目次
人形の家
第一幕
第二幕
第三幕
解説(矢崎源九郎)
人形の家
人物
ヘルメル    弁護士
ノラ      その妻
ランク     医学士
リンネ夫人
クログスタット 法律代理人
ヘルメルの三人の子供
アンネ・マリー 乳母(ヘルメル家の使用人)
ヘレーネ    女中(同右)
メッセンジャー
事件はヘルメルの家で行われる
第一幕
居《い》心《ごご》地《ち》よく、趣《しゅ》味《み》ゆたかに、しかし贅沢《ぜいたく》でなくしつらえられた部屋。後景右手には玄関《げんかん》に通じる扉《とびら》がある。同じく左手にはヘルメルの事務室に通じる第二の扉がある。この二つの扉の間に一台のピアノ。左手の壁《かべ》の真ん中に一つの扉、そのすこし手前に一つの窓。窓の近くに円いテーブルと二、三の肘掛《ひじかけ》椅子《いす》と、小さいソファー一つ。右手の横壁のやや奥《おく》に一つの扉がある。同じ壁の前よりに陶製煖《だん》炉《ろ》があり、その前に一対《いっつい》の肘掛椅子と揺《ゆ》り椅子が一つ置いてある。煖炉と横扉の間に小さいテーブル。あちこちの壁に銅版画がかかっている。陶器の置物やそのほかちょっとした美術品の置いてある飾《かざ》り棚《だな》。美しい装幀《そうてい》の書物を入れた小さな書棚《しょだな》。床《ゆか》には絨毯《じゅうたん》が敷《し》いてあり、煖炉には火が燃えている。冬の昼。
玄関で呼鈴《よびりん》が鳴る。まもなく扉のあく音がする。ノラ、愉《たの》しそうに鼻唄《はなうた》をうたいながら部屋の中にはいってくる。帽《ぼう》子《し》をかぶり、マントを着たまま、たくさんの包みを抱《かか》えてきて、それを右手のテーブルの上に置く。入ってきた玄関への扉はあけ放しになっており、そこから、メッセンジャーがクリスマス・ツリーと籠《かご》を持って外にいるのが見える。メッセンジャーはその二つの品を、扉をあけに来た女中に渡《わた》す。
ノラ ヘレーネや、そのクリスマス・ツリーはうまく隠《かく》しておくんだよ。晩に飾りつけがすむまでは、子供たちに見せてはいけないんだからね。(メッセンジャーに向い、財《さい》布《ふ》を出しながら)おいくら――?
メッセンジャー 五十エーレいただきます。
ノラ さあ、一クローネ。いいのよ、みんな取っておおき。
メッセンジャーは礼を述べて、出て行く。ノラ、扉をしめる。彼女《かのじょ》は帽子とマントを脱《ぬ》ぎながら、ひとり愉しそうににこにこしている。
ノラ (ポケットからマクロンのはいった袋《ふくろ》を取り出し、二つ三つ口に入れる。それからそっと夫の部屋の扉《と》口《ぐち》に近寄り、耳をすます)やっぱり、おうちなのね。(右手のテーブルのほうへ行きながら、また鼻唄をうたう)
ヘルメル (部屋の中から)そこでさえずっているのは、うちのヒバリさんかい?
ノラ (一つ二つ包みをときながら)ええ、そうよ。
ヘルメル そこで跳《は》ねまわっているのは、うちのリスさんなんだね?
ノラ そうよ!
ヘルメル リスさんはいつ家へ帰ってきたんだい?
ノラ たった今よ。(ポケットにマクロンの袋を入れて、口のまわりを拭《ふ》く)あなた、いらっしゃいな。あたしの買物を見てちょうだい。
ヘルメル 邪《じゃ》魔《ま》をしないでおくれ! (まもなく、扉をあけて、ペンを持ったまま部屋の中をのぞきこむ)買物をしてきたって? そんなにたくさんかい? またこのかわいいのらくら鳥がお金を使ってきたんだね?
ノラ そうよ、でもねえあなた、今年はすこしぐらい楽しくやってもいいでしょう。だって、お金の心配のいらないクリスマスはこんどが初めてなんですもの。
ヘルメル おいおい、だからって無駄《むだ》使いはできないよ。
ノラ ええ。でもすこしぐらいは無駄使いをしたっていいでしょう。ねえ? ほんの、ほんのちょっぴり。だってこれからは、大変な俸給《ほうきゅう》がいただけて、お金もたくさん、たくさん儲《もう》かるようになるんですもの。
ヘルメル うん、それは新年からの話だ。しかも、給料が手にはいるまでには、まだまる三月も間がある。
ノラ ああら、それまでは借りておけばいいじゃありませんか。
ヘルメル ノラ! (そばへ寄って、冗談《じょうだん》半分に耳を引っぱる)またあいかわらずの軽はずみが始まったな? もしもだよ、わたしが今日千クローネ借りてきて、お前がそれをクリスマス週間にみんな使ってしまったとするね。ところで大《おお》晦日《みそか》の晩に、わたしの頭の上に瓦《かわら》が落ちてきて、わたしが倒《たお》れたとすれば――
ノラ (夫の口に手を当《あ》てて)いや、いや。そんないやなこと言うものじゃないわ。
ヘルメル うん、仮にそんなような事が起ったとしたら、――どうする?
ノラ そんな恐《おそ》ろしい事が起ったとすれば、お金を借りていたっていなくったって、あたしにはどっちでもおんなじことよ。
ヘルメル だが、わたしに金を貸してくれた人たちは?
ノラ その人たち? そんな人のこと、かまやしないわ! よその人のことですもの。
ヘルメル ノラよ、ノラよ、お前はやっぱり女だな! いいかね、真面目《まじめ》に言うが、こういうことについてわたしがどう考えているか、お前も知っているだろう。借金はしない! 決して借りない! 他人《ひと》から借金をしているような家には、そういうことから不自由な事が起り、やがては面白《おもしろ》くないことになる。わたしたちは今日という今日まで勇敢《ゆうかん》に我《が》慢《まん》してきたんだ。あともう一息だ。それまで辛抱《しんぼう》しようじゃないか。
ノラ (煖炉のほうへ行きながら)ええ、ええ、あなたのよろしいように。
ヘルメル (ノラの後について行って)さあさあ、うちのかわいいヒバリさんがそんなに羽根をすくめてしまっちゃいけないじゃないか。どうしたんだい? うちのリスさんはすねているんだね。(財布を出して)ノラ、この中にはいっているのは何だろうな?
ノラ (急に振《ふり》向《む》いて)お金!
ヘルメル さあ、お取り。(二、三枚の紙《し》幣《へい》を渡しながら)そりゃあね、クリスマスには何かと入用の多いことぐらい、わたしだってよく承知しているよ。
ノラ (数える)十――二十――三十――四十。まあ、ありがとう、あなた、ありがとう。これだけあれば長いこと助かりますわ。
ヘルメル うん、そうしてくれなくちゃ困る。
ノラ ええ、ええ、そうしますとも。でもまあ、ここへ来てちょうだい。あたしの買物をみんなお見せしますから、とっても安かったのよ! ほら、これがイワールの新しい服――とサーベルよ。こっちのはボブの馬とラッパなの。それから、このお人形とお人形のベッドはエンミーのよ。これはずいぶんお粗《そ》末《まつ》なものなんですけど、あの子はすぐに壊《こわ》してしまいますからね。それからこっちのは、女中たちにやる服地とハンカチよ。ばあやには、もっといろいろやりたいんですけど。
ヘルメル それから、その包みには何がはいっているんだい?
ノラ (叫《さけ》ぶ)あら、だめよ。晩まで見せてあげられないわ。
ヘルメル ああ、そうかい。ところで、うちの無駄使い屋さんに聞きますがね、自分の物はどうしたんです?
ノラ あらまあ、あたしの物? あたしなんか、なんにもいらないわ。
ヘルメル いや、そりゃあいけない。何か手ごろな物で、特にほしいという物を言ってごらん。
ノラ ほんとうにありませんもの。でもねえ、あなた――
ヘルメル なんだい?
ノラ (夫の顔を見ずに、その服のボタンをいじりながら)あなたが、もし何かあたしにくださろうというんなら、それなら――、あの――
ヘルメル そら、そら。それを言ってごらん。
ノラ (早口に)あなた、じゃあ、お金をくださらない。あなたがこの位はやってもいいとお思いになるだけで結構よ。そうすれば、あとでいつか、そのお金で何かを買いますわ。
ヘルメル しかし、そりゃあお前――
ノラ ねえあなた、そうしてちょうだい。お願いよ。そうすれば、あたし、お金を奇《き》麗《れい》な金紙に包んでクリスマス・ツリーにさげますわ。どう、すてきじゃなくって?
ヘルメル いつも金ばかり使っている鳥のことをなんて言ったっけ?
ノラ ええ、ええ、のらくら鳥よ。あたしだって知ってるわ。でも、あたしの言ったようにしましょうよ、ねえ、あなた。そうすれば一番入用な物をゆっくりと考える暇《ひま》があるわけよ。そのほうがずっと利口じゃない? え?
ヘルメル (微笑《びしょう》しながら)うん、それはそうだ。つまり、わたしがお前にやった金を、お前がほんとうに持っていて、それで何か自分の物を買うというんならだよ。ところがその金は、家の暮《くら》し向きだの、そのほかいろんなつまらん物のほうに使われてしまう。だからわたしは、また二重の払《はら》いをしなければならないことになってしまう。
ノラ まあ、だって、あなた――
ヘルメル その通りだろう、ええ、お前。(腕《うで》をノラの身体《からだ》に回して)うちののらくら鳥はかわいらしいが、おっそろしくたくさんの金を使ってしまう。こんな小さい鳥を飼《か》うのに、どのくらい金がかかるか、見当もつかん。
ノラ まあ、ひどい。よくまあそんなことが言えるわね? これでもあたし、できるだけ倹約《けんやく》しているのよ。
ヘルメル (笑いながら)うん、それはほんとうさ。お前にできるだけはする。だが、その実、それがちっともできてはいないんだ。
ノラ (愉しそうに鼻唄をうたって、にこにこしながら)フン、あたしたちヒバリやリスにどのくらいお金がいるものか、あなたがわかってくださったらねえ。
ヘルメル お前は変った女だな。亡《な》くなったお父さんそっくりだ。なんとかして金を手に入れようとする。ところが手にはいると、とたんに指の間から落してしまう。どこでどうしてしまったのか、自分でもさっぱり覚えがないという始末さ。まあ、お前のような者はどうしようもない。結局それは血の中にあるんだから。そうだ、そうだ、お前、それは親《おや》譲《ゆず》りなのさ。
ノラ あら、お父さまの性質なら、もっともっとたくさん譲っていただきたかったところがあってよ。
ヘルメル ところでわたしとしては、お前はあいかわらず歌をうたうかわいいヒバリさんでいてもらいたいと思っているんだよ。ところがだ、今ちょっと気のついたことがあるぞ。お前は今日はなんだか――その――なんて言ったらいいかな?――なんだか怪《あや》しいぞ――
ノラ あたしが?
ヘルメル うん、そうだとも。わたしの眼《め》をじいっと見てごらん。
ノラ (夫の顔を見て)どう?
ヘルメル (指でおどす真似《まね》をして)この食いしんぼうは、今日、町でつまみ食いをしてこなかったかね?
ノラ いいえ。どうしてそんなことをおっしゃるのよ。
ヘルメル この食いしんぼうは、ほんとうにお菓子屋《かしや》さんへ寄り道をしなかったかい?
ノラ ええ、ほんとうよ、あなた――
ヘルメル 甘《あま》いお菓子をちょいとなめてみなかったかい?
ノラ ええ、ちっとも。
ヘルメル マクロンの一つ二つしゃぶらなかったかい?
ノラ ええ、あなた、ほんとうですってば――
ヘルメル いいんだ、いいんだ。むろん、ほんの冗談さ――
ノラ (右手のテーブルのほうへ行く)あたし、あなたのおいやなことをしようなんて、思ったこともありませんわ。
ヘルメル いや、それはよくわかっている。それにお前はわたしに約束《やくそく》したんだから――。(ノラのそばに歩み寄り)まあ、お前のそのクリスマスのかわいい秘密は、お前の胸にだけそっとしまっておおき。今夜クリスマス・ツリーに明りがつけば、いずれすっかりわかってしまうんだから。
ノラ あなた、ランク先生をお招きするのを忘れてはいらっしゃらない?
ヘルメル うん。だがその必要はないさ。あの先生がわたしたちといっしょに食事をすることはわかりきっているんだから。まあ、それはそうとしても、午前中にここへ来たら、わたしから招待しておこう。それから、上等の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》はわたしが注文しておいたよ。ノラ、わたしが今夜をどんなに楽しみにしているか、お前にはとうていわかるまい。
ノラ あたしだってよ、それに子供たちがどんなに喜ぶでしょうねえ、あなた!
ヘルメル ああ、思っただけでもすばらしい。しっかりした地位は得られるし、収入もたっぷりになるんだ。え、考えても心が躍《おど》るようじゃないか?
ノラ ああ、ほんとうに不思議ねえ!
ヘルメル お前、去年のクリスマスのことをまだ覚えているかい? 三週間も前から、お前は毎晩毎晩夜中過ぎまで部屋の中に閉じこもって、クリスマス・ツリーに花を飾ったり、いろんなすばらしいものをこしらえて、わたしたちをびっくりさせようとしたっけな。いやまったく、あの時ぐらい退屈《たいくつ》な思いをしたことはなかった。
ノラ あたしはちっとも退屈なんかしなかったわ。
ヘルメル (微笑しながら)それにしてもお前、あの結果はずいぶん情けないものだったな。
ノラ あら、またそんなことを言って、あたしをからかうのね。猫《ねこ》がはいって来て、何もかもめちゃめちゃにしてしまったんですもの、どうしようもなかったんじゃありませんか?
ヘルメル そうだったっけね、ノラ、あれはお前のせいじゃなかったよ。お前はどこまでもわたしたちみんなを喜ばせようという一心だった。その、心持が肝心《かんじん》なんだ。だが、あんな苦しい時代が昔話《むかしばなし》になったのは、ありがたいことじゃあないか。
ノラ ええ、ほんとうに不思議ね。
ヘルメル もうわたしもここにひとりぽっちですわって、退屈させられることもなくなった。お前だって、そのかわいらしい眼ときゃしゃな小さい手をいじめる必要はないんだよ――
ノラ (手を打って)ほんとにねえ、あなた、もうそんな必要はありませんわね? ああ、こんな話をしていると、嬉《うれ》しくて嬉しくてたまらないわ! (夫の腕を取って)で、あなた、あたしたちのこれからの生活をどんなふうにしていこうとあたしが考えているか、お話しましょうね。クリスマスがすんだらすぐに――(玄関《げんかん》で呼鈴《よびりん》が鳴る)あら、呼鈴よ。(部屋の中をすこし片づける)誰《だれ》か来たらしいわ。つまらないわね。
ヘルメル 客が来てもわたしはいないことにしておくれ。忘れちゃいけないよ。
女中 (扉《と》口《ぐち》で)奥さま、お見かけしたことのない女の方ですが――
ノラ そう、お通ししてちょうだい。
女中 (ヘルメルに)あの、先生もお見えでございます。
ヘルメル すぐにわたしの部屋へ行ったかね?
女中 はい、さようでございます。
ヘルメル、自分の部屋に去る。女中、旅行の服装をしたリンネ夫人を部屋に案内してきて、夫人のはいった後の扉《とびら》をしめる。
リンネ夫人 (おずおずと、幾分《いくぶん》ためらいがちに)今日は、ノラさん。
ノラ (あやふやに)今日は――
リンネ夫人 あなた、あたしがおわかりになりませんのね。
ノラ ええ、どうも――。そうね、もしかしたら――(大声をあげて)まあ! クリスチーネさん! ほんとうにあなたなの!
リンネ夫人 そうよ、あたしよ。
ノラ クリスチーネさん! あなたがわからないなんて! まあ、あたしったら、どうしたんでしょう――。(声を落して)クリスチーネさん、あなたお変りになったわねえ!
リンネ夫人 ええ、あたし変ったわよ。九年――十年という長い年月がたったんですもの――
ノラ そんなに長い間会わなかったかしら?そうね、ほんとにそうなるわ。この八年というものはね、あたし、それは幸福だったのよ。それであなたは、今町へ出ていらっしゃったの? こんな真冬に長い旅をしていらっしゃったのね。えらいわ。
リンネ夫人 あたし、今朝《けさ》汽船で着いたばかりなの。
ノラ もちろんクリスマスのお楽しみにでしょう。まあ、すてきだわ! ええ、ええ、あたしたち、思いきって愉《ゆ》快《かい》にすごしましょうよ。でもまあ、外套《がいとう》なんかお脱《ぬ》ぎなさいな。お寒いんじゃないでしょう? (手をかしてやる)さあ、それじゃ、この煖《だん》炉《ろ》のそばにゆっくり腰《こし》を下ろしましょうよ。いいえ、あなたはそっちの肘掛《ひじかけ》椅子《いす》! あたしはこの揺《ゆ》り椅子に腰掛けるわ。(夫人の両手をつかんで)そうね、やっぱり昔通りのなつかしいお顔だわ。ただちょっと見た時はね――。クリスチーネさん、あなたお顔の色がすこし悪くなったわね、――それにいくらかお痩《や》せになったかしら。
リンネ夫人 おまけにずいぶん年を取ったわよ、ノラさん。
ノラ そうね、いくらかお老《ふ》けになったようね。でもほんのほんの少しよ。たいしたことないわ。(とつぜん言葉を切って、真面目《まじめ》に)まあ、あたしったらぼんやりねえ! すわりこんで、おしゃべりばかりしていて! ねえ、クリスチーネさん、堪忍《かんにん》してちょうだい!
リンネ夫人 なんのことなの、ノラさん?
ノラ (小声で)お気の毒でしたわねえ、ご主人がお亡くなりになったんでしょう。
リンネ夫人 ええ、三年前にね。
ノラ あたしね、そのことはよく知っていたのよ。新聞で読みましたから。でもね、クリスチーネさん、ほんとうにあたし、その時はあなたにお手紙を差上げよう差上げようと思いながら、ついずるずるになってしまいましたの。いつも何かしら邪《じゃ》魔《ま》がはいりましてねえ。
リンネ夫人 ノラさん、あたし、そんなことなんとも思ってやしませんわ。
ノラ いいえ、クリスチーネさん、あたしが悪かったのよ。まあ、ほんとにあなたはお気の毒ねえ、ずいぶんいろんな目にお会いになったんでしょう。――それでご主人は後に何かお残しにならなかったの?
リンネ夫人 なんにも。
ノラ で、お子さんもないの?
リンネ夫人 ええ。
ノラ じゃあ、ほんとうになんにも?
リンネ夫人 心配や苦労の種さえも残していかなかったわ。
ノラ (信じかねるように夫人の顔を見て)そうお、でもクリスチーネさん、そんなことってあるものかしら?
リンネ夫人 (憂鬱《ゆううつ》そうに微笑《びしょう》して、ノラの髪《かみ》の毛を撫《な》でながら)まあ、たまにはそういうこともあるものよ、ノラさん。
ノラ そうすると、ほんとうにひとりぽっちね。あなた、どんなにかおつらいでしょうねえ。あたしにはかわいい子が三人あるのよ。今ばあやと一緒《いっしょ》に表へ出ていますから、ちょっと見ていただくわけにはいきませんけど。それはそうと、あなたのお話をすっかり聞かせてくださいな――
リンネ夫人 いいえ、いいえ、あなたのほうのお話をしてちょうだいよ。
ノラ いいえ、あなたから始めて。今日はあたし、自分勝手はしたくないの。今日はあなたのことばかり考えていたいのよ。でも一言《ひとこと》お話しておきたいことがあるわ。あたしたちには近頃《ちかごろ》大きな幸運が舞《ま》いこんできたのよ。あなた、もうご存じ?
リンネ夫人 いいえ、それはどんなことなの?
ノラ あのね、主人が貯蓄銀行の頭取《とうどり》になったのよ!
リンネ夫人 ご主人が? まあ、なんてご運がいいんでしょう――!
ノラ ええ、すばらしい幸運よ! 弁護士なんていうのは、生活ということになると、とっても不安定なものよ。殊《こと》に上品で正直な仕事ばかりをやっていこうと思えばね。もちろんあの人はそういう事しかしないでしょう。それにあたしも、その点ではあの人に賛成なんですもの。だからねえ、それだけにあたしたち嬉しくってたまらないの! 新年になったら、あの人は銀行へ行って、たいした俸給《ほうきゅう》をいただき、それにたくさんの配当までももらえるんですもの。あたしたち、これからは今までとはまるで違《ちが》った生活もできるのよ、――あたしたちの好きなように。ああ、クリスチーネさん、あたし、とってものんびりした幸せな気持よ! だって、そうでしょう?お金はどっさりあって、心配事はなんにもない、そんなすてきな事ってありませんもの。
リンネ夫人 そうね、とにかくいるだけの物があれば、いいにちがいないわ。
ノラ いいえ、いるだけの物どころじゃないのよ。とってもとってもたくさんのお金なの!
リンネ夫人 (微笑しながら)ノラさん、ノラさん、あなたはまだお利口にならないのね? 学校にいた頃も、あなたは大変な無駄《むだ》使い屋さんだったわね。
ノラ (静かに笑いながら)ええ、いまでも主人はそう言うのよ。(指でおどす真似をする)だけど、この「ノラ」もあなたがたが思っているほど馬鹿《ばか》じゃなくってよ。――ほんとうは、あたしたち無駄使いができるような身分じゃなかったんですもの。あたしたち二人で働かなければならなかったのよ。
リンネ夫人 あなたも?
ノラ ええ、ちょっとした事を。手細工だとか、編物だとか、刺繍《ししゅう》だとか、まあそんなようなことをね。(わざと軽く)それからほかにもいろんなことをしたものよ。あなたご存じでしょう、あたしたちが結婚《けっこん》した頃、主人は役所のほうをやめましたわね。何しろあそこにいたのでは昇進《しょうしん》する見込《みこ》みもなかったし、それに今までよりも余計にお金を稼《かせ》がなければならなくなったんですもの。でも最初の年はめちゃめちゃに働きすぎたのよ。それこそありとあらゆる内職を求めて、朝早くから夜遅《おそ》くまで働きつづけたの。だけど、それじゃ身体《からだ》がもたないわ。とうとう死ぬか生きるかという大病をしてしまってね、お医者さまから南のほうへ転地しなければいけないって言われてしまったのよ。
リンネ夫人 そうそう、まる一年もイタリアへ行っていらしったわね。
ノラ ええ、そうよ。ところが出かけるのが容易なことじゃなかったのよ。イワールがちょうど生れた時でしょう。それでも、どうしても行かなければならなかったんですもの。だけどねえ、行ってみたら、ほんとうにすばらしい旅行だったわ。そしてその旅行のお蔭《かげ》で主人の命が助かったのよ。その代りお金はずいぶんかかったわ。
リンネ夫人 そうでしょうとも。
ノラ 正金千二百ダーレルかかったわ。四千八百クローネになるのよ。ねえ、大変なお金でしょう。
リンネ夫人 ええ、でもそんな場合に、とにかくそれだけのお金があるということは大変な幸せね。
ノラ あなただからお話するけど、ほんとうは父が出してくれたのよ。
リンネ夫人 まあ、そうなの。お父さまがお亡《な》くなりになったのは、ちょうどその頃でしたわねえ。
ノラ ええ、クリスチーネさん、ちょうどその頃でしたわ。ところがねえ、あたし、父のところへ行って、看病してあげることもできなかったのよ。だって、イワールの生れるのが今日か明日かという時だったんですもの。それに死にかけている主人の看護もしなければなりませんでしたからね。やさしい、いい父でしたわ! それなのに、とうとう会えなかったのよ、クリスチーネさん。ああ、あんなにつらい思いをしたことは結婚してから一度もなかったわ。
リンネ夫人 あなたはとってもお父さま思いでしたものねえ。じゃあイタリアへはそれからおいでになったのね?
ノラ そうなの。その時にはお金もできたし、それにお医者さまにはせきたてられたものですからね。それから一月後に発《た》ちましたのよ。
リンネ夫人 それでご主人はすっかりよくなってお戻《もど》りになったのね?
ノラ お魚のように元気になってね!
リンネ夫人 でも――あのお医者さまは?
ノラ なんのこと?
リンネ夫人 さっきあたしと一緒にこちらへいらしった方のことを、女中さんが「先生」と言ってたようでしたけど。
ノラ ええ、あの方ランク先生よ。でも診察《しんさつ》にいらしったんじゃないわ。あたしたちの一番親しいお友達で、日に一度はきっとお見えになるのよ。いいえ、主人はそれからは一時間だって病気なんかしたことはなくってよ。それに子供たちも元気でぴんぴんしているし、あたしもこの通り。(跳《と》び上がって、両手を打つ)ああ、ああ、ほんとうにクリスチーネさん、生きて幸福でいるということは、なんとも言えないほどすてきねえ! ――あら、あら、あたしったらいやあねえ――。自分のことばっかりおしゃべりしていて。(足台に腰かけて、夫人のそばにぴったりと身を寄せ、両手をその膝《ひざ》の上に置く)まあ、気を悪くなさらないでね! ――ねえ、あなたがご主人を愛していらっしゃらなかったっていうのはほんとう? それなら、どうして結婚なさったの?
リンネ夫人 その頃は母がまだ生きていてね、床《とこ》についたきりで途《と》方《ほう》にくれていましたの。それに弟二人の面倒《めんどう》もみてやらなければならなかったでしょう。だからあたし、責任を感じて、あの人の申し出を断るわけにはいかなかったのよ。
ノラ そうでしょう、そうでしょう、無理ないわ。そうすると、ご主人はその頃はお金持だったのね?
リンネ夫人 ずいぶん楽のようでしたわ。でもね、不安定な仕事だったのよ、ノラさん。だから亡くなると一緒に、何もかもががたがたと行ってしまって、後には何一つ残らなかったの。
ノラ で、それからどうなさったの――?
