H・G・ウェルズ/宇野利泰訳
宇宙戦争
目 次
第一部 火星人の襲来
一 戦争前夜
二 ながれ星
三 ホーセル公有地で
四 シリンダーがひらく
五 熱線
六 チョバム・ロードの熱線
七 家にたどりついて
八 金曜日の夜
九 戦闘開始
十 嵐のなか
十一 窓ぎわで
十二 ウェイブリッジとシェパートンの惨状
十三 牧師補との出合い
十四 ロンドンにて
十五 サリーでの出来事
十六 ロンドン脱出
十七 『雷児』
第二部  火星人に支配された地球
一 脚下に
二 廃屋からのぞく
三 閉じこめられた毎日
四 牧師補の死
五 静寂
六 十五日目の出来事
七 パトニー・ヒルの男
八 死都ロンドン
九 破壊の跡
十 エピローグ
解説
第一部 火星人の襲来
一 戦争前夜
十九世紀の末において、このおそるべき事実を知っていた者が、はたして何人いたことであろうか? われわれの住む地球は、われわれの知能をはるかに凌駕する生物によって、するどく見守られ、周到綿密に観察されていたのである。その生物たるや、われわれ人類同様、生き、かつ死に、そしてその眼で、われわれ地球人がこの世の営みにあくせくしているさまを、顕微鏡下の水滴中にうごめき、繁殖をつづける微生物でも見るように、観察と研究とをつづけているのだった。
その間われわれ人類は、物質の支配に成功した思いあがりから、無限の自己満足に陶酔し、意味もない日常|瑣事《さじ》に追いまくられ、地球上を右往左往していたにすぎなかった。それは顕微鏡下に見る滴虫類のうごきと、なんら異なるところがなかったといえよう。宇宙間に存在するより古い星の世界に、われら人類の危難の涙がひそんでいようとは、夢にもおもいを馳せなかったのだ。
かりに、それらの天体をおもいうかべるものがあったにしても、そこに生命が息づいている事実は、われわれ地球人の想像のほかにあった。すぎ去ったそれらの日における人類の思考傾向は、回顧してみただけでも、じゅうぶん奇異の感をいだかせられる。なかでもっとも奇抜といえるものは、火星に限って、別種の生物が棲息する可能性はあるが、それはわれわれ地球人にくらべて、はるかに知能の劣った存在であり、当方から使節団でも派遣すれば、よろこんで迎え入れるであろうとの空想であった。
だが、なんぞ知らん、宇宙空間の深淵をへだてたその世界には、われわれ人類と滅びゆく動物の相違以上の差をもった優秀な知性が、冷徹非情の眼に羨望の火を燃やして、この豊穣肥沃な地球の土地を観測していたのである。それによって彼らは、慎重確実に、地球への侵略計画を樹立しつつあった。そしてその結果、二十世紀の初頭にいたるや、ついにわれらに、大いなる幻滅を味わわすにいたったのだ。
あらためていうまでもないことだが、火星と呼ばれる惑星は、一億四千マイルの平均距離をもって、太陽の周囲を回転している。それが太陽から受ける光と熱は、われわれの地球が受けるものの半ばにすぎない。かりに星雲説の教えるところが正しいとすれば、それはわれわれの世界よりも古くから存在し、この地球が融解の状態をはなれるはるか以前に、すでにその表面には、生命のうごきが見えていたことになろう。体積が地球の七分の一にも達しない事実が、より速くその地殻を、生命の発生に適当な温度に冷却させたにちがいない。そこには空気もあり、水もあり、そのほか、生物を維持するに必要なものは、すべて存在しているのである。
しかし、うぬぼれつよく、虚栄心に盲《めし》いた地球人は、十九世紀の末にいたるまで、そこに、われわれ人類をはるかに超える能力をもつ知的な生命が発達していること、いや、そういった生物の生息している事実さえ、みとめようとしなかった。学者のうちにも、それについての意見を発表したものは、ひとりとして見受けられないのだ。そしてまた、火星はわれわれの地球に比して、成立が古く、表面積は四分の一にみたず、太陽からの距離もへだたっているとの事実から、その生物は必然的に、発生当初の状態にあるというより、すでに末期に近づいていると考うべきであるのに、それもまた一般の了解するところとはならなかった。
いつの日か、われわれの世界をおそうであろう地殻の冷却が、この隣人の世界においては、とうのむかしから進行しつつあった。その物理的条件こそ、いまだにそのほとんどが、謎の域を脱していないが、現在までに判明したところでも、火星の赤道地帯における正午の温度は、わが地球での厳冬のそれに達していないのである。空気もまた、われわれの世界に比していちじるしく稀薄であり、海洋は収縮し、地表のわずか三分の一をおおうにすぎない。気候の変化は緩慢をきわめ、その南北の極にあっては、雪冠が積っては融け、定期的に温暖地帯にむかって、洪水をひきおこす。これらすべては、死滅の最終段階を示す徴候であり、われわれにとってこそ、信じられぬほど遠い将来の危惧であるが、かれら火星の住人としては、切実このうえもない今日的の問題といえるのだ。さしせまった必要性は、彼らの知力をとぎすまし、その能力を拡大させ、心情を冷酷なものに変えた。かくてかれらは、その発達した機械力と、われわれが夢想だにしない卓抜な知能を駆使して、宇宙空間を観察するうちに、太陽方向にわずか三五〇〇万マイルの近接距離に、希望にみちた暁の明星、より温暖な惑星、みどりの色濃い植物、灰色の水、豊饒を告げる雲をうかべた大気、そして、漂う雲の切れ目から、生物のひしめきあう大地と、船舶のむらがりうごく海洋とを発見したのであった。
そして、この地球上に住む生物であるわれわれ人類は、かれらにとって、すくなくとも異質の種族、いわばわれわれの眼にうつるサルやキツネザルに似た低級な存在である。人類の知性は、この世に生きることを、生存のためのたえまない争闘であると教えているが、それは火星人にとっても、同様な信条であった。かれらの世界は、すでに冷却の極に達している。われわれの地球は、いまなお生命にみちあふれている。しかもそこには、かれらの眼からすれば、低劣な動物がよりつどっているにすぎない。事実、太陽により近い星にむかって戦端をひらくだけが、彼ら火星人として、刻々と忍びよってくる破滅をまぬがれる唯一の道といえるのだった。
彼らを冷酷に批判するまえに、われわれそのものが、いかに残忍に、野牛《バイスン》やドードー鳥〔かつてインド洋のモーリシャス島に棲息していたが〕といったものを狩りあさったか。いや、すでに絶滅した生物ばかりでない。おなじ人類のうちでも、劣等な種族とみると、これにくわえて恥じなかった残虐を想いおこすべきである。タスマニア人〔かつてオーストラリア南東部の島に住んだ種族〕は外見からいっても、りっぱな人類の一種族であったが、ヨーロッパからの移住民がくわだてた絶滅戦争によって、五十年のあいだに、完全にこの世からあとを消した。火星人が同一の精神をもって、われわれに戦闘をいどんできた場合、それを正当に非難できるほど、われわれは慈悲の使徒といえるであろうか?
火星人はかれらの侵略時期をおどろくほどの精密さで計算した。あきらかにかれらの数学的知識は、われわれのそれとは、比較の余地もないまでに進歩していたのであるが、その結論は、火星人のほとんど全員から承認されて、着々とその準備がととのえられていたと推察される。われわれの観測器具が、より高性能でありさえすれば、すでに十九世紀の初期において、このおそるべき危険がひっ迫しつつあったことを知りえたはずなのだ。たとえば、スキアパレルリ〔ジョバンニ・ヴルジーニョ・スキアパレルリ。一八三五〜一九一〇、イタリアの天文学者。火星の表面に細長い溝を発見した〕のように、この赤い星の観測に意をそそいだ学者はすくなくないが――ついでながらいいそえるが、太古以来この惑星が、|戦いの星《マルス》〔マルスはローマ神話の軍神〕の名をもって呼ばれていたことは、偶然とはいえ不思議な現象といえよう――しかし、これらの学者たちは、火星上に現われる地形の変動をあざやかに捕えながら、その解釈をあやまった。その間すでに火星人は、侵攻態勢をととのえつつあったにちがいなかった。
一八九四年の衝《しょう》〔惑星が太陽と正反対の方向にくること〕のあいだに、火星の光輝のつよい部分に、いっそう大きく光芒のきらめくのが観測された。最初がリック天文台、ついで、ニースのペロタンによって発見されたが、さらにつぎつぎと、多数の観測者の眼にとまり、イギリスの読者も、八月二日付けの『ネイチュア』誌で、それを読むことができた。筆者の見解によれば、このきらめきたるや、彼ら火星人が大型砲を発射したものにちがいなかった。広大な孔をうがって、そのなかに据えつけ、われわれの地球めがけて、何発かを発射したのであろう。その後、二回の衝にさいしても、その現場付近に、いまだに天文学者たちが説明に成功していない異様な徴候が観測されたのであった。
いまから六年以前のことであるが、強烈なあらしが、われわれの地球をおそった。火星が衝に近づいたとき、ジャヴァのラヴェルはこの惑星の表面に、白熱光を発するガス体の大爆発をみとめ、胸をときめかしながら、天文情報交換所へ電信を打った。その事実の生じたのは、十二日の真夜中ちかくで、彼はすぐさま分光器を使用したところ、水素を主要素とする燃焼性のガス体が、おどろくべき速度をもって、地球めがけて突進しつつあることを知った。火の噴射は、十二時十五分すぎまでつづいて、それからは見えなくなった。惑星から、急激かつ強烈に噴出するその巨大な焔を、この天文学者は偶然ながら、【大砲が吐き出す、燃えあがるガス体】にたとえていた。
それが異様なほど的確な表現であったことは、その後の経過によって証明された。ただし、その翌日の新聞には、どこもそれをとりあげるだけの意向をしめさなかった。わずかに『デイリー・テレグラフ』だけが、いたって小さな記事をのせたにとどまって、不幸にも全世界は、やがて人類を慄《ふる》えおののかす最大の危険を知らされることなくしておわった。ぼく個人にしたところで、たまたまオターショーの町で、当時著名な天文学者オーグルヴィ氏に会う機会がなければ、火星上におけるこの噴火の事実について、なにひとつ知らずにいたことであろう。氏はこのニュースにいたく興奮して、感動のあまり、ぼくを観測所に招待してくれた。その夜いっしょに、赤い星を綿密に観測しようではないかと誘ってくれたのだった。
その後、奇怪な事件が、ひきつづいておこることになったが、いまだにその夜のことは、はっきりと記憶の底にのこっている。音もなくしずまりかえったまっ暗な観測所では、片すみに遮蔽したランタンがおかれ、ぼんやりした光を床の上に投げかけている。望遠鏡に付属した時計がたえず秒針をきざんで、天井にのぞかれる小さな割れ目から、くろぐろとした長方形の深淵が、そのいたるところに星くずをちりばめて、底知れぬ闇をのぞかせていた。オーグルヴィ氏は観測所内をあるきまわっているのだが、足音が聞こえるだけで、姿は闇にかくれて見えない。望遠鏡を通じて天空を見わたすと、濃紺の輪のうちに、小さな円形の惑星が、空間を遊泳しているさまが見てとれる。それはいかにも小さな物体のようにながめられた。あかるく光輝を放っているものの、なんといっても小規模すぎて、ちょっと見ただけでは静止の状態にあるかのようだ。表面に横縞が走っているのが、かすかながらうかがわれて、それは完全な球状というより、いくらか平べったい形とおもわれる。それにしてもあまりにも小さすぎる。銀色のあたたかみをもつピンの頭といった光である! それがふるえているように見えるのは、つねにこの惑星を視野のうちに捕えておくために、時計仕掛けでうごかされている望遠鏡自体の震動にあったのだ。
観測しているうちに、惑星はその大きさを変え、前後に位置を移動させているように見えた。しかし、それもただ、ぼくの眼が疲労してきたからにほかならない。この地球からのへだたりは四千万マイル。広大な空間。宇宙の塵を泳がせている四千万マイルを越す虚無の世界。それを実感できる者は、はたしてわれわれのうちに何人いることであろうか。
いまだに記憶に新しいが、ぼくはその近くに、三つのかすかな点を見た。望遠鏡だけがのぞかせてくれる無限のかなたの三個の星。その周囲は測り知ることのできぬ暗黒の空間。諸君もまた、霜凍る夜の星くずを散乱させた暗黒の空が、どのような印象をあたえるものか、ご存じないことはあるまい。望遠鏡を通じて見るその空間は、さらに奥ふかく果て知れぬものと思われる。しかし、その瞬間、あまりにも遠く、微小であるために、われわれの眼には捕えることもできなかったが、信じがたいほどの距離を克服して、かれらがわれわれに送ったその【もの】が、分速数千マイルにおよぶ超スピードで、われわれの世界めざして飛来しつつあったのだ。この地球に争闘と災厄と死とをもたらす【もの】が……ぼくは望遠鏡をのぞきこんでいたが、むろんその事実を夢想だにしていなかった。いや、ぼくばかりでない、この地球上の人類に、的をはずすことのないミサイルを予知したものは、ひとりとしていなかったはずだ。
その夜も遠い火星の上で、またひとつ、ガス体の噴出があった。ぼくはそれを目撃した。クロノメーターが十二時を告げたときである。この惑星の一端に、赤味を帯びた光がひらめき、なにかがとび出てくるのが、かすかながら観測できた。オーグルヴィにそれを伝えると、氏はすぐにぼくと交替した。あたたかい夜で、ぼくは喉がかわいていた。そこで、観測に疲れた腰をのばし、暗闇を手さぐりに、サイフォンのおいてあるテーブルまで歩みよった。その瞬間、オーグルヴィはさけび声をあげた。氏もまた、われわれの地球にむかって、飛来してくるガス体を観測したのだ。
その夜、さらにひとつ、眼に見えぬミサイルが、火星から地球にめがけて発射された。それは、第一のそれから正確に二十四時間後、せいぜい一秒かそこらのおくれだった。闇のなかで、テーブルについていたぼくの眼前を、緑と朱の光が走ってすぎた。煙草の火がほしいと考えていたところで、その瞬時の閃光の意味に思いあたるどころか、あれで煙草に火がつけられたらと、のんきな気持を感じただけだった。一時になると、オーグルヴィは観測を打ち切った。ぼくたちは角燈に火を入れて、徒歩で、氏の家までもどった。丘の下を見おろすと、オターショーとチャートシーの町、そしてその数百の住民が、平和のうちに眠っているのだった。
氏はその夜、火星の状態について、あれこれと推測し、その星にわれわれへ信号をおくってくる住民が存在するという俗説を嘲笑した。その意見によれば、火星上には、たえず隕石が驟雨のように落下していることだし、火山の大爆発もひきつづき起きているので、人類に似たものが棲息できる状態ではありえぬというのだ。彼はぼくに指摘して、近接した二個の惑星において、それぞれの有機体の進化が同一方向をとるなど、この宇宙にはありえない現象と主張したのである。
「火星上にも人類に似た生物が棲息するなんて、愚劣な話さ。そんなチャンスは、百万にひとつぐらいなものだ」
しかし、数百名の観測者が、その夜とつぎの夜に、十二時が近づくと、そこに焔がきらめくのを見た。そしてまた、そのつぎの夜も、同一の現象を見るといったぐあいに、その後十日にわたって、夜毎に焔のほとばしるのが目撃された。十日すぎると、それはぴったり停止したが、その説明をこころみようとするものはいなかった。発火にもとづくガス体の発生が、火星人に不快を感じさせたのかもしれない。強力な望遠鏡を用いて、はじめてそれと見てとれる灰色に波動する微小なもの――おそらく煙か塵埃の密雲であろうが――それがまたたく間に、澄明な火星の大気にまざりあって、いつも見なれたその姿を、おおいかくしてしまったのである。
しかし、ついには毎日の新聞も、この異変をとりあげずにいられなくなった。その後はどの紙上にも、火星上の火山の爆発についての読物記事が掲載されるようになった。まじめなうちにもこっけいを売りものにする『パンチ』誌が、この現象を政治漫画の材料に利用した。このようにして、だれひとりその真相に気づかぬうちに、火星人が発射したミサイルは、われわれの地球へ近づきつつあった。ぼう漠とした宇宙の深淵を横切り、秒速数マイルのペースで、時々刻々、近づいていたのである。かくも急速に、おそるべき運命がおそいかかってくるというのに、なにも知らぬ人類は、あいもかわらぬ日常瑣事に追いまくられていた、いまにして思えば、とうてい信じることもできぬのんきさだった。その好例がわが友マーカムで、彼はそのころ編集の任にあたっていた絵入り新聞のために、この惑星の新しい写真を手に入れたと、このうえもなく上きげんだった。現代の人々には想像もできぬことと思うが、当時――というのは、十九世紀のイギリスであるが――新聞紙はその数もおびただしく、いたって覇気に富んだ企業だった。ぼくとしても、自転車の稽古に熱中しながら、なおかつそれらの新聞に、【文明の進歩にともなう道徳意識の発展について】といった論文を寄稿する仕事にいそがしがっていた。
ある夜〔そのときは第一のミサイルが、すでに一千万マイルの距離にちかづいていた〕、ぼくは妻と散歩に出た。星のあかるい夜で、妻のために天体の十二宮を説明していると、たまたまそこに、火星を見た。それは天頂めざして匍《は》いよりつつあるかがやかしい光の点で、数多くの望遠鏡がむけられているものであった。気候があたたかだったせいか、夜になっても人通りがたえず、チャートシーかアイルワースから遠足にきたらしい一団が、あるいは歌い、あるいは楽器を奏でながら、ぼくたちを追い越していった。家々の二階の窓から、燈火があかるくもれているのは、すでに家人がベッドにはいったからであろう。遠くの駅で、列車の入れ換えをしている音が、距離に柔げられて、美しいメロディのようにひびいてきた。ぼくの妻は、夜空を背景にした鉄道のシグナルが、赤・緑・黄と変化の色をみせているのを指さした。それはいたって、しずかで平和な夜と思われた。
二 ながれ星
それにつづいて、最初の落星の夜がきた。明けがたちかくの天空を、焔が線になって、ウィンチェスターの東方へ走った。目撃者は数百名を超えているはずだが、だれもが平素見慣れている流星と考えた。アルビンもそのひとりだが、そのときのもようを説明して、この流星は緑色の尾をひいて、数秒間、天空にきらめいていたと述べている。隕石についての権威であるデニングによると、それが最初、天空に光を見せたときは、九十ないし百マイルの高度で、彼が立っていた位置から、百マイルほど離れた東方へむかって、落下していったとのことである。
その時刻に、ぼくは自宅の書斎で、机にむかっていた。部屋のフランス窓はオターショーの方向にむいていて、しかもそのころのぼくは、夜空をながめるのに興味をもっていたので、その夜もよろい戸をあげたままにしておいた。それでいてなにも眼にしなかった。とはいえ、ぼくがそこにいるあいだに、かつて外界からわれわれの地球を訪れたもののうち、もっとも奇異なものが、落下してきた事実は疑いない。ぼくがその瞬間、机から顔をあげさえすれば、目撃できたことはたしかなのだ。見かけた人々のうちには、それが飛来するにあたって、ヒューッという鋭いひびきを立てたというものがあったが、ぼくはその音さえ耳にしなかった。
その夜バークシャー、サリー、ミッドルセックスなどの各州にわたって、この異物を目撃した者はすくなくないのだが、せいぜいが、またひとつ、隕石が落下したと考えたにすぎなかった。もちろん、その夜のうちに、落下した物体の所在をさがしてみようとしたものなど、ひとりもいなかったのが事実である。
だが、わが友オーグルヴィだけは、夜もあけきらぬうちに起きだした。氏もまた、問題の流星を見たひとりで、隕石はホーセル、オターショー、ウォーキングをつなぐ公有地のどこかに落下しているはずだと信じたからである。そして、氏の予想は適中した。夜があけはなれるとまもなく、砂採り場からほどとおからぬところに、その現物が発見された。落下のさいの衝撃で、途方もなく巨大な穴がえぐられていた。砂だの小石だのが、猛烈ないきおいではねとばされ、付近の荒地一帯に散乱し、半径一マイル半にわたって、堆積をつくっているのが見受けられた。東の方向にあたっては、ヒースの茂みに火がうつったのか、夜明けの空に、うす青い煙が立ちのぼっていた。
その【もの】自体は、ほとんど砂中に姿を没していて、それをまた、それが落下にあたって粉砕したモミの木の破片がおおいかくしている。わずかに露出している部分からうかがうと、相当に巨大な円筒状《シリンダー》のもので、厚い焦茶色の外殻が、その輪郭を柔らげていた。直径はなんと、三十ヤード〔約三十メートル〕にもおよんでいよう。氏は、その物体に近づいて、巨大なことにまずおどろき、つづいて形状を見て、さらに奇異の感に打たれた。なぜかというと、ほとんどの隕石は、程度の差こそあれ、完全な球形にちかいものであるからだ。それはしかし、空中を飛来してきた関係からか、いまだに高熱を放散していて、近よることをゆるさなかった。シリンダーのなかから、ぶーんという音が聞こえてくるが、氏はそれを、隕石の表面が不均一に冷却していくことによるものと解釈した。そのときの氏には、シリンダーの内部が空洞であろうとは、思いもよらぬことであった。
氏はその【もの】がつくった穴のふちに立って、見慣れぬ外観に眼をうばわれていた。形といい、色といい、あまりにも通常の隕石とちがいすぎている。それにおどろかされたこともあって、ばく然とではあるが、この異物の飛来に、おそろしい大計画の存在を教える査証のひとつと予感した。早朝の荒地は、異様なほどの静寂につつまれていた。ウェイブリッジのあたり、松林の上にのぼった太陽が、すでに、あたりの空気をあたためていたのだが、そのときの記憶をたずねても、小鳥のさえずりひとつ聞こえなかったという。微風がささやくこともなく、耳にする唯一のひびきといっては、燃えきったシリンダーの内部で、なにかがかすかにうごく気配だけであった。その朝の公有地には、オーグルヴィ氏ひとりが立っていたのだった。
するととつぜん、氏はどきっとさせられた。隕石をおおっている灰色の|かなくそ《ヽヽヽヽ》状のものが、シリンダーのはしの部分で、ぽろり、はがれ落ちたのだ。それは粉々にくだけて、砂の上に、雨のように降りそそいだ。つづいてまた、もっと大きなかたまりが剥がれて、するどい音を立てた。氏は心臓が口からとび出すほどにおどろいた。
そのせつなは、これがなにを意味するものか理解できなかった。すさまじい高温は、いまだに減退していないが、氏はあえて穴を匍い降り、精密な観察をほどこさずにいられなかった。最初に頭にうかんだのは、冷却にともなう現象とみる解釈だったが、その考えをかき乱したのは、灰の脱離が、シリンダーの先端にかぎられている事実だった。
そのうちに、非常に緩慢なうごきではあるが、シリンダーの先頭が回転しているのに気づいた。いかにもゆっくりした回転なので、ふつうなれば、見分けのつくものでなかったが、五分まえに眼のまえにあった黒点が、いつの間にか反対がわに移動しているので、それとわかった。だが、それでも氏は、おし殺したように軋る音とともに、問題の黒い点が、一インチかそこら前方へとび出してくるのを見るまでは、その真の意味を理解することができなかった。その一瞬あとに、その【もの】自体が、はっきりした姿をあらわしていた。シリンダーは天然のものでない。製作されたもので、内部は空洞、先端が回転している! シリンダーの内部から、なにものかが蓋を回転させているのだ!
「なんだ、これは!」思わずオーグルヴィはさけんだ。
「なかに、人間がいるぞ――ひとりではないかもしれん! しかし、よく黒焦げにならずにいられたものだ! 逃げ出そうとしているにちがいない!」
そして、すばやく思考をめぐらして、その【もの】を、火星上の焔とむすびつけた。
なかに閉じこめられた人間がいると思うと、氏はその高温度も忘れて、シリンダーに近づいていった。蓋をあけるのを手伝ってやる気になったのだ。しかし、さいわいなことに、そのおびただしい輻射熱が足をさまたげてくれた。それがなければ、氏はその手を、いまだに灼熱状態にある金属に触れて、はげしい火傷《やけど》をこうむったにちがいなかった。そこで氏は、どう行動したものか決断もつかぬままに、しばらくはつっ立っていたが、やがてふりむいて、穴から匍いのぼると、無我夢中でウォーキングさして駆けだした。
それはだいたい、六時前後のことであった。途中、馬車曳きに出会ったので、いま見てきたことを話してきかせたが、馬車曳きはなにもいわずに、あわてて馬車を走らせてしまった。オーグルヴィのいうところが、あまりにも荒唐無稽なのと、身なりが乱れすぎていたからで、気のくるった男と判断したのであろう。事実オーグルヴィは、帽子さえ穴のなかに落としてきたのだった。つぎに、ホーセル橋まできかかると、橋のたもとの居酒屋で、亭主が戸をあけているところだった。これにも話しかけてみたが、やはり相手にしてくれなかった。病院を逃げだしてきた精神病患者で、その店へかくれようとしていると思いこまれたのだ。しかし、氏はそれで、いくらか冷静をとりもどした。そのすこしさき、ロンドンの新聞社へかよっているヘンダーソン記者を庭さきに見かけて、垣根越しに呼びかけた。この男なら、この話を理解してくれると考えたからだ。
「ヘンダーソン!」と、氏はさけんだ。「昨夜の流星を見ましたか?」
「え? なんの話?」
「流星がホーセル公有地に落下しているんです」
「そいつはよかった!」ヘンダーソンもいった。「隕石、ホーセル公有地に落下するか! こいつは記事になりますぜ」
「ところが、ただの隕石でない。シリンダー状でね、人工のものなんです。なかに、なにかいますよ」
ヘンダーソンはシャベルを手にしたまま、腰をおこした。
「な、なんですって?」彼は、片方の耳が聞えなかった。
そこでオーグルヴィは、いま見てきたところを説明してきかせた。ヘンダーソンは一分かそこらで、話の内容をのみこむことができた。シャベルを投げだすと、上着をひっつかんで、道路へとび出してきた。そのあと、男ふたりは、公有地へむかって走りだした。駆けもどってみると、シリンダーはもとの位置に横たわっていた。しかし、内部の音はすでにおさまって、シリンダーの本体と先端とのあいだに、きらきらかがやく金属のうすい輪があらわれている。そのふちから、空気がはいるのか漏れるのか、シューシューいう音がかすかに聞こえてくる。
二人はそれに耳をすませながら、灼けついている鱗状の金属を、棒のさきでたたいてみたが、なんの反応もなかった。内部の人間〔それは複数かもしれないが〕は気絶しているか、あるいはすでに死亡しているか、そのいずれかと思われた。
もちろん、この二人だけでは、どうすることもできるわけでない。すぐひっかえしてくるから、気をたしかにもっていろと、大声にさけんでおいて、救援の手を狩りあつめに、町へむかってひっかえしていった。そのときのかれらの姿は、読者諸君にも想像にかたくあるまい。頭から砂にまみれ、興奮のあまり、わけのわからぬ言葉をわめき立てながら、あかるい日光のふりそそぐせまい街を、駆けぬけていくのであった。そのころ、商店では表戸を、人々は寝室の窓をあけはじめていた。ヘンダーソンはまっしぐらに駅へむかって、ロンドンの勤務先へ電報を打った。新聞はここ数日、火星についての記事を掲載していたので、読者の心には、この出来事にとびつくだけの素地ができあがっているはずだった。
八時には、大勢の少年たちと失業者の群れが、【火星から飛来した死者】を見物するために、公有地にあつまりつつあった。うわさは、そのような形態をとって伝わっていたのである。ぼくがそれを知ったのも、九時を十五分ほどすぎたところで、『デイリー・クロニクル』を配達してきた少年の口から聞かされた。もちろん、ぼくの好奇心は燃えあがった。とるものもとりあえず、家をとびだすと、オターショー橋をわたり、砂採り場へいそいだ。
三 ホーセル公有地で
すでに二十人ほどの人々の群れが、シリンダーの横たわっている大きな穴をとり囲んでいた。前章で述べた巨大な金属塊が、穴の底から顔を出している。周辺の芝草はもちろんのこと、小石までが、なにかの爆発に出会ったように、まっ黒く焼けただれていた。落下にさいして、火焔が燃えあがったことに疑いはない。ヘンダーソンとオーグルヴィの姿は見えなかった。おそらく、さしあたっては手の施しようがないのを知って、ヘンダーソンの家まで、朝食でもとりにいったのであろう。
砂採り場の竪坑のふちには、子供が四、五人腰かけこんで、脚をぶらぶらさせながら、巨大な物体に石を投げつけて笑いあっていた。ぼくが小言をいってとめると、こんどは見物人のあいだにとびこんで、鬼ごっこに興じだした。
見物人のなかには、自転車に乗った男がふたり、ぼくもときどき雇うことのある庭師、赤ん坊を抱いた子守女、肉屋のグレッグとその小さな男の子、そして、いつも駅の近所をうろついているのらくら者が二、三人と、ゴルフのキャディたちといった顔が見受けられた。意見を述べる者はひとりもいなかった。そのころのイギリスの大衆は、天文学にあかるくなく、ばく然とした知識をもっているものも、ほとんどないといってよいくらいだった。かれらの大部分は、ちょっとしたテーブルほどもあるシリンダーの蓋を、おしゃべりひとつせずに、神妙な顔つきでながめているだけであった。シリンダーは、オーグルヴィとヘンダーソンがのこしていったままになっている。
おそらくこの連中は、黒焦げの死体が重なりあっている惨状を見物するつもりでおしよせてきたのであろうが、その期待はみごとにはずれて、大きな金属のかたまりが、うごきもせずに横たわっているだけなのである。ぼくがそこにいるあいだにも、失望した何人かは引揚げていった。しかし、見物にあつまってくる連中も、あとを絶つようすはなかった。ぼくはとりあえず、砂採り場の竪坑を降りてみることにしたが、足の下で、なにかがかすかに、うごくけはいがした。円蓋はすでに、回転を停止しているのだが……
こうして、そばへよってみると、その物体の異様さは、はっきりと見てとることができた。ちょっと見ただけでは、馬車がひっくり返っているとか、路上に立木が横倒しになっている程度の興奮しか感じさせない。いや、そこまでのこともないといえた。それは銹《さ》びついたガス・タンクの小型のものといった格好で、その灰色の|かなくそ《ヽヽヽヽ》が、通常の酸化物でないのを知るには、かなり高度の科学的教養を必要とした。蓋と本体とのあいだで、かなくそに割れ目の生じているところがある。そこから、黄白色の金属がのぞいていて、きらきらかがやくその色は、われわれにはなじみのないものだった。地球外の物質! しかし、その言葉は、ここにいる見物人の大部分にとって、なんの意味ももたぬたわごとにすぎなかった。
しかし、すくなくともぼく自身としては、この【もの】が火星と呼ばれる惑星から飛来したものであるのを確信して疑わなかった。とはいっても、なかに生きものがはいっているとまでは信じられなかった。シリンダーの蓋が回転するのも、自動装置であろうと考えたのだ。オーグルヴィの反対意見はあったが、ぼく自身は、火星に人類が棲息することを信じて疑わなかったので、空想が活発にうごきだした。なかに、通信文がはいっているかもしれない。それを翻訳するのが、相当困難な仕事であるのは覚悟しなければなるまい。それにまた、貨幣とか模型のたぐいが出てこないともかぎらない。だが、この考えに確信をもつには、シリンダーの規模がすこし大きすぎた。ぼくはその内部をのぞきこみたくて、じりじりしてきた。十一時になっても、なにもおこりそうになかったので、ぼくはそのような考えにふけりながら、メイベリーにある自宅に帰った。しかし、その日はとうてい、抽象的な思索を必要とする仕事にもどることが不可能だった。
午後になると、公有地の状況はいちじるしい変化を見せてきた。夕刊の早版が、つぎのような大見出しをつけた記事で、ロンドン市民をおどろかせた。
火星からの通信
ウォーキングからの驚くべきニュース
これにくわえて、オーグルヴィが天文情報交換所へ打った電報が、イギリス各地の天文台を興奮の渦にまきこんだ。
砂採り場わきの道路には、ウォーキング駅からの貸馬車が六台以上もとまっていた。それにくわえて、チョバムからきた二輪馬車が一台、かなり堂々とした四輪馬車とならんでいる。そのほか、自転車も数えきれぬほどあつまっていた。徒歩できた人々にいたっては、いまやおどろくほどの人数に増大していた。だれもが、この暑さにめげず、ウォーキングやチャートシーから駆けつけてきたので、あたり一面、人の波といってよかった。そのなかには、はなやかな衣裳をまとった上流婦人らしいひとまで、ひとりか二人、まじっていた。
空には、雲もなかった、風のそよぎもまったく途絶えて、あるものはただ、ぎらぎらする暑さだけ。陽差しを避けるには、まばらに生えている松の木かげのほか、なにもないといえるのだった。ヒースに燃えうつった火は、きれいに消しとめてあったが、オターショーへつづく平地は、見わたすかぎり黒焦げの残骸で、いまだに各所に、煙をくすぶらせている。チョバム・ロードの菓子屋のおやじは、もともと商売気がつよいので有名だが、ここでもさっそく息子を派遣して、手車いっぱいの青リンゴとジンジャー・ビールを売らせているのである。
竪坑のふちへ近よってみると、なかにはすでに、五、六人の男がはいりこんでいた。ヘンダーソンもいたし、オーグルヴィもいた。そのうちのひとりである、長身金髪の男は、あとでその名を知ったのだが、ステントという王室天文官だった。よく澄んだかん高い声で、数名の人足に指図をして、シャベルやツルハシをふるわせ、彼自身は問題のシリンダーの上にのっかっていた。これから見ると、熱はだいぶ冷えてきたにちがいなかった。それでもステントは、顔をまっ赤にして、汗さえながしている。なにかが彼を苛立たせているようすだった。
シリンダーの大部分は掘り出されていて、いまだに地中にもぐりこんでいるのは、下のほうの部分だけである。オーグルヴィは、坑の周囲をかこむ見物人のうちに、ぼくの姿を見出すと、降りてこいと声をかけてよこした。そして、そのとおりにすると、ひと骨折ってほしい、このあたりの土地の所有者であるヒルトン卿の邸まで、使いに行ってくれないかと頼むのだった。
彼の説明によると、発掘見物の群衆は増えるいっぽうで、このままだと作業がすすまなくなる。ことに、子供たちがじゃまなので、簡便な柵をつくって、人々を遠ざけたいというのである。これもまた、彼から聞いたところだが、シリンダー内部のうごきは、いまなおときどき、かすかながら聞こえてくるそうで、まずいことに、人足どもは蓋をあけるのに失敗してしまった。手をかける個所がみつからないのだ。シリンダーの厚みはかなりのものだから、外で聞くのはかすかな音でも、内部ではよほどのさわぎをしているにちがいないという。
ぼくはよろこんで、彼の依頼を承諾した。これでぼくも、柵のなかにはいることができる。特別観覧人の一人にくわわる見込みがついたのだ。ところが、あいにくとヒルトン卿は不在だった。ロンドンへ出かけたので、もどりの汽車は、ウォタールー発六時のものであろうと教えられた。そのときの時刻は、五時十五分すぎだった。ぼくはいったん家へもどり、お茶をすませてから、卿を迎えに徒歩で駅へむかった。
四 シリンダーがひらく
公有地へもどったときは、日が西空に沈みかけていた。しかし、あつまってくる人々は、いまだにあとを絶たない。何人かつれ立って、ウォーキングの方向から、いそぎ足にやってくるのが、ひきもきらない状態だが、帰って行くものというと、ほんのひとりか二人にすぎなかった。坑をかこむ群衆は、いよいよその数を増して、レモン・イエローの夕空を背景に、くろぐろとした影をうかべている。その数はざっと二百人か。話しあう声も、いつかすっかり大きくなって、砂採り坑《こう》の周囲では、小ぜりあいさえおこっているようすだ。異様な空想が、ぼくの頭に浮かんで消えた。さらに近よると、ステントの声が聞こえた。
「さがれ! まえに出るんじゃない!」
少年のひとりが、ぼくのわきを駆けぬけながらさけんだ。
「うごきだした! うごきだしたよ。蓋がはずれそうになった。気味がわるいから、ぼく、うちへ帰る」
ぼくはしかし、群衆にくわわって、まえへ出た。ざっと二百人から三百人ほどの男女が、おしあいへしあい、まえへ出ようと争っている。貴婦人までが遠慮していなかった。
「あっ、あいつ、穴へ落ちたぞ!」だれかがさけんだ。
「あぶない! おすんじゃない」何人かがわめいた。
群衆が動揺しているすきに、ぼくは彼らをかきわけてすすんだ。だれもが興奮しきっていた。坑のなかからは、異様な音響がひびいてくる。
「おい!」オーグルヴィがさけんでいる。「このばか者たちをおしもどすんだ。相手は正体のわからぬものだぞ。なにがとび出してくるか、わかったもんじゃないのだ!」
たしかウォーキングの商店の店員と思われる若い男が、シリンダーの上にのぼって、穴からぬけ出そうとあせっていた。群衆からおし落とされたにちがいなかった。
事実、シリンダーの蓋は内部からはずれかかっていた。ピカピカ光るねじが、二フィートちかくもとび出している。ぼくもまた、うしろからおされて、あやうくそのねじの上に転げ落ちるところだった。身を避けたとたん、ねじがはずれた! 円筒の蓋が、小石の上に音をひびかせて落ちた。ぼくはうしろの男を、肘で押しもどしてから、もう一度、首をその【もの】にねじむけた。円形をしている内部は、まっ黒でなにも見えない。夕日が眼にまぶしかったこともあるが……
だれもが、なかから人間が匍い出してくると予期していた。地球上の人間であるわれわれとは、すこしはちがった形をしていようが、本質的には人類といえるものの姿を予想していたのだ。ぼくにしても、やはりそのひとりで、なおものぞきこんでいると、くらい影のなかに、たしかなにかがうごめいている。灰色にかさなりあって、波のような動きをつづけて、先端に円盤状に光るものがふたつある。やつらの眼であろうか。うごめいているものは、しだいに形をはっきりさせてきて、小さな灰色の蛇といった印象を呈した。太さはちょうど、散歩用のステッキ程度で、とぐろを巻いていたのがほどけて、匍い出してきたのだ。空中にカマ首をもたげ、うねうねとぼくたち見物人のほうへむかってくる――つづいて、またひとつ。
戦慄がぼくの背筋をおそった。うしろで、女が悲鳴をあげた。ぼくはなかば穴へ顔をむけて、なおもシリンダーをみつめていると、そこから、いくつかの触手がつき出されたので、思わず坑のふちから、あとじさりしないではいられなかった。周囲の人々も、顔の表情を、驚愕から恐怖のそれへ変えていった。あちこちで、言葉にならぬ叫び声がおこっている。だれもがしりごみをしはじめた。さっきの店員は、いまだに穴のふちで匍い出ようとあがいている。けっきょく竪坑のふちにいるのは、ぼくひとりになった。むこうがわでも、群衆は逃げだしにかかって、そのうちには、指揮をとっていたステントもまじっていた。ぼくはもう一度、シリンダーに眼をやったが、どうにも制御できぬ恐怖に捕えられて、凍りついたように立ちつくした。
灰色で、まるい、巨大なものだ。大きさは熊ほどもあろうか。それが徐々に、のたくりながらシリンダーから匍い出してくる。ふくれあがって、光線を受けると、濡れたけものの皮のように光った。
二個の大きな、暗さを底に沈めた眼が、ぼくたちをみつめてうごかない。それをかこんでいるかたまりが、どうやらその【もの】の頭であるらしい。まるくて、顔と呼んでよさそうな格好である。眼の下のあたりに、口らしいものがある。唇はないが穴があいていて、それがふるえ、あえぎ、よだれまで垂らしている。からだ全体も、むくむくともりあがっては、痙攣的に動機を打つ。ほそい触手でシリンダーのふちをつかみ、べつの触手を空中に泳がして……
生きた火星人を見ていないかぎり、その外観の奇怪さ、おそろしさを想像しろといわれても、無理なはなしである。V字型の口は上唇をつき出してみせるが、眉の隆起はなく、くさび型の下唇の下には、あごも見られない。たえずふるえている唇。ゴルゴンの髪にも似た何本かの触手。馴れない世界の大気に触れて肺臓がくるしいのか、あらしのような息であえいでいる。動作にしても、地球の重力に耐えかねるのであろう、のろのろと、苦渋を露骨にしめしていた。とりわけて、その巨大なふたつの眼の異常なまでのきびしさ――これはまた、生ま生ましいほどに強烈で、人間世界とかけはなれた残忍さをそなえている。とにかく醜悪無残な怪物だった。油を塗ったようにぎらぎらする褐色の皮膚が、一様に菌状腫を患った感じでふくれあがり、それが緩慢な動作で、無器用にうごめいているところは、いいようのないほど不潔な存在に思われた。最初に出会い、最初に見たときから、ぼくは不快感と恐怖で打ちのめされていた。
とつぜん、怪物の姿が消えた。シリンダーのふちで、ゆらゆらとからだを揺すっていたのが、ついにそのふちをのり越えると、大きな皮革の束が落ちるように、ドサッという音とともに、穴のなかに落下した。そして、奇怪なさけび声をあげると、それにつづいてまた一匹、おなじような形態の怪物が、シリンダー内の暗闇からくろぐろとした姿をあらわした。
ぼくがあわてて逃げだしたのは、そのときだった。百ヤードほど離れている松の木立をめざして、くるったように駆けだしたのだ。だが、走りながらも、こわいもの見たさもあって背後をふりかえるので、いくどとなくつまずいてはころんだ。
若松の林と、ハリエニシダの茂みのあいだまで逃げのびると、ぼくははじめて足をとめた。大きく息をついて、このさき、どんなことがおこるのかと、もといたあたりをうかがった。砂採り場の竪坑のまわりには、いまやほとんど人影も見られないが、わずかに残っている人々は、ぼく自身とおなじに、なかばは恐怖心に足をすくませ、なかばは好奇心のとりことなって、うごきもやらず、ふたつの怪物のようすを――正確には、それがひそんでいる穴のふちに盛りあがった小石の山ということになるが――見まもっているのだった。するとまた新しく、ぞっとさせられることになった。黒くてまるいものが、穴のふちからのぞいたりひっこんだりしはじめた。それは穴へ転げ落ちた若い店員の頭で、赤々と燃えあがる西空の残照に、黒々とした物体に見えるのだった。それは、やっとのおもいで、上半身とひざとを穴のふちまでひきずりあげたが、すぐにまた転落したとみえて、いまはやはり、頭のあたりしか出ていない。だが、それさえ急に見えなくなった。同時に、かすかな悲鳴を聞いた気がした。ぼくはひっ返して、救けあげてやりたい衝動に駆られたが、それもおそろしくて、実行には移せなかった。
そのあとは、ふかい砂採り坑《こう》とシリンダーが落下してきたときにできた砂の山にさえぎられて、見ることができなくなった。チョバムやウォーキングからやってきた人々は、この光景を見て、がく然としたにちがいなかった。群衆の数はかなりすくなくなっていたが、それでもなお百人を超えると思われる人数が、不規則な円をつくって砂採り坑を遠巻きにしている。溝のなか、茂みのうしろ、門や垣根のなかに身をひそめて、いくつかの砂の山をまじろぎもせずみつめているのだった。おたがいのあいだでは、ほとんど口をきこうともしないで、ときどき興奮のあまり、みじかい叫び声をあげるだけだ。ジンジャー・ビールを積んだ手押車がとりのこされているのが、燃えあがる夕空を背景に、くろぐろとながめられる。砂坑の付近にも、主人を失った馬車の列がならんで、馬だけが、首に吊るされたかいば袋をつつき、前肢で土をかいている。
五 熱線
彼らの惑星をはなれ、はるばるこの地球まで飛来したシリンダーから、火星人が出現するところを瞥見《べっけん》した瞬間、ぼくはなにかに憑《つ》かれた気持で、行動の自由を失ってしまった。ひざまで達するヒースの茂みにつっ立ったまま、火星人がひそんでいる砂の山に眼をひきつけられていたのだが、そのあいだ、ぼくの胸のなかは、恐怖と好奇心の闘争の場とかわっていた。
砂採り坑のそばへもどって行く勇気はない。しかしまた、のぞいてみたい欲求もはげしかった。そこでぼくは適当な観測地点をさがして歩いた。そのあいだも、わが地球への新来者がひそむ砂山から、眼をはなさなかったことはいうまでもない。一度だけ、タコの脚のように細くてしなやかな黒いものが三本、夕焼け空にむかってうごめいているのを見たが、これもやがてはひっこんで、こんどは棒状のものが一節ずつのびてきた。先端に円盤がついていて、ゆらゆらと揺れている。どんなことがおこっているのだろうか?
見物人の大部分は、いくつかのグループをつくってかたまっていた。ウォーキングのほうにひとかたまり、チョバムのほうにひとかたまりといったぐあいである。この連中の気持もぼくとおなじで、逃げだそうか、いましばらくようすをうかがっていようか、迷っているにちがいなかった。周囲の人影はほとんどなくなっていた。わずかに残っている一人に近づいてみると、ぼくの家のそばの男で、名前こそ知らなかったが、顔は見知りごしの仲だった。そこで、声をかけてみたのだが、満足な話のできるわけがなかった。
「なんといういやらしい畜生でしょう」と、彼はいった。
「たまったものじゃありませんな。胸がわるくなってくる。いやらしい畜生だ!」彼はその言葉を、くりかえし、さけびつづけた。
「砂坑《さこう》のなかに落ちた男がいたが、気がついたかね?」ぼくはそうきいてみたが、彼は返事もしなかった。その後、ぼくたちは無言のまま、かなりの時間、肩をならべてそこに立っていた。すぐそばに連れがいてくれるだけで、たがいに心づよく感じたのである。それから、ぼくはその位置をはなれて、一ヤードかそこら小高くなっている場所へ移った。ふりかえってみると、さっきの男はウォーキングの方向へ歩きだしていた。
なにごともおこらぬうちに陽は沈んで、いつか夕闇がしのびよっていた。左手のウォーキングがわでは、またすこし群衆の数がふえたようすで、かすかながら話声も聞こえてくる。しかし、チョバムにむいたほうの人たちは、あらかた散ってしまったらしい。砂採り坑からも、もののうごくけはいは感じられなかった。
それが、人々に勇気をあたえることになった。ウォーキングからの見物人の群れのふえたことも、見物人各自に心づよさをあたえたようだ。そうしたことから、夕闇がせまってくるころには、人々は徐々にではあるが、またしても砂採り坑へむかって移動を開始した。シリンダーをかこむ夕暮時の静寂がやぶられそうもないとみると、人々は自信をとりもどし、その動きも活溌になった。黒い影が、ふたつ三つ、数歩すすんでは足をとめ、ようすをうかがって、また前進する。そうこうしているうちに、その列は不規則な三日月型をつくって、砂坑をとりかこみ、両端がつながりあう態勢になった。ぼくもまた、おそろしい現場にむかって、歩みだしているのだった。
なかに、馭者と思われる者が何人かと、ほかの連中もくわわって、勇敢にも、砂採り坑近くへはいりこんでいった。馬の蹄の音、車輪のきしみも聞こえてきた。リンゴを積んだ車をおしていく若者の姿も見えた。そのうちに、こんどはホーセルの方角から、くろい影がいくつかすすんできて、砂採り坑へ三十ヤードという距離まで近づくのが見えた。先頭の男は、白旗をふっている。
これが代表団だった。緊急会議をひらいた結果、火星人のかたちがいかに醜悪に見えようと、知性をそなえた生物であることはまちがいないから、こちらもまた、信号をもって近づいて、われわれ地球人もやはり知性をそなえている事実を示すことにきまったのだ。
はじめは右、ついで左と、旗をひらめかせた。その人々がだれであるかを知るには、ぼくの立っていた位置がはなれすぎていたが、あとで知ったところだと、この通信の役を買って出たうちには、オーグルヴィ、ステント、ヘンダーソンたちがくわわっていた。この小グループの前進は、いわば周囲をとり巻く見物人の輪を、ともどもなかにひきこんだかたちで、群衆のくろい影も、いちおうは慎重な距離をたもちながら、しだいに砂坑へ近づいていった。
すると、とつぜん、閃光がほとばしった。緑色にきらめく煙が三度、砂採り坑から噴き出して、つぎつぎと、たそがれどきの空へ舞いのぼっていった。
暮れなずむ頭上の空、夕もやのかすむあたりに、黒い松の木立を点々と見せているチャートシーの公有地、それらすべては、まばゆいばかりのこの煙の色に〔焔というのが、おそらくはより適切な言葉であろうが〕、突如、その影をふかめたように思われたが、煙が消えると、さらにまた暗さを増した。それと同時に、シューシューいう音が、かすかに耳にひびいてきた。
白旗を先頭に立てた小グループが、砂坑のむこうがわをすすんでいったが、この現象に足をとめて、黒い大地に、黒い影のように立ちすくんだ。緑色の煙が立ちのぼったとき、いったんかれらの青ざめた顔が、まざまざとそこに見てとれたが、煙が散るとともに、それもまた消えた。シューシューいう音だけが、しだいにつよさをまして、やがては長く尾をひく大きな音となった。そして、砂坑にうずまっていたものが、ゆっくりと姿をあらわした。と、見ると、光が箭《や》のように鋭くほとばしった。そのあとは、すさまじいばかりの光景だった。ぎらぎらする焔が、つぎつぎとそこにひらめいて、あわてて跳びのく人々のあいだを、縫うようにしてとび散った。それはまさに、眼に見えぬ光の噴射が、群衆につきあたり、つきあたるやいなや、白い焔と変って、めらめらと燃えあがるのであった。何人かの男が、一瞬のうちに、火につつまれるのがながめられた。
そして、かれら自身のからだから燃えあがる火の光で、そのよろめいては倒れるのが見てとれる。最初は、救助のために走りよった仲間さえ、きびすをかえして、死にものぐるいで逃げだした。
ぼくはしばらく、その光景をみつめていた。しかし、そのときのぼくは、死がそのようにして、代表団の小グループをおそっているのだとは理解できずに、ただ、おかしな現象だと考えていた。音もなく、眩ゆいばかりの光がひらめくたびに、ひとりずつその場に倒れて、そのままうごかなくなる。眼に見えぬ熱線の箭《や》が、かれらの上を通りすぎると、たちまち松の木立が燃えあがり、乾いたハリエニシダの茂みが、にぶい音響とともに火のかたまりと変る。遠くナップヒルのあたりでも、一瞬のうちに、木立、生け垣、木造建物などが、火につつまれるのがながめられた。
死の焔、眼に見えず避けることも不可能な熱の剣は、迅速確実に、触れるものを薙ぎたおしていった。が、おどろいている場合ではない。いつかそれは、ぼくのいるあたりへもむかってくるのだ。眼のまえのくさむらが燃えあがった。しかし、それと知っても、ぼくの足はすくんで、うごくこともできなかった。砂採り場のあたりで、火が音を立ててはぜている。とつぜん、馬のいななきが聞こえたが、それも、ひと声だけでしずまった。眼には見えないが、すさまじい熱の指が、ぼくと火星人のあいだのヒースの上を走ったかと思うと、砂採り場のあたりの暗い土地が、いきなり煙をあげて燃えはじめた。そして、はるか左のかた、ウォーキング駅からの街道が公有地へ入りこむあたりに、なにかが落下した。大きな音がとどろき、それが合図となって、ヒューヒューいう音がやんだ。黒く、円屋根のような物体が、ゆっくりとまた砂坑のなかに沈んで、ぼくの位置からは見えなくなった。
これらすべては、閃光に眼がくらんだぼくが、身うごきもできずに立っているあいだの出来事だった。もしも死の手が完全な円を描いていたら、ぼくはおどろいたまま、そこで最後をとげていたにちがいなかった。しかし、幸運にもぼくの場所をそれてくれたので、助かることができた。そのあと、夜はいちだんと暗さを増して、いよいよ無気味な世界となった。
起伏を見せていた公有地も、いまはまったく夕闇がつつんで、黒一色の夜と変った。鉄道線路だけが、暗青色の夜空の下に、青白く横たわっている。人影は見えなくなった。頭上に星がまたたきだしたが、西の空はわずかに余光をとどめて、紫色にうっすらとあかるい。松の木立の梢とホーセルの町の屋根が、するどく黒く、その残照に浮かびあがっている。火星人もその装備も、ともども闇の底に沈んで、ほそいマスト状のものだけが、先端の鏡をたえずうごかしつづけている。あちこちで、草むらと木立とが、いまなお煙と焔をあげているし、ウォーキング駅付近の家並が、しずかな夜空に焔の尖塔を立てていた。
それと、おそろしい驚きのほかは、なにひとつ変ったところがなかった。白旗をもった小グループの黒い影は、すでにこの世から消えてしまったらしいが、夕闇の静寂だけは――すくなくとも、ぼくの眼からは――すこしも乱されるけはいがなかった。
そしてぼくは、ほの暗くなったこの公有地に、危険をふせぎとめるだけの力もなく、ただひとり、とり残された感じだった。すると、とつぜん、なにかが外界から、ぼくの頭上に落ちかかってくるように思えて、恐怖が全身にひろがった。ぼくはやっとのおもいで、身をひるがえすと、ヒースの茂みをかきわけて、いっさんに走りだした。
むろん、ぼくをおそった恐怖は、理由のあるものでなかった。火星人を怖れるだけでなく、周囲をとり巻く夜の闇と静寂とがこわかったのだ。あまりの異常さに、意地も張りもなくなったぼくは、声こそ出さぬが、子供のように泣きながら走った。一度、恐怖の本体に背をむけると、二度とふりかえってみる気になれなかった。
ぼくはいまでも憶えている、そのときのぼくが内心、これで救われたと考えるのは、愚かしい思いちがいだ。からかわれているだけのことで、やがてはまた、死の手がおそってくるにちがいない。大丈夫と思った瞬間、ふたたび砂坑から、怪しい兇手がのびてきて、光線さながらの速さで、ぼくのあとを追ってきては、打ちのめしにかかるにちがいないと思いこんでいたことを。
六 チョバム・ロードの熱線
火星人がどうしてそのように、迅速かつ無言のうちに、地球人を殺戮してのけたか、いまだに大きな謎といえる。ある者はそれを、かれらが完全な絶縁体であるシリンダー内部で、なんらかの方法を用いて、強烈きわまりない熱をつくり出すことができるからだと解している。目標がさだまると、かれらはその強烈な熱を、磨きあげたパラボラ鏡によって、平行光線にかえて投射するのでないか。そのパラボラ鏡が、どのようにしてつくられているかは、むろんわれわれには不明であるが、燈台にそなえつけてある鏡面と同一の構造であろうと推察された。しかし、それを細部にわたって説明できたものは、だれもいない。要するに殺戮が行われた。そして、その武器が熱線であることに疑いはなかった。可視光線とちがって、眼に見えぬ熱線。それが触れれば、あらゆる可燃性の物質は火を発する。鉛は水さながらに溶けてながれ、鉄は軟弱に、ガラスはひび割れて、融ける。それが水中につき刺されば、水はたちどころに、蒸気になって発散する。
その夜、砂採り場の付近では、四十にあまる死体が、星あかりのもとに横たわっていた。どれもみな、だれとも識別できぬまでに黒焦げに焦げている。ホーセルからメイベリーにつづく公有地は、朝の光がおとずれるまで、生きているものの姿を失い、ただ赤々と、夜空に焔をかがやかせていた。
大虐殺のニュースは、チョバム、ウォーキング、オターショーの各町に、ほとんど同時につたわった。ウォーキングでは、悲劇が勃発すると、商店はいっせいに大戸をしめ、耳にした話に興味をひかれた多くの人々が、ホーセル橋を渡り、公有地へむかう街道の生け垣がつづいているあいだをいそぎだした。その日一日の仕事をおえて、めかしこんで遊びに出ようとしていた大勢の若い男女が、この珍事の見物を愉しもうと、つれ立って足をむけたのは当然のことである。黄昏ちかい街道ぞいに、笑い声がながれているようすが、諸君の眼にもうかぶことと思う。
しかし、むろんそのときには、シリンダーの口がひらいていたことを知っているものは、ウォーキングの町にはほとんどいなかった。ただひとり、あわをくったヘンダーソンが、夕刊記事に間にあわせようと、特別電報をメッセンジャー・ボーイにもたせて、郵便局へ走らせた程度だった。
これら見物人が、それぞれつれ立って、公有地の広場にたどりついてみると、何人かのグループが興奮して、声高にしゃべりあいながら、砂採り場の上に回転している鏡をながめているところだった。その場の興奮状態が、新しく到着した連中に、即座に感染したことはいうまでもない。
八時半には代表団が殺されたのだが、そのころまでに現場にあつまった人々の数は、おそらく三百を超えていたであろう。そのほかに、火星人に近づくために、街道をはなれて砂採り穴まですすんだ連中も何人かいる。これには警官が三人くわわっていて、なかのひとりは騎馬巡査だった。かれらはステントから指図されて、見物人の群れがシリンダーに近よるのを防止するのに汗をかいていた。人があつまりさえすれば、意味もなくうれしがって、無鉄砲なまねをやりたくなるやからが、どんな場合にも存在するものだが、ここでもまた、その連中がさわぎ立てていたからだ。
そうした騒ぎの発生をおそれたステントとオーグルヴィは、火星人の出現を見ると、すぐさまホーセルの兵営に電報を打って、異星から飛来した生物を弥次馬の暴力からまもるために、一個中隊の派遣を求めておいた。そのあと、二人は代表団の先頭に立ち、運命の行進についたわけだが、群衆が瞥見したかれらの死の情景は、ぼく自身の観察したところとまったくおなじだった。緑色の煙が三回立ちのぼり、ひくくこもったような音のあと、焔が燃えあがったのだ。
しかし、弥次馬たちこそ、ぼく以上に危険なおもいを味わっている。ヒースの生い茂った砂地の山が、わずかに熱線の下部をさえぎって、かれらの命を救ったのだ。パラボラ鏡の角度が、わずか数ヤード上方にむいていたら、かれらは生きてその経験を語れなかったにちがいない。かれらが見たのは、焔がひらめくとともに、人々が倒れだし、いわば眼に見えぬ死の手が草むらを燃えあがらせ、夕暮れのうすらあかりをつらぬいて、かれらにせまってくるところだった。竪穴のなかにつづいていたひくい唸りが、たちまちつんざくような響きにかわると、熱線はかれらの頭上をかすめて、街道に沿って立ちならぶブナの木の梢を火につつみ、まがりかどに近い家の煉瓦をこわし、窓ガラスをくだき、窓わくを燃えあがらせ、破風の一部を粉々の状態にかえたのだ。
そして、それが音を立てて崩れ、火のついた木々があかあかとかがやくと、恐怖に打たれた群衆は、かえって足がすくんで、逃げる分別も失ったらしい。小枝は火花を散らして、道に落ちはじめ、降りちる葉の一枚一枚が、みな、焔をあげている。帽子や服にも火がつきはじめた。つづいて公有地から、かん高いさけび声があがった。悲鳴と叫喚。騎馬巡査が一騎、群衆を踏みわけるように馬を飛ばしてきた。手をかかげて、大声にさけんでいる。
「こっちへくるわ!」女のひとりが悲鳴をあげた。それが合図になったか、だれもがウォーキングにむけて走りだした。まえの者をつきとばし、逃げまどう羊の群れのように、めくらめっぽうに走っていた。道が土堤にはさまれ、せまく暗くなるあたりでは、群衆のあいだに争いがおこった。そして、死傷者が出た。すくなくとも三人、女がふたりと子供がひとり、無残にも踏みつぶされ、恐怖と暗闇のなかに、死体となってとりのこされた。
七 家にたどりついて
ぼく自身、どうやって逃がれたかおぼえていない。わかっているのは、立木にぶつかり、ヒースの茂みに足をとられ、いくどとなく倒れたことだけである。ぼくの周囲を、火星人への眼に見えぬ恐怖がおしつつんだ。熱線という情け容赦ない死の刃が左右に走り、頭上にひらめいては、いつか舞い降りて、ぼくの命を奪い去るものと覚悟した。それでも、四つ辻とホーセルをつなぐ街道に、どうにかたどりつくことができたので、あとはそれに沿って、四つ辻のほうへと夢中で走った。
しかし、ついに、それ以上は足がすすまなくなった。興奮のはげしさと、走りぬいた疲労で、ぼくは大きくよろめくと、道のはたに倒れてしまった。そこはガス会社のそばで、運河にかかっている橋のたもとだった。ぼくは倒れたまま、いつまでもうごかなかった。
かなりの時間、そこに横たわっていたらしい。
やがて、起きあがりはしたが、不思議なおもいを味わった。しばらくは、なぜこんな場所にいるのか、はっきり理解できなかった。いつか恐怖も、服をぬぐようになくなっていた。帽子はみあたらないし、カラーのボタンがひきちぎられている。数分まえの、ぼくのまえにあったのは、三つの現実だった。――夜と空間と自然のはてしなさ。ぼく自身の弱さと苦しみ、そして、死がまぢかにせまっているおもいがそれだった。しかし、いまはそれが裏返しになり、ものの視点がかわってしまった。その変動に心の状態がついていかず、ぼくはまた、つつましくも平凡ないつもの一市民にもどっていた。沈黙の底にしずんだ公有地、逃走の衝動、火花を散らす焔、すべて、いまのぼくには悪夢だった。事実、そのようなことがおこったのであろうか? ぼくは自問自答してみたが、信じることもできなかった。
立ちあがって、たよりない足どりではあったが、傾斜のつよい橋を歩きだした。頭には、おどろきのほかなにもなかった。筋肉も神経もまったく力を失って、はた目には酔って歩いていると映ったことであろう。アーチなりの橋げたのむこうから、頭がひとつ浮んで、かごを手にした労務者が姿をあらわした。小さな男の子が、そばをちょこちょこ走っている。労務者はぼくとすれちがうとき、こんばんはとあいさつをしたが、こちらはことばを返そうにも声が出なかった。ただ、意味のないつぶやきをもらしただけで、ぼくは橋をわたった。
メイベリーの鉄橋を、汽車が走っていった。火に照らされた煙を、白くもくもく吐きながら、窓の灯をかがやかせ、長い毛虫のように南にむかって――ガッタン、ガッタン、ゴト、ゴトと去ってゆくのだった。このあたりに多い、かわいらしい破風をならべた家々のひとつ、オリエンタル・テラス荘と呼ばれる建物の門前で、何人かの男女が話しあっていた。それはたしかに、いつも見慣れた現実の世界である。だが、ぼくの背後にあるものは、狂気! 悪夢! 現実にありうることだろうか? ぼくはぼく自身に、疑問を投げかけずにいられなかった。
たしかにぼくは、以前から感受性が異常だった。どの程度一般人と異っているか、ぼく自身にも判じがたい。これまでにも、ぼくをかこむ環境はもちろん、自分自身からも遠去かったような、奇妙な気持におそわれた経験がたびたびあった。外から自分を見ているような、考えられぬほど遠くから、時間、空間、そうしたものの制約と悲劇を超越したところから、自分自身を観察している感情を味わうのだ。そしてその夜は、特別それが強烈だった。ここにもまた、ぼくの悪夢のべつの面があったのだ。
ここでぼくを当惑させたことは、この静穏な光景と二マイルとはへだたっていない場所で、死の箭《や》がとびかった事実である。ガス工場では、作業の騒音がひびき、電燈がのこらずかがやいていた。ぼくは人々の話し声に立ちどまった。
「公有地からのニュースがはいっていますか?」
と、ぼくが話しかけた。門のまえに立っているのは、男が二人と女ひとりだった。
「なんです?」
男の一人がふりかえって、ききかえした。
「公有地のニュースですよ」
「あなた、見てきたんじゃないのか?」
男たちはきいた。門のむこうがわの女も口を出して、
「公有地のことでは、みんな頭がおかしくなったみたいだわ。なんであんなにさわぎ立てるのかしら?」
ぼくはいった。「火星から人がきた話をきかないんですか? 火星の生物ですよ」
「もうたくさん」門の女はいった。「けっこうよ」そして、かれら三人は、声をあげて笑った。
ぼくはばかにされた感じで、怒りがこみあげてきた。見てきた話をしようとしたが、思うように説明できなかった。ぼくのとぎれとぎれの言葉に、かれらはまた笑った。
「そのうち、くわしいニュースが伝わりますよ」ぼくはいいすてて、家へむかった。
門口で妻に出あったが、彼女は疲れきったぼくのようすにおどろいた。ぼくは食堂へとおって、腰をおろすと、立てつづけに、何ばいか葡萄酒をのんだ。そして、どうにか自分をとりもどすと、見てきたところを彼女に話してきかせた。すでにつめたくはなっていたが、食卓の用意がしてあった。だが、ぼくはそれに手もつけず、説明に夢中だった。
「しかし、不幸中のさいわいは」とぼくは、それまでの話がひきおこした恐怖をしずめる意味で、つけくわえた。
「見たところ、やつはのろのろ匍いまわるだけでね、もっぱら竪穴に立てこもって、近よる相手を殺すだけだ。出てくることはできないんだな。……それにしても、怖ろしいやつらだ!」
「もうやめて、あなた!」妻はさけんで、眉をひそめ、ぼくの手に手をかさねた。
「オーグルヴィは気のどくなもんだよ」とぼくはつづけた。
「いまだに、死骸をさらしたままだ!」
すくなくとも妻だけは、ぼくの経験を信じてくれた。それだけに、その顔が死人のように青くなっているのを見ると、ぼくも言葉がつづけられなかった。
「すると、いまにもここへおしよせてくるかもしれないわね」と妻は、くりかえしいうのだった。
ぼくは妻にも葡萄酒をすすめて、元気づけようとつとめた。
「なあに、やつらはろくにうごくこともできないんだ」
そしてぼくは、彼女とぼく自身を安心させようと、オーグルヴィの意見をくりかえし述べた。その説によると、火星人は地球上では生存する能力がないことになっている。重力の問題をとくに強調する必要があった。地球の表面では、火星にくらべて三倍の重力がある。したがって、火星人が地球に移れば、体重が当然三倍となる。それでいて、筋肉の力にはかわるところがないはずだ。したがってかれらは、そのからだを鉛でおおわれたように感じるにちがいない。事実、それはだれもが考えることで、たとえば、翌朝配達された『タイムズ』も『デイリー・テレグラフ』も、同一意見を書き立てていた。しかし、あきらかにこの説は、そこにふたつの修正力が働くことを見落としているのだ。
知ってのとおり、地球の大気は、火星のそれをはるかに上まわる酸素を含んでいる。同様の趣旨を、アルゴンがはるかにすくないと表現してもよいのだが、要するに、多すぎるほどの酸素が火星人を活気づけ、増大した体重とバランスをとるのである。そして第二に、危機にのぞんだ火星人は、もっぱらそのメカニカルな知力にたよって、かならずしも肉体的努力を必要とするものでないのを忘れていたのだ。
しかし、そのときのぼくは、そこまでは考えがおよばず、理性が侵入者の危険にたいし、眼をつぶったままの状態だった。そしてぼくは、葡萄酒をのみ、食事をとり、自宅の食卓についている安心感と、妻の気持を落ちつかせる必要から、目立たぬ程度ではあったが、勇気と自信を回復させていた。
「やつらもばかなことをしたものさ」と、葡萄酒のグラスをいじりながらいった。「あんな怖ろしいまねをしたのも、やつら自体が恐怖のあまり、くるったような状態になったからだろう。たぶんやつらは、この土地に生きものが住んでいるとは、予想もしていなかったにちがいない――すくなくとも、知性をもった生物がいるとはね」そしてそのあと、こう結論した。「最悪の場合は、砂採り坑に、砲弾一発だ。それでやつらを絶滅させることができる」
さきほどからの事件で、興奮の度がすぎたあまり、ぼくの知覚は過敏な状態に陥っていた。そのときの食卓のようすにしても、奇妙なほどのあざやかさで、いまだに記憶にのこっている。ピンク色のランプ笠の下から、心配そうにぼくをのぞいている愛する妻の顔、銀やガラスの食器をならべた食器の純白なテーブル・クロス――その当時は、哲学論文の執筆で生活を立てている男にも、その程度のぜいたくはゆるされていたのだ――むらさきの色の濃い葡萄酒をみたしたグラス、すべてが、写真を見るように、はっきりと眼にうかぶのだった。そのような食卓のはしに坐って、煙草で頭をしずめながら、オーグルヴィのかるはずみを悼み、火星人たちの近視眼的臆病さを非難していたのである。
いわばそれは、モーリシャス島のドードー鳥が、その巣のなかにおさまりかえって、食糧になる肉を求めて上陸してきた情け知らぬ水夫たちを論じているようなものだ。
――なあに、あすになれば、おれたちであいつらを、つつき殺してやるさ。
そのときのぼくは、夢にも思っていなかったが、それがぼくにとることのできた文明人としての最後の晩餐だった。その後は、怖ろしくも不思議な幾日かがつづくことになるのである。
八 金曜日の夜
思うに、その金曜日におこった奇怪な出来事のうち、とりわけ奇怪というべきことは、あれほど異常な事件が発生しているのに、われわれの社会秩序にみじんのゆるぎも見られなかった点だ。一般大衆は平常どおり行動して、その日常習慣はなんの変化もしめさなかった。やがてそれが、われわれの社会秩序を根底からくつがえしてしまう結果になるというのに!
