銀塊の海
ハモンド・イネス/皆藤幸蔵訳
目 次
一 ムルマンスクから出航
二 爆発
三 船を放棄せよ!
四 軍事裁判
五 ダートムーア監獄
六 ダートムーアからの脱走
七 マドンス・ロック
八 トリッカラ号
九 島流し
十 ダイナマイト
訳者あとがき
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登場人物
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バーディー伍長……トリッカラ号の生存者。反逆罪に問われるが、船長の不正を糾弾するべく、ダートムーアの監獄を脱走
バート・クック砲手……同じくトリッカラ号の生存者。バーディーとともに、同船沈没の謎をさぐる
ジェニファー・ソレル……イギリスの諜報員。ポーランドで捕虜になり、帰還のさいトリッカラ号に乗船した唯一の女性
ハルジー船長……シェークスピアに心酔する、謎の過去を持つ男
ランキン兵曹長……海軍の物資保管責任者で船長の一味
ヘンドリック一等航海士……ハルジー船長の片腕[#ここで字下げ終わり]
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妻へ
あなたは長い間、スチーブンソンの『宝島』が、これまで書かれた冒険小説のうちで最もスリルに富んだものだと言っていた。これは『宝島』ではないが、やはり一つの島である。そして、銀塊であり、スリルに富んだ冒険小説である。ケープ・コーンウォールで荒筋《あらすじ》を話してあげたときのように、できあがったこの小話が気に入っていることを期待している。
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一 ムルマンスクから出航
トリッカラ号の物語は、まことに奇妙である。同船はギリシャの船で、一九四一年イギリスに接収され、ケルト汽船会社が戦時輸送省のために動かしていたが、一九四五年三月五日の午前二時三十六分、船は公式にその生涯をとじた。ある経済新聞が、簡単にその最期を記録している。
『五千トンの貨物船トリッカラ号は、一九四五年三月五日、機雷《きらい》に触れて沈没し、二十三人が死亡した。同船は護送船団に加わっていたもので、沈没時の位置は、ノルウェーのトロムセの北西約三百マイルであった』
ところが、それから一年以上もたった一九四六年五月十六日に、オーバン〔スコットランドの大西洋岸の港〕近くのロック・ユーにある海軍の無電局が、トリッカラ号と称している船から発せられたS・O・Sを受信した。それからまもなく、同船からの報告で、まぎれもなく沈没したはずのトリッカラ号であることがわかった。その積荷の重要性にかんがみ、トリッカラ号を曳航《えいこう》するため、海軍の引き船が急派されたが、事情が判明するまでの二日間というもの、トリッカラ号の劇的な再現というミステリーをめぐって、イギリス中がわきたった。
わたしは、いっしょにいたバート・クックを除けばおそらく、生きている人間のだれよりも、トリッカラ号について知っていると思う。わたしは、一九四五年三月に、同船が沈没したときの生存者の一人だった。そして、一九四六年五月に、トリッカラ号からS・O・Sを送ったのはわたしだった。だから、同船がムルマンスクを出航する前夜から始めて、自分が目撃したすべてのことを、ここに述べることにする。
それは、一九四五年三月二日のことであった。わたしとバートは、イギリスへの帰還を待っていた。ムルマンスクは身を切られるように寒かった。風は、わたしたちが宿泊していた大きな木造の倉庫を、ヒューヒュー吹き抜けていた。こわれた窓ガラスに張りつけてあったボール紙は吹き飛ばされ、ひさしの下や、床板の間のすき間からも、風が吹きこんできた。そのうえ、風は粉雪《こなゆき》を運んできて、床の上は砂漠の砂のような粉雪でおおわれた。簡易宿泊所のような巨大な倉庫には、毛布にくるまっている赤軍の兵隊がいっぱいいた。毛布は粉雪をかぶって白くなっていた。
イギリスへの帰還を待っている人間は八人いたが、わたしたちは、もと事務所に使われていた一室を与えられた。そこには、カレンダーと火鉢があった。それが家具の全部だった。その夜わたしたちは、暖をとるため、火鉢のまわりにうずくまっていた。カレンダーの日付から二十二日分が消されていた。わたしたちはその間、船を待っていたのである。イギリスでは、もうリンボクが芽ぶき始めて、大気に春の匂いがするだろうな、と考えたことをわたしは覚えている。ところがムルマンスクでは、木々は真っ黒でまだきびしい冬のさなかであった。いたるところに氷があり、深い雪のために、すべての音が消され、鉄の車輪のついた赤軍の大型輸送車が町を通っても、音がしないくらいだった。わたしはムルマンスクのことを考えるたびに、きびしい寒さ、火鉢の火に照らされた赤い顔、汽車の通るガタガタという音や汽笛の音、ロシア兵の歌声まで消してしまう絶えまない風の音を思い出すにちがいない。
特別強い一陣の突風が窓に吹きつけ、ガラスがわりに張ってあったボール紙の一枚がはがれて、氷のような風が部屋じゅうに吹きこんだ。「いまいましい風だ、畜生!」と、バート・クックがつぶやいた。「こんなみじめな思いをしているのに、それでも足りなくて、大吹雪にしようってんだな。あしたはおれの誕生日だ。いい誕生日にはなりそうもねえや」
彼は、ガランとした部屋の中を見まわし、それから火鉢にいっそう体を近づけた。彼は小さなサルのような顔をしていた。その顔はしわだらけで、なめし皮のような皮膚は、真っ赤な炭火の光で赤く輝いていた。イギリスを発つ直前に、歯を全部抜いてしまったので、口のまわりがしわくちゃ婆《ばばあ》のように落ちくぼんでいた。
「たぶん、ロシアにはガラスがねえんだろう、かわいそうに。こんな天候にゃ、ボール紙は役にたたねえ」彼は立ちあがって、吹き飛ばされたボール紙を窓にはめ、銃を立てかけて押さえにしてから、また火鉢に戻った。「ここにいると、セント・パンクラス通りのフリー・フェバースを思い出すな。いつもすき間風の吹き抜けるパブだった」彼はほかの者たちに、にやっと笑いかけて、ほこりだらけの手をひろげて火鉢にかざした。
わたしはバートが好きだった。彼は、四年間兵卒でいても、それだけの価値はあると思わせるような男だった。どんなことにもへたばったことはなかった。ロンドンの下町の下層階級の出《で》で、家はイズリントン〔ロンドンの北部〕にあったが、イズリントンにいようとムルマンスクにいようと、平気だった。わたしは、レニングラードの近くの、ソ連軍の兵器廠《へいきしょう》で、初めてバートに会った。わたしはある高射照準算定具の補修を手伝うために派遣され、バートはイギリスが最近ソ連へ送った新しい大砲の使用法を教える、砲兵チームの一員としてそこにいた。
バートは、火鉢に寄り添っている顔を見まわした。「まったく、なんて国だ! ドイツ軍が参るのも無理はねえや」彼はにやっと笑った。「おれは背嚢《はいのう》にウオトカを持ってるんだ。まだびんに半分残っている。あしたの誕生日のためにとっておいたんだが、ボロ船に乗りこんだら飲もうじゃねえか。そうすりゃ、元気が出るぜ」彼は火鉢の上で両手をこすった。そのうちに彼の顔が曇った。「だけどよ、イズリントンでガキたちと寂しく暮らしている女房のことを考えると、まったくやり切れねえや。あのカレンダーを見ろよ。おれたちはもう何週間も、このいまいましい倉庫にとじこめられているんだ。――仕事が終わり、ベルリンを砲撃するばかりに大砲の準備ができ、ソ連の大佐からよくやってくれたとほめられたのに、このおれたちのざまはなんだ。このひでえところに何週間もとじこめられっぱなしだ。ここに比べれば、ダートムーア〔イングランド南西部デボンシャーの不毛の高原、重罪犯の刑務所がある〕なんかなんでもねえや。まだタバコは残っているか、伍長」
わたしはタバコのケースをあけた。「すげえ!」とバートは言った。「なんだ、四本しかねえな――それも全部ソ連のタバコだ。あした、ウオトカを飲むときのために、とっておいたほうがいいだろう。ところで、兵曹長のやつはどこだ、今夜は」
ランキン兵曹長は、この部屋の者のうちでいちばん階級が上だった。大柄な太った男で、すべすべした色白の顔をして、声はおだやかだった。目の下が少したるんでいて、目の色は青い。おとなしい部下に対しては、肩に手をかけて顔をのぞきこむような態度をとる。その手は肉が厚く、爪はきれいにみがいてあった。怒ると、いつもはおだやかな声がかん高くなった。彼は階級を笠《かさ》に着ていた。海軍のためにある技術的な仕事をしに派遣されていたもので、暫定的に海軍の貯蔵物資の責任者になっていた。
「ゆうべと同じところだろう」と、バートは自分の質問に自分で答えた。「その前の晩もそうだ。おれたちがここに来てからは、毎晩そうだ」
彼は歯のない歯ぐきを見せて、いまいましそうにケラケラ笑った。「ロシア語の勉強だというんだろう。あいつは、中国にいるときには中国語を習い、シンガポールにいるときには、何だか知らねえがそこの言葉を習うというんだが、どこでもきっと、同じ単語を習うんだろう」火鉢を囲んでいた者たちが笑った。彼らはランキンの厚かましさを憎んでいた。「あいつは、いったいどこでカネを手に入れやがるんだろうな」と、バートがみんなに問いかけた。
わたしは言った。「あいつは何か悪いことをやっているんだ。まず時計から始めたんだ。――ロシア人がコチコチ音のするものに夢中なことを知ってるだろ。あいつは時計をうまくイギリスから持ち出したと、いつかの晩、おれに言ったよ。それにやつは、貯蔵物資の責任者だ。ランキンのようなやつには、つごうがいい。そのうえやつは、あの小柄な、英語をしゃべるソ連の政治委員と仲がいい」
「土地の司令官を監視することになっている、あの若僧のことか。きのう、司令官と並んで威張《いば》りくさって歩いているのを見たよ。スマートな格好をしてやがった。ところで、モロトフ通りのあそこへ行ったことがあるか、伍長」
「いや、ない」と、わたしは答えた。
「おれもランキンぐらいカネを持っていたらな」と、バートは話を続けた。わたしはうわの空で聞いていた。「あいつはきっと、今晩も酔っぱらって帰ってきて、いつものようにシルズにベッドを作らせるぞ。ほんとにいやらしい野郎だ」
そのとき、外の廊下にランキンの声が聞こえた。怒ったような声で早口にしゃべっていた。
「いったいなぜ、あすの朝、乗船しちゃいけないのだ」
すると別の声が答えた。
「特別任務です。セルビー少佐どのが、今夜十時までに乗船してもらいたいと言ってるんです。ですから、あなたを起こしたんです」
まもなくドアがあいて、ランキンが一枚の紙片を持ってそこに立った。酔ってはいなかったが、白い頬がぽーっと赤くなっていて、目はきらきら光っていた。彼のそばに、ムルマンスク担当海軍事務所の書記がいた。ランキンは大きな体をドアの柱に寄せかけ、帽子を頭の後ろにずらせて言った。「だれが帰国したいんだ」彼は唇にサディスト的な微笑を浮かべて、わたしたちの顔を見つめた。わたしたちがムルマンスクにうんざりしていることを、百も承知なのだ。
「豪華客船のクイーン・メリー号で帰る切符を、クジで売りつけるみてえだな」と、バートがつぶやくと、ほかの者たちはにやっと笑った。
ランキンはバートの言ったことを聞いたが、顔から微笑は消えなかった。「おまえとは仲よくしていこうぜ、クック」そう言ってから、書記のほうを向いた。「いま何時だ」
「七時半です」と、書記は答えた。
「八時半にみんなを集めて、九時ごろ波止場へ行けば――それでいいな?」
「十時前に乗船するなら、それで結構です、ランキンさん」
「よろしい」ランキンはわたしのほうを向いた。「バーディー伍長!」
「はい」と、わたしは答えた。
「おまえは、このリストに載っている人間を、八時半きっかりに外に集合させろ。しっかりやるんだぞ。シルズ、わたしの背嚢《はいのう》に荷物を詰めて、用意しておけ」そう言うと、彼はわたしに紙片を渡して出て行った。
みんながわたしの肩ごしに、その紙片をのぞいた。わたしたちは火鉢の炭火の光でそれを読んだ。
『本国帰還を待っている次の者たちは、一九四五年三月二日の午後十時までに、レーニン波止場の第四係留位置でトリッカラ号に乗船すべし。
兵曹長L・R・ランキン、伍長J・L・バーディー、二等兵P・シルズ、砲手H・B・クック。
軍服を着用し、背嚢を携行のこと。ランキン兵曹長を航海中、一行の責任者とする。同兵曹長は乗船と同時に、トリッカラ号のハルジー船長に報告すべし。ランキン兵曹長は航海中、特別任務遂行のため、自分を含めて一行を、ハルジー船長の命令に従わしむべし』
わたしたちはバートのウオトカを、その場で飲んでしまい、二時間後には、波止場へ向かって、雪におおわれた通りを重い足どりで歩いていた。トリッカラ号は、きれいな船ではなかった。並んで停泊していたアメリカのリバティー船のような、陸との電話線さえない。ブリッジは高く、甲板室がごたごたあって、高い一本煙突がついていて、まるでやせこけたオールドミスのような感じである。高い船首と船尾に、三インチ砲が一門ずつ備えてあり、ブリッジの両側と船尾に、救命ボートがつごう三艘、つり柱につってある。いかだは、後部甲板部屋の上に、あぶなっかしい格好で金具に結びつけられてある。しかし、わたしたちはタラップをあがっていくとき、船の外見は気にしなかった。イギリスへ帰るなら、北海のトロール船にでも喜んで乗る気持ちであった。
わたしたちが乗船したとき、トリッカラ号は荷を積みこんでいる最中で、船倉がひらかれていて、あとからあとから鉄鉱石がその中に注ぎこまれていた。起重機の動きと、ドンキー・エンジンのうなりと、船倉に鉄鉱石が注ぎこまれる音は、耳を聾《ろう》するばかりだった。まぶしい電灯の光の中に、鉄鉱石のほこりがたちのぼると、船倉の中は火山のように煙がたちこめた。甲板をおおっていた厚い雪は、もはや白くはなく、赤ちゃけた褐色に変わっていた。
「部下をそこにとめておけ、伍長」とランキンが言った。「わたしは船長に会ってくる」
そのとき、わたしたちは自分らを待っている運命がわかっていたら、どんな軍命令があったとしても、トリッカラ号に乗りこまなかったろう。しかし、何も知らなかった。わたしたちは体のしびれるような寒さの中に立って、ランキンがブリッジのはしごをのぼるのを、ぼんやりと眺めていた。ハルジー船長は、ブリッジの上を行きつ戻りつしていた。わたしたちはそのときはまだ、船長がどんな人間かも、彼が歩きながら何を考えていたかも、知らなかった。
ハルジー船長は、いまはもう死んでいるが、黒いあごひげをはやし、髪の毛も黒く、どん欲で残忍そうな、小さな黒い金つぼ眼を持ったこの男は、いまだにわたしの夢の中に出てくる。ドラマチックなゼスチュアをまじえて、そのときの気分にマッチした、シェークスピア劇の長い科白《せりふ》を暗誦《あんしょう》する気違い。いや、気違いだったろうか。彼の狂気には秩序だった方式があった。そうだ――方式があった。帽子をかぶり、金ボタンのついたブルー・サージの制服を着た悪魔でさえも、ハルジーが冷酷無残に一団の人間を殺したように平気で、人間の破滅を企てることはできないだろう。
わたしたちが凍りついた甲板で待っているとき、岩山《ロック》――マドンス・ロック――がバレンツ海でわたしたちを待っていたのだ。わたしはあの場所をけっして忘れないだろう。盲目のミルトンは地獄を描いたとき、あの海の荒涼たる有様を見ることはできなかった。わたしは、あそここそ地獄だと思う。波が雷のような物すごい音をたてながら暗礁《あんしょう》を走り抜けて、マドンス・ロックの絶壁をかけのぼる。マドンス・ロックは緑の丘と同じように地球の一部なのだが、大海から突き出た島なのである。――寒々とした灰色の、氷で光り、水でみがかれた、まるで死人の頭がい骨のようにすべすべした島である。
しかしわたしたちは、トリッカラ号の凍った甲板でランキンを待っているときは、そんなことは何も知らなかった。五分ほどすると、ランキンは一等航海士のヘンドリックという気むずかしそうな顔をした、背のひょろ長いスコットランド人を伴って戻ってきた。この男は落ち着かない目つきをしていて、左の耳からあごにかけて、傷跡が走っていた。
「いっしょに来い、伍長」とランキンが言った。「おまえたちの部屋を見せてやる」
わたしは二人について、後部の甲板部屋へ行った。左舷の機関室のハッチのすぐ後ろに、幅の広い鉄のとびらがあった。一等航海士はクリップをはずして、とびらを押しあけた。それから電灯のスイッチを入れると、幅十フィート、奥行き二十フィートばかりの、がらんとした部屋が見えた。舷窓《げんそう》もなく、備品も何一つなかった。壁も天井も鉄で、床は鉄板であった。部屋の中は腐りかけた油のような匂いがした。
「ここですよ、ランキンさん」と、一等航海士が言った。「連中は、荷物といっしょにここで暮らすんです」
ランキンはわたしのほうを向いた。「みんなをここに連れてこい、伍長。特別の荷物が、今夜、船積みされることになっている。荷物はここに入れるんだ。おまえと部下は、警備をするんだ」それから一等航海士に言った。「どんな荷物なんですか、ヘンドリックさん」
一等航海士はランキンに鋭い一|瞥《べつ》を与えて言った。「いや、知りません」――その≪知りません≫に少し力がはいりすぎていた。
ランキンは部屋の中を見まわし、「ここに入れるなら、あまり大きなものじゃないな」とつぶやいた。「ここは何に使っていたんですか、ヘンドリックさん」
「後甲板の船員の食堂だったんです」と、ヘンドリックは答えた。「けさ、ほかへ移しました」
「甲板に食堂はおかしいですな」とランキンが言った。
「そうです。しかし、食堂につくったものではありません。トリッカラ号は、ギリシャの注文によって、クライドサイドで造られたものです。ギリシャ人はたぶん、船客の荷物や、船倉に入れられない雑多な積み荷を入れるのに、ここを使ったのでしょう」
ランキンは興味を失ったようで、わたしのほうを向いて言った。「おまえの部下たちをすぐにここへ連れてこい、伍長。ヘンドリックさんが、毛布とハンモックを届けさせてくれるだろう。荷物が着き次第、おまえに警備の命令を出す」
わたしが背を向けたとき、ランキンは一等航海士に言っていた。「わたしの使える、空いている船室がある、と船長が言っていましたが」
「ありますよ」と、ヘンドリックが答えた。
「なんだ、うかねえ顔をしてるじゃねえか」わたしがタラップのそばでぼんやり立っていた二人のところへ戻ると、バートが言った。
「いまにわかるよ」と言って、わたしは二人をわたしたちの部屋へ連れて行った。
いつもはあまり文句を言わないシルズでさえびっくりして、「ここはものすごく寒いぜ」と言った。バートはわたしを見て言った。「いったい、どういうつもりだ、伍長。おれは船員と話をしたら、船首楼に空《あ》いている寝だながあると言ってたぞ。おれたちが陸軍なもんだから、こんなひでえところでも喜ぶと思ってやがるんだろう」
わたしは言った。「何か特別の荷物が積まれることになっていて、おれたちが航海中、その警備をするために、ここに入れられたんだ」
「警備だって!」バートは背嚢《はいのう》を部屋のすみに放り投げた。
「つまらねえことを考えやがって。どうしておれたちは、人間らしく帰国できねえんだ。ランキンの野郎はどこにいるんだ。あいつの背嚢がねえな。おれたちがこんなところで凍えているときに、やつはきっと、気持ちのいい立派な食堂で、高級船員たちとうまいものを食いやがるにちがいねえ。あいつが船長に、『わたしはイギリス海軍の兵曹長です。兵隊といっしょに食事をしたことはありません』と言ってやがるのが聞こえるようだ」バートが背嚢を鉄の床の上におろすと、鉄カブトがガラガランと音をたてた。「愉快な航海になりそうだぜ。もっといいところをくれと文句を言わなかったのか、伍長」
「だめだよ」と、わたしは言った。「おまえ、移動命令を見たろ。航海中、特別任務があると書いてあったじゃないか」
「畜生」バートはそう言って、背嚢の上にいまいましそうに腰をおろした。
それから三十分後、わたしが甲板で荷物の積みこみを眺めていたとき、ソ連のトラックが四台、桟橋《さんばし》をゴロゴロ音をたててやって来て、トリッカラ号の舷側にとまった。屋根のないトラックで、大きな四角い箱を積んでいた。各トラックに、赤軍の護衛兵が三人ずつ乗っていた。イギリス海軍の士官が一人、乗船してブリッジへあがっていった。それからまもなく、船の起重機の一つが、いちばん先頭のトラックのほうへ回転し、積み荷が開始された。それが特別の荷物だった。箱には≪補充用のハリケーンのエンジン≫としるされてあった。
「飛行機のエンジンを、特別に警備するなんて、聞いたことがねえや」と、バートがグチを言った。わたしは、こんな不きげんな彼を見たことがなかった。彼はいつも快活な男だった。
積みこみが終了すると、海軍士官と、ランキン、船長、それにソ連の役人らしい男とが、部屋にはいってきて箱を数え、書類にみんなが署名した。それがすむと、海軍士官は船長に向かって言った。
「さあ、これからはあなたの責任ですよ、ハルジー船長」それからランキンに言った。「厳重に見張りをするようにしてくれ、ランキン君」
ランキンだけを残してみんなが行ってしまうと、ランキンはわたしを呼んで、タイプされた紙を渡した。「ここに、おまえたちの警備の命令書がある。伍長」と彼は言った。「昼夜とも、二時間警備について、四時間休みだ。勤務につくときは、きちんとした服装をして、武装するんだぞ。勤務中は、とびらの外に立っているか、とびらの前を行ったり来たりしているんだ」彼はわたしのほうに体を近づけて、酒くさい息を吐きながら、つけ加えた。「たるんでいることがわかったら――勤務を怠《おこた》るとか、きちんとした服装をしていないとか――おまえは処罰されるぞ。勤務していた者も同様だ」
バートは立ちあがって、わたしたちのほうに来た。「それじゃ、あんたはおれたちといっしょに勤務につかねえのか、ランキンさん」
一瞬、ランキンはあまりびっくりして口がきけないようだった。彼はちょっと息を吸ってから、きびしい、おどすような口調で言った。「イギリス海軍の兵曹長はな、クック、警備勤務はやらないんだ」
「すると、おれたちがあんたのかわりにやるというわけだ。それは不公平だろ。おれたちは、いわば、同じ船に乗って運命を共にしてるんだ。もし海軍の兵曹長でなく、陸軍の軍曹が乗っていたら、おれたちといっしょに勤務につくだろうぜ」
ランキンは文字どおり、身を震わせて怒った。「兵曹長は軍曹ではない! もう一度言ったら、船長のところへ連れて行くぞ!」
バートは、歯のない口をあけてにやっと笑った。「おれが罰を受けてる間、あんたはおれのかわりに勤務をやってくれるのか――そうは思わねえな」
「わしはそんなお人よしではないぞ」と、ランキンはおだやかな口調で言った。「おまえは、営倉にはいったら、休暇がもらえると思っとるのか」
「そう願いたいね」とバートは答えた。「ロシアに四か月もいたんだ――休暇をとる資格があるだろう?」
ランキンの声が突然、きびしくなった。「休暇をとる資格があろうとなかろうと、態度に気をつけろ。ほかの者もそうだ」彼はわたしたちを一人びとり見まわした。「さもないと、休暇なんぞもらえないぞ」それから、小ばかにしたような微笑を浮かべて、わたしのほうを向いた。「おまえは将校志願だそうだな、伍長。本当か」
「そうです」とわたしは答えた。
「よろしい」彼は微笑して行きかけたが、とびらのところで足をとめた。「おまえは、この勤務をうまくやるように気をつけろ、伍長。さもないと、おまえが尻尾を巻いて原隊へ引きかえすような報告を出してやる。さ、警備につけろ」
ランキンが行ってしまうと、バートはわたしのほうを向いた。「なぜ、あいつにもっと言ってやらなかったんだ。袖に筋のはいっているのは、おめえなんだぞ――おれじゃねえ」わたしが何も言わないでいると、彼はあきれたように顔をそむけ、シルズにささやいた。「将校志願だとよ――さぞ立派な将校になるだろうな」
わたしはバートを警備の勤務につけてから、船首のほうへぶらぶら歩いて行った。荷積み作業はやんだらしかった。起重機は動いていないし、船倉は暗い噴火口のようであった。係留位置のアーク灯は消えていた。トリッカラ号の後ろのリバティ船は、まだ荷積み作業を続けており、ドンキー・エンジンのやかましい音が、気圧ドリルのように、夜のしじまを引き裂いていた。川の向こう側では、波止場と、屋根に重く雪の積もっている仮設の木造倉庫の上を、アーク灯があかあかと照らしていた。そして、荷積み作業の音が、凍りついた夜の大気を通して、やかましく、はっきりと聞こえてきた。
しかし、トリッカラ号は影に包まれて、ひっそりと眠っているように見えた。わずかに甲板の電灯だけが風に揺られて、甲板に動く影を落としていた。ブリッジでは、外套の衿《えり》を立てた見張り員が、ゆっくりと歩きまわっていた。風は東から吹いていて、波止場のわきにかたまっている倉庫の上を、ゴーゴーと音をたてて通り抜け、トリッカラ号の上部構造は無気味にうなっていた。とても寒く、雪の上《うわ》っ側《かわ》は氷になっていて、足で踏むとジャリッという音がした。わたしはブリッジの、風上の右舷側へ行って身を寄せた。
波止場の音は、もう、遠くでガタガタ音がしている程度になった。まぶしいアーク灯も消えていた。ツロマ川の黒い水からコラ湾にかけて、はっきりと見渡すことができた。遠くのブイの光が、水に映ったその反射とともに、まるでキツネ火のように踊っていた。はるか北の河口の先に、冷たい、絶えず変化するオーロラを背景に、水平線が黒い一線となって見えた。
わたしはタバコに火をつけた。気分が滅入《めい》っていた。ランキンの口に乗ってうっかり、将校志願だと言ってしまったことを後悔した。また、無理に将校を志願させたベティーに腹がたった。上陸したら一か月の休暇をとらずに、すぐに将校訓練所にはいる前の訓練を受けなければならなかった。だいたい、わたしは陸軍士官には向いてなかった。海軍――そうだ、わたしはやっと歩けるような時分から、船に乗ってきた。海には充分自信がある。しかし海軍は、視力が不充分だといってわたしをはねた。陸軍にはいってからは、いつも、水から出た魚のような気持ちだった。
わたしが立っていたところの左手の舷窓から、突然光がさした。舷窓があき、「はいりたまえ、ヘンドリック君」という声が聞こえた。その声はおだやかだったが、妙に力強いひびきを帯《お》びていた。ドアがしまり、びんのコルクが抜かれる音がした。「警備の件はどうなったかね」
ヘンドリックの声が答えた。「思ったより簡単でした」
「警備は、兵隊にやらせたいんだ。海軍の兵曹長はいけない。まずいことになるからな。ランキンという男のことを、何か知ってるかね、ヘンドリック君」
「ええ、会ったことがあります――先《せん》だっての晩に。あの男のことで何か困ったことがおきれば、おとなしくさせる手があります。あいつはカネを持っています。なんなら、あす朝でかけて行って、カリンスキーに会ってきましょう。やつがうまくやっていた相手は、カリンスキーなんです。――みんなやってるんですよ。伍長と二人の兵隊は、問題ありません――」
わたしが聞いた会話は、それだけだった。突然、舷窓がしめられたからである。小さなまるい光も、舷窓を中から当て木で密閉したため、見えなくなった。わたしはしばらくそこに立って、タバコの火を見つめながら、断片的に聞いた会話は、いったい何のことだろうと考えた。ヘンドリックは船長と話をしていたのだ。それはわかった。だが、何のことを話していたのかは、わからなかった。
不審に思いながら、ゆっくりと部屋のほうへ歩いて行った。バートはとびらの前を行きつ戻りつしていた。銃を肩につり、体を暖《あたた》めるために腕を前後に振っていたが、機関室のハッチの上に揺れている電灯の光の中で、顔はひきつって寒そうだった。「うまくいったか、伍長」わたしが近づくと、彼はきいた。
「何か?」
「毛布とハンモックのことさ。おめえ、そのことで出て行ったのかと思った」
「まだ持ってこないのか」
「影も形もねえや」
「じゃあ、行って、ランキンに会ってこよう」
「よし。あいつに会ったらな、伍長、よろしく言って、おれが首ったまをねじ切ってやりてえと言ってたと、伝えてくれ。あいつにこのいまいましい風の中で、二時間警備をさせてやりてえよ。どうして、部屋の中で警備をしてちゃいけねえのか、きいてくれ」
「承知した、バート」とわたしは言った。船尾の甲板部屋のところに階段があった。そこをおりると長い廊下があった。そこは暖かく、エンジン・オイルと、すえた食糧油の匂いがした。ガランとした、鋼鉄張りの廊下で聞こえるのは、発電機のリズミカルな音だけだった。ためらっていると、一つのドアがあいて、ゴム長《なが》をはいた男が、船尾のほうへ行った。男たちの声が、電灯に照らされた戸口から漂ってきた。わたしは廊下を通って、そこのドアをノックして中にはいった。そこは船員の食堂だった。三人の男がテーブルの一つについていたが、わたしに注意を向けなかった。その一人のウェールズ人らしい男がしゃべっていた。
「だがよ、あいつは気が少し変だぜ。けさ、船首のほうでロシア人が鉄板の溶接をやっていたんだ。二番隔壁があいていたんで、何をやっているんだと思って入っていったんだ。船長はヘンドリックさんといっしょに、ロシア人の仕事を見ていたが、おれの姿を見ると、「デービス、ここに何の用があるんだ」と言うんだ。おれが、何だかやかましい音がするからはいってみたんだと言ったら、「出ていけ。出ていけと言ってるんだ!」と、えらいけんまくでどなりやがるんだ。どなったかと思うと、今度は大きな声で笑いだして、「行きな、デービス。仕事に戻れ」とやさしく言うんだ」
ほかの二人は笑った。そして一人が言った。
「そんなこと気にするなよ。ハルジー船長はいつもそうなんだ。おめえはこの船では新参《しんざん》だ。だがおれたちは、あの船長とは四航海もしている。そうだな、アーニー。シェークスピア、シェークスピア、シェークスピア。船長は何時間もブリッジに立って、シェークスピア劇の科白《せりふ》を暗誦するんだ。船長の船室の前を通ると、中で大きな声でどなっているのをよく聞くぞ。そうだな、アーニー」
アーニーと呼びかけられた男はうなずいて、パイプを口からはずした。
「そのとおりだ。ブリッジに伝言を持っていったりすると、こっちが話をしているのは、バンコ将軍の幽霊なのか、ハムレットなのかわからなくなって、最初は気味が悪かったが、もう慣れちゃった。なかにはとても上手な科白もあるぞ。船長の真似をしようと思って、シェークスピアのポケット版を持っている船員もいるよ」彼はそのとき顔をあげて、戸口に立っているわたしを見て、「やあ、何か用か」ときいた。
「ランキンさんの船室を教えてくれないか」とわたしは言った。
「海軍の男か。カズンスさんの隣の部屋だと思うよ。案内してやろう」彼は立って、廊下づたいに案内してくれた。だが、ランキンの部屋にはだれもいなかった。
「彼は酒を飲むのか」と、アーニーという男がささやき声できいた。わたしはうなずいた。「そうか、じゃ、機関長の部屋だろう」彼がずっと先の部屋のドアをノックすると、「はいれ!」と、だみ声が返ってきた。アーニーはドアをあけて中をのぞき、「オーケー、ここだよ」と言った。
わたしはアーニーに礼を言って、中にはいった。赤い顔をしてベッドに横たわっていた機関長は、充血した小さな目でわたしをのぞきこんだ。裸電球が彼のはげ頭を照らしていた。ビールびんが数本、床にころがっており、衣服箱の上に、あけたウイスキーのびんが二本のっていた。部屋の中はタバコの煙がもうもうとして、酒くさい、いやな匂いが充満していた。ランキンは、ベッドのわきにあぐらをかいていた。上着なしで、シャツのカラーのボタンははずしてあった。二人はトランプをやっていたところで、カードがベッドの毛布の上に並べてあった。
「何の用だ」と、ランキンがきいた。
「まだ、毛布もハンモックももらってないんです」と、わたしは言った。
彼はばかにしたように笑って、機関長に言った。
「聞いたかい、機関長。毛布もハンモックもないんだとさ」彼はげっぷをして、頭をボリボリかいた。「おまえは伍長だろ。将校になるつもりなんだろ。少しは知恵を働かせたらどうだ。備品係を見つけろ。おまえらに毛布やハンモックをやるのはその男で、このわしじゃない」わたしが動かないでいると、言った。「何を待っているんだ」
「もう一つあるんです」と言って、わたしはあとを言わずにいた。彼は薄青色の目をきょろきょろ動かして、わたしをじっと観察していた。わたしが何を言おうとしているのか、わかっていたのだ。外で警備をする必要のないことは承知していたのだ。それなのに、わたしにそれを言わせ、鼻であしらおうとして待っていたのだ。この男は、階級を笠に着て威張《いば》りちらすことに喜びを感じるといった種類の人間であった。
「いや、構いません」と言って、わたしはドアをしめた。
わたしに毛布とハンモックを出してくれたのは、船員食堂にいたさっきの連中だった。バートは階段の上でわたしと出会い、荷を軽くしてくれた。
「ランキンに会ったか」と、彼はきいた。
「会った」
「部屋の中で警備ができそうか」
「だめだ」
彼の小さな、サルのような顔が、戦闘帽の下からわたしをのぞきこんだ。「やつに頼んだんじゃねえのか」
「いや。やつは酔っぱらっていて、おれをやっつける機会を待っていたんだ。頼んだところで、しようがなかった」
バートは肩で部屋のとびらをずらせて、わたしから取った毛布を、箱の間の床に投げた。「畜生! いくら新参者だって、意気地がなさすぎらあ」そう言って、彼はわたしから顔をそむけて勤務を続けた。
わたしは何か言おうとしたが、「一時に交代してやるよ」とだけ言った。それから部屋の中にはいってとびらをしめた。シルズとわたしは、箱の間にハンモックをつった。つり終わったときは十二時を過ぎていた。ハンモックにもぐりこみ、交代時間まで少し眠ろうとしたが、眠れなかった。自分に腹がたち、いろいろ考えて気分が滅入ってしまった。イギリスへ帰れるんだと思っても、ベティーとの間のことを考えると、少しもうれしくなかった。将校志願などしなければよかったと後悔した。
一時間後、バートと交代するため部屋の外に出たときには、波止場では荷の積みこみをやめたらしく、アーク灯は消され、シーンと静まりかえっていた。雪におおわれた波止場の倉庫の屋根が、甲板からの電灯の光でちらちら光っていた。その向こうには、船や倉庫が、ぼんやりとひとかたまりになっていた。オーロラは冷たく明滅し、その下で雪に包まれた町が、氷のように寒々と横たわっていた。
「風が少し弱まってきたな」とバートが言った。
わたしは彼にタバコをすすめた。二本しか残っていなかった。バートはちらとわたしの顔を見あげて、一本とった。二人はタバコに火をつけ、しばらく黙って手摺《てす》りに寄りかかって立っていた。バートが突然言った。
「さっきは、かんしゃくをおこしてすまなかったな、伍長。気がむしゃくしゃしてたんだ」
「いいんだよ、バート」と、わたしは言った。
二人はまたしばらく黙って立っていたが、やがてバートは「おやすみ」と言って、部屋にはいった。わたしはたった一人になって、寒さに震えながらいろいろの思いにふけった。
二度目の勤務につくために部屋から出たのは七時だった。朝のにぶい光の中で、船上は何となくざわめいていた。船首と船尾の船倉のハッチがしめられ、煙突から黒い煙が立ちのぼっていた。エンジンのかかっている証拠である。日が明るくなるにつれて、港は活気を帯《お》びてきた。引き船は汽笛を鳴らしながら、忙しそうに川を行ったり来たりしていた。ときどき、船の太い汽笛が鳴りひびいた。一隻の駆逐艦《くちくかん》が、河口のずっと向こうに停泊していた。その薄よごれた白い旗が、吹き流される煙突の煙の中に、かすかに見えた。シルズがわたしと交代した直後、二隻のコルベット艦が駆逐艦と合流し、三隻はゆっくりと動いて湾曲部にはいって姿を消した。
「けさ、出航するんでしょう、伍長どの」と、シルズが言った。彼の声にはあこがれのひびきがこもっていた。彼はまだ二十歳《はたち》にもなっていない若者で、イギリスを出たのはこれが初めてだったのだろう。
「船団を組んでいるようだな」と、わたしは言った。「二隻の船が、係留位置から引き船にひかれていく」
十分後には、トリッカラ号の隣の係留位置にいたリバティ船がそこを離れて、盛んに汽笛を鳴らしながら、小さな引き船にひかれて川の中央へ移動していった。引き船は大きな図体《ずうたい》の船を、エンジンを全開にして引っぱっているため、氷のような水面に褐色の泥がわきたった。わたしは甲板を歩きまわった。出航準備をしていることは間違いない。海に出るのだと思うと、興奮を禁じ得なかった。
タラップのところまで来ると、桟橋を走ってくる一等航海士の姿が見えた。彼はタラップをかけあがると、船長の部屋の方向の、ブリッジの下に姿を消した。わたしはそのとき、前夜ふと耳にした会話を思い出した。いったい、何の話だったのだろうと考えながら、手摺りに寄りかかって、ざわめく波止場をぼんやり見おろしていると、ランキンの声で思考が中断された。「寝具はもらったか、バーディー伍長」と、彼はきいた。
わたしはふり向いた。ブルーの制服を着ている彼の顔は青白く、小さな目は充血していた。
「はい」と、わたしは答えた。「ちゃんともらいました」それから考えもせずに、こう言ってしまった。「カリンスキーという名前に、何か心当たりがありますか、ランキンさん」
ランキンは、ちょっと息を吸って目を細めた。「冗談を言っているのか、伍長」と、一瞬、ショックを受けたことを隠そうとしながらきいた。
「いいえ、二人のひとが、カリンスキーというひとに関連して、あなたの名前を言っているのを偶然に聞いただけです」
「その二人というのはだれだ」
行こうとすると、彼はわたしの肩をつかんで、ぐるりと体を回した。「だれなんだ」と、彼は怒りをこめてささやくように言った。
充血した小さな目は、わたしを見つめていた。その目に、ちらっと何かを感じた。しばらくは、それが何かわからなかったが、やがて、恐怖だと気がついた。「だれなんだ」と、彼はくりかえした。
「船長と一等航海士です」と、わたしは言った。
彼はわたしを行かせ、ひとりでぼんやりとタラップのわきに立っていた。もう気温も暖かくなり、ボイラーの熱で機関室のハッチのまわりの雪も溶けはじめていた。すでに数隻の船が川を出て港にはいり、船にも港にも、あわただしい空気が漂っていた。
わたしはひげを剃《そ》りに下へ行った。船員の洗面所は旧式なものだったが、湯だけはふんだんに出た。調理室のあいた戸口に、コックが立っていた。太った、油ぎった男で、下唇に≪いぼ≫があり、茶色の目をパチクリさせていた。彼は熱いココアをコップに一杯、わたしについでくれた。
わたしはそれを飲みながら、彼とおしゃべりをしているうちに、調理室の火と熱いココアのおかげで、体がぽっぽとして汗ばんできた。彼は、ムルマンスクに来たのはこれが四度目だと言った。
「ムルマンスクで、カリンスキーという男のことを聞いたことがあるか」と、わたしはたずねた。
「モロトフ通りのか――以前、セント・ピータース通りといった?」
「そうかもしれない。どんなやつだ」
「そうだな、いろんな人種の混血らしいな。正直な船員をだまくらかして、ズボンまではぎとるような、物々交換の店をやっているんだ。イギリスでいう、故買屋《こばいや》というやつよ。なぜだい。――あいつと何か、いさかいでもおこしたか」
「いいや。おれは銃以外に、交換するものなど何も持ってないよ」
彼は布袋腹《ほていばら》を波だたせて笑った。「カリンスキーは銃だって買うぞ。やつはいま、ロシアみやげに、ヤンキーに銃やサーベルを売りつけて、いい商売をしている。コサックのものだと言って売りつけてるが、実は、イギリスのリー・エンフィールド銃やイタリアのカービン銃なんだ」
これで話がわかった。ランキンは海軍の物資の保管責任者の地位を利用して、物資をちょろまかしてカリンスキーに売っていたのだ。ランキンがしこたまカネを持っているのは不思議ではない。だが、わたしが不審に思ったのは、船長と一等航海士がなぜ、ランキンの弱味につけこもうとしているのか、ということだった。
ふたたび甲板に出たのは、十一時すぎだった。バートが勤務についていた。「出航しそうな気配があるか」と、わたしはきいた。
「いや、ちっともねえ」
タラップはまだおりていた。船長は船を見まわしながら、ブリッジの上を行ったり来たりしていた。桟橋にはほとんど人影はなかったが、カーキー色の厚い外套を着た若い女が、踏みあらされた雪の中を歩いてきた。黒いベレー帽を、カールした黒い髪の上に深くかぶり、背嚢《はいのう》を持っていた。船名を見あげた顔は、にぶい光の中で白かった。船名を確かめると、タラップに近づき、背嚢を引きずりながら、苦しそうにあがってきた。
「畜生! 女が乗るぞ」バートはわたしの袖をつかんで言った。「年寄りでも、強い女でもなさそうだ。おめえどうして、行って背嚢を持ってやらねえんだ」わたしが何も言わないでいると、バートはわたしの手に銃を押しつけた。
「これを持っていて、勤務についているようなふりをしていてくれ。おめえが紳士らしくしねえなら、おれが教えてやるよ」
自分が行かずに、バートに助けにやらせたとは、いまになってみると考えられないことだ。その白い、緊張した顔を見つめることに夢中になっていたせいだったろうか。それは悲しそうな顔だったが、元来は陽気な顔らしかった。わたしは、彼女の国籍はどこなのだろうか、どうしてイギリスへ帰る船に乗りこむのだろうか、といぶかった。戦争で荒廃したヨーロッパの浮浪者なのだろう。――たぶん、ポーランド人、あるいはチェコスロバキア人かもしれない。それともフランス人かな?
わたしはバートが女の背嚢をかつぎ、女が青白い顔に微笑を浮かべるのを眺めていた。そのとき、横で声がした。
「ランキン兵曹長を見なかったか、伍長」
声の主《ぬし》はヘンドリックだった。「ここ一時間ばかり、見ません」と、わたしは答えた。「なぜですか」
「船長が会いたいと言ってるんだ。見かけたら、ブリッジに来てくれないかと伝えてくれ」
彼は船首のほうへ行った。わたしは立って、人影のない桟橋を見おろしていた。倉庫わきの車輪の跡が、黒い線を描いていた。引き船が近くで汽笛を鳴らすと、ブリッジからの声――ヘンドリックの声だった――が、メガホンで「そのロープをつかむように待機しろ、ジュークス」とどなった。
バートがうれしそうに顔をくしゃくしゃにしながら、突然、階段から現われた。
「どんな女だ」と、わたしは銃を渡しながらきいた。
「とってもいい女《こ》だ。それに、驚くなよ――イギリス人だ。名前はジェニファー・ソレル。背嚢についていたラベルでわかったんだ。こんなひでえ土地で何をしていたのか、わからねえ。聞きもしなかったが、ずいぶんつらい目に遭ったらしいな。顔は雪みてえに白く、皮膚はすきとおるようにきれいだ。ともかく、ちゃんとした女性だということはわかる」彼は『デイジー、デイジー』を口笛で吹きはじめた――いや、吹こうとしていたのだが、歯がないからうまく吹けない。
「二等航海士のカズンスのやつが、彼女の面倒をみるそうだ。運のいい野郎だ。彼女はおれに歯のないことを、からかいもしなかったぞ。新しいのが早くできるといいな。もうできるころなんだ。おい、タラップがあがるぞ。出航じゃねえのか」
それに答えるかのように、トリッカラ号は汽笛を鳴らし、煙突のわきに白い蒸気がたちのぼった。引き船がそれに応答する汽笛を一回鳴らした。ハルジー船長は、メガホンを持ってブリッジに現われた。「前進」と彼はどなった。二等航海士のカズンスが船尾から手を振った。桟橋にいたロシア人が、繋船柱から重いロープをはずした。ロープが水面にバシャンと落ちると、船首は桟橋から離れはじめた。船の側面と波止場の間は、だんだんひらいていった。ごみの浮いている黒い水が、桟橋にピシャピシャ打ち寄せた。
「後進」という声がかかった。機関室の信号機が二度鳴った。わたしたちのすぐそばのハッチの下で、エンジンがうなり始め、船体が震動した。川底のきたない泥がかきまわされて、水面にわきあがった。引き船から離れると、トリッカラ号は自力で大きな弧を描いて、川下に向かい、湾曲部を回って、船団が組まれているコラ湾へ出た。
河口に船団の船が全部集結したのは、一時だった。そして、一時十五分に船団は出航した。わたしが三時に警備勤務を終わったときには、ムルマン沿岸は、鉛のような空と灰色の海との間の、薄よごれた白いしみのようにしか見えなかった。
船でのうわさによると、トリッカラ号はファース・オブ・フォースのリース〔スコットランド南東部の港〕へ向かうとのことだった。およそ五日かかるだろう、とわたしは計算した。その夕方七時にバートと交代するとき、そのことを言うと、彼は言った。
「何だって! こんな生活を五日も続けるのか」
風が強まり、灯火管制のしいてある甲板は、凍えるように寒かった。「あの箱にいったい、何がへえってるんだ。まるで、イングランド銀行の護衛をしてるみてえじゃねえか。飛行機のエンジンなら、まったくもって、やりきれねえや。つまらねえもののために、おれたちはなんで、こんなところに突っ立っていなけりゃならねえんだ。まさか、あの箱が歩きだして、海へ飛びこみゃしめえし」
「おれにはどうしようもないんだ」と、わたしは言った。「警備しなければいけないという命令なんだからな」
「おめえが悪いんじゃねえよ、伍長。だが、まったくばかげていねえか。さてと、また勤務につく前に、ちょっと眠るとするか。おやすみ、伍長」
「おやすみ」と、わたしも言った。
バートが行ってしまうと、わたしは暗いところにひとり残された。手摺《てす》りに寄りかかると、白い航跡だけがわかった。前方には、前の船のかすかな光が見えた。トリッカラ号の煙突からときどき、火花が散った。甲板の構造物は、オーロラを受けて光っている雲を背景に、ぼんやりとした黒いシルエットを描いていた。エンジンのリズミカルなひびきと、船首がかきわける水の音だけが、暗い夜の空気を震わせていた。ブリッジに立っている高級船員を除けば、わたしはひとりぼっちだったが、自分の足の下で、ノルウェーの北をかすめて暗い海を進んでいる船が生き物のように思われて、スリルを感じた。
自分の腕時計で九時十分前に、バートを呼ぶために部屋のとびらを少しあけた。「二人で何をしてるんだ!」わたしはそう叫んで、急いで中にはいってとびらをしめた。電灯は全部つけてあって、灯火管制用に一枚の布が張ってあるだけだった。そしてバートとシルズが、銃剣を持って、一生懸命に箱のふたをはがしていた。
「何も悪いことはしてねえよ、伍長」と、バートが言った。「ただ、おれたちが一日じゅう寒い思いをして見張っている箱の中に、いってえ何がへえっているのか、ちょっとのぞいてみようとしてただけさ。すまなかった――おめえが帰ってくるまでに、きちんと元どおりにしておくつもりだった。だが、この箱は思ったより頑丈《がんじょう》だぜ」
「すぐに、元どおりくぎを打ちつけておけ。だれかに見つかったら、えらいことになるぞ」
「見ろよ、伍長。こいつはもう少しであくところなんだ。そこへ銃剣を入れろ、シルズ」バートはあけようとしていた箱のすみを指さした。「さ、そこを持ちあげれば、はがれる」
くぎが木から抜かれるキーというきしむ音とともに、ふたがはがれた。箱の中には、小さな箱がぎっしり詰まっていた。「いってえ、何か知らねえが、表に書いてあるような、飛行機のエンジンじゃねえな」と、バートが言った。
「ばか!」と、わたしはどなった。「秘密兵器とか、危険な化学薬品とか、何かそんなものかもしれないぞ。この箱をあけたことをおれにどう説明しろというんだ」
「大丈夫だよ、伍長。大丈夫だよ」バートはそう言って、幅九インチ、長さ十八インチほどの小さな箱の一つを取り出した。「落ち着けよ。伍長。だれも気がつかねえように、元どおりにきちんとしておくよ」
彼がその箱をひざの間にはさむと、やがて、ふたのはがれる音が聞こえた。
「見ろよ、伍長!」と叫んで、バートはわたしのほうへ箱を押した。
「銀だぜ! 荷物というのはこれだ。何トンもあるぜ。警備をつけるのも無理はねえや」
それはまごうかたなき銀であった。銀塊が四本、裸電球に照らされてきらきら光を放ちながら、箱の中におさまっていた。
「すげえな! これ一本あったら、何だってできらあ」と、バートはつぶやいた。「これを棒石鹸《ぼうせっけん》かなんかのように、知らんふりして台所のテーブルの上に置いたら、女房のやつ、どんな顔をするか、見てえもんだよ」
このとき外に騒音が聞こえたので、バートは急に黙って、「気をつけろ――だれか来るぞ」とささやいた。彼とシルズが、急いで箱を隠したとき、とびらがあいてランキンがはいってきた。
「どうして、外で警備していないんだ」と、ランキンは詰問《きつもん》した。彼の顔は酒で赤く光り、電灯がまぶしそうに、小さな目をしばたたかせていた。
「交代を呼びに、たったいま、はいったばかりです」と、わたしは言った。
「自動的に交代するように、部下を訓練しろ。おまえは立派な将校になるよ! 暗いから、風を除《よ》けにちょいとはいったところで、わかるまいと思っているんだろう。ところで、救命ボートの訓練があるときは、おまえらの乗るのは左舷の二番ボートだぞ。それを言いに来たんだ」そのとき彼は、バートが銃剣を手にしているのを見た。「いったい、何をしているんだ、クック」
「何もしてねえよ、ランキンさん。――本当だよ」バートは、何も悪いことをしていないのにとがめられたように、ふくれ面《つら》をした。
「どうして、銃剣を持っているんだ」と、ランキンはしつこく追及した。
「みがいてたんだ」
「みがいてた!」ランキンはせせら笑った。「おまえは、みがけと命令されたものさえ、みがいたことがないじゃないか。よし、何をしてたか調べてやる」ランキンは部屋の中にはいってきて、あいている箱を見つけた。「なるほど、箱をあけたんだな。港に着いたら、おまえは――」
「ちょっと待ってくれよ、兵曹長」と、バートは相手をさえぎった。「あんたは、好奇心がねえのか。おれたちは悪いことをしてたんじゃねえ。ただ、好奇心を持っただけだ。この箱の中に、何がへえっているか知ってるかね」
「むろん、知っとる」と、ランキンは答えた。「さ、箱のふたを元どおりにしろ」
バートはくすくす笑った。「外側に書いてあるように、飛行機のエンジンだと思ってるんだろ。これを見てみな」そう言ってバートは、箱をけって床の中央へ押し出した。
ランキンはびっくりして目を見ひらいた。「これは!」と、彼は叫んだ。「銀だ!」
それからバートのほうを向いた。彼の声は怒りに満ちていると同時に、ややおびえていた。
「このばか者! これは銀塊《ぎんかい》だ。見ろ、箱には封印がしてある。それをおまえは破った。面倒なことになるぞ。港に着き次第、おまえは逮捕される。おまえもだ、伍長」彼はそう言ってわたしのほうを向き、勤務につけと命令した。
わたしは、とびらのほうへ行きかけたが、バートの声で足をとめた。
「まあ、おれの言うことを聞きなよ、ランキンさん」と、バートが言った。「おれは罰を受けねえよ。おれは港に着いたらすぐ、休暇をとって女房とガキに会いに行くんだ。もしだれかが罰を受けるとすりゃ、おれじゃなくて、あんただよ」
「それはどういう意味だ」と、ランキンがきいた。
「この警備の責任者は、あんただという意味さ。警備をちゃんとやらせるのが、あんたの責任じゃねえか――わかるかね。だから、おれたちみんなにいちばんいいのは、この小さな宝箱を元どおりにして、黙っていることだ。どうだね、ランキンさん」
ランキンはためらっていたが、やがて言った。「箱にふたをしろ。わしは船長に報告しなければならん。どういう処置をとるかは、船長の考えることだ。封印を破いたのを隠すことはできないぞ。ロンドンの大蔵省の役人は、どうして破れたのか、聞くにちがいない」
それからわたしは警備の勤務に戻ったが、数分後にランキンが部屋から出てきた。
「あのクックという男は、監視する必要があるぞ」そう言うと彼は、暗いブリッジの中に姿を消した。
[#改ページ]
二 爆発
銀塊を警備していると知って、わたしは深い感銘を受けたが、不安は感じなかった。エンジンの鼓動と舷側を過ぎる水の音を聞きながら、ひとりで暗い甲板を行ったり来たりしているときには、そのあとにいだきはじめた疑惑も感じていなかった。しかし、責任観念から頭の働きが鋭くなったと思う。それに、海に出て、のびのびとした気分になっていた。あらゆる欲求不満と、四年間の軍隊生活でつちかわれた権威への服従心は、潮風に吹きとばされてしまった。足の下で震動する、生きている甲板に立ち、顔に痛いほどの海水のしぶきをかぶると、それまでにない自信を感じた。
刺すような冷たい風に顔を吹かれながら、左舷側の手摺《てす》りに寄りかかって暗い中に立っていると、遠くから拡声器の機械的な声が、水面を横切って聞こえてきた。
「おーい、トリッカラ号! おーい! こちらはスコーピオン」
ブリッジからメガホンで答える声が聞こえた。「おーい、スコーピオン。こちらはトリッカラ号。どうぞ」
最初は何も見えなかったが、やがて左舷側の暗がりに、艦首に砕《くだ》ける白波が見えてきた。拡声器がまた呼びかけ、まもなく、駆逐艦の流線型の影が、トリッカラ号の舷側に近づいてきた。
「強風警報だ、トリッカラ号。アメリカン・マーチャント号から離れないように」
「オーケー、スコーピオン」と、ブリッジから応答した。機関室の信号機が鳴り、エンジンのリズムが速くなってきた。駆逐艦は白波をけたてながら針路を変え、やがてそのぼんやりした影はやみに呑まれてしまった。
シルズがわたしと交代するため、甲板に出てきた。
「箱のふたをくぎで打ちつけましたよ、伍長」と、彼は言った。「しかし、封印はどうしようもありません」
部屋にはいってみると、バートは箱の一つに腰かけて、タバコを巻いていた。わたしたちは船の売店でタバコが買えたのである。うぬぼれの強いバートも、元気がなかった。
「すまねえな、伍長」と、彼はあやまった。「うまくやったと思ったんだが、封印には気がつかなかった。とにかく、イングランド銀行の上に腰かけているとは知らなかったからな」
「なんとかうまくいくさ」と、わたしは言った。それからココアを飲みに下へ行った。コックは鼻の先に鉄ぶちの眼鏡をかけ、両手を腹に組み合わせて、真赤に燃えている火の前に腰かけていた。一冊の本が、わきのテーブルの、細かく切った肉の上にひらいたまま置いてあり、彼のひざの上に、三毛猫《みけねこ》が体を丸めて寝ていた。彼は居眠りしていたのだ。わたしがはいっていくと、眼鏡をとって目をこすった。「勝手に飲んでくれ」と、彼は言った。
ココアのはいった湯わかしが、いつもの場所にあった。わたしはコップをその中に突っこんでココアをすくいあげた。調理室の暖かさが体にしみ、熱いココアがのどに焼けつくようでいい気持ちだった。コックは猫をやさしくなでていた。猫は目をさまし、緑の目をパチクリさせてのびをした。それからのどをゴロゴロ鳴らした。その音はストーブの火のゴーゴーといううなりと、遠くのエンジンの鼓動とまじりあって、いかにも平和な雰囲気だった。
コックは椅子を後ろに傾けて、たなからウイスキーのびんをおろした。「そこにコップが二つあるよ、伍長」と、彼は言った。
わたしがコップを取ると、それにウイスキーをついでしゃべり始めた。彼は太い、朗々たる声で、世界各地の話をしてくれた。二十二年船乗りをしているが、いつもコックで、気の向くままに船から船へと移る生活をしてきた。シドニーとハル〔イングランドの北東部、ヨークシャーの港〕に女房がおり、世界中どこの港の売春婦とも顔見知りだと自慢した。わたしは三十分ほど彼の話を聞いているうちに、この男は勝手気ままなことをやって、人生を楽しんできた無頼漢だなという印象を受けた。彼は火の中をのぞいてしばらく言葉を休めたとき、のどを鳴らしている猫の背中を太い指で無意識になでていた。わたしは言った。「あんたは、ハルジー船長と何度も航海したのかね。船長はどんな人間だい?」わたしはまだ、箱をあけたことを船長に報告すると言ったランキンの言葉を考えていた。
「五航海だ」と、彼は火の中をのぞきながら答えた。「だが、船長のことはあまり知らねえ。一九四二年にこの船に乗る前は、会ったこともねえんだ。この船の人間のうちで、船長をいちばんよく知ってるのは、一等航海士のヘンドリックと、ジュークスという船員と、それからエバンズという小柄なウェールズ人の火夫の三人だな。やつらは、船長がシナ海でピナン号の船長をやっていたときに、いっしょだったんだ。やつらはあんまりそのことをしゃべらねえが、無理はねえよ」
「どうして」と、わたしはきいた。
「これはただのうわさだから、おれがしゃべったなんて言わねえでくれよ」彼は鋭い小さな茶色の目をわたしに向けた。「だが、おれはいろんなことを聞いた。中国の港に行ったことのある、ほかの連中も聞いているよ。ことわっておくが、聞いた話がみんな本当だと言ってるんじゃねえよ。だがおれは、いくらか本当のことがまじってねえ、港のうわさなんて知らねえな」
「そのうわさというのは、どんなことなんだ」彼がまた火をのぞきこんだとき、わたしはきいた。
「話せば長い話だが、簡単に言うと――海賊だ」彼はふたたび、くるりとわたしのほうに体をねじ向けた。「おい、よく聞けよ。絶対にしゃべっちゃいけねえぞ。おれは口が軽いから何でもしゃべっちゃうが、船の仲間には、そのことをしゃべったことはねえ。うるせえ問題をおこしたくねえからな。だが、おめえは違う。いわば、一時的な客だ」彼はふたたび火のほうを向き、しばらくしてから言った。「ハルジー船長のことを初めて聞いたのは、上海だ。そのときゃ、やつが船長をしている船に乗るたあ、考えもしなかった。海賊、とおれは言ったな。海賊と人殺し――おれが上海で聞いたのはそれだ。あいつがどなり散らすのを聞いたことがあるか。いや、あるめえな。この船に乗ったばかりだからな。だが、そのうちに聞くぞ」
「おれは、船長がシェークスピア劇の長い科白《せりふ》を、大きな声で暗誦するのを聞いたことがある」
「それだよ――シェークスピアだ。それがやつの聖書なんだ。ブリッジや自分の部屋で、一日中どなっている。命令にまぜて科白をどなるんで、新参の船員にゃ、何を言ってるのかわからねえ。おめえも聞いてみろ。おれもシェークスピアを読んだ。いまも一冊持っているが、長い航海中、面白い話相手がいねえときに読むにゃ、いい本だ。聞いてるとわかるが、やつが引用するのはいつも、人殺しや悪事に関することだ。もうひとつの特徴は、そのときの自分の気分に合った科白を選ぶことだ。けさはハムレットだった。おめえ、ハムレット知ってるだろ。ハムレットのときは心配はねえ――ハムレットは臆病者だからな。きげんのいいときにゃ、フォールスタッフ〔『ヘンリー四世』に出てくる陽気な騎士〕だ。だがよ、マクベスのときは気をつけなきゃいけねえ。目の前にあるものをつかんで、投げつけるからな。まあ、一種の気違いだな。だが、腕のいい船乗りで、船の動かし方はよく知っている。おれが乗ってからは、食い物について文句を言ったことは一度もねえ」
彼は身を乗り出して、火をかきまわした。「やつは俳優をしてたことがあって、人に知られたくないために、あごひげをはやしたという話だが、本当のことは知らねえ。おれが上海で聞いた話によると、やつは日本の領土だったマリアナ諸島の沖で、台風中にピナンという船を拾ったんだそうだ。当時やつは、帆船を持っていたんだが、ピナン号が捨てられてあるのを見つけて、ポンプで水をかい出して、上海へ持って来たんだそうだ。ピナン号には保険がかけてなくて、船主は救助費を払えなかったんで、やつはうまいことやって、ただでピナン号をせしめたという話だ。うわさによると、一九二五年ごろのことだったらしい。新聞に出たそうだ。だが、そのあとのことは、新聞には出なかった。やつはピナン号を修理して、中国の港にごろごろしているやくざ者を集めて、中国の商社のためにピナン号を動かし始めた。それは合法的な仕事だった。――もっとも、多少、密貿易をやらなかったとは言わねえがな。南シナ海の沿岸貿易で、少しゃ密貿易をやらねえ者はいねえが、ピナン号が評判になったのは、密貿易じゃねえんだ。あらしで乗組員が全部死んでしまった船の近くに、いつもピナン号がいたということだ。やつは貿易を始める前は、ギリシャの不定期船の船長とぐるになって、武器を売ってたという話だ。それは一九二〇年代のはじめで、やつはそのころは密航者だったが、しまいにはそのギリシャの船の航海士になった。ところが、その船は座礁《ざしょう》してしまった。やつがピナン号の船長になったときには、港では海賊のうわさがたち始めた。こんな話、信用できねえと思うだろうが、あっちはイギリスとは違うんだ。まず、たいていの船には無線設備がなかった。だから、あのころは妙なことがずいぶんおきたものだ。それから日本が中国を侵略した。――悪いやつらには、ぼろもうけのチャンスだった。それはともかく、黒ひげ――船長のことをみんなそう呼んでるんだ――は、一九三六年ごろ、ピナン号を日本へいい値で売って、フィリピンに引退して、そこに立派な家を買った。だが、この話はみんなうわさでな、証拠は何もねえんだ。おれの言ったこと、だれにもしゃべるな」
「絶対にしゃべらないとも」と、わたしは言った。「しかし、どうしておれに話したんだ」
彼は笑って、ウイスキーをついでくれた。
「おれぐらい長いこと船に乗ってると、いろんなうわさ話を耳にするんだ。新しい仲間が乗ってくると、おれはまずそいつの面《つら》を見て、気に入ったら調理室へ呼んで、むだ話をするんだ。おれの行かない港はあんまりないから、おれもそこのニュースを聞きてえんだ。どこの港にも相当な野郎がいるから、そいつらの話を聞くと人生が面白くなるよ――とくに船長たちの話はな。たいてえの船長は、どこか変わったところがあるもんだ。船長てのは、寂しい商売だから、変わった人間になるよ。酒におぼれるやつもいるし、宗教に凝《こ》るのもいる。――ハルジー船長の場合はシェークスピアだ。おれはトリッカラ号でもう五航海目だ。二十六か月になる。その間、だれかにぶちまけるまで、いろんなうわさ話を胸の中にしまっておいたんだが、おめえがカリンスキーのことを言ったもんだから、つい、みんなしゃべっちゃった。
ところで、カリンスキーというのは、おれの知っているかぎりでは、ピナン号の付近で沈没した十隻以上の船から、ピナン号が助けてやった、たった一人の人間なんだ。やつはカントンで商売を始め、ピナン号の船員たちととても仲がよかったそうだ。これもまたうわさにすぎねえんだが、火のないところに煙はたたずって言うだろ。……さてこの猫だがな。猫なんかにゴシップはねえと思うだろ。ところがこの猫は幸運の猫で、船を救ったという話があるんだ。その話をしてやろう……」
わたしは今日でも、コックの名前も知らない。彼はほかの連中と共に溺死《できし》してしまった。彼は酒があって、聞いている相手さえいれば、何時間でもしゃべっているのだったが、わたしは猫の話は聞いていなかった。立ち聞きした船長と一等航海士の会話のことを考え、彼らがカリンスキーとランキンのことを口にしたことにどういう意味があるのだろうかと、頭をひねっていた。
ふたたび甲板に出たときも、そのことを考えていた。パイプにタバコを詰めながら、船首のほうへぶらぶら歩いて行き、ブリッジを過ぎ、ドンキー・エンジンと一番船倉のハッチのわきを通り、錨《いかり》のチェーンを踏み越え、船首の三インチ砲のところまで来た。風は北西に変わり、強くなり始めた。雲は厚くなり、オーロラの冷たい光を受けても、もう光っていなかった。夜の大気に雪もよいの靄《もや》がたちこめ、アメリカン・マーチャント号のすぐ後ろを走っているのに、同船はほとんど見えなかった。波もだんだん高くなってきた。足の下で船が前後に揺れるのが感じられた。前に突っこむたびに、両側に滝のような飛沫《ひまつ》がとび散り、暗やみに無気味なベールが張られたようになった。パイプに火をつけるため、マストの風下にかがんでマッチをすったとき、若い女の声が言った。
「ああ、びっくりしたわ」
マッチの火を手でおおってのぞくと、カーキー色の外套の上に、女の白い、卵形の顔が見えた。彼女は鉄板を背にして、巻いたロープの上に腰かけていた。マッチの火はちらちら揺れて、まもなく消えてしまった。
「すみませんでした」と、わたしはあやまった。「ここにだれもいると思わなかったもので。パイプに火をつけようとして、ちょっとしゃがんだんです。あなたは、ミス・ソレルですか」
「そうです」と、彼女は答えた。やわらかい、快活な声だった。どこかちょっと訛《なま》りがあったが、どこの訛りかわからなかった。
「あまり暗いので、ちっともあなたに気がつかなかったんです」
「あなたがマッチをすらなかったら、わたしにもあなたが見えなかったでしょう。いま、パイプの火の光しか見えませんわ。どうして、わたしの名前をごぞんじなんです」
「わたしは、警備の勤務をしている班の伍長です。部下の一人が、あなたが乗船するとき、背嚢《はいのう》をかついであげました」
「ああ、あの親切なコックニー〔ロンドンの下町の下層階級の人〕」と言って、彼女は笑った。「あの人の声を聞くと、ほんとになつかしいですわ。あなた方は、何を警備しているんですか」
突然の質問に、わたしはびっくりした。しばらくためらってから言った。「いや、ただ、何かの荷物ですよ」
「すみません。こんなこと、お聞きすべきではありませんでしたわね」
二人はそれから黙っていた。そこにうずくまっていると、船首が上下し、波のショックを受けるたびに、鉄板が震えるのを感じ、エンジンの鼓動の音が聞こえた。マストの風下にいても、凍《こご》えるように寒かった。「こんな夜は、船室にいたほうがいいですよ」と、わたしは言った。