リンネ夫人 それからは、ちょっとした商売をやったり、小さな学校を開いたり、そのほかやれるだけのことはやってみたわ。この三年というものは、あたしにとっては休む暇《ひま》もなく働きつづけた長い一日のような気がするわ。でも、それもおしまいになりました。母にはあたしというものの必要がなくなったの。もう去《い》ってしまいましたから。それに弟たちもいまではそれぞれ職について、自分ひとりでやっていけるようになりましたからね。
ノラ さぞ気がお楽になったでしょう――
リンネ夫人 それがねえ、なんとも言えない気の抜けたような気持なのよ。この人のために生きていこうという、めあてになる人もいないんですもの。(落着かずに立ち上がる)だから、もうあんな遠く離《はな》れた片《かた》田舎《いなか》に引っこんではいられなくなったの。それでこちらへ出てくれば、何か打ちこんでやれるような仕事も簡単に見つかるだろうと思ったわけなのよ。事務所か何かの仕事のような、しっかりした職でも見つかれば、ほんとうに嬉しいんですけどねえ――
ノラ でも、クリスチーネさん、それはずいぶん骨が折れるでしょうよ。それにあなたは、今でももうそんなに疲《つか》れきっていらっしゃるご様子ですもの。温泉へでもおいでになれたら、きっといいんでしょうにねえ。
リンネ夫人 (窓のほうへ行く)あたしにはそんな旅行のお金を出してくれる父がありませんわ。
ノラ (立ち上がる)あら、気を悪くなさらないでね!
リンネ夫人 (ノラのほうへ歩み寄って)ノラさん、あなたこそお気を悪くなさらないでね。あたしのような境遇《きょうぐう》になると、どうも気むずかしくなっていけないのよ。働くめあてもないのに、それでいながら、たえずあくせくしていなければならないでしょう。生きていかなければならないんですもの。そうなると、どうしても人間は利己主義になるのよ。だからあたし、さっきあなたがたの境遇がよくなったというお話を伺《うかが》った時――実は――あなたのためよりも、あたしのためにそれを喜んだのよ。
ノラ どうして? ああ、わかったわ。トルワルがあなたのために何かしてあげられるとお思いなのね?
リンネ夫人 ええ、そう思ったのよ。
ノラ それはきっとそうさせるわよ、クリスチーネさん。あたしに委《まか》せておいてちょうだい。あたしうまく持ちこむから。うまぁくね、――何かあの人の気に入りそうな事を考えてみるわ。ああ、あたし、あなたのお役に立てればほんとうに嬉《うれ》しいわ。
リンネ夫人 あなたがあたしのためにそんなに一生懸命《いっしょうけんめい》になってくださるなんて、ほんとうにありがたいわ、――世の中の苦しみをまるでご存じないあなただけに、一層ありがたいと思うわ。
ノラ あたしが――? あたしがまるで知らないんですって――?
リンネ夫人 (微笑しながら)まあね、あなたのなさったのは手細工とか、そういったふうのものぐらいでしょう――。あなたはまだほんの子供よ。
ノラ (頭をそらして部屋の中を歩きまわる)あなた、そんなにえらそうに言うものじゃなくってよ。
リンネ夫人 そうお?
ノラ あなたもほかの人たちとおんなじね。あなたがたはみんな、あたしがすこしでも真面目なことには役立たない人間だと思っていらっしゃる――
リンネ夫人 まあ、まあ、――
ノラ あたしがこのつらい世の中で何一つしたことのない人間のように考えていらっしゃる。
リンネ夫人 だってノラさん、あなたの苦労はさっき話してくださった事だけなんでしょう?
ノラ フン、――あんなのつまらない事ばっかり! (小声で)まだ大変なのがお話してないのよ。
リンネ夫人 大変なのってどんな事?
ノラ あなたはあたしを馬鹿にしきっているのね、クリスチーネさん。でもそれはおよしになったほうがいいわ。あなたは、長い間お母さまのために一生懸命働いたことを自《じ》慢《まん》にしていらっしゃるのね。
リンネ夫人 あたし誰《だれ》も馬鹿になんかしていませんわ。でもこれだけは本当よ。あたしの腕で母が息を引取るまで何一つ心配させないですんだということは、自慢でもあるし、嬉しくも思っているわ。
ノラ それに弟さんがたのためにしてあげたことも、ご自慢なんでしょう。
リンネ夫人 自慢しても当然だと思いますわ。
ノラ それはあたしもそう思うわ。だけど、こんどはあなたに聞いていただきたいことがあるのよ。あたしにだって、これでも自慢でもあり、嬉しくも思っていることがあるのよ。
リンネ夫人 そうでしょうとも。でもそれはどんなこと?
ノラ 大きな声をしないで。主人に聞えたら大変よ! あの人にはどんなことがあっても聞かせられない話なの――。クリスチーネさん、あなたのほかは誰にも聞かせられないのよ。
リンネ夫人 でもそれはいったいどういう事なの?
ノラ こっちへいらっしゃいな。(夫人を引っぱってソファーの上に並《なら》んで掛《か》けさせる)そうよ、――あたしにだって自慢でもあり、嬉しくも思っている事があるわ。主人の命を救ったのはこのあたしなのよ。
リンネ夫人 救ったんですって――? どういうふうにして救ったの?
ノラ イタリアへ行ったことは、さっきお話しましたわね。もしあの時行かなかったら、あの人はだめだったでしょう――
リンネ夫人 まあ、そう。それであなたのお父さまが、いるだけのお金をくださったのね――
ノラ (微笑《びしょう》しながら)ええ、主人もほかの人たちも、みんなそう信じていますわ。だけど――
リンネ夫人 だけど――?
ノラ 父は一文も出してはくれなかったの。お金をこしらえたのは、このあたしなのよ。
リンネ夫人 あなたが? そんな大金を全部?
ノラ 千二百ダーレル。四千八百クローネよ。いかが?
リンネ夫人 ええ、でもノラさん、どうしてそんなことがおできになったの? 富籤《とみくじ》にでも当ったの?
ノラ (蔑《さげす》んで)富籤ですって?(嘲《あざけ》るように)そんなことじゃ、手《て》柄《がら》にもならないわ。
リンネ夫人 じゃあ、いったいどこから手にお入れになったの?
ノラ (鼻歌《はなうた》をうたいながら、秘密らしく微笑する)フン、トラ、ラ、ラ、ラ!
リンネ夫人 お金を借りることはできないし。
ノラ そうかしら? どうしてできないの?
リンネ夫人 だって、妻は夫の承諾《しょうだく》がなければ借りることができませんもの。
ノラ (頭をそらして)あら、そうでしょうか、もしも妻がすこしばかり実務上の心得を持っていて、――ちょいと利口に立ちまわる女だったとすれば、そうしたら――
リンネ夫人 でもノラさん、あたしにはさっぱりわからないわ――
ノラ わからなくってもいいのよ。あたし、そのお金を借りたとは言いませんもの。ほかの方法で手に入れたかもしれないわ。(ソファーにそりかえる)あたしを慕《した》っているどこかの人からでももらったのかもしれなくってよ。あたしぐらい魅力《みりょく》がありますとね――
リンネ夫人 あなたどうかしているわ。
ノラ クリスチーネさん、いよいよ聞きたくってむずむずしてきたでしょう。
リンネ夫人 ええ、でもねえ、ノラさん、――あなた、何か無分別なことをなさったんじゃない?
ノラ (きちんといずまいを直して)夫の命を救うのが無分別なことでしょうか?
リンネ夫人 無分別じゃないかしら。ご主人にも知らさないで――
ノラ でもあの人にはなんにも知らせてはいけなかったんですもの! まあ、あなたにはそれがおわかりにならないの? どのくらい悪くなっているかということさえ、知らせてはいけなかったんですよ。お医者さまがあたしのところへおいでになって、あの人の命は危ない、南のほうへ転地する以外に助かる道はあるまいっておっしゃったのよ。そこで、最初はなんとかしてこの急場を切りぬけようと工《く》夫《ふう》してみたわ。わかってくださるでしょう? あたしも、よその若い奥《おく》さんたちのように外国へ旅行することができたら、どんなにか嬉しいだろうって言ってみたの。あたし、泣いたり頼《たの》んだりしました。あたしの身体《からだ》がどんな状態かを考えてくだされば、あたしの言うことをやさしく聞いてくださってもいいはずだと言ってね、そのためにはお金を借りてくださってもいいでしょうと切り出してみたの。ところがね、クリスチーネさん、そうすると、あの人怒《おこ》ったようになってしまったわ。そしてあたしを軽はずみな女だ、そんな気ままや気まぐれ――あの人、そんなふうに言ったと思うわ――を抑《おさ》えつけるのは夫としての義務だと言うの。そこであたしはこう考えたわ。「いいわ、いいわ、あなたの命は助けなければならないのよ」って。それで、こういう手段をとったわけ――
リンネ夫人 それでご主人は、そのお金がお父さまから出たものではないってことを、お父さまの口からお聞きにならなかったの?
ノラ ええ、全然。だって、父はちょうどあの頃《ころ》亡《な》くなったんですもの。実はあたし、このことを父に打明けて、なんにも言わないでいてくれるように頼むつもりでいたのよ。ところがあの通りのひどい病気で寝《ね》ていたでしょう――。悲しいことに、もうその必要もなくなってしまいました。
リンネ夫人 それからもご主人にはお打明けにならなかったの?
ノラ もちろんよ、とんでもないことだわ!あの人、こういうことにはとっても厳《きび》しいのよ! それに――男らしい自尊心の強い人なんですもの、――すこしでもあたしのお蔭《かげ》をこうむっていると知ったら、それこそあの人はつらい恥《は》ずかしい思いをするでしょう。そしてあたしたち二人の仲はすっかりこわれてしまって、今のような美しい幸福な家庭はもう二度と見られなくなってしまうのよ。
リンネ夫人 この話はこれからもご主人にはなさらないおつもり?
ノラ(考えこむように、半ば微笑しながら)そうね――多分いつかはね、――何年かたって、あたしが今のように奇《き》麗《れい》でなくなった時にね。笑っちゃだめよ! あたしの言うのはね、あの人が今のようにあたしのことを大騒《おおさわ》ぎしてくれなくなった時のこと。つまり、あの人の前であたしが踊りを踊っても、仮《か》装《そう》をしても、お芝《しば》居《い》の台詞《せりふ》を言っても、ちっとも、嬉しがらなくなった時のことよ。そんな時に、何か取っておきのことがあるといいでしょう――(話を切って)まあ、ばかばかしい! そんな時なんて来やしないわ。――ところでねえ、クリスチーネさん、あなた、このあたしの大秘密をどうお思いになって? やっぱりあたしは役に立たない人間かしら? ――それはそうとして、あたし、このことではとっても苦労しているのよ。きちんきちんと義務を果していくのは並大抵《なみたいてい》のことじゃないわ。あなたはご存じないのでしょうけど、こういう取引については、利子の四期払《ばら》いというのと元金の分割《ぶんかつ》払いというのがあるのよ。そのお金をこしらえるのがとっても大変なの。だから、あっちを詰《つ》めこっちを詰めて、できるだけ節約しなければならないのよ。といって、家事向きのお金のほうからそれに振《ふり》当《あ》てることはできないでしょう。だって主人には気持のいい暮《くら》しをさせなければなりませんもの。それに子供たちだって、まさかひどい装《なり》をさせておくわけにもいかないでしょう。子供たちのだといってもらったお金は、やっぱりみんなそのために使ってしまうわ。かわいいかわいい子供たちのことですもの!
リンネ夫人 じゃあ、ノラさん、あなたのお小《こ》遣《づか》いの中からお出しになったわけね? お気の毒に。
ノラ ええ、もちろんよ。あたしが真っ先にしなければならないんですもの。主人が新しい着物や何かを買うようにといってお金をくれた時には、半分より余計に使ったことはないのよ。いつも一番粗《そ》末《まつ》な、一番安い物を買ったわ。でも幸せと、あたしにはどんなものでも似合うから、主人には気がつかれないですんだのよ。でも時にはたまらない気持になってよ、クリスチーネさん。だってそうでしょう、誰だって好《い》い着物を着て歩きたいものなんですから。
リンネ夫人 ええ、ええ、そうだわ。
ノラ それからねえ、ほかにも収入の道はあったのよ。去年の冬は、写し物の仕事がたくさんありましたわ。それであたしは部屋に閉じこもって、毎晩夜中過ぎまで書き写したのよ。まったくあの時は、くたびれてくたびれてしようがないこともありましたわ。でもそうやって働いて、お金を儲《もう》けるというのはすばらしく面白《おもしろ》いものよ。まるで自分が男になったような気がしてね。
リンネ夫人 だけど、そんなふうにしてどのくらいお払いになれたの?
ノラ そうね、それははっきりとは言えないわ。こういう事って、いったいにね、はっきりさせておくことが難しいものよ。ただとにかく、かき集められるだけかき集めて払ったということだけはわかっているわ。どうしていいか途《と》方《ほう》にくれてしまったこともたびたびあってよ。(微笑しながら)そういう時にはここにぼんやり腰《こし》掛《か》けて、こんなことを空想するの、どこかのお金持のおじいさんがあたしに恋《こい》をして――
リンネ夫人 まあ! どういう方?
ノラ あら、でたらめよ!――で、その人が亡くなるでしょう、そこでその遺言状《ゆいごんじょう》を開いてみると、大きな字で「わが遺産のすべてを愛すべきノラ・ヘルメル夫人に現金にて直ちに払い渡《わた》すべし」と書いてあるの。
リンネ夫人 でもノラさん、それはどういう方なの?
ノラ まあ、あなたってわからないのねえ!そんなおじいさんなんかいやしないわ。ただ空想よ。どうしてもお金をこしらえる方法がなくなると、ぼんやり腰掛けて、そういう人を空想してみるだけよ。でもそんなことは、もうどっちだっていいわ。そんな退屈《たいくつ》なおじいさんなんかどこにでも好きな所にいるがいいわ。そんな人にも、そんな遺言状にも、あたしは用がなくなったの。だってもう、なんにも心配はないんですもの。(跳《と》び上がる)ああ、クリスチーネさん、考えただけでもほんとうにすてきだわ! 心配がない! ちっとも心配がない、きれいさっぱりと! 子供たちと遊んだり、ふざけたりすることもできる! あの人の好きなように、家の中を奇麗にすることもできる! まあ、どう、そのうちに春が、あの広々とした青い空を持ってやってくるわ。その頃にはちょっとした旅行ぐらいできるようになるでしょう。そうすれば、きっとまた海も見られるわ。ああ、ああ、生きて幸福でいるということは、ほんとうにすばらしいことだわ!
玄関《げんかん》で呼鈴《よびりん》が鳴る。
リンネ夫人 (立ち上がって)呼鈴よ。あたしお暇《いとま》するほうがよさそうね。
ノラ いいえ、いいのよ。ここへは誰も来やしませんわ。きっと主人のお客さまよ――
女中 (玄関へ通じる扉《と》口《ぐち》から)あのう、奥さま、――男の方がお見えになって、弁護士さんにお目にかかりたいとおっしゃっていますが――
ノラ 頭取《とうどり》さんとおっしゃったんだろう。
女中 はあ、さようでございました。でもよくわかりませんので――あちらには先生がいらっしゃいますから――
ノラ 男の方ってどなた?
クログスタット(玄関へ通じる扉口で)わたしですよ、奥さん。
リンネ夫人 (驚《おどろ》き、ぎょっとして、窓のほうに向く)
ノラ(クログスタットのほうに一歩近寄り、緊張《きんちょう》した様子で、小声で)あなたですか? どうなさったんです? 主人にどんなご用がおありですの?
クログスタット 銀行の用事――といったようなものです。わたしはあの貯蓄銀行でちょっとした職についておりますが、こんどこちらのご主人が頭取におなりになるという話を伺《うかが》いまして――
ノラ それでどんな――
クログスタット ほんのつまらない用事ですよ、奥さん。ただそれだけです。
ノラ そうですか、それではどうぞ事務室のほうへお通りください。(玄関へ通じる扉《とびら》をしめながら、冷やかに挨拶《あいさつ》する。それから煖《だん》炉《ろ》のそばへ寄って、火を見る)
リンネ夫人 ノラさん、――あの人、だれ?
ノラ 法律代理人のクログスタットという人よ。
リンネ夫人 じゃあ、やっぱりあの人だった。
ノラ あなた、ご存じなの?
リンネ夫人 知ってましたわ――何年も前に。あたしどものほうで、しばらくの間弁護士代理をしていましたの。
ノラ ええ、その通りよ。
リンネ夫人 あの人、ずいぶん変ったわ。
ノラ たいへん不幸な結婚《けっこん》をしたらしいのよ。
リンネ夫人 いまは独身《ひとり》なのね?
ノラ 子供さんが大勢あるんですって。さあ、やっと火が燃えてきたわ。(煖炉の戸をしめ、揺《ゆ》り椅子《いす》をすこしわきへ押《お》しやる)
リンネ夫人 ずいぶんいろんな仕事に手を出しているという噂《うわさ》じゃない?
ノラ そう? ええ、そうかもしれないわ。実はあたし、ちっとも知らないの――。だけど、仕事のことなんか考えるのよしましょうよ。つまらないじゃないの。
医学士ランク、ヘルメルの部屋から出てくる。
ランク (まだ扉の中で)いや、いや、きみ、もうお邪《じゃ》魔《ま》はよそう。しばらく奥さんのところへ行ってるよ。(扉をしめ、リンネ夫人に気がついて)おや、これは失礼。こちらでもお邪魔ですな。
ノラ いいえ、かまいませんのよ。(紹介《しょうかい》する)こちら、ランク先生。こちらはリンネ夫人。
ランク ああ、そうですか。お名前はこちらのお宅でたびたび伺っております。先ほどこちらへ参ります階段のところでお先に失礼いたしましたね。
リンネ夫人 ええ、あたしはゆっくり上がってまいりました。上がるのはとてもつらいものですから。
ランク ははあ、どこか内臓でもお悪いんですね?
リンネ夫人 もともと過労なんです。
ランク それだけですか? それじゃ町へいらっしゃって、いろいろな会にでもお出になって保養をなさろうというんですね。
リンネ夫人 あたしは仕事を捜《さが》しにまいりましたんですの。
ランク それが過労に対する適薬でしょうかな?
リンネ夫人 先生、人間は生きていかなければなりませんわ。
ランク さよう、生きていくということが極《きわ》めて必要だという見解は、誰《だれ》しもが持っておりますな。
ノラ あらまあ、先生、――あなただって生きていたいとお思いでしょうに。
ランク そうですね。どんなにみじめであっても、やっぱりできるだけ長くこの苦しみを引きずっていきたいと願っているのですからな。わたしのところへ来る患者《かんじゃ》にしても、みんな同じことですよ。道徳上の病人についても変りありません。現に今、そういう道徳上の廃疾者《はいしつしゃ》がへルメル君のところに来ていますよ――
リンネ夫人 (低い声で)まあ!
ノラ それは誰のことですの?
ランク いや、それはクログスタットという法律代理人のことですよ。あなたのご存じない人間のことです。性根《しょうね》の腐《くさ》った男ですよ、奥さん。しかしそんな奴《やつ》でさえも、生きていかなければならないということを、さも重大事のように、しゃべりだすんですからな。
ノラ そうですか? それで、いったい主人には何を話そうとしていたんですの?
ランク わたしは全然知りません。なんだか銀行に関係のある話のようでした。
ノラ あたし、クログ――いいえ、その法律代理人のクログスタットさんて方が銀行に関係している人だとはしりませんでした。
ランク ええ、あそこでちょっとした職についているんですよ。(リンネ夫人に)どうでしょう、あなたのいらっしゃった地方にもこういう人間はおりますか? 他人《ひと》の道徳上の腐《ふ》敗《はい》を嗅《か》ぎだそうと息を切らして駆《か》けずり回る、さてそのあげく、その当人を何か都合のいい地位につかせようと推薦《すいせん》する、といった手《て》合《あい》がですね。そんな時、健全な人間はいつも手を拱《こまぬ》いていなくちゃならないのです。
リンネ夫人 そういう人こそ、一番閉じこめておく必要のある病人でしょう。
ランク (肩《かた》をそびやかして)さあ、そこですよ。その考えが人間社会を病院にしてしまうんですね。
ノラ (ひとり考えこんでいたが、とつぜん小さく笑いだし、両手を打つ)
ランク あなたはどうして笑うんですか? いったいあなたは、社会ってどんなものかご存じですか?
ノラ そんな退屈な社会のことなんか、どうだってかまやしませんわ。あたしが笑ったのはまるで違ったこと――とってもとってもおかしいこと。――ねえ、先生、――そうすると、銀行に勤めている人たちは、これからはみんな主人がどうにでもすることができますの?
ランク それがそんなにおかしいんですか?
ノラ (微笑《びしょう》して鼻唄《はなうた》をうたいながら)いいのよ! いいのよ! (部屋の中を歩き回って)だってあたしたちが――うちの主人が、そんなに大勢の人たちに対して大変な勢力を持つようになるのかと思うと、ほんとうに愉《ゆ》快《かい》でたまりませんもの。(ポケットから袋《ふくろ》を出して)先生、マクロンをお一ついかが?
ランク おやおや、マクロンですね。この菓《か》子《し》はお宅では禁物のはずだったと思いますが。
ノラ そうですよ。でもこれはクリスチーネさんにいただきましたの。
リンネ夫人 まあ? あたしが――?
ノラ まあまあ、そんなにびっくりなさらなくってもいいのよ。あなたはご存じないけど、主人がこれを食べてはいけないって言うのよ。それはね、あたしの歯が悪くなるのを心配しているの。でもかまやしない、――一つぐらいは――! そうでしょう、先生? さあ、どうぞ! (ランクの口にマクロンを一つ押しこむ)クリスチーネさん、あなたもね。それからあたしも一ついただくわ。ほんの小さいのを一つ――か、せいぜい二つ。(また歩き回って)ああ、ほんとうに、いまこそあたし、なんとも言えないほど幸福だわ。だけど、どうしてもやってみたくてたまらないことが、もう一つだけこの世の中にあるのよ。
ランク へえ? それはまたなんです?
ノラ あたし、たまらないほど口に出して言ってみたいことがあるの。それを主人にぜひとも聞かせたいのよ。
ランク じゃあ、どうしてそれを言わないんです?
ノラ でも言えないの。だって、あんまりひどいことなんですもの。
リンネ夫人 ひどいこと?
ランク ははあ、それならおっしゃらないほうがよさそうですね。しかしわたしたちにならかまわないでしょう――。で、ヘルメル君に聞かせたいとおっしゃるのは、いったいなんです?
ノラ あたしね、「こん畜生《ちくしょう》!」って言ってやりたくてたまらないのよ。
ランク どうかしている!
リンネ夫人 まあ、なんて事を! ノラさん――!
ランク さあ、言ってごらんなさい。ちょうどヘルメル君が来ましたよ。
ノラ (マクロンの袋をかくして)しっ、しっ!
ヘルメル、外套《がいとう》を腕《うで》にかけ、帽《ぼう》子《し》を手に持って部屋から出てくる。
ノラ (ヘルメルを迎《むか》えに出て)おや、あなた、あの男は帰りましたの?
ヘルメル うん、いま帰ったよ。
ノラ ご紹介しますわ――。こちらクリスチーネさん、今日お着きになったばかりよ。
ヘルメル クリスチーネさん――? 失礼ですが、どなたでしたかな――
ノラ あなた、リンネの奥《おく》さんよ。クリスチーネ・リンネ夫人よ。
ヘルメル ああ、そう。じゃあ、家内の幼友達の?
リンネ夫人 はあ、昔《むかし》からお親しくしていただいております。
ノラ それでねえ、あなたにお話があって、わざわざ遠い所を町までおいでになったのよ。
ヘルメル それはまたどういうことで?
リンネ夫人 いいえ、そういうわけでも――
ノラ つまり、クリスチーネさんは事務所の仕事が大変お上手《じょうず》なの。それで誰か立派な人に指導していただいて、もっといろんなことを覚えたいというお考えなのよ。
ヘルメル それは結構ですな、奥さん。
ノラ それで、こんどあなたが銀行の頭取になったことをお聞きになったので――電報でお知りになったんですって――大急ぎで出かけていらしったわけなの――。ねえ、あなた、お願いよ、クリスチーネさんのためになんとかしてあげてくださいな。いいでしょう?
ヘルメル うん、それはできないこともないだろう。奥さんはたしか未《み》亡人《ぼうじん》でしたな?
リンネ夫人 はあ。
ヘルメル それで、事務の経験はおありですか?
リンネ夫人 はあ、かなりございます。
ヘルメル それなら、おそらく何か仕事を見つけてあげることができましょう――
ノラ (両手を打って)ほおらね、ほおらね!
ヘルメル ちょうど好《い》い時においでになったんですよ、奥さん――
リンネ夫人 まあ、なんとお礼を申上げたらよろしいのやら――
ヘルメル いや、それには及《およ》びません。(外套を着る)しかし、今日はちょっと失礼させていただきます――
ランク 待ってくれたまえ。ぼくも一緒《いっしょ》に行くから。(玄関《げんかん》から毛皮の外套を取ってきて、煖《だん》炉《ろ》で温める)
ノラ 早くお帰りになってね、あなた。
ヘルメル 一時間ばかりだ。それ以上はかからないよ。
ノラ クリスチーネさん、あなたもいらっしゃるの?
リンネ夫人 (外套を着ながら)ええ、もう失礼して、部屋を捜さなくちゃなりません。
ヘルメル それではご一緒に参りましょう。
ノラ (リンネ夫人に手をかしながら)家《うち》はこんなに手《て》狭《ぜま》で、ほんとうに残念だわ。家ではどうしてあげようもなくって――
リンネ夫人 まあ、とんでもない! じゃあノラさん、さようなら。いろいろありがとうございました。
ノラ さようなら。今夜はもちろん来てくださるわね。それから先生。あなたもよ。なんですって? 気分がよかったらですって? あら、いいにきまってるじゃありませんか。暖かにしていらっしゃいな。
一同雑談をしながら玄関に出て行く。外の階段のところで子供たちの声がする。
ノラ ああ、帰ってきた! 帰ってきた!
ノラ、駆けて行って扉《とびら》をあける。乳母《うば》アンネ・マリー、子供たちをつれてはいってくる。
ノラ さあ、おはいり、おはいり!(腰《こし》を屈《かが》めて、子供たちにキスをする)ああ、いい子、いい子――! クリスチーネさん、ごらんになって? みんなかわいいでしょう!
ランク こんな風の吹《ふ》き通しの所でおしゃべりはよしましょうよ!