その夜、かりにコンパスをもって、ウォーキングの砂採り場を中心に、半径五マイルの円をえがいたとすれば、火星人さわぎの波及したのは、その円周内にとどまっていた。天文官ステント、自転車で見物にきていた三、四人、ロンドンからわざわざ駆けつけた男たち――この連中は、やがて死骸となって、公有地に横たわる運命になるのだが――その身寄りはべつとして、円周内に住む人々で、この夜の火星から新来者によって、その感情や生活習慣に影響をこうむったものはひとりもいなかった。もちろん、奇怪なシリンダー状金属塊のうわさは大多数の人々の耳につたわり、雑談のネタにはなった。しかし、それもしょせんは、ドイツへ最後通牒を送るほどのセンセーションもひきおこさなかったことは事実だった。
その夜ロンドンにあっては、飛来した異物が徐々にその蓋を開きつつあるというヘンダーソンの電文は、虚報であると判断された。彼の勤務先である夕刊新聞社は、念のために、彼にたいして確認を求めてみたが、返事さえなかったことから――そのころ、ヘンダーソンは死亡していたのだ――特別版の発行はとりやめと決定した。
五マイルの円周内にしても、大多数の人々は無関心ですごしていた。ぼくが話しあった男女については、前章でそのあらましを述べておいたが、この地方の住民のほとんどがそれと似たりよったりの状態で、いつもとかわりなく夕食をとっていた。一日の仕事をおえた労働者たちは、家庭園芸のシャベルをにぎり、子供たちはベッドに送りこまれ、若い男女はそぞろ歩きに恋をささやき、学生たちは机にむかっていた。
もちろん、この怪事件のうわさは、村の通りのそこかしこで、立ち話の材料となり、居酒屋では新しいトピックともてはやされ、伝え聞いた連中ないしは実際の目撃者の話が、興奮の渦をひきおこした。それにつれて、走りまわるものもあらわれ、さけび声をあげる騒ぎも聞かれた。しかし、大部分の住民のあいだでは、働き、食べ、飲み、眠るという日常生活の動きにいささかの変化もなく、数百年来おこなわれている状態がつづいていた――まるで、火星などという惑星は天空に存在していないかのように。それは、ウォーキング駅にあってもそうであり、ホーセルやチョバムの村にあっても、おなじことがいえた。
ウォーキング乗換駅では、その夜おそくまで、列車が到着し、発車し、その一部は待避線にひきこまれ、旅客たちが降り立ち、つぎの列車を待機し、すべてがいつもとかわりなく行われた。もっとも、新聞売りの数は増し、町からきた少年が、スミスの縄張りをおかして、午後の特報をのせた夕刊を売っていた。貨車を連結する音、機関車が吹きならすするどい汽笛にまじって、【火星から人間!】とさけぶ売子たちの呼び声がひびいた。九時ごろになると、信じがたいニュースに興奮した人々が、停車場構内にとびこんできた。しかしそれは、酔っぱらいがわめき立てるほどの動揺もおこさなかった。ロンドン方向にむかう旅客は、車窓の前にひろがる暗闇をとおして、火の手がまだ、ホーセルのあたりにのこっているのを見ることができた。かなり弱まってはいるものの、なおあかあかと夜空に映えて、うすい煙のヴェールが、星影をかすめてながれていく。しかし、それを見る旅客たちは、今夜もまた、野火が燃えているなといった程度にしか考えてみなかった。いくらかそれを気にしだしたのは、列車が公有地のはずれにさしかかったときのことで、ウォーキングの村はずれに、バンガローが五、六軒、燃えているのだった。三つの村の公有地に面したがわの家々では、どこもが灯をともして、夜があけるのを待ちかねているのが見えていた。
公有地から、チョバムとホーセルへわたるそれぞれの橋には、不安な顔つきをした群衆が集まって、個人個人の出入りはあっても、全体の人数はすくなくなるようすはなかった。なかで、冒険好きのひとりふたりが、闇の公有地へしのびこんだ。火星人のすぐ真近まで匍いよった形跡はあったが、二度と生きてもどってこなかった。ときどき、戦艦のサーチライトに似た光が、公有地を掃射してすぎると、あとにかならず、問題の熱線がつづいたからである。それをのぞけば、広漠たるこの公有地は、音もなく闇の底に沈み、人の動きはいっさい見られず、黒焦げの死体だけが、星空の下に横たわっているのだった。それはつぎの日もおなじことで、ただ、ハンマーをたたくような音が、砂採り場の竪穴からひびいてきて、多くの人々の耳をおどろかした。
金曜日の夜における情勢は、以上述べたとおりである。年老いたわれらの惑星、地球の膚《はだ》に、毒矢のようにつき刺さったシリンダーが、この事件の中心とはわかっていたが、その猛毒がおどろしい効果を見せるまでにはいたらなかった。現場周辺は、黙々と声もない公有地で、各所に煙がいぶり、いくつかの黒く汚れた物体が、ひきつったような姿勢のまま、あちこちに倒れている。草むらや木立がいまだに燃えつづけているところもある。とはいえ、興奮の地域には限界があって、そこを越えると、火の手はいまのところ延びていなかった。そのほかの世界では、太古以来の生命の流れが、なんの変化もなく継続している。やがては動脈静脈のへだてなく、われわれの血液を凍らせ、神経を麻痺させ、頭脳を破壊しつくすであろう戦争熱も、燃えあがる段階には達していなかった。
その夜一夜、火星人たちはうごきまわり、ハンマーをふるいつづけていたらしい。眠りもやらず、疲れることも知らずに、用意する必要のある機械を仕上げるのに努力していたのであろう、ときどき、うすみどりの煙が、星のあかるい夜空に舞いあがっていた。
十一時ごろ、歩兵一個中隊がホーセルの村をすぎて、公有地に到着し、その入口に哨戒線をはった。すこしおくれて、第二の一個中隊がチョバムを通過し、これは公有地の北がわに展開した。その夜、もっとはやい時間に、インカーマンの兵営から、何人かの将校が公有地の偵察に派遣されているのだが、そのうち、イーデンという少佐が行方不明になったとの報告があった。連隊長自身、チョバム橋まで出張して、深夜にいたるまで、群衆からの情報を漁った。軍当局も、いまや事態の重要性に気づいたと思われる。つぎの事実は翌日の朝刊で知ったのだが、その夜十一時、軽騎兵一個大隊、機関銃二個中隊、さらに、四百名にあまるカーディガン連帯の歩兵が、オルダーショットを出発していたのであった。
十二時をすぎて、数分したとき、チャートシー・ロードやウォーキングにあつまっていた群衆は、またしても星がひとつ、西北方の松林に落ちるのを見た。それは、みどりがかった光彩を放って、真夏の稲妻さながらに、音もなくきらめていて消えた。これが第二のシリンダーだった。
九 戦闘開始
戦慄の日としての土曜日は、いつまでもながく、ぼくの記憶にとどまることであろう。蒸し暑く、けだるいような一日だった。あとで聞いたところだと、バロメーターがはげしい上下運動をくりかえしていたという。妻は眠りこんだらしいが、ぼく自身はほとんど眠ることができなかった。夜があけるとそうそうに起き出して、朝食まえに庭へ出てみた。聴き耳を立てたものの、公有地の方向では、ひばりが一羽さえずっているだけで、ほかにはなんの物音もなかった。
牛乳屋が、いつものように配達にきた。その馬車の音を聞きつけると、ぼくはいそいで横手の木戸にまわった。新しいニュースを知りたかったからだ。牛乳配達の話だと、夜のうちに、軍隊は火星人の包囲をおわって、やがては大砲も到着するとのことだった。この心づよいニュースのほかにも、話のあいだに耳馴れた力づよい響き――ウォーキングへむかう汽車の音を聞いたのがうれしかった。
牛乳配達はいった。「軍隊では、火星人は殺さない方針だそうで、できれば生け捕りにするって話ですよ」
隣家の主人がいちご畑をいじっていたので、しばらく話しあってから、朝食をとりに屋内にもどった。それはいつもと、なにひとつ変ったところのない朝だった。隣人の意見は、軍隊が出動してきたからには、その日のうちに、火星人を生け捕りにするか、わるくいっても、退治してしまうにちがいないというのだった。
「あいつらが友好的でなかったことは、遺憾のきわみですな」と、彼はいっていた。「これはいいチャンスで、ほかの星の生物が、どんなふうにして生きているのか、観察できるところでしたからね。もっとも、すこしはあれで、学ぶこともあったでしょうが」
彼は垣根まで歩みよって、手にいっぱいのいちごをさし出した。これくらい園芸に熱心な男もすくないが、栽培したものを配給するのに気前のよいことも無類だった。彼はそのついでに、バイフリート・ゴルフコースで、松林が燃えたことを話してくれた。
「うわさでは」彼はいった。「あのいまいましいしろものは、ゴルフ場に落ちたようすです――つまり、第二号ですな。ひとつでもたくさんなのにね。保険会社こそ災難ですよ。このあと始末に、大へんな出費を覚悟しなければなりますまい」そんなことをしゃべりながら、いかにも上きげんな顔で、笑いさえうかべてみせた。松林はいまだに燃えつづけているといって、その煙を指さして示すのだった。
「ここ当分、あのあたりは熱くて歩けるもんじゃありませんぞ。松葉が相当たまっているのに、芝生までが燃えましたからね」それから、まじめな顔つきになって、話をかわいそうなオーグルヴィへもっていった。
朝の食事をすますと、ぼくはいつもとちがって、仕事にとりかかるのをみあわせ、公有地のようすを見にいくことにした。鉄橋まで行くと、橋脚の下に何人かの兵士たちがかたまっていた――たぶん、工兵であろうが、つばなしの丸型で小さな帽子をかぶり、うすよごれた赤い上着をつけ、ボタンをはずしているので、青シャツがのぞいている。黒ずんだ色のズボンに、ふくらはぎまでつつんでいる長靴といった格好だった。かれらはぼくを見ると、この運河のさきは通行禁止になっていると教えてくれた。橋にむかう道路の上に、カーディガン連隊の兵士のひとりが、歩哨に立っていた。
ぼくはしばらくのあいだ、兵士たちと話しあった。その前夜、火星人を見たもようをきかせてやったのだ。むろんかれらは、火星人を見たわけでないので、どんなものか見当もつかない顔つきで、なにかと質問の雨を浴びせてくるのだった。そしてまた兵士たちは、軍隊の出動命令がどの方面から出ているのかも知らなかった。最初は、近衛騎兵連隊に内紛が生じたのだとおもったそうだ。もともと工兵隊の連中は、通常の兵士にくらべれば教育のすすんだほうで、このときも、これからおこるかもしれない風変りの戦闘状態について、あんがい的確な議論をとりかわしていた。ぼくがつづいて、熱線の作用を説明してきかすと、こんどはそれに関連して、かれらなりの論争に花を咲かせた。
「遮蔽物を利用して、徐々に接近するのがいいだろう。いいかげん近づいたら、いきなり突進するんだ」と、ひとりがいうと、
「ばかをいえ!」と、ほかのひとりが応じた。「そんなひどい熱を出す相手に、遮蔽物なんか役に立つか。焼け死んじまうにきまっとるぞ。このさい、おれたちのとる方法は、地形のゆるすかぎり接近して、塹壕を掘ることだ」
「塹壕とはおどろきだな。おまえはなにかというと塹壕を掘りたがるが、うさぎにでも生まれてくればよかったんだ!」
すると、三ばんめの兵士が、いきなりいった。「やつらには頸がないのかい?」これは小柄で、色のまっ黒な、それでいてわりと思慮のありそうな男だった。パイプをくわえこんでいる。
ぼくはそこで、昨夜眼にした火星人の外見をくりかえしてきかせた。
「なるほど。タコみたいなもんだな」その兵士はいった。
「ほかに、名付けようがないじゃないか。人間をつかまえにきたんだろうが、その正体は魚の化けものだったのか!」
「そんな化けものを殺したって、人殺しってことにはならねえな」と、第一の兵士がいった。
「いっそ、大砲でもぶっこんで、いっぺんに息の根をとめたらいいだろうに」と、小柄で色のくろい兵士がいった。
「放っておいたら、どんなわるいまねをしだすか、わかったもんじゃないぞ」
第一の兵士がこたえて、「大砲なんて、どこにある? ここまでひっぱってくる時間がない。突撃でやっつけるにかぎる。わるいことはいわんよ。大いそぎで片付けんと、えらいことになるぞ」
かれらはそんなことを話しあっていた。しばらくしてから、ぼくはそこをはなれて、鉄道駅へ向って歩きだした。そこで、手にはいるだけの朝刊を買いこもうと考えたからだ。
しかし、その後のながい朝と、さらにながい午後とのことを、いちいち書き記そうとは考えていない。それは読者諸君を、いたずらに退屈させるだけのことである。要するにぼくは、その後の公有地のようすをうかがうことができなかったのだ。ホーセルやチョバムの教会までが、軍当局の手に接収されていたくらいで、兵士たちからニュースをひき出そうとしても、かれら自身が、なにも知らされていなかった。将校となると、これはまたいそがしがっているばかりで、口がおそろしくかたかった。それでも町の人々は、軍隊が出動してきただけで、心の平静をとりもどした。そのころになってはじめてタバコ屋のマーシャルが、公有地で死んだ犠牲者のうちに、彼の息子もまじっていたことを語りだした。ホーセルの村はずれでは、住民は軍の指示のもとに、それぞれ窓をしめ、避難にとりかかっていたのであった。
ぼくは二時ごろ、昼の食事に、家へもどったが、疲労しきっていた。まえにもいったが、おそろしく暑くて、けだるい日だったこともある。気分を新しくするために、午後には冷水浴をとってみた。そして、四時半ごろになると、また鉄道駅まで出かけて、夕刊を買いこんだ。ステント、ヘンダーソン、オーグルヴィ、そのほかの人々の死について、朝刊の記事は、あまりにもあいまい模糊としていたからだ。しかし、夕刊にも、新しい事実はほとんど載っていなかった。
火星人たちは、その後まったく姿を見せないそうである。おそらく砂採り坑のなかで、何かの作業にいそがしがっているのだろう。ハンマーをたたく音とともに、たえず煙が舞いのぼっているとのことで、戦闘準備をととのえつつあるにちがいなかった。どの新聞紙上も、つぎのようなきまり文句を記していた。「火星人への連絡を、再三試みたが、いずれも失敗におわった」工兵隊の兵士たちから聞いたところでは、兵士のひとりが、長い竿のさきに旗をつけて、塹壕のなかからふってみたのだそうだ。火星人はしかし、その軍使が近づいたことに、牛が鳴いたほどの関心もしめさなかったとのことである。
正直に告白するが、そのような軍のうごきと戦闘準備を目撃して、興奮しないわけにいかなかった。心の底に、好戦的な気分が湧きあがったのだ。いろいろの方法で、侵入者を撃破するところが空想された。小学生時代に夢見た戦争と英雄主義についてのあこがれがよみがえってきたのである。そのときのぼくの脳裡にうかんでいたのは、火星人がひとたまりもなく撃滅される場面で、それはあまりにも一方的な勝負だった。かれらは砂坑のうちにとじこめられたかたちで、まったく無力な状態と思われたからである。
三時ごろ、チャートシーかアドルストンあたりと思われる方向に、一定の間隔をおいて、不気味な砲声がとどろきだした。ぼくはそれによって、第二のシリンダーの落下地点である松林へ、砲撃が開始されたことを知った。蓋がひらかれるまえに、爆破してしまう作戦にちがいない。しかし、第一の火星人たちを攻撃するための野砲は、五時ちかくになって、はじめてチョバムに到着した。
夕方の六時に、ぼくは妻といっしょに、庭のあずまやでお茶をのみながら、わが家まぢかにせまった戦闘について、熱心な会話をとりかわした。公有地のあたりに砲火のきらめきが見えたかと思うと、寸刻をおかず、陰にこもった爆発音がとどろいた。そしてその直後に、ぼくたちの身ぢかに、なにかすさまじく、もののくだける音がして、大地がはげしくゆれうごいた。あわてて芝生の上にとび出してみると、オリエンタル・カレッジの周囲で、立木の梢がまっかな焔につつまれているのが見えた。もうもうと煙が舞いのぼっている。そのかたわらにある小さな教会の塔は、ひとたまりもなく崩れ落ちていった。回教寺院の尖塔にしても、あとからもなく消え失せて、小学校の屋根は百トン砲の一撃をくらったように、その線の形を変えていた。ぼくの家では、煙突が一本、砲弾が命中したわけでもないのに飛び散った。破片が屋根瓦にあたって、赤タイルを大きくこわし、そのかけらを、書斎の窓の下の花壇にうずたかく積みあげていた。
ぼくと妻は、しばらくは呆然とつっ立っていたが、やがて気をとりなおすと、学校があのように破壊されるようでは、このメイベリー・ヒルの頂上も、同様、火星人の熱線の射程内にあるなと考えた。
そこで、あわてたぼくは妻の腕をつかんで、なにもいわずに道路へとび出した。そのあとで女中を外へつれ出すと、彼女は二階の部屋に荷物がおいたままだと泣きわめくので、とってきてやるといってなだめねばならなかった。
「それまで、ここでまごまごしているのは危険だぞ」そういううちにも、公有地でつぎの爆破音が鳴りひびいた。
「でも、どこか、逃げるところがあるんですか?」恐怖におののいた妻が、泣き声を出している。
ぼくもまた、どうしたものかと思案した。さいわい、レザーヘッドに住む彼女のいとこたちのことを思いだしたので、「レザーヘッドへ逃げよう!」と、さけんだ。大声でさけばぬことには、声が爆発音にさまたげられて聞きとれない。
妻はぼくから眼をそらして、丘の裾を眺めやった。狼狽した人々が、それぞれの家からとび出してくるところだった。「レザーヘッドまで、どうやって逃げたらいいのかしら?」
丘のふもとでは、軽騎兵の一隊が、鉄橋の下に馬を走らせるところだった。そのうちの三騎が、オリエンタル・カレッジのひらいた門へ駆けぬけていった。ほかにふたり、これは馬から降りて、そのあたりの窓から窓へと駆けまわっている。木々の梢から立ちのぼる煙のあいだに、血のように赤い太陽がながめられた。それは、はじめて見る不気味な光を放つ存在だった。
「ここをうごくんじゃないよ」ぼくはいった。「ここにいれば、安全なんだからね」そしてすぐに、【まだら犬亭】をめざして走りだした。そこのおやじが、二輪馬車をもっているのを知っていたからだ。ぼくは走った。もうまもなく、丘のこちらがわの住民は、ひとりのこらず逃げだすにちがいない。さいわい、酒場のおやじは店にいてくれた。この男、家の背後でどんなことがおこっているのか、いまだに知っていないようすだ。見知らぬ男がぼくに背をむけて、おやじと話しこんでいる。
「一ポンドは、どんなことがあってももらいまずぜ」と、酒場のおやじがしゃべっている。「ただし、追っていく人間はいませんがね」
ぼくは見知らぬ男の肩越しにいった。「二ポンド出そう」
「なんですって?」
ぼくはつづけた。「夜の十二時までには、返しにくるよ」
「こいつはおどろいた」おやじはいった。「なんでまた、そんなにあわてていなさるんだ? あたしは、豚を売る話をしてるんですぜ。二ポンド出してくれるんですか? つれてもどってくるとは、どういうわけなんで? なにかあったんですかい?」
ぼくは、いそいで、立ちのかねばならなくなったと話し、二輪馬車を借りにきたのだと説明した。もっとも、そのときはまだ、この家のあるじまで立ちのかねばならぬほどの切迫した事態とは考えていなかった。馬車に支障がないことを見定めると、それを道路まで駆り出した。そして、妻と女中に管理させておいて、屋内へとびこむと、銀食器とかなんだとか、金目のものの荷づくりにとりかかった。そのあいだにも、家の下にあるブナの木立に火が移って、道路ぎわの木柵までがまっかな火につつまれてしまった。ぼくが荷づくりに没頭しているところへ、馬から降りた軽騎兵のひとりが駆けあがってきた。このあたりの家々を駆けまわって、即刻避難するように勧告しているのだった。ぼくはテーブル・クロスにつつんだ荷物をかかえて、玄関までとび出してきたところで、その兵士の姿が眼についたので、うしろから呼びかけた。
「状況はどうです?」
彼はふりかえって、ぼくをみつめると、大声で、皿おおいみたいなものが匍い出してきたと教え、そのまま、丘の頂きにある家へむかって走り去った。つぎの瞬間、道路を横切ってながれてきた黒煙が大きく渦巻いて、彼の姿をかくしてしまった。ぼくは隣家の玄関に走りよって、ドアをたたいてみた。その日、隣人夫婦は、家を戸じめにして、ロンドンへ出かけていったのを知っていたが、念のために確かめておきたかったからだ。それから、女中との約束をはたすために、もう一度、屋内へひっかえして、彼女の荷物をかかえ出した。それを馬車のうしろにのっている彼女のわきに投げ出すと、手綱をとって、馭者席にとびのった。そこにはすでに、妻がのりこんでいた。その一瞬あと、ぼくたちは煙と砲声をあとに、メイベリー・ヒルの裏手の傾斜を、いっさんに馬車を走らせていた。めざす方向はオールド・ウォーキングである。
目のまえに、しずかに陽光がふりそそぐ風景があった。道路の両がわでは、麦畑のひろがりが平和な姿を見せ、メイベリー旅館《イン》の看板が意味もなくゆれている。ぼくのまえを、医者の馬車が走っていく。丘のふもとで、ふりかえって、いまくだってきた丘の斜面をながめやった。黒煙が色濃くながれて、そのところどころを、赤い焔が糸のように縫い、しずかな空へと舞いのぼっていた。東のかたのみどりの木立は、その梢をくらい影につつまれていた。煙はすでに、東西にひろがっている。東はバイフリートの松林、西はウォーキングの町のあたりまでのびているのだった。
道路には、ぼくたちと同方向へ走る人々の姿が、点々と見受けられる。そして、ここまでくれば、かすかに聞こえるだけであるが、それでも、空気が熱いだけで、しずかに澄みきっているせいか、機関銃のうなりが、はっきりと耳にひびいてくる。それもやがてしずまると、ライフル銃の音が断続的に聞こえてきた。あきらかに火星人は、その熱線のとどくかぎり、あらゆるものを燃やしつづけているのだった。
ぼくは馬を馭《ぎょ》すのに馴れていなかったので、たえず注意をむけていなければならなかった。背後をふりかえると、第二の丘が黒煙につつまれていた。馬にひと鞭あてて、手綱をいっぱいにゆるめ、いつかウォーキングとセンドの村を走りぬけ、騒乱の場所を遠去かった。医者の馬車を、ウォーキングとセンドのあいだで追いぬいた。
十 嵐のなか
レザーヘッドの町は、メイベリー・ヒルから十二マイルほどはなれたところにあった。パイアフォードをすぎると、みどりの濃い牧場がつづいて、乾草のにおいが空気中にただよった。道をはさんだ生け垣には、野バラがかぐわしく咲きみだれている。ぼくたちの馬車がメイベリー・ヒルを走り降りるときは、地ひびきを打つように砲火がとどろいていたが、いつかそれもぴったりおさまって、そのあたりの夕暮れは、いかにも平和でものしずかなものだった。途中なんの災難にもあわず、九時にはレザーヘッドに到着した。馬に一時間の休息をあたえるあいだ、ぼくたちはいとこたちと食事をともにして、妻をかれらの手にゆだねた。
ぼくの妻は、馬車を駆っているあいだ、奇妙なほど沈黙をまもっていた。おそらく、災厄の予感に気がしずみきっていたのであろう。ぼくは彼女を力づけて、火星人はそれ自体の重量から、砂採り場の竪穴で金しばりにあったも同然の状態で、ほんのすこし穴の外に匍い出すのがせいぜいだといってきかせた。しかし、彼女はそれにも、ひとことふたことこたえるだけだった。酒場の亭主との約束がなければ、おそらく彼女はぼくをひきとめ、その夜一夜、レザーヘッドからはなれさせなかったことであろう。そうできればよかったのだが! いまでも憶いだすが、別れるときの彼女の顔の青かったこと!
ぼく自身としては、その日の興奮があまりにもはげしすぎて、ときどき文明社会を見舞う戦争熱といったようなものに血液が沸き立っていたために、その夜メイベリーへもどらなければならぬことをそれほど遺憾とは考えなかった。むしろ、さっき耳にした一斉射撃で、火星からの侵入者が絶滅させられたのではないかと、心惜しく思ったくらいだった。正直にいえば、そのときのぼくの気持は、かれらの最後の場面に立ち会いたいという心境だったのだ。
帰路についたのは、十一時に近かった。その夜は意外なほど暗く、いとこの家のあかるい廊下から外へ出ると、あたりはものの見分けがつかぬくらいまっ暗で、しかも昼間のままに蒸し暑かった。頭上では、雲が迅く走っているが、まわりの茂みには、そよとの風もなかった。いとこの召使が、馬車のランプに火をともしてくれた。妻は戸口のあかりのさすところに立って、ぼくが馬車にのりこむまで見送っていた。それから、急にむこうをふりむくと、いとこたちが別れを告げるために、まだそこに立っているのに、さっさと屋内へはいってしまった。
最初は、ぼくも妻の不安が感染して、気分がやや滅入ったが、すぐにまた、火星人への想いにひき入られた。そのときのぼくには、夕刻の戦闘状況がわからなかった。なぜそのように、彼我の衝突が速められたのか、その経過も知ることができないのだ。帰途はセンドからオールド・ウォーキングへぬける道をとらずに、オカムをとおる道をえらんだが、西の地平線に血のような赤い光のかがやくのが見えた。それは近づくにつれて、ゆっくりと空にむけて匍いのぼっていた。あらしの訪れを思わせる雲が、黒と赤との煙にまじりあいながら、はやいスピードで飛んでいた。
リプリーの村にはいったが、人脚はまったく絶えていた。ただ一軒、窓に灯をのぞかせている家があるだけで、これがなければ、この村は全員死に絶えたかと思われるほどだった。ちょうど、パイアフォードへまがるかどのあたりで、ぼくはあやうく衝突事故をおこすところだった。そこに何人かの人々が、ぼくに背をむけて立っていたのだ。ぼくの馬車が通りすぎても、ひとことも話しかけてこなかった。前方の丘のむこうで、おそろしい事件がおきているのを知らずにいるのか、ここまでくる途中の家々がしずまりかえっているのは、平穏無事に寝入っているのか、あるいは、すでに避難を完了して、村じゅうが空家にかわっているのか、それともまた、村人はみな不安のうちに、夜の恐怖を見まもっているのか、いっさいがぼくにとっては不明だった。
リプリーからパイアフォードをすぎるまでは、ウェイ河の谷間を走ったので、燃えあがる紅蓮《ぐれん》の焔はぼくの眼からかくされて見えなかった。パイアフォードの教会をすぎて、小さな丘にさしかかると、またしても焔の色が眼にはいった。周囲の木々は、近づいてくるあらしの先触れに、枝の葉をふるわせていた。そのうちに、馬車の背後で、真夜中を告げるパイアフォード教会の鐘の音が聞こえた。つづいて、メイベリー・ヒルのシルエットがうかびあがり、いまはあかあかとかがやく空を背景に、木々の梢と家々の屋根とが、黒く鋭い線をあらわした。
それに気をとられているあいだに、とつぜん、みどりがかった無気味な光が、ぼくの馬車が走る道路をかがやかした。アドルストーンあたりの森までが、急にまぢかにながめられた。馬があばれて、手綱をひいた。見ると、走りゆく雲の渦をつらぬいて、緑に燃える火の糸のようなものが、左手の畑のなかに落ちた。それが、第三の落星だった。
その出現にひきつづいて、眼もくらむようなむらさき色の光が走った。しだいにつのってきたあらしにともなう最初の稲妻だった。頭上で、のろしを思わせる雷鳴がとどろくと、馬はたけりくるって、矢のように走りだした。
メイベリー・ヒルのふもとまでは、ゆるい傾斜をなしている。ぼくの馬車は音をたてて下っていった。最初の稲妻のあと、ひきつづきひらめく電光が、かつて見たこともないはげしさだった。雷鳴もつぎつぎとあとを追い、異様な余韻をともなって、巨大な電動機が回転するのに似た音を立てた。閃光は眼を射って、こまかなあられが斜面を下るぼくの顔に、疾風さながらに打ちつけた。
はじめはぼくも、眼のまえの道以外に気をとられなかったが、急に注意力が、メイベリー・ヒルの向うがわの斜面を猛烈なスピードで走り降りていくものに奪われた。最初、雨に濡れた屋根が光っているのかと思ったが、つぎつぎときらめく稲妻によって、それが急速な回転運動をつづけている物体であることがわかった。あまりにもはやくうごくので、形状までは見きわめられない。――あやめもわかたぬ闇の瞬間が、たちまち真昼をあざむく閃光にかがやき、丘のいただきに近い孤児院の赤煉瓦、松林のみどりの梢、そしてこの謎めいた物体が、くっきりと、鋭くそしてあざやかに浮かびあがるのだった。
ついにぼくは、その【もの】を見た! どのように描写したらよかろうか? 三本脚の怪物である。どの家よりもたけ高く、若い松の木をまたぎ越え、すすむにあたって踏み砕き、きらきらかがやく金属の機械が、いま、ヒースの生い茂った野原を大股に横切っていく。節のある鋼鉄のロープが何本か垂れ下って、怪物の進行とともに雷鳴と入りまじって、けたたましい騒音を立てている。電光がひらめくたびに、その姿がまざまざと見てとれるのだ。片方に、やや傾きぎみに、二本の脚で空中をすすんでいくと見ていると、たちまちそれが消え失せる。そしてまた、ほとんど間をおかずに、つぎの閃光とともに、ふたたび姿をあらわすが、そのときは、百ヤードもこちらへ近よっている。搾乳台がかしぎながら、すさまじいいきおいで、地上をころがりすすむところを想像してもらえばよいか。電光のきらめくあいだに見てとった印象は、それ以上に形容のしようがなかった。ただ、搾乳台とはいったが、三脚台の上にのったよほど巨大な物体を思いうかべてもらわぬことには、そのおそろしさが想像できないと思う。
とつぜん、前方の松林がふたつに分れて見えた。人が、かぼそい葦のあいだを掻き分けて歩くように、いとも無造作に、松の木立を踏みしだきながら、一直線にすすんでいくのである。
つづいて第二の三脚台があらわれた。これはまっしぐらに、ぼくの方向にむかってすすんでくる。そしてぼくの馬車も、そちらへ全速力で疾走しているところなのだ。このままだと、当然あいつと激突する! ぼくはしかし、第二の怪物を見ると同時に、反射神経を働かした。それをながめるために、手綱をひきしぼるかわりに、いきなり馬の首を右手へねじまげた。すると、つぎの瞬間、馬車は馬の上にのしかかったかたちで、シャフトが音高く砕け、ぼくはもんどりうって、かたわらの浅瀬に投げ出された。
落ちたつぎの瞬間、ぼくはどうにか匍いあがって、まだ足を水中に浸したまま、ハリエニシダの茂みのなかにうずくまった。馬はかわいそうに、首の骨を折ってうごかなかった。明滅する電光のうちに、ぼくは転覆した馬車の黒い車体と、いまなお、ゆっくり回転をつづけている車輪のシルエットをみつめていた。つぎの瞬間、巨大な機械は、ぼくの上をまたいで、パイアフォードのほうへと、丘をのぼっていった。
近くで見ると、その【もの】は信じがたいほど異様な物体だった。なんとなれば、ただの機械でなく、無生物がうごいているのとも、あきらかに相違していた。機械にはちがいないが、歩くたびに、金属性の音が鳴りひびき、長いしなやかな、そしてきらきらかがやく触手(その一本は、若い松の木をにぎりしめていた)が、異様な物体の左右にゆれうごき、音を立てているのだった。大股にすすんでいるが、道はちゃんとえらんでいるようすで、その上部にのっている真鍮色のフード状のものが、あちこちにうごいているところを見ると、それが頭で、周囲をうかがっているとしか考えられない。胴体にあたる部分のうしろは、釣師のもつ魚籠《びく》をぐんと巨大にした形で、白い金属塊からできあがっていた。そしてこの怪物は、ぼくのかたわらを通りすぎるにあたって、三本の脚の関節から、緑色の煙を噴出させているのだった。
そのとき見てとれたのは、それだけだった。電光のひらめくあいだに観察するので、巨大な光に目がくらむかと思うと、たちまちまっ黒な影にかわるので、すべてはばく然としかながめられなかった。
それは、通りすぎながらも、雷鳴さえかき消すばかりの、すさまじい吼え声を立てるのだった――【アルー! アルー!】というのが、その声である。それはつぎの瞬間に、半マイルほどのさきで仲間といっしょになった。そして、ふたつならんで、野原のなかのなにかの上にかがみこんでいた。おそらくそれは、火星がわれわれめざして発射した十個のシリンダーのうち、三ばんめのものであったと思われる。
そのあとしばらく、ぼくは雨と暗闇のなかで、明滅する稲妻をたよりに、この金属の怪物がはるか遠くをうごきまわるのを、生け垣越しにみつめていた。こまかいあられが降りだしていた。それによって、怪物の姿は靄にかすんだようになり、またふたたび、電光がきらめくとともに、くっきりと目にうつる。ときどき、稲妻に間隔があると、夜の闇がかれらを呑みこんでしまうのだった。
上からはあられに濡れ、下は水だまりにつかっていたが、ぼくはそこをうごこうとしなかった。ぼう然自失の状態から、はっとわれにかえって、身にせまる危険を感じとったのは、かなりたったのちのことだった。ぼくはあわてて、土堤をよじのぼり、乾いた土の上に匍い出した。
さほど遠くないところに、開拓者の小屋があった。一間だけの、いたって小さな木造小屋で、わずかばかりのじゃがいも畑にかこまれている。ぼくはやっとのおもいで立ちあがると、物蔭を百パーセント利用しながら、その小屋めがけていっさんに走った。ドアをはげしくたたいてみたが、応じてくれる者はなかった。おそらくなかには、だれもいなかったのであろう。あきらめたぼくは、そこからつづいている溝のなかを匍いながら、怪物機械に見とがめられずに、メイベリーへつづく松林まで駆けこむことに成功した。
そのさきは木立がくれに、わが家をさして歩いていった。ずぶ濡れのからだを慄わせながら、木立のあいだを縫い、小径をひろって歩きつづけた。林のなかは、まったくの闇だった。稲妻もいまは間遠になり、いまだに滝のように降りそそぐあられが、おもく茂った葉のあいだから、音を立てて、ぼくの頭を打った。
そのときぼくが、いま見たものの重大な意味を悟っていたら、すぐにでも進路をかえ、バイフリートからチョバムをぬけて、レザーヘッドの妻のもとにひっかえしたにちがいなかった。だが、その夜ぼくをおそった出来事が異様すぎたこと、肉体的に疲労の極に達していたことなどあって、ぼくの判断はくるわされていた。事実、怪我もしていたし、疲れたばかりか、皮膚の下まで濡れそぼれ、眼も耳もあらしのためにその力を失っていた。
わが家へたどりつきたいという、ばく然とした希いだけが、頭の底にこびりついていて、それだけがぼくをうごかす唯一の動機だった。よろめく足で、木々のあいだを縫いながら、ときどきは溝に落ちこみ、板にぶつかってはひざをすりむき、そして最後に、カレッジ・アームズからきている小径に、水音高く、投げとばされてしまった。水音高くといったが、けっして誇張ではない。丘からながれ落ちる泥まじりの水が、砂地をすっかり浸しきっていたのである。
その暗闇のなかで、男がひとり、ぼくにはげしくぶつかったので、ぼくは実際、はねとばされたのだ。
彼もまた、恐怖のさけびを大きくあげると、横っとびにすっとんで、気をとりなおしたぼくが話しかけるのも待たずに、あわてふためいて走りだした。このあたりでは、とりわけ風の重圧がはげしく、丘をよじのぼるのも、なみたいていの努力では不可能だった。ぼくは左手の垣にぴったり身をよせ、その柵を伝わりながら、かろうじて足を運んでいった。
頂上ちかくなって、なにかやわらかないものにつまずいた。きらめく電光で、足もとを見ると、黒のラシャ地ひとかさねと深靴一足があった。男が倒れている! だが、どんなふうにその男が横たわっているのか、見定めることもできぬうちに、稲妻が消えた。ぼくは男のそばに立って、つぎの閃光を待った。それがひらめいて、倒れているのは、案外がっしりした男であることを知った。安っぽくはあるが、みすぼらしいというほどの身なりでない。頭をからだの下にねじまげて、生け垣によりそうように横たわっている。それはまるで、はげしいいきおいで、生け垣めがけて叩きつけられたように見えた。
ぼくとしては、はじめて死体に触れることで、当然ともいえるのだが、身慄いするような嫌悪感におそわれた。が、かがみこんで、その胸の動悸をたしかめてみた。心臓は完全にとまっていた。首の骨が折れているのだ。三どめの稲妻がきらめいたとき、死人の顔が、はっきりとうかびあがった。ぼくは思わず、その場に跳びあがった。【まだら犬亭】のおやじではないか! この男の避難用具を、ぼくが奪ってしまっていたのだ。
気をつけながら、ぼくは丘の上をめざした。警察署とカレッジ・アームズのわきを通って、ぼくの家をめざしてすすんだ。丘の中腹では、どの家にもまだ火が移っていない。しかし、公有地のあたりの空は、あかあかと焔が噴きあげて、降りしきるあられもものかは、渦巻く黒煙におおわれている。稲妻のひらめくたびに見てとれるのだが、ぼくの周囲の家は、ほとんど損傷を受けていなかった。
カレッジ・アームズのわきで、道路上に黒いかたまりが横たわっていた。
その道の下、メイベリー橋のあたりでは、人声と立ちさわぐ物音が聞こえていたが、ぼくはそれにむかって声をかける元気もなかった。鍵でドアをあけ、なかへはいると、ドアにまた鍵をかけたうえ、かけ金までおろした。足をひきずりながら、階段の下までたどりつくと、そこに、腰をおとしてしまった。
ぼくの空想のすべては、大股に歩きまわる金属の怪物によって占領されていた。それに、生け垣にたたきつけられたあの死体で……
階段の下にうずくまり、壁に背をもたせたまま、ぼくははげしく慄えていた。
十一 窓ぎわで
まえにも述べたことがあるが、ぼくは生来、たとえ激情のあらしにおそわれたとしても、どうにかそれを片付けてしまう術を心得ていた。しばらくすると、落ちつきをとりもどし、それと同時に、濡れたからだの冷えきっているのを感じとった。ほとんど無意識のうちに立ちあがり、食堂でウイスキーを何ばいかのんでから、着替えのためにうごきだした。
それがおわると、二階の書斎へ行った。なんのために、そのようなことをしたのか、いま考えてもわからない。書斎の窓からは、ホーセル公有地の木立と鉄道線路が見わたせる。さきほどの出発にあたって、いそがしさにとりまぎれ、そこの窓をしめ忘れていたはずだ。廊下はくらいが、窓枠に区切られた外の夜空は、あかあかと火に映えている。その対照で、部屋のなかはあやめもわかたぬほどの暗さであったが、ぼくは戸口で立ちどまらずにいられなかった。
雷鳴をともなうあらしは去っていた。オリエンタル・カレッジの塔と、それをとりまく松の木立は、すべて消え失せている。はるか遠く、砂採り場のある公有地付近が、なまなましい焔の色に映えて、いまだにはっきり見ることができる。その光を横切って、巨きな黒い影がグロテスクな形で、せわしなくうごきまわっているのだった。
こうしてながめると、その方向の大地は、のこらず火につつまれているように見える――ひろびろとしたこの丘の中腹では、いくつかの小さな焔の舌が地を匍って、遠去かり行くあらしの名残りにゆらぎ、もだえ、空飛ぶ雲に赤い反映を投げかけている。ときどき、近くの火災の煙が、窓をかすめてながれてきて、火星人の姿をおおいかくした。かれらがなんのためにうごきまわっているのか、いや、その姿そのものさえ、はっきりとは見てとれない。なにか、まっ黒な物体をいじくりまわしているようではあるが……
どこかちかくで、火災がおきているものと思われる。こうしていても、焔の影が書斎の壁や天井に踊っているし、樹脂の燃えるらしいつよい臭気が漂ってくるからだ。
ぼくはドアをそっとしめると、足音をしのばせて、窓ぎわによってみた。すると、眺望はぐっとひらけた。一方では、ウォーキング駅のあたりの人家まで一目に見わたせるし、一方では、バイフリートの松林の燃えているのがながめられる。丘の裾では、鉄道線路の陸橋のちかくに、あかりがひとつ、見える。メイベリー街道や、駅の近くの町ぞいの家は、どれもみな焼け落ちたあとだった。最初、線路ぞいのあかりがなんであるかわからなかったが、黒いかたまりがあって、そのまわりがあかるくかがやいているのだ。その右手には、黄色い細長いものが横たわっている。やがてそれが列車の残骸であるのを知った。前方の部分は火につつまれているが、後部の車輌は線路の上にのったままであった。
人家、汽車、チョバムの方向で燃えている野原、この三つの火がおもなもので、そのあいだには暗い大地が不規則にひろがっている。それもまた、ときどき火と煙を立ちのぼらせる。まっ黒な空間が、ここかしこで火に彩られているのは、いかにも奇怪な光景だった。ぼくはそれをながめて、どうしたわけか、夜間にポッタリーズ〔スタッフォード州北部の陶器生産地〕を見たときのことを思いだした。人の姿もさがしてみたが、はじめのうちはみつけることができなかった。しかし、やがてウォーキング駅のあかりを背景に、いくつかの黒い人影が、線路越しに逃げていくのが見受けられた。
この小天地は、ぼくが長年のあいだ、平和な生活を送ってきたところだ。それがこうして、火につつまれた混乱の巷《ちまた》に変っている! 留守にしていた七時間のあいだに、どんな事件がおこったのか知ることはできない。そしてまた、うすうす察しがつきかけていたが、いまうごきまわっている金属の巨人と、前夜、シリンダーから匍い出した蛇のような怪物と、どのような関係があるのかも不明だった。ぼくは恐怖以上に、好奇という奇妙な感情にかられた。デスクチェアを窓ぎわにひきよせ、それに腰をおろして、まっ暗な闇につつまれた大地を観察せずにはいられなかった。とくに、砂採り場の坑の付近で、あかあかと燃えあがる火のなかを、右に左にうごきまわっている三つの巨大な影のようすを。
かれらはせわしなくうごいていた。あれはいったい、なんなのであろうか? 知性をもった機械? そのような言葉は、言葉自体矛盾ではないか。あの三つのもののなかには火星人がおさまって、指揮し、方針を定め、駆使しているのであろうか? 人間の脳が肉体のなかに位置して、その動きを指揮するように。ぼくはそれを、人類のつくった機械とくらべてみた。われわれの戦艦や蒸気機関が、知性のひくい動物の目にどのようにうつるものか考えてみるのだった。
あらしの去ったあとの空はくっきりと晴れわたって、燃えつづける大地の煙のむこうに、ピンの頭ほどの火星が、西の地平線に沈もうとしていた。そのとき、兵士が一人、ぼくの家の庭にはいってきた。垣根を越える音がかすかに聞こえたので、ぼくはものおもいからわれにかえって、窓の外を見下ろしてみた。
垣根の柵をよじのぼっている兵士の姿が、ぼんやりとながめられた。ぼくのほかにも、人間がひとり、近くにいることを知って、いそいで窓から半身をのり出すと、
「しいっ!」と、ひくい声でさけんだ。
彼は、垣根をのり越えるところだったが、いぶかしそうに動きをとめた。それから、芝生を横切って建物のかどまでくると、身をかがめたまま、そっと歩みより、
「だれかいるのか?」と、きいた。その声もやはり、おし殺したようなささやきだ。窓の下に立って、こちらを見あげている。
「どこへ行くつもりだ?」ぼくがたずねた。
「それがわからんのさ」
「かくれる気か?」
「そういったところだ」
「じゃ、なかへはいるがいい」
ぼくはそういって、階下へ降りると、ドアをあけてやった。彼を入れると、すぐにまたドアに鍵をおろした。兵士の顔は、暗くて見きわめられないが、軍帽はかぶっていないし、服のボタンもはずれている。
「おどろきましたよ」と、なかへとおりながらいった。
「なにがおこったんだね?」
「なにがおこるもおこらないもありませんや」暗闇のなかでも、彼が絶望的な身ぶりをするのが見てとれた。「やつら、おれたちを一蹴してしまいやがった――あっさりとね」
彼はその言葉をくりかえし、ほとんど機械的に、ぼくのあとから食堂へはいってきた。
「ウイスキーでものむさ」とぼくは、つよいのを一ぱいついでやった。
彼はそれをのんだ。それから、急にテーブルのまえに坐りこむと、両腕を組んだ上に頭をおしつけて、子供のように泣きだした。感情の虜となっている。不思議なことに、ぼくはそれまでの自分自身の絶望を忘れて、兵士の気持をいぶかりながら、つっ立ったまま見守っていた。
彼が気をとりなおすまでには、かなりながい時間がかかった。しかし、そのあと、ぼくの質問にこたえだした。とはいっても、話はまとまりのないもので、その言葉さえ途切れがちだった。彼は砲兵隊の馭手《ぎょしゅ》で、戦闘に参加したのは、五時近くになってからだという。そのころすでに、公有地での砲撃は熾烈で、第一団の火星人たちは金属の楯にかくれ、ゆっくりと第二のシリンダーへむけて、匍いよっていくところだった。
その後、この金属楯はゆらゆらと揺らいで、三本の脚を出し、ぼくが見た第一の戦闘機械に変ったのだ。この兵士が馬にひかせてきた砲は、ホーセルの近くで、前車をはずし、発射の態勢をとった。砂採り場の竪坑を攻撃せよとの命令が出たのだ。彼の隊の砲が到着したので、戦闘行動が速められたわけである。前車の砲手が後手にまわったとき、この兵士の馬が脚をうさぎ穴につっこんで、つまずいたかたちになったので、彼は地面の上に投げ出された。その瞬間、彼の背後で、砲自体が爆破した。弾薬が炸裂して、あたりはたちまち火の海とかわった。気がついたときは、黒焦げになった人馬の死体の山に埋まって、かろうじて彼は焼死をまぬがれているのだった。
「倒れたままで、匍い出す気にもなれませんでした」彼は語った。「あんまり怖ろしいんで、なんだかわからなくなってしまったんでさ。それに、馬のからだがのしかかっているんで、うごこうにもうごけなかったこともありますがね。なんにしろあたしらはあっさり一蹴されてしまったんです。それから、あのいやなにおい――たまったもんじゃありませんや。肉の焼けるにおいですな。あたしは、馬から落ちるとき、背中をひどくいためましてね。すこしのあいだ、立ちあがりたくても、腰があがらないんです。一分間まえには、観兵式みたいな調子だったのに――それから、バタン、バタンと、一蹴されちゃったんでさ」一蹴されたという言葉を、くりかえし彼はしゃべっていた。
彼はながいあいだ、死んだ馬の下にかくれたまま、そっと公有地の方向をのぞいていた。カーディガン連隊の兵士たちは、突撃命令を受けては、砂坑めざしてつきすすんでいったが、ひとりも生きて帰れなかった。やがて、怪物は身をおこすと、のろのろと歩きだした。あちこちに逃げそびれている兵士たちのあいだを、遠慮なく踏みしだきながら、フード状の頭を、頭巾をかぶった人間そっくりに、左右にふりまわしてすすんでくる。腕らしいものが、複雑な形をした金属の箱を運んでいるが、その箱のまわりから、緑色の閃光がとび散っている。熱線を発射させているにちがいなかった。
その数分後、眼のとどくかぎり、公有地の兵士たちは死に絶えた。人間ばかりでなく、木も茂みも、まだ黒焦げの骸骨とかわっていないところは、新しくまた燃えはじめるのだった。湾曲した地形のかげにいた軽騎兵の一隊も、いまはあとかたなく全滅している。そのあと、しばらくは機関銃のひびきを聞いたが、それもやがてはしずまった。巨人はウォーキングの駅と、その付近の人家を、最後までそっとしておいたが、いままたそれに熱線をむけた。するとたちまち、家並はすべて火の廃墟と化したのだ。それで巨人は、熱線による攻撃をおさめて、この砲兵隊の兵士に背をむけると、煙にいぶっている松林にむかって歩きだした。その下に、第二のシリンダーがひそんでいるのだ。すると砂坑から、二ばんめの金属巨人が、きらきらとからだをかがやかせながら立ちあがった。
第二の怪物は、第一のそれのあとにつづいた。砲兵隊のこの兵士は、その機会をつかんで身をおこすと、ホーセルへむかって、熱気のたぎるヒース原のなかを、匍うようにして逃げだした。道路ぎわの溝にたどりついて、どうにかこれで生きのびることができたと感じた。あとは、ウォーキングの村まで脱出することだ。そのさきの彼の話は、興奮のあまりわけがわからなかった。要するに、村に近づくにつれて、すすむことがむずかしくなったらしい。生き残っているものもないわけでないが、それが大部分、気がくるったような状態だし、おとなしいものは火傷で身動きできぬといったところである。彼もまた、火の手を避けて、崩れ落ちた壁の、まだ灼けているあいだに身をかくした。火星巨人のひとりが、ひっかえしてきたからだ。巨人はひとりの男を追っかけていた。鋼鉄の触手のひとつで、その男をひっつかむと、かたわらの松の幹めがけてたたきつけた。やがて、陽が落ちると、この兵士は、夢中でそこを駆けだした。鉄道線路の土堤を越えて、さらに走った。
そのあとは、とりあえずメイベリーまで逃げのびる。なんとかこの危険の地をはなれて、ロンドンの方向へむかいたいものだ。人々は溝や穴ぐらにかくれ、生きのこったものの多くは、ウォーキングの村やセンドにむかって避難を開始していた。
彼は疲れたうえに、喉のかわきにくるしんだが、陸橋の近くに水道管が破裂しているのを発見した。水が泉のように噴き出して、道路にあふれていた。
以上が、彼の口から、すこしずつ聞き出した事件の経過だった。話しているうちに、彼もしだいに平静をとりもどして、その目で見てきた異常な事実を、なんとかぼくにも理解させようとつとめた。正午からこちら、なにも腹に入れていないことは、その物語の当初に語っていたので、ぼくは台所で羊肉とパンを探し出すと、部屋まで運んでやった。火星人の注意をひくのを怖れて、ランプには火を入れなかったので、手と手で、パンと肉とを分けあった。彼の話を聞いているうちに、いくらかあたりが明るんできて、踏みにじられた茂みや折れたバラが、窓外にその姿を現わした。その状態を見ても、相当多数の人や犬が、ぼくの家の芝生を通りぬけたことがわかる。兵士の顔も見えるようになったが、黒く汚れてやつれはてていた。ぼくの顔にしても、それとおなじ状態であるのは考えるまでもないことだ。
食べおわったあと、ぼくたち二人は、そっと二階の書斎にあがって、あけはなった窓の外をのぞいてみた。一夜のうちに、谷間は灰の山とかわっていた。火災はほとんどおさまって、さきほどまで焔が燃えさかっていたところに、煙の流れが匍っている。だが、夜のあいだは闇がかくしていた崩壊した建物と黒く焼けた木々とが、いまは情け容赦ないあかつきの光に、みにくくも怖ろしい姿をさらけ出している。それでも、そこかしこに、ようやく助かることのできたいくつかのものが残っている。たとえば、こちらの方向に白く見えているのは、鉄道の信号標であり、むこうでは温室の一部が、焼けくずれた残骸のあいだに白くあざやかに立っている。これほど全面的に無差別な破壊行為が行われたことは、これまでの戦争史においても例を見なかったことであろう。そして、東のかたから明るんでくる朝の光にかがやいて、三個の金属巨人が、砂採り場の坑のあたりに立ちはだかっているのが見受けられた。例によって、フード状の頭を回転させながら、自分たちが破壊しつくした廃墟をながめているのである。
砂坑はその大きさを増したように思われた。ときどきそこから、眼もさめるようにあざやかなみどりの空気が噴き出して、あかるみかけたあかつきの空へと立ちのぼる――噴き出しては渦巻き、そして砕けて消えていくのだ。
それを越えると、公有地のさき、チョバムのあたりになるが、そこではまだ、火柱が何本か燃え立っている。これもまた、太陽の最初に光にあうとともに、血のような色の煙と変っていった。
十二 ウェイブリッジとシェパートンの惨状
朝の光があかるくかがやきだすと、ぼくと兵士は、それまで火星人たちをながめていた窓ぎわをはなれて、そっと階下へ降りていった。
ぼくが兵士に、こうした状況では、これ以上この家にとどまるのも危険だといってきかすと、彼もうなずいて、さっそくロンドンへひっかえし、原隊である騎砲十二中隊へ復帰するといった。
ぼくのプランは、即刻、レザーヘッドにもどることにあった。あれほどすさまじい火星人の力を目にしては、この国にぐずぐずしてはいられない。妻をともなって、ニューヘヴンから船にのりこみ、一刻もはやくイギリスを脱出する必要がある。あのおそろしい生物を撃滅するまでには、ロンドンの周辺一帯が惨禍の巷となるにきまっているからだ。
しかし、われわれとレザーヘッドのあいだには、第三のシリンダーが、巨人にまもられて横たわっていた。そのときのぼくがひとりきりであったら、運を天にまかして、その道をいっさんにつっ切ったことであろう。だが、兵士はぼくを制止していった。「とんでもない。そんなまねをして、万一、奥さんが未亡人になる羽目になったら、どうします?」その結果、けっきょくぼくも、彼と行動をともにすることになった。松林づたいに北へむかい、ストリート・コバムまでたどりつき、そこで兵士と別れることにした。そのさきはぼくひとりで、エプソンを経由する大きく迂回した道をとり、レザーヘッドに達しようというのだった。
ぼくはすぐにでも出発したかったが、この新しい仲間は、軍隊という実際的な任務についていただけに、こうした場合にとるべき行動を心得ていた。ぼくをうながして、家中をさがしまわらせ、水筒を一個みつけださせた。それをウイスキーでいっぱいにし、利用できるだけのポケットに、ビスケットの袋と肉片をつめこんだ。それだけの用意をすますと、ぼくと彼とは家をしのび出て、前夜ぼくが通ってきたでこぼこ道を、走れるかぎりのスピードで駆け下った。
すでにどの家にも人のけはいはない。道の上に、熱線に撃たれたと思われる黒焦げの死体が、三個かたまりあって、横たわっていた。いたるところに、避難者が落としていったらしい品がころがっている――時計、スリッパ、銀のスプーンといった、いわばささやかな貴重品である。丘のふもとの街かどを、郵便局のほうへまがると、馬を失った小型の二輪馬車が、箱だの家具を積んだまま、破損した車輪のほうへ、大きく傾いてとまっている。
大あわてで打ち割ったと見える銭箱が、がらくたの下に捨ててあった。
孤児院の寄宿舎はまだ燃えていたが、それをのぞいて、大した被害を受けていなかった。熱線は煙突のさきをかすめただけで、通りすぎてしまったらしい。しかし、ぼくたちふたりのほか、このメイベリー・ヒルには、ひとりの人間ものこっていないようである。住民の大多数は逃げ去っていた。おそらく、その道は、オールド・ウォーキング・ロードをとったにちがいない。――それは昨夜、ぼくがレザーヘッドにむかったときにえらんだ道で、そのほかの人々は、どこかにかくれ場所をみつけて、逃げこんでしまったものらしい。