「いいえ――とても狭いんです。とじこめられているのはきらいなんです」
「しかし、寒くないですか」
「ええ、寒いですわ。でも、寒さには慣れています。それに、海の音を聞いてるのが好きなんです。わたしはいつも、船に乗っていました。国にヨットを持っているんです。弟といっしょに、いつもヨットに乗って、航海したものです――」彼女の声は先細りになった。「弟は、フランスのサン・ナゼールで戦死しました」
「お気の毒でしたね。わたしも船が好きです」二人の間にしばらく沈黙が流れたが、彼女は話をしたがっているように思われたので、家はどこかときいてみた。
「スコットランドです。西部の高地です――オーバンの近くの」
「あそこは、ヨットにはいいところですね」と、わたしはつぶやいた。彼女が黙っているので、また言った。「あなたは寒さに慣れている、と言いましたね、すると、長くロシアにいたんですか」
「いいえ、ドイツ――というよりは、ポーランドです」
わたしは彼女の答えにびっくりした。「ポーランド! では、捕虜だったんですか」
「そうです。約三年」
このきゃしゃな娘が、ポーランドから無事に生きて帰って、ムルマンスクにたどりついたとは、本当の話とは思えなかった。
「しかし、どうして?」と、わたしはきいた。「三年もどうして?――戦争が始まったとき、あなたはポーランドにいたはずがないでしょう」
「そうじゃないんです」彼女の声は単調で、少しも感動がこもっていなかった。「フランスでつかまったんです。母がフランス人なもので、親戚の人たちに会いに、よくフランスへ行ったんですが、三回目にルアンでつかまりました。しばらくしてから、ワルシャワの近くの収容所へ送られました」彼女は小さく笑った。かわいた、陰気な笑い方だった。「だから、わたしは寒さを感じないんです」彼女の声は軽い調子に変わった。「わたしのことを話すのは、やめましょう。もう、あきあきしましたわ」彼女は英語に自信がないかのように、ゆっくりと正確にしゃべった。
「あなたは戦争中何をしていたのか、これから何をするのか、あなた自身のことを話してください」
わたしは当惑した。「あまりたいしたことはしてませんよ。高射照準算定具のことがわかるだけです。イギリスの大砲の装置を使えるようにするため、ロシアに派遣されたんですが、いまは帰国の途中です」
「それで、イギリスへ帰ったら、何をなさるんですか」彼女は大きなため息をついた。「≪イギリス≫と言うと、何て楽しいんでしょう。船のエンジンが鼓動するたびに、イギリスに近づくんですわ。イギリス! イギリス! 何ていい言葉でしょう」彼女の声には、奇妙に聞こえるほどあこがれのひびきがこもっていた。
「収容所ではいつも、みんなイギリスの話をしてましたわ」と、彼女は静かに続けた。「自分の国が敵に征服された人たち――その人たちはみんな、アラブ人がメッカのことを話すように、イギリスのことを話してましたわ」わたしのほうへ身を寄せて話したとき、ふたたび声の調子が変わった。「それで、イギリスに帰ったら、休暇をおとりになるんでしょう――奥さんが待っていらっしゃるお家へ、まっすぐ行くのでしょう。家族がまだちゃんといると考えるのが、どんなにすばらしいことか、あなたにはわからないと思いますわ」
「そうです。――しかし、わたしは結婚してないんです」と、わたしは笑いながら言った。
「でも、婚約者とどこかへ行くのでしょう」
「あなたはわたしの婚約者を知らないから、そんなことを言うんです。彼女の家庭は陸軍の軍人一家で、彼女はとてもカタブツなんです。結婚してからでないと、いっしょに出かけることなどできません」
「まあ、なんて人たちでしょう!」彼女は腹だたしそうに叫んだ。「どうしてできるときに幸福をつかまないんですか」
そのとき、ブリッジの下の暗がりから、わたしの名前を呼んでいるシルズの声が聞こえた。
「何だ?」とわたしは叫びかえした。
シルズがやって来た。「ランキンさんが、来てくれと言ってます、伍長。すぐに船長に会うんだそうです」
わたしは突然校長の部屋に呼ばれた小学生のような気持ちになった。どうやら、面倒なことになったらしい。
「わたしは行かなければなりません」と、見えない相手に言った。「ここに戻ってきたとき、あなたはまだいますか」
「いいえ」と、彼女は答えた。「とても寒くなってきたようですから」
わたしは考えもせずに、こう言っている自分に気がついた――「あしたのいつか、甲板でお会いできませんか」
「いいわ。おやすみなさい」と、彼女は言った。
「おやすみ」と言って、わたしはシルズといっしょにそこを去ったが、コックがうわさ話をした男と会うのかと思うと、妙に心が騒いだ。
ランキンは警備室でわたしを待っていた。銀塊の箱の一つに腰かけて、白い指でマッチの棒をピシッピシッと折っていたが、わたしがはいっていくと、顔をあげた。その顔は、電灯の光の中ではれぼったく見えた。いらいらしていることは明らかだったが、おびえてもいるという印象を、わたしは受けた。
ランキンについて、船首の高級船員たちの部屋のほうへ行った。ランキンはわたしを廊下に残して、食堂にはいっていった。まもなく、「伍長を連れてきました」と言っている彼の声が聞こえた。それからヘンドリックの声が答えた。
「よろしい、ハルジー船長が待ってますよ」
椅子を後ろへずらす音がし、ランキンとヘンドリックが出てきた。わたしたちは右舷側の洗面所のわきを通って、船長の部屋の外で立ちどまった。部屋の中に声がした。ドアを通して、かすかにハムレットの科白が聞こえた。
「……二人の友人が、いや、友人とはいうものの、蝮《まむし》のようにいやなやつ――その二人が露《つゆ》ばらい、そして、ハムレットをわなにかけようとの悪だくみ」
「今夜もまたハムレットだ」と言ってヘンドリックはドアをノックした。
部屋の中の声がやんだ。「はいれ」鋭い、断固たる声だった。中にはいると、きびしい、小さな黒い目がわたしを見つめた。濃いあごひげに隠れて、容貌はよくわからない。よく見ると、ひげにはところどころ白髪がまじっている。濃い、多少カールしている黒い髪の毛は、しわのきざまれた広いひたいから、まっすぐ後ろになでつけてある。それは、黒いあごひげと突き出た眉と、よくマッチしている。身長はかなり低いが、外見はきちんとしている。しかし、こういうことは、この対面ではほとんど気づかなかった。このときの印象は、激しい気性の、エネルギッシュな男だな、ということだけだった。気がついたのは、不自然に光っている、縞瑪瑙《しまめのう》のような目だけだった。
「ドアをしめてくれ、ヘンドリック君」そう言った船長の声は、とてもおだやかだった。彼は机のそばに立って、浅黒い骨ばった指で、皮張りの机の上をコツコツたたいていた。「おまえが警備班の伍長か」と、わたしにきいた。
「はい、そうです」と、わたしは答えた。
「おまえの部下が箱の一つをあけて、警備している荷物がどんなものか、知ってしまったそうだな」彼の声は依然おだやかだったが、小さな黒い目は、またたきもせずにわたしを見つめていた。
「はい、そのとおりです」とわたしは答えた。「部下たちは何も――」
「彼らのやったことについて、おまえの意見をきいているんじゃないんだよ、伍長」声はやはりおだやかだったが、威圧するようなひびきがあった。それは、獲物を押さえてのどを鳴らしている猫のやさしさに似ていた。「おまえがこんなことをしでかしたのは、まことにけしからん。あの箱には、五十万ポンド以上の銀塊がはいっとる。イギリスが送った兵器の代金として、ロシア政府が支払うものだ。リースに入港したら、大蔵省の役人に引き渡さなければならないが、封印が切られていることがわかったら、ただではすまんぞ。わしがこの事件についてどんな報告をするかは、あとの航海中のおまえの部下の態度いかんにかかっている。荷物の中身を知っとるのは、この部屋にいるわれわれ四人と、おまえの部下の二人の兵隊だけだ」ここで彼は突然、机に体を乗り出した。「兵隊たちがだれにもしゃべらないということが、絶対に必要だぞ、伍長」彼の声は、もはやおだやかではなく、きびしく、きびきびしていた。「彼らが、船員のだれかにしゃべった様子はないか」
「ないと確信します」と、わたしは言った。
「よし。戦時には船員を選択することはできない。この航海の前にわしと一度もいっしょでなかった船員が、十人以上もこの船に乗っている。銀塊を運んでいるということを、やつらに知られたくない。わかるな? 連中のうわさにのぼらないようにするのが、おまえの責任だぞ、伍長。わしがどんな報告を提出するかは、そのことだけにかかっている。よくわかったか」
「はい、わかりました」と、わたしは言った。
彼はぶつぶつ言って、視線をランキンに移した。これで会見は終わった。ランキンとヘンドリックは、船長に言われてあとに残り、わたしだけ警備室に戻り、バートとシルズに結果を伝えた。二人は、だれにも絶対にしゃべらない、と堅く約束した。しかしわたしは、ランキンが気がかりだった。彼は乗船以来ずっと、一等航海士といっしょに酒を飲み、トランプをやり続けだった。
そのとき時間は、十一時をちょっと過ぎたところだったので、わたしは一時にバートと交代するまで、少し眠ることにした。そのときどんな気持ちだったか、もうずいぶん前のことなので、いまでははっきりとは思い出せない。ただ、眠れなかったということだけは覚えている。わたしの心の中を、いろいろな印象――事件よりも人物の印象だったと思う――が、走馬燈《そうまとう》のように走り回った。声のおだやかな、しかし人を吸いこむような目をした船長、頬に長い、青黒い傷跡が走っている一等航海士、うわさ話の好きな、やくざ者のようなコック――それに、気持ちのいい、しかし悲しそうな声をした、不思議な経歴のジェニファー・ソレル……。
船はリースに向かって、バレンツ海の南の縁《ふち》をゆっくりと進んでいた。わたしはエンジンのリズミカルな鼓動を聞きながら、思いにふけっていた。
わたしはそのときでさえ、たいした不安をいだいていたとは思わない。眠れなかったのは、頭があまりいろいろなことでいっぱいだったからである。ハンモックが、船の動揺につれて揺れた。波が船首にぶつかると、船がかすかに震動し、船が持ちあがるたびに、わたしの背中はハンモックのキャンバスにぐっと押しつけられた。シルズは突然、ハンモックからころげ出て、銀塊の箱の後ろにあるバケツに吐いた。彼は青い顔をして、かすかにうなりながら、両手で頭をかかえて箱の上にすわった。顔には汗が光っていた。部屋の中の空気は、甘ずっぱい匂いがして、胸が悪くなった。わたしは零時半に起きて、甲板に出た。「おまえと交代する前に、ちょっとそこらをぶらぶらしてくる」と、バートに言った。「シルズは気分が悪くなって吐いた」
わたしは船首のほうへ行って、ブリッジの風下にしばらく立っていた。風は暴風並みになり、海上には大波がたっていた。白波が舷側をシュッと音をたてて通り過ぎた。たち騒ぐ黒々とした海面は、白波のためにぼんやりと白っぽく見え、まことに気味が悪かった。頭の上でブリッジの鉄板を踏む足音がした。
「晴雨計はまださがってるか」と言っている船長の声が聞こえた。
「はい。あすはひどい天候になりそうですな」と、ヘンドリックが答えた。
「われわれに都合がいいじゃないか」
二人は静かに話していた。彼らがキャンバスの風除けに寄りかかったとき、わたしはすぐ下に立っていたため、二人の話を聞くことができたのである。
「あすの夜、やろう」と、ハルジーが続けた。「当直をかえたか」
「はい。あすの夜、二時から四時まで、ジュークスが舵輪《だりん》につきます」と、ヘンドリックが答えた。
「よし。じゃ、――やろう」ハルジーは首をめぐらしたので、あとの言葉は聞こえなかった。彼らはブリッジの反対側へ歩いて行ったらしく、頭の上の足音は遠のいた。
わたしは動かなかった。あすの夜、二時から四時まで、当直をかえて、ジュークスを舵輪につかせる――という会話の断片の一点が、頭にこびりついていた。ジュークス! コックの話によると、彼はピナン号でハルジーといっしょだった船員だ。当直をかえるのは差しつかえない。ジュークスは船員だから。舵輪についていけない理由はない。だが、あすひどい天候なら都合がいい、と船長が言ったのは、どういうことだろう。Uボートを警戒しろという知らせがあったのだろうか。耳にした会話の断片には、いろいろな説明がつく。しかし、わたしが不安を感じ始めたのはそのときからだ、とはっきり言える。
ブリッジの下にどのくらい立っていたか、覚えていないが、ふたたび周囲を意識したとき、ひどく寒さを感じたから、かなり長い時間だったにちがいない。暗やみの中をシューッと音を立てて舷側を通り過ぎる白波が、何となく気味悪くなったので、足早に甲板を引きかえした。
バートと交代したとき、彼は言った。「ずいぶん長い時間、散歩してたな、伍長。海に落ちたんじゃねえかと思ったよ」彼は銃を鉄板に立てかけて、手でマッチの炎を包むようにしてタバコに火をつけた。それから手摺りにもたれて、舷側をかすめる大波を眺めていた。二人はしばらく、口をきかなかったが、やがてバートが言った。
「今晩は、ばかに黙ってるじゃねえか、伍長。箱の封印が破れたことを心配してるんじゃねえのか」
「いや、べつだん」
「だが、元気がねえぞ。何を考えてんだ」
わたしは一瞬、コックのうわさ話と、立ち聞きした会話の断片と、心にわだかまりかけていた疑惑を、しゃべりたい誘惑にかられたが、思いとどまって何も言わなかった。
「女のことを考えているのか。え?」と、バートはしつこくきいた。「おめえ、婚約者がいるんだろう、え? 伍長。おまえのベッドの上に、写真を見たこたあねえが」
「ああ、いるんだ」
「元気を出せよ」それからちょっとためらいながらきいた。
「その娘とうまくいってねえのか。つまり、娘のほうが待ちきれなくなったとか、そんなことじゃねえのか」
わたしはベティーのことを考えた。「いや、そういうことじゃないんだ」わたしは話題をかえるチャンスができてうれしかった。「おれに将校を志願しろと勧めたのは、彼女なんだが、おれは気が進まなかったんだ。バート、おれは陸軍には向かないよ。海軍なら話はちがうが、陸軍じゃな。ところが彼女の家族は陸軍一家なもんで、おれが召集されてからというもの、彼女は将校になれと言いつづけているんだ。数週間前に手紙をよこして、将校を志願しなければ婚約を破棄すると言ってきた」
「それじゃ、おめえみたいに教育のある人間は、将校を志願したほうがいい」バートはクックッと笑った。「元気を出せよ。将校てのは、おめえが考えるほど悪いもんじゃねえよ。おれだって、朝、『おい兵隊、靴はどこだ』とどなってみてえや」
しかし、わたしの心は、さっき聞いた会話に戻っていた。
「バート」とわたしは言った。「船に乗ってから、船員のだれかと話したことがあるか」
「むろん、あるさ、おれたちゃ、やつらといっしょに飯を食うじゃねえか、なぜだい」
「ジュークスという船員を知ってるか」
「ジュークス? 名前は覚えてねえな。ジムとか、アーニーとか、ボグとかいう名前は聞いた」
「じゃ、エバンズは?」
「エバンズ。しじゅうしゃべっている小さなウェールズ人か? エバンズとデービスというやつがいるが、二人ともこっけいな野郎だよ。なぜ、そんなこときくんだ」
「今度甲板で見かけたら、教えてくれ」
「オーケー」
それからまもなく、バートはベッドのほうへ行った。三時にわたしはシルズを呼んだ。彼は具合が悪そうで元気がなかった。しかし、新鮮な空気を吸ったらよくなるだろうと思って、彼が手摺りごしに吐いているのを、そのままにしておいた。
翌日の三月四日の夜明けは灰色で、寒かった。雲はほとんど海面までたれさがり、激しいみぞれのため、数百ヤード先しか見えなかった。北々西の風は、暴風のような強さで、船はよろめきながら大波をくぐり抜けて進んでいった。船首が波に突っこむと、甲板中に冷たいしぶきが飛び散った。トリッカラ号の前方の、視界の端に、リバティー船アメリカン・マーチャント号のずんぐりした船尾が、白波のうねりによろめきながら、しぶきに半分隠れていた。トリッカラ号の南の方角の、みぞれにけぶる灰色の空間に、二つのぼんやりした船影が見え、右舷の手摺りの向こうでは、やっと輪郭が見える流線型の駆逐艦スコーピオンが、甲板を泡だつ海水に洗われながら、激しく横揺れしていた。後ろは白い航跡だけで、何もない。その航跡も、荒れ狂う波ですぐに消されてしまった。トリッカラ号は、船団の北側の組のしんがりだった。わたしは勤務につきながらUボートが猛威をふるった時期はもう過ぎたから、救命ボートに乗るようなことはほとんどあるまいと、ありがたく思ったことを覚えている。
午前中二回、スコーピオンが近づいてきて、アメリカン・マーチャント号ともっと接近するように命じた。スコーピオンはそのつど、醜《みにく》いアヒルの子の一群の面倒におわれているメンドリのように、灰色のみぞれの中を突破して、ほかの船にも命令を伝えに行った。
午後二時ごろ、ジェニファー・ソレルがやって来て、わたしに話しかけた。彼女は青ざめて、寒そうだった。皮膚が象牙《ぞうげ》色にすきとおっていて、まるで黄疸《おうだん》のなりかけのように見えた。ジェニファーはオーバンの近くの自分の家庭のこと、アイリーン・モーアというヨットのことなどを話した。そのヨットは、一九四二年に海軍に徴用されたと言った。彼女の黒い髪は、風に吹かれて顔にまとわりつき、鈍い日の光に包まれた周囲の陰気な雰囲気の中で、白い歯だけが陽気に光った。唇はほとんど血の気がなく、まるでそれが最大の不幸でもあるかのように、ムルマンスクで口紅《くちべに》が手にはいらなかったことを嘆いていた。
船の生活は快適か、ときいてみると、彼女は顔をしかめた。「部屋はまあいいんです。でも、高級船員の人たちは好きません。カズンス――若い二等航海士です――は、いい人ですが、ハルジー船長はこわいわ。それに酔っぱらいのけだもの――機関長は、とてもいやです。食事は、いまでは部屋に持ってきてもらいます」
「どうしてです」と、わたしはきいた。
「機関長がいるからです。いやらしい目でテーブル越しに見つめられるのが、我慢できないんです。彼はもちろん、いつも酔っています。そういうことには、もう慣れっこになっていたと思ったんですが、自分の国の船でそんな目に会うとは、考えてもいませんでしたわ」
「ランキンはどうです」わたしはわけもなく腹がたってきて、きいた。「あの男はいつも、機関長といっしょです。あの男、あなたを困らせるんですか」
「いいえ」と言って、彼女は小さく笑った。「あの人は女には興味をもっていません。あなたはわかっているでしょう」
二人は次に、ヨットのことに話題をかえ、お互いに乗ったヨットの型のことなどを話し合った。二時半ごろ、彼女は寒くなったと言って、下へおりていった。シルズが三時にわたしと交代した。彼は青い顔をしていたが、気分はよくなったと言った。わたしは下へ行ってコップにココアをもらい、それを船員の食堂へ持っていった。バートもそこにいて、五、六人の船員と冗談を言い合っていた。わたしは彼のわきにすわった。しばらくすると、バートはわたしのほうに身を寄せてささやいた。「おめえ、ゆうべ、エバンズのことを言ってたな。あいつだよ――あそこのテーブルの端《はし》にいる」
バートが指さした男は、きたないブルーの作業服を着て、髪に油をこてこて塗った、やせた、ずるそうな顔をした小男だった。その男は、鼻がつぶれ、右の耳たぶのない隣の男としゃべっていた。わたしはココアを飲みながらそこにすわって、ずるそうな男を観察しているうちに、ピナン号の名前を言ったら、この男はどんな反応を示すだろうと考えてみた。バートの隣にいた男が、懐中時計を取り出して言った。「もう四時だ。行こうぜ」
二人の男が立って行ってしまうと、あとにはエバンズと、鼻のつぶれた男と、肺病やみみたいなせきをする小柄な老人だけとなった。
エバンズは鼻のつぶれた男に、アレクサンドリアのあるギリシャ人のためにインド大麻〔回教徒が麻薬用やタバコに用いる〕を密輸していたタンカーに乗ってたときの話をしていた。彼はとても早口にウェールズ語でしゃべり、力をこめて言うときには、両腕を動かす妙な癖があった。最後に彼は言った。
「おれは、あんな妙な船に乗ったことあねえよ」
わたしは思わず「ピナン号はどうだ」と言ってしまった。
彼は首をわたしのほうにグッとねじって、目を細めた。
「おめえ、いま何て言った」と彼はきいた。鼻のつぶれた男も、わたしをじっと見つめていた。
「ピナン号だよ」と、わたしは言った。「きみは妙な船の話をしていたろ。ピナン号はいちばん妙な船だ、とおれは思ったからだ」
「おめえ、ピナン号についてどんなことを知ってるんだ」と、鼻のつぶれた男がだみ声で言った。
「ただ、うわさを聞いただけさ」と、わたしは急いで言った。二人はわたしをじっと見つめ、いまにも飛びかかりそうに体を緊張させていた。
「おれはファルマスに住んでいるんだ。シナ海から帰ってきた船員たちは、いつもピナン号の話をしていたよ」とわたしは言った。
エバンズはわたしのほうへ身を寄せた。「いってえ、なんでおれがピナン号に乗っていたと考えるんだ」
「ハルジー船長がその船長で、ヘンドリックが一等航海士だったと聞いた」と、わたしは説明した。「それから、きみとジュークスという男が――」
「おれの名前はジュークスだ」と、鼻のつぶれた男がうなるように言った。
「話を続けろ」と、エバンズがかみつくように言った。
わたしはジュークスの様子が気になった。彼はテーブルの上の手をゆっくりとにぎりしめた。人さし指はないが、それでもそのこぶしは、大きなハンマーのように見えた。
「きみが前に、ハルジーといっしょの船に乗ったことがあると聞いたから、ピナン号でもいっしょだったのだろうと思ったんだ」と、わたしは言った。
「いや、違う」と、ジュークスがうなった。
「じゃ、おれの間違いだ」わたしはそう言って、バートのほうを向いた。「さ、行こう。シルズと交代する時間だ」
わたしたちが行きかけると、ジュークスは椅子を後ろにずらして立ちあがろうとしたが、エバンズがとめた。
「いってえ、どうしたんだ」外に出たときバートがきいた。「おめえがピナン号のことを言ったら、やつら、びっくりしたようだったな」
「わからない――まだ」と、わたしは言った。
その晩、またほかのことがおこった。午後十一時にバートがシルズと交代した。わたしがうつらうつらしてハンモックに寝ていると、シルズがはいってきて、「目をさましてますか、伍長」と言った。
「何の用だ」と、わたしはきいた。
「救命ボートの中で寝てもいいでしょうか。ここは少し息苦しいんで、新鮮な空気を吸ったら気持ちがいいと思うものだから」
「救命ボートにはいるのは規則違反だ。それに、あんなとこに寝たら、凍えちゃうぞ。しかし、おまえがどこに寝ようと、おれの知ったことじゃない」
「部屋の中よりはましですよ」彼はそう言って行ってしまったので、わたしは眠ることにした。十分もたたないうちに、シルズは戻ってきて、わたしを揺り動かした。「今度は何だ」とわたしはきいた。
「懐中電灯を持ってますか」と、彼はささやいた。興奮していて、ちょっとおびえていた。
「持ってないよ。なぜだ。いったいどうしたんだ」
「こういうわけですよ、伍長。ボートの中にはいって、これからゆっくり寝ようとしたとき、体の下で板がゆるむのを感じたんです。手でさわってみたら、板が動くんです。行って、見てくださいよ」
わたしはハンモックからおり、靴をはいて、シルズといっしょに船首のほうへ行った。シルズがはいったボートは、左舷側の二番ボートだった。シルズは下にもぐって、ボートの外側をぐるっとさわっていた。「これですよ。さわってみなさい」と、彼は言った。
木質はしぶきでぬれていた。わたしは指で肋材《ろくざい》の板をさわったり押したりしてみたが、しっかりしていた。それから手を伸ばして、上の左舷側をさわっているうちに、突然、板の一枚が動いた。その次のも、その次のも動いた。全部で五枚がゆるんでいた。動くといっても、少し動くだけだった。たぶん、ネジが、一、二本さびて、ゆるんだのだろう。懐中電灯がなかったから、どの程度いたんでいるのかわからなかったが、何かあった場合に、わたしたちが乗ることになっていたのは、そのボートだった。板がゆるんでいると思うと、心配だった。「下へ行って、ランキンさんと話してくる」と、わたしは言った。
ランキンは例によって、機関長の部屋にいた。乗船した最初の日の夜に見たときとまったく同じで、機関長はベッドの上に横たわり、ランキンはベッドの端に腰かけて、トランプをやっていた。床には酒のびんがころがり、部屋の中はタバコの煙でムンムンしていた。「何だ、伍長」と、ランキンがきいた。
「二番ボートが航海に適しないことを、報告に来たんです」と、わたしは言った。「ハルジー船長に知らせるべきだと思います」
「いったい、何を言ってんだ」と、ランキンはどなった。「おまえの任務は警備をちゃんとやることで、船内をうろつきまわることじゃないぞ」
「しかし、ボートの板のいくつかがゆるんでいます。船長に知らせなければいけません」
「どうしてわかったんだ」
「シルズが発見したんです。彼は新鮮な空気の中で眠ろうと思って、ボートにのぼってみたんです。そして、わたしに報告――」
「とんでもない」と、ランキンはわたしの言葉をさえぎって、トランプをベッドの上に投げつけた。「部下をボートの中で眠らせるとは、いったい、おまえは常識というものがないのか」
「大事なのは、そんなことではありません」と、わたしはやりかえした。だんだん腹がたってきた。「わたしは行って、ボートを自分で見ました。板が五枚、ゆるんでいます。万一の場合、海におろせるような状態ではない、とわたしは考えます」
「わたしは考えます、だって!」彼はフンとせせら笑った。「おまえをチンピラ伍長でなく、海軍大将と思う人間がいるか! おまえは、ボートについて、何を知っていると言うんだ。ざるとカッターの違いも知らないだろう。さ、さっさと勤務に戻れ」
「わたしは子供のころからヨットに乗ってきました」と、わたしはきびしい口調で言った。「ですから、小さな船のことについては、この船のだれにも負けないくらい知っています、あのボートは、万一の場合、わたしたちに割り当てられるものですから、航海に適しないという事実を報告しているのです。どうか、わたしの報告を船長に伝えてください」
ランキンは、しばらくわたしを見ていた。自信のなさそうな様子だった。彼はやがて機関長にきいた。「ボートは、どれくらいおきに点検するのかね」
「そう、週に一回ぐらいだ」と、機関長は答えた。「ムルマンスクに停泊中、ヘンドリックと船員の一人が、ボートの手入れをしていたよ」
「わたしもそう思った」そう言って、ランキンはわたしのほうを向いた。「聞いたか、バーディー。さ、これでおまえも、びくびくしなくなるだろう」
「ヘンドリックさんがいつ手入れをしていたか、わたしにはどうでもいいんです。現在、ボートは航海に適しないんです。上へ行って、自分で見てください」
ランキンはややためらってから言った。「あすの朝、見よう。もしおまえの言うことが本当なら、ハルジー船長に報告する。さ、これでいいだろ」
「いますぐ、行って、見てもらいたいんです」
「そんなことはできない。船は灯火管制中だ。とにかく、ボートにどこか悪いところがあるとしても、夜が明けるまでは何もできない」
こう言われれば、引きさがるほかはなかった。ふと、わたしもシルズも、間違っているのではないかと思われてきた。このがん丈な船の中にいると、ボートの板が少しゆるんでいることぐらい、たいした問題ではないような気がした。だが、≪ヘンドリックと船員の一人が、ムルマンスクに停泊中、ボートの手入れをした≫、という機関長の言葉が、頭にこびりついて離れなかった。わたしはコックとおしゃべりをしに、調理室へ行き、話の間に、何気なく言った。
「トリッカラ号がムルマンスクに停泊しているとき、ヘンドリックさんと船員の一人が、ボートの手入れをしているのに気がついたか」
「そう、何かしていたな」と、彼はひざの上でのどを鳴らしている猫を、眠そうになでながら答えた。
「どこが故障だったんだ」
「知らねえな」
「ヘンドリックといっしょにいたのはだれだ」
わたしがこうきいたときには、何も疑念はいだいていなかった。わたしの知っている船員の一人かもしれないし、もしそうだったら、どこを手入れしているかわかるだろう、とただそう思っただけであった。
ところが、コックの返事を聞いて、わたしは急に胸騒ぎがしてきた。
「ジュークスだよ」と、コックは答えたのだ。
ジュークス! 夜中に舵輪につくのはジュークス。ヘンドリックとボートの手入れをしたのもジュークス。ピナン号の名前を聞いたとたんに、こわい、うさん臭そうな顔をしたのもジュークスだった。
わたしは甲板にあがって、風がものすごく吹き荒れ、しぶきが飛び散る中で、疑惑と不安に心をさいなまれながら、行きつ戻りつしていた。
一時にバートと交代した。一九四五年三月五日のことだった。バートは寒さに震え、疲れていた。「交代はありがてえ」と、彼はつとめて元気そうに言った。そして、とびらからはいるときに、「おやすみ」とつぶやいた。わたしは気味の悪い真っ暗やみの中に、不安な気持ちでひとりぼっちになった。目が暗やみに慣れてきても、何も見えなかった。灯火のちらという光も、後ろの大きな甲板部屋さえも見えなかった。見えるのは、ザアーッという大きな音をたてて舷側を通り過ぎる、泡だつ波の光だけだった。たち騒ぐ黒い海面のはるかかなたに、二つの、ピンの先ぐらいの光が、かすかに明滅していた。アメリカン・マーチャント号が充分に灯火管制をしてなかったのだ。その光は、同船の航海灯だった。無気味な暗やみの中では、それが親しみのあるものに見えた。
足の下では、しめたハッチのすき間から聞こえてくるエンジンのうなりで、鉄の甲板がブルブル震えた。しかし、エンジンの音よりもうるさいのは、船の上部構造を吹き抜ける風の咆哮《ほうこう》と、船首が断続的に波に突っこむときと、そのあと甲板にしぶきがたたきつけられるときの音であった。風が右舷側から吹きつけていたので、わたしはいくぶん、ブリッジで風としぶきを防ぐことができた。少し前のほうへ歩いていくと、船首倉をのり越える波がきらきら光り、それにつれて、ブリッジの左舷側の輪郭がかすかにわかった。ブリッジのいちばん端に、左舷の航海灯が投げる、かすかな赤い光が見えていた。
時間は遅々《ちち》として進まず、わたしの思いは、いろいろな小さなことの周囲を、果てしなく回っていた。その一つひとつは小さなことだったが、それをつなぎ合わせると、不安になった。二時が来て、過ぎた。いまごろは、ジュークスが舵輪についているだろう。なぜ人をかえたのだろう。ハルジーが「それはわれわれに好都合だ」と言ったのは、どういう意味だろう。
わたしは甲板を行きつ戻りつした。風に向かうたびに、しぶきに顔を打たれ、唇が塩からくなった。二時十五分。手摺りのところへ行って、アメリカン・マーチャント号の、ピンの先のような、親しみのある光を見ようと思って、身を乗り出した。じっと目をこらしたが、何も見えない。トリッカラ号の周囲は、真暗なうつろで、見えるのは、シューッという音をたてて通りすぎる、砕《くだ》け波の白い波頭だけである。わたしはブリッジのほうへ行った。船首をとび越える波の無気味な光を背景に、黒い大きなかたまりが見えるだけで、航海灯の暖かい光はない。
そのとき、厚いしぶきに顔の左側をいやというほど打たれた。それで、船が針路を変えたことがわかった。だから、もうアメリカン・マーチャント号の灯が見えなかったのだ。Uボートの警報が出たのだろうか。付近にUボートが現われたとき、船団がジグザグ・コースをとるのは、普通のことである。だが、爆雷の音も聞こえなかった。いずれにせよ、海軍が全船団――一隻の船でも同じだ――に対して、夜間、針路の変更を命じるためには、無線の交信停止を破らなければならない。
鉄ばしごをおりてくる、カタカタという足音が聞こえた。ふと右舷側のブリッジの下を見ると、男が一人立っていた。船首をのり越える白波を背景に、影絵のように見えた。ブリッジからおりてきた男がいっしょになり、二人はブリッジの下の部屋に姿を消した。
わたしは夜光時計の針を見た。二時二十分だ。シルズが交代してくれるまでに、まだ四十分ある。わたしは、船がジグザグコースの次の方向に曲がるのを待ちながら、風の向きなどに構わずに、甲板を行きつ戻りつした。たぶん、ある時間に針路を変更するように、命令が出ていたのだろう。宵《よい》のうち、そんなことはなかったが、船長はきっと、昼間そういう命令を受けたのだろう。
二時三十分に、左舷の航海灯が、再びブリッジの鉄板に反射しているのを見た。
六分後、船はものすごい爆発とともによろめいた。
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三 船を放棄せよ!
爆発がおこったとき、わたしは船のほとんど中央に立っていた。その前に、ちょっと上を見たことを覚えている。ブリッジの下の部屋のドアからもれた一筋の光が、すぐわきの大きな煙突を照らし出したので、煙の中の火の粉の行くえを追って上を見たのである。それから船首のほうへ目を移して、ブリッジの下の部屋から現われた二人を見まもっていた。船首が波に突っこみ、泡だつ海水が甲板を洗い、次の波で船がよろめくのが、目に映った。それからまた、船首が持ちあがり、大波が舷側を洗った。
爆発がおこったのは、そのときである。
ショックと音と混乱――すべてが一瞬のうちにおこったように思われた。ショックで船は横に投げつけられ、わたしは手摺《てす》りにたたきつけられた。音は爆雷に似た、ズシンという押し殺したような音だったが、あまり深いところではないらしい。爆雷ほど腹にこたえる音ではなかった。手摺りにぶつかったとき、ブリッジの下の甲板とほとんど水平になった、泡だつ波のてっぺんが、巨大な白いキノコ型に盛りあがったと思うと、ものすごい音をたてながら、空に向かって水のカーテンを噴きあげた。手摺りにたたきつけられ、やっとの思いで冷たい鉄のレールをつかんだ瞬間、噴き上げた白い水のカーテンは、しばらく船の上にじっと動かずにいたが、やがて落ちてきて、甲板にぶつかった。その水の重みは、どんなものでも木端《こっぱ》みじんに砕くようなすさまじいものだった。わたしは窒息するのではないかと、しばらくはパニック状態に陥りながら、懸命にもがいて水の上に出た。それから突然、すべてが終わった。排水孔から水が流れ出ているほかは、何事もなかったようであった。エンジンの鼓動は続いていた。風はうなりながら、船の上部構造を吹き抜けていた。波はシューッシューッと音を立てながら、舷側をかすめていった。
一分間ほどは、船がびっくりして息をとめているように思われた。
やがて、だれかが叫んだ。機関室の信号機が二度鳴った。大風の中でベルの音が鋭く、あわただしくひびいた。ベルがまた鳴り、エンジンの音がやんだ。下の甲板から聞こえてくる音が、だんだん高くなってきた――叫び声、何かきいている声、命令、走っている足音。あたかも機関室の信号機が、芝居の幕をあけたかのように、トリッカラ号はしばらくの放心状態からゆりおこされて、ふたたび意識を回復した。
船員たちが上の甲板にかけあがり、暗い中でぶつかり合って罵《ののし》ったり、いったい、何がおこったんだと聞き合っているとき、わたしはまだ手摺りにつかまっていた。それにふと気がついて、落とした銃を拾った。ハルジー船長は、ブリッジから大声でどなっていた。彼はメガホンを持っていたが、それにしても、彼の声はなんてよくとおるのだろう、と感心したことをいまでも覚えている。
「ボートの位置につけ!」と、彼は叫んでいた。「自分のボートの位置について、待機しろ!」
甲板の電灯が突然つけられた。ボートのほうへ走っていた船員たちは、足をとめて、眠そうに目をパチクリさせた。満足な服装をしていない者、救命衣を忘れてきた者もいた。片方の手に靴を持ち、もう一方の手に靴ひもで靴をぶらさげて、びっこをひきながら行く男を、わたしは見た。だれかがその男に呼びかけた。「船のどこにあったんだ、ジョージ」するとその男が答えた。
「一番船倉だ。水が鉄鉱石の中にドッと流れこんでいるのが聞こえるだろう」
「この前のような米でなく運がよかった」と、だれかが言った。
「おれは、ハンモックから放り出されたよ」
「魚雷だよ」
「ばかなこと言うな。こんな夜、魚雷を発射したら、Uボートはどんなことになると思う。機雷にちげえねえよ」
興奮した話し声の断片が、風でわたしの耳にとびこんできた。甲板が明るい電灯に照らされているトリッカラ号は、不思議に、なんともないように見えた。上部構造は破損していないようだった。船体は傾いてもいない。しかし、エンジンがとまっているので、強い風を受けて、酔っぱらったように左右に大きく揺れていた。ヘンドリックがブリッジの下の部屋から出た。小男のウェールズ人、エバンズもいっしょだった。メガホンを通して、ふたたびハルジー船長のどなり声が聞こえた。
「静かにしろ! うろたえる必要はない。急いで各自ボートの位置につけ。カズンス君! 二番ボートを出して待機しろ、機関長! 一番ボートを出せ。ヘンドリック君! 下へ行って、損害の程度を確かめろ。エバンズを連れて行け、きみのすぐそばにいる」
船が、見たところ別段異常なかったので、船員たちは落ち着いてきた。彼らは静かにボートの位置についた。なかには衣類や忘れた救命衣を取りに、急いで下へかけて行く者もいたが、船が激しい横揺れをつづけているので、物につかまりながら行った。エンジンがふたたび鼓動を開始し、風の咆哮と、甲板を洗う波の音にまじって、ポンプがうなっている音がかすかに耳にはいった。
わたしは手摺りにつかまりながら、警備室に戻った。船が波のくぼみに落ちこむと、次の波は甲板にかぶり、ときどき、腰まで水につかった。部屋に着くと、とびらがあいて、バートとシルズがとび出してきた。
「いったい、どうしたんだ」と、バートがあえぎながらきいた。
「船首のほうで機雷に接触したんだ」とわたしは言った。
「救命衣をつけろ」わたしは部屋にとびこんで、急いで救命衣をつけ、二人に手伝って救命衣を着せてやった。ふたたび甲板に出てみると、右舷側のボートが押し出されていて、船員たちが乗りこんでいた。「あれがおれたちのボートだ――右舷側の二番ボートだ」とわたしは言った。
バートがわたしの腕をつかんだ。「板がゆるんでいるってえのは、あれだろう。シルズがおれに言ったぞ」バートの声はおびえていた。そう言われるまで、わたしはすっかり忘れていた。急に恐怖ががっちりとわたしをとらえた。しかし、何も言わずに、「ボートの位置につけ」と言った。
わたしたちが甲板を走っているとき、すでに船首が前のめりになっているような気がした。突然、ヘンドリックがわたしのわきに姿を現わした。エバンズもいっしょで、二人は船首のほうへ急いで行った。そのとき、だれかがエバンズに呼びかけた。「おーい、エバンズ、おめえ、ヘンドリックさんといっしょに下へ行ったんじゃねえのか」
「ああ、行ったよ」とエバンズが叫びかえした。
「どんな具合だ」
「とってもひでえや。ムルマンスクで補強した、弱い鉄板がやられて、一番船倉に、とてつもねえでっけえ穴があいちゃった。水がナイヤガラの滝みてえに流れこんでるぞ」エバンズの興奮したかん高い声が、甲板じゅうに聞こえた。
ヘンドリックはブリッジのはしごをのぼった。みんな、彼が船長に報告しているのを見まもっていた。やがて船長はメガホンを口にあててどなった。
「カズンス君! 船員たちをボートに乗せろ。点呼《てんこ》をとって、各ボートに全員が乗ったら、報告してくれ。船首が傾きかけている。あと十分もしたら、沈没する」
船員たちの間に恐怖のつぶやきが走った。
「えらいこっちゃ」と、バートがわたしの耳にささやいた。「ドカンと一発で、五十万ポンドの銀塊がパアだ」
わたしたちは、ボートに乗る待機位置のそばの、ブリッジのすぐ下に来ていた。船長がヘンドリックに、機関室から全員引き揚げさせろと言っているのが聞こえた。それから船長は、ブリッジから体を乗り出し、両手を口に当てて、「カズンス君!」と叫んだ。「二番ボートを押し出せ。あっちのほうを警戒しろ」
「隔壁は大丈夫ですか、船長」と、カズンスがきいた。
「二番隔壁はやられた」と、船長はどなった。「三番隔壁も、まもなくやられるだろうとヘンドリック君が言ってる。さ、急げ」
「はい」と、カズンスは答えた。
わたしのそばに立っていた船員が、つぶやいた。「おかしいな。おれが上にあがってくるときにゃ、二番隔壁はまだ大丈夫だったがな」
「おめえ、何もしねえつもりか、伍長」と、バートがわたしにきいた。「何も知らねえかわいそうな連中に、ボートのことを教えたらどうだ」
「教えてどうなる、バート。もう連中には、ボートしかないじゃないか」
「いかだはどうなんだ」
「いかだは二つしかない。一つに四人しか乗れない」
「しがみついていればいいだろ」
「一時間で凍え死んじゃう。ここは北氷洋だぞ。ボートのあの板は、もつかもしれない」
「おまえたち三人の兵隊」と、カズンスがわたしたちのほうに向かってどなった。「来て、このボートを押し出すのを手伝え」
わたしたちは、数人の船員がつり柱からボートを押し出そうと懸命になっているところへ、よろめきながら走って行った。そのとき船が大きく横揺れして、みんながぶつかり合った。ランキンがそこにいた。友人のコックもいた。三毛猫を抱いていたのを、わたしは覚えている。つり柱がきしんで、ボートが押し出された。波頭が船腹にぶつかり、わたしたちはしぶきをかぶって目が見えなくなった。一瞬、ほとんど水中に没したように思われたが、船が右舷に傾いたため、水がひいた。水がひくとき、足を引っぱられるような気がした。風の咆哮と怒濤《どとう》のうなりの中で、ハルジー船長が、叫んでいる声が聞こえた。
「風よ吹け! 汝《なんじ》の頬を打て! 怒れ! 吹け!……」彼は風に向かって気違いのように笑ったと思うと、下のわたしたちに向かって叫んだ。「さ、早く――ボートに乗れ、ランキン君、きみと部下たちは二番ボートだ」
「はい」と、ランキンは答えた。
「船内にはだれも残っていないか、ヘンドリック君」
「だれも残っていません」と、ヘンドリックが答えた。
「ミス・ソレルは、二番ボートに乗せろ、ヘンドリック君」
「はい」
ランキンはわたしの腕をつかんだ。「乗れ、伍長。シルズとクックもだ」
わたしはためらった。船員たちは折り重なるようにボートに乗りこみ、オールがおろされた。ボートは満員で、頼りなさそうだった。わたしは、指で押したらぐらぐら動いた板のことを考え、船尾の甲板部屋の上にまだつってある、二つのいかだのほうを見やって、「わたしはいかだに乗って、運を天にまかせます」と、ランキンに言った。
「言われたとおりにしろ、伍長」と、彼はきびしく命令した。感心に、彼はこわがっていないようだった。
わたしは命令に従いかけた。命令に服従する習慣は、そう簡単には捨てられないものだ。だが、周囲のものすごい海の音を聞いて、突然、心を決めた。
「あのボートのことで、わたしが言ったことを覚えていますか。わたしはいかだに乗ります。あなたにもお勧めします」
「おれもおめえといっしょだ、伍長」と、バートが言った。「あんなざるみてえなボートにゃ乗らねえよ」
ランキンはためらった。が、そのとき、わたしたちにどなるハルジー船長の声が聞こえた。
「ランキン君、きみと部下たちは、そのボートに乗るんだ」
「はい」海軍で訓練されてきたランキンは、おとなしく命令に従った。「さ、二人とも乗るんだ。これは命令だ。シルズもだ!」
シルズはボートのほうへ行った。「次はおまえだ、クック」と、ランキンは命令した。
「おれは、伍長といっしょにいかだに乗るんだ」と、バートは言った。彼の表情には、テコでも動かないというがんこさが見えた。
「来いよ」と、シルズがバートに言った。「命令にそむいたら、問題をおこすだけだぞ」
「伍長、乗れ!」と、ランキンが命令した。
「いかだに乗ります」と、わたしはくりかえした。
ランキンはわたしの腕をつかんだ。彼の声は興奮していた。「バーディー伍長――最後のチャンスを与えてやる。ボートに乗れ!」
わたしは腕を振りほどき、「いかだに乗ります」と、彼に向かって叫んだ。「あんたはどうして、船長にわたしの報告を伝えなかったんですか」
ハルジー船長の声が、真上から聞こえてきた。顔をあげてみると、彼はブリッジから身を乗り出していた。あごひげがしぶきで光り、目は興奮に燃えて、狂暴な光を帯《お》びていた。「ランキン君!」と彼はどなった。「わしはきみに、きみとその部下二人はあのボートに乗れと命令してるのだ。いったい、どうしたんだ」
「二人は、乗ることを拒否しているんです」と、ランキンが答えた。
「拒否してる!」と、船長はかん高い声で叫んだ。「ブリッジに来て報告したまえ」
船長は姿を消したが、ブリッジの反対側で、一番ボートに出発を命じている声が聞こえた。やがて、一番ボートは見えなくなり、滑車のすべる音が聞こえた。そのとき、ジェニファー・ソレルが甲板に送られてきた。カーキー色の厚地の外套を着て、かさばったコルクの救命衣をつけているのに、弱々しく見え、青い顔をしていた。ヘンドリックがいっしょにいて、彼女を二等航海士のカズンスに引き渡した。カズンスはすでに、全員を二番ボートに乗せ終わり、シルズも乗っていた。シルズのやせた顔は、電灯の光の中で青白く見えた。彼はこわがっていたのだ。コックは猫を抱きしめていたが、猫は気違いのようにあばれて、彼をひっかいていた。
わたしは突然、ジェニファー・ソレルがそばに立っているのに気がついた。カズンスは彼女を助けてボートに乗せようとしていた。そのとき、船が激しく横揺れして、左舷側の手摺りが、また逆巻《さかま》く水の中に没した。やがて船は元の位置に戻り、甲板から水がひいた。ソレルは、手摺りのところで、わたしのわきに立っていた。
「ミス・ソレル」と、わたしは言った。「あのボートに乗ってはいけません。安全でないことを、わたしはよく知っています」
「どういう意味ですか」
「板がゆるんでいるのです」
カズンスがわたしの話を耳にした。「くだらないことを言うのをやめろ、兵隊」と、彼は腹だたしそうに言った。「急いでください、ミス・ソレル。もう出発しなければなりません」
わたしは突然、どんなことをしても彼女がボートに乗るのを阻止しなければならないと思った。
「どうぞ、いかだに乗ってください」と、彼女に言った。「寒いでしょうが、浮いているでしょう」
「何をつまらんことを言ってるんだ」カズンスはそうどなって、わたしの肩をつかんで、ぐるっと体を回した。「あのボートは安全だ。一週間前に、わたし自身で点検したばかりだ」彼は右のこぶしをにぎりしめていた。
「そうですか。でも、ゆうべは調べなかったでしょう」と、わたしは彼のこぶしを見ながら言った。「わたしは調べたんですよ、ミス・ソレル」と肩越しに言った。「どうか、わたしを信じてください。いかだのほうが安全です」
「よく聞け」と、カズンスがどなった。「おまえが、この荒海の中でボートに乗るのがこわくても、どうしても乗せてやる」彼の目は狂暴な怒りに燃え、若々しい顔がひきつった。
バートが突然、前に出て、こぶしを固めていたカズンスの手首をつかんだ。「伍長の言うとおりだよ、あんた。おれは自分で板にさわってみたんだ。ゆるんでいるんだ。つまらねえまねをするなよ」それからソレルのほうを向いた。「悪いこと言わねえから、伍長の言うようにしなせいよ、お嬢さん。おれたちといっしょのほうが安全ですぜ」
船員たちは、ボートの出発が遅れているのでぶつぶつ言いだした。高波の中ではっきりとはわからないが、トリッカラ号の船首は、前に傾いているようだった。突然、ハルジー船長の叫び声が頭上に聞こえた。「カズンス君、そのボートを出してくれ」
「はい」と、カズンスは答えた。彼はバートの手を振りほどいて、ソレルに言った。「さ、行きましょう、ミス・ソレル。もう出発しなければなりません」
わたしは、ソレルがためらうのを見た。彼女は探《さぐ》るようにわたしの目を見ていたが、突然、カズンスのほうを向いて言った。「わたし、いかだに乗って、運を天にまかせます」
「わたしはあなたをこのボートに乗せるように指示されているのです」と、カズンスは言った。「さ、もうぐずぐずしてはいられません」そして、彼女を無理やり連れて行こうとした。
「はなしてください」そう言って彼女は体を振りほどいた。
「そのボートを出してくれ、カズンス君」と、ハルジー船長がかん高い声で叫んだ。その声は激怒に震えていた。
「これが最後ですが、あなたはボートに乗るんですか、乗らないんですか」と、カズンスがきいた。
「いいえ、乗りません。いかだにします」と、彼女は答えた。
それを聞くと、カズンスは肩をすぼめて、ボートに乗りこんだ。トリッカラ号が左舷に傾いたとき、彼は出発命令を下した。波頭がボートの底にさわったとき、滑車がはなされた。ボートがバシャンと水面に落ちたとき、何かがボートから飛び出したと思うと、コックの三毛猫が、ぶらさがっている滑車にしがみついているのが見えた。ボートは波のくぼみにすべりこんだ。わたしは手摺りのところへ行った。トリッカラ号は大きく横に揺れ、わたしはまた水の中に吸いこまれるような気がした。カズンスのボートは、わたしのそばに近寄った。オールを外に出して、船にぶつからないようにするのに一生懸命だった。ボートに水ははいっていないようだった。ボートが、わたしがしがみついている手摺りとほとんど水平のところに来たとき、「カズンスさん」と、わたしは叫んだ。「左舷側のいかだを切り落とします。それが航海に適するかどうかわかるまで、ボートを待機させてください」
彼は承知したというような様子は見せなかった。わたしの言ったことが聞こえたのかどうか、わからない。しかし、わたしはそれしか言えなかった。「バート」と、わたしは呼ばわった。「いかだをおろすのを手伝ってくれ。右舷側のを使おう」
わたしたちは大急ぎで船尾のほうへ行った。すべりながら甲板を走っていくと、三毛猫がわたしの前に飛び出し、階段を降りて調理場のほうへ姿を消した。あとでまた、この猫にお目にかかることになった――とても違った環境において。
いかだのところに着くと、わたしは折りたたみナイフで、下のほうのロープを切り始めた。バートは甲板部屋の上にあがって、上のロープを切り始めた。
突然、ハルジー船長の声が、ほとんど人気のなくなった甲板を横切って聞こえてきた。
「ヘンドリック君! ランキン君!」と、彼はメガホンでどなった。「いかだをはなしている、その二人をとめろ!」
わたしが下の最後のロープを切ったとき、二人がわたしたちのほうに向かって甲板を走ってくる足音が聞こえた。彼らはわたしたちに大声で叫んでいた。わたしはあとにさがった。先にたって走っていたヘンドリックは、鉄棒をにぎり、すごい目つきをしていた。揺れ動く光の中で、頬の傷跡が白く見えた。船がまた横に大きく揺れた。ジェニファー・ソレルが、ブリッジのそばの手摺りにつかまるのが目に映った。ハルジー船長は、ブリッジのはしごを大急ぎでおりてきた。高い煙突、マスト、さびた巨大なブリッジ――すべてが、目まいのするような弧を描いて揺れた。ヘンドリックは、暴風時用のロープにつかまった。船が揺りかえして元の位置に戻ると、彼はまた走りだした。その目には殺意がみなぎっていた。わたしは肩から銃をはずした。彼らはなぜ、いかだをおろさせたがらないのだろう。この疑問が頭をかすめたとき、わたしは決心した。
「近寄るな!」と、わたしは命じ、銃を両手ににぎった。一等航海士はまたやってきた。わたしは銃の安全装置をはずし、引き金に指をかけて、「止まれ! さもないと撃つぞ!」と言った。
ヘンドリックは立ち止まった。ランキンも立ち止まった。ランキンの白い顔には、恐怖の表情があった。彼はボートのことを、船長に報告したにちがいない!「仕事を続けろ、バート」と、わたしは叫んだ。「いかだを切り離せ」
「よーし、伍長」と、彼は答えた。「最後のロープにかかっているんだ。さあ、切れた」
頭上で、ゴリゴリこすれる音がしたので、見あげると、いかだが動きはじめていた。まもなく、大きな音とともにいかだが落ち、海面にぶつかった瞬間に厚いしぶきがあがった。トリッカラ号が左舷側に傾いたとき泡立つ波頭の上に、いかだがうす黒い台のように漂っているのが見えたが、やがて姿を消した。
ハルジーは一等航海士のそばにやって来て立ち止まった。
「伍長――おまえは、この船が沈みかけているのを知っているか」と、彼は言った。「おまえは多くの人間の生命を――」
「いかだをおろしたって、多くの人間の生命を危険にさらしてはいませんよ、ハルジー船長」と、わたしは言った。「二番ボートは航海に適していません。ランキンはあなたに報告したにちがいない」
「あのボートはなんともない。ヘンドリック君が、船がムルマンスクに停泊しているとき、ボートを全部点検したんだ」
「板が五枚ゆるんでいる」と、わたしは言った。
「それはうそだ」と、ヘンドリックがどなった。しかし、彼はうさん臭い目をして、顔は青ざめていた。
エバンズがやって来て、ヘンドリックのわきに立った。ジュークスが向こうの、右舷側の手摺りのところにいるのが見えた。わたしは突然、すべてがわかった。恐るべき陰謀《いんぼう》だったのだ。わたしはあまりのことに、めまいがしそうになった。
「さ、銃をしまえ」と船長が言った。「おまえ、反抗罪を犯したのだぞ、伍長。それがどういうことか、考えてみろ」
「では、あんたは何をしたんだ」と、わたしはやりかえした。そのときは、自分のやったことがどういうことを意味するか、はっきりわかっていなかったと思う。しかし、もうどうにでもなれと腹を決めた。シルズのおびえた顔と、逃げようとして必死にもがいている猫を抱いていた、コックの姿が目に浮かんだ。
「ボートに乗っているあの人たち」と、わたしは叫んだ。声がしゃがれていたが、自分ではほとんど気がつかなかった。「あんたは、わざと板をゆるめたんだ。ヘンドリックが、ムルマンスクでそれをやったんだ」
一等航海士は、鉄棒を振りまわしながら、わたしに襲いかかろうとした。わたしは銃をあげた。むかってきたら殺してやろうと思った。彼はそれを察して、やめた。すごくおびえていた。
「おまえは気違いだな、伍長」と、船長が言った。
「気違い!」と、わたしは叫んだ。「ムルマンスクでボートをいじったのはだれだ――ヘンドリックとジュークスじゃないか。二人とも、あんたといっしょにピナン号に乗っていた」わたしは、ハルジーがびっくりするのを見た。「いま、この船にだれが残っている? 四人だけじゃないか――シナ海でピナン号に乗っていた四人だ。何をたくらんでいるんだ、ハルジー。なぜ、トリッカラ号の船員たちを殺す? これも海賊の仕事の一つなのか」
このときハルジーが、小さく頭をうなずかせた。その瞬間に、「気をつけろ!」と、バートが叫んだ。
ふりかえってみると、ジュークスがすぐ後ろでこぶしを振り上げ、大きな体がわたしに迫ってきた。鼻がつぶれ、目の小さなその顔は、かみつきそうなこわい表情をしていた。アッというまにわたしはなぐられた。
そのあとは、周囲の海の音と、真っ暗やみの中を体があがったりさがったりしているようなめまいしか意識しなかった。ごくかすかなバートの声が耳にはいった――「気がついてきたようですよ、お嬢さん」それからもっと近くで、「大丈夫か、伍長」と言っている彼の声が聞こえた。
わたしは吐きそうで気分が悪く、頭がズキズキ痛んだ。目をとじて静かに横たわっていたが、エレベーターで急に上がったりさがったりしているような、いやなめまいの感じがとれなかった。わたしは吐き気とたたかった。肌までびしょぬれで、ブルブル震えていた。波が砕けるものすごい音は、いつまでも続いた。起きあがろうとしてもがくと、だれかが背中をささえてくれた。
「何があったんだ」と、わたしはつぶやいた。あごが痛んで、口をあけられない。
「何かに打たれたな」
「そうだよ」と、バートの声が答えた。「あのジュークスの野郎だ。おめえの後ろにこっそりやって来やがって、船長がうなずくと、おめえをなぐったんだ。気分はどうだ」
「少しめまいがするだけだ」目をあけたが、何も見えなかった。すべてがインクのように真っ黒だ。一瞬、目がつぶれたのかと思って、ギョッとしたが、上に高く持ちあげられたとき、周囲にぼんやりと白いものが目に映った。――砕ける白波だった。次にまた、急転直下、下に沈んだ。
だれかの手が、やさしくわたしの頭をなでた。「だれ?」と、わたしはきいた。「何も見えない」
「わたしよ」と、若い女の声が答えた。彼らが結局、ジェニファー・ソレルをいかだに乗せたことを知って、わたしはびっくりした。「ああ、あんたですか。すみません」
「何も気の毒がるこたあねえよ。伍長」と、バートが言った。「お嬢さんは、あのボートに乗るよりも、このいかだのほうが安全なんだ」
わたしはすわって周囲を見まわした。いかだにはわたしたち三人しかいなかった。二人の姿は、白くわき立つ波を背景に、ぼんやりと見えるだけだ。「ランキンはどこだ」と、わたしはきいた。
「あとに残った。船長の命令だ。ハルジーのやつ、ミス・ソレルにとてもすまながっていたが、自分がボートで船を離れるまで、お嬢さんをトリッカラ号に残しておけねえと言ってやがった。そして、あすの朝、明るくなったら拾ってあげると約束してた」
波の上に、一列の灯が見えた。「あれはトリッカラ号か」と、わたしはきいた。
「そうだよ」と、バートが答えた。「船長はおれたちに、早く船から離れろと言った。船が沈むときに、いかだが水に吸いこまれることを心配してた。うまい具合に、風がいかだを船から遠く離してくれた」
ジェニファー・ソレルが急にしゃべり出した。いかだがちょうど波のくぼみに落ちこんで、不思議なほど静かになったときだった。「おかしいわね!」と、彼女は言った。「わたしたちの世界は、暗い、冷たい、逆巻く海だけになったのに、あっちには船室もお湯も食糧も電灯もあるわ」
「そのとおりですよ、お嬢さん」と、バートが口をはさんだ。「それと五十万ポンドの銀塊がね。――みんな海底行きですよ」
いかだが持ちあがって大きく傾いた。それから周囲の水がわき立ち、冷たい風がわたしたちのぬれた衣服を吹き抜けた。はるかかなたの暗やみの中に、トリッカラ号の電灯が見えた。いかだがまた傾き、波の背を走りおりた。それからしばらく、すべてが静かになった。風もなかった。いかだはふたたび見えない手で空に向かって持ちあげられ、逆巻く大波のてっぺんに乗った。トリッカラ号の灯火はしばらく見えていたが、急に消えて、うつろな暗やみだけが残った。いかだがまた、波のくぼみに沈んだのかと思ったが、周囲に波がたち、いかだは傾きながら大波の背を走りおりた。いかだが波の上に乗ったときも、灯火は見えなかった。
「聞いてみろ!」と、わたしは言った。「トリッカラ号のエンジンの音を聞いたような気がしたぞ」
「風のいたずらだよ」と、バートが言った。「もう沈んじゃったさ」
バートの言うとおりだと思った。トリッカラ号は海底に沈んでしまったのだ。わたしたち三人は、バレンツ海上に、いかだに乗ったまま残されてしまった。
「船長はあすの朝、わたしたちを拾ってくれると言ったわ」と、ジェニファー・ソレルが言った。
わたしは考えようとして、寝ころんで目を閉じた。彼らにさんざん毒づいたあのときは、自分の言っていることに間違いはない、と確信していた。だが、彼らに、ボートにインチキな手を加えたりする、どんな理由があるだろうか。彼らだって、機雷に触れることを知っていたはずがない。彼らがねらっていたのが銀塊だとしても、小さなボートで運べるのはタカが知れている。わたしは自分がばかなような気がした。――だが、待てよ……。
長い時間、まだ暗やみがつづいた。波の上に乗ると、冷たい風がナイフのようにぬれた衣服を突き刺した。いかだのまわりに波が押し寄せ、ときどき、もろに水をかぶった。巻いてあるキャンバスの防壁には氷が張った。わたしたちは、凍えた指でロープにしがみついていた。波のくぼみに落ちこむと、比較的暖かかった。いかだはめまいがするほど激しく揺れた。わたしはブルブル体が震え、意識がなかばもうろうとしていた。三人は暖をとるために、ぴったりと体を寄せ合った。まるで申し合わせたように、三人とも黙っていた。バートが歌をうたい始めると、わたしたちは好きな古い軍歌を、何度も何度もくりかえしてうたった。種が尽きてしまうと、ジェニファーが突然、ボエーム、リゴレット、トスカなど、オペラのアリアを歌い始めた。とてもきれいな、甘い声だった。波が泡だち、風が吹きすさみ、いかだが激しく揺れ動くなかで、陽気な歌が奇妙に聞こえた。
こうやって時間を過ごしながら、夜明けを待った。疲労と寒さで半死の状態だったが、三人とも絶対に眠らないように気をつけた。吐いた者は一人もなかった。いかだの動揺が激しすぎたのだろう。三人とも体がしびれてしまった。鉛《なまり》のような半無意識の状態で、時間はゆっくりと過ぎていった。
やっと空にかすかな光が忍び寄ったとき、わたしたちのみじめな有様は、いっそう明らかになった。あの北氷洋で、強風の中をいかだに乗っていた体験を、いまはっきりと思い出すことはできない――恐ろしいまでの孤独を味わいながら、生けるしかばねの最期を待っている恐怖感。あと一昼夜たったら、わたしたちは死んでいたろう。もう一晩はとてももたなかった。三人ともびしょぬれで、凍え、震えていた。周囲は、灰色の、吹き荒れる風に仮借《かしゃく》なく引きちぎられている海だけである。トリッカラ号は影も形も見えなかった。ボートも見えない。波は絶え間なくいかだに押し寄せ、空は雪もよいである。バートがわたしの思っていたことを口に出した。
「畜生! 何て朝だ、伍長。暗やみの中にいたほうがよかった。あのすげえ波を見ろよ。あれを乗り越えられるとは思えねえ」
わたしたちはそのときちょうど、波のくぼみにいて、山のような緑色の大波が頭上に迫り、しぶきをあげながら巻いている波頭が、いまにもわたしたちの上に落ちようとしていた。その波は、きゃしゃないかだを押しつぶしにかかっている生き物のように見えた。もう助からないと思った。しかし、いかだは急に傾いて波に乗り、一瞬、泡だつ波に呑まれたが、すぐに浮きあがった。こんなことをくりかえしているうちに、大波がくるたびに、大丈夫乗り越えられると思うようになった。いかだが波頭に乗ったとき、わたしはちょっと立ってみた。バートがわたしのひざをつかんで押さえていてくれた。しかし、何も見えなかった。トリッカラ号のボートも、何も見えなかった。視界は一マイルもなかった。荒涼たる海面に冷たいもやが低くたれこめていた。
ジェニファーは震えていた。顔は緊張のため真っ青で、目の下が黒ずんでいた。わたしは、彼女がこれまでなめてきた苦労を考えた。そして、いままたこの苦しみだ。数時間前、彼女は有頂天になってイギリスのことを語っていたのに! もう、歌もうたわなかった。疲れ果て、ただじっとすわっていた――避けられない運命を観念して。彼女の顔に表われていた精神力も、この最後の打撃でうちひしがれてしまった。
立っていたとき一度、近くの海面に浮いている黒い何かが、わたしの目をとらえた。いかだは風でそれのほうへ吹き寄せられた。波頭に打たれると、それは裏がえしになって、いかだといっしょに波のくぼみに落ちこんだ。トリッカラ号という文字が、ちらと見えたが、やがて波に押し流されてしまった。トリッカラ号のブリッジに固定してあった、椅子の一つだった。
それからしばらくすると、オールが一本流れてきた。バートは体を乗り出してそれをつかもうとしたが、つかみそこなって海に落ちそうになり、わたしとジェニファーが協力して、やっと彼を押さえた。次の瞬間、オールは波でいかだにぶつかったので、いかだに引きあげた。トリッカラ号のボートのものだという、はっきりした証拠はなかったが、バートはわたしと視線をかわし、「かわいそうなやつら!」と言った。
不思議なことに、わたしの腕時計は水びたしになったのに、まだ動いていた。九時四十分、いかだが波のてっぺんに安定したとき、急いで周囲を見回すと、視界の端《はし》に船らしい、かすかな影が目にとまった。次の波のてっぺんに来たとき、また見まわしてみたが、今度は何も見えなかった。目の錯覚かなと思いながら、それをくりかえしているうち、四度目にそれを見た。しぶきに半分隠れながら、酔っぱらったように横揺れしているコルベット艦だった。いかだから半マイルのところを通過するだろう。とわたしは推定した。
わたしは二人に話した。いかだが次の波頭に乗ったとき、甲板を海水に洗われながら波のくぼみからあがるコルベット艦を、かなりはっきりと見ることができた。
「合図に何か振らなければいけねえな」と、バートが言った。「このオールに、何か目立つ色のものをつけようじゃねえか、伍長。カーキー色はだめだ」
わたしが首を振ると、ジェニファーが言った。
「わたし、赤いジャンパーを着ているわ。あなたたち、ちょっとむこうを向いててちょうだい」
「いけない。風邪をひいちゃうよ」と、わたしは言った。
彼女は急に、ほほえんだ。その朝、彼女が微笑するのを見たのは、それが初めてだった。微笑で彼女の顔全体が、パッと明るくなった――まるで太陽の光のように。
「これ以上寒くなりっこないわ」と、彼女は言った。「とにかく、あとで暖かい飲み物とベッドにありつけるなら、ジャンパーを脱ぐくらい平ちゃらよ」
バートが言った。「脱ぎなせえ、ミス――早く。あの船に見つけられなかったら大変だ。あれは、船団に戻ろうとして、風に向かって進んでいるんだ」
まもなく、赤いジャンパーがオールの先に付けられた。いかだが波のくぼみに落ちこんだとき、ジャンパーはだらりとたれてたが、やがて不思議な赤いおばけのように、ふくらんだ。いかだが波頭に乗るたびにコルベット艦のぼんやりとした輪郭を見つけながら、オールを左右に振った。コルベット艦はいかだと平行になった。船団に戻ろうとしていることは疑いなかった。風に向かって全速力を出しているその艦首は、水をかぶっていた。
