H・G・ウェールズ/新庄哲夫訳
タイム・マシン
目 次
タイム・マシン
解説
時間旅行家《タイム・トラヴェラー》は(彼を便宜的にそう呼ぶことにするが)、私たちを前にしてある深遠な問題を説いていた。灰色の眼はきらきらと輝き、ふだんは青白い顔も赤みがさして生気にみちていた。暖炉の火はあかあかと燃え、百合《ゆり》の花の形をした銀の燭台にともる白熱したやわらかい光芒《こうぼう》が、私たちの手にしたグラスの中できらめきながら見え隠れする泡《あわ》をとらえていた。彼の考案した椅子はただ座ってもらう用だけというよりも、私たちをむしろ抱擁し、愛撫してくれるような感じをいだかせた。そこには、折り目正しさという枠《わく》をとり払われて心が品よく、のびやかに駆けめぐるあの食後の贅沢《ぜいたく》な雰囲気があった。そして彼は次のような問題を持ちだした――しなやかな人差し指を立てては要点を強調したのであるが――私たちは座ったまま、この新しい逆説《パラドックス》(私たちはそう考えていた)にいだく彼の情熱と想像力の豊かさに感嘆をひさしゅうしていた。
「諸君、心して聞いてもらいたい。世間でほとんど疑問の余地なく受け入れられている二、三の観念を僕は否認するつもりなのだよ、たとえば幾何学だけれど、僕たちが学校で学んだ幾何学は間違った概念の上に組み立てられているんだね」
「議論の手始めとしては、ちょっと問題が大きすぎるんじゃないか」赤毛で議論好きなフィルビーが言った。
「僕は何も、まともな根拠なしに受け入れてもらおうというつもりはない。諸君に受け入れてもらいたいその分だけでも、諸君はほどなく認めるようになるだろう。諸君もむろん先刻ご承知だが、数学的な線というやつはまったく厚みを持たない、したがって実体なるものは存在しない。そう教えられたのじゃないかね。数学的な平面にしたって厚みなんかはない。おしなべてただの抽象概念にすぎないのだ」
「それは、そのとおりだ」と心理学者が言った。
「同時に縦、横、高さだけでは、立方体も実在できない」
「その点は違うね」フィルビーが言った。「もちろん、固体は存在できるさ。あらゆる実体あるものは――」
「そのように、たいがいの人たちは考える。が、ちょっと待ってくれたまえ。|瞬間的な《ヽヽヽヽ》立方体というものは存在し得るのかね?」
「君の話はどうもぴんとこないんだが」と、フィルビー。
「時間的な持続性を持たない立方体というものは、はたして実体があるといえるかということだ」
フィルビーは考えこんでしまった。「明らかに」と、時間旅行家はつづけた。「物体はすべて四つの次元にわたってこそ存在する。縦《ヽ》、横《ヽ》、|高さ《ヽヽ》、それに――時間の持続性がなくてはならない。ところが、人間の肉体という本質的な弱さからすると、あとでこの弱さについて説明するがね、僕たちはこの事実をとかく見逃しがちなのだ。実際に四つの次元が存在するのであって、そのうち三つは空間の三面と呼ばれ、四つ目は時間だ。ところが僕たちは、最初の三つの次元とあとの第四次元との間に、とかく非現実的な一線を引いて区別したがる。それというのも、たまたま僕たちの意識というものが、生から死へという時間の流れに沿って一定の方向に断続的に動いているからなのだ」
「それは」えらく若い男が、消えた葉巻にもう一度ランプの火をつけようと苦労しながら言った。「それは……実に明快ですね、たしかに」
「そこで、この点がかくも見過ごされてきたというのは驚くべきことなのだ」時間旅行家は少しばかり調子に乗って話の先をつづけた。「実のところ、四次元の意味するものとはそういうことなのだ。第四次元を論ずる一部の連中には、その意味すら知らない者もいるだろうがね。これは時間を別の角度からみただけの話なのだよ。『時間と空間の三次元とのあいだには、われわれの意識が時間の流れに沿って動くということ以外に何ひとつ相違はない』、それなのに一部のばかな連中は、この概念のあやまった解釈にとらわれているんだね。諸君は聞いてるだろう、この第四次元について彼らがどう論じているかを」
「わしは聞いたことがないな」地もとの町長が言った。
「簡単な話ですよ、こんな具合にね。空間というのは数学者がいうように縦、横、高さといった三つの次元をもち、たがいに直角に交わる三つの平面によっていつも規定される。しかし、物事を思弁的に考える人たちのなかには、なぜとくに|三つ《ヽヽ》の次元に限定するのか――なぜ他の三つの平面と直角に交わる第四の次元があってはいけないのかと疑問を呈してきた。そして四次元の幾何学理論を打ち立てようと苦心する者さえいる。サイモン・ニューカム教授あたりはほんの一カ月前、ニューヨークの数学会でその説を述べたばかりだ。ご承知のとおり、われわれは二つの次元しか持たない平面に三次元の立方体を表現することができる。同様にして、三次元のモデルに習って四次元のものを表現できないものかと彼らは考えている――その透視法を会得さえできればということだがね。わかりますか」
「わかったように思うが」と、町長はつぶやいた。そして眉を寄せ、呪文でもとなえるかのように唇を動かしながら考えこむような状態に沈んでいった。しばらくしてから、「ええ、やっとわかってきたような気がしますぞ」と、かなりうわついた調子で顔を輝かせた。
「そう、あえていわしてもらえば、僕もしばらくはこの四次元の幾何学を研究してみたことがある。その結果、得た解答のなかには、奇妙なものがあった。たとえばここに一人の男の肖像があって、それが八歳のときのと、十五歳のときのと、十七歳のときのと、二十三歳のときのと、といったふうにあったとする。それらがすべて四次元的な存在の断面図、すなわち三次元的な表現であることは明白で、それは固定して変化することがない」
「科学者によれば」さっきの説明を理解するに必要なだけの間をおいてから、時間旅行家は先をつづけた。「時間とは空間の一種にすぎないことになっている。ここに通俗科学の図表ともいうべき天気図がある。僕がいま指でたどっている線は気圧計の動きを表わしている。きのうはこんなに高かったが、夜になると下がり、けさはまた上がって、ここまでゆるやかに上昇しつつある。いうまでもないが、水銀が空間のどんな次元においてもこんな線を描かないことは一般に認められているところだね。にもかかわらず、水銀がこんな線を描いたことは間違いのない事実だから、この線は時間の次元に沿って動いていると結論づけないわけにはいかない」
「しかし」暖炉で燃える石炭をじいっと見つめながら、医者が言った。「もし時間がほんとに間違いなく空間の四つ目の次元だというのなら、現在も、そして過去においても、なぜつねに何か違ったもののようにみなされてきたのだろう? それにまた、われわれは空間の他の次元で動きまわれるのに、どうして時間のなかに入りこんでいけないのだろう?」
時間旅行家は微笑《ほほえ》んだ。「僕たちが空間を自由自在に動きまわれると本気に思ってるのかね? 右へも左へも行くことができるし、前にも後ろにも動きまわることはたしかに自由だね。人間はいつもそうしてきた。二次元で人間が自由に動けることを認めるにやぶさかじゃない。だけど、上下に動くのはどうだろう? 人間はそこのところで重力の制約を受ける」
「そうとばかりはいえないよ」医者が言った。「気球というものがある」
「だけど、気球以前となると、ときどき跳び上がってみるとか地表がでこぼこして上下する以外に、人間には垂直に動く自由は何ひとつなかったのだからね」
「それでも、少しは上下に動けるわけだ」と医者は言った。
「上がるよりも下りるほうがはるかに楽だがね」
「だけど、時間の中を自由に移動はできないし、まして現在の時間的な瞬間からは逃げだせない」
「そうはおっしゃいますがね、そこがまさに諸君の間違っているところなんだ。その点がまさに、世をあげて間違っているところなんだね。僕たちはいつも現在の時間的な瞬間から逃げだそうとしている。われわれの精神は物体の形を持たず、何らの次元も有しない存在だけれど、揺り籠から墓場まで、時間の次元に沿いながら一定の速度で動いている。あたかも地上五十マイルに生を享《う》けたとすれば、地上に向けて少しずつ|下り《ヽヽ》ていく、そのようなものさ」
「しかし、そこが実にむずかしい点なんだね」心理学者が口をはさんだ。「空間なら、あらゆる方向に動きまわることができる。ところが、時間の中では動きまわれない」
「そこなんだよ、僕の大発見の核心てのは。だけど、人間が時間の中を動きまわれないというのは間違いだね。たとえばある事件をすこぶる生き生きと思い出したとすれば、僕は事件が発生した時点へもどっていることになる。僕が上の空になっているからだと諸君はいうだろう。僕にしてみれば一瞬、その時点へもどったことになるのだ。むろん、長時間にわたってその時点にとどまる方法など何ひとつない。が、それは野蛮人や動物が六フィートの上空にとまっている手だてを知らないのと同じことさ。しかしこの点に関しては、文明人は野蛮人よりも有利な立場にある。文明人は気球に乗り、重力に逆らって空へのぼることができるのだからね。してみれば、あげくのはては時間の次元に沿って移動するのを停止したり加速したり、あるいは一転して逆の方向へ旅行することだって可能かもしれないじゃないか」
「いや、|そいつ《ヽヽヽ》はまったく――」と、フィルビーが言いかける。
「どうしていけないのかね?」時間旅行家は反問した。
「そいつは理にかなっていない」とフィルビー。
「どんな理かね?」時間旅行家は言った。
「君は理屈で白を黒と言いくるめることができるだろう」フィルビーが言った。「しかし、それでは僕を納得させることは絶対できない」
「そうかもしれない」と時間旅行家は答えて、「しかし、僕はいまここで、僕が四次元の幾何学を探究したその具体的な目的をお目にかけよう。ずっと以前から、僕はぼんやりながら、ある装置《マシン》を考えてきた――」
「時間を旅行するための装置ですか!」えらく若い男が叫んだ。
「それは、空間と時間とのありとあらゆる方角へ、操縦者の意のままに、それこそ自由自在に動けるという機械だ」
フィルビーはさもおかしそうに声をたてて笑った。
「だけど、すでに実験で確認してあるんだ」と時間旅行家。
「そいつは歴史家にとっちゃえらく重宝なものになるね」心理学者が指摘した。「過去へ旅行して、たとえばヘイスティングズの戦いに関する公認の記録がはたして正確かどうか確認できるわけだ!」
「世間の注目をひくことになるね」と医者が言った。「われわれの先祖は年代記の誤りにとても寛大とはいえないのだから」
「ホメロスやプラトンの口から、じきじきギリシャ語を聞けるかもしれませんね」若い男は考えこむような口ぶりであった。
「そうなったら、君なんか大学入学の予備試験で間違いなく落とされるよ。ドイツの学者たちが、古いギリシャ語をがらりと改良してしまったからね」
「じゃ、未来にでも行きましょう」若者は言った。「考えてもみてください! あり金はたいて投資をし、利子がしこたまたまるようにしておいて、一気に未来へ飛ぶんです!」
「行き着くところ」と、私は言った。「厳密な共産主義に基礎を置いた社会か」
「なんとしても荒唐無稽《こうとうむけい》な理論だ!」心理学者が言いかけた。
「そのとおり。僕にもそう思われた。だから、このことを人にこんりんざい話さなかったのだよ、それがつい――」
「実験による確認か!」私は思わず叫んで、「いよいよ、君は|それを《ヽヽヽ》確認しようってわけだな?」
「実験だって!」うんざりしてきたフィルビーが叫んだ。
「じゃあ、とにかく君の実験なるものを見てみようじゃないか」心理学者が言った。「どうせ、いかさまもいいところだろうが」
時間旅行家はにっこり笑って私たちを見回した。そしてまだかすかな笑みを顔に残し、両の手を深々とズボンのポケットに突っこんで、ゆっくりと部屋を出て行った。引きずるようなスリッパの音が、長い廊下を通って研究室へ向かうのが聞こえてきた。
心理学者が私たちを見まわした。「一体何をつくったんだろう?」
「手品か何か、そういった類《たぐい》のものさ」医者は言った。フィルビーは、かつてバーズレムの町で見たことがあるという魔術師の話をしようとした。しかし、前置きも終わらないうちに時間旅行家がもどってきたので、その小話は聞かずじまいになった。
時間旅行家の手には、小さな置時計ほどあるかないかのきわめて精巧な機械装置が金属的な光を放っていた。その装置には象牙《ぞうげ》の部分や透明な結晶体で出来ている部分もあった。さて、これから先は正確かつ率直に記さなければならない――時間旅行家の話を鵜呑《うの》みにしないかぎり――次に起こったことが不可思議千万だったからである。彼は部屋のあちこちに置いてあった八角形の小さなテーブルの一つを持ち上げ、二本の脚が敷物にかかるようにして暖炉の前に置いた。テーブルの上にくだんの装置をのせ、それから椅子を引きよせて腰を下ろした。テーブルの上にはそれ以外に小さな笠《かさ》をつけたランプがあるだけで、その模型にあまねく明るい光を落としていた。またあたりにはおそらく一ダースほどの蝋燭《ろうそく》が、それも真鍮《しんちゅう》の燭台に立てられた二本は暖炉棚《マントルピース》の上に、あとの数本は壁の燭台にともっていて、部屋をあかあかと照らしだしていた。私は暖炉に一番近い腰の低い安楽椅子に坐り、時間旅行家と暖炉との中間に近いところまで引き寄せた。フィルビーは時間旅行家の後ろに坐って肩越しからのぞきこんだ。医者と町長はその右側に、心理学者は左側に陣取って、それぞれ時間旅行家の横顔を眺めやることになった。若者は心理学者の後ろにたたずんでいた。私たちはひとしなみ眼を光らせた。いかなる種類のトリックも、そしてそれがどんなにうまく工夫され、どんなに巧みに演じられようと、こんな状況下でとうてい私たちの目をくらますことはできまいと思われた。
時間旅行家はまず私たちを眺め、それから装置に視線を移した。「さあ、それで?」心理学者が言った。
「この小さな機械は、まだほんの模型にすぎません」テーブルに両肘をつき、装置の上で両の手を合わせながら時間旅行家は話しはじめた。「僕の計画というのはこの装置で時間を旅行することだ。お気づきでしょうが、奇妙にいびつな形をしていますね、またこの横棒ときたらいやにぴかぴか光る様子をしている、まるでこの世のものとは思われないように」そう言いながら、彼はその部分を指で示した。「ここにまた小さな白いレバーがあるし、ここにももう一つある」
医者が椅子から立ち上がって、しげしげと装置に見入った。「見事なつくりだね」
「これを造るのに二年かかりました」時間旅行家は答えた。そこで、私たちが医者に習って装置に見入ると、彼はこう言った。「ところで、諸君にはっきり知っておいてもらいたいのだけれど、このレバーを押すと装置は未来へ向かってすべりだし、もう一つのレバーを押すと逆の運動を起こす。このサドルは時間旅行家の席だ。いまこのレバーを押すと、装置は出発するはずです。たちまち見えなくなって未来の時間に入り、消え去ってしまう。この装置をよく見てくれたまえ。テーブルもだ。どこにも仕掛けがないことを納得するまでね。模型を無駄にしたあげく、山師だなんていわれたくないのだよ」
一分間ぐらい沈黙が流れたろうか。心理学者は私に話しかけようとしたものの、思い返したらしい。すると、時間旅行家はレバーの上に指をおいた。「いや」と、急に何かを思いついたかのように「君の手を貸してもらおう」そして心理学者のほうに向くと、その手をとって人差し指を突き出すように言った。こうして心理学者がみずから時間旅行装置《タイム・マシン》を終わりなき旅へと送り出したのである。私たちはみなレバーが動くのを見た。私には断言できるが、何ひとつ仕掛けはなかった。一陣の風がまき起こり、ランプの焔がはげしくゆらめいた。マントルピース上の片方の蝋燭の火が吹き消された。小さな機械装置は突如として回転しはじめ、目にも止まらなくなった上、ほんのしばし幻のごとくかすかにきらめく真鍮と象牙の渦巻になったかと思うと、どこかへ行ってしまった――消え失せてしまったのである。ランプが残っているきりで、テーブルの上には何もなかった。
しばらくは一人として口を開かなかった。それからフィルビーが、えらいことになったと言った。
心理学者は茫然自失の状態からさめると、急にテーブルの下をのぞきこんだ。すると、時間旅行家は愉快そうに声をあげて笑い、心理学者の口真似をして、「さあ、それで?」と言った。そのあと彼は立ち上がってマントルピースの上の煙草入れの壺に近づき、私たちに背を向けたままパイプに煙草をつめはじめた。
私たちは互いに顔を見合わせた。「いいかね」医者が言いだした。「君たちは真面目なのかい? あの装置が時間の世界へ旅立って行ったと、本気で考えているのかね」
「もちろん」時間旅行家はつけ木に火をつけようと暖炉にかがみこんだ。そしてパイプに火をつけながら向きなおって、心理学者の顔を見やった(心理学者は自分がうろたえていないことを示すために葉巻をとりあげたが、そのくせ吸い口を切らずに火をつけようとしたのであった)。「それだけじゃない。完成間近い大きな装置があそこにある」――時間旅行家は研究室を指し示して――「組み立てが終わったら、人の手など借りずに自分で時間旅行に出かけるつもりだ」
「つまり、さっきの装置は未来へ旅立ったということかい?」フィルビーが言った。
「未来か、さもなければ過去へ――どっちだか、僕にも確かじゃないがね」
しばらくすると、心理学者にあるインスピレーションがわいた。「どこかへ行ったのだとすれば、きっと過去へ行ったにちがいないよ」
「なぜかね?」時間旅行家はきいた。
「なぜって、あの装置は空間を移動していないと思うからさ。そこで、もし未来へ旅立ったのだとすると、あれはずっとここにあっていいはずだ。いまの時間を通って航行してるにちがいないのだからね」
「だけど」と私は言った。「もし過去へ旅立ったのなら、僕たちが最初にこの部屋へ入ってきたときに装置が見えたはずじゃないか。それから先週の木曜日にここへ来たときにも見えたはずだし、先々週だってそうだし、その前もそうじゃないのか!」
「重大な反論だと思うがね」町長は公正な雰囲気をただよわせながら、時間旅行家のほうを振り向いた。
「反論でも何でもありません」時間旅行家は、こんどは心理学者のほうに顔を向けて、「考えてもみたまえ。君《ヽ》ならきっと説明ができる。それは識閾《しきいき》下の表象というか、きわめて存在性が希薄な表象なのだよ」
「そうだとも」心理学者は私たちに受け合った。「これは心理学上の単純な問題なんだ。僕がもっと早く気づくべきだったのさ。まったく簡単至極な理屈で、その逆説もりっぱに説明がつく。この装置は見えもしないし、確かめることすらできないが、それは回転する車輪のスポークや飛んでいる弾丸の場合と同じことさ。もし装置が僕たちよりも五十倍なり百倍なり早い速度で航行し、たとえば僕たちが一秒を通りすぎる間に一分も先を通り過ぎているのだとすれば、あの物体があたえる感覚効果は当然、時間旅行をしていないときにくらべればその五十分の一、百分の一になるはずだ。まったく簡単な理屈さ」彼はそう言って、装置が置かれていたあたりの空間を撫でてみせ、「そうじゃないのかね?」と笑った。
私たちは腰を下ろしたまま、からっぽになっているテーブルをしばらくじっと見つめた。すると、時間旅行家はこうしたことをどう思うかねときいた。
「今夜のところはもっともらしく聞こえるが」と、医者が言った。「しかしあすまで待ってみようじゃないか。すがすがしい朝、頭が澄んだときの常識を待つことにしたいね」
「諸君、時間旅行装置の実物を見たいと思いませんか」時間旅行家がたずねた。そう言うと彼はランプを手にとり、隙間《すきま》風の通る長い廊下を研究室へと導いて行った。私はいまでも覚えているのだ。ゆらめくランプの明かり、奇妙なほど横に張った頭のシルエット、踊るような私たちの人影、そして一同が半信半疑で彼のあとに従い、私たちの目前から煙のように消え失せたのとよく似ている、しかしもっと大きな装置を研究室ではっきり見たときの模様。一部はニッケル、一部は象牙から成り、また疑いもなく水晶にやすりをかけたか切り出したかして作った部品もあった。装置はほぼ完成していたが、ベンチの上には何枚かの設計図と並んでねじれた透明な棒がいくつか未完成のまま置いてあった。私はその一本を手にとって入念に調べてみた。石英のように思われた。
「なあ、君」医者が言った。「ほんとに本気なのかい? それともこれは何かのトリックなのかい――この前のクリスマスに見せてくれた幽霊みたいに?」
「この装置に乗って」ランプを高くかかげながら、時間旅行家は言った。「僕は時間の世界を探検に出かけるつもりだ。わかったかね? 生まれてこのかた、これほど本気だったことはないよ」
この言葉をどう判断すればよいのか、だれにも分からなかった。
私は医者の肩越しにフィルビーと目を合わせた。彼は生真面目そうにウインクしてみせた。
あのときは、私たちのうちだれ一人として、時間旅行装置《タイム・マシン》を本気に信じていた者はいなかったろう。それというのも、時間旅行家《タイム・トラヴェラー》が抜け目なさすぎて信用できない人間の一人だったからである。彼のすべてが分かったと思えたことは、ついぞなかった。そのあけすけな率直さの背後には、いつも何か底の知れぬ隠しごとか、何か巧妙な奇計が感じられた。もしフィルビーのような人間が模型を見せながら時間旅行家のような言葉で説明したのなら、|彼に《ヽヽ》それほど疑い深い目は向けなかったろう。彼ならその動機は私たちにも理解できたし、肉屋のおやじにだって納得できたからだ。ところが、時間旅行家のなかには単なる気まぐれではすまないものがあったから、私たちは彼が信用しきれなかった。彼ほど頭脳の程度が高くない男だったら世間の評判をかち得たかもしれぬことでも、彼の手にかかるとトリックではないかと思われてしまう。あまり簡単に物事をやってのけるのは間違いのもとなのだ。彼の言葉を真剣に受け止める生真面目な人たちも、その行動についてはついぞ安心感を持つことがないのである。彼らからすると、せっかく評判を得ている自分たちの判断力をあの男にゆだねてしまえば、まるで子供部屋に薄手の瀬戸物を持ちこむ結果になりかねないのを、彼らはどうやらわきまえているのであった。だから私たちの仲間には、あの木曜日から次の木曜日までの間に、時間旅行のことを大っぴらに口にした者は一人もいなかったように思う。それでいておおかたの心の中では、あの奇妙な可能性への期待が生きつづけていたことも疑いない。実際には信じられないことでもあるあのもっともらしさ、年代記の錯誤を改めるという奇妙な可能性に、そこから生ずるかもしれないとてつもない混乱。私としては、何よりもあの模型が消えてしまったというトリックに心を奪われていた。だからこそ、金曜日にリンネ協会で医者と会って話したことをよく覚えているのである。医者はチュービンゲンでも同じものを見たと言い、蝋燭の灯が消えた点がうさんくさいと強調した。しかし、そのトリックがどう演じられたのか説明できないのであった。
次の木曜日、私はまたもやリッチモンドへ出かけた――私は時間旅行家の家を足繁くたずねる常連の一人であったが――その日は遅く着いたので、客間にはもう四、五人の客が集まっていた。医者は暖炉の前で片手に紙片を、もう一方の手には時計を持って突っ立っていた。私はぐるりと時間旅行家の姿を捜し求めた。すると――「もう七時半だ」と医者が言った。「食事にしてもらってもいいと思うがね」
「どこなんだ――」私は、当家の主《あるじ》の名をあげた。
「いま来たばかりかい? ちょっとおかしいんだよ。やむをえない事情で引き止められているらしい。もし七時になってももどってこなかったら、先に夕食を始めてくれというメモを僕あてに残している。事情は帰ってから説明するというんだ」
「せっかくの食事がさめてまずくなるのは情けない話だね」よく知られた日刊紙の編集長である。それをしおに、医者はベルを鳴らした。