ヘルメル さあ、まいりましょう、リンネさん。母親ででもなければ、とてもこんな所にいられませんよ。
ランク、ヘルメル及びリンネ夫人、階段を降りて行く。乳母、子供たちをつれて部屋にはいってくる。ノラも一緒にはいってきて、扉をしめる。
ノラ お前たち、ほんとに元気そうねえ。まあ、こんな赤い頬《ほ》っぺたをしてさ! まるでりんごか薔薇《ばら》の花のようだこと!(子供たちは次の言葉の間、母親としゃべりつづける)お前たち面白《おもしろ》かった? それはよかったねえ。あらそう、お前がエンミーとボブを橇《そり》に乗せてやったって? まあ、驚《おどろ》いた! ほんとにイワール、お前は大人になったわねえ。ばあや、ちょっとその子を貸してちょうだい。あたしのかわいいちっちゃなお人形さん! (乳母から一番下の子を受取って、抱きながら踊《おど》る)ええ、ええ、お母さまもボブと一緒に踊りましょうね。なあに? お前が雪投げをしたんだって? まあ、お母さまも一緒に行ったらよかったわねえ! いいのよ、いいのよ、ばあや。あたしが脱《ぬ》がしてやるから。あたしにまかせておおきったら。自分でやりたいんだから。しばらく部屋に行っておいで。お前、ずいぶん寒そうじゃないの。煖炉の上に熱いコーヒーがあるよ。
乳母、左手の部屋に去る。ノラ、子供たちの外套と帽子を取ってやって、そこらじゅうにほうりだす。その間、子供たちには互《たが》い同士で勝手にしゃべらしておく。
ノラ まあ、そう? じゃあ、大きな犬がお前たちを追いかけてきたの? でも噛《か》みつきゃしなかったでしょう? そうよ、こんなかわいいお人形さんのようなちっちゃな子には噛みつくもんですか。イワール、その包みの中を見ちゃいけません! なんでしょうねえ? お前にわかったらねえ。ああ、いけません、いけません。いやぁな物がはいっているのよ。え? 一緒に遊びたいって? 何をして遊ぶの? 隠《かく》れんぼ? じゃあ、隠れんぼをしましょうね。ボブが一番先に隠れるのよ。お母さまが先だって? いいわ、じゃあお母さまが先に隠れますよ。
ノラと子供たちは笑い叫《さけ》びながら、その部屋と右隣《みぎどなり》の部屋で遊びまわる。しまいにノラはテーブルの下に隠れる。子供たちが駆けこんできて、捜すが見つからない。やがて母親のくすくす笑う声を聞きつけると、テーブルめがけて突進《とっしん》し、テーブル掛《か》けをあげて、母親を見つける。大変な騒《さわ》ぎ。ノラは子供たちをおどかすように、のそのそと這《は》いだしてくる。また騒ぎ。その間に入口の扉をノックする音が聞える。誰《だれ》もそれに気がつかない。やがて扉が半ば開かれ、クログスタットの姿が現われる。しばらく待っているが、隠れんぼは終らない。
クログスタット ごめんください、奥さん、――
ノラ (低い叫び声をあげて、振返《ふりかえ》り、半ば跳《と》び上がる)ああ! なんのご用ですか?
クログスタット ごめんください。扉がすこしあいていたものですから。どなたかしめるのをお忘れになったんでしょう――
ノラ (立ち上がって)主人は留守ですよ、クログスタットさん。
クログスタット 存じております。
ノラ そうですか、――で、ご用はなんでしょう?
クログスタット あなたにほんのちょっとお話がしたいんです。
ノラ あたしに――? (子供たちに小声で)ばあやのところへ行っておいで。何? いいえ、このよそのおじさんはお母さまに何もしやしませんよ。お帰りになったら、また遊びましょうね。(子供たちを左の部屋に連れて行って、扉をしめる)
ノラ (不安そうに、緊張《きんちょう》して)あたしにお話があるんですって?
クログスタット ええ、そうです。
ノラ 今日は――? まだ一日《ついたち》にはなりませんよ――
クログスタット そうです、今日はクリスマスの前夜です。そこであなたがどんなクリスマスの贈物《おくりもの》をお受けになるか、それはあなたのお気持一つです。
ノラ あなた、どうしようというんです? 今日はまるで用意がないんですが――
クログスタット 今日のところはそのお話で伺《うかが》ったのではありません。すこし違《ちが》った用向きでしてね。ところで、ちょっとの間お差支《さしつか》えはありませんでしょうね。
ノラ ええ、別に差支えはありませんが、――
クログスタット 結構です。わたしはオルセンの料理店におりまして、ご主人が通りを歩いていかれるのを拝見しました――
ノラ ええ、そうです。
クログスタット ――女の方とご一緒に。
ノラ それで?
クログスタット ちょっとお伺いしたいのですが、あの人はリンネ夫人ではありませんか?
ノラ そうですわ。
クログスタット 町へ来たばかりですか?
ノラ ええ、つい今日。
クログスタット あなたのご親友なんですね?
ノラ ええ、そうですわ。でもどうしてそんな――
クログスタット わたしも以前にあの人を知っておりました。
ノラ そうだそうですね。
クログスタット ははあ、そのこともご存じなんですね。そんなことだろうと思っていました。じゃあ、てっとり早くお尋《たず》ねいたしますが、あのリンネ夫人は銀行に勤めることになるんですか?
ノラ クログスタットさん、あたしに向ってそう根掘《ねほ》り葉掘りお尋ねになるのは失礼じゃありません? あなたは主人の下で働いている方じゃありませんか。でもせっかくのお尋ねですから、教えてさしあげましょう。そうです、リンネ夫人は銀行に就職することになっています。そしてあの方を推薦《すいせん》したのはこのあたしですよ、クログスタットさん。さあ、これでおわかりでしょう。
クログスタット やっぱり思った通りだ。
ノラ (部屋の中を行ったり来たりしながら)まあ、誰でもすこしぐらいは勢力を持っているものだと思いますね。女だからといって、そう馬鹿《ばか》にしたものではありません――。人の下にいる者はね、クログスタットさん、他人に対してあんまり失礼な真似《まね》はしないようにすることですね。するとそうされた者が――フン――
クログスタット ――勢力を持っているというんですか?
ノラ ええ、その通り。
クログスタット (言葉の調子を変えて)奥さん、あなたのその勢力をわたくしのために用いてくださるわけにはまいりませんでしょうか?
ノラ なんですって? それはどういうことなんですの?
クログスタット あの銀行でわたくしが持っております低い地位をこのまま保っていけるように、お力添《ちからぞ》え願えませんでしょうか。
ノラ まあ! 誰があなたの地位を奪《うば》おうとしているんですの?
クログスタット まあまあ、わたしに対してそんな知らばっくれた顔をなさるには及びません。あなたのお友達がわたしと顔を合せるのを心よく思っていないことも、ちゃあんと知っております。そしてまた、誰のためにわたしが追い出されなければならないかということも、わたしにはよくわかっているんです。
ノラ でもあたしは、ほんとうに――
クログスタット ええ、ええ、ええ、簡単に申しますよ。まだ間に合うことですから、どうかあなたの勢力を用いて、これをやめさせるようにしていただきたいものです。
ノラ でもクログスタットさん、あたしには勢力なんかちっともありません。
クログスタット ないんですって! たった今ご自分の口からおっしゃったじゃありませんか――
ノラ あれはそんなふうにお取りになっては困ります。あたしなんかが、主人に対してそんな勢力を持っているはずがないじゃありませんか!
クログスタット いや、わたしはご主人を学生時代から存じておりますが、あの頭取《とうどり》さんが、世間の旦《だん》那《な》さんよりも頑《がん》固《こ》だとは考えられませんね。
ノラ 主人に対して失礼なことをおっしゃるようですと、お帰りを願わねばなりません。
クログスタット 奥さん、威《い》勢《せい》がいいですな。
ノラ あたし、もうあなたなんか恐《こわ》くはありませんよ。新年早々すっかり片をつけてしまいますから。
クログスタット (さらに自分を制して)まあ、お聞きなさい、奥さん。いざという時には、銀行のあんな下っぱの地位でも命がけで争ってみせますからね。
ノラ ええ、ほんとうにそんなご様子ですね。
クログスタット それは収入のためばかりではありません。むしろ収入なんてのは、どっちでもいいことなんですよ。しかしそれにはほかの事情がありましてね――。そうですな、申上げてしまいましょう! それはこういうことです。みんなの知っていることですから、あなたももちろんご存じでしょうが、実はわたしは数年前に無分別なことをやらかしました。
ノラ そんな話を聞いたことがあるようですわ。
クログスタット その事件は裁判にこそなりませんでしたが、その瞬間《しゅんかん》からわたしにとってはあらゆる道がふさがれたようになってしまったんです。そこであなたもご承知のような商売に手をつけたわけです。何かしらやらねばなりませんからね。けれども、わたしなぞは最もたちの悪いほうではなかったということだけは申せましょう。しかしこんどこそは、もうそういうものから一切《いっさい》足を洗わなければなりません。伜《せがれ》どももだんだん大きくなってきますから、あれらのためにも世間の信用をできるだけ回復しておいてやらなければならないのです。ですから銀行の地位は、わたしにとってはいわばその第一の踏段《ふみだん》だったわけですよ。それなのに、お宅のご主人はその踏段からわたしを蹴《け》落《おと》そうとなさっているのです。そうなれば、わたしはまたまた泥《どろ》の中に落ちこまなければなりません。
ノラ でも、ほんとうにクログスタットさん、あなたをお助けするなんて、とてもあたしの力ではできませんわ。
クログスタット それはあなたに助けてやろうという意志がおありにならないからですよ。しかしわたしのほうには、いやでもあなたにそうさせる手段がありますからね。
ノラ まさか、あたしがあなたからお金を借りているということを、主人に話そうというんじゃないでしょうね?
クログスタット フン、もし話すとしたら?
ノラ それはあんまりひどいわ。(涙《なみだ》が落ちかかる)あたしが喜びとも誇《ほこ》りともしているこの秘密、それを、そんないやらしい卑《ひ》劣《れつ》なやり方で主人の耳に入れようなんて。――しかもそれをあなたの口から聞かせようなんて。あなたはあたしにこの上もなく不愉《ふゆ》快《かい》な思いをさせようとなさるのね――
クログスタット 不愉快なだけですか?
ノラ (激《はげ》しく)まあ、やるならやってごらんなさい。それで一番ひどい目にあうのは、あなたご自身よ。だってそうなれば、あなたがどんなに悪い人間であるかということが、主人にもよくわかりますもの。あなたの地位なんか、とうてい保てなくなりますわ。
クログスタット いや、あなたの恐《おそ》れていらっしゃるのは、家庭内の不愉快ということだけかどうかと伺っているんです。
ノラ 主人がこの話を聞けば、もちろん残金は即《そく》座《ざ》に支《し》払《はら》ってしまいましょう。そうしてあなたとの関係はきれいさっぱり片がついてしまうのです。
クログスタット (一歩近寄って)まあ、お聞きなさい、奥《おく》さん、――あなたは記憶《きおく》がお悪いのか、さもなければ、実務ということをまるでご存じないのです。ひとつ、この事件をもっと根本《こんぽん》から説明してあげねばなりますまい。
ノラ なんですって?
クログスタット お宅のご主人がご病気の時、あなたはわたしのところへおいでになって、千二百ダーレル貸してくれとおっしゃいましたね。
ノラ ほかにどなたも知りませんでしたから。
クログスタット そこでわたしは、その金を都合してあげるお約束《やくそく》をしました――
ノラ そしてその通り都合してくださいました。
クログスタット その時、わたしはある条件を付して金をお貸しするお約束をしました。あなたはその頃《ころ》はご主人の病気にばかり気をとられていて、旅費をこしらえたい一心でいらっしゃったから、貸借《たいしゃく》に付《ふ》随《ずい》する細かい事《こと》柄《がら》にはあまり深く気をおとめにならなかったようですね。ですからここでもう一度、それを思い出していただく必要がありましょう。さてそこで、わたしはその金をわたしの作成した借用証書と引《ひき》換《か》えにお渡《わた》しする約束をいたしました。
ノラ そうです。そしてあたしはその証書に署名《しょめい》しましたわ。
クログスタット さよう。しかしわたしはその下に二、三行書き加えて、あなたのお父さまにその借金の保証人になっていただくことにしたのです。そしてそこにお父さまの署名をいただくはずでした。
ノラ はずですって――? 父はちゃんと署名したでしょう。
クログスタット わたしは日付を書き入れる個《か》所《しょ》を空《あ》けておきました。つまりそれは、お父さまが署名なさった日を、ご自分で書き入れていただくためだったのです。奥さん、覚えておいででしょう?
ノラ ええ、そうだったようです――
クログスタット そこでわたしはあなたに証書をお渡しして、お父さまのところへ郵送していただくことにしたのです。そうじゃありませんでしたか?
ノラ そうです。
クログスタット で、あなたはもちろんすぐにそうなすったんでしょう。だって五――六日したら、お父さまの署名のある証書を持っておいでになったんですからね。そこでわたしは金をあなたにお渡ししたわけです。
ノラ ええ、そう。それであたし、お払《はら》いするものは、きちんきちんとお払いしているじゃありませんか?
クログスタット さよう、まずまずそうです。ところで、――いまの話に戻《もど》りますが、――あの頃は奥さん、あなたにとっては大変な時でしたね?
ノラ ええ、それはそうでした。
クログスタット お父さまは大変お悪くて寝《ね》ていらっしゃったんでしょう。
ノラ もう危《き》篤《とく》だったのです。
クログスタット それからまもなくお亡《な》くなりになったんですね?
ノラ ええ。
クログスタット そこでですね、奥さん、あなたはお父さまのお亡くなりになった日をおそらく覚えておいででしょうな? つまり、何月の何日か。
ノラ 父は九月二十九日に亡くなりました。
クログスタット まったくおっしゃる通りです。それはわたしも調べて知っております。それだけに、わたしにはどうしても腑《ふ》に落ちない、(一枚の書類を出す)妙《みょう》な事があるんですな。
ノラ 妙な事ってなんでしょう? あたしにはさっぱり――
クログスタット 妙な事というのは、奥さん、つまりこうです、あなたのお父さまは、亡くなられた三日後に、この証書に署名をなさっているんですよ。
ノラ なんですって? あたしにはわかりませんが――
クログスタット あなたのお父さまは九月二十九日に亡くなられました。ところがこれをごらんなさい。お父さまはこの証書に十月二日に署名をなさっているんですよ。これは妙じゃありませんか、奥さん?
ノラ (黙《だま》っている)
クログスタット この点を説明していただけましょうか?
ノラ (まだ黙っている)
クログスタット それに特に目につくことがもう一つあるんですな。つまり、この十月二日という文字と年号とがお父さまの手ではなくて、どうもわたしに見覚えのある筆跡《ひっせき》で書かれているということですね。もっとも、これは説明がつかないことはありません。あなたのお父さまが日付を書き入れるのをお忘れになったと。それで、お父さまのお亡くなりになったことが知れわたらないうちに、誰《だれ》かがその日付をでたらめに書きこんだものだろうと、ね。まあ、これはそうたいしたことではありません。問題になるのは署名です。これは本物なんでしょうな、奥さん? ここに名前をお書きになったのは、ほんとうにお父さまなんでしょうな?
ノラ (しばらく黙っていたが、やがて頭をそらし、反抗《はんこう》するように相手を見て)いいえ、そうではありません。父の名前を書いたのはあたしです。
クログスタット まあ、奥さん、――そんな危険なことをむやみにおっしゃるものじゃありませんよ。
ノラ どうしてなんです? お金はすぐにお返ししますよ。
クログスタット ひとつ伺わせていただきたいんですが、――どうしてあなたはお父さまのところへ書類をお送りにならなかったんです?
ノラ そんなことができるものですか。父は病気で寝ていたでしょう。もし書類を送って署名を頼むとすれば、なんのためにお金がいるかも話さなければなりません。でも、あんな重病人に向って、主人の命が危ないなんてことを、どうして話すことができましょう。それは不可能というものです。
クログスタット それなら、外国旅行をおやめになるほうがよかったでしょう。
ノラ いいえ、それもできませんでした。旅行に出れば、主人の命が助かる見込《みこ》みがあったんですもの。とてもやめるわけにはいかなかったのです。
クログスタット しかしそんなことをすれば、わたしに対して詐欺《さぎ》を働くことになるとはお考えにならなかったんですか?
ノラ そんなこと、あたし気にもとめませんでした。あなたのことなんか問題ではなかったのです。あなたは主人が危険な状態にあることをご承知でいながら、思いやりのない面《めん》倒《どう》なことばかりおっしゃるので、実はあなたがいやでたまらなかったのです。
クログスタット 奥さん、あなたはご自分が罪を犯《おか》しているということを、まだはっきりおわかりになってはいらっしゃらないようですな。しかし申上げておきますが、わたしも以前にこれとそっくり同じことをしたんですよ。そのおかげで、わたしの社会的な地位をすっかり失ってしまったんですが。
ノラ あなたが? まあ、あなたが奥さんの命を救うために、何か思いきったことをおやりになったとでも思わせようというんですの?
クログスタット 法律は動機のいかんを問いません。
ノラ そうすると、その法律はよっぽど悪い法律にちがいありませんわ。
クログスタット 悪かろうと悪くなかろうと、――わたしがこの書類を裁判所に持ちだせば、あなたは法律によって処分されるんですよ。
ノラ そんなこと、信じるものですか。娘《むすめ》たるものに、年取って死にかけている父親の心配や苦労を省いてやる権利はないものでしょうか? 夫の命を救う権利が、妻たるものにはないのでしょうか? あたし、法律のことはよく存じません。でも、そういうことを許す個条《かじょう》がどこかにあるにちがいないと思います。あなた、それをご存じないんですの、法律代理人のくせに? クログスタットさん、あなたはきっとろくでもない法律家なのね。
クログスタット そうかもしれません。しかしこの事件、――わたしたちの間に起っているこの種の事件に関しては、わたしは非常に明るいんですよ。よろしい、まあお好きなようになさい。しかし断っておきますが、こんどわたしが突《つ》き落される時には、あなたもお仲間ですからな。
クログスタット、挨拶《あいさつ》して、玄関《げんかん》を通って出て行く。
ノラ (しばらく考えこんでいたが、やがて頭をそらして)まあ、なんてことでしょう! ――あたしをおどかそうっていうんだわ!あたしそんなに間抜《まぬ》けじゃないわ。(子供たちの外套《がいとう》をたたみはじめる。が、すぐに手を休める)でも――? ――――いいえ、そんなはずはないわ! ――愛情からしたことなんだもの。
子供たち (左手の扉《と》口《ぐち》で)お母さま、いま、よその小父《おじ》さん、お家《うち》から出て行ったよ。
ノラ ええ、ええ、わかってるわ。だけど、よその小父さんのこと、誰にも言うんじゃありませんよ。いいこと? お父さまにもよ!
子供たち うん、お母さま。またぼくたちと遊ぶ?
ノラ いいえ、いいえ、いまはだめよ。
子供たち なあんだ、だってお母さま、さっき約束したじゃないの。
ノラ そうだったわね、でも、いまはだめよ。あっちへ行っておいで。お母さまにはご用事がどっさりあるんですからね。さあ、あっちへ行っておいで、あっちへね、いい子ちゃんたちねえ。(子供たちを気をつけながら隣《となり》の部屋に追いやって、扉《とびら》をしめる)
ノラ (ソファーに腰《こし》を下ろして、刺繍《ししゅう》を取り上げ、二針三針刺すが、すぐにやめてしまう)そんなことはない! (刺繍を捨てて、立ち上がり、玄関へ通じる扉のところへ行って、呼ぶ)へレーネ! クリスマス・ツリーを持ってきておくれ。(左手のテーブルに歩み寄り、抽斗《ひきだし》をあける。ふたたび立ちどまる)いいえ、どうしたってそんなことのあるはずがないわ!
女中 (クリスマス・ツリーを持ってきて)奥さま、どこに置きましょうか?
ノラ そこよ。お部屋の真ん中にね。
女中 ほかに何かお持ちするものがございましょうか?
ノラ いいえ、ありがとう。いるものはみんなあるからね。
女中、クリスマス・ツリーを置いて出て行く。
ノラ (クリスマス・ツリーを飾《かざ》りはじめる)ここに蝋燭《ろうそく》を立てて――それからこっちにお花と。――まったくいやなやつったらありゃしない! ああ、ばかばかしい、ああ、ばかばかしい! 具合の悪いことなんて、なんにもありゃしないんだもの。さあ、クリスマス・ツリーを奇《き》麗《れい》にしなくっちゃ。ねえ、あなた、あたしあなたの喜ぶことならなんでもしてよ。――歌だって歌うし、踊《おど》りだって踊るわ――
ヘルメル、一束《ひとたば》の書類を抱《かか》えて外からはいってくる。
ノラ あら、――もうお帰り?
ヘルメル ああ、誰か来たかい?
ノラ ここに? いいえ。
ヘルメル 変だな。クログスタットが家《うち》から出て行くのを見かけたんだが。
ノラ そうお? ああ、そうだったわ、クログスタットさんがちょっとおいでになりましたっけ。
ヘルメル そうだろう、ノラ、お前の顔色でわかるよ。あいつ、お前に取りなしてもらおうと思って、頼《たの》みに来たんだろう。
ノラ ええ。
ヘルメル そこでお前は、それを自分の考えから出たことのようにしようとしたんだろう? あいつがここへ来たことも、わたしには黙っているつもりだったんだな。それも、あいつが頼んでいったんじゃないのかい?
ノラ そうよ、でも――
ヘルメル おいおい、お前はどうしてまたそんなことに関《かか》わったんだい? あんな男と話をしたり、おまけに約束までしたりして! そのくせわたしには嘘《うそ》を言う!
ノラ 嘘を――!
ヘルメル 誰も来《こ》ないと言ったじゃないか。(指でおどす真似《まね》をする)うちのかわいい小鳥さんは、もう決してそんなことをしてはいけません。小鳥というものは清らかな嘴《くちばし》でさえずっていなければいけないよ。決して造り声を出してはなりません。(ノラの身体《からだ》を抱《だ》いて)ね、そうだろう? よし、よし、わかっている、わかっている。ノラを離《はな》して)さあ、もうそんな話はやめにしよう。(煖《だん》炉《ろ》の前に腰を下ろして)ああ、ここは暖かくて気持がいいなあ。(書類をすこしめくる)
ノラ (クリスマス・ツリーを飾る。しばらく黙っていた後)ねえ、あなた!
ヘルメル うん。
ノラ あたし、明後日《あさって》のステンボルクさんのところの仮《か》装《そう》舞《ぶ》踏会《とうかい》をとっても楽しみにしているのよ。
ヘルメル わたしだって、お前がどんなにしてわたしを驚《おどろ》かすかと思うと、楽しみでならないよ。
ノラ ところが、くだらない思いつきばっかり。
ヘルメル どうして?
ノラ いい考えがちっとも浮《うか》んでこないの。どれもこれも、ありふれた、つまらないものなんですもの。
ヘルメル うちのノラさんがそういうことを悟《さと》ったんですかね?
ノラ (夫の椅子《いす》のうしろで、椅子の背に腕《うで》をかけて)あなた、とってもお忙《いそが》しいの?
ヘルメル うん――
ノラ それはどういう書類?
ヘルメル 銀行のさ。
ノラ もう?
ヘルメル こんど辞《や》める頭取《とうどり》から、人事や業務上の計画について必要な変更《へんこう》をしてもいいという全権を委《まか》せられたんだ。クリスマス週間をそれにあてなくちゃならん。まあ新年までにはすっかり整理してしまうつもりだ。
ノラ じゃあ、気の毒にクログスタットさんも――
ヘルメル フン。
ノラ (あいかわらず椅子の背にもたれて、夫のうなじの髪《かみ》の毛をゆっくりといじりながら)あなた、もしそんなにお忙しくなかったら、ぜひお願いしたいことがあるんだけど。
ヘルメル 言ってごらん。なんだい?
ノラ あなたぐらい趣《しゅ》味《み》のいい人ってないでしょう。それであたし、仮装舞踏会にはすばらしい装《なり》をして行きたいと思っているの。だから、ねえあなた、あたしが何になって、どんな衣裳《いしょう》を着て行ったらいいか、相談に乗って、決めてくださらない?
ヘルメル ははあ、かわいい強情屋《ごうじょうや》さんがいよいよ救い手をお求めとおいでなすったね?
ノラ ええ、そうよ。あなたが応援《おうえん》してくださらなくっちゃ、あたしどうしていいんだかわからないんですもの。
ヘルメル よしよし、よく考えておこう。何かいい考えが浮ぶだろう。
ノラ ああ、あなたはなんて親切なんでしょう。(またクリスマス・ツリーのほうへ行く。しばらく間)あの赤い花の奇麗に見えること。――でもねえあなた、あのクログスタットさんのやった事件て、ほんとうにそんなにひどい事なんですか?
ヘルメル 偽《ぎ》署《しょ》をやったんだ。どういうことだかわかるかい?
ノラ やむにやまれずやったんじゃないの?
ヘルメル そうかもしれない。それともたいていの人間がそういうものだが、軽はずみからやったのかもしれない。わたしはそんな一つぐらいの行いのために、あくまでも一人の人間を罰《ばっ》しようとするほど冷酷《れいこく》じゃないよ。
ノラ ええ、そうでしょう、あなた!
ヘルメル 自分の犯した罪を白状して、刑罰《けいばつ》を受け、それで正しい人間に立ち直った者も大勢ある。
ノラ 刑罰――?
ヘルメル ところがクログスタットはその道を選ばなかった。あいつは小細工や策略を弄《ろう》して、法律の網《あみ》をくぐりぬけてしまったんだ。それがあいつを道徳的に破《は》滅《めつ》させることになってしまったのさ。
ノラ そうでしょうか――?
ヘルメル まあ考えてごらん、罪を意識しているそういう人間は、どっちを向いても嘘をついたりごまかしてばかりいなければならない。一番親しい者の前でも、例《たと》えば自分の細君や子供の前でさえも、仮面をかぶっていなければならないんだ。子供にもだよ、ノラ、このくらい恐《おそ》ろしいことはないじゃないか。
ノラ どうして?
ヘルメル なぜって、そういう嘘の空気が、家庭生活の中に伝染《でんせん》する病毒を持ちこむじゃないか。そういう家では、子供たちが息をするたびに、何かしら悪い事の芽を吸いこむことになるんだ。
ノラ (夫のうしろに近寄って)あなた、それは確かなことでしょうか?