わたしたちはがっかりした。みぞれが降ってきて、しばらく、コルベット艦の姿はかき消されてしまった。ふたたび姿が見えたときには、いかだを通り過ぎ、艦尾が見えていた。いかだが波のくぼみに落ちこんだとき、わたしたちは互いに顔を見合わせた。バートのしわだらけの、サルのような顔は、絶望の色を浮かべていた。ジェニファーはぼーっと、気の抜けたような顔をしていた。次の波頭に乗ったときには、コルベット艦はもっと遠くにいた。もうだめだ。まもなく、靄《もや》のカーテンの中に消えてしまうだろう。
ところが、いかだがふたたび波に乗ったとき、コルベット艦は前よりも近くに見えた。もう艦尾を見せていない。まるで時間がとまっていたようだった。いかだがふたたび波に乗ると、コルベット艦はまだいた。――こちらに舷側を向けて、いかだがまた持ちあがったとき、わたしたちはやっと気がついた。三人は狂喜して叫んだ。その声は広い海面に、かすかにひびきわたった。コルベット艦は大きな弧を描いて、わたしたちのほうへ向かってきた。
しばらくすると、ナイフのように鋭い艦首が、いかだのほうに向けられた。おもちゃの船のようで、細い船体が激しく前後に動き、マッチの棒のようなマストと煙突が風に揺れていた。
三十分後に、わたしとバートは借り物のパジャマを着て、二つずつ湯たんぽを抱いて、コルベット艦の狭い病室のベッドに横たわっていた。ラム入りの熱いココアで、体が暖まっていた。わたしは生まれてからこんなにぐっすり眠ったことはない。
翌朝、艦長がわたしたちのところにやって来た。二十三歳ぐらいの若い大尉だったが、部下を子供のように扱う訓練を受けてきた職業軍人らしく、父親のような口のきき方をした。トリッカラ号の生存者は、わたしたち三人だけだと教えてくれたのは彼だった。トリッカラ号の無線係が船団の護衛艦に連絡したので、コルベット艦ブラバドーは、生存者を救助するため、夜明けまで待機するよう命令を受けたのだった。トリッカラ号のものとわかった漂流物をたくさん発見したが、ボートは一艘も見つからなかったという。
わたしはびっくりした。トリッカラ号とその船長についていだいていた、途方もない空想は、くずれ去ってしまった。ハルジー船長に投げつけた非難は、精神錯乱状態での怒号のように思われてきた。三番ボート――ハルジーの乗ったボート――は、ほかのボートとともに沈んでしまったのだ。
看護兵が、はれて痛いあごの手当てをしてくれた。体温は普通で、疲れて体がこわばっている以外、異常はなかった。しかし、バートは少し熱があって、せきをし始めた。顔が不自然に赤らんでいて、目が光っていた。看護兵は、わたしは起きたければ起きてもいいが、バートは寝ていなければいけないと言った。ミス・ソレルはどうしているかときいたら、元気だと言った。
十一時少し過ぎに、「元気をつけな」という看護兵の声が聞こえた。ラム酒を持ってきてくれたのだ。彼は赤毛で、長い顔をした陽気な男で、耳が頭の両側に張り出している。
「あいつ、いまにも空に飛びたちそうだな」と、バートはカラ元気を出して言った。
わたしは午前中ずっと、ベッドに寝ていた。バートの息づかいは苦しそうで、せきが目だってきた。わたしはそれが気になって、本を読もうとしたが頭にはいらなかった。部屋は激しく揺れた。しめてある舷窓に波がぶつかる音で、リズミカルなエンジンの音も消された。コルベット艦は、荒海の中をかなりのスピードで進んでいるようだった。
昼食後、わたしは起き、服を着て甲板に出た、といっても、ぬれた階段を、すべりながらのぼり、急いで周囲を見回しただけである。見えたのは灰色の世界だった。海は前の晩と同じだった。コルベット艦は、艦首から艦尾まで、波に洗われていた。破れた白い旗をなびかせているマストは、艦が大波にもてあそばれるたびに、びっくりするほど揺れた。
下へ戻ってみると、看護兵が病室にいた。ミス・ソレルに会ってもいいかときくと、彼は激しく揺れる狭い廊下を通って、艦首のほうへ案内してくれた。彼はある船室のドアを示すと、行ってしまった。わたしはドアをノックし、中から彼女の声が、「おはいりなさい」と言ったとき、妙に緊張する自分に気がついた。
彼女は、何かのチームの旗を編みこんだ、白い男物のセーターを着て、ベッドにおきていた。まだ疲れたような顔をしていたが、わたしを見ると明るく微笑した。
彼女といっしょにしばらくいたが、二人で何を話したか思い出せない。彼女と話をしているのが楽しかったということしか、覚えていない。彼女の態度は自然で、親しみ深くて、話しやすかった。ヨットが好きなことで二人は共通していた。
正午少し過ぎに、コルベット艦はふたたび船団に加わった。大風もおさまって、海は静かになってきた。昼食後、二人で甲板に出てみると、風に砕ける波頭が日光に白く光っていた。商船隊は、無格好なアヒルの一群のように、大風の余波に、ゆっくりと揺れ動いていた。しぶきを浴びながらパトロールしている駆逐艦スコーピオンの、すんなりとした灰色の輪郭が見えた。わたしは病室に戻った。しばらくすると、拡声器のかすかな音が聞こえてきた。ブラバドーの艦長が、スコーピオンの艦長に報告していたのだ。大蔵省宛への貴重な銀塊を積んだ、船団の中の一隻を失ったことを、スコーピオンの艦長はどんな気持ちで聞いたろう、とわたしは思った。
バートの容態はだんだん悪くなった。あまりせきはしなかったが、熱で目は真っ赤で、夕方には熱が四十度にあがった。それでもときどき冗談を言おうとしたが、声は弱々しく、なかば意識不明のまま横たわっていた。看護兵は、肺炎ではないかと言った。
およそ三十六時間のうちにリースに着くから、そうしたら医者が船に来てくれると言って、わたしは彼を慰めてやった。ところが翌朝、食事前に風にあたろうと思って甲板にあがってみたら、船団はいなくなり、コルベット艦は北へいそいでいた。水兵の一人に、どうしたんだ、スカパ・フロー〔スコットランド北部の水域のイギリス海軍基地〕へ向かっているのかときくと、「いいや、アイスランドだ。艦長は、ライキャビックでアメリカの貨物船を二隻、西行きの大西洋護送船団まで送りとどけろという命令をうけたんだ」という答えだった。
病室に戻ってみると、バートが熱で光る目でわたしを見上げ、「もうすぐか、伍長」とささやいた。
「いや、違う、バート。われわれは船団から離れて、アイスランドへ向かっているんだ」
バートはちょっと舌打ちして目をとじた。彼はまた眠りに落ちたのかと思ったら、間もなく口をきいた。「アイスランドへ仕事にか。――体温を計ってくれよ」彼は疲れきった顔に微笑を浮かべた。
ジェニファーは午後、バートの見舞いに来た。洗ってきれいになった赤いジャンパーは、狭い病室に派手な色彩を添えた。彼女は明るい快活な顔をしていた。目の下の黒いしみもなくなっていた。灰色の目に、笑いのきらめきさえあった。彼女が病室に数分いるうちに、なぜそんなに陽気なのか、やっとわかった。「きみ、口紅を手に入れたね。いったい軍艦のどこで、そんなものを見つけたんだ」と、わたしはきいた。
彼女は笑った。「艦長よ。いい人だわ。わたしに自分のセーターを貸してくれたとき、ちょっと恥ずかしそうに、おしろいと口紅をくれたのよ。この前に停泊した港がカレーだったので、ガールフレンドと妹のために化粧品を少し買ったんですって。わたしにくれたって、妹は気にしないだろうと言ってたわ」
わたしはなんとなくおもしろくなく、腹がたった。看護兵が来ると、ジェニファーはわきへ連れて行ってきいた。彼女は肺炎のことをよく知っているようだった。ナチの収容所には、肺炎患者がたくさんいたのだと思う。バートが肺炎であることを確かめたが、心配ないと彼女は言った。バートの症状はあまりひどくなかった。翌日の晩には峠を越し、ライキャビックに着いたころは、ベッドにおき、いままで飲まなかった分のラム酒をよこせなどと、冗談を言っていた。
わたしたちはブラバドーに三週間近くも乗っていたが、陸軍で暮らした、いちばんしあわせな時期だったと、いつも思い出す。天候はよくなかったし、ほとんどすることがなかった。病人でもないのに、艦長はわたしたちを、後甲板よりずっと居心地のよい病室においてくれた。わたしは毎日ジェニファーと会った。たいていはヨットの話をした。わたしはスコットランドの西岸沖の島々の間を、一か月もヨットで巡航したことがあるから、オーバン、マル、ロハルシュ水道などをよく知っていた。彼女はレーディース・ロックの話や、ロックとエイリーン・ムスダイルの灯台との間で行なわれるヨット・レースのこと、リスモア沖の島のあざらしのことなどを話した。また、二十五トンのヨット、アイリーン・モーア号で、弟といっしょに周遊旅行をした話をした。わたしは、故郷のファルマスの町から出かけた航海の話をした。わたしは建築会社のパートナーとして、かなり金持ちの若者だったので、快速帆艇を持っていて、友だちとフランスやスペインへまでも行ったし、イギリス西海岸のたいていの港は、一度は訪問していた。
こうした止めどないおしゃべりと、読書と、何もせずにぶらぶらしていたりして、時を過ごした。ライキャビックに一週間いて、わたしたちはアメリカのリバティ船二隻を連れて、太陽がさんさんと輝くすばらしい日に、同地を出港した。コルベット艦は、ニューヨークから約千二百マイルの海上で、二隻の船を護送船団に引き渡してから、イギリスに向かって帰国の途についた。ファルマスに入港するだろうといううわさが、艦内にひろまった。
わたしはある日、艦長を呼びとめて真偽をきいてみた。「ファルマスはわたしの郷里なんです」とわたしは言った。「家族とは、もう一年も会っていないんです」
艦長は微笑しながらうなずいた。「本当だ。万事うまくいけば、三十日にファルマスに入港する予定だ」
三十日の午前十時、コルベット艦はゾース岬を過ぎ、渡船場の向こうの投錨《とうびょう》地にすべり込んだ。海軍のパトロールボート――MLやMTB――が渚《なぎさ》ちかくに係留されて、駆逐艦一隻とコルベット艦二隻が、投錨していた。周辺の景色や建物は、長い間見なかったなつかしいものばかりだった。子供のころ水に落ちた小さな桟橋は昔のままで、遠くへ行っていて、久しぶりに戻ってきたような気がしなかった。バートとわたしは、手摺りに寄りかかって、町を眺めていた。わたしはバートにあれはどこ、あっちはどこと、教えることに夢中になっていたため、ジェニー――数日前からそう呼んでいた――が近づいてくる足音が聞こえなかった。
「ジム」と彼女は言った。「もう、お別れしなければならないわ」
彼女はトリッカラ号のタラップをあがってくるときに着ていた、カーキー色の厚地の外套を着て、黒いベレー帽をかぶっていた。わたしはそのときまで、彼女と別れることを考えてもいなかったので、急に寂しさを感じた。
「もう上陸するのかい」と、わたしはきいた。
「そうよ。わたしのためにボートをおろそうとしているところだわ」
わたしはジェニーを見つめた。彼女は上陸しようとしている。彼女がそばにいるのが当然のように考え始めたとき、彼女は突如としてわたしの人生から消え去ろうとしている。わたしは突然、何か貴重なものを失いかけているような気がした。「ぼく――ぼく、岸まで送っていこう」
しかし、彼女はかぶりを振った。「わたしはすぐにスコットランドへ出発するわ。父に三年以上も会っていないのよ。わたしは死んだ、と父は思っているでしょう。――わたしたち、手紙を書けなかったんですもの。黙って家にはいっていって、父をびっくりさせてやるわ」
水兵がやって来た。「ボートがおりました、ミス・ソレル」
「じゃ、さようなら、ジム」
彼女は手を差しのべた。わたしはその手をとった。彼女は悲しそうな顔をしているようだった。彼女もわたしと同様、別れを惜しんでいてくれればいいが、と思った。やがて彼女はわたしから手を離して、バートと握手した。「さよなら、バート。あまり働かないでね。さもないと疲れるわ」
「さよなら、ミス・ソレル」と、バートは言った。「いつかまた、いっしょに旅行をしましょうよ。伍長とわっしは、あなたみてえに、人生であまり面白いことを味わえなかった人たちのために、海底旅行をする小ちゃな会社をつくるつもりなんですよ」
ジェニーは笑った。それから小さく手を振って、行ってしまった。あとも振りかえらなかった。わたしは手摺りに寄りかかって、ボートが岸に向かっていくのを見つめていた。彼女は一度も首をめぐらさなかった。まるで、過去のあらゆるものに背を向けたかのようであった。彼女は家へ帰るのだ。
下士官がわたしの腕にさわった。「艦長の命令だ、伍長。きみとクックは病室へ行って、呼び出されるまでそこにいてくれ」
わたしは突然、現実に引き戻された。航海は終わった。ジェニーは行ってしまった。わたしたちはふたたび陸軍に戻ったのだ。
わたしたちは下へおりて、二時間、狭い病室にいた。だれも来なかった。わたしは二度、艦長に会いに行こうと思って立ちあがった。家のすぐそばまで来ているのに、くだらない手続きに縛られて、じっとしているのが腹だたしかった。しかし、立ちあがっては、またすわった。艦長はきっと忙しいのだろう。彼はわたしたちに非常に親切だった。わたしの家がファルマスにあることは知っている。できるだけ早く、上陸させてくれるだろう。
わたしたちは食事に呼ばれた。やっと二時半になって、水兵がドアから首を突っこんで、「甲板に来てくれよ、伍長」と言った。「仲間もいっしょだ」
「背嚢《はいのう》を持って行こうか」と、わたしはきいた。
水兵は、そのほうがいいだろうと言った。水兵は、わたしたちが荷物をまとめているのを、戸口に立っておもしろそうに見ていた。
甲板に出たとき、わたしは太陽の光がまぶしくて目をしばたたいた。ランチが舷側にあって、ブリッジの下の手摺りのそばに、憲兵軍曹が立っていた。
「おいおい、これはいったいどういうことだ」と、バートが言った。「赤い帽子――軍曹だ。面倒なことがおきたのかな、伍長」
「おまえがバーディー伍長か」わたしたちが近づくと憲兵軍曹がきいた。彼は手にしていた一枚の紙片に目をやった。
「J・L・バーディー伍長だな」
「はい、そうです」とわたしは答えた。
「H・B・クック砲手だな」と、軍曹はバートにきいた。
「そうだよ、軍曹」
軍曹は紙片を巻いてポケットに入れた。「おまえら二人の逮捕命令を受けている」と彼は言った。
一瞬、わたしは唖然《あぜん》として軍曹を見つめた。聞きちがいではないかと思ったのだ。「わたしたちを逮捕する?」とわたしはきいた。
「畜生!」とバートがつぶやいた。「すばらしい帰国だ」それからけんか腰で軍曹を見あげてきいた。「いってえ、おれたちが何をしたというんでえ」
「そうだ」と、わたしも相づちを打った。「どういう罪なんだ、軍曹」
「反抗罪だ」と、軍曹は答えた。「さ、早くランチに乗れ」
わたしは家族にも会えなかった。バートは妻に会うために、ロンドンにも行けなかった。二人はファルマスの波止場から、第三四五予備中隊のいる、プリマス近くの兵舎へまっすぐ連行された。そして、衛兵所の後ろの小さな部屋に入れられ、鍵をかけられた。そこには、婦女暴行のかどで、民間の裁判所に呼び出されるのを待っている、おどおどした看護兵がはいっていた。この部屋は臨時の監禁所で、常設の監禁所は満員だった。わたしたちはここで、みじめな思いで数週間待たされた。
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四 軍事裁判
着いた翌朝、兵舎の副官の前に呼び出され、拘留延期を言い渡された。告発された罪状は、上官に対する反抗であった。だれが告発したのか、とわたしはたずねた。「海軍兵曹長――ランキン」というのが答えだった。副官はそれから、証拠を集めたうえ、兵舎の司令官が軍事裁判にかけるかどうか決める、と言った。
ランキンが告発したということで、トリッカラ号の生存者はわたしたちだけでないことが、初めてわかった。ランキンが生きているなら、船長のボートに乗ったハルジーその他の者も助かったにちがいない。渦巻くタバコの煙の中を、春の陽光がさしこんでいる粗末な木造の事務室に不動の姿勢で立っているとき、わたしの心の中に、トリッカラ号での最後の数時間の疑惑と不安がよみがえってきた。ゆるんだ板、立ち聞きした会話の断片、コックが話したピナン号のこと、わたしがピナン号の名前を言ったとき、ジュークスがこぶしを固めたこと、「それはわれわれに好都合だ」と船長がささやいたこと、爆発がおこったとき、ジュークスが舵輪についていたこと――。副官の、ピカピカにみがかれた肩章を見つめているとき、これらのことがドッと脳裡《のうり》へ押しよせてきた。そして、これらのことをブラバドーの艦長への報告の中で述べなかった自分を呪った。生存者はわたしたち三人だけだと聞かされた瞬間に、いだいていた疑惑の土台はくずれ去ったのだった。もはや根拠がないと信じた疑惑を口にしても、意味がないと思ったのだ。いまや、これの疑惑がよみがえった。
監禁室に戻ると、バートとこのことを語り合った。「あいつも過去のこたあ忘れる、とおめえは思ってたんだろう。あの兵曹長の野郎、ひでえ目に会わせてやるから、待ってろよ」と、バートは言った。
わたしはバートとすべてのこと――会話の断片、指で押すとボートの板が動いた感じ、三人がいかだに乗った晩の出来事などを、くり返し、くり返し語り合った。二人はハルジー、ヘンドリック、ジュークス、エバンズの四人について聞いたことを、いちいち列挙してみたが、それ以上は進まなかった。漫然たる疑惑が残るだけだ。ジェニー以外に、わたしたちの証拠を証明してくれる者は一人もいない。船員のだれかに、裏づけの証明をしてもらわなければならない。たぶん、ほかにも生存者がいるだろう。カズンスのボートは沈んだとしても、一番ボートの者は助けられたかもしれない。そうだとしても、わたしたちはあぶない立場に置かれている。上官に反抗したことは間違いないのだ。とにかくわたしは、上官の命令を拒否し、船長と高級船員を銃でおどしたのだ。証拠だてなければならないのは、自分がそういう行動をとらねばならなかった正当性だが、軍事法廷で、手ごわい正規の軍人たちを前にして、薄弱な疑惑を正当な理由として陳述することを思うと、わたしの心は沈んだ。
わたしが長い間、部屋の中を行ったり来たりしていたとき、バートが言った。
「おい、どうしてすわっていねえんだ。心配したってはじまらねえじゃねえかよ」
わたしはすわった。みじめな気持ちだった。「おまえをこんなことに巻きこんじゃって、申しわけないよ、バート」とわたしは言った。
バートは急に歯ぐきをみせて微笑した。「よせよ。おめえが頑張らなかったら、おれはあのボートに乗っていただろうよ。そしたら、どうなっていた。――かわいそうなシルズと同様、いまごろは魚のエジキになっていたろうよ。両方のボートとも、板がゆるんでいたと思うか、ジム」
わたしは肩をすくめた。想像してみたところで、もう何にもならない。
「おれは知らない。どう思っていいかわからない。いま、たしかなことは――おれたちが調べたボートは、板がゆるんでいたということだ。覚えているか、それを発見したのはシルズだ。それなのに、あいつは、かわいそうに、言われたとおりにそのボートに乗った」
わたしはボートのへさきにすわったシルズの、緊張した、おびえた顔を思い出した。それから、猫が爪を立ててコックの手を振りほどき、甲板にとび乗ったことを思い出した。猫は、何がおこるか知っていたのだろうか。わたしはあの日のことを考えながら、思っていることを口に出して言った。
「もし二等航海士のカズンスが、おれたちがいかだを海に切り落としたあと、いかだのそばに待っていたら、何人か助かったはずだ。真っ暗だったので、船員たちはいかだが見えなかったんだ」わたしはバートのほうを見た。
「おれにどうもわからないのは、なぜ船長がいかだをおろさせたくなかったのか、ということだ。いかだをおろすのはやつの責任だ。おれはあのときの衝動でやっただけなんだ。しかし、どうもおれにはわからない。ランキンはブリッジに報告した。おれたちがボートに乗りたがらない理由を、ハルジーに話したにちがいない。それでもハルジーは、おれたちがいかだをおろすのをやめさせろと命じた」
「ボートに沈んでもらいたかったんだろうよ」と、バートは言った。彼はそれを、考えもせず、冗談にでもなく、何気なく言った。彼の言葉は、わたしの考えていたとおりのことだった。それが真相にちがいない、とわたしは信じかけたが、ふと考え直した。そんなことはない。絶対にない。船長にいったい、どんな利益があるのだ。トリッカラ号は沈んでしまったのだ。
そのとき、警備の軍曹がはいってきた。「さ、おまえたちに手紙だ。おまえのは書留だよ、伍長」彼は帳面を出して、署名しろと言った。
「畜生! 女房からだ。ありがとうよ、軍曹」と、バートが言った。
わたしは書留の手紙をテーブルの上に置いた。あける必要はなかった。中身はわかっていた。宛て名は、ベティーのきれいな字で書いてあった。わたしはみじめな気持ちですわって、封筒を見つめていた。
バートは自分に来た手紙をあけた。「女房からだよ! こう書いてある――「一か月の休暇がとれて、子供たちの面倒をみてくれると思っていたのに、大変な事件にぶつかるなんて、あなたらしいわね、バート。でも、あなたが言うように、ほかの人みたいに海のもくずになるよりは、生きていてやっかいなことにぶつかるほうがましだわ。近所の人たちがどう思うか知れないけど……」バートは腹をたてて顔をあげた。「近所のやつらがどう思おうと、かまうかってんだ。これがうちの女房のいけねえところなんだ。――いつも近所のことばかり気にしやがって」
わたしはもう、封筒をあけていた。ルビーとダイヤをはめた、小さなプラチナの指輪がテーブルの上にころがっていた。指輪はわたしを非難するように、きらきら光ってそこにあった。わたしは手紙を読むと、それを引き裂いてしまった。ベティーを責めることはできなかった。
「そこにあるのは何だ」と、突然バートがきいた。「畜生! 指輪じゃねえか! 今度のことのために、婚約者がおめえを捨てたのか」
わたしはうなずいた。「彼女にそうさせたのは――父親なんだ」
わたしは怒ってはいなかった。ただ、自分がみじめだった。「おれが将校を志願したのは、彼女に勧《すす》められたからだ、とおれが話したのを覚えているだろ。ところが――将校にならずに、逮捕された。彼女の家庭は、軍人一家なんだ。こんなことになったのは、彼女にとっては、泥棒をして投獄されたのと同じなんだ」
「だがよ!」と、バートは叫んだ。「有罪かどうか、知っちゃいねえじゃねえか。彼女は事情を知らねえ」
「いや、知ってるんだ。彼女の立場からこの事件を見てみろ。彼女の家族の友人たちは、みんな退役陸軍将校なんだ。伍長と婚約しているというだけでもまずいのに、こんなことになっては、彼女のたつ瀬《せ》はないんだ」
バートは何も言わなかった。わたしはただすわって、指輪をどうしようかと、それを見つめていた。「おれもきみの細君のような女をもちたかったな、バート」と、わたしは言った。とても耐えられない孤独感に襲われ、「細君の手紙、もう少し――読んでくれないか」と頼んだ。「親しみのこもった手紙だ」
バートはしばらくは答えず、気の毒そうにわたしを見ながらすわっていた。わたしは彼といっしょにいることが、急にうれしくなった。
「オーケー」とバートは言って、ちょっと作り笑いをした。「だが、おれの女房は、自分の気持ちをうまく表わせねえんだ。文法なんて、あまり知らねえからな」彼はふたたび手紙に目を移した。「どこまで読んだっけな。ああ、そう、そう……近所の人たちがどう思うかってところまでだ。
「裁判がいつ、どこで行なわれるか知らせてくれれば、わたしは出かけていって、あなたを釈放してくれなければ、裁判長さまにわたしの気持ちを訴えます、バート。子供たちはジャクリン夫人に預けられるでしょう――ジャクリン夫人てえのは、おれたちの上の部屋に越してきた、ばあさんなんだ――でも、わたしを法廷に入れてくれるでしょうか。わたしは下の雑貨屋の手伝いをしているアルフと話したの――あなたに話したことがあるでしょう。サレルノで荷物を盗んで除隊になった男よ――彼は、民間人は軍事法廷にははいれないと言ってました。もっとも、彼は、自分は軍事法廷にはかけられなかった、としきりに言ってましたけど。それで……」
金釘《かなくぎ》流で書いた手紙は、数枚にわたっていた。無教育丸出しの、たどたどしい手紙だが、いかにも誠意のこもったものだった。バートは読み終わると、しばらくテーブルの上の指輪を、黙って見つめていた。赤と白の宝石は、嘲笑するかのように輝いていた。わたしは急に腹がたってきて、指輪を拾いあげた。どうするつもりか、自分でもわからなかったが、それをなんとか処分したい気持ちだった。鉄格子のはまった窓の外へ放り投げようとしたが、やがて、バートのほうを向いて「頼みたいことがあるんだ」と言った。
「いいとも。何だい」
「この指輪を、きみの細君に送ってもらいたいんだ、バート。細君に言ってくれ――いや、何も言わないほうがいい。拾ったとか、なんでもいいから、きみの好きなように言ってくれ、だが、とにかく、細君に送ってくれ。さ、ほうるぞ――受け取れよ!」
宝石がピカリと光った。バートは受け取り、きたない手のひらにある指輪を見つめた。「おい、いったいどういうつもりだ」彼は怒ったような、うさん臭そうな口調で言った。「おれは持っていたくないんだ。おまえの細君に持っていてもらいたいんだ」
「だがよ――おれはそんなことできねえよ。それはよくねえ。きょうび、てえした値うちのものだ。それに、女房はそれを持って、どうするんだ。こんな立派なもの、持ったこともねえよ」
「だから、きみの細君にやりたいんだ」
「まあ、聞けよ」と、バートが言った。彼の声はおびえているようにさえ聞こえた。「おれはこんなものほしくねえ。ひとから物をただでもらったこたあねえんだ」
わたしは腹がたってどなった。「おまえにはわからないのか。おれはそれを持っていたくないんだ。そのいまいましい指輪を、二度と見たくないんだ。だが、窓から投げ捨てるわけにもいかない」やがて怒りがおさまって、おだやかに言った。「おまえの細君にやりたいんだよ、バート。頼むから、細君に送ってくれ。それを売れと言ってやってくれ。そうすれば、おまえに会いに来る汽車賃のたしになるだろう。おれはおまえの細君に会いたいんだよ、バート。きっといい人にちがいないと思う」
バートは急に笑いだした。「畜生! 女房にそう言ってやるよ。喜ぶぞ」彼は指輪を見おろし、「このことは、あとで話し合おう」と言って、細君と子供の写真を入れてある小さな札入れに指輪をしまった。
その日の午後、わたしの両親がやって来た。気まずい面会だった。わたしはひとり息子だった。両親の知ってる人たちは、たいてい海軍に関係していた。父は、祖父が死んでファルマスに戻って、採石場の仕事を継ぐまでは外交官をしていた。上官に対する反抗は、わたしの家族にとっては、殺人よりも重大な罪である。両親はやさしくしてくれたが、わたしに寄せていた彼らの期待が、すべてくずれ去ったのを見て、耐えられない気持ちだった。
そのあと、時間はのろのろと過ぎていった。まるで、時間というものがないようであった。わたしはジェニーに、被告側の証人として来てもらうかもしれないことを、あらかじめ知らせておくために、手紙を書いた。しかし、日が過ぎても、返事がこなかった。
わたしたちの毎日の仕事は、楽なものだった。バートとわたしは、同室の看護兵を手伝って、毎朝、監禁室の掃除をした。運動時間は、毎日、三十分あった。あとは何もすることがなかった。警備室の隣に、二つの小さな独房があった。婦女暴行罪の看護兵は、その一つに移された。わたしは、バートといっしょにおいてくれるように頼んで、許可してもらった。バートといっしょにいることが、だんだん、たった一つの生きがいになってきた。バートとさんざん議論したあげく、やっと、細君に指輪を送ることを承知させた。わたしは彼の細君がよこした手紙を、いまでも持っている。その手紙を書くのに、彼女が何時間も考え考え、苦心したことが、一行ごとにくみとれた。しかし、そのつたない手紙を通して、苦労して世の中を渡ってきたために、すばらしい思いやりの精神を身につけた一人の女の人柄をかいま見たような気がした。彼女は、指輪は受け取るが、わたしがショックから回復し、それをお返しできるまで、お預りしておく、と書いてあった。
監禁室に入れられてから一週間たったとき、証拠の聴取が行なわれた。ソームスという中尉が担当した。こんなに遅れたのは、告発を裏づける供述書の到着を待つためだった。ソームス中尉は、ランキンとハルジー船長の供述書を、わたしに読んで聞かせた。二人が述べていたことは、≪事実≫に関するかぎり、まったく正確なものだった。わたしは自分の供述の中で、いろいろな小さなことが重なって、不安な気持ちが盛りあがったことを説明し、二番ボートの板がゆるんでいるのを発見したこと、その夜、ランキンがそのことを船長に報告するのを拒否したこと、わたしたちがボートに乗ることを拒んだ理由をランキンから聞いたあとで、船長がいかだをおろすことに対して不可解な態度を示したことなどを強調した。ソームス中尉は、それを全部、一生懸命に書きとめた。わたしはそれに目を通して署名した。
この仕事は、午前から始まって午後にわたり、わたしたちが監禁室に戻ったのは、三時少し過ぎだった。
「おれたちゃ、軍事裁判にかけられるんだろ」と、バートがきいた。
「それ以外にあるまい」と、わたしは答えた。「おれたちにはまったく不利なケースだ。しかし、おれたちのやったことには正当性があったということを、何とか軍事裁判で納得させなければならない」
「おれたちに、そんなことのできるチャンスがあるか。おれは少しばかり、軍事裁判のことを知ってるが、正当性なんてもなあ、ありゃしねえ。命令に従ったか、従わなかったかだ。従わなかったら、もうだめさ。いくら説明したところで、おれたちゃここから出られねえよ。だが、それがどうだってんでえ。六か月か一年だ。シルズみてえに、死ぬよりゃましだ」
わたしも、バートと同じ意見だった。わたしたちの釈放は絶望である。
翌朝、外の警備兵が気をつけの姿勢をとる、カチンという音が聞こえた。
「日直の将校が来るにゃ、ちとばかり時間が早すぎやしねえか」と、バートが言った。板の廊下に靴音が聞こえ、ドアがパッとあき、軍曹がどなった。
「囚人ども! 気をつけ!」
わたしたちが急いで気をつけの姿勢をとると、一人の大尉がはいってきた。
「よろしい」と彼は言った。「二人ともすわれ」わたしたちは姿勢をらくにした。大尉はテーブルに腰かけ、帽子をぬいだ。髪の毛は黒く、意志の強そうなあごをしていた。声は鋭く、てきぱきしていたが、意地が悪そうではなかった。
「兵舎司令官エイソン大佐が、提出された証拠に基いて、おまえらの事件を軍事裁判にかけることに決定したことを、おまえらに伝えに来た。あとで、司令官は正式におまえらの拘留延期を命じるはずだ。ところで、おまえらの弁護の問題だが、弁護士を頼むこともできるし、特定の将校に弁護を依頼することもできる――その将校にやってもらえるなら。わたしは喜んで、弁護の将校になってやる。わたしはジェニングス大尉だ。民間にいるときは、弁護士をしていた」彼はわたしたちをちらと交互に見て、つけ加えた。「おまえたち、この問題をよく考えたいだろう」
わたしはもじもじした。彼の様子が気に入った。そのきびきびした話しぶりは、ひとを信頼させるものを持っていた。弁護士を依頼すれば、家族に財政的負担をかける。わたしが大好きだったたった一人の将校――数回いっしょにヨットに乗った弁護士――は現在海外にいる。「わたしとしましては、あなたが弁護人になってくだされば、大変うれしく思います」とわたしは言った。
大尉はバートのほうをちらと見た。「わたしも同じです」と、バートは言った。
「それは結構」と大尉は言った。「じゃ、すぐに仕事にかかろう」シャツの袖をまくりあげるような口調である。彼はこの事件に、大いに興味を持っているようだった。わたしは彼に自分たちの事件をゆだねたことを、その後も後悔したことはない。
「わたしは供述の概要に目を通した」と、大尉は言った。「その中で、おまえらは二人とも、罪を認めている。そこでわれわれの決めなければならんことは、弁護の方針だ。バーディーは、おこったことを正確に話し、なぜそういう行動をとったのか、説明してくれ。覚えているとおりに、全部を話してくれ。トリッカラ号に乗船したときから、船が機雷に接触したときまでの、おまえの気持ちを知りたいのだ。楽な気持ちで話をして、おまえの立場から事件を理解するチャンスを、わたしに与えてくれ」
ソームス中尉に述べたことに付け加えるものは、あまりなかったが、ボートの板がゆるんでいるのを発見してから、不安がつのってきたことをはじめ、すべてを話した。なぜ、わたしたちがそういう行動をとらねばならなかったかを、理解してもらうために、わたしは懸命に説明した。
わたしの話が終わると、大尉はバートのほうを向いた。「何か付け加えることがあるか、クック」
バートは首を振った。「伍長が言ったとおりです。わたしたちはいろいろ相談したんです。わたしは伍長と行動を共にすることに、少しも躊躇《ちゅうちょ》しませんでした」
「たった一つ、ききたいことがある」と、ジェニングス大尉が言った。「おまえは、自分で実際に板を点検したのか、それともただ、伍長の言葉を信じたのか」
「いえ、わたしは自分でさわってみたんです」と、バートは答えた。「ゆるんでいることを発見したのは、シルズでした。わたしはそのとき、警備の勤務についていましたが、シルズの話を聞いて、伍長が交代してくれるとすぐに、自分で見るために、シルズにそこへ連れて行ってもらいました。むろん、見ただけではわかりません。ボートの下に手をやってみたら、板が五枚ゆるんでいました。あまり動きませんでしたが、航海には適しないだろう、という疑いをいだかせました。押してみると、四分の一インチほど動くんです」
「なるほど」大尉はテーブルに腰かけたまま、しばらく足をぶらぶらさせていた。「面白い事件だな」彼はひとりごとのように、つぶやいた。それからわたしを見た。「結局、おまえら二人とも、すでに行なった供述を変える意思がないということだな」
「すべて本当のことを申しあげたんです」と、わたしは言った。「わたしは軽率な行動をとりました。――しかし、ほかにどんな行動がとれたでしょう」
「フーム。とてもむずかしい事件だな」と、大尉はつぶやいた。それから、冷たい事務的な口調で言った。「軍事法廷というものは、常に規律の問題を考える。おまえは命令に従うことを拒否した。それだけでなく、船長だけがなし得る権限のある決定を自分でやり、いかだをおろすのをやめろと命じられると、とめようとした人たちを銃でおどした。反抗というような重大な罪をのがれるには、そのボートが事実、航海に適しなかったことと、それを知りながら船長が、いかだをおろすことを故意に阻止しようとしたことを、おまえは証明しなければならないだろう。言葉をかえて言えば、船長が何か悪だくみをしていて、航海に適しない状態のボートを、故意に送り出したということを、法廷に納得させなければならないが、それはまったく途方もない話だ。われわれのほうから持ち出す必要はないが、二等航海士のカズンスが、最近自分で点検して、そのボートが航海に適すると確信していたことを、おまえも認めている。むずかしい事件だということは、おまえにもわかるだろう。だからわたしは、無罪になるチャンスはあまりないということを、おまえたちに警告しておかねばならない。わたしとしては、おまえがこれまで軍隊で勤務成績がよかったことを強調し、正当性があるなしは別として、その行動をとった時点では、正しいことをやっていると信じていたことを訴えて、軽い刑にしてもらうことが精いっぱいだと思う。おまえが有罪を認めるのがいいかどうか、わたしにはわからない。おまえは有罪を認めるつもりか、伍長」
「はい、もしそのほうがよければ」と、わたしは答えた。「わたしはたしかに、告発された罪については有罪です。しかし、自分のやったことは正しいと確信しています。規律のうえから言えば、正しくないと思われるのはわかっています。しかし、考えれば考えるほど、どこかで、何かがおかしいと確信します。わたしの不安は、ただの想像ではありませんでした。それは間違いありません。しかし、何も証明することができないのです。何を疑っているのかも言えません。わたしにはわかりません。しかし、何かおかしいと、いまでも確信しています」
大尉は探るような目で、しばらくわたしを見ていた。わたしの話を信じるべきかどうか、心を決めようとしていることが、よくわかった。やがて彼は言った。「おまえはおそらく、ブラバドーで何か言ったんだろうね」
「はい、言いました」
「その中で、自分の疑惑について述べたか」
「いいえ、言いませんでした。わたしたちだけが助かったと聞いたときに、自分の疑惑は根拠のないものと思ったからです」
大尉はうなずいた。「残念だな。商務省が査問すれば、おまえたちに有利になったかもしれない。さて、ほかにも生存者がいると知って、疑惑がよみがえったというわけだな」
「そうです」それからわたしはきいた。「だれが助かったのですか。生存者のリストをお持ちですか」
「持っている。だれが生存者か知っている」そう答えて、大尉はまた探るような目でわたしを見つめた。「その中にだれがいると思う」
わたしはすぐに答えた。「ハルジー船長、ヘンドリック一等航海士、ランキン兵曹長、ジュークス、エバンズ」
「そのほかには?」
「いません」と、わたしは言った。
「つまり、助かったのは、二艘のボートが船を離れたあと、船に残っていた者全部だな」
わたしはうなずいた。しばらくして、大尉はまた質問した。
「大部分の者が船を捨てたあと、船に残っていたとおまえが知っていたのは、正確にだれとだれだ。おまえが実際に船上で見たのは、だれとだれだ。ランキンとハルジーは、むろんいたな。それに、いかだのそばにいたヘンドリックと、おまえをなぐったジュークスだ。エバンズはどうだ。――彼を実際に見たのか」
「いいえ」とわたしは答えた。
「これは驚いた。おまえの言うとおりだ、バーディー。生存者のリストは、まさにおまえの言うとおりだ――ハルジー、ヘンドリック、ランキン、ジュークス、それにエバンズだ。彼らは三月二十六日に、北大西洋のファロー諸島からあまり遠くないところで、掃海艇に救助された――トリッカラ号が沈没してから二十一日後に」
大尉は足をぶらぶらさせながら、長い間テーブルに腰かけていたが、やがて長身をすべらせてテーブルからおり、帽子をとった。「わたしは、このことをよく考えてみよう。あすの朝、また来て、それについて二人とよく話をしよう。それまで、すべてのことをよく検討して、法廷に持ち出せることで、言いもらしたことがないかどうか、考えておいてくれ。兵曹長が、ボートの状態についてのおまえの報告を船長に伝えることを拒否したという点――これは重要だ」
そう言うと、大尉は出ていった。
「よさそうな人だな」外で警備兵が気をつけの姿勢をとったとき、バートが言った。
「そうだな」とわたしは同意した。「だけど、それだけで、おれたちをこのむずかしい事件から救うことはできないだろう」
廊下に靴音が聞こえ、ドアがパッとあいた。「バーディー伍長!」例の軍曹だった。
「はい」と、わたしは答えた。
「若い婦人が来ている。もう、一時間も待っている。彼女は日直将校に話をして、おまえに会う許可をもらった」
「若い婦人?」わたしは思わず大きな声を出した。
「そうだよ。しかも、きれいな婦人だ」軍曹はウインクをした。親切そうな男だ。「ここに連れてこようか」
わたしは頭がボーッとなった。ベティーの気が変わったはずはない。とたんに、大きな希望が胸にわきおこった。
「はい、ここに連れてきてください」と、わたしは言った。
「情勢がよくなってきたな」バートはそう言って、にやにや笑った。「指輪を取り戻しに来たんだろうよ」彼は歯のない口で、『デージー、デージー』を口笛で吹き始めた。
軍曹の靴音が戻ってきた。その重い音にまじって、女の靴の、パタパタというせわしない音が聞こえた。やがてドアがあいて、ジェニーがはいってきた。
軍曹がドアをしめると、彼女はわたしのほうへ歩いてきた。わたしはあまりの驚きに、口をあけたまま、ただ椅子にすわっていた。ジェニーがあまり変わっていたので、自分の目が信じられなかったのだ。無格好なカーキー色の外套のかわりに、スマートな注文仕立ての服を着て、頭にはベレー帽の代わりに、何ともこっけいな小さな帽子をかぶっていた。殺風景な部屋の中で、彼女は輝くように美しく見えた。わたしがぎこちなく立ち上がると、ジェニーは両手でわたしの手をにぎり、まともにわたしの目をのぞいた。あまりのうれしさに、わたしは思わずキスしそうになった。
「ジェニー!」とわたしは叫んだ。「いったい、どうしてここに来たんだ。きみはスコットランドにいると思ってたよ」
彼女はわたしの手を放し、テーブルに腰かけた。「そうよ、スコットランドにいたのよ。でも、あなたの手紙を受け取って――ここにこうして来たわけよ。バート、あなた元気?」
「元気ですよ、ありがとう、お嬢さん」バートは恥ずかしそうに微笑を浮かべて答えた。
「でも――いったい、どうしてはるばるこんなところに来たんだい」とわたしはきいた。
「好奇心が強いのね」と、ジェニーは笑いながら言った。「反抗の罪で逮捕されたと聞いて、どうなっているのか知りたかったのよ。それに、二人に会いたくもあったし。それで――できるだけ早く来たのよ」
「でも、こんな遠くまで来る必要はなかったのに、ジェニー」と、わたしは言った。「きみは家に着いて、お父さんに会ったばかりなんだろ」
「ばかなこと言うもんじゃないわ、ジム」と、彼女はわたしの言葉をさえぎった。「父も、行ってこいと言ったのよ。過去数か年、ヨーロッパじゅうを歩き回ってきたわたしには、オーバンからファルマスまでなんて、長い旅じゃないわ。ところで、このつまらない問題は、どういうことなの」
「つまらない問題ではないらしいよ」と、わたしは言った。
バートはそっとドアのほうへ行き、「おれ、ちょっと出て、警備室の連中とおしゃべりしてくるぜ」と言った。
「ばかなこと言うな」と、わたしは言った。なぜだか自分でも理由はわからなかったが、彼に行ってもらいたくなかった。
「何言ってるの、バート」と、ジェニーが言った。「来てここにすわりなさい。わたしはこの事件のことをよく聞きたいのよ」
「わかりました、お嬢さん」と、バートは答えた。彼はこのときにはもう、ドアをあけていた。
「すぐ戻ってきますよ。いつもいまごろ、お茶の時間なんです。あんたも、お茶の一杯くらいいいでしょ」そう言うと、彼は外に出てドアをしめた。
ジェニーは突然、笑い出した。うれしそうな、天真爛漫《てんしんらんまん》な笑いだった。「ジム、バートの態度を見ると、わたしたちを恋人同士かなんかと思っているようね」
「ぼく――ぼくにはわからない」と、わたしはあわてて言った。「ぼくたちが、しばらく二人だけでいたいだろう、と思ったんだろう」
ジェニーはわたしを見あげたが、すぐに顔をそむけた。しばらく沈黙があった。やがて、彼女は言った。「バートは、とてもかわいいところがあるわね。あなたがバートといっしょなのを、わたしは喜んでるわ。彼は――とてもいい人ですもの」彼女はわたしを見た。「あなたの婚約者は、今度のことを、どう思っているの。便りがあった?」
わたしはベティーのことをすべて話した。わたしに無理に将校を志願させたことも話した。「彼女から手紙が来た」と、わたしは言った。
「それで?」ジェニーはわたしを見ずに、小さな足を前後に動かしながら、それを見つめていた。
「もう、おしまいだ」と、わたしは言った。
「おしまい?」彼女は信じられないというように、わたしを見あげた。
「そうなんだ。彼女はぼくがやった指輪を封入して、手紙をよこした」
「あなたに会いにも来ないの?」
わたしは首を振った。「軍曹がやって来て、婦人が面会に来たと言ったとき、ぼくは一瞬――彼女かもしれないと思った」
「おお、ジム」ジェニーはちょっとの間、わたしの腕に軽く手をかけた。「ところが、わたしだったというわけね。すみません」
わたしはそのとき彼女を見た。彼女の暖かみのあるやさしい顔を見て、急にしあわせになった。
「すみませんじゃないよ。ぼくはきみに会えてとても、とてもうれしい。きみかもしれないなんて、思っても――思ってもみなかったんだ。きみは船から出ていった日――ふりかえりもしなければ、手も振らなかった。――きみにはもう会えないと思った」ジェニーはタバコをすすめてくれ、二人はしばらく黙ってタバコを吸っていた。やがてわたしは言った。「きみは家に帰ってから、何をしていたんだい」
「まあ、友だちに会ったり、父の切手のコレクションの整理を手伝ったり、家のことをしたりしてたわ。それから、アイリーン・モーア号の手入れの監督をしたり。海軍が四か月ほど前に、徴用を解除してくれたのよ。あまりいたんでないわ。先だって海に出して、マルの先端のアードモア岬まで往復してきたのよ」彼女はテーブルからおりた。
「ジム、軍事裁判で、だれがあなたたちの弁護をしてくれるの。軍事裁判なんでしょ」
「そうなんだ」と、わたしは答えた。「ジェニングス大尉という人が、弁護を申し出てくれた。民間にいるとき、弁護士をしていた人で、とても有能そうだ」
ジェニーは部屋の中を行ったり来たりし始めた。「まったく不思議な話なんだけど、わたし、ハルジー船長たちを救った掃海艇の艇長に会ったのよ。オーバンであったパーティーの席上だったの。わたしがトリッカラ号の生存者の一人だと聞くと、その艇長はこう言ったわ――『それはおかしいな。わたしは約一週間前にこのオーバンで、トリッカラ号の船長と数人の生存者を上陸させました』彼はファロー諸島の北東およそ五十マイルのところで、船長たちを救助したんですって。先月の二十六日と言ったと思うわ。トリッカラ号が沈没してから二十一日後だと言ったのを、覚えているわ。そんなところで彼らを発見したことを、艇長は少し不審に思っていたわ。彼らが通ったにちがいない海域の気象情報を艇長は持っていたそうだけれど、それによると、天気はよく、海上はおだやかで、風はだいたい北から吹いていたそうよ。艇長が不思議に思ったのは、トリッカラ号が沈没した地点からそういう気象状態で一週間航海すれば、ドッガー・バンク付近に来るはずだということよ。ところが二十一日後に、ファロー諸島の北東で発見されたんでしょ」
「艇長は、そのことをハルジーにきいたのかね」
「ええ、聞いたそうよ。ハルジーは、風は変わりやすくて、ほとんど真南から吹いたことがよくあった、と答えたという話だわ」
「それで艇長は、ハルジーの言ったことを信用したのか」
ジェニーは肩をすぼめた。「当然よ。艇長の持っていた気象情報は、彼が無線で話しかけた船から集めたものにすぎないんですもの」
「救助されたときの、彼らの状態はどうだった」
「ひどかったそうよ。でも、あの季節に、屋根もないボートで二十一日間も海上に漂流していたにしては、よかったと言ってたわ」
ジェニーは歩きまわるのを突然やめて、額にしわを寄せてわたしを見た。「わたしにはどうもわからないわ。ハルジーは、夜明けには、いかだに乗っているわたしたちを救助すると約束したでしょ。助かったのはわたしたちだけだと思ったとき、ハルジーは船からおりるのに間に合わなくて、ほかの人たちといっしょに、船と共に沈んだにちがいない、とわたしは思ったわ。ところがいま、ボートをおろせたことがわかってみると、どうしてわたしたちを救助してくれなかったのか、さっぱりわからなくなるわ。まるで――ああ、わたしにはわからない」
「まるで、何だい」と、わたしはきいた。
「その――」彼女はためらった。「まるで、その付近に待っていられない何かの理由があったかのようだわ。風がとても強かったし、視界も悪かったから、わたしたちを見つけられなかった可能性も、大いにあるわ。でも――わたしはあなたが言っていたいろんな疑惑を思い出し、その疑惑にはいくらか真実がひそんでいるのではないかと思い始めたわ」
「ジェニー」とわたしは言った。「きみはトリッカラ号の高級船員の部屋にいたね。彼らの会話を聞いたにちがいないが、何かおかしいと思ったこと――むろん、そのときではなく、いまになって――はないか」
「あなたから、逮捕されたという手紙をもらってからずっと、何か役に立つ会話の断片はなかったかと、頭をしぼって考えたんだけど、だめだったわ。高級船員たちの相互関係は、普通のようだったわ。機関長はいやらしい酔っぱらいで、わたしの見たかぎりでは、ランキン以外の者からだいたい無視されていたようね。二等航海士のカズンスは、有能な、好もしい青年だったわ。ヘンドリックは船長の家来で、気むずかしい、無愛想な男だけど、まあ有能でしょうね。彼はよく船長の部屋にいたわ。多少おかしいと思った会話の断片を耳にしたのは、わたしが船長の部屋の外にいたときよ。船が出航した日の午後だったわ。わたしは甲板へあがる途中、外套を直そうとして立ち止まったの。そこは船長の部屋の外で、ドアが少しあいていたにちがいないわ。ヘンドリックがちょうど何か言っていたところだったわ。何を言っていたのか聞こえなかったけど、船長の答えが聞こえたの。船長は「わかった。わしはそれをごまかす理由を考えておこう」と言ってから、くすくす笑って、それからシェークスピア劇の科白《せりふ》をどなっていたわ」彼女はわたしのほうを見た。「あの人、少し気が変だと思わない」
「いいや」と、わたしは言った。どう考えていいかわからないが、ハルジーは気違いではない、とわたしは確信していた。――もしそうだとすれば、彼の狂気には何かゆがんだところがある。
ドアに静かなノックの音がした。「おはいり」とわたしは言った。
バートだった。「おれの腕前を見てくれ。ただでココアをせしめてきた」
彼はココアのはいったコップを三つ、テーブルの上に置いた。
「うまくやったな、バート」とわたしは言って、コップを一つ、ジェニーに渡した。
ジェニーはわたしたちの昼食が来るまで、おしゃべりをしていた。彼女が帰ろうとしたとき、「また会える?」とわたしはきいた。
彼女はかぶりを振った。「だめ。午後の汽車でロンドンへ行くの。ロンドンにはしなければならない仕事があるのよ。でも、裁判のときには来るわ。そして、証人としてわたしが必要なら――」
「きみに証人になってもらう必要があると思うよ」と、わたしは言った。「証人が少し足りないんだ。裁判のときには来ると約束してくれて、ありがとう。お互いに話ができなくても――きみがそこにいるとわかっただけでも、気が楽になるだろう」わたしはちょっとためらってから言った。「ジェニー、兵舎を出る前に、頼みたいことがあるんだけど、やってくれるかい」
「むろんよ」と、彼女は即座に答えた。
「ジェニングス大尉に会ってくれないか。きみの知っていることを話してもらいたいんだ。彼はぼくの話を信じかけていると思うんだが、もしきみが話してくれれば――」わたしは急に笑い出した。「そのこっけいな帽子をかぶっていれば、どんなことでも納得させられるだろう」
ジェニーはほほえんで、「帽子だけ?」と、がっかりしたようなふりをしてきいた。
「いいや、きみはだれの意見も変えさせるくらい、充分に魅惑的だよ」
「あら、あなたは彼がわたしに魅せられることを望んでいるの? いいわ、わたしは最善を尽くすわ」それからさよならを言った。彼女がドアをしめると、わたしたちはふたたび、殺風景な部屋にとじこめられた。
その次にジェニーと会ったのは、三週間後だった。場所は、軍事裁判が行なわれる小屋の外であった。彼女は、民間人や軍服姿の小さなグループの中に立っていて、わたしとバートが引率されて小屋にはいるとき、わたしたちに微笑を送った。小屋の中には、ハルジー船長、ヘンドリック、ジュークス、エバンズ、ランキンの五人もいた。
軍事裁判は、エクセターの郊外の兵営で行なわれた。九時半に開廷の予定だった。わたしたちは八時に、憲兵隊の大型トラックで監禁所を出発した。すばらしい日で、青空に太陽が輝き、道ばたには春の花が咲きこぼれていた。土手には、サクラソウがびっしりと咲き、森はブルーベルのじゅうたんを敷きつめたようだった。「ガキの時代に戻りたいような気持ちになるな」トラックがタイヤをきしませながら走っているとき、バートが言った。わたしは黙っていた。自分がみじめでしようがなかった。
しかし、ジェニーを見たとたんに、気が晴ればれとした。自分たちにおこったことを心配してくれる人間――はるばるスコットランドから来るほど心配してくれる人間がいると思うのは、すばらしいことだった。彼女は、小ぢんまりした口ひげをたくわえ、鋭い目つきをした、半白の髪の年配の男と並んで立っていた。父親だろう、とわたしは判断した。父もいっしょに行く、と彼女は手紙に書いてきた。わたしとバートは、まっすぐに小屋へ引率され、わたしたちだけの狭い部屋に入れられた。憲兵伍長がそばについていた。
ドアがしめられたとき、バートが言った。「おい、ミス・ジェニファーを見たか」彼はすごく興奮してわたしを見つめた。「彼女は木のそばに立っていた」彼はにやっと笑った。「おめえは、ミス・ジェニファーだけしか見てなかったんだろ。よくここまで来れたな。いっしょにいたのはおやじさんか」
「それにちがいないと思う」と、わたしは言った。
そのあとは、二人ともあまりしゃべらなかった。まるで歯医者の待合室にいるような気持ちだった。
法廷にはいる人びとの足音が聞こえた。一人の軍曹がやってきて、わたしたちは囚人かときいた。わたしは囚人と呼ばれることに、もう慣れていた。「囚人! 囚人! 気をつけ!」――これは、日直将校が毎日、「何か不服なことはないか」と形式的にききにくるたびに聞く声であった。しかし、今度はこの言葉に特別の意味があるようだった。わたしたちは、軍の法的機関にしっかりと押さえられていたのだ。もはや個人ではなく、軍事裁判で裁《さば》かれる囚人の一日分にすぎないのだ。軍曹は一枚の紙片を読み上げた。
「〇二五五六七三四二号ジェームズ・ランドン・バーディー伍長。これはおまえだな、伍長」
「そうです、軍曹」とわたしは答えた。
軍曹は次にバートの身元を確認して、出て行った。幅の広い帯状の春の日光が、窓から床にさしこんでいた。わたしたちが動くたびに、小さなごみが光の中できらめいた。外の道路を、トラックがゴロゴロ音を立てて通り過ぎた。一度は戦車が通った。その間、一羽のクロドリが小屋のすぐ上の木で、鳴きつづけていた。
やっと、わたしたちは呼ばれた。「帽子をよこせ」と、憲兵が言った。わたしたちは無帽で法廷へ引率された。法廷にはいると、裁判官たちが着席している、X字形の脚に板をわたした粗末なテーブルに面してすわれと言われた。わたしははいった瞬間に、法廷のきびしい雰囲気を感じた。それは冷たい、非人間的な、事実を調べるだけの場所である。しかも、その事実は、すべてわたしたちに不利である。木の腰掛け、X字形の脚に板をわたしたテーブル、裁判官席の後ろの壁にかけた黒板、粗末な≪さねはぎ≫板の壁――こうした一時しのぎの道具だてはすべて、国家の非常事態を強調していた。窓は、外の騒音を防ぐために、全部しめられていた。日光が、顔、軍服、みがきたての床に、いろいろな模様を描いていた。判士が立って、開廷の順序を読み上げた。それがすむと、判士はわたしたちのほうへ向いて言った。
「いま聞いた裁判長もしくは裁判官に裁かれることに、反対か」
「いいえ、反対しません」と、わたしたちは言った。
判士はふたたび裁判官席に面し、冷たい、はっきりした声で言った。
「宣誓が行なわれる間、一同無帽で起立してください」
法廷中に、起立する足音が聞こえた。判士は裁判長にちらと目を向けた。「裁判長どの、わたくしの言葉を復誦してくださいますか」
はっきりした声につづいて、裁判長のしわがれた声が、法廷の静寂を破ってひびきわたった――「わたしは全能の神の名において……証拠に基いて、誠意をもって被告を裁き……施行中の陸軍刑法に従って……偏見も、えこひいきもなく……正義をおこなうことを誓う……」
裁判長につづいて法廷の関係官、最後に証人たちが宣誓を行なった。
宣誓の進行中、周囲を見まわす機会があった。わたしに面して、五人の裁判官がおり、近衛連隊の大佐の肩章をつけた裁判長が、中央に席を占めていた。大佐の赤いえり章は、くすんだカーキー色の軍服に映《は》えて、明るい色に見えた。彼の鋭い目は、落ち着きなく法廷内を見まわしていた。彼はあごの左側を、右手の指でこする癖があった。小指に認印つきの指輪が光っていた。両側の裁判官の将校たちは、彼よりは若かった。ひとりひとりのわきに、メモの紙とインクとペンが置いてあった。わたしたちの左には、海軍の将校がいて、前のテーブルに、積み重ねた書類とカバンがあった。
ジェニングス大尉は、わたしたちの右側にいた。彼の近くに二人の将校がいた。法廷の後ろのほうで、証人たちが立って宣誓していた。ジェニーは父親の隣に立っていた。わたしがふり向いたとき、彼女はわたしの目をとらえた。ジェニーのすぐ後ろに、トリッカラ号の乗組員四人とランキンがいた。トリッカラ号の生存者が全部、この息苦しい狭い法廷に集まったのは、何とも不思議な気がした。
宣誓がすむと、証人たちは案内されて外へ出ていった。法廷中の人びとは席に落ち着いた。
「おれたち、チャンスあると思うか」とバートが着席しながらささやいた。
「神さまだけが知ってるよ」とわたしは答えた。
法廷中のあちこちに、緊張しているような小さなせきばらいが聞こえた。戦車が一台、外を通り過ぎ、その音がいつまでも遠くの太鼓の音のようにひびいた。クロドリの鳴き声はかすかで、春のおとずれのようには聞こえなかった。判士は淡黄色の紙片を手にして、ふたたび立ちあがった。
「〇二五五六七三四二号、ジェームズ・ランドン・バーディー伍長――これはおまえに間違いないな」
わたしはうなずいた。「はい、間違いありません」
判士は次にバートのほうを向いた。「四三九八七二四一号、砲手ハーバート・クック――これは、おまえに間違いないな」
「はい、間違いありません」とバートは答えた。
判士は紙片をテーブルの上に置いて、わたしたちのほうを見た。「おまえら二人は、国王陛下の軍隊において、上官に反抗した罪で告発されている」彼の声は冷たく、非人間的であった。「これは陸軍法令の第七部第三項に違反する行為である。詳しく言えば、おまえらは一九四五年三月五日、汽船トリッカラ号において、共謀して、職務を遂行せんとする上官に反抗し、暴力をふるわんとした」彼はわたしを見据えた。「バーディー伍長、おまえは有罪か、無罪か」
「無罪」と、わたしは答えた。
判士はバートのほうを向いた。「クック砲手?」
「無罪」と、バートも答えた。
判士は先を続けた。「裁判前の手続きに関する規定のどれかが承認されず、それがために不利な立場に置かれたとか、あるいは裁判前に弁護の準備をする充分な機会がなかったとかの理由で、裁判の延期申請を希望するか、バーディー伍長」
「いいえ、希望しません」
「クック砲手?」
「いいえ、希望しません」
これでいよいよ弁論の開始である。検事は立って、弁論の火ぶたを切った。彼がどんなことを言ったか、詳しくは覚えていないが、彼の最初の言葉は、永久に忘れないだろう。検事は裁判長に向かって、鋭い、震える声でこう言ったのだ――「二人の被告は、陸軍法令で最も重大な罪である、反抗の罪で告発されたのであります。これに対する最大限の罰は、死刑であります。……」≪最大限の罰は、死刑であります≫、という言葉は、彼の弁論中、わたしの耳の中で鳴りひびいていた。
顔の表情からいくぶんでも希望をつかもうとして、わたしはジェニングス大尉のほうを向いたが、彼はただ検事を見つめながら、ほとんど興味ないように、無表情な顔ですわっていた。
ランキンが、検察側の最初の証人として呼ばれた。彼は競売に出ている品物でも見るように、冷やかな態度でわたしをじろじろ眺めた。真白なカラーにしめている、ダークブルーのネクタイをちょっと直してから、証言をおこなったが、警官が証拠を述べてるような、抑揚のない紋切り型の口調だった。わたしの心は沈んだ。冷然と事実を言っているだけだ。しかも、彼の述べ立てた事実は、間違いないものだった。もう、これ以上言うべきことはない、法廷はただ、刑期を決めるだけだ、とわたしは思った。ジェニングス大尉のほうを見ると、ゆったりと椅子に背をつけてすわっていた。彼の前にある紙は、日に照らされて白く見えた。ジェニングスはランキンの顔を見守っていた。
検事はいちいち反問しながら、証拠の諸点を強調しはじめた。裁判長はそれを書きとめていた。検事は赤毛の小さな口ひげをたくわえ、そばかすの顔から青い目がのぞいていたが、その目はいつもびっくりしているように見えた。声はきびしく、早口で、耳ざわりのよい声ではないが、言っていることをひとに印象づけるものがあった。いまや彼は、ランキンがわたしたちに、命令に従うあらゆる機会を与えた点を強調していた。「わたしは、法廷にこの点をよく理解していただきたい。ランキン君、きみはバーディー伍長にボートに乗るよう三度命令したと言うのだね」
「そうです。それは、シルズがボートに乗ると言ったときです。シルズはほかの二人に、面倒なことになるといけないから、ボートに乗れと勧めました。わたしは伍長に、最後のチャンスを与えてやると言いました。それからまた、ボートに乗れと命じました。しかし、彼はあくまでもいかだに乗ると言い張りました。クックも伍長といっしょに残りました。わたしはブリッジへ行って、船長に報告しました」
「伍長がミス・ソレルに、ボートに乗るなと説得したのは、きみがブリッジにいたときか」
「そうです」
「そのときボートが船から離れ、きみはブリッジを去るとき、二人の兵隊がいかだを切り離しているのを見たのだな。ハルジー船長が、二人にいかだを切り放させるなと命じたのは、そのときだったのか」
「そうです。その命令は、わたしと一等航海士のヘンドリック氏に与えられました」
「彼らがなぜ、いかだを切り離している、ときみは思ったか」
「伍長は、いかだに乗るつもりだと言ってました。だから彼らは、自分たちで使うために、切り放しているのだと思いました」
「そのとき伍長はどうした」
「ヘンドリック氏とわたしに、近づくなと命じ、肩から銃をはずして構えました」
検事は体を前に乗り出した。「この点は重要だから、慎重に答えてもらいたい。銃の打ち金はおこしてあったか」
「はい」と、ランキンは答えた。「伍長が遊底を動かすのを、はっきりと見ました」
法廷中に低いささやき声がおこった。裁判長はちょっと顔を上げてから、メモに書きこんだ。ランキンは微笑をうかべた。わたしは、クリームを見つけたとたんの、太った白猫を思い出した。やつはほくそえんでいる。
検事は満足したようにうなずいた。「ありがとう。それだけだ」
判士がジェニングス大尉のほうを見た。「ジェニングス大尉、反対尋問を希望しますか」
ジェニングスは立ちあがった。うんざりしたような、無造作な態度だった。わたしたちはすでに彼と、いろいろ打ち合わせをしておいた。彼は、わたしたちがランキンを信用していなかったことを示すことになっていたが、こういうはっきりした証拠を前にしては、とてもだめだ、とわたしは感じた。彼の態度も、わたしと同じ気持ちであることを示唆した。
「一、二点あります」と、彼はおだやかな、疲れたような声で言った。裁判長が、反対尋問を許すというしるしにうなずくと、ジェニングスはランキンのほうを向いた。「ランキン君、きみは警備の責任者だったのだね」
「そうです」
「きみは、自分で警備の勤務についたか」
「いいえ、海軍の兵曹長が警備勤務につく慣習はありません」
「そのとおり」と、ジェニングスは同意した。
「だが、これは例外的ともいえる小さな警備部隊だった。きみに関するかぎり、それでも事情は違わなかったのか」
「違いません」
「なるほど。だが、きみは当然、警備している荷物のある部屋で寝起きして、たいていはそこにいたのだろう」
「いいえ」ランキンの手は小刻みに震えて、ネクタイをいじった。ダークブルーの制服と対照的に、手がとても白く見えた。女の手のように、手入れの行き届いた、やわらかそうな手だ。「船長がわたしに部屋をくれたので、高級船員たちと食事をしました」
「そうか――」ジェニングスはちょっと驚いたように言った。「きみの任務は、荷物――きみの供述の中で特別な荷物と述べられている――といっしょにいることを必要とするものだとは思わなかったか」
「いいえ」と、ランキンは答えた。ジェニングスがこの点を強く追及していないことが読み取れた。「伍長がいたからです。彼に命令を与えておきました。ただ、定期的に警備状態を点検しました」
「どの程度定期的にかね」ジェニングスの声はおだやかで、ほとんど興味がないようだった。
「その……毎日ときどきです――兵隊たちが怠けないように」
ジェニングスの声は突然、きびしくなった。
「一日に何回だ」
「いえ、その――はっきりとは覚えておりません」ランキンの声は、おどおどしてきた。
ジェニングスはゆったりと構えていた。「いや、ざっとでいいんだ」と促した。「毎日、十回あるいは十二回か――それとも、もっと頻繁にか」
「覚えておりません」と、ランキンはぎこちなく答えた。
「トリッカラ号が出航してから沈没するまでに、四回以上は警備室へ行ったと言ってもいいのか」
ランキンは、目の前で落とし穴の口があいたような顔をした。「わたし……わたしは言えません」と彼は答えた。
ジェニングスは体を乗り出した。「言えない?」彼は驚いたような口調で、ランキンの言葉をくりかえしてから、力をこめて言った。
「言いたくない、という意味だろう。きみは自分の任務をきわめて軽視した、とわたしは考える」それから裁判長のほうを向いた。「わたしはあとで、ランキン君がいつもトランプをやったり、酒を飲んだりしていて、二度――四十八時間と少しの間に二度――酔っぱらっていたことを証明する証人を呼びます」