先だっての夕食会に出た者といえば、医者と私のほかは心理学者だけであった。今夜はそれ以外にさっきの編集長ブランクと、ある新聞記者、それからもう一人――髯《ひげ》をたくわえたもの静かで内気な男――がいた。見も知らぬ男だったが、観察したかぎり、その晩はついに一度も口を開かなかった。食事の席上、時間旅行家が姿を見せないことについていくつかの推測が行なわれたものだから、私は冗談めかして、時間旅行に出かけたのじゃないかと言ってみた。すると、編集長がその説明を求めた。心理学者がその役を買って出て、私たちが先週の木曜日、目撃した「巧妙な逆説とトリック」についてぎこちない説明をした。心理学者がまさに話をしていた最中に、廊下に通じるドアがゆっくりと音もなく開いた。私はドアに面していたので、最初にその姿に気がついた。「ハロー! やっともどってきたな!」私は叫んだ。ドアがさらに開くと、そこに時間旅行家が立っていた。私は驚きの声をあげた。「おやまあ! これは、一体どうしたんだい?」と、次に彼の姿を認めた医者が叫んだ。そこで、テーブルの全員が彼のほうをいっせいに振り向いた。
時間旅行家は見るも無惨な姿をしていた。服は埃《ほこり》と泥にまみれ、袖《そで》の先まで緑色のものがこびりついていた。頭髪は乱れ、いよいよ白いものがふえているように思われた――埃や泥のせいだったのか、実際に色あせたのだろうか。顔は死人のように青白く、顎には茶色の切り傷の痕《あと》があった――半ばなおりかけていたのだが。表情はやつれてゆがみ、病魔にさいなまれたかのようであった。彼は一瞬、明かりで眼がくらんだかのように戸口でためらったが、それから部屋の中に入ってきた。びっこを引いており、いつか見た足の悪い浮浪者そっくりだった。私たちは黙って彼を凝視しながら、彼が口を開くのを待った。
しかし彼は一言も口をきかず、ただつらそうにテーブルに近づいて、ワインのほうへ手を伸ばそうとした。編集長がシャンペンをグラスに注いで彼に押しやった。それを飲みほすと、時間旅行家はいくらか具合がよくなったらしい。ぐるりとテーブルを見回し、その顔にはいつもの微笑らしきものがきらめくようにひろがったからである。「一体、どこへ行ってたんだい、君は?」と医者が言った。時間旅行家には聞こえなかったように見えた。「心配しないでくれたまえ」彼は何かためらうような口ぶりで言った。「僕は大丈夫だよ」そう言い終わると、彼はグラスを差し出してワインを催促し、一口に飲みほして、「うまい」と言った。眼は明るさを増し、頬にもほんのりと色がもどってきた。彼は一種ものうげな安堵の色を浮かべながら、私たちの顔にあわただしく視線を走らせて、暖くて居心地のよさそうな部屋を見回した。それから再び言った、いまなお言葉を手探りするかのような調子で。「体を洗って、着替えてきます。降りてきてから事情を話しましょう……その羊肉《マトン》をちょっぴり残しておいてくれたまえ。肉類に飢えているんだよ」
彼はテーブルの向こうに珍客の編集長がいるのを目にとめて変わりはないかと挨拶した。編集長が質問をはじめると、時間旅行家は「いまに話しますよ」と答えた。「いまちょっと――気分がおかしいんでね。すぐによくなるよ」
彼はグラスをおいて、階段に通じるドアのほうへ歩いて行った。私はまたもや彼がびっこを引いているのに気づいた。やわらかい足音はぱたんぱたんと聞こえたが、席から立ち上がった私の目には、出て行く彼の足が見えた。ぼろぼろになって血のにじんだ靴下以外には、彼は何もはいていないのであった。ドアが閉まった。よほど追いかけて行こうかと考えたが、騒がれるのを彼がひどく嫌っていることを思い出してやめた。多分、一分かそこいら、私はとりとめもないことを考えていたように思う。すると、「著名な科学者の驚くべき行状、か」(例によって)記事の見出しを考えているらしい編集長の声が聞こえた。この言葉が、明るい夕食会のテーブルに私の注意を引きもどした。
「何をしてたんです?」新聞記者が言った。「乞食の真似でもしてきたんでしょうか。どうもぴんとこない」私は心理学者と顔を見合わせた。その表情にも私と同じ気持が読みとれたのであった。私は時間旅行家が痛そうにびっこを引きながら、階段をのぼっていく姿を思い浮かべた。彼が足を引きずっていたことは、だれも気づいていないようであった。
まず驚きからすっかりわれに返ったのは医者で、彼は鈴を鳴らして召使を呼び、熱い料理を命じた――時間旅行家は食事中、召使が後ろに控えるのを嫌っていたのだ。これをしおに、編集長は咳払いしていま一度ナイフとフォークを取りあげ、さきほどから無口な男もそれにならった。食事は再開された。ひとしきり驚嘆の言葉や溜息まじりの会話が交わされると、編集長は激しい好奇心にかられてきいた。
「われらが友は、とぼしい収入を補うために道路掃除でもやってるのかね? それとも、ネブカドネザル王みたいに悪い夢でも見てるのかな?」
私は答えた。「あれはきっと、時間旅行装置と関係があると思うのだけど」そして私は、心理学者が先週の集まりで述べた説明を引合いに出した。新顔の客たちは、それがどうしても信じられないのを隠そうともしなかった。編集長は反対意見を並べたてた。
「時間旅行とはそもそもどういうもの|だった《ヽヽヽ》のか。逆説のなかを転げまわったところで、あんなに埃まみれになるはずがないじゃないか」そしていまの言葉が気に入ったらしく、こんどはひやかしにかかった。未来社会では洋服ブラシもないってわけかね。新聞記者もまた頑として信用しないばかりか、編集長と一緒になって次から次へと茶化すという安易な道を選んだ。二人とも新しいタイプのジャーナリストであった――すこぶる快活で、不遜なところのある若者たちだった。
「明後日のわが社の特派員の報告によれば」新聞記者がそう言っていたとき――むしろ大声で叫んでいたところへ――時間旅行家がもどってきた。彼はふだんの夜会服を着ており、憔悴《しょうすい》した顔をのぞけば、私をあれほど驚かせたような変化は何ひとつとどめていなかった。
「やあ、君」編集長ははしゃいだような口調で、「この連中にいわせると、君は来週の半ばごろの世界を旅行してたそうだな! ちびっこローズベリの様子を話してくれないかね? その原稿料はいくら払えばいいんだ?」
時間旅行家はひとこともいわずに、彼のためにとってある席におもむいた。彼はいつものように静かな微笑を浮かべて、「羊肉《マトン》はとってあるかね?」と言った。「こんなにうれしいことはないよ、またまた肉にフォークをつけられるなんて!」
「話だよ!」編集長が叫んだ。
「話なんて犬にでも食わせろ! 僕は何か食べたい。ペプトンを動脈の中に入れるまではひとこともしゃべらないぞ。ありがとう。それに塩もくれたまえ」
「ほんのひとことだけ」私は言った。「君は時間旅行をしてたのかい?」
「そうだ」時間旅行家は口一杯に頬ばりながらうなずいてみせた。
「君がしゃべった話は一行につき一シリング払おう」編集長が言った。時間旅行家は無口な男のほうへ自分のグラスを押しやり、爪先でたたき鳴らした。それまで彼を穴があくほど凝視していた無口な男はぎくりとして、そのグラスにワインを注いだ。以後、夕食は窮屈なものになってしまった。私はといえば、いろいろな質問がいまにも口をついて出そうになった。ほかの連中とても同じような気持であったにちがいない。新聞記者はその場の緊張をほぐそうとしてヘティー・ポッターに関する小話を披露しようとした。時間旅行家はもっぱら食べることに熱中し、まるで浮浪者のような食欲を示した。医者は紙巻き煙草を吹かしながら、上目づかいに時間旅行家をにらむ。無口な男は常にもましてぎこちなくなり、どうしようもない緊張のあまりただ次々と意を決したようにシャンペンを飲む。ついに時間旅行家は皿を向こうへ押しやり、私たちを見回した。
「お許しを願わなくちゃなりませんな。ただただ腹がへっていたのです。僕はほんとに驚くべき経験をしてきた」彼は手を伸ばして葉巻を取り、端を切って、「とにかく喫煙室へきてくれませんか。よごれた皿を前にして話すには、いささか長すぎる話だからね」ついでに鈴を鳴らしてから、先に立って私たちを隣の部屋へ導いた。
「ブランク、ダッシュ、チョーズにも装置のことを話したんだろうね?」彼は安楽椅子に深々と腰を下ろし、三人の新しい客の名をあげて私にきいた。「ところが、問題は単なる逆説にすぎないのだよ」編集長が言った。
「今夜は議論したくない。諸君に話をしてもかまわないが、しかし議論はしたくない。僕はね――」彼は話をつづけた。「お望みとあれば、僕に一体何が起こったか、その話をお聞かせしよう。ただし、話の腰を折ることは一切やめてくれたまえ。僕は話をして聞かせたいんだ。何がなんでもね。おおかたの話が作りごとみたいに聞こえるだろう。それならそれでかまわない! しかし、これは本当にあったことなのです――話すこと一つ一つがすべて真実なのだ。僕は四時に自分の研究室にいた。そしてその時刻から……僕は八日間ほど生きてきた……これまで人間がだれ一人としてついぞ経験したこともない日々をね! 僕はいまへとへとに疲れきっているが、この話を諸君にし終えるまではとても眠れないだろう。話がすんだらベッドへ行く。しかし、絶対に口をはさまないこと! それでいいですね?」
「いいとも」と編集長が言い、あとの者も「いいとも」と口をそろえた。こうして時間旅行家は、私が以下にしたためるような話を始めた。最初のうち、彼は椅子に深く腰を下ろし、いかにも疲れたような話し方をした。が、しばらくしてから生き生きとしてきた。その話を書きとめるに当たって、私は出来事の本質を伝えるのにペンとインクだけでは力がなさすぎること――なかんずく私自身の無能力さ加減が――痛感される。読者は充分に注意深く読まれるだろうが、しかし、小さなランプの光に照らされた話し手の白い真剣な顔を垣間見ることはできないし、またその声の抑揚を耳にすることもできない。話の進み具合によって表情が刻々と変わっていくことも知るすべはないのだ! 喫煙室の蝋燭はともされていなかったので、私たち聞き手はほとんど影の中におり、新聞記者の顔と無口な男の膝から下だけが暖炉の明かりに照らし出されていた。はじめのうち、私たちは互いに顔を見合わせた。しかしほどなくそれもやめて、時間旅行家の顔だけを見つめるようになっていった。
「先週の木曜日、僕は諸君の何人かに時間旅行装置《タイム・マシン》の原理について話をしたし、また仕事場でまだ完成していなかった実物もお見せしたはずだ。装置はいまもそこにおいてある。実はちょっと旅行をしたために少し傷んではいるがね。象牙レバーの一つに亀裂がはいってるし、真鍮の横棒が曲がってしまったけれど、そのほかは大丈夫だ。僕は装置を金曜日に完成するつもりだったが、その日いざ組み立てを終えてみると、ニッケル棒の一本がちょうど一インチ短いことが分かって作りなおさなければいけなくなった。そんなわけで、装置が完成したのはけさになってからのことだ。きょうの午前十時に、世界最初の時間旅行装置がその活動を開始したわけさ。僕は最後の点検を行ない、あらゆるネジをいまいちど締めなおしたり、石英のレバーに油をくれるなどしてからサドルにまたがった。さて次はどうなるだろうと思うと、こめかみにピストルを当てがって自殺を図る男の気持もかくやはという感じがしたよ。僕は片手で始動レバーを握り、もう一方で停止レバーを握って、まず始動レバーを押し、そしてほとんどすぐに停止レバーを押した。眼がくるくる回るような気がした。悪夢のなかで奈落の底へ落ちていくような感じだったね。あたりを見回すと、依然として研究室はもとのまま。何も起こらなかったのだろうか。一瞬、僕は自分の知能にだまされたのだろうかと疑った。そのとき、僕は時計に気づいた。ほんの一瞬前には時計は十時を一分かそこいら過ぎたところを指していたはずなんだね。それなのに、いまでは三時半近いのだよ!
僕は息を吸いこみ、歯をくいしばり、始動レバーを両の手で握ってぐいと押した。研究室はおぼろにかすんで暗くなっていった。ミセズ・ウォチェットが入ってきて、どうやら僕には気づかないで庭へ出る扉のほうへ歩いて行った。家政婦がそうやって部屋を横切るのにおそらく一分やそこらはかかったのだろうと思うのだけれど、僕の目にはまるでロケットが部屋の中を飛ぶように横切って行った。僕はレバーを目一杯に押しやった。ランプの灯が消えるように夜がやってきた。かと思うと、次の瞬間にはあくる日になっていた。研究室は靄のなかにかすんでいき、さらにどんどんかすんでいった。あくる日の暗い夜が訪れたかと思うとまた昼になり、またまた夜になり、そして昼になり、その交代がますます速くなっていった。渦巻くようなささやき声が耳一杯にひろがり、やがて奇妙な、物音ひとつしない混沌が心の中に下りてきた。
残念ながら、時間旅行の独特な感覚を充分にお伝えできないと思う。すこぶる不愉快なものだね。ちょうどローラーコースターに乗ったときのような――頭から真っ逆さまに落ちこんでいくような、どうしようもない脱力感だ! それと同時に、いまにも墜落してしまうのじゃないかという恐怖感に襲われた。速度が増してくると、黒い翼がはばたくように夜と昼とが入れ代わった。ぼんやりと見えていた研究室はもう視界から消え失せていた。太陽は空を飛び跳ねるように横切り、しかも一分ごとに横切ったのだけれど、その一分が実は一日なのさ。研究室はすでに破壊されたらしく、僕は大空の中に突入していた。何やら足場の上に立っているような気分もちょっとしたがね、すでにものすごい速度がついていたから動くものは何ひとつ目に止まらなくなった。僕の目からすれば、どんなにのろまなカタツムリでも、あっという間に走り去った。光と闇とがまたたく間に交代するので、眼がひどく痛んだ。そして断続的にやってくる暗黒のなかでは、月が東から西へ、新月から満月へと目まぐるしく移り変わるのが見えたし、星の運行もかすかながら垣間見ることができた。いまや、ぐんぐん進むにつれて速度はさらに高まり、昼と夜との目まぐるしい変転は一つの切れ目ない灰色状のなかに溶けこんでいった。空はすばらしい深みのある青色を帯び、朝まだきの輝くばかりに壮麗な色合いを呈していた。飛び跳ねるようだった太陽はいまや火の箭《や》となり、中空にきらめく弧を描いた。月はそれより色の淡い、波打つ帯のように見えた。星はまるで見えなかった、ときたま青色のなかをやや明るい光の輪がちかちかする以外はね。
地上の風景は、霧がかかったようにぼうっとかすんでいた。僕はまだこの家が建つ丘の中腹におり、丘の頂上へ向かってはほの暗い灰色におおわれていた。木立は蒸気が吹きだすように育っては変化し、いま茶色かと思えばもう緑になっていく。芽ぶいたかと思うともう生い茂り、風にふるえ、そして散っていった。巨大なビルディングがぼんやりと美しく立ちあらわれては夢のように消えていった。地表全体が変化したように見えた――目の前で溶けて流れていくようにね。時間旅行の速度を示す計器盤の小さな針がますます速度を上げて回転した。やがて帯状の太陽が、一分たつかたたないうちに上下し、夏至から冬至へと揺れ動いているのに気づいた。つまり、僕は一分もたたないうちに一年分を通過する速度で進んでいたことになるんだね。一分ごとに世界は白雪におおわれ、それが消えたかと思うと、束の間の明るい春の緑が訪れた。
出発時の不快感はいまやうすらいでいた。それは一種のヒステリックな高揚状態に変わっていった。実は機械が気持の悪い揺れ方をするのに気づいていたのだけれど、その原因を突き止める術《すべ》とてなかった。しかし、そんなことが気にもならないほど精神的に混乱していたので、いわば狂ったようにええいままよと僕は未来へ飛びこんでいったのだ。はじめのうちは装置《マシン》を止めることなど考えもしなかったし、さっき述べたような新しい感覚しか頭になかった。しかしやがて、僕の胸中にあらたな感情が生まれた――ある種の好奇心とそれに伴う恐怖心だけれど――ついに僕はすっかりそれにとらわれてしまった。人類はどんな不可思議な発展をとげているのだろうか、われわれの未熟な文明はどんなにすばらしい進展をみせているのだろうか、と僕は思った。あわただしく変化する薄暗くてとらえがたい世界を目の当たりに見れば、そういうことが分からないものでもなかろう! 僕のまわりに壮大にして華麗な建築物が林立していた。現代のどんなビルよりも巨大でありながら、見たところかすかな光と靄によって建てられているかのように見えた。丘の斜面に沿ってしたたる緑が茂り、冬枯れの痕跡は毛ほども認められなかった。混乱した意識のベールを通して見ても、地上はすこぶる魅力的に思えた。そこで、機械を止めてみようという気が起こった。
格別の危険といえば、僕や機械が占める空間に別個の物体を発見するかもしれないという可能性だ。高速で時間の世界を航行しているかぎり、そんなことはほとんど問題にならない。いってみれば、僕は個体としての形を失い、希薄化していた――障害物の間隙《かんげき》を蒸気のようにすり抜けつつあったのだね! しかし機械を止めれば、僕の行く手にあるものが何であれ、それに僕の体の分子の一つ一つをぶっつけることになるだろう。つまり、僕の分子と障害物の分子とが融合して深刻な化学変化――おそらくどえらい爆発――を起こし、僕も機械もあらゆる次元から吹き飛ばされてしまうのじゃないか――かの「未知」の世界へだ。この可能性は時間旅行装置を製作している間、なんども心に浮かんだ。しかしその当座は避けがたい危険として陽気に受け入れたものさ――いっぱしの男なら、あえて冒すべき危険だとね! さて、その危機が避けがたいものとなったいま、もはやそう陽気に受け入れるわけにはいかなかった。実をいえば、何もかもまったく奇妙であったし、機械は気分が悪くなるくらいきしんだり揺れたり、ことにいつまでも奈落の底へ落ちて行くような感覚が続くために、僕はすっかり動転してしまった。機械は絶対に止まらないのじゃないかと僕はつぶやいた。そこでカッとしたあげく、即座に機械を止めようと思った。頭に血がのぼった間抜けのように停止レバーを思いきり押しやった。するとたちまち機械はぐるぐる回転し、僕は大気の中に投げ出されてしまった。
耳の中で雷鳴のとどろきわたる音がした。僕はしばし気を失っていたかもしれない。霰《あられ》が情け容赦なくあたりに音をたてていてね、僕はやわらかい芝の上に坐り、目の前には機械がひっくり返っていたのさ。何もかも依然として灰色に見えたが、やがて耳鳴りもやんでいることに僕は気づいた。僕は身のまわりを見わたした。どうやら庭園内の小さな芝生であるらしく、シャクナゲの灌木にとり囲まれていた。紫がかった薄紅色の花びらが小石のような霰に打たれて驟雨《しゅうう》のように散っていることが分かった。はずんだり躍ったりする霰は時間旅行装置を雲のように包み、地面が煙るようにたたきつけた。僕はほどなくびしょ濡れになった。『結構なもてなしだね、おびただしい歳月を飛びぬけてわざわざ見物にやってきたのに』
やがて僕は思った、濡れそぼるのはなんとばかげた話だと。僕は立ち上がり、あたりを見回した。どうやら白い石を刻んだらしい巨像が、かすんで見える霰の中を通してシャクナゲの灌木のかなたにうすぼんやりと聳《そび》えて見えた。ところが、それ以外は何も見えないのだ。
僕のそのときの感じといったら、ちょっと説明しがたい。霰《あられ》の柱が細くなっていくと、その白い巨像はいよいよはっきりと見えてきた。とてつもなく大きかった。白樺の木が巨像の肩に届くくらいだったからね。白い大理石で、翼のあるスフィンクスのような形をしていたが、その翼たるや、両側に垂れさがる代わりに、飛びたたんばかりに翼をひろげているのだよ。台座は青銅からできているように見え、びっしりと緑青《ろくしょう》におおわれていた。たまたま顔がこちらを向いていた。うつろな眼は僕を見つめているように思われた。口もとにはうっすらと微笑の影を浮かべてね。雨ざらしになってから久しく、そのために気持が悪いほど病的な印象をあたえた。僕はしばらく突っ立ったまま、像を見上げていた――三十秒ぐらいか、いや、もしかしたら三十分ほどだったかもしれない。霰がひどく降ったり小やみになったりすると、巨像はそれにつれて近づいたり遠ざかったりした。僕はやっとしばし巨像から眼をはなした。霰の幕はとぎれがちになり、空は太陽の出現を示すように明るくなった。
僕はまたもやうずくまるような白い像を見上げた。そしたら突如、時間旅行の無謀さが痛感されたのだ。霰の幕がすっかり上がってしまったら、一体何があらわれるのだろうか。人類にどんな一大異変が起こるのだろうか。もし残酷さがありふれた感情になっていたとしたらどうしよう? この時間旅行中に、人類が人間らしさを失い、何やら非人間的な、冷酷で非常に暴力的な存在に変わっていたらどうしよう? そうなったら、僕などは旧世界のけだものみたいに見られるのではないだろうか。その上、彼らによく似ているという点だけでいよいよ恐ろしく、いまわしく思われるだろう――うすぎたない生物としてたちまち殺されるかもしれないのだ。
早くもほかの大きな形をしたものが見えてきた――巨大な建物で、手のこんだ欄干と高い円柱があり、またおさまりかけた嵐を通して、樹木におおわれた丘の斜面が忍びよってきた。僕はどうしていいか分からぬ恐怖にとりつかれてしまった。僕はあわてふためきながら時間旅行装置に駆けもどり、必死になって引き起こそうとした。その間、陽光が雷雨の幕を通してさんさんと照りつけてきた。灰色の霰はぬぐい去られ、幽霊が引きずる裳裾《もすそ》みたいに消え失せてしまった。頭上には夏の空があくまで青く、雲の薄茶色をした切れ端が、どこへともなく渦巻くように姿を消していった。まわりの巨大な建物は、嵐にそぼ濡れて輝きながらくっきりと聳《そび》え立ち、あちこちに積もったまだ溶けていない霰に白く引き立てられている。僕は見も知らぬ世界で孤独を感じた。まるで雲一つない空を飛ぶ鳥が、頭上からタカにいつ襲われるかもしれぬとおびえているようなものだった。僕の恐怖心は狂わんばかりになった。呼吸をととのえ、歯を食いしばると、手首と膝を使ってまたもや機械を懸命に引き起こそうとした。死物狂いの頑張りが効を奏して、やっと機械はもと通りになった。その際、顎をしたたかに打ちつけられた。片手をサドルに、片手をレバーにかけて、激しくあえぎながらいまいちど機械にまたがろうとした。
しかし、こうして即座に離脱できる体勢になると、勇気も舞いもどってきた。僕は、このはるかなる未来の世界を以前にもまして好奇心が強く、さほど恐れずに見回した。円形の窓が近くにある家屋の壁の上方に開いていて、いかにも豪華でやわらかい衣服を身にまとう一群の人たちが見えた。彼らは僕の姿を認めたにちがいなかった。その顔がひとしくこちらを向いていたからだ。
すると、こちらに近づいてくる人声が聞こえた。白いスフィンクス像の近くの茂みから、人間の頭部と肩が駆けつけてきた。その一人が、僕と機械とが立ち並ぶ小さな芝生にまっすぐ通じる小道にあらわれた。なんと小さな生きものなんだ――四フィートぐらいだろうか――紫色の|袖なし上衣《チューニック》を着て、腰には皮バンドをしめていた。はきものはサンダルか半長靴《バスキン》か――どっちだか区別がつかない。脚は膝頭のあたりまではだけ、頭もまたかぶり物がなかった。そうした点を認めて初めて気づいたのは、大気がむやみに暖かいということだった。
その男はすこぶる美しく、優雅に見えたが、同時に名状しがたいくらい華奢《きゃしゃ》だった。赤みのさした顔はまるで結核病患者のような美しさを思い起こさせた――耳にたこができるほど聞かされたあの熱っぽい美しさなのだよ。ひと目見て、僕はだしぬけに自信をとりもどした。僕は機械から手を離した。
「次の瞬間、僕たちは向き合うように突っ立っていた。僕と、この未来世界のなよなよした生きものがね。彼はつかつかと歩み寄り、微笑《ほほえ》みかけた。表情に少しも恐怖の色を見せないところが、たちまち僕をほっとさせた。すると、彼はあとからついてきた二人を振り向き、耳なれないが、ひどく甘くて音の転がるような言葉で話しかけた。
ほかの連中もやってきた。ほどなく小さなグループの、もしかしたら八人か十人ぐらいの華奢な生きものが僕のまわりに群がった。その一人が話しかけた。不思議に思われるだろうが、彼らにとって僕の声はあまりにもどぎつく、野太く聞こえるのではないかということに気づいたのだ。そこで首を横に振り、耳のあたりを指差しながら、いまいちど首を横に振った。相手は一歩前に踏みだし、まずためらってから、僕の手に触れた。すると、こんどは小さくてやわらかい触手が僕の背や肩にさわった。彼らは僕が正真正銘の生きものかどうか確かめようとしたのだよ。そのような行ないには何ひとつ警戒の色がなかった。事実、これらの美しい小人たちには信頼感をかきたてられるものがあった――優雅なやさしさ、ある種の子供じみた気安さといったものがね。その上、彼らはあまりにもなよなよして見えたので、十数人ぐらいなら九柱戯の柱みたいに投げ飛ばせると思った。