ぼくたちはほそい道をえらんだ。そこでまた、男の死骸をひとつみつけた。黒い服をつけているが、昨夜ふりしきったあられに、服がぐっしょり濡れていた。ふもとまで降りると、それにつづく松林にはいりこんだ。それをぬけて、鉄道線路にむかったが、人っ子ひとり、行きあうものはいなかった。線路を越えたところは、森というより、まっ黒に焼けただれた残骸にすぎなかった。ほとんどの木が倒れていて、わずかにのこっているものも、樹幹が暗灰色にくすぶり、緑の色濃かった葉は、赤ちゃけた茶色にかわっている。
丘のこちらがわでは、さすが猛威をふるった火の手も、近くの木々を焦がしただけにとどまっていた。怪物は足場を確保するのに失敗したのであろう。その土曜日に、樵夫《きこり》が仕事をしていたところが一ヵ所だけあった。伐採され、角材にされた木がいくつか、そこの空地に積んであった。製材機とモーターのまわりには、おがくずの山ができている。すぐそばに、急ごしらえの仮小屋があって、これにも人はいなかった。けさは風がまったくなく、異様なほどしずまりかえり、小鳥までがさえずりをやめている。ぼくと兵士がやはりそれで、話しあうにしても、声をひくめずにはいられなかった。ぼくたちはさきをいそぎながらも、ときどき肩越しにふりかえった。一度か二度は、足をとめて耳をかたむけた。
しばらく歩きつづけると、街道が近くなった。すると、駒のひずめの音が聞こえて、立ちならぶ樹幹のあいだから、ウォーキングの方向にむかって、ゆっくりと馬を走らせる三人の騎兵を見かけた。ぼくたちは声をかけた。かれらが馬をとめたので、ぼくたちは駆けよった。これは第八軽騎兵隊の中尉とその部下で、経緯儀に似た器具をはこんでいる。ぼくのつれの兵士が、あれが回光信号機《ヘリオグラフ》だと教えてくれた。
ぼくたちの顔を見て、中尉がいった。「きみたちは、けさ、この道ではじめてあった人間だよ。なにごとが起きたんだ?」
彼の顔も声も、緊張していた。その背後にいる部下たちも、不思議そうな表情でながめている。砲兵隊の兵士は、土堤からとび降りて敬礼した。
「砲は昨夜、破壊されました。わたくしはその後、潜伏していまして、原隊へ復帰しようとしているところです。この街道をあと半マイルほど前進しますと、火星人を目撃できる位置に達します」
「そいつは、どんな格好をしておる?」
「よろいを着けた巨人です。身の丈は百フィートありまして、脚が三本、胴体はアルミニウムのようです。頭には、大きなフード状のものがのっています」
「いいかげんにしておけ!」中尉が、しかりつけた。「なにを、くだらんことをしゃべっておる!」
「いまにおわかりになります。かれらは箱みたいなものをもっていて、これからとび出す火にあたると、われわれ、死んでしまうんです」
「なんだ、それは、――銃か?」
「いや、ちがいます」それから兵士は、熱線のもようを、絵を見るように生き生きと語りだした。中尉は途中で、その説明をさえぎって、ぼくの顔へ眼をやった。ぼくはいまだに街道に沿った土堤の上に立っているのだった。
「いまの話のとおりです」
と、ぼくが保証した。
「では」中尉はいった。「その点をたしかめるのも、おれの任務のうちだろう。ところで」と、砲兵隊の兵士にむかって、「われわれはこのあたりの住民を立ちのかせに派遣された。おまえはまっすぐこの道をいそげ。マーヴィン旅団長に、いまの話を報告したほうがいい。知っているところをのこらず説明するんだ。旅団長はウェイブリッジにおいでになる。道は知っておるんだろうな?」
「わかっています」ぼくがかわってこたえると、中尉は馬の頭をふたたび南へむけて、
「あと、半マイルといったな」と、いった。
「せいぜいが、そんなところです」ぼくはこたえて、南の方角に見える木々の梢を指さした。中尉はぼくに礼をのべて馬をすすめた。その後ぼくは、二度とかれらの顔を見ることがなかった。
それからその道をしばらく歩くと、子供をふたりつれた三人づれの女に出会った。労働者の家族とみえて、その住居から荷物を運び出している最中だった。小さな手押し車に、うす汚れた衣服の包みとみすぼらしい家具のたぐいを積みこんでいる。三人ともその仕事に夢中で、ぼくたちが通りすぎても、声もかけてこなかった。
バイフリート駅が近いとみて、松林から街道へ出て見わたすと、あたりは午前の陽光を浴びて、いとも平和にしずまりかえっていた。熱線の射程外へ到達することができたのだ。いくつかの家は、がらんとして無人のまま、いくつかの家は、荷づくりの音をうるさくひびかせ、鉄道線路をまたがる橋の上には、一小隊ほどの兵士が立って、ウォーキングの方向を見下ろしているが、それさえなければ、ふだんの日曜日とすこしのちがいも感じられなかった。
アドルストーンにむかう街道にそって、何台かの野戦用大型馬車と小型二輪馬車が、音をきしませながらすぎていった。その直後に、農場の門のあいだから、そのさきの平坦な牧場に、おなじ間隔をおいてならんだ六門の十二ポンド砲が、ウォーキングの方向に筒口をむけているのがのぞかれた。砲手たちは砲のそばに立って、命令のくだるのを待ちかまえている。弾薬用の大型馬車も戦闘態勢についている。兵士たちは気をつけの姿勢をとっているようだ。
「これはいいぞ!」ぼくはさけんだ。「あれだけそろったら、すくなくとも一発は命中するだろう」
砲兵隊の兵士は、門のところでためらっていたが、
「とにかく、さきをいそぐことだ」と、いった。
そして、ぼくたちはまた、ウェイブリッジへむかっていそいだ。かなりすすんで、その橋をわたると、白い作業服をつけた何人かの兵士が、ながい保塁《ほうるい》を築いていた。その背後には、やはり何門かの砲が据えつけてある。
砲兵隊の兵士はいい放った。
「どっちみち、弓矢で電光に立ちむかうようなものさ。あの連中は、火熱線を見ていないんだからな」
作業についていない将校たちは、つっ立ったまま、南方の木々の梢をみわたしていたし、保塁仕事でシャベルをふるっている兵士たちも、ときどきは手をやすめて、おなじ方向へ目をやった。
バイフリートの町は混乱状態に陥っていた。荷づくりをやめない住民を、二十名近い軽騎兵が、あるいは徒歩、あるいは馬上のままで避難をうながしている。表通りは車の海だった。黒塗りの車体に、白い円のうちに十字を描いた政府の車が三台から四台。旧型の乗合馬車そのほか数かぎりない車が、町の人々をつめこんでいるところだった。なかにはすっかり着飾って、遊山にでも出かけそうなのが、何十人とまじっている。兵士たちがなんと説明してやっても、この連中には事態の重要性がのみこめないらしい。しなびたような老人が、大きな箱へならべた二十以上の|らん《ヽヽ》の鉢を運び出そうとして、おいていけという伍長といい争いをしている。ぼくは立ちどまって、老人の腕をつかんだ。
「あんた、あのさきで、どんなことがおこっているのか知らんのですか?」と、火星人の姿をかくしている松林の上を指さしながらいうと、
「え?」と老人は、ふりむいてききかえした。「わしはこの男に、この鉢はみんな、高価ものだと説明しておるところだ」
「死ぬんですぞ!」ぼくはさけんだ。「そうしているあいだにも、死がせまっている。死ですぞ!」そういいすてて、あとは老人の意にまかせ、ぼく自身はつれの兵士のあとを追った。まがりかどでふりかえると、伍長もそこにはいなかった。老人だけが、箱の蓋の上にらんの鉢をならべ、そのそばからはなれようともせずにただぼんやりと松林の方角をながめていた。
ウェイブリッジでは、どこに司令部がおかれているのか、教えてくれる者はいなかった。こんな混乱した状態は、どこの町でも見たことがなかった。どこもかしこも、二輪馬車四輪馬車の洪水で、車と馬とのごった煮である。町の上層階級は、男子はゴルフか舟遊山の服装に、婦人たちは美しく、着飾れるだけ着飾っている。荷づくりをしているところでは、いつも河辺でのらくら遊びまわっている連中が、おそろしく熱心に手伝っているし、子供たちも興奮しきっている。要するに、かれらのほとんどが、きょうの日曜日はいつもとちがった経験ができると、最高に浮かれきっているのだった。そして、この混乱のさなかに、わが尊敬すべき牧師どのは、勇敢にも朝の礼拝を行っているとみえて、その鐘の音が、興奮の渦を越えて鳴りひびいてくる。
ぼくと兵士は、飲水泉の石段に腰かけ、持参した弁当の包みをひらいた。このさいとしては、相当すばらしい食事だった。食べているあいだに、パトロールの兵士がまわってきた。ここでは軽騎兵のかわりに、白服を着た擲弾《てきだん》兵が任務にあたっていた。かれらは町民に、そろそろ砲撃がはじまるから、一刻もはやく立ちのくか、穴ぐらにかくれるか、どちらかにするようにと勧めてまわっているのだ。そこで立ちあがって、鉄道線路の陸橋をわたると、駅の内外にはおびただしい群衆があつまって、プラットホームも人の波があふれ、箱だの手荷物だのがうず高く積みあげてある。普通列車の運行は、かなりまえから停止されていたにちがいない。軍隊と砲とを、チャートシーまで輸送する必要があるからだ。そのあとおそくなってから、特別列車が仕立てられたが、これに乗りこむために、各所ですさまじい争いがおこったことを、後日聞いて知った。
ぼくたちはこのウェイブリッジに、正午までとどまって、つぎの行程は、ウェイ河とテムズ河とが合流する地点、シェパートン・ロックにちかい地点に達した。時間の一部を割いて、年とった女がふたり、小型の二輪馬車に荷物をつめているのを手伝ってやった。ウェイ河の河幅は、そのあたりでは、三倍のひろさになっているが、ボートも傭えるし、河をわたる渡し船にもこと欠かなかった。シェパートンがわの岸には、芝生のひろい旅館も一軒あって、そのさきに、シェパートン教会の塔――これは現在では、尖塔にかえられている――が、木々の梢の上にそびえ立っていた。
ここでもぼくたちは、避難者たちの興奮した群れがさわぎ立てるのを見た。いまのところ、恐慌状態というまでにはいたっていないが、それでも群衆の数が多すぎるので、総動員された渡し船が河の往復をつづけているが、とうてい捌《さば》ききれるものでなかった。重い荷物をかかえた人々が、あえぎあえぎあつまってくる。なかに夫婦者で、納屋のドアの小さいのに、家財道具を積みあげて運んできたのがいた。ひとりの男は、シェパートン駅で汽車をつかまえて、脱出するつもりだと語っていた。
しかし、罵りさわぐ声は大きいが、冗談をとばしている男もいたくらいで、人々の考えはあんがいのんきだった。火星人がおそろしい人種であることはわかっている。町を襲撃し、掠奪をこころみるであろうが、けっきょくは殲滅されるものと思いこんでいるらしい。ときどき人々は、不安そうなひとみをウェイ河の彼岸、牧場を越えてチャートシーの方向へ送っているが、そのあたりはいまだに静寂をたもっている。
テムズ河をわたっても、船着き場をのぞいては、どこもしずまりかえっていて、サリーがわの岸とはきわだった対照をしめしていた。船でわたってきた連中は、そのあと徒歩で、小径をあるきだしている。大型の渡し船がちょうど岸についたところで、兵士が三、四人、旅館の芝生に立って、避難者の群れをながめながら、手を貸してやるどころか、からかっているのだった。いまは禁酒時間なので、酒場がしまっていたからであろう。
「あれはなんだ?」と渡し船の船頭がさけぶと、ぼくのそばにいた男が、吠えたてる犬にどなりつけた。「うるさいぞ、吠えるんじゃない!」そのとき、またしても、にぶく、どすんというような音がひびいてきた。こんどは、チャートシーの方角からだ――大砲の音である。
戦闘がはじまったのだ。それとほとんど同時に、河を越えたすぐのあたり、われわれの位置から右手にあたって、砲声がとどろきだした。この場所からは、木々にかくれて見えないが、待機していた砲兵中隊が戦闘にくわわったらしい。女が悲鳴をあげた。とつぜん戦端がひらかれたので、だれもが一瞬、ぼう然として立ちつくした。といっても、戦場が見えるわけではない。眼にうつっているのは、なだらかにつづく牧場と、無心に草をはむ牝牛の群れだけで、枝を刈りこんだやなぎの木が、あたたかい陽ざしを浴びて、葉もそよがせずに銀色に光っている。
ぼくのとなりで、女がつぶやいた。「あのおそろしいやつら、兵隊さんが喰いとめてくれるわね」自信のない声だった。そして、木々の梢の上に、煙がうっすらとながれだした。
それから、急にずっと河上のほうで、いきおいよく煙の舞いあがるのが見えた。空中たかく、ひと吹き噴きあげたとみると、そのまま、そこにかかって、いつまでもうごかなかった。そして、足もとから大地がもりあがって、すさまじい爆発音が空気をゆるがした。近くの家の窓が、ふたつか三つ、砕けて跳んだ。ぼくたちはみな、ぼう然と立ちすくんだ。
「やってきたぞ!」紺のシャツを着た男がさけんだ。「あっちだ! 見えるか? あっちだぞ!」
ひとつ、ふたつ、三つ、四つと、よろいをつけた火星人がひきつづきあらわれた。チャートシーへむけてひろがっている牧場のかなた、ちょっとした木立があつまっているあたりを、河を越えたやつらが、大股に近づきつつあるのだ。はじめのうちは、フードをつけた小さな人影に見えただけだが、それが回転運動に似た動作ですすんでくる。鳥が飛ぶようなスピードだった。
五ばんめのやつが、斜《はす》かいにわれわれへ近づいてきた。かれらはそろって、身につけたよろいを太陽の光にきらめかせ、ものすごい速度で砲兵陣地へむかっている。近づくにつれて、その大きさが急激に増してくる。右のはしにいるのが、われわれからはいちばんはなれた位置だが、これが空中に、巨きな箱を高くかかげた。そして、金曜日の夜、すでにぼくの目をおどろかせていたあのおそろしい熱線が、チャートシーの方向へ走り、町をおそった。
この異様な、迅速に行動するおそるべき生物を見て、水ぎわ近くにいた群衆は、一瞬、恐怖の底へたたきこまれたかの外観を呈した。悲鳴をあげるものも、さけび立てるものもなく、ただ沈黙だけが支配した。そのあと、しばらくして、喉がつまったようなつぶやきが洩れ、うごきだす足音が聞こえたが、つづいて、水のはねる音がした。カバンをかついでいた男が、あまりの恐怖によろめいて、よろけたとたんに、カバンのかどをぼくにぶつけた。となりにいた女は、ぼくをつきとばして駆けだした。それがきっかけになって、人々はいっせいに走りだした。しかし、ぼくは恐怖にとりみだすことがなくてすんだ。おそろしい熱線が頭にあったのだ。水にもぐることだ! それだけが、たったひとつの逃れる途だ!
「水にもぐれ!」ぼくはさけんだが、だれも聞こうとしなかった。
ぼくはまた、あたりのようすをうかがって、近よってくる火星人にむかって駆けだした。小石まじりの河岸を走りぬけ、頭から水へとびこんだ。ほかの人々も同様の行動をとった。渡し船にのりこんでいた連中も、おなじように水へはいった。足の下の小石は、泥によごれてつるつるしているが、川瀬は浅いので、二十フィートすすんでも、水は腰の深さしかなかった。そのうちに、二百ヤードとはなれていないところに、火星人の姿が立っているのを見て、ぼくは水のなかに顔をつっこんだ。人々が渡し船からとびこむ水しぶきが、雷鳴のように耳にひびいた。だが、この連中はあわてふためいて、双方の河岸へ駆けあがっていくのだった。
しかし、その後しばらく、機械さながらの火星人は、あちこちと逃げまどう人々を、気にもとめないようすにみえた。足でアリの巣を蹴とばして、かれらが混乱状態におちいっていくのをながめているような態度だった。ぼくはなかば息がつまる気持で、水から首を出してみると、火星人のフードは砲兵隊陣地にむいている。そこの砲門からは、河越しの射撃がつづいていた。そのあと、火星人はまた前進をつづけながら、熱線の放射機と思われるものを、ゆっくりとふりうごかした。
つぎの瞬間、それは河の土堤に達して、大きな足どりで河を徒渉しはじめた。前の二本の脚を、むこう岸まで伸ばすと、ひざをまげた。そして、ほとんど同時に、またもすっくと立ちあがった。そこはシェパートンの付近だった。とたんに、これまで右岸にいた人々の目には触れなかったが、村の入口にかくされていた六門の砲が、いっせいに砲門をひらいた。急に、すぐ耳のはたで、つづけざまに砲声がとどろいたので、ぼくは心臓がとびあがるおもいをした。怪物はすでに、熱線を放射する箱をふりかざしていたが、そのフードの上、六ヤードのところで、第一の砲弾が炸裂した。
ぼくはおどろきの叫びをあげた。ほかの四つの怪物については、見もしなかったし、考えてもいなかった。ぼくの注意は、間近におきた出来事だけに集中した。そして、同時に、第二、第三の砲弾が、怪物のからだ近くで破裂した。火星人はフードをすばやくねじまげ、かろうじてそれを避けた。しかし、ひきつづく第四弾まで避ける間はなかった。
砲弾は、その【もの】の顔に命中した。フードはふくれあがり、火花が散った。そしてぐらぐらっと大きくゆらぐと、まっ赤な肉片と、きらめく金属片に砕けて跳んだ。
「あたった!」ぼくはさけんだ。悲鳴と歓声のあいだの叫びだった。
それに応じて、ぼくのまわりの水のなかから、人々の叫び声がおこった。ぼくはその瞬間のよろこびから、思わず水をとび出す気持になった。
頭を失った怪物は、酔っぱらった巨人のようによろめいた。しかし、倒れはしなかった。奇蹟的にバランスをとりもどし、その後は、足どりにかまわず、熱線を放射する箱をしっかりにぎりしめたまま、シェパートンの方向へと、よろめきながらもいそぎだした。生きている知能、フードのうちの火星人は、すでに殲滅され、風に四散した。【もの】はただ、たんなる精緻な金属機械と化して、それもやがては、破壊される運命にある。それはただ一直線にすすんでいく。方向を定めることが不可能になったものらしい。そして、シェパートン教会の塔に激突して、破城槌《はじょうつち》でたたいたように粉砕するとともに、それ自体もすさまじいいきおいで、河のなかへと崩折れていった。それで姿を消し、ぼくの位置からは見えなくなった。
はげしい爆発音が、空気をふるわせ、水を湧き立たせた。蒸気、泥、粉々に砕け散った金属片が、空高く噴きあげられていく。熱線の放射箱が水にあたると、水はたちまち蒸気とかわった。そしてつぎの瞬間、泥まじりのうえに、熱湯のように煮えくりかえった高波が、河上の屈曲部を越えておしよせてきた。河水の沸騰におびやかされ、火星人の最後における絶叫を聞いた人々は、死にものぐるいで岸に匍いあがり、口々に悲鳴をあげるのが、このあたりまでひびいてくる。
ぼくは熱さを無視し、自己保存の必要さえ忘れて、躍りくるう水にとびこみ、黒服を着た男が、おなじようなまねをするのでつきとばし、屈曲部の先きが見渡せるところまですすんだ。おき去られたボートが五、六艘、湧き立つ波のあいだに、なんのあてもなく上下運動をくりかえしている。波のさわぎがしずまるとともに、倒れた火星人の姿が、下流からも見えるようになった。河を横切るようにして倒れ、その大部分は水面下に沈んでいる。
雲のように濃密な蒸気が、その死体から噴き出しているが、さかまく煙の渦の切れ目に、ときどき怪物の最後のあがきが見てとれる。巨大な手足が水底をかきまわし、水と泥とを空中にはねとばしている。触手が生きている腕のように、触れるところを叩きつづけ、その動作に、なんの意味もないことをのぞけば、手傷を負ったけものが、波のあいだに溺死をまぬがれようともがいているようだ。そのからだからは、赤茶けた液体がほとばしって、ものすごいほどの量と見えた。
ぼくの注意は、巨人の最後の苦しみからわきへそらされた。われわれの工業都市で、サイレンと呼んでいる音響に似たすさまじい咆哮が聞こえたのだ。曳舟路に近く、ひざまでの深さのところで、男がひとり、わけのわからぬ言葉を口走り、ぼくに指さして教えている。ふりかえると、つぎの火星人が、チャートシーの方角から、巨人の歩幅で岸の土堤をくだってくるのだった。
こんどはシェパートンの砲も効果がなく、むなしく砲声をひびかせただけだ。
一度ぼくは、水へもぐった。がまんできなくなるまで息をつめて、水面下をつきすすんだ。水はぼくのまわりに逆まいて、急速にその熱を増大していった。
ややあって、息をつくために首をあげて、髪をかきあげ、目から水をはらった。すると、まっ白に渦巻く霧となって、蒸気が立ちのぼった。そのために、火星人たちの姿はかき消され、騒音だけが耳を聾するばかりだった。やがてまた、かれらの姿がぼんやりとあらわれてきた。霧のせいで何倍かに拡大されて、山のように巨きな灰色の影だった。それが、ぼくのわきを通っていった。
そのうちのふたつが、泡立ちくるう仲間の死体をかがみこんでながめていた。
第三と第四の火星人が、水中の仲間のそばに立っていたのだ。そのひとつは、ぼくから二百ヤードとはなれていない。もうひとつは、レイラムのほうに近く、それぞれの手に熱線放射箱をかかげ、ヒューヒューという音を立て、そのたびに熱線が焔を燃えあがらせる。
ありとあらゆる騒音が入りまじり、混乱し、空中いっぱいにみちみちて、耳も痛むばかりにとどろいた。――火星人のうごきにつれ、鳴りひびく音、建物の崩れ落ちる響き、人々や垣根は地に倒れ、小屋はたちまち焔につつまれ、その火がはぜ、唸りをあげる。まっ黒な煙が、水面から立ちのぼる蒸気にまじってながれていく。熱線はウェイブリッジの各所をおそい、その襲撃個所に、白熱の閃光がほとばしり、同時に、黒煙とともに青白い焔が躍りだす。いまのところこの近くの家々は、水蒸気のうちに影のように青ざめて立っているが、その背後のあちこちでは火が燃えあがり、いずれは訪れる運命を、幽霊のように待っているのだった。
たぶん、ほんの一瞬だったと思うが、ぼくはそこに、ぼう然と立ちつくした。胸まで浸す湧きあがる熱湯につかり、自分の位置も忘れ、避難にも絶望し、なすすべを知らなかった。悪臭をあげる水蒸気をおかして、いっしょに河につかっていた人々が、葦をかきわけ、岸へ匍いあがろうとあがくのが見えた。それはまるで、人の足音におどろいた蛙が、草のあいだを逃げていく姿だった。岸からはなれている連中は、絶望のさけびをあげながら、曳舟路を逃げまどっている。
すると、急に、熱線の白い閃光が、ぼくたちめがけてとびかかってきた。家々はそれに触れると、見る間に熔けて口をあけ、そこからまた、新しい焔を噴き出させた。木々はうなりをあげる火の柱と変った。熱線はつづいて、曳舟路の上をきらめいて走り、右往左往している人々をひと舐めにし、ぼくが立っているところから五十ヤードと離れぬ水ぎわに達した。そしてけっきょく、シェパートンの方向をめざして、水面をかすめて去った。
そのすぎ去ったあと、水は鞭で打たれたような痕をのこし、それが蒸気を噴きあげる熱湯と化した。ぼくは岸のほうをふりむいた。
その瞬間、ほとんど沸騰点に達した熱湯の波が、ぼくの上におしよせてきた。ぼくは大きく悲鳴をあげた。火傷を負い、なかば目がくらみ、苦痛にうめいた。そして、音をあげて湧きかえる熱湯をくぐって、よろめきよろめき、岸辺へ向った。足がもつれれば、ぼくの最後だった。かろうじて、ウェイ河とテムズ河の合流点、小石のほかなにもない三角州までたどりつくと、それ以上うごく力を失って、その場に倒れ伏した。
火星人たちの眼をさえぎるものとてなくて、ぼくはついに、死を覚悟した。
ぼんやりした記憶の底に、ぼくの頭から二十ヤードもはなれていない個所を、火星人の足がすぎていったのが残っている。その巨大な足が、小石のゆるく積った山に食いこみ、あちこちと踏みしだき、またふたたび、もちあげられたのを。ながい戦慄の時間だった。四人の怪物は、たがいに手を貸しあって、かれらの仲間の遺骸をかつぎながら、煙の雲のなかを歩み去った。河をわたり、ひろびろとした牧場を越えて、無限のかなたと思われるあたりに、その姿を消していくのだった。ぼくのいのちが奇蹟的にたすかったのを知ったのは、その後ながい時間がすぎてからであった。
十三 牧師補との出合い
地球人の武器の威力について、思いがけぬ教訓を得た火星人たちは、本来の拠点であるホーセル公有地へ退却した。いそいでいたのと、破壊された仲間の遺骸を運ぶのに熱中していたので、ぼくのように散在しているものは、かれらの目をまぬがれることができたのだ。もしかれらが、仲間の死体を放置したまま、前進に移っていたとすれば、わがイギリスの首都は、おそるべきものが近づきつつあるとも知らぬうちに、襲撃され、破壊されていたにちがいなかった。そのころは、ロンドンとかれらのあいだに、十二ポンド砲をもつ砲兵隊が配置されていただけであったからだ。急激にして徹底的な破壊力の襲来は、一世紀以前にリスボン市を全滅させた大地震に劣らぬ惨状を想像させるのであった。
だが、火星人たちはいそがなかった。シリンダーがつぎつぎと、はてしない宇宙空間を克服して飛来してきた。二十四時間ごとに、かれらは補強されていったのだ。しかし、そのあいだに、いまや敵軍の驚嘆すべき戦力を知るにいたったわが陸海軍当局も、応戦準備に没頭した。毎分ごとに、新しい砲が陣地に配置され、その日の夕刻までには、キングストンからリッチモンドへかけての丘陵をおおう雑木林のかげ、すべての別荘のあいだに、黒い砲門が命令の下るのを待つことになった。火星人の陣営であるホーセル公有地をとり巻く二十平方マイルの地帯――それはいまや黒焦げに焼けて、人の姿もない廃墟だが――おなじく焼け落ちた村々、一日まえまでは松林に飾られていたのに、いまは黒煙がくすぶっている丘陵の斜面、それらのあいだを、決死的の斥候兵がじりじりと匍いすすんで行く。手にしている回光信号機は、火星人が接近した場合、砲手に知らせるための道具だ。しかし、火星人も現在では、砲術についての地球人の技能を知り、人類に近づく危険を理解した。そしてまた人類のほうでも、生命の犠牲をあえて覚悟することなくしては、シリンダーの所在場所一マイル以内に立ち入ることができなかった。
かれら巨人たちは、その日の午後の前半を、対戦準備にすごしていたようだ。第二と第三のシリンダーが輸送してきた兵器を――第二のそれはアドルストンのゴルフ場、第三のはパイアフォードにあった――拠点であるホーセル公有地の砂坑に移すために――幾度となく往復をくりかえしていたのである。その作業がすむと、黒く焦げたヒースの原と焼け落ちた建物の上、はてしなくひろがる荒野を見わたすところに、ひとりが哨戒に立ち、あとのものは、巨大な戦闘機械を捨てて、坑のなかに降りていった。そこでまた、夜が更けるまで作業しているようすで、濃緑の煙がそびえ立つ柱のように立ちのぼるのが、メロー付近の丘からながめられた。いや、話によると、パンステッドやエプソム・ダウンズのあたりでも、目撃できたとのことだ。
このように、背後で火星人がつぎの侵攻準備をととのえ、前方では、地球人が戦闘のために集結しつつあるあいだ、ぼくはかぎりない苦痛に耐えながら、燃えつづけるウェイブリッジの焔と煙を逃がれて、ロンドンへといそいだのである。
ぼくはまず、捨てられたボートの非常に小型なのが、ずっと下流のほうに漂っているのをみつけた。びしょ濡れになった服のほとんどをぬぎすて、ボートを操って、廃墟をのがれ出た。オールはなくなっていたが、半ば火傷を負った両手のゆるすかぎり、なんとか工夫をこらして、ハリフォードからウォールトンにむけて、河を漕ぎくだった。おそろしく時間がかかり、たえず背後に気をくばりながらの旅であったが、もしまた巨人がひっかえしてくるとしたら、河をくだる以外に、脱出のチャンスは考えられなかったのだ。
火星人が死んで投げだされた個所から噴き出す熱湯が河下へながれてくるので、その後一マイルのあいだは、その蒸気で両岸さえ見ることができなかった。しかし、一度だけ、牧場をつっ切って、ウェイブリッジの方向へいそぐ何人かの人影を見た。ハリフォードの町は、全員退却してしまったあとらしい。河に面した人家のいくつかが火災をおこしていた。暑熱きびしい午後の、雲ひとつなく澄みきった青空に、いく筋かの煙と、ほそい糸のような焔が立ちのぼっていく。森閑と、人けもなくしずまりかえった町並みを見るのは、なんともいえず異様な経験だった。ぼくはそれまで、群衆がわめきさわぐことなく、家屋だけがしずかに燃えているのを見たことがなかった。すこしはなれた土堤の上では、乾いた葦が煙を立てている。ここもやはり燃えているのだ。焔が線になって、干草を積んだ畑を奥へ奥へと走っていく。
ながいあいだ、ぼくはボートがながれるにまかせていた。経験した苦闘のあとだけに、疲れきって身うごきもできなかった。河の上の熱さもはげしかった。そのうちに、ふたたび恐怖がよみがえってきたので、ぼくはまた、手で水をかきはじめた。太陽がぼくの裸の背を焦した。そしてけっきょく、河筋がゆるいカーブを示しているむこうに、ウォールトンの橋が見えだしたところで、熱と疲労が恐怖を征服した。ぼくはミドルセックスがわの土堤に匍いあがって、丈高い草のなかにぶっ倒れると、死んだように横たわっていた。そのときの時刻は、四時か五時であったろう。しかし、間もなくぼくは起きあがって、歩きだした。半マイルほどのあいだ、人影をまったく見なかった。そこでまた、生垣のかげをみつけると、からだを横にして、休息をとった。それまでは、最後の力をふりしぼって歩きつづけていたのだが、そのあいだも、なにかとりとめもないことを口走っていたのを憶えている。喉のかわきにくるしめられ、もっと水をのんでおかなかったことを悔みぬいた。いまでも不思議に思われるが、そのときのぼくは、妻にたいして腹が立ってならなかった。理由はわれながら説明できないが、レザーヘッドに行きたいという痛切な希望のあることが、かえってはげしく、ぼくを悩ましていたからであろう。
そこへ、牧師補の姿があらわれたのだが、そのもようをはっきり記憶していないところをみると、おそらくぼくは眠りこんでいたのだろう。気がついてみると、ほこりに汚れたシャツ姿の男が、ぼくのそばに腰かけこんで、きれいに剃った顔をあおむけて、空におどっているかすかな光の動きをみつめていた。空は俗にいうサバ雲空で、わた毛のようなうすい小雲が、いくつとなくつらなって、折りからの真夏の夕日に、赤々と染めあげられていた。
ぼくは起きあがった。その動きを聞きつけて、彼はいそいで、ぼくを見た。
「水をもっていますか?」とぼくがいきなりきくと、首をふって、
「この一時間、きみは水ばかりほしがっていた」と、いった。
そのあとしばらく、ぼくたちは無言のまま、たがいに相手のようすをさぐっていた。おそらく彼は、ぼくの格好が異様すぎるのにおどろいたにちがいない。水に濡れたズボンと靴下のほか、なにひとつ身につけていないし、皮膚は火傷にただれ、顔から肩にかけ、煙でまっ黒に汚れている。彼のほうは品はよいが、いかにも弱々しく、あごがほそく、髪はちぢれている。せまい額を、なかば以上亜麻色の捲き毛がおおい、やや大きめのうす青い目が、正面からぼくをみつめている。彼はぼくから目をそらして、いきなりいった。
「これはどういうわけなんです? これらの出来事は、なにを意味するのでしょう?」
ぼくは彼をみつめたまま、こたえなかった。
彼はほそい白い手をのばして、訴えるような口調でつづけた。
「このような出来事が許されるでしょうか? わたしたちが、どのような罪をおかしたというのです? 朝の礼拝がおわったわたしは、午後のおつとめのために、頭をひやしておこうと、表通りへ散歩に出ました。そのとき、あれが襲ってきたのでした。火災、地震、そして死! ソドムとゴモラ〔ともに、住民の罪悪のために、神に焼かれた――創世紀〕の町さながらの有様です。わたしたちの仕事は、すべて壊滅に帰しました。すべてのわたしたちの仕事が――火星人とはいったいなにものです?」
ぼくはまた、咳ばらいをしながらききかえした。「われわれ人間とはなんでしょうか?」
彼はひざをつかんで、またこちらをふりむいて、三十秒ほど、ぼくの顔をみつめていたが、
「頭をひやそうとして、街の通りを歩いていますと」と、彼はくりかえした。「とつぜん、――火災、地震、死が!」
あとは黙りこんで、首をうなだれた。あごがほとんど、ひざにつくかと思われた。
やがてまた、手をふりまわしながら、しゃべりだした。
「わたしたちの仕事のすべてが――日曜学校の仕事のすべてが――何をしたというのです? ウェイブリッジの人たちが、どんなことをしたというのです? なにもかもが滅びました。教会までが! あれは、つい三年まえに、建てなおしたばかりのものです。それがなくなってしまいました!――あとかたもなく! なんの罪でしょうか?」
また沈黙。そして、くるったように彼はさけんだ。
「教会の燃える煙が、高く高く、のぼっていく! どこまでも、どこまでも!」
その日にも、燃えあがる火が映っている。彼は細長い指で、ウェイブリッジの方向をさししめした。
ぼくもこのときになって、この男がどういう人物かわかりかけた。ウェイブリッジからの避難民のひとりであるにちがいない。おそろしい悲劇が、彼の理性を奪い去る一歩手前なのだ。
ぼくはなにげない口調できいてみた。「サンベリーまでは、よほどあるんですか?」しかし、彼はききかえした。
「わたしたちは、なにをしたらよいのでしょう? あのけものたちは、どこにでもいるのですか? 地球人はかれらに降伏したのですか?」
「サンベリーまで、よほどあるのですか?」
「けさもわたしは、朝のおつとめをして――」
ぼくは落ちつかせるように、しずかにいった。「情勢が一変したんです。冷静になってください。希望はまだあるのですから」
「希望!」
「そうです。大きな希望が――こうした破壊にもかかわらず!」
ぼくはわれわれの立場について、ぼくの見解を披瀝した。彼は最初、耳をかたむけていたが、ぼくの話がすすむにつれて、その目から興味の色が失せて、以前のうつろな凝視があらわれた。彼の関心はぼくからはなれていった。
「これこそ、終末の日のはじまりに相違ない」彼はまた、ぼくの言葉をさえぎるようにして、しゃべりだした。「この世のおわり! 神の大いなる怒りの日! 人々、山と岩とにむかいて、われわれをおおい、かくまってくれとさけぶとき――御座《みざ》にいますかたの御顔《みかお》からかくまってくれとさけぶとき!〔黙示録六ノ十六〕」
ぼくはいまや、完全にぼくのおかれた状況を知った。骨を折って説明するのをやめて、疲れきった腰をあげると、彼のまえに立ちはだかった。相手の肩に、片手をおいて、
「男らしくするのです!」と、いった。「きみは怖ろしさのあまり、逆上しましたな。災事にあって、宗教人が力を失うようでは、なんのための宗教です? 地震、洪水、戦争、火山の爆発、そうした不幸も、われわれ人類を挫折さすことはできないはずです。ウェイブリッジだけが、神によって特別の免除を受けていたとでも思っていたのですか? 神は保険業者でありませんぞ」
しばらくのあいだ、彼は無言のまま、坐りこんでいた。が、急に顔をあげると、
「しかし、どのようにして、わたしたちは逃れることができます? かれらは傷つけられることを知らぬ不死身の生物です。しかも、情けということを知らぬ……」
ぼくはこたえた。「いや、不死身ではなし、また、情けを知らぬわけでもない。要は、かれらが強力であれば、それだけわれわれが、慎重かつ用意周到でなければならぬというだけです。げんに、まだ三時間とたっていませんが、かれらのひとりは撃ち殺されました」
「殺された?」彼は周囲を見まわしながらいった。「神の御使いが殺されるわけがありえようか?」
「ぼくは、その現場を見たんですよ」と、説明をつづけた。
「ぼくたちは偶然の機会から、その打ち倒されるところにいあわせたんです」そして、ぼくはつけくわえた。「それだけのことですがね」
すると彼は、いきなりつぎの質問に出た。「空にひらめく、あの光はなんです?」
ぼくは即座に、それが回光信号機による合図だと説明してやった――あれこそ、われわれが空にむけて放つ、人類相互扶助と努力のしるしであるのだと。
「われわれはその中心部にいるんです。こんなにしずまりかえってはいるが、あらしが近づきつつあることをあの空にひらめく光が告げているのです。あの方角には、火星人がいます。そして、ロンドン方面では、リッチモンドやキングストンの周辺で、丘陵がもりあがり、樹木が遮蔽に用いられるところには、保塁がきずかれ、大砲が据えつけられています。やがては火星人が、ふたたびこの道を侵攻してくるにちがいないのです」
ぼくの言葉がおわらぬうちに、彼はその場につっ立って、身ぶりでぼくの話をとめた。
「お聞きなさい!」と、彼はいった。
河のむこう、低い丘のさきで、遠い砲声が、にぶくとどろいた。それにつづいて、突撃のさけびが不気味に聞こえてきた。が、そのあと、ふたたびあたりはしずまりかえった。コガネムシがものうげな羽音を立てて、生垣とぼくたちの頭を越えていった。西空にたかくかかった新月が、ウェイブリッジとシェパートンから立ちのぼる煙に、うすくかすんで見える。落陽はまだ、暑さとしずかな光線とをたもっている。
ぼくはいった。「ぼくたちはこの道をすすんだほうがいい。北へむかって――」
十四 ロンドンにて
火星人がウォーキングに落下したとき、ぼくの弟はロンドンにいた。医科学校の学生で、さしせまる試験の準備にいそがしかったことから、火星人の到来については、土曜日の朝までなにも知らなかった。土曜日の朝刊は、火星に関する相当長文の特別記事を掲載し、この惑星上の生命の存在その他についての説明をしていた。そして、それにくわえて、簡単かつ文意のあいまいな電文をのせているのだが、簡略なだけに、センセイショナルなものがあった。
火星人は、あまりにも多数な群衆がおしよせたのにおどろいて、速射砲でかなりの人数を殺戮したといった文章だった。そしてその電文は、つぎのような言葉でしめくくってあった。「火星人はたしかに兇悪と見受けられるが、さいわい、落下した地点である砂坑から、いまだに進出していない。おそらく、地球との重力との差異が、それを妨げているのであろう」そして、この最後の点について、論説委員ははなはだ楽観的意見を述べていた。
もちろん、その日、弟が出席した生物学クラスの学生は、全員この事件についてふかい関心を示したが、一歩街頭に出ると、そこには格別興奮した兆候も見られなかった。夕刊の第一版には、かなり誇張した断片的ニュースが、大見出しつきで掲載されていたが、実質的にいうと、公有地周辺の軍隊の動きと、ウォーキングとウェイブリッジ間で、松林が朝の八時まで燃えつづけた程度のことだった。つづいて『セント・ジェイムズ・ガゼット』が号外を出して、電報による通信が杜絶した事実を告げた。これは焼け落ちた松の木が電信線を切断したためと考えられた。それ以上の戦況は、その夜は不明のままにおわった。ぼくがレザーヘッドまで、馬車を駆って往復した夜のことだが……
弟は新聞の記事によって、シリンダーの落下した地点は、ぼくの家から二マイルは離れていると知ったので、ぼくと妻の身の上については心配しなかった。しかし、その夜のうちに、ぼくのところへ行ってみると決心をした。のちに彼が話したところだと、その【もの】が殺されぬうちに見学しておきたい希望もあったからだという。彼は四時ごろ、その旨をぼくに電報で知らせたのだが、それはぼくの手もとへ届かなかった。弟はそのあと、夕刻をミュージック・ホールですごした。
土曜日の夜、ロンドンにも雷をまじえたあらしが襲った。そのなかを弟は、馬車でウォタールー駅に着いた。十二時発の列車は、平常どおり運行すると聞いて、彼はプラットホームで、かなりのあいだ待っていたが、けっきょく事故のため、その夜列車はウォーキングへ到着しないと告げられた。どんな事故なのかは、確かめることもできなかった。実際のところ、鉄道当局そのものが、はっきりしたことを知らなかったのだ。それだけに、駅はほとんど興奮状態を示さず、バイフリートとウォーキングのあいだに故障がおきたこと以外は知らされていない駅員が、いつもはウォーキングを経由する劇場客用の列車を、ヴァージニア・ウォターないしギルフォード経由に切り換えるのにいそがしがっているだけだった。駅員はまた、サウサンプトンからポーツマスにむかう日曜遊覧列車のルートを変更する手続きにも忙殺されていた。夜勤の新聞記者が、ぼくの弟を旅客主任とあやまって――ほんのすこし、似ているところがあったのだろう――インタービューをこころみようとした。鉄道駅員を別にすれば、ごく少数の人々しか、この鉄道事故を火星人とむすびつけようとしなかったのである。
この事件の別方面の報道を、ぼくは日曜日の朝刊で読んでいた。それには、【ロンドン全市民はウォーキングからの報道で、電撃的ショックを受けた】とあった。しかし、事実はそのような誇張した表現を正当とするなにごともなかった。ロンドン市民の大部分は、月曜日の朝にいたって恐慌におそわれるまで、火星人については聞くところがなかったのだ。それを聞いた人々にしても、日曜日の新聞にのった、早急のうちにつづられた電文だけでは、真相を知るのも容易でなかったのであろう。それに、ロンドン市民の大半には、日曜日の新聞は読もうとしない習慣があるのだ。
そのうえ、ロンドン人の心には、自分だけは安全だと思う気持が、従来からふかく根ざしている。さらにまた、新聞記事が人目をおどろかす表現方法をとるのは通常のことで、かれらは個人的な恐怖感なしに記事を読むことができたのである。「昨夜七時ごろ、火星人は円筒をぬけ出し、金属製のよろいの下に活躍し、ウォーキング駅および近接する人家を破壊し、カーディガン連隊の一個中隊を全滅させた。詳細は不明なれど、かれらのよろいにたいし、機関銃はなんの効果もなく、野砲もまた無能と判明した。軽騎兵隊はチャートシーへ撤退中。火星人は徐々に、チャートシーもしくはウインザーへむかって侵攻のもよう。ウェスト・サリー一帯は非常な不安に陥った。かれらのロンドンへの前進を防止すべく、各所に堡塁を構築しつつあり」これは『サン』紙の日曜版が掲載した報道であり、『レフリー』紙のかこみ記事がこの事件をあつかって、村に巡回してきた移動動物園があばれだしたようだと形容したのは、まさに適切な比喩といえた。
ロンドンでは、よろいをまとった火星人の本体について、明確な知識をもつものはひとりもいなかった。かれら怪物はナメクジのように緩慢な動作だというのが、いわば固定した観念で、【匍いまわる】とか、【くるしげによたよた歩く】といった表現が、初期の報道に支配的だった。どの電文にしても、かれらの前進を、実際の目撃者が書いたわけではなかったから。日曜日の新聞は、新しいニュースがはいるたびに号外を出した。なかには、ニュースがはいりもしないのに発行する社もあった。しかし、その日の午後もおそくなるまでは、事実上のニュースらしいものははいらなかった。夕刻になって、当局ははじめて、その入手したニュースを報道関係に発表した。ウォールトン、ウェイブリッジその他、その付近の住民が、ロンドンへむかう街道にそって避難しつつあるというのだったが、内容はそれだけのことだった。
ぼくの弟は、夜があけても、昨夜おきた出来事についてはまったく知らされていなかったので、|救 児 院《ファウンドリング・ホスピタル》付属の教会へ出かけていった。そこで、火星人侵攻に言及した説明を聞かされ、平和をねがう特別の祈りにくわわった。外へ出て『レフリー』紙を買ってみて、はじめてニュースの重大性におどろかされた。そこで、いそいでまたウォタールー駅へ行って、不通個所はどうなったか聞こうとした。しかし、乗合馬車、四輪馬車、自転車、その他さまざまな乗物を利用している人々、ないしは晴れ着に着かざって、散歩を楽しんでいる連中にしても、新聞売り子が売りひろめる異常なニュースの影響を受けているとは思えなかった。
人々はむしろ興味を感じているといったほうが適切だった。懸念しているものがあったとすれば、それはただ、その地方に住む人々の身の上についてだった。駅へついてはじめて彼は、ウインザーからチャートシーへかけての諸線が、ことごとく不通になっていると聞かされた。赤帽の話では、その朝、バイフリートとチャートシーの両駅から、何回か重要な電報が受信されたが、その後ふっつり途絶えてしまったとのことだった。要するにぼくの弟は、駅員からの情報を仕入れることができなかった。【目下、ウェイブリッジ付近で戦闘が行われている】というのが、知ることのできたすべてだった。
列車の運行だけは、すでにいちじるしい混乱状態を呈していた。おびただしい人々が、サウス・ウェスタン鉄道沿線の各駅から避難してくる友人たちを出迎えるべく、駅の周辺をとりかこんでいた。白髪の老紳士が弟をつかまえて、サウス・ウェスタン鉄道会社の処置方法を、口をきわめて罵りだした。「これは当然、一般世論に訴えなければならぬ問題ですぞ」と、彼はいった。
リッチモンド、パトニー、キングストン経由の列車が、ひとつ、ふたつ到着した。一日の休暇をボート遊びに出かけたのに、水門がとざされているので、緊迫した空気を吸っただけで帰ってきた人々が、ぞろぞろと降り立った。紺と白のスポーツ・シャツを着た男が、弟に話しかけた。仕入れてきたニュースが口からあふれ出るというところだった。
「キングストンへ逃げてくる連中の数といったら、たいへんなもんですぜ。軽輪馬車や荷馬車に、貴重品の箱とか家財道具とかを積みこみましてね」と彼は、しゃべりつづけた。「みんな、モールセイ、ウェイブリッジ、ウォールトンといった方面から逃げてくるんでさ。その連中の話だと、チャートシーのあたりでは、大砲の音が聞こえているそうですよ。馬にのった兵隊が、火星人が攻めてきたから、大いそぎで逃げだせと触れてまわっているんですって。げんに、あたしらも、ハンプトン・コートの駅で大砲の音を聞きましたよ。かみなりかと思ったくらいでね。とにかく、あれはどういうわけなんでしょうね? ほんとうに火星人は、砂坑から出られないんですかね?」
弟としては、なんの意見も吐くことができなかった。
その後彼は地下鉄にのって、その乗客のあいだにも、ばく然とした不安感がひろがっているのを知った。日曜日の行楽に、サウス・ウェスタン鉄道の中央部――バーンズ、ウインブルドン、リッチモンド・パーク、キューなどである――へ出かけていった人々が帰ってきたからだ。帰ってくるにしては、はやすぎる時間だが、ばく然としたうわさ以上のものを伝えてくれる者はいなかった。それでいて、この終着駅へ降り立つものは、だれもが不きげんそうな顔つきをしているのだった。
五時には、駅の内外にあつまった群衆がはげしい興奮につつまれていた。サウス・イースタン鉄道とサウス・ウェスタン鉄道の各駅とのあいだに連絡がとれたと聞かされたからで、大型砲を積んだ貨車と兵隊を満載した客車が走りだした。これらの砲はキングストン防衛のために、ウリッジとチャタムから運ばれたものだった。兵士と群衆のあいだに、冗談口がとりかわされていた。「気をつけろよ。食われちまうからな!」「心配ない。おれたちは猛獣つかいだ!」やがて警官隊が駅に派遣されて、群衆をプラットホームから追い出しにかかったので、弟はまた街へ出た。
教会の鐘が、夕べの祈りを告げていた。救世軍の少女たちが隊を組んで歌いながら、ウォタールー・ロードを下っていった。橋の上には、用のない連中が大勢、見慣れぬ茶色の浮流物が河面をながれてくるのをみつけてさわいでいる。陽が沈みかけていた。おそらくこれは、この世でもっとも平和な空のひとつであろう。その西空を背景に、時計塔と議事堂がそびえ立っている。赤むらさきの横雲をながながと横たえた金色の空。橋の上は、死体がながれてくるとの噂でもちきりだった。みずから称して予備兵だという男が弟をつかまえて、西の方角に回光信号機《ヘリオグラフ》のきらめくのを見たと話した。
ウェリングストン・ストリートへきかかると、頑丈な体格の男がふたり、フリート・ストリートからとび出してきた。まだインクもかわいていない新聞と、大きなプラッカードを手にしている。「おそろしい惨事だ!」二人は口々にさけびながら、ウェリングストン・ストリートを駆けていった。「ウェイブリッジで戦闘開始だ! 詳報はここにある! 火星人を撃退するんだ! ロンドンがあぶない!」弟は三ペンスをわたして、その新聞を一部買った。
彼が怪物たちのおそろしい威力を知ったのは、このときがはじめてだった。それがひとにぎりのナメクジに似た小動物ではなく、巨大な機械とも思われる肉体を、思うさま活躍させている知力ある存在と教えられたのだ。かれらには迅速な行動をとることができるし、最強力の砲をもってしても、抵抗不能な武器をそなえていることを。
新聞には、つぎのように報道されていた。「巨大なクモに似た機械で、高さほぼ百フィート、最高速力は急行列車に匹敵し、強烈な熱線を放射することができる」
野砲を主とする砲兵隊が、ホーセル公有地付近に陣地を布《し》き、とりわけ、ウォーキング地方とロンドン間の防備をかためたが、五個の火星人がテムズ河にむかって移動を開始しているのが見られた。そのひとつは、幸運にも撃滅することに成功したが。あとの場合は弾丸がはずれ、かえって砲兵隊が熱線によって殲滅させられたとある。戦死者のおびただしい数が発表されていたが、記事の筆致は、あんがい楽観的だった。
火星人はついに撃退された。かれらとても不死身ではなく、ウォーキングを中心とする円周内、シリンダーが三個、三角形を形づくって落下しているあたりに退却したのだ。回光信号機による信号兵が四方から前進し、大砲も、ウインザー、ポーツマス、オールダショット、ウリッジ、さらにはその北方からも急速にあつめられ、なかにはウリッジから移動された長砲身をもつ九十五トン鋼鉄砲も数門くわわっている。かくて、主として首都ロンドンの防衛にあたるため、総数百十六門の大砲が、ほとんど配置を完了しようとしている。かつてイギリス本土において、これほど大規模かつ迅速な軍備の集結を見たためしはなかった。
これら以外にも、シリンダーが落下していることを考慮して、高性能の爆薬が急きょ製造され、配備をいそがれつつあるので、これらを破壊し去ることは否定の余地のないところである。もちろん――と新聞記事は論旨を展開して――事態が異常にして重大であることは否定すべきでないが、政府は最悪の結果を防止するために、必死の努力をつづけている。そしてもちろん、火星人が奇怪で兇悪な存在であることは疑いないが、その数は二十を超えるわけでなく、われわれの兵力はこれにたいし、数百万を数えているのである。
軍当局がシリンダーの規模よりみて、一個のそれに、せいぜいが五個、総数で十五個の火星人と推断しているのは当然の理論であり、しかも、そのひとつはあきらかに破壊し去った。ことによると、さらに何個かを滅しているかもしれない。こんご、危険の迫るおそれのあるときは、国民はただちにその警報を受けるであろうし、すでに危険にさらされている南西部郊外地帯の住民については、その保護に万全の処置がこうじられている。最後に、首都ロンドンの安全と、この難局に対処する軍当局の能力に関し、信頼して可なることをくりかえし強調して、なかば布告めいた記事はおわっていた。
その新聞記事は、おどろくほど大きな活字で印刷されていて、まだインクが濡れているほど新しかった。しかも、その論調に批判をくわえる余裕は、市民のだれももっていなかった。さらに、後日弟が語ったところによると、いつも紙面を埋めている記事が、ことごとくその場所を奪われて、容赦なく切り捨てられているのが奇妙な印象をあたえていたとのことだ。
ウェリングストン・ストリートを歩いていた人々は、だれもがピンク色の新聞をひろげて読みふけっていた。ストランドあたりが、急にさわがしくなって、さきの二人のあとにつづく新聞売り子の一隊が、口々にさけびたてているのだった。乗合馬車の客たちも新聞を買いこもうと、われさきに馬車をとび降りた。たしかにこのニュースは、それまで無関心だった人々をいちじるしく興奮させた。ストランドにある地図を売る店は、店さきのよろい戸をおろすところだったが、日曜日の外出着を着た男が、レモン・イエローの手袋もそのままで、いそいでショーウインドーのガラスにサリー地方の地図をはりつけていたそうである。
ぼくの弟は新聞を手にしたまま、ストランドからトラファルガー広場のほうへ歩いていくと、ウェスト・サリーの方向から逃がれてきた何人かとすれちがった。そのうちには、妻とふたりの子供をつれ、青物商が使うような荷馬車に家財道具をのせた避難民もいた。その男はウェストミンスター橋の方角からきたので、そのすぐうしろには、身分のありそうな男女を五、六人もつめこんだ乾草馬車がつづいていた。これがまた、いくつかの箱や包みをかかえこんでいる。この人たちの顔は、疲労の極に達した表情で、乗合馬車にのっている晴れ着で飾り立てた連中と好対照を示していた。馬車の窓から、流行衣装に身を飾った人々が、避難者のようすをのぞいている。かれらは、その行先をきめかねているかのように、トラファルガー広場で一度、馬車をとめかけたが、けっきょく東の方向をえらんで、ストランドの通りをすすんでいった。この人々からすこしおくれて、作業衣の男が、前の車輪が小さい旧式の三輪自転車でやってきた。顔はほこりでまっ白によごれている。
弟はそこのかどで、ヴィクトリアの方向へまがった。そこでまた、おなじような人たちに出合った。彼はひょっとしたら、ぼくに会えるのではないかと考えた。いつもとちがって、交通整理をおこなっている巡査の数がふえている。避難者のうちの何人かは、乗合馬車の客に、現地の話をきかせている。そのひとりは、げんにその眼で火星人たちを見たといって、「ボイラーが竹馬にのったとでも形容しましょうかな。それが人間みたいに、大股に歩いているんです」かれらの大部分は興奮しきって、この異様な経験に、むしろおしゃべりになってさえいるのだった。
ヴィクトリアを越すと、立ちならぶ酒場が、これら避難者の到着で活発な商売をしていた。どの街かどにも、大勢の人たちがあつまっている。新聞を読み、たがいに興奮した会話をかわし、そして、日曜日というのには、あまりにもかけはなれた来訪者をながめているのである。そうした人々は、夜になるにつれ、しだいにその数をまして、ついには道路にあふれ、弟の話では、ダービー競馬の日のエプソム街道のような状態になっていたそうだという。弟は何人かの避難者に質問してみたが、満足のいく答えをあたえてくれる者はいなかった。
ウォーキングについても、ニュースらしいものはほとんど確保できなかったが、ひとりだけ、そこは昨夜のうちに、完全に破壊されたと話したものがいた。