ヘルメル ああ、お前、わたしは弁護士だから、そういうことは今までにたくさん見聞きしている。子供の時から堕《だ》落《らく》している人間は、ほとんどみんなと言っていいほど嘘つきの母親を持っているな。
ノラ どうしてまた――母親だけが?
ヘルメル それは母親から来る場合が一番多い。もちろん父親だって同じ感化を与《あた》えるがね。こういうことは、法律家なら誰《だれ》でもよく知っている。ところがだよ、あのクログスタットのやつはもう何年もの間自分の子供を嘘と偽《いつわ》りの毒気にあててきているんだ。だからこそ、わたしはあいつを道徳的に腐《ふ》敗《はい》しきっているというのさ。(ノラに両手を差しだして)だから、うちのかわいいノラさんは、あんな男の事なぞをもう二度と話さないと約束《やくそく》するんだよ。その証拠《しょうこ》に手をお出し。おいおい、どうした? さあ、手をお出し。そうそう、これでいい。はっきり言っておくが、わたしはあの男と一緒《いっしょ》に仕事をすることはとうていできないんだ。ああいう男がそばにいると、まったく気分までが悪くなってくるんだ。
ノラ (手を引っこめて、クリスマス・ツリーの向う側へ行き)まあここは暑いこと。おまけにあたし、することがいっぱいあるのよ。
ヘルメル (立ち上がり、書類をまとめて)うん、わたしも夕飯前にこのうちの二つ三つに眼《め》を通しておきたいと思っている。それにお前の衣裳のことも考えておかねばならない。それから金紙にくるんでクリスマス・ツリーにさげる物も用意しておかなくちゃならないし。(ノラの頭に手をのせて)ああ、うちのかわいい小鳥さん。(自分の部屋にはいり、扉《とびら》をしめる)
ノラ (しばらく静かにしていてから、小声に)まあ、どうしよう! そんなことはない。そんなわけはない。そんなはずがあるものですか。
乳母 (左手の扉《と》口《ぐち》で)みなさんがどうしてもお母さまのところへ行きたいっておっしゃるんですよ。
ノラ いいえ、いいえ、いいえ、よこしてはいけないよ! ばあや、お前が見ていてやっておくれ。
乳母 はい、はい、奥《おく》さま。(扉をしめる)
ノラ (恐怖《きょうふ》のために蒼《あお》ざめて)あたしのかわいい子供たちを悪くする――! この家庭に毒を流すって? (短い間、頭を上げる)そんなこと嘘だわ。どうしたって嘘だわ。
第二幕
同じ部屋。向うの隅《すみ》のピアノのそばに、むしり取られ、引きちぎられたクリスマス・ツリーが立っている。燃えさしの蝋《ろう》燭《そく》はまだついている。ノラの帽《ぼう》子《し》とマントがソファーの上に置いてある。
部屋の中にノラひとり、落着かない様子で歩きまわっている。ついにソファーのそばに立ちどまり、マントを手に取る。
ノラ (またマントを置いて)あら、誰《だれ》か来たのかしら! (扉《とびら》のほうへ行き、耳をすます)いいえ、――誰もいない。もちろん――今日は誰も来やしないわ、クリスマスの最初の日ですもの、――それに明日だって誰も来やしないわ。――だけどもしかしたら――(扉をあけて、外を見回す)いいえ、郵便受けにだってなんにもはいっていない。空《から》っぽだわ。(前のほうへ歩いてくる)まあ、ばかばかしい! あの男だってもちろん本気でそんなことしやしないわ。そんなこと起るはずがない。起るわけがないわ。あたしには三人の子供があるんですもの。
乳母《うば》、大きなボール箱《ばこ》を持って、左手の部屋からはいってくる。
乳母 やっと仮《か》装《そう》のはいっている箱が見つかりました。
ノラ ありがとうよ。テーブルの上に置いておくれ。
乳母 (言われた通りにしながら)でも、たいそうくしゃくしゃになっておりますよ。
ノラ ああ、いっそずたずたに引《ひき》裂《さ》いてしまいたいわ!
乳母 とんでもない。すぐに奇《き》麗《れい》に直りますよ。ほんのちょっとのご辛抱《しんぼう》でございますよ。
ノラ そうね、リンネさんに手伝ってもらうように、呼びに行ってこよう。
乳母 またお出かけですか? こんなひどいお天気に? 奥《おく》さま、お風邪《かぜ》を召《め》して、――ご病気になりますよ。
ノラ あら、病気ぐらいですめば結構よ。――子供たちはどうしている?
乳母 おかわいそうに、みなさんクリスマス・プレゼントで遊んでおいでになりますよ。でも――
ノラ あたしのことをたびたび訊《き》く?
乳母 いつもお母さまのおそばにばかりいらっしゃいましたからね。
ノラ そうね、でもばあや、あたしはこれからは前のように、そう一緒《いっしょ》にはいられなくなるのだよ。
乳母 まあまあ、お小さい方はなんにでもじきにお慣れになりますよ。
ノラ そう思う? あたしがどこかへ行ってしまったら、あたしのことを忘れてしまうだろうかねえ?
乳母 とんでもない、――どこかへ行ってしまうなんて!
ノラ ねえ、ばあや、――あたしいつも思うんだけど、お前はよく思いきって自分の子供をよその人にやる気になれたねえ?
乳母 でも小さいノラさまのお守《もり》になろうと思えば、どうしてもそうしなければならなかったんでございますよ。
ノラ だけど、よくそういう気になったわねえ?
乳母 だってこんな結構な口がほかにございましょうか? 不幸せな目にばかり会っている貧《まず》しい娘《むすめ》にとっては、それでも嬉《うれ》しいことだったのでございますよ。なにしろあのひどい男ときたら、あたしのために何一つしてくれなかったのでございますから。
ノラ でも娘のほうではきっとお前を忘れているだろうね。
乳母 いいえ、いいえ、忘れているどころではございません。堅信式《けんしんしき》をすませました時にも、お嫁《よめ》にまいりました時にも、手紙をくれたんでございますよ。
ノラ (乳母の首を抱《だ》きながら)ねえ、ばあや、あたしが小さい頃《ころ》は、お前はほんとうにいいお母さんになってくれたわねえ。
乳母 小さなノラさまには、おかわいそうに、このわたしのほかにはお母さまがおありにならなかったんですからねえ。
ノラ いつか子供たちがお母さんをなくすようなことがあったら、また、お前がお母さんになるだろうねえ――。まあ、ばかなことを。(ボール箱を開いて)子供たちのところへ行ってやっておくれ。これからあたしは――。明日はあたしがどんなに奇麗になるか、お前にも見てもらうよ。
乳母 はい、舞《ぶ》踏会《とうかい》中を捜《さが》しまわっても奥さまほどお美しい方は一人もいらっしゃらないでしょうよ。(左手の部屋に行く)
ノラ (箱の中の物を出しはじめるが、すぐにみんなほうり出して)ああ、このまま出て行ってしまえたらねえ。誰も来さえしなければいいんだけど。その間にこの家《うち》で何事も起らなけりゃいいんだけど。まあ、ばかな。誰も来たりしないわ。そんなこと考えさえしなけりゃいいのよ。このマフでも払《はら》いましょう。奇麗な手袋《てぶくろ》、奇麗な手袋ね。そんなこと気にかけないでいよう、気にかけないでいよう!一、二、三、四、五、六――(叫《さけ》ぶ)ああ、来た――(扉のほうへ行こうとするが、決しかねて立ちどまる)
リンネ夫人、玄関《げんかん》で帽子と外套《がいとう》を脱《ぬ》いではいって来る。
ノラ あら、あなたなの、クリスチーネさん。ほかには誰もいらっしゃらない? ――よく来てくださったわね。
リンネ夫人 わざわざあたしのところへおいでくださったんですってね。
ノラ ええ、ちょうど通りかかったものですから。あたしね、あなたに手伝っていただきたいことがあるのよ。まあ、このソファーに掛《か》けましょう。実はこうなの。明日の晩この上に住んでいる領事のステンボルクさんのところで仮装舞踏会があるのよ。それでね、主人はあたしにナポリの漁師娘になって出て、タランテッラを踊《おど》れって言うの。カプリで習ったものですからね。
リンネ夫人 おやおや、それじゃ本式にお演《や》りになるのね?
ノラ ええ、主人がそうしろって言うんですもの。ほら、これがその衣裳《いしょう》なの。イタリアに行った時、主人がこしらえさせてくれたのよ。でももうすっかりぼろぼろになっているので、あたしにはどうしていいかわからないの――
リンネ夫人 あら、すぐに直せるわよ。縁《ふち》のところがところどころ綻《ほころ》びているだけじゃありませんか。針と糸は? ああ、ここにあるわね。これだけあればたくさんよ。
ノラ まあ、ご親切ねえ。
リンネ夫人 (縫《ぬ》いながら)じゃああなた、明日は仮装をなさるのね? まあ、どんなかしら、――それならあたし、ちょっとこちらへ上がって、あなたの着《き》飾《かざ》ったお姿を見せていただくわ。そうそう、すっかり忘れていましたけど、昨夜《ゆうべ》はたいへんありがとうございました。
ノラ (立ち上がって、部屋の中を歩き回りながら)あら、昨夜はいつもほど面白《おもしろ》くはなかったのよ。――あなたがもうすこし早く町へおいでになればよかったんですけどねえ。――主人はほんとうに家中を楽しくさせる術《すべ》を心得ているのよ。
リンネ夫人 あなただって引けはとらないでしょう。なにしろあのお父さまのお子さんですもの。それはそうと、あのランク先生はいつも昨夜のようにお元気がないの?
ノラ いいえ、昨夜は特にひどかったのよ。とにかく大変な病気を持っていらっしゃるんですもの。脊髄結核《せきずいけっかく》っていうんですって、お気の毒にねえ。なんでも、あの方のお父さまという人がいやらしい方で、お妾《めかけ》さんを幾人《いくにん》も置いたりなんかしたんですって。だからそのおかげで、息子《むすこ》さんが子供の時からずっと病気をしているってわけなのよ。
リンネ夫人 (裁縫《さいほう》道具を置いて)でもあなた、どうしてそんなことまでご存じなの?
ノラ (歩き回りながら)へん、――子供が三人もありますとね、時にはお医者さまの卵のような女の人もいらっしゃって、――いろんな話をしてくれるものよ。
リンネ夫人 (また縫いはじめる、短い間)ランク先生はお宅へは毎日いらっしゃるの?
ノラ ええ、毎日。なにしろ主人とは若い頃からの親友なんですし、それにあたしにとってもお友達なんですもの。いわば家《うち》の人もおんなじなのよ。
リンネ夫人 でもねえ、あの方、ほんとうに真面目《まじめ》な方なの? 誰にでもうまい事ばっかり言ってるんじゃなくって?
ノラ いいえ、その反対。どうしてそんなふうにお思いになるの?
リンネ夫人 昨日あの方にあなたがあたしを紹介《しょうかい》してくださった時、あたしの名前はこちらでたびたび伺《うかが》っているとおっしゃったわね。ところが後でわかったんですけど、あなたのご主人はあたしのことなんかまるでご存じなかったでしょう? それなのにどうしてランク先生が――?
ノラ ええ、それは あなたのおっしゃる通りよ。主人はあたしをとってもかわいがってくれてね、自分一人の物にしておきたいと言ってるのよ。初めの頃なんか実家《さと》のほうの親しい人たちの名前を口にするだけでも、やきもちを焼いたくらいだったわ。だからあたしも、ついなんにも言わなかったの。けれども、ランク先生にはこういうお話もときどきするのよ。だってあの先生は喜んで聞いてくださるんですもの。
リンネ夫人 ねえ、ノラさん、あなたはいろんな点でまだまだ子供よ。あたしはあなたよりも年上だし、経験も多少はよけいに積んでいるわ。そこであなたに注意しておくけど、あのランク先生との事は片をつけてしまったほうがいいわ。
ノラ 片をつけるほうがいいって、何を?
リンネ夫人 まあ、いろんな事よ。昨日あなたは、あなたを慕《した》っているお金持の人がお金をこしらえてくれるというような話をなさったでしょう――
ノラ ええ、それは、いもしない人がね――おあいにくさま。それで?
リンネ夫人 ランク先生はお金持なの?
ノラ ええ、お金持だわ。
リンネ夫人 で、係累《けいるい》もないの?
ノラ ええ、一人も。だけど――?
リンネ夫人 そして毎日お宅へいらっしゃるのね?
ノラ ええ、さっき言った通りよ。
リンネ夫人 でもあんなに上品な方が、どうしてそう厚かましくできるんでしょうねえ?
ノラ あなたのおっしゃること、まるでわからないわ。
リンネ夫人 とぼけないでよ、ノラさん。あなたが千二百ダーレルのお金を誰から借りたか、あたしにわからないとでも思っていらっしゃるの?
ノラ あなたどうかしているの? そんなこと、とんでもない! 毎日家へいらっしゃるお友達から借りるなんて! そんなことをすればたまらないほど苦しい立場になるじゃありませんか?
リンネ夫人 それなら、ほんとうにあの方じゃないの?
ノラ ええ、ほんとうよ。そんなこと、あたし夢《ゆめ》にも考えやしなかったわ――。それに先生は、あの頃他人《ひと》に貸すようなお金を持ってはいらっしゃらなかったんですもの。それから後になって遺産をもらったのよ。
リンネ夫人 まあそうなの、ノラさん、じゃああなたのためにはかえってよかったと思うわ。
ノラ まったくよ、ランク先生にお金のお願いをするなんてこと、思いもつかなかったでしょうけどね――。もしも頼《たの》んだとしたら、そうね、きっと――
リンネ夫人 でも、もちろん頼みはしないでしょうね。
ノラ ええ、もちろんよ。第一先生に頼む必要が生じるなんて、とうてい考えられませんもの。でも、もし話したとしたら、たしかに――
リンネ夫人 ご主人には内緒《ないしょ》で?
ノラ あたしほかにも片をつけなければならない事があるのよ。それも主人には内緒なの。それにしても、どうしてもこれを片づけなくっちゃ。
リンネ夫人 ええ、ええ、それは昨日もお話ししましたわね。でも――
ノラ (行ったり来たりしながら)こういう事は男のほうが女よりもずっとうまく始末をつけるんだけど――
リンネ夫人 自分の夫ならね。
ノラ そんなばかなこと! (立ちどまって)借りていた物をみんな払ってしまえば、証書は返してもらえるんでしょう?
リンネ夫人 ええ、もちろんだわ。
ノラ すると、あの胸くその思い、きたならしい紙切れなんか――あんなの、びりびりに引裂いて、燃やしてしまえるわ!
リンネ夫人 (じっとノラの顔を見つめ、裁縫道具を下に置いて、ゆっくり立ち上がる)ノラさん、あなた、何かあたしに隠《かく》しているわね。
ノラ それがあたしの顔色でわかって?
リンネ夫人 昨日の朝から今までの間に何かあったのね? ノラさん、なあにそれは?
ノラ (リンネ夫人のほうに行きながら)クリスチーネさん! (耳をすまして)しっ!主人が帰ってきたわ。じゃあ、しばらくの間子供たちのところへ行っててちょうだい。主人はお裁縫が嫌《きら》いなんですから。それから、ばあやに手伝わせてくださいね。
リンネ夫人 (縫物の一部をかき集めて)ええ、いいわ。でもお話をすっかり聞くまでは、あたし帰らないわよ。
リンネ夫人、左手に去る。同時にヘルメル、玄関よりはいってくる。
ノラ (ヘルメルを出《で》迎《むか》えて)まあ、ずいぶん待ったわよ、あなた。
ヘルメル 今のは仕立屋さんかい――?
ノラ いいえ、クリスチーネさん。衣裳を直す手伝いをしてくださっているのよ。まあ見ていらっしゃい。いまに奇《き》麗《れい》になってみせますから。
ヘルメル わたしの思いつきはまったくすばらしいだろう?
ノラ すてきよ! でもあなたの言う通りにしたあたしだってお利口でしょう?
ヘルメル (ノラの顎《あご》の下に手を当てて)利口――お前が夫の言う通りにしたからか? まあ、いい、このいたずらっ子め。お前がそんなつもりで言ったんじゃないことは、よくわかってるよ。だが、お前の邪《じゃ》魔《ま》をするのはよそう。これから着てみるところだろうからな。
ノラ それで、あなたはお仕事をなさるの?
ヘルメル うん、(一束《ひとたば》の書類を見せて)これだ。いま銀行に行ってきたところなんだ――(自分の部屋にはいろうとする)
ノラ ねえ、あなた。
ヘルメル (立ちどまって)なんだい。
ノラ あなたの小さいリスが折り入ってお願いすることがあるといったら――?
ヘルメル 何を?
ノラ あなたはそれを叶《かな》えてくださる?
ヘルメル それがどういうことか、先《ま》ず聞いてみた上でね。
ノラ あなたが優《やさ》しくして、言うことを聞いてくだされば、リスは駆《か》け回ってお道化《どけ》てみせますわ。
ヘルメル まあ話してごらん。
ノラ ヒバリは部屋から部屋へ飛び回って、高くも低くもさえずってみせますわ。
ヘルメル なんだい、そんなことなら、うちのヒバリさんはいつもやってるじゃないか。
ノラ あたし妖精《ようせい》の娘《むすめ》のように、お月さまの光の中で遊んだり踊《おど》ったりしてみせますわ。
ヘルメル おいノラ、――それはお前が今朝《けさ》におわせたあの一件じゃないだろうな。
ノラ (近寄って)ええ、あの事よ、あなた、どうかお願い。
ヘルメル じゃあお前は、ほんとうにもう一度あんな事をむし返す気なのかい?
ノラ ええ、ええ、どうかあたしのお願いを聞いてください。クログスタットには今のまま銀行の仕事をさせておいてください。
ヘルメル だがお前、リンネの奥さんがあいつの後にはいるんだよ。
ノラ ええ、それはほんとうにありがたいことですわ。でもクログスタットの代りには、誰《だれ》かほかの人を罷《や》めさせたらいいじゃありませんか。
ヘルメル それは無茶なわがままというものだ! お前があんな男のために口を利《き》いてやろうと、うかつに約束《やくそく》なんかするものだから、おれまでが――!
ノラ そのためじゃないわよ、あなた。あなた自身のためよ。だってあの男はいろんな悪《あく》辣《らつ》な与太《よた》新聞に関係しているじゃありませんか。あなたがそうおっしゃったでしょう。だからあなたに対してどんなひどい事をするかもしれないわ。そう思うと、あたしあの男が恐《こわ》くてたまらないの――
ヘルメル ははあ、わかった。昔《むかし》のことを思いだして恐がっているんだな。
ノラ 昔のことって何?
ヘルメル もちろんお前のお父さんのことさ。
ノラ ええ。ええ、そうよ。まあ、あなた、覚えていらっしゃる。あの悪党たちは父のことを新聞に書きたてて、さんざんひどい中傷をしたじゃありませんか。もしもあの時、政府があなたを派《は》遣《けん》して、事情を取調べさせてくれなかったら、父はきっと免職《めんしょく》になっていたでしょうよ。あなたが親切に父を助けてくださらなかったらね。
ヘルメル だがなノラ、わたしとお父さんとでは非常に違《ちが》うんだよ。お父さんは官《かん》吏《り》として難点のない人ではなかった。ところがわたしは違う。そしてこの地位についている間は、あくまでもそういうふうでいるつもりなんだ。
ノラ まあ、でも悪党たちってどんな事を考え出すかわかったものじゃありませんわ。これからは平和な、なんの心配もいらない家庭で、楽しく、静かに、幸福に暮《くら》していけるというところでしょう――あなたとあたしと子供たちとで! だからこそ、ぜひともお願いするんです――
ヘルメル ところが、お前からそうまで頼みこまれると、なおさらあいつを置いておくことができなくなるんだ。クログスタットを免職するということは、銀行中誰でも知っている。そこへもってきて、新しい頭取《とうどり》が細君の意見で考えを変えたという噂《うわさ》でもたったら――
ノラ ええ、そうすると――?
ヘルメル いや、わかりきったことさ。細君のちょっとしたわがままさえもが通るとなると、わたしは銀行中の笑い物になる、――そして、よその人間の言うなりになる男だと思われるようになるだろう? そうするとだよ、その結果がたちまちわたしの身に降りかかってくることになるんだ! それにもう一つ、――わたしが頭取をしている限り、クログスタットをあの銀行に置いておけないわけがある。
ノラ それはどんな事?
ヘルメル あの男の道徳上の過《あやま》ちなぞは、万《ばん》やむを得ない場合には大目にもみてやれようが――
ノラ そうでしょう? あなた。
ヘルメル それにあの男はなかなか役に立つということも聞いている。ところがあいつは若い頃《ころ》からの友達なんだ。軽はずみに交際《つきあい》をすると、後になって困ることがよくあるものだが、あいつとの交際もそれさ。いや、お前にはぶちまけて言うが、あいつとは、「きみ、ぼく」と呼ぶ間がらなんだ。ところがあいつは遠慮会釈《えんりょえしゃく》のない男だから、他人《ひと》の前でも一向に取繕《とりつくろ》おうとはしない。それどころか、――わたしに対しては、なれなれしい調子で物を言う権利があるとでも思っているんだ。だから何かというと、おい、きみ、おい、ヘルメル、とやらかすんだ。わたしにとってはこれほどつらいことはない。あんな男がいれば、とても銀行の地位は保っていけそうもない。
ノラ あなた、それはみんな本気でおっしゃるんじゃないでしょう。
ヘルメル はてね? なぜ本気じゃないだろうっていうんだ?
ノラ だって、そんなことはくだらない心配じゃありませんか。
ヘルメル なんだって? くだらない? お前は、わたしをくだらない男だと思っているんだな!
ノラ いいえ、とんでもないわ、あなた。それだからこそ――
ヘルメル まあ、いい。お前はわたしの挙げた理由をくだらないと言った。だからわたしもくだらない人間にちがいない。くだらないか! よろしい! ――さてそれじゃ、こんな事は片をつけてしまうとしよう。(玄関へ通じる扉《と》口《ぐち》に行って、大声に呼ぶ)へレ―ネ!
ノラ どうなさるの?
ヘルメル (書類の間を捜《さが》しながら)片をつけてしまうのさ。(女中はいってくる)
ヘルメル おい、この手紙を持って行ってくれ。すぐにだぞ。メッセンジャーに言いつけて持たしてやるんだ。だが大急ぎだぞ。宛《あて》名《な》は表に書いてある。そら、金だ。
女中 かしこまりました。(手紙を持って出て行く)
ヘルメル (書類を重ねながら)さあ、うちの強情屋《ごうじょうや》の奥さん。
ノラ (喘《あえ》ぐように)あなた、――あれはなんのお手紙?
ヘルメル クログスタットの免職通知書さ。
ノラ あなた、呼び戻《もど》してください! まだ間にあいます。ああ、あなた、呼び戻してください! あたしのためにそうしてください、――あなた自身のために、子供たちのために! ねえあなた、そうしてください! あの手紙のために、あたしたちみんなの上にどんな災難《さいなん》がふりかかってくるか、あなたはご存じないんです。
ヘルメル もう遅《おそ》い。
ノラ ええ、もう遅いわ。
ヘルメル おいノラ、お前がそんな心配をするのは結局わたしを侮辱《ぶじょく》することになるんだぞ。だがまあ、それは勘弁《かんべん》しておこう。そうだとも、まったく侮辱だ! あんな堕《だ》落《らく》した代言人の復讐《ふくしゅう》をわたしが恐《おそ》れると思うなんて、まさしく侮辱じゃないか? だが堪忍《かんにん》しておこう、それもお前がわたしを深く愛してくれている美しい証拠《しょうこ》だからな。(ノラを両腕《りょううで》に抱《だ》く)あれはああしなくちゃならないんだ、なあノラ。後のことはなるようにならせておこうじゃないか。いざとなれば、わたしにだって勇気もあれば力もある。心配はいらない。まあ見ていてごらん。一切《いっさい》を引受けてみせるから。
ノラ (恐怖《きょうふ》のために硬《かた》くなって)それはどういうこと?
ヘルメル 一切を、と言ってるんだ――
ノラ (気を落ちつけて)決して決してそんなことはさせません。
ヘルメル よし、よし。それじゃ二人で分担《ぶんたん》しようよ――夫《ふう》婦《ふ》でな。そうするのが当り前だろう。(ノラをなだめるように)これで満足したかい? さあ、さあ、さあ、そんなびっくりした鳩《はと》のような眼《め》をするんじゃないよ。みんな根も葉もない空想にすぎないんだから。――さあ、お前もタランテッラの練習をしたり、タンバリンのお稽《けい》古《こ》をしなくちゃいけないだろう。わたしは中の事務室に引っ込《こ》んで、間の扉《とびら》をしめておこう。そうすりゃなんにも聞えないから、お前は騒《さわ》ぎたいだけ騒ぐがいい。(扉《と》口《ぐち》で振返《ふりかえ》って)それからランク君が来たら、わたしのいる所を教えてやっておくれ。ノラに向ってうなずいてみせ、書類を持って自分の部屋にはいり、扉をしめる)
ノラ (恐怖のために困惑《こんわく》して、根が生《は》えたように立ちつくしたまま、つぶやく)あの男ならやれるだろう。きっとやるわ。世間なんかかまわずに。――でも決してさせちゃいけない! ほかのことはともかく、これだけはいけない! なんとか助かる方法は――! 逃《に》げ道は――(玄関《げんかん》で呼鈴《よびりん》が鳴る)ランク先生だわ!―― ほかのことなら! ほかのことならかまやしないけど! (自分の顔を撫《な》で、気を取直して、玄関に通じる扉口へ行ってあける。ランク、外に立って、毛皮の外套《がいとう》を釘《くぎ》に掛《か》けている。この頃から次《し》第《だい》に暗くなりはじめる)
ノラ いらっしゃい、先生。鈴《ベル》の鳴り方で先生ってことがわかりましたわ。でも今は主人のところへいらっしゃってはだめよ。何か仕事をしているようですから。
ランク それであなたは?
ノラ(ランクは部屋の中にはいり、ノラはその後の扉をしめながら)あら、よくご存じのくせに、――あなたのためならいつだって暇《ひま》ぐらい持ち合せておりますわ。
ランク ありがとう。ではそれのできる間は、せいぜい利用させていただきましょう。
ノラ あら、どういうこと? できる間はって?
ランク おや、びっくりなさったんですか?
ノラ まあ、ずいぶん妙《みょう》な言い方をなさるのね。何かあったんですか?