しかし、彼らの小さなピンク色の手が時間旅行装置《タイム・マシン》に触っているのが見えたので、僕はとっさに警告するような身振りをしてみせた。幸いにも、僕はそれまで忘れていた危険に気づき、後の祭にならなくてすんだってわけさ。そして時間旅行装置の横棒に手を伸ばすと、発進用の小さなレバーのねじをとりはずし、ポケットにしまいこんだ。それから再び彼らのほうを振り向き、意思疎通の手だてはないものかと考えた。
で、彼らの顔つきをもっと仔細《しさい》に観察すると、ドレスデン陶器の羊飼い人形に似た美しさに際立った特徴があることに気づいた。一人残らずちぢれている髪の毛は首筋や頬のあたりで切れていた。顔には髯《ひげ》らしいものは一本もなく、耳はひどく小さかった。口もとも小さくていやに赤く、唇はやや薄かった。小づくりの顎は先がとがっていた。眼は大きく、穏やかだった。そして――これは僕の身勝手な考え方かもしれないがね――当然、僕に対して好奇心を示していい眼の色には、そんな気配がまったくうかがわれなかった。
彼らは意思疎通をはかろうとする努力もしないばかりか、ただ僕を取り囲むようにして突っ立ち、にやにやしながら穏やかな甘い口調で話し合うばかりであった。やむなく、僕のほうから話しかけることにした。僕は時間旅行装置と自分を指差してみせた。ついで時間をどう表現したものかとしばらくためらったあと、僕は太陽を指差した。するとたちまち、紫に白という格子縞の上衣を着た妙にこぎれいな小人が、同じような身振りをした上、雷の真似までして僕を驚かせた。
僕はしばし唖然としてしまった。もっとも、彼の身振りは意味がはっきりしたものだったけれど。とっさに疑問がわいた、この生物どもは知能がどうかしてるのだろうかとね。僕がどれほど驚いたか、諸君だって見当もつくまい。いいかね、僕は常日頃から八十万二千年後の人類が知能、芸術はもちろんあらゆる点においても、信じられないほど僕らを抜きん出ているだろうと考えてきた。そしたら、彼らの一人がだしぬけに、彼が僕らの世界でいえば五歳の子供くらいの知能水準しかないような質問を発したのだからね――事実、彼は問うたのだよ、雷雨に乗って太陽からやってきたのかとね! 彼らの衣服、ひどく華奢な四肢、いまにもこわれそうな顔立ちにさし控えていた評価も、これで決まったようなものだった。失望の奔流が心をよぎっていった。僕はしばらくの間、時間旅行装置を造ったのも無駄だったかと思った。
僕はうなずいてみせた、太陽を指差し、雷鳴をまざまざと演ずると、彼らは驚いた。一人残らず一歩か二歩、あとずさりしてうやうやしく一礼した。やがて一人が笑顔をつくりながら近づき、見たこともない美しい花の輪をさしだし、僕の首にかけてくれた。この思いつきはにぎやかな喝采をよんだ。すると、一同は花を求めて四方に散り、笑い声をたてながら花を投げかけてきたものだから、僕はほとんど息がつまりそうになった。現実にその花を見たことがない者には見当もつかないだろうが、それは数えきれないほどの歳月をかけた丹精によって生み出された美しくも見事な花々だったよ。すると、だれかこのおもちゃみたいな生物を一番近くの建物で展示しようと言いだしたらしい。で、この間ずっと僕の驚きをにやにやと見つめていたかのように思われる白い大理石のスフィンクスの前を通って、僕はすり減った灰色の巨大な建造物に導かれて行った。彼らと一緒に歩きながら、未来人はすこぶるどっしりした知的人種だと思いこんでいたことを思い出し、つい笑いがこみあげてしまったよ。
建物には大きな戸口があってね、まったく宏壮な造りとしか言いようがなかった。当然のことながら、小人が続々と群れをなして集まり、大きく口を開けてのぞかせる建物内の薄暗い神秘さがひどく気になった。小人たちの頭越しに見える世界といえば、全体として美しい茂みと、草花の咲き乱れる野原、つまり久しく放っておかれながら雑草ひとつない庭園といったところ。奇妙な白い花をつけた高い穂が何本も見え、蝋のような花弁は直径がおよそ一フィートぐらいあったろうか。あちこちの茂みの間に、さながら野生のようにぽつんぽつんと生えていたが、このときは近づいてはっきりと見きわめたわけじゃないのだよ。時間旅行装置は芝生の上、シャクナゲの間に放り出されたままになっていた。
戸口のアーチにはそこいらじゅう彫りものがしてあった。しかし当然、じっくりと彫刻を観察したわけではないのだけれど、通りすがりに見かけたところによると、それは古代フェニキアの装飾をしのばせるものであるように思われた。ひどく損傷し、風化しているように感じられた。さらに一段と明るい衣裳をまとった何人かが僕を出迎えてくれ、ともども建物の中へ入って行った。僕は薄汚れた十九世紀風の衣服を着ていたし、また花々に飾られていたから、すこぶるグロテスクに見えた。その上、鮮やかでやわらかな色調の衣裳に白っぽく輝く肢体をつつみ、妙なる笑い声をたてたり、笑いながらしゃべったりする人々の渦に取り囲まれていたのだ。
大きな戸口を通りぬけると、褐色の布張りをしたかなり広いホールに出た。天井は薄暗く、色ガラスをはめこんである窓とそうでない窓とがあって、弱い光がさしこんでいた。床はなにやら非常に堅い白色の金属製ブロックが敷きつめてあった。それは板金でも厚板でもなかった――ただのブロックであって、たいそう磨滅していた。過去何世紀にもわたって人が往来したためにそうなったらしく、ことに往来の激しいところは溝のように深くへこんでいた。ホールの奥行きとは直角におびただしいテーブルが並び、いずれも磨きたてられた石の板材から出来たもので、高さが一フィートぐらいあったろうか。テーブルの上には果物が山と積んであった。異常なまでに発育したキイチゴやオレンジの一種ではないかと思われたが、大部分は初めてお目にかかるものばかりだったね。
テーブルの間にはおびただしい数のクッションがばらまかれてあった。僕を案内してきた連中はそれに腰を落ち着けると、僕にもそうするようにと手振りで合図した。そして行儀作法などあらばこそ、手づかみでむしゃむしゃと果物を食べはじめた。むいた皮や蕊《しん》などはテーブルの側にある円形の穴に投げこむ。僕も喉がかわき、腹もすいていたので、彼らをいやでも習わずにはいられなかった。そうしながら、僕は合間を見てはホール内をぐるりと見渡した。
おそらくいちばん目についたのはホール内の荒れ果てようであったろう。幾何学模様しか見当たらぬステンド・グラスはこわれたままのところが多く、その下方をおおうカーテンはずっしりとほこりを吸いこんでいた。しかも、すぐ近くの大理石のテーブルでさえ、その角が欠けているのが目についた。にもかかわらず、全般的な感じは絢爛《けんらん》豪華なものだった。もしかしたら数百人の人たちがホールで食事をしていたろうか。ほとんどがなるべく僕の間近に座を占め、いかにも物珍しそうに僕を眺めやっていた。果物を食べながら、小さな眼を光らせていたよ。みんな同じように、やわらかいけど強そうな絹地に似た衣裳を着ていた。
それはそうと、果物が彼らにとって唯一の食物らしかった。はるかなる未来人は厳格な菜食主義者だったわけで、彼らと起居を共にしているあいだは、肉食の欲求にかられながらも、菜食主義を守らないわけにはいかなかった。事実、あとで分かったのだけれど、馬や牛、羊や犬も|太古の魚竜《イクチオザウルス》と同じように絶滅していたのだ。しかし、果物は実にうまかった。ことにある特別のやつ、僕の滞在中がシーズンだったと見えて――殻が三つに分かれるふかふかした感じの果物で――抜群にいい味がしたため、それを僕の主食にした。初めのうち、こうした見も知らぬ果物や花の存在に戸惑ったが、だんだんとそうした類《たぐい》のものに馴れていった。
ところで、僕はいま、はるかな未来における果物食について語っているのだけれど、空腹感がいくらかみたされると、僕は人類の新しい仲間である彼らの言葉を何がなんでも学んでやろうと注意した。明らかに、それは次になすべきことであった。果物を道具にして始めるのが好都合だと思われたので、その一個をつまみあげ、声や身振りをまじえながら一連の質問を発した。僕は自分のいわんとすることを伝えるのにかなりの困難を覚えた。最初はせっかくの努力も、驚いたような凝視を受けたり、どっと笑われたりしたのだが、ほどなくして金髪の小人が僕の意図を察したと見えて、ある名前をくり返した。それだけのことにもかかわらず、彼らは長々とたがいにしゃべりあい、論じあわなければならなかった。そして僕が彼らの言葉の微妙な発音をなんどか口にしようとすると、彼らはひどく面白がった。しかし、僕は先生が生徒たちにとり囲まれているような感じで、しつこくつづけたあげく、少なくとも二十個ぐらいの名詞を覚えこむに至った。それから「この」とか「あの」とかの指示代名詞に至り、「食べる」という動詞にまで進んだ。が、それは根気のいる仕事で、小人たちはすぐに飽きてしまい、僕の質問をうるさがりだした。そこで僕は万やむをえず、彼らがその気になるときまで待って少しずつ教わることに決めた。まもなく彼らの教える分量はきわめて少ないのを知った。これほどの無精者というか、疲れやすい連中は見たこともないね。
この小人たちについて、僕はまもなくある不思議なことを発見した。物事に関心を持たないのだよ。子供みたいに驚きの叫び声をあげて飛んでくるが、しかしたちまち子供みたいに飽きてしまい、別の新しいおもちゃを求めてよそへ去ってしまう。食事と会話の手ほどきが終わると、初めに僕をとりまいていた連中はほとんどが姿を消しているのに気づいた。やはり奇妙なことに、僕もまたこれら小人たちをあっさり無視するようになった。腹がくちくなると、僕は戸口を回ってふたたび日の照る屋外に出て行った。僕は引きつづき多くの未来人に会った。彼らはちょっと距離を置いて僕のあとに従い、僕のことをしゃべりあったり、笑ったりした。そして親しみのこもった微笑や身振りをすると、僕をまたもや一人に放っておいてくれるのであった。
大きなホールから出てくると、黄昏の静けさがあたりに漂っていて、日没のなま暖かい日差しが照り映えていた。最初のうち、何もかも僕をまごつかせたものだ。ありとあらゆることが、自分の知っているはずの世界とすっかり異なっているんだからね――花でさえも。僕がさっき出てきた巨大な建物は、広い川のある渓谷の斜面にたっていた。テムズ河にちがいないにしても、おそらく現在の位置から一マイルぐらい移動しているだろう。僕は丘の頂上に登ってみようと思った。おそらく一マイル半くらいはあるだろう。頂上に立てば、西暦八十万二千七百一年の地球がもっと広い眺望のうちに見渡せるはずだ。この点に関してちょっと説明すれば、時間旅行装置の小さなダイヤルに、この年代がちゃんと記録されているのだ。
道を歩きながら、僕はあらゆる事物に注意を払った。それはきっと、この地上の荒廃した栄華の跡を説明する助けとなるにちがいないと思った――まさしく荒廃そのものの世界だったからね。たとえば丘をちょっと登ったら、花崗岩の大きな堆積があって、アルミニウムの塊によってつなぎあわされ、また切りたつ石壁が広大な迷宮のようにうねりながら、ところどころ崩れて小山をなし、その間にはすこぶる美しいパゴタのような植物――おそらくイラクサ――が密生していたけれど、枝葉には美しい褐色のまだらが生じ、棘《とげ》はついていなかった。それは何か巨大な建造物の廃虚にちがいなかったが、一体なんの目的で建てられたのか見当もつかなかった。この場所において僕は後日、きわめて不思議な経験をすることになるのだが――さらに不思議な発見の洗礼を受けるわけだけれど――その話はあらためて別の場所でご披露することにしよう。
しばらく休憩していたテラスでふと思いつき、あたりをぐるりと見渡していたら、どこにも小さな家屋が一軒すら見当たらないのに気がついた。明らかに個人住宅も、おそらく家庭生活も消え失せていたのだろう。緑のなかのあちこちには宮殿のような建物が点在していたものの、わがイギリスの風物を特徴づける小住宅は跡形もなくなっていたのだ。
『共産主義だ』と僕はひとりごちた。
ひきつづいて別の考えも浮かんできた。僕のあとにくっついてくる五、六人の小さな姿を眺めやったときのことで、みんな同じようなスタイルの衣裳を着用し、同じように髯《ひげ》のないおだやかな顔をし、四肢もひとしく女っぽくまるみを帯びている点に、ふっと気がついたのだ。僕がこの点に早くから気づかなかったのを、もしかしたら不思議に思われるかもしれない。しかし、何もかも最初から奇妙きてれつだったのだからね。いまになって、その事実がはっきりと分かったわけなのだ。衣服にしても、男女の区別を明らかにする体格や言動においても、未来人はそうした違いがまったく認められない。僕の目からすると、子供たちすら両親のさらに小さなモデルのように見える。そのとき、未来世界の子供たちは少なくとも肉体的に早熟だと思われたが、後刻、僕の判断は少しも間違っていなかったことが数多くの実例で証明された。
これらの人たちが安穏な生活を保障された世界に生きているのを見て、男女両性間の酷似性は結局のところ、当然の成り行きのように思われた。なぜなら、男性の力強さといい女性の柔和さといい、家族制度といい職業の分化といい、物理的暴力の時代が生んだ闘争的必要性にすぎない。人口のバランスがとれた豊かな国家では、子供を際限もなく生むのは国への貢献どころか罪悪になってしまう。暴力を行使することが少なく、子孫の生活が保障されているところでは、強力な家族制度の必要性は少ない――いや、必要がないほどだ。また子供を育てるために必要な両性間の特殊化も消滅するばかり。こうした兆候はわれわれの時代においても認められるが、この未来社会では、それが完成の域に達しているわけだ。いいかね、諸君、これはそのとき、僕がいだいた観察なのさ。後日、これが現実とあまりにもかけ離れた観察であるということを思い知らされるようになるのだけれど。
そんなことを考えているうちに、僕はふとこぎれいで小さな建造物に注意をひかれた。円屋根つきの井戸に似ているんだよ。井戸などまだ存在しているのかとそのときはふと首をひねったが、やがてまたもや観察の糸をたどっていった。丘の頂にかけては大きな建築物は一つもなかった。僕の歩く速力は小人にくらべると抜群だったから、ほどなく僕は彼らを追いぬき、初めて一人ぼっちになった。自由と冒険の不思議な気分にかられて、僕は頂上をめざしてぐんぐん登った。
得体の知れぬ黄色い金属製の椅子を見つける。あちこちにピンク色がかった錆《さび》が浮き、半分はやわらかい苔におおわれていた。肘掛けは鋳造された上、やすりを使って鷲の頭に獅子の胴を持つグリフィン像のような怪獣に仕上げられていた。僕はその椅子に腰かけた。長い一日の果ての日没に照らし出される旧世界の広々とした眺望を見渡した。いままで見たこともないほど心なごむ美しい眺めだった。陽は早くも地平線のかなたに沈み、西の空は黄金《こがね》色に燃えて、地平線には紫色と深紅色の雲が横に走っていた。下方にはテムズ河の渓谷が見え、流域は磨きあげた鋼《はがね》の帯のように横たわっていた。緑地の間に点在する巨大な宮殿についてはすでにお話したとおりだ。廃墟になったものもあれば、まだ人が住んでいるものもある。荒れ果てた庭園のあちこちには白色や銀色の立像がならび、またそこここには円屋根《キューポラ》か方尖塔《オベリスク》がぬっと垂直に突っ立っている。垣根はない。所有権を主張する看板やしるしもなければ、耕作地も見当たらない。地上全体が庭園と化しているんだね。
こうして観察しながら、僕は見聞きしたことどもに自分の解釈をくだしはじめた。その夕刻、おのずと形成されていった解釈は次のようなものであった(後刻、僕は真実の半面しかつかんでいなかったこと――あるいは真実の一面しか垣間見ていなかったこと――を思い知るのだ)。
僕はどうやら人類の衰退期に飛びこんでしまったらしい。赤い落日は人類の落日を考えさせた。初めて気づいたのだけれど、現在のわれわれが努力している社会改革というのは、かくも奇妙な結果を生んでしまったのだ。しかしよく考えてみると、これまた当然の帰結なのだよ。人間の力強さはその必要があってこそ生じる。生活の安定は弱さを助長してやまない。生活の条件を改善する作業は――生活をますます安定させる真の文化的発展は――着々とそのクライマックスに達したのだ。自然に対する人類団結の勝利は、次々と新しい勝利を生んでいった。いまは夢にすぎなかったことが、やがて具体的な計画となり、実行に移される。その成果なるものといえば、僕がこうしていまレ目にする人類の落日なのだ!
結局のところ、現在の衛生施設とか農業とかはまだ未開発の段階にある。現代の科学は、人間の病気の分野においてはまだその一部分を攻撃しているにすぎない。が、よしんばそうであっても、その作業はきわめて着実に拡大しつつあるといっていい。農業や園芸はあれやこれやの雑草を絶滅させるが、せいぜい二十種類ぐらいの有用な植物を育成してきた程度だから、大多数の雑草を相手に生存競争を闘いぬかなければならない。われわれはお気に入りの植物や動物を改良する――その数はどんなに少ないことか――優良種を選んで気長に育成するのだ。やれ、新種のましな桃だとか、やれ、種なしブドウだとか、それ、もっと芳香が強くて大きな花とか、それ、もっと牛を早く飼育するとかいってね。われわれは漸進的に植物や動物を改良する。目標が曖昧で仮りのものであり、知識もすこぶる限定されているからだ。さらに自然もまた、われわれの無器用な手にかかると、臆病でのろくさくなってしまうのだから。いつの日か、こんなことも、もっとうまく実施されるようになるだろう、もっとうまくね。それが時流というものなのだ。ときに逆流することはあってもね。全世界は知的になり、教育が進み、協力的になる。物事は自然の征服をめざして急ピッチに進むだろう。あげくのはて、人類は賢明にも、そして慎重にも人類の必要に適応させるべく動植物の生存を再調整するにちがいない。
はっきりいえば、この再調整が行なわれたにちがいなかった、実にうまく。まさしく時間を通じてね、時間旅行装置を駆って飛んだ時間の世界においてだ。大気には蚊もいなければ、地上には雑草や菌《きのこ》の類《たぐい》もない。どこを向いても果物とかぐわしくて美しい花だらけだ。目もあやな蝶々があちこちに舞っている。理想的な駆除剤が開発されたのだ。病菌が根絶やしにされたのだろう。滞在中、僕は伝染病についぞ出くわさなかった。あとで話をするつもりだけれど、こうした変化によって腐敗現象の過程までが防止されたのだ。
社会改革の成果もあらわれていた。すばらしい屋根の下に住む人たちの姿も認められたし、豪奢な衣服をまとっていた。それでいながら、彼らは労働に従事していなかったのだ。社会的にも経済的にも、なんら闘争の気配も感じられなかった。商店、広告、交通機関など、われわれの社会を形造るありとあらゆる商業活動はすっかりなくなっていた。あの黄金色に輝く夕刻、僕が天国のような社会だと思ったとしても不思議ではなかろう。人口の増加という問題も解決されているようで、増加現象も止まっていた。
しかし、こうした社会条件の変化にともない、いやでも変化に適応しなければならなくなる。生物学が誤謬だらけの学問でないとすれば、人間の知力や行動の目的は一体何なのだろうか。艱難辛苦《かんなんしんく》に耐え、自由のために闘うことだ。このような状況下では活動的で賢い強者が生き残り、弱者は滅びる。有能な人物が忠実に協力しあい、自己抑制、忍耐、決断力をうながしてやまない。それから家族制度、その内部に生ずる情感、すさまじい嫉妬心、子供たちへの思いやり、親としての献身、いずれも迫りくる危険から若い世代を守るにあたって当然と考えられるものだ。ところが、|いまや《ヽヽヽ》、そうした迫り来る危機が一体どこにあるのだろうか。夫婦間の嫉妬、激しい母性愛などありとあらゆる激情をきらう感情が起こり、次第に強まっていくことになる。いまは不必要なもの、人間を不愉快にさせるものは、いずれも野蛮な遺物であり、洗練された快適な世界にとってそぐわないものなのだ。
僕は未来人の肉体的なひ弱さ、知力の欠如、それからおびただしい巨大な建物の廃墟などに思いをいたした。それは自然が完全に征服されているという僕の結論を強めたのだった。なぜなら、闘争のあとにはきまって静寂が訪れるからね。人類はかつて強力、精力的、知的であった。そして人類が住む環境を改善するためにあり余る活力を使い果たしてきた。いまは、改善された環境に対する反動がみまっているんだね。
完全な快適さと安全という新しい生活条件のもとで、われわれからすれば力を意味するあの落ち着くことを知らぬエネルギーは、やがてむしろ人類の弱さとなるだろう。われわれの時代においてすらも、かつて生存に欠くことのできなかった能力とか欲求とかは、失敗のたえざる原因となっているではないか。たとえば肉体的な勇気や闘争欲は文明人にとって大きな助けとはならない――障害にさえなるかもしれないのだ。そして肉体的なバランスがとれ、安全が確保された世界では、力や知能、体力は、場違いなものになってしまう。数えきれないほどの歳月を経たあと、戦争や個別的な暴力の恐れ、野生のけだものに襲われる恐れ、組織力をもって覆滅《ふくめつ》する疫病の恐れ、それから額に汗して働く恐れ、そんな恐れがことごとく消滅したと僕は考えるのだ。そのような生活にあっては、われわれが弱者と呼ぶべき人たちは強者と同じような適応性を持ち、実のところもはや弱者なんかじゃない。いや、強者よりもましな適応性を持つに至っているのだ。なぜって、強者は精力のはけ口がないために悩まされるだろうからだ。疑いもなく、僕の見た建物の優美さは人類最後の持っていきようがないまでに高揚したエネルギーの産物だろう。せっかくのエネルギーも、結局はその生活環境と完全に調和してしまった――それは最後の大いなる平和に導く勝利の開花にほかならなかったのだ。これは安定した生活におけるエネルギーがたどる運命だといっていい。芸術活動やエロチシズムに逃がれ、その果ては無気力と荒廃が訪れるのである。
このような芸術的衝動ですら、あげくのはては死に絶えてしまうことだろう――僕が目撃した未来世界ではほとんど消滅していたのだ。わが身をさまざまな花で飾りたて、日差しをあびながら踊り、歌いほうける。芸術的精神はほとんど消え失せ、何も残っていないといってよいほどだ。それもまた、しまいには満ちたりた怠惰の中に没してしまうことだろう。われわれは苦痛と必要性なる砥石《といし》によって鋭く磨きあげられる。僕のみるところでは、そのいまわしい砥石が、ここではついに打ち壊《こわ》されているのだ!
暮れなずむ黄昏の中に佇《たたず》みながら、僕は、この単純明快な説明によって未来世界の問題を解明したと思った――これら優雅な未来人の秘密をあますところなく解いたのじゃないかと。多分、彼らの編みだした人口増加の防止法があまりにも出来すぎていたため、人口の増減が一定しているよりも、むしろ減少の一途をたどっているらしかった。もしそれが事実なら、建物の廃墟が多いのも説明がつこう。僕の説明はすこぶる単純、しかも説得力が充分にあった――たいがいの誤った理論がそうであるように!
「そこに佇んで人類のあまりにも完璧な勝利に思いをいたしていると、黄色の満月が、銀色に包まれた北東の空から昇ってきた。明るい衣裳をまとった小人たちも下方の地を動きまわらなくなった。フクロウが音もなく横切って行く。夜の冷気にぞくっとした。僕は丘を下って寝場所を探すことにした。
さっき入って行った建物を探し回った。すると、青銅の台座に鎮座する白スフィンクスの像に、なんとなく僕の視線がさまよっていった。月が昇るにつれて増す明るさを浴び、スフィンクスはくっきりと浮かび上がってきたのだ。その向かい側にある白樺も見えてきた。シャクナゲのこんもりした茂みが青白い光の中で黒ずみ、小さな芝生も見えた。僕はもういちど芝生に視線を走らせた。いい気になっていた僕は冷水を浴びせられたようにぞっとした。『いや』僕は強く自分に言い聞かせた。『こいつは芝生なんかじゃないぞ』
ところが、それは芝生にほかならな|かった《ヽヽヽ》のだよ。スフィンクスの崩れかかった顔が、そちらを向いていたのだからね。僕がハッと気がついたときにどんな気持がしたか想像できるかい? とても無理だろう。時間旅行装置《タイム・マシン》が姿を消していたのだ!