「あたしはバイフリートからきたんですが」と、その男はいった。「けさはやく、あの街から自転車にのった男がきて、はやく立ちのいたほうがいいと、一軒々々、触れまわっていたんです。そのあとから、兵隊がやってきました。外へ出てみると、南の方角に、煙の雲が湧きあがっているんです――煙のほかには、なにも見えません。そちらからやってくる人間もいないのです。そのうちに、チャートシーのあたりで、大砲の音が聞こえだし、つづいてウェイブリッジから逃げてくる連中の姿が見えはじめました。そこであたしは、家を戸じめにして、逃げだしてきたんです」
そうこうするうちに、街頭にあつまっている人々のあいだに、当局の不手ぎわを非難する声が高まってきた。こんな騒ぎにならぬうちに、なぜ侵攻者を処置してしまわぬかというのである。
八時ごろ、ロンドンの南部一帯にわたって、はげしい砲声が聞きとれた。その時刻に、弟は中心部にいたこともあり、交通機関の喧騒にさまたげられたので、聞きとることはできなかったが、その後しずかな裏通りを、河のほうへとぬけて行くとき、たしかにそれを耳にした。
彼は二時ごろになって、ウェストミンスターから、リージェント・パークに近いアパートへ帰った。ぼくのことが心配でならなかったし、事件の重大性を感じとって、すっかり落ちつきを失ってしまった。土曜日のぼくがそうであったように。彼もまた、軍隊のうごきを具体的に知りたがった。沈黙をまもって待機している砲と、とつぜん住民を流浪の徒にかえてしまった田園地帯に思いを馳せ、全長百フィートもある【竹馬にのったボイラー】を想いうかべてみるのだった。
オックスフォード・ストリートで、避難者をのせた馬車一、二台とすれちがい、アラルバン・ロードでは、さらに数台と出会ったが、この辺では、ニュースのひろまるのがおくれていたので、リージェント・ストリートとポートランド・プレイスのあたりは、平常どおり日曜日の夜の散歩を楽しむ人々があふれていた。わずかにいつもとちがっているのは、ときどき何人かよりあつまって、話しあっているくらいである。リージェント・パークのはずれでは、点々とちらばっているガス燈の下に、無言の【散歩】を楽しんでいるアベックさえ、いつもと変りない数を見せていた。その夜はあたたかく、風もなく、やや蒸し暑く感じられた。砲声が断続的につづいている。真夜中すぎには、南の方角に、稲妻らしいものが走った。
弟の部屋は屋根裏にあったが、窓から首をつき出すと、その音を聞きつたえてか、道路の上下で、いくつかの窓がひらいて、とりどりの寝間着姿が、おなじように顔をのぞかせた。たがいに大声で、事情をききあっている。「やつらがやってくるぞ!」巡査がそうさけびながら、門口をたたいて、「火星人の来襲だ!」とさけぶと、つぎのドアへいそいだ。
オールバニー・ストリートの兵営から、ドラムとラッパの音がひびいてきた。近くにある教会という教会は警鐘を乱打して、人々の眠りをさますのに懸命だった。ドアのひらく音。家々の窓に、つぎつぎと灯がともり、闇に黄色い光がながれ出た。
道路の北のほうから、箱馬車が一台走ってくる。街かどのあたりで、急にその音が大きくなり、彼の部屋の窓の下では最高潮に達したが、馬車の影が遠去かるとともに消えていった。そのうしろに、ぴったりくっつくように二台の軽馬車がつづき、それが先駆になって、そのあと、長い馬車の列があらわれた。みな、チョーク・ファーム駅へいそいでいるのだ。いつもは坂を下って、ユーストン駅まできてから発車するノース・ウェスタン鉄道が、今夜にかぎって、チョーク・ファーム駅から特別列車を出すというのだった。
弟はながいあいだ、呆然自失した格好で、窓から街路をながめていた。何人かの警察官が家ごとにドアをたたいて、常識では理解しかねる布告を触れ歩いていた。やがて彼の背後のドアがあいて、むこうがわの部屋を借りている男がはいってきた。シャツにズボンだけの姿で、スリッパをひっかけ、ズボン吊りは肩からはずれ、髪は寝みだれたままである。
「なんの騒ぎですな?」彼はきいた。「火事ですか? それとも、けんかかなにかで?」
二人はまた、窓から首を出して、巡査のさけび声に耳をかたむけた。横丁からとび出してきた人たちが、街かどにあつまって、口々にしゃべっている。
「なんですか? この騒ぎは?」弟の同下宿人はきいた。
弟は、ばく然とその理由を説明しながら、着がえにとりかかった。外の騒ぎを聞きもらすまいと、一枚、身につけるたびに、窓ぎわに走りよるのだった。そのうちに、特別はやい朝刊紙を売る呼び子が、大声でわめきながら走ってきた。
「ロンドンに危険がせまったぞ! キングストンとリッチモンドの防衛線が破られたんだ! テムズ峡谷の大虐殺だ!」
その叫びで、たちまち弟の周囲に、大混乱がまきおこった。すぐ下の部屋、道路をはさんで両がわの家々、背後ではパーク・テラスから、それに面したマラルバン地区の百にもあまる街筋、ウェストバン・パーク地区とセント・パンクラス。西と北では、キルバーン、セント・ジョーンズ・ウッド、ハムステッド、東へまわるとショーディッチ、ハイベリー、ハガーストン、ホクストン。そして、事実、イーリングからイースト・ハムにおよぶ広大なロンドン全市のいたるところで、人々は眼をこすり、窓をあけて外をながめ、口々にとりとめのない質問をはなち、あわてふためいて着がえに移っているあいだ、恐怖のあらしの最初のおとずれが、街々を吹きぬけていったのだ。それが、ロンドンをおそった大いなる恐慌の夜あけだった。日曜日の夜のベッドにはいって、すべてを忘れて眠っていたロンドン全市民が、月曜日の朝のおとずれを待たずに、最大の危機の襲来によってめざめさせられたのである。
彼の部屋の窓からでは、どんな情勢であるのか理解できないので、弟は街へ出てみた。そのときはすでに、建物のあいだにのぞいている空が、夜あけのおとずれのように、ピンク色に染っていた。徒歩や車でいそいでくる人々の群れが、一分ごとに増してくる。「黒煙だ!」群衆の叫びが聞こえる。「黒煙だ!」このような恐怖感が、たちまちひろがっていくのは当然のことで、弟も戸口でためらっていたが、新聞売り子が近づいてくるのを見て、とんでいって、それを買った。一部一シリングの新聞がとぶように売れていく――それは利得と恐怖のグロテスクな混合だった。
そしてその新聞で、弟は総司令部からの絶望的な公表を読んだ。
「火星人の武器は、ロケットの力によって、おびただしい黒煙を放射する。これは猛毒のガス体にして、わが砲兵隊は全員窒息の被害を受けた。リッチモンド、キングストン、ウインブルドンの陣地は陥り、目下、敵は徐々にロンドンにむけて前進中。途上のすべてのものは破壊され、その前進をさまたげることは不可能なり。黒煙による被害を避けるには、即刻避難を開始する以外に方法なし」
それが全文だが、情勢を知るにはじゅうぶんなものがあった。六百万の市民をもつ大ロンドンは、いまや完全に動揺して、全市民が脱出にあせっている。やがてはそれが大挙して、北方へながれ出ていくことであろう。
「黒煙だ!」と、口々にさけんだ。「火事だ!」
近くの教会では、くるったように鐘が鳴り、あわてて走っていた馬車が、路上の水槽にぶつかって、悲鳴と罵声のうちに大破した。家のなかでは、無気味に黄色い灯があちこちとうごきまわり、走りすぎる馬車のうちに、いまだにランプを消さぬのがあるが、頭上にはあかつきの光がさしてきて、晴れてあかるいしずかな朝を予期させた。
弟の耳に、部屋じゅうを駆けまわり、階段をあがり降りする足音が聞こえていたが、アパートの女あるじがドレッシング・ガウンに肩かけというだらしない格好で、戸口にあらわれた。そのうしろには、なにか大声にわめきながら、彼女の夫がしたがっている。
いまは弟にも、事態の重大性がはっきり了解できた。いそいで自分の部屋へひっかえすと、あらいざらいの金を――それは全部で、十ポンドなにがしであったが――ポケットにつっこみ、ふたたび街頭へとび出した。
十五 サリーでの出来事
ぼくがハリフォードに近い牧場の生垣のかげで、気のくるった牧師補とおかしな会話をとりかわしていたとき、そしてまたぼくの弟が、ウェストミンスター橋の上を流れていく避難者の群れをながめているとき、火星人はつぎの攻撃に移りつつあった。耳にはいる情報は矛盾だらけであったが、そのとりとめのなさのうちに確かめえたところだと、火星人の大半はその夜九時まで、ホーセルの砂坑のなかでの作業をつづけていたらしい。それが証拠に、そのあいだ砂採り場からは、みどり色の煙がおびただしく舞いあがっていたそうである。
だが、かれらのうち三つは、八時にはすでに坑から出動していたようすだった。用心しながら、ゆっくりと前進をつづけ、バイフリートとパイアフォードから、リプリー、ウェイブリッジの途をとり、いつか沈みゆく太陽を背に、待機している砲兵陣地の前面にあらわれていた。これら火星人は一団となっての行動をとらず、縦に一列になり、相互のあいだに一マイル半の間隔をおいている。サイレンに似た咆哮の調子をいろいろと変えることで連絡をたもっているものと思われた。
われわれがアッパー・ハリフォードで聞いたのも、この咆哮と、リプリーやセント・ジョージ・ヒルのあたりにとどろく砲声であった。リプリーの陣地をかためる砲手たちは、もともと未訓練な志願兵ばかりで、元来、このような重要な地点に配置される資格はなかったのだ。それだけに、機の熟さないうちから、無暴無効果な一斉射撃にかかって、そのあとさっそく、無人の村をぬけて逃げだした。あるいは徒歩、あるいは馬でといっただらしなさで、この方向にむかった火星人は、その熱線を使用するまでの必要もなかった。ゆうゆうと砲列のまえに達し、慎重な足どりでそのあいだを通りぬけると、いきなりペインズヒル・パークの砲兵陣地をおそい、これを粉砕してしまった。
だが、セント・ジョージ・ヒルの砲兵陣地は、兵の統率もすぐれ、士気もまたふるっていた。松林のかげにかくれていたので、近よってきた火星人にみとめられずにすんだ。かれらは閲兵式のときのように、落ちついてねらいをさだめ、チャードの射程距離に相手が近づくのを待って発射した。
砲弾は火星人をつつんで炸裂した。それは数歩すすんだだけで、よろめいて倒れた。だれもが同時に歓声をあげて、気がくるったほどのスピードで、第二弾をつめた。倒れた火星人が、ながく尾をひく咆哮をあげると、それにこたえて第二の巨人が、寸刻の間もおかず、きらきらするよろい姿を南の木立の上にのぞかせた。これもまた、その三本脚のひとつを、砲弾によって打ち砕かれたかに見えた。第二の一斉射撃は、地に倒れている火星人からはずっとはなれた個所にとんだが、ほとんど同時に、その仲間のふたつが、熱線を砲兵隊に浴びせてきた。火薬は吹きとび、陣地の周囲の松林はことごとく火につつまれた。わずかに、いちはやく丘の頂きを越えて走っていた一、二名の兵士が救かっただけであった。
この戦闘のあと、火星人三つは足をとめて、相談しあっているようすだった。それを見まもっていた斥候の報告だと、その後の三十分間、火星人たちは直立したまま、身動きもしなかったという。撃ち倒された火星人が、フードからぐずぐずと匍い出している。あんがいと小さな茶色のからだが、かなりはなれた位置の斥候からは、虫害を受けて、全身に斑点が生じたような印象をあたえたそうだ。しばらくは、よろいの修理にいそがしがっていたが、九時近く、作業が完了したとみえて、またもそのフードが木々の梢の上に見えた。
その夜、九時を数分すぎたころ、哨戒の任にあたっているこの三つの火星人に、さらに四つ、新手がくわわった。これがそれぞれ分厚い黒チューブをもっている。同様のチューブが、さきの三つにもわたされると、そのあと、七つの火星人がそろって前進を開始した。そして、セント・ジョージ・ヒル、ウェイブリッジ、リプリーの西南、センドの村の三地点をむすぶ湾曲線上に、同一間隔をおいて散開した。
かれらが移動を開始したとみると、その前方の丘陵から、十を越えるのろしがあがって、ディットンやイーシャー付近に待機している砲兵隊に、それを知らせた。と同時に、敵の戦闘機械の四つは各自チューブを手に、河をわたった。そのうちふたつは、あかるく映える西空を背景に、くろぐろとしたその姿を、ぼくと牧師補のすぐまぢかにあらわした。ぼくたちは疲れきったからだをひきずって、ハリフォードから北にむかって逃げだした。ぼくたちの目にうつるかれらは、荒野をおおうミルク色の霧が、背丈の三分の一まで匍いあがっているので、雲にのって歩いているように見える。
これを見た牧師補は、喉の奥でかすかな叫びをあげ、全速力で走りだした。しかし、ぼくにはわかっていた。いくら走ったところで、火星人から逃がれられるものでない。ぼくはいそいでわき道にそれた。道ばたのひろい溝があざみやいらくさまでおおわれているのをさいわいに、そのなかにもぐりこんだ。牧師補もふりかえって、ぼくの行動を見ると、ひっかえしてきて、いっしょにかくれた。
敵のふたりは足をとめた。ぼくたちの近くにいるやつは、つっ立ったまま、サンベリーの方向を眺めていたが、もう一個のほうは、スティンズの方角へ歩き去った。宵の明星の下で、それが灰色のもうろうとした影になって見える。
ときどきあげる火星人の咆哮も、いまはすっかりとまっている。円筒の落下地点をかこむ大きな三日月なりの線上に、それぞれ位置をとって、完全な沈黙をまもっているのだ。三日月線の端と端とは、じゅうぶん十二マイルをへだてている。戦闘が開始されようというのに、なんというしずけさだろう。火薬が発明されてこのかた、はじめて見る現象ではないか。ぼくの見たところも、リプリー付近から眺めたところも、おなじような印象だったにちがいない。繊《ほそ》い月と、星と、暮れなずむたそがれのうすらあかりと、そして、セント・ジョージ・ヒルからペインズヒルの松林へかけての火災の光のほか、照らすものもない暗い夜に、火星人の影だけが、くっきりと立っているのだった。
しかし、事実は三日月線の前方――スティンズ、ハウンズロウ、ディットン、イーシャー、オッカムとつなぐ、河を北にした丘陵と松林、あるいは河の北岸にひろがる牧場で、木立とか村落とか、およそ遮蔽するに足るもののあるかぎり――砲兵陣地が待機しているのである。合図ののろしがあがり、そのスパークが夜空に消えると、待機する砲兵隊の将士のあいだに、異常な緊張がみなぎった。火星人が射程距離に近づきさえすれば、即刻兵士は行動に移り、宵闇のなかにくろぐろと光る砲門がいっせいにひらき、雷鳴のようにとどろきわたるにちがいなかった。
かくて、夜空に監視の眼を光らせている千にもあまる人々の心は、ぼくの心がそうであったように、火星人のわれわれにたいする理解の程度に疑問をもっていた。地球人が何百という軍隊組織をもち、たえず訓練をつづけ、協同作業が可能であるという事実を把握しているのだろうか? それとも、こうして砲火がひらめき、急激に砲弾が炸裂し、かれらの根拠地にたいして、着々と包囲態勢がとられているのを、巣をつつかれた黄蜂が怒りくるって、いっせいにとび立つのと同程度にしか考えていないのではないか? かれらははたして、われわれ人類を殲滅し得ると考えているのだろうか?(そのころはまだ、かれらが食糧になにを求めているのか、だれも知らなかった)哨戒に立つ火星人の巨大な影を見ているあいだ、ぼくの胸は、このような疑問が幾百となく、かさなりあっておそってきた。そして心の底では、ロンドン方面にかくされているぼう大な未知兵力をたのみにしていた。火星人を陥れる坑でも掘ったらどうか? ハウンズロウの火薬庫をかれらを破滅させる罠に仕立てたらどうか? しかし、はたしてロンドン市民が、ナポレオンの侵攻にそなえたモスクワのように、かれらの家屋を焦土戦術の犠牲に供するだけの度量と勇気をもっているだろうか?
ぼくたちは、生垣のかげに身をひそめ、かれらのようすをのぞき見ながら、永劫《えいごう》とも思われる時間をすごしていたが、突如、はるか遠くに砲声のとどろきを聞いた。つづいて、近くで一発。さらにまた一発。すると、ぼくたちの近くに立っていた火星人も、チューブを高くかかげて、大砲のように放射させた。すさまじい音とともに、大地がもりあがったかと思われた。スティンズ方面にそなえていた火星人も、同様の行動をとった。閃光もなく、煙も立たず、ただ、おもおもしい爆音だけがとどろいた。
それがきっかけで、分時砲《ミニット・ガン》がいっせいに砲門をひらいた。ぼくはすっかり興奮させられて、身の危険も火傷を負った手の痛みも忘れて、生垣の上によじのぼると、サンベリーの方向を見やった。ちょうどそのとき、第二の砲声が耳を打って、大きな砲弾が頭上に唸った。ハウンズロウのほうへとんでいったのだ。ぼくはその効果を予期した。すくなくとも、煙の火が見えるものと思ったが、目にうつったものといっては、頭上にひろがる暗青色の空に、ぽつんとひとつまたたいている星と、地上を低く、どこまでもひろがっている白い霧だけだった。炸裂する火の光も見えなければ、爆発音も聞こえなかった。またも沈黙にかえって、それがいつまでもつづいた。
「どうなったんでしょう?」牧師補がぼくのわきに立っていった。
「わかりませんよ!」とぼくはこたえた。
コウモリが、音を立ててとび去った。遠くで、さけびあう声が聞こえたが、すぐにやんだ。もう一度、火星人を見ると、河岸にそって、東のほうへ移動していた。例によって、回転運動に似たすばやい動きだった。
ぼくはそのあいだも、隠蔽された砲兵陣地から、砲弾がおそいかかるものと期待していたが、静まりかえった宵闇はやぶられるけはいもなかった。そのうちに火星人の影は、しだいに小さく遠去かっていった。霧がいよいよひろがり、濃くなってきた夜の色が、まったくその姿を呑みこんだ。ぼくたち二人はおなじ衝動から、さらに高い位置までよじのぼった。するととつぜん、サンベリーの方向に、黒い大きな影があらわれた。円錐形の丘のような格好で、そのさきの土地を、ぼくたちの視野からかくしてしまった。そしてまた、河のむこうのもっと遠いところ、ウォルトンのむこうに、おなじような盛りあがりが、もうひとつ見受けられた。それは見ているうちに、しだいに高さを減じ、そのかわり、ひろがりを増していった。
急に思いついて、北の方向へ眼をやると、そこにもやはり、おなじような第三の影、雲に似た黒い丘がもりあがっていた。あらゆるものが静寂の底に沈んでいる。そのしずけさをやぶるように、はるか東南にあたって、火星人たちが咆哮しあっているのが聞こえる。かれらの火器は、ときどきにぶい砲音を立てるが、地上の砲列は沈黙をまもって、こたえようともしなかった。
そのときのぼくたちには理解できなかったが、あとになって、夕闇のなかにあらわれたこれら不吉な丘の意味を知った。それぞれの火星人が、さきに述べた三日月なりの線上に立って、携帯しているチューブ状の火器を使用していたのだ。丘、木立、村落とその種類を問わず、およそかれらの前面に砲兵陣地が遮蔽としているものを見ると、それを目標に、猛烈な放射を浴びせるのだった。あるものは一発、あるものは――たまたまこれは、ぼくたちのまえにいたやつだが――二発。そして、リプリーにいたやつは、つづけざまに五発以上を射ったといわれている。これは地上に落下しても、われわれの砲弾のように破裂しない。そのかわり、重いインクのような蒸気がものすごい量で湧きあがって、渦巻きながら舞いあがる。こうしてできあがった黒檀色の巨大な積雲が、ぼくたちの目にうつった丘の正体だが、このガス状の丘はふたたびそこに沈んで、ゆっくりと地上に拡がっていく。ひとたびこの蒸気に触れ、その刺激性の鬼火を吸いこんだが最後、息するものはすべて死に見舞われるのだ。
その蒸気は、どのような種類の煙にもまして濃密で、最初、はげしい衝撃をあたえたあとは、空中に低く沈んで、ガス体というよりは液体に近い状態で、地上をながれていく。丘を捨て、谷間にながれこみ、溝や水路にはいりこむ。そのさまは話に聞く、火山爆発にあたって、その亀裂から炭酸ガスが噴出するのにそっくりだった。それが水流に触れると、なにかの化学作用をおこすとみえて、水の表面は粉末状の浮きかすにおおわれる。このかすは徐々に沈下するが、すぐにまた、新しいのが生じてくる。まったく不可溶性の物質で、奇妙なことに、ガス体は即座にその効果を発生するが、この物質に汚染した水をのんでも、生命に別状はない。蒸気は通常のガス体のように消散しない。岸辺に重く垂れさがって、地形の傾斜のままにのろのろと移動する。風が吹けば、それにつれてうごきはするが、やがてゆっくり霧と湿気にまじりあい、塵埃のかたちで、地上に沈んでしまう。スペクトラムの青色の部分に、四つの線をしめす未知の元素がふくまれていることをのぞいて、いまだにこの物質の性質はわかっていない。一度は渦を巻いて舞いあがるが、あとは黒い雲になって大地に沈んでしまうので、その沈下の以前にあっても、高い建物の屋根や階上、あるいは大木の梢など、地上から五十フィートはなれた場所に避ければ、その猛毒をまぬがれることができる。それはその夜、ストリート・コバムやディットンの村々で証明されたことだ。
ストリート・コバムであやうく一命をひろった男が、それが渦巻いてながれる異様な光景を語っている。彼は教会の尖塔に逃がれて、そこからながめていたのだが、インクをながしたような虚無のなかから、幽霊さながらに村の家々が浮かんでいた。彼は尖塔の上に、疲れ、飢え、そして陽に照りつけられて、一日半のあいだすがりついていたのだ。青く澄んだ空の下、遠い丘が黒ビロードのようなひろがりを見せ、赤い屋根、緑の木々、そして日が暮れると、黒いヴェールをかぶる潅木の茂み、木戸、納屋、塀といったものが、そこかしこ、太陽の光にかがやいているところで……
しかし、それはストリート・コバムでの話で、黒い蒸気がいつまでも大地に沈んでのこっていたのは、この村だけの話だった。原則として火星人たちは、それが目的を達しおわったと見ると、そのなかにはいりこんで、通常の蒸気を噴射させ、毒ガス体を吹き払ってしまうのだった。
これをかれらは、ぼくたちの近くでもやってみせた。ぼくたちはアッパー・ハリフォードの村までもどって、人影ひとつ見えぬ通りで一軒の家にもぐりこみ、その窓からながめていたのだが、星あかりの下で、かれらの作業が見てとれた。サーチライトが、リッチモンド・ヒルやキングストン・ヒルの丘陵を照らしだしていたが、十一時ごろ、窓枠ががたがたと鳴って、配置された攻城砲の音がとどろきだした。それは十五分間にわたって、断続的につづいた。万が一の幸運をねらって、ハンプトンとディットン間にいる火星人を砲撃しているのだった。そしてやがて、電気の光に似た青白いきらめきが消え、ぎらぎらと燃えあがる焔の色と変った。
そのときだった。第四のシリンダーが落下した。緑色の光輝を放つ流星! あとで知ったが、それはブッシー・パークに落ちた。リッチモンドからキングストンへつらなる丘陵に敷かれた砲陣が火を噴く以前に、ずっと遠く南西にあたって、発作的な射撃の音がした。おそらく、黒い蒸気におそわれるにさき立って、砲手たちがめくら射ちを試みたのであろう。
黄蜂を巣からいぶり出すときのように、火星人は蒸気を用いるこの異常な攻撃を、秩序だった方法でロンドン方向へ行った。三日月なりの攻撃線はしだいに拡大されて、いまやついに、ハンウエル、クーム、モルデンをつなぐ距離にのびた。夜を徹して、かれらの破壊的なチューブ火器は行進をつづけた。セント・ジョージ・ヒルの戦闘でそのひとつが撃ち倒されたほかは、さしもの砲兵隊にたいしても、チャンスらしいチャンスをあたえなかった。およそ、砲兵陣地がかくされていると思われる個所には、ぬけめなく黒い蒸気の攻撃を浴びせ、はっきりと砲門がのぞいているところへは、直接、熱線を放射するのだった。
十二時になるまでには、リッチモンド・パークの斜面にそって燃えあがる木立と、キングストン・ヒルにかがやく焔の色とが、黒煙の幕に光を投げかけ、ついにはテムズ河の峡谷を、目のとどくかぎりおし包んでしまった。そのあいだに、ふたつの先鋒火星人が、ゆっくりと足を踏み入れて、行進をつづけながらも、ヒューヒューと鋭く音を立てる蒸気発射器で、ねらい射ちをくりかえしている。
その夜かれらは、熱線の行使をさしひかえた。使用資材の補給にくるしんでいるのか、それとも、彼らのねらいは、もっぱら地球人の軍隊を畏怖させ、その反抗動作を諦《あきら》めさせるところにあったのか。かりに後者とみるのが正しいとすれば、その目的は成功したといえよう。日曜日の夜が、火星人の行動にたいする組織的な抵抗の最後だった。その後は人類のうちひとりとして、かれらと争う気をおこすものはいなかった。やってみたところで、成功の見込みはない。速射砲を積んでテムズ河をのぼってきた水雷艇と駆逐艦の乗組員も、ここにとどまることを承知せず、命令にそむいて、ひっかえしていった。その夜以後に行われた唯一の攻撃動作は、地雷と陥し穴を用意したことだけで、その作業にあたった兵士たちのエネルギーも、狂気と発作のあいだにあらわれたというにすぎなかった。
夕闇のなかに、緊張して待機していたイーシャー方面の部隊が、どのような運命をたどることになったか、読者諸君も当然想像できるであろう。かれらのうち、一人として生存する者はなかった。準備態勢が秩序立ってととのえられていたことはいうまでもない。将校たちは油断なく目を光らせ、砲手は用意おこたりなく、弾薬は手許に山と積まれ、前車の砲手は馬と弾薬庫を間ぢかにおき、一般民衆も見物のため、ゆるされるかぎりそば近く立っていた。しずかな夕暮れだった。そのあたりには、ウェイブリッジから運ばれてきた傷病者を収容する野戦病院のテントが立ちならんでいる。そこへ、火星人がはなった弾丸がにぶい反響とともに、木々や家々の上を越えて飛来した。それは、近くの畑に落下して、散った。
そしてまた、つぎの場面も、だれの目にも浮かぶところであろう。注意をとつぜん奪われて、そちらへ目をやったせつな、急速に黒煙の渦がひろがって、まっすぐ空へむけて湧きあがっていく。夕暮れはたちまち真の闇と化し、奇怪兇悪な敵が負傷者を踏み砕いてすすんでくる。近くの人馬が逃げまどい、さけびあい、頭から地に倒れ、絶望の悲鳴をあげる。息のつまった兵士は武器を捨てて、地上をころげまわる。その惨状を、灰色の煙の円錐体が急速におしつつんでいくのだった。殺戮の夜――もぐりこむこともできぬ濃密なガス体のかたまりが、重く、黒く、垂れ沈んで、しずかに死者の群れをおしかくしてしまった。
夜があけるまえに、黒いガス体はリッチモンドの街なみを通じてながれ去った。崩壊に瀕している政府機関は、最後の努力をふりしぼって、ロンドン市民にむかって、避難の必要を勧告するのだった。
十六 ロンドン脱出
月曜日の夜があけはなれると同時に、世界最大の都市であるロンドンに恐怖の波がおそいかかったことは、だれしも想像にかたくないことであろう。避難者のながれはみるみるうちに急流と化し、鉄道駅の周囲に泡立ちさわぎ、テムズ河の船着き場に、すさまじいいきおいで荒れくるい、利用できるかぎりのルートをつかって、北へ、東へといそぐのだった。
十時には警察組織が、十二時には鉄道機関までが、完全にその秩序を喪失し、形態と機能を壊滅させ、亀裂を生じ、弛緩し、崩壊し、ついには急速な社会組織の解体に巻きこまれてしまったのだ。
テムズ河の北沿いに走る諸線と、キャノン・ストリートを起点とするサウス・イースタン鉄道沿線の人々は、すでに日曜日の夜に警告を受けていたので、列車はこれらの避難民でいっぱいだった。六時には、立錐《りっすい》の余地もないまでにつめこまれた客車に、さらに割りこもうとする必死の争いが見られた。三時に、リヴァプール・ストリート駅から二百ヤードほどはなれたビショプスゲイト・ストリートで、踏み殺される人が出たくらいである。拳銃が発射され、ナイフによる殺傷事故がおこり、交通整理に出動した警官が疲労のあまり激昂して、保護のために派遣されたのも忘れ、民衆の頭を打ち割る騒ぎまで演じた。
陽が高くのぼるにつれて、機関手や火夫たちがロンドンへもどるのを拒んだので、列車の運行は停止した。避難民の群れは駅にあふれ、いよいよ増えてくる大衆を、北へむかう街筋へおしもどした。正午には、火星人のひとつが、バーンズ付近に姿を見せた。ゆっくりと沈みゆく黒いガス体の雲が、テムズ河にそって流れてきた。それはランベスの別荘地帯を横切り、ナメクジのような緩慢な進行のうちに、すべての橋梁をつつんで、その方面への退路を遮断した。いまひとつの黒煙の雲は、イーリングの地域におしよせて、キャスル・ヒルの生存者を、小さな島にとりのこされた人々のように、孤立無援の状態に陥れた。
チョーク・ファーム駅では、ノース・ウェスタン鉄道の列車にのりこもうとする人々が、むなしい努力をつづけていた。けっきょく、貨物線で乗客を満載した機関車が、泣きわめく人々をかきわけるように発車した。機関手までが群衆におしやられて、罐《かま》につっこまれそうになるのを、屈強な体格の男たちの十名あまりが、必死に防戦しなければならぬ有様だった。ぼくの弟は、乗物の渦をどうにか切りぬけて、チョーク・ファーム道路まで脱出してきたが、そこで運よく、自転車店を掠奪する群れにくわわることができた。彼がショーウインドーから自転車をひき出すとき、前の車輪のタイヤがパンクしたが、かまわずそれで逃げだした。手首に怪我をしたが、それもまたかまっている場合でなく、その程度の負傷ですんだのがむしろ仕合わせだった。ハヴァストック・ヒルのふもとの急坂は、馬が数頭倒れているので通ることができなかったが、それでもどうにか、ベルサイズ・ロードへのがれ出た。
弟はやっと、恐慌のあらしの外へ出ることができた。あとはエッジウェア街道に途をとって、飢えと疲労にくるしみながら、七時ごろ、エッジウェアに到着した。まだいまのところ、避難民の群れの先頭に立っていた。沿道の人々は、なにごとがおきたのかと怪しみながら、道ばたに立って見物していた。そのあたりで、何人かの自転車にのった連中と騎馬の男たち、二台の自動車が弟を追いぬいていった。エッジウェアから一マイルほど行ったところで、車輪のリムが破損したので、自転車を道ばたに捨てて、あとは徒歩で村を通りぬけた。そこは本通りだったが、店は表戸をなかばとざして、道路、戸口、窓のなかと、見物人が黒山になっていた。だれもがおどろきの表情をうかべて、陸続とつづく避難者の行列をながめているのである。弟はそこの宿屋で、いくらかの食糧にありつくことができた。
このさき、どのような行動をとったものか、決心のつかぬままに、彼はしばらく、エッジウェアにとどまっていた。避難民の流れは、刻々と増大していった。その大半は弟とおなじに、そこにとどまりたい気持だった。ここでは、火星からの侵攻者の新しいニュースは聞かれなかった。
街道は人々の群れがあふれていたが、身動きできぬというほどではなかった。そのころの避難者は、ほとんどが自転車で逃げてきた連中だったが、そのうちに、自動車、二人乗り馬車、箱馬車といった種類が疾走してきて、砂けむりが重い雲となり、セント・オールバンズへむかう道路一帯をおおった。
チェルムスフォードへ行ってみようと、ばく然と思いたったのは、そこに友人が何人か住んでいたからであろう。そしてけっきょく、弟は東の方角でむかうしずかな道を歩きだした。柵を越して牧場を横切り、さらに小径を北東にむかった。農家が数軒かたまっているところをすぎたが、村の名はわからなかった。途中、避難者の群れは見かけなかったが、ハイ・バーネットに通じる草ぶかい小径にかかって、ふたりの婦人と出っくわした。あとは連れ立って旅をつづけることになるのだが、そこで彼は、この婦人たちの危難を救ったのだ。
弟はそのとき、彼女たちの悲鳴を聞いた。いそいで角をまがってみると、男が二人、彼女たちを小型の二輪馬車からひきずり出そうとしていた。男はもう一人いて、これはおどろいてあばれる小馬の頸をおさえるのに夢中だった。婦人のうちのひとり、白い服を着た小柄なほうは、悲鳴をあげるだけだったが、すらっとした容姿のブルーネットの婦人が、彼女の胸をつかんだ男を、もう一方の手で、鞭打っているのだった。
すばやくその場のようすを見てとった弟は、ひと声、大きくさけぶと、争いのなかへとびこんでいった。男たちの一人が女から手をはなして、弟へむきなおった。弟は相手の顔つきから、一戦まじえぬわけにいかぬと見ると、得意のボクシングの腕前をあらわした。つぎの瞬間、相手は小型馬車の車輪の下にたたきつけられていたのである。
ボクシングのルールにこだわっている場合でないから、足をつかって相手をそこに眠らせると、つぎに、すらっとした容姿の婦人をつかんでいる男の襟首をおさえつけた。小馬が蹄を鳴らした。鞭が唸って、顔にとんできた。三ばんめの男が、弟の目と目のあいだを殴ってきたのだ。弟におさえつけられていた男は、からだをふりもぎると、いまきた径をいっさんに逃げていった。
なかばぐらつく頭で気がつくと、小馬の首をおさえていた男とむきあっていた。馬車は小径を下って、左右にゆれながら、その場を走り去ろうとしている。なかでは、婦人たちがこちらをふりかえっている。弟とむきあっているのは、見るからにたくましいからだつきのならず者だったが、近づいてきたところを、顔に一発くらわせ、足をとめた。相手がひるむのを見て、弟は一転して、小径を走り去る馬車を追った。頑強なならず者も、すぐ背後からせまってくるし、いったん逃げだした男も、またひっかえして、これはかなりはなれているが、やはりあとから追ってくる。
とつぜん、弟はつまずいて倒れた。すぐ背後にせまっていた男も、おなじように倒れた。弟はおきあがると、相手二人がむかいあって立っていた。さすがにいまは対抗できる見込みがなかった。もしそのとき、痩せぎすの婦人が馬車をとめて、大胆にも救援にきてくれなかったら、弟の運命も、どう変ったかわからない。彼女は拳銃を所持していたのだが、運わるく座席の下に入れておいたので、最初暴漢におそわれたときは、とり出すことができなかったのだ。彼女は六ヤードの距離をおいて発射した。弾丸は弟の身を掠めてとんだが、それでたちまち、意気地のないほうのならず者が逃げだした。頑強な男も、仲間の臆病を罵りながら、同様、そのあとを追った。二人とも、三ばんめの男が気を失って倒れている個所で立ちどまった。
「これをおもちなさい!」すらっとした容姿の婦人がいって、弟の手に拳銃をわたした。
「それより、馬車におもどりになったがよい」
弟が、切れた唇の血を拭ってそういうと、婦人はなにもいわずに――弟も婦人も、息をはずませていたのだ――弟と二人して、白い服の婦人が、おどろいてあばれる小馬をしずめようと骨折っているところへもどっていった。
追いはぎどもはおびえあがって、弟がもう一度ふりかえったときは、逃げだしていくところだった。
「よろしかったら、この席につかせていただきます」弟はそういって、あいている前の席についた。婦人はふりかえって、
「手綱をわたしてください」と、いって、鞭を小馬の横腹にあてた。つぎの瞬間、馬車は小径を走りだして、そのカーブが三人の暴漢を、弟の視野からかくしてしまった。
かくて思いがけずも、弟はふたりの婦人と、見知らぬ道に馬車を駆ることになった。口のすみを切り、あごに傷を負い、拳を血で汚し、大きく息をつきながら……
そのうちに、このふたりの婦人がスタンモアにすむ外科医の妻と妹であることを知った。医師はその日の未明、ピナーに急病人を見舞った帰途、どこかの鉄道駅で火星人の襲来を聞いた。いそいで家へもどると、婦人たちを起こした。女中は二日まえに暇をとったばかりだった。食糧の支度をさせ、拳銃を馬車の座席の下に入れ――これがさいわいにも、弟を救けることになったのだが――エッジウェアへ行って、汽車にのる手配をしておけといいつけた。彼はなおあとに残って、近所の人たちにこのニュースを知らせるつもりだった。朝の四時半には追いつくことができるといったが、九時近くなるのに、いまだに姿を見せない。エッジウェアでは、しだいに乗物の数が増してくるので、馬車をとめておくことができなくなった。そこでふたりは、このわき道にはいっていたのだった。
それが婦人たちの、とぎれとぎれに語った話だった。話が終りに近づいたころ、馬車はニュー・バーネット近くに達していた。弟は、ふたりの婦人がこのさきの方針をきめるか、医師が姿を見せるまで、いっしょにいることを約束した。そして、彼女たちに安心感をいだかせるため、拳銃の使用法もろくろく知らぬくせに、射撃の名手だといっておいた。
かれらはそこの道ばたで、一種のキャンプをはった。小馬は生垣の若葉にありついて満足していた。弟は婦人たちにロンドンから逃れてきたもようと、火星人とその動きについて、知っているかぎりのことを話して聞かせた。太陽はいつか、高く空にのぼっていた。話がとぎれると、将来への不安が、またしてもかれらの胸をついばんだ。この小径を通る人たちの数も増したので、その連中から、できるかぎりニュースをあつめてみた。そして、そのきれぎれな返事で、人類をおそった大きな災厄の印象をふかめ、即刻避難しなければならぬという確信をつよめた。弟はその必要性を、熱心に説いた。
「わたくしたち、お金はもってきております」
痩せぎすの婦人はいって、ややためらっていたが、弟の眼と視線をあわせると、そのためらいも、すぐに消えた。
「ぼくももっています」弟もいった。
彼女は説明して、ふたりの金をあわせると、金貨で三十ポンドになり、それに五ポンドの紙幣が一枚あるから、それを旅費に、セント・オールバンズかニュー・バーネットで列車にのりこむことができるというのだった。しかし、弟はロンドンで、汽車にのりこむための群衆の狂乱ぶりを見ているので、それは望みうすと考えた。そこで、エセックスをハリッジまで横切り、そこからイギリスを脱出する彼自身の案をもち出した。
ミセス・エルフィンストーンは――それが白服の婦人の名前だった――なんと説かれても耳を貸そうとしないで、ジョージという夫の名を呼びつづけた。しかし、おどろくほど冷静で思慮ぶかい医師の妹が、弟の意見に同意をしめした。そこで三人はグレイト・ノース街道を、バーネットさしてすすむことにきめて、小馬をできるだけ疲れさせないため、弟が馭者の役を買って出た。
日が高くなるにつれて、暑さがことのほかはげしくなった。足の下では、白い砂がぎらぎらひかって、焼けつくように感じられる。そうした事情で、行程はいっこうにはかどらない。道をはさむ生垣は、ほこりで白く汚れていた。バーネットに近づくにつれて、がやがやいうざわめきが高まってくるのだった。
道を行く人々も、しだいに数を増してきた。そのほとんどが、ぼんやり前方をみつめ、意味のない質問をかわしあい、疲れにやつれた顔をほこりに汚していた。タキシード姿の男が、大地をみつめたまま、徒歩であるいていくのを追いぬいた。その男がさけび声をあげたので、ふりかえってみると、片手で髪の毛をわしづかみにして、もう一方の手で、目に見えぬものを殴りつけている。それでも、怒りの発作がすぎると、一度もあとをふりかえらずに歩みつづけていた。
弟たちの一行が、バーネットの南にあたる十字路にさしかかったとき、左手に見える畑を横切って、道路に出てくる女がいた。幼児をひとり抱いて、あと二人、やや大きな子供をつれている。つぎにまた、うすよごれた黒服をまとい、ふといステッキを片手に、べつの手には小さなカバンをもった男を見かけた。道のかどをまがると、街道とぶつかるところに立ちならんでいる別荘のあいだから、小型の馬車が走り出てきた。馭しているのは、ほこりで灰色に変った山高帽をかぶった青白い顔の若者だが、馬車のなかには、イースト・エンドの女工らしい女が三人と、小さな子供ふたりがつめこまれていた。
「この道をいったら、エッジウェアへ出れるかい?」馬車を馭している顔いろのわるい若者が血走った眼できいた。弟は、そこの道を左へ切れていけばよいと教えてやった。すると相手は礼ひとついわず、そのまま馬に鞭をくれた。そのあと、弟は前方へ眼をやって、家と家のあいだから、もやといったほうが適切なうすい煙が青白く立ちのぼるのを見た。それはすでに、別荘地帯の裏手からのびている道を越えたあたりの建物の、白く塗ったテラスの正面をおおっていた。そして前方の家々の屋根からは、蛇の舌のような焔が青空へ舞いあがっている。それを見て、ミセス・エルフィンストーンが悲鳴をあげた。意味もなくわめきあう声、数知れぬ馬車の車輪のきしみ、車体の揺れ、あれくるう馬のひずめの音、すべてが入りまじって、耳にうるさい騒音に高まっている。道は十字路から五十ヤードと行かぬところで、するどくカーブしていた。
「たいへんだわ、どうなさるの?」ミセス・エルフィンストーンがさけんだ。「このまま走ったら、あの騒ぎのなかにとびこんでしまうのじゃなくて?」
ぼくの弟は、手綱をひきしめた。
この表通りは、人々の流れの渦で沸きたっていた。はげしい人の波が押しあいへしあいしながら、北へむかってすすんでいく。ほこりの雲が太陽の光にぎらぎらかがやいて、地上二十フィート以内のすべてのものを灰色につつんでいる。そしてそれが、あとからおしよせる人馬の群れと、あらゆる種類の乗物の車輪によって、いよいよ濃くなるばかりだった。
「どけ、どけ!」弟の背後で、口々にさけびたてる。「そこをどくんだ!」
この横道から街道へ出ることは、火災の煙のなかへ乗り入れるようなものだ。群衆は火事場と同様にさけびたて、ほこりは熱して、肌に痛いくらいだ。そして、事実、街道をすこしすすんだところでは、別荘が一軒燃えていて、まっ黒な煙の渦が道路を横切ってながれてくる。それが混乱をいっそうかき立てているのである。
二人の男が、かれらの馬車を追いぬいていった。それから、ほこりまみれの女が一人、大きな荷物を背負って、泣きながら歩いていった。主を失った猟犬が、大きな舌をだらりと垂れて、おどおどしながら、疑わしそうにかれらのまわりにまつわりついている。弟がおどすと、いそいで逃げていった。
右手の家と家とのあいだから、ロンドンへむかう街道をのぞくことができるが、そこは、ほこりにまみれていそぐ人々の流れが、両がわに立ちならぶ別荘にくいとめられたかたちで、混乱の極に達していた。ばく然と人のかたまりと見ていたものが、町かどに近づくにつれて、一人一人がはっきりしてきて、それがいそぎ足に遠去かると、ふたたびごたごたした状態に溶けこんで、最後はほこりの雲に呑まれてしまう。
「走れ! 走らないか!」うしろで大勢さわいでいる。
「道をあけるんだ!」
だれもが手で、まえの男の背を押している。弟は小馬の頸のわきに立っていたが、おのずとみなの気持にひき入れられて、徐々にではあるが道をすすんだ。
エッジウェアは混乱の巷であり、チョーク・ファームは騒然たる渦であったが、ここではすべての住民が、そろって避難に移っているのだった。うごきだした人数のおびただしさは、想像をはるかに越えたもので、しかも各人の個性は失われ、押しながされていくかたまりにすぎなかった。それはそこの町かどを通りすぎると、横道に立っている人々に背を見せて、そのまま遠去かっていく。道路のへりでは、車の列におびやかされた徒歩の人たちが、溝に落ちたり、たがいにぶつかりあったりしながらやってくる。
馬車の群れが、ぎっしりつまってつづいているので、スピードの出る四輪馬車のたぐいも、追いぬいていくわけにいかなかった。じりじりしているこれらの車は、ときどきわずかの切れ目が生じると、間髪を入れずとび出していく。そのたびに、道ばたを通る徒歩の連中は、垣根にぶつかるか、別荘の門内に逃げこまねばならなかった。
「いそげ!」人の流れがわめいている。「はやくしないと、やつらがやってくるぞ!」
二輪馬車のひとつに、救世軍の制服を着ためくらの男がつっ立って、まげた指を大きくふりながら、神よ! 神よ! とわめいている。しゃがれてはいるが、おそろしく大きな声で、その姿がほこりのうちに消えても、なお弟の耳にとどいていた。およそ、馬車につめこまれている人々は、むやみやたらに鞭を馬にあて、ほかの馭者たちと口げんかをしているか、じっと坐りこんだまま、力ない目をぼんやりみひらいているか、喉のかわきをまぎらすために指を咬んでいるか、あるいはまた、車の床に俯伏せに伏しているかのいずれかだった。馬の|はみ《ヽヽ》は泡でおおわれ、その目は赤く血走っていた。
荷馬車、箱馬車、行商馬車、大型馬車、これらは数えきれるものでなかった。郵便馬車と、【セント・パンクラス町教区委員会】としるした道路掃除夫用の馬車とが一台ずつ。材木運送用の大型馬車には、屈強の労働者たちがのりこんでいるし、醸造者用の四輪馬車は、左がわの車輪をふたつ、まだなまなましい血汐に濡らしたままだ。
「道をあけろ!」各自が口々にさけんでいる。「そこをどくんだ!」
「かーみーよ! かーみーよ!」道のはるかむこうから、さっきの男の声が反響してくる。
やつれきって、悲しげな顔つきをした女たちがやってくる。身なりはよいのだが、泣きわめき、つまずきがちの子供たちの手をひいているので、その美しい服装はほこりにまみれ、彼女たちの顔も涙によごれていた。そのほとんどに、男がつき添っていて、これが、いたわってやっているものばかりでなく、なかにはむごいあつかいをしているのもすくなくない。これらの人々をおしのけるようにして、黒いぼろを着た、がらのわるい街の浮浪者どもが、目をぎょろつかせ、大声で罵りながら通っていく。たくましい労働者たちは、こうした人混みをかきわけて、自分たちだけ、さっさと行ってしまう。乱れた髪で、情けない格好をしているが、もとはといえば事務員か店員らしい男たちが、発作的にかれらと争っている。そのほか、負傷した兵士、駅の赤帽らしいなりをした男たち、寝間着の上にオーバーをひっかけただけの哀れな姿の男などと、いろいろな人物が弟の目にとまった。
このように群衆の流れは、ありとあらゆる種類の人々で構成されていたが、その大人数のうちに共通なところがいくつかあった。顔に恐怖と痛苦を浮かべ、背後には恐怖があった。道路の上に騒ぎがおこり、馬車にのりこむものが出てきて争いが生じると、流れ全体の動きがはやくなる。恐怖と疲労に打ちのめされ、足もうごかなくなった男でさえ、一瞬のうちに、電気でもかけられたように、新しい気力でうごきだすのだ。暑熱とほこりが、この人海を完全な支配下においていた。皮膚はかわき、唇は色を変え、ひび割れさえ生じている。だれもが喉のかわきを訴え、つかれ、足を痛めていた。さまざまな叫びのあいだに、口論、非難、疲労、困ぱいのうめき声がまざって聞こえる。それも大半は、しわがれて弱々しく、それを通して、おなじ叫びがくりかえされる。
「いそげ! いそぐんだ! 火星人がやってくるぞ!」
足をとめたり、人の流れから外へ出ようとするものはほとんどいない。弟たちが出てきた道は、ななめに本街道へ近づいて、せまい三叉路でいっしょになっているが、ちょっと見ただけでは、これもロンドンからつづいている道のように思われる。そして、合流点では人の流れが渦になって、弱い連中は流れからおし出される。おし出された拍子に、ほんのすこし足をやすめるが、またも、必死になって流れのなかにつっこんでいく。このわき道をすこし行ったところで、脚をむき出しにして、血だらけのぼろ服にくるまった男が、ふたりの友人から介抱を受けていた。友人がいただけ、運がよかったというべきであろう。
白髪まじりの口ひげを、軍人風にピンとはね、うすよごれた黒のフロック・コートを着こんだ小柄の老人が、びっこをひきひき、流れの外へ出て、とまっている二輪馬車のわきに腰をおろした。深靴をぬいだのを見ると、一方の靴下に血がにじんでいた。それは靴のなかにはいった小石をふるい出すためで、それがすむと、老人はまたも、びっこの足で歩きだすのだった。
そうかと思うと、八つか九つの少女が、ひとりきりで歩いていた。と見ていると、ぼくの弟がやすんでいるそばの生垣に、からだごと投げ出して、しくしく泣きだした。
「あたい、もう歩けない! 歩くことができないわ!」
人の流れのすさまじさに、おどろきのあまり、ぼう然としていた弟は、いそいで少女を抱きあげ、やさしく声をかけ、ミス・エルフィンストーンのところへつれていった。少女は抱きあげられると、おびえたように黙ってしまった。
「エレン!」群衆のなかから、涙声で、女がさけんだ。
「エレン!」
すると少女は、急にぼくの弟をつきはなして、「ママ!」と、泣きさけんだ。
馬にのって、このわき道を通りすぎた男がいった。「やつらがやってくるぞ」
本街道から箱馬車がとびこんできて、馭者台で男が立ちあがって吼えたてた。「どけ、どくんだ!」
避けようとした人たちが、折りかさなって倒れた。弟は自分の馬車を、生垣のなかへおしこんだ。箱馬車の男は、道のまがりかどで、馬車をとめた。その四輪馬車は、二頭曳きの構造だったが、馬は一頭しかいなかった。弟がほこりをすかしてながめていると、男が二人で、白い担架にのせてなにかを運び出し、イボタノキの生垣の下の草の上に、そっとおろした。
男たちのひとりが、弟のところへ駆けてきて、
「どこかに水がありませんか?」と、きいた。「死にかけている男がいるんです。ひどく、喉のかわきを訴えます。ガリック卿ですが――」
弟は思わずいった。「ガリック卿ですって?――司法長官の?」
「水は?」相手はくりかえした。
「どこかそのへんの家に、水道栓があるかもしれませんが」弟はこたえた。「われわれは水筒をもっていません。それにぼくは婦人づれなので、さがしに行ってあげることもできないのです」
男は人混みをおしわけて、かどの家の門へといそいだ。
「とまるんじゃない!」人々はその男をつきとばすようにしてさけんだ。「やつらがやってくるぞ! いそぐんだ!」
そのとき、弟の注意は、タカのように鋭い顔つきのあごひげをのばした男が、小型の手提げカバンをぶらさげてやってくるのにひきつけられた。そのカバンが、弟の見ているまえで、すみのほうの裂けめから、ソヴリン金貨を、おびただしく吐きだした。地に落ちると同時にばらばらになり、そのいくつかは、おしあいへしあいしている人馬の足もとにころがった。カバンの所有者は足をとめたまま、ばかのように、金貨の山をみつめていた。そうしている男の肩さきに、つづいて走ってきた馬車の|ながえ《ヽヽヽ》がぶつかって、そこによろめかせた。男は悲鳴をあげ、身を避けたからよかったものの、あやうく轢き倒されるところだった。
「歩け!」男のまわりの人々が、口々にさけんだ。「立ちどまるんじゃないぞ。そこをどけ!」
馬車が走りすぎると、男はそこに坐りこんだ。両手をひろげ、金貨の山をすくいあげると、ポケットへねじこみだした。そばまできていた馬が、その瞬間、前足をあげてとまった。しかし、男はすでに、馬の蹄の下になっていた。
「とまれ!」弟はさけんで、そばの女をつきのけ、馬のくつわをおさえようとした。
しかし、弟が馬に近よる以前に、車輪の下から悲鳴があがった。砂ぼこりをとおして、わだちが哀れな男の背を踏みくだいていくのが見えた。馬車を馭している男は、鞭をふるって、弟を殴りにかかった。弟は馬車のうしろへまわった。その耳に、悲鳴と怒号がまざりあって聞こえた。馬車に轢かれた男は、ほこりにまみれ、散乱した金貨のなかに身もだえしている。立ちあがろうにも、からだをおこすことができない。わだちが背骨を砕いてしまったらしい。脚をぴくぴくうごかしていたが、やがてそれも、うごかなくなった。しかし、弟はつっ立って、うしろからくる馬上の男に声をかけると、黒い馬にのって荷馬車を駆っていたその男が、手を貸すために、馬からとび降りた。
「この男を、道路からどけてやりたい」弟はそういって、あいているほうの手で男の衿首をつかむと、道のはたへひきずっていった。しかし、彼はそれでも、片手では地上の金貨を掻きあつめようとあせり、片手では金貨をにぎったまま、弟の腕をもぎはなそうとはたき、すさまじい形相でにらみつけた。「とまるんじゃない。すすむんだ!」背後の群衆が、口々にさけぶ。「じゃまだぞ! どけ、どけ!」
すると、大きな音がして、あとからきた四輪馬車が、馬上の男がとめておいた荷馬車にぶつかった。弟がおどろいて顔をあげたとたん、金貨をつかんでいる男は、首をまげて、衿もとをつかんでいる弟の手に咬みついた。衝突ははげしいものだった。黒い馬はよろめいて、道ばたへよっていったが、それを荷馬車の馬が、さらに押した。弟の足は、わずかなところで、馬のひずめにかかるのをまぬがれた。思わず、倒れた男をつかんでいた手をはなして、とびのいた。地上の男は、その顔の表情を、怒りから恐怖に変えた。だが、つぎの瞬間、その男の姿も馬車の流れにかくされた。弟は後方におしやられ、わき道の入口のさきへ運ばれていった。
そのあと弟は流れにさからって、もとの場所へもどるために、必死に闘わねばならなかった。
見ると、ミス・エルフィンストーンは目をおおって、惨状を見ないようにつとめていた。それに反して、子供のほうは――小さい子供には、同情という感情がないものか――大きな目をみはって、つぎつぎとはしってくる車輪におしつぶされて、地上に黒く横たわっている男をみつめていた。
「ひっかえしましょう!」弟は声をあげて、小馬の首をまわしかけた。「とてもここは、横切れませんよ」そして弟たちは、いまきた道を百ヤードほどひっかえした。そこまでくると、群衆のもみあいも見えなかった。カーブをまがりながら、弟はイボタノキの垣根の下、溝のなかで死んでいく男の顔を見た。まっ青な顔がひきつって、汗に光っていた。
ふたりの女性は口もきかずに、馬車の座席にうずくまったまま、ふるえていた。
カーブをすぎたところで、弟はまた、馬車をとめた。ミス・エルフィンストーンは顔青ざめ、兄嫁ははげしく泣いている。ジョージ! と夫の名を呼ぶ元気さえなくなったようだ。弟は心配にもなってきたし、このさきどうしたものか、当惑しないわけにいかなかった。一度はひっかえしたものの、考えればやはり、なんとか努力して、さっきの道を横切る以外に方法がない。それも、一瞬の猶予をゆるさぬ状態だ。
彼はミス・エルフィンストーンをふりむいて、はっきりした意志を表明した。
「やはり、あの道を行く必要があります」弟はそういって、またも、小馬のむきを変えた。
それは、その日二度目のことだったが、彼女はここで、男まさりの性格をあらわした。流れに割りこんでいくには、よほどの無理を覚悟しなければならない。弟が車馬の群れにとびこんで、一台の馬車をおさえているあいだに、彼女はそこへ、自分たちの小馬をつっこませた。大型馬車はあわてて車輪をとめたが、弟たちの軽馬車から、長い板が裂けてとんだ。が、そのつぎの瞬間、ついにかれらの馬車は、流れに乗り入ることに成功していた。弟はその顔や手に、相手の馭者から鞭でたたかれた痕をのこしたが、すぐに馭者台にとびのり、ミス・エルフィンストーンの手から手綱を受けとった。