ジェニングスは眼鏡をはずして、ぼんやりとそれをみがいた。軍人というよりは学者らしい、長身をややかがめたその姿は、いっそうきわだって見えた。彼は眼鏡をまたかけて、ランキンを見た。
「さて」彼はふたたびおだやかな口調に戻った。「もう一つ質問をする。よく注意して答えてもらいたい。きみは何を警備していたか知っていたか。きみは特別の荷物だと聞かされていた、とわたしは了解している。だが、特別の荷物とは何だったか知っていたか」
「いいえ、知りませんでした」彼は落ち着きを取り戻したが、体を丸めようかどうしようかと迷っているハリネズミのように、用心深く質問者の顔をうかがった。「最初は知りませんでした」それから急いでつけ加えた。「しかしあとで、クック砲手が伍長のいる前で、箱の一つをこじあけているのを発見しました」
「銀塊だと知ったのは、そのときだったのだな」
「そうです」
「きみの任務の性質がわかったとき、どういう特別の注意を払ったか」
ランキンは、しばらく口をもぐもぐさせていた。「わたしは――伍長に、彼の任務は――」
「彼の任務?」ジェニングスの声はふたたびきびしくなった。
「自分の任務という意味だろ?」ジェニングスはふたたび裁判長のほうを向いた。「兵曹長は、自分が大量の銀塊に対して責任を持っていることを知っても、機関長の部屋へ行って、トランプをしながら酒ばかり飲んでいたということを、わたしはあとではっきりさせます」
これを聞くと、検事はさっと立ち上がり、裁判長に向かって言った。「異議を唱えます。ランキン君は証言をしているのです」
裁判長は左頬をなでた。指輪が日光を受けてきらきら光った。裁判長が判士を見ると、判士は、「わたしは検事の意見に同意します」と言った。
ジェニングスはせき込んで言った。「わたしは法廷に、二人の被告は上官を信頼せず、したがって、自分らのとった行動を正しいと考えたことを示すために、事件の背景を明らかにしようとしているのです」
彼はランキンのほうに向き直った。ランキンの顔は真青だった。その目は、法廷内の人びとと視線が合うのを恐れているかのように、落ち着きがなかった。
「ランキン君」ジェニングスは両手をテーブルについて、体を乗り出した。「きみはきわめて貴重な銀塊を警備していると知りながら、なおかつ、自分に与えられた仕事の全責任を、伍長が負うべきだと考えたのだな」
「伍長には、充分に指示を与えました」
「なるほど」ジェニングスはメモを見た。「さて、ランキン君、沈没の夜のことだ。トリッカラ号は三月五日午前二時三十六分に、爆発をおこした、とわたしは了解している。バーディー伍長は三月四日の午後八時三十分ごろ、きみのところに来て、二番ボートが航海に適しないと報告したのだな」
ランキンはちょっとためらってから「はい、そうです」と急いで言った。「彼はわたしのところに来て、板がゆるんでいるというような話をしました。もう一人の兵隊のシルズが、そのボートにはいったようです。わたしは伍長に、シルズにはそんな権限はない――」
「ちょっと待て」と、ジェニングスがさえぎった。「伍長が報告に行ったとき、きみは何をしていた」
「トランプをやっていました」
「何かほかに?」
「ご質問の意味がわかりませんが」ランキンはまたおどおどしてきた。
「わたしの知りたいのは、酒を飲んでいたかどうか、ということだ」
「その――わたしと機関長は、一、二杯飲みました。しかしわたしたちは――」
「酔っぱらってはいなかった、と言いたいのだろう」と、ジェニングスは先回りして、静かにつけ加えた。「当事者は必ずしも最善の判定者ではない」
「いや、わたしたちはただ――」
ジェニングスはまたさえぎった。「≪わたしたち≫とは、きみと機関長のことだろう」
「そうです」
「機関長とはちょいちょい一緒だったのか」
「機関長とは仲がよくて、二人ともトランプが好きだったもので」
「そして、酒もな?」ジェニングスはまた眼鏡をふき、近眼らしい目でランキンの顔をのぞきこんだ。「裁判長どの、機関長は同僚間では酔っぱらいで有名で、ミス・ソレルが自分の部屋で食事をさせてもらいたいと頼んだのも、それが原因であったことを明らかにするため、トリッカラ号に乗っていたそのミス・ソレルの証言を求めたいと思います」それからランキンのほうを向いて言った。「ボートのことに戻るが、伍長の報告を聞いて、きみはどうした」
「わたしは、あまりまじめにとりませんでした」と、ランキンは答えたが、自信のなさそうな態度だった。「伍長が、船の高級船員ほど、ボートについて知っているはずがないと思ったからです。機関長はわたしに、ボートは定期的に点検したと言いました。しかし、わたしは伍長に、翌朝明るくなったら、そのボートを見てやると言いました」
「機関長はきみに、トリッカラ号がムルマンスクに停泊中、一等航海士のヘンドリック君が、ボートの手入れをしたと言ったか」
「言ったと思います」ランキンの声は驚きを隠せなかった。
ジェニングスはうなずいた。「この点は、ほかの証人にきくつもりです」と、裁判長に言ってから、ふたたびランキンのほうを向いた。「このことをすぐに船長に報告する必要がある、ときみは考えなかったのか」
「はい、考えませんでした」
「伍長が、自分は子供のころからヨットに乗っているから、トリッカラ号のだれにも負けないくらい、小舟のことは知っていると言ったのを、きみは覚えているか」
「そんなことを言いました」
「にもかかわらず、彼の報告したことを、すぐに調査する必要があるとは考えなかったんだね」
ランキンは上着のボタンをひねくっていた。「暗かったものですから」と彼は言った。
「だが、懐中電灯を持っていたろう」ジェニングスはまた体を乗り出した。「きみはあまりにも責任感がなく、カード遊びと酒を飲むことを、一時やめることさえしなかったのだ。もう少し責任感があったら、十数人――あるいはもっと多いかもしれない――の命が助かり――きみに対する伍長の信頼が、多少はつなぎ止められたかもしれない」そう言い終ると、彼はちょっとうなずいて、「これだけです」と言って席についた。
ランキンは、証言台から退いてよいと言われると、席の間を縫《ぬ》って、大きな体をぶざまに泳がせながら、ドアのほうへ行った。まるで鞭《むち》でたたかれたのら犬のようで、人びとに見つめられるのを避けようとして、目のやり場に困っていた。わたしのすぐそばを通ったので、彼が震えているのがわかった。広い白いひたいが汗で光っていた。
わたしはジェニングスを見た。彼はややかぎ鼻の長い顔をうつむけて、テーブルの上のメモを見ていた。その態度は自信に満ちていた。こういういい弁護人をもったことは幸福だ、とわたしは思った。彼は弁護の仕事に通暁《つうぎょう》し、反対尋問のコツを心得ていた。ランキンに対する彼の尋問のやり方は、法廷中の人びとに印象を与えた。わたしは周囲に興奮の波を感じた。バートはわたしを肘でついて、こっそり親指をあげ、目を輝かせてにやりと笑った。わたしは逮捕されて以来はじめて、チャンスがあると感じた。
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五 ダートムーア監獄
午前中、裁判が続いた。ハルジー、ヘンドリック、ジュークスと、検事があとからあとから証人を呼び出すのを見て、裁判は永久に終わらないような気がした。わたしは頭がぼんやりしてきた。個人的にランキンが大きらいだったし、興奮していたので、彼に対する反対尋問は詳しく覚えているが、ほかの証人のは重要な点しか覚えていない。というのも、ジェニングスは一生懸命にやってくれたが、わたしたちに有利な結果にはならなかったからである。検事は終始、事実を中心についてきたのに、ジェニングスは本質的にはあまり重要でないことを証明しようと努力していた。次々に立つ証人の証言が、検事の証言を確証していくにつれて、わたしたちにチャンスはないと感じてきた。
たとえばハルジーだが、彼はジェニングスに対して平然たる態度をとっていた。岩のように厳然として、少しもあわてず、その強い個性は陰気な法廷を圧していた。彼の小さな黒い目は、ランキンと違っておどおどしたところがみじんもなく、裁判官たちをじろじろ見まわし、見つめられれば、鋭い挑戦的な目で見かえすといったふうであった。命令することに慣れている人間の自信に満ち、その自信がすべての人――ジェニングスさえも、とわたしは思う――に強烈な印象を与えた。
ジェニングスは、彼がわたしにいかだをおろさせるなと命令する前に、二番ボートの板がゆるんでいる事実をわたしが発見したことを、ランキンから聞いた点を追及しようとした。
「ハルジー船長」と、ジェニングスは言った。「あなたはなぜ、いかだをおろさせなかったのか、法廷に説明してくれませんか」
ハルジーの黒い目は、にらむようにジェニングスをキッと見た。「もちろん説明します」そう言うと、裁判官席のほうを向いて言った。「非常事態には、指揮をする人間は一人しかいません。さもなければ、すべてが混乱します。あなた方は経験のある将校ですから、これはおわかりでしょう」彼の声は低いが、気力がこもっていた。「いかだは、非常事態に使うためのものでした。ボートが水面に落ちてこわれた場合に備えて、わたしは予備としてそれを必要としていました」
「しかし、その時点において、ボートは二艘とも、無事におろされたのではないですか」と、ジェニングスはきいた。
「二艘とも水面におろされました。しかし、船から完全に離れたわけではありません」
「なるほど」ジェニングスはメモを見た。「二番ボートはおろされたばかりだった。――それに間違いありませんか」
「そのとおりです」
「さて、あなたがそのボートは航海に適しないという報告を受けておったとしましょう――その場合、あなたの態度は影響されたでしょうか」
ハルジーはジェニングスの視線をとらえた。「そんなことは問題になりません。高級船員の一人が、毎日ボートを点検しました。――主としてヘンドリック君が」
「なるほど」と、ジェニングスはおだやかな口調で言った。「しかし、わたしはあなたの意見をきいているのではありません。あなたは、もし、突然、二番ボートは航海に適しないと聞いたら、クックとバーディーがいかだをおろすのを阻止せずに、むしろ進んでおろさせなかったでしょうか」
「それにはお答えできません」と、ハルジーは短く言った。「非常事態における行動は、その場でとられるのです。事情が違っていたら、何をしたろうとか、しなかったろうかなど、言えるものではありません」
ジェニングスがハルジーの頑固な態度に、少しいらいらしていることが、わたしにわかった。しかし、ジェニングスはあくまでも追及した。「ハルジー船長、あなたはそのボートの状態を知っていたら――バーディーとクックが知っていたように、あるいは二人が知っていると思ったように――進んで二人にいかだをおろさせたかどうか、その点をききたいのです」
船長の自信を切りくずそうとして、ジェニングスはさらに追いうちをかけた。「あなたが被告たちの助けになるであろうところの意見を述べたがらないのは、二人にいかだをおろすなと命令したとき、ボートが航海に適しないことを、≪知っていた≫ためでしょう。あなたはランキンから、被告らがボートに乗ることを拒否したと知らされたとき、ランキンにブリッジへ報告に来いと言った。それに間違いありませんか」
「間違いありません」ハルジーの黒い目は、用心深くジェニングスの顔をうかがった。
「彼は、拒否の理由を何と言いました」
「二人が、そのボートは航海に適さないと思っている、と言いました」と、すらすらと答えた。
裁判官たちは視線をかわした。
「しかし、あなたはそれに注意を払わなかった?」
「そのとおりです。海に慣れていない人間のなかには、ボートに乗れと言われると、あわておびえる者がたくさんいます。あのときは大風が吹き、海がかなり荒れていたことを、思い出してください」
「ランキン兵曹長は、伍長の言ったことを信じているかどうか、あなたに言いましたか」
「わたしは、たずねませんでした」
「二人がいかだに乗りたがっていると、ランキンはあなたに言いましたか」
「言ったと思います」
ジェニングスは体を乗り出した。「二人の兵隊が、もしボートに乗ることをこわがっているなら、いかだに乗りたいと言うのはおかしい、と考えてみませんでしたか」
「そんなことは考えませんでした」ハルジーは裁判官席にちらと目をやってから、静かに、じゅんじゅんと説くような口調で言った。「船が沈みかけていて、わたしはいろんなことを考えていました。そのことを忘れないでいただきたい。わたしはあわてておびえている二人のことを、心配している暇はありませんでした。わたしは兵曹長に、ボートでもいかだでもいいから、とにかく、二人を船からおろせと言ったのです」
ジェニングスは、この問題をそれで打ち切った。ハルジーにとっては、わたしたちはあわておびえている二人の兵隊にすぎなかったのだ。ハルジーの意見は、法廷に感銘を与えたようだ。彼はともかく、トリッカラ号の船長だったのだ。彼は、裁判官たちを経験のある将校として、彼らに訴え、彼らは彼の意見を理解した。
ジェニングスは角度を変えて、ランキンを自分のボートに乗せて、ミス・ソレルをいかだに乗せたのはなぜか、ときいた。これに対しても、ハルジーの答えは筋の通ったものだった。
「それは彼女が決めたことで、わたしの決めたことではありません。わたしが船を離れられる前に、なすべきことがたくさんありました。わたしのために待たせて、彼女の生命を危険にさらすのはよくないと思いました。それに、いかだはあまり乗り心地はよくありませんが、安全なことは間違いないと思ったのです。翌朝、明るくなったら、助けられると考えていました」ランキンについては、彼は海軍兵曹長だから、船上で待たせておくことに躊躇しなかった、と言った。
そこでジェニングスは、翌朝なぜ、ミス・ソレルを救助しなかったのか、とたずねた。「それは説明しにくいです」と、ハルジーは答えた。「風の気まぐれとでも言いましょうか。われわれはしばらくの間、北寄りの風の中を漂流していましたが、いかだは南東寄りの方向へ吹き流れたのだと思います。そういうことはよくあります。そのうえ、その朝は、視界が悪かったのです。われわれのボートは、いかだから一、二マイルのところにいたのに、いかだも、いかだに乗っていた三人を救助したコルベット艦の姿も、見えなかったのかもしれません」
「ここに海軍省からの報告があります」と、ジェニングスが言った。「それによると、あなたがボートに乗ってから、三週間後にファロー諸島沖で救助されるまでの間の、バレンツ海南方の風は、だいたい北寄りのものでした。ということは、あなたのボートは帆を使えば、トリッカラ号が沈没してから一週間以内に、ドッガー・バンク付近に来ていたはずだ、ということです」
ハルジーは肩をすくめた。「その当時の風について、海軍省がどう言っているか知りませんが、わたしに言えるのは、いろいろな方向から風を受けたということだけです。あるときは北緯六十八度も南へ、その次は七十度までも北へ吹き流されました。われわれが、食糧も充分ない、吹きさらしのボートの生活を楽しんでいたとおっしゃるのではないでしょうな」
わたしは、裁判長がもうメモをとっていないのに気がついた。彼は一、二度、腕時計を見た。そわそわしているようだった。ジェニングスは次に、機関長についてきいた。「ランキンは機関長の部屋で、しじゅうトランプをやっていた。――あなたは機関長をのんだくれだと思いますか」
「酒を飲む船乗りはたくさんいます。わたしに言えるのは、彼は有能な機関長だったということです」
わたしはこのとき初めて、彼がうそをついていることを知った。しかし、死んだ部下をかばうためのうそだ。
「もう二つだけ質問があります」と、ジェニングスが言った。「船が出航した日の真夜中ごろ、あなたは一等航海士のヘンドリックとブリッジにいきました。そのとき、ヘンドリックは、あしたは荒れ模様でしょうと言いました。あなたは何と答えたか、覚えていますか」
「いいえ」と、ハルジーは答えた。「船で天候の話をすることはありますから、いちいち覚えていません」
「それでは、あなたの記憶をよみがえらせてあげましょう。あなたは、『それは、われわれに好都合だ』と、言ったのです。悪天候がどうして好都合なのか、説明してくれませんか」
ハルジーは少し体を乗り出した。「質問の意味がわかりません。被告の一人が、自分に何も関係のない会話に興味を持って、立ち聞きしていたのでしょうが、その質問には簡単に答えられます。ソ連の護送船団のルートは、ドイツの基地があるノルウェーの北端にひじょうに近いので、悪天候は、Uボートの攻撃に対するよい障害物になるわけです」
「あなたはそのとき、『あしたの晩やろう』と言いました。それからヘンドリック君に、ジュークスが二時から四時まで、操舵席にいるように、当直を切り替えたか、とききましたね。そしてその晩のその時間帯に、トリッカラ号は爆発をおこしました」
「あなたが質問の中で暗示していることは、無礼千万です」と、ハルジーは鋭い口調で言った。それから裁判官席のほうを向いた。「わたしが何のことを言っているのかわかりもしない人間が立ち聞きした会話の断片を、わたしはいちいち説明しなければならないでしょうか。人手が足りないために、当直を切り替えたのです。わたしの記憶が正しければ、あの晩、当直を切り替えたのは、船員を過労におちいらせないためだったと思います」
「わたしはただ、バーディー伍長はきわめて重要な荷物を警備していることを知っていたため、会話の断片にも神経をとがらせていたということを、示そうとしただけです」と、ジェニングスは指摘した。「もう一つ、明らかにしたい点があります。前もってことわっておきますが、この会話は、被告のどちらでもなく、ミス・ソレルが偶然に聞いたものです。ハルジー船長、あなたはヘンドリック君に、『わたしはそれをごまかす理由を考えておこう』と言いました。それはどういう意味だったのですか」
「その会話は覚えていないですね」と、ハルジーは答えた。
「しかし、もしわたしがそう言ったとすれば、きっと、われわれが海軍の船からせしめた物資のことでしょう」そう言ってくすくす笑った。裁判官たちもくすくす笑った。ハルジーの言った意味がわかったのだ。
「その直後」と、ジェニングスは続けた。「あなたはシェークスピアのハムレットの科白を暗誦しました。あなたは、『今後、わたしの考えは血なまぐさい……』と言いました。なぜですか」
「わたしはよく、シェークスピア劇の科白を暗誦します」と、ハルジーは短く答えた。青白い頬に、少し血の気がさした。
「わたしもそう聞いています」と、ジェニングスは相づちを打った。「わたしはまた、あなたはそのときの自分のムードにぴったりの人物を選ぶと聞いています。その朝はハムレットだった――激しい行動を考えているハムレット。二番ボートの板がゆるんでいることをあなたが知っていたなら、多くの生命が助かったかもしれないと考えると、この点は重要です。それからもう一つ質問があります」ジェニングスはハルジーに抗議する暇も与えず、たたみかけて言った。「あなたは戦前、シナ海でピナン号という船の船主兼船長をしていたことがありますか」
ハルジーの黒い目が、まぎれもなく怒りに燃えたのは、その時だった――怒りと、何かほかのもの。その何かほかのものが、恐怖であったことに、わたしはあとになって気がついた。しかしそのときは、まだ彼という人間をよく知らなかったので、気がつかなかった。
ハルジーがもじもじためらっているとき、検事が助け舟を出した。「わたしは抗議します」と、検事は叫んだ。「その質問は、本件とは関係がありません」
「異議なし」と判士が言った。
「関係があることを、わたしはあとで述べます」ジェニングスはそう言って腰をおろした。
検事側の次の証人は、ヘンドリックだった。ジェニングスは、ヘンドリックの尋問では相手をかなり追いつめることに成功した。彼はまず、同じ会話の断片について質問した。目に落ち着きがなく、顔に長い傷跡のあるヘンドリックは、裁判官たちに印象づけるようなタイプではなかった。しかし、なかなか尻尾を出さず、船長と違う答えをしたが、その違いはたいしたものではなかった。だが、ジェニングスがピナン号についてきくと、ヘンドリックは顔面蒼白となり、傷跡がいっそうきわだって見えた。
「シナ海でピナン号は、乗組員全部が死亡した数隻の沈没船の付近にいたという評判は、本当ですか」と、ジェニングスは鋭く追及した。ヘンドリックが返事に窮《きゅう》して、へどもどしているとき、彼はさらに追いうちをかけた。「ヘンドリック君、トリッカラ号がムルマンスクに停泊中、あなたは船員の一人とボートの手入れをした、とわたしは了解しています。ボートにどんな手入れをしなければならなかったのですか」
「船長の命令で、ボートの全般的な手入れをしたのです」と、ヘンドリックは答えた。
「とくに修理の必要はなかったのですね」
「ええ、べつだん。ただ、全般的な手入れです」
「あなたといっしょにそれをやった船員は、だれですか」
「ジュークスです」
これでヘンドリックの尋問は終わり、次の証人はジュークスだった。ジェニングスはまずきいた。「船がムルマンスクに停泊していたとき、きみはヘンドリック氏といっしょに、ボートの手入れをしたんだね」
「そうです」と、ジュークスは答えた。
「当直が切り替えられて、爆発がおこったとき、きみは操舵席についていたのだね」
「そうです」ジュークスの顔に不安の表情がうかびはじめた。
ジェニングスは急に体を乗り出した。「きみは、ピナン号の船員だったのか」
ジュークスがおびえていたことは、このときはもう、疑う余地がなかった。彼は法廷でおびえるようなタイプではなかった。つぶれた鼻、片方の耳たぶのないタフな容貌は、見るからに人を食っている。港々のいかがわしい場所に引きつけられる≪ごろつき≫であることは、一見してわかる。しかし、まったく予期しなかったピナン号のことをきかれたので、狼狽したのだ。
ジェニングスは、ジュークスがピナン号の船員だったことを認めたので、それ以上は追及しなかった。これで検事側の証人の反対尋問は終わり、被告の供述と弁護側の証人の証言が開始された。ジェニングスは短いスピーチをやってから、わたしに宣誓して証言を行なうことを求めた。わたしは彼から、あらかじめ指示されていたように、わたしの立場から、二日間のことを何も隠さずに全部述べた――自分がいだいた疑惑、次第につのってきた不安、コックから聞いたピナン号の話、二番ボートの板がゆるんでいることを、自分で実際に確かめたことなど。判士は途中でわたしをさえぎって、そのときは暗かったか、懐中電灯で調べたかどうかをきいた。わたしの証言が終わると、ジェニングスはバートを呼んで、わたしの証言を確認させた。そして最後に、ジェニーを呼んだ。彼女は、わたしがあまり強硬にボートに乗ることを拒否したので、いかだのほうが安全だと確信した、と述べた。
これで被告の供述と弁護側の証人の証言は終わり、次いで検事と弁護人の最後のスピーチがあり、それから判士が自分の意見を要約して述べた。
やっと十二時十五分に、法廷は事実認定のために閉廷した。
小さな待合室に戻ると、バートは両手をもみ合わせながら、わたしににやっと笑いかけた。
「伍長、あんなおもしれえこと、なかったな。ジェニングス大尉がピナン号のことを言ったたびに、やつらがどんな顔をしたか、見たか。やつらがやってたのは、海賊にちげえねえ。それによ、ミス・ジェニファーだが――裁判官たちは感心してたようだな」
わたしはうなずいた。ジェニングスが検察側の証人に反対尋問していたときは、胸のはずむ思いだった。しかし、いまは、判士の冷やかな、事実の要約だけが頭にうかんだ。ドアに憲兵が立っている、この殺風景な待合室に戻ってみると、うれしい興奮は消えてしまった。ジェニングスは最善を尽くしてくれた。彼は、わたしたちにああいう行動をとらせた疑惑と不安を、証明しようと努力した。だが、軍事法廷は民間の裁判所とは違う。こちらの気持ちを訴える陪審もいない。裁判官席にいたのは、軍の規律だけに関心をもっている陸軍の将校たちだ。それに、実際に起こったことを報告している証人たちの厳然たる事実の供述に対抗するには、わたしたちの理由は薄弱すぎる。ジェニングスは、無罪放免を期待してはいけない、とあらかじめわたしたちに警告した。裁判が終わって法廷からこうして出てみると、わたしたちのチャンスがいかに少ないかを、身にしみて感じた。
「元気を出せよ、伍長。タバコでも吸ったらどうだ」と、バートが陽気に言った。「まるで、もう監獄にぶち込まれたような顔してるぞ。検事のやつはひでえこと言いやがったし、判士の野郎の言ったことも、おれたちにゃ、あまり都合がよくねえことはわかってるけどよ」
「まあ、あんなものだろう」と、わたしは言った。
「おれたちにチャンスがあると思うよ。ジェニングスは、ランキンをさんざんやっつけたからな。おめえ、どう思う」
バートがタバコの包みを出したので、わたしは一本とった。彼の上機嫌に水をかけたくなかったので、わたしは黙っていた。
「そうよな」と、バートが言った。「裁判官は表面上、おれたちを有罪にしなきゃならねえだろうが、刑は軽いと思うな」
「おれたちはしばらく、どんな判決かわからないだろう」と、わたしは言った。「もし無罪なら、すぐに知らされるだろうが、有罪なら、いまは何も知らせてくれないぞ」
わたしたちがしばらく、黙ってタバコを吸っていると、ドアがあいて、ジェニーと父親がはいってきた。バートの細君もいっしょに来た。わたしたちが裁判以外のどんな話をしたか、もう覚えていない。ジェニーの父親は、目は明るいブルーで、紙は半白、おだやかな声をした、非常に魅力的な老紳士だった。父娘は、顔は少しも似ていないが、ときどき驚いたような表情をすること、物事にまるで子供のような無邪気な喜びを示すこと、やわらかい音楽的な声を持っているなどが共通していた。
二人は、バートの細君とはおもしろい対照だった。バートの細君は、がっしりとした、角ばった体つきの陽気な女で、さかんに冗談を言ってはみんなを笑わせた。若いころは、バーの女中でもしていたのだろう。昔は丸ぽちゃの下町美人だったにちがいないが、いまはその面影もなく、労働と心配事でやつれていた。しかし、顔にしわが寄り、服は色あせていても、わたしは彼女の人柄にそこはかとない暖かみを感じて、好感がもてた。浮き世のつらさを覚悟し、それを受けとめ、克服しているような彼女の親しみ深い態度に接していると、その体に他人に対する温情味があふれ、それが幸福の源泉になっているように思われた。
時間はゆっくりと過ぎていった。話題が絶えて、会話をつなぐのに骨が折れた。ちょうど、汽車の出るのを待っているような気分だった。二時十五分前に、訪問客は案内されて外に出、わたしたちは再び法廷へ引率された。何も変わっていないようだった。みんな、元の場所にすわっていた。しかし、かすかな違いがあった。それは、裁判官たちの態度だった。彼らの顔はもはや、話を聞こうという顔ではなかった。すでに心を決めていたのだ。彼らは無表情な顔で、法廷内が落ち着くのを見守っていた。裁判官たちは、早く昼食がとりたくていらいらしているのではないか、とわたしは思った。裁判する事件がまだ残っているのに、わたしたちの事件が予想以上に時間を食ったにちがいない。わたしは、判決を言い渡すから起立しろと命じられたとき、体の中を冷たい隙間風《すきまかぜ》が通り抜けるような気がした。
タバコの煙が、外からもれる日の光の中に漂っていた。裁判官たちは、わたしたちの運命を決めている間、リラックスして、タバコを吸っていたのだ。
裁判長がわたしたちに呼びかけたとき、その声は冷たく、非人間的であった。「法廷は何も発表することはない」彼がそう言ってあごをこすると、指輪が日光を受けてキラキラ光った。「法廷の事実認定は、確認を要するから、そのうちに発表されるだろう」
法廷内に小さなざわめきがおこった。わたしは体が冷たくなって、感覚がなくなったような気がした。判士は検事のほうを向いてたずねた。「被告らについて、何か言うことがありますか」
検事は、わたしたちの軍隊での記録を持ち出した。ジェニングスは、わたしたちが成績優秀だったことと、わたしたちの行動が善意に基づくものだったことを強調して、寛大な措置を求めるスピーチをおこなった。法廷は、今度は判決を審理するため、再び休憩にはいった。
十分後、わたしたちはまた法廷に連れ戻された。裁判長はわたしたちに向かって、「判決は確認を要するから、あとで発表する」と言ってから、法廷内をぐるっと見まわした。
「したがって、公開法廷の弁論は、これをもって終了する」
会話のざわめきが、法廷内のあちこちにおこった。椅子がずらされた。わたしたちは引率されて法廷から連れ出された。わたしは明るく微笑しているジェニーを、ちらと見たのを覚えている。やがてわたしたちは、三トン・トラックの金網かごの中に入れられ、もと来た道を通って兵営に帰った。
二週間後に、判決が言い渡された。わたしは兵営の司令官の前に立って、判決を聞いたときのショックを永久に忘れないだろう。司令官はこう言った――「バーディー伍長、おまえは上官に対する反抗の罪に問われて、一九四五年四月二十八日、エクセターにおいて行なわれた裁判で有罪と決定、軍隊からの不名誉除隊と、懲役四か年の判決を受けた。この判決は、確認当局によって確認された。よって、事実認定と判決が公表された」
バートは、懲役三か年の判決を受けた。
わたしたちはしばらくの間、自分の耳が信じられなかった。きびしい現実が心に浸透するのに、時間がかかった。その晩、気持ちの整理をしようとしたが、考えれば考えるほど、屈辱に耐えられなかった。四か年、バートは三か年、わたしたちは世の中から遮断されるのだ。そのあきらめに慣れなければならなかった。しかし、三年、四年という月日は、永久のように思われた。
翌朝、わたしたちは同じ三トン・トラックに乗せられて、兵営を出発した。「どこで服役するんだ」と、バートがきいた。いつも快活な彼も、すっかりしょげていた。
「わかるものか」と、わたしは言った。
トラックはプリマスの郊外を通って、イエルバートンを経て内陸にはいった。右に曲がると、登り道になった。ワタをちぎったような雲が空に点々としている天気のよい日で、下に見える平原は、雲の落とす影でまだらになっていた。土は暖かく、地味が肥えていそうだった。曲がりくねった道路を見おろしているうちに、はるか左手に、無線方向探知塔が見えてきた。わたしは急に、恐怖感にとらわれた。ここがどこだか、わかったからだ。わたしはこの地方を知っていた。友人と数回、ダートミートの彼の家に泊まったことがあった。ここはムーアだった。通っていたのは、プリンスタウンへ行く道路だった。
そこの牢獄に入れられていた、刑の長い軍の服役者のうわさ話を聞いたことがあった。それまであまり考えてもみなかったが、いまやそのうわさ話が、胃潰瘍《いかいよう》のようにわたしの腹のあたりをしめつけた。
わたしは、何も知らないでいるバートを見た。彼はわたしの目をとらえて、力なく微笑した。
「このへんはいいところだな」そう言って彼は首を振った。「うちのガキはこういうところが好きなんだ。こんなところ、見たこともねえんだ。ずっとイズリントンにばかり住んでいたからな。いちばん上は四つなんだ。女房は寂しい思いをしてきた。おれは近く海外へ行くと思っていたから、ガキをつくったんだ。かわいそうなやつらよ。この世の中のことで、ガキどもの見たものといやあ、爆弾と、きたねえ長屋だけだ。暗くなってから街灯を見たこともねえし、バナナを食ったこともねえ。――だが、いちばん上のやつは、スピッツファイアとP38の違いも知っているし、爆弾とV一号を区別できる。そして、阻塞《そかん》気球をいちいち、愛称で覚えているんだ。ところがどうだ、いやな戦争も終わりに近づき、除隊になったらガキたちに海やこんな田舎を見せてやれると思ったのに、こんなことになりやがった。いまいましいったらありゃしねえ!」彼は腹だたしそうに叫んだ。
わたしは彼の肩に手をかけたが、言うべき言葉がなかった。自分は女房子供がなくてよかった。わたしは彼に迷惑をかけてしまったと思った。あんな性急な行動をとるべきではなかった。――結果を考えるべきだった。しかし、ランキンの命令に従っていたら、ボートに乗って、今ごろは生きていなかったろう。そのとき、わたしたちを訴えたランキンは、わたしのおかげで命が助かったという、運命の皮肉を思った。わたしが命令を拒否しなかったら、彼もあのボートに乗ったはずだ。
トラックは平原から長い登り坂の頂上に着いた。そこは高原で、周囲は焼き払われた丘である。そこかしこに、焼け残ったハリエニシダの茂みが、日光の中で金色に光っていた。道路は岩山の肩を、白いリボンのようにくねくねと曲がり、トラックはそこを進んでいった。岩山の後ろの空は、煙で暗くなっていた。はるか左手に、高原が地平線まで果てしなく続いていて、いたるところに地面から煙がたちのぼっていた。道路のすぐ下の谷間で、人びとが燃えさしで草やハリエニシダに点火していて、炎がパチパチ音を立てながら、勢いよく燃えあがっていた。よい牧草地にするためにやっているのだ。これは毎春おこなわれる。戦争中は、灯火管理の必要上、やってはいけないことになっていたが、規則を無視してやっていた。ただ、夜には炎をたたき消していた。
トラックは鉄道線路のところに出て、数分後にプリンストンにはいった。わたしは緊張して待った。もしトラックが、マーケット広場で左へ曲がれば……。トラックは速度をゆるめて左へ曲がった。わたしは恐怖に襲われた。最悪のことになるのではないかと心配しているうちは、まだいくらか心に余裕があるが、心配していたことがはっきりと事実になったときのショックは大きい。これで、イギリスでいちばん寒く、湿気があり、いちばん恐ろしい監獄の独房に入れられることがわかった。道路わきに、小さな、冷たい石造の家が何棟か建ち並んでいた。看守たちの官舎だ。やがて、高いコンクリートの塀が、トラックのエンジンの音をはねかえした。トラックはとまり、ホーンを鳴らした。声がして、かんぬきをはずす重い音が聞こえた。わたしはちらとバートを見た。塀を見つめていた彼は、びっくりしておびえたような目をしていた。わたしは目をそらした。
「オーケー」という声が聞こえた。トラックは大きく開かれた、鉄鋲《てつびょう》を打ちつけた門をゆっくりと通り抜けた。トラックが監獄の建物に向かってスロープを下っていくとき、大きな門はしめられ、かんぬきがかけられた。
トラックがとまった。トラックに乗ってきた警備兵がおりて、金網のかごをあけた。看守が一人そばにいた。「さ、おまえら二人、出るんだ」と、看守が命令した。それから追っかけるように、「さっさとしろ!」とどなった。
バートとわたしはとびおりた。獄舎は、二棟ずつV字形になっていて、建物は近くの石切り場から来た花崗岩《かこうがん》でできている、醜い長方形のものだった。屋根は勾配が少なく、灰色のスレート張りである。獄舎には、鉄格子のはまった、小さな四角形なものがきちんと並んでいる。窓だ! 昔の牢獄船の舷窓のような四角い窓が、ずらっと並んでいる。ひときわ目だつ、れんが造りの丸い煙突が、さんさんたる陽光の中に煙を吐いている。バートは、このくすんだ花崗岩の獄舎を、おびえたような目で見まわしていた。彼は看守のほうを向いて、しゃがれ声で言った。「ここはどこだね」看守はにやっと笑っただけだった。「おれたちはいったい、どこにいるんだ」と、バートはくりかえした。
「ダートムーアだ」と、看守は答えた。
バートはのみこめなくて、しばらくぼんやりしていた。看守はべつだん、わたしたちをせきたてもしなかった。バートは驚いておびえているような表情で、あたりを見まわした。それからまた、看守のほうを向いた。「冗談はよせよ。ここはむかし、刑期の長い囚人を入れたところじゃねえか」彼はくるりとわたしのほうを向いた。「看守は冗談を言ってんだ。そうだろ、ジム」
「いや、そうじゃないよ、バート」と、わたしは言った。「ここは間違いなくダートムーアだ。おれはときどき見たから知ってる――外から」
「ダートムーア」バートはまったくうんざりしたように言った。「畜生! よくもおれをこんなところに入れやがったな」
「おい――もう、しゃべるのをやめろ!」看守は急にいらいらしたようにどなった。それからわたしたちを引率して、獄舎の間の日のあたる敷地を通って、暗い獄舎にはいった。ドアがガタンとしめられ、鋲《びょう》をうった靴の音が、石の廊下にひびいた。わたしたちは身体検査を受け、インタビューされ、記入され、囚人服を着せられたうえ、それぞれの独房へ連れていかれた。鉄のドアがガチャンとしめられ、ひとりぼっちになったとき、わたしたちが監獄という、人間の魂を打ち砕く機械の中に吸収されたことに、わたしは初めて気がついた。周囲の壁は身辺に迫り、天井は頭上に押しかぶさり、窓はだんだん小さくなって、手もはいらなくなってしまったような気がした。
突然、狼狽がわたしをとらえた。狭い長方形の独房に、しめつけられるような気がした。長さ四歩、幅二歩しかない。ドアには鉄格子がはまっている。窓にも鉄格子がある。壁に鉛筆の落書がある。石に頭文字や日付が刻み込まれている。石炭酸の匂いのする、妙に清潔な、薄ぎたない独房のたたずまいがアタマにきて、わたしは悲鳴をあげたくなった。前途には、ここで暮らす歳月がある。四年――服務成績がよくて満期前に釈放されるとしても、三年を越すだろう。千百二十六日! いや――一九四八年にもまだここにいるだろう。一九四八年はうるう年だから――千百二十七日だ! 二万七千二十四時間! 百六十二万千四百四十分! わたしは一分間でこの計算をした。たった一分間だ! それなのに、これからまだ、百五十万分以上ある。わたしは急に悲鳴をあげたくなった。そのとき、廊下に靴音が聞こえ、鍵をガチャガチャさせる音がした。わたしはベッドに腰をおろした。
しばらくすると、だれかが壁をたたきはじめた。わたしはそれに答えた。基礎訓練を受けていたことを、ありがたく思った。わたしはモールス符号を知っていたので、独房にとじこめられていても、決して孤独でないことを、突然悟った。ベッドのわきの壁をたたいて、モールス符号の通信を送ってきたのは、バートだった。一つおいて隣の独房にいる、と知らせてきたのだ。会うことも話すこともできなくても、彼がそこにいると知って、大きな慰みを得た。
わたしは、ダートムーアでの生活を詳しく述べるつもりはない。それは単に、全体の劇の幕合いにすぎないもので、あとにおこったこととはあまり関係がないからである。しかし、監獄生活が、わたしを肉体的に精神的に、タフにしたことは間違いない。そうでなかったら、あとであれだけのことをやる勇気も体力もなかったと思う。あんな大冒険をしてまで、わたしをマドンス・ロックへかりたてたのは、死にもの狂いの気持ちだった。わたしにその勇気を与えたのは、湿気の多い、陰惨な、花崗岩造りの、あの恐ろしいダートムーアであった。あのみじめな監獄ですごした月日は、あとで起こった事件の思い出でうすれ、ベールをかぶされて、いま考えると、まるで悪夢のようである。
しかし、孤独の恐ろしさは、決して忘れない。わたしはあの独房を憎悪した。それは、頭上に押しかぶさる、世間からの孤立のシンボルであった。それはとりわけ、わたしを完全に破壊し――わたしの精神力を打ちひしぎ、気違いにさせることに没頭しているものだった。わたしは密室恐怖症の傾向があって、狭いスペースにとじこめられていることに恐怖をいだき、大地の内部に連れていってくれるほら穴とか、鉱山のたて坑などに、病的な好奇心を持っている。だから、監獄を造った石を出した石切り場や、監獄の農場で汗水流して働いたときが、いちばんしあわせだった。ほかの人間といっしょにいるかぎり、掃除も、訓練も、仕事もいとわなかった。いまでさえ、ドイツの収容所で独房監禁の苦しみをなめた人びとの話を読むたびに、激しい恐怖をおぼえずにはいられない。もしわたしがそういう目に会ったら、気違いになったろう。しかし、ダートムーアでは、昼間は重労働をうんとやらされたし、夜は本が読めたから、何よりも恐れた孤独感を味わうことがなくてすんだ。
当時、ダートムーアには、約三百人の軍の囚人がいた。そのうちおよそ三分の一は、わたしやバートのように、軍の犯罪をおかし、軍事法廷で判決を受けた者だった。あとは、暴力行為、婦女暴行、放火、窃盗《せっとう》、殺人、不正利得など、民間の犯罪をおかして、民間の裁判所で判決を受けた者だった。彼らのなかには、ロンドンの下町出身のタフガイ、競馬場にたむろするいかさま師、グラスゴーのゴーバルス地区出身のちんぴらやくざなど、雑多な人間がいた。こういうごろつき、詐欺師、常習犯罪者、変質者は、社会的良心が皆無で、銃よりもカミソリのほうに手が早く、育ちが悪くて心がねじ曲がっているから、世の中の人間はみんな自分に敵意を持っていると思いこんでいる。軍はこういう連中を、十把《じゅっぱ》ひとからげに徴兵でひっぱったのだが、とても軍の規律に服させることはできなかった。だが、わたしやバートのように、間違ってここに入れられた者も少数いた。
わたしは世のはみだし者について、あんないい勉強をしたことはない。ときには、あまり腹がたって、人間というものがいやになったことがあるが、またときには、相手がつまずいて寄りかかっただけで、親友さえも蹴《け》殺しかねないタフな男からちょっと親切にされて、泣き出したくなったこともある。
ダートムーアにいる間じゅう、そこの陰惨な歴史が意識から離れたことがなかった。それはどうしても避けられないことだった。いたるところに、頭文字が刻んであった。J・B・N、七月二十八日、一九一六〜一九三〇。――わたしはいつもそれを思い出す。それは、ベッドの上の壁に、深く刻まれていた。
J・B・Nとは、いったいどんな男だろう。わたしは彼がダートムーアに入獄したときに生まれ、彼が出たときは十四歳の少年だった。どこにも――独房にも、庭にも、仕事場にも、台所にも、洗濯場にも、ここで長い間服役させられた人びとの亡霊が、頭文字や日付のかたちで、壁やベンチやテーブルにまつわりついていた。その数はあまりにも多すぎた。壁はあまりにも多くの不幸とみじめさと絶望を見てきたので、個々のケースの印象をとどめてはいない。――ただ、この壁にとじこめられていた人びとの、一般的なみじめな雰囲気を、ただよわせているにすぎなかった。
この監獄が十九世紀のはじめ、フランスとアメリカの囚人を収容するために建てられ、ほとんど一世紀にわたって、内務省がイギリス人のくずを入れるところに使っていたのに、いまイギリスの兵隊を入れるとは、不思議な皮肉である。ダートムーアの囚人は、わたしたちだけではなかった。わたしたち軍人の囚人は、きちんとした規律のある軍人の世界を作っていたが、同じ監獄の中に、別の世界――不良青少年の世界があった。当局がなぜ、イギリスで最も評判のよくない監獄の一部を、青少年感化院にしたのかわからない。これはまったく、不釣り合いな結びつきだった。彼らの世界は、わたしたちの世界よりも寛大な、楽な世界だった。彼らは、学校のような独立家屋に分宿し、かずかずの小さな特権を許されていた。それがために、わたしたちの生活は、いっそう苦しく感じられた。しかも、規律がゆるやかだから、彼らはよく暴動をおこしたが、何の処罰も行なわれなかった。当局の目には、彼らは少年にすぎなかったのだ。年齢は最高二十三歳ぐらいまでで、多くはしたたか者の常習犯罪者だった。
監獄内の事情がわかってきたのは、あとになってからである。最初は、新しい生活に順応することに没頭して、周囲のことはわからなかった。次第に事情がわかってきてびっくりしたが、それにも慣れて、考える時間のないよう、毎日規則正しい生活をした。夜は独房の中で、何か忙しくしているように心がけた。暦《こよみ》はつけたが、延々とつづく先のことは考えないで、自分がここに来ることになった事情を考えることに努めた。壁をけとばしたり釈放までの日を数えたりしたところで、何の慰めにもならない。最初、ジェニングスは、わたしたちに悪意はなかったと信じたが、いまでは、わたしたちが考えすぎていたと思っているようだ。とにかく、わたしたちの事件は、彼にとっては多くの事件の一つにすぎないし、これ以上、手を打つほどの関心を持っていなかった。わたしたちの話を信じたのは、ジェニーだけだが――彼女に何ができるだろう。彼女が諜報機関の仕事をしたのは事実だが、ほとんどフランスにばかりいたから、イギリスには重要なコネはない。ジェニーは出身地の下院議員にわたしたちの問題を訴え、いろいろの新聞にも投書したが、何の反響もない。もう、絶望である。
わたしはもはや、トリッカラ号のボートが本当におかしかったのかどうかとか、ハルジー船長はバレンツ海を漂流していた二十一日の間、どうしていたのだろうなどというミステリーを分析することもやめてしまった。すべてをあきらめ、そうすることによって、いくぶん心の平和を得た。自分のことはいっさい考えないようにし、地理とか、歴史とか、クロスワードパズルとか、抽象的なものだけに時間を費やした。両親に自分のいるところを知らせるために手紙を書いた。書くのがとてもつらかった。息子がダートムーアにいると知ったら、どんなにショックを受けるか、わかっていたからだ。しかし、それ以後は、個人的なことにはふれないようにしたので、楽な気持ちで手紙が書けた。
ジェニーとはちょくちょく便りを交換したが、彼女へ手紙を書くのは、両親へ書くよりもつらかった。小学生のように期待に胸をはずませて彼女の手紙を待ち、いざ手紙が来ると、次の手紙までのギャップを埋めようと思って、いく日も開封せずにポケットに入れておくのだが、彼女の手紙はともすると、自分の境遇をあきらめようとしている気持ちをぐらつかせた。というのは、彼女がスコットランドの高原のこと、狩猟のこと、入江でのヨット遊びのことなどを書いてくるからである。彼女はまた、アイリーン・モーア号の図面を送ってきて、細かく修理状態を説明してよこした。わたしが大好きなのに手の届かないことを書いてくるので、それがつらかった。しかし、彼女の手紙は、外界との接触を保ってくれる唯一のもので、一種の気晴らしにもなり、刑期を終えたら何をしようかと、将来を考えさせてもくれた。たしかに、彼女の手紙を読むと憂うつになったが、それでも、毎日毎日、待ちこがれる明るい光のように、彼女からの手紙を楽しみにした。
春がすぎて夏になった。ドイツが降服して、ヨーロッパ戦勝の日が来て、去った。次いで、対日戦勝の日が来た。やがて教会の後ろの木々の葉が色づき、わたしたちが行進しながら監獄の門をはいるとき、足もとに落葉が舞った。まもなく、きびしい、陰うつな冬が訪れた。高原は濃い霧に包まれはじめた。十一月になると、早朝の点呼のとき、横降りの粉雪が、顔にあたって痛かった。独房の壁は、湿気でじめじめしていて、衣服がかわく暇がなかった。車をとめてお茶を飲む夏の観光客には楽しい高原は、訪れる人もなく、無気味な、荒涼たるものに変わった。ときによると、霧が何日もつづけて監獄を包んでいて、周囲の岩山が、霧の裂け目からちらりと見えるだけのこともあった。
この間、わたしとバートは、いつも連絡をとっていた。わたしたちの間の独房にいた窃盗犯の男が仲介をしてくれた。この男は、前にもムーアにいたことがあった。スコットランド人とアイルランド人の混血で、気の荒い、したたか者だった。カーライル〔イングランド、カンバーランド州の首都〕近くの大きな兵営の酒保のカネを盗んでつかまるまでは、陸軍の電気機械技術部隊にいた。彼はいつも脱走を計画していた。一度も実行したことはないが、詳細な計画をたてて、それをわたしとバートに渡してくれるのだった。これが彼の時間つぶしの趣味だった。クロスワードパズルをやるのと同じようなものだ。
ときどき、わたしとバートは、うまく言葉をかわすことができた。ある日、バートが非常に興奮していたのを覚えている。わたしたちは同じ作業班にいたが、彼は満面に微笑を浮かべて、わたしの目を追いつづけていた。独房へ戻る行進にはいったとき、バートはわたしを押してささやいた。「歯医者に診てもらったよ。義歯を作ってくれるんだ」わたしは彼の顔をちらと見た。歯のないバートを見慣れているので、歯のある彼を想像することができなかった。引率の看守が、しゃべるのをやめろと言った。
それから一か月ほどたったある日、汚水をあけに行く途中、独房の踊り場でバートに会ったときは、うっかり見違えるところだった。歯がすっかりそろって、しなびたサルのような顔が一変していた。彼は馬の歯のような歯をむきだして、わたしににやっと笑った。まるで小石を口いっぱいほおばって、それを呑みこむのを恐れているような格好だった。歯がそろったため、彼は気持ちの悪いほど若く見えた。バートの年齢を考えたことがなかったが、三十五は過ぎていないだろうということが、突然わかった。しゃべるたびに、歯が上下に動くが、正しい発音ができるようになった。
例の窃盗犯の男は、バートが義歯についてあれこれ言ったことを、何時間もわたしにリレーしてきた。バートはみんなからさんざんからかわれたが、負けずにやり返していた。彼はだれにも人気があった。義歯をはめてからも、歯のないときと同じように、いつもにやにや笑って、冗談をとばしていた。
クリスマスがきて、雪は高原に積もりはじめた。一月にはいってから一週間は、シャベルで道路の雪かきをする以外、何もすることがなかった。「雪かきだけか」と、バートはぶつぶつ言っていた。しかし、わたしは、雪景色の外に出るのが楽しかった。働いていると体があたたまるし、雪かきの仕事がはかどると、規律がゆるめられて、話をしたり、歌をうたうことが許された。
やがて、雪が急に消えて、高原はすがすがしい陽光の中で、まばゆいような褐色に輝いた。この荒涼たる丘にも、生命がうごめき始めた。ときどき、小鳥のさえずりが聞こえるようになった。囚人たちは落ち着きがなくなった。独房内であばれる者が多くなり、けんかが頻発《ひんぱつ》した。不良少年たちは、組織的な暴動をやりだした。わたしも、彼らの、何となく落ち着きがない春の気分に感染した。狭い独房の息苦しさが、だんだん耐えられなくなった。独房をたたきこわしたくなったが、罰がこわかった。隔離室に入れられると思うと、ぞっとした。たまらなく憂うつになり、外に出て、自由に高原を歩き回りたいという、激しい衝動にたびたび駆られた。夏の森の日蔭や、キンポウゲの密生する河畔の牧場を歩いたり、陽光にきらめく水をけって、コーンウォールの入江でヨットを走らせたりした思い出だけが、頭に浮かんだ。
こうしたあこがれの焦点は、すべてジェニーに結びついた。手紙から手紙の間の日数をかぞえ始め、手紙が遅れると――あるいは、遅れていると自分が考えると――みじめな気持ちになった。ときどき便りをくれないことを責める手紙を書いてはみたが、結局、破いてしまった。そのうちある日、彼女に恋をしていることに、ハッと気がつき、自分の愚かさを呪った。わたしはダートムーアの囚人で、婚約者からは捨てられ、両親の期待を裏切った男ではないか。どんな将来があるというのだ。彼女にどんなものを与えられるのだ。精神的マゾヒズムから捨てばちになって、ジェニーに三週間も手紙を書かないでいると、彼女からどうして手紙をくれないのか、と手紙できいてきた。病気をしているのか、そちらへ会いに行きましょうか、という親切な手紙だ。わたしは自分がいやになった。単調な、あたりさわりのない返事を出したときには、いっそういやになった。
それから突然、世界が変わり、不幸と不満の衣が脱げ落ち、わたしはほとばしるような熱意をもって、ある一つのことに思いを集中した。
それは、こういうふうにしておこったのである。わたしはできるときはいつも、新聞を手に入れるようにしていたが、サンディという看守は親切な男で、ときどき新聞をドアの下から独房へ入れてくれた。わたしはそれをむさぼるように読んだ。新聞は大きな満足を与えてくれた。外の世界と間接に接触できる媒体だった。新聞を読んでいると、自分の家の炉ばたにすわっているような錯覚をおこした。
三月七日――一九四六年の三月七日だった。前日付の、ロンドンの日刊紙の一つをうまく手に入れて、読んでいる記事の世界にいるような錯覚をおぼえながら目を通しているうちに、≪トリッカラ号≫という文字が、わたしの目をとらえた。それは、第一面の下のほうの記事の、副見出しにあった。短い記事だったが、それを読んだとたんに、わたしの頭の中を、それまでぼんやりとしていた想念と疑惑が駆けめぐり始めた。
わたしはその記事を切り取った。もう色の変わった古い新聞のきれはしは、この本を書いているわたしの机の上にある。記事にはこう書いてあった――
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戦後最初の海中宝さがし
銀塊を引き揚げるトリッカラ号の船長
ニューカッスル、火曜日発――ケルト汽船会社の五千トンの貨物船トリッカラ号が沈没した当時、その船長だったシオドア・ハルジー氏はトロムソ〔ノルウェーの北部〕の北西約三百マイルの地点で、船とともに沈んだ五十万ポンド相当の銀塊を引き揚げる計画を立てている。同氏とトリッカラ号のほかの数人の生存者は、私財を出しあって、「トリッカラ号引揚げ会社」という株式会社を設立した。彼らは元海軍のものだった引き船一隻を買い、タインサイド造船所で、それに最新式の深海潜水装備を施しているが、沈没船の位置を探るアズデックは、すでに取り付けを終わった。
記者が、テンペストと名付けられた引き船のブリッジで、ハルジー船長に会ったとき、彼は、「きょう、来ていただいて、わたしはうれしい。トリッカラ号が機雷に触れて沈没してから、きょうでちょうど一年です」と語った。ハルジー船長は、背は低いが、がっしりした体つきで、黒いあごひげをきちんと刈りこみ、鋭い目をしじゅう動かしている。身動きは敏捷で、きびきびしており、その態度は自信にあふれている。彼はさらに次のように語った。「トリッカラ号が銀塊という貴重な荷を積んでいたことは、今日ではもう、秘密ではないと思います。わたしはその銀塊を引き揚げるつもりです。船がどこで沈んでいるかわかっています。船はたまたま、広い岩だなで水深が浅くなっているところで沈みましたから、その岩だなに横たわっているにちがいありません。わたしの想像が間違っていなければ、戦争中に改善された潜水装置によって、銀塊を引き揚げることができるでしょう」彼は今度の事業を、戦後最初の宝さがしだと言った。
船長は記者を、二人の高級船員に紹介してくれた。二人ともトリッカラ号の生存者である。一人は、トリッカラ号の一等航海士をしていた、スコットランド人のパット・ヘンドリック氏である。彼はタフで有能そうであった。いま一人は、十四年勤めた海軍から退役したばかりのライオネル・ランキン氏である。彼は海軍兵曹長であった。トリッカラ号のほかの生存者も、乗組員のなかにいる。船長は記者にこう語った――「トリッカラ号が機雷に触れて爆発したときに、運悪く乗っていて、冬のさなかに、屋根もないボートで三週間も漂流して生き残った者は、銀塊引き揚げの権利を要求できると思います。必ず成功すると確信しています。すべての準備が完了すれば、四月二十二日に出発するつもりです」
船長はこの事業の後援者を明らかにすることを拒否し、ただ、五人の生存者が費用を分担している、とくり返しただけだった。
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わたしは、この記事を何度くりかえして読んだことだろう。一字一字拾いながら、たんねんに読みかえした。読んでいるうちに、「何か臭い」という疑いが、心の底にうごめき続けた。わたしは監獄にはいってから初めて、トリッカラ号上の事件と会話の断片を、もう一度思い浮かべてみた。その間、わたしの心の中を駆けめぐっていたのは、≪あのトリッカラ号の生存者たちが、なぜいまでもいっしょにいるのか≫という疑問だった。ハルジー、ヘンドリック、ランキン、ジュークス、エバンズ――この五人は、わたしたちがいかだに乗ったとき、トリッカラ号の甲板にいっしょにいた。救助されるまで、同じボートで二十一日間、バレンツ海を漂流していた。軍事法廷でもいっしょにいた。そしていままた、トリッカラ号の銀塊を引き揚げるため、引き船にいっしょに乗っている。ランキンはこの船に乗るために、海軍を退役までしている。彼らは銀塊の引き揚げに自信をもっているにちがいない、それに、五人のうち、新しい職についた者があってもよさそうなものだ。その点もおかしい。ハルジーとヘンドリックが、この引揚げ事業をいっしょにやるのはわかる。だが、ジュークスとエバンズは、いまごろはほかの船に乗って、遠くへ行っているはずではないか。彼らは、何か共謀して、恐ろしいことをたくらんだのではないか。ボートをわざとこわしたのではないか。
こういう疑惑が、頭の中を稲妻のように走ったが、混乱した図式のなかから、一つ、はっきりしたものが浮かんできた――この五人を堅く結びつけたのは、単に宝さがしをしたいという当然の願望でなく、何かほかに大きな力が働いているにちがいない。わたしはそれを確信した。そのあとの理論づけは、すべてこの前提に基づいていた。ピナン号という名前が、トリッカラ号と同じように、わたしの心の中で拡大していった。コックから聞いたピナン号の話を思い浮かべていると、エプロンを水に漂わせ、海草のように髪をおどろにして、唇を≪海賊≫と言っているような形にした老コックが、スーッと独房にはいってきたような気がした。やがてその姿が消えると、わたしは心に浮かんだことをたぐり始めた。引き船を買ったカネ――それはいったい、どこから出たのだろう。引き船を買い、装備をととのえるのに、いくらかかるだろう――二万ポンドか、あるいは三万ポンドか。ハルジーは後援者の名前を言うのを拒否した。資金を出したのは、ピナン号の船長ハルジー自身ではないか。宝石は、ちかごろいい値段で売れる。ロンドンのいろいろなところで、宝石は現金で取り引きされている。きっと宝石が、この引き揚げ事業の資金をまかなっているにちがいない。
わたしは新聞記事の内容をバートに知らせ、その夕方いっぱい、窃盗犯の男を通じて、二人で相談した。翌日は、晴れわたった好天候だったと覚えている。褐色の高原は暖かく、のんびりとしていた。
わたしが脱走を決意したのは、その日だった。
どの時点で決意したかは思い出せない。脱走しようという考えは、その前から次第に心の中にひろがってきていた。その考えをおこさせたのは、ランキンだった。ハルジーやヘンドリックに対しては、特別な感情はいだいていなかった。ましてや、ジュークスやエバンズのことなど、考えもしなかった。ランキンだけがわたしの空想の中で、人食い鬼のように大きくなってきた。長い冬の監獄生活は、わたしに憎悪することを教えた。これらの人びとや、トリッカラ号での事件のことは考えまいと、意識的に努力してきたのだったが、銀塊引揚げ計画の記事を読んで、これまで押さえつけられていたわたしの頭脳から、もろもろの回想が堰《せき》を切ったようにあふれ出ると、ランキンに対する憎悪を感じた。彼の大きな体、やわらかい手、白い顔、小さな目が、そのひとつひとつの動きとゼスチュアとともに、心に焼きつけられ、彼のすべてがいやらしいものの化身のような気がした。わたしがダートムーアの監獄にはいっていると安心しているとき、いきなり話しかけられたら、さぞびっくりするだろう。そう思うと、どうしてもそうしてみたくて、興奮で体がカッカしてきた。やつをとっちめて、真相をつかんでやろう。どんなひどい目にあわせても、テンペスト号が出発する前に、やつから真相を聞き出してやるのだ。わたしにそうした決意をさせるまでに、ダートムーアがわたしを肉体的にも精神的にもタフにした。どんなことでもしてやるぞ、罪もないところに一年近くもとじこめられていたお返しをするためには、どんなことも辞さないぞ、とわたしはホゾを固めた。
そんな気持ちだったから、最初は脱走の方法など考えずに、脱走したら何をしようということだけが頭にあった。その晩、計画を練った。まずニューカッスルへ行って、その引き船を見つけよう。ランキンは引き船に乗っているだろう、もし乗っていなければ、近くに――たぶんニューカッスルのどこかのホテルにいるだろう。やつを待ち伏せるのだ。寂しい場所でやつをつかまえたら、とっちめて真相を吐かせるのだ。わたしはその場の光景をはっきりと目に浮かべ、何か障害がおきて彼をつかまえられないかもしれないとか、真相は彼らが言ったとおりで、わたしの疑惑や不安は、精神的に疲れていたわたしのかんぐりにすぎないかもしれないなどということは、考えてもみなかった。
翌朝は底冷えがして、高原は濃い霧に包まれていた。湿った、頑丈な石の獄舎を見ると、自信がぐらつきだした。どうしてここから脱走できるだろう。カネも服も必要だ。運動場に出てみると、大きな塀《へい》がわたしの計画を嘲笑《ちょうしょう》しているように思われた。どうしてあの高い塀を乗りこえられるだろう。どうして高原から逃げ出せるだろう。脱獄者があった場合の措置はよく知っていた。――大きな鐘が鳴らされ、パトカーが出動し、看守たちが高原をくまなく捜し、犬もはなたれる。最近、数人の不良少年が脱走したが、しまいにはつかまってしまった。それに監獄の外でどんな措置がとられるかも知っていた。戦争前に、休みにここに来たとき、それを見たのだ。ダートムーア周辺の町に警報が伝えられ、道路にはパトロール隊が出動し、警官が各道路の出口をチェックする。だから脱獄者は、広い高原を歩いて出なければならない――しかも夜間。わたしはここの高原のことをよく知っていたから、とてもチャンスはないと思い、憂うつになってきた。
ところが、運命が自分に味方していると思わせることがおこった。六人ほどの囚人がペンキ塗りの仕事を命じられ、監獄の東側の小屋へ連れていかれた。小屋の中には、ペンキのつぼ、ブラシ、大工道具、はしごなどがあった。わたしは長いはしごの片端をささえて、小屋から出た。監獄の塀は頭のすぐ上にそびえていた。夕方、はしごを小屋に戻すとき、パテを少量、こっそりポケットにしのばせた。独房に帰ると、湿らせておくために、それをちょうど持っていた刻みタバコの罐《かん》に移した。その夜、壁をたたいて隣の独房の、例の窃盗犯の男に通信を送った。彼は陸軍電気機械技術部隊にいたから、監獄の工作所で働いていた。わたしは、パテに押しつけて鍵の型をとったら、工作所で鍵を作ってもらえるか、ときいたのだ。すると、イエス――という返事がかえってきた。
二日後にチャンスが訪れた。わたしたちが獄舎の外側にペンキを塗っているとき、監督の看守が急に、テレピン油がなくなったことに気がついた。わたしは看守たちに信用があったとみえ、その看守はわたしに、その小屋へひと走りしてテレピン油を持ってこいと言って、鍵を放ってよこした。わたしは自分の目を信じられない気持ちで、手にある鍵を見つめたことを、いまでも覚えている。
「さ、急いで行け、バーディー」と看守は言った。わたしは、看守の気が変わらないうちにと、走りだした。
翌朝、みんなで独房の掃除をしているとき、わたしはスコッティ――例の窃盗犯は、スコットランド人なので、そう呼んでいた――に、鍵の型を押したパテのはいった罐をそっと渡した。すぐ後ろにいたバートが「何を渡したんだ」ときいた。タバコのはいった罐を渡したと思ったらしい。わたしは彼に脱走の計画を話した。ランキンから何か聞き出すことに成功すれば、判決が取り消されるかもしれないのだから、彼にだって知る権利があるからだ。
そのときのバートのように、ひとが興奮でうきうきするのを見たことがない。彼は表面、快活そうにして、冗談などをとばしているが、本当はみじめなのだということに、わたしは初めて気がついた。
「おれもいっしょに連れてってくれ、ジム」と彼は言った。「ひとりじゃ絶対にうまくいかねえぞ」
わたしは言った。「ばかなことを言うな、バート、おまえは、服役ぶりがよくて減刑されるとすれば、もう、刑期の少なくとも三分の一は終えたんだ」
「よせやい、そんなことあ、これとは関係がねえ。おめえがずらかるなら、おれもいっしょに行く。おめえの気持ちは、ちゃんとわかってる。やつらが銀塊を引き揚げるという新聞記事を読んだからだろう。おめえは何かくせえと思っているようだが、おれだって同じよ。おめえ、ニューカッスルへ行くんだろ」
わたしはうなずいた。
「おめえがランキンの野郎にドロを吐かせようってのに、おれはここにじっとしているつもりはねえよ。本当だぞ。どうだい、金曜日にしては。不良少年のやつらが、金曜日にまた暴動をおこす計画だってうわさがあるんだ。時間は夜の八時だってえことだ」
「聞けよ、バート」と、わたしは言った。そのとき看守が近づいてきたので、やめた。
その夜バートは、気違いのように通信を送ってきた。わたしは彼のしつこさに驚いた。最初は、まったく友情から行動をともにしたがっているのだと思った。実は、わたしとしても、精神的にささえてくれる者がだれもいずに、すべてをひとりでやることにおじけづいてきた。しかし、いっしょに連れていけという通信が、あとからあとからスコッティを通じて送られてくるにつれて、何かほかに理由があるのだな、と気づきだした。バートは百万分の一のチャンスをつかんで、なにがなんでも、ここから逃げ出したいのだ。そう気がついたので、もしトリッカラ号引揚げ計画に、何もインチキなものがないとわかった場合、脱獄が何を意味するかを、バートにくりかえしくりかえし警告した。ハルジーらが公明正大だったら、彼は妻子といっしょにも暮らせず、まともな就職もできないばかりか、一生監獄にいなければならないだろう。それは、脱走に成功した場合の話だ。もし失敗してつかまったら、ようやく将来のことを考えられるといういまになって、刑が重くなることは間違いない。彼がいくら頼んでも、断わりつづけたので、バートはとうとう通信を送ってこなくなった。やっとあきらめたのだな、とわたしは思った。
