人形の家
イプセン/林穣二訳
目 次
第一幕
第二幕
第三幕
解説
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登場人物
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へルメル最高裁判所弁護士
(原語アドヴォカート。最高裁判所で弁護する資格のある弁護士)
その妻ノーラ
ランク医学博士
リンデ夫人
クロクスタ弁護士
(原語サクフェーレル。最高裁判所以外の裁判所で弁護する資格のある弁護士)
ヘルメル家の幼児三人
アンネ・マリーエ ヘルメル家の乳母
ヘルメル家の女中
メッセンジャー
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第一幕
〔住み心地がよく、趣味ゆたかにではあるが、ぜいたくにならない程度にしつらえた部屋《へや》。後景右手の扉《とびら》は玄関に通じる。後景左手には、ヘルメルの仕事部屋に通じるもう一つの扉がある。二つの扉のあいだにピアノ。左の壁の中央に扉があり、そのむこうに窓。この窓のそばにまるいテーブルと肘掛《ひじか》け椅子《いす》と小さなソファーがある。右の壁のやや奥に扉。おなじ壁の手前のところにタイル張りの暖炉があり、肘掛け椅子が二つと、その前に揺り椅子が一つ。暖炉と横の扉のあいだに小さなテーブルがある。どの壁にも銅版画がかかっている。飾り棚《だな》には、陶磁器など小さな美術工芸品がかざってある。豪華な装丁の本がならぶ小さな本棚。床には絨氈《じゅうたん》が敷いてあり、暖炉には火が燃えている。冬の日〕
〔玄関でベルが鳴る。まもなく扉が開く音がする。ノーラが、楽しそうに、鼻唄《はなうた》をうたいながら、居間にはいってくる。外套《がいとう》を着ている。包みをたくさん抱えてきて、右手のテーブルの上に置く。玄関へ通じる扉があけっぱなしになっていて、そとにメッセンジャーがいるのが見える。メッセンジャーは、クリスマス・トリーと籠《かご》を持っている。玄関をあけにきた女中にそれを渡す〕
【ノーラ】 ヘレーネさん、クリスマス・トリーをじょうすにかくして置いて。今晩、飾り付けがすむまで、こどもたちに見せないようにね。〔財布《さいふ》を出し、メッセンジャーにむかって〕おいくら――?
【メッセンジャー】 はい、五十エーレで。
【ノーラ】 では、一クローネ。いいわ、とっておいて。
〔メッセンジャーが、礼を言って、出てゆく。ノーラが扉《とびら》をしめる。いつまでもうれしそうにしずかに笑いながら、外套を脱ぐ〕
【ノーラ】 〔ポケットからマクロン(アーモンドの粉を練って、天火で焼き上げた菓子。語源はイタリアのヴェニス方言のマカローネ)のはいった袋を出して、二つ三つ食べる。それから、そっと夫の部屋《へや》の扉のところへいって、きき耳をたてる〕あっ、やっぱりいるわ。〔また鼻唄《はなうた》をうたいながら、右手のテーブルの方へゆく〕
【ヘルメル】 〔自分の部屋のなかで〕そこでさえずっているのは、|ひばり《ヽヽヽ》んかな?
【ノーラ】 〔包みをいくつか開きながら〕そうよ。
【ヘルメル】 そこではねまわっているのは小|りす《ヽヽ》さんかい?
【ノーラ】 そうよ。
【ヘルメル】 小|りす《ヽヽ》さんは、いつ帰ってきたんだい?
【ノーラ】 今帰ったところよ。〔マクロンの袋をポケットにいれて、口のまわりを拭《ふ》く〕トールヴァル! 出ていらっしゃい。買っていた物を見せてあげるわ。
【ヘルメル】 じゃましないで!〔しばらくしてから扉を開いて、ペンを手に持ったままのぞく〕買い物をしたんだって? そんなにたくさんかい? かわいい|ひばり《ヽヽヽ》ちゃんは、とび出していったかと思うと、またお金をばらまいてきたんだね。
【ノーラ】 でも、あなた。今年はすこしくらい羽目《はめ》をはずしてもいいでしょう。クリスマスにけちけちしなくてもいいのは、こんどがはじめてなんですもの。
【ヘルメル】 おい、だからといって、むだづかいはいけないぞ。
【ノーラ】 ええ。でも、すこしぐらいはいいでしょう。ね? ほんの、ちょっぴりよ。これからは、あなた、月給がたくさんになって、お金がどっさりはいるんですもの。
【ヘルメル】 まあ、そうだけれど、それは新年からのことだ。月給が手にはいるまでには、まだまる三ヶ月もあるよ。
【ノーラ】 なんのことないわ。それなら、それまで借りておけばいいじゃないの。
【ヘルメル】 こら、ノーラ!〔ノーラのそばへいって冗談《じょうだん》に耳をひっぱる〕おい、また軽はずみなことを言うね? いまかりにだな。ぼくがきょう千クローネ借りてきて、おまえがそれをクリスマス週間につかってしまったとする。そこへ、大晦日《おおみそか》の晩に、ぼくの頭の上に瓦《かわら》が落ちてきて、倒れたとする、そうすると――
【ノーラ】 〔手で夫の口をおさえて〕いや!やめて、そんないやなお話!
【ヘルメル】 だが、もしかりにそういうことが起きたとすると、――いったいどういうことになる?
【ノーラ】 そんなこわいことが起きたら、借金なんか、あったって、なくったって、おんなじじゃない?
【ヘルメル】 だが、ぼくにお金を貸してくれた人たちはどうなる?
【ノーラ】 そんな人のことなんか、かまっていられないわ! どうせ赤の他人ですもの。
【ヘルメル】 ノーラよ、ノーラよ、汝の名は女なり!か。だけど、ねえ、まじめな話だが、僕がこういうことをどう考えているか、よく知っているだろう、借金をしない! どんなことがあっても、金を借りない! 借金の上に成り立っている家庭は、どことなく自由が失われている。なんとなく、醜《みにく》さがそとに出てくる。ぼくたち、いままで借金しないでがんばってきたのだから、あともう一息だ。しんぼうしよう。
【ノーラ】 〔暖炉の方へゆきながら〕はい、はい、あなたのお気がすむように。
【ヘルメル】 〔あとからついてゆく〕おいおい、|ひばり《ヽヽヽ》ちゃん、そんなに羽をすぼめてしまわなくたっていいじゃないか。おや、どうした? |りす《ヽヽ》さん、すねたんだね。〔財布《さいふ》をだして〕ノーラ、なかになにが入っていると思う?
【ノーラ】 〔くるりと振り向いて〕お金でしょう!
【ヘルメル】 おい、ほら。〔紙幣を数枚渡す〕ぼくだって、クリスマスには、家計費がかさむことぐらい、わかっているさ。
【ノーラ】 〔勘定する〕十――二十――三十――四十。どうもありがとう。これで当分助かるわ。
【ヘルメル】 それはそうだろう。
【ノーラ】 ええ、ええ、なんとかやってゆけますわ。それはそうとして、こっちへきて。こんなに買い物したのよ。見て! とっても安かったのよ。ほら、これがイーヴァルの新しい服。――それにサーベル。これがボッブの馬とラッパ。それから、これがエミーのお人形とお人形のベッド。ずいぶん粗末な品だけれど、どうせあの子はすぐこわしてしまうのだもの。それから、これが女中たちにやる服地とハンカチ。ばあやさんには、もっとかってあげたいのだけれど。
【ヘルメル】 そこで、あの包みはなんだい?
【ノーラ】 〔大きな声をだして〕だめ、今晩まで見ちゃいけないわ!
【ヘルメル】 おや、そうかい。ところで、むだづかい屋さん、自分のものは買わないの?
【ノーラ】 とんでもない自分のものなんか、なにもほしくないわ。
【ヘルメル】 それはいけないよ。なにかほしい物を言ってごらん。だけど、あんまり法外ななものはいけないぜ。
【ノーラ】 ほんとうに、なんにもほしくないわ。でも、あの――
【ヘルメル】 なんだい
【ノーラ】 〔夫の服のボタンをいじりながら、顔を見ないで〕なにかくださるというのなら、いちばんほしいのは、あの――
【ヘルメル】 さあ、さあ、かまわないから、言ってごらん。
【ノーラ】 〔早口に〕お金でもらいたいの。あなたが、このぐらいはいいだろうと思うだけの金額で結構よ。そうしたらば、あとで、なにか買いますわ。
【ヘルメル】 でも、それは――
【ノーラ】 ねえ、あなた、そうしてちょうだい。ねえ、ぜひ、そうして。そうすれば、お金をきれいな金色の紙にくるんで、クリスマス・トリーにぶらさげておくわ。どう、おもしろいでしょう?
【ヘルメル】 いつもむだづかいばかりしている鳥のことをなんといったっけ?
【ノーラ】 はい、はい、浪費鳥《ろうひどり》っていうんでしょう。わかっていますわ。でも、あなた、私が言うようにしてよ。そうすれば、なんのためにつかったらいちばんいいか、ゆっくり考える暇《ひま》があるわ。とても合理的じゃない? どう?
【ヘルメル】 〔微笑しながら〕うん、それはそうだけれど。つまり、もしおまえがほんとうにその金をとっておいて、自分のものを買うのならね。ところが、そのお金は家計費のほうへはいって、いろいろ不必要な物を買うのにつかってしまってまた財布《さいふ》をはたかなければならないことになってしまうのだから。
【ノーラ】 だって、あなた――
【ヘルメル】 けっきょくそういうことになってしまうんだ。かわいいノーラちゃん。〔彼女のからだをだいて〕うちの浪費鳥はかわいらしいけど、とってもお金がかかる。浪費鳥を飼っておくのは、信じられないほど高くつく。
【ノーラ】 そんなことないわ。どうしてそんなことおっしゃれるの? ほんとうよ。できるだけ倹約しているのよ。
【ヘルメル】 〔笑って〕うん、それはうそじゃない。できるだけね。だけど、おまえにはさっぱり倹約ができないのだ。
【ノーラ】 〔鼻唄《はなうた》をうたい、おもしろそうに微笑しながら〕わたしたち|ひばり《ヽヽヽ》や|りす《ヽヽ》にどのくらいお金がかかるものか、わかっていただけたらねえ。
【ヘルメル】 おまえもずいぶんかわった女だな。なくなったおまえのおとうさんにそっくりだよ。いろんな口実を設けて、お金を手に入れようとするけど、手にはいったとたんに、指のあいだからもれるように、なくしてしまう。なんのためにつかったか、自分でもわからないのだ。だが、おまえは生まれつきそういう女なのだから、いまさらどうにもならない。血統なんだ。そうだ。こういうことは遺伝するものだ。
【ノーラ】 あら、おとうさまの性質なら、もっとたくさん、いろいろと引き継ぎたかったわ。
【ヘルメル】 かわいいぼくの|ひばり《ヽヽヽ》ちゃん。いまのままのおまえで、ぼくは満足だ。だが、いまちょっと気がついたのだけれど、なんと言ったらいいか、――おまえはきょうは、――なんだか様子が、――ちょっとおかしいね。
【ノーラ】 あら、そう?
【ヘルメル】 うん、どうもあやしい。ぼくの目をじっと見てごらん。
【ノーラ】 〔夫を見つめる〕こういうふう?
【ヘルメル】 〔指でおどかす〕きょう町でつまみ食いをしてこなかったかい?
【ノーラ】 あーら、どうしてそんなことをおっしゃるの。
【ヘルメル】 お菓子屋へ寄り道してこなかったかい。食いしんぼうさんは。
【ノーラ】 いいえ、そんなことしないわ。うそじゃないわ。
【ヘルメル】 砂糖漬けをすこしつまんでこなかったかな。
【ノーラ】 そんなことしないわ。
【ヘルメル】 マクロンの一つや二つ、かじったろう。
【ノーラ】 いいえ、ほんとうにそんなことしないっていうのに――
【ヘルメル】 いや、いや、むろん冗談《じょうだん》だが。
【ノーラ】 〔右手のテーブルのところへゆく〕あなたがしてはいけないっていうことをするわけがないじゃないの。
【ヘルメル】 それはよくわかっているよ。おまえが約束したんだから。〔ノーラの方へゆく〕さあ、おまえのちいさなクリスマスの秘密は、じっとしまっておいていいよ。今晩、クリスマス・トリーに明りがついたとき、なんだかわかるのだろう。ね。
【ノーラ】 ランク先生をおよびするの、忘れなかった?
【ヘルメル】 忘れはしない。だが、その必要はないよ。ランク先生がうちで食事するのは、あたりまえのことだ。でも、先生が午後きたときに、あらためてお招きしよう。いいぶどう酒を注文しておいたぜ。ぼくは今夜のことをとっても楽しみにしているのだ。
【ノーラ】 わたしもよ。それから、こどもたちもきっと喜ぶと思うわ。
【ヘルメル】 ああ、これでしっかり安定した地位につくことができた。考えただけでもすばらしい。生活は豊かになるし、ね、思っただけで、楽しいではないか?
【ノーラ】 ほんとうにすてきだわ。
【ヘルメル】 去年のクリスマスのこと、覚えている? おまえは、まる三週間も前から毎晩とじこもって、真夜中過ぎまで、クリスマス・トリーにつける花などきれいな物をつくってこどもたちやお客をびっくりさせようとしてたね。だけど、ぼくには、あんな退屈なクリスマスはなかったよ。
【ノーラ】 わたしはちっとも退屈しなかったわ。
【ヘルメル】 〔微笑しながら〕でも、あまりりっぱなできあがりじゃなかったね。
【ノーラ】 おや、またあのことでおからかいになるの。猫《ねこ》がきて、なにもかもめちゃくちゃにこわしてしまったのだもの、どうにもしようがなかったじゃないの?
【ヘルメル】 それはどうしようもなかったさ。おまえには、ぼくたちをよろこばせようという善意があった。それがなによりさ。それにしても、困っていた時代は、昔話になってしまって、ほんとうによかった。なあ
【ノーラ】 ほんとう、すばらしいわ。
【ヘルメル】 今年は、ぼくもここにじっと、退屈していなくてもよい。おまえも、大事な目や、かわいい小さな手をいためなくてもいいし――
【ノーラ】 〔手をたたいて〕ほんとうにそうよ。もう、あんなことをしなくてもいいわね?こんなお話をしていると、うれしくなってしまう。〔夫の腕をかかえて〕これからの生活について、わたしがどんな計画をもっているか、聞いてちょうだい。クリスマスが過ぎたら、すぐ――〔玄関のベルが鳴る〕あっ、ベルが鳴ったわ。〔部屋《へや》をすこしかたづける〕だれか来たわ。いやになってしまう。
【ヘルメル】 お客さんだったら、るすにしておいてくれ。いいね。
【女中】 〔入口の扉《とびら》のところで〕奥さま、見たことのない女のかたがいらっしゃいました――
【ノーラ】 そう? お通しして。
【女中】 〔ヘルメルに向かって〕それから、先生もいらっしゃいました。
【ヘルメル】 先生はまっすぐわたしの部屋へいったかい?
【女中】 はい、もうあちらにいらっしゃいました。
〔ヘルメルは自分の部屋にはいる。女中は、旅行服を着たリンデ夫人を居間に通して、扉をしめる〕
【リンデ夫人】 〔元気なく、すこしためらって〕ノーラさん、こんにちは。
【ノーラ】 〔よくわからない様子〕こんにちは――
【リンデ夫人】 わたしがだれだか、おわかりにならないでしょう。
【ノーラ】 ええ、それが――。あの、たしか、わかるような気がしますが。〔急に大声で〕まあ! クリスティーネさん! なんだ! あなただったの?
【リンデ夫人】 ええ、そうよ。
【ノーラ】 クリスティーネさん! わたしとしたことが、あんただっていうことがわからないなんて――〔声を落として〕それにしても、ずいぶんお変わりになったわね!
【リンデ夫人】 ええ、そうよ。九年も十年ものながい間にね――
【ノーラ】 あら、そんなにながいことお目にかからなかったかしら? そういえばそうね。この八年間、わたし、それは幸福だったのよ。あなたもとうとうこの町へやっていらしたのね? 冬だというのに、ながい旅をして。偉いわ。
【リンデ夫人】 けさ、船で着いたの。
【ノーラ】 クリスマスを楽しく過ごそうっていうのでしょう。もちろん、まあ、ほんとうにすばらしいわ。ええ。ふたりで愉快に過ごしましょう。ね? でも、まず、外套《がいとう》をお脱ぎにならない? とったって、寒くはないでしょう?〔外套を脱ぐのを手伝う〕ほーら、暖炉のそばに、ゆったり腰かけましょう。いいえ、そっちの肘掛《ひじか》け椅子《いす》におかけになって。わたしは、こっちの揺り椅子のほうにすわるわ。〔リンデ夫人の手をとって〕ええ、これで、あなたも昔のとおりのお顔になったわ。さっきはいっていらしたときはちょっと――それにしても、すこしお顔色が悪いようね。それに、すこしおやせになったかしら――
【リンデ夫人】 ずいぶん老《ふ》けたでしょう。
【ノーラ】 そう、すこし年をとったかもしれないわ。ほんの、ちょっぴりだけ。そんな、老《ふ》けたなんていうほどじゃないわ〔急に黙って、真顔になって〕まあ、わたしってずいぶん無考えな女だわ。おしゃべりばかりして! クリスティーネさん! ごめんなさい!
【リンデ夫人】 どういう意味?
【ノーラ】 〔声をひそめて〕まあ、お気の毒に! ご主人がお亡《な》くなりになったのね。
【リンデ夫人】 ええ、三年前に。
【ノーラ】 ええ、新聞で読んで、知っていたわ。クリスティーネさん。わたしの言うことを信じてね。あの当時、ときどきお手紙をあげようと思ったけれど、いつもついそのままになってしまって。いつも、なにか用事ができたもので。
【リンデ夫人】 ノーラさん、よくわかるわ。
【ノーラ】 いいえ、わたし、ほんとうに悪かったわ。お気の毒に、いろんなめにおあいになったのでしょう。――ご主人は、あなたの生活のもとでになるようなものを、なんにもお遺《のこ》しにならなかったの?
【リンデ夫人】 なんにも。
【ノーラ】 お子さんも?
【リンデ夫人】 ええ。
【ノーラ】 それじゃ、まるっきり、なんにも?
【リンデ夫人】 心配の種ものこさなかったし、別にいなくなったって、いつまでもさびしいと思うこともないのよ。
【ノーラ】 〔信じられないような顔つきで、リンデ夫人の顔を見る〕そう? でも、クリスティーネさん。そんなこと、ありうるのかしら。
【リンデ夫人】 〔暗い顔をして、微笑しながらノーラの髪をなぜる〕ええ、こういうこと、世間では、よくあるのよ。
【ノーラ】 じゃあ、ひとりぼっちね。さそ、つらいことでしょう? うちには、こどもが三人いるの。いまは、女中といっしょに外へいっているので、お見せできないけれど。まあ、あなたのお話をすっかり聞かせてちょうだい。
【リンデ夫人】 いいえ、さきにあなたのお話をして。
【ノーラ】 いいえ、まずあなたから、どうぞ。きょうはわたし、自分のことばかり言いたくないの。もっぱらあなたのことを考えたいの。でも、ひとつだけお話ししたいことがあるわ。最近、うちに大きな幸運が舞いこんできたの。もうごぞんじ?
【リンデ夫人】 いいえ、いったい、どういうこと?
【ノーラ】 うちの主人が株式銀行の頭取《とうどり》になったの。!
【リンデ夫人】 まあ、お宅のご主人が? なんて運がいいんでしょう――?
【ノーラ】 ええ、すばらしく運がいいのよ!弁護士という仕事は、生活がとても不安定なの。ことにきれいな事件だけ取り扱おうと思うとね。夫は、もちろん、そういう事件しかやらない方針を守ってきたし、わたしもそれに賛成だわ。わたしたちが、どんなに楽しみにしているか、おわかりになるかしら? 夫は、年がかわったら、頭取に就任して、月給をたくさんとり、配当もどっさりはいってくるの。これからは、いままでとは全然違った生活ができるのよ。――好きなように暮らせるの。クリスティーネさん! わたし、とてもさっぱりして、しあわせな気持ちよ。お金がたんまりあって、心配事がないなんて、ほんとうにすばらしいわ! そうじゃない?
【リンデ夫人】 ええ、それはなんといっても、必要なだけあれば、すばらしいでしょうね。
【ノーラ】 必要なだけでなくて、お金が、どっさり、どっさりはいるの。
【リンデ夫人】 〔微笑しながら〕ノーラさん、ノーラさん、あなたはあいかわらずこどもみたいね? 学校時代には、むだづかいばかりしていたけれど。
【ノーラ】 〔しずかに笑いながら〕ええ、夫もそう申しますわ。〔指でおどかしながら〕でも、「ノーラさん、ノーラさん」って言うけれど、わたし、あなたがたが思うほど、おばかさんじゃなくてよ。――いままでは、むだに使うお金なんかなかったわ。二人して働かなくてはならなかったのよ。
【リンデ夫人】 まあ、あなたまでも?
【ノーラ】 ええ、ちょっとしたことですけれど。編物とか、刺繍《ししゅう》とかいうような手芸よ。〔投げやりに〕それからほかにもいろいろしたわ。わたしたちが結婚したとき、トールヴァルが役所をやめたのごぞんじでしょう? あそこにいたのでは、昇進の見込みがなかったし、前よりたくさんかせがなければならなかったもので。最初の一年間は、夫はおそろしく無理をしました。ありとあらゆる種類の内職をしなければならなかったのよ。朝早くから夜遅くまで仕事をしたわ。そのため、からだをこわしてしまって、病気で死にかけたの。それで、お医者さんたちから、南の国へ転地しなければならないっていわれたのよ。
【リンデ夫人】 ああ、そうそう、お二人でまる一年イタリアにいらしていたわね。
【ノーラ】 ええ、そうよ。行くのは容易なことじゃなかったわ。あのころ、イーヴァルが生まれたばかりだったし。でも、どうしてもゆかなければならなかったの。ええ、とてもすばらしい旅行でしたわ。それに、おかげで、トールヴァルの命がたすかったの。でも、クリスティーネさん、お金がとてもたくさんかかったのよ。
【リンデ夫人】 それはそうでしょうね。
【ノーラ】 千二百ダーレルかかってよ。四千八百クローネ。ね、たいへんなお金でしょう。
【リンデ夫人】 でも、そんな場合、お金があると、なんといってもしあわせね。
【ノーラ】 でも、ほんとうは、父が出してくれたの。
【リンデ夫人】 まあ、そうなの。そういえば、おとうさまがお亡《な》くなりになったの、たしか、ちょうどあのころでしたわね。
【ノーラ】 ええ、ちょうどあのころだったわ。それなのに、看病しにゆくこともできなかったのよ。わたしは、ここでイーヴァルの生まれるのを、きょうか、あすかと待っていたし、それに、夫が死の病にとりつかれているのを、看病しなければならなかったのですもの。やさしい、いい父でしたけれど、とうとう、死に目にあえなかったわ。結婚してから、あんなつらい思いしたことないわ。
【リンデ夫人】 あなたはとてもおとうさん思いでしたもの。それからお二人でイタリアへいらしたのね?
【ノーラ】 ええ、お金はできたし、お医者さんがたにせきたてられたもので。ひと月してから出かけたのよ。
【リンデ夫人】 で、ご主人は、すっかりなおってお帰りになったの?
【ノーラ】 元気で、さかなのようにいきがよくなったわ!
【リンデ夫人】 でも、――あのお医者さまは?
【ノーラ】 え? どういうこと?
【リンデ夫人】 さっき、たしか女中さんが、わたしといっしょにはいってきた人のことを「先生」って呼んでいたような気がするけど。
【ノーラ】 ああ、ランク先生のことね。でも、先生は往診にいらっしゃるのじゃなくてよ。うちでいちばん親しくしているかたで、毎日、たいてい一度はお見えになるの。トールヴァルはその後一度だって病気をしたことがないわ。こどもたちも、元気でじょうぶだし、私自身も〔とびあがって手をたたく〕クリスティーネさん、生きているっていうこと、しあわせであるっていうこと、ほんとうに、なんてすばらしいんでしょう!――あら、わたしったら、――自分のことばかりおしゃべりして。〔リンデ夫人のすぐそばの足台に腰をおろし、両方の腕を夫人のひざの上におく〕まあ、怒らないでちょうだい!――でもね、あなたがご主人を好きでなかったなんて、それほんと? それなら、なぜあの人と結婚したの?
【リンデ夫人】 あのころは、まだ母が、生きていたでしょう。床についたきりで、どうにもならない状態だったのよ。それに、二人の弟のめんどうも見なければならなかったし。だからわたし、あの人の申し込みを断っては無責任だと思ったの。
【ノーラ】 そうね、きっとそうだと思うわ。じゃあ、ご主人はそのころはお金持ちだったというわけね。
【リンデ夫人】 かなり裕福《ゆうふく》なほうだったと思うわ。でも、確実性のない商売だったわ。だから、死ぬと全部めちゃくちゃになってしまって、なにひとつ残らなかったのよ。
【ノーラ】 それでどうなさったの?
【リンデ夫人】 それからは、しょうがないもので、小さな店を出したり、ちっぽけな学校をひらいてみたり、いろいろとくふうして、どうにかこうにかやってきたわ。この三年というもの、わたしにとっては朝から晩まで休みなしに働く長い一日だったような気がするの。でも、もうそれもおしまいだわ。かわいそうな母にとっても、もうわたしというものが、必要でなくなったの。亡《な》くなったのですの。弟たちも。就職して、ひとり立ちになったもので。
【ノーラ】 肩の荷がおりたような感じでしょう――
【リンデ夫人】 そうでもないわ。なんともいえない空虚な感じよ。だれかのために生きてゆくという張り合いがなくなってしまって。〔落ちつかないで、立ち上がる〕それで、あんな辺鄙《へんぴ》なところに、もういたたまれなくなったの。ここなら、なにか打ち込んで没頭できるような仕事を探せそうなきがするの。なにか、運よく、きまった職につけたらいいのですがねえ――。事務員のような――
【ノーラ】 でも、ああいう仕事はずいぶん骨が折れるものよ。あなたは、今でも過労みたいに見えるわ。それより、温泉へでもいって、保養なさったら。
【リンデ夫人】 〔窓のほうへゆく〕ノーラさん。わたしには、旅費を出してくれる父などいないんですもの。
【ノーラ】 〔たちあがる〕お願い! お気を悪くなさらないで!
【リンデ夫人】 〔ノーラのそばへゆく〕ノーラさん。あなたこそ、お気を悪くなさらないで。わたしのような境遇にあると、いちばんいけないのは、気持ちがとげとげしくなってくることよ。だれのために働くというわけでないのに、それでいて、たえずあくせく働かなくてはならないでしょう。なんとかして、生きてゆかねばならないし、そこで、つい利己主義者になってしまうの。あなたの生活が幸福になったというお話をうかがったとき、――わたし、あなたのために喜ぶよりも、自分のために喜んだのよ。信じられる?
【ノーラ】 それ、どういうこと? ああ、わかった。うちの人が、あなたのために、なにかお役に立つのじゃないかという意味ね。
【リンデ夫人】 ええ、そう思ったの。
【ノーラ】 ええ、必ずそうさせますわ。万事わたしに任せて。わたし、うまいぐあいに話を持ちかけて、――なんとか、あの人の気に入るような方法を考えるわ。ほんとうに、どんなにしてでも、お力になりたいわ。
【リンデ夫人】 ノーラさん、わたしのために、そんなにいっしょうけんめいになってくださってほんとうにありがとう。――世間の苦労を、なんにもごぞんじないのに、そんなにしてくださるので、よけいありがたいわ。
【ノーラ】 わたしが――? 世間の苦労を知らないなんて?
【リンデ夫人】 〔微笑して〕それは、まあ、ちょっとした手芸とか、そんなものはごぞんじでしょうが――あなたはまだほんのおねんねよ。
【ノーラ】 〔首を真っすぐ立てて、床の上を歩く〕そんな人を見くだすようなおっしゃり方をするもんじゃなくてよ。
【リンデ夫人】 そうかしら?
【ノーラ】 あなたも、ほかの人とおんなじね。わたしをまじめなことにはなんの役にもたたない女だと思っているのね。
【リンデ夫人】 まあ、そんな――
【ノーラ】 わたしがこのつらい世のなかで、なにもしたことがないように思っているのね。
【リンデ夫人】 いいえ、ノーラさん。いろいろとつらいめにおあいになった話、さっきうかがったばかりよ。
【ノーラ】 あーら、あんなの、なんでもないわ!〔しずかに〕まだ、大きなことをお話してないのよ。
【リンデ夫人】 大きなことって? なあに?
【ノーラ】 クリスティーネさん、あなたはすっかりわたしを見くだしていらっしゃるけれど、そんなことなさってはいけないわ。あなたは、おかあさまのために、ながいことたいへんな苦労をなさったのが自慢なのでしょう。
【リンデ夫人】 わたしは別に人を見くだしたりはしないわ。でも、それはそうよ。母の晩年を心配なく過ごさせてやることができたと思うと、うれしくて、得意にもなりますわ。
【ノーラ】 それに、弟さんがたのためにつくしてやったことも、お得意なのね。
【リンデ夫人】 それは当然得意になってもいいでしょう。
【ノーラ】 それはそうよ。でも、クリスティーネさん、よく聞いて。わたしだって、うれしくて、得意になれるようなことをしたのよ。
【リンデ夫人】 それはそうでしょうよ。でも、それ、どういう意味?
【ノーラ】 声が大きすぎるわ。トールヴァルに聞こえたらたいへんよ。どんなことがあっても、あの人には――。だれにも聞かされないわ。クリスティーネさん。あなたにだけお話するのよ。
【リンデ夫人】 でも、いったいなんのこと?
【ノーラ】 まあ、こっちへいらっしゃい。〔リンデ夫人を引っぱって、ソファーの自分のそばにすわらせる〕さあ、――わたしだって、うれしくて、得意になれることがあるのよ。あの人の命は、わたしが救ったの。
【リンデ夫人】 救うって? どうやって?
【ノーラ】 イタリアへ旅行したこと、お話したでしょう。あの人、もしゆかなかったら、助からなかったのよ。
【リンデ夫人】 でも、必要なお金は、おとうさまが出してくださったのでしょう?
【ノーラ】 〔微笑しながら〕あの人も、世間の人も、そう思っているわ。でも――
【リンデ夫人】 でも?
【ノーラ】 パパからは一文も出なかったのよ。お金をこしらえたのは、わたしなの。
【リンデ夫人】 あなたが? そんな大金を?
【ノーラ】 千二百ダーレル。四千八百クローネよ。いかが?
【リンデ夫人】 だけど、どうやってそんな大金ができたの。宝《たから》くじにでも当たったの
【ノーラ】 〔さげすんだ口調で〕宝くじだなんて?〔軽蔑《けいべつ》する〕それでは、わたしのてがらにならないじゃないの?
【リンデ夫人】 では、どこからお金を手に入れたの?
【ノーラ】 〔鼻唄《はなうた》をうたいながら、秘密ありげに微笑する〕へーん。タラ、ラ、ラ、ラ!
【リンデ夫人】 だって、借りることはできないでしょう。
【ノーラ】 そうかしら? なーぜ?
【リンデ夫人】 だって、妻は夫の同意がなければ借金をすることができないんですもの。
【ノーラ】 〔頭をまっすぐ立てる〕でも、少しばかり実務の能力のある妻だったら――すこしりこうに立ち回ることを知っている妻だったら――そうしたら――
【リンデ夫人】 ノーラさん、なんのことだか、さっぱりわからないわ――
【ノーラ】 わかっていただかなくてもいいのよ。お金を|借りて《ヽヽヽ》きたなんて言った覚えないわ。ほかの方法で手に入れたかもしれないのよ。〔ソファーにあおむけにそりかえる〕だれか、わたしを崇拝している人からもらったかもしれないわ。わたしぐらい魅力がありますとね――
【リンデ夫人】 まあ、この人、どうかしているわ。
【ノーラ】 クリスティーネさん。あなた、聞きたくて、むずむずしているのでしょう。
【リンデ夫人】 ちょっと、ノーラさん! それじゃあ、まさか、無分別なことをなさったんじゃないでしょうね?
【ノーラ】 〔きちんとすわりなおして〕夫の命を救うのが、無分別?