弟は彼女に、拳銃をわたしていった。「これを、うしろの男につきつけていてください。割りこむのを邪魔するようでしたら――いや! ねらうのは、馬のほうです」
それから弟は、流れを横切って、道路の右がわに出るチャンスをうかがった。しかし、一度、流れにのってしまうと、ほこりまみれの群衆の一部と化したようなもので、われながら、意志を失ったかと思われた。そして、流れといっしょにチッピング・バーネットを越え、町の中心を一マイル近くもすぎたところで、やっと道路のむこうがわへ出ることができた。耳をつんざく騒音、名状すべからざる混乱。しかし、この町の内外には岐道がいくつもあって、それである程度、緊張がゆるめられていた。
弟たちの馬車は東にむかって、いつかハドリーもすぎた。それからさきは、道の両がわに小川がながれているので、こんどは人々が、喉のかわきをとめようと、水ぎわに出ることで争いあっていた。さらにすすんで、イースト・バーネットに近づくと、道が丘にのぼり、そこからはグレイト・ノーザン鉄道が見える。二本の列車が、信号も合図もなしに、北をめざしてゆっくり走っているところだった。どの客車もぎっしり人がつまって、機関車のうしろの石炭車までが人の山だった。弟の見たところ、客を満載したその列車は、ロンドンの郊外から発車したにちがいなかった。なぜかというに、そのころのロンドン市内の中央駅は、恐怖心に駆られた群衆が渦巻いて、その混乱のため、使用できる状態ではなかったからである。
そのあたりで、弟とふたりの婦人は、その日ののこりを休息にあてることにした。きょう一日の強行軍のために、三人とも疲労の極に達していた。やがて、落着きをいくらかとりもどすと、猛烈な空腹を感じだした。日が暮れると、空気が冷えてきて、眠ることができなかった。そして、夜が更けても、その道をいそぐ人々の数は、増えこそすれ減退するようすはなかった。だれもが目前にせまりくる正体不明の危険をのがれ、弟たちが休んでいる場所をすぎて、さきへさきへといそいでいく。しかも、おかしな話だが、かれらはみな、弟たちがやってきた方向へとむかっているのだった。
十七 『雷児』
かりに火星人の侵攻の目的が、破壊だけにあったとしたら、かれらは月曜日のうちに、ロンドンの全人口をみな殺しにしてしまったことであろう。しかし、その日ロンドンの全市民は、ゆっくりと首都の背後の田園地帯に拡散していった。バーネットをすぎる道路ばかりでなく、エッジウェアからウォルタム・アベイに通じる街道、東のかたは、サウゼントからシューペリネス、南はテムズ河を越え、ディールやブロードステアーズへかけて、くるったような避難者の群れがあふれていた。
もしもその六月の朝、かがやくばかりの青空に、軽気球で舞いのぼり、迷路のようなロンドンの街筋から、北と東へ走っている道路を見下ろすことができたら、それらすべてが、避難する群衆の流れで、黒一色に染まっているのがながめられたにちがいない。流れを構成するひと粒ひと粒が、人類の恐怖と肉体の苦痛を表現しているのだった。前章で、チッピング・バーネットをすぎる街道の混乱状態を、弟の眼を通じて説明したのも、読者をして、この黒い流れの構成分子の苦しみが、おなじ仲間の分子にどのように感じられたかを知らせたかったからにほかならない。
かつてこの世界の歴史に、これほどの人類の大集団が移動を開始し、ともども苦しみぬいた事実はなかった。伝説にのこっているゴート人〔三世紀から五世紀へかけてローマ帝国へ侵入したチュートン民族〕や匈奴〔四、五世紀ごろヨーロッパをじゅうりんしたアジアの遊牧民〕の大軍、アジアがかつて見せた大軍隊も、このときの群衆の流れにくらべれば、水銀ひと粒ともいうべきものであったろう。しかもそれが、総くずれになった兵のように潰走《かいそう》するのだった――恐怖に駆られた巨大な規模の潰走――秩序を失い、行先きも知らず、六百万人の人々が武器も食糧ももたず、ただ闇くもに走りだしたのだ。それは文明の没落の開始であり、人類の大量虐殺のはじまりだった。
軽気球の喩《たと》えをつづければ、網の目のように入り組んだロンドンの街々、家、教会、広場、三日月形道路、庭園が――それらすべては、すでに無人の境にかわっていた――巨大な地図のようにひろがり、南の方向には、黒煙があがっている。イーリング、リッチモンド、ウインブルドンのあたりも、巨大なペンが、地図の上に、黒いインクをはねとばしたように見える。着々と、すこしの間もおかず、その黒い汚点のひとつひとつが拡大して、いたるところに支脈をのばし、丘が盛りあがったところでは、一度せきとめられるかに見えるが、たちまちその頂きを越えて、新たに見出した谷間に、激湍《げきたん》となってながれていく。それはちょうど、インクが吸取紙ににじんでいくのに似ていた。
そして、河の南に青々ともりあがっている丘陵の上には、きらきらとよろいをかがやかせて、火星人が行動していた。冷静に組織立って、毒ガスの雲を田野の上にひろげ、目的を達したとみると、こんどは蒸気を放射してそれを沈殿させる。その動作によって、征服した地帯を完全な支配下におくのだった。かれらの目的は、人類を滅亡させることになく、完全な武装解除であり、抵抗の排除にあるとおもわれた。火薬を貯蔵している場所に出会うと、それを爆発させる。電信線は切断し、ここかしこで、鉄道網を破壊する。人類を不具にしたが、いそいで行動地帯を拡大することはなく、その一日がすぎても、ロンドンの中心部を越えてまで侵攻しようとしなかった。月曜日の午前がすぎるまで、ロンドン市民の大多数は、家を捨てずにいることができた。ただし、あくまでも家に立てこもって、黒煙のために窒息して死んでいったものもすくなくなかったのは、事実である。
正午ちかく、ロンドン橋の下流にあたって、おどろくべき光景が見られた。避難民が金を惜しまず、蒸気船その他の船を傭ったので、これらあらゆる種類の船が、水域せましとあつまって、それに泳ぎつこうと水へとびこんだ人々は、船へ近づくと、大多数|鉤竿《かぎさお》でつき放され、溺れ死んだといわれている。一時ごろには、黒い蒸気の雲のなごりが、うっすらとブラックフライアーズ橋の橋げたのあたりに匍《は》いだした。それによって、ロンドン橋の下流は、狂気、混乱、争闘、衝突の巷と変って、しばらくのあいだ、多数のボートやはしけが、タワー橋の北がわのアーチのところでひしめきあった。船員やはしけの船頭は、河岸から泳ぎよってくる人々をつきのけるのに、必死の活動をつづけねばならなかった。なかには、上から橋台を伝って降りてくる連中まであったのだ。
その一時間のち、火星人はついに、大時計台のむこうに姿をあらわして、河を徒渉しはじめた。そのころ、ライムハウスより上流は、難破した船の残骸以外、なにひとつ浮かんでいなかった。
五ばんめのシリンダーが落下した点については、いずれくわしく述べなければならぬが、六ばんめのそれは、ウインブルドンに落ちた。弟はそのとき、軽馬車を牧場にのり入れて、婦人たちのそばで観察をつづけていた。そして、はるかさきの丘を越えて、緑色の光がひらめくのを見た。火曜日もこの小人数の一行は、なお海外へわたる希望を捨てずに、むらがる人々をかきわけては、コルチェスターの方向へとすすんだ。火星人が全ロンドンを支配下におさめたというニュースが確認された。かれらの姿がハイゲイトに見られたとも伝えられたし、ニースデンでも見られたという。しかし、弟の眼前にあらわれたのは、その翌日のことだった。
その日は、各地へ散らばった群衆が、それぞれ食糧の必要を痛切に感じはじめていた。空腹をおぼえると同時に、所有権を尊重する気持を捨ててしまった。農夫たちは、家畜小屋、穀物倉、熟した根菜作物などを、盗難からまもるために、武器を手にとった。いまでは多くの人々が、ぼくの弟同様に、東の方向へむかおうとしていた。なかに、食糧の不足から絶望的な気持になり、もう一度、ロンドンへひっかえそうとする連中もいた。これらは主として、ロンドンの北部から逃がれてきた人たちで、黒煙について知識が、伝聞によるにすぎなかったこともある。弟はまた、政府要員の半数ほどがバーミンガムに集結して、高性能の爆薬を厖大な量、準備しつつあるとも聞いた。これによって、中部地方一帯に自動地雷を敷設しようというのだった。
つづいて彼の耳に入ったニュースは、中部鉄道会社が、最初の日の恐慌状態から立ちなおって、平常どおりの運転に復帰したというのである。それはロンドン周辺の混乱状態を救うために、北方へむかう列車を、セント・オールバン駅から走らせることになる。そしてまた、チッピング・オンガーに貼札が出されて、北部の町々には小麦粉の貯蔵がじゅうぶんにあり、二十四時間以内に、近隣の飢えた人々にたいし、パンの配給が行われてるとしてあった。しかし、このような情報も、弟たちの国外脱出計画をさまたげることにはいたらず、三人はその日一日じゅう、東へ東へとすすんだ。この目的のまえには、パンの配給も問題でなかった。しかも実際問題として、かれら以外の人々も、そのような配給が現実に行われたことを聞いたわけでなかった。夜になると、また、第七の星が、プリムローズ・ヒルに落下した。それは、ミス・エルフィンストーンが見張りに立っているあいだのことで、彼女はぼくの弟と交代に仕事にあたっていたときに、それを見たのである。
水曜日になると、まだ熟しきらぬ小麦畑で夜をすごした三人の避難者は、チェルムスフォードに達していた。そこにはみずから称して、公共物資供給委員会という住民の団体があって、かれらの小馬を、食糧として没収して、翌日、食糧の分配にあずからせると約束しただけで、なんの代償もあたえてくれなかった。この町にながれているうわさは、火星人がエッピングにあらわれたとのことであり、ウォールタム・アベイの火薬庫を利用して、これを撃破しようとしたが、失敗して火薬庫そのものが爆発してしまったというのだった。
ここの人々は、教会の塔の上から、火星人たちの動向を見守っていた。弟にとって幸運だったのは、食糧が配給されるのを待たずに、海岸へ直行したことだった。そのときは三人とも、ひどい空腹を感じていたが、それが結果的には、かれらをすくったかたちになった。正午にはティリンガムをすぎた。そこは奇妙なくらいしずまりかえっていた。住民はすでに撤去したあとで、二、三人、こそこそと食糧をあさっているやからがうろついているだけだった。ティリンガムの近くまでくると、急に、海が見えてきた。あらゆる種類の船があつまってごったがえしているのは、想像にかたくないことだった。
なんとなれば、いまではテムズ河をさかのぼることが不可能になっているので、船は客をのせるために、エセックスの海岸、ハリッジからウォルトン、クラクトン付近に集結しているのだった。それがやがては、ファウルネス、シューベリーの線にひろがることもわかっていた。それらの船舶は、利鎌《りけん》のような形にカーブを描いて碇泊し、さきはネイズのあたりで、霧のなかにかすんでいる。浜辺近くには、小型漁船の数がおびただしい。――イングランド、スコットランド、フランス、オランダ、スウェーデンなどからあつまってきたものだ。テムズ河からの蒸気船もいるし、ヨット、電動機船のたぐいも見られる。沖合いには、大型の貨物船、きたならしい石炭船、小ぎれいな商船、家畜船、旅客船、タンカー、大西洋不定期船、そしてむかしなつかしい白く塗った輸送船までが、サウサンプトンやハンブルクから派遣された白と灰色との定期船にまざって姿を見せている。青い海岸線を越えて、対岸のアイルランドのブラックウォーター河のあたりまで、船舶の群れがひしめきあって、海岸の人々と値段の交渉をしているのが、ぼんやりと見てとれる。おそらくそれらの船舶が、こちらの岸はエセックスのモールドン、対岸はブラックウォーター河のあたりまで埋めつくしていることであろう。
沖合い二マイルほどのところに、甲鉄艦が一隻、まるで浸水した船のように、海面に低く姿を見せていた。それが、艦首に衝角《しょうかく》をつけた戦艦『雷児』であった。眼の届くかぎり、軍艦というとこれ一隻だったが、おだやかな海面の右手――その日の海上はねむったように波がなかった――水平線の上に、蛇のような黒煙がたなびいているのは、海峡艦隊が待機しているにちがいない。火星人の侵攻にそなえて、テムズの河口のあたりに展開して、すぐにでも出動できるように監視をつづけているのであろうが、敵の行動を制圧するには、無力といわねばならぬようである。
海を見ると同時に、ミセス・エルフィンストーンは恐怖におそわれて、義妹がいくら力づけても、ふるえをとめることができなかった。彼女はこれまで、イギリスをはなれたことがなかったのだ。知らぬ他国で、友人もなく暮すくらいなら、むしろここで死んでしまいたいと口走るのだった。このあわれな婦人には、フランス人も火星人と同じものと思われていたようだ。彼女はすでに、この二日間にわたる旅行で、恐怖をかき立てられ、ヒステリックにさわぎ立てるかと思うと、憂うつ症状に沈んでしまうのだった。なによりの希望は、一刻もはやく、スタンモアにもどることにあった。あの土地では、いつも幸福にめぐまれて、落着いた生活を楽しむことができたのだ。そしてなによりも、なつかしい夫に再会できるではないか!
非常に骨を折った末、どうにか彼女を海浜までつれていった。そこで弟は、テムズ河からまわってきた外輪汽船の船員たちの注意をひくことができた。かれらはボートを送ってよこして、三人の料金として、三十六ポンドを要求した。かれらの話によると、その船はベルギーのオステンドへむかうものだそうだ。
弟が舷門で料金を支払い、婦人たちをつれて、無事に乗船できたのは、午後の二時ちかくだった。料金こそ目いっぱいに吹っかけられたが、船内には食糧も豊富で、三人はどうにか前方の場所を占め、食事にありつくことができた。
船内には、四十人からの乗客がつめこまれていた。そのうちには、最後の金まではたいてのりこんだものもいる。しかし、船長はブラックウォーター河の沖合いに船をとめたまま、午後の五時までうごこうともしなかった。デッキがいっぱいになって、危険と思われるまで、客をひろいあげていたのである。彼はおそらく、さらに長時間、そのままでいたかったのであろうが、そのころ、南の方角で砲声がとどろきだした。すると、それにこたえるように、海上の甲鉄艦が小さな砲を発射して、ひと流れの旗をかかげた。それが合図か、つき出ている鋼鉄の煙突のさきから、いっせいに煙が噴き出した。
乗客のあるものは、砲声はシューベリネスから聞こえているのだとの意見だったが、そのうちに、それがしだいに大きくなっていった。それと同時に、はるか東南の方角に、黒い煙がたなびき、その下の水平線から、三隻の甲鉄艦のマストと上部構造がつぎつぎとあらわれてきた。だが、弟の注意は、すばやく南方の砲声にむけられた。遠いそのあたりは、灰色のもやにつつまれていたが、そこに煙がひと筋、立ちのぼるように思われた。
弟たちの小さな蒸気船は、大きな三日月形を描いて碇泊している船舶の群れをはなれ、東へむかってすすんでいった。エセックスの海岸が低くしずんで、青い夕もやにかすんでいった。そのとき、火星人が出現したのである。距離が遠いので、小さくぼんやりとしか見えないが、泥だらけの海浜を、ファウルネスの方向からやってきたにちがいなかった。船橋に立っていた船長が、かん高い声で罵った。彼自身の貪欲から出航をおくらせたことに、恐怖と怒りを感じているのであろう。その恐怖が感染したのか、船の外輪までが、スピードを落としたかに思われた。乗客たちはいっせいに舷側に駆けつけ、あるいはその場でのびあがり、火星人の姿を見守った。それは、遠く、ゆっくりと、人間の足どりをまねしているような格好で、木々や教会の塔よりも高い姿を近よらせてくる。
弟が火星人を見たのは、それが最初だった。恐怖心というより、おどろきの感情に打たれて、彼はこの巨人が、のろのろと船舶のもやっている方向へ近づいてくるのをみつめていた。海浜へ達したあとは、水にはいって、どこまでも徒渉してくる。つづいて、クラウチ河のむこうに、もうひとつの火星人があらわれた。いじけた樹木は、ひとまたぎに越えてしまう。と思ううちに、さらにまた、べつの火星人が、遠く、夕暮れの光にかがやいている泥水に、ふかいところまではいりこんでいるその姿は、海と空との中間にかかっているように見えた。どれもが、海へむかってすすんでくるのだが、ファウルネスとネイズ河のあいだにあつまっているおびただしい船舶が沖合いに脱出するのをさまたげる意図かと思われた。小型の外輪船は、エンジンをはげしくあえがせ、外輪がさかんに、白い泡を背後にかき立てるのだが、この不吉なやつらの前進にくらべては、歯がゆいほど遅々とした船脚だった。
西北の方向へ眼をやると、大きく三日月形にならんだ船舶の群れが迫りつつある恐怖のまえに身もだえしていた。ほかの船の背後にかくれるのもあるし、岸に舷側をむけていたのを立てなおし、正面にむきなおろうとするのもいる。蒸気船は汽笛を鳴らし、煙を吐き、帆船は帆をいっぱいにはり、ランチがあちこち、いそがしげに走りまわる。弟はその光景と、左手から迫ってくる危険とに気をとられて、沖合いのほうへは目をむけなかった。すると、彼の船が、いきなり、すばやいうごきをみせた。(衝突を避けて、急転回したのだ)その動揺で、弟は立ちあがっていた座席から、まっさかさまに投げとばされた。とたんに、周囲から歓声が起きた。足を踏み鳴らし、万歳をさけんでいる。それにこたえて、どこかほかの船にも、おなじような叫びのあがるのがかすかに聞こえた。外輪汽船は大きくよろめいて、弟は四つんばいになった。
とびおきて、右舷を見ると、傾いて、上下にはげしくゆれている彼の船から、百ヤードとはなれていないところに、鋤《すき》の刃のように鋭利な形をもった鋼鉄の巨体が、水を裂いて突進してくるのだ。白泡を噛む巨大な波を、右と左に蹴立てるので、その巨浪が弟の船へとおしよせてきて、外輪をむなしく空中に泳がせるのだった。そしてたちまち、甲板が水面すれすれにかたむいた。
一瞬、水しぶきがとんで、弟をめくらにした。ふたたび、視野がひらけたとき、その怪物は、彼の船をかすめて、陸地へむけて突進していった。この猛スピードの軍艦からは、巨大な鋼鉄の上甲板が盛りあがり、そこから二本の煙突が突き出て、閃光をともなう火が噴き出していた。これが危険に陥った船舶の群れを救うために、まっしぐらに進撃する衝角水雷艇『雷児』の姿だった。
はげしい縦ゆれをくりかえしている甲板の上で、弟は舷側の手すりにすがって、身をささえた。そして、突進する巨大な海獣《レヴァイアサン》から、ふたたび火星人へ眼をやった。かれらはいまやひとかたまりになって、三本脚がほとんど水中に没するまで、海中ふかくはいりこんでいた。
それは遠方からながめたかぎりでは、近くの汽船をはげしく動揺させながら、波を蹴立てて驀進する鋼鉄の巨体にくらべて、はるかに力ないものと思われた。怖れるほどのこともなさそうだ。事実、かれらは新しくあらわれた敵手を、むしろ驚異の眼でながめているかに見えた。この巨人はかれらの眼に、かれら同様の知力をそなえているものと映ったのかもしれない。『雷児』は砲を用いずに、ただフル・スピードで、かれらにむかって突進していく。火星人に近接できたのは、一度も砲門をひらかなかったからであろう。かれらは水雷艇を、どうとりあつかってよいか知らなかったのだ。一発でも発射していれば、かれらはすぐに熱線を使用して、それを海底ふかく沈めてしまったにちがいなかった。
水雷艇はものすごいスピードですすんだので、一瞬のうちに、弟の船と火星人とのあいだの半ばに迫った。地平はるかにひろがるエセックスの海岸にむかって、その黒い姿は、ぐんぐんと小さくなっていった。
急に、まっさきに立った火星人が、そのチューブをひくくかまえると、甲鉄艦にむかって、黒いガス体を放射した。それは甲鉄艦の左舷にあたって、インクの雲につつみ、海面にながれ、黒い煙の渦になってひろがった。甲鉄艦は、その黒雲をつきやぶって、ふたたび姿をあらわした。外輪船からながめている人々には、西日を受けた海面に、戦艦が火星人のあいだにつっこんだかと見受けられた。
不気味な敵はばらばらにはなれて、それぞれ水面にからだをあらわし、陸地へむかって退却しはじめたようだ。が、そのひとつが、カメラに似た熱線放射器をかかげ、斜め下にむけると、触れた海面に、蒸気の雲が湧きあがった。おそらくそれは、白熱した鉄火箸が紙をつらぬくように、戦艦の舷側に穴をあけたのであろう。
湧きあがる蒸気をとおして、焔がひらめいた。と同時に、火星人のからだも大きくよろめいた。つぎの瞬間、それはその場に横倒しになって、水と蒸気が、高々と空中に舞いあがった。そして、『雷児』の砲が、蒸気をつらぬいて、轟音を立てた。つぎつぎと、立てつづけに火を噴きつづける。一弾は、弟の汽船のすぐ間ぢかで、水けむりをあげ、北方を走っている他の船団にむかってとんでいった。漁船が一艘、粉みじんに砕けとんだ。
しかし、それに気をとられるものはなかった。火星人が崩折れたのを見て、船橋に立っていた船長が、声にならぬ叫びをあげた。それにこたえるように、船尾に群がる乗客たちのあいだに、いっせいに歓声があがった。つづいてまた、乗客たちの二どめの叫び。それというのも、渦巻く煙のむこうに、中央部からは焔を、通風筒と煙突からは火を吐く、細長く黒い物体があらわれたからだ。
水雷艇は、いまだに活躍をつづけていた。操舵装置は無事で、エンジンもうごいているらしい。それはまっすぐ、第二の火星人にむかって、百ヤードの距離に迫っていった。すると、相手はまたも熱線を発射した。それによって、すさまじい轟音と、眼もくらむばかりの閃光をともなって、甲板と砲とが空に舞いあがった。その爆発のはげしさに、火星人も同様よろめいたが燃えあがる船体はそのままのスピードで突進をつづけ、つぎの瞬間、火星人に激突し、相手を厚紙細工のなにかのように打ち砕いていた。弟はわれを忘れてさけんだ。蒸気が湧きあがって、またもすべてのものをかくしてしまった。
「ふたつ、やっつけたぞ!」船長もさけんでいる。
だれもの口から、歓声があがっている。船はいたるところ、くるったようなよろこびの声に湧き立って、はじめはこの一隻のあげた叫びが、やがては海面を群がり走る全船団にひろがっていった。
蒸気は海上にながいあいだただよって、第三の火星人と海岸とをかくした。そしてそのあいだに、外輪船は沖合いにのがれて、戦闘の部隊から遠ざかることができた。最後には、混乱がおさまり、黒い蒸気の雲だけがのこったが、『雷児』の姿は海底に没し、第三の火星人も見られなかった。艦隊だけは態勢をととのえて、弟の外輪船のわきをすぎ、岸へむかってすすんでいった。
弟の小型船は、海峡にむかって船脚をのばし、艦隊は徐々に海岸へむかった。そこはいまだに、大理石に似た斑を見せて、奇妙なかたちに渦巻きもつれあう蒸気と黒いガス体の雲におおわれていた。避難者たちの船団は、東北の方向へと散らばりつつあった。その船団と艦隊のあいだは、何艘かの漁船が帆をあげて走っている。しばらくすると、戦艦は蒸気の雲に達するわずか手前で、北方へ船首をむけ、やがてまた、突如、転回し、夕もやのふかまりだした南方の海へ消えていった。海岸もいまは遠くかすんで、沈みゆく太陽をめぐる雲の層にまざりあっていった。
するとまた、落日が見せる金色のもやをつらぬいて、砲声がとどろいた。黒い影のうごくのが見えた。船の人々は、さきを争って、甲板の手すりに駆けより、溶解炉のようにあかあかと燃える西空をのぞきこんだが、なにひとつ、はっきりとは見られなかった。煙のかたまりが斜めにながれ、太陽の顔に線をひいた。外輪船は、はてしない不安のうちに、航海をつづけた。
いつか落陽は、灰色の雲に沈んだ、しばらくは空の色が、あかるさと暗さを交代させていたが、やがて宵の明星がまたたきはじめた。その色濃い夕闇をつんざいて、船長の叫びが聞こえた。彼が指さしているさきに、弟は緊張した目をむけた。灰色の海から、なにかがさっと飛び立って――斜めに上方へすすんでいくのだ。それはものすごい速さで、西空に横たわる雲をつきぬけ、その上のあかるくかがやくあたりへ飛んでいく。平たく、幅ひろく、おそろしく巨大なものだ。大きくカーブを描くと、しだいにまた小さくかわり、ゆっくりと沈んで、ふたたび、灰色の神秘をたたえた夜の海へと消えていった。そしてそれは、飛翔と同時に、陸の上に闇を降らせた。
第二部  火星人に支配された地球
一 脚下に
第一部では、すこしく叙述に脱線しすぎた個所があった。ぼく自身の冒険談を語るつもりのところが、二章にもわたって、弟が体験した事実を詳述してしまった。そのあいだぼくと牧師補は、黒煙を避けて逃げこんだハリフォードの空屋に身をひそめていたのである。話をそこからつづけることにしよう。ぼくたち二人は、日曜日の夜とつぎの日いっぱい――それは恐怖にみちた一日だった――この小さな陽光の孤島に、黒煙により外界と切りはなされた状態で、かくれひそんでいなければならなかった。要するにぼくたちは、この不気味な二日のあいだ、胸を痛めるばかりで、待つ以外にうごきようを知らなかったのだ。
ぼくは妻の身の上を思って、不安に胸をいっぱいにしていた。彼女はレザーヘッドで、恐怖におののき、ぼくをすでに死亡したものと考え、なげき悲しんでいるにちがいなかった。ぼくは部屋じゅうを歩きまわり、大声でわめきたてた。ぼくは彼女から切りはなされてしまったのだ。こののち、彼女の身の上にどのようなことがおころうと、それはぼくのいないところでの事実なのだ。ぼくのいとこが、このような危険にのぞんでも、じゅうぶん勇敢であるのはわかっていた。しかし、彼にはその危険を察して、いちはやく対処するだけの敏捷さが欠けている。このさい必要とされるものは、勇敢であることでなく、沈着周到な思慮であるはずだ。ぼくのひそかな慰めは、火星人たちがロンドン方向にむかっていること、彼女から遠去かりつつある点ひとつにかかっていた。
このようなばく然とした不安は、人の心を神経質にさせ、苦しめるものだ。牧師補がまた、やすみなしになにかさけびつづけ、それがぼくの気持をくらく閉ざし、苛立たしさを感じさせるのだった。そのひとりよがりの絶望感には、そばにいるだけでうんざりさせられた。いくどか、黙っているようにどなりつけたが、なんの効果もないと知ると、ぼくは彼からはなれて、一室にとじこもることにした。そこは子供部屋だったとみえて、地球儀や習字帳がおいてあった。しかし、牧師補はそこへもついてきたので、屋根裏の部屋にのがれた。そしてそこで、ひとり自分のみじめさを咬みしめるために、鍵までかけてしまった。
その日とつぎの日の朝まで、ぼくたちは黒煙にとじこめられて、なんの希望ももてなかった。日曜日の夜には、となりの家に人のけはいがあった――窓に顔がのぞいたし、動きまわる灯が見え、そしてそのあと、ドアが音を立ててしまったのだ。だが、もちろんぼくたちには、それがどのような人たちか、その後どうなったか、いっさいわかろうはずがない。つぎの日には、すでにかれらは影も見せなかった。黒煙は月曜日の午前中、徐々に河へむかって移動して、しだいにぼくたちの近くへながれてきた。そしてついには、ぼくたちがかくれている家の外までつつんでしまった。
正午ごろ、火星人のひとつが、畑を横切ってやってきた。灼熱した蒸気を吹きつけて、黒煙を追い払うのだが、そのかわり、蒸気が音を立てて壁にあたり、触れた窓を破壊し、牧師補の腕を火傷させた。正面の部屋にいた彼はあわれててそこを逃げだしたが、間にあわなかったのだ。そして最後に、ぼくたちはもう一度、びしょ濡れになった部屋々々をとおりぬけて、外をのぞいてみたが、北の方角の土地は、まっ黒な吹雪でも吹きすぎたような惨状だった。河のほうへ目をやっても、やはりおどろかぬわけにいかなかった。そこの牧場はまっ黒に焦げて、なんと表現してよいかわからぬ赤いものが入りまじっているのだった。
しばらくのあいだ、ぼくたちには自分の立場が、この出来ごとによって、どのような変化を受けたか知ることができなかった。わずかにわかった点といえば、どうやらぼくたちだけが、黒煙の恐怖からまぬがれたことだった。しかし、そのあとぼくたちは、もはや黒煙にとじこめられている場合でない。すこしもはやく、この地を立ち退くべきだと考えた。そして、立ち退く道がひらかれたとわかると、ぼくの胸には、いつものように行動への夢がよみがえってきた。ただ、牧師補はいぜんとして無気力のままで、
「われわれはここにいたほうが安全だ」と、意味もなくくりかえすばかりだった。「ここがいちばん、安全な場所です」
ぼくは彼を棄てていくことに肚をきめた――それができればのことであるが――砲兵隊の兵士に教えられたとおりまず食糧と飲みものを用意した。火傷のための油ぐすりとぼろ布をさがし出し、寝室のひとつからみつけておいたフランネルのシャツを着こみ、帽子をかぶった。ぼくがひとりで出かけるつもりでいるのがわかると――それはぼくとしても、やむをえずにすることだったが――彼はあわててうごきだした。それでも、午後のあいだはおとなしくしていて、五時になったとみると、出発した。ぼくたちは黒焦げに焦げた道を、サンベリーへとむかったのだ。
行く途中でも、サンベリーの町でも、ひきつったかたちの死屍《しし》が、るいるいと横たわっていた。人ばかりか、馬も倒れているし、ひっくりかえった馬車や、投げ捨てられた荷物の類が道路を埋め、それがまっ黒なほこりをかぶっている。その死の灰を見るにつけ、書物で読んだポンペイの悲劇を想いかえした。
ハンプトン・コートまではなにごともなく、ただ、異様な道筋のながめに、胸を痛めながら通りすぎた。ハンプトン・コートで、はじめて緑の色を見ることができて、生きかえった気持になった。この地は、あのおそろしい万物を窒息させる黒煙をまぬがれたのだ。プッシー・パークでは、栗の木の下を鹿が歩きまわっていたし、遠くをハンプトンの方角にいそぐ男女の群れがながめられた。そして、ぼくたちはトウィックナムについた。ここで、はじめて町の人々に会うことができた。
街道をはなれて、ハムとピータシャムのさきの森をながめると、それはいまだに火につつまれていた。しかし、トウィックナムの町は、熱線にも黒煙にも遭わず、むかしのままの姿をとどめていて、平常より人通りが多いくらいだったが、これといったニュースは聞かれなかった。住民の大部分は、ぼくたちとおなじに、この戦闘の小休止を利用して、より安全な場所へ避難しようとあせっているのである。それでも、町にはまだ、恐怖心から避難もできずに、家にとじこもっている人たちもすくなくないものと思われた。
ここでもまた、一時、大混乱がおきたことは、道路に残るさまざまな痕で推察できた。そのうちでも、三台のおしつぶされた自転車が、ひとつにかためて捨ててあったのが、いまだにぼくの記憶にのこっている。あとからあととつづく馬車の車輪にかかり、道路にふかく、めりこんでいるのだった。八時半には、リッチモンド橋をわたった。橋げたがなくなっているのを、大いそぎでわたったのはいうまでもない。長さ数フィートもある赤いものが、いくつもいくつも、流れの上にただよっているのを見たが、それがなんであるかをたしかめるだけの時間はなかった。いずれにせよ、ぼくがそれを、実際以上におそろしいものと想像していたことはたしかだ。ここでもまた、サリー側には、かつては黒煙であった黒いほこりが一面におおっていて、死骸がそこここに転がっている。駅の近くでは、ひとつの山にかたまっていた。しかし、バーンズにむかって、しばらくのあいだ歩きつづけたが、火星人の姿は見ないですんだ。
まっ黒に見える遠くを、三人ひとかたまりで、街道からはずれた道を、河へむかって駆け降りていくのが見えたが、人らしいものはそれだけで、あとはまったく、なにものこっていない。全住民が立ち退いたあとのようだ。丘の上では、リッチモンドの町が燃えつづけていた。町の外には、黒煙の痕はなかった。
それから、キューの町が見えるところまでくると、とつぜん、大勢の人々が走ってきて、百ヤードとはなれていない家の屋根のむこうに、火星人の戦闘機械が、ひょいとあらわれた。ぼくと牧師補は、ぎょっとして立ちどまった。そのとき、火星人の視線がこちらを見下ろしたとすれば、そこがぼくたちの最後の地になったことであろう。恐怖のあまり、足がすくんでうごけない。わき道にとびこんで、ある家の庭の小屋に身をかくした。牧師補はうずくまって、声も立てずに泣きはじめた。うごけといわれても、足がいうことをきかなかった。
しかし、なんとしてでも、レザーヘッドへたどりつきたい。そう思いつめているぼくは、宵闇が濃くなるのを待って、ふたたび小屋をとび出した。植込みをぬけて、その地所内に建っている大きな家のそばの小径をとおって、キューへむかう街道へ出た。牧師補を小屋へおきざりにしてきたのだが、彼はすぐに、あとを追ってきた。
その二どめの出発は、ぼくのこれまでの行動のうち、もっともむこう見ずのことといえるものだった。
なぜならば、火星人たちがこの近くにいることがわかっていたからで、事実、牧師補が追いつくとすぐに、さきほど見かけた戦闘機械か、それともべつのやつか不明だったが、火星人がひとつ、牧場を横切って、キュー・ロッジの方向へすすんでいくのが見えた。その前方を、黒い人影が四つか五つ、暮れなずむみどりの野づらをいそいでいる。すぐにそれが、火星人に追いかけられている人間たちとわかった。三歩ほど足をはこんだだけで、火星人はかれらに追いついた。人間たちは、四方へ分れて逃げだした。火星人にはしかし、熱線を用いて殺害するつもりはないらしい。手をのばして、ひとりずつ、つかまえている。つかまえると、職人が肩に背負っている道具箱のように、背中からつき出ている金属製の容器へ投げこんでいるようすだ。
そのときはじめて、ぼくは火星人の意図をさとった。彼は打ちのめされた人類を虐殺する以外の目的をもっているのだ。ぼくたちは一瞬、石に化したように立ちすくんだが、ふりかえって、背後にある塀をめぐらした農園の木戸のなかへ逃げこんだ。さいわい塀があったので――それを見出したというより、むしろ、なかにころげ落ちたのだが――そこに身をひそめ、たがいに口をききあうこともなく、星がまたたきだすまで、うごこうともしなかった。
もう一度、勇気をとりもどして、その塀から匍いだしたのは、十一時にちかいころと思われる。もはや、道路へ出る勇気もないので、生垣に沿って植込みをぬけ、こっそりとすすんだ。火星人は、まだこのあたりにいると思われたので、たえず暗闇に、鋭い眼をくばらなければならなかった。ぼくが左がわを見、牧師補が右をうかがっていたのである。
そのうちに、黒々と地面が焦げあがっているところへ出た。いまは冷えきって、灰ばかりうずたかく積っているが、そこにはやはり、無数の死骸がころがっていた。頭から胴へかけて、無残なほど焼けただれているが、ほとんどの脚と靴がそのままだった。ほかに、四門の砲が粉々に砕け、砲車もおしつぶされているし、そのまた背後には、馬が死んで倒れていた。
シーンの町は被害を受けずにすんだようだが、完全に静まりかえって、人のけはいはまったくなかった。ここでは死骸に出会わなかった。もっとも、夜の闇がふかいので、横の通りまでは目がとどかなかったこともある。この町までくると、ぼくの道連れが疲れと渇き訴えだしたので、空屋のどれかを漁ってみることにきめた。
最初、目についた家に、ちょっと骨を折って、窓から入りこんでみたが、それは二軒つづきのバンガロー風の建物で、予想に反して、カビの生えたチーズのほか、食糧らしいものは残っていなかった。だが、水はあったし、手斧がみつかったので、つぎの家に押入る用意に失敬した。
それからぼくたちは、モートレイクへの道が分れるところへ出た。そこにひろい庭園を塀がかこんでいる白い家があって、その配膳室で、貯蔵食糧をみつけた。パンが二本、料理してない肉とハムが半本。品目をこのように精密に書きつけるのは、これだけの食糧で、その後の二週間をすごさねばならぬ羽目になったからだ。
そのほか、びん詰めのビールが棚の下に立ててあり、インゲン豆が二袋と、しなびかけたレタスがいくらかあった。この配膳室のおくは台所で、そこに薪が積んである。そしてまた、戸棚から、バーガンディ葡萄酒の一ダースちかくと、罐詰のスープと鮭、ビスケットの罐を二個さがし出すことができた。
ぼくたちふたりは、台所の暗闇のなかに坐りこんだ――あかりをつけるだけの度胸はなく、パンとハムを食べ、一本のビールを、ふたりして飲みあった。牧師補はいまだにびくびくして落着かなかったが、奇妙なことに、腹ごしらえができると、出発しようというのだった。かえってぼくのほうが、もっと食糧をつめこんで、元気を貯えておくべきだとすすめているうちに、ぼくたちがそこに、ながいあいだ閉じこめられることになる事件が起きた。
「まだ十二時にはなっていまい」
ぼくがそうつぶやいたとき、緑色の光が、眼もくらむばかりにきらめいた。台所のなかのものがくっきりと浮かびあがって、緑と黒の色彩をもって描き出されたが、すぐにまた、消えた。つづいて、つよい震動がおこった。それ以前はもちろん、その後も経験したことのないはげしさだった。そのすぐあと、ぼくの背後で、大音響がとどろいたかと思うと、ガラスが砕け、周囲の壁がくずれ落ち、天井から、しっくいが雨となって降ってきた。それはぼくたちの頭にあたり、粉々になってとび散った。ぼくは撥ねとばされて、床の上にころがったが、その拍子に、かまどのかどにぶつかって、気を失ってしまった。牧師補の話では、かなりのあいだ意識不明の状態でいたらしい。気がついてみると、ぼくたちはまた暗闇のなかにいた。あとでわかったことだが、牧師補も額をなにかで切ったとみえて、顔を血だらけにしていたのだが、それでもぼくの頭を水で濡らし、介抱に懸命だった。
しばらくは、なにが起きたのかぼくには思いだせなかった。が、徐々に頭がはっきりしてくると、こめかみの傷がひどく痛みだした。
「いくらか、いいですか?」牧師補が小声できいた。
ぼくがもう大丈夫と、起きあがろうとすると、
「うごかないほうがいい」と彼はいった。「この床は、戸棚から落ちた皿やコップの破片でいっぱいです。うごいたら、音がしますぜ。あいつら、まだこの外をうろついているにちがいありません」
そばにあったものが――おそらく、しっくいか煉瓦のかけらだったとおもわれるが――すべり落ちて、音を立てた。外では、この家のすぐ近くで、金属製のものが、断続的にがたがたいっている。
「あれだ!」それが二どめに音を立てたとき、牧師補がいった。
「え?」と、ぼくはいった。「なんだ?」
「火星人ですよ!」
ぼくは耳をすました。
「熱線のようでもなかったが――」と、いって、しばらく考えたが、あの巨大な戦闘機械がよろめいて、この家にぶっかったのではないだろうか。かれらのひとつが、シェパートン教会の塔に、よろめいてぶつかったことを憶えている。
ぼくたちのおかれた状況はまったく異様で、どう考えようもないものだった。夜があけはなれるまでの三、四時間、動くこともできず、身をひそめているだけだった。そのうちに、朝の光がさしこんできた。それも窓からではない。窓は黒くとざされたままなのだ。天井から落ちてきた梁と、背後の壁からくずれ落ちた煉瓦の破片のあいだに、三角形の隙間ができていて、そこからさしこむ光線だった。それではじめて、灰色に浮かびあがった台所の内部を見た。
窓からは、庭の土が大量にとびこんで、ぼくたちが腰かけていたテーブルの上にあふれ、足許を埋めつくしていた。家にむかってなだれてきたようすで、窓の外にも、高い土堤が盛りあがっている。
窓枠の上に、根こぎにされた排水管がひっかかっているのが見える。床はおしつぶされた鍋釜のたぐいが散在して、足の踏み場もなかった。台所から母屋へつづくあたりがつぶされていて、そこから日光がさしこんでくるのだが、それを見ると、母屋そのものも、ほとんど崩壊しているのであろう。この惨状と対照的に、いまの流行色であるうすみどりに塗った調理台が瀟洒な姿をとどめ、その下には、銅や錫の容器がたくさんならんでいる。青と白のタイルにみせかけた壁紙はそのままだが、あとからおぎなったと思われる色つきのものが二枚だけ、天火の上ではがれて、はたはたとはためいている。
夜があけはなれるにつれて、壁の割れ目から、火星人の胴を見ることができた。いまだに灼熱の状態をつづけているシリンダーのそばで、哨戒にあたっているらしい。それに気がつくと、ぼくたちは、できるだけ音を立てぬように、移動を開始した。台所は陽がさしこんでうすらあかるいので、まっ暗な食器洗い場のほうへ匍っていったのだ。
それではっきり、あの出来ごとの解釈が、ぼくの頭に浮かびあがった。
「五ばんめのシリンダーだ」と、ぼくはささやいた。「火星から送ってきた五ばんめのやつだ。それがこの家にぶつかって、ぼくたちを埋めてしまったんだ!」
しばらく、牧師補は無言でいたが、やがて、つぶやくようにいった。
「神よ、われらに慈悲を垂れたまえ!」
そしてそのあと、すすり泣きをはじめた。
その声のほか、食器洗い場のなかはしずまりかえっていた。ぼくとしては、息を立てることも怖ろしく、台所のドアからさしこむ光に、じっと目をむけたままうごかなかった。牧師補の卵なりの顔と、そのカラーとカフスだけがぼんやりと見えている。外では、金属をたたく音がし、汽笛に似た音が鋭くひびいている。すこししずかになったと思うと、エンジンのような音が聞こえてきた。大部分は意味のわからぬ音ばかりで、それが間をおいてくりかえされ、時がたつとともに、種類が増えてくるように思われた。やがて、適当な間合いをおいて、ずしんずしんという音をともなう震動がおこって、ぼくたちのまわりのものをふるわせた。
配膳室の食器類も、いっせいに音を立ててゆれうごき、その震動がいつまでもつづいていた。一度だけ、陽の光がさえぎられ、うすあかるく見えていた台所の戸口が、完全な暗闇となった。このようにして、ぼくたちは何時間ものあいだ、無言でふるえながら、うずくまっていたのだが、いつか疲労からうとうとしはじめた……
目がさめると、はげしい空腹を感じた。その日の大部分を、ねむったままですごしてしまったらしい。あまりにも空腹がはげしいので、うごきださぬわけにいかなかった。牧師補には、食べるものを探してくるからといいおいて、配膳室のほうへ匍っていった。その後彼は、呼んでも返事をしなかったが、ぼくが食べはじめると、そのかすかな音が耳にはいったのか、起きあがったけはいがして、またも、匍いもどってくるようすだった。
二 廃屋からのぞく
食事がおわると、ぼくたちはまた匍いながら、食器洗い場にもどった。そこでぼくは、すこしのあいだ、眠りこんでしまったらしい。目をさまして見まわすと、ぼくひとりになっていた。どすんどすんという震動が、執念ぶかく、憂うつなひびきをつたえてくる。ぼくは何度か、小声で牧師補を呼んだあげく、手さぐりで台所の戸口まで行ってみた。まだ陽がさしていたので、部屋のおくに、彼の姿が見えた。そこに、三角形の穴があいているので、かがみこんで、火星人たちのようすをのぞいているだけだった。肩をまるめているので、頭はぼくの位置からは見ることができなかった。
機関室に似て、たえず物音がひびいてくる部屋で、地響きを打つように揺れうごく。壁の割れ目をとおして、金色にそまった木の梢と、あたたかい青さを見せているしずかな夕方の空がながめられた。一、二分、ぼくは立ちどまったまま、牧師補をみつめていてから、匍ったり、歩んだり、入念な注意をはらって、床に散らばっている陶器類の破片を避けながら、近づいていった。
ぼくがその脚にさわると、牧師補はぎくっとして、大きくからだをふるわせたので、しっくいのかたまりがすべり落ちて、かなりの音を立てた。
ぼくは彼の腕をつかんだ。大声をあげはしないかと心配してである。そしてながいあいだ、ふたりは身うごきもせずにうずくまっていた。それからふりむいて、われわれの要塞がもとのままになっているかをうかがった。しっくいが剥がれたあとの壁の残骸に、垂直の穴があいている。用心しながら、梁をまたいでからだをもちあげてみると、その隙き間から、外のようすがながめられて、昨夜はしずかな町はずれの道だったところが、意外なほど変化しているのにおどろかされた。
五ばんめのシリンダーは、ぼくたちが最初にしのびこんだ家の中心部に落下したものと思われた。建物はきれいになくなっていた。完全に粉砕されて、飛散してしまったらしい。シリンダーはその土台までめりこんで、大きな穴をつくっていた。穴の周辺にも、最初ウォーキングで見かけた竪坑のものより、はるかに大きく掘られている。まわりの土は、そのはげしい衝撃ではねとばされて――事実、はねとばされるという以外に、適切な言葉は考えられなかった――山と積った土によって、そのむこうにつづいているはずの建物はかくれて見えない。巨大なハンマーで、泥土をはげしくたたきつけたようなものだ。ぼくたちのいる家は、うしろへむけて倒れかかって、正面は、階下までが完全に破壊されている。台所と食器洗い場だけが被害をまぬがれたのだが、それもいまでは、土と建物の破片に埋められ、シリンダーの落下した方角を除いては、周囲を何トンという土でとざされているのだった。そうした状況下にあるぼくたちは、いわば、火星人が目下建造にいそしんでいる巨大な円筒状の竪坑のふちに、きわどくひっかかっているようなものである。おもい地響きがぼくたちの背後から伝わってきて、ときどき、あかるい緑色の蒸気が、ぼくたちがのぞいている穴を横切って、ヴェールのように立ちのぼる。
竪坑の中央では、すでにシリンダーが、その蓋をあけていた。竪坑のむこうのはし、潅木の茂みがつぶされて砂利の山に埋まっているあたりに、巨大な戦闘機械のひとつが、まだなかに主がはいらぬままに、立てかけてある。その硬い丈高い姿が、夕空を背に光って見える。しかし、そのときのぼくは、最初に竪坑とシリンダーを見たわけでない。それを記述したのは、説明上の都合から、なによりさきに目をみはらなければならなかったのは、きらきらとかがやく異常な機械が坑を掘るためにせわしなく働きつづけているさまと、その近くに積みあげられた土の山を横切って、さも苦しげにのろのろと匍いまわっている奇怪な生物の姿だった。
まっさきにぼくの注意をひいたのは、たしかにその機械だった。この複雑な装置は、後日、自動機械と呼ばれるようになったもので、これが非常な刺戟となって、その研究の結果、地球人の発明にも貢献するところが多かった。初めて、その形状を見たとき、ぼくは金属性のクモを連想した。五つの節のある敏捷なうごきをしめす脚。節のあるレバーやバール、ないしはまた、伸ばして握りしめることのできる触手といったものが、数かぎりなく付着している胴。腕の大部分は現在ひっこんでいるが、三本のながい触手が、鉄棒、鉄板、バールのたぐいを、シリンダーの壁の補強用にこの地球まで運ばれてきたのであろう。いま自動機械が、それの品をとり出して、平らな地面の上にならべている。
その動作は、おどろくほど迅速で、複雑な仕事を完璧にやってのける。見ているぼくには、その金属がきらきら光るのを知りながら、とうてい機械とは考えられなかった。戦闘機械のほうも、それに負けずに生き生きと、すばらしいスピードでうごいていたが、働きぶりは比較にならなかった。おそらく、そのようすを実際に目にしないかぎり、そして、画家の貧弱な空想力とか、ぼくのような目撃者の不完全な叙述をたよりにしているかぎり、それが活発にうごきまわる状態を想像できるものではないのだ。
とりわけ、この戦争の結果を記した最初のパンフレットに載っていた挿絵が思いだされる。画家はおそらく、戦闘機械のひとつをざっと調べただけで、くわしい知識の仕入れを怠ったものと思われる。彼が描いたのは、竹馬の脚のように、ぎごちなくまっすぐに伸びたものが三本、そこには柔軟さも精妙さも見られない。第一、その効果があまりにも単調すぎる。これらの描写をふくむパンフレットが、相当の売れ行きを示したことを知っているだけに、ぼくは読者に、かれらがつくりあげた印象にあやまられんように警告しておきたい。かれらが実物の火星人と似ていないことは、オランダ人形が人間とおなじでないのと同程度である。要するに、ぼくをしていわしむれば、ああしたパンフレットは、むしろないにこしたことがないのである。
最初、ぼくはその自動機械を見て、機械とは考えなかった。きらめく外皮をもったカニに似た生物で、繊細な触手をあやつってこれをうごかす火星人は、カニの頭脳の同義語にすぎぬように思われた。しかし、そのうちにぼくは、灰色がかった茶色にかがやくなめし革のような外皮が、むこうがわを匍っているほかの生きものとそっくりなのに気づいた。そして、器用な労働機械の真の性質をはじめて知ったのだ。それを知ると同時に、ぼくの興味はほかの生物のほうへ移っていった。それこそ真実の火星人である。わずかの間ではあったが、まえにもそれを見ていたので、胸をむかつかせるその醜悪な形にも、観察眼をくもらせずにすんだ。しかも、こんどは音も立てずに、かくれながら見ているのだから、あわてて逃げださなければならぬ思いはしないですんだ。
いまや、はっきりこの目で見てとったが、かれらは考えられる以上に、わが地球上の生物とは類を異にした存在だった。大きくてまるいからだ――というより、頭と名づくべきかもしれないが――さしわたし四フィートもあり、それぞれのからだが、前面に顔をもっている。この顔には、鼻孔がない――事実火星人は、嗅覚をそなえていないようにみえた。そのかわり、黒っぽい巨大な目がふたつあり、すぐその下に、肉のくちばしのようなものがついている。この頭というかからだというか――適当な名称はいまだに考えられないが――そのうしろには、一枚の皮が、太鼓のそれのようにピンと張っている。これがつまり、解剖学的には鼓膜の役割をつとめているのだろうが、この地球の濃密な空気のなかでは、ほとんど利用価値がなかったはずである。口をかこんで、細長い鞭にも似た触手が十六本も密生して、それが八本ずつふた束になっている。これらふた束の触手は、後日著名な解剖学者ハウズ教授によって、【手】と命名された。けだし、適切な名称といえよう。最初に火星人を見たときも、かれらはこの手をついて、からだをおこそうとあがいていた。しかし、もちろんこの地球では、重力が大きいことから無益な努力だった。あれからみても、火星上では、この手の力である程度敏捷にうごきまわれるものと思われる。
このさいついでに述べておくが、その後解剖した結果によると、そのからだの内部構造も、ほとんどおなじくらい単純なものだった。大部分は脳が占めていて、それからふとい神経が、両眼、耳、触手へ送られている。そのほか、大きな肺臓があり、それにむかって口がひらいている。もちろん、心臓と無数の血管がある。濃密なこの土地の空気と重力で肺臓に故障が生じていることは、その外部の皮膚が、痙攣的にうごいているのであきらかだった。
以上が、火星人の内臓器官のすべてであった。人類としては奇異に感じることかもしれぬが、われわれの胴体を作りあげている複雑な消化器官を、火星人はもっていなかった。要するにかれらは頭だった――頭だけで、内臓はもたなかった。食べないから、消化の必要がなかった。ほかの生物から新鮮な血をとって、それを自己の血管に注射するだけなのだ。ぼくはそれをこの目で見た。そのくわしいことは、それぞれの個所で述べるつもりである。しかし、神経質すぎるとおもわれるかもしれないが、見ているにさえ耐えられなかったくらいで、それを叙述することは、いっそうくるしいところである。そこで、つぎのように語ることでがまんしていただくとする。いまなお生きている動物――もっともそれは、多くの場合、人間だったが――からとった血液を、小さなピペットによって、その血管に直接注ぎこむのだった……
考えただけでも、われわれ人類にとっては、吐き気をもよおすほどの怖ろしい事実である。しかし、それと同時に、もしもウサギに知性があるとすれば、われわれの肉食的習慣に、同様の嫌悪を感じるであろうと考えねばなるまい。
注射の実施が、生理学的にみて、いかに効果の多いものであるかは、いうまでもないことだ。食べたり消化したりする過程に、われわれ人類がその時間とエネルギーを、おどろくほど浪費しているのを想いみるべきであろう。われわれの身体の半分は、異質の食物を血液にかえる機能を司る腺、管、臓器によって占められている。消化過程とそれが神経組織におよぼす反応とが、われわれの体力を徐々に消耗させ、精神に影響する。人が元気に、幸福な気分を維持できるかどうかは、健康な臓器、強靭な消化器官を有しているか否かにかかっている。しかし、火星人はその気分や感情を、これら内臓器官によって影響されることからまぬがれているのである。
かれらがその栄養源として、とくに人類を嗜好することは、火星から携帯してきた食糧の残存物からでも、半ば説明できる。われわれ地球人の手にはいったところの、しなびきった残骸から判断すると、それらは、もろい珪土《けいど》質の骨格(ほとんど珪土海綿と変りなかった)と、よわい筋肉組織をもち、身長およそ六フィート、まるい直立頭、堅固な眼窩《がんか》にはまった大きな両眼をそなえた二足動物であった。それぞれのシリンダーが、このような生物を、ふたつないし三つ運んできて、地球到着の直前に殺しているのである。それはまことに適切な処置で、もしこれらの生物を地球上で直立させようと試みれば、そのからだじゅうの骨を、のこらずへし折ってしまったことであろうから。
このような説明をくわえるついでに、なお二、三、より詳細な叙述をおぎなっておこうと思う。ぼくたちとしても、まだそのときは明瞭に見てとっていたわけでないのだが、読者諸君に怪物の醜悪さを理解していただくために、ここに述べておくのも無益でないと信じる。
三つの点で、火星人の生理はわれわれ人類とおかしなほど異っている。かれらの器官は眠りを必要としない。それはわれわれの心臓が眠らないのとおなじで、休息によって元気を回復させねばならぬ筋肉組織でないことから、時間をきめて睡眠をとる必要がないのである。だいたい、疲労を感じることが非常にすくないようだ。いや、ことによると、まったくないのかもしれない。地球上で動きまわるのに、相当骨を折ったと思われるが、それでも最後まで活動をつづけていた。二十四時間のうち、二十四時間を活動にあてていたのである。こうしたケースは、わが地球上にあっては、蟻の場合にあてはまるだけであろう。
