あのビンドンが、発着台管制事務所の理事をやっているんだ」
「そう、わたし、そのこと初耳よ」とエリザベスが言った。
「二、三週間ぐらい前になったそうだ……そうでもなかったら、ことは簡単だったんだがなあ。あそこの連中、みんなぼくのこと、好いていたんだよ。しかし、仕事はほかに何ダースもあるさ――何ダースもだ。だから心配してくれなくても大丈夫だ。少し休もう、そしてそれから食事にしよう。それをすませたら、さっそく、知人のところに行ってくることにしよう。知り合いはたくさんいる……たくさんね」
そこでふたりは休息して、それから公衆食堂へ行って食事をした。デントンは仕事探しに出かけた。しかし、やがてかれらにわかったことは、世界はいぜんとしてひとつの問題についてはどうにもならないということであった。その問題とは、私生活のためのじゅうぶんな暇を与え、しかも、いかなる特別の才能も、いかなるはげしい努力と危険も、その達成のためにいかなる種類の犠牲も要求しない、立派な、安定した、名誉をともなう報酬の多い仕事のことであった。かれは多くのすばらしい計画を立てた。そして有力な友人のつてを求めて巨大な都市の中をあちこち走りまわって多くの日を無駄にした。たくさんいる有力な友人のだれもがかれを歓迎してくれ、本題を切りだすまではとても乗気であった。しかし、いよいよとなると、急に警戒的な態度をとって話が曖昧になってしまった。そしてたがいに気まずい思いをして別れねばならなかった。帰り道、かれらの態度をいろいろ考えてみると急にむしゃくしゃしてきた。それで電話ボックスに飛びこんで相手をもう一度呼び出してみたりした。活発に意見を交換してみたものの結局無駄に終って、電話代だけ損ということになった。
日がたつにつれ、かれは悩み、いらいらしだした。だからエリザベスの前で優しく呑気そうに振舞うことさえ努力が必要となるぐらいであった――そのことは夫を愛するエリザベスにはわかりすぎるほどわかった。
ある日、いやにまわりくどい前おきのあとで、彼女はひとつの苦痛にみちた提案をかれにした。実を言うと、昔、ふたりして嬉々として買いあつめた初期ヴィクトリア朝のかずかずの宝物、かれらの珍奇な美術品、かれらの椅子の背覆い、数珠玉の敷物、うね織りカーテン、化粧張りの家具、金ぶちの入った彫版、鉛筆デッサン、さまざまな色彩を見せる蝋製の花、剥製の鳥、その他ありとあらゆるそうしたすばらしい骨董品をすべて売り払うとエリザベスに言ったら、彼女は泣き出し、絶望のどん底におちいるのではないかと思った。ところがなんと、それを言い出したのは彼女自身であったのだ。
エリザベスはその犠牲にむしろ喜びを感じているようであった。そして別のホテルの十階か十二階の部屋に移ろうという提案までした。「わたし、ディングスさえいてくれれば、気にしないわ」と彼女は言った。「これもあなた、みんな経験よ」思わず、デントンは彼女にキスした。そして、きみはあの牧羊犬と戦ったときよりも勇敢だ、と言った。そして彼女のことをボーディシアと呼んだ。そしてかれは、これまでかなり高い家賃を払っていたのはディングスに都会のたえざる騒音のために小さな泣き声を上げさせまいとしていたのだということを、彼女に思い出させぬよう注意ぶかく気を使うのを忘れなかった。
ところで、ふたりの愛情がしみこんでいるこれらのおかしな家具類を売り払うとき、その場に彼女を居合わせないようにしようとかれは考えていた。しかし、売却のときに立ち合って買手と交渉したのもなんとエリザベスであった。その間、デントンはというと動く歩道の上にいて、これからやってくるにちがいない悲しみと恐怖で顔面蒼白になり、みじめな思いをしていたのである。ふたりが見るからに安ホテルのほとんど家具類もないピンクと白の部屋に移ったとき、デントンはたけり狂った。そしてその後、一週間近くしょんぼり部屋の中にとじこもっていた。しかしエリザベスはその間、星のように明るく振舞い、結局デントンの悩みは涙とともに流れ去った。それからかれはふたたび街路に出かけた。しかも――驚いたことには仕事が見つかったのである。
かれの仕事の水準はしだいに落ちていった。そしてついに最も低い独立労働者になってしまった。最初、かれが熱望したのは、飛行トラスト、風車トラスト、水資源トラストの高級職員の地位とか、新聞にとって代わった情報公社でのあるポスト、あるいは専門的な共同経営者といったものであった。ところが、こんなポストは最初の夢にしかすぎなかった。それから、かれは株に手を出した。そして、エリザベスの千ゴールド・ライオンズのうち三百ゴールド・ライオンズが、とある日の夕方、株式市場でこつぜんとして消えてしまった。ところが、さて、嬉しいことには、かれのハンサムな顔だちのおかげで、スザンナ・ハット・シンジケートのセールスマンの職をえた。その会社は、婦人帽、ヘアー・デコレーションを扱っていた。というのは、ロンドンは完全に屋根でおおわれていたけれども、婦人たちはあいかわらず、劇場や礼拝所ではすごくこった美しい帽子をかぶっていたからである。
もしある人が、十九世紀のリージェント・ストリートの小売店主に、その後のかれの店である、今デントンのつとめているスザンナ・ハット・シンジケートをお目にかけたらずいぶん面白いだろうと思う。ナインティンティンズ・ウェイは今もときどきリージェント・ストリートと呼ばれている。しかし、それは今や動くプラットフォームの街路であって、その道幅は八百フィート近くある。その通りの中央部分は動かないようになっていて、そこから階段で地下道に通じていた。地下道の両側には店がならんでいた。中央部分の右側と左側には速度の順でならぶ一連のプラットフォームが動いていた。それぞれのプラットフォームは、その内側のにくらべると時速五マイルぐらいスピードが速かった。だから、人はプラットフォームからプラットフォームヘと移って、いちばん外側にある最も早い道に出られた。このようにしてロンドンのどこへでも行かれるわけだ。
スザンナ・ハット・シンジケートの営業所は、いちばん外側のプラットフォームの上に巨大な建物の正面を突き出し、頭の上に両端から、一部分重なり合っているがひとつづきの広大な白色ガラスのスクリーンを送り出している。そしてそのスクリーンの上にニュースタイルの帽子をかぶった有名な美人の顔が生き生きと映し出される。群衆はいつも街路の静止している中央部分のところに集まって、流行を展示する巨大な映像を眺めていた。そしてその建物の正面すべてはたえず色彩が変わっていた。前面の高さは――四百フィートもあろうか――動くプラットフォームに面したところを千ものバラエティーに富んだ色でふちどり、ちらちらし、きらめき、つぎのような文字が書かれてあった――
スザンナ! 帽子! スザンナ! 帽子!
巨大な音声機械のいっせい射撃は歩くプラットフォームでの人の話を不可能にし、通行人に向かって「帽子、帽子」とわめいていた。一方、通りの端から端まで、べつの音の砲列が群衆に向かって「スザンナヘおこしください」とさそいかけ、「どうして可愛い娘さんに帽子を買ってやらないのですか」と問いただす。
つんぼの人のためにわざわざ――あの時代のロンドンではつんぼが珍しくなかった――屋根の上からあらゆる大きさの文字が動くプラットフォームの上に、また人の手に、前の人のはげ頭の上に、あるいは婦人たちのあらわな背になげかけられた。あるいは人びとの足もとから突然噴き出す炎に、動く指が思いもかけない火の文字「帽子、ふちなし帽子をどうぞ」あるいは単に「帽子」とつづった。だが、こういう涙ぐましい努力にもかかわらず、都市の生活のテンポがとても早かったので、それからまた眼と耳とがあらゆる種類の広告を無視するようにならされてしまっているせいか、多くの市民はそこを何千回ともなく通っても、あいかわらずスザンナ・ハット・シンジケートの存在には気がつかなかった。
そのビルに入るには中央部分の階段をおりて公道を通り抜ければよい。その通りをきれいな娘たちが気どって歩いていた。彼女たちは安い報酬で正札のついた帽子を喜んでかぶっていた。入口の部屋は大ホールで、台の上の美しい蝋人形が流行の帽子をかぶり、ぐるぐる回っていた。このホールから会計事務所の前を通ると小さな部屋が無限につづくのかと思われるばかりにずっとならんでいた。それぞれの部屋にはひとりの販売員がいて、そこには三個か四個の帽子、ピン、鏡、映画、電話、中央倉庫とつながる帽子運搬シュート、快適な休憩室、おいしそうなお菓子とお茶がそろっていた。今やデントンはこのような小室付きのセールスマンになったのである。かれの姿に目をとめ、ひっきりなしに立ち寄る婦人たちをだれかれとなく応待し、その際できるだけにこやかに振舞い、茶菓子を出し、お客の話にはどんなことでもうまく調子を合わせ、その会話をたくみに、だが、しつこくなく帽子のほうへ持ってゆくのがかれの仕事であった。そして婦人たちにいろいろのタイプの帽子をかぶるようにすすめ、かれのスマートな物腰と態度によって、だが、けっして見えすいた下品なお世辞にならぬように気づかいながら、売りつけようと思っていた帽子にいい印象をつくり出さなければならなかった。そうするためにいくつかの鏡がそなえてある。それはさまざまなカーヴと色あいによって、それぞれ異なったタイプの顔や顔色に合うようにできていた。販売技術のほとんど大部分は、要するにこれらの鏡をうまく使いこなせるかどうかにかかっていた。
この奇妙な、しかし、心なじまぬ仕事に、おそらく一年前のかれを知っている人ならびっくりするくらいの意志と熱意でデントンは取り組んだのである。けれども、結果は無駄であった。というのは、かれを採用し、なにかとこまかいところまで気を使ってくれた女支配人が突然、その態度を変えたのだ。そして、これといった理由もはっきりさせないで、かれのことを間抜けだと言い出して首にした。セールスマンをはじめてからわずか六週間目であった。そういうわけで、デントンはまたもやあてのない職探しをしなければならなかった。
二度目の職探しはながくつづかなかった。たくわえがだんだん底をついてきた。少しでもながくやっていくために、仕方なく可愛いディングスとも別れる決意をした。当時、ロンドンにいっぱいあった公共託児所に連れていった。そのころは、子供を託児所にあずけるのはふつうのならわしであった。女性も働けるようになったこと、それと関連して、今までのような世間から隔絶した「家庭」なるものが解体したこと、こういう事情が、大金持ちや変人をのぞいたすべての人びとに託児所を必要とさせたのである。そこにあずけられた子供たちはこういう組織外では受けるのがとても不可能な衛生や教育の便宜が与えられている。託児所にはいろいろの等級、タイプがあった。労働公社の託児所のように、一切合切おまかせ式という条件で子供をあずかり、かれらが大きくなったら労働で償還させるというようなものもあった。
しかし、前にも言ったように、デントンとエリザベスのふたりは、十九世紀趣味の奇妙なほど古風な若者だったので、これらの便利な託児所をきらった。だが、とうとうかれらの可愛い娘を大変悲しい思いをして、ある託児所にあずけた。かれらは制服を着た保母に迎えられた。彼女の物腰はえらくてきぱきとしていた。保母が子供との別離のことにふれるとエリザベスはさめざめと泣いた。保母もエリザベスの深い母性愛に心を打たれ、とたんに希望と慰めにあふれた婦人に変わった。かれらはひとつの大きな部屋に案内された。そこには何人かの保母によって面倒を見られている数百人の二歳児が、おもちゃのころがっている床の上であちこちかたまって遊んでいた。これは二歳児の部屋であった。ふたりの保母が前に出てきた。エリザベスはディングスに接する彼女たちの姿を嫉妬の眼で見守った。それほど彼女たちは優しかった――たしかに優しかった、しかしながら……
やがて別れのときがきた。そのころになるとディングスは部屋の片隅を陣取って、両腕におもちゃをいっぱいかかえて坐っていた。実際これまで経験したことのないおもちゃの山でほとんど埋もれるばかりであった。だから両親が去るときにも、追うような気配は見せなかった。
子供にさよならを言うことは禁じられていた。
ドアのところで、エリザベスは思わず振り向いた。ところが見よ! ディングスはおもちゃから手を離し、おぼつかなさそうな顔をして立っているではないか。とたんにエリザベスは思わず、あっ、とあえいだ。すると保母が彼女を押し出してドアをしめてしまった。
「また、おいでになったら、よろしいですわ」と、眼に思いがけない優しさをたたえて保母はそう言った。しばらくの間、エリザベスはうつろな顔をして保母を見つめていた。
「また、おいでなさいませ」と保母は繰り返して言った。そのとたんこらえ切れず、エリザベスは駆け寄って保母の腕の中で泣いた。こうしてデントンも保母に心から感謝することになったのである。
三週間後に、このふたりはいよいよ完全に文なしになってしまった。残された道はひとつしかない。かれらは労働公社にゆかねばならない。部屋代が一週間たまると、ふたりの持ちものは全部差し押えられた。そして、実に素っ気なく、ホテルの玄関のほうを指さした。エリザベスは通りの静止した中央部分に出る階段のほうに向かって歩いていた。あまりのみじめさに心もぼんやりして考える気力もなくなってしまった。デントンはいぜんとしてホテルのポーターと激しい、だが、納得のいかない口論をつづけていた。やがて顔を真っ赤にほてらせて、あとから大急ぎでやってきた。エリザベスに追いつくと歩調をゆるめた。そしていっしょに通りの中央部分へ出る階段をのぼっていった。そこにあいていた椅子をふたつ見つけ、腰をおろした。
「ねえ、まだ行く必要はないでしょう――今すぐに?」とエリザベスが言った。
「ないね、腹がへるまでは」とデントンが答えた。
かれらはもうなにも言わなかった。
エリザベスは近くに休めるところがないかしらと思って探してみたが、なにも見当たらなかった。右手には東行きの道がうなりを上げ、左手は反対方向に人をいっぱい乗せて動いていた。頭上のケーブルを、一列になって前へうしろへ道化師のような恰好をした男たちが身ぶり手ぶりしながら大胆に動きまわっていた。めいめいの背中と胸にひとつの大きな字が書かれていた。それをつなげるとつぎのように読めた。「パーキンジの消化錠」
恐ろしいほど粗末な青い服を着た多少貧血気味の青白い顔をした小柄な女が、そばにいた少女に、頭上でいそがしげに動きまわる広告の列の中のひとりの男を指さした。
「ほら、ごらん」と貧血気味の女が言った。「あれ、あんたのお父ちゃんだよ」
「どれ?」と小さな少女が訊いた。
「ほら、あそこに、鼻を赤く塗った人だよ」と、青白い顔の女が答えた。
少女は泣き叫んだ。その姿を見てエリザベスも泣き叫びたくなるような気がした。
「おやっ、ぴょん、ぴょん、はねているよ――ほら!」と、青い服を着た貧血症の女が元気づけようとして言った。「すてきだわね――ほら!」
右側の正面の上に、この世のものと思えないような色で強烈な光を放つ巨大な円盤がたえず回転しながら、現われては消え、消えては現われてくる文字をつづっていた。
(これを見て目まいがしませんか?)
ちょっと休んでつぎの文字が現われた。
(パーキンジの消化錠をどうぞ)
馬鹿でかい、ぞっとするような怒鳴り声がはじまった。「しゃれた文学がお好きでしたら、どうぞ、現代最高の大作家、現代最高の大思想家ブラグルズ氏にお電話ください。道徳をあなたの脳天に叩きこんで差し上げます。姿はソクラテスそっくり、ただし頭のうしろはシェイクスピア。足指が六本、赤い服を着、けっして歯をみがきません。さあ、かれの話を聞いてください!」
デントンの声がその音の合間にはっきり聞こえた。「ぼくはきみなんかと結婚するんじゃなかった」と、かれは言った。「きみの金、全部使って破産させてしまった。そして、きみをこんなみじめな目に遭わせてしまった。ぼくはほんとうに悪者だ……あー、なんという呪われた世界なんだろう!」
彼女は話そうとつとめた。しかし、しばらくの間、それができなかった。エリザベスは黙ってデントンの手をにぎった。「いいえ、あなた」とついに口をきいた。なかばまとまりかけていた願望が突然決意になった。彼女は立ち上がった。「ねえ、行ってみましょうよ」
かれも立ち上がった。「なにもぼくたち、今からすぐあそこへ行く必要はないだろう」
「いいえ、あそこではありませんわ。発着台に行っていただきたいの――わたしたちが会ったあの場所、わかって? あの小さな座席に」
かれはためらった。「行けるのかい?」と、かれは疑わしげにそう言った。
「でも行かなければなりませんわ」と、彼女は答えた。
いぜんとして、かれは躊躇した。
そういうわけで、ふたりは五年前にいつもデートしていた発着台の下の小さな座席に坐り、外気にふれながら、かれらの最後の自由な半日を過ごした。その場所でエリザベスはあのうるさい街路で語れなかったことを話した。彼女は今でも結婚したことを後悔していないと――どんな不愉快なみじめな生活がこれから待ち受けていても、今までどおり満足していると言った。天気までふたりに優しかった。座席は明るく日に照らされ暖かかった。頭上には光り輝く飛行機械が消えては現われた。
ついに日没に近づいて、かれらの時間は終りになった。ふたりはたがいに誓い合い、かたく手をにぎった。そして立ち上がり、都市への道を戻った。みすぼらしいうらぶれた姿の憂鬱なふたりは、空腹と疲れに足どりも重くなった。やがてかれらは労働公社を示す青白いマークのところにやってきた。しばらくの間、これを見つめながら道路の中央部分にたたずんでいた。ついに階段をおりてその待合室に入った。
労働公社はもともと慈善の組織であった。その目的は来訪者に食糧や宿泊所や仕事を世話することであった。このことを設立の絶対条件とし行なわなければならなかった。また仕事ができないので援助を求めたすべての人びとに食糧、宿泊所、医療を与えなければならなかった。その代償として、これらの人びとに労働券を振り出した。それはかれらの病気の回復ししだい労働で償還しなければならないというものである。かれらはこれらの労働券に拇印を押した。拇印は写真にとられ、分類・整理されて保管された。だから全世界にまたがるこの労働公社は、その二、三億の登録者から同じ指紋のやつを一時間ぐらいのうちに発見できた。
一日の労働は二交代制であった。それは電力を使って行なう単調な作業とか、またそれと同じたぐいの仕事であった。仕事はまじめにやることを法律によって強制されていた。実際には、労働公社は、法令で定められた食物と宿泊所を提供する義務のほかに、努力に対する刺激として一日あたり何ペンスかを与えるのが得策なのに気がついた。その事業は貧困を完全になくしたばかりでなく、事実上、きわめて高度の、そしてもっと重い責任をともなう労働以外のすべての労働を世界に供給したのである。世界のほとんど三分の一近くが揺り籠から墓場までその奴隷と債務者であった。
実際的ではあるが非情なこの方法によって、失業の問題がきわめて満足のいくように取りあつかわれて克服された。いかなる人も道ばたでもう餓えることはなかった。労働公社の衛生的な、しかし野暮ったい制服よりも、衛生的でなくかつ満足のいかない、いかなるボロ服も、いかなる衣裳も世界中のどこを探しても見当たらなくなってしまった。音声機械のテーマはいつもきまって世界が十九世紀以来いかに進歩したかということであった。なにしろ交通事故で殺されたり餓えで死んだりした遺体が交通量の多い街路ではざらであったということだ。
デントンとエリザベスはかれらの順番がくるまでふたりとも離れて坐っていた。そこに集まったほとんどの人びとは元気がなく口数も少なかった。しかし、派手な服装をした三人か四人の若者の姿が、その押し黙った静けさをなにか埋め合わせているみたいだった。かれらは労働公社の生涯の隷属者であった。つまり公社の託児所で育ち、その病院で死ぬべく運命づけられていた。かれらは数シリングかそこらの余分の金を持って飲みに外出し、ちょうど今、帰ってきたばかりだったのだ。かれらはそのころのロンドンなまりで大声を出し、騒々しくしゃべっていた。明らかに自分たちの身分をいかにも自慢しているかのような感じであった。
エリザベスの眼はこれらの人びとからもっとおとなしい人びとのほうに移った。そのうちのひとりがとりわけ彼女の眼に憐れに映った。年のころ、四十五歳ぐらいで、髪を金色に染め、厚化粧をしていたが、涙がとめどもなく流れていた。鼻はちんのようにつまって小さく、眼はひもじそうで、手や肩はやせ細っていた。そしてうす汚いすりきれたような派手な服は彼女のみじめな生活を物語っていた。別の人は灰色のひげをたくわえた老人であった。高監督派の主教の服装をしていた――なぜならば、宗教も今ではひとつの商売であって、当然にその浮き沈みがあったからである。その神父のそばに、いかにも病人らしいげっそりした表情の、年のころ二十二歳ぐらいの若者が運命をじっとねめつけていた。
やがてエリザベスが、ついでデントンが女支配人と面接した――なぜならば、公社は女性をこの地位に好んでつけたからである――その女支配人は精力的な顔をしていて、どこか人を見下げるようなところがあった。そしていやに不愉快な声を出してしゃべった。ふたりはさまざまな小切手を与えられた。その中には、頭を刈りつめる必要はないということを証明したものまでも含まれていた。拇印を押したとき、それに応じた番号をおそわった。そして、かれらのみすぼらしい中流階級の服を正式番号のついた青色の制服に着替えさせられた。それからかれらは、新しいこの境遇での最初の食事を取るためにとても広い、だが、なんの飾りもない食堂に行った。そのあとで、今後やらなければならない仕事について、いろいろの指示を受けるために女支配人のところに行くことになっていた。
服を着替えると、はじめエリザベスはデントンの姿を見るに忍びなかった。しかしデントンは彼女を見た。そして驚いた。というのは、青い服を着ても彼女はいぜんとして美しかったからである。やがて長いテーブルの上の小さなレールに乗ってスープとパンがやってきた。それがぴたりと目の前に止まるとかれはそんなこと忘れてしまった。なぜならば、ふたりとも三日間ちゃんとした食事を取っていなかったからである。
食事をすませたあとで、かれらはしばらく休んだ。ふたりとも口をきかなかった――言うべきことはなにもなかったからである。やがてふたりは立ち上がると女支配人のところに行き、これからしなければならない仕事をおそわった。
女支配人は便箋の紙を指して言った。
「あなたがたの部屋はここではありませんよ。ハイバリ区九十七号二〇一七番です。カードにそう記入しなさい。あなたの番号はね、○、○、○、タイプ七、六四、b、c、d、ガンマー四一、女性、勤務先は金属圧延トラスト、昼間の作業。仕事がうまくできたら四ペンスのボーナス。えーと、それからあなたは、○、七、一、タイプ四、七〇九、g、f、b、パイ九五、男性、あなたは八十一号通りの写真トラスト勤務、こまかいことは、ここではわからないから、向こうで訊きなさい――ボーナスは三ペンス。これがあなたがたのカード。これで説明は終り。つぎ! なんですって? わからないって? おやおや、またはじめっからやりなおすの。なぜ、ちゃんと聞いていないんですか? まったくいいかげんな人たちね! こういう手続上のことはもっとまじめに考えてくれなくちゃ困るわ!」
工場までの道はしばらくの間いっしょだった。ようやくふたりは話ができるようになった。とても奇妙なことであるが、こうして青い服を着るとふたりのあの絶望が通りすぎてしまったように思えた。デントンはこれからやる仕事についてさえ、興味をもって話をした。「それがどんな仕事であろうとね、ねえ、エリザベス」とかれは言った。「あの帽子のセールスよりは、いやじゃないはずだ。ディングスの費用を払っても、まだふたりで一日一ペニーは残るだろうね。これから先――仕事がうまくやれれば――もっとお金が入るさ」
エリザベスは話したがらなかった。「仕事って、なぜこんなにいやに思えるのか、不思議だわ」と言った。
「ほんとうに不思議だ」とデントンが言った。「しかし、実際にはそうでもないんだろなあ。あれこれ上のほうからうるさく言われるんじゃないかという気さえなければね……監督が口うるさくない、親切な人だったらいいんだけど」
エリザベスは答えなかった。彼女はそんなこと考えていなかった。ただ、彼女自身についてのある考えを心の中で追っていた。
「でも当然だわ」と、やがて彼女は言った。「これまで、なんでも仕事は人にやらせてきたんですもの、公平なんだわ――」
彼女は立ち止まった。あまりにもこれは込み入った問題であった。
「そうだ、罰を受けたんだ」とデントンが言った。なぜならば、あのころ、こういったむずかしい問題についてまったく心をわずらわさなかったからである。
「しかし、ぼくたち、別に悪いことはなにもしなかった――それなのに、罰を受けた。そのへんがわからないな」
「ともかく、あなた、罰を受けているのよ」と、エリザベスが言った――彼女の神学はいかにも古風で単純だった。
やがて別れなければならないときがきた。それでふたりはそれぞれの工場に向かった。デントンの仕事はひじょうに複雑な水圧機の機械番であった。それはまるで知性を持った生きものであった。海水によって動かされていた。そして使用ずみの海水は都市の下水路に流された――なぜならば、飲料水になる水をわざわざ下水に流すような愚をやめてからだいぶたっているからだ。海水は巨大な水路によってロンドンの東のはずれの近いところに運ばれる。そして巨大なポンプで海面から四百フィートの高さにある――それから何兆という送水路を通って全市に供給される――タンクに吸い上げられる。そして、タンクからこの水が流れおち、浄水され、どっと流れてあらゆる種類の機械を動かし、それこそさまざまな毛管水路を通って巨大な排水路――大下水道――に流れこむ。そのようにしてまた下水の汚物もロンドン周辺の農業地帯へ運びこまれることになる。
その水圧機は写真をつくる過程において使用されていた。しかし、その過程の性質がどういうものかを知ろうと思うほどデントンには関心がなかった。かれの心を最も印象づけた事実はその製造過程がルビー色の真っ赤な光のもとで行なわれなければならないということであった。だから、かれが働いていた部屋には一個の色のついた電球があって、それが部屋中いっぱいにものすごい、息苦しい光線をあびせかけていた。しかも、その水圧機は部屋のいちばん暗いところにそびえていた。その機械番にデントンがなったのである。それはぼうと薄暗いちかちか光る巨大な物体で、突き出したフードがついており、遠くで人がおじぎをしているように、また仕事の必要のためとはいいながら、この世のものでないような光の中にうずくまる金属製の仏像のようにも見えた。だからデントンをあるムードの中にひたらせたのである。
つまり、この機械があの暗い、かつて人間が奇妙な倒錯におちいって、そのため生命まで捧げた偶像でなければならないかのように思われたのだ。
作業そのものは単調であったが、しかし、変化はあった。つぎに述べるようなかずかずのことがらはかれの仕事のあらましを伝えるであろう。水圧機はうまく作動しているときはたえずカチ、カチ、カチ、カチという音を立てていた。しかし、もし、ペーストの質に変化があると――それは別室から運搬装置によって注ぎこまれ、それを水圧機がたえず薄い板状に圧縮しているわけだが――そのカチ、カチ、カチ、カチという音のリズムが乱れる、するとデントンが急いで調節したのである。ちょっとおくれてもぺーストを無駄にし、かれの日給のうち何ペンスかが減らされる。ペーストの供給が少なくなってくると――というのは、ペーストの製造にはある特殊な手作業があって、ときどき作業員の調子によって、その生産がおちるということがあるので――デントンは機械を止めなければならなかった。そのつらい見張りにはこまごまとした多くの気づかいが入った。たしかにつらかった。なぜならば、あまり興味の持てない単調な努力をたえず必要とする仕事であったからだ。デントンは今や一日の三分の一をその仕事で過ごさなければならなかった。ときどきやってくる監督をのぞいて――かれは親切であったが、とても口汚い男であった――デントンはひとりでその仕事をやっていた。
エリザベスのほうの仕事はそれよりはもうすこしおおぜいの人びとにかこまれてやる仕事であった。そのころ、ひとつの流行があった。それは金持ちの連中の住んでいるアパートの部屋を美しい金属板で張りつめることであるが、それには美しい繰り返し模様が浮き彫りにされていた。しかしながら、当時の好みとして、繰り返し模様はきちんとしていてはならない――機械的ではなく「自然で」なければならなかった――しかも、こういう最も喜ばれる不規則な模様は洗練された、自然のままの趣味を持つ婦人が小さな穿孔器を使用してはじめてつくり出されるのだということがわかっていた。エリザベスにはノルマとして何平方フィートかの金属板を打ち抜くことが要求された。そして彼女が余分にやった仕事にはわずかながら報酬が与えられた。その仕事場は、婦人労働者のほとんどの仕事場と同様、ひとりの女監督のもとにおかれていた。男性の監督では微温的になるし、とくに気に入った女性には甘くなる。労働公社はそれをよく知っていたわけである。その女監督は不親切ではなかったけれども無口な人で、まだブルーネット・タイプの美人の面影がその固い表情に残っていた。ほかの婦人労働者たちは――もちろん、女監督のことをすごくいやがっていたが――彼女の現在の地位を説明して、作業指導員のうちのある人とおかしな関係があるからだとしゃべっていた。