【リンデ夫人】 それはそうよ。ご主人の知らない間《ま》に――
【ノーラ】 だって、あの人に知らせるわけにはゆかなかったのよ! そんなことがわからないの? 容態がひじょうに悪化していることを本人に知らせるわけにはゆかなかったのよ。お医者さんがたが、わたしにおっしゃったの。「ご主人は命が危いです。南の国へ転地する以外に、助かる途《みち》はありません」って。そこで、なんとか急場を切り抜けようと思って、いろいろくふうしてみたの。わかるでしょう? ほかの若い奥さんがたのように、外国旅行ができたら、すばらしいだろうって、あの人に言ってみたわ。泣いて頼みもしたわ。わたしがただのからだでないことを考えて、無理を通してくださいって、せがんだの。そして借金をしましょうって、言ってみたの。そうしたら、あの人怒りそうになったわ。軽率だと言って、わたしを責めもしたわ。わがままな思いつきや、一時の気まぐれをおさえるのが、夫の義務だ、と言いもしたわ。たしか、そんな言葉を使ったと思うわ。「いいわ。なんとしてでもあなたの命を救ってあげるから」と考えたの。そして、最後の手段に訴えたっていうわけ――
【リンデ夫人】 で、お金がおとうさまから出たのでないことが、おとうさまの口からご主人にわからなかったの?
【ノーラ】 ええ、わかるはずがなかったわ。だって、パパはちょうどその日に亡《な》くなったんですもの? 前もってパパに打ち明けて、あの人には言わないように頼んでおくつもりだったの。ところが、病気がひどかったので――。とうとう、その必要がなくなってしまったの。
【リンデ夫人】 で、あとになってもご主人に打ち明けなかったの?
【ノーラ】 そんなこと、とてもできないわ。とんでもない。あの人、そういうことには、とてもきびしいの! それに――男の自尊心がありますもの、――すこしでもわたしのおかげでよくなったなんて知ったら、たまらない思いをするんじゃないかしら。わたしたち二人のあいだがおかしくなってしまうわ。いまの美しくて幸福な家庭生活が、だめになってしまうわ。
【リンデ夫人】 では、永久に話さないつもり?
【ノーラ】 〔考え込んで、なかば微笑しながら〕いいえ、――いつか話すかもしれないわ。――何年もたって、わたしがいまのようにきれいでなくなったころ。あら、笑わないで! わたしが言おうとしているのはあの人が今のように私のことを思ってくれなくなって、わたしが踊ったり、仮装したり、朗誦《ろうしょう》したりしてあげても、もうさっぱりうれしがらなくなってしまったときのことよ。そんなときには、なにかとっておきの材料があるといいでしょう?――〔話を中断する〕まあ、ばかばかしい。そんなときがくるものですか。――ところでクリスティーネさん。私の偉大な秘密をお聞きになって、どうお思い? これでも、わたしはなんの役にもたたない人間だとおっしゃる?――わたし、このことでは、ずいぶんいろいろと苦労したのよ。きちんきちんと債務《さいむ》を履行《りこう》するのは、なまやさしいことではなかったわ。商売の世界には、利子の四半期払いとか、元本《がんぽん》の分割払いということがあるの。そのためのお金をこしらえるのがとてもたいへんなのよ。そこで、いろいろな経費をできるだけ節約しなければならなかったわ。あの人にはいい暮らしをさせなければならなかったので、その上家計費を余すことはできなかったわ。こどもたちだって、みっともないかっこうをさせるわけにいかないもの。こどものためのお金は、みんなこどものためにつかわなくては、と思ったわ。かわいくて、かわいくてたまらない、こどもたちですもの!
【リンデ夫人】 では、ご自分のためにお使いになる分から出さなければならなかったというわけね。かわいそうなノーラさん!
【ノーラ】 ええ、もちろん。それがいちばん手っ取り早かったんですもの。わたしの服やなんかを買うようにって、あの人がお金をくれるたびに、半分しか使わなかったわ。いつもいちばん簡単な安いものを買ったのよ。ありがたいことに、わたしにはなんでも似合うので、あの人、気がつかなかったの。でも、いいものを着て歩くの、楽しいでしょう? だから、ときどき、たまらない気持ちになったこともあってよ。
【リンデ夫人】 ええ、ほんとうに、そうでしょうとも。
【ノーラ】 でも、わたし、ほかに収入の道もあったのよ。去年の冬は、運よく、浄書の仕事をたくさん引き受けることができたの。ひとりぼっち、部屋《へや》に閉じこもって、夜中まで書きつづけたのよ。ときどきすっかり疲れて、へとへとになったわ。でも、そうやって、じっとすわってお金をかせぐの、とてもおもしろかったわ。まるで男になったような気がして――
【リンデ夫人】 でも、そうやって、借りたお金をもうどのくらいお返しになったの?
【ノーラ】 さあ、それがあまりはっきりしないの。こうした取引というものは、どうなっているのか、なかなかわかりにくいのよ。わかっているのは、お金をかき集められるだけ集めて、全部払ったということだけ。どうしていいかとほうにくれてしまったことが、たびたびあったわ。〔微笑する〕そんなとき、ここでじっと想像したの。どこかのお金持ちの老紳士が、わたしを好きになって――
【リンデ夫人】 まあ! なんですって! それ、だれのこと?
【ノーラ】 ばかね! 冗談《じょうだん》よ!――その老紳士が死ぬでしょう。遺言《ゆいごん》状を開いてみると、大きな字で書いてあるの。「わたくしの財産を、全部、愛すべきノーラ・ヘルメル夫人に、現金で直ちに支うべきこと」って。
【リンデ夫人】 ねえ、ノーラさん、――それ、いったいどんなおかた?
【ノーラ】 あら、まだわからないの? そんな老紳士なんて、全然いやしないのよ。お金がどうにも都合できなかったとき、ここでこうして、空想をたくましくしただけのこと。でも、もうどっちでもいいわ。そんな退屈なおじいさんなんか、どこにいたって同じことよ。そんな人なんか、あてにしなくてもいいの。そんな人の遺言状なんか、どうでもいいわ。もうなにも心配ごとがないのですもの。〔とび上がる〕ああ、クリスティーネさん! 心配事がないって、考えただけでほんとうにせいせいするわ。心配ごとがない。何も心配することがない! こどもたちと遊んだり、大騒ぎしたりできる。あの人の気に入るように、家のなかをきれいにすることもできる! ああ、もうすぐ春だわ。ひろい青空が見えてくる。そうしたら、ちょっと旅行ができるかもしれないわ。また海が見られるかもしれない。ああ、生きるということ、そして幸福だということ、なんてすばらしいんでしょう!
〔玄関でベルが鳴る音〕
【リンデ夫人】 〔立ち上がる〕ベルが鳴っているわ。もうおいとましたほうがよさそうね。
【ノーラ】 いいえ、まだ帰らないで。わたしのところへはだれも来やしないわ。きっとあの人のところへ来たのよ――
【女中】 〔玄関へ通ずる扉《とびら》のところで〕失礼します。奥さま。――あの、男のかたが、弁護士さまにお目にかかりたいとおっしゃっていますが――
【ノーラ】 頭取《とうどり》さまに、でしょう。
【女中】 はい、頭取さまに、でございます。でも、どういたしましょう? あちらには先生がいらっしゃいますので――
【ノーラ】 男のかたって、どなた?
【クロクスタ弁護士】 〔玄関へ通じる戸口で〕奥さん、わたしですよ。
【リンデ夫人】 〔ぎくっとして、ちぢみあがる。そして奥の方を向く〕
【ノーラ】 〔クロクスタの方へ一歩進み、緊張した様子。小声で〕まあ、あなたでしたの?なんの用ですか? 主人にどんな話をなさいますの?
【クロクスタ】 銀行のことです。――ある意味では。わたしは、ある株式銀行でつまらない仕事をさせていただいております。ご主人がこんど頭取《とうどり》におなりになると聞いたものですから――
【ノーラ】 それでは――
【クロクスタ】 奥さん、無味乾燥な仕事の話で、それ以外のなにものでもありませんよ。
【ノーラ】 そう? では、どうぞ事務所へお通りください。
〔玄関へ通じる扉《とびら》をしめながら、冷たくあいさつしてから、暖炉のそばへいって、火を見る〕
【リンデ夫人】 ノーラさん、いまのかた、どなた?
【ノーラ】 クロクスタ弁護士という人よ。
【リンデ夫人】 それでは、やっぱりあの人ね。
【ノーラ】 あの男、ご存じなの?
【リンデ夫人】 昔知っていたわ。もう何年も前のことだけれど。しばらくのあいだ、わたしの地方《くに》で弁護士代理をしていたの。
【ノーラ】 そう、そのとおりよ。
【リンデ夫人】 あの人ずいぶん変わったわ。
【ノーラ】 結婚生活が、とても不幸だったのよ。
【リンデ夫人】 今では、男やもめ?
【ノーラ】 こどもが大勢いるのよ。ほら、やっと燃えてきたわ。〔暖炉のふたをしめ、揺り椅子《いす》をすこし横へ動かす〕
【リンデ夫人】 あの人、ずいぶんいろいろな仕事をしているそうね?
【ノーラ】 そう? うん、そうかもしれないわ。わたしはしらないけれど――でも、仕事の話なんてやめましょう。退屈だわ。
〔ランク博士が、ヘルメルの部屋《へや》から出てくる〕
【ランク博士】 〔まだ扉《とびら》のところにいる〕いや、君。ぼくがいたのでは、じゃまだから。ちょっと奥さんのところへいってくるよ。〔扉をしめる。リンデ夫人がいるのに気がつく〕おや、おや、これは失礼。こちらへきてもおじゃまですね。
【ノーラ】 そんなことありませんわ。〔紹介する〕ランク先生。こちらはリンデ夫人。
【ランク】 ああ、そうですか。こちらのお宅でいつも名前はうかがっています。さきほどはいってきましたとき、階段のところでお先に失礼したようですね。
【リンデ夫人】 はい、階段をゆっくりと昇るものですから。とてもこたえますので。
【ランク】 おや、どこかおかげんが悪いので?
【リンデ夫人】 と申しますより過労だと思います。
【ランク】 ほかはどこもお悪くないのですか? それでは、いろんなパーティーにお出になって、静養なさるために、この町においでになったというわけですね?
【リンデ夫人】 仕事を探すために、町へ出てまいりました。
【ランク】 過労に対する最上の療法は仕事だというわけですかな?
【リンデ夫人】 でも先生、生きてゆかなければなりませんもの。
【ランク】 生きてゆくのが必要だということは、一般に通用する見解のようですな?
【ノーラ】 でも、先生。――先生だって生きておいでになりたいでしょう。
【ランク】 それはわたしだってそうですよ。どんなみじめなめにあっても、なるべくながいあいだ苦しみながら生きてゆきたいと思います。わたしのところへおいでになる患者さんも、みなさんそうです。道徳上の病気にかかっている人だって、同じですね。いまちょうど、そういう道徳上の廃人が、ヘルメル君のところにきていますけど――
【リンデ夫人】 〔低い声で〕まあ!
【ノーラ】 それ、どなたのこと?
【ランク】 クロクスタという弁護士ですよ。あなたはよくごぞんじない人です。性根《しょうね》が腐ってしまった男ですよ、奥さん。でも、あんなやつでも、生きてゆかなくてはならないって、さも大事《おおごと》のようにしゃべりはじめたのですよ。
【ノーラ】 そうですか? で、うちの人のところへ、何を言いにきたのです?
【ランク】 わたしにはさっぱりわかりませんが、なんでも銀行の関係のことのようでした。
【ノーラ】 わたし、クロクスタが――いいえ、そのクロクスタ弁護士という人が、あの銀行に関係があるなんて知りませんでした。
【ランク】 それがあるのです。あの男は銀行でつまらない仕事にありついたのです。〔リンデ夫人に向かって〕あなたの地方にも、こういう人がいるかもしれませんが、息せき切ってかけずり回って、他人の道徳上の腐敗をかぎつける。そのあげく当該《とうがい》人物をなにか有利な地位につけて観察しようとする。こういった手合いですよ。健全な人間は、いつも相手にしないようにしています。
【リンデ夫人】 でも、まず閉じこめておかなければならないのは、病気の人じゃないですか。
【ランク】 〔肩をすくめる〕ほら、それですよ。そういう見方をすると、社会は病院になってしまいます。
【ノーラ】 〔何を考えこんでいたか、急に、あまり大きくない声で笑いだして、手をたたく〕
【ランク】 なぜお笑いになるのです? 社会って、なんのことだかごぞんじですか?
【ノーラ】 社会なんていう退屈なもの、どうだっていいわ。わたしが笑ったのは、全然別のことなの。――とってもおもしろいわ。――ねえ、ランク先生、――株式銀行の職員は、全部うちの人の自由になるというわけなのね。
【ランク】 なんだ、そんなことがあなたはおもしろいのですか?
【ノーラ】 〔微笑しながら、鼻唄《はなうた》をうたって〕いいのよ! いいのよ!〔部屋《へや》のなかを歩きまわる〕とてもおもしろいわ。わたしたちが、――いいえ、うちの人が、そんなに大勢の人間を自由にできるようになったなんて、考えただけでもこっけいだわ。〔ポケットから袋をとりだして〕先生、マクロンをいかが?
【ランク】 おや、おや、マクロンですか。たしか、お宅では禁制品のはずですが。
【ノーラ】 でも、これ、クリスティーネさんからいただいたのよ。
【リンデ夫人】 なんですって。わたしが――?
【ノーラ】 おや、おや、びっくりしなくてもいいのよ。あの人から、たべてはいけないって言われているのをごそんじのはずがないわね、あの人、わたしの歯が悪くなるのを心配しているのよ。でも、かまわないわ。――一度ぐらい! ねえ、ランク先生、そうでしょう? お一つどうぞ!〔ランク博士の口にマクロンを一ついれる〕クリスティーネさん。あなたもよ。それから、わたしもいただくわ。小さいのを一つだけ。いいえ、二つだけにしておきましょう。〔また歩きまわる〕さあ、わたしはほんとうにすばらしく幸福。いま、世の中で、したくてたまらないことが、たったひとつだけあるの。
【ランク】 ほ、ほう。なんです?
【ノーラ】 あの人の耳にはいるように、言ってやりたくてたまらないことがあるの。
【ランク】 それなら、おっしゃったらいいじゃないの。
【ノーラ】 それが、言えないのよ。下品なことなんですもの。
【リンデ夫人】 下品――?
【ランク】 そんなら、おっしゃらないほうがいいでしょうけれど。わたしたちになら、おっしゃったって、いいじゃないですか――。ご主人に聞こえるように言ってやりたいというのは、いったいなんのことです?
【ノーラ】 「こん畜生」って、言ってやりたくてたまらないの。
【ランク】 奥さん、どうかなさったのですか?
【リンデ夫人】 ノーラさん、まあ、なんということを――!
【ランク】 ご主人がいらっしゃいましたよ。さあ、言ってごらんなさい!
【ノーラ】 〔マクロンの袋をかくす〕しっ!
〔ヘルメルが、外套《がいとう》を腕にかけ、帽子を手に持って、自分の部屋《へや》から出てくる〕
【ノーラ】 〔夫にむかって〕ねえ、あなた。あの人もういない?
【ヘルメル】 ああ、いま帰ったよ。
【ノーラ】 ご紹介するわ。――こちらがクリスティーネさん。町へ出ていらしたのよ。
【ヘルメル】 クリスティーネさん? 失礼ですが、あの、どちらの――
【ノーラ】 リンデさんよ。ほら、クリスティーネ・リンデさんよ。
【ヘルメル】 ああ、そう。たしか家内の幼《おさな》友だちでいらっしゃいますね。
【リンデ夫人】 はい、昔、お親しくしていたことがあります。
【ノーラ】 クリスティーネさんはね、あなたとお話をするために、遠路はるばるおいでになったのよ。
【ヘルメル】 ほお! というと?
【リンデ夫人】 いいえ、別にそういうわけでは――
【ノーラ】 クリスティーネさんは、事務のほうがとってもおじょうずなの。それで、有能なかたに指導していただいてもっといろいろと勉強したいとおっしゃるの――
【ヘルメル】 それはご殊勝なことで。
【ノーラ】 で、あなたが銀行の頭取《とうどり》になったことをお聞きになったもので、――電報で知ったんですって――、さっそくこちらへお出でになったというわけなの。ねえ、あなた、わたしのためと思って、クリスティーネさんのお力になってあげて。ね、いいでしょう?
【ヘルメル】 うん。できないことはないが。そうすると、ご主人はお亡《な》くなりになったのですか?
【リンデ夫人】 はい。
【ヘルメル】 で、事務のご経験はおありですな?
【リンデ夫人】 はい、かなり。
【ヘルメル】 それなら、なんとかお仕事を見つけてあげられそうです。
【ノーラ】 〔両手を打って〕ほーら、ごらんなさい!
【ヘルメル】 奥さん、ちょうどいいときにおいでになりました。
【リンデ夫人】 まあ、なんてお礼を申しあげてよいのか――
【ヘルメル】 それにはおよびません。〔外套《がいとう》を着る〕でも、きょうはこれで失礼させていただきます。
【ランク】 待ってくれ、ぼくもいっしょにいこう。〔玄関から毛皮の外套《がいとう》をとってきて、暖炉であたためる〕
【ノーラ】 あなた、早くお帰りになってね。
【ヘルメル】 一時間ほどで帰ってくるさ。遅くならないよ。
【ノーラ】 クリスティーネさん。あなたもゆくの?
【リンデ夫人】 〔外套《がいとう》を着る〕ええ。わたしももうおいとまして、借間をさがさなくては。
【ヘルメル】 それなら、ごいっしょしますかな。
【ノーラ】 〔リンデ夫人に外套を着せながら〕うちがこんなに手狭《てぜま》なので困ったわ。ここにお住まいになっていただきたいのだけど――
【リンデ夫人】 まあ、とんでもない! では、ノーラさん。ほんとうにありがとうございました。
【ノーラ】 それでは、また。今晩はもちろんまたいらしてくださるわね。それから先生、あなたもね。なんですって? 気分がよかったら? いいにきまっていますわ。ただ、お寒くないようにしていらっしゃいな。
〔一同雑談をしながら玄関へ出てゆく。階段のところで、こどもたちの声が聞こえる〕
【ノーラ】 さあ、帰ってきた! 帰ってきた!
〔走っていって、扉《とびら》をひらく。乳母のアンネ・マリーエが、こどもたちをつれてはいってくる〕
【ノーラ】 さあ、はいっていらっしゃい!〔腰をかがめて、こどもたちにキスをする〕かわいい子ね! いい子ね! クリスティーネさん、ほーら、ほんとうにかわいいでしょう!
【ランク】 こんなに風のあたるところで、お話はやめ、やめ。
【ヘルメル】 リンデさん、さあ、ゆきましょう。母親でなくては、とてもこんなところにいられませんよ。
〔ランク先生とヘルメルとリンデ夫人は階段をおりてゆく。乳母は、こどもたちをつれて居間にはいる。ノーラもはいって、玄関へ通じる扉《とびら》をしめる〕
【ノーラ】 まあ、みんな元気ではちきれそうね。まっかな頬《ほ》っぺをして! まるで、|りんご《ヽヽヽ》か|ばら《ヽヽ》みたいだわ。〔ノーラが次の言葉をいうあいだ、こどもたちも母親にむかってしゃべりつづける〕まあ、そんなにおもしろかったの?すてきだったわね。おや、まあ、エミーちゃんとボブちゃんを橇《そり》に乗せてあげたの? ほんとう! いっぺんに二人乗せたの! イーヴァルちゃんは、ほんとうにいい子だわね。アンネ・マリーエさん! ちょっと、その子を抱かせてちょうだい。わたしのかわいい小さなお人形さん!〔いちばん下の子を乳母から受け取って、抱いて踊る〕はい、はい、ママちゃんはボブちゃんとも踊ってあげますよ! なに? 雪投げをしたんですって? ママちゃんもゆきたかったわ! いいのよ、アンネ・マリーエさん、わたしが着物を脱がせるから。いいから、わたしにさせてよ。自分でやりたいんだから。部屋《へや》にはいっていらっしゃい。とても寒そうだわ。暖炉の上にあたたかいコーヒーをのせておいてあげたからね。
〔乳母は左手の部屋にはいる。ノーラはこどもたちの外套《がいとう》を脱がせて、あたりに投げだす。その間、こどもたち同士でおしゃべりをさせておく〕
【ノーラ】 あ、そうなの? 大きなワンワンに追いかけられたの? かみつかれなかった?犬はこんなかわいいお人形さんのような子にはかみつかないわ? イーヴァルちゃん! 包みをのぞいちゃだめよ! なにがはいっているのかって? いまにわかるわ。だめ、だめ、とってもいやな物よ。え? お遊びしたい? なにをして遊びましょう? かくれんぼ。ええ、かくれんぼしましょう。ボブちゃんがいちばん先にかくれるのよ。ママが先だって? そう、それなら、まずかくれますよ。
〔ノーラとこどもたちが大声で笑いながら、居間と右隣の部屋で遊ぶ。ノーラはしまいにテーブルの下にかくれる。こどもたちがバタバタはいってきて捜すが、見つからない。そのうちに、ママがくすくす笑うのを聞いて、テーブルのところへ走り寄り、テーブル掛けをもちあげて、ママを見つける。大きな声を出して、おおよろこびする。ママは、こどもたちをおどかすように、這《は》い出してくる。また大騒ぎになる。その間にだれかが玄関の戸をノックするが、だれも気がつかない。やがて扉《とびら》が半分開いて、クロクスタ弁護士の姿が現われる。しばらく待っている。かくれんぼがつづく〕
【クロクスタ】 奥さん、ちょっと失礼――
【ノーラ】 〔小さな声で悲鳴をあげ、ふりむいて、半ばとびあがる〕あれ! なにしにいらしたのです?
【クロクスタ】 ごめんなさい。玄関の戸がすこしあいていたもので。きっとどなたかしめ忘れたんですよ。
【ノーラ】 〔立ち上がる〕クロクスタさん、宅はるすですよ。
【クロクスタ】 知っています。
【ノーラ】 そう――そんなら、なんのご用でいらしたのです?
【クロクスタ】 ちょっと、あなたとお話したいことがあったもので――
【ノーラ】 わたしと――?〔こどもたちにむかって、静かに〕おねえさんのところへいっておいで。なんですって? この、よそのおじさんは、ママになにも悪いことをしませんよ。おじさんが帰ったら、またいっしょに遊びましょうね。〔こどもたちを左手の部屋《へや》に連れていって扉《とびら》をしめる〕
【ノーラ】 〔不安そうに、緊張した様子で〕わたしとお話をなさりたいのですって?
【クロクスタ】 そう、そのとおり。
【ノーラ】 きょうですか? でも、まだ一日《ついたち》にはなっていないじゃありません?
【クロクスタ】 いかにも。きょうはクリスマス・イーブ。奥さんがどんなに楽しいクリスマスをお迎えになるか、奥さんの出方ひとつにかかっていますよ。
【ノーラ】 なにをお望みなんです? きょうはとても無理ですわ――
【クロクスタ】 その話は当分やめにしておきましょう。用事というのはほかのことです。ちょっとお時間がおありですね?
【ノーラ】 ええ、それは、ありますけれど――
【クロクスタ】 よろしい。わたしがレストラン・オルセンにすわっていると、ご主人が前の通りを歩いてゆかれました。
【ノーラ】 それで?
【クロクスタ】 ――ひとりのご婦人といっしょでした。
【ノーラ】 それがどうしたというのです?
【クロクスタ】 ぶしつけにおたずねしますが、あのご婦人はリンデという人でしょう?
【ノーラ】 ええ。
【クロクスタ】 この町へ来たばかりですね?
【ノーラ】 ええ、きょう着いたばかりです。
【クロクスタ】 あなたの親友なのですね?
【ノーラ】 ええ、そうですわ。でも、なんだって――
【クロクスタ】 わたしも、昔、あの人を知っていました。
【ノーラ】 ぞんじております。
【クロクスタ】 へえ? そんなことまでごぞんじですか。おおかたそんなことだろうと思ってましたよ。それなら短刀直入にうかがいますが、リンデさんは銀行の仕事にありつけますか?
【ノーラ】 クロクスタさん、うちの主人の部下のくせに、よくもまあずうずうしく、そんなにいろいろなことを詮索《せんさく》できたものね! でも、おたずねになるからには、お教えしましょう。ええ、リンデさんは銀行に就職しますよ。クロクスタさん、わたしが口をきいて、そうなったのです。おわかりになって?
【クロクスタ】 考えていたとおりですな。
【ノーラ】 〔部屋《へや》のなかを、いったりきたりしながら〕ええ、わたしだって、すこしは勢力があるんですよ。女だからといって、そう――。クロクスタさん。人の下に使われる立場にいる人はね、あんまり盾《たて》をつかないほうが身のためよ。ふん――
【クロクスタ】 勢力のある人には、逆らわないほうが身のため――ですか?
【ノーラ】 そう、そのとおり。
【クロクスタ】 〔調子を変える〕ところで奥さん、あなたの勢力を、このわたしのために使っていただくわけにはいきませんか。
【ノーラ】 なんです? どういうこと?
【クロクスタ】 お願いですから、あなたのおっしゃる、人に使われる立場の地位を、銀行でわたしが失わないように、助けていただけませんか。
【ノーラ】 なんのことをおっしゃっているのか、さっぱりわからないわ。あなたの地位を奪おうなんて、だれも思っていないでしょう?
【クロクスタ】 そんなふうに、わたしにむかって白ばっくれる必要はないですよ。あなたのお友だちにとって、わたしと顔をあわせるのが不愉快だということは、よくわかります。わたしが追い出されるのは誰のせいだか、ちゃんとわかっていますよ。
【ノーラ】 でも、わたしは、ほんとうに――
【クロクスタ】 もういい。もういい。簡単明瞭に申しましょう。まだ、まにあいますから、あなたの勢力を使って、そんなことにならないように止めてください。そうするのが、あなたの身のためですよ。
【ノーラ】 でも、クロクスタさん。わたし、勢力なんかないのよ。
【クロクスタ】 ないですって? たった今、あると言ったばかりじゃないですか。
【ノーラ】 それは、そんな意味で言ったのではなくてよ。わたしみたいな者が、主人に対して、そんな勢力を持っているはずがないじゃないですか?
【クロクスタ】 わたしは、ご主人を学生時代から、よく知っています。あの頭取《とうどり》さんが、世間の亭主よりしっかりしているとは思えません。
【ノーラ】 主人のことを軽蔑《けいべつ》なさるのなら、出ていってください。
【クロクスタ】 奥さん、なかなか勇敢ですな。
【ノーラ】 あんたなんかこわくないわ。お正月がすんだら、すっかりすませてしまいます。
【クロクスタ】 〔自分をおさえて〕奥さん、お聞きください。必要とあれば、わたしは、銀行の、あのつまらない地位を確保するために、生命を賭《か》けてでも闘いますからね。
【ノーラ】 ええ、そんなご様子ね。
【クロクスタ】 収入のためだけではありません。収入などはどうでもいいのです。全然別のことなのです。ええ、思いきって言ってしまいましょう! こうなのですよ。何年も前に、わたしが無分別なことをしたのを奥さんもごぞんじでしょう。世間に知れわたっていることですから――
【ノーラ】 ええ、なにかそんなことを聞いたことがあるような気がします。
【クロクスタ】 裁判|沙汰《ざた》にはなりませんでしたけれども、わたしにとっては八方|塞《ふさ》がりになってしまいました。そこで、奥さんもごぞんじの商売をはじめたというわけです。なにかやらないわけにはゆきませんでしたし、わたしよりひどい連中がいくらでもおりましたから。でも、もうそろそろ足を洗わなければいけません。息子たちがだんだん成長しますし、息子たちのためにも市民としての信用をできるだけ回復しなければならないのです。この銀行のポストは、わたしにとっては、いわば最初の一歩を踏みだしたようなものだったのです。ところが今、ご主人はわたしを階段から蹴落とそうしていらっしゃるのです。わたしはまた泥沼《どろぬま》におちこんでしまいます。
【ノーラ】 でも、クロクスタさん。わたしの力では、どうにもお助けできませんわ。
【クロクスタ】 それはそうしようとなさらないからです。でも、わたしには、いやでもあなたにそうさせる手段があります。
【ノーラ】 まさか、わたしがあなたからお金を借りていることを、主人に言いつけようとなさるのではないでしょうね?
【クロクスタ】 ふむ、もし言いつけたら、どうします?
【ノーラ】 それは恥知らずのやり方だわ。〔涙を流しそうな声で〕この秘密は、わたしにとっては楽しい誇りなのよ。それが、下劣なやり方でおかまいなしに、あの人に知れてしまうなんて――。あんたみたいな人の口から、知れてしまうなんて――あなたはわたしを不愉快な目にあわせようとしているのね――
【クロクスタ】 不愉快な目にあうだけですむのでしょうか。
【ノーラ】 〔はげしい口調で〕やるならやってごらんなさい。いちばんひどいめにあうのはあなた自身よ。あなたがどんなに下等な人間だかということがはっきりするし、職も失ってしまいますよ。
【クロクスタ】 あなたにとって恐ろしいのは、家庭内でいやな思いをされることだけですかってお尋ねしたのですよ。
【ノーラ】 主人が聞いたら、きっと即座に残金を返しますよ。そうすれば、あなたとは一切無関係になってしまいます。
【クロクスタ】 〔一歩近寄って〕奥さん、お聞きなさい。――あなたは記憶力が弱いのか、それとも、商取引というものをごぞんじないのか、どっちかですよ。もっとよくわかるように説明してあげましょう。
【ノーラ】 なんですって。
【クロクスタ】 ご主人が病気のとき、あなたは千二百ダーレル借りに来られました。
【ノーラ】 ほかにだれも知らなかったものですから。
【クロクスタ】 そこで、わたしはそれだけの金をご用だてする約束をしました――
【ノーラ】 約束だけでなく、実際に貸してくださったわ。
【クロクスタ】 わたしはある条件でお貸ししようと約束しました。あなたはあのときはご主人の病気と旅費のくめんで頭がいっぱいだったので、いろいろ付随的な事項のことは、あまり深くお考えにならなかったのでしょう。ですから、そういうことを思いだしていただこうとしても、そんなにおかしなことではないでしょう。ところで、わたしは借用証書と引替えにお金をご用だてすること約束し、証書を作成しました。
【ノーラ】 ええ、そしてその証書にわたしが署名しました。そうでしょう?
【クロクスタ】 そのとおり。ところで、わたしは、あなたのおとうさまも債務《さいむ》の保証をなさる、という意味の文句を二、三行書き加えました。そこにおとうさまのご署名をいただくはずでした。
【ノーラ】 いただくはずでしたって? 父は署名しましたでしょう?
【クロクスタ】 わたしは、日付の欄を書き込まずにおきました。つまり、おとうさまに、署名の日を、ご自分で記入していただくためです。覚えていらっしゃいますね?
【ノーラ】 ええ、たしか――
【クロクスタ】 それから、証書をあなたにお渡しして、おとうさまに郵送していただくようにお願いしておきました。そうでしたね。
【ノーラ】 ええ。
【クロクスタ】 あなたは、むろんすぐ、そうなさいましたね。というのは、それから五、六日たったら、あなたは、もうおとうさんの署名入りの証書をお持ちくださいました。そしてお金をお受け取りになりました。
【ノーラ】 それはそのとおりですけれども、きちんきちんと返済しているでしょう?
【クロクスタ】 そう。おおむねそうですな。それはそうとして、さっきの話にもどりましょう。奥さん、あのころは、いろいろお苦しかったようですね?
【ノーラ】 ええ、苦しかったわ。
【クロクスタ】 たしか、おとうさまが重病でしたね?
【ノーラ】 危篤《きとく》でした。
【クロクスタ】 そのすぐ後で、お亡《な》くなりになりましたね。
【ノーラ】 ええ。
【クロクスタ】 奥さん。おとうさまのご命日《めいにち》を覚えていらっしゃいますか? 何月何日でしたかな――
【ノーラ】 パパは九月二十九日に死にました。
【クロクスタ】 そのとおりです。わたしも調べてあります。したがって、妙なことになるんです。〔書類を出す〕どうしても腑《ふ》に落ちないのです。
【ノーラ】 妙なことっておっしゃいますと?なんのことだか、さっぱり――
【クロクスタ】 妙なことっていうのはね、奥さん。おとうさまが、亡《な》くなった三日後に、この証書に署名なさっているということですよ。
【ノーラ】 どうして? わかりませんわ。
【クロクスタ】 おとうさまは、九月二十九日にお亡くなりになりました。でも、ごらんなさい。おとうさまは、署名の日付を十月二日としておいでです。奥さん、何とも妙なことじゃありませんか?