つぎに奇妙なことは、火星人には性というものがまったくないのである。したがってかれらは、人類におけるような性の相違によって生じる激烈な感情から、完全に解放されているといえるのだ。現在では論争の余地のない事実となっているが、こんどの戦争のあいだにも、地球上で新しい火星人が誕生している。そしてそれは、親のからだに付着していたものが、ユリの球根とか淡水ポリプが増殖していくように、半ばふくらみかけては、個体に変っていくのだった。
人類はもちろん、地球上の高等動物にあっては、このような生殖方法は消滅している。しかし、この地球上にあっても、原始的な形態はそのような方法をとっていたものと考えられる。下等動物のあいだでは、脊椎動物の親縁である被嚢《ひのう》類にいたるまで、これら二種の方法が並行しておこなわれているのであるが、けっきょくは有性生殖が競争者を制することになったのだ。しかし、火星にあっては、いまだにその反対の現象がつづいていると信ずべき理由がある。
さらにまた、一言述べておく価値があると思われるのは、科学知識をふりまわしすぎるとの評判の高い思想家が、火星人の侵攻以前に書いたもののなかに、人類の将来における窮極の姿は、現実の火星人の状態に近いものであろうと予言している点である。ぼくの記憶にあやまりがなければ、その予言は、一八九三年の十一月か十二月に、現在では廃刊になって久しい『ペル・メル・バジェット』に掲載された。ぼくはまた、それを漫画にしたものを、『パンチ』と呼ぶ、火星戦争以前の雑誌で見たことも憶えている。彼は滑稽な調子で指摘している。移動のための装置が完璧の域に達することで、終局的には脚が不用に帰する。化学的な考案が発達すれば、消化の必要もなくなる。毛髪、鼻、歯、耳、あごといったものは、もはや人類にとって、本質的な器官でなく、自然淘汰の傾向にともなって、しだいに退化の方向をたどる。本質的に必要な部分として、脳だけが残存することになるのである。そのほか、肉体のうち、生き残る可能性のあるものは、手だけであろう。これは【脳の教師】であり、【代理人】であるからだ。身体のほかの部分が縮少の行程をつづける一方、両手だけがいよいよ大きなものとなっていく。
このようにして、多くの真実がユーモラスな形態のうちに語られていた。それが、いま、ここで見る火星人の姿のうちに、動物が知性によって、いかにその器官を抑圧していくものか、その窮極の状態を知ることができたのである。火星人もまた、もとはわれわれ地球人と似ていないこともなかったのだが、しだいに脳と両手が(この後者は、最後に繊細な触手ふた束と変るのだが)発達して、ほかの部分を犠牲にしてしまったのだ。もちろん、肉体をもたぬ脳とは、利己的な知性の別名にすぎず、人類に見るような情緒的基盤をもちあわさない存在に化するにちがいない。
これら火星人の肉体組織で、われわれのそれと異るいちじるしい点に、諸君がおそらく、枝葉のこととして無視するのではないかと考えることがある。それは、地球上の人類の疾病と苦痛との原因である微生物が、かつて火星に出現しなかったか、あるいは火星人の衛生学によって、何時代か以前に根絶させられたか、そのいずれかであることである。人類の生命をおびやかす熱病や伝染病のすべて、百にものぼる疾病の数々、結核、癌、腫瘍、その他こうした疾患は、かれらの生活には一度もはいりこまなかったものと思われる。それから、火星人と地球人の相違を語ったついでに、あの異様な赤い草の存在についても触れておきたい。
火星における植物界では、基本的色彩がみどりでなく、血のように生ま生ましい赤色であるらしい。火星人が(故意にしろ、偶然にしろ)、かれらといっしょに、この地上にもたらしたところの種が、たちまち成長して、赤い草となって発育した。もっとも、あるいはそのうち、赤い草として知られているものだけが、地球の植物との競争に打ち勝って、成育の地盤を獲得したのかもしれない。とにかくその赤いつる草は、ほんのわずかな期間成長していただけなので、見たのはわずかの人々にすぎなかったが、そのわずかの期間内に、赤い草はおどろくべき繁殖力で成長して、ぼくたちふたりが檻禁状態におかれていた三、四日のうちに、竪穴の周辺一帯にひろがっていた。シャボテンに似た枝が、ぼくたちのいる家の窓ぎわに、洋紅色のふち飾りをつけた。そしてその後、この地方一帯にひろがり、とりわけ水の流れのあるところには、おびただしく繁茂しているのがながめられた。
火星人は聴覚器官とみられるものを所有している。頭の背後にある一枚のまるい太鼓の皮のようなものがそれだが、二個の目はわれわれのものと視力において大差がない。ただ、フィリップスの意見だと、青と紫とが、かれらには黒と見えるとのことである。そして、一般に信じられているところでは、かれら相互の伝達方法は、音と触手の動かし方にあるようだ。たとえば、あの有用な、しかし早急のうちに編纂されたパンフレット(これはあきらかに、火星人の活躍ぶりを目撃していない人物が描いたものだが)も、この点を明言している。このパンフレットについてはすでに述べておいたはずで、火星人に関しての主たるニュース源になっているのであった。
ところで、現在生きのこっている人間のうち、ぼくほど火星人の動きを観察しているものはないといえよう。もちろんそれは偶然のチャンスによるもので、ぼくには自慢する気持はないが、事実それを見たものである。そして、あいだをおいて、何度か精密に観察した。四つ、五つ、そしてある場合には、六個もあつまっていたかれらは、ナメクジのような匍匐《ほふく》動作で、おどろくほど精緻な共同作業をやってのけた。それも、音ひとつ立てず、それらしい身ぶりさえしないで。食事をとるまえ、きまって一種独特の咆哮をつづけた。それには、抑揚を欠いていたので、信号の意味はなかったものと思われる。ただ、吸収作用にさき立って、排気のための動作をおこなう必要があったのであろうか。
ぼくはこれでも、心理学の初歩的知識をそなえているつもりで、ほかの場合とおなじに確信をもっていうのだが、火星人は肉体的動作による媒介を用いずに、各自の思想を交換できるにちがいなかった。かつてのつよい先入観にもかかわらず、現在のぼくはその点を確信するにいたっている。事実、諸君のうちには、火星人の侵攻以前のぼくが、精神感応説にたいして、かなりはげしい批判を書いていたことをご記憶のことであろう。
火星人たちは衣服をつけていなかった。かれらの装飾についての観念は、当然のことながら、われわれのものとは大きく相違していた。それにまた、温度の変化について、われわれほど敏感でないばかりか、気圧の変動にしても、それほどその健康に影響をあたえなかった。衣服はつけなくても、ほかの種類の人工的付加物をからだにつけている点で、地球人にたいしての優越感をもっているともいえるのだった。われわれ人類が、やれ、自転車だ、やれ、ロード・スケーターだ、あるいはまた、リリエンタル式軽気球だとか、銃だの剣だの、なんだかだといってみたところで、火星人としては、はるかむかしに経過したところの文化の初期段階にすぎない。かれらは現実に、脳だけの存在に進化していて、地球人が服をつけ、いそぎの場合は自転車を利用し、雨が降ればコウモリをさすように、そのつど必要に応じて、それぞれ異った肉体を装うのだった。
かれらの工夫した用具のうち、なににも増して奇異に思われることは、地球人の発明した機械類の最大特徴であるものが欠けている事実――車輪が存在しないのだ。かれらが地球へもちきたったものはいろいろあるが、そのどれにも、車輪を使用した形跡とか、それを暗示しているものが見あたらない。すくなくとも交通にかんしては、だれの頭にも車輪がうかびあがるものだが、それが存在しないのである。もっとも、地球上にあっても、自然は車輪を思いつかなかったことを忘れてならない。不思議に思われるかもしれぬが、それが真実なのだ。自然はその進化の過程にあって、車輪以外の手段をえらんだ。火星人はそれを知らなかったか(これは信じられぬことである)、あるいはその使用をやめたのか、その詳細は不明だが、とにかくその機械には、固定した軸、もしくはある程度固定した軸を使用して、回転運動をひとつの平面に限定する方法が利用されていなかった。機械類のジョイントのほとんどすべてが、小さいが美しい曲面を描いている摩擦軸受《フリクション・ベアリング》の上をすべる複雑なシステムを示している。この点をいますこしく詳細に述べると、その機械についている長い槓桿《こうかん》は、多くの場合、弾力性のあるサヤにはめこまれた円盤状の擬似筋肉によって操作される。この円盤に電流が通じると、たちまちそこに磁性が生じて、たがいに力づよく索引しあうのだった。これによって、動物のそれと、奇妙なほど酷似した動きが行われる。それは見る人間をして、おどろかすに足るものがあった。このような擬似筋肉は、カニに似た自動機械にもおびただしくそなわっていて、ぼくが最初に崩れた壁の穴からのぞいたときも、それをさかんに活躍させて、シリンダーの在中物をとり出しているのだった。それはむしろ、火星人そのもの以上に、はるかに生き生きとうごいていた。実物の火星人のほうは、そのむこうの陽だまりに寝そべって、大きく息をつきながら、意味もなく触手をうごかしていた。長い宇宙旅行で、疲れきっていたのであろう。
陽を浴びながら、緩慢に動いている姿のうちに、その形態の異様な部分を詳細に観察していると、牧師補がぼくの腕をつよく引いた。ふりかえると、彼の渋面がそこにあった。無言でいるが、つき出した唇が雄弁にその気持を語っていた。彼もまた、外をのぞいてみたかったのだ。隙間がせまくて、ひとりしかのぞくことができないからで、ぼくはやむなく、しばらく火星人たちの観察をやめて、彼にもその特権を分けあたえることにした。
ぼくが二どめに、外へ目をやったとき、いそがしく働く自動機械は、シリンダーからとり出した部品を組み立てて、かれら自身とそっくりおなじ形態につくりあげていた。その左下方では、小型の掘鑿《くっさく》機械がせわしなく稼動しているのが見える。緑色の蒸気を吐きながら、竪坑の周囲をひろげては、機械的な方法で、掘り出した土を堤のように盛りあげているのだ。規則正しい音をたてては、ぼくたちがひそんでいる崩れかけた避難所をふるわせているリズミカルなショックは、これが原因だった。それはパイプをくわえ、口笛を吹きながら、仕事をつづけた。そこまでは見ることができたが、どうやら、火星人の指揮を必要としていないようすだった。
三 閉じこめられた毎日
第二の戦闘機械が到着したので、ぼくたちはそのぞき穴のある場所から、食器洗い場へ退却しなければならなかった。その身長からいって、火星人には、崩れ落ちた屋根越しにぼくたちを見ることができるかもしれないからだ。しかし、日がたつにつれて、ぼくたちもかれらの目に危険を感じなくなった。それというのも、陽光がぎらぎらしているところからでは、ぼくたちがひそんでいる場所はただの暗闇にすぎなかったからだ。だが、最初のうちは、かれらが近づくと、胸にはげしく動悸を打たせて、食器洗い場へ逃げこまずにいられなかった。ぼくたちをおそう危険が、どのように怖ろしいものであったにせよ、のぞいてみたいという欲望も、抵抗できぬ力をもっていた。いまでも、まざまざと記憶していることだが、そのときのぼくたちは、餓死とさらに危険な死とのあいだにはさまれながら、【見る】というおそろしい特権を行使するのに、いかにはげしく争いあったことか。ぼくたちはさきを争って、台所へいそいだ。しかもそれは、はやく行きつこうとする熱心さと、音を立てることを怖れる気持とのグロテスクな交錯だった。たがいに殴りあい、つきとばし、蹴とばしあい、あと、ほんの数インチで、からだをさらしてしまうのも忘れることがあった。
そのさい、なによりも問題だったのは、もともとぼくと彼との気質、思考と行動の習慣、すべてがあい入れないほどへだたっていたことで、それがこのような危険にさらされ、世間から隔離された場所に追いこまれたので、いっそう強められることになったのだ。すでにハリフォードで、ぼくはこの牧師補の、なんの役にも立たぬ叫び声や、愚かしいまでにかたくなな心を憎みはじめていた。いつまでも、とめどもなくひとりごとをつぶやいているので、ぼくの考えついた手段を行動に移そうにも、移すことができなかった。
その点、このように閉じこめられて、どうにもうごきようのない現在となると、ぼく自身気がくるうのではないかと考えるほどだった。愚かな女のように、自制心にかける男だった。泣かしておけば、何時間でも泣きつづけている。いわば彼は、あまやかされて育ったわがまま息子なのだ。いつまでも泣きつづけたあげく、その涙が有効にものをいうと考えているのであろうか。
ぼくは暗闇に坐ったまま、彼がしつこくいいつづける愚痴から気をそらすことができなかった。そのくせ彼は、ものを食べるとなると、ぼくなどの比でなかった。ぼくたちが生きのびる唯一のチャンスは、火星人が竪坑を掘りおえるまで、この家にひそんでいることにあり、食糧がなくなる危険を考えなければならぬと、再三再四、注意して聞かせたが、すべて無駄だった。彼は間隔をおいて、腹いっぱい食べ飲み、眠ることはほとんどないといってよかった。
日がたつにつれて、彼の無分別のために、ぼくの感じた苦悩と危険はふかまるばかりで、ついにぼくも、それを呪いだした。そして、威嚇手段をとることを考え、最後には、殴りあいにまで発展した。それで彼も、すこしは理性的な行動をとるようになったが、もともと彼は、気がよわいくせに虚栄心がつよく、小胆で陰性、神にも人にも、それから自身にも恥じてしかるべき小細工を弄しがちの、なんともいやらしい人間だった。
このようなことは、想いだすだけで不愉快になるが、ぼくとしては、この物語からなにひとつかくしておくのを好まない。人の世の暗くて恐ろしい面を味わわずにすんだ幸福な人々は、ぼくたちの最後の悲劇においてぼくのとった極端な行動を――それは憤怒のあまりの発作にすぎないのだが――非難することが容易であろう。その人々は、善悪の観念だけはもっているが、いじめぬかれた人間がどのような行動に出るかを承知していないのだ。しかし、一度は影をくぐったことのある人たち、最後の線まで追いつめられた経験のある人々は、もっと寛大な思いやりをもって、ぼくの行為を容認してくれることと思う。
そして、家の内部では、ぼくたちふたりが暗闇のなかで、声を殺して争いながら、食物と飲みものとを奪いあい、はては両手でつかみあい、なぐりあいをしているあいだに、家の外、容赦なく照りつける六月の陽光の下では、異様な光景、竪坑のなかでの火星人の見なれぬ作業がつづいていたのである。話をはじめて知ったこの新しい体験談にもどすと、かなりたってから、ぼくは思いきってのぞき穴からようすをうかがったが、他天界からの新来者は、すくなくとも三個の戦闘機械によって補強されていた。これらは、ある種の新しい道具をいっしょに運んできたとみえて、それがきちんと、シリンダーのそばにならべてある。第二の自動機械も、ほとんど組立てがおわろうとしているところで、戦闘機械がいそがしげに、運んできた新しい道具のひとつを操作している。それは、ふつう見かけるミルク罐に類似した本体の上に、梨型の容器が振動しているもので、そこから白い粉末が流れ出ては、下の円盆のなかにそそぎこんでいる。
この振動動作は、自動機械の触手のひとつによって、この道具に伝えられる。道具はヘラ状の手をふたつ使用して、粘土をさかんに掘り出しては、その上に据えてある梨型の容器に送りこむ。一方、もうひとつの腕が、一定の時間をおいて扉をあけ、機械の中心部から黒く銹びた金くそをとりのける。さらにまた、いまひとつの鋼鉄製の触手が働いて、例の円盆の粉末を、肋材つきの桶をとおして、青味がかったほこりの山で、ぼくのところからは見えないが、その影にある容器へ移しているのだった。そして、この見ることのできない容器からは、緑色のほそい煙が、しずかな空気のなかにまっすぐ立ちのぼっている。そうした観察をしているあいだに、自動機械は金属性の妙音をかすかにひびかせて、望遠鏡をのばすような格好で、粘土の山にかくれて見えなくなるまで、触手のひとつを、伸ばすのである。それは最前まで、ただの突出物だと思われていたものだった。つぎの瞬間、それはまた、白色のアルミニウムの棒を一本つまみあげていた。いまだに色がくもらずに、まばゆいばかりの光を放っているのだが、それを自動機械は、竪坑の側面においた。すでに同様の棒で山ができていて、それがしだいに高く積みあげられていく。日没から星がかがやきだすまでのあいだに、この精密な機械は粘土からつくりあげたアルミ棒を百本以上、そこに積みあげたようすで、青味がかったほこりの山は、ついに竪坑のふちを越えていた。
機械と道具が、このような敏速複雑な活動をつづけているのに、それらの主人たちは、力なく無器用に、あえぎつづけているだけだった。その対照があまりにも極端なので、その数日間、現実に生命をもっているのが後者だということを、ぼく自身に納得させるのに努力が必要だった。
最初に、何人かの人間たちが、この竪坑につれてこられた。それは牧師補が隙間からのぞいているときで、ぼくはその下にうずくまって、耳をすましていた。すると彼が、すばやい動作でうしろへさがった。みつけられたのかと、思わずぼくは恐怖心から身を伏せた。牧師補もまた、がらくたの山からすべり降りて、ぼくのそばに匍いよってきた。しばらくは暗闇のなかで、わけのわからぬことを身ぶりで伝えようとするのだが、ぼくとしては、恐怖感を分けあたえられただけだった。その身ぶりから想像するに、のぞき穴をぼくにゆずろうとするらしい。それでまた、ぼくの好奇心が恐怖に打ち勝った。勇を鼓して、からだをおこし、彼をまたいで、そこまでよじのぼった。
最初、彼がどうして、あのような気ちがいじみた行動をとったかわからなかった。いまは日が落ちきって、星の光も小さくかすかだが、竪坑はアルミニウム棒を製造するためにまたたく緑色の火で、あかるく照らし出されていた。その光景は、緑色の光輝とたえまなく移動する黒い影が交錯して、おそろしいほど異様にうつった。それを越え、それをつきぬけ、コウモリの群れが、平気な顔で飛びかっている。うず高くもりあげられた青い粉末の山で、火星人の姿は見ることができない。脚をちぢめた戦闘機械が小さくかたまった形で、竪坑のすみにうずくまっている。そして、機械のひびきかが高らかに鳴りわたるなかに、人間の声かと思われるものがながれてきた。ぼくは最初、それをうっかり聞きのがすところだった。
しかし、ぼくはそこにうずくまって、戦闘機械を精密に観察した。そして、このときはじめて、フードのなかに火星人がはいっているのを知って満足した。緑色の光がいちだんと映えたとき、火星人の外皮が油じみて光るのと、その目がきらきらかがやくのを見ることができた。そして急に、叫びを聞いた。それと同時に、一本のながい触手が、機械の肩ごしに、背中にのっている小さな籠にのびた。するとなにかが――はげしくもがいているなにかが――夜空を背景に、高くもちあげられた。星あかりで見る黒くぼんやりした謎の影。この黒い影がふたたび降りてきたのを、緑色の光のうちに見ると、なんと人間だった。一瞬のうちに、姿が明瞭になった。小肥りであから顔の中年男で、りっぱな服装をしている。三日前までは、社会人として、地位のある人物だったにちがいない。大きくみひらいた目と、カフス・ボタンと時計のクサリが光って見える。その男の姿は、土の山のうしろにかくされ、そのあとしばらく沈黙がつづいたが、またしても、悲鳴と、押し殺したような、それでいて、うれしそうな火星人の咆哮を耳にした。
ぼくはがらくたの山をすべり降りて、どうにか立ちあがり、耳をおさえて食器洗い場へ逃げこんだ。牧師補は無言のまま、頭をかかえてうずくまっていたが、ぼくがそばをとおりすぎると、大声をあげた。ぼくに捨てていかれると思ったからであろう。いそいであとを追ってきた。
その夜、ぼくたちは食器洗い場に身をひそめたまま、恐怖心と、もう一度のぞいてみたい誘惑との闘いに、うごくこともできなかった。なによりさきに、ここを逃げだすのが緊要事だと知っていたが、脱出の計画を立てようにも、考えがまとまらなかった。しかし、翌日になると、ぼくたちのおかれた位置がはっきりした。牧師補が相談相手にならぬことは、すでにわかっていた。つぎつぎとおこる残虐行為が、彼の理性と思慮を奪い去ってしまったのだ。
事実、彼は動物の水準まで低下していた。しかし、ぼくはぼく自身を両手で抱きしめていた。よくいわれるように、現実を直視することができると、かえって落着きをとりもどし、いかに現在の立場がおそろしいものであるにせよ、絶望しきるのははやすぎると感じるものである。ぼくたちの唯一のチャンスは、火星人たちは、この竪坑を一時的な宿営地にするだけのものかもしれぬというところにあった。もしかりに、永続的なものとなるにしても、警備のためにだれかが残るともかぎらない。そこに脱出のチャンスをつかむことができるかもしれないのだ。ぼくはまた、竪坑と反対方向に、坑道を掘っていく可能性を、入念に考えてみた。しかし、その方法では、かりに外へ出られたにしても、哨戒にあたっている戦闘機械の視野のうちにあるおそれが多分にあった。それに、坑を掘るとすれば、その作業にはぼくひとりであたらなければならぬであろう。すでに牧師補には失望を感じていたからである。
ぼくの記憶にあやまりがなければ、三日目になって、青年が殺されるのを見た。火星人が実際にものを食べるところを見たのは、そのときがはじめてだった。それを見たあと、その日の大部分、ぼくは壁の穴に近よることができなかった。食器洗い場にはいりこんで、ドアをしめ、手斧で坑掘りにとりかかった。できるだけ音を高めぬように、用心に用心をかさねたはずだが、二フィートほどのふかさに坑をひろげたところで、ゆるんだ土が、音を立てて崩れた。それで、その後の作業をつづける気がなくなった。絶望して、食器洗い場の床に身を伏せたまま、ながいあいだうごかなかった。うごく気力さえ失ったのだ。坑道を掘って脱出する計画は捨ててしまった。
火星人の行動の印象が強烈すぎたので、ぼくたち人間の努力でかれらを出しぬき、それによって脱出を計るプランは、可能性のないものと考えられた。そして、四日目か五日目のこと、砲声を聞いた。
それは、かなり夜が更けてからのことで、月があかるくかがやいていた。火星人たちは掘鑿機械の片づけをすませ、どこかへ姿を消していた。それにしても、竪坑のむこうの堤には、戦闘機械が立てかけてあるし、自動機械はぼくののぞき孔のすぐ下、竪坑のすみの目につかぬところへかくされているらしい。月光が白くながれて、かくされた自動機械が青味を帯びた光を放つのと、アルミの棒がきらめくほかは、竪坑を闇がつつんで、耳にひびくものといっても、自動機械が立てる金属性の音以外はなにもない。その夜は美しく晴れわたって、月だけが満天をひとり占めにしている感じだった。犬の遠吠えが聞こえている。その聞きなれた声に、ぼくは思わず耳をかたむけた。そのときである。きわめて明瞭に、ずしんというおもおもしい音――あきらかに大砲のひびきが伝わってきた。数えると六発聞こえた。そしてながい間をおいて、また六発。それでおわった。
四 牧師補の死
ぼくたちが閉じこめられて、六日目のことだった。ぼくは例によって、壁の隙間からのぞいていたが、そのときはじめて、そばに牧師補がいないことを知った。いつもはきまって、ぼくをおしのけ、隙間の前席をとろうとするのだが、きょうにかぎって、彼ひとり食器洗い場に退いていた。ぼくは急に思いついたことがあって、いそいでそこへ行ってみた。それでも、足をしのばせることは忘れなかった。行ってみると、暗闇のなかで、牧師補がなにかを飲んでいるけはいがする。その手をつかまえると、葡萄酒の瓶が指に触れた。
わずかの間だが、とっくみあいがつづいた。瓶は床にあたって砕けた。ぼくは争いを思いとどまって、立ちあがった。ふたりして息を切らしながら、にらみあった。けっきょく、ぼくは彼と食糧のあいだに立ちはだかって、これからは割当て制度にするといいわたし、戸棚の食糧を十日分ずつに区分した。その日は、それ以上食べさせなかった。午後になると、彼はまた食糧を手に入れようと、内緒でうごきだした。そのときぼくはうとうとしていたが、すぐに目をさまして、彼の動きをさまたげた。昼から夜にかけて、ぼくたちふたりはにらみあったままでいた。つかれてはいたが、ぼくの意志はかたかった。牧師補は意気地なく、腹がすいて苦しいと泣きわめくのだった。それが、夜からつぎの日までつづいた。いまだに忘れることができないが、それは永劫の時間のように、ながくながく感じられた。
この相容れない状態は、しだいにふかまるばかりで、ついにはあからさまな争闘にまで発展した。その後の二昼夜、ぼくたちは声を殺したまま、つかみあいの争いをつづけた。ぼくは気がくるったように、彼を殴り、蹴とばし、ときには、うまい言葉で説き伏せようともした。一度などは、最後にのこった葡萄酒の瓶を提供して、買収しようと考えたこともあった。水でがまんすれば、雨水ポンプから汲みとることができたからだ。しかし、そうした圧力も親切も、ついに成功しなかった。彼はすでに理性を失っていて、食糧を急襲することと、ひとりぶつぶつつぶやくことを、やめようとしなかった。この監禁状態を切りぬけるための、ごく初歩的な配慮さえ守ろうとしなかったのだ。ぼくもしだいに、彼の頭脳が完全にくるっていることに気づいてきた。病的といってよいほど無気味な暗闇に、ぼくは狂人相手にとじこめられているのだった。
漠然とした記憶であるが、そのときのぼく自身が、ときどき怪しくなっていたようにも思われる。眠ればかならずおそろしい夢にうなされた。逆説的に聞こえるかもしれぬが、そばに意志のよわい半狂人がいたからこそ、ぼくは心をひきしめ、正気にとどまっていられたのであろう。
八日目になると、もはや彼は、小声でささやいてはいなかった。大声でわめきちらして、いくら制止しても効果がなかった。
「これは正しいことだ。おお、神よ!」彼はくりかえしいうのだった。「当然のむくいだ。われわれの上に、正しい罰がくだされた。われわれは罪を犯している。われわれには欠点が多い。貧困があり、悲しみがある。貧しき者が塵のなかに踏みにじられているとき、われわれは安穏な生活を送っていた。立ちあがって、たとえそのために死を招こうとも、悔いあらためよとさけぶべきときに、耳にこころよいばかりで、なんの足しにもならぬ説教をつづけていた。愚にもつかぬ言葉を――おお、神よ! なんという愚劣さ!……貧しき者と、くるしむ者をしいたげる者……神の葡萄酒をしぼりとる者!」
そうかと思うと、急に問題を一転して、ぼくがとりあげた食糧をわたしてくれと、泣きわめき、哀願して、はては脅迫的な態度に出たりして、その声は大きくなる一方だった――ぼくはやむをえず、声をひくめるように、頼まなければならなかった。しかし、彼はそれで、ぼくの弱味をにぎったと知ると、もっと声を大きくして、火星人に知らせてやるぞとおどすのだった。しばらくは、ぼくも負けていなければならなかった。しかし譲歩することは、それだけ脱出のチャンスをすくなくする。そこでぼくは、実際さけびかねないこの男の要求を、あえて無視することにした。その日は無事にすんだが、翌日にかけて、彼はまたその声を、徐々にではあるが大きくしていった――脅迫と哀願がないまざって、半狂乱のたわごとがつづく。神へのつとめが空虚でいつわりであったことを懺悔するのだった。それから、しばらく眠ったと思うと、新しく力を回復して、いっそう声を大にしてさけびたてる。いまはぼくも、放っておくわけにいかなかった。
「しずかにしてくれ!」いちおうは哀願してみた。
すると、炊事がまのそばの暗闇に腰掛けていた彼は立ちあがって、
「ずいぶんながいあいだ、静かにしていたじゃないか」と、竪坑にもとどくくらいの声を出した。「いまこそわたしは、証《あかし》にならねばならぬ。この不実の市にわざわいあれ! わざわい! わざいわい! わざわい! わざいわい! あやまれるラッパを吹き鳴らした地上の民にわざわいあれ――」
「だまってくれ!」ぼくは火星人に聞かれることを怖れて立ちあがった。「たのむから――」
「いやだ!」牧師補は声いっぱいはりあげてさけんだ。ぼくとおなじに立ちあがって、両手をのばして、「語れ! 神の言葉、わが上にあり!」
そして彼は、大股に歩きだした。わずか三歩で、台所に通じる戸口にいた。
「証《あかし》とならねばならぬ! わたしは行く! あまりにも逡巡しすぎた」
手をのばすと、壁にかかっている肉切り庖丁が触れた。つぎの瞬間、ぼくは彼のあとを追っていた。恐怖心によって、ぼく自身、逆上していたのだ。彼が台所のなかばまで達しないうちに、つかまえることができた。最後の人間愛で、ぼくは刃の背を返して、峰打ちをくらわした。彼はまえにつんのめり、床に伸びてしまった。ぼくはそれにつまずいたが、すぐに起きあがって、あらあらしく息をついた。相手は倒れたままうごくようすがなかった。
急に、外で物音を聞いた。走りまわる足音、すべり落ちたしっくいを踏み砕く音。同時に、壁にできていた三角形の隙間がくらくなった。見あげると、自動機械の下のほうの部分が、ゆっくりと隙間の前面をとおりすぎていく。ものをつかむ脚のひとつが、がらくたの山のあいだをうねっている。ほかの脚もあらわれて、それは落下した梁のあいだをさぐっている。ぼくは眼をみはって、石になったように立ちすくんだ。つづいてぼくは、胴体のはしにちかいところにあるガラス板をとおして、火星人の顔を――と呼んでいいであろう――見た。大きな黒い眼がのぞいているのだった。そして、長い金属製の触手が、蛇のような動きで、ゆっくりと隙間へはいりこんでくる。
ぼくはやっとのおもいで、身をひるがえして逃げだした。またも牧師補のからだにつまずいたが、走りださずにはいられなかった。食器洗い場の戸口まで逃げのびると、触手が室内にのびているのを見て、立ちどまってしまった。二ヤードかそれ以上はいりこんでいる、それが、うねうねとうねったかと思うと、急速な動作にかわって、あちこちとうごきはじめた。ぼくもしばらくは、その異様な動きに――あるいはのろく、あるいは痙攣的に、すばやく移動した――魅せられて、立ちどまったままみつめていた。しかし、喉がつまったような叫びをかすかにあげて、ぼくは食器洗い場にとびこんだ。五体がはげしくふるえて、まっすぐ立っていることもできない。石炭置場のドアをあけて、なかの暗闇にもぐりこみ、かすかに戸口を通して、台所をみつめ、耳をすました。火星人はぼくを見つけたであろうか? あれはいったい、なにをしているのだろうか?
なにかが、あちこちとうごきまわっている。しずかな動きで音も立てないが、ときどき壁にぶつかって、はたはた鳴っている。と思うと、鍵束の鍵がふれあうような金属製の音をひびかせては、敏速な行動に移ることもある。そのうちに、重いからだを――それがなんであるか、ぼくはじゅうぶん承知していた――隙間のほうへと、台所の床をひきずっていった。ぼくは誘惑に抗しかねて、戸口のなかをのぞきこんだ。そして、隙間からさしこむ三角形の外光の下に、火星人の姿を見た。百本の手をもつ巨人に似た自動機械のなかから、牧師補の頭をあらためているところだった。ぼくは一瞬ハッとした。彼の頭の傷から、ぼくがいっしょにいることを悟られたらどうしよう。
ぼくは石炭置場にひっかえして、ドアをしめ、暗闇のなかに息を殺した。できるだけ音を立てぬように、薪と石炭のあいだにもぐりこんだのだ。そのあいだにも、ときどき動きをとめては、からだを緊張させ、火星人がその触手を、壁の隙間から匍いこませてくるのでないかと、耳をそばだてた。
やがて、金属性の音がまた聞えてきた。その動きをたどると、ゆっくり台所の床を匍ってくるのがわかる。近くに聞こえたので、食器洗い場へはいりこんだと判断した。その長さからして、ここまではとどくまいが、ぼくは必死に神に祈った。それは石炭置場のドアをこすっただけで、通りすぎていった。そのあいだの時間が、いかに長かったことか! 耐えることもできぬサスペンス! いまはそれがドアのかけ金をいじっている。ついにドアを発見したのだ! 火星人は、ドアというものの意味を知ったのだ!
それは一分ほど、かけ金をいじっていた。そして、ドアがあいた。
暗闇のなかでも、ぼくには見ることができた――象の鼻に似たそれが、ゆうゆうとうごきながら、ぼくのほうへむかってくる。壁にさわって、たしかめている。それから、石炭、薪、天井と……黒いいも虫が、眼のない頭をあちこちとゆすっている格好だ。
一度などは、ぼくの靴のかかとに触れた。ぼくはあやうく悲鳴をあげるところだった。手を咬んでかろうじてこらえた。すこしのあいだ、触手は音を立てなかった。もどっていったのかと思いかけたところに、急に、カチッという音がして、それがなにかをつかんだ――ぼく自身が捕えられたかと思った――だがそれだけで、相手は石炭置場から出ていくように思われた。しかし、しばらくはぼくにも自信がなかった。どうやら石炭のひとかたまりを、検査するためにつかんだものらしい。
ぼくはそのあいだに、かくれている位置をすこし移動する機会をつかんだ。すると石炭が、がらがらと音を立てたので、耳をすまして、ようすをうかがわねばならなかった。ぼくはひたすら身の安全を祈った。
するとまた、それが慎重なうごきで、ぼくのほうへ匍いよってくる。ゆっくり、ゆっくり、しだいに近づいて、壁をひっかき、用度品の類をたたいている。
どうなることかと、ふるえながらひそんでいると、それはいきなり、石炭置場のドアをたたいて、閉めてしまった。つづいて、配膳室へはいりこんでいく音がした。ビスケットの罐がころがり、瓶が砕けた。そのあと、なにかおもいものが、石炭置場のドアにぶつかった。沈黙。そして、不安の時間がはてしなくつづいた。
行ってしまったのだろうか?
最後にぼくは、行ってしまったものと判断した。
それは二度と、食器洗い場にもはいってこなかった。しかし、ぼくはその十日目を、しめきった石炭置場の暗闇ですごした。石炭と薪のなかに身をひそめて、喉が火のようにかわいても、水を飲みにさえ出なかった。そのかくれ場所から、ぼくがあえて立ち出たのは、十一日目になってからだった。
五 静寂
ぼくが配膳室にはいるまえにとった行動は、台所と食器洗い場をつなぐドアを、厳重にしめきることだった。しかし、配膳室のなかには、食糧はひとかけらも残っていなかった。あきらかに火星人が、毎日、ことごとくさらっていったもののようだ。それと知って、最初ぼくは失望を感じた。十一日目と十二日目は、飲まず食わずですごさねばならなかった。
そしてはじめは、口と喉とが灼けるような感じで、全身の力がぬけていくのがはっきりとわかった。ぼくは食器洗い場の暗闇に坐りこんで、完全に気落ちのした状態だった。考えることは、食糧の問題だけで、そのうえ、つんぼになったのかと思ったのはたえず耳にしていた竪坑からの聞きなれた音が、ぴたっと絶えてしまったからだ。しかし、現在のぼくのからだには、のぞき穴まで匍っていく力も残っていなかった。できさえすれば、見にいかぬわけにはいかなかったのだが。
十二日目になると、喉がかわきすぎて、その痛みに耐えかね、火星人にさとられる危険も考えていられなくなった。思いきって、流し場のそばにある雨水ポンプのところまで忍んでいって、煤けて黒く色のかわった雨水を、グラスに二はい飲みほした。それが喉にとおると、生きかえった気持になり、ポンプの音を立てても、執念ぶかい触手が追ってこないのを知って、とたんに大胆になっていった。
それらの一日々々を、ぼくの頭はとりとめのないことばかり考えていた。その大部分は、いうまでもなく牧師補とその死のことだった。
十三日目には、もっと大量の水を飲んだ。そして、うとうとしながら、断片的に、食糧のこととか、できそうにもない脱出計画を考えてみるのだった。眠るたびに、おそろしい夢魔におびやかされ、牧師補の死になやまされた。そうかと思うと、豪奢な晩餐が眼のまえにちらつくこともあった。しかし、眠っていても、目がさめていても、たえずはげしくなやまされたのは、もっと水を飲みたいという欲求だった。いつか食器洗い場にさしこむ光線が、灰色から赤い色にかわっていた。ぼくの混乱した頭では、血の色としか考えられなかった。
十四日目、ぼくは台所へはいってみた。すると、おどろいたことに、外には、赤い草の葉が生い繁って、例の隙間をおおいかくしている。そのために、部屋にさしこむ陽の光が、深紅の色にかわっているのだった。
十五日目の朝はやくだが、ぼくは台所に、異様なしかし聞きなれた音がするのを聞きつけた。耳をすまして、それが犬のくんくんいう声と、足でひっかく音なのを知った。いそいで台所へ行ってみると、赤い草の葉のあいだから、犬の鼻がのぞいている。ぼくとしても、これほどおどろいたことはなかった。ぼくのにおいを嗅ぎつけると、犬はみじかく吠えたてた。
こいつを、できるだけそっと、なかへ誘いこめば、たぶん殺して、食糧にすることができよう。どちらにしろ、殺してしまう必要がある。こいつの動きが、火星人の注意をひいたら危険なのだ。
ぼくはそっと前へ出て、やさしく呼んでみた。が、やつはすぐに頭をひっこめて、そのまま姿を消してしまった。
ぼくはまた、聴き耳を立てた。つんぼになったのでないと知ったからだ。だが、竪坑で音のしないことはたしかだった。鳥の羽ばたく音と、しゃがれた鳴き声を聞いたが、それだけだった。
ながいあいだ、ぼくはのぞき穴に、ぴったり身をよせていたが、外をのぞくにじゃまになっても、赤い草をわきへよせるだけの度胸はなかった。一度か二度、すぐ前方の砂の上を、あちこちとびまわっている犬の足音らしいのを聞いたし、さらに鳥らしいものの動きを知ったが、それが物音のすべてだった。いつまでもしずまりかえっているので、ぼくはついに、勇を揮って外をのぞいた。
片すみに、カラスの大群があつまって、火星人が血を吸いつくした死骸の上に羽ばたいているほか、竪坑のなかには生きているものはなにもなかった。
ぼくはあたりを見まわして、自分の目を信じることができなかった。機械類はことごとく影を消していた。片すみに、青味がかった粉末の山が大きく積みあげられ、もう一方のすみに、アルミニウムの棒がうず高くなっているところは、以前とすこしの変りもないが、あとはカラスの群れと、殺された人間の死骸をのぞいて、このまるい竪坑は、砂地のなかで、完全に主のない状態に残されていた。
ぼくはそっと赤い草のあいだをぬけ出し、砕けた煉瓦の山の上に立った。背後にあたる北の方角をのぞいて、あらゆる方向を見わたすことができたが、火星人の姿はもちろん、その痕跡さえ見あたらなかった。竪坑はぼくの足もとから、切り立ったように掘り下げられ、砕けた煉瓦のあいだをすこしすすむと、傾斜のゆるい場所があり、もりあげられた山の上にのぼることができる。脱出のチャンスが到来したのだ。ぼくは思わず身ぶるいした。
ちょっとの間ためらってはいたが、決意をかためると、心臓の動悸がはげしくなってきた。ぼくはそれから、ながいあいだ閉じこめられていた土砂の山を、頂上さしてよじのぼりだした。
そこで、もう一度見わたしてみた。こんどは、北の方角へも眼をやったが、火星人のいるようすはない。
このまえ、白昼の陽光のうち、このシーンの町を見たときは、白や赤の裕福そうな建物がまばらにならんで、そのあいだを影の多い木立が埋め、見るからに美しい町筋だった。しかし、いま土砂の山の上に立ってみると、どの家の煉瓦も崩れ落ち、粘土と砂利が氾濫し、その上に、まっ赤なサボテンに似た植物が、おどろくばかりの勢いで繁茂している。高さはひざほどもあろうか。地球上の植物は、それと成長の土壌を争うことができなかったと見えた。げんに、ぼくのそばにある木々は、どれもみな枯れきって、枝葉を茶色に変えていた。もうすこしさきでは、赤いつる草が網の目のようにのびて、いまだに生き残っている樹幹にからみついていた。
近くの家はことごとく破壊されているが、火を出したのは一軒もない。壁はそのままであり、なかには、二階のあたりまで残っているものもある。そのかわり、窓という窓、ドアというドアはこわれ、屋根を失った部屋々々へ、赤い草が匍いこんでいる。ぼくの足もとは、ふかい竪坑だった。そこでカラスの群れが死骸をつついている。ほかの鳥もおびただしくあつまって、廃墟のあいだを飛びまわっている。はるか遠くに、痩せ猫が一匹、壁に沿って、しのび足であるいているだけで、人影らしいものはまったくなかった。
いままで暗闇のなかに閉じこめられていたので、陽の光がくらくらするほど目にあかるく、まっ青な空も、ぎらぎらとかがやいている。心地よい微風が、あらゆる空地のすみずみまで生い茂った赤い草を、しずかにゆりうごかしているのが見える。なんという空気のかぐわしさ!
六 十五日目の出来事
しばらくのあいだ、ぼくは土砂の山の上に、足もとの危険も忘れ、よろめきながら立っていた。悪臭ただよう穴ぐらにひそんでいたあいだ、ぼくはさしあたっての身の安全だけにおもいを馳せ、そのあいだに、外界がこうまで異様な変化をしていたことに気づかなかった。廃墟になってはいても、昔ながらの町を見るものと予期していたのだが――現在、ぼくの眼のまえに展開しているのは、無気味なまでに毒々しい色彩につつまれた、いわば他天体の世界だった。
その瞬間、ぼくは人類が通常経験するところを超えた感情を味わった。それはわれわれに征服された哀れな動物たちだけが知っているものだった。たとえば、ウサギがその巣にもどってくると、そこでは家を建てるための基礎工事がはじまっていて、十人あまりの土工たちが、いそがしそうに地ならししているのを見たときの気持といおうか。ぼくをおそったその気持は、しだいに明瞭な形をとって、その後のながい月日、ぼくの心をくるしめつづけた。王座を追われた感じ、もはやわれわれ人類は、万物を支配するこの世の主ではない。火星人のかかとに踏みつけられているみじめな存在、いわばけものたちの一匹にすぎぬという意識である。けものたちとおなじことが、われわれについてもいえるのだ。ひそみ、かくれ、そして、支配者たちの鼻息をうかがい、すぐにまた、逃げかくれる。人類の威力と支配は失われてしまったのだ。
しかし、この異様な気分は、感じとるよりはやく、消えていった。かわってぼくの心を占領したものは、ながいあいだの不愉快な絶食の結果として、当然のことながら灼けつくような飢餓感だった。竪坑から眼をそらすと、赤い色の草におおわれた塀のむこうに、土砂に埋っていないいくらかの菜園が見えた。これにヒントをえて、ぼくはひざを没する赤い草を踏み分け、ときには首までかくれるなかを通りぬけ、そちらへむかっていった。草の生い茂っているのが、まさかのときにはかくれるのに好都合と、安心感をあたえてくれた。塀の高さは六フィートほどあったが、ぼくはそれを乗り越えようとして、はじめて足に、それだけの力がなくなっているのを知った。そこで、それを迂回して、角のところまでいくと、築山《つきやま》があった。その頂上へのぼった。頂きまでたどりつけば、あとは目指す菜園まで、すべり降りることができるのだ。
ここでぼくは、いくつかの新しい玉ねぎと、グラジオラスの球根を二個、まだ熟していないにんじんをたくさん、手に入れることができた。それから、こわれた塀をよじのぼり、深紅につつまれた木々のあいだを縫って、キューの方向へ歩きだした――それはまるで、巨大な血のしたたりがそのまま凍りついて、並木道になったという感じだった――ぼくはふたつの考えをいだいて、そこを通りぬけた。ひとつの考えは、もっとたくさん食糧を手に入れたいねがい。いまひとつは、ぼくの体力のゆるすかぎり、できるだけすみやかに、呪われた他天界の地域である竪坑から遠去かりたい気持だった。
しばらく行くと、草地に出た。そこで、キノコがいくつか首を出しているのをみつけて、むさぼり食った。さらにすすむと、かつては牧場であったところで、茶色のシーツを敷きつめたように、浅いが一面に水があふれている個所を発見した。しかし、こうしてわずかばかりの食べものを口にしたために、その後はかえって、飢餓が熾烈《しれつ》になった。暑い乾ききった夏の日に、水が氾濫しているのを見て、はじめはその意外さにおどろいたが、やがてそれが、例の赤い草の、熱帯地方にでも見るような猛烈な繁茂ぶりに原因しているのを知った。もともと異常な繁殖力をもつその赤色草は、水の所在にぶつかると、たちまち繁茂ぶりを増大して、驚くばかりの勢いを示したものらしい。種子が水に落ちて、ウェイ河とテムズ河へながれこんだばかりに、急速に水中で繁茂したその葉の群れが、ふたつの河をせきとめてしまったのだ。
その後、パトニーで見たことだが、橋までがこの草の茂みにかくれて、その所在がわからなくなっていた。リッチモンドにもおなじ現象があった。テムズ河の水流があふれて、ハンプトンとトウィックナムの牧場を水びたしにしていた。水がひろがるにつれて、草がそれにつづき、ついにはテムズ河峡谷にのこったいくつかの別荘まで、赤色の沼地に没し去った。ぼくはその沼のふちに沿ってすすんでいったのだが、火星人が原因をあたえた無残な荒廃の跡も、それによっておおいかくされていた。
しかし、この赤い草の茂みも、ひろがるだけひろがると、きわめて迅速に枯れていった。一般に信じられていることだが、ある種の細菌がそれに作用して、腐蝕性による病気が勝利をえたのだ。現在、自然淘汰の作用によって、地球上の植物は細菌による病気につよい抗性を獲得している。よほどの闘争がないかぎり、植物は枯死しないものだ。しかし、それに反して、赤い草はひとたまりもなく腐っていった。葉群れは白茶け、ちぢれてもろくなった。ちょっと触れただけで、ぼろぼろになって散った。繁殖の初期にあって、成長に刺激をあたえた水の流れが、その最後の残骸を、海へむかって運び去っていた。
水ぎわまできて、ぼくがなによりさきにとった行動は、いうまでもなく、喉のかわきを癒《いや》すことだった。水を大量に飲むと、衝動にかられて、赤い草の葉をすこし噛んでみた。それは水っぽく、病的な金属性の味がした。水はきわめてあさく、赤色の草が足にからんで、歩きにくかったが、徒渉《としょう》するに心配のない程度である。しかし、河の方向にすすむと、たしかに流れはふかくなる。そこでぼくはひっかえして、モートレイクへむかった。ところどころに残っている破壊された別荘とか、生垣、街燈のたぐいを目安に、どうにか道をさがしあてて、やがては氾濫地帯をぬけ出ることができた。そのあと、ロウハンプトンさして山道をよじのぼり、パトニー公有地へ出ることができた。
ここで舞台は、それまでの奇怪で見慣れぬ光景から、いつもながめてきたものの荒れはてた姿にかわった。残虐なあらしのすぎ去ったあとで、さらに数十ヤードすすめば、無事にとどまっている場所に出ることができるはずだ。家々はブラインドをおろし、ドアをかたくとざしていた。ちょうどそれは、あるじがその日一日、留守をするために戸閉めにしたか、ないしは屋内で眠っているといった感じだった。赤い草も、このあたりでは、それほどの猛威を揮っていない。道をはさんで、両がわに立ちならぶ木々にしても、赤いつる草にからみつかれてはいなかった。
森へ足を入れて、なにか食べられるものはないかとさがしてみたが、これといったものは見あたらなかった。そしてまた、あるじのいない家を、二軒ほどおそってみたが、すでにだれかが侵入して、掠奪したあとだった。その日ののこりを、潅木の茂みにもぐりこんで、休息にあてた。閉じこめられた日々のために、からだは思いのほか衰弱していて、それ以上歩みつづけるには、あまりにも疲労がはげしかったのだ。
このあいだ、ぼくは人間の影を見かけなかったし、火星人のけはいも感じなかった。出会ったのは、飢えきっていると思われる犬が二匹。これは二匹とも、ぼくが近づくと、すばやく身を避けて逃げていった。ロウハンプトンの近くで、人間の骸骨をふたつ見た。死骸ではなくて、きれいに肉をつつかれ、骨だけが残っている骸骨だった。森のなかにも、何匹かの猫とウサギの骨が、砕けたままでころがっていたし、羊の頭蓋骨まで発見された。ぼくはそれらの骨のいくつかをかじってみたが、肉といえるものは、すこしもついていなかった。
日没後、やっとのおもいで立ちあがり、パトニーの方向へ歩きだした。思うにそこは、なにかの理由で熱線が用いられたようだ。ロウハンプトンの町を出たところの菜園で、まだ採るにはすこしはやいが、じゃがいもを数多く手に入れた。この菜園から見下ろすと、パトニーの町と河とがながめられた。夕もやにつつまれた町のようすは、奇妙なくらい荒れはてていた。黒く色を変えた木々、黒く崩れ落ちた家々、丘のふもとには、シーツを敷いたように水が氾濫し、それを奇怪な草が、まっ赤に染めあげている。そして、それらをつつんで、沈黙が支配していた。このように急激に、もののすべてを荒らしつくす変化が生じたことを考えると、いいようのない恐怖感におそわれるのだった。
しばらくのあいだ、ぼくはすべての人類が、あとかたもなく消え失せたのかと疑いながら、そこにひとり、たたずんでいた。最後まで生きながらえることのできたのは、わずかにぼくひとりであるのか……パトニー・ヒルの頂上近くで、またひとつ、骸骨を発見した。両腕がひきもがれ、からだのほかの部分から、何ヤードかさきにころがっていた。すすむにつれて、人類は絶滅したにちがいないとのぼくの確信は、しだいにつよまっていくのだった。生き残っているのは、ぼくのように落伍した者だけで、すくなくとも地球上のこの部分では、悲劇が完成してしまったにちがいない。火星人はこの国にのりこみ、それが荒廃したとみると、ふたたび食を求めて、ほかの土地へ去ったのであろう。目下はおそらく、ベルリンかパリを破壊しつつあるのではないか。でなければ、もっと北方を目指したのかもしれない。
七 パトニー・ヒルの男
ぼくはその夜を、パトニー・ヒルの頂上の旅館ですごした。ちゃんとしたベッドで眠ったのは、レザーヘッドへむかって逃げだしてから、そのときがはじめてだった。どんなぐあいにして旅館にはいりこんだか、そのいきさつは述べるほどのことでない。要するに、無駄骨を相当折らされたわけで、あとでわかったところだと、玄関のドアはかけ金だけで、鍵はかかっていなかったのだ。
部屋から部屋と食糧をさがしあるき、これも無駄骨かとがっかりしかけたところ、従業員の部屋と思われるところで、ネズミがかじりのこしたパンのかけらと、パイナップルの罐を二個発見した。この建物は完全に掠奪ずみで、からにされていたのだった。それでもあとになって、酒場でビスケットとサンドウィッチをさがしだした。荒らしていった連中が見落としたものであろう。サンドウィッチは腐敗の程度がはげしくて、口へ入れることもできなかったが、ビスケットのほうは、飢えを満たしてくれたばかりか、ポケットまでいっぱいにする量があった。日が暮れても、あかりはともさなかった。ロンドンも近いことで、夜間は火星人が、食糧さがしにあらわれないともかぎらないからだ。ベッドへはいるまえ、かなりの時間を休息に割いて、窓の外をたしかめてあるいた。火星人のうろついているようすはないかと、調べてまわったのだ。
眠ることは、ほとんどできなかった。ベッドによこたわると、つぎからつぎと考えがうかんでくる。牧師補と最後に議論しあってから、一度も経験しなかったことなのだ。あれからこちら、ぼくの精神状態はばく然とした感情のうごきに左右されて、眼にはいるものをそのまま受け入れていたにすぎなかった。この夜はじめて――おそらくは飢えが満たされたので、力がついたからであろう――ふたたび頭が冴えてきて、思考能力を回復したのだった。
三つの事柄が、頭のなかでひしめきあっていた。牧師補を殺したこと、火星人の所在、そして、妻の身におきたであろう出来ごとだった。第一の事件を思いおこしても、なんの恐怖感も後悔の念もよみがえらなかった。ただ単純に、過ぎ去った出来ごととして、考えるだけである。不愉快なことはこのうえもないのだが、後悔に身を責められる記憶ではない。あのときのぼくは――いまでも、ある程度はおなじことだが――一段落ずつ、軽率な一撃へと追いたてられていく環境に支配されずにいられぬ生物であったのだ。したがって、罪の意識はいささかもない。ただ、その記憶だけが固定して、発展はしないにしても、たえず脳裡に去来した。このように夜の沈黙につつまれると、静寂と暗闇のうちに生じる、神の近くにいるとの意識にうながされて、ぼくは審きの庭に立つのだった。
憤怒と恐怖の瞬間だった。彼がぼくのそばにうずくまって、ぼくが喉の渇きになやまされているのも無視して、ウェイブリッジの廃墟から立ちのぼる火と煙を指さしていたときから、最後の場面にいたるまでの、ぼくたち二人のあいだにかわされた会話が、一語一語思いだされてくるのだった。ぼくたちは協力することができなかった。残虐な現実が、それをゆるさなかったのだ。ハリフォードで別れるのがほんとうだった。ぼくには予見する力がなかった。罪とは、予見してしかも実行することをいう。ぼくはそのいきさつを、この物語のどの部分もそうであるように、ありのままに記述しておいた。目撃者がいるわけではないから、かくしておけばおけるのだが、ぼくはあえて記した。あとは読者の判断にまかせるとしよう。
そして、やっとのことに、床の上にたおれた彼の姿を、頭から遠ざけることができると、こんどは火星人の問題と妻の運命が目のまえにうかんできた。火星人の所在については、判断の資料がないだけに、さまざまな場合を考えずにいられなかった。そして、不幸なことに、妻の運命についても、おなじことがいえた。するとたちまち、しずかな夜はおそろしいものと変った。ぼくはベッドに起きあがって、暗闇をみつめるのだった。
そして、いつかぼくは、熱線がいきなり彼女をおそって、なんの苦痛もあたえず、一挙にその生命を奪い去ってくれたことをねがった。あの夜レザーヘッドからひっかえして以来、一度も神に祈ったことがなかった。ぼくは従来、難局に立たされると、いつもきまって、声をあげて祈る習慣があった。異教徒が呪文をとなえるように、狂信的な祈りをあげるのだった。そしてそれを、いまここで祈った。冴えをとりもどした意識で、わきめもふらず祈りつづけた。神の大いなる闇を直視して……不思議な夜!