と同時に、僕は顔をぴしっと鞭打《むちう》たれたかのように、自分の時代と切り離されてしまったのじゃないか、この不思議な新世界に助けもなく取り残されたのじゃないかと思った。そう考えただけで実際に肉体的なせつなさが感じられた。首をしめつけられ、息が止まりそうになった。次の瞬間、僕は恐怖感にかられ、丘の斜面を飛び跳ねるように駆けおりていた。途中でつんのめって転び、顔を切った。血を止める間もあらばこそ、すぐに飛び起き、走りつづけた。頬や顎のあたりに暖かいものの流れるがままにしながら、走っている間じゅう、僕はひとりごとを言いつづけた。『やつらは、あれをほんのちょっと動かしたにすぎないんだ。道の邪魔になるので、茂みの下に押しこんだのだろう』と。にもかかわらず、僕は懸命に走った。その間、過度の恐怖心が時としてともなう切羽つまった感じにかられながら、僕はそんな慰めがばかげたことだと思い、また機械が僕の手の届かないところに移されたにちがいないと直感した。僕は息苦しくなってきた。丘の頂上から小さな芝生までの二マイルそこいらを、十分間ぐらいで駆けたのではなかろうか。おまけに、僕はもう決して若くはない。走りながら、僕は機械をほったらかしにしたわが身の呑気な間抜けさ加減を口ぎたなく罵った、おかげで、せっかくの息も切らしてしまった。僕はわめきちらしたが、だれも答えてくれない。あの月光に照らされた世界で生きものの動く気配は何ひとつ認められなかった。
芝生にたどり着いたとき、最も恐れていたことが現実のものと分かった。時間旅行装置は跡形もなく消え失せていたのだ。こんもりした黒っぽい茂みに挟まれているからっぽの芝生に対したとき、僕は気が遠くなり、思わず悪寒《おかん》をおぼえた。僕は狂ったように駆けずりまわった、どこやらの片隅に機械が隠されているのじゃないかと。僕はだしぬけに立ち止まり、両の手で頭の毛をかきむしった。頭上には青銅の台座に鎮座した白スフィンクスが聳《そび》えている。昇る月の光を浴びて白く輝き、ささくれたように崩れかかって見える。僕の落胆ぶりをあざ笑っているように思われた。
小人たちが機械装置を僕のためにどこかへしまってくれたのだと考えれば安堵できたにちがいなかろうが、彼らには肉体的にも知的にもそんな能力はないと僕は確信していたのではなかったか。そのために僕はあわてふためいた。これまで考えもしなかった力が発動され、その行使によって僕の発明品が神隠しのような悲運にあったのではなかろうか。そう思いながら、一つだけ安心できることがあった。ほかの時代の人類があれと同一の装置を制作していないかぎり、あの機械は時間の中を飛ばせることはできないはずである。付属のさまざまなレバーを取りはずすと――レバーの操法は後で述べるとして――だれも時間の中を動かせないような仕掛けになっているのだ。とすれば、機械は空間の中を動かされ、隠されたということになってしまう。だが、そうなら一体どこへ行ってしまったのか。
そのとき、僕はいわば逆上していたにちがいない。スフィンクスを取り囲む、月光に照らされた茂みの中を狂ったように出たり入ったりして駆けまわったと思う。なにやら白い動物が驚いて飛び出したが、薄明かりにすかして見ると、小さな鹿であるらしかった。また夜遅くまで、握りこぶしで茂みをたたきまわったことを覚えている。そのために指の関節は折れた小枝に刺され、肉が割れて血を吹きだした。苦しみのあまり泣きわめいたりしたあと、巨大な石造建築の中に入って行った。大きなホールは暗く、静かで人影もなかった。でこぼこした床で足をすべらせ、孔雀石《くじゃくせき》のテーブルに倒れかかって、あやうく脛《すね》を折りそうになった。マッチをすり、さっき話したほこりっぽいカーテンを通りすぎて行った。
すると、二つ目の大きなホールに出た。そこいらじゅうクッションだらけで、二十人ばかりの小人が寝入っていた。静かな暗闇の中からぬっと姿をあらわし、わけの分からぬ騒音をたてたり小言を口にしたり、マッチの焔《ほのお》を振りまわす二度目の出現は、疑いもなく彼らにとって不可思議な珍事だったろう。彼らはマッチなるものを忘れているにちがいなかった。『僕の時間旅行装置はどこだ?』怒った子供のように僕は怒鳴り、彼らの体に手をかけてゆさぶった。笑いだす者もいたが、大抵の者はおびえきっているように見えた。彼らが立ち上がって僕を取り囲むと、このような状況下でなんともばかげた真似をしたものだという点に気づいた、恐怖感をよみがえらせようとしただけじゃないか。昼間の彼らの行動から判断しても、彼らは恐怖感を忘れているにちがいないと思われたからだ。
突然、僕はマッチを投げすて、道をさえぎっていた小人を突き倒しながら、よろよろと再び大食堂のホールを通りぬけて月光の下に出た。恐れおののく叫び声や、小さな足があちこち走りまわり、つまずいたりする音が聞こえた。月がだんだんと昇っていく間、自分が一体何をしていたのかよくは覚えていない。僕が気違いじみた真似をしたのは、大切な機械を思いがけなくも失ったという感情に基づくものだと思う。僕は自分の時代からすっかり切り離されたと絶望的に感じた――未知の世界における不思議な生物になってしまったのじゃないかと。僕は駆けめぐりながら神よ、運命よと叫び、呪いつづけた。絶望の長い夜がふけるにしたがい、僕は疲労困憊《ひろうこんぱい》にぐったりしたことを覚えている。機械のありそうもない場所をあちこちとのぞきこんだり、月光に照らされた廃墟を手探りしたり、暗い影の中で奇妙な生きものに触ったりしたが、あげくのはてはスフィンクスの近くの地面に横たわり、ひどいみじめさに打ちひしがれてさめざめと泣いたものだ。僕にはみじめさしか残っていなかった。いつのまにか眠ってしまい、目がさめたときは夜がすっかり明けていた。数羽のスズメが、僕の周辺で手の届くくらいの芝生の上をひょいひょい飛びまわっていた。
僕は朝の新鮮な大気の中に身を起こし、どうやってここにやってきたのか、またなぜこれほど深刻な脱落感や絶望感を覚えるのかと思い出そうとつとめた。すると、さまざまなことが頭の中ではっきりしてきた。身心ともにすっきりする陽光の下で、僕は自分の置かれている状況を直視することができた。夜どおしのあの気違いじみた無鉄砲さがばかげてみえ、冷静に反省することもできた。『最悪の事態が起こったのだとしたら?』と、僕はひとりごちた。『もし時間旅行装置が完全に失われたのだとしたら――あるいは破壊されたのだとしたら? 冷静かつ忍耐強くかまえなければいけない。未来人の行き方を学び、機械が失われた方法をはっきりと見きわめ、材料や工具を手に入れる手だても考えること。そうすれば、しまいには、ひょっとしたらもう一台つくれるようになるかもしれない』もしかしてそれが唯一の望みとなろうが、しかし絶望するよりもはるかにましだ。おまけに、どう転ぶにしたところで、けっこう美しくて面白い世界じゃないか。
しかし、あの機械もただしまいこまれただけなのかもしれないぞ。そうであっても、自分は冷静かつ忍耐強くふるまわなくちゃいけないのだ、その隠し場所を見つけだし、力づくでも計略を使ってでも取り返すために。そう決意すると、僕はよろよろと立ち上がり、あたりを見回しながら、どこで水浴みしたものかと思った。体がけだるく、こわばって、汗とほこりにまみれているような感じがした。朝の新鮮さは、自分もさっぱりしたいという気を起こさせた。僕は精神的にも参っていた。事実、機械探しをしながら、夕べえらく興奮しすぎたことが不思議に思われてならなかった。後は小さな芝生を注意深く調べてみた。またたとえば通りがかりの小人たちにも、せいぜい身振り手振りをまじえて聞き出そうと努めたものの、時間の無駄使いに終わってしまった。彼らは僕のジェスチャーが理解できなかった。きょとんとする者もあれば、それがだじゃれだと思って笑う者もいた。その無邪気な笑顔を殴りつけまいと努力するのはなみ大抵のことではなかった。ばかばかしい衝動ではあったが、しかし悪魔にとりつかれたような恐怖心とめくら滅法な憤怒は抑えこむのもかなわず、いまにも僕の混乱した心につけこもうと狙っていた。芝生を丁寧に調べるほうが役に立った。芝生に刻みこまれたような溝が残っていた。それはちょうどスフィンクスの鎮座する台座と、到着時に転覆した時間旅行装置をひき起こそうと立ちまわった際の足跡との中間地点に当たった。ほかに機械を動かした形跡もあり、ナマケモノのそれと思われるような奇妙な形の幅の狭い足跡だった。これはスフィンクスの台座に僕の注意を向けた。すでにお話したように、台座は青銅の造り。単なるブロックではなくて、精妙な彫りものをほどこした上、両側に鏡板が深くはめこんであった。僕は近づいて鏡板をこつこつとたたいてみた。台座の中は空洞であった。鏡板を仔細に調べると、縁と鏡板とのあいだに隙間が生じているのが分かった。ハンドルも鍵穴もついていなかった。しかし僕の予想したとおり、この鏡板が扉だとすると、内側から開くはずだろう。一つだけはっきりしてきた。そう深く考えこまなくても、僕の時間旅行装置が台座の中に収められているにちがいないのだ。しかし、どうしてそこに運びこまれたのかという点になると、それは別問題だった。
茂みの間を通ってくる、オレンジ色の衣服をまとった二人の小人の頭部が見えた。花を一杯につけたリンゴの木立の下をくぐって、僕のほうにやってきたのだ。僕は二人に笑顔を向けて、こっちへくるようにと手招きした。近寄ると、僕は青銅の台座を指差して、その中を開けたいと身振り手振りで示そうとした。ところが、僕が初めてそんなジェスチャーをしたかと思うと、彼らはすこぶる奇妙な反応をみせた。その表情をどう説明したらいいか、見当もつかない。たとえばデリケートな神経のご婦人にひどく無作法な態度をとったとしよう――そんなときの表情にそっくりだったよ。二人は、これほどの侮辱を受けたこともないような素振りでそそくさと立ち去った。次に白い衣服をまとった人のよさそうな男に同じようなことをしてみたが、結果には少しも変わりがなかった。どうしたわけか、その態度は、むしろ僕に恥ずかしい思いをさせてしまった。ところが、ご承知のとおり、僕はなんとしても時間旅行装置を取り返したい、僕はもういっぺんためしてみた。他の連中と同じように立ち去ろうとするのを見て、僕はついカッとしてしまった。三つの大きな歩幅で追いつくと、衣裳が首のまわりでだぶついているところをぐっとつかみ、スフィンクス像の場所に引きずって行こうとした。小人の顔には恐怖と憎悪の色がありありと浮かんだ。僕は仕方なく、つい彼を手離してしまった。
しかし、僕は打ちのめされたわけじゃなかった。僕はこぶしで青銅の鏡板をたたいた。内側でなにやら物音がした――正確にいえば、くすくす笑いが聞こえたような気がしたのだ――しかし、僕の思い違いだったにちがいない。川から大きな石ころを拾ってきて、彫物飾りの渦巻がつぶれ、緑青が粉となって散るまで鏡板をたたいた。か弱い小人たちは、僕が鏡板をがんがんたたいているのを一マイルのかなたでも聞きつけたにちがいないが、しかしだれも姿をあらわさなかった。丘の中腹に群がる小人たちが、うさんくさそうに僕のほうを望見しているのが見えた。体じゅうが熱くなって疲れ果てたあげく、腰を下ろして台座を見つめた。しかし、気が落ち着かなくて長くはそうしていられなかった。僕はあまりにもヨーロッパ人的だから長時間、番人の真似は我慢できなかった。一つの問題を何年も研究することはできようが、二十四時間も何もしないで待つということになれば――それは別問題なのだ。
ほどなくして僕は立ち上がり、ふたたび丘に向かって茂みの間をあてどもなく歩きだした。『忍耐だ』と、僕は自分に言い聞かせた。『もし時間旅行装置を取り返したいのであれば、あのスフィンクスをそっとしておかなくちゃいけない。もしやつらが機械装置を奪い取るつもりであれば、青銅の鏡板をこわすのはあまり利口なことだとはいえない。やつらにそんな気がないのなら、頼めばすぐに返してくれるはずだ。あのような謎めいた未知のものの前に坐りこんで待っても、せんかたないだろう。そんなやり方では頭がおかしくなってしまう。この未知なる世界を直視せよ。そのやり方を学び、観察せよ。その意味を早のみこみしないように心せよ。とどのつまりは、なんとか手掛りをつかむようになれるだろう』すると突然、自分の置かれている状況がおかしく思われてきた。自分が未来社会に飛びこもうと何年にもわたって研究し、骨を折ってきたと思い、そしていまやその未来社会からなんとか脱出したいと焦慮するせつなさ。僕は、人間がこれまで考えたこともない最も複雑にして最も望みが持てぬ罠《わな》にわざわざはまりこんでしまったのだ。自らを笑い者にしたようなわけだけれど、どうしようもなかった。僕はげらげら笑いだした。
大きな宮殿を通りぬけるとき、小人たちが僕を避けているように思われた。気のせいかもしれなかったし、あるいは青銅の隠し口をたたいたことと関係があるのかもしれなかった。いずれにしても、僕は敬遠されているのを信じて疑わなかった。が、僕はそんな気配を気取られないように、また彼らを追いかけるような真似をしないように心したのだ。それから一日か二日たつと、小人たちとの関係はもと通りになっていった。彼らの言葉をできるだけ習得し、その上、ほうぼうに探検をこころみた。微妙な点を見落としたか、彼らの言語が極端に単純かであった――ほとんどが具象名詞と動詞から構成されていた。抽象名詞はあったにしても数少ないか、形容詞もあまり使われていないように思われた。構文は概して単純で、二つの単語から成っていた。いちばん単純な中身ですら、僕には伝達も理解もできなかった。時間旅行装置への思いとスフィンクスの下にある青銅扉の秘密とは心の片隅にしまっておくことにした。だんだんと知識が増せば、おのずとその問題も手掛けられるようになるだろう。にもかかわらず、いいかね、諸君、僕はなんとなく自分が到着地点から数マイルの地域内に縛りつけられているのを感じたのだ。
見渡すかぎり、未来世界はすべてテムズ渓谷と同じような豊潤さを示していた。登ったどの丘からも、同じようにさまざまな材料や様式をふんだんに使った見事な建物がおびただしく見えたし、同じように常緑の植物がびっしりと密生し、同じように樹木が一杯に花をつけ、へご科のシダが伸びていた。あちこちで水流が銀色に光り、そのかなたでは土地が青い波状の丘陵にせり上がったあげく、静かな大空に溶けこんでいた。ほどなく僕の注意をひいた奇妙な景物は、ある種の円形井戸だった。いくつか点在していて、えらく深そうに見えた。一つは僕が最初に赴いた丘へ登る小径のかたわらにあった。ほかの井戸と同じように不思議な彫物をほどこした青銅で縁取られ、小さな円屋根が雨露を防いでいた。これらの井戸近くに坐って暗い縦穴をのぞきこむと、きらめく水も見えなければ、マッチをすってもなんらの反射も認められなかった。しかし、どの井戸からもある種の物音が聞こえた。なにやら大きなエンジンの唸るような響きなのだ。マッチの焔によって、一定の気流が縦穴をくだっているのが認められた。井戸の口に一枚の紙切れを投げこむと、ひらひらしながらゆっくりと落下していく代わりに、たちまち吸いこまれていくように消え失せてしまった。
しばらくしてから、僕はまた、これらの井戸が丘の中腹に立つ高い塔と関係があるのではないかと思うようになった。なぜなら、塔の真上では、暑い日に焼きつく海岸の上空で認められるような大気のゆらめきがしばしば発生していたからだ。あれこれとつき合わせてみると、大規模な地下換気装置が存在するという公算が大きかった。むろん、その目的は見当もつかなかった。小人たちの衛生施設ではなかろうかと、まずはそう考えてみた。明快な結論ではあったが、あにはからんや、まったくの見当違いであった。
ここで認めなければならないのは、この真なる未来世界に滞在していた間、僕は彼らの下水とか情報伝達とか輸送手段とかいった文明の利器についてあまり知るところがなかったということだ。僕がこれまで読んできたユートピア物語や未来記では、建築や社会施設などについて詳しい説明が山ほどあった。未来世界全体をひとつの想像力によってとらえると、そのようなこまかい記述はいとも簡単であるが、しかし僕のように現実の未来世界を訪れてその真っ只中に置かれると、そうは簡単に問屋がおろさない。中央アフリカからロンドンにやってきたばかりの黒人が、部族のもとへ帰ってする話を考えてもみたまえ! 鉄道会社とか社会運動とか、電信電話とか貨物輸送とか、あるいは郵便為替とかいったものを理解できるだろうか。しかしわれわれは少なくとも、これらのことを黒人にすすんで説明してやろうとするのじゃないのかね! そしてどれだけ彼が理解しえたとしても、部族から一歩も外に出ていない仲間にどれだけ理解させたり、信じさせたりすることができようか。それから、われわれの時代における白人と黒人との間に生じているギャップが、どれだけ小さいかということも考えてみたまえ、また僕とこの未来の黄金時代との間に生じているへだたりが、どれだけ広いものかということもね! 自分の眼にこそ見えはしないが、みちたりた衣食住に役立つものが多いことはちゃんと感取できた。何か自動的な機械施設があるという一般的な印象を受けたが、それがわれわれのものとどう違うのか諸君にはっきりお伝えできないと思う。
たとえば埋葬の場合だけれど、火葬場らしい施設も墓石を示すような標識も認められなかった。しかし多分、僕の目が届かないところに墓地(あるいは火葬場)があるにちがいないという気がした。これまた僕が自問自答するように考えてみた問題なのだけれど、僕の好奇心はその点でまずは完敗を喫してしまった。この問題は僕をまごつかせた。それはさらに新しい観察を僕にうながした。すると、またあらたな疑問が生まれるのだった。未来人の間には老人や病人が一人も認められないということなのだよ。
告白するが、僕は最初のうち、自動化文明が未来世界を支配し、それによって人間が退廃しているという説をたて、自己満足をおぼえたのだったが、それは長続きしなかった。にもかかわらず、それ以外の理論はどうしても考えつかなかった。僕がぶつかった困難を話そう。僕が探検したいくつかの大きな宮殿は居住区にすぎず、大きな食堂と寝室とに分かれていた。いかなる種類の機械も設備も発見できなかった。ところが、小人たちは時には新調を必要とする心地よさそうな衣服をまとっていた。サンダルにしても、飾りつけこそないが、かなり手のこんだ金属製品だ。とにかく、こうした品は造りださなければならない。ところが、小人たちは生産的な作業に従事しているという痕跡がどこにも見当たらない。店もなかった。工場もなかった。商品の取引すら行なわれていないんだね。ただ四六時ちゅう優雅に遊び、川で水浴びし、半ばふざけているように愛の営みを行ない、果物を食べ、そして眠っているのだ。生活がどのように営まれているのか見当もつかなかった。
さて、またまた時間旅行装置のことだけれど、僕には知ることもできない方法によって、白スフィンクス像の空洞内にしまいこまれたのだ。|なぜそうしたのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。想像も及ばない理由のためか。あの水もない井戸や、上空の大気がゆらめく塔のことだってある。何一つ手掛かりがないと僕は感じた。僕の感じたこと――それをどう説明したらいいのだろう? たとえていえば、あちこちにすこぶる平明な英語で書かれた碑文《ひぶん》を発見しながら、その英文にまじってまったく未知の単語とか文章とかを見つけたようなものだ。ま、以上が、三日目を迎えた僕に、八十二万二千七百一年の未来世界がのぞかせた印象なのだ!
その日はまた、友人ができた――一種の友達がね。何人かの小人が浅瀬で水浴びするところをたまたま見物していたら、一人がこむら返りを起こし、川下に流されはじめた。本流はかなり急であったものの、普通の泳ぎ手にとって強すぎる流れとはいえなかった。したがって、小人たちの奇妙な無気力さが分かろうというものだけれど、目の前で溺れかかっている仲間がせつなげな泣き声をあげているにもかかわらず、助けに行こうとする素振りさえ見せないのだよ。それに気づくと、僕はさっと服をぬぎすて、川下のある地点で流れの中に入り、あわれな小人をつかまえて安全に陸《おか》に引きあげた。四肢をちょっとマッサージすると、彼女はたちまち息を吹き返した。彼女が大丈夫だと分かると、僕は満足して立ち去った。僕は彼女もふくめた小人たちを高く評価していなかったので、彼女から少しも感謝を期待しなかった。ところがその点で、僕は間違っていた。
この事件は朝のうちに起こった。午後になると、その小さな女にちがいない相手と出くわした。ちょうどいつもの探検から基地の芝生に向かってもどるところであった。彼女は喜びの声をあげて、大きな花輪をプレゼントしてくれた――明らかに僕だけのためにつくられたものだった。それは僕の気持をなごませた。多分に孤独感を覚えていたからだろうね。とにかく、僕は贈物に精一杯、感謝の意をあらわした。やがて僕たちは小さな石造のあずまやに腰かけ、主として微笑をまじえた会話のやりとりに入った。彼女のへだたりない親しさは、まさに子供のそれを感じさせた。僕たちは花をやりとりし、彼女は僕の手に接吻《キッス》した。僕も同じように彼女の手に接吻した。それから口をきいたのだけれど、彼女の名はウィーナと分かった。もっとも、それがどういう意味を持つのか僕には分からない。これが奇妙な友情の始まりであり、一週間も続いて終わることになった――これからお話しするような経緯《いきさつ》でね!
彼女は子供そっくりだった。僕と一刻たりとも離れたがらなかった。どこにでもついてきたがった。そして次の探検に出かけると、へとへとになって僕を困らせた。あげくのはては彼女を置去りにする羽目となり、疲れきって訴えるように僕を呼ぶのだ。しかし、未来世界の秘密はなんとしても解決しなくてはならない。未来世界へやってきたのは、なにも小人の女と恋愛遊戯をするためじゃないと、僕は自分に言い聞かせた。置去りにしたときの嘆きようが目も当てられなかった。別れ際のかき口説きようは時として気違いじみ、その純愛ぶりはありがたくもあれば迷惑でもあった。それでいながら、彼女の存在はともかく非常に大きな慰めとなった。彼女が僕につきまとうのは子供じみた愛情にすぎないのだと思った。実は後の祭になったのだけれど、彼女を置去りにしたとき、僕が彼女にどんな影響を及ぼしたのかはっきり自覚していなかったのだ。これまた後の祭だけれど、彼女が僕にとってどれほど大切なものだかも、はっきり僕は理解していなかったのだ。ただ僕が好きらしく、僕のことを気づかう心もとなげなか弱さを示す小人の小さな人形は、白スフィンクスの近くにもどる僕に家庭へ帰るような感じをあたえてくれた。僕もまた丘を越えるなり、その小さな白と黄金色の姿を探し求めるようになった。
また彼女を通じてこそ、未来世界においても恐怖心がまだ去っていないのを知った。彼女は白昼だと少しもこわがらなかった。僕に対しては考えられないくらいの信頼感をよせていた。いちどふざけ半分に、おどかすようなこわい顔をしてみせたら、彼女はただ笑いとばしたきり。その彼女も暗闇だけは恐れた。物陰とか黒っぽいものをこわがった。暗闇というのは、彼女が忌みきらうものの一つであった。その恐怖感があまりにも激しかったので、僕を考えこませ、観察眼を光らせた。すると、他のことと並んで、小人たちは夜になると大きな建物に集まり、ざこ寝するということを発見した。灯火なしで彼らに近づくのは、不安におとしいれてひと騒ぎを起こさせることになるんだね。夜、屋外に残っているのは一人もなく、堂内でも一人で寝ている者はいなかった。ところが、まだ僕は鈍感で、彼らが夜を恐れるという教訓もうっかり忘れて、ウィーナが悲しみ嘆くのをよそに、小人たちの集団就眠から離れて眠ると言ってきかなかった。
それは彼女をひどく困らせたが、結局は彼女の僕に対するおかしな愛情が勝って、僕たちが親しくした五日間というもの、むろん最後の晩もふくめて、彼女は僕の腕を枕にして眠った。しかし彼女の話をしているうちに、僕は横道にそれてしまった。さて、彼女を助けた前の晩だったか、僕は明け方に目がさめてしまった。寝つきが悪く、水に溺れて、イソギンチャクのねっとりした触手で顔を撫でられたような一番いやな夢を見た。驚いて目をさますと、なにやら灰色がかった動物が部屋から逃げだして行くような錯覚をおぼえた。もういちど眠りにつこうとしたが、不安がつのって落ち着けなかった。あの薄灰色の時刻で、暗闇の中からおぼろに物事の形が見え、すべては色もなく、形がはっきりしていながら、現実のものとは思われない時刻だった。起き上がると、大きなホールにおりて、宮殿の正面にある敷石の上に立ってみた。やむなくこれ幸いと日の出を見ようと思った。
月は沈みかけていた。その残光と夜明けの白さとが溶けあい、無気味な薄明を呈していた。茂みはインクを流したように黒ずみ、地面はくすんだ灰色に包まれ、空は色を失ってわびしかった。丘のかなたには幽霊のようなものが見えたように思われた。なんども眼をこすって斜面を見やると、白い姿が見える。僕は二度も、白い猿のような生きものが一匹、丘をあわてて駆け登って行くような気もした。そして一度は廃墟の近くで、そうした三つの姿が何やら黒っぽい人体を運んで行くのも見えた。彼らの動きは機敏だった。彼らがどこへ行ってしまったのか分からない。茂みの中に姿を消したようにも思われた。夜はまだ明けきっていなかったのだから、仕方がない。諸君もよくご承知のあのぞくっとする不安な暁闇《ぎょうあん》の感じを、僕はおぼえた。僕はわが目を疑った。
東の空が明るさをまして陽もさし、いま一度いきいきとした色彩が地上によみがえってきた。僕はあたりを注意深く見渡した。が、あの白い姿はどこにも見当たらなかった。彼らは薄明にだけあらわれる生きものなのだろうか。『幽霊だったにちがいない』と僕は思った。『いつの時代の幽霊なんだろう』かのグラント・アレンの奇妙な説がふと頭に浮かび、おかしくなったからだ。もしそれぞれの世代が死んで幽霊をあとに残せば、しまいには世界は幽霊で一杯になるだろうというんだね。この説に従えば、八十万年後の未来世界では幽霊がごまんといることになるわけで、いっぺんに幽霊が四つ見えたとしてもおかしくはない。しかし、そんな冗談はむろん満足すべきものではなかった。午前中ずっとこれらの姿をあれこれ考えつづけたのだけれど、溺れかかったウィーナを助ける事件で幽霊のことは吹っ飛んでしまった。どうしたわけか、この幽霊どもを、最初の時間旅行装置探しでぶつかって驚かされた白い生きものと結びつけていたのだ。それにしても、ウィーナのほうが幽霊よりもはるかに楽しい相手であった。が、結局は彼らもやがて僕の心をもっと無気味に脅かすような羽目と相成った。
この黄金時代の天候がわれわれのそれよりもどんなに暑いか、すでにお話したように思う。その説明はどうしてもつかない。ここでは太陽がずっと暑いのか、地球が太陽にもっと近づいたからだろうか。太陽は将来に向かってじりじり冷却していくというのが通説だ。しかし、ダーウィンが打ちたてたような理論に馴染《なじ》んでいない人々は、遊星が結局は一つずつ親星に落ちて行くことを忘れている。こうした終末的な現象が起こると、太陽はエネルギーを新たにして灼熱化する。たとえば太陽に近い遊星が、そうした運命に出くわしたのかもしれない。その理由が何であれ、太陽がわれわれの知っている以上に熱くなっていたということなのだ。
ま、あるとてつもなく暑い朝――四日目の朝だと思うけれど――僕が眠ったり食事をしたりした大きな家の近くの巨大な廃墟で灼熱と強い日差しを避けていると、こんなおかしなことが起こった。折り重なった石の山の間を登って行くと、狭い廊下を発見した。突き当たりと両側の窓は、崩れ落ちた山ほどの石材によってふさがれていた。まばゆい外側の明るさに比べると、最初は何も見えないくらい真っ暗に見えた。僕は手探りしながら入って行った。明るい場所から急に暗い場所に変わったので、目の前を色彩の斑点がちかちかした。突然、僕はその場に立ちすくんだ。外界の光を反射して一対の眼がぎらぎら輝きながら、暗闇の中から僕をじいっとにらみつけていたのだ。
野獣に対する古い本能的な恐怖感がよみがえってきた。僕は両の手を握りしめ、きらめく瞳孔をきっと見返した。背を向けるのがこわかったのだ。すると、人間の生存を保証してきたように思われる未来社会の安心感がもどってきた。それから暗闇にひそむあの不思議な恐怖を思い出した。ある程度まで恐怖感を克服して一歩前に踏みだし、声をかけた。自分の声がしわがれて、調子っぱずれになっていたことを認めよう。手を伸ばしてみたら、なにやら柔いものに触れた。すぐさまその眼は横にそれてしまい、なにやら白いものが僕の小脇を走りぬけて行った。仰天して振り向くと、猿に似た奇妙で小さな生きものが見えた。頭をおかしな格好にさげ、僕の背後にある明るい場所をめがけて走りぬけた。花崗岩のブロックにぶつかってよろめいたかと思うと、もう一つの折り重なった石材の黒い陰に身を隠してしまった。
その印象たるや、もちろん、完全なものではない。しかし薄汚れた白い生物であり、奇妙にも大きな灰色がかった赤い眼をしていたことだけは分かっていた。さらに、頭から背にかけて亜麻色の髪がたれさがっていた。だけれど、さっきも言ったように、あまりにも素早く走り去ったので、形がはっきりと見えなかった。それが四つ脚で駆けて行ったのか、両の腕を低くさげていただけなのか、それさえもはっきり断言できない。ちょっと間を置いてから、二つ目の石材の山へとそいつの後を追って行った。さし当たっては、その姿は見つからなかった。しかし、しばらく鼻をつままれても分からぬ暗がりの中をさまよったあと、以前に話した円形の井戸みたいな穴に出くわした。崩れ落ちた柱石によって半ばふさがれていた。僕はふと思った、|例のやつ《ヽヽヽヽ》は縦穴を伝って姿を消したのだろうか。マッチをすって縦穴をのぞきこむと、小さくて白いものが蠢《うご》めくのが見えた。あとずさりしながら、大きな光る眼で僕をじいっと見すえていた。僕はぞくっとした。まるで蜘蛛《くも》人間といってよかった! 縦穴の壁を這うようにして降りていたのだ。いまはじめて気づいたのだけれど、縦穴には梯子の役割を果たす金属製の手掛かりや足掛かりが付いていた。すると、マッチの火が指先を焼きそうになったので、思わず手を離した。マッチは落下しながら火が消えたものだから、もう一本マッチをすったときは、その小さな怪物はもう姿を消していた。
僕はどれだけ長くあの井戸をのぞきこんでいたか分からない。さっき見たのは人間にちがいないと自分を納得させるのに、そんなに時間はかからなかった。しかし、だんだんと実情がはっきりしてきた。人類は一つの種にとどまっていないで、二つの異なった生物に分化してしまったのだ。地上《ヽヽ》に住むあの優雅な小人だけがわれわれ人類の子孫であるばかりでなく、僕の眼前をかすめ去ったあの白っぽい醜悪な夜行性の生きものも、われわれが長年月をかけてつくりだした後裔《こうえい》なのだ。
僕は、真上の大気がゆらめく円塔のこと、それを地下の換気装置と関連があるとする自分の考え方を思ってみた。僕はその真なる目的を疑いはじめた。僕の考える完全にバランスのとれた社会において、このキツネザルみたいな生物は一体どんな役割を果たしているのだろうか。彼らは平穏無事な生活をのんべんだらりと送る優雅な地上人とどんな関係があるのだろう。そして縦穴の底には一体何が隠されているのだろうか。僕は井戸の縁に坐り、ともかく何も恐れることはないのだ、当面の難問を解決するために穴を降りていかなければならないのだと自分に言い聞かせた。それと同時に、何を隠そう、僕は縦穴を降りて行くのがこわくてたまらなかったのだ! ためらっていると、二人の優雅な地上人が愛の駆引きを楽しみながら日陰を横切るように駆けてきた。男は女のあとを追いかけていた、走りながら、女に花を投げかけてね。
二人は、倒れた柱石に手をかけて井戸をのぞきこむ僕の姿を認めて、困ったような素振りを見せた。どうやら、この穴のことを口にするのは無作法のように考えられているらしかった。この穴を指差した上、彼らの言葉で質問を発しようとしたら、二人はいよいよ困ったような態度を露骨に見せ、顔をそむけてしまった。しかし、二人は僕の使っていたマッチが珍しいらしく、何本かすって彼らを喜ばせた。僕はいまいちど井戸のことを持ちだそうとしたが、またまたしくじってしまった。そこでやむなく二人をそこに残し、ウィーナのもとへもどろうとした。彼女なら何か聞きだせるかも知れないと思ったわけだ。しかし、僕の心はすでに一つの転換をとげつつあった。僕の推測や印象が新しい形をとるべく変化していたのだ。いまや、これら井戸が何を目的としたものかという手掛かりをつかんだのだ、換気用の円塔や、謎めいた幽霊との関連においてね。青銅の鏡板が意味するものや、時間旅行装置の運命などに至ってはあらためて断わるまでもない! それからきわめて漠然とながらも、僕を戸惑いさせた経済問題の解答についても手掛かりがつかめたのだ。
新しい見方というのは、こうだ。はっきり言って、人類の第二の種は地下人なのである。とくに三つの条件から判断したわけだけれど、まず第一に彼らがめったに地上に姿をあらわさないのは長年月にわたる地下生活が続いてきたからで、主として暗闇の中に棲むおおかたの生物と共通の生態を持つ――たとえばケンタッキーの洞窟に棲息する白魚のようにね。ついであの大きな眼だけれど、光線を反射する能力を持っているのは夜行性の動物に共通の特徴なのだ――フクロウや猫を見るがいい。そして第三点は、彼らが明かりにさらされるとあきらかにまごつくこと。暗い蔭をめがけてあたふたと、しかしつまずきながらこそこそ逃げてしまう。日差しの中では頭を奇妙な格好にたれる様子も、そのせいにちがいない――いずれもことごとく、彼らの網膜がきわめて敏感だという点を証明する。
