孤独なスキーヤー
ハモンド・イネス/池央耿訳
目 次
一 ドロミテへの旅
二 競売
三 陰謀
四 吹雪の死装束《しにしょうぞく》
五 生還
六 衝突
七 黄金伝説
八 墓掘り
九 コル・ダ・ヴァルダ炎上
十 孤独なスキーヤー
訳者あとがき
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登場人物
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ニール・ブレア……出版社経営に失敗し、求職中のシナリオ・ライター
ジョー・ウェッスン……生真面目なカメラマン。ドロミテ・アルプスでニールと行動を共にする
デリック・イングレス……著名な映画監督。元砲兵中隊の指揮官でニールの上官。かつて陸軍情報局に属していた
ハインリヒ・シュテルベン……元ゲシュタポ将校。ドイツの戦犯として逮捕され、脱走、のち刑務所で自殺したと伝えられる
カルラ・ロメッタ……フォレッリ伯爵夫人。元キャバレー・ダンサーでシュテルベンの愛人
ステファン・ヴァルディニ……シチリアのギャング、売春屋
スチュアート・ロスことギルバート・メイン……海外派兵で捕虜になり脱走。ギリシャに渡ったギャングで殺人犯
ケラミコス……ギリシャ国籍を持つナチの残党
アルド……山荘「コル・ダ・ヴァルダ」の無能な管理人
アンナ……「コル・ダ・ヴァルダ」のウェイトレス[#ここで字下げ終わり]
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ピーター・ウィルスンに
この本は、私たちがともに訪れた数々の場所にまつわる楽しい思い出を呼び起こすことになるだろう。この本の舞台はドロミテ・アルプスだから、特に君は私たちが出会い、盃《さかずき》を交わしたポンテ・ディ・アルピにほど近いあの小さな旅籠《アルペニゴ》を思いだすことと思う。あの時、君はコルチナへ向かう途上だった。そして私は、ヴェニスを指してコルチナから降りてくるところだった。
一九四六年、アルドブルヌにて
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一 ドロミテへの旅
未編集《ラッシュ》フィルムは全部見ていた。けれども完成した映画を見るのはそれがはじめてだった。ラッシュ試写は断片的なフィルムが次々に映写され、撮り直しや編集のことを考えながらスタッフが批評眼を光らせつつそれを見る、単なる作業上の手続きでしかなかった。それは、私にとって台本のあちこちからちぎり取られたばらばらのページ以上の何物でもなかった。ラッシュとは冷酷に切りきざまれ、編集されるセルロイドの断片にすぎないのであった。
しかし、スタジオの試写室の暗がりに坐って、あのいまわしい物語がスクリーンの上に展開されていくのを眺めるのは、ラッシュ試写とはわけが違った。もちろん、物語は現実とまったく同じではなかった。現実のままを映画にするというのはできない相談だった。私たちは筋立てにいろいろと工夫をこらして映画向きの物語にしたのだ。けれども材料はすべて盛りこまれていた。だから二シリングの小遣いをはたけば誰でもベトベトのキャンディーをなめたり、暗がりで汗ばんだ手を握り合ったりしながら一時間二十三分、たっぷりとスリルとサスペンスを味わうことができる。そのスリルとサスペンスを私たちはあのドロミテ・アルプスの山奥の山荘《シャレー》で現実に体験したのである。
映画は、ちょうど私がはじめてその山荘《シャレー》を見た時と同じように、近づいていく「スリットヴィア(ケーブル式の橇)」から見た山小屋のシーンからはじまった。ケーブルに引かれて橇《そり》がシャレーに近づいていくと、私はもう、すっかり物語の世界に吸いこまれてしまい、映画を≪批評しながら見る≫などという気持ちはまるで失くなってしまった。カメラがそのまま前進移動して入っていく窓の中が、どんな様子かということを私は知っていた。そこに誰がいて、何を話しているかも私は知っていたのだ。私はそこに坐ったまま、もう一度あの出来事を体験したのである。
シナリオを書いた私が、その場面に誰がいて、何をしゃべっているか知っているのは当たり前の話ではないか、と読者は言われるかも知れない。確かにそのとおりだ。しかし、物語を作り上げることと、実際に起こったことを、いわば死者たちが肩越しに背後からのぞきこんでいるような状態で書き綴《つづ》るということは、これはまったく別のことなのである。実際に起こった恐ろしい出来事を映画にしようというのはイングレスの考えであった。そこに登場する人物たちに私を引き合わせ、物語の設定を作り出し、その上、出来事の大部分を演出したのも彼だった。彼はタイトルまで自分の手で書いたのだ。白い紙の上に、すでに冷たく、硬直しはじめている手で、彼はタイトルをタイプしたのである。実際には私がシナリオを書き、それを別の男が監督したのだが、やはり何といっても、この映画の全体を作り上げたのはイングレスであるように思えてならない。
そんなわけで、この完成試写は私にとって、悪夢のようなものだった。そして私があまりにもよく知っている物語が展開していくにつれ、スクリーン上の人物たちはいつか私の頭の中で変貌し、まるで別の姿となって私の目の前に現われた。それは私が実際に知っている人物たちの姿であった。演じているのは俳優たちではなく、現実の男女が、かつての自分たちを演じているかのようであった。私は亡霊たちのパレードを見る思いがした。彼らの多くが死んでいったのだ。そして私自身、モンテ・クリスタッロの麓《ふもと》の冷たい雪の斜面で、すんでのところで生命を落とすところだったのである。
物語は私の記憶に生々しかった。それを思い起こすために、私は十万ポンドの経費をかけた一万七千フィートのフィルムなど必要としてはいなかったのである。死者は静かに眠るべきなのだ。一巻のセルロイドの中から青白い亡霊のようにぞろぞろと現われて、生身でいた頃に口にした言葉をしゃべったりすべきではないのだ。快適な椅子に腰をおろして、あの出来事が手際《てぎわ》よく一本のフィルムにまとめられ、すでに公開の手筈《てはず》もととのっているさまをながめるのは、私にとって何となくあり得べからざること、恐るべきことであるように思われた。
実際には幽霊などどこにも登場しない物語の語り出しとしては、こうした話はいささか不似合いかもしれない。実はこの物語は、きわめて不思議な状況の下に、不幸にして集まることになった何人かの人間の欲望と暴力の話なのだ。私の話の発端が、話をはじめるのにふさわしくないものだったとしたら、それは、器用にまとめられた一本の映画を見て私があの出来事のありのままをそっくり話してしまいたいという衝動《しょうどう》を覚えたためなのだ。私はもう、二度とあの映画を見たくない。決してだ。映画がどんなに当たったとしてもである。実際、あの映画にはあらゆる成功の要素が含まれている。私が期待したすべてが、映画には盛りこまれていた。私は今、一度だけあの出来事のありのままを詳《くわ》しく話そうと思う。そうすれば、私の精神はもはやあの出来事について語ることにくたびれきってしまうだろう。そして私はすべてを忘れ去ることができるに違いない。
驚くべきことというのは往々にしてそうなのだが、私はまったくの偶然からこの出来事に巻きこまれる破目になったのである。十二月一日のことだった。じめじめと灰色に湿った、私の気分によくあった日であった。どこにでもあるような一軒の薬屋でその偶然は起こったのである。デリック・イングレスは調剤カウンターのそばに立って、ガラスのコップから何やら泡の立つ黒っぽい気付け薬のようなものを飲んでいた。彼はコップの縁《ふち》ごしに私の目を見て眉をしかめた。彼はいつも人に、酒は彼の体の調子に何の影響も与えないのだと思わせようとしていた。彼は、人が食物を食べるように酒を飲んだ。飲むと彼の頭は冴《さ》えた。彼の言うこと、することのすべては何かの刺激によって体から弾《はじ》き出されなくてはならなかったが、その刺激には酒が一番であった。彼は朝食をとらない。そして、いつも持ち歩いているアスピリンをこっそり飲んで宿酔《ふつかよい》を癒《いや》すのだ。
その朝、彼がいったいどうしてシャフツベリー街にいたのか、私は知らない。要するに時として起こる偶然の一つだったのだ。運命は時に善意の仮面を顔に当て、他《ほか》ならぬ瞬間に他ならぬ人と人とを引き合わせるのである。この時がまさにそれだった。
自然の成行きにまかせておけば物事は必ず最上の結果に終わる、とよく人は言う。しかしそういうせりふは心地よい安全の中にどっぷりと漬《つ》かっている人間の口から出てくるものなのだ。人生とは複雑に入り組んだものであり、一生のうちのさまざまな時期の生活の糸が互いに綯《な》いまぜになり、織り合わされて人生を作り上げているのだという考え方に私は賛成だ。けれども、本当に必要としている一本の糸を、いつも正しくつまみ上げることができるとはかぎらない。イングレスに遇った時、私は非常に気力を失っているところだったのである。
戦争前、私はウィルトシャーで小ぢんまりと自家営業のローカル新聞を出し、けっこう楽しくやっていた。ところが私はその仕事に失敗し、海外出征の三年が終わって除隊が決まっても、戻るべき仕事がないのであった。妻のペギーや息子のところへ帰りたかったが、結局ほかに方法がなく、私はもう一年軍隊に留まることにしたのである。そして私はエクセターで出版社をはじめるという友人に、一緒にやらないかと誘われた。一年延ばした軍隊生活が終わり、私は友人と持てるものすべてを投入して出版社をはじめた。会社は六カ月続いたが紙の不足と資金不足はいかんともしがたかった。
私は知合いのだれかれに片っ端から手紙を書いた。戦前からの知人や、軍隊で知り合った≪つて≫に私はすがろうとした。各新聞の求人欄にはくまなく目を通した。しかし一|隻《せき》の舟にあまりにも大勢の人間が乗り合わせていた。私はペギーとマイケルをウィルトシャーの家に帰し、一人ロンドンで求職に奔走しているところだったのである。
ロンドンは五年ぶりだった。その五年の間に私は世界の半分を経《へ》めぐってきたのだ。イタリアやオーストリアの大都市にも行った。ヨーロッパ一、二という高級ホテルにも泊まった。何でも私の言うことを聞く部下や、自由に乗り回せる車もあった。そしてその朝、私は雨のピカデリー・サーカスに、ロンドンの大群衆の中の何の意味もない一分子として濡《ぬ》れそぼって立っていたのである。私は孤独を感じ、やや途方に暮れていた。私は興奮を覚えると同時に、えらく滅入《めい》った気分に陥《おちい》っていた。興奮していた、というのは、ロンドンの街の活気のためである。ウェストミンスター寺院のある中心街から経済の中心地である商業区に至る古い建物のすすけた階段は、ほとんど世界中の人間社会と繋《つな》がりのある、さまざまな企業や組織の事務所に通じていた。ロンドンでは不可能ということはない。まるで世界中が自分の手の中にあるような気持ちになる街である。適当な手づるがあり、仕事をする能力を持っていれば、ロンドンは世界に通じる鍵《かぎ》を与えてくれる場所であった。しかし私は気が滅入っていた。なぜなら、ロンドンほど人を小さく孤独に感じさせ、そして途方に暮れる気持ちにする街はなかったからである。しかも私は失業者ときていた。
仕事も捜さなくてはならなかったが、私は歯磨きも買う必要があってシャフツベリー街をぶらつき、最初に目についた薬屋へ入っていったのだ。そこにイングレスがいたのである。
一九四二年当時、私は彼の率《ひき》いる砲兵中隊の大尉だった。私たちは一緒に海外へ出征した。アラメインの戦いの後、彼は陸軍情報局へ転属となり、私が中隊を連れてイタリアへ渡った。復員する時、私は少佐であった。彼は厳格な中隊指揮官だった。私の二人の前任者はとうとう彼の厳しさに耐えきれずに落伍《らくご》した。私も六週間と持つまいと言われていた。しかし私はくじけなかった。というより、私は彼の中隊にいることを楽しいとさえ思っていた。彼はべらぼうに頭がよく、おまけに感情的で移り気であった。けれども彼は実に個性にあふれ、その上、逆境に立った時の行動力はすさまじいものを持っていた。今では彼は以前の仕事である映画製作に戻っている。彼が監督した最新作、KMスタジオの「三つの墓標」は、彼を一躍大監督の座に押し上げたと新聞は伝えていた。
私の挨拶に彼は軽くうなずき返し、空のコップをカウンターに置いて、私が買物をすませるのをじっと見つめていた。
「今何をやってる、ニール?」やがて彼は聞いた。
彼は早口でぶっきらぼうな口のきき方をする。頭の回転の速さに舌の動きが追いつかないとでもいうふうな物の言い方である。
「まだ帰ってきたばかりでね」彼が失敗者に冷たい嘲《あざけ》りの言葉を投げかけるのを何度となく見ている私は、とても本当のことを言う気になれなかった。
「復員したのか?」
「ああ」
「かなり長いこと行っていたんだな?」
「ああ。一年余計に奉公してね」
「楽天的日和見《グッド・タイム・チャーリー》ってやつか、え?」彼は嘲笑《ちょうしょう》を顔に浮かべて言った。
「どういう意味だ?」私は言った。もちろん、彼の言う意味を私は知っていた。軍隊にいたほうが市民として生活するよりも、はるかに恵まれた生活のできる時代だった。
彼は耳|障《ざわ》りな声を上げて笑った。「何を言うんだ。よくわかっているくせに。一年半前に俺が辞めた時、頭のいいやつは皆軍人生活から足を洗ってるんだ。職業軍人は別として、残ったやつってのは、間抜けか、冒険家か、それともグッド・タイム・チャーリーか、そのうちのどれかに決まってるんだ。これが我がヨーロッパの政策の悪いところさ。あそこには将来ってものがないんだ。だから、本当に軍隊が必要としているような人間には、軍隊はまるで魅力のないところなんだな。ところで、君は自分でどのカテゴリーに入ると思う?」
「君の言った三つのうちならば」私は答えた。「冒険者の仲間に入れてもらいたいね」私はとげとげしい声になっていた。しかたがなかった。不愉快だったのだ。一年間余計に軍隊に留まることがどんなに辛いことだったか、私は彼に言おうとは思わなかった。ペギーと離れているのも苦しかったし、生まれた息子の顔もほとんど見られなかったのだ。それにしても、私は妙にばつの悪い思いがしていた。以前は、私はイングレスの前で対等な態度を取ることができたのだ。私が彼と同じような強さを持っていたからというわけではないのだが、しかし私は任務を果たすことを知っていた。それが今、物事が万事うまくいかずに、自信を失いがちな状態で、彼のような精神的に振幅の大きい、おまけに高圧的な人間に対するということは、私にとって非常に重荷なのであった。私の現状について彼があまり深く口出ししてこないうちに、その店を出てしまいたかった。
「とにかく帰ってきたわけか」彼は言った。「相変わらずウィルトシャーで、例のままごと新聞をやってるのか?」
「いや、あれはつぶれたよ」
彼は黒い目で鋭く私を見つめていた。「じゃあ、今何をやってるんだ?」
「友だちと小さな出版社をはじめてね」私は答えた。「君のほうはどうなんだ? もう次の映画にかかっているのかい?」
しかし彼はそんなことで簡単に話をそらすことのできる相手ではなかった。「今どき出版社をやるには、かなりの金がいるだろう」彼はなおも私を見つめながら言った。「戦争が終わってから出版社は雨後の筍《たけのこ》のようにずいぶんできているが、どこもかなり苦しいらしいじゃないか」彼はちょっと言いよどみ、それから急に、妙に人なつっこい表情を見せて笑った。彼にはなかなか魅力的なところもあるのだ。彼は水道の蛇口を開閉するように、自分の魅力を自在に披露《ひろう》したり、覆い隠したりすることができるのだ。そして彼は一方で、意地悪で残酷な悪魔のような面を持っている。気がついてみると、その時彼は実に人のいい笑顔を浮かべていたのである。私は救われた気がした。宿酔にもかかわらず、その朝彼は人好きのするほうの彼であった。
「一杯やったほうがよさそうだな」彼は言った。「どうせ俺はこのやくざな気付け薬の後、必ず飲まなきゃいられないんだ」彼は私の腕をとるようにして、先に立って店を出た。道を横切りながら彼は言った。
「その後何か書いたかね、ニール? 戦争にでかける前に俺がプロデュースした、君の一幕物二本なあ、あれは、なかなか悪くなかったよ」
「オーストリアにいる間に戯曲を一つ書いたがね」私は言った。「でも演劇界もああいった状態で……ミュージカルかリバイバルじゃなきゃあ、まるで相手にされなかったからね。かなり評価の定まった劇作家でさえ、芝居が売れなくってたいへんだったらしいよ。それに、僕の書いたものが、果たしてどの程度の出来だったか、怪しいものだしね」
「ずいぶん悲観的になったもんだな。世の中、楽しいぜ。そう深刻になりなさんな。最後の土壇場《どたんば》には必ず何かうまいことが起こるものさ。仕事が欲しいかい?」
私は足を止めた。殴ってやりたかった。人の弱味を嗅《か》ぎ出す彼の本能が、私が失業中であることをいち早く彼に伝え、彼は私がやりきれない気持ちにさいなまれるのを楽しもうというつもりなのだ。彼は意地悪で慎《つつし》みに欠けている。彼は落伍者に対してまるで容赦しないのだ。彼は人の弱点を突つきまわすのを無上の楽しみと思っているのだ。彼のウェールズ人の本能が人の弱味を嗅ぎ出すその鋭敏さといったら、まったく信じられないくらいであった。「世の中、楽しいかもしれないさ」私はむっとして言った。「でも、物笑いの種にはならないんじゃないのか」
「まあ、歩道へ上がれよ。そこは危ないぜ。じゃあ何か、君は俺が不真面目だっていうのか?」
「君は世の中を馬鹿にしているよ」私は言い返した。かつては対等に付き合っていたこの男が、今では私にパンくずを投げ、私がどんな顔をするかを見て面白がっていると思うと私は無性に腹が立った。
彼は私の腕を強く掴《つか》み、ぐいぐいと私を引っ張って、とある細長いバーのガラス戸の奥へ入って行った。彼はウィスキーを注文した。
「ここに楽しみがあるじゃないか」彼はグラスを上げ、からかうような目つきで私を見た。笑っているのだ。目を見ればわかる。「俺が真面目じゃないっていうのか、え?」彼は言った。「俺はなあ、本気で言っているんだぞ。仕事が欲しいのか、欲しくないのか?」
私はウィスキーを一息にほして、かわりを注文した。「君に情《なさけ》をかけてもらいたくないし、君に嘲笑《あざわら》われるのもごめんだね」私は言った。いやな気分になっていた。
「こいつはまいった。えらく気が立っているんだな。もっとも、君は昔からそんなふうだったなあ。しかし、俺が人に情をかけたなんてことが一度でもあったかい? 君は俺のことを、君の知っている誰よりも無慈悲な男だって言ってたじゃないか。それも一度や二度じゃなかったぜ。俺が駄目なやつには徹底的に冷たいからか。いや、それにしても不思議なこともあるもんだ。まさに今、この瞬間に誰に会いたいといって、君以上に俺が会いたいと思う人間はいないんだからね。人生とはそうしたものさ。やらなきゃあならない仕事がある。と、そこへいざという時になって、きっと一番の適任者が現われてくるんだなあ。今俺が考えてる仕事をやれる人間は、俺の軍隊の知合いを捜したって五、六人しかいないだろう。その五、六人が一どきに集まってきたとしたら、まず俺は文句なく君を選んでいるな」
見えすいたお世辞だった。にもかかわらず、私はイングレスの話に興味を覚えはじめていた。彼は本当に何とか利用してやろうと思っている相手に対してでなくては、間違ってもお世辞を言う男ではないのだ。いつの間にか、彼は人のよい笑顔になっていた。
「いいかい、俺は本当に真面目な話をしているんだ、ニール。仕事がほしければ、喜んでまた俺と一緒にやってもらうつもりだぜ」
「どんな仕事かね?」私は聞いた。
「KMスタジオのシナリオ・ライターとしてドロミテ・アルプスのコルチナへ三カ月の間行ってもらう」彼は早口に答えた。「報酬は月百ポンド、必要経費は全部スタジオが持つ」
私は仰天した。一生に一度の幸運であった。私はその幸運に薬屋の店でばったりと出遇ったのだ。それにしても、なぜ彼は私を選ぶのだろう。
「どうして僕に君の注文どおりのシナリオが書けると思うのかね?」私は尋ねた。
「シナリオを書いてもらおうとは思わんよ。シナリオならもうできているんだ」
「じゃあいったい、僕に何をしろっていうんだ?」
彼は私の失望を敏感に察し、私の肩を叩いて言った。「ヨーロッパ随一のスキー場で三カ月暮らすんだよ。悪い話じゃないだろう」
「それはわかっているさ」私は慌《あわ》てて言った。「でも、やっぱりちょっとがっかりするね。シナリオ・ライターとして仕事を頼まれたと思うそばから、シナリオはいらないっていわれるんだから。僕はね、以前から映画のシナリオを書いてみたいと思っていたんだ」
「君を失望させようって心算《しんざん》はなかったんだ。いいかい、ニール。君には正直に言っておこう。俺が撮りたいようなシナリオが君に書けるとは俺は思っていないんだ。でも、もし君が一本|物《もの》したら、俺はそいつを読もう。今俺が温めてるやつよりも面白いということになれば、そいつをいただこう。それだったら文句はあるまい。どうだ」
「言うことはないね」私は同意した。「で、君は僕に本当は何をやらせたいのかね?」
「君はイタリア語ができるな?」
「日常会話くらいなら不自由はしないよ」
「結構」彼はにやりと笑った。「君は自分を冒険者の範疇《はんちゅう》に考えているんだから、こいつはなかなか面白いはずだよ。ただ、言っておくがね、これはまったくの空《から》振りになるかも知れないんだ。まあ、そうなった時はドロミテ・アルプスで三カ月の休暇ということだな。俺はな、今、あることを予想しているんだ。ところが、仕上げに入った仕事を抱えてて、自分でそいつを確かめに行くわけにいかないんだよ。そこで誰か信用できる人間にその成行きを見届けて知らせてもらいたいわけなんだ。責任感があって、行動力も抜群という人物が欲しい。君はまさにぴったりなんだよ」
「たいそうおだてられるね」私は言った。先刻の失望にもかかわらず、私は内心興奮を覚えはじめていた。イングレスの情熱はいつも伝染病のように人を巻き添《ぞ》えにするのだ。
彼は笑った。「おだてなんかじゃあないよ。君にはたまたまそういう気質が備わっているんだ。それに君は文章が書ける。俺が君に行ってもらう口実になるんだ。さて、どうかね。仕事は欲しいかい?」
「だから、その仕事っていうのは?」
「はっきりしろよ、ニール」彼は声を上げた。「やりたいのか、やりたくないのか?」
「もちろん、やりたいよ」私は答えた。「僕は仕事がなくて困っているところなんだ。でも、君はその仕事の内容を話してくれてもいいじゃないか。そうしなけりゃあ、僕にその仕事が勤まるかどうかだってわからないだろう」
「君は俺という人間をもう少しわかっていてもいいはずだぜ」彼はやや低い声で言った。「君にできないと思ったら、そもそも俺がこんな話を君に持ちかけるかい。返事してくれ。やってくれるか、くれないか」
「やりたいよ」私は言った。
「ようし決まった」彼は私がまだ半分も飲んでいないのに、またウィスキーのかわりを注文した。
「あと一杯だけな。俺が君に頼みたいことっていうのを話すよ。急いでね。汽車に遅れるとまずいから。コルチナは知っているな?」
私は首を横にふった。もちろん、私は知っていた。終戦のころ、私たちの部隊はコルチナを休息基地にしていたのだ。
「それはまあ、どうでもいいさ」彼は続けた。「俺はコルチナで映画を一本撮りたいと思っているんだ。最近の映画にはアクションが不足しているからね。妙にせりふによりかかってる映画が多いんだよ。だからウェスタンが喜ばれるんだ。スタジオの経営者は観客が映画館にせりふを聴きにくると思ってるんだが、そいつは大間違いだよ。観客は≪見に≫くるんだ。今、テンポの速いスキー映画を作れば、当たること請合いだね。アクションとスリルをいっぱい盛りこんだやつさ。今や世界中がスポーツ狂時代なんだ。戦争に代わる人工的な興奮が求められているんだな。それはそれとして、俺はまず、経営者たちを納得させなくちゃならんのだ。そこで俺はジョー・ウェッスンっていう、でぶでのろまのカメラマンをコルチナへ行かせようと思う。こいつはどうして、カメラマンとしては一流でね。その男に、俺の言うことが正しいことを経営者どもにわからせるために、いくらかフィルムを回してこさせようというわけさ。君はそいつと一緒にコルチナへ行ってシナリオを書くんだ。いやなに、そういう名目で君に行ってもらうということさ。君がシナリオを書こうと書くまいと、そんなことは俺はどうだってかまわん。ただ書くふりはしたほうがいいな。ジョー・ウェッスンは君がシナリオを書くものと思っているから。まあ、俺以外のすべての人間にとっては、君はシナリオを書きにコルチナへ行くんだ。君はスタジオの支払台帳《ペイロール》にシナリオ・ライターとして登録される。それは俺が手配するよ」
彼は煙草に火をつけた。「泊まる場所はコル・ダ・ヴァルダ」彼は続けた。「避難小屋に毛のはえたようなところだがね、まあ寝る場所くらいはある山小屋だよ。二人分、もう部屋は予約してある。パッソ・トレ・クロチまで行って、あそこからケーブル式の橇《そり》、イタリア人がスリットヴィアっていってるやつに乗って、小屋まで上がるんだ。向こうに着いたら、シナリオを書いてるようなふりをして、山小屋に出入りする人物を見張ってくれ。特にこの女に注意してよく見張ってもらいたいんだ」彼は紙入れから一枚の写真を取り出して、私に渡した。
色あせて、おまけによれよれになった写真で、肩をむき出しにした女の上半身だった。ベルリンで撮られたもので、写真の下のほうに「愛するハインリヒに――カルラ」と書きこまれていた。
「その女はイタリア人だ」彼は言った。写真を見れば、それはわかる。髪や目の色が濃く、唇は厚かった。そしてその顔はやけに肉感的で、目はぎらぎらと光っていた。私はローマ陥落の直後に売春や賭博などを取り締まる警察の取締班で見た娼婦のリストの写真を思い出した。
「くれぐれも言っておくが、君は何もしてくれなくていいんだ」彼は続けた。「ただ、目を大きく開いていてほしいのさ。俺はスリットヴィアと山小屋に関心があるんだ。それに小屋の泊まり客。毎年決まってやってくる客とか、とにかく、あの小屋について変わったことがあったら、それを全部知りたい。君にはどういうことか今は話さずにおくがね、君が目を大きく開けて、耳をよく澄ましていたら、俺と同じくらいのことはすぐにわかってくるはずだ。ただし、もう一度言うが、君は何もするなよ。俺に日報を送ってくれ。特別に変わったことがあったら、スタジオ宛に電報を打ってくれ。日報は航空便で出すこと。わかったかな?」
「これ以上はわかりようがないね」
彼はにやりと笑った。「ああ、そのくらいわかってもらえれば結構だ。明日、俺の秘書に会ってくれ。全部段取りさせるから」彼は時計に目をやってグラスをほした。「ちょうどいい時間だな。こいつは三カ月の契約だよ。俺の予想が適中すると、君は実に面白いものを見られるはずだ。コルチナへは明後日、出発してくれ」
彼はそういうと私の背中をぽんと叩き、まだ茫然とした気持ちでいる私を残したまま、せわしなく店を出ていった。私は急に何やら愉快な気持ちになり、世の中は結構面白く、私の人生も捨てたものではないと思いはじめた。シナリオを書くというチャンスが、まさに皿の上に乗せられて私の目の前に差し出されたのである。私はその店でさらに何杯かウィスキーを飲み、温かく体中に酔いがまわっていく中でじっと興奮の味を噛みしめた。私がシナリオを書いて、それが面白ければ……私はイングレスが約束を守る男であることを知っていた。私はその時彼が個人的に注文した用向きについては、ほとんど注意を払っていなかった。その時私は、彼に言いつけられた仕事のために、コル・ダ・ヴァルダで実際に起こったあの出来事をシナリオに書くまで、私の頭はシナリオどころの騒ぎではなくなってしまうであろうことを、まったく知る由《よし》もなかったのである。
その晩、家に帰った私を戸口で迎えたペギーは、私の顔を一目見るなり、私たちに運が向きはじめたことを見抜いた。彼女は顔を輝かせた。この不思議な事の成行きを話して私たちは笑いころげ、それから幸運を祝うために何か月ぶりかで街に出て、本当に久し振りに何のためらいもなく金を使った。そして私は、頭の中でシナリオの構想にあれこれと思いをめぐらせた。またペギーと離れて暮らさなくてはならないことも、まるで問題ではなかった。短い間のことだったし、ここでしっかりとこの幸運を掴めば、私たちには未来があったのだ。
そんなわけで、それから二日後、私はジョー・ウェッスンと一緒に汽車に揺られていた。イングレスの言った「でぶでのろま」はいささか酷《こく》だが、しかしなるほどよく当たっていた。柄が大きく、目の下の皮膚はまるで袋のように大きく垂れ下がっていた。頬はたるんでその巨大な顎《あご》の上に幾重にもぶらさがり、口をきくと、七面鳥の肉垂れのようにぶるぶるとふるえた。体重はおそらく二百数十ポンドはあったろう。実際、彼は私がそれまでに見たどんな人間よりも印象的だった。彼が夜汽車の寝台によじ登って寝る仕度をしている様子は、まるでロンドン動物園のパンダを見るように愉快だった。
ウォータールーの停車場ではじめて会った時、彼はえらく不機嫌だった。宿酔《ふつかよい》で、明らかに旅行をいやがっていた。
「あんたが、ニール・ブレアかい?」彼は言った。息切れがしていた。そのくせ、歩き出すと意外に敏捷だった。「俺はジョー・ウェッスンだよ。何人かのわからず屋のお陰で俺もあんたも、ご苦労なこった。イングレスのやつなんざ、クソくらえだ。あいつが自分でお偉方に話をつけりゃあ、何も俺だのあんたがドロミテまで出かけて行って、ふるえながらカメラを回したり本を書いたりするこたあないんだ」彼は機材を網棚《あみだな》にかつぎ上げた。「どうせ、あの男の言うとおりスタジオはやることになるんだ。だったら、あいつが口だけで話をつけりゃあいいじゃないか。あいつだって舌ぐらい持ってるんだろう。それどころか、あいつは結構うまいこと、人をなるほどと思わせることを言うぜ。ところが、あいつはどうせ同じ結果になるんなら、何でもできるだけ派手にやろうってやつなんだ」
彼は汽車の進行方向にむかって隅のシートに腰を落ち着け、イングレスの理論を裏付けるかのように、何冊ものウェスタン小説をそばに積み上げ、一番上の一冊を取って読みはじめた。
ドーバー海峡を渡り、汽車がフランスを横切ってスイスの山中を走る間、彼は積み上げた小説を次々に片っ端から読破していった。もっとも飲み食いする間は彼は本を手から放した。その飲み食いの量たるや物凄《ものすご》く、おまけに食べる時の音といったらすさまじかった。そして睡る時、彼はもっとけたたましい音を立てた。彼の≪いびき≫は何とも形容しがたいガアガアという音がいくつも続き、その後で細いホイッスルのような音が一すじ、長々と尾を引くのだ。
彼は無口なほうだった。けれども一度だけ、私のほうに親しげに顔を寄せて言った。「KMの仕事ははじめてだな、おじさん」彼のしゃべり方には、いつも息切れがしているような、一風変わった調子があった。私がそうだと答えると彼は頬の垂れ肉を揺らして頭をふった。「脂《あぶら》ののりきってる者にとっちゃあ、いいスタジオだよ。だがなあ、そうじゃないやつは惨めなものさ。厳しいからね。あそこで失敗したらもうおしまいだよ。一度でもとちったら……」彼は思い入れよろしく指を鳴らした。「もうそれまでさ。イングレスだって、今はでかい面《つら》をしているがね、あと一年もああやっていられるのかな。あるいはしかし、あれがこの先五年続くかもしれないしなあ。あいつとは仕事をしたことがあるのかい?」
私はイングレスとはどんな知合いであるかを話した。「ほう。それじゃあ、あんた俺よりもあいつのことはよく知ってるかもしれないな。そんなにして一緒に暮らすと人間てやつは、実によくわかるもんだ。あいつはめっぽう面白い時があるかと思うと、まるで悪魔みたいな時もある男だな。俺が一緒にやった中では一番厳しい監督だよ。役者が言うとおりに動かないと、あいつはすぐ追い出しちまって、別の新しいのを連れてくるよ。いいのがいなけりゃあ、自分で仕こんで思いどおりの演技をさせるんだ。『三つの墓標』で一躍人気スターになったリン・バリンだって、そうやってあの男が作り出したんだ。ありゃあ、もともとベティ・ケアリュウの役だったんだよ。あれも鼻っ柱の強い女優でな。自分の思うとおりにやりたがるのさ。イングレスはあの女をセットから締め出したよ。あの男は、いってみりゃあテクニカラーの詩人だな。次の日あいつはバリンを連れてきたんだ。あんな女優、それまでは誰も知っちゃあいなかった。それを、あいつはその場でスターに仕立て上げたのさ。あいつは思いどおりの演技を引き出して、結局そのほうが映画の出来もよかった。ベティ・ケアリュウだってKMのためにはずいぶん稼《かせ》いだ女優だぜ。それでもベティはお払い箱さ」彼は深く溜息をついた。「それにしても、何だって皆、軍隊をやめて出てきちまうのかね。わからないもんだね。軍隊にいたほうがよっぽど安心してられるだろうに。あそこなら、ちょっとどじを踏んだからっていって誰も追い出したりはしないしな」彼は突然にっこりと笑った。彼の笑いは実に愛敬があった。あんなに肉がたるんでいるのに、彼の顔は不思議に表情が豊かなのだ。「しかしまあ、俺も軍隊にいる連中と交代したいとは思わんね。どのみち生きていくってのは、これは戦いだよ。仕事の出来がよかろうと悪かろうと何の苦労もないなんてのは、どうも面白くない話だよなあ」彼はしごく満足げに深く吐息をついて、またウェスタン小説を読みはじめた。
コルチナに着くともう日が暮れて、雪が降っていた。停車場の明りの外に出ると、旅の終わりの解放感は降りしきる雪の重みにたちまち押しつぶされてしまった。夜の静寂の中で降る雪の音が、柔らかく聞こえた。雪は小さな街の明りを遮《さえぎ》り、ホテルの送迎バスのタイヤに巻いたチェーンの音を吸い取るように消していた。
コルチナはおよそどことも変わりのないウィンター・スポーツの名所の一つにすぎない。ホテルの経営者たちが、人里離れた田舎の森や雪や険しい山の中に移植した市民生活の贅沢な≪まがいもの≫である。着いたのが遅かったので、その夜はスプレンディドというホテルに泊まり、翌日コル・ダ・ヴァルダに登ることにした。
スプレンディドのスイングドアを押して中に入ると、この豪華な城のようなホテルのきらびやかな空気が、熱い風呂の湯のように私たちの体を包んだ。部屋という部屋はすべてセントラルヒーティングで暖房され、外の寒さを締め出していた。柔らかな照明の中でダンスバンドが演奏し、銀食器が輝きを放っていた。イタリア人のウェイターたちが何十種類というさまざまな飲物を盆にのせて、十数カ国から集まってきた男女の混雑した中を縫うように行き来していた。すべては至れり尽くせりだった。スキー講師にスケート講師。スキー場へ客を運ぶ乗物。ホッケーの試合にスキーのジャンプ大会。まるでウィンター・スポーツの面白さを一ヤードいくらといって計り売りするデパートのようであった。
外は深く雪が積もっていた。夕食を待つ間、私はコルチナの宣伝パンフレットに目を通した。その中のあるものはコルチナを「ドロミテ・アルプスの、陽の当たる雪のパラダイス」と謳《うた》っていた。またあるものは、岩場の多い山々を詩的に売りこんでいた。
「雪の中にそそり立つ山々の頂きは、青い空を背景に燃え上がる炎のような姿を見せる」
宣伝用のパンフレットはそれぞれに五十八を数えるスキー場について畏《かしこ》まって述べたて、コルチナの夏についても盛んに売りこんでいた。
「コルチナはあなたを決して退屈させません。朝食前の乗馬、午前中はゴルフ、そして午後はテニス。さっと一風呂浴びて豪華な夕食。その後は夜更けまで楽しくダンスでお過ごしください」
こんな場所で何か変わったことなど起きようはずもない。私はそんなふうに思っていた。冷たい雪で公園が作られているのだ。そして険《けわ》しいドロミテの峰々は、ドライ・マルチニを片手にその夕映えを眺めるためのものなのだ。
ジョー・ウェッスンも私と似たような感想を抱いていたらしい。彼はふいに私のそばに姿を現わした。彼はラバーソールの靴をはいていて、大柄の男にしては実に静かに動きまわるのだ。「変わったことなんぞは、何もありゃあしないだろう、え?」私の肩越しにパンフレットをのぞきこみながら彼は言った。「イタリア人たちはどうやら抜目のない商才で自然を手なずけようってつもりらしいな。それにしても、ハンニバルの象どもを山越えさせようとして二万人の兵隊が死んだってのは、ここからそう遠くないところじゃないのかい。それから、つい一、二年前だったなあ。ドイツから国境を越えてこっちへ入りこもうとしたイギリス人が何人も凍え死んだっけ」
私は刷り物を元の棚へ戻した。「パーム・ビーチもリドも、ヴェニスもメイフェアも同じさ」私も彼に言った。「どこへ行っても同じ人間、同じ雰囲気。ここがほかと違うのは、ただ外がまっ白だっていうだけだよ」
彼はふんとつまらなそうに鼻を鳴らして食堂へ向かっていった。「しかし、またここが懐かしくなるだろうよ」彼はつぶやいた。「あの山の上のちっぽけな小屋で二日も暮らしゃあな」
席につきながら私は夕食に集まった客たちの顔をひとわたり見まわした。もしやあの写真に「カルラ」とサインした女がいはしないかと思ったのだ。もちろん彼女がそんなところにいるはずはなかった。部屋にいる女性の大半はイタリア人だったけれども。それにしてもイングレスはどうしてあの女がコルチナにいると考えているのだろうか。
「目と目が合わなくたっていいんだぜ」ジョー・ウェッスンがラビオリをほおばりながら言った。「どうやらこう見渡したところから察して、寝るとき部屋のドアを少し開けておきゃあいいんだ」
「何もわざとそんな話をすることはないよ」
彼は血走った小さな目をきょとんとさせて私を見た。「こいつは失礼。あんたイタリアには長くいたんだっけな。俺が教えなくったってこんなことは先刻ご承知だったな。あんた、どんなのがいいんだ? 伯爵夫人か。侯爵夫人か?」
「さあ、どうかな」私は答えた。「ごく普通の人妻かも知れないし、生娘かも知れない。それとも、そのへんの淫売《いんばい》かな」
「ああ、その最後のやつがお望みなら、ここに集まってる中にだって、いくらもいるぜ」
夕食の後、私はホテルの主人に会いに行った。コル・ダ・ヴァルダやスリットヴィア(ケーブル式の橇)について地元の人間の話を聞きたいと思ったのだ。山荘の予約はこのホテルの主人を通じて行なわれていた。だから、私はその男に会えば何か話が聞けるのではないかと思ったのである。
エドアルド・マンチーニはイタリア人にしては色白の、背の低いがっしりした男だった。彼はヴェニスとフィレンツェの血を承《う》け継いでおり、イギリス生活を長く経験していた。実は、彼はイギリスのボブスレー・チームのメンバーであったことがある。ボブスレーの世界ではかつて相当鳴らした男だった。ところが十年ほど前に転倒して怪我をし、競技界からは退かなくてはならない破目になったのである。右腕の複雑骨折で、以後彼の腕はほとんど使いものにならなくなっていた。
以前は疑いもなく、きりっと締まった、いかにもスポーツ選手らしい体つきをしていたに違いないのだが、私が会った時はすっかり肥ってしまっていて、動作も緩慢《かんまん》になっていた。それに彼は大酒飲みだった。最後の事故で負傷してから飲むようになったのであろう。客たちの中から彼を見つけ出すのはわけなかった。彼はびっこをひくように、大きな体をのろのろと動かした。彼は何度も負傷して、事実上、体中の骨を全部一度は折っていた。おそらく彼の体重のある部分は失われた骨に代わって体を支えているプラチナであろう。しかし道楽者らしい彼は、赤茶色の髪の下に気のいい顔を見せていた。その赤い毛は頭からつんとまっすぐに立ち上がり、それだけ彼の背を高くし、妙に若々しい感じを彼に与えていた。彼はきわめて裕福で、コルチナのホテル業界では一番の顔だった。
こういった話のほとんどを、私は夕食前にバーで知り合ったアメリカ人から聞いたのである。その男はアメリカ陸軍の大佐だったといい、連合軍がコルチナを休息基地として握っていた頃、このあたりについていろいろと知るようになったのだと語った。
エドアルド・マンチーニはバーにいた。彼は妻と一緒にそのアメリカ人とパドゥアから来たイギリス人将校二人を相手に飲んでいるところだった。アメリカ人が私を紹介した。私は翌日コル・ダ・ヴァルダへ行くのだと言った。
「ええ、ええ、知ってますよ」マンチーニは言った。「お二人でしたね、そうでしょう。映画を撮られるとかで? どうです、私はお客さまについては、よく心得ているんですよ」彼は得意そうに笑った。彼はロンドン訛《なま》りとイタリア語ふうの抑揚の混じった英語を早口で話した。けれども、彼がしゃべると彼の口の端に唾《つば》がたまって、そのために、彼の話は聴きとりにくかった。おそらく彼は顎も負傷して、きちんとした治療を受けなかったのだと思う。
「コル・ダ・ヴァルダはこのホテルの一部なんでしょう?」私は聞いた。
「いえいえ、とんでもない」彼は大きな頭を激しくふった。「そんなふうに思っていただいちゃあ困りますね。あの小屋のいき届かない点が全部私のせいだってことになっちゃかないませんよ。あの小屋へ行かれて、きっとがっかりなさると思いますよ。いいですか、このホテルは私にとっては自分の家ですよ。私はね、だれかれ構わず泊めるなんてことはしないんです。今泊まっておいでの方々は皆さまこの私のお客さまですよ。私はお客さまのことをそういうふうに思っているんです」彼は手を広げてバーやラウンジに群《むら》がっている色とりどりの客たちを示した。「もし何か不都合があれば、私たち、家内と私ですが、悪い主人だと思われてしまう、私はそういうふうに思うわけです。ですから、コル・ダ・ヴァルダのことで、お客さまに私が悪いと思われてしまっては困るのです。あの小屋は、あまり快適とはいえないんですよ。あのアルドって男は頭が少し足りなくて、人を使ったり、客の相手をしたりということがうまくできないんです。怠《なま》け者だし、それに何よりも悪いことは、あの男にバーはやれないってことですよ。違うかい、ミモザ?」
彼の妻はマルチニの向こうでうなずき、微笑《ほほえ》んだ。小柄な可愛らしい女で、笑顔が美しかった。
「あの男を……ええと解雇《サック》ですか、……追い出してやりますよ。どうも、まずい英語で申し訳ありません。何しろイギリスから帰ってずいぶん長いことになるもんですから。私は、ブライトンとロンドンでホテルをやっていたんですよ。でも、それは戦前の、古い昔の話でね」
私は言葉を尽くして彼の英語をほめた。実際私はイギリスにいて彼の英語と同じくらいイタリア語を話せたら、決して謙遜《けんそん》の必要を感じなかったろう。
彼はうなずいた。私の言葉が期待どおりだとでもいうふうであった。「そうですとも。私はあの男を追い出してやりますよ」彼は妻のほうをふりかえった。「あれは辞めさせようよ、おまえ。あさってかぎりで。後はアルフレドにやらせよう。あれは女房もしっかりしているし、うまくやるだろう」彼は私の腕に手を置いた。「まあ、しばらくは私に文句を言わんでおいてください。いいでしょう? 今のところ私はいわゆる、|親代わり《イン・ロクム・パレンティス》にすぎないんですよ。帳面を預かってるだけです。でも金曜日には、あの小屋はスプレンディドの一部になります。しばらくいていただけば、変わっていくことにお気づきになるはずです。ただし、しばらく、時間はかかりますがね。おわかりでしょう?」
「つまり、あそこもあなたの物になるということですか?」私は尋ねた。
彼はうなずいた。「金曜日にね。競売にかけられるんですよ。私が買うんです。もう、そういうことになっているんですわ。まあ、見ていてください」
「どういうことなんだ、マンチーニ?」アメリカ人が口を挾《はさ》んだ。「イタリアの競売っていうのは、入札するんじゃないのかい? あんなものがアメリカで競売に出たら、まあ不動産屋だの商社だの、|ケーブル式橇《スリットヴィア》みたいな玩具を動かしたがる連中がわんさと集まってくるがね。そりゃあ、お宅がこのあたりのホテル業界じゃ一番の権力家だってことは知ってるけれど、それにしても、ほかにもあのちょっとした山小屋を欲しいと思ってる人間はいるんじゃないのかい?」
「わかってないんですね」マンチーニはきらりと目を光らせて言った。「山の中の宿屋の亭主連中だって、馬鹿じゃあありません。こう見えても、私らは商売人ですよ。犬や猫とは違います。理屈に沿って物事を運びますよ。ほかの連中はあの小屋を欲しがってやしないんです。遠すぎるんですよ。ところが、私はここで大きなホテルをやってます。それに私はいつだって進んだ考えで物を見ています。これは損はない買物なんですよ。コル・ダ・ヴァルダを、スプレンディド専用のスキー場にするんです、送迎バスを走らせて。そうすりゃあ、ポコルだの、トファナ、ファロリアなんていうスキー場みたいに混雑しなくて、こりゃあもう最高です。まあ、そういったわけで、入札するのは私だけです。部外者が買いにくるはずもないですし、ボイコットされるのはわかりきっていますからね」
「イタリアの競売風景ってのを見てみたいもんだね」私は言った。「競売はどこで開かれるの?」
「ルナのラウンジです。本当にごらんになりたいですか?」
「ああ、面白そうじゃないか」
「だったら一緒にいらっしゃいませんか、どうです?」マンチーニは頭をふって笑った。「でも、たいしたことはありませんよ。そうでしょう。せり合いなんてのはないんですから。入札は一人だけ。それも、かなり安い値段ですよ。それでおしまいです。それでもごらんになりたいとおっしゃるなら、金曜日の十一時十五分前にここへいらっしゃってください。ご案内しますよ。競売が終わったら、どこかでご一緒に祝杯を上げましょう。……というのも、そのくらいのことをしなくては、時間の無駄だとお思いになるに違いありませんからね」彼は咽喉《のど》の奥を鳴らして笑った。「国はあんまり儲からないんです。私らにとってはそれがさいわいですがね。私らはあまりお上《かみ》のことが気に入っていませんから。お上はずっと南のことで、私らはここにいたら、オーストリアのほうがよっぽど近くてね。私らはイタリア人ですよ。でも、どうもオーストリア政府のほうがよく見えるんですよ。もし国民投票ってことになったら、私らこのあたりの者は皆オーストリア政府に寝返っちまうんじゃないですかね」
「でも、何だってそこへ政府が出てくるんだ?」アメリカ人が聞いた。「私の知ってるかぎりでは、あのスリットヴィアはアルプス要塞のためにドイツ人が作ったもので、それをイギリス軍が分捕《ぶんど》ったんだってことになっているけれど。イギリス軍はあれをイタリア政府に譲りでもしたのかい?」
「いやいや、そうじゃないんです。戦争がもう終わろうっていう時に、ドイツはあれを、エクスチェルシオーレの持主だった男に売ったんです。イギリス軍はその男からスリットヴィアを接収したんです。ホテルも一緒でした。イギリス軍が引き上げた時、その男はホテルを持てあましましてね。まあ、あの男はそりゃあ熱心な連合軍への協力者だったわけですよ。私どもは寄り合ってあの男を説き伏せて、全部買い取ったんです。私らは、コルチナ一帯に血の繋《つな》がりを持った家族のシンジケートを作っていますから。何かまずいことがあれば話し合って手直しをするんです。それが、ちょうど一年前でした。どうもうまくいかないんですよ。で、スリットヴィアはいらないということになりました。それで、二束三文でソルディーニという男に譲ったんです」彼は思い入れたっぷりに言葉を切った。「ところが、これが何と不思議な取引でしてね。いや、私らは何も知りませんでした。そりゃあそうです。知ってるわけがありませんよ。その男はまるで他所者《よそもの》でしたからね。しかし、その男が逮捕された時には、まあ、そりゃあびっくりしました。その男が連れてきたドイツ人の下男二人も一緒に捕《つか》まったんですよ」
「ちょっと聞くけれど」私は努めて興奮を抑えて言った。「そのソルディーニっていう男はドイツ人だったの?」
「そうなんですよ」彼はちょっと意外だという表情で言った。「ソルディーニっていうのは偽名《ぎめい》でしてね。いろいろ悪いことをしてきた罰を逃れるための仮の名だったんですよ。新聞にも大きく出ましたよ。イギリスの放送でもニュースで言ったじゃありませんか。私、聞きましたよ。逮捕したのはイタリア警察の警部さんです。何とその警部さんは、逮捕に向かう前の晩に、私と、まさにこのバーで飲んでいたんですからね。ソルディーニはあの小屋を隠れ家《が》のつもりで買ったんでしょう。ソルディーニはローマへ連れていかれて、レジナ・コエリ刑務所に入りました。でもそこでは自殺しませんでしたね。ああ、そうだ。きっと、あのムッソリーニのアルバニアに行った司令官のロアッタみたいに、友人の手引きで逃げ出すつもりだったんじゃあないですか。何でもロアッタは刑務所の病院からパジャマのまま脱け出して、小さな潜水艦でティベール河を下って逃げたって話ですからね。ところがソルディーニはイギリス軍に引き渡されて、ほかの戦犯と一緒にされたんですよ。そこで毒を飲んで死んだんです」
「本名は何っていうんだ?」私はできるだけ何気ないふうを装ったが、声がうわずっていた。
「ええ……ハインリヒ・シュテルベンです」彼は答えた。「興味がおありなら、新聞の切抜きをごらんに入れましょう。取ってあるんですよ。我が地元の名士に興味をお持ちのお客さまは多いもんですからね」ホテルの主人はすぐにそれを取り出してきた。
「借りてもいいかな?」私は言った。
「どうぞどうぞ。ただし、お返しくださいよ。額縁に入れようと思ってるんですから」
私は礼を言い、競売に連れて行ってもらう約束をもう一度確かめて、早々に部屋に引き上げた。私はすっかり興奮していた。ハインリヒ・シュテルベン! ハインリヒ! 私はテーブルの上のスタンドをつけイングレスから渡された写真を取り出した。「愛するハインリヒに――カルラ」珍しい名前ではない。それにしても不思議だった。私は新聞の切抜きを手に取った。切抜きは二枚あり、ともに『コッリエーレ・デッラ・ヴェネツィア』紙の記事だった。両方ともごく短い記事である。コルチナでの第一夜に、私がそのイタリアの新聞から訳した記事の全文がここにある。
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(コッリエーレ・デッラ・ヴェネツィア
一九四六年十一月二十日)
≪イタリア警察警部、コルチナに潜伏中のドイツ戦犯を逮捕≫
ドイツ戦犯、ハインリヒ・シュテルベンは昨日、コルチナの近くにある山荘コル・ダ・ヴァルダに潜伏しているところをイタリア警察のフェルディナンド・サルヴェッツァ警部により発見逮捕された。シュテルベンは付近ではパウロ・ソルディーニの名で知られていた。コル・ダ・ヴァルダ山荘と|ケーブル式橇《スリットヴィア》はハインリヒ・シュテルベンが、かつてコルチナのホテル・エクスチェルシオーレの持主であった連合軍への協力者アルベルト・オッポから譲り受けたものである。
ハインリヒ・シュテルベンは一九四四年、ラ・スペツィア方面でイギリス軍突撃隊の戦士十名を殺害した疑いで追及されていた。シュテルベンは憎むべきゲシュタポの将校であり、イタリア人の多くをドイツに強制的に連れていって苛酷な労働に従事させ、またイタリアの左翼系政治犯を何人も殺害した疑いによっても追及されていた。ハインリヒはさらに、イタリアからドイツに運びこまれた金塊の輸送にも関係していると見られている。イタリア警察の手でシュテルベンが逮捕されたのは今回が二度目で、前回はドイツ軍がイタリアで降伏した直後、コモ湖付近で逮捕されている。その時シュテルベンはミラノに送検され、審問のためイギリス政府に引き渡されたが、数日後に脱走し、姿をくらました。シュテルベンと関係していたキャバレー・ダンサー、カルラ・ロメッタも同時に姿を消している。
今回のシュテルベン逮捕はイタリア警察に集積された情報の結果であると考えられる。逮捕当時、イタリア人労働者を装った二人のドイツ人がシュテルベンと一緒だったが、その二人が戦犯であるか否かは今のところ明らかにされていない。