そして、もっとも不思議だったことは、その夜を神と語らってすごしたぼくであるのに、夜があけると同時に、ネズミがかくれ穴から匍いだすように、こそこそとその旅館を逃げだしたのだ。――ネズミ同様の、いや、それ以下の動物。火星人たちの眼に触れれば、かれらの気まぐれひとつで、かんたんに殺されてしまう存在として。ネズミたちにしても、われわれ同様、神に祈ることを知っているかもしれぬ。たしかに、ぼくたちがこの戦争で学びとったことは、ほかのなににもまして、憐れみという感情だった――われわれの支配にくるしんでいるこれら無知なたましいにたいする憐れみ!
朝はきれいに晴れあがって、ピンク色にかがやく東の空に、金色の小さな雲が浮かんでいた。パトニー・ヒルの頂きからウインブルドンにむかう道路には、戦争がはじまった日曜日の夜、恐怖におののいた人々の群れが、ロンドン方向にながれていった跡が残っていた。小型の二輪馬車が、車輪の片方を砕かれたまま錫《すず》のトランクといっしょに捨ててある。車体に記した名前で、ニュー・モルドンの八百屋、トマス・ロブの所有物であることがわかる。ぬかるんだ泥もいまはかたまっているが、そこに、麦ワラ帽が踏みにじられて落ちている。ウエスト・ヒルの頂上では、ひっくりかえった水槽のまわりに、血に染まったガラスが散乱していた。
ぼくの足はおもかった。行くさきの見当がついていないからである。レザーヘッドへ行ってみる気でいるが、妻と出会うことができるとも考えられない。急襲されたのでなければ、妻や|いとこ《ヽヽヽ》たちは逃げのびているとも考えられるが、どの方面へ逃げたか聞きだすことができようか。ぼくは妻の身の上を思い、人間そのものの世界を思って、心を痛めた。妻に会いたい気持ばかりはげしく、どうやって見出すことができるのかは、見当もつかぬ状態だった。それにまた、はげしい孤独感にもなやまされた。道かどをまがると、ふかい林になって、そのさきは、遠くはるかにひろがるウインブルドンの公有地につづいていた。
陽の光をさえぎって、いまだにうす暗い林の道は、ところどころに、ハリエニシダやエニシダの花を黄色く咲かせていた。ここでは、例の赤色草は見られなかった。空地のはずれを、ためらいがちにすすんでいくうちに、太陽が高くのぼって、あたり一面、生きかえったようなあかるさに照らしだされた。木立のあいだの沼地のようなところでは、せわしなくうごめいている小さなカエルの群れに出会って、それを観察するため、足をとめた。そしてかれらのたくましい生活力から、教訓を学びとった。
やがて、だれかに見られているけはいを感じて、急にふりかえってみた。すると、潅木の茂みのなかに、匍いつくばっているものの姿をみとめた。それに目をすえたまま、一歩すすむと、相手も立ちあがった。短剣を手にした男だった。ぼくはゆっくり、近よっていった。相手はうごこうともせず、ぼくをみつめたまま、つっ立っている。
なおも近づくと、この男、ぼく同様にほこりに汚れた服を着ているのがわかった。下水道からひきずり出されたような格好だった。かわいた粘土やピカピカ光る石炭殻らしいものが、みどり色のどぶ泥にまじってくっついている。まっ黒な頭髪が眼をおおい、顔もうすぐろくよごれて、やつれきっていたので、そのときのぼくには、相手を見定めることができなかった。顔の下半分に、赤い傷あとまでついている。
「とまれ!」ぼくが十ヤードほどのところまで近よると、彼はさけんだ。そこで、ぼくは足をとめた。相手の声は、しゃがれていた。「どこからきたんだ?」彼はつづけてきいた。
ぼくは彼をみつめながら考えていたが、「モートレイクからきた」と、こたえた。「シリンダーのまわりに火星人がつくった竪坑のために、とじこめられたかたちになっていたが、やっとのおもいで逃げだしてきた」
「このへんには、食べるものなんかないぞ」彼はいった。「ここはおれの領分なんだ。この丘から河までのあいだと、うしろはクラパムまでだ。そうそう、この上は公有地のはずれまでだ。そのあいだ、食べるものは、おれひとりの分だ。で、おまえ、どっちへ行くつもりだ?」
ぼくはゆっくりこたえた。
「それが、はっきりしないのさ。なにしろ、十三、四日にわたって、半ごわれの家にとじこめられていたんでね、外のようすがわからんのだ」
彼はぼくの顔を、いぶかしそうにながめていたが、やがて、ぎくっとしたように、顔の表情を変えた。
ぼくはつづけていった。「このへんにとどまっている気持は、ぼくにはない。レザーヘッドへ行こうと思っている。あそこに、妻がいたのでね」
彼はいきなり、指をつきつけて、
「あんただったのか」と、いった。「ウォーキングからきたひとだな。ウェイブリッジで死んだのではなかったのか?」
それと同時に、ぼくにも相手がわかった。
「あのとき、ぼくの庭へ逃げこんできた砲兵隊の兵士だな」
「幸運だったな!」彼はさけんだ。「ふたりとも、運がよかったんだ! 思いがけなかったな」と、手をさしのべた。ぼくもそれをにぎりしめた。彼は説明して、「下水溝に匍いこんで、助かったのさ。やつらにしても、だれかれなしに殺そうとしたわけじゃない。それで、あいつらが移動してしまうと、あたしは野原をつっ切って、ウェルトンのほうへ逃げだした。あれから十六日とたっていないんだが、あんたの髪はまっ白になりましたね」そして、急にうしろをふりむいて、「なんだ、カラスか。最近になって、鳥に影があることを知りましたよ。それにしても、ここはちょっと、あけっぱなしすぎる。あの茂みにもぐりこんで、つもる話をするとしましょうや」
ぼくはいった。「きみも火星人を見たんだろね? ぼくのほうは、あの家を匍い出してからは――」
「やつらはロンドンへ行ってしまった。たぶんあそこに、ここよりはずっと大きな陣地をつくっているんでしょう。夜になると、あのへんからハムステッドの空にかけて、やつらの陣地の灯で、まっ赤に染まるんです。まるで、大きな都会ができたみたいだ。そのあかりで、やつらが動きまわっているのが見えますよ。ただし、昼間はぜんぜん見えませんがね。もっとも、もうすこし近よったらどうかな。とにかくあたしは(と、指を折って数えていたが)、もう五日も、やつらの姿を見ていない。最後に見かけたときは、やつらがふたつで、なにか大きなものを運びながら、ハマースミスのほうへ移動していましたよ」
そこで彼は、一度口をとめてから、印象的にまたつづけた。「それが、おとといの夜のこと――むろんそれは、空に映えるあかりの問題で、なにか空にあがるものがあったんです。ひょっとすると、飛行機みたいなものをつくりあげて、飛ぶ練習をしているのかもしれませんぜ」
ぼくは四つん這いになって、茂みへむかってすすんでいたが、動きをとめてさけんだ。
「飛行しているのか?」
「そうなんで」彼は答えた。「飛んでるんですよ」
ぼくはちょっとした木かげに落着いて、腰をおろすと、
「いよいよ人類の最後だな」と、いった。「飛行もできるとなると、やつらは地球を一周するぐらい、なんの造作もなくやってのけるだろう」
兵士もうなずいて、
「やるでしょうな。でも、そういうことになると、この地方はいくらか救かることになる。といったところで――」と、ぼくの頭を見て、「人間はこれで、全滅ときまりましたね。あたしはもうあきらめましたよ。どうにも手が出ませんや。完全にやっつけられたんです」
ぼくはおどろいて、そういう彼の顔をみた。おかしく聞こえるかもしれないが、ぼくはまだ、そこまでの事実に思いあたっていなかった。彼にいわれて、いまさらながら現実に直面したかたちだった。それでもぼくは、なおばく然とした希望にすがりついていた。いや、もっと正確にいえば、これまでの生涯を通じて、もちつづけてきた考えかたを、切りかえることができなかったのだ。彼はその言葉をくりかえした。「われわれは完全にやっつけられてしまったんだ」いまやそれが、だれの心のなかでも、絶対的な信念となっているらしい。
「これでもう、なにもかもおしまいだ」彼はつづけた。
「たしかにやつらは、仲間をひとつ失った――たったひとつだけ。それだけで、足場をりっぱにかためて、世界でいちばん強力な国家を、不具同様の状態にしてしまった。ウェイブリッジでひとつ死んだのも、いわば偶然の失敗ですよ。しかも、あたしたちをやっつけた連中は、あいつらにとっては、ほんの先鋒部隊にすぎんのでしょう。あとからぞろぞろ押しよせてくるのを覚悟しなけりゃならない。あの緑色の星は、きょうで五、六日、見かけないが、毎晩どこかに落ちているにきまっているんでさ。いまさら、どうしようもありませんぜ。あたしたちの敗けですよ。やっつけられてしまったんだ!」
ぼくはその言葉に、返事をしなかった。ただ、前方をみつめながら、なにか対抗できる方法はないかと考えたが、けっきょく、思いつくことはできなかった。
砲兵隊の兵士はつづけた。「こいつは、戦争なんてものじゃねえ。戦闘なんか一度だっておこらなかったじゃないですか。人間と蟻がけんかしたところで、戦争にはなりませんからね」
急にぼくは、天体観測所にいた夜のことを思いだした。
「いや、かれらは十回発射したが、それで、やめてしまった――すくなくとも、第一のシリンダーが落下するまでは」
「どうしてわかります?」兵士はきいた。ぼくが説明してやると、彼は考えこんでいたが、「砲が故障したのかもしれませんね。だからといって、安心していいんですか? 故障ぐらい、じきに修理できますぜ。すこしは手間どったにしても、最後のところは、おなじにきまっていまさ。なにしろ、人間と蟻の闘いだからね。蟻が都会をつくり、その生活を愉しみ、ときには戦争をやったり、革命をおこしたりしている。といって、それは人間さまが、放っておいてくれるあいだだけですぜ。いつまでも放っておくとはかぎらねえ。あたしたちは蟻だからね。哀れな蟻で――」
「そういうわけだな」ぼくもうなずいた。
「あたしたちは、食べることのできる蟻だ」
ぼくたちは、たがいに顔をながめあった。
「しかし、かれらは、人類をどうするつもりかしら?」
「それをあたしは、ずっと考えつづけた。いまだって考えていますぜ。ウェイブリッジの戦闘のあと、あたしは南へむかったが――歩きながらも、ずっと考えていた。そして、どんなことが起きたか、ちゃんとわかりましたよ。あらかたの人間どもは、このおそろしい出来ごとを見せつけられ、すっかりのぼせあがって、ぎゃあぎゃあわめきつづけた。あたしはそれがいやだった。さわいだところで、どうなるものでもない。あたしだって、死ぬおもいをしたのは、一度や二度じゃねえ。あたしはこれでも、飾りものの兵隊じゃねえんでね。どっちみち、死に見舞われるのは覚悟のうえだ――わるくころんで、死ぬだけでさ。なんにしろ、この難場は、頭の働く人間だけが切りぬけられる。見ていると、われもわれもと、南のほうへ逃げていく。そこであたしは考えましたよ。あっちへ行ったんじゃ、食べるものがなくなるにきまっている、とね。そこで、あたしはひっかえした。世間のやつらとはあべこべに、火星人のいるほうへすすんでいった。スズメが人間のいるほうへ飛んでいくようにね。どうせあっちでは――と彼は、地平線のかたへ手をふってみせて――いまごろ、たいへんな騒ぎがおこってるにちがいねえ。腹がへって、みんな山になって死んでいるでしょうし、逃げあうんで、ほかの連中を踏み殺したり……」
そして彼は、ぼくの顔を見ると、ぐあいわるそうに口をつぐんで、いいすぎをあやまったものか、ちょっとためらっていたが、すぐにまた話のさきをつづけた。
「金のある連中は、フランスへ逃げのびたにちがいありませんや。だけど、ここにだって、食べるものはあるんですぜ。店をあされば、罐づめだってあるし、葡萄酒、ウイスキー、炭酸水、なんだっていちおうそろっていまさ。それに水道の本管や下水道がからになっていて、いざとなればもぐりこむこともできる。そうでしたな。あたしは、どんなことを考えたか、そいつを話していたんでしたね。つまり、あたしはこう考えた。あいつらは知性のある生きものだ。あたしたちを襲うんだが、食糧にするためにちがいない。やつらはあたしたちをたたきつぶす――船、機械、大砲、都市、社会組織、あたしたちの世界の秩序だろうがなんだろうが、のこらずたたきつぶしにかかる。その仕事を、やつらはまちがいなくやってのける。そこであたしたちが、蟻みたいに小さな存在なら、なんとか切りぬけられるはずだが、あいにくそうもいきそうにない。それにはちょっと、大きすぎるんでさ。そうじゃありませんか?」
ぼくがうなずいてみせると、彼はつづけた。
「そうでしょう。そこであたしは考えた。では、つぎの問題に移ろうとね。やつらがあたしたちをつかまえるのは、あたしたちが入用だからにちがいない。火星人としては、ほんの何マイルかすすめば、いくらでも人間をつかまえることができる。げんにこの目で、やつらのひとりが、ウォンズワースで家を粉々にこわしては、そのがらくたのうちから、なにか漁っているのを見たことがある。ところが、やつらがいつまでも、そんなまねをつづけているとは思えねえ。あたしたちの大砲や艦船を占領し、鉄道線路をぶちこわし、あのあたりでやっていたことを完了しちまうと、こんどこそ、あたしたちを組織的につかまえだすにちがいないんだ。いちばんうまそうなのをつかまえて、樫の箱かなにかに貯蔵しはじめるでしょうよ。このままだと、やつらはそれをはじめますぜ。ええ、そうですとも。そのうちにね。はじめるのはこれからでさ。そう思いませんか?」
「まだはじめていない?」
「そうですとも。いままでにも、あんなことが、おこったのは、みんなががやがやさわぎたてて、おとなしくしていなかったからでさ。大砲をぶっぱなしたり、あれやこれや、ばかげたまねばかりしたもんで、やつらを怒らしてしまったってわけだ。泡をくらって、大勢いっしょになって、逃げだしたりしたもんで、やつらのほうでも、面くらったんですよ。どこへ逃げるより、もとのところでじっとしているのが、いちばん安全だってことを忘れてね。やつら火星人は、あたしたちをどうするつもりもなかった。やつらは自分の仕事に熱中していた。いっしょに運んでくることのできなかった道具をこしらえて、あとからくる連中に、楽をさせようと準備していた。シリンダーの発射をとめたのも、それで説明がつくでしょう。さきにきている連中と衝突するのを恐れたからでさ。そんなわけで、わたしたちとしても、盲めっぽうに逃げあるいたり、大声をあげてさわいだり、ダイナマイトでやっつけようなんて考えるかわりに、この新しい情勢に、うまく対処できるように心がけたらいいんです。あたしが考えたってことは、それですよ。あたしたち人間にとってはありがたくねえ話だが、事実が示しているんで、やむをえないことでさ。あたしはその方針でうごくことにきめた。都会、国家、文明、社会の進歩――いっさいこれでおわりですぜ。勝負はつきましたよ。こっちの負けとね」
「しかし、それがほんとうなら、これからさき、ぼくたちはなんのために生きていくことになるのだろう?」
砲兵隊の兵士は、しばらくぼくの顔をみつめていたが、
「このさき百万年ぐらいは、音楽会なんてけっこうなものはありませんな。王室美術院もなくなるし、レストランでしゃれた料理を味わうなんてこともできなくなる。あんたのほしいのが娯楽なら、あたしははっきりいいますぜ。そんなものはあきらめなさいとね。そのかわり、客間の作法をまもったり、豆をナイフで食べちゃいけねえとか、ロンドンなまりを避けなけりゃならねえなんて考えることもいらなくなる。そんなものの必要はなくなった」
「というと――」
「あたしらみたいな人間だけが生きながえることになった。人間のタネを絶やさねえためにね。はっきりいいますが、あたしはこれで、生活力が旺盛でさ。あんたのほうはどんなものか。もう間もなく、根性がはっきりするでしょうが、生きるも死ぬも、それしだいですね。とにかく、人間ぜんぶが死に絶えるってわけじゃありませんや。だからといって、つかまえられて、飼いならされ、牛みたいに肥らされるのもご免ですがね。ああ、ああ! いやになっちまう。いまいましい茶色の化けものどもだ!」
「しかし、きみはまさか――」
「やってみせますよ。あたしはりっぱに生きのびてみせます。やつらの脚の下でね。あたしはそれを考えたんです。考えて考えて、けっきょく、その結論に達したんでさ。どうせ、あたしたち人間どもの負けだ。だけど、まだあきらめることはありませんぜ。いまのうちに、わかることはみんな学びとって、チャンスを待つ。学んでいるあいだ、なんとかひとりで生きながらえる。いいですかい! ぜがひでも、生きぬかなけりゃならんのでさ」
ぼくはおどろいて、彼の顔をみつめた。この男の決意に、ひどく心をうごかされた。
「いや、おどろいた!」と、ぼくはさけんだ。「きみは大した男だな!」そして、彼の手を、ぎゅっとにぎった。
「おわかりですかい!」彼もまた、目をかがやかして、
「あたしはそれを考えたんです。どう思います?」
「りっぱな考えだ。もっと聞かせてくれ」
「いいでしょう。はなしますぜ。あいつらの手をのがれるには、それだけの用意がいる。あたしはいまのところ、そのための努力をしているんです。おわかりとは思うが、だれもが|けもの《ヽヽヽ》になれるわけじゃねえ。だけど、生きていくには、けものになることも必要だ。あたしがあんたを眺めていたのも、そのためなんだが、ちょっとあぶないと考えましたね。あんたはからだがきゃしゃすぎる。もっとも、根性はどんなものをもってるか知りませんし、どんなぐあいに埋められた穴からぬけ出てきたかも知りませんが、だいたい、きれいな家に住んでいる連中とか、そんな暮らしに慣れているつとめ人では、まあ、見込みなしと思っていいんじゃねえかな。ああいった人間には、ぴりっとしたところがない。夢もなければ、欲もない。夢も欲もねえ人間ぐらい、頼りないものはありませんや。そうですよ、やつらは年じゅう、用心、用心で暮らしているんでさ。つとめさきに、あくせくと通っているだけでね。あたしはこれまで、何百人というそういった連中を見てきました。弁当箱を片手に、通勤列車にのりおくれまいと、目の色かえて駆けだしていくところをね。遅刻をして、馘《くび》になったら大へんだってわけだろうが、そのくせ、仕事なんかどうでもいい、仕事の内容を知ろうってわけでなく、会社で時間だけつとめあげると、こんどは夕食におくれては大へんだと、夢中で家へとび帰る。夕食がすむと、遊びに出る気もなくて、古女房といっしょにおやすみになる。その女房にしたって、好きでいっしょになったんじゃねえ。小金をもっているんで、それだけあれば、この世をほそぼそとおくるに、すこしばかり安心していられるからなんでさ。生命保険にはいり、不時の事故にそなえて、すこしばかりの投資をしておく。日曜日は、教会へ後生を祈りに行く。それで天国へ行けたら、地獄はウサギのほかに、行くやつがなくなりますぜ!
ところで、こういったやからにとって、火星人は神さまのお使いかもしれませんね。りっぱな部屋へ入れてくれて、肥るように、うまい食いものをあてがわれ、苦労はいっさい忘れることができる。一週間かそこら、腹をへらして、そこらを逃げまわれば、こんどは自分たちから、つかまえてくださいとばかりに、顔を出すことでしょうよ。ほんのすこし飼いならされているうちに、すっかり満足してしまいまさ。火星人があらわれるまえに、人間どもはどんな暮らしをしていたんだろう?――そんなことまで考える。それから、酒場の常連、色事師、歌うたい――この連中のやることも想像できますよ。はっきり、目のまえにうかんでくるんでさ」と、自分で自分の言葉にうなずきながら、なお、さきをつづけた。「やつらのあいだでは、感傷とか宗教なんてものがのさばりだしますね。あたしもこれまで、そういった現象を、何百となく見てきたが、ここ数日、そいつがはっきりわかりだした。なにもかも、あっさりあきらめてしまう連中も、大勢いるにきまっている――肥るにつれて、ばかになってね。だけどまた、そんな気持はまちがいだ。人間はなにかしなければいけねえと、まじめになって考える連中も、同様すくなくないはずだ。この連中、考えてはみるけど、意気地がないばかりに、ややっこしい考えに追いまわされるだけで、実行する力がねえ。それでけっきょく、なにもしない宗教ってものに逃げ道をみつけるんでさ。信心が第一で、なにごとによらず、神の意志にしたがい、あまんじてその迫害を受けるというやつだ。つまりは、どちらの連中もおなじ結果だってわけですね。あんただって、あたし同様、そのへんのところは先刻ご承知のはずだ。臆病者のエネルギーというやつで、肝心なところが裏返しになっている。火星人の檻は、賛美歌と祈りで、耳がうるさいくらいでしょうよ。そして、もうすこしどうにかしている連中は――どこへ逃げると思います?――色気ですよ」
彼はまた、口をやすめた。
「たぶん火星人たちは、捕虜の何人かをペットにして、可愛がるにちがいありませんや。芸を仕込んだりしてね。ひょっとすると、このペット連中、大きくなって殺すことが可哀そうだということになるかもしれねえ。そうなるとこいつらが、練習に練習をかさねたあげく、あたしたちを狩りたてる仕事をあてがわれることになりましょうな」
「ばかなことをいうんじゃない!」と思わず、ぼくはさけんだ。「そんなことがあってたまるか! 人間が人間を――」
しかし、砲兵隊の兵士はいった。
「ないとはいえませんぜ。第一、こんな問題で、いいかげんなことをいってなんになります。よろこんで、やってのける人間があらわれますぜ。そんなことはないと、気やすめをいったところではじまりませんや」
そしてぼくも、彼の確信に負けてしまった。
「もしもやつらが」彼はつづけて、「あたしのあとを追ってきたら、そのときは――」
と、深刻な顔つきで考えこんだ。ぼくもまた、それらのことを、とつ追いつ、考えつづけた。が、この男の理屈に反対する意見は思いうかばなかった。火星人の侵攻以前に、ぼくの知力がこの男にまさっていたことは疑いない。こと哲学上の問題とあれば、ぼくは自他ともにゆるす学究であり、彼は一介の兵士にすぎない。しかし、ぼくがいまだに、この現実をどう処理すべきか迷いつづけているあいだに、彼はすでに、明確に図式化してしまっているのだった。
やがて、ぼくはきいてみた。「で、きみはこのさき、どうするつもりでいる? なにか計画ができたのかね?」
彼はすこしためらってから、
「こんなふうにやるつもりでさ。われら、いかに生くべきかというやつですな。まず、生きて、子供を産むことのできる方法を考えだす。子供を育てあげるだけの安全な生活をですよ。まあ、まあ、お待ちなさい。あたしの考えついたことを、具体的に話してあげますから。飼いならされた人間は、飼いならされた動物とおなじことになる。何代かたつうちに、大きく、きれいで、肉づきはいいが、頭のなかはからっぽの――ごみみたいなものになってしまう。その点、あたしたち、野放しのままでいる人間にはちょっとした危険がともないますよ。野性を帯びたけものになるのじゃないかというおそれですね。退化した野性動物、いわば大きな野ネズミみたいな存在にかわるかもしれないんで……それでお察しがついたかもしれんが、あたしは地下にもぐって暮らすことにきめた。下水道を考えたんです。もちろん、知らない人たちには、おそろしい場所と思えるかもしれねえが、ロンドンの地下には、何マイル――いや、何百マイルという下水道が通っている。二、三日、雨が降ってみなさい。ロンドンの町には人が住んでいないんだから、下水道は、その雨できれいに掃除されてしまいますよ。本管は広大なもので、空気にも不足はありませんや。だれだって、りっぱに住んでいけますぜ。それに、地下室、穴ぐら、貯蔵庫と、いざとなれば、本管へ逃げこむとして、地下のかくれ家にはこと欠きませんよ。鉄道のトンネル、地下鉄の線路、みんな役に立ちますね。どうです? そろそろわかってきたでしょう? あたしたちは団体をつくるんです。からだがしっかりしていて、心がまえもきれいな連中でね。まぎれこんでくるクズ同様な人間は追っぱらう。弱虫はまた、出て行くでしょうよ」
「ぼくみたいな人間のことか?」
「そうですよ。さっきいいませんでしたか?」
「まあ、いい。そんなことで、けんかしてもはじまらない。で、それから?」
「いっしょにやっていく連中は、命令にしたがってもらわんけりゃならん。からだが丈夫で、精神のしっかりしている女も必要だ――母親となり、教師となるためにね。めそめそしている貴婦人連中とか、からだがしなびて、目ばかりぎょろぎょろしている貧弱な女は願い下げだ。ばかと弱いのはごめんでね。これでまた、ほんものの生活がはじまるんでさ。役に立たんのや、うるさいのや、害になるのは、みんな死んでしまうことだ。そんなやつらには、死んでもらうにかぎる。やつらだって、すすんで死ぬべきだ。生きていたら、イギリス人の血を台なしにする。種族への裏切りみたいなものだからね。それに、やつらだって、無理に生きたところで、幸福になれるものじゃねえ。そのうえ、死ぬってことは、ちっともおそろしくないんですぜ。臆病だから、こわいと思うだけでさ。こういったものが、あちらこちらにできあがるわけで、あたしたちのところは、ロンドン地区ということになりましょう。見張りを立たせることもできるし、火星人がいないときは、地上を走りまわることだってできる。クリケットぐらいはやれるでしょうよ。これが、あたしたちの種族を救う方法でさ。どうです? できないこともねえでしょう。でも、種族を救うだけでは意味がねえ。それではネズミになるだけだからね。あたしたちの知識を保存して、そいつを殖やすことも肝心だ。そこであんたみたいな人間が登場することになる。書物があり、模型がある。そいつを保存しておくために、いちばん安全な奥ふかい地の底に、広々とした場所を用意して、あつめられるだけの書物をあつめるんです。ただし、小説とか詩みたいなくだらんものはいけません。保存する必要のあるのは思想ですよ。科学の本です。こういったわけで、あんたみたいなひとが必要になるんです。大英博物館にもいってもらいてえし、役に立つ本を、あらいざらいかきあつめてもらいたいんだ。とくに、科学は大事ですな。保存するばかりか、もっともっと、こいつを学ばなけりゃならんのです。それから火星人の動きに、たえず気をくばっている。場合によったら、何人かのスパイを送ることにもなりましょう。用意がととのえば、あたしが行くことになるかもしれませんな。わざと、つかまるんでさ。そして、なによりも肝心なのは、火星人たちをそっとしておくことだ。やつらのものをぬすむのは厳禁、やつらの目ざわりになるようなまねをしたら、とたんにこっちがやっつけられますからね。あたしたちは無害な生きものだと、思いこませておかなけりゃならんのです。そうですとも、その点ははっきりしている。やつらはあれで、知性があるんですよ。ほしいものにこと欠かず、しかもあたしたちが、なんの害もない小さなうじ虫だとわかれば、狩り立てるようなまねはしませんよ」
砲兵隊の兵士は言葉を切って、陽焼けのした手を、ぼくの腕においた。
「なあに、やつらの戦術を学びとるのは、手間のかかることじゃねえ。こんな調子にいくと思いますね。やつらの戦闘機械が、四台か五台うごきだす。熱線が右に左に発射されるが、そのなかに火星人がいるわけじゃねえ。火星人じゃなくて、人間がですぜ。操縦法をおぼえた人間がのっているんでさ。そうなりゃ、こっちのものだ。その人間だけで、火星人に勝つことができますぜ。考えてもごらんなさい。あのすばらしい機械のひとつでも奪いとって、思う存分、熱線を発射することができたら! そいつを操縦できただけで、最後はこのからだが、粉みじんに砕けたって、あたしは本望ですね。火星人のやつら、目をまるくしておどろくにちがいありませんや。どうです? やつらのあわてたところが目にうかびませんか? あわてふためき、息を切らして、仲間の機械に大声で知らせているところが――どんな場合だって、どこかに狂いができるものだ。やつらがあわてているところへ、ヒューッと熱線がやってくる。どうです! それでまた、人間さまの復活となるんでさ」
しばらくのあいだ、砲兵隊の兵士の奔放な空想力と、確信と勇気にみちた話しぶりが、完全にぼくの心を支配した。彼が下した人類の運命についての予言と、そのおどろくべき計画の実際的な点に、ぼくはなんの躊躇もなく、全面的な賛意を示した。読者諸君のうちに、そのようなぼくを、他人の言葉に動かされやすい愚かな男と思われるかたがいれば、あの場合のぼくと彼との立場を比較考量していただきたい。彼はその主題に、全精神を集中して考えぬいていた。ぼくは潅木の茂みのなかで、恐怖にふるえおののきながら、なかば不安に心をうばわれて、聴き耳を立てているにすぎなかった。
とにかく、ぼくたちはこのようにして、その日の早朝を話しあいにすごした。そしてそのあと、茂みを匍い出ると、空のかなたに目をやって、火星人のいないことをたしかめてから、パトニー・ヒルの頂きにある家へと、まっしぐらに駆けだした。彼はこのところ、その家をねぐらにしていたのである。そこは、その家の地下の石炭置場で、彼は一週間を費して、そこから坑道を掘っているのだった。パトニー・ヒルの下水本管まで掘りぬこうという計画だが、いまのところ、十ヤードの長さもなかった。夢と実力のへだたりをまざまざと見せつけられた感じだったが、この程度の仕事なら、ぼくは一日のうちにやってのけたであろう。しかし、ぼくはそれでも彼を信じて、午前中、その作業を手伝ってやった。園芸用の手押し車をみつけて、掘りだした土を台所の炊事かまどへ運んだ。そのあと、となりあった配膳室からもってきたスッポン・スープの罐と葡萄酒とで、元気を回復した。
このようにして、わき目もふらずに働いていると、奇妙なくらい孤独の苦痛を忘れることができた。しかしまた、働いているあいだ、彼の計画をくりかえし思いうかべてみると、さまざまな反対意見と疑問とが続出してくるのだった。その作業に、午前の時間をそっくりかけて、ふたたび目的をもつことができたうれしさに、胸をおどらせた。それでも、一時間も仕事をつづけているうちに、下水道まで達するには、どのくらいの距離があるものか、わき道へそれてしまう危険はないかと考えられてくるのだった。ぼくは疑念をいだいた。マンホールのひとつへはいりこめば、下水道へ行きつくことができるのだから、そこから家へむかって掘っていけば、作業はよほど簡単にすむはずだ。なんのために、このような長いトンネルを掘る必要がある? それにしても、ずいぶん不便なところに起点の家をえらんだもので、不必要な長さのトンネルを掘ることになるではないか。ぼくがそうした事実に直面しはじめたとき、兵士は掘るのをやめて、ぼくの顔を見た。
「ずいぶん働いたな」と、シャベルをおろして、「すこし休みますか。そろそろ、屋根にのぼって偵察する時間ですし――」
だが、ぼくは掘りつづけた。すると彼も、ちょっとためらいはしたが、また、シャベルをとりあげた。そのとき、急にぼくは思いあたることがあった。仕事の手をやめると、彼もすぐに、おなじことをした。
「きみはさっき、公有地をあるいていたな」と、ぼくはいった。「なぜここで、働いていなかったんだ?」
「空気を吸いに出たんでさ。帰ろうとしていたところでね。とにかく、外へ出るのは、夜のほうが安全ですよ」
「しかし、仕事のほうは?」
「働きづめってわけにもいきませんからね」彼がそうこたえたとき、ひらめくように、彼という人間がはっきりわかった。彼はシャベルを手にしたまま、なお、ためらっていたが、「そろそろ、偵察してみなけりゃならん」といった。
「あいつらが近づくと、シャベルの音を聞きつけられるおそれがある。そんなことになると、いつ不意におそってくるかもしれませんからね」
ぼくは反対する気持もなくなっていた。二人いっしょに屋根にのぼることにして、まず、梯子の上に立って、あかりとりの窓からのぞいてみた。火星人のいるようすもないので、思いきって屋根瓦の上に出て、そこからすべるようにして、手すりのかげに身をかくした。
その位置からだと、潅木林がじゃまになって、パトニーの大部分は見えなかった。そのかわり、脚下の河の流れと、そこにひろがる赤い草のかたまりと、氾濫して赤く染められているラムベスの低地がながめられた。以前の王宮のあたりの木々に、赤いつる草が匍いあがっているが、そののびた枝も、いまは無気味な白さを見せて枯れている。ちぢれた葉があちこちにのぞいているのである。これらの植物のひろがりが、氾濫している水のながれに左右されているのは、見るからに異様な光景だった。ぼくたちのまわりでは、根を下ろしているものはひとつもなかった。キングサリ、ピンク色のサンザシ、カンボク、ニオイヒバといったたぐいが、月桂樹やアジサイのあいだから伸びて、折りからのあかるい陽ざしに、みどり色にきらめている。ケンジントンのむこうには、濃い煙がむくむくとのぼって、青いうすもやとともに、北の方角の丘をかくしていた。
砲兵隊の兵士は、いまだにロンドンを立ちのかずにいる人々のことを話した。
「先週のある晩のことですがね。どこかのばかどもが、電線の修理をやってのけたんでさ。そこで、リージェント・ストリートからサーカスへかけて、煌々と電燈がかがやいたと思いなさい。おしろいを塗りたくった女たちと、ぼろをまとった酔っぱらいがあつまって、男も女も、夜があけるまで、踊ったりわめいたり、大さわぎをやらかしたもんですよ。そこにいた男が、あたしに話してくれたんです。夜があけて、気がついてみると、そこに、戦闘機械が一台、立っているじゃありませんか。ランガムの近くから、じっとようすを見守っていたそうで、よほどまえから、そこにいたんでしょうね。ぎょっとさせられた連中もすくなくないはずです。そのうちに、戦闘機械は道を下ってきて、かれらのそばへ近づくと、酔いすぎて腰のあがらないのや、慄えあがってうごけなくなったのを、百人がところ、つまみあげたといいますよ」
どのような歴史家も、描きだすことのできぬグロテスクな瞬間!
それから彼はぼくの質問にこたえて、その雄大な計画について語りだした。話すにつれて、いよいよ熱心になっていった。戦闘機械を捕獲することは、けっして不可能でないと、口をきわめて力説するので、ぼくはまたしても、なかば以上、信じたい気持になるのだった。しかし、いまでは彼の性格がわかりかけていたので、この男にそのような危険をおかす意志のないことが断言できた。彼みずから、偉大な機械を捕獲するために闘うなど、考えられることでないのである。
しばらくしてから、ぼくたちはまた地下室へ降りた。ふたりとも、掘鑿作業をつづける気持はなかった。彼が食事にしたらどうかとほのめかすと、ぼくは一も二もなく賛成した。彼はとたんに、気前がよくなって、食事がおわると、どこかへ出ていったが、もどってきたときは、すばらしい葉巻を何本か手にしていた。ぼくたちはそれに火をつけ、彼の楽観論が、またしても花を咲かせた。ぼくの出現をよろこんでいることは疑いなかった。
「この穴ぐらには、すばらしいシャンペンがあるんですぜ」と、彼はいった。
「作業をつづけるには、国内産の葡萄酒のほうがいいんじゃないか」
ぼくがそういうと、彼は首をふって、
「いや、そうじゃねえ。きょうのところは、あたしが主人役ですからね。シャンペンにしますよ! すてきなことですぜ。重大な仕事が、あたしたちを待っているんでさ! さしあたっては、ゆっくりやすんで力をつけることだ。見てくださいよ。両手がこんなに、張れあがってしまった」
このお祭り気分があとをひいて、彼は食事がおわると、トランプで遊ぼうといいだした。そしてぼくに、ユーカーのルールを教え、賭けるのにロンドンをつかうことにした。ぼくが北部、彼が南部をとって、その教区ひとつを、それぞれ一点とみて、勝負を争った。まじめな読者には、グロテスクなほどばからしく思えるであろうが、それは百パーセント真実であり、さらに注目すべき点は、ぼく自身、トランプの勝負をはじめ、そのときのゲームのどれもがおもしろくて、夢中になって遊び興じたことである。
人の心理ほどおかしなものはない! われわれの種族が絶滅の危険に瀕し、廃頽の淵に沈もうとして、おそろしい死以外に、なんの見透しもたっていないとき、のんきに腰かけこんだまま、色づきのボール紙の駒に勝負を争い、ジョーカー遊びに熱中していられるとは、どのような心理状態であったのだろうか? そのあとぼくは、彼からポーカーを教わり、チェスのゲームでは、立てつづけに三局勝った。夕闇がせまると、あえて危険をおかし、ランプをともすことにした。
休みなしにゲームをつづけ、夕食をとり、兵士はシャンペンの瓶をからにしてしまった。葉巻をすいつづけた。兵士はもはや、けさ会ったときの彼とはちがって、種族の絶滅をおそれる精力的な救済者ではなくなっていた。それでもなお、楽観論者であることに変りないが、それもいまでは行動的なものといえず、いわば思想上の楽観説を吐きつづけるにすぎなかった。いまでも憶えているが、朝がたのそれとはすこし変った演説を、とぎれとぎれに一席ぶち、そのあと、ぼくの健康を祈って、おわりにしたのである。ぼくは葉巻を手にして、二階へあがった。彼から聞いていたハイゲイトの丘々に、みどり色の光をはなっているという灯を見たかったからだ。
はじめぼくは、それと知らずに、ロンドンの街のひろがっているあたりへ目をやった。北方の高台は、闇につつまれたままだが、ケンジントンの付近だけが、あかあかと火を燃えあがらせている。ときどき、だいだい色にあかるくかがやき、めらめらと焔の舌を、濃紺の夜空に立ちのぼらせては、やがてまた、しずかに消えていく。そのほかのロンドンは、闇の底ふかく沈んでいた。ぼくは、ふと気がついた。もっと近いところに、異様な光が見えるのだ。ホタルの火に似たうす紫色のかがやきが、夜の微風にゆらめいている。しばらくは、なんであるかわからなかったが、やがてそのかすかな光は、赤色の草が発しているものと知った。それを知ると同時に、それまで眠っていた驚異にたいする意識、均衡感がよみがえった。ぼくはその光から、火星に目を移した。それは西空高く、あかあかとあかるい光輝をはなっている。そしてまた、目を下にむけて、ハムステッドやハイゲイトの闇を、いつまでも熱心にみつめるのだった。
ぼくはながいあいだ、屋根から降りようとせず、その日一日のグロテスクな変化を怪しんでいた。深夜の祈りから、ばかげきったトランプ遊びにいたる心理状態を思いかえしてみたのである。すると当然、はげしい自己嫌悪におそわれて、葉巻を遠くへ投げ捨てた。荒涼としたぼくの気持を示すための動作だった。自分自身の愚かさが何倍かに拡大されて、ぼくの上にはねかえってくるのである。妻を、そして人類を、裏切ったかに感じられ、悔恨で胸がとざされた。
ぼくは決心をかためた。一風かわった妄想狂、思慮分別に欠けた夢想家が、酒と食事に夢中になっているうちに、彼を捨てて、ロンドンへ行くことにきめたのである。そこへ行きつきさえすれば、火星人たちとぼくの同胞が、なにをしているかを知るチャンスがつかめるはずだ。そのようなことを考えながら、おそい月がのぼるまで、ぼくは屋根の上に立ちつくしていた。
八 死都ロンドン
ぼくは砲兵隊の兵士とわかれたあと、丘を下って、ハイ・ストリートで橋をわたり、フラムへむかう途をとった。例の赤い草は、そのころがいちばん成長のさかりで、橋のあたりの道路を埋めつくしていた。しかし、それと同時に、すでにところどころに、白い斑点を見せはじめていた。それはやがて、その草を迅速に一掃することになった病菌によるもので、それがぐんぐん、ひろがりつつあったのだ。
パトニー橋駅にむかう道路のかどで、ひとりの男が倒れているのに出会った。黒いほこりを浴びて、箒のようによごれている。生きてはいるが、どうしようもないほど酔いつぶれて、口もきけない状態なのだ。声をかけても、逆に罵りかえすだけで、けっきょくはぼくの頭を殴りつけてきた。それでも、介抱してやる気にならないでもなかったが、顔を見ておどろいた。あまりにもけものじみた表情をしているので、気味わるくなって、立ち去ることにした。
橋からさきの道路は、一面に黒いほこりが積って、フラムにはいると、いよいよそれが厚くなった。街筋は異様なほどのしずけさだった。ぼくはそこで、食べるものを手に入れた。パン屋の店が目についたので、なかにはいってみて、パンを発見したのだ。饐《す》えてかたくなり、黴《かび》さえはえているのだが、じゅうぶん食べることができた。ウォラム・グリーンのほうへすこし行くと、道路に積ったほこりはきれいになくなって、家々のテラスが、まだ燃えつづけていた。燃えあがる音を聞いて、ぼくはかえって、ほっとした感じを味わった。ブロンプトンに近づくと、街筋はまた、しずかになった。
そこでぼくは、もう一度、道路が黒いほこりにおおわれ、死体が散らばっているのを見た。フラム・ロードをとおりぬけるあいだに、一ダースは見たであろうか。どれも、死んでから数日はたっているようすで、ぼくはいそいで、そのあいだをとおりすぎた。黒いほこりは、死体の上にも積って、その輪郭をやわらげているのだが、ひとつふたつは、犬のために原形を損ねていた。
黒いほこりのないところは、奇妙なくらい、日曜日の商業区に似ていた。店はどこも、大戸をとざしているし、住宅はドアに鍵をかけ、ブラインドをおろし、人のいるけはいはなく、ひたすら静寂をまもっていた。そのいくつかは、押込みにおそわれているが、たいていが食糧品店か酒屋だった。宝石商のショーウインドーのこわされているのが一軒あったが、これはあきらかに、仕事なかばでじゃまがはいったらしく、金グサリがかなりたくさんと、時計が一個、舗道に落ちたままになっていた。しかし、ぼくはそれに触れようともしなかった。なおもすすむと、ある家の玄関まえのステップに、女がひとり、ぼろの山のような格好でうずくまっていた。ひざの上においた手が、ひどい傷を負っていて、そこからながれる血が、汚れきった茶色のドレスを赤く染めている。割れたシャンペンの大瓶が、舗道に水たまりをつくっている。女は眠っているようにみえるが、実際のところ、死んでいた。
さらに、ロンドンの中心部へはいればはいるほど、しずけさがふかまった。死の静寂と呼ぶほどでないにしても――殺戮のしずけさ、サスペンスにみちた静寂ということはできよう。世界に冠たる大都会の北西部は、すでに灰燼に帰し、イーリングからキルバーンを全滅させた破壊の魔手が、いつなんどき、このあたりの街並におそいかからぬものでもなく、いわば死刑を宣告され、放棄された都会なのだ……
サウス・ケンジントンでは、死体も黒いほこりも見られなかった。しかし、ぼくがはじめて、例の咆哮を耳にしたのは、その近くまできたときだった。それはぼくの聴覚には、聞きとれぬ程度のかすかなひびきだったが、泣きわめくように、ウラー、ウラー、ウラー、ウラー、とさけんでいる。たえずさけびつづけているが、よく聞くと、高低ふたつの調子がある。ぼくの足が北にむかうにつれて、声はしだいに大きくなった。ビルが、住宅の列が、死んだようにしずまりかえっていることはおなじだが、このあたりで、声は一度途切れて聞こえなくなった。が、エクシビション・ロードまでくると、急にまた、潮のようにおしよせてきた。ぼくは足をとめて、この異様な原因不明な泣き声を、なにごとかと怪しみながら、ケンジントン・ガーデンのほうへ目をやった。それはまるで、砂漠に似た家々のひろがりが、恐怖とさびしさを訴えて泣きつづけているようすだった。
ウラー、ウラー、ウラー、ウラー。人間ばなれのした調子で、さけびつづけている。偉大な音の波が、人けのない、太陽の光を浴びた道路、左右の高いビルディングのあいだを縫ってながれてくる。ぼくはいよいよ不審におもって、北の方角をふりかえり、ハイド・パークの鉄の門をながめた。ひょいと頭にうかんだのは、ナショナル歴史博物館へはいりこんで、その塔の頂きにのぼり、公園のほうを見わたしてみようという考えだった。しかし、けっきょくは地上にとどまることにした。いざという場合に、いそいで地下にかくれる必要があったからだ。そこで、なおもエクシビション・ロードをすすむことにした。両がわの宏荘な建物は、居住者が撤去したあとで、森閑としずまりかえっていた。ぼくの足音だけが、左右の建物にこだまして鳴りひびく。
道をのぼりきって、公園の鉄門近くまでくると、とつぜん、奇妙な光景が目のまえにひらけた――バスが一台ひっくりかえって、馬の骸骨が、そばにころがっている。肉はしゃぶりつくされたのであろう。しばらくのあいだ、ぼくは異様な感じにおそわれて、それをながめていたが、つづいてまた、公園のなかにあるサーペンタイン池にかかる橋をわたりだした。声はいよいよ大きく、つよくなってくる。しかし、その正体は公園の北がわにならぶ人家の屋根にさえぎられて、見ることができなかった。わずかに、北西のかたにあたって、煙がひと筋立ちのぼっているのが見えるだけだ。
ウラー、ウラー、ウラー、ウラー。その叫びが、リージェント・パークのあたりから、ぼくにむかって近づいてくるように思われる。心にしみとおるような荒涼とした叫びを聞くと、それまでのぼくのはりつめた気持は、一度に消え失せた。その泣き声が、ぼくの心をつかまえてしまったのだ。こちらのさびしさが、身にしみるように感じられ、急に、足の痛みがはげしくなった。いまさらながら、飢えと渇きに責められるのだった。
すでに正午をすぎていた。なんのためにこうして、死人の市をさまよい歩いているのか? ロンドン全市が、黒い屍衣《しい》につつまれて横たわっているとき、なぜぼくひとりが、歩きつづけていなければならぬのか? ぼくは、かぎりないさびしさにおそわれた。心の底に、何年も会ったことのない旧友たちのおもかげが思いうかんだ。薬局の店さきから、毒薬をとり出すことも考えたし、酒屋の貯蔵庫から、ウイスキーの瓶をぬすみ出したい気にもなった。しかし、その一方では、この都会には、ぼくとおなじに、絶望の淵に沈んだ生きものが、すくなくともふたつ生きながらえていることを考えるのだった。
マーブル・アーチのところで、オックスフォード・ストリートへ出ると、そこはまた、黒いほこりにつつまれて、いくつかの死骸がころがっていた。家々の地下室の格子戸のあいだから、胸をむかつかせる不快な臭気がながれ出ている。歩きつづけたので、おそろしく喉がかわいていた。ひどく骨を折ったあげく、どうにかとある酒場へはいりこんで、食物と飲みものを手に入れた。腹がいっぱいになると、とたんに疲労が出てきたので、酒場のうしろにあるパーラーに、黒い馬の毛をつかった長椅子をみつけて、その上に眠りこんだ。
目をさますと、またしても例の無気味な咆哮が聞こえていた。――ウラー、ウラー、ウラー、ウラー。すでに夕闇が下りかけていたので、バーをあさって、ビスケットとチーズを手に入れると――肉の貯蔵庫もみつかりはしたが、なかにはウジのほか、なにもなかった――ぼくはまた、物音ひとつしないベイカー・ストリートの住宅地域へ歩み出た。途中、思いだすことのできるのは、ポートマン・スクエアだけだが、けっきょくはリージェント・パークまですすんでいった。ベイカー・ストリートのはずれまできたとき、遠く、落陽の光に照らし出された梢の上に、火星人のフードを見た。咆哮はそこからひびいてくるのだった。現在のぼくは、それを怖れなかった。火星人に出会うのも、当然のことと考えていた。しばらくのあいだ、みつめていたが、うごくけはいもなかった。そこに立ちどまったまま、咆哮をつづけているだけで、その理由は、ぼくにはわからなかった。
ぼくはそこで、これからの行動予定を立てようとしたのだが、たえず、ウラー、ウラー、ウラー、ウラーとさけぶ声がながれてくるので、頭が混乱してきた。おそらく、恐怖を感じるには、疲れすぎていたのであろう。しかしまた、その単調な叫びの原因を知りたい気持が恐怖心を、上まわったこともたしかだった。ぼくは公園からひっかえして、パーク・ロードへ出た。公園の外をまわり、テラスのかげをつたわってすすみ、セント・ジョーンズ・ウッドの方角から、身うごきもせずに吠え声をあげている火星人をながめてみるつもりだった。ベイカー・ストリートをはずれて、二百ヤードも行ったところで、おびただしい犬の群れが吠えたてるのを聞いた。と、見ていると、最初に、腐ってどす赤い色にかわった肉をくわえた犬が、ぼくの方向へ走ってきた。つづいて、そのあとを飢えた野犬の群れが追ってくるのだった。最初の犬は、ぼくを避けるために、大きくまがって逃げ去った。新しい競争相手があらわれたとでも思ったのであろう。犬の吠え声が、死んだようにしずまりかえった道路のむこうへ消えると、またしても、ウラー、ウラー、ウラー、ウラーという泣き声が、耳を刺すように聞こえてくるのだった。
セント・ジョーンズ・ウッド駅まで、あと半道というところで、壊れたままに捨ててある自動機械に出っくわした。はじめぼくは、道路上に建物が倒れているのかと思った。なんの気なしに、その残骸を踏み越えていくと、とつぜん、そこに機械の巨人が横たわっているのを見て、ぎくっとした。触手がねじまがり、しかも、自分がつくった破壊物のために、おしつぶされているのだった。機械の前部も、粉々になっていた。ちょうどそれは、盲めっぽうに建物にぶつかり、崩れてきたものによって、押しつぶされた格好だった。それはまた、つぎのような考えをぼくにいだかせた。自動機械といえ、いったん火星人の指揮をはなれると、このような失敗を演じるのではないかと。なお、くわしく観察するには、がらくたの山にのぼらねばならぬが、それもぼくにはできかねた。夕闇がかなり濃くなっていたので、血が機械の基部を染めているところも、犬が食いかけで捨てていった火星人の軟骨も、はっきりとは見てとれぬ状態になっていた。
ぼくはこれらの事実に、いよいよ不審の念をふかめながら、プリムローズ・ヒルのほうへとすすんだ。はるかかなた、木立の切れ目のあいだに、第二の火星人を見た。これも第一のそれとおなじに、動物園に近い公園のなかで、立ちどまったままうごきもしないし、音も立てようとしないのだ。さっき出っくわした自動機械の残骸のさきでは、例の赤色草を見ることができた。リージェント運河の水があるからであろうか、そのあたりには、暗紅色の植物の群れが、巨大な海綿を見るようにながめられた。
橋をわたるうちに、ウラー、ウラー、ウラー、ウラーの叫びは、ピタッとやんだ。なにかに断ち切られたような感じで、あとは静寂が、のしかかるようにあたりを支配した。
周囲の家々が、夕闇に輪郭をにじませて、ただぼんやりと高い姿をそびえさせている。公園の方角を見ると、木々の群れは闇につつまれていた。ぼくのまわりでは、赤い草が廃墟にからみついて、身もだえしながら、頭上高く匍いのぼろうとしている。夜、恐怖と神秘の母が、ぼくにおそいかかろうとしているのだ。それでも、あの叫び声がつづいているあいだは、このさびしさ、この孤独にも耐えることができた。あの叫びによって、ロンドンはまだ死に絶えていないという感じを受け、生命感がぼくを支えてくれた。そこに、とつぜん、変化が生じた。なにかが――その正体はわからぬが――とおりすぎていった。そして、静寂が肌で感じとれた。あるのはただ、無気味なしずけさだった。
ぼくの周囲では、幽霊さながらの姿のロンドンが、ぼくをじっとみつめている。白亜の家々の窓は、しゃりこうべの眼窩のように思われて、鋭くなったぼくの神経は、千にもあまる敵方の軍隊が周囲をとりかこみ、音も立てずにうごめいているのが想像された。その恐怖がぼくを捕えた。ぼく自身の無鉄砲にたいしての恐怖だった。正面の道路は、塗りつぶしたようにまっ暗である。その暗闇のなかに、なにかゆがんだ形のものが横たわっている気がして、足をすすめることもできぬ気持だった。
が、ぼくは無理して、セント・ジョーンズ・ウッド・ロードに曲り、キルバーンの方向へ駆けつづけた。一刻もはやく、この耐えがたい静寂からのがれたかった。そしてその夜は、真夜中すぎまで、ハロー・ロードの馬車屋の小屋にかくれていた。しかし、夜があけかかるとともに、勇気がよみがえった。いまだに空には、星くずがまたたいていたが、ぼくはもう一度、リージェント・パークにむかって歩きだした。途中で、道に迷った。まごまごしているうちに、ひろい通りへ出たところで、明け方のうすあかりのなかに、プリムローズ・ヒルのなだらかなカーブが目にとまった。その頂上に、消えかかる星影を背に、第三の火星人が、これもまた、まえのふたつと同様、身うごきもせずに直立しているのだった。
気ちがいじみた決意が、ぼくを捉えた。どうせ死ぬのだ。自殺する手間がはぶけるだけみつけものだ。そう考えたぼくは、むこう見ずにも、この巨人にむかって突進した。近づくにつれて、いよいよ空はあかるくなり、ツグミの大群が、巨人のフードのまわりを旋回しているのがながめられた。それで、ぼくの心は躍った。つぎの瞬間、ぼくはその道路を駆けだしていたのだった。
駆けつづけて、赤い草が埋めつくしているセント・エドモンド・テラスをすぎ――その間、貯水池を流れ出た急流が、アルバート・ロードへむけて、胸ちかくまで道をみたしているのをわたりきった――太陽がのぼりきるまでには、丘の上の芝生へ走り出ていた。頂きのあたりでは、高々と土をもりあげ、巨大な角面堡《かくめんぽう》がきずかれていた。それが、火星人のつくった最後、最大の拠点だった。これらの土の山のうしろからは、うすい煙があかつきの空に舞いあがっている。
頂上をかたちづくっている線を、飢えた犬が横切って、消えていった。そのとき、ぼくの心にひらめいた考えが、しだいに現実になり、しだいに信じられるものになってきた。ぼくはなにも怖れなかった。わけもなく、歓喜にからだをふるわせ、丘陵の頂きを、身うごきしない怪物にむかって、ひた走りに走った。フードから外へ、茶色のヒモ状のものが、ぐにゃぐにゃと垂れ下り、それを飢えた鳥の群れが、ついばんではひき裂いているのだった。
つぎの瞬間、ぼくは土の山によじのぼって、脚下にひろがる角面堡のなかをのぞきこんだ。それはかなりの広さで、なかのあちこちに、巨人めいた機械がおいてある。戦闘資材の置場であり、異様な避難所でもあるのだが、現在のそこには、戦闘機械がひっくりかえったままだし、自動機械が活動を停止して転がっているあいだに、列をなして、火星人が一ダースあまり、硬直して横たわっている――死んでいるのだ! 腐敗菌と、バクテリヤによる病のために、生命を失っていた。かれらの肉体は、これらの細菌にたいして、抗性をそなえていなかった。赤色草が殺されたように殺された。人類の防衛方法が、すべて失敗におわったのちに殺されたのだ。神がその知恵で、地上にもたらしたもののうち、もっともつまらぬものの手で殺されたのである。
災厄と恐怖によって、ぼくたちの心の目がとざされることがなければ、それはとうに予想されてしかるべきであった。これらの病菌は、この世のはじまり以来、人類の大多数を犠牲者としてきたもので――いや、この地に人類が生活をいとなむ以前から、人類の先祖たちの生命を奪っていた。しかし、自然淘汰の結果、われわれ人類は、それにたいしての抵抗力を得た。どのような細菌にも、闘わずして屈伏することはない。それどころか、多くの細菌――一例をあげれば、死物を腐敗させる細菌がそれだが――にたいして、われわれの肉体は免疫になっている。
しかし、火星上には、バクテリヤが存在しなかった。かれら侵攻者たちが、地球に到着するやいなや、飲み、そして食べるやいなや、われらの細菌は結集して、攻撃を開始したのである。ぼくがかれらの行動を見守っていたとき、すでにかれらは、いかんともしがたい運命を宣告されていたのだ。この地をうごきまわっているとき、死と腐敗とが、その肉体を蝕《むしば》みつつあった。それは避けられることではなかった。人類は、一億の一億倍の生命を犠牲にすることで、この地に生命権を確保した。それはあらゆる侵入者にたいする権利であり、かりに火星人が、その十倍も力づよくあったにしても、なおかつ、われわれ人類の権利であるのだった。なんとなれば、およそ人の生死たるや、それだけの意味が存在するからである。
あちこちと散らばって、総計五十にちかい火星人が、自分たちの掘りあげた巨大な竪坑のなかに倒れていた。かれらにとっては、どのような死にも増して、理解の埒外《らちがい》にあった死によって殲《ほろぼ》されたのである。ぼくとしても、最初その光景を目にしたときは、なんのための死であったか、理解することができなかった。かつては人類の恐怖であったものが、いまや死骨と化しているのに、おどろきを感じるだけであった。しばらくはセンナケリブ〔前七世紀のアッシリア王、バビロンを包囲して破壊しつくした〕の破壊がくりかえされたものの、神は後悔されたのだ。夜の闇に乗じた神の手が、かれらを殺害したと信じてまちがいないのだった。
坑のなかをのぞきこんでいるうちに、ぼくの心はあかるくおどった。ちょうどそのとき、太陽がのぼって、ぼくの周囲をその光線でかがやかしたが、それにもましたあかるさだった。しかし、竪坑の底には、いぜんとしてうす暗がりが残っていて、この世ならぬ奇怪な形をもった強力複雑なエンジンが、ぼんやりと無気味に浮かびあがっている。底のおくふかくは、完全な闇だが、そこに死体が横たわっていることは、数知れぬほどの犬の群れが、肉を奪いあっている吠え声で察しられる。竪坑のむこうのへりには、平べったい異様な形の飛行機械が、巨大な姿を据えている。かれらはこれで、地球をとりまく濃密な大気をのりきろうと実験を試みているあいだに、おそろしい死に捕えられたのであろう。死は完全なタイミングで訪れた。けたたましいカラスの鳴き声に、ぼくは思わずふりあおいだ。そしてそこに、もはや永遠に闘う能力をうしなった戦闘機械と、プリムローズ・ヒルの頂上にくつがえっている台座の上に、ぼろぼろにひき裂かれた赤い肉塊が落ちているのを見た。