ランク 長い間わたしが覚《かく》悟《ご》していたことが、いよいよやって来そうなのです。しかし、まさかこう早くやってこようとは思いもしませんでした。
ノラ (ランクの腕をつかんで)その、あなたにおわかりになったってこと、いったいなんですの? 先生、話してくださいな。
ランク (煖《だん》炉《ろ》のそばに腰《こし》を下ろして)わたしは今坂道を下っているようなものです。もうどうしようもありません。
ノラ (ほっと息をついて)それはご自分のこと――?
ランク わたしのことでなくて、誰のことなものですか? 自分で自分を欺《あざむ》いたところでどうにもなりません。わたしのところへ来る患者《かんじゃ》の中で一番みじめなのは、このわたしなんですよ、奥《おく》さん。この二、三日、わたしは自分の身体《からだ》の内部財産について決算をしてみました。ところがまるで破産状態です。おそらく一カ月とはたたないうちに、墓地に埋《うず》もれて腐《くさ》っていくことになるでしょうよ。
ノラ ああ、いやだ、なんて気持の悪いことをおっしゃるんでしょう。
ランク この事そのものが実に忌《い》まわしいのです。しかし最もたまらないのは、その前にほかのいやらしい事をたくさん通り越《こ》して行かなければならないということですね。もう今は最後の実験がたった一つ残っているだけです。けれどもそれがすみますと、いつ頃崩《ほう》壊《かい》作用が始まるか、おおよその見当はついているのです。そこであなたに申上げておきたい事があります。ヘルメル君はあの通り気の弱い人で、なんでも気味の悪いことはひどくいやがります。ですから、あの人にはわたしの病室に来てもらいたくないのです――
ノラ まあ先生――
ランク ほんとうに来てもらいたくないのです。どんなことがあっても。ヘルメル君が来れば、扉に錠《じょう》を下ろしてしまいますよ。――いよいよだめだとわかったら、わたしの名《めい》刺《し》に黒く十字を書いて、すぐにあなたのところへ届けさせます。そうしたら、いよいよ恐ろしい最《さい》期《ご》の時が来たものと思ってください。
ノラ まあ、今日はあなた、ほんとにどうかしていらっしゃるわ。ご機《き》嫌《げん》がいいといいんですけどねえ。
ランク 胸に死神を抱《だ》きながらですか? ――とにかくこうして、他人の罪の贖《あがな》いをしている始末です。これが公平なことと言えましょうかね? もちろんどんな家にも、何かしらこういう仮借なき因《いん》果《が》応報《おうほう》というやつがつきまとうものですがね――
ノラ (両耳をふさいで)ああ、いやだ! さあ陽気に、陽気に!
ランク いや、まったくのところ、何もかもがとんだお笑い草ですよ。かわいそうに、罪もないわたしの脊髄《せきずい》は、おやじが道楽をした中尉《ちゅうい》時代の罪を背負わされているんですからね。
ノラ (左手のテーブルのそばで)お父さまはきっとアスパラガスや鵞鳥《がちょう》のレバーぺーストが大好きだったのね。そうじゃなくって?
ランク その通りです。それから松露《しょうろ》も。
ノラ そう、松露もね。そうね。それに牡蠣《かき》もでしょう?
ランク ええ、牡蠣も。もちろん牡蠣も好きでした。
ノラ それからいろんなポートワインとシャンパンもね。こういうおいしいものがみんな背骨に祟《たた》るなんて、ほんとに情けないことですわね。
ランク 殊《こと》に、そんな旨《うま》い物をちっとも食べたことのない不幸せな人間の背骨に祟るなんてのは。
ノラ そうね、それこそ一番みじめですわね。
ランク (さぐるようにノラを見て)フン――
ノラ (すぐに)どうしてお笑いになるの?
ランク いや、笑ったのはあなたです。
ノラ いいえ、先生、あなたがお笑いになったのよ!
ランク (立ち上がって)あなたは思ったよりも人がお悪いですな。
ノラ あたし今日はいたずらがしたくてたまらないのよ。
ランク そうらしいですね。
ノラ (両手をランクの肩《かた》の上に置いて)ねえ先生、トルワルやあたしを置いて死んでおしまいになってはいけませんわ。
ランク いや、その悲しみもすぐに消えてしまいますよ。死んだ者は、すぐに忘れられてしまいます。
ノラ (心配そうにランクを見て)そうお思いになる?
ランク 新しい知り合いができてくるものです。そして――
ノラ 誰《だれ》に新しい知り合いができますの?
ランク あなたとヘルメル君の二人にですよ。わたしがいなくなりますとね。第一あなた自身のほうはもうそうなっているようじゃありませんか。あのリンネの奥さんという人は、昨晩何しにこちらへいらっしゃったんです?
ノラ あらまあ、――あなたはあのお気の毒なクリスチーネさんに対してやきもちを焼いていらっしゃるんじゃありません?
ランク ええ、その通りです。あの人はこちらのお宅でわたしの後釜《あとがま》になるんでしょう。わたしが死んでしまったら、きっとあの人が――
ノラ しっ。そんな大きな声をなさらないで。奥に来ているのよ。
ランク 今日も? そらごらんなさい。
ノラ あたしの衣裳《いしょう》を縫《ぬ》いに来てくださっているだけよ。まあまあ、あなた、ほんとにどうかしているわ。(ソファーに腰を下ろして)さあ、しっかりしてくださいよ、先生。明日はあたしのすばらしい踊《おど》りをお目にかけますわ。その時、あたしはあなたのためにばかり踊っているのだと思っていてくださいな、――ええ、ええ、もちろんトルワルのためにも踊るんですけど、――それはわかりきったことですわね。(ボール箱《ばこ》からさまざまの物を取出しながら)先生、こちらへお掛けなさいな。お見せする物がありますから。
ランク (腰かけながら)なんです?
ノラ これをごらんなさい!
ランク 絹の靴下《くつした》ですね。
ノラ 肉色よ。奇《き》麗《れい》じゃないこと? 今はここがこんなに暗いんですけど。でも明日は――。だめ、だめ、だめ。蹠《あしうら》だけ見るものよ。まあいいわ、上のほうまで見せてあげますわ。
ランク フン――
ノラ なんだってそんなにじろじろ見ていらっしゃるの? きっとあたしには似合わないと思っておいでなのね。
ランク その点については、どうもしっかりした意見は申上げかねますね。
ノラ (ちらっとランクを見て)まあ呆《あき》れた。(靴下で軽くランクの耳を打って)これが罰《ばつ》よ。(また靴下をしまいこむ)
ランク こんどは、どんなすばらしい物が見せていただけるんです?
ノラ もうなんにも見せてあげません。あなたはお行儀《ぎょうぎ》が悪いから。(ちょっと鼻唄《はなうた》をうたいながら品物の中を捜《さが》す)
ランク わたしはこうして心易《こころやす》くさせていただいておりますが、それにつけても思うんです、――もしもわたしがこちらへ一度も伺《うかが》ったことがなかったとしたら、いったいわたしはどうなっていたろうと。――まったく想像もつきません。
ノラ (微笑《びしょう》しながら)ほんとうに、あなたは心からあたしたちのところを気に入ってくださっているようね。
ランク (自分の前を見つめながら小声で)それもこれもいよいよお別れです――
ノラ まあ、ばかな。いつまでもいらっしゃるのよ。お別れなんかないわ。
ランク (前のように)――しかも、人からちょっとでも感謝されるような事一つ残していくこともできず、わたしの死を悼《いた》んでくれる人もほとんどない、――後に残るのは空《から》っぽの場所ばかり。それもすぐに誰かに埋《う》められてしまう。
ノラ でもあたしが今お願いしたい事があるといったら? ――いいえ、いいえ、――
ランク どんな事です?
ノラ あなたの友情の立派な証拠《あかし》になる事よ――
ランク なるほど、なるほど?
ノラ いいえ、ほんとうはね、――大変な犠《ぎ》牲《せい》よ――
ランク それじゃ、せめて一度ぐらいはわたしを喜ばせてくださろうというわけですね?
ノラ あら、どんな事だかまだご存じないじゃありませんか。
ランク よろしい。それでは話してください。
ノラ ところがちょっと言えませんのよ、先生。それはとっても大変な事、――相談にも乗っていただきたいし、お力もお借りしたいし、お骨折りも願いたいんですの。
ランク ますます結構。それにしても、いったいなんの事やら、さっぱり見当がつきませんな。まあ、どうか話してください。それとも、わたしには信用がおけないんでしょうか?
ノラ いいえ、誰よりも信用しておりますわ。あなたはわたしにとって一番頼《たよ》りになる、一番親しいお友達ですもの。それはあたしようく知っております。だからあなたにはお話するんですのよ。いいこと、先生。実は、あなたのお力で食い止めていただかなければならない事がありますの。あなたもご承知のように、主人はあたしを言葉では言えないほど深く愛してくれています。ですからあたしのためなら、一時《いっとき》の躊躇《ちゅうちょ》もなく命を投げ出してくれるでしょう。
ランク (ノラのほうに身をかがめて)ノラさん、――そうするのは、ヘルメル君一人だけだとお思いですか――?
ノラ (ややはっとして)何が――?
ランク あなたのために喜んで命を投げ出す者がですよ。
ノラ (重苦しげに)ああ、そう。
ランク わたしはこの世を去る前に、ぜひこの事をあなたに知っておいていただこうと心に誓《ちか》っていたのです。こんないい機会はまたとないでしょう。――ノラさん、いまこそわたしの気持はよくわかってくださいましたね。ですから、ほかの誰よりもわたしを信用してくださってもいいわけがおわかりになったでしょう。
ノラ (立ち上がり、何気なく静かに)ちょっと前をごめんなさい。
ランク (ノラの通る場所を空《あ》けてやる。しかし腰掛けたままで)ノラさん――
ノラ (玄関へ通じる扉口で)へレーネ、ランプを持ってきておくれ。――(煖《だん》炉《ろ》のほうへ行って)まあ、先生、あなたはほんとうにいやな方ね。
ランク (立ち上がりながら)わたしが、誰かのようにあなたを心から愛しているということが? それがいやなことなんですか?
ノラ いいえ、そんなことを口に出しておっしゃるんですもの。おっしゃる必要はないじゃありませんか――
ランク とおっしゃると? するとご存じだったんですか――?
女中、ランプを持ってはいってきて、テーブルの上に置き、ふたたび出て行く。
ランク ノラさん、――奥さん、――どうか聞かせてください、あなたはご存じだったんですか?
ノラ まあ、知っていたかいないか、そんなことあたしにだってわかりませんわ。ほんとうに、申上げられることじゃありませんもの――。先生、どうしてあなたはそうあけすけ《・・・・》におっしゃるんでしょうねえ! 今までは何もかもが、あんなに気持よくいっておりましたのに。
ランク まあともかく、わたしが身も心もあなたに捧《ささ》げているということはわかっていただけましたね。ところでお話の続きを。
ノラ (ランクをじっと見て)いまさら?
ランク どうか聞かせてください、いったいどんなお頼《たの》みだか。
ノラ 今となっては何も申上げられませんわ。
ランク いいじゃありませんか。そんなにわたしを叱《しか》らないでください。あなたのためなら人力の及《およ》ぶ限りのことはなんでもいたしますよ。どうかそうさせてください。
ノラ もうあたしのためになら、なんにもしていただけませんわ。――それに誰方《どなた》の力をもお借りする必要はありませんの。だって、みんな空想にすぎないんですもの。ええ、ほんとうにそうよ。そうですとも!(揺《ゆ》り椅子《いす》に腰掛け、ランクを見て微笑する)先生、あなたはほんとうにいいお方ね。でもこうしてランプが来てみると、すこしは気まりがお悪いでしよう?
ランク いや、そんなことはありません。しかしわたしはここらでお暇《いとま》したほうがよろしいでしょう――永久にね?
ノラ いいえ、そんなことをなさっちゃいけません。もちろんこれまでと同じようにおいでください。主人があなたなしにいられないということは、あなただってよくご存じじゃありませんか。
ランク ええ、でもあなたは?
ノラ あら、あなたがいらっしゃれば、いつだって家《うち》の中がとっても面白《おもしろ》くなりますもの。
ランク ああ、それですよ、そのためにわたしはとんでもない勘違《かんちが》いをしてしまったんです。あなたという人はわたしには謎《なぞ》です。わたしはね、あなたがわたしと一緒《いっしょ》にいるのを、ヘルメル君と一緒にいらっしゃるのと同じように喜んでいてくださるものと、たびたび思ったものですよ。
ノラ ええ、それはそうよ。誰よりも一番好きな人と、それから一緒にいたいという人とがありますもの。
ランク なるほど、そういうこともありますね。
ノラ 実家《さと》にいた頃《ころ》は、もちろん父が一番好きでしたわ。それでいながら、女中部屋にこっそり忍《しの》んで行くのが、いつも面白くてたまらなかったんですの。だって女中たちはいやな事一つ言いませんし、いつもとっても面白い話を聞かせてくれるんですものね。
ランク ははあ、するとわたしはその女中さんたちの代りというわけですな。
ノラ (跳《と》び上がってランクのほうへ行く)あら、先生、あたしそんなつもりで申したんじゃありませんわ。でもねえ、主人のほうはちょうど父と同じ関係でしょう――
女中、玄関《げんかん》からはいって来る。
女中 奥《おく》さま!(何かノラにささやいて、一枚の名《めい》刺《し》を渡《わた》す)
ノラ (名刺をちらっと見て)あっ! (名刺をポケットに押《お》しこむ)
ランク 何かいやな事でも?
ノラ いいえ、いいえ、なんでもないのよ。ただちょっと――。新しい衣裳が――
ランク え? それはあっちにあるんでしょう。
ノラ ええ、ええ、そうよ。でもこれは別口なの。注文しておいたものよ――。主人には内緒《ないしょ》でね――
ランク ははあ、じゃあ、これがその大秘密というやつですね。
ノラ ええ、そうよ。どうぞ主人のところへ行っていてくださいな。中の部屋におりますわ。そして引止めておいてくださいね。こっちがすむまで――
ランク 安心してらっしゃい。放しはしませんから。(ヘルメルの部屋にはいる)
ノラ (女中に)それであの男は、台所で待っているのかい?
女中 はい、裏の階段を上がっていらっしゃって――
ノラ だけどお前、誰方《どなた》もいらっしゃらないって言わなかったの?
女中 そう申したんですが、だめでございました。
ノラ 帰らないっていうのね?
女中 はい、奥さまとお話をするまでは、帰らないっておっしゃるんです。
ノラ じゃあ、お通ししておくれ。そっとだよ。それからお前、このことは誰にも言っちゃいけないよ。旦《だん》那《な》さまに知れたら大変だからね。
女中 はい、はい、かしこまりました――(出て行く)
ノラ ああ恐《おそ》ろしいことが起る。とうとうやってきた。いや、いや、いや、そんなことが起るわけがない。そんなことにならせるものか。(ヘルメルの扉《と》口《ぐち》に行って錠《じょう》を下ろす)
女中、玄関の扉《とびら》をあけてクログスタットを入れ、その後をしめる。クログスタットは旅行用の毛皮の外套《がいとう》を着て、長靴《ながぐつ》をはき、毛皮の帽《ぼう》子《し》をかぶっている。
ノラ (クログスタットを迎《むか》えて)大きい声をなさらないでください。主人が家におりますから。
クログスタット ほう、ではそのつもりで。
ノラ ご用はなんです?
クログスタット ちょいと伺いたいことがありましてね。
ノラ 早くおっしゃってください。なんでしょう?
クログスタット わたしが免職《めんしょく》の通知を受けたことはご存じでしょうな。
ノラ あたしにはどうしても止《と》めることができなかったんですよ、クログスタットさん。あなたのために最後まで頑《がん》張《ば》ってみましたが、やっぱりだめでしたわ。
クログスタット ご主人はあなたに対してそんなに冷たいんですか? わたしがあなたをどんな目にあわせることができるか知っていながら、よくもまあ――
ノラ こんなこと、主人に話せやしないじゃありませんか。
クログスタット いや、わたしもそんなことだろうと思ってました。あの善良なトルワル・ヘルメル君にそれだけの勇気があろうとは考えられませんからな―‐
ノラ クログスタットさん、主人に対する礼《れい》儀《ぎ》はお守りください。
クログスタット もちろん、守るべき礼儀はね。だが奥さん、あなたがそうやってやきもきしながらこの問題をひた隠《かく》しになさっているところをみると、あなたのなさった事がどんな事か、昨日よりすこしはよくおわかりになってきたとみえますな。
ノラ あなたに教えていただいたよりはよくわかっております。
クログスタット そうでしょうとも。わたしのようなつまらん法律屋に聞くよりはね――
ノラ それでご用というのはなんでしょう?
クログスタット いや、なに、ただあれからどうなさっているかと思いましてね。じっさい、一日中あなたのことばかり考えておりましたよ。金貨《かねかし》だの、代言人だのといわれる――わたしのようなやつでも、世間でいう人情のすこしぐらいは持ち合せておりますからな。
ノラ それなら、それを見せてください。あたしの子供たちのことも考えてやってください な。
クログスタット じゃあ、あなたやあなたのご主人はわたしの子供のことを考えてくださいましたか? だが今となっては、そんな事はどっちだっていいのです。ただわたしは、この事件をあまりつきつめてお考えになるには及ばないとだけ申上げておきたかったんですよ。当分の間わたしのほうから裁判に持出すようなことはいたしません。
ノラ ああ、そうでしょう。あたしもそうだと思っていました。
クログスタット この事件はすべて穏《おだ》やかに解決できるものですよ。人のなかに持出す必要はすこしもありません。われわれ三人の間だけで事はすむのです。
ノラ でも、主人にはどんなことがあっても知らすわけにはいきません。
クログスタット どうしてそんなことができます? あなたに残金が全部支《し》払《はら》えるんですか?
ノラ いいえ、今すぐにはできません。
クログスタット それとも、二、三日中に金のできる目あてでもあるんですか?
ノラ そんな目あてはありません。
クログスタット いや、その目あてがあったところで、今となってはなんの役にも立ちませんよ。仮にあなたがそれだけの現金をこしらえて持っていらっしゃったとしても、証書はお返ししませんからね。
ノラ それで何をなさるおつもり?
クログスタット ただしまっておきたいんです、――手元に置いておきたいんですよ。しかし誰《だれ》にも知らせはしません。そこで、もしあなたが絶望のあまり何かとんでもない決心でもなさるようでしたら――
ノラ それはするでしょうよ。
クログスタット ――もしもこの家を捨てて出て行こうというような考えでも起されるようでしたら――
ノラ ええ、そうするでしょうよ!
クログスタット ――それとも、もっと大変なことを思いつかれるようでしたら――
ノラ どうしてそんなことまでわかるんです?
クログスタット ――まあそれなら、そんな考えはお捨てになることですな。
ノラ あたしがそういうことを考えているのが、どうしておわかりになるんです?
クログスタット まずたいていの者が最初はそんなことを考えるものですからな。わたしだってご多分には洩《も》れませんでしたよ。しかし、わたしにはそれだけの勇気がありませんでね――
ノラ (力なく)あたしにもありませんわ。
クログスタット (ほっとしたように)そうでしょう、あなたにもそれだけの勇気がないんですね、あなたにもね?
ノラ ありません、ありません。
クログスタット それにそんなことは馬鹿《ばか》げきっていますよ。最初の嵐《あらし》が家の中をさっと吹《ふ》き過ぎてしまえば、それでおしまいです――。ところでわたしは、このポケットの中にご主人に宛《あ》てた手紙を持っています――
ノラ それに何から何まで書いてあるんですね?
クログスタット 言い方はできるだけ気をつけておきましたがね。
ノラ (早口に)その手紙を主人に渡してはいけません。破いてください。お金のほうはなんとかあたしが工《く》面《めん》いたします。
クログスタット 失礼ですが、奥さん。そのことは先ほど申上げたはずですが――
ノラ あら、あたしの言うのは借りているお金のことではありません。いったいあなたは、主人にどのくらい出させようというおつもりなんですか。それをあたしに言ってください。あたしがそのお金をこしらえますから。
クログスタット わたしはご主人にお金を出させようとは思っておりませんよ。
ノラ じゃあ、何をお望みなんですか?
クログスタット それはいま申上げます。奥さん、わたしはもう一度立ち上がりたいんです、頭を持ち上げたいんです。そのためにはご主人のお力をお借りしなければならないんです。わたしはこの一年半の間不正な行いは何一つしておりません。その間じゅう苦しい境遇《きょうぐう》と闘《たたか》いつづけてきました。それでもわたしは、働いて一歩一歩道がひらけて行くので満足していました。ところが、いままた追い出されてしまったのです。こうなると、もちろんこんどは、お情けで元の地位に拾い上げられるだけでは満足できません。わたしは頭を持ち上げたいんですよ、奥さん。わたしはもう一度銀行に戻《もど》って、――前よりもいい地位につきたいのです。ご主人にわたしのための地位をこしらえていただかねばなりません――
ノラ そんなこと、主人がするものですか!
クログスタット いや、しますね。わたしはあの人をよく知っていますが、それをぐずぐず言うような人じゃありません。そこでですね、わたしがご主人と一緒《いっしょ》に同じ銀行に勤めるようになれば、まあ見てらっしゃい! 一年とはたたないうちに、頭取《とうどり》の右の腕《うで》になってみせますよ。そして貯蓄銀行を切り回しているのは、トルワル・ヘルメルではなくて、ニルス・クログスタットだということになるでしょうよ。
ノラ そんなことはさせませんよ!
クログスタット するとあなたは――?
ノラ いま、あたしには勇気が出てきました。
クログスタット フン、おどかしたってだめですよ。あなたのような、甘《あま》やかされてきたお嬢《じょう》さん育ちの女が――
ノラ 見てらっしゃい、見てらっしゃい!
クログスタット 氷の下にでもはいるんですか? あの冷たい真っ黒な水底《みなそこ》にもぐるんですか? 春になって浮《うか》び上がってくる時には、二た目と見られない、誰ともわからぬ姿となって、髪《かみ》の毛も抜《ぬ》け落ちて――
ノラ おどかしてもだめです。
クログスタット わたしだっておどかされはしませんよ。そんなことを誰がするもんですか、奥さん。それにやったところでなんの役に立ちます? とにかくご主人は完全にわたしのポケットの中におさえてあるわけですからね。
ノラ これからもずっとですか? わたしというものがいなくなっても――?
クログスタット あなたがお亡《な》くなりになった後の名《めい》誉《よ》も、わたしの手中にあるということをお忘れなく。
ノラ (何も言わず突《つ》っ立ったまま、じっとクログスタットの顔を見つめる)
クログスタット さあ、これであなたの立場がおわかりになったでしょう。まあ馬鹿な真《ま》似《ね》はなさらんことですな。ヘルメル君がこの手紙を見れば、いずれ返事があるでしょう。ところでよく覚えておいてください、わたしにこんな手段を取るようにしむけたのはあなたのご主人自身なんですぞ。これだけは絶対に勘弁《かんべん》しないつもりです。では奥さん、さようなら。(玄関を通って出て行く)
ノラ (外の扉《と》口《ぐち》に駆《か》け寄り、扉をすこしあけて、耳をすます)行ったわ。手紙は入れないで。ええ、ええ、そんなことのできるわけがないんだもの! (扉をだんだん大きくあけて)おや、どうしたんだろう? まだ立っているわ。階段を下りて行かない。考え直したのかしら? もしかしたら――? (手紙が郵便受けに落ちる。続いて階段を降りて次《し》第《だい》に遠ざかって行くクログスタットの足音が聞える)
ノラ (おさえつけたような叫《さけ》び声を上げて、ソファーのそばのテーブルのほうへ駆け寄る。短い間)郵便受けに。(玄関へ通じる扉のほうへおそるおそる足音を忍《しの》ばせて行く)ああ、あるわ。――あなた、あなた、――もうあたしたちはおしまいよ!
リンネ夫人 (衣裳《いしょう》を持って左手の部屋からはいってくる)さあ、すっかり直したつもりよ。ちょっと着てごらんなさいな。
ノラ (しゃがれ声で、そっと)クリスチーネさん、ちょっとここへいらしって。
リンネ夫人 (衣裳をソファーの上にほうりだして)気分でもお悪いの? どうかなさったみたいよ。
ノラ ここへいらしってよ。あの手紙が見えて? ほら、あそこに、――郵便受けのガラス越《ご》しに。
リンネ夫人 ええ、ええ、よく見えるわ。
ノラ あれはクログスタットからの手紙よ――
リンネ夫人 ノラさん、――あなたにお金を貸してくれたのはクログスタットなのね!
ノラ ええ。それがもうすぐ主人に何もかも知れてしまうわ。
リンネ夫人 でもねえ、ノラさん、あなた方お二人のためにはそれが一番いいと思うわ。
ノラ あなたのまだご存じないことがあるのよ。実はあたし、偽《ぎ》署《しょ》してしまったの――
リンネ夫人 まあ――
ノラ それでねえ、クリスチーネさん、あなたに一つだけお願いしておきたいことがあるの。あなた、あたしの証人になってちょうだい。
リンネ夫人 証人て、どういう? いったい何を――?
ノラ もしもあたしが気でも違《ちが》うようだったら、――そんなことがあるかもしれないのよ――
リンネ夫人 まあ、ノラさん!
ノラ そうでなくても、あたしの身の上に何か――あたしがここにいられないような事でも起ったら――
リンネ夫人 ノラさん、ノラさん、あなた、まったくどうかしているわ!
ノラ そんな時、もし誰かが一切《いっさい》を、一切の罪を自分の身に引受けようとでもしたら、――わかるわね――
リンネ夫人 ええ、ええ、でもどうしてそんなことを――?
ノラ そうしたらあなたが証人になって、それは嘘《うそ》だと言ってくださいね、クリスチーネさん。あたしはすこしも変じゃないのよ。気は確かよ。それからあなたに言っておくけど、この事はほかの誰も知らないわ。みんなあたし一人でやったことなの。よく覚えておいてちょうだい。
リンネ夫人 ええ、よく覚えておきましょう。でも何がなんだか、あたしにはさっぱりわからないわ。
ノラ まあ、あなたにわかるはずなんかありませんわ。それに、これから奇《き》蹟《せき》が起ろうとしているんですもの。
リンネ夫人 奇蹟?
