怒りの山
ハモンド・イネス/池央耿訳
目 次
一
二
三
四
五
六
七
八
訳者あとがき
[#改ページ]
一
ヤン・トゥチェックはすっかり変わっていた。広かった肩幅はせまくなり、茶色の髪はほとんど薄くなり、目は暗く落ちくぼんでいた。彼のこんな中年姿は驚きであった。
「ディック・ファレル。久しぶりだなあ」
彼は両手をひろげて私を迎えた。その手は白くてやわらかく、手入れが行き届いていた。彼の手を握ったほんの一瞬、私はかつてのヤン・トゥチェックを思い出していた。
彼は微笑《ほほえ》みを浮かべて言った。
「待たせてしまったかな」
トゥチェックの話し声や、彼の誠実な挨拶に触れたとたんに私の気持ちは十年前に戻っていた。風防ガラスがめちゃくちゃにひび割れ、べっとりと油に濡れていた。炎が噴き出し、急降下していく私の耳にイヤホーンを通して彼の声が聞こえてきた。「ぼくにまかしておけよ、ディック」握手を交わしたその一瞬、私は勇気のある熱狂的なチェコ人の戦闘機乗りに挨拶していたのだ。私はすぐに現在に引き戻され、ピルゼンのトゥチェック製鋼所長、疲れきって目の落ちくぼんだヤン・トゥチェックを見つめていた。
「まあ、坐ってくれよ」
彼はデスクの脇の椅子を示した。私を案内してきた秘書の小柄な男が不自然な笑顔を残して部屋を出、ドアを閉めた。私は、部屋の中にもう一人別の男がいるのに気がついた。ひょろ長い足をしたその男は、どことなく鋭い顔つきで壁際に立っていた。目立たないように気を使っている態度がかえってわざとらしく、男の存在がえらく気になった。私が不安げに男に目をやるとトゥチェックが言った。
「チェコスロバキアじゃあ、われわれも見くびられたものさ。こいつはぼくの影なんだよ。どこにでもついて来る」
男がいきなり叫んだ。
「チェコ語を使うんだ!」
どうやらうろたえている様子だった。
ヤン・トゥチェックが私の顔を見て言った。
「君は英語以外の言葉はできない。そうだね?」
質問ではなく、そうしろということだった。私が英語以外でもいけることは彼が知っていた。私が口を開く前に、彼は、影の男にむかってチェコ語で早口にしゃべっていた。
「ファレルさんは英語しか話せないんだ。私たちはイギリスでいっしょにドイツと戦った。しかし今彼はイギリスの機械メーカーの社員としてここにいるんだ。政治の話なんかしやあしないよ」
「通訳なしで話をさせるわけにはいかない」
と男が言った。トゥチェックがぴしゃりと言い返した。
「通訳が必要なら勝手に連れてこいよ。あんたが学がなくて英語がわからないからと言って、私は古い戦友を他人扱いするわけにはいかないからね」
男は怒りで顔を真っ赤にすると急いでドアを出て行った。
「これで話ができるよ」
ヤン・トゥチェックはにっこり笑った。陽《ひ》の光が金歯に当ってチカッと光ったが、彼の笑いはそれ以上にはひろがらなかった。
「でも急がないとね、奴は通訳を連れてくるから。それで、どこに泊まってるの?」
「ホテル・コンチネンタルだよ」
「部屋は?」
「四四号」
「ようし、わかった。いいかい、連中が僕に見張りをつけているのは勤務時間中だけなんだ。いつまでいるんだ?」
「金曜までだよ」
「あと二日か。あまり時間はないな。それで、その後はどこへ?」
「ミラノさ」
「ミラノ?」
ミラノと聞いてはじめて彼の目に生気が甦《よみがえ》ってきた。はっきりと乗り気になっていた。「夜遅く、僕が君の部屋に行くとして……」
トゥチェックが言い終わらないうちにドアがさっと開き、彼の影が平凡な女を連れて入ってきた。女は赤いスカーフを巻き、ハンマーと鎌《かま》のブローチをつけていた。
「それで、今のメーカーで働いているわけだね」
トゥチェックは話をつづけるふりをして早口にしゃべった。
「どうして飛行機を降りてしまったのかね」
私は脚《あし》を突き出して彼に見せた。
「脚をなくしたのか。そうだったのか」
彼は気の毒に、というふうに舌を鳴らした。
「膝の上から?」
私はうなずいた。
「でも、だからといって飛行機をやめることはなかったんじゃないかなあ」
「この脚じゃあ役に立たないんだよ」
私はあわてて彼をさえぎったが、彼が、まだ何か言おうとしたのでさらに付け加えた。
「競争が激しくてね。五体満足な飛行機乗りが、たくさんあぶれているんだ」
トゥチェックは同情を示してうなずいていた。
「なるほどね。でも、いつそんなことになったんだ? 僕の中隊が向こうにいた頃、君はまだ普通の体だったね」
「ああ、あれよりずっと後なんだ。イタリアだからね。フタパスで墜落して。フィレンツェとボローニャの間だよ」
「じゃあ、捕《つか》まったのか?」
「ちょうど一年ちょっとね。連中はその間に三度も手術をしやがった」
「手術を三回も?」
トゥチェックの眉がぴくりと動いた。
「切断なら一度ですんだだろうに」
私は額から汗が噴き出すのを感じた。私は今でもメスの感触やえぐるような鋸《のこぎり》の痛みを思い出すのだ。私は自分の声が話すのを聞いていた。
「手術なんて必要なかったんだ。脚は切らずにすんだはずなんだ」
私はトゥチェックになら話してもよいように思った。彼は遠いところにいた。しかも別世界の人間であった。鉄のカーテンのこちら側では私がどんな目に遭ったことがあるかなどということはまったく問題になりそうもなかった。
「それじゃあ、なぜ?」
と彼が聞いた。
「しゃべらせようとしたのさ」
しまった、と思ったときはもう遅かった。トゥチェックは私の目を見つめ、その視線を彼の机の上の写真の方へ引っ張っていった。
「でも、今は自由なんだろう。君がやりたいようにやれるわけだろう」
「うん。まあ、そういっていいだろうね」
トゥチェックは彼を取りまく四六時《しろくじ》中の監視の目のことをいったのだ。しかし、私は自由ではなかった。私には過去がついて回っていた。私は話題を変えた。
「君の家族の写真だね」
「家内と娘だよ」
彼はそう言って大きい方の写真を取りあげた。
「こっちが家内。もう死んだよ。ナチにやられた。一九三九年、僕がイギリスにとんでいる間にスイス国境で捕まったんだ。それっきり会えなかった」
彼は大きなマホガニーの机に写真をそっと置いた。
「こっちが娘。今チェコの卓球チームでイタリアに行っているよ」
そう言って彼は私の方に写真を押しやった。額の広い、頬骨の高い娘が親しげに笑っている写真だった。赤い髪が肩に掛かり、光線を受けて光っていた。娘の表情や、首の恰好には元気そうな時のヤン・トゥチェックを髣髴《ほうふつ》とさせる何かがあった。
「母親はヴェネチア生まれのイタリア人だったんだ」
なるほど、髪の毛は正真正銘の赤黄色《テイシヤン》であった。
「きれいな娘さんじゃないか」
私がそう言うと彼は笑って答えた。
「写真屋が気を利かしたんだと思うよ。そばかすが全然写ってないもの」
そばかすがあろうとなかろうと、そんなことは問題ではなかった。美しいのは顔ではなくて、顔の背後の人間なのだ。目の感じや口の線、きりっとした頤《おとがい》の具合など、あっさりとした銀の縁の中の写真には私を惹《ひ》きつけるものがあった。理解と同情のある女性の顔であった。その上にもまだ何かがあった。強さ――自分の足で立つことのできる強さだ。私は自分の孤独な境遇から、娘の父親と私の間の古い友情も手伝って、娘の表情には私に通じる何かがあるように感じたのである。
トゥチェックは写真を元に戻して言った。
「うまいことに、娘は卓球が強くてね」
彼の言い方や言葉にはなにか意味がありそうだった。そして、私はまたふと、彼自身と写真の娘の間の似寄りの点のことを思った。
「会えなくて残念だね」
「会えるじゃないかな、ミラノで」
これにも何か意味がありそうだった。そして彼は私が何か言い出してはまずいとでも言うように時計を見て立ちあがった。
「すまないけれど、これから会議でね。圧延部の方に案内するよ。電話で君のことも伝えておこう。まちがいなく商売になると思うよ」
私も立ちあがり、「今度会ったら……」と言いかけたが、彼の目の色を見て口をつぐんだ。
「残念だけれど、これで僕もなかなか忙しくてね」
彼は大きな、装飾付きの机をまわって私の方にやってきた。私たちは握手を交わした。
「久しぶりに会えて嬉しかったよ」
私が行こうとすると、彼は私の腕をとってドアのところまで送って来た。
「マックスウェルからは最近連絡があるかね」
「マックスウェル?」
私は驚いた。トゥチェックは何でまたマックスウェルのことなど持ち出したのだろう。
「いや、イタリアであったきり全然だよ」
トゥチェックがうなずいて言った。
「マックスウェルはいまピルゼンにいるよ。もし彼に会うようなことがあったら……」
そう言って彼は一瞬言葉を探す様子をし、ほとんど聞きとれないほどかすかな声で、「土曜の夜」とつぶやいた。それから彼は大きな声で続けた。
「ビッギンヒルの頃のこと、いつも思いだしているって言っておいてくれよ」
彼はドアを開けて秘書に私をマリッチ氏のところへ案内するように言いつけた。
「それじゃあ。君が行くことは電話しておくよ」
重いドアが閉まった。
マリッチとの会談は一時間程度だった。大きな、煤煙《ばいえん》で黒くなった窓から溶鉱炉が見えていた。マリッチは厚いレンズの縁《ふち》なしの眼鏡で真剣な眼差しで私の仕様書に目を通していた。話の内容は憶えていない。ほとんど技術的なことだったと思う。私は事務的な態度で次々に質問に答えながらヤン・トゥチェックとの面会のことを考えていた。彼はどうして夜遅く私に会いたがっていたのだろう。マックスウェルへの伝言は何を意味しているのだろう。これにはどうやら鉄のカーテンの裏側にしかない何かがかかわっているらしかった。
マリッチとは四時少し過ぎに別れた。彼は技術者たちと私の仕様書を検討して翌日電話をすると言った。そして電話で工場の車を呼ぶように言いつけた。私が書類を鞄《かばん》に押しこんで立ち上がるとマリッチが言った。
「ファレルさん、トゥチェック氏とはながいお知り合いですか」
私は説明した。
彼はうなずくと、閉まっているドアをちらりと見やり、低い声で言った。
「彼は辛《つら》い目に遭っていますよ。優秀な男でね。一九三九年、開発中の新兵器の設計図を持ってイギリスに飛んだんです。この国のためには大きな仕事をしました。その中にはブレン銃の改造もあったわけです。奥さんは殺されるし、親父さんは強制収容所でなくなっています。ルゥドウィック・トゥチェックですよ。戦後、戻って来てトゥチェコヴィ・オセラルニーを再建して、それがこの工場になったわけです。トゥチェックはドイツにやられる前の状態に戻そうと言うので、本当に憑《つ》かれたように働いていました。ほとんど休む間もなくね。それが今じゃあ……」
マリッチは肩をすくめた。
「疲れているみたいですね」
と私は言った。
マリッチは眼鏡の奥から私を見つめた。
「われわれは、皆疲れているんです」
彼の声は静かだった。
「生涯に二度もですよ、二度も戦うっていうのがどんなに辛いか、おわかりでしょう。精神的にまいってしまうんですよ、ファレルさん。まあ、そのうち……」
助手が車の用意ができたことを告げに来たので彼は話を打ち切った。私たちは握手をした。
「明日、電話します」
外に出ると春の陽はすっかり雲に隠れ、巨大な製鉄所は灰色の空にむかって煙を噴き上げていた。私は用意された車に乗り、車はゲートをでて灰色の煉瓦《れんが》街を走り出した。
ホテルに戻って二、三商用の電話をかけ、自室に紅茶を運ばせて私は仕事にかかった。私の報告書は、旅に出て以来、いつも遅れがちだった。スカンジナビアと中部ヨーロッパを回って来たのだが、行く先々の違う空気、別の言葉で私は疲れてしまい、報告書に集中できなかった。結局六時過ぎまで部屋にいて、報告書はほとんど進まなかった。私はその間、ヤン・トゥチェックのことを考え続けていたのだ。彼のことを考えると、すぐマックスウェルへの伝言を思いだした。「土曜の夜」。マックスはこのピルゼンで何をしているのだろう。トゥチェックは私がマックスと会うことに疑いを持っていない様子だった。なぜだろう。
ついに私は書類をスーツケースにほうり込み、ラウンジに降りて行った。外国を一人で旅すると不思議な気持ちになるものだ。印象が強くなり、見るもの聞くものが私を強く動かした。私は非常に淋しかった。プラハなら知合いも多かったが、ピルゼンでは知人といえばトゥチェックだけで、こうして大げさに飾り立てられたホテルのラウンジに一人でいるとまったく取り残されたような気持ちだった。いつまで続くかわからなかった捕虜《ほりょ》時代に感じたのと同じ気持ちだった。私は何の変哲《へんてつ》もないホテルのラウンジに坐り、あたりに出入りする人たちも、煙草を喫《の》み、談笑する人々も、まったく普通の人間であった。にもかかわらず、そのごくあたりまえの中に、私は強い異国の感じを受け取っていた。私はマザリックスの自殺のことを、トゥチェックの態度とあわせて考えていた。そして、またマックスウェルのことを考え始めた。
過去からのがれようとするのは妙な話なのだ。私は飛行機を降りる時、一緒に古い絆《きずな》は断《た》ってしまった。そして自分で放浪者のようにヨーロッパ中を歩き回る今の仕事を探したのだ。それなのに、鉄のカーテンの裏側に来て私は私の過去を知っている三人の中の一人に伝言を頼まれた。フォッジアに戻った時マックスウェルはとても親切にしてくれた。あまり親切にされて私は自分が嫌になった。今頃また……私は口の中がかさかさに乾いているのを感じた。バーで聞こえるグラスの音に私は吸い寄せられた。私はもう何ヶ月も酒を控えていた。しかし今は別だった。酒が必要だった。バーに行って私はスリボビッツを注文した。これはプラムブランデーの一種で、一杯飲めばもう二杯目には手の出ない代物《しろもの》だ。
それなのに、私は夕食を食べそこね、コニャックの瓶をかかえて部屋に戻った。コニャックを前に置き、私は椅子に坐って向こう側の建物の窓の灯りを眺めながら続けざまに煙草を喫った。マックスウェルを待っていたのだ。なぜか、私はマックスウェルがやってくるものと思いこんでいた。現われる前に酔いつぶれるつもりだった。私は自分の気持ちを分析してみようと思ったが、それは無駄だった。とても分析できるものではなかった。私の心のどこかに私の弱さを憎むものがあり、私はその何かに圧倒されることがあった。私は自分のものではない脚を目の前に突き出してみた。大嫌いな脚だ。死ぬまで私につきまとって、あの暑さや、たかってくる蠅《はえ》を思い出させるに違いない。そしてあの叫び声。コモ湖の畔《ほとり》の病院で私の喉《のど》から裂けるように上がった叫び声。私が死ねば誰かがこの脚をはずし、別に血の通った脚を失くした哀れな男を捜して、その男にくっつけるに違いない。
十一時近く、コニャックの瓶が半分になった頃、部屋の外の廊下で足音がした。重く、しっかりした足音には、はっきりとした目的が感じられた。ドアが開く前に、私はそれがマックスウェルだと知っていた。そうだ。ビッギンヒルの兵舎で、フォッジアの宿舎で、毎晩毎晩耳にした足音だった。私はマックスウェルがやって来るのを知っていた。トゥチェックが伝言を頼んだその時から、私にはわかっていたのだ。私は坐って彼を待っていた。酒は彼に会う勇気を起こすためだった。もう恐くない。酔いは十分回った。矢でも鉄砲でももってこいだ。連中なんか、もうどうでもいい。誰がイギリスのために戦ったんだ。二年足らずの間に六十回も爆撃に出動して戦ったのは誰だと言うんだ。連中なんぞ、何もしやしなかった。神経を切られる痛さがどんなだか、連中にわかってたまるか……。
マックスウェルはドアを閉めて私を見つめていた。昔とあまり変わっていなかった。顔が少し痩せて、目の縁の皺《しわ》が多少多くなってはいたが、しゃくれた顔に精悍《せいかん》な態度は以前のままだった。
「飲むかい、マックス」
彼は答えずに私の脇に椅子をもってきた。
「飲むか飲まないか聞いているんだよ」
私の声は緊張で嗄《かす》れていた。
「もらうとも」
マックスはそう言って流しから歯磨き用のコップを取り、ちらりと私を見ると自分で瓶を持って注いだ。
「商用で出張ってやつか」
私は黙っていた。
「何で飛行機をやめちまったんだ、君ほどのベテランが」
「知ってるじゃないか」
私はいらいらして言った。彼は溜息をついた。
「自分自身から逃げるわけにはいかないよ、ディック」
「何が言いたいんだ」
「お前の敵はお前だ。え、君は自分だけで苦しんで……」
「昔のことは放っといてくれないか」
私は叫んでいた。彼は私の腕をつかんだ。
「頼むから、そんな声を出さないでくれ。俺がここにいることは内緒なんだ。非常口から入ったからね」
「非常口? 君はピルゼンで何をしているんだ?」
マックスウェルはしばらく黙っていた。彼は椅子にかけたまま、コニャックのコップをいじくりながら私を見つめた。私の顔からあるかないかもわからない何かを読みとろうとしている様子だった。やがて彼は口を開いた。
「アレック・リースを憶えているかい」
私は跳《と》び上がった。コップが倒れた。リースだって! なんだってまたリースのことなんか言いださなきゃあならないんだ。リースは死んでいるのだ。逃げようとして殺された。シャーラーもそうだ。二人とも死んだ。リースのことは思い出したくなかった。リースをマックスウェルに引き合わせたのはこの私だ。つまり、仕事を捜してやったのだ。彼はパルチザン活動の最初の任務を異常な熱心さで続けたがっていた。リースは私が忘れようとしている過去の一部だった。リースとそれに妹のアリス。アリスの最後の手紙が酔った私の朦朧《もうろう》とした意識のなかでちらついた。「私、あなたのことがとっても自慢だったのに……私はあなたをゆるしてあげると言ったけれど、でも本当にゆるすなんてことができるでしょうか……」
私はカーペットの上を手探《てさぐ》りで落ちたコップを捜した。私がコップを拾って注ごうとするとマックスウェルは瓶を取り上げて、テーブルの反対側の端に置いた。
「坐れよ、ディック。知らなかったんだ」
「知らなかったって、何を? 僕とアリスの婚約を、向こうから破棄したってことをかい。どうしてあんなことになったか君は知っているのか? 男の考え方ってものはね……」
私は続けられなかった。部屋がぐるぐる回っていた。私はあわてて腰を下ろした。
「アリスはね、リースを殺したのは僕だと思っているんだ」
私は自分の声がのろのろと話すのを聞いた。
「ところが、まずいことに、まったくその通りなんだな。どんなふうに考えて見てもだね……」
「アレックス・リースは死んではいないよ」
「死んでない?」
マックスウェルはうなずいた。
「嘘をつけ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、シャーラーは?」
「あいつも生きているよ。知らなかったのか」
私は首を振った。
「シャーラーはイタリアに残ったんだ。葡萄園を買ってね。ずっとそこで暮らしている……」
後の方はほとんど私の耳に入らなかった。大きな重荷が除かれたような気持ちがしていた。私は両手で頭を抱え、その開放感が全身に浸透していくのを感じていた。マックスウェルに肩をゆすられて私はわれに帰った。私は泣いていた。知らぬ間にコップを口に運んだ。酒を飲めば落ち着けそうだった。
「ごめんよ」
私は口ごもった。
「アリスと婚約していたとは知らなかったよ」
「知らないはずだよ。君には言わなかったからね。仕事はリースの実力でやってもらいたかったんだ。もし君にアリスのことを話していたら……」
そこまで言って後は肩をすくめて見せた。
「今はもう、どうでもいいよ。でもあいつらは死んだとばっかり思っていたよ、二人とも。司令部ではそう言っていたからね。僕は自分が殺したような気がしていたんだ」
マックスウェルがまた私をゆさぶり、私はややしゃんとなった。
「何でリースのことを持ちだしたんだ?」
彼は一瞬ためらったが、静かに言った。
「リースは俺と一緒にまだ情報部にいるんだ。ミラノで待っているんだ、俺が、その……」
「ミラノで?」
私はリースとばったり行き遇《あ》う忌《いま》わしい場面を思い浮かべた。ミラノは避けよう。会社には何とか口実を考えなくてはならない……。マックスウェルはしっかりと私の腕を握っていた。
「しっかりするんだ、ディック。話があるんだよ。一つ頼まれてくれ。いいかい。君はマンチェスターの工作機械メーカーB&H・エバンズ社の社員だ。つまり、君はこの町の大きな工場の要人と自由に会えることになる。ヤン・トゥチェックがここにいるんだ。ヤン・トゥチェック。覚えているだろう。一九四〇年にビッギンヒルの飛行中隊を指揮していたチェコ人だ」
「知っているよ。今日の午後会った」
「今日の午後会ったのか」
彼はそっと舌打ちした。
「じゃあ、もう一度会ってもらわなくちゃあならんな。俺が工場に行くわけにはいかないし、自宅だって駄目だ。彼は見張られているからね。俺の連絡できるのはチェコの空軍の奴だけなんだ。ところでトゥチェックに伝えたいことがある。君がこっちに来るって聞いたんですぐ……」
「おかしいな。彼は僕に君宛ての伝言をしたよ」
マックスウェルの顔がきびしくなった。
「何て言った?」
「『土曜の夜』と言うように言われた」
マックスウェルがうなずいて言った。
「問題は、土曜の夜では遅すぎるということだ。明日の晩でなくちゃならん。君が彼に会ってそう言ってくれ。明日の晩だ。いいかい、木曜の夜だ」
マックスウェルは身を乗り出し、酔った私に彼の言葉が通じないのを案ずるかのように、一語一語私の耳に吹きこんだ。
「明日の朝、一番で会えないか? 急ぎなんだよ、ディック。大至急の上に超がつくんだ。わかってるのか?」
私はうなずいた。
「明日の朝会えるか?」
「それはどうかな。マリッチっていう機械部の親玉が午前中に電話してくる約束なんだ。午後なら予定がとれるかもしれない」
「そうか。じゃあ午後にしよう。とにかくトゥチェックに会ってくれなきゃあ駄目だぞ。会って土曜じゃ間に合わんと言うんだ。明日の夜でないと駄目なんだ。木曜日、わかったかい。むこうの角の本屋を知ってるな?」
私はうなずいた。
「五時にあそこにいる。通りすがりにOKかどうかだけ俺に知らせてくれ。話しかけたりしたら駄目だぞ。いいか」
私はうなずいた。
「しくじるなよ、ディック」
そう言って彼は残ったコニャックを一息にあおり、立ち上がった。彼は私の肩を撫でながら言った。
「うまくやれよ。明日五時に会おう」
行きかける彼に私は言った。
「待ってくれよ、マックス。これはいったいどういうことなんだ。ヤン・トゥチェックがやばいことになっているのか?」
「何も聞くなよ」
「彼を国外に出そうって言うのか? え、そうなのか」
私は食い下がった。彼はいらだって私に向き直った。
「大きな声をするなって言うんだ」
「亡命か?」
私はなおも小声で聞いた。
「今は何も言えないよ、ディック。一番いいのは……」
「信用してないんだな」
私はかっとなった。彼は私の顔を見た。
「そう思うのは勝手だがね」
彼は肩をちょっと持ち上げて、それから言った。
「廊下に誰もいないか、確かめてくれないかね」
ドアの外には人っ子一人いなかった。私は彼に合図した。彼はすばやく廊下の突き当たりを右に曲がって行った。ドアを閉めて部屋の中に戻ると、私は瓶に残っていたコニャックを全部コップに空けた。
ベッドに入る頃、私はしたたか酔っていた。酔いながら幸せを感じていた。リースは生きている。シャーラーも死んでいない。つまり私は彼らを死なせはしなかったのだ。酔っぱらった手で私はやっと義足をはずし、着ている物をほとんど脱ぎすてた。ベッドに身を投げ出した時、私は急に夕方の報告書に間違いがあるような気がした。私はのそのそとベッドから起きあがって明かりをつけ、スーツケースから報告書を引っぱり出した。私が最後に覚えているのは、すぐ閉じてしまう瞼《まぶた》の間から一所懸命報告書の文字を読もうと努力していたことである。
強い光を感じて目が覚めた。明かりをつけっぱなしで眠ってしまったのを思いだし、私はスイッチに手を伸ばした。明かりは消してあり、朝の光が私の顔に射《さ》していた。起き上がってみると、窓の外の交通の雑音と耳鳴りで頭ががんがんしていた。時計を見るとまだ七時半だった。部屋にはまだホテルのメイドも来ていないはずである。だとすれば、私は夜中に一度目を覚まして、自分で明かりを消したに違いない。明るい朝の光のなかで、私はマックスウェルのことを思いだしていた。マックスウェルがこの部屋にいたことが、夢のように感じられた。
八時半にモーニングコールの電話が鳴った。私は服を着てすぐに食事に降りて行った。食堂の入口で新聞を買うために立ち止まると、「おはようございます、お客さん」という声がした。ナイトポーターだった。彼はちょうどコートを着て出ようとしていたが、意味ありげな薄笑いを浮かべていた。新聞を買っていこうとすると、まだ私がロビーの中ほどまで進まないうちに、ポーターが脇にすり寄ってきた。彼はまだ半分コートをひっかけたままだった。彼は言った。
「あんなに遅くなってから人を通してすみませんでしたねえ」
私は足を止めて彼を見た。小柄で鼠《ねずみ》のような顔をした男の青い目はとび出し、貪欲《どんよく》そうな唇は薄かった。
「だれも来やあしないよ、僕の部屋には」
男はパッドの入ったコートの肩をゆさぶった。
「お客さんの言う通りにしますよ」
男がそこに立って何を持っているかは明らかだった。マックスウェルはなんと不注意なことをしてくれたのだろう。私がそう思っている様子を男は誤解した。彼はこう付け加えた。
「夜の一時にイギリス人の部屋に来客ってえのは、チェコスロバキアのホテルとしてはちと遅すぎやしませんかねえ」
「一時だって!」
私は男を見つめた。マックスウェルは十一時ちょっと過ぎに出ていったのだ。
男は首を曲げて斜めに私を見上げた。
「おまけに、トッチェックさんといやあ、このピルゼンではちょっと知られたお方ですぜ」
男はもういちど肩をゆさぶった。
「もっとも、お客さんが誰も来なかったとおっしゃるんなら、その通り、もちろんあたしだって誰も来なかったと言ってもいいんですよ」
私は目が覚めたとき部屋の明かりが消えていたこと、ヤン・トゥチェックが夜遅く私を訪ねようとしていたことなどを思い出した。しかし、もし本当にやってきたのなら、なぜ彼は私を起こさなかったのだろう。起こしてくれればマックスウェルの伝言を伝えることだってできたはずである。ポーターはいぜんとしてもじもじしながら私の顔を見ていた。
「お客さん、あたしゃねえ、変わったことがあったら何でも党に知らせることになってるんですがねえ。なかでもアメリカ人やイギリス人についてはねえ」
男の唇が笑いに歪《ゆが》んだ。
「でもねえ、チェコスロバキアは暮らしいいところじゃあないですよ。女房や子供のことを考えてやらなくちゃあならないし、ねえお客さん。党も大事だが、場合によりけりってもんでさあ。わかりますか。え、お客さん」
「よくわかるよ」
寒さに震えながら必死に餌《えさ》をあさっている雀のようなものだった。私は財布から五十クローネを出して男にやった。
「こりゃあどうも、わるいですねえ」
紙幣がコートのポケットに消えた。
「わかりましたよ、お客さん、今朝一時には、そう、誰も来なかったですねえ」
男が行きかけるのを私は引き留めた。
「あんた、その男を自分で案内したのかね」
「いいえ、お客さん、その人はどんどん入ってきて、まっすぐ階段をあがってったんでさ。ホテルの客じゃないってのはわかってたもんでねえ、ちょっとついて行ってみただけですよ。役目なんでねえ」
「なるほど。それで顔がわかったわけだな」
「おっしゃる通りで」
男はそこでにやりと笑った。
「でもお客さん、あたしゃあね、もう何も知らないんですからね。今顔を見たって、もうわかりませんよ。その人がどの部屋に行ったのかも、あたしゃあ、知りゃあしないんだ」
男は薄笑いを浮かべ、ちょっと頭を下げると急いでホテルを出ていった。
私は食堂へ行った。
煙草を何本か喫い、ブラックコーヒーを数えきれないほど何杯も飲んだが、私には事態の意味がさっぱりつかめなかった。ポーターが嘘をついているのではなかった。それは確かだった。男は自信ありげに私をゆすったのだ。もし本当にトゥチェックが、しかもそんなに遅くやってきたとしたら、何か深い重大な理由がなくてはならない。それなのに、なぜ私を起こさなかったのだろう。
午前中ずっとこの疑問が私を悩ませた。私はアスピリンを二錠飲み、明るく輝く春の日射しの中に出ていった。道に沿って植えられた栗の木は煤煙《ばいえん》でよごれていたが、蕾《つぼみ》が蜜を含んで枝の先にふくれていた。道路の騒音を越えて鳥の声が盛んだった。女たちはもう夏服だった。三件ばかり仕事を片付けてホテルに戻ると、マリッチから電話がかかっていた。私はほっとした。三時半に来るようにということであった。これでトゥチェックに伝言はできる。
トゥチェック製鋼所に行くと警備員が事務所に案内してくれた。マリッチは技術者を二人呼んで待っていた。仕様書を前に質疑応答がしばらくあった。商売に関して言えば、会合は成功だったと言える。話が終わってから私は席に居残った。マリッチは眼鏡の奥から私を見て、二人の技術者を急《せ》き立てた。ドアを閉めると彼は私に英語で言った。
「私だけに、なにかご用がおありですか、ファレルさん」
「実は……その、トゥチェックにちょっと挨拶して行きたいと思いましてね。つまり、彼は古い知り合いですし……」
「ごもっとも、ごもっとも」
マリッチは椅子に戻ってうなずいた。彼は眼鏡をはずしてレンズを拭き、鼻の上にかけなおすと私を正面から見つめた。
「ですが、今日はお会いになれないだろうと思います」
彼の手が机の上に広がっていた一枚の紙片をそっと丸めていた。
「会議中ですか。それでしたら待たせていただきます」
マリッチは何か言おうとしたらしかったが、彼の小さな青い目が眼鏡の中でそっぽを向いていた。
「お待ちになっても駄目だろうと思うんですよ。なんでしたら秘書にでもお会いになったらどうでしょう」
自信のない心配そうな声であった。
「そうですか。それではその秘書の方に会わせていただきましょう」
マリッチはうなずいて助手に電話した。このすばやさは彼が重荷から解放された証拠らしかった。彼はやって来た助手に私をトゥチェックの個人秘書のところに案内するよう言いつけた。
「それではこれで、ファレルさん」
彼は丸めた紙片をくずかごに落として私の手を握った。彼の手は私の手の中でしっとりと湿っていた。
マリッチの助手に連れられて私はコンクリートの階段を二つ降り、タイプライターの音でいっぱいの通路を歩いていった。やがて私たちは、〈上級監督者室〉の札《ふだ》のある自動扉を通り、役人たちのオフィスのあるブロックに入った。厚いカーペットが私たちの足音を吸い取った。前の日に通った廊下であった。〈秘書ルゥドウィク・ノバク〉と記されたドアの前で止まった。マリッチの助手がドアをたたき、私はトゥチェックの個人秘書の部屋に招じ入れられた。
「ようこそ、フィレルさん」
前の日と同じ小柄な男が不自然な笑顔で現われた。挨拶は冷ややかであった。
「ずいぶんとまた急にお見えですが、マリッチとの話がうまくいきませんでしたか」
「いえいえ、万事、都合よくいきましたよ」
「というと、まだなにかご用ですか」
「帰る前にもう一度トゥチェック氏に会いたいと思いましてね」
「それは困りましたね。今日はお会いになれません」
彼は笑ったが、顔がひきつっていた。
「それじゃあ、会えるまで待ちましょう」
「今日はお会いになれません」
彼の目はまったくうつろであった。私は壁と向きあっているような気がした。
「ここにはいないのですか?」
「もう申し上げたはずですがね、ファレルさん。お会いになることはできないのです」
彼は部屋を横切ってドアを開いた。
「失礼ですが、われわれは今日大変忙しいものでして」
マックスウェルの昨夜の不思議な訪問のことが頭に浮かんできた。≪急ぎなんだよ、ディック。大至急の上に超がつくんだ≫
「お忙しいかどうかは知りませんが、私はトゥチェックに会いたいんだ。彼にそう言ってくださいませんか」
秘書はまたたきもせずに私を見つめた。
「どうして、そんなにトゥチェック氏にお会いになりたいのですか」
「私たちはね、ドイツと戦っていた一番苦しい頃、一緒だったんですよ。古い友だちに挨拶もせずに立ち去るっていうのは、私にはできなくてね」
冷酷な役人ではなく、その顔の裏にいる人間を相手にしなくては駄目だと私は思った。
「あなたはトゥチェックの個人秘書でしょう。ドイツと戦ったこともあるんでしょう。だったら私がどんなに彼に会いたいかってこともわかるんじゃありませんか」
ほんの一瞬、彼の目にも感情のしるしが見えた。しかし、すぐもとの冷たい目に戻った。
「お気の毒ですが、今日はトゥチェック氏にはお会いになることはできません」
それ以上、どうすることもできなかった。秘書が開けたドアから廊下に出た。廊下に出た時、私は彼が私を工場の外まで見送るべき人間を呼ばなかったことに気がついた。気がつくより早く、私は歩き始めていた。立ちどまって廊下の突き当たりを見ると、大きなマホガニーのドアがあった。〈工場長ヤン・トゥチェック〉と記されていた。しのび足で近寄ってみると、部屋の中に人の気配がした。私はドアを開けて部屋に踏みこんだ。
私はすぐに足を止めた。正面に大きなガラス戸のついた本棚があった。そのガラス戸が開け放され、床に本が散らばっていた。金縁《きんぶち》の大きな本のページをがさがさとめくっていた男が顔を上げてチェコ語で言った。
「何か用かね」
冷たい声に権力の響きがあった。机の方に眼をやると、前の日にヤン・トゥチェックの坐っていた椅子に、別の男が陣取っていた。机の抽出しは全部抜き取られ、床にぶちまけられていた。カーペットの上は書類で一杯だった。書類の山の中からトゥチェックの娘の笑顔が私を見上げていた。窓際の壁にあったスチールのファイル・キャビネットもかき回されていた。
「何の用だ」
机に向かっている男も私をにらんでいた。背骨に恐怖が走るのを感じた。
「失礼しました。ノバクさんにお会いしようと思ったんですが」
幸い私のチェコ語は訛《なま》りがなかった。二人はうさんくさそうに私を見ていたが、机の男が言った。
「隣のオフィスだ」
私は何か弁解めいたことをつぶやきながら急いでドアを閉めた。うろたえた様子を見られたくないので、私は落ち着いたふりで廊下を歩いた。しかし、今にもトゥチェックの部屋のドアが開いて呼び止められるのではないかという気がした。彼らは疑いもしなかったらしいのだが、それでも自動扉を通ってコンクリートの床に足音が響くまで、私は気が気ではなかった。
階段のところで私は迷った。事態を見きわめずにこのまま戻ったらマックスウェルは私が恐がって逃げ出したと思うに違いない。私は階段を二つ駆け上がり、マリッチのオフィスに行った。
「マリッチさんのところに手袋を忘れたらしいんです。よろしいですか」
助手にそう言うと私は返事を待たずにまっすぐマリッチの部屋に入った。彼は椅子に坐って窓の外を眺めていたが、ふりかえって私が入ってきたのを見ると、あきらかに狼狽《ろうばい》の色を見せた。
「ああ、フィレルさん、あなたでしたか」
一瞬の驚愕《きょうがく》が去って、いつもの無表情な目に変わった。トゥチェックのところで見たノバクの目と同じようにうつろだった。
「まだ何か、ご用がおありでしたか」
神経質そうにそう言って、彼は定規《じょうぎ》を意味もなくいじくり回していた。私はドアをふり返ってから、声を落として言った。
「ヤン・トゥチェックはどうしたんですか」
「おっしゃっていることが、よくわかりませんが」
声に表情というものがなかった。
「そんなはずはないでしょう」
マリッチが立ちあがった。いらいらしていた。
「お引き取りください」
マリッチの唇がふるえていた。
「トゥチェックがどうしたのか、それさえ聞けばすぐ帰りますよ。今彼のオフィスに行ったんです。男が二人、何か捜してるみたいでしたよ。本や書類が床中に散らばっていて」
マリッチはまた椅子に腰を落とし、しばらく口を閉じていた。大きな肘掛椅子《ひじかけいす》に沈んだマリッチは急に小さく年老いて見えた。やがて彼はゆっくりと言った。
「ヤン・トゥチェックは逮捕されました」
「逮捕?」
彼の部屋に行った時から、私にはわかっていたように思う。だが、こうして言葉となって聞かされるのはシヨックだった。
「理由は何ですか?」
マリッチは肩をすくめた。
「今のチェコで、人が逮捕された理由を聞きたいとおっしゃるんですか。トゥチェックは戦争中イギリスにいました。それだけでも疑われるには十分ですよ。おまけにあの人は工業界の主要人物だ」
マリッチの声は低く不吉に響いた。まるでマリッチ自身の破滅を予知してでもいるようだった。
「拘留されているんですか」
マリッチは首を振った。
「まだそこまでは行ってないでしょう。だからオフィスを捜索しているんでしょう。証拠さがしですよ。トゥチェックは自宅で足止めのはずです。明日には解放されるでしょう。あるいは、されないかも知れませんが」
彼はそう言ってまたちょっと肩をすくめた。
「旧《ふる》いチェコスロバキアですからね。明日はわが身かも知れないんです。今までにもずいぶん大勢消されていますから」
「でも、彼は何をしたって言うんですか」
「わかりません」
感情を隠そうとでもするようにマリッチは眼鏡をはずしてレンズを拭いた。重苦しい沈黙が耳に食いこんできた。やがて彼は書類の下から新聞を取り出し、ざっと目を走らせてから私に渡した。
「二番目の記事、リンクシュタインの話をご覧ください」
ページの下の方に小さな記事が載っていた。見出しはこう書かれていた。
ダイヤモンド商逮捕
リンクシュタイン、通貨法違反?
「リンクシュタインというのは何者ですか」
「アイザック・リンクシュタインと言えば、プラハでも一番の宝石商ですよ」
「トゥチェックの逮捕と、どういう関係があるんですか」
「すべて――かも知れないし、何も関係ないかも知れません。私が知っているのは、ダイヤモンドや宝石の売買を彼がやっているということだけです」
「通貨法違反の疑い、と書いてありますね」
マリッチは弱々しく笑った。
「それは口実ですよ。中央が関心をもっているのは宝石の動きだと思いますがね」
マリッチは手にしていた定規を折れよとばかりにねじ曲げた。
「リンクシュタインの自白がこわい」
マリッチは立ちあがって私の手から新聞を取りあげた。
「もうお引き取りください。私はしゃべりすぎたようですね。口外無用ということにしてください。おわかりですね、誰にも言わないで」
私を見つめるマリッチの顔には恐怖の色があった。
「私は十六年、トゥチェックと一緒にやってきたんですよ。ファレルさん、それではこれで」
彼の手は冷たく、しなやかだった。
「三ヶ月後に、もう一度ピルゼンにまいります」
ドアのところまで送ってきたマリッチに私は言った。
「その時、またお目にかかるのを楽しみにしていますよ」
マリッチの唇はひきつるように笑った。
「またお会いできれば、と思います」
彼はドアを開けて助手に私の車を言いつけた。工場の門を抜けて車がピルゼンの街に出た時は、本当にほっとした。西の空に雲が湧いていた。そしてホテルで私が車を降りた時、乾いた歩道に最初の雨が吸い込まれた。
空港に電話して私はミュンヘン経由ミラノ行きの座席を予約した。それから急いでレインコートを引っかけて角の本屋へ向かった。五時までには間があった。私は入口のドアに注意しながらペーパーバックの棚に目を走らせた。近くの教会の鐘が五時を打った。マックスウェルは現われなかった。五時半に店が閉まるまでいたが、彼は来なかった。私は何冊か本を買い、さらにしばらく入口のところで待ってみたが、彼の来る気配はなかった。
ホテルに戻ってみると何の伝言も来ていない。部屋に紅茶を運ばせて報告書を仕上げようとしたが、トゥチェックのことで頭が一杯で報告書どころではなかった。マックスウェルのことも気になった。
私はまたバーに降りていった。しばらくの間、トゥチェックもマックスウェルも私には何の関わりもないのだと自分に言い聞かせてみたが無駄だった。今までに起きたことを思うと、私は絶望的な気持ちになった。酔わずにはいられそうになかった。私は食堂に行った。食事の後、街に出て旧いイギリス映画を見、ホテルに戻ったのは十一時ちょっと前だった。私宛の伝言はなく、また誰も私を訪ねた形跡はなかった。私は酒を買って部屋に上がった。マックスウェルがやって来はしないかと思って待ってみたが彼は来ず、教会の鐘が深夜を打ったところで私は床に入った。なかなか寝つかれなかった。同じピルゼンの街のどこかで自宅に監禁されているというトゥチェックのこと、マックスウェルのことを私は考えつづけていた。
八時半に起こされた。開け放しておいた窓から雨が吹き込み、低い雲が風に走っていた。アルプスを越える飛行機はこの分では乗り心地が悪そうだった。しかし、そんなことは問題ではなかった。チェコスロバキアを離れさえすればよかったのだ。もう少しで事件に巻き込まれるところだった私は、すんでの所で脱出できるのがうれしかった。
食事をして支払いを済ませ、領収書を受け取った。飛行機は十一時半の予定だった。途中一ヵ所で用事を片づけ、私は十一時前に空港に着いた。荷物を預け、搭乗の手続きをするためにカウンターに行ってパスポートを渡した。係の男はパスポートのページをかさかさとめくると、私の脇に立っていた男に合図した。男が一歩進み出た。
「ファレルさんですね」
私は無言でうなずいた。声を出そうとしても出なかっただろう。私はこの男がなにものか知っていた。男はチェコ語で言った。
「一緒に来ていただけますか。少々、お聞きしたいことがあります」
私は身構えた。
「どういうことですか。あなた、どなたですか」
「内務省保安局のものです」
私はすでに腕をつかまれていた。
「こちらへどうぞ。車が待っています」
私はあわててあたりを見回した。何としてもよしにしてもらいたかった。こういう目にはもう充分遭っているのだ。だから、どんなことになるのかは私にはわかっていた。私は脚を失くし、もう少しで気が狂うところまでいったのだ。しかし、腕はしっかりとつかまれ、反対側にはもう一人男がいた。私は急に腹が立ってきた。私が何をしたと言うのだ。私は何もしていない。わけもなく逮捕などされる筋はないのだ。私は腕を振り払って彼らに向き合った。
「逮捕しようって言うんですか」
「お聞きしたいことがあるだけです、ファレルさん」
小さな方の男が答えた。初めに口をきいた男だ。肩幅が広く、小さな目で、赤みを帯《お》びた瞼《まぶた》が絶えずしばたたいていた。
「それじゃあ、ここで聞いてください。飛行機は十一時半なんですから」
男の唇が歪《ゆが》んだ。
「その飛行機はあきらめていただきましょう。私は、あなたを長官のところに連れて行くように命令されているんです」
「ということは、逮捕なんでしょう。理由は何なんですか」
「ちょっとお聞きしたいことがあるだけです」
男は無表情な顔で、また私の腕をつかんだ。ここで言い合っても無駄なことを私は知っていた。男は命令で動いているのだ。私の頭にある考えが浮かんだ。何が起こったのか知っている何者かに会えるということであった。
「わかりましたよ。でも、その前にプラハのイギリス大使館に電話させてください」
「それは後にしていただきましょう」
「今、かけさせてください」
私はきっぱり言ってやった。
「理由もなく逮捕しておいて、イギリス大使館に私がどんな目にあっているか話すのまで止《や》めさせようって言うんですか」
私は目の前のデスクの電話をとった。男がさえぎろうとしたので私は言った。
「電話を使わせてくださいよ。そうしないと騒ぎますよ。イギリス人かアメリカ人がきっとその辺にいるはずだ。連中がその話をすれば、ただじゃすまなくなるじゃありませんか」
男は私の言う意味がわかった様子だった。彼は肩をすくめてみせた。うまい具合に電話はすぐ通じた。私は数日前にプラハのパーティーで会った三等書記官のエリオットに事情を説明した。彼はすぐ行動を起こそうと言ってくれた。電話を終えて私は言った。
「荷物を受け出してもらえませんか。それで一緒に行きましょう。ただし、私はミラノで約束が待っていますからね。あなた方の責任で次の飛行機をとってくださいよ」
私は一部始終をぽかんと口を開けて見ていた事務員からパスポートをひったくり、私のスーツケース二つを拾い上げると、待っている警官の車に向かって歩き出した。
大使館に電話する時まで、私はただ腹立ちだけだった。それが、車がピルゼンの街を走っているうちに恐れに変わり、私はすっかりおびえていた。私は何もしていない。この点はまちがいなかった。それなのに連中は私を捕《とら》えた……連中がマックスウェルを捕えて、彼が非常口からホテルに入って私に会ったことを知ってるとしたら――。あのナイトポーターは本当にヤン・トゥチェックのことを黙っていただろうか。トゥチェックのオフィスを捜索していた二人の男はどうだろう。彼らが私の顔を認めたりしていたら、私は何も関係ないのだということをどうやって説明したらよいだろう。第一、私が関係ないといっているそのこととはいったい何なのだろうか。何で私を逮捕する気になったのか。私の体から汗が噴き出した。マックスウェルが捕《つか》まっているとしたら。面通しされたら。マックスウェルは私が裏切ったと思うに違いない。そんな! マックスウェルは私がわけもなく恐がってしゃべったのだと思うのだ。他のことはもはやどうでもいいことだった。しかし、マックスウェルがそう思うのではないかと考えるのは何にもまして耐えがたいことなのだ。
私は薄汚れた小さな部屋に入れられた。窓からは爆撃されたビルの残骸《ざんがい》が見えていた。制服の警官が私を見張っていた。警官はドアのところに立って無関心に私を見ながら歯をつついていた。壁には時計があった。時計の音が時間を感じさせ、不安をかき立てた。古い手だ。私は平静を保ち、時間を忘れようと努力した。しかし時計の針が回っていくにつれて、沈黙が私の神経をさいなんだ。見張りの警官に声をかけてみたが、しゃべるなと命令されているらしく、黙って首を振っただけだった。
四十分経って警部らしい男が現われ、ついて来いと言った。石の廊下を行って階段を上がった。カーペットは敷いてなかった。二階の一室に案内された。窓にはシャッターが降ろされ、室内は電灯で照らされていた。小柄で髭《ひげ》のある私服の男が机に坐っていた。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞおかけください」
男は椅子を指した。
私が腰を下ろすと、男は机の上の書類を取り上げた。男の顔は、生気がなくほとんど黄色であった。目は大きな丸い穴だった。よく手入れの行き届いた男の手の甲には黒い毛が密生していた。彼は一枚の紙を抜き出し、チェコ語で言った。
「リチャード・ハービー・ファレルさんですね?」
私はうなずいた。
「マンチェスターのB&H・エバンズ社の方でいらっしゃる」
「そうです。私は十一時半のミュンヘン経由のミラノ行きに乗るところだったんです。逮捕の理由を聞かせてくれませんか」
男は濃い眉毛を持ち上げて私を見つめた。
「逮捕ですって、ファレルさん。ご冗談でしょう。ほんのいくつか、質問に答えてくださればいいのですよ」
「そりゃあ、私にできることならお役に立とうとは思いますがね、それだったら私がホテルにいる間に人をよこしてもらえばよかったんじゃないですか」
男はにったり笑った。いやな顔だった。サディスティクでさえあった。性格のひねくれた精神分析医を思わせる男であった。
「ご迷惑をおかけして、まことに申し訳ありませんでした」
あきらかに人を困らせて喜んでいるに違いなかった。私はその先を待った。
「トゥチェックさんとはお知り合いでしたね」
「そうです」
「一九四〇年、彼がイギリスにいた頃、彼をご存知だったわけですね」
私はうなずいた。
「それから、一昨日トゥチェコヴィ・オセラルニーでお会いになった」
「そうです」
「どんな話をなさいました?」
私は通訳付きで話したことの要点をかいつまんで聞かせた。男は机の上の紙をちらちら見ながら聞いていた。通訳の報告と照らし合わせているのだった。聞き終わると満足げにうなずいた。
「ファレルさん、チェコ語が大変お上手ですが、どこで習われましたか?」
「空軍にいる時ですよ。私はすぐ言葉を覚えるんです。それに私はトゥチェックの中隊と何ヶ月か一緒にいたことがありますし」
男がにやりと笑った。
「ところで水曜日にトゥチェックのところでは英語しかお話しになりませんでしたね。なぜですか?」
そして彼は突然、丸い目で私を見据え、吼《ほ》えるように怒鳴《どな》った。
「何で嘘をついて通訳がいるようにしたんだ」
私はかっとして答えた。
「嘘をついたんじゃありません。トゥチェックが、私は英語しか話さないと言ったんです」
「どうしてですか?」
私は肩をすくめた。
「私が知っているはずがないでしょう。スパイの前で古い友達と話したくなかったんじゃありませんかね」
私は英語を使っていた。男は英語がよくわからずに苦労しているらしかった。
「あなたはトゥチェックに伝言を伝えに来たのではないわけですね」
男が下手なながら英語で話し、質問も否定形だということは、連中がまだ私について確定的なことを何も考えていない証拠であった。
「伝言とおっしゃいますが、私はもう十年以上もトゥチェックと会っていなかったんですよ。彼に何を伝えたって言うんですか」
男はうなずいた。
「それでは、あなたがピルゼンに着かれてからのことを全部話してくださいませんか。小さなことも、全部です、フィレルさん」
そこで私はホテル・コンチネンタルに着いてからのことを詳しく話して聞かせた。聞き終わると男はしばらく机の上の書類を指でたたきながら見つめていた。
「私がトゥチェックと会った時のことを、どうしてそんなに知りたがるのか、話してくれませんか」
私が訊《き》く番だった。男は私を見上げた。
「政治的容疑です。彼はイギリスといろいろ連絡しているので」
彼はすぐ打ち切ってとなりの部屋に向かって叫んだ。空港で私を捕えた男が現われた。一瞬私は彼がホテルのナイトポーターを面通しに連れてきたのではないかと思ってぞっとした。
「ファレルさんをホテルにお連れしてくれ」
そう言って男は私に向き直った。
「ホテルで待っていただきましょう。ほかにお聞きすることがないと言うことになれば、明日の飛行機に乗れるようになるでしょう」
私は黙って警部について部屋を出た。外には警察の車が待っていた。私は車に乗った。走り出す時、自分がふるえているのを感じた。ふるえは止まらなかった。酒がほしかった。秘密警察のかび臭さの後で、雨にしめった空気の匂いはこの上なく甘かった。私はようやくほっとした。ホテルの前で私は降り、警官は私の荷物を舗道に置いて走り去った。荷物を拾って私はまっすぐホテルのバーに行った。飲み物を注文している私の耳許でチェコ語で話す声がした。
「お客さん、火を借りたいんですがね」
マックスウェルだった。彼はまったく素知らぬ顔で立っていた。私はマッチをすって彼の煙草をつけてやった。彼は礼を言ってバーの隅の自分の席に戻った。
[#改ページ]
二
マックスウェルは明らかに私に話がある様子だった。バーの棚の奥は鏡が張られていて、私はそこに彼が写っているのを見ていた。彼は窓の光の届かない場所に小さなテーブルの席を見つけていた。彼は新聞を読んでいたが、けっして私の方を見るようなことはしなかった。私はバーが混んでくるのを待った。新しく飲み物を注文し、私はそのグラスを持ってマックスウェルのテーブルに行った。私はチェコ語で、「失礼」といって向き合った椅子に腰を下ろした。
「君のことが心配だったよ、ディック」
新聞を読む恰好はそのままだった。
「尾《つ》けられてないかい」
「大丈夫だと思うよ」
「ようし、明日|発《た》てそうかね」
「そう思うけどね。水曜日にトゥチェックと会ったことを除けば、連中は僕のことをなんとも思ってないと思うよ。僕が引っぱられたのをなぜ知っているの?」
「空港にいたのさ」
「同じ飛行機だったの?」
「いや、君に会いたかったんだ」
マックスウェルはくるりと白目を見せてすばやく部屋中を見渡し、新聞をテーブルの上に置いた。ほんの少し体を乗り出して彼は言った。
「秘密警察が何で君を連れて行ったか、もうわかっているな」
私は首を振った。彼は言った。
「トゥチェックをゆうべ国外に逃がしたんだ。俺が約束どおり君に会えなかったのはそのためなんだ。いろいろ片づけなくちゃあならんことがあってね」
「国外に逃がした! でも彼は保護監禁の身だったんだろう。どうやって……」
「ちょっとしたお遊びさ。隣家に火事があった。まあ、細かいことはいいだろう。ボリーの飛行場に古いアンソンを一機待たせて置いたんだ。トゥチェックとチェコの空軍将校のレムリンという男と、二人で行ったよ。今朝早くミラノに着いているはずだ」
マックスウェルはほとんど唇を動かさずに早口で話した。
「リースは二人が日曜日の朝着くと思っている。二人とも連絡場所は知っているがね。実は二人が着いたら、俺のところに朝のうちに連絡があるはずなんだ」
彼はちょっと言葉を切った。
「俺は気になっているんだがディック、連中からまだ何も言って来ないんだ。明日ミラノに着いたらすぐ中央停車場《スタツイオーネ・セントラーレ》の前のオレベルゴ・エクチェルシオーレに行ってもらいたい。リースにすぐ俺に連絡するように言ってくれないか。やってくれるかい」
「エクチェルシオーレに、リースがいるの?」
マックスウェルはうなずいた。偶然とは言いながら、同じホテルを予約するとは何と間の悪いことだろう。私はリースに会いたくないのだ。マックスウェルはそのことを知っているらしく、こう付け加えた。
「これは重要なことなんだ、ディック。二人は途中で落ちたのかも知れない。」
「わかったよ。リースに会うよ」
「いい子だ。それからもう一つ。トゥチェックからの伝言だ。君がミラノに着いたらすぐに会いたいそうだ。しきりにそのことを言っていたぞ」
「わかったよ」
ウエイターがグラスを片づけに来た。マックスウェルが新聞をたたんでチェコ語で言った。
「あなた、新聞ごらんになりますか」
私は礼を言って新聞を受け取った。彼はブリーフケースを持って立ち上がり、そっと私にささやいた。
「それじゃあな、ディック。またそのうちに会おう」
彼はバーを横切り、そのまま通りへ消えて行った。
私はもう一杯飲んでから食堂へ行った。午後中のろのろと時間が過ぎていった。私はバーの時計がゆっくりと夜に向かっていくのを眺めながら、酒を飲んですごした。飛行機の変更は何も問題なかった。しかし警察が私を行かせるかどうかの方が問題だった。一切はあのナイトポーターがトゥチェックの深夜の謎の訪問について口を割ったかどうかにかかっているような気がした。考えれば考えるほど謎であった。本当にトゥチェックが来たのだとすれば、彼はなぜ私を起こさなかったのだろう。酔っていて私が目を覚まさなかったのだろうか。それにしても、ミラノに着きしだい、会いたいというのはなぜなのか。
夜に入っても飲み続けている私の頭の中でさまざまな考えが渦《うず》巻いた。リースに会うという約束もあった。私はリースに会いたくない。生きていようと死んでいようと私はリースの顔を見たくなかったのだ。私はリースが憎かった。彼は私からアリスを遠ざけ、私の人生をめちゃくちゃにしてしまった。シャーラーのことはほとんど気にならなかった。シャーラーは歳を食っていたし、私が辛《つら》い目に遭ってきたことも知っていた。しかしリースは若かった。物事を知らない男だった。彼は自分が苦しい思いをしたことがなかったのだ。病院から妹に書いた手紙。彼はその内容を言って聞かせたものだ。急に私はチェコの警察が恐くなった。もうチェコスロバキアを離れたくなかった。捕《とら》えたければ捕えればいい。私はかまわない。私はただ何としてもミラノに行きたくない。リースに会うのは嫌なのだ。行けばアリスがいるに違いないではないか。私は≪青いガウンのアリス≫を唄った。バーが看板になり、私は部屋に戻ろうとして、あのポーターが私に肩を貸していることに気がついた。
階段の下まで来ると彼は言った。
「秘密警察からお迎えがあったそうですねえ」
貪欲《どんよく》な小さな目が私を見上げていた。殴りつけてやりたかった。彼の言いたいことはわかっていた。金なのだ。
「どこかに行っちまえ!」
酔った私の目は焦点を失っていたが、彼が私の顔をのぞき込んでいるのはわかった。
「どこかへねえ、警察にでも行きましょうか」
「ああ、どこへでも行ってくれ。いいから」
彼はドアを開けて私を部屋に助け入れた。私は腕を振り払ってベッドに倒れた。彼はドアを閉めて私の傍《かたわ》らに寄ってきた。
「トゥチェックさんがどこかへ行かれたそうじゃありませんか、お客さん。トゥチェックさんがこの部屋に来なすったってえのは、五十クローネよりは大事なことだったんじゃあないですかねえ、えっへっへ」
彼は真上から私を見下ろしていた。
「出ていけ、きたねえ野郎だ」
「おっとっと、お客さん。落ち着いてくださいよ。あたしが警察でしゃべったりしたら、お客さんにとっちゃあ、少うし具合の悪いことになるんじゃありませんか。え?」
私はもうどうなろうとかまわなかった。リースに会わずにすむのでさえあれば、どんなことになってもよかった。私は力なく言った。
「警察に行きたきゃあ行けよ。俺はかまわないよ。行って知ってることをしゃべったらいいじゃないか」
男の顔ががっかりしたように弛《ゆる》んだ。その後のことはまるで覚えていない。失神したのか、そのまま眠ってしまったのかもわからないのだ。気がついた時、私は服を着たままのかっこうで暗闇の中でねていた。一時半を少し回ったところだった。私は服を脱いでベッドに入った。
朝になって私は恐怖に襲われた。私はおびえた。酔っている時は気が大きくなるものなのだ。生きているということに対する熱がなくなってしまうためだろうか。朝の灰色の光の中で正気に戻った時、私はチェコ警察に捕まってピルゼンにいるより、ミラノに行ってリースに会う方がいいことを知っていた。ポーターに金をやらなかったのはまずかった。私は跳び起きて服を着ると、ホールに降りて彼を探した。もういなかった。警察に行ったかも知れないと思うと、もういても立ってもいられなかった。何かして落ち着こうと、コーヒーを何杯もブラックで飲み、煙草を喫った。しかし私の手は震え、思うように動かなかった。今にも名前を呼ばれそうな気がした。呼び出されてフロントに行くと、あの濃い眉毛の男が待っているのだ。
しかしついに誰も私を呼びに来ず、私は支払いをしに立ち上がった。財布を取り出した時、私はすべてを理解した。ポンドもリラもほとんど抜き取られ、かろうじて支払いをすませられるだけのクローネ紙幣が残っていた。あのポーターの仕業《しわざ》に違いなかった。
部屋から荷物を降ろさせ、タクシーを呼んで私は空港に向かった。出国手続きのカウンターに向かう時、私は汗に濡れ、頭はくらくらしていた。あたりを見まわして居合わせた人間の顔を見たが、何人かが私を見つめているような気がした。カウンターにパスポートを出した。前の日と同じ係官だった。彼はかすかに笑ってパスポートを振ってみせ、今日は誰も私を待っていないという合図をした。私は新聞を買って椅子にかけ、出発まで待つことにした。新聞を読もうとしたが、活字を見ると目がくらんで、とても読めそうになかった。私は入口の方をうかがい、手ぶらの男が入って来たりするたびにどきどきしていた。
十一時十五分に出発便の案内があった。私のほかに客が四人いた。搭乗口に並んだ時、私は心臓が破裂しそうになった。乗客名簿をチェックしている男の傍《かたわ》らに灰色の帽子をかぶった男がいる。間違いなく秘密警察だ。私の番がやってきた。「お名前は?」
「ファレルです」
私の口はかさかさに乾いていた。灰色の帽子の男が、冷たく敵意に満ちた目で私をにらんでいた。係は私の名前をチェックした。私は思わず立ち止まったが、男は身動きもしなかった。三段の梯子《はしご》を登るのに、ただでさえ不自由な私の足はどうしようもなくぎくしゃくした。機体の最前部近くに席を見つけ、私はその中に沈み込んだ。汗が噴き出し、私はハンカチで顔と手をふいた。
私は新聞を読むふりをした。乗務員たちが操縦室に入っていった。間のドアが閉まった。私は待っていた。開いている機体の入口から冷たい空気が流れてきて私のうなじに当たっていた。入口を閉めないのだろうか。緊張で息がつまりそうだった。ここまで来たけれど……。私は連中の大好きな鬼ごっこのやり方をよく知っていた。あわやと言うところまで行かせるのだ。
左翼のエンジンが身震いして回り始めた。つづいて右翼のエンジンが始動した。操縦室のドアから一人の乗組員が顔を出して、安全ベルトを締めるように言った。とうとう最後の時が来た。背後で人の動く気配がした。私は耐えきれずに振り返った。信じられなかった。タラップがはずされ、機体のドアが音を立てて閉まると、中から鍵がかけられた。エンジンの音が高まり、飛行機は滑走路に向かって動き出した。
私は安堵《あんど》で気が遠くなりそうだった。快さがむずむずと背筋を走り、心ならずも涙が湧いていた。いつの間に離陸したのか憶えていない。私はすっかり気もそぞろだったのだ。エンジンのうなりが安定した響きに変わった時、背中をしっかり支えてくれるシートを感じたことだけを憶えている。ひとりでに私の手が安全ベルトをはずしにかかったが、私はベルトを締めることさえ忘れていたのだ。窓から眼下に広がるピルゼンの町が見えた。飛行機が旋回して大きく傾いた時、ビール工場の玉葱《たまねぎ》型の給水塔や長い長い引込み線が工場に沿って走っているのが見えた。トゥチェック製鋼所も噴き上がる煙の間から透《す》けて見えた。飛行機がコースに乗り、ピルゼンは視界から消えていった。
私の安堵は長くは続かなかった。まだプラハがあり、ウィーンがあった。連中は先回りして私を捕《つか》まえるかも知れないのだ。しかし誰も私を気にも留めず、パスポートを見せろとも言わなかった。澄みきった日光の中をウィーン上空に舞い上がり、前方に雪をかぶったアルプスを見た時、シートにもたれながら私はやっとこの二日来、本当に心からの安心を覚えることができた。鉄のカーテンを飛び越えた。もう連中は私を追っては来られない。私は眠り、イタリアに着くまで醒《さ》めなかった。
飛行機はドロミテ山脈のすそ野を回り、ポー渓谷にかかるあたりから西に曲がってミラノに向かった。私はミラノに着いてからのことを考え始めていた。リースに会わなくてはならない。ミラノで彼に会うというのも妙なめぐり合わせだった。ミラノはコモ湖のすぐそばだ。私が最後に彼にあったのは、コモ湖の畔《ほとり》のヴィラ・デスラ病院だった。
リースとシャーラーが逃亡を企てたのは、一九四五年四月のことであった。彼らの逃亡の手引きをしたのがシャーラーに生き写しの医者だった。医者は彼らを逃がしておいて自分の頭を撃って死んだ。
私はあの医者のことを思っただけでも額に汗が噴き出してくる。ジョヴァンニ・サンセヴィーノ。皆は彼のことを博士《イル・ドツトオレ》と呼んでいた。当番兵の声が私の耳にこびりついている。
「今朝は博士が診察にお見えです、大尉殿《ジョニヨール・カビターノ》」
私は何度あの声を聞いたかわからない。当番兵はこっそりそれを楽しんでいた。鼻にいぼのある当番兵のルイジは人の苦痛を好む性質だった。
「博士がお見えです」
そう言って彼はそのまま部屋を出ず、不気味に碧《あお》い目で、私が冷や汗に濡れながら横たわっているのを眺めるのだ。博士はただの回診だろうか、それとも、また手術なのだろうか。