つぎにぼくは、丘の斜面を見下ろしたが、そこにもまた、べつの火星人がふたつ、頭のまわりを鳥の群れに囲まれて立っていた。昨夜、見かけたふたつだが、そのときすでに、死がかれらを蝕んでいたのだった。ひとつは仲間たちに、苦痛を訴える叫びをあげながら死んでいったと思われる。おそらくそれが、最後に生き残ったものにちがいない。苦痛の叫びを、その機械力がつきはてるまで、間断なくつづけていたのだが、いまやそれは、なんの害悪ももたらさぬ存在と変って、塔のように丈高い金属製の三本脚を、のぼりくる太陽の光にかがやかせているのだった。
竪坑の周囲には、奇蹟によって永遠の破滅からまぬがれた大ロンドンが、都市の母の名にふさわしく、目路《めじ》のはてまでつづいている。陰うつな煙の衣を着たロンドンを知る人々には、この朝に見る裸かの晴朗さと、無音のまま、はてしなくひろがる街並の美しさを想像することはできないであろう。
東のかたに目をやると、黒焦げになったアルバート・テラスの廃墟と、ひき裂かれた教会の尖塔のむこうの澄みきった空に、太陽がぎらぎらとかがやき、無限につづく家並が、そこかしこに陽光を捉え、目くらめくばかりの白いきらめきを見せている。
北方のキルバーン、ハムステッドのあたりは、密集した人家が青くかすみ、西方ではこの大都会が、まだうすもやにつつまれている。南はまた、例の火星人たちのむこうに、リージェント・パークのみどりの波、ランガム・ホテルとアルバート・ホテルの円屋根《ドーム》、インペリアル・インスティテュートやブロンプトン・ロードの大邸宅が陽光を浴びて、小さくはあるがくっきりとながめられ、そのまたさきには、廃墟と化したウェストミンスター寺院が、うすもやのなかにそびえ立っている。はるかかなたに青くつらなっているのは、サリーの丘陵であり、二本の銀の杖のようにきらめいているのが、クリスタル・パレスの塔である。セント・ポール寺院のドームだけは、朝の陽ざしを受けても、なおくろぐろとした姿のままだが、いまはじめて、その西がわに、大きな穴が口をあけているのに、ぼくは気づいた。
そして、ぼくがこれらの、住宅、工場、教会のはてしないひろがりが、人けのないままに、音もなくつづいているのをながめ、人間のサンゴ礁をきずくために死んでいった無数の人々と、そのさまざまな希望と努力、そしてまた、それを一挙に粉砕した冷酷非情な破壊の跡に感慨を催しているとき、すでにくらい影は消え去って、人類はなお、街筋のそこかしこに、生きながらえているのを知ったのである。ぼくにとって、このうえもなくなつかしい大都会は、いま一度、死の淵から、力づよくよみがえるのであった。あまりのうれしさに、ぼくは感動の波に溺れ、泣きむせぶ一歩手前だった。
苦難は去った。その日のうちにも、復活は開始されるであろう。国中は、指揮者もなく、法もなく、食もなく、羊飼いを失った羊の群れさながらの状態であるが、生きのこった人々の数も少くない。海外に逃れた何千かの人々にしても、やがては帰国の途につくにちがいない。いまは住民を失った街なかに、ふたたび生命の鼓動が音を立て、空虚な広場に、熱い血液がながれだすのも遠くはないのだ。どのような破壊がなされたにしても、破壊者の手はくいとめられた。無残な廃墟、黒い骸骨とかわった家々は、陰うつなまなざしで、陽の光を浴びた丘の芝生をみつめているが、やがては復興事業のハンマーと|こて《ヽヽ》の音が鳴りひびくことであろう。ぼくはその日のことを思い、両手を天にさしのべて、神に感謝を捧げた。一年もたてば、とぼくは思った――
そうだ! 一年もたてば……大波がおおいかぶるようないきおいで、ぼくはぼく自身のことを考え、妻の身の上を思い、永遠に失われたかとみられたよき生活、希望と効能にみちたかつての日々へ、ぼくの夢を馳せるのだった。
九 破壊の跡
ここでいよいよ、この物語のうち、もっとも奇異と思われることが起きるのである。しかし、それはかならずしも奇異とはいえないかもしれない。なにはともあれ、ぼくはその日の出来ごとを、プリムローズ・ヒルの頂上に立って、泣きながら神に祈っていたところまで憶えている。そこまでは明瞭に、その光景をまざまざと思いおこすことができるのだが、その後のことになると、完全に忘れはてているのだった。
それにつづく三日のあいだ、なにひとつ、記憶がない。ぼくが火星人の敗北の最初の発見者でないことは、その後まもなく知った。すでにその前夜、ぼく自身とおなじに、ロンドンの街なかをさまよい歩いていた人々がいたのである。そして、そのひとりが、第一の発見者であるのだが、ぼくが馬車小屋に身をひそめていたころ、この人物は中央郵便局へ駆けつけて、その事実を伝える電信を、パリへ打っているのだった。それによって、このよろこばしい報道が、またたく間に全世界にひろがった。おそろしい不安におののいていた千にもおよぶ都市が、たちまち、くるったような歓喜に湧き立った。ぼくが竪坑のふちに立っていたとき、ダブリン、エディンバラ、マンチェスター、バーミンガム、すべての都市がそれを知っていた。ぼく自身、この耳で聞いたものだが、男までが、うれし涙にむせび、叫び声をあげ、仕事をやめ、手をにぎりあい、そしてまた、さけぶのだった。
さっそく鉄道がうごきだし、人々はロンドンへの復帰をいそいだ。そのために、クルーのような近在でも、ロンドン行きの列車をわざわざ仕立てたくらいだった。二週間の沈黙をまもっていた教会の鐘も、このニュースを知るがはやいか、イギリス全土にそのなつかしい音を鳴りひびかせた。自転車にのった男たちが、ここ何日と櫛を入れたこともない髪に、やつれはてた顔で、畑道をはしりまわっているのは、おなじように痩せおとろえ、いまなお絶望の目をみはっている同胞たちに、思いもかけぬこの解放のしらせを、大声で伝えるためだった。そして、食糧もまた――イギリス海峡、アイルランド海、大西洋を越えて、麦が、パンが、肉が、救援物資として送られてきた。この数日、全世界の船舶がロンドンへ集結しているといってよかった。
しかし、その全部について、ぼくにははっきりした記憶がない。頭のくるった人間として――さまよい歩いていたのだ。気がついたときは、ある家で、親切な人々にかこまれていた。この人々は、解放の日の三日のちに、ぼくが泣きわめき、どなりちらしながら、セント・ジョーンズ・ウッドの道路を、彷徨しているのをひきとってくれた。
この人たちの話だと、ぼくは意味もないばかげた文句を、歌にしてわめきたてていたそうだ。生きのこった最後の男! たすかったぞ! 生きのこった最後の男! というのが、それだった。この人々としても、自分の家の片づけ仕事でいそがしい最中なのに、ぼくの身を心配してくれて、寝る場所をあてがい、狂気がしずまるように努力してくれたのだ。ぼくはおそらく、狂気でいるあいだに、なにかとうわごとを口走ったのであろう。かれらはその言葉のはしばしから、ぼくの身の上を察しとったにちがいなかった。とにかく、こうまで親切にしてくれた人々に、なんと感謝してよいものかわからぬくらいだが、その名前だけは、ここに記さないことにする。
ぼくがどうにか、落ちつきをとりもどしたとみると、かれらは徐々に、伝え聞いたレザーヘッドの運命について洩らしてくれた。ぼくが廃屋に監禁されていた二日あとに、それは火星人の手で、これといった理由もなしに、潰滅させられる非運に見舞われたそうで、住民はひとりもあまさず、殺戮されたというのだった。おそらく火星人は、子供が蟻塚を踏みつぶすように、ただその力を誇示するだけのために、そのような残虐行為に出たのであろう。
ぼくは孤独の人間になった。それと知って、この一家の人々はいよいよ親切にしてくれた。ぼくはさびしく、孤独をなげきつづけたが、かれらはそれをがまんしてくれた。もとの精神状態にかえっても、ぼくはなお、そこに四日間とどまった。そのあいだ、ぼくはぼくの過去の、美しく幸福であった生活の跡を、もう一度ながめてみたい欲望にかられていた。最初はばく然と感じていたものが、しだいにつよい意欲に変った。それはおそらく、ぼくのみじめさをつのらせるばかりで、なんのあかるさももたらすことのないものであろう。かれらはそろって、ぼくを思いとどまらせようとした。そのような病的な心理から、正常な気持に引き戻そうと、あらゆる努力をしてくれたのだが、しかし、ぼくにはその衝動を拒む力がなくなっていた。まちがいなく、またもどってくるからと約束して、四日間の友人たちに、(かくさずに告白するが)涙ながらの別れを告げ、つい数日まえには、ああまでも暗く、ああまでも異様で、人影ひとつ見られなかったロンドンの街に、もう一度ぼくは出ていったのだ。
すでにそこでは、もどってきた人々が、いそがしげにうごきまわっていた。場所によっては、店をひらいているところもある。飲用泉水では、水が噴きだしていた。
忘れもしないが、その日はあかるく、空が晴れわたり、ウォーキングの小さな家に、憂うつな旅に出ようとするぼくを嘲けるかのように、陽光がさんさんとかがやき、街には、せわしなくうごきまわる人々の群れがあふれていた。どこの道をとおっても、生気にみちた活動をつづける人々を見かけると、この大都会の人口の大部分が、火星人の魔手にかかって死亡したなど、事実とは信じられぬくらいだった。しかし、すぐにまた気のついたことだが、出会う人々の皮膚は例外なしに黄ばんだ色で、髪はぼうぼうとして、大きくみはった目がぎらぎらしている。二人にひとりは、いまだに汚れたぼろをまとって、乞食のような格好のままだ。
かれらの顔には、ふたつの表情しか浮かんでいなかった。ひとつは歓喜とエネルギー、ひとつは、すさまじいまでの決意である。顔に浮かんだ表情を無視すれば、ロンドンは浮浪者の都会ということができた。教区委員たちが、フランス政府から送られたパンを、だれかれの区別なく配給してまわった。わずかに見かける馬にしても、肋骨が不気味なくらいとび出している。どこの街かどにも、白いバッジをつけた臨時警官が、やつれた顔を見せている。ウェリントン・ストリートへくるまで、火星人のもたらした災害の跡を見かけることもなかったが、ウォタールー橋へたどりついて、はじめてそこの橋げたに、例の赤色の草がまつわりついているのを見た。
橋のたもとで、もうひとつ、奇怪だったあの時期に、いたるところで目についたコントラストのひとつに出会った。それは赤い草の茂みを背にして、しっかりと大地につき刺した棒の上に、一枚の紙片がはためいているのだ。復刊された新聞『デイリー・メイル』のプラカードである。ぼくはポケットをさぐって、黒く変色した一シリングをとり出し、それを一部、買いこんだ。
紙面のほとんどは空白である。植字工は一人だったらしい。その職工が、おもしろ半分にやったことであろうが、裏ページいっぱいがステロ版の広告にあてられているという奇抜な紙面だった。記事は報道というより、感情的な言辞《げんじ》の羅列で、現在のところ、取材網が回復していないことが明白だった。したがって、そこから新しい知識をうることはできなかったが、わずかこの一週間、火星人の機械を研究しただけで、おどろくべき結果があがったことを知った。
そのうちでも、そのときのぼくには信じられもしなかったが、かれらの【飛行の秘密】を発見したとのことであった。ウォタールー駅につくと、人々をその故郷に運ぶために、列車はすべて無料だった。混雑した日は、すでにすぎ去っていた。乗客の数もすくなかったし、行きずりの人たちと話しあう気にもなれなかったので、ぼくはひとりだけの車室にとじこもった。腕を組んで、腰かけこむと、憂うつな顔つきで荒廃した街並が、太陽にあかるく照らされている姿を、車窓の外にながめた。駅を出ると、列車はすぐに、臨時に敷設された線路にはいった。両がわの家並は、どれものこらず、黒々と色をかえた廃墟だった。クラパム乗換駅に近づくにつれて、いよいよロンドンの容貌は、黒煙の粉にみにくくよごれていった。この二日のあいだ、はげしい雷雨がつづいたのに、すこしも洗い落されたようすがなかった。クラパム乗換駅でも、線路が破壊されたままなので、職場をはなれた会社員や商店員たちが数百人、本職の工夫に立ちまじって、修理工事にあたっていた。ぼくたちの列車は、急造の仮設線路へはいっていった。
それからさき、窓の外は田園風景にうつるのだが、それもまた、はじめて見る不気味なながめだった。ウインブルドンが、とりわけひどい被害を受けていた。ウォルトンは松林が焼けずに残っただけあって、この沿線でもっとも損傷がすくなくてすんだようだ。ウォンドル河、モウル河、そのほか、どんな小さな流れにも、赤色草の繁殖がはげしくて、肉屋の店頭に吊るされている肉と漬けもののキャベツの中間のような感じだった。しかし、松林もサリーがわは乾燥しすぎていたせいか、赤いつる草にからみつかれていないのだ。ウインブルドンをすぎると、列車の窓に近い養樹園に、土砂がもりあがって小山をつくっているのが見えた。ここは第六のシリンダーが落下した地点である。おびただしい人々がその周囲にあつまって、なかに何人かの工兵隊の兵士たちが、いそがしげに働いている。竪坑のうえには、ユニオン・ジャックの旗が立てられて、折りからの朝の微風にはためいている。養樹園はいたるところに赤い草が匍いひろがって、その広大な土地に紫色の影を投げているのが、見るものの目に痛みさえ感じさせる。焼け焦げて灰色に見える土地と、沈うつな赤色をひろげている草とから視線をそらして、東方の丘へ目を移すと、そこのやわらかいみどりの色が、心をやすめてくれるように思われた。
ウォーキングの駅の線路は、いまだに修理中だった。ぼくはバイフリート駅で列車を降りて、メイベリーへむかう道路を歩きだした。かつて砲兵隊の兵士とふたりで、軽騎兵へ話しかけたことのある地点をすぎて、雷雨の夜、ぼくたちの眼前に、火星人が出現した場所をとおった。ここでは好奇心にうながされて、わき道へそれてみた。赤い草のむらがるあたりを探しまわって、大きくゆがんで転覆している軽二輪馬車を発見した。そのそばには、すでに白骨に化した馬の死骸が、食いちらされたまま散在している。ぼくは、しばらく、その痕跡をながめていた。
それから松林をぬけて、そこかしこで首を没するほどの高さの赤色草の茂みをかき分けて、【まだら犬亭】のあるじが埋葬されている場所をさがしてみた。そのあと、カレッジ・アームズを経て、わが家へいそいだ。とある家のまえをとおるとき、あけ放したままのドアの前で、ひとりの男から声をかけられた。知っている相手とみえて、ぼくの名を呼んでいた。
わが家を目にした瞬間、明るい希望で胸がふくらんだが、それもすぐに、しぼんでしまった。玄関の扉はこじあけられたようすで、ぼくが近づくあいだにも、徐々にひらきつつあったのだ。
が、ドアはまたしまった。書斎の窓はあけはなしたままで、カーテンがはためいている。あの日の未明、ぼくと砲兵隊の兵士は、あの窓から恐ろしい光景をながめていたのだが、その朝以来、閉める者もいなかったと思われる。植込みも踏みにじられたままで、四週間まえに立ち去ったときと変らぬ姿である。ぼくはよろめくようにして、ホールへはいった。屋内はまったく人けがなかった。階段の絨氈はしわがよって、変色している個所がある。あれは悲劇の夜、雷鳴をともなうあらしをついて、濡れネズミになったぼくがわが家へたどりついて、うずくまっていたところである。階段をのぼっていったぼくと兵士の泥靴の跡も、いまだにそのまま残っている。
その靴跡をたどって、書斎へ行ってみると、書きもの机の上に、透明石膏の文鎮をのせた原稿がおいてある。これを書きかけていた日の午後、シリンダーの蓋があいたのだった。しばらくのあいだ、ぼくはそこに立って、中途でペンをおいた原稿を読みかえしてみた。それは、文明の進歩にともない、道徳意識がどのように変化するかを論じたもので、最後の一行から、ぼくの予言が述べられることになっていたのだ。ぼくは書きだしていた――二百年後の世界では、おそらくつぎのような観念が――
ぼくの文章は、そこで中断されていた。あれからひと月とたっていないだけに、はっきり記憶に残っていた。あの朝、考えをまとめるのにくるしんで、ペンをおくと、配達の少年から、『デイリー・クロニクル』を受けとるために、階下へ降りていった。庭の木戸の前までいくと、少年が駆けてきて、【火星からの人間】について、奇怪な話を聞かせてくれたのだ。
ぼくは階下へ降りて、食堂へはいった。そこには羊肉とパンがあったが、どちらもすっかり腐敗していた。それに、ビール壜が一本ころがっているのも、ぼくと兵士が残していったままである。家は荒れはてていた。ながいあいだ、心の底にあわい希望をあたためていたのは、なんの意味もないことだったと、いまさらながら、その愚かしさを思い知らされた。するとそのとき、おかしなことが起きた。
「この家にはいりこんでも、なんの役にも立たんぜ」と、その声がいった。「ここは空き家さ。この十日間、だれも住んでいなかった。きみにしたって、ここにいるだけで、自分をくるしめるだけだ。この土地で逃げのびられたのは、きみひとりなんだ」
ぼくはぎくっとした。ひとりごとをつぶやいたのだろうか? こんな大声で? ぼくはふりかえった。ぼくの背後に、フランス窓があいていた。そこへ歩みよって、外をのぞいてみた。
そこには、驚愕と不安におののきながら――ぼく自身が、やはり驚愕と不安の目で、外をのぞいていたのだが――|いとこ《ヽヽヽ》と妻とが立っていた。――妻の顔はまっ青だった。しかし、涙はなかった。そして、その口から、かすかな叫びが洩れた。
「まあ、あなた!」彼女はいった。「ええ、わたし、知っていました――知っていましたわ――」
そして彼女は、喉へ手をあてて――よろめいた。ぼくは一歩出て、彼女を両腕で抱きとめた。
十 エピローグ
この物語をおわるにあたって、なによりもぼくに遺憾と思えるのは、この事件が孕《はら》む数多くの問題について、ぼく自身、なんら関与することができなかったことである。問題はもちろん論議をつくすべき意味があって、しかも、いまなお、そのほとんどが未解決のまま残されている。ことに、ひとつの点に関しては、世の批判がぼくにむけられるのは明白だった。ぼくの元来の専攻分野は思弁哲学の領域にあって、比較生理学の知識は、わずかに一、二冊の書物に眼を通したにすぎない。しかし、火星人の急激な死亡理由として、カーヴァの指摘したところは、ほとんど確立された結論といってさしつかえないように思える。ぼくの物語の骨子も、その推測を正しいものとして組立てたものであるのだ。
いずれにせよ、戦後、火星人たちの死骸を解剖した結果、地球上に知られているバクテリヤ以外のものを、そこに発見することはできなかった。かれらが仲間の死骸を埋葬せずに放置して、しゃにむに地球人の殺戮に意をむけていたのは、腐敗現象について完全に無知であったことを語るものであろう。しかし、これはあくまで、その可能性があるというにとどまって、実証された結論というわけではない。
かれらが使用して、あのように強烈な致死的効果を発揮した黒煙の成分と、熱線を放射する機械の構造については、いまだに不可解な謎のままとどまっている。ことに後者の調査は、イーリングとサウス・ケンジントンの研究所で、おそるべき爆発事故を生じたことで、学者たちを逡巡させる結果になった。黒煙のほうは、スペクトル分析を行ったところ、緑色の部分に三本の線をしめす未知の元素の存在することがあきらかになった。それがアルゴンと結合して、ある種の化合物を構成すると、たちまち強烈な致死的効果を発生して、人類の血液中の成分に作用するものと思われる。しかし、このような未確認な考察は、この物語の読者である大衆諸君にとって、興味あるものとも考えられない。シェパートンが破壊された直後、テムズ河に漂っていた茶褐色の浮きかすについては、その当時手をつけるひまもなかっただけに、いまさら調査のしようがないのである。
火星人の死骸は、餌をもとめて徘徊していた野犬の群れに食いあらされ、見るも無残な姿に変っていたが、なおかつ、その残存する部分を解剖して、すでに述べたようなデータをあきらかにすることができた。しかし、それは現在、ほとんど完全に近い状態で、アルコール漬けの標本として、自然博物館に保存してあるので、読者諸君の目にもなじんでいることと思う。それにまた、その標本にもとづいて、数多くの解剖図がつくられているし、それ以上に詳細な生理と構造は純粋に科学上の問題であって、この物語のとりあつかう範囲を超えている。
それにもまして重要な、全世界の人々が関心を抱いている問題というと、ふたたび火星人の侵攻を見ることはないかという点である。ぼくの見た範囲では、この点に関しての世人の関心は、じゅうぶんなものがあるとはいえないようである。現在のところ、火星は合《コンジャンクション》の位置にあるが、つぎの衝《オポジション》の状態になったとき、再度侵攻のおそれがないとはいいきれない。われわれ地球人はこれに備えて、万全の策をこうじておく必要がある。シリンダーを発射する砲の位置を測定して、つねにその部分に監視を怠ることがなければ、あらかじめ次回の攻撃開始をつきとめられるはずである。
その場合、シリンダーが適当に冷却して、火星人がそこから出現するにさき立ち、ダイナマイトないしは大砲の威力によって、これを破壊してしまうことも可能であろうし、また、シリンダーの蓋がひらくと同時に、おなじく大砲の力をかりて、火星人を殲滅し去ることもできるであろう。かれらは最初の奇襲に失敗したことで、有利な立場を喪失したように思われる。おそらくはかれら自身、同様に考えているとみてよいのではないか。
レッシングはさらにすすんで、有力な理由をいくつかあげて、火星人は金星へ着陸することに成功しているとの見解を発表した。いまから七ヵ月以前、金星と火星とは太陽と一線になる位置にあった。いうなれば火星は、金星上の観測者の目にとって、衝の位置にあったのである。それにつづいて、内部の位置にある金星上の光を放たぬ部分に、一種異様な光輝をしめす曲線が出現するのが見受けられた。そして、ほとんど同時に、火星表面の写真に、前者と同一の性質をもつと考えられる暗い曲線が、かすかながらあらわれているのが発見された。両者の性質がおどろくほど相似しているのを知るには、火星の写真を見ることをもって足りるであろう。
かれらの再度の侵略を予期すると否とはべつとして、とにもかくにもこの事件で、人類の将来についてのわれわれの見解は、はなはだしい修正をほどこされたということができる。いまやわれわれは、地球と呼ぶこの惑星を、人類にとっての絶対確実な居住場所と考え、そこに安住しているのは危険なことと知った。善悪はわからぬながら、いつ、いかなるものが、宇宙空間のかなたから訪れてこないともかぎらぬのだ。広大な宇宙の、より深遠な意図からすれば、火星人の侵入は、地球人にとって、究極的には利益であったといえぬこともない。それはわれわれから、廃頽のもっとも有力な原因である将来への安心感をとりのぞいてくれた。人類の科学にそれがもたらした贈り物は、非常に大きなものがあり、それはまた、われわれに人類共通の福祉思想を、いちじるしく増進させてくれた。
そしてまた、一方においてこの事件は、広漠たる宇宙空間をへだてて、かれらの先駆者たちの運命を見守っていた火星人にたいして、またとない教訓を与えているかもしれないのだ。かれらはその教訓にかんがみ、より安全な移住場所として、新しく金星をえらんだとみることもできよう。それはそれとして、今後のながい年月のあいだ、火星表面を精密に観測する心がまえを忘れてはならぬ。人の子たるものは、宇宙を飛来する猛火の矢、流星に目をやるたびに、かれらの落下と同時にもたらされるかもしれぬ災厄に、たえず心をいたすべきであるのだ。
この事件の結果として、人類の視野がいちじるしく拡大されたことは、力説するに足る事実である。シリンダーが落下する以前にあっては、奥ふかい宇宙空間を通じて、われわれの地球と呼ぶ小惑星の表面をのぞけば、生命は存在しないと信じられていた。しかし、現在ははるかさきの世界を見ることができる。かりに火星人が金星に到着できたとすれば、同様の事実がわれわれ地球人にとって不可能であると信じる理由はない。太陽は徐々に冷却しつつある。いつの日かこの地球も、その事実によって住みにくい土地になるにちがいない。いずれはその日がおとずれることを覚悟しなければならぬ以上、この世界にはじまった生命の糸は、故郷の地からながれ出て、相当の難事であることは否定できないが、われわれの姉妹惑星に安住の場所を求めねばならぬ運命にあるのだ。
ぼんやりと、そして、奇異の感を抱きながら、ぼくは心のなかに想像しているのである。太陽系の小さな苗床から、生命のない他の恒星の広大無限の空間へと、生命の糸が徐々にのびつつある姿を。しかし、これははるかな夢である。それに反して、このたびの火星人の侵略の跡は、一時的な休戦、いわばわれわれの死刑執行が猶予されたにすぎないのではないか。おそらく未来は、かれらに恵まれているのであって、われわれ地球人のためにあるのではないかもしれない。
ここで告白しておくが、あの事件での緊張と危険の経験が、いつまでもぼくの心に疑惑と不安の念をとどめた。書斎に坐って、ランプの光で書きものをしていても、窓の下にひろがる復興途上の家並に、またしても焔が燃えあがる光景を夢想したり、とつぜん、ぼくの住むこの家が、人けもなく荒涼とした姿にかわるのを感じておののくのだった。バイフリート・ロードへ出て、行きかう乗り物、肉屋の小僧が駆る荷馬車、観光客を満載した遊覧馬車、自転車にのった労働者や学校へ通う子供たちをながめていると、急にそれらのかたちが、ぼんやりした非現実的な姿に変ってしまう。そしてぼくは、またしても砲兵隊の兵士とふたりで、暑くるしい沈黙に包まれた道路を、ロンドンさしていそいでいる錯覚に陥るのだった。
夜は夜で、黒煙が沈黙の街に立ちこめて、ひきつったかたちの死骸をおおいかくしているさまが目に浮かぶ。それらの死骸は、いきなり立ちあがって、野犬に食い荒らされたずたずたの姿で、ぼくにむかってすすんでくる。わけのわからぬ言葉をわめきちらし、その顔がしだいにけわしいものになり、ますます青ざめ、みにくく変り、最後には、人間とも思えぬまでの狂気じみた顔つきにゆがむのである。ぼくは身慄いして、夜の闇のなかに、いつまでも眠ることができずにいる。
ロンドンへ行けば、フリート・ストリートやストランドの雑沓をながめて、いつかそれらの人々を、過去の亡霊ではないかと考えだすのであった。事件さなかに見た、荒廃して音もなくしずまりかえった街筋を、あちこちとさまよい歩いている死都の幻影、人間のかたちはとってはいるものの、操られるままにうごめいている生命のにせものではないかとのおもい。おなじ奇怪なおもいは、プリムローズ・ヒルに立つときにも感じられる――じつをいうと、この最後の章を書くまえの日にも、同様な経験をしたばかりだが――はてしなくつづくいらかの列、遠くは煙ともやのうちに青くかすんで、はるか地平線の下に没している眺望、丘の上では、花壇のあいだを散策している人々、いまだにそこにおいてある火星人の機械を見物にくる人たち、遊びたわむれる子供たちの歓声、そして、最後の大いなる日の朝の光で、それらすべてが、かがやかしく明瞭に、音もなく存在するところをながめたのを思いだすと、あまりにもそれが奇異なものと感じられるのだった。
そして、なによりもそのおもいがはなはだしいのは、妻の手をふたたびにぎったときだった。ぼくは彼女を死んだものと考え、彼女もまた、ぼくを死亡者のうちに数えていたのに、いままたこのように、彼女の手をにぎりしめていられるとは…… (完)
解説
H・G・ウェルズが、ジュール・ヴェルヌとならぶSFの創始者であり、またそこから発して科学的世界政府論を、アンチ・ユートピア小説の基礎をきずいた偉大な思想家・教師であったことは、今日、あまりにもよく知られている。さまざまの欠点、限界はありながらも、今日までウェルズの偉大さに匹敵するSF作家はまだ生まれていない。
H・G・ウェルズ、本名ハーバート・ジョージ・ウェルズ Herbert George Wells は、一八六六年、ケント州ブロムリイの庭師の息子として生まれた。(この父は、のち商店主となり、さいごには、プロのクリケット・プレーヤーになった)母はその頃、ある家の小間使いで、のちに大きなカントリー・ハウスの家政婦となっている。つまりウェルズは、典型的なロウアーミドル・クラスの出身者だった。そして彼は終生、自分の階級をわすれることがなかったのである。
少年ハーバートは、まず洋服屋の、のちには薬局の徒弟として住みこみ奉公をしたが、彼はただの商人で終るつもりはなかった。合間を見てはミドルハースト・グラマースクールに通って勉強した。非常に成績がよかったので、教師は彼を助手にしたいと望んだが、ウェルズは教師になるつもりもなく、やがて、ロンドンに出た。彼は乾物屋につとめながら勉強し、国立科学学校のスカラシップをとった。そして一八八八年、ロンドン大学で、優等の成績で科学修士の資格をとった。もし、当時ここで教鞭をとっていたT・S・ハックスリーが、ウェルズに、もうすこし強く学者の道をすすむように説得していたら、彼は作家にならず、生物学者になっていたかもしれない。当時を回想して、H・L・メンケンはつぎのようにいっている。
「ウェルズは四つのちがった経歴を踏んでいる。彼は生物学者として出発し、ついで大衆作家になり、のち文学へと移ったが、最後には予言者の店を開いてしまった。私の推測だが、もし彼が最初に選んだ職業をそのままつづけていたら、彼自身もっと幸福な生活ができ、彼の母国と時代とにたいして、もっと有益な人物になっていただろう」
だが、ウェルズは、わが道を行くことを選んだのだった。大学を卒業してしばらくは、おもに家庭教師として生活の資を得るかたわら、生物学の教科書を書いていた。その過労がたたって、結核になり、南イギリスの海岸に転地療養をしなければならなくなった。糖尿病も併発した。金もなく、すべての夢を放棄しなければならなかったウェルズは、悶々のうちに、病床に伏せっていた――だがあるいは、この休養期間が、彼に、その後すぐにはじまる爆発的な著述活動のエネルギーとアイデアとを与える準備期間の役目を果したのかもしれないのだ。
病癒えて、ロンドンにもどったウェルズには、最初の幸運が待ちうけていた。当時のサタデー・レヴュー誌の編集長フランク・ノリスとの出会いである。ノリスはウェルズの才能を見ぬき、彼に執筆の機会を与えたのだ。そして、それをきっかけに、ウェルズの科学コラムニストとしての生活が始まった。やがて彼は、サタデー・レヴューをはじめとして、ポール・モール・ガゼット、ネイチュアなどの一流誌に、ほとんど毎月寄稿するようになっていた。
一八九五年、ウェルズは、小説としての処女作『タイム・マシン』をひっさげて、文壇に登場し、大きな話題を提供した。人気は爆発的で、彼の小説は scientific romance と呼ばれ、彼は「イギリスのヴェルヌ」とあだ名されてもてはやされた。ウェルズはその人気にこたえ、それからは年一冊平均で、小説とエッセイとを書きつづけた。『盗まれたバチルス』(短篇集・一八九五年)『モロー博士の島』(一八九六年)『透明人間』(一八九七年)『プラトナー物語』(短篇集・一八九七年)『宇宙戦争』(一八九八年)『空間と時間の物語』(短篇集・一八九九年)『睡眠者目ざめるとき』(一八九九年)『月世界最初の人間』(一九〇一年)『十二の物語と一つの夢』(短篇集・一九〇三年)『神々の食糧』(一九〇四年)『彗星の時代に』(一九〇六年)『空中戦』(一九〇八年)などの、今日SFの古典として読みつがれている作品の大半は、この時期に、ほぼ書きあげられている。
つづいて、メンケンのいわゆる「文学時代」が来る。というよりも、ウェルズは、このすこしまえ――二十世紀にはいって間もなくの頃から、しだいに、SFを書くことに飽きたらなくなってきた。彼は、疑似科学的なイマジネーションによって、人をあっといわせたり、面白がらせたり怖がらせたりすることにも――そうしながら、そのなかに自分の〈思想〉を遠慮がちに入れることにも、飽きてきたのである。彼は、彼自身の書くべきものを書こう、と決心した。
一九〇三年、ウェルズはすでに、ファビアン協会のメンバーとなっていた。下層中流階級の出身者だったウェルズは、彼自身、体験的に、一種の社会主義思想を身につけていた。それは、きわめて徴湿的で、改良主義的で、政治思想というよりは、むしろ社会学的思想というべきものだったが、彼はしだいにこの〈思想〉の鼓吹に情熱を感じはじめ、そのための政治パンフレットなどを、精力的に書きはじめていた。したがって、彼の社会主義は、最初からマルクシズムと階級闘争理論とは全くあい容れず、どちらかというと、個人的、教養主義的な要素を多分に持っていた。つまり、二〇世紀著作家辞典の表現にしたがえば、彼は人間の平等は「精神と魂の貴族主義、プラトンのユートピアで色づけされた現代風武士道(サムライ)精神」によって達成されると考えた。彼自身の言葉でいえば、彼は、「考える権利、批評する権利、議論する権利、提案する権利を無制限に主張する自由な民主主義者」だった。そして社会の救済は、ある日とつぜん個人個人のエゴの中に現われる変化を通じて実現できる、と主張していたのである。
彼が、自ら本当に書きたいものを書こうとしたときに、人生派風の作家となったことは、十分うなずけることで、その意味での最初の成功作は、一九〇六年の『キップス』だった。彼はこの作品ではじめて、それまでになかったユーモアと人情味とを正面におしだし、リアリスティックな小説の作家としての手腕を買われるようになったのだった。それ以後、ウェルズは、一九〇八年に『アン・ヴェロニカ』を、一九〇九年にはこのタイプのものでの最高傑作といわれる、自伝的な要素のつよい『トーノ・バンゲイ』を、一九一〇年には『ポリイ氏の歴史』一九一二年には『結婚』一九一六年には『ブリトリング氏の見通し』をというように、一連のリアリスティックな社会小説群を書きすすめていった。そして、社会主義思想家としてはバーナード・ショーと、作家としてはチャールズ・ディケンズとしばしば比較されるようになったのである。
第一次大戦は、ウェルズの思想と人生とに深い影響をあたえずにはおかなかった。彼は人間の心に巣くう悪と、愚かさとを見ないわけにはいかなかった。この時期、彼の関心が、宗教的なものに、かなり強く寄せられているのも、その間の事情をよく伝える出来事である。これと同時に、彼は、世界の再建と、平和の維持という問題を、ますます深く考えるようになり、そのためには、国際連盟を成立させ、世界を一つの統一体として再編成しなければならないと説くようになった。これがのち――一九二二年に、彼の畢生の大著『世界文化史概観』と息子G・P・ウェルズと生物学者ジュリアン・ハックスリーとの共著でその姉妹篇をなす『生命の科学』としてまとめられ彼の思想の集大成をなすきっかけとなったのである。
こうして、第一次大戦の頃を境として、ウェルズは、「予言者時代」に移行していく。小説は書きつづけるが、それはもはや文学時代のそれとも、もちろんSF時代のそれともちがう、性急なテーマ小説、彼のいだく思想の宣伝普及のためのパンフレット的な小説にすぎなかった。明らかにウェルズは、その思想を小説の形式で書くことを、まどろっこしく思いはじめたのである。当然、エッセイの類が、非常に多くなった。講演も、この頃から、積極的にやるようになり、アメリカ、ソ連その他の国々を旅行して歩いた。だが結局はこの時期のただ一つの収穫は、『世界文化史概観』と『生命の科学』で、それ以外の誇大な著述は今日全く忘れ去られてしまっている。
社会人としてのウェルズは、実は意外に温和な常識的家庭人だったらしい。彼は一八九一年、従妹のイザベル・メアリ・ウェルズと結婚したが、一八九五年、二年間の別居生活ののち離婚している。その後まもなく女流作家のアミイ・キャザリン・ロビンズと再婚した。この結婚生活は、ウェルズを幸福にした。二人のあいだには、二人の息子ができた。長男はやがて科学者となり、ジュリアン・ハックスリーとともに大著『生命の科学』の共著者となった。青年時代のウェルズを、同時代のイギリス作家F・M・フォードは「金髪で、騎兵風のチョビひげをはやし、いつも何かを射るように見つめる目を持った男」と描写している。また、C・パトリック・トムスンは「頑丈で逞しい、ややずんぐりした身体に、大きな顔とふとい猪首、ドラムのような胸をした青年で、いつも身だしなみが良かった。その薄青い、もの思うような目は、おかしなふうに房になった眉毛の下で、ときとして笑みをたたえた。口もとは親しみぶかかったが、神経はかなり敏感で、緊張しやすく、短気で、とくにだれか気に食わない人間がいると、すぐむかっ腹をたてた。彼の喋りかたは、あまり上品とはいえなかった」と書いている。リチャード・オールディントンのウェルズ評は、つぎのようだ。「だれも、あらゆる点で完全というわけにはいかない。だからこそ、私はウェルズの欠点――詩と絵画に無関心なところと、フィリスタイン風の気取りとを、容易にゆるすことができる。彼は偉大な精神的エネルギーを持ち、また数多くの事実をつなぎ合せて一つの興味ある考えを導きだす才能に恵まれていた。彼は、長いあいだ、文学者がまったく無知だった科学の重要性を説きつづけた。彼のもつ首尾一貫性と、人間の運命の論理的予測はきわめて貴重で、それあるがために彼は、将来おこりうることについて、非常にするどい類推をおこなうことができた。そしてそれは、ときにきわめて正確な予言となった」
一家は、ともどもエセックス州イーストン・グレーヴの邸に住み、その生涯の大半をそこで過している。一九二七年に夫人が死んでからは、ウェルズはロンドンにもどり、リージェント・パークのアパートにひとり住んで、講演に、著述にと精力的な活動をつづけた。そして一九四六年、八○歳で、その生涯を閉じている。
H・G・ウェルズと、そのひと時代まえに出たジュール・ヴェルヌとは、SFの二人の始祖として、よく比較される。ウェルズが生まれた一八六六年には、ヴェルヌはすでに四四歳、文学者としても、その「驚異の旅シリーズ」の数々で、世界的な作家になっていた。『気球旅行の五週間』(一八六二年)『地底旅行』(一八六四年)『月世界旅行』(一八六五年)などがすでに書かれていたし、ウェルズがその『タイム・マシン』(一八九五年)によってデビューするまでには、さらに『海底二万リーグ』(一八六九年)『月世界一周』(一八六九年)『八十日間世界一周』(一八七二年)『浮く島』(一八九五年)と、その代表作のほとんどを書きあげ、なお第一線で健筆をふるっていた。
つまり、当時、SFを書いてはヴェルヌの右に出るものなく、彼は完全な主導権をにぎっていたわけである。ウェルズの登場は、そうしたヴェルヌ帝国にたいする新勢力の台頭ということで、そのころのイマジナティヴ・フィクション愛好者たちのあいだの話題をさらったのだ。もっとも、ウェルズは、ヴェルヌにたいする唯一の挑戦者ではなかった。ヴェルヌの追随者たちは、すでに何人か現われていたし、また『ソロモンの洞窟』(一八八五年)『洞窟の女王』(一八八七年)で有名なH・ライダー・ハガードが一連の秘境幻想小説でユニークな地歩をきずいていた。さらには、近代推理小説の確立者アーサー・コナン・ドイルもすでに、科学的合理主義にもとづいた名探検シャーロック・ホームズものを書きつづけていた。とくにハガードは、そのイマジネーションの豊富さといい、劇的なストーリー・テリングの巧みさといい、登場人物の性格創造といい、第一級のものをもった作家で、アフリカや東アジアの秘境にたいする興味という点でも、ヴェルヌと共通したところがあったのだから、もし彼がその幻想怪奇趣味にあれほどうちこまなかったなら――そして、科学・技術にたいして、それだけの熱意をもったならば――ヴェルヌのよきラィヴァルになったにちがいない。じっさい、ハガードの「女王」シリーズなどを読めば、もしハガードがこのタッチでSFを書いていたら、ヴェルヌともウェルズとも異るユニークなSFのジャンルが――強いていえば、後年のE・R・バロウズのそれを、より哲学的にしたようなSFが――開発されたのではないか、と想像されるほどである。
これと関連して、コナン・ドイルも、ヴェルヌの後継者であり得た、ということがいえる。彼が一九一一〜二年に書いた『失われた世界』や、一九二九年になって書いた『マラコット海淵』および幾つかのSF短篇は、一九〇〇年前後に書かれる可能性が十分にあった。それらの作品に盛られた彼の科学的な造詣の深さ、書きこみの凝りようなどは、時としてウェルズのそれを凌駕している場合があるし、科学的可能性をモチーフに独自の空想や世界を創造する手だみも、れっきとしたSF作家のそれである。かりに、こうした才能に恵まれたドイルが、ホームズものに先立ってSFを書きはじめていたら、ウェルズは、ヴェルヌよりも、ドイルを強力な競争相手として意識したのではなかろうか。しかし、逆に、こうした二人が、いずれも超自然趣味に埋もれていったことを思えば、ウェルズの出現の必然的であったことが、いっそう強く感じられてくるわけである。
ところで、ウェルズの出現は、当時まだ精力的に創作活動をつづけていたヴェルヌにとって、決して無関心ではいられないことだった。ヴェルヌは、ウェルズの『月世界最初の人間』が出版された当時、あるイギリスの週刊誌の記者の質問につぎのような、意味深長なことばで答えている。「私の作品と彼の作品を比較してみても意味はない。私たちの創作態度がまったくちがうからだ。私にいわせると、彼の作品はかならずしも科学的根拠にもとづいていないようだ。私は物理学を〈用いて〉書くが、彼は〈発明〉する。たとえば、私は大砲から発射される砲弾で月をめざすが、彼は重力の法則をないがしろにした金属で建造した宇宙船で行こうとする。たいへん結構なものだが、私にもその金属を見せてほしい――なんなら発明してみせてほしいものだ」
一方、ウェルズも、ヴェルヌの亜流とみられることを、極端に嫌った。その影響を受けた作家と見られることすら、拒絶した。そして、当時のジャーナリズムが、彼を「イギリスのヴェルヌ」と呼びならわしていたことに非常な憤懣を抱いていた。彼は、ある雑誌に寄稿した文章のなかで、つぎのように書いている。「私のいわゆる疑似科学小説――愚劣な呼び名だ!――の、もっとも出来のわるい作品でも、ジュール・ヴェルヌのそれとは、はっきり異なる一つの特性を備えている。それは、スウィフトを、他のファンタジーと区別するある特性――技巧や、文学的表現以外の特性――新らしい考えかた、ともいうべきものである。私の作品には、思想があるのだ」
また、べつの文章では、こうも書いている。「この偉大なフランス人の予言的発明品と、私の空想小説とのあいだには、何の文学的類似もない。彼はつねに実現の可能性ある発明や発見にもとづいて、驚くべく的中した予言をやってのけた。彼は読者に、その実現の暁を想像させ、それから生ずる面白さと興奮とを味わわせる。けれども、私の科学小説は、実現の可能性のあることを取り扱ってはいない。まったくちがった方面に想像を働かせたもので、生真面目な可能性を示そうとしたものではないのだ。私は【面白い、はっきりと把握できる夢】ぐらいの真実らしさがあればよいと思ったのである」
こうした二人の発言は、いみじくも、ヴェルヌとウェルズのSFの本質的な相違をそのままあらわしている。ヴェルヌのそれは、彼本人の意図はとにかく、科学啓蒙主義的なSF――オプティミスティックな未来肯定的SFに受け継がれていき、ウェルズのいわゆる〈思想〉的SFは、皮肉なことには、ウェルズの意志に反してその【面白い、はっきりと把握できる夢】の持った大衆性が一般に受けたことから、SFの大衆小説化、エンタテイメント化への道を、直接にひらくこととなったのである。
事実、ウェルズは、小説の面白さのために、しばしば科学的な正確さを犠牲にしてはばからなかった。たとえば、『月世界最初の人間』のなかでウェルズは、月に凍結した空気を与えているが――昼になり日光にあたるとそれはたちまちとけ、月の表面を満たすのだ――このころすでに天文学は、月が真空の世界であることを立証していた。彼自身すぐれた科学者であり、生物学者であり、かつ鋭敏なジャーナリストでもあったウェルズが、この事実を軽視したはずはない。彼は、故意にこうした科学的事実を無視したのだ。そして、論理的にその可能性もあることの面白さを採ったのだ。
彼にいわせれば『月世界旅行』のなかでヴェルヌが「月から地球へ砲弾をもどす方法がないため」と――月面におけるデータがないため――に砲弾を月面に着陸させなかったのは、〈ばかばかしい律儀さ〉でしかなかったのである。(もっとも、ヴェルヌにしても、科学的事実をあくまでも守ろうとしていなかったことはいうまでもないだろう。『地球から月へ』のなかでヴェルヌが、月に空気があるかないかという白熱の議論を展開したとき、彼は否定論により力を入れて書きこんでいるのに、賛成論にはかるく触れているだけなのだ。また『地底旅行』の最後のところで、主人公たちをストロンボリの火口から熔岩の噴出にのせて救出したとき、そんなことが本当に〈科学的〉だと――すこしでも可能だと信じていたとしたら、彼は狂人であって天才ではあるまい。ここに、SFにおける科学の扱いかたの難しさがあるのだ)いずれにしろ、その当時――この初期のSFは、ヴェルヌの本とならんでよく売れたばかりでなく、ヴェルヌの本よりも、より知的な読者を獲得することができた。いや、ヴェルヌは、その当時ウェルズが得たような、数々の文学者からの注目を浴びたことは、ついになかったのである。
たとえばヘンリー・ジェームスは、「月世界最初の人間」を読んだとき、ウェルズのSF全体に触れて、「驚異と讃美とをこめて」語り、それらの作品が「私のイマジナリティヴな舌にあめんぼうのように融けました」といっている。またコンラッドは、ウェルズに手紙を書いて、彼がいかにウェルズの作品を楽しんだか、とりわけ『透明人間』については「ただ驚嘆の一語あるのみ、ああ、ファンタジー文学のリアリストよ! この作品は傑作だ――アイロニーに満ちて、無慈悲で、しかも真実だ!」と書き送っている。
一八九〇年代から一九世紀初頭にかけて、他の作家たち――ベネットや、ショーや、ギッシングや、ゴールズワージーが、口をそろえてウェルズのサイエンティフィック・ロマンスの中に展開された想像力の逞しさとストーリー・テリングの巧みさを讃美している。批評家たちも、概してウェルズに好意的だった。強大な権威を誇った「批評の批評」の編集長W・T・ステッドもウェルズの処女作『タイム・マシン』を天才の作品といってほめちぎったし、「スペクテイター」は『宇宙戦争』を批評して、ウェルズはSFのジャンルに関するかぎりポーを凌駕していると書いている。
じっさい、ウェルズは、SF史上最初で最大のアイデア・メーカーでもあった。その意味で彼は、ちょうどコナン・ドイルが推理小説史上で占めたと同じ地位を、SF史上で占めている。彼のSF的アイデアの豊かさと多種多様さは、コナン・ドイルのトリックの豊かさと多種多様さに匹敵する。推理小説のトリックが、パターンとしてはコナン・ドイルにおいてすでに出つくしていたということがよくいわれるが、その意味では、SF的アイデアについて、ウェルズにもおなじことがいえるだろう。科学・技術をもちいて時間旅行をしようというタイム・マシン、化学物質を使って人間を透明にする透明人間、やはり化学的薬剤で人間の神経中枢のエネルギーを飛躍的に増加させ、結果的に時間を引きのばす新加速剤、動物の生体改造、他の惑星からの地球侵略、重力の束縛をときはなす反重力物質、宇宙的スケールの衝突による地球の最後、文明が崩壊したのち原始にかえった人類――これらの、科学文明、機械文明の世界において考えられるあらゆるテーマは、ウェルズによって着想されたのである。
これらの着想から、まず気づくことは、時間旅行にしろ見えない人間にしろ動物人間にしろ、すべて、あるいは伝説のかたちで、あるいは伝奇小説のかたちで、昔から一般大衆に親しみぶかいものだった、ということである。いいかえればウェルズは、大衆の心のなかに定着している願望や、恐怖や、驚きに、科学的あるいは論理的な裏づけを与えて新しい小説ジャンルをつくりだしたのだ。もう一度いいかえれば、ウェルズは、すべてのイマジナティヴ・フィクションのなかにあった超自然的要素を、現代風につくりかえたといってもいいのである。SFの創始者としてのヴェルヌとウェルズのメリットの差はここにある。ウェルズは、SFを、意識的に、科学啓蒙小説、科学冒険小説から、より自由な、より高度な文学ジャンルにしようとしたのである。
ただウェルズにも、もちろん、彼なりの限界があった。彼が誇らしげにいう〈思想〉なるものの持つ限界である。ウェルズ自身はそれを政治的思想だと思っていたが、事実はそうではなかった、それはむしろ社会学的思想であり――さらにいえば、あまりに理想主義的で、不正確で、大まかにすぎるムード的思想でしかなかった。しかも、ウェルズはその〈思想〉を作品のなかで具体化するのに、あまりに性急すぎた。もっとも、ウェルズ自身、そのことには気づいていた。彼は、自分の作品について「私の小説のほとんどは、軽い気持で、何かにせきたてられながら書いたもの」であって「ヘンリー・ジェームズが考えたような、徹底した完成をめざすもの」ではない、と書いている。
彼が、自分の創作態度に関連して、バルザックを引きあいに出しているのは、その意味である。彼は、二〇世紀初頭のイギリスの生活の断面を、のこるところなく――『人間喜劇』のそれを意識しながら、書いて書いて書きまくったのである。
ウェルズを衝き動かしていた、そうした自負、いやむしろ使命感は、彼を、初期のSF作品群から、いわゆる「文学作品」へと追いやった。それらの作品は彼の〈思想〉を表出するためには、あまりにまだるっこしい手段だった。ウェルズはそれに飽きたらず、ついには、SFを書くのをやめてしまった――いや、そればかりか、ちょうど晩年のトルストイのように、初期のSFをうとみ、嫌うようにさえなった。そして、そのかわりに、思想的にも未熟な、小説としての完成度のひくいテーマ小説や政治・文化評論へと移っていったのである。
だが、歴史はつねに皮肉である。どちらかといえば、あまりに情緒的で微温的な彼の政治理念、世界政府主義を標榜したそれらの作品や評論の大半は間もなく世間から忘れ去られる運命にあったが、初期のSF作品は、古典的価値を持ち――つねに新鮮でショッキングで、驚きと輝きとを持った文学作品として、書かれてからすでに数十年を経た今日にいたるまで、読みつづけられているのだ。
とくに、ウェルズが創始したアンチ・ユートピア小説の影響力は、きわめて大きかった。もちろん、ユートピア小説の系譜は、べーコンやベラミイ、キャンパネラらを引き合いに出すまでもなくさらに長い。しかし、アンチ・ユートピア小説が、今日のようなかたちで書かれるようになったのは、ウェルズのSF以後のことである。それはウェルズが、たんなる未来の予言者、書斎の文明批評家でなかったためだ。マーク・スカラーがかつて言ったように、彼は「当時の|恐れる若者《アングリー・ヤングマン》であり、当時のタブーや因襲を攻撃し、無計画な、貪欲な社会に対してつねに戦いを挑んだ実践者だった」のだ。そしてそれは、メンケンや、シンクレア・ルイスや、アンドレ・モーロワなどの、当時の若き世代の共感を、いやが上にもさそったのである。
E・M・フォースターの『機械が止まる時』ジョージ・オーウェルの『一九八四年』オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』など一連のアンチ・ユートピア小説は、ウェルズの影響なしには、存在しなかった。いや、さらにいうなら、アメリカSFの元老といわれるヒューゴー・ガーンズバックも、イギリスの哲学者作家オラフ・ステープルトンも、C・S・リュイスも、レイ・ブラッドベリも、カート・ヴォネガット・ジュニアも、ウォルター=ミラー・ジュニアも、ちがったかたちで世に出なければならなかったにちがいないのだ。
歴史はつねに痛ましい。ウェルズも、所詮は時の流れの影響をまぬがれることができなかった。一九二〇年代後半以後の彼の、あの膨大な著述の大半が、今日すでに、歴史的、記録的意義以外の存在意義を完全にうしなってしまったことを考えるとき、その痛ましさはいっそう明白になる。一九四六年まで生きたウェルズは、第二次大戦後のSFの普及ぶり、繁栄ぶりを知っていたはずだ。だが、ウェルズは、自らが創始した現代SFに、ただ軽蔑の目しかむけようとしなかった。
ウェルズの最大の理解者であり、熱烈な信奉者でもあったオーソン・ウェルズが、一九三八年に彼の『宇宙戦争』をラジオドラマ化し『火星人襲来』として放送して、全米にセンセーションをまきおこしたときも、当のウェルズは、リージェント・パークの彼のアパートにとじこもって、来訪した記者にたいして「原作をないがしろにするにもほどがある。アメリカ人のわるいくせだ」と憤慨していたというエピソードが、つたわっている。また、一九二〇年代、彼がその世界政府論を熱心に説きまわっていたころ、ルーズヴェルトやレーニンにも会う機会があった。そのとき、レーニンから、共産主義理論を聞かされ、「やがて五万台のトラクターを集団農場に設備する」と主張するのを聞いて「あの男は夢想家だ」と批評したという話も有名なエピソードである。また一九〇三年ライト兄弟がはじめて動力つき飛行機を飛ばしたときも、ウェルズは飛行機の時代の到来を信ずることができず、むしろ自動軍に大きな期待と関心を寄せていた――というような事柄からも、ウェルズという人間の一端がうかがい知れるだろう。
ウェルズは、死に先だつこと九年まえの一九三六年、死後に発表する目的で、自分の死亡記事を、ややふざけた調子で書いている。「彼は、同時代の三文文士たち仲間では、もっとも売れっ子の一人であった。彼は未来に対する一種の第六感をもち――自分をロジャー・ベーコンに比較することに虚栄心の満足を見出していた。また彼は、社会のさまざまの問題については、おびただしいエッセイを書いたが――けっきょく、本質的には、あまり過激なことや人生の感情的側面に嫌悪感を持つ知識人であった。彼自身、文学を業としてはいたが、芸術家であるよりは、ずっと科学的な人間であった」
ウェルズは、意外に自分を知っていたのだ。それにしても――死期が迫り、自らの仕事の空しさを知りはじめた作家の強いてつくったコミックな表情を、このみじかい文章から、読みとって憂鬱になるのは、筆者だけだろうか。事実、このころのウェルズは、非常にペシミスティックになり、その著述にも絶望的なトーンが色濃くにじみ出はじめている。
彼は、そのために彼が全生涯をかけて戦ってきたすべてのものに敗北しつつあることを知ったのだ。言葉をかえていえば――ハミルトン・バソーのいうところにしたがえば――ウェルズは「人類を救済しようと心底から望みながらも、人間そのものを信ずることがどうしてもできなかった。彼は人間の愚かしさによって、すべての希望をキャンセルしてしまったのだ」
一九四五年――ウェルズの死の一年まえに、オーソン・ウェルズはつぎのように書いた。「今世紀の始めごろに生まれた、考える習慣を持つ人々は、みな何らかの意味でウェルズの大きな影響を受けている。ただ一人の作家が――とくに、その作品が迅速な効果をもたらす流行作家の場合は――どれほどの影響力を持ち得るかは疑問である。だが私は、一九〇〇年から一九二〇年までのあいだ著述にたずさわった人たちのなかで――すくなくとも英語国民の場合には――若い世代に、これほどの影響を与えた作家が、ウェルズ以外にいるとは思えない。われわれのすべての精神は――したがって肉体も――もしウェルズが存在しなかったら、明らかに変ったものに成長したはずである」
ウェルズが八○歳の高齢で死んだとき、ニューヨーク・タイムズは書いた。「ウェルズは一九〇〇年代の立ち上りつつある世代の声」であり「同時代の、最も偉大な教師であった」だが、当のウェルズは、リージェント・パークの彼のアパートで、世の中から忘れ去られたまま、淋しく最後の息を引き取ったのである。
H・G・ウェルズの作品は、通常、三つのカテゴリーにわけられる。一つは、一八九〇年代から一九一〇年代に書いた「ファンタスティックな、疑似科学的な小説」いわゆるサイエンティフィック・ロマンス。一つは、『キップス』『アン・ヴェロニカ』『トーノ・バンゲイ』などをその代表作とするいわゆる〈文学作品〉群。一つは、彼の社会的、政治的思想をあらわすために書かれたテーマ小説群である。かれが、八〇年の生涯に書きあげた小説、論文、歴史書、解説書その他は、膨大な量に達する。おそらくそれは、バルザックのそれにも匹敵するだろう。 (福島正実)
◆宇宙戦争◆
H・G・ウェルズ/宇野利泰訳
二〇〇三年五月二十五日 Ver1