エリザベスの仲間のうち、わずか二、三人だけが生まれながらの労働公社の隷属者であった。ほかの者はふつうのむっつり押し黙った人たちである。だが、彼女たちのほとんど全部は、十九世紀だったらさしづめ「落ちぶれた」貴婦人とでも呼ばれた人たちであったろう。しかし、貴婦人の理想像は変わった。古風な貴婦人の、あのひめやかな、消え入るような、引っこみ思案の美徳、うっとりした声と控えめな物腰は地上からもう姿を消してしまった。エリザベスの仲間のほとんどは、髪の毛は色あせ、顔はがさがさしていた。なにかというと過ぎ去った昔のことを話したがり、勝ち誇った若さの栄光などとっくに消えていた。これらの芸術的な労働者はエリザベスよりもずっと年上であった。そしてそのうちのふたりが彼女を見て、これほど若くて気持ちのよい人がなぜ自分たちと同じ苦労をともにしなければならないのかと、とても驚いていた。
彼女たちはたがいにしゃべることを許されていた。いや、奨励さえされていたのである。なぜならば、彼女たちのムードに変化をもたらすものはなんであれ、その模様づくりに好ましい影響を与えるだろうということをよく理解していたからである。だからエリザベスはこれらの人びとの身上話をいやでも聞かされるはめになり、当然また自分のことも話した。
そういう話というものは、実際には虚栄心によってかなり曲げられゆがめられていたけれども、しかしながらじゅうぶん理解できるものであった。とかくするうちに、エリザベスは、彼女のまわりに張りめぐらされたささいな意地悪とか派閥、ちょっとした誤解とか仲のいいグループなどができていることを知りはじめた。ひとりの婦人は自分の息子の自慢話を、聞いていていやになるぐらい熱心にしゃべっていた。またほかの婦人はわざと馬鹿げた話をして下卑たところを見せていた。それがなにか最も気のきいた個性の表現だと思っているように見えた。三番目の婦人はいつもドレスのことばかり考えていた。そしてエリザベスにささやいたことは、いかにして毎日、金をためるか、そのうち晴れて自由の身になったらドレスを着て――というような調子で何時間もの間その説明ばかりしていた。ほかのあるふたりの婦人はいつもいっしょに座っていた。そしてたがいに愛称で呼び合っていた。ところがいつの間にか、ささいなことからふたりは離ればなれに坐り、たがいに見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしていた。
さて彼女たちの働いている作業場からは、たえず、タン、タン、タンと軽くもの打つ音が聞こえてきた。女監督はいつもだれかが手を休めていないかと耳をすましていた。タン、タン、タン、そのように彼女たちの日々は過ぎた。またそのように彼女たちの日々は過ぎていかねばならなかったのだ。エリザベスは彼女たちにまじって仕事をしていた。心優しく、静かに、心を曇らせ、運命の力に驚きながら。タン、タン、タン、タン、タン、タン、タン……と。
こんな具合にデントンとエリザベスには長い労働の日々がつづいた。その労働はふたりの手をかたくした。今までのふたりの生活から生まれたあの柔和な子供らしさになにか新しいもっと強靭な、奇妙な性質の糸を織りこんだ。またかれらの表情には影がやどり、きびしい線が彫りこまれていた。以前の明るい便利な生活様式は、はるかかなたに遠のいてしまった。ゆっくりとふたりは、下層社会の陰気なごつごつした、幅広い、含蓄にとんだ教訓をまなんだ。多くの小さな問題が生じた。語るにはあまりにも退屈でみじめな問題、聞くにはあまりにもつらく悲しい問題である――侮辱、暴虐……こういうふうに都市に住む貧乏人たちのパンは味つけされているのだ。
ひとつのことが起きた。それはふたりにとってけっして小さなことではない。いや、それどころか、ふたりの人生を真っ暗闇に突きおとしたにひとしい。ふたりの間に生まれた愛の結晶ディングスが病気になって死んでしまったのである。しかし、そのような話、たえず昔から繰り返されているそのような話は、これまでいくたびともなく話され、これまでひじょうに美しく語られているので、ここにまた繰り返して話す必要もあるまい。身を切るような恐怖、耐えられないほど長い不安、引きのばされても避けることのできない打撃、そして暗黒の沈黙、そういうものは常に存在している。それはこれまで常にそうだった。これからも常にそうであろう。それは必然的なことがらのひとつであったのだ。
胸の痛む沈滞しきったうつろな何日かをへて、最初に口をきいたのはエリザベスであった。もう名前とは言えぬ馬鹿らしい小さな記号のふたりのことではなく、彼女の心をおおっていた暗闇についてであった。ふたりはロンドンのあのけたたましい騒音にみちた道の中をいっしょに歩いていた。さまざまの売りこみの声、かん高い声を上げてきそい合う宗教家の叫び、わめくような政治家の宣伝――そういうもろもろの喧騒がつんぼになった耳をさらに激しく打った。一点に集中させられたライトの輝き、踊る文字、燃える火のような広告は、だれにもかえりみられないふたりのあのこわばったみじめな顔を照らし出していた。
かれらは同じ食堂で離ればなれに夕食を取った。「わたしね」と、エリザベスはぎこちなく言った。「あの発着台に行ってみたいの、あの小さな座席に。ここではなんにも話できませんわ……」
デントンは彼女を見つめた。「でも、エリザベス、もう日が暮れちゃうよ」
「人に聞いたら――今夜、お天気ですって」と、言って彼女は口をつぐんだ。
かれには彼女が自分の気持をよく説明する言葉が見つからないでいるのがわかった。しかし、突然、かれにはわかった。そうだ、エリザベスはもう一度、星空を見たがっていたのだ。五年前、あの野蛮なハネムーンのとき、広びろとした丘陵からいっしょに見た星をまた見たがっていたのだ。なにかのどにつかえる思いがした。かれはエリザベスから視線をそらした。
「そう、行く時間はたっぷりあるだろう」と、さりげない調子で言った。
とうとうふたりは発着台の小さな座席のところにやってきた。長い間、そこにふたりはならんで黙って腰をおろしていた。小さな座席は暗かった。しかし、天頂は頭上の発着台のライトの輝きで青白かった。眼下にはロンドンが一望のもとに広がっていた。四角、円、さまざまな形の輝きが光の網目細工の中にとらえられていた。小さな星がかすかに見えた。昔の観測者にとって星は身近であったが、今やはるかに遠い存在となった。しかしながら照明の輝きの合間にわずかにのぞく暗い空の部分に星を見ることができるであろう。とくに北の空に、太古の昔から変わることのない星座が極をめぐって着実に粘りづよく運行していた。
ふたりは長いあいだ黙って坐っていた。ついにエリザベスがため息をついた。「わからないわ」と彼女が言った。「ほんとうに、わたし、理解できないの。この地上にいると、都会がすべてのように思われるの――あの騒がしい音、あのせわしなさ、あの声――みんな生きなければならない、みんな争わなければならない、って叫んでいるみたいだわ、でも、ここでは――そんなものはなんにもないわ。みんなどこかに過ぎ去ってしまったみたいだわ。なんだかとても平和に考えることができるの」
「そうだ、そのとおりだ」とデントンが言った。「この世なんて、実にはかないもんだ! ここから見ると、ほら、半分以上のものが夜に呑みこまれてしまっているじゃないか……いつかはね、みな過ぎ去ってしまうんだ」
「でも、最初に過ぎ去ってしまうのはわたしたちじゃなくて」とエリザベスが言った。
「わかっているよ」とデントンが答えた。「人生が一瞬でないにしても、歴史全体なんて一日の出来事みたいなもんだろう……そうだ――ぼくたちは過ぎ去ってしまうんだ。ロンドンも過ぎ去ってしまうんだ。これからやってくるものすべて過ぎ去ってしまうのだ。人間だろうと、超人であろうと、なんだかわけのわからないものであろうと、みんな過ぎ去ってしまうのだ。しかし……」
かれは話をやめた。それからまたはじめた。「わかっているよ、エリザベス。きみがどう思っているかをね。少なくとも想像はできるよ……あの地上では、みんな、自分の仕事を考えている。それから、ささいな悩み、楽しみ、食べもの、飲みもの、くつろぎ、そして苦痛をね。人は生きる、しかし、やがて死ななければならない。あそこでは、そして毎日、毎日が――ぼくたちの悲しみは人生の終りのように思われているのだ……
ところが、ここではちがうよ、エリザベス。地上では、恐ろしいほど醜かったら、恐ろしいほどびっこだったら、そして恥ずかしめを受けたら、生きていくのはとても不可能のように思われるだろう。しかし、ここでは――この星空の下では――そのどれも、問題にはならない。そんなことどうということはないんだ……それらはなにかの一部にすぎないんだ。人はまさにそのなにかにふれたように思えるだろう――この星空の下で」
かれは口をつぐんだ。かれの心の中にあるまだ実体のない漠然としたもの、なかば思想になりかかっているが、まだ雲のように茫漠としている情緒、それは言葉で大雑把でもいいからつかもうとするとぱっと消えてしまう。
「表現するのがとてもむずかしいな」とかれはうらめしげに言った。
その後、ふたりは長い間、静かに坐っていた。
「ねえ、エリザベス、ここにきてよかったね」とデントンが言った。「ぼくたちはね、結局、行きづまるのさ――ぼくたちの心はまったく限られたものでしかないんだ。とりわけ、ぼくたち人間なんて、まったく哀れな動物なんだなあ。野獣からようやっと身を起こした哀れな動物なんだ。めいめい心は持っている、芽ばえたばっかしの心をね。ぼくたち、とても愚かなんだ、それにとても傷つきやすい。でも……」
「わかるわよ、デントン、わかるわ――いつか、でもきっと、わたしたち目覚めるでしょう」
「そうだ、この身の毛のよだつ恐ろしい緊張、この軋轢《あつれき》が消えて調和の世界が生まれなければならないんだ。いずれ、ぼくたち、そうなることを知るだろう。どんなことでもそれに役立つはずだ。なんでもだ。すべての失敗も――すべての小さな失敗でも、あの調和の誕生に役立つだろう。あらゆることがそれに必要なのだということを、ぼくたちは発見するだろう。どんなものでも、最も恐ろしいものでさえも、無視することはできないんだ。最もつまらないものでも。真鍮板を叩くきみのハンマーのあの音でもだ。仕事のすべての瞬間も、いや、ぼくの怠慢でさえも……いとしい子よ! ぼくたちのかわいそうな幼子のひとつひとつのあの身ぶりさえも。こういったものはすべて永久に役立つだろう。そしてかすかな実体のないものでも。ここにこうして坐っているぼくたちもだ――すべてのものが……
ぼくたちふたりを結びつけた情熱、それから、今までぼくたちの間に起きたこと。いや、今は情熱ではない。ほかのなんにもまして悲しいことだった可愛い……」
かれはもうそれ以上言えなくなってしまった。かれの考えをそれ以上おし進めることはできなくなってしまった。
エリザベスは答えなかった――彼女は静かに坐っていた。しかし、やがて、デントンの手を探り、しっかりとにぎった。
[#改ページ]
四 地底にて
満天の星空を仰ぎ、思いをはるか無限の宇宙にはせれば、たとえどんないやなことがあっても、深い諦念の境地に達することができるであろう。しかし、日々の仕事の熱気と緊張の中でわたくしたちはまたもやあえいでしまう。気がむかつき、腹が立ち、我慢できない状態になる。ああ、なんとわたくしたちの雅量のせまいことよ!――ちょっとしたことで、ささいな状況の変化で、どうしてこうもたあいなく変わるものなのか!
それゆえ、昔の聖者はまずこの世から逃れなければならなかった。しかし、若いデントンとエリザベスはこの世界から逃れられなかった。もはやこの世界には拘束されない自由の天地なんて存在しなかった。いかに困難であろうと、人間が自由に生き、静かに憩える、そういう土地への道はすべて閉ざされてしまった。巨大都市は人類を完全に呑みこんでしまったのである。
しばらくの間、これらふたりの労働奴隷は最初の仕事をしていた。エリザベスは真鍮板の模様づくり、デントンは水圧機の番をしていた。その後、かれに配置換えの指示があった。それはかれにこの巨大都市の地下における新しい、だが、前よりもきびしい経験をもたらした。かれはロンドン・タイル・トラスト中央工場にある、前よりもいくぶん精巧な水圧機の機械番にまわされたのである。
この新しい境遇では、かれは円天井の長方形の作業場で、大部分、生まれながらの労働奴隷である連中といっしょに仕事をしなければならなかった。デントンはいやいやながらこの連中の仲間になった。かれの育ちはよかった。だから、運命がかれにあの作業衣を着せるまでは、かれは生活においては命令を与えるか、あるいは直接の用事以外、青い作業衣を着た白い顔の連中には口をきいたことがなかった。ところがついに接触せざるをえなくなった。ともに働き、道具もいっしょに使い、食事もまたいっしょであった。このことはエリザベスとデントンのふたりにいよいよもって落ちぶれてしまったという気持を味わわせたであろう。
かれの趣味は十九世紀の人びとからみると極端に思われるかもしれない。しかし、ゆっくりと避けようもなく、その間の長い歳月において、大きな割れ目が青い作業衣を着た連中と上のほうにいる階級の連中とのあいだに起きつつあった。しかも、その相違は単に生活の境遇や習慣だけではなかった。それは考え方の習慣――言葉の習慣にまでおよんだ。地下に住む連中はかれら自身の方言さえも発達させた。地上の連中も特有の方言、思想の法典、それから「教養のある」言葉を生み出した。そして新しい差別をせっせと追求することによって、かれら自身の教養と地下の連中の「野卑」との間をたえず広げようとしていた。そこへきて、昔からあった共通の信仰という絆も、もはや人類を結びつけることができなくなってしまった。十九世紀の世紀末の数年間、有閑階級のあいだには、これまであった宗教の教えを曲げて秘教化しようという運動がえらく流行した。その注解と解釈はナザレの大工だったキリストのあの幅広い教えを金持ち階級だけに役立つきわめて狭い教えにしてしまった。
さて、古風な生活様式に対するふたりの好みにもかかわらず、エリザベスもデントンも、その環境が与える暗示から脱却できるだけの独創力はもちろん持っていなかった。日常の行為の問題にしても、ふたりはかれらの生まれた階級のやり方にしたがっていた。だから、ふたりがとうとう労働奴隷の身分に落ちぶれたとき、それは身の毛のよだつ動物の世界にでも落ちこんだように思われたろう。かれらは、十九世紀の公爵夫妻がジャーゴウのあいだに間借りを強制されたときに感ずる気持を味わったであろう。
ふたりの最初の気持は労働奴隷たちと「距離」をたもとうということであった。しかし、デントンの最初の考えは自分の周囲に対し名誉ある孤立を守ることであったが、それもやがて現実の前に荒々しく吹きとばされてしまった。かれは自分が労働奴隷の身分に落ちたということは、かれにとって最初の教訓であると思った。またかれらの可愛い娘が死んだとき、ほんとうに人生の底の深さを測りつくした思いがした。しかし、実際には、これらのことは始まりにすぎなかった。人生というものは、とうてい我慢できないことをこれでもかこれでもかと要求してくるものである。そして今、かれは、部屋にあふれんばかりにいる機械番たちにまじって、もっと幅広い教訓をまなびとろうとしていた。そしてまた人生におけるほかの要素、最愛のものを失ったのと同じくらい本来的な要素、労苦以上でさえある根源的な要素をまさに知ろうとしていた。
かれの、なんというか話に水をさすような態度がみんなの不興を買ったのだ――おそらく馬鹿にしているとでも思ったのであろう。かれは卑俗な言葉など知らないということを自分のひとつの誇りに思っていたが、それがはからずもひとつの新しい問題をひき起こすにいたったのである。かれの姿を見て、声をかけてきた荒っぽくて愚かであるが親しみのこもった連中に対して取ったかれの態度は、そういう連中になにか横っつらでもはられたかのような感じを与えたということが、かれにはすぐわからなかったのである。「わからないね」とかれはいくぶん冷たく言った。そしてあてずっぽに、「いや、いいんだよ」と返事したりした。
かれに話しかけた男は目を丸くし、にらみつけ、顔をそむけた。
二番目の男は、自分の言ったことがデントンにわからないとみるやもう一度繰り返して言った。それでデントンは、相手がオイル罐を使ってもいいと言っているのに気がついた。デントンはていねいに礼を言った。するとこの男は見すかすような話をはじめた。あんたは上流階級の人間だったんだろう、と言った。そして、なんで青い服を着るようになったのか知りたがった。明らかにかれは、デントンから悪事とか放蕩とかの勝手気ままの面白い話でも聞けるのかと思っていたのであろう。快楽の町で遊んだことがあったんだろうなあ、などと訊いた。デントンにはすぐにわかったが、これらの快楽の町の存在なるものが、地底で働く不本意な、希望のまったくない生活を送る労働者の考えと自尊心をいかに深く傷つけているかを知った。
貴族的な気性のデントンにとって、こういう質問はきわめて不愉快であった。「いや、そんなことはないよ」と、かれはいかにもぶっきら棒に答えた。しかしながら、その男はなおもしつこく訊いてきた。今度はデントンのほうが顔をそむけた。
「ちえ、畜生!」と、相手がひどく驚いたように言った。
やがてデントンにもその様子がわかってきたのであるが、このちょっとした話が、これまでのデントンにいたく同情していた連中にいまいましげに繰り返して伝えられてゆき、それが、へえ、そうかい、という驚きと皮肉な笑いをまき起こしていったのである。かれらはデントンのことを一段と興味ある眼つきで眺めるようになった。奇妙な孤立感がしだいにきざしはじめた。そのためかれは、番をしている水圧機とその珍しい特性のことしか考えないようにつとめた――
一回目の作業時間中はだれでも機械のために忙しく立ち働かされる。それから休みがやってくる。それはほんの一息入れる時間しかなく、あまりにも短いので、だれも食堂へ行く暇はなかった。デントンは仲間といっしょに短い廊下へ出た。そこにはプレスから出た屑だとか箱がたくさん置かれていた。めいめい食べものの包みを取り出した。しかし、デントンだけはそれを持っていなかった。職場監督が――かれは有力者の縁故でその地位についた不注意な若者であった――デントンにこの食べものの支給手続きを取るのを忘れてしまったのである。かれだけひとり、すきっ腹をかかえて離れて立っていた。ほかの連中はひとかたまりになって低い声で、ときどきデントンのほうをちらっ、ちらっと見ながらしゃべっていた。かれは不安になってきた。知らん顔をしていることもしだいに骨が折れてきた。かれは自分の扱っている新しい水圧機のレバー装置のことを考えるようにつとめた。
やがてひとりの男が――デントンより背は低いが肩幅の広い、がっちりした男が近づいてきた。デントンはなるべく無関心をよそおってかれのほうを向いた。「ほらっ!」と、その代表が――デントンはかれのことをそう判断したが――あまりきれいでない手にひとかたまりのパンをひとつ差し出した。色の浅黒い、ぺちゃんこな鼻をしていて、口もとが一方にたれさがっていた。
デントンはこれが親切なのか、あるいは軽蔑なのか一瞬とまどった。かれは気がすすまなかったので言った。「いや、ありがとう。でも、ぼくはいいんだよ」すると、その男の顔がみるみるうちに変わっていったので、「お腹へっていないからね」と、つけ加えた。
そのとき、うしろにいたグループから笑い声が起こった。「そらみろ、言わねえこっちゃねえじゃねえか」とデントンにオイル罐を貸した男が言った。「お高えんだよ、そいつは。はっはあ、おめえなんて、およびじゃねんだよ」
浅黒い顔色がよけいに黒ずんできた。
「ほら」と、パンをぐっと差し出し、どすのきいた低い声で「おめえ、これ、食わなくちゃなんねえ、わかったか?」と言った。
デントンは眼の前で脅かす奴の顔をじっと見つめた。すると妙にエネルギッシュな力がぶるっと手足や体に流れた。
「いや、ぼく、いらないよ」と、作り笑いをしながら言ったが、顔はなんだかひきつれてさまにならなかった。
ずんぐりした男は顔を近づけた。すると手にしたそのパンまでいよいよひとつの脅かしに見えてきた。デントンの心は相手の敵意に反応した。
「おい、これを食うんだ」と浅黒い男は言った。
ちょっとの間、沈黙がつづいた。とたん、両方が素早く動き出した。パンのかたまりが妙なカーヴをえがいて飛んだ。当然、デントンの顔にあたるところだったが、デントンのこぶしが一瞬早くパンを握っていた手首を払ったのである。だからパンは上のほうに飛んで、一役演じたその争いから姿を消してしまった。
デントンは素早くうしろへ飛びすさり、こぶしを固く握って、両手をしっかりとかまえた。相手の紅潮した、暗い顔色もうしろへさがり、油断のない敵意を浮かべ、しきりにチャンスをうかがっていた。一瞬、デントンは自信を感じ、奇妙に浮き浮きと冴えてきた。心臓がどきどき脈打ち、全身に活力がみなぎり、足のつまさきまで熱くなった。
「さあ、やった」と、だれかが怒鳴った。
すると、色の浅黒い奴が前におどり出した。そしてすぐうしろへひき、ななめに身をかわし、また突っこんできた。デントンは打って出たが殴りかえされた。片方の目をつぶされたようだ。相手の口もとに一発入れたがまた殴り返された――今度はあごの下をがん、と打たれた。火の針がぱっとたくさん扇形に大きく散った。一瞬、頭がこなごなになったと思った。そのとたん、うしろから頭や背中をなにかにいやっというほど叩きつけられた。すっと意識を失った。デントンは何秒か、あるいは何分か、なにごとも起きない抽象的な時間が過ぎたのに気がついた。かれは灰の中に頭を突っこんでころがっていた。湿った、温かいものが首すじをすっと走った。最初のショックがとぎれとぎれの意識の中に押しこんできた。頭ががんがん鳴り、眼はしきりにぴくぴく激しくふるえた。口の中は血でいっぱいであった。
「いや、奴は大丈夫だ」と言う声がした。「眼があきかかっているからなあ」
「ふん、ざま見やがれ――いい気味だ」
仲間たちはかれをぐるりと取りまいて突っ立っていた。かれはなんとかからだを起こすことができた。頭のうしろに手をやった。すると髪の毛がしっとりと湿って灰だらけであった。その姿に笑い声が上がった。片目は半分つぶれていた。かれはどうしたのかわかった。自分の頭をかすめたあの最終的な勝利の期待はあえなく消え去ってしまったのである。
「おい、見ろ。どうでえ、このたまげたようなつら」と、だれかが言った。
「ところで、パンはもうたくさんかね?」としゃれを飛ばし、それから、デントンの上手なアクセントをまねして「いや、ありがとう、でも、ぼくはいいんだよ」とつけたした。
デントンは色の浅黒い例の男が血に染まったハンカチを顔にあて、少しほかの連中よりうしろに立っているのが見えた。
「おい、こいつに食わそうとしたパン、どこへいっちまったかな」とイタチのような顔をした小男が言った。そしてそばにあった箱の中の灰に足を突っこんで探していた。
最初のとき、かれは心の中で思った。男たるもの戦いをはじめた以上、とことんまでやらねばならないと。しかし、やってはみたけれど、これはかれにとって苦々しい最初の経験であった。かれはまたもや立ち上がろうとした。しかし、情熱的な衝動は湧いてこなかった。そのとき、かれは思った――それは激しい鼓舞ではなかった――結局、自分は臆病者だったんだと。
瞬間、かれの意志は重く、まさに鉛のかたまりのようであった。
「あっ、あったぞ」とイタチづらした例の小男が叫び、身をかがめて燃えがらのような四角いかたまりを拾い上げた。かれはデントンを、それからほかの連中を見た。
ゆっくりと、いやいやながらデントンは立ち上がった。
下品な顔つきをしたシラコの男が手をイタチづらの小男のほうにのばした。
「おい、そいつをこっちへよこしな」と言った。かれはパンを手に持って、脅かすようにデントンのほうに近づいてきた。「ねえ、おまえさん。腹がいっぱいって言うんじゃねんだろうな」と言った。「どうなんだい?」
いよいよまたきた。「いっぱいさ」と、デントンが答えた。そして息を深く吸いこみ、ぶちのめされない前に、このけだものの耳のつけねのあたりを殴りつけてやろうと決意した。どうせまたぶちのめされるんだ、と思った。デントンは自分自身の力をいかに過信していたか、今さらながら驚いた。何回か、馬鹿げた突進を繰り返し結局ダウンだ。まあ、そんなところがおちなんだろう。かれはシラコの眼をにらんだ。シラコは自信ありげににっと笑った。それは愉快ないたずらをもくろんでいる男みたいであった。突然の屈辱を予感してデントンははっとした。
「おい、ジム。やめな、そいつに手を出しちゃならねえぞ」と、色の浅黒い男が突然、血に染まった布を顔にあてたままそう言った。「おめえと、関係のねえこったからな」
シラコのにっとした笑いが顔から消えた。かれは立ち止まった。そしてデントンと色の浅黒い男の顔をかわるがわる見つめた。それはあの浅黒い男が自分を袋叩きにする特権を要求しているようにデントンには思えた。シラコにやられるほうがまだましだろうに。
「おい、そいつのこと放っとけ」と浅黒い男が言った。「わかってんだろうな、おめえ? そいつ、だいぶ痛めつけられてんの」
そのとき作業開始のベルがけたたましく鳴りひびいて、その声をかき消した。かくてこの場はこれでひとまずおさまった。「運のいい野郎だな、おめえは」と、なにか下品な隠語を言いたしながら、くるりと背を向けてほかの連中といっしょに作業場のほうへ歩き出した。すると――思い出したように――肩ごしに、「いいか、仕事がおわったら、おぼえていろよ、おい兄弟」と言った。色の浅黒い男はシラコがさきに出るまで待っていた。デントンは刑の執行が延期されたのに気がついた。
作業員は開いているドアのほうに向かった。デントンも仕事のことを思い出した。そして列のしんがりにつこうとして急いだ。円天井の長方形の作業場の入口で、作業員を監視する警官が立ってカードをいちいちチェックしていた。警官は色の浅黒い男の出血を見て見ぬふりをしていた。
「急がんか!」と、デントンに叫んだ。
「おい、ちょっと待て!」と、かれはデントンの顔の傷を見て言った。「いったいだれが、おまえを殴ったんだ?」
「これは、ぼくの私的なことですよ」とデントンは言った。
「いや、そんなことで、おまえの能率がさがったら、どうなるんだ」と黄色い服を着た男は言った。「それを忘れちゃいかんぞ」
デントンは返事をしなかった。自分はどうせ暴漢――労働者にすぎない。青い服を着ているのだ。暴力行為の処罰の法律なんて自分のような人間にはどうせないにもひとしいということを知っていた。それで機械のほうへ歩いていった。
ひたいやあごや頭がはれ上がって、それは見事な打撲症となっているのがよくわかった。はれ上がった打撲症はずきずき痛んだ。神経も無感覚になっていた。機械の調節のためにからだを動かすごとに、なにか重い物を持ち上げるような感じがした。かれの自尊心のほうはというと――これまたずきずき痛んで息切れしていた。どんな具合に立ち向かったのか? この十分間に正確に言ってなにが起きたのか? つぎになにが起きるのか? 考えなければならないひじょうに多くの問題があるのがわかった。だが、かれには断片的にしか考えられなかった。
かれは沈みがちになりながらも今さらながら一種の驚きの渦中にあったのである。これまでのすべての観念が完全にくずれ去ってしまった。かれは暴力からの安全なんて自分には生得的なもの、人生の条件のひとつと思っていたのである。かれが中流階級の服を着、かれの安全に役立つ中流階級の財産を持っていたときは実際そうであった。しかし、労働者のならず者同士の喧嘩にいったいだれが仲裁に入るというのか? 事実、この時代にはだれも入らなかった。地底の世界においては、人と人との間に法律なんてなかった。かれらにとって国家の法律と機構なんていうものは、たかがかれらを押えつけるだけのものであった。かれらを多くの望ましい財産と楽しみから遠ざけるだけのものであった。そして、それがすべてであったのだ。暴力――野獣が永久に棲むあの大洋、そして多くの防禦手段と装置がそういうものからわたくしたちのきわどい文明生活を守っているけれども――それはふたたび沈みつつある地底の世界に流れこんで、かれらを水没させてしまったのである。鉄拳がすべてを支配した。デントンはついに根源的な世界に落ちこんだ――鉄拳と策略と頑《かたくな》な心と仲間意識の支配するまさに原始の世界に落ちこんだのだ。
機械の調子がおかしかった。それでかれの考えは中断された。
やがてまた考えることができるようになった。なんとも奇妙なことどもが、あっという間に起きたもんだ! かれはさほどはっきりした悪意でなくかれを打ちのめしたこれらの人びとを許した。たしかに、打撲症は負わされた。しかし、眼は開かれた。今やかれは絶対的な公平さで、自分がなぜ不人気なのか、その理由を知ることができた。自分は馬鹿者だったのだ。尊大な態度、孤高、それは強者の特権なのだ。およそ没落貴族ぐらい憐れな人種はほかにないだろう。かれらはこの騒々しい世の中で、今でも昔の名声にしがみつき、見栄だけ張って生きている。ほんとうに! どうして自分にこれらの人びとを軽蔑することができるだろうか?