飛行機の窓から鋸《のこぎり》の歯のようなアルプスを見た時、私は目の前のガラスに自分の顔ではなくあの医者の顔を見ていた。あの顔は忘れようとしても忘れられない。彼が死んでから五年以上たったとはとても思えなかった。決して醜い顔ではなかった。口髭《くちひげ》を落としたら、シャーラーの顔になるだろう。私はシャーラーは好きだった。頤《おとがい》のあたりに青みを帯びた童顔ともいえる丸顔で、額が広く、つやのある黒い髪の下で顔はオリーブ色をしていた。欠点といえば目であった。彼の目は小さすぎ、間がくっつきすぎていた。彼はそれをサングラスで隠していた。手術の時はその眼鏡をはずした。私は仰向《あおむ》きに見上げたときの彼の小さな黒い瞳を忘れない。そしてその目は、彼の手が私の皮膚に触れると同時に、サディスティックな異様な輝きを帯《お》び始めるのだ。これから切断しようとする私の肉体を、彼は獣のようにうれしさに震えながら愛撫した。女を抱くように彼の息づかいは乱れ、彼は激しくあえいで舌なめずりをした。
飛行機の座席の中で、私はあの医者の指先が私の肌を這《は》いまわる感じを思い出し、全身の筋肉がひきつるのを覚えた。あの感触は今もって私の頭を離れない。私は忘れようと骨を折ったが駄目だった。夜中に突然、喉も裂けんばかりの悲鳴をあげて目をさますことが今までに何回もあった。そのたびに私は、もう私の左足はないのだということを自分に言い聞かせた。私の足は細切れになってヴィラ・デステの下水を流れていったのだ。目が覚めてもまだ感じているあの指先は、何年も前に激痛にさいなまれた私の神経に刻みこまれた記憶なのだ。
人の神経が、あの指先の感触をこれほど鮮明に記憶しているというのは驚くべきことである。医者の繊細な長い指がゆっくりと私の肌の上を這っていくあの感触は、永遠に私の脳に焼き付けられてしまったのだ。彼は優秀な外科医であり、彼の指は器用で正確であった。その上、あの指は私の苦痛に対する彼の喜びを微妙に伝えてくるのだ。おそらく彼は数えきれぬほど手術をしてきていただろう。彼は私が患者として彼の許に渡される時を忍耐強く待っていたに違いない。彼はその腕前を患者に見せつけるために、麻酔を使わずに手術をやることにしたのだ。私の肌に指を這わせながら彼は言った。
「私が麻酔なしの手術を楽しんでいるとでも思っているのかね、シニョール・ファレル。私は外科医だ。下手な手術はできない。本当はこの手術は不要なのだよ。少し頭を使ったらどうかね。ゲシュタポの知りたがっていることを、言えばいいんだ」
手品使いの口上と同じ決まり文句だった。私が話すことを彼は期待していないのだ。反対に彼は私が口を割らないよう願っている。そうすれば、また手術がやれる。あの息遣い、あの細めた目の輝きからもそれは明らかだった。
しばらくの後、彼が愛《いと》しそうに優しくなでているのは、私の足の切り口の跡であった。ある日、彼は言った。
「こっちの足はもうほとんど失くなった。もう一本の足に移らなくてはならんねえ」
医者のぎすぎすした猫なで声がエンジンの音にまじって聞こえてきた。私は失くなったはずの左足が金属の義足の代わりに依然として生きた血と肉としてあるように感じた。
私は額の汗を拭《ふ》いて妄想を振り払い、自分自身を現在に引き戻そうと、身を乗り出して窓の外を見た。飛行機はパドバの上空を飛んでいた。右翼のむこうにドロミテ山脈の白い頂《いただき》が雲を咬《か》んでいた。しかし、アルプスの景色を見てもリースのことを忘れられはしなかった。リースはつねに私の過去の一部であった。おまけに今、彼は私の前にも立ちはだかっているのだ。ミラノに着けば、私はリースに会わなくてはならない。会ってマックスウェルの伝言を伝えなければならない。それなのに、私は彼に会う勇気が出ないのだ。私が最後の手術を受けてからほんの数時間後に、肺に弾を受けて彼がヴィラ・デステに担《かつ》ぎ込まれた。連中は彼を私の隣に寝かせ、どうしてそこに来るはめになったか、だんだんわかるようにお膳立てをしたのだ。
シャーラーも同じ頃捕まっていた。彼はいったん捕虜収容所に送られ、毒ガスの治療を受けてから一九四五年の初めにヴィラ・デステに回されてきた。モルモットとしてガスを吸わされたが、それは実験のためだけではなく、彼に口を割らせようとしたためでもあった。シャーラーはリースと反対側の私の隣にベットをあてがわれ、博士の患者となった。飛行機の中でシャーラーの叫び声が聞こえた。実際の叫び声はもっとひどいものだったかも知れない。そして私はいつも格子《こうし》のはまった窓からコモ湖の青い水を眺めて暮らした。対岸には白く塗った別荘が並び、スイス国境はわずか数キロメートルのところであった。
サンセヴィーノはていねいにシャーラーを診《み》た。彼は二ヵ月もしないうちにほとんど健康を恢復していた。医者が彼に言ったことがある。
「あんたのためにはできるだけのことをしよう、シニョール。何しろあなたは私に生き写しだからね。もう一人の私のような男が傷つけられるのを放ってはおけない」
彼らが生き写しなのは気味の悪いほどだった。四月に私たち三人だけが別の部屋に移された。逃亡に協力することをサンセヴィーノがほのめかしたのはその時だった。彼の持ち出した条件は、私たち三人が彼が連合軍の患者を親切にていねいに扱ったこと、および彼が毒ガスの人体実験には関係していなかったことを述べた書類に署名することであった。
「戦争は連合軍の勝利だから」と彼は言った。「私はむりやりやらされたことのために死ぬのはごめんだよ」
私たちは最初、彼の条件を断った。私たちが断ったとき彼の目に浮かんだ恐怖を私はざまを見ろと思って眺めた。しかし結局私たちは署名に応じ、私たちが署名すると食事がぐっと上等になった。私たちを料理する前に肥《ふと》らせてでもいるようだった。彼は特にシャーラーに気をつかった。何度も体重を測り、繰り返し診察した。コンテストに出すペットを見る目つきだった。特別扱いされてシャーラーは嫌がっていた。このイタリア人の医者と生き写しなのも彼を悩ませた。とうとう彼はヴィラ・デステに連れてこられたのはまったくそのためで、もう二度とアメリカに戻れまいと信じるようになっていた。
私について言えば、リースやシャーラーを一緒の病院に入れ、その上三人を一部屋に押しこめたのは、まったくこの医者のひねくれた意地悪としか思えなかった。私が傷つけてしまった二人の男と面と向かって狭い部屋に閉じこめられるのは、まさに地獄の苦しみであった。彼らは遊撃隊を組織してボローニャの丘を越えて行くことになっていた。彼らがパラシュート降下した直後に、私が追撃を受けて墜落したために、彼らも捕まる結果になってしまったのだ。彼らと顔を合わせるのは苦痛だった。あの忌《い》まわしい手術の痛みよりもまだ辛かった。シャーラーの方は私のことをわかってくれていたと思う。年もいっていたし、ピッツバーグの炭鉱ではずいぶん辛い目にも遭っていたから。ピッツバーグは彼の故郷なのだ。彼がイタリア系のアメリカ人であったことも幸いだったかも知れない。イタリア人の血が彼をこだわらない話のわかる男にしていたかも知れないのだ。
ところがリースときたらまったくの石頭で、ノホォークの代々続いたピューリタンだという彼は、事の善悪を白と黒のように判然としないと気のすまない男なのだ。ミラノで二年間エンジニアの勉強をしたが、その間に彼のものの見方はいやが上にもかたくなになったらしかった。ヴィラ・デステに担《かつ》ぎこまれ、サンセヴィーノが彼が捕まった経緯を言って聞かせた時から、リースは私と口をきこうとしなかった。私と妹のアリスが婚約しているのが彼にはよけい気にくわないらしかった。サンセヴィーノがそのことを話しても彼は信用しなかった。それで彼は私に確かめた。それが本当だとわかり、三度の手術で私が解放されることを知ると、リースは彼の任務遂行を妨げた張本人として私を憎み、自分の殻《から》に閉じこもってしまったのだ。
大部屋にいる時はまだよかった。三人だけ湖を見下ろす小さな部屋に移されてからが辛かった。あの沈黙を私は今でも体中で感じることができる。沈黙はしだいにふくれあがり、シャーラーが耐えきれなくなって私に話しかけてくるまで私たちを圧迫した。シャーラーは自分でチェスの駒を作り、私たちは何時間も続けてゲームをやった。ゲームをしている間中、私はアレック・リースの存在を意識していた。その上、彼は遅かれ早かれ、どんなことになっているかを妹に知らせるに違いないことも私は知っていた。
当時の記憶はあまりにも鮮明で、飛行機の音も白いアルプスの景色も私の回想を断ち切ることはできなかった。それから、とうとう二人が出て行ったのだ。手引きをしたのはサンセヴィーノである。そのころ私はやっと起きられるようになり、傷口の新しい皮膚が木製の義足の上で少しずつ私を支える痛みに馴れ始めたところだった。私は一緒に逃げられなかった。逃げられなくて幸いだと思っていた。
二人は四月二十一日に逃亡を決行した。サンセヴィーノが背広と必要な証明書などを用意した。十二時ちょっと過ぎに、まずシャーラーが、そしてリースが出て行った。駐車場で落ち合い、救急車を盗んでミラノに行き、そこでサンセヴィーノの友人にかくまってもらう段取りであった。
私はサンセヴィーノがてっきり私たちが署名した書類によって、戦争が終わってから戦犯として捕えられるのを防ごうとしているものと思っていた。逃亡への協力と彼の人間的良心を結びつけて考えることなど思いも寄らぬことだった。しかしそれが彼の本心であり、そのために彼は急に私たちに親切にしたらしかった。翌日彼は自室の机に向かって死んでいた。兵卒が朝七時に私を彼のところに連れて行くように命令を受けていた。だから私が彼の死を発見したのである。彼は制服に持っているかぎりのファシストの徽章《きしょう》をつけて椅子の中に沈んでいた。頭は後ろに投げ出され、首筋に黒い血痕が固まっていた。自殺に使われたベレッタ拳銃はまだ彼の手のなかにあった。奇妙にも、彼はサングラスをかけたままで、銃弾の衝撃で眼鏡は鼻の先にかろうじて引っかかっている状態だった。彼の中の何かが、彼に死んだ自分の姿を私に見せなくてはいけないと思わせたのだろう。それで私が朝行くように段取りしておいたのだ。
リースとシャーラーの方は失敗に終わった。後で聞いた話では予想外の検問に会い、スイス国境に逃げようとしたところを射殺されたということであった。私はそのように聞かされたのだ。そして一度も疑ったことはなかった。調べようなどとも思わなかった。なぜそんな必要があったろう。リースが私に最後に言ったのはこうだった。
「アリスに何もかも書いてやった。手紙はアリスに届かないかも知れないし、僕も逃げ切れないかも知れない。でも二度と彼女に近づこうとしてみろ。いいかいファレル、君なんか、罰が当たればいいんだ」
私は黙ってうなずいたが、不愉快で何も言葉が出てこなかった。彼の手紙はアリスに届き、私がフォッジアの隊に戻ると彼女の返事が待っていた。それを私に渡したのはマックスウェルなのだ。
すべては昨日のことのように思い出される。そして今、私はポー渓谷の上をリースとの再会に向かってとんでいる。前方にマッジョレ湖が茶色くうねった丘の上にひろげられた平らな鉛《なまり》のように見えてきた。その向こうにロンバルディの平野が金色の陽炎《かげろう》のなかで地図のように広がっている。私は額の汗を拭いて新聞をとり上げた。私の目はあてもなく新聞紙の上を行き来していたが、突然一つの記事に釘づけになった。〈アイザック・リンクシュタインが自供〉と見出しが付いていた。記事はこうだった。
リンクシュタインは工業関係の人間に大量のダイアモンド並びにその他宝石類を売ったことを認めたが、その中の主な一人はトゥチェコヴィ・オセラルニー(トゥチェック製鋼所)所長ヤン・トゥチェックであるといっている。これによってトゥチェックが国家に反する行動をとってきたことが明らかにされた。資材を宝石など運搬に便利な形に変えるのは叛逆者《はんぎゃくしゃ》の常套手段であり、トゥチェックは産業や軍事関係の国家の重要な情報を西側に売っていたものとみられている。
私は新聞を置いて外を見た。飛行機はヴェロナの上空を飛んでいた。ロンバルディの平野の緑の中を、ミラノとヴェネチアを結ぶ道路が灰色のリボンとなって続いていた。マックスが心配していたように、もしトゥチェックの飛行機が墜ちたのだとしたら、せめてチェコの国境を越えてからのことであってほしかった。そうすればまだ望みはあるはずだ。目を上げると彼方にアルプスの白い峯《みね》が嵐をはらんだ黒い雲の中に食い込んでいた。墜落がどんなものだか、私はよく知っていた。突然張り裂けるような衝撃。沈黙。激痛。漂うガソリンの臭気。火の恐怖。フタパスでの墜落もこんなふうだった。しかしあの時私は何とか平らな荒地を見つけ、そこへ落ちた。アルプスで墜落すれば雪の峯か這松《はいまつ》の崖の斜面しかないだろう。世の中はいつもうまく行くとは限らない。
トゥチェックのことを考えるうちに私は自分のことをすっかり忘れていた。飛行機が左に傾き、エンジンの音が急に変わった時、ようやく私はわれに帰って窓から外を見た。行方にミラノの街が横たわり、郊外の工場の煙突から煙が風に吹かれて流れ、その上に陽の光が踊っていた。大きなガスタンクが眼下に迫り、教会の尖塔をかすめたと見る間に飛行機は長い標識灯の列に向かって突き進んでいた。安全ベルトの表示ランプが点いた操縦席のドアから、乗務員が顔を出して指示を繰り返した。陽に焼けた飛行場の地面が迫り、次の瞬間、コンクリートの滑走路が流れ過ぎ、飛行機はミラノに着いた。
ミラノ空港のロビーは一九四五年五月、私がドイツから解放されてフォッジアに戻る途中に寄った時とほとんど変わっていなかった。壁一杯のムッソリーニの帝国を誇示する地図は貼ってあるままだった。しかし今では高い曇りガラスを通して色とりどりの服を着た群衆の上に陽が注ぎ、アナウンスはイタリア語、フランス語、それに英語で響いていた。
手荷物検査と入国手続きを済ませ、外のバスに乗ろうとした時、私はリースを見つけた。リースはフィールドへの出口のところで髭《ひげ》のある小柄なイタリア人と話をしていた。群衆の頭越しに目が合った。リースの目つきから、私を認めて驚いているのがわかった。それから彼はそしらぬふりで目をそらし、イタリア人と話し続けた。
私は迷った。伝言があったし、伝言は早い方がいいに決まっていた。それなのに私はまた気後《きおく》れがした。いったん私を認めておきながら、また知らぬふりをしたことがいっそう取りつきがたい感じを与えた。私は震えていた。リースと話すには一杯飲まなくては駄目だった。私は急いでバスに乗り込んだ。
「どちらですか、シニョーレ?」
車掌がうさんくさそうに言った。
「エクチェルシオーレだけど」
「エクチェルシオーレですか、どうぞ」
数分経ってバスは動き出した。まっすぐリースのところに行ってマックスウェルの伝言を伝えるべきであったことはよくわかっていた。神経に勝てなかった自分がつくづく忌々《いまいま》しかった。何年も前のことではないか……。それでも私は、リースが私を見てすぐまた知らぬふりをしたことばかり考えていた。私の思いは一足跳びにヴィラ・デステの小さな部屋に戻った。リースはあの頃と少しも変わっていない様子だった。顔はいくらか太ったかも知れない。しかし大きく頑丈そうな体つきや、きりっとした口や顎《あご》はむかしのままだ。とにかく、遅かれ早かれ彼には会わなくてはならない。いっぱいやりながらホテルで待つことにしよう。
エクチェルシオーレはデュカ・ダオスタの広場にあった。ホテルの真向かいが中央停車場《スタツイオーネ・セントラーレ》である。鉄道の駅というより、ファシストの理想を記念する巨大な戦争史蹟といった方がふさわしい。ポーターが私の荷物を持って階段を上がり、大理石の円柱のあるホテルの入口を入った。フロントの男が言った。
「お名前をどうぞ、シニョーレ」
「ファレル。部屋は予約してあります」
「はいはい、シニョーレ、それではサインをどうぞ。一〇五号です。お客様を一〇五号へお連れしてくれ」
部屋は小さいが気持ちのいい部屋で、広場を隔てて駅と向かい合っていた。私は風呂にはいって着替えをすませ、ロビーに降りてリースを待つことにした。ボーイにお茶を言いつけ、私宛の手紙が来ていないか調べてもらった。手紙はたくさんはなかった。母から一通、出発前にイギリスで買ったスーツの請求書、それに例によって会社からの書類が一束だけだった。書類に混って社長の手紙があった。
イタリアでの収穫を期待している。ミラノで一週間過ごしたら恒久的な代理店を置くことの可能性いかんについて報告してほしい。君にとって必要であり、かつ君もそれを望むならミラノで休暇をとることを認める。将来わが社の工作機械のバイヤーとなる可能性ある人物と交友関係を結べば、仕事と遊びの一石二鳥というものだ。
ハリー・エバンズ
私は手紙をたたんでブリーフケースに放り込んだ。イタリアで休暇をとることを認める。あんがい悪くないかも知れなかった。それを考えながらロビーを見渡した私の目が、奥の隅に釘づけされた。
窓際の小さなテーブルに独りで坐っているのはアリス・リースだった。彼女を見た時、私はボクシングでローブローを食らったような気分がした。私の視線を感じたとでもいうふうに、彼女はこちらに顔を向けて私を見た。薄暗いラウンジの向こうで私と目を合わせたアリスは、ほんの一瞬明るい顔つきをしたが、彼女の目はすぐまた冷たく死んだように光を失ってしまった。それはちょうど兄のリースが空港で私を認めた時と同じであった。彼女は向こうを向いた。
この時私に迷いがあったら、たぶん私は部屋に飛んで帰っていただろうと思う。なぜか知らぬが、ここはしっかりしなくてはという気分になり、私は立ってロビーを横切ると、彼女のいるテーブルに向かって歩いていった。彼女は近づく私を見た。緑の瞳が窓から射し込む陽に光った。彼女は私の顔を見、それから視線を私の足に移した。彼女の顔が歪《ゆが》み、そして再び窓のほうを向いた。私は彼女の真上にかぶさるように立っていた。金色の髪に陽が輝き、彼女はバッグの上で両手を握りしめていた。
「しばらくここにかけさせてくれない」
そう言った私の声は震えていた。
彼女は断らなかったが、私が向かい合って腰を下ろそうとすると、
「会いたくなかったわ、ディック」と言った。声には悲しい響きがあった。
私は腰を下ろした。アリスは横を向いていた。成長し、熟した女になっていた。額と口もとには以前にはなかった皺《しわ》がよっていた。
「八年ぶりだもの、長いよね」私は言った。
アリスはうなずいたまま黙っていた。
いざ向かい合って坐ってしまうと、何を言っていいのかわからなかった。二人の間を結ぶ言葉はなかった。私にはそれもわかっていた。しかし私は言いたいことがあった。それは文字では表わせない何かだった。私はうつろな声で言った。
「元気にしてる?」
「ええ」
アリスの声は静かだった。
「幸せかい?」
彼女は答えなかった。聞いていなかったのかも知れない。でも彼女は言った。
「私の幸せって、あなたしかいなかったのよ、ディック」
そう言って彼女は急に私を見つめた。
「脚のこと、全然知らなかったわ。どうしてそんなふうになったの?」
私は話して聞かせた。
アリスは窓の外を見て言った。
「アレックはそのことを言わなかったわ。知っていれば、私、わかったと思うけど」
「リースは君にわからせたくなかったんだろうよ」
「そうなのね」
堅苦しい沈黙が二人を支配した。私は沈黙に耐えきれず、今にも二人の神経が音を立ててちぎれ、二人が大声で泣くか笑いころげるか、何かそんな馬鹿げたことになるのではないかと思った。
「ミラノで何してるの?」
「遊びに来たの。あなたは?」
「仕事だよ」
二人ともまた黙った。こんな話をしても無駄なことを二人はよく知っていたのだ。
「長くいるの? つまり、もう一度会いたいと思うんだけど……」
アリスは怒ったように手を振って私をさえぎった。
「これ以上つらくしないでよ、ディック」
そう言った声は震えていた。
アリスの言葉で私たちは素っ気ないやりとりの堰《せき》を越え、二人で過ごしたむかしの思いに耽《ふけ》った。ウェールズのブレイマーゲイムズで休日を送った時二人は初めて会った。ブローズの海でヨットに乗ったアリスの美しい髪が風になびいた。彼女のほっそりしたからだが踊って水を切る様子を、私はまざまざと思い出した。ソルバの森の楢《なら》の樹の下に寝そべって私を見ながら笑っているアリスの顔が、ありありと目に浮かんだ。私は思い出に圧倒され、ついであのまま進んでいたらという考えを苦々しく噛《か》みしめた。家庭を持ち、子供を育て、私は生活というものを知ったに違いなかった。アリスが意味もなくテーブルの上のカップを動かした。結婚指輪はしていなかった。
「ねえ、また前みたいに……」
私は切り出したが、アリスの目を見ると続けることができなかった。彼女が独身でいたとしても、もとに戻るわけにはいかないのだ。アリスの目は悲しみにあふれていた。
「もう行ってちょうだい、ディック。アレックが帰ってくるわ」
その時はアレックなど平気だと思った。
「待っているよ。伝言があるんだ。チェコのマックスウェルからね」
アリスの目がきらりとした。兄が何をやっているのか、だいたいのことは知っている様子だった。
「あなたも一緒なの? まさか……」
彼女は口をつぐんだ。私はぶっきらぼうに言った。
「巻きこまれたんだよ。知らないうちにね」
アリスは真剣な表情で私の顔を見つめた。何か違ったものを読み取ろうとしているようだった。突然彼女は言った。
「その脚のこと、話してよ。怪我はひどかったの? お医者さんは好い人だった?」
私は笑った。それから一部始終を話して聞かせた。何も隠さずに話した。同じことが何度も起こるのを知りながら鋸《のこぎり》で骨を挽き切られる無麻酔手術にどんな気持ちで私が耐えたかアリスに詳しく話し、私は自虐的な気分に耽《ふけ》っていた。彼女にはどぎつ過ぎたが、とうとう私に最後までしゃべらせた。
「ほとんど何も憶えていないよ。とにかく、もう一回やられたんだ。気違いみたいに悲鳴を上げたことしか憶えていないな。最後に気がついたら、もう手術はやめだって言うんだ。連中は全部……」
頭の上に覆いかぶさるような人の気配を感じて私は話をやめた。アレック・リースだった。喉のあたりの筋が怒りでひきつり、顔はみるみる真っ赤になっていった。
「妹に近づいたらただじゃおかないと言ったはずだぞ、ディック」
私は立ち上がった。
「僕は空港に行っているから大丈夫だと思ってたんだろう」
図星をさされて私も負けずに腹を立てた。
「二人とも坐ってよ」
アリスが落ちついた声で言い、アレックの腕に手をやった。
「ディックはマックスからあなた宛の伝言を持って来たんですって」
アレックスの目に驚きが浮かんだ。
「どこでマックスウェルに会ったんだ?」
「昨日、ピルゼンだよ」
私はアリスに、「失礼」といって、アレックを窓際に連れて行った。
「トゥチェックは着いたか?」
アレックは私の顔を見た。
「トゥチェックがどうしたって?」
彼は私を信用していないことがわかった。私は話した。
「ヤン・トゥチェックは木曜日に逮捕されたんだ。マックスウェルが彼を逃がしてボリーの飛行場に行かせたんだよ、木曜の夜。トゥチェックとチェコ空軍の将校と二人で、アンソンの練習機で脱出した。だから昨日の朝早くミラノに着いてなくちゃおかしいんだ」
「嘘をつけ」
「君が信用しようとしまいと僕はどうでもいいよ」
私は怒って叫んだ。
「マックスウェルに、ミラノに着いたら君に会って連中が着いたかどうか連絡するように言ってくれって頼まれたんだ。着きしだい君と接触するはずなのに何も言ってこないのは、墜落したんじゃないかって心配していたよ」
アレックは続けざまにいろいろな質問をした。
「それじゃあ、何でさっき飛行場で言わなかったんだ」
「あんな態度じゃあ、言えなかったよ」
「ピルゼンに何しに行った?」
私は説明した。
「そのメーカーの社員である証拠はあるかのか?」
アレックはまだ疑っている。
「もちろんあるさ。でも、僕の言うことは嘘じゃないんだからね」
「ようし、わかった。調べることにしよう。いい加減なおなぐさみだったら、ただじゃあすまないからな、いいか」
彼はそう言って行きかかり、足を止めて付け加えた。
「ミラノにいる間、妹に近づくなよ」
彼はアリスのところに行き、しばらく腰をかがめてなにやら話していたが、私の方をちらっと見ると急いで外に出て行った。
私はアリスのところに戻った。彼女はまだ私の脚を見つめていた。彼女は黙ったまま、自分で片づけようとするかのようにお茶のカップを動かした。私の方から声をかけた。
「ミラノにはいつまでいるの?」
「ほんの少しよ。ラパルロに行って、それからカンヌでアレックのお友達のところに泊めてもらうの」
「楽しそうだね」
「日光に当たるのはいいわね。楽しみにしているの」
アリスの声はほとんど聞きとれないくらいだった。そして彼女は突然言った。
「ねえディック、もう行ってちょうだい」
「うん、もう行くよ。それじゃあ、さよなら」
「さよなら」
アリスは顔を上げようとしなかった。私はもとのところに戻り、荷物を片づけた。ロビーを出るとき傍《かたわ》らを通ったが、アリスは私の方を見ず窓の外を眺めていた。私は出口のところで立ち止まってみたが、アリスがこっちを向く気配はなかった。私は部屋に上がった。
翌朝、アリスたちはもういなかった。行先もわからなかった。朝食の時すでに姿をみせず、フロントに聞くともうホテルを引き払った後だった。
その日は仕事にならなかった。日曜日だったから。私は散歩に出た。ミラノは春であった。雲のない空に太陽が輝き、広い並木道は眩《まぶ》しく、暖かかった。舗道にテーブルが並び、日覆いを出しているカフェもあった。私はヴィットール・ピサニ通りを歩いて公園に行った。夏服の女の子たちや、オリーブ色の肌をして、楽しそうに笑い合っている群衆ばかりが目についた。トゥチェックの謎の失踪や、チェコの秘密警察のことが、どこか遠くの世界の出来事のように思えてきた。公園の樹々は若い緑の芽を吹いていた。すべてが生命にあふれていた。私はベンチに腰を下ろし、太陽のぬくもりが体中に浸み透《とお》っていくのを感じた。何もせずにこうしてのんびり坐っているのは素晴らしかった。明日は仕事がある。けれども、今日は一日じゅう日光浴をしていればいいのだ。
この時公園で過ごした何時間かを、私は一生忘れることができないと思う。私の記憶の中で、この短い時間は砂漠のオアシスのように浮き出している。ほんの一瞬、私が安楽を感じた時間であった。その瞬間は美しくさえあった。それ以前の私とも、それ以後の出来事とも関わりのない一瞬であった。私の目の前で小さな女の子が黄色いゴムボールを転がして遊んでいた。女の子はいつまでもボールを追いかけていた。白い歯がチカチカ光り、黒い髪の毛が輝き、濃い瞳が喜びに躍っていた。ショールに赤子をくるんだ母親が大事そうに乳を含ませながら、この夏休みにはぜひジェノアに行ってみたいと私に話した。ミラノのすべてが私のまわりを流れて行った。華やかな服装や、絶え間なしの流れるような話し方は、重苦しいチェコスロバキアの後でよけいに軽やかに明るく感じられた。ワグナーの後で、ロッシーニを聞く感じであった。
ほのぼのと幸せになった私は、ヴィットリオ・ヴェネト街に行き、カフェのテーブルでコニャックを飲んで過ごした。周囲の人々のかわす言葉に耳を傾けてイタリア語の復習をしながら、私は十二時半までそこにいた。ホテルに戻り、エレベーターに向かってホールを横切ろうとすると、フロントの男が私を呼んだ。
「ファレルさん」
「何か?」
「伝言があるんです」
男はFの字のある棚から紙切れをとり出した。
「シスモンディさんから三十分ほど前にお電話がありました。電話してほしいということです」
紙切れにはシスモンディの名前と電話番号が走り書きしてあった。
「これ、誰だか知ってますか?」
「シスモンディさんですか。きっとリカルド・シスモンディさんでしょう、パドヴァ通りに大きな工場を持っている」
「何て言う会社?」
「はっきりその人かどうかわかりませんよ。でも、私の言う人だったらミラノ製鉄の社長さんだと思いますがね」
私は部屋に戻ると戦前からのB&H・エバンズの顧客リストをとり出し、イタリアのところを調べた。確かにミラノ製鉄があった。電話を取ってシスモンディの番号を申し込んだ。女の声がした。
「シスモンディの家ですが、どなた様でしょうか」
「ファレルと申しますが、シスモンディさんはおいででございましょうか」
「お待ちください」
遠くで女が、「リカルド」と呼ぶ声が聞こえた。男のだみ声が伝わってきた。
「ファレルさん? これはどうも。私のことはご存じでしょうな」
「ミラノ製鉄の?」
「そうです、そうです。お宅とは戦前からおつき合い願ってますわ。ミラノへは、昨日着かれたわけですな。ああ、ピルゼンからでしたか」
「その通りですが」
「ピルゼンで、トゥチェック製鋼のシニョール・トゥチェックにお会いでしたかな」
あまり突然だったので、私は面《めん》くらった。まさか、ここでこんな話が出るとは思ってもいなかった。私は当然仕事の電話だと思っていた。それなのに、相手はトゥチェックのことを聞いてきたのだ。午前中私が過ごした楽しく幸せなミラノが掻き消され、チェコ警察の長い手が国境を越えて私の背中に伸びてきたような気がした。
「アロー・アロー・シニョーレ、聞こえますか」
男はせっかちに叫んだ。だみ声は前にもまして耳ざわりだった。
「聞いてますよ」
「ピルゼンでシニョール・トゥチェックにお会いになったかどうかとお訊きしているのです」
「会いましたよ」
「たしか、そう、戦争中からのお知合いと言うことでしな」
「そうですが、それがどうかしましたか」
「あなたがミラノに来られることを彼は知っておったわけですね」
「そうです」
「結構結構。これで全部大丈夫だろう」
「待ってください。これはいったい、どういうことなんですか」
「いいでしょう、お話ししましょう。シニョール・トゥチェックとは仕事の上でつきあいがありましてね。チェコスロバキアは住みにくいと彼は言っておったんだが、とうとう逃げ出そうということになりまして、つまり、一緒にミラノで工場をやろうという話をしておったわけですわ。それで、もう三日も待ったんだが、彼はまだ来ない。どうしたのかと思いましてね、シニョール・ファレル」
「私とどういう関係があるのでしょうか」
「それはですね、われわれは一緒に仕事を始めるわけなんだが、トゥチェックがわれわれが新しく製品化する機械の設計図を持ってくることになっておるのです。ところが金曜日に手紙が来ましてね、自分では持っていかないと、つまり危ない橋を渡るわけだから。それで次の日にミラノ行きの飛行機に乗るイギリス人がいるから、その男に渡すと言って来たんですよ。空港で名簿を調べたんだが、シニョール・ファレル、それ以来チェコスロバキアから空路ミラノに来たイギリス人というとあなたしかいない。と、こういうわけなんです」
「つまり、私がその設計図をトゥチェックから預かってきたか、とおっしゃるんですね。それで、それを渡せと……」
「いや、いや、そうではなくて、その設計図はあなたからトゥチェックに渡してくださることになっているんではないですか。ところが、そのトゥチェックがおらん。まだ着いていない。困ったことになりましたなあ。彼がどうなったのか、私は知りません。しかしビジネスはビジネスですからねえ。シニョール・ファレル、私はその機械を作るための設備を請け負う会社に待ったをかけているところでしてね。というわけで、今、私にお持ちの設計図を渡していいただければ……」
「とおっしゃっても、私はそんな物、持っていませんよ」
「持っていない?」
男の声が高まった。金属的な嗄《しゃが》れ声だった。
「しかしシニョール・ファレル。彼の手紙では……」
「手紙に何と書いてあったか知りませんがね、もう一度言いますよ。私は設計図なんか持っていません。トゥチェックにはピルゼンで一度会っただけです。それもオフィスで、通訳がずっと一緒だったんですよ」
彼は何か言い出したが、受話器を手で覆《おお》ったらしく、その声も聞こえなくなった。しばらくして彼の声が聞こえてきた。
「トゥチェックには一度会っただけとおっしゃいましたね、シニョーレ」
「そうです」
「あなたのホテルに行きませんでしたか?」
男が特にこの言葉を強く言ったような気がしたのは私の錯覚だろうか。
「いいえ」
「しかし手紙では……」
「いいですか、もう一度だけ言いますよ。あなただろうとトゥチェックだろうと、私は誰にも渡す物なんかありません」
返事がなかった。相手が切ったのかも知れない。私は拭きだしてくる顔の汗をハンカチで拭いた。
「ああ、ひょっとするとシニョール・ファレル。われわれはお互いによくわかっておらんのかも知れませんな」
こんどは妙におとなしい声だった。
「いいですか。私がその設計図によって新しい仕事を始めた場合ですね、私はまたお宅の製品である工作機械もいくつか必要になってくるでしょう。しかし大至急ということもある。早く納入してもらえるようならば割増を払っても私はいいと思いますよ。どうでしょう、もう一度荷物の中をようく調べてみてはいただけませんかねえ、シニョール。私がこうして電話するまで、すっかりお忘れだったということも、ないとはいえんのではないですかね、え?」
彼はまっすぐ切り出してきた。きさまなんか糞喰《くそくら》えだといってやりたかったが、結局は彼も得意先の一人なのだ。私は仕方なく言った。
「申し訳ありませんが、シスモンディさん、私は本当にお望みの品を持っていないのです。もしよろしかったら、いずれお伺いしてミラノ製鉄関係の機械についてお話しできればと思います」
「しかし、シニョール・ファレル……」
「お役に立てず、申し訳ありません。失礼します」
私は早々に電話を切った。
しばらく間私はそこに立ったまま、窓の外の巨大な駅の建物を見つめていた。折からわき始めた黒い積雲の下で、駅の灰色の建物はほとんど白に見えていた。トゥチェックがホテル・コンチネンタルの私の部屋に来たことをシスモンディは知っているのだ。私はそのことで頭が一杯だった。自分でこれは錯覚だと言い聞かせた。シスモンディが知っているはずがないではないか。しかし私は他のことは考えられなかった。チェコの国境を越えて私の背中にのびてきたように感じた長い手が、今や完全に私をつかんでいるのだ。開け放した窓から差し込んでいた陽が翳《かげ》った。デュカ・ダオスタの広場が急に灰色の廃墟のように見えた。私は身震いして窓を閉めた。
ドアの方に行こうとして私は足を止めた。あの夜、トゥチェックが私の荷物の中にそっと包みをしのばせて行ったとしたらどうだろう。あれ以後私は荷物を調べていない。私が知らないうちに、それは荷物の中に紛《まぎ》れこんでいたかも知れない。鍵でスーツケースを開ける時、私の手は震えていた。二つのスーツケースをひっくり返し、服のポケットやケースの内張《うちばり》の中まで探ってみたが、それらしいものは何もなかった。私はむしろほっとして、バーへ降りて行った。
食事の時間でバーには半分ほど客がいた。私はカウンターに坐って飲物を頼んだ。グラスを手にしていると少し気が落ちつき、コニャックでずっと気分がよくなった。カウンターに新聞があったのでそれを読んで、シスモンディやあの嫌な電話を忘れようと思った。しかし、新聞はまたしても私をトゥチェックに結びつけた。内側のページにこんな記事があったのだ。
チェコ卓球の花形イタリアに亡命
イタリア遠征を終えたチェコ卓球チームは昨日ミラノを出発したが、スニヤ・ヒルダ・トゥチェック選手は宿舎のホテルを離れなかった。同選手はチェコスロバキアからの亡命を希望しており、当分イタリアに滞在したいと語った。ヒルダ・トゥチェック選手の父親は……
トゥチェックが「うまいことに、娘は卓球が強くてね」と言ったのを思い出して、私はぽかんと新聞を見つめていた。彼はこのことを言っていたのだ。親娘はここで会う約束をしていたのだ。私は新聞を脇へ押しやった。可哀そうに。娘は父親のことを心配しているだろう。
誰かが私の肩に触った。私ははっとして振り返った。アレック・リースであった。「ちょっと話したいんだ。いいかい」
「何の話かね」
あまり話したくなかった。一日としてはもういろいろなことがありすぎた。急に私は非常な疲労感に襲われた。
「こっちへ来てくれよ」
そう言って彼は私を人目につかない隅の方に引っぱって行った。二人は坐った。
「何にする?」
彼が聞いた。
「コニャック」
彼はウェイターに、「コニャック二つ」と言ってから、私のほうに身を乗り出した。
「トゥチェックのことを調べたよ」
顔色は蒼く、口もとが緊張に歪んでいた。
「アンソンは金曜日の朝、四時ちょっと過ぎに飛行場に降りている」
「それじゃあ、彼はミラノにいるわけだね」
私はほっとした。これで私はもう関係がなくなったのだ。彼が無事でよかった。リースは続けた。
「ところが、トゥチェックはミラノにいない。口惜しいけれど、どこに行ったかつかめないんだ。彼がどうなったかもわからない。飛行機はイタリア人二人が目撃している。でもトゥチェックもレムリンも飛行機から降りていないらしいんだ。飛行機はその場で給油してすぐ飛んでいったそうだよ。イタリア、スイス、フランス、オーストラリア、それからギリシャにユーゴ。空港は全部当たったけど、トゥチェックの乗ったアンソンはどこにも現われていない。飛行機と乗っていた二人は完全に消えてしまったんだ」
リースはまるでそれが私の責任だとでも言うように私をにらんでいた。
「僕に話っていうのは?」
「何か知っているかと思ったんだ」
私はうんざりして言った。
「いいかい、僕は何も知らないんだよ」
「ピルゼンでマックスウェルに会ったじゃないか」
「そうだよ。それで君に伝言を頼まれた」
「それは、君が警察に呼ばれる前か、それとも後?」
「後だよ」
そう言って、私はリースの魂胆に気がついた。ぶん殴ってやりたかった。リースは私が警察に呼ばれた時、情報をうって解放されたと思っているのだ。私は立ち上がって言った。
「こんな話したってしようがないな。トゥチェックが墜落しなかったならそれでいいじゃないか。彼が今どこでどうしているか、そんなこと僕は知らないよ」
「頼むから坐ってくれよ。何も君に関わりがあると言ってやしないよ。でもトゥチェックは見つけ出さなくちゃならないんだ。これは重要なんだよ。とにかく、まあ坐れよ」
私は気勢をそがれた。リースは髪の毛をかきむしっていた。私は席に戻った。
「いいよ。僕に何を話せって言うんだ」
「ピルゼンであったこと、細かいことも全部だ。何か参考になるかも知れない」
私は細大もらさず話して聞かせた。聞き終わると彼は言った。
「ミラノで君に会いたがっていたらしいけれど、何でそんなに会いたかったんだろう」
「わからないよ」
リースは眉をしかめた。
「それで、その夜ホテルの君の部屋に来たんだな。君がミラノに来てから、誰か近づいてきたってことはないかい」
「それが、あるんだよ」
電話のことを、私はくりかえすようにリースに話した。話してしまうと、それまで感じていた恐怖が少しやわらいだ気がした。
私が話し終わってもリースは考えこんだまま、黙って飲物のグラスをいじくり回しているだけだった。やがて彼はシスモンディの名前を口の中で繰り返した。名前を口にすることで古い昔の人間関係の中から何かを探そうとしているようであった。彼は頭を振った。
「シスモンディの名前からは何もつかめないな」
彼は透きとおったコニャックをグラスの中でぐるぐる回し、次にとるべき行動について思いあぐねているらしかった。
「マックスウェルさえいてくれればな」
そう言って彼は一気にコニャックを飲みほし、テーブルごしに私の方に顔を寄せて低くささやいた。
「一つ頼みたいことがあるんだ。気がすすまないだろうとは思うけど……」
彼は肩をすくめた。
「何をしろって言うの?」
「シスモンディに会ってもらいたいんだ」
「嫌だよ」
私はあわてて言った。
「なんと言われても、それだけは嫌だ。だいたい僕には関係ないことなんだから……」
「たしかに君には関係ないことだな。しかしトゥチェックは友達だったんだろう。イギリスで一緒に戦った仲なんだろう」
私はまたひび破れた風防ガラスを思い出した。油がはね、エンジンカバーから炎が噴き出した。イヤホーンから声がした。「オーケー、おれにまかしておけよ、ディック」あの時私を救ってくれたのはヤン・トゥチェックだったのだ。
「ああ」
「ようし、そこでだ。嫌なことに巻きこまれたくないと言ったって、彼が困っていたら君としても放っておくわけにはいかないだろう。シスモンディに合ってさえもらえばいいんだよ。そいつの知ってることを探り出すんだ。向こうは君が物を持っていると思いこんでいる。それを利用するんだ」
シスモンディが取引に出ようとした時の妙におとなしい声が私の耳に甦《よみがえ》ってきた。たまらない。とても私の仕事ではなさそうだった。
「悪いけど、やっぱり関わり合いにはなりたくないなあ」
「いいかげんにしろよ、ファレル。トゥチェックの命が危ないかも知れないんだぞ。言いかい。ここ二ヶ月の間に鉄のカーテンの向こうから重要人物が逃げてきて、二度もイタリアで失踪《しっそう》しているんだ。他にもやって来た人はたくさんいるさ。でも、われわれは、消えちまった人間からでなきゃあ聞けない情報がほしいんだ。ずぶん犠牲も払わされている。よく考えてくれよ。失踪したトゥチェックは命を狙われているかも知れないんだぞ」
「それは君の問題じゃないか。君や、マックスウェルが問題を起こしているんだ。トゥチェックの安全も君たちの責任だと思うがね」
リースは怒りだした。
「そうかい。確かに君を疑った。それは認めるよ。だけど、こんどはこっちからこうして頼みに来たんじゃないか。力を貸してくれてもいいだろう」
リースは一生懸命怒りを抑《おさ》えて平静に話そうとしていた。私にものを頼む屈辱にも耐えようとしていた。
「もう貸せるだけの力は貸したつもりだがね。僕の知っていることは全部話したし、シスモンディと電話でどんなやりとりをしたかも言ったし、あとは勝手にやってくれよ。シスモンディには君が会えばいいじゃないか。それで本当のことを吐かせりゃいいんだ」
リースは首を振った。
「そうしようと思ったけど、それじゃあ駄目なんだ。われわれが探しているのはシスモンディじゃない。奴はおそらく何も知らないだろう。だけど、君があってその設計図を持っていることを仄《ほの》めかしてみろ、そうすれば……」
「嫌だよ。もうそういうことはたくさんなんだ。君だってそれはわかっているはずじゃないか」
すっかり苦《にが》りきって私は言った。
「協力は断るっていうわけだな?」
「そういうことさ」
私も意地だった。マックスウェルの頼みなら聞いていたかも知れない。でもリースでは駄目なのだ。個人の感情も面倒なものだ。私はグラスを乾《ほ》して立ちあがった。
リースも立って私に寄ってきた。もう私のトゥチェックに対する友情に訴えようとはしなかった。イギリス人として彼を助ける義務があるとも言わなかった。彼はこう言った。
「わかったよ。君がそういうだろうとは思っていたんだ。それで、ちょっと会わせたい人がいるんだがね。ある女性なんだけど、その人に会ったら、君も断るわけにはいかないだろうと思うんだ」
アリスを連れてきたのかと思ってぞっとした。私のそんな気持ちを察したらしく、彼はあわてて付け足した。
「君はあったことがない人だよ。ラウンジで待っているんだ。行こう」
リースが私の腕をつかんでいるので、私は一緒に行くしかなかった。
ラウンジの奥の隅に小柄な赤い髪の女が新聞を読んでいた。私たちが近づくと、女は顔を上げた。すぐにわかった。トゥチェックの娘だった。リースが私たちを紹介した。
「父からお噂《うわさ》うかがっています」
握手した彼女の手は暖かかった。父親と同じように引き締まった頤《おとがい》。小さく、上向きの鼻の両側のややはなれた目。その小さな瞳がまっすぐに私を見つめていた。
「父はイギリス空軍のお友達のこと、よく話しておりました」
彼女は私の足に気がつくと、椅子を私のそばに引き寄せた。
「リースさんが、お力になってくださるのではないかっておっしゃって」
彼女の声はややハスキーで、英語には不思議な訛《なま》りがあった。
私はトゥチェックのオフィスで見た写真と、目の前にいる彼女を頭の中でくらべながら腰を下ろした。光線の具合で、彼女の髪は写真とまったく同じように光って見えた。赤黄色の美しい髪だった。これが本当のベネシャン・ティシャンという髪の色だろう。そしてトゥチェックが言っていたように顔にはそばかすがあった。すき透るような肌に、そばかすは何となく茶目っ気を与えていた。写真とは決して同じ顔ではなかった。写真を撮った後に何か人生の試練にでも遭《あ》ったように、彼女の顔はずっと大人びて、彫りも深くなっていた。私は最後に写真を見た時のことを思い出した。写真の彼女はトゥチェックのオフィスの床の上から私に笑いかけていた。今、目の前の彼女は笑いを失い、その目のなかにも笑いの影は見られなかった。思いつめたような小さな顔で、目のまわりには黒い隈《くま》があった。それでも視線が合った瞬間、私はやはりこの娘に何か通ずるものを感じていた。突如として私は彼女が写真のように笑顔をしていなくてはならないのだという気がしてきた。私は口ごもった。
「私にできることなら、何でもしますよ」
「ありがとうございます」
彼女はリースに向かって言った。
「それで、何かわかりまして?」
リースは首を振った。
「あまりかんばしくないね。ファレルさんはお父さんに一度しか会っていないそうだ」
ちょっと考えてから彼は言った。
「ヒルダ、ところでシスモンディという名前に何か心当たりはないか」
ヒルダは首を振った。
「シスモンディという男と一緒に仕事を起こすというようなことを、お父さんが言っているのを聞いたことはないかね?」
「いいえ」
「お父さんは、ミラノで会社を始める計画ではなかったわけだね」
ヒルダはもう一度首を振った。
「それは違います。私たち、しばらくここで休んだらイギリスに行くことにしていました」
それから彼女はちょっと面喰らった様子で言った。
「でも、どうしてそんなことをお訊《き》きになるの?」
リースが私の話をかいつまんで聞かせた。聞き終わるとヒルダは私のほうを向いた。
「シスモンディに会いに行ってくださいますか?」
彼女は私が行きたがらないでいることを見抜いたのだと思う。彼女はこんなふうに言い足した。
「お願いします。父の居所を知っているかも知れません」
彼女は私の手を握った。冷たい手だった。思いつめたように、彼女は握った手に力を入れた。
「最後の望みかも知れないんです」
ヒルダは私の顔を見つめていた。
「鉄のカーテンが引かれてから、チェコスロバキアで父がどんな目に遭ってきたか、おわかりになりますか? それはひどい目に遭っているんです。いつもいつも身に危険を感じながら。前にもあったんです。ご承知だと思いますけど。前の時はドイツです。母は殺されました。それから祖父も。チェコスロバキアから二度も逃げ出さなくてはならないなんて、父は苦しんだんだと思います。私たち、すべてをイギリスでやり直そうとしていたんです。それなのに……」
彼女は肩をすくめた。今彼女がくじけたら、それこそ本当に悲劇だと私は思った。しかしヒルダは耐えていた。彼女はかろうじて平静を保ち、張りつめた、小さな声で言った。
「ですから、お願いします。力を貸していただきたいんです」
私は彼女の健気《けなげ》さに圧倒されていた。
「私にできることなら、力になります」
「それでは、シスモンディに会ってくださいますか?」
「いいですよ」
「嬉しいわ。あなたが父がよく話をしていたディック・ファレルさんだと聞いた時、私きっと助けてくださると思ってました」
彼女は私に顔を近づけて言った。
「父はどこにいると思いますか? いったい何が起こったんでしょう」
私は言うべき何事をも知らなかった。ヒルダは唇を噛んで立ちあがり、早口に言った。
「アレック、何か飲まない?」
彼らはバーに行った。行く時ヒルダは私に何も言わなかった。顔をそむけるようにしていた。もうこれ以上耐えられなくなったことを私に見せたくなかったのだろうと思う。
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三
午後中私は考えて過ごした。考えれば考えるほど気に食わなかった。リースたちはシスモンディに欲しがっているものを持っているふりをして近づき、トゥチェックの失踪について知っていることを聞き出せと言う。彼の欲しがっている設計図のことなど、私は何も知らないのだ。私は気が進まなかった。おまけにここはイタリアだ。現実の生活も何となくメロドラマ臭くなってしまう国なのだ。最後にミラノに来た時、私はバラバラにされたムッソリーニと妻の屍《しかばね》がさかさまに吊るされ、群衆が罵《ののし》りを浴びせているのを見た。血に飢えた群衆は女の胸を切り裂いていた。イタリアでは南に行くほど人の生命は安くなる。その上、今は戦争中のイタリアとも違っている。今度イタリアに着いてから、私はずっとそのことに気がついていた。イギリス軍やアメリカ軍の制服にどこに行っても出くわす、あの安心感がないのだ。
早めに夕食をすませてバーに行った。飲めば少しは忘れられるかと思った。しかし実際は逆効果だった。九時にならないうちに、私はもうこれ以上のばせないと思い始めたのだ。タクシーを呼んでシスモンディの住所を言った。ヴェネツィア大通り二十二番地。
雨が降っていて寒く、湿った匂いが通りにたちこめていた。ヴィットール・ピサニの通りでは、動いているものといえば市街電車のほかにはなかった。公園のベンチで日光浴をして過ごした午前中とは、打って変わった街の様子であった。私は身震いした。憂鬱《ゆううつ》の発作がおそってくるのを感じていた。脚の傷跡が疼《うず》いた。私はホテルに飛んで帰り、熱い風呂に入ってベッドにもぐり込んでしまいたかった。しかし、もう戻ることはできなかった。
何分もかからず、タクシーはヴェネツィア大通り二十二番地に着いた。大きな灰色の建物で、公園に面してずっと続いている中の一軒であった。緑色の頑丈な木の扉の上に、扇窓《おうぎまど》を通して中の明かりが見えていた。私はタクシーの赤いテールライトが雨のなかに消えていくのを見送った。北風が吹いていた。アルプス颪《おろし》の冷たい風だった。扉まで六段の階段があった。呼鈴《よびりん》が三つ並び、真ん中のボタンの下にシニョール・リカルド・シスモンディと彫りつけた小さな金属プレートが貼ってあった。建物はアパートになっているのだ。ベルを押すと、すかさず男の声で返事があった。
「どなた?」
ドアは閉じたままだった。声は扇窓のある上の方から聞こえてくるようだった。イタリア人の大好きなインターホンだ。
「ファレルと申します。シスモンディさんにお目にかかりたいんですが」
ちょっと間をおいて男の声が返ってきた。
「どうぞ、入ってください、ファレルさん。三階です」
かちりと音がして中に明かりがついたようだった。私は扉を押して中に入った。広い入口のホールはまるで温室のように暖かかった。重い扉は私の背中でひとりでに閉まった。その音を聞いて、私はとうとうやってきたのだと思った。天井にヴェネシアン・シャンデリアが光っていた。石の床には厚いカーペットが敷きつめてあった。部屋の隅に大きな古い振子《ふりこ》時計があり、豪華に彫刻をほどこしたテーブルの上には銀製の野戦砲の模型が飾られていた。
私は階段をのぼっていった。暑くて息がつまりそうだった。かすかに香水の匂いがした。アパートの入口でいかめしい顔の男がドアを開けて私を待っていた。小柄な男で、大きな目をしていた。男はこわばった笑顔で色の黒いずんぐりした手をさし出した。
「ようこそ。シスモンディです」
顔は笑っていたが、まったくの作り笑いだった。背後の高価なシャンデリアに照らされて、禿《は》げあがった頭は磨《みが》かれた骨のように光っていた。
「さあ、中へどうぞ」
愛想のない言い方だった。予期していなかった私の訪問であわてている様子だった。
彼はドアを閉め、私の後ろに回ってコートをとった。
「まず、一杯どうですか」
そう言って彼は後頭部に残っている髪の毛を撫《な》でつけるように両手で押さえた。
「結構ですね」
入口のロビーは豪華な家具のあるラウンジに続いていた。カーペットは、歩くとくるぶしまで沈んでしまいそうだった。飾りや彫刻のある家具やずっしりとしたタピストリーが壁を埋めていた。彼がドアを押し開くと、そこは柔らかく照明された、まったく近代的なインテリアの部屋になっていた。みごとなコントラストだ。太った狆《ちん》が絹のカバーのクッションから跳びおりてよちよち寄ってきた。私のズボンをうさん臭そうに嗅《か》いで、また自分の場所に戻った。
「家内が犬が好きでしてね。ファレルさん、犬はお嫌いですかな」
私はシスモンディを見て、何とこの狆に似た男だろうと思っているところだった。
「は? ああ、いえいえ、犬は好きですよ」
そのとき私は大きなクッションの深々とした安楽椅子に女が坐っているのに気がついた。女は緑のクッションに埋もれているようだった。淡い照明の中に女の顔だけが浮かんでいた。漆黒《しっこく》の髪の下に白い面長《おもなが》の顔があった。眼は猫のように緑色に輝いていた。白い肌の中で、紅い唇が鮮やかに浮き立っていた。シスモンディがよそよそしいのは、この女がいるせいだと私は思った。彼ががさがさと進み出た。
「こちら、シニョール・ファレル。ヴァルレ伯爵夫人です」
私は会釈したが、女は動かなかった。目だけで私の品定めをしているのがわかった。目利きに鑑定される馬のような気分である。シスモンディが咳払いをして言った。
「何になさいますか、ファレルさん。ウィスキーがよろしいかな」
「そうですね」
部屋の隅にしゃれたカクテルキャビネットが用意されていた。女が黙っていて気づまりなので、私はシスモンディについてキャビネットの方に行った。義足を見られているのがわかった。
「家内がお会いできなくてすみません。あれは、何と言いましたかね、英語で、そうそうインフルエンザですか」
彼は飲物を注ぎながら話した。
「気候のせいですよ。ここのところミラノは寒くてね。ソーダですか?」
「いえ、ストレートでいただきます」
彼は上等なカットグラスに半分ほどウィスキーを注いで私に渡した。
「ジーナ、ベネディクティンをもう一杯やらないか」
「いただくわ」
女の声は低く物|憂《う》げで、投げやりな話し方だった。私が女のグラスを受け取りに行った。女の指が私の手に触れた。緑色の目がまたたきもせずに私を見上げていた。女は何も言わなかったが、私は動悸が早まるのを感じた。緑色の絹のガウンが長く床にたれ、腰には銀色の紐《ひも》が巻きついていた。宝石は一つもつけていなかった。古いイタリアの絵を思わせる。女はまさに中世イタリアからやって来たというふうであった。
私が飲物を運ぶと、女は足|載《の》せから足を降ろした。すんなりと、流れるような動きだった。
「おかけになりません?」
女は隣のクッションを示した。
「どうして足をお失くしになりましたの?」
「墜落ですよ」
「まあ、飛行機にお乗りになるの?」
私はうなずいた。女の目に笑いが浮かんだ。
「あまりそのことはお話になりたくないんじゃありません?」
私が黙っていると女が続けた。
「得しているってこと、ご存知ないようね」
「どういう意味ですか」
女は少しせっかちに肩をすくめて言った。
「あなた、特にどうということない方かも知れませんわね。でも、その脚のせいで、とても魅力的。乾杯」
女がグラスを上げた。
「乾杯」
私は応えた。
グラスを口に運びながら、女は私から目をはなさなかった。
「ミラノでは、どこにお泊まり?」
「エクチェルシオーレです。」
女はちょっと眉を持ち上げた。
「お友達をお作りにならなくてはね。ホテル住まいはよくありませんわ。お酒によってメイドと面倒を起こしてじゃあ、お仕事にもかかわるでしょう。あなた、お飲みになるんでしょ。脚のこと忘れるために?」
女は微笑していた。
「そんなに呑兵衛《のんべえ》に見えますか」
女はちょっと首をかしげて、ゆっくり言った。
「まだそうでもないわ。今のところ、あなたはとても魅力的なだけよ。しばらく経つと……」
女は肩をすくめた。
シスモンディが小さく咳ばらいした。私は彼のことをまるで忘れていた。彼はクッションごと狆を椅子から放り出して、自分が坐った。
「それで、私になにかご用がおありと言われましたね、ファレルさん」
「ちょっと、仕事のことで」
「朝の電話の件ですな」
私はうなずいた。
「結構」
彼はブランデーグラスを両手に包んで口に運んだ。
「葉巻はやりますか?」
シスモンディはあわてて食いつくような男ではないらしい。彼はカクテルキャビネットから葉巻の函《はこ》をとってきた。私は女を振り返った。
「かまいませんか」
女は首を振った。
「どうぞ。私好きですから。あなたがおつけになったら、ちょっと吸わせていただくかもしれなくってよ」
女のなめらかな声には媚《こ》びがあった。
私たちは葉巻に火をつけた。それから世間話になった。ロシアと共産主義の話や、イタリア植民地の将来のことなどを話したのだと思うが、もうほとんど憶えていない。柔らかな明かりと、葉巻の匂いに混じって漂っていた香水の香り、緑のクッションに埋まった女性の顔。私はそれしか思い出せない。私は何が起こるか待っていたように思う。シスモンディは、私がそもそもそのために来ることになったあの話を持ち出そうとはしなかった。
葉巻が半分になった頃、ブザーが鳴った。シスモンディは待っていたように鼻を鳴らし、あわただしく立ち上がった。葉巻の灰がカーペットに飛び散った。彼が部屋を出ると女が言った。
「あなた、とても疲れていらっしゃるようね」
「忙しい出張だったものですからね」
「イタリアで休暇をおとりになるといいわ。南の方にいらっしゃれば、暖かだし、日光浴もできますでしょう。アマルフィはご存じ?」
「戦争中に行ったことがありますよ」
「きれいなところですわね。リビエラよりずっときれいだと思います。海は暖かくて、それに、月が水に映って銀色の波になって」
女のつぶやきは遠い砂浜の波のようだった。
「仕事が終わりしだい、休暇はとるつもりです」
私がそう言うのを女は聞いていなかった。彼女は私の肩越しに入口を見つめていた。私は坐ったまま振り返った。ひそひそと話が聞こえ、やがてシスモンディがもみ手をしながら現われた。彼はキャビネットのところに行って飲物を注いだ。部屋は沈黙に閉ざされた。そして再びドアが開き、男が一人現われた。私が立ち上がると男は立ち止まった。顔は見えなかった。開かれたドアの四角い光の中に男は影になって立っていた。しかし私は男の目が私を射《い》るのを感じた。
シスモンディがあわただしく進み出てきた。
「ファレルさん、私の友人を紹介しましょう。あなたの話というのに大変関心を持っている男です。シニョール・シャーラー」
挨拶に立った私は思わず足を止めた。ワルター・シャーラー! まさか。リースにあった直後にシャーラーにまで遭う。何という偶然だろう。そんなはずはない。しかし男は見覚えのあるずんぐりした体つきをしていた。
「君、本当にワルター・シャーラーかね」
やっとのことでそう言った声は震えていた。
「ほう、もうお知り合いというわけですか」
入口の影は動かなかった。口もきかなかった。部屋の空気がぴんと張りつめた。私の体から汗が噴き出した。
「頼むから何か言ってくれよ」
「何も言うことはないね」
男はくるりと向こうを向いた。私は叫んだ。
「待ってくれよ。まさか、僕を恨んでるんじゃないだろうね。ヴィラ・デステにいる時はわかってくれたじゃないか……」
目の前でドアが閉まった。たまらなく腹立たしかった。私はシスモンディを突きのけてドアに飛びついた。ラウンジにはもう誰もいなかった。建物の中のどこかでドアの音がした。シスモンディが私の腕を捉《とら》えていた。
「まあ、まあ、ちょっと待ってください」
彼はすっかりうろたえていた。私は自分がグラスを手にしていないことに気がついた。いつの間にか床に落としてしまったらしい。まったくやりきれない気がした。
「失礼します。もう行かなくては」
私がコートを着る間、シスモンディは「まあ、まあ、ちょっと待ってくださいよ」と繰り返していた。
私は部屋を飛びだしてドアをぱたんと閉めた。ホールにはシャンデリアの明りが輝いていた。入口の扉は軽く音を立てて開いた。外に出て私は立ち止まった。市街電車のレールが光っていた。背中で扉が音を立てて閉まった。私は石段を降り、ホテルに向かって急いで歩き出した。
ビアッツァ・オベルダンの辺《あた》りまで歩いた頃、私はようやく興奮がおさまった。私は後悔しはじめた。なぜ落ちついて腹を据《す》えてかからなかったのだろう。突然のことで、シャーラーの方も同じように驚いていたかも知れない。彼が落ちつく閑もなく私はかっとなってしまったのだ。だんだん歩みが遅くなり、とうとう私は立ち止まった。馬鹿なことをしたものだ。おまけにトゥチェックのことなどすっかり忘れてしまっていた。もうどうすることもできない。いまさらのこのこシスモンディのアパートに戻るわけにも行かないだろう。明日まで待つより仕方がない。しかし、シャーラーが出てくるのを待っていればいい。彼があそこに泊まるはずはないのだ。私は突然、何としてもシャーラーとは会ってちゃんと話さなくてはならないと思った。大通りを私はゆっくりと引き返して行った。二十二番地の頑丈な扉に続く石段の下で私は迷った。石段を上がって、ベルを押しさえすればいいのだ。シスモンディとはインターホンで話せる。しかしシスモンディは上がって来いと言うだろう。しつこく言うに違いない。そしてあのほの暗い部屋に入っていく……。正直なところ、私はあの横柄な視線がたまらなかった。女はすぐに私の気持ちを見抜くだろう。それを思うと気がすすまない。私は建物を通り越して歩いた。四、五十メートル行って私は止まり、また戻った。
そんなふうに二十二番地の前を、かれこれ三十分もうろうろしていただろうか。教会の鐘が十一時を打つのが聞こえた。その後、タクシーが一台やって来て停まった。運転手が車から降りてベルを押した。運転手が扇窓のあたりから聞こえてくるインターホンの声と言葉を交わし、車に戻って運転席で待っているのが見えた。私は車の方に歩き出した。行ってしまわないうちにシャーラーをつかまえなくてはならない。シャーラーが女を送っていくのだろうか。ヴァルレ伯爵夫人と一緒だったら話はできない。でも、それならそれでいいかも知れない。私は中に入ってシスモンディとトゥチェックの話を片づけられるから。
私は石段の下に着いた。内側の明りは消えていて、ドアはひっそりと閉まったままだった。私はそこも通り過ぎて、タクシーの後ろにまわった。私は車の陰で待っていた。街灯の明るい光が私の見つめている緑の扉を照らしていた。
扉が開いた。シャーラーは一人だった。ホールのシャンデリアの光を背中に受けて、一瞬シャーラーは黒い影だった。そしてつぎの瞬間、閉じたドアの前で明るい街灯の光のなかに彼はいた。灰色のオーバーを着て、つばの広いアメリカ風の帽子をかぶっていた。石段の一番上で彼は足を止め、手袋をはめた。彼が夜空を見上げた時、私ははっきりとその顔を見た。丸い頬骨の高い童顔は昔のままだった。ただ、ひげをそり忘れでもしたように頤《おとがい》のあたりは黒っぽかった。こめかみの辺りに白いものが目立ち始めていた。街灯の光をまともに受けて彼は目を細めたようだった。そして手袋をした指先をそっと上唇にあてた。その恰好は……。
私は全身冷水を浴びせられるような気がした。その恰好はまるで口髭《くちひげ》をいじくっているようだったのだ。彼は診察しながらこんなふうに言う。
「今日は手術をすることになるだろうな」
彼の手が愛撫のように私の脚を這う。もう失くなった脚の上を。私の目の前でシャーラーの顔がサンセヴィーノに変わっていた。私は突然の恐怖と懸命に闘った。ここにいるのはシャーラーなのだ。私は自分に言い聞かせた。ワルター・シャーラー。リースと一緒に逃げた男。私はサンセヴィーノが自分の頭を撃ち抜いて死んでいるのをこの目で見たのだ。握りしめた掌に爪が食いこむのを感じた。男の顔がシャーラーに戻り、彼は石段を降りてきた。私には気づいていない。私は出て行って声をかけようとしたが、なぜか足が前に出なかった。彼はタクシーの中に消えた。
「アルベルゴ・ナツィオナーレ」
固く金属的な声を聞くと、また恐怖が私にのしかかってきた。シャーラーはあんな話し方をしただろうか?