ところが翌日、ジャガイモの皮むきをやっているとき、彼はまたこの問題をもち出した。ジャガイモの皮むきは、ときどきやらされるいやな仕事の一つだ。バートはわたしのそばにこっそり近づき、小屋のすみで二人きりになったとき、「いつやるんだ、ジム」ときいた。
「わからないよ」と、わたしは言った。「スコッティが鍵をくれたときが、最初のチャンスだ。うまいチャンスがあったら、おまえが言ったとおり金曜日の午後八時ちょっと前にやるつもりだ。不良少年どもが暴動を起こせば、混乱状態になって、おれが逃げたことが、しばらくはわからないかもしれない」
バートは、忙しく皮をむきながらうなずいた。「どうやって、ニューカッスルまで行くんだ。カネと服が要るだろう。警官の取り調べも、うまく逃げなきゃならねえ、それによ、すげえ犬がいることを忘れるな。でえいち、こんな季節に長いこと、高原に寝てるこたあできねえぞ。クリスマスのとき脱走した不良少年が、どんなみじめな様子だったか、考えてみろ。三日間高原にいたため、つかまったときにゃ、ひで凍傷にやられていたじゃねえか」
「いまはもっと暖かいよ」と、わたしはささやき声で言った。「服とカネのことだが――おれが子供のころ、ダートミートの友だちの家に泊った話をしたのを、覚えているだろう。その家はまだそこにある。友だちは死んだ。――アラメーンで戦死したんだ。それを知らなかったものだから、数か月前に、その友だちに手紙を書いたんだ――会いに来てくれると思ってな。そうしたら、おやじさんが返事をくれた。気持ちのこもった、とてもいい手紙だった。おれはそこでカネと服をもらえると思う。高原をぬけ出すことだが――これはほかのことと同様、運次第さ」
バートはしばらく何も言わず、わたしたちは黙って皮をむき続けていたが、彼は突然手を休めて、わたしを見あげた。「おい、ジム、おれたちゃ、ずっと仲間じゃなかったのか。おめえとおれは――この苦労をいっしょにしてきた。おれたちゃ、何も悪いことはしてねえ。軍隊から脱走したこともねえし、戦闘中にこわがって、ひきょうなまねをしたこともねえ。こんなひでえところに入れられてる人間じゃねえ。おめえが逃げるつもりなら、おれもついていく」
彼の茶色の目が、気づかわしそうにわたしを見つめていた。彼はもう、頼んではいなかった。自分の決意を述べていたのだ。わたしは彼の細君と、彼がしばらく会っていない子供のこと、あと二年と少しで、彼が自由の身となることを考えた。
「ばかなことを言うな」と、わたしは言った。「このことは、ゆうべとっくりと話し合ったじゃないか。おまえは、あと一年とちょっとで出られるだろうよ」
「おれはついて行く」と、バートはがんこにくりかえした。「この事件じゃ、おれたちは最初からいっしょだったじゃねえか。だから、最後までいっしょに見届けようじゃねえか」
「このばか!」とわたしは言った。「考えてみろ。――おれはニューカッスルまでも行けないかもしれないんだぞ。高原から脱出することも容易じゃない。もしつかまったら、おまえは刑がかなり重くなるんだぞ」
「じゃ、おめえはどうなんだ。危険をおかしてやってみるんだろう」
「おれの場合は違う。服役の成績がよくて、減刑されたとしても、すくなくともあと二年以上は残る。それにだ、軍事裁判の判決をくつがえす証拠をにぎらなければ、おれの将来はどうなると思う」
「じゃ、おれはどうなんだ。おれにはプライドがねえと言うのか。『ああ、バート・クックか。あいつは上官に反抗して、ムーアに三年くらいこんでいたんだ』と、おれは他人に言われたいと思ってるのか。おれだって自尊心はある。おれたちゃ、つかまったらつかまったで、いいじゃねえか。ランキンの居場所を知ったからにゃ、おめえがやつの面をぶんなぐるところを見てえよ。あいつは、痛めつけられても口を割らねえような、骨のある男じゃねえ。何かありゃ、きっとドロを吐くぞ」
わたしが説得しようとすると、バートはやにわにわたしの腕をギュッとつかんだ。ひどく激昂《げっこう》して、手が震えていた。
「おい、ジム、おれがこんなところにへえったのは、おめえのおかげだぞ。おれといつまでもいっしょにいるなら、それでいい。おめえが辛抱しているのを見て、おれだって辛抱できると思った。だが、おれをおいてくなら、話は違ってくる。な、ジム、頼むから、おれをおいてかねえでくれよ。おれは我慢できねえ――本当だ」彼は興奮して、目がおびえたように大きく見開かれ、いつもの笑いはなかった。「おめえは、おれの命を救ってくれた。それだけじゃねえ。おめえがいたからこそ、おれはばかなことをしなかった。おれはひとりだったら、とても我慢しちゃいられねえ。ここにも何人か仲のいい友だちがいるが、いずれも人間のくずみてえな悪いやつだ。――おれみてえな人間じゃねえ。なあ、あきらめて、おれを連れていってくれよ。いいな?」
わたしは、だめだ、ばか、と言いかけると、バートは激しいゼスチュアでさえぎった。彼の顔は心配で引きつっていた。わたしはそれを見て、彼の決意の堅いことを読みとった。彼がそんな危険を冒すのは、ばかげていると思った。だが――わたしは手を差しのべた。「おまえがそういう気持ちなら、喜んで連れていってやる。なんとかうまくやろう」
バートはわたしの手をギュッとにぎりしめた。その顔は急に、明るい微笑でゆるんだ。「とにかく、うまくやろうじゃねえか」と彼は言った。
こうして相談がまとまった。翌朝、スコッティが、作った鍵をこっそり渡してくれた。「うまくあけられるかどうか、保証はできねえ。だがとにかく、幸運を祈るよ」と、彼は言った。
それは木曜日のことだった。その晩、不良少年どもが翌日の夜八時に、暴動を起こす計画だということを確かめることができた。その時分はもう暗いだろう。わたしたちは、暴動がスタートする十五分前の、七時四十五分に決行することに決めた。問題は、その時間にどうやって、正当な手段で独房を出られるか、ということだった。
わたしたちの計画をよく知っていたスコッティが、知恵を貸してくれたのは、この点だった。彼はたくさんの脱走計画をたてていたから、こういう細かいことを考えるのは、お茶の子だった。彼は壁をコツコツたたいて、モールス符号で、彼と一人の相棒が翌日の夕食後、炭鉱の雑役に狩り出されていると知らせてきた。仕事は一時間半か二時間だろう、と彼は予想していた。わたしたちが彼らの代わりに炭鉱へ行って、人員点呼のときに彼らの名前が呼ばれたら返事をしろ、というのが彼のアイデアだった。後ろのほうにいれば、看守は気がつくまい、と彼は言った。彼と相棒が、病気のふりをして、炭坑へ行けないので、かわりにわたしたちに行ってもらったと言って、独房に引っこんでいれば、わたしたちが独房にいなくても、怪しまれないだろう、あとはわたしたちの腕だ、というわけだ。
それはいちばんよい案だ。わたしたちは金曜日の夕方六時に、ほかの二十人あまりの囚人とともに、炭鉱の雑役に出た。なるべく後ろのほうにいたし、人員点呼の看守は、名前を読むときもリストから顔をあげなかったので、気がつかなかった。
五分後には、わたしたちはサックに石炭を詰めこんでいた。わたしが口をあけて待っているサックに、シャベルで石炭を入れながら、バートが、「鍵を持っているか」と、ささやき声できいた。
「うん」と、わたしは言った。
わたしたちは、それからは口をきかなかった。二人とも、いろいろな思いで頭がいっぱいだったのだと思う。小雨が降りはじめ、鉛色の空から次第に光が薄れてきた。雲は低くたれこめていた。もってこいの天候だ。三十分もしたら、真っ暗になるだろう。わたしは腕時計を見た。七時をちょうど過ぎたばかりだ。あと四十五分だ。
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六 ダートムーアからの脱走
わたしの生涯に、こんな長い四十五分はなかったと思う。石炭をサックに詰め終わると、それをトラックに積んで、各獄舎に配り始めた。わたしは絶えず時計を見た。だんだん光が薄れていった。小雨は、あけた戸口の光に照らされると、薄い銀のベールのように見えた。わたしは五分間ほど、かまどのわきの石炭びつに、せっせとサックを積み重ねた。トラックに戻ったときは、もう暗かった。霧が厚い毛布のようにかぶさってきたので、方向がわからなくなるのではないかと、急に狼狽した。トラックはゆっくりと、運動場のほうにはいっていった。獄舎の明かりが見えてきた。霧が少し晴れて、また方向がわかってきた。
バートがわたしの袖を引っぱって、「まだ時間じゃねえのか」ときいた。
わたしは彼に腕時計を見せた。夜光時計の針が、八時二十分前を指していた。「おれのそばにいろ」と、わたしはささやいた。「チャンスがあったらすぐ、ずらかるんだ」
トラックは、もう一つの獄舎のわきにとまった。わたしたちはトラックからおりて、またサックをおろし始めた。看守は、サックの積み方を監督するため、ボイラーハウスにはいった。
「よし、バート」と、わたしはささやいた。「靴を脱げ」
一分後、わたしたちは高くそびえる獄舎の壁の影の下を、すり抜けていったが、その端に来たとき、たちどまった。後ろでは、トラックのヘッドライトが、あかあかと花崗岩の壁を照らしていた。上では独房の窓からかすかな光がもれていた。前方は真暗やみで、何も見えない。靴下だけの足が冷たかった。わたしはひざが震えていた。二人は耳をすました。暗やみの静寂を破る靴音は聞こえなかった。
「さ、来い」と、わたしは言った。
バートの腕をとって、広いほうへ突っ走った。靴下だけだから音はしない。わたしは二度立ちどまり、ふり向いて獄舎の明かりを見て、ペンキ小屋と、獄舎の関係位置を頭に入れた。ところが、行きあたったのはペンキ小屋でなく、塀《へい》だった。手探りしながら左へ曲がった。獄舎の明かりを受けて、シルエットを描いている、はしごのはいっている小屋のところに行けるといいが、と心に祈っていた。五十ヤードほど行くと、全然違う建物にぶつかり、反対側に来たことに気がついた。急いであと戻りした。時間は八時十分前だった。こんなに時間が早くたつとは、信じられなかった。不良少年たちは、予定より早く暴動をおこすかもしれないと思うと、気が気でなかった。暴動がおこれば、サーチライトが塀に向けられるだろう。
やっと捜していた小屋を見たとき、わたしの心臓は早鐘のように打っていた。ポケットから鍵を取り出し、小屋の外側を手探りして、ドアを見つけた。すべては、鍵がうまく合うかどうかにかかっている。鍵穴を探るわたしの手は、激しく震えていた。鍵は穴にはまった。鍵を回そうとしたが、回らない。わたしは狼狽した。鍵を抜いて、また差しこんだ。どこかで引っかかっていた。きちんと奥まではいらない。
「どうしたんだ」と、バートがきいた。
「鍵がぴったりはいらないんだ」と、わたしは言った。力を入れて鍵を押しこみ、またやってみた。やはり回らない。鍵を抜こうとしたが、動かない。ひっかかってしまったのだ。バートがやってみたが、だめだった。やがて彼はささやいた。「鍵を何かでたたきこまなきゃだめらしいな」
「そうだな」と、わたしは言った。
二人は耳をすました。何の音も聞こえない。わたしは腕時計を見た。八時五分前だ。バートは片方の靴をつかんで、鍵の端をたたき始めた。その音は、しじまを破ってひびき渡るように思われた。聞かれたに違いない、看守たちが四方八方からとんでくるだろうと思った。バートはたたくのをやめ、いまいましそうにぶつぶつ言った。鍵はやっとうまくはまったのだ。鍵はきしみながら回り、わたしたちは小屋の中にはいった。
長い、緑色のはしごを出すのに、暇はかからなかった。出したあと、ドアをしめた。しかし、鍵はしっかりとはまりこんだまま抜けないので、そのままにしておくほかなかった。二人ははしごの片端ずつ持って、何時間も歩いたような気がしたが、やっと塀のところに来た。二人は靴をはき、はしごをたてた。間もなく塀のてっぺんに立ち、はしごをあげた。監獄の電灯があまり明るいので、見られたにちがいないと心配になったが、黒々とした後ろの高原が、わたしたちを隠してくれた。はしごを反対側におろし、すぐに下におり、はしごを塀からずっと離して、丈の高い草むらの中に押しこむと、二人は走りだした。
羅針盤を持っていなかったが、わたしはこの辺をよく知っていたので、方角を間違える心配はなかった。二人は丘を下って、プリンスタウンを迂回《うかい》して、ツー・ブリッジスでエクセター道路とタビストック道路が接続する道路に出た。走っているうちに、後ろのほうで大騒ぎがおこった。静かな監獄が、騒音の≪るつぼ≫と化した。怒りわめく声が次第に大きくなって、夜空にこだました。不良少年どもが暴動をおこしたのだ。
わたしたちはしばらくその道路を行ってから、右へそれて坂道をのぼった。ふりかえってみると、獄舎の屋根の近くに、オレンジ色の炎が見えた。
「何かに火をつけたらしいな」と、バートがあえぎながら言った。
「ホースを屋根に届かせるために、ペンキ小屋へはしごを取りに行かなければいいがな」と、わたしは言った。
「まったくだ」
それに答えるかのように、監獄の大きな鐘が鳴りだし、その音で人びとのわめき声が消されてしまった。
「あれは、おれたちが逃げたのがわかったからかな。それとも、暴動がおきたからかな」
「わからないな」と、わたしは言った。
道が険しくなってきた。わたしたちはもう、走らなかった。二人はつまずきながら歩いた。一度、わたしは前につんのめって、地面に顔をぶつけた。何につまずいたのか見もせずに、急いでおきあがった。
「少し休まねえか、ジム」と、バートが言った。「おれ、わき腹が痛くなった」
「エクセター=プリンスタウン道路を、ずっと先へ行くまではだめだ」と、わたしは言った。
「あの明かりは何だ」と、バートがあえぎながらきいた。
「あれはツー・ブリッジスだ。あそこにパブが一軒ある。そのすぐ上の丘に、ダートミートへ分かれる道がある」
「ずいぶん遠いな。いま一杯ひっかけりゃ、元気が出るんだがな。おれ、もうあんまり歩けねえや」
「むだ口をきかずに、黙って歩け」
自動車のヘッドライトが、前方の丘の頂上を照らした。それからヘッドライトは弧を描いて回り、車は丘を下った。その光でホテルと橋が照らし出されたが、やがて車は赤いテールライトを見せながら、プリンスタウンのほうへ走り去った。
バートは急にたちどまり、「ちょっと息をつかしてくれ」と言った。
わたしは監獄のほうをふり向いた。電灯があかあかとついていた。数台の車のヘッドライトが、正面の門からプリンスタウンのほうへ曲がった。「来い、バート」と、わたしは言った。「おれの手につかまれ。あのパトカーがプリンスタウンを通って、ツー・ブリッジスへ来ないうちに、あの道路を越さなきゃならない」
「オーケー」と彼は言った。二人はつまずきながら前進した。「おれたち、チャンスがあると思うか、ジム」と、バートがきいた。
わたしは答えなかった。わたしたちの脱走が発覚するまでに、すくなくとも一、二時間は経過するだろう、とふんでいたのだが、もうあまりチャンスはないと思った。しかし、あの道路からあまり遠くない。あれを越せれば、まだチャンスがあるかもしれない。
「あの車の一台を、パブの外でかっぱらえねえか」と、バートが言った。「三台だぞ。サイドライトが見えるだろ」
「近ごろ、イグニション・キーを、車に置いとく人間はいないよ」と、わたしは言った。
バートが、また急に立ちどまった。「待て! あれは何だ。聞こえるか」バートの声はおびえていた。後ろのほうから犬のほえ声が聞こえてきた。「畜生!」と、バートは叫んだ。
わたしたちの走るあとから、犬のほえ声がついてきた。それはぞっとするような声で、監獄からの騒音を圧して近づいてきた。丘の頂上に着くと、走るのが楽になった。プリンスタウンのほうへ走っているもう一台の車のヘッドライトが、夜のやみを照らしていた。わたしたちはもう、道路のすぐ近くまで来た。
「道路を越したら川のほうへ行くんだ。そうすれば、犬をまくことができる」と、わたしはあえぎながら言った。しばらくして、わたしはたちどまって、バートの腕をつかんだ。彼がパークしていた車の一つに、まっすぐに走って行こうとしたからだ。
「バート、おまえは危険を冒すつもりか」と、わたしはきびしい口調で言った。
「おれが、ほかに何をすると思うんだ」バートはひょうきんな昔にかえって、反問した。
「よかろう」と、わたしは言った。「あの車に注意しろ。いま車を出そうとしている。こっちのほうへ向かったら、道路へとび出して、横たわるんだ。おまえの囚人服には、すぐには気がつくまいから、車にはねられたように見せかけるんだ。車がとまったら、助けてくれと叫ぶんだ。あとはおれに任せろ。ほかにだれか来ないか、注意するんだぞ」
「オーケー」と、バートは言った。「見ろ! 車は動きだしたぞ」
車はサイドライトだけつけて、動きだし、道路をゆっくりとのぼってきながら、ちょっと速度を落として、ヘッドライトをつけた。ヘッドライトが大きく弧を描き、まともにわたしたちを照らした。車は速力を速めて道路をのぼり、だんだん近づいてきた。
バートは道路にとび出した。わたしは道路を横ぎり、道路わきの湿った草むらの中にとび込んだ。車が丘をのぼってくるにつれて、ヘッドライトが暗やみを明るく照らした。バートは半分うずくまるような格好で、道路に横たわっていた。もう、犬のほえ声も、鐘の音も、監獄の騒ぎも、わたしの耳にはいらなかった。聞こえるのは、こっちへ向かってくる車のエンジンの音だけだった。わたしはとても冷静だった。
車が急勾配のところに来ると、ヘッドライトは空を向いたが、やがて丘の頂上に着くと、水平に戻って、道路にのびているバートと、ダートミートの方向を示す、ぶっちがいの道標を照らし出した。バートは弱々しく手を振った。車は速度をゆるめ、やがてとまった。バートは声をあげた。ドアがあいて、運転していた男が出てきた。彼が数フィートのところに近づいたとき、わたしは草むらから起き上がった。男がふりかえってわたしを見た瞬間に、わたしはこぶしを固めてあごをなぐりつけた。
わたしは、意識もうろうとしている男の重みによろけながら、「オーケー、バート」と言った。バートはもう、立ちあがっていた。わたしは橋のそばのホテルのほうをちらとふりかえった。ひっそりとしていた。しかし、橋の向こうの丘の上は、車のライトであかあかと輝いていた。
二人で男を後部座席に押しこんだ。バートはそこへいっしょに乗り、わたしが、ハンドルをにぎって出発した。車は古かったが、五十マイルは出せた。わたしはずっと、アクセルをいっぱいに踏んでいた。十分後には、長い丘を下って、ダートミートにはいった。小さなそり橋を渡って、川と平行している左側の道にはいり、丈の高いハリエニシダのやぶの中の芝生に車をパークした。
バートはすでに、気の毒な男の手を縛り、サルグツワをかませ、足を縛っている最中だった。
「すぐ戻ってくる」と、わたしは言った。「長くても十五分だ」
わたしは十五分もたたないうちに戻ってきた。ヘンリー・マントンの父親は、もう長いことわたしを見ていなかったが、すぐにわたしとわかった。彼にわたしがほしいものを言うとき、とても気まずかった。彼は悲しそうに首を振ったが、とやかく言わずに、ただバートのサイズをきいた。彼はわたしを待たせてホールから出て行った。しばらくすると、たくさんの服と若干の靴をかかえて戻ってきた。そのなかに、ヘンリーの服があった。――彼の息子はわたしとだいたい同じサイズだった。バートの分として、自分の古い服も一着加えていた。そのほかシャツ、カラー、ネクタイ、帽子、レーンコートと、ないものはなかった。わたしがもらったものを腕にかかえると、マントン氏は巻いた札をわたしの手に押しこんだ。「十八ポンドあるよ」と彼は言った。「気の毒だけど、それだけしかない。それが家にある全部なんだ」
わたしが礼を述べようとするのをとめて、彼はわたしをドアのほうへ押した。「ヘンリーはきみが好きだった」と、老人は静かに言った。「息子の友情は、順調なときだけの友情ではない。息子にそういう気持ちでいてもらいたい」彼はわたしの肩に手をあてた。「じゃ、きみの幸運を祈るよ。しかし、きみはこれから苦労するだろう。服やカネは返さなくてもいいんだよ」
わたしがまだ礼を述べようとしていると、老人は静かにわたしを夜のやみに押し出して、ドアをしめた。彼はわたしが急いでいることを理解してくれた。数年間経験したことのない、人間の信頼を味わって、心のあたたまる思いだった。わたしは急いで車に戻り、バートといっしょにダート川のそばで着替えをして、囚人服を石のおもりをつけて暗い急流に沈めた。
それから車を道路に戻して、トットネスへ向かって南へ急いだ。しかし、あまり行かないうちに、ポストゲート村の先で、道路はまたダート川と交差し、狭いそり橋がかかっていることがわかった。そこはダートムーアの南端だから、警察がすでに検問所を設けたとすれば、その橋のところだろうと判断した。そこで、ポストゲートを過ぎてすぐの、橋へ行く丘の頂上で、草むらの見えないところに車をパークした。車の持ち主は、気の毒にすっかりおびえて、運転中、身動きもしなかった。わたしが、ひどい目に会わせて申しわけないとあやまろうとして、彼のうえにかがみこむと、男はおどおどして、目を大きく見開いてわたしを見つめた。
わたしたちは、男を後ろの座席にしっかり縛りつけて車に残し、川へ向かって丘を下った。
丘は急勾配で、石がごろごろしていた。真っ暗やみである。河床の岩を越えるダート川のせせらぎのほかは、何の音も聞こえない。小石を踏んだり、かわいたヒースの小枝をこするわたしたちの足が、かなり音をたてているようだった。だんだん川に近づいてきたが、川は見えない。数ヤード先は何も見えない。小雨が降ってきて、顔がぬれた。ときどき、靄《もや》の中からぼんやりとした影のように、急に岩や潅木《かんぼく》の茂みが現われる。平和な水のせせらぎを破って、突然、無気味な金切り声が聞こえた。コウモリの鳴き声のようにかん高く、鋭かった。二人はたちどまり、耳をすました。空想が頭の中をかけめぐった。前の潅木の茂みの輪郭が、うずくまっている女のように見えた。それが動くような気がした。その足もとでゴソゴソという音がしたと思うと、何やらスルッとやみの中に消えた。
「びっくりさせやがる。何だったと思う、ジム」と、バートがきいた。
「キツネだろ、たぶん」と、わたしは答えた。
もう、川の近くに来た。水の音でほかの音は消されてしまった。低い木がはえているところにはいると、腐った植物を踏んづけてしまった。この腐った植物のカーペットの下は、こけのはえた岩で、土も草もない。ここが河床だったときに、水にころがされてきたものだろう。岩を踏むとぐらぐら動き、暗がりではあぶない。
木の間をくぐって川に出るまでに、二十分もかかったが、やっと平たい岩まで来た。空気は冷たく、湿っていて、川の匂いがする。そこを下っていくと、足が水に洗われた。水音でほかの音は消された。そこに立って、水の流れを見おろしていた。ぼんやりと見える岩の周囲で、水は白く泡だっていた。
「ここは気に入らねえな」と、バートが言った。「上へあがって、橋を見ようじゃねえか。おりてくるとき、明かりは見えなかったから、橋にはまだ検問所を設けてねえんだろう。この川を渡ったって、服がかわくまでは、おれたちゃひでえ格好だぜ」
わたしもためらった。目の前の水を見ていると、とび込んで向こう側へ行きたい誘惑にかられたが、それは危険だ。そんなところを見つかったら最後だ。「とにかく、橋の近くまであがろうじゃねえか。車が来れば、検問があるかどうかわかるだろう」と、バートがつけ加えた。それは道理だと思った。
「オーケー」と、わたしは言った。二人は川沿いの道を歩いた。
すぐに木立から出た。道には石も土もなく、草がはえていた。やがて広い場所に出た。何も見えなかったが、ぼんやりと明るかった。うっかり橋のところに来やしないか、と心配になった。ここでは、川の音はさっきほどやかましくなかったので、川幅が広くて、水は浅いのだろうと思った。わたしは急にたちどまった。こんな広いところにいるのが不安になったからだ。川向こうには森があることを、わたしは知っていた。森にはいれば高原を出て、アシュバートンとトットネスへ向かえるだろう。「ここで川を渡ろう」と、わたしはバートに言った。
バートは黙ってわたしの決定に従った。彼も不安になりだしたのだろう。二人は手をにぎり合って、土手をおりて、速い水流に足を踏み入れた。水は氷のように冷たく、ひざのすぐ上まで来た。足に流れの水圧が加わり、足の下で小石が動いた。右側に流れを受けながら渡っていくうちに、水はだんだん深くなり、ついに腰までつかった。水の冷たさに、思わず息をとめた。半分ほど渡ったとき、バートがにぎっていた手に力を入れ、わたしの体を半分回して上流のほうへ向かせた。ポストゲートから来る車のライトを受けて、丘が黒いシルエットを描いていた。まもなく、車が丘の頂上に達し、谷へ向かって下りはじめれば、わたしたちは、ヘッドライトにまともに照らされるだろう。二人は無言で懸命に川を渡った。
しかし、反対側の土手に着かないうちに、車は丘の頂上に達し、二筋のヘッドライトの光がわたしたちのほうに向かってさがった。わたしはバートを引っぱって、水にもぐった。冷たい水にくびすじを洗われながら、川のまん中にうずくまっていると、ヘッドライトが下を向いた。その光に照らされて、さっき通ってきた森が、木々と濃い影のまだら模様に浮かんだ。ライトは遠くの土手をかすめた。土手には木がなく、遠くの丘のふもとを包んでいる森のふちまで、芝生がつづいている。ライトは一瞬、わたしたちがうずくまっている、暗い水面を照らした。流れてきた木の枝が、わたしの顔をこすった。わたしは自分の頭の影が、水面に映るのを見た。バートのほうを向くと、寒さで歯をカチカチさせている彼の顔が、ちらと見えた。やがてヘッドライトが回り、目の前に橋がくっきりと浮かんだ。コケにおおわれた、古い、石のそり橋だった。二か所、黒くくぼんで見えるのは、中央に橋脚のあることを示している。らんかんのそばに、ひさしのある青い帽子をかぶった男が立っている。橋は、わたしたちがうずくまっているところから、四十歩もないくらいだ。
橋が見えたのは、ほんの一瞬だった。ヘッドライトは回って、ふたたび暗やみになった。わたしは後ろの丘のふもとを見た。車が橋に向かって斜めに道路をおりていくとき、丘のふもとはあかあかと照らし出された。
わたしはバートの耳に、「急げ!」とささやいた。二人は水をかき分けながら、土手に向かい、やがてそこに着いて水からはいあがり、芝草の上に寝ころんだ。服はびしょぬれで重く、耐えられないほど寒かった。わたしは初めて、そよ風が吹いていることに気がついた。風はびしょぬれの服を通して、ナイフのように肌を刺した。二人であえぎながら寝ころんでいるとき、わたしは後ろをふりかえった。ちょうどそのとき、車が曲がりかどを回った。「じっとしていろ」と、わたしはバートにささやいた。ヘッドライトはわたしたちをまともに照らした。二人の黒い影が、草の上に横たわっていた。影は動き、長くなった。やがて、ヘッドライトは向きを変えた。
橋がまた、はっきりと浮き彫りにされた。帽子をかぶった男が、懐中電灯を振っていた。車は橋の上にとまった。川のせせらぎの音にまじって、話し声がかすかに聞こえた。わたしたちの周囲は、ボーッと明るかった。すぐそばに馬の糞《ふん》があった。ところどころに、ハリエニシダや野バラの低い茂みがあった。丘を五十ヤードほど上へ行ったところで、森のへりが軽蔑するようにわたしたちを見おろしていた。
車は動きだした。ヘッドライトは森に吸いこまれた。やがて、赤いテールライトも見えなくなり、あたりはまた真っ暗になった。橋のそばで懐中電灯がちらつき、砕石を敷きつめた道路に、足音が鋭く、寒々とひびいていた。わたしたちはおきあがって、森のほうへ走った。そのとき突然、呼び声が聞こえた。ヘッドライトがパッとつけられ、わたしたちが走っていた野原を照らした。わたしたちは地面に体を投げ、息を殺していた。
見られたにちがいない。わたしたちを待ち構えていたのだろうか。二人はじっと動かずに伏せていた。あまりこわくて、ハリエニシダのトゲの痛さも感じなかった。車のエンジンのうなる音がして、ヘッドライトはわたしたちからそれ、警察の車は森の中の道をまがって、姿を消した。
ふたたび、暗黒と沈黙。
二人は、用心しておきあがった。わたしの手と顔は、ハリエニシダと野バラのトゲに引っかかれていた。しかし、当面、難をまぬがれた。二人は急いで森の陰へと走った。
十分ほどすると、木の茂った、高い丘の側面の空地に立っていた。二人とも息を切らし、服が体にへばりついていた。あまり走ったので、体から湯気がたっていた。しかしそのときは、自分らのみじめな様子のことは、考えもしなかった。空地のはるか向こうの、丘の下を見おろすと、木々のてっぺんが、夜空にあかあかと燃えあがっている炎でシルエットを描いていた。
「あれは火事だぞ」と言って、バートはクックッと笑った。「監獄で不良少年どもがおこしたのを入れると、これが二度目の火事だ。おれがガキのころ、イズリントンでパブ、グレース・イン・ロードで店、キングスクロスで電車と、一晩に三つ火事があったが、それ以来、こんな大変な晩にぶつかったこたあねえよ。あの火で体を暖めてえな。あれは何だと思う。干し草の山か」
「わからないな」と、わたしは言った。「見たところ、かなりの大火事だ」そのとき、ふとある考えが浮かんだ。
「バート、あれはホテルの火事だと思う。あの森の中に、ホテルが一軒あったのを思い出した。おい、もしあれがホテルなら、消防車が来るだろう。あそこまで行って、消防夫にまじろうじゃないか。そうすれば、水にぬれていたっておかしくない。くびすじに泥をぬったくれば、髪の囚人刈りも隠せる。体もあっためられるし、うまくいけば、消防車に乗っけてってもらえる。とにかく、警察だって、火消しの手伝いをしている人間のうちに、おれたちがいるとは、よもや思うまい。さ、行こう」わたしはこの妙案に胸がわくわくしてきた。
バートはわたしの肩をピシャリとたたいた。
「畜生! うめえ考えだ。おめえ、レジスタンス運動にはいっているとよかったよ」わたしは急に自信がついて、気が楽になった。
森を下っていくと、火事場に来た。やっぱりホテルだった。わたしたちは、ホテルの付属建築物の間から森を出た。付属建築物には燃え移っていなかったが、本館は一面火に包まれ、赤いペンキと、消防車の真ちゅうの金具が、炎に照り映えていた。炎から二十ヤードぐらいまで接近すると、熱かった。噴出する二筋の銀色の水が、パチパチ音をたてている炎に浴びせられ、湯気が雲のように、燃えている建物の上をおおっていた。数人の人が、まだ炎に包まれてない建物の横から、家具を運び出していた。二人はその人たちに加わり、できるだけ炎に近づいた。わたしは、他人の不幸をこんなに喜んだことはない。火熱で、わたしたちの服から湯気がたった。体が気持ちよくあたたまり、熱いくらい服がかわいてきた。ときどき火の粉が降ってきて、焦《こ》げくさい匂いがあたりにたちこめた。
火事は、わたしたちが着いてから一時間くらい続いたと思う。水の力で炎は次第に弱まり、しばらくすると、突然と思われるほど急に、炎は消え、あとには、ねじ曲がった黒こげの材木が詰まった、焼けただれたれんがの骨組だけが残った。
この間、わたしたちは邪魔にならないようにしていた。消防車のすぐわきに、警察の車がパークしてあった。ひさしのある青い帽子をかぶった警官が二人――一人は巡査部長――が、消防隊長のそばに立っていた。この警察の車は、橋のところでわたしたちをひやっとさせた、あの車だろうか、とわたしは考えた。たぶん彼らがとめた車の運転者が、反対側の丘の頂上から火が見えた、とおしえたのだろう。
火事はもう、完全に消え、消防士たちは道具を片づけていた。明かりは、消防車のスポットライトだけとなった。
「バート」とわたしはささやいた。「消防車に乗せていってもらおうか」
「よせよ」と、バートがあわてて言った。「おれたちがどうしてここにいるか、きくにきまってらあ。身分証明書を見せろ、と言われたらどうする」
わたしはちょっと考えたが、これがチャンスだと思った。あまり興奮していて、バートの忠告も耳にはいらなかった。
「聞けよ、バート」と、彼の耳元にささやいた。「あれはトットネスの消防車だ。いま消防士にきいてみたんだ。トットネスは、ロンドンへ行く幹線道路上にある。いったんトットネスにはいれば、もう大丈夫だ。高原から遠すぎるから、とにかく脱走したばかりの夜に、鉄道の駅で警察の検問はないだろう。あの消防車に乗せてもらえれば、しめたものだ。警察だって、消防車をとめて、脱獄囚を捜すことなんか、考えてもみないだろう」
「オーケー」バートはやや疑わしそうに言った。「おめえ、本当に消防車に乗せてくれると思うか」それから、いきなりわたしの腕をつかんだ。「あのパトカーが行ってしまうまで、待ったらどうだ。消防士たちは、おれたちのことを聞いてねえかもしれねえが、警察官はきっと、聞いてるだろう。やつらはただ、火事を見てただけで、本当はおれたちを捜しているんだ」
「いや、いまやろう」と、わたしは言った。「消防車に乗せてもらえるかどうか、巡査部長にきいてみよう」
「とんでもねえ」と、バートはびっくりして叫んだ。「おれは警官に話をするのはいやだぜ」
「おまえはしゃべらないでもいい。後ろに引っこんでいろ。おれが話す」わたしは石を敷いたドライブウェーを横切った。バートはいやいやついてきた。
「失礼します、警官」と、わたしは言った。巡査部長はふり向いた。彼は、目のくぼんだ赤ら顔の大男で、短く刈りこんだ口ひげをはやしていた。「ちょっとお願いしたいのですが」と、わたしはできるだけ落ち着いて、早口に言った。「友だちと、あそこの道路でバスを待っていたら、火事がおきたので、ここにとんできて、手伝いをしているうちに、こんなにきたなくなったうえに、バスに乗りそこなったんです。あの消防車に乗せてもらえないでしょうか。あれはトットネスの消防車でしょう」
「そうですよ」巡査部長は、鋭い目でわたしたちをじろじろ見た。
「規則違反だとはわかっていますが」とわたしは急いで続けた。「そういう事情ですから……。わたしたちは、トットネスに滞在しているのですが、帰る方法がありませんので……。消防隊長にちょっとひと言、頼んでいただけないかと思いまして……」
巡査部長はうなずいた。「言ってあげましょう。わたしが乗せてあげてもいいのですが、これから高原へ行くところなんです。囚人が二人、脱走しましてね。ちょっと待ってください、消防隊長に話してあげますから」
彼は消防隊長のところへ行った。二人はわたしたちのほうを見ながら話していた。消防車が急にヘッドライトをつけた。彼らは明るい光の中で、わたしたちの様子を見るにちがいないと思った。バートはやたらにせきをして、光の外に出ようとした。わたしはひざがガクガク震え、逃げ出したくなったが、やっとこらえてバートに言った。
「そこにじっと立って、ヘッドライトなど気にしないように、おれに話しかけているふりをするんだ」
「オーケー。何の話をしようか」彼はヘッドライトに照らされながら、わざと目を大きく見ひらいていた。「天候の話でもなんでもいい」とわたしは言った。「だが、絶対に、おびえているような顔をしちゃいけないぞ」
「そりゃ無理だよ、ひざがガクガク震えていけねえ」
巡査部長はうなずいて、ゆっくりとわたしのほうに来た。わたしは肩をぐっとつかまれるのを覚悟して、体を緊張させた。
「いいですよ」と彼は親切な口調で言った。「後ろに乗ってください。もうすぐ出発するそうです」
「どうもありがとうございました」とわたしは礼を述べ、消防車のほうへ行くとき、「おやすみなさい」と、つけ加えた。
「おやすみ」と答えて、巡査部長はもう一人の警官と話しはじめた。
「おめえ、いい神経を持ってるな」と、バートがささやいた。彼にほめられて、わたしのガクガクする足が急にしゃんとした。
「おれは、もっと大胆なことをやるつもりだったんだよ」と、わたしはささやきかえした。「もし消防車が反対の方向へ行くのだったら、パトカーに乗せてもらうつもりだったんだ」
ヘッドライトの光の後ろから、人影が現われた。「乗せてもらいたいというのは、あなた方ですか」
「そうです」と、わたしは言った。
「じゃ、後ろにとび乗ってください。すぐに出発します」
消防士が手を貸して、わたしたちを脱出ばしごのそばの台に乗せてくれた。二人の警官はパトカーに乗って、行ってしまった。そのヘッドライトの光が、ドライブウェーを縁《ふち》どっている木々の間を踊りながら、ホテルの上の森の道をのぼっていくのが見えた。パトカーがポストゲートの下の橋のほうに戻っていくとき、車の明かりがちょうちんのように動いていた。消防車のエンジンがかかり、わたしたちはくすぶる材木の、鼻をつく匂いからだんだん遠ざかって、澄みきった夜気の中を走った。
わたしたちの服は、まだ湿っていた。消防車の後ろに乗って風に吹かれていると、とても寒かったが、そんなことはほとんど気にならなかった。わたしは歌を口ずさみたいような気持ちだった。肌を刺すような風に吹かれながら、車のエンジンの音を聞いている一分ごとに、ダートムーアから遠ざかっているのだ。
消防車が、トットネスのわたしたちのホテル――そう思わせた――の外でおろしてくれたのは、一時少し過ぎだった。消防車の赤いテールライトが見えなくなるまでそこに立っていてから、横丁へはいった。そこを抜けると、別の通りに出た。暗くて、人影もなく、二人の足音が、舗装道路にコツコツとうるさくひびいた。夜のこんな時間に歩いているのが、スポットライトを当てられているように、気になった。店の戸口の影にはいって、これからどうしようかと考えた。とても、ホテルなどへは行けない。火事のことを話せば、こんな格好をして夜中に来ても、理由はたつが、ホテルのボーイが、身分証明書を見せてくれと言うにちがいない。いずれにしても、ホテルはどこもおそらく満室だろう。町や駅の付近をぶらつくのは、自殺行為だ。
「ここへ来る途中、ドライブインがあったのを覚えているか」と、バートがきいた。「あそこにガソリンスタンドがあった。トラックも二台ほどとまっていた。それに乗せてもらうか、何か食おうじゃねえか。ちょっと軽く食えばいいんだ」
わたしもそこを思い出した。町から一マイルほどはずれたところだった。二人は街火のない通りを歩いていったが、だれにも会わなかった。ドライブインに、トラックが三台とまっていた。二人はサンドイッチを食べ、濃いコーヒーを飲んだ。コーヒー・カウンターにいた男に、ホテルの火事の消火を手伝い、消防車に乗せてきてもらった話をした。
「汽車に乗りそこなって、困っているんだ」と、バートが言った。
「どこへ行くんですか」と、男がきいた。わたしがロンドンだと答えると、男は言った。「じゃ、待ってなさいよ。いつもロンドンへ行く男が、もうじき来ますから、乗せていってくれるように、頼んであげます」
そのとき、すみにいた小さな男が、わざとらしくせき払いをして、しゃがれ声で言った。「おれ、ロンドンへ行くところなんだ。よかったら、乗せてってやるぜ。だけど、魚を積んでるんだぜ」
わたしたちは一刻も早く、ロンドンへ向かいたかったので、二百マイルも魚の荷といっしょにもまれていくのがどんなだろうなどと、考えてもみなかった。わたしはその魚のトラックに乗せてもらったことを、けっして悔いないが、二度とやりたいとは思わない。トラックの床が堅く、魚の匂いが服にしみこむような気がした。しかし、ともかくロンドンに着いた。チャーリング・クロスの駅の外でおろしてもらったのは、八時ちょっと過ぎだった。わたしは朝刊を買った。紙面いっぱいに、ダートムーアの不良少年囚の暴動と、二人の囚人の脱走のことが出ていた。わたしたちの名前と人相風体を書いた記事が、紙面から二人を見つめているような気がした。しかし幸い、写真は出てなかった。
二人は身づくろいをして、必要な品物を少し買い、上等の朝飯を食べて、ニューカッスル行きの一番列車に乗った。わたしは、細君に会いにイズリントンへ行くというバートをとめるのに、さんざん手を焼いた。彼はわたしの言うとおりだと納得したが、それでも悲しそうな顔をしていた。
汽車に乗ったとき、わたしははっきりした計画はもっていなかった。ただ眠くて眠くて、途中のことはほとんど覚えていない。汽車がニューカッスルに着いたときも、どうやってランキンにドロを吐かせるか、まだ少しも考えがまとまっていなかった。前夜から雨が降っていて、濡れた通りは、街灯の光と店の明かりで光っていた。目ざめのあとで頭がぼんやりしていたが、もう疲れてはいなかった。二人は駅で顔を洗い、酒を飲みに最寄りのパブにはいった。
そこを出たのは八時近かった。二人は引き船のことをききに、波止場へ行った。引き船はすぐ見つかった。ハルジー船長の、トリッカラ号の銀塊引揚げ計画のことは、だれでも知っているようだった。引き船は、タインサイドの桟橋につけてつないであった。そのずんぐりとした煙突は、あたりに林立するクレーンや、すすけた倉庫の中で、小さく見えた。桟橋は暗くて、人影がなかった。水がヒタヒタと陰気な音をたてながら、木の杭《くい》をなめていた。倉庫の前に、子供の積み木のように、木箱が積み重ねてあった。空気は湿っぽい水の匂いに満ち、腐りかけた野菜と油のいやな匂いが、水辺に漂っていた。
わたしたちは見られる心配なしに、テンペスト号のすぐそばまで近づくことができた。短いタラップが、桟橋から船に渡してあった。タラップの上のほうに、はだか電球が一つ、ワイアにつるされて揺れていた。前甲板のどこからか、ラジオのやかましい音が聞こえてきた。
「ランキンのやつ、飲み屋にでも行ってるんじゃねえか」と、バートがささやいた。
わたしは返事をしなかった。ちょうどそのとき、ヘンドリックが甲板に現われたからである。背の高い、がん丈そうな彼の姿をふたたび見るのは、妙な気持ちだった。軍事法廷で、わたしに不利な証言をする彼を見守ってから、無限の時が経過したように思われた。エバンズがヘンドリックのすぐあとから来た。この小男のウェールズ人は、ヘンドリックと何か議論しているようだった。タラップの上まで来たとき、ヘンドリックは急にふりかえった。はだか電球にまともに照らされて、頬の傷跡がはっきり見えた。「船長の命令なんだよ」と、彼はつっけんどんに言った。
「彼が上陸しないように、だれかが船に残っていなきゃいけないんだ。おれはゆうべ残った。その前の晩は、船長だ。今夜はおまえの番だ。彼は上陸したら、際限なく飲む。船にいればそうはいかない」
「だけどよ、おれ、約束があるんだ」と、エバンズはどなった。「どうして、きのう、残れと言ってくれなかったんだ」
「ジュークスが残ると思ったからだ。ところが船長は、ジュークスをジャローへ使いにやったから、おれが残ったんだ。今夜は、女なしで我慢しろよ」そう言うと、ヘンドリックは急いでタラップをおりて、桟橋に出た。
エバンズはヘンドリックをののしりながら、タラップの上に立っていたが、やがて小さな目であたりをきょろきょろ見まわしてから、下へ姿を消した。「ハルジーと、ヘンドリックと、ジュークスが上陸してる」と、バートはわたしの耳元にささやいた。「やつら、ランキンのことを話していたんだろ」
「そう思う」と、わたしは答えた。「彼は上陸したら、際限なく飲む、船にいればそうはいかない、とヘンドリックは言ってた。どうやら、やつはあまり酒を飲むので、上陸させたらあぶない、と思われているらしいな」
「やつは、いつも酔っぱらっていたからな」と、バートは吐き捨てるようにつぶやいた。
エバンズがまたひょっこり、甲板に現われた。カラーとネクタイをつけ、こざっぱりとした粋《いき》な身なりをして片方の目にかぶさるように帽子のひさしを斜めにぐいとさげて、気取った格好をしていた。用心深く桟橋を見まわすと、タラップをおりて、急いで町の灯のほうへ向かった。
「畜生! 運がいいぞ」と、バートがつぶやいた。「さ、行こう。何をぐずぐずしてるんだ。船には、ランキンのほか、だれもいねえじゃねえか」
わたしは、なんでためらったのかわからない。バートが言ったように、たしかに運がよかった。絶好のチャンスだった。しかし、ダートムーアで脱走を考えはじめたときから、わたしはいつも、ランキンを陸上でつかまえることだけを考えていた。テンペストの船内では、わなにかけられる危険がある。
バートはわたしの袖を引っぱった。「さ、行こう。いまがチャンスだ」
桟橋には人影がなかった。タラップは、風に揺れるはだか電球に照らされて、白く光っていた。『おカネが、すべての悪の根源よ……』と歌っている、女の甘いハスキーな声が、ラジオから聞こえてきた。水が、木の杭をペタペタとうるさく打っていた。わたしたちは、積み重ねてあった箱の陰からこっそり出て、タラップをあがった。タラップを足で踏むとき、うつろな音がした。さびた甲板に出ると、船尾のブリッジのほうへ急いだ。わたしは入口にたちどまってふりかえった。桟橋の様子は、箱の後ろに隠れていたときと少しも変わっていなかった。
二人はまっすぐに、ラジオの音のするほうへ行った。わたしは船室のドアをパッとあけた。思ったとおり、ランキンがいた。重い体をだらしなくベッドに横たえ、ベッドのふちから手をだらりとたらしている。シャツのボタンは全部はずれ、毛のない白い胸と、ひだのよった腹を出している。両頬にポーッと赤いところがあるほかは、顔は白い。目はうるんで、充血している。ひたいは汗で光っている。電気ヒーターが真っ赤についている。ベッドのわきのテーブルには、ウイスキーのびんと、ひびのはいった水差しと、コップが置いてある。
「はいれ」と、彼はもぐもぐ言った。「はいれ。何の用だ」
彼は酔っぱらっていて、わたしたちがだれかわからなかった。わたしはバートに、ドアをしめるよう合図をした。バートがドアをしめると、「舷窓《げんそう》をしめて、ラジオの音を高くしろ」と、彼に言った。わたしはランキンの顔に水差しの水をぶっかけた。彼がだらしなく寝ている姿を見て、一年間も押さえてきた怒りが、いっぺんに胸にこみあげてきた。彼は水をぶっかけられてびっくりし、小さな目を見開いたとたんに、「おまえか!」と、悲鳴のような声をあげた。そのかん高い声には、恐怖があった。だから、彼は酒びたりになっていたのだろう。だから、ハルジーは彼を上陸させなかったのだ。彼はおびえていた。
わたしは彼の上着の衿《えり》をつかんで、ぐいと引き寄せた。
「おれを覚えているな、え?」と、わたしはどなった。「おれたちがどこにいたか、知ってるな? ダートムーアだ! ゆうべ、脱走したんだ。おまえから真相を聞きただすために、ここに来たんだ。真相をだ。おれの言うことが聞こえるか」ランキンはおびえて声も出ないようだった。わたしは彼の顔を平手で打った。「おれの言っていることが聞こえるか」と、わたしは叫んだ。
彼は血の気のうせた唇をすぼめて、「イエス」と、かすかに言った。息が酒くさかった。わたしは彼を後ろに突きとばした。頭が壁にぶつかった。「さ、おれたちがトリッカラ号を離れてから、何があったか、言え」と、わたしは言った。
ランキンはうなって、すべすべした肉の厚い手で、頭の後ろをさわった。「何もなかった」と、彼はつぶやいた。「われわれは船を放棄して、風に吹き流されて……」
わたしは身を乗り出して、また彼の上着の衿をつかんだ。振りほどこうとするので、こぶしで口をなぐってやった。彼は悲鳴をあげた。わたしは手首をつかんで、腕を背中にねじ曲げた。
「さ、本当のことを言え、ランキン。言わないと体じゅうの骨をへし折ってやるぞ」
わたしたちは、ランキンを徹底的に痛めつけてやった。わたしは、それをあまり自慢には思わないが、本当のことを知りたかったのだ。それに、一年間、監獄でみじめな生活をさせられて無性に腹がたっていたので、両のこぶしでランキンの白い、いやらしい面を力まかせに、さんざんなぐりつけた。しまいに、わたしたちに対する彼の恐怖は、ハルジーに対する恐怖を圧倒した。
「二番ボートは航海に適していたのか」と、わたしは詰問した。これで三度目だ。
「知らない」と、ランキンはあえぎながら言った。わたしが折れるほど腕をねじあげると、彼は動物のようなかん高い悲鳴をあげた。バートが口をなぐり、悲鳴をやめさせた。
「放してくれ。腕を放してくれ」と、ランキンは泣き声をあげた。
「腕をへし折ってやるんだ」と、わたしは歯を食いしばって言った。わたしの怒りは、だんだんおさまってきた。冷静になり、感情がかれた。だが、ドロを吐かせようという決意は変わらなかった。
「頼むから放してくれ、バーディー」
彼が嘆願してまた悲鳴をあげ始めると、バートは口をなぐった。血がわたしにとび散った。
「あのボートは航海に適していたのか」わたしは同じ質問をくりかえした。「さ、本当のことを言え」
「知らない。おれは何も知らない」わたしが体全体の重みをねじ曲げた腕にかけると、彼はもがきながら悲鳴をあげて、「適してなかった」と叫んだ。
「それでよし」わたしは体をゆるめてやった。「航海に適したボートはあったのか」
ランキンは、小さな充血した目に、ずるそうな、半分嘆願するような表情を浮かべて、わたしを見あげた。わたしはまた腕をねじ曲げて、質問をくりかえした。
「適してなかった」彼の答えは、唇から無理に押し出したような、妙な叫び声だった。
「ハルジー船長は、それを知っていたのか」わたしはねじ曲げた腕に、まだ体の重みをかけていた。
「知っていた」と、彼は金切り声をあげた。
「いつ知った?」とわたしはきいた。ランキンは痛がってもがいた。バートがこぶしで、またなぐった。ランキンの顔を見ていると、気持ちが悪かった。真赤な血が、青ざめた皮膚と鮮烈な対照をなしていた。だが、どうしても聞きださねばならない。わたしは歯を食いしばって、「いつ知った?」とくりかえした。
「わしがブリッジに報告したときだ」と、ランキンははれあがった唇を動かして答えた。
そうか――彼はボートが全部、航海に適しないことを知っていたのだな。ハルジーは、ランキンにそう言ったのだ。そして、二十三人の人間が無残に殺された。この野郎は彼らを助けられたはずだ。わたしはカッとなって、腕をねじあげて顔を床に押しつけた。ランキンは痛さと、自分の言ったことの恐ろしさに悲鳴をあげた。バートがけとばして黙らせた。「このブタめ!」バートは怒りで逆上していた。
わたしはランキンを引っぱりおこして、ベッドにかけさせた。「おまえは、やっとそれだけ話した。あのこともしゃべったほうがいいぞ。さっさと言え。おまえは自分の手で彼らののどを切って殺したも同然だ。めった切りにしてやっても、あきたらないやつだ。おまえの口をふさぐために、ハルジーはどんなエサを提供した」
「いいよ、話すよ」と、ランキンはあえぎながら言った。彼がしゃべると、はれあがった唇から血の泡が吹き出た。
「何もかも話す」
「どんなエサを提供したんだ」と、わたしはくりかえした。
「カネだ」と、彼は答えた。「銀塊の分け前だ」それから、言いわけをするように急いでつけ加えた。「おれは何も知らなかったんだ。船長のやったことだ」
「それで、おれたちが船を捨ててから、どんなことがあった」と、わたしはたずねた。
「われわれ――われわれは船長のボートに乗って漂流――」わたしが衿首をつかむと、彼の声は先細りになった。彼のしゃべり方、目つき――わたしには、本当のことを言っていないことがわかった。わたしがなぐろうとすると、彼は体をすくめてよけた。「いいよ、話すよ。おれには、こういうことになるだろうということが、ずっとわかっていたんだ。あれがあってから、おれはこわくて仕方がなかった」
「あれとは何のことだ」と、わたしはきいた。
「トリッカラ号のエンジンを、ふたたび動かしたんだ。舷側の穴をふさぐ装置がしてあったんだ。全部、計画されていたんだ」
「全部、計画されていた!」と、わたしはオウムがえしに言った。これで、トリッカラ号でおこった、今まで説明のつかなかったいろんなことがわかってきた。「機雷じゃなかった、というのか」と、わたしはきいた。
「機雷じゃない。コルダイトを詰めた罐《かん》だ」
「それから?」
「船を動かして航海した」
「どこへ?」わたしはもう、興奮していた。これでやっと証拠がつかめた。トリッカラ号は沈没したのでなく、別の名前でどこかの港に隠されているのだ。「どこへ?」と、わたしはくりかえした。
「知らない」と、ランキンは答えたが、わたしが身を乗り出すのを見ると、あわててつけ加えた。
「いや――位置を知らないという意味だ」わたしはまた彼の腕をつかんでいた。「放してくれ。頼むから放してくれ」と、彼は狼狽して悲鳴をあげた。
「どの方向へ航海したんだ」と、わたしはきいた。
「スピッツベルゲンのほうへ」と彼はつぶやいた。「マドンス・ロックという島だ――ビア島の近くの。その島の東岸の、暗礁のギャップに座礁させたんだ」
「この野郎、うそをついてるんだ、ジム」と、バートがつぶやいた。「島に座礁させた――それはうそだ。おれは信用しねえ。ハルジーが五十万ポンドもの銀塊を、一年も島に眠らせておくはずがねえ。その腕をへし折って、もう一本にかかったらどうだ」
ランキンはそれを聞いて、「本当だ」と、口から血の泡を吹きながらわめいた。「誓って言う」そして、バートが彼のほうへ身を乗り出すと、「あ、やめてくれ! それは本当だ」と叫んだ。
わたしはバートを押しもどした。「こんな見えすいたうそのような話を、でっちあげやしないだろう。わかったら殺されるようなことをしゃべったあとで、うそを言うとは思えない」
バートはひたいにしわを寄せて、「どうも、おれにゃわからねえな」とつぶやいた。そのとき、バートはキッとなって頭をあげた。どこかで、ドアがバタンと鳴ったからである。「ありゃ何だ」と、彼はきいた。
わたしはラジオの音を小さくした。廊下に足音がした。足音は、わたしたちのいる部屋の外でとまった。ドアのハンドルが回るのが見えた。何をする暇もなかった。わたしたちはじっと立っていた。ドアがあいて、暗い戸口に人影が現われた。金ボタンが光り、カラーが白く見えた。そのほかは、背景にぼけてわからない。間もなく、その男は部屋に足を踏み入れた。
ハルジーだった。
彼はちらとその場の様子を見てとった。彼の目はドアのハンドルに走り、それからランキンに戻った。ドアに鍵が差しこんであったら、ドアをしめて、わたしたちをとじこめたのだろう。だが、鍵は差しこんでなかった。彼は戸口に立ったまま、しばらくは、どうしようかと迷っているようだった。彼の目はわたしに据えられた。その凝視にぶつかると、わたしは体から勇気がすっかりぬけるような気がした。わたしはこわくなった。ダートムーアのようなところに一年もいると、だれでも権威に弱くなるものだ。そしてこの男は、権威の力をそなえていた。はいってきた瞬間に、彼の個性が部屋を圧した。彼のためらいはすぐに消えた。彼が口をきいたとき、その目は冷たく権威に満ちていた。
「ばか者! おまえは監獄から脱走したんだな、バーディー。それは、わたしには関係のないことだ。だが、ここにやって来て、わしの部下を痛めつけたということは――わしに関係のあることだ。おまえは囚人でありながら、ここにやって来て、おまえを告発した人間をなぐった。法廷は、この復讐行為に対して、重刑を課すだろう――」
「おれは復讐のために来たんじゃない」と、わたしは相手の言葉をさえぎった。わたしはのどがかわき、声が不自然だった。
ハルジーは目を細めた。「では、何のために来たんだ」
「真相を知りたかったんだ」
「真相!」彼はランキンを見た。「こいつらに何をしゃべったんだ」ハルジーの声は冷たく、威嚇《いかく》的だった。
ランキンの大きな体が、しぼむように思われた。「何もしゃべりません」と、彼はおろおろ声で言った。「何もしゃべりません。本当です」ランキンはベッドの上にちぢこまり、体を壁に押しつけてすくんだ。
「何をしゃべったんだ」と、ハルジーはくりかえした。
「何もしゃべりません。口から出まかせのうそを言っただけです。やつらは、わたしの腕をへし折ろうとしたんです。でも、わたしは何もしゃべりません。わたしは……」
ハルジーは、腹だたしそうに手を振って、ランキンをさえぎり、わたしのほうを向いた。
「彼は何をしゃべった」
わたしは彼の黒い目を見つめているうちに、急に恐怖が消えた。シルズや船のコック、あのボートに乗せられた人たちのことを考えていた。あの人たちを殺したのは、この男なのだ。
「彼は何をしゃべったんだ」そうくりかえした彼の声には、もう、さっきほど落ち着きがなく、その目には、ジェニングスがピナン号のことを言ったときと同じ表情が浮かんでいた。彼がおびえていることがわかった。
「ランキンは、あんたがどうやって、二十三人の人間を殺したかを話したんだ」と、わたしは言った。
わたしは、彼が体をこわばらせて、両方のこぶしをにぎりしめるのを見た。やがて、彼は声をたてて笑った。気違いじみた、ばか笑いで、不愉快な音が、部屋の壁にまといつくような気がした。
「殺した?」
「殺人と海賊だ」と、わたしは言った。
「証明してみろ」と、彼は挑《いど》んできた。
「証明してやるとも」
「どうやって?」彼の目は、猫のようにわたしを見守っていた。
「トリッカラ号がどこにあるか、わかったんだ。偵察機を出せば、すぐ見つけられる――」
ハルジーは、わたしの言うことを聞いていなかった。くるりとランキンのほうへ向いて言った。
「こののんだくれの、うそつきめ。こいつらに何をしゃべったんだ」
ブルブル震えていたランキンは、ベッドのふちを両手でつかみ、元気をふりしぼろうとしているかに見えた。
「わたしは、本当のことを言いました」と、彼は言った。ハルジーにじっと見つめられているうちに、ランキンの思いがけない突然の虚勢は、くずれてしまった。「そんなつもりじゃなかったのです。何を言ったのか覚えていませんが、うそばかり言ったんです」彼は白い手を伸ばしてウイスキーのびんをつかみ、コップについだ。手が震えているので、びんの口がコップにぶつかってカチカチ鳴った。
ハルジーはわたしのほうに向いた。「何が真相だ」と、彼は薄笑いを浮かべてきいた。「そのたんびに言うことの変わるやつのしゃべったことが、真相だというのか。おまえは、おれが人殺しの海賊だと思っている。よろしい、警察へ行ってそう言え。おまえの言うことを信用するかどうか、警察へ行って好きなように話せ。警察が、あしたは全然違うことを言う、酔っぱらいのたわごとを信用するかどうか、やってみろ」彼は笑った。「おまえらは、ただ、恨みから、ランキンをひどい目にあわせた。警察はそう思うだろう。おまえらが警察へ行けば、刑期が長くなるだけだ」
「最初は信用しないかもしれない」と、わたしは言った。「しかし、トリッカラ号が沈没しなかったことがわかれば、信用するだろう」
「おい、ここから出ようじゃねえか」バートはそう言って、わたしの袖を引っぱった。
しかし、わたしは彼の手をはらった。ボートに乗った人びとのことを考えていたのだ。彼らを殺した冷血な悪魔は、笑ってそこに立っている。
「罪の証拠がちゃんと残っているのに、あんたは逃げることはできない。トリッカラ号がおれの証人だ。シナ海では、殺人や海賊をやっても、うまく逃げられるかもしれないが、この国では、そうはいかんよ」
シナ海という言葉を聞くと、ハルジーの目は凶暴に光り、彼は両手をにぎりしめた。狂気が盛りあがっているのを、わたしは突然悟った。あとひと押しすれば、狂気が爆発するかもしれない。
「ピナン号の船長をしているとき、あんたは何人殺した?」と、わたしはきいた。
彼は飛びかかってくるだろう、とわたしは思った。ピストルを持っていたら、わたしを撃ったにちがいない。冷たい狂気が、彼の目の中にぎらぎら光っていた。
「おまえは、それについて何を知っている?」と、彼はきいた。それから急に落ち着いて言った。「おまえは何も知っちゃいない。おまえはそれを、法廷で持ち出そうとしたが、何も知っちゃいなかった」
「おれは何も知らなかった――あのときは」と、わたしは言った。
彼の目がぎらぎら光った。「驚くべきことだ!」と、彼は芝居じみたゼスチュアをまじえて叫んだ。「死は彼らの口をとじず、彼らは囚人の姿をして、わしのところに来なければならないのか? もはや、何も秘密ではないのか? 彼らは、自分らの避けられない、定まった死についてわしを糾弾《きゅうだん》するために、海の底から起き上がることができるのか……」
わたしは、彼が現実から遊離し、言葉の遊戯にふけって、あわれみも、悲しみも、愛情も感じていないことに、突然気がついた。
「芝居の真似はやめてくれ」と、わたしは言った。「芝居の科白をがなりたてるなんて、人殺しを何とも思っていないのか」
「芝居の真似?」彼は目を見ひらき、息をとめた。
わたしはそのとき、トリッカラ号のコックが言ったことを思い出した。「なぜ、ひげで顔を隠しているんだ」と、わたしは叫んだ。「あんたは、顔を世間に見られるのを恐れている役者なのか」
彼は素手でつかみかかってくる、とわたしは思った。急に青ざめたその顔に、あごひげのこわい毛が、一本一本立つように見えた。
バートがいらいらしてささやいた。「こいつの面《つら》を見ていると、ぞっとすらあ。早く出ようじゃねえか」
「オーケー」と、わたしは言った。
ハルジーは、わたしたちを止めようとはしなかった。彼は頭がボーッとしているようだった。彼がわたしたちの出て行くのを見たとは思わない。彼の目は、狭い部屋の、あらぬ方を見ているかのように、ドロンとしていた。
わたしたちは、冷たい夜の空気を吸って、生きかえったような気がした。急いでタラップをおりて、桟橋を走った。
「あいつは、気違い病院に入れといたほうがいいな」ニューカッスルの町の灯に向かって、暗い横丁を縫って歩いているとき、バートがつぶやいた。「これからどうする。警察がこんな話を信用するかな。ランキンは本当のことを言ったと思うんだが、どうだ?」
「そうだ」と、わたしは言った。「あんな作り話はできやしない。しかし、ハルジーの言ったことには道理がある。警察は、こんな話は絶対に信用しないだろう。それに、ランキンはもしきかれたら、全部否定するだろうからな。おれたちは、証拠をにぎらなきゃならない」
「証拠だって!」バートはばかにしたように笑った。「おれたちのつかんだ証拠は、トリッカラ号がスピッツベルゲンの近くで、座礁してるということだけだ」
「ハルジーがあのとき現われなかったら、おれはランキンに自白書を書かせるつもりだった。いまとなっては、あいつはおれたちが復讐のためになぐったと言うだろう。おれたちの立場はあぶないぞ」
「だけどよ、おめえが言ったように、警察は飛行機をとばして、調べるかもしれねえぞ」と、バートは希望ありげに言った。
「ハルジーは、銀塊《ぎんかい》引揚げを大っぴらに発表しているんだぞ」と、わたしは言った。「おれたちは笑われるだけだ。これが、やつの憎らしいほどずる賢いところなんだ。こっそりやっているんじゃない。ハルジーは大いに宣伝して、組織しているんだ。ランキンから署名入りの自白書をとっていたとしても、警察がそんなものを信用するとは思わない。ランキンは、おれたちが罪をのがれようとして、事実でもないことを無理に書かせたと言うにきまっている。だめだ。警察を納得させるには、マドンス・ロックへ行って、銀塊を一、二本持ってくるしかない」
「いったい、どうやってそんなことができると思うんだ。ランキンは、スピッツベルゲンと言ったな。おれだって、それがどこだくれえ知ってるが、北氷洋のずっと北だぞ。船がなきゃ行けねえ」バートはいきなりわたしの腕をつかんだ。「船! 畜生――もしミス・ジェニファーが――」
「おれもちょうどそれを考えていたんだ、バート」と、わたしは言った。まさにチャンスだ。補助エンジン付きの二十五トンのヨット。これなら大丈夫だろう。
「オーバンへ行こう」と、わたしは言った。
「ちょっと待てよ」と、バートが言った。「冗談じゃねえ。おれたちにゃできねえよ。おれは船乗りじゃねえからな。乗組員があと二人はいるぞ。あーあ、ダートムーアにいたほうが安全だったな」
「そりゃ安全さ」と、わたしは言った。「だが、あまりしあわせじゃないぞ。おれたちだけでやれるかもしれない。これしきゃチャンスがないぞ。とにかく、オーバンへ行こう。おれはジェニーに会いたいんだ」
「オーケー」と、バートは渋々言った。「北氷洋はひでところだ。後悔したって知らねえぞ」
そのとき、灯の明るい大通りに出た。二人は町はずれまでバスに乗り、道ばたのカフェで、北のエジンバラへ行くトラックを見つけて、乗せてもらった。
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七 マドンス・ロック
三月十七日の日曜日の正午少しすぎに、オーバンに着いた。日が照っていて、町とケレラ島との間の海は、青く澄みきっていた。ケレラ島の向こうで、マル山脈が雨に洗われたすがすがしい大気の中に、くっきりと茶色に浮かんでいた。コンネル・フェリーまで、通りがかりの車に乗せてもらい、そこでソレル家をおそわった。ソレルの家は、道路から入った、松の木に囲まれた丘の中腹にあった。ドライブウェーから、エティブ入江の狭い急流にかけられた鉄橋のけた越しに、モーバンの丘が見えた。東のほうには、モミの林のすき間から、頂上に冬の残雪が陽光に輝いている、クルアチャンの高峰がちらと見えた。
ノックすると、年とった婦人がドアをあけた。わたしが名前を言うと、彼女は中に姿を消した。
「電話をかけときゃよかったな」と、バートが言った。「おれたちに会いたがらないかもしれねえぞ。ちゃんとした身なりをしてねえからな。おれたちは、監獄から脱走した囚人だってことを忘れちゃいけねえよ」
バートにそう言われるまで、わたしたちに来られて彼女は当惑するかもしれない、と考えてもみなかった。わたしはジェニーにものを頼む権利はないのに、彼女が親戚のようにわたしたちを助けてくれるのが当然のように考えて、何となく彼女のところに来てしまったのだ。ジェニーにまた会えると思うと、すっかり興奮してしまって、彼女の立場で考えることを忘れていた。立派なスコットランド人の家の戸口に立っていると、自分が侵入者のような気がした。彼女の父親は、土地の治安判事かもしれない。