【ノーラ】 〔黙ってしまう〕
【クロクスタ】 説明していただけますか?
【ノーラ】 〔まだ黙っている〕
【クロクスタ】 それからすぐ気がつくことですが、十月二日という字と年号が、おとうさまの筆跡でなく、わたしが見覚えのあるような気のする手で書いてあるのです。まあ、それは説明つくでしょう。おとうさまが署名に日付を入れるのをお忘れになった。そこでお亡くなりになったことを知らないうちに、だれかがいいかげんに書き込んだとね。それは別に悪いことではありません。問題は署名の筆跡です。奥さん、これは本物でしょうね? ほんとうにおとうさまがご自分の名前をここにお書きになったのでしょうな?
【ノーラ】 〔ちょっと黙っているが、やがて頭を上げて、しっかりと相手を見すえる〕いいえ、違いますわ。パパの名前を書いたのはわたしです。
【クロクスタ】 おや、奥さん。そんなことをおっしゃって。危険な告白だということをごぞんじなのですか?
【ノーラ】 なぜですの? お金はすぐお返ししますわ。
【クロクスタ】 ちょっとおたずねしますが、――なぜ書類をおとうさまのところへお送りにならなかったのです?
【ノーラ】 そんなことできませんでしたわ。だって、パパは病気だったのですもの。もし署名を頼んだりしたら、お金の用途もかくしておくわけにいかなかったでしょう? でも、とうてい言えなかったわ。あんなに病気が重かったパパにむかって、主人の命が危ないなんて。そんなこと、とても言えなかったわ。
【クロクスタ】 それなら、外国旅行をやめればよかったのですよ。
【ノーラ】 それもできなかったわ。旅行をしなければ、主人の命は助からなかったのですもの。やめるわけにいかなかったわ。
【クロクスタ】 でも、私をペテンにかけているということには、気がつかなかったのですか?
【ノーラ】 そんなこと、かまっていられなかったわ。あなたのことなんか、全然考えていなかったわ。主人の命が危ないということを知っているくせに、冷淡な態度で、いろいろむずかしいことをおっしゃるので、がまんできませんでしたわ。
【クロクスタ】 奥さん、どうもあなたは、ご自分がどんなに悪いことをなさったか、よくおわかりでないようですな。では、わたしから申し上げましょう。あなたがしたことは、わたしが市民社会における地位を失墜《しっつい》する原因となった行為と、まったく同じなのですよ。
【ノーラ】 あなたがしたことですって? あなたは、奥さまの命を救うために勇敢な行為をなさったとわたしに思いこませようとしていらっしゃるのですか?
【クロクスタ】 法は、動機の善悪を問いません。
【ノーラ】 そんな法は悪法にちがいないわ。
【クロクスタ】 悪法であろうとなかろうと、この書類を裁判所へ提出すれば、あなたは法によって、有罪の判決を受けます。
【ノーラ】 そんなこと信じられませんわ。父親が心配や苦労をしないように娘がとりはからうのがいけないなんて。妻たるものに、夫の命を救う権利がないのですか? わたしは法律はあまり詳しくありませんけれど、そういう行為は許されるって、どこかに書いてあるにちがいないですわ。あなたは、弁護士のくせに、そんなことをごぞんじないのですか? クロクスタさん、あなたはヘッポコ弁護士ね。
【クロクスタ】 あるいはそうかもしれません。しかし、商法のことはよく知っていますよ。あなたとわたしのあいだでやっているような商売のことはね。よろしい。お好きなようになさるがいい。だが、あらかじめこれだけは申しておきましょう。わたしがまた失脚したら、あなたにもおつきあい願いますぜ。
〔あいさつをして、玄関から出てゆく〕
【ノーラ】 〔しばらくじっと考えこんでいるが、やがて、そり返って〕なんですって!――わたしをこわがらせようなんて! わたし、そんなに単純な女でないわ。〔こどものおもちゃをかたづけようとするが、すぐやめる〕だけど――?――いいえ、そんなことありえないわ!みんな愛情からしたことなんだもの。
【こどもたち】 〔左手の扉《とびら》のところで〕ママちゃん。よそのおじさんが門から出ていったよ。
【ノーラ】 ええ、知っているわ。でも、よそのおじさんのことは、だれにも言わないでよ。いいわね? パパにも話さないで!
【こどもたち】 いいよ、ママ。だけど、また遊んでくれる?
【ノーラ】 だめ、だめ、今はだめよ。
【こどもたち】 でも、ママちゃん、約束したじゃないの。
【ノーラ】 ええ、でも今は遊んでいられないわ。お家へおはいり。しなければならないことが、たくさんあるの。さあ、中へおはいり。かわいい、いい子だねえ。
〔ノーラは、こどもたちを優しく部屋《へや》の中へ追い込んで、扉《とびら》をしめる〕
【ノーラ】 〔ソファーに腰掛け、刺繍《ししゅう》をとりだして、二針三針さすが、すぐやめてしまう〕そんなことないわ!〔刺繍をほおり出し、立ち上がって、玄関の扉のところへいって、大きな声を出す〕ヘレーネさん! クリスマス・トリーをもってきて。〔左手のテーブルのところへいって、ひきだしをあけるが、また手を休める〕そんなことないわ。ありえないわ!
【女中】 〔クリスマス・トリーを持ってくる〕奥さま、どこにおきましょうか?
【ノーラ】 そこにおいてちょうだい。部屋のまん中に。
【女中】 ほかになにか持ってまいりましょうか?
【ノーラ】 いいわ。要《い》るものは全部|揃《そろ》っているから。
〔女中はトリーをおろしてから、出てゆく〕
【ノーラ】 〔クリスマス・トリーを飾りはじめる〕ここにろうそくを立てて、――それから、ここに花をつける。――いやなやつ! ばかばかしい! なんでもないわ。すてきなクリスマス・トリーを飾りましょう。あなた。お望みなら、なんでもするわ。――歌もうたうわよ。ダンスもするわ――
〔ヘルメルが、書類の包みをかかえて、外から帰ってくる〕
【ノーラ】 あーら、――もう帰っていらしたの?
【ヘルメル】 うん。――だれか来た?
【ノーラ】 ここへ? 別に。
【ヘルメル】 それは奇妙だ。クロクスタが門から出てゆくのを見たけれど。
【ノーラ】 そう? ああ、そう、そう、クロクスタさんがちょっと来たわ。
【ヘルメル】 ノーラ、おまえの顔を見ればわかる。クロクスタがやってきて、よろしくとりなしてくれって頼んでいったのだろう。
【ノーラ】 ええ。
【ヘルメル】 しかもおまえが自分の考えで口をきいているようにしておいてくれって? ここへ来たことは、わたしには黙っているようにって、クロクスタのやつ、そんなことまで頼んでいったのだね?
【ノーラ】 ええ、でも――
【ヘルメル】 ノーラ、ノーラ、おまえはよくまあそんなことができるね? あんなやつと話をして、約束をして! おまけに、ぼくにむかってうそをつくなんて!
【ノーラ】 うそですって――?
【ヘルメル】 そうさ、だれもここへ来なかったって、言ったじゃないか?〔指でおどす〕ぼくのかわいい小鳥さんは、もう絶対にそんなことをしてはいけないよ。小鳥はきれいなくちばしでさえずらなくてはね。まちがった音をだしてはいけないよ。〔ノーラの胴を抱く〕そうだろう? ちゃんとわかっているさ。〔ノーラをはなす〕ああ、もうやめにしておこう〔暖炉の前にすわる〕ああ、なんてあたたかくて、気持ちがいいのだろう。〔書類のページをパラパラめくる〕
【ノーラ】 〔クリスマス・トリーの飾り付けに忙しい。しばらくしてから〕あなた!
【ヘルメル】 うん。
【ノーラ】 あさってのステーンボルクさんのところの仮装舞踏会が、とても楽しみだわ。
【ヘルメル】 おまえがどんな仮装をしてぼくをびっくりさせるか、とても待ちどおしいよ。
【ノーラ】 それが、ばかばかしい思いつきなの。
【ヘルメル】 なんだって?
【ノーラ】 うまい思いつきがわいてこないのよ。みんな、ばかげた、無意味なことばかり。
【ヘルメル】 かわいいノーラちゃんが、そういう認識に到達したのかい?
【ノーラ】 〔ヘルメルの椅子《いす》のうしろへ回って、両腕を椅子の背にかける〕ねえ、あなた。とっても忙しい?
【ヘルメル】 うん――
【ノーラ】 それどんな書類?
【ヘルメル】 銀行の仕事さ。
【ノーラ】 もう?
【ヘルメル】 こんどやめる重役さんたちから、全権を委任されたんだ。職員と事業計画に、所要の変更をおこなう権利をね。クリスマス週間は、このために使って、正月までには、なにもかもきまりをつけるつもりだ。
【ノーラ】 では、あの気の毒なクロクスタさんが来たのは、そのためね?
【ヘルメル】 うん。
【ノーラ】 〔まだ椅子の背にもたれて、夫の首筋の毛を、指で静かに撫《な》でる〕もしあまりお忙しくなかったら、とっても大きなおねだりをしたいの。
【ヘルメル】 なんだか言ってごらん。
【ノーラ】 あなたほど趣味のいい人ないわ。わたし、仮装舞踏会で、きれいなかっこうをして、みんなにみせたいの。ねえ、あなた、わたしのことを考えて、わたしがなにになったらいいか、お決めになってくださらない? どんな衣装をこしらえたらいいか――
【ヘルメル】 おや、いつもの強情《ごうじょ》っ張《ぱ》りさんが、こんどは救いの手を求めているのだね?
【ノーラ】 ええ、あなたに助けていただかないと、どうにもならないの。
【ヘルメル】 よし、よし、考えてみよう。いい考えが浮かぶだろう。
【ノーラ】 あなったってほんとうに優しいのね。〔またクリスマス・トリーのそばへゆく。間《ま》〕まあ、きれいな赤い花。――あの、クロクスタさんがやったことって、そんなに悪いこと?
【ヘルメル】 偽《にせ》の署名をしたんだ。どんなことだか、わかる?
【ノーラ】 でも、やむを得ずしたのかもしれないわ?
【ヘルメル】 そうかもしれない。それとも、よくあることだが、軽はずみでしたのかもしれない。ぼくは、一回だけそういう行為があったからっといって、人を悪人だと断定してしまうほどなさけ知らずではないよ。
【ノーラ】 そうよ。そうだわ。ねえ、あなた!
【ヘルメル】 自分の犯した罪を率直に認めて、罰を受けさえすれば、道徳的に更正《こうせい》できる人が多い。
【ノーラ】 罰――?
【ヘルメル】 それなのに、クロクスタはそういう道を選ばなかった。いろいろ小細工をして、逃げおおせたんだ。そのために、道徳的に破滅してしまったのさ。
【ノーラ】 まあ、ほんとう――?
【ヘルメル】 いいかい、罪を犯したと意識している、ああいう人間は、どちらを向いても、うそをついたり、偽善者になったり、ねこをかぶったりばかりしているものだ。いちばん身近な人に対しても、仮面をかぶって接しなければならなくなる。自分の妻子やこどもに対してまでそうなる。おまえ、これはほんとうにおそろしいことだよ。
【ノーラ】 なぜ?
【ヘルメル】 なぜって、うそばかりついていると、家庭生活のなかに、病的な要素がはいりこんでくるからだ。こどもが、そんな家のなかで息を吸うたびに悪性のばい菌でいっぱいの空気を呼吸することになる。
【ノーラ】 〔夫のうしろに近づいて〕まあ、それまちがいない?
【ヘルメル】 ああ、そうだ。ぼくは弁護士として何度もそういう例を見たよ。青少年期に非行化する人間の母親は、ほとんどみんなうそつきだ。
【ノーラ】 なぜ――母親なの?
【ヘルメル】 母親から遺伝することが多いのだ。だが、無論、父親の影響も似たようなものだ。弁護士ならだれでも知っている。それなのに、あのクロクスタという奴は、長年、家のなかをうろつきまわって、自分のこどもにうそと仮面をうつした。それだから、ぼくはあいつのことを道徳的に破滅しているというんだ。〔妻に手をさしのべる〕それだから、ぼくの最愛のノーラさんは、あの男のために口をきいてはならないのだ。ね、約束しておくれ。さ、握手しよう。なに? なんだって? さあ、手を出して。ほーら。これで約束だよ。もう一度言うけれど、あの男といっしょに仕事することはとうていできない。あんなやつのそばにいると、文字どおり肉体的に不快感を催してくる。
【ノーラ】 〔手を引っ込めて、クリスマス・トリーの向こう側へゆく〕まあ、なんて暑いんでしょう。それにやらなければならないことが、いっぱい――
【ヘルメル】 〔立ち上がって、書類をまとめる〕うん、ぼくも、食事の前に、すこし書類に目を通すことにしょう。おまえの衣装のことも考えなくては。金紙につつんでクリスマス・トリーにつり下げるものも、もう準備してあるかもしれないぜ。〔妻の頭に手をかける〕かわいい小鳥さん。〔自分の部屋《へや》にはいって、扉《とびら》をしめる〕
【ノーラ】 〔黙っているが、やがて小声で〕なんですって! そんなことないわ。ありえないわ。断じて、ありえないわ。
【乳母】 〔左手の扉のところで〕お子さまがたが、ママのところへいきたいって、お行儀よくおっしゃっていますが。
【ノーラ】 だめ、だめ、いけないわ。わたしのところへ来させないで! アンネ・マリーエさん、あなたのそばにいさせておいて。
【乳母】 はい、はい、奥さま。〔扉《とびら》をしめる〕
【ノーラ】 〔恐怖のためあおざめて〕自分の子を堕落《だらく》させる――! 家庭を毒する?〔短い間《ま》。頭をあげる〕そんなこと、うそだわ。絶対、うそよ。
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第二幕
〔同じ居間。ピアノがおいてある方の隅《すみ》に、クリスマス・トリー。むしりとられ、引きちぎられたトリーには、ろうそくの燃えさしがついている。ソファーの上に、ノーラの外套《がいとう》がおいてある〕
〔居間のなかを、ノーラが、ただひとり、落ち着きなく歩きまわっている。しまいにソファーのそばに立ちどまって、外套を手にとる〕
【ノーラ】 〔また外套をおく〕あ、だれか来たわ!〔扉《とびら》の方へいって、聞き耳を立てる〕いいえ、――だれも来ないわ。来るはずがないわ。――今日はクリスマスの一日め〔スカンジナヴィアでは、十二月二十六日も、クリスマスの二日めとして祝う。クリスマスの一日めは十二月二十五日。クリスマスは家庭内で祝い、普通は客を招待したり、人を訪問したりしない習慣がある〕ですもの。――あすも来ないわ。――でも、ひょっとすると。――〔扉をあけて、外を見る〕郵便受けにも何もはいってないわ空《から》っぽ。〔部屋《へや》のなかを歩いてゆく〕ああ、ばかばかしい! あの男だって、本気になってやるはずがないわ。そんなこと考えられないわ。ありえないことよ。小さい子が三人いるんだもの。〔乳母が、大きなボール箱をかかえて、左手の部屋から来る〕
【乳母】 仮装の衣装がはいっている箱を、やっと見つけました。
【ノーラ】 ありがとう。テーブルの上に置いておいて。
【乳母】 〔言われたとおりにする〕でも、ずいぶんしわになっています。
【ノーラ】 ずたずたに引き裂いてしまいたいくらいだわ!
【乳母】 とんでもない。ちゃんとなおすことができます。さあ、短気をお起こしになりませんように――
【ノーラ】 ちょっといって、リンデさんを呼んできましょう。手伝ってもらうわ。
【乳母】 またお出かけですか? こんなに天気が悪いのに! 奥さま、お風邪《かぜ》をめしますよ。ご病気になりますよ。
【ノーラ】 そのくらいのことですめばいいのだけれど。――こどもたちは、どうしているの?
【乳母】 お小さいかたたちは、おかわいそうに、クリスマス・プレゼントで遊んでいらっしゃいます。でも――
【ノーラ】 ときどきわたしのことを聞く?
【乳母】 それは、おかあさまのそばにいるのに慣れていますもの。
【ノーラ】 それはそうだけれど。でも、アンネ・マリーエさん。これからは、今までのように、いつもそばにいてやることができなくなるのよ。
【乳母】 小さい子はすぐ慣れてしまいます。
【ノーラ】 そう思う? ママがいなくなったら、忘れると思う?
【乳母】 とんでもない。――いらっしゃらなくなるなんて!
【ノーラ】 アンネ・マリーエさん、言っておくれ。わたしよく考えたことがあるのだけれど――あんた、自分の子を他人の手に渡すの、つらくなかった?
【乳母】 でも、そうしなければ、お小さいノーラちゃんの乳母にはなれませんでしたもの。
【ノーラ】 でも、自分から希望してそうするなんて?
【乳母】 こんなにいいお宅に口が見つかったんですもの。不幸なめにあった貧乏人の娘としては、うれしいと思わなければならないことでございます。ずいぶんひどい人で、わたしのために、なにもしてくれませんでした。
【ノーラ】 では、娘さんはあなたのことを忘れてしまったでしょう。
【乳母】 いいえ、忘れはしませんでした。堅信礼《けんしんれい》〔新教では、ふつう幼児洗礼を受けた者が、成人してその信仰を告白して教会員となる儀式で、成人式のような意味を持っている〕を受けたときと、結婚したとき、手紙をくれました。
【ノーラ】 〔乳母の首に抱きつく〕アンネ・マリーエのおばあさん、わたしが小さかったとき、おばあさんはわたしにとってほんとうにいいおかあさんだったわねえ。
【乳母】 ノーラさんはお小さいときから、このばあやのほかにおかあさんがいらっしゃらなかったんですもの。
【ノーラ】 だから、もしあの子たちに、ほかにおかあさんがいなくなったら、ばあやさんがなってくれるわねえ。まあ、おしゃべりばかりして。〔箱をあける〕こどもたちのところへいっておくれ。わたしはこれから――あしたは、すばらしいかっこうをして見せるわ。
【乳母】 それは、舞踏会じゅうで、ノーラの奥さまほどきれいなおかたは、いらっしゃいませんよ。〔左手の部屋にはいる〕
【ノーラ】 〔箱のなかの物を出しかけるがすぐなにもかもほうり出してしまう〕出かけられるといいのだけれど。るす中にうちでなにも起こらなければ――ばかばかしい。だれも来やしないわ。考えないことにしましょう。マフのほこりを払いましょう。まあ、きれいな手袋。ほんとうにきれいだわ。忘れてしまおう。忘れてしまおう! 一、二、三、四、五、六――〔大きな声をあげる〕ああ、来たわ――〔扉《とびら》の方へゆこうとするが、決心しかねて、じっと立っている〕
〔リンデ夫人が玄関からはいってくる。玄関で外套《がいとう》を脱いで来ている〕
【ノーラ】 まあ、あなただったの。クリスティーネさん。ほかにそとにはだれもいないわね。――ほんとうに、よく来てくださったわ。
【リンデ夫人】 わたしのところへたずねていらしたって聞いたもので。
【ノーラ】 ちょうど前を通りかかったの。ぜひ、力になっていただきたいことがあるのよ。まあ、ソファーに腰かけましょう。実はね、あすの晩、ステーンボルグ領事さんのお宅で、仮装舞踏会があるの。主人はわたしに、ナポリの漁師の娘になって、タランテラ〔テンポの早い八分の六拍子のナポリの舞踊〕を踊れっていうの。カプリ島で習ったもので。
【リンデ夫人】 あら、正式公演をおやりになるっていうわけね。
【ノーラ】 ええ、主人がやれっていうの。ほら、これが衣装よ。イタリアにいたとき、主人が注文してくれて作ってくれたの。でも、もうボロボロになって、手のつけようがないのよ。
【リンデ夫人】 ああ、それならすぐに直せるわ。縁《へり》がところどころほころびているだけですもの。針と糸あって? ええ、これがあればだいじょうぶよ。
【ノーラ】 どうもすみませんわ。
【リンデ夫人】 〔縫いながら〕じゃあ、ノーラさん、あすは仮装をなさるのね? ちょっとあなたの晴れ姿を拝見に来るわ。――あら、すっかり忘れていた。ゆうべはほんとうに楽しかったわ。どうもありがとう。
【ノーラ】 〔立ち上がって、部屋《へや》を横ぎる〕きのうはいつもほど楽しくなかったわ。――クリスティーネさんも、もっと早くこの町へ来ればよかったのに。――主人は、ほんとうに、うちのなかを、品良く、楽しくする術《すべ》を心得ているの。
【リンデ夫人】 あなただってそうよ。そう思うわ。やっぱりおとうさんの娘《こ》だけのことあるわ。ところで、ねえ、――ランク先生は、いつもきのうみたいにふさいでいらっしゃるの?
【ノーラ】 いいえ、きのうはとても変だったわ。でも、あのかた、たいそう危険な病気をお持ちなの。お気の毒に、脊髄《せきずい》結核ですって。あの、おとうさんがおそろしくふしだらで、愛人が何人もいたりしたもので、あのかた、お小さいときから病身だったんですって、おわかりになる?
【リンデ夫人】 〔縫物をひざにおいて〕おや、まあ、ノーラさん。どうしてそんなことごぞんじなの?
【ノーラ】 〔歩きまわりながら〕それはね、――こどもが三人もいれば、ときどきいろんな人がやって来るものよ。――女の人ですけれど。医学のことを聞きかじって、いろいろおしえてくれるわ。
【リンデ夫人】 〔また縫いはじめる。しばらく黙っていた後〕ランク先生は、毎日ここへいらっしゃるの?
【ノーラ】 それはもう一日もかかさず――主人のこどものころからの友人で、わたしの親友でもあるの。ランク先生は、この家にいついていらっしゃるようなものよ。
【リンデ夫人】 でもねえ、あの男、ちゃんとしたまじめな人? というのは、人におべっかを言って歩くような人じゃないの?
【ノーラ】 いいえ、その反対。なんでそんなことおっしゃるの?
【リンデ夫人】 きのうあなたが紹介してくださったとき、あの人、お宅でわたしの名前をよく聞いたことがあるってはっきりおっしゃったのに、あとで気がついたのだけれど、ご主人は、わたしのことを全然ごぞんじないようなご様子だったわ。それじゃあ、ランク先生はどこで――?
【ノーラ】 クリスティーネさん、そのとおりよ。主人はわたしをとっても愛していて、自分だけのものにしておきたいって言うの。最初のうちは、実家にいたころの、なつかしい人たちの名前を口にしただけでも、|やきもち《ヽヽヽ》を妬《や》いたわ。だから、しょうがないから、やめたの。でも、ランク先生とは、よくそんなお話をするのよ。喜んで聞いてくださるもので。
【リンデ夫人】 ノーラさん、あなたって、まだこどもみたいなところがあるのね。わたしは、あなたよりだいぶ年をとっているし、少しは経験も積んでいるわ。悪いこと言わないから、ランク先生のことは、もうやめにしておきなさいよ。
【ノーラ】 何をやめにしておけっていうの?
【リンデ夫人】 あれやこれやいろいろなこと。あなた、きのう、お金持ちの崇拝者の話をしていたでしょう? ほら、あなたにお金を貸してくださる――
【ノーラ】 ええ、でも残念。そんな人いないわ。だけど、それがどうしたっていうの。
【リンデ夫人】 ランク先生、お金持ち?
【ノーラ】 ええ。
【リンデ夫人】 係累《けいるい》はないのね?
【ノーラ】 ええ、だれも。でも――?
【リンデ夫人】 で、毎日お宅へいらっしゃるのね。
【ノーラ】 ええ、さっきも言ったとおり。
【リンデ夫人】 でも、りっぱなおかたが、どうしてそんなに厚かましいことを?
【ノーラ】 なんのことだか、さっぱりわからないわ。
【リンデ夫人】 ノーラさん、とぼけるのはよしてよ。どなたから千二百ダーレル借りたか、わたしにわからないと思って?
【ノーラ】 まあ、気でも違ったの? そんなことを考えるなんて! 毎日かかさずやって来る、わたしたちのお友だちよ! そんなことしたら、おそろしく苦しい立場になるんじゃない?
【リンデ夫人】 それじゃあ、ほんとうにあの人から借りたのじゃないの?
【ノーラ】 違うわ。絶対違うわ。そんなこと考えたこともないわ。それに、ランク先生も、あの頃はお金がなかったのよ。あとで遺産を相続なさったの。
【リンデ夫人】 そう。ノーラさん、それであなたは助かったと思うわ。
【ノーラ】 まあ、ランク先生にお願いするなんて。どうしても考えられないわ。でも、お願いしたら、きっと――
【リンデ夫人】 でも、もちろんそんなことはなさらないわね。
【ノーラ】 もちろんよ。その必要がおきるとも思わないわ。でも、もし先生に打ち明けたら、きっと――
【リンデ夫人】 ご主人にないしょで?
【ノーラ】 ほかに決着をつけなければならないことがあるのよ。それも主人にはないしょなの。なんとか始末をつけてしまわなければならないのよ。
【リンデ夫人】 そうよ。わたしもきのうそういったでしょう。でも――
【ノーラ】 〔行ったり来たりする〕こういうことは、女より男のほうが、ずっとうまく解決できるわ。
【リンデ夫人】 そうよ。夫のほうがね。
【ノーラ】 まあ、そんなこと!〔立ちどまって〕借りているものを全部返せば、借用証書はもどってくるのでしょう?
【リンデ夫人】 ええ、もちろん。
【ノーラ】 そしたら、ずたずたに引き裂いて、燃やしてしまってもいいのでしょう? あんなけがらわしい紙きれなんか、見るのもいや!
【リンデ夫人】 〔ノーラを鋭く見つめ、着物を下においてから、ゆっくり立ち上がる〕ノーラさん。あなた、まだ何かわたしにかくしているわね。
【ノーラ】 わたしの顔を見れば、わかるの?
【リンデ夫人】 きのうの朝以後に、何かあったのね? いったい、なにごとが起きたの?
【ノーラ】 〔リンデ夫人にむかって〕クリスティーネさん!〔耳を澄ます〕しーっ! 主人が帰ってきたわ。さあ、こどもたちのところへいっててよ。うちの人、針仕事が大きらいなの。アンネ・マリーエに手伝わせて。
〔左手から出てゆく、同時にヘルメルが玄関からはいってくる〕
【ヘルメル】 今のは仕立屋かい?
【ノーラ】 いいえ、クリスティーネさんよ。衣装を直すのを手伝ってもらっているの。きれいになって見せるわよ。
【ヘルメル】 ああ、それはいい思いつきだ。
【ノーラ】 いい思いつきでしょう? それにしても、わたし、あなたの言うとおりにして、偉いでしょう?
【ヘルメル】 〔ノーラのあごの下にさわる〕偉い?――夫のいうとおりにするのが、偉いっていうのかい? おい、お茶目さん。そういう意味で言ったのじゃないっていうことは、よくわかっているぜ。それはそうとして、おまえのじゃまをするのはもうよそう。これから、仮縫《かりぬ》いをしようっていうんだろう?
【ノーラ】 あなたもお仕事でしょう?
【ヘルメル】 ああ。〔書類を一束《ひとたば》見せる〕ほら、ごらん。銀行へいってきたのだ。〔自分の部屋《へや》にはいろうとする〕
【ノーラ】 あなた。
【ヘルメル】 〔立ちどまる〕なんだい。
【ノーラ】 あの、――あなたの小りすが、いま、もし真心をこめてお願いしたら――?
【ヘルメル】 なんだって?
【ノーラ】 願いをかなえてくださる?
【ヘルメル】 それは、まずどういうことだか、聞いて見なければ。
【ノーラ】 もしもあなたが言うとおりにしてくださったら、りすさんは跳《は》ねまわって、いろんな芸をして見せるわ。
【ヘルメル】 さあ、ああ、なんのことだか、言ってごらん。
【ノーラ】 ひばりさんは家《うち》じゅうで、高い声を出したり、低い声を出したりして、さえずりまわるわ――
【ヘルメル】 いつだって、そうしているじゃないか?
【ノーラ】 わたしは、妖精《ようせい》の乙女《おとめ》になって、月の光を浴びて踊ってあげるわ。
【ヘルメル】 おい、ノーラ。けさおまえが言っていたことじゃないだろうな?
【ノーラ】 〔近寄って〕そうなのよ。あなた、お願い。
【ヘルメル】 おまえは、よくもまあ、もう一度あのことを持ち出せたものだね?
【ノーラ】 どうしても、わたしの頼みをかなえてよ。どうしても、クロクスタが失業しないようにして。
【ヘルメル】 おい、ノーラ、あいつをやめさせたあとに、リンデさんを雇うことに決めているのだよ。
【ノーラ】 それはとてもありがたいけれど。でも、クロクスタ以外の人をだれか馘《くび》にしたらいいじゃないの。
【ヘルメル】 これは驚いた。信じられない。わがまま千万だ! おまえが勝手に、あいつのために口をきいてやるという約束をしたからといって、なにもこのおれが――
【ノーラ】 約束したから頼んでいるのじゃなくてよ。あなた自身のためなの。あの男は下等な新聞に記事を載せるでしょう。あなたがそうおっしゃったじゃないの。あいつは、あなたに対して、どんなにひどいことをするかわからないわ。あの人がこわくてこわくて――
【ヘルメル】 ああ、やっとわかった。昔のことを思い出して、すっかりおびえているのだな。
【ノーラ】 それ、どういう意味?
【ヘルメル】 おとうさんのことを考えているんだろう。
【ノーラ】 ええ。ええ。そうよ。悪意を持った人たちが、父のことを新聞に書きたてて、とてもひどい悪口を言ったのよ。もし、あなたが本省から調査のため派遣されておいでになって、ああいうふうに好意をもって助けてくださらなかったら、父はきっと馘《くび》になっていたわ。
【ヘルメル】 でも、おまえのおとうさんとぼくとはだいぶ違う。おとうさんは、公務員として、全然うしろめたいところのない人ではなかった。だが、ぼくは絶対に潔白だ。また、現在の地位にあるかぎり、そうありたいと思う。
【ノーラ】 でも、悪い人たちは、どんなことを思いつくか、わからないわ。今こそわたしたち、この平和で心配のない家庭で、楽しく、静かで、幸福な生活を送ることができるのよ。――あなたと、わたしと、こどもたちと、みんないっしょにね。後生《ごしょう》だから、お願い――
【ヘルメル】 おまえがあいつをかばおうとして言っているのとまったく同じ理由で、ぼくはあいつを置いておくわけにはいかないのだ。ぼくがクロクスタを馘にしようとしているということは、もう銀行中に知れわたっている。もし、新しい頭取《とうどり》が、いったん決めたことを、奥さんのためにひっくりかえしたというようなうわさがたったら――
【ノーラ】 そうなったらどうなるの――?
【ヘルメル】 あたりまえじゃないか。かわいいおまえのわがままが通ったとなると――ぼくは行員全部のもの笑いの種になってしまうさ。みんな、ぼくのことを、そとからの影響でふらふら動く男だと思うだろう。その結果は、すぐに現れてくるよ。それにまた、ぼくが頭取《とうどり》であるかぎりクロクスタを銀行に残しておけない事情が、ほかにもあるのだ。
【ノーラ】 それはいったいどういう事情なの?
【ヘルメル】 あの男のあやまちのことは、やむをえない場合にはまあ大目にみることができるかもしれないが――
【ノーラ】 ええ、あなた、できるわ。そうでしょう?
【ヘルメル】 それに、あいつはなかなか役にたつ男だということも聞いている。だが、あいつは、ぼくの若いころからの友だちなのだ。ほら、よくあるやつさ。うっかり、軽率につきあいをしてしまって、あとになってから後悔する。おまえだから打ち明けるが、あいつとは「きみ、ぼく」の間柄なのだ。あいつは無考えだから、人前でも平気でその調子でやってのけるのだ。かくすどころか、――ぼくにむかってなれなれしい調子で話しかける権利があると思っている。そこで、いつも、「おい、ヘルメル君」という切札を使う。それがぼくはいやでたまらないのだ。あいつがいるために、銀行におけるぼくの地位が保てなくなる。
【ノーラ】 あなた、まさかまじめにそんなことをおっしゃっているのではないでしょうね。
【ヘルメル】 なんだって? もちろんまじめさ。
【ノーラ】 だって、そんなこと、たいして気にかけるようなことではないもの。
【ヘルメル】 なんだって? たいしたことでない? おまえは、ぼくのことをたいした男でないと思っているのか!