タクシーのドアが閉まり、ギヤのかみ合う音がした、と見るとぴかぴかの車体が滑り出し、赤いテールランプはたちまち闇の中に遠ざかっていった。
私は顔をこすった。汗で冷たく、べとべとしていた。私は酔っていたのだろうか。それとも気が変になったのだろうか。あれは確かにシャーラーだったのか、それとも……。私は頭を振り、考えをまとめようとした。私は自動車のエキゾーストパイプの前に立っていた。そのせいだろう、疲れているところへ排気ガスを吸いこんで気分が悪かった。私の本物の方の脚まで、ひざががくがくして立っていられないほどだった。
私はピアッツァ・オペルダンに向かってゆっくり歩き出した。夜の空気を吸っているうちに少し頭もすっきりしてきた。しかし石段の上のシャーラーが上唇に指先を当てながら私を見下ろしているという想像はどうしても私の頭につきまとった。まさにあの恰好なのだ。自殺した医者があのけがらわしい口髭をいじくりながらベッドの私を見下ろした、あの恰好なのだ。あの口髭がなければ彼らは確かに瓜《うり》二つだった。私はシャーラーに紹介された。とすれば、二十二番地のあの建物から現われたのは、やはりシャーラーなのだ。あれは私の妄想にすぎない。困ったものだ。
ホテルに戻ると入口のホールでリースが待っていた。私は階段の下で腕をつかまれるまでまるで気がつかなかった。リースは私の顔をのぞき込んだ。
「どうしたんだ」
「どうもしていないよ」
私はつっけんどんにそう言って彼の腕を振り放した。リースはけげんそうな顔をした。私が酔っていると思ったのだろう。
「シスモンディは何て言った? 何かわかったかね」
「何もわからない。二人だけで話すチャンスがなかったんだ」
「でも、君はどう思うね。トゥチェックの居場所を知っていそうかね」
「いいかい、二人きりで話すチャンスがなかったって言っただろう。ほっといてくれよ。僕はもう寝るんだから」
リースは私の肩を捉えてぐいと引っ張った。
「シスモンディのところへなんか行かなかったんだろう」
「何とでも好きなように思えばいいさ」
私は彼の手を振りほどこうとしたが、その手はしっかりと私の肩をつかんでいた。彼の目が怒りで細くなっていた。私はかすれ声で言った。
「トゥチェックがどんな目に遭っているか考えたことがあるのか。本当にここがホテルの中じゃなかったら、ただじゃおかないところだぞ」
彼はやっと手をはなし、私はもつれる足で階段を上がって部屋に戻った。
その夜は、よく眠れなかった。うとうとすると、とたんにシャーラーとサンセヴィーノの姿が現われ、魔法の鏡のように二人が重なり合って入れ替わった。かと思うと私は恐怖に駆られて、汗みどろになってミラノの街を走っていた。私の傍《かたわ》らをシャーラーが走っている。と見ると群衆の間からサンセヴィーノが現われ、明かりに照らされた建物の入口に立っていたり、通りすがりの私の手を握ったりするのだ。そのたびに私は汗びっしょりになって目を覚ました。心臓は早鐘のように躍っていた。前夜の出来事を思い返しているうちに私はまたうとうとし始め、するとすぐ、悪夢が再開された。
私は気が狂うのではないかと思った。病院に入って治療して、また出てくる、といった程度ではすまないような、本当の狂人になってしまいはしないかと思った。これで私の人生も終わりだと思うと、私の思い出が歪《ゆが》んだ鏡の像のように次々と目の前に浮かんできたが、そこでまた、シャーラーとの再会がいっそう強烈な印象で浮かび上がり、文字通り身の毛もよだつ思いに駆《か》られた。
私は朝の光が射し始めるとすぐにベッドを出て風呂に入った。それで少し落ちつき、気分も楽になった。私はベッドに戻って本を読んだ。どうやらそのまま眠りに落ちたらしい。気がつくとモーニングコールの電話が鳴っていた。気分はすっきりしていたし、頭もおかしくなかった。私は食堂に降り、腹一杯の朝食を摂《と》った。高い窓から暖かい日射しが注いでいた。昨夜のことは、もう考えないことにした。酔っていたのだ。私は仕事のことだけを考えた。シスモンディには夜になってあらためて会いに行けばいい。
食事をすませて、まっすぐ部屋に戻り、片っ端から得意先に電話をかけた。開け放った窓から私の坐っているテーブルのところまで暖かい陽の光が射し込んでいた。ルームメイドがベッドを直しにやって来た。イタリア人のメイドのつねとして、部屋を片づける小さな体の動きにまで、いちいち女を感じさせた。
電話連絡のリストの半分まで進んだ時、フロントの声が受話器に飛び込んできた。
「ファレルさんに、ご婦人のお客さんです」
私はゆうべのリースとのやりとりを思い出して暗い気持ちになった。
「名前は聞いてくれましたか」
「いいえ、それが名前をおっしゃらないのです」
名前を言えば私が避けると思っているのだろう。
「わかった。すぐ行きますよ」
私は受話器を置いて立ち上がった。彼女のおかげで仕事は中断し、私は昨夜の出来事に引き戻されてしまった。太陽がまるで暖かみを失くしたような気がした。かすかに風が吹きこんで、私の開いたブリーフケースやテーブルの上の書類がかさかさと音を立てた。私はバルコニーの窓を閉じて部屋を出た。トゥチェックの娘の顔を頭に描きながら、私は階段の方へ歩いていった。
フロントの前のホールには彼女の姿はなかった。フロントの男がにっこり笑って言った。
「ファレルさん、お客様はバーでお待ちになっています」
バーで私を待っていたのはヒルダ・トゥチェックではなかった。シスモンディのアパートにいた女、ヴァレル伯爵夫人であった。黒のコートに黒のスカート、毛皮のケープで肩を覆い、真ん中から分けてきっちりと後ろに撫《な》でつけた髪の毛が日光に輝いていた。黒ずくめの中で面長の白い顔が目立ち、たった一つの色どりとして左の胸にさした真紅のカーネーションが彼女の赤い唇にぴったりマッチしていた。彼女はやはり画中の女であった。しかし朝の光の中で見る彼女は、どことなく妖気《ようき》が漂っているようだった。
「おはよう、シニョーレ」
彼女の声は愛撫にも似てやさしかった。ものうげな彼女の笑顔はクリームの皿を与えられたネコの目つきを思わせた。彼女が手を差しのべた。私はかがんでその手に接吻する間、彼女の緑色の目がじっと私を見つめているのに気がついていた。
「突然お邪魔して、ご迷惑じゃありません?」
「どういたしまして」
「飲みながらのほうがいいと思って、バーで待つことにしましたの。夕べのようなことがあった後ですもの」
「そうですね、飲物があった方がいい。何になさいますか?」
「まだ早すぎるけれど、お相伴することにして、薄荷水《クレム・ド・マント》」
私は掻き立てられた興奮を抑えようとしながら、一方ではこの女がいったい何の用で私を訪ねてきたのか一生懸命に考えていた。ウェイターにクレム・ド・マントとコニャック、それにソーダを注文してから私はおずおずと口を開いた。
「それで、奥さん、私に何のご用ですか」
彼女の目がいたずらっぽく輝いた。
「ファレルさん、私、あなたに興味があるの」
私は会釈した。
「ご冗談を」
女は微笑《ほほえ》んだ。
「ゆうべのあなたときたら、グラスは床に落とすし、可哀そうにリカルドのことは無視するし。ワルターもそう言えばずいぶん興奮していたわね。あの人繊細だし……」
私の顔に緊張を見てとったのだろう。女はふと口をつぐんだ。そして言った。
「あなた、いったいどうなさったの?」
女があまりずけずけと問題の箇所に触れてくるので私は驚いた。
「酔っていたんですよ」
私の答えはぶっきらぼうだった。
「その話はもうそのくらいにしていただけませんか」
彼女は肩をすくめた。ウェイターが飲物を運んできた。彼女はグラスを挙げて、「どうも」と言った。クレム・ド・マントの緑色と彼女の赤い唇は目の覚めるようなコントラストだった。そしてその緑は彼女の目の色であった。私はソーダをグラスに注いで飲んだ。
気まずい沈黙を破って女が言った。
「夕べ、あなたは酔ってらっしゃらなかったわ。とても緊張していらして、お酒は上がってらしたけれど、でも酔ってはいなかった」
私は黙っていた。シャーラーのことを考えていたのだ。彼は街灯の明りに照らされて指先で上唇の端をいじくっていた。
「シャーラーとはずっとお知り合いなのですか」
「二、三年になりますかしら。私、ナポリ生まれなんですけれど、彼はナポリに葡萄園を持っているんです。彼のところでできるラクリマ・クリスティはとっても上等なんですよ。あなた、夕べお会いになる前に彼のことはご存じでいらしたの? それでずいぶんびっくりなさったのかしら」
「そうなんですよ。戦争中一緒でしてね。ヴィラ・デステでね」
「まあ。そうでしたの。それでわかりましたわ。逃げ出したんでしょう。でもあなたは彼と一緒に逃げたイギリス人ではないでしょう」
「違いますよ」
「彼だけ逃げて、あなたは置いてきぼりになって怒っていらっしゃるの?」
何という女だ。他に話すこがないとでも言うのだろうか。私はかすれ声で言った。
「何で私が怒らなきゃならないんですか」
「あまりお話しになりたくないようね。ワルターから聞きましたけれど、何でもヴィラ・デステの病院にたちのよくないお医者さんがいたんですって」
「ええ、医者はいましたよ」
私は目の前の飲物を見つめたまま、シャーラーがタクシーの運転手にアルベルゴ・ナツィオナーレ、と行き先を告げた時のことを思い出していた。
「シャーラーと瓜二つのね」
そうつぶやいて私ははっと気がついた。何ということだ。なぜもっと早く思いださなかツタのだろう。私は部屋の荷物の中にサンセヴィーノの写真を持っているのだ。ナショナル・インスティテュウト・ルーチェのファイルから失敬してきた写真である。何となく、不安な予感に駆られて私はその写真をとっておいたのだった。私は立ちあがった。
「奥さん、お見せしたい写真があるんです。ちょっと失礼して、部屋に行って持ってきます。すぐ戻ってきますから」
彼女は私の腕をつかんで言った。
「あの、私もう行かなくてはなりませんし、第一、写真を見に来たわけではないですから」
「見ていただきたいんですよ。部屋に行ってとって来るだけですから、すぐですよ」
彼女が何か言おうとしたが、私はもう歩き出していた。私はエレベーターで上がり、部屋に続く廊下を歩いた。私の隣の部屋のドアが開いていて、中でメイドがベッドを直していた。鍵をさし込むと私の部屋の中で何かがばたんと音を立てた。中に入ってみるとバルコニーに続くドアが大きく開いており、風が吹き込んでテーブルやフロアに書類をまき散らしていた。私は急いでドアを閉め、書類を拾い集めてバルコニーのドアを閉めた。
私はどきりとして足を止めた。伯爵夫人に会うために部屋を出る時、フランス窓は閉めて鍵もかけたはずである。私はあわてて、スーツケースの中身を調べた。何も失くなってはいないようだった。うろたえた自分がおかしかった。写真をとり出してスーツケースを閉めた。ちょうど部屋を出たところへ隣の部屋からメイドが出てきた。彼女はポカンと口を開けて私を見た。イタリア語でたずねた。
「どうかしたの?」
彼女は間の抜けた顔で私を見ていたが、私が歩き出そうとするとあわてて言った。
「でもお医者《イル・ドツトオレ》さんが、お客さんは病気だからって言ったのに」
博士《イル・ドツトオレ》と聞いて私は思わず振り返った。
「何だって? お医者さん?」
「この部屋から出てきたひとですよ。私がここでベッドを直していたら」
彼女はおびえたように蒼い顔をしていた。
「その人が、お客さんはそっとしておかなくちゃいけないって言ったんです。でも、お客さん病気じゃないですね。どうなっているのかしら」
私は突然の恐怖に駆られて、メイドの肩をつかんでゆさぶった。
「どんな男だった、その医者は? 言ってくれよ、どんな奴だったんだ?」
「覚えてないですよ。バルコニーから入ってきて、こっちからは顔が影になって見えなかったし……」
「バルコニーから入ってきた?」
フランス窓が開いていたのはそのためだったのだ。誰かが私の部屋に入ったのだ。
「起こったことをちゃんと話してくれないか」
彼女は目を丸くして私を見た。おびえていた。
「どんなふうだったんだ?」
彼女を落ちつかせるために私は静かな声を出そうとした。メイドはもじもじしていたが、やがて大きく息を吸って話し始めた。
「私はここでベッドを直していたんです。それで部屋に空気を入れようとしてバルコニーの戸を開けたんです。そしたらその人が入ってきたんです。急に入ってきたんで、私、びっくりしました。そしたら、その人は唇に指を当てて、お客さんのことをそっとしておくようにって言うんです。自分で医者だって言いました。お客さんが病気になったから呼ばれたんだって。薬を飲ませにきたんだって言いましたよ。それからお客さんが寝ついたんで、ドアの音で目をさますといけないと思って、それでバルコニーから出てきたんだって」
「自分で医者だって言ったの?」
「そうですよ、お客さん。ホテルの先生じゃないけど、でもお客さんによっちゃあ、よくよその先生を呼んでくるし。それで、お客さん、もういいですか」
「僕は病気でもなければ、医者を呼びもしていないよ」
彼女は目を皿のようにして私を見た。まったく私の言葉を信用していないのがよくわかった。私は大変な顔をしていたのだろう。私はどこか内側の深いところからこみあげてくる恐怖にとりつかれていた。私は気を鎮《しず》めようとあせった。
「どんな奴だったか、言ってくれないかな」
メイドは首を振った。彼女は後ずさりして今にも走っていってしまいそうだった。
「背は高かった? それとも低い方?」
「低い人でした」
私はとっさに手に持っている写真を思い出し、制服の部分を隠して顔の部分だけをメイドに見せた。
「この男じゃなかった?」
彼女はおそるおそる視線を私の顔から写真に移した。
「そうです、そうです、この人です」
彼女は力を入れ、手首を縦に振った。それから眉を寄せて言った。
「でも、ひげはなかったわ」
声に自信がなくなった。
「よくわからないけど、でもすごく似た人です。あの、私もう行かないと、まだ部屋がいっぱいあるので……」
私はその場に立ったまま写真を見つめた。サンセヴィーノの黒い小ぶりの目が写真の中から私を見返していた。そんなはずはない。そんな馬鹿な。サンセヴィーノは死んだのだ。脳みそが飛び散り、ベレッタ拳銃を手にしたままの彼を、私はこの眼で見たのだ。それにしても、シャーラーがなぜ私の部屋を探りに来たのだろう。それに、医者だとはどういうことなのか。とっさの場合、たいていの人間は自分にとって自然なことを口にするものだ。シャーラーが自分のことを医者だと言うだろうか。サンセヴィーノならば言うだろう。自分の行動を説明する言葉として、まったく自然に彼の口をついて出たに違いない。
私の背筋をぞっと寒気が走った。恐れ、予感、悪意に満ちた期待と恐ろしさの入り混じった異様な気持ちだった。ゆうべ私があったのはサンセヴィーノだったとしたら? もし……私はその考えを打ち消した。あまりに現実ばなれしている。考えるだけでもぞっとする。
私はゆっくり階段を降りていった。バーに向かって歩いている間も、私はあの考えにとりつかれていた。ゆうべのあの男の不思議な態度、私のいわれのない恐怖感、それがみな説明されるのだ。私は恐れることをやめた。喜びさえ感じてきた。もしサンセヴィーノだったら。もしヴッラ・デステから逃げたのがサンセヴィーノであったのなら、私はここで仇敵《きゅうてき》にめぐり遭ったことになるのだ。返してやる。あの痛み。私をじりじりと痛めつけたあの精神的苦しみ。それを全部返してやるのだ。
「どうなさったの、ファレルさん。何か起こりでもしたんですの?」
私は伯爵夫人のテーブルに戻っていた。
「いや、何でもありません」
私はあわててそう答え、半分ほど残っていた私のコニャックを一気に飲みほした。
「まるで幽霊にでも会ったみたい」
「幽霊?」
私はやっと腰を下ろした。
「何でそんなことをおっしゃるんです?」
私のうろたえた様子を見て、彼女はちょっと眉を持ち上げた。
「ごめんなさい、何かお気に障《さわ》ったかしら。私、それほど英語がうまくないの。何か私の言い方がいけなかったようね」
「いえいえ、そうじゃないんです。発作なんですよ。時々、こうなるんです」
私はハンカチで顔と手を拭いた。私はナポリのバトリアで帰りの船を待っていた時のことを思い出していた。あのときも同じような気持ちだった。頭のまわりに鉄の箍《たが》がはめられ、それがじりじりと締めつけられていく感じだった。そして、私はさらに二ヵ月も療養を強いられた。また、同じことになるのだろうか。
「畜生、何だってそんなことを考えるんだ」
「何ておっしゃいました?」
彼女にそう言われて、私は知らず知らず声を立てていたことに気がついた。私はウェイターを呼んだ。
「もう一杯上がりませんか?」
彼女が首を振ったので、私は自分のためにコニャックをダブルで頼んだ。
「そんなにお飲みになって大丈夫?」
私は笑った。
「酒でも飲まないことには……」
私ははっとして口をつぐんだ。しゃべり過ぎている。
女が手を伸ばして私の手をとった。
「可哀そうに。恐ろしい目に遭ったことがおありなのね」
飲物が届き、私は渇いたようにそれを飲んだ。
「この男、誰だかおわかりですか」
私はテーブルごしに写真を女の前に突き出した。彼女は額に皺《しわ》を寄せてそれを見つめた。私はいらいらして訊いた。
「どうです、わかりますか」
「でも変ね、この人、ファシストの制服だわ」
「それに口髭もあるでしょう」
女はちらりと私を見た。
「どうして、私にこれをお見せになるの?」
「これは誰ですか」
「ご存じのくせに。ゆうべお会いになった男よ」
私はグラスを乾《ほ》した。
「この写真の男はジョヴァンニ・サンセヴィーノですよ」
私はそう言って写真を財布にしまった。女は不思議そうな顔で私を見た。
「サンセヴィーノ? サンセヴィーノって誰なんですの?」
私は脚を突き出した。
「私をこんなふうにしてくれた男です」
自分でも声がかすれているのがわかった。
「私は墜落で足を折りました。でも切らずにすんだはずなんです。本当に、そいつは外科医としては一流でしたからね。その一流の腕で奴は私の脚を三度も切断したんです。膝の下を二度、膝の上で一度。いずれも麻酔なしでですよ」
私のうちに怒りが大波のように湧き上がっていた。
「奴はわざと私の足を切りこまざいたんです」
私の組み合わせた両手が緊張で真っ白になっていた。私はまるでサンセヴィーノの喉でも絞めるように力を入れていたのだ。私はふと落ち着きをとり戻した。
「ワルター・シャーラーはどこにいますか」
「ワルター・シャーラー?」
女はちょっとためらった。
「存じませんわ。今日はミラノにはいないんじゃないでしょうか」
「アルベルゴ・ナツィオナーレに泊まっているんじゃないですか」
「そうですけど、でも……」
女はまた私の手を触りながらいった。
「あなた、昔のことは忘れるようになさらないといけませんわ。あまり昔のことにこだわっていると……」
そう言って彼女は肩をすくめた。
「誰にだって忘れてしまった方がいいことってあるものですわね」
女の目は私を通り越してずっと遠くを見つめていた。部屋の中のものなどまったく目に入らない様子だった。
「どうしてそんなことおっしゃるんですか?」
「あなたが、あんまり思いつめてらっしゃるみたいだからよ。ワルターにお会いになって、あなたはその写真の男を思い出して、その男のこと、ものすごく憎んでらっしゃるんでしょう」
女は吐息をついて静かに続けた。
「私にも忘れようとしている過去がありますのよ。私はずっとこんなドレスなんか着られなかったんです。みじめな生活でしたわ。私、ナポリのヴィア・ローマのスラムに生まれたんです。ナポリはご存知?」
私がうなずくと女は微笑んだ。
「でしたら、私がどんなところで育ったか、おわかりですわね。幸い、私ダンスをやっておりました。サン・カルロで知り合ったひとが私をバレー団に入れてくれました。それが運のつき始めでしたわ。私はこうして伯爵夫人ですけれど、私、なるたけ昔のことは思い出さないようにしています。娘時代のこと、あまり考えると私、気が変になってしまいそうですもの」
女は身を乗り出して私の顔をのぞき込んだ。大きな目であった。緑に光る薄茶色の瞳に、白目は古い羊皮紙を思わせる淡い色を帯びていた。
「先のことをお考えなさいな。過去の中に生きては駄目よ」
女の指が私の腕に触れた。
「私、もうまいります」
女の声が突然現実的になり、ハンドバッグをつかんで彼女は言った。
「午後からフィレンツェにまいりますの」
「フィレンツェにずっとお泊まりなんですか」
彼女がいなくなるのは淋しかった。彼女の素晴らしさは一通りのものではなかったのだ。
「じきに戻りますわ。友達のところに二晩ほど泊めてもらって、それからナポリにまいります。別荘があるんですの。ポジリポのパラッツォ・ドン・アンナをご存知?」
私はうなずいた。ナポリのすぐ北にある大きな中世の宮殿で、石のアーチが海の中に立てられている建物だった。
「私の別荘は、あのパラッツォのすぐ近くです。ナポリにいらしたらお寄りになってくださいませんこと? ヴィラ・カルロッタっておっしゃればすぐにわかります」
「ぜひ寄せていただきたいですね」
女は立ちあがった。私がホールまで送っていくと彼女は言った。
「どうして休暇をおとりにならないの? 日光浴でもなさって、少しのんびりするとよろしいんじゃありません」
そして眉をぴくりと持ち上げて付け加えた。
「ミラノはあなたにはあまりいいところではないようね。それから私、またお目にかかりたいわ。私たち、何か通じるところがあるようですわね。昔を思い出したくないことかしら」
女は微笑んで手を差し出した。
女が待たせてあった車で走り去るのを見送って、私はバーに戻った。ミラノはあなたはあまりいいところではないようね。彼女はなぜそんなことを言ったのだろう。私に何の用があってやって来たのだろう。そう考えた時、私は彼女が来訪を説明する満足な理由を何ひとつ示さなかったことに気がついた。私の部屋を探りに来た男と示し合わせていたのだろうか。
しかし、それがどうだというのだ。今や、私の頭はシャーラーのことで一杯だった。あの男はやはりサンセヴィーノだったのではあるまいかという考えが私の頭にこびりついてはなれず、私は恐ろしかった。本当のことを知らなくてはならない。もう一度あの男に会って確かめなくてはならない。馬鹿げているとは思う。しかし、あり得ないことではないのだ。あの男がサンセヴィーノだったら。そう思うと、またぞろ煮え立つような怒りがこみあげてきた。私はもう一杯コニャックを飲み、アルベルゴ・ナツィオナーレ・ホテルに電話した。シャーラーは出かけていた。夕方まで戻らないという。シスモンディのオフィスに電話してみると、彼はシャーラーが町を離れるようなことを話していたと言った。
昼食をすませて仕事に出た。取引先をいくつもまわってホテルに戻ったのは八時近かった。その頃には、もうサンセヴィーノについてあれこれ考えるのはまったく意味がないという気持ちになっていた。簡単に夕食を摂《と》って私はバーに行った。そこで何杯か飲んでいるうちに、またもや私はあの男に会ってはっきりさせようと思い始めた。
タクシーを呼んでまっすぐナツィオナーレへ飛ばした。スカラ座の真向かいの、小ぢんまりとした贅沢なホテルだった。つづれ織の壁掛けや装飾をほどこした家具など、かつての繁栄を匂わせるものがあった。白いペンキを塗った鉄格子のエレベーターは少し場違いな感じを与えたが、それでも家具調度や部厚いカーペットやボーイのズボンなどとともに、高級ホテルのイメージはあった。私はポーターのデスクに行って、シャーラーへの面会を頼んだ。
「お名前は?」
「シャーラーさんに会いたいと言っているんだ」
私の剣幕に驚いてポーターは顔を上げた。
「私は存じませんが、お客様がお名前をおっしゃってくだされば、お部屋に連絡してみます」
私は一瞬ためらったが、意地の悪い考えがひらめいた。
「サンセヴィーノ博士の友人が会いたいと言っていると伝えてくれませんか」
ポーターは電話を取り上げて伝言を伝えた。それから早口で何かささやいた。その間ポーターは私から目をはなさなかった。私の風態を電話で説明したのだろう。ようやく彼は受話器を戻し、ボーイを呼んだ。ボーイは私を案内してエレベーターで一番上の階まで昇り、厚いカーペットの廊下を通ってBというマークのある部屋のブザーを鳴らした。召使いの男がドアを開けた。あるいは彼の秘書だったかもしれない。私にはわからなかった。きちんとした服装をして、小さな丸い目を抜けめなく動かす男だった。
「中へ、どうぞ」
彼はいかにも英語を使うことが不愉快だというしゃべり方をした。
帽子とコートを男に預けて部屋に入った。大きな、非常に近代的な部屋であった。部屋の基調は白と金で統一され、小型のグランドピアノも白と金で、間接照明に照らされていた。カーペットは黒だった。部屋はホテルのほかの部屋ときわだったコントラストを見せていた。
「君だったのか、ファレル」
暖炉の傍《かたわ》らにいたシャーラーが両手を広げて私を迎えに出てきた。
「何だって名前を言わなかったんだ?」
そう言った声はいらだちを隠せず、彼の顔は蒼白で、その目は探るように私を見つめていた。
彼のうしろの、電気ヒーターの暖炉に大きな安楽椅子を寄せてジーナ・ヴァレルが坐っていた。彼女は椅子の上に両膝を折って坐り、もの憂げな顔には満足そうな笑みが漂っていた。あのクリームの皿を与えられた猫を思わせる、安心しきった寛《くつろ》ぎがあった。
「サンセヴィーノ博士の友人か」
シャーラーが私の肩をたたきながら言った。
「ご挨拶だね」
私が女の方を見ているのに気がついて言った。
「ヴァレル伯爵夫人はもう知ってるね」
「ああ」
シャーラーは私を炉辺に案内した。私はジーナに言った。
「フィレンツェにいらっしゃったんじゃあないんですか」
彼女はにっこりとして答えた。
「今日は参れませんでしたの。明日は行くつもりにしておりますけど」
投げやりな、元気のない話し方だった。シャーラーが言った。
「こんなふうにしてまた君に会うとは思ってもいなかったよ。君の顔を見ていると、あまり思い出したくはない昔のことを考えてしまうね。君も早く忘れたいと思っているんだろう? 昨夜はすまなかったよ。あまり突然でびっくりしてしまってね。まさか、あんなところに君がいるなんて思ってはいなかったから。なにか飲む?」
「ああ、いただこう」
「何にする? ウィスキーにソーダ?」
「うん、それでいい」
彼は洒落《しゃれ》たカクテルキャビネットに向きながら話した。
「君がミラノに来ているとは知らなかったな。仕事なんだろう? シスモンディが仕事抜きで人を呼んだりするわけがないからな」
彼は非常な早口で話した。あの早口や、歯に引っかかるような発音はシャーラーの話し方ではない。この部屋にしてもそうだ。シャーラーはもっと平凡な趣味の男だった。炭鉱夫だった彼が葡萄園で成功してまったく変わったということだってあるかも知れない。それにしても、この部屋はシャーラーの部屋としてはしっくりこない。私は何となく落ち着けなかった。
彼はグラスを私に渡し、自分のグラスを持ち上げた。
「ぐっといこう」
毒ガスのせいで火ぶくれになった顔で、苦い薬のコップを持ち上げながら、シャーラーはいつも「ぐっといこう」といったものだ。
重苦しい沈黙が部屋をつつんだ。ジーナ・ヴァルレは目をつぶっていた。しどけないとさえ言える寛《くつろ》ぎようだった。暖炉の上のガラスケースに入った時計の音ばかりが妙に耳についた。
「僕がここにいるってどうしてわかったの?」
「うん、誰かに聞いたんだな」
「誰に?」
「さあ? 誰だったかな」
タクシーの運転手に彼が言うのを立ち聞きしたとは言えない。
「そうだ、たしか今朝、僕のところに見えた時、伯爵夫人から聞いたんだと思うよ」
シャーラーはきっとして彼女の方を向いた。
「ジーナ。ファレルに朝ここを教えたのか。え? ジーナ」
彼女は目を開けた。
「俺がこのホテルにいることを、ファレルに言ったのか」
彼女はやっと眠そうに答えた。
「私、眠っていたみたいね、ワルター。どうだったか、私憶えていないわ」
シャーラーはむっつりとして肩をそびやかすと、また私の方に向き直った。
「それで、僕に何か用かね」
私は口ごもった。私はすっかりわけがわからなくなっていた。部屋も、目の前の男も、すべて不思議としか言いようがなかった。
「悪かったね。僕は来ない方がよかったかも知れないんだ。ただ、その昨夜のことがあったもんで、気になって。君の気持ちはよくわかるよ。つまり、その、あのころ僕は君がわかっていると思っていたんだ。僕は二度手術に耐えた。それから三度目だ。それで……」
私の声は震え、後が続かなかった。
「もうよせよ」
シャーラーが言った。
「でも、昨日、僕は思ったんだ……」
彼が私をさえぎった。
「僕はただびっくりしただけさ、ただそれだけだよ。もういいじゃないか、ファレル。昔のことなんか、ちっとも根に持っていないよ。君が悪いんじゃないんだから。君はぎりぎりの苦痛にたえてきたんだしね。僕だったら、あの豚野郎の手術に二度も持ちこたえられたかどうか、あやしいものさ」
シャーラーが≪あの豚野郎の手術≫という言葉を何の抵抗もなく口にしたので、私は少しほっとした気持ちになった。
彼はジーナ・ヴァルレに話していた。
「麻酔をかけずに足を切断されるのがどんなもんだか、君はわかるかい。彼は墜落で足を折ったんだ。でも大したことはなかったんだよ。ちゃんと治療すりゃそれですんだ。それを奴らは傷口を腐らして手術の口実にしたんだ。ほっとくと命にかかわるという、親切な口実だ。いざ手術となったら、奴らは麻酔の瓶が見当たらないと言うんだ。それでファレルに、もし口を割って誰を、前線を越えたどこの辺に降下させたかしゃべったら、麻酔を捜してきてやろうと言いやがったんだ。ファレルはしゃべらなかった。それでとうとう連中は、彼に猿ぐつわをはめてベッドに縛りつけて、鋸で脚を切断したんだ。麻酔はかかってないんだぞ。目の前で連中のやることがわかっているだ。それから自分の足に鋸の歯が食いこんでくる……」
私はやめてくれ、もうたくさんだと言いたかった。にもかかわらず私の口は言うことを聞かなかった。私はその場に立ちつくし、シャーラーが私の手術のありさまを話すのを聴いていた。私の体の中の神経が忌《い》まわしい記憶におののいた。彼はじっと私の目を見つめ、切断の後、傷口が早く癒《なお》るように連中がいかに手をつくしたかについて話した。
「それで彼の傷口がほとんどよくなった頃を見計らって奴らはわざと黴菌《ばいきん》をつけて壊疽《えそ》を起こした。二、三日して……」
私は今や彼の言葉がほとんど耳に入らなくなっていた。まるで頭を殴られたような衝撃が私を襲ったのだ。私は連中が手術の口実を作るために傷口に黴菌を植えたことを、誰にも話したことがない。リースにもシャーラーにも、手術そのものについてはもちろん話して聞かせた。しかし壊疽のことは一切口にしたことがないのだ。私のへまから二人が同室に入ることになっていながら、私の手術の理由を話さずにいるのは辛かった。もちろん、当番兵一人が、あるいはサンセヴィーノ自身がシャーラーにそのことを話したということだってあり得ないわけではない。しかし、なぜか知らぬが、私は決してそんなことはなかったと確信していた。もし連中が話していれば、リースだって黙ってはいなかったに違いない。
私は恐くなって部屋を見回した。シャーラーは私から目をはなさなかった。私の反応を楽しみながら私の手術の話を続けている様子だった。私は突然気分が悪くなってきた。グラスの残りを空けて私は言った。
「僕はもう失礼しよう」
「まだまだ帰しはしないよ。まあ、もう一杯どうかね」
彼は部屋を横切って私のグラスを取りに来た。彼がグラスをとろうとして前にかがむ。彼の頸は私の目の前にある。私がさっと手を伸ばせば……。私が考えている一瞬の間に、彼はグラスをもって起き上がっていた。二人の目が合った。彼の目のなかに侮蔑《ぶべつ》の色を見たのは私の思い過ごしだろうか。
「悪かったな。痛さの想い出がそんなにきくものだとは知らなかった」
彼はそう言ってカクテルキャビネットに向かい、私は顔の汗を拭った。ジーナ・ヴァルレは私から、彼女がワルター・シャーラーだと思っている男に視線を移した。彼女は今やはっきりと目を開き、鋭い視線で男を見ていた。ジーナは真相に気がついたのだろうか。
「ジーナ、君ももう一杯飲むかい」
「お願い、今度はウィスキーにしてちょうだい、ワルター」
「ウィスキーなんか飲んでいいのか」
「よかないわ。でも、どっちみち同じことよ」
私はやっとの思いで言った。
「やっぱり、僕はこれで失礼するよ」
気が遠くなりかけ、自分を抑えるのがむずかしくなっていた。ファシストの制服を着て机に坐って死んでいたのはワルター・シャーラーだったのだ。怒りで息がつまりそうだった。博士《イル・ドツトオレ》という言葉が口から出かかった。そう言って正体を見破られた男がうろたえるさまを見たかった。そして私は飛びかかり、奴を絞め殺してやる。しかし、私はやっとの思いで踏みとどまった。ここでやったら私の立場はなくなってしまう。誰も信じてくれないだろう。それに奴は武器を持っているかもしれない。私ははっと気がついた。私が彼の正体を知ったということがばれたら、彼は私を生きてこの部屋からは帰さないに違いない。このぞっとする芝居も、とにかく一幕|演《や》り通さなくてはならないのだ。そのことが、そしてそのことだけが私の頭を占領した。彼がグラスをもってきた。
「さあもう一杯、ファレル。まあ腰を下ろして落ち着けよ」
私はグラスを受け取って、いちばん近い肘掛椅子に崩れるように坐りこんだ。この部屋から無事に帰るためには、私が彼をシャーラーだと信じていると思いこませておかなくてはならない。私は言った。
「不思議なこともあるものだね。君もリースも生きているとわかったのは、ほんの二、三日前なんだよ。病院では二人が脱走を企てて射殺されたと発表したんだからね」
彼は笑った。
「もう少しで射殺されるところだったよ。乗ってた救急車が故障してね、山に逃げるしかなかったんだ。リースには会ってないのかね。君は確か、彼の妹と……」
「振られてしまったよ」
彼は眉を持ち上げた。シャーラーは決してこういう表情をしなかった。この男は医者としてこういう表情が患者に与える精神的な影響を計算して、よくこの顔をつかったのだ。
「ずいぶん冷たくされたのね」
ジーナ・ヴァレルが口をはさんだ。私は肩をすくめた。「私にも注いでよ、ワルター、お願い」
彼はジーナに飲物を渡し、自分の分を注ぐためにカクテルキャビネットに戻った。ジーナ・ヴァレルが音もなく立ち上がって私のそばに寄ってきた。
「あなた、女性に恵まれなかったようね」
私は答えなかった。ジーナは私のグラスに並べてグラスを置いた。
「カードはお強いんでしょう」
「カードはやりません」
彼女は笑い、あくびをしながら言った。
「天は二物を与えずと言うけれど、両方とも駄目とはね。おかしいわね。私、眠くなってきたわ、ワルター」
彼が時計を見て言った。
「まだ十一時にもなっていないじゃないか」
「そうよ。でも明日早いんですもの」
そう言って彼女は私を見た。
「送ってくださるわね?」
彼女が私を部屋から連れ出してくれようとしているのではないかと思った。
「喜んで」
シャーラーがベルを鳴らし、私の背後でドアが開いた。
「ピエトロ、タクシーを呼んでくれ」
ジーナ・ヴァレルはもとの椅子に戻っていた。私はグラスに手を伸ばし、はっとして彼女の方を見た。私のグラスがなかったのだ。私のグラスは彼女が持ち去り、テーブルの端にジーナのグラスが残っていた。私はもう少しでそのことを言いだすところだったが、ジーナの顔つきを見て言葉を飲みこんだ。ジーナの手の中のグラスはすでに空《から》であった。
ピエトロと呼ばれた男が、タクシーが来たことを告げた。私は立ち上がってジーナのコートを手伝った。
「ワルター、いつまでミラノにいるの?」彼女は尋ねた。
「さあ、わからないね。でも心配するな、君のお望みのものはきっと手に入れてやるよ。おっと、ファレル、酒が残っているよ」
彼は私にグラスを突きつけた。
「スコッチは近頃高くてね、捨てるにはもったいない」
私がグラスを乾《ほ》すのを彼はじっと見守っていた。まるで患者が薬を飲むのを見届けようとする医者の目つきだ、と私は思った。ジーナの顔を見ると、彼女は不思議な光を目に浮かべてじっと男を見つめていた。
彼は私のグラスを受け取って自分でサイドテーブルに置いた。彼は私たちをエレベーターまで見送ってきた。
「ファレル、来てくれてうれしかったよ」
握手をした時、私は全身に寒気が走るのを覚えた。彼のしなやかな指の感触。私は思わずぐいと引きつけて、その場でずたずたにしてやりたい気持ちに駆られた。私と握手している手は、断じて炭坑で働いたことのある手ではない。まるで触ってはいけないものを持ったように、私は手を引っこめた。
「また会いたいと思うよ」
彼は笑顔で言った。エレベーターの柵が閉まり、私たちは降りて行った。最後に見た時、彼は降りて行く私たちを上からのぞいていたが、その目がスモモのように異様な黒い光を放っていた。
タクシーに乗るとジーナは私の腕を取って、体を寄せてきた。
「ワルターがあまりお好きじゃないようね」
私が黙っていると彼女はさらにつづけた。
「ワルターを憎んでいるわね。なぜ?」
何と答えていいかわからなかった。話題を変えようとして私は軽く言った。
「僕の酒を飲みましたね」
「そうよ。いい気持ちで椅子に坐っていたのに、何でわざわざ立ち上がったか、あなた知っているの?」
私はどきりとした。
「知っててやったって言うんですか。どうしてあんなことしたんです」
ジーナは笑った。
「あなたのためよ。それより、ねえ、今夜のワルター、全然変だったわ。それにあの名前、そう、サンセヴィーノ。あれを聞いてびっくりしていたわよ。電話でサンセヴィーノ博士の友人が会いたいって言ってきた時、真っ青になっていたし。それからあなたが入ってきた時、とても警戒してたみたい。あの人、あなたのこと恐がってるの?」
「僕を恐がる?」
この言葉は私の頭の中でがんがんと鐘のように響きわたった。私を恐がっている。サンセヴィーノは私が恐い。突如として私はもりもりと力が湧き上がってくるような気持ちになった。狂喜に近かった。奴は私のものだ。私は秘密を握っている。彼と私はもう少しこの芝居を続けることになるだろう。私は口の中に広がっていくにがい復讐の味を噛みしめた。
「ね、そうなんでしょ?」
「たぶんね」
「どうして?」
「いつか、あなたのことをもう少し知るようになったら、話してあげるかも知れない」
「あの人、何かしたの? あなたに何かして、そのことであなたを恐がっているの?」
ジーナの声は真剣だった。私の力を自分の身に着けてみたい。そんな願いがこもっているように聞こえた。私は訊いてみた。
「なぜそんなに訊くの? 彼が嫌いなの?」
タクシーが急停車してがくんと揺れたが、彼女はまっすぐに私の顔を見つめていた。大きな目がきらきら輝いていた。
「彼が憎いの」
溜息をつくとドアを開けて車を降りた。
「きっとね、ナポリに来たらヴィラ・カルロッタにいらっしゃい」
「ああ、きっとそうするよ。おやすみ」
「ボナ・ノッテ」
ジーナは私に投げキスを残して新しい大きなアパートに消えた。
「どこへ行きますか」
「エクチェルシオーレ」
「へい」
タクシーはブエノスアイレス通りに出た。私は深くシートに沈んで外の明りが走り去っていくのを眺めていた。サンセヴィーノが生きている。そして私の手の届くところにいる。私の頭はもうそのことで一杯だった。ホテルの部屋に戻った時、私はすっかり上気してしまっていた。とても眠るどころではなかった。私は部屋の中を行ったり来たりした。想像がどんどん先を急いで進んでいった。これからどうしようか、私はあれこれ考えていた。
今思うと、そのときの私の精神状態はまったく異常であった。興奮と恍惚《こうこつ》と、そして恐怖の入り混じった状態であった。私はこの男が私にくわえることのできる苦痛を恐れながら、生きた心地もないような月日を一年以上も送らなければならなかった。そして私は、その男が死んだものと思っていた。その男が生きているのだ。私の気が狂っていないかぎり、あの男がサンセヴィーノであることは間違いない。私は興奮で身が震えた。
私の頭は混乱していたが、ホテルに戻ってきた時の高ぶった気持ちは依然としてそのままだった。サンセヴィーノは生きている。奴は俺のものだ。今苦しむのは奴の番だ。
どうしてくれようか。警察か。とんでもない。そんな単純なことではすまされない。恐れというものがどんなものか、思い知らせてやるのだ。そうだ。ジーナ・ヴァレルが言っていた。「あの人、あなたのこと恐がってるの?」恐がる。それが私の頭を離れなかった。サンセヴィーノは私を恐れている。そして、これからも私を恐れ続ける。ずっと。一生だ。
私は思わず大声で笑った。そうだとも、警察などまったく関係のないことだ。第一、こんな話を信じる人間がいるだろうか。何も言う必要はない。私は奴の目の前をうろついてやる。そして時々、私がいることを、そして彼の正体を知っているのだということを見せつけてやるのだ。私がコモ湖の畔《ほとり》の病院で夏じゅう流した恐怖の汗を、こんどは彼自身に流させてやるのだ。恐怖のために寝られぬ夜というものがどんなものだか、思い知らせてやらなくてはならぬ。彼は恐怖で生命を縮めてしまうのだ。
私はトゥチェックのことを思い出した。何ということだろう。あの男はヤン・トゥチェックの失踪とかかわりがあるのだろうか。あの夜、シスモンディは明らかに彼の登場を待っていた。やはり関係があるのか。サンセヴィーノの名において彼がとった行動……。冷酷さと、針のように冷徹な精神で彼が準備した段取り……。
突然、ドアをノックする音がした。
私ははっと息をのんで振り向いた。飾り気のないペンキ塗りのドア。誰かノックしたのだろうか。それとも私の気のせいだったのか。
ノックの音がまた聞こえた。間違いない。サンセヴィーノではあるまいか。掌にひりひりするほど汗が滲《にじ》み、私は震えた。
「どなたですか」
「ハケットといいますがね。隣の部屋のものです。私は眠りたいんですよ」
アメリカ人の英語で、シャーラーの声よりずっと太い声だった。私はドアを開けた。太って肩幅の広い男が暗い廊下に立ち、縁《ふち》なしの眼鏡の奥で眠そうな目をしばたたいていた。灰色の髪がぼさぼさで、そのきょとんとした表情は怒った梟《ふくろう》といったところだった。彼は私の背後の部屋の中をのぞき込んだ。
「おひとりですか?」
「そうですが、どうしてですか」
男は不思議そうな顔をして私の顔を見た。
「私はてっきり徹夜の会議かなにかだと思いましたよ。もういい加減に他の泊まり客を寝かしてくれませんかね」
「私が何か邪魔をしたとでもおっしゃるんですか?」
「邪魔をした?」
男の声は喧嘩|腰《ごし》だった。
「ちょっと、これを見てごらんなさい」
そう言って男は隣の部屋との境の壁をたたいてみせた。
「まるで紙だ。いいですか、私はもう二時間もあなたのしゃべるのを聞いているんだ。私が変わり者なのかも知れないが、私は静かでないと眠れない性質でしてね。それじゃあ、ごめんなさい」
男の真紅のナイトガウンが廊下の闇に消え、隣の部屋のドアの閉まる音がした。それで初めて私は大きな声で独り言を言い続けていたのだとわかった。時計を見ると二時過ぎだった。何となく後ろめたい気持ちでドアを閉め、私は服を脱ぎ始めた。いざ寝るだんになると、私はへとへとに疲れていた。義足をはずすのも面倒だった。私はそのままベッドに崩れ落ち、明かりを消した。
私は依然として同じ考えにとりつかれていた。いつ寝ついたのかは覚えていない。たぶん、横になったとたんに眠りに落ちたのだろう。私は明かりを消した後、すぐ夢を見ていた。私は夢中になってサンセヴィーノを追い回していた。そこは病棟の中で、シャーラーの顔のようなサボテンがたくさん植わっていた。私はサンセヴィーノを手術室に追いこんだ。遠くの方でぽつんと点のように見えた光が、ものすごい勢いで私の目の前に迫り、私の頭の中で炸裂《さくれつ》した。私はサンセヴィーノを隅に追いこんでいた。サンセヴィーノは鼠《ねずみ》ほどの大きさしかなかった。鼠取りのバネが私の足に食いこみ、私はそれをはずそうともがいた。サンセヴィーノがどんどん大きくなっていった。一瞬のうちに彼は操縦席いっぱいに膨《ふく》れ上がり、私がゆっくり着陸するのを上から見下ろしていた。彼が私のほうに手を伸ばした。大きな手であった。長しなやかな指。その指が私の服のボタンをはずし、服をはぎとる。私の肌を指が這う。
私は目を覚ました。電撃を受けたように体じゅうの筋肉が硬直していた。顔にかすかに風の当たるのを感じた。バルコニーの窓が開いているのだ。上掛けが体からはずれていて寒かった。腹の辺りがとくに寒い。私のパジャマが脱げかけているのだ。左側で人の動く気配がし、呼吸の音が聞こえていた。
誰かが部屋にいる。
私は身動きせず気配をうかがっていた。全身が凍りついたようであった。逃げ出したいと思った。しかし、夢の中でいくら走っても逃げられない時のように、私の体は恐怖でこわばっていた。呼吸の音が近寄ってきた。私の上におおいかぶさるように立っている。私のはだけたパジャマの間から手がそっとしのび込み、縮み上がった肉体を這って私の左足の傷跡の方に進んでいく。義足が残った脚にはめ込まれている部分をさぐっている。そしてまた私の足を這い上がる。暗闇の中で私の体の一切の筋肉、一本一本の神経まで知りつくしているようなその手の動き。
私は突然死の恐怖に突き上げられた。この指の感触を私は知っている。闇の中で私の上にかがんでいる男を私は知っている。この指の感触も息づかいも、私は明るい部屋にいるのと変わりなく、私には男の恰好が手に取るようにわかった。私は悲鳴をあげた。この手によって痛めつけられた記憶から湧き上がる叫びであった。私の悲鳴が部屋中の闇をつんざき、私はさらに死に物狂いの声を立てながらベッドの上であばれた。私の腕は空を掻くばかりだった。
暴れながらも私は柔らかい靴音と、窓の閉まる音を聞いたように思う。人の気配がなくなった。私はベッドの上に起き上がった。心臓が踊り狂ったように鳴り、肺は今にも破裂するかと思われた。恐怖は鎮《しず》まらなかった。
突然バルコニーの窓が開き、なにものかが部屋に飛びこんできた。私は夢中で出て行けと叫んだ。闇のなかを相手は手探りで部屋を横切っていった。恐怖のために私は息もできなかった。そして私が夢中で叫ぶ声も言葉にはならず、ただ意味もない喚《わめ》きでしかなかった。
かちりと音がして明かりがつくと、目の前に真紅のナイトガウンが立っていた。隣の男だった。
「どうしました。いったい何だっていうんです」
私は話そうとしたが言葉が出てこなかった。心臓が早鐘のように鳴り、舌はまったく言うことを聞かなかった。私は肩で息をした。気分が悪く、渇いて、吐き気がした。
「どこか具合でも悪いんですか。医者を呼んであげましょうか」
「いや、大丈夫です」
私はあえぎながら言った。医者という言葉を聞いて、私の目は恐怖のためにいっそう大きくなったに違いない。
「あまり大丈夫ではないようですよ」
男はそう言って傍らに立って私を見下ろした。
「悪い夢でも見たんでしょう」
自分が半裸になっているのに気がつき、私はあわててパジャマのボタンをいじくった。ようやく話ができるところまで落ちついた。
「夢じゃないんです。誰か部屋に入ってきたんです。そいつが私の体を……」
話そうとしてみると何だかまとまりがつかない。
「そいつが何かしようとしたんです。殺そうとしてたんだ」
「まあまあ、上掛けでもかけて、横になってごらんなさい。さあ、落ち着いて」
「でも、聞いてください」
「いいから、そう興奮しないで」
「信じてくれないんですね。でたらめだと思っているんですね」
私は義足を上掛けの下から突き出した。
「これを見てください。サンセヴィーノって言う医者の仕業《しわざ》なんですよ。戦争中です。私に口を割らせようとしてやったんだ。その医者に、私は今日、このミラノで会ったんです。わかりませんか、その医者がここにやって来たんです。私を殺そうとしたんですよ」
私はジーナがグラスをすり替えたことを思い出した。そうだ、それでわかった。
「そいつは私に毒を盛ろうとしたんですよ。本当なんです。あいつは殺しに来たんだ。もし目が覚めなかったら……」
私は口を閉じた。隣室の男が私の煙草入れを出して私に勧めていた。私は反射的に一本抜いた。男が火をつけてくれた。
「嘘だと思っているんでしょう」
「さあ、一服やって、落ち着いてくださいよ」
まったく本当にしていないのだ。男は事務的で動じなかった。何とかしてこの男に信じてもらわなければならない。そこが重大なのだ。
「三度も脚を切られるってどんなものだかわかりますか。しかも全部麻酔なしですよ」
私は男を見つめた。私の言い分を聞いてもらいたかった。
「奴はサディストなんです。私の脚を切って喜んでいたんです。手術の時、私の足を撫でるんですよ。これから切り取る肉をさわって嬉しそうにするんです」
また額から汗が噴き出すのを感じた。何とかして男に話を聞いてもらいたいと、私は汗の中で身悶《みもだ》えた。
「その時の指の感じを私は忘れていないんだ。まるで自分の体に備わった感じになっちゃっているんです。さっきのはまさにその感じなんですよ。私はそいつの夢を見ていたんですが、目が覚めてみると、そいつの指が私の体を触っていたんです。叫んだのはその時なんですよ。本当なんです。あれはサンセヴィーノです。あいつが部屋に入ってきたんです」
隣の男はベッドの傍らに椅子を持ってきて坐り、私の煙草を一本くわえた。
「いいですか、お若いの。この部屋にゃあ誰も入ってきていません。あなたの悲鳴を聞いてすぐ飛んできたんだ。ところが廊下のドアは鍵がかかっていた。部屋には誰もいませんでしたよ。あんた、きっと……」
「本当なんです。サンセヴィーノが入ってきたんだ」
私は叫んでいた。
「サンセヴィーノが入って来て、私の体の上にかがんでいたんです。息が聞こえたんですから。あいつは窓から逃げたんです。間違いなくあいつです。絶対ですよ。あいつなんだ。私にはわかっているんだから」
私は思わず振り上げた手を止めた。私は夢中になって叫びながら、ベッドの上掛けをたたき続けていたのだ。
「それじゃあ、その何とかいうのが入ってきたことにしましょう。でもそれは本当じゃない。あんたの想像なんだ。私はね、硫黄島《いおうとう》でLSTに乗っていたから戦争ノイローゼって奴をよく知ってますよ。ありゃあ、決って再発するんだ。あんた辛い目に遭ってる。脚も失くした。それはよくわかりますがよ、でもあんた、それであまりくよくよしちゃあいけません。あんた、名前は何といいますか」
「ファレルです」
私は枕に横になった。くたびれきっていた。何度言ってもわかってはもらえまい。この男は頭からでたらめだと思っているのだ。この男にかぎったことではない。おそらく私の話を信じてくれる者は一人もいないだろう。私は自分自身までが信じられなくなっていた。現実と夢の境が今やはなはだ曖昧《あいまい》になってしまい、やはりあれは夢のなかだったのかとさえ思えてきた。鼠がいて手術台があった。サンセヴィーノは私がゆっくりとエレベーターで降りていくのを上から見下ろしていた。やはりすべては夢だったのだろうか。
アメリカ人が話し続けていた。私に何か訊《たず》ねている。
「すみません、今、なんて言われました?」
「戦争中、何をされていたんのかと聞いたんです」
「飛行機に乗っていました」
「今でも?」
「いや、この脚では……」
「それじゃあ、ミラノには何の用で?」
「セールスですよ。今は工作機械メーカーに勤めています」
「最後に休暇を取ったのはいつですか」
「休暇ですか。さあてと。ずっと職探しで明け暮れましたからね。最後に今の会社に入ったんですが、一年と二ヵ月になります」
「それ以来休んでないわけですか」
「今のところに入ってからはね。でも、休みたいと言えば休めることになっているんですよ。社長の手紙にもそう書いてあったし。でも休むこともないんですよ。今夜のこととそれは関係ないんでから」
「ちょっと待ってください。もうひとつ聞かせてくださいよ。あんた、神経系統の病気をしたことはないですか」
「いや、そういうことはありませんよ」
「何か神経的におかしくなって入院したこともないですか」
「そういえば、イタリアから戻る前に二ヵ月ばかり病院にいたことはありますよ。終戦になって、私がヴィラ・デステから出された時です。そのヴィラ・デステっていうのが私の脚を切ったドイツ軍の病院ですよ」
男がうなずいた。
「きっとあるだろうと思った。今、あなたはね、ゼンマイを一杯に巻いた時計みたいな状態なんですよ。今ここで休まないと、そのゼンマイが切れて、あんた、ばらばらになっちまう」
私はむっとして男の顔を見た。
「私の頭がおかしいって言うんですか。そうなんでしょう。いいですか、私はまったく正常ですからね。どこもおかしいところなんかない。あなたは私が狂っていて、妄想にとりつかれたと思ってるんでしょう。でも、私が言ったのは全部本当ですよ。あいつはここに入ってきた。夢じゃない。本当なんだ」
「あのね、夢と現実ってのは、すぐ混同するもんですよ。精神的に……」
「私の精神はおかしくありません」
私は叫んだ。
男はくしゃくしゃの白髪に指を突っ込んで溜息をついた。
「あんた、私がさっきドアをノックした時のこと憶えてますか」私はうなずいた。「あの時、あんた、まるまる二時間も大きな声でしゃべり続けてたんだよ。わかってるの?」
「でも、あの時は……」
私は仰向《あおむ》けになった。疲労が大きな波のように私にのしかかってきた。どうすればいいのだろう。どうしたらこの頑固で即物的なアメリカ人に、あの上気していた時の私の気持ちを説明できるだろうか。それはこの男にシャーラーとサンセヴィーノが同一人物であることをわからせるのと同じくらいに困難であろう。結局、この男の言う通りなのかも知れない。物事はどんなことでもその気になれば信じられるという。私はあのシャーラーをサンセヴィーノであると信じようとしていたのではあるまいか。いや、そんな馬鹿げた話はない。シャーラーに会ったのがあまりにも突然すぎたのかも知れない。
「いいかね、ファレル」
アメリカ人はしゃべり続けた。
「私はミラノに遊びに来ている。明日は飛行機でナポリに行くことになっているんだ。どうだい、一緒に来ないか。あんたの会社にちょっと電報でも打ってさ。医者が休めと言ったとか何とか言やあいいだろう。別に本当に医者に見せることはないのさ。どうせ確かめやしないんだから。私と一緒にナポリに行って、一週間も砂浜に寝ころがっていてごらんよ。どうだね」
ナポリ! 青い穏やかな海が絵葉書のように私の瞼《まぶた》に浮かんだ。ソレントとカプリ島の間を船で行く。それから青い海を陸に向かって走る。男の言うとおりかも知れない。少なくとも、シャーラーやリースや、ヤン・トゥチェックの失踪から私は解放されるに違いない。私は一切を忘れて日光浴で日を送る。
突然、私はヒルダ・トゥチェックのことを思い出した。そばかすが、意志の強そうな小さな顔が、私の頭に浮かんできた。その顔が絶望に歪《ゆが》み、逃げ出そうとする私を悲しげに非難した。しかし私にはどうすることもできない。ヒルダのために私にできることなど何もありはしないのだ。私は男に言った。
「考えてみますよ」
「駄目駄目、今決めなきゃ。考えてみよう、なんて言うのが一番いけないんだ。今決めるんだよ。決めてしまえばよく眠られるよ」
「わかりましたよ。連れてってください」
男はうなずいて立ちあがった。
「そうそう、それでいい。明日の朝一番に私が飛行機の予約をしてあげるよ。さあ、もう大丈夫だから心配しないでゆっくり眠りなさい。バルコニーの方は開けておこう。私の部屋の方も開けておくからね。何かあったら私を呼べばいいよ」
「どうもご親切に」
男は時計を見て言った。
「もうすぐ四時だ。一時間もすりゃ明るくなってくるだろうが、明かりはつけておこうか」私はうなずいた。明るい方が安心だ。男はフランス窓から出て行った。一瞬男の真紅のガウンがビロードの闇の中に燃え上がった。男が行ってしまい、私は一人になった。疲れ切っていたが、不思議に落ち着いた気持ちだった。男が自分の部屋に戻る頃、私はもう眠りに落ちていたのだと思う。
私はそれから何も知らずにぐっすり眠った。ハケットが私を起こした。
「気分はどうかな」
「よく眠れましたよ」
「そりゃよかった。飛行機はとっておいたからね。十一時半の便だ。今九時過ぎだから、少し急いだ方がいいな。食事を運ばせようか」
「恐縮です」
夜の出来事が少しずつ頭の中に蘇《よみがえ》ってきた。窓から輝くような陽が射している中で、夜のことはまるで夢のようにぼんやりしていた。
「ゆうべはずいぶんご迷惑をかけたようですね」
「なあに、何でもありゃしないよ。でも私が隣にいてよかったね。私は、こういうことについては多少知っているんだ。まあ、とにかく何もしないで女の子でも眺めながら日光浴でもすりゃあ、それですっかり元気になるって」
ハケットが出ていった後、私はまた仰向けになって、昨夜からの出来事を整理してみようと思った。サンセヴィーノは本当に部屋に入ってきたのか、それともあれは私の夢だったのか。しかし、今となっては、夢であるかないかなど、私にとってはどうでもいいことのように思えてきた。私にとってはナポリに行くことだけが現実であり、私はそれが嬉しかったのだ。もうそれが定まってしまっていることが私にはありがたかった。ハケットはまさしく頼もしかった。私は自分が暗闇で何かに怯《おび》えて逃げ出した子供のよう思えたが、かまわなかった。食事が来るまでベッドに横になっていたが、私は恐かった。昨夜復讐の喜びに燃えていたあの充実感はもはや消え失せていた。あの指の感触が私から一切の力を奪い、私は五年の歳月を飛び越してヴィラ・デステの病院に再び投げ込まれたような気がした。
食事をとりながらも、前夜の出来事は頭をはなれなかった。トーストとコーヒーの朝食をすませ、私は服を着て荷物をまとめた。ホールに降りて部屋をキャンセルし、支払いをしようとして財布を開けると、サンセヴィーノの写真が床に落ちた。拾おうとしてかがんだ私を呼ぶ声があった。
「ファレルさん」
ヒルダ・トゥチェックであった。
「お話ししたいことがあります。お願いです」
私は腰を伸ばした。ホテルをチェックアウトしようとしているところで彼女と顔を合わすはめになり、私は現行犯を押さえられたような気がした。
「何でしょうか」
ヒルダは一人ではなかった。広縁のアメリカンハットをかぶったイタリア人の男が一緒だった。
「カセルリさんです。父の調査をしてくださっているんです。アレック・リースがあなたからも話を聞くといいからと言って」
「どういうことでしょう」
私は無意識のうちに予防線をはろうとしていた。もうかかわり合いになるのはごめんだった。
「どうしてそんなふうにおっしゃるんですか」
彼女が困惑と失望の入り混じった顔で私を見上げた。
「あの時、どんなことでもしましょうって言ってくださったのに……」
彼女は明らかにうろたえて、どうしていいかわからない様子だった。
「シスモンディという人に会って、どうなりましたの?」
彼女の落胆した顔を見るにしのびず、私はうつむいた。そして自分が手にしているサンセヴィーノの写真が目に入った。
カセルリと呼ばれた男が口を開いた。
「シスモンディさんには私も会いましたよ。あなたはとても不思議な行動をとられたそうですね。そこにいたのはヴァレル伯爵夫人と、シャーラーさんというアメリカ人だったということですが、あなたが不思議な行動に出られたという、その理由について話していただけませんでしょうか。どうしたのですか」
私の頭に、ある考えが浮かんだ。カセルリは警察の人間だ。それは間違いない。シャーラーのことを話したら、もし警察がシャーラーを追求し出したら……。私は写真の制服の部分を隠して男の前に突きだした。
「これが誰だか、わかりますか」
男はじっと写真を見た。彼の息はニンニク臭かった。私は付け加えた。「今は髭《ひげ》をそっていますがね」
「わかります。これがそのアメリカ人という人です。シャーラー」
「シャーラーだとお思いになる。ところが違うのです。その男の名前はサンセヴィーノです。あなたがワルター・シャーラーだと思っているその男は、ナツィオナーレに泊まっていますよ。行って会ってごらんなさい。きっと……」
「やあ、こんなところにいたのか」
ハケットが割りこんできた。
「車を頼んだよ。空港まで一緒に乗っていくだろう」
彼はヒルダ・トゥチェックと警察の男に気がついた。
「なんだ、どうしたのかね」
「いや、何でもありません」
あわてて答えてから私はカセルリに言った。
「写真は持って行かれてけっこうですよ。この写真を見ればシャーラーもヴィラ・デステで自分のしたことを思い出すと思いますよ」
カセルリは写真と私を見比べた。ヒルダ・トゥチェックが言った。
「ワルター・シャーラーっていうのはアレックと一緒に逃げた人でしょう?」
「そうですよ」
「ワルター・シャーラーと父の失踪と、何か関係があるとおっしゃるんですか?」
「いや、そうじゃないんです。つまり、その……」
私は肩をすくめた。確かに彼とトゥチェックの失踪は関係のないことかも知れなかった。しかし、私はカセルリにシャーラーを追わせたかったのだ。私はそれだけを考えていた。
「リースは友達のシャーラーと一緒に脱走したのだと思っています。ところがそれは違うのです。リースが一緒に逃げたのはその男なのです」
私は写真を指さした。
「その男はイタリア人の医者ですよ。戦犯に問われるのが嫌で、それを逃れようとしたんです。それで今ではワルター・シャーラーになりすましているんですが、本当はシャーラーではない。彼は医師サンセヴィーノです。その男に会ってください。会って脱走の一部始終を聞いてごらんなさい。そうすれば……」
「その必要はありませんね」
カセルリが私をさえぎった。彼の小さな目が私を見据えていた。
「私はシャーラーさんを知っていますから」
私はヒルダ・トゥチェックの方を見た。彼女は呆然として私を見上げていた。私は突然皆で私を疑っているのだという気がした。彼らに本当のことを言っても無駄だった。彼らは本気にしない。誰も信じてくれないのだ。
「まあ、落ちつけよ」
ハケットが私の腕をつかんだ。彼はカセルリに向き直った。
「ちょっと話があるんですが」
ハケットがカセルリたちを連れてホールの向こう側に行き、彼らに何か話すと、二人は向こうから私をうかがっていた。ハケットが私のそばに戻り、二人はそのままホテルから出て行った。ヒルダ・トゥチェックは出口で一瞬立ち止まり、不安げな顔で私を振り返った。その場を去りたくないとでも言いたげであった。しかし彼女は出て行った。ハケットは私のところに戻っていた。私はむっとして言った。
「あの人たちに、何をしゃべったんですか」
ハケットは肩をすくめた。