なんとも情ないことだ、こんなことがわずか五時間前にわからなかったとは!
作業時間が終わったらなにが起きるだろうか? かれにはわからなかった。これらの人びとの考えは想像もできなかった。ただ、かれらが自分に敵意を持ち、同情心なんて全然ないことだけはわかった。ありうるであろう屈辱と暴力の光景がぼんやり心の中にゆき交った。なにか武器をこしらえられないだろうか? 催眠術師に対するあの攻撃を思いだした。しかし、ここには、ひきちぎれるランプなんてない。かれを守る武器はなにも見当たらなかった。
しばらくの間、この作業がおわったら一目散に公道に逃げ出すことを考えていた。しかし、自尊心などというつまらない考慮を別としても、そんなことは事態を愚かに延期するだけで、かえってことを悪くすると思った。かれはあのイタチづらをした男とシラコがたがいに話しながら眼をかれのほうに向けているのを認めた。やがてかれらは色の浅黒い男と話していた。かれはわざと肩幅の広い背中をデントンのほうに向けていた。
とうとう二番目の作業時間の終りがきた。オイル罐を貸してくれた男はぱたんと機械をとめ、口を手の甲で拭きながら、ぐるりとこちらのほうを向いた。かれの眼は映画館で席に腰をおろすときの人のように静かな期待感にあふれていた。
危機が迫った。デントンのからだのすみずみの神経までぴりぴりふるえているように思えた。もし新しい屈辱が加えられたならば、戦おうと決意した。機械をとめ、うしろにぐるりと向いた。そして、さり気ないふりして、円天井の作業場を通り、灰落しの穴のならんでいる廊下に出た。すると上着を忘れてきたのに気がついた。作業場が暑苦しかったので思わず脱いでしまった。それで取りに戻った。シラコと目と目がぶつかった。
そのときイタチづらした男がさかんにまくし立てているのが聞こえた。「おい、そりゃ、ぜったい、奴に食わすべきだ」と、イタチづらした男が言った。「あの野郎、やりやがったんだからな」
「いや、おめえ、黙ってろ」と色の浅黒い男が言った。
どうもその日はそれ以上のことはなにも起こらないらしい。かれは廊下に出た。それからロンドンの動くプラットフォームに通じる階段をのぼっていった。
やがてかれは鉛色の光を放ち、流れるように動く公道に出た。自分のゆがんだ顔がすごく気になり出した。そして気の抜けた探るような手つきで、はれ上がった傷をさわってみた。いちばん早いプラットフォームのほうに行って、公社用のベンチに腰をおろした。
いつの間にかもの哀しい気持に沈んでじっとしていた。さし迫った危険と緊張をはっきりと身に感じた。かれらは明日、どう出るだろうか? かれにはわからなかった。エリザベスは、自分がけだもののようになったのをどう思うだろうか? それもわからなかった。かれは疲れ切っていた。うとうとしていると腕をつかまれたので目を覚ました。
顔を上げると、となりの席に色の浅黒い男が坐っているではないか。かれはびっくりして見つめた。たしかに公道では暴力から守られているはずなのに!
しかし、色の浅黒い男の顔には喧嘩をやったというようなこわばった表情はなにもなかった。敵意など全然見うけられなかった――どちらかというと敬意を表わしているように思えた。
「あんた、失礼だがね」とかれは言った。残忍さはまったく見うけられず、暴力をふるう意志のないことはデントンにもはっきりわかった。かれは相手の顔を見つめ、つぎに言う言葉を待った。
つぎに出たかれの文句があらかじめ考えられたものだということは明らかであった。
「おれ、ちょっと――ばかし――言いてえ――ことが――あっ――てね」と色の浅黒い男が言った、そして少しばかり黙ってつぎの言葉を探していた。
「ちょっとね――言いてえ――ことが――あって――ねえ」と、繰り返した。
ついに最初に考えついたことをひっこめたようだ。
「いや、あんた、あんたって人は正しかったんだ。紳士だよ、まったく。悪かったなあ――かんべんしてくれ。それが言いたくてね」
デントンは気がついた。今、この男にはいまわしい所業へ結びつく衝動とはちがった動機があると。かれはしばらく考えた。そして取るにたらないプライドなど胸におさめた。
「ぼく、あのとき、きみを怒らせようと思ったわけじゃないんだよ」と、かれは言った。「あのパンを断ってね」
「いや、おれだって、あんたがかわいそうだと思ったからなんだ」と浅黒い男が、あのときのことを思い出して言った。「それがよお、おれの眼の前に、あのホワイティの野郎がいやがって、なんだかにたにたして笑っていたのさ。それでね、つい喧嘩しなくちゃならねえはめになったんだ」
「そうだったんですか」と、デントンは胸に熱いものを感じて言った。「ぼくも馬鹿だったんだなあ」
「いやあ」と、いかにも満足そうに浅黒い男は叫んだ。「これでいいんだぜ、さあ、握手しようや!」
デントンは固く手を握った。
動くプラットフォームは、ちょうど美容院の前をすごい勢いで過ぎるところであった。店の正面の下のところに一枚の大きな鏡があった。それはもっと美しい容貌を求める人びとに刺激を与えるためにデザインされていた。その鏡にデントンと新しい友人の姿が映っていた。いやにゆがんで平べったく見えた。デントンの顔はふくれ上がって片方にかたよって見えた。とってつけたような馬鹿馬鹿しい愛想笑いがたてに顔をぐにゃっと押しつぶしていた。片一方の眼にはばさっと髪の毛がさがっていた。これまた鏡のいたずらか、色の浅黒い男のくちびると鼻の穴がいやに大きく広がっていた。鏡にはそんなふたりの握手している姿が映っていたのだ。それもつかの間、ぱっと消えた。そのとき、ぼんやりした貧血気味の頭の中に記憶がよみがえってきた。
デントンが握手したとき、その浅黒い男はなにかごちゃごちゃした意見を言った。その趣旨は、要するに、紳士とどこかで会っても、うまく付き合っていけると言うのだ。かれはずっと握手をしていた。しかし、デントンが鏡を見て思わず手をひっこめると、浅黒い男はもの哀しそうな顔をし、いやに派手にプラットフォームに唾を吐き、それから本論に戻ってしゃべり出した。
「ちょっとばかし、言いたいことがあってね」と言った。そして困ったような顔して、うつむいて頭を振った。
デントンは思わず好奇心を感じた。「どうぞ、言ってくださいよ」と、かれはていねいに頼んで耳を傾けた。
浅黒い男は思い切って乗り出してきた。デントンの腕をぎゅっと握り、いかにも親しげな態度をとった。「失礼だがね」と言った。「あんた、喧嘩のやり方、知っちゃいないね。どうやったらいいか。だって、どうやっておっぱじめたらいいのかも知っちゃいないからなあ。気をつけねえと、殺されちまうぜ。両手をいっぺんに上げるなんて――こんなふうによ!」
かれはその考えを非難めいた調子で力説した。そして自分の心からの言葉がデントンにどんな影響を与えているか、慎重な眼つきでじっと見守っていた。
「たとえばさ、あんた、背が高え、腕も長いや、あの作業場じゃ、いちばんリーチが長いだろうぜ。いまいましかったね、おれも悪い奴にぶつかったもんだなあと思った。でもな、やってみると――いや、かんべんしな。知ってたら、あんたのことあんなに殴りゃしなかったのになあ。めちゃくちゃだね、その腕だってよお、自在かぎにでもひっかかってるみてえだった、いやにさあ、ぎくしゃくしちゃって、ほら、こんなふうにな!」
デントンはその男の顔をじっと見つめ、びっくりし、突然、笑い出したので殴られたあごが痛み出した。苦い涙が両眼にあふれ出した。
「どうぞ、話を」と言った。
浅黒い男はふたたび喧嘩のこつの披露に戻った。あんたの眼つきはよかった。それからどうしてどうしてなかなか勇敢だった。でも勇ましいだけではなんのたしにもならない、役にも立たない――もっと手を前にぐんと出さないと。
「ちょっと言いてえことがあるがね」とかれは言った。「どうだい、よかったら、とっときのやつを教えてやろうかね。はじめはちょっとにしておくか。あんたって人は、ともかくなんにも知らねえんだから、どうしようもねえな。でも、仕こみようによっちゃ、いいところまでいけるかもしれねえな――そうとういい線までな。このおれに教わりゃよお。そうなんだ、おれの言いたかったのはこのことだったんだ」
デントンは躊躇した。「でも――」とかれは言った。「ぼくにはね、きみになにもしてあげられないよ――」
「ふん、紳士の言い草なんて、みんなそんなもんだ」と浅黒い男は言った。「だれが、そんなこと言ったのかね?」
「しかし、きみ、教える暇があるのかい?」
「なに言ってんだ。喧嘩のやり方がわからなかったら、あんた、ほんとうにぶっ殺されちまうぞ――そんなこと、気にしちゃいられねんじゃねえのかい」
デントンは考えこんだ。「さあ、どうしたものやら」と、つぶやいた。
かれはそばにいる相手の顔を見た。すると生まれながらのがさつさが目につき、それがかれに向かって怒鳴っていた。一時的な友情が急にしらけてくるのを感じた。こんな男に恩を着なくてはならないなんて不思議に思えてきた。
「奴らは、しょっちゅう喧嘩しているんだぜ」と浅黒い男が言った。「しょっちゅうなんだ。だからさ、だれかがね、あんたに腹立てたら、あんたなんか、きっとまたひでえ目に遭うぜ――」
「でも、いいさ!」とデントンは叫んだ。「くるならきてみろ」
「そりゃあ、あんたが、そういう気持ちなら――」
「きみなんかにわかるもんか」
「ふん、そうけえ、おれにだってわかんねえかもな」と浅黒い男は言った。そしてむっとした顔して黙りこんだ。
かれがふたたび口をきいたとき、その声はもう親しみぶかくなかった。そしてデントンを呼びかけるかわりに小づいたのである。「なあ、あんた、そんなこって、おれに喧嘩のやり方を教えさせようって、言うのかい?」
「いや、きみの親切に、ぼく、とても感謝している」とデントンが言った。「しかし――」ちょっと気まずい沈黙がつづいた。浅黒い男は立ち上がってデントンにのしかかるような恰好をした。
「それにゃ、あんたが紳士すぎるって言うんだろう」とかれは言った。「そうじゃねえのかい? ふん、聞いて、こちとらが赤くならあなあ……冗談じゃねえや! てめえ――てめえって奴はな、べらぼうめえの大馬鹿野郎だ!」
かれはぷいと向こうを向いた。瞬間デントンはかれの言葉にいかにも真実味がこもっているのに気がついた。
浅黒い男は傲然とした態度でわきのプラットフォームに移っていった。デントンはとっさに追いかけようという衝動に駆られた。しかし、そのまま、プラットフォームに残った。しばらくの間、これまで起きたことがらが心の中を駆けめぐった。一日のうちに、かれの優雅な諦めの世界が絶望的なまでに粉砕されてしまった。暴力、この究極的なもの、この原理的なものが、これまでかれが抱いていたすべての理由、解釈、慰めの中にぬうっとその顔を突き出し、謎めいたようににっと笑ったのである。かれは腹がへり、疲れていたけれど、すぐには労働者ホテルにはゆかなかった、そこでエリザベスと会えるであろうが。かれは考えはじめた。だから、そのまま瞑想のすごい雲につつまれながら動くプラットフォームに乗ったまま二度も市内をまわってしまった。
あなたにはきっとご想像できるでしょう――このぎらぎら輝く光と雷鳴のような騒音におおわれた都市、時速何千マイルのスピードでこの広大な宇宙空間を地図のない軌道を回転しながら動く一惑星上のこの都市、そしてこの都市を時速五十マイルのスピードで動くプラットフォームの上でひどくおびえ、なんでこれほどまでに虐待されながらなお生きてゆかねばならないかをじっと考えこんでいるかれの姿を。
ついにかれはエリザベスのもとに帰った。彼女は青ざめた顔して悩んでいた。デントンも、かれ自身の心の中のことがなかったら、彼女が悩んでいるぐらいのことはわかったであろう。しかし、かれがいちばん恐れていたことは、かれの屈辱についてエリザベスが根ほり葉ほり訊きだすことであった。それを知れば、きっと彼女は同情するか、怒り出すかのどっちかであろう。彼女はデントンの姿を見てまゆをつり上げた。
「エリザベス、とてもひどい目に遭ったよ」と、かれはあえぎながら言った。「やられたばっかしなんだ――むしゃくしゃして話す気にもなれない」かれはむっとした表情をかくさないでどかっと腰をおろした。
彼女は驚いてデントンを見つめた。そしてはれ上がった顔にえがかれている意味ありげな象形文字からなにかを読みとった。唇から血がひいた。そして発作的に片方の手を握りしめ――その手はふたりが裕福であったころよりやせ細っていた。そして人差し指にいたっては、毎日の作業のために変形していた。「まあ、なんて恐ろしい世界なんでしょう!」と、彼女は言った。そしてあとはもうなにも言わなかった。
このころになるとふたりは口をきかない夫婦になっていた。その晩もほとんど口をきかなかった。しかし、ふたりともベッドの中で、それぞれ自分だけの考えを追っていた。夜ふけに――エリザベスは寝つかれないでいたが――そばで死んだようにじっと横になっていたデントンがむっくり起き上がった。
「もうぼくは、これ以上我慢できない!」とわめいた。「もう我慢なんかしないぞ!」エリザベスには起きなおっているデントンの姿がぼんやりと見えた。あたりをつつむ夜の闇に向かって怒りの一撃でも加えているかのように突き出した腕も見えた。それからしばらく静かになった。
「これはひどすぎる――とてもじゃないが我慢ならない!」
彼女はなにも言えなかった。彼女にしても今や我慢の限界にきていたのだ。彼女はじっと黙って長いあいだ耐えしのんできたのだ。デントンが両腕で膝をかかえこみ、あごを乗せてじっと坐っているのが見えた。
突然、かれが笑い出した。
「いや」と、ついにかれは口をきいた。「耐えてみよう。実におかしなもんだ。考えてみりゃ、ぼくたちの仲間に自殺なんてする奴はひとりもいない――ひとりだっていない。そんな奴は、とっくの昔に死んでしまったのだろうなあ。よし、ぼくたち、やってみよう――最後まで」
エリザベスはわびしそうに考えこんでいた。そして、これもまたほんとうなんだ、ということに気がついた。
「ぼくたち、耐えていこう。それにまた、これまで耐えてきた人たちのことも考えなければならない。すべての世代が――果しない――それこそ無限の世代がこれまで耐えてきたのだ。噛みついたり、うなったりする小さな動物たちも、噛みついたり、うなったりしながら世代から世代へと耐えしのんできたのだ」
かれの単調なひとりごとは、突然、止んだが、かなりの間をおいてまたはじまった。
「石器時代なんて九万年もつづいた。これらの時代のどこかに、ぼくの先祖たるデントンがいたんだ。そして使徒から教義が伝わるように、そのデントン様からぼくが伝わってきたのだ。その間、耐えることは美徳として受けつがれてきた。ええと! 九〇――九〇〇――三九の二七――三千世代の人たちが――ともかくそのぐらいの人たちが耐えてきた。そしてそれぞれの世代は戦い、傷つき、辱しめられたが、なんとか自分を持ちこたえてきた――耐えたのだ――そして過ぎてきたのだ――また来たるべき数千世代――数千世代も!
そう、過ぎてゆくんだ。しかし、かれらはぼくたちにはたして感謝するだろうか?」
かれの声はだんだん議論するような調子になってきた。「はっきりしたなにかが見つかれば、……はっきりと、こうだと言えるなにかがだ、たとえば(これが理由なんだ――これこそ耐えていく理由なんだ)ということが――」
かれの声が低くなってきた。そしてエリザベスの眼にゆっくりとデントンの姿が闇の中に浮かんできた。ついに片手でほほをささえているかれの姿が見えた。と同時にふたりの心がいかに遠くへだたっているかに気がついた。そこにだれかいるというおぼろげな知覚は、取りもなおさず、今のふたりのあいだがらを示す姿であるように思えた。この人いったいなにを考えているのかしら? つぎになにを言うのかしら?
デントンがため息をついて、小さな声でつぶやくまで、まるで一時代が過ぎたように感じられた。
「いや、ぼくにはわからない。ほんとうに!」それから長い合間があって、またこの言葉が繰り返された。しかし、二度目には、それがほとんど解決されたかのような口調であった。
エリザベスはかれが横になるしたくをしているのに気がついた。その動作に注意した、そして枕を入念にととのえているかれの姿を見て驚いた。かれは満足そうなため息をついて横になった。かれの激情の嵐はしずまったのだ。静かに横になり、やがて規則正しい深い寝息が聞えてきた。
しかし、エリザベスのほうは寝つかれないで闇の中に眼を見ひらいたままであった。するとベルの音がまたけたたましく鳴りひびき、電燈がぱっとついた。それは労働公社が、かれらの労働を必要としている新しい一日の訪れを警告しているのだ。
その日はシラコのホワイティやイタチづらの小男と取っ組みあいをやることになった。ブラント、あの色の浅黒いケンカ師は、まずデントンに教えてやろうという態度を示しながら、恩着せがましさをひとつもかくすことなく、喧嘩に介入した。
「おい、ホワイティ、髪の毛なんかつかむんじゃねえ。そいつ、かんべんしてやんな」と、スコールのように降りそそぐ軽蔑の野次の中から、かれの低いだみ声が聞こえてきた。「おめえ、わかんねえのかよ。そいつ、喧嘩のやり方、知っちゃいねえってこと」デントンは、ほこりの中に恥ずかしそうにぶっ倒れ、やっぱりあの喧嘩の講義を受けるべきだったと後悔した。
かれははっきりとブラントにわびることにした。立ち上がってかれのほうに向かった。「ほんとうに、ぼく、馬鹿だった、きみの言ったとおりだ」とかれは言った。「だから、今からでもよかったら……」
さっそくその晩、二度目の作業時間終了後、デントンはブラントといっしょにロンドン港の下のほうにある一軒の廃屋に出かけた。そこの筒形の天井のある部屋は壁も床もぬるぬるしていた。その場所で、この広大な地底の世界で完成されたきわめて高度の喧嘩のテクニックの初歩をまず習うことになった。喧嘩の相手をぐうの音も出ないようにやっつけるには、あるいはふらふらにさせるにはどういうふうにぶん殴って蹴っとばしたらいいか、どうしたら致命的な打撃を与えられるか、上着の下にかくしたガラス器具をこん棒がわりにどう使うのか、またいろいろな家庭用品をもちいて戦果を拡大するにはどうしたらよいのか、ほかの面での相手の意図をいち早く見ぬいて叩きつぶすにはどうしたらいいのか。すべてこれらの愉快な工夫は、実際、二十世紀と二十一世紀の大都市に住む無産者の手で完成されたのである。そのテクニックがひとりの才能ある解説者によってデントンに手ほどきされた。その講義がすすむにつれて、ブラントの態度からは恥ずかしそうなところがなくなった。専門家としての威厳、慈父のような温かみのある思いやりさえ現われた。実際、ブラントはデントンに教えるにあたってすごく気を使っていた。たまにかれを少し軽く打つぐらいでなんとかそれに興味を持たせようとしていた。デントンのまぐれ当たりで、かれの口から血でも出ようものなら、吠えるような声で笑った。
「おれはどうも、口もとにすきをつくっちゃうんだな」と言って、その弱点を認めた。「いつもそうだ。でも、たいしたことだとは思っちゃいねえ。一発ぐらい口にばしっと入れられたって平ちゃらよ――あごさえ守ってたら大丈夫なんだ。かえってな、血の味を味わうと、こちとら、ファイトが湧いてくらあ。いつだってそうさ。でもな、あんたはね、殴り返さねえほうがいいだろうよ」
デントンは家に帰ると、疲れて倒れるように寝こんだ。そして夜ふけに手足がずきずき痛んで目が覚めた。全身の傷がうずき出した。かれは痛みに耐えながら、こんなふうにしてまで生きていかねばならないということにどれほどの価値があるのかと考えた。エリザベスの寝息をうかがった。そして、前夜、彼女を起こしたのは自分のせいであることを思い出し静かに横になった。
かれは新しい境遇にかぎりない嫌悪を感じて気持が悪くなった。かれはそれを毛嫌いした。かれを寛大に守ってくれたあの親切な野蛮人でさえも嫌った。文明というまことに怪奇ないかさま師がデントンの鼻先でかれをきびしくねめつけていた。それはとんでもないほど成長し、とても正気の沙汰とは思えなかった。下層には深まりゆく野蛮の激流を生み出し、上層には今までにないような軽薄な上流気取りと愚かな浪費生活を生み出した。かれは今まで送ってきたあの生活、あるいは現在おちこんでいるこの生活には、いかなる正当な理由、いかなる名誉も見出すことができなかった。
文明とは嵐や天体の衝突とまったく同じで、人間の意志とは――その犠牲者となることをのぞいて――なんの関係もない破滅的な産物としか見られなくなった。かれは、また全人類は、まったく意味もなくただ生きているように思われた。かれの心はいくつかの奇妙な脱出方法を求めていた――かりにそれがかれ自身のためでないにしても、少なくともエリザベスのために。しかし、かれはそれをかれ自身のためにやろうとした。かれがムウレスを探し出し、ふたりの今の惨状を話したらどうなるだろうか? そのとき、ひとつの驚きとして感じられたことは、ムウレスとビンドンのことがかれの念頭から完全に消えていたということである。かれらは今なにしているのだろう? そういうようなことから、かれはまったく不面目な自分の現状を思いやった。そしてついに、この精神的な混乱からなんらかの方法で脱出するのではなく、夜明けが夜を終らせるようにこの状態を終らす、前夜のあのすっきりとした明快な結論に到達した。つまり、自分はやはり耐えてゆかねばならない、遠い先のことなど関係なく、現在自分が持っているすべての知力とエネルギーで、仲間のあいだでひとりの人間として耐えてゆかねばならない、戦ってゆかねばならないのだ、と。
二晩目の訓練は最初ほどすごくはなかった。三晩目には耐えられるようになった。なぜならば、ブラントからお誉めの言葉を賜ったからである。四晩目にはイタチづらした男が臆病者だということを偶然発見した。敵意でくすぶる昼間と激しい訓練の夜が二週間つづいた。ブラントは下司《げす》な言葉をたくさんならべて、こんな優秀な生徒にこれまで出会ったことがないと太鼓判を押してくれた。そしてデントンも一晩中、足蹴りだとか迎撃だとか、眼玉を親指でくり抜くとか、巧妙なトリックとかを夢にまで見た。その間、全然、狼藉は起こらなかった。というのはみなブラントを恐れていたからである。
やがて二度目の危機がやってきた。ある日、ブラントが仕事に出てこなかった――後日、わざとかれがそうしたのだということがわかったが――すると、単調な仕事をしながらホワイティはじりじりした気持を露骨にあらわして休憩時間のくるのを待っていた。かれはデントンが喧嘩の特訓を受けているなんて夢にも知らなかった。だから、自分が今、心に抱いている不愉快なたくらみをデントンやほかの仲間たちにわざと身ぶりで示していたのである。
ホワイティは仲間に人気がなかった。だから部屋の連中は新参者をいびるかれの姿をみてみんなうんざりしていた。しかし、ホワイティは、まずデントンの顔を蹴上げて喧嘩をおっぱじめはじめたが、そのとたん、ひょいと頭を低く下げられてうまくかわされてしまった。しかも、その瞬間、からだをむんずとつかまれ投げとばされたとき、事態は一変した。ホワイティはなんと蹴上げたその足と同じコースをえがいてもんどり落ちた。そして前にデントンが頭を突っこんだことのある同じ灰の中に頭を突っこんでしまった。ホワイティは青ざめた顔をして立ち上がった。だが、今や致命的な傷を負わされ、悪態でもつくかのように前かがみになっていた。決定的な打撃にはいたらない多少の打ち合い、それから相手の計略の裏をかく試みが行なわれたけれども、それはただ高まりつつあるホワイティのあせりをはっきりとさらに深めるだけであった。ことはデントンの一方的な有利に発展していった。片手でホワイティののどもとをしめつけ、片膝をかれの胸の上に乗せて、いやというほどやっつけた。ホワイティは殴られてどす黒くふくれ上がった顔に涙を流した。そして舌を突き出し、折られた指を動かしながら、しゃがれた声を出して、さかんに誤解だ、誤解だと弁解していた。それにくらべて、今や明らかなのはデントンの人気だった。おそらくこれまで、この作業場でこれほど人気の湧いた者はけっしていなかったであろう。
デントンは、じゅうぶんに警戒しながら、相手を放し、自分も立ち上がった。かれのからだの中の血はまるで燃え立つ液体みたいに感じられた。そして手も足も軽く、異常なぐらい強くなったように思われた。機械文明の殉教者だなんていう気持はすっかり心の中から消えてしまった。まさに男の中の男だ。
だれもが競ってデントンを誉め上げて背中を叩いたが、最初、まずやってきたのがあのイタチづらした小男であった。オイル罐を貸した男は太陽のようにきらきらと顔を輝かせ、温情のこもった祝いの言葉をいかにも嬉しそうに述べた……まったくデントンには信じられなくなった、これまで絶望していたことなんて。
デントンは、ものごとに耐えなければならないということだけでなく、かれにはそれができるのだということを今や確信した。その晩、粗末なシーツのベッドに坐って、エリザベスにこの新しい状況の説明をした。かれの顔の片側は傷ではれていた。エリザベスのほうは、最近、喧嘩などしない。背中すらも叩かれていない。だから顔になんてなにひとつ打ち傷などない。ただ、口もとに青白いしみとしわがひとつできているぐらいであった。彼女は女らしく振舞っていた。彼女は新しい予言のムードにひたっているデントンをじっと見つめていた。かれはしゃべっていた。
「ぼくはなにかがあるような気がする。今までずっとつづいてきて、これからも将来、ずっとつづいてゆくものがね。生命という存在がね。その中で、ぼくたちは生き、活動し、そして、ぼくたちという存在を持っているんだと思う。おそらく、五千万年、いや、一億年前にはじまり、ぼくたち人間をはるかに越えて、永久に生長し、拡大していくものが――ぼくたち、すべてを正当化するなにかがあるんだ……それはぼくの戦いを――この打ち傷、この痛みのすべてを説明し正当化するだろう。そうだ、それは鋭いのみだ――そうだ、造物者ののみなんだ。今、ぼくが感じているように、エリザベス、きみを感じさせることができさえすれば、そうだ、きみをそのように感じさせることができれば! きみもかならずそう考えるだろう。いや、ぼくは、きみが、そう思っているの、よく知っているんだ」
「いいえ、あなた」と、エリザベスは低い声で言った。「わたしには、そう思うようにとてもなれそうにはありませんわ」
「いや、きっとできるさ――」
彼女は首を振った。「いいえ」と言った。「わたしはわたしで考えていますわ。あなたの考え――とても、わたしには納得いきません」
エリザベスはデントンの顔を見すえた。「わたし、どうしてもいやなのです」と、言ってかたずを飲んだ。「あなたにはわからないんだわ、第一、考えようともしないんだわ。もちろん、あなたのおっしゃること――信じていたときもありましたわ。でも、わたしもだんだんいろいろ知るようになっているのよ。デントン、あなたは男です。戦うことができるわ。あなたの意志を押し通すことができるわ。打ち傷なんててんでお気になさらないでしょう、粗暴になっても、醜くなっても、それでも男ですわ。そう――むしろ、そのほうがあなたを男らしくするでしょう。男らしくするんだわ。そのとおりよ。でも、デントン、女はちがうの、わたしたち、男とちがうのよ。わたしたち、文明を身につけてしまっているのです。ですから、とても、この地底の生活は、わたしたちには向きませんわ」
彼女は口をつぐんだ。そしてふたたび話しはじめた。
「わたし、いやなんです! この恐ろしいみじめな服が! なにがいやっと言って、これ以上いやなもの、ほかになにもありませんわ。指にふれてもいや、ほんとうにぞっとするのです。それに毎日いっしょに働いているあの人たちときたら! 寝つかれないまま、ときどき、わたしも今にああなってしまうのかしら、と考えこんでしまうのよ……」
彼女は話をやめた。「ああ、わたしもああなっていくんだわ!」と叫んだ。
デントンは彼女の苦悩を見つめた。「でも……」と、かれは言ったが、口をつぐんだ。
「デントン、あなたには、わかっていないんだわ。いったい、なにがわたしにあって? 救いとなるものが、わたしになにかあって? 男は戦えるわ。戦いは男の仕事よ。でも、女は――女はちがうわ……わたし、そのことをよく考え抜きました。夜も昼も考えたわ。ごらんなさい、わたしのこの顔色を! もう、我慢できません。こんな生活には、とても耐えられませんわ……耐えられないのよ、わたし」
彼女は話すのを止めた。そして口ごもっていた。
「あなた、まったくご存じないんだわ」と彼女は唐突に言った。一瞬、口もとににがいほほえみを浮かべた。「デントン、わたし、あなたと別れろ、と言われているのよ」
「えっ、ぼくと別れろって!」
エリザベスは、そうだと言わんばかりにうなずき、あとはなにも言わなかった。
デントンは、すっくと立ち上がった。ふたりはしばらくの間、沈黙したまま見つめあっていた。
突然、エリザベスは、身をくずし、ベッドに顔を伏せた。彼女はむせび泣かなかった。声も立てなかった。じっと、横になったまま顔を伏せていた。苦悩にみちたひじょうに大きな空虚さのあとで、彼女は肩をふるわせて忍び泣いた。
「エリザベス!」とささやいた――「ねえ、エリザベス!」
デントンは、彼女のそばにそっと腰をおろし、体をかがめ、片手を彼女のからだにまわし、おぼつかなさそうに抱きしめた。そして、いたたまれないようなこの状態をなんとかほぐそうと無駄な努力を重ねた。
「ねえ、エリザベス」と、彼女の耳もとでささやいた。
彼女は片手でデントンをぐいと強く押した。「わたし、奴隷となるような子供なんて、生みたくありませんわ」と言って大きな声を上げて激しく泣き出した。
デントンの顔色は変わった――ぽかんとして、狼狽の色だけが残った。やがて、かれはベッドから静かに離れて突っ立っていた。ついさっきまでの自己満足の表情は、かれの顔からすっかり消え、無気力な怒りがそれと入れかわっていた。自分に押しつけられたこの我慢のならない運命の力に向かってとりとめのないことを言って呪った。ひとりの人間の生涯を嘲笑するあらゆる偶然、あらゆる熱望、あらゆる不注意を呪った。かれの小さな声はしだいに高まりあの小さな部屋にひびきわたってきた。そしてかれは、固く握ったこぶしを振った。地球上に棲むこの一匹の極微動物デントンは、かれをとりまくすべてに、かれのまわりにいる何百万の人々に、かれの過去と未来に、そして、この圧倒的な巨大都市の非常な世界に向かってかぎりない怒りをぶちまけたのだ。
[#改ページ]
五 ビンドンの干渉
ビンドンは若かりしころ投機に手を出し三回ほど大変なまぐれ当たりを演じた。しかし、その後の人生においてはいっさい賭博から手をひいた。そして自分はとても利口な人間なんだと自惚れていた。権勢と名声への多少の願望が、その巨大都市で繰り広げられていた実業界の駆引きに関心を持たせた。その大都市でもかれは何回かのまぐれ当たりをやった。ついにかれはある会社の大株主のひとりになった。その会社はロンドンの飛行発着台を所有し、それには全世界の各地からやってきた飛行機械が降り立っていた。これだけがかれの世間的な活動であったろう。私生活では道楽者であったけれども、これから述べる話はかれの恋物語である。