【ノーラ】 いいえ、違うわ、正反対! だからこそ――
【ヘルメル】 ああ、もういい。おまえに言わせると、ぼくの動機はたいしたものではない。だから、ぼくもたいしたものではないというのだろう。たいしたことではない! そうかい!――さあ、この一件に、決着をつけてしまわなければ――〔玄関の扉《とびら》のところへいって、叫ぶ〕ヘレーネ!
【ノーラ】 何をなさろうっていうの?
【ヘルメル】 〔たくさんの書類の中を捜す〕決着をつけるのさ。〔女中がはいってくる〕
【ヘルメル】 ほら、この手紙を持って、すぐ使いにいってきてくれ。メッセンジャーをつかまえて、届けさせるのだ。急いで行かせるのだよ。あて名は表に書いてある。ほら、お金。
【女中】 はい。〔出てゆく〕
【ヘルメル】 〔書類をかたづける〕さあ、強情屋《ごうじょうや》さん。どうかね。
【ノーラ】 〔息苦しそうに〕あなた、――あれ何のお手紙?
【ヘルメル】 クロクスタの解雇《かいこ》通知だ。
【ノーラ】 とりもどして! まだまにあうわ。ねえ、あなた! とりもどして! お願い! わたしのために、――あなたのために! こどもたちのために! ねえ、あなた、お願い! この結果、わたしたちみんながどんなめにあうか、ごぞんじないのよ。
【ヘルメル】 もうまにあわないよ。
【ノーラ】 ああ、もうまにあわない。
【ヘルメル】 おい、ノーラ。だいたいおまえがそんな心配をするっていうことが、ぼくに対する侮辱《ぶじょく》だ。でも、それはまあ許してやろう。ああ、侮辱だとも! あんな、落ちぶれた三文弁護士の復讐《ふくしゅう》を、ぼくがこわがるなんて思うのは。だが、それは大目に見ておこう。おまえがぼくを愛しているという、確固たる証拠だもの。〔両腕で、ノーラのからだを抱く〕なあ、おまえ。こういうふうにしてね、矢でも、鉄砲でも来いだ。いざという時には、ぼくには勇気もあれば、力もある。見ていろ。なんでも一身に引き受けてやるから。
【ノーラ】 〔恐怖に打たれて〕それ、どういう意味?
【ヘルメル】 なんでも引き受けるって言っているんだ。
【ノーラ】 〔冷静さをとりもどして〕そんなことなさってはいけないわ。
【ヘルメル】 よろしい。それなら、ノーラ。夫婦として、二人で分担しよう。そうあるべきだよ。〔ノーラを愛撫《あいぶ》する〕さあ、満足だろう? そら、そら。そんなにびっくりして鳩《はと》のような目をするのはおよし! みんな、根も葉もない空想さ。――さあ、タランテラのおさらいをして。タンブリンのけいこをしなくては。ぼくは事務所にとじこもって、あいだの扉《とびら》をしめておくから、なにも聞こえないよ。〔戸口でふりむく〕それから、ランク君が来たら、ぼくの居場所を教えてやってくれ。〔ノーラにむかってうなずいて見せ、書類を持って自分の部屋《へや》にはいり、戸をしめる〕
【ノーラ】 〔心配のあまり絶望的になり、根が生えたように立ちすくんで、ささやく〕あの人ならやれるわ。やるわ。必ず、きっと、やるわ。――でも、どんなことがあっても、そんなことになってはいけないわ! ほかのことはどうであろうと、こればかりはいけない! なんとか助かる方法は――逃げ道は――〔玄関のベルが鳴る〕ランク先生だわ――! ほかのことはどうであろうと、こればかりは! ほかのことなら、かまわないけれど!〔自分の顔を撫《な》ぜ、気をとりなおし、歩いていって、玄関へ通じる扉《とびら》をあける。ランク博士が、そとにいて、毛皮の外套《がいとう》をかけている。次の対話がかわされるあいだ、あたりはしだいに暗くなってゆく〕
【ノーラ】 ランク先生、こんにちは。ベルの鳴らし方で、先生だということがわかりました。でも、いま、トールヴァルのところへおいでになってはいけないわ。なにか仕事の最中《さいちゅう》ですから。
【ランク】 あなたもお忙しいのですか?
【ノーラ】 〔ランク部屋にはいる。ノーラがそのあとの戸をしめながら〕あーら、ごぞんじのくせに。――わたし、先生のためには、いつでも暇《ひま》がとってありますわ。
【ランク】 いや、ありがとう。お言葉に甘えさせていただきましょう。それが可能なあいだはね。
【ノーラ】 まあ、どういう意味ですの? 可能なあいだは、ですって?
【ランク】 ええ、びっくりなさいました?
【ノーラ】 とても変なことをおっしゃるんですもの。なにか起きるのですか?
【ランク】 ながい間覚悟していたことが起こるのです。もっとも、こんなに早く来るとは思いませんでしたが。
【ノーラ】 〔ランクの腕をつかむ〕どんなことがおわかりになったのです? 先生、教えて下さい。
【ランク】 〔暖炉のそばに腰をおろす〕わたしは、もういよいよだめです。手の施しようがありません。
【ノーラ】 〔ほっと息をついて〕あら、ご自分のことなの――?
【ランク】 わたし以外の何人でもありません! 自分自身にうそをついてもむだです。奥さん、わたしの患者たちなかで、いちばんみじめなのはこのわたしです。ここ数日間、わたしは自分のからだの状態をすっかり調べてみました。破産です。今から一か月以内に、おそらく墓地に横たわって、腐ってゆくでしょう。
【ノーラ】 あらまあ、気味が悪いお話。
【ランク】 おそろしく醜いことなのです。でも、いちばんいやなのは、まずいろいろときたないことが起こることです。もうひとつだけ、検査をしなければならないのですが、それがすめば、およそいつごろからだが分解しはじめるか、見当がつきます。そこで申し上げたいことがあります。ヘルメル君は神経質だから、きたないものを見るのがおそろしくきらいです。ヘルメル君に見舞いに来てもらいたくありません。――
【ノーラ】 でも、ランク先生――
【ランク】 ヘルメル君には、どんなことがあっても、病室に来てもらいたくないのです。ヘルメル君に対しては、面会謝絶にしておきます。――最悪の事態が起こることが確実になったら、名刺に黒い十字を書いてお届けします。そうしたら、からだの破壊に付随するいろいろの醜い現象がはじまったと御承知ください。
【ノーラ】 あら、先生、きょうはどうかしていらっしゃるわ。ご機嫌《きげん》がいいと思っていたのに。
【ランク】 死神《しにがみ》と手をとりあいながら、ですか?――わたしは、こうふうにして、他人《ひと》が犯した罪の償《つぐな》いをしているのです。こんな不公平なことがあるものでしょうか? もっとも、こんな救いのない報復って、どこの家にもあるものですがね――
【ノーラ】 〔耳をおおって〕ああ、たまらない! さあ、陽気に、陽気にしましょう。
【ランク】 いや、まったくのところ、お笑い草なんですよ。何の罪もないわたしの脊髄《せきずい》が、かわいそうに、おやじが中尉時代に遊んだために、苦しまなければならないのですから。
【ノーラ】 〔左手のテーブルのところで〕おとうさまは、アスパラガスとか、鵞鳥《がちょう》の肝《きも》のペーストが、大好物でいらしたのね?
【ランク】 ええ、それにフランス松露《しょうろ》〔食用きのこ〕も。
【ノーラ】 ええ、フランス松露も。それから、|かき《ヽヽ》も、でしょう?
【ランク】 ええ、|かき《ヽヽ》も。もちろん大好きでした。
【ノーラ】 それから、いろんなワインやシャンペンも。こういうおいしいものが、みんな脊髄にたたるなんて、憂鬱《ゆううつ》だわ。
【ランク】 それがまた、そんな物を味わったことのない、みじめな人間の脊髄にたたるのだから。
【ノーラ】 ええ、ほんとうに。そんな憂鬱なことってないわ。
【ランク】 〔ノーラの顔色を見ようとしてのぞきこむ〕うーん――
【ノーラ】 〔すこしたってから〕なぜお笑いになったの?
【ランク】 笑ったのは、あなたのほうですよ。
【ノーラ】 いいえ、先生のほうがお笑いになったのよ!
【ランク】 〔立ち上がる〕あなたは、思ったよりお人が悪い。
【ノーラ】 わたしは、きょうはいたずらがしたくてたまらない気持ちなの。
【ランク】 そうらしいですな。
【ノーラ】 〔両手をランクの肩において〕先生、お願い! わたしやトールヴァルをあとに残して、死んでしまわないで!
【ランク】 寂しくても、ほんのしばらくのあいだだけです。いなくなった者は、すぐ忘れられてしまいます。
【ノーラ】 〔心配そうにランクをみて〕そうお思いになる?
【ランク】 新しい人間関係ができます。そして――
【ノーラ】 だれが新しい人間関係を結ぶの?
【ランク】 あなたも、ヘルメル君も。わたしがいなくなったら。あなた自身、もうお始めになったようですね。あのリンデ夫人というかた。きのうの晩なにをなさいました。
【ノーラ】 おや、まあ、――先生はまさかあのお気の毒なクリスティーネさんに対して、やきもちを妬《や》いていらっしゃるのではないでしょうね?
【ランク】 ところが妬いているんです。リンデさんはこの家でわたしの後継者になるでしょう。わたしがいなくなったあとは、たぶんあの人が――
【ノーラ】 しーっ! そんな大きな声をしないで。奥にいらっしゃるのよ。
【ランク】 きょうもですか? ほーら、言わないことじゃない。
【ノーラ】 わたしの衣装を縫いにですよ。ほんとまあ、先生、きょうはどうかしていらっしゃるわ。〔ソファーにすわって〕先生、いい子だから、あしたはきれいな踊りを見せてあげるわ。先生だけのために踊っているのだと思ってちょうだい。トールヴァルのためでもあるのですけれど、――そんなこと言わなくたってあたりまえでしょう。〔箱のなかから、いろいろな物を出す〕先生、そこにお掛けになって。いい物をお見せするわ。
【ランク】 〔腰かける〕何ですか?
【ノーラ】 さあ、ごらんなさい!
【ランク】 絹の靴下――
【ノーラ】 肉色よ。きれいでしょう? 今、この部屋《へや》はこんなに暗いけど、あすは――あら、いやだわ。いやよ。足の先だけごらんになるのよ。ええ。でも、まあいいわ。上の方を見ても。
【ランク】 うーん――
【ノーラ】 なぜそんなにむずかしい顔をしていらっしゃるの? わたしに合わないとでも思っていらっしゃるの?
【ランク】 事実にもとづいて、意見を申し述べることはできませんな。
【ノーラ】 〔ちらっとランクを見て〕まあ、あきれたお方。〔靴下で軽くランクの耳を打つ〕これが罰よ。〔靴下を、もとどおりしまう〕
【ランク】 ほかに、いい物をみせていただけますか?
【ノーラ】 もうなんにも見せないわ。お行儀が悪いんですもの。〔鼻唄《はなうた》をうたいながら、いろいろな物のなかを捜す〕
【ランク】 〔しばらく黙っていた後に〕こうしてあなたと心やすく、いっしょにすわっていると、わからなくなってしまいます。もしお宅にうかがわなかったら、わたしは、どんなことになっていたか、――まったく想像もつきません。
【ノーラ】 〔微笑しながら〕うちにおいでになっていらっしゃるときは、ほんとうに楽しそうね。
【ランク】 〔前より静かに、前の方をぼんやり見ながら〕それなのに、なにもかも遺《のこ》してゆかなければならないなんて――
【ノーラ】 ご冗談《じょうだん》でしょう。いっておしまいになんか、ならないわ。
【ランク】 〔前のとおりの調子で〕――そして、貧弱な感謝のしるしさえも遺《のこ》してゆけないとは。いなくなったといって、寂しがってもらえるのも、ほんの束《つか》の間《ま》。――いわばあいた座席のようなもので。すぐにまただれかがそこへすわり込んでしまう。
【ノーラ】 もし、わたしがお願いしたら――? やっぱりだめだわ――
【ランク】 なんです? いったいそれは。
【ノーラ】 先生の友情の大きな証拠をお示しになってくださいって、お願いしたら――
【ランク】 え?
【ノーラ】 その、つまり、――とほうもなく大きなことをお願いしたら――
【ランク】 このわたしを、思い切り幸福にしてくださろうっていうのですな?
【ノーラ】 あら、まだなんのことだか、全然ごぞんじないのに。
【ランク】 よろしい。言ってごらんなさい。
【ノーラ】 いいえ、だめ。言えないわ。とんでもない、ご迷惑なことなの。相談に乗っていただいて、助けていただいて、お骨折りまで、お願いしようっていうの――
【ランク】 たいへんなことなら、たいへんなほど、結構です。どういうことをお考えなのか、わたしにはさっぱりわかりません。さ、おっしゃってください。わたしにお気が許せないのですか?
【ノーラ】 それはもう、ほかのどなたよりも。あなたはわたしにとって、いちばん信用のおける、いいお友だちよ。だから、申し上げますわ。ランク先生。お力をお借りして、ある事態が起こるのを止めていただきたいの。主人がわたしを心から愛していることはよくごぞんじでしょう。主人は、いつ何時《なんどき》でも、わたしのためなら、命を棄てるのを躊躇《ちゅうちょ》しませんわ。
【ランク】 〔ノーラの方に身をかがめて〕ノーラさん。――そういう人が、ヘルメル君以外にいないとでも思っていらっしゃるのですか?
【ノーラ】 〔ちょっと、びくっとして〕とおっしゃいますと?
【ランク】 あなたのためなら、よろこんで命を投げ出す人がですよ。
【ノーラ】 〔苦しそうに〕あ、そう。
【ランク】 わたしは、姿を消してしまう前に、あなたに打ち明けようと、心に誓いました。こんないい機会はありません。――さ、ノーラさん。わかったでしょう。それから、あなたのお気持ちを打ち明ける相手として、このわたしがほかのだれよりむいていることもおわかりになったでしょう。
【ノーラ】 〔立ち上がって、何気なく、静かに〕ちょっと失礼します。前をごめんなさい。
【ランク】 〔場所をあける。しかしすわったまま〕ノーラさん――
【ノーラ】 〔玄関へ通じる扉《とびら》のところで〕ヘレーネさん。ランプを持ってきて――〔暖炉の方へゆく〕ああ、先生。ひどいわ。
【ランク】 〔立ち上がる〕わたしが、だれにも負けずにあなたを愛しているということがですか? それが、そんなにひどいことですか?
【ノーラ】 違いますわ。そんなことを、わざわざ口に出しておっしゃるのがひどいのよ。そんなこと、全然必要がないのに――
【ランク】 なんですって? じゃあ、ごぞんじだったのですか?
〔女中が、ランプを持ってきて、テーブルの上に置いて、また出てゆく〕
【ランク】 ノーラさん。――ヘルメルの奥さん。――何かごぞんじだったのですか?
【ノーラ】 知っていたか、知らなかったか、そんなこと知るもんですか? そんなこと言えませんわ。――先生、あなたは、ほんとうに不器用なかたねえ! いままで、なにもかも、あんなによかったのに。
【ランク】 とにかく、わたしが、身も心もあなたに捧げているということが、はっきりおわかりになったのだから、さあ、打ち明けてください。
【ノーラ】 〔ランクの顔を見る〕こんなことがあったあとで、ですか?
【ランク】 お願いです。なんのことだか、教えて下さい。
【ノーラ】 もう何も言えませんわ。
【ランク】 教えてください。そんなふうにわたしを罰するものではありません。人間の力でできるかぎりのことをあなたのためにさせてください。
【ノーラ】 あなたには、もう何もしていただくわけにゆきません。――それにわたし、何も助けていただく必要がないのです。何もかも、わたしの空想だったのです。ええ、ほんとうにそうよ。そうですとも!〔揺り椅子《いす》に腰かけ、ランクの顔を見て、にっこり笑う〕先生、あなたって、ほんとうにいいかたね。ランプがついてみると、てれくさくないこと?
【ランク】 いいえ、別に。でも、もう失礼しなくてはなりませんね。永遠に。
【ノーラ】 いいえ、そんなこと、いけませんわ。いままでどおりいらしていただかなくては。ごぞんじでしょうが、主人はあなたなしではいられないのですから。
【ランク】 ええ、知っています。でも、あなたはどう?
【ノーラ】 ええ、わたしも、あなたがおいでになると、家《うち》のなかがとっても楽しくなるような気がしてますわ。
【ランク】 ああ、それですよ。そのために、わたしはとんでもない思い違いをしてしまったのです。あなたという人は、わたしにとっては、正に謎《なぞ》です。わたしといっしょにいらっしゃるのがヘルメル君といっしょのときと、同じぐらい楽しそうだと。そんな気がしたことが幾度もあります。
【ノーラ】 あのねえ。だれよりも好きな人と、いっしょにいるのがいちばん楽しい人と、両方あるものよ。
【ランク】 ええ、そういうこともありますね。
【ノーラ】 里にいたころは、もちろんパパがいちばん好きでした。でも、いつも、女中|部屋《べや》にこっそりゆくのがとても楽しみでした。女中たちは、わたしにお説教はしませんし、お互いにおもしろいおしゃべりをしていたんですもの。
【ランク】 おや、おや、それでは、わたしが女中さんたちにとって代わったというわけですな。
【ノーラ】 〔とび上がって、ランクのところへゆく〕あら、先生、そんな意味で言ったのではないわ。でも、主人といっしょだと、パパといるみたいだと、いうことは、おわかりになるでしょう――
〔女中が玄関からはいってくる〕
【女中】 奥さま!〔ささやきながら、名刺を渡す〕
【ノーラ】 〔名刺をちらっと見て〕まら、まあ!〔名刺をポケットに入れる〕
【ランク】 何か悪いことが起きたのですか?
【ノーラ】 いいえ、別に。たいしたことないわ――わたしの新しい衣装が――
【ランク】 なんですって? 衣装はそこにあるじゃないですか?
【ノーラ】 ええ、でも、もう一つのほうですの。別のを注文したの――主人にはないしょよ――
【ランク】 ああ、二人のあいだの、大きな秘密っていうわけですな。
【ノーラ】 ええ、そう。主人のところへいらしてちょうだい、奥の部屋《へや》にいますわ。引きとめておいてください。こちらがすむまで。
【ランク】 ご安心ください。出てこないようにしますから。〔ヘルメルの部屋へはいってゆく〕
【ノーラ】 〔女中にむかって〕あの男は、お勝手で待っているのね?
【女中】 ええ、裏の階段から来ました。
【ノーラ】 それにしても、先客がいるって言わなかったの?
【女中】 ええ、でもむだでした。
【ノーラ】 帰らなかったというわけね。
【女中】 はい、奥さまにお目にかかるまでは、帰りませんって――
【ノーラ】 それなら通してちょうだい。でも、こっそりとね。だれにも言わないでね。家《うち》の人をびっくりさせるのだから――
【女中】 はい、はい。かしこまりました。〔女中退場〕
【ノーラ】 おそろしいことが起きるわ。いずれにしても避けられないこと。いいえ、違う。断じて違う。そんなことになっては、いけない。〔ヘルメルの部屋へ通じる扉《とびら》のところへいって、錠《じょう》をかける〕
〔女中は玄関の扉をあけて、クロクスタをなかへいれ、また戸をしめる。クロクスタは、旅行用の毛皮の外套《がいとう》を着、長靴をはき、毛皮の帽子をかぶっている〕
【ノーラ】 〔クロクスタのそばへいって〕小さな声でお話しになってください。主人が家におりますの。
【クロクスタ】 いっこうに差しつかえありません。
【ノーラ】 何のご用です?
【クロクスタ】 ちょっとお聞きしたいことがあったもので。
【ノーラ】 では早くおっしゃって。何ですの?
【クロクスタ】 わたしが解雇《かいこ》されたことはごぞんじですな。
【ノーラ】 クロクスタさん、とめられなかったのよ。とことんまで、あなたのために闘ったのだけど、だめでした。
【クロクスタ】 ご主人は、あなたに対して、そんなに冷たいのですか? わたしが、あなたをどんなめにあわせることができるか、知っているくせに、よくもまあ――
【ノーラ】 主人が知っているなんて。そんなこと、ありえない――
【クロクスタ】 おおかたそんなことだろうと思っていました。善良なトールヴァル・ヘルメル君が、そんな男らしい勇気を持っているはずがないから――
【ノーラ】 クロクスタさん。主人について、そんな失礼なことをおっしゃらないでください。
【クロクスタ】 もちろん、払えるだけの尊敬は払いますよ。しかし、奥さん。そんなにむきになって、ご主人にかくしていらっしゃるところをみると、ご自分がなさったことについて、きのうよりは、もう少しよくおわかりになってきたのでしょうな?
【ノーラ】 あなたなんかに教わるより、ずっとよくわかったわ。
【クロクスタ】 どうせわたしは、三文弁護士ですからね――
【ノーラ】 何のご用ですの?
【クロクスタ】 ちょっとごきげんうかがいに上がっただけですよ、奥さん。わたしは一日中あなたのことを考えていました。債権《さいけん》取立屋だの、へっぽこ代弁人だのと言われる――このわたしのような者でも、情けというものを、少しはわきまえていますからね。
【ノーラ】 それなら、行為にあらわしてください。小さなこどもたちのことも考えてよ。
【クロクスタ】 ご主人は、わたしのこどもたちのことを考えてくれましたかな? まあ、そんなことはどうでもいいけれど。わたしが申し上げようとおもったのは、この問題をあまり深刻にお考えにならなくてもいいということです。わたしのほうから訴えるようなことはしませんから。
【ノーラ】 あら、そう。そうでしょう。そうだとおもっていましたわ。
【クロクスタ】 万事、友好|裡《り》に解決できるのです。世間に知らせる必要は毛頭《もうとう》ありません。われわれ三人のあいだだけで、話をすればよいのです。
【ノーラ】 どんなことがあったって、夫に知らせるわけにはいきませんわ。
【クロクスタ】 かくしておくわけにはいかないでしょう? それとも。残金を全部返せるとでも、おっしゃるのですか?
【ノーラ】 いいえ、いますぐには――
【クロクスタ】 それとも、近いうちに金をつくる算段がおありなのですか?
【ノーラ】 いいえ、たとえあっても、そんなことしたくないわ。
【クロクスタ】 そんなくめんをなさったって、むだでしょう。いますぐに耳を揃えて現金をお出しになっても、証書はお返ししませんよ。
【ノーラ】 それでは、何にお使いになるつもりなのか、おっしゃってください。
【クロクスタ】 とっておきたいのです。――保存しておきたいのです。関係のない人には見せません。でも、あなたが、やけくそになって、とんでもない決心などなさったら――
【ノーラ】 ええ、そうしますわ。
【クロクスタ】 ――もし家出でも、お考えになったら――
【ノーラ】 そうしますわ!
【クロクスタ】 ――それとも、もっとひどいことをなさろうとお思いになるようなことがあったら――
【ノーラ】 どうして、そんなことがわかったのですか?
【クロクスタ】 ――そんなことはおよしなさい。
【ノーラ】 わたしの考えていることが、どうしてわかったのですか?
【クロクスタ】 たいていの人は、まずそうしようと思うのです。わたしも、そう思いました。だが、勇気を持ちあわせていなかったのです。
【ノーラ】 〔声を出さずに〕わたしにも、ありませんわ。
【クロクスタ】 〔ほっとして〕ねえ、そうでしょう。あなたにも、勇気がないですね?
【ノーラ】 ああ、ないわ。ないわ。
【クロクスタ】 それに、そんなことをしたら、ほんとうにばかばかしいですよ。ちょっと家庭内で嵐《あらし》が吹いて、それがやんでしまえば――ところで、これがご主人あての手紙です――
【ノーラ】 なにもかも書いてあるのね――
【クロクスタ】 できるだけ控えめな表現で――
【ノーラ】 〔早口で〕その手紙を夫に見せてはいけないわ。ずたずたにやぶいてください。お金の都合はなんとかつけますから。
【クロクスタ】 奥さん。失礼ですが、たったいま申し上げたとおり――
【ノーラ】 お借りしたお金のことを言っているのじゃなくてよ。夫からいくらお取りになりたいのか、おっしゃってください。なんとかくめんしますわ。
【クロクスタ】 ご主人に、お金を要求などしません。
【ノーラ】 何を要求されるのです?
【クロクスタ】 教えてあげましょう。奥さん。わたしは立ち直りたいのです。浮かび上がりたいのです。そのために、ご主人に助けていただきたいのです。この一年半というもの、わたしはなにもうしろ暗いことをしませんでした。そのあいだ、いろいろ苦しいことと闘いながら、一歩一歩、努力を重ねることで満足しました。ところが、追っ払われてしまったのです。おなさけで、もとどおりにしてもらうだけでは不満足です。浮かび上がりたいのです。銀行へもどって、――もっと高い地位に就《つ》きたいのです。ご主人に、地位をつくってもらわなければなりません――
【ノーラ】 あの人、絶対にそんなことしませんわ!
【クロクスタ】 いや、しますよ。わたしはご主人をよく知っています。とやかく言うような勇気のある男じゃありません。そして、いったんわたしがご主人といっしょに銀行に勤めたら、見ていてください! 一年たたないうちに、頭取《とうどり》の片腕になって見せますよ。株式銀行を動かしているのは、トールヴァル・ヘルメルでなくて、ニルス・クロクスタだ、といわれるようになりますよ。
【ノーラ】 絶対そんなことになりませんわ!
【クロクスタ】 ひょっとすると、あなたは――?
【ノーラ】 こうなったら、思いきってやる勇気が出てきました。
【クロクスタ】 おどかしたってだめですよ。あなたのように、上品で、スポイルされたレディーが――
【ノーラ】 まあ、見ていらっしゃい。見ていらっしゃい
【クロクスタ】 氷の下にもぐるのですか? 冷たい、まっ黒な水の中にはいるのですか? 春になると浮かんできますよ。だれだかわからない、醜《みにく》い姿になって、髪の毛も抜け落ちて――
【ノーラ】 おどかしたって、だめですよ。
【クロクスタ】 あなたこそ、わたしをおどかしたって、ききませんよ。奥さん、そんなことをする人はいませんよ。それに、なんの役にもたちません。ご主人は、完全におさえこんでありますからね。
【ノーラ】 後になっても? わたしがもういなくなっても――?
【クロクスタ】 あなたの亡《な》くなった後の評判も、わたし次第でどうにもなるということをお忘れなく――
【ノーラ】 〔言葉につまって、クロクスタを見つめている〕
【クロクスタ】 さあ、これであなたの準備教育は終わりました。まあ、無茶はしないことですな。ヘルメル君がわたしの手紙を読んだら、何とか言ってよこすでしょう。わたしがこんなことをせずにはいられなくなるように仕向けたのは、ご主人だということをお忘れなく。絶対に許せないことです。では、さようなら。〔玄関から出てゆく〕
【ノーラ】 〔玄関に通じる扉《とびら》のところへゆき、細目にあけて、耳をすます〕出てゆくわ。手紙を渡してくれないで――いいえ、渡してくれるはずがないわ!〔扉をしだいにひろくあける〕おや、なんだろう? まだ外に立っているわ。階段をおりてゆかないで――考えなおしているのかしら? もしかすると――〔手紙が一通郵便箱の中に落ち、それから、クロクスタの足音がきこえ階段をおりてゆくにつれて、消えてゆく〕
【ノーラ】 〔低い悲鳴をあげ、部屋《へや》を横ぎって、ソファーのそばのテーブルのところへゆく。短い間《ま》〕郵便箱の中だわ。〔おそるおそる、抜き足差し足で、玄関に通じる扉のところへゆく〕あそこにあるわ。あなた、あなた、――わたしたち、もうおしまいよ!
【リンデ夫人】 〔衣装を持って、左手の部屋からはいってくる〕さあ、すっかり直ったと思うわ。ちょっと着てみて――
【ノーラ】 〔しわがれ声で、低く〕クリスティーネさん。ちょっと来て――
【リンデ夫人】 〔衣装をソファーの上に投げだして〕あら、どうかなさったの? お顔色が悪いわ。
【ノーラ】 こっちへ来てよ。あの手紙見える? あそこよ。ガラス越しに、郵便箱の中にあるのが見えるでしょう。
【リンデ夫人】 ええ、よく見えるわ。
【ノーラ】 クロクスタの手紙なの――
【リンデ夫人】 ノーラさん。――クロクスタからお金を借りたのね?
【ノーラ】 そうなの。それがいま、なにもかも主人に知れてしまうの。
【リンデ夫人】 かえってそのほうが、あなた方お二人のためにはいいのよ。
【ノーラ】 まだ、もっとひどいことをしてしまったのよ。わたし、偽《にせ》の署名をしたの。
【リンデ夫人】 まあ、そんな大それた――?
【ノーラ】 クリスティーネさん。お願いがあるの。証人になってくださらない。
【リンデ夫人】 証人って、どんな――? どういうことをしたらいいの?
【ノーラ】 もし、わたしが気が狂うようなことがあったら――。ほんとうに、発狂してしまいそうなの――
【リンデ夫人】 まあ、ノーラさん!
【ノーラ】 それとも、ほかにわたしの身の上になにか起きたら、――なにか、ここにいられなくなるようなことが起きたら――
【リンデ夫人】 まあ、ノーラさん、あなた、どうかしているわね!
【ノーラ】  そして、すべての責任を自分で引きかぶるような人が出てきたら――ねえ、わかる?
【リンデ夫人】 ええ。でも、どうして、そんなことをお考えになるの――?
【ノーラ】 そうしたら、それはうそだと証言してちょうだい。ね、お願い。わたしは別にどうもしていないわ。完全に正気よ。あなたに言っておくけれど、あの件は、ほかにだれも知らないの。全部わたしがしたことなの。よく覚えておいてちょうだい。
【リンデ夫人】 覚えておくわ。なんだかよくわからないけど。
【ノーラ】 わかるはずがないわ。すばらしいことが起きようとしているの。
【リンデ夫人】 すばらしいことって?
【ノーラ】 そう、すばらしいことよ。でも、とってもおそろしいことだから、――絶対に起きてはならないのよ。
【リンデ夫人】 ちょっとクロクスタさんのところへいって、話をつけてくるわ。
【ノーラ】 ゆかないで。あなたにもひどいことをするかもしれないわ。
【リンデ夫人】 昔、あの人、わたしのためなら何でもする気だったころがあったのよ。
【ノーラ】 まあ、あの人が?
【リンデ夫人】 住居《すまい》はどこ?
【ノーラ】 知らないわ――ああ、そう、そう、〔ポケットに手を入れる〕あの男の名刺があったわ。でもあの手紙が、あの手紙が――!
【ヘルメル】 〔自分の部屋《へや》のなかで、戸をたたきながら〕ノーラ!
【ノーラ】 〔こわがって、大声をあげる〕なあに? なんのご用?
【ヘルメル】 おい、なんだい、そんなにびっくりすることないじゃないか? ぼくたち、はいってゆけないんだ。おまえがかぎをかけてしまったものだから。衣装を着てみているのかい?
【ノーラ】 ええ、着てみているの。きれいになるわよ。あなた。
【リンデ夫人】 〔名刺を見てから〕あの人、すぐそこの角のところに住んでいるのね。
【ノーラ】 ええ、でも、もうだめ。わたしたち、救われないわ。あの手紙が郵便箱にはいっているんですもの。
【リンデ夫人】 かぎはご主人がお持ちなのね?
【ノーラ】 ええ、いつも。
【リンデ夫人】 手紙を読まないで返すように、クロクスタさんからご主人に頼ませなくては。何か口実を考えてもらって――
【ノーラ】 でも、うちの人は、いつもこの時間に郵便箱を――
【リンデ夫人】 引き延ばすのよ。ご主人の相手をしていらっしゃい。わたし、できるだけ早く帰ってくるわ。〔玄関に通じる戸から、急いで出てゆく〕
【ノーラ】 〔ヘルメルの部屋の戸口へゆき、扉《とびら》を開けて、なかをのぞく〕トールヴァル!