「なあにね、ゆうべあんたが少しばかり興奮した話さ。ほんのちょっとね。もう大丈夫だよ。彼らはあなたをつけまわすようなことはしない」
彼はにやっと笑った。
「私はあなたの医者で転地を勧めてるんだと言ってやった。もう支払いは済ませたな」
私はまったく自分の意志を剥奪《はくだつ》され、ハケットの親切に身をまかせている無力感を味わった。振りかえると、会計の男が請求書を差し出していた。
「ご無事を祈りますよ」
男はそう言うと、さも気のきいたことを言ったという顔で私を見た。
「どういう意味だい?」
男は肩をすくめた。
「あの人、誰だか知っているんですか? あれはカセルリ警部ですよ。切れる人です。カセルリ警部といえばね。本当に」
私は四千リラの紙幣を出した。
「おつりはとっておいてくれよ」
荷物を取りあげてアメリカ人に言った。
「さあ、いいですよ、ハケットさん。それから、途中で郵便局に寄ってもらえませんか。電報を打ちますから」
私はもう、一刻も早くミラノを離れたかった。
「いいですとも、時間はたっぷりある」
空港には十一時十分に着いた。待合室で真っ先にリースの姿が目に入った。リースは頭の禿《は》げた、小柄で丈夫そうなイタリア人と何か話しているところだった。私たちが入っていくのを彼は気づかなかった。荷物を預け、搭乗手続きをすませて案内を待った。十一時少し過ぎにプラハからの到着便のアナウンスがあった。リースが立っていくのが見えた。マックスウェルがプラハから飛んできたのだろうか。それ以外にリースがプラハからの飛行機を迎える理由があったろうか。数分後、私たちの飛行機の搭乗案内があり、私はタラップに向かって待合室を出た。
たった数日のうちに私は飛行機の座席に坐ってホッとする感じを二度も味わった。ドアが閉まり、飛行機は滑走路に向かって動きだした。離陸はじつにスムーズで、飛行機が上昇すると、ミラノは足下のたなびく煙の下に消えていった。大きな重荷が頭からはずされたような開放感であった。私はミラノを離れたのだ。私たちはナポリに向かう。ハケットの言う通り、ナポリでは私は何もせず、ただ太陽の光の中に寝そべっていればいいのだ。トゥチェック製鋼所の彼のオフィスでヤン・トゥチェックと出会って以来、本当に始めてと言っていい自由と安心を私は味わっていた。
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四
ポリミアノ空港に近づき、飛行機はナポリの上空を大きく旋回した。海は紺碧《こんぺき》、カリブはエメラルド色だった。白い家並みがヴォミロの斜面を這い上がり、その上に茶色い大きなサン・エルモの城が町に君臨するように建っていた。遠くに灰色のベスビオが盛り上がり、陽光を受けて斜面を白く光らせていた。噴火口の上に一条の煙が羽根飾りのように立ち昇り、雲のようにたなびいていた。
「ベスビオは今日はおとなしいらしいね」
ハケットが言った。ミラノを飛び発って以来、彼はしゃべりづめであった。ナポリに着くまでに私は彼の妻や家族のこと、彼がピッツバーグでやっている選炭の仕事などについて知りつくすようになっていた。彼が山のことを話し出したので、私は救われた気がした。
「これが、過去四百年の間に六十回も大噴火を起こした山だと思えるかね」
彼は度の強い縁なしの眼鏡《めがね》の底で青灰色の目を輝かせた。そしてくっくっと喉を鳴らして笑い、私の脇腹をつついた。
「ナポリを見て死ね、だ。ねえ。これを言った男は噴火しているベスビオを見ていたに違いないと思うね」
彼は溜息をついた。
「ところでどうだ。どうやら今はまったく静からしいね。人がはるばるピッツバーグから見物に来たって言うのに。私は地質学が趣味なんだ」
私は大きな火口にもう一ヵ所蒸気の噴出しているところがあるのを見つけた。
「私が最後に見た時にくらべたらずっと活動的ですよ。一九四五年でしたがね。だから、まるで見に来た甲斐がないわけじゃあないんじゃないですか」
ハケットはカメラを出して窓からしきりにベスビオを撮った。一通り撮り終わると、彼は言った。
「戦争中、ここにいたんだったね」
私はうなずいた。
「一九四四年の噴火は知ってるの?」
「いや、ちょうどその時はいなくて」
ハケットは気の毒にといわんばかりに舌打ちをした。
「それは、じつに惜しいことをしたもんだね、あんた。私の伜《せがれ》はね、今は国で運送屋をやっているが、戦争中はやっぱりここにいたんだよ。連合軍でトラックを動かしていたんだ。サン・セバスチアノから撤退する時に、伜はベスビオから熔岩が流れ出して麓《ふもと》の村を飲みこむのを見たんだ。目の前でゆっくりとサン・セバスチアノが熔岩に包まれていった話を私はよく伜から聞いたよ。固まった熔岩の上に今でも教会のドームなんかがあると伜が言うもんでね、私はどうしても自分で見たくてやって来たんだが、そうか、あんたそれを見逃したの?」
ハケットはそう言って首を振った。私がおもしろい映画を見逃して同情しているような顔つきだった。
「戦争中のことですからね。その日どこに自分がいるかなんてことはまるで考えられない時でしたよ」
私は軽く受け流していた。
「そうなんだろうね」
「でもね、私は爆発のほんの一週間かそこいら前に、ベスビオに登りましたよ」
「ほう、登った?」
ハケットは夢中になってシートの中で私のほうに向き直った。目が輝いていた。
「そいつは私の伜もやらなかったことだね。私はいつも伜に噴火前の山はどんなふうだったか聞くんだが、伜は噴火が起こるまでベスビオなんぞ見向きもしなかったらしいんだな。なんていうか、ただそこにある山としか思っていなかったんだろうね。それで、あんた、噴火前はどんなだった? 今とほとんど変わりないんじゃないかな。本当に頂上までいったかね」
「行きましたよ」
私はトオレ・アヌンツィアタから観光道路を登り、古い熔岩流に道をさえぎられるところから頂上まで歩いて登ったあの時のことを思い出した。私にはまだ二本の足があった。私はつぶやくように言った。
「今とはずいぶん違いますよ」
「違う? へええ。しかしまた、噴火前のベスビオを知ってる人に会えるというのは、私は実に幸運と言うべきだね。どんなふうだったのかな?」
ハケットは興奮し、私はいささかうんざりしていた。
「何といいますか、麓の斜面の辺がもっとずっとなだらかだったと思います。でも上の方は急でしたね。熔岩の城壁のように。それで頂上は一マイルぐらいの差し渡しの台地になっていて、そのいたるところの割れ目から熱い蒸気が噴き出していました。頂上の台地というのが、全体が熔岩で固まっているんですが、中が空洞になっているらしくて、上を歩くと鉄の函《はこ》の上を歩くような音がしましたよ。台地のまんなかに大きな火山岩のかたまりができていて、それだけでも高さは三百フィートくらいありましたね。ナポリからそれが小さな≪できもの≫みたいに見えましたよ。でも近くで見たら、それは製鉄所のスラグの山みたいですね」
「それが噴火口だったわけかな」
「そうです。そのスラグの山を登って行くと、一番上から火口をのぞけるようになっていましたよ」
「中は見えたかのかね」
「見えましたとも。三十秒おきぐらいに小さな噴火が起こってましたよ。火山弾がうなりを立てて飛んでいくんです。二千フィートも飛ぶそうですよ」
「そりゃあまた、ずいぶん危ないね」
私は笑った。
「本当に、私も鉄兜《てつかぶと》がほしいと思いましたよ。でも、ちょうど火口全体が向こう側に傾いていて、大地の反対側で火山弾が落ちる音が聞こえましたよ。火口の中は真っ赤で熔けた岩が盛り上がったりして、まるで龍《りゅう》の喉の中をのぞいているような感じでした」
ハケットが眼を輝かせてしきりにうなずいていた。
「ふーん、あんた、大変なものを見ているんだね。伜に話してやろう。しかし、そりゃあ素晴らしい体験だね。で、山の形はずいぶん変わっているのかな」
「灰ですよ」
「うん、火山灰か。伜も火山灰のことを言っていた。アドリア海の方まで灰が飛んだらしいね。二百キロも離れたパリの街で六インチも灰が積もったと、伜が話していたよ」
乗組員の一人がやって来て、安全ベルトを締めるように指示した。何分か後に飛行機はポリミアノ空港に着陸した。空港は暑くてほこりっぽかった。雲のない空から太陽が容赦なく照りつけていた。ミラノから来ると、まるで熱帯にやってきたような気がする。薄着をしてくればよかったと思った。
連絡バスは細くてごみごみした並木通りをナポリに向かって走った。沿道の家は道路に面した窓を開け放ち、半裸に裸足《はだし》の子供たちが半開きになったドアのまわりで遊んでいた。ナポリは少しも変わっていない。相変わらずの貧乏ときたならしさだった。子供らを納めた白塗りの棺《ひつぎ》の行列が今もヴィア・ディ・カポディモンテの墓場に続いているのだろう。家なしの風来坊がヴィア・ローマの石の水道の下で栄養失調で死んでいるだろう。バスはピアッツァ・ガリバルディを抜けてウンベルト通りを走った。賑やかに笑いさざめいている群衆の間を走っていると突然時間の流れが止まり、私は依然として一九四四年に生きているような気持ちに襲われた。空軍大尉だった私は単身十九機のドイツ戦闘機と渡り合い、六十回も爆撃機で出撃した。その間に私は胸にちょっとかすり傷を負っただけだった。その後マックスウェルが私をフォッジアに移し、エトルリアの丘陵地帯に遊撃隊を運ぶやくざな任務につかせたのだ。
ターミナルでハケットと別れた。ハケットは親切にしてくれたし、力にもなってくれた。しかし、私は一人きりになりたかった。正直に言って、もうハケットと一緒にいるのはうんざりだった。暑い舗道に立って彼は私に聞いた。
「どこに泊まるかね」
「そうですね。どこか海岸に面した小さなホテルでも探しますよ」
「それじゃあ、まあ、私はホテル・グランドにいるからね。飲み友達がほしくなったら、いつでも電話をくれればいいよ」
「そうしましょう。それから、そのうち一度、食事でもご一緒に」
タクシーがすり寄ってきて止まり、私は荷物を中に放り込んだ。
「ゆうべは本当に、いろいろありがとうございました」
運転手に、サンタ・ルチアの港に行くように言った。
「電話しますよ」
タクシーは走り出した。振り返るとハケットがグレイの中折帽を振っていた。縁なしの眼鏡に日光が当たり、彼は真昼の太陽にびっくりした梟《ふくろう》のように見えた。見るからにアメリカ人だった。照りつける陽射しの中でグレイの服をきちんと着て、肩にカメラを下げていた。カメラはまるで彼がアメリカを発つ時そこに植え付けられ、永久に体の一部になってでもいるようだった。
タクシーはピアッツァ・デル・プレベシートを横切り、戦争中豪華なナーフィ・クラブのあったパラッツォ・レアーレを通り過ぎ、滑るように海岸に出た。鏡のように平らな海が陽光を受けて青く輝いていた。ヨットの帆が白いピラミッドのように滑り、水平線にぼんやりと靄《もや》にかすんだカリブ海が盛り上がっていた。私はサンタ・ルチアの港でタクシーを降りた。この港は大きなウオヴォの城砦の陰に小ぢんまりと寄りそっている。日溜まりに腰を下ろし、漁師たちが出船の準備に忙しく立ち働いているのを眺めていると、ミラノは遠く、昨夜の出来事も夢のようにぼんやりと感じられる。目の前にナポリ湾が広がり、向こうにベスビオが荒廃したピラミッドのように高くそびえていた。私はゆったりとした安らぎを覚えた。霊魂が再び現世に戻り、失った過去の若さを味わっている気持ちであった。ナポリは私の知っているあのナポリだった。見る物、聞く音、漂う臭い。富と貧乏、日光と塵《ちり》、汚くて抜け目のない子供たち。それらが混じり合って陽気なナポリの雰囲気をつくりだしているのだ。今でもウンベルトの市場では売春が行われ、ヴィア・ローマでは車の中の物は何でも盗まれていくのだろう。しかし私はそんなことは少しもかまわないと思った。富も貧困も、毎日栄養失調で死んでゆく多くの人間も、恐ろしい不治の病にたおれ、その柩《ひつぎ》を引く年老いた馬のカポディモンテへの行列も私にとってはすべてが一つのロマンであった。私はそこに坐ってナポリの空気を味わい、ナポリが甘い媚薬《びやく》のように私の体に染《し》みこんでくるのを、なすがままにしていた。
ホテルは予約していなかったが、何も心配することはなかった。今や私は一切がうまくいくものと思っていたのだ。
その日に関してのみ言えば、そう言う私の気持ちは裏切られなかった。サンタ・ルチアの港を見下ろす新しい明るい感じのホテルがあった。タクシーを降りた時、そのホテルが待っていてでもいたように私を迎えた。三階の海に面した部屋に通された。小さなバルコニーで地中海の青い輝きを目の下に眺めながら日に当たっているうちに、私はいつの間にかうとうとと眠りに落ちていた。
夕方、私はタクシーでポジリボの先の、以前に行ったことのある小さなレストランに行った。夜は暖かく、月が出ていた。私はスパゲティに魚の料理、それにラクリマ・クリスティを頼んだ。屋外のテーブルで食事をしていると、かならずバイオリン弾きが寄ってきて、お定まりの≪オーソレミオ≫や≪帰れソレントへ≫を演《や》った。夜の静けさと美しさが私に孤独を感じさせた。そして、明日はジーナ・ヴァレルがナポリにやってくることを思い出した。私の血の中で何かが疼《うず》いた。少なくとも、グラスをすり替えてくれたことを彼女に感謝するべきであった。彼女は私の命の恩人であったかも知れないのだ。これで電話の口実は見つかった。
ホテルに戻って電話帳を借りて調べた。ヴァルレ。ジーナ、伯爵夫人。ヴィラ・カルロッタ。間違いなく電話帳には彼女の名前があった。私は番号をひかえた。
翌朝、私は開け放ったバルコニーの扉から流れこむ明るい日光と、暖かく香りを含んだ空気で目が覚めた。ベッドに起き上がって青いナポリ湾を見ると、漁師の小舟やヨットがサナザロ・バルバイアの港から沖に向かっていた。私はガウンのままバルコニーで朝食をとり、コニャックとソーダを前にゆっくりと煙草を喫んで過ごした。太陽に照らされた明るい黄金の世界で、一日をどう楽しもうかと考えていたのだ。この一時は素晴らしく、それが永遠に続くわけではないのだということが信じがたいほどだった。昼食はまたあのレストランにしよう。午後は水辺の岩の上に寝て過ごす。夕方、ヴィラ・カルロッタに電話する。
十二時ちょっと過ぎにレストランに着き、タクシーの料金を払おうとしているところへ、大きなクリーム色のフィアットが駐車場に滑りこんできた。車には運転手しか乗っていなかった。運転手は車を降り、帽子をとってシートに放りこむと、オリーブ色の上着を脱いだ。下には何も着ていなかった。続いてズボンを脱ぎ捨てると、下はえび茶の海水パンツだった。運転手から海水浴客への変身を、私はうっとりとして眺めていた。私の視線を意識して男は脱いだ衣類を車の中に入れながら、きつい目つきで私を見た。均整のとれた、肩幅の広い二十歳くらいの青年であった。引き締まった顔にふさふさとした黒い髪が垂れ、青年がそれを、癖になっているらしい動作で振り上げると広い額が現われた。きつい目つきで私を見たその目は、非常に黒かった。厳しい目つきが子供のような無邪気な笑いに変わった。
私は青年が誰だか、すぐにわかった。私の目の前にはアメリカの水兵帽をかぶった垢《あか》じみた少年がいた。一九四四年の春、私たちがここにやって来ると、この少年はかならず駐車場にいたものだ。
「君を知っているよ」
私は英語で声をかけた。青年は顔中に笑いをひろげて寄ってきた。
「番をしようか」
これが彼のキャッチフレーズだった。少年の彼はトラックのステップに飛び乗ったり、並んで走りながら、「番をしようか、番をしようか」と叫んだ。私は少年時代の彼がこの「番をしようか」以外に英語で話したのを聞いたことがなかった。彼は仲間の少年たちと駐車場の番をしていたのだ。彼らに小遣いを渡しておけば車の中に何をおいておこうと大丈夫だった。一九四五年に私がここに寄った時にも「番をしようか」という声がした。が、その時トラックの脇を走っていた少年はずっと小さかった。この青年の弟なのだ。「番をしようか」をやりだしたロベルトはそれで小遣いをかせいで、とうとう船を手に入れた。私たちは彼が漁師たちの前で得意そうにしているのを見たことがある。
「船はどうしたね?」
私はイタリア語で訊ねた。彼は肩をすくめた。
「アメリカの兵隊、イギリスの兵隊、皆行っちゃったね。だからもう商売できない。だから、船は売ってトラック買った。それがこわれちゃって、だから運転手になったよ」
「一杯やらないか」
「グラチェ、シニョーレ。グラチェ」
レスレトランに行ってヴィーノを一瓶買い、バルコニーのテーブルに着いた。海が陽光を受けて眩《まぶ》しく光っていた。釣のことや観光客の話をした。話題が政治のことになり、私は共産党はどうかと訊ねてみた。彼は唇の端を歪《ゆが》めた。
「ナポリを共産党から守れるのは教会だけだよ。でも教会は軍隊と戦えない」
「どういう意味だい?」
彼は肩をすくめた。
「俺、何も知らないよ。でも皆そう言っているよ。軍隊がやってきて南の方に行った。共産軍がカラブリアにいるんだって」
「カラブリアにはいつだって軍隊がいるよ」
私が前にナポリから帰った時には、野戦砲や戦車まで装備した二万のゲリラがいると噂が流れていた。
「そうだよ、シニョーレ。でも、今はもっとちゃんとしているよ。組織になっているんだ。ヴァルレ伯爵が南軍の司令官と、そのことを話していたよ。司令官ていうのは政府の役人なんだ。その人の話だと、武器がどんどん流れこんでくるんだって。でも全部秘密なんだって」
「ヴァルレ伯爵だって?」
「そうだよ、シニョーレ。伯爵は国防省にいるんだ」
こんなところでヴァルレ伯爵の名を聞くとは驚きであった。私は知らず知らずの間に、あの女は未亡人だと思いこんでいたのだ。
「つまり、ジーナ・ヴァレルのご主人かね」
青年の目がぐっと細まった。
「伯爵夫人、知ってるの、シニョーレ?」
「ミラノで会ったんだよ。ヴァルレ伯爵ってのは、あの人の亭主なの?」
「そうだよ、シニョーレ」
彼は顔をしかめ、グラスを握る褐色の手に力が入っていた。
「どこで奥さんに会ったの?」
「シスモンディっていう実業家の邸《やしき》だよ」
青年のきつい目つきは変わらなかった。
「誰か一緒にいた?」
彼の声は重く、怒気《どき》を含んでいた。一介の運転手が、こうして上流社会の誰彼に興味を示すのが、私には不思議に思えた。私がそれを口に出すと、彼は肩をすくめて言った。
「わけは簡単さ、シニョーレ。俺、奥さんの運転手だよ。俺、泳ぐのが好きだから、奥さんがいない時は海に遊びに来るんだ。でもね、奥さんが急に帰ってくると困るから、ひやひやさ。怒るとこわいからね。今日帰ってくるって電話があった。どこに行ったか知ってる?」
「あの日はフィレンツェに行くと言っていたな」
私の答えはほとんど自動的だった。こんなところで彼女のお抱え運転手に会うとは何という偶然だろう。しかもその運転手を私は戦争中知っていたのだ。魔法の糸に結びつけられているようであった。彼は飲み終わって立ち上がった。
「ごちそうさま、シニョーレ。泳いでくるよ」
「奥様に伝えといてくれないかな。僕。ファレルっていうだけどね、六時半にヴィラ・カルロッタにお訪ねしたいって」
青年の目が再びきびしく細まった。
「伝えるよ。それじゃ、ごちそうさま」
海水パンツだけの裸の姿で彼はぎくしゃくと会釈をした。
「さよなら」
彼は階段を降りていった。見えない糸がじりじりとジーナ・ヴァルレと私を引き寄せているような気がした。やがて私の目の下を、褐色の体がきらめく水面に波も立てずに進んでいくのが見えた。力強い腕で水を掻きながら、彼はまっすぐ沖をめざしていた。足の裏がスクリューのように水を蹴《け》るのが見えた。私はきっぱりと立ち上がり、レストランに入っていった。
その夜、きっかり六時半に私はヴィラ・カルロッタの入口でタクシーを降りた。大きな白塗りの邸で、ヴィア・ポジリポから曲がりくねった椰子《やし》の並木通りが入口まで続いていた。ところどころにかたまっている杉の木の間から、ドン・アンナの城砦の石のアーチが青い海を背景に黄金色にそそり立っているのがのぞかれた。召使いの男が私を二階の部屋に通した。部屋に入ったとたんに、開け放たれたバルコニーのドアから真っ青なナポリ湾が私の目に映った。バルコニーを額縁に、ナポリの青い海と一方の端にベスビオ、反対の端に遠くカプリの島が招くように霞《かす》んでいるさまは、まさに一枚の絵であった。ジーナ・ヴァルレがバルコニーから現われた。
「こんなにすぐ来てくださって、うれしいわ」
耳に覚えのある静かなハスキーな声だった。ジーナは黒いナイトガウンを着ていた。むきだしの肩には白テンの肩掛けがしどけなく揺れ、ガウンの端から乳房があふれ出ていた。彼女の手に接吻した時、私は思わずぞくっとした。
ジーナが召使いから飲物を受け取って私に渡した。
「ナポリには仕事? それとも、お愉《たの》しみ?」
グラスを口に運びながら彼女が聞いた。
「休暇ですよ」
「じゃあ、私の言うことをお聞きになったのね」
「どういう意味ですか」
「エクチェルシオーレでお会いした時、私、休暇をおとりなさいって言ったでしょう、お忘れになって?」
「憶えています」
あの時ジーナが言ったのはそれだけではなかった。
「ミラノは私によくないとおっしゃった。どうしてですか」
彼女は肩をすくめ、曖昧《あいまい》に言った。
「ミラノではお仕事でしょう。いつも仕事仕事。少し働き過ぎじゃありません?」
これは答えになっていない。彼女は、ミラノはあなたにとってあまりいいところではないようね、と言った。あれは私に何か忠告しようとしていたのではなかったか。
「あなたのおっしゃる通りでしたね」
彼女の眉がぴくりと動いた。
「どんなふうに?」
「あの時、ホテル・ナツィオナーレでグラスをすり替えましたね。あれは飲まなかったでしょう。違いますか?」
彼女は首を振った。
「飲まなかったわ」
「どうしてですか?」
ジーナはまた肩をすくめた。
「さあね、お花も喉《のど》が渇いていると思ったんじゃないかしら」
「薬が入っていたんでしょう」
「薬?」
ジーナは笑った。
「おかしいわ、メロドラマじゃあるまいし。イギリスの方って本当に……」
「メロドラマどころじゃないんです。あの後、三時半頃、僕の部屋に入ってきた奴がいるんですよ。あの時、僕があれを飲んでいたら今頃、ここにこうしていられなかったんですからね。あなたは僕を助けてくれたんだ」
「まあ、変なこと言わないでちょうだい。あれは冗談だったんだから」
彼女はそう言って目を伏せた。
「正直に言うわ。あなたがとってもすてきだから興味を惹《ひ》こうと思って、ちょっとお芝居をしたのよ。ただそれだけよ」
「誰か僕を殺そうとしたんだ」
私は納得しなかった。
「誰がそんなこと考えるものですか」
ジーナは私から目をそらせてグラスを盆に戻した。
「やっぱり、私の言う通りだったわね。だから私は休暇をお取りなさいって言ったのよ。私をからかっているのか、それとも本当にそんな馬鹿なことを考えているのか知らないけれど、でもとにかく、そんなことを思いつくなんて、働き過ぎのせいよ」
そう言うと彼女は肩掛けを直した。
「さ、行きましょう。お食事に招んでくださる約束でしょう。でも、誰かがあなたを狙っているなんて、つまらない冗談はもうなしよ」
私たちはヴォメロの頂上のレストランに行き、海を見下ろす大きなガラス窓のそばで食事をした。何を話したか、もう忘れてしまった。たった一つ憶えているのは、私がもうミラノの出来事には触れなかったことだけだ。彼女といっしょにいるだけで私はうきうきしてきて、ミラノの出来事などじきに忘れてしまった。月の光と暖かい空気が私の頭の中の影をことごとく照らし出し、暖めた。私はミラノもピルゼンも忘れ、過去からも解き放たれていた。ジーナと二人きりでこうして山の上にいると、昨日も明日もなく、ただ現在だけが私をとり囲んだ。私たちは少しばかりダンスをし、長いこと話した。夜は一瞬のうちに終わったかとさえ思われた。
「私、もう行かなくては。夜中に主人がローマから電話をかけてくるの」
主人というジーナの言葉が私を現実に引き戻した。
「きまって夜中にかけてくるのよ」
亭主が自分を信用していないのが面白いといったふうにジーナは笑った。私は彼女の肩掛けを手伝った。
「ロベルトを呼ぶように言ってくださらない?」
山を昇っている時、ロベルトは無表情にこわばった顔をしていた。車のドアを開けて私たちを迎えたロベルトは、私の知っているあの少年がそのまま育ったよりは、もっと農夫の男を感じさせるようになっていた。彼は私を見ようともしなかったが、ドアを閉める時、ジーナをじっと見つめていた。
車が走り出すとジーナは私の腕に手を回してささやいた。
「すてきな晩だったわ」
彼女の目はうっとりと潤《うる》み、唇はかすかに割れていた。黒い服に肌の白さが目立った。私は触れてみたかった。その唇に私の唇をあわせたかった。ふと気がつくと、バックミラーの中でロベルトの目が私をにらんでいた。私はすっかり白けてしまい、ジーナは何かイタリア語で罵《ののし》るように叫んだ。そして腕をほどいた。
ホテルの前で車を降りると、ジーナが言った。
「明日、私と一緒に温泉に行かない?」
わざと意味ありげな言い方をしたのだというふうに笑っていた。
私が何と答えていいのかわからずに口ごもっていると、ジーナはさらに付け加えた。
「私はここに来ると、いつもイスキア島の温泉に行くの。ミラノの汚れた空気の後では、とても肌にいいのよ。一緒に行きたければ十一時にランチが出るわ。向こうについてお食事すればいいでしょう」
彼女はにっこり笑った。
「無理に温泉に入る必要はないのよ」
「やあ、どうもありがとう。ぜひ行きたいよ」
私は不器用な答え方をした。
「それで決まったわね。ヴィラ・カルロッタを十一時発。それじゃあね、お休み、ディック」
ロベルトが運転席で私をにらみつけていた。
「おやすみ」私は言った。
翌日は前の日と同じように青く暖かだった。私はバルコニーで食事をとり、ゆっくりと服を着るとタクシーを呼んでヴィラ・カルロッタに向かった。ジーナは庭に出て待っていた。
白絹のブラウスに白のスラックス、それに白いサンダルで、オリーブ色の肌が白ずくめの中に浮き上がっていた。黒い髪の輝きも白い服とあでやかなコントラストを見せていた。彼女の坐っている東屋《あずまや》を咲き乱れた青い藤の花が覆《おお》っていた。ジーナは私を案内して石畳の小径を進んだ。路のまわりは花に満たされていた。木の桟橋《さんばし》にスマートなモーター・ランチが舫《もや》ってあり、ロベルトが私たちを待っていた。つやのある褐色のチークの船体。白塗りの甲板には艤装《ぎそう》金具がピカピカに輝いていた。
「ボンジョルノ、ロベルト」
ジーナの声は柔らかく優しく、何か意味ありげであった。ロベルトの目つきはまるで彼女を憎んでいるようだった。彼はさっと向き直り、エンジンをかけた。
力のあるエンジンが船を輝く湾に推し出し、私はクッションに沈み込んですっかり満足しきっていた。私は恐がることなどまったく知らない子供のように、屈託《くったく》のないのどかさにひたった。船の舳先《へさき》が水を分ける音や、私の手に伝わるジーナの肌の感触が一つに溶けあって、何か美しいものを感じさせた。私はその美しさを捉え、自分ものにしておきたいと思った。嵐の前の静けさだったのだ。私が知恵を働かしていれば、わかったはずである。目をよく開けていれば、すべてはそこにあったのだ。ロベルトの敵意に満ちたあの目。ベスビオに吹き上がる蒸気の羽根飾り。そしてカサミチオラの温泉での出来事。すべてはそこにあったのだ。
海は鏡のように平らで、私たちのランチは二十ノットで西の方に向かっていた。ソレントの岬とカプリの間をナポリ湾に向かってライナーが入っていった。周囲に群れ遊んでいるヨットの帆にくらべると、ライナーはよけいに大きく見えた。刑務所になっている古城のあるブロチダを過ぎ、火口にできたイスキアの港を通った。私たちはカサミチオラで船を下りた。別荘やホテルが陽に輝き、空気は花の香りに満ちていた。ジーナは私を小さなホテルに連れて行った。ホテルではジーナは顔|馴染《なじ》みらしかった。温泉の支度を待つ間、私たちは一杯やった。私はジーナに温泉の様子を話してくれと言った。彼女は肩をすくめた。
「あら、ただの温泉よ。放射能泉があるんですって。私、そう言うことよく知らないのよ。でも、とにかく入った後、とってもいい気持ちになるってことは確かよ」
ジーナは私の脚に目を留めた。
「それ、金属製なの?」
「そう。アルミニウム合金の一種だ」
彼女はうなずいた。
「じゃあ、それは浴室には入れないわね。湯気が金属に悪いんですって」
「湯気なんて平気だよ」
私はむっとして言った。頭に血が昇っていくのが分かった。私は脚が自分の体の一部でないことを意識させられるのが大嫌いなのだ。
「あなた、人の言うことを絶対聞かないの?」
ジーナは笑顔を作っていた。
「聞かない場合もあるだけさ」
「そう。それじゃあ義足については私の言う通りにした方がいいわよ。湯気が金属に悪いんですって。浴室に入ったら、付き添いに渡しなさいよ」
私は笑った。
「そんなことできるもんか。湯気が悪いっていうならね、そこが義足の便利なところさ。また新しい物を買ってくりゃいいんだ。本当に駄目になったらね」
ジーナの目にはげしい怒りが燃え上がった。
「あなた、今までに放射能泉に入ったことがあるの? ありもしないくせに」
「ないよ」
「それじゃあ、湯気で金属がどのくらい駄目になるかだって知らないじゃないの。金属は全部、時計もカフスボタンも身に着けている金属は一切、付き添いに渡さなきゃいけないのよ。ナポリでは新しい脚なんか買えないんですからね」
「今晩ホテルで特別に磨《みが》かせるさ」
私は彼女に負けじと声を張りあげた。
「僕がこの脚をどんなに大事にして、どんなによく手入れをしているか知らないだろう」
ジーナは笑わなかった。子供を折檻《せっかん》しようとする母親のような目つきで私をにらんでいた。が、すぐに落ちつきを取り戻し、唇を突き出して言った。
「あなたって頑固なのね」
ジーナは微笑んでいた。
「私が説得しようとしたりしたのが悪かったって言うの? 女は放射能のことなんか何も知りゃあしないわよ。そう、ただ感覚で物を言えばいいのね」
ジーナの声が優しくなった。
「じゃあいいわ。あなたが温泉に入っている間、私に脚の番をさせてくださらない?」
ジーナに私の脚をみせるなど、考えただけでもぞっとする。私はねじで組み立てられた機械で、バラバラにされた部品が一つずつドアから手渡されていく……。
「嫌だ」
私はきっぱり断った。
ジーナはいらだちを吐息に現わして立ち上がった。
「あなた石頭よ。私が何かお願いすると、あなたは決まってノー。私の言う通りにするまで、もう口をきかないわ。」
彼女は行ってしまった。氷のように冷たく、もう私の手も届かない。私にはジーナがそんなに腹を立てる理由がわからなかった。ジーナの言う通りにしさえすればいいのかも知れない。しかし、これだけはできないことだった。私の脚が錆《さ》びようとどうしようと、それは私だけの問題で、他人に口を出してもらいたくなかったのだ。
しばらくして世話人が私の浴室のしたくができたと言いに来た。
「伯爵の奥さんは? もう入ってるの?」
「はい、そうでございます」
立ち上がって部屋を横切ろうとする私を、世話人は見上げるようにした。
「お客さん、奥さんは隣の浴室です。だからお話になれますよ。私がそうするように手配しておきましたから」
ここではみな、仕切りをへだてて入浴するのを喜ぶらしかった。私は男に何リラか握らせた。
男は私を案内してホテルの裏手の階段を降りて行った。降りるにつれて空気が厚く湿っぽくなってきた。電灯のついた地下の穴倉に降りきる頃には湯気が顔に当たり、喉や肺の奥まで湿っているのがわかった。部屋の片側にドアがずらりと並んでいた。そのドアの一つを男が開けた。湿気にみたされた中に入ろうとすると男が言った。
「急いで服をお渡しください。濡れてしまいますから。それから身に着けておいでの金属は全部。結婚指輪もです。湯気が金属にとても悪いものですから」
私は言われる通り何もかも男に渡したが、金属の脚だけは何としても渡したくなかった。私ははずした義足をタオルにくるんで中に入った。何の変哲もない、ごく普通の温泉であった。隣の浴室でジーナの立てる水音が聞こえた。ドアの音がして水音が止まり、ひそひそと何か話す声が聞こえた。私を案内してきた男の声で、「|駄目です、奥さま《ノン・ノン・コンテツサ》」と言うのが伝わってきた。ドアが閉まり、再び水音がした。私は仕切りごしに声をかけたが、答えはなかった。
私は湯の中にひたり、ジーナがなぜ私の脚にあれほどこだわったか、いろいろ考えてみた。やはりジーナの言うのが正しくて、私は言うことを聞いた方がよかったのかとさえ思えてきた。ジーナはこの温泉の常連だ。温泉の湯気で金属がどんなになるのか知っているに違いない。私は一生懸命、放射能は湯気の中を通ることができただろうかと考えてみたりした。湯気とは、結局ただの水ではないか。しかし、そんなことはどうでもいいことだった。
三十分ほどして上がり、服を着て浴室を出た。全身の力が抜けてしまい、階段を登るのが一苦労だった。もとのバルコニーに入って私は足を止めた。目の前に大きなグラスを置いてハケットが坐っていたのだ。私がラウンジを抜けていくひまもなく、彼は私を認めた。
「これはこれは、ファレルさん。驚いたね。何だ、温泉でフラフラといったところらしいじゃないか。一杯飲む元気はあるだろうね。何にする?」
「コニャックにソーダ」
私は腰を下ろした。彼は私の飲物を注文した。
「私も一風呂浴びてきたよ。上がった後は力が抜けて、まるで猫の仔《こ》みたいだ。ところで休暇はどう、調子よくいっているかな?」
「おかげさまでね。いい調子ですよ」
「そりゃあよかった。うん、顔色もいいしね」
「カサミチオラには何しにいらしたんですか」
「いやあ、イスキアの火口にできた港を見物にね。午後はこれから驢馬《ろば》でエペメオ山の上まで行くところさ」
ハケットは愉快そうに、無邪気に笑った。
「私が驢馬に乗ったら、どんな恰好になるのかね。写真を撮っていって家の者に見せなくちゃあならんね。この山の上には隠者が一人暮らしているって話だが、そいつは場所代を払っとるんだろうかね、え?」
彼はしゃべっては無邪気に笑った。私の飲物が届き、私はそこに坐って暖かい陽射しとグラスの中の氷の音を愉しんでいた。
「ファレルさん、あんたポッツォリには行ったことがあるかな?」
「ありますよ」
「あそこは面白かった。昨日行ったんだがね。火口の中の熔岩の上に石膏《せっこう》で殻《から》ができているところがあってね。世界じゅう探したって他にあんなところはないだろうと思うよ。殻の厚さがたった十二インチしかないんだ。私は最初、ガイドがあまりかたまって歩いちゃあいけないと言うのが何でかわからなかったんだよ。それが、一ヵ所殻がこわれてたところがあってね、のぞいて見ると泥水がぐつぐつ煮えてるみたいだった。それでようやくガイドの言うことがわかったんだ。それからね、紙を丸めて火をつけて、それをどんな割れ目でも近づけてみるとね、火口の縁から、っていうのはつまりずっと五百フィートも上なんだけれど、煙が出るんだ。硫黄《いおう》のガスが燃えるらしいんだな。これは面白いよ、ファレルさん。あそこは地下でベスビオとつながっているんだそうだよ」
「一つ残らず見物して行こうというわけですね」
「そうともさ。そのために今日はカサミチオラまで来たんだからね。エペメオが火山だったことは知ってるかな」
ハケットは赤い表紙の小冊子をとり出した。
「これは古いベデカでね、親父の書斎にあったんだ。一八八七年版だよ」
彼はページを繰った。
「カサミチオラのことはこう書いてある。『一八八三年七月二十八日の大地震によって町はほとんど廃墟と化し、多数の人命が失われた。現存する数戸の家もおびただしい被害を受けた』」
彼は町の方に向かって腕を振り回した。
「ファレルさん、どういうことかわかるかな。つまり、この旅行案内が出た頃には、今町のあるあの辺《あた》りには何もなくて、ただ地震の被害を受けた廃墟だったわけなんだな」
この時ジーナが現われていなかったら、ハケットは私に向かってえんえんと古いベデカの旅行案内を読んで聞かせていただろう。私が彼らを引き合わせ、ジーナは疲れ切った様子で椅子に崩れた。彼女の顔は明るかった。
「ふーっ。体がほぐれるでしょう。しばらくすると、とても気持ちがよくなるわ。まさに価千金《あたいせんきん》よ」
「何をお飲みになりますかな、奥さん」
ハケットが聞いた。
「私は後にいたしますわ。ここへはお仕事? それともお愉しみですの?」
「ハケットさんは火山見物ですよ」
私が割りこんだ。
「火山見物?」
ジーナは目を丸くした。
「奥様、ご一緒にいらっしゃるんでしょう」
「いや」
ハケットはきょとんとして言った。
「家内は船に弱くてね。旅行は好きじゃないんです」
「お一人でイタリア旅行をなさってらして、火山ばかり見てらっしゃるんですの?」
「私は地質学に関することなら何でも面白いんですわ。岩石の成り立ちとか、何でもいいんです。しかし何といったって、この国じゃあ火山ですよ。昨日はポッツォリに行きましてね。今日は午後からエポメオを見に行くんです。それから……」
「ベスビオにはまだいらっしてないんですの?」
「まだなんですよ。最後の楽しみにとっておこうと思いましてね」
「まあ。ポンペイはお見逃しなくね」
ジーナはちらりと私を見た。先ほどの埋め合わせをするつもりらしかった。
「ポンペイをご覧になったら、ベスビオがどんな山だか、ほかの何よりもよくおわかりになりましてよ」
「ポンペイにはちょっと寄っていくつもりでいますよ」
「ポンペイはちょっと寄ってごらんになるどころじゃあすみませんことよ」
ジーナはアメリカ人を見て笑っていた。
「私、管理者を知ってるんですけれど……」
餌《えさ》は確実に魚を惹きつけた。
「本当ですか。その人に、その、何というか、つまり私を紹介していただくってわけにはいきませんか……」
「紹介なんてするよりも……」
そう言ってジーナは私を見た。
「明日の午後は予定あるの?」
私は首を振った。
「それじゃあ、三人でポンペイを見に行きません? ハケットさん、車お持ちでしょう。ポンペイの入口で午後三時。いかが?」
「それはまた結構ですね、奥さん。いやあ、楽しみです。ところで、どうです。今日は私に昼食をごちそうさせてくださいませんか」
ジーナは一も二もなく招待に応じた。まるまる一時間というもの、ジーナとハケットは私をのけ者にして火山の噴火について話し合った。ジーナはポンペイの歴史について、驚くべき豊富な知識を持っていた。その管理者であるという男と深い仲であった時期があるのではないかと、私はつまらぬことを考えたほどだった。
私たちは船に戻った。カサミチオラを出発するとジーナが私の顔を見て言った。
「あなた、あのアメリカ人が好きではないらしいわね」
「そんなことはないよ」
ミラノでの親切を思い出して、私はあわてて言った。
「ただ、なにしろよくしゃべるんでね」
ジーナは笑った。
「自分の家では、きっとしゃべる機会がないのよ」
彼女はふっと溜息をついてクッションの上に寝そべった。しばらくして彼女は言った。
「あなた、今夜オペラを聴きに行かない? ロッシーニの≪セリビアの理髪師≫。サン・カルロで演っているの。桟敷《さじき》があるのよ」
私はジーナとオペラに出かけ、それがナポリの休日の最後であった。クリスタルガラスのシャンデリアが輝くジーナの桟敷で、オーケストラが音を合わせるのを聞きながら、私は一階の座席を埋めた聴衆を見下ろしていた。まっ赤な緞帳《どんちょう》の前から薄暗い後列の席まで、一杯に座席を埋めつくした聴衆の色とりどりの服装が小波のように揺れていた。その満員の聴衆の中から私を見上げている二つの目があった。ヒルダ・トゥチェックであった。彼女は連れの男をつついた。男も私を見上げた。ジョン・マックスウェルであった。
「どうかしたの?」
ジーナが私の腕に手をかけた。
「あなた、震えているわよ。どうしたっていうの」
「何でもない。本当に何でもないよ。ちょっと知ってる顔を見つけたんだ」
「どこ?」
私が答えずにいるとジーナはおどけて言った。
「女の人?」
私はこれには答えなかったが、ジーナは私の視線を追って一階の中央あたりの座席にオペラグラスの焦点を合わせた。
「イギリスの女性? 白いドレスの?」
「チェコ人だよ。どうしてイギリス人だと思うの」
「だって、とってもすてきな人じゃないの」
ジーナの声には競争意識を感じさせるものがあった。その時、私はジーナがはっと息をのむのを聞いた。
「一緒の男の人、なんて言う名前? どこかで見たような気がするの」
「ジョン・マックスウェル」
「そう。じゃあ知らない人だわ」
コンダクターが指揮台に上がり、場内の明かりが消えていった。序曲が始まった。私は暗闇でロッシーニの賑やかな音楽に没頭できることにほっとした。しかし実際にはロッシーニも、私を捉えた絶望の発作から私を救うことはできなかった。マックスウェルがナポリに来ていることが私を愕然《がくぜん》とさせた。私は罠《わな》にはまったような気持ちになり、暗い一階の座席から絶えず私を見上げている視線があるような感じがしてならなかった。マックスウェルが現にそこにいるという事実が私と音楽の間にどっかとすわり、私は音楽を楽しむどころではなかった。
「寒いの?」
ジーナが私の耳に唇をつけるようにして言った。
「いや、全然寒くなんかないよ。本当に」
「でも、あなた震えているじゃないの。それにあなたの手、冷たいわ」
彼女は私の手を強く握り、鋭くささやいた。
「何かまずいことでもあるの?」
「いや、別に」
「あの人、昔の恋人なの?」
「違うよ」
「じゃあ、なぜ震えるのよ。それともあの男が恐いの?」
「馬鹿なこと言わないでくれよ」
私はいらいらしてジーナの手を振りほどいた。
「あらそう。私、馬鹿なこと言ったの? でも震えているのはあなたの方よ」
ジーナはまた私に体を寄せた。
「ねえ、あのマックスウェルっていう人、何しに来たの?」
「もうその話はやめにしてくれないかな、ジーナ」
私は舞台に目をやった。幕が上がるところだった。
「また強情っ張りが始まったわね」
ジーナは怒っていた。私はカサミチオラで彼女が義足を付き添いに預けろといった時の馬鹿げた喧嘩を思い出した。音楽を聴こうとしながら、まだそのことを考えている私の肩を背後の暗がりから叩く手があった。私は飛び上がって振り返った。正装したマックスウェルが私の方にかがみ込んでいた。
「ディック、話があるんだ」
私は間の悪い思いでジーナの方を見た。彼女はとうに闖入者《ちんにゅうしゃ》に気がついて、マックスウェルを見上げていた。マックスウェルは軽い会釈をして言った。
「ジーナ・ベスタントさん、でしたね」
ジーナはかすかにうなずいた。
「結婚するまではそう言っておりましたけれど。でも、私、前にお目にかかったこと、ありましたかしら」
「いや、お会いしていませんよ。ただ写真を見たことがあるんですよ。警察でね」
ジーナの目が怒りのために細くなったが、彼女はそれを笑顔で隠した。
「あなたも貧乏なさると、いろいろと不思議なこともわかるようになりますわ」
ジーナは舞台の方に向き直ったが、その顔は蒼白で、ステージのフットライトの照り返しの中で彼女の目は怒りに燃えていた。マックスウェルが私の肩をたたき、外へ出ろと合図した。
外に出ると、マックスウェルは桟敷のドアを閉めて煙草を取り出した。
「ディック、君はまったく問題に巻きこまれる名人だな」
「どういう意味だい?」
「あの女さ」
マックスウェルは桟敷の閉まったドアを顔で示した。
「あの人がどうかしたの?」
「ダイナマイトを抱いているようなもんだぜ。俺はあの女の写真を一インチも厚さのあるファイルの中で見つけたんだ。戦争中、ローマの警察で、連合軍のMPが俺に見せてくれたんだ」
「ドイツのスパイだって言うのか」
「確証はなかったがね。ただ……」
彼は肩をすくめた。
「戦線警備隊はずっとあの女を監視していたね」
「でも証拠はなかったんだろう。だったら……」
マックスウェルは手で私を制した。
「俺は君の遊び相手のことで来たんじゃないんだ。俺が聞きたいのは、君がなぜあんなふうにミラノを抜け出したのかってことだ」
「リースに我慢できなかったのさ」
マックスウェルの煙草の火が赤く輝いた。彼は静かに言った。
「そうじゃないんじゃないかな」
「じゃあ、なぜだって言うんだ」
私は声が震えるのをどうしようもなかった。マックスウェルは相変わらず静かに話した。
「恐かったんだろう」
「恐かった?」
私は笑い飛ばそうとしたが、声がひきつり、力なく消えてしまった。
「医師に休暇を勧められたなんて、会社に電報まで打って、君はミラノを抜け出した。何がそんなに恐かったのか話してくれよ」
私が黙っていると彼は続けた。
「あの女はどこから噛《か》んでくるんだ?」
「どういう意味だい?」
「あの女は何か関わりがあるはずなんだ。彼女、今はなんて名前だ?」
「ジーナ・ヴァルレ。伯爵夫人だよ」
「ヴァレルの女房だって? 本当かなあ」
彼は頤《おとがい》をこすった。
「どこで会った?」
「シスモンディのアパートだよ」
「それから?」
「エクチェルシオーレに訪ねてきた。その後でもう一度会った」
「どこで?」
「ナツィオナーレのシャーラーの部屋で」
「君がナポリに来る前の晩か?」
私はうなずいた。彼は顔をしかめた。
「君は何か隠しているな。俺に全部話してくれないか」
私は迷った。話しても無駄にきまっていた。マックスウェルとリースは一緒に動いている。リースが私を信用しない以上、マックスウェルも私の言うことに耳をかすはずがないのだ。
「何も話すことなんかないよ」
「ないことはないだろう」
マックスウェルの声に今までにない底力がこもっていた。
「まず第一に、なぜあんなふうにミラノから逃げ出したのか、それを話してくれよ」
「いいかい、トゥチェックの失踪について、できることがあれば僕はやるよ。それはわかってくれるだろう? 彼は友達だったんだ。ブリテンの戦闘では僕の命の恩人だよ。だけど、それとこれとは別問題だよ。放っといてくれないか」
「そりゃあ君に迷惑はかけたくない。しかしだ、君が何と言おうと、君は一役買っているんだからね。どうやら何でも君に関係してくるようなんだ」
「どういうことだ?」
「どうしてと言われても、俺にはまだわからないんだ。でも……」
マックスウェルはふと言葉を切って私を見た。
「ミラノを発つ朝、君はヒルダに、父親の失踪とシャーラーは何か関わりがあると言ったらしいね」
「そうじゃないんだ。ヒルダと一緒に警察の人間がいたんだよ。その男がトゥチェックのことを調べているんだ。僕はその男にサンセヴィーノの写真を見せたんだよ。ヴィラ・デステの医者だった」
「君はシャーラーに会えと言ったね」
「そうだよ。行ったかい?」
「行かなかったと思うよ。君と一緒にいたアメリカ人の医者が、君が少し変なんだって言ったからね。でもリースは会おうとしたらしい。ところが、もうミラノにいなかったんだ」
マックスウェルは私の腕を握った。
「シャーラーのことをどう思っているんだ。何でカセルリに、シャーラーを当たれと言ったんだ?」
「何で、って僕にもわからないな」
私はもう少しで、ワルター・シャーラーはもうこの世にいず、皆がシャーラーだと思っている男は……と言い出すところだった。しかし、それを言おうとした瞬間に、私は自分でも自信がないのに気がついた。マックスウェルは私がおかしくなったと思うに違いない。それに、こうしてナポリに来てみると、私の疑惑の根拠もはなはだ曖昧で説得力に欠けていた。
「何か言おうとしていたんじゃないのか?」
「いや、何でもないよ」
「そんなことないだろう。今、何か言おうとしたじゃないか。話してくれよ」
私は黙っていた。
「ディック、頼むから話してくれよ。君はどこまで巻きこまれたんだ? 全部君に関係している、それだけは確かなんだ」
「何も話すことはないよ」
マックスウェルは私の気持ちを推し測るような目つきで、しばらく私を見ていた。そして最後に言った。
「そうか。しかし君がどうしても話さないということになると、俺の方も……。そりゃまだだけどね。でも気をつけた方がいい。君は深みにはまっているんだぞ。自分では気がつかないのかも知れないけれど。俺は君のために言ってるんだ」
彼はカーペットの上で煙草をもみ消した。
「気が変わったら、ガリバルディに連絡してくれ」
そう言うとマックスウェルは足早に廊下を去っていった。私はそっと桟敷に戻り、ジーナの隣に坐った。彼女は動かなかったが、私を見ていた。
「何ですって?」
「何でもないよ」
ジーナは唇を真一文字に結んでいた。一瞬彼女の顔がやつれきったように見えた。第一幕が終わって場内が明るくなった時、一階中央部の座席二つが空になっていた。
「あなたのお知り合いは帰ったらしいわね」
ジーナは警戒の色を目に浮かべていた。私は黙っていた。
「何か飲みに行かない?」
バーの席につくとジーナは言った。
「私がドイツ軍の仕事をしたことがわかって、ショックだった?」
「別に」
彼女は目を伏せてグラスをのぞき込んだ。
「そのころキャバレーにいたのよ。父はナポリの空襲で怪我をしていたし、母は結核で死にそうだったの。兄はケニヤで捕虜になっていて、私はほかに妹が二人いたの。上が十二で下が十よ。ドイツ軍は言うことを聞くか、それとも強制収容所か、どっちかだって言ったわ。私が断われば妹たちはヴィア・ローマの売春宿にでも行くほかなかったし、ほかに返事のしようがなかったのよ、ディック」
ジーナは私の顔を見上げてにっこり笑った。
「でも、もう今は何でもないわよ。戦争は終わっているんだし、私は今の伯爵のところへ行ったんだし。ただね、昔のことを何だかだと言われるのがいやなのよ。警察のわかっていない人間たちにね。あのマックスウェルっていう人、イギリスの刑事なの?」
「違うよ。イギリス空軍の情報部だ」
「今は何をしているの?」
「さあね」
ジーナは肩をすくめた。
「そんなこと、どうでもいいわね。誰が何をしていようと、私の知ったことじゃないわ。とにかく、あの男のおかげで今夜はだいなしだわ。その方がよっぽど問題よ」
彼女はグラスを空けて立ち上がった。
「私、もう帰るわ、ディック。もうあなたといてもいいことはなさそうね。それに私、気分が悪いの」
私はジーナの後からバーを出て広い階段を降り、ごった返しているロビーに出た。車はピアッツァ・トリエステに停めてあったが、ロベルトの姿がなかった。私が捜しに行き、ウンベルトの市場のカフェで彼を見つけた。車が海岸へ出るとジーナは自分の手を私の手の中に入れてきた。
「ディック、あのマックスウェルっていう人、近寄らない方がいいんじゃないの。しばらく私と一緒に来ない? お友達がベスビオの向こう側に別荘持っているの。葡萄園の中で、とっても静かなところよ。そこに行けば休めるし、ゆっくりできるわ。それに、誰もあなたの居所を知らないわよ。誰からも邪魔されないってすてきじゃない」
ジーナの肌の暖かさが私に伝わってきた。私は自分の体がそっと愛撫されてでもいるようにうっとりとした気分になった。私はまさにそれを望んでいたのだ。誰にも知られずに、マックスウェルにも知られずに、どこかへ行ってしまえたら――。
「いいね。本当にそうしたいと思うよ。でもご主人がいるんだろう」
「主人のことは気にしなくてもいいわよ。私はしょっちゅうその別荘に行くんですもの。ポジリポにいるのと同じよ。そこに電話してくれればいいんですもの。どうする?」
「明日の朝、電話するよ」
「電話は駄目よ。十一時から十二時までの間に来て。私は用意して待ってるわ。ロベルトに運転してもらいましょう」
車は私のホテルに着いた。
「おやすみ、愉しかったよ。明日、行くよ」
「ボナ・ノッテ」
フィアットの赤いテールライトがウオヴォの城砦《じょうさい》の角に消えるのを見送って、私はまっすぐ部屋に上がった。ベッドに入ってみたが寝つけなかった。マックスウェルの言ったことが頭にこびりついて離れなかった。「君が何と言おうと、君は一役買っているんだからね」私はベッドを抜け出してガウンを引っかけ、バルコニーに出た。部屋の中にくらべると夜気は涼しかった。月影が銀の小波《さざなみ》となって海面を走っていた。サンタ・ルチアの石の防波堤に波のたわむれる音がしていた。遠く左手のほうで、ほんの一瞬空が赤く閃《ひらめ》き、また暗くなった。注意して見ているとまた光った。電気を孕《はら》んだ雲が光ったようだった。しかし空には星が揺れ、雲の一片も浮かんではいなかった。
部屋の真下の舗道に足音がし、アメリカ訛《なま》りの声が聞こえた。
「一九四四年の時と同じだ!」
一九四四年の時と同じ。それを聞いて私はあの赤い光の正体を知った。ベスビオだ。火口の中に湧きかえっているどろどろの熔岩の輝きが、吹き上げられた蒸気の雲に反射して赤く見えるのだ。私は煙草に火をつけ、ベスビオそのものの中腹にあるというその別荘からこれを見たら、どんなふうだろうと思った。いまのところ、それはぼんやりと空を染める程度で、私の煙草ほどにも赤くない。海に映る月明かりとはくらべものにならない明るさだ。
私はガウンの襟《えり》をかき合わせて部屋に入った。明日はナポリを離れよう。ジーナと別荘に行くのだ。マックスウェルは私の居場所を知らない。そして一週間もしたらミラノに帰って、仕事だ。
[#改ページ]
五
朝になってみると、マックスウェルから逃げるためにナポリを出るというのがまったく馬鹿げたことであるように思えてきた。ナポリの海辺で過ごしていればいいものを、なぜ暑くてほこりっぽいベスビオの中腹まで行くことがあるだろう。カプリかイスキアか、それともアマルフィかポジターノの海岸にでも行った方がよくはないだろうか。マックスウェルが私とトゥチェックの失踪を結びつけて考えているということも、朝日の当たるバルコニーで食事しているとさして問題ではないように思えてきた。
暑苦しい日であった。真上の空は青かったが、ソレントの方には大きな積雲が綿のように湧きあがっていた。ベスビオは遠くかすみ、まるで山をとり巻く空気が塵《ちり》に閉ざされてでもいるように見えた。前夜赤く見えた溶岩の火照《ほて》りも日光の下ではまったく見えず、落ちついた山の姿は決して活火山とは思えない状態であった。
ジーナのような女が、ベスビオの山腹に行きたがる理由が私にはさっぱりわからなかった。彼女は海水浴客でごったがえす海浜にふさわしいタイプの女なのだ。しかし、それは問題ではない。私と一緒に行けばどこであろうと彼女はよかったのかも知れない。指の間に煙草を挟《はさ》み、デッキチェアに身を横たえて絹のガウンを通して暖かい陽射しが肌に浸《し》みこんでくるのを感じていると、いつのまにか私は頭の中にジーナの体を思いえがいていた。ジーナの姿はそっと手を伸ばして愛撫したくなるほどはっきりと瞼《まぶた》に浮かんできた。
下の舗道でタクシーの止まる音がして、私は我《われ》に帰った。何かと思い、私はバルコニーから身を乗り出して下を見た。ホテルの入口で止まった車から若い女が降りた。料金を払う女の赤黄色の髪に朝日が光った。ヒルダ・トゥチェックだった。私は急いで部屋に戻り、電話機に飛びついた。間に合わなかった。ポーターにつながった時、ヒルダはすでに私の部屋に向かっていた。
受話器を置くとほとんど同時にノックする音がした。
「ファレルさん」
「はい」
「ファレルさんを捜しておいでのご婦人です」
私はガウンのベルトを締め直してドアに向かった。ドアを開けた瞬間、私はヒルダの憔悴《しょうすい》した姿にびっくりした。ナポリの太陽も、彼女にはなんの役にも立っていないらしかった。彼女の肌は透きとおるほど蒼白く、そばかすがよけい目立った。
「入ってもかまいません?」
ヒルダは遠慮がちに小さな声で言った。
「さあどうぞ。バルコニーへいらっしゃい。何か飲みますか?」
「レモネードをいただけます? とても暑くって」
ボーイにレモネードを言いつけて私はヒルダをバルコニーに案内した。彼女は手すりに腕を置き、じっと立ったまま海を眺めた。
「どうぞ、かけませんか」
私が言うとヒルダはうなずいて私の椅子に腰を下ろした。私はもう一つ椅子を運んでそれに坐った。二人とも気まずく黙っていた。私は彼女が何のためにやってきたのか話すのを待ったが、なかなか話しにくい様子であった。とうとうヒルダが口を開いた。
「きれいですね」
物思いに沈んだ声だった。
ボーイが運んできた飲物をヒルダは口に運んだ。私は彼女に煙草をすすめた。私が火をつけてやると彼女は言った。
「エクチェルシオーレ・ホテルでお会いした時、大変失礼しました」
彼女が続けるのを待ったが、それきりヒルダはカプリの方を眺めていた。
「マックスウェルに言われていらしたんですか」
ヒルダはちらりと私を見たがすぐ視線を落とし、手の中でゆっくり丸めているハンカチを見つめた。内心思いつめたようになっているのがよくわかった。やがて彼女はきっとして私のほうを見上げた。
「そうなんです。あなたが何か知っているらしいからって。マックスウェルはあなたが父の失踪になんらかのかたちで関係していると思っています。ファレルさん、お願いです。力を貸してください」
ヒルダの声は必死だった。それが私にはかなわなかった。
「私も力になりたいと思いますよ。しかしどうすることもできません。マックスウェルは間違っていますよ。お父さんがどうしたのか、私は何も知りません、知っていれば、とっくの昔にあなたに話していますよ」
「それじゃあ、なぜあんなに急いでミラノを発たれたんですか」
「ゆうべマックスウェルにも言いましたがね、休息が必要だったんです」
「マックスウェルは嘘だって言ってます」
ヒルダはまっすぐに私を見つめていた。どんなに悲しそうにしていても、彼女には鉄の意志が備わっているのだ。彼女は一日中でもそこに坐って本当のことを聞き出そうと、私を攻めたてるに違いない。そう思うと、とてもできそうもない難題を突きつけられたように急に嫌な気持ちになった。
「どうしてミラノをお発ちになったんですか?」
「いいですか。私がミラノを離れたことと、お父さんの行方《ゆくえ》が知れないということは、まったく関係のないことですよ。これは信じてもらわないと困ります」
ヒルダは私を見据えていた。
「ええ。私は、信用しているつもりです。でも、マックスウェルが何か関係があるに違いないって……」
「マックスウェルは何も知らないでしょう」
彼女は顔を海の方に向けた。
「お話しくださいません?」
「駄目です。あなたにはあなたの悩みがあるでしょう。その上に人の悩みごとなんか聞くことはないでしょう」
「すみません」
ヒルダの声が優しくなった。
「私も、あなたに信じていただきたいと思っていることがあるんです。ジョン・マックスウェルは父から私宛の伝言を持ってきました。父が飛行機で逃げる時、飛行場で伝えたそうです。父は、私に困ったことがあったらファレルさんのところに行け、と言ったそうです」
「私のところへ?」
私はびっくりしてヒルダを見た。
「何だってまた。私のところなんです?」
「私にもわからないんです、ファレルさん。でもここに来ればわかるんだろうと思って。ファレルさんは父と親しかったのだし、私はてっきり父がファレルさんに何か連絡を取っておいたんだと思ってました」
私はシスモンディの不思議な電話を思い出した。
「父は何を言ったんでしょうか」
「わかりませんね。あなたにお話しすることは何もないんですよ」
「でも、きっと……」
「私は何も知らないと申し上げているんです。トゥチェックには一度会いましたよ。それきりです。オフィスで、ずっと通訳がいるところで。トゥチェックが私に言ったのはマックスウェルへの伝言だけですよ。それはちゃんと伝えましたからね」
「それっきり父にはお会いにならなかったんですか」
「そうです」
私は一瞬迷ったが付け加えた。
「私がいたホテルのナイトポーターがね、夜遅く私の部屋を訊ねて来たって言ったことがあるんですよ。でも、もし本当に来たのなら、どうして私を起こさなかったんですか。手紙を置いていったわけじゃないし。私は荷物も服も全部ひっくり返して調べましたよ。でも何もなかった。これはポーターが私をゆすって口止め料を稼ぐためにでっち上げた作り話としか思えませんね」
「でも、どうしてなのかしら。マックスウェルは絶対にファレルさんが関係あるって……」
「マックスウェルが何だって言うんです」
私は椅子を蹴《け》って立ち上がった。
「マックスウェルは何も知りませんよ。彼はいなかったんですから」
「じゃあ、シスモンディが電話で設計図を渡せと言ったのは?」
「あれは探《さぐ》りを入れていたんじゃないのかな」
「シスモンディのところにいらっしゃいましたね。そこで何があったんですか。お願いです。聞かせてください」
「何もなかった」
私はいらだっていた。ヒルダは私にミラノの想い出を押しつけてくる。私が忘れようとしていることなのに。
「アレックは、あなたが戻ってらした時、とても興奮していらしたって言ってました」
「酔ってたんですよ」
何と思ってヒルダは私を検事のように訊問するのだろう。
「ファレルさん、お願いです。私にとっては大変なことなんです。私、父を愛してます。私たちがチェコスロバキアに帰ってからは、私がずっと父の面倒を見てきました。私には、父はただの人ではないんです」
ヒルダの目に涙が溢れていた。
「話してください。シスモンディという人のところで、何があったんですか」
私は何と答えていいかわからなかった。私は力になってやりたかったのだ。しかし、シャーラーとサンセヴィーノのことをこの娘に話したところで、いったい何になろう。
「何でもありませんよ。ただ、私は何年も会わずにいた男に会っただけです。それで私はびっくりした。それだけですよ」
「ワルター・シャーラーですか」
私はうなずいた。
「カセルリ警部はその人はやっぱり関係なかったと言ってました。アレック・リースも、シャーラーがこんなことに関わりを持つはずがないって言ってます」
「リースの知っているシャーラーはね」
「なぜそんなことおっしゃるんです?」
「いや、何でもありませんよ」
私はまた、シスモンディのアパートでの出来事を思い返していた。私はそのことを忘れようとしてきた。それが、今また記憶も新たに思い出されてくる。シスモンディはあの男の来訪を待ち受けていた……。
「ワルター・シャーラーっていうひとは、あなたの持ってらした写真の人にそっくりですね」
「そうです。彼はサンセヴィーノとは瓜《うり》二つなんです。シャーラーに会ったんですか」
「ええ。ジョン・マックスウェルが会いに連れて行ってくれたんです」
「ミラノで?」
「いいえ、ナポリです。きのう……」
ヒルダが私の腕をつかんだ。
「どうなさったんですか」
「大丈夫です」
私はそうつぶやきながら、手探《てさぐ》りで椅子をさがし、くずれるように坐った。
「顔が真っ青ですよ」
「体の具合がよくないんですよ。それでこうやって休暇を取っているんです」
「でも、私がワルター・シャーラーがナポリにいると言ったら、急に青くなられたでしょう」
ヒルダは私の方に体を乗り出した。