しかし、こういった立ち入った話をする前に、この人間の容貌について多少時間をさかなければなるまい。そのからだつきはほっそりとしていた。背は低く、色は浅黒かった。顔だちはよく、化粧品まで使っているので目立った。そして、心もとない自惚れから知的な不安にいたるまで、かなり変化に富んだ表情をしていた。顔と頭は、当時の清潔な、衛生的な流行にしたがって脱毛されていた。だから、かれの髪の色と形はその服装に合わせて変えられた。これをかれはまめにやっていた。
ときどき、ロココ風の気密服を着こんでは自分をふくらましていた。まさに大波を打つかのようなこういうスタイルの流行の中で、そして半透明の光り輝くかつらの下から、かれの眼はさほど流行を追わぬ連中の尊敬にみちた眼差をじっと待っていた。
ほかの場合には、からだにぴったり合った黒っぽい服を着て、その優雅なすらっとした線を大いに強調した。
また、押し出しを立派に見せようとして、幅広い気密式の肩当てを入れた。そしてその肩の上から、実に丹念にひだの入っている中国絹のゆったりした長い外衣をひっかけていた。しかし、ピンク色のタイツをはいたクラシック好みのビンドンも永久に繰り広げられている運命の華麗な絵巻物におけるひとこまにすぎなかった。かれがエリザベスと結婚をしたがっていたころ、かれは一生懸命彼女によい印象を与え、そして魅惑しようとつとめていた。それでかれは四十年来着てきた重苦しい服のうちいくつかを脱ぎすてた。そして今時のしゃれ者が着こんでいるトップ・モードの服を着た。それは伸びちぢみする生地でできてた服で、ふくれ上がったイボや角が突き出し、歩くたびに色が変わった。そうなるのは服地に巧妙にしこまれたさまざまな色素による。だから、もしエリザベスの愛情がすでにあのつまらないデントンなんて男に移っていなかったら、そしてまた彼女の趣味が古風なものに対するあの奇妙な好みでなかったら、この大変ナウな着想はかならずやエリザベスを大喜びさせたにちがいないであろう。ビンドンがこんなに変わったいで立ちをするにあたって、かれは前もって彼女の父親と相談した――ムウレスはどちらかというと常にその服装についてはいろいろ話題を生む人びとのひとりであった――だから、かれはビンドンに女心をつかむすべての手練手管についてひとわたり聞かせてやった。しかし、催眠術師の事件は、女心についてのかれの知識も完璧とは言えないことを実証したのである。
ところでビンドンが結婚なんかする気を起こしたのは、ムウレスが独自のやり方で、うら若くて美しいエリザベスという娘のいることを紹介する以前のことであった。ビンドンが大事にしていた最も大きな秘密のひとつは、自分には大いにセンチメンタルなタイプの純粋で単純な人生を送るかなりの能力がある、という自信であった。そういう考えは、かれの無礼な、全然すじの通らない、無意味なやりすぎに一種の情熱的な真面目さをつけ加えた。それをかれは威勢のいい邪悪とみなして喜んだ。また多くの善良な人びとも、それをいかにも願わしいという物腰で扱おうとするほど愚かであった。こういう乱暴な行為をしたいほうだいやったため、あるいは若くしてからだの衰える遺伝的傾向にもよるのだろうが、肝臓の具合がすっかり悪くなってきた。とくに飛行機械で旅をするさいにはますます不便を感じた。
さて、長びいた胆嚢炎から回復しつつあったとき、今までの悪徳のかぎりをつくした所業にもかかわらず、ふとこんな考えがかれの胸に浮かんだ。もしかれを一生愛してくれる美しくて優しい、しかも知性をあまり鼻にかけぬ善良な女性がいたら、かれはまだ救われる望みがあるのではないだろうか、そしてかれとよく似た子供を育て、かれの晩年を慰めてくれるのではないだろうかと考えた。しかし、経験をつんだこの世の多くの男性と同様、かれもそんなすばらしい女性がはたして実際にいるかどうか疑った。ところがそういう女性がいるという話を聞くと、表面、懐疑的な態度をよそおいながら、内心、そうでないようにとひどく心配していた。
胸に一物を抱いたムウレスはビンドンにエリザベスを紹介した。そのときビンドンはこれでいよいよ自分に運がまわってきたと思った。かれはエリザベスに一目惚れした。もちろんかれは、十六のとき以来、多くの世紀にわたって蓄積された文学作品に見られるひじょうにヴァラエティに富んだ色事のお手本にしたがっていつも恋をしてきた。しかし、今度のはちがう。今度こそ正真正銘の恋だ。かれの心の奥にひそんでいた善良な性質が恋の力で全部外にひっぱり出されたかのように思われた。彼女のためだったら、これまでの生活ときっぱり縁を切ろうと考えた。しかも、そういう生活はかれの肝臓と神経に重大な障害を与えていたからでもある。
かれは悔いあらためた放蕩者がよくえがくあの田園での生活を想像した。彼女にはけっして甘くならぬよう、あるいは愚かにもならぬよう気をつけよう。いや、それだけではない。これまでのように、多少、皮肉っぽい、つらい態度を取ってやろう。でも彼女はすぐかれの真の偉大さ、善良さをつかみ取ってくれるにちがいないと確信した。そしてそれから、当然の順序にしたがって、彼女にいっさいを告白しよう。かれが自分の悪徳とみなしたものについての見解を語ろう。そうすれば自分がゲーテ、ベンヴェヌート・チェリーニ、シェリーなど、こういう連中をいっしょにしたような人物であることがわかるだろう。当然、それを聞いて美しい彼女はショックを受けるにちがいない。しかし、きっと自分を理解して共感を寄せてくれるだろう。
こういうことへの手はじめとして、まずかれはいたって巧妙に、しかも、心からの尊敬の念をこめて、彼女に愛を求めた。エリザベスは控えめな態度でかれに接したけれども、それはビンドンがエリザベスのこのうえないしとやかさに影響を与えたからであり、また同じようにほどほどにしか自分の意見を持ち合わせていないのでよけいに口数が少なくなったのであろう。
むろん、ビンドンは彼女の愛情がよそに向かっているなど夢にも知らなかった。そしてまた、ムウレスが娘の心がほかの者に走っているのを妨げようとして催眠術をこころみたことなどこれっぽっちも知らなかった。だから、かれは自分こそいちばんエリザベスの愛をかちえているのだと有頂天になっていた。かれは宝石だとか、それから最もすばらしい化粧品とかを、いろいろの意味をこめてそれとなくうまく彼女にプレゼントしていた。
そのときにデントンとの駆落ち事件が起きたのである。ビンドンの調子はすっかり狂いはじめた。面目を傷つけられたということで激しい怒りに駆られた。ともかく、いちばんいいかげんな野郎はムウレスの野郎だということで、まずかれにその怒りの矛先《ほこさき》を向けた。
ただちにかれは置き去りにされて傷心に暮れている父親のところに行き、言いたいほうだいの侮辱の言葉をあびせかけた。それからというものはまる一日、まなじりを決して精力的に市中を歩きまわった。そして多くの友人・知人に会って結婚詐欺にひっかかったと愚痴をならべ立てた。ビンドンはあのペテン師をなんとかして社会的に葬ってやろうとしたのであるが、これでいくらかその目的も果たせたかのように思えた。この活動はかれにもかなりの効きめがあったのか、一時的にしろ、くさくさしていた気分がぱっと晴れた、
それで夕方になるとかれは飯を食べに行った。そこはかれが放蕩三昧に明け暮れていたころ、ちょくちょく出かけた場所であった。そこでビンドンは四十を少し越えたとても元気のいい愉快なふたりの男と陽気にいっぱいやって夜どおし馬鹿騒ぎをした。要するにエリザベスとの一件を放り出したのである。女はすべてこんなもの、親切なんてつくす値打ちなんてこれっぽっちもないぞ。そんな調子で皮肉たっぷりの議論を繰りひろげ、自分のウィットのすばらしさに我ながら驚嘆した。酔っぱらって威勢のよくなった相手のひとりが調子に乗って、かれのどじをからかうようなことを言い立てたが、そのときはどういうものかひとつも気にならなかった。
つぎの朝、むしょうに腹が立った。で、音声機械を蹴っとばしてめちゃくちゃにした。召使いを追い出した。そして、エリザベスにとことん復讐をしてやろうと決意した。デントンの野郎にも。ともかく、だれでもかまわん。いずれにしても恐ろしい復讐でなければならない。そうすることによって、昨夜、かれを茶化したあの男にも女にだまされた馬鹿者だなんてもう思わせなくさせてやらなければならない。かれはエリザベスのささやかな財産のこと、そしてそれが――おそらくムウレスの気がやわらぐまでは――あのふたりの生活をささえる唯一のものだということを知っていた。もしムウレスの心が解けなかったならば、またエリザベスの遺産相続の見込みに関係のある一件に不運な問題が起こったならば、かれらふたりに不幸な日が訪れ、結局、エリザベスもよこしまな誘惑に駆られることもじゅうぶんにありうると計算した。
ビンドンの想像力はその美しい理想主義の色合いを完全に失い、もっぱら邪悪な誘惑という着想に動かされた。かれは自分自身のことを――かれをなぶり者にしたこの娘を追いかける――なだめようのない人間として、また気むずかしい権勢家としてみなした。すると突然、彼女の姿がありありと眼に浮かび、かれの心を支配した。ビンドンは生まれてはじめて情熱の真の力がなんであるか知った。
かれの想像力は、ちょうど召使いが来客を応接間に通してうやうやしくドアのわきにしりぞくように、その情熱のかげにかくれてしまった。
「よおし!」とビンドンは叫んだ。「きっと、エリザベスを手に入れるぞ! 死んでも彼女をものにしてみせるぞ! そしてあの片われのへなちょこ野郎をこっぴどい目に遭わせてやるぞ――!」
医者の診察を受け、一晩中飲み明かした報いにこれまた苦い薬を飲まされた。いくらか痛みがおさまったが、しかし、どうしても腹の虫のおさまらぬビンドンはムウレスを探しに出かけた。かれは打ちのめされて小さくなっていた。自分の体面をなんとか守ろうとして半狂乱のていであった。身も心もいつでも売るというありさまで、ましてや自分の言うことをきかない娘なんて眼中になかった。そして、失われた自分の社会的な地位をなんとか取り戻そうとして必死であった。その後の話し合いで決まったことがらは、これらのとんでもない若者たちはその報いとして当然どん底の世界にまで突き落され、場合によっては、ビンドンの財力にものを言わせて、あの懲罰的な訓練を受けさせる必要があるということであった。
「そして、それからどうなるんですか?」とムウレスは訊いた。
「うん、労働公社に行くだろうな」とビンドンが答えた。「そしてあの青い服を着せられることになるぞ」
「して、それから?」
「彼女は離婚するだろう」と言って、腰をおろし、しばらくの間、ひとりでその予想に夢中になっていたようだ。なぜならば、そのころは、あのヴィクトリア女王時代のきびしい離婚制限がひじょうにゆるやかになっていたのである。だから夫婦はさまざまな理由で別れることができた。
するとビンドンは、自分もムウレスもびっくりするぐらいだしぬけに立ち上がった。「きっと、離婚させてやる!」と叫んだ。「おれはきっとそうさせて見せる――これからその手はずにとりかかるんだ。きっとだ、きっとやってみせるぞ! 奴に恥をかかせるんだ。だから彼女はきっと離婚するにちがいない。奴をとことんぶちのめしてやるぞ!」
デントンをぶちのめすこの考えはビンドンをいっそう怒りに駆り立てた。かれはちいちゃなオフィスの中をまるでジュピター神のように肩をいからして歩いた。「かならず彼女を手にしてみせるぞ」と叫んだ。「きっとものにするんだ! だから神だろうと悪魔だろうとおれの邪魔立てをする奴は絶対許さん!」
かれの激情はそのように言葉にあらわされたとたんなんだか消散してしまったようだ。そしてあとはただ芝居がかったその仕草だけが残った。かれは気取った様子をした。すると横隔膜のあたりに激痛を感じた。しかし、英雄的な気迫でそれを無視した。そのときムウレスのほうはというと、気の抜けた空気帽をかぶって、そばでいかにも感にたえぬ顔をして坐っていた。
そういうしだいでビンドンは、かなりの執念を燃やし、エリザベスに邪悪な運命をもたらす企てに着手した。当時の金持ち連中が同胞にたいして振るった巧妙な支配力をすべて手際よく使った。ところでかれは宗教に心の慰めを求めていたが、そのくせこの邪悪な行為を抑える気持なんてこれっぽっちも湧かなかった。かれはそのころよくイシス崇拝のユイスマン派の神父を訪れていた。その神父は実に経験のゆたかな、思いやりのある、面白い人物であった。ビンドンは自分でも神を恐れぬ邪悪な行為とみなしたとんでもないことがらについてくどくどと懺悔した。すると、神を恐れぬ行為だと断言したその経験ゆたかな、思いやりのある、愉快な神父は、いかにも満足げなわざとらしい恐怖の念を示し、とても簡単で安直な罪ほろぼしの方法を教えてくれた。そして腹わたの腐った金持ち上流階級の悔い改めた罪人たちにいろいろ勧告した。それはなんと、空気のいい、涼しくて清潔な、俗化していない修道院に行ってこいということだった。だからビンドンも何度かこういう遠足をやったものだ。こうしてふたたび活力と情熱を回復すると、またもやロンドンに舞い戻った。かくしてビンドンもふたりにたいする陰謀をたくらんだが、その精力たるやあきれかえるものがあった。かれは毎日、動くプラットフォームのずっと上のほうにあるベランダに出かける。そこからは今デントンやエリザベスのいる労働公社の収容施設の入口が見える。ついにある日、そこへ入って行くエリザベスの姿が見えた。それでかれの情熱はふたたび燃え上がった。
こうして、時がたつにつれて、ビンドンの巧妙きわまる計画はいよいよ実が熟してきた。かれはムウレスのところへ行き、ふたりとも今や絶望状態にあると伝えた。
「今度は、きみの出る幕だ」とかれは言った。「父親としての愛情を示してやるべきだ。あんたの娘は何ヵ月も青い服を着ている。ふたりとも、あのおりの中にとじこめられているぞ。しかも、小さな女の子は死んでしまった。彼女もいいかげんわかっただろう。夫としての奴が、保護者という点で、どのくらい値打ちがあったかということをな、まったく哀れな娘だ。はっきりわかったろう。さあ、きみ、早く娘のところに行きたまえ――おれはまだ出番じゃないね――そして娘にね、かれと別れるのがいかに必要か、とくと言いきかしてやるべきだと思うな……」
「しかし、なにしろ、あの子は強情でしてね」と、ムウレスはいかにも自信なさそうに言った。
「おお、なかなかしっかりしているんだなあ!」と、ビンドンが言った。「ほんとうにすばらしい娘だ――実にいい娘だね!」
「あの子、きっとうんと言わないでしょう」
「むろん、そうだろうな。しかし、話してやれば、あとは放っときゃいいだろう。放っときゃいいんだ。そのうちいつか――あの息のつまるようなおりの中で、あの退屈な、骨の折れる生活をしているうちに、ふたりとも耐えられなくなっちゃうだろう――そして喧嘩するだろうよ。そのときさ――」
ムウレスはその問題をじっくり考えたが、結局、ビンドンの言うとおりにした。
そのときビンドンは、かれの精神的な助言者の意見にしたがって――修道院を訪れていた。ユイスマン派の修道院はとても美しいところにあった。ロンドンの近郊ではいちばい空気の甘くかおっているところで、太陽の光がさんさんと降りそそいでいた。芝生のはえた静かな中庭があった。その場所で悔い改めた道楽者ビンドンはのらくらと静かに暮し、有名な禁欲生活の満足感を心ゆくまで味わっていた。修道院のつつましい健康によい食事とお祈りのほかは、ビンドンはほとんどエリザベスのことだけをいろいろと想っていた。彼女の姿を一目見てからというものは、いかにかれの魂が清められたことか、それからエリザベスが離婚という「大きな罪」をおかそうとしているが、はたしてあの経験ゆたかな、思いやりのある神父から彼女と結婚する特免状をえられたものかどうか、そんなことなどを考えていたのである……ビンドンは中庭の柱によりかかり、真実の愛のすばらしさを回想し、それがほかのいかなる形態の耽溺よりもすばらしいとしみじみ知った。すると背中と胸のあたりになにか妙に気になるものを感じた。かれはそれをつとめて無視した。熱っぽく、全身をおそう病的な不快感であった。もちろんそれも、今かれが払い落そうとしている過去の生活に属するものであった。
修道院から出てくると、かれはすぐムウレスを訪れた。そして、その後、エリザベスはどうしているか、と聞いた。ムウレスはいかにも父親だなと思わせる状態にあった。自分の娘が不幸なのを心から案じていた。
「あの子はすっかり青ざめて、やつれていましたよ」と、ひどく心を痛めているような調子で語った。「あの子はほんとうにすっかり青ざめてしまいました。それでわたくしが娘に言ったんです。早くここから出ておいで、かれと離婚して――また昔のようにしあわせになろうって――すると、あの子はテーブルの上に顔を伏せて」――ムウレスは鼻をすすった――「わっと、泣き出したんです」
かれの心の動揺はとても激しかったので、もうなにも言えなくなってしまった。
「おお!」と、ビンドンはこの男らしい悲しみに感動して叫んだ。とたん、ビンドンはわきっ腹に手をあてて「あっ」と言った。
悲しみのどん底に沈んでいたムウレスもはっと思って見上げた。「どうかなされましたかな?」と、いかにも心配そうな顔をして訊いた。
「いや、ひどい痛みだ、失礼! どうか、かまわないでエリザベスの話をつづけてくれたまえ」
それでムウレスはビンドンの痛みを気づかいながら、かれの報告をつづけた。それは思いがけないほど有望な話であった。エリザベスは、父親が彼女のことをまったく見捨てたわけではないということを知って感動した。そして彼女の悲しみと嫌気をかれに率直に打ち明けたということであった。
「そうか」と、ビンドンはいやに堂々とした口をきいた。「いよいよ、彼女はわたくしのものになるか」するとあの異常な痛みがまたもやからだをひきつらせた。こういう次元の低い痛みには聖職者もなんとも手の施しようがなかった。かれらには肉体的苦痛なるものは瞑想にじっとふけることによってなおせる心の迷いとみなす傾向があった。そういうわけで仕方なく、ビンドンは日ごろひどく嫌っていた連中のひとりの男のところに駆けこんだ。その男はとても評判はよかったが、大変態度の粗暴な医者であった。
「これはなにもかも聞かせてもらわんといかんな」とかれは言った。そしてずけずけといろんなことを聞き出した。「ところで、あんた、子供をつくろうとしたことあるかね」と、このがさつな唯物論者は、とりわけ無礼な質問の中で、そんなことまで訊き出した。
「おや、そんなことまでお訊きになるんですか?」と、ビンドンはあまりびっくりしたので威厳を守ることすら忘れて叫んでしまった。
「うん、そうだ」と、医者はぶっきらぼうに返事した。そして、いやに自信ありげに話を進めていった。当時、医学は正確な段階に到達したばかりであった。「すぐ家に帰ったほうがいいな」と医者は言った。「そして安楽死の手続きをとりなさい。早ければ早いほどいいな」
ビンドンはあえいだ。かれは医者がさかんに言っていた専門的な説明やら見通しやらを理解する気になれなかった。
「これは驚いた!」と、かれは叫んだ。「でも、まさか、あなたは……あなたの科学によると……」
「たいしたことはないよ」と医者は言った。「ちょっと、麻酔剤を使うだけだ。そんなこと、あんただって、昔、ある程度やったろう」
「いや、若いじぶんはいいかげん誘惑されました」
「いや、それだけでもないな。ともかく血統もよくないぞ。たとえ予防措置をほどこしてもね、やっぱり処置しなければならなくなったろうなあ。まあ、生まれたのが間違いのもとか。ともかく両親が軽率だったんだろうな。それに、あんた、運動はやらん、あれもやらんではなあ」
「いや、注意してくれる人がいなかったもんで」
「あんた、医者はいつでも注意するよ」
「これでも若いころはとても元気だったんですがね」
「まあ、わたしは議論なんてする気はない。なにしろもう悪いことが起きてしまったんだから。それにあんたもずいぶん生きたじゃないか。今さらもう一度、出なおすわけにはいかんだろう。生まれてきたのがよくなかったんだ。はっきり言ってあんた――安楽死しかないよ!」
ビンドンはかれが憎くてしばらく口がきけなかった。このけだもののような専門医の言葉がいちいちかれの洗練された神経にさわった。その医者はそれほどがさつであった。デリケートな問題なんかいっこう通じない。しかし、医者と喧嘩したところではじまらない。
「わたくしの宗教上の信念ですがね」とビンドンは言った。「自殺を認めるわけにはいかんのです」
「いや、あんた、それはこれまでずっと認めていたでしょう」
「ええ、しかし、ともかく、わたくしは今は人生を真剣に考えています」
「そうだろうな、これでも生きていかれると思えばね。痛い思いをするよ。しかし、実際問題として、もうおそい。でも、どうしてもというなら――ちょっとしたものを調合してやってもいい。そのかわりずいぶん痛むぞ。ちょっと突き刺すような痛みだけどな……」
「突きさすような痛みだって!」
「でも、本物にくらべりゃあ、予言みたいなもんさ」
「で、あと、どのぐらい生きられますか? つまり、きりきり痛むまで――ほんとうに」
「じき、はじまるよ。おそらく三日もたてばな」
ビンドンはなんとか自分の寿命をのばす方法についてさかんに議論をしたが、その最中にまたあえぎ、わきっ腹に手をやった。突然、生きることのなんとも言えない悲哀がはっきりとかれに迫ってきた。「おお、なんて無情なんだろう」とかれは言った。「おそろしいほど無情だ! これまで自分以外敵という敵はいなかったのに。だれにだっていつも公平につき合っていたのに」
医者はなんの同情も示さず、しばらくの間、かれの顔をじっと見つめていた。かれはこういう悲しみにあえぐビンドンのような人間がいなくなればどんなにすばらしいかと考えていたのである。しかし、かれはまったく呑気なもんだった。かれは電話に向かい中央薬局に処方を伝えて薬の調合を頼んだ。するとかれのうしろで声がして電話がちょっと中断された。
「きっと」とビンドンが叫んだ。「今に彼女をものにしてみせるぞ」
医者は肩ごしに振り返って、ビンドンの表情を見た。それから急にその処方箋を変更した。
この苦痛にみちた会見が終るやいなや、ビンドンはかっとなった。かれはこう断定した、あの医者の奴は冷酷なけだものであるだけでなく、紳士の風上にもおけん野郎だ、しかも、とても無能だ、と。それでかれはこの直観の正しさを立証しようとして、立てつづけにほかの四人の医者のところに行った。しかし、不意打ちにそなえて例の処方箋の小さな包みをポケットにしのばせておいた。どの医者に会っても、かれはまず最初にかかった医者の知性、正直さ、専門知識にかれの重大な疑念を表明した。そしてかれの症状を説明した。しかし、いずれの場合においても、かれはいくつかの大変重要な事実をかくした。だが、これらの事実も結局、ほかの医者たちによっても訊き出されてしまった。ほかの開業医を軽ろんずるようなことは喜んで聞いていても、これらの著名な専門家のいずれもが、今デンドンに薄気味わるくぼんやりと迫りつつある苦悩と絶望を回避するどんな希望も与えてはくれなかった。いちばん最後に訪れた医者に向かって、かれは医学に対する積もりに積もった嫌悪の情をぶちまけた。
「ええ、何世紀も何世紀もですよ」とかれは激しく叫んだ。「あんたたち医者は、なにもできんじゃないか――なにかと言うと、もう駄目ですって、それ以外は。いいかね、わたくしは助けてくれって言っているんだ――ところが、あんたたち、いったいなにをしようってんですか?」
「たしかに今、あなた、とてもつらいでしょうが」と医者は言った。「でも、あなたはもっとじゅうぶん注意するべきだったんですよ」
「しかし、それがなんでわたくしにわかるのかね?」
「そんなこと言ったって、わたくしども医者はしょっちゅうあんたのあとばっかし追ってはいられませんからね」と、医者は袖口から木綿の糸みたいのを引っぱり出しながら言った。「なぜ、あなただけを助けなければならないのですか? ご承知のように――ひとつの観点からすると――むしろ、あなたのような想像力と情熱を持った方のほうがかえって行かねばなりませんね――みんないずれ行くのが定めなんですよ」
「行くって?」
「もちろん死ぬことですよ――みんな小さな渦巻きみたいなもんで、すぐ消えて行くのが運命ですよ」
かれは若い医者でなかなか落ち着いた表情をしていた。ビンドンを見てほほ笑んだ。「ご存じのようにわたくしたち医者はたえず研究をつづけています。ですから、お求めがあれば、いつでもいろいろ忠告をしますよ。そうしながら時節の到来を待っているんです」
「時節の到来を待つんだって?」
「ええ、わたくしたちには、みなさんの生命の扱いを引きつぐだけのじゅうぶんな知識がないのです」
「扱いだって?」
「気にやむことはありませんよ。科学はまだ若いんです。これからもまだまだ数世代にわたって成長をつづけてゆくでしょう。わたくしたちがじゅうぶんよくわかっていないということも承知していますよ……しかし、それでもいずれよくわかる時期がやってくるでしょう。あなたには、たぶん、それがどんな時代だかおわかりにはならないでしょう。あなた方、金持ちや政党のボスなんていう連中は、自分たちの情熱とか愛国心、宗教、その他いろんなことを勝手気ままに振りまわして、むしろものごとを混乱におとし入れていますね。そうじゃありませんか? そうでしょう。たとえば、あの地下の世界! それから、そういう種類のすべてをよくごらんなさい。わたくしたちのうちのある人はこんなふうに想像していますよ。いずれわたくしたちは、換気とか下水施設とかではなく、もっと気のきいたことがらの知識をひきつぐようになるだろう、とね。知識というものはだんだんに積み上げられてゆくものです。しだいしだいに成長してゆくものなのです。だから、なにも一世代や二世代ぐらいあわてる必要はないと思いますね。いつの日にか――そうです、いつの日にかです、きっと人間は今とはまったくちがった生き方をするでしょう」かれはビンドンを眺め、じっと考えこんでいた。「しかし、そういう日の訪れるまで、ずいぶん多くの人びとが死なねばならないでしょう」
ビンドンはこの若い男に注意をうながした。つまりこういう話がかれのような病人に対しいかに愚かで的はずれであるか、また、並みはずれた権力と影響力とにより公けの世界にれっきとしたひとつの地位を占めている年長者たるかれに向かって、いかに差し出がましい無礼な態度であるかを注意した。医者は人びとの病気をなおすからこそ収入をえているのだ――その収入という言葉を大いに強調した――だからそれ以外の問題なんかにくちばしを入れるなんて無礼だと主張した。
「しかし、意見は述べますよ」と、若い男はいくつかの事実に固執しながら反論した。それでビンドンは機嫌をそこねた。
かれは憤然として席を立った。こういうペテン師どもが、かれのような真に影響力のある人間の命も救えないくせに、合法的な所有者から社会の支配権をいつかもぎ取ってやろうと夢みているのだ、そしてだれも知らない専制をこの世界に押しつけようと考えているのだ。ふん、科学なんて糞っくらえだ! かれはしばらくこの我慢のならない展望にぷりぷりしていた。ところがまたもや痛みがぶりかえしてきた。かれは最初にかかった医者の薬がポケットにあるのを思い出して、それをすぐに飲んだ。
それはとてもよく効いて痛みをしずめ、気分をおだやかにしてくれた。それでかれは(本ではなくレコードの)書斎の片隅にある最もお気に入りの椅子に腰をおろし、そしてすっかり変わってしまった現在の事情を考えた。興奮がおさまり、あの薬の不思議な効きめによって、かれの怒りと情熱が嘘のように消えると、悲哀だけがひとり残った。かれはまわりを見わたした。その堂々たる、官能的な快楽をみたすためにつくられた部屋、かれの彫像、そっとヴェールをかけられた絵、それから教養と優雅さにあふれているが、そこはかとなく悪徳の匂いのするあらゆる種類のその証拠物件を眺めた。ボタンを押すとトリスタンの羊飼いのもの哀しい笛の音が部屋いっぱいに鳴りひびいた。かれはそれからそれへと眼を移した。それはみな高価で淫らで華麗であった――それはみなかれの財産であった。それはみなかれの理想、かれの美と願望の観念。この世で最も貴重だと思われたものについてのかれの価値観を具体的な形であらわしていた。さて――これをふつうの人と同じようにそのまま残してあの世にゆかねばならないのだ。かれは感じた、自分は今まさに燃えつきんとする頼りげない、ほのかな炎みたいなものだ。人生はすべてこのように燃え上がり、このように消えていくのだ。思わず涙がこぼれた。
そのとき、ふと、自分がひとりぼっちであるということに気がついた。おれの面倒を見てくれる者はだれもいない。まただれもかれを必要としていないのだ! いつまたあの痛みがはじまるかもしれない。そうしたら泣きわめくかもしれない。しかし、それでもみんな知らん顔しているだろう。医者の話によると自分には一日やそこら泣きわめくだけの立派な理由がある。かれは、自分の魂の助言者が信仰と誠実さが衰退していること、また堕落した時代について語った言葉を思い出した。実際、自分はこういうことを立証するもの哀しいひとつの証拠なんだと考えた。かれ、この鋭敏で有能な、重要で官能的な、それでいて皮肉っぽい心の持主ビンドン。おそらく自分は泣きわめくだろう。しかし、ほんとうに同情して泣いてくれる誠実な友はこの世にひとりとしていない。あー、誠実な友はひとりとしていない――かれのために笛を吹く羊飼いはひとりとしていないのだ! このような誠実で素朴な人びとは、この苛酷なあわただしい地上からすっかり姿を消してしまったのだろうか? かれは不思議に思った。ロンドンの街をたえず行き来している、ほんとうにいやになるこれらの俗悪な大衆が、今、かれにどう思われているのか知っているのだろうか。もし知っているとしたら、ひとりぐらいだれか気のきいたことを言って、おほめにあずかればよさそうなものだ。たしかに世の中は悪くなるいっぽうだ。そこでもうビンドンには我慢がしきれなくなってきた。たぶん、いつの日にか……そうだ、今、自分がこの世でいちばん必要としているただひとつのものは同情だったのだ。しばらくの間、かれは、自分が一篇の詩も――一枚の謎めいた絵も、なんかそういったものをまったく残していないことをくやんだ。もし残していれば、いつかそれを理解してくれる人が現われ、涙をそそいでくれたろうに……
そして、かれにとても信じられなかったのは、やがて訪れてくる死がすべての消滅であるということであった。しかしながら、かれにいたく同情していた精神的な導き手であるあの神父も、ことこの問題になると、まったくじれったいほど曖昧であった。科学なんて糞っくらえだ! それがすべての信仰――すべての希望の土台をくつがえしてしまったのだ。
ああ、死んでこの世から姿を消す。あの劇場や街路から、あのオフィスやレストランから、そして女性の愛らしいあの眼差から姿を消すなんて! だれからももう気づかわれないなんて! しかも、このすばらしい幸福な世界をあとに残していくなんて!