【ヘルメル】 〔うしろの部屋で〕やれ、やれ、やっと自分の家《うち》の居間にはいってもいいことになったのかい? ランク君、来たまえ。みせてもらおうじゃないか。〔戸口で〕おや、これは何だい?
【ノーラ】 なあに? あなた。
【ヘルメル】 ランク君の話だと、すばらしい仮装のシーンが見られるはずだったのに――
【ランク】 〔戸口で〕ぼくはそのつもりだったのだけれど、まちがっていたかな。
【ノーラ】 衣装をつけたすてきな姿は、あすにならなければ、だれにも見せないわ。
【ヘルメル】 だがおまえ、疲れきった顔をしているじゃないか。おけいこがすぎたのかね?
【ノーラ】 いいえ、まだ少しもやっていないの。
【ヘルメル】 でも、やらなければならないんだろう?
【ノーラ】 ええ、そりゃどうしてもしなければいけないんだけど、あなたに助けていただかなくては、どうにもならないの。なにもかも、すっかり忘れてしまったの。
【ヘルメル】 うん、いっしょにすぐ思い出せるさ。
【ノーラ】 ねえ、あなた。力になってちょうだい。ね、約束して! とっても心配だわ。だって、大きなパーティーでしょう――今晩は、わたしのこと以外はなにもしないで。仕事はいっさいやめて、ペンを持ったりしないでね。いいでしょう?
【ヘルメル】 ああ、いいとも。約束するよ。今夜は、おまえの用事以外は何もしないよ。かわいいおちびさん。――うん、そうだ。一つだけ、ちょっとしなければ――〔玄関に通じる戸口へゆく〕
【ノーラ】 何を見にゆくの?
【ヘルメル】 手紙がきているかどうか、見にゆくだけさ。
【ノーラ】 あなた、そんなことおやめになって! やめて!
【ヘルメル】 なんだって?
【ノーラ】 お願いだからやめて! 手紙なんか来ていやしないわよ。
【ヘルメル】 でも、ちょっと見てこよう。
【ノーラ】 〔ピアノにむかって、タランテラの最初の数小節をひく〕
【ヘルメル】 〔戸口で立ちどまる〕ほ、ほう!
【ノーラ】 あなたといっしょに練習しなくては、あした踊れないの。
【ヘルメル】 〔ノーラのところへゆく〕ノーラ、ほんとうにそんなに心配なのかい?
【ノーラ】 ええ、とても心配だわ。ねえ、すぐに練習させてよ。食事までまだ時間があるわ。まあ、腰かけて、ひいてちょうだい。直してちょうだい。いつものように指導してよ。
【ヘルメル】 いいとも、いいとも、ほかでもないおまえの望みだから。〔ピアノにむかって腰かける〕
【ノーラ】 〔箱からタンブリンをつかみとる。それから色模様のある長いショールを取り出して、手早くからだにまとい、一気に舞台にとび出して、叫ぶ〕さ、ひいて! 踊るわ!
〔ヘルメルがピアノをひき、ノーラが踊る。ランク博士は、ピアノのそばに立って、ながめている〕
【ヘルメル】 〔ひきながら〕もっとゆっくり。――ゆっくり。
【ノーラ】 こんなふうにしか、できないわ。
【ヘルメル】 ノーラ! そんなに乱暴に踊らないで。
【ノーラ】 これしかできないのよ。
【ヘルメル】 〔ひくのをやめて〕いや、はや、全然なっていない。
【ノーラ】 〔笑いながら、タンブリンを振る〕だから、言ったでしょう?
【ランク】 ぼくがひいてあげよう。
【ヘルメル】 〔立ち上がって〕うん。そうしてくれ。そうすれば、もっと指導しやすくなる。
〔ランクがピアノをひく、ノーラの踊りは、だんだん荒っぽくなる。暖炉のそばに立っているヘルメルは、踊っているノーラに絶えず注意をあたえる。しかし、ノーラの耳にははいらないようす。髪がほどけて、肩にたれさがる。ノーラは気にかけないで踊りつづける。リンデ夫人がはいってくる〕
【リンデ夫人】 〔呆然《ぼうぜん》として、戸口に立っている〕まあ――!
【ノーラ】 〔踊りながら〕クリスティーネさん。ごらんなさい。楽しいでしょう。
【ヘルメル】 おい、おい、おまえ、それでは、まるで命がけで踊っているみたいじゃないか。
【ノーラ】 ほんとうに命がけなの。
【ヘルメル】 ランク君、やめてくれ。これではまるで気違い沙汰《ざた》だ。やめてくれっていうのに。
〔ランク、ひくのをやめる。ノーラも急に踊るのをやめる〕
【ヘルメル】 〔ノーラのところへいって〕まさか、こんなだとは思わなかった。これでは、ぼくが教えてやったことを、すっかり忘れてしまっているじゃないか。
【ノーラ】 〔タンブリンをほうり出す〕そうなのよ。そのとおりなの。
【ヘルメル】 これでは、しっかりけいこをつけてやらなくては――
【ノーラ】 ええ、そうしなくてはだめ。なにもかも教えてちょうだい。ね、あなた、約束して。
【ヘルメル】 よし、よし、心配するな。
【ノーラ】 ねえ、あなた、きょうも、あすも、わたしのこと以外、なにも考えないでよ。手紙をひらいてもいや。――郵便箱をあけてもいやよ。
【ヘルメル】 おや、まだあの男をこわがっているのだな。
【ノーラ】 ええ、ええ、それもあるわ。
【ヘルメル】 おい、おまえの胸を見ればわかる。もう、郵便箱のなかに、あの男の手紙がはいっているのだな。
【ノーラ】 さあ、よくわからないけれど、たぶんはいっているわ。でも、きょうはそんな手紙を読んではいや。なにもかもすんでしまうまで、わたしたち二人のあいだにいやなことがあってはいけないわ。
【ランク】 〔ヘルメルにむかって、静かに〕さからわないほうがいいぜ。
【ヘルメル】 〔妻のからだを抱いて〕かわいい子のわがままをとおしてやろう。だが、あすの晩、おまえの踊りがすんだら――
【ノーラ】 そしたら、いいわ。
【女中】 〔右手の戸口で〕奥さま。お食事のしたくができました。
【ノーラ】 ヘレーネさん、シャンペンを抜くからね。
【女中】 はい、奥さま。〔出てゆく〕
【ヘルメル】 おい、これは大宴会だね。
【ノーラ】 夜明けまで、シャンペンつきの宴会よ。〔大声をだして〕ヘレーネさん。マクロンをすこし。いや、どっさり持ってきてよ。これっきりなんだから。
【ヘルメル】 〔妻の両手をとって〕これ、これ、そんなに、物におびえたように興奮しないで。いつものようにぼくのかわいい|ひばり《ヽヽヽ》さんになってくれ。
【ノーラ】 ええ、なるわ。でも、しばらくあっちへいっていて。ランク先生、あんたもよ。クリスティーネさん、髪を手伝ってちょうだい。
【ランク】 〔ヘルメルといっしょに歩いてゆきながら、静かに〕いまになにか――なにか起きるのじゃないか。
【ヘルメル】 とんでもない。さっき君にはなした、こどもっぽい恐怖にすぎないさ。〔二人右手へゆく〕
【ノーラ】 どうだった!
【リンデ夫人】 田舎《いなか》へいったんですって。
【ノーラ】 あなたの顔を見て、わかったわ。
【リンデ夫人】 あすの晩帰ってくるんですって。置手紙してきたわ。
【ノーラ】 そんなことしなくてもよかったのに。なるようにしておいたほうがいいわ。すばらしいことが起きるのを、こうして待っているの、とてもしあわせな気持ちだわ。
【リンデ夫人】 なにを待っているの?
【ノーラ】 あなたにはわからないことよ。さあ、みんなのところへいっていて。わたしも、すぐゆきますから。
〔リンデ夫人、食堂にはいる〕
【ノーラ】 〔気を落ちつけようとして、じっと立っている。それから、自分の時計を見る〕五時だわ。真夜中まで七時間。それから、あすの真夜中まで二十四時間。するとタランテラが終わる。二十四時間と七時間。三十一時間生きられるわ。
【ヘルメル】 〔右手の戸口で〕かわいい|ひばり《ヽヽヽ》さんは、どうしたんだい?
【ノーラ】 〔両手をひろげて、夫の方へとんでゆく〕|ひばり《ヽヽヽ》はここよ!
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第三幕
〔同じ部屋《へや》。ソファー用のテーブルと、それをかこむいくつかの椅子《いす》が、部屋のまん中に持ってきてある。テーブルの上には火のともったランプ。玄関へゆく扉《とびら》は開いている。二階からダンスの音楽がきこえる〕
〔リンデ夫人は、テーブルのそばに腰かけて、漫然と本のページをめくっている。読もうとするが集中できないらしい。幾度も緊張して、入口の扉の方に聞き耳をたてる〕
【リンデ夫人】 〔時計を見る〕まだ来ないわ。もう来そうな時間なのに。もしかして、来なかったら――〔また耳をすます〕あ、来た。〔玄関へいって、用心深く表の扉をあける。階段を静かに上がってくる音がきこえる。リンデ夫人がささやく〕はいっていらっしゃい。だれもいませんわ。
【クロクスタ弁護士】 〔戸口で〕あなたの置手紙があったものですから。これは、いったいどういうことですか?
【リンデ夫人】 ぜひお話したいことがありますの。
【クロクスタ】 そうですか? それにしても、この家で話をしなければならないのですか?
【リンデ夫人】 わたしのところではだめですの。自分だけの出入口がないんです。さあ、はいっていらっしゃい。ほかにだれもいませんわ。女中は寝ているし、ヘルメル夫妻は二階のダンス・パーティーに出ていますの。
【クロクスタ】 へえ、あの二人が今晩ダンスをしているのですが? ほんとうですか?
【リンデ夫人】 どうしていけないの?
【クロクスタ】 いや、なに、別にかまいませんが。
【リンデ夫人】 さ、クロクスタさん、お話しましょう。
【クロクスタ】 われわれ二人で、まだ話すことがあるのでしょうか?
【リンデ夫人】 たくさんありますわ。
【クロクスタ】 そんなはずはないと思いますがね。
【リンデ夫人】 そう、それはあなたがわたしという者を、ほんとうに理解してくださったことがないからですわ。
【クロクスタ】 なにか、ほかに理解しなければならないことがあるのですかな。世間によくある、ありふれた話ですよ。薄情女がもっと割のいい口を見つけたので、男に絶縁状をわたしたというやつですよ。
【リンデ夫人】 まあ、あなたはわたしのことをそんなに薄情な女だと思っていらっしゃるの? お別れするのがちっともつらくなかったとでも思っていらっしゃるの?
【クロクスタ】 だって、そうでしょう。
【リンデ夫人】 クロクスタさん。ほんとうにそう思っていらしたの?
【クロクスタ】 もしそうでなかったとしたら、あのとき、どうしてあんな手紙をよこしたのですか?
【リンデ夫人】 ほかにやりようがなかったのです。お別れするからには、あなたがわたしに対して懐《いだ》いていらしたお気持ちを、すっかり無くしてしまう義務があったのです。
【クロクスタ】 〔自分の両手を握って〕そんなことだったのか。でも、それが――ただ、金だけのために――
【リンデ夫人】 わたしには、身よりのない母親と、二人の小さな弟がいたということを、お忘れになってはいけないわ。あなたをお待ちすることができなかったの。あなたは、あの当時は、将来の見込みが立ちにくかったのですもの。
【クロクスタ】 そうだったとしても、それだからといって、ほかの男に乗り換えるために、わたしを突き放してもいいということにはならんはずだ。
【リンデ夫人】 さあ、それはよくわかりませんわ。わたしも、あれでよかったのかどうか、何度も自問したことがありますわ。
【クロクスタ】 〔静かに〕あなたを失ったときは、足下の大地が崩《くず》れてしまったような気がした、ごらんなさい。今のわたしは、難破船に乗った遭難者のような者だ。
【リンデ夫人】 もうすぐそばまで、救いの手が来ていますわ。
【クロクスタ】 もうすこしで救われるところだった。それなのに、あなたがやってきて、じゃまをした。
【リンデ夫人】 すこしも知らなかったもので、クロクスタさん。わたしが銀行に採用されるのはあなたの代わりなのだということを、きょう初めて聞いたのよ。
【クロクスタ】 あなたがそうおっしゃるのなら、信じよう。でも今はもうそうとわかったのだから、身を退《ひ》いてくれるだろうね?
【リンデ夫人】 いいえ。いまさらそんなことをしたって、あなたのためにはならないわ。
【クロクスタ】 ふん、ためになる。おためごかしか。わたしだったら、とにかくそうするがね。
【リンデ夫人】 わたしは理性的にふるまうことを覚えたわ。いろいろな生活をして、貧乏して苦労した結果、習い覚えたわ。
【クロクスタ】 いろいろな生活をした結果、わたしは、人がうまいことを言っても信用してはいけない、ということを覚えたよ。
【リンデ夫人】 それでは、とりもなおさず、理性的なことをひとつ覚えたわけよ。言葉は信用しなくても、行為は信用なさるでしょう。
【クロクスタ】 それ、どういう意味――?
【リンデ夫人】 さっき、あなたは、難破船に乗った遭難者みたいだとおっしゃったわね。
【クロクスタ】 そう言うだけの理由があるからね。
【リンデ夫人】 わたしも、難破船にしがみついている女みたいな者よ。心配してあげる人もいなければ、世話をやいてやる者もいない。
【クロクスタ】 自業自得《じごうじとく》さ。
【リンデ夫人】 あのときは、ほかにどうしようもなかったのだわ。
【クロクスタ】 それで、なんだね?
【リンデ夫人】 クロクスタさん、われわれ遭難者同士が、二人いっしょになったらどう?
【クロクスタ】 なんだって?
【リンデ夫人】 二人ともおなじ難破船に乗ったほうが、別々のに乗っているより|まし《ヽヽ》よ。
【クロクスタ】 クリスティーネ!
【リンデ夫人】 いったいわたしがなぜこの町にやって来たと思うの?
【クロクスタ】 まさか、わたしのことを思ってではないだろうね?
【リンデ夫人】 わたしは、生きてゆくためには働かなくてはならないの。もの心ついてから、ずっと働きどおしよ。働くのが、たった一つの、なによりもの楽しみだったわ。それが、いまのわたしは、世のなかでひとりぼっちで、おそろしく虚《うつ》ろで寂しい気持ちなの。自分だけのために働くのって、ちっとも楽しくないわ。ねえ、クロクスタさん。この人のために働いているのだという、心の支えになる人と、働く目標を、あたえてください。
【クロクスタ】 こいつは信じられない。一時的な興奮のあまり、自分を犠牲《ぎせい》に供しようという、女性の思い上がりというやつに過ぎないな。
【リンデ夫人】 あなたは、わたしが一時的に興奮したのを見たことがある?
【クロクスタ】 それでは、ほんとうにやろうというのか? ではたずねるがね、あなたはわたしの過去を全部知っているかい?
【リンデ夫人】 ええ。
【クロクスタ】 それから、この町でわたしがどんな人間だと思われているか?
【リンデ夫人】 わたしといっしょだったら、別の人間になっていただろう、というような意味のことをさっきおっしゃったわね。
【クロクスタ】 絶対にまちがいなくそうだったと思うよ。
【リンデ夫人】 いまからでは、もうだめ?
【クロクスタ】 クリスティーネ。――あなたはじゅうぶんよく考えた上で、そう言っているのだね! おお、本気だね。顔を見ればわかる。それじゃあ、ほんとうにそうする勇気があるのだね?
【リンデ夫人】 わたしは、だれかのおかあさんになってあげたいの。あなたのお子さんたちには、おかあさまが必要よ。わたしたち二人にとって、おたがいに相手が必要なのよ。クロクスタさん。あなたは、ほんとうはしっかりしたおかたよ。信じているわ。――あなたといっしょなら、どんなことでも辛抱《しんぼう》するわ。
【クロクスタ】 〔リンデ夫人の両手を握って〕ありがとう。クリスティーネ、ありがとう。――さあ、こうなれば、世間のやつらの見ている中で、りっぱに立ち直ってみせるぜ。――ああ、すっかり忘れていたけれど――
【リンデ夫人】 〔耳を澄ませて〕しーっ! タランテラが! あっちへいってらっしゃい!
【クロクスタ】 なぜ? どうしたの?
【リンデ夫人】 二階のダンスの音がきこえるでしょう? あれが終わると、二人はここにもどってくるのよ。
【クロクスタ】 ああ、そうだね。帰ろう。それでは、なにもかもだめになってしまう。わたしがこの家の人たちに対して、どんな手を打ったか、むろん知らないだろうけど。
【リンデ夫人】 ところが、クロクスタさん。知っていてよ。
【クロクスタ】 知っていて、しかもわたしについてくる勇気が――?
【リンデ夫人】 あなたのようなかたは、絶望のあまり、どんなことをするか、よくわかるわ。
【クロクスタ】 ああ、あんなことをしなかったことにできればよいが!
【リンデ夫人】 それはできるわ。あなたの手紙は、まだ郵便箱にはいっているのだもの。
【クロクスタ】 それ、たしかかい?
【リンデ夫人】 たしかよ。でも、――
【クロクスタ】 〔探るように、リンデ夫人の顔を見ながら〕ああ、そうか。こういうことか、あんたは、どんなことをしてでも友だちを救ってやろうと思った。さあ、かくさずに言いな。そうなんだろう?
【リンデ夫人】 クロクスタさん。一度|他人《ひと》のために自分を売ったことのある者は、もう一度売ったりはしないものよ。
【クロクスタ】 あの手紙を返してもらうように頼んでこよう。
【リンデ夫人】 いいえ、いけないわ。
【クロクスタ】 いや、むろん返してもらうさ。ヘルメル君がおりてくるまで、ここで待っていて、あの手紙を返してくれ、と言おう。――あの手紙のなかには、わたしが銀行をやめることについて書いてあるだけだ、と言う。――もう読んでもらわなくてもいい、って――
【リンデ夫人】 いいえ、クロクスタさん。あの手紙を返してくれって言わないほうがいいわ。
【クロクスタ】 でも、あなたがわたしをここへ呼び出したのは、そのためだったのじゃない?
【リンデ夫人】 そうよ。最初、あまりびっくりしたもので。でも、それから一昼夜たったわ。そのあいだに、わたしはこの家の中で、想像もできないようなことを、見たり聞いたりしたの。ヘルメルさんに、なにもかも知らせなくてはいけないわ。こんな不幸な秘密は、明るみにださなくては。あの二人は、はっきり意志|疎通《そつう》する必要があるの。かくしごとや、逃げ口上ばかりで、いつまでもやっていけるものじゃないわ。
【クロクスタ】 どうしてもあなたがそう言うのなら、それもいいだろう。だが、ひとつだけ、どの道やらなければならないことが――それも、すぐにやらなくては――
【リンデ夫人】 〔耳を澄ませる〕さあ、早く! あっちへいらっしゃい! ダンスが終わったわ。うかうかしていると、見つかってしまうわ。
【クロクスタ】 では、下で待っているよ。
【リンデ夫人】 ええ、そうして。家の門のところまで、送ってください。
【クロクスタ】 信じられないくらい幸福だ。こんな思いをしたことはない。
〔外の扉《とびら》から出てゆく。部屋《へや》と玄関のあいだの扉は、あいたままである〕
【リンデ夫人】 〔そこらをちょっとかたづけて、自分の帽子と外套《がいとう》をなおしておく〕とうとうこんなことになってしまった! ほんとうに、なんという変化だろう! 働くめあてになる人たちができた。――生活のめあてになる人たちが――幸福にするための家族ができた。ああ、この機会をしっかりつかまえなくては――。ほんとうに、早く帰ってくればいいのに――〔耳を澄ませる〕あああ、帰ってきたわ。さあ、着ようっと。〔帽子と外套を手に持つ〕
〔外で、ヘルメルとノーラの声が聞こえる。かぎをまわす音。ヘルメルがノーラを、ほとんど力ずくで玄関へ引きずり込む。ノーラは、イタリアの衣装をつけ、大きな黒いショールをかけている。ヘルメルは、夜会服の上に、黒いドミノ外套〔もとは、イタリア語で、僧職者の着る黒い外套の意味。後に、仮装舞踏会の際に着る、帽子のついた、長い外套を指すようになる〕をはおっている〕
【ノーラ】 〔まだ戸口のところで、夫に抵抗しながら〕いや、いや、いや。はいるのはいやよ! もう一度上へゆきたいわ。こんなに早く、帰りたくないわ。
【ヘルメル】 でも、ノーラ、ね――
【ノーラ】 ほんとうに、お願いだから、トールヴァル。このとおり、お願い。――もう一時間だけよ!
【ヘルメル】 ノーラ、もう一分もだめだ。約束したじゃないか。ほーら、居間にはいろう。そんなところにつっ立ってると、風邪《かせ》をひいてしまうぜ。〔ノーラが抵抗するのをなだめて、やさしく居間へ連れ込む〕
【リンデ夫人】 こんばんは。
【ノーラ】 あら、クリスティーネさん!
【ヘルメル】 おや、リンデさん、どうしてここに? こんなに遅く。
【リンデ夫人】 ごめんなさい。ノーラさんが着飾ったところを見たかったものですから。
【ノーラ】 ずっとここでまっていらしたの?
【リンデ夫人】 ええ、あいにくまにあわなかったのよ。あなたが上へいってしまった後でしたの。そこで、あなたの姿を見るまでは、家《うち》に帰るまいと思ったの。
【ヘルメル】 〔ノーラのショールをとってやる〕ほら、よーく見てやってください。見るだけの価値があるでしょう。リンデさん。ほんとうにきれいでしょう。
【リンデ夫人】 ええ、ほんとうに――
【ヘルメル】 すばらしくきれいでしょう? パーティーでも、みんながそう言ってました。でも、こいつはおそろしくわがままなのです。――かわいいかっこうをしているくせに。どうにも手のつけようがないのです。なにしろ、連れて帰るのに、もう少しで暴力をふるわなければならなかったくらいなのですから――。
【ノーラ】 あなた、いまに後悔なさるわよ。せめて、もう半時間だけでもいさせてくださらなかったことを。
【ヘルメル】 ほら、このとおりなんですよ、奥さん。ノーラがタランテラを踊ったら、――大喝采《だいかっさい》を受けました。――たしかにそれだけのことはありましたよ。――ただ、演出がすこし自然主義的すぎたかもしれませんがね。と申しますのは、――厳密に言えば、芸術の要求する以上に自然主義だったということです。まあ、そんなことはどうでもいい。たいせつなのは、成功だったということです。いや、ほんとうに大成功でした。そのあとで、ノーラを会場に残しておくという法はないでしょう。そんなことをしたら、せっかくの効果が薄くなってしまいますよ。そこで、わたしは、このカプリの島のかわいい小娘をつれて、――気まぐれなカプリ島の小娘を、といえますな――この腕にかかえて、急いで広間をひとまわりして、四方八方におじぎをさせてから、――小説にあるような言葉を使えば、――美しい幻《まぼろし》は消えた、というわけなのです、リンデさん。終わりはいつも効果的でなければなりません。しかし、このことをノーラにわからせようとしても、どうしてもだめなのです。ほう、この部屋《へや》の中はあたたかいな。〔椅子《いす》の上にドミノ外套をほうり出し、自分の部屋へゆく扉《とびら》を開ける〕おや? ここはまっ暗だな。いや、そのはずだ。ちょっと失礼――〔部屋にはいって、二本のろうそくに火をともす〕
【ノーラ】 〔早口で、息をこらしてささやく〕どうだった?!
【リンデ夫人】 〔静かに〕あの人と話したわ。
【ノーラ】 そうしたら――?
【リンデ夫人】 ノーラさん。――なにもかもご主人に打ち明けなくては。
【ノーラ】 〔声を出さずに〕やっぱりそうだったの。
【リンデ夫人】 クロクスタがなにかするかもしれないって心配する必要はないけれど、ご主人に話さなくては。
【ノーラ】 いやよ。言わないわ。
【リンデ夫人】 でも、手紙で知れてしまうわ。
【ノーラ】 クリスティーネさん、ありがとう。どうしたらいいか、わかったわ。しーっ――!
【ヘルメル】 〔もどってきて〕さあ、奥さん。ノーラの美しいところをじゅうぶんごらんになりましたかな?
【リンデ夫人】 はい。さあ、これでお暇《いとま》しましょう。
【ヘルメル】 なんですって。もうお帰り? この編物の道具は、あなたのですか?
【リンデ夫人】 〔受け取りながら〕はい。どうもありがとうございます。もうすこしで忘れるところでした。
【ヘルメル】 では、編物をなさるのですか?
【リンデ夫人】 はい。
【ヘルメル】 奥さん。刺繍《ししゅう》のほうがよろしいのに――。
【リンデ夫人】 そう? なぜですの?
【ヘルメル】 だって、刺繍のほうがずっと美しいですよ。ほら、こういうふうに、刺繍を左の手に持って、右の手で針を運んで、――こうやって、――軽い手つきで、大きな弧《こ》を描く。ね、そうでしょう?
【リンデ夫人】 ええ、まあ、そうかも――
【ヘルメル】 その反対に、編物ときたら、――どんなふうにやっても、醜《みにく》いですな。いいですか、両腕をちぢこませて、――編棒を上下に動かす。――ちょっと中国人みたいなところがありますよ。ああ、今夜のシャンペンは、飛びきり上等だった。
【リンデ夫人】 じゃ、ノーラさん、おやすみなさい。――もうわがままはおよしになってよ。
【ヘルメル】 奥さん、よく言ってくださった!
【リンデ夫人】 頭取《とうどり》さん、おやすみなさい。
【ヘルメル】 〔扉《とびら》までおくっていって〕おやすみ。おやすみ。途中気をつけてね。ほんとうはお送りしたいのだけど、――たいした距離でないから――。おやすみ、おやすみ。〔リンデ夫人でてゆく。ヘルメルはそのあとから戸締まりをして、もどってくる〕やれ、やれ、やっと帰っていった。おっそろしく退屈な女《ひと》だな。
【ノーラ】 あなた、とてもお疲れでしょう?
【ヘルメル】 いや、ちっとも。
【ノーラ】 眠くない?
【ヘルメル】 いや、全然。それどころか、大いにはりきっている。ところで、おまえは? どうも、だいぶ疲れて、眠そうじゃないか?
【ノーラ】 ええ、あなたのなさることは、なんでも正しいわ。
【ヘルメル】 〔ノーラの額《ひたい》にキスをして〕おや、|ひばり《ヽヽヽ》さんが、まるで人間のような口のきき方をしているね。ところで、ランク先生、今夜はひどくはしゃいでいたね。気がついた?
【ノーラ】 まあ、そう? そんなに陽気でした? あのかたとお話しする機会がなかったもので――
【ヘルメル】 ぼくもほとんど話をしなかったけど。でも、あの男が、あんなに上|機嫌《きげん》なのは、長年見たことがないよ。〔ノーラの顔をしばらく見つめてから、近くに寄る〕ふむ、こうやって、自分のうちへ帰って、おまえと二人だけでいるの、いいものだね。――おまえは、ほんとうにすばらしい。ほれぼれしてしまうよ!
【ノーラ】 そんなにじろじろ見ちゃ、いや!
【ヘルメル】 自分のいちばんたいせつなものを見てはいけないのかい? わたしのもの、わたしだけのもの、ほかのだれにもさわらせないだいじなもの。それを見てはいけないのかい?
【ノーラ】 〔テーブルの向こう側へいって〕今夜は、そんなことをおっしゃらないで。
【ヘルメル】 〔あとからついていって〕おまえの血のなかには、まだタランテラがいる。そのため、おまえはいっそう魅力的なんだ。おや、聞こえるだろう。お客が帰りはじめたよ。〔声を小さくして〕ノーラ、――もうすぐ、家じゅう静かになるよ。
【ノーラ】 はやく静かになるといいわ。
【ヘルメル】 うん、まったくだ。かわいいノーラ。ところで気がついたかい。――今晩のように、おまえをつれてバーティーへいったとき、――なぜ、あまりおまえに話しかけないで、遠くから、ときどきおまえのほうを盗み見しているのか、――なぜか、わかるかい? それはね、おまえはぼくのないしょの恋人なのだ。秘密に婚約している相手なのだ。だれも二人の仲に気がついていない。ぼくがこんな想像にふけっているからなのだよ。
【ノーラ】 ええ。ええ。いつもあなたがわたしのことばかり考えていらっしゃるの、よく知っていますわ。
【ヘルメル】 それから、いよいよパーティーから帰ろうとして、おまえの若々しいきれいな肩にショールをかける、――このすばらしい頚《くび》の曲線にショールをのせるときに、――こう想像するのだ。おまえはぼくの若いお嫁さんで、いま結婚式が終わったばかり、これからはじめて家《うち》へ連れてゆくところだ。――はじめておまえと二人だけになった。――ふるえている娘のおまえとほんとうに二人きりになったのだ、とね! 今晩ずっと、ぼくはおまえにばかり焦《こ》がれていた。おまえが、思いっきり魅力的なポーズをとって、タランテラを踊るのを見ていると、血が沸騰《ふっとう》してきて、これ以上どうにもがまんができなくなった。――そこで、あんなに早く連れて帰ってきたというわけさ。――
【ノーラ】 あっちへいって! そっとしておいて。わたし、いやよ。
【ヘルメル】 これはまたどうしたことだ? ノーラ、おまえはまだ、ぼくを相手にふざけているのかい? いやだ? いやだ、なんて? ぼくはおまえの夫じゃないか――?
〔外の扉《とびら》をたたく音〕
【ノーラ】 〔ちぢみ上がる〕聞こえた――?
【ヘルメル】 〔玄関へゆきながら〕どなたですか?
【ランク博士】 〔外で〕わたしですよ。ちょっとはいっていいですか?
【ヘルメル】 〔小声で、不|機嫌《きげん》に〕あいつ、いま時分《じぶん》、なにしにきたのだろう?〔大声で〕ちょっと待ってくれ。〔いって、戸をあける〕やあ、素通りしないで、よく寄ってくれたね。
【ランク】 君の声がしたようだったので、ちょっとのぞいて見る気になったよ。〔ちらっと、あたりを見まわして〕ああ、ほんとうになつかしい場所だなあ――いつも見慣れた。君たち二人は、ほんとうにしあわせな生活をしている。
【ヘルメル】 君だって、二階では、結構楽しそうだったじゃないか?
【ランク】 おっそろしくね。ぼくが楽しくしてはいけないっていう法はないだろう? この世の中のものは、すべて受け入れるべしだ。できるだけ多く、可能なうちはね。ぶどう酒がすばらしかった――
【ヘルメル】 ことにシャンペンがね。
【ランク】 君も気がついたかい? 信じられないくらい、ガブガブ飲んだよ。
【ノーラ】 うちの人も、今晩はシャンペンをずいぶん飲みましたわ。
【ランク】 ほう――?
【ノーラ】 ええ、そして、いつもシャンペンを飲むと、こんなふうに上|機嫌《きげん》なんですの。
【ランク】 まあ、一日を有効に送ったあと、夜は愉快にやったっていいじゃないですか?
【ヘルメル】 有効に過ごした――? そうなると、ぼくはあまり自慢できないがね。
【ランク】 〔ヘルメルの肩をたたいて〕ところがぼくはきょうは大いに自慢できるんだ!
【ノーラ】 ランク先生、科学的な試験をなさったのでしょう?
【ランク】 そのとおりです。
【ヘルメル】 おや、うちのノーラさんが科学的な試験の話なんかしているぜ!
【ノーラ】 結果が良かったことを望みますわ。
【ランク】 ええ、どうぞ。そうして。
【ノーラ】 じゃあ、良かったのですね?
【ランク】 医者にとっても、患者にとっても、これ以上は望めません。――確定しました。
【ノーラ】 〔早口で、探るように〕確定――ですって?
【ランク】 はっきり確定しました。こういう結果がでたのですから、一晩《ひとばん》大いに愉快にやってもいいでしょう?
【ノーラ】 そりゃいいわ。先生のおっしゃるとおりよ。
【ヘルメル】 ぼくも賛成だ。ただ、あしたになって苦しまなければいいが――。
【ランク】 この世では、いいことがあれば必ずその代償を払わなければならないよ。
【ノーラ】 先生は、仮装舞踏会がお好きなようですね?