してみれば、足下の地底は縦横にトンネルが掘られているのだろうし、われわれの新種族はトンネルを住まいとしているのにちがいない。丘の斜面に沿ってある換気用の縦穴や井戸は――事実、渓谷の両側を除いては随所に見られるのだけれど――その分布状態がいかに広い範囲に及んでいるのかを示している。そうした点から当然のように推測されるが、この人工的な地下世界においてこそ地上世界の快適な生活に必要な作業がなされているのじゃないか。この着想はいかにも説得力があったので、僕はためらうこともなくそれを受け入れた。そして人間という種がどうしてこのように分化したのか、その問題を推理する作業に移っていった。諸君もおそらくは、僕の理論の概略がつかめたのじゃないかと思う。もっとも、僕からすれば、それは真実とほど遠い理論ではあったのだがね。
まず、われわれの直面する諸問題から出発すれば、白日のように明瞭だと思われるのは、資本家と労働者との間に生じた一時的で社会的な相違が次第に溝を深めつつある点であって、それが人類分化の謎を解く鍵ではないかということだった。これは諸君にとってすこぶる奇怪な着想に思われるかもしれない――信じられないほど突拍子もないことだとね!――にもかかわらず、そのような方向を指示するような状況がちゃんと現存しているのだよ。いまや、文明の実用的な目的のために地下空間を活用しようとする傾向がある。たとえばロンドンの地下鉄がそうだろう。新式の電車、地下道、それから地下工場や地下食堂があろう。しかもそれらは増加する傾向すらみせている。僕の考えによれば、この傾向はますます増大するに至った、産業がだんだんと空へ延びていく権利を失ってしまうまでにね。つまり、産業はいよいよ地下深くより大きな工場となってもぐりこみ、そこで労働する時間がますます長期化して、あげくのはては!……いまだって、貧民街イースト・エンドの労働者は実際に、地上の自然な生活環境から切り離されて人工的な状況の中で暮らしているのじゃないかね。
一方、金持は排他的な傾向を持つ――疑いもなく、それは彼らの教養がますます洗練化され、彼らと粗野で乱暴な貧乏人との間の溝が深まったせいで――彼らは早くも自己の利益のため地上の大部分を独占するに至っている。たとえばロンドンについていうと、おそらく美しい郡部の半分ぐらいは立入禁止になっているのじゃないかね。そしてこのような溝の深まりは――金持階級の側からすると高等教育過程の期間が長くなり、費用もかさみ、洗練された生活に対する施設や誘惑がいやが上にも高まったせいで――両階級間の交流をますます減少させることだろう。いまなら、まだ両階級の結婚が進められているし、社会的構成の線に沿って人類の分化は阻止されているのだけれど。したがって、とどのつまりは地上で「持てる者」が快楽、安楽、美を追求し、「持たざる者」は労働者として地下に追いこまれ、たえず労働条件に適応すべく働かないわけにいかなくなる。いったん地下に住むと、彼らは疑いもなく決して小さくない居住料を支払わされることになろう。洞穴の換気料だ。そして支払いを拒否すれば、居住料が滞ったとして餓死するか窒息死するしかないだろう。悲惨な生活や反抗的な態度をとるような者は次々と死んでいくほかはない。そして結局は、そのようなバランス現象が恒久化した末、生き残った者は地下生活の条件にすっかり順応し、地上人と同じように地下人は彼らなりの幸福な生活を楽しむようになるだろう。僕の見たかぎり、洗練された美と日の目を知らぬ青白さは当然の帰結というべきだろう。
僕が夢に描いていた人類の大いなる勝利は、いまや異なった形をとっているように思われた。僕が思い描いていた道徳的教育とか社会的協力とかの勝利ではなかった。その代わりに僕が見たのは正真正銘の貴族階級だった、完成された科学で武装し、現在の産業組織を論理的帰結に導いていたんだね。その勝利たるや、単に自然に対するそれではなくて、自然および人類に対する勝利でもあった。はっきり申し上げるが、それは当時の僕が抱いていた理論なのだ。僕にはユートピア物によく出てくる便利な案内役《シセローネ》はいなかったのだよ。僕の説明は完全に間違っているかもしれない。しかし僕はいまでも、それが最も説得力のある解釈だと思っているがね。しかしこの仮定にたっても、バランスのとれた文明がついに達成されたところで、その最盛期はとっくにすぎていたにちがいないばかりでなく、いまや退廃のどん底に落ちこんでいるのだ。地上人のあまりに完璧な生活安定は彼らを漸進的な退化現象や、体格、体力、知力の一般的な縮小現象に導いていった。そういう点は、僕もすでにはっきり見きわめていたのだけれど。地下人はどうなったかについては、まだ見当もつかなかった。しかし、これまで「モーロック人」たちを観察してきたところでは――ついでにいえば、彼らはそのように呼ばれていたのだけれど――人類からの変種現象は、僕がすでに知っていた美しい小人たち「エロイ人」たちのそれよりもはるかに深刻であるように思われた。
そしたら、困った疑問が生じてきた。モーロック人はどうして僕の時間旅行装置を運び去ったのだろうか。なぜって、機械を奪い去ったのは彼らに間違いないと思われたからだ。また、もしエロイ人が支配者だとするなら、その機械をどうして僕のために取り返してくれないのだろうか。それから彼らはどうしてそんなに暗闇を恐れるのだろうか。さっきも述べたように、僕はウィーナのもとに出かけて行き、この地下世界について質問してみた。ところが、ここでもまた僕は落胆した。最初のうちウィーナは僕の質問を理解しようと努めなかった。しかも、ついには返事をこばむようになってしまった。その話がいまわしいかのように彼女は身ぶるいした。それでもごり押しすると、いくらか言葉を荒げたせいか、彼女は泣きだしてしまった。この黄金時代で、自分の流した涙を除くと、これが後にも先にも初めて見た涙だった。涙を認めると、モーロック人のことで彼女を悩ませるのは即座にやめ、ウィーナの眼から人間らしさの名残りである涙をぬぐい去るのにひたすら努めたのだった。するとほどなくして彼女は笑みを浮かべ、僕がくそ真面目にマッチをすってみせると、手をたたいてはしゃいだ。
「諸君には奇妙な話と思われるかもしれないけれど、僕が新しくみつけた手掛かりを適切な方法によって追跡するまでは二日間ほどかかった。彼らの色あせた体を見ると、思わず身がちぢみあがるのだ。動物関係の博物館でアルコール漬けにされているウジ虫か何かの半ば白っぽい色に似ていたからだ。その上、さわると気味悪いほどひんやりとした。おそらく身がちぢみあがったのも、主としてエロイ人たちの悪感情に影響されたからだろう。モーロック人たちへの嫌悪感が、僕にもようやく分かってきたのだ。
あくる日の夜、僕はまんじりともしなかった。おそらく体の調子がいくらか思わしくなかったのだろう。僕は当惑と不安に悩まされていた。一度か二度、格別の理由が考えられないのに、ひどい恐怖感にみまわれた。月光の下、小人が眠っている大きなホールに音もなく忍びこんで行ったこと――その夜、ウィーナも彼らにまじって寝ていたのだけれど――僕は彼らに囲まれて心強かったことを覚えている。そのとき気づいたのだけれど、数日たてば月は四分の一以下に欠け、夜は一段と暗くなっていくだろう、そうすれば、これら地底の不愉快な生きもの、あの白っぽいキツネザル、古い有害獣に代わった新しい有害獣がうようよ出現するだろうとね。この数日間、僕は守らねばならぬ義務感を怠っている者の不安をずっと感じていた。地下世界の謎を大胆にも解明しないかぎり、時間旅行装置《タイム・マシン》は取りもどせないだろうと自分に言い聞かせた。にもかかわらず、その謎に立ち向かえなかった。一人でも仲間がいさえすれば、事情がちがっていたろう。ところが僕はどこを向いてもたった一人、井戸の暗闇の中に降りて行くことさえ僕をおじけづかせた。この気持を分かってもらえるかどうか知らないが、僕はいつも何かに追われているような気がしてならなかったのだ。
多分、こうしたあせり、こうした不安感がいよいよ地上広く探検するように僕を仕向けたのだろうと思うね。いまは「|峡谷の森《クーム・ウッド》」と呼ばれている南西の高地に出かけて行くと、現在のバンステッドの方角に当たるはるか彼方《かなた》に巨大な緑色の建造物が見えた。これまで見てきた建物とはまるっきり違うんだね。僕の知っているどの巨大な宮殿や廃墟よりも大きかった。建物の正面はいかにも東洋風であった。表面はすべすべしていて薄緑の色合いを帯び、いってみれば中国陶器の一種にみられる青緑色だった。外見上の相違は使用目的の相違を物語っていた。僕は委細かまわず、内部を探検することにした。が、夕刻に近かったし、長い道のりをふうふう言いながら歩いてきたあとで現場にたどり着いたものだから、探検はあくる日にのばそうと決意したわけ。僕は可憐なウィーナの出迎えと愛撫のもとに帰って行った。しかしあくる朝になったら、はっきりと分かったのだけれど、青磁宮殿への好奇心はいわば自己欺瞞にすぎないこと、いやでたまらぬ地下探検をもう一日ひき延ばす口実にすぎなかったということなのだ。これ以上、時間を無駄使いしないで井戸の中を降りてみよう、そう僕は決心した。早速、朝早くに出発し、花崗岩とアルミニウムの廃墟に近い井戸へ向かった。
小さなウィーナは僕と並んで走った。井戸まで踊るようにしてついてきたが、いざ入口に身を乗りだしてのぞきこむと、おかしなほどあわてふためいているように見えた。『さようなら、小さなウィーナよ』そう言って、僕は彼女にキッスした。抱き上げていた彼女を下におろすと、昇り降り用の手掛かり足掛かりを探しはじめた。ありていにいえば、僕はいささかあわてた、せっかく出した勇気が逃げ出さないうちにとね! 最初はウィーナも驚いたように僕を見つめていた。それからいやに哀れっぽい叫び声をあげて駆けよると、その小さな手で僕を引き止めようとした。この反対的な態度が、かえって僕を前進させるように勇気づけた。僕は彼女の手をふりきった、いささか荒っぽくね。次の瞬間、僕は井戸の入口に身を入れていた。入口の手摺からのぞくウィーナの悲しげな顔が見えた。彼女を安心させるように、僕は笑顔を浮かべてみせた。そのあと、自分がかじりつく不安定な手掛かり足掛かりを一つずつ見つけなければならなかった。
おそらく二百ヤードはある縦穴を降りていかなければならなかった。降りて行くに当たっては井戸の壁から突出した金属製の横棒を頼りにしたのだけれど、それは明らかに僕なんかよりも身も小さく、軽い生きものの役に立つよう按配されていたので、降りて行くうちにたちまち手足がしびれを起こし、したたかに疲れてしまった。おまけに、ただ疲れきったばかりじゃないのだよ! 横棒の一本なんぞ、僕の重みに耐えかねてひん曲がり、あやうく真っ暗な奈落に投げ出されそうになった。しばし僕は片方の手でぶらさがったが、こんな経験をしてからは、もう二度と休むような真似をしなかった。腕や背がまさしく激痛を訴えたが、なるべく素早い身のこなしで絶壁のような壁を降りて行った。見上げると、井戸の入口が小さな青色の円盤に見え、しかも星が一つぽつんとあって、小さなウィーナの顔が円い黒点の形をなしていた。下のほうのどすんどすんという機械の音がだんだんと大きく、耳を聾《ろう》するばかりになった。頭上の小さな円盤を除けば何もかも真っ暗で、もういちど見上げると、もはやウィーナの頭部はそこになかった。
僕は不安に苦しんだ。思いきって縦穴をもどって行き、地底の世界はこのまま放って置こうかと思った。が、なんどかそんなことを考えながらも、僕は降下しつづけて行った。あげくのはて、思わずほっとしたことに、ちょうど一フィートの右方向に、細長い横穴が壁に掘ってあるのがうすぼんやりと見えた。その中に身を躍らせると、そこは水平に延びていく狭いトンネルの入口と分かって、僕は身を横たえてひと休みしたのだ。腕は痛み、背中はひきつり、落下するのじゃないかという絶えざる恐怖のためにまだ震えが止まらなかった。その上、どこにも明かりがない暗闇は両眼に悪影響をおよぼしてしまった。あたりは縦穴から空気を吸いこむ機械の規則的な鼓動や唸りで充満していた。
どれぐらい長く横たわっていたのか分からない。やわらかい手が顔に触れたのでハッとした。暗闇の中で飛び起き、マッチをつかむと、もどかしげにその一本をすってみた。地上の廃墟で見かけたのと同じような三つの白い生きものが、身をかがめるようにしてあわただしくマッチの火から逃げ出して行った。物事の見分けもつかぬ暗黒の中に住んでいるせいか、彼らの眼は異常に大きくて敏感らしく、あたかも深海魚の瞳孔とそっくりで、同じように光を反射していた。光もささぬ幽明の中で僕の姿が見えるのは疑いようもなく、そしてマッチの火を除けば、僕なんか少しも恐れていないように思われた。が、彼らの姿を見きわめようとマッチをすったとたんに、彼らはそそくさと逃げてしまい、トンネルだか暗渠《あんきょ》だかに姿を消した、ただいとも不思議なスタイルであの眼を僕の方角にぎらつかせながら。
僕は彼らに声をかけようとしたが、考えてみれば、彼らの言葉は明らかに地上人のそれと異なっていよう。そこで、僕はやむなく自力に頼るしかなかった。探検をやめて逃げもどろうとする考えは、一向に頭から去らなかった。しかし、僕は自分に言い聞かせた。『もうにっちもさっちもいかないんだぞ』そしてトンネルの中を手探りしながら進むと、機械の騒音が一段と高くなっていくのが分かった。やがて壁との間が広くなり、大きな空地に出た。マッチをつけて見回すと、アーチ型の巨大な洞窟に入っていると分かった。光の範囲外には墨を流したような暗闇が続いていた。マッチが燃えている間に見きわめられる範囲といったら、その程度でしかないのだよ。
当然のことながら、僕の記憶はあまりはっきりしていない。巨大な機械を思わせる大きな形が暗がりの中からぬっと浮きだし、無気味な黒い影を投げかけていた。その真っ只中に幽霊のようなモーロック人たちが、マッチの灯から身を隠しているのだ。ところで、そこはいやに重苦しく、空気には血なまぐさい臭いがかすかに漂っていた。真ん中の見通しがきく場所には白い金属製のテーブルがあって、食物らしきものが置いてあった。モーロック人はとにかく肉食なのだ! そんな場合でも、僕はいぶかしく思ったことをおぼえている、自分が目にしたような赤い肉をとれるほどのどんな大型動物が生き残っているのだろうかとね。しかし、何もかもおぼろげにしか見えなかった。あの重苦しい臭気、大きな正体不明の肉塊、影の中に身をひそめた無気味な生きもの、暗黒がふたたび僕を包みこむのを待っているだけなのだ! ほどなくマッチが燃え尽きて指先をこがし、下に落ちて、暗闇の中に赤い斑点となってちぢれた。
こんな探検をするのにどれほど自分が準備不足だったか、つくづく思い知らされたよ。時間旅行装置で出かけるとき、未来人はあらゆる文明の利器においてわれわれを間違いなく凌駕しているというばかげた仮説に立っていた。僕は武器も薬品も喫煙具も持たずに出発したのだった――ときには煙草が吸いたくてたまらなかったがね――マッチだってたくさん持ってたわけじゃない。写真機《コダック》を持って行くことを思いつくべきだったな! そしたらフラッシュをたいて一瞬のうちに、あの地下世界をカメラに収めた上、あとでゆっくり研究ができたろう。しかし実際はそうじゃなかったので、僕はただ自然が自分に与えたもうた武器――手と足と歯に加え、まだ残っていた四本の安全マッチ棒――を持って突っ立っていたのだ。
暗闇に立ち並ぶ機械の中をやみくもに進むのはこわかったし、消えかかったマッチの明かりによって初めてマッチ棒のたくわえも底をついたことがちらりと分かったのだ。マッチを節約して使う必要があるとは、その瞬間まで気がつきもしなかった。おまけに、火を珍しがる地上人を驚かせるために、僕はマッチ箱の半分ぐらいを無駄に使い果たしていた。さて、さっきもお話したように、マッチは四本しか残っていなかったし、暗闇の中に突っ立っていると、一本の手が僕のそれに触れ、細長い指先が僕の顔をまさぐって、妙に不愉快な臭いが鼻をついた。僕をとり囲んだあのいまわしい小さな生物の息遣いが激しく聞こえたような気がした。手にしたマッチ箱をそっともぎとろうとし、また別の手がうしろのほうから服を引っ張るように感じられた。見えざる生きものに身体をあらためられる感覚は言いようのないほど不愉快なものだよ。彼らの考え方や行動はまるで見当もつかぬと急に気づいたとき、暗闇の中で身の危険をおぼえた。僕は思わずできるだけ大声で叫んだ。彼らは驚いて離れたが、しかし間もなく再び近づいてくるのが感じられた。彼らはもっと大胆に僕にとりつき、たがいに奇妙な声でささやき合ったりした。僕はひどく身をふるわせて、またもや絶叫した――いささか調子っぱずれの声を発しながら。彼らもこんどは飛びのくほど驚いたりはしなかった。彼らは奇妙な笑い声をたてながら、僕のところにもどってきた。告白するが、僕はこわくて仕方がなかった。僕はマッチをもう一本すって、焔を心頼みに逃げてやろうと意を決した。僕はマッチをすり、ポケットからとりだした紙切れに点火して明かりを長持ちさせながら、狭いトンネルに退却したのだった。しかし狭いトンネルに達しないうちに火は消えてしまい、暗闇の中でモーロック人が木の葉をゆさぶる風のようにかさこそと音をたて、雨だれみたいな足音をばたばたさせながら、僕のあとを追ってくるのが分かった。
たちまちのうちに僕は何本かの手につかまってしまい、彼らが僕を連れもどそうとしているのは疑いもなかった。僕はもう一本マッチをすって、彼らのまぶしげな顔に突きつけた。その顔がどんなにむかつくほど非人間的なものか諸君には想像もつかないだろう――青白くて顎もない顔、大きく瞼すらないピンク色がかった灰色の眼!――僕を凝視するその眼はくらみ、まごついているのだ。だけど断わっておくが、僕には立ち止まって観察するゆとりなどなかった。僕はふたたび退却し、二本目のマッチが燃えつきたとき、三本目をすった。それがほとんど燃えつきかけたとき、井戸の壁に出るトンネルの口にたどり着いたのだ。僕は出入口の縁にへばりついた。地底にある巨大なポンプの振動がくらくらさせたからだ。それから斜めに手を伸ばしながら、縦穴から突き出ている手掛かり足掛かりをさぐった。そうする間にも、僕は後ろのほうから足をつかまれ、激しく引きもどされたのだ。僕は最後に残ったマッチをすった……ところが、ただちに消えてしまった。しかし、いまや昇り用の横棒に手をかけていたから、僕は狂ったように足を蹴り、モーロック人の手を振りほどいて、ぐんぐん縦穴を昇って行った。その間、彼らはトンネルの口から眼をのぞかせ、頭上の僕をまぶしげに見上げていた。しかし、一人の奴だけしばらく僕を追ってきたので、あやうく片方のブーツを戦利品として奪い去られそうになった。
昇りはいつ果てるとも分からないように思われた。最後の二十フィートか三十フィートにさしかかったとき、えらく胸がむかついてきた。昇り用の手掛かり足掛かりにしがみついているのが精一杯だった。おしまいの数ヤードは、失神状態と死物狂いに闘った。なんどかくらくらして、五感が体内から抜けていくのを感じた。が、しまいにはともかく井戸の縁を乗り越えて、廃墟の中から目もくらむ日なたへとよろめき出た。僕はうつ伏せに倒れこんだ。土の臭いまでが甘く、清潔ににおった。すると、ウィーナが僕の手や耳に接吻し、ほかのエロイ人たちのがやがや声が聞こえたように覚えている。ほどなく僕は気を失ってしまった。
「いまや、疑いもなく、僕の立場が以前より悪くなったように思われた。それまでは、夜な夜な時間旅行装置《タイム・マシン》の行方不明で気をもんでいた点を除くと、結局はこの世界からきっと脱出できるという希望を捨てなかった。ところが、この希望も以上のような新しい発見のためにゆらぎはじめたのだね。これまで小人たちの子供じみた単純さによって機械が隠されたのだと思いこんでいた。よしんば未知の力によって隠されたのだとしても、それに打ち勝つ手だてを見つけさえすればよかった。ところが、モーロック人の胸がむかつくような資質というまったく新しい要素が生じてきたのだ――なにやら非人間的で邪悪なものがね。僕は本能的に彼らをのろった。その前は穴に落ちこんでしまった人間のような感情をいだいていた。僕が気にしたのは穴そのものであり、そこからの脱出法であった。しかし、いまでは罠にかけられた野獣のような気分であり、いまにも敵が自分を襲ってくるのじゃないかと思った。
僕がその敵をどんなに恐れたか、諸君もびっくりするくらいだろう。それは新月の暗闇なのだよ。ウィーナは、最初のうちよくのみこめぬ『暗い夜々』のことを僕の頭にたたきこんだ。いまは『暗い夜々』の訪れが何を意味するのかと想像するのは、さして難しい問題じゃなかった。月はだんだんと欠けて消えようとしていた。夜ごと暗闇の時間が長くなっていった。そしていまや、小さな地上人が暗闇を恐れる理由が、僕には少なくともいくらか分かってきた。新月の夜になるとモーロック人がどんないまわしい悪事をたくらむのだろうかと、僕はうすぼんやりながらいぶかった。僕は自分の第二の仮説が全面的に間違っていたことを確信するようになった。地上人はかつて恵まれていた貴族だったのかもしれない。そしてモーロック人は彼らの機械的な召使だったのだろう。しかし、そのような時代が過ぎ去ってからすでに久しいのだ。人類の進化から生まれたこの二つの種族は、まったく新しい関係にすべりこみつつあるか、すでにそのような関係に到達したかである。エロイ人はカロリング王朝の君主たちみたいに、単に美しいだけの役立たずな存在に堕してしまった。彼らはお情けでまだ地上を占有しているのだ。一方、数えきれないほどの歳月を地下で暮らしてきたモーロック人は、ついに日の当たる地上が耐えがたくなってしまった。これは僕の推測だけれど、モーロック人はエロイ人の衣服を作ってやったり、日常的な用事をたしてやったりしているのじゃないか。おそらく奉仕という古い習慣が生き残っているせいだろうと思う。立っている馬が脚で地面をひっかくとか、人間がスポーツとして動物を殺すのを楽しむようなものだろう。とっくの昔に消滅したはずの日常的な必要性が、ただ肉体的な機能として残存しているのだよ。しかし、古い秩序が部分的にすでに逆転していることは明らかだった。復讐の女神ネメシスが足早に近づいてきたのだね。その昔、何千世代もの昔に、人類は兄弟を安楽と日光から追い出してしまった。そしていまや、追い出された兄弟が帰りつつあるのだ――すっかり変わった生物としてね! エロイ人はすでに古い一つの教訓を新たに学びはじめていた。恐怖を再び思い知らされたのだね。すると突然、地下世界で見かけた赤い肉塊のことが思い出された。それがどうして心に浮かんだのか不思議に思われた。つまり考えの自然な流れから心に浮かんだのではなく、第三者から受ける質問のように浮かんだのだ。僕は肉塊の形を思い起こそうとした。何やら見馴れたものに似ているなという漠たる感じがした。しかしそのときは、それが何であるかまだはっきり分からなかった。
とはいえ、小人たちが謎めいた恐怖を前にどれほど無力だろうと、僕は彼らとは人間がちがう。僕はわれわれの時代、人類の最盛期からやってきた人間だもの。恐怖は人間を無力化することはないし、謎めいた事物が人間を恐怖におとしいれることもない。僕は少なくとも自分だけは守れよう。時を移さずに武器をつくり、安眠できる砦をつくろうと決心した。その隠れ場所を足掛かりとすれば、この不思議な世界から身を守るに当たって、夜な夜ないやな生きものの眼にさらされてきたと知ったとたんに失った自信をいくらか回復できよう。寝どころが安全と分かるまでは二度と眠れないような気がした。すでに睡眠中の僕を調べたにちがいないと思うと、僕は恐怖に身ぶるいしたものだ。
その日の午後、僕はテムズ渓谷に沿って歩き回ったが、モーロック人が近寄れぬと思われるような場所は見つからなかった。建物も木立もすべて、モーロック人のようなすばしこい登り手ならわけもなくよじのぼれよう。例の井戸から判断して、そうにちがいなかった。すると、青磁宮殿の高い塔や磨いたように光る壁が記憶によみがえってきた。そして夕方近くになると、ウィーナを子供みたいに肩にのせて、南西の方角に向かって丘を登って行った。距離は七マイルか八マイルだと思ったが、ほんとは十八マイル近くあったにちがいなかった。はじめて青磁宮殿を目にした午後は靄がたちこめ、距離が短く錯覚されたわけだね。その上、片方の靴は踵がぐらぐらになり、釘が靴底から突き出してきた――室内ばきのはき心地がいい靴で――僕はやむなくびっこを引くようになった。しかも日がとっぷり暮れてから、やっと淡黄色の空を背景にして黒い輪郭が浮きだす宮殿が見えるところまできた。
ウィーナは、僕が肩にかつぎあげると、えらくよろこんだけれど、しばらく経ってから下に降ろしてほしいと頼み、僕の横を小走りに駆けだした、たまにどっと駆けだしては花をつみ、僕のポケットに突っこんでくれた。ポケットはいつもウィーナを不思議がらせたが、しまいには花を飾りたてるための一風変わった花瓶と思いこんでしまった。少なくとも、彼女はそのような目的のためにポケットを利用した。うん、それで思い出したぞ! さっき上着を着替えたときに見つけたのだが……」
時間旅行家《タイム・トラヴェラー》はここでいったん口を切り、ポケットに手を入れて二つのしおれた花びらをとりだし、黙って小さなテーブルの上に置いたが、ゼラニウムに似たすこぶる大きな白い花だった。そのあと彼はまたもや話をつづけた。
「黄昏の静けさが地上に忍びよる頃、僕たちはウィンブルドンの方角に向かって丘の頂を進んだ。ウィーナは疲れてきて、灰色の石造家屋に帰りたがった。が、僕は青磁宮殿のはるかな尖塔を指差し、われわれは君たちをおびえさせる恐怖からの隠れ場所をそこで探し出そうとしているのだということを納得させようとした。日が暮れる前のいっときに死のような静寂が訪れるのを知ってるね。枝葉をそよがせる風さえ止まってしまう。僕にとって、夕方の静けさはいつも一種の期待感をいだかせる。空は澄みわたって深く、陽の没した地平線近くに横雲が棚引いている以外は晴れわたっていた。ところが、その夜は期待感が恐怖にいろどられてしまった。暮れなずむ静けさの中で、僕の五官は異常にとぎすまされていくのを感じた。足もとの下でがらんとした地底が感じられるようにさえ思われた。まったくのところ、モーロック人が暗闇の訪れを待ちかねて蟻塚のような地底を右往左往する姿がすかし見えるような感じすらした。興奮のあまり、僕は想像をたくましくした、もし自分がやつらの隠れ場所に侵入すれば、やつらはそれを宣戦布告と受け取るのではなかろうかとね。それにしても、やつらは一体なぜ時間旅行装置を奪い去ったのだろうか。
そこで、われわれは静寂のなかを進んで行った。夕闇はだんだん濃くなって夜になった。かなたの澄んだ青さは色あせ、星が一つ二つと輝きだした。地上はおぼろに暗くなり、木立は真っ黒になった。ウィーナは恐怖と疲労のために体が動かなくなった。僕は彼女をだきあげて話しかけ、やさしくあやしたりした。やがて暗闇がいっそう濃くなると、ウィーナは僕の首にかじりつき、眼を閉じて、顔は僕の肩に強く押しつけた。われわれは長い斜面を通って谷間へ降りて行ったが、暗闇の中でそのまま小さな川の中に入りそうになった。その川を渡って谷の向こう側の斜面を登り、何軒か眠りについている家々の前を通りぬけ、ある立像の前にさしかかった――牧羊神か何かで、頭部が欠《ヽ》けていた。この界隈にもアカシアの木立があった。いままでのところ、モーロック人は影も形も見当たらなかったが、しかしまだ夜の帳《とばり》が降りたばかりだ。月が昇る前の一段と暗くなる時刻が、まだこれからやってくるのだ。
次の丘の頂上に達すると、目の前に密生した森が黒々と広がっているのが見えた。森を見て僕はためらった。左を見ても右を見ても、森は果てしなく続いているように思われた。疲れを感じたので――ことに足がひどく痛かったから――僕は立ち止まってウィーナを注意深く下に降ろし、草地にどっかと坐った。青磁宮殿はもはやどこにも見当たらなかった。方向を間違えたのだろうか。密生した森の中をのぞきこみ、一体何がひそんでいるのだろうかと考えてみた。いったんたわわに茂った枝の下に入れば、星なんか見えなくなってしまうだろう。ほかに危険が――あえて想像をたくましくしたくなるような危険が――なかったとしても、足をつまずかせる木の根とか、ぶつかったりする木の幹とかの危険は依然としてあるはずだ。
一日じゅう激しく活動したあとなので、僕も疲労困憊《ひろうこんぱい》していた。で、とてもそんな余力はないと決めこみ、平地になっている頂上で一夜をすごすことにした。
都合のいいことに、ウィーナはぐっすり眠りこんでいた。彼女を注意深く上着でくるんだあと、その隣に坐りこんで月の出を待った。丘の斜面は静まり返り、人影もなかったが、黒々とした森の中からときたま生きものの動く気配が伝わってきた。頭上では星が輝やいていた。夜空が晴れわたっていたからだ。星のまたたきを眺めているうちに、一種の心を慰められるような親近感がわいてきた。しかしながら、古い星座はことごとく姿を消していた。星の運行はゆっくりしているために人間が百回ぐらい生まれ変わっても察知できないのだよ。したがって、星が見馴れない星座に再編成されてからすでに久しいのだ。だけど、銀河だけは昔と同じく、星屑《ほしくず》のぼろぼろに切れた吹き流しと少しも変わっていないように思われた。南の方角には(と、僕は判断したのだけれど)、僕が初めて目にする非常に明るく光る赤い星があった。われわれの緑色をした天狼星よりもはるかに明るかった。そしてこれらあらゆるまたたく光点の真っ只中に、あたかも旧友の顔みたいに心やさしく、落ち着き払って光る一つの明るい遊星があった。
これらの星を眺めていたら、突如、自分のいろいろな心配事や地上生活の重大問題がちっぽけなものに思われてきた。僕はその測りがたい距離や、知られざる過去から知られざる未来へゆっくりと不可避的に移動する運動に思いを致したのだ。僕は地球の極が描く大いなる歳差《さいさ》運動の周期を思った。この静かな運動は、僕が時間旅行装置で飛んだ長年月の間に四十回しか起こらなかったのだ。そしてこれら数少ない運動の間にあらゆる活動、あらゆる伝統、複雑な組織、国家、言語、文学、野心はむろん、僕の知っている人類の記憶すら跡形もなく一掃されてしまった。その代わりにすぐれた先祖を打ち忘れたか弱い小人たちや、僕をおびえさせた白い生きものが地上に現われたわけだ。さらに、二つの種の間に存在する「大いなる恐怖」について考えた。すると地底で見かけた肉塊がなんであったか初めて分かると、僕は思わずぞっとしてしまった。なんという空恐ろしいことだろう! 隣に寝る小さなウィーナを見やると、顔は星空の下で白く、星のように輝いていた。僕はすぐにその想いをかなぐり捨てた。
その長い夜の間、僕はなるべくモーロック人のことを考えまいとして、新しい混沌の中に古い星座の名残りを探し求めようとして時間をすごした。夜空は雲が一つか二つ靄のようにかかっている以外はくっきりと晴れわたっていた。僕はなんどかうとうとしたにちがいなかった。不寝番を続けていくうちに東方の空が白らんできた、色あせた火災を反射するかのように。やがて、細く、とがった白い月が昇ってきた。その後に接し、そして追いつき、包みこむようにして暁が訪れた。初めは青白かったのが、おいおいピンク色に変わって、あたりは暖かくなった。モーロック人は一人としてわれわれに近づいて来なかった。事実、その夜は丘の上で一人も見かけなかったのだ。新しい朝を迎えた気強さに、自分の恐怖心がなんの根拠もないように思われたくらいだった。僕は立ち上がった。踵のゆるんだほうの足首がはれあがり、踵に痛みが生じているのが分かった。やむなくまたもや腰をおろし、靴をぬいで放り投げてしまった。
ウィーナを起こして、森の中に入って行った。黒々として人を寄せつけなかったのが、いまは緑におおわれ、いかにも心愉しそうであった。果物を見つけて、空腹をいやした。ほかの優雅な小人たちにも出くわした。まるで夜のようなものが存在しないかのように、日差しの中で笑いこけたり、踊ったりしているんだよ。するといま一度、あの地底で見かけた肉塊が心に浮かんできた。いまやそれがなんの肉塊か僕には確信があり、僕は心の底から、人類の大河が細流となって枯れようとする最後の人たちに同情を禁じえなかった。明らかに、人類の退化が進んだ『過去』のいつだかに、モーロック人の食糧が欠乏したにちがいないのだ。おそらく彼らはネズミやそういった害獣を糧《かて》にしてきたのだろう。現在の人類だって、かつてのように食べものを選り好みができなくなっているじゃないか――猿類のほうがはるかにましだ。人肉を食してはならぬという先入観は、かならずしも深く本能に根差したものではない。だからこそ、人類のまったく霊長らしからぬこれらの子孫は……僕はこの問題を科学的な精神に基づいて考えようとした。結局のところ、モーロック人というのは、われわれの時代より三千年前か四千年前の野蛮な祖先に比べてもはるかに非人間的で、迂遠な存在なのだ。こうした状況を嘆き悲しませたにちがいない知性も失われているのだろう。だとすれば、何も深刻に考えることはないじゃないか。エロイ人はただ肥らされた牛にすぎないのだ。蟻のようなモーロック人が飼育し、獲物にしている――おそらくその繁殖をはかっているのじゃないか。それなのに、エロイ人の一人であるウィーナは目の前で無邪気に踊っているのだ!