今になって思えば、これまで自分は感じたことをだれにも言わなかった。自分は同情心に欠けていたのだろうか? いや、皮肉っぽい陽気な仮面の下で、実は自分がいかに繊細で奥深い心の持主であったか、それがだれにもわからなかったのだ。だから、かれらには、この自分がいなくなっても、失われたものがなんであるかはわからないだろう。たとえば、エリザベスだって……
かれはそのあとを考えるのを差し控えた。エリザベスのことに考えおよぶと、かれはしばらくのあいだじっと身動きもしなかった。あのエリザベスだって、ああ、なんてわずかしか自分のことを理解してくれなかったことか!
その想いにかれは耐えられなくなってきた。そうだ、なにはさておき、自分の気持ちをきちんとしておこう。かれは気がついた。自分の人生にまだやるべきことがあると。しかも、エリザベスに対する戦いが終ったわけではない。今になってはすでに、これまで望んだようには彼女を征服できないであろう。しかし、エリザベスに感銘を与えることはできるはずだ!
その考えをさらに広げていった。彼女を心から感銘させることができるかもしれない――彼女を心から感銘させることができる、だから、エリザベスは、かれを冷ややかにあしらったことを永久にくやまなければならないだろう。とりわけ、彼女が気がつかざるをえないのは心の広さであろう。この雅量! そうだ! 自分は自分でも驚くぐらい大きな心でエリザベスを愛してきたのだ。それがこれまではっきりとわからなかった――しかし、もう自分は彼女に全財産をやるのだ。実はそのことは自分が死の宣告をされたとき心の中で考えていたことなのだ。きっとエリザベスは、かれがいかに善良で、いかに心の広い人間であるかを思い知らされるであろう。彼女は人生を耐えられるものにしてくれるありとあらゆるものにかこまれ――それは自分のおかげだ――昔、このおれをさげすんだり、冷たくあしらったりしたことをいつまでも後悔するだろう。そしてその後悔の気持をあらわそうとしたとき、彼女はそのチャンスが永久に過ぎたことを知るにちがいない。彼女が見つめるのは、ただ閉ざされたドア、侮蔑的な沈黙、青白い死者の顔だけであろう。ビンドンは眼を閉じた、そして自分がその青白い顔の主であるかのようにしばらくのあいだ心の中で思いつづけた。
そのことから、かれの心はやがてほかのことへ移っていった。しかし、かれの決意は固かった。かれは行動をとる前にじっくりと考えた。なぜならば、さっき服用した薬がぼんやりとした重々しい憂鬱な気分にさそったからである。いくつかの点についてこまかな修正をおこなった。もし全財産を彼女に残すとすれば、かれの所有しているこの逸楽的にしつらえた部屋もそれに含まれることになるであろう。しかし、多くの理由で、かれはこの部屋だけはなんとなく彼女に残す気にはなれなかった。だとすれば、これはだれかほかの者に渡さなければならない。まさにそういう行きづまった状況において、このことはかれの心をいたく悩ませたのである。
結局、それは、日ごろ気持のいい話をかわしてくれた当時流行の宗派に属していたあの心やさしい神父にやることにした。「おそらく、かれだったらわかるだろう」と感傷的なため息まじりにビンドンはつぶやいた。「悪がなんであるかを――かれだったらこの罪というスフィンクスのとんでもない魅力をなんとか理解してくれるにちがいない――いや、きっと理解するだろう」
その言葉は、ビンドンがよく好んで使った文句であった。つまり、誤った虚栄と間違った好奇心に導かれて、かれが正しい行為から不健全な軽薄な行為に逸脱したとき、それになんとか威厳をつけるために用いた文句であった。かれはしばらくじっと坐り、自分がいかにギリシア的であったか、またイタリア風でネロ的であったかを考えこんでいた。だから、今こそ――だれか自分のために詩を歌ってくれてもいいのではないか? 時代から時代へ荘重にひびき渡っていくすばらしい声で、官能的な、邪悪な、もの哀しい一篇の詩を。しばらくの間、かれはエリザベスのことを忘れた。三十分たたないのに音声機械のコイルを三つも駄目にしてしまった。頭痛がしてきた。気分をしずめるために二度目の薬を服用した。そしてまた落ち着きを取り戻すと、またもや前のもくろみに戻った。
とうとう、かれは不愉快なデントンのことにぶつかった。かれがデントンにまつわる考えを胸におさめるにはほんとうに新しく生まれ変わった度量を必要とした。しかし、ついに、このひじょうに誤解を受けていた男は、鎮静剤と近づく死の影に助けられて、そのことすらなし遂げたのであった。もしかれが、かりにデントンを完全にオミットしたならば、また少しでも不愉快な不信を示すならば、そしてあの若者に特別の扱いをしたならば、エリザベスは――誤解するだろう。そうだ――彼女にはデントンをそのままにしておかなければならないのだ。かれの心の広さはその境地にまで到達しなければならないのだ。こうしてかれは、その問題においてただエリザベスだけのことを考えるようにつとめた。
ため息をついて立ち上がった。ふらふらした足どりで電話のところまで歩いていった。それはかれの顧問弁護士に通じていた。十分たってその意思が正式に証明され、拇印のサインをした遺言書が三マイルも離れた弁護士事務所の机の上に置かれていた。それからしばらくビンドンは静かに坐っていた。
突然、かれはぼんやりした回想から我に返り、探るような手つきで、自分のわき腹に手をやった。
それから猛烈な勢いで立ち上がると電話のところに駆け寄った。安楽死公社もこれほどせっかちに客から呼び出されたことはこれまでけっしてなかった。
かくて、エリザベスとデントンは、あらゆる期待に反して、離婚することなくかれらの落ちこんでいた労働苦役から昔の生活に戻ることができた。エリザベスは、板金工たちのいるあのいまわしい窮屈な地下のおり、青い服のむさ苦しいあのすべての境遇から抜け出した。それはまるで悪夢から目覚めたようでもあった。日光に向かって、運はふたたびふたりを連れ戻した。ビンドンの遺贈がふたりに知れるや、もう一日だけでもハンマーをふるわなければならないなんてとうてい耐えられなかった。
ふたりはエレベーターに乗り、階段を上がって、フロアに出た。そこはふたりの不幸がはじまって以来、まったく見たことのないところであった。最初、エリザベスは脱出できたという感動で胸がいっぱいであった。しばらくは地下の生活なんて考えるのはとてもつらくてできなかった。だから何ヵ月か過ぎて、ようやく彼女は、今でもあの地下にいるやつれた婦人たちのことを考えることができるようになった。彼女たちはいぜんとして、おたがいのスキャンダル、昔の追憶、愚行を語り合い、一生ハンマーを打ちつづけるのだ。ふたりはやがて部屋に住みこんだが、エリザベスのその選択には、解放されたという彼女の激しい感動があらわれていた。それはロンドンのいちばんはずれにあるいくつかの部屋であった。屋根裏があって、バルコニーが市の城壁の上に突き出し、太陽と風、田園と空とに広びろと面していた。
かくて、そのバルコニーにこの物語の最終シーンが訪れるわけである。ある夏の夕暮れであった。サリー丘陵はとても青く澄んでいた。デントンはその光景を眺めながらバルコニーにもたれていた。そばにエリザベスが坐っていた。その光景はひじょうに広大であった。なぜならば、そのバルコニーは昔のあの地下よりも五百フィートも上にあったからである。食品トラストの長方形の耕地は、あちこちに昔の郊外の廃墟、つまりグロテスクな小さな穴やあばら屋が散在し、きらきら輝く下水路が交錯し、ついに遠い丘陵のふもとにあるぼうとかすんだひし形模様のところまでのびていた。そこはかつてウヤの子孫たちの定植地のあったところだ。その先の斜面になんだかわからないひょろ長い機械がのろのろ動いていた。そろそろ仕事の終るころなんだろう。丘の頂きにある風車の羽根はじっとしたまま止まっていた。南の広い道路には労働公社の屋外労働者が大きな車輪に乗って食事しに戻ってくるところだった。かれらの最後の作業時間が終ったのである。そして空には小さな自家用飛行機械が十二機ほど飛んでいて市部のほうに向かって下降していった。デントンやエリザベスには見なれた風景であったろうが、かれらの先祖がこれを見たらきっと驚きのあまりわれとわが眼を疑ったにちがいない。デントンの考えは未来に向かい、漠然と、あと二百年もたったらこの光景もどんなになってしまうだろうかと想像した。それから元へ戻って過去に思いをいたした。
かれは当時しだいにふえつつあった知識のなにほどかを持ち合わせていた。かれはヴィクトリア女王時代のすすによごれたロンドンの様子をえがくことができた。足で踏み固められた狭い小さな路、広びろとした共有地、ばらばらのなんとも恰好のつかない郊外、不揃いな囲い地、それから、その小さな部落、そしてこじんまりしたロンドンも、その中にあるスチュアート時代の田園風景を心にえがくことができた。ついで修道院時代のイングランド、ロ―マ領時代のはるか遠い昔のイングランド、そして好戦的な部族の小屋が散在していたそれ以前の野蛮なイングランド。これらの小屋はながい年代の間、現われては消え、消えてはまたふたたび現われていたであろう。それにくらべればローマ人の幕営や別荘などのあった時期は昨日のことでしかないであろう。しかも、それ以前に、そうした小屋が出現するもっと早い時期に、人間はその谷に住んでいた。その時期でも――地質学的な時間の尺度からはかると、きわめて最近のことであるが、この谷はここにあった。あそこに見える丘はたぶんもっと高かったであろう。そして頂きは雪におおわれていたであろう。テームズ川はコッツウォルドに発して海にそそいでいた。しかし、人間はたしかに形だけは人間であったが、まさに邪悪と無知の動物であった。そしてたえず野獣とか洪水とか嵐とかペストとかの犠牲になって餓えに悩まされていた。人間は熊やライオンやそれから過去の怪奇な暴力に取りかこまれながら心もとない生活をしていた。すでに少なくともこれらの敵のいくつかは征服された……
しばらくの間、デントンはこの広大な展望をめぐる自分の考えを追求していた。そしてかれの追求の本能にしたがい、その全体におけるかれの位置と大きさを知ろうとつとめた。
「それは偶然だったんだ」とかれは言った。「運がよかったのだ。ぼくたち人間がここまでやってこられたのは。ほんとうにここまでやってこられたのは偶然だったんだ。けっしてぼくたち自身の力によるものではないのだ……
しかし……いや、ぼくにはよくわからない」
ふたたび語りはじめる前に、かれはながいあいだ沈黙していた。
「結局――ながい時間がこれからもまだつづくだろう。人間が姿を現わしてから二万年――そして生命がこの地上に現われてから二千万年しかたっていない。そして連綿とつづく世代とはなんなのか? 世代とはいったいなんであろうか? それは測り知れないほど大きい。だが、人間はきわめて小さい。しかしながらぼくたちは測り知れないものを知っている――ぼくたちはそれを感じている。ぼくたちは沈黙している原子の塊ではない。ぼくたちはそういう測り知れない大きな生命の一部なのだ。ぼくたちの力と意志のおよぶかぎりにおいてそれの一部なのだ。ぼくたちは生きようが死のうが、その営みの中にあるのだ……」
「時がたつにつれ――おそらく――人間はもっと賢明になるだろう……」
「人間はいつかそれを理解するだろうか?」
デントンはふたたび沈黙した。エリザベスはかれの語ったことにはなにもふれなかった。しかし、彼女はかれの夢みるような顔を愛情のこもった眼差でじっと見守っていた。その日のたそがれ、彼女の心はそれほど浮き立ってはいなかった。エリザベスはひじょうに大きな満足感にひたりきっていたのだ。しばらくして、彼女はそばにいるデントンのからだにそっと手をふれた。かれもその手をそっと撫でながら金色に輝く壮大な眺めをじっと見つめていた。やがて太陽が静かに沈んでいったが、ふたりはそのまま坐っていた。エリザベスが寒さに身をふるわせた。それで急にデントンはこれらの広大な思索から我に返り、彼女のためにショールを取りに行った。
(A Story of the Days to Come 1899)
[#改ページ]
年も明けた最初の日、しかも、ほとんど同時に、三つの天体観測所から太陽系のいちばん外側にある海王星の軌道がかなり乱れてきたと発表された。
すでにオギルヴィは去年の十二月、その速度がおちている疑いがあると警告していた。しかし、こんなニュースは人びとの関心をほとんどひかなかった。というのは、大部分の人びとは海王星の存在なんてまったく知らなかったからである。したがって、軌道の狂いはじめたその惑星の近くに、かすかな点のような光が発見されたと聞いても、天文学者以外、だれも別に気にしなかった。だが、それは科学者にとって大変な驚きであった。やがてその新しい小さな天体は、急速に大きくなってゆき、輝きも増していった。軌道も惑星のふつうの動きと異なり、一方、海王星とその衛星は今や前例のないぐらいその軌道からはずれつつあった。
科学の教育を受けたことのない多くの人びとにとって、太陽系そのものが広大な宇宙空間においていかに孤立しているかちょっと理解できないであろう。太陽は点々とした惑星、ちりのような流星、とてもこまかい彗星群を引き連れ、まったく想像を絶するような無限の空間を動いている。海王星の軌道のかなたには、人間の観測のとどくかぎりでは、熱も光も音もない空間が、一億マイルを二億倍した距離にまで拡がっている。太陽系から最も近い星でさえもそれだけ離れているのだ。いちばん希薄な炎よりもうすい彗星をのぞいて、いかなる物質も、われわれの知るかぎり、二十世紀はじめまでこの空間を横断したものはない。しかるにこの奇妙な放浪者、膨大な質量と巨大な重量を持つ物質の塊がなんの警告もなく暗い神秘な空間の奥からぎらぎら輝く太陽目がけて突進しつつあったのである。二日目になると、それはふつうの天体望遠鏡でも獅子座のレギウス星の近くにかなりの大きさで見ることができるようになった。
新年の三日目を迎え、両半球の新聞読者も、空間に現われたこの異常現象がいかに重大であるかにはじめて気がつくようになった。ロンドンのある新聞は「天体の衝突」という大きな見出しで報じた。そして、この奇妙な星は、おそらく海王星とぶつかるにちがいない、というドゥチェンの談話をのせた。論説委員まで社説で論じたほどであった。だから、一月三日の世界のほとんどの都市には夜空に緊迫した現象が起きるのではないかという漠然とした期待があった。やがて日が沈み、夜がやってくると、数千の人びとの眼はいっせいに空に向けられた。しかし、そこにはいつも見なれた太古からのあの星が輝いているだけであった。
しかし、それもロンドンに夜明けがしらじらと訪れ、パラクス星が沈みはじめ、頭の上の星が青白く薄れてくるまでのことであった。冬の夜明けである。東の空が青ざめ、ガス燈とろうそくの光が黄色く窓辺にともり、人びとが起き出した。そのとき、あくびをかみしめた巡査がそれを見たのである。早朝、市場に集まる人びともそれを見て呆然と立ちつくした。早出の労働者、牛乳配達、新聞を運ぶ馬車の馭者、疲れて青白い顔をした朝帰りの遊蕩児、宿なし、パトロール中の歩哨もみなそれを見た。そして田舎では朝早くからのろのろと畑仕事をする農夫、こっそり家に戻る密猟者もそれを見た。薄暗い、ようやく動きはじめた田舎のいたるところでそれが見えた――海上では日の出を見守る船乗りたちが、突如として、西の空に白く輝く大きな星を見たのだ!
夜空のほかのどの星よりも明るかった。最も明るく輝くころの宵の明星よりも明るかった。しかも、さらに白く、さらに強く輝き出した。夜がしらみはじめて一時間もすると、きらきら輝くたんなる光の点ではなくなり、小さな、はっきりと輝く円盤となった。だから、科学知識の普及していない地域では、人びとがそれをじっと見つめ恐怖におののいた。この天空に現われた白く燃え上がる星は戦争やペストの兆候ではないかと不安そうにたがいに話し合っていた。たくましいボーア人、黒光りのホッテントット人、黄金海岸のニグロ、フランス人、スペイン人、ポルトガル人は、昇る太陽の温かな日射しをあびて、この妖しい新星の沈みゆく姿を立ちつくして眺めていた。
百あまりの天体観測所ではみな興奮を押し殺していた。このふたつの天体がたがいにものすごい勢いで接近していくのを見て叫び声を上げたくなるぐらいまでに緊張は高まっていった。カメラや分光器、その他の観測装置を動員し、この驚くべき光景、ひとつの世界の破滅を記録しようと必死であった。なぜならば、ひとつの世界、われわれの地球よりもはるかに大きな姉妹星が、突然、強烈な光を発して大爆発を起こしたからである。海王星は太陽系外の空間からやってきた怪しい天体に真正面から激突されたのだ。その結果生じた熱は、ふたつの天体を瞬時にして巨大なひとつの灼熱した塊にしてしまった。その日、夜明けの二時間前、青ざめた巨大な白い星は西の空に沈むにつれてようやく色あせてきた。そのあと太陽が昇った。その光景を見て、いたるところで人びとはびっくり仰天した。しかし、それを見たすべての人びとのうちで、最も驚いたのは、海上でいつも星を見ていた船乗りたちであったろう。かれらは海上遠く離れたところにいたので、その星の出現に関する情報はなにも聞いていなかった。それなのに小人の月のようにそれが姿を現わし、中天にかかり、やがて夜明けとともに西の空に傾くのを見たからだ。
そして翌日、それがヨーロッパの空に昇ると、いたるところ、丘の斜面に、屋根の上に、戸外に、大群衆が集まり、その巨大な妖星が昇ってくるのを今やおそしとばかり東の空をじっと見つめていた。それは出現する前に、東の空に白い輝きを放って昇ってきた。ぎらぎらした白い炎の光に似ている。前の晩、それを目撃した人びとは、その光景を見て思わず叫び声を上げた。
「いやあ、でっかくなったぞ!」
「とても光が強くなった!」
そのときちょうど半弦の月が西の空に沈みつつあった。まだ妖星よりもはるかに大きかったが、しかし、明るさははるかに弱かった。
「光が強くなってきたぞ」と街路上に集まった人びとは口々に大声を上げて叫んだ。しかし、薄暗い観測所では、観測員たちは息をのみ、たがいに顔を見合わせていた。「おい、近よってくるぞ、これは」とかれらは言った。「そうだ、だんだん、近づいてくる!」
「近づいてくる!」
その言葉は口から口へと繰り返されていった。電信のカチカチ、カチ、カチカチという音はそれを全世界に伝えた。電話線もふるえ、何千という都市では、インクだらけの植字工がそれを伝えるべく版を組んでいた。「近づいてくる!」
オフィスで仕事をしていた人たちは異様な事件の重大さにショックを受け、みなペンを投げ出した。世界中のあらゆる場所でおしゃべりをしていた連中は、この「近づいてくるぞ」の言葉のはらむ怪奇な可能性に愕然とした。それは夜の眠りから覚めつつあった街路を走り抜け、静かな村の、霜で凍った道をひびき渡っていった。ふるえるように出てくる電信テープからこの事実を読みとった人びとは、黄色い燈に照らされた玄関に立って、そのニュースを大声で通行人に叫んだ。
「近づいてきたぞ!」
美しい婦人たちは上気した顔を輝かし、そのニュースを聞いて、ダンスのあいまにふざけながらしゃべった。そして、感じてもいない知的な関心をよそおった。
「近づいてるんですってね。まあ、なんてことでしょう。でも、そんな発見なさるなんて、とても頭のいいお方なんでしょうね!」
冬の夜、泊る家もなくうろついていた淋しい乞食は――天を仰いでみずからを慰めるためにこうささやいた。
「もっと、近づいたほうがいいや、なにしろ、慈善家みてえにいやに気どったつめてえ夜だからなあ。だけど、近づいてきたからと言ったって、ぜんぜんあたたかになりゃしねえ。ふん、みんなおんなじさ」
「新しい星がなんだって言うの?」と、病で亡くなった夫の遺骸のそばにひざまずいてすすり泣く女が叫んだ。
試験で早起きした学生は、窓に咲く霜の花をすかし、白く輝く大きな星を眺めながら考えこんだ。
「遠心力と求心力か」と、頬杖をついて言った。「惑星の運行を止め、遠心力を奪ったとするといったいどういうことになるのかな? 求心力だけが残る。そうすると太陽のほうにこりゃおちてしまうぞ! この星は――!」
「はて、ひょっとしたら地球にぶつかるのかな――」
日が暮れ、霜の降りそうな暗い夜空に妖星がふたたび昇ってきた。それは大きく光度を増したので、しだいに満ちてきた月も夕暮れの空に大きくかかっていたが、まるでぼうっとした黄色い幽霊のように影がうすれていた。南アフリカのある都市で名門の男が結婚をした。街路は新しい夫婦を迎えるためにごったがえしていた。中にへつらう者がいて、「おや、空までイルミネーションに飾られましたね」などと言っていた。山羊座の下で、ふたりの黒人の恋人たちが、野獣や悪霊なんかひとつもこわがらないで、たがいの愛のために、ホタルの飛びかう竹やぶの中にうずくまっていた。「あれ、わたしたちふたりの星よ」とささやき合い、その甘い光の輝きにあやしい愛の慰めを感じていた。
書斎にとじこもったある偉大な数学者は計算用紙を投げ出した。計算が完了したのだ。小さな白い薬びんにはまだ一粒だけ残っていた。それは四晩、徹夜するために用いられた。毎日かれは、いつものように静かに、はっきりと、しんぼう強く学生たちに講義をし、家に帰るとすぐこの重大な計算に没頭していた。その顔は厳粛な面持ちにあふれ、薬のためかやや引きつれ紅潮していた。しばらくの間、かれはもの思いに沈み、やがて窓ぎわに歩み寄った。そして軽い音を立ててブラインドを上げた。中天に――群がる屋根、煙突、塔の上にあの星が白く光を放っていた。
かれはまるで手ごわい敵の眼をのぞきこむかのようにそれを見つめた。「おまえはこのわたしを殺すだろう」と、沈黙のあとでそう言った。「しかし、わたしは、おまえのことを、この小さな頭脳のうちに、いや、この問題と関連して全宇宙のこともぎゅっと握っているのだ。わたくしはこの信念を変えはしない。こうなってもだ」
かれは小さな薬びんを見つめた。「もう二度と、寝る必要もないだろう」とつぶやいた。翌日、正午かっきり、教室にはいり、いつもの癖で机のはしのところに帽子をおいた。そして注意ぶかく大きなチョークを一本つまみ上げた。学生たちの冗談ではないが、かれはチョークを指の間でもてあそんでいないと講義ができなかった。実際、学生がチョークをかくしていたとき、講義ができなくなったことがあるくらいである。かれは教壇に立ち、灰色のまゆ毛の下から、学生たちの元気あふれる顔の列をじっと見つめた。そして、いつものようにもの慣れた講義口調ではじめた。「諸君、とても重大なことが発生した――いかんともなしがたい重大な事態が……」と言って、しばらく口をつぐんでいた。「それはわたくしの予定していた講義の完了を不可能にしてしまうでしょう。諸君、それを簡明直截に言うならば、要するに――人間なんて空しかったということです」
学生たちはたがいに顔を見合わせた。それとも聞きちがえたのであろうか? あるいは教授、気でもふれたのか? けげんそうにまゆを上げてにやにや笑う者が多かった。しかし、一、二の学生は、教授の静かな灰色のひげづらを熱心に見つめた。「さて、ここに大変興味深い事実があります」と、かれは言葉をつづけた。「この結論に導いた計算をなるべくはっきりと諸君に説明できたならばです。かりに――」
かれは黒板に向かい、いつものように、図式をかく前に考えこんでいた。
「おい、なんだろうなあ、人間なんて空しかったというのは」と、ある学生がとなりの学生に小さな声できいた。その学生は「黙って聞いていろよ」と言って講義のほうをあごでさした。
やがて、かれらにその意味がわかりはじめた。
その晩、妖星はおそくなって空に昇った。東のほうに向かって正確に動いている。だからやや、獅子座から乙女座のほうに接近していた。それに輝きも一段と増してきたので、それが昇るにつれて空は明るい青に変わってきた。天頂の木星、カペラ、アルデバラン、シリウス、大熊座のα、βのふたつの星以外のほかのすべての星影はしだいに薄れていった。それはびっくりするほど白く美しく輝いた。その夜、世界各地で、青白い光の|かさ《ヽヽ》がその星のまわりを包んでいるのが見られた。それはだれの眼にもしだいに大きくなっていくのがはっきりわかった。熱帯の澄んだ光線を屈折しやすい空では満月の四分の一ぐらいの大きさに見えた。イングランドでは、霜が真っ白におりていたので、地上は真夏の月の光のように明るく照らし出された。冷たい明るい光はふつうの印刷物でもはっきり読めるぐらいであった。都市の燈火も黄色く、どこか色あせた感じがしてきた。
その夜、世界中はみな寝ないで起きていた。キリスト教諸国では、おごそかな祈りのささやきが、蜜蜂の巣の中のうなりのように、田舎のさえた空気の中に漂った。そしてこのつぶやくような声はやがて都市にはいるとうわんうわんとひびき渡った。無数の教会堂の鐘の音は、人びとにもう寝るな、もう罪を犯すな、教会にきて祈れと告げているかのようであった。人びとの頭の上には、地球が自転して夜がふけるにつれ、目もくらますばかりの光を放つ星が昇ってきた。
あらゆる都市の街路という街路、家という家には燈が消えなかった。造船所は真昼のように明るく輝き、高地に通ずる道路という道路は、夜どおし、明るく照らし出された人びとの群れでごったがえしていた。文明国をとりまく海上では、船舶がエンジンを始動し、帆を張っていた。船の上は人や動物であふれ、いざというときには、いつでも大洋と北方へ逃げ出せる準備がととのっていた。なぜならば、そのころになると、あの数学者の警告が全世界に打電され、百ヵ国以上の言葉に翻訳されていたからである――新星と海王星はひとつの火の塊と化し、自転しながらしだいしだいに速度を上げ、太陽目がけて突進している。すでにこの燃える巨大な塊は秒速百マイルのスピードで動き、秒ごとにそのおそるべきスピードを加速している。今のコースのまま進めば、地球から一億マイル離れたところを通過し、影響を与えることはほとんどあるまい。しかし、予定された、だが、わずかに摂動《せつどう》を起こしているそのコースの近くに、強大な木星とその衛星があって太陽のまわりをまわっている。現在、刻々と、その燃える星と最大の惑星である木星との引っぱり合う力が強まっている。その結果どうなるか? 疑いもなく、木星は通常の軌道からはずれ、楕円形になるであろう。そして、燃える星は、木星の重力によって太陽に突進するコースをとり「カーヴをえがく」であろう。たぶんわれわれの地球と衝突するか、あるいはひじょうに近いところを通過するかのいずれかであろう。地震、火山の爆発、嵐、大津波、洪水、温度の上昇――どこまで上がるかわからない――このように数学者は予言した。
そして頭上には、かれの言葉を裏書きするかのように、破滅をもたらす星が淋しげに冷たく鉛色の光を放っていた。
あの晩、眼が痛くなるまでその星をじっと見つめていた多くの人びとには、それが近づいてくるのがはっきりとわかったような気がした。その晩、天候が変わりはじめた。中央ヨーロッパ、フランス、イギリスをおおっていた霜が解けはじめた。
しかしながら、あの晩、夜を徹して祈りをささげた人びと、船に乗って外国に行こうとしている人びと、山国に向かって逃げる人びとのことを語ったからといって、その星のため全世界がすでにパニック状態にあったなどと想像されては困る。実際には、世界はいぜんとしていつものように習慣にしたがって生活していた。だから、ひまなときのおしゃべり、夜のすばらしい眺めのとき以外、十人のうち九人まで自分たちの仕事に忙殺されていた。すべての都市において、商店は一、二の店をのぞき、いつもの時間に店を開けたり閉めたりしていた。医者も葬儀屋もそれぞれ商売に精を出し、労働者は工場で働き、兵士は訓練にはげみ、学者は研究し、恋人たちはデートを楽しみ、泥棒は忍んでは逃げ出し、政治家はろくでもないことをたくらんでいた。新聞社の輪転機は夜通しうなりつづけた。あちこちの教会は、多くの牧師がばかげたパニックとみなしていたものを助長するからと言って、聖なる会堂の扉を開こうとしなかった。新聞は紀元前千年の教訓を主張した――あのとき、人びとは世界の終末が到来したと言って大騒ぎしたが、なにごとも起きなかったではないか! 今度の星は星ではない。たんなるガス――彗星にすぎないのだ。かりに星だとしても、地球にぶつかるわけがない。第一、こんなこと前例がないではないか。このようにいたるところで常識が頑張っていた。嘲笑し、茶化し、強い恐怖心にとりつかれた人を迫害しようとする気配すらあった。あの晩、グリニッチ標準時の午後七時十五分、それは木星に最も接近するはずであった。そのときになればいずれどうなるかがわかるだろう。しかし、あの数学者の冷酷な警告は、多くの人びとには大変手のこんだ自己宣伝としか解されなかった。常識は議論によっていくらか熱しはしたけれども、ついにその変わることのない確信をベッドに入ることによって示した。また、未開野蛮の人びとは、すでにこんな星はめずらしくもなかったから、いつもの力ずくの荒々しい仕事にとりかかっていた。あちこちで、夜空に向かって低く遠吠えする犬をのぞき、野獣の世界もその星にはまったく無関心であった。
しかしながら、ヨーロッパ諸国の天体観測所の所員が、その星の昇ってくるのを見ると、それは一時間おくれたけれど、大きさは昨夜とさほど変わっていなかったので、あの数学者のことを笑い、もうそんな危険は過ぎたものと考えた。