「シャーラーの名前がどうしてそんなに問題になるんですか」
「それはもう話しましたよ。ミラノを出る時、ホテルのロビーで。あなた達が信用しなかっただけなんだ。あの男はシャーラーではないんですよ。あれはサンセヴィーノです。マックスウェルにそう言ってください。リースが一緒に逃げたのは、サンセヴィーノだって言ってください」
ヒルダは目を丸くした。
「でも、そのサンセヴィーノっていう医者は死んでるんじゃありません? サンセヴィーノは一九四五年に死んだはずです。それにアレックはミラノでシャーラーに会っています。もしシャーラーでなかったら、アレックにはわかったんじゃないでしょうか」
彼女は疑惑の目で私を見た。
「あのお医者さまのいうとおりかも知れないわね。決して正常じゃあないって」
じれったかった。怒りがこみ上げてきた。
「あの男を誰だと思っているんですか。あのミラノ最後の夜、寝ている私の足を暗闇で触ったんですよ。あの手の感触を私は知っているんだ。千人の手が一度に私の体に触っていたって、あの手の感触は絶対にわかりますよ」
ヒルダは目を伏せて私の義足を見た。パジャマの裾《すそ》から義足の金属がのぞいていた。
「ごめんなさい。ゆうべマックスウェルから、捕虜時代にあなたがどんな目に遭ったか聞きました。私、決して……」
ヒルダは言葉を濁《にご》して立ち上がった。
「結局、信用していないんでしょう」
私も立ち上がった。
「おっしゃるとおりかも知れないわね。休息が必要なんだわ。そんなにショックを受けてるなんて思ってもいなかった……」
私は彼女の腕をつかんだ。
「冗談じゃないよ」
私は叫んだ。彼女の体を力一杯ゆさぶってやりたかった。
「君は本当のことを聞きに来たんじゃないのかい。それなのに、僕が本当のことを言っても信じようとしないのかい?」
「ねえ、ファレルさん」
ヒルダはそっと私の手を握り、自分の肩からほどいた。
「ねえ、ちょっとお休みになりません? バルコニーに出ているの、よくないんじゃないかしら。眩《まぶ》しすぎるとか……」
私が何か言おうとするのを彼女はさえぎった。
「もう、それ以上興奮しては駄目よ」
彼女の目に悲しみが浮かんだ。
「私、もう行きます」
ヒルダは出て行った。ドアの閉まる音がした。一人になった私に残されたのは、サンセヴィーノがナポリに来ているということだった。
私は急いで着替えをし、荷物をまとめてホテルを出た。ジーナが別荘行きに誘ってくれたのは幸いだった。ジーナといると嫌なこともすぐ忘れることができる。それに連中が私をつけ回すこともないだろう。タクシーを呼び、まっすぐヴィラ・カルロッタに行った。
私のタクシーが近づくと、ジーナの大きなクリーム色のフィアットが入口で待っていた。ロベルトがハンドルに体をもたせていた。私を見ても彼は笑わなかった。ロベルトの黒い目を見て、私は急に彼が私を憎んでいるのではないかという気がした。海水パンツのスマートな若者が、節《ふし》くれだった陰気な百姓になったような感じだった。
前に通された部屋に案内された。淡いブルーの壁や家具が前に見た時よりも冷たく、わざとらしく思えた。バルコニーからの眺めは平坦で灰色だった。空気はじっとりと湿り、シャツが体に粘《ねば》りついた。部屋の隅のテーブルに大きな銀の額縁に入った写真があった。白い花嫁衣装のジーナが、軍服を着た背の高い精悍《せいかん》な顔つきの男と腕を組んでいた。私が写真をテーブルに戻したところへジーナが入って来た。
「主人よ。どう?」
ジーナは薄緑に緋色の縞のある絹のドレスで、笑いながらドアのところに立っていた。私は何と言っていいかわからなかった。写真の男は彼女の倍以上も年をとっていそうだった。ジーナは肩をそびやかしていった。
「どうしたっていうのよ? 彼はもう過去の人になりかけているのよ。さあ、行きましょう」
ジーナは私が来ることに何の疑いも持っていなかったらしい。
「あなた、とっても疲れているみたい」
彼女は私の腕をとりながら言った。彼女の指はすべすべして冷たかった。
「何でもないよ。暑さのせいだろう。ところで、今日のロベルトは変だね、どうしたんだろう」
「ロベルト?」
ジーナの唇にいたずらっぽい笑いが浮かんだ。
「ちょっと嫉《や》いているんじゃないかしら」
「嫉いてる?」
ジーナは今にも大声で笑いだそうな顔をしたが、それを抑えて口早に言った。
「ロベルトは主人に傭われているのよ。彼は私の見張りを仕事と心得ているわ。だから私が素敵なイギリス人を連れてサント・フランシスコに出かけるのが面白くないのよ」
彼女はドアを開けて私を通した。浮きうきした様子だった。
「さあ。私、すっかり段取りしたのよ。ポルティチでお昼を食べて、それからあなたのアメリカ人のお友達とポンペイに行く約束でしょ。憶えてる?」
彼女は鼻に皺《しわ》を寄せて見せた。
「行ってもつまらないと思うんだけど、あなたがあんまり強情っ張りだったから、ちょっとあの人を誘ってみただけなのよ。でもいいじゃない。私たちには夜があるんですもの、一晩中」
外に出ると、ロベルトが私の荷物を車に積んでいるところだった。彼が車のドアを開けてジーナを迎えた。車に乗りこむ時、ジーナは足を止めて早口なイタリア語で何か言った。ロベルトはちらりと私を見て照れくさそうに顔を歪めて笑った。お菓子をあげるからね、と言われた子供のようだった。
「ロベルトに何て言ったの?」
ジーナの横のクリーム色のシートに沈みながら私は訊いた。
「今日は午後中カフェで飲みながら、女の子のお尻でも触ってなさいって言ったのよ」
ジーナは自分の言い方がおかしいのか、私の顔を見て笑った。
「あら、私がこんなこと言うんでびっくりしているの。そうね、あなたは正真正銘のイギリス人ですものね」
そう言いながらジーナは私の脇の下に手を入れ、体をすり寄せてきた。
「あんまり堅いこと言わないでね。いい? ここはイタリアなのよ。ロベルトみたいな男の子がなにを考えてるか、私はちゃあんと知ってるんだ。私だってナポリのスラムの生まれなんですからね」
私は何も答えなかった。車は大きな鉄格子の門を滑るように抜け、南に曲がるとポジリポ通りをナポリに向かって走り出した。涼しい空気が顔を流れて気持ちがよかった。厚い雲が広がっていた。雲は異様な重苦しさで低く迫り、ベスビオの火山灰地の肌が黒い雲を背景にほとんど白に見えるほどだった。
「ゆうべのベスビオ、見た?」
「もう三日も続いているわよ。サント・フランシスコに行ったらもっとよく見えるでしょうね」
ジーナはふっと溜息を洩《も》らした。
「ナポリ女があんなふうなのは、きっとベスビオのせいね」
「どういう意味?」
「御神火《ごじんか》育ち。火山みたいに燃えちゃうのよ」
彼女はつり上げた眉の下から私を見て、かさかさした声でそう言った。山は静かに落ち着いて海の上にそびえていた。
「また噴火すると思う?」
「さあ、どうかしらね。測候所の人に聞いてごらんなさいよ。でもあの人たちだって大して知ってやしないのよ。ポンペイを見たらあの山の威力はわかると思うわ。予想もつかないし、ものすごいのよ。恋しちゃった女みたい。やめようと思ったら壊《こわ》れるしかないの」
私たちはかつて個人の邸だったというレストランで昼食をとった。渦巻き模様の壁の装飾は十九世紀初め頃の建築を思わせた。レストランは、これもローマ時代にベスビオの灰に埋《う》もれたヘルクラネウムの街に近いところにあった。
午後はポルティチから折れて細い塵《ちり》っぽい道を内陸に向かった。道には裸の赤ん坊が母親の乳房を吸い、老人がぼろ切れのように地べたの塵の中で眠っていた。やがて車は自動車道路に出、うなりを上げて南に向かった。左手にベスビオがしだいに迫り上がっていった。ジーナが何度も後ろを振り向き、ロベルトに止まるように言った。私たちの車が路肩に寄って止まった時、大きなアメリカ車が私たちを追い越して飛んでいった。一組の男女が乗っているように見えた。彼らはこちらを見なかったが、私には彼らがジーナの車を意識しているような気がした。ジーナの方を見ると、彼女は横目づかいに私をそっとにらんでいた。
村落を結ぶ道路が何本も自動車道路の上下を横切っていたが、自動車道路の出口はトオレ・アヌンツィアタまでなかった。出口の別れぎわにガソリンスタンドがあり、私たちの車がそこをすり抜けた時、私はあのアメリカ車がスタンドから自動車道路に鼻面を出しかけているのを見た。
それから五分ほどでポンペイに着いた。ハケットは廃墟の入口で私たちを待っていた。レンタカーの小さなフィアットは馬車や土産物の屋台の間にまるで埋まっているようだった。ジーナが友人に取次を乞うと、私たちはすぐ木戸口を通されたが、事務所に行ってみると、当の本人はナポリに行っていていなかった。大学で講義をしているのだと言う。ジーナが案内することになった。
ハケットがいちいちガイドブックと照らし合わせたり写真を撮ったりするので、なかなか進めなかった。日は耐えがたく暑くなり、私の脚は痛んだ。イギリスにいる時、雨の降る前に感じるのと同じ痛さだった。
道が地面から低く沈んでいるので、よけいに暑かった。道はどこも二十フィートほどの深さで、両側に店や住宅の石の破風《はふ》が二千年前そのままの恰好で並んでいた。ジーナは見るべきところは全部案内してくれた。彼女は私たちの先に立って進みながら、あとからあとからポンペイにまつわるいろいろな話をした。彼女の話は、紀元前のローマ人が海浜の別荘地で過ごした奢侈逸楽《しゃしいつらく》の遊蕩生活を、いきいきと私たちの頭の中に描かせるものだった。しかし、集会場や浴場や劇場の跡を見、男根の印を掲げた娼婦の宿や、その内部の壁に描かれた劇画を眺め、古代の邸宅の玄関や寝室の壁を彩っている趣味の悪い絵に驚いても、結局それらは後になって思い出す記憶の断片でしかなかった。石畳の道に残る深い馬車の轍《わだち》、オリーブ油の壺や細々とした日用雑貨を商《あきな》っていたらしい店のカウンター、生きながら熱い灰に埋まった小児の白骨。それらが、一瞬にして焼きつくされた街の全体の印象を構成していた。狭い石畳の石には幸運を願って彫りつけられた陰茎の形がはっきり残り、恋する男女や、独房の囚人が刻んだイニシアルも、まるで彫られたばかりようにくっきりと浮かんでいた。そんな狭い道を歩いていると、カメラをぶら下げて何ヵ国語もの言葉を交わしながら観光客が賑やかにごった返しているこの場所に、ほんの昨日までローマ人がトーガをまとって歩いていたのではないかという幻想さえ浮かんだ。
しかし、スタビアーネの浴場で私の幻想も吹き飛んでしまったのだ。浴場を見終わってジーナは入口の方のモザイクを見に行こうと言った。その入口で私たちはマックスウェルとヒルダ・トゥチェックがやって来るのを見たのである。彼らはまっすぐ薄暗い浴場跡に入っていき、私たちには気づいていない様子だった。けれども、私はこれであのアメリカ車に誰が乗っていたかを知ったのだ。ジーナが私をにらんだ。
「あなた、お友達に着いてくるように言ったの?」
ジーナの顔は怒りのために真っ青だった。
「言うわけがないじゃないか」
「じゃあ、あの人たちはどうしてここにいるの。ボルティチからずっと尾《つ》けてるじゃない」
「わからないなあ」
彼女は私を見据えていた。私を疑っているのだ。ジーナが肩をすくめて言った。
「さあ、もう行きましょう。尾けられるなんてまっぴらだわ。あの人あなたに気があるんじゃないの?」
「とんでもない」
ジーナは短く、ひきつるように笑った。
「女の気持ちなんて、あなた何にも知らないでしょう」
私たちは浴場跡を出て、左手の集会場の広場に向かった。
馬車の轍《わだち》のある狭い坂道にさしかかると、ジーナは私に腕をからませてきた。
「気にしないでいいわよ、ディック。ロベルトに任せましょうよ。私の車、とっても早いし、ロベルトはいい腕よ」
彼女はすっかり気を取り直したらしく、また浮きうきとした調子でベスビオの噴火とポンペイのありさまについて話し始めた。彼女は当時の有様に異常な関心をもっているようであった。ジーナはこんな話をして笑った。
「あんまり突然だったんで。男と女が寝てるまま埋まってしまったんですって。掘り出した時、そのままの恰好してたんだって。あなた、女の人とベッドにいる時、いきなり部屋中に熱い灰が流れ込んできて、息ができなくなって死んじゃうなんて、考えられる? そのまんまの恰好でよ。抱き合ったままのあなたが二千年後に発掘されるのよ。これが本当の不滅ってもんじゃない、どう?」
最後のゲートをくぐる時、私はもう一度後ろを振り返った。ポンペイはまったく見えず、兎の巣のように日に焼けた草原が広がっているだけだった。地面よりずっと低いポンペイの廃墟はもうここからは見えないのだ。その向こうにベスビオの火山灰の斜面が鈍く光って立ち上がり、頂上には小さな核爆発のように蒸気が噴き上げていた。
ハケットもベスビオを仰いで言った。
「こいつは、夜見たら素晴らしいだろうね。そうだ、暗くなったらもう一度来てみよう」
ロベルトが車を寄せ、ジーナはハケットに手を差しのべて言った。
「それではハケットさん失礼します。ポンペイをごらんになったら、イタリアの小さな火山の威力がおわかりになったんじゃありません?」
「いやまったく、奥さん、これは大変なものです。それから、奥さん、あなたもたいしたもんです」
ハケットはそう言ってにっこりと笑った。
「ご案内いただいて、本当にありがとうございました。じゃあファレルさん、私はこれで。まあ、のんびり楽しんでくださいよ」
走り出した車から私は、ハケットが寄ってくるきたならしい子供たちに恵んでやるために、ふくらんだポケットからキャンディーを引っぱり出しているのを見た。自動車道路に戻るまでジーナは口をきかなかった。トオレ・アヌンツィアタの二叉路《にさろ》で彼女は後ろを振り向き、ロベルトに早口のイタリア語で何かを命じた。ロベルトがうなずいて、ぐっとアクセルを踏み込んだ。背後に黒く光るマックスウェルの車が見えた。私は無性に腹が立った。犯罪者のようにこんなふうに尾行されるなんて、まったく馬鹿げた話だ。
私たちは左に曲がって鉛色のナポリ湾に向かって走った。ロベルトはよく道を知っていて狭い道でもうなりをあげて飛び抜け、市街電車の間を縫って走った。クラクションが道に遊ぶ子供たちを蹴散らした。トオレ・アヌンツィアタを出て鉄道線路を横切り、自動車道路をまたぐ橋を渡ってボスコトレカセの埃《ほこり》っぽい道に入った。ベスビオは右手にそそり立っていた。
ボスコトレカセを少し過ぎてロベルトは車を止めた。私たちはシートでじっとしていた。白い野牛と、骨と皮ばかりの老いぼれ馬に牽《ひ》かれて荷車が二台行き過ぎた。しかし追ってくる車はなかった。ジーナがロベルトに声をかけ、私たちはまた走り出した。ジーナが言った。
「テルジニョで左に曲がるのよ。サント・フランシスコの村はアヴィンの少し上にあるの。私たちが行く別荘はちょうどその二つの村の間の道路脇にあるのよ」
道は狭く、両側は塵で真っ白だった。車が走った後に塵は煙のように舞い上がった。道の両側は平坦な土地で葡萄園とオレンジ畑が続いていた。遠くポンペイの新しい教会の尖塔が針のように果樹の上に突き出ていた。ぶざまな建物だ。私はロンバルディの平野で見た鐘楼を思い出した。
道路から直角にまっすぐ別荘に連らなっている塵だらけの小径に入り、別荘の入口に着いたのは五時過ぎだった。小径は葡萄の茂みを分けるように走っていた。別荘は熔岩流が断ち切られたようになくなっている小高い位置に建てられていた。平らな屋根とバルコニーのあるごくありふれた漆喰《しっくい》造りで、わずかに赤い瓦《かわら》が見た目に変化を与えていた。そして別荘は山を背負った向きに建てられ、別荘の正面からはずっと平らな葡萄園の広がりを見渡すことができ、その陽を受けた葡萄畑の向こうに遠くナポリの海とカプリが霞《かす》んで見えた。車が止まると熱気がどっと流れこんできた。日は翳《かげ》っていたが、空気はべっとりと暑苦しく、サハラ砂漠の熱風が吹きつけているかのようだった。私は来たことを後悔し始めた。
ジーナが笑って私の手をとった。
「まあここの葡萄酒を飲んでごらんなさいよ。そのしかめっ面《つら》もどっかに行っちゃうから」
彼女は山に眼をやった。山は私たちの位置から見ると、まさに別荘の上に覆いかぶさっているように見えた。
「今晩あたり、ちょっと手を伸ばしたら煙草がつけられるみたいな感じになるんじゃないかしら」
別荘の中は涼しかった。ベネシアンブラインドが夕方の白っぽい光をさえぎっていた。洞窟《どうくつ》に入ったような感じだった。召使いが総出で私たちを迎えた。ごつごつの体に皺だらけの顔をした年寄りの男女。虚《うつ》ろな笑いの青年。恥ずかしそうにドアのところから私たちの方をのぞいた少女は、短かすぎるスカートをいじっていた。私は二階の一室に通された。老人の一人が荷物を運んでくれた。老人がベネシアンブラインドを開けると、目の前にベスビオが迫っていた。頭上に黒い煙の渦《うず》が巻き上がり、それがゆっくりと消えていくと、また新しい煙の渦が吹き出した。
「ラクリマ・クリスティでも召し上がりますか」
老人が弱々しい嗄《かす》れ声で言った。
私はうなずいた。
老人は歯の抜けた口で笑い、急いで部屋を出て行った。老人とはとても思えない機敏さで、まるで私が飛びかかるのを避けるとでもいったふうだった。ほどなく老人は葡萄酒の瓶とグラスを持って戻ってきた。
「名前はなんていうの?」
私はイタリア語で話しかけた。
「アウグスティノと申します」
犬のような愛想笑いだった。
葡萄酒はジーナの言う通りだった。レストランなどでは絶対にお目にかかれそうもない代物《しろもの》で、まさに葡萄園で葡萄を育てる者だけにゆるされる格別の味わいであった。
廊下をざっと一回りして見た。きれいなタイル張りの、足洗いやビデも整った風呂場があった。私は風呂に入り、髭を剃り、着替えをすませて階下に降りていった。
アウグスティノがテーブルの用意をしていた。ジーナはどこかと訊くと、入浴中だと答えた。
私は外に出てみた。別荘から少し離れたところに農夫たちの建物がかたまっていた。赤土で壁を塗った大きな家には何世帯もの家族と家畜が一緒に住んでいるらしかった。井戸端に水を汲《く》んでいる女がいた。女は短い黒い木綿の服を着ていたが、体の動かし方からその一枚の服の他には何も体に着けていないのがよくわかった。女は私を見ると、汚れた茶色の顔に真っ白い歯をむき出してにやっと笑った。葡萄を絞る圧搾機《あっさくき》のある石の建物があり、その傍らで年寄りの女が野牛の乳をしぼっていた。野牛はじっとして、ゆっくり口だけを動かしていた。
私は別荘の方に引き返しながら、いったいジーナは何と思ってこんな辺鄙《へんぴ》なところに来ようと言いだしたのだろうと考えていた。ともあれ、人里離れて誰にも会わずにすむというのは幸いだった。しかし、マックスウェルはなぜ私たちを尾行しようとしたのだろう。私がいったいなにを知ってると思っているのだろう。
別荘に近づくとピアノの音がして、グノーの≪ファウスト≫の中のアリアが聞こえていた。私は階段を登って左手の部屋に入って行った。シャッターを下ろして明かりをつけ、白いすっきりしたイブニングガウンを着たジーナがピアノを弾いていた。髪に白い花を挿《さ》し、胸に血のように赤いルビーを下げていた。私を見ると、彼女はにっこり笑って歌い続けた。
歌い終わるとジーナはぐるりと椅子を回した。
「ふーっ。暑いわねえ。私に注《つ》いでくれない? あそこよ」
彼女は顔で部屋の隅を指した。
「何がいい?」
「水はある?」
「ああ」
「じゃあホワイトレディーをお願い」
私の立てる音が大きすぎると言って彼女はしかめっ面をした。
できあがったカクテルを渡しながら、私はジーナに尋ねた。
「こんなところに来ようと言った、本当の理由は何だったんだ?」
ジーナは私を見上げた。片方の手でそっとピアノのキーを触っていたが、唇の端にじわじわと笑いが浮かんだ。彼女は眉を持ち上げて言った。
「わからないの? ここだったら、私は好きなことができるでしょう。知らぬは亭主ばかりなりって言うじゃないの」
彼女は突然天井を向いて高く笑った。
「駄目ねえ、ディック。あなた、イタリアってところが全然わかってないのね。戦争中二年間もイタリアにいて、それでイタリアのこと、なにもわかっていないじゃないの」
があんとピアノの鍵盤をたたき、一気にグラスを空けると、ジーナはまた弾き始めた。
私はジーナのピアノを聴きながら、そこに立っていた。照れくさいような、何と言っていいかわからない気持ちだった。ジーナは私の今までに会ったことのない、まったく変わった女だった。私はジーナがほしかった。しかし、何かが私の気持ちを抑えていた。生まれつきの性格か、やくざな脚のせいなのか、自分でもわからない。ピアノの音が熱情の堰《せき》を切って盛り上がり、ジーナが歌い始めた。そこへアウスグスティノが現われて食事の用意ができたことを告げ、甘美な一時は終わりを遂《と》げざるえなかった。
食事に何が出たかはもう憶えていない。ただ葡萄酒だけは素晴らしかった。まろやかな舌ざわりに絹のような滑らかな喉ごし、豊かで芳香な香り、すべてをそなえた黄金の美酒とでも言いたくなる酒だった。食後には木の実に果物、そしてエルバ島の強い酒アレアティーカが出された。ジーナは後からあとから私のグラスに注いだ。まるで私を酔わせようとしているようだった。ジーナの美しい胸のふくらみが肩のないドレスの端にあふれていた。胸のルビーが燃えるように赤く、彼女の眼は大きく緑色に輝いていた。私はすっかり酔ってしまった。動悸《どうき》が高まり、耳鳴りが夜の静寂の中で回り続けている発電機の音と混じり合った。
コーヒーとリキュールがピアノの部屋で出された。ジーナはピアノを弾いたが、何となく落ちつきがなく、曲から曲を飛び飛びに弾いてみたり、明るいメロディーから急に重苦しいハーモニーの曲に変えたりした。彼女は弾きながら、私から目をはなさなかった。目は情欲に燃えているかのように輝いていた。突然ジーナが両手でめちゃくちゃにキーをたたいて立ち上がった。彼女は自分で一杯注ぎ、それを持ってソファーに坐っている私のところにやって来た。そして私の胸に寄りかかった。私の唇の下でジーナの唇は熱く開いていたが、しかし、投げ出された体は心なしか緊張がとれていなかった。
「あなたが、こんな好い人じゃなければよかったのに、ディック」
ジーナはかすかにつぶやいた。私がなぜそんなことを言うのかと訊いてもジーナは答えず、ただ微笑《ほほえ》みながら私の髪を撫ぜるだけだった。そして次の瞬間、彼女の微笑みが消え、ジーナは不思議な燃えるような目つきで耳を澄ました。
飛行機の音が聞こえていた。飛行機は低くエンジンは不連続音を立てていた。私ははっと耳を澄ませた。今にも墜落の音がしそうであった。別荘の真上を飛んでいるらしく、翼に流れる空気の音までがはっきりと聞きとれた。エンジンをふかす音がし、一瞬、音が途切れ、もう一度大きくうなって止まった。
「降りたらしいな」
私は立ち上がろうとした。ジーナが私を引き戻した。
「ここいらはよく飛行機が通るのよ。メシナから来るんでしょう」
私は目をこすった。メシナからの飛行機が東から西の方向に飛ぶはずがないことをジーナに説明しようと思ったのだ。しかし、私には急にそんなことがどうでも好いように思えてきた。酔っていて面倒臭かった。
ロベルトが入ってきた。ノックをせずに入って来て、動物的な怒りに燃えた目つきで私をにらんだ。ジーナは私を突き放して立ち上がった。二人は私に聞こえない声で何か言い合っていた。ロベルトはまっすぐジーナを見つめていた。彼の顔が欲望にうずいていた。その顔が何をもとめているかわからないほど私は酔ってはいないのだ。私はシャハルヤール王の妃《きさき》と黒人の話を思い出しておかしくなってしまった。私の笑い声にジーナが振り返った。ジーナの顔から血の気が失せ、怒りのために目は大きく真っ黒であった。彼女はロベルトを帰して私の方にやって来た。
「何がおかしいの?」
ジーナの声は怒りで震えていた。
私は笑いが止まらなかった。酔っていたせいだと思う。何としてもおかしかったのだ。ジーナは私の前に覆いかぶさるように立っていた。顔は真っ青だった。
「やめてよ。やめてったら」
彼女には私の笑うわけがわかったらしかった。彼女はいきなり私の顔を打った。
「やめてって言ってるじゃないの」
ジーナは叫んだ。
ジーナの声が興覚《きょうざ》めだったのか、顔を打たれたからか知らないが、とにかく私はようやく笑うのをやめた。
ジーナは私の前に立ちふちがったままだった。もう一度うたれるかと思った。彼女の顔は興奮で歪んでいた。
「私はナポリのスラムの生まれなんだからね……」
彼女はそれ以上言わず、くるりと背を向けると飲物のテーブルへ歩いていった。ブランデーグラスにコニャックを注ぎ、私のところに戻ってジーナは言った。
「さあこれを飲んで、もう寝てちょうだい」
コニャックは飲みたくなかった。少し酔いが覚め、私は不安を感じはじめていた。
「何だって僕をこんなところに連れてきたんだ」
私はろれつが回らず、ジーナの顔もぼんやりしていた。
彼女は私の隣に腰を下ろした。
「ぶったりしてごめんなさい、ディック。私、どうかしてたんだわ。厚さのせいよ、きっと」
「ここは誰の別荘なんだ?」
ジーナは私の顔を自分の胸に押し当てた。
「あなた、どうしてそういろんなこと聞くの。どうして何でもありのままに受け取らないの」
彼女はまた私の髪を撫ぜた。こめかみにジーナの指が触れ、それが何ともいえず快《こころよ》かった。
「目をつぶりなさい。歌を唄ってあげる」
静かなナポリの子守歌がジーナの口から流れた。私は瞼が重くなり、いつの間にか私の手の中にあったグラスを飲み干した。ジーナの声が耳許で近づいたり遠のいたりしていた。物憂《ものう》い蜂の羽音のようでもあり、浅瀬を走る水音にも似ていた。私は目を閉じた。ジーナの歌につれて、部屋全体が大きく波打っていた。
やがて私は誰かに助け起こされ、階段を登って自分の部屋に運ばれていた。イタリア語で話すジーナの声が聞こえた。
「これで眠るわよ」
その声は遠いところで響いた。答えているのはロベルトの声だった。ただ、「はい」とだけ言った。
私は眠ってはならぬと頭のどこかで感じていた。ぐるぐる回転している頭を何とかして抑えようと思った。私は真っ暗な部屋のベッドに置き去りにされていた。部屋の中にはそよそよと吹く風の動きもなかった。部屋は息がつまるほど暑く、急に吐き気がつき上げてきた。私はベッドから転がり出て部屋を手探《てさぐ》りで横切り、洗面所の流しに走った。かろうじて間に合った。冷や汗がどっと吹き出した。しかし気分は快くなり、頭もはっきりしてきた。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさした。人里離れたこんな別荘にジーナのような女と来ていながら、ベッドに運ばれるほど酔いつぶれるなんて。
流しにもたれながら、タオルで顔の汗を拭いた。別荘は静まりかえっていた。発電機の音も止まり、人の声もまったく途絶えていた。私は時計を見た。夜光塗料の文字盤は一時過ぎを示していた。
気分はすっかりよくなっていた。流しをゆすいで顔を洗った。顔を拭きながら私はジーナがなぜあんなに酒を勧めたのだろうかと考えた。酔いつぶす気だったのだろうか。彼女は酔った男と寝る流儀なのだろうか。ジーナはこの部屋にやってきたかも知れない。私はふとロベルトの表情や私が笑ってジーナが怒り出した時のことを思い出した。私はまた不安を覚え始めた。
タオルをかけ、手探りでドアに向かった。ジーナの部屋は廊下伝いのどこかに違いない。私はもう酔ってはいないかった。部屋の真中まで行って私はスーツケースのなかに懐中電灯があることを思い出した。スーツケースは窓際の椅子にあった。留金《とめがね》に手をかけたちょうどその時、私は窓に閉じたシャッターの合わせ目が赤い光の線になって見えているのに気がついた。私は鍵をはずしてシャッターを開いた。
目の前の光景に私は唖然として立ちつくした。四角く仕切られた窓一杯に黒々とベスビオが迫り、不気味な火焔《かえん》に似た輝きが背後の空を染めていた。ベスビオの頂《いただ》きから、幅広い二条の赤い流れが蛇のように私のいる方に向かって流れていた。それはちょうど、山の斜面にある何物かをつかもうとして拡げられた巨大な二本の火の指のようであった。手の掌《ひら》や手首に連なる腕の部分は火口から吹き上がるまっ赤な火柱であった。蒸気やガスが空をめがけて大きな雲のかたまりとなって迫り上がり、一面に天を焦《こ》がしていた。星も光を失っていた。
私はゆっくりと部屋の中に向き直った。部屋は妖しい光に満たされていた。私はスーツケースから懐中電灯を取り、ドアに向かった。目の前に男の影が立ちはだかった。それは熔岩の赤い輝きに照らし出された私自身の影なのであった。
私はドアの把手を回した。びくともしなかった。反対の方向に回してみた。やはり動かなかった。私ははっとした。閉じこめられた恐ろしさに、私はうろたえてドアの把手をゆさぶった。恐ろしい熔岩の輝きを背後に感じながら、私は部屋の外に出ようと必死であった。ドアは開かなかった。鍵をかけられていたのだ。ぞっとした。火山が爆発する。私は一人、灰に埋もれて死ぬのだろうか。助けを求めようとして、本能的に私は声を飲みこんだ。私はすばやく窓のところに戻り、そこに立って燃え上がる山の圧倒的な姿を見上げた。
動悸は割れるように激しかったが、頭は冴えていた。爆発はしていない。少なくとも今のとこはまだ爆発ではない。昨夜より激しかったが爆発にはいたっていない。ポンペイを焼きつくした時とは違うのだ。ガスはますます激しく噴き出していた。しかしあたりを照らしているのは流れ出た熔岩である。別荘はまだ大丈夫だ。とすればドアが開かないと言ってうろたえることはないのだ。金具がちょっと故障しているだけなのかも知れない。
私はもう一度ドアを開けようとしてみた。間違いなく鍵がかけられていた。私の頭に、ミラノのエクチェルシオーレでの悪夢が甦《よみがえ》ってきた。額から汗が噴き出すのを感じた。何も関係ないと自分に言い聞かせようとした。しかし、なぜ鍵が? ジーナはなぜわざわざ私を連れ出し、足腰の立たぬほど酔わせたのか? ここは誰の家なのか?
マックスウェルが言っていた。「君が何と言おうと、君は一役買っているんだからね」そしてあの男、シャーラーだという男がナポリにいるとヒルダは言った。私は懐中電灯をつけてみた。白いまっすぐな光が走り、それが私に落ち着きを与えた。私は煙草に火をつけた。マッチを持つ手は震えていた。少なくともふい打ちは免れたのだ。私はベスビオを見上げた。夜空は一面に燃え上がっているようだった。失楽園の一場面を思わせた。一台の車がアヴィンに続く道路を突っ走っていた。車は私の見ているところで止まり、ヘッドライトが消えた。ひっそりした階下のどこかでドアの閉まる音がした。われ知らず私は身を堅くした。階段がきしるのを聞いたような気がした。そして突然、私は誰かが私の部屋に向かってやって来るのを感じた。
私はあわててシャッターを閉め、ドアの方に行った。額に汗がにじみ、懐中電灯の金属の筒が滑りそうだった。けれども、その重みは私に勇気を与えた。ドアに耳を押しつけて外の様子をうかがった。ドアの外に人の気配があった。音が聞こえたわけではない。しかし、私にはわかったのだ。そっと鍵が射し込まれている。私は体をこわばらせ、ドアが開いたとき陰になるように後退《あとずさ》りした。
真っ暗な中でドアの取っ手が動いているのがわかった。ドアに当てている私の手に、かすかにドアの押される感じが伝わってきた。重い懐中電灯を振り上げて構えた。それを振り下ろす間もなく、男は私のベッドに近づいた。私は廊下に抜け出した。厚いカーペットで足音はしなかった。廊下のはずれのシャッターが閉まっていない窓から、光が流れこんでいた。階段の端で足を止めた。別荘の内部はまったく死んだように静まりかえっていた。私が何かにつまずくのを待ち構えているのではないかとさえ思えた。
階段をおりるべきかどうか迷っていると、私の部屋で叫び声がした。
「ロベルト! アウグスティノ!」
目の前の手洗いのドアが少し開いていた。私はそこに身を隠した。私の部屋から駆け出してくる音がして、廊下に懐中電灯の光が走った。
「ロベルト! アウグスティノ!」
誰かが傍らをすり抜け、階段を飛び降りていった。丈の低い人影がちらりと見えた。廊下のはずれに近い部屋のドアが開き、こっちへ急いでやって来る人影があった。私の前を通り過ぎる時、男は懐中電灯をつけた。壁に光が反射し、それがロベルトであることがわかった。黒い髪を振り乱し、不機嫌な顔だった。シャツ一枚で、ズボンのボタンをはめながら走っていた。彼が目の前を通り過ぎると、後にかすかな汗と香水の匂いが残った。香水はジーナのものであった。
ロベルトは私の部屋をざっとのぞき、すぐ戻ってきて階段を降りていった。私は手洗いを出て廊下を進んでいった。最初に来た男が誰であるかはわかっていた。私は真相を知りたかったのだ。ジーナは私を連れ出した。そして歩けなくなるまで酒を飲ませた。私は自分が冷静に落ち着き払っているのに気がついた。ジーナともこれで終わりだ。この別荘が最後なのだ。そして私が少し強気に出ればジーナは本当のことを言うだろう。
ロベルトの現われたドアを入った。部屋はシャッターが降りていた。暑く、むせかえるような空気が淀《よど》んでいた。私の息遣いが荒くなった。恐れではなく、興奮のためであった。階下では足音が入り乱れていた。後ろ手にドアを閉めると物音は聞こえなかった。鍵がさしこんであったのでそれを回した。眠そうな声がした。
「捕えたの?」
間違いなくジーナだった。私の懐中電灯が大きなダブルベッドを照らした。
ジーナは異様な空気を察したらしく、あわててベッドに起き上がり、むきだしの肌にベッドの上掛けを引きつけた。長い髪がじっとりと乱れ、唇ははれぼったかった。彼女が声を殺していった。
「誰?」
「ファレルだ」
そう答えながら、私はこの女に自分はいくらかでも惹《ひ》かれていたのだと言うことが信じられなかった。
「何か着ろよ。話があるんだ」
私の声は嫌悪で嗄《かす》れていた。
「声を立てたら承知しないぞ。ドアは鍵がかかっているんだ」
「何の用なの?」
ジーナは笑顔を作ろうとした。しかしその声は不安に震え、顔は娼婦のように表情のない笑いにしかならなかった。
ジーナのガウンが床に脱ぎすててあった。私はそれを拾った。ロベルトが漂わせていったあの香水が匂った。私はそれをジーナに放った。
「着ろよ」
彼女は上掛けの下でガウンを体に巻きつけた。私はベッドの端に腰をかけた。懐中電灯でジーナの顔を照らした。
「さあ、ここは誰の家なんだ」
ジーナは答えず、横になって手で光をさえぎった。私はその手を乱暴に引き戻した。
「誰の家なんだ」
ジーナはなお黙ったまま私の顔を見ていた。私の嫌悪が怒りに変わった。怒りは自分自身の間抜けに対するものだった。私はジーナの腕をねじ上げた。彼女は痛みにあえいだ。私の怒りがただごとではないことを感じたのであろう。ジーナが口を開いた。
「お願い、乱暴はよしてよ。ここはあなたの知っている人の家よ。ミラノで私と会ったでしょう」
「シャーラーか」
「そうよ。シャーラーの家よ」
思った通りだった。私はまっすぐ罠《わな》の中に踏みこんだのだ。ジーナをひっぱたいてやりたかった。私は急いで立ち上がり、窓のところへ行ってシャッターを開け放った。ベスビオの妖しい光が部屋の中を照らした。私は背後のベッドでジーナが息を飲む声を聴いた。バルコニーごしに平らな地面に目をやると、月光と溶岩の火照《ほて》りの両方を受けてサフラン色に染まった地面は、雪の斜面に燃える夕映えのようであった。私を追って外に出た人影がその中に揺れていた。私はベッドに向き直った。私はすっかり自分を取り戻していた。
「奴が僕を連れ出すように言ったのか」
「そうよ」
ジーナの声はほとんど聞きとれないほど小さかった。彼女は眼を大きく見開いて私を見つめていた。真っ青な顔だった。
「酒を飲ませたのも奴の指金《さしがね》か」
「そうなの。でも、ディック、仕方なかったのよ……」
「あいつは嫌いだったんじゃないのか」
「そうよ。そうなのよ。でも……」
「何で僕を連れ出したんだ。殺そうとしたのか。僕が奴の正体を知ったんで……」
「ちがうわよ。あなたには何もしないわよ。ただ、何かほしい物があるのよ」
「ほしい物?」
私はまたジーナの腕をつかんだ。
「何なんだ」
「知らないわよ」
私は怒ってジーナをゆさぶった。
「何をねらったんだ」
「だから、私は知らないって言ってるでしょう」
私は突然あることを思い出した。そして、その意味に気がついた。
「カサミチオラに行った時、君は何で僕の足にあんなにこだわったんだ?」
ジーナは答えなかった。私は同じことを繰り返した。
「君は僕から脚を取りあげようとしたね。あれも奴に言われたのか」
ジーナはうなずいた。
「なぜだ」
「ねえお願い。私は何も知らないのよ。あの人がそうしろって言ったの。私はそれしかわからないのよ」
「いたんだな、カサミチオラに」
「ええ」
私には次第にわかってきたのだ。ピルゼンのホテルで酔った夜、私が目を覚ますと|傍(」かたわ)らに私の義足が突っ立っていた。私は思わず笑い出した。自分でもおかしかった。私は何と馬鹿だったのだろう。
「何でそんなに笑うの?」
ジーナの声は怯《おび》えに震えていた。
「わかったんだ。全部」
私はジーナを見下ろして立っていた。彼女が私をだましたわけを知りたかった。
「あいつに惚れているのか」
それ以外に説明がつかないのだ。
ジーナはきっとして起き上がった。ガウンの前が乱れるのも平気だった。
「あの人は嫌いだって、前にも言ったじゃないの。あいつは、気違いなんだから……」
「それじゃあ、なんで言いなりになるんだ」
「そうしないと、私を破滅させるのよ」
ジーナはまた横になり、ガウンの前を掻《か》き合わせた。
「あいつ、私のこと知ってて、言う通りにしないと主人に話すのよ」
「ロベルトのことか」
「違うの、ロベルトじゃないわ」
ジーナは目を伏せた。
「私にはどうしても必要なものがあるのよ。それは……」
開けた窓から人声が聞こえた。ジーナはもう話そうとしなかった。
「もう行かなきゃ駄目よ」
私はかまわなかった。ワルター・シャーラーのことを考えていたのだ。シャーラーは強い男だった。しかし、それが誰であろうと女をゆするような人間ではなかった。それにトゥチェックの問題に巻きこまれるはずもなかった。それまで疑惑であったものが、すべて説明されたような気がした。下で私を捜して動き回っている男が誰であるか、私にはもはや疑念の余地はなかった。
「あいつの名前はサンセヴィーノだろう」
ジーナは私を見上げた。
「あなた、それ何のこと」
「奴の本当の名だ」
私はいらいらしてきた。
「サンセヴィーノなんだろう?」
ジーナは本当にサンセヴィーノを知らないらしかった。
「いいよ。わかったよ。でもどうでもいいよ。とにかく僕は奴に近づかないようにしよう。ドクター・サンセヴィーノ。あいつは人殺しだぜ」
「ドクター・サンセヴィーノ?」
ジーナが顔をしかめた。
「あの人、お医者さんだって言うの?」
そしてゆっくり、合点のいった様子で首を振った。
「そう、もしかしたら、本当かも知れないわ」
イル・ドットオレ。握りしめた手に力が入った。奴を捕らえさえすれば……。私は父の失踪に半狂乱になっているヒルダ・トゥチェックのことを思った。もう殺されてしまっただろうか。それとも、かわいそうにトゥチェックは拷問を受けているのだろうか。
「ヤン・トゥチェックはどこなんだ」
「トゥチェックなんて知らないわよ。聞いたこともないわ」
ジーナは枕に横になった。
「お願い、もう行ってちょうだい。これ以上ここにいると危ないわよ」
私は迷った。ジーナは話してくれそうになかった。実際、トゥチェックについては、彼女はまったく知らないのかも知れなかった。サンセヴィーノは必要以上のことをしゃべりはすまい。私は窓際に寄ってみた。熔岩の赤い火照りの中で、外は静まりかえっていた。何ひとつ動くものはなかった。追っ手は別荘の裏手に回ったらしい。その間に正面から逃げる道もありそうだった。私はドアのところに戻り、そっと鍵をまわした。廊下沿いの壁は窓からの光を受けてほのかに白んでいた。片側は真っ暗だった。家の中はしんとしていた。
「ディック」
ジーナがベッドの上に起き上がる音がした。振り返ると彼女はハンドバッグを探っていた。
「早まったことしないでちょうだい。ここは危険よ」
それには答えず私が行こうとすると、ジーナは鋭くささやいた。
「ちょっと待ちなさいよ」
彼女はベッドを滑り降り、裸足《はだし》のまま私に近寄ってきた。
「これ持っていってよ」
掌に金属の感触があった。私は小さなピストルを握っていた。ジーナは私の腕を握った。愛撫のようであった。
「私を憎んでいるでしょうね。でも、やっぱり世界が違ったのね。この家から逃げなさい。もう戻ってきちゃ駄目よ。できるだけ早い飛行機でイギリスに帰るのよ。住みよくて安全なところにね」
ジーナはもう一度私の腕を力をこめて握り、ベッドに戻った。廊下に出て後ろ手にドアを閉めた。家の中は死んだようにひっそりしていた。静けさがうなりをあげているかとさえ思われた。私はベスビオの頂上で噴き出すガスの音が響いているのに気がついた。給水装置の空気抜きから噴き出す空気のように、シューシユーという絶え間ない音が鳴っていた。
階段を下りた。階段にはカーペットが敷かれていず、私の義足で音を立てずに降りることはとてもできなかった。付近の窓のシャッターはみんな閉じていた。階段の下には底なしの闇が口を開けていた。追っ手が庭から戻ってくる場合を考えて懐中電灯はつけなかったが、その重みは頼りになりそうな手応えだった。私はジーナのくれたピストルを固く握りしめていた。
道は二つあった。サンセヴィーノと対面するか、逃げるかの二つであった。「この家から逃げなさい。もう戻ってきちゃ駄目よ」
ジーナはそう言った。彼女の言うとおりかも知れない。闇の中で、私の勇気はしぼんでいった。しかし、うまく逃げおおせることさえできれば、マックスウェルに会ってすべてを話せる。証拠は私がもっているのだ。義足の中に入って私の体にくくりつけられているのだ。これはもはや疑いの余地がなかった。
手探りで玄関へ回った。鍵がかかっていた。キーもなかった。私を取りまく闇が一斉に立ち上がって私に迫ってくるかと思われた。逃げなくてはならない。この暗闇で一人では闘えない。私は震え上がって向き直り、ホールの窓に向かった。もしあの男がやってきたら……。肌を這うあの指の感触を思うとぞっとした。ホールの窓のシャッターには南京錠がおろされていた。食堂も同じだった。囚われの恐怖が私を襲った。閉所恐怖症の悪夢であった。ホールに戻って私は迷った。使用人の部屋を通ることを考えている時、夕方ジーナがピアノを弾いてくれた部屋のドアが少し開いていて、鈍い光が洩《も》れているのに気がついたのだ。ホールを横切ってそっとドアを押してみた。救われた思いだった。ドアに向かい合って、四角い窓が赤く浮き上がっていた。逆光を受けて部屋の中のものが黒い影になっていた。シャッターが開いてさえいれば、しめたものだ。私はそう思ったのだ。私はまっすぐ窓に向かっていき、留め金をはずそうとした。
物音一つしない中で私は思わず手を止めた。ピアノの椅子に誰かが坐っているように思えたのは、気のせいだったろうか。私は身体がこわばって身動きがならなかった。耳の奥で私の動悸が鳴り響いた。何事も起こらなかった。もう一度そっと手を伸ばして窓を押した。涼しい夜気が顔に当たった。目の前に広がる葡萄畑は死の舞台のように赤く照らされていた。
「今夜は馬鹿に暑いねえ、ファレル」
私はぎょっとして飛び上がった。声は私の背後、ピアノのあたりから聞こえてきた。
「僕も眠れなくてね」
非常にアメリカ風の声だった。しかし闇の中で聞くと耳|障《ざわ》りな子音の響きが気になった。ピアノが鳴り出し、北軍の古い歌、≪ジョージアのマーチ≫のメロディーが流れた。シャーラーはいつもこの歌を口笛で吹いていた。口笛を吹いて毒ガスで腫《は》れた顔の痛みをこらえていたのだ。私は懐中電灯をつけた。光は磨《みが》かれたグランドピアノを飛び越えて鍵盤の上の顔、すなわちシャーラーの顔に当った。しかしそこにはシャーラーの顔はなかったのだ。
私はもう少しで男の名、本当の名前を呼ぶところだった。かろうじて私は出かかった声を飲み込んだ。もう少し引き延ばした方がいい。だましおおせるとしたら……。私はあわてて言った。
「びっくりしたなあ、君だったか。でも、何でこんなところにいるの? ミラノにいるとばっかり思っていたよ」
「僕の家なんだ。懐中電灯を消してくれないかね。眩《まぶ》しくてかなわないよ」
私は一瞬迷った。眩しくしておけば、その間にジーナのピストルをポケットから出すことができる。相手には見えないだろう。しかし、私が撃ちそこねたら、その時は……。こちらから相手の手が見えないのも都合が悪かった。しかし敵も武器がなかったら、こんなところで私が窓の明かりに引かれてくるのを待っていはすまい。まったく何事もなかったように見せかけておかなくてはならないのだ。私は懐中電灯を消した。その一瞬の闇で私は一発撃ちたかった。
「眠れないのかね?」
「少し眠ったんだけどね、ちょっと気分が悪くて。飲み過ぎたらしいだ」
「どこにいたんだ。庭を散歩でもしていたのかね」
「いや、だから気分が悪かったもんでね。ロベルト、とかアウグスティノって呼んでる声がしてたけど、あれは君だったのか」
「そう、あれは僕だよ。だけど君は本当にどこにいたのさ。君が来ているって聞いたから、ちょっと挨拶しようと思って部屋に行ったけど、いなかったね。どこにいたのかね」
「うん、だから気分が悪くなってしまって、その、トイレに行ってたんだ」
「トイレか」
彼は突然笑い出した。これで私が何も気づいていないと思いこませることに成功したらしい。
「どうだね、今夜の花火大会は。ちょっとした見物だろう。ここからアヴィンへ行く途中の道に野次馬が集まっているよ」
「信じられないような景色だね。危ないだろうか」
「さあ、どうかね。ここに来て二年になるけれど、こんなのは初めてだな。そこまではほとんど静かだったしね」
「ここは君の家だと言ったね」
「そうだよ。ジーナは言わなかったのか」
「ああ。悪いことをしたな。知ってりゃ来なかったんだ」
「ジーナもそう思ってわざと言わなかったんじゃあないのかな。ジーナとは長いつきあいでね。ジーナが君を連れてきたいと思ったんだから、僕はかまわんさ」
妖《あや》しい光に目が慣れるにつれて、私は彼が片時も私から視線をそらさずにじっと見据えているのがわかってきた。こんなに興奮していなかったら、この時私は自分の姿が実に滑稽なものに思えたに違いない。それが何であれ、彼が何物にもまして手に入れたがっている物が、私の義足の中に隠してあるのだ。そして彼はそれをどうやって私から取り上げていいかわからないのだ。
「そろそろ寝ようと思ってたところなんだ」
私がそう言うと、彼はうなずきながら立ち上がった。
「僕もなんだ。だがその前に一杯やろうと思ってね。君は何にする?」
「僕はいらないよ」
「おいおい、そんなこと言うなよ。僕に独りで飲めって言うのか」
「いいかい、僕は今日はもう飲み過ぎているんだ」
「馬鹿言っちゃいかん。つき合えよ」
彼はすでに飲物の並んだテーブルのところにいた。手もとは見えなかったが、グラスの触れ合う音がした。私は出て行こうとしたが、彼に声をかけられた。
「さあ、ファレル。コニャックのストレートだ。これがいいだろう」
「本当にもう、飲まない方がいいんだ」
私はドアの方に後退《あとずさ》りしながら言った。
「いい加減にしろよ。一杯くらいどうってことないじゃないか」
声が少し鋭くなっていた。赤い光が彼の目に当たり、二つの目は闇の中で燃える石炭のように光った。コニャックには間違いなく毒が入っているだろう。とはいえ、これを受け取らないと彼はほしい物を手に入れるためにどんな手に訴えるか知れたものではないのだ。
「それじゃあ、もらうことにするか」
「そうこなくっちゃあ。さ、ぐっといこう」
「乾杯」
私はグラスを口に運んだ。確かにコニャックであった。グラスを傾け、私は中身を着物の胸に流した。闇の中ならわかるまいと思った。ところが彼は見ていたのだ。
「どうしてそういうことをするんだ」
私はぎくりとした。彼は知っているのだ。彼は静かに、しかし険《けん》のある声で言った。その言い方は、もはやアメリカ訛《なま》りを完全に忘れていた。医師サンセヴィーノが英語で話しているに過ぎなかった。
二人は無言で睨《にら》み合った。私は胃袋に穴が開いたような気がし、髪が逆立つのを覚えた。芝居は終わった。私たちは対面したのだ。私は彼の正体を、そして彼は私が知っているということを、それぞれ承知しているのだ。私はポケットに手を入れた。これがいけなかった。それを見て彼は私が武器を持っていることを知ったのである。彼はピアノに駆け寄った。譜面代に手を伸ばした。鈍い金属のつやが私の目に入った。彼がそれを取りあげた時、私はジーナのピストルを握っていた。
その時である。窓一杯に毒花のような焔《ほのお》が広がり、空をめざしてどろどろ燃え上がったのだ。轟然《ごうぜん》たる音響が天を閉ざした。何千という急行列車が一時にトンネルを通過していく音であった。ぽっかりと口を開けた地獄の門を破砕《はさい》する魚雷の響きであった。大地も震えるまでに増幅されたライオンの吼《ほ》え声であった。別荘は、その建っている地面とともに家鳴《やな》り震動し、まさに地球が他の天体との衝突によって真っ二つに裂けようとしているのかと思われた。
サンセヴィーノはピストルを構えたまま、電気に打たれでもしたように窓を見上げていた。赤い光の中で彼の顔に汗が噴き出していた。サンセヴィーノの視線を追って窓の外を見ると、目の前でベスビオの山頂が紅蓮《ぐれん》の焔につつまれていた。二本の巨大な火柱が山の斜面を駆け登り、火口からは太い火焔が立ち昇っていた。その根元は赤く、空に広がるにつれてその先端はおどろおどろしく黒ずんで、あたかも断末魔の苦しみに身をよじる蛇のように渦巻きながら空を焦《こ》がしていた。黒い煙の幕をつん裂いて、鋭く稲妻が走った。
轟音は信じがたいほど長く続いた。怒れる山の響きであった。山は飽満した岩の腹から熱風を吹き上げているのだ。蒸気と溶岩が火口にあふれ、熱風は数千フィートの上空に達していた。
耳を聾《ろう》する強音と、その驚くべき光景を眼前にして、私はまったく身動きもできなかった。私の脳裏にポンペイの光景が浮かんだ。日常の行動の最中に熱風に捉えられた人間。それが二千年の後に観光客の目を愉しませたのだ。同じことが起ころうとしているのだろうか。この音は、山を覆う地の層が木端微塵《こっぱみじん》と空に舞う音なのだろうか。そして私たちは、後世の考古学者の研究に供せられるべく、今ここに埋められようとしているのか。
こうした恐れと、半生の想い出が一瞬のうちに私の頭の中を走りすぎた。そして、この脅威の情景を見まもるうちに、私の耳の中で、世の中のあらゆる音が噴き上げる火山の音響に飲み込まれてしまった。
始まるのが突然であったように、止まるのも断ち切るようであった。突然の静寂は大音響よりもさらに脅威に満ちていた。かすかな気体の流れる音だけが暗黒の空高くで鳴っていた。まったく何事もなかったように、そして地上の生命がすべて死に絶えてしまったように静かであった。四角に区切られた窓から見える葡萄園もオレンジ畑もまったく平静で涼しげであった。あたりを照らす光だけが変わっていた。サフラン色のまだらな光はもう見えず、見えるかぎりのあたりは、地獄そのもののように赤かった。月は見えなくなっていた。光を放っているのは灼熱《しゃくねつ》の山ばかりであった。
ゆっくりと火勢が衰えていった。地平線に沈む太陽を見るように、赤い光が失せていった。私は山を見上げた。二条の熔岩の流れも徐々に輝きをなくしていった。山の上に幕が降り、赤い山の怒りを覆っていた。と見る間に真っ黒な影となった。山から光が消えると、周囲はまったくの闇であった。葡萄園もオレンジ畑も、一切が私の視界から去った。夜空の中に四角い額縁を区切っていた窓そのものまでが闇の中に消えてしまった。
すると、何かが落ちてくる柔らかい音が聞こえてきた。音はたえまなく執拗に続いた。みぞれの音に似ていた。しかしみぞれではなかった。強い硫黄《いおう》の臭いが鼻をついた。火山灰であった。
私は事態の意味を覚《さと》った。これこそ、ポンペイを埋めつくした灰の雨であった。山の歴史が繰り返されようとしているのだ。急に私は無関心に近い安らぎを覚えた。極度の恐怖に曝《さら》されると、死は当然の、避けがたい帰結だと思えてくるものだ。漆黒の闇に降る黒い雨の音を聞いて私が感じたのもそれだった。成り行きに任せるより仕方なかった。そう思ってみると、もうすべてが私を悩ませなくなっていた。
別荘の中で別の音がしていた。女の叫ぶ声であった。ドアがばたんと音を立て、頭上を走る足音が聞こえた。別荘全体が突如として生き返った。ライオンの咆哮《ほうこう》にすくみ上がった森の生物が、ホッとして走り出し、私の目の前を駆け抜けながらしきりに叫んでいた。
「車だ。はやく、はやく」
私は彼について行った。階段の上から懐中電灯の光が私に向かって飛んできた。黒い灰の幕が家の中にも垂れこめていた。光の束《たば》の中で微細な灰の粒が踊っていた。ジーナの声がした。
「どうすればいいの? ねえ、どうすればいいの?」
サンセヴィーノがロベルトに何か怒鳴っていた。私はジーナに言った。
「みな車の方に行ったよ」
「逃げなきゃ駄目よ。ロベルトはどこ? ロベルト、ロベルト!」
彼女の声は悲鳴に近かった。
「車に乗らなきゃあ。道がふさがれないうちに、車でできるだけ遠くに逃げるのよ」
ジーナのフィアットの幌《ほろ》は熱い灰が降ってきたらひとたまりもないだろうと私は思った。いずれにしろ、こんな中を車が走れるわけがなかった。砂嵐より条件は悪いに違いない。灰がヘッドライトの光を反射して壁のように行方に立ちはだかることになるのだ。
「ここにいた方がいいよ」
私が言った。
「ここにいるですって?」
ジーナは裂けるような声で言った。
「生きたまま埋まっちゃうのよ。ポンペイで見たでしょう。ああ、どうしよう。来なけりゃよかったのよ。測候所の人は何か起こりそうだって言ったんだから。でも、来なけりゃならなかったのよ。来なけりゃあ」
ジーナは自分の手を力一杯握りしめていた。よく人はこんなことをするというのを聞いていたが、実際に見たのは初めてだった。組み合わせた両手の指は真っ白になるほど力が入り、まるで自分の手をむしり取ってしまおうとでもするようであった。
「逃げなきゃ駄目よ。逃げなきゃあ。ああ、何とかしてよ」
ヒステリーの一歩手前であった。私はジーナの肩をつかんで彼女をゆり動かした。
「しっかりするんだ。何とかなるから」
彼女は私の手を振り払った。
「放っといてよ、気違い! 私は意気地なしで、泣きだすとでも思っているんでしょう。とんでもないよ。あたしはあれがほしいだけなんだ……」
彼女は全部は言わなかった。懐中電灯の光で彼女の目が飢渇《きかつ》の色を呈していた。
ジーナの顔には今まで見たことのない恐ろしい表情があった。まるで地獄からやって来た者の顔だった。
「何がほしいんだ」
「何でもないわよ」
彼女は嗄《かす》れ声を張り上げた。
「車に乗るのよ、はやく」
私を押しのけて彼女は玄関のドアに飛びついた。鍵がかかっていることを知ると、ジーナは罠《わな》に捉えられた動物のようにうろたえた。彼女は使用人の部屋をめがけて突き進んだ。廊下に蝋燭の火が揺れた。
「アウグスティノ!」
呼んだのはサンセヴィーノだった。蝋燭が止まった。
「はい、旦那様」
「上に行って窓を全部閉めてこい」
サンセヴィーノがホールに現われた。
「駄目だ。灰が濃くってどうにもならん」
「車に乗るのよ」
押しのけていこうとするジーナの腕をサンセヴィーノが掴んだ。
「駄目だって言ってるんだ。飛び出したら迷うだけだぞ。今ロベルトに発電機を回すように言った。しばらく待って灰がおさまる時をねらうんだ」
ジーナはへなへなと壁際にうずくまった。身体の中身を全部抜き取られてしまったふうだった。アウグスティノの妻も加わってきた。野牛のように鈍重に構え、片手に蝋燭を持ち、一方の手でロザリオを繰っていた。彼女の唇から、「おたすけ、おたすけ」という呪文のような祈りがいつまでも続いていた。まるでそう唱えれば灰を防げるかのように信念を持って彼女は祈った。私たちが到着した時に見かけた少女が、怯《おび》えきった顔で眼をみひらいて彼女の腰にすがっていた。
シャンデリアの電球がまたたいて、パッと部屋中が明るくなった。急に照らされた光の中で私たちは互いに顔を見交わした。灰にまみれたサンセヴィーノの顔はまったくの別人のようだった。空気は塵で濁《にご》っていた。部屋中の物にうっすらと塵の幕がかぶさっていた。爆撃直後のビルディングの中がこんな有様であったろう。
ロベルトが使用人の部屋から現われた。頭も顔も灰にまみれ、シャツの上にはおった革ジャンパーの肩から石炭がらのような燃えかすが散った。ジーナがロベルトにすがった。
「ロベルト、車に乗らなきゃあ。自動車道路まで出られさえすれば……」
ロベルトはジーナを振り放して吐き捨てるように言った。
「行けやしないよ」
ジーナはいきりたった。
「行けないはずないわよ。行けるでしょう」
ロベルトの腕にすがってゆさぶった。
「何もしない気なの? みな生き埋めになっちゃうのよ、平気なの?」
ロベルトは口の端を歪め、両手を拡げて肩をすくめた。イタリア人が匙《さじ》を投げた時に必ずやってみせる恰好だ。
「車をもっておいで!」
ジーナは命令した。ロベルトは黙って彼女を見下ろした。ジーナは叫んだ。
「車を持っておいで! 聞こえないの? 私は車がいるんだから」
ロベルトは相変わらず動こうとしなかった。
「意気地なし。恐いんだろう……」
「車がほしけりゃ、勝手に行きゃあいいんだ」
ロベルトが苦々しげに言った。ジーナはロベルトに殴られでもしたように彼の顔を見上げた。それから彼女はテーブルの傍らで上唇を撫でているサンセヴィーノに向かった。
「ねえ、車が駄目でも飛行機があるじゃない。エンコーレはどこなの?」
「ジープでナポリに行った。ためだよ、ジーナ。こうやって様子を見るよりしようがないんだ」
私はジーナが気を失うのではないかと思った。ところが、彼女はサンセヴィーノに近づき、早口でささやいた。
「じゃあ、モルヒネちょうだい」
「後で、後でだ」
短かく答えてサンセヴィーノはちらりと私の方を見た。
ジーナはねだり続けた。恥も外聞もなくジーナは哀れな声をあげた。あの目に浮かんだ飢渇の色はこのためだったのだ。サンセヴィーノが階段の方へ向かおうとした時、外のドアを激しくたたく者があった。大声で開けてくれと怒鳴っていた。
サンセヴィーノがドアを開けた。熱い空気と、息もつまるような煙と共に一人の男が転がり込んだ。腕で顔を覆っていた。全身灰をかぶって真っ白で、豆粒ほどある燃えかすがコートからバラバラと散った。サンセヴィーノがドアを閉める時、ちらりと外に目をやると、黒い底なしの闇がみぞれのような音をともなってもうもうと渦巻いていた。男は犬のように体を震わせた。
「お宅が見つかったのは、何とも幸いなことでしたなあ」
男はサンセヴィーノに言った。灰が落ちて男の顔が見えるようになった。私は言った。
「幸運の生還ですか、ハケットさん」
男は私を認め、灰だらけの顔をくしゃくしゃにした。
「これはこれは、ファレルさんじゃないか。ほほう。どうしてもわれわれは離れがたい運命にあるようだねえ。おや、奥さんも。こりゃあ素晴らしい」
彼は咳き込みながら愛敬をふりまいた。私はハケットをサンセヴィーノに引き合わせた。
「同郷のよしみってわけだね」
皮肉に響かないように私は注意を払った。ハケットはサンセヴィーノの手を握りしめた。
「どうぞよろしく。サント・フランシスコまで車で行ったんですよ。夜ベスビオを見るんなら、あすこがいいって言われたもんでね。やあ、行っただけのことはありました。家の者たちは私がいくら話しても、とても信用しないでしょう。まさに始まったその時ですよ、私がサント・フランシスコにいたのはね」
彼はすっかり興奮していた。
「いやあ凄い、とにかくすごい。あんなの生まれて初めてですよ。本当に。私は火山を見にメキシコまでだって出かけますがね」
「車は走れるんですか?」
ジーナが聞いた。ハケットは首を振った。
「とてもじゃありませんよ、あんた。いやいや、奥さん。始まったと思ったら村中の人間が出てきましてね。最初私は、皆私と同じで見物だと思いましたよ。ところが、もう連中はどんどん馬車に荷物を積んでるんだ。馬は騒ぐ、人は一杯で、えらい騒ぎです。私は馬や荷物で込む前にかろうじて逃げてきましたがね。その時、もうこれは危ないと思ったんです。それで自動車道路に向かってすっ飛ばしましたよ。その時もう灰が降り出したんです。さあ、何も見えないんです。まるっきり見えなくなっちゃったんですよ。発破《はっぱ》の後の坑道を走ってるようなもんですよ。真っ暗で」
ハケットは私の方に向いた。
「ポンペイに男と女の二人連れがいたでしょう」
私はうなずいた。
「連中に会いましたよ。私が連中のオープンカーに接触しちゃいましてね」
サンセヴィーノの顔を見ていたジーナが口を出した。
「あの人たち、何してたの?」
「やっぱり山を見てたんじゃないですかね。ここへ入ってくる分かれ道のところに止まっていましたよ。ここを教えてくれたのはあの連中なんです。灰がもっと熱くなってきたら、とても私の車の屋根はもたないと思ったもんで、こっちへ逃げてきたわけなんですよ」
「その連中って言うのは誰なんだ、ジーナ」
サンセヴィーノが言った。私が割りこんだ。
「ジョン・マックスウェルを憶えているだろう」
サンセヴィーノの目がきらりと光った。そして用心深く細まった。彼は無言でうなずいた。私が続けた。
「その二人連れが、午後ポンペイで一緒になった二人だとすれば、ジョン・マックスウェルとヒルダ・トゥチェックっていう若い女だな」
「ヒルダ・トゥチェック?」
サンセヴィーノの声は驚きのために鋭かった。
「その人は知らないなあ。でもマックスウェルは憶えているよ。もちろん」
一瞬の驚きから彼は驚嘆すべきすばやさで立ち直った。
「さあて、どうすることもできないとなると、一杯やって待つしかないな」
そう言ってサンセヴィーノは、つい先刻私と睨み合っていた部屋のドアを開けた。
ジーナが彼の腕にすがった。
「ワルター! 何もしようとしないの? このまんま、灰の中に埋まっちゃうつもりなの?」
極端な怯《おび》えがその声に現われていた。サンセヴィーノは肩をすくめて言った。
「何をしたらいいか教えてくれよ。そしたらその通りしてやるよ。いずれにしろ、君も一杯飲んで落ち着いた方がいいんじゃないのか」
ジーナはサンセヴィーノから飛び退《すさ》った。
「私が死ねばいいと思っているのね。そうなのね」
彼女の目は燃えるように光っていた。