たえず襲う恐怖心から自分を守るために、僕はそれを人類の利己主義に対する厳罰としてみなそうとした。人類は同胞の労働力に依存しながら、安楽な生活に満足してきた。『必要性』を合言葉と口実にしたのだけれど、その『必要性』がいまや時みちて逆に襲いかかってきたのだね。僕はこの退廃した浅ましい貴族たちに対し、カーライル流の蔑《さげす》みをもって立ち向かおうとした。しかし、そのような考え方は通用しなかった。その知力がどれほど衰えているにしても、エロイ人はすこぶる人間らしさをとどめているために、つい僕の同情心を買い、いや応なく彼らの自堕落と恐怖心に共感をおぼえないわけにいかなかった。
その時点で、これからとるべき方策について漠然とした考えしか持っていなかった。まず第一にどこか安全な隠れ場所を探すことであり、金属か石くれで有効な武器を造ることであった。それはさし当たって早急にやらなければならない仕事であった。その次に火を起こす手だてを見つけたかった。さすれば、手に松明《たいまつ》という武器を持つことができよう。モーロック人に対してはこれ以上の有効な武器がないと分かっていたからだ。それから、白スフィンクス像の下にある青銅の扉を打ち破るための道具がほしかった。昔、攻城用に使われた大槌《おおづち》の類《たぐい》だね。もしあの扉を打ち破って侵入し、手に松明を持ってさえいれば、きっと時間旅行装置を発見して脱出できるはずだと思いこんだわけさ。モーロック人が機械を遠くまで持ち運べるほど力があるとは考えられない。ウィーナはわれわれの時代に連れて帰る決心だった。そんな計画を頭の中で練りながら、自分が隠れ場所と選んだ建物に向かって道をたどって行った。
「昼頃、青磁宮殿に着いたが、人影はなく、すっかり廃墟と化していた。窓にはぎざぎざに壊れたガラスの破片しか残っておらず、緑色の正面にはめこんである青磁の大きな板材が、錆びた金属製の枠から剥《は》げ落ちていた。芝生の敷地に高々と聳《そび》えたっていて、建物に入って行く前に北東の方角を見やると、非常に大きな河口か小さな湾が見えて驚いたものだよ。現在のウォンズワースかバターシーのあたりにちがいないと僕は判断した。そのとき、僕はふと思った――その考えを追ったわけじゃないのだけれど――海の生物はどうなってしまったのか、あるいはどうなっているのだろうかとね。
宮殿の建材を調べてみると、疑いもなく陶器であることが分かった。正面には見たこともない文字が刻みこんであった。おろかにも、ウィーナなら解読を助けてくれるかもしれないと思ったが、文字を書くという考えさえ彼女の頭に浮かんだためしがないということが分かったにすぎなかった。ウィーナはいつも考える以上に人間らしく思われたような気がしたが、それもおそらくは彼女の愛情がいやに人間くさかったせいだろう。
巨大なドアの隙間から入ると――壊《こわ》れて開けっぱなしになっていたのだけれど――お決まりの大広間があるのかと思ったら、代わりに長い廊下があって、ずらりと並ぶ両側の窓から明かりがこぼれていた。一瞥《いちべつ》しただけで、それは博物館を思い出させた。タイルを敷きつめた床はほこりが分厚くつもり、驚くほどこまごまと陳列された物品の上にも、同じような灰色のほこりがかぶさっていた。ついで、ホールの真ん中に立つ奇妙で無気味なものに気づいたが、どうやら、巨大な骸骨の下部にちがいなかった。折り曲がった脚から分かったのだけれど、それは大懶獣《だいらいじゅう》に類する絶滅した生物のそれらしかった。頭骸骨も上半身の骨も、分厚くつもった近くのほこりの中に埋もれ、屋根からの雨もり個所では骨が磨滅していた。廊下を進んで行くと、雷竜の巨大な胸骨があった。博物館だという僕の仮説が証明されたわけさ。壁の近くに寄ってみると、傾斜している棚らしいものがあって、いざ分厚いほこりを払ってみると、われわれの時代ではお馴染みのガラス・ケースが現われた。しかし、収納品の完全な保存状態から判断すれば、空気が侵入できないような作りになっていたにちがいない。
明らかに、われわれは最も現代的なサウス・ケンジントン風の博物館の廃墟に立っていたのだ! 一見してそこは古生物部門の陳列室らしく、かつては化石の見事な展示が行なわれていたにちがいない。もっとも、この不可避的な荒廃の過程は、しばらくは避けえられたかもしれないし、また細菌類の死滅によって九十九パーセントまでは腐朽の力が失われたかもしれないけれど、しかし非常に手間取ったとしても非常な確実さでそれはありとあらゆる宝物に作用したのだろう。あちこちに、小人たちが貴重な化石を粉々にくだいたり、葦の紐で数珠《じゅず》つなぎにしたりした痕跡が認められた。またある場合にはケースがそっくり移動させられていた――おそらくモーロック人がやったものと思われた。あたりはしいんと静まり返っていた。分厚くつもったほこりがわれわれの足音を消し去った。ウィーナはケースのかしいだガラスにウニの貝殻を転がしていたが、やがて周囲を見回す僕のそばに近寄り、ひどくもの静かに僕の手をとってその場に佇んだ。
最初のうち、こんな知的な時代の古い記念碑にすっかり驚いたため、これをどう利用したものかという点には考えも及ばなかった。時間旅行装置への懸念さえもいささか影をひそめてしまった。
場所の広大さから判断すると、この青磁宮殿には古生物陳列室のほかにもっと多くの部屋があるにちがいなかった。おそらく有史時代の陳列室か図書室まであるにちがいなかった! 少なくとも当面の僕にとっては、この荒廃した古代遺物の壮大な廃墟よりもそちらのほうがはるかに大きな興味があった。さらに探しまわると、もう一つの短い廊下が最初の廊下と直角に交差していた。鉱物陳列室であるらしく、硫黄の石塊が目に止まると、火薬の製造を思いついた。しかし、硝石はおろか硝酸塩も見つからなかった。疑いもなくとっくの昔に溶解してしまったのだろう。が、硫黄のことはいっかな頭を離れなかったし、いろいろと連想を働かせてみた。ここのほかの陳列物は全般的に保存が一番よかったものの、ほとんど興味をそそられなかった。僕は鉱物学の専門家じゃないのだからね。それからえらく崩れかかっている通路を抜けて行った。それは最初に入って行ったホールと平行に走っていた。この陳列室は明らかに博物学の関係らしかったが、しかし何もかも識別がつかなくなってから久しいようであった。いくつかのひからびて黒ずんだ遺物は剥製《はくせい》にされた動物の名残りらしく、かつてアルコールが入っていた壺のミイラはかさかさに乾き、四散した植物の標本は茶色のほこりと化していた。それが|なれ《ヽヽ》の果てだった! 残念だと思った。人類が生物界の征服を達成するに当たって用いた巧妙な新しい調整法を追跡できたら、どんなにか面白いと考えたからだ。すると、こんどは途方もなく大きな部屋に出た。が、いやに薄暗くて、われわれの入ってきた一端から床はゆるやかな傾斜をなして下り坂になっていた。天井には間隔を置いて白い円球が吊り下げられていた――多くはひびが入ったり、壊されたりしていて――もともとは人工的に照明されていたことを物語っていた。この部屋は僕の専門的な知識を刺戟した。両側に聳えたっていたのは巨大な機械で、大部分はひどく腐蝕し、多くは打ち壊されていた。が、それでもかなり満足な形のものもいくつかあった。ご承知のように、僕は機械となると目がない。つい機械の間をうろついてみたくなった。まして大部分の機械が謎めいた興味を引いたからなおさらだった。一体何を目的とした機械なのか、おぼろげにしか分からなかった。もしその謎が解けるのであれば、モーロック人に対して活用できる力を持つようになれるかも知れないと思ったのだ。
突然、ウィーナが僕のそばに身をすり寄せてきた。不意打ちだったので、僕は驚いた。もしウィーナがいなかったら、陳列室の床がかしいでいたことはこんりんざい分からなかったろう〔もちろん、床がかしいでいたのじゃなくて、博物館が丘の斜面にはめこむように建てられていたのだろう〕。僕が入って行った一端は地面よりかなり高く、小さな割れ目に似た窓から明かりが洩れていた。奥へ進むと、これらの窓に床がせり上がったあげく、窓の外にはロンドンの家屋によくあるきわめて狭い『勝手口』のような縦穴があり、その上に細長い日差しが落ちていた。機械の間を頭をひねりながらゆっくり進んだのだけれど、すっかり熱中していたので、明かりが次第に減じていくのに気がつかなかった。やがて、ウィーナの高まる不安に僕はハッとした。すると、陳列室がついに真っ暗になってしまった。僕はためらい、それからあたりを見回すと、床はそれほどほこりがたまっていないし、平坦でもなかった。さらに暗がりの中を進むと、小さくて狭い足跡がそこいらじゅう残っているように思われた。それを見たとたんに、モーロック人が今にも姿を現わすのじゃないかという心配がよみがえった。機械の科学的な探査に時間をつぶしすぎたと僕は思った。午後も時間がかなり経っているのではないか、おまけにまだ武器を手にしていないし、避難場も見つからず、火をおこす手だてすらないのだ。陳列室の奥まった暗闇の中に、ぱたぱたというあの独得な足音や、かつて僕が井戸の中で聞いたのと同じ奇妙な物音がした。
僕はウィーナの手を取った。すると、急にある考えが浮かんで、彼女をその場に放りだし、鉄道の信号所にあるのとそっくりなレバーが突き出ている機械に近づいて行った。足場に登ってレバーを握りしめると、横向きに全体重をかけた。真ん中の通路に置去りにされていたウィーナが泣きじゃくりはじめた。僕はレバーの頑丈さをかなり正確に判断したようで、一分ほど頑張ったらぽきりと折れた。その棒を手にしてウィーナのところへもどった、これなら、どんなモーロック人に出くわしても充分に頭骸骨をたたき割れるのだとね。おまけに、モーロック人を一人か二人、殺したくて仕方がなかった。非道なことをと思われるかもしれない、自分の子孫を殺そうとするなんて! だけど、とにかくあの連中に人間らしさを感ずるのはできない相談なのだよ。ただウィーナを一人ぼっちにしたくなかったこと、また人殺しの渇望をみたせば時間旅行装置を壊されるかもしれぬという反省にさまたげられたので、陳列室を駆けおりて耳にしたけものどもを殺すのはやめたのであった。
で、片手に棒、一方の手にウィーナを抱えながら、僕はその陳列室を出て別のもっと大きな部屋に移って行った。一見したところでは、ぼろぼろになった軍旗を飾る軍隊の礼拝堂を思い出させた。両側から垂れさがる褐色のこげたぼろは、ほどなく書物の朽ち果てた遺物にほかならないと知れた。ばらばらになってから随分と久しく、印刷の跡はことごとく消え失せていた。が、あちこちにあるそり返った厚紙やひび割れた金属製の締め金などが散乱して、雄弁に書物の朽ち果てたありさまを物語っていた。もし文学をこととしていたなら、僕はおそらくあらゆる文学的な野心のむなしさについて教訓を引き出していたろう。しかし僕はそんな人間じゃないから、一番鋭く僕を打った点といえば、それは労力の巨大な浪費であり、それを朽ち果てた紙の荒涼とした光景が証明しているということだった。そして打ちあけていえば、僕が光学に関して十七の論文を発表したこともあるイギリス王立学士院会報の運命が頭をよぎった。
このあと広い階段を昇ると、かつては応用化学の陳列室だったにちがいない一室に出た。ここでなら、役に立つものが見つかるかもしれないと思った。天井が落ちた一端を除いたら、陳列室の保存状態はよかった。僕はガラスの壊れていないあらゆるケースを熱心にのぞきこんだ。そしてとうとう、完全に空気の侵入を防いでいるケースでマッチ箱を発見した。僕はもどかしげに一本をためしてみた。申し分なく発火した。しめってさえいない。ウィーナに向かい、思わず彼らの言葉で叫んだ。『踊ろう』いまや、われわれの恐れるけだものに対してちゃんと武器を手に入れたのだからね。そこで、この廃墟と化した博物館の分厚いほこりというカーペットの上で、すっかり浮き浮きしたウィーナを相手にくそ真面目な顔をしながら、いわばちゃんぽんのダンスを踊った、口笛で『天国』というメロディをできるかぎり陽気に吹いて。一部は控え目なカンカン踊り、一部はステップ・ダンス、一部はスカート・ダンス(燕尾服で許すかぎり)、あとはその場ででっちあげたステップだった。
さて、今でもそう思うのだけれど、この一箱のマッチが数えきれないほどの歳月を生き永らえてきたのはなんとも不思議だったが、しかし、この僕にとってはこの上なく幸運であった。にもかかわらず、奇妙なことに、もっと考えられぬ物体を発見した。樟脳《しょうのう》であった。封印した壺の中に入っていたのであるが、多分、何かのはずみで密封されたのだろう。初めはパラフィン・ワックスだと思ったので、ガラスを割ってみた。が、樟脳の臭いは間違いようもなかった。荒廃が一般化している中で、この揮発性の物質はたまたま何千世紀も生き延びるチャンスがあったのだろう。それはいつか見たセピア絵具のこと、数百万年前に絶滅して化石となったイカ類のベレムナイトから採取した墨を使ったという水彩画を思い出させた。僕は樟脳を投げ捨てようとしたが、それは燃えやすくて非常に明るい焔をあげるのを思い出した――事実、すばらしい蝋燭《ろうそく》の役割を果たしてくれるので――それをポケットにしまいこんだ。しかしながら、青銅の扉を打ち破れる爆薬もその手段もみつからなかった。目下のところ、鉄の棒が僕がたまたま拾った一番役に立つ武器でしかなかった。それでも、僕はその陳列室から意気揚々と引きあげたのだった。
その長い午後の一部始終をいちいちお話しするわけにはいかない。順序正しく探検の道行きを思い出すには、非常な努力を要するからだ。ある長い部室では、錆びついた台上に陳列してあった武器のことを思い出すね。鉄棒を捨てて斧か剣に変えようかと思いまどったものさ。しかし両方とも持ち運べないし、さらに鉄棒なら、青銅の扉も打ち壊すのに最適だろうと思われた。さまざまな拳銃やライフル銃もあった。大部分は錆びついていたがね、なかには新しい金属を使っているのも多く、いまでも使えそうに思われた。しかしかつて弾薬筒や火薬があったとしても、ことごとくほこりと化したにちがいなかった。僕の目にした一画は焼けて崩れかかっていたが、ひょっとして標本が爆発を起こしたのかもしれなかった。別の一個所には偶像がずらりと並んでいた――ポリネシア、メキシコ、ギリシア、フェニキアなど地上のあらゆる国の種類が集められているように思われた。ここで僕は抑えがたい衝動に負けたすえ、とくに僕の気に入った南アメリカ産の凍石彫りの怪物の鼻に自分の名前を書きしるした。
夕方が近づくにつれて、僕は興味を失っていった。陳列室から陳列室へと渡り歩いたが、ただほこりっぽくて静まり返り、しばしば崩壊しかかっていて、陳列物は時としてただの錆か亜炭の山にすぎず、時として形を残したものもあった。ある場所では錫《すず》鉱山の模型の前に立っていることに気づき、そしてほんの偶然から空気の侵入を防ぐケースの中に二本のダイナマイトを発見したのだ! 僕は思わず、『|見つけたぞ《ユリイカ》!』と叫び、勇んでガラスをぶっ壊したね。そのとき、ある疑問がわいた。僕はためらった。小さな別室を選んで、爆発を実験してみた。僕はこれ以上の落胆を味わったことがない、なんせ五分、十分、十五分と待ちながら、ついに爆発は起こらなかったのだからね。ダイナマイトが模型だったことは断わるまでもない。こうして爆発せずじまいだったのだから、容易に見当がついたはずだ。もしそれが実物だと最初から本当に信じていたら、僕はたちまちすっ飛んで行き、スフィンクス像や青銅の扉を爆破してしまったろう。そうだとしたら、(あとで判明するのだけれど)、時間旅行装置を発見するチャンスは永久に失われたにちがいない。
そのあとのことだと思うがね、われわれは宮殿の小さな内庭に出た。芝生があって、三本の果樹が植わっていた。腰をおろして疲れをいやした。日没が近づくにつれて、僕は自分たちの状況を思案しはじめた。夜が忍び寄ってきているのに、モーロック人の侵入を防ぐ隠れ場所がまだ見つかっていない。しかし、それもいまやさほど僕の苦にはならなかった。自分の手には、おそらくモーロック人を撃退するのに最も有効なものがある――マッチだ! ポケットには樟脳もある、必要とあれば、火焔を盛大にあげることもできよう。われわれにできるいちばん適切な方法といえば、焚火《たきび》に守られた空地で一夜をすごすことだ。朝になってから時間旅行装置をとりもどすことにしよう。その点では、まだ鉄棒という道具しかなかった。しかし事情がそろそろ分かってきたいま、例の青銅の扉に関する考え方も変わってきたように思った。これまで扉を無理にこじ開けようとしなかったが、それも内部の謎が分からなかったからだ。さほど頑丈な扉だという感じは少しもしなかったし、この鉄棒でもまったく役に立たないはずがないと思ったのだ。
「太陽の一部がまだ地平線上にあったとき、われわれは青磁宮殿から出て行った。あくる朝、早々に白スフィンクス像のところへもどるつもりにしていたから、日が暮れないうちに、前夜われわれの進入をはばんだ森を突破しようと思ったのさ。計画ではなるべく行けるところまで行き、火をたいてその焔に守られながら眠るという算段であった。したがって、途中で見つけた小枝や枯れ草を拾い集め、ほどなくそんな屑物が腕一杯になった。こうして荷物があったから、進み具合は思ったよりものろく、その上ウィーナがくたびれてしまった。僕もまた眠気にさいなまれはじめた。おかげで森へ着く前にとっぷり日が暮れてしまった。森に接する灌木の生い茂る丘にたどり着いたとき、ウィーナは目前の暗黒におびえて行きたくないと言いだした。だが、迫り来る危機は百も承知の上、それを一つの警告として受け取るべきだったのに、むしろ僕を前へと駆りたてていった。僕はひと晩と二日ばかり一睡もしていなかったので、体じゅうが熱っぽくていらだっていた。眠気がみまえば、モーロック人も襲ってくるような気がしてならなかった。
ぐずぐずしていると、後ろの黒っぽい茂みの中で、その黒い陰を背にして身をかがめた姿が三つぼんやりと見えた。あたりは藪《やぶ》と丈の高い草ばかりであった。こっそりと近寄る彼らに対して、ここは安全じゃないと僕は思った。森を横断しても一マイルもなかろうと判断した。向こう側にある坊主山の斜面にたどり着けさえすれば、少なくとも僕には、安全な休息所であるように思われたのだよ。マッチと樟脳があるからには、森の中の道をなんとか照らし出せるだろう。と同時に、両手でマッチをするとすれば、せっかく抱えている焚木《たきぎ》を捨てなければならないことは明らかだった。そこで、僕はしぶしぶ焚木を下に置いた。すると、その焚木に火を放って後方のモーロック人諸君をびっくりさせてやろうと思いついた。後刻、まったくばかげた手を打ったものだと判明するのだけれど、しかしそのときは、僕らの退路を掩護《えんご》するのに巧妙な手段と思われたのだね。
諸君も考えたことがあるかどうか知らないが、人間不在の温暖な天候下で火焔ほどまれな現象はないだろう、太陽熱が物を燃やすほど強烈なことはめったにない、熱帯地方でたまに露の水滴を屈折したあげく、火をおこすことはあるにしても、だ。稲妻が光って木を焦がすことはあるけれど、それによって燃え広がるという事例はめったにない。腐《くさ》った植物が発酵時の熱によってくすぶることは間々あろう。これまた火焔となる事例は珍しい。この荒廃した未来世界においても、発火法は地上から忘れ去られていたのだよ。小枝や枯れ草の山をなめつくしていく赤い焔の舌は、ウィーナにとってまったく目新しい摩訶《まか》不思議だった。
ウィーナは火に駆けよって、それを玩具《おもちゃ》にしたがった。もし彼女を引き止めなかったら、きっと火焔の中に身を投じたかもしれないのだ。しかし僕は彼女を運よく抱きあげ、じたばたするのもおかまいなしにずんずん森の中を進んで行った。しばらくの間は焚火の明かりが小径を照らし出してくれた。ひょいと振り返ってみたら、密生した草むらを通して、焚火の焔が隣接の茂みに燃え移っていくのが垣間見えた。そして火焔の線が丘陵の草地を這い上がっていた。僕はそれを見て笑い、再び暗い行く手に立ち向かった。すこぶる暗かった。ウィーナはぴくりとして僕にかじりついたが、眼がおいおい闇に馴れるにしたがって、草木の幹をよけて通れるぐらいの明るさはあった。頭上はひたすら暗く、ただはるか青い夜空がのぞく切れ目がところどころに見えた。僕はマッチが一本もすれなかった。両の手がふさがっていたからだ。左手には小さなウィーナを抱え、右手に鉄棒を握っていたのだからね。
しばらくは足もとでぽきぽき折れて鳴る小枝の音や、頭上で枝葉をざわつかせる音、それから自分の激しい息遣いに心臓の鼓動しか聞こえなかった。すると、まわりにぱたぱたする足音が聞こえたような気がした。僕はまなじりを決して突き進んだ。足音はもっとはっきりと聞こえてきた。やがて、地下世界で耳にしたと同じ奇妙な物音や声が伝わってきた。明らかにモーロック人が何人かいるようで、僕に襲いかかろうとしているのだ。事実、まもなく僕は上着の衿《えり》を引っ張られ、腕をつかまれた。ウィーナは激しく身ぶるいしたかと思うと、身じろぎもしなくなってしまった。
マッチを点火すべき時機だった。しかし、マッチを取り出すにはウィーナを下におろさなければならない。僕はそうした。それからポケットをまさぐると、僕の膝のあたりの暗闇で取っ組み合いが始まった。ウィーナは声もあげない。モーロック人は同じ奇妙なくうくうという鳴き声をあげていた。やわらかい小さな手が僕の上着や背中を這いあがり、首筋のあたりにさえ触わった。マッチを取り出してすると、焔がしゅうっと上がった。高くかかげて見回すと、木立の間に飛びこむモーロック人の白い背中が見えた。あわただしくポケットから樟脳を取り出し、マッチの焔が消えないうちに点火しようと用意した。それからウィーナに視線をやった。彼女は僕の脚にかじりついたまま地面に横たわり、身動きもしないで顔をうつ伏せにしている。僕は驚いてしゃがみこんでみた。息がつまっているように見えた。僕は樟脳の塊に点火して地面に投じた。はじけてパッパッと焔をあげ、モーロック人とその黒い影を追い払った。僕はひざまずいてウィーナを抱きあげた。後ろの木立にはモーロック人がわんさと集まって蠢《うご》めき、ささやき声を発しているように思われた!