だが、その後、笑う者はいなくなった。星が大きくなってきたのだ。恐ろしいほど着実に大きさを増してきたのだ。一時間ごとに少しずつ前より大きくなってきた。真夜中の天頂にしだいに接近するにつれ、その輝きはいよいよ増した。そしてついに夜を第二の白昼にさせてしまった。もし、カーヴをえがいた軌道ではなく、地球に真っすぐにやってきたならば、そしてまた、もし木星に接近するまでのスピードを失わなかったならば、それは一日で地球までやってきたであろう。しかし、実際には五日かかった。つぎの夜、イギリスで沈む前、すでに月の三分の一ぐらいの大きさになった。霜が解け出した。アメリカに姿を現わしたとき、月の大きさになっていた。目をくらますほどの白光を空いっぱいに放ち、熱気さえも感じられた。その出現とともに熱風が吹き起こり、その強さもしだいに激しさを増してきた。ヴァージニア、ブラジル、セントローレンス渓谷では雷雲が湧き上がり、紫色の電光が閃めき、かつて経験したことのない雹《ひょう》が降り、その雲間にときどき白い光を放つ星が見えた。マニトバでは雪が解け、大洪水になった。世界の山という山は、あの晩、雪と氷が解けはじめた。山岳地帯から流れ出すすべての河川は濁り、水かさを増した。やがて上流域で、樹木や動物や人間を渦まく激流の中に押し流した。あの幽鬼のような青白い光をあびながらぐんぐん水かさが増してきた。ついに、堤防を越え、避難する住民のあとを襲った。
アルゼンチン、南太平洋の沿岸には、人間の記憶にまったくない山のような大津波が襲来した。また、高潮が何十マイルも内陸の奥ふかくまで押し寄せ、あらゆる都市を潰滅させた。その夜、ものすごく気温が上がったので、太陽が昇ったとき、なにか日かげにおおわれたかのような気がした。地震がひんぱんに起こり、その激しさを加えた。北極圏からホーン岬にいたる南北アメリカでは、山津波が発生し、大地に亀裂が走り、家屋はすさまじい音を立てて崩壊した。コトパキシ火山の斜面は一回の激震で全部ずり落ち、溶岩がどっと噴き出し――それは一日のうちに海岸線に達した。だから、いかにその噴出が激しく、広範囲で、流動的であったか想像できよう。
このように星は、血の気を失った月をあとにしたがえ、大雷雨をローブの裾のように引きずりながら、太平洋上を通過した。そのあとに高まりゆく大津波が白い波頭を立てて追いすがり、島という島に襲いかかって住民たちをことごとく洗い流した。それが最後の地点に到達したとき、目をくらますばかりの白光の中を、溶鉱炉から吹きつけるような熱風をともない、おそるべきスピードですさまじいうなり声を上げてやってきた――高さ五十フィートの長城のごとき大津波は、餓えた猛獣のようにアジアの長い海岸線を襲い、またたく間に中国の平野を横断して、内陸ふかくまで洗いつくした。そのころになると、星は熱も大きさも太陽をしのぐにいたった。そして無慈悲なその輝きで、多くの人びとの住む広大な中国全土を照らし出した。町と部落を、塔を、樹木を、路を、広大な耕地を、孤立無援の恐怖のうちに眠れないままじっと白熱の空を仰ぐ無数の住民を照らし出した。そのとき、低くうめくように大津波のとどろきが遠くに聞こえた。こうしてあの夜、何百万もの人びとが、逃げる場所とてなく、熱気のために足をひきずり、あえぎ、右往左往しているちょうどその最中に、壁のような大津波がすさまじい速度で白光をひきずりながら押し寄せてきたのだ。それから死が……
中国は白熱の光に照らし出された。しかし、日本、ジャワ、東アジアの島々では、その巨大な星は光を失って真っ赤な火球に見えた。なぜならば、その到来を歓迎するかのようにすべての火山が爆発し、噴き上げた蒸気、煙、灰が空一面にひろがったからだ。高地は熔岩とガスと灰におおわれ、低地は煮えたぎった洪水の中にあった。かくて地球は地震の衝撃で揺れに揺れた。間もなく、チベット、ヒマラヤの万年雪が解けはじめ、それが寄り集まってしだいに水かさのます無数の水路となり、ビルマ、ヒンドスタンの平野にどっとあふれ出した。インドのうっそうたるジャングルはいたるところ火につつまれた。樹の幹の下を真っ黒な生きもののように激しく洗う濁流には血のように赤く燃え上がる舌のような炎が映っていた。大混乱におちいった群衆は水かさの増した広い河を先を争って最後の望みである大洋に逃れた。
前よりさらに大きくなってきた。今や星は恐ろしいぐらいの速さでぐんぐん大きくなり、熱くなり、白い輝きを増した。熱帯の海は青白い蛍光を放つのを止め、荒れ狂った大波がたえず突き進んでいた。黒い波間からは潮流が幽霊のように渦となって盛り上がった。その中を嵐で漂流した船がごまつぶのように見えた。
やがて、驚くべきことが起きた。ヨーロッパで星の昇るのを待ちかまえていた人びとは地球の自転が止まったのではないかと思った。洪水から、倒壊した家屋から、地滑りを起こした丘の斜面から逃げのび、高地や低地の多くの場所に集まった人びとの眼に昇る星の姿が見えなかったからである。恐怖のうちに刻々と時間が過ぎていった。しかし、星は現われなかった。あらためてかれらは、もう永久に見ることがないと覚悟した昔からの星座を仰いだ。イギリスでは空は晴れ上がり、気温が上昇した。けれども大地は間断なく激しく揺れ動いた。熱帯では、水蒸気の|もや《ヽヽ》を通して、シリウス、カペラ、アルデバランの星が見えた。そしてついに、その巨大な星が十時間近くもおくれて姿を現わした。そのとき、なんとそれを追いかけるように太陽が昇ってきた。しかも、白熱化した星の中心にひとつの黒い円盤がポツンと見えるではないか。その星の動きがおくれ出したのはアジアの上空であった。インドにかかると突然、その光がおおわれた。インダスの河口からガンジスの河口にいたるデルタは、あの晩、見わたすかぎり浅い海原と化し、きらきら輝いていた。その中に寺院、宮殿、土まんじゅうや丘などが見えた。それには真っ黒に人が群れていた。すべての回教寺院の尖塔にも人間が群がっていた。かれらはやけつくような熱気と恐怖に耐えられないで、ひとり、またひとり、つぎからつぎへと濁った水の中にころげ落ちた。全土が阿鼻叫喚の声にみちた。突然、あの絶望的な焦熱地獄を影みたいなものが横切り、冷たい風が吹いてきた。風は雲を呼んだ。人びとは見えぬ目を見はってその星を眺めた。すると白熱に輝く表面を這うように進むひとつの黒い円盤が見えた。それは月であった。星と地球の間に入ってきたのだ。人びとがこの救いを大きな声で神に感謝したちょうどそのとき、東の地平線から、奇妙な、説明できない速さで太陽がおどり出た。星と太陽と月がものすごい勢いで天頂目がけてぐんぐん昇っていった。
やがてヨーロッパの人びとがそれを目撃したとき、星と太陽が相接して姿を現わした。両方とも、しばらくの間、すごい勢いで昇っていったが、しだいにおそくなり、ついに静止し、星と太陽は中天でひとつに溶け合って白熱の炎の塊と化した。月はもはや星を侵蝕しなかった。しかし、光り輝く空にその影を失った。生き残ったこれらの人びとの大部分は、飢えと疲労と熱気と絶望の生みだすもうろうとした頭でその光景を眺めた。しかし、この兆候の意味を理解できた人もいた。星と地球は最短距離まで接近し、向きを変えてすれちがったのである。すでに星はものすごい速度で地球から離れ、太陽目がけて最後の突入段階に入った。
やがて、雲が湧き上がり、空一面をおおった。雷鳴と電光が地球を美しい織りもののように包むやいなや、これまでだれも経験したことがない沛然たる豪雨が地上を叩きつけた。そして火山の噴火が空をおおう雲を赤あかと染めている地域に激しい泥流を押し流した。いたるところ激流が大地を洗い、そのあとに泥だらけの廃墟を残した。漂流物、人間と野獣、その子供たちの死体、まるで嵐のあとの海辺のような惨状であった。幾日も幾日も、水は激しい勢いで地上を洗い、行手をはばむ土壌、樹木、家屋を押し流した。そして田園地帯に山のような土手を盛り上げ、巨大な峡谷を掘り下げた。星と焦熱のあとにつづいたのはまさに暗黒の日々であった。その間、何週間も何ヵ月も地震がひっきりなしに起きていた。
だが、星は去った。そして人びとは、飢えに駆られ、なんとか勇気を奮い起こし、廃墟と化したかれらの町へ、埋もれた穀倉へ、泥におおわれた田畑へ這い戻った。あのときの嵐を命からがらなんとか逃れられた少数の船はかつてよく知っていた港の変わりはてた水路や浅瀬をおそるおそる深さを測りながら戻ってきた。嵐の時期が過ぎ去ると、以前より日中の気温は高くなったようだ。太陽は大きくなり、月は以前の三分の一ぐらいにちぢまり、新月から新月まで八十日になった。
しかし、やがて人びとの間に芽生えるにいたった新しい同胞愛については、法律や書物や機械の救済については、アイスランド、グリーンランド、バフィン湾などに起きた奇妙な変化――そこへ上陸した船員たちが、緑におおわれたあまりに美しい光景を見て、われとわが眼を疑ったという話――については、この物語はなにも語るまい。また地球の気温が上昇したので、人間が南北両極に向かって移動したことについてもなにも語るまい。ここではただその星の出現と通過について語るだけに止めよう。
火星人の天文学者たちは――というのは火星にも天文学者がいた、もちろん、われわれとは大変異なった生物であるが――当然、今度の天変に大変な興味を示したであろう。かれらはかれら自身の立場からこの現象をじっと見つめていたにちがいない。「われわれの太陽系の中を太陽に向かって突進しつつあった物体の質量と温度とを考えるならば」とかれらのひとりが書いた。「それが地球のすぐそばを通ったにもかかわらず、地球の受けた被害がきわめて軽微であったことはひじょうな驚きである。見なれた大陸の形や大洋はいぜんとして今までどおりで、実際、唯一の変化と言えば、南北両極をおおう(凍った水と想像される)白いしみがわずかに縮小したぐらいであろう」それは人類を襲った最大の惨事も何百万マイルの距離から見るならばいかにささいなことに過ぎないかを示したのである。
(The Star 1899)
[#改ページ]
この惨めな靴
一 靴の世界と心の貧しさ
「おい、靴のことなんか考えたって、なんになるんだよ」と、歩きながらわたくしの友人が言いました。
しかし、わたくしに関するかぎり、妙なことなんですが、なにかというといつも靴に目をつけ、それからそれへといろいろ想像する癖が昔からあるのです。わたくしはおかしな考えを持っています。つまり、世の中、たいていの問題は履いているもので説明できるのではないかということです。靴直しが、えてしてよく哲学者であるのもそのせいだと思っています。そうです、わたくしにこんな考えを抱かせたのはまったくひょんなことからなのです。
わたくしは、子供のころたいてい、家の地下室の台所で暮していました。そこの窓はちょうど煉瓦を敷いた路面のところについていて、上から店の窓の鉄格子が重くおおいかぶさっていました。ですから、窓から外を見ると――お金持ちの坊ちゃんたちとはちがい――通る人の顔やからだのかわりにいつも足もとばかり見えていたのです。それでわたくしは、靴だけは――いや靴の底と言ったほうが正確だと思いますが――世の中のあらゆる種類のスタイルとおなじみになったわけです。そして、それを見てはじっと考えこみ、そのうえにいろいろな頭や胴や|すね《ヽヽ》をくっつけて想像にふけっていました。
眺めているとほんとうにさまざまな靴が――もちろん、その上に人間さまのからだがついていたのですが――店さきにやってきては立ち止まります。いやにまた凝って小ぎれいな女の子の靴――それには上等なもの、そうででないもの、あつらえたばかりのもの、かかとがすり減って曲がっているもの、継ぎはぎしてあるもの、あるいは継ぎあてしなければならないものがあります。それから男の靴――それにも不恰好なのと、きれいなのとがあります。ゴム靴、テニス靴、オーヴァーシューズも立ち止まります。赤靴は見たことがありません。そのころはまだ出ていなかったのです。しかし、木靴を見たことがあります。靴はやってくるときっと窓と親しく語り合っていました。ときに靴が踊り、せかせかとはねたり蹴ったりするのを見ていると、このふたり、きっと真っ赤になってのぼせているのだなあと、あるいは喧嘩しているのだなあと思います……とにかくこんなふうに、幼いころから、わたくしの心に靴というものがにじみこんでしまっていたのです。
しかし、わたくしの友人は靴のことなんか考えたってなんの足しになるんだ、と思っていました。
その友人はなかなか現実主義的な小説家で、かれの心から希望なんていうものはすっかり抜け出してしまったような人間でした。どうしてそうも完全にかれの生活から希望がなくなってしまったのか、わたくしにはわかりませんが、たぶん、いやな心の病がついにかれから将来の明るい計画と信念を奪い取ってしまったのでしょう。だから、残されたわずかな晩年を、世間から離れ、読書三昧にふけり、一見したところおだやかで美しい環境の中にひたり、痛ましくて残酷なものはもう考えるのを避け、安らかに送ろうとしていました。さて、わたくしたちは路地裏をがっかりしたように歩いてくるひとりの放浪者みたいな男にぶつかりました。
「おい、見ろ、かかとがすりむけていたぞ」と、すれちがってからわたくしが言いました。「でもな、こんな砂利を敷いた裏町じゃ、だれだってさ、はだしで歩くわけにはいかんだろうな」友人は黙っていやーな顔をし、ふたりの間にしばらく沈黙がつづきました。ふたりともおたがいになにか思い出していたのです。わたくしたちがふたたび話をはじめたとき――それまでかれは靴についてなにも語ろうとしませんでしたが――またもやそれは靴の悩みのことになってしまったのです。
ところで、ふたりの意見が一致したのは、靴がいつも不幸の原因となって、わたくしたちに苦痛やら不快やら悩みやら心配やらを与えているという点でした。わたくしたちは統計上のちょっとしたやり方で、それを具体的な形でわたくしたちの心に示そうとつとめました。
「今じゃ、この国の十人のうちひとりは靴のことでいやな思いをしているんだ」とわたくしが言いました。
ところが友人は、五人にひとりと言ったほうが事実に近いなあ、と言いました。
「貧乏な男や貧乏人の女房、それから、それよりもさらに多くの子供たちの生活に、この靴の悩みがひっきりなしに起きているはずだ――それで苦しむ日はけっして少なくないぞ」
わたくしたちふたりは、これらの靴の悩みについて、分類みたいなものをしてみました。
新調の靴にも悩みがあるもんです。
[#ここから1字下げ]
一 粗悪な、通気性のない材料でできている場合があります。よく言うように「足をひきずる」ことになります。
二 靴が足にぴったり合っていないことがあります。たいていの人びとは既成品の靴を買います。かれらにはそれ以外のものなど買えないのです。だからみんな、貧乏人の服従主義の哲学にしたがい、靴に自分の足を合わせるようにつとめるのです。ですから、足指が、全体的にしめつけられてあちこち痛み、それが足にまでおよんで腫れ上がってくるのです。そしてこの圧迫がながくつづくと、そこに|たこ《ヽヽ》ができ、その苦痛を味わわなければならなくなります。こんな調子で物に人間を合わせるために、結局、子供の足は永久にゆがんでしまうのです。だからこの世間の多くの人びとは、はだしで人前に出ることをとても恥ずかしがるようになるのです。(わたくしは家に遊びにくる人によく、暖かな気持のいいお天気の日には草の上ではだしでバトミントンをして遊ぼうと無理にすすめたものです。それは大変愉快な遊びです。ところがほとんどの人は、曲がった指や|たこ《ヽヽ》、とくに不恰好な足を見られるのをすごく恥ずかしがって困った顔をしていました)
三 新調の靴の第三の悩みはこうです。革がよく涸《か》れていないために具合が悪くなる場合があります。歩くときゅっきゅっ鳴って、みんなに見られて恥ずかしい思いをします。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、これらのことは、靴がこわれかかったときの苦労にくらべれば、もののかずではありません。そうなってくると、それこそ本格的な危機がやってくるのです。わたくしと友人は、このこわれかかった靴の悩みについて――かれがいやがる前に――三つのおもな種類をあげてみました。
[#ここから1字下げ]
一 さまざまな種類の靴ずれがあります。その中でいちばんたちの悪いのは、かかとの靴ずれをあげなければならないでしょうね。これはかかとにかかる上からの重みが、平均していい具合にかからなかったときに起きるのです。これには、わたくしも、子供のころ何日も我慢しなければならなかったことがあります。というのは、そのころ、代りの靴なんてなかったからです。それから靴の内側の裏当てに|しわ《ヽヽ》がよってできる靴ずれがあります。この靴ずれはたぶん貧しい人たちが継ぎはぎだらけの、また粗末な継ぎ当てをした靴下をはくために、いつも起こる靴ずれのようです。それからまた既成品の靴を買うさい、指の圧迫による痛みや|たこ《ヽヽ》を避けようとして、すこし大き目の靴を買うためにできる靴ずれがあります。しばらくしてくると、足と靴がぴったり合っていない爪さきのところに折り目のようなすじ目ができます。そして靴が湿ったり、なにかの理由でかたくなったりすると、指のつけ根のところをすりむくことがあります。とにかく靴ずれはよく起きるものです。今でもわたくしは、はっきりと覚えていますが、切れた靴紐を結んで使っていたころ、その結び目の|こぶ《ヽヽ》のためにすり傷をこしらえたことがあります――だれでも新しい紐をしょっちゅう買うというわけにゆきませんからね。そのさい、結び目の|こぶ《ヽヽ》は見えないように内側にかくすわけです。それから靴の中底に|しわ《ヽヽ》がよるために靴ずれができるときがあります。
二 靴底がすり減ってきたために起きる悩みがあります。かかとがすり減ってなくなってしまったために、足首の筋をちがえることがあります。またかかとがないので、なんとなく落ち着かない感じがしてきます。それに加えて、だれでも気にすることですが、うしろから人に見られたらいい恰好ではないだろうと心配してなんとなくみじめな気持になります。仕事であちこち歩きまわり、それだけで靴と靴下を多くすり減らしている娘さんのあとをゆくのは、わたくしにはいつもたまらないほど心苦しい。こうした理由で、娘たちのかかとはいつもななめにすり減っています。娘たちは常に美しくなくてはなりません。たいていの娘はきれいにしようと思えばできるはずなのに、たまたま会った娘さんのかかとが哀れにもななめにすり減っていたり、その歩き方に優雅さがなくなっていたり、背骨の曲がったような姿を見たりすると、わたくしの気持は曇り、娘たちをこのようにした社会にいきどおりを感じないではいられません。それからまた靴の中に釘の頭が出てくるときがあります。男らしく痛い足を引きずり、そのうち落ち着いたら、あるいは人気のないところにきたら、その釘をもとへ打ちつけてやろうと考えながら顔をしかめて歩きます。ところで、靴底が完全にはがれないで、ばたばたするときがあります。わたくしはいつも最後にはこんな状態になりました。わたくしはまず爪さきのほうをすり減らします。つぎに前のほうから底がうしろへはがれていくのです。歩いていると地面にひっかかりはじめるので、そうならないように実に奇怪な歩き方をしたものです。しかし、とても恥ずかしくなって、とうとう思いきって道ばたに腰をおろし、ばたばたするものをもぎ取ったことがあります。
三 わたくしたちがあげた第三の苦しみは、革が裂けるのと、水がしみこむことです。これらはだいたい精神的な悩みです。たとえば、靴の爪さきのところがみにくい口を開けて、あくびでもしているような姿を見れば、だれでも情なくなるでしょう。そのうえ、ひんやりして冷たくもあり、ながい間、不愉快な思いをさせられます。それからわたくしたちは、底のうすくすり減った靴というよりも穴だらけになった靴をはいて、腰をおろして仕事をはじめるときの苦しみ、しかも、仕事場にゆく途中、遠慮なく水がしみこんできて、寒けがするというような――ロンドンの学童たちの多くが雨の降る朝きっと経験する――悩みについても友人と話し合いました……
[#ここで字下げ終わり]
これらのことがらから、わたくしの心はほかのことがらに向けられました。わたくしはひとつの発見をしました。わたくしはいつも、貧しいロンドン市民が――それがいちばんよい運動なのですが――なぜ日曜・祭日ぐらい疲れるほど散歩しないのかなと、その呑気さを軽蔑していました。また、わたくしは、ある夏の日、マルゲートに行ったとき、こんなことを言っていい気になっていたのです。「この若者たちはどいつもこいつも野外音楽堂のまわりをうろついているが、なんてぐにゃぐにゃした連中ばかりなんだろう。そんなひまがあったら、ケント州の高原の奥でも歩きまわったらよさそうなものなのに!」しかし、今になって考えてみると、なんてそんな心ないことを言ったもんだと後悔しております。それは大変ながい山歩きなのです! そんなことをすれば、かれらはきっと、はいているその靴のために足が豆だらけになるにちがいないと思います。第一、靴がもたないでしょう。わたくしはそれが今わかったのです。
だから、わたくしの考えは、見事に逆転してしまいました。「足からヘラクレスがわかるのさ」と、わたくしは友人に言いました。「靴の悩みなんて、ほんの一例にすぎないんだ。みんな着ているあの服だって、靴より見ばえしないじゃないか。住んでいる家なんか靴よりもっとみじめだ。それに、みんなの持っている思想とか誤解、不完全な理論という安物の上着のことを考えてみろ! あれはみんな、教育によってかれらの貧しい心に着せられたんだ。その上着が、かれらの心をしめつけ、いらいらさせているんだ! こういう悩みを、それからそれへと拡げてみるとだね……たとえば、みじめな、質の悪い、変な食べ物を食べたらどうなる、それから、ちゃんと治療しない眼や耳や歯は、しまいにどうなるんだ! どのくらい多くの人が歯痛で苦しんでいるか、考えてみろよ」
「おいおい、そんなことを考えたって、おまえ、なんになるんだい!」と、友人はうんざりした顔をして叫びました。そして、もうなにがあっても、そんな話には耳をかしそうにもありませんでしたが……
でも、その男は、もっと元気なころ、そして絶望がかれを完全に支配していないころ、これとまったくちがわないことをたくさん本に書いていたのです。
[#改ページ]
二 靴で悩まない人びと
しかし、わたくしはなにも友人を苦しめようとして、こんな話をしたわけではなかったのです。また、読者のみなさんを苦しめようとして、わざわざこんなことを書いたわけではないのです。それというのも、これらの悩みすべてが、防ごうと思えば防げるのだということ、それから人の力で救済が可能だという固い信念をわたくしが持っているからなのです。
ところで、すべての人びとが、靴のことで悩んでいるわけではありません。
わたくしの知っているひとりの人、やはり友人ですが、かれはこのことを立証しているのです。この人も靴の悩みをすべて経験しました。しかし、今ではそんな悩みからすっかり脱け出して、世界中を自由に歩きまわっています。しかし、だからといって、その悩みを忘れてはいないのです。思いがけない運、それからその人のすばしっこさも手伝ってでしょうが、それらがかれを、一週間に一ポンドの収入をなんとかやりくりして靴や服を買う階級から衣服費として一年に七、八十ポンド使う階級へ引き上げたのです。ときどき、一流の靴屋でいろいろな靴を見たてて買います。ときどき、足に合った靴を注文します。そしてそれをちゃんとした靴入れにしまって大切に保管しています。だから、かれはブーツ、靴、スリッパで足をすりむいたなんてことはありません。足の指をしめつけて痛めたり、靴がきゅっきゅっと鳴ってかれの心を痛めたり心配させたり困らせたりしたことはけっしてありません。自分の足をストーヴの前に出しても、この世の|ちり《ヽヽ》で生計を立てているしがない人間だなんてことをわれとわが身に思い出させるようなことはけっしてありません。だから、これだけでも、不幸のあとにしあわせがやってきたのですから、その人は幸福で祝福されなければならないと読者はお考えになるでしょう。
ところが、人間の心って案外妙なもんですね。かれはちっとも満足していないのです。多くの人びとが、靴や靴下のことでかれとくらべものにならないぐらい恵まれていないというその認識がかれを満足させないのです。なんと、一般大衆の靴がかれの足指を痛めつけていたのです。昔、かれがボロ靴をはき、みすぼらしい姿をして、忙しさで浮き立つばかりの華やかなロンドンの街を、足をひきずりひきずり経験したみじめさ、そしてそのみじめさから知った社会組織に対する怒りを、かれ自身なにひとつ苦悩のない今日になっても、ほとんど耐えられないぐらい苦しんでいるとかれが考えている大衆のために、やはり同じくらい冷たい洞察力でもって感じているのです。かれは大衆が苦しむのは当然の報いだなんていうような呑気な幻想は抱いていません。いつも裕福な生活をし、きちんと足に合った靴をはいている愚か者はそう考えるでしょう。しかし、かれはちがうのです。ある点からすれば、靴のことを考えると、今まで以上にやけに腹立たしくなるのです。昔、かれは、残酷なほど運に恵まれず、生涯もう運の向くことはあるまいと思っていました。悪い靴、着心地の悪い見苦しい服、ぼろぼろの家、これらはみな自分に生まれついてのものだと考えていました。しかし今日では、子供が道ばたで鼻声を出したり、おいおい泣いたり、びっこを引いたりしている姿を見ると、あるいは、田舎から出てきた老婦人が横町を苦しそうに歩いているのを見ると、かれはもはや「運命への服従」なんて承服するわけにはゆかなくなりました。ところで、かれの怒りは、この世の中にはまだ、こういう不幸を予見し、防止しなければならないと思っている馬鹿者がほかにもいるのだという考えでぱっと明るくなりました。かれはもう自分の運命を呪いませんでした。かれは、わたくしたちをこんなに苦しめている悪い制度を改めようとする温かい心も、勇気も、能力もない政治家や有力者の愚かさを呪ったのです。
わたくしは二番目の友人の裕福な話を不当にながながと話すつもりはありません。なぜならば、わたくしはかれもかつて苦労と悲哀の状態にあったということを話している最中ですからね。たとえば、かれは着るものがお粗末なので風邪をひきました。みすぼらしい姿なのでなんとなく気がひけていました。歯が治療できなかったので歯痛に苦しんでいました。妙なものをつまみ食いして消化不良に苦しみました。不潔な見苦しい家に悩み、ロンドンのその地域の悪い空気に悩まされていました。実際、働きすぎてからだがふらふらしている貧乏人の孤立無援な力ではどうすることもできないあの状態に苦しみ悩んでいたのです。ところが、今ではこれらの不愉快なことがらはすべて、かれの生活から消えてしまいました。歯はかかりつけの歯医者によく見てもらうし、医者にもちゃんとかかっています。風邪をひいて気分の悪い日などほとんどありません。もちろん、もう歯痛や消化不良なんかで苦しむこともまったくなくなりました。
わたくしは運のいいこの人の話はこれぐらいで打ち切りにいたしましょう。この靴の悩みというものが、人間の避けられない呪いでないということを読者が理解してくだされば、わたくしの役目は果たされるわけです。もしある人がそれを避けられるならば、ほかの人だって避けられるはずです。きちんとやれば、そんなこと完全に避けられるでしょう。もしあなたが、あるいはほとんどの人びとにとってもっと重要なことは、もしあなたに親しい人たちが、はき心地の悪い、見苦しい靴やブーツに悩んでおられるならば、そしてあなたがそれになんの救済策もほどこすことができないならば、その理由は、要するにあなたが適切に管理されていない社会のいっそう悪い側のほうに完全に捕えられているからです。それはけっして避けられない運命ではありません。
靴について言ったことは、実は人生のほかのすべてのささいなことがらについても真実なのです。ですから、もしあなたの奥さんが、この寒空に薄すぎる革の靴のために風邪をひいたとしても、そしてみすぼらしい不恰好な姿のために外出を嫌ったとしても、もしあなたのお子さんが歯痛で顔がはれ上がり、服がよごれ、古ぼけ、ぴったりサイズが合っていないので、いかにも苦しそうに、気分悪そうに見えたとしても、そしてもしあなたが貧乏のために気が滅入り、ほかの人とつき合う気さえなくなり、他人に屈従したとしても、これは人間のみじめな運命であるなどと一瞬たりといえども信じたり、あるいはそのようにだまされたりするようなことがあってはなりません。
間違っても言ってはいけませんよ「人生なんてこんなもんだ」と。かれらの不幸は原始時代から伝わる呪いであって、絶対避けられないなんて考えてはいけませんよ。なぜそうなのかということはだれにでもわかることです。世の中には他人よりもよけいに恵まれる理由もないのに、これらの悩みをまったく経験しないでいる人びとがいるのです。自分は貧乏で不幸な生活を送る価値しかない、だから靴のことで足をすりむくぐらい仕方がないと、あなたがあきらめているのであるならば、それまでの話です。しかし、幼い子供たち、若い娘たち、上品で勤勉な人びとの多くが、どうしてそんな運命に甘んじていなければならないんでしょうかね?