ハインリヒ・シュテルベンとその二人のドイツ人はローマに送られ、レジナ・コエリに身柄を拘留された。
(コッリエーレ・デッラ・ヴェネツィア
一九四六年十一月二十四日)
≪ドイツ人戦犯自殺≫
イギリス軍部スポークスマンの発表によれば、ドイツ人戦犯ハインリヒ・シュテルベンはレジナ・コエリ刑務所からイギリス陸軍当局に身柄を引き渡されて間もなく自殺した。シュテルベンは審問中に青酸のカプセルを噛み砕《くだ》いて死亡したと伝えられている。
シュテルベンとともにコルチナで逮捕されたドイツ人二名は、先のレジナ・コエリ刑務所内の暴動に加わり、囚人たちが中央監理棟を襲った騒ぎの最中に警官に撃たれて死亡した。二人のドイツ人が戦犯として追及されていたか否かは明らかにされていない。[#ここで字下げ終わり]
私はこの二つの切抜きを読み、写真を見直した。カルラ! カルラ・ロメッタ! ハインリヒ・シュテルベン! 何と不思議な暗合だろう。
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二 競売
次の日、朝食の席で会ったジョー・ウェッスンは疲れきった不機嫌な顔をしていた。明け方までアメリカ人二人とチェコ人一人を相手にスタッド・ポーカーをやっていたのだ。「イングレスのやつをここへ連れてきてやりたいよ」彼はぶすぶす言った。「あいつをあのてっぺんに連れてって、スリットヴィアのケーブルをぶった切って置いてきぼりにしてやるのさ。雪責めにして、オン・ザ・ロックの氷でさえ見るのもいやだっていう目に遇わせてやりたいよ」
「しかし、彼は一流のスキーヤーだよ」私は笑って言った。彼はかつてオリンピック選手だった。「雪なんて全然苦にならないんじゃないかな」
「ああ、そりゃあわかっているさ。でもそれはあいつが二十代の若い時の話だろう。戦争前のことじゃないか。今じゃあもうすっかりなまっちまっているよ。軍隊は人をなまくらにするんだ。今あいつが欲しがるものといやあ、安楽と、それに酒ばかりさ。あいつがあの小屋で喜んで暮らすと思うかね? 女もいなけりゃあ、暖房もろくにない。あいつの考えがどんなに素晴らしいか聞いてやるやつもいない。……へたをすると風呂もないんじゃないのか?」
「でも、少なくともバーはあるよ」
彼はふんと鼻を鳴らした。「バーか。でもそのバーをやってる老いぼれは、三代前から先天的な阿呆だって話だぜ。出す酒はメチールアルコールのグラッパだけで、おまけにその老いぼれはイタリア人の中でもこれ以上に汚らしくって怠け者で、抜けてるやつはいないだろうって男だそうじゃないか。それだけ聞きゃあ、あそこがどんなところか、しれてるってもんだ。それなのに、俺あこんなとこへカメラをかついでやってきて、イングレスの誇大妄想を満足させるために撮影しなきゃならないんだからな。それに今朝は、どうもあのスリットヴィアに乗る気がしないんだ。いやあな気持ちがするぜ。あれを作ったのはドイツ人だし、つい二週間前には持主だった男がドイツ人戦犯だっていうんで捕まったんだろう。あのケーブルには爆弾が仕掛けてあるんじゃないのか?」
正直な話、私もその橇《そり》を見た時はあまりいい気持ちがしなかった。私たちは斜面の一番下に立って千フィート以上も高いところにある山小屋を見上げた。橇道《スレー・トラック》が松の森の間に切り拓《ひら》かれ、その終端に山小屋の破風《はふ》と木造の見晴らし台がわずかに見えていた。モンテ・クリスタッロの肩の部分に鳥が止まるように小屋は建っているのであった。そして小屋の上に山の頂《いただ》きが大きな砦のように聳《そび》え立っていた。鷲《わし》の巣のように人間世界からは遠くはなれた場所だった。
運転手が車を降りて「エミリオ!」と呼ぶと、ケーブル装置を収めたコンクリートの建物から、イギリス軍の軍服を着て巨大な雪長靴をはいた小柄な男が現われた。その長靴はこのあたりを占領してトレ・クロチ・パスに高射砲陣地を作っていたドイツ軍のものだった。
まだシーズンも早い時期で、コルチナではやっと雪が降りはじめたところだったが、すでに積雪は深く、前夜の降雪であたりは一面真っ白な世界に変わっていた。
私たちは荷物を橇《そり》に積みこんだ。スキーは後部のスキー・ラックに載せた。私のタイプライターの黒いケースやジョー・ウェッスンのカメラ機材はどうも場違いな感じだった。私たちは橇に乗った。長靴の男が乗りこんでハンドルを握り、スイッチを倒すと前方のケーブルがぴんと張り、ところどころの雪をふり落とした。雪を軋《きし》ませながら橇は動きだした。またたく間に橇は斜面にかかり、大きく後ろに傾いた。私の体はシートに坐っているというよりも仰向《あおむ》けに寝かされているような状態で、恐いような気がした。何とも形容しがたい、ぞくぞくするような気持ちだった。山小屋は視界から消えた。上のほうには黒々とした松の森の中を走っている白い橇道が見えるばかりで、その橇道はまるで建物の壁のような急勾配で青い空に向かって登っていた。
私はふりかえって見た。トレ・クロチ・ホテルの四角い建物は、すでに白い毛布に覆われたような山間に、小さな黒い箱ほどにしか見えなくなっていた。オーストリアへ続く道が、汚《きたな》い茶色のリボンのように山襞《やまひだ》の間をくねくねと縫っていた。陽が照っていたが、観光案内にあった「陽の当たる雪のパラダイス」という感じはまるでしなかった。見渡すかぎり雪と黒い森の、淋しい不毛の景色だった。
前方で、ケーブルはヴァイオリンの弦《げん》のように張っていた。雪を擦《こす》る橇の刃のたてる静かな音のほかは、何の物音も聞こえなかった。松の森の中で空気は凍りついたように動かなかった。斜面の傾斜は六十度に達していた。ジョーが私の肩越しに身を乗り出して運転手に英語で話しかけた。「ケーブルが切れるようなことはあるのかい?」
男は英語がわかるらしかった。彼はにっこり笑って首をふった。「ノン・ノン・シニョーレ。絶対に切れないよ。でも索道《フニヴィア》ね……」コルチナにある空中ケーブルカーのことだ。彼はハンドルから手をはなして、思い入れたっぷりに両腕を広げた。「あれは切れたことある。ポコル・フニヴィア。あれは危ないったらないよ」彼は歯を見せて笑った。
「それで、どうなったの?」私は聞いた。
「ケーブルが切れてね、でも動力ケーブルのほうは切れなくて、二十メートルくらい落っこちてぶら下がったよ。お客さんたちはぶるぶるだった」
「これのケーブルが切れたら?」私は言ってみた。
「これは大丈夫だよ。何しろドイツ製だからね」彼は青い目をきらりと光らせた。「でも、もし切れたら、もうどうにも止まらないね」彼はにやりと笑いながら背後の蹴落《けお》とすような斜面を指さした。
「どうもありがとう」私は言った。山小屋に着いて、この危険な乗物から降りた時は本当にほっとした。
避難小屋にしては大きな小屋だった。その種の小屋はたいてい日帰りの客のために作られていて、宿泊設備も整っていない。けれども、このコル・ダ・ヴァルダはドロミテ・アルプスにもっぱらスキーを楽しみにやってくる客のために建てられていて、明け方までダンスを楽しもうという客を相手にしてはいないのであった。
小屋は森から伐《き》り出された松材で造られていた。かつてのエクスチェルシオーレの主人がこの小屋を建てたのは二年前のことだった。小屋はスリットヴィアのケーブル巻揚《まきあげ》装置を納めたコンクリートの建物の上に、それをすっぽりと包むように建てられていた。その電動式の巻揚装置はドイツ人特有の正確さで、まさに橇道の真正面の位置に据《す》えられていた。小屋そのものは細長い建物で、雪の中に深く打ちこまれた松杭《まつくい》がそれを支えていた。小屋で一番目につくところは船のブリッジのようにガラスで全面を仕切った大きな見晴らし台だった。見晴らし台は南西に面し、そこからはトレ・クロチを越えてはるか下のコルチナあたりを見渡すことができた。太陽の光の中で、その景色は広大な白と黒の美しいスケッチであった。まだ朝早く、その上私たちの立っている位置は海抜八千フィートの高さだったが、しかし空気は暖かく、戸外にじっと坐っていられるほどだった。
見晴らし台の背後が大きな食堂になっていた。食堂の壁は松脂《まつやに》を塗った寄木細工で、窓は大きく、松材の大きなテーブルにはそれぞれ両側に背のない長いベンチが添えられていた。食堂の隅は典型的なイタリアふうのバーになっており、クロームメッキのコーヒー沸かしと、その背後にさまざまな形の酒瓶がぎっしり並び、そしてその真中に鳩時計の真鍮《しんちゅう》の振子がゆれていた。バーと、調理場や寝室へ通じるドアの間には煉瓦《れんが》を積んだオーストリアふうの大きなストーブがあり、部屋の一番奥の隅には古い竪型ピアノが置かれていた。
私たちは調理場のほうに向かってドアを潜《もぐ》っていった。そこに、調理場のドアのサービス・ハッチから突き出たアルドの顔があった。辛うじてわずかに灰色の髪がちらほらと残っている禿《はげ》頭だった。頭も顔も何かで磨《みが》いたばかりのようにてらてらと光っていた。目はとろりと濁り、口はしまりなく歪《ゆが》み、まるで顔のほかの部分に代わって追従笑いをしているとでもいったふうだった。まさに猿であった。ほんの一言、言葉を交しただけで、私はそう確信した。笑顔を見せていなかったら、とても人間とは思えない。彼の頭脳は原始人のそれだった。後《のち》にジョー・ウェッスンはアルドのことを、両手にグラスを持っている時に皿を取れといえば、グラスを床に放り出して皿を取るような男だと言った。
私はアルドに部屋へ案内してほしいと言った。彼は何やら七面鳥のような声でぐじゃぐじゃと答え、顔を赤くしてしきりに手ぶりをして見せた。彼の話すイタリア語はほとんど聴きとれなかったが、それでも彼がそんな予約は受けていないと言っていることはわかった。私はスプレンディドに電話してみろと言った。バーの隅に電話があることは見届けておいたのだ。彼は肩をすくめて、どのみち部屋は空いていないと言った。
「こいつは何をぐずぐず言ってるんだ?」ジョーが聞いた。説明すると彼は怒りに頬をふるわせた。「冗談じゃないぞ。そのうすのろに、こっちへ出てくるように言えよ。けつっぺたを蹴《け》とばしてやるから。そりゃあ、あの快適なホテルへ帰る口実ができたのはいいが、でも、あのスリットヴィアで帰るのはごめんだね。あんなものは一日一回乗りゃあたくさんだ」
私はアルドの顔がのぞいていたドアを開いた。アルドは怯《おび》えた顔をしながら出てきた。私は、友人と私は腹を立てているのだと彼に言った。彼はまたイタリア語でずらずらと何やらしゃべりだした。
「ええ、いい加減にしてくれ!」ジョーが叫んだ。「とにかく、部屋を見せてもらおうぜ。六つ部屋があって、二つしか塞《ふさ》がっていないって聞いてきたんだからな」
私はうなずき、ジョーと二人でカーペットの敷かれていない階段をどんどん上がっていった。アルドはイタリア語で喚《わめ》き立てながらついてきた。階段を登り切ると長い廊下になっていた。廊下に沿って実矧《さねは》ぎの板壁で仕切られた部屋が並んでいた。最初のドアを開けると中は空だった。私はアルドをふりかえった。彼は両手を広げ、口の端を歪めた。次のドアを開けると、中は乱雑に散らかり、ベッドは誰かが寝たままになっていて、部屋中に脱ぎ捨てた衣服が放り出されていた。三番目の部屋には人がいた。アルドはドアを開けようとする私を必死に遮《さえぎ》ろうとした。ジョーがアルドを押し除《の》けた。ドアを開けると、背の低い小柄な男が立っていた。長い髪の毛のこめかみのあたりが灰色になりかけ、顔はたるんで皺《しわ》の寄ったゴムのような男であった。コル・ダ・ヴァルダで暮らしているにしては、その服装が馬鹿に派手だった。洒落《しゃれ》た仕立ての焦げ茶がかったスーツに絹の青いシャツ。ネクタイは黄色で、その上を赤いヨットが横切っていた。男は左手に櫛《くし》を持ち、妙に警戒するような態度を見せながら言った。「私に、何かご用ですか?」ほぼ完璧な英語だった。
私は慌てて説明しかけた。アルドはジョーの腕の下をかいくぐって前に出ると、激しい勢いでまくし立てた。英語とイタリア語の二重唱であった。部屋の住人はいらいらした素ぶりでアルドを遮った。「私、ステファン・ヴァルディニといいます」彼は言った。「この男は頭が弱くてね」彼はアルドを指して付け加えた。「自分の仕事が増えるのがいやなもので、お客さんがこられても断わるんですよ。まあ、こんなぐうたらはあったもんじゃない」彼は丁寧の上に馬鹿がつくような、やけに慇懃《いんぎん》な態度を見せた。「阿呆《クレチー》!」彼はまるで何でもない言葉を交わすような調子でアルドを罵《ののし》った。「四部屋も空いているじゃないか。イギリス人のお客さんを向こうの端の二部屋に泊めてあげろよ」
私はアルドがかっと怒るだろうと思った。イタリア人に向かって「|父なし子《バスタード》」と言い、家族のことを大っぴらに侮辱しても、たいていはにやにや笑いが返ってくるだけだ。しかし「阿呆《クレチー》」と呼んだら、まず怒りのために口もきけないほどになるのが普通である。ところが、アルドは卑屈に笑って言ったのだ。「へえへ、ヴァルディニさん、今すぐに」
そんなわけで私たちは一番奥の二部屋へ案内された。ジョーの部屋の窓からはスリットヴィアの橇道を真正面に見降ろすことができた。けれども、私の部屋は見晴らし台を隔《へだ》てて南に面していた。私の部屋からは、軒先の雪が首筋に落ちるほど身を乗り出して、やっとスリットヴィアがわずかに見えるだけだった。しかしたいした景色だった。松の木に埋まった険しい斜面が足下に落ちこんでいた。円錐形に尖《とが》った木々の頂きがずっと向こうの谷まで連なっていた。右手の頭上にはモンテ・クリスタッロの砦《とりで》のような巨峰が聳え立っていた。その大きな峰は日光の中でも寒々として、人を寄せつけぬ厳しさを見せていた。
「たいそうなところだな、ニール」ジョー・ウェッスンが戸口を塞《ふせ》ぐようにして大きな体を現わした。「あの高級|淫売宿《いんばいやど》のポン引きみたいな顔したちんちくりんは何者だ? まるでここが手前《てめえ》の店だってな調子だったじゃないか」
「さあ、何者かね」私は荷物を解《ほど》いているところだった。スキー映画を撮るのに、何とまあ持ってこいの場所だろう。私はそのことで頭がいっぱいであった。「きっと一番古顔の泊まり客か何かだよ。ナイトクラブにいたほうが似合いそうな男だけれどね」
「さあてと、まあとにかく泊まれることになったんだ。祝杯と行くか」ジョーはつぶやくように言った。「バーに行ってるぜ。あのグラッパとかいう赤っぽい酒を試してみよう」
私がまだ荷物を解き終わらないうちに、一団のスキー客がスリットヴィアで運ばれてきた。色とりどりの一行だった。顔は雪焼けして、鮮やかな色彩のスキー服がにぎやかだった。一行は見晴らし台を占領し、暖かい陽の光の中で丈の高いグラスから飲物を飲みながら、楽しげに数か国語の言葉で語り合っていた。やがて二人三人と組になり、あるいは一人で、彼らはスキーをはき、トレ・クロチのスロープや、暗い樅《もみ》の森の中へ、「リベラ!」の声を残して消えていった。コルチナへの橇道よりはなだらかな傾斜を滑り降りていく彼らの後ろ姿を私はうっとりと眺めていた。イタリアとオーストリアの混血のウェイトレス、アンナは盆の上にサラミや卵やラビオリをのせてめまぐるしくテーブルの間を立ち働いていた。彼女の目は大きく澄んでいた。そして女性を連れていない男の客のテーブルでは彼女はちらりと笑顔を見せ、もてなし方もねんごろだった。何とテクニカラー向きの情景だろう! 無彩色の雪景色を背景に、さまざまな色彩は華やかに浮き立って見えるのだ。
私はこうした物珍しい状況に接して、いよいよイングレスをうならせるようなシナリオを書いてやろうという気持ちがこみ上げてくるのを感じた。ここでシナリオを書かなかったら、二度とシナリオを書くチャンスはやってこないだろう。私はシナリオのことを考えながらジョーのいるバーへ降りていった。
階段の下で、一人の背の高い、よく目立つ男がアルドと激しく言い合っていた。男の髪は濃く、ふさふさとしていて、全体が不思議に灰色がかっていた。顔はまっ黒に陽焼けしていたが、顎の膨《ふく》らみに白く傷痕《きずあと》が浮いていた。スキー服は上から下まで白ずくめで、首に黄色のスカーフを巻いていた。私は一目で問題の原因を見て取った。
「予約なさったんですか?」私は声をかけた。
「そうなんです」男は言った。「この男は頭がおかしいか、さもなきゃあ、別の客に部屋を貸してしまったかのどっちかですよ。ところが自分でそれを認めようとしないんです」
「私もまったく同じ目に遇いましてね」私は言った。「どういうわけか、この男は客を取りたがらないんです。どうしてなんでしょうね。でも、今まだ二つ空き部屋がありますよ。階段を上がりきった突き当たりが空いています。私が案内してあげましょう。あの部屋に泊まることにされたらどうです」
「そうしましょう。どうも、ご親切に」彼はものうげな笑顔を見せると荷物を持って階段を上がっていった。アルドは肩をすくめて口の端を歪《ゆが》め、それから男の後を追って上がっていった。
残る午前中の時間を、ジョーと私は日向《ひなた》ぼっこをしながらコニャックを飲み、イングレスが喜びそうな画面について話したりして過ごした。二人の対話の背景には色とりどりの服装をしたスキーヤーたちと、彼らの話すさまざまな言葉があった。咽喉《のど》にかかったオーストリア人のドイツ語や、流れるような早口のイタリア語や、その他数多い国の言葉が乱れ飛んでいた。私たちはかなり熱心に語り合った。それでいて、さほど深く突っこんだ話をしているわけでもなかった。ジョーは、もう冷たい風の吹くアルプスの上に来る破目になったことについて不平を言わなくなっていた。彼はカメラマンになりきっていた。彼はもっぱらカメラのアングルや光線の具合、面白そうな被写体などについて考えているようだった。彼は恰好な主題を与えられた芸術家であった。そして私は、二つのことに気を取られていた。ジョーの話を聞きながら、同時に私は頭の中であれこれとシナリオの構想に思いをめぐらせていたのである。
彼女が来たことには気がつかなかった。彼女がもうどのくらいそこにいるのかわからなかった。ふと目を上げると、そこに彼女はいたのである。白く雪化粧をした樅の林を背景に、彼女の顔や肩が浮かび上がっていた。一瞬私ははてなと思った。どこかで見たことのある顔だと思ったが、はっきりとはわからなかったのだ。私が見ていると彼女はサングラスをはずし、細くて長い褐色の指に無造作にぶらさげるようにしながらまっすぐにこちらを見た。私ははっと気がついて財布からイングレスがくれた写真を取り出した。
驚くほどよく似ていた。しかし確信がなかった。写真は古く、色あせていたし、「カルラ」とサインしたその女は、短い髪を後ろのほうへなでつけていた。けれども顔の形は同じようだった。私は見晴らし台の向こうの端に腰掛けている女の顔をもう一度よく見た。烏《からす》の羽根のように黒い髪が広い額の上で大きく波を描き、房々と両方の肩に流れ落ちていた。女の坐り方やちょっとした身のこなしは、いかにも肉感的な体つきを強調していた。特別若くもなければ、とり立てて美人というわけでもなかった。緋色《スカーレット》のスキー服に、挑《いど》むような真紅の唇は大きく厚く、目尻には小皺がくっきりと浮いていた。それでいて女はやけに色っぽかった。男の低俗な理想を彼女は体じゅうに具現しているとでも言ったらよさそうだった。写真と見較べようとする私の目が彼女の視線を捉えた。彼女の目つきは、ものうげな抱擁のようであった。退嬰《たいえい》的で、それでいて無関心ではなく、それはちょうど退屈しきった獣がからかい相手を捜している時の、あの目つきであった。
「ほほう、ニール」ジョーが私の腕を叩いた。「あんた、あの女と寝たいとでも言うのかい?」
「変なことを言わないでくれよ」私は言った。バツの悪い思いがした。こうした異国では、ジョーはあくまでもイギリス人であった。「こういう気持ちのいい朝に、何だってそんな卑俗なことを言うんだ」
「あんた、まるであの女を食っちまいたいって目つきをしていたぜ」彼は言った。「でも、あの女の相手はヴァルディニのちんちくりんだよ。ああいう手合いには気をつけたほうがいい。すぐ刃物とくるからな。あいつらは文明人じゃないんだ。あの小男は、どうやら女のことで張り合う相手じゃなさそうだぜ」
彼の言うとおりだった。女と向き合って坐っているのはヴァルディニだったのだ。彼は私たちのほうに背を向けていたのである。
「妙に勘《かん》ぐらないでくれよ、ジョー」私は名前のところを親指で隠して彼に写真を見せた。「これ、同じ女だろうか?」
彼は首をかしげて充血した小さな目をちらりと写真のほうに向けた。「ううむ。あるいはな。どこでそんなもの手に入れたんだ?」
「これはイタリアの女優の写真さ」私は咄嗟《とっさ》に言った。「アンツィオの戦いの前にイタリアで知り合った時に、本人からもらったんだよ。問題は、あそこに坐ってる女が、僕の知っている女かどうかっていうことなんだ」
「そいつは俺にはわからんな。正直いってなあ、おじさん、俺はそんなことはどうでもいいんだ。でも、行って聞いてみるのが一番だと思うよ」
ジョーは当然のことながら、そう簡単な話ではないのだということを知らなかった。イングレスには、何もするな、といわれている。それにしても確かめないわけにはいかなかった。私がコル・ダ・ヴァルダにやってきたまさにその日に、彼女が姿を現わすとは、何と不思議なことだろう。それにしてもよく似ている。私は決心して立ち上がった。「そのとおりだね。行って聞いてみるよ」
「まあそりゃあいいが、あのけばけばしい小男の気に障《さわ》るようなことは言うなよ。ロンドンのバーだったら俺も喧嘩を買って出るほうだが、ナイフ投げの名人が相手となると、俺は図体が大きくって具合が悪いよ」
彼女は私が立ち上がるのに気がついて、見晴らし台を横切る間、じっと私を見つめていた。テーブルのそばまで行くとヴァルディニがふりかえった。「失礼ですが」私は彼女に言った。「前にお会いしたことがあるように思うんですが。イギリス軍にいた頃、イタリアで」
堅苦しい沈黙が流れた。彼女はじっと私を見上げていた。ヴァルディニも同じように私を見ていた。と、彼女は急に嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
「そうは思いませんけれど」彼女は英語で言った。低い、ねっとりとした声だった。猫が咽喉を鳴らすような声だった。「でも、あなた素敵な方だわね。お掛けになって。その時のこと、話してくださらない?」
用心深い目つきで私を見ていたヴァルディニは慌てて立ち上がり、急に如才のない態度で隣のテーブルから私のために椅子を運んできた。
私が腰をおろすのを待って彼女は言った。「それで、私とあなた、どこで会ったっておっしゃるの?」
私はどぎまぎしていた。彼女のまっ黒な目があからさまな好奇心を示して私を見つめていた。「たしか、カルラさんでしたね」私は言った。
彼女の目からたちまち表情が消えた。冷たく、鋭い目だった。写真の中の鋭い目のように。
「何かの間違いのようね」彼女は冷やかに言った。
ヴァルディニが助け船を出した。「ああ、私が紹介しよう。こちら、フォレッリ伯爵夫人。こちらはブレアさん。イギリスの映画会社の方だよ」彼はいつの間にそんなことを知っていたのだろう。それにどうして彼は出しゃばってきたのだろう。
「それは失礼しました」私は言った。「あるいは……ロメッタさんじゃないかと思ったもので」
彼女は明らかに息を飲んだ。しかし彼女の目は瞬《またた》き一つしなかった。自分を抑えることを知っているのだ。「でも、もう人違いだってこと、おわかりになったでしょう、ブレアさん」
私はまだ確信が持てなかった。ポケットから写真を取り出して彼女に見せた。「しかし、この写真は、あなたでしょう」私は名前の部分を隠して言った。
彼女はせわしなく体をのり出した。「どこでそれを?」そう聞いた彼女の声には最前のとろりとした響きはまるでなく、堅い、いらいらした不機嫌な声に変わっていた。けれども、彼女はすぐにまた、わざとらしく調子を変えて言った。「あらいやだ。よくごらんになって。人違いだってこと、おわかりでしょう。でも不思議ねえ。本当によく似ているわ。ちょっと拝見」彼女はそう言って高慢な態度で長い褐色の手を伸ばした。
私は耳に入らなかったふりをして写真をポケットにしまった。「珍しいこともあるもんだ」私は自分につぶやきかけた。「何しろよく似ていたから、てっきりそう思って……」私は立ち上がった。「どうぞお赦《ゆる》しください、伯爵夫人」頭を下げて私は言った。「あまりよく似ておいでだったので、失礼しました」
「お待ちになって、ブレアさん」彼女は精いっぱい愛敬を見せて私に笑いかけた。またあのとろけるような声に戻っていた。「ここで一杯飲んでいらしてよ。その写真の話、もっとお聞きしたいわ。本当に私にそっくりなんですもの。話してくださらない。興味があるの。ステファン、ブレアさんに何か飲物をお取りして」
「いえいえ、もう結構ですから、伯爵夫人。もう一日分の失礼を働きました。どうぞ、お赦しください。あんまりよく似てたもんで……ちょっと確かめようと思いまして」
私はジョーのそばへ戻った。私が腰をおろすと彼は言った。「どうだった。その女だったかね?」
「そうだと思うよ」
「はっきりしたんじゃないのかい?」
「知った人間に会いたがらないようなんだ」私は説明した。
「無理もないなあ」彼はふんと鼻を鳴らして言った。「俺だって、あんなちんちくりんの田舎っぺと一緒にいるところを、知った人間に見られたくはないと思うよ。女の場合だったらなおさらだろうぜ。ほら見ろ、あの野郎の立ち上がったところを。一生懸命、手前の重みを見せようとしているじゃないか」
見ていると、伯爵夫人は立ってスキーをはいた。彼女は私のほうを見向きもしなかった。まるで何事もなかったとでもいう態度だった。彼女は小柄な洒落者のヴァルディニを外へ連れ出し、ほんの短い間言葉を交わすと、さっとストックを振ってトレ・クロチのほうへジグザグ紋様を描きながら滑り降りていった。ヴァルディニは見晴らし台に戻ると、ちらりと私のほうを盗み見た。
私たちは見晴らし台で昼食をし、それがすむとジョーは撮影機材を肩に、借り物のスノーシューズをはいて出かけていった。私はシナリオの仕事にかかる心算で部屋に戻った。しかし私は仕事にかかれなかった。まるで集中できないのだ。私はイングレスのコル・ダ・ヴァルダに対する興味の謎について考え続けた。まず第一にハインリヒ・シュテルベンの逮捕の話。そして今度はカルラにそっくりなフォレッリ伯爵夫人。偶然にしてはできすぎている。関係がないとはとても思えなかった。それにしても、この場所がなぜ彼らを引き寄せるのだろう。イングレスがいくらかでも話してくれればよかったものを。しかし彼とても、深く知っているわけではなかったのかもしれない。スリットヴィアは山荘を支配すると同様に、いつか私の頭をいっぱいに占領していた。部屋にいても登り下りのたびに橇の音は聞こえてきた。コンクリートの機械室の真上のバーと、巻揚装置の音は耳障りなほどけたたましく響いてくるのであった。
私はとうとう書くことをあきらめ、イングレスへの報告だけタイプして下のバーへ降りていった。ちょうどカメラをかついでジョーが戻ってくるところだった。スノーシューズというのは長靴に≪輪かんじき≫をくくりつけたようなものだった。コルチナのスキー場をえっちらおっちら登ってくるジョーは、まるで不器用な象のようであった。日帰りのスキー客はもうとっくに皆引き上げてしまっていた。日が傾いて、外は冷えはじめていた。山荘は夜の寝仕度に、小さく縮こまっていくかのようであった。アルドが大きなストーブに火を焚《た》き、自然、私たちは吸い寄せられるようにバーに集まり、フランスならペルノ、ギリシャならウーゾに相当するイタリアの酒アニゼッテを飲みはじめた。
そうやって私たちがバーのまわりに集まっている時、ちょっとしたことが起こったのだ。何でもないことだった。少なくとも、その時はそう思えた。しかし、それは全体の出来事の文《あや》の中ではきわめて重大な意味を持つことだったのである。そこにいたのは四人だった。ジョー・ウェッスンと私。ヴァルディニと、私たちの後から来た男。彼はギルバート・メインと名乗った。アイルランド人だったが、話の様子からすると、かなり広く世界中を歩きまわっているらしい。特にアメリカは詳しいようだった。
ヴァルディニは私から何とかしてあの写真のことを聞き出そうと、しつこく私につきまとっていた。彼を振りきるのは容易なことではなかった。彼は学生言葉でいうところの、|押しの強い男《バンプシャス》だった。こちらが押せば彼は負けじと押し返してきた。まるで雷竜《ブロントサウルス》のように面《つら》の皮が厚い。けれども、とうとう私は、私が人違いのことなどたいしたことだとは思っていず、それにしても馬鹿な間違いをしたものだと考えているのだと思わせることに成功した。話題は珍しい乗物、たとえばスリットヴィアのような、変わった乗物のほうに移っていった。メインがクレーンの吊桶《つりおけ》に乗った体験について話しているまさにその時、私たちの足の下で橇の巻揚装置が音を立てて動きはじめたのである。絶え間のない装置のうなりは話し声を掻《か》き消すかと思われるほどだった。まるで部屋が大きく震動しているようだった。
「こんな時間に、誰が上がってくるんですかね?」メインが言った。
マッチの軸で爪を掃除していたヴァルディニが顔を上げた。「もう一人泊まり客がいるんですよ。ギリシャ人でね。ケラミコスっていうんです。何しにこんなところまで来るんですかね。コルチナのほうがよっぽどいいだろうに」彼はにやりと笑うと、今度は手にしていたマッチ棒で歯をほじくりはじめた。「女が好きなやつでね。ほら、あの伯爵の奥方ね、あの人からそいつは目をはなすことができないんですよ。そりゃあもう、じろじろ見るんですからね」彼は歯の間で下品な音を立てて息を吸った。
スリットヴィアの音が弱まって、やがてぴたりとやんだ。ヴァルディニは話し続けていた。「あの男を見てると、前に知ってたことのあるギリシャ人の商人を思い出しますよ。私はナイルで船を動かしていたことがありましてね。きれいで、うまい商売でした。私みたいな、もうくたびれのきた男にとっちゃあですよ。女《ゲアルズ》なんかは選《よ》りどり見どりでね」彼の女《ゲアルズ》という発音は、あたかも動物の種類について話しているかのようだった。「いってみれば、ショーボートみたいなもんです」
「要するに淫売船だろう」ジョーが口を挾んだ。「何だって物事を、それ相応の呼び名で言わないんだ? まあ、どうでもいいが、俺には興味のない話だね。俺あ、あんたの女郎屋なんかどうだっていいんだ」
「待ってください、ウェッスンさん。そのおっしゃり方はあんまりだ。きれいなんですよ。ほら、月の夜なんかはね、ナイルの月ってのはまた素晴らしいんですから。音楽を流しましてね。いい商売だったな。で、そのギリシャ人が……名前は忘れましたがね、毎回別の女を注文するんですよ。あの男は金の鉱脈みたいなもんだった。私はね、そりゃあおおいに……」彼は言葉を切った。誰も聞いていないことに気がついたのだ。
彼がしゃべっている時、見晴らし台の木造の階段を踏む軽い足音が聞こえてきたのである。ドアが開き、暖かい部屋に外の暗い寒さが流れこんできた。私たちは皆、ある種の期待を持って戸口を見守っていたように思う。人里はなれた小さな場所で一緒に暮らすことになる人間の登場の瞬間に興味を抱くのは、人情というものだ。それは単なる好奇心にすぎないものだった。
ところが、入ってきた男はバーのまわりに集まっている私たち四人を見るなり、戸口に生えたように足を止めた。肉付きのいい体は暗闇を背景に、壁龕《へきがん》の中の彫像のようだった。彼はメインを見つめていた。メインは身動きしなかった。背の高い彼の体は凍ったようにこわばっていた。
それはほんの一瞬のことだった。しかし、その瞬間、部屋の空気は電気に打たれたようであった。そしてメインはバーのほうをふりかえり、飲物のかわりを注文したのである。ギリシャ人のケラミコスはドアを閉じてバーに歩み寄った。そしてすべては元のとおりに戻っていた。
メインとそのギリシャ人が互いに顔を認め合ったことは間違いなかった。しかしギリシャ人が私たちの仲間に加わって自己紹介しても、二人は知合いであるという素ぶりも見せなかった。ギリシャ人はがっしりとした体つきで、丸顔に厚いレンズの縁《ふち》なし眼鏡をかけ、その眼鏡の奥から近視の青い目がのぞいていた。淡い褐色の髪は頭のてっぺんが薄くなりかけ、首は短かく、まるで彼の頭はその頑丈な肩の上にじかに植えこまれているようだった。
彼は低い、そしてどちらかといえば太い声で達者に英語を話した。彼は話を強調したい時、頭を前に突き出す癖があり、それが彼をどこか戦闘的に見せていた。
夜の間にたった一度、メインと彼がはじめて会ったのではない、という私の考えを裏付ける証拠といえそうなことがあった。私たちは戦争中、エジプトで起こったギリシャ軍の叛乱《はんらん》について話していた。ギリシャ人のケラミコスはその事件に関して実に詳しい知識を持っていた。あまり細部に至るまで彼がよく知っているので、それまでずっと黙っていたジョー・ウェッスンが急に口を開いて低く言った。「あんた、まるであのくだらない騒ぎを自分で段取りしたみたいな話をするね」
ギリシャ人とメインが素早く視線を交すのを私ははっきりと見た。決して親しげな目つきではなかった。ただ、その問題に関しては、彼ら二人に共通の何かがあるといったふうだった。
もう一つ、私には不思議に思えることがあった。イングレスはコル・ダ・ヴァルダに泊まっている客たちについて詳しく知らせろと言っていた。そこで私は彼らの写真を送ってやろうと思い立った。夕食の後、私はジョーにせがんで彼のライカを持って来させ、バーのまわりに集まったグループのスナップを何枚か撮ってもらった。ジョーには屋内シーンはホテルよりもこの山荘のほうが雰囲気が出ることをイングレスに示すためだと言った。小男のヴァルディニは大喜びで、すぐにカメラの前でポーズを取った。ところがメインとケラミコスはそれを見るとカメラに背を向け、何やら熱心に話し出したのである。ジョーがカメラのほうを向いてくれと言うとメインが肩越しに言った。「私らは、お宅の映画会社とは関わりがありませんからね」
ジョーは不平らしく鼻を鳴らして、そのまま何枚かスナップを撮った。けれども、顔が写るのはヴァルディニとアルドばかりだった。私はジョーにカメラの扱い方を聞いた。私はカメラのことならよく知っていたのだが、何としても二人の写真を撮りたかったので、一計を案じたのである。ジョーからカメラを借りて私はカウンターの明るいところへ持って行った。いきなり時計から鳩が飛び出して、ホー・ホーと時を告げた。メインとケラミコスが驚いて顔を上げたところを私は写真に撮った。
シャッターの音を聞きつけて、メインが私を見た。「撮ったんですか?」棘《とげ》を含んだ声で彼は言った。
「写ってるかどうか、わかりませんよ。でも、どうしてです?」
彼は私をじっと睨《にら》んだ。淡色の冷たい目だった。
「写真が嫌いなようですな」ヴァルディニが言った。その声には妙に当てこする調子があった。
メインの目は怒りを浮かべてさらに厳《きび》しくなった。しかし彼はヴァルディニをふりかえろうとはせず、また何気ない様子でケラミコスと話を続けた。
いずれも些細なことだった。けれどもその小さなことが、滑《なめ》らかに流れる音楽に時おり投げこまれた不協和音のように私の印象に残ったのだ。その上私はそこにいたすべての男たち、ヴァルディニもケラミコスも、メインも、皆何やら強い嫌悪感を何気ない顔の下に隠しているような気がしてならなかった。
次の朝、食事をすませて間もなく、私はコルチナへ行くために山荘を出た。メインが一緒だった。前の晩私が彼に競売のことを話すと、彼はぜひ一緒に行きたいと言ったのだ。出がけに、ぶつぶつ言いながらスキーをはいているジョーに出会った。「まるでカヌーでもくくりつけられたみたいだぜ」彼はいまいましそうに言った。「何しろ、六年ぶりだからな。血圧のほうは大丈夫かな。これで首でも折ったらイングレスのやつを訴えてやるよ。しかし、こうでもしなきゃあ、撮りたい画《え》は撮れないからなあ」彼は小型の撮影機を首から下げていた。「夕飯までに俺が帰らなかったら、救助犬でも繰り出すようにしてくれよ、ニール。ところで、あんたどこへ行くんだ?」
私が予定を話すと彼は眉をひそめて言った。「あんたがそんな物を面白がるとはね、俺にはどうしてもわからんよ、おじさん。しかしイングレスはあんたが本を書くのを待ってるんだ。あいつは仕事の遅い人間には厳しいぜ」彼は肩をすくめた。「ああ、あんたはあの男をよく知っていたっけな。でも、軍隊じゃああれほど厳しくはなかったんじゃないのか。映画のスタッフに対しちゃ、ありゃあただの人間じゃないぜ。俺が何だってこんなものを足の先へくっつけてると思うんだ?」
私は彼に感謝した。彼は親切に言ってくれているのだ。イングレスがもうシナリオを持っていることなど、彼は知るはずもないのだ。
素晴らしい朝だった。空は青く澄み、太陽は眩《まぶ》しく輝いていた。そしてあたりはこの上ない静寂に包まれていた。暗い樅の森からは鳥の囀《さえず》りすら聞こえてこなかった。まっ白にきらめく世界に、生命の息吹《いぶ》きを伝えるものは何一つないのであった。スリットヴィアは昇りよりも下りのほうが遙かに恐ろしい。私たちは山荘のほうを向いて腰掛けた。というより、山荘に足を向けて仰向《あおむ》けに寝たのだ。そして松や樅の木立の間の橇道を後ろ向きに下っていったのである。お互いに当然であるといったふうに、私たちは雑談を交わした。話題はイタリアの作曲家の比較論に及んだ。メインはオペラを実によく知っていて、自分の論点を明らかにするために、いちいちメロディーを口ずさんでみせた。彼は華やかで軽快な「セヴィリアの理髪師」や、あまり一般には親しまれていない「田舎紳士」の地味な笑いのほうがいわゆるグランドオペラよりも好きだと言った。その点では私と彼は好みが違った。私は「椿姫」が好きなのだ。けれどもローマのカラカラ浴場の遺跡を舞台に満月の夜、野外で演じられる「アイーダ」のスペクタクルに夢中になるという点では私たちはすっかり意気投合した。正直にいって、彼と話をするのは実に楽しかった。
コルチナの町へ車で入っていくと、道はあちこちのゲレンデへ向かうスキーヤーたちであふれるばかりだった。色とりどりのスキー服に着飾った彼らの雪焼けした顔は、冷たい山の空気に当たって光っていた。民家の破風《はふ》や鉛筆のような教会の尖塔《せんとう》が印象的な小さな町は陽光の中で明るく華やいでいた。雪の積もった舗道を散策しながら店の飾り窓をのぞいたり、湯気に曇ったカフェの椅子に坐ってコーヒーやコニャックを飲んでいる旅行客も大勢目についた。フニヴィア、つまりロープウェーのケーブルが二本、ちょうど虫の触角のように町の両端から山に向かって伸びていた。左のケーブルは一度マンドレスまで登り、そこから一気にファロリアまでの高さを這《は》い上がっていた。陽光に暖められたファロリアの褐色の崖を背景に、微《かす》かに糸のようなケーブルと赤いゴンドラが見えていた。反対側からはやや短かめのケーブルが一息にポコルの突起まで登っていた。そのあたりにはホテルが何軒かあり、スリットヴィアがさらに高級なゲレンデ、コル・ドルシオやトファナ・オリンピック競技場にスキー客を運んでいた。
私はメインをホテル・ルナに残して郵便局へ行った。そこでイングレスへの二度目の報告と前の晩に撮った写真のネガを航空便で送った。スプレンディドに行ってみると、マンチーニは何人かの同業者らしい取巻きたちとバーで酒を飲んでいた。彼はまるで私一人を待ち受けていたかのように大袈裟《おおげさ》に私を迎えた。彼はこうした場合のもてなし方が実にうまい。「さあさあ、何か召し上がってくださいよ、ブレアさん」彼は言った。「ルナはそりゃあ寒いところですからね」彼は横柄な顔つきで、一人の小柄な身なりのいいイタリア人のほうを見て笑った。たぶんルナの主人だろう。「マルチニを、ダブルで……よろしいですか? 飲んでからいらしていただかないと、退屈なさっても困りますからね。おすみになりましたら、でかけるといたしましょう。私はスリットヴィアを買います。それからお祝いです。仲間が何か買物をした時はいつもそうやって祝うんです。なに、それは口実ですよ。口実ってのは、いつだって必要なんです」
ルナのラウンジは暖かくて快適だった。二、三十人の人間が集まっていた。全部男で、しかもイタリア人ばかりだった。彼らは傍観者の無関心をむき出しにしていた。彼らはただ社交辞令としてそこに集まっているのであった。そして彼らは、競売の後のふるまい酒が目当てなのだ。彼らはマンチーニを取り囲み、笑ったり世間話をしたり、それに彼のこの新しい買物に対する祝いの言葉を述べたりした。メインは背の高いグラスを前にして安楽椅子に身を沈めていた。私は彼のそばに腰をおろした。彼は私のほうに椅子を寄せて私の分の飲物を注文した。けれども彼は私と話をすることにあまり興味がないらしく、ラウンジの様子にばかり気を取られているようだった。彼は突然ドアのほうに目をやった。彼の視線を追って私は戸口をふりかえった。何と驚いたことに、そこにはヴァルディニの姿があった。ヴァルディニはいかにも気取った態度で、自分の存在をひけらかそうとしているようだった。その朝は、彼は藤色の光沢を持った黒っぽいスーツを着て、シャツはクリーム色、ネクタイは赤い地に青い稲妻が走っている柄だった。
「ヴァルディニがこんなところへ何をしにきたんですかね」私は言った。「まさかあの人が競売に興味を持っているとは思いませんでしたよ」
「どうなんですかね」メインは静かに、まるで自分に聞かせているように言った。彼の浅黒い二枚目の顔には、当惑の表情が浮かんでいた。
そうこうするうちに、競売人が入ってきた。彼はこれから、帽子の中から何かを取り出して見せようとする男の、観客を意識した態度でふるまった。彼の入場を告げるトランペットのファンファーレでも響いたらよさそうだった。彼は観客の間を泳ぐように部屋を横切り、ところどころで足を止めては知った顔に会釈したり、握手を求めたりした。まさに、彼のための瞬間であった。彼は二人の召使いを従え、テーブルを示してその位置を直させた。彼が椅子を指すと、その椅子が彼のためにテーブルの前に据《す》えられた。彼は書類をテーブルの上に無造作に放り出した。ホテルの支配人が槌《つち》を運んできて、丁寧に磨かれたテーブルの上に置いた。ちり一つないテーブルの表面がもう一度|拭《ふ》かれ、それから競売人が椅子に腰を落ち着けた。彼は威厳を示して、槌を打ち鳴らした。部屋のざわめきが鎮《しず》まりはじめた。マンチーニが私のすぐそばの空いた椅子にやって来て腰をおろした。取巻きがぞろぞろと彼の後に従っていた。彼は私の隣に椅子を寄せると、競売人のほうを頭で示して言った。「なかなか立派なもんでしょう。どうです」
「見事な登場ぶりでしたね」私は言った。彼はにっこり笑ってうなずいた。「イタリア人は芝居っけがありますからね。だから、イタリア人は死刑にされても、死にっぷりがいいんです。死ぬのは嬉しくないとしても、立派に死ぬ、その瞬間を楽しむわけですよ。まあ見ていてください。部屋が静かになったところで、あの競売人は大演説をぶちますから。スリットヴィアについちゃあ、私らは自分のホテルと同じくらいに詳しく知っています。しかし、あの男は、まるで私らがあれを見たこともない人間だという調子で細々《こまごま》と説明するんです。それも名調子でね。そのうち自分で聞きほれるようになるんですよ。思い入れよろしく、手ぶりも見せるし、一世一代の名演技ですよ。あの男がくたびれて、芝居が終わったら、私が声をかけます。もう段取りは前もって終わっていますから、競売はそれでおしまいです。イギリスとはだいぶ勝手が違うんですよ」彼はいたずらっぽく目を光らせて言った。「それにしても、あなたにとって面白いといいんですが、さもないと、ただ退屈なだけですからね。そうなると私が困ります」
競売人の槌がもう一度テーブルを打った。部屋の中はしんと静まりかえった。幕は上がった。演技がはじまったのである。競売人はまず入札の条件を読み上げた。しかし、それはほんの申し訳《わけ》だった。手続きとして読むだけで、そこからは何の新しい材料も出てきはしなかった。ところが、競売の理由を説明する段になって、彼は俄然《がぜん》張り切ってしゃべりはじめた。彼はまず、かつてホテル・エクスチェルシオーレの主人であり、連合軍協力者であった持主から、哀れなソルディーニがスリットヴィアを買い取った経緯から説き起こし、ソルディーニの逮捕と、ソルディーニが実はイタリア人やイギリス人にとって最も恐るべき、残虐非道な罪を犯したドイツ戦犯ハインリヒ・シュテルベンであったという世界中を騒がせた事実を述べた。彼はその狂人がどんな人間であったかについても詳しく語った。その上彼は、その恐るべきドイツ人の重ねた犯罪行為の一部にも触れた。彼はさらに、イタリア人たちがいかにその恐るべき野蛮な行為に対して立ち上がり、憎むべきドイツを降伏に追いこんだかという歴史を語る労もいとわなかった。そして彼は急にぐっと声を落とし、コル・ダ・ヴァルダの山荘とスリットヴィアの説明をはじめた。彼は徐々に調子を上げていき、やがて歌うように、美辞麗句を連ねてみせた。大望を抱く敏腕《びんわん》のビジネスマンにとって、これぞまたとない、絶好の機会である、と彼は言った。この信じがたい、素晴らしい資産は、ドイツ人の輝ける技術によって設備が整えられた小ホテルであり、そのパノラマのような美しい眺望はベルヒテスガーデンの|鷲の巣《イーグルス・ネスト》に勝るとも劣らない、云々。
やがて、ばったりとその声は途絶えた。部屋中は彼の演技に息を飲んだかのようにしんと静まりかえった。私は今にも割れんばかりの拍手が湧き起こるのではないかと思った。アンコールがあってもおかしくない。しかし部屋は咳《せき》一つ聞こえない静けさであった。競売人は額に垂れかかった一房の長い髪を指で掻《か》き上げた。彼の痩せた顔は、がっくりとしているようだった。彼は長い鼻梁《びりょう》の上で眼鏡をぐいと押し上げ、冷やかな、いかにも無表情な声で、資産の売出しを告げた。
「二十五万リラ」マンチーニの声は物静かで、これで決まりだといった投げやりな響きがあった。二十五万リラ。競売人は不満気な顔をしてみせた。それは政府が査定した最低の価額であった。マンチーニはおそらく、いろいろと手を尽くしてその査定額をできるだけ引き下げるための工作をしたであろう。競売人は、ほかに声はないか、とうながした。しかし、その望みははじめからないことを彼は知っていた。すでに話が決まっていることはわかっていたのだ。短い彼の見せ場はもう終わりだった。彼は肩を一つすくめると槌《つち》を上げた。
「三十万」静かな澱《よど》みのない声だった。たちまち驚異のざわめきが部屋に広がった。顔がふりむき、首が伸びた。身なりの良い小柄な体を効果的に高い窓から射しこむ光の中に置いている声の主を見るまでもなく、私には誰の声だかわかっていた。ヴァルディニだった。美しい熱帯の鳥の羽根毛のように華やかなネクタイに飾られた胸を、彼は尊大にそりかえらせていた。光を浴びて黒っぽいゴムのような顔が輝いていた。
マンチーニはまわりの者たちに何やら早口で話しかけていた。彼は文字通り、怒りにふるえていた。私は何か言おうとしてメインのほうをふりかえったが、彼は私のことなどまるで眼中になく、身を乗り出して夢中でヴァルディニを見つめていた。彼は微かに笑いを浮かべていた。目が輝きを帯《お》びていた。面白がっているためだろうか、それとも、彼は興奮していたのだろうか。私にはどちらともわかりかねた。
驚いたのは競売人である。彼はヴァルディニに間違いはないかと聞き返した。ヴァルディニは彼のつけ値を繰り返した。三十万リラ。部屋中の目がマンチーニに集まった。町の実力者がどう出るか、部屋じゅうが彼の次の動きを待ち受けていた。彼は落ち着きを取り戻した。取巻きの一人がそっと部屋を抜け出して行った。マンチーニは煙草をつけて椅子に坐りなおし、つけ値を三十一万リラに吊り上げた。
ヴァルディニは躊躇《ちゅうちょ》の気配も見せなかった。彼は一気に四十万リラに飛んだ。「四十一万」マンチーニが言った。「四十五万」ヴァルディニが応酬した。マンチーニは四十六万に上げた。ヴァルディニは一息に五十万の声をかけた。それからしばらくは競《せ》り合いが続いた。マンチーニは一万ずつ、ヴァルディニは五万ずつ相手の上をいった。彼らはついに百万に達した。意外な成行きの噂はたちまちのうちに広まり、ホテルじゅうの客がドアの外に詰めかけて競売の有様を見守っていた。
百万に達したところで掛け声が止まった。マンチーニは値が上がるにつれて、次第に声を掛けるのが遅れがちになっていた。彼は椅子の中にうずくまり、顎を引き締めて、厳しい目つきをしていた。彼が問題にしているのは、むしろ金ではなく、彼のコルチナでの勢力をからかうかのようなこの仕打ちであった。彼がひそかに手を回して話をつけたことは誰しもが知っている公然の秘密であり、その取引に人前で執着しなくてはならないことに彼は耐えられないのであった。私は体を乗り出して、マンチーニに、一体あの資産はどのくらいの値打があるものなのかと尋ねてみた。「私には、おそらく百万リラの値打があります」彼は答えた。「しかし、ほかの人間には、一文の価値もないんです」
「つまり、あなたがたがあの山荘をボイコットすれば、ヴァルディニは丸損をするってことですか?」私は聞いた。
「ヴァルディニ?」彼は蔑《さげす》むように笑った。「ヴァルディニなんていうのは、あれはシチリアのけちな下っ端《ぱ》ギャングですよ。あの男は何も損なんかしやしません。自分の金じゃないんですから」
「じゃあ、誰かに代わって競売に来ているというわけですか?」
マンチーニはうなずいた。「フォレッリ伯爵夫人、だと思います。今、人を遣《や》って調べさせていますがね」
競売人は待ちくたびれて槌を上げた。マンチーニはまた一万リラ競《せ》り上げた。
「百五万」ヴァルディニの単調な声が返ってきた。
「百六万」
「百十万」
「いったい何のつもりなんだろう」マンチーニは腹立たしげに私に言った。「そんなに金を注《つ》ぎこんだって儲かるわけがないんだから。何か別の秘密の理由があるんですよ。あのフォレッリという女が何か企《たくら》んでいるんです。あれは悪知恵の働く女ですから」
さっき部屋を出て行った男が戻ってきて、マンチーニに何か耳打ちした。彼が「何でまた?」と聞きかえしているのが聞こえた。男は肩をすくめた。マンチーニは顔を上げてさらに高値をつけた。それから私に向かって彼は言った。「やっぱり、フォレッリです。それにしてもどうしてか、私にはわけがわかりません。何かあるはずです。その理由がわかって、金を出すだけのことがあるとはっきりすれば、私は何としてもあの女の鼻をあかしてやりますよ。でも、金を無駄に捨てるわけにはいきませんからね」彼はもはや競《せ》りの天井に近づきつつあった。私は彼に同情を覚えた。彼は私に勇気がない、山っけに欠けた男だと思われたくないのだ。イギリス人の前で敗北を演じるのは彼にとっては辛いことなのだ。
つけ値は徐々にせり上がり、ついに百五十万リラに達した。そこでヴァルディニは駄目押しの一声とばかりに一気に値を吊り上げて部屋じゅうをあっと言わせた。百五十万から彼は、ひと思いに二百万の声を掛けたのである。その声には勝ち誇った響きがあった。マンチーニがもはや応酬しようとはすまいと読んでいたのだ。
ヴァルディニの読みは正しかった。競売人が意志を問うようにマンチーニの顔を見ると彼は肩をすくめて立ち上がった。競売は終わった。マンチーニは、馬鹿げた商売からはさっぱりと足を洗うのだとでもいうような態度で、衆人環視の中でいさぎよく負けを認めたのである。競売人は槌を取り上げた。もうさっさと切り上げようといったふうだった。
ところが、彼が槌をふり降ろそうとする刹那《せつな》、どこからか鋭い声が飛んだのだ。「二百五十万!」
部屋中にどよめきが起こった。二百五十万リラ!