ウィーナは気を失っているように思われた。注意深く肩に乗せて立ち上がり、前進をつづけようとした。すると、思わずぞっとするようなことに気づいた。マッチをすったり、ウィーナを抱きあげたりしている間になんどか向きを変えたせいか、自分の進むべき方向をすっかり見失ってしまったのだ。へたをすれば、青磁宮殿に通じる小径をあともどりしているのかもしれないぞ。ひや汗が吹き出るのを感じた。どんな手を打つべきか早急に決めなければいけない。僕はその場に焚火をつくり、キャンプすることに決めたのだった。まだ身動きもしないウィーナをねちねちした地面におろし、最初の樟脳が燃えつきようとする間に小枝や枯れ草を集めはじめた。あちこちの暗闇の中で、僕を取り囲むようにしてモーロック人の眼が紅玉みたいにきらきら光った。
樟脳はゆらゆらして焔が燃えつきた。僕はマッチをすった。そうしたとき、ウィーナに近づきかけていた二つの白い姿が一目散に逃げ去った。一人は明かりで眼がくらんだのか、僕のところへまっしぐらに進んできた。こぶしで一撃をくわせると、骨がくだけるのを感じた。やつは苦しみの叫び声をあげ、よろめいたかと思うと、ばったり倒れてしまった。もう一つの樟脳に点火して、僕は焚木を集めにかかった。やがて頭上の枝葉がどんなに乾いているかに気づいた。時間旅行装置で未来世界に到着してからこのかた、一週間ぐらい経ちながら、雨が一滴も降っていないのだよ。したがって、落ち葉を拾い集めるべく木立の間をうろつくよりも、飛び上がって枝を引き寄せることにしたのだ。まもなく緑の葉と枯れ枝がむせ返るような煙を発しながら燃えあがり、樟脳を節約することができた。そのあと、鉄棒のかたわらに横たわるウィーナのもとへ近寄ってみた。彼女をなんとか正気にもどそうとしたが、死人のようにぐったりしていた。彼女が息をしているのかどうかということすら確信が持てなかった。
いまや、焚火の煙はもうもうとたちこめ、突如として僕は息苦しくなってしまった。おまけに、大気には樟脳の蒸気もただよっていた。焚火は一時間かそこいらは葉や枯れ枝をつけ足す必要はなかろう。立ち回りを演じたのでぐったりしていたし、つい腰をおろした。森の中がまた、わけの分からない眠気を誘うようなつぶやきに充満していた。思わずこくりとしかけて眼を開いたような気がした。しかしあたりはいつの間にか暗く、モーロック人は僕の体に手をかけていた。からみつくやつらの指先をふりほどくと、あわててポケットをまさぐった――マッチ箱がなくなっているじゃないか! すると、彼らはまたもや僕を取り抑えにかかってきた。そのせつな、僕は事情をのみこんだ。僕は眠りこんでしまい、いつの間にか焚火が燃えつきて、死の悲劇が僕の生命を脅かしていたのだ。森じゅう焼け焦げる臭いに満ちあふれていた。僕は首を抑えられ、髪の毛や腕をつかまれて、ねじり倒された。やわらかい化物にどっとのしかかられたのを感ずると、たちまち言いようのない恐怖心に駆られてしまった。まるで怪獣じみた蜘蛛の巣に取りこまれたような気分だ。僕は力が尽きて地面に倒された。首筋に歯を立てられている気がした。僕は一回転した。と、手が例の鉄棒に触れた。それが気力をよみがえらせた。もがくようにして立ち上がると、人間ネズミどもをふりほどき、鉄棒を強く握りしめるなり、彼らの顔面があると覚しきあたりにぐいと突き出した。鉄棒を振り回すたびに肉や骨がぐしゃぐしゃに潰《つぶ》れるのを感じた。しばし、僕は自由の身になった。
よく激闘に伴うあの不可思議な興奮状態が僕をもとらえた。自分もウィーナも助かる望みはないと分かっていたが、モーロック人にはちゃんと彼らの獲物代を支払わせてやるつもりであった。僕は一本の木を背にして鉄棒を思いきり振り回した。森じゅうやつらのざわめきや絶叫でみちあふれていた。一分間たったろうか。やつらの声は興奮のあまり非常に激してきて、その動きもまた急激になってきたような気がした。にもかかわらず、一人として近寄る者はいなかった。僕は突っ立ったまま暗闇の中をのぞきこんだ。すると突然、一縷《いちる》の望みがわいてきた。モーロック人がこわがったのだとしたら、それは一体なんなのだろうか。きびすを接するようにして奇妙な出来事が起こった。暗闇が次第に明るくなってきたのだよ。うすぼんやりながらも、まわりにいるモーロック人が見えてきた――足もとには二人がたたきのめされている――つぎに分かったのは、それも信じがたいほど僕を驚かせたのだけれど、他のモーロック人が切れ目のない流れみたいにぞろぞろ逃げ出しているということだった。まるで一刻も早く僕の後方や前方の森から離れようとするかのようにね。おまけに彼らの背中はもはや白くなく、赤みがかっていた。唖然と立ちつくしていたら、枝葉の間に生じた星空の切れ目を、小さな赤い火花が漂っていくのが見えた。それで森じゅうにたちこめる木の焦げる臭いが納得できた、眠気を誘うようなつぶやきがいまや激情的な咆哮に変わり、白い背中が赤く反射したことも、やつらが必死になって逃げ出したことも、だ。
背にした木の前から踏み出して振り返ると、近くの立ち並ぶ黒い樹間を通して、燃えさかる森の火が見えた。最初につけた火が、実は僕を追ってきたのだね。それに気づいてウィーナを探し回ったが、その姿はどこにもなかった。背後に迫るしゅっしゅう、ぱちぱちという音、なま木に火が移るたびに爆発するようなどしんという音。もういちいち考え事などしていられなかった。まだ鉄棒を握りしめたまま、モーロック人の逃げ去った後を追う。必死の競争だった。一度など走る右手に火焔がいち早く忍びよって僕を出しぬき、左手に進路を変えなければならなかった。しかしとうとう空地にたどり着き、そしてそうしたときなのだよ、一人のモーロック人が僕のほうにふらふらやってきた。なんと僕をやりすごしたかと思うと、そのまま火の中に突進してしまったのだ!
いまや、この未来世界で見かけたもののうちで世にも無気味でそら恐ろしい出来事を目にする羽目となったわけだ。この空地全体は火事を反射して真昼のように明るかった。真ん中には小山か塚に似たものがあり、焼け焦げたサンザシの灌木におおわれていた。その向こう側には燃える森がもう一つあって、黄色い焔の舌がすでにちろちろし、空地は火の壁によって完全に包囲されていた。小山の斜面には三十人か四十人のモーロック人が集まり、真昼のような明るさと熱気に眼もくらみ、どうしていいか分からずにあちこちとぶつかり合っていた。最初は彼らの眼がくらんでいるのに気づかず、彼らが近づいてくるのを見てただ恐怖心に駆られたあげく、鉄棒をやたらと振り回して殴りつけた。一人をたたき殺し、数人の手足を折った。しかし、赤い空を背にしてサンザシの下に穴を掘ろうとする姿を見かけると、あるいは彼らの唸り声を耳にしたりすると、彼らが火焔に対してみじめにもまったく無力だということを認めないわけにはいかなかった。これ以上、彼らに鉄棒を振るうのはやめてしまった。
それでも、たまにはこちらに向かって突進する者もおり、恐怖に身をふるわせていたから、わけもなく身をかわすことができた。焔は一時いくらか収まり、いまわしい生きものどもにやがて僕の姿が見えるようになるのじゃないかと恐れた。そんな事態にならないうちに、その何人かを殺すべく闘いを仕掛けようかと考えていたときだ。火焔が再び燃えさかってきて、手を出す必要もなくなってしまった。やつらに取り囲まれた小山の回りを歩き、なるべく彼らを避けながら、ウィーナの手掛かりを探し求めたのだった。しかし、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
ついに僕は小山の頂に坐りこみ、この不可思議にして信じがたい眼のくらんだ一団があっちにふらふら、こっちにふらふらする姿を眺めやった。彼らは焔になめられると、たがいに薄気味悪い叫び声を発した。煙は渦巻いてまっすぐに立ちのぼり、空を横切って行くように流れ去った。その赤い天蓋がたまさか割れたりすると、別の宇宙に属しているもののようにはるか遠方から小さな星が輝くのだった。二、三人のモーロック人がふらふらやってきたけれど、僕は身をふるわせながら、こぶしを固めて殴りかかり、追っ払ってしまった。
ほとんど夜を通して、僕はこれまでの出来事を悪夢じゃないかと自分に言い聞かせた。目をさまそうとして狂ったように唇をかみ、金切り声をあげて叫んだ。両の手で地面をたたき、あちこちふらついたかと思うと、またまた腰をおろした。あげくのはては眼をこすり、神の名を呼んで目をさましてくれるように祈った。三回ほど、モーロック人が苦しげにうなだれたまま、火焔の中に身を投じる光景を見かけた。しかしやっとのことで、赤い焔は勢いが衰え、黒煙がもくもくと流れ、木立の株が白くなったり黒く変わったりした末に夜がしらじらと明けた。
僕はまたまたウィーナの行方を求めて探しまわった。が、なんの手掛かりもなかった。やつらがあわれにも小さな女を森の中に置去りにしたのは明らかだ。とすれば、彼女をみまったにちがいない恐るべき運命を逃れたことになるわけで、そう考えるだけでもどれほど安らぎをおぼえたことか。そう思うと、僕は近くにいる無力化した化物どもを皆殺しにしたい衝動に駆られたが、なんとかそんな自分を制した。小山は、さっきも述べたように、いわば森の中にある孤島のようなものであった。小山の頂から棚引く煙を通して青磁宮殿が見え、そこから白スフィンクス像の方角が判断できた。あたりが明るくなるにつれて、右往左往しながらうめき声を発するこれらいまわしい生きものどもの生き残りを後に残すと、僕は足の裏に草をゆわえつけ、まだときたま火を吹いて煙をあげる灰や黒く焼け焦げた木株の間を足を引きずりつつ横切った、時間旅行装置の隠し場所に向かってね。僕はゆっくり歩いた。疲れきっていたし、びっこも引いていたからだ。小さなウィーナの恐ろしい死に、この上ないみじめな思いを抱いていた。それは僕をぶちのめしてしまう悲惨事のように思われた。いま、こうして住みなれた居間にもどってみると、現実の悲劇というよりも夢の中の悲しみといった感じが強いね。ともかくその朝、ウィーナの死によって、僕はふたたび一人ぼっちになってしまった――おそろしく寂しい羽目にね。僕は自分のこの家、この暖炉、諸君のことを考えはじめた。すると、そうした思いと共に胸が痛くなるほどの里心がわいてきた。
で、明るい朝空の下、まだくすぶる灰の上を歩いていたら、僕は一つの発見をした。ポケットにまだ数本のマッチ棒だけが残っていたのだよ。箱がなくなる前に、こぼれ落ちたにちがいないのだ。
「朝の八時か九時ごろ、僕は例の黄色い金属製の椅子があるところにたどり着いた。未来世界に到着した日の夕方、あたりを眺めわたした椅子さ。その夕刻、自分が行なったせっかちな結論に思いをいたし、その際の自信過剰に苦笑をおぼえないでいられなかった。あのときと同じように美しい景色があった。同じようにこんもりと茂った緑、同じように壮麗な宮殿や壮大な廃墟、同じように豊穣な両岸の間を流れていく銀色の川。優雅な人々のはなやいだ衣裳が、木立の間を往ったり来たりしていた。僕が溺れかかったウィーナを助け出したまさしく同じ場所で水浴びする者もあった。その光景は思わず、胸を突き刺されたような痛みをもたらした。そして美しい眺望に汚点《しみ》がついているように、地下世界へ通ずる円屋根が聳えたっていた。いまにして、地上世界の美しい生活にひそんでいるものが痛感されたのだった。いかにも楽しそうな一日ではあった、牛が牧場《まきば》の草をはんでいた時代と同じように楽しそうだ。あの頃の牛と同じように、彼らは敵の所在も知らず、なんの防御法も講じていなかった。彼らが迎える最後もおそらく牛のそれと変わらないものなのだろう。
考えるだけでも悲しいが、人類の知恵が描いた夢はなんとはかないものだろう。人類は自殺をとげてしまったのだ。人類は快楽と安易な生活を求めてひたすら邁進《まいしん》し、安定と恒久性とのバランスがとれた社会をスローガンとし、そうした希望をたしかに達成した――その果てが、この始末なのだよ。いやしくも生命や財産は、ほとんど完全な安全が保証されたにちがいなかった。富者はその富と安楽が保証され、労働者は生活と仕事が保証された。この完全な世界では疑いもなく、いかなる失業問題も、いかなる社会問題も未解決とはならなかったろう。そして大いなる平穏が訪れたのだね。
われわれが見逃している自然の法則といえば、人間の知的な多面性は変化、危機、困難などによって獲得されるものだという点だろう。環境に申し分なく調和した生物は完全な機械といってよい。自然というのは、習慣や本能が役に立たなくなったときはじめて知能に訴える。変化がまったく存在せず、また変化を必要としないところでは、知能なるものは存在しない。おびただしい多様な困難や危機と対決しなければならない生物だけが知能を授けられる。
で、僕が目撃してきたように、地上人はなよなよした優雅さに退化してしまい、地下人は単なる機械的生産力に堕してしまった。ところが、そうした完全な状態も機械的な完全さにおいて、唯一の欠点があった――絶対的な恒久性を欠いていたんだね。時間が経っていくにつれて、地下世界への食糧供給はどうやら崩壊したらしい、それがどのような供給方式か分からないにしても、だ。数千年のあいだ棚上げされてきた知能の母ともいうべき必要性がよみがえり、地下世界でその働きをみせはじめた。機械と共に生きる地下人は、よしんばどれほど完全な状態にあったにせよ、習慣のほかに多少の思考力は必要としよう。そして地上人に比してそれ以外の人間性に欠けるところがあったにしろ、おそらくより創造的な必要性に迫られていたのじゃないか。そして適当な食肉が手に入らなくなると、彼らは昔から厳に禁じられてきた古い慣習に立ち返ったのだ。そんな次第で、僕は西暦八十万二千七百一年の世界でいみじくもそれを目撃したと言わざるをえない。もっとも、人間の知能が考えついた解釈だから、あるいは間違っているかもしれないけれど。ともかく、僕にはそのように思われたので、そのまま諸君にお伝えするわけだ。
この数日間におよぶ疲労、興奮、恐怖、そして僕の味わった悲しみにもかかわらず、この椅子ともの静かな眺望、さらに暖かい日差しはなんといっても心地よかった。ひどく疲れていて眠く、まもなくあれこれ考えているうちにうとうとしてきた。ハッとしてそんな状態の自分に気づくと、思いきって芝生の上に体をのばし、ぐっすりと快い眠りに入った。
僕は日没のちょっと前に目をさました。居眠り中にモーロック人につかまる心配はないと思ったいま、まず背伸びをしてから白スフィンクス像に向かって丘を降りた。片手に鉄棒、もう一方の手はポケット内のマッチをもてあそんでいた。
すると、まったく思いがけないことが起こった。スフィンクス像の台座に達したとき、なんと青銅の扉が開いているではないか。細長い溝の中に滑り落ちていたのだ。
僕は思わずその前に立ち止まり、内側に入って行くのをためらった。
その中は小さな部屋になっていて、片隅のせりあがったところに時間旅行装置が鎮座していたのだよ。時間旅行装置を動かす小さなレバーはポケットに入っている。なるほど白スフィンクス像の攻撃に僕があれほど入念な準備をしたのに、かくも他愛なく降参したのか。僕は鉄棒を捨ててしまった、それを使わなかったのをいささか残念に思いながらね。
入口からのぞきこんでいる間に、ふとある考えが浮かんできた。少なくともただいまは、モーロック人の心理的な動きをつかんだつもりである。いまにもげらげら笑いだしたいのをこらえながら、僕は扉の敷居をまたいで時間旅行装置に近づいて行った。注意深く油がさしてあって手入れも行き届いているのに驚かされた。モーロック人は機械装置の目的をなんとか知ろうとして部分的にも解体したのではないかと疑った。
こうして機械の前に佇んで調べ、手を触れるだけでも嬉しくなったときだ、僕が予想したとおりのことが起こった。突如、青銅の鏡板がするすると上昇し、かちんと上の枠組みにぶつかった。僕は暗闇の中に閉じこめられてしまった――罠にかかったわけだね。やっぱり、モーロック人は予測どおりの考え方をしたのだ。で、僕はおかしそうにくすくす笑いだした。
早くも、彼らが近づくにつれてそのつぶやくような笑い声が聞こえてきた。落ち着き払ってマッチをすろうとした。機械装置にレバーをとりつけて、幽霊のように彼らの前から消え失せればよかった。が、僕は一つだけ見落としていることがあった。マッチはマッチ箱にすりつけないと火がつかないようなにくたらしい代物だった。
ご想像におまかせするが、僕の落ち着きもどこへやら。小さなけだものどもはどんどん近寄ってきた。一人が僕に手をかけた。僕は暗闇の中で相手めがけてレバーを振り回し、機械装置のサドルによじのぼろうとした。すると一本の手が、ついでもう一本の手が伸びてきた。僕は、レバーめがけてしつこく伸びる指先と懸命に闘う一方、レバーをとりつけるはめこみ個所を手探りしなければならなかった。一度など、本当にいまにもレバーを奪い取られそうになった。レバーがするりと僕の手から抜けてしまったため、暗闇めがけて頭突きをくわせなければならなかった――レバーを取り返そうとしてね――モーロック人の頭骸骨がくだける音がした。この最後の闘いときたら、森の中の闘いよりも接戦だったと思う。
しかし、ついにレバーを取り付けてぐっと手前に引いた。僕にしがみついていたいくつかの手がふりほどかれる。暗闇がいつの間にやらかき消えていた。僕はいつのまにか、前にもお話したような灰色の光と見まがう渦の中に巻きこまれていた。
十一
「すでにお話したことだけれど、時間旅行には胸がむかつき、目がまわるような不快感を伴う。そして帰りはサドルに正しく坐るどころか、横向きの不安定な姿勢になった。どれくらいの時間だか分からないけれど、左右に揺れ、上下に振動する機械にかじりついていたため、どこへ行くのかということを注意するどころではなく、ふと気がついて再び文字盤をのぞきこんでみたら、どえらい時間帯に到着していたのを知って驚いた。時間計は一日計、千日計、百万日計、十億日計から成る。ところが、レバーを後進する方角へ引く代わりに、前進する方角に引いてしまったのだ。そしていざこれらの時間計をのぞきこんだとぎ、千日計が時計の秒針みたいに――未来をめざして――ぐるぐる回っているのを発見した。
航行を続けるにつれて、周囲の様相に奇妙な変化があらわれはじめた。濃淡の一定しない灰色がだんだん黒くなっていく。すると――まだ驚くべき速度で航行していたのだけれど――通常なら速度低下を意味する昼夜の点滅的な交代がもどり、しかもその傾向が次第にはっきりしてきた。最初のうち、これにはまごついてしまった。昼夜の交代はますますゆっくりしてきた。大空を横切る太陽の運行もすっかりにぶり、あげくのはては交代が何世紀にもまたがるように思われてきた。ついに一定した薄明が地球をおおった。彗星が光茫《こうぼう》を放ちつつ暗い夜空を横切る際に、ときたま乱される薄明だった。太陽の運行を意味していた光の帯も、すでに消え失せて久しかった。太陽が没することをやめたせいなのだよ――ただ西の空を上下するだけで、しかも次第に大きくなり、だんだんと赤くなっていった。月は跡形もなく消え失せてしまった。星の運行は以前にもましてのろくなり、這うように移動する光点でしかなくなった。やがて機械装置を停止させるちょっと前、ついに真っ赤でやたら大きくなった太陽が水平線上で動かなくなってしまった。鈍い熱気を放ちながら輝き、ときたま一時的に輝きが消える巨大なドームだ。あるときなどはほんの一瞬だけ再びぎらついたが、たちまちにぶくて赤い熱気体にもどった。こうして日の出と日の入りの速度が鈍化したのは、起潮力《タイダル・ドラッグ》が失われてしまったのだと判断した。地球はその片面を太陽に向けたまま止まっていた、まるでわれわれの時代に月がその片面を地球に向けるように。きわめて用心深く、僕は航行を逆進させはじめた、急停止して真っ逆さまに落ちたことを思い出したからだ。千日計は回転針のスピードが次第に落ちたあげく、動かなくなってしまった。一日計も、もはやかすんで見えるほどではなくなっていた。速度がさらに落ちていくと、人影のない海岸のかすかな輪郭がだんだんと見えてきた。
僕はひどくものしずかに構構を止め、時間旅行装置に坐ったまま、ぐるりとあたりを見まわした。空はもはや青くはなかった。北東の方向はインクを流したように黒く、その暗黒の中から青白い星が明るく、絶え間なく光り輝いた。頭上は深いインド赤におおわれ、星は一つも見当たらない。南東の方角は一段と明るく、地平線に切り取られた太陽の巨体が真っ赤に動かないあたりは燃えるような緋色《ひいろ》になっていた。周囲の岩場はけばけばしい赤みがかった色を帯び、一瞥したところでは、生命の気配というと、深い緑をした植物だけ。それは南東に面したあらゆる突出部をおおっていた。森林地帯で見かける苔か洞穴内にある地衣類とそっくりの鮮かな緑色だった。日の当たらない場所に育つ植物だね。
時間旅行装置は海岸の斜面に止まっていた。海は南西の方角に向かって広がり、薄暗い空を背景にいやに明るい地平線としてせり上がっている。岩に砕ける大きな彼もなければ、沖合いを走る小波もない、風はそよとも吹いていなかったからだ。ただねっとりしたうねりが静かな呼吸みたいに上下し、永遠の海がまだ息づいていることを物語っていた。そしてたまに海が打ち寄せる波打ち際は厚い塩の層が固まっていた――毒々しい空の下でピンク色を帯びながら。僕は頭に一種の重苦しさを感じた。呼吸が早くなっているのに気づいた。それはたった一回の山登りの経験を思わせたのだけれど、それに基づいて判断すると、空気がいつになく稀薄になっているということなんだね。
荒涼とした斜面のはるか上のほうで、荒々しい叫び声がした。巨大な白蝶のようなものが羽ばたきながらはすかいに舞い上がり、旋回してはるか低い丘陵のかなたに消えてしまった。その叫び声はひどく陰気くさくて僕は思わず身ぶるいし、前にもましてしっかりと時間旅行装置にしがみついた。いまいちど周囲を見回すと、すぐ近くで赤みがかった巨岩だと思ったものがゆっくりと僕に近づいてきた。見ると、まさしく怪物じみたカニのような生物だった。諸君、あそこのテーブルみたいに大きなカニを想像できるだろうか。たくさんの脚がゆっくりと心もとなげに動く。でっかい鋏《はさみ》が左右に揺れ、長い触角が御者の鞭《むち》みたいに振り回され、探る。金属的な頭部の両側から突き出た眼球がぎらぎらにらみつけるんだ。甲羅は波形の皺《しわ》が寄り、おびただしい数の小さな突起物におおわれ、あちこちに緑がかったかさぶたがこびりついていた。複雑な構造をした口もとにはたくさんの鬚《ひげ》が生えており、振り回すようにゆらいだり、何かを触知しようとしたりしていた。
この気味悪い化物が這うように近づくのを唖然として見つめていると、まるでハエが止まったかのように頬がむずかゆくなった。手で払おうとしたが、またまたむずかゆくなった。こんどはたちまちにして耳のあたりだ。思いきり手ではたいた。なにやら紐状のものが手についた。それはあっという間に手からすり抜ける。おそろしい不安にかられて振り向くと、もう一匹のカニの触角をつかんだのに気づいた。そいつは僕の後ろに立っていたじゃないか。意地悪そうな眼が細長い柄《え》の上でぎょろつく。口はさもひもじそうにぱっくりと開いている。その巨大で不格好な爪ときたら、どろどろした海藻類をからみつかせたまま、にゅっと僕に襲いかかろうとしてきた。その瞬間、僕はレバーに手をかけていた。これら怪物から自分を一カ月も引き離してしまったのだ。しかし、僕はそれでも同じ海岸にとどまっており、機械が止まるとやつらがはっきりと見えた。何十匹もあちこちと這いずり回っているように見えた、薄明かりの中、葉を敷きつめたような濃い緑の間を。
地上をおおったすさまじい荒涼感は筆舌に尽くしがたい。赤い東方の空、黒ずんだ北方の空、死海のような海、不気味な怪物がのろのろ這いずり回る岩だらけの海岸、ひとしなみ毒々しい様相を呈する深緑の地衣、肺臓を痛みつける稀薄な空気。ありとあらゆるものは、ただ唖然とさせられるばかりであった。僕はさらに百年ほど航行させた。すると、同じような赤い太陽があった――いくらか大きく、いくらか光度がにぶかった太陽――同じように死にかけている海、同じように冷たい大気、そしてやはり緑の藻や赤い岩の間を這いずるように出没するどろ臭い甲殻類がうようよいた。両方の空には、大きな新月に似た青白い曲線が見えた。
僕はこうしてときたま停止しながら、千年かそれ以上の、大きな歩幅で航行し、地球の運命をみまった神秘にひきつけられたのだ。僕は、太陽が西の空で次第に大きくなり、光が一段とにぶくなっていき、古い地球上の生命が衰えていく光景を不思議な力に魅せられたように眺めやった。ついに三千万年以上を航行すると、太陽の灼熱した巨大な赤いドームは暗い天空の十分の一近くをおおい隠すに至った。僕はいまいちど機械を止めた。這いずり回るカニの大群が消滅し、赤い海岸には青緑色の苔や地衣類を除けば生命がないように見えた。そしていまや白いものに点々と包まれていた。きびしい冷気が襲ってきた。時として白片がまばらに落ちてくる。北東の方角では、星がきらめく暗い空の下に積雪が光り輝いていた。丘陵の起伏がある頂上が赤みがかった白色に見えた。海岸線には氷の縁が張り、沖合いには氷塊が漂流しつつあった。しかし大海原の広大な部分は、恒久的な日没で真っ赤に染まりながら、決して凍結するようなことはなかった。