[#改ページ]
三 論争の始まる原点
さて、わたくしの意見に反論する人を想像してみましょう。文明生活の大部分の悲惨さが――わたくしは「大部分」と言いますけど、「すべて」とは言っていませんよ――がんじがらめにおりこまれてしまったこのみじめな不足から生ずるのだというわたくしの意見に反論する人がいるとは思いません。その不足の最も簡単な例として靴の悩みをさっき取り上げておきました。しかし、かようなみじめさは避けられるのだという意見を否定したがる人がひじょうにたくさんいるだろうとわたくしは信じております。その人たちの意見とはこうです。ほとんど大部分の人びとが最良のものを手にするなんてとても不可能である。第一、あらゆる種類の最良のものが――良質の皮革や靴直しを含めて――すべての人びとにゆきわたるだけあるはずがない。だから、下層階級の人びとは見すぼらしいことや着心地のよくないことなど気にするべきではない。かれらは、自分の身のほどをわきまえ、せめて生きてゆかれるということだけでも大いに感謝しなければならない。それに騒いだところでこの状態を変えることも改善することもできないのだから、むやみに不平を煽動したところでなんの役にも立たないだろう。
しかし、こういう議論がこのようにただ手を横にふるだけで片づけられてしまうなんて少し酷だろうと思います。すべての人びとが最良のものを手に入れるのは不可能だということはたしかにほんとうです。ある人の靴がよくて、ほかの人の靴が劣っているということは自然でしょう。極上の靴、最も質のよい革をいちばん上手な仕立てでこしらえた靴、こういう靴は単なる運か、あるいは、それを手に入れようとする意志の強さによって、ある人たちの手に入るでしょう。そういうことはこのわたくしも否定はしません。いかなる人でも、すべての人がほかの人とまったく同じようなすばらしい靴をはけるようになるときがやってくるなどとは夢みていないでしょう。わたくしはなにもそんな子供っぽい不可能なことを説いているのではありません。靴や靴下にはある程度の変化に富んだ美しさ、面白さがなければならないと思います。しかし、だからと言って、大多数の人びとがしょっちゅうはき心地の悪い、足によくない、ぶざまな靴をはかされるのに満足して、それ以上のものはけっして望んではならないというのはまったくどうかと思います。わたくしはそんなこと絶対に承服できません。この世界には、すべての人びとにゆき渡るスタイルのよいブーツや靴の製造に必要な上質の革がじゅうぶんにあります。そして必要とされたすべての仕事をやる労力も動力も機械もあります。それは今、みな遊んでいるのです。またすべての人びとのために靴を製造し、そして分配するための知力もじゅうぶんにあります。それも今、遊んでいるのです。いったいなにが邪魔しているのでしょうか?
ところで、その問題をいくぶんちがった形で考えてみましょう。つまり一方に――大英帝国のぱっとしない地方ならどこでも目撃できるでしょうが――古靴やぶざまな靴を不恰好に、はき心地悪そうに、痛そうにはいている人びとがいるかと思えば、他方、同じこの世界のもっと広い地域では、家畜や革をとろうと思えばいくらでもとれ、しかも、ひじょうに多くの人びとが、富あるいは取引上の混乱により、なんの仕事もしないでぶらぶらしているのです。だからわたくしたちの質問はこうなのです。「なぜ、後者が仕事をはじめて、靴を作ったり分配したりしないのか?」
かりにあなたがフリー・ブーティングという名前の遠征隊を組織したといたしましょう。そして、そのときあなたが出くわす困難を考えてみましょう。まず、あなたは多くの革を探さねばならないでしょう。たとえば、南アメリカに探しに行ったとしましょう。そこでともかく、たくさんの家畜を殺して皮をはぐことからはじめなければならないでしょう。ところが、たちどころにそうはさせまいとする者が現われてくるのです。あなたの最初の敵は「家畜や皮はおれのものだ」と抗議します。そこであなたが「イギリスではみんなろくな靴しかはいていません。それで革が欲しいんです」と説明するでしょう。すると相手は「なんのためにどう欲しがろうが、そんなことはおれたちの知ったこっちゃない」とすげなく言うにちがいありません。ですから、家畜や皮をかれらから手に入れようとするならば、まず買いとらなければならないことになります。この皮も、家畜も、家畜の群れている土地も、みなかれらの私有財産なのです。じゃ、いくらでこの皮を手放すかと相手にたずねます。するとかれらはきっとはっきりこう言うでしょう。「おまえさんたちから、まき上げられるだけの金が欲しいね」
もし、相手が運よく、めずらしく心の温かな性質の人であるならば、あるいはあなたはその人を説得することができるかも知れません。大衆に立派な靴を与えるというこの目的は、多くの人間の不幸を根絶やしにする立派な計画なんです。とあなたはかれに強調するでしょう。するとかれも、あなたの寛大な熱意に大いに同情を寄せるでしょう。しかしながら、皮のことで、あなたからふんだくれるだけ金をまき上げようとするダイヤモンドのように固いかれの決意が、少しもゆるめられるものではないことをやがてあなたは発見なさるにちがいありません。
そこであなたが相手に向かってこう言ったとします。「あなたがどうしてもそんなに利益を求めるんでしたら、あなたはこれらの土地や家畜と、それからそれを欲しがっている人びとの間に入って邪魔をすることになりますよ。そういう頑固な態度をとっているあなたは、そもそもこれらの土地や家畜をどんなふうにして最初手に入れたのですか」するとかれは、おそらくなんだかんだくだらない弁解じみた長談議をやるにちがいありません。あるいはそれよりもいっそうありうることは怒り出し、喧嘩腰になって論争をしかけてくるでしょう。あなたが、これらのものについての所有権の正当性をめぐるあなたの疑念を推論していったにしても、まあ、ともかくかれらが土地や家畜に対して行なったお粗末な手入れや世話に相応する、あるていどの合理的な代償をかれに与えなければならないことはお認めになるでしょう。しかし、家畜飼育業者は野蛮で暴力的な連中です。だからあなたの言い出した合理的な代償額をはるかに越えた高い値段でもうんと言うかどうか疑問でしょうね。あなたの計画をどうしても実現しようとするならば、結局、馬鹿高い値段でその所有者から皮を買い取らなければならないはめになるでしょう。このようにして、皮の所有者はあなたからまき上げられるだけの金をふんだくることになるわけです。
さて、高い金を出して革を買ったあなたは、その革をこれからイギリスに運ばなければなりません。そうするには鉄道とか船の厄介にならなければならないでしょう。するとまた、あなたの計画を援助しようなんていう気のさらさらない人びとが飛び出してきます。その手合いはあなたの前に立ちふさがり、すべての人びとに良い靴を供給しようとするあなたから、それこそ少しでも多くしぼり取ってやろうと身がまえています。そしてあなたは、鉄道が私有財産で、ひとりか、あるいは数人の人びとによって所有されていることを知るでしょう。同じく船舶もそうです。こういう連中は、ひとりとして、その仕事に相応した代償だけでは一瞬たりといえども満足しません。かれらも家畜業者同様、あなたからふんだくれるだけ多くの儲けをもぎとろうと手ぐすねひいて待っているわけです。ところで、あなたがこの辺の事情をさらに調べていくと、この鉄道や船の所有者が一団の株主であるということがおわかりになるでしょう。だから、すでにこの段階において、あなたが供給しようとしている貧しい人びとの靴からしぼり取られた利益は、トルキの年配の貴婦人、パリのちゃらちゃらした道楽者、ロンドンのクラブで立派な靴をはきエリートぶってにたにたしている紳士、すべてそういうきらびやかな連中のふところをふくらましているに過ぎないことを発見するでしょう。
とにもかくにも苦労して、あなたが革をイギリスに持ってきたといたしましょう。今度はそれでいよいよ靴をこしらえなければなりませんね。あなたは人のごちゃごちゃ住んでいるところに適当な場所を選び、職人を募集することになります。土地に建物をつくって機械を入れます。そして既存業者の敵意にも似た一種の反感の中で仕事をはじめることになります……そう思いませんか? ところが、そこでもまた土地の所有者なるものが飛び出してきます。そしてその地所はおれのもんだ、と言って、地代として法外な代償を要求してきます。そのうえ、あなたのところにやってきた労働者にしても家賃を払わなければ部屋を借りることはできません。この国では、どんなにせまい土地でもだれかの財産でないものはないのです。その所有者か、あるいはだれかの承諾をえていなければ、一時間といえども知らん顔をしている人はまあいないでしょうね。だから、あなたの雇う労働者の食べもの、着るもの、その他すべては、地主、運送屋、家主にいくばくかの|みつぎもの《ヽヽヽヽヽ》と利益とを支払っているのです。まさに文字通り永遠のみつぎもの――これこそ、食べものがつくられ、服が織られるまでに要した費用をはるかに越えた永遠の|みつぎもの《ヽヽヽヽヽ》ではありませんか。
それに耐えていける人はあるかもしれません。しかし、少なくともあなたには、どうしてすべての人びとが、はき心地のいい靴をはけないでいるかの理由のひとつをはっきりご納得いただけたことと思います。労働力はだぶつくほどあります。そして革や労働力、その他必要なものを取り扱うのに必要な知識もじゅうぶんにあります。ところが、土地や自然資源についての私有財産'制度、あなたが土地を自由に使用するのをさまたげ、機械の運転を邪魔するこれらの理不尽な要求、とんでもない代価でなければ売らないというこれらの妨害的な要求、こういうものがあなたの道に立ちふさがって邪魔をしているのです。これらの所有者は、あなたが仕事をするあらゆる段階に、まるで寄生虫のようにびっしり取りついているのです。ですから、イギリスで上手にこしらえられたあなたの立派な靴を手にしたとき、とてもじゃないが一般大衆には手も足も出ない一足一ポンドもかかっているのにさぞ驚きになられることでしょう。こんなことをわたくしが痛感して、街を歩く貧しい人びとの靴を見つめるとき、裂け目が入って形がくずれ、そのうえ、うすぎたなくなっているのを見るとき、ひじょうに多くの、幻のごとき土地所有者、家畜所有者、家屋所有者、あらゆる種類の所有者《オーナー》が、そのみじめな靴でしめつけられ疲れさせられた貧乏人の足に|ひる《ヽヽ》のように這い上がって、もっぱら血を吸うだけでなにも与えないありさまを、そしてそれがこの種のすべての不幸をつくり出している真の原因であることをまざまざと見せつけられた気がすると、わたくしが告白しても、それがけっして誇大妄想ではないということをあなたには納得していただけるだろうと思います。
では、それならば、これははたして必要で避けられないことなのでしょうか? それこそがまさにわたくしたちの問題点なのです。これらの財産所有者が、その要求するものを一般大衆の生活からむしり取って大衆の楽しみ、誇り、幸福をめちゃくちゃにしてしまう以外、ものごとをうまくやっていく方法がほかにないのでしょうか? なぜならば、かれら財産所有者が、見るも無残なまでにしぼり取ってしまったのはもちろん靴だけではないからです。地主や家主が欲ばって利益をむしり取ったからこそ、わたくしたちの住宅はかくまでも不恰好で、見すぼらしくて、目の玉がとび出すほどの値段になってしまったのです。道路や鉄道があんなにもこみ合って不便にもなったのです。わたくしたちの学校や服や食べものがあんなにも安っぽくなってしまったのです。靴はあらゆる不幸の一例として取り上げられたにすぎません。
そうです、世間には「ほかにもいい方法があるんだ」という人がたくさんいます。かれらは、|すべての人びとに必要とされているもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の私有を否定するならば、これらの不幸が改められないことはない、これらのことがらにおいて、今まで以上により幸福に、よりすばらしくやっていけないわけがないと主張します。かれらは、土地の管理、革や靴のように|社会一般に《ヽヽヽヽヽ》必要とされているものの生産、その他社会一般に必要とされているひじょうに多くの事業の運営、こういったものを個人の私的利潤のためではなく、すべての人びとの福祉のために行なうようにさせることは可能だと言います。かれらの提案は、国家が、(土地、鉄道、船舶、多くの大企業を利用して)一般大衆から余計な支出のための資力をしぼり取っているこれらの財産所有者から、その土地、鉄道、船舶、多くの大企業を取り上げ、これらのものを寛大かつ大胆に、私的利潤のためでなく、公共の福祉のために管理しなければならないと主張しています。その提案は、私的利潤がすべての害悪の根源にあるのだから、かれらの所持する利潤を取り上げよ、というのです。これらの人びとが社会主義者なのです。この痛ましい靴のみじめさはひとつの典型的なシンボルにすぎませんが、実にかれらこそこういった現在のすすけた状態を改めようとする偉大な変化がかならずやってくるという希望を差し出した唯一の人びとなのです。
[#改ページ]
四 社会主義は可能か?
わたくしはこれらの問題において公平な態度をよそおうとは思いません。また土地とかその他一般の役に立つものの私有財産を廃止してしまったならば、この世界がよくなるかどうかという問題について、いかにもわたくしの意見が定まっていないかのようなふりはしたくありません。なぜならば、この問題については少しも疑いをさしはさんではいないからです。わたくしは信じております。つまり、これらのものをめぐる私有制度は、人間が人間を私有するということや、橋とか道路を私有することとまったく同じで、必要なことでもなければ、また避けられないことでもないのです。いかなるものでも一切合切、私有財産として要求できるという思想は、この世界の暗黒時代のときの産物だったのですよ。それは、ぞっとするほど不正であるばかりでなく、とんでもないほど不便なものと言われなければなりません。かりにわたくしたちが、道路の私有を認めたといたします。そして、道路の一部を所有しているすべての人と通行料をかけ合ってから、馬車をはじめて進めることができると想像いたしましょう! おそらくあなたはなんと耐えがたい生活なんだろうとおっしゃるでしょう。しかし、実際には、わたくしたちが鉄道を利用するとき、いくぶんそれと似たことが起きています。またもし、わたくしたちが住むべき土地をわずかでもいいから求めようとするとき、まったくそれと変わらないことが起きているのです。わたくしは、土地とか工場とか、そういったたぐいのものを社会的に、公共の福祉のために管理することはさして困難ではないと思っています。それは今日、道路、橋、郵便局、警察をわたくしたちが管理しているのとまったく同じやり方で可能です。そういう点については、わたくしは社会主義には不可能なことはいかなるものもないと思います。これらのものにおける私有制度を廃止することは、実はあのすべての寄生虫の大群を駆除することなのです。利益と配当をむさぼろうとするその貧欲が、世の中の役に立つ気持のいい多くの企業の経営を邪魔し、余計な経費をかけさせ、結局、絶望におとしいれてしまうのです。社会主義はそういう寄生虫を駆除しようとしているのですが、しかし、このことはかりそめにもよくないことだと言えますか?
さて、つぎの問題は、かような財産を所有者から取り上げることですが、なぜわたくしたちはそれをしてはいけないのでしょうか? 過去において、わたくしたち人類は奴隷をその所有者から――なんの代償も支払うことなく――取り上げたばかりでなく、人類の歴史の中には、それがどんなに暗い歴史であったとしても、奴隷所有者でありながらその非人道的な権利を放棄した実例はたくさんあるのです。あなたは人から財産を取り上げるのは不正で泥棒行為だとおっしゃるかもしれません。しかし、それはほんとうにはたして泥棒なのでしょうか? 今、かりにあなたが保育所に行ったとします。すると、そこにひどく甘やかされた子供がいて、おもちゃをひとり占めにし、ほかの子供たちに貸してやらないとします。それでほかの子供たちはすっかり元気がなくなって、泣き出しそうな顔をしているのを見たとします。そのときあなたは、貪欲であることが正しいとするその子の幻想がいかに正当であろうと、その子供からおもちゃを取り上げたくなりませんか? そのわがままな子供こそまさに今日の財産所有者なのです。あなたはともすればおっしゃるかもしれませんね、あの財産所有者たち、たとえば地主の土地は買い上げられなければならない、けっして奪いとってはいけないと。しかし、地主の土地を買い上げるための金を得るには、ほかの人びとの財産に課税しなければならないことになります。ところが、課税されるこれらの人びとも、地主がその財産を主張するよりも、おそらくもっといっそうその財産を失いたくない人たちなのです。ですから、わたくしはそういうやり方の妥当性がなにを根拠にしているかさっぱりわかりません。あなたは売買のさい常に財産を手に入れるためにのみ財産を手放すのです。だから、私有財産が強奪でないならば、では社会主義のみならず、ふつうの課税も強奪であるにちがいありません。しかし、もし課税が正当な行為とみなすことができるならば、そして、もしあなたが公共の福祉のために、わたくしがかせいだ二十シリングについて一シリング、あるいはそれ以上税金をとるならば、わたくしが課税されているように、なぜ地主に――あなたがそうしようとするならば――所有するその土地の半分、あるいは三分の二、あるいは全部課税しないのか、なぜ鉄道の株主にその株一ポンドにつき十シリング、あるいは二十シリングの税金をかけないのか、わたくしにはその理由がさっぱりわかりません。なにか世の中に変化があると、かならずだれかがその危険の矢おもてに立たなければなりません。機械とか工場制度の改善があると、かならず憐れな人びとは収入を奪われてしまいます。だからわたくしは、あきらかに金持ちが公共の福祉の邪魔ものになっているとき、なぜ金持ちに、生涯それほど実際に働きもしないでのらくらしているこれらの連中に、特にやさしくして上げなければならないのか、その理由がとんとわかりません。わたくしは代償に対する権利を否定します。しかし、必要ならば相応の代償を支払うという考えを頭から否定するわけではありません。方法の問題に関するかぎり、わたくしたちが財産所有者に相応の代償を払い、そして今日の社会全般にひろく見受けられる残酷さをなくそうとするわたくしたちの試みにおいて、かれらに対する残酷な扱いを避けるために、あらゆる種類のおだやかな取り決めをするのはまったく可能だと思います。
しかし、その問題の正当性はさておき、多くの人びとは社会主義をはかない夢だと考えているようです。なぜならば、よく言われるように、「それは人間性に反している」からだと言うのです。土地、株、その他のものにいくらかでも財産を持っている人びとはほとんど大部分、社会主義の到来に激しく反対するでしょう。ところが、こういう人たちは、この世のすべての暇と影響力を持っているので、それにまた有能で精力的な人びとは自然あの階級に加わる傾向があるので、社会主義を実現させるような力を持つ勢力がなかなか生まれないのです。しかし、そう言って片づけてしまうのは、人間性をあまりに卑しくみているように思われてなりません。もちろん、まったく利己的な理由から、社会主義を毛嫌いして恐れている愚鈍な、卑しい金持ちがたくさんいるのは事実です。しかし、財産所有者でありながら、しかも社会主義の到来を待ちこがれている人もいるというのもこれまた真実なのです。
たとえば、わたくしがその個人的な事情を最もよく知っている人、そうです、さっきわたくしが二番目の友人と言った、立派な靴はみんな持っている人です。かれはこの社会主義の希望を実現するために時間と精力と金をおしまずに与えています。そのくせ、かれは一年に千二百ポンドという所得税を支払い、何千ポンドという株や財産を持っているのです。しかも、それはなにも他人の幸福のために犠牲になろうという本能的な衝動からそうしているわけではありません。かれはただ社会主義的な状態になったら、自分自身もより幸福に、より心がさわやかになるだろうと信じてやっているのです。そういう世界になれば、あの救命胴衣のような投資財産にすがりついていなくともすむにちがいないと信じているからです。かれは発見したのです、そしてまたかれだけではなくひじょうに多くの裕福な人びともかれと同じ考え方をしているのですが、愉快な、楽しい、興味にあふれた生活にとって――ふつうだったらかれの愉快な友人であり仲間であるかもしれない多くの人びとが、いやになるほど無教養で、いやになるほど見すぼらしい家に住み、これまたうんざりするような服と靴を身につけ、しかも、かれらが自分たちとは対等者として考えないでいやになるぐらい卑屈になっているのは絶えざる苦痛だったのです。なんだか自分が保育所のやんちゃ坊主にでもなったように思えてならなかったのです。かれはむしろ恥ずかしくて侮辱されているような気がしているのです。そして、個人的な慈善は、結局、ものごとをいっそう悪くするように思えたので、現在の社会制度をなにもかもひっくるめて変えるために、かれの生活の大部分を喜んで差し出し、必要ならばかれのささやかな財産をすべて、しかもこころよく投げ出そうとしているのです。
わたくしは、かれよりももっと金のある、もっと影響力のある人びとが、かれと同じような考え方をしているものと確信しております。むしろ社会主義の道を妨げようとしているのは、無知な人間、勇気のない人間、浅ましいほど想像力に欠けた人間、あまりに内気で臆病で気がきかないので、惨めさから逃れられるにもかかわらず、その変化に直面しようとしない人間、こういう人びとにかえって大いにありがちなのです! しかし、かれらに対してさえも、普通教育はその役割をはたしつつあります。つぎの時代には、スラムの中にも社会主義者を見出すことができると、わたくしは信じて疑いません。少しばかりの財産、親からもらった一エーカーばかりの土地、あるいは銀行に百ポンドばかし預金をしている想像力の欠けた連中が、疑いもなく、社会主義的な思想に対して最も執拗な、手ごたえのない抵抗者であるでしょう。かような人たちを、わたくしたちはほんとうに残念でありますが、鈍感な金持ちとともに、わたくしたちのなだめようのない敵として、現体制の動かしがたい支柱としてみなさなければならないのです。「人間性」の中にある卑しい臆病な傾向が現実に社会主義に反対し、将来もまた反対するにちがいないと思います。しかし、それは「人間性」のすべてではありません。いや、半分でもないのです。しかしながら、人間の歴史において、かつて野卑と臆病とが戦いに勝利をおさめたことがありましたか? 世界をかれらの意志どおりにつくり上げるのは情熱です、熱意です、そして怒りなのです――わたくしはロンドンや、いやほかのどんな都市でもいい、そこの裏町に示されたあまりにもだらしのない、卑しい状態を目にしながら、よくも恥ずかしげもなく、またそれをなくそうとする情熱的な決意に駆られることもなく、平っちゃらでそこに出入りできるものだと不思議でなりません。わたくしは社会主義に反対するいわゆる「人間性」論が実証されるとはけっして思ってはいません。
[#改ページ]
五 社会主義は革命を意味する
わたくしはひとつのことを明らかにしておきましょう。つまり、社会主義は革命を意味するのです。日々の生活の仕組みにおけるひとつの変化を意味するのです。それはきわめてじょじょに起きるひとつの変化かもしれません。しかし、将来はきわめて完全なひとつの変化であるでしょう。あなたは世界を変えることはできません、と同時に世界を変えないでしょう。あなたはその辺で社会主義者に、ともかく自分のことを社会主義者だと言っている人に会うでしょう。かれらは、これは社会主義ではないというようなふりをしたり、市営のガスとか水道のちっぽけな半ぱな事業が社会主義だとか、それから保守党と自由党をこっそり調停することが理想境に到達する道だとか、いかにも自信ありげにあなたに語るでしょう。しかし、そんなものを社会主義だと呼べるんだったら、集会所のロビーにあるガス燈の炎を天にまします神の御光と呼ばなければならないでしょうね!