マンチーニは腰をおろしながら部屋の中を見まわした。どよめきが走ると、部屋は水を打ったような沈黙に閉ざされた。私はヴァルディニのほうをふりかえった。新しい相手の出現に、最前までの勝ち誇った様子は掻き消されていた。彼は見るからに不様《ぶざま》な表情を浮かべていた。競売人は新しい入札者を目で捜した。ダークグレイのスーツを着た小柄な顔色の悪い男だった。男はきゅうくつそうに背の高い堅い椅子に坐っていた。葬儀屋を思わせるような男で、その身なりからは、さほど金があるとは思えなかった。もう一度つけ値を言うようにうながされると、男は前と同じ、はっきりした声で二百五十万と繰り返した。
競売人はヴァルディニのほうに目をやった。彼は不安げにうなずくと、二百六十万にせり上げた。
「三百万」その声は鋭く無表情だった。男の声に、押し殺したように起こりかけていた興奮のざわめきはぴたりと止んだ。
「信じられない」私はメインに言った。
メインは新しく出現した入札者をじっと見つめていた。私の声など耳に入らないらしかった。私はマンチーニに尋ねた。「今声を掛けてる痩《や》せた人は誰なんです?」
「ヴェニスから来てる弁護士です」彼は言った。「大きな企業のお抱えの事務所に籍《せき》があるんです。あの男も、やっぱり雇われて競売に来ているんですよ」マンチーニの声には不安が明らかに示されていた。彼は大企業のシンジケートが財力にモノをいわせてコルチナに乗りこみ、彼や、彼の同業者たちを追い出すかも知れないことを考えていたのだ。
ヴァルディニはいきなり五十万リラ吊り上げた。値をつける彼の声はやや上ずっているようであった。かなり乱暴な出方だった。「ショック戦法ですね」私はメインにささやいた。
彼は相変わらず目を細めて会場の様子に見とれていた。見ると椅子の腕を握っている彼の手の甲はまっ白に血の気を失くしていた。彼はすっかり競売に夢中になっているのだ。急に彼は我《われ》に帰った。「え?……ああ、ショック戦法ね。そうそう。ヴァルディニもそろそろ天井に近いんですよ」そう言うと彼は再び張りつめた態度で成行きを見守った。
小柄な弁護士はやや面喰《めんくら》ったようだった。彼はじっとヴァルディニの様子をうかがった。ヴァルディニはうろたえていた。彼の目はせわしなく部屋のあちこちに走った。部屋じゅうの視線は彼に集中していた。彼が限界に近づいたことを、誰もが感じ取っていた。興奮をはらんだひそひそ話が部屋じゅうを満たした。弁護士の冷たい声が私語をぴたりと押えた。彼は四百十万の声を掛けたのである。
部屋じゅうがあっと言った。弁護士はヴァルディニの限界を四百万と踏んだのだ。ヴァルディニの顔を一目見れば、弁護士の読みが正しいことがわかった。もはや競り合いは彼の手に負えなくなってしまったのだ。彼は競売人に、依頼主に相談の電話をさせてほしいと言った。許可されなかった。ヴァルディニは懇願《こんがん》した。依頼主は競売がここまで白熱するとは予想していなかったのだと彼は説明した。競売人自身ですら、こんなことになろうとは思っていなかったではないかという意味のことを彼は言った。こんなことは滅多にあるものではない。こうした状況では競売人は入札者が依頼主に指示を仰ぐことを許してしかるべきだ、というのがヴァルディニの言い分であった。競売人はそれを認めなかった。
競売人と部屋の一同はじっとヴァルディニの結論を待ち構えた。彼がもっと続けたいと思っているのは明らかだった。しかし、一存で続けるわけには行かないのだ。槌は上がった。槌は一瞬宙に止まり、競売人は眉を上げてヴァルディニのほうをうかがった。そして、ついに槌は打ち降ろされた。
驚異の競売は終わった。スリットヴィアは正体不明の何者かの手に落ちた。
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三 陰謀
競売の後の祝宴はなかった。部屋じゅうの男たちは何人かずつのグループにかたまり、興奮した様子で身振りを交《まじ》えながら口々に何か言い合っていた。マンチーニはコルチナでホテルを営む男たちの大半を引き連れて話合いのために出て行った。メインがどこへ消えたのか私は知らない。彼はいつの間にか一人でどこかへ立ち去ってしまっていた。私はルナの食堂で一人ぼっちの昼食をしながら、いったいこうしたことがイングレスと何の関わりがあるのだろうかと考えていた。
コル・ダ・ヴァルダに戻った時はまだ陽も高く、何組かのスキー客の姿があった。私はまっすぐ部屋に上がり、イングレス宛の競売の報告を書いた。それが終わって階下に降りていくと、もうスキー客は全部引き揚げた後だった。ヴァルディニがいた。彼はバーで飲んでいた。彼は盗み見るような目つきをしていた。
「運が悪かったね」何か言わなくては気づまりで、私はそう言った。
彼は肩をすくめた。何でもない様子をして見せたかったのだろう。しかし彼は酔っていた。表情を隠すことはできなかった。彼の顔は醜悪なほどみじめであった。私はこの成り上がりの小男に同情を禁じ得なかった。「気を落とすことはないよ。マンチーニには競り勝ったんだから」私は彼を元気づけようとして言った。
「マンチーニ」彼は吐き捨てるように言った。「あいつは馬鹿者さ。何も知っちゃあいないんだ。ところが、もう一人のやつは……」突然彼は泣きだした。彼の泣き顔は、とても見られたものではなかった。
「気の毒だったね」私は言った。私の声は何となくわざとらしかったように思う。
「気の毒だ?」彼はがらりと態度を変えて怒鳴《どな》った。「何で、あんたが気の毒だなんて言うんだ? この俺の……このステファンの気持ちがわかるものか。俺はな、ここの持主になるはずだったんだ。ここは俺のものになるはずだったんだ」彼は腕を大きく広げてみせた。そして彼は付け加えた。「そうとも。俺のものだ。……ここにあるものは何もかも」彼は意味ありげな視線を私に向けた。
「つまり、ここはフォレッリ伯爵夫人のものになるはずだった、ということだね?」私は言った。
一瞬、彼は醒《さ》めた目つきで私を見た。「あんた、ちょっと知りすぎてるな、ブレア」彼は言った。「少しばかり、知りすぎた男だ」彼は頭の中で何やら考えをめぐらせているようだった。その顔は醜《みにく》かった。私はマンチーニが彼のことを言った言葉を思い出した。……「シチリアのけちな下っ端ギャングですよ」マンチーニがそう言った時、私はただ彼が腹立ちまぎれにそんな言葉を使ったのだろうと思った。けれども面と向かってその顔を見ていると、あるいはヴァルディニは本当にそういう人間なのではないだろうかという気持ちがしてきた。
見晴らし台の木造の階段を登ってくる足音がして、ドアが勢いよく開いた。伯爵夫人だった。彼女は怒り心頭に発していた。顔に、目の色に、そして動作の端々《はしばし》にそれは歴然と示されていた。彼女は白ずくめの服装をしていた。スキースーツも白。手袋も白。雪帽子《タモシャンター》も白だった。ただ、スカーフとソックスは赤だった。彼女はヴァルディニをまっ向から睨《にら》みつけた。小男は、まるで空気が抜けて、しぼんでいくかと思われるほどに縮み上がった。彼女は私を無視してバーの奥に向かって呼んだ。「アルド!」
猿のような男は走り出てきた。彼女はコニャックを言い付けて、陽の当たるテーブルへ行って坐った。
「ボスがお呼びらしいよ」私はヴァルディニに言った。
彼は私を睨んだが、それ以上何も言おうとはせず、コニャックを運ぶアルドの後から見晴らし台へ出ていった。アルドは戻ってくると、バーのカウンターの下から電報の入った封筒を取り出し、「あんたにだよ、シニョーレ」と言って差し出した。
「いつ来たの?」私はイタリア語で聞いた。
「今朝だよ、シニョーレ。あんたが出かける前に。エミリオが迎えにくる時、持ってきたのさ」
「だったら、何だってその時僕に渡さなかったんだ?」私はかっとして言った。「これは電報だよ。急ぎの用だってことぐらいわからないのかい?」彼はへらへらと笑い、彼の頭の足りなさを示す以外の何物でもない、両手を広げるいつもの格好をして見せた。
私は封筒を裂いた。イングレスからで、電文はこうだった。
セリニユカレタシ」マンチーニ ラクサツセヌトキハ イソギショウサイ シラセコウ」 イングレス
私は電報をたたんでポケットにしまった。マンチーニに落札しなかった場合は至急連絡しろと言ってきている。イングレスは覆面《ふくめん》の入札者がいることを知っていたのだろうか? それにしても、コル・ダ・ヴァルダを誰が買い取ろうと、それが彼にとって何の意味があるのだろう? いずれにせよ、至急連絡しろということであれば、私は電報を打ちに、もう一度コルチナの町へ降りなくてはならない。私はスキーで行ってみることにした。ローマからトルミノへ行った時以来だから、スキーをするのは二年ぶりだった。スキーの仕度に行きかけて、私はずっとアルドに聞こうと思っていたことを思い出した。ヴァルディニが競売で声を発した時から、ずっと私の頭に引っかかっていた疑問だった。「あんた、僕たちが来たとき部屋を貸したがらなかったね」私は彼にイタリア語で言った。「ヴァルディニさんに、客は追い帰すように言われていたからだろう、ちがうかい?」
アルドは絶望的な目つきで見晴らし台のほうを見た。答えたくないのだ。私が正しいことは明らかだった。「まあ、それはどうでもいいよ」私は言った。どうやらヴァルディニと伯爵夫人はこの山荘を買い取り次第、閉鎖するつもりだったらしいのだ。しかし何のために?
私は部屋に上がって仕度を整え、イングレスへの返電をタイプした。電文はこうだった。
バンクルワセ」 フクヘイ ヴェニスノベンゴシニ ラクサツ」 ヴァルディニ―カルラ 二〇〇マンデ マンチーニニカチ ベンゴシ 四〇〇マンデ ヴァルディニニカツ」 ブレア
階下に戻ってみると伯爵夫人が一人でバーにいた。ドアのほうへ向かう私に、彼女はいきなり声をかけた。「ブレアさん!」
私はふりかえった。彼女はバーに寄りかかるようにして立っていた。その目は差し招くようだった。大きな口は、端を心持ち吊《つ》り上げるようにして微笑しているところが、いかにも魅力的だった。「ご一緒にいかが?」彼女は言った。「私、一人ぼっちで飲むの、好きではないの。それに、あなたとお話がしたいわ。あの私の写真のこと、もっと聞かせていただきたいの」
私は、具合が悪いなと思った。彼女はきつい女だ。私はきつい女が苦手なのだ。「せっかくですが」私は言った。「コルチナまで行かなくてはならないものですから」私の声は冷たく、そっけなかった。
彼女は軽蔑と失望の入り混じった表情で口の端を歪《ゆが》めた。目には笑いが浮かんでいた。彼女は飲みさしのグラスを空けると、私のほうへ寄ってきた。彼女のスキーブーツはむき出しの板張りの床の上でほとんど音を立てなかった。彼女はその靴で踊ることだってできたろう。
「私から、そう簡単に逃げられやしないわ」彼女はそう言うと、媚《こ》びた笑いを見せながら、しなやかな褐色の手を私の腕にそっとからませてきた。「私もコルチナに帰らなくてはならないの。送ってくださるわね?」私の返事を待つかわりに彼女は大袈裟な声で言った。「まあ、イギリス人て、どうしてこうお堅いのかしら。笑おうともしなければ、楽しくやろうってこともないのね。女と見れば警戒して。控え目で、威厳たっぷり」彼女は笑った。「でも、あなたは素敵だわ。何て言ったらいいかしら……雰囲気ね。あなた、素敵な雰囲気を持ってらっしゃるわ。さあ、コルチナまで、私を送ってくださるわね。どう?」
彼女は首を傾《かし》げて私を見上げた。その目には悪魔的な光があった。それが私の心を寛《くつろ》がせないのであった。「お願い。そんなにむずかしい顔をなさらないで、ブレアさん。私、途中であなたを誘惑したりしないわ」彼女は溜息をついた。「前だったら……そんなこともしたけれど。でも今はもう、年齢《とし》ですもの」彼女は肩をすくめて、自分のスキーのほうへ歩いていった。
「送っていただくのは私のほうじゃないかと思いますよ、伯爵夫人」スキーを着けながら私は言い訳した。「何しろ二年ぶりだもので」
「大丈夫よ」彼女は言った。「すぐ思い出すわよ。それにコルチナまではそれほどむずかしいコースではないわ。はじめのうちはかなりステミングしなくてはならないけれど、でもその後はまっすぐよ。用意はいい?」彼女は樅《もみ》の森を見下ろすスロープの下り端《はな》に立っていた。
私の足はまるで思うように動かなかった。その朝ジョーが、まるでカヌーをくくりつけたようだと言っていたのを私は思いだした。まさに、そのとおりの感じがした。コルチナへ行くなどと言うのではなかったと悔やまれてならなかった。「ええ、用意はいいですよ」私はそう言って見晴らし台の前を横切り、スロープのほうへ滑っていった。
彼女は手袋をはめた華奢な手を私の腕に置いた。彼女はすっかり態度を変えていた。「私たち、仲良しになれそうね」彼女は言った。「ニールと呼ばせて。いい名前だわ。あなたは私のこと……カルラと呼んで」彼女はその言葉がはっきりと私の耳に届いたことを確かめるように、ちらりと素早い視線を私に投げ、にっこり笑うとストックを一閃《いっせん》して黒い樅の森をめがけて斜面に身を躍らせた。私がスロープの上で呆気に取られて立ちつくしていると、森の中から彼女の「リベラ!」と言う叫びが舞い上がってきた。すでに彼女はモンテ・クリスタッロからのスキーコースがコル・ダ・ヴァルダとコルチナを結ぶコースに合する地点に達しているのであった。
私はストックで自分の体を押し出した。スロープにかかって私のスキーの先端がぐいと傾いた。と見る間に私の体は冷たい空気を割《さ》いてまっしぐらにスロープを飛んでいた。スロープの凍った雪に、スキーが鳴った。私はできるだけゆっくり滑った。急斜面で制動を効《き》かせると、私の足首は痛んだ。カーブを曲がるのもやっとの思いだった。実際にはスロープはさして急ではなかった。しかし、馴れない私には、まるでスキーが樅の黒く太い幹を一気に滑り降りているかと思われるほど、傾斜は急に感じられた。伯爵夫人が何と思って突然自分の正体を明かしたのか、考えている閑《ひま》はなかった。精神も肉体も、ただ斜面を滑り降りることだけに集中していたのだ。
斜面の中ほどあたりで、彼女は陽の光を受けて私を待ち受けていた。真っ白い雪の中ではクリーム色に見える白無地のスキースーツを着た彼女の姿は、まるで幻を見るようであった。私は勇を鼓《こ》してハーフ・クリスチャニアを試みた。どうやらうまくいって、私は彼女の目の前に雪を蹴散《けち》らしながら止まった。多少へっぴり腰であったかもしれないが、とにかく私はやったのだ。もともとスキーはあまり得意でない上にひさしぶりのことだった。だからかなりの勇気がいったのである。
「ブラボー」彼女は拍手した。彼女は煙草をくわえ、私に箱を差し出していた。
私は一本抜いた。自分でもかなり満足していた。私はいいところを見せたかったのだ。彼女の低い「ブラボー」というほめ言葉に、私はすっかり気をよくしたのである。彼女の煙草に火をつけてやりながら、私の手は昂《たか》ぶりにふるえていた。
しばらく二人は無言だった。気まずい沈黙ではなかった。それは、これからどこへ向かおうかそれぞれに考えている二人の人間の沈黙とでもいうべきものだった。森の中はひっそりと静まりかえり、陽射しは暖かだった。私は体じゅうが汗ばみ、何やらわくわくするような気持ちだった。煙草はトルコ葉のもので、雪に閉ざされた森の静寂の中でその香りはことさら異国を思わせた。私はせわしなく考えをめぐらせていた。彼女が何を言い出すか、私にはわかっていたのだ。そのためにこそ、彼女は煙草を吸いに足を止めたのだ。私はどうしてあの写真を手に入れたか、もっともらしい説明を考えておかなくてはならなかった。それにしても、イングレスはどうしてあれを手に入れたのだろう? 私は彼女をそっと見た。彼女は烟《けむり》のベールの向こうから、ひそかに私の様子をうかがっていた。私が何か言うのを待っているのだ。私は意を決して沈黙を破ることにした。「やっぱり、あなたの写真だったんだね」私は何気ない調子に響くことを祈りながら言った。
彼女は深く煙草を吸ってから、「そうよ」と言った。奇妙に低い声だった。「あなたの言うとおり。私は以前、カルラ・ロメッタと呼ばれていたわ」彼女はそこでやや言いよどんだ。私は待っていた。やがて彼女は言った。「まるで知らない方にしては、あなた、私のことをよくごぞんじのようね。私たち、前に会ったことはないでしょう?」
「ああ、会ったことはないよ」
「嘘を言ったのね」
「話のきっかけが必要だったからね」
「やっぱり、はじめて会うのね。だのに、あなた、私の写真を持っていらっしゃるの。あの写真……ずいぶん前にベルリンで撮ったんだわ」
「そう、ベルリンで撮影されたものだね」
「見せてくださる?」
「今、持っていないんだ」私は嘘をついた。
彼女は一瞬探るように私を見た。「そう。それにしても、会ったこともないあなたが、私の写真を持ってるなんて、不思議ね。どうしてだか、お願い。話してくださらない?」彼女は私を見つめていた。私は煙草をじっと味わっているふりをした。「私、サインしたでしょう。それに、何か書いたわね、写真の上に」彼女は言った。
私はうなずいた。
「何て書いてあったかしら……おっしゃってよ」彼女の声は微かにふるえていた。
「ハインリヒに宛てたものだった」私は言った。
彼女の唇から吐息が洩《も》れた。彼女はしばらく黙っていた。やがて彼女は言った。「あなた、私のことをずいぶんごぞんじのようね。ステファンに聞いたけれど、あなた今日競売にいらしたのね。それに、彼が私に代わってコル・ダ・ヴァルダを買おうとしていたことも、あなたは知っていらっしゃるんでしょう。どうしてそんなにごぞんじなの?」
「エドアルド・マンチーニから聞いたのさ」私は答えた。
「あの憎たらしい年寄りね!」彼女は短く笑った。「コルチナで、あの人の知らないことはないんだから。あの人は毒蜘蛛《どくぐも》よ。誰が買ったかも、あの人からお聞きになった? ステファンと競《せ》り合ったあの小柄な人は、あれはただの弁護士よ」
「それは聞いていないんだ。彼は話してくれなかった。ただ、あの男はヴェニスに事務所があって、大きな企業の仕事をするんだとだけ話してくれたよ。ホテルや観光会社の強力なシンジケートがあの山荘を買い取ったんじゃないかって心配していたようだった」
「あるいはね」彼女は言った。「でも変ね。大きな企業が、コル・ダ・ヴァルダみたいな山小屋一つ買うのに、あんな大枚のお金を出すかしら」彼女は肩をすくめた。「あなたはきっと、私がなぜあんなお金を出してまであそこを買おうとしたのかっておっしゃりたいんでしょう。そうね?」
「興味がないとは言えないね」
「でも、なぜ?」彼女は言った。その声にやや苛《いら》立ちがあった。「私のことに、あなたはどうしてそんなに興味をお持ちなの? あなたは映画の台本を書きにここへいらしているんでしょう? そういうことになっているわね。でも、あなたは私の写真を持っているし、私の本名も知っている。競売を見に行くほど、コル・ダ・ヴァルダに興味もあるのね。あなたにどんな関係があるっていうの? 聞かせていただきたいわね」
私は何と言うか決めていた。彼女がシナリオのことを口にしたので、私の頭にある考えが閃《ひらめ》いたのである。辻褄《つじつま》はうまく合いそうだった。「映画の台本を書きにきているというのは本当だよ。つまり、僕はそういう商売だものでね、自分のまわりで起こる珍しいことには何でも興味を持つんだよ。物書きというのはね、すべて自分の会った人間、見聞きしたこと、人から聞いた話、そういうものから材料なり、主題なりを見つけてくるんだ。われわれの書くものは、一から十まで自分の経験や、読んだ知識に基づいているのさ。僕はあなたの写真を持っていた。でも、あなたや、あなたについてのいろいろなことは何一つ知っていやぁしなかった。僕にとっては、あなたはハインリヒという名前に関わりのある一つの署名でしかなかったんだ。ところが、ハインリヒ・シュテルベンはカルラ・ロメッタという踊り子と関係していたということを僕は読んだ。その新聞記事を読んでから、ほんの何時間後かに、僕はあなたに会ったんだ。そこへ持ってきて、次の日に、あなたがあのコル・ダ・ヴァルダを買い取るために、とてつもない大金を投じようとしていることを知った。しかも、それはかつてハインリヒ・シュテルベンの財産だったんだろう。互いにこんなに関わりのありそうなできごとが次々に起こったら、興味を持つなと言ったって無理じゃないか」
彼女はしばらく口をつぐんだ。彼女は煙草も忘れてそこに立ちつくし、じっと私を見つめた。当惑の表情が彼女の顔を横切った。どうやら私の話に納得したらしく、やがて彼女は言った。
「じゃあ、写真は? どうしてあなたが持っているの?」
「僕の興味については説明したよ。残るはどうして写真を僕が持っているかという点だけだ。それを話す前に、コル・ダ・ヴァルダを買うために、あなたが四百万リラも払おうとするのはなぜなのかという、僕の好奇心に答えてくれてもよくはないかな? 失礼」私は言い足した。「僕にこんなことを聞く権利はないね。……ただ、ちょっと興味があって。そうやたらにある話じゃあないから」
「わかったわ。取引しようって言うわけね。私がなぜコル・ダ・ヴァルダを買いたいと思ったかを話したら、どうしてあの写真があなたのポケットに入りこんだのか、話してくださるのね。でも、あなたそれはあんまりだわ。あなたは私に、私の心を開いて見せろって言ってるのよ。でも、あなたにそんな権利はないわ。ところが、私のほうはあなたに写真のことを聞く権利があると思うの。ずっと昔、私があるとても親しい人にあげた写真よ」彼女の声は、ほとんどささやくように低くなっていた。
私は、どうも旗色《はたいろ》が悪くなったような気がしはじめた。考えてみれば、そもそも私には関わりのないことなのだ。彼女はおそらくハインリヒ・シュテルベンの情婦だったのであろう。そして彼女には、どんなに馬鹿らしい値段であろうと、スリットヴィアを買いたければ好きなように買う権利があるのだ。まあしかし、いずれにせよ、私は写真については出鱈目《でたらめ》を話す腹を決めていた。すでに山荘をめぐる私の関心についても、私は彼女に嘘をついているのだ。
私はいっそのこと彼女に謝って、早くコルチナへ行こうと言おうかと思った。その時、彼女が言った。「まあ、どうでもいいわ。あなたが誰にも話さずにおいてくだされば。約束してくださる?」
私はうなずいた。
「あの写真を撮ったのは戦争がはじまる直前よ。私はベルリンで踊り子をしていたの。ハインリヒはゲシュタポにいたのよ。もう奥さんがいたわ。だから用心しなくてはいけなかったけれど、私たち愛し合っていたし、とても幸せだったわ。そのうち戦争がはじまったけれど、私は彼のそばを離れなかったの。ずいぶんあちこちに行ったわよ。チェコスロヴァキア、オーストリア、ハンガリー、それからイタリア。素敵だったわ」彼女は再び低く静かな声に戻っていた。彼女の黒い大きな目は私を通り越して、深く暗い樅《もみ》の森に注がれていた。「そのうちにドイツが敗けて、ハインリヒはコモ湖のそばのある村で捕まったの。でも彼は脱走して、私たち、すぐまた一緒になったわ。彼はコル・ダ・ヴァルダを買い取ったの。それはね……」彼女は急に私の顔を探るように見つめた。「こんなこと言って、あなたにわかるかしら。イギリス人て冷たい人種ですものね。彼がなぜあそこを買ったかっていうと、あそこが私たちのはじめて出会った場所だったからなのよ。一九三九年の一月だった……。お天気のいい、暖かい日でね。私たち、見晴らし台に坐って何時間も、おしゃべりしたり、お酒を飲んだりしたわ。それから休暇が終わるまで、私たち毎日あそこで会ったの。それで、その年もしばらく経ってから、私、彼の後を追ってベルリンに行ったの。彼は私のために、ベルリンでも一流のナイトクラブで踊る仕事を取ってくれたわ。私たち、三カ月近くコル・ダ・ヴァルダの持主だったの。天国だったわ。そこへあの憎たらしい警察がやってきて、彼を逮捕したのよ。私がヴェニスに行っている間のできごとだったの。彼がローマのレジナ・コエリ刑務所に入れられたって聞いて、私は脱走の手引きをするつもりでローマに行ったのだけれど、その時はもう彼はイギリス軍に引き渡されていたの。すべてはそれでおしまい」
彼女の声は、ほとんど吐息に等しかった。それは永久に失われてしまった何かへの詠嘆《えいたん》の吐息のようであった。彼女は肩をすくめ、普段の低いハスキーな声音に戻って口を開いた。
「まあ私の人生の一幕が終わったというわけなの。ハインリヒに操《みさお》を立てなきゃならないってわけじゃなし、私はもともと、そういう女じゃないのよ。これまでだって男の数は多すぎるくらい。彼が生きてる間もほかに男はいたのよ。彼にとっては浮気な女だったわね。でも、私は愛していたわ。あなたは不思議に思うでしょう。何人もの男と寝ているくせに、一人だけを愛するなんてね。でも、それは本当なのよ。だから、私はコル・ダ・ヴァルダを買いたかったの。私たち、あの小屋をきれいな山の別荘にする計画だったの。逮捕された時、彼はちょうど改装に手を着けたばかりだったわ。彼はもう死んでしまったけれど、私はあそこを自分のものにしたいのよ。お金には困らないの。ハインリヒはね、ゲシュタポではかなりいいところをいっていたのよ。彼は私のために、ほとんどヨーロッパじゅうの都市に財産を残しておいてくれたわ。本当の財産よ。家とか、宝石とか……。銀行預金とか、何の役にも立たない紙のお札じゃなくってね」彼女は私の顔を見上げた。「さあ、これで全部話したわよ」
私は彼女の責めるような視線をまともに受けるのが辛かった。何とも気まずい思いがした。何もそんなに細かいことまで話してくれることはなかったのだ。私は単刀直入な質問で逃げることにした。「ステファン・ヴァルディニがあなたに代わって競売に出たのは、どうして?」
「どうして、どうして、どうして!」彼女は私を見て笑った。「あなたったら、質問ばかりね。どうしてかって、私は表に立ちたくなかったからよ」
「それはわかっているさ。でも、どうしてヴァルディニが? あの男は……その、何て言ったらいいのかな。≪いかさま≫めいたところがあるだろう」
彼女は笑った。「そのとおりよ、あなた。ほかに彼はどう見えて? 彼はいかさま師よ。可哀そうなステファン。私は彼にすごく同情しているの。私には、それは尽くしてくれるのよ」彼女は媚《こ》びを含んだ微笑みを浮かべて言った。「あなた、ステファンがお嫌いなのね。そうでしょう。あの≪きざ≫で、けばけばしい格好が。でも、戦争前の彼はあれでもなかなかのものだったのよ。彼の衣裳戸棚にはスーツが六十着と、ネクタイが三百本もあったんですもの。そのどれを取ったって、そりゃあ上等なものだったわ。ドイツ人のせいよ。ドイツ人が彼からすべてを奪ってしまったのよ。そのうちあなたにも話すでしょう。今では彼は二十着しかスーツはないし、ネクタイも八十本よ。彼、きっとあなたにもそんな話をすると思うわ。彼はもう、昔の彼じゃないの。一時は彼、地中海の東部一帯でそうとう顔のきく人だったのよ」彼女は軽く首をかしげて私を見上げた。「あなたがびっくりなさることを教えてあげましょうか。私はね、昔、彼の女《ゲアルズ》の一人だったの」彼女の女《ゲアルズ》というヴァルディニの口真似は完璧《かんぺき》だった。「どう。びっくりなさったでしょう」彼女はしのび笑いを洩《も》らしながら言った。「でも、ずいぶんこまごまと私のことをお話してしまったわね。まあ、あなたが知ってはならないっていう理由もないわ。ところがね、彼は私を好きになってしまったの。考えてもごらんなさい。自分の女たちの一人に惚れてしまうなんて、馬鹿よ。可哀そうなステファン。どうしても思い切れずにいるの。今じゃあもう、何ていうの、下り坂でしょう。そう思うと、私、彼が気の毒でしかたがないわ」彼女は肩をすくめると、軽やかに明るく笑った。「さあ、これであなたのきりがない質問には全部答えたわよ。今度はあなたが私の質問に答える番。私の写真を、どうして持っているの?」
「きっと信じてもらえないだろうと思うんだ。嘘みたいな話だから。ロンドンを発つちょっと前に人から貰ったんだよ。バーで飲んでたんだ。そうしたら、店に来合わせていたほかの客のグループの一人が話しかけてきたんだ。かなり酔っていてね。僕がイタリアへ来るって話をしたら、あの写真を出して僕にくれたんだ。ドイツ人の囚人から取り上げたものだって言ってたよ。でも、その男はもう自分はイギリスに戻ってしまったし、興味もないから、よかったら持っていけって言うんだよ。彼もそう思ったことがあるけれど、私が写真の女に出会ったりしたら面白いじゃないかって言うんだ。彼はとうとう会わなかった。まあ、そんなわけで僕があの写真を持っているんだけれど、それ以上に深いわけなんてありゃあしないんだよ」私はあいまいに言葉を結んだ。
彼女は探《さぐ》るように私の顔をのぞきこんだ。「その人の名前は?」彼女は聞いた。
「知らないんだ」私は答えた。「何しろ、ただの行きずりの男だからね」
二人の間に短い沈黙が流れた。私の話はあまりにも信憑性《しんぴょうせい》に欠けていた。けれども、その頼りなさが、かえって彼女を信じさせたらしかった。「あり得るわね。コモ湖で逮捕された時、彼を訊問したのはイギリス人だったわ。でも、どうしてあの写真をあなたは持ち歩いていらっしゃるの? 気に入っていらっしゃるから?」彼女は笑顔で言った。
「あるいは本人《オリジナル》に会えるんじゃあないかと思ってね」私は言った。
彼女は微笑んだ。「それで、オリジナルに会った感想は?」彼女は声を立てて笑った。「こんなこと聞いてはいけなかったわね。あなた、奥さんをお家に置いてらしたんですものね。そうでしょう? そうして売春婦《スカーレット・ウーマン》に出会ったところなのよね。あなたって、本当にイギリス人ね。……まぎれもないイギリス人だわ。でも、私たち、お友だち。そうね?」彼女は嬉しそうに私の腕を取った。「ね、私の気の毒なステファンに、親切にしてくださるでしょう? 可哀そうなステファン。あんな恐ろしげな小男だけれど、彼にしてみれば、あれしか仕様がないのよ。でも、彼、いい人だなと思った相手にはとても親切なのよ。あなたが、彼は親切だって思ってくださったら、私とっても嬉しいわ、ニール」彼女が私をニールとクリスチャン・ネームで呼ぶことを楽しんでいたか、あるいは私がステファン・ヴァルディニをついに好きになれまいという考えを楽しんでいたか、私は知らない。
「出発《アヴアンテ》!」彼女は言った。「ずいぶん長いこと話しこんでしまったわね。さあ、早くコルチナへ行きましょう。ちょっといかすハンガリー人とお食事する約束なの」そう言う彼女の表情は、まるで私や私のイギリスふうの考え方にペロリと舌を出しているようであった。
スキーについては私は自信を取り戻していた。コルチナまで、私たちはこともなく、楽々と下った。まっすぐな、やさしい下りだった。アルベルゴ・トレ・クロチのコルチナ側で道路を渡り、ファロリア・オリンピック競技場に達するまで、ずっと森の中を滑った。カルラとは彼女のホテル、マジスティコで別れた。「またお会いするようになるわね」彼女は私の手の中に、そっと手を置いて言った。「でも、私があなたにお話したこと、誰にもおっしゃらないでね。私、どうしてあなたにあんなにしゃべってしまったのかしら。きっとあなたが親切で、話のわかる方だからね。それじゃあ、私のステファンにやさしくすることを忘れないでね」彼女は手を引っこめながら笑った。「アリヴェデルチ!」彼女はスキーを外しにホテルの裏側へ姿を消した。
私は一人で郵便局へ向かいながら、何と不思議な、そして何と気になる女だろうと考えていた。死んだ後にもなお、あのカルラのような女を捉《とら》えて放さないとは、ハインリヒという男、よほどの魔性を備えていたに違いない。
イングレスへ電報を打った後で、私はケラミコスにばったり行き合った。ギリシャ人は木彫の民芸品を買いにいくところだった。私は一緒に行って、妻のペギーに山羊の番人を彫ったブックエンドと、マイケルにいくつかの木彫の動物を買った。土地の職人が彫った面白い細工だった。
「私はこういった店が大好きでしてね」ケラミコスはいった。「こういうところに来ると、古い民話なんかを思い出すんですよ。ほら、よくあるじゃありませんか。夜になると、こういう彫刻なんぞが生命を持って動き出すなんて話が。そんな時にこの店にいて見物してみたいもんですね」
「まっすぐ戻られますか?」店を出て私は聞いた。
「ええ、そのつもりですが」彼は言った。「しかし、まだ早いですな。バスの時間まで三十分もありますよ。お茶でもいかがです」
私はすぐさま同意した。この機会に彼はどんな人間なのか、彼がコル・ダ・ヴァルダに泊まっているのは何か特別な理由があるのか、探《さぐ》ってやろうと思ったのだ。
私たちはバスストップの向かいの小さなカフェに入った。店の中は暖かく、一日中せわしなく飛びまわって疲れた体を寛《くつろ》がせている客たちでいっぱいだった。ウェイトレスが紅茶を運んできた。私はどうやったらうまく彼自身のことを話題にできるだろうかと、あれこれ考えあぐねていた。ところが、私がまだ何から切り出そうかと決めかねているうちに、彼のほうが口を開いたのである。
「不思議なところですな、あの山荘は。われわれが、どうしてあそこに集まってきたのか、考えたことはおありですか? あなたの相棒の、ウェッスン……あの人は単純だ。あの人は写真を撮りにきている。しかし、ヴァルディニはどうです? ヴァルディニは何のためにあんなところにいるんですか? あの男は、別にスキーに夢中だってわけでもなし。あれは女だの、夜のさかり場を好む男ですよ。夜の鳥というやつです。それに、あのメイン。メインはコル・ダ・ヴァルダで何をしているんですか? あの男はスポーツマンだ。ところが、あれも女は嫌いじゃない。ああいった男がこんな山の中にひっそり暮らすのは、練習でもする場合にかぎるんじゃありませんか。ところが、あの男は夜明けとともにスキーをはいてでかけていって、日暮れに、眠るだけのために戻ってくるかというと、そうではない。あの男は競売見物なんかに出かけているんですな。あなたと同じで。人のやることっていうのはそれぞれで、いや、実に面白い」彼は厚い眼鏡の奥から、瞬《またた》きもせずに私を見つめた。
私はうなずいた。「本当に、面白いですね」私は同意した。それから言った。「それに、あなた自身も加わっておいでです」
「そうそう。そのとおり、私もここにいる」彼は丸い頭でうなずきながら、自分自身がコル・ダ・ヴァルダに滞在していることを考えて何やら面白がっている様子だった。
「どうなんです、ケラミコスさん。あなたは何のためにあそこに泊まっておいでなんですか? ヴァルディニは、あなたはコルチナのほうが好きなんだって言ってましたよ」
彼は溜息をついた。「あるいは、そうかもしれません。しかし、私は寂しいのも好きですよ。私の人生には、あまりにもいろいろなことがありました。コル・ダ・ヴァルダは静かなところです。ああ、いやいや、私のことは止めましょう、ブレアさん。あなたとだったら、他人の話のほうがいい。ヴァルディニのことを話しましょうか。ヴァルディニは、あれは下心があって、あそこに泊まっているんです。あの男は、知合いの、あの伯爵夫人のためにあの山荘を買い取ることになっていたんですよ。ところが、どうやら今朝の競売で、落とし損《そこな》ったそうですな。ところで、私が興味を持っているのはそこなんですよ。あそこが人手に渡った今も、あの男はまだこの先、あの山荘にい続けるかどうかということです」
「あなたの予測では、どうなんです?」
「予測? 私は予測なんていうことはしません。知っていますから。あの男はあそこにい続けますよ。私は知っているんです。あなたが映画の脚本など、お書きになりはしないのだということもね」
彼は鋭い目つきで私を見つめていた。私はいたたまれない気持ちだった。話はまるで私の思う方向とは違った方へ進んでいる。
「まだ、仕事にかかっていませんからね」私は言った。「背景や材料になる話を集めている最中ですから」
「ははあ、背景ね。なるほど、都合のいい説明ですな、ブレアさん。物書きは、どんなに妙なことをしても、背景を調べてる、構想を練《ね》ってる、人物設定を考えてる、なんて言えば説明がつくから便利ですな。しかし、あなたの筋立てには、競売が出てくるんですか? フォレッリ伯爵夫人よりもましな登場人物はお考えにならないんですか? どうです。私はいろいろとよく見ているでしょう。私の観察では、あなたはスキー映画の物語を考えることよりも、コル・ダ・ヴァルダで、あなたの身のまわりに起こるいろいろなことのほうに、よほど興味がおありだ。違いますかな?」
「もちろん、それは興味がありますよ」私は開き直った。攻撃に転じたのである。「たとえば、僕はあなたに非常に興味を持っています、ケラミコスさん」彼は眉を上げて微笑んだ。「あなた、夕べあの山荘で会う以前からメインをごぞんじですね」これは当てずっぽうだった。私は確信があるわけではなかったのだ。
彼はティーカップを置いて言った。「ほほう、気がつかれましたか、え? あなたは、なかなか観察が鋭くておいでだ、ブレアさん」彼はしばらく考えこんでいた。「どういうわけで、そんなに鋭く観察なさるんですか?」彼は独り言のように言った。そして、なお考えこむ様子で、ゆっくりとカップを口に運んだ。「ウェッスンはほとんどまわりのことに興味がない。あの男は要するにカメラマンです。一生懸命撮影している。ヴァルディニについては私はよく知っています。メインもそう。ところが、あなたのことが、どうも私にはよくわからない」彼はやや言いよどんだ。
「あることを話しましょうか」突然彼は言った。「あなた、そのことをよくお考えになるといい。あなたのおっしゃるとおり、メインの顔はすぐわかりました。あの男は前から知っています。あなた、あの男のことをあまりごぞんじではありませんね。どんな男とごらんになりますか?」
「なかなか感じのいい人だと思いますね」私は答えた。「教養もあるし、人当たりもいいし……それになかなか味《あじ》な個性もあるし」
ケラミコスはにやりと笑った。「魅力的な個性ですか、え? それにあの男はあちこちよく歩いていますよ。禁酒法時代にあの男はアメリカにいました。それからイギリスへ帰って、一九四二年にイギリス陸軍に入隊しています」彼はちょっと言葉を切って考えてから続けた。「ブレアさん、彼がイタリア出征中に脱走したという話は興味がおありですか?」
「どうしてそんなことをごぞんじなんです?」
「ギリシャでは、あの男は私のためにずいぶん役立ってくれました」ケラミコスは言った。「一時、あの男は脱走兵ばかりを集めてナポリを根城《ねじろ》に徒党を組んでいましてね。いろいろな国籍の男が寄り集まった、あまり芳《かんば》しくないグループでした。そいつは結局憲兵隊が一掃しましたがね。それであの男はアテネへやってきたのです。アテネで彼は国連救済復興会議の役員になりすまして、そこで結構はばをきかせていましたよ」彼はにやりと笑って大きな銀の時計を取り出した。「そろそろ行かなくては」彼は言った。「あなた、バスを逃しますよ」彼は立ち上がって勘定をすませた。私も立った。客たちの声や食器の触れ合う音、それらが渾然《こんぜん》となった店内の物音が私の頭を八方から押さえるように包んでいた。そして、そのために私は、あのギリシャ人の言ったことを果たして理解したのかどうか、自分でも確信が持てないほどだった。
外は寒く、落日が小さな街の上に聳《そび》えるドロミテの峰々を染めていた。微妙な青さを見せた夕暮れの空を背に、山は燃え上がっているようであった。
「彼はギリシャであなたのためには何をしていたんです?」バスストップへ向かって歩きながら私は聞いた。
彼は片手を上げて言った。「もう充分に話したはずですよ。あなたは観察の鋭い方だ、ブレアさん。しかし、いきすぎはいけませんよ。ここはイギリスじゃない。ほんの数マイル行けばオーストリア国境です。その向こうにはドイツがある。われわれの後ろはフランスです。あなたは、なるほど前にイタリアに来られたことがおありかも知れない。しかし、それは軍隊での話でしょう。あなたは強大な組織の一部であったわけだ。しかし、今のあなたは、ただの一市民ですよ。ここは不可思議な、病んだヨーロッパです。何が起こるかわかったものじゃあありませんよ。面倒が起こった場合、当局はそりゃあもう、無力なもんです。どうすることもできやしません。この贅沢な世界や、戦争で太った男や女のいる向こうに、大きな人間のジャングルがあるんですよ。そのジャングルにはね、飢餓《きが》と恐怖が満ちみちているんです。適者生存の厳しい世界ですよ。私があなたに、メインのことを話したのは、あなたがこのコルチナの快適な市民社会から足を踏み出して、あのジャングルに迷いこまれたりしてはいけないと考えているからです」彼はまるで何の意味もない言葉を発したかのように、屈託《くったく》のない顔でにっこり笑った。「恐れ入りますが、アルドに、私は夕食には帰らないからとおっしゃってください」
「でも、一緒にバスで戻られるんじゃなかったんですか?」
「いいえ。ただ、あなたと二人だけでお話がしたかったもので、ああ言ったわけですよ。英語のことわざがあるじゃありませんか……≪世界を知るにはあらゆる人と接しなくてはならない≫。ああ、忘れないでください。世界は今や決していい世界じゃあありませんよ。おやすみなさい、ブレアさん」
私は彼のがっしりした体が舗道の人混みを押し分けるように進み、やがて見えなくなるのを見送り、茫然とした気持ちばかりを道連れに、待っていたバスに乗りこんだ。あのギリシャ人はどういうつもりなのだろう? 私にメインに対する疑いを植えつけて、どうする気なのだろう?
帰ってみると、山荘にいるのはジョー・ウェッスンだけだった。彼はむっつりとした顔で私を迎えた。「あんた、いったいどういうつもりなんだ、ニール?」彼は私に飲物のグラスを差し出しながら不機嫌に言った。
「本も書かないで、競売なんかに行ったことかい?」
「つまり、その、俺が見たかぎりじゃあ、あんた、ここへ着いてからまだ一字も書いてないだろう。どうかしたのかい? 気持ちが集中できないとか、そんなことかね?」
「食事をすませたら、取り戻すよ」私は言った。「はじめの部分はだいたい考えがまとまったから」
「そいつはよかった」彼は言った。「俺は少々心配になりはじめていたんだ。知っているよ。ほかの脚本家がそうやって行き詰《づ》まってるのを、こっちは何度も見ているからな。撮影とはわけがちがうものなあ。まずは頭の中ででき上がってなきゃいかんわけだ」映画のような殺伐《さつばつ》とした世界にいるにしては、彼は珍しく温かい男だった。「競売はどうだった?」
私は彼にあらましを話した。
「それで俺が帰ってきた時、あのヴァルディニのやつはしょげこんでいたんだな」私が話し終わると彼は言った。「シチリアのギャングか。へへえ。まったく、そういう面《つら》をしているぜ。あの伯爵夫人だとかいう、やつの女には近づかないほうがいいぜ、ニール。俺は一度シチリアに行ったことがあるんだ。まあどこへ行っても埃《ほこり》と蝿《はえ》さ。……夏だったな。俺は宿屋《ペンシオーネ》の娘とかかずらわっちまってなあ。その娘の男の一人が、ナイフを抜いて向かってきやがった。その頃は俺もまだ若くって、今みたいにモタモタしちゃいなかったさ」
その晩、山荘で食事をしたのは私たち二人だけだった。広い食堂はことさらがらんとして、妙に静まりかえっているように感じられた。私はどこかからじっと見られているような気がした。私たちはぼそぼそと低い声で話した。もっとも食事の間、二人はあまり話さなかった。私は自分がやけに緊張しているのを感じた。いつか私は、ほかの三人がどこで何をしているのだろうかと考えていた。外の世界で、いったい何が起こっているのだろう? そして、ここに何が起ころうとしているのだろう? 何か、モンテ・クリスタッロの肩のあたりにぽつんと建っているこの山荘が、事件の起こるのを待ち受けてでもいるように感じられるのであった。
食事をすませると、私はすぐ自分の部屋に引き取った。ジョーには、私が仕事をしていると思いこませなくてはならなかった。私は仕事をしたかった。私はタイプライターの前に坐って、あの朝ロンドンでイングレスに会うまで私やペギーがどれほど惨《みじ》めな思いをしていたかを思い出していた。二度とあんな思いをしたくなかった。私にとっては今がチャンスなのだ。たまらなくペギーに会いたかった。しかし、少なくとも、今度家に帰る時は、私は手ぶらではない。私はただ、イングレスを満足させるシナリオを書きさえすればいいのだ。
しかし、書けなかった。頭に浮かんでくる考えは、どれもこれも、この山荘で起こっていることに影響されていた。これほど不思議な状況が現実に目の前で起こっている時、フィクションを考えろといわれても、それは無理というものだった。私はもう何度となく、なぜイングレスがこの山荘に興味を持っているのかという疑問をもてあそんでいた。ヴァルディニと伯爵夫人については、私は今やはっきりと知っていた。しかし、わからないのはメインとケラミコスだった。ケラミコスがメインについて話したことは本当だろうか? それにしても、ケラミコスはなぜあんなことを私に話したのだろう? それに、彼の私に対する忠告めいた言葉は何だろう? コル・ダ・ヴァルダを買い取ったのは果たして誰なのか? それも、何のために?