【ランク】 ええ、いろいろこっけいな仮装があるとね。
【ノーラ】 先生、この次の仮装舞踏会には、わたしたち二人、なにになったらいいでしょう?
【ヘルメル】 おい、おまえもおっちょこちょいだな、――もう次のことをかんがえているのかい!
【ランク】 わたしたち二人ですって? ええと、そうですな。あなたがたは幸運児になったらいいでしょう――
【ヘルメル】 じゃあ、それにふさわしい衣装を考えてくれないか!
【ランク】 奥さんは、ふだんのままの姿で出せばいいよ――
【ヘルメル】 うまいことをいうね。ところで、君はなんになるつもりだい?
【ランク】 ああ、それはもうはっきりきまっている。
【ヘルメル】 というと?
【ランク】 次の仮装舞踏会には、ぼくは見えないものになるよ。
【ヘルメル】 そいつはまたおもしろい思いつきだ。
【ランク】 大きな黒い帽子があるのだ。――君は姿を見えなくする帽子のことを聞いたことがない? それをかぶると、姿が見えなくなるのだ。
【ヘルメル】 〔笑いをおさえて〕わかった、――いい考えだ。
【ランク】 おや、なにしにきたのか、すっかり忘れていたよ。君、葉巻を一本くれないか?ハバナの黒をね。
【ヘルメル】 ああ、どうぞ。〔箱をさしだす〕
【ノーラ】 〔ろうマッチに火をつけて〕おつけしましょう。
【ランク】 どうもありがとう。〔ノーラがマッチをさしだす。ランクが葉巻に火をつける〕じゃあ、さようなら!
【ヘルメル】 さようなら! さようなら!
【ノーラ】 先生、よくお休みなさいね。
【ランク】 そう祈ってくださる。ありがとう。
【ノーラ】 わたしも、よく休めるように、祈ってちょうだい。
【ランク】 あなたも?――ああ、お望みなら――。じゃ、よくお休み。それから、火をありがとう。〔二人におじぎをして、出てゆく〕
【ヘルメル】 〔声をひそめて〕先生、ずいぶん飲んでいるなあ。
【ノーラ】 〔放心状態で〕そうかもしれないわ。
〔ヘルメル、ポケットからかぎ束を出して、玄関へゆく〕
【ノーラ】 あなた、なにをなさるの?
【ヘルメル】 郵便箱をあけなくては。いっぱいなんだ。あすの朝刊がはいるすきがない。
【ノーラ】 今夜まだお仕事なさるの?
【ヘルメル】 そんなつもりがないの、わかっているくせに。――おや、これはなんだ? だれかが錠《じょう》をいじったな。
【ノーラ】 錠を――?
【ヘルメル】 たしかにまちがいない。どうしたんだ? まさか、女中がやったとも思えないし――? おや、ヘヤピンの折れたのがある。ノーラ、これはおまえのだ――
【ノーラ】 〔早口に〕じゃあ、きっと、こどもたちだわ――
【ヘルメル】 そんな悪いくせはやめさせなさい。ふむ。ふむ。――ああ、なんとか開いた。〔中身を取り出して、台所にむかって叫ぶ〕ヘレーネ、廊下の明りを消しておくれ。〔部屋《へや》にもどってきて玄関に通じる扉《とびら》をしめる〕
【ヘルメル】 〔郵便物をもって〕ほらごらん。こんなにたまっていたよ。〔めくって見る〕おや、これ何だい?
【ノーラ】 〔窓のそばで〕あの手紙! だめ、だめ。あなた!
【ヘルメル】 名刺が二枚――ランク君のだ。
【ノーラ】 ランク先生の?
【ヘルメル】 〔名刺をながめる〕医学博士ランク。いちばん上にあったよ。帰りがけに入れていったにちがいない。
【ノーラ】 なにか書いてあります?
【ヘルメル】 名前の上に黒い十字架が書いてある。ごらん、気味の悪いことをしたものだな。自分の死亡通知を出しているみたいじゃないか。
【ノーラ】 ほんとうに死亡通知なんですよ。
【ヘルメル】 なんだって? おまえなにか知っているのかい? 先生、おまえになにか言ったのかい?
【ノーラ】 ええ。その名刺がきたときは、もうお別れを告げたあとなんですって。先生はこれからとじこもって、死ぬおつもりなんです。
【ヘルメル】 気の毒になあ! もうあんまりながくはないと思ってはいたが、こんなに早くなるとは――。まるで傷ついた獣のように、姿を隠してしまうのか。
【ノーラ】 どうしても避けられないことなら、なんにも言わずにそうなったほうがいいわ。ねえ、あなた、そうでしょう?
【ヘルメル】 〔いったり、きたりしながら〕あの男は、われわれといっしょに生活をしていた。あの男がいない毎日なんて、考えられない。あの男が、苦しみながら孤独にたえている姿が、ぼくたちの、太陽の光に照らされた幸福に対して、雲のかかった背景のような役割を果たしていた。――でも、まあこれでよかったのかもしれない。すくなくとも、あの男にとっては。〔立ちどまって〕いや、あるいは、われわれにとっても、これでよかったのかもしれない。さあ、これで、いよいよ二人だけの世界になった。〔ノーラを抱きかかえて〕ああ、おまえはかわいいなあ。いくらきつく抱きしめても、たりないくらいだ。ねえ、ノーラ。ぼくはときどきこんなふうに考えるんだ。なにかせっぱつまった危険が、お前の身の上に迫ってくればよい。そして、ぼくが生命も財産も投げ出して、おまえを救う破目《はめ》になればよい、とね。
【ノーラ】 〔からだを振り放して、しっかりと決心したように言う〕さあ、その手紙を読んでちょうだい。
【ヘルメル】 いや、いや、今晩はやめにしておこう。かわいいおまえといっしょでいたいのだ。
【ノーラ】 友だちが死にかけているのに、ですか?
【ヘルメル】 ああ、それもそうだね。これには二人とも打撃を受けたよ。死だの腐敗だの、醜《みにく》いことがぼくたちのあいだに割り込んできた。なんとかして、そんなものを抜《はら》い落とさなくてはならないが、それまでは――。めいめいの部屋で寝ることにしよう。
【ノーラ】 〔夫の首に抱きついて〕お休みなさい!――あなた、お休みなさい!
【ヘルメル】 〔妻の額《ひたい》にキスして〕お休み、小鳥さん。お休み、ノーラ。さあ、手紙を読むとしようか。〔包みを持って部屋にはいり、扉《とびら》をしめる〕
【ノーラ】 〔気違いじみた目つきで、あたりを手さぐりし、ヘルメルのドミノ外套《がいとう》をつかんで、乱暴に自分の肩にかけ、しわがれた声で、とぎれとぎれに、早口でつぶやく〕もうお目にかかれないわ。お目にかかれないわ!〔ショールを頭にかぶって〕こどもたちの顔も見ることができないわ。もうみられないわ。――おお、氷のように冷たい水。底なしの――。それで――。ああそれが終わってしまえば――。いま、あの手紙を持っているわ。いま読んでいるわ。いいえ、いいえ、まだだわ。あなた、さようなら――。こどもたちも、さようなら――
〔ノーラ、荒々しく玄関から出てゆこうとする。そのとき、ヘルメルが扉を乱暴にあけて、開封した手紙を持って、つっ立っている〕
【ヘルメル】 ノーラ!
【ノーラ】 〔大きな声で叫ぶ〕ああ――!
【ヘルメル】 これはなんだ? この手紙に書いてあること、おまえ知っているのかい?
【ノーラ】 ええ、知ってますわ。行かせて!そとへ出させてください!
【ヘルメル】 〔ノーラを引きとめる〕どこへ行こうっていうんだ?
【ノーラ】 〔振り放そうと、もがきながら〕あなた! わたしを助けようとなさらないで――
【ヘルメル】 〔うしろへよろめく〕事実なのか! あの男が書いたことは、ほんとうなのか? おそろしい! こんなことが事実であるはずがない。
【ノーラ】 事実です。あなたを、世界中の何者よりも愛していたもんで。
【ヘルメル】 そんな、ばかばかしい言いのがれを言っているときじゃない。
【ノーラ】 〔一歩夫の方へ寄って〕あなた――!
【ヘルメル】 なさけない!――なんていうことをしでかしたんだ!
【ノーラ】 そとへゆかしてください。わたしのために迷惑がかかってはいけないわ。わたしの罪を引き受けないで。
【ヘルメル】 変な芝居《しばい》はやめろ。〔玄関の戸にかぎをかけてから〕さあ、何もかもつつみかくさず言え。どんなことをしたか、わかっているのか? 返事をしなさい! わかっているのかい?
【ノーラ】 〔目をはなさずに、じっと夫の顔を見つめて、こわばったような表情で言う〕ええ、だんだんよーくわかってきたような気がするわ。
【ヘルメル】 〔部屋《へや》のなかを歩きまわりながら〕ああ、目がさめた。なんというおそろしいことだ。いままで八年ものあいだ、――ぼくのよろこびでもあり、誇りでもあったこの女が、――偽善《ぎぜん》者だった。うそつきだった。――いや、もっとひどい。――犯罪者だったのだ! ああ、こんなにけがらわしいことはない! ちぇっ!
【ノーラ】 〔黙って、あいかわらず夫の顔をじっと見つめている〕
【ヘルメル】 〔ノーラの前に立ちどまって〕だいたい、こんなことが起きそうだということに、もっと早く気がつかなければならなかった。あらかじめ、予測すべきだった。おまえのおとうさんの軽はずみな生活態度。――黙れ! おまえは、おとうさんの軽はずみな生き方をそのまま相続したのだ。宗教もなければ、道徳もない。義務観念というものがない――。あの男を大目に見てやったために、今になってたいへんな罰を受けることになった。おまえのために、大目に見てやったのだ。その恩返しに、おまえはこんなことをしでかしてくれたのか。
【ノーラ】 ええ、そうよ。
【ヘルメル】 おまえは、これで、ぼくの幸福をすっかり破壊してしまった。ぼくの将来はすっかりだめになってしまった。おお、考えるのもおそろしい。ぼくは、あの良心を持たない人間の手中に陥っている。あの男は、ぼくに対してどんなことでもやれる。ぼくに対して、なんでも要求できる。勝手気ままなことを言いつけたり、命令したりすることができる。――ぼくは、それに対して、なんにも言えない。軽はずみな女のために、みじめにも、没落し、破滅してゆくのだ!
【ノーラ】 わたしがこの世の中からいなくなれば、あなたは自由になりますわ。
【ヘルメル】 おい、芝居《しばい》はやめろ。そういう言いぐさはな、おまえのおとうさんも、いつも用意していた。おまえがいうように、おまえがこの世から姿を消したとしても、それがぼくにとってなんの役にたつか? なんの役にもたちはせん。あの男はやっぱりこの事件を世間に知らせることができる。もし、世間に知らせたら、ぼくがおまえの犯罪行為を知っていたという嫌疑《けんぎ》をかけられる。あるいは、ぼくがかげで糸を操《あやつ》っていたと思われるかもしれない。――ぼくが教唆《きょうさ》をしたとね! 結婚してからずっとだいじにかわいがってやったおまえのおかげでこうなったのだ。おまえが、ぼくにどんなことをしてくれたか、さあわかったか?
【ノーラ】 〔冷たく、落ちついて〕ええ。
【ヘルメル】 あまりに意外なことで、まだ、どうもよく理解できない。しかし、なんとかして、助かる途《みち》を見出さなければならない。ショールをとりなさい。ショールをとりなさい、というのに! なんらかの方法で、あの男を満足させなければならない。どんなにしてでも、この事件をもみ消さなくては――。そして、おまえとおれとのあいだのことだが、そとに対しては、いままでのとおりにしておかなければならない。だが、もちろん、これは世間|体《てい》だけのことだ。つまり、おまえは今までどおりこの家にいる。これはいうまでもないことだ。だがな、おまえには、こどもの教育はさせられない。こどもをまかせる勇気がないのだ。――ああ、妻にこんなことを言わなければならないとは! あんなに愛して、いまでも――! いや、こういうことはもうやめなくてはいけない。きょうからは、幸福なんて、もう問題にならない。残った破片をかきあつめて、体裁《ていさい》をつくろうだけのことだ。〔玄関のベルがなる〕
【ヘルメル】 〔ぎくっとして〕なんだろう?夜こんなに遅く。いよいよ最悪の事態が――!あの男が――? ノーラ! 隠れなさい。病気だといっておけ。
〔ノーラは、じっとつっ立ったまま動かない。ヘルメルがいって、扉《とびら》をあける〕
【女中】 〔服を半分脱いだ姿で、玄関で〕奥さまあてのお手紙がまいりました。
【ヘルメル】 こっちへよこせ。〔手紙をひったくって、扉をしめる〕ああ、やっぱりあいつからだ。おまえには渡せない。おれが自分で読む。
【ノーラ】 どうぞ読んでください。
【ヘルメル】 〔ランプのそばで〕読む勇気がないわ。おまえも、もういよいよおしまいなんだろう。でも、――読まないわけにもゆかない〔急いで、封筒をやぶって、幾行か走り読みする。同封の書類を見て、よろこびの叫びをあげる〕ノーラ!
【ノーラ】 〔ふしぎそうな顔をして、ヘルメルを見ている〕
【ヘルメル】 ノーラ!――いや、もう一度読みかえしてみなくては。――うん、うん、やっぱりそうだ。おれは助かった! ノーラ、おれは助かったぞ!
【ノーラ】 で、わたしは!
【ヘルメル】 もちろん、おまえもだ。二人とも助かった。おまえもおれも。ほら、ごらん。あいつがおまえの借用証書を送り返してきたよ。こう書いてある。いままでやったことを、遺憾《いかん》に思います。後悔してます。――自分の生活が幸福な転機に遭遇しましたので――、だって。まあ、あいつの書くことなど、どうだっていい。ノーラ! ぼくたちは助かったんだ。もう、だれもおまえに危害を加えることはできない。ああ、ノーラ、ノーラ――。ところで、まずこのいやらしい物をなくしてしまおう。どーれ――〔証書をちらっと見て〕いや、いや、見るのはよそう。ぼくにとっては、なにもかも、夢に過ぎなかったのだ。〔証書と二通の手紙をびりびりに裂いて、暖炉にくべ、燃えるのをながめている〕ほーら、もうなくなってしまった。――おまえは、クリスマス・イーヴの晩から――って書いてあったけれども、三日間、さぞ苦しかったろうなあ。
【ノーラ】 この三日間、ほんとうに苦しいたたかいでした。
【ヘルメル】 そして、さんざん、苦しみぬいたあげく、ほかに逃げ道がないものだから――。ああ、もういやなことを思い出すのはよそう。よろこびの声をあげて、すんだ! すんだ! と繰りかえすだけにしよう。ノーラ、ぼくの言うことを聞いておくれ。おまえはどうもまだよくわからないようだが、もうすんだのだよ。いったい、どうしたというんだ?――そんなに、こわばったような顔をして。ああ、かわいそうに、わかっった、わかった。ぼくが許してあげたのが、信じられないのだね。いや、ほんとうに許してやったんだ。誓って言うが、おまえのしたことは何もかも許したよ。なにもかも、ぼくを愛するあまりしたのだということを、ちゃんと知っているから。
【ノーラ】 それはそのとおりです。
【ヘルメル】 おまえは、妻として当然、夫たるぼくを愛してくれた。ただ、判断するための洞察力が不足だったため、手段をあやまっただけのことだ。だけど、――おまえに単独で行動する力がないからといって、好きでなくなるとでも思うのかい? とんでもない。ぼくによりかかってさえいればよい。相談に乗ってやる。リードしてやる。おまえがそういうふうに頼りないのを見て、かえって、よけい魅力を感じないようだったら、ぼくは男じゃない。はじめは、あんまりびっくりして、なにもかも頭の上に崩《くず》れ落ちてくるような気がしたもので、ついきついことを言ってしまったが、どうか気にしないでおくれ。ぼくはもうおまえを許してやったのだ。おい、ノーラ、誓って言うよ、――許す。
【ノーラ】 お許しくださって、どうもありがとう。〔右手の扉《とびら》から出てゆく〕
【ヘルメル】 まあ、ここにいろよ。――!〔のぞきこみながら〕その隅《すみ》っこでなにをしているんだい?
【ノーラ】 〔なかから〕衣装を脱いでいるのです。
【ヘルメル】 〔あいた戸口で〕うん、それがいい。落ちついて、気持ちを安定させなさい。おびえた小鳥さん! ゆっくりおやすみ、ぼくの大きな翼でつつんで、かばってあげるからね。〔扉の付近を、いったりきたりする〕ああノーラ、うちはなんてきれいで、居心地がいいのだろう。ここにじっと隠れていればいい。おまえは鷹《たか》に追いかけられて、つかまった鳩《はと》なのだ。それを、ぼくが鷹の爪《つめ》からぶじに救い出して、じっと抱いていてあげる。おまえの、かわいそうな心臓の動悸《どうき》を、いまにしずめてやるよ。だんだんとね――。きっと、そうするよ。あしたになれば、おまえの目にも、すべてが変わって映る。じきにまた、なにもかも、元どおりになるよ。おまえを許してやったなんて、もう言わなくてもよくなる。おまえは、許してもらったって、自分ではっきり感じるようになる。ぼくがおまえを追い出すとか、なにか文句を言うとか、どうしてそんなことを考えたんだい? ああ、ノーラ、ほんとうに男らしい心というものを、おまえはまだ知らないのだ。自分の妻を許してやったという気持ち、――心の底から、さっぱり許してやったという気持ちは、――なんともいえず、たのしく満足なものだ。許してやったことによって、妻は二重に自分の持物《もちもの》になった。ある意味では、妻をもう一度生まれかわらせたともいえる。妻であると同時に、自分の子にもなったのだ。おまえは、ほんとうに、どうしていいかわからず、なんの力もない。それだから、きょうからは、ぼくの妻であると同時に子になったらいい。もう、なにも心配するな。ノーラ。いつもなんでもぼくに打ち明けていてさえくれれば、ぼくがおまえの意志になり、良心になってやる。――おや、どうしたんだい?床にはいらないの? 着物を着替えたのかい?
【ノーラ】 〔ふだん着を着ている〕ええ、着替えましたわ。
【ヘルメル】 でも、いったい、どうして――? こんなに夜遅く――?
【ノーラ】 今夜は眠りません。
【ヘルメル】 だって、おまえ、どうして――
【ノーラ】 〔自分の時計を見ながら〕まだ、そんなに遅くないわ。あなた、まあ、おかけになってください。二人でいろいろお話したいことがあります。〔テーブルの片側に腰をかける〕
【ヘルメル】 ノーラ、――どうしたんだい?そんなにむずかしい顔をして――
【ノーラ】 まあ、おかけになって。時間がかかりますから。いろいろ、お話しなくてはならないことがあります。
【ヘルメル】 〔ノーラとむかいあって、テーブルの反対側に腰かけて〕なんだか気味がわるいな。どうもさっぱりわからん。
【ノーラ】 そう、まさにそれが問題なのです。あなたには、私という者がおわかりにならないのです。わたしにも、あなたというかたがわかりませんでした。――今晩まではね。しまいまで言わせてください。わたしの言うことを、よく聞いてください。――これがわたしたちのあいだの、総決算なのです。
【ヘルメル】 それ、どういう意味?
【ノーラ】 〔しばらく黙っていてから〕こうして二人ですわっていると、なにか、おやっとお思いになることがありません?
【ヘルメル】 いったい、なんのことだね?
【ノーラ】 わたしたち、結婚してからもう八年になります。それなのに、二人で、――夫と妻であるあなたとわたしが、――まじめなお話をするのは、きょうがはじめてだということ、不思議に思いません?
【ヘルメル】 ふん、まじめな話って、――どういう意味?
【ノーラ】 まる八年というもの、――いえ、もっとになりますわ、――はじめて知り会ってから、わたしたち、まじめな問題について、まじめにお話したことがありませんわ。
【ヘルメル】 それなら、なにかね、――おまえに話したって役にたたないような厄介《やっかい》な問題のことを、いつも、ひっきりなしに、話しておかなくてはならなかったっていうのかい?
【ノーラ】 厄介な問題のことなんか、とやかく言っているのではありません。わたしが申しているのは、二人して、こういうふうにむかいあって、なにごとによらず、とことんまで突きつめたことがないっていうことなのです。
【ヘルメル】 でも、ノーラ。そんなことはおまえにむいていないじゃないか?
【ノーラ】 ほら、そこが問題なんです。あなたはわたしを理解してくださいませんでした。――わたし、ずいぶんひどい扱いを受けましたわ。はじめはパパから、そして、あとになって、あなたから。
【ヘルメル】 なんだって! おとうさんとぼくとからだって? ほかのだれよりもおまえを愛した、ぼくたち二人から?
【ノーラ】 〔首を横に振りながら〕お二人にかわいがっていただいたことなんかありませんわ。お二人とも、わたしをかわいがるのが楽しいと思っていらしただけです。
【ヘルメル】 おい、ノーラ、なんてことを言うんだ?
【ノーラ】 でも、ほんとうにそうなのです。パパといっしょに実家《さと》におりましたとき、パパは自分の考えをみんなわたしに言ってきかせてくれました。そこで、わたしもおなじ考えを持つようになりました。違ったことを考えていたときは、隠しておりました。パパの気に入らないだろうと思ったからです。パパは、わたしのことを、かわいいお人形さんって呼んで、わたしと遊びました。ちょうど、わたしが、お人形と遊んでいたようにです。それから、わたしは、あなたの家へまいりました。
【ヘルメル】 わたしたちの結婚のことを、なんという表現だ、それは!
【ノーラ】 〔かわまずに〕つまり、パパの手から、あなたの手に移ったわけです。あなたは、なにもかも、ご自分の趣味に合わせてなさいました。そこで、わたしは、あなたと同じ趣味をもつようになりました。それとも、そんなふりをしていただけかもしれません。自分でもよくわかりません。たぶん、両方だったでしょう。ほんとうにそうだったこともあれば、そんなふりをしてもみたり、今になって思えば、ここで貧乏人のような生活をしていたような気がします。ただ手から口へ。そんな生活をしていたようです。あなたに芸当をして見せて、それで生きていたのです。それがお気に召したのです。あなたとパパは、わたしに対して、とんでもないことをなさいました。わたしがつまらない女になったのは、お二人の責任です。
【ヘルメル】 ノーラ、おまえっていう女は、無茶苦茶なことばかり言って、なんて恩知らずなんだ。ここの生活が幸福でなかったというのかい?
【ノーラ】 幸福だったことなんか、すこしのあいだもありませんでした。わたし、幸福だと思っていましたが、実は、幸福だったことなんか、なかったのです。
【ヘルメル】 幸福でなかった、――なかったって?
【ノーラ】 ええ、ただ、はしゃいでいただけ。あなたは、いつもとても優しくしてくださいました。でも、わたしたちの家庭は、こどもの遊び部屋《べや》にすぎませんでした。実家《さと》にいたころ、パパの人形っ子だったのと同じように、ここではあなたの人形妻だったのです。それに、今度はこどもたちがわたしのお人形だったのです。あなたにつかまえられて、遊んでもらうと、楽しいと思いました。ちょうど、こどもたちが、わたしにつかまって、遊んでもらうと、楽しいと思ったのと同じことです。あなた、これがわたしたちの結婚だったのです。
【ヘルメル】 おまえの言うことにも、いくぶんの真理はある。――ずいぶん誇張《こちょう》して、常軌《じょうき》を逸してはいるがね。でも、これからは変わるよ。遊びの時間はもうおしまいにして、これからは教育の時間だ。
【ノーラ】 だれの教育? わたしの教育? それともこどもたちの教育?
【ヘルメル】 おまえも、こどもたちも。両方とも教育してやる。
【ノーラ】 あら、あなたは、わたしを教育して、ご自分にふさわしい妻にすることができるようなおかたじゃないわ。
【ヘルメル】 ひどいことを言うじゃないか?
【ノーラ】 それから、わたしのことですけど、――わたしにこどもたちを教育する資格があって?
【ヘルメル】 ノーラ!
【ノーラ】 つい先ほどおっしゃったばかりでしょう?――こどもの教育はおまえに任せられないって。
【ヘルメル】 興奮のあまり、つい言ってしまったことだ! そんなに気にしなくてもいい。
【ノーラ】 気にしますとも。あなたのおっしゃったこと、正しいわ。わたしには、こどもを教育する能力はありません。まず、やらなければいけないことがあります。自分自身を教育しなければならないのです。あなたは、わたしの教育の手伝いができるかたではありません。ひとりでやらなければならないのです。だから、いま、お別れします。
【ヘルメル】 〔とびあがって〕なんだって?
【ノーラ】 自分や世間のいろいろなことがよくわかるようになるために、ひとりきりになる必要があります。だから、もうあなたのところにいるわけにはゆきません。
【ヘルメル】 おい、ノーラ!
【ノーラ】 わたしはいますぐ出てゆきます。今夜はクリスティーネさんが泊めてくれるでしょう。
【ヘルメル】 おまえは正気を失ったのだ。そんなことは許さない! おれが禁止する!
【ノーラ】 これからは、何を禁止なさろうとむだですわ。わたしは、自分のものだけ持ってゆきます。あなたの物など、なにもいただきたくありません。――今後とも、いっさい要《い》りません。
【ヘルメル】 まったく気違い沙汰《ざた》だ!
【ノーラ】 あした、家《うち》へ帰ります。――実家《さと》へ帰ります。なにを始めるにしても、それがいちばん都合がいいと思います。
【ヘルメル】 なんにもわからない、世間知らず奴《め》が!
【ノーラ】 もっと世間のことを知りたいと思います。
【ヘルメル】 家庭と、夫と、こどもを、置き去りにして! 人《ひと》がなんと言うかも、考えないで。
【ノーラ】 そんなことかまっていられません。こうする必要があるのです。それだけはわかっています。
【ヘルメル】 おそろしい、道に反することだ! そうやって、いちばん神聖な義務に叛《そむ》くとは。
【ノーラ】 神聖な義務って、なんのことです?
【ヘルメル】 そんなことを、言わなければわからないのか? 夫と子に対する義務ではないか?
【ノーラ】 わたしには、ほかにも神聖な義務があります。
【ヘルメル】 そんなもの、ありはしない。あるとすれば、どんな義務だ?
【ノーラ】 自分自身に対する義務です。
【ヘルメル】 おまえは、なによりも先に、まず、妻であり、母であるのだ。
【ノーラ】 もう、そうは思いませんわ。わたしは、まず第一に、人間でなければならないと思います。あなたと同じように。――すくなくとも、人間であるように心がけなければならないと思います。世の中の人は、たいていあなたに賛成するでしょう。あなたのおっしゃるようなことが、本にも書いてあります。それもよく知っています。でも、もう大部分の人の言うことや、本に書いてあることに、満足できなくなったのです。自分でそういう問題について、よく考えてみて、理解しなくてはならないのです。
【ヘルメル】 家庭における自分の地位が理解できないのか? この種の問題については、まちがいのない道案内人がいるではないか? 宗教というものがあるではないか?
【ノーラ】 わたしには、宗教というものが、どうもよくわかりません。
【ヘルメル】 なんだと!
【ノーラ】 むかし、堅信礼のとき、牧師のハンセンさんがおっしゃったことしか、知りません。ハンセンさんは、宗教とはこれこれこういうものだと、説明してくださいました。ここの生活から抜け出して、ひとりになったら、そういうこともよく考えてみたいと思います。牧師のハンセンさんが言ったことが正しいかどうか、調べてみましょう。すくなくとも、わたしにとって正しいどうか。
【ヘルメル】 ああ、おまえのような若い女がそんなことを言うの、聞いたことがない! 宗教に、おまえを善導する力がないのならば、ひとつおまえの良心をゆすぶりおこしてやろう。道徳心はあるだろうからな?――おい、それとも、道徳心もないのか? 返事をしなさい!
【ノーラ】 ええ、あなた、その返事はむずかしいわ。さっぱりわからないんです。道徳の問題についても、わけがわからなくなってしまったのです。ただ、わかっているのは、この問題についてあなたと全然違った考えを持っているということです。法律が、わたしが考えていたのと違うものだということをうかがいましたけれど、そんな法律が正しいなんて、どうしても呑みこめません。それでは、女には、瀕死《ひんし》の父をいたわる権利もないし、夫の生命を救う権利もないということになります。そんなこと、どうしても信じられません。
【ヘルメル】 まるで、こどもみたいなことを言う。自分が住んでいる社会というものを、理解していない。
【ノーラ】 ええ、理解していませんわ。だからこそ、それから社会というものを、もっとよく理解したいと思うのです。社会が正しいか、わたしが正しいか、つきとめなければ気がすみません。
【ヘルメル】 おい、おまえは病気だ。熱がある。気が違ったんじゃないか。
【ノーラ】 今夜ほど、頭がはっきりしていたこと、これまでにないですわ。
【ヘルメル】 頭がはっきりしていて、それで夫とこどもを捨ててゆくのか?
【ノーラ】 はい、そうです。
【ヘルメル】 それなら、たった一つの説明しかあり得ない。
【ノーラ】 というと?
【ヘルメル】 おまえはもうぼくを愛していないのだ。
【ノーラ】 ええ、まさにそのとおりです。
【ヘルメル】 ノーラ!――よくもそんなことが言えたもんだ!
【ノーラ】 あなた、わたしだってつらいんですよ。いつも、優しくしてくださいましたから。でも、しかたがないんです。もうあなたを愛していません。
【ヘルメル】 〔無理に気持ちを押えて〕それもやっぱり、はっきりした確信か?
【ノーラ】 ええ、ひじょうにはっきりした確信です。だから、わたし、もうここにいたくないのです。
【ヘルメル】 ひとつ説明してくれないか。どうしてぼくがもうおまえから愛されなくなったか――?
【ノーラ】 ええ、わけのないことです。今晩、奇跡があらわれなかったからです。それで、あなたが、いままで考えていたようなおかたじゃないということがわかったからです。
【ヘルメル】 もっと詳しく説明してくれ。それでは、わけがわからない。
【ノーラ】 八年間というもの、じっと辛抱《しんぼう》して、待っていました。奇跡なんて、そう毎日やってくるものでないことぐらい知っていましたから。そこへ、こんどの災難が降りかかってきました。こんどこそ奇跡があらわれるものとばかり、思いこんでいました。クロクスタの手紙が郵便箱にはいっていたときは、――あなたが、あんな男の言いなりになるなんて、思いもよりませんでした。あなたが、あの男に向かって、はっきり言ってやるものとばかり思っていました。よろしい、世間に発表するならしてみろって。――そして、世間に知れてしまったら、そのときは――
【ヘルメル】 そのときは、どうなるっていうんだ? わたしが自分の妻を、恥辱《ちじょく》と不名誉のまえにほうり出したとしたら、そのときは――!
【ノーラ】 そんなことになったら、あなたが世間の前に出て、なにもかもひっかぶって、みんな自分が悪いのだ、とおっしゃるだろうとばかり、思いこんでおりました。
【ヘルメル】 ノーラ――!
【ノーラ】 あなたがそんなふうに犠牲《ぎせい》になろうとしたって、わたしが承知するはずがないと言うんでしょう? ええ、それはもちろんそうですわ。でも、わたしがいくら言い張ったって、あなたの言明を打ち消すことができるはずがありません。そうでしょう?――わたしの言う奇跡とは、これです。こわくて、びくびくしながら、この奇跡が起きるのを待ち望んでいたのです。それから、それが起きないようにするために、わたしは自分の命を絶《た》つつもりでいました。
【ヘルメル】 ノーラ、ぼくはおまえのためなら、よろこんで夜も昼も働くよ。――おまえのためなら、心配や苦労もがまんするよ。しかしだな、たとえ愛する者のためでも、名誉《ヽヽ》を犠牲にする者はいないよ!