「私も知っていると思っているんでしょう……」
「よさないか!」
サンセヴィーノの目が私の顔をかすめた。
「あなた、私を殺す権利なんてないわよ。私は死にたくないわよ。絶対いやよ。私……」
サンセヴィーノが彼女の腕を力一杯つかんだ。彼の指が腕に食いこみ、ジーナは悲鳴を上げた。
「よせっていってるんだ、わかったか、薬が切れているんだな」
サンセヴィーノはすばやくテーブルのところに行って強いコニャックを注いだ。
「さあ、これを飲めよ。しっかりするんだ。ハケットさん、あなたは何を上がりますか。コニャックにしますか?」
ハケットはうなずいた。
「そうですか。アメリカの方ですか、シャーラーさん」
「生まれはイタリアですよ。国籍はアメリカですがね」
サンセヴィーノが飲物を渡しながら言った。
「戦争が終わってここを買いましてね。それから住みついて、葡萄酒造りですよ。もう一杯コニャックはどうかね、ファレル」
「もらうよ」
「アメリカは、どこですかな」
ハケットが聞いた。
「ピッツバーグです」
「本当ですか? こいつは偶然だなあ。私もピッツバーグですよ。それじゃあドラヴォストリートの飯屋《めしや》を知ってるでしょう。モリエリの店を?」
「それは知りませんね」
「知らない? 今度ピッツバーグに行ったら真っ先にモリエリの店に行くことですな。それから、もう一軒、なんていったかな。そうだ。プリアニの店だ。ガルフビルディングのそばの、トライアングルを入った、すぐのところ。プリアニの店は憶えておられるでしょう」
「ソーダは?」
「ああ、入れてください、たっぷりと。そう言やあそうだ。持ち主は変っていますよ。プリアニの店はね。ダンスフロアができましたよ、あの店に……」
「ハケットさん、ここに見える時、灰はどのくらい積もっていましたか」
「灰ですか。そうですね、三インチか、四インチ位じゃあないですかね。そう、そんなもんですよ。私の靴にも少し入りましたからね」
ハケットはぐっと一口コニャックを吸い込むと、すかさず続けた。
「これはポンペイが全滅した時みたいになるんでしょうかね。最初に三フィートくらい灰が積もって、それからちょっと一休みあって。だから村の連中はほとんど逃げられたんだな。あとから戻っていった者がやられるんだ。もし灰が下火になったら、とにかくその隙を見て逃げなくちゃあならんでしょう。ねえ」
彼はしきりに頭を振った。
「まったく、この山にこんな力があるなんて、信じられない」
また入口のドアをたたく音がした。ハケットが言った。
「連中もやってきたんでしょう。私が戻らなければ、うまくここがわかったことにしようということにしてあったんですよ。状態が悪くなったら後から行くと言ってましたからね」
シャーラーがロベルトにドアを開けさせた。まもなく、灰をかぶった二人連れが案内されてきた。間違いなく、マックスウェルとヒルダ・トゥチェックであった。灰をかぶってその顔はとても誰だかわかる状態ではなかった。マックスウェルの額の皺《しわ》は汗と灰とで黒々とした線を描いていた。二人は入口に立って部屋の中を見回した。ヒルダとジーナはきわめて対照的であった。ジーナはまだ灰をかぶっていず、汚れてもいなかったが、その目は怯えた兎のように落ち着きがなく、身体は恐怖に震えていた。一方、ヒルダは冷静そのものであった。ベスビオも降りそそぐ灰の雨もまったく意に介さずと言ったふうだった。
サンセヴィーノが手を差し伸ばして歩み出た。
「ジョン・マックスウェルじゃないか。僕はワルター・シャーラーだよ」
マックスウェルはうなずき、部屋の奥にいる私の方に目をやった。灰をかぶった彼の白い顔が老けて疲れているように見えた。
「憶えているかなあ、フォッジア出会ったんだけど、その後でファレルが僕たちをタツォラに運んだ」
マックスウェルがうなずいた。
「ああ、憶えているとも」
「さあ、入って一杯やってくれよ。このハケットさんが君たちのことを話していなかったら、とても君だとはわからなかったんじゃないかな。ええと、コニャックでいいかな」
「ああ」
マックスウェルがヒルダ・トゥチェックを紹介した。サンセヴィーノが私に言った。
「ファレル、君が注いでくれないか」
彼は明らかに、私とマックスウェルが二人で話すチャンスを作るまいとしていたのだ。私は迷った。本当のことを叫んでしまいたかった。皆がシャーラーだと思っている男はサンセヴィーノだ。彼のほしがっている物が、私の義足の中の空洞になった部分につめられている――。サンセヴィーノは皆から少し離れて部屋全体を見わたせる位置に立っていた。片方の手をポケットに入れている。ピストルを持っているのだ。ピアノの譜面台から取りあげた、あのピストルだ。部屋の空気が張りつめていた。今にも全体がひっくり返りそうであった。私は飲物のテーブルに歩み寄った。話し声が復活して、私はほっとした。
「つい最近だよ。アレック・リースに会ったんだ。憶えてるかな、アレック・リース。僕らと一緒だった奴で、ねえマックスウェル」
サンセヴィーノが緊張を紛らわすために話しているのだ。しかし彼は早口すぎる。その上、マックスウェルと正式に呼ぶのはおかしいのだ。フォッジアの基地では彼はマックスで通っていた。私が飲物を用意しているとハケットがしゃべりはじめた。また火山の話を持ち出していた。
「まったく、この山にこんな力があろうとは信じがたい話だね。ところが一六三一年の噴火ではね、重たい石が十五マイルも飛ばされたし、ソンマの村では二十五トンもある石が落ちて来たそうですよ。たった百年前、この山はひっそりしていて、山には森や林があるし、火口の中で家畜は草を食っていたんですからね。十八世紀の初頭に一度爆発がありましたよ。その時は五月から八月まで続いてナポリの街は……」
ハケットのベスビオに関する講釈は止まるところを知らなかった。ガイドブックの記述はすべて彼の暗記するところだったのだ。聞いているといらいらしてきた。ジーナが突然叫んだ。
「山のことばかりしゃべるのはやめたらどうなの」
ハケットはぽかんと口を空けた。
「こりゃあ、すいませんでしたね。気がつきませんで」
「家ん中にいて、何となく安全だと思ってるから何も気がつかないのよ。外を見てごらんなさいよ。どうなっているか」
ジーナは目を剥《む》いて怒っていた。自分の怯えに対して腹を立てているのだ。
「もう黙ってちょうだい。いいこと? あなたがしゃべったことは、どれもこれも、今にも本当にまた起こるかも知れないのよ」
ジーナはロベルトに命じた。
「外がどんなだか、行って見てきてよ、お願い。灰がやんでいたらすぐ逃げなくちゃならないんだから」
ロベルトが出て行ったが彼はほどなく戻ってきた。彼は咳《せ》きこみながら、汚れたぼろ布で顔を拭いていた。ジーナが聞いた。
「どうだった?」
ロベルトは首を振った。
「まだ降ってます」
サンセヴィーノはずっとジーナから目を離さなかった。
「ジーナ、何か弾いてくれよ。何か、明るいやつがいいな。≪セビリアの理髪師≫の中の何かをやれよ」
ジーナはちょっとたじろいだが、やがて彼女はピアノに向かった。恋の歌が流れ出した。サンセヴィーノがマックスウェルに言った。
「ロッシーニは好きかい?」
マックスウェルは関心ないと言いたげに肩をすくめた。ハケットがサンセヴィーノに近寄った。
「あんた、生まれつきのオペラ好きらしいですな。ちがいますか」
サンセヴィーノは上の空でうなずいた。
「ただ残念ながら、あまり聴きに行けなくてね」
「どうして?」
「どうしてったってね、一九三六年まで僕は穴ん中で石炭を掘っていたんですよ。それから組合の仕事でニューヨークに移ったんですから」
「でも、炭鉱には専属の歌劇団があったじゃありませんか」
ハケットは不思議そうな顔つきでサンセヴィーノを見ていた。
「オペラは無料だったのに」
「僕は行ったことがないんですよ。忙しくって」
サンセヴィーノは空になった私のグラスを取ってテーブルに戻った。ハケットはなおも続けようとしていた。
「しかし、そりゃあおかしいな」
「どうしておかしいんですか」
マックスウェルが口をはさんだ。
「専属の歌劇団ていうのは組合が傭《やと》っていたんですよ。自分の町のことを全然知らないなんて、世の中には変わった人もいたもんだ」
彼は肩をすくめた。
マックスウェルはじっとサンセヴィーノを見つめていたが、彼が私にブランデーの替りを持ってくるのを待って口を切った。
「ところでシャーラー、君は、俺がタツォラのフェラリオ宛に頼んだ伝言のことを憶えているかね」
サンセヴィーノは首を振った。
「あの任務の時のことはほとんど忘れてしまってるんだ。スイス国境に着く前に僕は記憶喪失にかかってたんだよ。だからまったく記憶の空白なところがあるんだ」
「でも俺のことはちゃんと憶えていたな」
「だから、記憶に空白の部分があるんだって言ってるじゃないか。もっとコニャックを飲むかい」
「まだ残ってるよ」
マックスウェルはグラスの底でコニャックをゆっくり回していた。彼は顔を伏せたまま、何気ない調子で言った。
「ポリナゴで捕まった時一緒だった奴のことは憶えているかい」
「マンターニ?」
「そう。君に会うようなことがあったら聞いてみようと、ずっと思っていたんだ。ラジェルロのレストランに行ったのは奴が君を連れて行ったのか? それとも君の方が行こうって言いだしたのかね。俺が訊問したとき奴は、ラジェルロはファシストだからって忠告したのに、君は笑ってとり合わなかったって言ってたんだよ。奴はそんな忠告をしたのか」
「そんなことはなかったな。僕の方が危ないって言ったんじゃないかな。トゥチェックさん、でしたね。もう一杯いかがです」
ヒルダは黙ってうなずき、グラスを出した。マックスウェルはいつの間にか私のすぐ隣に立っていた。そしてかすかな声で言った。
「君の言うとおとりだ、ディック」
「何だって?」
「あいつらが捕まったレストランの亭主はバサーニだよ。ラジェルロじゃない」
私は口を開かなかった。しかし、ベスビオは急に遠くに去っていた。そして火山は他でもないこの部屋の真ん中にあった。今にも爆発しようとしているのだ。私はそっとポケットに手を入れ、冷たく堅いジーナのピストルを握った。ハケット一人がまったくのアウトサイダーであった。彼だけは依然としてベスビオに夢中になっている観光客であった。しかし、その他の者はすべて、見えない糸でつなぎ合わされているのだ。ヒルダとマックスウェルはトゥチェックを捜し、サンセヴィーノは私の義足の中の何物かを狙っている。ジーナはピアノを弾き続けた。ロッシーニを何の抑揚もなく感情をこめずに弾いていた。その音はかえって悲劇的であった。そして入口のドアのところで、ロベルトが彼女を見つめていた。私は神経が電気にうたれたようにこわばっていくのを覚えた。私はサンセヴィーノがほしがっている物を持っているのだと叫んでしまいたかった。つのってくる神経の高ぶりを解放することなら、何でも叫んでやりたかった。しかし、私は待つより外はなかった。緊張した私の神経が、音を立ててちぎれる瞬間を待っているより仕方がなかったのだ。
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六
ジーナのピアノは部屋の雰囲気を象徴していた。彼女は急に曲を≪ファウストの劫罰《ごうばつ》≫に変えた。激しい音が部屋をゆすった。口をきく者はいなかった。皆ジーナを見つめていた。ジーナは鍵盤を走る自分の手から目をそらさなかった。その手にはそこにいる者すべての心にある嫌悪や憎しみが宿っているようであった。ジーナの白い顔に汗がにじみ、それまで私の気がつかなかった皺《しわ》が浮いていた。私はその時のジーナのピアノを弾く姿を一生忘れることはできないと思う。汗は髪を濡らし、腋《わき》の下にも流れ出した。しかしジーナは引き続けた。同じ曲を何度も何度も繰り返した。まるで生命あるかぎり弾き続けようとでもしているようであった。そしてまた、ジーナは弾くことによってかろうじて持ちこたえているようでもあった。彼女は弾き続けた。
「君の伯爵夫人は発狂寸前だな」
マックスウェルが私にささやいた。
私は答えなかった。彼女から目をそらすこともできなかった。ピアノの音は催眠術のように私を捉えていた。神経に食いこみ一杯に引っぱっておきながら、一方で私を支えているのだ。
とっさのことであった。ジーナが顔を上げた。一瞬彼女はまっすぐ私を見た。それから部屋中の者の顔をゆっくりと見回した。彼女の指が止まり、音が消えた。
「どうして皆、私を見るの?」
ジーナが口の中で言った。誰も答えなかった。ジーナはいきなり力一杯鍵盤をたたいた。その不協和音を突き破ってジーナの叫び声が聞こえた。
「何だって私を見るのよ!」
ジーナがピアノの上につっ伏した。全身が痙攣《けいれん》のように激しく震えていた。
サンセヴィーノが駆け寄ろうとして足を止めた。私の顔をうかがった。ジレンマであった。ジーナを楽にしてやれる唯一の方法は、彼女が渇いたようにほしがっている薬しかない。しかし、それをとりに行くことで私とマックスウェルだけで話す機会を作ってしまうことはできないのだ。
そこへ合図を待っていたかのようにアウグスティノがやって来た。入口で目をしばたたいていたが、年老いた農夫の顔は明るく、目は聖母の幻影にあった後かと思われるほど輝いていた。
「何だ?」
サンセヴィーノが鋭く言った。
「灰です、旦那様。灰が止まりました。助かったんです。皆、助かったんです」
サンセヴィーノが部屋の一番奥の窓に飛びつき、シャッターを開け放った。アウグスティノの言う通りだった。灰の雨はやみ、ベスビオが再び姿を現わしていた。火口の上に巨大な焔が上がり、巻き上がる蒸気の雲を染めていた。黒い煙が空一面に拡がっていた。斜面には三条の火の河が流れ落ちていた。溶岩の熱気が妖しい光とともに部屋に流れこんだ。
サンセヴィーノは私たちの方へ振り返った。
「マックスウェル、トゥチェックさんを連れて車に戻ってくれ。あんたもだ、ハケットさん。急いだ方がいい」
「おっしゃる通りですな、シャーラーさん」
ハケットはもうドアの方に向かって歩き出していた。
私はマックスウェルを振り返った。彼は動こうとしなかった。彼はサンセヴィーノを観察していたのだ。
「君と一緒に行くよ」
私は言った。ヒルダが私の腕にとりついた。
「ファレルさん、父は、ここなんですか?」
彼女は恐ろしい山の斜面に目をこらした。
「教えてください」
彼女の震えが私の身体に伝わってきた。私はトゥチェックのことを考え始めた。この建物のどこかにいるのだろうか。
私がどうしようかと考えているうちにジーナが飛び上がっていた。私の腕にすがって彼女は言った。
「早く逃げるのよ。ロベルト、ロベルト! どこにいるの」
ヒステリーの起こっている声であった。
「車よ、ロベルト、早く! ロベルト!」
ジーナの怯えは部屋中の者を麻痺《まひ》させた。皆その場に立ちつくしてジーナを見つめた。薄い絹の中で胸が波打ち、私には彼女の強い香水を通して彼女の恐怖の汗の臭気さえ感じられた。彼女は目を剥《む》いて私の腕を握った。それからじっと立って皆を見つめているロベルトのところに飛んでいった。ロベルトの顔は何かに憑《つ》かれたようだった。ジーナは叫んでいた。
「そんなところに立っていないでよ。車よ、馬鹿ねえ。車だったら」
サンセヴィーノが行動を起こした。非常にすばやい動きだった。
「落ちつくんだ」
イタリア語でジーナにそう言ったと思うと、彼はもう入口のドアにいた。
「あわてることはないさ。うまく逃げられる。マックスウェル、君はトゥチェックさんを連れてってくれ。ハケットさん、あなたももう行ってください」
ジーナは一刻の遅れも耐えられないほど怯《おび》えきっていた。ロベルトと車のことを叫びながら私の腕にすがっていた。私は歩き出した。とにかくこの建物から出たかったし、マックスウェルと話がしたかった。ロベルトも入口に向かっていた。私たち三人がドアに集まった時、サンセヴィーノがドアの取っ手に手をかけて立ちふさがった。彼の目は怒りのために細まり、二つの小さな裂け目のようになっていた。その目がこう語っていた。≪麻酔は使わない。最初にナイフ。それから鋸《のこぎり》……≫私の耳の中で血が音を立てて波打った。私は突然理解した。一切がこの瞬間のために段取りされてきたのだ。
私たちの鼻先でサンセヴィーノはピタリとドアを閉めた。
「興奮するんじゃない、ジーナ」
サンセヴィーノはジーナの肩に手をかけてゆすりながら彼女にそっと耳打ちした。モルヒネというのが聞こえた。ジーナは急に緊張が解けた様子で、私の腕をつかんでいた手から力が抜けていった。サンセヴィーノはジーナの目をのぞき込んでいた。その目が彼女を落ち着かせ、緊張を解く魔力を持っているのだ。
「さあ、ロベルト、車を持ってこい。一緒に行くんだ、ジーナ」
サンセヴィーノがドアを開いた。ジーナの後から続いて出ようとした私に彼は言った。
「君は僕と一緒だ、ファレル」
この男に対する私の恐怖が一度に立ち戻ってきて、私は彼の顔を見て立ちつくした。
「嫌だ」
私の声は震えていた。
「嫌だよ。僕はジーナと行こう。彼女にはいろいろ必要なことがあるし……」
「ジーなになにが必要かは僕が一番よく知っている。君はここにいてもらおうか」
サンセヴィーノがきっぱりと言った。
ジーナが振り返って私の腕をつかんだ。
「ディック、早くいらっしゃい」
サンセヴィーノはジーナの手を力ずくで引きはなした。
「車に乗れよ、ジーナ。ファレルは俺が連れて行く」
「駄目よ」
ジーナが叫んだ。
「あんたが何を考えているか知っているわよ。でも、そうはさせないから」
「黙れ!」
「ディックを私と行かせてよ。ディックを引き止めて、どうするつもりよ。まさか………」
「黙れって言ってるんだ、聞こえないのか」
「ディックと一緒じゃなきゃあ、私行かないわよ。あんたにそんな真似させないから……」
サンセヴィーノは乱暴にジーナを部屋の中に引き戻した。
「そうかい、わかったよ。それじゃお客さんたちが帰るまでここで待ってるんだ。ハケットさん、もう行ってください。マックスウェル、君ももう行ってくれないか。伯爵夫人はちょっと興奮してるようだから」
ジーナの顔がきびしくなった。
「あんた、そんなことする権利はないわよ。どうなってもいいの、私知らないわよ」
「おまえに口を出してもらうことなんかない。ファレルと一緒にいたけりゃあ、ここにいりゃあいいだろう」
サンセヴィーノの声には腹を決めた響きがあった。ジーナの顔に恐れが浮かんだ。彼女は叫んだ。
「あんた、やる気なのね。私たちを生き埋めにする気なのね。サント・フランシスコにいる二人ならいいわよ。私はあいつらのことなんか知っちゃいないからね。でも、駄目よ……」
「黙れ、このあま!」
ジーナは床を踏み鳴らした。恐怖は怒りに変わっていた。「あんたの思う通りにはさせないよ。私は死にたくないんだ。みんなしゃべってやるから……」
サンセヴィーノは手の甲でジーナの口の辺りを打った。
「黙れって言ってるんだ」
彼の指輪でジーナの白い顔に血が流れた。部屋中がしんとした。私は手を握りしめた。サンセヴィーノの顔をたたきつぶしてやりたかった。あの顔をめちゃめちゃにたたきつぶしたいという欲望がむらむらと湧き上がってきた。
私がまだ考えているうちにロベルトが飛び出して、サンセヴィーノを殴りつけた。彼は怒りに駆られて力一杯殴った。顔が殺意に歪《ゆが》んでいた。人間の顔とは思えなかった。動物的で獰猛《どうもう》な顔であった。ロベルトの拳《こぶし》が顔の真ん中を打ち、骨の砕《くだ》ける音がした。サンセヴィーノは部屋の端まで飛ばされ、ハケットにぶつかって床に倒れた。
倒れたままロベルトを見上げた。イタリア人の青年は息づかいも荒く、手についた血をなめていた。そして彼はサンセヴィーノに近寄っていった。ゆっくりとした足どりで、その顔には不敵な笑いを浮かべていた。欲情に似た輝きが目のなかに燃えていた。近づいてくるロベルトを見て、サンセヴィーノはポケットに手を突っ込んだ。鈍い金属の光が走った。銃声とともに一瞬光が流れ、ロベルトが腹部に殴打を受けたような恰好で足を止めた。ロベルトの口が開き、驚愕の色が顔を横切った。むせるように咳きこみながら、ロベルトは床にくずれ落ちた。目は開いたままだった。
ジーナが駆け寄ろうとしたので私が腕をつかんだ。サンセヴィーノが立ち上がり、銃口をジーナにピタリと向けていたのだ。ピストルからは細い煙が流れていた。サンセヴィーノ目が凶暴の色を帯びていた。
「人殺し! 汚い人殺し!」
ジーナが憎悪をこめてイタリア語で叫んだ。次の瞬間、彼女は泣き出していた。
「何でこんなことしたのよ。こんなこと、しなくてもよかったじゃないの。どうしてなのよ。私が言えば乱暴はしなかったはずよ。なぜやったのよ」
ハケットが進み出た。彼は会議の議長でも勤めるように咳ばらいをした。
「シャーラーさん、これはとんだことをしてくれましたね。イタリアの法律のことは私は知らないが、アメリカだったらこりゃあ、少なくとも第三級殺人には相当しますよ。さあ、これ以上変なことにならんうちに、その武器を私に渡しなさい」
ハケットが近づくのを見て、サンセヴィーノは自分を保とうとあせった。
「近寄るな!」
「おっと、シャーラーさん、落ち着いてくださいよ。あんた私の同郷だからね、私は黙って見ちゃおれんのだ」
ハケットはつかつかとサンセヴィーノに歩み寄った。その落ち着き払った態度は驚くべきものであった。彼はもの静かな、無関心とさえ思える即物的な態度でその場を支配した。サンセヴィーノはうろたえた。ハケットはその手からピストルを難なくもぎとった。サンセヴィーノは呆然として自分の手首をこすっているだけであった。ハケットはピストルを仔細《しさい》らしげに眺め、それからまるで毎日それを扱い馴れているような態度で部屋の隅にむけて発砲した。ピストルの音が部屋を覆った。何発も続いた。弾がつきると部屋はしんとした。ベスビオ山頂で焔とともに吹き上がるガスの音だけが聞こえていた。ハケットは空になったピストルを部屋の隅に放り出し、倒れているロベルトのところに歩いていった。ロベルトのシャツにどっぷりと血が滲《にじ》んでいた。ハケットはひざまずいてロベルトの頭を起こして見た。それから手を拭きながら立ち上がって言った。
「皆でもう一杯やった方がいいようですな。一杯飲みながら、どうすべきか考えましょうや」
彼は飲物のテーブルに向かい、皆の分を注いだ。
「なかなかどうして、たのもしいお方じゃないですか」
マックスウェルの声が部屋の空気を少しやわらげた。
ハケットはコニャックをたっぷり注いでサンセヴィーノに勧めた。
「さあ、こいつを飲むといいですよ」
彼は扱いがたい患者を相手にしている医者といったところだった。私は突然噴き出しそうになった。
「あんたのような、すぐ頭にくる人は、ピストルなんか持って歩いちゃいけません」
彼は絹のハンカチを出して額をこすった。
「まずこのベスビオが見逃しちゃあくれないんじゃないですかな」
ハケットが再びテーブルの方を向いた時、静まりかえった部屋の中でかすれたすすり泣きが起こった。ジーナだった。床に坐り、膝にのせたロベルトの頭に向かって話しかけながら、彼女の涙で濡れた髪を撫ぜていた。ジーナの顔を涙が後から後から流れ落ち、彼女は身体を震わせていた。
「そうかい。おまえたち、できていたのか」
サンセヴィーノがイタリア語で言った。軽蔑と怒りがこめられていた。
「それならそう言やあよかったんだ。知ってりゃあ、殺《や》りはしなかったかもしれないからな」
そう言って、彼は顔の血を拭いた。
ジーナが彼を見上げた。
「殺さなくてもいいじゃないの。私が言えば、乱暴はしなかったはずよ」
彼女の声は悲痛であった。彼女はいきなり壊れた人形を捨てるようにロベルトの頭を床に落とした。
「仕返ししてやる」
サンセヴィーノにつばを吐いた。
ハケットが飲物を差し出した。
「お飲みなさい。落ち着きますよ」
「私は落ちつきたくなんかないわよ」
「つねにこの世は酒、酒ですよ」
「うるさいわよ」
「いいですか、あんた、お酒ってのはね……」
ジーナはハケットの手からグラスをたたき落とした。
「うるさいったら、お酒なんかいらないんだ」
彼女はロベルトの腰のベルトに飛びついた。流れるようなしなやかな動作で立ち上がった彼女の手にナイフが光っていた。彼女はサンセヴィーノに近寄っていった。誰も口を開かず身動きする者もなかった。グラン・ギニョールの一場面を見物している観客のように皆は立ちつくしていた。
ジーナがゆっくりと、間合いをつめて行った。サンセヴィーノはじりじりと後退《あとずさ》った。ジーナは火山の恐怖を忘れているらしかった。サンセヴィーノに対する憎悪は、彼女から一切のものを忘れさせていたのであろう。恐れているのはサンセヴィーノのほうであった。それは彼の顔に明らかであった。彼が怯えきっているのを見たとたん、私にとってこの場の光景は愛の歌のように心地よいものとなった。ジーナが彼を殺そうとしている。引きずるように足を運ぶその一歩一歩が、ジーナの決心を固めていくふうであった。ジーナは彼を殺す。しかも一突きでではない。何回も何回もナイフで突いて殺す。そしてジーナはその一突き一突きをこよなく愛するのだ。
「この部屋で、あんた、私に初めて薬の入った煙草を吸わせたわね」
ジーナの声は恋人に対するように優しかった。
「憶えてる? それを喫むと、獣《けもの》みたいな主人のことが忘れられるって、あんた言ったわ。あんたは医者だったから、私に何が必要だかわかるんだって言ったわ。お酒を飲ませて人を酔わせておいて、それであの煙草を吸わせたわね。それから煙草の量が多くなって、とうとう注射になったわ。薬のおかげで、あんたは私を奴隷にしたのよ。でも、もう私はあんたの奴隷じゃないわ。殺してやる。そうして……」
ジーナは喉を鳴らした。雌《めす》の虎そのものであった。
サンセヴィーノは壁ぎわに追いつめられ、恐怖に顔をひきつらせながら、壁伝いに動いた。角に来るともう逃げられなかった。彼は叫んだ。
「誰か止めてくれ!」
誰も動くものがないと見ると、サンセヴィーノは取引を始めた。
「俺を殺してみろ、もう薬はないんだぞ。いいか、ジーナ。薬がどんなにおまえを幸福にしたか、ようく考えてみろ。薬が切れた時の苦しさを考えてみろ……」
「獣!」
ナイフが一閃してジーナが飛び退った。ナイフには血が滴《したた》っていた。サンセヴィーノの肩がえぐられ、白い上着が真っ赤に染まっていた。私は目の前で演じられている死の舞踏をただ呆然と眺めていた。
マックスウェルが割って入った。背後からジーナをつかまえ、ナイフをもぎ取った。ジーナは怒りに顔を歪め、彼を引っ掻こうとした。マックスウェルはその手を振り払った。
「ハケット、ジーナをつかまえてくれ、酒を飲ませるといい。俺はこの男に話があるんだ」
ハケットがジーナを引き取った。ジーナは抵抗を示したが、急に力が抜けたようにおとなしくなった。ハケットが抱くようにしてジーナをソファーに運んだ。ジーナは泣いていた。彼女のかさかさとしたすすり泣きが部屋を満たした。ジーナのすすり泣きを透してマックスウェルの声が響いた。
「さて、それじゃあ、まず君が本当は何者なのか、それから話してもらおうか」
「僕が何者だか、いまさら言う必要はないだろう」
サンセヴィーノの目は大きく見開かれていたが、彼は自分を取り戻していた。
「君が、誰でもないと言うことなら知ってるんだ」
マックスウェルが言い切った。
「君はシャーラーじゃない」
「じゃあ誰だって言うんだ」
彼はマックスウェルの肩越しに部屋の様子をうかがい、脱出の機会をねらっていた。
私はどうしようもなかった。突然笑い出してしまったのだ。私の中から笑いが吹き上げてきて、押さえる間もなく口から飛び出していた。伸びきってもとに戻らなくなってしまった神経であった。怒りと嫌悪と、緊張が極に達し、音を立てて跳《は》ね戻っているのだった。私はまるで私自身の隣に立って、その場違いな笑い声を聞いているような気がした。笑い声を止めるために、自分を殴りつけてやりたかった。殴りはしなかったが、私の笑い声はしだいに弱まり、細くなって消えていった。部屋中の目が私に集まった。マックスウェルが私の方にやって来た。
「何がそんなにおかしいんだ?」
「あいつはサンセヴィーノだよ。イル・ドットオレ・ジョヴァンニ・サンセヴィーノ。ヴィラ・デステで僕の脚を切断した奴だ」
ハケットがジーナをソファーに寝かせたまま立ち上がった。
「わからないねえ……。この家はシャーラーって人の家だよ。途中の村で、皆そういっていたんだから。で、この人がシャーラーじゃないっていうのは……」
「ちょっと、黙ってくれないか」
マックスウェルがさえぎった。
「ディック、もしこの男がサンセヴィーノだって言うんなら、シャーラーはどうなったんだ?」
「シャーラーは死んだよ。脱走の朝、ファシストの制服を着て、髭は剃って、サングラスをかけて机のところで死んでたんだ。僕はきっと……」
私は先を続けられなかった。自分でもいまいましかったが、私はまた笑い出しそうになってしまった。自分があの朝、目の前にワルター・シャラーを見ていたのだと思うとおかしくて仕方がなかったのだ。
「つまり、リースと一緒に逃げたのはサンセヴィーノだってわけか」
私はうなずいた。
「それじゃ、ミラノでこの人に会って、すぐわかったんですね」
口を挟《はさ》んできたのはヒルダだった。
「そうじゃないんです。わかったというより、僕はずっと、これはこの男が医者なのではないか、そうに違いない、と思っていたんですよ。それだけです。髭とサングラスがなければ二人は瓜二つなんです」
「それでミラノをお発ちになったの?」
私はうなずいた。私はヒルダから目をそらすことができなかった。ヒルダの目には私への同情が光り、私はそれにすがりたかったのだ。何であれ、私の笑いを止めてもらいたかった。
「恐かったんですよ。何というか、頭の中のものが、皆流れ出してしまうような……」
今までにない強い光が部屋を照らした。皆思わずベスビオを見上げた。頂上全体が燃え上がり、熔岩が火口からあふれ出して黒い煙の渦を巻き上げていた。耐えがたく熱く、押さえつけられたような夜の空気の中を、村人たちがアヴィンに向かって逃げていき、その家畜をせきたてる叫び声や、馬車のきしみが窓を通して聞こえてきた。
「急がなくちゃあ、マックス」
ヒルダが言った。
「父はどこか山のほうにいるんじゃないかしら」
彼女はジーナにつめ寄った。
「サント・フランシスコにいる二人って、だれのことなの?」
しかし、ジーナはいつのまにか首を垂れて寝息を立てていた。マックスウェルが言った。
「ということならば、この豚野郎から聞き出すほかはないな」
彼はサンセヴィーノに向かった。
「トゥチェックはどこだ?」
サンセヴィーノは答えなかった。マックスウェルは彼を殴った。
「ミラノの空港で攫《さら》ったんだろう。トゥチェックとレムリン。貴様、連中がチェコスロバキアから持ってきた何かに目をつけているな。他の連中にも同じようにやったんだろう。さあ言うんだ、どこにいる?」
サンセヴィーノの痛みに呻《うめ》く声がした。
ハケットが進み出てマックスウェルの肩に手をかけた。
「この人が殺人をおかしたからって、あんたまで第三級殺人をやらかすこたあないでしょう」
「邪魔しないでくれ」
「それじゃ、その人をはなしなさい」
「こいつが殺人をしたのは、今に始まったことじゃないんだぜ。ファレルの話、聞いただろう」
「何だか、医者と、それからそっくりな男とか言う妙な話はさんざん聞かされましたがね。その話をした人は、げらげら笑っていましたよ。とても正気とは思えない声でね。いいからその人をはなしなさい。警察を呼びましょう。警察にまかすのが一番だ」
「いいかい、ハケット。こいつはヒルダ・トゥチェックの父親を誘拐しているんだぞ」
「信じられませんね」
「あんたが信じようと信じまいと、そんなことは俺はどうだっていいんだ。警察でも何でも呼びに言ってくれ。だけど……」
マックスウェルが言いかけた時、部屋の明かりが急に暗くなった。明かりは二度ほどまたたくようにして、それからすうっと消えてしまった。シャンデリアの中で、ほんの一瞬フィラメントが赤く見えた。明かりが消え、部屋は熔岩の火照りの赤い光に待たされていた。そのなかで人影が黒く動いた。
「発電機のガソリンが切れたらしいな」
ハケットが言ったとたん、マックスウェルの叫び声が響いた。私の傍《かたわ》らを人影がすり抜けた。ドアがばたんと音を立てた。マックスウェルが後を追って廊下に飛び出した。私は懐中電灯を握って彼に続いた。
玄関のドアは鍵がかかったままだった。
「女中部屋だ」
私たちは台所に続く廊下を走った。ドアが開け放しになり、外の納屋が見えていた。外に出るとくるぶしまで灰に沈んだ。灰の上にサンセヴィーノの足跡が、別荘の蔭から赤く照らされた地面に続き、納屋のほうに向かっていた。走りにくい地面に足を取られていると、納屋の蔭でエンジンのうなりが聞こえ、ジーナのクリーム色のフィアットが角を曲がってまっしぐらに私たちのほうに突っ込んできた。車輪の巻き上げる灰が光を受け、消防夫のホースの水煙のようにほとばしった。
「逃がすな。どっちに行くか見るんだ」
私はマックスウェルに続いて建物を回った。義足がもどかしかった。赤い夜の葡萄園の中を、車のヘッドライトがまっすぐ突っ切っていくところだった。アヴィンへの道には村人や荷車がひしめいていた。ゲートの傍に灰に埋もれているマックスウェルの車が見えた。サンセヴィーノはやかましくクラクションを鳴らして人混みの中に突っ込み、右に曲がった。
「サント・フランシスコに行くんだ。よし追っかけよう」
ハケットとヒルダが加わり、車のほうへ皆が走り出そうとした時、ジーナが後を追ってきた。
「置いて行かないで。ねえ、お願い、案内してあげるから、ねえ」
ジーナは私にすがっておろおろした。ジーナの声がマックスウェルの耳に入った。
「トゥチェックの居場所を知ってるのか」
「トゥチェックなんて人、私は知らないわよ。でもあいつが人を閉じこめているところを私は知ってんのよ。サント・フランシスコの古い修道院よ」
「よし、行こう」
私が追いつくとすでにマックスウェルは車を回し、エンジンを吹かしたままドアを開けて待っていた。避難民はもう減り始めているらしかった。走って逃げた村人は全部通り過ぎた後で、道にいるのは持ち物を少しでも多く持ち出そうという連中ばかりだった。家具や布団、子供たちに動物と、山のように積みあげた荷車が何台も続いた。クラクションを鳴らして荷車を払いのけ、車は横すべりしながら急カーブで道路に飛び出した。
ジーナはマックスウェルの隣に坐った。車のヘッドライトと、熔岩の照り返しの中にジーナの頭がシルエットになって見えた。
「もっと早く、ねえ、もっと」
怯《おび》えがまたジーナを襲っていた。無理もなかった。目の前には旧約聖書に出てきそうな光景が広がっていたのだ。恐れおののき、神の怒りを逃れようとする人々が荷車を引いて道を埋めていた。サント・フランシスコの村が見え始めた。怒りに燃えるベスビオを背景に、村の人家が黒く地面にへばりついていた。サント・フランシスコは滅亡に瀕《ひん》している。熔岩の赤い輝きが私たちの行方にも、車の車輌にも迫っていた。ソドムとゴモラに降り注いだ火と石も、きっとこのようであったに違いない。
「どうか間に合いますように」
ヒルダの声がした。気がつくとヒルダは私の手をしっかりと握っていた。
ヒルダをへだてた向こうの席でハケットがぶつぶつ言った。
「こんなばかばかしいことに巻きこまれたのは、まったく生まれて初めてだね」
彼は私の方に顔を突き出して聞いた。
「ファレル。いったいこりゃあどうなっているんだ?」
ヒルダが引き取った。
「私の父なんです。あのサンセヴィーノっていう男が父をサント・フランシスコのどこかに閉じ込めているんです」
ヒルダは話したかったのだと思う。チェコスロバキアからの亡命のことを詳しく話して聞かせていた。時計を見ると四時を少しまわったところだった。一時間もすれば明るくなるだろう。燃え上がる火口からまた新しい大きな焔が噴き出し、渦巻く黒煙の中に迫り上がった。黒煙を貫いて稲妻が走った。
「もうすぐあの山は頂上から吹っ飛ぶぞ」
ハケットがつぶやいた。声が震えを帯びていた。恐がっているのではなく、興奮しているのだ。アメリカから火山を見るためにやってきたのだ。ハケットはこの時、まさに無上の幸福を味わっていたに違いない。
村に入った。漆喰《しっくい》の壁が赤く輝いて行手をふさぎ、車の音を跳ね返し、ベスビオの姿を視界から遮《さえぎ》っていた。村人は全部逃げたらしかった。犬も猫も、一羽の鶏も見えなかった。ゴーストタウンに入っていくような気持ちがした。
道路沿いの店では蝋燭の火が揺れ、棚には野菜が並んだままだった。家の戸は開け放しになっていた。広場には積み過ぎた荷の重さに耐えかねて壊れた荷車が、荷物ともども打ち捨てられていた。共同井戸の傍らに、子供が一人怯えた目を見開いて、指をしゃぶりながら私たちを見ていた。車が前を通り抜けた時ハケットが言った。
「見たかい、子供だぜ。帰る時忘れずに連れてってやらにゃあ。かわいそうに、親たちはあわてて手前たちだけで逃げちゃったんだろう」
「そこよ」
ジーナが大きな石の潜《くぐ》り門を指さした。扉は開いていた。車は石畳の中庭に止まった。ジーナの車が停まっていた。
「追いついたわね」
ヒルダが吐息をついた。マックスウェルがサイドブレーキを引き、私たちは折り重なって車の外に出た。
「どっちだ?」
「こっちよ」
ジーナが叫んだ。彼女は低い石の門に向かっていた。マックスウェルの手に光るものがあった。素手ではないようだ。しかし私は足を止めた。サンセヴィーノの立場だったらどうするかを考えたのだ。私たちが全滅すれば彼は安全である。熔岩がサント・フランシスコを飲みつくし、私たちは跡形もなく消えてしまうだろう。私はヒルダの腕をつかんだ。
「待って」
ヒルダは私の腕を振り払った。
「何が恐いのよ?」
彼女の声に軽蔑の響きがあった。私はかっとした。ヒルダの腕をとって引き戻した。
「マックスに僕のことは聞いているだろう」
「聞いたわよ。話してちょうだい。私は行って父を……」
「お父さんはマックスウェルに任せておけばいいんだ。僕たちが一緒にかたまっていってみろ、飛んで火に入る夏の虫だぞ」
「なに言ってるのよ、はなしてちょうだい」
「考えてみろよ。サンセヴィーノはわれわれより先にここに来ているんだよ。われわれが追ってきたことも知ってるんだ。僕たちを全部殺そうとすれば……」
「そんなこと、できっこないわ。恐がっているんですもの」
「あいつは悪魔みたいに悪知恵の働くやつなんだよ。残忍だしね。君のお父さんをおとりにするに違いない」
ヒルダは震えだした。何が起こり得るかということがわかったらしかった。息をつまらせて言った。
「初めから殺すつもりで来たのかしら」
「そうじゃないと思うな。僕たちが死なないかぎり、やつにはお父さんが必要なんだ。取引きのために」
「取引き?」
「やつのほしがっている何かは僕が持っているんだ。あそこに入口が見えるだろう」
中庭の一番奥の石壁に入口が開いていた。
「あそこで待っていてくれ」
私はフィアットのところに行った。ボンネットを開けた。中庭の灰の中を走っていくヒルダの足音がしていた。私はローターを取りはずしてボンネットを閉めた。マックスウェルのビュイックも同じようにして動かなくした。私はヒルダのところに行った。
「マックスウェルたちがうまくやってくれればね」
私は肩をすくめて見せた。
「連中が失敗したとしても、まだチャンスはある」
熔岩の火が輝きを増したり鈍ったりするのにつれて、中庭一杯に影が揺れた。不思議な光景であった。ダンシナーネの夕映えを舞台装置で見るような気がした。私はヒルダに言った。
「やっぱり僕は卑怯者に見えるかね」
ヒルダの顔の背景に修道院の建物の上部が赤く照らされていた。カメオであった。引き締まった頤《おとがい》。やや上向きに尖《とが》った鼻。ヒルダは動かなかった。マックスウェルたちの入っていった戸口をじっと見つめていた。その姿勢のまま、ヒルダは車の中でしたように、私の手を探り、握りしめた。耐えがたく長い時間が流れたように思えた。私たちは戸口を見つめていた。
「もう出てこないのかしら」
ヒルダは押し殺すようにそう言って握った手にいっそう力を入れた。
何とも言えなかった。私はただヒルダの手を握り返して戸口の蔭に立っていた。彼女がどんな気持ちを味わっているか十分わかっていたが、どうすることもできなかった。やがてヒルダが言った。
「あなたが言った通りかも知れないわ。何かあったんだわ、きっと」
時計は四時半になろうとしていた。彼らが入ってから十五分以上も経っている。サンセヴィーノはなぜ現われないのか。私は知っていた。こっちを見ているのだ。私たちの方が先に動くのを待ち構えているのだ。
「こいつはとんだ≪かくれんぼ≫になりそうだな」
「かくれんぼ?」
「最初に動いた方が見つかっちゃうのさ」
中庭を照らす焔の明かりが一段と強さを増し、地獄の業火が地上にその舌を伸ばしたかと思われるほどであった。影がいっそう揺れ動いた。
「早くしないと間に合わなくなるわ」
私はうなずいた。熔岩の状態を知りたかった。
「マックスウェルたちを捜しに行かなくちゃあ」
そういった時、私の頭の中を体中の血が音を立てて渦巻き、手足からは血の気がまったく失せてしまった。私たちが中庭の様子をうかがっているのとまったく同じに、サンセヴィーノもどこからか私たちの動きを見守っているのに違いなかった。私はヒルダの手を握り直した。勇気を掻き立てる必要があった。向こうの入口まで走らなくてはならない。びっこを引きながら。廊下はどこまでも続いているだろう。がらんとした大きな部屋。その中であらゆるものの影がサンセヴィーノとなって私を脅《おびや》かすのだ。私は初めて単独飛行をした時や、初めて空中戦に出た時に感じたあの緊張を体の奥に感じていた。その時、ヒルダが言った。
「何かしら」
不気味に静まりかえった村のどこかで石が崩れ落ちる音がした。ダンプ・トラックからコークスを空けている音に似ていた。音はいつまでも続いた。突然あたりが静かになった。不自然なほど静まりかえった。村中の生きとして生けるものが一瞬呼吸を止め、恐ろしいことの起こるのを身がまえて待っているような不気味な静けさであった。
「また聞こえる!」
ヒルダがささやいた。音は金床《かなとこ》の上を石炭殻がすべり落ちていく音に似ていた。続いて何かの崩れ落ちる音が聞こえた。修道院の向こうのベスビオのあたりの空にぱっと火の粉が舞い上がった。
「何なの、あれ?」
私は迷った。私には音の正体がわかっていたが、ヒルダに話していいものかどうか考えたのだ。とはいえ、遅かれ早かれ知れることであった。細かい塵《ちり》が煙のように立ち昇り、下の方から照らされてきらきら光った。
「熔岩が村まで流れてきたんだ」
ヒルダの体を走る震えが、そのまま私の体に伝わってきた。熱気が耐えがたいほどになっていた。溶鉱炉の炉前を思わせる熱風が頭上から迫ってきた。
「何とかしなくちゃあ」
ヒルダの声は恐怖の極に達していた。
「ようし」
私が彼女にマックスウェルたちの入って行った入口へ行くように言おうとした時、ヒルダが向かい側の修道院の屋根を指さした。
「あら、あそこ!」
次々に上がる火の粉の雲の中を走る人影がちらりと見えた。
「サンセヴィーノかしら」
「そうだ。熔岩が恐くなったんだ。自動車で逃げるつもりだな」
私はジーナのピストルを出し、撃鉄《げきてつ》を上げて持った。
サンセヴィーノはすぐ現われた。入口のところに見えたと見る間に、彼はフィアットに飛び乗った。スターターの音がした。その音はすぐ建物の崩れる音に掻き消された。建物が崩れて土煙が舞い上がった。サンセヴィーノはなおもスターターを押し続けた。エンジンがかからないとわかると、彼はビュイックに乗り移った。スターターの音がした。ダッシュボードの光の中にサンセヴィーノの顔が浮かんでいた。その目は恐怖のためにぎらぎらしていた。私はまた急に笑いたくなった。サンセヴィーノの恐怖に歪んだ顔を見学するためなら、熔岩の流れの真っ只中に立ってもかまわないとさえ思うほどだった。
ビュイックも動かないことがわかるとサンセヴィーノはまたフィアットに戻って、もう一度スターターを押した。やがて彼はボンネットを開けた。動かないわけはサンセヴィーノにもすぐわかったらしく、彼は体を起こして周囲をうかがった。私たちがいることを知っているのだろうか。彼は一瞬私たちの隠れている戸口に目を止め、片手をポケットに突っ込んでこっちへ歩き始めた。
ちょうどその時、巨大な火の柱が空に走った。サンセヴィーノは攻撃を避けるような恰好で振り返り、天を仰いでうずくまった。彼はその姿勢のまま、突き上げた火の柱が空一面に拡がった黒煙を赤々と染めるのを化石のように見つめていた。山のうなりが私たちの立っている地面を揺り動かした。風を切る音とともに修道院の中庭に小さな灰煙《はいけむり》を上げて礫《こいし》が降り始めた。サンセヴィーノが立ち上がると同時に礫の雨は堰《せき》をきって落下した。焼けた石は地面に落ちてくすぶった。建物の壁に音を立てて当たり、私たちの足下にもくすぶりながら転がった。強い硫黄臭《いおうしゅう》が鼻をついた。
サンセヴィーノは走り出した。柔らかい灰に足を取られ、転びながら彼は突進した。赤い光の中に歪んだ顔がはっきり見えた。正面入口の手前で、突然彼は地面にたたきつけられるように倒れた。肩をひどく打ったらしく、彼は灰の中で身をよじった。山のうなりと、降り注ぐ礫《こいし》の音を通して、痛みに呻くサンセヴィーノの声が聞こえた。海老《えび》のように身体を曲げて地面でもだえていたが、それでもやがて起き上がり、ふらふらしながら正面の門に向かい、痛みに体をゆすりながら表に消えていった。
降り始めた時と同様の唐突さで、突然礫の雨がやんだ。私はヒルダにローターの一つを渡した。
「皆を捜しに行ってくれないか。僕は奴を追っかける」
「どうして放っておかないの?」
「そうはいかないよ。あいつがいなけりゃあ、君のお父さんもどこだかわからないかも知れないんだ。奴は僕がつかまえるから、君は皆を捜してくれ」
私は入口の蔭を離れて中庭に出ていった。ヒルダが背後から呼びかけた。
「気をつけてね」
灰の降りしいた石畳は歩きにくかった。特に義足の私には辛かった。潜《くぐ》り門の下の石畳には灰がなく、裸の石の上に私の足音がやけに大きく響いた。私は道に出た。広場の井戸のそばに、車輪の壊れた荷車が打ち捨てられていた。夕立が過ぎたように灰の表面が穴だらけであった。道には生き物の影一つなかった。村が突如として砂漠に覆われ、一切の生命を滅亡させたかと思われるようであった。私は振り返って、山に向かう狭い登り坂に目をやった。その道の中央に、私に背を向けてサンセヴィーノが立ちつくしていた。彼は向こうを向いて立っている。その先に、彼の足を止めさせた原因があった。恐るべき光景であった。狭い道は両側にぎっしり並んだ家の間を切り通しのように山に向かっていた。しかしその道は村を外れて広い葡萄畑の中を山の斜面に沿ってのびているのではなく、目の前で家と同じ高さの大きな火の壁に行き当たって断ち切られていたのだ。狭い道にコークスの山が築かれ、それが妖しい光を放っていたのだ。
コークスの山が押し出され、端の方ががらがらと崩れ落ちた。その後方で白熱の熔岩が顔を出し、道路を一杯にふさいだ。両側の家が光の中で揺れた。灼熱の最期に顔を歪めているとさえ思われた。溶鉱炉の熱風に似た熱い空気がまっすぐ道路沿いに吹きつけてきた。顔面がこわばるほど熱く、硫黄の臭気で息がつまりそうであった。熔岩の表面が冷えて輝きを失い、新しいコークスの殻となった。
サンセヴィーノは向き直り、私に向かって歩き出した。熔岩のこの恐るべき光景を眼前にして私は呆然としてしまい、身動きひとつできなかった。道路の真中に立ち、サンセヴィーノが私に向かって走り出すのを待っていた。一呼吸の後にサンセヴィーノは私を認め、歩みを止めた。罠《わな》にかかった動物の恐怖と驚愕がサンセヴィーノの顔に浮かんだ。肩越しに背後に迫っている熔岩をちらりと見て、彼は一軒の家の開いている入口に飛び込んだ。
ピストルを持っていたら、彼はその場で私を殺していただろう。しかし彼のピストルは別荘の床に放り出されているのであり、弾丸はロベルトの腹に一発、そして残りは全部床に撃ちこまれているのだ。後を追って入口から入ってみると、サンセヴィーノは姿を消していた。家の崩れる音がして、道路のはずれの家が熔岩の中に飲みこまれた。漆喰の塵が煙になって舞い上がった。
熔岩の火に照らされた後で、家の中は真っ暗に見えた。塵芥《じんかい》と土壁《つちかべ》の臭いが鼻を打った。汚れた窓から熔岩の光が差しこんでいた。私は耳を澄ませた。遠く火口に噴き上げる蒸気の音の他には何も聞こえなかった。階上へ上がった様子はなかった。物蔭で私を待ち伏せしているか、家の中を通り抜けて反対側に出たか、いずれかであった。懐中電灯をつけた。二階へ続く階段と、家の奥へ通ずる通路があった。石の床は何代もの住民の足に磨かれてすり減っていた。奥の部屋には大きなダブルベッドがあり、そのほかには古い整理戸棚と、いっぽうの端を何かの包装用の箱で支えたテーブルが並んでいた。家財道具が散らかり、家畜の場所であったらしい藁《わら》の寝床の上にも広げられていた。部屋の奥のドアが開いていた。
ドアの外は狭い裏庭で、低い垣根の向こうに人家が続いていた。庭に積もった灰の中に男の足跡があった。低い垣根を越えて足跡は、並んだ家の裏手へ続いていた。足跡はバルコニーの階段の下で消えた。バルコニーは下から石の円柱に支えられていた。石の階段があり、登っていく足音が聞こえた。
私は追った。バルコニーは各階に石の迫持《せりもち》で支えられていた。登っていくにつれて、円柱の影が熔岩の光の中に黒く浮き上がった。各階の部屋は、住民があわてふためいて部屋を捨てていった状態をみせていた。衣類や家財道具が乱雑に部屋中にばらまかれていた。最上階から屋上に出る木の梯子《はしご》が続いていた。私は懐中電灯を消して注意深く昇った。ジーナのピストルが頼みだった。
屋上は焼けるように熱かった。屋上の作りは真っ平で、ハッチから顔を突き出すと五十フィートそこそこのところにサンセヴィーノの姿があった。サント・フランシスコの西側を大きな熔岩の流れが囲み、その輝きの中にサンセヴィーノの黒い影が動いていた。彼は低い手すりを乗り越えて、隣の家に移ろうとしていた。私は義足を引きずって懸命に後を追った。柔らかい灰のために足は思うように動かなかった。右手にベスビオが覆《おお》いかぶさってくるように迫っていた。巨大な溶岩流の縁飾りが、山の斜面を村に向かって延びていた。四条の大きな流れであった。一条が早くも人家のあるところに達し、さらに一条が西、二条が東に流れていた。そしてその流れの源である火口の上には赤いガスが柱となって吹き上がり、油田の火災を見るように黒々と空を焼いていた。この信じられぬ光景に目を奪われ、私は石につまずいて灰の中に顔を突っ込むように転んだ。灰が柔らかであったのでかろうじて顔に怪我をしないですんだ。起き上がって口の中の灰を吐き出し、目をこすった。
サンセヴィーノはすでに並んだ家のはずれに行き着いていた。彼は行きづまって後ろを振り向き、一瞬ためらったがすぐ家の中に姿を消した。私の左足の傷跡が疼《うず》きだした。左目には灰が入って痛かった。口の中も灰だらけで、目の痛みに耐えようとして歯を食いしばると、口の中で灰がじゃりじゃりと音を立てた。
サンセヴィーノの後を追って私はよろよろと家の中に入った。上がった時と同じような木の梯子があった。サンセヴィーノの足音が下の石の迫持のバルコニーに響いていた。階段にオリーブオイルがこぼしてあり、私はその中に踏みこんであやうく階段から転げ落ちそうになった。
階段を降りきって庭に出ると、そこには熱のために枯れようとしているオレンジの木が一杯であった。木になっているオレンジが提灯のように光った。サンセヴィーノの足跡は次の家並みに続いていた。前の街区よりも大きく、古くて修理の行き届かない家が並んでいた。あちこちの漆喰の壁は大きく剥《は》げ落ちていた。大きな部屋の木製のベッドに家の雑貨がぶちまけてあった。この一部屋にたくさんの人や家畜が折り重なって生活し、寝起きしていたものに違いなかった。古い石の潜《くぐ》り門が狭い通路の暗がりに開いていた。腐敗した塵芥臭が漂ってきた。並んでいる部屋の一つの奥に斜面になって階上に続く通路が見えた。小石を敷き詰めて、轍《わだち》の跡がついていた。サンセヴィーノの足音はそこから聞こえていた。私は追った。
斜面はぬるぬるして堆肥《たいひ》と馬の臭いがした。私は懐中電灯で照らしながらやっとの思いで上の階に上がった。骨太《ほねぶと》の鈍重そうな驢馬《ろば》が一頭、大きな怯えた眼で私を見ていた。むっつりと結んだ口の端から藁の切れはしが垂れ下がっていた。私の前で驢馬は長い耳をびくつかせ、懐中電灯の明かりに驚いたのか、その耳をピタリと寝かせた様《さま》は、まるで悪魔の手先であった。
斜面はそこで終わり、石の階段が続いていた。私は非常に疲れていた。精神的な疲労、睡眠不足、足の痛みなどの入り交じった疲れであった。私はよろけ、床に刻まれた轍に義足が当たって大きな音を立てた。私はこの斜面や階段を、何人の人間が昇り降りしたのだろうかと考えた。何代も何代もの人間がこの家に住んでは死んでいったのだ。千年以上も人が住んでいた部屋もあるのではあるまいか。その家が数時間後には地上から跡形もなく抹殺されようとしているのであった。
上の部屋はややきれいであった。壁には家族の写真がかけられ、部屋のひと隅には小さな神殿がまつってあった。その部屋も過ぎて、さらに昇った。次の階には壊れた自転車が転がっていて、小さな鍛冶《かじ》工場があり、炭の臭いがした。どこまで昇る気だろうか。私は自分の限界が来ているのを感じた。足がぐらつき、すり減った石の階段は無限に続くかと思われた。
突然私はまた熔岩の輝きの中にいた。硫黄の強い臭いが熱く顔に当たった。見ると熔岩の赤い光の中で家の黒い影が一軒、また一軒とスローモーションの映像のように崩れ落ち、あるいは押し倒されていた。私の頭に何かが当たり、目の前でくずれた家のように私はその場で倒れた。倒れながら眼もくらむように輝いた火の粉が降ってくるのを見た。
手から何かをもぎ取られる気持ちがして、私は必死に意識を取り戻そうと焦《あせ》った。耳慣れた声が聞こえていた。
「怪我をしなかったかね」
その声は手術台で聞いた声だった。私は叫んだ。
「ほほう、恐がっているのかね、え?」
目を開くと外科医の顔が覆いかぶさっていた。残忍さを帯びた唇が笑っていた。その唇をなめている舌と、煙草のやにに汚れた尖《とが》った歯。目は赤く石炭のように燃えていた。
「もう手術はごめんだ」
われ知らず私は叫んでいた。
「頼むから、手術はしないでくれ」
私の上で顔が笑った。口髭がない。その顔がシャーラーの顔となった。しかしサディスティックな興奮の色はその目から消えなかった。
突然頭が判然とし、私は事態を知った。ここはサント・フランシスコで、私の顔をのぞいているのはサンセヴィーノなのだ。彼は私に懐中電灯を向けた。眩《まぶ》しくて何も見えなくなった。彼は私から奪ったピストルを持って笑った。恐ろしいひきつった哄笑《こうしょう》であった。
「さあて君、しばらくおとなしくして、僕にその素晴らしい新調の脚を見せてくれないかね」
彼は私のズボンを引き裂いた。彼の手が私の体に触れ、私は飛び上がった。そのとたん懐中電灯で顔を殴られ、私は灰の中にのけぞった。右の目の上から血が流れるのがわかった。血は口に流れこんだ。舌の上で辛《から》く、そしてざらざらしていた。サンセヴィーノは私のズボンを腿《もも》まで裂き、義足の締め具をはずそうとしていた。私は震えるのをどうしようもなかった。サンセヴィーノが猫なで声になった。
「恐がることはないよ。もう脚を切り離すのに手術はいらないんだ。そうだろう。留め金とバンドだけだ。革のね。血も肉も、もうありゃしないんだろう」
自分でそう言いながら彼は舌なめずりをした。何かしなくてはならないと私は思い続けていた。サンセヴィーノの手の感触が私をすっかり縮み上がらせてしまっていた。私はその恐怖と闘い、気持ちを落ち着かせようと必死だった。どうすればいいだろう。あの不吉な指が体の上を這いまわっていると、私はまるで考えることができないのだ。サンセヴィーノは私のこわばった腹の上を撫でた。
私の義足がぽろりとはずれた。
「ほうら、ちっとも痛くないだろう。この手術は痛くないんだ」
私は起き上がった。サンセヴィーノが二、三歩退った。私の義足の金属の部分が、熔岩の光を鈍く反射した。彼が私の義足を手にして立っている様は、ぞっとするほど気持ちが悪かった。私の本物の足を一つの肉塊として切り取って、血まみれになりながらそれを眺めている。そんな感じがするだった。彼は懐中電灯を消して私に笑いかけた。
「さあファレル君、もう何でも好きなようにしていいんだよ。君はどうせ動けないんだからね」
シャーラーの声であった。しかし次の瞬間にはもう外科医になっていた。
「僕の手術は立派なもんだ。どうだい、え? 切断の後はすっかりよくなってるじゃないか」
恐怖を振りきろうとして私は思いつく限りの悪罵《あくば》を彼に浴びせた。彼はただ笑うばかりであった。尖った歯が赤く光った。彼は義足のパッドを引きはがし、逆さまにした。セム革の小さな袋と巻いた油紙が灰の中に落ちた。サンセヴィーノは満足げに鼻を鳴らした。革袋を手に取ると貪欲に目を血張らせながら、もどかしそうに口紐を引きちぎった。中をのぞいて彼は鼻歌でも歌い出さんばかりであった。
「ほう、トゥチェックは嘘をついたんじゃあなかったわけだ。ようし、よし」
「トゥチェックをどうしたんだ?」
サンセヴィーノが私を見て笑った。悪魔の笑い顔であった。
「あんたが心配することはないよ。痛い目にあわせやしない。そうひどくはね。あの男は大丈夫だ。マックスウェルも、可愛い伯爵夫人も、それからあの間抜けのアメリカ人も、皆大丈夫だよ」
彼は笑い出した。
「ピッツバーグからはるばるおいでなさったんだって? 同郷のよしみか、ははあ。わざわざ、ベスビオの噴火を見物にね。いいだろう。今は特等席で見物中だ。文句はないはずだぜ」
「皆をどうしたんだ」
私の怒りが恐怖にとって代わった。
「何もしやあしないよ、君。何もしやあしない。噴火がよく見えるところに連れて行ってやった。それだけのことさ。君も皆と一緒に、村が全滅するところを見物するかね。この辺の家、君は見たんだろう?」
サンセヴィーノは屋根の上からサント・フランシスコの村を指した。
「この村はね、ローマが栄えていた頃にできたんだよ。その村も後何時間かの命ってわけだ。村と一緒に、君も終わりだ、そうだろう、え、君?」
革袋の口紐を結び直してポケットに入れた。それから彼は足下の油紙を拾い上げた。
彼は私に近寄ってきた。私はとっさにあることを思いついた。上着のポケットを探って私は車のローターを取り出した。
「君は、これがほしいんじゃないのか?」
「ほほう、取引きをしようってのか」
「そうじゃない。君のような愚劣な人間と取引きをしようなんか思うものか。口惜しかったら歩いていってみろ」
私は小さなベークライトと金属片のローターを力の限り遠くへ投げた。サンセヴィーノは抑えようとしたが、ローターは屋根の端を越えて飛んだ。サンセヴィーノは端に立って、ローターの落ちていった黒い闇の底を見下ろした。やがて彼は怒りに顔を蒼白にして戻って来ると、イタリア語で口汚く罵《ののし》りながら、私の切断の痕を蹴りつけた。その部分の肉がえぐれるように痛み、その痛みは体の左側を走り、私は脳の神経をハンマーで打たれたような衝撃に身をよじった。サンセヴィーノは私の義足を拾い上げ、それをローターの飛んでいった屋根の端から投げ下ろした。義足の金具が赤い光を受けて空を切った。言いようのない絶望的な恐怖が私を襲った。やくざな道具の一つが失くなったからといって嘆くのもつまらない話だが、私はあの足がないとどうにもならないことを自分でもよく知っていたのだ。サンセヴィーノが唇をねじ曲げていった。
「さあ、その足で、サント・フランシスコから逃げ出してみろ」
また火口から焔が噴き出し、夜明けの天空が赤く輝いた。サンセヴィーノが空を仰いだ。その顔に汗が光っていた。彼は死に怯える追いつめられた者の凶暴さで、私の腰を力一杯蹴りつけた。私が反射的に身をねじったので、彼は私の脚を蹴ることになった。彼はもう一度蹴ろうとしてやめ、膝をついて私のポケットを捜した。
「あれはどうした?」
「あれって何だ」
私は顔に一発食った。
「もう一つのローターだ。この野郎」
「持ってないよ」
唇が裂けてうまく口がきけない。
「マックスウェルが持ってる」
これでサンセヴィーノが皆のところへ行けば、まだチャンスがあると思った。
サンセヴィーノはまた私を殴りつけたが、新しい噴火が起こって彼は飛び退り、入口に姿を消した。閂《かんぬき》をかける音が聞こえた。私は火山の焔に照らされた屋上に独りぽっちになった。
私は恐れを感じなかった。少なくともその時は恐くなかった。サンセヴィーノがいなくなったことの方が大きかったのだ。その時私は本当にほっとしたのである。恐怖は夜明けとともに襲ってきた。熔岩は道の向こうまで迫り、熱気が私の体をこわ張らせた。
サンセヴィーノが行ってしまった後、私はドアの窪《くぼ》みまで這っていき、体を横にして息を整え、考えを整理しようと思った。礫《こいし》が音を立てて屋上に降り、顔に灰や塵が飛んできた。私はドアに身をすり寄せて礫をよけた。礫が降りやむと、屋上の捕囚の苦難の時が始まった。
屋上の端までは約五十フィートで、奥行きが三十フィート、周囲には一フィートほどの高さで手すりがめぐらされていた。いっぽうの端が道路に面し、反対側の、私がローターを投げた方は、灰に埋もれた中庭になっていた。中庭の中央に私の足が鈍く光っていた。家はずっと並んでいたが、隣の家との間は約五フィートの距離があった。飛び越えるのはとてもむずかしそうだった。家の中に入るにはドア以外の道はなかった。干し物のロープか、あるいは松葉杖の代わりになる棒切れでもあれば、少しは望みもあっただろう。しかし私には何もなかった。平らな屋上には灰が積もり、周囲に一フィートの手すりがあるだけで、その真ん中に石造りの階段の降り口があり、そのドアには中から閂がかかっているのだ。ドアを開けようにも私はナイフはおろか、およそ道具と呼べる物も持っていなかった。
絶望的であった。最後の望みがあるとすれば、それはヒルダが首尾よくマックスウェルを捜し出し、皆が私を助けに来てくれることであった。叫んだり、合図することくらいできるだろう。屋上の牢屋もその自由はゆるされていた。周囲の有様を知ることもできた。息もつまるような独房に閉じこめられて、突如として石の建物の下敷きになって死ぬのを待っているわけではなかったのだ。少なくとも動きまわって状況を知ることはできた。それができなかったら、私ははたしてその後の時間を精神的に持ちこたえられたかどうかわからないと思う。