私はただ苛々しながら立て続けに煙草を吸い、いたずらにタイプライターの鍵《キー》を見つめていた。すべてを忘れて、シナリオのことだけを考えればいいではないか。私は馬鹿正直な自分を罵《ののし》り、正真正銘の脚本家としてでなく、番犬としていわくありげな連中の中に私を遣《つか》わしたイングレスを恨んだ。
電気暖房の設備はあったが、部屋の中は寒かった。月が昇り、裸電球の光が届かない窓の外に、凍《い》てついた白い世界が見えていた。その冷たい、人を寄せつけない世界は、まさに窓一つ隔《へだ》てたすぐそこまで迫ってきていた。窓枠には雪が厚く積もっていた。そして雪は白く光っていた。屋根からは、ちょうどケーキの上の砂糖の衣《ころも》のように雪が重たく垂れ下がり、その先は長く尖《とが》った氷柱になっていた。
とうとう私は諦めた。さまざまな疑問で頭がいっぱいで、シナリオなど考えられたものではなかった。私はまたイングレス宛の報告をタイプした。今回はケラミコスについて知らせることにした。お茶を飲みながらの彼との対話を思い返している時、私はスリットヴィアの音を耳にした。一時間のあいだに、橇《そり》は三度も昇降した。下のバーで人の声がした。やがて、十時ごろ階段を昇る重々しい足音が聞こえ、おやすみの挨拶を交《か》わす声がして、ドアの音が聞こえた。ジョーが私の部屋に首をのぞかせて言った。「調子はどうかね?」
「快調だよ。ありがとう」私は言った。
「そいつはよかった。下はもう誰もいないぜ。皆寝ちゃったから。遅くまでやるんなら下のほうが暖かだよ」
私は礼を言った。彼は自分の部屋へ行った。何分か、彼が部屋の中を動きまわる物音が聞こえ、やがてあたりはひっそりと静まった。山荘は寝静まっていた。薄い板壁を通して、ジョーの鼾《いびき》は、まるで同じ部屋で聞くように聞こえてきた。
私はタイプライターに蓋《ふた》をして立ち上がった。寒さで体が強張《こわば》っていた。急いでベッドの温《ぬく》もりの中へ逃げこんだ。しかし私は眠れなかった。さまざまな考えが頭の中を駆けめぐった。
眠っていたかどうか、よくわからない。ただ気がつくと、私ははっきりと目覚めていた。かなり時間が経っていた。月は回って、部屋の向こう側の白いエナメルの流しに銀の光を投げていた。ジョーの鼾は相変わらず規則正しく聞こえていた。山荘はしんと静まりかえっていた。しかし、何かが変だった。私は温かいベッドの中に丸くなったまま、あたりを見まわした。子供の頃、古い屋敷の暗闇に一人で寝ている時によく感じた、あのどこからか見られているような不思議な気持ちを覚えた。
私はまた眠ろうとした。駄目だった。私は階下のバーを思い出した。コニャックを一、二杯飲むといい。私は起き上がり、パジャマの上からセーターを二枚着こみ、その上にスキースーツを重ねて着た。着終わってふと窓を見ると、私はある変化に気がついた。窓ぎわに行ってのぞいてみた。氷柱を垂らしていた重い雪の層が失くなっていた。雪の落ちる音で私は目を覚ましたのかもしれなかった。
目をそらそうとした瞬間、私は見晴らし台に人影を見たと思った。月の光は見晴らし台の上に長い影を落としていた。私は目をこらした。人影はそそくさと階段を降り、木造の手すりの陰に消えていった。その姿が見えなくなって私は目をしばたたいた。本当に人がいたのだろうか。背の高い男のように見えたのだが。
私は迷った。どうでもいいことではないか。もしかしたら、ウェイトレスのアンナのボーイフレンドかもしれない。彼女の明るい、くりくりとした目は、彼女が料理や飲物を運ぶ客たちにとって、ただの愛敬だけではすまなかったかもしれないのだ。時計を見ると二時をまわったところだった。
はっきりと目を覚まして、服も着こんでいたからその気になったのだと思う。私は思わず部屋を飛び出し、靴下の足で、足音を忍ばせながら階段を降りていた。
斜めに月明りの射しこむ広い食堂は不気味だった。私は急いで部屋を横切ってドアを開けた。外は寒かった。月の光は眩《まぶ》しいほどだった。私は靴をはき、ぬき足さし足、見晴らし台を横切って階段を降り、スリットヴィアから登ってくる雪道に立った。
見晴らし台は私の頭上に当たり、通路はその足下を通っていたので、私は陰の中にいた。私は足を止めて考えた。窓から見たと思った人の影は見当たらなかった。この位置から見ると山荘は、前面が切り立つようにまっすぐに立ち上がっていた。山荘を支えている松の太い杭《くい》は見事なもので、ややかがむようにすれば床下をずっと歩いていくことができた。途中まで行くと松の杭は終わり、山荘の土台はコンクリートに変わった。それはスリットヴィアの巻揚《まきあげ》装置を納めたコンクリートの建物だった。コンクリートの小屋には、橇道《そりみち》をまっすぐに見下ろす位置に、大きな窓が開いていた。床下の暗がりの中でも、その窓は四角くはっきりと見えていた。窓のすぐ下に、橇を引くケーブルの通る隙間が開いているのがかすかに見えた。窓の前に、斜面の上に張り出すように、木造のプラットフォームが作られ、橇に乗ってきた客はそこへ降りるようになっていた。
そこは寒かった。夜中の二時に、雪の中の人影を追ってこんなところまで出てきた自分が、かなり念の入った馬鹿者に思えてきた。バーへ戻って何か飲んだほうがいい。そう思って引き返そうとしたまさにその時、私は松杭がコンクリートの土台に変わるあたりで、かすかに何かが動くのを見たのである。私は目をこらした。しばらくは、それきり何の動きも見えなかった。しかし、闇に馴れた私の目には、コンクリートの壁を背に、じっと立っている人影がたしかに見えていたのである。ちょうどバーの真下あたりの位置に、一人の男が身動きもせずに立っていた。
私は体を硬くした。私は暗闇の中にいた。身動きしさえしなければ、相手に気づかれることはまずあるまい。そうやって一分ばかりもじっとしていたろうか。私はプラットフォームのほうへ思い切って場所を移るべきかどうか、せわしく自問自答した。向こうがこちらにやってくれば、今の位置では間違いなく鉢《はち》合わせしてしまう。ところが、私が決心しかねている間に、相手は動きはじめてしまったのだ。人影は山荘の下から巻揚装置のコンクリートの壁に沿って動いていった。その向こうの白い雪を背景に、今やその影ははっきりと浮き上がって見えていた。背の低い、がっしりとした体つきだった。窓から見た背の高い人影とはまるで違うようだった。男は機械室の窓の前で足を止め、中をのぞいた。
私は素早く押し固めた雪の土堤《どて》を乗り越えてプラットフォームの下へ移った。そして私は山荘の床下を、そっとコンクリートの機械室に近づいていった。顔を上げて見ると男はまだそこにいた。窓の前で、その体は影絵のようだった。
突然、機械室から一筋の光が走った。懐中電灯だった。光の筋は揺れながら、一瞬窓の前の男の顔を照らした。私は一目でその顔がわかった。ギリシャ人のケラミコス。私は松の杭の陰に身を潜《ひそ》めた。かろうじて間に合った。ギリシャ人は慌てて身をかわしたが、その動きは鈍重だった。柔らかい雪を踏みしだく音が聞こえた。懐中電灯の光はぴたりと彼の顔に当てられていた。「待っていたぞ」
声の主《ぬし》は見えなかった。ただ声が聞こえ、懐中電灯の光の輪が見えるばかりであった。オーストリアふうの軽いドイツ語だった。
ケラミコスは進み出た。「待っていたのなら」彼はドイツ語で答えた。「こんな隠れんぼは意味がないじゃないか」
「そうとも。意味がない」声が答えた。「入ってこいよ。ここをよく見ておいたほうがいいぞ。それに、ちょっと話したいことがある」懐中電灯の光が脇へそれ、二人の人影が私の視界の外へ去った。機械室のドアが締まり、二人の声は断ち切るように聞こえなくなった。
私は隠れていた場所をはなれ、そっとケラミコスが立っていたところへ行った。私はひざまずいて、窓からのぞいた。そうすれば、万一また懐中電灯で照らされても見つかるまい。
不思議な光景であった。懐中電灯はまっすぐに、ケラミコスの姿を照らし出していた。彼の顔は、懐中電灯の光に白っぽく浮き上がっていた。後ろの壁に、彼の大きな影が不気味に揺らめいていた。二人はケーブル・ドラムの上に向き合って腰をおろしていた。見知らぬ男は煙草を吸っていた。けれども、男は私に背を向けていた。煙草の火がほのかに照らし出しているであろうその顔を、私は見ることができないのであった。ケラミコスの影を映している一面の壁を除いて、部屋はぼんやりと闇の中に沈んでいた。橇の巻揚装置はコンクリートの台座に据えられた黒っぽい大きなかたまりとしか見えなかった。
私は膝が痛みはじめるまで、ずっとそうして中をのぞいていた。けれども、二人はただじっと坐ったまま話しこんでいた。彼らは動きもしなければ、派手な身振りをすることもなかった。二人はよく知った仲のようであった。窓は鉄枠に小さなガラスをはめこんだもので、中の話し声はまるで聞こえてこなかった。
私は這《は》うようにしてプラットフォームを横切り、ケーブルをまたいだ。足の下で雪は高い音を立てて軋《きし》った。私はまさに橇道のてっぺんに立っていた。足の下から、斜面はまっすぐに落ちこんでいるようであった。黒々とした樅の森の間に、橇道は一本の細い帯のように伸びていた。私はそこを渡って、コンクリートの機械室の入口へまわった。そこは山荘の板張りの床下に当たっていた。ドアは閉まっていた。私は細心の注意を払って掛金をはずし、わずかに手前に引いた。
半インチほどの隙間からのぞくと、中の様子は前と少しも変わっていなかった。二人は相変わらず向き合って坐っていた。ケラミコスは懐中電灯の光に、目を梟《ふくろう》のようにきょときょとさせていた。「……この歯車をゆるめるんだ」見知らぬ男の、オーストリアふうのドイツ語だった。男はケーブル・ドラムの縁に接している大きな、グリースにまみれた動力歯車に懐中電灯の光を投げかけた。「あとは、橇が動き出したところを見はからって、そいつを叩き出してしまえばいいんだよ。橇は斜面の一番急なあたりにいる。事故が起こって、俺は山荘を閉鎖する。それで、邪魔の入る心配はなくなる。ゆっくり捜せばいいさ」
「ここにあることは確かなんだな?」ケラミコスが言った。
「そうでなかったら、シュテルベンがここを買い取ると思うか? あの女が、それ以外の理由でここを買う気になるか? ここにあることは間違いないんだ」
ケラミコスはうなずき、それから顔を上げて言った。「前は俺を信用しなかったのに、今になって、何で信用する? それに、そっちを信用して、大丈夫なのかね?」
「必要のなせる業《わざ》さ」男は答えた。
ケラミコスは何やら考えこんでいる様子だった。「それでヴァルディニと伯爵夫人は始末できる。そうすれば、あとは……」男はふいに言葉を切った。彼はまっすぐに私のほうを見つめていた。「ドアは閉めてきたんだろう。隙間風が入ってくるな」男は立ち上がり、懐中電灯を照らしながら、ドアに向かって近づいてきた。
私は急いで杭の陰の暗がりに身を潜《ひそ》めた。ドアが大きく開き、懐中電灯の光が強く雪を照らした。私は陰からそっと様子をうかがった。ケラミコスがドアの外の地面を調べていた。彼はひざまずいて雪の上をあらためた。
「どうかしたか?」機械室の中から男の声が反響を伴って聞こえてきた。
「いや」ケラミコスが答えた。「掛金がきちんと下りていなかったんだろう」彼はドアを閉じた。あたりは闇に閉ざされ、夜の静寂が私の周囲に迫ってきた。
何分かして二人は機械室から出てきた。ドアの鍵穴でキーの軋《きし》る音がして、二人の影は見晴らし台のほうへ向かい、やがて見えなくなった。
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四 吹雪の死装束《しにしょうぞく》
私はそこで、三十分ばかりじっとしていたろうか。寒さは耐えがたく、わずかに星だけが見えている闇の中は不気味でもあった。しかし用心しなくてはならなかった。戻るところをケラミコスに見られてはまずい。それに、凍《い》てつくような闇の中で、私には考えることが山ほどあった。
しかし、やはり寒さには勝てなかった。私は陰を伝って、そっと戻っていった。月が傾いて、大きな樅《もみ》の木の影を見晴らし台に落としていた。私はその影の中を歩いて山荘にたどりついた。夜の闇の冷たさの後で、バーの暖かさは実に心地よかった。私は自分で強いコニャックを生《き》で注いだ。冷えきった私の胃の中で、コニャックはまるで火のようだった。私は続けてもう一杯注いだ。
「お待ちしていましたよ、ブレアさん」
私は危うくグラスを落とすところだった。声はピアノのある隅の暗がりから聞こえてきた。私はふりかえった。
ケラミコスだった。彼はピアノの丸椅子に坐っていた。その姿は暗がりにぼんやりと見えるばかりだったが、彼の眼鏡はバーの中にたった一つ点《とも》っている明りを反射して光っていた。まるでそこに大きな蟇蛙《がまがえる》がいるようだった。
「どうして?」私の声はふるえていた。
「ドアの外に足跡がありました。手で触ってみると濡れていましたよ。あなたかヴァルディニか、どちらかに決まっています。ところがヴァルディニの部屋は私の部屋の隣です。あの男は鼾《いびき》をかくんですよ。あなたの部屋のドアは開いていました。あれは不注意でしたな」彼は立ち上がった。「恐れ入りますが、私にもコニャックを一杯注いでいただけませんかな? あなたを待っている間に、すっかり冷えてしまいました。そりゃあ、外にいらしたあなたほど寒かったわけじゃあありませんがね」
私は彼にコニャックを注いだ。
彼はやってきて私の手からグラスを受け取った。彼の手は大きくて毛深く、私の手よりもはるかに頑丈そうだった。
「あなたの健康のために」彼は微笑《ほほえ》んでグラスを上げた。
私はとても調子を合わせる気になれなかった。
「どうして僕を待っていたんだ?」私は言った。「あのオーストリア人はどうした?」
「オーストリア人?」彼は眼鏡の奥から私を見つめた。「途中でお会いにはなりませんでしたか、え?」彼は何やら満足げな顔をしてうなずいた。「あの男はもう帰りました。あなたがいらしたことは、あの男は知りません。私がお待ちしていたのは、いくつかお聞きしたいことがあるからです」
「僕もあなたに聞きたいことがあるんだ」
「そうでしょうとも」彼はそっけなく言った。「しかし、私がそれにお答えすると思われるとは、あなたもまたお人がいい」彼は自分でかわりを注ぎながら私の様子をうかがった。「ドイツ語がおできになりますか、え?」
「できるよ」
「われわれの話をお聞きになった。いけませんね、ブレアさん。あなたには関わりのないことに首を突っこむようなことをされては」静かな、理性的な言い方だった。その言葉に含まれた脅《おど》しに、私はほとんど気がつかなかった。
「人殺しとなれば、関わりがないとは言っていられないからね」私はきっぱりと言った。
「スリットヴィアですか、え? あの話をお聞きになったわけですな。ほかに、何をお聞きになりました?」相変わらず静かな声だったが、今でははっきりと威嚇《いかく》の響きが含まれていた。
「いいかげんにしてくれ」私は叫んだ。「それを聞いただけで充分じゃないか」
彼はグラスの中をじっとのぞきこんだ。「結論を急いではいけませんね、ブレアさん」彼は言った。「あなたがお聞きになったのは話のほんの一部分ですよ」
「いいかい、ケラミコス」私は言った。「僕が話を全部は聞いてないなんてことでごまかそうたって駄目だ。あの短い話は、それだけで充分はっきりしているじゃないか。あのオーストリア人は、残虐な人殺しを企《くわだ》てているんだ」
「どうしてだか、ごぞんじですか?」
「あなたたちは、何かを捜しているんだ」彼の涼しい顔に腹が立って、私は言った。「邪魔されないようにするために、人殺しまでするっていう、そんな大事な捜し物って、いったい何なんだ?」
「それはね、ブレアさん。あなたには関わりのないことですよ」彼は静かに答えた。「立ち聞きなさった話の断片を、正しく理解したとお考えなら、スリットヴィアにはお乗りにならないことです。そして、自分のことだけを考えられたほうがいいですな。ご忠告申し上げましょう。シナリオをお書きなさい」
「こんなところで、どうやってシナリオを書けって言うんだ」私は大声を上げていた。
彼は笑った。「それはご自身でお考えになることですよ。まあいずれにせよ、あまり他人のことに興味をお持ちにならないことですな。おやすみなさい、ブレアさん」彼は短くうなずくと、さっさとバーから立ち去った。階段を上がる足音が聞こえ、ドアの閉まる音がした。
私はコニャックを飲み終えて部屋へ戻った。ケラミコスが言ったとおり、ドアが開け放しになっていた。部屋を出る時、私は確かにドアを閉めたはずだった。部屋の中は別に変わったことはなかった。誰かが入ったらしい跡もない。私はベッドに腰を降ろしてヒーターのスイッチを入れた。私は途方に暮れていた。それに、少しばかり恐くもあった。ケラミコスは腹を立ててはいなかった。しかし、彼の言葉には静かな威嚇が含まれていた。それが私には気になって仕方がなかった。
寝ようとしたところで眠れるはずもなかった。私はイングレスへの報告を書き足すことにした。タイプライターを出して蓋《ふた》を開けた。すでにその日の報告を打った用紙をはずそうとして、私は用紙の上端が蓋にはさまれた跡があることに気がついた。その部分は紙が裂け、金具の汚れが付着していた。私は用紙をはさんだままタイプライターを納《しま》う時、いつもこういうことが起こらないように注意する習慣だった。何も考えなくても、自然に注意を払うくらい、それは身についた習慣になっていた。誰かが私の報告を読み、蓋を閉じる時、用紙がはさまらないように避けることをしなかったのだ。私は急いで部屋中を点検した。持物は全部そのままの場所にあった。しかし、ところどころに、わずかに動かされた跡が残っていた。スーツケースの底のインク瓶が横倒しになっていたり、重ねておいた手紙の順序が入れ代わったりしていたのだ。そのほか、同じような小さな痕跡がいくつか目についた。ケラミコスが私の部屋を探ったことは疑いの余地がなかった。それにしても彼はなぜ、ドアを開け放しにしたのだろう? 私を恐がらせようというつもりだろうか?
問題なのはイングレスへの報告だけだった。さいわい、報告には宛名も住所も書きこんでいない。日記のようなものだった。その日の午後のカルラやケラミコスとの対話を書き綴ったその報告は、ただ読んだかぎりではまるで意味のないものだった。とはいえ、私が何に関心を持っているかを示すものではあった。私はイングレスからの電報を思い出してどきりとした。しかし、それは大丈夫だった。電報を私は財布に入れて持っていたのだ。カルラの写真もそこだった。
私は机に向かい、その夜の出来事をイングレスに知らせる手紙をペンで書いた。
短い眠りの後、朝食に降りていくとメインがピアノに向かっていた。「この曲を知ってるかね、ブレア?」彼は朝陽のように溌剌《はつらつ》とした顔をしていた。彼の指の下から、谷間の清流のように音が沸いて出た。
「ヘンデルの≪水上の音楽≫だね」私は言った。
彼はうなずいた。彼のピアノは非常にタッチがきれいだった。「朝食にロッシーニはどうかね?」彼は言い、返事を待たずに≪セヴィリアの理髪師≫の序曲を弾きはじめた。華やかで、そこはかとないユーモアに満ち、風刺と哄笑《こうしょう》にあふれた音楽が朝陽のいっぱいに射しこむ部屋に広がった。
「この曲にはね、ほかのイタリア人作曲家が全部|束《たば》になってかかっても追っつかない、まさにイタリアそのものっていうところがある、と僕は思うな」彼は言った。「華やかさがあるよね。ここにいるアンナみたいに」
彼女はちょうど朝食を並べに部屋に入ってきたところだった。自分の名前を聞いて、彼女はにっこり笑った。「この曲を知ってるかね、アンナ?」メインは曲を≪恋の歌≫に変えてイタリア語で聞いた。彼女は一瞬耳を傾けてからうなずいた。「じゃあ、歌えよ」彼は言った。
彼女は笑い、はずかしそうに首をふった。
「さあ、歌えよ。はじめから弾くよ。いいかい」そして彼女はきれいなソプラノで歌いはじめた。楽しく、嬉しい情景だった。
「これが彼女のイタリア人の一面さ」メインは弾きながら私に言った。そしていきなり、途中で彼女を放ったらかし、僧侶の出てくるくだりを弾きはじめた。「ところが、これは彼女にはわからないのさ」彼は大声で言った。「こうなると彼女はオーストリア人だからね……。敬虔《けいけん》なカトリック信徒だよ。この曲は教会に対する痛烈な諷刺《ふうし》なんだ。自分たちの教会を諷刺するのはイタリア人だけがやることさ。ほら、ここだ……馬鹿な、いかさまの坊主が登場する」曲は嘲《あざけ》りに満ちて鳴り渡った。
メインは最後の和音を弾き終えると、くるりと椅子をまわしてふりかえった。「今日の予定はどうなってる、ブレア?」彼は言った。「昨日は競売に連れていってもらって、大いに楽しませてもらったから、今日は僕がお返しをするよ。君をスキーにさそおうと思うんだ。まだシーズンが浅いから、雪はこれからもどんどん降るよ。だから今日みたいなスキー日和《びより》を無駄にするって法はないんだ。それに、天気予報は遅くなって雪だって言っているしね。僕と一緒に、モンテ・クリスタッロまで上がってみないか?」
「行きたいね」私は言った。「でも、少し仕事をしないと」
「そんなこと言うなよ。夜いっぱい仕事をすりゃあいいじゃないか。それに、あの本物の山を君は一度見るべきだよ。案内するよ。氷河だの、見事な雪崩《なだれ》の痕の斜面だのさ。君の相棒の、太っちょのカメラマンは、そのへんのつまらないスキー場の写真ばっかり撮ってるけど、君、本当の山を見なきゃだめだよ。映画の舞台にはもってこいの景色がいくらもあるよ」
「本当に、仕事をしなきゃならないんだよ」
彼は肩をすくめた。「そんなに堅いこと言うなよ。一日二日遅れたからって、どうってことはないじゃないか。君はアイルランドで生まれるべきだったなあ。そうすりゃあ、人生は君にとって、もっともっと楽しいものだったはずだよ」彼はもう一度ピアノに向かい、エルガーの重苦しい曲を弾きはじめた。弾きながら彼は肩越しにふりかえり、私の顔を見てきらりと目を光らせた。そしていきなり軽快なアイルランドのメロディーを弾きだした。「その気になったら……十時に出発するよ」
ピアノの音やベーコンと卵の焼ける匂いに招かれるように、ほかの客たちも次々に食堂へやってきた。聴衆の数が増えたのを意識してメインは曲をヴェルディに変え、真剣に弾きはじめた。ジョーは一人だけ関心を示さなかった。彼は疲れた、肝臓でも悪そうな顔つきをしていた。「何だってあいつは朝っぱらからどんちゃん騒ぎをしなきゃあならないんだ?」彼は私の耳に口を寄せて不平を言った。「朝飯の席でべちゃくちゃしゃべるのと同じで、俺はああいうのが大嫌いなんだ」強い朝の陽射しに彼の顔は灰色に見えた。目の下の袋のように垂れ下がった皮膚は妙に黒ずんでいた。
最初の橇《そり》で郵便が届いた。イングレスから電報がきていた。電文はこうだった。
メイン ケラミコスニツキ ナゼ ハヤクシラセヌ」 イソギ クワシク シラセコウ」 イングレス
ほどなくメインがやってきた。スキー靴をはき、小さなナップザックを手にしていた。「どうかね、気が変わったかい、ブレア?」彼は言った。「何も一日じゅう行ってる必要はないよ。三時にはここへ帰ってこられる。それでどうかね? 一人ぼっちでスキーに行っても全然面白くないからなあ」
私は躊躇《ちゅうちょ》した。本当に、少し仕事をしたかったのだ。しかしその反面、一日中この山荘に閉じこもっているのかと思うとたまらない気がした。それに、イングレスはメインのことを知らせろと言ってきている。この男について知る、いい機会かもしれなかった。彼は人好きのする男だし、午前中をスキーで過ごすのも悪くないかもしれない。「ようし。十分で仕度をするよ」
「そうこなくっちゃあ」彼は言った。「アルドに君のスキーを用意させておくよ。食糧の心配はいらないよ。カルボーニンのホテルで食事はできるから」彼の熱意は人をその気にさせるものがあった。彼がかつて脱走兵を集めたギャングの一味を率《ひき》いていたとは、私にはどうしても思えなかった。急にケラミコスの言ったことが、ただの一言も信じられなくなった。馬鹿げた話だった。あのギリシャ人ケラミコスは私の関心をほかの人間に移そうとして、あんなことを話したにすぎないのであろう。
スキースーツを着、スキー靴をはいて降りてくるとジョーが私を見て眉を上げた。彼は何も言おうとせず、カメラの上に身を屈《かが》めてフィルムを装填《そうてん》していた。
「ジョー、あの小型のカメラを僕に貸してくれないかな」私は聞いた。
彼は顔を上げた。「断わる」彼は言った。「俺はカメラは人にいじらせないよ。何をしようっていうんだ? 俺に撮れないようなショットを、あんたが撮るっていうのか? どこへ行くつもりなんだ?」
「モンテ・クリスタッロさ」私は言った。「メインが氷河だの雪崩の名所を案内してくれることになっているんだよ。画《え》になるところがあるんじゃないかと思ってね。この近所であんたが撮ってる画よりも、スケールの大きいショットが撮れるんじゃないかな」
ジョーは笑った。「だから素人は話にならないんだ。すべてはアングルと光線の問題さね。俺は、この小屋から千ヤードと離れないところで、あらかた狙いの画は物にしたよ。こっちの欲しいショットを撮ろうと思ったら、何もドロミテ・アルプスの端から端までほっつき歩かなきゃあならんてことはないぜ」
「その大した自信の半分でも、僕にあるといいんだがね」
私は知らず知らずのうちに角《かど》のある口ぶりになっていたようだ。ジョーは顔を上げて私の腕を叩いた。「今にそうなるさ。そうなるって。一つ二つ当たる本を書いてみなよ。もうあんたは人の言うことなんぞには耳も貸さなくなっちまうんだ。……気がついた時は手遅れだった、なんてことになるまではね。この俺だって、今でこそこうやってでかい面《つら》をしているさ。俺に撮影に関して何か教えられるやつなんぞいやしない。でもな、いつまでもそうだってわけじゃない。もう何年かしてみろ、俺なんぞにはわけのわからないことを考え出す若い者がどんどん出てきて、俺みたいのは古臭いことになっちまうのさ。映画ってのはそういう世界さ。イングレスも、きっと同じことをあんたに言うよ」
私はジョーと別れて見晴らし台に出た。メインが待っていた。一つ二つ当たる本を! 口で言うのは何とたやすいことだろう。ところが、私はまだ一行も書いてはいないのだ。見晴らし台の日向《ひなた》に立てかけてあった私のスキーの表面は、触ると温《ぬく》もりが感じられるほどになっていた。しかし、その暖かい陽光も地面にはまるで届いていないかのように、雪の表面は堅く凍てついたままだった。
私たちは真新しい雪の上をパッソ・デル・クリスタッロの道まで滑っていった。そこは道といえるほどのものではなく、何本かのスキーの跡が前夜の風で飛ばされた粉雪の下に消えかけているばかりであった。その道を通るスキーヤーはほとんどいないようだった。
「道は知っているんだね?」私はメインに念を押した。
彼は足を止めてふりかえった。「ああ。今年ははじめてだがね。でも、何度も行っているから。ガイドがいなくても、心配はいらないよ。コースを登りきる手前あたりまでは、ほとんどまっすぐなんだ。最後の登りがちょっと厄介《やっかい》だがね。ちょうど一万フィートくらいの高さかな。最後の登りは、スキーを外してかつぐようになるよ。その先が氷河だ。それを越えてしまえば、あとはカルボーニンまで、やさしい下りのコースだよ」彼は向きなおり、着実にストックを使いながら先へ進んでいった。
出発前に地図に目を通すだけの配慮があったなら、私は決してそのコースへ出かけて行きはしなかったと思う。そのコースは、とうてい初心者向きではなかったのだ。地図で見ただけでも、それがかなり危険なコースだということは歴然としている。氷河に達するまでの少なくとも一キロは地図に点線が印《しる》され、「上級コース」と書きこまれているのだ。そして氷河そのものもきわめて危険である。おまけに、コル・ダ・ヴァルダから氷河に至る登りのコースにも、カルボーニンへ下るコースにも、地図の上にはいたるところに雪崩《なだれ》の起こる箇所を示す赤いケバ印が書きこまれ、すべての雪崩がコースに向かって流れ落ちることを物語っていた。
私たちはどんどん登っていった。そして斜面の急な箇所や山襞《やまひだ》の窪《くぼ》みを避けてジグザグの道を辿《たど》っていくうちに、少しずつ、前方の見通しが開けてきた。モンテ・クリスタッロの険しい岩肌が、左手にどっしりと壁のように聳《そび》えていた。右手のほうは、広い雪の急斜面がまっすぐに私たちに向かって落ちこんできていた。ちょうど巨大な白布を、岩肌を見せた峰を杭《くい》にして青い空に掛けたようであった。私たちが先刻から登り続けているのは、まさにこの広い斜面の裾《すそ》のあたりなのであった。すでに道と呼ぶべきものはまるで失くなっていた。斜面を撫《な》でるように吹き上げる風が、前日にスキーヤーの残していったシュプールをきれいに消し去っていた。私たちは広大な白い世界に、ぽつんと投げ出されているようだった。そして行く手には波のようにうねりながら険しい雪の斜面が立ち上がり、その先に、登りの最後を印す牙《きば》のような岩が鋭く雪の上に突出していた。太陽の光は強いわりにはどことなく力がなく、行く手の上方に見える岩の色は暖かみに欠けていた。黒っぽく、冷たい感じだった。
引きかえそうと思えば、引きかえすことはできたと思う。けれども、メインはいかにも自信ありげだった。彼は決して方角を見失ったりしなかった。それに、私はスキーに馴れてきていた。コースはむずかしかったし、久しぶりにスキーをつけて歩いた私ではあったけれど、そうやって歩くことがあまり苦にはならなくなっていた。私は自信をさえ感じるようになっていたのだ。ただあたりがあまりにもひっそりしていることと、ガイドを雇うべきだったという気持ちが、心のどこかに残っていたことが私の不安を煽《あお》った。
私は途中で一度言った。「ガイドなしで氷河を渡って大丈夫かね?」
メインはちょうどスタンディング・ターンで向きを変えようとしているところだった。彼は私を見下ろしながら、いかにも愉快そうな顔をして言った。「機銃掃射《きじゅうそうしゃ》を浴びながら海岸に上陸するほうがよっぽどたいへんだよ」彼は歯を見せて笑った。それから彼は真顔で言った。「もし、どうしてもっていうなら、戻ってもいいよ。でも一番たいへんなところはもう過ぎているんだからね。君はそこを通ってきたんだよ。僕はとにかく、上まで行って氷河を見たいと思うね。しかし、一人で行く気はしないな」
「戻るなんて」私は言った。「僕は大丈夫だよ。ただ、ガイドがいなくて行けるのかなって、ちょっとそう思っただけなんだ」
「心配無用だよ」彼は気楽に、明るく言った。「このコースで迷うなんてことは、まず考えられないからね。最後の登りの、短い間を除けば、あとは文字通り一本道なんだから」
そんな話をしてから間もなく、道は非常に険しくなりはじめた。道は私たちの前方に迫《せ》り上がり、それ自体、雪崩の斜面の表面であるかのようだった。そして両側からは本物のスロープが私たちを閉じこめるように迫っていた。斜面は山越えの道のはるか上方の、黒ずんだ峰まで舞い上がっていた。ジグザグに進むことはもうできなくなった。それほど傾斜は急になっていたのだ。私たちは横向きになって一歩ずつ登った。雪はまるで氷のように硬く、私たちは一足一足、スキーを凍った雪の上に打ちつけるようにして踏み固めながら進まなくてはならなかった。それでも雪に喰いこむのは、わずかにスキーの山側のエッジだけだった。辛《つら》い、体力のいる登りだった。しかし、スキーを斜面の曲線に対して正しい角度に保っているかぎり、危険はなかった。
どれくらい時間が経ったか見当もつかないほど長いこと、私はまるで景色を見る余裕はなかった。景色どころか、自分がどこへ向かっているのか顔を上げて見るひまさえ私にはなかった。私はただ、ひたすらメインのスキーの跡を追っていた。規則的に雪を踏み固める自分の足を、私は一心に見つめていた。スキーを正しい角度に保つこと以外に、何かを考える余裕はなかった。高度が増すにつれて、登りはさらにむずかしくなった。スキーの角度がほんの少しでも下りに向くと、私の体はたちまち滑りはじめるので油断がならなかった。私たちは口もきかずに進んだ。スキーの金具の軋《きし》みや、硬い雪に喰いこむスキーの音を除いては、何の物音も耳に入ってこなかった。
「この先は吹き溜《だま》りだ」頭の上でメインの声がした。「もう少し行ったらスキーをはずすようになるぞ」
ほんの何フィートか上のほうに、むき出しの岩があるのを私ははじめて見た。それは風化して、氷に飾られた小さな岩場だった。私はメインに追いついた。傾斜は、そこからはもう前ほど急ではなくなっていた。私は腰を伸ばし、日光に目をしばたたきながらあたりを見渡した。私たちは巨大な白い鉢の縁《ふち》に立っているのであった。足の下から雪は、みるみる鉢の底に向かって舞い降りていた。私たちが登ってきた斜面は扇《おうぎ》のように広がって、両側から落ちこんだ急斜面に接していた。白地図の上に書きこまれた鉄道の記号のように、その鉢の底からずっと続いているスキーの跡が自分の登ってきた足跡だとは、とても信じられなかった。
私は頭を回《めぐ》らせて行く手を見た。前方に見えるのはただ切り立った岩と、牙のようにそそり立つ険しい峰ばかりだった。「あれがポペナだよ」ほぼ私たちの真正面に見えている、ひときわ鋭く突き立った山の頂きを指してメインが言った。「この道はあの裾《すそ》の左側を抜けていくんだ」太陽は冷たく光り、空気は不思議に目に見えるようだった。まるで白い蒸気であった。空気は冷たく、稀薄であった。私は心臓が胸郭《きょうかく》の中で激しく躍っているのを感じた。
ほどなく私たちはスキーをはずした。そのあたりの雪はすべて吹き寄せられた雪だった。スキーを肩に、私たちは吹き溜りを避け、岩場を縫いながら着実に前進した。
とうとう、コースの最高地点に行き着いた。峰のほとんどは、それよりもさらに上に聳えていた。しかし、それも、ほんの数百フィートの差であった。そこは峨々《がが》とした岩ばかりの世界だった。白い雪の歯茎から黒い牙が立ち上がっていた。冷たい沈黙の世界だった。生きる物の影もない。おそらく、生命とは絶えて無縁の世界であったろう。私たちは、まるで極点か、あるいは氷河時代の忘れ去られた土地に立っているようなものだった。そこはオリンポスの神々の座であった。黒い峰々は互いに、空を突き破る一番乗りを遂《と》げようと覇《は》を競《きそ》っていた。そしてそれらの峰の腰を包む雪の裳裾《もすそ》は、はるか下の、人間たちの住む穏やかな心地よい世界に向かって八方に垂れ下がっていた。
「ウェッスンは一度カメラを持ってくるべきだな」私はなかば独り言のように言った。
メインは笑った。「そんなことをしたら、彼は死んでしまうよ。半分も登らないうちに心臓発作を起こすんじゃないかね」
立ち止まると、たちまち寒さが襲ってきた。風は鋭く、ウィンドブレーカーを容赦なく刺し通してきた。大きな岩の山の上で、私たちはまるで小さなほこりの粒だった。その巨岩に風は雪の粉を投げつけた。凍った、さらさらとした雪だった。手で掬《すく》うと、まるで小麦粉のように指の間からこぼれていった。あちこちの峰に大きな雪煙が上がり、雪は風にちぎれて飛ぶ波のしぶきのように、岩肌の上を舞っていた。コル・ダ・ヴァルダから見えたあの明るい青い空はどこにもなかった。空気は白く光っていた。
メインが大きく盛り上がったモンテ・クリスタッロを指さした。空はちょうどそのあたりから曇りはじめ、山頂はヴェールで覆《おお》われるかのように、徐々にぼうっとかすみだしていた。太陽はベールを隔てたぼんやりとした光のようにしか見えなかった。
「もうじき雪になるな」彼は言った。「急いだほうがいい。雪が激しくなる前に氷河を渡っておきたいからね。その後はもう、こっちのものさ。また一本道だから。午後は天気次第で、ミズリナ湖のほうを回って帰ったっていいんだ」
彼はいかにも自信ありげだった。それに、私はあの険しい斜面を降りて戻ることなど、考えただけでもうんざりだった。だから先を急ごうと言う彼に反対を唱えはしなかった。まもなく氷河に着き、私たちはまたスキーをはいた。氷河といっても、周囲を取り巻く岩の斜面と見た目はほとんど変わりなく、白い雪の毛布に一面を覆われているのであった。わずかに、ところどころ、雪の下に土台のような氷をのぞかせている箇所が見られた。道は楽だった。傾斜は緩《ゆる》く、スキーは雪の上を滑らかに走り、私たちはほんの時折ストックを使うだけでどんどん進んだ。あたりは次第に暗くなり、空はいつしか重苦しい鉛色に変わっていた。私は何となく不安を感じた。大きな山の中では、自分の存在があまりにも他愛なく思えてならなかった。それは、決して気持ちのいいものではなかった。雷鳴の一|咆《ほ》え、風の一吹きで、私は地上から跡形もなく消えてしまうのではないかと思われた。のこぎり歯のように氷河を取り巻いている峰が、次々に視界から消えていった。
まだ氷河の中ほどにも達せぬうちに、雪は降りはじめた。はじめのうち、雪は風に吹かれてちらほらと舞ってくる程度でしかなかった。と見る間に、雪はどんどん激しくなっていった。雪は短い間を置いて、次々に襲ってきた。そのために、一瞬氷河を縁《ふち》取るぎざぎざの山並みがまるで見えなくなったと思うと、次の瞬間には灰色の空に牙を刺したように頂きを隠している険しい岩壁が見通せるほどに視界が晴れる、といった具合だった。
メインは速度を上げていた。私は自分の動悸《どうき》が非常に激しくなっていることに気がついていた。あの高さで過激な運動を続けたためだったろうか。それとも不安のためだろうか。私には何とも言えない。おそらく、その両方であったろう。白と灰色だけの世界で、私は目の前を行くメインの背中と、雪の中で二人を結ぶロープのように、彼が残していく細いシュプールだけが頼りだった。
とうとう私たちは氷河を渡りきった。すでに雪は絶え間なしに降っていた。斜めに殴りつけるような雪が顔に当たり、目を覆った。斜面は再び急になった。柔らかい、新しい雪の斜面を私たちはジグザグに速度を上げて滑り降りた。傾斜はさらに急になり、速度はどんどん上がった。
私はまさにメインの残して行くスキーの跡をなぞるように滑った。彼の姿は時々雪の中に消えた。しかしシュプールを辿《たど》っていけば大丈夫だった。耳に入る物音といえば、ただ吹雪の音と、確かな手応えで私のスキーが雪をこする音ばかりであった。私は夢中でメインの跡を追った。どこへ向かっているか、見当もつかなかった。しかし、とにかく私たちは下っていたし、それだけで私は充分だった。メインがどうやって方角を見わけることができたのか、私にはわからない。
ふと気がつくと、彼は止まって私を待っていた。彼の顔には雪がいっぱいで、まるで誰だかわからないほどだった。雪男が立っているようだ。「かなり降ってきたね」私が追いつくと彼は言った。「すこし急がなきゃあならんね。大丈夫かい?」
「僕は大丈夫だよ」私は言った。とにかく、できるだけ早く山を降りさえすればよかった。白い息の湯気は吐くそばから風で消されていった。
「ぴったりついてこいよ」彼は言った。「スキーの跡からそれるなよ。はなればなれになったら事だからな」
「大丈夫だよ」私は力をこめて言った。
「ようし。ちょっと飛ばすぞ。最大の難所はもうすぐ終わりだよ」彼は断ち切るように終わっていたシュプールの上に戻り、再び先に立って進みはじめた。
進みはじめて私はやや不安を感じた。メインが私よりどの程度スキーがうまいのか、私は知らなかったのだ。それに降ったばかりの新雪の上を滑るのは、スキー場のゲレンデを滑るのとはわけが違う。スキー場の斜面は平らで、スキーの先を揃えてヒールを外側に張り出し、いわゆる制動をかけながら滑る速度を調節することができる。それに、スキー場ではステムもできる。しかし、山の中の新雪の上ではそうはいかない。速度を調節するには斜面の角度を選ばなくてはならないのだ。つまり、急な斜面を降りる時は、≪はすかい≫にコースを取るのである。そしてジグザグに降りるのだ。クリスチャニアができれば新雪の急斜面でも、真っすぐスピードにまかせて降りることはできる。しかし、クリスチャニア・ターンはスキーのテクニックとしては最もむずかしい。飛び上がってスキーを完全に雪面から離し、空中で直角に向きを変えるテクニックである。
なぜこんなことをわざわざここで言うかというと、その時私はクリスチャニアのことが気がかりでならなかったのだ。私にはクリスチャニアの腕前はない。メインはクリスチャニアができるのだろうか。私ができないことを、彼は知っているのだろうか? 彼がこれから飛ばすぞと言った時、私はそれを話すべきだったのだ。
しかし、すぐに私は彼の跡を追うことだけで頭がいっぱいになっていた。私たちは長い斜面をななめに下っていた。メインはかなり急角度にコースを取り、私たちの速度は時速三十ないし四十マイルに達していた。私たちは吹き殴《なぐ》りの濃い雪の中を突き進んだ。私はもう二度とあんなふうにして雪の中を滑りたいと思わない。私は多少遅れても、コースを緩《ゆる》やかに取ってジグザグに斜面を下れば、また彼のシュプールに出合うことができた。けれどもそれをすると私の速度はずっと下がってしまう。あまり彼から離れてしまうわけにはいかない。そして実際には、シュプールは印されるそばから雪に埋まっていくほどで、私が辿っていく頃には、すでにほとんど消えかけているところも珍しくなかった。
雪が激しく顔を打ち、目をふさいだ。寒さとスピードのために私はすっかり萎縮《いしゅく》してしまっていた。ところどころ、雪がことさら柔らかく、メインのスキーが深く沈んだ跡があった。そんなところでは、私は体の均衡を保つのに苦労した。
その長いななめの下りが終わったところでメインが私を待っていた。白と灰色の中に、彼の姿はぼうっと浮かんでいるようであった。シュプールは小さな鉄道線路のように彼の立っているところに続いていた。私は少し手前で脇へそれ、スキーの先を山側に向けて止まった。見ると、彼自身はそこでクリスチャニアを使っていた。大きく弧《こ》を描いて抉《えぐ》られた雪が、彼の向きを変えた位置を示していた。
「ちょっと聞いておきたいんだ。君はクリスチャニアはいけるかい?」メインは私に向かって叫んだ。
私は首を横にふった。「駄目なんだ」
「いいよ。ちょっと聞いておきたかっただけだから。もう少しで向こうのコースに出るからね。そうすれば雪もしのげるだろう。じゃあ、ゆっくり、斜めのコースで行くからね」
彼はそう言うと、また向きを変えて滑りだした。私は彼のシュプールに戻って後を追った。急な斜面を二度に分けてななめに降りた。向きを変える時はスタンディング・ターンで曲がった。そして緩い傾斜の広い雪の原に出た。
そこは高原のような場所だった。ちょうど白いテーブルが傾いて置かれているような台地だった。私はそこを横切った。ところが、気がつくと、そのはずれから先は切り立った崖に近い急な斜面となって落ちこんでいるではないか。私は、そのとき台地の絶端の向こうの、灰色の雪にぼやけた空間にメインが残していったスキーの軌跡《きせき》ばかりが鮮やかに浮かんでいたのを覚えている。と見る間に私は、その絶端から体を前に倒して躍り出ていた。私は垂直に近い雪の斜面にまっすぐに印されたシュプールを夢中で追っていた。
スピードがつきすぎないうちに私は転倒するべきだったのだ。しかし、私はメインの判断を信頼していた。私はこの急な下りがやがてなだらかに上向きになって終わるものと思いこんでいたのである。そうでなければメインがこの下りを直滑降で下りるはずがない。風は冷たい布を押しつけるように私の顔を圧した。すでに私はどうしようもないスピードで斜面を翔《か》けていた。雪は濃く、四、五十ヤード先はもう見えなかった。私は脚をしっかり固定し、膝を柔らかくしてスピードに身をまかせた。ジャイアント・レーサーで直滑降をするように爽快な気持ちだった。
しばらくして、ふっと雪が切れた。メインのシュプールは小さな雪の谷底に向かってまっすぐに走っていた。向こう側の斜面は壁のように立ち上がっていた。その雪の壁めがけて、私は風を切って宙を飛んでいるのであった。谷底に、メインがクリスチャニアで曲がった時に蹴立《けた》てたに違いない雪の跡がはっきりと見えた。そこから彼は直角に右へ曲がって谷底を下っていた。
私は心臓が咽喉《のど》から飛び出す思いがした。私のスキーが向こう側の斜面に喰いこまず、うまく上向きに滑ってくれることを祈る以外に私にはどうすることもできなかった。転倒は思いもよらなかった。それにはあまりにも加速がつきすぎていた。
対岸の雪の壁は信じがたい速さで私に迫ってきた。まるで撥《は》ね上がってくるようだった。私は両脚をしっかり抱えてスキーが上向きに変わる時の衝撃に備えた。下りきったと思うとたんに、目の前でスキーの先端が持ち上がった。と、次の瞬間、向こう側の雪の斜面全体が、どっと私の上に崩れ落ちてきた。冷たく湿った氷の世界が私を圧し潰《つぶ》そうとしていた。
突然私は静止していた。息ができなかった。呼《は》くことも吸うこともできなかった。口と鼻に冷たい雪が詰まっていた。両脚は捩《ねじ》れて痛かった。脚を動かそうとしたが駄目だった。私は空気を求めて夢中でもがいた。
とにかく顔の雪を除《の》けなくてはならない。私は片手で口のまわりの雪をかきよけた。しかし、やはり息ができなかった。私はうろたえながら、じたばたと両手を動かした。手に触れるのはすべて、柔らかい雪ばかりであった。掴《つか》もうとすると雪は手の中で小さく締まった。
私ははじめて自分が雪の中に埋まっていることに気がついた。私は恐怖を感じた。私は死物狂いで上のほうに向かって雪を掻《か》いた。するとぽっかりと雪の中に開いた孔の向こうに、灰色の空が見え、私はむせながらむさぼるように空気を吸いこんでいた。
呼吸ができるようになるとすぐ、私は埋まった雪の中で脚を動かそうとした。けれどもスキーはしたたかに雪の中に突っこんでいて、とても脚を動かすどころの話ではなかった。私はスキーを足からはずそうとしてみたが、雪の中ではとうていそこまで手を伸ばすことができなかった。体を起こそうとして手をつくと、その手は頼りなく雪の中に沈んでいった。雪はあくまでも柔らかだった。
私はストックを捜そうと思った。かんじきのようなストックの輪があれば体を支えることができる。けれども、ストックは見当たらなかった。空気を求めてもがいた時に私はストックの革紐を離してしまったのだ。ストックは私の体の下に埋まっているのだ。私は体のまわりの雪を脇へ掻き寄せて、横に倒れたままの格好で海老《えび》のように体を折った。ありったけの力を出して、捩《ねじ》れた脚の痛みを堪えながら私はやっとの思いで体を曲げたのだ。やっとのことで左のスキーのクリップに手が届いた。クリップを前に倒すと、とたんに脚の痛みが消え、私のスキー靴はスキーから離れていた。雪の中で自由になった脚を動かしてみた。どうやら折れてはいないようだった。同じようにして私は右のスキーもはずした。右脚も無事らしかった。
両脚をスキーからはずすと、もう私はくたびれきってしまい、しばらくは放心したように横になっていた。しかし、わずかな孔から風は絶えず雪を吹きこみ、窒息しないように私はひっきりなしに新しい雪を脇へ掻《か》き寄せなくてはならなかった。
脚を自由にするための疲労から回復すると、今度は、私は何とかして立ち上がってやろうと考えた。しかし、それは至難《しなん》の業《わざ》だった。手や足を雪の上につけば、雪はたちまちその下で潰《つぶ》れ、私はどんどん深く埋まっていくばかりだった。まるで沼にはまったようだった。私はじっと横たわっている時だけ、辛うじて安全であった。一度私は坐った姿勢を取ろうとして蠢《うごめ》いた。と、その時私はスキーの端を掴むことができたのだ。そのお陰で、私はスキーをてこに、一気に二本の脚で立つことに成功したのである。
たちまち私は腿《もも》まで雪の中に沈んだ。雪の中から足を抜いた時には、私はほとほとくたびれきっていた。柔らかい雪の中で立ち上がろうとすることほど厄介なことはない。第一、私はそれまでの長いスキーコースですでに疲れていたのだ。
私は雪の上に仰向《あおむ》けに寝て肩で息をした。筋肉は軟弱な針金のようであった。まるで弾力を失っているのだ。私はメインを待つことにした。彼は自分のシュプールを伝って戻ってくるだろう。もうシュプールは消えてしまっているだろうか。いずれにせよ、彼は道を覚えていて戻ってくるに違いない。多少時間はかかるだろう。しかし、彼はじきに私が後から来ないことに気がつくだろう。彼は登りを戻らなくてはならない。私はどのくらい雪の中にいるのだろう? もう何時間もいるような気もする。私は仰向けになって目を閉じて、ここは雪の上でなく、快適なベッドの中なのだと考えようとした。汗が乾きはじめ、私の肌から熱を奪った。体温で雪が融《と》け、スキースーツを通して冷たい湿り気が染《し》みこんできた。新しい雪が私の顔に降りかかった。
私はこうして不様《ぶざま》に雪の中で終わったあの長い急斜面の滑降を思い返した。突然、谷底で直角に曲がったメインのシュプールを思い出して私は愕然《がくぜん》とした。弧を描いて蹴散らされたあの雪の跡! メインはあそこでクリスチャニアを使ったのだ。そのほんの少し前、彼はわざわざ立ち止まって意味ありげに私がクリスチャニアをやれるかどうか尋ねたではないか。
雪の中に寝ている私の頭に、ゆっくりと真相が浮かび上がってきた。メインはこうなることをあらかじめ狙《ねら》っていたのだ。
そして私は、もう彼が戻ってきはしないことを悟《さと》ったのである。
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五 生還
メインが戻ってきはしないということに気がつくと、私は一瞬、恐慌をきたした。私は何度となく立ち上がろうとして失敗した。手足は柔らかい雪にのまれるばかりであった。最後に立ち上がろうとして駄目だった時、私は疲労が全身に染《し》み透っていくのを感じた。私は手を伸ばしてやっと坐るような格好になり、雪の中に埋まりながら顔だけは雪の上に突き出した。雪の穴は私の恐怖を駆り立てた。それはまさに墓であった。雪はあとからあとから降り積もり、穴の周囲に堰《せき》を築いていった。私は息が詰まりそうだった。しかし、体を支えようとする私の手は雪の羽根ぶとんの中に沈んでいき、私はゆっくりと横様《よこざま》に倒れてしまった。
しばらくは、私は倒れたままじっとしていた。筋肉は弛緩《しかん》していた。いつか私は、まるで全身無気力の塊《かたま》りのようになっていた。どうでもいいではないか。何をじたばたしなくてはならないのだ? そのまま静かに眠ってしまえばいいのだ。寒くも何ともありはしない。少なくとも、その一瞬は寒くなかったのだ。雪が衣服の中に入りこんで融《と》けていた。けれども濡れた下着は体温であたたまっていた。ただ、体の下になっている手だけが冷たかった。
私はその手を雪の中から抜こうとして動かした。指先に何か硬いものが触った。硬くて丸いもの。突如として力が湧《わ》いて、私はかじかんだ手の周囲を探った。それは一方のストックの先だった。希望が、そして希望がもたらす突然の安堵《あんど》が、私の体を満たした。私は雪に固まったスーツの袖に顔を埋めて嬉し泣きに泣いた。ストックの片方があったのだ。ストックさえ取り戻せば、どんなこともできそうな気がした。
希望とともに私は理性を回復した。私はじっとそこに横たわったまま、周到に行動の手順を考えた。まず体力の消耗《しょうもう》をできるだけ防がなくてはならない。そして、この一本のストックを掘り出す。それが第一の仕事だった。次にもう一本のストックを捜し、スキーを掘り出す。
私は寝返りを打って腹這《はらば》いになり、両手を使って雪の中を探りはじめた。ストックのまわりの雪を掻き寄せて、私はどうにか一本のストックを取り出した。引き出して雪を払った時は、溺《おぼ》れる者が向こうに船の影を見るような気持ちがした。右手はすっかり感覚を失っていた。私は濡れた手袋を脱いで、手に息を吹きかけ、擦《す》り合わせた。血液がかすかに巡《めぐ》りはじめ、指先がちりちりと痛んだ。
私はストックの先を雪の上に突いた。かんじきのようなストックの輪が、雪を押して私の体を支える感じは素晴らしかった。私は体を起こして坐った。そしてスキーのほうに手を伸ばした。スキーは雪の中に凍りついていた。けれども片方のスキーは引き抜くことができた。氷と雪を払ってから、私はスキーのまっすぐなヒールを使って、それまで横たわっていたあたりの雪を掘りかえした。
もう一本のストックを、私はもうとても見つけることはできないのではないかと思った。私は必死になって掘った。何とストックは一番表面に近い、もう一方のスキーが先端を突っこんだままになっているすぐそばにあったのだ。激突した瞬間に私は手を離していたらしい。