ノラ ええ、奇蹟よ。でもそれはとっても恐ろしい事なの、クリスチーネさん、――どうしても起ってはならない事よ。
リンネ夫人 あたし、すぐにクログスタットさんのところへ行って、話してみますわ。
ノラ 行くのはやめてちょうだい。あなたに何かひどい事でもするといけないから!
リンネ夫人 あれであの人も、あたしのためならどんな事でもしてくれた時代があったのよ。
ノラ あの人が?
リンネ夫人 どこに住んでいるの?
ノラ さあ、どこかしら――? そうそう、(ポケットを捜《さが》して)ここに名《めい》刺《し》があるわ。でもあの手紙、あの手紙――!
ヘルメル (自分の部屋の中から扉《とびら》をたたいて)ノラ!
ノラ (恐怖《きょうふ》のあまり叫ぶ)あら、何? 何かご用?
ヘルメル おいおい、そんなにびっくりしなくてもいい。そっちへ行けないんだ。お前が扉に錠《じょう》をおろしてしまうから。衣裳でも着てみているのかい?
ノラ そうよ、そうよ、着てみているところよ。あたしとっても奇《き》麗《れい》になったわよ、あなた。
リンネ夫人 (名刺を読んで)あの人、すぐそこの角を曲った所に住んでるのね。
ノラ そうね、でももうだめだわ。あたしたちはおしまいよ。だってあの手紙が郵便受けにはいっているんですもの。
リンネ夫人 で、あの鍵《かぎ》はご主人がお持ちなのね?
ノラ ええ、いつもそう。
リンネ夫人 それならクログスタットさんに、あの手紙を読まないで返してくれって言わせましょうよ。なんとが口実を見つけさせて――
ノラ でも、今ごろいつも主人は郵便受けをあけるのよ――
リンネ夫人 なんとか引止めておくのよ。こっちからご主人のところへ行ってね。あたしできるだけ早く帰ってきますから。(急いで玄関《げんかん》の扉口から出て行く)
ノラ (ヘルメルの部屋の扉口に行き、扉をあけて中をのぞきこむ)あなた!
ヘルメル (奥《おく》の部屋で)うん、やっと自分の部屋にはいってもいいお許しが出たのかい? 来たまえよ、ランク君、ひとつ拝見しようじゃないか――(扉口で)や、どうしたんだ?
ノラ 何よ、あなた?
ヘルメル ランク君の話だと、すばらしい仮《か》装《そう》姿が見られるはずだったが。
ランク (扉口で)ぼくはそう思っていたんだが、そうすると聞き違いだったかな。
ノラ ええ、明日の晩にならなければ、誰方《どなた》にも晴れ姿は見せてあげられないわ。
ヘルメル だがお前、ひどくくたびれているようじゃないか。お稽《けい》古《こ》でもやりすぎたのかい?
ノラ いいえ、お稽古はまだちっともしていないわ。
ヘルメル しかし、お稽古はぜひしなくちゃ――
ノラ ええ、お稽古はどうしてもしなくちゃいけないわね。でもねえ、あなたに手伝っていただかなければ、まるでだめなのよ。あたし、すっかり忘れてしまったんですもの。
ヘルメル なあに、すぐ思い出せるさ。
ノラ だからあたしの力になってくださいね、あなた。約束《やくそく》してくださる? ああ、あたし心配でたまらないの。大勢集まるんでしょう――。今夜一晩は、あたし一人にかかりきってくださいね。お仕事はなんにもなさらないで。ペンも持たないで。え? いいでしょう、ねえあなた?
ヘルメル よしよし、約束した。今夜はお前の言うなりになるとしよう、――途《と》方《ほう》にくれた哀《あわ》れな子だからな。――うん、そうだ、その前にちょっと――(玄関へ通じる扉のほうへ行く)
ノラ 何しにいらっしゃるの?
ヘルメル なに、手紙が来てやしないかと思ってね。
ノラ だめ、だめ、そんなことをなさっちゃ、あなた!
ヘルメル どうして?
ノラ あなた、お願いよ。なんにも来てやしないわ。
ヘルメル まあちょっと見てみよう。(行こうとする)
ノラ (ピアノに向ってタランテッラの最初の一節を弾《ひ》く)
ヘルメル (扉口で立ちどまり)おや、おや!
ノラ あなたと一緒におさらいしておかなくっちゃ、明日踊《おど》れやしないわ。
ヘルメル (ノラの方へ行って)お前、ほんとうにそんなに心配なのかい?
ノラ ええ、心配でたまらないのよ。すぐに始めてちょうだい。お食事までにはまだ時間がありますから。さあ、あなた、ここに掛《か》けて弾いてちょうだい。そして直してくださるのよ。いつものように指図をしてね。
ヘルメル よしよし、お前のお望みならいくらでもやるよ。(ピアノに向う)
ノラ (ボール箱《ばこ》の中からタンバリンと長い色模様のあるショールをつかみだして、そのショールを手早く肩《かた》に巻きつける。それから一跳《と》びで舞《ぶ》台《たい》の前の方に踊り出て、大声に言う)さあ、弾いてちょうだい! 踊りますよ!
ヘルメル、弾く。ノラ、踊る。ランクはピアノのそばで、ヘルメルのうしろに立って眺《なが》める。
ヘルメル (弾きながら)もっとゆっくり、――もっとゆっくり。
ノラ これよりゆっくりは踊れないわ。
ヘルメル そんなに乱暴に踊るんじゃないよ、ノラ!
ノラ ちょうどいいのよ、このくらいが。
ヘルメル (弾くのをやめて)いかん、いかん、それじゃまるでいかん。
ノラ (笑ってタンバリンを振《ふ》る)だからあたしが言ったでしょう?
ランク こんどはぼくが弾こう。
ヘルメル (立ち上がって)ああ、そうしてくれたまえ。そうすれば、ぼくも指図がしやすいから。
ランク、ピアノに向って弾く。ノラはますます乱暴に踊る。ヘルメルは煖《だん》炉《ろ》のそばに立って、踊りの間にたびたび注意する。しかしノラの耳にははいらない様子である。やがて髪《かみ》がほどけて、肩に垂れかかる。ノラはそれにはかまわず、ずんずん踊りつづける。リンネ夫人がはいってくる。
リンネ夫人 (呆《あき》れて扉口に立ったまま)まあ――!
ノラ (踊りながら)大変な騒《さわ》ぎでしょう、クリスチーネさん。
ヘルメル おいおいノラ、お前まるで命がけで踊っているようだな。
ノラ ええ、まったく命がけよ。
ヘルメル ランク君、やめてくれたまえ。まるで気《き》違《ちが》い沙汰《ざた》だ。やめてくれって言ったら。
ランク、弾くのをやめる。ノラ、はたと立ちどまる。
ヘルメル (ノラのほうへ行って)まさかこんなだとは思わなかった。これじゃ、わたしが教えてやったことをすっかり忘れているじゃないか。
ノラ (タンバリンをほうり投げて)ほらごらんなさい。
ヘルメル なるほど、これじゃ真剣《しんけん》に稽古をつけてやらなくちゃならん。
ノラ ねえ、どうしたってお稽古しなくちゃならないでしょう。だからいよいよという間《ま》際《ぎわ》まで、一生懸命《いっしょうけんめい》教えてくださいな。ね、いいでしょう、あなた?
ヘルメル よしよし、安心しておいで。
ノラ 今日と明日は、あたしのことのほかはなんにも考えちゃいけないのよ。手紙を読んでもいけない、――郵便受けをあけてもいけないのよ――
ヘルメル ははあ、まだあの男が怖《こわ》いんだな――
ノラ ええ、それもありますわ。
ヘルメル おい、ノラ、お前の顔色でちゃんとわかるぞ。郵便受けの中にあの男の手紙がはいっているんだな。
ノラ あたし知りません。来ているかもしれないわ。でも今は、そんなものを読んじゃだめよ。みんなすんでしまうまでは、あなたとあたしの間にいやな事があっちゃいけないわ。
ランク (小声でヘルメルに)きみ、さからわないほうがいいよ。
ヘルメル (ノラの身体《からだ》に腕《うで》をまわして)赤ちゃんの気ままにさせておこう。だが、明日の晩、お前の踊りがすんだら――
ノラ そしたらお好きなように。
女中 (右手の扉口で)奥さま、お食事の支《し》度《たく》ができました。
ノラ シャンパンを出しといておくれ。
女中 かしこまりました。(出て行く)
ヘルメル おやおや、――大宴会《えんかい》だな?
ノラ 明日の朝までシャンパンを飲みあかすのよ。(外に向って大声で言う)ヘレーネや、それからマクロンもね、たくさん出しといてよ。――これっきりなんだから。
ヘルメル (ノラの両手を取って)これ、これ、これ、そんなに怯《おび》えたように気が立っちゃいけないよ。さあ、いつものように、わたしのかわいいヒバリさんにおなり。
ノラ ええ、ええ、そうなりますわ。でも、しばらくあっちへ行っていてちょうだい。ランク先生、あなたもね。クリスチーネさん、あなたはあたしの髪を結《ゆ》う手伝いをしてくださいな。
ランク (ヘルメルと出て行きながら小声で)何かあるんじゃないかい、――いまに何か?
ヘルメル なあに、そんなことはないよ、きみ。さっき話したように、子供みたいな心配をしているだけのことさ。(二人右手に去る)
ノラ どうだった?
リンネ夫人 田舎《いなか》へ旅行に出かけたんですって。
ノラ あなたの顔を見て、そんなことだろうと思ったわ。
リンネ夫人 明日の晩帰ってくるそうよ。だから一筆書いておいてきたわ。
ノラ そんなことしなければよかったのに。なるようにならせておくほうがいいわ。でも、こうして奇蹟が現われるのを待っている気持は、なんともいえないものね。
リンネ夫人 いったい、あなたの待っていらっしゃるのはどんなこと?
ノラ まあ、あなたにはとてもわからないこと。さあ、みんなのところへいらっしゃい。あたしもすぐ後から行くわ。
リンネ夫人、食堂に行く。
ノラ (気を落着けようとするように、しばらく立ちどまる。それから時計を出して見る)五時だわ。十二時までに七時間。それから明日の晩の十二時までには二十四時間。そこでタランテッラがすむ。二十四時間と七時間?すると三十一時間の命だわ。
ヘルメル (右手の扉口で)おい、うちのヒバリさんはどうしたんだい?
ノラ (両腕を開いてヘルメルのほうへ駆《か》け寄って)さあ、ヒバリが来たわよ。
第三幕
同じ部屋。ソファー用のテーブルとこれを取巻く数脚《すうきゃく》の椅子《いす》が、部屋の真ん中に持ってきてある。テーブルの上のランプには火がともっている。玄関《げんかん》へ通じる扉はあけ放されている。二階から舞《ぶ》踊《よう》の音楽が聞えてくる。
リンネ夫人、テーブルのそばに腰《こし》かけて、ぼんやり本のぺージをめくっている。読もうとするが、注意を集中することができない様子である。ときおり耳をすましては入口の扉のほうを気にしている。
リンネ夫人 (時計を出して見て)まだ来《こ》ないわ。いまが潮時だのにねえ。もしか来ないとしたら――(また耳をすます)ああ、来た。(玄関に出て行き、用心深く扉をあける。そっと階段を上がってくる足音が聞える。リンネ夫人ささやくように)おはいりなさい。誰《だれ》もいませんから。
クログスタット (扉《と》口《ぐち》で)あなたの置手紙を拝見して来ました。あれはいったいどういうことですか?
リンネ夫人 ぜひあなたにお話したいことがありましたので。
クログスタット そうですか? それにしてもその話はこの家でなければいけないんですか?
リンネ夫人 あたしの家だと具合が悪いんですよ。部屋の出入口が一つしかありませんから。まあ、おはいりなさいよ。あたしたちだけですわ。女中さんは寝《ね》ていますし、ヘルメルさんたちは上の舞《ぶ》踏会《とうかい》に行っていますから。
クログスタット へへえ。お二人とも今夜は舞踏会? ほんとですか?
リンネ夫人 そうですよ、どうしていけませんの?
クログスタット いや、なに、結構ですとも。
リンネ夫人 それでは、クログスタットさん、お話いたしますよ。
クログスタット あなたとわたしの間に、まだ何かお話するようなことがありましたかな?
リンネ夫人 たくさんありますわ。
クログスタット そんなはずはありませんがね。
リンネ夫人 いいえ、あなたにはあたしというものがほんとうにおわかりになっていないからですよ。
クログスタット あれほどありふれた話なのに、いったい何がまだわからないというんです? 薄情《はくじょう》な女が都合のいい口を見つけると、さっさと男におさらばをしたというまでの話じゃありませんか。
リンネ夫人 あなたは、あたしをそんな薄情な女だと思っていらっしゃるの? そしてそんな軽はずみから、あなたと別れたとでも思っていらっしゃるの?
クログスタット 違いましたかな?
リンネ夫人 クログスタットさん、あなた、ほんとうにそう思っていらっしゃるの?
クログスタット もしそうでなかったとしたら、あの時どうしてあなたはあんな手紙をくださったんです?
リンネ夫人 ほかにどうすることもできませんでしたもの。あなたとお別れする以上は、あなたがあたしに対して持っていてくださる感情のすべてを、一思いに根だやしにしてしまうのがあたしの義務だと思いましたのよ。
クログスタット (両手を握《にぎ》って)そういうわけでしたか。それも――それもただ金のためにね!
リンネ夫人 でも、あの時あたしには頼《たよ》る者のない母と二人の小さい弟があったことをお忘れにならないでくださいな。だからクログスタットさん、あたしたちはあなたを待っていることができなかったんですよ。それにあの頃《ころ》のあなたは先の見込《みこ》みがずいぶん心細かったんですもの。
クログスタット そうだったかもしれません。だがいずれにせよ、ほかの男のためにわたしを突《つ》っ放《ぱな》す権利はあなたになかったはずですね。
リンネ夫人 ええ、それはあたしにもわかりませんの。そういう権利が自分にあったかどうかと考えてみることが、あれからもたびたびあるんですよ。
クログスタット (声を落して)わたしがあなたを失った時は、足の下に踏《ふ》みしめている大地がまるで消え失《う》せていくような気がしました。このわたしを見てください。いまでは板子一枚にすがりついている難船者ですよ。
リンネ夫人 救助船がもうおそばまで来ているかもしれません。
クログスタット 来ていたんです。ところがそこへあなたがやって来て、邪《じゃ》魔《ま》をしてしまったんですよ。
リンネ夫人 そういうことはまるで知らなかったんですよ、クログスタットさん。今日初めて、あたしが銀行にはいるのはあなたの代りだということを聞きましたのよ。
クログスタット そうおっしゃるところをみれば、ほんとうにそうでしょう。しかしそうわかったからには、身を退《ひ》いてくださろうとでもいうんですか?
リンネ夫人 いいえ。今さらそんな事をしたところで、あなたのお役には立たないでしょうから。
クログスタット フン、役に立つ、役に立つか――。わたしだったらそれでもそうするところですね。
リンネ夫人 あたしは物事を理性をもって行うべきだということを学びましたわ。人生と、つらい苦しい貧乏《びんぼう》とが、あたしにそれを教えてくれたんですの。
クログスタット ところでわたしのほうは、人の言葉をむやみに信用するなということを、この人生に教えてもらいましたよ。
リンネ夫人 すると、人生はずいぶん賢《かしこ》い事をあなたに教えてくれたものですね。でもあなただって、実行なら信用してくださるでしょう?
クログスタット それはどういう意味です?
リンネ夫人 あなたはさっき板子一枚にすがりついている難船者だっておっしゃいましたね。
クログスタット わたしにはそう言っていい理由が十分ありますからね。
リンネ夫人 あたしもやっぱり板子にすがりついている難船者のようなものですわ。心配をしてやる人もいなければ、世話をしてやる人もいないのです。
クログスタット それは自分で選んだ道じゃありませんか。
リンネ夫人 でもあの時は、ほかに道がありませんでした。
クログスタット なるほどね、それで?
リンネ夫人 ねえ、クログスタットさん、それであたしたち難破した者同士がお互《たが》いに手を取合ったらどんなものでしょう。
クログスタット なんですって?
リンネ夫人 一人々々が別々に自分の板子にすがりついているよりも、二人が一枚の板子につかまっているほうがよくはないでしょうか。
クログスタット クリスチーネさん!
リンネ夫人 いったいなんのために、あたしがこの町へ来たとお思いになって?
クログスタット わたしのことを思い出して来たとでもおっしゃるんですか?
リンネ夫人 生きてゆくために、働かなければならないからです。あたしはともかく今まで、記《き》憶《おく》に残っている限りずっと働きつづけてきました。そして働くことが、あたしにとってはたった一つの、何よりの喜びでした。けれども今は、まったくの一人ぽっち、恐《おそ》ろしいくらい空虚な気持で、世の中から見捨てられたような形になっているのです。こうなってみると自分一人のために働くということは、ちっとも楽しいものではありません。そこでクログスタットさん、その人のために働くというような相手になる人と働く目あてとを、あたしのためにこしらえてくださいませんか。
クログスタット どうも信じられん。それは、興奮した女が自分の身を犠《ぎ》牲《せい》にしようとする空《から》勇気にすぎんのでしょう。
リンネ夫人 あなたは、あたしが興奮したところをごらんになったことがあって?
クログスタット じゃあ、ほんとうにやれるつもりですか? それならお尋《たず》ねしますが、――あなたはわたしの過去のことはすっかりご存じですか?
リンネ夫人 ええ。
クログスタット それから、わたしがこの町ではどんな人間に見られているか、それも知っているんですか?
リンネ夫人 でも先ほどのお話では、もしあの時あたしと一緒《いっしょ》になっていたら、まるで別の人間になっていたろうとおっしゃったようでしたが。
クログスタット きっと変っていたと思います。
リンネ夫人 今からではもう無理でしょうか?
クログスタット クリスチーネさん、――あなた、よくよく考えての上でおっしゃってくださいよ! いや、そうらしい。お顔を見ればわかります。じゃああなたには、ほんとうにそうなさる勇気がおありなんですか――?
リンネ夫人 あたしは誰かの母親になってやりたいのです。そしてあなたのお子さんたちはお母さんをほしがっているのでしょう。あたしたち二人はお互いに必要なんです。クログスタットさん、あたしはあなたの本心がご立派なことを信じています。――あなたとご一緒なら、あたしなんでもいたしますわ。
クログスタット (リンネ夫人の手を取って)ありがとう、ありがとう、クリスチーネさん。――こうなればもう一度立ち直って、世間の人たちに見直してもらうこともできましょう。――ああ、そうだ、忘れていたが――
リンネ夫人 (耳をすまして)しっ、静かに! タランテッラの踊《おど》りだわ! もう帰ってください、帰ってください!
クログスタット なぜ? どうしたんです?
リンネ夫人 上で踊っているのが聞えるでしょう? あれがすむと、みんな帰ってくるんですよ。
クログスタット ああ、そう、それなら帰りましょう。だがもう何もかも無駄《むだ》だ。あなたはもちろんご存じないでしょうね、わたしがいまこの家の人たちに対してどんな手段をとっているか。
リンネ夫人 いいえ、知ってますよ、クログスタットさん。
クログスタット それを知っていても、まだわたしについてくる勇気があるんですか――?
リンネ夫人 あなたのような方が絶望なさるとどんなことになるか、あたしにはよくわかりますもの。
クログスタット ああ、あれを取消しにすることはできないものかなあ!
リンネ夫人 できますとも。だってあなたのお手紙はまだあの箱《はこ》の中にはいったままなんですから。
クログスタット それは確かですか?
リンネ夫人 ええ、確かよ。でも――
クログスタット (探《さぐ》るようにリンネ夫人の顔を見て)ははあ、読めた。あなたはどんな犠牲を払《はら》っても友達を救おうという腹ですな。さあ、隠《かく》さずにおっしゃい。そうなんでしょう?
リンネ夫人 クログスタットさん、一度他人のために自分を売った者は、二度とそれを繰《くり》返《かえ》しはしませんよ。
クログスタット それならあの手紙は返してもらいましょう。
リンネ夫人 いいえ、いけません。
クログスタット いや、むろんそうします。わたしはヘルメル君が帰るまで待っていて、手紙を返してもらいたいと言いましょう、――あれはただ免職《めんしょく》のことについて書いたもので、――いまさら読んでもらうには及《およ》ばないと――
リンネ夫人 いいえ、クログスタットさん、あの手紙は返してくれとおっしゃらないほうがいいでしょうよ。
クログスタット では伺《うかが》いますが、わたしをここへ呼んだのはそのためじゃなかったんですか?
リンネ夫人 ええ、最初びっくりしました時にはね。でもそれからもう一日たっています。そしてその間に、あたしはこの家でとても信じられない事を見たのです。ですからヘルメルさんには一切《いっさい》を知らせて、こんな不愉《ふゆ》快《かい》な秘密は早く明るみに出したほうがいいと思います。お二人の間では完全に理解し合うようにしなければいけませんもの。それにあんな隠し事や逃《に》げ口上《こうじょう》で、いつまでもやっていけるはずはありませんよ。
クログスタット ではそうしましょう。あなたが思いきってそうなさろうというのなら――。だがいずれにせよ、一つしておくことがある。それもすぐにしなくちゃ――
リンネ夫人 (耳をすまして)急いでください! 早くお帰りになって! 踊りが終りましたから。もうこうしてはいられませんよ。
クログスタット では下で待っていますよ。
リンネ夫人 ええ、そうしてください。家まであたしを送って行ってくださいな。
クログスタット こんなに幸福な気持は生れて初めてです。(外の扉《と》口《ぐち》から出て行く。この部屋と玄関《げんかん》との間の扉《とびら》はあけ放したままである)
リンネ夫人 (すこしそこらを片づけて、自分の帽《ぼう》子《し》と外套《がいとう》をきちんと直しておく)なんという変り方だろう! ほんとうに、なんという変り方だろう! 働く目あてになる人もできた――生きて行く張合もできた、幸福に楽しく暮《くら》せる家庭もできた。さあ、しっかりやらなくっちゃ――。あの人たち、早く帰ってきてくれればいいのに――(耳をすます)ああ、帰ってきた。あたしの物はと。(帽子と外套を取上げる)
ヘルメルとノラの声が外から聞える。鍵《かぎ》穴《あな》に鍵をさして回す音。ヘルメルがほとんど力ずくでノラを玄関に連れこむ。ノラはイタリア風の衣裳《いしょう》を着て、大きな黒いショールをはおっている。ヘルメルは燕《えん》尾《び》服《ふく》の上に黒のドミノを引っかけている。
ノラ (まだ扉口で夫に逆らいながら)いや、いや、いやよ。中にはいるなんて! もう一度上に行きたいわ。こんなに早く帰りたくないわ。
ヘルメル でもお前――
ノラ ねえ、あなた、お願い。お願いだから行かせて、――あともう一時間だけ!
ヘルメル いや、もう一分もいけない。ねえ、お前、そういう約束《やくそく》だったろう。さあさあ、部屋におはいり。こんな所にいれば、風邪《かぜ》を引いてしまう。
なおも逆らうノラをやさしく部屋の中に連れこむ。
リンネ夫人 今晩は。
ノラ まあ、クリスチーネさん!
ヘルメル おや、リンネの奥《おく》さん、こんなに遅《おそ》くどうして?
リンネ夫人 ごめんなさい。あたしノラさんの着《き》飾《かざ》ったところを拝見したかったものですから。
ノラ あなた、ずっとここで待っていてくだすったの?
リンネ夫人 ええ、あいにく遅くなりましてね、あなたはもう上へ行っておしまいになったあとでしたの。でも、一目でもあなたのお姿を拝見してから帰ろうと思いましたのでね。
ヘルメル (ノラのショールを取ってやりながら)じゃあ、よく見てやってください。それだけの値打ちはあるでしょうよ。どうです、奇《き》麗《れい》でしょう、奥さん?
リンネ夫人 ええ、ほんとうにねえ――
ヘルメル すばらしく奇麗でしょう? 今夜の会でもみんな口をそろえてそう言ってました。ところがまたおっそろしく強情《ごうじょう》でしてね――このかわいらしいやつときたら。まったくどうしようもありませんて。なにしろここまで連れてくるのに、ほとんど力ずくなんですからね。
ノラ せめてあと三十分ぐらいでもいさせてくれればよかったのに。あなた今に後悔《こうかい》なさるわよ。
ヘルメル お聞きになりましたか、奥さん。ところでタランテッラを踊りましたが、――あれは大喝采《だいかっさい》でしたよ、――たしかにそれだけの値打ちはありましたね。――ただし演《や》り方が少々自然主義的すぎたようでした。つまりですね、――厳密に言えば、芸術の要求する以上に自然主義的だったんですね。まあ、そんなことはともかく、要するに――大成功でした、物凄《ものすご》いほどの大喝采でした。そういう後で、そのままノラを上に残しておけますか? そんなことをすれば、せっかくの効果を弱めてしまうようなものじゃありませんか? だからこそ、わたしはこのかわいらしいカプリ娘《むすめ》を――じっさい、気ままなカプリの小娘とでも言いたくなるでしょう――この小娘を引っぱってきたんです。大急ぎで広間を一回りして、四方八方にお辞儀《じぎ》をさせて、それから、――小説の言葉どおりに――美しき幻《まぼろし》は消え失《う》せたのです。なにしろ引っ込《こ》みというやつは、いつでも一番肝心《かんじん》ですからね、奥さん。ところがそれをノラにわからせようとしても、どうしてもだめなんですよ。ほう、この部屋はあったかいな。(ドミノを椅子《いす》の上にほうり投げて、自分の部屋の扉をあける)なんだ? こっちは真っ暗じゃないか。あ、そうか、そのはずだ。ちょっと失礼――(中にはいって、二本の蝋燭《ろうそく》に火をともす)
ノラ (早口に、息をつめてささやくように)どうなって?
リンネ夫人 (小声で)話しましたよ。
ノラ それで――?
リンネ夫人 ノラさん、――あなた、ご主人にすっかり話しておしまいにならなくっちゃいけないわ。
ノラ (力なく)そうだろうと思ってたわ。
リンネ夫人 クログスタットのほうは何も恐《こわ》がることはないのよ。でもあなた、お話しにならなくっちゃ。
ノラ いや。あたし、話しません。
リンネ夫人 でも手紙が物を言うわよ。
ノラ ありがとう、クリスチーネさん。あたし、どうしたらいいか、いまわかったわ。しっ――!
ヘルメル (戻《もど》ってきて)いかがです、奥さん、驚《おどろ》きましたか?