老婦人は戻ってきて、じゅうたんを敷きつめた長い廊下を通って、わたしたちを案内した。彼女がドアをあけると、そこは、壁にびっしり本の並んだ、広い書斎だった。入江に向かって勾配のついた芝生に面して、両開きの窓がある。大きな炉に、薪《まき》が気持ちよく燃えている。出てきたのはジェニーの父親だった。「わたしたちは、きみが来ると思って待ってました」と、わたしと握手しながら彼は言った。
「待っていた?」わたしはびっくりして、オウムがえしに言った。
「そうです」彼は微笑を浮かべて、わたしたちを炉のそばに招じた。「近ごろわたしは、新聞を読む以外に、あまりすることがないのだ。きみたちが脱走した記事をジェニーに見せると、うまくいったら、ここへ来るにちがいない、とジェニーは言いました。ここできみたちをお迎えできなくて、きっと残念に思うだろう。ジェニーはマックロイド夫妻がくれると約束した鶏のことで、マルへ行ったのです」彼がおだやかな口調で話しつづけるのを聞いていると、わたしは長い旅をしてやっとわが家に着いたような気安さをおぼえた。
わたしは彼がどんな話をし、わたしたちがどこまで事情を説明したか、覚えていない。ふりかえってみると、彼が疲れ切った放浪者を、とても暖かく迎えてくれたということだけしか、思い出せない。炉の暖かさのような彼の暖かい人柄に接して、わたしたちは心が安らぎ、くつろぐことができた。わたしは、もう友だちの中にいるのだ、みんなにねらわれながら逃げているのでない、というぜいたくな気分にひたり、張りつめていた神経もゆるんで、眠くなってきた。
ジェニーの父親は、ホットケーキに自家製のジャムとバターを添えて、お茶を出してくれた。わたしたちが食べ終わると、彼は言った。
「ジム、あまり疲れていなければ、散歩してきませんか。ジェニーが村から帰ってくるところに、ちょうど出会うだろう。四時までに帰ると言っていました。きみが行っている間、バートとわたしはおしゃべりしている」
彼はそう言って、もじゃもじゃの白いまゆの下の青い目で、わたしにウインクを送った。
彼はドアまでわたしについてきた。「アイリーン・モーア号は、ダンスタフネージ城の下に、つなぐことにしている」と彼は言った。「すぐわかるよ。ここをまっすぐ行くと、小さな入江の向こうに岬がある。そこの木立の間から見える。ジェニーは、小舟でダンベッグに着きます」彼はあけた戸口で言葉を切って、わたしの肩に手をかけた。「きみが無事だと知ったら、ジェニーは喜ぶだろう。気がねせずに、ここにいたまえ。わたしたちも、きみにいてもらうとうれしい。きみたちをどうするか、あとで考えよう」
わたしは、何と言っていいかわからなかった。礼を言おうとすると、彼はやさしくわたしを押して、ドアをしめた。
入江のほうへ歩いていくとき、ダートムーアのようなところがあるとは信じられなかった。
道を行くと、家のないところに出て、小さな入江の向こうが見えた。さざ波が夕日に輝き、小石のなぎさが黄色く光っていた。言われたとおり、ダンスタフネージ城があった。その石の城壁は、木立にとけこんで、視界から半分隠れていた。小さな岬の先をのぞくと、キャンバスにおおわれた小さな船が、水面を吹く風を受けて、優雅に傾きながら近づいてきた。
ヨットは船首を風上に向け、入江のほうにやってきた。やがて、帆がマストからゆっくりとおろされ、錨《いかり》をおろすカラカラという音が聞こえた。老人に手伝って帆の片づけをしている、セーターにスラックス姿のジェニーが見えた。老人は小舟を舷側に引き寄せ、ジェニーを乗せて岸へこぎ始めた。わたしは手を振らなかった。胸をわくわくさせながらも、こういう事情でなかったら、とみじめな気持ちだった。
ジェニーは岸まで半分ほど来たところで、わたしの姿をみとめたが、水面がきらきら光るので、よく見えないらしく、目の上に手をかざしてこちらを見ていた。彼女の影が水面に踊っていた。やがて彼女はわたしとわかって、忙しく手を振った。わたしも振った。
わたしは水ぎわまで行って、小舟のへさきをつかんだ。彼女はとび降りて、わたしの手を両手に包んだ。「おお、ジム」と、彼女は言った。「本当にあなたなの?」塩水がかわいて白くなっている彼女の顔は、興奮に輝いていた。
「ここまでどうやって来たの? 苦労した?」それから声を立てて笑った。「あなたに聞きたいことが、山ほどあるのよ」彼女は小舟を岸に引っぱりあげていた老人のほうを向いて言った。
「マック、わたしの旧友を紹介するわ。ジムよ。これはマックファーソン。うちの船頭さんなの。わたしがアイリーン・モーア号で出かけるところへは、どこへでもいっしょに行くの」
老人は帽子にちょっと手をやった。目が青く、日焼けした顔をして、がんじょうな体つきだが、腰が少し曲がっていた。
ジェニーは老人に帰っていいと言い、老人が行ってしまうと、言った。「ジム――あなたニューカッスルへ行った?」
わたしはこの質問にびっくりして、「どうして、そんなことをきくんだい」と、言った。
「父が、あなたは行くだろうと言ったわ。あなたはそのために脱走したにちがいない、と父は思っているの」彼女は急に顔をあげ、灰色の目で探るようにわたしを見つめた。
「ハルジーがトリッカラ号の銀塊を引き揚げるために、ニューカッスルで引き船に装備をしていることを、あなたは知ったんでしょ?」
「知った」と、わたしは言った。
「それで、脱走したんでしょ?」
わたしはうなずいた。
「父の言ったとおりだわ」彼女の目は興奮で踊った。「ニューカッスルへ行ったの? 何か探《さぐ》りだした? ねえ、話してちょうだい――何を探りだせたか」
「トリッカラ号は沈没しなかった、ということだ」と、わたしは言った。
ジェニーはあまり意外なことに、口をポカンとあけた。
「沈まなかった?」彼女は笑った。「冗談言ってるんでしょ、ジム」それから真剣な顔つきでわたしを凝視した。「それ、本当?」彼女は不審そうな顔をして、考えこんでいた。「トリッカラ号は沈没しなかった」彼女は信じられないというように、ゆっくりとひとりごとを言った。「だれがそう言ったの?」
「ランキンだよ」と、わたしは答えた。「痛い目にあわせて、ドロを吐かせたんだ」
しかし、わたしは、いっしょに岸に腰をおろして、とっくり話を聞くまでは、彼女は納得しないだろう、と思った。
そこで二人で岸にすわり、わたしは詳しい話をした。話し終わると、彼女はしばらく黙っていた。そのときわたしは、話している間じゅう、彼女の手をにぎっていたことに気がついた。
「信じられないわ」と彼女はつぶやいた。「そんなふうに、あの人たちを殺すなんて。わたしには信じられないわ、ジム。それじゃまるで、目かくしして、舷側から突き出した板を渡らせるようなものだわ。わたしたちにわからなかったいろんなことが、それで説明がつくような気もするけど、それにしても、人間がそんなひどいことできるとは、信じられないわ」
「しかし、本当なんだよ」と、わたしは言った。「ぼくがその話を警察に持ちこんでも、だめかな」
ジェニーは首を振った。「だめよ。わたしはあなたという人と、あのときのことを知っているから、あなたの言うことを信用するけど、警察は信用しないわ。あまり途方もない話ですもの」
「真実は往々にして、途方もないものだよ」
「わかってるわ。でも、これほど途方もない話はないわ。あなたの作り話だ、と警察は思うでしょう。ランキンは、殺されたくなかったから、口から出まかせを言った、とシラを切るにきまってるわ。見てごらんなさい、あしたの新聞に、二人の脱獄囚が復讐のため、告発した人間をひどい目にあわせた、とデカデカと出るわ。証拠はすべて、あなたに不利よ。トリッカラ号の連中は、軍事裁判のときのように、団結してあたるわ」彼女は急にわたしを見あげた。灰色の目は落ち着いて、真剣味を帯びていた。「ねえ、ジム、わたしたち、証拠をにぎらなければいけないわ」と、彼女は言った。
この問題がわたしのものであると同様、彼女のものでもあるかのように、ジェニーがわたしたちという言葉を使ったのがうれしくて、思わず彼女にキスしたい衝動に駆られた。ジェニーはわたしの気持ちを察したのか、そっと手を引っこめた。
「証拠をにぎる方法は、一つしかない」と、わたしは言った。
「そうよ」と、彼女は相づちを打った。「たった一つよ。マドンス・ロックって、どこなの」
「ベア島の近くだ、とランキンが言った。スピッツベルゲンのすぐ南だ」
ジェニーは砂を指の間からこぼしながら、考えこんでいた。「あの辺の海は荒いわ。それで、ハルジーはいつ出発する予定なの」
「四月二十二日だ。でも、やつはこわくなって、出発をくりあげるかもしれない」
「きょうは、三月十七日ね」と、彼女はつぶやいた。「あなたが銀塊の一部を持ってこられれば、いくら勘の悪い警官だってわかるでしょ」彼女はわたしのほうを向いて、ためらいながらきいた。「ジム、それであなたはここに来たのね」
「どういう意味だい?」と、わたしはきいた。
「わたしにアイリーン・モーア号を貸してもらいたいから」
わたしはジェニーを見つめた。「ぼくは――ぼくは、そんな考えを持っていたかもしれない。ねえ、ジェニー、ぼくは自分に味方してくれる人で、ヨットを持っている者をだれも知らないんだ。しかし、ぼくは――」わたしはそこで絶句した。彼女はうつろな目をして、顔をそむけた。
「いいわ」と、やがて彼女は言った。「アイリーン・モーア号を貸してあげるわ」その声には力がなかった。彼女は、夕日を背に、波に揺られて静かに動いているヨットのマストのほうを見つめていた。
ジェニーは、小さなヨットが悪戦苦闘しながら航海しなければならない荒海のことを考えているのだ、とわたしは思った。彼女がそのヨットを愛していることを知っていた。ジェニーは急におきあがって、言った。「いらっしゃい。海軍省が親切に、この区域の海図をひと揃《そろ》いくれたのよ。マドンス・ロックの正確な位置を知りたいわ」
ジェニーは小舟を引っぱっていた。わたしもおきて、いっしょに小舟を水の中に引っぱりおろした。それから小舟をこいで、二人でアイリーン・モーア号へ行った。しっかりした小さなヨットで、白ペンキが塗られ、真ちゅうがピカピカにみがかれ、整然として手入れが行き届いている。わたしはジェニーについてデッキを渡りながら、どんな大きさの船でも、船というものが与えてくれる、すばらしい自由の気分を味わった。
ジェニーはわたしを、船尾の小さな操舵室へ連れていき、海図台の下のロッカーから海軍省の海図の束《たば》を出した。
「これよ」と、彼女は言った。「よく見てごらんなさい。わたしは、北氷洋の危険な場所のことを書いてある本をさがすわ。――この辺のどこかにあるはずなの」
わたしは、ほこりっぽい海図を急いでめくっているうちに、やっとほしいのが見つかった。ベア島付近の海図だ。マドンス・ロックを捜していると、ジェニーが急にわたしの手を押さえ、「見つかったわ」と言って、手の上に開いていた本を示した。
「北緯七三・五六、東経〇三・〇三」と、彼女は読んだ。「ロックのことを書いているところを読みましょうか」
「ああ、読んでくれたまえ」と、わたしは言った。「ぼくは、それがこの海図のどこにあるか、捜してみよう」
「あなたには気に入らないことが書いてあると思うわ」そう言って彼女は読み始めた。「『一年のある時期に、いろいろな種類の鳥が住んでいる、岩の多い孤島。人間が上陸した記録は、十以上はない。船はこの海域を避けたほうがよい。ここは海が一年じゅう荒れ、島と周辺の暗礁は、おおむねしぶきに隠されている。この海域の海図は、不完全なものである。冬期には、海氷が漂っていることがある』これだけよ。とてもいいところらしいじゃない?」
「あまりよくないな」と、わたしは言った。「だから、やつらはそこを選んだんだな。あ、ここにあった。海図に出ているよ。バレンツ海だ。流氷の南の限界の内側に、たっぷり三百マイルもはいっている」わたしが鉛筆で印をつけるのを、ジェニーはわたしの肩に寄りかかって見ていた。
「ありがたい。いまは冬でなくて春だ」とわたしは言って、体をおこし、「本当にこのヨットを貸してくれるのかい、ジェニー」ときいた。マドンス・ロックの説明を読んで、気が変わったかもしれないと思ったからだ。「きみは二度とこのヨットにお目にかかれないかもしれないんだよ。それ、わかっているのかい」
ジェニーは、目に妙な表情を浮かべてわたしを見ていた。
「ええ、わかってるわ」と、彼女は答えた。それからしばらくためらっていたが、やがて急いで言った。「貸してあげるわ。でも、一つ条件があるのよ」
ジェニーはこのヨットを愛していた。わたしはそれを知っていた。それなのに貸してあげると言われたとき、彼女の信頼に圧倒される思いがした。わたしは彼女の手をとって言った。「きみは本当の友だちだ、ジェニー。いつ弁償できるかわからないが、きっと弁償する。もしトリッカラ号を見つけたら、ぼくは引き揚げ権を要求する。そうすれば、きみに弁償できると思う」
ジェニーは手を引っこめた。「あなたはまだ、わたしの条件を聞いてないわ、ジム」
「どんな条件でも呑むよ。――わかってるだろう」ハルジーより先にマドンス・ロックに着ける見込みに興奮して、わたしはどんな条件にも同意するつもりだった。
「そうだといいけど」と、彼女は疑わしそうに言った。
「条件というのは、いったい何だい」と、わたしはたずねた。
「もちろん、あなたがこの冒険の責任者よ。でも、わたしは自分の艇長と乗組員を乗せたいの」
「きみの艇長と乗組員」と、わたしはオウムがえしに言った。「しかし、こんな気違いじみた冒険に加わる者を、どこで見つけるんだ。それに、ぼくたちのことをどう説明するんだ。――つまり、参加する連中は、ぼくとバートがどんな人間か、知りたがるだろう。それから――」
「わたしの艇長は、そんなこと詮索《せんさく》はしないわ」と、彼女はわたしをさえぎった。
「いったい、だれだい、それは。土地の人間かい」
ジェニーは首を振って、「いいえ」と言ってから、わたしをまともに見た。「わたしが艇長になるのよ、ジム」と、彼女は言った。その声は落ち着いていて、断固としたひびきをもっていた。彼女は急いでつけ加えた。「マックファーソンにエンジンを担当させるわ。あの老人は子供のころから、船のエンジニアだったのよ」
わたしは仰天した。「しかし――ジェニー、きみはまじめに言ってるんじゃないだろ」
彼女はまじめだった。落ち着いた灰色の目と、堅く結んだ口で、それがわかった。まじめなのはいいが、そんなことはできない。わたしは断念させようとして、こんこんと説いた。しかし、彼女はただ、こう言っただけだった――
「アイリーン・モーア号には、乗組員が四人いるのよ。それは、あなただって知ってるでしょ、とにかく、それがわたしの条件よ」
「だが、ジェニー、きみはこんな航海にはついて来られないよ。きみのお父さんが――」
「父には、わたしから話をつけるわ」と、彼女はわたしをさえぎった。わたしがまた議論を始めると、彼女はまたさえぎり、「わたしが艇長として行くか――それがだめなら、ヨットは貸さないわ」と言った。
「きみは本気かい」わたしはびっくりしてきいた。
「本気よ」
「じゃ、もう仕方がない。ぼくは自首する。警察がぼくの話を、信用してくれることを願うだけだ」
「警察が信用しないことは、あなたもわかってるでしょ」
「わかっている。しかし、ほかにどうしようもないじゃないか」
ジェニーはわたしの腕に手をかけた。「ジム、わたしはあなたにヨットと乗組員を提供するのよ」
「ばかなことを言うなよ」わたしは腹がたった。わたしが必要としている手段を提供して、そのかわりに、わたしの受け入れられない条件を持ち出す――それに腹がたったのだ。
ジェニーは言った。「あなたが自首するなら、わたしは自分でマドンス・ロックへ行くわ」
わたしはびっくりして、彼女の顔を見た。あの表情――わたしにどうも理解できない何かが――彼女の目に戻っていた。「なぜ?」と、わたしはきいた。
「なぜ、ですって?」ジェニーは肩をすくめた。
わたしは彼女の手をつかんだ。「そうだよ――その理由を説明してくれ。どうして、そんなことをするんだ」
ジェニーは手を引っこめて、海図の上に身をかがめた。
「ただ、冒険がおもしろいからだと思うわ」
わたしは彼女の肩をつかんだ。「それが理由じゃない」わたしの声はきびしかった。
「そうよ、本当の話よ。わたしは冒険が好きなの。あなたが、わたしをマドンス・ロックへ連れていくのがこわいのなら、わたし、自分で行くわ」
わたしはジェニーを見つめた。「きみならやりそうだな」
彼女は目にかぶさっていた髪を払いのけて、わたしを見た。「そうよ、わたし行くわ。さ、わたしの条件を呑む?」
「いいよ――きみのお父さんが承知するなら」
ジェニーは満足したらしく、二人は家に戻った。ジェニーの父親が、こんな危険な冒険に彼女が加わることを承知するとは、とても考えられなかった。その晩、ジェニーが寝室にさがってから、父親はウイスキーのびんを取り出して、手にグラスを持って椅子にかけ、しばらく炉の火を見つめていたが、やがてわたしのほうを向いて言った。
「ジェニーの条件を聞いたかね」
「はい」と、わたしは答えた。「条件を呑もう――もしあなたが承知なさるなら――と、ジェニーに言いました」
「そうかね」と、彼はうなずいた。それから突然、言った。
「わたしは承知するよ」
「しかし、あなたは、その危険がどんなものか、わかっていないのです」
彼はくすくす笑った。「いいや、わかっている。しかし、ジェニーがいったん決心したら、やめさせることはできない。きみといっしょに行くと決めたら、それまでだ。ジェニーは昔から強情な子だった。母親似なんだ」彼はふたたび炉のほうへ向いて、ひとりでくすくす笑った。「ジェニーの母親とわたしが、はじめてジェニーのことでとても心配したことを覚えている。ジェニーはマックロイド夫妻が海釣りに行くとき、とめるのもきかず、無理に船に乗ってしまってね。三十時間も帰ってこなかった。まだ七歳のときだった。それからそういうことがたびたびあったので、わたしたちはもう、心配するのをやめた。ほんとに、ジェニーは昔から無鉄砲な娘だった」
彼はふたたび顔をあげた。「しかし、いくら注意して道路を横断しても、ひき殺されることだってある。わたしはこの冒険を、そういうふうに考えている。安全かどうか、いつも心配ばかりしていたら、人生はおもしろくない」彼は立ってグラスにウイスキーをつぎ、わたしにグラスを渡すと、その午後やったように、突然わたしの肩に手をかけて言った。
「わたしはきみが好きだ。きみは勇気があるし、ばかじゃない。それに、わたしはきみの話を信用している。わたしは、ハルジーという男の性質を知っているとは言わない。しかし、きみを勝たせるために、できるだけのことをしたい。だから、ジェニーをきみにまかせるのだ」彼はくすくす笑いながら腰をおろした。
「とにかく、きみがいなかったら、ジェニーはいまごろは生きていないんだからね」
これで、問題は解決した。ジェニーは艇長として参加することになった。翌朝、朝食のとき、彼女はとぼけたような顔をして、にやにや笑っていた。わたしはまだ気が進まなかった。わずか二十五トンの小さなヨットで、自分が行くのさえいやだったのに、ジェニーの生命にまで責任を負わされるのはやりきれなかった。だが、彼女の熱意に動かされてしまった。彼女と父親は、まるで遠足に出かける子供みたいに、準備にいそしんだ。三か月分の食糧、かわりの帆、荒天用の帆、エンジンのディーゼル油、予備の索具、ロープ、釣り道具、防水布、羊の皮の上着を買うなど、することは山ほどあった。ジェニーの父親がカネを出してくれたが、こういう品物は、イギリスでは統制され、割り当て制になっていたので、手に入れるのは容易でなかった。
こんな小さな船で、こんな危険な航海をするために絶対必要と思われる品々だけを手に入れるのに、三週間ちかくかかった。バートとわたしは、怪しまれて警察に調べられるのを恐れて、ほとんど手伝いができなかった。たいていの品物は、ジェニーと父親が手に入れた。ジェニーはオーバンとトバーモリーの辺では顔がきいたので、一部の品物は海軍からうまく譲ってもらった。いちばん困ったのは、ディーゼル油だったが、あらしのためオーバンに避難したオランダの貨物船から少し分けてもらった。
このあわただしい三週間は、生涯忘れることのできない幸福な時期だった。わたしはその間、アイリーン・モーア号の感じを身につけ、バートに帆走の初歩を教えるために、ヨットを海に出した。とても操作しやすい船で、荒波をよく乗り越えた。わたしは船に慣れるにしたがって、多少は成功のチャンスがあるという自信を強めていった。バートのような≪おか者≫でさえ、アイリーン・モーア号に敬意を払うようになった。わたしたち四人は毎晩、その日の成功と失敗を語り合った。が、ジェニーが肉の罐詰を若干手に入れたとか、彼女の父がどこかの店に頼んで、必要な衣料を買ったとか、いつも何かしらいいニュースが報告された。やがて、必要なものがだいたい揃った。わたしは無電発信機がほしかったが、だれもその操作を知らないので、あったところで仕方がなかった。
四月十二日の金曜日の午後、最後の準備が終わった。アイリーン・モーア号をオーバンの港にもってきて、タンクにディーゼル油をいっぱい入れ、四十ガロン入りの大きなドラム罐《かん》を、デッキにくくりつけた。デッキの下は品物でぎっしりで、寝起きする場所も、身動きできないほどだった。これだけの品物を、よくも集められたものだ、と感心した。
その夕方、わたしはジェニーと入江まで歩いていき、ダンスタフネージ城の下につながれている、アイリーン・モーア号の見えるところに来た。
「美しい船じゃない?」と、ジェニーがつぶやいた。彼女はわたしと腕を組んで、夢みるように、はるかかなたのヨットを見つめていた。
「そうだね。美しい船だ」と、わたしは言った。
あたりは静まりかえっていた。砂利浜でカキをとっている漁夫たちの妙な叫び声のほかは、何も聞こえない。水面は波もなく、銀色に光っている。ガラス板の上のおもちゃの船のように見えるアイリーン・モーア号は、早く冒険に出かけたいかのように、船首を北に向けていた。ダンスタフネージ城のずっと向こうに、アイリーン・モーア島が見えた。ヨットは、この島の名前をとってつけられたのである。島のはるかかなたに、山々が夕日で真赤に染まっていた。マル、モーベン、アーゴア、モイダート、それから遠くのスカイ――これらの山々は遠くはあるが、親しみ深く感じられた。あすの早朝、わたしたちはマル海峡を通り、ヘブリデス諸島へ出て、それから北へ針路をとってラス岬、シェトランド諸島、ファロー諸島を過ぎて、未知の海にはいるのだ。山に囲まれたこの親しみ深い入江を、二度と見られるだろうか、とわたしは考えた。
「静かですてきじゃない」と、ジェニーがつぶやいた。「わたし、城の影がはっきりと水に映る風のないときに、ダンスタフネージに来るのが好きよ。世界がとても平和に見えるわ」それから急に顔をあげて、わたしを見た。「わたし、そういうとき、とてもしあわせで、そのしあわせが、いつまでも続かないような不安な気持ちになるのよ。その気持ち、わかるでしょ」
わたしは彼女の目を見つめていた。いとしさとあこがれが、胸にこみあげてきた。「きみはしあわせかい、ジェニー」と、わたしはたずねた。その声はしわがれて、妙にうわずって聞こえた。
「しあわせよ、ジム」と答えて、彼女はわたしの凝視をとらえた。「とてもしあわせよ」それから、はるか遠いアイリーン・モーア号のほうへ視線を移して、「でも――」と、言いよどんだ。
「こわいの?」と、わたしはきいた。
ジェニーは笑って首を振った。「ちょっと妙な気持ちなの」彼女は入江のかなたを見つめていた。
「バレンツ海が、こんなふうに静かだといいと思うわ」
「もしそうだったら、やつらはトリッカラ号をそこに座礁はさせなかったろう。マドンス・ロックにはだれも上陸する気づかいがないから、そこを選んだのさ」わたしは静かに浮かんでいるアイリーン・モーア号のほうに目をやった。
「あのヨットは、あそこにいると頑丈そうに見えるが、ファロー諸島の先へ行くと、海がかなり荒れるだろう。そのときも、しっかりしていてくれるといいがね」
「予報では、天気はよさそうよ。かなりの悪条件に耐えられると思うわ」
「かなりの悪条件にはね。――そりゃそうだろう。でも、バレンツ海にはいったら、ひどい暴風にぶつかるかもしれない。それに、マドンス・ロックに着いても、暗礁にはいれるまでに、何日も付近をうろうろしていなければならないかもしれない。そのうち、ハルジーたちが来るだろう。そうなったら、どんなことになるかわからない」
荒れ狂う海、意地悪い暗礁の障害、凍った黒い岩――それらの情景が、はっきりとわたしの心に浮かんだ。自分だけでも恐ろしいのに、ジェニーがいっしょでは……。
「きみ、ぼくらといっしょに行くのをやめたらどうだ」と、わたしは言った。そのとき、ある考えが浮かんだのだ。「ぼくたちが戻らなかったとする。――きみはここに残っていれば、警察に連絡して、調査してもらえるじゃないか」
ジェニーは、少年のような笑顔でわたしを見あげた。
「だめよ、ジム。そのことはもう、考えずみよ。それは、父がやってくれるわ。わたしは父に、すべてのことを説明した手紙を書き残しておいたのよ。もしわたしたちが、三か月すぎても帰ってこないとか、ハルジーの船が、わたしたちより先に帰ってきた場合は、父に警察と商務省と新聞に、知らせてもらうことにしたの。新聞は、女のわたしが、そんな危険な航海に出かけたというだけで、興味を持つでしょ」
「なるほど」と、わたしは言った。「きみは手まわしよく、いろんなことを考えたんだね。だが、それでも、きみは残っていたほうが……」
「もう、その話はやめましょう。とにかく、今夜はね。ここにいると、とても気持ちいいじゃない。いまは、世の中に何も心配事のないような気持ちでいましょうよ。わたしは、自分の愛する景色に、さよならを言うことになるけど、今夜だけは、しあわせな、平和な気持ちでいたいの」
「それはそうだろうが、しかし……」
ジェニーは急に怒ったような目をして、わたしをさえぎった。「マックファーソンとわたしは、行くのよ。それはもう、決まっているのよ。わたしはだれよりも、アイリーン・モーア号の操作に慣れているわ。そしてマックは、子供のころから船乗りをしているのよ。マックは六十近いけど、タフだし、心配する家族もいないわ。だから、その話はもうやめてくれない?」彼女は哀願するような口調に変わった。二人は、薄れいく山々の輪郭を見つめながら、しばらく黙って立っていた。ジェニーはまだ、わたしの腕に手をかけていた。わたしは、ぴったりと寄り添う彼女の体のぬくもりを感じた。
「あの丘の頂上に登ってみたいわ」と、突然、彼女は言いだした。「あそこは松林や草原があって、頂上からクルアチャンの峰が見えるのよ」二人でゆっくりと松林の間を登っていくとき、ジェニーが言った。「クルアチャンはわたしと仲よしの山なの。あの山にさよならのあいさつをすると、山がいつもわたしを守ってくれて、無事に家へ帰してくれるような気がするのよ」
そこで二人は、雪をいただく、はるかかなたのクルアチャン山に別れのあいさつをして、ジェニーの家へ帰った。その夜は、お別れの夕食会をすることになっていた。マックもバートもいて、わたしたちが帰ったとき、マックはジェニーの父親と熱いラム・パンチを飲んでいた。ジェニーはしばらく姿を消したが、まもなく、黒の長いイブニング・ガウンに銀色のガードルをしめ、まぶしいような美しい姿で現われた。テーブルには、田舎としては最高のごちそうが並べられ、食事のあとワインとウイスキーが出された。まことに楽しい雰囲気で、ジェニーの父親がアイリーン・モーア号のために乾杯の音頭をとったとき、これからの冒険のことをちょっぴり思い出させられただけだった。彼は乾杯のあと、言った。
「ジェニー、おまえにあのヨットを買ってやったとき、あれ以上のものを見つけられなかった。あのヨットが信頼にこたえてくれることを望んでいる。きみらに神のみ恵みがあらんことを」アイリーン・モーア号のために乾杯したとき、ジェニーの目に涙が光っていた。
ジェニーの父親がわたしを寝室へ案内してくれたときは、夜もだいぶふけていた。二人とも酒で体があたたまっていた。彼は戸口で立ちどまって言った。「ジェニーにばかなまねをさせないでくださいよ、ジム。あの娘《こ》は無鉄砲で、男のまねをしたがるのだ。母親は死に、弟はサン・ナゼールで戦死し、わたしにはあの娘《こ》しかいない。きみはきっと、正しいと思うことをやってくれる、とわたしは信頼している」
彼はわたしの手をとった。その指は老人らしく、カサカサしてしなびていたが、暖かい、親しみのこもった握手に、わたしは胸がいっぱいになった。「わたしは老人であることが好きだ」そう言って、彼は目をパチクリさせた。「しかし、老人であることが、わずらわしいと思うときもある。もう少し若かったら、わたしもいっしょに行きたいんだがね」
わたしは冷たいベッドにもぐったとき、いろいろな思いが心の中をかけめぐり、今夜は眠れまいと思ったが、酒で体があたたまっていたので、すぐまぶたが合わさり、深い眠りに落ちてしまった。年をとった女中のマギーに揺りおこされたときは、もう朝だった。
冷たい、すがすがしい朝で、空は青くすみわたっていた。入江の水面は、陽光にきらめいていた。山々は霧に包まれて見えなかった。ジェニーの父親は、わたしたちを見送りに、入江の岸まで来た。わたしたちが小舟でアイリーン・モーア号へ向かうとき、彼の長身の、まっすぐな姿が、黄色い浜べにポツンと立っていた。マックは下へ行って、エンジンをスタートさせた。錨《いかり》をあげると、甲板が静かに震動した。ジェニーは操舵室の中に立っていた。やがてスクリューが回転して、小さなヨットは水を切って、静かに岬のほうへ向かった。ジェニーはしばらく操舵室を出て甲板に立ち、浜べの父親のほうを見ていた。彼の姿はとても小さく、孤独に見えた。わたしたちが手を振ると、彼も手を振ったが、やがてきびすをかえして、道路のほうへさっさと歩み去り、一度もふりかえらなかった。松林の間から、朝日に溶けこんでいるれんが建ての家がちらりと見えたが、やがて岬にさえぎられてしまった。ジェニーは操舵室に戻ったとき、泣いたようだった。わたしは船首のほうへ行った。船首はアイリーン・マスダイルの白い灯台のほうに向き、その先はマル海峡だった。水面は油のように静かで、長い、低いうねりがあるだけだった。
しばらくして、わたしは操舵室にはいっていった。ジェニーは航海日誌を出していた。彼女が書きこんでいるのを、肩ごしにのぞいた。
一九四六年四月十三日、土曜日午前六時四十三分。錨をあげ、ダンスタフネージ城の下の係留所を離れ、マドンス・ロックへ向かって出発、天気快晴。
かくて、航海が始まった。
ファース・オブ・ローンで、南北風になったので帆をはり、主帆が風をいっぱいにはらむと、マックにエンジンを止めさせた。八時少し過ぎに、半分水面下にもぐっているレーディース・ロックとアイリーン・マスダイルの間を通った。灯台の下を走っている水流が、右舷側に泡だっていた。マル海峡が目前にひらけてきた。霧のベールが晴れてきて、山々のすその勾配が見えた。マル海峡にはいると風下になって、帆がダラリとなったので、エンジンをかけて海峡を通った。
正午ごろ、海峡を通過し、トバモリーを船尾にしてからは、帆は南東の風をいっぱいにはらんでアードナマーカン岬を回り、時速六ノットで、長いゆるやかなうねりのなかを進んだ。日暮れごろ、スカイ島とヘブリデス諸島の間のリトル・ミンチ海峡にはいった。翌朝、ラス岬を船尾に見るところまで来ると、灰色の空から小雨が降り、寒くなった。なつかしい山々は、もうどこにも見えない。四方八方、波高い荒涼たる海が、水平線まではてしなく続いている。
三日目が過ぎ、シェトランド諸島とファロー諸島の間を走っていたが、島は一つも見えなかった。ラス岬の沖から降り出した小雨は、依然としてやまず、視界は数マイルしかない。風は南西に変わった。操舵室のラジオの長波でよく聞こえる、空軍の天気予報では、天候はよいということだった。ま後ろから風を受けるので、船は長いうねりに押されながら、かなりの速力で北へ進んだ。エンジンの必要はなく、アイリーン・モーア号は帆に風をいっぱいはらんで、鳥のように快調に走った。
その月曜日、わたしたちがあとで行なった決定に関係のある事件がおこった。それは、午後二時をちょっと過ぎたときだった。わたしが船首で、ゆるんだ索止めを修理していると、操舵室にいたジェニーが、興奮した、あわただしい声でわたしたちを呼んだ。行ってみると、彼女はラジオを聞いていた。二人の男が話をしていた。「BBCの学校向け放送よ」と、彼女は言った。
「だれの声だかわかる?」
わたしは耳をすました。アナウンサーが「どうやって、それを見つけるつもりですか」と、きいた。
別の声が答えた。「われわれはアズデックを使います。それは戦争中、Uボートを見つけるために使った道具です。この船は、われわれが買ったとき、アズデックをつけていました」その声には、何か記憶をかきたてるものがあった。役者のようにはっきりした、通りのいい声である。
その男はまた言った。「船の位置がわかり次第、潜水夫をおろして調べさせます。わたしが確信しているように、トリッカラ号が岩だなに横たわっていれば――」
「ハルジーだ!」と、わたしは思わず叫んだ。
「そうよ、ハルジーよ」と、彼女は言った。「聞きなさい!」
放送の終わるまでに、わたしたちは必要な情報を聞くことができた。最後に、アナウンサーがきいた。「いつ出発ですか、ハルジー船長」
「きょうから一週間後に出発するつもりでしたが、道具が思ったより早く揃ったので、うまくいけば、あさってになるかもしれません」
わたしはジェニーと顔を見合わせた。あさって! そうなれば、わたしたちは五日先なだけである。あまり開きがなさすぎる。しかし、われわれに運がついていて、天気がよければ、五日でも充分かもしれない。わたしはガラス窓を通して、立ち騒ぐ灰色の海をながめていた。――一隻の船も、島影も見えない。ハルジーはニューカッスルで、引き船の甲板で話していたのだ。彼らとは、すでに遠く離れたと思っていたのに、しばらくの間、両者がつながれたことは、信じられない気持ちだった。
十二ノットを出せる、元海軍の引き船に対抗する小さなヨットにとって、五日の開きはたいして有利ではない。しかし、その週いっぱい、風は南西になったり、北西になったりして、わたしたちに幸いした。また、よい天気が続き、海もこの海域としてはおだやかだった。五日間、ヨットは約二百五十マイル離れたノルウェーの海岸を右にして、それとほとんど平行に走った。マドンス・ロックは、ベア島とヤンマイエン島とのほぼ中間にあるからだ。この間、アイリーン・モーア号は、一度も帆を使わずに、時速五ノットから八ノットを出した。
木曜日に、大きなうねりにはまりこんで、みんな吐気を催した。マックでさえ、どろんとした目をしていた。料理を担当していたバートは、青ざめた顔に汗を流しながら、調理室から出てきた。
「まったくひでや!」と、彼は言った。「胃袋がおかしくなりやがった」それからつけ加えた。「おれは、炊事とはいつも縁があるんだ。軍隊にへえってからずっと、名前がたたってきた。『おまえ――名前は何というんだ。クック? そりゃいい。炊事をやれ』と、いつもこうだ。そう言わねえ曹長は一人もいなかったぞ」バートは急に腹を押さえて、手摺りのほうへかけていった。
夜になると風が強くなり、船の動揺はいっそう激しくなったが、それだけに、小刻みな動揺よりは耐えやすかった。適応性のあるバートは、どうにか一人前の船乗りになり、その週の終わりごろには、昼間だけだが、操舵室の当番がやれるようになった。
最初の一週間、わたしは航海を楽しんだ。追い風を受け、天気はよく、海もおだやかで、あまり苦労はなかった。操舵室にはいって、ジェニーとおしゃべりをすることが多かった。ブルーのスラックスをはき、赤いタートルネックのセーターを着て、髪を後ろになでつけた彼女は、きちんとして、てきぱきしていた。しかも有能な艇長で、船の操縦を心得ていた。船はその最初の一週で千マイル近く航海した。もし行く先に横たわっている不安さえなかったら、わたしの生涯にこんな幸福な旅はなかったろう。ところが日曜日になると、北風が強くなり、晴雨計がさがり、天気予報は憂うつなことしか伝えなかった。寒い北風を送ってくる中心は、船首の左舷側にあたるアイスランドだった。日がたつにつれて寒さが加わり、いまでは冷たいみぞれが降り始め、これから先の酷寒《こっかん》が思いやられた。
しかし、わたしたちに運がついていた。月曜日は、風が南西にもどり、小型のシケが来る前に、コースをフルスピードで走っていた。二週目の中ごろになると、また晴雨計があがり、目的地まであと四百マイル少しのところを、冷たい薄日《うすび》の中を航海した。天気予報がまたよくなり、好天のときにマドンス・ロックに着ける明るい見通しがたってきた。が、心配なことが一つあった。ハルジーがあの放送のなかで、出発を四月十七日にくりあげるかもしれないと言ったことだ。もし実際にくりあげてその日に出発し、マドンス・ロックへまっすぐコースをとれば、平均約十ノットの速度として、わたしたちとの遅れを、二日に短縮することができるだろう。彼の出発日について、はっきりした情報を知らせてください、とわたしは神に祈った。彼は果たして、まっすぐにマドンス・ロックへ向かうだろうか。安全をはかり、すくなくともトリッカラ号が沈没しているとされているところへ行くふりをするだろう。わたしはこのことを、自分ひとりの胸にたたんでおいたが、ジェニーも同じことを考えていることがわかった。水曜日に、彼女が突然、こう言ったのである。
「ハルジーはどこにいるかしら、ジム。彼はマドンス・ロックへ向かって北へ行く前に、トリッカラ号が沈没しているとされているところへ行くと思うわ。あなた、そう思わない?」
「そうだといいんだがね」と、わたしは言った。
「そうにちがいないわ。引き船が正しいコースを走っているのを見たと証明してくれる船が、一、二隻あってもらいたいのでしょ。けっして、ロックへ直行しないわ――あなたに先まわりされると心配しないかぎりは」彼女はわたしをちらりと見た。「あなたは、トリッカラ号を捜しに自分で出かけるつもりなんて、彼にほのめかさなかったでしょうね?」
「むろん、そんなことはしなかったよ」
ジェニーはまゆ根を寄せた。「でも、彼は当然心配するでしょう。あなたはダートムーアから脱走できたのだから、マドンス・ロックへも行くかもしれないと思うでしょう。出発をくりあげたのは、たぶん、そのためよ。彼がいつ出発したのか知りたいわ。あの放送以来、何か発表がないかと思って、ラジオのニュース放送を全部聞いていたんだけど、何も発表はなかったわ」
もう気温がぐんとさがってとても寒くなった。たびたびみぞれが降り、視界はだいたい悪かった。しかし、風はそれまでどおり、南西から北西の間を保っていたので、ヨットは快調に走った。四月二十七日の土曜日と二十八日の日曜日に、雲間に見えた太陽の高度を測ることができ、ヨットの位置を確認できた。だいたい追風を受けて、コースから少しもそれなかったので、わたしたちの計算とほぼ一致していた。「ロックの南々西約八十五マイルのところだよ」と、わたしは舵輪をにぎっているジェニーに言った。
「いつ着くと思う?」
わたしは腕時計を見た。三時半だった。海はかなり荒く、時速四ノット少しで走っていた。
「あすの正午ごろだろう」と、わたしは言った。「いまの速力を保てばね」
ジェニーはうなずいた。「すてきだわ。うまく間に合うかもしれないわ。いま、ラジオの天気予報を聞いたんだけど、あまりよくないのよ。後ろのほうから天気がくずれてくるんですって。晴雨計がさがってきたわ。シケに会うかもしれないわ」
「まあ、これまでは運がよかったからね」と、わたしは言った。
ジェニーはいきなりわたしのほうを向いた。「海がこんなにおだやかでも、トリッカラ号には着けないかもしれないわ、ジム。どんな場所かわからないでしょ。ランキンはトリッカラ号を座礁させたと言ったわね。ということは、暗礁の内側よ。そうでしょ?」
「そうだ」とわたしは言った。「暗礁のギャップを通ったと言っていた」
「そのギャップは、海の静かな日にしか、通れないかもしれないわ。わたしの本に、≪この島に人間が上陸した記録は十以上はない≫、と書いてあったのを忘れないで。きょうはおそらく、この辺としてはおだやかなのよ。でも、海は広いわ。現在マドンス・ロックは、たぶんしぶきに隠れ、暗礁のギャップは、波で近寄れないでしょうよ」
「やつらがトリッカラ号を座礁させ、これより小さなボートで、暗礁のギャップを通り抜けてきたことを忘れちゃいけないよ。ぼくたちが船を放棄してから、やつらがファロー諸島近くで救助されるまで、二十一日しかたっていないんだよ。やつらはすぐトリッカラ号を暗礁に入れて、ボートで脱出したにちがいない」
「天候に恵まれたのかもしれないわ。わたしたちも天候に恵まれるよう、祈りましょう。うまくいっても、ハルジーが引き船で着くまでに、二、三日しか余裕がないわ。それまでに暗礁にはいれなかったら――せっかく来たかいがなくなるわ。証拠をつかめないでしょ。そこで、暗礁の中でハルジーにつかまったら――」
彼女はあとを言わなかった。
「ぼくたちはいままで運がよかった」と、わたしは言った。「何とかうまくいくさ」
ジェニーはまともにわたしのほうを向いた。
「ジム、ランキンはたしかに、本当のことを言ったと思う? だって、船を座礁させて、一年以上もの間、銀塊を船に残したままにしておくなんて、途方もない話のような気がするからよ。あなたからその話を聞いたときは、本当らしく思ったわ。でも、オーバンだったでしょ。いま、この荒海の中にこうしていると、――ばかげた話のような気がしてくるのよ」
「ぼくもきみと同じ気持ちだ。しかし、あのときは絶対に本当の話だと思った。ランキンがあんな途方もない話を、でっちあげるはずがないと考えたんだ」わたしは肩をすくめた。「まあ、とにかく、あすになればわかるさ――天気がもてば」
それに答えるかのように、ラジオから天気予報が聞こえてきて、二人の会話は中断された。予報を聞いているうちに、わたしの心は沈んだ。現在、ヘブリデス列島からアイリッシュ海にかけての海域に、大風警報が出ていた。そして、スコットランドの北方の中部大西洋は、全般的に天候が悪く、強風が吹いているとのことだった。その夜、晴雨計がぐんとさがり始めた。
翌朝、海の状態は変わらなかったが、風がつのってきた。ときどき突風に襲われると、アイリーン・モーア号は急にかしぎ、第一斜檣《バウスプリット》が波の背に深く突っこんだ。その午前中、風は方向も強さも気まぐれだった。アイリーン・モーア号はそれによく耐えたが、コースを保っていくのは容易でなかった。みぞれは降らなかった。しかし、雲が低くたれ、視界は二、三マイル以上はなかった。晴雨計はさがり続けた。天気予報は、どれもみんな悪かった。わたしは努めて平気な顔をしていたが、内心ではこわかった。後ろから悪天候が襲いかかっているにちがいないのに、海図にもよく出ていない暗礁に囲まれた島に近づいている。わたしがいちばん心配したのは、夜にならないうちに、マドンス・ロックを見つけられないかもしれないということだった。夜になったら、大風に巻きこまれるだろう。めざす島を通り越したのも知らずに、あらしの海を走っていることを考えると、ゾッとした。
正午になった。視界は依然として最大限三マイル以上はない。シュラウド〔マストのいただきから両船側に張る横静索〕は風を切ってうなり始め、突風が波を砕いて、デッキに大きな水しぶきのカーテンをかぶった。縮帆したが、それでもヨットは傾き、船首を海に突っこんだ。
バートはコップを二つ持って、よろめきながら操舵室にはいってきた。「さあ、お茶を持ってきたよ。一つは艇長、一つはおめえだ」彼はコップを海図台の上に置き、「もう近いのか」と、きいた。
「もうすぐだ」と、わたしは自信があるように答えた。
「ひどくシケるな」バートはにやっと笑いながら言ったが、内心びくびくしているのを隠せなかった。「こうやたらに揺れたんじゃ目がまわっちゃう。マックが、暴風が来ると言ってたが、あのじいさん、匂いでわかるのかな」
わたしは茶を飲んでから、上下に激しく揺れるデッキに出た。視界はますます悪くなってきた。目をこらして鉛《なまり》のような薄暗がりをのぞいたが、周囲に逆巻《さかま》く灰色の海のほかは、何も見えない。ときどき、波頭が砕けて、ヨットはしぶきに包まれた。バートも出てきた。「通り越したんじゃねえか」と、彼はきいた。
「わからない」わたしは腕時計を見た。一時に近づいていた。「そうかもしれないな。漂流距離を正確に修正することはむずかしい」
「ロックはまだ見えない、ジム?」ジェニーが操舵室から叫んだ。
「見えない。影も形も見えない」と、わたしは叫びかえした。
「ここは寒いな」と、バートが言った。「ほしいときには、うまいシチューができてるからな」それから「おーい、マック」と呼んだ。
老人は下から出てきて、猟犬のような鼻をひくひくさせて、空を仰いだ。
「ここへあがってきて、もういっぺん匂いをかげよ」と、バートが言った。
「じいさん、けさはリウマチがおきたってボヤいていた」
「後ろのほうはひどく天気が悪いぞ」と、マックが言った。それからケラケラ笑ってつけ加えた。「海が荒れてきたら、シチューのことなんか、心配しなくてもいいぞ」
「おめえは元気なじいさんだな。おれも心配しねえよ」と、バートは答えた。それから彼は、いきなりわたしの腕をつかんだ。「おい、ジム、ありゃ何だ。まっすぐ前だ。こっちへ来いよ。そこじゃジブ〔船首の三角帆〕が邪魔になって見えねえ」彼はわたしをわきへ引っぱった。「そら、見えるだろ。あの白いかたまり、どうも気に入らねえな」
まっすぐ前方、約一マイルのところで、海はまるで津波のときのように、立ち騒いでいた。わたしはジェニーに叫んだが、彼女はすでにそれを見ていた。「準備をして!」と、彼女はどなった。
砕け波は、白い泡の大きなかたまりに隠され、風が灰色のしぶきのカーテンを張っていた。わたしはそのとき、それが何かわかった。――水中に没している岩だ。
「さ、早くかかれ!」と、わたしはバートに叫んだ。まもなく、アイリーン・モーア号は方向転換をし、帆を激しくぱたつかせながら、真東に向いて走っていた。もぐっている岩はもう、遠く左舷側になった。しばらくすると、泡のかたまりの向こうに、しぶきのカーテンのすき間を通して、一瞬、何か黒い無気味なものが見えた。「あれ、見えるか」と、バートがきいた。
「見える。ロックだ」わたしはジブを直しながら叫びかえした。
「また見えなくなった」と、バートが言った。「大きなしぶきに隠れて見えねえ。いや、また見えた。――見ろ!」
わたしは体をおこして、バートの伸ばした腕の方向を目で追った。一瞬、しぶきのカーテンがひくと、海面から数百フィートの絶壁がそそり立つ巨岩が目に映った。その根本では、波が泡をたてて、のた打ちまわっていた。見ていると、やがて大波が絶壁高くはいあがり、まるで水中爆雷が爆破したように、絶壁一面が白波に包まれた。次の瞬間、絶壁はしぶきにおおわれ、鉛色の霧のカーテンのほかは、何も見えなくなった。
「また見えなくなった」と、バートは叫んだ。彼の声は、興奮と畏怖《いふ》でかん高くひびいた。「あの波を見たか。あんなところに船を座礁させるやつはないだろ」
その恐ろしい光景を見て、わたしはなぐられたようにショックをおぼえ、体からすっかり力が抜けてしまった。
「そうだな」と、わたしは言った。どんな船でも、あんなところで無事にはいられない。しかも、きょうは比較的おだやかな日だ。大風のときは、いったいどんなだろう。わたしは後ろに迫っている大風のことを考えた。「きみら二人はここにいろ」と、わたしはバートとマックに言った。
「そして、暗礁がどこにあるか注意していてくれ。おれはジェニーと交代して舵輪につく」
「はい」と、マックは言った。「ミス・ジェニーに、まだ方向がわかる間に、この水域から出るように言ってください」
「ばかに悲観的だな、おめえは」バートはから元気を出し、そう叫んだものの、おびえた顔をしていた。
わたしは操舵室へ行った。ジェニーは両足をふんばり、体を緊張させて、舵輪につかまっていた。彼女は頭を少しかしげて、帆を見守った。「少しかわろうか」と、わたしは言った。
彼女は舵輪をわたしに渡し、航海日誌を取りあげた。
「あれ、マドンス・ロックかしら」と、彼女は疑わしげに言った。
「間違いない、とぼくは思う」
彼女はうなずいて、航海日誌に書き入れた。
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四月二十九日、月曜日、午後一時二十六分、マドンス・ロックを見つける。風が強くなってきた。大風になる模様。
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彼女は航海日誌をとじて体をのばし、風防ガラス越しに外をのぞいた。「あんなところに、船が一年も無事に残っているチャンスがあると思う?」と、彼女はきいた。
わたしは、しぶきのすきまから瞬間的にロックが見える、左舷のほうへ目をやった。「そうだね。やつらがもし、本当にあそこに座礁させたとすれば、無事に残っていると考えるだけの根拠があるにちがいない」
また、ちらとロックが見えた。アザラシの背中のように、黒くなめらかだ。形は西側がきりたった絶壁で、東側がスロープになっているくさび形である。ヨットはその南側に沿って走っていた。距離は三マイルほどである。いちばん近い暗礁まで、たっぷり一マイル、あるいは二マイルはあるだろう。
「もう少し近寄ったらどうだ」と、わたしは言った。「マックは天候のことを心配していて、大風が来ないうちに、暗礁から離れたほうがいいと言っている。彼の言うことはもっともだが、ぼくはできるだけ暗礁に近づいて、それに沿って走り、ギャップが見つけられなければ、あるいはギャップがあっても通れなければ、大風が来る前に、東へそれるといいと思う」
「オーケー」ジェニーはそう言って、ふたたび舵輪をとった。泡だつ寄せ波に半マイルほどのところまで来たとき、また東へ曲がり、寄せ波の線を東に見て走った。島と完全に平行する位置になったとき、島をよく見ることができた。この島をどうしてマドンス・ロックと呼ぶか知らない。白クジラと呼んだほうが適切だ。べったりした鼻のついた、ハンマーのような頭を西に向けているクジラそっくりだ。暗礁に押し寄せる波の、ものすごいひびきが、風の音を圧して聞こえてくる。
視界が少しよくなり、島に平行してのびている暗礁を見ることができた。こんな無気味な海を見たことがない。暗礁を形成している岩は、地表の変動によって突き出た岩棚《いわだな》でできているかのように、かなりの高さのようだった。それらの岩は、ほとんど水面下にもぐっていたが、波が引くと黒い岩肌を見せて水を吐き、その水が次の波に押しあげられるのが見えた。わたしは望遠鏡をとって島を観察した。まるで数百万年にわたって氷と海でみがかれたように、すべすべである。
バートがそのとき操舵室にはいってきた。
「きれいな島じゃねえか。おれにも望遠鏡をのぞかせてくれねえか」と、彼は言った。わたしは望遠鏡を渡してやった。「あと二、三時間で暗くなるぞ」と、彼はつぶやいた。
「マックの言うようにしたほうがよくねえか。夜、こんなところに錨《いかり》をおろせねえぞ」望遠鏡をのぞいていたバートが、急に体をこわばらせた。
「おい!」と、彼は興奮して叫んだ。「あの遠くのほうにあるのは何だ。――岩か? 防空壕のように四角い。四角くて黒い。おめえ見てみろ」彼はわたしに望遠鏡を渡した。「島が傾斜して、海にへえってるところだ」
わたしはすぐそれを見つけた。島の東側の下のほうに、クジラのヒレのようなものが見えた。
「見つけた」と、わたしは言った。「岩じゃない。岩なら、島のほかのところと同じように、摩滅してすべすべなはずだ」そのとき、それが何だか気がついた。
「こりゃ驚いた!」と、わたしは叫んだ。「煙突の先だ」わたしは望遠鏡をジェニーの手に押しつけて、舵輪をとった。「あれはトリッカラ号の煙突だ。トリッカラ号は、島が傾斜して海にはいっている、あの肩の反対側に座礁しているのだ」
「空軍は見つけなかったのかな」と、バートは言った。
「見つけるはずがあるか」と、わたしは言った。「パトロール機がこんな北まで来たかどうか怪しいものだし、来たとしても、視界がいつも悪かったにちがいない。とにかく、発見したとしても、難破船があったと報告しただけだろう」この恐ろしい海に、丸一年もそっくり残っているものがあるとは、信じられないことだった。
ヨットを暗礁に沿って走らせながら、遠くの四角いものが、はっきりと煙突の形になっていくのを見守っている興奮に埋没して、わたしたちはしばらくの間、大風が近づいていることも、ヨットの位置が危険なことも忘れていた。まもなく、マストと船の上部構造の一部が見えてきた。まったく信じられないようなことだったが、トリッカラ号はまさにそこにあった。
暗礁は長い人さし指のような形で、狭く東にのびていた。ヨットはその先端を回って北へ進んだ。マドンス・ロックの尻尾の東二マイル近くのところまで来ると、トリッカラ号の全容を見ることができた。望遠鏡で見ると、船は陸にあがった魚のように、盛りあがった狭い浜べに、高々と、水をかぶらずに横たわっている。妙な格好に傾き、赤さびだらけである。黒い、なめらかな岩の肩が二つ、狭い浜べを包んでいて、トリッカラ号を風から守っている。しぶきのカーテンが島の背をおおい、西端の絶壁にぶつかる波が、白い泡を高くとび散らすので、ときどき、島も船も見えなくなった。
もう、二マイルと離れていなかった。――五十万ポンドの銀塊を積んだ五千トンの貨物船は、風下の浜べに錨をおろしている。ハルジーの引き船は見えない。わたしたちがほしかった証拠は、もう手の届くところにある。しかし、わたしたちと、風から守られているその浜べとの間には、荒い海がある。暗礁は、絶壁の西岸を除き、島全体を取り囲んでいるようだったが、東のほうに、半分水にもぐった暗礁でなく、ぎざぎざにとがった岩が海面に突き出て、その間を波が踊っている個所があった。
そこまで半マイルぐらいまでのところに近づいたとき、ギャップが見えた。いや、ギャップと思ったものが見えた、と言うべきかもしれない。泡におおわれていて、よくわからなかったからである。時間は、三時少し過ぎだった。東側には暗礁はないようだったので、ほかにギャップがあるかどうか確かめるため、なおも北へ行ってみることにした。四時ごろには、島の周囲の暗礁に沿って、北西へ進んでいた。ギャップらしいものは見つけられなかった。トリッカラ号は、ロックの北側の肩に隠れて、だんだん見えなくなった。風をほとんど真正面に受けながら苦心さんたんして、大きな寄せ波の線に沿ってもとの場所に戻った。やっぱりあった。トリッカラ号が横たわっている浜べの向かい側に、ギャップがあった。
そのギャップへたどりつくのに、一時間近くかかった。みんな、あまり口をきかなかった。下さなければならない決断に、だれもが恐れをなしていたのだと思う。もう、風がつのってきて、晴雨計はそれまでの最低にさがった。だが、島の風下では、海はそれほど荒くはなかった。この海域で、悪天候のあと、数週間も続くと思われるような、大きなうねりはなかった。下さなければならない決断は、まっすぐギャップにはいっていって、ギャップをおおっている荒い、寄せる波に圧倒される危険を冒すかどうか、ということである。
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八 トリッカラ号
やっと、ギャップのまん前に来た。ジェニーが舵をとっていた。ギャップの様子をよく見るために、彼女はアイリーン・モーア号をゆっくりと近づけた。入口は四分の一マイルも離れていなかった。ギャップであることに、もう間違いはなかった。入口の左側の岩だなに、大きな岩が灯台のように立っている。波がその岩に砕けて高いしぶきをあげ、巨大な白波の壁が、幅五十フィートはたっぷりあるギャップにたたきつける。反対側に押しかえされた波は、そこでまた新しい波となり、岩にぶつかった波と途中でぶつかると、低くたれこめた雲にまで届くと思われるような、巨大な水柱がたつ。これが絶え間なくくりかえされている。ときどき、しばらく静かになることがある。ギャップがはっきり見えるのは、そのときである。その先の、トリッカラ号が座礁しているところでは、両側が暗礁に囲まれているので、波は比較的静かである。
「ここをうまく通れると思う?」と、ジェニーがきいた。「いま、決心しなければいけないわ。風が強くなってきたし、もうすぐ暗くなるわ。決心しなければいけないわ」彼女は自信なさそうに、ギャップを見つめていた。アイリーン・モーア号は激しく揺れていた。ジェニーは舵輪をしっかりにぎりしめて、わたしのほうを向いた。「危険を避けて、戻りましょうか。それとも、チャンスを頼んではいりましょうか」
わたしは、どう答えていいかわからなかった。トリッカラ号は手の届くところにある。だが、アイリーン・モーア号が岩にぶつかってこわれ、ジェニーが波に呑まれることを考えると、こわくなった。「きみが艇長なんだよ、ジェニー」と、わたしはやがて言った。
「無理言わないでよ、ジム」とジェニーは叫んだ。「わたし、こんなこと、自分で決められないわ。いままで二週間、天候はだいたいよかったでしょ。マドンス・ロックとしては、きょうはおだやかなのかもしれないわ。大風がおさまるまで、どこかで待てば、ここまで来るのに、また何週間かかるかわからないし、そのときにはもう、ハルジーが来ているでしょ。わたしが決心するのを助けてよ。もしあなたとバートとマックの三人だけだったら、あなたはどうする」
「わからない」と、わたしは言った。そんなこと、考えてもいなかった。「きみが自分で決めなければならないよ。きみが艇長なんだし。これはきみの船じゃないか。決めるのはきみだよ」
ジェニーはまゆ根に少ししわを寄せ、灰色の目でじっとわたしを見つめた。髪に塩が光っていた。「あなたなら、すぐはいるでしょ?」と彼女は言った。
わたしはギャップのほうを見た。大波が岩だなに押し寄せ、大きなしぶきをあげて砕《くだ》けたあと、前の波の引きかえしと衝突して、たてがみをふり乱した巨大な馬のように、空中高く躍りあがった。「ぼくにはわからない」と、わたしは言った。
わたしは、ジェニーに見つめられていることを意識した。彼女は突然、緊張した低い声で言った。「マックに、エンジンをかけろと言ってちょうだい」
「きみは、はいるつもりか」と、わたしはきいた。
「ええ」彼女の声は緊張していたが、その口調で、決意のほどがわかった。
「きみは意地をはってるんじゃないだろうね」と、わたしはきいた。「どんなことになるか。わかっているのか。きみがこれまで経験したどの海よりひどいのだよ。――うまくやれる公算は少ない」
「マックに、エンジンをかけろと言ってちょうだい」ジェニーはわたしの言ったことには返事もせず、同じ言葉をくりかえした。
わたしは、これ以上議論するのをやめた。
「エンジンがかかったら、帆をしまわせてちょうだい」わたしが操舵室のドアをあけたとき、彼女はつけ加えた。「それから、みんなに救命衣をつけさせて。わたしは自分のをここに持っているわ。船を寄せ波の中で安定させるために、シーアンカー〔海錨〕を船尾から流しておく必要があると思うわ」
「オーケー」と、わたしは言った。「シーアンカーの引き綱を、四|尋《ひろ》くらいにしておこう」
マックはエンジンをかけた。デッキの震動は気持ちがよかった。バートとわたしは帆をおろし、ジェニーはアイリーン・モーア号の船首をギャップのほうへ向けた。わたしたちは帆をしまい、すべての物を当て木で締めつけ、シーアンカーを船首から海に投げこんだ。それがすむと、わたしは操舵室に戻った。風防ガラスを通して、まっすぐ前にギャップが見えた。距離はもう、二百ヤードぐらいしかなかった。この距離から見ると、左手の高い岩に押し寄せる波が、山のように巨大に目に映じた。ギザギザの波頭は急にもちあがり、くずれ、ものすごい勢いで岩にぶつかる。その音は雷鳴のようで、あたりの海の騒音を圧していた。
ジェニーは舵輪をにぎって、まっすぐ立っていた。目は正面に据えられている。わたしの胸に、誇りといつくしみの混じり合った感情がこみあげてきた。彼女はか弱い女性だが、泰然として恐ろしい波に直面している。わたしは彼女の後ろに近づいて、肘《ひじ》に手をかけた。
「ジェニー、もしこれがうまくいかなかったときのことを考えて、きみに知っておいてもらいたいのだ――ぼくはきみを愛しているということを」
「ジム!」ジェニーはそれだけしか言わなかった。波の音でほとんど聞こえないくらいだった。彼女は首をめぐらしもしなかった。
「それは――ぼくを愛しているという意味かい」と、わたしはきいた。
「もちろんよ、ダーリン」ジェニーが頭をかしげると、二人の頬は触れ合った。「わたしがなぜ、ここに来たと思うの」彼女は半分笑い、半分泣いていた。それから体をまっすぐに起こし、事務的になった。「マックに、エンジン・ルームから出ろと言ってちょうだい。船がひっくりかえるかもしれないでしょ。出られなくなると困るわ」彼女が震えているのがわかった。わたしは肘を離し、マックにどなった。「エンジンをフルにかけておけとマックに言ってちょうだい」と、彼女はわたしに叫んだ。
マックが下から出てきたので、ブイの引き綱を渡した。わたしはバートも操舵室に呼んだ。とにかく、操舵室にいればいくらか安全だ。わたしは舵輪に戻った。この荒波の中では、二人が舵輪についている必要があると思った。
「とんでもねえ!」バートは操舵室にはいって、ドアをしめながら叫んだ。「ここを通るってんじゃねえでしょうね。ミス・ジェニー。あの波の向こうは何も見えませんぜ。――岩がたくさんあるかもしれねえ」
「暗礁をぐるっと回って戻ってきたんだ」と、わたしは言った。「これはギャップにちがいない。トリッカラ号が岩にぶつからずに通れたなら、この大きさの船に通れないはずはない」もう、すぐそばまで来ていた。波の砕ける音は、山のような寄せ波の逆巻く音に消された。「これまでに、こんなの見たことがあるか」と、わたしはマックに大声できいた。
「見たことはありますがね」と、マックは渋い顔で答えた。「だけど、こんなちっぽけな船で通り抜けたことはありませんや。エンジンをかけたって役にたちませんよ、ミス・ジェニー」
「エンジンなんてどうだっていいのよ、マック」と、ジェニーはどなった。「大波にぶつかったとき、船がこわれさえしなければね」
彼女の口調は少し乱暴だった。わたしは操舵室の中を見まわした。みんな救命衣をつけていた。だれの顔も青白く、緊張していた。
「引き綱を持ってるわね。マック」と、ジェニーがきいた。「寄せ波で揺れはじめたらすぐ、それを放してちょうだい。寄せ波にはいったら、シーアンカーの重みが必要だから」
マックにそんなことを言う必要はない、とわたしは思った。彼はふしくれだった手に引き綱をにぎりしめ、目をこらして前方を見つめていた。
日の光は、薄い灰色だった。大きなしぶきの板が風防ガラスをたたきつけ、ガラスから絶えず水が流れていた。エンジンを全開にして、アイリーン・モーア号は時速約七ノットで、まっすぐギャップの中央へ向かっていた。入口の両側の岩が、だんだん迫ってきた。二十ヤードほど前に、大きな水柱がたちのぼった。それがおさまった瞬間に、トリッカラ号がはっきりと見えた。
アイリーン・モーア号は突然、返り波を受け、一瞬、逆戻りするかと思われたが、ふたたびギャップへまっすぐ突っこんでいった。エンジンが全開なので、ジェニーは突っこむときを自由に選ぶことはできなかったが、それはたいして問題にはならなかった。いずれにしても、大きな寄せ波を避けるすべはなかった。
「しっかりつかまって!」と、ジェニーが叫んだ。「さ、行くわよ」わたしはジェニーの手の上に自分の手を重ねて、舵輪をつかんだ。アイリーン・モーア号はぐっともちあがって、大きな波頭へ向かって前進した。
わたしはちらと左手を見た。高い岩が、巨人のようにそびえ立っていた。その巨大な根本が、しばらく波の谷間に見え、岩肌から水が滝のように流れた。アイリーン・モーア号を前へ運んでいた波が、くずれながら岩の根元に集まり、やがて巨岩にたたきつけられた。船は波の背からすべり落ち、船首が銀色の空を向いたと思うと、大きな寄せ波の壁が、ものすごい音をたてて船首を洗った。つかんでいた舵輪がぐらっとして、船首が揺れた。
ジェニーは舵輪をぐるぐると忙しく回転させた。アイリーン・モーア号は、シーアンカーを船尾に引っぱりながら、ゆっくりと回り、おびえた馬のように尻ごみした。「あれを見ろ!」と、バートが叫んだ。「おめえのすぐ後ろだ」
わたしは首を回した。船はもう、ギャップの入口の内側にはいっていた。巨岩の根本の向こうに、大きな波が盛りあがっていた。山のように高く見えた。砕ける波頭から、風に吹かれた白髪のような細かいしぶきがあがり、やがて波頭がくずれて、アイリーン・モーア号めがけて襲ってきた。わたしたちの小さな船は、押しつぶされるかと思われたが、間に巨岩の根元があったので、波はものすごい音をたててそれにぶつかった。次の瞬間、返り波がなだれのように船に襲いかかった。風防ガラスは貝がらのようにたたきこわされ、泡だつ海水が操舵室にドッと押し寄せた。船は傾き、引っくりかえり、水中にもぐってしまった。わたしは何も見えず、息をすることもできず、溺《おぼ》れ死ぬと思った。胸が押しつぶされそうな水圧を感じ、必死になって舵輪にしがみついたときは、腕が折れそうになった。船は大きな滝を落下するかのように、奈落の底に放りこまれた。