そこで私はまた横になった。体力を使い果たしていた。体の芯《しん》まで冷えきっているようだった。しかし静脈の中で血液は燃えつきようとして最後の熱を放っていた。そして私は無力ではなかった。私には二本のストックがあった。じきにまた私はスキーをはいて立ち上がるのだ。じきに……体力が回復したらすぐに。寝そべっていると体中の熱が失われていくのを感じた。寒く、そして睡かった。私はスキーのことを考えていた。何としてもスキーをはかなくてはならない。スキーをはくのはさぞかし大仕事であろう。けれども私はただそのことだけを考えていた。世界はただ一対《いっつい》のスキーに凝縮していた。
私はしばらくそうして雪の上に横たわっていたと思う。たった一本の細いスキーに支えられているという気持ちはまるでしなかった。顔に吹きつける雪に私ははっと気がついた。私はスキーの金具の上にうつぶせになっていた。エッジが強く胸に食いこんでいた。
とうとう私は意志の力をふるい起こしてスキーの上の体を持ち上げた。起き上がると体に積もっていた雪がさらさらとこぼれ落ちた。冷たい風が顔を擦《こす》った。穴の底から見る空は、前よりも明るいようだった。雪も前ほど激しくはなくなっていた。私はもう一方のスキーが雪の中に突っ立っているさまを眺めた。それは、そこで人が死んだことを示すために立てられた板きれのように、まっすぐ雪の中に立っていた。
一方の手をスキーの上に乗せ、もう一方でストックを使いながら、私は雪の中に立っているスキーに近づいた。スキーは堅く凍りついていた。それを引き抜くのは並大抵のことではなかった。しかし私はどうにかそれを引き抜いた。私は雪の上に腰を降ろし、両方のスキーの雪を払ってワックスを塗《ぬ》った。
もうじっとしてはいられなかった。そこで休んだら、二度と立ち上がる気力は失くなってしまう。それを私は感じていたのだ。私は雪の上を転がって、スキーよりもやや高い位置に寝そべった。そしてスキーをしっかりと雪の上に押し付け、スキー靴の雪を払い落とした。しかし、スキーをはくのは、なかなかたいへんな仕事だった。指はかじかんでしまい、まるで力が入らなかった。やっとの思いでスキー靴の踵《かかと》にクリップを掛けはしたが、爪先の太いスプリング・クリップは、まるでそこにはスプリングなどありはしないかのように、引けども引けども、びくともしなかった。その強いスプリングを最後の力をふり絞《しぼ》って引くと、もう私は精《せい》も根《こん》もつき果てていた。
しかし、とにかく私はスキーをはいた。横たわって肩で息をしながら、私は両足にスキーのどっしりとした重みを快く感じた。不思議なものだった。久し振りでスキーをつけた時には、重たくて、邪魔で、とてもかなわない感じがしたのに、柔らかい雪の中で、スキーをつけずにさんざんもがいていると、まるでボートがないところでオールを漕《こ》いでいるような気がするのだ。そして、本当に、足の下にしっかりと体を支えてくれるスキーを感じる時の嬉しさと言ったらないのだ。
しばらくしてから、私はストックを握り、スキーの上に屈《かが》むような格好で起き上がった。
ついに私は雪の上に立ち上がった。私は自分が谷間の白い世界にほじくりかえした雪の穴を見下ろした。
疲労のために、立ってはいられないような気がした。脚は冷えきって痛く、強張《こわば》ってしまっていた。けれども、ただもう一度まっすぐに立ったという、それだけのことが何とも素晴らしく思えた。もう雪の中でもがくこともなく、足の下に雪を踏みしめて、その上を歩くことができるのだ。私は高峰を登攀《とうはん》した男の感じる、世界と自然を征服したような気持ちを味わっていた。
血液の循環を取り戻すために私はそっと足踏みをした。そうやって足を温めながら、私はこれからどうすべきかを考えた。メインはどこへ行ったろう? カルボーニンへそのまま下るのが最も容易な道だった。このまま下って行けば下りのコースに行き当たるはずだ。しかし、果たしてそうか? まわりはただ、でこぼこの雪の山ばかりだった。メインが残していったはずのシュプールは、もはや完全に消えてしまっていた。雪は白い砂嵐のように風に吹かれて舞っていた。根雪の表面を這うように流れる粉雪は、また打ち寄せる波のようでもあった。メインはわざと私をコースからはずれたところに引きこんだのかもしれない。谷に沿って下っていったら、かえってコースから離れて山奥に迷いこむばかりかもしれない。もしコースに出られたとしたら……? メインは一本道だと言っていた。迷うはずのない一本道。もし彼が私を待伏せしていたら? 彼はおそらく長いこと待っているだろう。彼は確かめようとするに違いない。私は慌《あわ》ててあたりを見まわした。今この瞬間にも、彼はどこかから、私を見ているかもしれないのだ。そして、もし私がこの白いジャングルから生きて出てきたら、容赦なく叩きのめそうと待ち構えているかもしれない。私はケラミコスが彼について話したことを思い出した。
私がそうしてあたりを見まわした時、急に風向きが変わった。風は氷河のほうから吹き降ろしはじめたのである。雪と鉛色の空は、紗のカーテンがゆっくりと巻き上げられていくように、少しずつ晴れてきた。頭上はるかに、黒々とした山の頂きが並んでいるのが見えるようになった。私を取り囲んでいる雪の山も、もはやぼんやりとかすんではいなかった。山の斜面や尾根の描く曲線が今ははっきりと見えていた。谷を下った前方千ヤードのあたりに、氷河が一つ見えていた。私たちがずっと上のほうで渡ったクリスタッロ氷河とは別の、もっと小さな氷河だった。氷河に運ばれた黒い堆積《たいせき》が、雪を背景にくっきりと見えていた。氷河は峨々《がが》とした山並みにかこまれていた。山を越えていくコースがあるようには見えなかった。そして、メインの姿も、どこにもなかった。
それを見た時、私は彼が故意に私をコースからはずれた場所に誘いこんだのであると確信した。後に地図を調べると、私のこの時の確信は裏付けされた。私がその位置から見下ろしていた小さな氷河は、モンテ・クリスタッロの麓《ふもと》にあるものであった。一番大きなクリスタッロ氷河を渡った後、メインはカルボーニンへのコースからはなれてずっと右へ向かったのだ。
そのちょっとした風の変化が私の取るべき行動を決定した。そして結果的に私の生命を救うことになったのである。雪が濃く降り続けていたとしたら、私はクリスタッロ氷河の谷をどんどん下って行っただろう。そして私は夜になるまでいたずらに凍《い》てついた山中をさまよったに違いない。そうなれば、私の一生はそこで終わっていたであろう。
けれども、その時の一瞬の雪の晴れ間は、私に取るべき道はただ一つしかないことを教えた。それは、あのクリスタッロの大氷河に後戻りすることであった。そしてポペナの裾《すそ》を越えて元来た道をコル・ダ・ヴァルダに戻ることであった。
そう結論を出すのは決して生易《なまやさ》しいことではなかった。何しろ千フィート以上を登らなくてはならないのだ。また雪がきて道に迷ったら、私にはもはや望みはないのだ。とはいえ、戻っていけば道が確実にあることはわかっていた。また雪が降ってきても、案外地面の起伏などの記憶を辿《たど》っていけば、道に迷うことはないかもしれない。先へ進むとすれば知らない道を行かなくてはならず、おまけにメインが待伏せしていないともかぎらない。確かに、登るよりも下りを選びたい気持ちはあったが、しかしメインに行き合うのはごめんだった。彼は私よりもはるかにスキーがうまい。今度会ったらとても逃げられまい。
そんなわけで、私は楽々と飛ぶように降りてきたあの長く険しい雪の斜面を、一歩ずつ登りはじめたのである。登りきるのに私の時計で二時間かかった。途中何度も立ち止まりながら、緩《ゆる》い傾斜を取ってななめにゆっくりと登らなくてはならなかった。登り切って、灰色の雲海のあちこちに島のように頭を出している山々を見たのは午後二時のことだった。山頂の雪はすべて風に舞い、汚れた毛布のように裾野に拡がり、広い谷の裂け目を埋めていた。
この時の行程については詳しく語るまでもない。途中で何度も私は立ち止まって、ストックにすがって頭を垂れ、もう一歩も先へ進めないと思った。体の重みの下で、膝ががくがくと折れてしまわないように堪えるだけが精一杯だった。私はただゆっくりと眠りたいとそれだけを願った。一度私は不注意から転倒した。手足の筋肉は再び私をスキーの上に立ち上がらせることさえやっとであった。そして、登るにつれて、高さのために私の体力はますます弱まっていった。
氷河はいつ果てるともしれなかった。私が死物狂いで氷河を渡ろうとしている間に、二度雪がやってきた。雪はモンテ・クリスタッロから灰色のカーテンのように吹き降ろしてくるのであった。そして二度とも雪はそのまま私のいるところを吹き抜けて、谷に沿って降っていった。氷河の上は傾斜も緩《ゆる》やかであった。そして粉雪の上でスキーはよく滑ったとはいうものの、登りに向かって交互にスキーを前に運ぶのは大変な努力を要することだった。私はストックを使った。しかし、ストックで体を支える力が私の腕にはなかった。私の濡れた服を冷たい風が凍らせた。私がそれほど体を動かしているのに、凍った服はごわごわと強張《こわば》り、そして雪と同じように冷たかった。
やっとの思いで私は平らな岩場に辿《たど》りつき、スキーをはずした。かつぐと、スキーは信じられないほどの重さで肩に食いこんだ。私は歩くというよりは、ただよろよろとよろけながら進んでいった。
けれども、私はどうにかこうにか山越えの道の最高地点まで登りきった。空気は白く濁っていた。五時間ほど前にここを通った時と同じように、その空気を透《すか》してぼうっと鈍い光が射していた。ポペナの峰が黒く冷たくそそり立っていた。私をかこむあたり一面、牙《きば》をむいたような険しい岩山がひしめき合ってそびえていた。コル・ダ・ヴァルダのほうから風は激しい勢いで吹き上げ、立っている私のまさに足の下から雪を浚《さら》い取って行った。すべては前とまったく同じだった。ただ、もうそこにはメインはいなかった。
私は岩から岩を伝うように、よろけながら進み、前に底から這い上がってきたあの白い鉢の縁《ふち》に行き着いた。私は吹き溜りにスキーを突き立て、うんざりとした気持ちで目の眩《くら》むような下り斜面を見やった。私たちが残したスキーの跡はまだ雪の上に見えていた。斜面の裾の灰色にぼやけた雪の中からケバのようなスキーの跡が浮かび上がり、それがまっすぐ私の立っているところまで登ってきていた。スキーの跡は新しい粉雪をかぶって、かなりぼやけていたけれども、しかしそれは何か懐かしい見憶えある道標のように、私に暖かく安全な眠りを得られる場所への道を示していた。
私はもう一度スキーをはき、ゆっくりと横向きに、灰色の綿のような雪の斜面を下りはじめた。私は自分の足もとに視線を集中した。たった一度だけ、愚かにも私は目を上げて、ずっと下まで続いているスキーの跡を見てしまった。斜面は私の足の下から垂直に切り立っているかのようであった。それを見たとたんに膝の力が脱けてしまい、脚がふるえてどうしても止まらず、片足を上げたら支えの足のスキーが滑り出してしまいそうな気がして、何としても次の一歩を踏み出すことができなくなってしまった。やっと気を落ち着けて再びそろりそろりと下りはじめるまで、私はかれこれ十分ほどもそこに立往生していただろうか。以後、私は決してスキーから目をはなさず、正しく足を踏み出すことに神経を凝《こ》らした。しかし疲労のために、正しい位置にスキーを下ろすことはきわめてむずかしく、何度か支えの足が滑り出しそうになった。
けれども、私はとにかくその急斜面を下りきった。二|艘《そう》の船が舳先《へさき》を並べて行くように、雪を左右に散らしながらスキーがどんどん滑りはじめた時は本当にほっとした。鉛色の雲のような霧があたりに垂れこめ、また雪が顔を打ちはじめたが、私はもう大丈夫だと思った。
残りの下りコースをちょうど半分ほど行ったころだったと思う。吹き殴《なぐ》りの雪の中から人影が浮かび上がってきたのである。何人かの人影だったが、正確な人数は覚えていない。ただ、ジョーの大柄な体つきがすぐ目についた。私は、「おーい!」と呼んでストックを振った。彼らは止まった。私はまっすぐに彼らのほうに向かっていった。雪は私のスキーの下で柔らかく融けていた。雪の中にぼうっとかすみながら、彼らはずんずん私のほうに近寄ってきた。ジョーが小型撮影機を私に向けて跪《ひざまず》いていたのを憶えている。それきり目の前がまっ暗になってしまった。私は途中で気を失ったのだ。
気がつくと、ごつごつとした手が私の腕や脚をマッサージしていた。私は雪の上に仰向《あおむ》けに寝ていた。ジョーが私の上に体を屈《かが》めた。何やら冷たく光るものが唇に触れた。たちまち燃えるようなブランデーを咽喉《のど》に感じて、私はむせかえった。誰かがスキーをはずして、私に毛布をかぶせてくれていた。
「どうしたっていうんだ?」ジョーが言った。
「メインが……」私はあえぐように言った。「僕を……殺そうとした」私は目を閉じた。たまらなく疲れている感じだった。
遠いところから聞こえてくるようなジョーの声がした。「うわごとを言っているな」
イタリア人が何かしゃべっていた。何を言っているのか、まるでわからなかった。私は半ば意識を失いかけていた。何でもいいから放っておいて、眠らせてくれ、と思った。私は誰かの背中にかつぎ上げられた。冷たい風が顔を打った。風の冷たさと、腕に圧迫を感じて、私ははっきりと意識を取り戻した。私は三角帽子をかぶった黒い髪の頭に、頬を押し付けるようにしていた。目の端《はし》に、男の耳の中の黒い柔らかい毛が見えた。まっすぐ目の前を見ると、スキーの先端が乾いた雪を蹴散らしながら、素晴らしい速さで突き進んでいた。男は私の膝の下に腕をまわし、私の手を握る格好で私を背負い、ストックなしで滑っているのであった。そんなふうにしてかつがれて滑るのは恐ろしかった。後になって私は、男がトレ・クロチの山岳ガイドであり、そうやって何度も遭難者をかつぎ降りたことがあるのだということを知らされたのだけれども。
「もう、大丈夫です」私は男にイタリア語で言った。
「倒れちゃいますよ。衰弱してるから」男は言った。
しかし私は、自分で下りると言い張った。とうとう彼は止まって私を降ろした。皆が私にスキーをはかせてくれた。ガイドがぴたりと並んで滑り、私は自力で残りを下った。彼の言うとおりだった。私は気が遠くなりそうで、今にも倒れるかと思った。しかし私は、大丈夫だと言い張った手前、何としても下までは行こうと歯を喰いしばった。
コル・ダ・ヴァルダの雪をかぶった破風《はふ》が見えてきた時は、さすがに私もほっとした。長い旅から戻って自分の家に帰り着いたような気持ちだった。ガイドとジョーに助けられて私は部屋に上がった。彼らは二人がかりで私の服を脱がせ、血液の循環を取り戻すようにと体じゅうをマッサージしてくれた。凍りかけた血管に血が流れはじめた時の、手や足の痛さといったらなかった。そして私はベッドに寝かされ、アンナが運んでくれた湯たんぽに埋まって、そのまま深い眠りに落ちていった。
目を覚ますと、ジョーが食事を載せた盆を持ってベッドの脇に立っていた。「十時過ぎだよ」彼は言った。「四時間くらい眠ったな。何か食ったほうがいい」
私はベッドの上に起き上がった。気分は非常によかった。体の節々《ふしぶし》が痛んだが、すっかり元気は取り戻していた。
ジョーは戸口へ行って誰かに言った。「入れよ。起きているよ」
入ってきたのはメインだった。「どうしたんだ、ブレア!」彼は言った。「いやあ、無事でよかった」
彼は私の言葉を待とうともせずに、ベッドの足もとに腰を降ろした。「僕は今、カルボーニンから帰ってきたところだよ。君を捜してる間は本当にどうなることかと思った。何しろシュプールは見つからないし、君が通った跡を示すものは何一つないときているんだからね。とうとう夜になっても手掛りがなくて、向こうへ降りてみたらウェッスンから、君は山のこっち側で発見されたって伝言が届いていたんだ。電話のメッセージであれほど嬉しかったのははじめてだね、まったく。もう絶望かと思ってたんだ。気分はどうかね? それにしても、どうしたんだ?」
信じられなかった。彼の童顔に近い、人なつっこい笑い顔。その顔はあまりにも屈託がなかった。しかし、笑いは目まで拡がってはいなかった。彼の灰色の目は表情に欠け、何も語ってはいなかった。それとも、私の思いすごしだろうか? 彼は私との再会を心から喜んでいるふうだった。私が生還したことを、彼はことさら喜んでいる態度を強調した。けれども、私の頭は、あのものすごい勢いで迫ってきた白い雪の壁や、彼がクリスチャニアで曲がった谷底の雪の上に残っていた弓なりのスキーの跡の記憶でいっぱいだった。
「どうしたかって、そんなことはとうに知ってるはずじゃないか」私は冷たく言った。「ああなることを狙っていたんだろう」
彼は私を見つめて首をふり、私の言葉がまるでわかっていないかのように話し続けた。「あの谷のはずれまで行ったらね、氷河の端に出たんだよ。クリスタッロ氷河だよ。それで、しまった、こいつは右へ寄りすぎたと思った。だから、そこでしばらく君を待っていたんだ。ところが、いくら待っても君が来ないんで心配になってね、スキーの跡を辿って戻りはじめたんだ。それにしても、シュプールがあれほどすぐに消えるものとは気がつかなかったね。雪で、まるで消えてしまっているんだよ。五百ヤードも戻ったかな。その先は本当に、何も残ってないんだ。谷の地形もよくわからないし、スキーの跡も消えているとなると、さあ、どう戻っていいやら見当がつかないんだなあ。ある筋を降りてきたようにも思えるし、別の筋からきたような気もするし、いろいろに思えてね。雪は濃くって、ほとんどまわりが見えないから、地形から判断しようにも、まるでそうはいかないのさ。あの谷はおまけに、小さな谷が迷路みたいに入り組んでいるんだ。僕は、えいと思って、片っ端から谷の奥へ入って見た。君の名前を呼びながら崖を登って隣の谷へ降りたりもしてみたんだがね、君はいなかった。それで僕は考えたんだ。たぶん君は転倒したか何かして、僕のスキーの跡を見失って、きっと自分で道を捜して降りたんだと思ったわけさ。それで、僕はカルボーニンへ降りた。そうしたら君はまだ着いてないじゃないか。僕はすぐここへ電話して捜索隊を出してくれって頼んで、それからカルボーニンのホテルに居合わせたよく滑れる人間を集められるだけ集めて山に戻ったんだよ。いやあ、驚いた」彼はすまなそうな笑顔を見せて言った。「こんなにあわを食ったのははじめてだね。何というか、つまり、僕のせいでこんなことになったような気がするんだよ。あんなに速くシュプールが消えるってことに気がつくべきだったよ。そうして、だから、あんなに離れちゃあいけなかったんだ。それで、本当に、君はどうなったんだ?」彼は聞いた。
私は彼の図々しさに開《あ》いた口が塞《ふさ》がらなかった。「君は、本当に僕がどうなったか、知らないって言うつもりかい?」私は不機嫌に言った。「驚いたね。君は大した度胸だよ、メイン」私は体がふるえるのを抑えることができなかった。「君はどうしてあの急な斜面を直滑降で下りたんだ? 谷底で対岸の斜面の柔らかい雪を避けようとしたら、あそこはクリスチャニアで曲がらなきゃあならないだろう。ところが、君は、僕がクリスチャニアができないのを知っていたじゃないか」
「でも、僕はクリスチャニアで曲がりゃしなかったよ」彼はそう言って真っ向から私の顔を見た。飽くまでも落着きはらっていた。「谷は降りきったところで、うまい具合に曲がっていたじゃないか。僕は、あそこはストレート・ターンで乗りきったよ。確かにちょっと飛ばしすぎたかもしれないけれど、むずかしいコースじゃないし、クリスチャニアなんてまるで必要はなかったよ」
「嘘だ」私は言った。
彼はびっくりして私を見つめた。「もう一度言うよ。クリスチャニアなんて、まるで用はなかった。あそこまで、君はかなり快調だったじゃないか。僕はてっきり、君はあそこを楽々と乗りきったと思ったがね」
「僕があそこでどれだけ苦労したか、君はよく知ってるだろう」私はやや落着きを取り戻していた。「あそこはクリスチャニアでなくては曲がれないんだ。君は僕があそこで対岸の崖に突っこむことを知っていたんだ」
「おい、冗談じゃないよ」彼は言った。「君、何てことを言いだすんだ」
私はしばらく彼の顔を見つめた。私の思い違いだろうか? それにしても、あの谷底の蹴散《けち》らされた雪の跡……。その記憶は私の頭にあまりにも鮮やかに残っていた。私は言った。「一つ質問をしてもいいかね?」
「ああ、どうぞ」
「君は一九四二年に軍隊に入ったね。イタリアへ上陸してから、君はどうしたんだ?」
彼は不思議そうな顔をした。「君が何を考えてるのか、僕にはまるでわからないよ、ブレア。僕が軍隊に入ったのは一九四〇年だ。四二年じゃないよ。四三年に海外派兵で……北アフリカだ。僕は第三三〇軽高射砲連隊の中隊長だった。サレルノに上陸して、捕虜になって、それから脱走して国連救済復興会議に関係するようになってギリシャへ行った。……でも、何だって君はそんなことを……」
「もういいんだ。忘れてくれ。ちょっと興奮していたんだ。それだけだよ」私はベッドに体を寝かせた。
「まあ、とにかく」彼は言った。「君が無事で何よりだったよ。僕だってできるだけのことはしたんだよ。本当に申し訳なかったよ。僕がわるかった。それはわかっているんだ。でも、これだけは嘘じゃない。僕は君があの谷を間違いなく乗りきれると信じていたんだ。スキーの跡がああ早く消えることに気がつかなかったのは、僕もうかつだった。謝るよ」彼は立ち上がった。
「気にしないでくれよ」私は言った。
メインが出ていくのを待ってジョーは盆の上のカバーを取り、スクランブル・エッグの皿を私のそばに置いた。
「あんた、何てこと言うんだ、ニール」私が食べはじめると彼は言った。「あの男の経歴なんか聞いて、どうするんだ?」
「彼は脱走兵だという人間がいるんでね」私は料理をほおばりながら言った。久し振りに食べる食事は実に美味《うま》かった。「どっちかが嘘をついているわけだ。ここにいる間に必ずはっきりさせてやるぞ」
「あんたの態度が俺にはわからんね」ジョーはぶつぶつ言った。「メインはそんな悪気のあるやつじゃあないぞ。よくやってくれたよ。カルボーニンに着くなりこっちへ電話してきてなあ。おたおたしていたぞ。あんなところをほっつき歩いた後でくたくたに疲れていたろうに、あいつはすぐまたその足で、カルボーニンで集めた捜索隊と一緒に君を捜しに戻ったんだ。暗くなるまで捜したんだぞ。君を見つけられなかったって、そりゃあ、あいつが悪いんじゃない」
私は肩をすくめ、食べ続けた。私が黙っているのが彼は気に障《さわ》ったらしかった。「俺に言わせりゃあ、あんたはちょっと思いやりが足りないぜ」彼は言った。「俺がブランデーを飲ませてやった時、あんた、何て言ったか自分で知っているかい。俺が、どうしたんだって聞いたら、あんた、メインがあんたを殺そうとしたって言ったんだぜ」
私は彼の大きな、善意に満ちた体を見上げた。彼は自分の周囲の世界におよそ疑いというものを持たないのだ。世界は彼の目には、ただ彼のカメラの被写体でしかなかった。「あんた、僕が事故で気も顛倒《てんとう》してると思ったんだね」
「そうそう、そういうことだったのさ」彼は私をなだめるように言った。「しかし、こいつは本当だ。あいつは実によくやってくれたよ。あんたが柔らかい雪にはまっちまったり、あいつの行った跡が消えちまったりしたって、そりゃあ、あいつが悪いんじゃない。あれだけ雪が激しけりゃあ、何が起こるかわかったもんじゃないさ。途中あんたをかついだガイドが、あんたみたいに雪の中に埋まった遭難者の話をいくつもしてくれたよ。要するに何だな、君はやりつけていないくせに、ちょっと無理しすぎたってことさ」
それきり私は口をきかなかった。話したところで何になろう? しかし、谷底をストレート・ターンで乗りきったと言うメインの言葉は嘘《うそ》である。
ジョーは部屋から出ていった。私はのびのびとベッドに横になった。本を読もうとしてみたが、とても集中できなかった。私は読むことを諦め、ただぼんやりと横たわったまま、頭の中を整理しようとあれこれ思いをめぐらせた。
一時間ほどそんなふうにして横になっていたろうか。ジョーがやってきて言った。「イングレスから、あんたに電話だよ。スプレンディドに来ているんだ。さっきから連絡しているんだが、アルドの言うことがさっぱり要領得ないんだっていうから、俺は、あんたはそっとしとかなきゃだめな体なんだって言ったんだが、どうしても出せってきかないんだ。あいつはそういう男だからな」彼は気の毒そうに言い足した。「あんたが死にかけてたって電話口へ呼んでこいって口ぶりだった。騒ぎのあらましを話してやろうかと思ったんだが、やつはそんなこと聞こうともしない。自分に関わりがないとなると、あいつはいつでも、まるで知らん顔さ。降りてこられそうかい。それとも、どなりつけて電話を切ってやるか?」
「いや、出るよ」私はベッドから降りてガウンの上から毛布をはおった。
「それにしても、あいつは何だってわざわざやってきたのかな」私の後から部屋を出ながらジョーが言った。私は膝ががくがくして、歩くのも思いにまかすことができないほどだった。しかし、体の調子はどこも悪くはなかった。「黙って俺たちにまかせておくってことが、どうしてあいつにはできないのかね」背後でジョーが不平を言い続けていた。「やつはいつだってこの調子だ。だれかれとなくどなりつけてないと、あの男は自分が仕事をしてる気になれないんだ。あんた、あいつに読ませる梗概《シノプシス》はできてるかね?」
「何とかまとまってはいるよ」私はそう答えた。けれども頭の中はシナリオのことより、彼の秘密の用向きのことでいっぱいだった。
電話はバーのコーヒー沸《わか》しのそばにあった。私が入っていくとメインとヴァルディニが顔を上げた。二人はストーブの前に坐っていた。ヴァルディニが声をかけてきた。「気分はどうです、ブレアさん? でも、よかったですね。あなたが行方不明だって聞いて、そりゃあ心配しましたよ」
「もう大丈夫です。どうもありがとう」
私は受話器を取り上げた。「ああ、君か、ニール?」電話線を伝ってイングレスの声がほそぼそと聞こえてきた。「ウェッスンが事故だの何だの言ってたのは、ありゃあ何だ?」
メインとヴァルディニが私のほうを見てじっと聞き耳を立てていた。「いや、それほどのことじゃあないんだよ」私は答えた。「明日話すよ。こっちへ来るんだね?」
「下は雪が深いんだがね。でも、スキーをはいてでも俺はそっちへ行くよ。部屋は予約してあるんだ。確かめておいてくれないか。メインについては何かわかったかね。どうだい?」
「そうだね」私は言った。「今ここで物語の筋を話すってわけにもいかないな。電話はバーにあるもんでね。シナリオの構成は会って詳しく説明するよ」
「よし、わかった。ああ、例の送ってもらった写真ね、すぐ現像したよ。どうやら俺の知っている顔らしいよ。あの傷痕《きずあと》でわかったんだがね。それで急遽《きゅうきょ》飛んできたんだ。あの男には気をつけろ、ニール。あれがもし俺の考えている男だとしたら、あいつは危険な客だぞ。ああそれから、あの小悪魔のカルラは今俺と一緒にいるよ。もうマルチニを十杯も空けて、俺にしきりとお世辞を言ってるよ。全然イギリス人臭くないとか言ってね。あの女のかくも美しい気性に関する、われわれの印象が果たして一致するかどうか、お楽しみだな」彼はわざとらしい短い笑い声を発した。「それじゃあ、明日会おう」彼は電話を切った。
ジョーは私が受話器を置くのを待って、飲物のグラスを差し出した。「話はうまくいったかい?」彼は聞いた。
「どうやらね」そうなのだ。イングレスもやはりメインを信用していない。
「やつは何だってこんなところまで来るのかね。何か言ってたかい?」
「いや、別に。ただ自分の目で場所を見てみたいんだろう」それに、カルラが一緒だという。
「そんなこったろうな。しかしまあ、やつはいい監督だよ。不思議な男だなあ。あいつのお袋さんはウェールズ人だぜ。それであいつは音楽好きで、話がうまくって頭が切れるんだ。ウェールズ人てのは皆ああだな。一見はなやかで、見た目は派手だが、おっちょこちょいで深みがないのさ」
「彼はそうばかりとは言えないよ」私は言った。「それはやつが根っからのウェールズ人じゃあないからだよ。あいつの親父はどこの人間だったかな。あんた知らないか。しかつめらしい人種だよ。確かスコットランドだったと思うがね。それがあいつをあんなふうに陰険な完全主義者にしているんだな。あいつのそういった二面がいつも張り合っていて、そのお陰で、あいつと仕事する人間は苦労するよ。とはいうものの、やっぱりそれがあいつの監督としての強味なんだなあ」
私は飲物を空けて部屋に帰り、ベッドに入った。ジョーはまるで母親のようにあれこれと私の面倒を見てくれた。彼は湯たんぽの湯を取り替え、枕許にコニャックの瓶を置き、煙草の用意もしてくれた。「おやすみのキスをするかい?」彼はにっこり笑って言った。
「そいつはなしでも大丈夫だ」私は笑った。
「ようし」彼はそう言って明りを消した。「明日になりゃあ、元気になるさ」
彼の足音が消えるとすぐ、私は起きていってドアの鍵をかけた。危険は避けなくてはならない。
私がベッドの温もりの中に戻ってほんの数分もしないうちに、板張りの廊下に長靴の音がして、誰かが私の部屋のドアを叩いた。「どなた?」私は聞いた。
「ケラミコスです」という答えだった。
「ちょっと待って」私はベッドから降りてドアの鍵をはずし、部屋の明りをつけてベッドに駆け戻り、「どうぞ」と言った。
彼は中に入ってドアを閉じた。彼はしばらく、ベッドの足のほうに立って私を見下ろしていた。厚いレンズの眼鏡の奥で彼の目がどんな表情を示しているか、見ることはできなかった。眼鏡が明りを反射して、私の位置からは二つの白い円盤のようにしか見えなかったのだ。
「つまり」彼は言った。「スリットヴィアじゃあなかったわけですな、え?」
「何のことかね?」私は言った。しかし彼の言った意味はわかっていた。
彼は私の質問を無視して言った。「今日は鍵をかけていらしたようですねえ。だんだんにおわかりの様子だ」
「僕がメインと出かけて事故に遭った話を聞いても、あんたは驚かないだろうね」私は言った。
「私はねえ、どんなことがあっても驚かないのですよ、ブレアさん」ケラミコスは曖昧に答えた。
私は別のほうから探《さぐ》りを入れてみた。「あんたの話では、メインは脱走兵で、軍隊に入ったのは一九四二年だそうだけれど、彼は四〇年に入隊したって言ってるよ」
「それじゃあ、彼の言うとおりなのでしょう。私はギルバート・メインの経歴については詳しく知っているわけじゃありません。私はただ、≪あの男≫について知っているだけです」
「つまり、あの男は本当のギルバート・メインじゃないって言うのかね?」私は聞いた。ほかに彼の言葉をどう解釈できたろう。
彼は肩をすくめた。「あるいはね。しかし、私はあなたとメインの話をするためにここへ来たわけじゃあないんです。同宿の誼《よしみ》として、あなたの奇蹟の生還に、一言お祝いを申し上げるのは礼儀というものだと思いましてね、ブレアさん。ウェッスンの話では、お宅の映画会社の監督さんがお見えだとか。ここにお泊りの予定ですか?」
「何日かいるようになるだろうね」私は言った。「あんたにとっては面白い人物じゃないかな。しばらくギリシャにいたことがあるんだよ」
「ギリシャに?」彼は関心を示した。「軍隊でですか?」
「ああ、情報局にいてね」
彼はきらりと目を光らせた。「それで、その方と私は話が合うだろうというわけですか?」
彼はそこで切り上げ、挨拶をして立ち去ろうとした。ドアの前まで行った彼に向かって私は言った。
「ああ、それからね、タイプライターに挟《はさ》んだままの用紙の文章を読む時は、後で正確に元の位置へ戻しておかなきゃ駄目だよ」
「おっしゃることが、よくわかりませんな」
「ゆうべ僕の部屋を探ったじゃあないか」私は言ってやった。
彼はじっと私を見つめた。そして言った。「誰があなたの部屋を探ったかは知りませんがね、ブレアさん。それは、断じて私ではありません。嘘は言いませんよ」彼は部屋を出てドアを閉めた。私はすかさず起き上がって鍵をかけた。
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六 衝突
翌朝、窓から眺めると、外はそれまでとは一変してまるで違った世界になっていた。太陽の輝きはどこにもなく、白と黒の鮮やかな対照は視界から消えていた。空は灰色で暗く、雪が激しく降っていた。大きな雪片が羽根毛のようにゆっくりと舞いながら、後から後からかぎりなく落ちてきた。地面には柔らかい白の毛布が一面に敷きつめられていた。樹々は厚く雪に覆《おお》われ、まるで樹木とは思えない奇観を呈していた。見晴らし台はもはや木造のプラットフォームではなくなっていた。見晴らし台は、ただまっ白な雪の堆積であった。その上に並んだ丸テーブルはこんもりと雪をかぶり、まるで巨大なきのこが生えているようだった。
気分はすっかりよくなっていた。疲れていたし、体の節々はえらく痛かったけれども、私は階下に降りてスリットヴィアの麓《ふもと》の終点にいるエミリオに電話した。彼は、今のところ橇《そり》は動けるが、もし風が出て雪が舞うようになると運行は無理だろうと言った。私はその場でスプレンディドに電話をかけ、トレ・クロチまで来られれば、コル・ダ・ヴァルダはスリットヴィアで来るのがいいだろうとイングレスに伝言した。それから私はアルドに言って、残りの空部屋を客用に仕度させた。
その日はイングレスがやってくるまで、ほかに何事も起こらなかったから、話のほうもすぐイングレスの登場まで飛んでもいいのだが、ただ、すべてはイングレスの出現に関わりのあることなので、やはり、その朝バーのある部屋を支配していた何かを待ち望むような奇妙な緊張感については話しておくべきだと思う。
ジョーと私が緊張するのは当然と言えた。ジョーは監督との議論にどうやって太刀打ちしたものかと、頭の中であれこれ考えをひねくりまわしていた。「イングレスは頭じゃあいろいろ考えるに違いないさ。問題はあいつの目だよ」ジョーは私に低い声で言った。「映画にはなあ、見た目の重心、つまり視覚的に観客の目を惹《ひ》きつける中心点が必要なんだ。その重心が、俺はこの小屋とスリットヴィアだと思うね。素晴らしい画になるよ。たとえば今日みたいな朝はどうだ。もう何時間もすりゃあ、俺たちは雪に降りこめられて一歩も動けなくなるだろう。こんな話はどうかね。何人かの人間がここに閉じこめられちまって。ところが、そいつらが皆、憎しみ合ってるんだ。利害の対立ってことにしてもいいな」ジョーは朝食の席で私にこの話をしたのだ。居合わせた者たちは皆、妙に耳を澄ませて彼の話を聞いていた。
「ほら、スリットヴィアは使えるぜ」彼はさらに言った。「俺はかなりいい画を撮っておいたがね。造り物の橇を使ってさ、ケーブルが切れてそいつが落っこちていくなんてのを撮ったら面白いんじゃないか。それから、スキーの追いかけなんてのはどうだ……俺はあんたのいい画を撮ったよ。あんたが上から降りてきて、俺の目の前でぶったおれた時にさ。イングレスが俺の考えに耳を貸さないって言うんなら、勝手にしろだ。俺は降りるよ」
ジョーはすっかり緊張して、自分の論点を整理することに夢中であった。私はといえば、やはり一種の興奮を感じていることを認めないわけにはいかなかった。すでにあれだけのことが起こっているのだ。イングレスはきっと私に、なぜここへ来させたかを話すに違いない。私はそんなふうに感じていたのだ。
それにしても、ほかの客たちは変だった。彼らはなぜ、あんなに黙りこくっているのだろう? メインは朝食に降りてきた時、私に明るく挨拶した。たいへんな目に遭った友人が何ともなかったのを見て、心から安堵《あんど》しているという控え目な心遣いを感じさせる態度で、彼は私に気分はどうかと尋ねた。彼は常に変わらず魅力的でこだわりがなかった。しかし、いつもに比べて彼は口数が少なかった。アンナが料理を並べながら大きな目で笑いかけても、彼はそれに応えようともしなかった。そしてジョーがやってきてイングレスのことを話しだすと、メインは不思議に黙りこんでしまった。
ヴァルディニは、アメリカの上院議員にでもなっていれば、どんな法案もねじ伏せてしまうであろうほどのおしゃべりだった。そのヴァルディニが、まるで口を開かなかったのである。それに気づいてジョーが言った。「何を考えこんでいるんだ、ヴァルディニ? 伯爵夫人のご機嫌を損《そこ》ねたか何かしたかい?」
「あんた、いつも俺をからかい相手にするね、え? ウェッスン」シチリアの小男は唇を歪《ゆが》めて言った。
「でもさ、ゆうべあの女から電話があった時、あんたえらくしょげこんでいたじゃないか」ジョーが言い返した。
「それは、いつのことだね?」私は聞いた。
「ああ、あれは、あんたがもう寝に帰った後だったな」ジョーは答えた。
つまり、彼女はイングレスが私に話をした後でヴァルディニに電話しているのだ。いったい彼女は何を彼に話したのだろう。イングレスに関係があることには疑いの余地がなかった。
そして、ケラミコス。彼はいつも静かで控え目だった。けれども、その朝彼は控え目であるよりは何か警戒するような態度が強かった。彼は朝食の席にあって、いかにも自分一人の静寂を楽しんでいるかに見えた。しかし彼の態度にはどことなく落着きが欠けていた。すべてを知っている今となってみれば、あの朝彼が落着きを失っていたのは当然のことなのだが、しかしその時の私には、それが不思議でならなかった。彼はどんな時でも、非常に自信ありげにふるまう男だったのだから。
朝食がすむと、皆ストーブのまわりにかたまった。これも変だった。いつもは皆それぞれの部屋へ帰っていくのだ。
ジョーはまたひとしきり私を相手に映画の話をした。彼は私の支持を求めた。私の書いた梗概《シノプシス》を見せろと彼は言い、どんな構想か聞かせろと迫った。山荘とスリットヴィアは素材として取り入れられているか? 雪の場面はどんなふうに扱うつもりか? などなど、彼はしきりに聞きたがったが、私が生返事ばかりで、ろくな答えを聞かせないので、とうとうしまいに黙ってしまった。そしてやがて彼も、私が感じていたあの張り詰めた空気に気がついて、こう言ったのである。「雪ってやつは、どうも北西風《ミストラル》や熱風《シロコー》に似た働きがあるようだな。いつまで続きそうかね、メイン?」
「一日か二日だろう」メインは答えた。
「まいったね。俺たちはその間何日も、こうやって梟《ふくろう》みたいに不景気な顔でストーブのまわりに坐ってなきゃあならないのかい? 頼むよ、メイン。いっちょう、ぱあっと愉快になるようなピアノを弾いてくれないかね。いつもは朝っぱらから弾かれるのはかなわないと思うんだが、このでっかいストーブのまわりで皆がむっつりしているのは、もっとかなわないよ」
けれどもメインは、今はピアノを弾く気分になれないからと言って断わった。そしてジョーの音楽の注文に声を合わせる者は誰もいなかった。彼はあきらめて本を取り出した。彼がこよなく愛するウェスタン小説であったにもかかわらず、彼は読書に集中できない様子であった。ヴァルディニは例によってマッチ棒で歯の掃除をしていた。メインとケラミコスは何やら考えごとをしているらしかった。
そんなふうにして、私たちは待っていた。そして、ついに十時半になろうとする頃、巻揚装置の震動が、橇《そり》がやってくることを伝えた。誰も動こうとはしなかった。しかし空気は一瞬にして皆の関心に満たされていた。私は立って窓際に近づき、橇道を見下ろした。「誰が来るのかな……君の監督かね?」メインが聞いた。
「まだ見えないよ」私は言った。視界は非常に悪かった。橇道は降りしきる灰色の雪の中に吸いこまれるように消えていた。
メインがやってきて私のそばに立った。雪の中で橇を引くケーブルはぴんと張りつめていた。と、やがて幽霊船のように、橇が雪の中に浮かび上がってきた。「二人乗ってるみたいだな」メインが言った。「こんな日に、ほかにやってくるとしたら誰だろう」彼は後ろをふりかえった。「もう一人は誰だか知らないかい、ヴァルディニ?」
爪を見つめていた小男は、我に帰ったように顔を上げた。スカイブルーのスーツに紺のシャツ、深紅色《クリムゾン》のネクタイという姿だった。ジャズバンドのリーダーにでもしたらよさそうな格好だ。ゴムのような顔がくずれた。しかしその笑いも、彼の目の表情までは変えなかった。その目は用心深く細まっていた。彼は歯の間で音を立てて息を吸った。「あるいはね」彼は言った。
橇はすでに終点に近づいていた。雪に厚く覆われていた。エミリオの後ろに乗客が二人いた。イングレスと伯爵夫人のカルラだった。
橇は私の見ている窓の真下あたりの木造のプラットフォームに止まった。イングレスは窓を見上げて私を認め、軽くうなずいた。メインは小さく息を飲み、まるで何事もなかったようにストーブのほうへ戻っていった。カルラは橇のラックからスキーを降ろしながら、何やら愉しげに、しきりとイングレスに話しかけていた。アンナが出迎えてイングレスの二つのスーツケースを受け取った。
私は部屋の奥に戻った。ほかの男たちは、前とまったく同じ位置に坐ったままだった。口を開く者はなかった。鳩《はと》時計の時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。私はバーへ行き、コニャックの瓶とグラスをいくつか取り出した。山荘の板張りの壁にスキーを立てかける音がした。そしてドアが開き、伯爵夫人に続いてイングレスが入ってきた。ジョーが立ち上がって言った。
「やあ、イングレス。よく来たね。旅はどうだった?」
ストーブをかこんだ男たちの間に起こった動きはそれですべてであった。メインとケラミコスはイングレスを、そしてヴァルディニは伯爵夫人をじっと見つめていた。
ジョーは男たちの沈黙を意識して、一人だけ、しきりに口をきいた。「ほら、君のコートはここのテーブルに置いておくからな。まずは一杯とくるんだろう、おまえさん。ははあ、ニールも同じことを考えていると見えるな。さて、君もここへ泊まるとなると、うん、皆に紹介しておいたほうがいいな。泊まり客はここにいるだけで全部だ。この雪でね、みな足止めを食っているのさ」
ジョーの紹介に、イングレスはストーブのまわりの男たちに軽く頭を下げた。そして彼は言った。「一緒に一杯やれよ、ジョー。君が撮った画の話を聞きたいからさ。君も飲むだろう、カルラ。何がいい?」
彼女はふかふかとした毛皮の裏のあるコートを脱いだ。下は紺色のスキースーツだった。部屋の沈んだ空気の中で、彼女の服の色は一輪の花のように鮮やかだった。「ストレーガをお願い、デリック」彼女はまるで世界じゅうに男は彼一人しかいないとでもいう態度でイングレスの腕を取った。イングレスはちらりと私の顔を見た。その目には意味ありげな笑いが浮かんでいた。私は飲物を注いだ。ジョーはさっそく画面の視覚的な重心について話しはじめた。イングレスはジョーの言うことにほとんど耳を傾けていなかった。彼はバーの端に掛かっている、ひび割れて曇った鏡をしきりと気にしていた。はじめのうち私は彼が身だしなみに気を使っているのだと思っていた。女性の前ではイングレスはそういうことに非常に神経をこらすのだ。けれども私はじきに、イングレスの位置からでは鏡に映る彼自身は見えないはずであることに気がついた。彼のところから鏡に映って見えるのは、ストーブのまわりに集まっている男たちであった。
私は男たちのほうへ注意を向けた。見ると、メインも同じようにその小さな鏡をのぞきこんでいた。ジョーは撮影効果という観点からスリットヴィアがいかに優れた素材であるかを訥々《とつとつ》と述べたてていた。イングレスは聞いているふうを装うことさえしなかった。彼はメインを観察していた。そして彼はその黒い目を、嬉しさともつかず、興奮ともつかぬ何かに輝かせていた。
やがてメインは立ち上がり、バーのほうへやってきた。彼の態度はいかにも何気ないふうだった。けれどもそれは作られた態度だった。彼とイングレスが並んで立つと、二人の背の高さにあらためて驚くほどだった。ただ、イングレスのほうが猫背のために、いくらか背が低いように見えた。ジョーが言葉を切った隙《すき》にメインが割りこんだ。「これから我々と一緒に、ここで仙人の暮しをなさるということであれば、イングレスさん、私と一緒に飲んでいただけるでしょうね」
「喜んで」イングレスは答えた。
メインは飲物を注ぎ、まず自分が一杯飲んでからケラミコスとヴァルディニを呼び寄せ、やがて実に巧みに一座の取りもち役を勤めはじめた。彼は人をそらさぬ、非常に気持ちのよいホストだった。彼は戦時中に比べて平和な時の旅がいかに楽かという話を愉快そうにした。「しかし、平和だろうと戦争中だろうと、僕はどうもあの飛行機の離陸ってやつが苦手でしてね……ほんの三十秒が何とも不安で。本を読むわけにもいかず、やけに熱くって、おまけにあのものすごい音でしょう。窓の外を地面がどんどん滑っていって、それがぐんぐん速くなっていくと思っているうちにふっと失《な》くなってしまう……」
ジョーはしばらく黙ってかわりの飲物を味わっていたが、また元の話題を持ち出した。「いずれにしろ、一つだけはっきりさせておきたいことがあるんだ、イングレス。この先カメラを回す前にさ。いったい、これから……」
「この先しばらくは撮影も休みなんじゃないかね」メインが口を挾《はさ》んだ。「あれを見ろよ」
彼は窓のほうを指さしていた。私たちは一斉にふりかえった。外は急に、それまでよりもさらに暗さを増したかと思われた。雪は地面に達する前に舞い上がり、渦《うず》を巻きながら踊っていた。そしていきなり、その白い渦巻はスリットヴィアの向こう側の森の樹に戦いをしかけるかのようにどっと吹きつけた。突風の最初の一撃に、山荘は身ぶるいするように揺れた。風は破風《はふ》に当たってうなりを上げ、まるでコル・ダ・ヴァルダの頂きから山荘をむしりとって宙の彼方へ投げすてようとでもしているようであった。風は樹々をむずと掴み、テリアが鼠《ねずみ》をすくみ上がらせるように激しく揺すった。悲鳴を上げる樹々の枝から、雪は大きな塊《かたま》りになってふり落とされた。地面からは雪の大波が逆巻《さかま》いて立ち上がり、橇道に向かって叩きつけるようにくだけ落ちていった。やがて突風が去り、風は雪を真横から投げつけるように絶え間なく吹き荒れはじめた。
「この分じゃあ、君は今晩ここで泊まりだな、カルラ」イングレスが言った。
彼女は微笑んだ。「それじゃあ、あなたはご親切にも私にお部屋を空けてくださるの?」
「心配することはないですよ、イングレスさん」ステファン・ヴァルディニが卑屈な目つきをして言った。「この人は何て言ったって心の優しい人でね、あなたに階下で寝ろなんてことは言いませんよ」
一瞬の気まずい沈黙はカルラの笑い声で破られた。「ステファンの言うことなんて、気にしないで」彼女はイングレスに言った。「彼、妬《や》いてるの。それだけのことよ」
「妬いているって!」ヴァルディニはやや険しい目つきでメインを見た。「ああ、俺は妬いているさ。嫉妬するってのがどんなもんだか、あんたおわかりかね、メインさん?」彼は陰にこもった猫なで声で言った。私はまた、あの辛《かろ》うじて表面下に隠されている穏やかでない空気を感じた。
風はさらに力を加えて山荘を揺すった。風は樅《もみ》の樹のいただきを横殴《よこなぐ》りにし、枝の先に最後まで残っていた雪をことごとく払い落とした。雪を払われて樹木は黒い裸の肌を見せ、白と灰色のまだらの世界に立ち上がった。
「あの氷河のところでこんな風に遭わなくてさいわいだったなあ、え、ブレア」メインが私に言った。そしてイングレスをふりかえった。「昨日は危なく、お宅の脚本家が生命を落とすところでしたよ。ごぞんじですか?」
「スキーに行って遭難しかけた話は聞いていますよ」イングレスは答えた。「いったい何があったんです?」
メインが自分の立場から事故の有様を話して聞かせた。実に巧みな話しぶりだった。私は呆気に取られながら、そのうまくできた話に半ば感心して聞いていた。本当のところは後でイングレスに話せばいい。
「よくあることなんですよ」メインは話を結んだ。「本当に僕が悪いんです。離れないように注意すればよかったのに」
「君のほうはどうしたんだ?」イングレスが私に向きなおって聞いた。「つまり、君は柔らかい雪の中へ転倒したわけだろう。自分一人で戻ってきたのか?」
私はわずかな天候の変化に救われて氷河を渡って戻り、途中で捜索隊に助けられた顛末《てんまつ》を話した。
「助けに行った時、先生が目の前でぶっ倒れるところを撮ったよ」ジョーが言った。「あれはいい画だ。シナリオにはああいった場面を入れるといいんじゃないか。客は喜ぶぜ。仲間がホテルから電話してさ、捜索隊と一緒に出かけるところを見せておいて、それから倒れた男が雪の中でもがいている画になるんだ。それで何とか脱出して戻ってくる。そうして、とうとう途中で倒れちまうんだ。捜索隊の中に恋人がいるってのはどうだ」
イングレスはしばらくじっと考えこんでいる様子だった。やがて彼の目は、あの、人を惹《ひ》きつけずにはおかない異様な興奮に輝きはじめた。「それじゃあせっかくのお膳立てが台なしだ、ジョー。もっともっとドラマになるぜ。恋人なんてのをここへ持ってきちゃ駄目だ。たとえば、いいか……ここにいるメインがブレアを殺したいと考えたとするだろう。彼はスキーの達人だ。ところがブレアはあまりうまくない。メインは氷河を渡ってからコースを右へそれていく。もちろん間違ってじゃない。わざとだ」
その先の彼の話を私はほとんど聞いていなかった。私はじっとメインを観察していたのだ。「殺したい」という言葉が出た時、メインはぎくりとした。彼は素早くケラミコスのほうを見た。メインの目はうつろだった。彼は二、三度くちびるを舐《な》めた。
「夜は吹雪になる。ブレアはそこで凍死だ」イングレスは話し続けていた。「完全犯罪だな。証拠は何一つ残らない。ところがだ、運命の気まぐれというやつで、ブレアは生還する。これは筋として面白いぞ。このエピソードを今度のシナリオに使おう、ニール」彼は私に向かって言った。
ケラミコスが体を乗り出して言った。「その設定はなかなか面白いと思いますね」彼は言った。「しかし、メインがブレアを殺す動機が必要ではないですか」
「そこだ。そいつをこれから考えるわけです」イングレスはそう言って私をふりかえった。「さあ、ニール。頭が冴《さ》えているところで、その点を片付けてしまおう。どこか場所はないか? 君の部屋はどうかね。暖房はあるかい?」
「電気ストーブがある」
「ようし」
ドアを出るのを待ちかねて私は言った。「何だって殺人なんていうアイディアを持ち出すんだ?」
「うん、なかなか悪くないアイディアだろう」階段を上りながら、彼は私の顔を見てにやにや笑った。
「悪くないどころの騒ぎじゃあないよ」私は言った。「あれは、まさに起こったとおりの話だよ。メインは僕を殺そうとしたんだ」
「ああ、そんなことだろうと思った」
「どうしてわかるんだ?」私は聞いた。私たちは部屋に着いていた。
「ゆうべ君は電話でそのことをあまり話したがらなかったろう。それに、メインがどんな奴かについて、俺の知っていることから、だいたいの見当はつくんだ」
私はドアを閉じてヒーターのスイッチを入れた。冷えこみは厳しく、窓には厚く雪がはりついていて、外はほとんど見えなかった。「メインについて君は本当のところ、どの程度知っているんだ?」私は聞いた。イングレスは妙な薄笑いを浮かべて私を見た。「悪かったな。忠告しておかなきゃあならないことがたくさんあったよ」
彼はベッドに腰を降ろし、煙草を取り出しながらちらりと私の顔を見た。「まあ、そいつは慌てることはないさ、ニール。それより、まずここで何が起きているか聞かせてくれよ。君から最後に受け取った報告は、競売に関する電報だ。その知らせと、下にいる連中の写真を見て、それで俺は自分でここまで来る気になったんだ。で、まずは競売の話から聞こうか」
私が競売の一部始終を話し終わると、イングレスは、メイン、ケラミコス、ヴァルディニ、カルラについて私が知っていることを全部話せと言った。私はカルラからはじめた。私は彼女が私に話してくれた身の上話を残らずイングレスに伝えた。「で、君はそれを信じたのか?」彼は口を挾んだ。
「信じて悪い理由はないからね」私は答えた。
「なるほど、彼女は浮気っぽいかもしれないさ。でも、だからと言って彼女が本当にシュテルベンを愛していなかったってことにはならないだろう」
イングレスは皮肉な笑いを漏《も》らした。「あの女が人を愛するだって! あの女はね、自分以外の人間を愛したことなんて、ただの一度だってありゃしないんだよ。俺は知ってるんだ。あの女は頭がいい。それに男の扱い方を知っているよ。君はあの女に、あの細い指先で軽く丸めこまれたんだ、ニール」
「馬鹿なことを言わないでくれよ」私はいささかむっとして答えた。「彼女の話は全然不自然なところがないよ」
「不自然じゃない?」彼は声を上げて笑った。「まったく、虎が南極へ移住したと同じくらい、自然な話だなあ。あの女が何だってこんな、コル・ダ・ヴァルダなんていう山の中の寂しい山荘を買いたがると思う? あの女の生きがいはね、世の中にたった二つしかないんだ。まず何よりも金さ。いかんせん、君には女ってものがわかっていないね、ニール。俺の知ってるたいていの人間と同じで、君もあの女から見れば、だましやすいお人好しだよ」