リンネ夫人 ええ、すっかり。もうこれでお暇《いとま》いたしますわ。
ヘルメル おや、もうお帰り? この編物の道具はあなたのじゃありませんか?
リンネ夫人 はい。ありがとうございました。もうすこしで忘れるところでしたわ。
ヘルメル すると編物をなさるんですか?
リンネ夫人 はい、いたします。
ヘルメル 刺繍《ししゅう》をなさるほうがよろしいでしょうになあ。
リンネ夫人 そうですか? どうしてですの?
ヘルメル だって刺繍の方が遥《はる》かに優美じゃありませんか。そら、ごらんなさい。左の手にこう刺繍を持って、それから右の手で針を運んで行く――こんなふうにね――軽く長い曲線を描《えが》きながら。そうじゃありませんか?
リンネ夫人 ええ、まあそうでしょう――
ヘルメル ところが編物となるとですね――どうみても美しいとはいえませんよ。いいですか、両腕《りょううで》をこういやにからませて、――針をさかんに上へやったり下へやったりする、――なんだか支那《しな》人《じん》のやる事みたいですよ。――ああ、それにしても今夜のシャンパンは実にすばらしかったなあ。
リンネ夫人 ではおやすみなさい、ノラさん。それから、もう強情を張るんじゃありませんよ。
ヘルメル 奥さん、いいことを言ってくだすった!
リンネ夫人 おやすみなさい、頭取《とうどり》さん。
ヘルメル (扉《と》口《ぐち》まで送って行って)おやすみ、さようなら。気をつけてお帰りなさいよ。お送りするといいんだが――。まあ、あまり遠い所じゃありませんからな。ではおやすみ。さようなら。(リンネ夫人出て行く。ヘルメル、あとの扉をしめて戻ってくる)さあ、やっと帰ったぞ。おそろしく退屈《たいくつ》な女だなあ。
ノラ あなた、お疲《つか》れになっていない?
ヘルメル いや、ちっとも。
ノラ お眠《ねむ》くもないの?
ヘルメル 全然。それどころか眼《め》が冴《さ》えきっている。ところでお前は? どうも疲れている上に眠そうだな。
ノラ ええ、とってもくたびれましたわ。もうすぐ寝《ね》ます。
ヘルメル それみろ、それみろ。やっぱり早く帰ってきてよかったろう。
ノラ ええ、ええ、あなたのなさることは、何だっていいわ。
ヘルメル (ノラの額にキスをして)うちのヒバリさんもやっと訳のわかることを言うようになったな。それはそうと、今夜はランク君がいやにはしゃいでいたが、お前気がつかなかったかい?
ノラ あら、そうでしたか? あたし先生とはちっともお話しなかったものですから。
ヘルメル わたしだってほとんど話はしなかったよ。だが、あの男が近頃《ちかごろ》あんなに上機《き》嫌《げん》でいるのを見たことがないな。(ちょっとノラの顔を見る。それからそばに寄る)フン、――こうして自分の家に帰ってきて、お前と二人きりになってみると、なんとも言えない気持だ。――おい、お前はなんて奇麗でかわいらしい女なんだろう!
ノラ そんなふうにごらんになっちゃいやよ、あなた!
ヘルメル わたしの一番大事な宝物を見てはいけないのかい? わたしの、わたし一人の、わたしだけの、美しいものを見てはいけないのかい?
ノラ (テーブルの向う側に行って)今夜はあたしにそんな事をおっしゃらないで。
ヘルメル (ノラの後について行って)お前の血管の中ではまだタランテッラが踊《おど》っているんだな。それで今夜のお前はいつもより一層人の心を惹《ひ》きつけるんだ。おや、お客さんたちが帰りはじめたぞ。(声を落して)ノラ、――すぐに家じゅうが静かになるよ。
ノラ ええ、そうなってもらいたいわ。
ヘルメル うん、そうだろう、なあノラ? お前気がついたかい、――ああいう会に出ると、――わたしはお前にあまり話をしないで、いつもお前から離《はな》れるようにしている、そしてときどきちらっと盗《ぬす》むようにお前を眺《なが》める。――どうしてわたしがそんな事をするのか、お前にわかるかい? それはね、こういう訳なんだ。お前はわたしのひそかな恋人《こいびと》で、二人はこっそり婚約《こんやく》している。ところが、わたしたち二人の間の事はまだ誰《だれ》も知らない、とこんな空想に耽《ふけ》っているからなのさ。
ノラ ええ、ええ、ええ。あなたの考えていらっしゃるのは、いつもあたしのことばかりだわ。よくわかっててよ。
ヘルメル それからいよいよ帰ろうとして、お前のやわらかな若々しい肩《かた》や、――美しい頸《うなじ》のまわりにショールを掛《か》けてやった時、――またこんな想像をしてみたんだ、――お前は若い花嫁《はなよめ》で、わたしたちはいま式をすませたばかりで、これからお前を家に連れて帰るところだと、――それから始めてお前と二人きりになる、――身をふるわせている若い美しい娘のお前とね。今夜一晩じゅう、お前のことばかりを思いつづけていたんだよ。だからお前が人の心をかきむしるようにタランテッラを踊りはじめたのを見ると、――身体《からだ》じゅうの血が煮《に》えたぎって、もうどうにも我《が》慢《まん》ができなくなってしまった。――お前をせきたててあんなに早く下へ連れて来たのも、実はそういう訳だったんだ――
ノラ もうあちらへ行ってください、あなた! あたしを一人にしておいてちょうだい。そんなこと、今はなんにも伺《うかが》いたくないんですもの。
ヘルメル なんだって? わたしをじらす気かい、お前は。いやだ、いやだなんて! わたしはお前の夫じゃないのかい?
外の扉《とびら》を叩《たた》く音がする。
ノラ (ぎくりとして)聞えて、あなた――?
ヘルメル (玄関《げんかん》のほうへ行って)誰方《どなた》です?
ランク (外で)ぼくだよ。ちょっとはいってもいいかい?
ヘルメル (小声で腹立たしげに)いまごろなんの用だろう? (高い声で)ちょっと待ってくれたまえ。(行って扉をあける)やあ、よく寄ってくれたね、忘れずに。
ランク きみの声がしたようだから、のぞいてみる気になったんだ。(ざっとあたりを見まわす)ああ、なつかしい部屋だなあ。きみたちはまったく幸せだよ、こうして二人で暮していけて。
ヘルメル きみも上ではえらく楽しそうだったぜ。
ランク とてつもなく楽しかった。すべからく楽しむべしさ。いったいこの世の中で、享《う》け入れられるものはなんでも享け入れておくべきだよ。すくなくとも、できるだけ多く、できるだけ長くね。いや、今夜の酒はすばらしかった――
ヘルメル 殊《こと》にシャンパンがね。
ランク きみもそう思ったかい? ぼくは実によく飲んだ。
ノラ トルワルも今夜はずいぶんシャンパンを飲みましたわ。
ランク そうですか?
ノラ ええ。そしてシャンパンを飲んだ後は、いつもこの通りご機嫌なんですよ。
ランク まあ、一日働いているんですもの、晩ぐらい愉《ゆ》快《かい》に過したっていいでしょう?
ヘルメル 一日働く、か。残念ながら、ぼくなぞはあまり威張《いば》れんよ。
ランク (ヘルメルの肩をたたいて)ところが、ぼくは威張れるんだぜ!
ノラ 先生、あなた今日は科学上の実験をなさったのね。
ランク まさにその通り。
ヘルメル おやおや、うちのノラさんが科学上の実験だなんて言ってるぜ!
ノラ で、その結果は、おめでとうを申上げてもいいんですの?
ランク 結構ですとも。
ノラ じゃあ成功でしたのね?
ランク 医者にとっても患者《かんじゃ》にとっても、まずこれ以上の成功はありませんな。――もう確定です。
ノラ (早口に探《さぐ》るように)確定って?
ランク 完全に確定です。そういう後ですから、一晩ぐらい愉快にやってもいいわけでしょう?
ノラ ええ、おっしゃる通りよ、先生。
ヘルメル それはぼくも賛成だ。ただし、翌日になって参らなければいいがね。
ランク だがね、この世の中では償《つぐな》いなしには何物も得られんよ。
ノラ 先生、――あなたは仮《か》装《そう》舞《ぶ》踏会《とうかい》がよっぽどお好きなのね?
ランク ええ、おかしな仮装をした人間が大勢いますからね――
ノラ ねえ先生、この次の会にはあたしたち二人は何になったらいいでしょう?
ヘルメル なんて気の早いやつだ、――もうこの次の会のことを考えているのか!
ランク あたしたち二人がですって? そうですな、あなたは「幸福の天使」になるといいでしょう――
ヘルメル うん。だがそれにふさわしい衣裳《いしょう》を考えてくれたまえよ。
ランク なあに、きみの奥さんは、いつもの通りのままで出てくりゃいいのさ――
ヘルメル まさしくその通りだ。ところで、きみ自身は何になるつもりだい?
ランク ああ、きみ、ぼくならもうはっきりきまっている。
ヘルメル なんだい?
ランク 次の仮装舞踏会にはぼくは姿の見えないものになる。
ヘルメル そいつは愉快な思いつきだ。
ランク 大きな黒《くろ》頭《ず》巾《きん》てのがあるだろう――。きみ、姿の見えなくなる頭巾の話を聞いたことがあるかい? そいつを頭にのせると、誰の眼にも見えなくなるんだ。
ヘルメル (笑いをこらえながら)うん、そうだ。
ランク ところで、ここへ来た用事をすっかり忘れていた。きみ、葉巻を一本くれたまえ。例の黒いハバナをね。
ヘルメル さあどうぞ。(葉巻入れを差しだす)
ランク (一本取って、先を切る)ありがとう。
ノラ (蝋《ろう》マッチをする)火をおつけしましょう。
ランク すみませんね。(ノラ、マッチを差しだす。ランク、葉巻に火をつける)さてそこで、お暇《いとま》するとしよう!
ヘルメル じゃ、さようなら!
ノラ 先生、ゆっくりおやすみなさいまし。
ランク いや、ご親切に。
ノラ 先生、あたしにご挨拶《あいさつ》は?
ランク あなたにも? そうですか、お望みならば――。じゃあ、ゆっくりおやすみなさい。それからお火をありがとう。(二人にお辞儀《じぎ》をして出て行く)
ヘルメル (小声で)先生だいぶ参っているな。
ノラ (ぼんやりと)そうらしいわね。
ヘルメル、ポケットから鍵束《かぎたば》を取出して玄関のほうへ出て行く。
ノラ あなた、――何をなさるの?
ヘルメル 郵便受けを空《あ》けておかなくちゃならない。いっぱいになっているからね。明日《あした》の朝新聞のはいる所もないよ――
ノラ あなた、今夜まだお仕事をなさるおつもり?
ヘルメル わかってるじゃないか、なんにもしないよ。――おや、誰かこの錠《じょう》をいじったな。
ノラ 錠を――?
ヘルメル うん、たしかにそうだ。どうしたんだろう? まさか女中じゃあるまい――? へアピンの折れたのが一本あるぞ。ノラ、これはお前の――
ノラ (急いで)じゃあ、きっと子供でも――
ヘルメル こんな悪戯《いたずら》はさせないようにしなくちゃいかん。フン、フン、――さあ、よしと。やっとあいた。(中の郵便物を取出して、勝手のほうに向って呼ぶ)ヘレーネ、――ヘレーネ、廊《ろう》下《か》の明りを消しておきなさい。(部屋の中に戻《もど》ってきて、玄関へ通じる扉をしめる)
ヘルメル (手紙を手に持って)ほら、ごらん。こんなに溜《たま》っていた。(手紙をひっくり返して見ているうちに)なんだこれは?
ノラ (窓際《まどぎわ》で)あの手紙だ! ああ、いけない、いけない、あなた!
ヘルメル 名《めい》刺《し》が二枚――ランク君のだ。
ノラ 先生のですって?
ヘルメル (名刺を読んで)医学士ランク。これが一番上にあった。いま帰りがけに入れて行ったにちがいない。
ノラ 何か書いてはないんですか?
ヘルメル 名前の上に黒く十字が書いてある。見てごらん。しかし、いやな思いつきだなあ。これじゃ、まるで自分の死亡通知をしているようなものじゃないか。
ノラ そのつもりなんですよ。
ヘルメル え? お前何か知っているのかい? 何かあの男から聞いているのかい?
ノラ ええ。その名刺が来る時は、あたしたちに永久のお別れを告げる時なんですって。きっと先生はこれから閉じこもって、死ぬおつもりなんでしょう。
ヘルメル かわいそうになあ。どうせ長くはないだろうとは思っていたが、まさかこう早いとは――。じゃあ、手負いの獣《けもの》のように、身を隠《かく》してしまうんだな。
ノラ どうせそうなるものなら、何も言わずに行く所へ行ったほうがいいわね。そう思わない、あなた?
ヘルメル (行ったり来たりしながら)あの男はしょっちゅうわれわれにくっついていた。あの男のいないわれわれの生活なんて、わたしには考えられない。あの男の苦《く》悩《のう》と孤《こ》独《どく》は、太陽のように輝《かがや》くわれわれの幸福に対して、いわば黒雲のような背景を成していたんだ。――まあしかし、こうなるのが一番いいのだろう。すくなくともあの男にとってはだ。(立ちどまって)そしておそらくはわれわれにとってもいいのかもしれん。これでもう、まったく二人だけになってしまったんだ。(ノラを抱《だ》く)ああ、お前はかわいいなあ。わたしはお前をどんなにきつく抱きしめても、まだ抱きたりないような気がするよ。それはそうとなあ、ノラ、――わたしはときどき思うんだがね、恐《おそ》ろしい危険がお前の身に迫《せま》ってきて、そのためにわたしが命も財産も何もかも投げ出して、お前を救うというようなことにでもぶっつかってみたいと思うんだ。
ノラ (身を振放《ふりはな》して、意を決したようにきっぱりと言う)あなた、さあ、そのお手紙をごらんなさい。
ヘルメル いやいや、今夜はよそう。お前のそばにいたいんだ。
ノラ お友達の死ぬのを考えながら――?
ヘルメル いや、そうだったな。こいつには参った。面白《おもしろ》くもないことがお前とわたしの間に入りこんできたわけだ。死ぬとか崩《くず》れるとかいうような考えがな。しかし、こんな考えは早く振りすてるようにしないといかん。まあそれまでは――。めいめいの部屋に行っているとしよう。
ノラ (ヘルメルの首を抱いて)あなた、――おやすみなさい!
ヘルメル (ノラの額にキスをして)おやすみ、かわいい小鳥さん。ゆっくりお休みよ。どれ、手紙でも読むとするか。(手紙の束を持って自分の部屋にはいり、あとの扉をしめる)
ノラ (狂《くる》おしげな眼《め》つきであたりを捜《さが》しまわり、ヘルメルのドミノをつかんで、身にまとい、早口にしゃがれ声で、とぎれとぎれにつぶやく)もうこれで会えないのだわ。二度と会えないのだわ。二度と。(頭からショールをかぶる)もう子供たちにも会えないのだわ。これっきり会えないのだわ。二度と、二度と。――ああ、あの氷のように冷たい黒い水。ああ、あの底知れない――。こんなことが――。ああ、一思いにすんでしまえばいい。――今きっと手紙を手に取っている。もう読んでいるだろう。いやいや、まだかもしれない。さようなら、あなた、それから子供たち――
ノラ、玄関を抜《ぬ》けて駆《か》け出ようとする。その瞬間《しゅんかん》に、ヘルメルが自分の部屋の扉をつきあけて、手に開いたままの手紙を持って現われる。
ヘルメル ノラ!
ノラ (声高く叫《さけ》ぶ)ああ――!
ヘルメル これはなんだ? この手紙に何が書いてあるか知ってるか?
ノラ はい、知っています。行かしてください! 外へ出してください!
ヘルメル (ノラを引止めて)どこへ行こうっていうんだ?
ノラ (振放そうとしながら)あたしを救ってくださってはいけません、あなた!
ヘルメル (うしろへよろめく)じゃあ、ほんとうか! あいつの書いてきたことはほんとうなのか? 恐ろしいことだ! いやいや、そんなばかな事があってたまるものか。
ノラ いいえ、ほんとうです。あたしは世界中の何よりもあなたを愛していたのです。
ヘルメル おい、くだらん言いわけはやめろ。
ノラ (一歩ヘルメルに近寄って)あなた――!
ヘルメル 情けないやつめ、――なんてことをしでかしたんだ!
ノラ あたしを行かせてください。あなたがあたしのために迷惑《めいわく》してはいけません。あたしの罪をしょってくださってはいけません。
ヘルメル 道《どう》化《け》芝《しば》居《い》はよせ。(玄関への扉に鍵をかける)ここに来て、すっかり訳を話せ。何をしでかしたかわかっているのか? さあ、返事をしろ! わかっているのか?
ノラ (じいっとヘルメルの顔を見つめて、硬《こわ》ばった表情で言う)はい、いま初めてほんとうのことがわかりかけてきました。
ヘルメル (部屋の中を歩きまわりながら)ああ、なんという恐ろしい眼の醒《さ》め方だろう。この八年というもの、――おれの喜びであり誇《ほこ》りであった女が、――偽《ぎ》善者《ぜんしゃ》で、嘘《うそ》つきで、――しかももっともっと悪い――犯罪者なんだ!――ああ、底知れぬ穢《けが》らわしいものが、そこにはひそんでいるんだ! ちょっ、ちょっ!
ノラ (黙《だま》って、あいかわらずじいっとヘルメルの顔を見つめている)
ヘルメル (ノラの前に立ちどまって)こういう事があるだろうということは、早くから感じるべきだった。前もって見抜いておくべきだった。お前の親《おや》父《じ》の軽はずみな性質を、――黙って聞け! お前の親父の軽はずみな性質を、お前は残らず受《うけ》継《つ》いでいるんだ。宗教もなければ、道徳もない、義務の観念もない――、そんな男を大目に見てやったばっかりに、おれはなんという罰《ばつ》を受けねばならんのだ。しかもそれはお前のためにしてやったことなんだ。そのお前の報《むく》いがこの通りの有《あり》様《さま》だ。
ノラ はい、その通りです。
ヘルメル お前はおれの一切《いっさい》の幸福を破《は》壊《かい》してしまった。一切の将来をめちゃめちゃにしてしまった。ああ、考えても恐ろしい。おれは良心というものを持たない人間の手中に陥《おちい》ってしまったんだ。あいつはおれを思う通りにすることができる。言いたい放題のことを吹《ふ》っかけてくることもできる。勝手気ままに、おれを抑《おさ》えつけ、命令することもできる。――それでもおれは、いやとは言えんのだ。しかもおれがこんなに惨《みじ》めな立場になって身の破《は》滅《めつ》を待たねばならなくなったのは、軽はずみな女のお蔭《かげ》なんだぞ!
ノラ あたしがこの世の中からいなくなれば、あなたはご自由になりますわ。
ヘルメル 芝居はよせ。そういう言草《いいぐさ》は、お前の親父からもよく聞いたものだ。仮にお前の言う通り、お前がこの世の中からいなくなったところで、それがいったいなんの役に立つ? なんにもなりはせん。あいつはそんなことにはおかまいなくこの事件を明るみに持ち出すにきまっている。そうなれば、おそらくこのおれにも、お前の犯罪行《こう》為《い》をあらかじめ知っていたという嫌《けん》疑《ぎ》がかかってくる。ひょっとすると、世間では、おれが蔭にかくれていて、――お前を唆《そその》かしたのだと思うかもしれん。それもこれもみんなお前のお蔭だ。結婚《けっこん》して以来手のうちの珠《たま》のようにしてきたお前のお蔭なんだ。さあこれで、お前がおれに対して何をしてくれたか、よくわかったろう?
ノラ (冷やかに落着いて)はい。
ヘルメル あまりに意外な出来事で、おれにはどうもまだ腑《ふ》に落ちん。だが、ともかく切り抜ける工《く》夫《ふう》をしなくちゃならん。おい、そのショールを取れ。取れと言ったら! おれはなんらかの方法であいつをなだめてみる。ともかく、なんとでもしてこの事件は揉《も》み消さんといかん。――そこでお前とおれとのことだが、すべて今までと変りないようにしておく。もちろん世《せ》間体《けんてい》だけのことだぞ。従ってお前はこれからもこの家にいる。それは言うまでもなかろう。しかし、子供たちの教育をすることはならん。あれらをお前にまかしてはおけん――。ああ、こんなことを、あれほどまでに愛していたお前に、いまもまだ愛しているお前に、言わなければならんとは――! いや、こんなことは忘れねばならん。もう今日からは、幸福だのなんだのと言ってはおられん。ただかけらや屑《くず》をかき集めて、体裁をつくろおうとする以外に道はないんだ。(玄関《げんかん》の呼鈴《よびりん》が鳴る)
ヘルメル (ぎょっとする)なんだ? こんなに遅《おそ》く。いよいよ、最も恐ろしいことがやって
きたのか――! あいつかな――? ノラ、お前は隠れていろ! 病気だとでも言っておく。
ノラ、身動きせずに立っている。ヘルメル、玄関の扉《と》口《ぐち》に行って、扉《とびら》をあける。
女中 (着物を脱《ぬ》ぎかけた姿で、玄関から)奥《おく》さまにお手紙がまいりました。
ヘルメル こっちへ寄越《よこ》せ。(手紙をつかんで、扉をしめる)うん、あいつからだ。お前にはやれん。おれが自分で読む。
ノラ どうぞ。
ヘルメル (ランプのそばで)やれやれ、あけてみる勇気もない。お前もおれも、いよいよこれでおしまいだろう。だが、読んでみにゃならん。(手紙を引破いて、急いで二、三行読む。封入《ふうにゅう》されている一枚の紙を見る。と、喜びの叫びを上げる)おい、ノラ!
ノラ (訝《いぶか》るようにヘルメルを見る)
ヘルメル ノラ! いや、待てよ、もう一度読み返してみなくては。――うん、うん、やっぱりそうだ。おれは助かったぞ! ノラ、おれは助かったんだ!
ノラ するとあたしは?
ヘルメル もちろん、お前もだ。おれたちは二人とも助かったんだ。お前もおれも。ほらごらん。あの男はお前に証書を返してよこしたんだ。これまでのことはすっかり後悔《こうかい》している――、自分の生活も一転して幸福の芽が出てきた、などと書いてある。まあ、あいつの書いている事なぞはどうでもいい。とにかく、おれたちは助かったんだ! もう誰《だれ》だってお前をどうすることもできやしない。ああ、ノラ、ノラ――。だが、何よりも先にこのいまいましい物をこの世からなくしてしまおう。ちょっと見ておいて――(証書をちらっと眺《なが》めて)いや、こんなものは見たくない。一切を夢《ゆめ》として忘れてしまおう。(証書と二本の手紙をびりびりに引《ひき》裂《さ》いて、煖《だん》炉《ろ》の中に投げ入れ、燃え上がるのを見つめる)さあ、これできれいさっぱり片づいた。――あの男の手紙には、クリスマスの前夜から――と書いてあった。そうしてみると、お前、この三日間はどんなにか恐ろしかったろう。
ノラ この三日の間、あたしは苦しみ、あがきつづけました。
ヘルメル そして苦しみつづけた上に、ほかに逃《に》げ道もなかったんだな――。いやいや、こんないやな事は何一つ思い出したくない。ただ喜びの声をあげて、すんだ! すんだ!と繰返《くりかえ》すだけでいいのだ。おい、ノラ、わたしの言うことをよく聞きなさい。お前はどうもまだよく納得《なっとく》できないようだな。もうすんだんだぞ。――どうしたんだい――そのむずかしい顔つきは? ああ、そうか、わかったよ、ノラ。かわいそうに。お前にはまだ、わたしが許してやったことが信じられないんだろう。だが、わたしは許してやったんだよ。誓《ちか》って言うが、わたしは何もかも許したんだよ。お前のした事はすべてわたしに対する愛情からだということはよく知っているんだから。
ノラ それはほんとうです。
ヘルメル お前は妻としてこの上もなくわたしを愛してくれた。ただ判断すべき力が無かったために、手段を誤っただけなのだ。だが、お前が自分一人の力で物事を処理していくことができないからといって、お前に対するわたしの愛情がさめるというようなことはない。いやいや、お前はただわたしを頼《たよ》りにしてさえいればいいのだ。そうすれば、わたしはお前の相談にも乗ってやろうし、導いてもやろう。お前のその女らしい頼りない様子が、わたしの眼にいままでよりも一層の魅力《みりょく》をもって映らないようだったら、わたしは男とはいえないだろう。最初びっくりしたあまりに、ついひどい言葉を口にしたが、そんなことはどうか気にしないでおくれ。なにしろあの瞬間には、一切の物が頭の上に崩れ落ちてくるような気がしたものだからな。わたしはお前を許したんだよ、ノラ。誓って言うが、お前を許したんだよ。
ノラ 許してくだすってありがとうございます。(右手の扉口から出て行く)
ヘルメル まあ、お待ち――。(のぞきこんで)お前その寝室《しんしつ》の隅《すみ》で何をするんだい?
ノラ (中から)仮《か》装《そう》の衣裳《いしょう》を脱ぐんです。
ヘルメル (あけ放した扉口で)ああ、それがいい。気を落着けて、楽な気持におなり。おどおどしている、うちのかわいい小鳥さん。安心してゆっくりお休み。わたしの広い翼《つばさ》の下にかくしてやるからな。(扉口のそばをあっちこっち歩きながら)ああ、お前、なんという楽しい美しい家庭だろう。ここにいればお前は安心していられるんだ。恐ろしい鷹《たか》の爪《つめ》から救いだした小《こ》鳩《ばと》のように、わたしはお前をしっかりと守ってもやるよ。かわいそうに動《どう》悸《き》を打っているその胸をしずめてもやるよ。だんだんにね、ノラ。明日になれば何もかもがすっかり違《ちが》ったふうに見えるだろう。すぐに何もかもが元通りになるだろうよ。わたしにしても、お前を許したというようなことを何度も口にする必要はなくなるだろう。お前が、許してもらったということを自分ではっきりと感じるようになるだろう。それにしても、わたしがお前を追い出そうとしているとか、お前を責めようと考えているなどと、どうしてお前は思ったものだろうなあ? ああ、ノラ、お前にはまだ本当の男の心というものがわからないんだ。男が自分の妻を許してやった、――それも心の奥底《おくそこ》から許してやったという意識を持つ時には、なんとも言えない穏《おだ》やかな満足した気持になるものだ。妻はいわばその時から二重の意味で自分の物になる。つまりこの世の中に改めて妻を送り出したような気持になるんだよ。だから妻のほうは、いわば夫の妻でもあり、同時に子供でもあるというわけさ。そこでお前は、これからはわたしにとってそういうものになるんだよ、頼る者もない途《と》方《ほう》に暮《く》れたお前はね。もう心配することはない。ただわたしに向ってなんでも打明けてくれさえすればいい。そうすれば、わたしはお前の意志にもなり、良心にもなってやるから。――おや、どうした?寝《ね》ないのかい? 着物を着換《きが》えたじゃないか?