社会主義は、大衆のはいている靴ばかりではなく、服、住宅、仕事、教育、地位、名誉、すべての所有物を改善することを目的としています。社会主義は古い既存の世界から新しい世界をつくることを目的としています。それはひじょうに多くの男女の知的な、率直な、勇気ある決意によってのみ実現できるのです。あなたが心の中で絶対にはっきりさせておかなければならないことは、社会主義は完全な変革、歴史との、絵のように美しい多くのものとの断絶を意味します。だから、すべての階級は消滅するでしょう。世界は大いに面目を一新し、ちがった種類の家がたち、異なった人びとが生活しているでしょう、さまざまな商業と産業は変革されるでしょう、医療はちがった条件のもとで行なわれるでしょう、工学、科学、演劇、書記の仕事、学校、ホテル、ほとんどすべての取引は毛虫が蝶になるときと同じように内部からの完全な変化をへなければならないでしょう。もし、あなたがそういう大変な変化を恐れるんでしたら、あとになって恐れるよりも今のうちに恐れていたほうが結構だと思いますね。もしわたくしたちが、繊細な感性を持つ男女にとって現状をいかにもいまわしいものにさせているこのみじめな貧困から脱出すべきであるならば、社会の組織全体が変えられなければならないのです。それこそほんとうの社会主義者のめざす目的であって、それ以外のなにものでもありません。つまり、土地の、自然資源の、そしてこれらの利用面における私有制度の廃止による新しいよりよい社会秩序の確立――奴隷というものを私有財産からはずしたことが古代ローマとアテネに影響を与えたのと同じぐらいの根本的な変革なのです。もし、あなたがそれ以下のことを目ざすならば、もし、あなたがその目的のために戦う準備をしないならば、あなたは真に社会主義者であるとは言えません。もし、あなたがそれに尻ごみするならば、そのときあなたは、今日よく見られるような一種の小市民的幸福にあなたの生活をぴったり合わせるようにしなければなりますまい。そして、わたくしの友人といっしょになって「おい、靴のことなんか考えたってなんになるんだよ」と言う覚悟をしなければなりませんね。
さて、ここでひとつの中心的な観念を主張しておくことは無駄ではないでしょう。要するに社会主義は常識なのです。それはなにが財産であり、なにが財産でないかについてのわたくしたちの伝統的な認識を変えようとします。そしてこれらの修正された観念にしたがって世界を整理しなおそうとするまことに事実に則した提案なのです。何人かの利口な人たちは、このあまりに率直で正直な姿勢に不満を感じてか、なにかもっと派手な曖昧模糊とした深遠な流儀で社会主義を提案しようと試みました。かれらはあなたに言うでしょう、社会主義はヘーゲル哲学にもとづくものだ、あるいは地代論から生まれたのだ、あるいは超人と呼ばれた一種の白い幽霊といくらか多少まじり合っているのだと。ともかくあらゆる種類のけばけばしい、意味のない、食欲を減退させるようなことを言いたてるでしょう。社会主義理論、こんなものはイギリス人に関するかぎり、雲の中にかくれてしまったみたいです。そして実際だけが雨となって降ってきたという感じですね。天上の警句も、それから地上のちっぽけな事業も、社会主義にとってはたまたまの付属物にすぎないということを詮索好きな人びとにご注意申し上げておきましょう。社会主義はひとつのとても大きな、しかし、明白な、正直な、そして人道的な試みなのです。その目的はウイットとか狡滑さとかのいずれによってもはたされるべきではありません。ただ、率直な決意によってのみ、犠牲的な精神と熱意、それから大衆の誠実な協力によってのみ達成されるべきでありましょう。
ですから、いちばん重要なことは、現代の知的な混乱と曖昧さの中から、これらの大衆を生み出すことなのです。ところで、あなたがこの話に共鳴したとして、またあなたがわたくしの二番目の友人のように、わたくしたちの世界の大部分の人びとがむさ苦しい倦怠と明らかな不幸の中に沈んでいることを痛感し、また現状での生活がほとんど耐えがたいものであることを認識し、そして永久的な救済の唯一の希望が横たわるのは社会主義の道であることをあなたが悟ったといたしましょう。そしたら、わたくしたちはいったいなにをなすべきなのでしょうか? 明らかにまず、全力をつくして、ほかの人たちを社会主義者にさせ、それからわたくしたち自身を、階級とか信条のささいな違いなど問わず、ほかの社会主義者と団結させ、わたくしたち自身を、あらゆるとき、あらゆるところを利用して、社会主義者として世間の耳に聞こえさせ、世間の眼に映じさせて影響力を与えるようにさせることです。
わたくしたちは社会主義について考え、読み、議論しなければなりません。そうすることによって、わたくしたちは社会主義について確信を深め、はっきりと理解し、第三者を説得することが可能になるだろうと思います。わたくしたちは、公然と多くの機会をとらえ、この信条を語らなければなりません。わたくしたちは、自由党とか保守党、あるいは共和党とか民主党とかと、ともかくこういう曖昧な名前で呼ばれることを拒絶しなければなりません。いたるところでわたくしたちは、社会主義者の組織、クラブなどをつくり、またそれに加入し、そしてわたくしたちが「数においても圧倒的である」ようにしなければなりません。わたくしたちにとっては、初期のキリスト教徒のように、社会主義の福音を多くの人びとに説き聞かせることこそ無上の義務なのです。社会主義者が数において優勢になり、百万の単位でかぞえられるようになるまでは、なにごともできないでしょう。そうなったときはじめて――新しい世界はわたくしたちのものになるのです。
わたくしがここで同志の社会主義者に忠告を与えることを許されるならば、なにはさておき、わたくしはまず申し上げます。人がひたいに汗してかせいだり、作ったりしたもののほかはいかなるものについても、私有を認めないという社会主義の単純明快な本質的な思想をしっかり守ってもらいたいということです。それから、あなたの主義をあまりこまかにいじりまわして複雑なものにしないでもらいたいということです。そして、できたら、あなたの心の中にお守りみたいなものをしっかりと抱きしめ、毎日の議論のときに生ずる混乱や仲間争いから、いつでもあの重要な福音に立ち戻れるようにしておいてください。
わたくしとしては、はじめに話したように靴について抜きがたい奇妙な考えを持っています。つまり、わたくしのお守りはこれですよ――栄養不良でちょっと可愛い十歳か十二歳のうすぎたない小さな女の子の姿、ひどい扱いでがさがさになったその手、見苦しいぼろにくるまったやせ細った可愛いからだ、そして足のところに彼女を苦しめている大きなぼろぼろの靴――。そしてとくにわたくしは、彼女の棒のようなみじめな足とびっこを引き引き歩く姿を思い出します。そしてまた、わたくしが前に話したことのあるあの幽霊のような所有者と利潤追求者が、苦しみ悩む彼女のまわりに|ひる《ヽヽ》のように寄ってたかって吸いつき、彼女が歩こうとするとしがみついて行かせない光景を目に浮かべます。
わたくしは、そのようにさせたこの世界のすべてを変革したいのです。そうするにはどうしなければならないかの方法についてはあまり気にはしていません。あなたはどうお考えになりますか?
H・G・ウェルズ
さて、ここでちょうどさっきの苛酷な事実を示すひとつのちょっとした例があります。それはわたくしが前に話したとおりのことを伝えています。わたくしの友人でイギリスの労働問題の権威のひとりであるチオザ・マニー氏にあてた一労働者の手紙からの引用です。
「わたしは一鉄道員です。正規社員で週に三十シリングもらっています。六人の元気な子供のいる幸福な――またはその反対でしょうか――父親です。昨年、靴を十二足買いました。今年は、今までに十足買いました、二ポンドです。しかしながら、現在では、妻と五人の子供が一足ずつ持っているだけです。わたくしは二足持っていますが、両方とも水が洩れます。しかし、今のところ、新しいのを買えるあてがありません。もちろん、妻は大変家庭的な主婦であるのは言うまでもありません。わたしにしてもとてもつつましいたちのほうでしょう。ところが、わたしがよぶんなものに使う金をすべて貯金したとしても、一年に一足の靴をよぶんに買えないでしょう。しかし、わたしがここで言いたいのは、こういうことです。一九〇三年、わたしの賃金は週に二十五シリング六ペンスでした。そのとき、子供は六人でした。となりの人は靴屋で修理もしています。ところが、かれは仕事がなく、何ヵ月も遊んでいました。その間、もちろん、わたしの子供の靴はいつものように修理しなければなりません。しかし、修理代として払う金がなかったので、わたしがなんとか直さなければなりませんでした。ある日、わたしが、壁のこちら側で靴を修理していると、なんと壁の向こう側の靴屋はする仕事もなく、わたしがしたくもない仕事をしたがってさかんにきょろきょろしていたのです……」
その壁こそまさに土地と自然資源の私有制を土台として成り立つこの世間の商業組織だったのです。このふたりの男は所有者のために働かなければならないのです。それ以外の者のためには働けないのです。かれらはおたがいのために働けないのです。ですから、すべての所有者が取るものを取りおわってからはじめて、かれらはまず食糧、それから家賃、そして、もしあまったら靴を買うということになるわけです。
(This Misery of Boots 1907)
[#改ページ]
解説
一 再評価の動き
H・G・ウェルズの友人アーネスト・バーカーは、その『時代と青春』(一九五三)という本の中で、ある日のウェルズを回想してこう書いている。
「第二次世界大戦が勃発したあとの一九四一年、ボヘミアの百科全書家コメニウス訪英三百年記念を祝うレセプションがケンブリッジ大学で開かれた。その席でわたくしはH・G・ウェルズに会った。かれはひじ掛け椅子にぐったり身を沈めていた。それでかれに(からだの具合はどうなんだい)とたずねたところ、(いや、とても悪いんだよ、バーカー)と答えた。(そうか、で、おまえ、今そこでなにを書いているんだ)と聞くと、(自分の墓碑銘を書いているところさ、簡単なやつだ)と言って、メモをわたくしによこした。見ると、(みんな糞っくらえだ、言わないこっちゃないじゃないか)と書いてあった」
一九四五年八月六日午前八時十六分、ピカッと強烈な光を放ち、直径六百メートルの巨大な火球がたぎるようなキノコ雲となって、一万五千メートルの上空にまで昇っていった。この広島への原子爆弾投下のニュースが伝えられるや世界の目はいっせいにウェルズにそそがれた。というのは、一九二二年に書いた『解放された世界』の中で、かれは原子爆弾を予言していたからである。またその本の一九二一年度版の序文で「遅くとも一九五六年までには原子爆弾ができる」と断言さえしていたからである。まさに「みんな糞っくらえだ、言わないこっちゃないじゃないか」である。戦後三十六年間、世界で唯一の被爆国たるわが国では、毎年八月になると広島・長崎で慰霊祭がもよおされ、また核兵器禁止運動も行なわれてきたのに、H・G・ウェルズの名前がほとんど聞かれなかったのはいったいどういうわけなのだろうか? かれは第一次世界大戦中、早くも核戦争の可能性をはっきりと意識し、「世界国家か世界の破滅か!」のスローガンをかかげ、人類の危機を回避する唯一の平和路線を盛んにアピールしていたのである。
有名なわりに本当のことがよく知られていない人というのもよくあるものだ。ウェルズなど原爆の例ひとつ取ってみてもそういう人のひとりであろう。ウェルズというとたいがい、ああ、あの、『タイム・マシン』を書いたSF作家かで片づけられてしまう。多少知っている人でも、世界文化史大系』(一九二〇)『生命の科学』(一九三〇)を書いた啓蒙作家としてしか考えてはいないであろう。実をいうと訳者も最初はそんな程度の人かと思っていた。ところがかれの書いたものをぼちぼち読んでゆくと、なかなかどうして、著書の数といい、内容といい、また社会的な活動の範囲といい、あまりにも多才で、しかもスケールの大きいのに驚かされてしまった。
かれは第一次世界大戦前から第二次世界大戦直後まで、ことに戦間期には実に大きな足跡を残しており、原子爆弾をはじめ、直接間接、わが国にも知られざる影響を及ぼしている。ここでは、ウェルズを少しでもわれわれに近づけるため、この点とくに留意しながらかれの足跡を追って行くことにしたい。なにしろ書いた本の数だけでも一五六冊、論文・論説のたぐいは五百あまり、バルザックを優にしのぐということである。ウェルズは書いたり、しゃべったりすることを好んだ。またかれはあらゆることに興味を抱かざるを得なかった。それは犬が人の足跡の匂いを嗅がずにはいられないのと同じだと、自分でもそう語っている。だから、どんなことにでも一家言を持っていた。かれにはそういうジャーナリスティックな本能もあったのである。
ところで、これまで日本において紹介されたウェルズの本は、その全体からするとごくわずかである。かれがひとしきり紹介されたのは大正の終りから昭和の初めにかけてであり、その後は日中戦争や太平洋戦争で中断されたまま今日に至っている。だから、戦後生まれの若い人たちはかれのことはよく知らないだろうと思う。また知っている中高年者でも、ああ、あの古い作家かぐらいのイメージしか持っていないにちがいない。それに加えて、ウェルズの著書の多くが、かなりボリュームがあり、内容的に理屈ぽくって、盛りだくさんにいろいろなことが書きこまれているので敬遠されたうらみがないでもない。しかし、かれが死んだのは一九四六年だから、けっしてそんなに古い人ではない。事実、欧米では、今日の情況も手伝ってか、毎年ウェルズについての伝記や書物が何冊も書かれ、かれに関する再評価が盛んに行なわれているようである。
二 生立ちと教育
H・G・ウェルズは一八六六年九月二十一日、ケント州ブロムリーに生まれた。父はジョセフ・ウェルズ、植木職人で、生来、楽天家のお人よし、職業クリケットの選手でもあった。ウェルズの生まれたころは小さなはやらない瀬戸物屋をやっていた。母はセアラ・ウェルズ、旧姓ニールで、結婚前は田舎の金持ちの上女中をつとめ、正直一辺倒で融通のきかぬキリスト教信者であり、その後は家政婦の仕事をしていた。ウェルズは四人兄弟の末っ子で、とくに長姉ファニーの死んだあとに生まれたので、母親から猫っ可愛がりに可愛がられ、みんなからバーティと呼ばれていた。両親は貧しかったけれどもよく本を読んだ。読書の趣味は父親から受けついだらしい。
父親が大怪我をして、一八八○年に家族が経済危機に見舞われると、ウェルズ夫人は以前いたことのあるサセックス州アップ・パークのフェザストンフォー家からたのまれて家政婦としてそこに住みこんだ。そのときウェルズはウィンザーにある呉服商の徒弟奉公に出されたけれども、雇主とうまくいかず、一カ月でやめるはめになって、母親のいるアップ・パークの館に帰ってきた。このフェザストンフォー家の館はウェルズの両親の出会いの場所であり、またウェルズ自身に深い影響を与えたところでもある。後年、かれはその『死亡広告』(一九三六)の中で、自分のことを「年代的にではないが、社会的には十八世紀の英国の地主階級の勃興と関係がある」と言っているが、それはここでの影響をさすのかもしれない。かれはこの館でプルターク、ルクレティウス、ヴォルテールの作品のほか、プラトンの『国家』、トマス・ペインの『人権』と『常識』、ベックフォードの『アラビア物語』、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』などを読みあさり、夜は館の屋根裏から古ぼけた天体望遠鏡で星をのぞいていたとのことである。その後、ごく短期間であったが、サマセットのある学校で見習い教師をやり、それから、ミドハーストで薬屋の小僧を一カ月ばかりやった(一八八一年一月)。同年春、もう一度、今度はサウス・シーで呉服商の徒弟となった。二年ほどつとめたが、とうとう我慢できなくなり飛び出した。この辺のことは『キップス』(一九〇五)や『トーノ・バンゲイ』(一九〇九)によく描かれている。
つぎに得た働き口はミドハースト・グラマースクールの生徒兼助教師のポストであった。昼間は助教師、夜は生徒となってもっぱらあてがわれた教科書を懸命に読んでいた。当時、文部省は夜間中学を奨励し、毎年、三十課目ぐらいについて試験を行い、各課目に優秀な成績で合格した生徒の学校には補助金を出した。それで校長のバイアット氏は、ウェルズのずば抜けた理解力と記憶力に目をつけ、架空のクラスをいくつか作って、かれに試験を受けさせ、ちゃっかり小遣いかせぎをしていたのだという。しかし、ウェルズはそんな状態が長くつづくのを好まず、こっそりサウス・ケンジントン師範学校の週給一ギニーの奨学金制度の試験を受け、それに合格、そこで三年間、物理学、化学、天文学、地質学、生物学をまなんだ。生物学は当時、ダーウィンのブルドッグと言われたトマス・ハックスリーから教えを仰いだ。その教室にはかつてダーウィンがハックスリーの講義中ときどき訪れたことがあったという。そこを卒業してからは、二、三の学校の教師をやり、一八九〇年十月、ロンドン大学動物学部のバチェラー・オヴ・サイエンスの学位を得た。一八九一年、かれはいとこイザベルと結婚した。しかし、一八九五年、以前の教え子であったアミー・キャサリン嬢と結婚したとき、それは解消した。二度目の結婚でふたりの息子が相ついで生まれた。
三 思想小説家としてのウェルズ
一八九一年から九三年までユニバーシティ・コレスポンダンス・カレッジの生物学の教師をつとめ、そのかたわら、「ペルメル・ガゼット」「セント・ジェームズ・ガゼット」「サタデー・レヴュー」などにも投稿していた。とくに、当時、最も権威のあった「フォートナイトリー・レヴュー」に投稿した『単一性の再発見』(一八九一)という論文が採用されて掲載されたが、これがかれの世に出る第一歩になった。そのとき、この論文に目をとめて激賞したのはほかならぬオスカー・ワイルドであった。
そのころになると、ウェルズは永年の無理がたたり、ついに胸をわずらい病床に伏してしまった。それがかれに文筆生活を余儀なくさせることになる。一八九三年、静養のためイーストボーンに二週間ほど滞在したとき、たまたまJ・M・バリの『男が独身のとき』を読んだ。ウェルズはこれにジャーナリストとして実に貴重なヒントを与えられたという。ウェルズはどちらかというとがっちりした基礎的な思索を好んだ。だからこれまで、わざわざ高尚な、珍しいテーマを取り上げ、論じ、それを投稿していたのである。しかも、出版社に採用されないとなると、さらに目標を高くして、結局、失敗した。バリのヒントは、ウェルズに作家として受け入れられるにはもっと全体の調子を下げ、身近なものを取り上げて書かなければならないということを教えた。さっそくかれはそういう方針にしたがって作品を雑誌社に送ったところ、それらはぞくぞく採用されることになったという。
一八九三年、かれは最初の著書『生物学教科書』を出した。ついで一八九五年、かれの最初のヒット作品『タイム・マシン』が出る。これは圧倒的な迫力とリアルで壮大な想像力をもつ作家としてウェルズの評判を確立することになった。ひきつづき『おどろくべき訪問』(一八九五)、最初の短篇集『盗まれたバクテリア』(一八九五)を出した。このころから、かれの文名はしだいに高まり、それとともに健康のほうも急速に回復し、着実に増えていった印税は日々のわずらわしいジャーナリズムの仕事からかれを解放した。一八九六年、『赤い部屋』『モロー博士の島』『運命の車輪』、一八九七年、『透明人間』、一八九八年、『宇宙戦争』、一八九九年、『睡眠者の目覚めるとき』、短篇集『時間と空間の物語』が出る。ともかく作家としても多芸多才な努力家なので、かれは文壇のエジソンと呼ばれるようになる。
さて、以上述べてきた中でウェルズにとっていちばん重要なのは、やはりかれがトマス・ハックスリーからダーウィンの進化論を学んだことであろう。当時、進化論はまさに革命的な思想であった。ウェルズもこれに生涯変わらぬ深い影響を受けた。そして、ウェルズの関心と興味は一生物としての人間にそそがれていった。以後、かれは、進化論の忠実な使徒として、十九世紀以来、その洗礼をいまだに充分に受けていない文学、歴史、政治、経済、モラル、哲学、教育などの分野にその生物学的人間観をあまねく押し広めていくことになる。
つぎに重視しなければならないのは、かれの『単一性の再発見』であろう。その要旨は、自然界には厳密に言うとまったく同じものはなく、それそれがすべて単一性を持っているということである。同じ名前で呼ばれている原子でさえも、厳密にいえば同一のものはない。これらが相互に作用し合って、いっさいの現象が成り立つのだから、すべては一定せず、厳密な理論とか法則とかは成り立つはずがないという。この『単一性の再発見』は、おそらく同じ種の個体の間にはかならず差異があるという生物学的な認識をウェルズがすべてのことがらに及ぼしたことによるものと思われる。
ところで、この『単一性の再発見』とも深く関連しているので、どうしてもここで触れておかなければならないのは、ウェルズがそれこそ口を酸っぱくしてその重要性を強調していた「ノミナリズム」(唯名論)と「リアリズム」(実在論)の論争であろう。というのは、その論争の中から実験科学が生まれてきたからである。この論争は、ヨーロッパ中世において百年間もつづけられた哲学上の大論争である。要するに、言葉と物質的な事実のいずれが真実であるかという問題なのだ。「ノミナリスト」は、言葉よりも事実のほうが真実のもの、言葉は単なるレッテル、シンボル、記憶のための便法にすぎないと言い、経験の真実性を尊重した。ところが一方、「リアリスト」は、言葉はまさしく事実とぴったりと合致する、いや、それ以上に正確でさえある。だから、言葉を適切に、論理的に用いれば、それだけで経験以上のことまで知ることができると言って、経験よりも言葉とか観念の真実性を主張した。中世のリアリストは今日ならば観念論者、プラトン的観念論者と呼ぶべきものであったのであり、ノミナリストのほうが事実に則した人なのであった。
ウェルズに言わせると、ある人がノミナリストになるかリアリストになるかどうかは、各人めいめいの精神的な気質や違いで決まってしまうという。それは、この論争の意味を、さらに分析的な思考の訓練を、学校で全然教えないからでもある。現在でも多くの人びとは実際にはリアリズム的な思考を行っており、とくに国際政治の世界においては、リアリズム的な思考方法がほとんど不動の支配権を握っている。こうした知的な誤謬が、今日、われわれ人類を脅かしている最大の危険の根底に横たわっているのだとかれは警告する。それが実はかずかずのドグマ、偏見、対立、憎悪を生みだすからだという。
ウェルズはこの論争の意味を的確につかんでいた。かれはすでに学生のころから、今唱えられている原子とか分子とかは実在するものではなく、本質的にそれは記憶のための便法にすぎないということをはっきり認識していたという。だから、新たな観察の結果、別の新しい原子と分子のモデルをつくり上げることが必要になったときでも、全然ショックを受けなかったというのである。かれ自身『単一性の再発見』とそれに引きつづいて出した『厳正なる宇宙』(一八九一)というふたつの論文において、プランクとアインシュタインが発展させた観念の胚種をすでにつかんでいたと述懐している。
このようにものごとを透明に、柔軟に、現実的につかむノミナリスト的な洞察力にさらに進化論的な生物科学の思考方法が加味されて、かれのものを見るカメラ・アイが形成された。そういう広大なヴィジョンで人間、社会、文明をのぞいたとき、そこにウェルズのきわめてユニークな見解や思想が浮かび上がってくる。
さて、ウェルズが本格的に文筆活動に乗り出したのはちょうど十九世紀末期であった。世紀末特有の不安と期待のムードがみなぎっていた。そしてまたそのムードをさらに助長するものとして、その時期がまた自然科学と社会科学、要するに科学の開花期にぶつかっていたということが指摘されよう。知的な束縛が解き放たれて、人間の視野がますます拡大され、各種の発明発見が行われ、それが実際生活に顔を出しはじめた大変貌の時期でもあったのである。科学に対する期待、あるいは科学から生じた不安は世紀末のムードにさらに妖しげな色彩を加えた。
ウェルズもすでに学生時代から、そういう時代の潮流が起こす雰囲気を充分感じ取っていたようである。かれのような非凡な人間にはよくみかける脱線であるが、ハックスリーのような魅力ある教授について学んでいるうちは張り切っていたが、ハックスリーが学校をやめると、しだいに学校がつまらなくなり、というのは学校で教えていることはウェルズがすでにだいたい知っていたこともあって、かれは授業をさぼってぶらぶらしはじめた。農場を経営する叔父のところへ行って近くの田園を散策したり、あちらこちらの教会堂、美術館で絵や彫刻を見たり、図書館で本を読みあさったりしていた。授業のあと学生同士の討論協会の活動に熱中した。ロンドン各地で行われているさまざまな講演会、ことに社会主義者の会合には友人といっしょに顔を出した。一八八○年以降、社会主義運動がふたたび活発になっていた。ウェルズたちが出かけた場所は、ハマスミスにある川にのぞんだウイリアム・モリスの家で、ケルムスコット・ハウスと呼ばれていた。そこにはバーナード・ショー、マルクスをイギリスに紹介したヘンリー・マイアーズ・ハイドマン、グレアム・ウォラス、ウェッブ夫妻、ウォルター・クレイン、コブデン・サンダースン、さらに社会主義を禁止したビスマルクの法律を逃れてきたドイツからの亡命者たちともに、かつてのパリ・コンミューンの古いメンバーたちもいた。
かれらは夜おそくまでタバコの煙をくゆらしながら現在と未来について語り合っていた。ウェルズたちはまだ若くて内気であったので、討論には加われなかったが、そういうムードをからだの奥深く吸いこんでいた。宿舎へ帰る道すがらたがいに見聞したことを論じ、それを討論協会の会合に持ちこんだりしたようだ。しかし、そのときかれが受けた影響は、実際政治ではなく、むしろスタイルとか観念とかであったらしい。もちろん、かれ自身、家が貧しく、小僧にまで出されてひどい目にもあい、まわりを見るにつけ聞くにつけ、資本主義社会には当然批判的であったろう。こういう時代背景のもとさまざまな人生体験をへてウェルズは作家としての活動を始めた。かれはそのカメラ・アイからとらえられたユニークなヴィジョンを、したたかなプロ作家としての筆さばきで、町や村の日常生活と結びつけ、さらに最新の科学知識と社会文明批判を巧みに織りまぜながら、怪奇で幻想的な、そして未来的なロマン、小説をつぎつぎに語りかけていったわけである。
ウェルズの小説は、おおざっぱにいって三つのカテゴリーに分類できるであろう。まずその一は、比較的初期の一九〇〇年ごろまでに書かれた幻想的な擬似科学的小説を中心とした、いわゆる空想科学小説群、その二は、一九〇〇年から一九一〇年までに書かれた純文学的な本格小説、その三として一九一〇年以後のかれの社会的・政治的立場を表明するために書かれたテーマ小説、言いかえれば思想小説群である。
以上のような視点から、この短編集第一巻に収録された五編の短篇小説を見てみよう。
『星』は『タイム・マシン』で彗星のように文壇にデビューしたかれらしい奇想天外な擬似科学的空想物語といえる。とはいえ、この作品の場合には、『宇宙戦争』と同様、人間の自己満足と楽天主義に対する攻撃として読むことができるであろう。破滅することなど絶対にあり得ないと信じきって、宇宙船地球号のなかで人類が幸福な日常生活をぬくぬくと送っていると、地球という一惑星の外ではなんらかの宇宙の変動が勃発して、たとえばこの作品の惑星の衝突という事件のために、われわれの宇宙船地球号でさえ壊滅することがあり得るのだ……そういう考えを読者に示唆しようとしている。もっと具体的にいえば、ウェルズは、この宇宙船地球号の住民であるわれわれ人類を種として巨視的にとらえた作家であり、かれの最大の関心事は人間を個人としてとらえるよりも集団ないし種として、つまり人類として把握し、その運命を考察することにあった。
『ダヴィドソンの眼の異常な体験』と『手術を受けて』は、両者とも『タイム・マシン』の書かれたころの最も典型的なSFミステリーといった感が深い。前者は電磁石と電光の作用によって、眼の網膜の元素と空間に異変が生じ、五感のうち眼だけが遠方の異なった空間の世界を見るというまことに怪奇な物語である。科学の生む神秘なそのロマンには第二巻収録の『盲人の国』にみられるウェルズのファンタスティックな作法がすでにうかがえる。後者の『手術を受けて』は、眼ではなく、心がクロロフォルムの作用によって肉体から完全に離れ、他人の意識の世界の中に、また無限に広がる星と空間の世界の中に入ってゆくという、これまたきわめて神秘的で壮大なスケールの内容を持つ作品である。とくに地球を離れて宇宙の果てまで行くあたりは、今日ならばよく理解でる場面であろうが、当時こういう短篇の中でまことに生き生きと描き出されているのは、大きな驚きであるといえよう。
『近い将来の物語』は、二十二世紀の恋愛物語を扱う中篇小説と言えるだろうが、初期のウェルズに顕著に見られるペシミズムに裏打ちされた典型的な未来小説である。アンソニー・ウェストなどにいわせれば、ウェルズは本質的にはペシミストであるということだが、ハックスリーの影響もあって、この中篇は処女作『タイム・マシン』と同様、宇宙的悲観主義のもとで執筆された作品といえるだろう。つまり、さきの『星』では地球が外部世界からの破滅の危機にさらされたのと反対に、ここでは人類の危機は、外部からではなく内部から人類それ自体から生まれてくる、すなわち人類の自殺行為として描かれているのである。
最後に『この惨めな靴』についてふれておこう。これは小説ではなくエッセイであるが、ウェルズの文明批評的な作品を理解するのに手頃な論著としてとりあげたことを記しておきたい。(訳者)
訳者略歴
浜野輝(はまのてる)
一九二八年東京生まれ。中央大学経済学部卒。訳書にH・G・ウェルズ『人間の仕事と富と幸福』『影のなかのロシア』(共訳)などがある。