私は肩をすくめた。「まあ何とでも言えばいいさ。でも、僕にいちいち相手の言うことの裏を読めって言うのかい? 彼女の言ってることが本当か嘘か、どうして僕にわかるのさ? 今ここにいる連中について君が知ってることを全部話してくれれば、それは、それなりに僕だってあれこれ考えることはできるかもしれないけれどね」
彼はにっこり笑った。「いいんだよ、ニール。君の言い分はまったく、そのとおりだ。これでヴァルディニとカルラは終わったな。ケラミコスについてはどうだ?」
私は彼に、ケラミコスがメインのことを何と言ったか話した。そして、スリットヴィアの機械室で見たこと、それからあのギリシャ人ケラミコスが、部屋を探ったという私の疑いを強く否定したことなどを話した。
「メインについては何か?」聞き終わって彼は尋ねた。
「ケラミコスに聞いたことだけだね。それと昨日のスキー」
彼はしばらく考えこんでいた。「なかなかよくやってくれたな、ニール」突然、人なつこい笑顔を見せて彼はいった。それからもう一度何やら考えた。そして彼は言った。「ゆうべ君の部屋を探ったのが、メインだったとしたらどうだろう。あの男が君を始末したいと思う動機になるだろうか?」
「まさか」私はそう言ってから、タイプライターに挾んでおいた用紙のことを思い出した。「いや、あるいはそういうこともあるかもしれない」私は付け加えた。「僕は君宛の報告をタイプしていたんだ。ケラミコスが話したことを君に知らせようと思ってね。誰であるかは別として、とにかく部屋を探った人間はあれを読んだんだよ」
彼はうなずいた。「機械室でケラミコスと話していたのがメインだったとしたら? メインだったとは考えられないか?」
「それはどうかな……顔を見ていないからね。でも背が高かったな。あり得ることだね」
「もしそうだとすれば、君が部屋にいないのを見て、メインはある結論を引き出したわけだ。間違いない。そいつはやっぱり我がメインだったんだよ」
そういうと彼は口を閉じた。もう私に聞くべきことはないらしかった。
「ねえ」私は言った。「そろそろ、ここで何が起ころうとしているのか話してくれてもいいんじゃないか」
彼は私の言い分を吟味した。やがて彼は言った。「ああ。わかっているんだ。ここへ来てもらう前にもっといろいろ君には話しておくべきだった。でも、とにかく急いでいたもんでね。それに君はいつだって自分だけで何とかやれる男だ。君は驚くかもしれないがね、俺も君以上に何か知っているってわけじゃないんだ。俺はたしかにメインだの、あのギリシャ人ケラミコスの経歴については知っている。でも、何でやつらがカルラやヴァルディニと繋《つな》がってくるのか、俺にはどうもわからないんだよ。君の言うとおり、やつらはお互いに油断なく相手を見張っているがね。君が知らないことで俺が知ってるたった一つのことって言やあ、やつらがなぜ皆、ここへ集まってきてるかってことだけさ。それについちゃあ、君は知らなけりゃそれだけ安全というものだよ。俺がここへ来た以上、もう君に危険はないと思うよ。あとのことについちゃあね、どうせ自然にわかってくるよ。ちょっとしたきっかけがありさえすればね。今ここは雪に降りこめられている。コル・ダ・ヴァルダに関心のある人間が揃ってこの山荘に閉じこめられているわけだ」彼は笑った。その黒い目の中で、興奮の小悪魔の影が踊っていた。「これからちょっと面白いことになるぞ。今や鍋《なべ》は煮えかえる寸前といったところさ。さて下へ行って、少し火を突っついてやろう。俺が何を言っても、どんなことをしても、ニール、絶対に割りこんでくるなよ。いいから、とにかく後ろのほうへ退《さが》って、花火見物でもしているんだ」彼ははじかれたように立ち上がってドアを開けた。「それから、あのウェッスンの爺《じじ》いにはこのことを言っちゃ駄目だぞ。彼の冒険はあくまでもフィルムの上の話だからな。実際に何かが起こったら、あの男、心臓発作を起こしてしまうよ」
私たちがバーに戻ると、そこにはカルラとメインしかいなかった。カルラは相変わらずストレーガを飲んでいた。頬の色から察して、私たちがいなかった間に彼女はかなりの量を飲んでいたようであった。メインはコニャックのお陰で、いつもの気楽な様子を取り戻しているらしかった。アルドがカウンターの中にいた。「コニャックを二杯だ」イングレスが注文した。
「へえへ、いますぐに」
「ウェッスンはどこです?」イングレスがメインに尋ねた。
「フィルムを現像するとかで、向こうへ行きましたよ」
「ヴァルディニとあのギリシャ人は?」
「現像するところを見物するんですって」カルラがそっけなく言った。「でも、ステファンは何でそんなもの見にいったのかしら。ポルノグラフィじゃないことはわかってるのに、変だわね」彼女は笑って付け足した。
メインはじっとイングレスを見ていた。じっと見つめ、そして彼の次の動きを待っていた。二人の間の緊張は、そばにいてもじりじりしてくるほどだった。イングレスはしばらく物も言わずに飲んでいた。カルラも黙っていた。彼女は二人を見つめていた。彼女の目には、私には意味のわからない異様な輝きが浮かんでいた。
最初に沈黙を破ったのはメインだった。緊張に耐えかねたのだと思う。「僕がブレアを殺す動機に、何かうまい話がありましたか?」彼は努《つと》めて何気ない声を装っていたが、しかし彼の声はやや上ずってふるえていた。
イングレスは顔を上げた。彼はカルラのほうをふりかえった。「君はゆうべ、メインの正体が何物か話してくれた時に、この男は君を裏切ったと言ったね。覚えているだろう」
カルラはうなずいた。彼女の目は闇の中の猫の目のように光った。メインは持っていたグラスを置いた。その手は、今にも誰かに殴りかかろうとするかのように固く握られていた。
「この男は、君を裏切っただけじゃあ気がすまなくてね」イングレスは平気な顔で続けた。「君を殺そうとしているんだ。この話に興味があるかね?」
「嘘だ!」メインが叫んだ。それから、あまりにもむきになって否定した照れかくしのように言った。「でも、僕がどうやってカルラを殺そうとしているのかね」
イングレスはにやりと笑った。そしてメインにではなく、カルラのほうを見つめたまま言った。
「スリットヴィアさ。歯車が一つはずれて、橇に事故が起きる……それで君はおしまいになるはずだったんだ。カルラとヴァルディニの最期だね」
カルラはイングレスを見つめた。
「あんた気違いだね」唇から血の気を失ってメインが言った。「最初はブレアで、今度はカルラとヴァルディニだって」彼はずっと声を落として言った。「とても真面目な話とは思えないよ」
「ところが俺は真面目でね」イングレスがゆっくりと答えた。そして彼はいきなりぐいとメインの前に顔を突きだした。まるで殴りかかりそうな勢いだった。「昨日の事故は殺人未遂だぞ、メイン。君がブレアの咽喉を掻き切ろうとしてナイフを抜いたのと同じなんだ」
メインは笑った。引きつるような上ずった笑いだった。「証明してもらいたいね。冗談じゃないよ、イングレス。ここがイギリスだったら、僕はあんたを名誉|毀損《きそん》で訴えてやる」
「それどころか、ここがイギリスだったらな」イングレスは言い返した。「貴様は今頃、死刑囚監房で処刑を待っているんだ」
メインはふいに肩をすくめて言った。「あんた狂ってるよ」彼は自分で飲物を注ぎなおした。いざこざはそこで終わるかと思われた。イングレスはまずは充分に火を突ついたと、私は見ていたのだ。ところが、急にカルラが割りこんできたのである。
「ギルバート」彼女は言った。彼女の声は、獲物をいたぶる豹《ひょう》のような不気味な優しさを秘めていた。「どうして私を殺そうとしたの?」
メインは一息にグラスをあおって言った。「そんなこと、僕がどうして知ってるんだ。イングレスに聞いてくれよ。これは彼のおとぎ話だからね。彼に聞けば話してくれるんじゃないかな」
「彼に聞く必要はないかもしれないわね」彼女の声は静かだった。しかし、それは怒りのためであるように私には思えた。「私、わかっていると思うわ」その言葉は曲を締めくくる最後の和音《コード》のように響いた。
メインはすっかり警戒していた。彼の青い目は冷たく細まっていた。「それで、僕はなぜ君を殺さなきゃあならないんだ?」彼は澱《よど》みなく聞いた。
「私はもうあなたの役には立たないし、私は知り過ぎているからよ」彼女ははっきりと声を荒げていた。怒りと憎しみの声であった。「あなたは最初、ハインリヒを強請《ゆす》ろうとしたわね。でも、ハインリヒがどこにあるか言わないとわかったら、あなたは彼を逮捕させたのよ。あなたは汚い、けちな密告者よ。可哀そうな私のハインリヒを、あなたは殺したのよ」
「君の可哀そうなハインリヒだ? 君は嫌ってたじゃないか。あいつのほうでも君なんぞは相手にしていなかったぞ」
「嘘よ」彼女はきっとして言った。「彼は私を愛していたわ……最後まで」
メインは笑った。「愛していた? 軽蔑していたんだぜ。君を引きつけていたのは、やつにとって君は役に立ったからだ。やつは他所者《よそもの》の逃亡者だった。君はやつを隠してやることができた。君があいつと一緒にいたのは、そのけちで欲の皮のつっぱった君の魂が、山のような黄金に恋していたからじゃあないか」
「欲ですって? あなた、よくそんなことが言えるのね。あなたは……」
メインは酒を飲み続けた。彼はあらんかぎりのイタリア語の罵詈讒謗《ばりざんぼう》を、黙って軽く聞き流した。彼の態度は計算ずくの傲慢《ごうまん》であった。カルラはふいに言葉を切った。彼女の目は激しい怒りに燃えていた。
「あなたを憎むわよ」彼女は投げつけるように言った。「聞こえたの?……私はあなたを憎むと言っているのよ」
「そうかい、カルラ」メインはあざわらった。「しかし、つい今しがた、君は俺を愛してるって言ったな。やっぱり、まだ愛してるんじゃないのかい」
彼の高慢ちきな、人を馬鹿にした言葉はカルラを非常に傷つけたようだった。「どうして私を捨てたの、ギルバート?」突然、うって変わった沈んだ声で彼女は言った。「私たち、幸せになれたかもしれないのに。どうして行ってしまったの?」
私はイングレスが故意に彼らを焚《た》きつけたことは知っていた。しかし、彼の表情から、イングレスがその場の成行きを面白く思っていないことはよくわかった。
「それはね、君がいみじくも察したとおり、君はもう俺の役には立たないからさ」メインは冷やかに言った。「君は黄金のありかを知りもしないじゃないか。そうだろう、カルラ? 君の可哀そうなハインリヒ、君をあれほど愛していたハインリヒは、黄金の隠し場所をついに君に教えようとはしなかった。やつはあの黄金を手に入れるために、何人も人を手にかけているんだ。みな撃ち殺してこの山の上へ埋めたのさ。それほど苦労して手に入れた黄金だよ。ミラノのダンス・ホールで引っかけた小童売女《こわっぱばいた》に、そうやすやすと秘密を話すはずはないよなあ」
「言ったわね……」カルラは目の前のグラスを握ると、いきなりそれをバーのカウンターの縁に打ちつけて割り、尖《とが》ったガラスをふりかざしてメインに飛びかかっていった。
あっという間のことだった。しかし彼女の素早さにも増してメインは機敏だった。彼の顔をめがけてふり降ろしてくるカルラの手首を、メインは捉《とら》えてねじ上げた。彼女はきりきり舞いをして後ろ向きになった。メインはそのまま彼女の腕を押さえてはなさなかった。逆に、取られた痛さに顔を歪《ゆが》め、体をのけぞらせながら、カルラは血のように赤いマニキュアをした左手の爪で彼の顔を引っ掻《か》こうとして空をかいた。
イングレスが進み出ようとした。ちょうどその時、ヴァルディニとケラミコスがバーへ戻ってきたのである。ヴァルディニが銃を抜いたのを見た覚えはない。実に年期の入った素早さであった。私は目の端で彼が入ってくるのを認めていた。彼はギリシャ人ケラミコスの後から入ってきた。そしてギリシャ人と同じように、バーの前でくりひろげられている異様な光景にすくんだように足を止めた。カルラが彼に何やらイタリア語で怒鳴《どな》った。あるいはそれはシチリア方言かもしれなかった。私には彼女が何を言ったのか理解できなかったのだ。ほとんど同時に、ヴァルディニの手には小型の黒いオートマチックが握られていたのである。
「じっとしていてもらいましょう、皆さん」ヴァルディニは言った。彼の馬鹿丁寧な口ぶりには、ピストルに裏付けられた権威の響きがあった。「私はピストルはへたじゃありませんよ。皆さん、じっとしていてくださいよ。伯爵夫人から手を離してください、メインさん」
メインはカルラから手をはなした。彼女は床に崩折《くずお》れたが、すぐさま一気にはね起きて割れたグラスを握りしめた。尖《とが》ったガラスを片手に構えて彼女はメインを睨《にら》みつけた。彼女の顔は怒りで醜く歪んでいた。彼女は文字通り唇をめくり上げて歯をむき、その目はかっと燃えていた。彼女は明らかにガラスでメインを傷つける気であった。彼女はそっとメインに近づいていった。彼女はわざと、じらすように、ゆっくりとメインに向かっていった。メインの傷痕の浮いた顎《あご》がひくひくと痙攣《けいれん》した。彼は二度ほど生唾を飲みこんだ。私たちはどうすることもできなかった。ヴァルディニの態度には、何の躊躇《ちゅうちょ》もなくピストルを撃つだろうと思わせる何かがあった。
そこへジョーが静かに戻ってきたのである。彼は手にしたネガフィルムを見ながら部屋に入ってきた。入ってくるなり、ジョーはすぐさまヴァルディニの手に握られているピストルに目をつけた。「おっとっと。そんなふうにピストルを人に向けちゃあいかんよ。暴発したらどうするんだ。見せてみろよ。弾は入ってるのかい?」ジョーはそう言うと大きな手を伸ばしてヴァルディニの手からピストルを取り上げた。
私たちは身動き一つしなかった。茫然としていたのだ。そして、誰よりも驚いたのは当のヴァルディニである。信じられない話に思えるだろう。しかし嘘ではない。本当にそんなふうだったのである。ジョー・ウェッスンはつかつかとやってきてヴァルディニの手からピストルを取り上げた。ヴァルディニは手も足も出なかったのだ。ジョーがまるで恐がっていなかったから、というよりほかに説明はあり得まい。ヴァルディニが本気で撃つ気になっていたとは露《つゆ》知らず、だからジョーはまるで恐れを抱かず、そのためにヴァルディニはすっかり気勢《きせい》をそがれてしまったのである。
ジョーはピストルのマガジンをはずすと、いかにも腹立たしそうにヴァルディニを見た。「弾が入ってるのがわからないのかい?」彼は頭をふりふり、この「とてつもない馬鹿な真似」についてぶつぶつと不平を言い、ピストルとマガジンを別々にしてヴァルディニに返した。ヴァルディニの手の中のピストルの背後で起こっていた深刻な葛藤《かっとう》に対する彼の無邪気な無関心さが、傷口に注ぐ冷水の効果を発揮した。張りつめていた空気が和らぎ、メインは再び酒を飲みはじめた。カルラも落ち着きを取り戻した。私たちはまた元通り、歩いたり話したりしはじめた。操《あやつ》り人形が一斉に生命を持って動き出したようであった。部屋そのものがほっと安堵の溜息をついたようでもあった。「いい時に来たよ、ジョー」イングレスが言った。彼の額はじっとりと汗で濡れていた。
「ヴァルディニが、シチリアのギャングのピストルの抜き方を実演して見せてくれていたところなんだ。何を飲む?」ヴァルディニの苦々しい顔を無視して彼は言った。
「俺はコニャックだ」ジョーはぼそりと言った。彼はどうにも理解に苦しむという表情を浮かべていた。「何だって、あのちんちくりんにピストルなんぞをいじくらせたりしたんだ」彼は私とイングレスの間に割りこみながら声を殺して言った。「このしょうがない国じゃあ、誰でもピストルを持って歩いているみたいだな。でも、人前で見せびらかすような馬鹿な真似をされたんじゃかなわないぜ」
彼はイングレスに二|巻《ロール》のフィルムを渡して言った。「スリットヴィアを撮った一部と、この部屋の屋内風景だよ。目を通してくれ。悪くないと思うよ」三|巻《ロール》目のフィルムを彼は私の前に突き出した。「自分がぶっ倒れるところを見る気はあるかい? あの時間じゃあ、露出が足りないがね。でも動きはよく掴んでいるぜ。見られるよ。演技《つくり》で撮ったって、こりゃあ行けるぜ」彼はコニャックを口に運んだ。グラスを置くと彼は言った。「さて、また少し、ほかのロールを現像するかな。この天気じゃあ、ほかにすることもなし。今、入ってきた時、ああカメラを持っていりゃあ、と思ったぜ。あのヴァルディニのちんちくりんがピストルを持ってるところを撮ってやりたかったな。何だか、えらく真に迫っていたよ。そのフィルム、目を通したら後で感想を聞かせてくれよ、先生」
「ああ、そうしよう」イングレスは言った。ジョーはまた部屋を出ていった。
私は部屋の中を見まわした。すでに部屋はまったくの平静に帰っていた。メインはピアノに向かい、私には聞き覚えのない曲を軽く弾き流していた。カルラはヴァルディニを相手に夢中で何か話していた。ケラミコスはバーの向こうの端で一人でアニゼッテをすすっていた。ピアノの音が急に変わったと思うと、メインは意地悪なユーモアのセンスで≪女心の歌≫を弾きはじめた。
「鍋《なべ》はうまく煮えくりかえっているな」イングレスがそっと私にささやいた。「もう一度あんな衝突が起こってみろ、今度は間違いなく誰かが撃たれるぞ。ピストルを持っているのはヴァルディニだけじゃない。こいつは確かなことだよ」
「黄金の山っていうのは、いったい何のこと?」私は尋ねた。私たちの話はピアノの音に消されていた。
「君が写しを送ってくれた『コッリエーレ・デッラ・ヴェネツィア』の切抜きを覚えてるだろう。あれの片方にそのことが触れてあった。黄金はヴェニスの銀行からの委託で輸送されたものだったんだ。その一部が途中で消えた。消えた場所もわかっている。それがトレ・クロチ街道なんだ。ここに集まってきている禿鷹《はげたか》どもの目当てはそれさ。メインも、ケラミコスも、伯爵夫人もヴァルディニもね。あいつらはみな、黄金のことを知っている。この山にあるらしいことも、みな知ってるんだ。ところが傑作なことに、実際に誰が本当のありかを知っているのか、お互いに知らないんだ」
「君は知っているの?」私は聞いた。
彼は首を横にふった。「いや。俺に関するかぎり、すべてはこうと睨んだ山勘《やまかん》さ。シュテルベンがコル・ダ・ヴァルダの山荘を買ったというニュースから推測してね。シュテルベンが最初に逮捕された時、ミラノであの男を訊問したのが、つまりこの俺なんだよ。この消えた黄金という話に俺は興味を持っていてね。かなりの時間をこいつを調べることに費《つか》ったよ。俺はわざわざベルリンまで行って……」その時メインがピアノを止めた。部屋は急に静寂に閉ざされた。外の風の音が、ことさら強く聞こえてきた。背筋が寒くなるような、恐ろしげな音であった。窓の外を、一瞬の絶え間もなく雪が横殴りに流れていた。
「もっと弾いてくれよ」イングレスがメインに言った。「そうしないと、また皆がさっきみたいに怒鳴り合いをはじめるぞ」
メインは今や愉快そうにうなずくと、すっかり気持ちがおさまった表情で丸椅子に坐りなおし、≪幻想交響曲≫を弾きはじめた。ケラミコスがバーに沿って滑るように近寄ってきた。「話していただけませんか、イングレスさん。フォレッリ伯爵夫人とメインの衝突の原因は何だったんです?」彼は尋ねた。
イングレスは不愉快そうな顔をしたが、先刻バーで起こったことのあらましをざっと話した。聞き終わるとケラミコスは一人でうなずいた。「ははあ。黄金のことを考えると、あの女も気が狂ったようになるんですなあ。一生の間には、売女なんていうよりも、よっぽどひどい呼び方をされることだってあるんでしょうに。つまり、あの女もどこにあるかは知らない、というわけですか、え?」彼はいきなり顔を前に突き出した。「あなたは、どこにあるのかごぞんじですか、イングレスさん?」
「知っていたとしても、あんたに言うつもりはないね」イングレスは冷やかに答えた。
ケラミコスは鼻を鳴らすようにして短く笑った。「そりゃあそうでしょうな、イングレスさん。しかし、われわれはお互いに少しばかり力を貸し合ったほうがよくはないですかな。つまり、あなたと私ですが。ほかの連中は……」彼は頭でメインや伯爵夫人のほうを示した。「ただ自分のことしか考えちゃいません。あの連中は、私欲のためにあれを捜しているんです。ところが、あなたと私はそうではない。私たちには使命があります。自分のためにだけ働いているのではないのです」
「で、あんたは、今は誰のために働いているんだ、ケラミコス?」イングレスが聞いた。
「私の国ですよ」彼は答えた。「私は常に国のために仕事をするのです」彼はさらにイングレスに顔を寄せた。「前にお会いしたことがあるのを、覚えておいでですか、え?」
「もちろん、覚えているさ」イングレスは答えた。「ピラエウスだったな。あんたは夜、港に機雷を仕掛けようとしていた」
「ははあ。あなたが忘れるはずはないと思っていましたよ。寒い夜でした。港内の水は油でまっ黒。塵芥《じんかい》もたくさん浮いている汚い水でした。口に入ったら、そりゃあ不愉快なもんでしたよ。あの水泳は辛かった」彼は薄笑いを浮かべた。「それが今ではこうして一緒に酒を飲んでいる。不思議なものだとはお思いになりませんか?」
「酒飲み相手とは、常に好きな人間を選べるとはかぎらんものさ」イングレスは抑揚のない声で答えた。
ケラミコスは膨《ふく》れ気味の腹をゆすって愉快そうに笑った。厚い眼鏡のレンズの奥で小さな目がきらりと光った。「それが人生というもんですな」彼は言った。「あなたは、あなたの政府のために働く。私は私の政府のために。ヴァルディニのように、ピストルを持って私らが出会ったら、これは劇的な瞬間ということになりましょうなあ。ところが、われわれはこうして杯を交わすのです」
「馬鹿なことを言うなよ、ケラミコス」イングレスは言った。「あんたには、もう尽くすべき政府なんてありゃあしないだろうが」
ケラミコスは溜息をついた。「本当です。まったく、おっしゃるとおりです。今のところ、そういうものは何もありません。地下の頼りない組織があるばかりで……。しかし世界じゅうで、私のようなドイツ人が大勢活動しています。私らは、指示も受けず、財源も持たずに活動しているのです。しかし、それはやがて変わります。現在のところ、私らは資金を求めることに労力を費やしています。私がここに来ているのも、まさにそのためですよ。私はギリシャに組織を持っています。組織には資金が必要です。存続をはかろうとすればね。四百万ドル相当の黄金は、資金源としてかなり頼りになります。いつか、ドイツは国家再建に向かって起ち上がります。今度こそ……これが三度目ですが、私たちは失敗を犯しません。現にもう、ドイツは繁栄してヨーロッパの経済を握るだろうなどと言われています。私たちには、あなた方のような国家的負債というものがありません。戦争のたびに、敗戦の荒廃で負債は返済されているのです。今、私らは飢えています。つまり、老人たちは死んでいくということです。これは国家のためにはさいわいです。工業は破壊されています。これも私らにとっては喜ぶべきことです。つまり、私らが再建した時、私らの産業は新しい、時代の先端をいくのです。あなたの国のように、古い工場を、時代の要求に従ってあっちを直し、こっちを取り替えといったものとはわけが違います。軍隊にしても同じことです。前の軍隊が生まれてから二十年になります。二十年という年月は短くありません。まったく新しい、戦争の恐ろしさを知らない世代が育っているでしょう」
「ずいぶん、ざっくばらんな話をするな」イングレスが言った。
「隠したって無駄でしょう。あなたはイギリス陸軍情報局の大佐ですからね」
「前はね」イングレスが訂正した。「今は一市民にすぎないよ」
ケラミコスは肩をすくめた。「あなたがご自身を何と呼ばれようと、そんなことは関わりのないことでしょう。私は、自分は運送代理業をやっている、と人には言います。しかし、あなたはやはり情報部のお方だし、私のような人間がこの世にいることは、一部には知られているんですよ。けれども、じゃあ彼らに何ができますか? たとえば、彼らにこの私をどうすることができるでしょう。私はギリシャ国籍を持っています。ギリシャは自由圏です。ギリシャ人の私を誰も捕えることはできません。イタリアでも、私は決して馬鹿な真似はしません。私は黄金をきっと手に入れてみせます。しかし、用心深くふるまう必要があります。人を殺したりしてはならないのです。……避けられるかぎりはですよ。ところが、メインやヴァルディニは違います。あの二人は両方ともギャングですからね。危険な人種です。メインは脱走兵ですよ。ブレアには話しましたがね」
「ああ、メインのことは知っている」イングレスは言った。「俺が今関心を持っているのはね、あんたがどうやって黄金のことを嗅《か》ぎつけたかっていう点だよ。ギリシャにいたあんたに、伝わるはずがない話なんだ」
「私が知っているはずがない、え?」ケラミコスは嬉しそうな顔をした。「ところが、私はアレキサンドリアに行って以来、ギリシャから外へ出たのは今度がはじめてですよ。しかも、あれはずいぶん昔の話です。……そう、ギリシャ軍の反乱のちょっと前です。本当ですよ。私はギリシャにいて、あの黄金のことを知ったのです。運がよかったと言いましょうか。ヴェニスから金塊輸送の護衛に当たっていて悲劇に遭《あ》った兵隊の一人が、命からがら逃げ帰って、サロニカの私の組織に救いを求めてきたのです。組織では彼に事情を説明するよう要求しました。審問《じんもん》の末、その兵隊はすべてを明らかにしたのです。ところで、あなたは、シュテルベンがどうして黄金を手に入れたかについてはごぞんじなわけですな?」
「推測にすぎないがね」イングレスは言った。「証拠があるわけじゃないんだ。シュテルベンはとうとう口を割らなかった。しかし、護衛が逃亡したという話は初耳だな。シュテルベンは六年も自分の下で使っていた個人秘書まで殺しているんだよ。その兵隊が何をしゃべったか、聞かせてもらいたいものだね。このブレアは、今のところ、まだ何も知らないんだ」
「へへえ。あなた、その逃亡した伍長の供述を読まれるべきですよ。その前に、もう一杯飲みませんか、え?」彼は飲物を注文した。私はケラミコスのほうへ体を乗り出した。メインが何か、やけにけたたましい曲を弾きはじめていたのだ。ピアノと外の風の音のためにケラミコスの声は聞き取りづらくなっていた。
アルドが飲物のかわりを私たちの前に並べると、ケラミコスは言った。「こいつは、ゲシュタポの評判を落とすことになるんですがね。しかし、どんな組織にも、必ずできの悪いのがいるものです。それに当時はすでに末期的でしたからね。しかも、シュテルベンはあの兵隊たち九人を殺す前に、すでに何人もの人を手にかけているんです。金塊はヴェニスの、ある銀行にあったのです。ローマの銀行の所有になるものでした。連合軍がアンツィオに上陸した時に、安全をはかってヴェニスに移されたのです。私たちがポー河まで後退した時、ハインリヒ・シュテルベンはその金塊をミュンヘンの帝国銀行へ移送するように命令されたのです。連合軍が鉄道を爆撃していましたから、ハインリヒは山越えの街道筋を通って金塊を運ぶことになりました。経路はコルチナ、ボルツァノ、インスブルックです。まあ考えてもごらんなさい。何とも小じんまりとした護送隊ですよ。金塊はトラックに積んで封印されました。あとはフォルクスワーゲンが二台。正直で真面目なドイツ軍兵士が七人と、それにシュテルベンです。……金塊は八百万ドル相当を上回る代物《しろもの》でした」
[#改ページ]
七 黄金伝説
ケラミコスは言葉を切って、素早い視線を部屋のあちこちに走らせた。メインは≪死の舞踊≫を弾いていた。伯爵夫人とヴァルディニは相変わらず話に熱中していた。窓の外は降りも止まぬ雪が流れるように宙を舞い、見晴らし台に大きな吹溜《ふきだま》りを作っていた。ケラミコスはポケットから革の財布を取り出し、その中から細かく畳《たた》んだ、かなり大きな一枚の紙を引き出した。彼はそれを広げ、バーのカウンターの上でしわを伸ばしてイングレスに渡した。「パンツァー歩兵連隊の、ホルツ伍長の供述です」彼は言った。「読んでごらんなさい」
イングレスは私ものぞいて読めるように、それをバーの上に置いた。ドイツ語で、タイプされたものだった。日付は一九四六年十月九日。私はその供述書をここに引用しようと思う。それは結局私の手に残り、こうしてこの物語を書いている今、私はそれを目の前に置いているのである。いい供述だ。ホルツは兵隊に特有の直截《ちょくさい》さと簡潔な言葉で、事の次第を物語っている。あの時、その出来事の起こった場所の、まさに真上のバーに立ち、メインのピアノと激しい風の音を背景に供述を読んだ私は、そこに語られている情景をありありと目の前に思い浮かべたものだった。ケラミコスも言ったとおり、それは決して芳《かんば》しい話ではなかった。そして、そこで語られている金塊は、これまでにも多くの人間の欲望をかき立て、彼らを死に追いやったさまざまなものすべてに共通な、ある独特の輝きを帯びていた。
[#ここから1字下げ]
一九四五年三月十五日深夜より十六日未明に亘《わた》り、パッソ・トレ・クロチにて発生した事柄に関する第九パンツァー歩兵連隊H・V・ホルツ伍長の証言
(ギリシャ人ケラミコスの死体から発見されたオリジナルのドイツ語より翻訳)
一九四五年三月十五日、私は三名の護衛とともに、ヴェニスのアルベルゴ・ダニエレに投宿中のハインリヒ・シュテルベン大尉のもとに出頭するよう命令された。ハインリヒ大尉は私に、国民銀行へ行って金塊を梱包《こんぽう》した木箱四十個を受け取るよう命令した。日没と同時に我々は木箱を艀《はしけ》に積み、ピアッツァーレ・ローマへ行った。そこで木箱をトラックに移した。トラックは私の見ている前で、銀行の頭取立合いのもとに、シュテルベン大尉の手で封印された。次いで大尉は私に輸送経路を指示した。すなわち、メストレ――コニリスモ――ボルツァノ――インスブルック――ミュンヘンである。封印されたトラックの脇に運転手つきの二台のフォルクスワーゲンが止まっていた。私はその一台に乗って先導するよう命令を受けた。私の車に金塊を積んだトラックが続いた。トラックには運転手のほかに護衛として私の部下一名が乗った。しんがりのフォルクスワーゲンにシュテルベン大尉が乗り、運転手のほかに私の部下二人が乗った。運転手はすべてドイツ人だった。彼らの姓名はわからない。私の部下は兵卒フリック、ブレナー、ラインバウムである。
ポンティ・ディ・アルピで止まり、タイヤにチェーンをかけた。登りにかかると路面の雪は深くなった。雪は凍り、表面は滑りやすくなっていた。コルチナを過ぎて間もなく、シュテルベン大尉はクラクションを鳴らして停止の合図をした。午前二時をまわったところだった。山を越える道の最高地点であった。私は地図によって、そこがトレ・クロチ・パスであり、先に通過した大きな建物の集まりはトレ・クロチ・ホテルであったことを確認した。
大尉は私の車に並んで止まり、その地点で開封せよという内密の指示書を受けていることを明らかにした。大尉は封筒を取り出して開封した。大尉は私に、その文書が、金塊を付近のケーブル式|橇《そり》の上端にあるコンクリート建造物内に収蔵監視するよう命じているものであることを告げた。そこから大尉が先導に立ち、私たちは幹道をそれて脇の小径に入った。数百メートル行くとコンクリートの建物に着き、歩哨が私たちを誰何《すいか》した。
大尉が内密の指令について説明すると、歩哨は監視の伍長に連絡した。伍長が出てくると大尉は指令文書を示した。伍長は納得せず、ホテルに投宿中の将校に照会しなくてはならないと言った。大尉はそのような遅延は許されないと言い、指令文書を示して、金塊の収蔵作業が未明以前に完了していなくてはならないことを強調した。そして金塊の積み降ろしが終わり次第、大尉自身、伍長とともに将校に面会しようと言った。
この提案に伍長は賛成した。私たちはトラックの封印を切り、金塊の木箱を積み降ろしにかかった。居合わせた警備の兵が全員作業に加わり、私たちは金塊を橇に運んだ。全員とは、伍長のほかに兵卒二名にすぎない。作業進行中、伍長は私に対し、将校に連絡することを禁じられた点について不審を訴えた。伍長はバヴァリア県出身者で対空砲部隊所属であった。部隊はそこで訓練中だったスキー選手団から引継ぎを受けたばかりであった。部隊はスリットヴィアの上方に重対空砲火陣地を建設中であった。伍長はかかる重要な輸送団の到着が事前に連絡されていないことを疑問としていた。話合いの間に私自身にも疑問が生じた。あまつさえ、ドイツに向かうことを信じていた私の部下が公然と不満を表明し、私は不安を禁じ得なかった。
橇は金塊の半分を積み得るのみであった。積みこみが一段落した折り、私と先の伍長は大尉の前に進み、伍長は将校に連絡を取ることを主張した。シュテルベン大尉ははじめその申入れを却下し、激怒してゲシュタポの公務執行を妨害したかどで伍長を処罰すると威嚇した。私は大尉と伍長の不在中も金塊の収蔵作業は滞《とどこお》りなく進行するであろうことを指摘した。警備の兵卒が橇を運転することができたので、作業に支障はないのであった。
議論の末シュテルベン大尉が折れ、伍長とともに将校に面会に行くことになった。大尉は私に作業を続行するよう指示した。私の部下一名と警備の兵はトラックの監視に当たるようにとのことであった。大尉は伍長とともに立ち去った。
私は部下をトラックに配置し、残りの人員を集めて橇に乗った。橇が登りきったところに、コンクリートの砲床のようなものが造られていた。その中に橇の巻揚《まきあげ》装置が設置されていた。隣接して小さな避難小屋があり、そのすぐ山側で高射砲の据付作業が進行中で、土が掘り起こされていた。金塊の積み降ろしを開始して間もなく、機械室の電話が鳴った。大尉からだった。大尉は私に、砲床のコンクリート基礎用に掘られた穴の一番深いものの縁《ふち》に金塊の木箱を並べるよう指示した。私の部下がその作業を進める間に、私は大尉を迎えるため、橇を降ろすことを命じられた。私は指示に従って部下に木箱を砲台の位置に運ぶよう命令した。スリットヴィアの終点からその位置までは通路が作られていたが、非常に滑りやすかった。傾斜が急で、木箱を運ぶ作業はきわめて困難であった。部下は強く不服を示した。
作業が完了せぬうちに大尉が戻り、作業の遅延を怒った。大尉は絶えず時計に目をやった。苛《いら》立っているようだった。部下は大尉の前でも公然と不平を述べ立てた。大尉は私の監督不行届きを難じた。
作業が終わり、木箱が穴の周囲に積み上げられると、大尉は私に「伍長、部下たちを機械室に整列させろ。言いたいことがある」と言った。私は指示に従い、兵たちを機械室の奥のわずかな間隙に一列横隊に整列させた。私は何事かが起こることを予感した。兵たちも同様に感じているようであった。戦争も末期に至ったこの時期には規律が乱れてはいたが、ゲシュタポに対する脅威は依然として強かった。大尉は橇を運転していた兵卒も呼び、兵卒は萎縮《いしゅく》して列に加わった。
大尉が機械室に入ってドアを閉めた。大尉の顔は痙攣《けいれん》していた。私は大尉の制服と左手に血が付着しているのを認めた。私は大尉が転倒して自ら傷つけたものであると解釈した。大尉は平静を欠く様子でせわしなく肩から下げたオートマチック・ピストルの吊紐を指で弾《はじ》いていた。「トラック内の木箱が開けられ、金塊の一部が紛失している」大尉は言った。「貴様たち一人一人を順に検査する。回れ右!」私たちは反射的に何もないコンクリートの壁に向かって回れ右をした。
私は釈然としないものを感じてふりかえった。大尉は両手でピストルを構えていた。私がふりかえると同時に大尉は発砲した。私はちょうど頭上の壁ソケットについていた裸電球を、跳躍して素手で叩き落とした。次いで私は橇の巻揚装置を飛び越え、ケーブルドラムの上に倒れた。室内は真暗だった。硝煙に満たされ、狭い室内で銃声はことさら大きく響き、耳が痛んだ。転倒の際頭を打って、私は半ば意識を失いかけた。
懐中電灯をつけられた。私は身動きしなかった。私は寄りかかっている大きな歯車の間から大尉の姿を見ることができた。大尉は壁に近寄って、倒れた兵たちを一人一人調べはじめた。大尉は片手に懐中電灯を持ち、片手にピストルを構えていた。ドアは私の目の前にあった。私はケーブルドラムの陰でそっと体をずらせ、ドアに行き着いた。ドアを開けると大尉がふり向いて発砲した。私は腕を撃たれた。逃走しながら私は意識が遠のくのを覚えた。私は雪の斜面を転落し、柔らかい雪の中に埋まった。私は橇道を転落したのである。
私は安全を求めて森の中へ身を避けた。程《ほど》なく橇が降りてきた。シュテルベン大尉が運転し、座席には兵卒二名の体が横たえられていた。数分後、橇の最下端で銃声が聞こえた。物音が鎮まるのを待って私は橇道に戻った。何者かがケーブルを伝って斜面を登ってきた。目の前を通過するのを見ると、それは再び大尉であった。
私は森の中を徒歩で下った。麓で私は大尉とともに将校に面会に行ったはずの伍長がうつ伏せに倒れているのを発見した。頭の下の雪は真赤に染まっていた。咽喉を銃剣で掻《か》き切られていた。少し離れた位置に、さらに何体かの死体があった。一名は絞殺、ほかの二名は射殺されていた。中の一名は大尉に個人秘書として仕えていた男であり、もう一名は橇を運転していた警備兵であった。
死体を目前に見、山頂付近で起こったことを思い起こすと、私は恐怖に駆られた。このことを人に語っても信じてはもらえない懸念《けねん》を感じた。私は傷口を布で縛った。さいわい傷は擦過傷《さっかしょう》にすぎなかった。幸運にもイタリアへ下るトラックに便乗することを得て、私はトリエステに着いた。トリエステからはコルフへ向かう船の便があった。後に私は制服を捨てて私服を手に入れ、かつて一九四一年に駐屯したことのあるサロニカ行きの汽船に乗った。そこへ行けば知人もいて救いを求めることができると考えたからである。
私はここで事件について述べたことはすべて真実であることを誓う。私がこの事件のあらましを、全体か部分かを問わず、口外したことはこれまでにただの一度もなく、事件について自ら語るのはこれがはじめてである。
サロニカにて
一九四六年十月九日 ハンス・ホルツ(署名)[#ここで字下げ終わり]
私たちは読み終わり、イングレスがそれをきちんと畳んでケラミコスに返した。「何から何まで書いてあるというのも不思議だな」彼は言った。「まあ、だいたいそんなことだったに違いないとは思っていたんだがね、ただ証拠がなかった。シュテルベンの証言では、トレ・クロチ・ホテルを過ぎてしばらく行ったところでトラックが脇へ寄ったので、やつは止まった。部下が裏切りを働いてトラックの運転手と結託した。シュテルベンは秘書と、スリットヴィアから降りてきた警備の兵たちと力を合わせて、金塊が部下たちに盗まれるのを防ごうとした。撃ち合いになって、警備兵とシュテルベンの秘書は殺された。シュテルベンは何とかその場から脱出して朝の七時半にトレ・クロチ・ホテルに転げこんだ。トレ・クロチに投宿していた対空砲部隊の指揮官に対してシュテルベンはざっとこんな証言をしたんだ。その後、シュテルベンは残った金塊十九箱をインスブルックまで運んだ。そこでも、やつはゲシュタポに対して同じ証言をしている」
「そうです。私も、その証言については聞いています」ケラミコスは言った。「私の組織の男の一人が、その記録を見ているのですよ。ゲシュタポは彼を逮捕したのですか?」
「いや。すでに当時戦局は混乱の極《きわ》みだったからね。やつはイタリアの大都市で擡頭《たいとう》しつつあった共産主義者たちの動きに対処するために、急遽イタリアへ送られたんだ。知ってのとおり、やつが最初に逮捕された時、訊問したのは俺なんだ。ところが、どうしてもやつの証言をひっくり返すことができなかった。やつの証言の弱点は、言うまでもなく、やつに反逆した部下がやつをわざわざスリットヴィアのてっぺんまで連れていくはずはないという点だ」イングレスは腑《ふ》に落ちぬ表情でケラミコスを見た。「それにしても、あんたは何で俺にホルツの供述を読ませたんだ?」
「ははあ……あなたは、あの中に金塊の隠されている場所が示されているとお考えですな、え?」
「山の上でシュテルベンが一緒にいた連中を殺して、死体を運び降ろして、もう一度登ったとすると、どう見積もっても四時にはなっていたはずだ。トレ・クロチ・ホテルの将校のところへは七時半に現われている。ということは、やつは残る五人の死体と金塊二十一箱を三時間足らずの時間でどこかに隠したわけだ。別の場所へ移す時間があったとは考えられないな」
ケラミコスは肩をすくめた。「あるいは、おっしゃるとおりかもしれませんね」
「だったら、なぜ俺に供述を見せた?」
「そこですよ、イングレスさん。この供述からわかるのは、金塊がその時どこに隠されたか、ということだけです。現在どこにあるかは、これからではわかりません。そうでしょう。シュテルベンは短い間だったとはいえ、この山荘を所有したのですよ。しかもその間彼は二人のドイツ人を雇って働かせています。逮捕された時は、すでにここに来て二週間も経っていたんですよ」
「シュテルベンたちのほかには、ここに誰もいなかったのか?」
「そのとおり。アルドと、女房と、アンナは一と月の休暇を与えられたのです」
「刑務所の囚人暴動で、あのドイツ人が二人とも死んだっていうのは妙だな」
ケラミコスはにやりと笑った。「そうです。実にうまくできていますな、え? ある人物にとってはね。……それが誰かが問題だ」
そこへカルラが加わってきた。「何だかひそひそと、秘密の話でもあるようね」
「君には別に秘密なんかじゃないよ、カルラ」イングレスが答えた。「俺たちは今、あのシュテルベンのやつがここに埋めた五人のドイツ人の死体をどうしたのか考えていたところさ」
「何の話?」
「しらばっくれるなよ。一度はいいさ。でも、その伝《でん》でもう一度ってわけにはいかないぞ。あいつは死体をどこへ隠した?……それから金塊は?」
「私がそんなことを、どうして知っているの?」彼女は極度に緊張して、緋色のスキースーツのボタンを引きちぎらんばかりに握りしめていた。
「シュテルベンが二人のドイツ人をここで働かせていた時、君はここにいたんじゃないのか?」イングレスが言った。
「いないわ。ヴェニスにいたのよ」
「彼は、あなたを信用しなかった、というわけですか、え?」ケラミコスが薄笑いを浮かべて言った。
彼女は答えようとしなかった。
イングレスはいつの間にか寄ってきていたヴァルディニのほうを見て言った。「君はどこにいたんだ?」
「私もね、ヴェニスにいたのさ」ヴァルディニは答えた。彼はカルラのほうをじっと見ていた。醜い薄ら笑いを浮かべていた。
「あなた、コルチナにいたはずよ」カルラは驚きを声に示して言った。
「そうじゃない」彼は相変わらず気味悪く笑いながら言った。「ヴェニスにいたんだ」
「でも、私はコルチナに行くように言ったはずよ。あなただって、コルチナに行ったって、言ってたじゃない」彼女はうろたえていた。
「ヴェニスにいたんだ」ヴァルディニは言った。彼は今や蛇《へび》のように冷たい目で彼女を睨みつけていた。
「ははあ」ケラミコスが言った。「あなたはシュテルベンと二人のドイツ人を見張るように言われた。ところが、あなたはその間ずっとヴェニスにいたわけですな。しかしまた、どうしてです?」
「コルチナに行く必要はなかったんだ。ドイツ人は二人とも、メインの仲間だからね。そいつらがその女の獲物と、それからメインの獲物を見張っていたんだ」
私はメインが音を間違えたのに気がついてそっとふりかえった。彼はバーのほうに顔を向けていた。そして私がふりかえった時、ピアノを弾くのをやめて立ち上がった。私のほかに彼に気がついた者はいなかった。彼らは皆ヴァルディニに注意を集中していた。そして小男のシチリア人はカルラから目をはなさなかった。
「それでヴェニスにいたわけですか」ケラミコスが言った。「しかし、どうしてヴェニスにいたのです?」
「メインを見張っていたかったんだ」ヴァルディニはゆっくりと答えた。
「私をスパイしていたんだね」カルラがイタリア語で食ってかかった。「何だって私をスパイしたりするのさ?」
ヴァルディニの目の縁《ふち》が小刻みにふるえた。小柄ながら均整のとれた彼の体は、見ている前で大きく膨《ふく》れ上がったかと思われた。彼は得意然としていた。「おまえ、この俺を馬鹿にしてそれで通ると思っていたな」彼は英語で言った。激しい口調だった。「おまえ、この俺に誇りなんてものはないと思っていたな。忘れるなよ。昔は、おまえ、この俺に、シ・シ・シニョール・ヴァルディニなんて言って尻尾をふっていやがったんだ。俺がおまえみたいな女を五十人も抱えていた頃にはな。それが何だ、俺のことをステファンと呼ばせてやったら、えらく嬉しがりやがって。俺はな、シュテルベンだの、何だの、ほかの連中のことなんざ、どうでもいいんだ。あれはただの商売だからな。でも、こいつは違う。俺はもう、おまえを信用しないぞ」
「メインもヴェニスにいたと言ったな」イングレスが口早に割りこんだ。「メインは何をしていた?」
「カルラと寝ていやがったんだ」ヴァルディニは唇をめくり上げ、汚れた歯をむき出して精一杯の憎悪を示した。
カルラはそれを聞くといきなり彼を殴った。彼女はヴァルディニを手の甲で打ったが、ダイヤモンドの大きな指環は彼の頬に深い傷を残し、傷口から血が滴《したた》った。
しかしヴァルディニは彼女の手首を押さえ、機敏な動きで腰を屈《かが》めると、肩越しに彼女を床に叩きつけた。彼女の頭がバーの止り木に当たって鈍い音を立てた。倒れてうなっている彼女のところへヴァルディニは素早くすり寄り、尖《とが》った靴の先で彼女の胸を小突いた。「貴様、金のことしか頭にない、けちなイギリス人の脱走兵のために、よくも俺を見限ったな」彼はイタリア語で叫んだ。怒りの激情に彼は文字通り涙を流していた。彼は我を忘れて叫んでいた。「なぜ俺を信じようとしなかった。俺が見つけてやると言ったのに。貴様は……」
イングレスは口の中で罵言《ばげん》を吐いていた。彼は両手を固く握りしめていた。しかし私たちがどうすることもできずにいるうちに、メインが部屋を横切って飛んできた。彼はヴァルディニの服の襟《えり》をつかんでふり向かせざま、眉間に強烈な一撃を加えた。シチリア人は部屋の隅まで飛ばされて壁に打ちつけられ、そこに力なく崩れ落ちた。メインは私たちのほうをふりかえった。その目は鋭く光り、彼の右手は上着のポケットに隠されていた。
「さあ、気をつけろよ」イングレスが私の耳もとでささやいた。「危ないぞ。鍋は煮えてふき出したんだ。やつは銃を持ってる」彼の声は興奮にかすれていた。彼はメインに向かって言った。
「二人のドイツ人の名前だがね、ヴィルヘルム・ミュラーとフリードリヒ・マンだろう」彼は殺人犯に止《とど》めを刺す検事のような態度でその名を言った。
メインの反応は見逃すことができないものであった。彼の顔色は雪空の暗い光の中で土気色に変わっていた。彼は落着きを失った視線を部屋のあちこちに配っていた。
「君は二人をカルラに接触させた」イングレスは続けた。冷やかな、即物的な声だった。「カルラは二人をシュテルベンに紹介した。シュテルベンは喜んで二人を使うことにした。二人はギャングだったし、二人が消えても誰も問題にする気遣いはなかったからだ。シュテルベンは二人が君の回し者だとは知らなかった。二人が君の目当てのものを捜し当てたところで君はシュテルベンを密告して逮捕に追いやった」
「それで、僕は二人が囚人暴動の最中に殺されるように工作した、とこういうわけかい?」メインはせせら笑った。
「あの時、あなたローマにいたわね」カルラがはっとして言った。彼女は片肘を突いて体を起こし、敵意に燃える目でメインを見上げた。
「工作しようとすればできたわけだ」イングレスが言った。「しかるべき≪つて≫があればね。俺は、君にその≪つて≫があったと思う」
「どうして、そう思うのかね?」メインは今やイングレスだけを相手と見ていた。メインはたじろぎを見せていた。私はイングレスがそのへんでよしておけばいいのにと思った。
「どうしてかと言えば」イングレスはゆっくりと言った。「君はギルバート・メインではないからだ」
「じゃあ、僕は誰だって言うんだ?」メインは上《うわ》ずった声で言った。
「君は殺人者だ。君はギャングだよ」イングレスがきっぱりと言った。「一九四四年にナポリで、もう少しで君を捕まえるところだった。君はサレルノ上陸作戦の最中に脱走した。そうしてナポリの港湾を根城《ねじろ》にギャングの一味を組織したんだ。君は殺人罪及び強盗で手配されている。君はそれに、ドイツ人捕虜を密かに戦線の向こうへ逃亡させた罪にも問われている。俺が君の行動に関心を持つようになったきっかけは、それだ。ローマが陥落して三月目に、われわれは君を捕えた。女とレストランにいたな。その時に、君は撃たれた。顎の傷はその痕《あと》だ。俺は君を訊問したな。俺がここへ着いた時、君はすぐ俺の顔がわかった。君は前に会った時、包帯で頭をぐるぐる巻きにしていたから、俺のほうは君の顔がわかるまいと高をくくっていたんだろう」
「冗談もほどほどにしてくれよ」メインは言った。彼はいつもの気安い態度を装おうとして必死になっていた。「君は僕を誰かと勘違いしているんだ。僕の軍隊歴は単純そのものだよ。僕は砲兵隊の大尉だった。捕虜になって、逃亡して、国連救済復興会議に加わったんだ。陸軍省の記録を調べてもらえればすぐわかるよ」
「イギリスを発つ前に調べてきたよ」イングレスは静かに言った。「ギルバート・メイン大尉は一九四四年一月、行方不明になっている。カシノ付近の戦闘で死亡したものと考えられていたんだ。ところが、それから二月後に、メイン大尉がドイツ軍の捕虜収容所から脱走したことが伝えられた。君はメイン大尉を装って国へ戻ったが、収容所の生活でショックを受けているふりをした。君は国連救済復興会議に潜《もぐ》りこんだ。そこで君はギルバート・メインの高射砲部隊にいた将校たちに会う気遣いのまずないギリシャ派遣に志願した。俺の見たところ、どうやらギルバート・メインはやはり戦闘中に死んでいるな。君はスチュアート・ロスだ。ミュラーとマンは君のナポリ時代のギャング仲間だろう」
メインは笑った。けたたましい笑い声だった。顔面は蒼白になり、極度の緊張を示していた。
「まず最初がブレア殺人未遂で、その次がカルラの殺害の計画で、今度はまた……」
「本当よ」カルラがしゃがれ声で彼を遮《さえぎ》った。「彼の言ったことは全部本当よ。私にはわかっているんだから」彼女はよろよろと立ち上がった。厚い化粧の下で、彼女の顔は怒りに歪んでいた。今にも泣き出さんばかりであった。「あなた、私を殺そうとしたわ。あなたは自分が金塊を捜し出してやるからって言ったわ。私を愛してるって言ったわ。二人で金塊を見つけて、一緒にその財産で暮らそうって言ったのは、あれは嘘だったのね」彼女の声は、彼女が神経の昂《たかぶ》りに耐え得る限界に達していることを示していた。「いつもいつも、あなたは私を騙《だま》してきたのよ。競売でコル・ダ・ヴァルダを落としたのはあなたじゃない。私は昨日それを知ったのよ。知っているのね。金塊のありかを、あなたは知っているのね。あなたは……あなたは……」彼女は叫んだ。「金塊のありかを知った人たちが遭ったと同じ目に、あなたも遭えばいいんだわ」
メインは彼女のほうに寄っていった。彼の意図はあまりにも明らかだった。彼はどす黒い怒りを燃やしていた。彼はカルラを打擲《ちょうちゃく》しようとして手を上げた。しかし、その手がポケットから抜かれるのを、意識を回復したヴァルディニが見た。ヴァルディニは銃に手をかけた。銃は腋の下に吊られていた。意識の混濁しているヴァルディニは銃を抜く手ももたついていた。メインはずっと早かった。ヴァルディニの銃がホルスターを離れるよりも先に、彼は引金を引いていた。弾はヴァルディニの胸を撃ち抜いた。ヴァルディニの明るいブルーの上衣の胸にぱっと黒ずんだ穴が開き、彼は唸《うな》り声を発して床に倒れた。
一瞬の間、誰一人身動きする者はなかった。メインの銃口から硝煙が青くくゆりながら立ち昇っていた。すさまじい銃声が私たちの一切の動きを封じたかのようであった。ヴァルディニはすすり泣くような声を発して血を吐いた。
カルラがまっ先に行動した。彼女は低く叫び声を上げて駆け寄り、ヴァルディニのそばに跪《ひざまず》いた。私たちの見守る中で彼女はヴァルディニの首を抱き上げ、彼の胸ポケットにあった黄色い絹のハンカチで口のまわりの血を拭った。彼は目を開けてカルラを見上げた。「カルラ……愛している」彼は微笑みを浮かべようとしたが力尽き、がっくりと首をのけぞらせた。
「ステファン!」彼女は叫んだ。「ステファン。死なないで」
しかし、すでに彼は死んでいた。
彼女は顔を上げた。ヴァルディニの体を抱きしめていた。彼女は泣いていた。ステファン・ヴァルディニの死に彼女が涙を見せるとは、何よりも衝撃的な光景であった。
「なぜ、殺さなきゃいけなかったの?」彼女の声はものうげだった。「愛してくれていたのよ。可哀そうなステファン。私に本当のものをくれたのは、彼だけだったわ。私を心から愛してくれたのは彼だけだったのよ。まるで私になついた犬みたいだったわ。どうして、殺す必要があったの?」