ノラ (ふだん着に着換えている)ええ、着換えましたわ。
ヘルメル だがどうしたんだい、今頃《いまごろ》、こんなに遅く――?
ノラ 今夜あたしは眠《ねむ》りません。
ヘルメル しかし、お前――
ノラ (時計を出して見て)まだそんなに遅くはありません。あなた、まあここへ掛《か》けてください。お互《たが》いに話し合わなければならない事がたくさんございます。(テーブルの片側に腰《こし》を下ろす)
ヘルメル ノラ、――どうしたっていうんだ? そのむずかしい顔つきは――
ノラ まあお掛けになってください。長くなりますから。あなたにお話しなければならないことがたくさんございますの。
ヘルメル (テーブルの向う側に腰を下ろして)どうも気になるな。お前の言うことなすこと、さっぱりわからん。
ノラ ええ、そこなんです。あなたにはあたしというものがおわかりにならない。そしてあたしにも、あなたという方がわかってはいませんでした――つい今夜という今夜まで。いけません、いけません、話の腰を折らないで、あたしの言うことをお聞きになってください。――これがあなたとあたしとの総決算になるんですよ、あなた。
ヘルメル それはどういう意味だ?
ノラ こうしてあたしたちがここに掛けていますと、何か一つお気のつく事はありませんか?
ヘルメル なんだろう?
ノラ あたしたちは結婚してからもう八年になります。それでいてあたしたち二人が、あなたとあたしが、夫と妻が、こうして向い合って真面目《まじめ》にお話するのは、今日が初めてだということにお気づきになりません?
ヘルメル うん、真面目にか、――例《たと》えばどんな?
ノラ まる八年の間、――いえ、もっとになりましょう、――あたしたちが初めて知り合ったその日から、真面目な事柄《ことがら》について真面目に話し合ったことはまだ一度もございません。
ヘルメル それなら、しょっちゅうお前に心配事を打明けておくほうがよかったというのかい? お前ではどうにもなりそうもない心配事までも。
ノラ 心配事がどうのこうのと申しているのではありません。あたしの言うのは、こうして真面目に向い合って、何事によらず深く突《つ》っこんでお話したことがなかったというのです。
ヘルメル しかしお前、そんなことはお前に向かないじゃないか?
ノラ そこが問題なんです。あなたにはあたしというものがすこしもおわかりになってはいないのです。――あなた方はあたしに対して非常な過《あやま》ちを犯《おか》してきたんですよ。初めは父、その次にはあなたです。
ヘルメル 何! われわれ二人が? ――誰よりも深くお前を愛していたわれわれ二人がか?
ノラ (首を振《ふ》って)あなた方は決してあたしを愛していたのではありません。ただあたしをかわいがるということを、いいお慰《なぐさ》みにしていらしったのです。
ヘルメル おい、ノラ、なんて言い方をするんだ?
ノラ いいえ、そうなんです。実家《さと》で父のもとにおりました頃、父はなんでも自分の考えを話してくれました。それであたしも、自然同じ考えを持つようになりました。時に違った考えを持つようなことがありましても、そっと隠《かく》しておりました。言ってみたところで、父の気には入りませんからね。父はあたしのことを人形っ子と呼んで、あたしと一緒《いっしょ》に遊んでくれました。ちょうどあたしがお人形を相手にして遊ぶように。それからあたしはあなたの家へまいりました――
ヘルメル なんて言い方をするんだ? われわれはちゃんと結婚をしているのに。
ノラ (それにはかまわず)あたしの申しているのは、そういうふうにして父の手からあなたの手に渡《わた》ったという意味ですわ。あなたは何事につけてもあなたのご趣《しゅ》味《み》に従ってやっていらっしゃいました。そこであたしもあなたと同じ趣味になりました。いえ、ただそんな振りをしていただけかもしれません。あたしにはほんとうのところよくわかりません――。その両方だろうと思います。ある時にはこう、またある時にはこうというふうに。今になって考えてみますと、あたしはこの家でまるで乞《こ》食《じき》のように――ただ手から口への生活をつづけてきたような気がします。あなたにいろいろな芸当をお見せしてそれで暮してきたのです。でもあなた、それがあなたのお望みでしたからね。あなたも父も、あたしに対しては大変な罪を犯していらっしゃるのです。あたしがこんな何一つできない女になったのも、みんなあなた方の責任です。
ヘルメル おい、ノラ、お前はなんて馬鹿《ばか》な恩知らずのやつなんだ! いったいお前は、この家へ来て幸福じゃなかったのか?
ノラ はい、ちっとも幸福ではありませんでした。幸福だと思っておりましたが、実はすこしもそうではなかったのです。
ヘルメル 幸福ではなかった――幸福ではなかったっていうんだな!
ノラ はい、ただ面白《おもしろ》かっただけです。あなたはあたしに対して、いつも大変親切にしてくださいました。でもあたしたちの家庭はほんの遊《ゆう》戯《ぎ》室《しつ》にすぎませんでした。あたしは実家で父の人形っ子だったように、この家ではあなたの人形妻でした。そしてこんどは、子供たちがあたしのお人形になりました。それであたしが子供たちのお相手をして遊んでやりますと、みんなが嬉《うれ》しがるように、あなたがあたしのお相手になって遊んでくださると、あたしも嬉しがったものなんです。これがあたしたちの結婚生活だったんですよ、あなた。
ヘルメル お前の言うことにも幾分《いくぶん》真理はある、――ただひどく誇張《こちょう》して大げさではあるがね。だがともかく、これからは変ってこよう。遊戯の時代はこれで終りとして、こんどは教育の時代になる。
ノラ 誰の教育なんですの? あたしの? それとも子供たちの?
ヘルメル お前と子供たちの、その両方のだよ、ノラ。
ノラ あら、あなた、あなたはあたしを立派な妻に教育することのできるような方ではありませんよ。
ヘルメル よくそんなことが言えるな?
ノラ それからあたしにしたって、――あたしにしたって、子供たちを教育して行く資格はございません。
ヘルメル ノラ!
ノラ ついさっき、ご自分でおっしゃったじゃありませんか、――子供の教育はお前にはまかせられないって。
ヘルメル 興奮した際に言ったことだ! どうしてそんなことをとやかく言うんだい?
ノラ でも、あなたのおっしゃったことは本当です。あたしの力ではこの問題はどうすることもできません。あたしにはそれよりも先に解決しなければならないもう一つの問題があります。あたしは先《ま》ず自分自身を教育しなければならないのです。しかしあなたのような方にはお手伝い願うことはございません。あたし一人でいたさねばならないのです。ですからこれでお別れいたします。
ヘルメル (跳《と》び上がって)お前、何を言いだすんだ?
ノラ あたしは自分というものと外の世間とを正しく知るために、自分一人になる必要があるのです。ですから、もうこれ以上あなたのおそばにいることはできません。
ヘルメル ノラ、ノラ!
ノラ あたしはここから今すぐ出てまいります。今夜はクリスチーネさんが泊《と》めてくれますでしょう――
ヘルメル お前はどうかしている! そんなことは許さん! わたしが禁じる!
ノラ これからはあたしに何を禁じようとなさっても、なんにもなりません。あたしは自分の物だけ持ってまいります。あなたからは何も頂きません。今後もそうです。
ヘルメル とんだ気《き》違《ちが》い沙汰《ざた》だ!
ノラ 明日は家《うち》へまいります、――家というのは実家《さと》のことですが。何を始めるにしても、あそこが一番都合がいいだろうと思いますから。
ヘルメル ああ、なんて無《む》鉄砲《てっぽう》な世間知らずの女なんだ!
ノラ だから世間を知るようにしなければならないんですよ。
ヘルメル お前の家も、お前の夫も、お前の子供も、みんな捨てて行くのか! 世間の人たちがこれをなんと言うか、まるで考えてもいないんだな。
ノラ 世間でなんと言おうが、そんなことは問題ではありません。そうすることが、あたしにとって必要だということを知っているばかりです。
ヘルメル いやはや、あきれはてた。それではお前の最も神聖な義務を怠《おこた》ることになるぞ。
ノラ じゃあ、あなたは何があたしの一番神聖な義務だと思っていらっしゃいますの?
ヘルメル それを言って聞かさねばならんのか! お前の夫に対する、子供たちに対する義務でなくってなんだ?
ノラ あたしには、ほかにも同じように神聖な義務があります。
ヘルメル そんなものがあるものか。いったいなんだというんだ?
ノラ あたし自身に対する義務です。
ヘルメル お前は先ず第一に妻であり、母親であるんだ。
ノラ もうそんなことも信じません。あたしは何よりも先に、あなたと同じように人間であると信じています、――いいえ、むしろ人間になろうとしているところだといったほうがいいかもしれません。世間の多くの人たちはあなたのほうが正しいとするでしょうし、本にもそんなような事が書いてありましょう。それはあたしもよく存じております。でも世間の言う事や本に書いてある事では、あたしはもう満足していられません。あたしは自分一人でよく考えてみて、物事をはっきり弁《わきま》えたいと思っています。
ヘルメル お前には、自分の家庭の中における自分の位置というものが、はっきりわかっていないのだろう? こういう問題について間違いなく教えてくれる人は無いのか? お前には宗教というものは無いのか?
ノラ ああ、あなた、宗教っていうのがどんなものだか、あたしにはちっともわかりませんの。
ヘルメル なんてことを言う!
ノラ 堅信式《けんしんしき》の時の牧師のハンセンさんがおっしゃった事しか知りませんもの。あの時牧師さんは、宗教というのはこうこういうものだとお話しになりましたわ。今度ここから出て、あたし一人になりましたら、この事についても深く知りたいと思っています。牧師さんのおっしゃった事が正しいかどうか、すくなくともあたしにとって正しいかどうか、考えてみたいと思うのです。
ヘルメル ああ、そんな言葉が若い女の口から聞かれようとはなあ! しかし宗教がお前を正しく導くことができないとしたら、こんどはひとつ、お前の良心に訴《うった》えてみよう。お前だって道徳心は持っているだろうからな?それとも、おい、――それも無いのか?
ノラ ええ、それにお答えするのは大変ですわ。だって、あたしにはまるでわからないんですもの。ちっともはっきりしていないんですもの。ただそういう事について、あたしはあなたとまるで違った考え方をしているということだけは確かです。法律というものが今まであたしの考えていたのとはまるで違ったものであるということも、こんど初めて知りました。でもその法律が正しいとは、あたしにはどうしてもうなずくことができません。女には、死にかけている年とった父親をいたわったり、夫の命を救ったりする権利がないというではありませんか! そんなこと、あたしには信じられません。
ヘルメル お前はまるで子供のような事を言う。お前には自分の住んでいる社会というものがまるでわかってはいないんだ。
ノラ はい、わかってはおりません。でもこれからはよくわかるように、社会の中へはいって行ってみたいと思います。その上で、いったいどちらが正しいのか、社会が正しいのか、あたしが正しいのかをはっきり知りたいと思います。
ヘルメル お前は病気だよ、ノラ。熱があるんだ。気が変になったにちがいない。
ノラ あたしは今夜ほど意識がはっきりとして確かなことはございません。
ヘルメル では、はっきりとした確かな意識をもって、お前は夫と子供たちを捨てて行くんだな?
ノラ はい、そうです。
ヘルメル そうすると、残る解釈はたった一つしかない。
ノラ それは?
ヘルメル お前がもうわたしを愛していないということだ。
ノラ はい、その通りです。
ヘルメル ノラ! ――それまで言うのか!
ノラ ああ、あなた、あたしもつろうございます。いつもあんなに優《やさ》しくしてくだすっていたんですもの。といったところで、今となってはどうしようもございません。あたしはもうあなたを愛してはいないのです。
ヘルメル (強《し》いて気を落着けながら)それもはっきりとした確かな信念なのか?
ノラ はい、飽《あ》くまでもはっきりとした確かな信念ですわ。それだからこそ、もうこれ以上ここにはいたくないのです。
ヘルメル それでは、何がもとでわたしがお前の愛を失うことになったか説明してはくれまいか?
ノラ はい、それはできます。今夜奇《き》蹟《せき》が現われると思っておりましたのに、それが現われなかったからです。それであなたという人が、あたしが今まで考えていたような方ではないということがわかったのです。
ヘルメル もっと詳《くわ》しく説明しておくれ。どうもお前の言うことがわからん。
ノラ あたしは八年の間辛抱強《しんぼうづよ》く待っておりました。奇蹟なぞというものがそう毎日のように現われるものではないということぐらい、あたしだってよく知っておりますもの。そこへ、こんどの災難《さいなん》があたしの身にふりかかってきました。そこであたしは、こんどこそいよいよ奇蹟が現われるものと、固く信じてしまいました。クログスタットの手紙があそこにはいっていた時は、――あなたがあんな男の条件に折れて出ようなどとは夢《ゆめ》にも思いませんでした。あなたはきっとあの男に向って、世間にぶちまけるならぶちまけてみろ、とおっしゃるだろうと固く信じていたのです。そうしてそうなった暁《あかつき》には――
ヘルメル うん、その時にはどうする? わたしが自分の妻を恥辱《ちじょく》と不《ふ》名《めい》誉《よ》の前に放《ほう》り出したとしたら――!
ノラ そうした暁には、あなたが名乗り出て、一切《いっさい》を自分の身に引受けて、その罪人はおれだ、とおっしゃるものと思いこんでおりました。
ヘルメル ノラ――!
ノラ あたしがあなたのそんな犠《ぎ》牲《せい》を決して受取りはしないだろうとおっしゃるんでしょう? ええ、もちろんですわ。でもあたしがいくら言い張ったところで、あなたのお心が動かなければどうにもならないでしょう? ――あたしが恐《おそ》れながらも望んでいた奇蹟というのはこれです。そしてそれを防ぐために、あたしは命を捨てる覚《かく》悟《ご》でおりました。
ヘルメル ノラ、お前のためならわたしは夜も昼も喜んで働く。――お前のためならどんな心配も苦しみも耐《た》え忍《しの》ぶ。しかしいかに愛する者のためとはいえ、名誉を犠牲にする者はないぞ。
ノラ でも何十万という女はそれをしてきたのです。
ヘルメル まったくどうも、お前の考えていることも言っていることも、まるで訳のわからない子供とおんなじだ。
ノラ そうかもしれません。でもあなたのお考えになることもおっしゃることも、あたしが頼《たよ》りにすることのできる方のようではありません。あなたの恐れていらっしゃることが、――それもあたしの身がおびやかされているからではなくて、あなた自身がぶっつからねばならないために、――恐れていらっしゃる事がなくなると、一切の危険が過ぎ去ってしまうと、――あなたはまるで何事もなかったようなふうをなさいました。あたしは元の通りにあなたのかわいいヒバリさんで、あなたのお人形さんに戻《もど》るのです。そしてかぼそくて毀《こわ》れやすいというので、これからは一層気をつけて抱《だ》きかかえてくださろうというのです。(立ち上がって)あなた、――その瞬間《しゅんかん》にあたしは悟《さと》ったのです。八年の間この家で他人と同棲《どうせい》して、三人の子供を生んだのだということを――。ああそんな事を思うだけでもたまりません! この身体《からだ》をずたずたに引《ひき》裂《さ》いてしまいたくなります。
ヘルメル (憂鬱《ゆううつ》そうに)わかった、わかった。お前とわたしの間には確かに深い溝《みぞ》ができてしまった。――だがなあノラ、その溝は埋《う》められないものだろうか?
ノラ 今のままのあたしでは、とてもあなたの妻にはなれません。
ヘルメル わたしは自分をすっかり変えることもできるよ。
ノラ そうかもしれません、――あなたのお手から人形がいなくなってしまったら。
ヘルメル 別れる――お前と別れる! いけない、いけない、ノラ、おれにはどうしてもそんなことは考えられない。
ノラ (右手の部屋に行く)それなら、なおさら思いきってお別れしなければなりません。(帽《ぼう》子《し》と外套《がいとう》と小さい旅行鞄《かばん》を持って戻ってくる。鞄をテーブルのそばの椅子《いす》の上に置く)
ヘルメル ノラ、ノラ、今はおよし! 明日まで待っておくれ。
ノラ (外套を着ながら)知らない他人の家で夜を明かすことはできません。
ヘルメル だが、兄と妹のように暮《くら》していくことはできないだろうか?
ノラ (帽子をしっかりと結んで)そんなことが長続きするものでないことぐらい、あなただってよくご存じでしょう――。(ショールを掛《か》けて)ではさようなら、あなた。子供たちは見ないことにします。あの子たちにはあたしよりもずっといい人がついておりますもの。それに今のようなあたしでは、あの子たちの役には立ちません。
ヘルメル しかしいつかは、ノラ――いつかはまた――?
ノラ そんなことわかるものですか? あたしには自分がどうなるかさえわからないんですもの。
ヘルメル だがお前はわたしの妻だ、今もこれから後も。
ノラ いいえ、あなた、――あたしが今するように、妻が夫の家を捨てて出てしまえば、法律上、夫は妻に対する一切の義務を解除されると聞いています。ともかくあたしは、あなたから一切の義務を解除してさしあげます。あなたもこれであたしと同じように、なんにも束縛《そくばく》はないものと思ってください。どちらも完全に自由にならなくてはいけません。さあ、あなたの指輪をお返しいたします。あたしのをくださいまし。
ヘルメル それまでもか?
ノラ はい、それも。
ヘルメル そら、これだ。
ノラ さあ、これで何もかも終りました。鍵《かぎ》はここへ置いてまいります。家事のほうは女中がすっかり――あたしよりもずっとよく心得ております。明日あたしが発《た》ったあとで、クリスチーネさんが来て、実家から持ってまいった物を荷造りしてくれましょう。後から送ってもらうことにいたします。
ヘルメル 一切終りか、一切終りか! ノラ、お前はもうわたしのことを思いだしてはくれないかい?
ノラ それはあなたのことも、子供たちのことも、この家のことも、何かにつけてたびたび思い出すことになるでしょう。
ヘルメル 手紙をやってもいいかい、ノラ?
ノラ いいえ、――いけません。それはお断りいたします。
ヘルメル だが何か送るぐらいはよかろう――
ノラ なんにもいけません、なんにもいけません。
ヘルメル ――困った時には、助けてやりたいが。
ノラ いいえ、いいえ、よその方からは何も頂くわけにはまいりません。
ヘルメル ノラ、――わたしはお前にとって永久に他人以上にはなれないのかい?
ノラ (旅行鞄を取上げて)ああ、あなた、それには奇蹟中の奇蹟が現われなくてはなりませんわ――
ヘルメル その奇蹟中の奇蹟というのはなんだい?
ノラ それはあなたもあたしもすっかり変って――。いいえ、あなた、あたしもうそんな奇蹟なんて信じませんわ。
ヘルメル だがわたしは信じよう。さあ、言っておくれ! わたしたちがすっかり変って――?
ノラ あたしたち二人の共同生活が、そのままほんとうの夫《ふう》婦《ふ》生活になれる時でしょう。ではさようなら。(玄関《げんかん》を通って出て行く)
ヘルメル (扉《とびら》のそばの椅子にくずおれて、両手で顔をおおう)ノラ! ノラ! (そこらを見回して立ち上がる)いない。行ってしまった。(一《いち》縷《る》の望みがわいてくる)ああ、その奇蹟中の奇蹟が――
下から家の大扉にがちゃりと錠《じょう》の下りる音が聞えてくる。
解説
矢崎源九郎
近代劇史上においてイプセンほどの輝《かがや》かしい足跡《そくせき》を残している者はない。近代劇はイプセンによって、イプセンといえばただちに連想されるこの『人形の家 Et Dukkehjem 』によって、確立の礎《そ》石《せき》をおかれたといっても過言ではなかろう。当時この戯曲《ぎきょく》は世界的な反《はん》響《きょう》を呼び、さまざまな論議をひき起したものである。もちろん婦人解放論のごときは今日からみればもはや陳《ちん》腐《ぷ》の問題であり、事実その問題文学の多くはすでに色《いろ》褪《あ》せてしまっているが、ひとり『人形の家』のみは、そこにみられる隙《すき》間《ま》のないほどの演劇技《ぎ》巧《こう》と清新かつ精練された写実的な対話とによって今なお光を失ってはいないのである。イプセンの名を世界的ならしめたものはこの『人形の家』をはじめとするいわゆる社会劇ではあるが、これらの劇を通して、あたかもイプセンが婦人解放論者であったり、社会改良を目指す宣伝家であるが如《ごと》くに考えるのは誤りであって、彼《かれ》はあくまでも劇作家であり詩人であったことをわれわれは忘れてはならない。
ヘンリク・イプセン Henrik Ibsen は一八二八年三月二十日、ノルウェーのシーエンという小さな町に生れた。家は商家であったが、幼い頃《ころ》破産したため彼は薬剤《やくざい》師《し》の徒《と》弟《てい》となった。そうした境遇《きょうぐう》の下《もと》にあって、十九歳《さい》の頃からぽつぽつ詩や戯曲を書きはじめている。一八五〇年に書いた『戦士の塚《つか》』という一幕物の戯曲によって多少名を知られるようになり、翌五一年にはベルゲンの国民劇場の作者兼《けん》舞《ぶ》台監督《たいかんとく》として迎《むか》えられた。これを手始めに十年以上も劇場の仕事をつづけ、その間に劇作家としての素養を十分身につけることができた。しかしながら苦心の作もなかなか世に容《い》れられないままに、彼は失意のうちに一八六四年ノルウェーを去って、イタリアへ赴《おもむ》く。これから一八九二年故国に帰るまで、イタリア、ドイツを転々とした長い外国流《る》浪《ろう》の生活が始まる。
初期の浪漫《ろうまん》的な戯曲の中には特に取りたてて言うべきものはほとんどないが、一八六五年ローマの郊外において書き上げた韻文《いんぶん》悲劇『ブラン』は彼の傑作《けっさく》の一つであって、まことに力強いものである。この作によって彼の名声は一時に高まった。つづいて二年後には同じく韻文の幻想《げんそう》的諷《ふう》刺《し》劇《げき》『ぺール・ギュント』を書いたが、詩句の美しさは人の眼《め》を奪《うば》うものがあり、詩人としてのイプセンの本領はここに遺《い》憾《かん》なく発《はっ》揮《き》されている。その後一八七三年に書かれた『皇帝《こうてい》とガリレア人』は大規模な歴史劇であって、この戯曲にはいわゆる第三帝国の思想が盛《も》りこまれている。
こうした力作をつぎつぎと世に送ったにもかかわらず、世評はあまり香《かんば》しくなかった。そこで詩人は、一転して眼を個人と社会の問題に向ける。と共に、従来は主として韻文で書いていたのを改めて、平易な散文形式を用いるようになる。こうして書かれたのが『青年同盟』(一八六九年)に始まる『社会の支柱』(一八七七年)、『人形の家』(一八七九年)、『幽霊《ゆうれい》』(一八八一年)、『民衆の敵』(一八八二年)、『野《の》鴨《がも》』(一八八四年)、『ロスメル屋《や》敷《しき》』(一八八六年)、『海の夫人』(一八八八年)、『へッダ・ガーブラー』(一八九〇年)などの一連の社会劇ないし家庭劇である。
イプセンにおける婦人解放の思想は、初期の戯曲『恋《こい》の喜劇』(一八六二年)あたりにも見受けられないことはないが、『人形の家』に至って初めて色《いろ》濃《こ》く現われてくる。その頃イプセンはノルウェーの婦人運動の尖端《せんたん》を行く作家カミラ・コレットの作品やジョン・スチュアート・ミルの書物を夫人と共に読み、それらの書物から大きな影響《えいきょう》を与《あた》えられたといわれている。そしてイプセンをして『人形の家』を書かしめる直接の動機となったものは、一八七八年彼が再度ローマに赴《おもむ》いた時、そこのスカンジナビア協会に対し、協会内の仕事に婦人を採用することと婦人にも発言権を与えるようにという二つの提案をしたところ、その提議が否決されたことであったろう。彼はその翌年五月から筆を取って、三カ月後の八月にアマルフィにおいてこの画期的な作品を完成している。
『人形の家』のノラの取った行動に対しては賛否両論がわき起った。そこでイプセンはノラが家出をしなかった場合の姿としてアルヴィング夫人の悲劇的な運命をつぎの作『幽霊』において描《えが》いている。これはノラの家出を有利に承認させるための反証的材料であったのだが、この作には猛烈《もうれつ》な攻撃《こうげき》が浴びせられた。それに対してまたもやイプセンは『民衆の敵』をもってその攻撃を痛烈に投げ返している。このようにイプセンの戯曲は、その一つ一つが前の作の結論から新たな出発をして更《さら》に異った結論へと到達《とうたつ》しているのである。従ってイプセンの作品をよりよく理解せんがためには、その全体を有機的関連の下にながめなければならない。
さて『人形の家』以来の論争も『民衆の敵』をもって一応片がつくと、ようやく老境に入った詩人はだんだん内省的となり、円熟味《えんじゅくみ》を増してくる。つぎの『野鴨』以降の作品においては次第に象徴的《しょうちょうてき》な技巧を深め、晩年の作『建築師ソルネス』(一八九二年)、『小さなアイヨルフ』(一八九四年)、『ヨハン・ガブリエル・ボルクマン』(一八九六年)、『われら死者目ざめる時』(一八九九年)などにはいかにも澄《す》みきった味わいがある。終始戯曲のみを書きつづけたイプセンもこの最後の作を書いてからは次第に身体《からだ》が衰弱《すいじゃく》して、ついに一九〇六年五月二十三日永遠の眠《ねむ》りについたのだった。
翻訳《ほんやく》のテキストとしては全集版 Henrik Ibsen : Samlede Verker, Gyldendal Norsk Forlag, Oslo, 1941. を用い、ほかに独訳や邦訳《ほうやく》などをも参照した。
(一九五三年六月七日)