僕はもしや動物が生き残っていまいかとあたりを見回した。一種いいようのない不安が、依然として僕を時間旅行装置にしがみつかせていた。しかし地にも空にも海にも、動くものとて何ひとつ見当たらなかった。岩場にこびりつく緑のどろどろしたものだけが、生命はまだ絶滅していないことを物語っていた。浅い砂州が海の中にあらわれ、潮はすっかり引いていた。この砂州に何か黒いものが、もそもそ動いているのが分かったが、じいっと見ていると、それは動かなくなった。見まちがえたかなと思った。あの黒いものはただの岩だろうか。空の星はいやに明るく輝き、あまりまたたいていないように思われた。
突然、西の空をほとんど占めていた太陽の円い輪郭が変わっているのに気づいた。円い輪郭の中に一つのくぼみ、入江らしきものが現われたのだ。一分ほど唖然としながら、黒い闇が陽をおおっていくのを眺めやった。日食が始まったと思ったのだよ。月か水星が太陽の正面を横切っているのだろう。当然のように、最初は月だと思った。ところが、よく考えてみれば、自分が本当に見たものは地球の間近を通る内側の遊星ともいうべき天体通過にちがいないと思った。
暗闇が早まった。冷たい風が東のほうから新たな勢いを得て激しく吹きだし、空から舞い降りていた白片はおびただしく数を増していった。岸辺から波のさざめきが聞こえてきた。こうした生命のない物音のかなたでは、世界が沈黙していた。その沈黙だがね、その静けさといったら説明のしようがないんだ。人間のたてる雑音、羊の鳴き声、鳥のさえずり、昆虫の羽音、われわれの生活の背景をなす活動――そうしたあらゆるものは消え失せていた。暗闇が濃くなると、降りしきる白片は目の前を踊るように激しくなった。寒気はいっそう厳しくなった。ついに、はるかなる丘陵地の白い峰が一つまた一つ、次々とたちまち暗闇にのみこまれていった。微風はうなり声を発しはじめた。日食の主体をなす黒い影が僕をめがけて迫ってきた。と、青白い星しか見えなくなってしまった。それ以外はあらゆるものが光を失った。やがて空は真っ暗になった。
この大いなる暗黒が僕をおびえさせた。寒気は骨身にしみこみ、呼吸するたびに覚える痛みは僕をぶちのめした。僕は思わず身ぶるいし、恐ろしいむかつきが襲ってきた。すると、空には灼熱した弓のごとく太陽の端がのぞいた。僕は機械から降りて元気をとりもどそうとした。めまいがして、帰りの旅はとてもおぼつかないように思われた。胸がむかつき、こんぐらがって突っ立ったまま、再び砂地でうごめいているものに目をやった――海の赤い水を背にしてね。それはまるい形をし、蹴球大かそれ以上の大きさがあったろうか。何かの触手が長々と垂れさがっていた。うねる血のように赤い海を背にすると、黒ずんで見えた。それは思い出したようにひょいひょい跳ねていた。やがて僕は気を失いそうになった。しかし、この荒涼とした薄明の世界に心もとなく横たわる空しさを考えたら、機械のサドルに這い上がっていかないわけにいかなかった。
十二
「こうして僕は帰ってきた。長いあいだ時間旅行装置の上に気を失っていたにちがいなかった。またもや昼と夜とがめまぐるしく変化するようになり、太陽は再び黄金色に輝き、空は青くなった。僕はもっと楽に呼吸できるようになった。地上の等高線が潮の干満みたいに変化を見せた。計器の針が文字盤を逆回転する。やっとのことで建物のぼんやりした形が見えだしたが、それは人類滅亡の未来世界だった。これまた変化して通りすぎ、そして別のものが現われた。さらに百万日計の針がゼロを指したとき、僕は速度を落とした。われわれの小さなお馴染みの建物が見えはじめた。千日計の針が起点にもどり、夜と昼の交代がだんだんと遅くなった。すると、研究室の懐しい壁が周囲に見えてきた。ひどくゆっくり、僕は機械の速度を落としていった。
ちょっとしたことだけれど、奇妙に思われるものが見えた。前にもお話したと思うが、出発時のまだそう速度が高くなかったとき、家政婦のミセズ・ウォチェットが部屋を横切って行くのが飛んで行くロケットみたいに見えた。研究室に帰ってきたら、やはり彼女が室内を横切る瞬間にいま一度ぶつかったのだ。ところが、彼女のありとあらゆる動作は、前回のそれとはまったく逆さまであるように思われた。庭へ出るドアが開き、そしてもの静かに、それも後ろ向きに研究室へ入り、前回入ってきたドアから後ろ向きに出て行った。そのちょっと前にも、召使のヒリヤーが垣間見えたような気がした。しかし、彼は稲妻のように消え去った。
やがて僕は機械を止め、あたりを見回して、使い馴れた研究室も道具も機械も出発した当時と少しも変わっていないのを知った。えらくふらつきながら時間旅行装置から降り、長椅子に腰かけた。数分間というもの、僕は激しくふるえつづけた。それからおいおい落ち着いてきた。身の回りは、昔とそっくりそのままの懐しい仕事場だった。僕はここでぐっすり眠りこんでしまい、夢を見たのだろうか。
といって、まったく昔のままというわけじゃなかった! 時間旅行装置は研究室の南東の一角から発進したが、こんどは北西の片隅に帰ってきたってわけさ。諸君が装置《マシン》を見かけた壁の正反対なんだね。それは未来世界のあの小さな芝地からモーロック人に機械を運びこまれた白スフィンクス像までの距離に相当する。
しばらくの間、僕の頭はあまりはっきりしなかった。やがて僕は立ち上がり、足をひきずりながら、この部屋に通ずる廊下をやってきたのだ。踵がまだ痛み、ひどく汗やほこりに汚れていると思った。ドア近くのテーブルに置いてあるペル・メル新聞をのぞいてみた。まちがいなく今日付けの新聞であり、時計をみると、午後八時に近かった。諸君の語し声や皿のがちゃつく音が聞こえた。僕はためらった――気分が悪くて、体が弱っていたからだ。そしたら実にうまそうな肉料理の臭いがして、食堂のドアを開いたわけさ。あとは諸君のご承知のとおりです。僕は風呂に入り、食事をとって、いまこうして諸君に話をしているところなのだ」
「そりゃ分かってるとも」ひと息入れてから、彼はさらに話をつづけた。「諸君にとって何もかも絶対に信じがたい話だってことはね。僕にとって信じがたいことの一つは、今夜、こうしていま馴染み深い部屋にもどり、親しく諸君と顔を合わせながら、さっきのような不思議な冒険をやっているということなんです」
時間旅行家は医者のほうを見やった。「いや、少なくとも君が信じてくれるとは期待していないよ。夢物語と思ってもかまわんさ――あるいは予言とでもね。仕事場で一場の夢を見たのだというがいい。僕が人類の運命を考えているうちに、こんなばかばかしい作り話をでっちあげたと考えてもいい。うそ偽りない話だと主張するのは、面白さを高めるための他愛ない手だといなしてもよい。しかしこれを作り話だとしたら、諸君はどう思うかね?」
彼はパイプをつまみ上げると、いつもの馴れきった手つきで暖炉の炉格子をいらだたしそうにたたいた。一瞬、沈黙があった。やがて椅子がきしみ、靴が敷物をこすりはじめた。私は時間旅行家の顔から視線をはずして、聞き手の顔をぐるりと眺めまわした。彼らは暗がりの中に坐し、その前を暖炉の小さな焔がゆらめいていた。医者は当家のあるじを懸命に観察しているらしかった。編集長は葉巻の先端をじいっとにらんでいた――六本目の葉巻であった。新聞記者は懐中時計を手探りした。私のおぼえているかぎり、他の者は身じろぎもしなかった。
編集長は溜息をついて立ち上がった。「残念だね、君が小説家にならなかったのは」そう言って、彼は時間旅行家の肩に手をかけた。
「信じてくれないんだね?」
「そんなところだ」
「そうだろうと思ったよ」
時間旅行家は私たちのほうを振り向いた。「マッチはどこだね?」彼はマッチをすって、煙を吹かしながら言った。「実をいうと……この僕だって信じられないくらいさ……それでも」
彼は黙ったまま、小さなテーブルのしぼんだ白い花々に問いかけるような視線をやった。それからパイプを持っていた手を返し、指の関節に見えるなおりかけた傷跡を見つめた。
医者が立ち上がり、ランプに近づいて花をあらためてみた。「雌しべが奇妙だね」と医者は言った。心理学者は身を前に乗りださせ、一本の花に手を伸ばした。
「おや、もう一時十五分前じゃないか」と、新聞記者。「どうやって家へ帰りゃいいんです?」
「駅にいけば、辻馬者がたくさんあるさ」心理学者が言った。
「おかしな花だ」医者は言った。「植物学の上からみてどんな種類に属するのか見当もつかない。もらってもいいかね?」
時間旅行家はためらい、そして不意に言った。「とんでもない」
「ほんとに一体どこで手に入れたんだい?」医者が言った。
時間旅行家は手を頭にやった。自分から逃げていこうとした考えを引き止めようとするかのような口のきき方だ。「未来世界に飛んだとき、ウィーナがポケットに入れてくれたのさ」彼は室内をねめまわした。「それが現実でなくてなんだろう。この部屋だって、諸君だって、毎日の雰囲気だって、忘れようと思っても忘れらりゃしない。僕は時間旅行装置を作ったはずだ、その模型もね。それをすべて一場の夢だというのかね? 人生は夢、時として尊くもはかない夢だとよくいわれる――しかし、僕は役に立たないような夢には用がないんだ。そいつは気違いじみた話さ。それにしても、あの夢はどこからきたのだろう?……機械をこの目で確かめてみなければ。もし|現に《ヽヽ》その機械があるのだとしたらね」
彼はさっとランプを持ち上げると、赤い焔をゆらゆらさせながらドアから廊下へと運んで行った。私たちもそのあとを追った。ランプのちかちかする灯影に照らし出されて、そこにまぎれもなく機械装置があった。うずくまるようにした醜い、いびつな姿である。真鍮、黒檀、象牙、そして透明にきらめく石英から成る。触れると固かった――私が手を伸ばしてレールに触ってみたのだ――象牙の上には褐色の斑点や汚れが付着して、下方の部分には草や苔類がこびりつき、一本のレールは飴のようにねじれていた。
時間旅行家はランプを長椅子の上に置き、傷んだレールをいたわるようにさすった。「うん、これで間違いはない。諸君にご披露した話はすべて本当です。寒いところまで引っ張って申し訳ありませんがね」彼はランプを持ち上げた。私たちは押し黙って喫煙室にもどった。
彼はホールまで送りに出てきて、編集長に外套を着せてやった。医者は時間旅行家の顔をのぞきこみ、ちょっとためらいがちに君は働きすぎだと言った。すると、彼は大声をあげて笑った。開かれた戸口にたたずみ、お休みと怒鳴っていた光景をいまでも覚えている。
私は編集長と同じ馬車に乗った。彼は時間旅行家の話を「安っぽい嘘」と決めつけた。私としては結論の下しようがなかった。話の中身があまりに途方もなく、信じがたかったと同時に、語り口はすこぶるもっともらしく、生真面目であった。そのことを考えながら、私は同夜ほとんどまんじりともしなかった。あくる日、もういちど時間旅行家に会いに行こうと思った。出かけてみたら、研究室にいるという話であり、彼とはじっこんの仲だったから、そのまま研究室に通った。ところが、研究室はからだった。しばらく時間旅行装置を見つめ、手を伸ばしてレバーに触れてみた。すると、ずんぐりした頑丈そうな機械は風にそよぐ大枝のようにゆれた。機械の敏感性がひどく私を驚かせた。ふと、やたら物をいじってはいけないという少年時代のことが不思議にも思い出されたのだった。私は廊下を通りぬけてもどった。時間旅行家とは喫煙室で会ったが、奥から出てきたところであった。片方の脇下に小さなカメラを、もう一方の脇下にはナップサックを抱えこんでいた。私の姿を目にすると笑いかけ、手の代わりに肘を突き出して私の握手を受けた。「忙しくてしようがないんだ、あんなものが研究室にあるおかげでね」
「しかし、あれは人をかつぐためのわるさじゃないのかね? ほんとに時間旅行ができるのかい?」
「できるとも、ほんとに」そして彼は私の顔をまじまじとのぞきこんだ。しかし、彼はちょっと躊躇した。視線が室内を泳いだ。「ほんの三十分ありゃいい」と、彼は言った。「なぜ君がやってきたのか、僕には分かっている。ほんとによく来てくれた。ここに雑誌がある。昼食まで待ってくれるなら、この時間旅行とやらをすっかり教えてやる、ぴんからきりまでな。だから、いまはちょっと失敬させてくれないか」
私は承知した。そのときは彼が何をいわんとしていたのかまるで分かっていなかったのである。彼はうなずいてから廊下を出て行った。研究室のドアがばたんと閉まるのが聞こえた。私は椅子に坐り、新聞を手にした。昼食までに何をしでかすつもりなのだろうか。するとある広告記事を見て、午後二時に出版業者のリチャードソンと会う約束がしてあることを急に思い出した。私は時計をのぞきこんで、このままではその約束がとても守れそうにないと思った。私は立ち上がり、廊下を通って時間旅行家にその点を断わりに行った。
ドアの把手に手をかけたときである、叫び声が聞こえたのは。奇妙にもその声はふっと途切れ、かちっ、どすんという音がした。ドアを開けると、一陣の風がさっと吹き寄せた。そして室内からガラスが壊れて床に落ちる音がした。時間旅行家の姿はそこになかった。ただ一瞬、回転する黒と真鍮の物体に坐っているおぼろで形のはっきりしない人形が見えたように思われた――あまりにも透明な人影だったから、その向こう側にある長椅子上の設計図などがいやにはっきりと見えた。しかし、この幻のような人影も、私が眼をこすっている間に消え失せてしまった。時間旅行装置は飛び発ったのだ。研究室の一角は、ぱっと上がったほこりが落ちてくるのを除くと、からになっていた。天窓のガラスが一枚、どうやら風に吸いこまれたらしかった。
私は言いようのない驚きを感じた。なにやら異常な事態が発生したにちがいないと思った。さしあたって、その異常事態の見当がつかなかったのである。茫然とたたずんでいたら、庭へ通ずるドアが開いて召使が姿を現わした。
私たちは顔を見合わせた。私はやっとわれに返った。「ご主人はそこから出て行かれたのかね?」
「いいえ、どなたさまも、ここからは出て行かれませんよ。旦那さまはこちらじゃないかと、いまこうしてうかがったところなのですが」
それで何もかもはっきりした。リチャードソンをがっかりさせる危険も冒して私は踏みとどまり、時間旅行家の帰りを待つことにした、こんどはもっと不思議な話が聞けるだろう、おまけに標本や写真も持って帰るだろうと思って。ところがいまは、一生かかっても待たなければならないような気がしはじめているのである。時間旅行家が姿を消してからもう三年になる。そしてご承知のとおり、彼はまだ帰ってきていないのだ。
エピローグ
私たちはただただ首をひねらざるをえない。彼は帰ってくるのだろうか。もしかしたら、彼は過去の世界に飛んで行ったあげく、旧石器時代の血にかつえた毛だらけの野蛮人につかまったのかもしれない。それとも白亜紀の底知れぬ深海か、ジュラ紀の醜悪なトカゲや巨大な爬虫類の怪物の真っ只中に飛びこんだのかもしれない。今も――この言葉を使わせてもらうとすれば――蛇頚竜が闊歩するジュラ系の珊瑚礁の上か、三畳紀の荒涼とした塩湖のほとりをさまよい歩いているのかもしれない。それとも前進して近い未来の時代にでも入って行ったのか。そこでは人間が依然として現代の人間と変わりはなく、われわれの時代で謎であったものに解答があたえられ、うんざりするような問題が解決されているのではないだろうか。それは成熟した人類の世界である。なぜなら、私にいわせれば、現在のように実験が貧弱で理論も断片的、相互間の調和がとれていない時代は、お世辞にも人類の最盛期とは言えないからだ! むろん、私の立場からした考えである。私には分かっているが――時間旅行装置が完成されるずっと以前から論じ合ってきた問題だからだけれど――彼は「人類の進歩」を悲観的にしか考えず、文明の増大する蓄積をただばかげた積み重ねと考えていた、つまり結局は必ずや崩れ落ちて、その建設者を押しつぶしてしまうというのだ。もしそうだとするなら、われわれはそうでないようなポーズをとって生きていくしかない。しかし私からすれば、未来というのはまだ黒々とした空白の世界である――広大な未知教であり、彼の記憶で語られた話の二、三個所が照らし出しているだけである。しかし私の手もとには、心の慰めとして二つの奇妙な白い花が残っている――今はひからび、褐色に変じた上、ひしゃげて粉々になりそうだが――それを見るにつけて、人間の知力や体力が失われたとしても、それは感謝やいたわり合うやさしさがまだ人間の心に生き続けている証拠だといえるだろう。  (完)
解説
H・G・ウェルズは一八九〇年代の末期に小説家として名をなし、壮年期から晩年にかけては啓蒙的な社会思想家、警世的な文明批評家として二十世紀前半の同時代人に多大の影響をあたえた。
しかし現在、H・G・ウェルズが記憶されているのはSF小説の創始者としてである(むろん、創始者としての栄光をフランスのジュール・ヴェルヌと分かち合っていることは断わるまでもない)。一九四六年八月十三日、七十九歳で世を去ったとき、たとえばアルゼンチンの名高い幻想詩人ホルヘ・ルイス・ボルヘスは『初期のウェルズ』という一文で次のようにたたえた。
「ウェルズは社会学者的な傍観者の役割を演ずる前までは驚嘆すべきストーリー・テラー(物語作家)であり、スウィフトやエドガー・アラン・ポーの簡潔な文体の継承者であった……彼は浩瀚《こうかん》な著作を残したが、私が一番気に入ったのは『タイム・マシン』『モロー博士の島』『プラトナー物語』『月世界最初の人間』といった一連の途方もない奇譚《きたん》である。いずれも私が読んだ最初の書物であり、おそらく私が読む最後の書物となるだろう……これらの作品は作者の名声を越え、よしんば英語が死滅したとしても、永久に生き続けるものと思う」(ルース・シムズ訳)
ボルヘスのいう不滅の文学作品とは常にさまざまな可能性を内蔵する。『タイム・マシン』以下の作品群を作者は自ら「空想科学物語《サイエンティフィック・ロマンス》」と命名したが、それは今や隆盛をきわめるSF小説という独自の文学ジャンルを生むに至った。以後、SF固有の想像力がどれほど人間世界の視野を拡大してきたか測り知れない。
ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells)は一八六六年九月二十一日、イギリスのケント州ブロムリーで生まれた。四人きょうだいの末っ子であった。父は小さな瀬戸物屋を営みながら、プロのクリケット選手として家計を補い、母親もまた他家の小間使に出て働かなければならなかった。十一歳のとき父が大けがをし、母は家政婦となって一家を支えた。商業学校を出ていたウェルズも徒弟奉公に出され、五年間、転々と奉公先を変える。本が好きで、仕事に身が入らなかったためである。独学の末、特待生として科学師範学校の入学を許され、生物学の教師となるが、この間、ほとんどの資格試験を最優秀の成績でパスした。在学中、「進化論の番犬」といわれたT・H・ハクスリー教授に学んでいる。
生い立ちを見ても分かるように、ウェルズは階級制の厳しいイギリス中産階級の最下層に属し、まかり間違えばどん底生活に転落しかねない危険にさらされてきた。少年時代からこのような危機感に絶えず脅やかされていたらしく、やがてダーウィンの進化論に心酔したり、あるいは社会主義に移行したり、ユートピアンとして生涯を貫くことになるのも、こうした危機感から脱出する試行錯誤であったといえるかもしれない。
危機感は恐怖心を伴うものであり、ウェルズの場合はとくにそれが強かったようだ。しかしそのために彼の想像力が一段と陰影を帯びるに至ったのも事実で、一連の文学作品に異様な戦慄を生み出している。一方、恐怖心は思想形成の上で歯止めとなり、進化論にも社会主義にも徹しきれず、しばしば時代の激動にゆらぐ一因となった。
ウェルズは苦労力行の士であった。旺盛な読書欲は少年時代からのもので、後年の百科全書的な博覧強記はそのような蓄積から生まれた。小説類も盛んに読みあさり、二十二歳の頃、貧困から脱出する最短距離の途として作家になることを考えた。最初の習作『|時間航行の冒険者たち《クロニック・アルゴノーツ》』を校友会の雑誌に連載するが、三回で投げ出してしまった。収拾がつかなくなったからである。
二十三歳のとき、生物学の教科書を書いたのがきっかけで科学的な読物や評論にも手を伸ばすようになり、ほどなく新進の科学ジャーナリストとして生活が安定した。この間、彼は先の習作を六回も書き直したといわれ、七年後の一八九五年、ついに『ザ・タイム・マシン』と改題して雑誌に発表、ついで出版の運びとなる。
時代はあたかもイギリス帝国最も華やかなりしヴィクトリア王朝、しかし爛熟の裏側では貧富の差がますます拡大されて階級対立が激化し、一方で電話、蓄音機、自動車を軸とした科学発明は無限の可能性を示唆しながら、人類の未来にいい知れぬ不安を抱かしめていた。
このような時代風潮の真只中で『タイム・マシン』は登場したのである。それはイギリス文学の伝統ともいうべきユートピア小説を逆用し、戦慄と恐怖が支配する人間の未来社会を幻想味豊かに描いたものであった。ジャーナリズムはディケンズ以来、久しぶりに出現した非エリート系の新人作家を「天才」と呼んで賛辞を惜しまなかった(小説家は上流階級か中流中層以上の者で、オックスフォードかケンブリッジ大学の出身者が多かった)。
『タイム・マシン』が世人を驚かせたのは、文字盤に刻まれる時間の概念を突破した発想もさることながら、作者が時間を越えるためにタイム・マシンという怪しげな機械を発明した点であった。
時間の壁を突破するのは多くの先人が試みた手法で(スウィフトやルイス・キャロル、ディケンズといったように)、決して珍しいことではない。しかし、そのために機械を用いたのは、たとえそれが「怪しげな」疑似マシンだったとしても、H・G・ウェルズが最初であった。むろん、すでにジュール・ヴェルヌが機械を用いているが、それはタイム・マシンのような途方もない機械ではなく、潜水艦とか気球とか、当時としてはいかにも機械らしい機械であった。ウェルズとヴェルヌとが根本的に違う点なのである。昨今のSF小説が用いる手法をみても、ウェルズの着想がどれほど創見にみちたものであったか分かるだろう。
もっとも、「怪しげな」機械であることは、八十万年後の人間社会を訪れるのに甚だ好都合である。機械が「怪しげ」なら、八十万年後の人間社会もまた奇怪である。さらにすこぶる科学的な題材を扱いながら、叙述は非常に曖昧で、この作品をとうてい「科学的に」説明することはできない。つまり、この作品を科学的に説明してはならないということなのだ。
ところが、曖昧模糊とした空想世界を一つの象徴的な幻想物語に高め、芸術作品として永遠の生命を吹きこんだのは、ボルヘスも指摘しているようにその簡潔な文体であった。これまたヴェルヌの作品に見られない点である。
ところで、作者は『タイム・マシン』で人間の未来社会を描いたにもかかわらず、これを労働者の犠牲において発展する十九世紀末の文明社会に向けたH・G・ウェルズのアンチテーゼと見る批評家が多い。当時、機械を基盤とした工業発展はやがて地上の楽園をもたらすだろうという進化論的な楽観論と、地上の楽園どころか貧困や犯罪が増大して人間は機械の奴隷になるだろうという退化論的な悲観論とが対立していた。『タイム・マシン』は後者の悲観論に立っていたというのである。
それは地上人エロイと地下人モーロックといった図式で示される。人類の進化が極点まで達すると、資本家階級の子孫であるエロイ人と労働者階級の子孫であるモーロック人しか生き残らない。エロイ人は怠惰で優雅な毎日を送り、モーロック人は地下で機械と共に棲息している。この過程はすでに十九世紀イギリスの都市構造に現われていたと説明される。
しかしながら、ほどなくエロイ人はモーロック人の食肉用として飼育されていたことが判明する(作者は推理小説のような手法で、このあたりの消息を鮮やかに叙述するのである)。モーロック人は今やエロイ人に代わって人類の「主人」であるが、その彼らとてもダーウィニズム的な「環境の動物」であることには変わりがない。
『タイム・マシン』で人類は進化の極点から一転して退化の途をたどり、原始時代にもどりつつあるわけだけれど、作者がこのような生態のモーロック人を描いた心理的動機といえば、先に述べた労働者階級へのひそかな恐怖感だったと考えてよい。そして全編に漂う終末論的なニヒリズムから読者をかろうじて救ってくれるのは、ウィーナが時間旅行家のポケットに忍ばせた一輪の花だ。それが人間性の象徴だからである。
『タイム・マシン』の中で山火事が発生し、モーロック人が逃げまどったり、火焔の中に飛びこんで死を遂げる場面がある。それは地球の終末的な描写とともに本編の圧巻である。この火事により、モーロック人の奇怪な生態が初めて白日のもとにさらされるが、以後の作品で、作者は物語を転換させる重要な道具として偏執的なまでに火事を用いる。火事は恐怖心を一種の狂的なスリルに転化させる。そういえば、ウェルズは私生活においても公的生活においても自らを焼き尽くすような狂気があった。ユートピアを語り、過去を記述し、教会やファシズム、共産主義と闘うに当たって、自己撞着など少しも意に介さず、楽観論と悲観論との間を大きく揺れ動いたのは、案外、この狂気がなせる業であったかもしれない。
H・G・ウェルズは『タイム・マシン』に続いて『モロー博士の島』(一八九六年)、『透明人間』(一八九七年)、『宇宙戦争』(一八九八年)、『月世界最初の人間』(一九〇一年)などと、現代SF小説の原型ともいうべき「空想科学物語」を発表し、作家的地位を築くのである。
◆タイム・マシン◆
H・G・ウェルズ/新庄哲夫訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1