彼女はふと我に帰ったようだった。彼女はヴァルディニの死体を床に横たえて立ち上がった。彼女はじりじりとメインに向かって近づいていった。メインは彼女を見つめると同時に、私たち全員にも警戒の目を向けようとしていた。銃は構えたままだった。彼の目の前まで近づいてカルラは立ち止まった。彼女は目を大きく見開き、その目は燃えるような光を宿していた。
「あなた、馬鹿よ」彼女は言った。「二人でハインリヒをこっそり殺して、金塊を私たちだけで手に入れればよかったのよ。一生、二人で幸せに暮らせたはずよ。なぜハインリヒを逮捕させるようなことをしたの? どうして仲間の二人も道連れにさせたの? お陰で方々に知れ渡ってしまったわ」
「あの二人には、金塊の誘惑は大きすぎたんだ」メインはかすれた声で答えた。
カルラは溜息をついた。「私はとうとう生涯、詐欺師や人殺しを相手に暮らしたのね。あなたは真面目な人かと思っていたのに。あなたは愛してくれていると思ったのに。……ヴェニスでは、私、幸せだったわ。お金持ちになって、誰にも邪魔されずに暮らせると思ってね。でも、あなたは行ってしまった。そうしてハインリヒとあなたの二人の仲間は逮捕されたわ。あの時、私は何かおかしいと思いはじめたの。私はステファンにあなたを尾《つ》けさせたわ。それで私はすべてが終わったことを知ったの。あなたが愛していたのは、私ではなかったわ。あなたは金塊以外に関心がなかった。この場所を、あなたは私に対抗して競《せ》り落としたわね。あなたは、私とステファンを殺そうとしたわね。あなたは汚い嘘つきよ。ペテン師よ」彼女はまるで感情を忘れた者のようにしゃべった。しかし、さらに言い募《つの》るうちに彼女の声は次第に高まっていった。「ステファンを殺したんでしょう。だったら、早く私も殺したらどうなの。銃があるんでしょう。銃を持ってたら、恐いもの知らずなんでしょう。さあ、殺しなさいよ。やればいいじゃない」彼女は笑った。「あなたは馬鹿よ、ギルバート! 殺すなら今よ。私も、ここにいる皆も、早く殺したらどうなの。あの金塊のことを考えてごらんなさいよ……この世で、金塊のありかを知っているのは、あなた一人になるのよ」彼女は蔑《さげす》むような笑いを浮かべた。「でも、金塊なんて、あなたにとって何の得にもならないわ。さよなら、ギルバート」
彼女は背を向けて、ゆっくりと部屋を出ていった。
私たちは彼女を見送った。ほかの者たちのことは知らないが、私はメインが今撃つか、今撃つかと思いながら握りしめた手の爪が掌《てのひら》に深く食いこむほど極度の緊張を覚えていた。メインは血の気の失せた顔を引きつらせた。彼がゆっくりピストルを上げた時、私は引金にかかった指に力が入るのを見たと思った。しかし彼はふいに力を抜いてピストルを下げた。カルラのスキー靴の音が外の廊下の板張の床に響き、やがてゆっくりと階段を上がっていった。
メインは私たちのほうを見て笑った。気軽な自信に満ちた笑いであるはずだった。しかし、彼の笑い顔は醜悪に歪《ゆが》んで恐ろしかった。げっそりしたうつろな顔だった。顔色が蒼白なのは、外の灰色の世界から射しこむ鈍い、白ちゃけた光のためばかりではないのであった。私は急に、彼が怯《おび》えていることに気がついた。
彼はややためらう態度を見せた。その場で私たちを撃ち殺すべきか否か、彼は自問自答していたのだと思う。私は胃袋の底から、何かが衝《つ》き上げてくるような不快な感じを覚えた。
「やつがまた銃を上げたら、テーブルの下に転がりこめ」イングレスがそっと私にささやいた。張りつめた口調だった。私は松材の大きなテーブルに目をやった。テーブルは、しかし、あまり頼りになりそうもなかった。私は絶望感に襲われた。今にして思えば、その時私は怯えていたのだ。口がからからに渇《かわ》き、部屋の中のどんな小さな動き、どんな小さな物音も、すべてが何倍にも拡大されて私の感覚を揺り動かした。そのために、今なおその場の有様を私はありありと思い出すことができる。
風の音の中で、鳩時計の時を刻む音が規則的に聞こえていたのを覚えている。雪の音も確か実際に聞こえていた。重い溜息のような、こもった柔らかい音だった。そして、奇妙なカチカチというかすかな音が聞こえた。それはアルドがふるえて歯を鳴らしている音であった。ヴァルディニの口からはどす黒い血が滴《したた》り落ちていた。ヴァルディニは磨き上げた松材の床近くに、開いた口を寄せて倒れていた。誰かがバーの上にこぼしたコニャックが、ぽたりぽたりと床に落ちて、そこに小さなコニャックの水溜りを作っていた。
私たちはそこにそうして、長い長い時間、じっと立っているように感じられた。私たち三人はバーに寄りかかるようにしてかたまって立ち、アルドは片手にナプキンを、片手にグラスを持ったまま凍りついたように立ち尽くし、ただ彼の禿《は》げて光った頭部から、歯の鳴る音がかすかに洩れていた。そして、メインは部屋の中央に、ピストルを片手に立っていたのである。実際には、ほんの数秒のことだったであろう。ドアの閉まる音がして、頭上にカルラのスキー靴の音が聞こえた。彼女はヴァルディニの部屋にいるのであった。
メインはちらりと天井を見上げた。彼もまた、その足音を聞いていたのだ。彼はさだめし、撃てるうちに彼女を撃ってしまわなかったことを後悔していたに違いない。彼はそこで気を取り直した。彼は、ややいつもの態度に近いものを取り戻して私たちに言った。「諸君、もし武器を持っているようなら、それを渡してもらわなくてはならないねえ。ケラミコス! まず君だ。よく見えるように、テーブルのところへ行ってくれ」彼はピストルの先でうながした。「恐がることはないよ」ギリシャ人が尻ごみするのを見て彼は言った。「撃ちゃあしない。金塊を掘るのに、人手は必要なんだ」
ケラミコスは二つの可能性を考えていたのだと思う。その一つは、素早くイングレスの背後に隠れることであった。しかし、イングレスはふりかえって彼を見ていた。
「あいつがまた怯えださないうちに、言われたようにしたほうがいい」イングレスが言った。
ケラミコスはふいににっこり笑った。「ああ。あるいは、そうしたほうがいいかもしれないな」彼はそう言ってテーブルのところへ歩いていった。彼はその先の指示を待つようにメインの顔を見た。
「ピストルの銃身を持って、テーブルの上に置くんだ」メインが指示した。
ケラミコスは言われるとおりにした。
「それじゃあ、向こうをむいてもらおう」
私はてっきりケラミコスが撃たれるものと思った。しかし、メインはケラミコスに近づき、馴れた手つきで手早く彼の体を探った。
次はイングレスの番だった。彼もピストルを持っていた。
「今度は君だ、ブレア」
「僕は銃なんか、持っていない」私はテーブルに向かって歩きながら言った。それを聞いて彼は笑った。「狼の群れに羊が一匹というわけだな」それでもなお、彼は私の体じゅうを探った。メインはさらに、アルドもバーの外に呼び出して身体検査した。バーから出てきたイタリア人は恐怖のために、まるで常軌を逸していた。彼はロシア・バレエに登場する奇怪な人形のように、今にも飛び出さんばかりに大きく目をむいていた。「さあ、その死体を運び出せ」メインはイタリア語でアルドに言った。「雪の中に埋めて、床を洗え」
「いやだいやだ、お客さん。勘弁してくれ。そんなことはできない」彼がメインのピストルと、血の海の中に倒れている死体の、どちらをより恐れていたかはわからない。とにかく、アルドはうろたえ、およそまともに話のできる状態ではなかった。
メインは私たちをふりかえった。「この獣じゃあ話にならない」彼は言った。「ご苦労だが、君たち、その目ざわりなものを外の雪の中へ放りだして、この阿呆《クレチー》に床を拭かせてくれないか」彼は、もうすっかり自分を取り戻していた。彼はヴァルディニの死体の処分を、まるで割れたグラスを捨てるのと同じような態度で私たちに言い付けた。「まだ部屋には行かないでくれ」彼はさらに言った。「まずこっちが先に調べるからな」彼は天井を見上げた。カルラの足音は、まさに彼の頭の真上から聞こえていた。「さて、上へ行ってカルラの面倒を見てこよう」彼はそう言った。そしてまず、電話線を壁から引きちぎった。
「彼女をどうする気だ?」戸口へ行きかけるメインにイングレスが聞いた。
彼はドアのところでふりかえると、にったり笑った。「あいつと寝るのさ」板張の廊下を歩き、やがて階段を昇る彼の足音が部屋にいる私たちのところまで聞こえてきた。頭上でドアを蹴開ける音がして、あとはひっそり静まった。
「彼女をどうするつもりだろう?」私は聞いた。
「さあね」イングレスは低い声で言った。「まあ様子を見よう。しばらくは何もしないと思うよ。今のところ、やつにはヴァルディニをやっただけで充分だろう」
私たちは耳を澄ませて立っていた。私は突然、強い吐き気に襲われた。目の前にヴァルディニの死体が屠《ほふ》られた豚のように、自分の流した血の中に倒れている。それだけでも私には耐えがたいことだった。再び階段に足音が聞こえた。メインが戻ってくるのだ。彼は部屋に入ると、じっと立ち尽くしている私たちの姿を見て足を止めた。「どうしたっていうんだ、え、君たち」すでにピストルは手にしていなかった。彼はさも愉快だと言わぬばかりの顔つきだった。
「殺したのか?」イングレスが聞いた。
「おっと、とんでもない。閉じこめただけのことさ。ヴァルディニの部屋に別のピストルはなかったというわけだ」彼は死体を頭で示した。「イングレス、君とブレアでこいつを片づけてくれ。ケラミコス、俺と一緒に来い」
ヴァルディニの死体は重くはなかった。私たちはバーのそばの窓を開け、そこから死体を放り出した。窓の下は深い吹き溜りになっていて、ヴァルディニは羽根ぶとんの中に沈むように雪の中に沈んだ。私は窓から顔を出して下をのぞいた。彼は仰向《あおむ》けに倒れていた。白い雪の中で彼の服の色はやけに鮮やかだった。そして口から滴った血が雪を赤く染め、ちょうど、上から見ると彼はやけに赤い帽子をあみだにかぶった縫いぐるみの人形のようであった。雪が吹き寄せられて、見るまに彼の体を覆いはじめた。風は冷たく私の顔を打ち、私の顔はたちまち雪でまっ白になった。私は顔を引っこめて窓を閉めた。イングレスはアルドを見下ろすようにして立っていた。イタリア人は床に膝をついて、バーの雑巾《ぞうきん》で血を拭っていた。
「一杯飲まないといられないな」私は言った。
「俺にも、注いでくれよな」イングレスはバーのほうにやってきた。「そろそろ昼飯の時間だな」
私は鳩時計を見上げた。時計はまるで何事もなかったように、軽やかに時を刻んでいた。十二時半だった。
「こんなに食べる気のしないのははじめてだな」私は言った。
「しっかりしてくれよ。もっとひどいのを君は見ているじゃないか」私が手渡した飲物を口へ運びながら彼は言った。
「わかっているさ。でも、あれは戦争だからね。戦闘の訓練を受けているうちに、死っていうものに馴らされていたんだと思うよ。でも、冷酷に人を殺すとなると、話は別だよ。僕はてっきり彼があの女を撃つと思った」
「まあ慌《あわ》てるなよ、まだこれから殺《や》るかもしれないぞ。そうすれば、やつは今度は俺たちも撃つ。こっちが何とかしないでいればな。でも、こっちもただ殺されるわけじゃない」彼はグラスを上げた。「元気を出せよ」彼は落着きはらっていた。「不思議なもんだな。金だの宝石だの、何でも一|塊《かたま》りの形に凝縮された富が人をいかに動かすかってことさ。シュテルベンだってそうだろう。やつは九人の人間を殺したんだよ。それも、君だの俺がシナリオのある部分を削るのと変わりない気安さでだ。メインにしても同じことさ。すでにあいつは人を三人手にかけているし、ほかに一人、自殺に追いやっている。君から見れば、それも殺人と同じだろう。あいつはギャングなんだ。何の感情もなく人を平気で殺す男だよ。あいつ自身は、実際ほんとうに下らないやつなんだ。感情の起伏なんてもののまるでない退屈な男だよ。ただ、やつのやらかすことがえらく派手なんだ」
「それにしても、君はまた何だって、こんなことに首を突っこむことになったんだ?」
彼はちらりと私の顔を見た。「ああ、いずれいつかは君がそう聞いてくるだろうと思っていたよ」彼はやや口ごもった。「そうだな、実は俺も今しがた、自分でそれを考えていたところなんだ。プライドといったらいいかね。それと、俺の冒険に対する渇望《かつぼう》かな。俺はね、軍の情報局員としては、結構成績もよかったんだ。かなりいろいろな仕事を失敗もなくやってのけたよ。ところが、シュテルベンの金塊で俺はつまずいた。シュテルベン逮捕の知らせと、やつがどうやってコル・ダ・ヴァルダを自分のものにしたかという話を読んだ時、俺は、相当に臭《くさ》いと感じたんだ。何とかせずにはいられなかった。それから君が送ってくれたあの写真を見て、俺はやっぱりそうだったか、と思った。メインの顔はすぐわかったよ。ケラミコスも、たしかに見たことのある顔だと思った。それで俺はここまで来て、どういうことになっているのか、確かめずにはいられなくなったんだ。でも、今朝がた、火を突ついて掻き起こそうって言ってた時には、まさかここまでいっぺんに燃え上がるとは考えもしなかったね」彼は私の肩を叩いた。「すまなかったよ。俺は君をこんなことに巻きこむつもりじゃなかったんだ。それだけは誤解しないでくれよ、ニール。……俺たちは今、えらく危険な場所にいる」
「だったら、そこから脱け出そうよ」私は言った。
「どうやって?」
「スキーでトレ・クロチまで行けるだろう」
「ああ、スキーで行けば行かれるな。でもメインだって馬鹿じゃないよ。スキーとスノーシューズのことはやつだって考えているさ。しかしまあ、調べてみよう」
彼のいうとおりだった。スキー置場の戸口にメインは立っていた。中からスキーの触れ合う音が聞こえた。メインはケラミコスにスキーをまとめて結《ゆ》わかせているのだ。「死体は始末したかい?」彼は言った。「じゃあ、こっちへ来て手伝ってくれ」
私たちがスキー置場の小さな小屋に入っていくのを、彼は充分に間合を取って、抜け目なく監視した。私たちのスキーのほかに、何対かのスキーがあった。それを私たちは三組の束に結わえた。メインは私たちにそれを見晴らし台へ運ぶよう指示した。
見晴らし台からメインは私たちを追い立てて、スリットヴィアの巻揚装置のあるコンクリートの機械室へスキーを運ばせた。雪は深く、ところどころで私たちは膝まで没した。メインがドアの鍵を開けて私たちは中に入った。雪を叩きつけてくる刃物のような風から逃れて、私はほっとする思いだった。室内は冷たくじめじめとしていた。そして使用されていないコンクリートの建物に特有の、あのかび臭いにおいが立ちこめていた。機械はうっすらとほこりをかぶり、まるで使われていない何かの装置のようだった。けれども、油は充分に注されていた。太い鉄格子をはめた窓には雪が厚く積もっていた。橇を巻き揚げるケーブルの通じている隙間から、風は音を立てて吹きこんでいた。私は奥の壁に目をやった。ホルツ伍長の証言によれば、そこでシュテルベンはドイツ兵たちを射殺したのだ。しかし壁には弾の痕はなかった。コンクリートの平らな、何の変哲もない灰色の壁がそこにあった。私の視線にイングレスは気づいたらしく、彼は顔を寄せてささやいた。「シュテルベンは壁を塗り替えたようだな。元気を出せ、ニール。こっちにはこっちのやり方があるんだ」
私たちは部屋の隅の分電盤のそばにスキーの束と二足のスノーシューズを置いた。そして再び外に出、メインがドアの鍵をかけた。鋭い風の牙に抗《あらが》いながら、私たちは見晴らし台に戻った。山荘の入口で、メインは足を止めて言った。「午後、仕事にかかるぞ。ああ、それから、君らはなるべくバーのまわりから離れないようにしてくれ。俺がよく見張れるようにな」
私たちは中に入った。大きな部屋は暖かかった。服の雪を払い落とすと、雪は足下の床で水溜りを作った。ジョーがバーに一人でいた。「何だ、皆どこへ行ってたんだ?」彼は言った。「アルドのやつはどうしたっていうんだ? いつもに輪をかけてぼけっとしているぜ。俺の見てる前でグラス二つ割っちまって、コニャックの瓶をひっくりかえしやがったよ」
アンナがテーブルの仕度をしていた。彼女は怯えた目で私たちを見た。顔からはまるで血の気が失《う》せ、あのいつもの明るさも華やかさもなくなっていた。ジョーは飲物を注文して何巻かのフィルムを取り出した。「スキーの場面だよ」私たちがバーへ寄っていくと、彼はぼそりと言った。「だいたいこのあたりでどんな画が撮れるか、それで見当はつくはずだよ」彼はフィルムをイングレスに渡した。
「どこで現像してたんだ?」イングレスは聞いた。
「裏の洗濯場だよ」ジョーは言った。「寒くってふるえ上がっちまうがね。でも、ほかに水場がないから」
彼は何も知らないのだ。イングレスはネガフィルムを巻き取りながら見ていった。メインはやや離れて立っていた。異常な事態の起こったことを夢にも知らない男と隣り合わせてそこで酒を飲むのは、何とも妙な気分だった。
二巻目の途中でイングレスはふいに手を止めた。「何だこれは、ジョー?」彼は尋ねた。
ジョーは顔を近づけてフィルムをのぞいた。「ああ、そいつはここへ着いた日の夜撮ったんだ。月の光がよかったもんでね。いい夜景だろう。スリットヴィアの崖縁《がけぶち》の森の中から狙ったんだ。なかなか幻想味があると思わないかい」
「ああ……そうだな」イングレスはぐっと目を寄せてフィルムの齣《こま》をのぞいた。「こいつは何をやってるんだ?」彼は一つの齣を示して言った。
ジョーは肩越しにのぞいて言った。「さあてね。何か、測るかなんかしてるみたいだな。動きがあっていいだろう。実は、そいつを見たんで回す気になったんだよ。何か動きが欲しいと思ってたもんでね」
「君が撮影してるのを、相手は知ってるのか?」
「とんでもない。知りゃあしないよ。知ってたら、動きが不自然になっちまって、とても駄目さ」
「こりゃあいい」イングレスは私にその部分を示した。「いいショットだよ、ニール。こいつを見たら、いくつか考えが湧《わ》くんじゃないか。今度の本には夜景を使うシーンを入れよう。夜景の効果はかなりうまく出せるよ」
私は彼の示している箇所をのぞきこんだ。彼の指さす齣には、一人の男が体を屈《かが》めている姿が映っていた。私はその部分を光に透かして見た。その画は山荘を正面から見たもので、雪をかぶった高い破風《はふ》や太い松材の土台もはっきりと映っており、中央に山荘の土台になっているコンクリートの機械室が捉えられていた。機械室の窓に月光が光り、ちょうどその窓を背景にする格好で一人の男がいるのであった。小さな齣のネガフィルムで見ても、それが誰かはよくわかった。ヴァルディニであった。
私は急いでフィルムを巻いていった。ヴァルディニは両腕を開閉して、コンクリートの機械室の外法《そとのり》を測るような動作をしていた。彼の手に、巻尺らしいものが握られているのさえ、確かにそこに映っていた。ヴァルディニはそのうちに身を起こして建物の壁に沿ってまわっていった。建物の角がフレームの端に入ってきて、ヴァルディニの姿はそこでふいに消えていた。
「なかなか悪くないだろう、え?」イングレスは言った。「ほかのロールも見てみろよ。スキーのショットでなかなかいいのがあるよ」彼はさらに三巻目に目を通した。私はイングレスの言葉に暗示を得て、ほかのロールを一通り見た。見終わったフィルムをジョーに返して私は言った。「かなり、いい画があるね」そして私はイングレスに言った。「そっちのロールは終わったかい?」
イングレスは最後のロールを私に示しながら、ちらりと私の目を見た。彼は明らかに、非常に興奮していた。けれども彼はそれを隠すために、ジョーを相手にライティングやカメラアングルなど、七面倒《しちめんどう》臭い技術的な話をはじめた。私は取り残されたような気持ちで、ヴァルディニがコンクリートの壁を測っているというフィルムの一断片が、なぜ彼をそれほど興奮させるのかといぶかった。
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八 墓掘り
気まずい、堅苦しい昼食だった。メインは一人私たちから離れてテーブルの向こうの端に坐っていた。彼はジョーの部屋も含めて、私たちの部屋を全部探った。だからもう私たちの中に銃を持っている者はないことを知っているはずだった。しかし彼は用心を怠《おこた》らなかった。食事の間中、ほとんど誰も口をきこうとしなかった。メインは興奮していた。彼は努めてそれを隠そうとしていた。私たちはそれぞれ自分の考えにふけっていた。ジョーだけは別だった。彼は過去に作られたスキー映画の何本かについて話しはじめた。しかしイングレスが興味を示さないのを知ってじきに諦《あきら》めた。「いったい、皆どうしたっていうんだ?」彼は言った。「それに、メインは何だって伝染病に罹《かか》ってるみたいに離れて坐ってるんだ?」
「放っとけよ、ジョー」イングレスが言った。「ちょっと言い合いをしてね。ただ、それだけのことさ」
「ははあ。ヴァルディニとあの伯爵の奥方も噛んでるのか?」
「ああ。二人は二階で飯を食ってるよ」
ジョーはその説明に満足したらしかった。彼は黙って食べはじめた。恐ろしいことがここで起こったことをまるで知らず、何の疑問をも抱こうとしない人間を目の前に見るのは、信じがたいことだった。メインは次第に落着きを失っていった。彼は食事の間じゅう、私たちから目を離そうとしなかった。私は、彼が私たちを恐れていたのだと思う。私たちは何一つ武器を帯びてはいなかったのに。彼は感情のない、冷たい目で私たちを監視した。私はシュテルベンがどんなふうに兵たちを射殺したかを思い出した。ここにもう一人の殺人者がいるのだ。金塊を手に入れてしまえば、彼は躊躇なく私たちを殺すであろう。ジョーは何も知らずにいればそれだけ安全というものだ。しかし、イングレスと私はどうだろう。彼はどうあっても私たちを殺さずにはおくまい。生き延びる望みはあるだろうか? 食事はまるで処刑の日に首吊《くびつり》人とともに食卓に向かっているようなものだった。私は吐き気を覚えた。額から冷汗が噴き出した。目の前の料理が辛いカレーか何かででもあるように。私は皿を脇へ押しやった。
「腹はすいていないのか、ブレア?」メインが言った。
「僕の立場だったら、君は腹がすくと思うかい」私は不機嫌に答えた。
「まず、すくまいね」彼は言った。
ジョーはテーブルを隔てて私の顔を見た。「どうした。気分でも悪いのか、ニール?」
「いや、大丈夫だ」私は言った。しかし彼は納得せず、バーへ立っていくと私に酒を注いで持ってきた。「皆ちょっと飲んだほうがいいんじゃないか」彼は言った。「気分がからっとするぜ」
しかし部屋の空気は変わらなかった。酒は妙に冷たく味気なく、私の口は不快に渇いたままだった。
昼食がすむとジョーは早々に立ち上がった。「俺はこの賑やかな集団とは一緒にいないほうがいいらしいや」誰も彼を引き止めようとはせず、ジョーはまた現像を続けに部屋を出ていった。
メインはやがて立ち上がり、二階へ行った。ヴァルディニの部屋のドアのキーが回る音がした。メインの足音が窓際へ動いていった。ドアが閉まり、再びキーの音が聞こえた。部屋に戻ってくると彼は言った。「そろそろはじめるとするか。一緒に来てくれるかい、イングレス」
ケラミコスと私は二人きりになった。私たちは顔を見合わせた。「何とかならないかね?」私は言った。
ケラミコスは肩をすくめた。「武器を持っているし、殺すことを何とも思わない人間が相手となると、なかなか、ことは面倒だよ。椅子でもって、戻ってきたところを狙ってあの男の脳天を叩き割るかね。酒瓶でも叩きつけて気を失わせるかね。それともあのドアから歩いて雪の中へ出て行ってスリットヴィアの麓《ふもと》まで行けるかどうか、やってみるかね。私はね、ここは一つ、待つほうに賭けるよ。メイン一人が銃を持っているわけじゃあないんだ。こんなこともあろうかと思って、私はちょっと前に手を打っておいたんだよ。今までにも私はずいぶん危ない目に遭ってきたからねえ。私は体験から、どんな場合にもチャンスはあるということを学んだよ。まあ、様子を見るさ」彼は見るからに青ざめた顔をしていた。彼は小さな口の薄い唇を堅く引き締め、そのために、唇の色は肌の色と区別がつかぬほどだった。
「僕は一か八かやってみたほうがいいね。シュテルベンに殺された男たちと同じように、殺されるのを待つよりはね」
ケラミコスはまた肩をすくめた。どうでもいい、という態度だった。私は調理場へ通じる戸口をのぞいてみた。メインのいる気配はなかった。私はスリットヴィアを見下ろす窓を見上げた。ケラミコスは銃を持っている……しかし私たちを助けるために、彼はそれを使うだろうか。私は彼を信じなかった。私は咄嗟《とっさ》に決心した。私は歩み寄って窓を開けた。目の下の木造のプラットフォームには厚く雪が積もっていた。そしてその向こうに、吹き溜りの雪に覆われながら橇道が吹雪にかすむ麓に向かって落ちこんでいた。「僕が出たら窓を閉めてくれよ、いいね」ケラミコスに向かって私は言った。
「馬鹿な気を起こしなさんな、ブレア」窓枠に登った私に彼は言った。「歩いた跡が残る。無駄だよ」
しかし私は彼の忠告を無視した。黙って死を待つことに比べたら、どんなことでもそれよりはましだった。私は開いた窓枠に立ち上がり、飛び降りた。私は音もなく雪の上に落ちた。前のめりになり、顔を雪の中に突っこんだ。私は顔を上げて目を覆った雪を払った。凍《い》てつくような寒さだった。目の前に、まっすぐ麓に向かう橇道があった。私はもがくように立ち上がり、橇道に向かって転がるように降りていった。雪は深く、私を乗せたまま小さな雪崩《なだれ》となって斜面を落ちた。故郷のレークディストリクトでよく経験したような、石ころの山の斜面を歩いて降りる感じとは、かなり勝手が違っていた。しかし何とか私は橇道の途中の、やや雪の浅いところへ行き着いた。私は足を滑らせ、気がつくと背中を雪面に接して滑降していた。三十フィートほど滑り落ちたろうか。私はやっと吹き溜りの雪の土堤に行き当たって止まった。死物狂いで私は再び立ち上がった。
背後で叫び声が聞こえた。ふりかえると驚いたことに、山荘はまだほんの手の届きそうなあたりに見えていた。蹴散《けち》らされた雪が私の転げ落ちた軌跡を示していた。ピストルの音が聞こえ、弾が私の耳許をかすめて飛んだ。もう一度、私を呼ぶ声が聞こえた。しかし、森を吹き抜ける風のうなりにかき消され、言葉ははっきりと聞き取れなかった。私は向きなおり、斜面に沿って転がるように降りはじめた。
もう背後から撃ってはこなかった。そして次にふりかえった時は、山荘はすでにぼんやりと影のようにかすんでいた。私は胸の踊るのを感じた。風が私を守ってくれる。すでに私は肌まで濡れていたが、激しい動きと興奮のために寒くはなかった。
私はどんどん進んだ。土堤《どて》のように盛り上がった深い雪を分けて歩き、またある時は雪崩のようにくずれ落ちていく雪に身をまかせ、また、雪の浅いところでは背中を雪面に接して橇道の底を滑り降りた。
ちょうどそんなところを通過して柔らかい雪の膨《ふく》らみの中に飛びこみ、息を詰まらせながら私はふと後ろをふり向いた。すでに山荘はまったく私の視界から消え去っていた。ところが、雪の中をこちらに向かってスキーで降りてくる人影を私は見たのである。斜面を素早く稲妻形に切るように、その影は私を追ってきた。柔らかい雪のところで男は宙に飛び上がり、スキーを斜面に平行に揃えると、まるでサーフライダーのように崩れ落ちる雪の上に乗ったまま、まっしぐらに斜面を降りてきた。
私は木の陰に飛びこんだ。そのあたりは吹き溜りが大波のように高く盛り上がっていた。けれども私はその中を泳ぎ、転げてやっとのことで橇道の脇へ寄り、枝にすがって縁をよじ登り、木の間に潜《もぐ》りこんだのである。
私は急いでふりかえった。まさに今しがた私がしゃにむにかきわけて進んできた雪の上で、メインが完璧なクリスチャニアをやってのけるところだった。彼は私と面と向かってぴたりと止まった。彼と私の間にはわずか数ヤードの距《へだた》りが残されているばかりだった。怒りの涙が目に染《し》みる思いであった。私の脚は深々と雪に潜り、背後の木の枝は隙もなくからみ合って私の退路を塞《ふさ》いでいた。メインはウィンドブレーカーに手を差し入れてピストルを取り出した。「この場で撃とうか?」彼は言った。「それとも、仲間のところへ戻るかい?」
彼の声は非情そのものだった。今ここで撃とうと、後で撃とうと彼にとってはまるで変わりないことが明らかであった。「わかったよ」私は言った。「戻るよ」
それよりほかに仕方がなかった。しかし今しがた下ってきた跡を辿《たど》って斜面を登って行く時の敗北感はたまらないものだった。一度雪がくずれて私は転倒した。私は起き上がる気がしなかった。絶望の底につき落とされていたのだ。するとメインは彼のスキーの先で私の胸を突ついた。その後彼は私にストックを持たせた。彼は銃を構えながら、横歩きで私のすぐ後ろを登ってきた。
斜面を登りきる頃には、私は精も根もつき果てていた。メインは私をコンクリートの機械室の横手へ追い立てた。イングレスとケラミコスが閉じこめられているらしく、中からドアを叩く音が聞こえた。ドアの外にはつるはしやシャベル、石切場の職人が≪ビドル≫と呼ぶような長い柄《え》の付いた大きなハンマーなど、道具が一式取り揃えられていた。メインはドアを開け、私の首根っこをつかんで機械室の中へ突き飛ばした。私は室内の雪の上をよろけて倒れた。何かで頭を打って私は気を失った。
気がつくと、私は壁に寄りかかって坐っていた。寒くてこごえそうだった。目の焦点が定まらなかった。一瞬、私は自分がどこにいるのかもわからなかった。けたたましい音がして、室内にはもうもうと埃《ほこり》が立ちこめていた。頭が重く、ずきずきと痛んだ。私は片手を額に当てた。濡れていた。おまけに何やらねっとりとしていた。手を見ると、指は土と血と、冷たい雪融け水に汚れていた。
とたんに私はそれまでのことを思い出した。私は目をこらして室内を見まわした。私はちょうど二つの壁が合わさった角に背中をあずけて坐っていた。部屋の反対の隅の、ケーブルの向こう側に、閉じたドアを背にしてメインが立っていた。窓の向いの分電盤の下あたりで、イングレスとケラミコスがつるはしとハンマーで床のコンクリートを削っていた。また部屋が大きく傾いたような気がして、私は目を閉じた。
再び目を開けてみると、もう部屋はかしいではいなかった。イングレスはハンマーで床を打つ手を休め、ハンマーの柄に寄りかかって額の汗を拭いていた。私と目が合った。「気分はよくなったかい?」彼は聞いた。
「ああ、もうすぐ、すっかりよくなるよ」彼は私が寒さにふるえているのを見て取ると、メインをふりかえって言った。「彼は部屋に閉じこめればいいじゃないか。ぐしょ濡れになってるんだ。肺炎を起こすぞ」
「そのようだな」と言うのがメインの答えだった。私が肺炎になろうとなるまいと、そんなことはどうでもいいのだということを彼は隠そうともしなかった。しかし、まさにその瞬間に、私はもはや死を恐れなくなったのである。
イングレスは私を見つめ、それからメインをふりかえった。「俺はあまり人を殺したいとは思わないがな」彼は言った。「でも、今この瞬間、俺は本当に殺《や》りたい気持ちだよ」
「やめたほうがいい」メインが言ったのはただそれだけだった。
イングレスは向きなおり、ハンマーを乱暴にコンクリートの床に叩きつけた。ハンマーの衝撃は部屋全体をゆるがせた。彼らは大きな鋳物《いもの》のストーブを脇へ寄せ、その下を掘り起こすためにまずコンクリートの床を剥《は》がしているところであった。私は部屋を見まわした。灰色で埃《ほこり》だらけだった。イングレスとケラミコスのいるあたりから、埃がもうもうと立ち上がっていた。細かい、息の詰まるような埃だった。私が寄りかかっている壁こそは、その前でドイツ兵たちが射殺された、あの壁であった。私は注意深くその壁に目をこらした。私は壁のコンクリートが床よりも新しいものであることに気がついた。
気分はよくなっていた。けれども濡れた服は肌に冷たく、私はどうしようもなくふるえていた。私は立ち上がった。いくらかふらふらしたほかは、何の故障もないようだった。私は言った。「手伝わせてもらってもいいかね?」イングレスがふりかえった。「体を動かせば少しは暖かくなると思うんだ」私は説明した。
「いいとも。さあ、やってくれ」彼は言った。
メインは何も言わなかった。そこで私は機械装置の上を乗り越えていった。すでにコンクリートの床は大きく削り取られていた。ケラミコスがつるはしで床下の土を掘りはじめたところだった。コンクリートの床の下であるにもかかわらず、土の表面は殻のように固く凍っていた。しかし、六インチも掘るとあとは柔らかな土だった。イングレスはハンマーを置き、私はつるはしを取り上げた。「ゆっくりやれよ」イングレスが私に耳打ちした。「急ぐことはないんだ。逃げきれなくて残念だったな。狙いはよかったよ……でも、ちょっと無理だったな」
私はうなずいた。「馬鹿なことをしたよ」
私たちは黙って土を掘った。ケラミコスとイングレスはシャベルを取り、私がつるはしで土をくずした。メインは私たちを休ませなかった。私たちは着実に、ぬかりなく土を掘っていった。穴は見るみるうちに深くなった。「もうじき金塊が出てくるぞ。もし本当にここにあるものならね」三人が体を屈《かが》め、頭が寄ったとき、私はイングレスにささやいた。すでに穴は二フィート以上の深さに達していた。
「金塊が出るとたんにやつは撃ってくるだろう、きっと」私は言った。
「ああ。しかし、その前にあいつは俺たちにそいつを穴から出させるだろうよ。君の言うように、そいつがここにあるものならね。どうだい、気分のほうは?」イングレスは言った。
「寒いよ」私はささやき返した。「でも、動いてさえいりゃあ大丈夫だ」
「まあ、俺が合図するまではじっとしていろよ」彼はケラミコスのほうへ屈みこみ、二人はひそひそ話をはじめた。ケラミコスはうなずいた。彼の厚ぼったい毛深い両手は、シャベルの柄をしっかりと握り直したようであった。
「しゃべくってないで、早く仕事をやれ」メインが命令した。冷たい声ではあったが、しかしその声は興奮にふるえていた。
「そろそろ、そわそわしはじめるよ」ケラミコスが言った。彼の小さな目はレンズの奥できらきらと光っていた。「そのうち、自分を押さえきれなくなる。金塊に夢中になってしまってね。そうすればあの男は油断する。その時がチャンスさ。あんまり仕事を急いではいかんよ」私は、はたしてケラミコスは銃を帯びているのだろうかと思った。
「話すのはよせ」メインが声をふるわせて言った。「黙って働け。さもないと誰かを撃つぞ」
それきり、私たちは黙って仕事を続けた。ゆっくりやっている心算ではあったが、穴は着々と深くなっていった。四時頃、あたりが暗くなりはじめた。メインは明りをつけた。分電盤の上の壁ソケットに一つだけ裸電球がともっていた。ホルツが拳《こぶし》で叩き落とした、あの同じ明りであった。イングレスはちらりと私の顔を見た。彼も私と同じことを考えていたのだと思う。気を失いかけるふりをしてよろけていったら、つるはしで電球を叩き壊せはしないだろうか。「馬鹿なことをするなよ、ニール」彼は私に戒《いまし》めるようにささやいた。「まだ駄目だ」
私はメインを見た。彼は目をぎらぎらさせていた。金塊のことを考えているのだ。しかし彼は油断してはいなかった。私と目が合った時、彼の黒い銃口はぴたりと私の腹に向けられていた。
「一歩でも明りのほうへ近づいてみろ、ブレア。貴様の横腹に穴を開けるぞ」彼は言った。
私たちは着々と掘り進んだ。三人が交代で、今ではすっぽりと穴の中に入って作業を続けた。
四フィートほど掘り進んだころ、イングレスのシャベルがぼろぼろに朽ち果てた布切れを掬《すく》い上げた。堀りかえした土の山からケラミコスがぼろ布をつまみ上げた。「面白いものが出てきたね」彼はメインに向かって言った。「こいつはドイツ軍の戦闘服の切れはしだ」
「どんどん掘れ」メインはそれしか言わなかった。しかし彼は目を輝かせていた。
それから後は何とも不愉快な仕事だった。死体は半ば白骨化していた。手応《てごた》えのあるのは骨だけだった。私たちは素手で死体を引き上げた。吐き気のするような仕事だった。間もなく私たちも同じような姿になるだろう。私たちは、自分の墓を掘っていたのだ。
さびた銃剣や、台尻が朽ち果て銃身も腐蝕した小銃が出てきた。吊緒《つりお》は引くと手応えもなくちぎれた。そして、さらに死体が埋まっていた。肉はほとんど失われ、わずかに肉の一部を残した白骨がぼろぼろに腐った衣服と泥土をかぶっているばかりであった。死体は全部で五体あった。ホルツ伍長の証言を裏付けていた。そして、その下に木製の箱の角がのぞいていたのである。
その時、穴の底にいたケラミコスが顔を上げた。「こっちへ上げろよ」イングレスが言った。ケラミコスは屈みこんで、両手で土をかき寄せた。私はそっとメインの様子をうかがった。彼は興奮しきっていた。目の色や、強張《こわば》った体つきがそれを示していた。しかし彼は動こうとしなかった。
ついに箱はすっかり姿を現わした。長さ二フィート、幅一フィート、高さ六インチほどの大きさであった。木は朽ちて黒ずみ、土で固まっていた。ケラミコスは箱の下に手を差し入れ、持ち上げてイングレスに渡した。箱は重そうだった。イングレスはそれを死体のそばに置いてメインの顔を見た。
「ほかの箱も上へあげろ」メインが命令した。
「まず、こいつを開けてみたほうがよくはないか?」イングレスがほのめかした。
メインはためらった。その目は彼が金塊を一目見たいという欲望に駆られていることを示していた。「ようし。つるはしで開けろ。中を見ようじゃないか」
イングレスは箱をコンクリート床のほうへ押し出した。「自分で開けろ。おまえの黄金だろう」
メインは笑った。「俺は馬鹿じゃないぞ、イングレス。早くそいつを開けろ」
イングレスは肩をすくめると、つるはしの一つを取り上げ、箱に足を掛けて押さえると、つるはしの先をぐいと箱の上に押し付けた。つるはしは難なく箱に食いこんだ。イングレスがそれをこじると、朽ちた箱はばらりとこわれた。
中には土がいっぱい詰まっていた。
メインは驚愕《きょうがく》の叫びを発してのぞきこみ、すぐピストルを持つ手をふるわせながら飛び退《すさ》った。
「どういう冗談だ、これは?」彼は喚《わめ》いた。「金塊はどうしたんだ、イングレス? これは金じゃない。こいつは土だ。貴様どうやって細工したんだ?」メインはすっかりうろたえていた。彼の顔は怒りに歪んでいた。「金塊はどうしたんだ?」彼は叫んだ。「金塊をどこへやったか言え。それとも……じゃあ……」彼はしどろもどろだった。一瞬私はイングレスが撃たれる、と思った。
「しっかりしろよ」イングレスが言った。開き直ったような彼の声には権威の響きがあった。「この箱は埋められた時からずっとここにあるんだ。金塊がどうなったかは、おまえの仲間のミュラーとマンが知ってるんじゃないのか。もっとも、おまえはあの二人を殺しちまったんだな」
「貴様、何で俺に箱を開けろって言った?」メインは詰め寄った。彼は自分を取り戻していた。「何で俺に中を見せようとした? 金塊がないことを、貴様知っていたな」
「俺はただ、おまえの仲間が裏切ったということも、あるいはあるんじゃないかと、思っていただけさ」イングレスは答えた。
「そんなはずはない。刑務所から出してやる代わりに、俺は二人から全部話を聞いたんだ。やつらはシュテルベンのために穴を掘って箱を埋めた。死体も一緒に埋めたんだ。その後でシュテルベンはこの中に閉じこもった。窓には目隠しをして、外からのぞけないようにしてな。後で二人がのぞいた時は、もう穴はふさがれて、床のコンクリートも打ちこんであった。ストーブも元のところに戻っていたんだ。ドアは鍵がかかっていたから、二人は中に入れなかった」
「それは二人がおまえに話したことだろう」イングレスは言った。
メインは殺気立った目で室内を見まわした。「この中のどこかにあるはずだ」彼は言った。「きっとあるはずなんだ」
「ミュラーとマンが本当にここへ金塊を運んだかどうか、おまえ確信があるのか?」イングレスが静かに聞いた。
「あるとも。もちろん、やつらはここへ運んだんだ。シュテルベンがそいつを、こっそり運び出せるわけがない」
「それは、あの二人がただそう言ってただけなんじゃないのか」イングレスが言った。「要するに、おまえは二人を裏切ったんだろうが。二人がおまえを裏切らないという理屈はどこにもないぞ」
「ほかの箱を引き上げろ」メインは指図した。
「一つの箱が土詰めなら、ほかの箱も同じじゃあないかねえ」ケラミコスが言った。
「いいから上げろ」メインはがなった。
私たちは前よりもずっと手早くことを運んだ。箱は全部で二十一あった。一つ一つ、持ち上げるたびに中を開いた。そして箱は残らず土詰めであった。
「さて、これから我々にどうしろと言うのかね?」最後の箱が何の役にも立たぬ中身を吐きだすと、ケラミコスが聞いた。
しかしメインはその言葉も耳に入らない様子だった。彼は巻揚装置や分電盤や四方の壁などをきょろきょろと見まわしていた。「この中のどこかにあるんだ」彼は言った。「それだけは間違いない。建物をばらばらにしてでも捜してやる」
「一杯飲みながら、頭をひねることにしちゃあどうだね」イングレスが提案した。
メインは彼の顔を見た。メインは迷っていた。自信を失っているのだ。「いいだろう」彼は抑揚のない声で言った。「こいつを全部穴に戻して埋めろ」彼は無残な姿で積み重なって横たえられた死体を指さした。
私たちはざっと穴を埋め、道具を持って山荘へ戻った。雪はやや小降りになっているようだったが、寒さは厳しく、濡れた服を通して風は私の肌を刺した。ジョーはストーブのそばにのんびりと腰を降ろして本を読んでいた。「あんたら、いったい今まで何をやってたんだ?」彼は言った。「どうしたのかと思って、心配になりかけてたところだぜ。そんなもの持ち出して、何をやってたんだ。庭いじりかい?」彼は私たちの持っている道具を指さした。
「いや。黄金を掘っていたのさ」イングレスが言った。
ジョーはふんと鼻をならした。「下水道でも調べて歩いてたって格好だぜ」
メインは二階へ上がっていった。ジョーは椅子から立ち上がった。「何だかまるで訳がわからんね」彼の言葉はイングレスに向けられていた。「さっきは、あんたらメインとやり合ったってたと思ったら、今度は皆あいつと一緒にどこかへ消えちまうし、ヴァルディニと伯爵の奥方は閉じこもったきりだし。いったい、こいつはどうなっているんだ?」
イングレスは言った。「まあ坐れよ。気にするなよ、ジョー。あんたはカメラマンとして金を貰ってるんだ。家政婦として来てるんじゃないだろう」
「そりゃあそうだ。だがね、先生。こんな馬鹿げた話があるかい」ジョーは食い下がった。「何かわけがあるな、ここで……」
「あんたはカメラマンなのかい、それとも、そうじゃあないのかい?」イングレスがいきなり鋭い声で言った。
「もちろん、俺はカメラマンだよ」ジョーはむっとした顔で言った。
「そうかい。だったら自分の仕事をしろよ。俺は何も、あんたと一緒にくっついて歩きまわろうとしてここへ来てるんじゃあないぞ。今日の午後だってそうだ。あんた、不精をきめこんで閉じこもってたから、いいショットを逃がしたぞ」
「ああ……でも」
「いいかげんにしてくれよ。おじさん。俺におんぶだっこで仕事の面倒を見ろっていうのか?」
ジョーは不機嫌に黙りこみ、また本を読みはじめた。意地の悪いやり方だったし、イングレスはずるかったが、とにかくそれでジョーの質問は封じられた。私たち三人は山荘の裏手へ道具を運んでいった。スキー置場の隅に道具を片付けながらケラミコスが言った。
「メインは恐らく取引きに出てくると思うね。あの男は孤立したくないだろう。金塊のありかがわからないとなると、彼としては、はなはだ面白くないわけだ。私らがそれを知っているかも知れないと思うと、撃ち殺すわけにもいかない。しかし、手を結ぶという約束なしには私らを生かしてもおけない。今となっては、あの男は私らを仲間にしなきゃあまずいと思っているに違いないね」
「しかし、手を結ぶのかね」私は言った。「あんたがその気になってくれれば、あいつを始末できるじゃないか」
私はケラミコスが持っている銃のことを考えていた。ケラミコスは首を横にふった。
「いやいや。あの男は役に立つかも知れないよ。私らはまだ、あの男がどの程度知っているかを知らないんだ。まずは、取引きに応じて和解することだね」
「しかし、金塊のありかについて、やつはわれわれ以上のことを知っているかね」イングレスが言った。
ケラミコスは肩をすくめた。「一人の頭より、四人のほうが必ずいい知恵も湧くものですよ、イングレスさん」彼はごく何気ない様子で言った。
私たちは二階へ上がった。冷たい服を脱いで、とにかく乾いた温かいものに着替えると生き返るような心地がした。イングレスは体を洗ってすぐに私の部屋へやってきた。「気分はどうだね、ニール?」
「悪くないね」
「額の傷に絆創膏《エラストプラスト》でも貼ったほうがいいな。俺の鞄に入ってるんだ」
彼はすぐに戻ってきて私の傷に絆創膏を貼ってくれた。「さあよし」彼は私の肩を叩いて言った。「ほんのちょっと、浅く切れて、まわりがすりむけてるだけだ。失敗に終わって残念だったな、君の脱出は。趣旨はよかったのに」
「無駄な努力をしたものさ」私は弁解した。
「不必要な、と言うべきだね」彼は愉快そうに笑って言った。「まだ君にはわかっていなかったわけだ」
「じゃあ、君はあの箱に金塊が入ってないことを知っていたの?」
「俺の鋭い勘としておこうか」彼は煙草をつけた。消えていくマッチの火を見つめながら彼は言った。「今や、警戒すべきは我が同志ケラミコスだな。あいつはメインなんかよりもよっぽど食わせ者だぞ。それに、あいつは俺たちが金塊のありかを知っていると思っている」
「で……君は知ってるの?」私は聞いた。
彼はにやりと笑った。「君は知らずにいれば、それだけことはうまくいくさ」彼は上機嫌で言った。「さあ下へ行って飲もうか。今夜は仲直りだ。俺と調子を合わせて酔っぱらってくれよ」
気味の悪い一晩だった。イングレスは座談の至芸を披露した。彼はかつて一緒に仕事をしたことのある俳優のだれかについて、さまざまなエピソードを次から次へ話して聞かせた。競争相手であり、結局は彼が抜きん出ることになった監督仲間たちの話から、喧嘩に終わったカクテルパーティの話まで、彼の話題は尽きるところを知らなかった。彼はあたかも大道商人のように、見せかけの楽しさを聞き手にふりまいた。はじめのうち、聞き手は私一人だった。しかしイングレスはやがてジョーをウェスタンの世界から引き出した。そしてケラミコスも私たちに加わると、バーの前の小さなグループからメイン一人が取り残される形になった。
それこそイングレスの狙いだった。メインはピアノのところへ行き、猛然とバッハの重厚な曲を弾きはじめた。こんな時にバッハとは皮肉だった。古びたピアノはメインのいらだちと胸のうちのわだかまりを映して、けたたましく鳴り響いた。イングレスは構わずしゃべり続け、ついには私たちを笑いころげさせた。機智とコニャックによって作り出された、かなり無理な陽気さだったが、しかし私たちは本当に笑っていた。そしてとうとう私たちの陽気さがメインを動かしたのである。彼は権威を失った。彼の自信はゆらいだ。金塊の発見に失敗した今、彼は自分自身に対して確信が持てずにいるのであった。銃を握っている彼の言うことを皆が聞いているうちは、まだしも彼は自分の権威にすがることができた。しかし、無視されるとは。私たちは見るからに陽気に笑いころげているのだ。彼にしてみれば、それはあんまりであった。彼はいきなり鍵盤を叩きつけて立ち上がった。「笑うのをよせ!」彼は怒鳴《どな》った。
「知らん顔をしてろ」イングレスがささやいた。彼は話し続けた。私たちはまた笑いだした。
「やめろ。聞こえないのか」
イングレスはふりかえった。彼は心もちふらふらとしていた。「何を、やめろとおっしゃるんですか?」彼は澄ました顔で言った。
「向こうのストーブのところへ行って坐れ。うるさくするのをやめるんだ」メインは命令した。
「うるさくする? 何かうるさい音が聞こえるかい、ニール?」彼は威厳をもってメインをふりかえった。「何もうるさいことはないんだがね、おじさん。うるさいのはそっちのピアノじゃないのか」
私はメインの様子をうかがった。怒りのために顔面蒼白だった。しかし、彼はひるんでいた。どうしていいかわからないようだった。「イングレス」彼は言った。「向こうへ行って坐れ」
「へっ、冗談じゃないぜ」イングレスはそう言っただけだった。
メインの手がピストルのあるポケットに走った。しかし彼は思い止まった。彼はしばらく唇を噛んだまま、私たちを睨みつけて立ち尽くしていた。そして、やがて彼はまたピアノに向かった。
それから間もなく、アンナが夕食の用意にやってきた。イングレスは私たち三人の顔を見て言った。「俺は食いたくないな。皆はどうだ? 食いたければ食ってくれ。俺はかまわんよ。とにかく俺はこのまま飲み続けるよ。それとも、こうしちゃあどうだ? 料理はバーに並べて、食いたい者は勝手にやると」彼はアンナにそう言って料理をバーに並べさせた。
駄目押しの一手だった。メインはアンナに自分の料理だけテーブルに運ばせるか、あるいは私たちのところにやってくるかしなくてはならない。彼は私たちのところに来ることを選んだ。そして間もなくメインはイングレスを脇へ呼び寄せた。ケラミコスも招き寄せられた。談合はわずか数分で終わった。三人は握手を交した。イングレスが言うのが聞こえた。「そうこなくっちゃあな、メイン」
メインはバーの中に入り、自分の特製のカクテルだと言って酒を混ぜ、私たちに勧めた。瓶を取り出そうとして彼が屈んだ時、イングレスは私の耳許に口を寄せて言った。「撃たれる心配はなくなったよ。三分割で話がついた」彼は愉快そうに眉をぴくりと動かした。
「カルラはどうなる?」私はささやいた。
「取り分なしだ」
メインは起き上がり、空瓶をシェーカーにしてカクテルを作った。いくらかは自然な態度を取り戻したようだった。バーの中に立って笑いながら皆に話しかけ、飲物の世話を焼いている彼の様子は、いかにも魅力的なホストだった。彼は裕福なプレイボーイか、あるいは俳優か、もしくは画家、といった感じだった。どう見ても、冷酷非情な殺人者とは見えなかった。
それにしても、あの晩、私たちはなぜあんなに飲んだのだろう。私たちにはそれぞれに理由があったのだ。イングレスはペースを作った。もちろん密《ひそ》かにではあったのだが、とにかく彼はペースを作ったのだ。彼のペースは早かった。酔って見せたかったし、私たちをも酔わせたかったのだ。私は私で、酒が体を温めてくれたし、イングレスと一緒だと心強くて大いに飲んだのだ。ジョーは皆が仲直りしたことに気をよくして飲んだ。彼はいさかいが嫌いなのだ。あの年までついに独身を通したのもうなずける話だ。メインは私たちの陽気さに追いついて、先刻ピアノのところに孤立していた気持ちを忘れようとしていたのだ。ところでケラミコスは? その時私には、ケラミコスがなぜそう派手に飲むのか、その理由がわからなかった。
イングレスはほかの者たちよりも早く酔いを発したようだった。十一時前に、彼はジョーと口論をし、ぷりぷりして二階へ引き上げてしまった。ケラミコスはグラスを取り上げようとして手を滑らし、床に落とした。彼は酔って据わった目でグラスを見下ろし、眼鏡をはずして目をこすった。そしてふらふらと自分の部屋へ引き上げていった。私もほどなくすっかり酔ったジョーとメインを残して部屋へ戻った。部屋に入ってみるとイングレスが私のベッドに坐っていた。「君は端から見るほどには、本当は酔ってないんだろうな?」彼は言った。
「かなり、いい気持ちだよ」私は言った。「しかし、それだけの理由があると言うなら、すぐ、しゃんとしてみせるよ」
「脱け出すんだ」
「いつ?」
「今夜さ。皆が寝付き次第ね」
私はやっとイングレスがスキー靴をはいており、ウィンドブレーカーと手袋がそばの椅子に置かれていることに気がついた。「ドアに鍵をかけろよ」彼は言った。「それから、ここへ来て坐れよ」
私が言われたとおりにすると、彼は指示を与えた。私たちに何かを言いつける時の常で、彼は簡潔に、明解に、注意深く言葉を選んで静かに話した。早口ではあったけれども。あれだけ飲んだ後で彼がどうしてこうも理路整然としていられるのか、私は不思議でならない。しかし、前にも言ったとおり、彼は普通の人間が食事をするように酒を飲むのだ。酒は彼の頭脳に活力を与え、思考を刺激するらしいのであった。私はといえば、まるで頭の中がふわふわで、彼の言うことを聞いて覚えるには、かなりの努力が必要であった。
「君は外を見たかい?」彼は聞いた。
私は答えた。「いや」
「じゃあ、カーテンを開けてみろよ」
私はカーテンを開けた。驚いたことに、雪はやみ、空は晴れわたっていた。山荘をかこんでうず高く積もった雪は、明るい月の光に白く輝いていた。しかし相変わらず風は強く、どちらを向いても粉雪が積雪の表面を、ちょうど砂嵐の前ぶれに細かい砂が低く地表を流れるように舞っていた。