【ノーラ】 でも、それはいままで何十万もの女がしてきたことです。
【ヘルメル】 まるで、わけのわからないこどもみたいなことを、考えたり、言ったりするね。
【ノーラ】 それでもいいですわ。でも、あなただって、わたしといっしょに生活できる男性にふさわしいものの考え方をなさらないし、そういうことをおっしゃりもしませんよ。恐ろしいことがすんでしまえば、――それもわたしに対する脅威よりも、ご自分に災いが降りかかるのがご心配だったのですが、その危険が去ってしまうと、まるで何事もなかったようになっておしまいでした。これからは、前よりいっそうだいじに、手の上に乗せてくださるとおっしゃいました。それというのも、わたしが弱くて、こわれやすいからだ、とおっしゃるのです。〔立ち上がる〕トールヴァルさん!――わたしはその瞬間にわたしは悟りました。この八年間というもの、わたしはここで赤の他人といっしょに生活して、赤の他人の子を三人も生んだのです。――ああ、考えただけで、たまらない!自分のからだをずたずたに引き裂いてしまいたい!
【ヘルメル】 〔重苦しく〕わかった。わかった。わたしたちのあいだに、たしかに大きな溝《みぞ》がはいった。――でも、ねえ、この溝を埋めるわけにいかないのかい?
【ノーラ】 今のままのわたしでは、あなたの妻でいられません。
【ヘルメル】 ぼくは別人になることができる。
【ノーラ】 そうかもしれませんわ。――人形を取り上げてしまったら。
【ヘルメル】 ああ、別れる。――おまえと別れる! いけない、いけない、そんなこと、とても考えられない。
【ノーラ】 〔右手にはいってゆく〕だからこそ、そうしなければならないのです。
〔帽子と外套《がいとう》と、小さな旅行かばんを持って、出てくる。それをテーブルのそばの椅子《いす》の上におく〕
【ヘルメル】 ノーラ、ノーラ! 今はやめてくれ! あすまで待ってくれ。
【ノーラ】 〔外套を着る〕赤の他人の部屋《へや》で、ひと晩すごすわけにはまいりません。
【ヘルメル】 それなら、兄妹みたいに、ここで暮らすわけにはゆかないか?
【ノーラ】 〔帽子のひもを締める〕そんなこと、長つづきしないわ。ご自分でおわかりでしょう。――〔ショールをかける〕では、トールヴァルさん。さようなら。こどもたちのめんどうはみないことにします。わたしのもとにおくよりいいと思います。今のままのわたしでは、こどもたちのために、なんの役にもたてません。
【ヘルメル】 でも、いつかは。ノーラ、――いつかは、ね――?
【ノーラ】 さあ、わかりませんわ。わたし、これからどうなるか、わからないんです。
【ヘルメル】 だが、いいか、おまえはぼくの妻だぞ。今のままでも、将来、おまえがどんな女になっても。
【ノーラ】 でも、あなた。――いま、わたしがしているように、妻が夫の家から出ていった場合、法律によれば、夫は妻に対するいっさいの義務を免除されると聞いたことがあります。とにかく、わたしはあなたのいっさいの義務を免除してあげます。あなたは、なんの束縛も感じないでください。わたしのほうでも、いっさい束縛を感じたくないのです。両方とも、完全な自由がなければいけません。さあ、指輪をお返しします。わたしのも、返してください。
【ヘルメル】 それまでするのか?
【ノーラ】 ええ、そうよ。
【ヘルメル】 ほら。これだよ。
【ノーラ】 さあ、おわりましたわ。かぎはここへおいてゆきます。家《うち》のことはみんな、女中が心得ています。わたしよりよくわきまえています。あした、わたしが発《た》ったあとで、クリスティーネさんがやってきて、わたしが実家《さと》から持ってきた物の荷造りをします。あとから送ってもらうことにします。
【ヘルメル】 おしまいだ! おしまいだ! ノーラ、もう、ぼくのことを考えてくれないのか?
【ノーラ】 それはきっとときどき考えると思います。――あなたのことも、こどもたちのことも、この家のことも――。
【ヘルメル】 手紙を出してもいいね? ノーラ。
【ノーラ】 いいえ、――いけません。おことわりします。
【ヘルメル】 でも、仕送りをしなくては――
【ノーラ】 いいえ。いっさい送らないでください。
【ヘルメル】 では、困ったときには、助けてやろう。
【ノーラ】 いいえ、おことわりします。他人からは、なにもいただきません。
【ヘルメル】 ノーラ、――ぼくはもう、おまえにとって、赤の他人以上のものにはなれないのか?
【ノーラ】 〔旅行かばんを手に持って〕ええ、あなた、奇跡中の奇跡が起きなければ――
【ヘルメル】 奇跡中の奇跡というのは、なんだね? 言っておくれ!
【ノーラ】 あなたも、わたしも、二人とも、すっかり変わって、――でも、あなた、奇跡なんかもう信じませんわ。
【ヘルメル】 ぼくは信じたい。どうか、言っておくれ! ぼくたち二人がすっかり変わって、そして――?
【ノーラ】 二人の同棲《どうせい》生活が、ほんとうの結婚になるようなことがあったらです。さようなら。〔玄関からでてゆく〕
【ヘルメル】 〔扉《とびら》のそばの椅子《いす》にがっくり倒れて、両手で顔をおおう〕ノーラ! ノーラ!〔あたりを見まわして、起きあがる〕うつろだ。もういない。〔一縷《いちる》の望みがわいてくる〕奇跡中の奇跡が?
〔下の方から、門の扉がガチャンとしまって、錠《じょう》がかかる音がきこえる〕 (完)
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解説
イプセンの生涯
〔家系と生い立ち〕 イプセンの性格と作風は、少年時代から青年時代にかけて形成された。イプセンを理解する上で、この時期の研究がきわめて重要である。
ヘンリク・イプセンは、一八二八年三月二十日、南ノールウェーのシーエンという町で生まれた。両親は商人や船長の家系に属し、先祖に官吏や農民は見当たらない。五、六代さかのぼると、デンマークやドイツからの移住者が目立つが、純粋のノールウェー人も認められる。これらの人たちの血が、十八世紀の過程においてまじりあい、ノールウェー市民階級の一家を形成した。
父のクヌードは、叔父の店で働いていたが、一八二五年に継父の姪《めい》と結婚し、自前で木材等の商売をはじめた。一八三〇年代には、なかなか羽振りがよく、一八三二年には、義母から大きな邸宅を買い取り、町の名士たちをしばしばパーティーに招いて、派手な社交生活を送った。しかしそのうちに、思い切って大きな投機を試み、やがて失敗し、家屋敷、倉庫、家畜まで競売に付され、郊外の農場に移ったが、最後は昔自分が持っていた家を借りて住むような状態にまで落ちぶれた。
三十九歳の若さで、事実上破産し、失業したクヌードは、最上級の賛辞を連らねた紹介状を手にして、下級税官吏のポストなどを求めてほっつき歩いたが、うまくゆかず、養鶏を家業としながら、異父弟たちのところを無心してまわり、揚句の果ては、失意から飲酒にふけることとなる。
イプセンの伝記には、父が廃人のように描かれていることが多いが、それは文学的誇張で、実際はそれほどではなく、クヌートは、懸命になって、自分の外見をつくることに努めていた。
イプセンは、次男に生まれた。兄は一歳のときに死に、三人の弟のうち二人まで、のちにアメリカに移住する。ほかに最愛の妹ヘドヴィーがいた。
イプセンの母マリケンは、夫とはまったく異なった性格の持ち主だった。若いころは美しくて、陽気でピアノを弾いたり、歌をうたったり、絵を描いたりし、町に巡業してくる劇団の興業は欠かさず観《み》た。結婚前に、地方詩人を愛したこともあるという。しかしながら、夫の仕事が破綻《はたん》をきたしてからというものは、新しい生活環境に順応することができず、人間嫌いで無口になり、夫からたえず小言《こごと》を喰いながらも、じっと耐え忍んで、主婦としての勤めを忠実に守った。
妹のヘドヴィーは、一八四九年ごろからは、キリスト教の狂信的な宗派の熱心な信者となり、そのため父のクヌードと折り合いが悪くなった。のちに彼女が結婚すると、母のマリケンも娘の家に引越していって同居する。そこでクヌードは、下宿にひとり住まいをし、正式に離婚しないものの、別居生活をする。
後年イプセンは、故郷シーエンの町について、滝の音と製材所の鋸《のこぎり》のうなりと、さらし台(罪人の首と手を板の間にはさんでさらしものにした刑具)と、拘置所と、学童の喧嘩《けんか》などについて、いやな思い出だけを、いきいきと保存していた。
彼は毎年貯金をして、縁日に手品師や軽業師などの芸を見にいった。七歳のとき、父が没落して、一家がヴェンストプ農場(母屋は現在イプセン博物館になっている)に引越し、それまでの金持ちのお坊ちゃんは、友だちもなく、遠い田舎《いなか》道をひとりとぼとぼ通学した。急に貧乏になったので、幼いイプセンは新しい生活になじめず、父親のことを恥に思いながら、学業成績も振わず、ただ、空想の世界のなかで、いつか有名になって、世間を驚かせてやろうと夢見ていた。
ヴェンストプ農場の屋根裏部屋には、前に住んでいた船長が置いていった古本がたくさんあって、その中に、外国の風景を描いた銅版画があった。それによって想像力を刺激されたイプセンは、一八四〇年の始めに水彩画や油絵を描き、画家を志したが、学資がないので断念した。一家が町に帰り、一八四三年秋に堅信礼を受けて一人前になると、口減らしのためにグリムスタという町の薬局の見習いにやられた。一六歳のときのことである。
イプセンの少年時代はいやな暗い日々の連続であった。彼は、現在よりも、むしろ未来への期待と、過去の思い出に生きていた。仲間から離れて、ひとりぼっちで、遊び仲間にも、喧嘩仲間にもはいらず、物思いにふけっていて、同級生のもの笑いの種になることが多かった。しかし、そうかと思うと、突然発作的に興奮することもあった。だが、作文だけは名人で、あるとき書いた『夢』と題する作文はあまり上手に出来すぎているので、先生から盗作と思われたことがある。「夢の中で、天使に導かれて、死者の町へゆく」という筋で、青白く色あせた立派な死者の町の描写によって表現された少年の哲学的・宗教的人生観には、家庭を襲った経済危機のもたらした幻想感と、絶望的にまで暗い気持ちがあらわれている。
〔青年時代〕 イプセンは一八四四年から五〇年までグリムスタにいた。休暇でシーエンに帰っても、父は息子《むすこ》の来訪を喜ばなかった。五〇年には、首府クリスチャニア(現在のオスロ)にゆく前に、故郷に帰って約二週間滞在したが、これが生涯で最後の帰郷となった。数年後に、彼は友人であり、競争相手でもあったビョルンソンにあてて、「わたしは自分の両親から離れていました。家族全部から離れていました。半分しか理解してもらえないような境遇にいるのが、やりきれなかったからです」と書き送っている。『ペール・ギュント』や『青年同盟』や、『人形の家』のクロクスタ弁護士の姿には、父親の戯画化された姿がみとめられる。
これに反して、母親の姿は優しく描かれている。『ペールギュント』のなかの母親オーセの像は、理想化された永遠の母性である。
イプセンは、父親の生活態度を許すことができなかった。父親が没落して、酒に逃避《とうひ》するのを見て、社会に対して違和感をいだき、批判的になり、他人の嘘を許さず、暴露するばかりでなく、自分に対しても、徹底的にメスを加えるようになった。イプセンはこの態度を「自己解剖」と呼んでいる。
後年イプセンは何度も「滝の音のする町」シーエンを再び訪れようとしたが、果たさなかった。「家族の苦痛――家庭の情況の痛ましさ」を思い出すのに耐えなかったからである。
イプセンが薬局の見習いになったころ、二人の弟はアメリカに移住して、七、八歳の末弟と妹のヘドヴィーだけが残った。イプセンは、ときどき妹にだけは、心のこもった手紙を送った。
父には一八七五年になって、はじめて手紙を書いた。イプセンが永年の御無沙汰をわびたところ、父は「作品を通じて様子を知らせてもらっている」と返事を送り、著名な作家になった息子《むすこ》のことを自慢して、文字どおりボロボロになるまで息子の手紙を持って歩き、「金持ちの親戚の奴らは死ねばそれまでだが、自分の名は永久に残るよ」と言っていた。その父も一八七七年に死んだという通知があり、イプセンの父に対する不快の念もやわらいだ。
シーエンの人口は当時三千であった。イプセンは、零落《れいらく》したとはいうものの、町の上流階級に属していた。ところが、人口わずか八百のグリムスタでは、貧相な身なりをした薬局の見習いは、薬局の主人一家以外にはだれも相手にしてくれなかった。孤独なイプセンは、忙しい仕事の合間をみては、海を見つめながら、白昼夢にふけっていることが多かった。
イプセンは、薬局の主人の男の子三人と同じ部屋に寝ていて、夜中にベルで起こされると、女中部屋を通って調剤をしにゆかなければならなかった。十八歳のときに、女中の一人に子供を生ませてしまったが、相手が十歳も年上だったので、別に良心の呵責《かしゃく》を感じなかったらしい。その代わり、自分自身に嫌気がさしたばかりでなく、収入の少ない時代に、十四年ものあいだ、子供の養育費を送らなければならない破目《はめ》になった。この経験は一生心の汚点として残った。彼の作品のなかで、恋愛が描かれるとき、肉欲|蔑視《べつし》の傾向が認められるのは、このような苦い失敗のためである。
そのうちに、薬局が町の中心に移り、代替わりをしたので、イプセンはひと安堵《あんど》した。多数の同年輩の親しい友だちもでき、スカンディナヴィア諸国の文学作品や歴史、哲学書を片っぱしから読みあさった。
イプセンは父親の血を受けついで、|しんらつ《ヽヽヽヽ》な皮肉屋であった。社会の矛盾《むじゅん》を徹底的にあばく、革新的な作家を好み、無神論に共鳴し、他の人が言う勇気のないようなことを言ってのけて、町の人たちを驚かせているうちに、サークルの中心的存在となった。
しかし、時にはふさぎ込んで、希望と懐疑のあいだを行ったり来たりしながら、一八四三年以来詩を書いた。ヨーロッパが動乱に巻き込まれた一八四八年に書いた詩には、田舎《いなか》町に一生埋もれてしまって、偉大な仕事をして名声を博そうという夢が実を結ばずに終わってしまうのではなかろうか、そのうちに死神が迎えに来てしまうのではなかろうか、という心の焦《あせ》りがうたわれている。
このような気持ちから、イプセンは大学を志した。薬局の経験を活用し、生活の途を講じるために、医学部を選ぼうと思った。しかし、受験勉強のためにラテン語でキケロの書を読んでいるうちに、古代ローマの政治と、二月革命のニュースとが渾然《こんぜん》一体となって三幕の戯曲『カティリーナ』(一八四九年)が生まれた。この作品には、シラーの『群盗《ぐんとう》』との共通点や、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の影響が認められる。
プリュンヨルフ・ビャルメというペンネームで発表された『カティリーナ』は評判はかなり良かったものの、イプセンの名を不朽にするほどの名作ではなかったが、彼の作家としての自信は、これによって高まった。一八五〇年四月には首府のクリスチャニアへ出て、ビョルンソンらといっしょに、俗称「ヘルドベルグの学生工場」という予備校に通った上、受験し、大部分の科目に合格したが、ラテン語会話、ギリシア語、数学で落第した。正規の学生にはなれなかったが、自ら「学生イプセン」と称し、学生団や文学協会の会員となり、文学史の講義を聴講したりした。
クリスチャニアにいた一年半のあいだ、イプセンは貧乏のどん底にあった。同郷の学生の下宿に同居していたが、どうにか生きていたのが不思議なくらいだった。
〔前期の作家生活〕 ヴァイキングの改宗を扱った次作『巨人の丘』(一八五〇年)は、クリスチャニア劇場で上演され、成功をおさめた。イプセンはそのとき、客席の暗い隅にすわって、びくびくしながら、自作の初演を見た。
一八五一年にイプセンは労働組合の日曜学校の教師をしたりしながら、ヴィニエやボッテン=ハンセンなどが創刊した「アンドリムネル」という新聞の芸術主任の役割をつとめ、ペンネームで詩を寄稿した。当時のノールウェー文壇では、詩人ヴェルゲランを崇拝する国民主義、理想主義の風潮が強かったが、「アンドリムネル」はこれに対し、革新的な急進主義の新風を吹き込み、政界とジャーナリズムの行き方を痛烈に批判した。そのころのイプセンの詩には、ヴェルゲランの好敵手だったヴェルハーヴェンの耽美《たんび》的な牧歌調と、ドイツのユダヤ系大詩人ハイネの詩集『歌の本』の影響が見られる。
一八五一年七月に社会主義運動の指導者たちが弾圧にあって投獄されたとき、イプセンは「労働組合新聞」関係の証拠書類を焼却して難を逃がれた。そのころの論説のなかに「国民作家とは、山や谷、山の斜面や海岸の響きのなかにある、いや何よりもまずわれわれ自身の内部にある基調を、作品に盛ることができる者である」という言葉がある。
一八五一年七月にイプセンは、独自の文化的伝統を誇るノールウェー第二の都会ベルゲンの劇場助監督兼座付劇作家に任命され、五年間の契約を結ぶとともに、翌五二年奨学金を貰って、コペンハーゲンとドイツに留学した。コペンハーゲンでは、王立劇場で研究するとともに、優雅な生活をして、今まで貧乏生活のために満たすことができなかった、生来の貴族趣味を満足させた。ベルゲンへ帰ってからも、きざな服装をして歩いて、人目を驚かせるとともに、もの笑いの種となった。
時代はちょうどデンマーク文学の黄金時代の末期だった。イプセンは、アンデルセンを訪ねて指導を仰いだり、当時ようやく知識人のあいだで評判の的となっていたキルケゴールの思想を知ったりした。
ノールウェー劇壇は当時まだ発達の途上にあったが、デンマークでは、古い形の演劇が新しい演出という芸術にとってかわられる時期にあった。イプセンは、コペンハーゲンで、古典的な手固い演劇の勉強をした。このことは、彼がノールウェーに帰ってからの劇場の仕事の参考になったことはもとより、また、後に戯曲を創作するとき、必ず実際に上演される場合のことを考えて演出技術上しっかりした構成に組立てるのに役立った。
ベルゲンに帰ったイプセンは、はじめはホテルずまいをしていたが、のちにアパートに移って、食事だけホテルでした。そのホテルの窓から見下せる家に、リッケ・ホルストという一六歳の少女がいた。イプセンは一八五三年の春にリッケに夢中になって、ケーキやベリーをごちそうしたり、詩を贈ったりした。六月に、イプセンは、詩を書いて求婚し、少女も承知した。二人は二つの指輪を結んで峡湾《フヨール》に投げ込んで、式を挙げたつもりになった。しかし少女の父は、娘が将来性のない貧乏な詩人兼芝居者と子供っぽい結婚式をしたと聞いて激昂《げきこう》した。ある日、父の禁令を破って、少女がイプセンと散歩に出たのを知った父親は、イプセンに襲いかかってなぐった。イプセンは怖くなって、一目散に逃げた。数年後にリッケは他の男と結婚した。後年再会したときリッケが「あなたが逃げだしたのでびっくりしましたわ」と言うと、イプセンは、「面と向かうと、わたしはいつも意気地《いくじ》なしなのです」と答えた。
劇場でもイプセンは内気なはにかみ屋だった。俳優たちから尊敬されながらも、もう一つ積極的に指導せず、観衆を恐れていたらしい。少年時代の白昼夢は、現実という壁につきあたって、ハムレットのように懐疑的になった。
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大鷲《おおわし》の羽ばたきを夢見ていたのに
いつの間にか家鴨《あひる》の仲間にはいりこんで
樋《とい》にぶつかって、回り道をさせられて
世の鵞鳥《がちょう》たちと飛びっくらをするのか
海にも、焔《ほのお》にも、まけず
鷹《たか》のように雲のなかを翔《か》けまわり
心配も苦労も忘れてしまう――
明日《あす》の朝、夜が明けるまではね
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イプセンは、契約に従って、ベルゲンの劇場のために、中世末期を舞台とする散文の戯曲『エステロートのインゲル夫人』や、サガ時代から素材をとった韻文劇『スールハウグの宴《うたげ》』を書いた。
牧師の妻で、のちに作家になったデンマーク生まれのマグダレーネ・トーレセンは、上演された作品を観《み》て深い感銘を受け、若い劇作家を家へ招いた。イプセンはそこで一九歳の継娘《ままむすめ》スザンナに会って、普通の少女の持っていない強い性格に心を惹《ひ》かれ、一週間後にはピンク色の紙に求愛の詩を書いて、封筒に「たった一人の人へ」と上書《うわが》きして送った。
スザンナは背が低く、小肥りで、あまり美しくなく、女らしさを欠いていたが、その反面、勇気と、強い性格と、想像力をそなえており、物事に熱中するたちで、文学や歴史についてまじめな話をするのが何より好きだった。ある晩、ダンス・パーティ−で、二人ともダンスができないで、隅のほうに腰かけて深刻な顔つきで話しているのをみて、友人たちは、「これほど似合いの恋人を見たことがない」と言った。イプセン自身も、一八七〇年に「彼女は正にわたしにとって必要な性格の持ち主だ。非論理的ではあるが、強烈な詩的本能をそなえ、物の考え方が雄大で、つまらない心配をするのが大嫌いだ」と書いている。
二人は貧乏なため二年以上も待って式を挙げた。しかし、一八五六年の婚約から、一九〇六年にイプセンが死ぬまでの五〇年間、スザンナは常にイプセンを助け、励まし、刺激し、かり立てて、創作活動をつづけさせた。イプセンが、詩作を怠けて、画を描いたりしていると、スザンナはイプセンを机に連れ戻して、書き物をさせたという。彼女は「夫は強い性格を持っていなかったのですが、わたしが持たせてやりました」とも言っている。彼女は、家庭の主婦としては欠点だらけだった。イプセンは彼女に「猫」とか「大鷲《おおわし》」という綽名《あだな》をつけた。それでいて、イプセンは、彼女を対等のパートナーとして認めた。彼の作品に出てくる女性像に、女らしくない女の姿が見られるのは、彼女の影響である。彼女はいつも人前に出なかった。夫婦並んで写真にうつったこともなかった。それでいて、彼女の内助が欠くことができない貴重なものであることは、当のイプセンがもっともよく知っていた。
一八五七年にイプセンは首府クリスチャニアのノールウェー劇場の監督となった。首府では、デンマーク文化の伝統の下にあるクリスチャニア劇場が、富裕な市民階級を顧客層として持っていたのに対し、ノールウェー古来の文化を大衆に伝えることを使命とするノールウェー劇場は、二流の俳優陣をかかえて、通俗的な出し物の上演によって迎合しなければならない立場にあった。イプセンは、ベルゲン時代には、契約に縛られていたとはいえ、五つの戯曲を書いたが、クリスチャニアに移ってからは、劇作を五年間も休止した。
イプセンは、首府での仕事には満足していなかったが、交友範囲をひろめ、ビョルンソンや小説家のヨーナス・リーなどと知りあいになった。なかでもビョルンソンは、ノールウェー文学史上、イプセンと並び称される巨匠で、祖国を盲目的に熱愛し、豪放な首領タイプで、サガ時代の英雄豪傑の直系の子孫ともいうようなところがあり、性格的にイプセンと対照的であった。イプセンは、このビョルンソンと常に競争者の地位に立たされ、生前は国内ではむしろ幾分か劣勢であった。一生涯のあいだに二人はずいぶん反目対立もしたが、一九〇二年に、ビョルンソンが病床のイプセンを見舞ったとき、イプセンは老友の手を握って、「君は僕にとっていちばん思い出の多い友人だ。いちばんの親友だ」と感動したという。一八五六年に、イプセンはビョルンソンたちといっしょになって、「文学と芸術における国家主義的傾向を推進するためのノールウェー協会」を設立した。
愛国主義運動に参加したイプセンは、ノールウェーに対するデンマーク語と演劇の影響を排除すべしと説きながらも、三国それぞれの特殊性を活かした形で、スカンディナヴィアが一致協力しなければならないと詩にうたい、デンマークのドイツに対する譲歩を非難攻撃した。
「男は、自らの信頼する友にはなんでも与える。なんでも。――ただし、自らの愛する女以外は。なぜならば、もしそんなことをすれば、運命の女神たちの秘密の糸を断ち切り、二つの命をむだに散らせてしまうから」
サガにテーマをとった当時の作品のなかの女性の言葉には、ビョルンソン風の英雄崇拝的な響きがこもっている。それが一八五九年の詩『曠野にて』になると、皮肉と批判が陶酔《とうすい》的な気持ちと混って、複雑になってくる。「わたしは質問するだけ。わたしのつとめは、答えることではない」。分裂した二重人格、たえず自らに問いかけ、ひとつの自我が他の自我を分析、非難攻撃する姿に、われわれはイプセンの本体を見出す。この二元性、自己|相剋《そうこく》、しかも明確な解答を避ける曖昧《あいまい》な態度が、イプセンの劇作の特徴となっている。性格の二元性を生涯|癒《いや》すことができず、同一人に内在する複数の人格が対話をし、議論をしあった結果、すぐれた戯曲がつぎつぎと生まれたのだろう。
この点、イプセンには、デンマークの産んだ『あれか、これか』の哲学者キルケゴールの影響が認められる。イプセンは、グリムスタ、コペンハーゲン、ベルゲン、クリスチャニアの各時代を通じて、キルケゴールの著作を読んだ。キルケゴールの弟子にはならなかったが、知らず知らずのうちに、その思想を受け継ぎ、しかも自らそれを認めようとしなかった。イプセンの自尊心は余りにも高く、他人の影響を受けたとあっては、自分の天才的独創性に|けち《ヽヽ》がつくと思っていたらしい。
一八六二年から三年にかけて、イプセン一家は貧乏のどん底にあった。誇り高いイプセンは、「理念の人」にとって欠乏の幸福がいかに重要なものであるかを声高に説きながらも、日の当たらない、理解者のいない生活に虐《しいた》げられて、勇気と自信を失いかけていた。時あたかも、ノールウェー国会に、ビョルンソンに対して詩人年金を下賜《かし》する議案が上提された。イプセンも報酬の給付を申請《しんせい》し、もし認められなければ、ノールウェーでの詩作活動をやめて、デンマークで運を試すと言って、国会をおどかそうとした。しかし、結果はビョルンソンに軍配《ぐんぱい》が上がり、ビョルンソンが報酬を受け、イプセンは次の機会にまわされる。そのうちに、六三年春、クリスチャニア大学から、ノールウェーの民謡伝説|蒐集《しゅうしゅう》のための資金が貰えることになり、六月にはベルゲンで開催された歌の祭典に出席し、帰ってから、急に盛んに活動する。『王位をうかがう者たち』は白夜の時期の六ないし八週間のうちに、一気に書き上げられた。
一八六三年末から、デンマークと、ドイツの二大国、プロシアおよびオーストリアとのあいだの情勢が緊迫化し、翌六四年始めに戦争が勃発した。それまで、学生の集会や演説や新聞の論説は、ノールウェーとスウェーデンは、ただちに友邦デンマークの救援に赴《おもむ》くべしと説いていた。イプセンも『苦難にある兄弟』と題する詩を書いて国民に訴えたが、ノールウェー国会は、慎重論と、実利主義の立場から、勝目のない戦争への参加を避け、その結果、見殺しにされたデンマークは大敗を喫した。
イプセンの目には、ノールウェー人は、口先だけでえらそうなことを言いながら、いざ実行となると、すぐに安易な妥協《だきょう》をしてしまう臆病者と映った。コペンハーゲンで敗戦の報せを聞いたイプセンは、それまでいだいていた祖国愛が、一夜のうちに軽蔑《けいべつ》と憎悪に変わるのを感じた。六四年中には、家族とともにローマに移り、暗い長いトンネルの中から、急に明るい場所に出たような感じがした。
しかし遠く離れていると、そのうちに祖国と、祖国の民に対する憎しみも、愛情と渾然《こんぜん》一体となって、国民の一人としての自分に共同責任があったと思うようになり、ノールウェー国民をたたきなおすためには、まず自分からはじめなければならないとかんがえるようになる。
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陽《ひ》ざしのよい藪《やぶ》から
雪国の小屋へ
夜な夜な、かかさず
騎士がゆく(『焼かれた船』から)
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イプセンは、一年間コペンハーゲンで過ごしたのち、一八六四年の秋、ローマに移る。ノールウェーで貧乏生活を送り、暗い、苦しい日々を場末のカフェーですごしていた「呑んだくれ詩人」は、妻子と離れ、劇場の雑務からも解放されて、イタリアのワインを味わいながら、日光に照らされた永遠の都ローマの芸術の歴史あふれた雰囲気のなかで、自由を満喫する。新しい友だちができる。若い北欧人の芸術家たちのサークルに、かこまれる。詩作活動以外には、なんの義務も束縛もない楽しさ。「ノールウェーにいたときは、いつも群衆の笑い者にされているような気がしたが、ローマでは何もこわいものがない」
イプセンはやがて、ここでもサークルの中心的存在になる。しかし、他の仲間が、南国的な快楽をたのしんでいるあいだも、イプセンはたえず故国のことを考え、故国の政治外交を批判し、故国の社会を分析して、眺め、詩を書いた。「詩作とは、本質的には、見ることである」。人や物は遠くから見たほうがよくながめられる。
クリストファー・ブルウンという男がいた。デンマークがドイツと勝目のない戦争をしているのにノールウェーが中立を保っていることに業《ごう》を煮やして、志願兵としてデンマーク軍に従軍する。そして、戦後妹のテーアをつれてローマに移住する。テーアは病身で、イプセンの妻と正反対の弱々しい女性であったが、イプセンはこのテーアに心を惹《ひ》かれ、同時に兄のクリストファーとも親しくなる。この交友から『ブラン(普通わが国ではブランドと呼ばれている)』が生まれる。叙事詩として書きはじめられ、戯曲として完成された『ブラン』は、イプセンの代表作の一つになった。宇宙に嵐を呼びおこす、ギリシア神話の半神と、キリスト像とをつきまぜたような巨人。「一切《いっさい》か、無か」と説いてまわる聖職者、芸術でも、恋愛でも「一切か、無か」と叫び、「選択せよ。君は分岐《ぶんき》点に立っている」と告げ、「妥協《だきょう》の精神は悪魔である」とおどかす。この激越な考え方には、ブルウンが尊敬したところのキルケゴールの影響がはっきり認められる。イプセンは『ブラン』を、自分が持っている最善のものと呼んでいる。『ブラン』は、内面的には、ブルウンとイプセン自身からモティーフをとっているが、外形上は、画業を志しながら、宗教家となり、新しい宗派を興して、イプセンの母と妹を帰依《きえ》させたランメルスと、画家でありながらアフリカへ宣教師として渡航し、帰国後説教|行脚《あんぎゃ》をつづけているうちに、雪崩《なだれ》のために遭難死したクヌードセンという、二人の人物の姿がモデルになっている。ノールウェー人の偉大さを描いた作品『ブラン』は、観念的との批判をまぬがれない。また、ブランにバイロンの詩人崇拝的なロマンティシズムの影を認める者もいる。第二次大戦中、ノールウェー人の九八)%がドイツに対する抵抗運動に関係し、決定的な瞬間に、安易な妥協《だきょう》につかなかった。そのようなとき、「一切《いっさい》か、無か」「あれか、これか」の決断をおこなうため、この作品が国民の精神的支柱となったという。
『ブラン』の出版者は、売行きについて心配していたが、杞憂《きゆう》におわり、十か月のあいだに四版を重ねた。イプセンはそのころ、詩人の報酬の下賜《かし》につき国王に請願《せいがん》していたが、『ブラン』が成功したため、情勢が好転して、希望がかなえられた。ビョルンソンとならんで、国の代表的詩人となったイプセンは、最新流行の形に髭《ひげ》を摘《つま》み、新型の服と、アイロンのかかったシャツを着、冷たい態度で、一般の人とあまりつきあわず、お高くとまるようになった。書体まで、きちんとした形に変えた。わざと、人目につくように、一日のうちにこの変化を実行して、友人を驚かせたという。
クリスチャニア大学と、トロンハイムの学術協会からも、奨学資金が出た。デンマークの富くじに二度も当たった。『ブラン』が版を重ねるたびごとに、印税がはいる。ノールウェーから新聞がとどくたびに、自分の作品に関する記事がのっている。有頂天《うちょうてん》になったイプセンは、手紙に「まるでお伽噺《とぎばなし》みたいだ。すばらしい」と書いた。物資生活が飛躍《ひやく》的に向上し、世間からも認められ、天国にいるようなうきうきした気持ちで書いたのが、次作『ペールギュント』である。