しばらくすると、船は奇跡的に、ガクンという震動とともに上に向き、今度は空へ向かって放りだされ、水がドッと舷側から流れ出た。操舵室からも、わたしの足をひっぱりながら水がひいた。スクリューは水から出て空まわりした。それから船はたたきつけられるように水面に戻った。
ありがたいことに、船首はまだトリッカラ号に向いていた。スクリューがふたたび船を前進させ始めた。シーアンカーの引き綱は、切れてしまい、もう、何も船を押さえるものがない。にぎっていた舵輪がはねあがって、思うように動かなかったが、わたしはどうにか船のコースを保った。目のすみに、巨岩の向こうで次の波が盛りあがるのを見た。まもなく、大きな寄せ波が襲いかかってきて、船はまたもや、波の底に沈んだ。しかし、今度はあまり傾かず、船は前進を続けた。前方を見ると、水面が比較的おだやかである。わたしたちは難関を突破したのだ。二番目の寄せ波が、船を、まるで波乗り板のようにギャップから押し出したのだ。
「ジェニー――やったぞ」と、わたしは叫んだ。
彼女は床に横たわっていた。顔にかかった髪がぬれている。バートは頭の横にひどいけがをして、ジェニーの足の上にのびていた。立っているのはマックだけだ。「エンジン・ルームへ行って、速力を落とせ、マック」と、わたしは叫んだ。
「はい」と、マックは答えた。
ジェニーは身動きし、目をあけ、口を大きくひらいて、驚いたような顔をしてわたしを見つめた。悲鳴をあげるのかと思ったが、急に落ち着き、グッと息をのんでから、言った。「通り抜けられたの、ジム?」
「そうだよ。通り抜けたよ。きみは大丈夫かい?」
ジェニーは手を頭にやった。「ええ――大丈夫だと思うわ。倒れるとき、何かにぶつかったにちがいないわ」
彼女はおきあがり、目にかぶさっていた濡れた髪を払った。バートがうなった。「あなたはどう、バート?」と彼女がきいた。
「腕ですよ」バートはまたうなった。「折れたようだ」ジェニーがそばにひざまずくと、バートは、「いや、大丈夫ですよ、お嬢さん」と言った。
エンジンの回転がゆるくなった。ガラスのこわれた窓から冷たい風がわたしの顔を切るように吹きつけた。大きな雨雲のかたまりが、紙きれのように空を走り抜けていった。水面は波だっているが、ここは島の風下だから、波に力がない。わたしはゆっくりと船を浜べに近づけた。一部分水につかっている、トリッカラ号のさびた船尾の近くまでくると、マックにエンジンを止めさせ、よろけながら船尾へ行って、錨をおろした。
アイリーン・モーア号はひどい状態だったが、マストはまだ立っていた。船尾につないであった小舟も、無事だった。ひどい損害を受けたのは操舵室だけのようで、左舷側はめちゃめちゃにこわれ、窓という窓は全部、ガラスがとばされていた。ガラスで切ったわたしの腕から、血がしたたり落ちていた。ふたたび船尾へ行った。「腕の具合はどうだ、バート」とわたしはきいた。
「動かせるか」
「うん――大丈夫だ。羅針儀箱《らしんぎばこ》にぶつかっただけさ」彼は急ににやっと笑った。「畜生、ひでえ海だったな」
ジェニーはほほえんでいた。大丈夫のようだった。「わたしたち、とても幸運だったと思うわ」と、彼女は言った。それから急に身を乗り出して、わたしの口にキスした。彼女の唇は暖かくて柔らかく、そして塩からかった。
「あなたは、これまで会った船乗りのうちで、いちばん優秀だわ」と、彼女は言った。それから急いでつけ加えた。「さ、下へ行って、かわいた衣類があるかどうか、見てみましょう。そのあと、みんなの傷に包帯をしてあげるわ。みんな、少し手当てが必要でしょ」そのときわたしは、彼女の首すじに血がついているのに気がついた。
デッキの下は、すべてが混乱状態だった。寝床は壁からねじりとられ、ランプや陶器類はこわれ、ロッカーのとびらはあいていた。衣類や本は床に散らばり、食糧やこわれたびん、陶器類とごっちゃになっていた。しかし、どれもぬれてはいなかった。ハッチはあかなかったし、アイリーン・モーア号の丈夫な木材が、ゆがみに耐えたのである。ただエンジン・ルームだけが、操舵室からおりるはしごから流れこんだ水で、半分水びたしになっていた。
わたしたちは、ひどい目にあったわりにはあまりたいしたけがはしていなかった。傷の手当てをし、かわいた衣服に着替えると、エンジン・ルームの掃除をマックにまかせ、小舟を舷側に引っぱってきた。小舟は奇跡的に、いたんでいなかった。わたしたちはまず二番目の錨を出して、船首と船尾をしっかり安定させてから、小舟に乗ってトリッカラ号へこいでいった。
トリッカラ号は、船尾が少し水につかっているだけだった。波が、上下二枚のスクリューの下の翼にぶつかって砕けていた。舵は赤さびていた。船体も同様である。砂利浜に乗りあげて固定し、右舷側に十五度ほど傾いている。驚いたことに、竜骨も折れておらず、鉄板にも損傷はないようだ。まるで造船台に乗っていたようだ。船首から出した二本の太い索が、浜べを縁《ふち》どっている低い岩棚にくくりつけてある。船尾では、島の南肩から防波堤のように出ている岩に、一本の索を結びつけ、もう一本の索は、水中の錨につないである。
わたしたちは船尾を回ってこいだ。舷側は垂直に立ちあがっている。ロープはさがっていない。浜べに乗り入れると、小舟をこわすおそれがある。アイリーン・モーア号に引きかえして、軽いロープを持ってきた。わたしはそれを、さびた三インチ砲のそばの手摺りにひっかけて、甲板によじ登った。どこもここもさびていた。歩くと、さびのかけらがはがれた。しかし、さびの下の鉄板は、しっかりしているようだった。ブリッジの右舷側のすぐそばに、たたんで手摺りにくくりつけてあった、綱ばしごを見つけた。それを船尾へ持っていき、まもなく、わたしたちは全部甲板にあがった。
「銀塊は、まだ船にあるのかなあ」と、バートははしごを登りながら言った。
わたしもそれを考えていたのだ。わたしたちは甲板室のほうへ行った。
「このいまいましい警備室に、またお目にかかるたあ、思わなかったな」と、バートが言った。とびらにはナンキン錠もなかった。とびらを体で押してみると、驚いたことに、動いた。さびた端を力いっぱい引くと、とびらはゆっくりとすべった。部屋の中には銀塊の箱が、わたしたちが置いていったままあった。ハンモックも、箱と箱との間につったままになっていた。わたしたちの衣類は、あたりに散らばっていた。
「だれも来なかったようね」と、ジェニーが言った。
「ハロー、ハロー」と叫びながらバートは中にはいってきた。「だれかこの箱をいじったぜ。これを見ろよ、ジム。ふたがあいている。おれとシルズがあけたやつじゃねえ」彼はふたを放り投げた。「おかしいな。やつら、何もとってねえ。見ろ――あそこの小さな箱もあいてるが、銀塊はちゃんとへえってる。ハルジーのやつ、行くときに、とびらにナンキン錠をかけて封印をしていったにちげえねえ、と思わなかったか、ジム。だのによ、とびらにナンキン錠もかけずに、銀塊をここに残しておくたあ、いってえどういうことだ」
「こんな極北には、あまり泥棒はいないよ、バート」と、わたしは言った。
「泥棒はいねえだろうさ。だが、船乗りがここに上陸して、この船を見つければ、食糧とか衣類とか、何か、かっ払っていけるものはねえかと捜すだろう。とびらがしっかりしまっていりゃ、骨折ってあけることまではしねえだろうが――しかし、こんなふうにあいていれば――どうぞ盗みなせえと、誘いをかけてるようなもんじゃねえか。おれはそれを言ってるんだ」
わたしも、それには同感せざるを得ない。ハルジーがこれほど不注意とは、まったく考えられない。わたしは外に出て、とびらを見た。ナンキン錠のとめ金が二つ、外側にあったが、ナンキン錠はない。よく見ると、とびらのふちがところどころ光って、さびの下からきれいな金属が見えた。赤さびを払ってみると、たがねの跡がはっきりとわかった。「おい、来て見てみろ、バート」と、わたしは言った。たがねの跡は、とびらのまわり中にあった。露出している金属は、ギザギザになっていた。
「溶接だ」と、バートが言った。「そうにちげえねえ」
「ハルジーは行く前に、とびらを溶接したというの?」と、ジェニーがきいた。
「それにちげえありませんよ、お嬢さん」
「じゃ、だれがそれをこわして、とびらをあけたの」
「そうだよ」と、わたしも言った。「とびらをあけながら、銀塊を一本も持っていかなかったのは、いったいだれだ」わたしは不審にたえなかった。だが、銀塊はちゃんとある。それが大事なことだった。「いま、そんなことを気にしたってはじまらないよ」と、わたしはつけ加えた。
「五人の悪人が船にいた間に、どんなことがおこったかわかりゃしない」
「そうね。でも、いったん溶接しておきながら、骨を折ってたがねでこわすとは、どうしてもおかしいわね」ジェニーはいぶかしげにまゆ根にしわをつくって、とびらを見つめていた。
「さ、仕事にかかろう」と、わたしは言った。「もうすぐ暗くなる。明るいうちに、ほかを見てまわろう。あのとびらの謎は、永久に解けないミステリーかもしれないよ」
わたしたちは船首のほうへ、それからブリッジへ行った。トリッカラ号の甲板を歩くのは、妙な気持ちだった。わたしはブリッジにのぼった。船がまだ浮いているように、すべてがきちんとしていた。ただ、さびと、厚い塩の層が、時の経過を物語っていた。海図がしまってあるところに、望遠鏡まであった。船首のほうを見ると、孤独そうな三インチ砲が、長い間忘れられている戦争の遺物のように、ちょこんと据えられていた。起重機にかけられた古い防水布が、風に揺れている。船首の向こうで、島は低い岩だなのふちから、上へ高く傾斜している。植物は何もない。あるのは岩だけで、まるでみがいたようにすべすべしている。望遠鏡ではじめて見たときと同様、岩は黒くて、ぬれている。わたしはゾッとした。こんな荒涼たる場所は、見たことがない。またギャップを通って、外に出られるだろうか。こんな所に島流しになったら――それこそ生きながらの地獄だ。
下の船室では、すべてが清潔で、きちんとしていた。急いで出ていった形跡はない。わたしはハルジーの部屋にはいって、引き出しをかきまわした。紙、本、古い定期刊行物、海図と地図、割りコンパス、ルーラー、シェークスピアおよびブラドリーの『シェークスピア悲劇論』などがあったが、手紙も写真もなく、彼の経歴の手がかりになるような物は、何一つなかった。
ジェニーが呼んだので、ドアのところへ行った。
「こっちにいらっしゃい。あなたに見せたいものがあるのよ」と、彼女は言った。
ジェニーとバートが、高級船員の食堂にいた。はいっていくと、彼女は「見てごらんなさい」と言って、テーブルを指さした。テーブルには支度がしてあった――一人前の。皿にのった茶のカップ、あけたマーガリンの罐、皿に盛ったビスケット、ペーストのつぼ、それにカンテラがのっていた。
「まるで、だれかがここに住んでいるみたいね」と、ジェニーが言った。「見なさい。ストーブがあるし、椅子の背にラシャの上着がかけてあるわ。人のいない船の中をうろつくのは、あまり気持ちのいいものじゃないわ。だれかいるような気がするものよ。わたし子供のころ、クライドで係船中の貨物船の中を歩いたのを覚えているわ。とてもこわかった――古い記憶を持っている船の秘密をさぐるのは、悪いような気がして」
わたしはテーブルのところへ歩いていった。ジョッキにミルクがはいっていた。異状はないようだった。こんな寒いところなら、食べ物は永久に腐らない。ペーストも異状なかった。次に時計が目に映ったとき、わたしはペーストのポットを手にしたまま、くぎ付けになった。
「ジム! 何を見てるの」ジェニーはびっくりしたというよりは、むしろおびえたような声できいた。
「その時計だ」とわたしは答えた。
「それがどうしたんだ」と、バートが言った。「冗談じゃねえ。懐中時計を見たことがねえのか」
「あるさ」と、わたしは言った。「だが、一年も巻かずに、まだ動いているのを見たことはない」それは普通の、軍隊用のものだった。たぶん、ランキンのだろう。小さな秒針が、規則的に動いている。ほかの二人もそれをのぞいていた。時計が一分を刻む間、だれも口をきかなかった。
「おめえの言うとおりだ」と、バートがやがて言った。「まるで、だれかが、たったいま、そこへ置いていったようだな、気味が悪いな。だが、おれたち三人が部屋の中を動きまわったんで、震動で針が動き出したとは思わねえか」
「いや、そうは思わない」と、わたしは答えた。わたしの声は、不自然なほどきびしくひびいた。
「この船は、冬中、波にたたかれていた」
「じゃ、どうしてそれが……」ジェニーの声は先細りに消えた。「ジム!」彼女はいきなりわたしの腕をつかんだ。「船にだれかいるかどうか、捜してみましょう。このテーブルに、こうやって一人前の支度がしてあるわ。それを見たとき、わたし……」ややためらってからつけくわえた。「ゾッとしたのよ」
「じゃ、行こう」と、わたしは言った。「調理室へ行ってみよう。だれかいるとすれば、食べなけりゃならない。調理室へ行ってみればわかる」
わたしたちは長い廊下を歩いていった。わたしがココアを飲ませてもらって、コックとおしゃべりをしに行くときに通った廊下だ。いつも暑くて、エンジンの音がしていたが、いまは冷たくて、湿っぽい。調理室のドアはあいていた。中は暖かく、食べ物の匂いがした。コックのベッドで、何かが動いた。
「あれ何?」と、ジェニーが叫んだ。
「おれもたしかに、何か動くものを見たぞ」と、バートが言った。
三人の神経が互いに作用し合って、三人とも体をこわばらせた。二十三人の人間――この船の船員――が殺されたのだ。わたしは、ばかなこと考えるな、と自分に言い聞かせた。ジェニーの指が、わたしの腕に食いこんだ。ベッドの下の暗がりから、ピンの先のような二つの光が、わたしたちを見つめていた――二つの緑色の目。
わたしたちは立ちすくんで、二つの目を見つめた。やがてそれが動くと、ベッドの下からコックの猫が出てきた――ボートが出る直前にとび出したあの三毛猫《みけねこ》。猫はぴんとたてた尾を静かに振り、まばたきもせずにわたしたちに緑色の目を据えながら、近づいてきた。わたしは、猫がどんなにあばれたり、ひっかいたりして、コックの手から逃げようとしたかを思い出して、ゾッとした。あのボートが沈むことを、猫は知っていたのだ。やがて猫は、わたしの足に体をこすりつけ、コックがそこの椅子にかけて、太い指でなでたときにしたように、ゴロゴロとのどを鳴らした。
わたしは落ち着きをとり戻した。猫が時計のネジを巻くことはできない。魚の肉のペーストは食べるだろうが、ビスケットは食べまい。わたしは調理用のストーブのところへ行って、さわってみた。鉄はまだ暖かかった。ストーブの中をかきまわしたら、火床の燃えがらが赤く光った。
「船に、まだだれかがいる」と、わたしは言った。
「まだいる!」ジェニーがオウムがえしに言った。「でも、ジム、一年以上も?」
「銀塊のある部屋に、とびらをこわしてはいった人間だ。銀塊が一つもなくなっていない理由がわかったろ。まだここにいるから、持っていけないんだ」
「だれもいない、捨てられた船に、人間が住んでいるなんて、考えられないわ」と、ジェニーが言った。
「そうだ。だが、不可能ではない」わたしは指で示した。「こうやって食べ物はあるし、ここに雨露をしのぐ場所がある。それに水もある。起重機に防水布がかけてあったのは、雨水をとるためなんだ」
「やつらが、番人を残したと思うか」と、バートが言った。「フン、いい商売だな。おれは、こんなところにひとりでいるのはいやだぞ」
「船が遭難した気の毒な男かもしれない」と、わたしは言った。「暗礁からなんとかはいりこんで、ずっとここにいるのだろう。とにかく、猫がまだ生きていることでわかる」
「恐ろしいわ」と、ジェニーはつぶやいた。
「そうだ。あまり気持ちよくないな」と、わたしは同感した。彼女が不安そうな顔をしているので、腕をとった。「捨てられた船というものは、薄気味悪いものだ――とくに、だれか人間がいて、それがだれかもわからないときはね。さ、行こう。その人間を早く見つけようじゃないか」
わたしはバートのほうを向いた。「おまえは船尾へ行け。おれたちは船首のほうを捜す」
バートは、びっくりしたような目をした。
「なんだって――おれひとりで船尾へ行くのか。そいつは、気が狂っているかもしれねえ。五十万ポンドの銀塊と一年もひとりでいりゃ、だれだって頭がおかしくならあな」
わたしは笑った。だが、あまり自信のない笑いだった。
「その男を見たら、呼びかけるんだ」と、わたしは言った。「親しそうな声でな」
「あ、いくよ」と、バートはいやいや承知した。「おれが大きな声を出したら、すぐ来てくれよ」
ジェニーとわたしは、機関室から始めて、船員たちの居室、ブリッジの下の部屋、船首の船倉を調べた。いやな仕事だった。カンテラを持っていたので、静かな機関室、だれもいない廊下、船室の暗いすみに、二人の変な影がちらついて、無気味だった。わたしたちが一番船倉からちょうど出たとき、後甲板から、「見つけたよ、ジム」という、バートの叫び声が聞こえた。
船の周囲にやみが迫りはじめた。風が急速につのり、船の上部構造を吹き抜ける風の音は、暗礁一帯の、絶え間ない波の咆哮《ほうこう》よりも大きかった。西側の絶壁にぶつかる波のしぶきが、こちらまでとんできて、わたしたちの顔をたたいた。バートは急いで船首のほうへやってきた。後ろから、ブルー・サージのズボンに船乗りの着るメリヤスのシャツという姿の、髪の黒い男がついてきた。その男はおどおどして、しりごみしていた。わたしたちをこわがっていながらも、好奇心のためにおびき出された野生動物のような感じだ。
「来たよ」と、バートはわたしたちに近づきながら言った。「おとなしい男だ。舵のところに隠れていたのを見つけたんだ」
「かわいそうに」と、ジェニーが言った。「おびえているようだわ――ブタ小屋で罠《わな》にかかったのをいつか見た、アナグマのように」
「どうやってこの船に来たんだ」と、わたしはきいた。答えないので、今度は、「何という名前だ」とたずねた。
「もっとゆっくりしゃべってやれよ」と、バートが口をはさんだ。「英語はわかるんだが、あまりよくしゃべれねえ。外国人だよ」
「何という名前だ」今度はゆっくりとたずねた。
男は唇を動かしたが、何かぶつぶつ言うような音しかわからない。背たけはバートぐらいで、あまり高くない。顔はしわが寄って、日焼けしており、ずいぶん苦労したらしい、疲れたような、さえない血色である。口をあいたりとじたりして、懸命にしゃべろうとしていた。薄暗い光の中で、恐怖とたたかっているその男を見ているのは、無気味だった。「ゼリンスキー」と、彼は突然言った。「ゼリンスキー――これがわたしの名前です」
「どうして、トリッカラ号にいるのだ」わたしはできるだけ簡単な言葉できいた。
彼はぐっとまゆ根をあげ、ひたいに三段の深いしわができた。「なんですか? わたし、わかりません。むずかしいです。わたし、あまり長い間、ひとりでいました。自分の国の言葉、忘れました。わたし、ここにいます。――ああ、わたし、記憶失いました」
彼は一生懸命にポケットの中を探って、小さなポケット日記帳を取り出し、もどかしそうにページを繰った。「ああ、そうです――わたし、一九四五年三月十日に、ここに着きました。一年と一か月たちました。そうでしょ?」彼は突然、懇願するような目つきで、わたしたちを凝視した。「わたしを、いっしょに、連れてってください。お願いします、連れていってください」
「ああ、いいとも」と、わたしが言うと、男はしわだらけの顔をほころばせ、のどぼとけを上下させて息をのみこんだ。
「だが、どうしてここにいるんだ」と、わたしはきいた。
「どうして?」彼はひたいにしわを寄せたが、すぐにもとにもどした。
「ああ、そうですか――どうして? わたしはポーランド人です。ムルマンスクで、この船はイギリスへ行くと言われたのです。わたしはアンダース将軍の軍に参加したかったのです。そこでこの船に乗りました」
「きみは船にかくまわれたのか」
「何ですか?」
「まあ、それはどうでもいいよ」と、わたしは言った。
「ハルジーとその仲間以外の者が全部、船を捨ててからずっと乗っていたにちがいないわ」と、ジェニーが言った。
「そうだ」と、わたしは同調した。「ぼくらは、証拠として、銀塊の一部だけでなく、生きた証人も連れて行ける」
ポーランド人はまたしゃべり出した。「あなたの船」彼はアイリーン・モーア号を指した。「暴風がやってきます。ここはひどいです。西から風がきて、島じゅう波をかぶります。もうじき暗くなります。錨《いかり》たくさんないといけません」
「風は東から来ることはないのか」と、わたしはきいた。
男はひたいにしわを寄せて、言葉をさがしていた。「いいえ――一度だけありました。とてもひどかったです。船室、みんな水びたしになりました。波、ここまで来ます」彼はマストを指した。
もちろん、彼は誇張しているにちがいないが、もし風が東から吹けば、波は暗礁を越えて押し寄せ、岩に囲まれているこの浜べも、怒濤《どとう》に巻きこまれるだろう。だが、ありがたいことに、現在、風は西から吹いている。
「さ、急ごう」と、わたしは言った。「アイリーン・モーア号を、錨でしっかりとめよう」
「あなたの小さい船で寝てはいけません」と、ゼリンスキーが言った。「こちらに来てください。ものすごい暴風が来ますよ」
アイリーン・モーア号は、船首を浜べに向け、ロックを越えて吹いてくる風に面していた。わたしたちはトリッカラ号の倉庫からボート用の錨を二つ見つけだし、それと丈夫な索とで、ヨットをしっかりとつないだ。すなわち、船首と船尾に二つずつ錨をつけ、船尾の錨は遠くへ離して長い索につなぎ、風向きが変わって、ヨットが浜べに乗りあげないようにした。それから小舟を岸にひっぱりあげて、みんなトリッカラ号に移った。
ゼリンスキーは、食事の支度をすると言ってきかなかった。もう、おどおどしたところがなくなり、興奮して何かしゃべりながら、あちこちとびまわって、わたしたちのベッドを作ったり、湯を持ってきたり、わたしたちの傷の手当てをするために、薬箱を捜すなど、かいがいしくたち働いた。人間の仲間ができたことに有頂天になって、どんなこともいとわないという様子だった。
彼はとても料理が上手だった。船の食糧品は、寒さのために、いたまずに保存されていた。料理に三時間もかかったが、わたしはこんなうまい料理を食べたことがない。彼は料理をテーブルに並べると、急いで出ていって、三毛猫を抱いて戻ってきた。「失礼します。これはわたしのかわいい友だちです。名前は知りませんが、ジョンと呼んでいます」彼は小さく笑った。「自分の名前を忘れないように、そう呼んでいるんです」
彼は猫のために、罐入りのミルクを皿についでから、食卓に加わった。
食事が終わったころに、暴風が襲ってきた。」わたしたちは甲板に出てみた。真っ暗やみだった。風は上部構造を吹き抜け、わたしたちの顔にしぶきのカーテンをたたきつけた。暗礁を越える怒濤の音は、やかましくなっていたが、それを通して、遠くの規則的な砲声のような音が聞こえていた。まるで巨大なくい打ち機のような音で、船全体をゆるがすように思われた。それは島の反対側の絶壁にたたきつける波の音だった。
「もっとひどくなりますよ――もっとずっとひどくなりますよ」と、ゼリンスキーが言った。
わたしたちはアイリーン・モーア号の様子を見ようと思って、手探《てさぐ》りで船尾のほうへ行ったが、さびた三インチ砲のそばに立ったとき、白い砕け波がぼんやりと見えるだけだった。
「ヨットは大丈夫かしら」と、ジェニーがきいた。
「わからないね」と、わたしは言った。「しかし、いま、どうしようもないよ。錨を四つおろしてあるから、もつはずだ。とにかく、ヨットに寝なくてすんで、ありがたい」
「でも、警戒しなくてもいいの?」と、ジェニーは小さな声で言った。
「錨がもたなくったって、どうしようもないじゃないか」と、わたしは言った。「とにかく、何も見えさえしないんだから」
わたしは、ジェニーの腕をつかんだとき、彼女が胸をはずませているのがわかった。「あなたの言うとおりよ。でも、アイリーン・モーア号がひとりで苦しんでいるのに、眠っているなんてよくないと思うわ」
「わかっているよ」と、わたしは言った。「しかし、朝まで待つしかないだろう。明るくなれば、様子がわかるよ」
その夜、ベッドにつく前に、ランキンが言った、すべる鉄板を捜し、それを見つけた。それは船の肋材にとりつけてある、みぞを走る大きな鉄板で、ヘンドリックの部屋から操作するようにうまくできていた。その鉄板は、ヘンドリックのベッドの下のとめ金につけた鎖でとめるようになっていた。とめ金をはずし、鉄板がそれ自体の重みですべり落ちて、爆発によって作られた弱い鉄板の穴をふさいであった。
翌朝、わたしとバートは早くおきた。七時ごろ、やっと明るくなりかけた。島かげとはいえ、風がものすごく、船尾まで手摺りにつかまって行かねばならなかった。満潮に近かったので、トリッカラ号は竜骨をゆるやかに砂利浜にこすっていた。船は絶え間ない飛沫《しぶき》のカーテンにおおわれていた。海水が、黒い、すべすべした島の岩肌から流れていた。大気は、風に吹きとばされている白い鳥の群れのような雨雲の断片に満ちていた。船尾のほうの波浪は恐ろしいほどで、暗礁は影も形も見えず、灰色の視界の端に見えるのは、逆《さか》巻く白波だけだった。トリッカラ号のすぐ後ろに、わたしたちをこの恐ろしいところに運んできた小さな、白ペンキ塗りの船が、砕け波に狂ったように翻弄《ほんろう》されていた。
「まだちゃんとしているよ」と、バートがわたしの耳に叫んだ。「だけど、ごきげんが悪いようだな。まるで、こわがってたてがみをふりたて、地面をひづめでひっかいている馬みてえだ」
たしかに、ごきげんがよくない。だが、一つだけいいことがある。小さな浜べは岩に囲まれているため、風の力をモロに受けてはいない。トリッカラ号がこわれずにいたのは、そのためだ、とわたしは気がついた。アイリーン・モーア号は激しく翻弄されているが、波にたたきつけられてはいない。錨がもつかぎり、大丈夫だろう。
わたしは、トリッカラ号のさびた甲板をふりかえった。ジェニーがわたしたちのほうへ来ようとして悪戦苦闘していた。彼女はわたしたちのところに来たときも、何も言わず、手摺りにつかまって、錨をつないだ索が張りつめているアイリーン・モーア号を、しばらく心配そうに見ていたが、やがて急いで引きかえした。
暴風は一日中、吹き荒れた。その音は船じゅうに聞こえ、わたしたちの神経を引き裂いた。わたしたちはいらいらしてきたが、ゼリンスキーだけは陽気だった。彼は乏しい英語を駆使して、戦前のポーランドの自分の農場のこと、一九三九年、ドイツ軍に対して騎兵の突撃を行なったこと――彼は騎兵将校だった――ソ連の労働キャンプでの生活のことなどを、のべつ幕《まく》なしにしゃべった。あまり長い間、しゃべらずにいた言葉が、一度にはけ口を求めたかのようであった。この間、わたしたちがマドンス・ロックから脱出できるかどうかは、アイリーン・モーア号が大自然の暴威とたたかって、錨を切られずにいられるかどうかにかかっていた。
わたしはその日の大部分を、ハルジー船長の部屋を調べることに費やした。何か彼の過去を示すものがあるにちがいないと思ったが、何も見つからなかった。美しく装幀されたシェークスピアの本をめくってみたが、手紙も、覚え書きのようなものさえなかった。そのほかの本も全部調べてみた。しかし、彼は手紙をしおりがわりにする習慣のない男らしかった。航海に関する専門書には、きちんとした四角ばった字で、たくさん注釈が書きこんであった。しかし、それはただの注釈で、彼の過去を示すものは何もなかった。
一九一九年から二一年までの、『観劇』という雑誌をとじたものが三冊あった。芝居に興味があったので、わたしは無駄な捜索をあきらめて、その三冊を持って暖かい調理室に行った。それを繰っているうちに、一つの発見をした。――一九二一年のとじこみの中に、レオ・フールズという若い俳優の写真が出ていた。突き出したあごと、大きく広げた腕に、何か気になるものがあった。その顔は知っていたが、名前は覚えていなかった。一九二一年ごろには、わたしはまだ、劇場へ行ったことがない。ジェニーにそれを見せると、彼女も名前は覚えていないが、顔は見たことがあると言った。
わたしは急に胸が躍《おど》ってそれをバートに見せた。彼も見たことがあるような気がすると言った。しかし、バートは生まれてから芝居など見たことがないのだ。わたしは鉛筆をとって、その写真の顔にとがったあごひげをつけ、まびさしのある帽子をかぶせてみた。案の定――トリッカラ号のブリッジで、シェークスピア劇の科白《せりふ》を叫んでいるハルジー船長の顔が、そこにあった。疑いの余地はなかった。わたしはそのページをむしり取って、手帳にはさんだ。
夕方、バートといっしょに、アイリーン・モーア号をまた見に行った。ジェニーは来なかった。どうすることもできないのに、苦闘しているその姿を見るに忍びなかったのだろう。わたしたちは甲板に出るとすぐ、何かが変わったことに気づいた。しばらくは、それが何だかわからなかった。いままでよりも静かなような気がした。しかし、怒濤の音は相変わらずものすごいし、島の反対側から聞こえてくる、絶壁に波のぶつかる音は聞こえてくる。そのうちやっと、何だかわかった。風が完全におさまったのだ。
「おかしくねえか」と、バートが言った。「そよ風も吹いてねえ」
「そうだ」と、わたしは言った。「おかしい」
空は、雪もよいの時の、妙な、無気味な、黄色い光を帯びている。わたしはそれが気になった。
「暴風の中心にいると、こういうことがあるものだ」と、わたしは言った。「なぎがあり、ときには青空が見える。しかし、それからまた、風が反対側から吹き始める」
「あのポーランド人は、ここにいる間に、東風は一度しか吹かなかった、と言ったぜ」
「一度でたくさんだよ」と、わたしは言った。
わたしたちは下へ行ったが、ジェニーには何も言わなかった。その夜、ベッドに横たわっているとき、わたしは風が変わったことに気づいた。
風がいつからふたたび吹き始めたか、正確には覚えていない。目をさましたのは、四時半をちょうど過ぎたときだった。ベッドの上で寝がえりを打ちながら、なんで目がさめたのだろう、と眠い頭で考えた。外の暗礁の波音は相変わらず激しかったが、何も変わったことはないようだった。そのとき、ハッとして目がすっかりさめた。ベッドばかりか、部屋全体が動いているように感じた。船の骨格そのものが、小刻みに震えていた。底のほうから、何かがこすれるような鈍い音が聞こえてきた。わたしはランプをともした。ドアの下に少し水が流れていた。船は強い衝撃を受けたように、また震動し、少し持ちあがったと思うと、恐ろしい、こすれるような音をたててふたたびさがった。
そのとき、何がおこったのかわかった。ベッドをとび出し、靴をはき、防水カッパを着て、甲板に出た。昇降口の階段から水がドンドン流れこんでいた。この階段は船尾に面しているので、風が真空の口に吸いこまれるように、ゴウゴウ音をたてて吹きこんでいた。わたしは階段のてっぺんまで昇った。真暗やみだったが、甲板を洗う白波が、かすかに光っていた。わたしは視覚や聴覚によってでなく、波がトリッカラ号の船尾にぶつかるのを体で感じることができた。船をこんなに持ちあげるところから考えると、すごい波にちがいない。波にたたきつけられているアイリーン・モーア号のことを思って、心が沈んだ。風と波の音がいっしょになって、すさまじかった。しかし、どうすることもできない。
階段の上のとびらをしめて、調理室のほうへ行き、そこでお茶をいれて飲んだ。三十分ほどすると、ジェニーがやってきた。彼女は絶望的な目をしていた。わたしは彼女の体に腕をまわし、二人は赤々と燃えるストーブを見つめて立っていた。
「何もできないわ」とやがて彼女は言った。
「そうだ。何もできない」と、わたしも言った。
そのとき、バートがはいってきた。マックとゼリンスキーも、夜明け前にやって来た。
わたしたちは茶を飲みながら、黙ってストーブの火を見ていた。正直なところ、アイリーン・モーア号は助からない、とわたしは思った。満潮は、明るくなりかける六時と七時の間だが、すでにトリッカラ号は一波ごとに高く持ちあげられては、浜べにたたきつけられている。五千トンの貨物船がこんななら、二十五トンそこそこの木造のアイリーン・モーア号は、どうなるだろう。
六時少しすぎに、わたしたちは甲板に出てみた。夜明けの青白い日の光がさしていた。その光の中に見えたものは、恐ろしい混乱だった。一定の間隔をおいて大波が盛りあがり、白い歯をむいてトリッカラ号を襲ってきた。それがものすごい音をたてて船尾にぶつかると、甲板一面が泡だつ水で洗われ、わたしたちはひざまで水につかった。
アイリーン・モーア号を見に行くことなど、とてもできない。わたしたちはブリッジへよじ登った。ブリッジはトリッカラ号の船底が浜べにたたきつけられるたびに、地震の最中の竹製の小屋のように揺れた。空気は飛んでいる泡で充満した。風に吹かれたしぶきが、目にぶつかって痛かった。この薄明りの中で、何も見ることができなかった。
ジェニーはわたしの手をつかんで、「ヨットはなくなっちゃったわ、ジム」と言った。
わたしもそう思って、彼女の手を堅くにぎった。
そのとき突然、バートが叫んだ。彼の声は風に消されて、何を言っているのかわからなかったが、彼の伸ばした手の方向を追っていくと、一瞬、高い波の上に揺れている、何か白いものが見えたような気がした。やがて見えなくなったが、しばらくするとまた見えた。
少し明るくなると、それはアイリーン・モーア号であることがわかった。山のような波が来ると、まず船尾が持ちあがり、次にコルクのように軽々と波のてっぺん近くまで浮上したと思うと、三本の索が弓のつるのようにピンと張り、波頭がデッキにたたきつける。これが規則的にくりかえされていた。マストはない。バウスプリットも操舵室もなくなっている。
「ジム!」と、ジェニーは金切り声をあげた。「係留索で押さえつけられているのよ」
それは事実だった。索には充分たるみをもたせたのだが、満潮時だったし、風で大波が浜べに押し寄せていた。あの高波に乗るためには、あと数|尋《ひろ》の余裕を持たせるべきだった。
「なんとかしなければならないわ」と、ジェニーが叫んだ。
「絶対に、どうしようもないよ」と、わたしは言った。
「でも、下に押さえつけられているのよ。助かるチャンスを与えられていないのよ」彼女はしくしく泣きだした。わたしは、彼女の大きく吸いこむ息が、震えているのを体に感じた。
そのとき、ひときわ大きな波が盛りあがった。アイリーン・モーア号は勇敢に、その斜面を半分ほどのぼったが、係留索にグイと引っぱられた。波頭はくずれ、大きな口をあけた野獣のように、デッキに襲いかかった。係留索は、細い糸のようにプツリと切れた。船首が水中に没し、船尾が高く持ちあがった。次の瞬間、横倒しになり、まるでまだもがいている生きもののように、船尾から先に、トリッカラ号から二十ヤードほどの浜べに打ちあげられた。船首は溺れている人の腕のように、宙に突き出していたが、ヨットは見る見るうちに、めちゃめちゃにこわれ、哀れ、漂流物のかたまりと化してしまった。
わたしはジェニーを下へ連れていった。ヨットの残骸が浜べに打ちつけられるのを見ていたところで、仕方がない。
「もしわたしが乗っていたら」彼女はしくしく泣いた。「何かできたかもしれないわ。わたしはせっかくここまで持ってきて、見捨ててしまったんだわ。わたしはアイリーン・モーア号が悪戦苦闘するのを、ただ黙って見ていただけよ。ああ、ひどい」
ゼリンスキーはブランデーを出した。みんなで一びん平らげてしまった。それから朝食をとった。だれも口をきかなかった。小舟はこの海では役にたたない。アイリーン・モーア号がなくなったいま、わたしたちはマドンス・ロックに島流しになってしまったのだ。
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九 島流し
朝食のあと片づけがすんだとき、ゼリンスキーがマックを部屋の片すみに連れていった。
「何言ってんだか、わからない」と、マック老人が言っているのが聞こえた。
「いいでしょう?」
「何言ってんだか、おれにはわからない」
ゼリンスキーはマックの腕をとった。ゼリンスキーに腕をつかまれて調理室から出るとき、マックはわたしのほうをふりかえって言った。「エンジンを見てくれと言ってるらしいんです。わたしに用があったら、下にいますから」
その朝じゅう、わたしとジェニーとゼリンスキーは、船の食糧品を調べた。バートは絶えず、天候の具合をわたしたちに知らせた。潮がひき始めると、トリッカラ号は竜骨を浜べにこすりつけなくなった。しかし、干潮でも、まだ高波が船尾に押し寄せていた。正午ごろまでに食糧品の調べが終わり、わたしとジェニーは、あとどのくらいもつだろうと計算しながら、がっかりして食堂にすわっていた。
バートがおりてきて、風が凪《な》いできたと言ったのは、一時ごろだったにちがいない。
「潮がひくと、風もおさまるものだ」と、わたしは言った。
「おめえがどう解釈しようと勝手だが、ともかく風はおさまってきたよ」彼は両手をこすり合わせて、にやっとした。
「調理室からいい匂いがするな。いいやつだよ、あのポーランド人は。自分からコックを志願するやつにお目にかかったのは、初めてだ。ジャガイモの皮むきまでしてさ。ところで、マックはどこだ」
「まだ下の機関室にいる」と、わたしは答えた。
「あそこにおいたらいいのよ」と、ジェニーが言った。
「何か機械さえいじっていれば、ごきげんなんだから。それでほかのことを忘れるのよ」
「二人とも陰気な顔をしてるな。どうしたんだ」と、バートが言った。
わたしは食糧品のリストを書いた紙片を引き寄せた。
「というのはだな、バート――いま、食糧品の残りを調べたんだが、あまり残ってないんだ」
「そんなに悲観したもんじゃねえよ」バートはそう言って椅子を引き寄せた。「おれたちはここにいる。トリッカラ号を見つけた――銀塊もそっくりな。スリンキーもいる。――あいつの名前、なんてったっけな」
ジェニーが顔をあげた。「ゼリンスキーよ、バート」
「そう、そう――ゼルリンスキー。あいつらどうして、うまく舌のまわる名前をつけねえんだろうな。それはともかく、あいつがおれたちの証人になる。しょっぱなとしては、そう悪くねえじゃねえか」
「そうだ」と、わたしは言った。「だが、どうしてここから出られるんだ、おい、バート。ジェニーと船の食糧を調べてみたんだ。まあまあの割り当てをして、五人が三か月と少しの間食っていけるだけのものがある」
「カモメの卵で生きているよりはましじゃねえか」
バートの生来の楽観性に、わたしは腹がたってきた。
「ジョン・ゼリンスキーがここに一年以上もいたことが、おまえにはわかっていないようだな。その間、一隻の船もこの近くには来なかったんだぞ」
「ちょっと待てよ。三か月といえば、ずいぶん長いぞ。アイリーン・モーア号がだめになっちゃったことは、おれだって知ってる。だが、三か月のうちにゃ――そうだ、三か月のうちにゃ、おれたち五人でいろんなことができるじゃねえか」
「たとえば?」
「そうだな――」バートはしかめ面をした。
「無線を使えるようにする。ボートを作る。まず、この二つから始めたらいいや」彼は明るく微笑した。わたしたちの陥っている危険に、少しも気がついていないようだ。
「第一、おれたちはだれも、無線のことを知らない」と、わたしは言った。「ボートだが――甲板の上の木材は、めちゃめちゃに裂けて、使いものにならない。ほかの木材といえば、船室のだが、たいていは≪さねはぎ≫板だから、この海で使えるボートはとても作れない」
バートは肩をすくめた。「あのポーランド人は、何と言うだろうな。あいつはひとりぼっちで、一年以上もここに島流しになってたんだから、何か考える時間があったろ」
そのとき、ジェニーが体をおこした。「バートの言うとおりよ、ジム。あたしたち、どうしてもっと前に、彼の意見をきかなかったのかしら」
「あの男は騎兵将校で、船乗りじゃないよ」と、わたしは言った。「それに、ハルジーの問題がある」
「ハルジー!」バートは指をパシッと鳴らして、にやっと笑った。「それだ。わかんねえのか。あいつがおれたちの帰りの切符だ。あいつがここに来ることは、おれたちにわかっている。銀塊がここにあるかぎり、やつはきっと来るさ。あいつが来たら……」バートの声は先細りに消えた。
「ここに武器はねえか、ジム」と、しばらくしてきいた。
「ある」と、わたしは言った。「ライフル八梃、弾丸一箱、短剣八振、ベリー・ピストル二梃」
「それだけありゃ、引き船をぶんどれねえか」
わたしは肩をすくめた。「やつらにやられないようにするだけでも、大変な仕事だ」
「なんだって――兵隊が三人と、気の強いスコットランド人のじいさんがいるのにか? ライフル八梃あれば、やつらを制圧できるはずじゃねえか」
「やつらが、この船にダイナマイトを持っていることを忘れるな。暗やみで、やつらはこの船を爆破することができるんだ、そのつもりにちがいないんだ。ここを去るとき、やつらはトリッカラ号の痕跡も残さないだろう」
「そうだな、その点は、おめえの言うとおりだ。ハルジーってやつは、良心のかけらもねえ男だからな。てめえの仲間以外の船員を、虫けらみてえに殺したやつだ。おれがランキンだったら、生きて帰れるチャンスはねえと考えるんだがな。あれ、あれは何の音だ」ブンブンとうなる音で、船がかすかに震動し始めた。「エンジンの音のようだ」
足の下の床が震動していた。
「マックがエンジンを始動させたのだと思う?」と、ジェニーがきいた。彼女の声は興奮でうわずっていた。ドアがあいて、ゼリンスキーが料理を盛った大きな皿を持ってはいってきた。
「さあ、どうぞ――料理ができました」と、微笑を浮かべながら彼は言った。
「すばらしいぞ、コックさん」バートはにやっと笑いながら皿をおろすのを手伝った。「カバーの下に何があるんだ。うまそうな匂いだな」
「ラビオーリ〔味つきのひき肉をねり粉の皮で包んだもの〕ですよ」と、ゼリンスキーは答えた。「小麦粉がたくさんあるので、イタリアふうの料理にしなければならないんです」
「イタリアふうか」バートはそう言って、肩をすくめた。「いや、何でもいいさ。なにしろ、おれは腹ぺこなんだ」
そのとき、電灯がパッとついた。
わたしたちはあまりびっくりして口もきけず、目をぱちくりさせてすわっていた。ゼリンスキーだけは驚かなかったようだ。
「ああ、これでいい」と、彼は言った。「マックでしょう。あの人は、機械にはとてもあかるい。エンジンを動かせるでしょうから、わたしたち、イギリスへ行けますよ。わたしはまだ、イギリスへ行ったことはありませんが、母はイギリス人でして。――いいところだと、いつも言ってました」
ジェニーはテーブル越しに、彼のほうへ身を乗り出した。
「それ、どういう意味、ジョン。マックがエンジンを動かせるから、わたしたちイギリスへ行けるでしょう、って? ヨットがなくなっちゃったのに、どうしてイギリスへ行けるの」
ゼリンスキーは、驚いたように顔をあげた。「トリッカラ号でですよ。底は抜けていませんから、浮きます。わたしはここにいる間ずっと、エンジンを動かせる人が来てくれるように祈っていたのです。やってみようと思いましたが、とても複雑で手に負えません。なまじいじったら、こわしてしまうだろうと心配だったんです。だから、待っていたんです。しかし、準備はしました。あれ、何ていいましたかね――ああ、そうそう、索を暗礁に持っていき、木でいかだを作って、錨を外に出しました。とても大変な仕事でした。でも、うまくやりました。いま、風は東から吹いています。満潮のとき、船を海に引っぱり出せます。しかし、エンジンが動いていないと、安全ではありません」
彼は食卓の準備を終わると、「失礼しました。さ、あがってください」と言った。「さめてしまいますよ。とてもうまい料理ですから、さめたら、わたし残念です。マックを呼んできます」彼はわたしたちを見まわした。「エンジンが大丈夫なら、わたし、とてもうれしいです。わたしいつも、エンジンにグリースを塗っておきました」彼は子供らに話しているしあわせな父親のように、微笑して頭をうなずかせた。
「グリースはエンジンにいいということを知っています。失礼します――マックを捜しに行かねばなりませんので」そう言って、彼は出て行った。
わたしたちはびっくりして、彼の後ろ姿を見送った。
「どうだい。おめえの心配は、これで全部片づいたろ」と、バートが言った。
「どんなにつらかったでしょう」と、ジェニーが言った。バートが、それどういう意味だときくと、彼女はつけ加えた。「あんたにはわからないの? 食糧がなくなったら必ず死なねばならない運命に直面しながら、彼はここにひとりで一年以上もいたのよ。その間じゅう、馬のことよりも機械のことを勉強していたら、助かるチャンスがあったのに、といつも思っていたのよ」
マックがはいってきたとき、わたしはエンジンの具合をきいた。
「そうですね、どこも悪くないとは言えません」と、彼は答えた。「左舷側のエンジンのベアリングが、何本かとれています。でも取りつけることはできます」彼はむっつりした顔で、ゼリンスキーのほうへ頭をうなずかせた。
「あの男が、とてもよくエンジンの保守をやっていてくれました。しかし、右舷側のプロペラ・シャフトが、どうなっているか、まだわかりません。ひびがはいっているんじゃないかと思います。それに、ボイラーです。火を入れてみるまでは、わかりません」
「左舷側のエンジンを動かせると思うか」と、わたしはたずねた。
「はい」マックはラビオーリを口いっぱいにほおばって、ゆっくりうなずいた。「はい、できると思います」
「いつ?」
「たぶん、あすの朝――もしボイラーがあまりさびていなければ」
「すごい」と、わたしは言った。「満潮は、あしたの七時半と八時の間だ。徹夜でやってくれ、マック。この東風を利用しなければならない。潮が船尾を持ちあげるぐらい浜べまで来るのは、東風のときだけだ。今度それを利用しなければ、次のチャンスは何か月先のことかわからない」
マックはフォークをあげて、「はい」と言った。「しかし、竜骨のほうの鉄板はどうです」
「ゼリンスキーが、大丈夫だと言ってるわ」とジェニーが口をはさんだ。
「ゼリンスキーにも、はっきりしたことはわかりませんよ――鉄鉱石の積み荷をすかして見ないかぎりは」と、老人はきびしい口調で言った。
「そんなことはどうでもいい」と、わたしは言った。「ハルジーが来る前に出られる、たった一度のチャンスだ。船体がこわれていようと、エンジンが動かなかろうと、あすの朝の満潮時に、船を海に出すんだ。船尾のドンキー・エンジンを動かせるだけの蒸気ができるのは、いつだ」
「そうですね……二、三時間かかるでしょう。小さなボイラー一つに、火を入れておきました。ただ、テストのためです」
「よろしい。できるだけ早く、船尾のドンキー・エンジンに蒸気を送ってくれ。それから、発電機はずっと動かしておくんだぞ。甲板の電灯が必要になるからな。きみがエンジンにかかっている間に、われわれは後ろの船倉からできるだけ鉄鉱石を出す。それからな、マック、あすの朝は、蒸気がたっぷりあるようにしてくれ。どうしても船から水がたくさん出るだろうから、ポンプを使わなければならない」わたしは突然笑いだした。たぶん、うれしくてたまらなくなったのだと思う。
「おい、ジェニー」と、わたしは叫んだ。「三十分前には、どうやって帰れるだろうかと思い悩みながら、ここにすわっていたことを考えてみろよ。ところが、ずっとここに船があったんだ。ロイズ〔海上保険組合〕はびっくりするだろうな。この船は公式には、一年以上前に沈没したことになっているんだ。ぼくらは、その船に乗って港にはいっていくんだよ」
「でも、まだイギリスには帰っていませんよ、バーディーさん」と、マックが言った。
「おまえさんは、どんないい話を聞いても、陽気にならねえんだな」と、バートがにやっとしながら半畳《はんじょう》を入れた。
わたしは立ちあがって、天候を見に甲板に出た。バートの言ったとおりだった。風は凪《な》いできていた。だが、まだかなり強く、方向は変わっていなかった。ブリッジにあがってみると、晴雨計がのぼりはじめていた。浜べに、漂流物にまじって、外板が一枚打ちあげられていた。それにアイリーン・モーアという文字が読めた。ジェニーが気づかねばよいが、と思った。
わたしはバートとゼリンスキーといっしょに、三番船倉からハッチのカバーを取り除き、起重機の準備をした。三時少しすぎに、ジェニーがやって来て、ドンキー・エンジンに蒸気を入れたと言った。レバーを引くと、ドンキー・エンジンがかかり、起重機の滑車がガラガラと船倉におりた。その音を聞くのは、たまらなく愉快だった。ジェニーはすぐに起重機の操作を覚えたので、わたしたち三人は、鉄鉱石の積み荷を船倉から船の外に捨て始めた。
暗くなるまで休みなしに働いた。それからアーク灯をつけて、夜おそくまで仕事を続けた。ジェニーはわたしたちが働いていて、自分の手がすいているときを見はからって、牛肉の罐詰とお茶を持ってきてくれた。わたしは、こんなに働いた夜はない。わたしたちは窒息しそうな鉄鉱石の赤いほこりの中で、十五時間ほとんどぶっつづけにシャベルを使った。いくら運び出しても、荷はほとんど減らないようにみえたが、それでもだんだん、少しずつ減っていった。汗まみれで働いたので、わたしたちはしまいに、トリッカラ号と同様、赤さびだらけになった。
朝の六時ごろ、船尾が砂利浜につくようになったので、わたしは作業中止を命じた。「ダートムーアでまた一年働いたような気がしたよ」と、バートは顔から赤さびまみれの汗を拭いながらにやっと笑った。わたしは興奮のあまり、眠いとも感じなかったが、くたくたに疲れていた。手足が痛くて、動くこともできないくらいだった。
船倉からあがってみると、風はずっと静かになり、暗礁の波もだいぶおだやかになっていた。波は相変わらず、狭い浜べや両側の岩に打ち寄せてはいたが、以前ほどの激しさはなかった。
わたしは、ゼリンスキーを、朝食を食べにやり、ジェニーと機関室へおりていった。マックはボイラーの下にいたが、出てきたときは、頭から足まで油まみれで、顔の見分けがつかないくらいだった。まるで、泥を浴びたようだ。
「左舷側のエンジンはどうだ」と、わたしはきいた。
マックは首を振った。「あと丸一日、時間をください、バーディーさん」
わたしはジェニーがそばにいることも忘れて、思わず不謹慎《ふきんしん》な言葉を吐き、「いったい、どうしたんだ」ときいた。
「オイル・バーナーへ行く送油管なんですよ」と、マックは答えた。「全部取りはずして、よく掃除しなきゃなりません。ドンキー・エンジンとポンプへ送る蒸気は、充分ありますが、それ以上は――。メイン・ボイラーの送油管がつまっているので、それを掃除するまでは、焚《た》けません」
どうしようもない。「エンジンが動こうと動くまいと、けさの満潮にのせて船を出すのだ」と、わたしは言った。
「錨がもつことを望むだけだ。そうじゃないか、ジェニー」ジェニーはうなずいた。「あがって、食事をしろよ、マック」と、わたしは言った。
朝食がすむと、ボイラーへ戻ったマックを除いて、みんな甲板にあがり、船尾へ行って、ドンキー・エンジンの絞盤《こうばん》〔錨を巻きあげる装置〕に索をつけた。左舷側の絞盤は、暗礁へのびている索に、右舷側の絞盤は、錨についている索にとりつけられた。
「錨はもつと思うか」と、わたしはゼリンスキーにきいた。
彼は両手をひろげて、あきらめのゼスチュアーをした。「そう願う。――わたしには、それだけしか言えません。海の底は岩だらけです」
もう、七時半をすぎていた。軽くなった船尾は、波が下にはいるたびに持ちあがった。船尾がさがってふたたび砂利浜につくと、トリッカラ号は震え、あのいやな、ガリガリときしむ音が聞こえた。わたしはバートとゼリンスキーを、船首へやった。船首の索はすでに、ドンキー・エンジンにつけてあった。彼らの任務は、船尾のドンキー・エンジンについているわたしとジェニーが、トリッカラ号を水の中に引っぱり出そうとするとき、船首を風下に向けることだ。
準備が完了すると、バートがわたしに手を振った。ジェニーとわたしは、索のたるみを締めた。ドンキー・エンジンのガラガラという力強い音に、わたしたちの胸はおどった。船を引っぱり出せさえすれば……船体がこわれてさえいなければ……浜べを離れて浮いたとき、錨がもってさえいてくれれば……。
「オーケー?」と、わたしはジェニーに声をかけた。
彼女はうなずいた。
わたしはバートに、作業を始めるぞ、と合図した。それからわたしとジェニーは、次の大きな波を緊張して待った。三つの波をやりすごした。そのたびに船尾が持ちあがり、またさがって船底が砂利浜にぶつかった。やがてジェニーが指さした。わたしも気がついていた。ひときわ高く盛りあがった、波頭のぎざぎざした大波が押し寄せてきた。波頭が白く逆巻き、やがてくずれ、すさまじい力で船尾にぶつかった。わたしはジェニーにうなずいた。ドンキー・エンジンの空気ドリルの音が、浜べに打ち寄せる波の音を圧してひびき渡った。船尾が高く持ちあがったような気がした。わたしは波のうず巻く岩にのびている索が、ピンと張るのを見守っていた。索は切れるだろうか、それとも、トリッカラ号は動くだろうか。絞盤はゆっくりと回転した。索はピンと張りつめた。何かおこるにちがいない。ドンキー・エンジンは懸命に働いている。わたしは息をこらした。細い鋼索が、この緊張に耐えられないだろうと思った。
そのとき突然、絞盤が楽に、速く回転し始めた。船尾は大波に乗っていた。わたしはもう一つの絞盤をちらと見た。その回転も速くなっていた。トリッカラ号は岸から離れつつあった。わたしは波の引くのを見守って、手をあげて、二つのドンキー・エンジンをとめさせた。どのくらい船を岸から離したかは、わからなかった。判断の目安がなかった。しかし、索をすくなくとも三十フィートは巻いたと思った。
わたしたちは、次の大波に注意しながら待った。小さな波でもすぐに船尾が持ちあがるので、船は浮いたにちがいないと思った。岩に衝突するかもしれないので、わたしは長く待つ勇気がなかった。ジェニーにうなずいて合図した。船尾の三インチ砲が、泡だつ暗礁を背景に持ちあがったとき、エンジンはふたたび動きはじめ、索がピンと張った。絞盤が索を巻きだした。トリッカラ号は波に漂いながら、ふたたび動きはじめた。
突然、わたしの担当していたエンジンが、すごい勢いで回りだしたと思うと、索が水からとび出し、頭上高くヘビのようにくねりながら、わたしたちに向かってとんできた。索は煙突にぶつかり、切れた端は水に落ちた。つないであった岩のところで切断したのだ。さびて弱ったのか、岩の鋭い角にすられて切れたのか、どちらかである。
切れた索がまだ宙を飛んでいるとき、わたしは急いでジェニーのほうの索を見た。ピンと張りつめていたが、エンジンは楽に動いて、絞盤に索が着実に巻きこまれている。わたしはジェニーに、そのまま続けろと合図した。いまやトリッカラ号は楽々と逆進していた。
波が引いた。ジェニーに、ストップの合図を送った。しかし今度は、船底がこすられず、船は浮いていた。バートが呼んでいるかすかな声が聞こえたので、手摺りのところへ行って、船首のほうを見た。
「こっちにはもう、たるみはないよ」バートは両手を口にあてて叫びながら、船首から黒い岩棚にのびて、ピンと張っている索を指さした。
「それを離せ」わたしは手で切る格好をして叫びかえした。バートは了解のしるしに手を振った。そのすぐあと、わたしは索が水に落ちるのを見た。
トリッカラ号は浮かんだ。
船はほとんど錨の上に来るまで、一本の索で船尾から先に岸から離れた。その索がピンと張る前に、船首の主要錨をおろした。いまやすべては、錨がもつかどうかにかかっていた。トリッカラ号は岸から離れるとき、少し回ったので、船尾は完全に風に向かってはいないが、風と波で、船は少しずつ岸に押しかえされた。しかし、わたしたちは、ポンプを動かし、船を軽くする仕事にとりかかった。前夜の仕事で船尾の船倉は軽くなったので、船尾は持ちあがっていた。そこで、マックがエンジンで苦闘している間に、わたしたち四人は、第一と第二の船倉の積み荷の一部を捨てなければならなかった。
時間はどんどん過ぎていったが、錨がもっているだけでなく、ポンプがフルに働いているから、排水には心配のないことがわかってきた。夕方には、また西風になり、船は島の風下になってしまった。しかし、海は急激におだやかになったので、船が岸に乗りあげる危険はなくなった。
午前三時ごろ、積み荷の一部を捨てる作業は終わった。一同、調理室に集まり、お茶とラム酒でささやかな祝賀パーティーをやった。コックの猫はのどを鳴らしながら、しじゅうわたしたちの足にからみついた。わたしたちは、立ったまま眠っているようなものだった。マックが機関室からやって来て、送油管の掃除がすんだから、それを取りつけ次第、ボイラーをたくと報告した。もう、大丈夫だ。痛む手足に、心の安らぎがみなぎった。安心と火のぬくもりで、わたしは調理室のストーブの前に腰をおろしたまま、眠りに落ちた。
ジェニーに腕をゆり動かされて目をさましたときは、寒くて、みじめな気持ちだった。バートはコックのベッドに体をまるめて、大いびきをかいていた。ゼリンスキーはソーセージを油いためしていた。
「もう、明るくなってきたわ」と、ジェニーが言った。わたしは目をこすって、のびをした。
ひげをそり、朝食をとると、気分がよくなった。マックはわたしたちを、機関室へ連れていった。機関室は熱く、活気に満ちていた。メイン・ボイラーの一つには、火がついていた。鉄のとびらを通して、炎が赤々と燃えているのが見えた。圧力計も働いていた。
「昼前までに、左舷側のエンジンも動かしますよ」と、にやっとしながらマックは言った。マックが歯を見せて笑うのを見たのは、あとにもさきにも、このときだけである。彼は新しいおもちゃを自慢する小学生のようだった。
甲板にあがってみると、大煙突から黒い煙がうずを巻いてたちのぼっていた。「これで少し気が楽になったわ」と、ジェニーが言った。
わたしたちはブリッジに立っていた。わたしはジェニーと肩を並べて船を見まわしながら、トリッカラ号をどうやったらうまく操作できるだろうと、心の中でくり返しくり返し考えていた。ジェニーもわたしも、こんな船のことは何も知らない。わたしたちのうちで、汽船を動かしたことがあり、エンジンのことを知っているのは、マック老人だけだ。
「運がよければ、二週間のうちに帰れるだろう」わたしはそう言って、ジェニーにキスした。
彼女は笑って、わたしの手をにぎりしめた。「これまでのところ、わたしたちに運がついているわ、アイリーン・モーア号を除いては」
二人は操舵室にはいり、機械をチェックし、伝声管をテストし、海図を調べた。おしゃべりをしたり、計画を話し合ったりして、そこに一時間近くいたころ、バートの叫び声が聞こえた。操舵室からブリッジに出ると、「ジム!」と叫びながら、バートがはしごをのぼってきた。
「どうしたんだ」彼がブリッジにころがりこんできたとき、わたしはきいた。
「あれを見ろ!」バートは息をはずませながら、トリッカラ号の後ろの暗礁のほうを指さした。
彼はまっすぐ、ギャップのほうを指さしていた。そのときちょうど、波がギャップの入口の南側の高い岩にぶつかった。波はしぶきをあげて砕《くだ》け、ギャップの中に押し寄せた。いつもと変わりないようだった。暗礁のライン、白く泡だつ寄せ波、鉛色の空が見えるだけだ。「何のことだ」と、わたしはバートの耳に叫んだ。
「あそこ――ギャップの中だ」と、バートは叫びかえした。
引き波が寄せ波とぶつかって、厚い水がとびあがった。それがおさまったとき、わたしはそれを見た。ギャップのはるか向こうに、しぶきのカーテンに半分隠れて、小さな船のずんぐりした煙突が見えた。次の瞬間、浮上する潜水艦のように、白波をかぶっている黒い船首が目に映った。船首はギャップに向いていた。
わたしは目をこらして、その船がギャップにはいるのを見守っているとき、緊張で体がこわばるのを感じた。ジェニーが出てきて、わたしの腕をつかんだ。「何、ジム?」
わたしは、水しぶきを通してちらと見えた黒い煙突を指さした。ジェニーがびくっとするのがわかった。船はもう、ギャップの中にいた。波がぶつかり、煙突は大きく傾いた。船はしぶきの中に消えたが、またおきあがった――アイリーン・モーア号のように。わたしたちは一瞬、船をはっきり見ることができた。――引き船だ。船はまた波の中に落ちこんだが、しばらくすると、わたしたちから半マイルと離れていない、静かな海面に出た。
ハルジーの引き船だ。疑う余地はなかった。海軍の引き船が二隻、マドンス・ロックへ向かったらべつだが、そんなことはありそうになかった。
「あれ――ハルジーかしら」と、ジェニーが叫んだ。
「そうですよ、お嬢さん」と、バートが答えた。「あのハルジーの野郎に間違いありませんよ」
「バート、早くライフルを持ってこい――早く」と、わたしは命令した。「それから弾丸もだ」
数分間のうちに、わたしたちは≪戦闘配置≫についた。マックは機関室に残した。彼らがトリッカラ号に乗りこんでくる前に、エンジンを動かせれば、まだチャンスがあるかもしれない。ジェニーとわたしは、ライフルを持ってブリッジにいた。ブリッジの側面は鉄板で保護されている。バートとゼリンスキーは、船尾に位置した。みんな、ライフルのほかにピストルも持った。
引き船は、まっすぐこちらに向かっている。波の音の中で、減速を知らせる機関室の通信機のベルの音が、はっきりと聞こえた。望遠鏡をのぞくと、ブリッジに立っているハルジーの姿が見えた。黒いあごひげが、塩で白くなっていた。帽子はかぶっておらず、長い髪の毛が顔にかかっている。そばに、やせた、ひょろ長いヘンドリックが立っている。
「ハルジーは、すぐにこの船に乗りこんでくるかしら」と、ジェニーがきいた。
「いいや」と、わたしは言った。「まず、ぼくたちに声をかけてくるだろう。だれがいるか知らないだろうからね。何か始める前に、それを知りたいだろう」
ジェニーは、やにわにわたしの手をつかんだ。
「ジム、わたし急に、あることを思い出したわ。バートが言ったことよ。あなた、覚えていない?――ハルジーは銀塊を手に入れたら、古い仲間を除き、船員たちを全部片づけると思う、とバートは言ったでしょ。引き船には、トリッカラ号からのがれた五人のほかに、船員が乗っているにちがいないわ。その人たちの恐怖をかきたてることができれば……」彼女は立ちあがった。
「操舵室にメガホンがあるわ」
それはいい考えだ。しばらくは、彼らを釘づけにすることができるかもしれない。わたしたちには時間が必要なのだ。わたしは伝声管をつかんで、「マック」と呼んだ。
「あなたですか、バーディーさん」伝声管を通して、下からかすかな声が返ってきた。
「そうだ。ハルジーが来たんだ。左舷側のエンジンを動かせるのは、大急ぎでやっていつごろだ」
「そうですね……あと一時間は約束できませんよ」
「オーケー。わたしはブリッジにいる。動かせるようになったらすぐ、知らせてくれ」
あと一時間! 二時間後には、船をハルジーに乗っ取られているだろう。完全に運から見はなされたような気がした。ジェニーは戻ってきて、わたしにメガホンを渡した。スクリューが大きな渦《うず》を巻きおこして、引き船は逆進した。もう、トリッカラ号から石を投げれば届く距離に迫った。
「おーい、トリッカラ号!」拡声器から、ハルジーの声が聞こえた。「おーい、だれがいるんだ!」それからまた、「おーい、トリッカラ号! こちらはイギリス海軍省の命令で航海している、引き揚げ作業の引き船テンペスト号だ」
むろん、ハルジーはうそをついていた。しかし、よもやわたしとバートが、トリッカラ号に着いているとは、考えてもいなかったのだ。彼の態度は、それを証明していた。
「おーい、トリッカラ号!」と、ふたたび彼は叫んだ。「だれが船にいるのだ」
わたしはメガホンを口に当て、体を隠してテンペスト号に向かってどなった。「おーい、テンペスト号! 引き揚げ作業船テンペスト号の船員たちに伝える。トリッカラ号からテンペスト号の船員たちに伝える。こちらはイギリス陸軍の下士官だ」引き船の手摺りに集まっている船員たちの姿が見えた。「わたしは国王陛下の名において、トリッカラ号と積載している銀塊を押さえている。トリッカラ号の船員二十三人を殺したハルジー船長の身柄を、わたしに引き渡すことを諸君に命令する。ハルジーの共犯は、トリッカラ号の一等航海士ヘンドリックと、船員ジュークスとエバンズの二人だ。彼らをしばって、この船に引き渡せ。きみらはもし、囚人ハルジーの命令に従って海賊行為をやれば、トリッカラ号の船員と同じ運命に陥るかもしれないことを警告しておく。ハルジーは殺人者で、そして――」
引き船の汽笛が鳴りだして、声をかき消してしまったので、わたしはやめた。
スクリューが船尾に白い泡をかきたて、引き船は大きく弧を描いて回った。その間、汽笛は煙突のわきに白い蒸気の幕をなびかせながら、鳴り続けていた。
ジェニーはわたしの腕をつかんだ。「おお、ジム、すごかったわ! あなたの言ったことを聞いて、彼はすっかりおびえてしまったわ。それに、殺人のことまで言って――」彼女は愉快そうに笑っていた。
わたしはちょっとスリルを感じたが、それもすぐに消えてしまった。ハルジーはやって来るだろう。五十万ポンドの銀塊というえさで、船員たちの心配もすぐにおさまるだろう。わたしのやったことは、自分たちがだれだかを教え、少しばかり時間をかせいだだけだ。わたしはまた機関室へ通じる伝声管のところへ行き、「マック」と呼んだ。「早くエンジンを動かさなければならないんだ」
「蒸気の温度が高くなるまでは、どうもできませんよ」マックの、低い、怒ったような声が返ってきた。しまった! ハルジーの来るのが、もう二、三時間おそかったら!