降ってくる礫《こいし》は固くてとがった軽石だった。ドア以外に脱出の道がなく、軽石しか道具はないので、私はそれで木のドアをこすり始めた。こんなことで脱出できるとはまったく考えていなかった。しかし、真赤な熔岩が村に迫っていることを忘れるために、何かをやっていなくてはならなかったのだ。
両側の熔岩の流れは、速度が速いらしかった。広い斜面をすべり降りてサント・フランシスコの村を通り過ぎ、その先の方で挟《はさ》み打ちのように二マイル下のアヴィン村に向かっていた。サント・フランシスコに向かっている流れは、前の二条の熔岩に比べると量も少なく、速度も遅かった。しかし流れは確実に村に向かっていた。村はずれから家の崩れる音が聞こえ、それで熔岩がどこまで迫ったか知ることができた。熔岩が家を押しつぶすたびに、そこに新しい火の手が上がった。熔岩が家を飲みこむ速度は約十分に一軒であることがわかった。その時、私のいる屋上まで、時間にして一時間十五分。時刻は六時十五分前だった。七時までの命であった。
三十分ほどドアに取り組んでいただろう。私は手を止めた。疲れきっていた。汗は全身から滴《したた》っていた。厚さのため肌はひりひりし、筋肉は痙攣《けいれん》した。ドアは一フィート足らずの長さに渡って四分の一インチほどの溝《みぞ》ができたに過ぎなかった。望みはなかった。ドアは堅い乾いた木材で、厚さも何インチと言うものであった。残された時間でドアを破るのは不可能だった。
夜が明けかけていた。目に流れ込む汗を拭いて、山の様子を見にドアから這って離れた。火口の輝きは鈍り、夜明けの薄光の中に空を覆う厚い黒幕が垂れていた。真っ黒な煙がうねり、渦巻きながら墨《すみ》のように空に広がっているのであった。熔岩の流れも、もう火の河のようには見えなかった。灰の斜面の頂き付近、山の肩の辺りから黒い帯になって流れる熔岩は太い手首と広がった掌《てのひら》、そしてその先に開かれた四本の指を思わせた。熔岩の流れからゆっくりと煙が立ち昇り、暑い空気の向こう側で山が揺れていた。
サンセヴィーノに蹴られた脚の切断の痕《あと》がずきずきと痛んだ。頭痛がひどく、唇は厚くはれ上がっていた。ズボンをめくってみると手術痕の、骨を肉が薄く覆っている部分から血が流れ、細かい砂利がたくさん付着していた。灰の中にうずくまって私は何とか傷をきれいにしようとした。シャツを引き裂いて傷口を覆い、上からハンカチで縛った。水が欲しかった。傷を洗うためではなく、飲むためであった。熱さと硫黄の臭気で私の喉《のど》はひりひりしていた。しかし、一杯の水があろうとなかろうと、今やどうしようもないものであった。熔岩は間近に迫っていた。家は一軒一軒、確実に崩れ去っていった。そして破壊は熔岩流の広がった幅一杯に起こっていた。村じゅうで熔岩が家を飲み込む音が響き、その音があまりにも近くで聞こえるので、私は何度も、もう隣の家がやられたのかと顔を上げた。
陽が昇った。空に舞う灰と蒸気の靄《もや》を通して、太陽はわずかに弱々しく鈍い光を放つ黄色の円盤に過ぎなかった。太陽は昇るにつれてもっと輝きを失った。私はふと、山脈を越えた反対側のイタリアを思った。明るく暖かい陽を浴びて、村々はゆったりと憩《いこ》っているだろう。その向こうにはアドリア海が青く煙っているだろう。それなのに、私は、火山灰の雲に閉じこめられ、鼻をつく硫黄の臭気の中で窒息し、やがて死のうとしているのだ。
灰の中で何かが光った。ジーナのピストルだった。サンセヴィーノが怒り狂った拍子に置き去りにしていったのだ。私は拾ってポケットに入れた。熔岩に飲まれて死ぬのは耐えがたい。その時は……。
私は恐怖よりは苦々しい思いにとりつかれていたのだと思う。ほんのちょっとしたことでこんなことにならずにすんだはずなのだ。あの別荘に行くことにしなければ――。旅行のルートをチェコからミラノに行くことにしていなかったなら……。しかし、こんなことを考えて何になったろう。私がイギリス人ではなく、ポリネシア人にでも生まれていれば、私は考えただけでも身の毛がよだつような手術を三度も受けて脚をなくすこともなかったではないか。私は空っぽのズボンの裾を引き上げて太腿のところで縛った。屋根を這って進み、一番端の熔岩の見えるとこまで行ってみた。
陽はすっかり昇りきっていた。少なくとも当たりは昼間の明るさになっていた。熔岩流の黒い帯は村に入って家を飲み込みながらその幅を拡げていた。私のいるところまではもう三軒しかなかった。私の見ている前でそのうちの一軒が押しつぶされた。そして跡形もなくなった。あと二軒しかない。
「黒ん坊の子供が三人並んでた……」
どこかで聞いたことのあるくだらない詩が頭をかすめた。見る見るうちに二軒目が飲み込まれた。
「そしてとうとう一人になった」
ずっと右の方で熔岩の先端が狭い道をふさぎ、じわじわとそのまま前進してくるのが見えた。熔岩は石炭殻のように黒く、支流のように流れ込んだ熔岩が赤く燃えた。
崩れた家から舞い上がった塵があたり一面に降り注いでいた。乾いた口や喉の中に塵はじゃりじゃりと侵入した。空気は熱を帯びて渦巻いていた。ベスビオの火口からふきあげるガスの音はもう私のいるところまでは届かなかった。聞こえているのは、ただ石のこすれ合うガラガラという音ばかりだった。その音は私の周囲の空間を閉ざしてたえまなく続き、その上に間を置いて熔岩に押しつぶされて石の家が崩れる音や漆喰の壁が剥《は》げ落ちる音が轟《とどろ》いた。
隣の家の番だった。私は呆然として屋上にひび割れが走って行くのを見た。ひときわ高く音を立てて割れ目が拡がった。石そのものがぽっきりと二つになった。建物の向こう側が塵煙の中に消えた。崩れ落ちた建物の半分を熔岩が飲み込むさまは、とてもこの世の光景とは思えなかった。と見る間に私の眼前わずか五メートルばかりのところで、残った部分全体にひび割れが走った。ひび割れは岩を噛む早瀬のように建物中に拡がり、あっという間に建物は轟音とともに瓦礫《がれき》の中に沈み、自ら巻き上げた塵煙の中に姿を消した。
灰燼《かいじん》の幕がおさまると、私の眼前に熔岩そのものが迫っていた。私は息を飲んだ。叫びたかった。一目散に逃げだしたかった。が、私は一つしかない膝と両手をついて、熔岩の壁が寄せてくるのを見つめていた。動くことも、声を上げることもできず、容赦ない自然の怒りにただひれ伏し、恐れおののくばかりであった。
爆弾や機銃掃射《きじゅうそうしゃ》で廃墟と化した街を私は知っている。しかし、カシノもベルリンも、この目の前の光景に比べたらまるで箱庭であった。爆弾も機銃掃射も、どんなに激しかったとしても、元そこに何があったかを示す残骸は残すものだ。熔岩は一切を飲み込んでしまう。すでに熔岩の下に埋もれたサント・フランシスコは、文字どおり何の跡形も残っていない。そして今、私の目の前に灼熱の熔岩が土手を築いたように押し寄せ、煙を吐き、熱風を吹きつけているのだ。そこに村があったことを想像するのさえむずかしい。熔岩はすべてを飲みつくした。ほんの数分前にそこに家があったのが信じられなかった。数百年もの間、そこで人間が生きていたその家が、私の眼前で熔岩に押しつぶされ、飲みこまれてしまったのだ。わずかに左手のほうに一つ、教会の尖塔が黒い平野の上に頭を出していたが、私がそれに気がつくと見る間に美しく均整のとれた塔は花弁のように裂け、塵煙とともにくずれおれて熔岩の波の中に消えてしまった。
息を飲みながら私は体を乗り出して、バルコニー越しに下をのぞいた。熔岩の壁に加えて、さらに白熱の熔岩の舌が、今しがた崩れた家から飛び散った瓦礫《がれき》の上をなめ回しながら、じりじりと私のいる家に向かってのびているのが見えた。熱気が一段と激しくなり、私の眉が音を立てて焦《こ》げ始めた。抑えようのない恐怖に衝き上げられ、私は屋上の反対側の端をめざして這い進んだ。
たった一枚の木のドアのために、私は抹殺される。跡形もなくこの世から消されてしまう。私は思わず叫んでいた。がさがさの痛む喉で私は叫んだ。救いをもとめて叫び続けた。どこかで返事が聞こえたような気がした。しかし私は叫び続けた。叫んでいるまさにその時、私の乗っていた屋上の床を真っ二つに割って裂け目が走った。
もう終わりだ。そう思って私は最後の時を迎えるために叫ぶのをやめ、気持ちを引きしめた。柔らかい灰の中にひざまずき、私は祈った。あの忌《い》まわしい手術の前にいつも祈ったように私は祈った。恐怖に屈することなく、来るべきものに臆せず立ち向かうことができるようにと祈った。
裂け目が足下で開いていくのを見ていると、私は急に落ちついてきた。今はただ死が一刻も早くやってきてほしかった。そしてそのことばかり考えた。瓦礫の中に生き埋めになり、窒息しそうになりながら熔岩に飲みこまれるのを待つのは耐えられなかった。裂け目はじりじりと拡がり、一フィートになり、二フィートに開いた。ついには向こう側の床が粉々に砕《くだ》け、もうもうと塵煙を上げながら内側に崩れこむように燃える熔岩の熱の中に沈んでいった。その時である。私はドアのはまっている石の枠《わく》が崩れるのを見たのだ。
私は入口に向かって転がっていた。万に一度のチャンスであった。逆巻《さかま》く煙をすかして下をのぞくと、木の梯子は前のままの状態で下に通じていた。一瞬迷った。建物の中に閉じこめられて兎《うさぎ》のように死ぬよりは、屋上で死んだ方がいい。しかしやってみるだけのことはあった。私は一本の脚で立ち上がり、思いきって梯子の上から飛び降りた。飛び降りた脚の下には、部屋の壁板が重なり合って倒れていた。一方の壁はすっぽり抜け落ち、その外に熔岩の壁が熱気を吐いて揺れていた。石の階段はそれと反対側だった。ありがたい。私は転がっていき、一気に階段をすべり降りた。二度目の階段では下りたところで石の柱に腕を打ちつけ、危ういところで骨折を免《まぬが》れた。建物はぐらぐらと揺れ、部屋の中は粘々《ねばねば》とした熱気が垂れこめていた。
起き上がると目の前に、渦巻く煙をすかして、大きな丸い目につき立った耳の、長い顔が見えていた。気の毒な驢馬《ろば》が端綱《はづな》を結《ゆ》わえられたまま、足を踏み鳴らしてもがいているのだった。床に刃渡りの長い肉切り包丁が転がっていた。私はそれをつかむと一本の足で驢馬に飛びつき、端綱をすっぱり切り離した。この動物を見殺しにしたら、私自身も助からない。私にはそんな子供じみた気持ちがあったのだ。
なぜだかは自分でもわからない。飛行機乗りの時代に身に着けた癖で、何かマスコットがほしかったのかも知れない。いずれにせよ、驢馬は私同様、死に直面していたのだ。綱が切れたとたんに、驢馬は身も世もあらぬ声をあげて部屋中を駆け回った。蹄《ひづめ》は床を蹴り、恐怖のために歯が鳴っていた。階下に続く斜面の通路を見つけると、驢馬は猛然と駆け降りた。最後の部分は臀《しり》をついてすべり降りていった。降りきって床を蹴って立ち上がる時、蹄から火花が散った。
私も驢馬の後から斜面をすべり降りた。階段より楽だった。堆肥でぬるぬるする斜面に背中をつけ、両手でいざるようにしてすべり降りた。建物が揺れていた。どの階でも、壁の崩れ落ちた向こうに燃えながら迫ってくる熔岩が見えていた。一階に下りきった時、続けざまに床の裂ける音が響いた。上の方から家が崩れ出しているのだ。家畜の出入りに使われていた道路への戸口も裂け、その隙間から熔岩が白熱の息で私の髪を焦がした。
驢馬は窓から飛び出した。恐怖に駆られてめくらめっぽう窓に突っこみ、そのため窓枠も砕《くだ》け飛んだ。私は驢馬の開けてくれた窓から飛び出した。飛び出したところは中庭で、目の前に私の脚が落ちていた。
運命が時に気まぐれに示す親切であった。今思うと、私にはそれがどうしても、驢馬の綱を切ってやったからだという気がしてならない。そんな馬鹿な、と人はいうだろう。しかし現に脚は目の前に転がっていたのだ。毎晩爆撃機に乗ってドイツに飛んでいた頃、パイロットたちはもっと奇妙きてれつなことだって信じたものだ。
ひしゃげた足をつかむと壁ぎわに飛んでいって転がった。私が境の塀を乗り越えて隣の庭に飛び降りたまさにその瞬間、私が囚われていた家が轟音とともに崩れ落ち、庭じゅうに灰燼《かいじん》を巻き上げた。隣の家の中を通り抜けて狭い道に出たが、一方は熔岩でさえぎられていた。袋小路となった道の真中に驢馬は熔岩に立ち向かって立ち、しきりに鼻を鳴らしていた。
私は脚のところで結んでいたズボンを解き、義足をつけた。熔岩の細かい破片が義足と肉のあだに挟《はさ》まり、体重をかけると飛び上がるほど痛かった。痛みなどかまっていられなかった。それよりも、人間らしく立ち上がることのできるのが何とも嬉しかった。脚が一本しかなく、下等な動物のように地べたを這わなくてはならないその時の気持ちほど惨《みじ》めなものはない。立ち上がって自由に動けるようになったとたんに、急に自信が湧いてきた。夜が明けてから初めて、私はきっと生き抜いていけるという気持ちになった。
私は驢馬に近づいていった。驢馬はじっと動かずに私を見つめた。耳は後ろへ寝かせていたが、白目をむいてはいなかった。その顔にはまったく邪念の色がなかった。驢馬は一軒の家の入口に立っていた。私がドアを押して入っていくと、驢馬は後ろからついてきた。そんなふうにしてついてくる驢馬を見ると、もうどんなことがあっても驢馬とは離れまいという気持ちになった。その時私には、この驢馬がまるで人間であるようにさえ思えたのだ。驢馬にしてみれば、長年人間の後ろにしたがって家に出入りしていたので、ごく当然のこととして私について来たに過ぎなかったのかもしれない。しかし、そんなわけなど、どうでもいいことだった。要するに、私はもう「一人」、仲間がいるということに大変に元気づけられたのだ。
ドアは廐《うまや》の入口であった。一番奥の木の扉のすき間から太陽の光が洩《も》れていた。閂《かんぬき》をはずして外に出た。驢馬は右に曲がった。私は戸惑った。完全に方向を見失っていたのだ。修道院の方角もまったくわからなかった。仕方なく、驢馬について行った。道は狭く、高い建物の壁が続き、ところどころに厩の扉が開いていた。その道も右へ大きく曲がって、行方は熔岩にふさがれていた。
驢馬は引き返した。義足の中に挟まった熔岩の破片が肉に食いこみ、耐えがたい痛さだった。建物の壁から大きな石が突き出ているところがあった。その脇に立った時、私に考えが閃《ひらめ》いた。驢馬の手綱を取ると驢馬は足を止めた。私は驢馬を石のそばに引き寄せ、石を足場にして驢馬の背中に這い上がった。次の瞬間、驢馬は軽快にトロットで歩きはじめた。もうすっかり落ち着いていた。
広い道路に出た。手綱を引くと驢馬はぴたりと止まった。
「さて兄弟、どっちへ行くんだい?」
私が声をかけると、驢馬はぴくりと耳を動かした。修道院はずっと熔岩に寄ったところにあった。左の道を選んで腹を蹴《け》ると、驢馬はまたトロットで動き出した。レストランの前を通ると、灰の積もった床に酒樽《さかだる》が転がり、葡萄酒がぶちまけられていた。灰をかぶった小さな木のテーブルが並んでいた。テーブルの傍《かたわ》らの壁ぎわに、等身大の聖母マリア像が置かれていた。像の周囲には色のついた豆ランプやキラキラ光る飾り物がたくさんぶら下がり、足許にも硫黄で輝きを失った飾り物の金属片が山のように積もっていた。木の十字架にかかった粗末なキリスト像もあった。その下には枯れ花が山になり、ひびの入った丸いガラス容器には造花の束《たば》も飾られていた。
道は右に曲がった。登り坂で両側の高い建物が覆いかぶさってくるようだった。そして道はまっすぐ家の高さほどの黒い熔岩の壁に行き当たっていた。閉じこめられたという気持ちが私を襲った。どの道を行っても熔岩に行き当たるのではないかと思われた。発掘途中のポンペイを歩いたらこんなふうであったのではあるまいか。目に見えるものと言えば道路に面して並んでいる家の破風《はふ》だけで、その家並みも突然もぎ取られたように終わっていた。
驢馬は自分で向きを変え、元来た道を戻り始めた。飾り立てられた聖母マリアの像を通り、レスランの前を過ぎようとした時、私の名前を呼ぶ声がした。
「ディック、ディック!」
驢馬を止めて振り返った。ヒルダだった。レストランの隣の家から駆けだしてきた。服は破れ、髪を振り乱していた。
「無事だったのね、よかったわ」
私の前まで来てヒルダは喘《あえ》いだ。
「だれか助けを呼ぶのが聞こえたの。私、もしやと思って」
ヒルダは最後まで言わなかった。ヒルダの目が、私の顔からしだいに下の方に移っていた。
「怪我してるの?」
「いや大丈夫だ。皆はどうした? どこにいる?」
「見つからないのよ」
ヒルダの目は心配でぎらぎらしていた。
「修道院の中は全部見たのよ。でもいないの。ねえ、皆どうしたのかしら?」
それから急にあわてて付け加えた。
「ねえ、皆を捜さなきゃあ。熔岩はもう修道院まで来ているのよ。いくら呼んでも返事がないの。どうしたらいい?……」
ヒルダはその先を言わなかった。考えを口に出すのも恐ろしかったに違いない。
「修道院は、どっち?」
「この建物の裏よ」
レストランの隣の家を頭で示した。私は驢馬を回してドアを潜《くぐ》った。レストランから漂ってくる臭いに、私は自分の喉が渇ききっているのを思い出した。
「ちょっと待った」
レストランに飛びこむと、カウンターの裏に並んでいる瓶をつかみ、カウンターの角にぶつけて口を開けた。葡萄酒は生ぬるく、酸味も強かったが、喉に溜まった塵や砂は洗い落とすことができた。私はヒルダに瓶を渡した。
「君も少し飲んだ方がよさそうだよ」
「そんなことしている時間はないわよ」
「いいから飲めよ」
ヒルダは言うことを聞いた。飲み終わったヒルダから瓶を取って投げ捨てた。
「さあ、行こう」
ヒルダが先に立って隣の家のドアに入っていった。壊れた木の梯子が階上に続いていた。
「あなたが呼んでいるような気がしたの。その時この一番上にいたの」
梯子の下を過ぎて石畳の通路を進んだ。背後で蹄《ひづめ》の音がした。
「何?」
ヒルダが大きな目をして振り返った。その顔は発狂寸前といってよかった。
「何でもないよ、ジョージが来てるんだ」
「まあ、驢馬じゃないの。どうしてジョージなんて言うの?」
家を通り抜けて、灰の積もった庭に出た。ジョージという名前がひとりでに頭に浮かんだ。どうしてだろうか。そうだ、ジョージは私のマスコットだった。
「僕のマスコットの名前さ」
私のマスコットはアリスがくれた、小さな毛の長い馬だった。ブリテンの戦闘の間じゅう私と一緒に空を飛び、フランスやドイツにも行った。イタ公の誰だか不届きな奴が、あの最後の出陣の前に引きちぎって行ったのだ。
二列目の家並みにさしかかった。
「ずっとついて来るわよ、気味が悪い」
ヒルダは自制を失わないために大きな声で話し続けた。
「ジョージは家の中に慣れているんだよ。ずっと家族みたいにして家の中に住んでいたんだろうからね」
表通りに出た。広場には車輪の崩れた荷車が傾いたまま見捨てられていた。思い出した。左の方を見た。最後に見た時より熔岩はずっと進んでいた。高さ二十フィートの黒い灼熱の壁は修道院の中央の入口からわずか十メートルに迫っていた。三十分もすれば、熔岩は今私の立っているところまで来るだろう。そして聖フランシス修道院は跡形もなくなってしまう。
「早く、ねえお願い、早くしなくちゃ」
入口に向かって駆け出そうとするヒルダを私は抑えた。
「あわてちゃ駄目だ。どうするかまず決めるんだ。修道院の中は全部見たんだね」
「見たわよ」
「一部屋も抜けてないね」
「え? さあ、どうかしら。私、わからないわ。中はまるで迷路なのよ」
私は考えた。
「外回りは見たの?」
ヒルダは首を振った。
「外を見てる閑《ひま》なんて。なにしろ皆を捜して……」
「どの部屋だって窓か格子くらいあるんじゃないのかな。何か合図になるものを窓から出してやしないかな」
ヒルダは私の顔を見た。彼女の顔にたちまち希望の色が浮かんだ。
「あら、私どうしてそんなことに気がつかなかったのかしら。早く。皆が入ったところから裏へ回る道があるのよ」
私は足を引きずりながらヒルダに続いた。驢馬は相変わらず後からついて来た。が、私が正面の入口に着く前に蹄の音が止まった。振り返ると驢馬は道の真中に立ち、耳を伏せて、熔岩の石炭殻のような表面から上る煙に鼻をびくつかせていた。
「そこで待っていろ、ジョージ。すぐ帰ってくるからな」
私が門をくぐると、ヒルダはもう中庭を駆け抜けていた。中庭の石畳の広場が熔岩にふさがれた熱い道の後でこのうえもなく涼しく心地よかった。私は修道院の窓を見上げた。窓は瞬《またた》きもせずに私を見下ろしている無表情な目であった。スカーフもハンカチも、他の何も窓には見当たらず、マックスウェルたちが建物の中にいることを示すものは何もなかった。
修道院の中に入ってみた。中は真っ暗で空気はひんやりと冷たく湿っていた。私たちはたちまち元気を取り戻し、勇気も湧いてきた。ヒルダが呼んだ。高い窓のある長いテーブルの並んだ大きな食堂を抜けると、また石畳の通路になっていた。引きずっている義足の音が大きく反響した。ヒルダがしきりに私に早く来いと言っていた。私は重い鉄の鋲《びょう》を打ったドアを押して修道院の中庭に出た。小さな花壇に葡萄園が境を接し、実の一杯なったオレンジの林がその脇を固めていた。ヒルダに追いついた。ヒルダは修道院の建物を見上げて立っていた。建物のある部分はひどく古びていた。そのなかでも特に左側の高い塔のあるあたりはもう崩れかけているほどだった。建物は何度も増築されたらしく、どこも同じ石材で建てられてはいたが、それぞれの部分が年代相応に色|褪《あ》せて、古さの度合いを示していた。きれいなステンドグラスのある礼拝堂に連なるように何軒も納屋が並んでいた。その中にはまだ煙突から煙の出ている建物もあり、硫黄臭に混ってパンを焼く臭いさえ漂っているようであった。パンを焼いている最中に噴火が始まったのに違いなかった。
「ハケットのガイドブックにここのことが詳しく書いてあるといいんだがね、まったく」
冗談でも言わないことには気持ちが落ち着かなくてどうしようもなかった。窓という窓は中庭と同様、何も語っていなかったのだ。
「一番熔岩に近い方に行ってみよう」
私が行きかけた時、ヒルダが私の腕をつかんだ。
「あれ何?」
高い円塔を彼女は指さしていた。廃墟の塔には窓がなく、ただところどころに細いすき間があるだけだった。そして一番高いところの石のすき間から、何かぶら下がっているのが見えた。煙の雲に視界をさえぎられてよくは見えなかったが、どうやらそれは衣服のようであった。
「君が前に中を捜した時、塔も見たの?」
ヒルダは首を振った。
「塔なんかあるとも思わなかったわ」
私はツツジの茂みを抜け、下水の水溜まりを回って塔の下に行った。地面は雑草に覆われていた。塵芥《じんかい》の山が堆《うずたか》く、蠅が音を立てて僧侶たちの残飯や空き瓶の間を飛び回っていた。塔の真下から見ると布切れは真新しく、明るい空色をしていた。私はハケットの青い絹のシャツを思い出した。私は両手を口にそえて呼んだ。
「マックス、マックス、ジーナ、ハケット」
皆の名前を叫んだ。耳をすますと聞こえるのは押し寄せてくる熔岩の音ばかりで、その上に時々家の崩れる音が重なった。
「何か聞こえるかい?」
ヒルダは首を振った。
私はもう一度呼んだ。熔岩の音はいっそう近くに迫ってきた。振り返ると汚ならしい塵芥の山ごしに、ずっと並んだ納屋や僧房《そうぼう》が見え、今や熔岩の壁はその家並みの上にのしかかろうとしていた。
突然、ヒルダが私の腕を握った。
「見て!」
彼女は塔の上の方を指さした。ぶら下がった布が揺れ動いていた。大きく左右に揺れていたが、いきなり一方の端が乱暴に引かれた。と見る間にシャツの袖が二本の石のすき間から現われた。
「ハケットのシャツだ!」
私は口に手を当てて叫んだ。
「どうやってそこに行くんだ?」
シャツの袖が揺れた。だれか叫ぶ声がしたようだった。熔岩の音に呑みこまれて、よくは聞こえなかった。ヒルダが力をこめて私の腕を握った。
「早くあそこに行く道を捜さなきゃあ」
私はヒルダの手を私の腕から解《と》いた。
「待った。マックスが何か言ってくるに違いないから」
私は塔から目をはなさなかった。家のつぶれる音がしていた。
「ねえ、たいへん!」
ヒルダの声に振り向くと、彼女は僧房の方をじっと見つめていた。僧房のあった方と言うべきかも知れない。そこは今や完全に熔岩の下になっていた。立ちのぼる灰燼《かいじん》がわずかにその場所の名残《なご》りをとどめ、殻の崩れ落ちた熔岩の壁が真赤な口を開けていた。
何かが私の手に当たって地面に落ちた。角に錘《おも》りを結びつけた絹の裏地であった。拾って開いてみると、錘りは銀のシガレットケースで、中に手紙が入っていた。
皆ここにいる。塔にくるに道は中庭の入口を入って食堂の中で右に曲がる。それで礼拝堂に行ける。祭壇の右手の更衣室に握り輪のついた敷石がある。その敷石の下に塔と礼拝堂をつなぐ道がある。われわれは塔の一番上にいる。扉は木製だから燃やせば出られる。俺の車にガソリンの罐《かん》がある。
うまくやってくれ。マックス
見上げるともう袖は出ていなかった。代わりに何か鈍く光るものが見えた。板の端に結びつけられた鏡であった。石の間からは下が見えないので、この原始的な潜望鏡で彼らは私たちの姿を捉《とら》えていたのだ。私は了解の合図に手を振って通路に戻った。
「急いで、ガソリンの罐を取ってきてくれ。僕はすぐ礼拝堂に行くから」
ヒルダはうなずき、迫ってくる熔岩の壁に一瞬恐怖の眼差《まなざ》しを投げたが、そのまま修道院の方へ走り出した。僧房や納屋はもはや灰燼さえも止めず、恐るべき熔岩はもう私の立っている花壇に侵入しはじめていた。熱のために木は湯気を上げ、花はみるみる萎《しな》びていった。修道院の大きな建物の一角が崩れるのと私が建物の中に入るのとほとんど同時だった。
食堂から曲がって礼拝堂へ続く通路はすぐ見つかった。更衣室も、握り輪のある敷石もマックスの言う通りだった。ヒルダがガソリンの罐を持ってくる間に、私は一人で敷石を持ち上げた。暗くひんやりとする通路に向かって石段が下っていた。私は懐中電灯をつけた。壁は古く硬い溶岩で、黒々とした光を放っていた。礼拝堂の真下を通り抜け、何世紀にもわたって僧達の足の下ですり減った石段を登った。
塔は文字通りの廃墟であった。鉄の鋲《びょう》を打った木の扉は虫が食って、ぼろぼろになっていた。木の部分はほとんどなくなって、鉄の枠ばかりになっている扉もあった。通り過ぎながら懐中電灯で照らすと、朽ち果てた床板や錆びた鉄の鎖が壁に埋め込まれているのが見えた。拷問の仕掛けらしい鉄の道具もあった。塔は明らかに教会の中の牢獄なのであった。
螺旋《らせん》階段を登りつめると、懐中電灯の光の中に真新しい頑丈な樫《かし》の扉が浮かんだ。さらにその先には大工の使う梯子がかかり、屋根に出る小さな四角い出口が開いて、鈍い光が差し込んでいた。塔の上は硫黄《いおう》の臭いがひときわ強く、扉の前の石の踊り場には厚く灰が降り積もっていた。私は扉をたたいた。
「いるかい、マックス!」
「おう、皆ここだ」
扉にさえぎられてはいたがマックスの声はよく聞こえた。
「父も?」
ヒルダはそっとつぶやいた。大声で言うのは恐かったのだろう。いないと返事をされることを恐れていたのだ。
私はヒルダからガソリンの罐を受け取ってキャップをはずしながら扉ごしに叫んだ。
「トゥチェックもいるね?」
「ああ、いるぞ」
ヒルダがほっと吐息をつくのが聞こえた。
「梯子を上がって屋根に出るんだ」
私は大声でヒルダに言いつけた。ホッとして気を失いでもされたら大変だった。
「扉から離れろ。ガソリンをかけるぞ」
ガソリンの罐を傾けながら、私は手で扉の板にガソリンを浸した。扉とその周囲に半ガロンほどのガソリンをかけた。残りのガソリンは梯子を伝わって罐ごとヒルダに渡した。「さあ、ドアから離れてくれよ」
中から声が返ってきた。「大丈夫だ。さあ、お祭りの火を焚《た》いてもらおうか」
私は屋根に出た。
「ヒルダ、梯子を引き上げてくれないか」
服を引き裂いてガソリンに浸し、先の方を持って四角い穴から手を差しこみ、マッチをすった。布が燃え上がるのを確かめて、下の暗闇に投下した。パッと焔が上がり、熱い空気が四角い穴から吹きつけてきた。私は塔の屋根にのけぞるように飛び退《の》いた。
「怪我はしなかった?」
ヒルダが私の手首を持って助け起こしてくれた。手で顔をこすった。ガソリンと焦げた毛の臭いがした。
「畜生め、ガソリンて奴は気化するからやっかいだな」
顔がごわごわと堅く乾ききっているような気がした。屋根の穴からガソリンの火が舌のように伸びていた。私は屋根の端まで這っていき、胸壁《きょうへき》の上に身を乗り出して叫んだ。
「皆、大丈夫かい?」
ガソリンが多すぎたのではないかと心配だった。ハケットが返事をした。かすかに遠くで聞こえるような声だった。
「大丈夫だとも、よくやった。上等上等」
立ち上がって修道院の石の屋根に目をやった。建物はもう半分が崩れてしまっていた。その向こうは一面の黒い平野であった。熔岩の平野はゆるやかに斜面を登り、山腹にかかってしだいに幅を狭《せば》め、黒い裂け目に集まっていた。その裂け目の上にベスビオの山頂が円錐形にそびえ、どろどろとした黒い煙が真っ赤に溶けた地球の中身とともに噴き出していた。赤い熔岩は電気ヨーヨーのように焔を上げながら山頂を舞い上がり、すべり降りた。そしてその山頂を覆って黒い雲が厚く広がり、太陽をさえぎり、昼の光を消していた。その雲の中をときおり稲妻が裂くように走った。ヒルダが私の腕にすがった。彼女も山を見ていた。怯《おび》えきっていた。
「どうすればいいの? 私たち、助かるの?」
「大丈夫、絶対逃げられるからね」
そうは言ってもまったく何の足しにもならず、私の声は空々しく聞こえるだけだった。熔岩の流れは速度を増しつつあるらしかった。すでに私たちがいた花壇を飲みつくし、向こう側の葡萄畑にじわじわと、しかし着実に流れこんでいた。修道院の一部がまた崩れて灰燼が上がった。もうすぐ礼拝堂がやられる。それまでに逃げないと……。
私は四角い出口に戻った。ガソリンの火は燃えつきていた。懐中電灯で照らしてみると扉は焦げてはいたが、依然として頑丈に出口をふさいでいた。
「もっとガソリンで燃やそう」
しかし上からかけるのは危険だった。何か容《い》れ物がほしかった。ヒルダの腕にハンドバッグがぶら下がっていた。
「それを貸してくれ」
私はハンドバッグにガソリンを入れ、四角い穴から投下した。爆発音がして四角い穴からまた焔が噴き上げた。
これで早く扉が開くことを祈りながら、私は焔を見つめて立っていた。修道院の一部がまた崩れ、火の粉が舞った。私はサンセヴィーノのために閉じこめられたあの家を探した。修道院からその方角は見当がついた。私のいたあたりには何もなかった。ただ荒々しい熔岩の原があるだけであった。
「チャイルド・ロランドが黒い塔にやって来た」
「今、なんて言ったの?」
私は大声で独り言を言ったことに気がついた。ヒルダは私がなにを考えているのか察したのだろう。私に聞いた。
「あっちの方で何かあったの? 私に会う前に。あの男、捕らえたの?」
「僕の方がつかまったんだ」
「それで、どうしたの? ひどい目に遭ったんじゃないの?」
「いや、何でもないよ」
彼女は待つことの辛《つら》さを忘れるために何でもいいから話し続けたかったのだろう。しかし私にはあの屋上での出来事を話すことはできなかった。あれは今の私たちの状態とほとんど同じだった。
カソリンの火が燃えつきた。私は胸壁の上から叫んだ。
「ドアを破れるかい?」
返事は聞こえなかった。熔岩の音がもう大きくなってしまったのだ。
「中からドアを蹴ってるわよ」
ヒルダが言った。彼女は四角い穴から中をのぞいた。火の粉が舞い上がり、ヒルダは顔を真っ黒にして咳《せ》きこみながら飛び退《の》いた。
「もうじきドアは破れると思うわ」
急に人の声や板の裂ける音が聞こえた。そして火の粉が盛んに吹き上がった。マックスの声がした。
「どこだ?」
火の粉が舞い、板が裂ける音が聞こえた。
「もう出られるぞ」
「屋根の上にいるんだ」
私が答えた。ヒルダと二人で煙の中に梯子を下ろした。
「どんどん降りてくれ、後から行くから」
破れた扉のあたりに懐中電灯がちらつき、石段に足音が響いた。私はヒルダに言った。
「さあ、急ぐんだ。降りて!」
ヒルダは煙の中へ転がり降りていった。梯子の端を押さえている私の目の前で、残っていた修道院の最後の部分が礼拝堂の向かいで崩れ落ちた。熔岩はまさに葡萄畑の端まで達しているのだ。そして今や塔に向かって押し寄せている。私はずっとアヴィンの村の方を見渡して安全な道を探した。私は心臓の止まる思いがした。サント・フランシスコの両側を流れていた二条の溶岩流が、村を過ぎたところで釘《くぎ》抜きのように内側に曲がっていたのだ。前に屋根の上から見た時すでに曲がる様子を見せてはいた。しかし、その時に比べたら、今はもう決定的であった。釘抜きの二つの刃はアヴィンの村に確実に向かっていた。そして片方の刃はすでに村に達していた。残る一方も、もう村はずれまで迫り、斜面にじりじりとのびていた。
「ディック、早く降りてよ!」
我に帰ると、体じゅうに恐怖の汗が噴き出ていることに気がついた。
「今行くよ!」
梯子に飛びついた。煙で息ができなかった。梯子の横木に火が移っていた。足下で咳きこむ人の声がした。煙のために涙で目がかすんだ。私は焦げている板の上に落ちた。ついた両手の下で板がくすぶっていた。私は思わず飛び上がって、手についた燃え殻《がら》を振り払った。
「どうしたの?」
「乗っていた横木が燃えちゃったんだ」
懐中電灯はちゃんと手に握っていた。私はヒルダと皆の後ろにつづいた。礼拝堂の入口で追いついた。更衣室に出た時はてっきり救われたと思った。私は強い閉所恐怖症に襲われていたのだ。熔岩によって地下に閉じこめられるという想像は耐えがたかった。
私たちがほの暗い礼拝堂を通り抜けた時、食堂へ続く通路の角にマックスが現われ、腕を高く上げた。暗い中で彼の目がぎらぎら光った。彼は喘《あえ》いでいた。
「駄目だ」
皆、彼を見て一瞬呆然と立ちつくした。ジーナの服は焼け焦げてぼろぼろに裂け、ハケットは裸の胸を上着の下にのぞかせ、髪はばさばさに焦げていた。ハケットは二人の男に肩をかしていた。その一人にヒルダが駆け寄って金切り声を上げた。
「パパ! 大丈夫なの?」
やっと、それがヤン・トゥチェックだということがわかった。
私とハケットはほとんど同時に歩き出した。二人で入口に止まったが、熱のためにまともに顔も上げられず、手をかざしてただ絶望的な有様を見つめるほかはなかった。出口はまったく断たれていた。食堂も、中庭も、正面の潜《くぐ》り門もすでに跡形もなくなっていた。堆《うずたか》い瓦礫の山の背後には、二十フィートも三十フィートもありそうな熔岩の壁がそそり立っていた。
「僧院長の部屋だ。あそこなら窓がある」
マックスの声が響いた。皆ひと塊《かたま》りになって更衣室になだれ込んだ。窓は高いところにある小さなステンドグラスで、錠《じょう》がおろされていた。ハケットが院長の笏杖《しゃくじょう》を手に取った。ジーナがそれを見て驚きの色を浮かべた。しかし私たちはここから出なくてはならなかったのだし、ハケットはなにより現実的な男だった。私はマックスと二人で礼拝堂から椅子を運んで窓の下に積みあげた。その間にハケットはガラスをたたき落としていた。窓はそれほど丈夫ではなく、ハケットの腕力で簡単に開いた。
「さあ出てください、奥さん! トゥチェックさん、あんたも」
女二人がまず登った。
「足から出るんだ」
マックスが叫んだ。
ジーナは体を半分乗り出して下を見ていたが、何か喚《わめ》いて石の窓枠にしがみついた。ハケットが脇からどなった。
「飛び下りるんだ」
「いやあよ! こんな高いところころから……」
ジーナは抗議しようとしたが、ヒルダの張りつめた声に気圧《けお》されて黙った。ヒルダは熔岩の状態を見て、事態の急をよく知っていた。女が二人飛び下りた。トゥチェックとレムリンを私たちはぐらぐらの椅子の足場に何とか押し上げた。ハケットが二人を助けた。マックスが私に言った。
「薬を飲まされているんだ。その上あの豚野郎は鎖でつないでいたんだ」
「鎖で、壁に?」
「異端者に使う足かせをはかせてね。幸い錆《さ》びてぼろぼろになっていたから、たたき壊してやったんだ。君も出ろよ、ハケット。さあ君の番だ、ディック」
私はたじろいだ。
「何だ、どうしたんだ。俺が手を貸してやるよ、さあ。脚のことなんか気にしている場合じゃないだろう」
私は死物狂いで椅子に登り、窓枠にすがった。窓から脚を突き出したマックスはぴたりと私の背後についていた。私は窓枠に登り、金属の脚を下に垂らし、飛び下りようとして体のバランスをとった。その時、突然の大音響が耳をつん裂き、私は屋根が割れて落ちかかってくるのを目の端に見て体を投げた。いい方の足で落下する体重を支え、横ざまに倒れたが、手術の痕《あと》に焼けるような痛みを感じた。低いうめき声が聞こえた。私はそれが自分の口から洩れたものだと思った。
声を上げたのは私ではなく、マックスウェルであった。マックスウェルは窓から頭を出していたが、その顔が恐ろしい苦痛に歪んでいた。窓の上の方に噴き出した灰燼《かいじん》が渦巻いていた。この数時間の間に私が何度見たかわからない、あの塵煙《じんえん》であった。壁だけが残り、その背後には何もなくなっていた。私はマックスウェルを呼んだ。答えがなかった。食いしばった歯が唇を裂いて血がしたたっていた。彼は体を抜こうと努力していた。
「足をやられた」
彼の口からやっとそれだけの言葉が流れた。
「足を抜いてそのまま落ちるようにするんだ。受け止めてやるよ」
ハケットがどなりながら私に、一緒に窓の下で構えろと合図した。
「さあ、大丈夫だって、さあ、飛び下りるんだ。とにかく、そっちからでなきゃあ。すぐ安全なところにちゃんと寝かせてやるから」
石の壁がぐらりと揺れ、マックスウェルの顔の出ている辺りの割れ目から塵煙が噴き出した。
「片方の足は抜けたんだ。もう一本は折れてる。こいつは、きっと……」
彼は突然痛みに耐えかねて叫び声を上げ、それと同時に窓枠の上に崩れ折れた。汗が私たちのところまで飛び散った。マックスウェルが意識を失ったのはほんの一瞬だった。次の瞬間には彼はまた懸命に体を抜き出そうとしていた。
マックスウェルは頭からまっ逆さまに落ちてきた。私たちは皆で彼を受け止め、壁から離れたところに運んだ。
「車に運ばなきゃ」
ジーナが言った。
私たちは通路のところにいた。大通りに出る門が開いていた。私はヒルダに言った。
「車をとってこよう。ヒルダ、ローターを返してくれよ」
彼女は大きな口を開けて私を見た。
「あれは、あのバッグの中だったのよ。ガソリンを入れたバッグに入れていたのよ」
どうしようもなかった。緊張と疲労で気分が悪く、目がくらくらした。ハケットの声がした。
「車のことなんか考える必要はない。車なんかとっくの昔になくなってるんだ。さあ、手伝ってくれ。この男に肩を貸すんだ。なにしろ熔岩から逃げなくちゃならん」
「車はないの?」
ジーナが叫んだ。
「車は二台もあるはずよ。あそこに停めておいたじゃないの……」
そう言って彼女は車を置いた中庭が熔岩の下にもう埋まっていることを思い出した。ジーナは泣き出した。
「連れて行ってよ。私をここから出してよ。いいでしょう。私は連れてこられたんじゃないの。自分から来たんじゃないわよ。逃がしてよ……」
ヒルダの平手が二度ジーナの顔を打った。
「あなたは生きているし、怪我だってしてないのよ」
ジーナははっと息を飲んだ。顔に落ち着きが戻った。
「打ってくれて、どうもありがとう。恐いんじゃないのよ。ただ、神経なのよ、私、薬の常習で、私……」
ジーナはさっと顔をそむけた。また泣いていた。
「こんな時どうすればいいか、ちゃんと知っているのは看護婦だよ。ミス・トゥチェック。あんた、看護婦の経験があるんでしょう。ちがいますか?」
そう言ったのはハケットだった。
「ええ、戦争中に」
「それじゃ一つ、この男をできるだけやってみてくれませんか」
ハケットは地面で苦痛に顔を歪めているマックスウェルの方へ顎《あご》をしゃくった。
「通りをかついで降ろそう。熔岩から逃げるのが第一だ。それから何とか担架の代わりになるものを工夫しよう。その間に傷の手当てをしてもらおう」
私たちはマックスウェルと、他の二人を広場まで運んだ。広場ならあとしばらくは安全だった。壊れた荷車には寝具がたくさん積まれていた。マックスウェルをマットに寝かせ、毛布とキルティングの布をかけた。ヒルダが足の傷は何とかできそうだと言った。
「さあてと、何とかして乗り物を手に入れなくてはならんね。他の二人も長くは歩けそうもないし。二人を放っておいてマックスウェルだけ運ぶわけにもいかないし。君は疲れきっているようだし、私もあまり調子がいいとはいえないんでね」
私はハケットに熔岩の流れの状態を話し、アヴィンの村を抜ける逃げ道も危険にさらされていることを知らせた。ハケットはうなずいた。
「急がなくてはならん」
私はとっさにジョージのことを思い出した。
「ジョージ。ジョージなら間に合ってくれるな、きっと」
広場を見まわしたが生き物の影一つ見えなかった。
「ジョージはどこへ行ったかな」
「ジョージってのは?」
「僕のマスコットさ。家の中から僕が助けてやった驢馬《ろば》なんだ。さっき修道院のところで放してやったんだけど」
「それじゃあもう、とっくの昔にどこかへ逃げちゃっただろうよ。行こう。何か見つけてくるんだ」
「ジョージは逃げないと思うな。あの驢馬は人間と一緒にいるのが好きなんだ。村から出るようなことはないよ、きっと」
私はジョージを呼び始めた。
「たった今君の付けた名前がわかるとでも言うのかね。さあ、来いよ。もっと現実的に行かなくちゃいかん」
ハケットはいらだっていた。
しかし私には後へ引けない気持ちがあった。疲れ切っていたためだったかも知れない。それにしても、私は心のどこかで、こんな時のためにこそ、私はあの驢馬を助けてやったのだと思っていたに違いない。ハケットが皮肉をこめて言った。
「どこかの雑貨屋《グロウサリーストア》か、乾物屋にでもいるんじゃないかね」
「八百屋《グリーングロウサーズ》だ」
私は指を鳴らした。
「ジーナ。いちばん近い八百屋はどこにある?」
「八百屋?」
「野菜を売ってる店だよ」
「ああ、フルッティヴェンドロ。すぐそこを行ったところにあるわよ」
ジーナは井戸の向こうの狭い汚らしい道を指さした。
「行ったって誰もいないんじゃないかしら」
私は広場を横切った。八百屋は左側の三軒目だった。そして、その入口に私の驢馬の骨ばった臀《しり》が突き出ていた。私が呼ぶと驢馬は後退《あとずさ》りして顔を上げ、私の方を見た。口に何やら緑色の物がぶら下がっていた。近寄ってみると、アスパラガスを食べているのだった。店の中に入ってバスケットにきちんと束になったアスパラガスを一杯入れた。驢馬はそのバスケットに鼻を突っ込みながら、私について広場に向かった。角の家のドアが開いていて、中から堆肥の臭いがしていた。厩《うまや》であった。私はそこで馬の首輪と挽《ひ》き革を見つけた。
広場に戻った私と驢馬を見てハケットが笑い出した。
「何がおかしいんだ?」
「いや別に。ただ、その……何だな」
ハケットは笑うのをやめて首を振った。
「つまり私は、また驢馬の夢を見る人間を世話しなくちゃならんかと思ってたんだよ。それだけのことさ。さあてと、この荷車をきれいにして、うしろの方をはずしてしまえば二輪になるな」
私たちは着実に仕事を進めた。急がなくてはならないという必要に迫られていたし、そういうことが私に力を与えた。荷車の荷物を全部|除《の》け、近くの店で見つけてきた鉈《なた》と鋸《のこぎり》で荷車の改造にかかった。このころになって私はようやく他の者たちのことを訊ねることができるようになった。ハケットに修道院に入ってからのことを聞かせてくれと言った。
「われわれはまったくおめでたくできているんだな。そうとしか言いようがないよ。だいたい、扉に鍵がかかってないのを見てすぐ感づかなきゃならんのだ。それなのに、中に二人、かわいそうに鎖につながれているのを見たとたん、何もかも忘れてしまったんだからね。気がついた時には扉が閉まって鍵をかける音がしているんだ。あの医者めは屋根に隠れて待っていたに違いない。あのやろう、われわれに向かって『お達者で』と言いおった。今度あん畜生に会ってみろ……」
ハケットは力一杯|鉈《なた》を振り降ろした。
荷車の半分を切り離すのは何の造作もなかった。木は古びてもろくなっていた。そしてジョージに挽き革を付けて荷車につないだ。私たちが荷車にかかっている間にヒルダはマックスの足を手当てした。
「やれるだけはやったわ」
「どんな様子?」
「よくないわね。なんだかよくわからないことを口走るのよ。でも自分がどうなっているのかは知っているみたい」
マックスウェルと、他の二人を荷車に乗せた。私はハケットに聞いた。
「手綱《たづな》の経験は?」
「さあてね。もう忘れっちまってるんじゃないかな。でも、とにかく第一次大戦ではこれで砲兵隊にいたんだからね」
「それじゃ頼みますよ。僕は手綱なんて持ったこともないんだから」
「いいとも。さあ、行こう」
ハケットは舌を鳴らし、ジョージの背中を打った。驢馬はゆっくり動き出した。ハケットは続けて手綱を鳴らした。驢馬は依然として歩調を変えなかった。私でさえそれより早く歩ける速度だった。こんなことでは、とても熔岩が道をふさがないうちにアヴィンを抜けられはしない……。
ジーナもきっと同じ気持ちだったのだと思う。彼女はハケットに言った。
「イタリア語で怒鳴《どな》ってごらんなさい。速く歩かせるにはどやしつけなきゃあ駄目なのよ」
「|進め《ヴィア》!」
ハケットが怒鳴った。
「ヴィア!」
「あらいやだ。どやしつけるって、そんなんじゃ駄目よ」
ジーナはハケットをどかせて手綱を取った。ぴしりと手綱を鳴らすと、彼女はいきなり驢馬に向かって機関銃のように怒鳴り立てた。ありったけの声を張り上げて、彼女はジョージを罵《ののし》った。私が聞いたことのないような言葉や貧民街で使う言葉が、ジーナの口からぽんぽん飛び出した。ジョージはちょっと耳を伏せ、それからぐいと力を入れてトロットになった。
「ほら動いたでしょう」
その時の私たちの恰好を人が見たら、何と不思議に思ったことだろう。ざくざくの灰の中を荷車が左右に傾き、ジーナはローマ騎士のように手綱を握り、荷車の傾きに調子を合わせてバランスをとって立っていた。ジーナの黒い豊かな髪が風になびいた。背後にはベスビオが真っ赤な舌を出して別れの合図を送っていた。ヒルダが言った。
「ずいぶん親切にしてくれたものね」
「誰が?」
「ベスビオよ。あれ以来焼けた石が降ってこないじゃない」
「そりゃそうだけど、でも本当にどうなるかわからなかったよ」
ヒルダは微笑して私の手を握った。
「ねえ、もう話してくれてもいいでしょう?」
最後の人家を過ぎて村が終わり、道は広い原っぱに出た。そこにも灰は降り積もっていた。私は振り返って、わずかに名残《なご》りをとどめているサント・フランシスコの村を見た。村から出られたということをこんなに嬉しく思うことは、もう二度とあるまいと思った。私はヒルダにあの屋上の活劇を話して聞かせた。話しながらヤン・トゥチェックを見たが、その顔はまるでトゥチェックとは思えなかった。彼は大変年老いて見え、私の視線を受け止める目には生命も感情も感じられなかった。そんなに痛めつけられたのだろうか。もう一人のレムリンという男は大柄で、髪は薄く、青磁《せいじ》のような青い目をしていた。そしてこの男もトゥチェックと同じように放心している様子だった。
「あなた、ついてたのね、ディック」
「うん、しかし残念ながら、あの野郎にお父さんの宝物を持って行かれてしまった」
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
ヒルダの声は鋭かった。
「あなたは生きて戻ってきたの。それが大切なんじゃない。それにあの男だってそう遠くへは行けるわけないし……そのことは今は言わないわ」
「お父さんは、どんな目に遭ったか話してくれた?」
ヒルダの目が曇った。
「ええ、ほんの少し。あまり話したがらないけど。とにかくレムリンさんと父は、予定通りミラノの空港に着いたのよ。そしたら、あのサンセヴィーノっていう男ともう一人別の人が迎えに来ていたんですって。ピストルでおどかされてレムリンさんも父も縛《しば》られたのよ。それで飛行機はそのまま飛び発って、昨夜あなたと会った別荘に行ったんですって。若木で丈の低い葡萄畑に飛行機は降りたらしいの。その翌日、父は修道院に連れて行かれたらしいわ。あの恐ろしい塔の壁に鎖でつながれて、捕虜みたいに拷問《ごうもん》されて。父がサンセヴィーノって言う男のほしがっている物を持っていなくて、あなたが持っているんだとわかったら、それっきりあそこに閉じこめられたんですって。アウグスティノっていうお爺さんが食べ物を毎日運んでくれたらしいわ。それでおしまいよ。マックスウェルやあの奥さんが行くまで、誰も塔には上がっていった人はいないの」
私の手を握るヒルダの手に力が入った。
「父は私に、あなたを巻きこんですまなかったと言ってもらいたいんだと思うのよ。元気になれば自分で言うでしょうけれど」
「そんなことはいいんだよ。ただ、僕は……」
「自分を責めないで。お願い。私こそ、ミラノでもナポリでも馬鹿だったんだわ。あの時はわからなかったの……」
ヒルダの声が細くなり、彼女は目を伏せた。
「ディック、あなたは素敵だったわ、ずうっと」
「違うんだ。僕はただ、恐かったんだよ。シャーラーと名乗る男が、あの時……」
「わかるわ、ディック。ヴィラ・デステでどんな目に遭ったか、マックスが全部話してくれたわ」
「そうだったのか」
「そうだったのか、じゃあないわよ」
ヒルダの声は鋭かった。
「だから、あなたはあんなふうだったんだと思うわ……何て言っていいかわからないんだけど」
私の静脈の中で血がいっせいに音を立て始めた。ヒルダは私を信じている。アリスとは違うのだ。ヒルダは私を信じている。生きる望みが湧いてきた。私はヒルダの手を握った。私を見上げている目に突然涙があふれた。ヒルダはあわてて顔をそむけた。涙で洗われた灰の下に、そばかすが見えた。ヒルダの耳は格好がよかった。私は今やわずかになったサント・フランシスコの村と、その向こうに煙の柱を吹き上げ、広い熔岩の帯を吐き出している山を振り返った。私はあの熔岩の中にいたことを嬉しく思った。火が私を浄《きよ》めたのではないかとさえ思えた。山の怒りが私の心にある一切の恐怖心を焼きつくし、私に自信を返してくれたのではなかったろうか。
「待った、待った!」
ハケットがジーナに向かって叫んでいた。ジーナが手綱を引くとハケットが飛び降りた。彼は今来た道を駆け戻り、道ばたに横たわっている何かを拾い上げた。
「あの子供だわ」
ヒルダが言った。
「子供だって?」
「ほら、サント・フランシスコに行く時、噴水のところで指をしゃぶっている子がいたでしょう」
ハケットが小さな荷物をヒルダに渡した。彼女は両手で子供を抱いた。子供は突然の恐怖に茶色の目を大きく開いたが、その顔が笑顔に変わり、ヒルダの胸に顔を押しつけて再び子供は目をつぶった。
「ちょっと汚れているがね。後できれいにしてやろうや」
ハケットはそう言って荷車に登り、私たちはまた動き出した。マックスウェルが私を見上げているのに気がついた。歯を食いしばったせいで、下唇は裂傷だらけだった。
「後、どのくらいだ?」
ほとんど聞きとれないほどの声で彼が聞いた。私はジーナのスカートごしに前方を見た。もう別荘の入口が見えていた。そしてその向こうの、並木道に沿ってまっすぐ行ったところにしだいに厚くなりつつある雲の下になって、アヴィンの村がちらちらと見えていた。
「もうすぐだよ」
荒れ狂う熔岩の波が村に押し寄せていることはマックスウェルには言わなかった。別荘を越えてずっと左の方を見ると、もう一条の熔岩の流れのために熱せられた空気がゆらゆらと揺れていた。その熔岩は別荘の裏手を回ってアヴィンの村に向かっていた。私たちの両側を熔岩が流れている。熔岩以外のものは何も見えなかった。
「足はどう?」
「こりゃあ、駄目だ」
汗と塵が彼の顔の上でかたまって、マスクになっていた。彼が口を動かすとそのマスクにひびわれが走った。
「モルヒネが少しでもあればいいのにね」
ヒルダがそっとささやいた。私はジーナの方をうかがった。
「別荘に行けば、きっとあるよ」
私たちのやりとりをマックスウェルは聞いていたらしかった。彼は私たちに言った。
「そんな時間はないぞ。熔岩に閉じこめられないうちに逃げなきゃあならん。俺は大丈夫だよ」
車輪が轍《わだち》に落ちこんで荷車ががくんと揺れた。マックスウェルの喉からもう少しで悲鳴になりそうなうめき声が洩《も》れた。彼はヒルダの膝にすがった。ヒルダは荷車が揺れ傾くたびにその手を握った。マックスウェルは苦痛に顔を歪め、唇を噛んだ。
私たちはアヴィンの村にさしかかった。急に空気が熱くなり、埃《ほこり》っぽい風が顔に当たった。硫黄の臭いが濃く漂っていた。まるでサント・フランシスコに逆戻りしたようだった。荷車が止まり、ジーナの声がした。
「さあ、どうするの?」
ジーナの肩越しに、前の日に避難の人混みでごったがえしていた狭い道路が見えた。その道に今は人っ子一人見当たらず、道は行く手でぷつりと熔岩の壁に断ち切られていた。出口がふさがれているのを見た時、私は少しも驚いた記憶がない。こうなることは結局ずっとわかっていたことだったのだ。塔の上から見た時、すでに二条の熔岩はほとんど合流していたのだ。ジーナがこらえかねてすすり泣いた。ハケットが言った。
「要は回り道を探すことだな、それ以外何をしたって仕方がない」
私は一切をあきらめた気持ちで坐っていた。
「さあ、ファレル。回り道を探そう」
ハケットが私の肩をゆすった。
「回り道なんかありゃあしない。サント・フランシスコにいる間に話しただろう。熔岩は合流しちまったんだ」
「何を言ってるんだ。しっかりしろよ。こんなところにじっとしているわけにはいかないよ」
私はうなずいて荷車から降りた。手術の痕は体重をかけると飛び上がるほど痛かった。皮膚が裂けて柘榴《ざくろ》のようになっているのだ。歩くと傷に砂利が食いこんだ。
「僕に何をやれって言うんだ?」
私はじっと坐って最後を待っていたかった。諦《あきら》めきると心は落ち着くものだ。ヒルダは私を信じている。誰かが信じてくれたのだから、もうそのまま死んでもかまわない。私は疲れ切っていた。
「こっちの熔岩は右から流れているんだから、うん、これに沿って向こうへ行って見るんだ。どこかに出口があるだろう」
ハケットの話す声がどこか遠い世界で聞こえているようだった。私は両手で顔をこすりながら疲れた口を動かした。
「どこまで行ったって出口はないよ」
ハケットは私の肩をゆすった。
「しっかりしろ。出口を探さなかったら、万事休すだぞ。向こうから熔岩がどんどん押し寄せてくる。サント・フランシスコを乗り越えてくる。われわれはだんだん逃げ場がなくなって、しまいに小さなところへ押しこまれちまうんだ。それで順々に火あぶりか。とんでもない。出口を探すんだ」
「わかったよ」
「そうだ、それでいい」
ハケットは荷車でじっとしている者たちに向かって言った。
「すぐ戻りますからな。ここでじっとしていてください」
彼らは避難民そっくりだった。虐《しいた》げられ捨てられた人々が戦火を逃れて移動中、といった恰好だった。何度私はそんな光景に出会ったことか。フランスで、ドイツで、そしてこのイタリアでも。今の彼らには戦争がないというだけに過ぎなかった。私はもう一度、今はもうかすかな煙を上げているに過ぎないサント・フランシスコと、その上に覆いかぶさるようにそそり立って、太陽の見えない空に山腹から死の息を吐き出している山を振り返った。ソドムとゴモラのことがまた私の頭に浮かんでいた。
「さあ、行こう」
ハケットが促《うなが》した。ヒルダが私に笑いかけた。
「しっかりね」
私の胸に使命感が湧き起こった。何としても出口を見つけなくてはならない。要するに、出口はなくてはならないのだ。子供を抱いて静かにヒルダは坐っている。彼女は私を信じているのだ。私には将来がなくてはならない。こんな魔性の世界でヒルダを死なせることはできなかった。この両手で、熔岩を掻き分けなくてはならなかったとしても、私はヒルダとその父親の将来への道を拓《ひら》かなくてはならないのだ。
ハケットと私は熔岩に近づき、左の方に向かっている道に出るとそれに沿って歩き始めた。ハケットが足を止めた。私たちに向かって歩いてくる一人の男がいた。上衣はなく、シャツもズボンも焼け焦《こ》げてぼろぼろであった。ハケットが言った。
「あんた、イタリア語がうまいね。出口があるかどうか聞いてみてくれないか」
私はびっこを引いて前に進んだ。
「出られますか?」
私が声をかけると男は立ち止まった。一瞬私の顔を見て、彼は私に向かって走り出した。そのぎくしゃくした走り方や、埃をかぶってはいるが四角く張った下顎《したあご》はどこか見覚えがあった。
「ファレルじゃないか」
英語だった。
「そうだけど……」
そしてやっと私は男の顔がわかった。
「リース!」
「マックスウェルはどこだ?」
彼は私たちの前で立ち止まり、大きく息をした。その目が異様に光っていた。
「あそこの通りだ。怪我をしている。出口はあるのかい?」
リースはぼさぼさの髪に手を突っこんだ。
「ない。完全に道をふさがれたよ」
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七
そんなふうにリースに出会ってみると、それまでの自信や落ち着きが音を立てて崩れていくような気持ちがした。リースを見たとたんに私はミラノのこと、恐ろしい夜のこと、そしてほんの短いアリスとの再会のことなどを思い出した。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
リースは私の質問に耳を貸さず、ハケットを見て言った。
「この人は誰だい?」
「ミスター・ハケット。アメリカ人だ」
それから私は相棒のほうを向いた。
「こちらリース。マックスウェルの友達だよ」
「どうぞよろしく」
ハケットが挨拶した。熔岩に閉じこめられた中に立っていながら、依然として熔岩の外の社会の習慣を忠実に守っているのは何とも滑稽《こっけい》な図であった。
「本当に出口はないのかい?」
私は食い下がった。
リースは青い目で冷ややかに私を見た。
「僕がなんだってこんなことに巻き込まれたか、わかっているのか? 向こうから熔岩が流れてきたんだ。こっちの熔岩と、三十分くらい前に合流したかな。われわれは二十フィートの高さの溶岩流に周囲を完全にとりかこまれているんだ。家の屋上に上がってみたがね。完全にかこまれているよ。幅百ヤードの熔岩だ。完全にね」
「そればっかりじゃありませんよ。サント・フランシスコからも流れてきてるんですからなあ。夜までに逃げなければ、まさに万事休すです」
ハケットが言った。リースはまったく私を無視してハケットの方を向いた。
「正確な予測ですね。マックスウェルの怪我はひどいんですか?」
「ああ、そりゃあ大変なもんです。足を砕《くだ》かれていましてね。戻って作戦会議といきましょうか」
リースがうなずき、二人はどんどん歩き出した。私は後を追った。
「何でまたこんなところに?」
ハケットが聞いた。
「ゆうべナポリに着いたんですよ。マックスウェルの伝言を受け取ったもんですからね。こっちに来るって言うんで。それで僕はタクシーで来たんですが、今朝の四時半頃だったかな。噴火が一番盛んな時で、避難民の群れに巻きこまれてしまいましてね。車に一発石が当たったらもう運転手が言うことを聞かないんです。それでそこから歩いてきたんですよ。あの別荘にはイタリア人の死体があるだけで誰もいない。それでサント・フランシスコの村はずれまで歩きました。そこから引き返してきたんです。一瞬の差で逃げそこないましたよ」
「そりゃあ災難でしたなあ」
私たちは道に戻った。他の者たちは元の通りに荷車の上にかたまって待っていた。ヒルダとジーナはずっと私たちを見ていた。私たちの表情で、絶望だということはわかっただろう。ジーナは手綱を取って驢馬をどなり始めた。彼女は荷車の向きを変え、私たちの横に寄せた。ハケットが訊《き》いた。
「どこに行きますかな?」
「別荘に戻るのよ。あそこの方が楽だし、それに……」
ジーナは最後まで言わなかったが、その渇いた目つきから、私は彼女が別荘に薬のあることを考えているのがわかった。ハケットもそれと察したのだろう。うなずいて言った。
「結構ですな。さあ、リースさん、どうぞ」
ヒルダはずっとリースを見ていたが、やっとリースに向かって言った。
「どうして逃げられるうちに行かなかったの?」
リースが一部始終を話した。ヒルダは顔を伏せた。その顔がひきつっていた。
「ごめんなさい。何だか私のせいみたい。マックスに手紙を置いていくように言ったのは私なのよ。父のことが心配で、ミラノから何か新しい情報があるんじゃないかと思ったの」
「気にすることはないよ、何も君のせいじゃないんだ」
そう言ってリースは私に向き直った。
「ファレル、こんなことになったのも、すべて君のせいなんだぞ」
私は疲れのために気分が悪かった。リースと口論する元気はとてもなかった。ほんの昨夜まで私はことの真相を何も知らなかったのだとリースに説明する忍耐もなかった。私はただ、リースの憎悪と怒りに満ちた視線を耐えがたい思いで受け止めて黙っているだけであった。
私に代わって答えたのはヒルダだった。
「それは違うわ」
「違うもんか」
リースは引き下がらなかった。
「あんなにびくびくしないで、僕たちが言う通りにしていれば、ミラノで……」
「この人はできるだけのことをしたのよ。この人は……」
「まあ何とでも好きなように思えばいいさ」
リースは肩をすくめ、私を見ると突然笑い出した。
「昔とまったく同じことになったじゃないか。君のおかげで僕たち二人は囚われの身だ」
「僕たち二人だって?」
「ワルター・シャーラーと僕さ」
私はリースの顔を見つめた。
「さあ、皆早く乗ってよ。別荘に帰るんだから」
ジーナは手綱を握って立ち上がっていた。ハケットが言った。
「オーケー。あんたの言う通りだ。とにかくあすこに行きゃあ休めるからね」
ハケットが車に乗り、私も後から乗った。
「待ってくれ、もう一人いるんだ」
リースが叫んだ。
「誰よ?」
ジーナが言った。
「だから言っただろう。ワルター・シャーラーだよ」
「ワルター・シャーラーですって!」
ジーナの目が大きく、激しく燃えた。
「つまり、あの別荘の持主だっていう男か」
ハケットの声は怒りで嗄《かす》れていた。
「そうだよ」
私は笑い出した。どうしてもこらえられなかったのだ。何としてもおかしかった。
「何だってそんなに笑うんだ」
リースが怒ってつめ寄ってきた。それから彼は不安げに自分を取りまいているたくさんの顔を見渡した。