「そこの窓の下にちょうど大きな吹き溜りがあるだろう」彼は続けて言った。「皆が寝静まったらすぐ、俺はこの君の部屋の窓から見晴らし台へ飛び降りる。君は気がつかなかったと思うがね、俺はさっき道具を持って上がってくる時、つるはしを一丁、あの雪の中に落としておいたんだ。メインもそれには気がつかなかった。あのつるはしを掘り出して、山荘の土台の間を抜けて機械室のドアを叩きこわす。ケラミコスの部屋は機械室のすぐ上だ。俺がドアを壊す音が聞こえるだろう。そうしたら、あの男も俺の後から降りてくるんだ。これは、午後、あの機械室で打ち合わせたんだよ。俺はこんなところで撃ち殺されるのはごめんだからな」
「ああ。でもあの男、べろべろだよ」
イングレスは短く笑った。「馬鹿だな」彼は言った。「ケラミコスは俺と同じくらい素面《しらふ》だよ。それにあいつは、スキーを手にいれないうちは、俺があいつをどうすることもできないのを知ってるんだ」
「じゃあ、あいつは酔ったふりをしてたって言うのか?」私は聞いた。私の頭はのろのろと回転していた。
イングレスはうなずいた。「ほら、最後に俺が作ったカクテルなあ……やつはあれに手を触れなかった。君とジョーには俺ははじめから飲ませなかったんだ。あのアニゼッテには……睡眠薬が混ぜてあったのさ。ケラミコスは一口でそいつを見破った。飲んだのはメインだけさ。やつは今夜はよく眠るよ」
「でも、どうしてケラミコスが君の後をついていくのか僕にはよくわからないね」
「どうしたって言うんだ。今夜の君は鈍《にぶ》いぞ、ニール」イングレスは責めるように言った。「ケラミコスはギリシャ国籍だよ。ギリシャでは俺たちはやつに指一本触れることもできない。ところが、このイタリアでは訳が違うんだ。イタリアはまだ占領下だからね。ヴェネツィア・ジュリアには今でもイギリス軍が駐留している。俺たちが憲兵隊に連絡を取ると、やつはこの国を出るのに、少々苦労しなくてはならなくなるんだ。やつは、俺が金塊なんかよりも、あいつ自身に興味を持っていることを知っているのさ」
彼は煙草をつけた。「そこで、君に頼みがあるんだ、ニール」彼は続けた。「俺がこの窓から飛び降りたらすぐ、君はドアを細目に開けて廊下を見張ってくれ。ケラミコスが部屋から出たら、ジョーの部屋へ入りこめ、ただし、ケラミコスに見られないようにな。ジョーの部屋の窓は正面からスリットヴィアを見降ろす位置だ。窓から乗り出して、何か重たいもの、水差しか何かを機械室の入口のそばに投げてくれ。それで俺はどのくらい時間があるか見当をつけるから。俺のスキーの跡ははっきりしてるから、やつは従《つ》いてくる。俺はスラロームのコースでトレ・クロチへ降りるよ。そこからまっすぐ以前軍の偵察巡路だったコースをトンディ・ディ・ファロリアまで行って、兵隊たちが≪銃身《ガン・バレル》≫って呼んでたところを抜けて、コルチナの憲兵隊にやつを引っ張りこんでやるんだ。ケラミコスが俺の後から出発したらすぐ、君は窓から出て、スキーでトレ・クロチのホテルへ行け。そこからトリエステの憲兵隊へ電話して、マスグレーヴ少佐に連絡を取ってもらいたいんだ。俺の代理だって言えばいい。彼は俺を知ってるからね。集められるだけ人を集めてジープで来るように言ってくれ。俺はコルチナのイタリア憲兵隊で待っている。緊急事態だってことを、くどいくらい強調してくれよ。ナチの残党を引っ捕えるんだっていうことをちゃんとわからせるんだ。それからジープで来なきゃあ駄目だってことだな。雪が深いから、ジープより大きな車では来られないかもしれない」彼は言葉を切って、じっと私の顔を見た。「どうだ、今言ったこと、ちゃんと飲みこんだか、ニール?」
私はうなずいた。「よくわかったよ」私はきっぱりと言った。これからの活劇の有様を思うと酔いはきれいに醒《さ》めていた。
しかし彼は安心しなかった。彼は私に指示の中身を復唱させた。私がすべてをくりかえすと彼はベッドに横になり、毛布を引き寄せた。「じゃあ、そこに坐って、ほかの連中が寝つくのを聞いてくれ。まだ下にいるのは?……ジョーとメインか。ようし。やつらが寝て三十分したら起こしてくれ。眠るなよ」
「大丈夫だよ」
「それからもう一つ」彼は体を落ち着けながら言った。「もしトリエステに連絡が取れなかったらな、ウディネか、あるいはイギリス軍の部隊がいる街のどこでもいいから連絡して守備隊長を口説《くど》き落とせ。俺はケラミコスを逃がしたくないんだ。あいつのお陰で俺たちはギリシャでさんざんな目に遭わされたんだから」
「まかせてくれよ」私は言った。「誰かに連絡を取るよ」
「ようし」彼は言った。そして何分もしないうちに、彼はもう眠りに落ちていた。彼はそういう男だった。眠ろうと思えば、いつでも、どんなところでも眠ることができるのだ。
それから三十分ほど経ったころだと思う。ジョーとメインが二階へ上がってきた。彼らは酔って、やたらと饒舌《じょうぜつ》になっている様子だった。足音は階段を上がりきったところの、メインの部屋の前で止まった。メインが何やらしゃべっていた。アイルランド訛《なま》りがいつもよりも目立つようだった。やがて彼らはおやすみの挨拶を交わした。メインの部屋のドアが閉まった。ジョーの足音が廊下をこっちへやってきた。彼は自室に入った。彼がふんと鼻を鳴らしてベッドに腰を降ろすのが聞こえた。しばらくは彼はそのままじっとしていたが、やがてまた動きはじめた。ベッドのスプリングが軋《きし》り、荒々しい息遣いをしながら彼はベッドの中で寝心地のいい姿勢を捜しているようだった。そして、じきに鼾《いびき》が聞こえはじめた。私は時計を見た。ちょうど十二時をまわったところだった。
私は立ち上がった。ドアの鍵をはずして、わずかに開けてのぞいてみた。廊下は暗い裸電球に照らされていた。階段は暗い落とし穴のように口を開けていた。物音一つ聞こえなかった。私はドアを閉じ、椅子に戻って腰を降ろした。眠気が襲ってきた。私は時計の文字盤を見つめた。信じられぬほどのろのろと時間は進んでいった。
やっと三十分が過ぎ、私はイングレスをゆり起こした。彼は時計を見ると、もうぱっちりと眠りから覚めていた。「ありがとう」彼はそう言ってウィンドブレーカーと手袋を着《つ》けた。小さな|開き窓《ケースメント・ウインドウ》を押し開け、椅子を足場にイングレスは足から先に外へ出た。そして彼は肘だけで窓枠にぶら下がり、部屋の中に頭だけ残して言った。「トレ・クロチに着いたら電話のそばを離れないでくれよ。いいな、ニール。コルチナに着き次第、俺のほうから電話するから」
「了解。気をつけて」
彼は一つうなずいて落ちていった。
私は窓枠に寄って下を見た。イングレスは吹き溜りの雪の中に倒れた。と見る間に彼は立ち上がり、雪をかき分けながら見晴らし台のテーブルの一つに近づいて、雪の下からつるはしを引き上げた。彼はふり向いて私に手をふった。月光に照らされた彼の顔は白く引き締まっていた。彼は見晴らし台を横切り、山荘の裏手へまわっていった。
私はドアを細目に開け、廊下をずっと見通した。ちょうどその時、もとのヴァルディニの部屋からアルドがひょっこりと顔を出したのである。裸電球の明りに彼の禿頭が光った。彼は素早く廊下の端から端まで目を配り、そっと部屋から脱け出すと、靴下だけをはいた足で、階段の暗がりに吸いこまれるように姿を消した。
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九 コル・ダ・ヴァルダ炎上
カルラの閉じこめられている部屋からアルドが出てきたのを見て、私は今にも彼女が姿を現わすものと思っていた。しかし、廊下は人影がないままだった。私は冷たい風の吹きこむドアの隙間に目を当てたまま、かなり長いこと待ったように思った。しかし実際にはその間私の時計で約三分だった。いきなり端から二つ目のドアが大きく開き、ケラミコスが飛び出したのである。彼はすっかり服装を整え、スキー靴まではいていた。そしてスキー靴が板張りの床でけたたましい音を上げるのも構わず、彼はせかせかと階段を降りていった。
ケラミコスの姿が消えるのを待って、私はジョーの部屋へしのびこんだ。彼は目を覚ましていなかった。壁に顔を向け、大きな口を開いて彼は天下太平に高鼾《たかいびき》をかいていた。私は窓を押し開け、水差しを片手に体を乗り出した。山荘の壁一面に月光が眩《まぶし》く躍っていた。私は腕をいっぱいに伸ばして水差しを機械室の前あたりへ投げ降ろした。そこならばイングレスも見落とすはずはない。
彼はすぐに姿を見せた。スキーを着けていた。しかし、そのまま降りていきはしなかった。彼はコンクリートの機械室の前へまわり、右足のスキーを壁に沿って滑らせていった。何と、ヴァルディニが壁を測ったのと同じことを彼はしているのだ。やがて彼は機敏にふりかえり、ストックを閃《ひらめ》かせるとスラローム・コースを降りていった。山荘の下あたりで一発の銃声が響いた。私は窓際で時計を見ながら待っていた。月明りで秒針の動くのがよく見えた。イングレスが暗い森の向こうに姿を消してからちょうど一分二十五秒経って、ケラミコスは彼を追ってスラローム・コースを降りはじめた。最初の斜面を降りたスピードといい、ストックの扱い方といい、どうやらケラミコスはかなりの滑り手であるらしかった。
私は窓を閉じた。ジョーは元のままの姿で眠りこけていた。私はドアを開けて廊下の様子をうかがった。と、まさにその時、カルラの頭が現われたのである。それもヴァルディニの部屋からではなく、階段を登って現われたのである。彼女は重そうな罐《かん》を持っていた。私は顔を引っこめて耳を澄ませ、彼女がヴァルディニの部屋へ戻るのを待った。
床板が軋《きし》った。しばらくは物音が途絶えた。そのうちに罐から何かの液体がこぼれる音が聞こえてきた。ガソリンを罐から空ける時の音だった。私はカルラに見られるかもしれぬ危険を冒して廊下をのぞいた。彼女は体を屈めてメインの部屋のドアの外に罐の中身を流していた。ガソリンだった。その臭いは廊下の端に近い私のところまで伝ってきた。それがガソリンであるとわかった時、私は彼女の意図に気がついた。
私は廊下に飛び出していた。私の足音にカルラは顔を上げたが、ガソリンを注ぐ手を止めようとはしなかった。ガソリンはドアの下からメインの部屋に流れこんでいた。「馬鹿なことは止せ!」私は言った。「そんなこと、できっこないじゃないか」
彼女は罐を横倒しに床に置いて、立ち上がった。手にはマッチ箱を持っていた。彼女の顔は血の気が失《う》せ、緊張に歪んでいた。口の両脇にさるぐつわの痕がどすぐろく見えていた。彼女は足もとがふらつくらしく、片手を壁について体を支えた。廊下を隔てて彼女は険しい目つきで私を睨んだ。「できっこないって言うの」彼女はマッチをまさぐりながら階段のほうへ後退《あとずさ》った。そして乱暴にマッチを擦り、火のついたマッチを高々とかかげた。「じゃあ、見ていなさいよ」彼女は言った。そして軽くマッチをガソリンの溜まった床に投げた。ガソリンはすさまじい音を立てて燃え上がった。たちまち廊下のはずれは火の海となった。
カルラはすでに階段に姿を消していた。私はジョーの部屋に駆け戻り、彼をベッドから引きずり降ろした。「おい、止せ」床に落ちて彼は言った。「こんな時間に悪ふざけはやめろ。何だと思ってるんだ」
私は彼の顔を平手で打った。「目を覚ませ!」私は叫んだ。「火事だ!」
「何?」彼は目を開けると、頬をふるわせて首をふった。「今、何て言った?」
「火事なんだ」私は大声で叫んだ。
「え、何だって?」彼は床に坐り、とろんとした目つきで私を見た。「まさか人をからかおうっていうんじゃないだろうな、おじさん」
「しっかりしろよ。聞こえないかい」
「ああ、何だか耳鳴りがするな。血圧が上がっていやがるんだ。飲みすぎるといつもこうだよ」彼はいきなり鼻をぴくつかせはじめた。「おっと、本当だ。何か燃えてるな」
彼は冬眠から覚める熊のようにのろのろと立ち上がった。「飲みすぎはいかんな」彼はつぶやいた。「夢じゃないのか」
「夢なんかじゃない。行って見てみろよ」私はどんどん彼の衣服をかき集めた。
彼がドアを開けるやいなや、熱い空気がすさまじい勢いで顔に吹きつけてきた。煙はあまりなかった。火は早くも木材に移り、≪実矧《さねは》ぎ≫の板壁を炎はぱちぱちと音を立てながら舐めまわしていた。「こいつはいかん。こんなところは火口《ほくち》みたいに燃えちまうぞ」ジョーが言った。
「僕の部屋へ行こう」私は言った。「あそこからなら見晴らし台へ飛び降りられる」
彼は慌てて抱えた服の端を床に引きずりながら従《つ》いてきた。小さなカメラは首にかけていた。私たちは持物を手当り次第窓から投げ出した。タイプライターも窓から投げ降ろし、私はそれが柔らかい雪の中に安全に落ちるのを見届けた。それからジョーを窓から押し出した。危ないところだった。窓は彼の大きな体が通るのにやっとの広さであった。途中まで体を乗り出して、ジョーは突然私を見上げた。「イングレスは?」彼は聞いた。酔いが覚めてきているようだった。
「彼は大丈夫。ケラミコスと一緒にもう逃げたよ」
「ほかの連中は?」
「メインが閉じこめられてると思うんだ」私は言った。「でも、窓から飛び出すだろう」
「ああ。こんなことをすると、昔、スポーツデーにやらされた障害物競走を思い出すなあ。テントを潜《もぐ》ったり、ネットの中を這《は》ったり、パイプを抜けたりしてさ。ゴール前で糸にぶら下がったリンゴなんぞを食わされるんじゃなくってさいわいだよ」
「そうさ。でも、雪の中で服を着替えることになるよ。それだってかなりの見物だろう」
「いかん。撮影機材が!」
「どこにあるんだ?」
「小屋の裏だ。大丈夫、取ってこれるだろう」機材のことが彼をふるい立たせたらしかった。次の瞬間、息を荒げながら彼は窓の外に落下していった。窓から身を乗り出して見ると、青いパジャマ姿で彼は雪の中に散らばった衣服を拾い集めようとしていた。私も窓の外に脚を出した。ドアは締まっていたが、すでに部屋の中は非常に熱く、ドアの周囲の隙間から、煙が灰色の羽根毛のように、渦巻きながら流れこみはじめていた。
私は柔らかく雪の上に落ち、すぐに両脚で立ち上がった。いきなり響いた銃声に耳がつぶれそうだった。咄嗟《とっさ》にふりかえると、カルラが見晴らし台に立っていた。両手に猟銃を構えていた。二〇口径だろう。二連の銃口の一方から硝煙が立ち昇っていた。彼女の緋色のスキー服は、白い雪を背景に血に染まったように見えていた。彼女は銃を折り、ポケットからカートリッジを取り出して装填《そうてん》した。銃尾《ブリーチ》を元に戻した時、彼女は私に目を止めた。「あなたは退《の》いててちょうだい」彼女は言った。「あなたには関係ないんだから」銃はほんのしばらく私に向けられた。彼女は子供を守ろうとするジャングル・キャットのようだった。彼女の目にはそうした鋭い輝きがあった。彼女は一種の狂気に見舞われ、理性を失っていた。
彼女はすぐにその目を私から山荘の壁のほうへ移した。と見る間に彼女は向きを変え、雪をかきわけながら階段のほうへ進んでいった。そして彼女は見えなくなった。
私は手摺《てすり》に寄って下をのぞいた。彼女は建物に沿ってゆっくりスリットヴィアのてっぺんのほうに向かっていた。彼女はふり仰ぎ、山荘の端の部屋のあたりでひときわ大きく赤く燃え上がっている炎を見た。
その窓にメインの頭が現われた。彼の銃口に光が閃《ひらめ》いた。緋色のスキー服は操《あやつ》り人形のようにがくりとゆらぎ、ゆっくりとよじれながら倒れた。しかし彼女は雪の中に起き上がり、坐った姿勢で銃を上げた。赤と黄の閃光が走り、銃声が轟《とどろ》いた。メインの姿は窓から消えた。その後彼は、雪の中に坐っているカルラを狙って二度撃った。二度目には、カルラは撃ち返さなかった。
しばらくして、メインの両脚が窓に現われた。炎に照らされて彼の脚ははっきりと見えた。カルラはゆっくりと銃を上げ、両方の銃身から弾を放った。距離はわずか四十フィートそこそこだった。耳を覆いたくなるような苦痛の叫びが上がった。メインの脚は痙攣《けいれん》するようによじれて窓の中へ消えた。カルラは弱々しく銃を折り、もう一度|装填《そうてん》した。メインの部屋の火は突然勢いを増し、いっそう明るく燃え上がった。炎は窓際まで迫っているようだった。と見る間に、大きな舌のように炎は窓から伸び、屋根から張り出した雪が音を立てて湯気となった。屋根を厚く覆っていた積雪は炎から身を引くように融けながら、後退していった。雪はみるみる融けていった。冷たい星空に向かって湯気の柱が激しい音とともに立ち上がった。そして屋根の隙間から洩れた炎が、それを追うように宙に伸びた。破風の一部が崩れ落ちた。森の樹々は火に照らされて浮かび上がり、山荘のまわりの雪は明るい桃色に輝いた。
炎の舌を伸ばしている窓の中央に突然メインの頭が現われた。彼はカルラに向けて三発撃った。銃口の小さな閃きは大きな炎の中でほとんど見えなかった。カルラは一発撃った。それきりだった。彼女はぐったりと倒れて雪の中に顔を埋めた。
メインの手から銃が落ちた。彼は窓枠にすがり、そこから自分の体を引き出そうとしていた。傷を負っているようだった。半分ほど体を乗り出し、腹部を窓枠で支えながら彼は悲鳴を上げはじめた。恐ろしい叫び声だった。上《うわ》ずった、獣の声だった。破風が焼け落ちた跡の隙間から風が入って炎を煽《あお》ったのだ。炎は窓から乗り出しているメインをすっぽり飲みこんだ。髪の毛が燃えるのが見えた。ハリエニシダの枝が燃えるようだった。彼の顔は見るみる黒く焼けこげていった。
メインは身悶《みもだ》えし、最後の力を両腕にこめると自分の体を投げ出すように、頭から地面に向かって落ちていった。人間の松明《たいまつ》であった。メインの体全体が激しく燃え上がっていた。彼はスリットヴィアのプラットフォームの向こうの吹き溜りに落ちた。彼の落ちたあたりから湯気の柱が立った。炎は地面に落ちるとたちまち消えた。雪の中に大きな黒い穴が口を開けていた。
「馬鹿なやつだなあ」ジョーが言った。彼は服を半分着かけて、私のそばに立っていた。「あんたの伯爵夫人は気が違ってるのかい?」
「もう死んでると思うよ」私は言った。「服を着てしまえよ。行って何か僕たちにできることがあるか見てみよう」
私がスリットヴィアのほうへ向かおうとしていると、また屋根の一部が燃え落ちた。火の粉と湯気が夜空に高く立ち昇った。激しい風がそれを横殴りにさらっていった。カルラの体はプラットフォームに近い雪の中に倒れていた。ちょうど橇道を登りつめたあたりだった。もはや動かない体であった。濡れた雪の中で彼女の緋色のスキー服はひときわ目立った。彼女の体が雪の中にうがった穴は、血に染まっていた。弾は一発が肩を砕《くだ》き、さらに二発が彼女の胸を貫いていた。雪を染めた血の色は、彼女のスキー服の緋色よりずっと黒ずんだ赤だった。彼女は死んでいた。
私はプラットフォームを横切って、メインの落ちこんだ雪の中の暗い穴をのぞいた。彼の死体は最も火勢の激しい位置の真下に落ちていた。崩れた破風のあたりから、大きな炎が勢いよく噴き出していた。風がさらに火を煽《あお》り、なおも強くなる炎は、どこか異国のジャングルにでもありそうな妖《あや》しい花の花弁を思わせた。炎は恐ろしい食肉の恍惚に揺れているかのようであった。メインは一目で、もはやどうしようもない状態であることがわかった。彼の体は黒こげの肉塊となって、融けた雪の中に横たわっていた。その体は不自然によじれ、曲がっていた。服の袖がもぎれたところから彼の焼けていない肌がのぞき、そこに丸い弾の痕が見えていた。不幸な死にざまであった。
ジョーがそばへ寄ってきた。「死んでいるかい?」
私はうなずいた。「どうしようもないよ。それより、早く機材を取ってこなきゃあ。手伝うよ」
ジョーは動かなかった。彼は炎上する山荘をじっと眺めて立ちつくしていた。激しい物音が聞こえた。メインの部屋の上あたりから破風と屋根が崩れかけていた。私たちは飛び退《すさ》り、すんでのところで燃え落ちる屋根の下敷を免《まぬが》れた。けたたましい音とともに、屋根は崩れ落ちてきた。屋根に生じた新しい隙間の周囲で、火はさらに勢いを加えて荒れ狂った。火の粉は高く夜空に舞った。一組の梁《はり》が黒こげになり、なお赤い火照りを残したままメインの体の上に落ちていった。梁はほんの一瞬雪の中に突っ立ち、やがて建物の壁にもたれかかるように倒れた。根元のほうは真黒い炭となって盛んに湯気を吹き上げ、先のほうではまだひらひらと炎が揺れていた。小屋の床に火が移って燃えだした。
「急いだほうがいいよ、ジョー」私は言った。
しかし彼は、「畜生、こいつはいい画になるんだがな」と言っただけだった。
「アルドと女房と、アンナはどうしたろう?」私はジョーの腕をゆすぶりながら言った。
「え? ああ、あいつらは一階で寝起きしてるんだろう。大丈夫だよ」
裏へまわってみると、彼らは雪の中へ家財道具を運び出そうとしているところだった。少なくとも二人の女はそうしていた。アルドはなす術《すべ》もなく、ただ手を握りしめて雪の中をうろうろしていた。そして彼は絶えずつぶやきを洩らしていた。「何てこった。何てこった」カルラを逃がしてやったことを、彼はさぞ後悔していただろう。
私たちはジョーの機材をかき集めて雪の中へ放り出した。その時、私はスキーのことを思い出したのだ。スキーがなくてはトレ・クロチへ降りるのに何時間もかかってしまう。私は慌てて山荘の表へ駆け戻った。絶望的だった。すでに火は山荘の前一面に燃え広がっていた。屋根は半ば燃えつき、階段のあったあたりは、ただ奇怪な黒い梁が月に向かって燃える指を上げているばかりであった。機械室のドアはイングレスとケラミコスが開け放しにしておいたままだった。すでに熱のためにドアは黒くこげ、くすぶりはじめていた。コンクリートの機械室の上の床も、まわりの杭《くい》も炎を上げて燃えていた。もういつ山荘全体が機械室の上にどっと崩れ落ちるかわからない有様となっていた。
私は死物狂いで、炎の熱に融けた雪の中を転がっていった。着ているものはずぶ濡れになった。濡れたハンカチを顔に当て、私は雪融け水の中を、黒くぽっかりと口を開けている入口に向かって突き進んだ。コンクリートの室内はまさにオーブンであった。煙が立ちこめ、まるで何も見えなかった。私はイングレスがドアを破ったつるはしに蹴《け》つまずいた。そして私は手探りで、前にスキーを置いた一隅へ近づいていったのだ。手を触れるとスキーは床に崩れた。しかしその音も、頭上で荒れ狂う炎の音にかき消されてほとんど聞こえないほどだった。私は熱せられたコンクリートの壁を手で探り、束《たば》ねたままになっている何組かのスキーを見つけ出した。スキーの束を肩にかつぐと、私はよろけながら赤い隙間となって見えている出口へ向かった。激しく燃えさかる松杭の下をかい潜《くぐ》るようにして、やっとの思いで冷たい湿った雪の中に出た。
私は吹き溜りの中へスキーを突き立てて炎上する山荘をふりかえった。ちょうどその時、機械室の入口近くで一本の松杭が音を立てて折れ、そこからぱっと火の粉が舞った。杭に支えられていた床は、燃えながらぐらりと傾いた。続いてさらに何本かの杭が火を吹きながら激しい音とともに崩折《くずお》れた。そして山荘はゆっくりと傾き、その上で燃えさかっていた前面の壁、は、逆巻《さかま》く紅蓮《ぐれん》の炎の中に折り畳むように倒れていった。夜の中へひときわ盛んな火の粉の柱が立ち昇り、炎は燃え落ちた正面玄関《ファサード》を飲みこんで、勢いを得て舞い上がった。
そこへ建物をまわってジョーがやってきた。私は彼を手招きして、スキーの束を解いた。彼はそばへ来て言った。「原因は何だ、ニール?」
「ガソリンだよ」私はスキーを履《は》きながら言った。「カルラが火をつけたんだ」
「本当かい。何でまた?」
「仕返しだよ」私は言った。「メインはあの女を裏切って、ほかの女に乗り換えたんだ。おまけに、メインは彼女を殺そうとした」
ジョーは私の顔を見つめた。「でっち上げの話じゃないんだろうな。ヴァルディニはどうした?」
「メインに撃たれたよ」私はスキーをはき終わった。立ち上がって見ると、ジョーは炎の明りに顔を赤く照らされながら、まるで信じられないという表情をしていた。「僕はトレ・クロチに行かなきゃあならないんだ」私は言った。「電話のあるところに行かなきゃあならない。スラローム・コースを降りるよ。一緒に来るかい? 下のホテルへ着いたら、全部詳しく話すよ」私は彼の答えを待たずにストックの皮紐に手を通し、雪の上を斜面に向かって歩きだした。
スラローム・コースは決して易しいコースではなかった。傾斜は急で、ほとんどスリットヴィアの橇道と平行して下っていた。私はできるだけゆっくりと降りていった。しかし雪は深く、スピードを抑制するには、ところどころで制動をかけなくてはならなかった。ステム・ターンはむずかしく、私は時々コースの脇の吹溜りの雪の中に突っこんだり、転倒したりして速すぎるスピードを落とした。
明るい月夜だった。しかし炎上する山荘の妖《あや》しい光とその激しい音の後で、森の斜面は不気味に静まりかえっているように感じられた。羽のような松の枝がからみ合った網の目を透《す》かして、月の光が降ってきた。耳に入る音といえば、森の樹々のてっぺんを吹く風のうなりと、雪の上を擦《こす》るスキーの音ばかりであった。
斜面を降りきるのに三十分ほどかかったと思う。もっともっと長くかかったような気もしたが、スリットヴィアの麓《ふもと》の、エミリオのいる小屋の前を過ぎようとして時計を見るとまだ一時四十五分だった。私は月光に照らし出された長い橇道を見上げた。その頂上で白い雪は、キノコ型の炎となって激しく燃えさかっているように見えた。もはや山荘の形を見分けることはできなかった。それはただ燃え上がる大きな炎のかたまりでしかなく、中央部は白く、周辺に行くにつれて鈍い赤味を帯びる炎の柱からは、激しく火の粉と煙が舞っていた。それはあたかも夜空を横切って走る隕石《いんせき》のようであった。
ホテルに着いてみると、客たちが皆起き出していて、消防隊をくり出そうと騒いでいるところだった。私はたちまち興奮した人々にとりかこまれた。彼らは皆スキー服に身をかためていた。私はホテルの支配人に会いたいと言った。支配人は人垣をかきわけて進み出てきた。くせのない髪を油でなでつけ、青白い顔を心配そうに曇らせた、太って貫禄のある背の低い男であった。「大丈夫ですか、シニョーレ? 誰か怪我をした人は?」
私は火事で負傷した者はなく、火のまわりが早くて手のつけようがなかったこと、そして間もなく山小屋は燃えつきて火は鎮《しず》まるであろうことを告げた。私はオフィスの電話を使わせてもらえるかと尋ねた。
「ええ、どうぞどうぞ、シニョーレ。何でも言いつけてください。私にできることでしたら、すぐにそのようにしますから」
彼は私のために電気ストーブを二台つけてくれ、ボーイに飲物と着替えを持ってくるように命じた。そして調理場から温かい食べ物を運ばせた。すべては一瞬のうちに整えられた。支配人にとっては、またとない記念すべき時であった。彼は客たちに彼がいかに親切で寛大な支配人であるかを誇示したがった。私の身体を気遣って彼がしつこくつきまとってくるのは何ともかなわなかった。その間じゅう、私は受話器を耳に押し当てていた。私はボローニヤ、メストロ、ミラノなどを呼んだ。一度電話は混線してローマの交換が出た。しかしトリエステもウディネもいくら呼んでも出なかった。
三度目にボローニヤを呼んでいるところへジョーが息を切らせてやってきた。どうやら途中何度も転んだらしかった。彼は雪だらけの体を、力つきたという様子で椅子の中に投げ出した。彼は首に小型のカメラをぶら下げていた。支配人にとっては新来の客だった。ブランデーが早速その場へ運ばれた。スキー服が剥《は》ぎとられ、ジョーはオレンジ色と赤の縞《しま》の奇怪なガウンにくるまれた。新たに料理が運ばれた。こうしたことが行なわれている間に、私はイタリアじゅうの長距離電話の交換台を次々に呼び出しながら、合間を縫ってジョーにコル・ダ・ヴァルダでいったい何が起こっていたのかをかいつまんで話した。ただ、私は金塊の話はしなかった。つまり私の話は一番大切な部分が抜けていたのだ。そのためだろう、ジョーはほとんど信じていないようだった。
彼が質問を浴びせている最中に突然トリエステの交換が出て、なぜ応《こた》えないかと言った。私は軍用の通話だと言ってマスグレーヴ少佐のホテルに繋《つな》いでもらった。不機嫌な、眠たそうな声が聞こえてきた。しかしイングレスの名前を出して要件を言うと、少佐の声は明らかに真剣になった。「了解」と彼は言った。遠い遠いところから、かすかに聞こえてくる返事だった。「すぐウディネに連絡を取って出動させましょう。コルチナの憲兵隊基地でしたね。わかりました。デリックに、道が閉鎖されていなければ九時前後には着くだろうと言ってください」すべてはわずかの間に手配がついた。私はほっとして電話を切った。
背の低い支配人は、その時すでに疲労|困憊《こんぱい》してしまっていた。客たちはみな、自室に戻っていた。ホールをのぞいてみると、ホテルはすっかり静寂を取り戻していた。ポーターはストーブのそばの椅子に背を丸めて眠りこけていた。階段の下で大きな時計が重々しく時を刻んでいた。四時十分だった。私はオフィスに戻った。ジョーは肘掛椅子で高|鼾《いびき》をかいていた。私はどっしりとしたカーテンを開けて外を見た。月は大きな黄色いボールのように、今しもモンテ・クリスタッロの向こうへ沈もうとしていた。星は輝きを増し、夜明け前の空はかえって暗かった。スリットヴィアの頂上には、もはやぼんやりとした火照《ほて》りのようなものが見えるばかりとなっていた。火は燃えつきようとしているのだ。私は電気ストーブの前に椅子を寄せてそこに坐り、イングレスからの連絡を待つことにした。
いつの間にか眠ってしまったらしい。どれくらい時間が経ったか、まるで見当がつかなかったが、確か六時過ぎだったと思う。私は突然ホールの人声に目を覚ました。ドアが荒々しく開き、イングレスがよろけながら入ってきた。
私は思わず立ち上がったのを覚えている。まさか彼がそこへ現われるとは思っていなかった。イングレスの顔は血の気がなく、げっそりとしていた。スキー服は破れていた。ウィンドブレーカーの胸と左の腿《もも》のあたりにべっとりと血が滲《にじ》んでいた。「トリエステに連絡はついたかい?」彼は尋ねた。弱々しい声だった。
「ついたよ」私は言った。「憲兵隊の基地へは九時ごろ着くそうだ」
イングレスは力なく笑った。「もう、その必要はない」彼はふらつく足でデスクに近づき、皮張りの回転椅子に崩れるように腰を降ろした。「ケラミコスは死んだよ」彼は言い足した。
「どうしたんだ?」私は聞いた。
彼はうつろな目で、磨き上げたマホガニーのデスクに置いてあるタイプライターを見つめた。彼はゆっくりと手を伸ばし、タイプライターのカバーを取り除《の》けた。タイプライターを引き寄せ、白紙を挿入すると彼は言った。「煙草をくれないか」私は彼の口に煙草をはさんで火をつけてやった。しばらく彼は口をきかなかった。口の端にだらしなく煙草をくわえたまま、彼はまっ白なタイプ用紙を見つめていた。「こいつはいいや」彼はゆっくりと言った。「この話はいけるぞ。映画史に残るよ。実話に基づく冒険映画……今までにはないよ……こういうのは……」彼の目が、いつもの彼の興奮に光った。彼の手がキーを探《さぐ》った。彼はタイプを打ちはじめた。
タイプライターの音にジョーはうなりながら目を覚ました。イングレスの姿を見ると彼はまるで幽霊でも見たように大きな口を開けた。
私はイングレスの肩越しにのぞいた。彼は書いていた。
「孤独なスキーヤー」
≪現実に起こった恐るべき事件による映画脚本≫
かたかたというキーの音は次第に間遠になり、ためらいがちに止まった。彼の唇から煙草が落ち、白いスキー服を茶色くこがした。イングレスは歯ぎしりをし、額には脂汗《あぶらあせ》の玉が光っていた。彼は再びキーに手を上げて、もう一行付け加えた。
≪脚色 ニール・ブレア≫
彼は手を止め、わずかに笑顔を浮かべてそれを眺めた。唇から血の泡が吹き出した。手首の力が脱け、彼の手はキーボードの上に落ちた。持ち上がった印字アームが絡《から》み合った。そして彼はゆっくりと椅子から崩れ落ちて床に倒れた。抱き止める間もなかった。
私たちが抱き起こした時、すでに彼は死んでいた。
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十 孤独なスキーヤー
私たちはイングレスの遺体を肘掛椅子に坐らせた。ぐったりと椅子に寄っている彼の遺体を見ているうちに、黄金に対する苦い憎しみが私の胸に拡がってきた。
黄金がいったい何だというのだ。とりわけ役にも立たない金属の塊りでしかないではないか。稀少なるがゆえに交換手段とするに相応《ふさわ》しいということを除けば、金には本質的な価値などありはしないのだ。それなのに、そのつまらない金の塊りは恐るべき性質を持っている。それを捜すために、人々は地球の果てまで出かけることさえいとわないのだ。金は磁石のようなものである。ただ、金が引き寄せるのは果てしない欲望である。ミダス王の物語は、金がいかに役に立たないものかを教えている。それにもかかわらず、この黄色い金属を人間が知ってからというもの、歴史を通じたあらゆる時代に、人は金を手に入れようとして殺し合いを演じている。アラスカや南アフリカのトランスヴァールといった地の果てで、金を求めて鉱山の深い坑内に入った何千という人間が肺結核におかされ、やがては死に追いやられていった。また、一方には黄金を手に入れて地中の金庫にしまいこむということだけのために、生涯の儲《もう》けをなげうって一か八かの賭けをする者もいる。
このわずかばかりの金塊を手に入れるためにシュテルベンは九人の人を殺したのだ。彼の死後、ドロミテ・アルプスの山中に埋もれていながら、なお金塊はヨーロッパ各地から何人かの人間を引き寄せ、彼らは金塊をめぐっていがみ合い、殺し合ったのである。
金塊がスリットヴィアでコル・ダ・ヴァルダに引き寄せたすべての人間のうち、生きて戻ったのはジョーと私ばかりである。集まった人間は必ずしも魅力に富んだ顔ぶれとはいえなかった。ギャングで売春屋のステファン・ヴァルディニ。そのへんにいくらでもいる娼婦と何ら変わりないあばずれ女のカルラ・ロメッタ。脱走兵のギャングで殺人犯のスチュアート・ロスことギルバート・メイン。ギリシャ国籍を持つナチの残党ケラミコス。彼らはことごとく、あの金塊のために死んだのだ。
そして今、デリック・イングレス。
彼は欠点を持ってはいた。しかし、何と言っても彼は素晴らしい個性を備えた男だった。映画界でも屈指《くっし》の才能の持主と言えたろう。その彼が残していったものと言えば、イタリアの山中のホテルで生命の抜け殻《がら》になって椅子に坐っている遺体でしかないのだ。彼はもう二度と再び映画を撮ることはない。コル・ダ・ヴァルダで起こった事どもを人に伝える役目まで、彼は私に託していかなくてはならなかったのだ。
ジョーがイングレスの腿《もも》の付け根あたりの服を剥《は》いだ。さらに腹のあたりの肌を広げて彼は言った。「撃たれたんじゃあないな」
私はジョーの肩越しにのぞいた。傷というよりは打ち身のようだった。強く打った拍子に皮膚は不規則な形に張り裂けたのであろう、その裂傷の周囲に肉が醜くめくれて盛り上がっていた。
ジョーは首をふった。「何かがぶつかったんだ。……それも、かなりの力でな」彼はほかの部分も調べた。ほかには何の傷もなかった。ジョーはうなりながら立ち上がった。「ここへやってくる時は、もう駄目だっていうのを自分で知っていたんだろう。これだけの傷を負えば誰だって助からないくらいのことはわかるからな。しかし、どのあたりでこんな目に遭ったのかね。そこからこっちは、もう、一歩進むのだって死ぬ苦しみだったろうに」彼は窓に近づいて外を眺めた。「曇ってきたな、ニール」カーテンを戻しながら彼は言った。「また雪になるとしたら、スキーの跡が消えちまって、何が起こったのか、全然わからなくなっちまうな」
「つまり、行ける間にスキーの跡を辿《たど》ってみようっていうわけだね?」
ジョーはうなずいた。「そうしなくちゃあならんだろう」彼は言った。「やつには妹がいるからなあ。妹は知りたがるだろうし、スタジオだって一部始終を聞かせろとくるに決まっているぜ。スキーの跡がわからなくても、血が垂れているだろう」彼はデスクに歩み寄り、タイプライターにはさまれた紙を見た。書かれた文字を読みながら、ジョーはゆっくりとうなずいた。「たぶん、こいつのためにここまでやってきたんだな」
「と言うと?」私は聞いた。
「あんたが、この話を詳《くわ》しくシナリオに書くように、念を押すつもりだったんだよ」彼は答えた。「あいつはね、映画の観客が何を求めているか、それを掴むのが実にうまかった。あいつはこの話が客に受けると思っているんだよ。どうしても、だからこれを映画にしたかったんだ」ジョーはデスクの上の消しゴムを取り上げて細かくむしりはじめた。彼はイングレスと親しくはなかったが、イングレスの死は自分で認める以上に強く彼を動かしているようであった。
「俺は、こいつがどうしても好きになれなかったんだ、ニール」イングレスの体を見下ろしながら彼はぼそぼそと話した。「こいつは人から好かれる人間じゃあないんだ。しかし、崇拝されるんだなあ。それができないやつは、こいつを憎むんだ。どうしても、こいつは好かれるってことがないんだよ。そうやたらに親しくなれる男じゃなかった。こいつは冒険に賭けていた男だよ。どんなことでも、胸がわくわくするものがなきゃあ気がすまない男だったんだ。話も、仕事も、役者の芝居も、皆だ。だからこいつは、ああやって酒ばかり飲んでいたのさ。興奮の足りないところを、こいつは酒で補っていたんだ」
「何が言いたいんだ、ジョー?」私は聞いた。
彼は私の顔を見て粉々にむしった消しゴムをくずかごに捨てた。「わからないかい。……だからこそ、こいつはここまでやってきたんだよ。ナチの残党のケラミコスの顔を見て、責任感でやってきたと思ったら、そりゃあ違う。これはやつの冒険心だ。それに、やつはこれが映画になる話だと思っていたんだな。だから、ここへやってきて、やつはタイプライターで題名と、その下にあんたの名前を打ったんだ。やつは自分がもう助からないのを知っていた。ところが、あれだけの苦痛を抱えていながら、やつの頭は冴えていたんだ。この話を映画にしたら、どんなものができるか、やつはよく心得ていた。火事の現場を見逃したのは気の毒なことをしたな。あれは気に入っただろうに」
ジョーはしばらく言葉を切って、じっと電気ストーブの熱線を見つめた。「タイプライターの前に坐るなんてことは、やつとしちゃあ珍しいぜ。そうだろう」彼は続けた。「いつもなら、自分でしゃべって聞かせるところだよ。自分で芝居がかった話をするのが、あいつの趣味だったからなあ。でも、今度ばかりは自分じゃしゃべれない。人に代わりにしゃべってもらいたかったんだ。自分でタイトルだけはつけてな。……『孤独なスキーヤー』がそれだ。でも、あいつは何よりも自分が主役になりたかったんだな。もう助からないのを知って、雪の中でのたうちまわりながら、あいつは考えたんだよ。自分の最期には観客が必要だってことになったんだ。あいつは、いつだって観客をほしがるやつだったよ。それで、タイプライターの前に坐って、煙草をくわえて、映画のタイトルと、その下に君の名前を打ちこみながら死ぬという演出を考えた。その場面を思うことで、あいつは生きてここまでやってきたんだよ。こんないい演出を誰にも見せないなんてのは、あいつにとっちゃあ我慢がならなかったんだ。何としてもここまで辿《たど》り着かなきゃあならなかったのさ。あんたがこれをシナリオにして、スタジオがそれを作品に仕上げることを、スタジオの誇る名監督デリック・イングレスの最後の作品として完成させることを、あいつは念を押したかったんだ」ジョーは拳《こぶし》を固めて掌を打った。「俺が寝ていなければなあ、やつの最後の演出を撮ってやったのに。喜んだろうなあ」彼は言葉を切った。彼にしては珍しい長広舌に疲れ果てた様子だった。彼は下唇を親指と人差指でこすっていた。彼は涙をこらえていたのだと思う。ジョーはイングレスを決して人間として愛してはいなかったが、監督としては非常に尊敬していたのだ。
私は窓際へ寄って外を見た。すでに月は沈み、闇は暗かった。星空に雲が流れていた。「出かけたほうがいいね」私は言った。「雪になりそうだ」
「大丈夫かい?」彼は言った。「この二日間、あんた、えらい目に遭ってるからなあ」
「僕は大丈夫だよ」私は言った。
私たちはホールへ出てポーターを起こした。私たちのスキー服一式は調理場のストーブの前に干されていた。出がけにオフィスには鍵をかい、支配人以外には誰も入れてはならないとポーターに言い含めた。「さっき入ってきた人は死んだ」私はイタリア語でポーターに言った。「一、二時間したら戻ってきて、支配人に話をするよ」
ポーターは愕然《がくぜん》とし、怯《おび》えた顔で十字を切った。私たちは雪の中へ出ていった。小さなオフィスの温もりの後で、外はことさら暗く寒く感じられた。しかし、間もなく夜明けの光が射しはじめるであろう東の空には、すでにその前ぶれのかすかな明るみが見えていた。そしてそのほんのりと白んだ空を背に、山々の険しい稜線《りょうせん》が黒々と聳《そび》えていた。風は刃物のように私の湿ったスキー服を刺し貫いた。そして細かい粉雪が風に乗って盛んに舞っていた。
イングレスのスキーの跡はすぐに見つかった。彼はファロリアから、以前の軍の偵察巡路を下ってきていた。雪の上のあちこちに、血痕が小さな赤い斑点を作っていた。木のまばらな森の斜面を、スキーの跡はまっすぐに登っていた。斜面は山の懐《ふところ》に深く食いこんだ谷に沿って曲がり、よじれながら、次第に険しさを増していった。雪の中に大きな血の塊りが、まっ赤な布のようにしみを拡げているところがあった。イングレスが立ち止まって血を吐いたのだ。そこから先は血痕がなかった。しかし、森を抜けてさらにスキーの跡を辿っていくと、険しい傾斜の途中で新しい雪が蹴ちらされている箇所があった。そこで彼は排便していた。彼の排泄物には多量の血が混じっていた。これだけでも彼は自分の怪我の重さを知ることができたであろう。
スキーの跡は斜面をジグザグに横切っていた。一度私たちは別のスキーの跡に出くわした。二人のスキーヤーが登った跡だった。ファロリアに登ったイングレスとケラミコスの足跡に違いない。
空は明るさを増していた。トンディ・ディ・ファロリアの峨々《がが》とした尾根が曙光《しょこう》の中に黒々と立ち上がっていた。イングレスほどの達人にしては、コースの取り方がやけに緩やかだった。さらに数百ヤード行ったところで、私たちはその訳を知った。そこで雪は大きく乱れていた。急斜面を直滑降で降りてきたイングレスはクリスチャニアに失敗して転倒したのだ。彼が起きあがろうとしてもがいた跡が雪の中にありありと残されていた。あちこちに赤い布を投げすてたように血痕が広がっていた。ジョーはカメラを持ってきていた。彼はそこではじめてカメラを使った。
そこから先はイングレスの進んできたコースはずっと急で、ほとんど直滑降だった。転倒するまでは自分の傷の大きさにも気がつかず、彼は普通に滑っていたらしい。雪は固く凍っていて、雪面を覆う粉雪もなく、そのあたりではシュプールは鮮やかに残されていた。
ところどころで私たちは横歩きしなくてはならぬほど傾斜は急になっていた。すでに私たちはトンディ・ディ・ファロリアの真下に達していた。私たちは目の前に牙のような尾根を見ながら、最後の雪の斜面を登っていた。白い雪の斜面は常に雪崩《なだれ》の危険をはらんでいる。そしてその上に黒い裸の岩が歯をむいてそそり立っていた。
正面の白く盛り上がった台地の向こうに、峡谷が大きく口を開けていた。雪の凍てついたファロリアの急斜面は峡谷へまっすぐ下って尽きていた。峡谷の向こうは巨大な山脈の麓に当たり、崖は一気にセラピス氷河に駆け登っていた。峡谷の間を通して幾重にもつらなる山並みの冷たい峰が、鈍い夜明けの光の中に遠く見えていた。
イングレスは背後にケラミコスが迫っていることを知りながら、峡谷の右岸の凍った斜面を登ったに違いなかった。彼のスキーの跡はずっと尾根伝いにファロリアへ続いていた。スキーの跡はほとんど尾根のすぐ下のあたりを走っていた。ところどころ、雪はそれ自体の重さに耐えかねて急な斜面を私たちのほうへ向かって崩れ落ちていた。そしてそれらの場所では山肌が露わになっていた。
私たちのいるところから右手に向かって、谷はトンディ・ディ・ファロリアまでまっすぐに切れこんでいた。谷のあちこちで白い雪の中に黒く露出した岩が見えていた。そしてそれらの岩場の一つから、イングレスのスキーの跡は一直線に私たちの足下につながっていた。
私たちはスキーの跡を目で辿った。鋭い岩が雪の上にわずかに頭をのぞかせているあたりに、大きく雪の崩れた跡があった。「こいつは驚いた。見ろ」ジョーは打たれたような声を上げた。
彼はシュプールの先を指さしていた。
私はその跡を辿って、ずっと雪の崩れているあたりまで斜面を目で追っていった。
斜面はファロリア山塊のクレペデルの峰に向かって数千フィートの高さを舞い上がっていた。そこは地図に危険と記された幅の狭い尾根だった。登りつめたあたりの斜面は、ほとんど切り立った崖に近かった。そこに大きな雪崩が起きていた。雪崩は斜面いっぱいに広がって流れ落ちていた。そしてその雪崩の一番裾のところから二本のシュプールが、定規で引くように私たちの足下の岩場まで伸びているのであった。
ジョーは再びカメラを取り上げた。写真を撮り終わって彼は言った。「あいつは、おそろしくスキーがうまかったんだな、ニール。不可能をやってのけているぜ。あいつはスキーをはいたまま、あの雪崩に乗っかって降りてきたんだ。見事に雪崩から脱出したところまではよかったんだが、その後で、あの岩場にぶち当たったんだろう。ほら、見ろ、あいつは岩場も、一番ひどいところまで行く前に転んで止まっているよ。でも、あの小さな岩が雪に埋まってるのが見えなかったんだなあ。それでああいうことになっちまったんだ」
私はうなずいた。私は口もきけなかった。あの雪崩からうまく脱出しておきながら、岩に激突して死ななくてはならないとは、何という皮肉なことだろう。
私は茫然として斜面を眺めていた。ふと見ると雪崩の落ちた裾のわずか下のあたりに、何やら黒いものが倒れていた。イングレスのスキーの跡よりずっと左の、谷のほうへ寄ったところだった。どうやら人の形をしているようだった。
私はそれを指さしてジョーに言った。「あれは人間かね、それとも、気のせいでそう見えるんだろうか?」
彼は眉をしかめて斜面を見た。「そうだ、本当だよ」彼はそう言って私をふりかえった。「ケラミコスかい?」彼は尋ねた。
「きっとそうだよ」私は答えた。
私は彼らがそこを通過しようとした時の状態を思い描きながら、斜面を遠く見渡した。私は、ずっと右のほうでは新雪をかぶったように雪崩と斜面に積もった雪の区別が不明瞭になっていることに気がついた。「どんな状態だったか、だいたいわかったよ」私は言った。
ジョーは不審そうに私の顔を見た。
「イングレスがコル・ダ・ヴァルダを出発したのは、ケラミコスよりたった一分二十五秒早いだけなんだ。僕は時計を見ていたんだよ。イングレスのスキーの腕前が物をいうのは下りだけだ。登りになれば、これは耐久力の問題だろう。ケラミコスは、あるいはその点では有利だったのかもしれないよ。あの峡谷から横歩きで斜面を登っている時は、ケラミコスはそう遅れてはいなかったはずだ。登りのはじめでは、ケラミコスがいくらか追いついていたんじゃあないかな。ところが、ほら、あの尾根の下からこっちへ向かって降りはじめた時イングレスは自分の行手が雪崩で遮《さえぎ》られているのに気がついたんだ。あの右のほうの古い雪崩だよ。でもイングレスは戻るわけにはいかなかった。ケラミコスはすぐ後ろまで来ているし、彼は銃を持っていたからね。前は雪崩に遮られて進めない……となると方法はたった一つ。イングレスはそいつをやったんだ。あの険しい斜面を直滑降で下りたんだね。彼はスキーがうまいから、やれる目算はあったんだよ」
「ところが、それをやったんで、新たに雪崩を起こしちまって、そいつがケラミコスをかっさらったというわけか」ジョーが私に代わって結論を言った。彼はもう一度目を上げて尾根に沿って視線を走らせた。そして彼はうなずいた。「どうやら、そういったところらしいな。あの男はまだ生きているだろうかね?」彼は山の白いシャツの胸に黒くついたしみのように横たわっている男のほうを頭で示した。
「行って確かめたほうがいいね。あそこまで行かれるだろうか?」
「まあ、行ってみよう」彼は言った。
急な登りだった。雪は柔らかく、少し登ると、じきに私たちは一歩一歩スキーで雪を踏み固めなくてはならなかった。私たちは安全に登るために、念入りに雪を固めた。足の下から斜面全体がずり落ちてしまいそうな気がした。
やっとのことで私たちは倒れている男のところへ辿りついた。男は不様《ぶざま》な格好で顔を雪の中に埋めていた。片方の腕は折れ、不自然に背中のほうにねじまがっていた。体を裏返してみた。まさしくケラミコスだった。すでに冷たく硬直していた。頭だけが雪崩の猛威を免れていた。首は折れていた。私は手袋を脱いでごわごわに凍っている彼の衣服を探った。彼は銃を持っていなかった。胸のポケットに紙入れがあった。中にはホルツ伍長の証言のほか何も入っていなかった。私はそれを自分のポケットに納めた。
私たちは何とかケラミコスの遺体を下の岩場まで引きずり降ろした。あとは地元の人たちにまかせることにして、私たちはそこに遺体を残してトレ・クロチに戻った。ホテルに戻った時には、また雪が降りはじめていた。
こうしてイングレスとケラミコスは死んだ。映画もトンディ・ディ・ファロリアの凍てついた雪の斜面で終わっていた。
コルチナを発つ前に、私は一度コル・ダ・ヴァルダに行ってみた。事件の大部分の舞台となった山荘は黒こげの梁をわずかに残した灰燼《かいじん》と化し、早くもその上をうっすらと雪の層が覆っていた。燃えかすはスリットヴィアの巻揚装置を納めたコンクリートの建物の上に散乱していた。山荘を買い取ったメインは遺書を残していなかった。おそらくあの場所は再びイタリア政府のものとなったのだろう。
あの火事の夜から、約一年が過ぎようとしている。しかし、伝え聞くところでは山荘の焼け跡はそのままで誰も片付ける者がなく、コンクリートの機械室は灰に埋もれているという。スリットヴィアもあれ以来運行されていないそうである。
ところで金塊はどうなったか。おそらく、金塊のありかについて何らかを知っている人間は私をおいてほかにいまい。私はその場所を知っていると思う。しかし、それも確かめたわけではない。それに、金塊がそこにあろうとなかろうと、私にはどうでもよいことなのだ。すでに、あの金塊のために、あまりにも多くの人間が生命を失っている。もし、本当にそこにあるのだとしたら、そのまま、コル・ダ・ヴァルダとともに朽ち果ててしまえばいいのだ。
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訳者あとがき
この本が一九四七年に発表されたものであることを考えると、今さらながら私は、ハモンド・イネスの新しさに驚きを禁じ得ない。四半世紀を過ぎた今日、この本はいささかも古さを感じさせないどころか、むしろ、発表当時より、一層のリアリティを持っているのではあるまいかとさえ思わせる。ハモンド・イネスのよさをきわめてストレートに示す好編である。
ハモンド・イネスの面白さについては、あらためて言うまでもない。≪虚実の間≫ということを、これ以上に実感として味わわせてくれる作家を私はほかに知らない。例えば、私はこの本の中できわめて重要な役目を持っているジョー・ウェッスンのカメラに非常に興味がある。どうやら、ハモンド・イネスの物語世界構築の謎を解く鍵がそこに示されているように思えるからである。
何という暗合だろう。この本の中で、あのカメラは、山荘に集まってきた男たちの最も知りたがっていた答をずばりと捉えているではないか。たまたま、雪面に映える月光の美しさに魅せられたイノセント・バイスタンダーであるジョー・ウェッスンが、自分ではそれと気づかずに真実を見ているわけだが、そのことが、カメラ本来の機能を大きく超越したところで捉えられているという物語の構造は、ハモンド・イネスの描き出す世界全体をきわめて明らかな形で象徴している。
ハモンド・イネスの小説から古い日本の芝居を思い出すのは、やや突飛に思われるかも知れないが、私はジョー・ウェッスンのカメラに注目した時、遊女おかるが二階から由良之助の手紙を盗み読むのに使ったあの手鏡を思い出さずにはいられなかった。小さな手鏡に、果たして何が写っていたろうか。しかし、おかるは、そこに由良之助の真実をはっきりと見たのである。ロマンの面白さとはそうしたものなのだ。虚構の世界にあってどこまで虚構を離れ、真実を描いてどこまで真実を越えるか、その虚実の間の拮抗《きっこう》が激しければ激しいほど、物語は輝きを帯びてくる。拮抗の激しさは、とりもなおさず、その間の均衡がきわめて微妙であって、一発の銃声で引き起こされる雪崩の危険を孕《はら》んでいるということにほかならない。ハモンド・イネスの数多い作品のすべてに共通な面白さの秘密がそれだと言って間違いあるまい。
この本は最初 The Lonely Skier の題名で発表されたものだが、後にアメリカ版が Fire in the Snow の題名で発売された。邦訳題名は前者に拠ったわけである。