「ハルジーはこれから何をすると思う?」と、ジェニーがきいた。
「船員たちに激励演説をして、戻ってくるだろう」と、わたしは答えた。
「この船に乗りこんでくるかしら?」
「わからんね。ぼくなら、トリッカラ号の索を切ってしまうね。トリッカラ号はすぐに、あそこの岩に乗りあげてしまうだろう。それからゆっくりと、ぼくらを処理できるよ」
引き船はいま、暗礁の中の、トリッカラ号から北約半マイルのところに停止していた。望遠鏡をのぞくと、船員たちがブリッジの下の前甲板に集合しているのが見えた。数えてみると、十二人くらいいた。ハルジーはブリッジから彼らに話をしていた。そのとき、船尾からバートの声がかすかに聞こえた。わたしはブリッジの左舷側へ行って、何の用だろうと船尾のほうをのぞいた。バートは三インチ砲のわきに立っていた。バートの言っていることはわからなかったが、彼はわたしを手招きしながら、大砲を指さしていた。それからロッカーの一つへ行って、それをあけて砲弾を一個取り出し、大砲に装填《そうてん》するしぐさをした。
わたしは急いでブリッジのはしごをおりて、船尾へかけつけた。古い、さびた大砲が使えるとは、一度も心に浮かんだことがなかった。砲手でなかったからだ。だが、バートは砲手だ。もしこれが使えるとなると、こっちのものだ。
わたしが行ったとき、バートは砲尾の装置をいじくっていた。「それを使える可能性があるか」と、わたしは息をはずませながらきいた。
バートはふり向いて、にやっと笑った。
「知っちゃいねえんだな。砲身はかなりさびてるが、尾栓《びせん》をうまくさげたんだ。射角はぴったりだ。ただ、旋回がちょっとうまくいかねえ。どうだ? やっつけるか? グリースは塗ってあるが、ずっと前のことだから、砲身からさびがはげ落ちる。でも、弾丸は発射するだろう。これがおれたちのたった一つのチャンスなら、やったほうがいいだろ」
わたしはためらった。大砲はさびで台なしになっているように見えた。もう一年以上も、波にたたかれてきたのだ。
「船首にあるのはどうだ」と、わたしは言った。
「まだ見てねえよ。これよりはましかもしれねえが、しじゅう風のほうに向いていたからな。とにかく、調べている暇はねえよ。見ろ! 引き船がまたやって来る」
バートの言うとおりだった。引き船はふたたびこちらに向かってきた。大きく弧を描いて回り、まともにトリッカラ号のほうに近づいてきた。
「オーケー」と、わたしは言った。「一か八《ばち》かやってみよう」
「よし。おめえ旋回を受けもってくれ。おれは射角をきめて発砲する」バートは鼻歌をうたい始め、また砲尾をさげて弾丸を一発こめた。尾栓がガランという音とともにあがった。
わたしはそばに立っていたゼリンスキーに、ブリッジへ走って行って、メガホンを持ってこいと命じた。
「やつらに警告してやるのだ」と、わたしはバートに言った。「もし停船しなかったら、船首ごしに一発お見舞いするんだ。オーケー?」
「合点だ」バートはそう答えて、砲の左側のシートにもぐりこんだ。わたしは反対側のシートにはいった。
引き船はぐんぐん近づいてきた。甲板には人影がなかった。ハルジーは船員たちに退避を命じたのだ。望遠鏡で見ると、エバンズとヘンドリックは、ライフルを持ってブリッジにいた。トリッカラ号に近づくと、二人は身をかがめた。ゼリンスキーはわたしにメガホンを渡した。ジェニーもゼリンスキーといっしょにやってきて、「大砲は大丈夫なの?」と心配そうにきいた。
「そう願っているんだ」と、わたしは答えた。「きみとゼリンスキーは、隠れていてくれ。大砲からずっと離れていてくれ」ジェニーがためらっているのを見て、「頼むから、隠れてくれよ」と、わたしは言った。
引き船はもう、目の前に来ていた。速力を落として、わたしが予想していたとおり、錨につないだ索が水にはいっているところをまっすぐ目ざしていた。船首を索の下に突っこんで、隠れている船員たちが金のこで索を切断するのだろう。船首の錨の索も、同じようにやるだろう。
わたしはメガホンを口に当ててどなった。「おーい、テンペスト号! おーい! 引きかえさないと大砲を撃つぞ」
「コースを変えねえぞ」と、バートが言った。「お見舞い申すか?」バートはさびた砲身の先をさげた。わたしは砲を右に旋回させた。なかなか動かなかったが、ハンドルに全体重をかけてやっと回すと、引き船が照準線にはいった。
「目標よろし」と、バートが報告した。
わたしはテンペスト号の少し前方に照準をつけ、「よし」と叫んだ。それから心臓が破裂するような思いで、「撃て!」と命令した。
砲口がパッと火を吹き、耳を聾《ろう》するばかりの、ものすごい爆発音が聞こえ、間髪を入れず、引き船の前方に高い水柱がたった。
「すごいぞ」と、バートが興奮して叫んだ。「やつら、びっくり仰天したろ」彼はシートからとびおりて、また砲弾をこめた。大砲が撃たれ、まだわたしたちが生きていることをぼんやり意識しながら、わたしは呆然とすわっていた。テンペスト号の甲板では、人びとが走りまわっていた。わたしたちが直射距離で狙いをつけていることを、彼らは知っているのだ。ブリッジでだれかが、気違いのように舵輪を回しているのが見えた。機関室の信号機が鳴った。スクリューが船尾で白い渦を巻きおこしていた。
「これで、ハルジーのやつもわかったろ」と、バートは突然、笑いながら言った。「気違いのように舵輪にとりついているやつを見ろよ。畜生! 見ろ――おれたちの錨の索にぶつかるぞ」
船を回すのに夢中になって、彼らはくぐろうとしていた錨の索のことを、すっかり忘れていたのだ。わたしは一瞬、索はブリッジも煙突も、何もかも、なぎ倒すだろうと思った。ところが、索がぶつかったのは引き船の船首だった。引き船の全重量がそれにかかり、索は大きな曲線を描いた。ジェニーが突然、叫んだ。「ジム! 索が!」
そのとき、バートが叫んだ。「気をつけろ!」
その瞬間、長い索が切れた弓づるのように、水面からとびあがるのが見えた。と思うと、鉄棒のような何か堅いものが甲板から持ちあがって、わたしのシートにぶつかった。激痛が腿《もも》と背中を走り抜けた。高いところからだんだん落ちて、落ちて、落ちていくような気がした。やがて真っ暗になり、わたしはもがいていた。息ができない。実体のない、それでいて体にまつわりつく気味の悪いものにつかまえられて、わたしはたたかっていた。
そのあと、何も覚えていないが、気がついてみると、ボートの底に横たわっていて、顔のすぐ前に男の靴が見えた。服はびしょぬれで、寒さで体が震えていた。ボートは激しく揺れ、オールのきしむ音がリズミカルに聞こえた。わたしは上を見た。頭は男の足の間にあった。わたしと灰色の空の間に、二つのひざがあり、ひざの間から男の顔がわたしを見おろしていた。ヘンドリックだった。
わたしは目をとじた。悪夢からまださめてないのだと思った。が、だんだん記憶がよみがえってきた。――索が突然、ピンと張り、ももと背中に激痛を感じ、空中へ舞いあがったような気がした。ここまで思い出したとき、トリッカラ号の船尾から海に放り出されたことに気がついた。引き船はボートをおろしたにちがいない。風と潮で、わたしは引き船のほうへ流されたのだ。バートは彼らに発砲するのを恐れたか、あるいは、もし発砲したら、わたしを射殺する、とおどされたのだろう。もっと楽な姿勢になろうと体を動かしたが、激痛に襲われて、ふたたび意識を失ったらしい。
気がついてみたら、ボートからおろされるところだった。まだ体が痛んだが、足は動かせたので、折れていないことがわかった。「意識があるのか、ヘンドリック君」ハルジーの声だった。
「はい」と、ヘンドリックが答えた。「どうもありません。足と背中に少し打撲傷を受けただけです」
わたしは甲板昇降口の階段をかつぎおろされ、ドアがあいて、ベッドの上におろされた。片肘でやっと体をおこし、周囲を見まわした。狭い船室の中で、そこにヘンドリックがいた。ハルジーもいた。わたしをかついできた二人の男は、出ていった。ハルジーはドアをしめ、椅子を引き寄せてすわった。
「さ、どうやってトリッカラ号に乗りこんだか、話してくれるだろうな」彼の声はおだやかで、女の声のようにやさしかったが、暖かみも、抑揚もなかった。
わたしは狼狽した。「おれをどうするつもりだ」できるだけ落ち着いた口調でしゃべろうと努力しながら、きいた。
「それは、おまえとおまえの友だちの態度いかんにかかっている」と、彼はよどみなく答えた。
「さ、話を聞こうじゃないか。おまえとクックは、ニューカッスルでテンペスト号に来たな。そしてランキンから、トリッカラ号がどこにあるか聞きだした。それからどうした?」
「船を手に入れて、マドンス・ロックに来た」
「どうやってその船を手に入れた。何人、トリッカラ号に乗ってるんだ」
「数人」と、わたしはあいまいに答えた。
ハルジーは舌打ちをした。「さ、バーディー、もっと正確に言ってくれ。何人だ」
「それは、あんたが調べたらいいだろ」と、わたしは答えた。こわかったが、もう落ち着きができてきた。
ハルジーは耳ざわりな声をあげて笑った。
「口を割らせる方法は、いろいろあるぞ。それとも――一分間待ってやろうか」彼は小さく、くすくす笑いをした。
「女を一人見たぞ。おまえが海に落ちた直後だ。女はおまえの友だちの一人に、海にとび込んでおまえを助けろ、としきりに言ってたようだ。彼女はどこか……おまえといっしょにいかだに乗った、ミス・ソレルにとても似ていた。あれはミス・ソレルか」ハルジーの声は突然、きびしくなった。「そうなのか、バーディー」
彼は興奮に目を燃やしながら、わたしの上に身を乗り出した。わたしはなぐられると思って体を堅くしたが、彼の目から突然、凶暴さが消え、ハルジーは椅子の背にもたれた。「なるほど――ミス・ソレルか。彼女はおまえに恋しているんだな。さもなければ、こんなところに来るはずがない」彼はまたくすくす笑った。「これで仕事が楽になった」それからふたたび身を乗り出した。「バーディー、おまえにチャンスを与えよう。おまえの友人たちに、降伏を勧告しろ。おまえたちは脱走囚人だ。法律はおまえらを保護しない。だが、おとなしくわれわれをトリッカラ号に乗船させて、われわれがイギリスに帰ったら――」
「おれはばかじゃないぞ」と、わたしはハルジーをさえぎった。「あんたは、船員たちをイギリスへ連れ帰るつもりはない。まして、おれたちを連れて行くものか。トリッカラ号の船員を見殺しにしたように、自分の仲間以外の者は全部、見殺しにするのだ」
ハルジーはため息をついた。「おい、おい、おまえは少し神経質すぎるぞ」彼は肩をすくめて椅子から立ちあがった。「おまえをしばらく一人にしておくから、自分の立場をよく考えろ。法律に照らせば、トリッカラ号をぶんどって、われわれを砲撃したおまえの行為は、海賊行為とみなされるんだぞ」
「トリッカラ号をここに座礁させた、あんたの行為はどうなんだ」と、わたしはやり返した。
ハルジーは、黒いひげの間から白い歯を見せて笑った。
「そうだ。わたしがそれを法律問題にしたくないことは認める。そこで、取り引きをしようじゃないか。イギリスに着いたとき、銀塊が少し不足していても、全部引き揚げることができなかったと言えばいい。おまえとおまえの友人たちを、たとえば、ノルウェーのトロムソあたりに上陸させてやろう。カネさえ持っていれば、どこへでも消えられるだろ」彼は微笑しながら首を振った。「よく考えろ。わたしはこれから行って、おまえの友人たちに、ちと圧力をかけてやろう」
彼はまた微笑しながら首を振った。「おお、ロミオ、ロミオ、あなたはどこにいるのです、ロミオ」とシェークスピア劇の科白をとなえてから彼は言った。「おい、ヘンドリック君。ジュリエットに声をかけようと思う」
彼がドアに鍵をかけて、ヘンドリックとともに行ってしまってからも、彼の無気味なくすくす笑いがわたしの耳に残っていた。
わたしはやっとの思いでベッドからおりて立った。体全体が、コンクリートの舗道に落ちたように痛んだ。だが、打撲傷を受けただけで、たいしたけがではなかった。畜生! どうしてこんなことになったんだ。わたしたちは、完全に運に見はなされてしまった。
上の甲板で、拡声器が鳴りだした。かすかにハルジーの声が聞こえてきた。
「トリッカラ号! こちらはテンペスト号。トリッカラ号! こちらはテンペスト号。一時間以内に船と銀塊を引き渡さなければ、バーディーを海賊行為の罪によって絞首刑に処する」
彼が同じことをくりかえしたあと、拡声器のスイッチが切られた。ハルジーはこけおどしを言っているのだ、とわたしは思った。バートはそれを看破して挑戦してくるだろう。そして――。しかしそのとき、トリッカラ号の船員たちのことと、コックがしたピナン号の話を思い出した。ハルジーは言ったとおりのことを実行するつもりなのだ。一時間以内にここから逃げなければ、ジェニーとバートは、トリッカラ号を引き渡すだろう。どちらの場合でも、わたしたちにとって、結果は同じだ――死だ。ハルジーはわたしたちをマドンス・ロックに島流しにしておくだろう。この恐ろしい岩山でわたしたちが自然死をとげるままに、放置するだろう。それで彼は、良心の責め苦をまぬがれるだろう。
船室は、ダートムーアの独房より狭かった。とじこめられていると思うと、こわくなった。恐怖をしずめようとしたが、ついに耐えられなくなって、大声で叫びながらドアをドンドンたたいた。椅子でドアをたたきこわそうとしたが、ドアは頑丈で、椅子がこわれてしまった。気の狂う思いで、もっと丈夫なものを捜したが、何もなかったので、死にもの狂いでドアをこぶしでたたいた。気がついてみたら、ドアのノブを引っぱりながら、狂人のようにすすり泣いていた。わたしは無理に気を落ち着けて、ベッドにすわった。ここから出なければならない。この船から逃げなければならない。
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十 ダイナマイト
だんだん落ち着いてきた。どこかに出口があるにちがいない。何か、自分にできることがあるにちがいない。船室の壁は木である。しかし、丈夫な木である。これをぶちこわすのは、ドアをこわすよりもむずかしい。甲板を歩くゴム靴の音が、頭のすぐ上に聞こえたので、顔をあげてみた。甲板の板張りは、船室の天井の一部をなしている。ベッドの下では体をまっすぐにして立てなかったが、ほかの部分は、天井がもっと高い。それは、ハッチが甲板から二フィートほど高くなっているためにちがいない。そのとき、ハッチのわきに、直径六インチくらいの丸窓があるのに気がついた。しまっていた。おそらく、ギャップを通るとき、どこもかしこもしめたのだろう。椅子にのってとめ金を回してはずし、丸窓をあけると、人間の足が見えた。その間から、半マイルほどの海をへだてて、トリッカラ号のさびた船体が目に映った。丸窓がもう少し大きかったら、と残念でならなかった。だが、大きくてもだめだとわかった。これだけの距離は泳げない。水が冷たすぎる。しかし、外気に触れ、トリッカラ号を見たので、元気がわいた。
そのとき、男の声が聞こえた。「おい、こんな話、聞いたことがあるか、ウイル。おれは二十三年も船乗りをしてるが、海賊行為で人間が絞首刑にされるなんて話、聞いたことがねえや。たとえ海賊行為をやったってよ、裁判をしねえで絞首刑にするってえことがあるかよ。まるで人殺しじゃねえか」
足が動いて、トリッカラ号が見えなくなった。もっと近い別の声が言った。「人殺し?」おびえたような声だった。「おれはそんなのいやだな。船長は気違いにちげえねえ。何をしたからって、裁判を受ける権利はあらあな。あのハルジーが、海賊行為とかいうものの裁判官になるのか。船員がみんな死んじまったとき、トリッカラ号の船上で、いったい何がおこったんだ。それを聞きてえもんだ」
「後ろを向いちゃいけない」と、わたしは静かに言った。四本の足がギクッと緊張するのが見えた。「そこにじっと立っていてくれ」と、わたしは急いで続けた。「きみの疑問に答えてやろう。トリッカラ号のボートは、船員たちが死ぬように、いじくられたんだ。その晩、二十三人の船員が殺された。主犯は、ハルジーとヘンドリックだ。やつらは、トリッカラ号を自分らのものにしようとして、たくらんだんだ」
「どうして知ってるんだ」と、アイルランド人がたずねた。
「おれは、いかだで逃げたんだ。よく聞いてくれ! これは本当のことで、きみらの命にもかかわることだ。ハルジーは自分の仲間だけをイギリスへ連れ帰るだろう。銀塊を引き船に積み込んで、トリッカラ号を爆破したら、ほかの者たちは、このロックにおいてけぼりされるんだぞ。わかったか」
二人は答えなかった。
「ハルジーは、船員たちに武器を渡したか」と、わたしはきいた。
「いや、ハルジーと一等航海士と、船長の古い仲間のジュークスとエバンズだけが、武装している」
「そうだろう。――きみらは手も足も出なくされたんだ。ランキンはどうだ」
「あいつはびくびくしている。武器を持っているのは四人だけだ」
「ランキンに、ここに来るように言ってくれ、バーディーが話したがっていると伝えてくれ。彼にとっても、生死の問題だと言うんだ。それから、ほかの連中に、おれの言ったことを話してくれ。早くどうかしないと、きみらはマドンス・ロックに骨をさらすことになるんだぞ」
「おまえが囚人だというのは、本当か」と一人がきいた。
「そうだ。おれはトリッカラ号の船員たちに、注意してやろうとした。ところが、上官に反抗したかどで有罪になった。もう質問はやめろ。命が大切なら、早くこの船をおさえろ」
二人はしばらく動かなかったが、やがてアイルランド人が言った。「さ、ウイル、ジェソップに話そうじゃねえか」
二人はゴム靴の音をさせながら甲板を行った。
わずかに希望の光が見えただけだったが、わたしは勇気がわいてきた。小さな丸窓があいているので、もはや狭い船室にとじこめられて、気持ちが押しつぶされるような憂うつさは感じなかった。時間がゆっくりと過ぎていった。ジェソップとはだれだろう。みんな、わたしの話を信用するだろうか。信じるとしても、ハルジーが脅迫を実行する前に、行動をおこすだろうか。いろいろな疑惑が頭をかけめぐり、恐ろしい空想が心に浮かんだ。時間は刻一刻、ゆっくりと、仮借なく過ぎていった。
わたしは興味があったからではなく、心配を忘れるために、船室の中を見まわした。ベッドのわきに小さな机があり、その上に航海に関する本をのせた棚があった。本のなかには、シェークスピア、バーナード・ショー、ユージン・オニールのものなどがあった。急に興味がわいて、机の中にあった手紙の束を取り出した。シオドア・ハルジー船長あてのものだった。わたしのいるのは、ハルジーの船室だった。わたしは時間のたつのも忘れて、机の中をかき捜した。その興奮にかりたてられて、あと一時間しか生きられないということも、忘れていたようだ。何を捜しているのか、はっきりとは意識していなかったが、彼の過去を知る手がかりがほしかったのだ。――そして、ついにそれを発見した。
それは小さな防水レター・ケースだった。ケースにはいっていたのは、全部私信だった。――トイネットと署名した彼の妻からの手紙、弁護士、上海やカントンの商売人、船主などからの手紙などなど、ケースから一つの封筒を出し、振って中身を机にあけた。新聞の切り抜きだった。そのなかに、トリッカラ号で見つけた、『観劇』に出ていた写真と同じものがあった。その下にレオ・フールズという名前と、「放火容疑者姿を消す」という見出しがついており、その下の記事には、次のように書いてあった。
一月二十五日、イズリントンのリリック劇場で発生し、十人が焼死した火災に関連して捜査中の、若いシェークスピア劇俳優レオ・フールズが姿を消した。フールズはリリック劇場の持ち主であり、俳優兼マネジャーとして、派手なシェークスピア・シーズンを開いていた。彼は多額の負債を背負いこんでいると信じられている。リリック劇場には、巨額の保険がかけてある。火災はオーケストラ・ボックスから発生したが、舞台係の一人が、火災の発生する直前、フールズがボックスから出てくるのを目撃した。警察は、彼の逮捕状をとっている。フールズは、放火と殺人の罪に問われると見られる。
ほかの切り抜きも、だいたい同じもので、一九二二年二月の新聞から切りとったものだ。わたしはそれを封筒にもどし、ポケットに入れた。レター・ケースを机の引き出しにしまっていると、わたしの名を呼ぶ小さな声が聞こえた。急いで引き出しをしめ、また椅子の上にとびのって、丸窓から外をのぞいた。ランキンが手摺りに背中を寄りかけて立っていた。顔だけしか見えない。青い、無気力な顔だ。わたしと一瞬視線が合うと、顔をそらせて、トリッカラ号のほうへ向いた。
「おれに会いたいそうだな」と、彼は静かに言った。上着の金ボタンを、そわそわひねっている手が震えていた。
「そうだ」と、わたしは言った。「あんたはほかの船員たちといっしょに、マドンス・ロックに残していかれるんだぞ」
彼はわたしのほうに向き直った。目は恐怖に狂ったような色をたたえていた。
「どうして知ってるんだ。ハルジーがおまえに言ったのか。ハルジーはおれのことを何と言ってた?」
「おれはあいつに、引き船の船員をロックに島流しにするつもりだろうと言ってやった。するとあいつは、『そのとおりだ。意気地なしのランキンも、いっしょに置いといてやる』と、言いやがった」
それはむろん、うそだった。しかし、ランキンは、わたしの言葉を信用した。それが彼のいちばん恐れていたことだったからである。
「おれに何をしてもらいたいんだ」と、彼はきいた。「おれに何ができるんだ」ランキンの声は、哀れなほど震えていた。「そういうことになるだろうと思っていた。ニューカッスルのあの晩以来、そう思っていた。ここに来る間じゅう、これが最後だろうと思っていた」
「無線通信を送れないか」と、わたしはきいた。
「だめだ。出発してから二日目に、ハルジーは無線機をこわしてしまった。秘密が何より大事だからと言った。だが、そのときわかった。彼がなぜ、無線機を動かなくしたいかが」
「あんたは自分が恐れていることを、船員たちに話せないか」
「だめだ。やつらはおれを信用してない。宝さがしに夢中になっているんだ。みんなタフな野郎だ」
「でも、やつらもいまでは、こわがっている。ジェソップという男がいるか」
「いる。アメリカ人だ。いちばんタフな男だ」
「そいつは、あんたの仲間だ。あんた、銃を持ってるか」
「ピストルを持っている。部屋に隠してある。おい、バーディー、おれがおまえを助ける手伝いをしたら――裁判のとき、おれのために弁護してくれるか」
「いいとも、あんたはトリッカラ号の船員殺しには、直接は関係していない。最悪の場合でも、刑はごく軽いだろう。おれの力で、全然罪にならなくてすむかもしれない。とにかく、おれは最善を尽くしてやる」
「ランキン君!」そのとき、ヘンドリックの声がした。「きみはひとりごと言っているのか。冗談じゃないぞ。そこはバーディーを入れてあるところだ」
わたしは丸窓をしめ、とめ金のねじを巻いた。やがて、甲板昇降口の階段をおりてくる足音が聞こえて、鍵が回った。ドアがあいたとき、わたしは頭を手に埋めていた。ヘンドリックだった。彼は船室の中を見まわし、丸窓を見あげた。何も言わなかったが、まもなく、ジュークスが監視人としてやってきた。ライフルを持ち、ピストルをポケットに突っこんでいた。彼は外に出て、ドアに鍵をかけた。
わたしはもう、船員たちと接触するチャンスがなくなり、時間は刻々と過ぎていった。だんだんあきらめの気持ちが強くなったが、熱でもあるように、ひたいに冷や汗がにじんだ。ジュークスのつぶれた鼻と、半分ちぎれた耳が、彼にひどい目に会わされたことを、絶えず思い出させた。
ややあって、ブリッジから機関室の信号機の音がかすかに聞こえ、スクリューが回転するにつれて、船が静かに震動した。波が引き船の舷側を過ぎる音が聞こえた。ふたたび機関室の信号機がひびき、船の震動はとまった。それからヘンドリックの声が、全員に船首へ集合を命じた。頭上に、甲板を踏む船員たちの靴音が聞こえた。だれかが階段を降りてきて、鍵が回ってドアがあいた。はいってきた男は、ロープを持っていて、それでわたしを後ろ手に縛り、甲板へ連れていった。
引き船は、トリッカラ号から八百ヤードほど離れて停止していた。さびたトリッカラ号の甲板には、人影がない。わたしはこづかれながら、ブリッジに押しあげられた。ハルジーはブリッジの上を行ったり来たりしていた。エバンズは銃を肩にかけ、ポケットからピストルの銃把をのぞかせて、舵輪のそばに立っていた。船員たちはブリッジの下の甲板に集まってきた。みんな、タフな面《つら》構えだ。マストにつけられた滑車から、端が首にかける輪になっているロープがさがっている。
ハルジーは歩きまわるのをやめ、「さて」と、にんまりと笑いながら言った。「おまえが友だちに、船と銀塊を引き渡すように言えば、どこか安全な場所に上陸させてやることを約束する」
「そうだろう」と、わたしはどなった。「かわいそうな船員たちを置き去りにする、マドンス・ロックにな」わたしは船員たちのほうへ首をうなずかせた。上を向いている船員たちの間に、ささやき声が走った。
「猿ぐつわをかませろ」と、ハルジーがきびしい声で命じた。ジュークスはきたないハンケチをわたしの口に押しこみ、ロープで縛った。「ロープが首に食いこんだら、気持ちを変えるだろうよ」ハルジーはそう言って、また行ったり来たり歩きはじめた。数人の船員が船首に来て、前からいた者に加わった。ハルジーはわたしのそばを通るとき、「いまや、血は流された……」と、シェークスピア劇の科白《せりふ》らしいものをつぶやいた。それからヘンドリックにささやいた。「ヘンドリック君、船員たちに気をつけてくれ。やつらはおびえている。わしはやつらを信用しない。それから、ランキンにも注意してくれ」
ランキンは船尾のほうからやって来た。大きく見ひらいた目は、熱でもあるように光り、大男にしてはおかしいくらい小またに、ゆっくりと歩いている。やがて、ブリッジのはしごをのぼり始めた。「ランキン君」と、ハルジーが声をかけた。「すまんが、きみは船員たちといっしょに下にいてくれ」
ランキンは足をとめた。口をポカンとあけている。ハルジーに見つめられて魔術にかかったかのように、しばらくためらっていたが、やがてはしごをおりて、船員たちといっしょになった。
ハルジーは船員たちのほうを向いた。彼の仲間は後ろに控えている。「諸君」ローマの暴徒を沈黙させているアントニオのように、彼は両腕をあげてドラマチックに叫んだ。「諸君――海賊行為をおこなった男の死刑執行を見せるため、わしは諸君をここに集めた」
彼の声は、周囲の暗礁に砕ける波の音を背景に、いっそうきびしさを増した。「この男は囚人である。上官の命令に反抗して有罪になった男である。そして、ダートムーアから脱走し――」
ハルジーの言葉は、背の高い男にさえぎられた。「ハルジー船長、おれを含めて船員の一部の者は、イギリスを出発するとき、殺人の仲間になるとは考えなかった」
「だれが殺人だと言ってる?」ハルジーはあごひげを突き出して反問した。「これは殺人ではない。死刑執行だ」
「国際法では、あんたは裁判もせずに、人間を絞首刑にする権利はないよ」と、その男はまた口をはさんだ。
「おまえの意見が聞きたいときは、こちらからたずねる」ハルジーの声は、まるでほえるように鋭かった。
しかし、このアメリカ人はあとへ引かなかった。わたしの胸に、急に希望がわいてきた。
「船長、この男は裁判を受ける権利がある、とおれたちは思うんだ」
ハルジーはブリッジの手摺りを、こぶしで力まかせにたたいて、「黙らないと、ふんじばるぞ」と、どなった。それからヘンドリックに急いでささやいた。「銃をいつでも撃てるようにして、ランキンに注意していてくれ。あいつは子猫のようにおどおどしている」
ハルジーはふたたび船員たちのほうを向き、「諸君」と言って、船員たちの間でだんだんやかましくなってきたつぶやきを制止した。「五十万ポンドの銀塊がかかっているいま、国際法などを考えている時ではない。われわれはトリッカラ号に乗りこまねばならない。そして、われわれの目的を達成するために、脱走囚人を絞首刑にすることが必要ならば、いかにそれが遺憾なことであろうと、それをやらねばならない。彼が仲間に、船を引き渡すことを命令するか、われわれが彼を絞首刑にするか、どちらかだ」
ハルジーはそう言ってから、わたしのほうを向いた。「どうだな、バーディー?」
わたしは首をうなずかせ、話がしたいということを示す音を出した。数人の船員が、「話をさせてやれ」と、つぶやいた。するとハルジーは、わたしのところに来て、猿ぐつわをはずし、「ここに拡声器のマイクがある」と言って、黒いベークライトの箱をわたしのほうに押してよこした。
「まず最初にききたいことがある」わたしはみんなに聞こえるように、大きな声で言った。ハルジーはじっとわたしを見つめ、早く言えと促した。「あんたは、この人たちをどうするつもりなのだ」わたしは船員たちのほうに首をうなずかせた。「銀塊を手に入れたときにだ。この連中を見捨てるのか、前に――」
わたしはハルジーにこぶしでなぐられ、よろめいてジュークスにぶつかった。そのとき、ヘンドリックが「船長、気をつけて!」と、叫ぶのが聞こえた。
わたしは苦痛で半分目をとじていたが、下で船員たちが、ランキンの周囲から離れるのが見えた。彼は手にピストルをにぎっていた。
「ランキン――ピストルをおろせ」と、ハルジーが命令した。熱にうかされた人間のように、ランキンは突然、ピストルをハルジーに向けた。わたしのすぐ後ろがピカリと光り、耳をつんざくような音がした。ランキンは口をあけ、びっくりしたような表情が、一瞬彼の顔を横切った。彼はのどの奥をゴボゴボ鳴らしてせきこみ、ピストルをガタンと甲板に落とし、腕をだらりと下げたと思うと、ゆっくりとひざを折り、錨のチェーンの上に倒れた。ハルジーは前へ足を踏み出した。手にしているピストルの銃口から、まだ煙が出ていた。
彼はブリッジの手摺りのところへ行き、びっくりして口もきけないでいる船員たちを見おろした。「反乱を起こす気か、ええ? 反抗するやつは一歩前進しろ。――射殺してやる」
船員たちはすっかりおびえて、おとなしくなった。彼らを尻ごみさせたのは、彼の手にしているピストルもさることながら、彼の狂気であった。彼らはハルジーを恐れた。
ヘンドリックはハルジーの袖を引っぱって、トリッカラ号を指さした。「こっちに大砲を向けていますよ、船長。撃沈される危険をおかすのを、賢明だと思いますか」
「バーディーが生きているかぎり、撃ちはしないだろう」と、ハルジーは言った。それから小さな声でつけ加えた。「とにかく、その危険をおかさねばならない」
「夜になるまで待って、夜陰に乗じて、乗りこむことができますが」と、ヘンドリックは慎重論を唱えた。
ハルジーは軽蔑するように笑った。「こんな反抗的な船員をかかえてか? バーディーが最初こちらに呼びかけたときに、まずいことになった。それからいま、ランキンを射殺した。やつらはおびえている。ヘンドリック君、ほかに方法があると思えば、わたしはそれをやるがね。おい、ジュークス、バーディーの首にロープの輪をかけて、ブリッジのはしごのてっぺんに立たせろ。ロープをにぎっているんだぞ」
麻のロープはざらざらして、海水でぬれていた。わたしははれた唇を舌でなめた。血が塩からかった。もう、チャンスは一つしかない。船員たちは何もする勇気がないだろう。彼らは武器を持っておらず、ハルジーに生殺与奪《せいさつよだつ》をにぎられている。「ハルジー船長」と、わたしは言った。
「あんたの言うとおりにします。拡声器をかしてください」
ハルジーはためらった。彼の黒い目は、わたしの心を読みとろうとするように、わたしの顔に据えられた。しかし、わたしは意気消沈しているように見えたらしく、彼はマイクをわたしに突き出して、スイッチを入れた。頭上のマストにつけられた拡声器のアンプリファイアーの、ガーガーという音が聞こえた。
「バート!」と、わたしは呼びかけた。バートが砲の射角シートに、ジェニーが旋回シートについているのが見えた。砲口はまっすぐ、こちらに向いている。「命令する」と、わたしは言った。「すぐに発砲しろ!」
マイクがわたしの手からふんだくられた。ロープの輪が、万力のようにわたしの首をしめつけた。息が苦しくなった。同時に、だれかのこぶしが、わたしの顔をなぐった。わたしは苦痛で目がくらみ、息をしようとしてあえいだ。そのとき、ハルジーが拡声器でどなっている声が、かすかに聞こえた。
「やめろ! 発砲したらその瞬間に、バーディーを殺す。よく聞け! これから引き船はトリッカラ号から離れるから、十五分以内に船をあけろ。もしあけなかったら、バーディーを絞首刑にする、わかったか」
すると、唇にあてたメガホンのためゆがんだバートの声が、波越しに聞こえてきた。「わかった。ハルジー船長。だが、バーディーの足がそのはしごから離れた瞬間に、大砲をぶっ放すからな、忘れるなよ。それから、射程外に離れるな。さもないと撃つぞ」バートは声を大きくしてつけ加えた。「テンペスト号のみんな――ブリッジに立っている男は、殺人狂だぞ。きみたちにそいつをやっつける勇気がなければ、そいつはきみらを殺すぞ、トリッカラ号の――」
「全速前進」と、ハルジーは命令した。
ヘンドリックは信号機にとびついて、二度それを鳴らし、「全速、オーケー」と報告した。
スクリューが水を噛むと、ブリッジが震動した。バートは船尾が白く泡だつのを見て、「エンジンをとめろ」とどなった。
船員たちの間につぶやきがおこった。ジェソップというアメリカ人は、「とめてくれ、船長」と叫んだ。
「銃の用意をしろ、ヘンドリック君」と、ハルジーは命令した。それから船員たちに向かって、
「みんな、さがっておれ」と、どなった。
そのとき、爆発がおこり、あたり一面は高い水柱と炎と、とび散る破壊物の交錯する修羅場《しゅらば》と化した。わたしはブリッジの手摺りにたたきつけられ、足をすべらせて倒れた。最初に気がついたのは、妙な格好で空中にとびあがった煙突が、倒れてくるところだった。舵輪を背にして倒れていたヘンドリックは、倒れてくる煙突を見ていた。彼は口をひらいたが、わたしには何も聞こえなかった。鼓膜がやられたらしい。音のない世界で、煙突がゆっくりと落ちてきて、ブリッジの端をぶちこわし、もがいているヘンドリックの腹に汽笛の笛が突き刺さるのを見た。
それからブリッジがゆっくりとくずれ、わたしたちは下にいる船員たちの上に放り出された。
やっと立ちあがってみると、ロープはもう首にかかっていなかった。引き船の中央に、大きな穴があいていて、炎がそこからメラメラとはい出している。こごもった音が、麻痺したわたしの耳に伝わってきた。悲鳴と叫び声と、どこからか急に蒸気が吹き出した音だ。だれかわたしの手首のロープを切ってくれた。ハルジーがよろめきながら立ち上がったとき、アメリカ人が彼からピストルを奪った。ヘンドリックの死体は、血の海の中に横たわっていた。エバンズは銃も持たず、失神したように立ちつくしていた。ジュークスは目に手をあてて、つまずきながら、めくら滅法に歩きまわっていた。
ジェソップは、船員たちを落ち着かせて、秩序を保っているようだった。彼らは船尾に集まって、ボートを二艘おろした。だれかがわたしの腕をつかんで、ボートに引きずりこんだ。引き船から離れたとき、舷側の大きな穴から、炎が勢いよくとび出すのが見えた。煙突のあった黒い穴から、煙が吹き出していた。見あげると、ハルジーが船尾のほうへ来るのが目に映った。彼はボートに乗せてくれと嘆願していたが、ジェソップはただ笑って、「トリッカラ号の死んだ船員たちのところへ行って、自分がどんな思いをしたか、話してやれ」とどなった。それからオールをにぎっている船員たちに言った。
「おまえら、わからねえのか。――もっとしっかり漕げ。火がダイナマイトにうつったら、船は爆発するんだぞ。そばにいたら大変だ。さ、みんな、しっかり漕げ」
ボートを漕いでいる人間のなかに、ジュークスとエバンズもいた。引き船の上では、ハルジーがいかだをとめてあるロープを、死に物狂いで切っていた。やっと切ったが、いかだを持ちあげられない。恐怖で気が狂いそうになっていた。やがてあたりを見回して、バケツを見つけ、水をかけて火を消しにかかった。
わたしはジェソップのほうを向いて、引き船にダイナマイトがたくさんあるのかときいた。
「むろんさ」と、彼は答えた。「エンパイア・ステート・ビルディングを爆破できるぐらいある。ハルジーは、トリッカラ号を跡かたもなく爆破するつもりだったんだろう」
「きみは、ハルジーをボートに乗せることを断わったとき、それを知っていたのか」
「ボートの中を見ろよ。おれはきみを乗せてやったろう。だから、ボートにはもう余裕がないのさ。――ま、それはおれの口実だ。ハルジーのやつに、思い知らせてやるんだ」
トリッカラ号のさびた舷側が、頭上高くそびえていた。
「大丈夫か、ジム」と、バートが上からどなった。
「大丈夫だ」と、わたしは言った。
「そら、いくぞ」なわばしごが、ボートのそばの水面を打った。わたしははしごにとびついて、のぼった。足に力がなく、顔が大きくはれているような気がした。バートが手を貸して、手摺りを越えさせてくれた。赤くさびてはげた甲板を見ると、家に帰ったような気がした。「ジム!」ジェニーが泣き笑いしながら、わたしの腕にとびこんできた。
わたしは彼女の髪をなでた。テンペスト号にたった一時間しかいなかったとは、とても信じられなかった。「ダーリン! きみには二度と会えないと思った」わたしは急にホッとして、へとへとに疲れた。
「まあ、ひどい顔。下へいらっしゃい、手当てをしてあげるから」
「いや」と、わたしは言った。「だめだ。――しなきゃならないことがある」わたしはバートのほうを向いて言った。「あの連中があがってきたら、監視していてくれ。ライフルを構えて、甲板に集合させるんだ。連中に話がしたいんだ」
「オーケー」と、バートは言った。二艘のボートに分乗してきた連中が、一人ひとりあがってきた。ハルジーとその仲間から奪った武器を持っている者が数人いた。バートはそれを取りあげて、みんなを手摺りのところにならばせた。
「これで全部だ」と、報告してから、彼は手摺りに寄りかかって船尾のほうを見渡すと、「えれえこった!」と叫んだ。「引き船を見ろよ。――炎は風にあおられて、だんだん大きくなってくらあ」
わたしたちは手すりに寄りかたまって、引き船を見つめた。風で炎が船尾にひろがり、まるで燃えているたいまつのようだった。そして、その炎のまっただ中で、ハルジーがいかだを海に落とそうとして、死に物狂いになっていた。いかだはすでに、舷墻《げんしょう》にそって立ち、彼の姿は炎を背景に黒いシルエットを描いていた。やがて、いかだの端を肩にかけ、超人的と思われる力をふりしぼって体をのばしたと思うと、いかだは海面にすべり落ちて、水しぶきがあがった。その瞬間、引き船の深部で、一連の短い爆発が起こり、船は突然、花火のようにパッと破裂して、炎と破壊物が空中高く舞いあがり、破壊物はゆっくりと水に落ちた。残ったのは、船首と船尾だけだったが、それも内側にくずれて、水の中に沈んだ。あとには、黒い水蒸気の雲のほかは、何も残らなかった。水蒸気は煙の輪のような形で、しばらく宙にただよっていたが、やがて風に吹かれて、長く尾を引く何本かの束となって散った。
「あれがハルジーの最期だ」バートはそう言って、肩をすくめた。「ちっともかわいそうじゃねえ」彼はテンペスト号の船員たちに注意を向け、「さ、一列にならべ」と言った。それから、おどおどしているジュークスに、「さっさとしろ」とかみついた。「ハルジーの霊のお祈りしたってしようがねえよ」
みんなが並ぶと、わたしはアメリカ人のそばへ行って、「きみがみんなの代表なんだろ」と言った。
「そうらしいよ」と、彼は答えた。
わたしはうなずいた。「よろしい。おれの立場を考えてもらいたい。手不足なうえに、この船には銀塊が積んであるんだ。きみたちを食堂に入れて鍵をかけておく。ただし、一般の航路にはいるまでだ。運動のため、一度に二人ずつ外に出してやる。悶着《もんちゃく》を起こさなければ、港に着いたら、上陸させて、希望するならどこへでも行かせてやる。とにかく、何か取り調べられたら、きみらの無実を証明してやる。ジュークスとエバンズ、おまえらは監禁する。無線手はだれだ」
ジェソップがブロンドの縮れ毛をした、ずるそうな目の小男を指さした。「きみは無線室へ行って、すぐに機械の修理にかかれ。できるだけ早く、沿岸の無線局と連絡したいんだ」わたしはバートのほうを向いた。「この連中を、すぐに連れていけ。船員たちの大部屋に入れるんだ」それからジェニーに言った。「エンジンはどうだ」
「心配で、エンジンのことなど考える暇はなかったわ」
「じゃ、ブリッジへ行って、伝声管でマックにきいてみよう。今ごろは、蒸気の温度があがってるはずなんだ。海が静かなうちに、ここから出たいんだ」
伝声管で呼ぶと、機関室からマックの返事がかすかに聞こえた。「エンジンの調子はどうだ、マック」と、わたしはきいた。
「もう、出かけられますよ、バーディーさん」と、マックは言った。「だが、半速で我慢してもらわにゃなりません。たぶん、あすの朝までには、もう一つのエンジンも動くでしょう」
「オーケー、マック。よくやった。しかし、一つのエンジンをフルに動かして、ギャップを早く通り抜けなければならない」
「いいですよ、バーディーさん。だけど、機関室が船底から抜け落ちても、わたしのせいじゃありませんよ。この船は、とっくにドック入りをしているべきはずですよ。こんな船をあまり酷使できませんよ」
「ギャップを通る間、エンジンをフルに動かしていてくれさえすれば、それでいいんだ」
五分後に、バートがゼリンスキーを連れてブリッジにあがってきた。二人とも体いっぱいに銃をぶらさげ、まるで山賊のようだった。
「みんな、とじこめたよ――船員の食堂を刑務所がわりにしてな。ジュークスとエバンズのばか野郎だけは、別の船室に入れた。手錠を見つけたんで、おとなしくさせるために手錠をかけておいた。あの小さな、ずるそうな無線手は、無電室に入れて鍵をかけ、早く仕事にかかれと言っておいた」
「よし。さて、おまえとゼリンスキーは、錨をあげろ。すぐここから出るんだ」
「合点だ」バートはにやっと笑った。「マドンス・ロックはもう見あきたよ」
バートとゼリンスキーは、ブリッジのはしごをおりて、船尾のほうへ急いだ。雨のカーテンにとざされて、トリッカラ号が座礁していた浜べは見えなかった。わたしは暗礁のギャップのほうを見た。寄せ波が岩にぶつかり、岩から海水が滝のように流れ落ちている。そのうちに雨が激しくなり、視界がぼやけてきて、暗礁は消えてしまった。引き船から流れ出た油も漂流物も、見えなくなった。
「早く無線が使えるといいわね」とジェニーが言った。「もし暴風が来るなら、ここにいたほうがいいかもしれないわ。この状態では、トリッカラ号は、あまり波にもまれたら、もたないでしょ」
「そんな悠長なことを言っていられないよ」と、わたしは言った。「天候のいい間に、ここから出なければいけない。もし暴風になって、風がまた東に回ったら、あの浜べに押し戻されてしまう。――そうなったらおしまいだ」
「いいわ。でも、ボートがないということを忘れないでね」
「忘れない」わたしはそう言って、防水マントを取りに操舵室にはいった。出てきたとき、バートとゼリンスキーが船首へ行く途中、ブリッジの下を通った。「オーケー」と、バートが呼ばわった。「索をほどいたよ」
「このスコールがおさまるまで、そのままにしておいてくれ」と、わたしは言った。
数分後、雨が急にやんで、ギャップがふたたび見えてきた。鉛色の海と空を背景に、白波がはるか向こうまで続いている。バートに合図すると、さびた錨のチェーンが、ガラガラとあがり始め、トリッカラ号はゆっくりと浜べのほうへ引っぱられた。突然、ドンキー・エンジンが忙しく回転し、船は動かなくなった。ブリッジの右舷側へ行って下をのぞいてみると、波に揺られている、さびで腐蝕したチェーンの切れ端が見えた。プスンと切れたのだ。イギリスに着くまで、その錨は必要ないはずだが、わたしは気になった。トリッカラ号のほかの部分も、おそらくこのチェーンと同じように腐蝕しているだろう。マックが言うように、機関室は船底から抜け落ちるかもしれない。ジェニーをちらと見た。彼女はわたしを見ていたので、同じことを考えているのだとわかった。そうだ、ギャップを通ってみればわかるだろう。一つのエンジンをフルに動かして、ここを無事に通り抜けられれば、トリッカラ号は大丈夫、航海ができることが証明されるだろう。――もしギャップさえ通れたら! わたしは機関室の信号機の真ちゅうのハンドルに手を伸ばしたとき、少しも恐怖を感じていなかった。ハンドルをつかんで二度鳴らし、左舷側のエンジンを逆進にかけるように命じた。
船中に震動が走り、足の下でブリッジが震えるのを感じた。わたしは息を殺して待った。左舷側のスクリューのシャフトにひびがはいっていて、それが折れたら、さびた船底に穴があくかもしれない。タービンのベアリングが、さびているかもしれない。エンジンは過熱でとまるかもしれない。震動はだんだん激しくなるようだった。ブリッジの側面からさびがはげ落ちるのが見えた。赤さびた甲板の鉄板が、はがれるように思われた。
しかし、トリッカラ号はほとんどわからないほどゆっくりと、テンペスト号が沈んだところに浮いている油のほうに向かって、マドンス・ロックからあともどりを始めた。船が動きだすと、震動が静かになった。舵輪を回転させると、船首が次第に向きを変えた。船が浜べとほとんど平行になったとき、信号機でストップの合図をした。震動は完全にやんだ。船は静かに後ろ向きにすべった。煙突が細い煙を出し、エンジンのかかっている船を見るのは、心の安まる思いだった。
船がかなりあともどりしたところで、左舷側のエンジンを、スローの前進にかけるように命じた。ところが、スローの前進でも、一本のスクリューが水を噛み始めると、船全体が震動した。舵輪を左舷側に回転させると、船首は大きく弧を描いてギャップのほうを向いた。
五千トンの貨物船のブリッジから見ると、ギャップもそう恐ろしそうではなかった。もう、波を見あげるのではなく、見おろすのだ。とはいえ、かなりすさまじい光景である。風が完全に方向を変え、アイリーン・モーア号で通過したときより、波の威力も減っているので、コンディションのよい船なら難なく通れるだろうが、ギャップに押し寄せる波は、高さ十フィートはある。船体がさびてボール紙のように弱く、エンジンが一つしか働かないこのボロ船で通るのは、自殺行為に等しいように思われた。
ジェニーがすぐそばに立っていた。彼女は何も言わず、ただまっすぐ前方を見つづけていた。が、ブリッジの手摺りをにぎっている両手に力がはいって、関節が白くなっているのがわかった。
「救命衣の用意をしたほうがいいよ」と、わたしは言った。「ついでに、ぼくのを持ってきてくれないか」それから下のバートにどなった。「おまえもゼリンスキーも、救命衣の用意をしろ。それから、いざというときに、テンペスト号の船員たちを食堂から出してやれるように準備しておけ」
バートはうなずいた。わたしは伝声管をにぎって、機関室のマックに言った。「全速前進にしてくれ。それからな、マック――伝声管のそばにいてくれ。うまくいかなかったら、きみに機関室から早く出てもらわねばならんだろうから」
「はい、大丈夫ですよ、バーディーさん」と、マックは言った。彼が楽観的だったのは、これが初めてだった。
震動がひどくなってきた。腐蝕した甲板のさびかすが踊った。船は徐々にスピードを増していった。寄せ波の音が激しくて、もう話ができない。エンジンの震動は、もはや音ではなくなって、靴の底を針で突つかれるような気がした。わたしは舵輪をしっかりとにぎっていた。船首に大波がぶつかった瞬間に、船はギャップからそれて、暗礁に乗りあげるだろう。そうなったら、どんなことが起こるかしれない。操舵機がこわれるかスクリューのシャフトが折れ、船尾全体が折れてしまうかもしれない。
ギャップにはいる時間をはかることは不可能だった。ただ、幸運に恵まれただけだった。砕け波の前の泡立つ水面に船首が突っこみ、船首は若干横にそれたが、コースを維持することができた。船首の左側のはるか先を見ると、引き波とぶつかって、砕け波が空中高くとびあがった。その向こうでは、黒い岩から水が滝のように流れ落ち、次の波が盛りあがっていた。ブリッジからでさえ、その波はものすごく高く見えた。やがて波は砕け、岩の根本にぶつかり、それからすごい力で船の側面にたたきつけて、しぶきの幕が右舷の手摺りの上高く立ちあがった。トリッカラ号は、ムチに打たれた馬のようにとびあがり、船首は左舷側に揺れ、甲板は傾いた。――それからしぶきの幕がくずれて、船を水底にたたきつけようとしているかのように、大量の水が、ドッと甲板におちた。しばらくは何も見ることができなかった。わたしは船のコースを保つため、舵輪を右舷側に回そうとして悪戦苦闘した。
しぶきがおさまると、寄せ波が船の側面を過ぎ、次の波が盛りあがっていた。ブリッジは足の下で震動していたが、船はまだ前進を続けていた。もうギャップにはいり、まっすぐに進んでいた。
ところが、二番目の波がもろに船尾にぶつかり、とたんに舵輪がわたしの手からもぎとられて、気違いのように回転した。船尾が波の力でぐるりと回ったため、コースが変わってしまった。トリッカラ号は船首を軸に、旋回しているような形となった。
わたしはふたたび舵輪をにぎった。船は南に向いていた。わたしは緑色の大波が甲板を洗うなかで、コースを元に戻した。最初は気づかなかったが、波の逆巻《さかま》くギャップを船尾にして、船は波のうねる静かな海へと向かっていた。トリッカラ号は激しく横揺れしたが、エンジンはまだ動いており、甲板はまだ震動していたが、トリッカラ号はまだ浮いていた。
ジェニーがわたしの腕をつかんで、「とうとうやったわ」と叫んだ。
わたしは急にホッとして、たまらないほど疲労を感じた。左手に痛みを感じたのはそのときだった。舵輪の取っ手にはさまれて、小指が骨折したのだ。だが、そんなことは気にならなかった。ギャップを通り抜けて、故国へ向かっているのだ。
船のコースを南々西にとり、暗くならないうちに、マドンス・ロックははるか後方の視界の端に見える、波のたちさわぐ一点の岩山となった。前方は、大きな波のひだにおおわれた、果てしない灰色の海である。赤さびたトリッカラ号の船首は、押し寄せる波に突っこんでいった。一つのエンジンで苦闘する船は、船首から船尾まで、絶えずしぶきを浴びた。しかし、千五百マイル少し先には、スコットランドとわが家がある。
まあ、以上がトリッカラ号の物語である。すでに述べたこと以上につけ加えることはあまりないが、シェトランド諸島とファロー諸島の間を通過した直後に、風の向きが変わって、北東から暴風が襲ってきた。五月の暴風としては、過去数年にない激しいものだった。船尾は緑色の大波をかぶり、煙突は倒れ、ブリッジはつぶれてしまった。ポンプを総動員して、水をかいだしても、まに合わなかった。無線手がどうやら機械を修理したので、わたしはS・O・Sを発信する決意をした。まことに不思議な縁というか、オーバンのロック・ユー海軍無線局が応答した。そのときトリッカラ号は、ヘブリデス諸島の北約百マイルの位置にいた。付近には船は一隻もいなかった。しかし、わたしたちの身分がわかり、銀塊を積んでいることを知ると、海軍無線局は、海軍の引き船をすぐに派遣すると言った。五月十六日のことだった。そのとき、トリッカラ号の三番船倉は、水深八フィートもあり、船尾がひどくさがっていた。
翌日、暴風の力は衰え、夕方までに海軍の引き船が到着して、トリッカラ号を曳航《えいこう》した。
それからというもの、商務省、トリッカラ号の船主ケルト汽船会社、海軍省、ほとんどの全国紙から無電が殺到した。すでにオーバンに入港する前に、記事の独占掲載料の付け値が、三千ポンドにはねあがり、ある映画会社は、映画撮影の優先権だけに、二千ポンド支払うと申し出た。
こんな有様だから、オーバンに着いたら、さぞかしえらい騒ぎだろう、と心の準備はできたが、荒涼たる海に囲まれて、赤さびた船に乗っていると、自分たちがイギリス中で話題になっているという実感がわいてこなかった。わたしたちのことは、三日間ぶっつづけに、イギリスのほとんどすべての新聞の、第一面のトップに大見出しで報道された。
とにかく、沈没したと報告された船が、一年以上もたってから、暴風の中からひょっこり現われるなどという話は、まことに異常なものにちがいない。それに、五十万ポンドの銀塊のエピソードが加わっているのだから、これはたしかに話題になる。
わたしたちは港に着くと、新聞記者、カメラマン、役人などの包囲攻撃を受けた。ケルト汽船会社社長サー・フィリップ・ケルトは、わたしたちに会いにわざわざ飛行機でやってきた。群衆のはしっこに、ジェニーの父親が立っていた。
その夕方、わたしたちがそれぞれ長い談話を発表し、質問の攻撃がおさまると、わたしたちはやっと解放された。バートはロンドン行きの汽車に乗った。ジョン・ゼリンスキーとコックの三毛猫もいっしょに行った。ジェニーと彼女の父とわたしは、駅で彼らを見送った。二十人ほどの新聞記者も見送った。汽笛が鳴ると、「じゃ、しばらくさよならだな」と、バートが言った。
「査問会議のときにまた会おう。それからお嬢さん、どうか――」彼はいたずらっぽくわたしたちにウインクした。「けんかしないで、やってくださいよ」
「しない」と、ジェニーとわたしが同時に言った。汽車が動きだすと、ジェニーは走っていって、バートにキスした。ニュースカメラがパチパチ音を立てた。バートは手を振って、「じゃ、さよなら」と叫んだ。「航海中、いろいろありがとう」
その晩、夕食のあと、ジェニーと入江へ歩いていった。満月に近い月が、クルアチャンの峰にかかっていた。肩を寄せ合っている山々が、ぼんやりと見えた。入江の水は白く光っていた。二人は無言で、コネル橋の下の道を通って、ダンスタフネージ城の下の小さな入江まで歩いた。もう、錨につながれている船はなかった。小さなアイリーン・モーア島だけが、岬の端の向こうの、静かな水に浮いていた。
「小さいけど、勇敢な船だったわね」と、ジェニーが言った。そして、声をたてずに泣いた。
わたしは何も言わなかった。しかし、銀塊を引き揚げた報賞金の一部で、アイリーン・モーア二世号を作ることに、心を決めていた。それが、ジェニーへの結婚のプレゼントになるだろう。
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訳者あとがき
ハモンド・イネスは、ミステリー・冒険小説作家としては、当代一流中の一流である。その作品は英米ではもとより、多くの外国語に翻訳されて広く読まれ、また映画にもなっている。
一九一三年イギリスに生まれ、学校教師、出版業、ジャーナリストなどの職業を遍歴し、その間、一九三四年に処女作を出版、第二次大戦が始まるまでに四作発表したが、そのころはあまり世間に認められなかった。彼が注目を浴び、一躍世界的な作家にのし上がったのは、戦後である。以来四分の一世紀にわたって、冒険小説作家として不動の地位を占めている。
イネスは執筆にとりかかる前に必ず、作品の舞台となるところに出かけ、数か月にわたって地理を研究し、資料を集め、みずから作中の人物のやる冒険を体験してみる。彼の作品がすさまじいまでの迫真力に満ち、強く読者を引きつけるのはそのためである。たとえば『蒼い氷壁』を書くにあたっては、ノルウェーの大氷河地帯へ赴き、大きな危険を冒して、作中の主人公のたどる氷上を踏破した。
初めてブック・ソサイエティの選書になったのは、酷寒の南氷洋での捕鯨船の遭難を描いた『大氷原の嵐』で、最近の評判作には、これもブック・ソサイエティの選書となった、カナダのロッキー山脈の油田を背景とする『キャンベル溪谷の激闘』、東西冷戦のクライマックスともいうべきベルリン空輸を素材とする『ベルリン空輸回廊』、凄絶なヴェズヴィアス火山の噴火をラストシーンとする『怒りの山』などがある。
『銀塊の海』 Gale Warning も傑作の一つと数えられており、ロンドンのサンデー・ピクトリアは、「この小説は、現代の最もすぐれた冒険小説作家としてのイネスへの評価を、あらためて確認したものである」と絶賛している。