「皆、どうしたっていうんだ?」
道の下の方で呼ぶ声がした。リースが振り向いた。
「ああ、あそこにいる。シャーラー、道は見つかったかね」
「だめだね。すっかりふさがれた」
男は思いつめた顔つきで走ってきた。
「君の方は見つかったの?」
リースは首を振った。
「その百姓たちに聞いたのかい? もしかしたら、そいつら……」
彼は口を開いたまま言葉を切った。ジーナの顔に気がついたのだと思う。彼はジーナを見上げ、それからこわごわとその目をハケットに、そして私に移した。誰もものを言わなかった。身動きをする者もなかった。私は白状するが、その時の表情に、ことの真相に徐々に目覚めていく有様が浮かぶのを私はじっくり楽しんでいたのだ。リースが叫んだ。
「シャーラー、いったいどうしたんだ?」
男はぎくりとし、身をひるがえすと一目散に走り出した。その背中に向かってリースが叫んだ。
「シャーラー、どうしたんだ。戻ってこいよ、シャーラー!」
男は私たちが今来たばかりの道を曲がって消えていった。リースはもう一度私たちの怒った顔を見渡した。
「どうしたんだ? 何があったんだ?」
彼は急にうろたえて、勢いを失った。ヒルダが突然言った。
「ディックに聞きなさいよ。教えてくれるわよ、きっと」
リースは私に向き直った。
「何だよ?」
そして彼は私につめ寄った。
「言ってみろよ。どういうことになっているんだ」
「あれはシャーラーじゃあないのさ」
「じゃあ、誰だって言うんだ」
「ドクター・サンセヴィーノさ」
「サンセヴィーノ? ヴィラ・デステのか?」
リースは笑い出した。
「君はこの人達に何をしゃべったんだ」
リースは私の腕をゆすった。
「冗談はよせ、ファレル。サンセヴィーノは自分で撃ったんだよ。僕は後で確かめたんだからね。第一、僕はどこで会おうとシャーラーはわかるよ。僕たちは一緒に逃げたんだよ」
「君はサンセヴィーノと一緒に逃げたのさ」
「嘘をつけ」
「嘘なもんか。誰にだって聞いてみろよ」
「でも、僕はあの別荘にも行ったんだよ。あれはシャーラーだった。あの男は、逃げた時の話もしてたからね。シャーラーじゃなきゃできっこない……」
「君が一緒だったのはドクター・サンセヴィーノなんだ」
リースはハケットに飛びついた。
「この男は何を言ってるんだ。あれはシャーラーだ。そうだろう」
ハケットの冷たい表情を見て、リースはまた自信をなくしたようだった。ハケットは言った。
「あの男が誰かなんてことは、わしゃあ知らんよ。それにどうだってかまわんね。俺はただ、今度会ったらもう絞め殺してやりたいよ」
荷車の中で人の動く気配がした。マックスウェルが半分体を起こしていた。彼は渇いたかさかさの声で言った。
「アレック、君か。ディックの言うのは本当だよ。あれはサンセヴィーノだ。奴を捕まえろ。そうすれば……」
マックスウェルは仰向《あおむ》けにくずおれ、頭を荷台の底に投げ出した。
「何か言おうとしたみたいだね」
ハケットが言った。ヒルダが答えた。
「何かしら。気を失ったわ。別荘に行きさえすればね……」
「そうだ」
ハケットが皆に車に乗るように言った。
「この人を早く楽にさせてやった方がいい。それにあそこには酒があるからね。こっちも一杯やりたいよ」
皆は車に乗り、ジーナが驢馬を怒鳴りつけ、私たちはのろのろと動きだした。リースは身動きもせずに坐っていた。呆然として、その顔には恐怖の色さえ浮かんでいた。そのうつろな目の裏で何が起こっているか、私は知っていた。脱走した夜のことを思い出しているのだ。まずシャーラーが出て行って、それから三十分してリースは出て行ったのだ。そして彼らは救急車で落ち合い、二人で逃げた。リースは今、その時のことを、細かい部分にわたって一つずつ思い出しているのだ。それも今までとはまったく別の角度から、しかも友人を殺害した医者と手を取りあって脱走した真実に初めて気がつきながら。私はリースに言った。
「忘れろよ。今はそれどころじゃない」
リースは私を見つめた。彼の前に真実を突きつけた私を、彼は火のように憎んでいるに違いないのだ。リースは何も言わなかった。彼は私から顔をそむけ、黒く揺れている熔岩の彼方に目を向けた。
別荘に着くまで誰も口をきかなかった。人の声といえばヒルダが抱いている子供の泣き声ばかりだった。子供は何かが違っているのに気がついていた。別荘に着くまで泣きやもうとしなかった。私たちはマックスを入口の左手の部屋の長椅子に運んだ。その部屋にもう一度入るのは不思議な気持ちだった。薄暗く、人の気配のない冷たい部屋になっていた。ロベルトの死体は床に横たわったままで、汚れたグラスや灰皿も散らかったままだった。私たちがトゥチェックとレムリンを二階に運びあげている間にヒルダが水を探してマックスウェルの傷を洗いにかかっていた。
「僕がやろう。君は上へ行ってお父さんの面倒を見た方がいいよ」
私が言うとヒルダは首を振った。
「父は大丈夫よ。薬を飲まされているだけですもの」
「薬を飲まされている方が幸せじゃない」
ジーナが口を挟《はさ》んだ。
「皆、薬でも飲んでたらいいんだわ」
そう言って彼女はマックスウェルを見下ろした。ヒルダはすっかりマックスウェルの顔を洗い終わっていた。その顔は血の気を失い、唇はおそろしく咬《か》み裂かれていた。
ジーナが訊いた。
「モルヒネ、いる?」
ヒルダはさっと顔を上げた。
「モルヒネ?」
「そうよ、モルヒネよ。あたし、どこにあるか、わかると思うわ」
ヒルダはもう一度マックスの顔を見下ろし、ジーナに向かってうなずいた。
「そうね、あったらいいと思うわ。気がついた時に」
ジーナは出ていった。リースが口を開いた。
「それで、これからどうなるんだい」
「まず風呂に入らにゃあ」
ハケットが言った。
「この灰を洗い流しゃあ、少しは気分もよくなるだろう」
「でも、それよりとにかく何とかしなくちゃならないんじゃないかな。電話はあるんだろう」
「あったとしても不思議はないんだが、役に立つと思うかね。タクシーを呼ぶってわけにはいかないんだよ」
「もちろんさ。でもポリミアノに電話すれば、飛行機が来てくれるかも知れないよ。別荘へ入ってくる道の脇に飛行機の降りられる平らな場所があったよ」
「考えられないことはないな」
ハケットはつぶやいた。
「しかし、こんなところへ飛んできて、われわれの巻き添えを食うかも知れないのに、そんな勇気のあるパイロットがいるんだろうかね」
「とにかく、やってみよう」
私たちはリースに続いてホールに出ていった。壁に電話機が取り付けられていた。リースが受話器を取った。もしかしたら。一瞬、皆の胸に希望がふくれあがった。リースが受話器の腕をがちゃがちゃいわせ、その希望もしぼんでいった。受話器を置いてリースは言った。
「駄目だ。空中架線なんだな、きっと」
ハケットが言った。
「地下ケーブルだとしても同じことさ。熔岩の熱でケーブルなんぞはひとたまりもないからね。さあてと、それじゃあ風呂にはいるとするか」
開け放しのドアの向こうにジョージが荷車につながれたままぽつねんと立っていた。皆はジョージのことなどすっかり忘れているのだ。私が出ていくとジョージは鼻を鳴らした。私は夕焼けのような明かりの中で、しばらくビロードのような鼻面《はなづら》を撫でていた。私はこれからどうなるのか、知らない方が幸せだと思った。驢馬を軛《くびき》からはずして近くの納屋に入れてやった。また石が降り始めても屋根の下なら大丈夫だろう。私はアスパラガスの籠を驢馬のそばに置いて、自分も一杯やるつもりで別荘に戻った。
マックスウェルの傍《かたわ》らにはヒルダがいるだけだった。ロベルトの死体は片づけられていた。
「どんな様子?」
「ちょっと気がついたんだけど、何か言おうとしてまた気を失ってしまったわ。痛みがひどいらしいのよ」
マックスウェルの顔は真っ白で床に血が滴《したた》っていた。
「血を止められないの?」
ヒルダは首を振った。
「脚がね、腿《もも》の方までめちゃめちゃに裂けちゃってるの」
私はテーブルのところに行ってヒルダにコニャックを注いだ。
「飲めよ。君も少し飲んだ方が良さそうだよ」
ヒルダはグラスを受け取った。
「ありがとう。あたし、変なふうにやってしまったんじゃないかと思って、すごく心配なの。こんな脚を扱ったことなんてないんですもの。それに痛みが激しいらしいし」
「でも、それは君のせいじゃないよ」
私は自分のグラスに注いだ。怪我の処置が良かろうと悪かろうと、もうどうでもいいような気がしていた。どうせ熔岩がやって来て、すべては終わりなのだ。痛がったら薬を一杯飲ませればいい。そうすれば彼は天国だ。自分ではまったくわからないだろう。私はコニャックを一気に空け、もう一杯注いだ。酔っぱらうのが一番だ。私はヒルダにも注いだ。ヒルダはそれをやめようとした。
「今さら何だね。飲めよ。飲んだからって、どうってことはないじゃないか」
「諦めるのは早いわ……」
まだ何か言いたそうだったが、ヒルダはそれ以上は続けず、床に膝をついたまま大きな灰色の目で私を見上げた。私は首を振った。
「駄目だね。そりゃあ熔岩が止まることはあるかも知れない。でも、やっぱり駄目だね」
「お医者さんさえいたらねえ」
「医者?」
「そうよ。私、マックスを楽にさえしてあげられたら、本当にいいと思うわ」
私はグラスを干した。気持ちも落ち着きかけていた。
「医者がいればいいんだね」
笑いがこみ上げてきた。何という皮肉だろう。
「本当に医者がいればいいと思うんだね」
「ええ、そうよ。でも……」
「ようし、医者を呼んでこよう」
私はもう一杯注ぎ、一気に飲み干して出口に向かった。
「この辺でも並ぶ者のない優秀な医者を呼んでくるよ」
「どういうことなの。ディック、どこへ行くの?」
「ドクター・サンセヴィーノを探しに行くのさ」
「お願い。それはよして」
「医者がいるんじゃないの。それともいらないのかい」
ヒルダは躊躇《ちゅうちょ》した。
「サンセヴィーノは優秀な外科医だよ。これは間違いない」
「ねえ、ディック、お願い。そんなこと、私それ以外だったら何でもするわ」
ヒルダは私が答えを待っているのに気がついた。彼女はうなずいた。
「いいわ。あの男を捜してきてちょうだい」
私は納屋からジョージを出して背中に登った。ジョージはトロットで道路の方へ歩き出した。私は朝から何も食べていなかった。体がふわふわする感じだった。私は鼻歌を歌いながらジョージの背中に揺られていった。道路に出て、サント・フランシスコの方を眺めた。一遍で酔いが醒めてしまった。はずれの方の二、三の人家を残して、サント・フランシスコはまったくなくなってしまっていた。村のあったあたりは、ただ長々と続く黒い熔岩の壁でしかなかった。熔岩は徐々に広がっているらしかった。アヴィンで合流している二条の溶岩流の内側を埋めながら進んでいるのだ。私は急にサンセヴィーノを捜しても始まらないという気持ちに襲われた。
私は戻るところだった。もう一杯飲みたかった。酔いを醒《さ》ましてしまってはならないのだ。ところが、アヴィンの方に視線を向けた時、私の方にふらふらとした足取りでやって来る人影が目に入ったのだ。私はジョージをその方に向け、近寄って行った。
サンセヴィーノに違いなかった。私はポケットからジーナの小さなピストルを出した。実際には必要がなかった。サンセヴィーノはすっかり怯《おび》えきっていたし、もう何をする気もない様子だった。それどころか私を見てほっとしてさえいた。自分で別荘に戻るつもりだったのだろう。淋しくなったのだ。刻々と近寄ってくる熔岩を見ながら、私はあの屋上でどんなに孤独に悩んだかを思い出した。熔岩から逃げられないとなれば、熔岩が押し寄せるのを独りで待つのは辛かったろう。
私はサンセヴィーノに前を歩かせて別荘に戻った。道路から別れて葡萄園の小路に入った時、サンセヴィーノが言った。
「脱出する方法を教えてやったらどうするね?」
「何が言いたいんだ」
「取引きをしよう。ここから脱出する方法を教えたら、君たち皆、ここで起きたことは一切口外しないという紳士協定に応ずるかね」
「君みたいな奴と取引きはごめんだな。もし君が脱出する方法を知っているなら、君の気の毒な人質を助けるためにも、ただで話すべきなんだ」
サンセヴィーノは肩をすくめた。
「もう少し待とう。熔岩がもっと押してきたところで、もう一度話し合おう」
サンセヴィーノの言葉にはもうアメリカ風の訛りがなくなっていた。シャーラーとしての個性もまったく残っていなかった。彼は今や、イタリア人が英語で話しているに過ぎなかった。
私は彼の条件を聞いてみようとも思わなかった。出られるはずがないのだ。
「マックスウェルの怪我はひどいのか」
彼が訊いた。
「君のおかげでね。ひどいもんだ。片方の脚は砕《くだ》けてしまっているよ」
私たちは別荘に着いた。私は驢馬から降りた。ピストルを構えた。ただの脅《おど》しのつもりはなかった。それは彼も感じたらしく、黙ってまっすぐ建物に入って行った。
「どこだ」
「左手の部屋だ」
ヒルダは同じように長椅子の傍らに膝をついていた。すっかりきれいになったハケットとリースもいた。私はヒルダに言った。
「さあ、医者を連れて来たよ」
サンセヴィーノの姿を見るなり、ハケットは飛び出してきた。しかしハケットを押しのけてリースが前に出、サンセヴィーノの肩をつかんだ。
「シャーラーはどうしたんだ。殺したのか。言ってみろ」
「放せよ」
私はリースに言った。リースは拳《こぶし》を握りしめ、今にも殴りかからんばかりだった。だまされていたことの怒りがリースを駆り立て、彼は前後の見さかいも失いかけていた。私はピストルでリースの手首をたたいてどなった。
「放せって言ってるのがわからないのか。今そんなことを言ってる場合じゃないだろう。こいつは医者なんだぜ」
驚きと怒りの混じった複雑な表情で、リースは私の顔を見た。私はすかさず二人の間に割って入った。
「さあ、これが患者だよ、先生。その脚をきちんと手当てしてくれ。変な真似をしたら遠慮なく撃つからね」
サンセヴィーノは私を見て言った。
「ねえ、ファレル君。そんなに脅《おど》かさなくても大丈夫だ。医者の仕事ってものを僕は知っているんだから」
「そんな調子のいい言葉がまともに聞けると思うのか」
彼は肩をすくめた。
「僕は必要と思うことはやるんだ。前にもそれはいったはずだよ。まあ、君が僕を信用するとは思っていないけれどね。手を洗わせてくれないか」
私が彼について行くと、サンセヴィーノは言った。
「心配するなよ。逃げたりはしない」
部屋に戻るとピアノの音がしていた。ジーナが弾いているのだった。ジーナの指は軽やかに流れるように鍵盤の上を走っていた。ジーナはうっとりと夢見心地の顔をしていた。サンセヴィーノを見てジーナは手を止めた。彼が言った。
「ははあ、とうとう見つけたな。気分はどうだね?」
「素晴らしいわよ、ワルター、最高よ」
ジーナは窓の外の黒くうねっている空を見た。
「もう全然平気よ」
そう言って彼女は指を鍵盤に走らせた。
サンセヴィーノは部屋を横切り、マックスウェルの処置にかかった。マックスの体を包んでいた毛布を除き、サンセヴィーノは傷ついたズボンを切り開いた。
「水を持ってきてくれないか。暖めて。それから包帯にする布と、板きれがいるな。階段の手すりの板がいいね。ジーナ、モルヒネと、僕の注射器を持ってきてくれ」
驚くべきことであった。サント・フランシスコで私たちを殺そうとしていた男はもういなかった。サンセヴィーノは患者を前にした外科医になりきっていた。
ズボンを切り終わってサンセヴィーノは立ち上がり、血みどろになってつぶれた脚を見下ろした。白い骨が突き出していた。彼は首を振った。
「これはひどい」
彼は小さく舌を鳴らした。彼は部屋の隅に行き、ポケットから鍵の束を取り出すと、机の一番下の抽出《ひきだ》しを開けて小さな手術道具のセットを出した。
「トゥチェックのお嬢さんに熱湯もいるからっていって来てくれよ」
私はためらった。リースとハケットは手すりを壊《こわ》すのに忙しい最中だった。部屋にはジーナしかいなかった。
「早くしてくれないかなあ。この人を僕がどうかするとでも思っているのか。そんなことをして何になるんだ」
私は台所に行った。ヒルダが湯を準備していた。ヒルダが手術用の熱湯を作り、私はぬるま湯を運んで部屋に戻った。
戻ってみるとハケットとリースが医者の手許を覗《のぞ》いていた。ヒルダが熱湯を運んでくると、彼はすぐさま道具を消毒して手術にかかった。正確に敏捷《びんしょう》に、サンセヴィーノは手術を進めた。彼は手術に没頭していた。サンセヴィーノの繊細な指がマックスウェルの脚の上を走るのを、私はすっかり魅せられたように見つめていた。私は恐ろしいマゾヒスティックな喜びさえ感じていた。まるでその指が私の脚の上を這っているかと思われたが、私は自分が痛さを感じないのに安心しているのだった。
つぶれた脚は徐々に元の形に戻っていった。サンセヴィーノがいきなり体を屈《かが》めてその脚を引っ張り、突き出た骨を中に戻した。マックスウェルの口から高く、しかし弱々しい悲鳴が洩れた。サンセヴィーノは体を伸ばし、タオルで顔の汗を拭《ぬぐ》った。
「さあ、これで大丈夫だ。痕《あと》も残らないよ。薬を飲ませておこう」
板をあてて包帯を巻き、マックスウェルに毛布をかけ、サンセヴィーノは手をゆすいだ。タオルで手を拭きながら彼は言った。
「さあ、もう大丈夫だ。ハケットさん、僕に一杯注いでくれませんかね」
ハケットが生のコニャックを彼に渡した。私はジーナの弾くピアノの音にわれに帰った。そして手術の間じゅう、ジーナがずっとピアノを弾いていたことに気がついた。サンセヴィーノは音を立ててコニャックを飲み干した。
「うん、僕の腕は鈍ってないよ」
サンセヴィーノは私に笑顔を向けたが、それは決して他意のある笑いだけではなく、彼は医者としてきちんと仕事をしたことにすこぶる満足しているのだった。
「ナポリに戻ったら脚を石膏《せっこう》で固めるんだ。二、三ヵ月もすりゃあ、前と少しも変わらないくらいよくなるよ」
サンセヴィーノはそう言って黒い目でぐるりと私たちの顔を見回した。
「さて、君たちはここで熔岩に埋まりたいとは誰も思ってないね」
「何を始めようって言うんだ」
ハケットが聞いた。
「僕も死にたくない。そこで相談があるんだ」
リースが一歩前に出た。
「君はまた……」
ハケットがその腕をつかんだ。
「まあまあ、とにかくその男の言うことを聞いてみようじゃないか」
「僕はね、皆ここから抜け出すようにできると思うんだ。ただ、それにはもちろん条件がある」
サンセヴィーノが切り出した。ハケットが言った。
「その条件ていうのは?」
「僕の自由。それだけさ」
「それだけだって!」
リースが叫んだ。
「ペトコフやビメリッチはどうしたんだ。まだほかにもいるんじゃないのか」
「皆生きているよ。これは信用してもらっていい。必要もないのに僕は人を殺しやしないんだ」
「シャーラーを殺す必要なんかなかったじゃないか」
「ほかに僕にどうすることができたって言うんだ。ドイツ人は僕にやくざな仕事をみんなやらせた。ドイツが負ければどうなるか、僕にはわかっていたんだ。連合軍に捕まって戦犯として死刑さ。僕は殺されたくなかった。僕の命か、誰の命かどっちかって言うことになれば……」
彼は肩をすくめた。
「ロベルトはどうなの、ロベルトを殺さなくたってよかったじゃないの」
ピアノを弾くのをやめてジーナが進み出て言った。
サンセヴィーノはジーナを見た。彼は軽蔑を顔に浮かべていった。
「ロベルトは百姓だ。おまえに何のかかわりがあるんだ。あれはおまえの動物だったんだろう。動物なんぞ他にもたくさんいるじゃないか」
サンセヴィーノはハケットに向き直った。
「さて、それでどういうことになるかね、シニョーレ。ここで皆死ぬか、それとも協定を結ぶか」
「どうやって脱出するんだ」
リースが口を挟んだ。
「脱出する方法があるなら、なぜもっと早く逃げなかったんだ」
「僕一人じゃ行けないからさ。脱出の方法についてはね、僕がその方法を知らないと思うんなら、別に取引きに応ずる必要もないんだよ。さあ、どうするね」
「わかった、いいよ」
ハケットが言った。
サンセヴィーノはリースと私を見た。私はヒルダを見た。そしてうなずいた。リースが言った。
「ようし、いいだろう。どうやって脱出するんだ」
サンセヴィーノは私たちを信用しなかった。彼は一枚の紙を取り出してリースに渡し、誓約文を書かせた。私たちが、彼がシャーラーであることを確認する。彼は私たちのトゥチェック、レムリン捜索に可能な限りの協力を惜しまなかった。ロベルトは恐怖から狂気に陥《おちい》り、生かしておいては危険であった。などがその内容だった。ヴィラ・デステのまさに繰り返しであった。病棟の中でないのが不思議なほどであった。
「これでよし、と」
サンセヴィーノはポケットに紙をしまいながら言った。
「皆さんの言うことは信用していいんだね」
私たちはうなずいた。
「あなたもですか、ミス・トゥチェック。それからマックスウェルやあの二人の男にも約束は守ってもらえるんだね」
私たちはもう一度うなずいた。
「よし。それじゃあ、善は急げた。道路の方へ行く途中の納屋に飛行機があるんだ」
「飛行機が!」
ハケットが頓狂《とんきょう》な声を上げた。ヒルダは飛び上がった。
「あたし、なんて馬鹿だったのかしら。そうだわ。マックスはさっき、そのことを私たちに言おうとしていたのよ。道路で待っている時、飛行機が降りるのを私たちは見たのよ」
私はジーナが≪飛行機はどうしたのよ、ワルター≫と言ったのを思い出した。あの時サンセヴィーノは≪エンコーレはジープでナポリに行ってるんだ≫、と答えていた。
「誰が操縦するんだ」
リースが言った。
「マックスウェルは問題外だし。君はあのトゥチェックとレムリンの二人に解毒剤《げどくざい》でもやるつもりなのか」
サンセヴィーノは首を振った。
「いいや。ミスター・ファレルが皆を運んでくれるのさ」
「僕が?」
私はサンセヴィーノの顔を見た。私は愕然《がくぜん》とした。
「そうとも。君は飛行機乗りだ。リースやシャーラーをわれわれの前線より後ろに運んで降ろしたのは君だったんじゃないかね」
「それはそうだけれど、でも……」
目の中に流れこむ汗を私は夢中で拭いた。
「ずっと昔の話だよ。もう、ずっと飛行機なんか乗っていないんだ……」
何と言うことだ。私はもう飛行機を降りて何年にもなる。計器の位置だって憶えていないし、操縦の勘《かん》だって失っているに違いないのだ。私は叫んだ。
「冗談じゃないよ。そんなこと、できるもんか。墜落して死にたいのか。第一、僕は離陸させることだって無理なんだ。前は僕はちゃんと脚が二本あったんだからね。もうあれ以来飛んでいない……」
「だから、これから飛ぶんじゃないか」
リースまでがそう言った。
「できないよ」
ヒルダが私に寄ってきた。彼女は私の両腕をしっかりと握った。
「デッィク、あなたはイギリスでも指折りの名パイロットだったでしょう。飛行機に乗ってごらんなさいよ。きっと思い出すわ。ねえ、きっと思い出すわよ」
ヒルダは私の目を覗《のぞ》きこんで、彼女の信頼を伝えようと必死になっていた。
「できないよ、そんな危ないこと」
「危ないったって、そうするか、熔岩に飲みこまれるのを待つか、どっちかしかないんだからね」
ハケットが言った。
私は私を取りまいている皆の顔を見渡した。皆の目が私を見つめ、私の恐怖を見抜き、脱出に力を貸そうとしない私を責めたてていた。急に私は、彼らが誰もかも憎らしくなってきた。こんな連中を助けるために、なぜ私が飛行機を飛ばさなくてはならないのか。
「トゥチェックに頼まなけりゃあ駄目だよ」
私は自分の声がぶつぶつ言うのを聞いていた。
「あの男が薬からさめるまで……」
「それは駄目だ」
サンセヴィーノがきっぱりと言った。ハケットが進み出て私の腕をたたいた。ハケットの無理に作った笑顔の中で一列に並んだ歯が光っていた。
「いいじゃないか、ファレル、どうせわれわれは覚悟はできているんだ」
リースがハケットを押しのけ、怒りに声をつまらせながら言った。
「君は皆に、ここで死ねって言うのか」
「飛行機には乗れないよ。ぼくにはできないんだ……」
私は懸命に言葉を押し出した。涙声だった。
「つまり、罠《わな》にかかった鼠《ねずみ》みたいに僕らはここで死ぬことになるわけだな。それも君が意気地がないからだぞ。まったく君って奴は、だらしなくって、意気地なしで……」
「あなたにそんなこと言う資格はないわ」
ヒルダがリースを私から引き離した。彼女は堰《せき》を切ったように、リースに非難をあびせた。
「あなた、そんなこと言っていいの? ディックはここにいる誰よりも活躍したのよ。噴火が始まってから、彼はずっと皆を助けようとしてきたじゃあないの。マックスのためにドクター・サンセヴィーノを呼んできたのは誰なの? あなたじゃないわ。ディックよ。その間にあなたは何をしたって言うの。自分の汚れを落とすことに夢中だったんじゃないの。熔岩のそばにあなたは行ったことがあるの? ディックは今日だけで、もう二度も死ぬ思いをしているのよ。あなたは何をしたって言うの? 何もしてやしないわ。何もよ。私、言わせてもらうわよ」
ヒルダは黙った。息づかいも荒く、彼女は髪の毛の中に手を突っこんだ。それから私の手をとって言った。
「行きましょう。行って汚れを落としてきましょうよ。体を洗ったら気持ちが落ち着くかも知れないわ」
私はヒルダについて二階の風呂場に上がっていった。頭がくらくらしていた。どこか隅の方に行って隠れてしまいたかった。いっそのこと、あの屋上にいたらよかったとさえ思った。今となっては熔岩がどんどん押し寄せてきてくれた方がありがたかった。本当に来るなら、早くきてほしい。私は早くすべてが終わってほしかった。私はヒルダに言った。
「僕は飛行機を動かせないんだ」
ヒルダはそれには答えず、風呂に湯を張った。
「さあディック、着ている物を脱いで」
私がためらうのを見てヒルダは苛立《いらだ》ち、床を踏み鳴らした。
「しっかりしてよ、デッィク。私が男の人の裸を見たことがないとでも思っているの。私は看護婦だったのよ。嫌ね。さあ、早くその汚い服を脱ぎなさいよ」
私が義足をヒルダに見られたくないと思っているのを、彼女は知っていたのだと思う。彼女は何かきれいな物を捜してくるからと言って出ていった。私が風呂の中で体を洗っている間に、ヒルダは新しい服を放りこんだ。私がそれを着ている間、ヒルダは流しで自分の顔を洗っていた。
「どう? さっぱりしたでしょう」
私がサンセヴィーノのシャツを着てボタンをかけているとヒルダが言った。彼女はタオルで顔を拭いていたが、突然笑い出した。
「いやあだ。そんなに救いがたい顔をしないでちょうだい。見てごらんなさい」
ヒルダは私の前に鏡を突きつけた。
「笑ってよ。そうそう、そのほうがいいわ」
彼女は私の腕を握った。
「ディック。飛行機を飛ばせて」
私はどうしても口をきく気になれず、かたくなに黙っていた。
「ねえ、ディック、お願い。私のためにやってちょうだい」
彼女はじっと私を見た。その目に涙が溢《あふ》れた。
「私は、あなたにとって何の意味もない人間なの?」
私は、ずっと自分の心の奥にあったものが何だったのか、その時はっきりと知った。私にとってヒルダはすべてであったのだ。私は口ごもった。
「愛してよ。わかってるじゃないか」
「だったらお願い。やってちょうだい」
涙の中でヒルダは笑っていた。
「二十フィートの熔岩に埋まってしまったら、私、どうやってあなたの赤ちゃんを産むの?」
突然、どちらからともなく、わけもなく、二人は大きな声で笑い出していた。そして私はヒルダを腕の中に抱き、二人は唇を重ねていた。
「ずっとあなたのそばにいるわ。きっとできるわよ。わかるの。あなたはできるわ。どうしても駄目だったら……」
ヒルダは肩をすくめた。
「そしたら、もう私たちもじきおしまいだし、それはそれでいいんじゃないの」
「わかったよ。やってみるよ」
もう一度飛行機を操縦して空を飛ぶ悪夢に身を委《ゆだ》ね、私の心は暗く沈んでいた。
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八
どうやって飛行機のあるところまで行ったのか、もうほとんど憶えていない。残っている記憶もまったく前後の脈絡がない。私は恐怖の底から興奮の頂点に飛び上がった。二人でマックスウェルの横たわっている部屋に戻り、ヒルダが皆に私を説得したと告げた瞬間に、すべては一転して、皆は私を新たな尊敬の眼で見るようになったのだ。≪宿なし≫は一躍≪指導者≫になった。私はマックスウェルを運ぶ担架《たんか》を準備するように言い、ジョージを荷車につなぎ、トゥチェックとレムリンを階下に降ろすように命じた。権力を握ってみると自信が湧いてきた。と同時に、私は自分のやり始めたことの責任の重さを強く感じていた。
灰に埋《う》もれた小路を葡萄園に向かって行く間じゅう、私はそのことを考えていた。考えれば考えるほど恐ろしくなってきた。ほんの一瞬私を満たした自信は、早くも薄れかけていた。私は恐怖に震えた。死ぬのが恐かったのでは決してない。それだけははっきりしていた。私は自分自身を恐れていたのだ。やると言っておきながら、やっぱりできないのではないか。いよいよとなると逃げだしたくなるのではないか。操縦席に坐り、操縦桿《そうじゅうかん》を握ったとたんに私は冷や汗に濡れ、気が狂ってしまうのではないか。それが恐ろしかったのだ。
ヒルダは私が何を考えているか知っていたのだと思う。ずっと私の手を握り、そうすることで自信を与えようとでも言うように、その指に力を入れた。
まったくおかしな一団だった。ハケットが手綱をとり、驢馬はのろのろと歩いた。マックスウェルは気がついたらしく、毛布の中で痛みを訴えていた。レムリンはまだ気を失っていたが、トゥチェックは荷車の縁《ふち》に頭が当たって目を開いた。彼は呆然とあたりを見た。黒目の部分が異常に大きく開いていた。イタリア人の小さな子供はジーナの髪の毛を玩具《おもちゃ》にしていた。そのジーナは娼婦のようにしどけなくリースによりかかり、スカートがめくれて太股《ふともも》が露《あら》わになるのも気にせず、夢心地の微笑を唇に浮かべていた。空気は耐えがたく熱気をはらみ、私の背中を汗が流れ落ちていった。
別荘の入口に灰が堆《うずたか》く土饅頭になって、その上に蠅《はえ》の群れが音を立てていた。何であるかは聞くまでもなかった。灰の中から片方の手が突き出ていた。ロベルトの墓を見て、私はめちゃくちゃに壊れた飛行機の機体と、腐敗して膨《ふく》れ上がった皆の死体に蠅が群《むら》がっている光景を想像した。その想像は何年も前の私の墜落の記憶に重なった。フタパスで壊れた機体の下でつぶれた私の脚に、蠅が真っ黒にたかっていた。
夢と現実の境をさまよっている自分を感じた。ハケットが驢馬を罵《ののし》るのが聞こえ、私は自分が同じように行きたくもないところに追い立てられている動物であるような気がした。こうして永遠に進んで行くのであればいいと思った。まっすぐどこまでも進み、決して飛行機には行き着かなければいいと思った。サンセヴィーノが不思議そうな顔で私を見つめていた。医者の冷静な観察眼で、私があれこれ悩み苦しんでいるのを眺めていたに違いない。それを見たとたんに憎悪と怒りが湧き上がり、耐えがたい暑さも手伝って私は一刻も早く操縦席に着き、エンジンの音を響かせて熔岩を飛び越え、腹を抱えて哄笑《こうしょう》してやりたいと思った。私にはできるのだと言うことを見せつけてやるのだ。
幾重にも植えられた葡萄《ぶどう》の木の間を進んでいた。ヒルダは私の手をいっそう力をこめて握り、私の耳許でささやいた。その声はどこか遠くの方で話しているようで、私は夢の中で彼女が話しかけているのではないかと思った。
「ディック、私たちどこに住むの? どこか海のそばに住めないかしら。私、ずっと前から海のそばに住んでみたいと思っているの。たぶん母がヴェネチアの生まれだから、私の血の中に水への憧れがあるんだと思うわ。チェコスロバキアには海がないでしょう。海に囲まれた国に住むって、素敵だ思うわ。安全ですものね。ねえ、ディック。どんなお家にする? 小さな茅《かや》ぶき屋根のお家、どうかしら。私、絵や何かで見たことがあるんだけど……」
ヒルダはそんなふうに話し続けた。彼女の夢の家のことを話して、この悪夢の向こうに希望があることを私に思い出させようとしていたのだ。私は何か答えたように思う。
「まず仕事を見つけなきゃあ。イギリスで、仕事を」
「それだったら心配ないわ。父が工場を始めるのよ。工場を建てる資本もあるの……」
ヒルダは息をのんだ。
「ねえ、あなたの脚の中にあった物、あれはどうしたの?」
私ははっと思い出した。現実の、しかも目の前のことを思い出して私は救われた気がした。私の手はサンセヴィーノの腕をつかんだ。
「僕の脚から何か持って行ったろう。あの屋上で。あれを返せよ」
サンセヴィーノのずる賢《がしこ》い目に躊躇《ちゅうちょ》の色が走った。
「返せって言ってるんだ!」
私はほとんど喚《わめ》いていた。
サンセヴィーノはポケットに手を突っこんだ。一瞬私は彼がピストルを持っているような気がして、彼に飛びかかろうと腰を浮かした。しかし彼の手には小さな革袋が握られていた。私は彼がピストルを持っていなかったのを思い出した。彼は革袋を私に渡した。袋は何の重さもなかったが、振ってみると莢《さや》の中で豆が転がるような音がした。袋の紐をとき、私は中身をヒルダの膝の上に空けた。ジーナが眼を輝かせて身を乗り出し、驚きの声を上げた。ヒルダの灰にまみれたスカートの上に燦然《さんぜん》とした輝きが流れた。ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、サファイアが光を放って揺れていた。トゥチェック製鋼所の生み出した富が、この一握りの宝石に凝縮されていたのだ。
私は腹が立った。無性に腹が立った。トゥチェックは知らぬ間に私にこの密貿易に加担させていたのだ。あの夜、彼は私に力を貸してくれと言うつもりで私の部屋を訪ねてきた。私が酔っているのを見て、あの革袋を義足の空洞の中に押しこんだのだ。私が自分でも知らずに運び屋をつとめた方が、発覚のおそれが少ないと思ったに違いない。しかしトゥチェックには私の同意もなくそんなことをする権利はないはずだ。トゥチェックは知らぬ間に私を非常な危険に追いこんだのだ。
私は怒りをこめてトゥチェックを見据えた。しかし彼はうつろな目をして荷車の振動に身を任せ、頭は力なくぐらぐらと揺れていた。私はもう一つの包みのことを思い出し、サンセヴィーノに返せと言った。それを受け取って、ようやく私はトゥチェックが無断であんなことをしたわけがわかった。油紙の小さな包みの中はいくつもの小さな金属の筒で、それはまるで空っぽのように軽かった。私はそれが何であるか知っていた。設計図を収めたマイクロフィルムなのだ。私の手の中に、トゥチェック製鋼所が現在製作している新しいプラント機械や工作機械、武器などの一切のディテールを示す情報があるのだ。一九三九年にしたのとまったく同じことを、トゥチェックはやったのだ。私はすべてを了解した。私はフィルムを包み直し、ヒルダに渡した。
ヒルダはフィルムの小さな罐《かん》をじっと見つめていた。泣いていた。そしてヒルダはゆっくりと革袋に宝石を戻し、口紐を縛《しば》った。彼女は革袋と油紙を私に押しつけた。
「持っててちょうだい、ディック。後で、あなたから父に渡してもらいたいの」
ヒルダは私に対する信頼をこんなふうに示したのだ。私は急に涙がこみ上げてきた。
サンセヴィーノがハケットに声をかけ、荷車は脇道にそれた。葡萄園の中をゆっくり抜けていくと、オレンジの林に埋まるようにしてコルゲート鉄板の小屋があった。サンセヴィーノが真っ先に荷車から飛び降り、リースとハケットが手伝って戸を開けた。古いダコタが格納されていた。迷彩の塗料が空気の摩擦でところどころ剥《は》げ落ちていた。飛行機を前にして私はまったく元気を失った。飛行機は尾翼を奥に格納され、牽引車は右翼の下に停めてあった。
私はじっと坐ったまま、動くこともできずに飛行機を眺めていた。皆がマックスウェルの担架を運んだり、飛行機を見てジーナが手を打って喜んだりしていたのを私はぼんやりと憶えている。子供は指をしゃぶってあらぬ方を眺めていた。トゥチェックやレムリンが荷車から降ろされても、私はまだそこに坐ったままだった。足腰がまったく立ちそうになかった。
「ディック」
ヒルダが私の腕を取った。
「さあ、ディック」
私は飛行機から背後の山に目を移した。仮小屋の格納庫の上に山はのしかかるようであった。巨大な黒い煙の柱が火口から噴き出し、渦を巻き、地獄の天幕となって暗く天を覆っていた。空気は濃い硫黄《いおう》ガスに濁《にご》っていた。
「ディック!」
ヒルダの声が鋭く響き、私の体は悪魔に取り憑《つ》かれたように震え出した。私は思い出に悩まされていた。私が最後に飛び、墜落し、煙を上げて燃えつきた飛行機の思い出だった。
「僕にはできない」
私は口の中で言った。私はすっかり恐くなり、胸の奥深くから溜息のようにその言葉が出てきたのだ。
ヒルダは私の肩をつかんだ。
「あの煙が見える? あれがどういうことだか、わかっているわね?」
私はうなずいた。ヒルダは私の体をぐいと自分の方に向けた。
「私を見て」
彼女は手を自分の喉《のど》に当てた。
「ディック、私はあの熔岩を待ってなんかいられないの。だから飛行機が駄目なら私を殺して。今、ここで」
私はその時の恐ろしさを忘れない。私の指は柔らかいヒルダの喉に触れていた。そして柔らかさが私に力を与えた。もしかしたら、それはヒルダの灰色の目だったかも知れない。私は立ち上がった。
「わかったよ」
私は地面に飛び降りた。私はその場に震えながら立っていた。ヒルダが後から飛び降りてきて私の手をとり、飛行機の方へ引っぱっていった。
「操縦桿を握ったら、きっと落ち着くわよ。そうすれば、もう大丈夫よ」
ヒルダは私を見て微笑《ほほえ》んだ。
「ディック、疲れているのね」
私は唇を噛んで黙っていた。私たちは飛行機に近づいていった。私は自分の足がまるで言うことをきかずに遠いところで動いているような気がしたのを憶えている。皆は胴体のドアを開け放ってマックスウェルの担架を運びこんでいるところだった。リースが私の肩をたたいて笑った。薄暗い中に見慣れた計器やノブなどが並んでいた。ヨーロッパ中にパラシュート隊を運んでいた頃とまったく同じであった。布張りのシート。酸素マスクの説明書。救命胴衣に折りたたみ式のボート。
誰かが私の手を握った。振り返るとリースだった。彼は照れ臭そうに口ごもった。
「悪かったよ、ディック。僕は君って男をどうも、よくわかっていなかったんだな……」
彼のこの態度以上にその時の私を勇気づけたものはないのではないかと思う。そして、それがあの飛行機の中だったことが、私と、シャーラーやリースのもやもやとした関係をすっきりと片づける結果になったのだ。ヒルダは私から離れようとしなかった。私たちは乗組員のキャビンに向かった。戦争中に帰ったような気がした。隅々まで私は知っていた。整備も行き届いていた。私は操縦席に坐った。操縦桿の先にヘルメットがぶら下がっていた。通信用のワイヤーがヘルメットから尾を引いていた。それをかぶったらナビゲーターや通信士の声が聞こえてきそうだった。
ヒルダは副操縦士の席に坐った。リースがついて来て言った。
「準備が全部できたら知らせるからね」
私は操縦桿を握ってみた。方向舵の重さを義足の感じで試してみた。私はハンカチを取り出して手と顔の汗を拭いた。耐えがたい暑さだった。眠かった。何と、私は眠かったのだ。私は計器盤に目を走らせた。キャビンの暑さの中で針が震えているようだった。私は吐き気を催《もよお》した。
ヒルダが手を握った。
「大丈夫?」
大丈夫ではなかった。気が遠くなりそうだった。それでも私は答えた。
「大丈夫だとも」
ぶっきらぼうに言ったのは自分をふるい立たせるためだったのかも知れない。ヒルダは相変わらずしっかりと私の手を握っていた。リースがやってきて私の顔を覗きこんだ。全部乗り終わったと彼は言った。
「始動はどうするんだ。あそこに始動機はあるよ」
「ああ、大丈夫だ。この暑さなら、ウォーミングアップの必要もないからね」
「それじゃあ、ドアは閉めていいんだね」
「うん、閉めてくれ」
とうとうその時がきた。私は目を上げて、風防ガラスの向こうに灰に埋もれた葡萄園を見渡した。そこに滑走路たるべき灰の平原が広がっていた。ジョージの姿が目に入った。壊れかけた荷車の軛《くびき》の間に、見捨てられたようにジョージはぽつんと淋しそうに立っていた。心なしかその体は小さく見えた。私は抑えようのない激しい怒りがこみ上げてくるのを覚えた。私は叫んでいた。
「馬鹿者! 何やってるんだ、抜け作が!」
私はわれを忘れて席を立ち、胴体の方に飛び出していた。
「あいつを乗せるんだ。あいつを飛行機に乗せるんだ」
皆いっせいに私を見た。リースとハケットがドアのところに立っていた。他の連中は布張りのシートに坐っていた。
「誰を乗せろって?」
ハケットが聞いた。
「驢馬だよ。きまってるだろう、馬鹿だなあ。僕が驢馬を置いていくとでも思っているのか」
私は喚《わめ》いた。リースが寄ってきた。
「落ち着けよ、ファレル。驢馬を連れていくわけにはいかないだろう」
「驢馬を連れて行かなきゃ駄目なんだ。そうじゃなきゃあ、ここを出られない。君らはあんなところに荷車に結びつけたままあいつを置いてきぼりにするのか」
「わかった、わかった。驢馬の綱は切ってやろう。でも連れていくのは……」
「驢馬を乗せろよ。さもないと僕は飛ばないぞ」
「考えてもみろよ」
ハケットが口を挟んだ。
「動物愛護は結構なことだと思うがね。でもなあ、物には限度ってものがあるだろうが」
興奮していなければ私は皆の言うことを聞いていただろう。しかし私にとってジョージはただの驢馬ではなかったのだ。私をサント・フランシスコから連れ出してくれたのはジョージなのだ。あの建物の中でジョージを見殺しにしなかったと同様、今また私はジョージを見殺しにして、熔岩に呑みこませるわけにはいかなかった。私はつかつかと進んでドアをこじ開けた。サンセヴィーノが私の腕をつかんだ。彼に触れられて私の体は身震いした。
「驢馬一頭でそう興奮しなさんなよ。驢馬が何だって言うんだ。あいつは飛行機に乗りたがっちゃあいないだろうし、第一、この機体にあんな図体は乗せられないぜ」
子供をさとす口ぶりだった。医者が神経患者を相手にする態度であった。サンセヴィーノに対する私の憎しみが一度に燃え上がった。
「おんぼろ荷車を引っ張って熔岩から逃げ出して、あげくのはてに、結局熔岩に押しつぶされて死ぬんだ。自分の肉が焦げる臭いを嗅ぎながらね。君だったらどうする?」
「そりゃあ考え過ぎってものだよ。君はいつもそれで悩んできたじゃあないか。君はあいつが動物で、人間ではないんだということを忘れているよ」
私は突然、この気にくわない医者をあの荷車に結びつけて置き去りにしてやったらどうだろうと思った。思っただけでも笑いがこみ上げてくるのをどうすることもできなかった。サンセヴィーノの声がした。
「落ち着けよ、ファレル」
彼は私を狂人扱いしている。サンセヴィーノの目が私の狂気を恐れるように大きく見開かれていた。ロベルトの拳《こぶし》にくだかれて曲がった鼻が私の目に入った。私は何もかも忘れて体じゅうの力を拳に固め、サンセヴィーノの顔にたたきつけた。肉が裂け、血が飛ぶのを感じた。鈍い音がして骨の砕ける手応えがあった。私は手首が痛むのを快感として味わった。足下の金属の床にサンセヴィーノが血まみれの顔で倒れていた。私は震える体を抑えようもなかった。目の前で飛行機の各部が大きく揺れ動き、吐き気が胸を駆け上がり、私の脳を埋《うず》めた。どこか遠くで、私は自分の声が言うのを聞いた。
「驢馬を乗せるんだ」
ハケットとリースが私を見つめ、物を言わずに降りていった。
文句を言わずに二人が降りていくのを見ているうちに、私はまた指導者の気持ちを取り戻し、同時に自信が甦《よみがえ》ってきた。私は飛行機を飛び降り、板を捜して来て入口に渡してやった。ハケットが驢馬を引いて戻ってきた。断ち切られた綱を引きずっていた。私は驢馬の傍らに行き、やさしく声をかけながらビロードのような鼻面を撫でた。私が斜めに立てかけた板を驢馬は嫌がったが、三人で引いたり押したりして、とうとうジョージは飛行機に乗った。私はジョージを最後尾に押しこみ、洗面所に尻を向けるようにしてつないだ。しばらくの間、私はそばに立って驢馬に話しかけ、そして操縦席に戻った。サンセヴィーノが目の前にいた。砕《くだ》けた顔に血まみれの布を当てていた。彼は憎悪に満ちた目つきで私と驢馬を見較べていた。私は足を止めた。
「驢馬に触れてみろ。きさまなんか殺してやるから」
サンセヴィーノは黙ってにやりと笑った。私はリースに言った。
「こいつを驢馬に近寄らせるなよ」
「驢馬は大丈夫だ」
ハケットが請《う》け合った。
サンセヴィーノを見て私は一瞬ためらった。人はたとえ極道者《ごくどうもの》だとしても、冷静に人を殺せるものではない。しかしその時私は本当にサンセヴィーノを殺してやりたかったのだ。ヒルダが私の手をとって操縦席に連れていった。胴体のドアが閉まる音がした。私はシートに坐り、操縦桿を握った。
「何か手伝うことがあるかい」
リースだった。
「何もないよ。向こうであの医者めを見張っていてくれ」
リースに傍にいられたくなかった。震えたり汗をかいたりしているところを見せたくなかった。
リースは出ていった。私は言った。
「ヒルダ、安全ベルトを締めるように言って、それから間のドアを閉めてくれないか」
ヒルダは皆に安全ベルトの指示を与え、ドアを閉めて私の隣の席に戻った。私はスターターのボタンを押した。左翼のエンジンが回り始め、続いて右翼のエンジンも始動した。小屋の中は舞い上がる塵で一杯になった。耳を聾《ろう》する音であった。私は飛行機を小屋から出した。そして灰の中を車輪をはずませて葡萄園に向かっていった。習慣的に私は最後の点検を規定通りに行った。フラップ、方向舵、オイル、燃料、ブレーキ。すべて良好であった。私は義足の感じを覚えるために方向舵を左右に振って機体をゆすった。
ついに私は葡萄園のはずれの路で機首を立て直した。向こうの端に別荘が見えていた。ブレーキをかけたままエンジンの回転を上げていった。計器に目をこらし、風を切るプロペラに目を配った。ドア越しに胴体の方で怯えた驢馬の声と金属の床に鳴る蹄《ひづめ》の音が聞こえたような気がした。私はエンジンの回転を一杯に上げ、掌《てのひら》の汗を拭いた。膝の後側が痛んだが、それを除けばあとは離陸するばかりだった。
ヒルダがそっと私の手に触れた。顔を向けるとヒルダは微笑んだ。静かな、愛情と信頼の微笑みであった。彼女は親指を立ててうなずいて見せた。
私は滑走路を眺めた。私の目の前に、灰に埋もれた平地が広がっていた。整然と植えられた葡萄が滑走路の境を区切っていた。葡萄の木は無惨に灰をかぶっていた。そしてその向こうに露出した熔岩と別荘が見えた。別荘の方から滑走した方が条件は良さそうだった。が、私はとっさにスロットルに手をかけていた。もう一度この灰のなかを車輪をはずませながら向こうまで行ったら、もう私の神経は持たなくなっているだろう。飛ぶなら今だ。この時を逃したら、もう飛べない。
ブレーキをはずすと飛行機は滑り出した。私は回転を確かめながら、左足をそっと方向舵のペダルに置いた。左手で操縦桿を握った。何よりも私が恐れていたのは灰であった。飛行機の速度が上がっていった時、灰はどう影響するだろう。あの灰に覆《おお》われて、何が隠されていないとも限らない。しかし、もう戻ることはできなかった。スロットルは全開していた。目の下を灰が凄《すさ》まじい勢いで流れていた。灰色の小さな藪《やぶ》が次々にスピードを増して後方に舞っていった。露出した熔岩の上の別荘が目前に迫っていた。私は操縦桿を握って、じっと後輪が離れるのを待った。胴体が振れた。私は左足で振れを直そうとした。力が入りすぎたらしく、胴体が反対方向に大きく振れた。一瞬、私は全霊を方向舵の調整に注いだ。うまくいった、と思った瞬間、尾輪が地面を離れるのを感じた。目前に別荘が風防ガラス一杯に迫った。その時私はぐっと操縦桿を引いていた。翼が強く風を捉えて浮き上がり、エンジンの響きが静かな継続音に変わった。別荘の赤い屋根瓦がすっと足下に落ちこんでいった。
私はほっとした。ヒルダは私の手を握った。風防ガラスを通して左翼の先端の向こうを見ると、サント・フランシスコの名残《なご》りをとどめるものはすでに何一つ見えず、ただ一面の黒い熔岩の平原であった。
突然機体ががくんと揺れて傾いたかと思うと、今度はいきなり下から激しく突き上げられて黒い空に登っていった。押し上げられながら私はその正体を知っていた。サント・フランシスコをなめつくした熔岩の熱で激しい上昇気流が起こっている中へ飛び込んでしまったのだ。私は自分を落ち着けて飛行機を水平に保つことを心がけた。上昇気流の弱いところでは飛行機は急にすとんと下降した。乱気流の中で、飛行機は激しく上下に揺れた。私は操縦桿と方向舵で機首を正しく保つことに専心した。左足で方向舵を動かさなくてはならないのは、痛む傷口を抱えてたまらなかった。
気がついてみると、私は操縦席でゆったりときわめて快適に坐っていた。乱気流はどうやらうまく乗り切ったのだ。私はまだ飛行機を忘れてはいなかったのだ。私が自分自身を征服したのに合わせるように、自然は敗北を認め、気象条件は突然好転した。飛行機は揺れもせず、大気圏外でも飛んでいるように静かにまっすぐ飛んでいた。
ハケットが操縦席に飛び込んできた。
「ファレル、事故だ。あの驢馬《ろば》の奴が。今すぐ着陸できないかね」
「何があったんだ?」
私は機首をめぐらして熔岩の上を離れ、海の方に向かっていた。
「あの医者なんだ。命が危ない。驢馬に蹴られたんだよ」
「サンセヴィーノを蹴ったのか?」
私は笑いをこらえきれなかった。
「あの驢馬、なかなかやるじゃないか」
「馬鹿なことを言うなよ、君。死にそうなんだぜ」
私は海岸線に沿ってナポリに向かうコースを取った。
「何でそんなことになったんだ? 驢馬の背後に回らなけりゃあ蹴られるわけがないじゃないか」
「乱気流の中で揺れただろう。あの医者はマックスウェルの様子を見ようと立ち上がったんだ。そうしたらよろけて転んだんだ。ちょうど飛行機が上向きになって、あの男はそのまま滑ってしまって、驢馬の足のあいだを抜けて一番端まで行っちゃったんだよ。驢馬の奴は鼻を鳴らして足を踏み鳴らした。じっとしていればよかったんだ。だのにあの男は立ち上がろうとしたんだな。その立ち上がるところをやられたんだ。今、ゴムボートのそばに倒れているよ。気を失っているが、どうやら頭を打っているらしいんだ。驢馬がいるから、近寄れないんだよ」
「わかった。だけど今驢馬を動かそうとしたって、それはだめだよ。着陸するまで待ってくれ」
「いいよ。ただ急いでくれよ。ひどくやられてるらしいからね」
私はヴォメロに向かって大きく機首を回した。ナポリが目の前一杯に広がっていた。灰をかぶって真っ黒になり、町を出る道路は車でぎっしりだった。
「行って席についてくれないか。皆に安全ベルトを締めてもらってくれ。あと何分かでポリミアノに降りるから」
ハケットが戻り、境のドアが閉まる音がした。私はじっと操縦桿を握ったまま前方を見つめ、飛行場を捜した。私は心から安らぎを感じていた。サンセヴィーノが助からないことはわかっていたのだと思う。私は人生の一つの章が終わろうとしているのを感じた。天が私に手をさしのべて、その章を終わらせてくれたように思えた。過去は消え去った。目の前に新しい人生が開けていた。後は安全に着陸すればよかった。
ポリミアノが見えてきた。灰色の競技場のようであった。私は車輪を下げるレバーを押した。横の窓から左翼の車輪が下りるのを見届けた。私はヒルダに言った。
「そっち側の車輪を見てくれないか」
ヒルダは窓を覗《のぞ》いてうなずいた。私は飛行場の上を旋回しながら高度を下げていった。まったく緊張は感じなかった。サンセヴィーノがどんな目に遭ったかを聞いて、ほっとした気持ちがずっと続いていた。その開放感の中で私は体じゅうの筋肉が耐えがたい痛みをともなってひきつっているのに気がついた。
滑走路には飛行機がいなかったし、離陸を待機している飛行機もいなかった。私は機首を大きく西に回してベスビオを西の正面に見ながら降りていった。フラップを下げると地面がぐっと近づいた。風はほとんどなく、飛行機はまったく安定していた。私は距離の計算を誤って、やや急な角度で降りなくてはならなかった。灰色の滑走路が急に目の前に迫ってきた。私はあわてた。急いで操縦桿を引き起こした。車輪が激しくコンクリートを打った。飛行機は浮き上がり、次の瞬間、車輪はしっかりと地面を捉えていた。私はブレーキをかけた。滑走路のはずれより少し手前で飛行機は停まり、私はそのまま飛行機を空港ビルの方へ走らせた。トラックが一台、私たちを迎えにやって来た。エンジンを止め、私はしばらくの間呆然と坐ったままでいた。冷ややかに襲ってくる吐き気が私を悩ませた。実際、気分が悪かった。私は気が遠くなったのを憶えている。気がつくと胴体の方の布張りのシートに寝かされていた。遠くの方でヒルダがイタリア語で言うのが聞こえていた。
「神経疲労です。それだけのことだわ」
それから後のことはほとんど憶えていない。何でも消毒薬を浴びせられているような臭いがしていたと思う。誰かが私の腕を握っていた。その指は冷たく、しかし信頼できた。私は驢馬をいじめないでくれと言おうとしていた。それ以外はもう記憶に残っていない。私はりっぱな家具でしっとりと飾られた部屋で目を覚ました。涼しげなブラインドが日光を柔らかくさえぎっていた。
人影が動いていた。と、見るとジーナが私を覗きこんでいた。私はジーナに聞いた。
「ここはどこ?」
「ヴィラ・カルロッタ。もう大丈夫よ、ディック。もう何も心配することはないのよ」
「ヒルダは?」
「私が少し眠りなさいって言ったの。あなたももう少し眠らなけりゃあいけないわ」
ジーナは私の額を撫でた。私は目を閉じた。どこか遠いところで誰かの声がしていた。
「さよなら、ディック」
私はまた眠った。
次に目を覚ますと明るく日が照っていた。私の傍らにハケットの見慣れた大きな体があった。私は目をこすりながら起き上がった。全身の力が抜けてしまったようだったが、頭ははっきりとしていた。
「僕はどのくらい眠っていたのかな」
「そうだな。薬を飲んでから、そう五十時間くらい眠っていたかな」
「そんなにかい」
私はサンセヴィーノのことを思い出した。そのことを聞くとハケットは首を振った。
「もうあの男のことは忘れた方がいいよ。死んだ。ワルター・シャーラーとして埋葬したらしいよ。マックスウェルの言いつけでね。その方が問題が起きないんだな、きっと」
「他の連中は?」
「マックスウェルはもうずいぶんよくなったよ。隣の部屋にいるんだ。自分でここにいたいって言うんでね。伯爵夫人はローマのご主人のところへ行った。イタリア人の子供はどこかの尼さんが預かってくれたようだな。他の連中も、皆元気さ」
「ジョージは? あの驢馬、何もされなかったんだろうね。大丈夫かね?」
ハケットは立ち上がっていった。
「ジョージのことは心配しなくていいよ」
彼はそう言ってにやりと笑った。
「ジョージは要するに皆から面倒な問題を除いてくれたってことになるな。今はこの邸の厩舎《きゅうしゃ》にいるよ、ああそうだ、ここはあの伯爵夫人の別荘だよ。それから噴火はもうやんだ」
ハケットはドアの方に歩き出した。
「さあ、看護婦を呼んでこなくちゃあならんね」
ドアの閉まる音がした。私はベネシアン・ブラインドをすかして差しこんでいる日光を、しばらく眩《まぶ》しい思いで眺めていた。私は上掛けをのけて床に降りてみた。床材はこの上もなくすべすべとしていて、素足にひやりと気持ちがよかった。部屋には塵ひとつなく、灰はどこにも見当たらなかった。パジャマの左足は余分の長さが切り落とされ、足の傷には包帯が巻いてあった。私は椅子の背につかまりながら窓際へ体を運んだ。体力がすっかり衰えていた。私はしばらく窓枠につかまって荒い息をついた。ブラインドを開けると、明るい光が部屋に流れこんだ。
眩しくて目を開けていられなかった。ようやく目が慣れて、見ると眼下に輝く海が広がり、はるか向こうにベスビオが灰色に盛り上がっていた。その形はもう以前のようなピラミッド型ではなかった。大きなこぶを持ったラクダの形に変わっていた。ベスビオは彼方にかすみ、火口からはもはや、煙も上がっていなかった。数時間前まであの二つの丘から焔《ほのお》と煙が噴き上げていたとは、とても信じられないことだった。静かで平和な景色であった。すべては悪夢のようであり、その記憶もさだかではないような気がした。
私はすぐ目の下の中庭に驢馬がいるのに気がついた。驢馬は首を伸ばして藤の房を食べていた。その房は私がカサミチオラに行った日にジーナと会った時と同じように東屋《あずまや》の上に垂れていた。たくさんのことが起こったが、それはほんの短い間のことだったのだ。
背後でドアの開く音がした。振り返ると、ヒルダが父親を連れて入ってくるところだった。
「ディック、ベッドから出たりして何をしているの?」
片足で立っているのをヒルダに見られたくなかった。私はベッドに戻ろうとした。私はヒルダが白い看護婦の服を着て、瓶を乗せたエナメルの盆を持っているのに気がついて足を止めた。
「君が看病してくれていたのか」
私はぶっきらぼうに言った。
「そうよ。あなたと、マックスとをね」
私は手で手術の痕《あと》をさぐった。包帯を巻いたのもヒルダに違いなかった。感謝の気持ちが私を捉えた。もう、脚のことなど私はまるで気にすることはなくなったのだ。ベッドにたどりついて腰を下ろすと、私は泣きたい気がした。ヤン・トゥチェックが進み出て私の手を握った。彼は何も言わなかった。それが私にはうれしかった。彼が何か言ったら私は耐えられなかっただろう。トゥチェックはすっかり痩《や》せ衰え、彼の頭蓋骨が肉のない顔の中から私を見つめているようであった。しかしその目はすっかり生気を取り戻していた。もうあのうつろな目ではなく、自信に満ちて輝いていた。ヒルダは薬の盆を置き、父親の腕を握っていた。そのヒルダも見違えるようになっていた。あの張りつめた表情はもう見えず、代わって父親のオフィスのデスクの上で写真の中から私に笑いかけていたあの笑顔になっていた。私はトゥチェックに言った。
「君の言った通りだな。ヒルダには≪そばかす≫があるよ」
ヒルダは、まあ、と言う顔をして私を睨《にら》んだ。そしてヒルダと父親は笑っていた。二人の笑うのを見て私は本当に幸福を感じた。
ヒルダはベッドを回って私の上衣を持ってきた。
「ねえ、ディック、父に渡すものがあるんじゃないの」
上衣は灰にまみれてぼろぼろのままだった。そしてポケットがふくらんでいた。私はポケットに手を入れた。最初に手に触れたのはジーナのピストルだった。私はそれをそっと傍《かたわ》らのテーブルに置いた。そして私は長いこと私の義足の中に入れられていた二つの包みを取り出した。革袋と油紙の包みを私はトゥチェックに渡した。
彼はそれを受け取って、長い間じっと見つめていた。彼はやがて油紙の包みをポケットにしまい、セム革の袋を私のベッドに放り投げた。
「ディック。それは五分五分の山分けとしよう」
私はトゥチェックの顔を見た。彼は真面目であった。
「駄目だよ。それはできない……」
私は言いかけてヒルダを見た。
「ようし、受け取ろう。もし君がその僕の取り分と娘さんを交換してくれるならね」
「それにはね」
ヒルダが両の頬を染めて言った。
「もう一本注射を打たなくてはいけないの」
ほんの数分の間にトゥチェック親子は二度も笑った。トゥチェックは言った。
「あまり得な取引きじゃあないんじゃないかな。だが、まあいいだろう」
ヒルダは私の腕を取り、ぶすりと注射針を刺した。ヒルダは身を屈《かが》めて私に接吻した。彼女はそっと耳打ちした。
「どうせ持参金代わりに分けてくれるつもりなのよ。私、やっぱり海辺の茅《かや》吹きの小屋がいいわ」(完)
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訳者あとがき
一九三〇年代後半に颯爽《さっそう》と登場して以来、ハモンド・イネスは一貫して旅と冒険のロマンを書き続け、一九七八年の最新作『キャプテン・クック最後の航海』にいたるまで、ノンフィクション三編を含めて発表した作品三十数点、ほぼ三年に二作の割りでベストセラーを世に送り出してきた勘定である。ハモンド・イネスの綿密な取材を考えると、この数は決して寡作《かさく》ではなく、それどころか、むしろ驚異に値する多作ぶりと言わなくてはなるまい。今や巨匠の名をほしいままにしながら、この数年、矢継早《やつぎばや》に大作を書き下ろしているのを見てもそれは言える。
ハモンド・イネスは一九一三年サセックスのホーシャム生まれ。グランブルック・スクールに学んだ後、教師、編集者、記者などを務め、大戦中は軍部が発行する新聞の編集に従事して少佐にまでなっている。そして戦後執筆に専念し、イギリスのみならず世界で最も人気の高い冒険作家として不動の地歩を築いた。
大戦前夜ハモンド・イネスは記者としてコーンウォルを訪れ、イギリス艦隊の出陣風景を目のあたりにしていち早くUボートの脅威を予言し、それが一九四〇年発表の『海底のUボート基地』のモチーフともなったが、このエピソードからも知られる通り、自らの体験と徹底した現地取材に基づく巧みな情報設定の上に個性豊かな人物を配して虚実の間に絢爛《けんらん》たる物語世界を展開するという、その後のハモンド・イネスの全作品に共通する小説作法はこの時すでにして確立されていたのである。
ハモンド・イネスにおいては、作家であることと、旅行者であり航海家であること、すなわち自ら冒険者たることが不可分に混淆《こんこう》しており、その冒険者の目が愛読者を捉えて離すことのないあの臨場感に溢れる情景描写や、人間と同じ比重をもって描かれる自然《エレメント》の迫真性を生み出す源泉となっている。『キャンベル渓谷の激闘』のあとがきで述べたことの繰返しになるが、ハモンド・イネスの作品は時に体験に材を得た物語であるよりは、痛快な冒険小説の形を取ったトラベローグであるとさえ言える。
本書は一九五〇年に発表されたThe Angry Mountainの全訳である。第二次大戦の余塵もようやくおさまってヨーロッパが荒廃から立ち直りかける一方、早くも鉄のカーテンを隔てて東西冷戦の兆《きざ》しが濃い当時の情況をよく捉えた好編である。南イタリアの風物は発表後三十年になんなんとする今日の目から見ても新鮮さをいささかも失わぬハモンド・イネスの確かな筆致で活写されており、また、眼目のベスビオの噴火の模様も行間に熱気を感じるほどの圧倒的な迫力で描かれている。ストーリー・テラーの第一人者でもあるハモンド・イネスの持ち味が遺憾なく発揮されている本書は、その作品系列の上でも戦後に一期を画するものと言って差支えないと思う。
一九八三年早春