イプセンの作品は、前作に対する継続であり、しかもそのアンチテーゼであることが多い。『ペールギュント』は『ブラン』に対するアンチテーゼとして、自然発生的に出来上がった。しかもそれを書いた一八六五年から六年へかけての冬は『ブラン』を書いた二年前の冬とは異なっていた。戦争の影は遠のき、ローマのスカンディナヴィア人社会もすっかり若がえり、哲学的な愛国者ブルウンの声もきこえなかった。話しかけるつもりで『ブラン』を書いた相手の、ブルウンの妹テーアも死んでしまっていて、イプセンは陽気で、想像力に富んだ夫人たちにかこまれていた。
『ペールギュント』のモデルとなったのは、トールヴァル・モラーという船長で、世界を旅してまわる以外に、空想のなかでも大旅行をし、体験談を、二分の創作と八分の嘘をまじえて、巧みな話術を駆使《くし》して大法螺《おおぼら》を吹くことが好きな、生活力の塊《かたまり》のような人物であった。『ブラン』で、自分や一般のノールウェー人の良い面だけを書いたイプセンは、この作品でもう一つの典型的なノールウェー人のタイプを描いた。『ブラン』が観念的で、舞台であまりはえないのと違って、『ペールギュント』の主人公の性格には、論理的一貫性を欠いているだけに現実性があり、現在ではドイツ文学における『ファウスト』に相当する、ノールウェー文学の最重要中心作品としてひろく読まれ、かつ、しばしば上演されている。
『ペールギュント』は、アスビョルンセンの民話から歴史的素材をとっており、トロル(ノールウェー民話の怪物)が登場し、イプセンの創作にかかる妖怪《ようかい》まで出現する。イプセンは実際、潜在意識半ば暗黒の世界に、トロルの力が作用すると信じていたらしい。「十分に自分自身である」というテーマがくりかえし使われるが、これは独立心が強いあまり、滑稽《こっけい》なほど自我を主張する、ノールウェー人の姿を戯画化した言葉である。なお、ペールの父ヨン・ギュントには、イプセンの父親クヌードの姿が認められる。
『ペールギュント』は大成功を博した。ビョルンソンの友人のデンマークの評論家が書いた書評が原因となって、イプセンがビョルンソンあてに、激越な抗議文を出す。しかし、親分肌のビョルンソンが軽く受け流したために、両雄はいちおう仲直りしたが、その後十年間、イプセンの方からは手紙を出さなかった。
〔外国における作家活動―リアリズムへの道〕一八六八年にイプセンはローマを去って、南ドイツのベルヒテスガーデンで夏をすごし、引きついでドレスデンに落ちついた。現代社会劇『青年同盟』が書かれたのはこのころである。この作品には、イプセンが愛読したホルベルグの影響がみとめられるが、その後毎年発表した社会劇と同じく、当時のノールウェー社会を舞台とし、作者の父をはじめ、シーエンですごした少年時代の人物が描かれている。ビョルンソンが数年前に書いた現代劇にインスピレーションを呼びおこされたこの作には『ペールギュント』と共通点があり、多種多様のアイデアやモティーフが、惜しみなく使われている。デンマークの世界的に著名な文学評論家ブランデスは、作中のセルマという脇役でさえ、一編の戯曲の主人公となり得ると説いたが、この言葉が正しいことは十年後の『人形の家』の発表により実証された。
一八六九年夏、イプセンは北欧に旅行した。ノールウェーへは寄らず、ストックホルムで開かれた、北欧各国の言語に関する会議に出席した。会議の社交行事として開かれたパーティーで、イプセンは、特に女性のあいだで人気があった。彼はまたこの機会にスウェーデン国王とも知り合い、国王の口ききで、スエズ運河の祝典に列席することになり、ドレスデン、パリ経由でエジプトに向かった。途中ポートサイドで、『青年同盟』がクリスチャニア劇場で初演されたとき、学生達が反対して騒いだことを聞いた。故国に対してはあいかわらず、割り切れない感じだった。
一八七一年には、『詩集』が出版された。前年に発表されたビョルンソンの詩集には『詩と歌』という題が付けられていたが、イプセンの場合には、『歌』は落ちていた。イプセンの詩は、うたうのには適していないし、また、自己批判の厳しいイプセンは、記念に作った祝いの歌のようなものを、詩集からのぞいてしまったからである。詩集の中には『焼かれた船』や『テルイェ・ヴィーゲン』のような不朽の名作が含まれている。イプセンは、その創作活動の前半には韻文劇のような大作を含めて、多数の詩を書いたのに、後半には、この分野ではまったく沈黙してしまって、二十五年間に、短い詩を数編書いたに過ぎないが、これは一つの大きな謎とされている。
一八七〇年、イプセンはブランデスにあてて、「政治家は政治上の革命しか望まないが、それはおかしいと思います。もっとも大切なのは、人間精神の革命で、あなたは指導者としてその先頭に立っておられます」という意味のことを手紙に書いた。七一年には、それまでは文通だけにしていたブランデスと初めて対面して、思想、政治、文化各般にわたって、大いに意気投合した。
そのころのイプセンは、しきりに「原稿用紙の下に魚雷を置く」と語り、国家と社会に対する個人の反抗を主張したが、私生活ではますますブルジョア的になり、デンマークとトルコから勲章《くんしょう》を貰うために自分で運動をしたりした。勲章をつけて歩くと、数年前にかれを軽蔑《けいべつ》したクリスチャニア市民に対し復讐することができたような気になったらしい。「勲章はノールウェーにおけるわたくしの文学的地位のためには、最高に有益なものだ」「これで、わたくしの詩集の価値は倍増した」とも言っている。
彼は天才であるとともに、小市民でもあった。思想と実行とのあいだの矛盾《むじゅん》、主張と実際生活との背反は、世間から指摘され、非難もされたが、何よりも彼自身にとって重大な問題であり、悩みの種でもあった。しかし、このような二重人格の相剋《そうこく》の結果、精神が緊張し、過酷《かこく》なほど厳しい自己批判により社会劇が生まれたとも言える。「わたしは自分の内面を見つめている。そこがわたしの戦場だ。勝ったのかと思えば、負けたりもする」と、イプセンは、一八九六年に妹にあてて書いている。
時あたかも、ヘーゲルが「正」と「反」との対立を説き、キルケゴールが「美的段階」と「倫理的段階」との対立を説いた時代である。このような思想史的環境が、イプセンの内部の二元論的対立の背景となっていた。ヘーゲル哲学やキルケゴール哲学では、対立に対する調和のとれた解決が求められたが、イプセンもそのようなものを探求した。いわばヘーゲル哲学における「合」に相当するのが、イプセンのつぎの作品『皇帝とガリラヤ人』のなかの「第三帝国」の思想である。
ドイツ軍のデンマーク侵略に抗議し、スカンディナヴィアの団結を説いたイプセンは、ローマで南国の太陽のもとに安易な生活を送りながらも、たえず快楽に対する北欧的な罪悪感に責められた。「世界史的な戯曲」という副題のついたこの大作について、作者自身「人生における、たがいに宥和《ゆうわ》し得ない二つの力のあいだの相剋《そうこく》を取扱ったもの」と書いている。まじめとお祭り気分、義務と人生の享楽《きょうらく》、解脱《げだつ》と祝宴との対立である。
イプセンは、『皇帝とガリラヤ人』を生涯の代表作品にしようという意気込みで、十年の歳月と大変な苦労を傾注して書き上げたが、芸術作品としては失敗に終わり、舞台の評判も(芳芳《かんばかんば》しくなかった。一五〇〇年も前に、ローマ帝国の各地で起きた事件を、リアリズムの手法で描写しようとした点に問題がある。イプセンはその後、史劇を手がけることをあきらめた。
イプセンはもう青春がおわったことを意識する年齢に達していた。鏡を見ると、髪も髭《ひげ》も白くなりかかっている。子供も大きくなって、独立の人格として、「自分自身」の道を歩もうとしている。
一八七四年に、十年ぶりに故国に帰ったイプセンは、「わたしの作家生活のいろいろな後景が、いままでになくはっきりと目の前に現われた」と書いている。
クリスチャニアにいた二ヶ月半のあいだ、彼は市の代表的な要人たちから、ノールウェーの生んだ偉人として、祝福され、歓迎を受けた。しかし、その最中でも、違和感は去らなかった。昔の苦しい思い出がよみがえり、古傷が口を開いた。昔の友だちは、古めかしい保守主義者か、狂言的な政治家になっていた。昔、イプセンを変人視して軽蔑《けいべつ》した連中が、イプセンの名声と勲章《くんしょう》の前に頭を下げてきても、打ちとけて話をする気にはならなかった。
イプセンは、まさか青年たちから歓迎を受けようとは思っていなかった。学生たちは、『青年同盟』の初演のとき騒いでから、その直後、好敵手ビョルンソンを、ノールウェー学生団の団長に選んだ。それなのに、一八七四年九月、学生団と学生協会が、イプセンが外国へ帰る前に、松明《たいまつ》行列をおこないたいと申し出た。創作活動のちょうど真ん中にあって、人間としても最盛期にあり、劇作家としても転換期に立っていたイプセンは、たいそうよろこんで、「新時代の詩作の秘訣」に関する内容豊富な大演説をして、学生たちにこたえた。
数日後、イプセンはドレスデンに帰った。その翌年に書いた憂鬱《ゆううつ》な調子の詩『はるかかなたで』では、ドイツ人やイタリア人が統一国家を結成しているのに、スカンディナヴィア人は、夢を見たり、学生行列をしたり、演説をしたりするだけで、さっぱり実行力がないと嘆いた。欧州文化の将来を悲観して「われわれは屍《しかばね》を貨物のなかに入れて航海している」という象徴的な文句を書いたのも、そのころのことである。
当時、ローマン派はもう「屍」的な存在となっており、リアリズムが新しい文学思潮であった。一八七五年にイプセンはミュンヘンに移って、ドイツ文壇のリアリズムの代表者たちと知りあいになり、現代フランス戯曲の上演を見たりした。しかし、イプセンにもっとも直接的な影響を与えたのは、その年の始めに発表されたビョルンソンの現代劇『編集長』と『破産者』であった。後者と、イプセンの次作『社会の柱』とのあいだには、顕著《けんちょ》な類似点が多い。
『社会の柱』を契機として、イプセンの作品は、形式においても、手法においても、徹底したリアリズムの傾向を示す。しかしながら、イプセンを正しく理解するためには、その一見徹底したリアリズムの世界を底流として、理念ないし夢、彼の言う「真理と自由の精神」が流れているのを見逃せない。「詩は二重底でなければならない」というのが彼の主張である。
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歌にあわせて、低く琴の音をあわせたのに
下に張った弦が、ひびきを色づける
ほら、詩のなかに詩が隠されている――
それがわかる人が歌をも理解する
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『社会の柱』はいまでは古めかしい喜劇になっているが、発表当時は、小都市の人たちの性格をいきいきと描写し、強烈な印象をそなえた作品であった。コペンハーゲンの王立劇場で成功ののち、特にドイツで大変な人気を呼び、ベルリンで同じ週に五つの劇場で上演されたりして、ドイツ語地域の六〇の劇場で、二十五年間に一二〇〇回以上も上演された。ノールウェー人がノールウェーの社会を描いた二つの戯曲『破産者』と『社会の柱』によって、リアリズムがスカンディナヴィア文化圏とドイツ文化圏に導入された。
『社会の柱』の傾向は、保守党の人によろこばれなかったが、その婦人解放的な要因のために、女流詩人カミラ・コレットをはじめ、ノールウェーの女性から超党派的に賞讃の的となった。また、スタヴァンガーの市民で、小都市の雰囲気をイプセン以上によく知っているシェランは、この作品を読んで大きな感銘を受け、これにならって処女作の小説『ガールマン=ヴォルシェ』を書いた。
〔『人形の家』〕
二十世紀の初頭、『人形の家』について論ずる者は、婦人解放運動が実現し、婦人の地位が向上すれば、作品としての価値が減ずると主張したが、事実はそのようにはならなかった。『人形の家』において、中心的な役のノーラを、つぎからつぎへ出てくる北欧はじめ各国の新しい名女優が演じるたびごとに『人形の家』は新しい魅力をもって観衆をひきつけた。
『人形の家』は、一八七九年一二月四日に発表された。前作『社会の柱』では、ベルニック領事の公的、私的な対人関係が詳細《しょうさい》に書いてあり、背景には小都市の生活がうつるように指示されているが、『人形の家』では、雰囲気や環境についてなんら触れておらず、端役《はやく》を除いては、登場人物は五人にすぎない。「社会の柱」であるヘルメル弁護士と、その妻ノーラ、そして彼らの生命のない「人形の家」のような家庭、これが主要人物である。
イプセン自身がこう解説している。「精神の法には二種類ある。良心には二種類ある。男の持つ良心と、それとまったく異なった、女の良心と。男と女は相互に理解し得ない。それなのに、現実生活では、女は男の法律によって裁かれる。まるで女でなくて、男であるかのように。作中の妻は、過《あやま》ちを犯した。しかもそれを誇りとしている。なぜならば、彼女は夫を愛するあまり、夫を救おうとして、過《あやま》ちを犯したのだから。それなのに、この男は、法的根拠にもとづいて世間的名誉を保ちつつ、男の眼で事件を見る」
ノーラには、それとはっきりわかるモデルがあった。ラウラ・ペーテルセンという二十一歳の女性が『ブランの娘たち』という作品を書いてイプセンと知り合ったのち、キーラーというデンマーク人の教師と結婚したが、夫の収入を補うためもあって、結婚後も創作活動をつづけた。その一、二年後に、キーラーが肺病のため転地療養を要することになり、妻は夫にないしょで借金をして、印税で返済しようと思った。おかげで、夫は全快したが、借金の利子はかさみ、妻は新しい本を書いて、金をかせごうとした。彼女がイプセンの妻にもらしたため事情を知っていたイプセンは、彼女が書いた新しい原稿を見て、いつになく筆が荒れていると責め、彼女に対して、秘密を夫に打ち明けるようすすめた。
ラウラは夫を恐れて打ち明けなかったが、夫は第三者から事情を聞いて、離婚を決意した。子供は連れ去られ、ラウラは一か月間精神病院に入れられた。その後、彼女は夫と仲直りしたが、『人形の家』はその間に書かれた。イプセンがラウラの事件から題材をとったことを知っていて、写真のように忠実に引きうつしてあると言う者もいたが、事実は、単にあらすじをとったに過ぎない。
『人形の家』は、各国で、婦人問題の書としてとりあげられ、結婚生活のモラルに関する議論をかもし出し、社交界では、「『人形の家』の話いっさいお断わり」という貼り紙をする家まで現われたりした。当時もっぱら議論の対象となったのは、劇の末尾で、ノーラが、夫と子供を捨てて家出をする権利があるかどうかであった。「相互に尊敬のない結婚は、いつわりの結婚である。いつわりの結婚生活をつづけるよりは、出ていったほうがよい」とビョルンソンも言っているが、このような考えは当時の社会からは驚きをもって迎えられた。ドイツの劇場関係者は、観客の反響を憂慮して、イプセンに迫って、不承不承《ふしょうぶしょう》末尾を書きかえさせた。
ノーラの夫に対する態度を見て意外に思われるのは、結婚生活における肉体的要素が無視されていることである。夫に対しても、この点で淡白だったノーラは、自分の崇拝者たるランク博士に対しても同様で、コケティッシュな態度を示しても、愛人から金を借りてお世話になるなどということは思いも寄らないたちの女であった。イプセンは、のちにミュンヘンで、愛人と駆落ちした人妻のことを聞いて、きわめて激しい口調で非難をして、『人形の家』の作者にふさわしくないと言われたことがある。
主人公ノーラの性格は、一見分裂しているように見える。最初の二幕で「ひばりさん」と呼ばれる、子供っぽい、人生経験のない女が、終幕では突然意志強固な女性として、雄弁に女権を主張しだす点で、性格の一貫性を欠いていると指摘する者もいる。しかしながら、慎重にくりかえし熟読すると、イプセンが、苦心してノーラという女性像をつくったことがわかる。「ひばりさん」はノーラのよそおいにすぎない。夫や父親がノーラを「ひばりさん」あつかいしたがるから、そうなっていたまでのことである。ほんとうは、実行力をそなえた、二人の子の母親、一人前の女なのである。彼女は最初からヘルメルの能力と性格の強さに疑いを持っていたし、また反面、逆に終幕になっても、一抹の子供らしさを保持している。
劇が展開するにつれて、過去の歴史的事実が露呈され、いろいろなことの原因がわかってくる。事件の一|齣《こま》ごとに、時間、空間の両面で、事象相互間の因果関係が明確化する。この回顧《かいこ》的な手法は、イプセンが早くから好んで用いたもので、劇作史上一つのエポックを画《かく》した。クロクスタとリンデ夫人の過去の関係がだんだんはっきりしてくることにより、筋がしっかりと通ったものになる。また、ノーラが、夫の性格に疑いを持ちながら、夫が自分のためにすべてを犠牲《ぎせい》にするという「すばらしい奇跡」があらわれることを、おそれおののきながら、期待している。その期待が無残に裏切られて、「奇跡」はついに起きない。あらゆる権威に対する信頼を失ったノーラは、絶望のあまり「社会が正しいか、わたしが正しいか、つきとめなければ気がすみません」と叫ぶ。
この作品を書いている最中、ノーラは、イプセンにとって実在の人物のような存在になってしまった。イプセンは、自分の創造したノーラが、「質素な青い毛の服を着て」訪ねてくるような気がしたという。ノーラは、冗談好きで、多面的で、しかも百パーセント女性的である。一方ヘルメルは、いちおう立派な紳士で、趣味も身だしなみもよく、弁護士としても有能であるが――心の底では臆病な小市民である。イプセンはこの作品を練っているうちに、だんだんとヘルメルおよび自己のなかにあるヘルメル的なものを憎むようになった。
〔その後の社会劇〕 ローマとソレントで書かれ、一八八一年に出版された『幽霊』は、ある意味で『人形の家』の続編と言われる。ノーラが家出をしないで、家に残っていたら、こういうことになったかと思われるからである。フランスから老母アルヴィング未亡人のもとに帰ってきた(息子《むすこ》息子のオスヴァルが、亡父の遺伝のため発狂するまでに、アルヴィング家の過去の罪業の数々が明らかにされるという筋は、ダーウィンの進化論さえ受け容れなかった当時の世人の顔をしかめさせ、北欧の主要な劇場は、そろって上演を拒否した。初演はシカゴでおこなわれ、ドイツでは警察がやかましかったため、非公開で上演された。
イプセンは弁証法を好み、いつも反対の抗議を唱えたり、見解や立場の対立を歓迎した。しかし青年時代の劇場の仕事で演劇の技術を知悉《ちしつ》しているイプセンが、人為的に作品の構成を組立てたとする説があるが、それは必ずしも当たらない。彼は現にこう言っている。「詩人というものは、自己の作品に耳を傾けて、聞き入らねばならない。詩人が詩に対して命令できるとするのは、大変な間違いである。詩の方が詩人に対して命令を下すものである」
この時期のイプセンは、、劇作にあたって、必ず三種類の原稿を書いた。「第一稿を書くときは、作中の人物について、列車の車内で乗り合わせた相客程度の知識を持っている。第二稿では、一か月の湯治《とうじ》滞在のときの知りあい程度になり、第三稿では、長年の知己《ちき》のように、何から何までわかってしまう」とも言っている。
『社会の柱』と『人形の家』と『幽霊』のあいだには、それぞれ二年ずつの間隔《かんかく》がある。これから約二十年間、イプセンは二年ごとに規則正しく社会劇を発表し、世界中の知識人が、一年おきに、クリスマスがちかくなると、上演を首を長くして待ちわびていた。
イプセンは、その創作においても、弁証法的であった。一つの戯曲は、その直前の作のアンチテーゼであるとともに、また前の数個の作品の総合《ジンテーゼ》でもあるというふうに、作品のあいだにたがいに関連がある。
「わたしにとっては、一人一人の人の個人的な解放のほうが、国家の政治的な自由獲得のための闘争よりも重要なのです。なによりも、教育を徹底的に改善する一連の措置《そち》が望ましいと思います」とイプセンはビョルンソンへの手紙に書いている。イプセンの社会劇の急進的な傾向は、あくまでも個人の「精神の革命」を追求するもので、この点、ハウプトマンなどと本質的に異なる。『民衆の敵』では、「精神の貴族」的な行き方があまりにも極端で、社会劇ではなく、反社会劇だといわれるほどであった。そのため、民主主義的な政治家は離れていかざるを得なかった。
好敵手ビョルンソンとの関係は、歳を経るにしたがって改善された。ビョルンソンは、一八八〇年から八一年にかけてアメリカにいたが、イプセンを現代の最大の劇作家と呼んで絶賛した。その直後、ビョルンソンが病床で重態になったと聞いたイプセンは、「君が、ぼくにとっても、みんなにとっても、いかに重要な存在だったかに気がついた」と書いている。両雄は、一八八四年、チロルのホテルで二十年ぶりに再会を楽しんだ。
『民衆の敵』は、イプセンが社会の因習を痛撃して、個我の尊厳を主張した戯曲としては最後の作品である。つぎの『野鴨《のがも》』では、社会批判的傾向は影にかくれて、「真理とは人生にとってどんな意味を持っているのだろうか?」というイプセンの生涯の根本問題が疑問として提起される。凡人には、生活上どうしても嘘が必要なのではなかろうか? 作者は、悲観的な気持ちで、懐疑《かいぎ》と、内観と、自嘲《じちょう》に耽溺《たんでき》する。
〔晩年〕 この作品を転機として、社会劇の痛烈な批判と分析の歯切れの良さは鈍り『ロスメル島』『海の夫人』『ヘッダ・ガーブレル』『建築師スールネス』『われら死者の目覚める時』などは、社会問題は完全に忘れられて、心理的な内容の戯曲になっている。本来イプセンに内在していた、潜在意識の妖怪《ようかい》の出没する迷信の底流が、だんだんと表面にあらわれて、年齢の影響もあって、思想は明確さを欠き、野鴨とか、白鳥とか、塔というような、象徴的な表現がつかわれるようになる。
ノールウェーにおける、当時の左派政党の勝利の報を受けたイプセンは、一八八五年に、明るい希望と、不安な予感をもって、帰国し、一時は首都クリスチャニアの郊外に、峡湾《フヨール》に面した家を買って落ちつくことも考えたが、けっきょくちぐはぐな気持ちで、また国外に去った。
イプセンの名声は、ドイツからはじまって、世界にひろまった。その作品は、ドイツ、イギリスでは、賑やかな道徳論争の種を播《ま》き、フランス、さらに欧州外のアメリカ、オーストラリア、のちには日本まで知れわたった。一八八九年に、かつて滞在したチロルのゴッセンサスをふたたびおとずれたところ、町民と避暑《ひしょ》客がいっしょになって、イプセン祭を催《もよお》し、町の広場をイプセン広場と命名したことは、世俗的な名誉を好むイプセンをもっとも喜ばせたらしい。六十一歳の老詩人が、若い女性たちのあいだで人気があった。その一人ミュンヘン生まれのヘレーネ・ラフは数年間しばしばイプセンの家に招かれた。イプセンがあまり親切にするので、イプセン夫人は最初は嫉妬《しっと》を燃やしていたが、一時は、成人した息子《むすこ》のかわりに彼女を養子にすることも考えた。ウィーン生まれの十八歳の少女エミーリエ・バルダハとの交際は七週間しかつづかなかったが、もっと危険なものだった。イプセンは彼女のことを「九月の生命における五月の太陽」と呼び、空想のなかで、二人いっしょに勝利の諸国|行脚《あんぎゃ》をしようなどと語らいあった。
しかし、イプセンのエミーリエに対する気持ちが、真剣なものであったかどうかは極めて疑わしい。イプセンは、ヘレーネ・ラフの日記によると彼女にキスをしたことになっている同じ日に、エミーリエにあてて「十年後に、私が蜜柑《みかん》の国の王さまになったら、その国をあげましょう。お妃になってください」などという調子のラヴレターを送っている。厳しい批判的な眼をもったイプセンが、この少女を観察し、いろいろな心理的実験を試みていたと思われる節がある。のちに彼はエミーリエのことを「他の女、ことに妻から男を奪い取ることだけに満足を感じる、魔女的な破壊者だ。おそらく一生結婚しないだろう」などと冷酷な批判を下している。
一八九一年に、イプセンは故国に帰った。最初はシーエンへ行ってみたいと思っていたが、実現せず、代わりにノールウェーの北端、北極圏の果てのノールカップ岬まで旅行した。二十七年間も異郷にいたため、なかなか故国の空気になじめなかったが、ついに死ぬまで定住してしまった。
クリスチャニアにおけるイプセンの生活は町中の名物になった。シルク・ハットをかぶり、フロックコートを着、ピカピカに磨いた靴をはいて、毎日、午前に、小刻みな歩みで散歩をして、きまった時間に、目抜き通りのカール・ヨハン街にあるグランドホテルのコーヒーショップに姿をあらわして、新聞をひろげる。あまりの規則正しさに人々は彼の姿を見て時計をあわせるほどだった。
家庭では、妻が病気のために外出できなくなっていた。ベルゲン時代に住んでいたホテルの女主人の孫に、ヒルドゥール・アンデルセンというピアニスト志望の娘がいた。イプセンは彼女と温かい友情を結び、よき理解者を見出し、創作の計画などを打ち明けて相談した。劇場や、講演会や、展覧会へは、妻に代わって、ヒルドゥールがいつもお伴をした。また彼女が音楽会へゆくときは、イプセンが同行した。イプセンは彼女にあてて、いろいろな意味深長な手紙をおくったらしいが、彼女は、自分が九十歳近くなったとき、それらをみな焼却してしまった。イプセンと病妻とは、同じ屋根の下で、ぜいたくで優雅な生活をおくりながらも、二人の孤独な人間として暮らしていた。
一八九一年の秋、青年ハムスンが市内で一連の文学講演をして、イプセンをはじめ、文壇の四人の巨匠たちを痛撃して、新しい文学を説いた。イプセンは表面は静かに聴いていたが、休憩のあとで、ヒルドゥールが「あんな不作法なやつの話をもっとお聞きになるのですか」と尋ねると、皮肉な口調で「詩の作り方を教えてもらわなければならないからね」とこたえたという。
一九〇一年以来、イプセンは病気のため活動をやめ、一九〇六年五月二十三日に他界した。オスロの救世主墓地にある墓には、ハンマーのしるしが刻まれている。
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あとがき
この本の解説を執筆の途中で、つまらないヤボな仕事のために、また北欧三国に旅する破目《はめ》になった。
オスロで常宿《じょうやど》にしているグランド・ホテルは、東京ならば帝国ホテルの旧館に相当する存在。イプセンが晩年、一分《いちぶ》の隙もない服装をして、目抜きのカール・ヨハン街散策の途次、毎日かかさずコーヒーショップに立寄ったところだ。俗物的な栄誉に執着《しゅうちゃく》し、勲章がなによりも好きという弱点をもっていたイプセンの真似《まね》をして略綬をつけて出入りしてみたら、ホテルのドアマンが敬礼をした。勲章を扱っている貴金属屋は、ホテルの数軒先にある。
「学生の木立ち」の向こう側に、国立劇場がある。その正面に、イプセンとビョルンソンの銅像が、ならんで直立している。ウェルゲラン・ビョルンソン・エーヴェルランと、ノールウェーでは、詩人が思想・政治の指導者として、国民の精神的支柱となった。この国のことを詩人国家《ポエトクラティー》だという者もいる。イプセンは所詮《しょせん》その流れのそとにあって、一生の活動的な時期を海外ですごし、かえってノールウェーを代表する作家となった。
国立劇場で、新しい演出による『ペールギュント』を観《み》たが、あまりおもしろくなかった。バックの音楽はグリック(グリーク)の耳馴れたのではなく、セーヴェルード作曲の新しい伴奏音楽らしかった。
われわれの世代の日本人には、日本の古典よりは翻訳小説を多く読み、能・狂言・琴・浄瑠璃よりはオーケストラを理解する者が多い。しかし、一歩退いて、日常生活上の行動になると、案外ヨーロッパ人の生活とはかなり異質的なものが残っている。ことに、愛とか、夫婦とか、男女間の問題になると、すくなくとも表面に現われた動作では、今日の解放された女性でも、欧米人に比べれば大変東洋的である。男性もまた然《しか》りだ。例えば、『人形の家』の第一幕でヘルメルがノーラのことを「僕のかわいいひばりさん」と呼ぶが、日本でわれわれがそんな言葉で話しかけたら、主婦は夫が気でも違ったのではないかと思うだろう。また、日本の婦人運動のリーダーでも、終幕のノーラのような、女権主張の演説を理路整然と一席ぶって、家を出ていくような夫婦|喧嘩《げんか》の仕方はしないだろう。
北欧人の生活感情には、他の欧米人よりも、日本人のそれと通じる何物かがあるが、それでも彼我の間の距離は大きい。『人形の家』がわが国に早くから紹介され、山室静、竹山道雄のような諸先輩の名訳を含めて、十指に余る翻訳があるのに、あえて新訳をこころみたのは、北欧人の実体を多少深く掘り下げている者として、このストーリーを実際に十九世紀のノールウェーの家庭のなかで起きた事件とみて、個々の対話の情景を目の前に描きながらポツポツ訳すのが楽しかったからである。
オスロからベルゲンにいった。ベルゲン人は魚をよく食べる。また、ここでは一年中ほとんど毎日雨が降る。わざわざストックホルムでレインコートを買っていったのに、短い滞在中雲一つない晴天がつづいた。ベルゲンは、古いハンザ同盟都市として、独自の文化を誇り、今でも国際音楽祭により世界に知られている。その市民は、他のノールウェー人からは、「彼らはノールウェー人ではなくて、ベルゲン人だ」といわれる。港にそった有名な野天の魚市場から、破風《はふ》造りの商館建築の一つにある水産物問屋まで、「ラークエレッ」(塩辛のように臭い、魚の罐詰)を探して歩いたが、「あれはオスロの物で、この土地では需要がありません」とのことだった。すぐ傍《そば》の書店にはいって、愛想《あいそ》のいい主人に、若い頃|上海《シャンハイ》の税官吏を勤め、数年前退職して間もなく他界した老友マイニックの『シナにおける貢取《みつぎとり》と罪人《つみびと》』という自伝があるかと聞いたら、「ここにも貢取と罪人はたくさんいますが、あの本はとっくに品切れです」と答えた。イプセンに縁の深い劇場のそばの小粋なレストランで食事をしてから、郊外の湖の岬の突端にある作曲家グリック(グリーク)の家トロルハウゲンを見にいった。
イプセンの戯曲を勉強すると、ノールウェー人をはじめ、北欧人の性格と考え方と生活を理解する上で、ひじょうに参考になる。訳者の知人のなかにも、ヘルメルやクロクスタやブランやペール・ギュント的な性格の持ち主もいる。また、『幽霊』のアルヴィング家をおもわせる邪宅に招かれていったときは、ヘルメル家をたずねるランク博士のことを思った。一七年前新婚夫婦だった旧友のカップルは、一四、五歳の娘の両親になっていた。その娘は、お客があるというので、わずかにお化粧をして出てきたが、彼女の母親の昔の面影はなかった。
なお、山室静氏から、年譜や参考文献などに関し、一方ならぬ御協力をいただいたことにつき、心から感謝の意を表明したい。
翻訳のテキストとしては、数年前オスロの古本屋で求めた初版本(Et Dukkehjem, Skuespil itre skter af Henrik Ibsen,Gyldendalske Boghandels Forlag, Kobenhavn.1879)と、イプセン全集 (Henrik Ibsen:Samiede Verker,Gyldendal Norske Forlag,oslo.1952)第四巻をあわせ用いた。両者のあいだには、スペリングなどの点で、かなりの差異がある。
一九六七年十一月 訳者
〔訳者紹介〕
林穣二(はやしじょうじ) 本名林陽一。北欧文学研究家。北欧文化協会理事。一九二〇(大正九)年横浜生まれ。東大・ジョージタウン大学卒。著書「世界文化地理大系(ノールウェーおよびアイスランドの部分)」ほか、訳書「アンデルセン全集」「バラバス」(ノルダル・グリック)「独立の民」(ラックスネス 共訳)その他北欧の小説や詩を翻訳紹介。