ベルリン空輸回廊
ハモンド・イネス/池央耿訳
目 次
著者覚書
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
訳者あとがき
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登場人物
ニール・レイデン・フレイザー……ドイツの捕虜収容所から脱走し、メッサーシュミットを乗っ取りイギリスへ帰還した元英雄。戦後、ユダヤ人の下でキャラハンを名乗って闇商売に手を染め、違法出国を図るが失敗。逃亡中に野心家セイトンに出会う。械工学のプロ。
ビル・セイトン……感情の起伏が激しく、利己主義の元沿岸防備隊のパイロット。低燃費高出力のエンジンを開発し、ベルリン空輸を足がかりに世界の航空界を牛耳ろうという野望に燃えている。
タビー・カーター……鍛冶職人から自動車修理工を経て航空機産業の技術者、航空機関士になる。根っからの技術屋で、セイトンに利用されるお人好し。
ダイアナ……タビーの年上の妻。イタリア人の血を引く気性の激しいアメリカ女性。セイトンに心を奪われている。
ハリー・カリヤー……アメリカ軍政部の管理局にいるダイアナの兄。
プロフェッサー・マイヤー……ヒトラー暗殺の陰謀に荷担した疑いで逮捕され、ダッハウの収容所で死亡した機械工学の専門家。
エルゼ・ランゲン(本名エルゼ・マイヤー)……マイヤー教授の娘。父の助手として一緒に航空機エンジンの開発に携る。設計図も試作品もセイトンに乗っ取られ、父の名誉回復を願う。
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[#地付き] ダフニとビルに
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著者覚書
本書中、ベルリン空輸の模様を描いたくだりについては、私はイギリス空軍に多くを負っている。空軍は封鎖されたベルリンに向かう輸送機に私が便乗することを許したのみならず、機上ならびに地上における私の取材に、あらゆる便宜を図ってくれた。空軍省の好意と、ヴンストーフおよびガトウ両基地において繁忙《はんぼう》の最中、快く取材に協力してくれた空輸隊の諸氏に、この場を借りて感謝の意を表したい。
この種の小説においては、当時空輸に携《たずさわ》っていた空軍関係者の所属や階級、それに使用された輸送機の機種を偽るわけには行かない。それゆえ、私はここではっきり断っておかなくてはならない。本書は架空の物語であって、いっさい事実に基くものではない。特に公的な立場にある登場人物は、すべて私の創作である。
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第一章
夜は暗く、私は疲れきっていた。頭痛がして、意識は混乱していた。道は高い土堤《どて》に挟まれた急な登りで、頭上には仄《ほの》白い天の川を背景に、木々の枯枝が節《ふし》くれだった指のように拡がっていた。坂を登りつめて平らなところへ出るあたりから、両側の土堤は低い藪《やぶ》に変った。木の間隠れに、畑の向こうにかかる赤い月が見えた。動く物の影もなかった。地上の生命はことごとく夜の冷気に凍《い》てついているかのようだった。私は息切れがして足を止めた。膝《ひざ》は皿が笑って言うことを聞かず、汗に濡《ぬ》れた肌は、まるで冷たい鋼《はがね》を当てられているようだった。刺すような風がサンザシの枝の間を吹き抜けた。全身に走るふるえに急《せ》かされて、私はまた歩きだした。事故の反動が遅ればせに襲って来たのだ。どこか身を潜《ひそ》める場所を見つけなくてはならない。寒ささえしのげれば、納屋の片隅でも構わない。ひと息入れて、国外へ逃亡することを考えなくてはならない。向い風を受けて、汗はことさら肌の熱を奪った。足はもつれがちだった。引きずるような足音は、時おり風に揺れる雑木林の葉ずれに掻《か》き消された。
周囲の地面はすっかり平らになった。自然の平地ではない。矩型《くけい》の大きな建物が月明りの中に黒い輪郭を区切っているのが見えた。ほんの一瞬のことだったが、その武骨な造りは見間違うはずもなかった。次の瞬間、ディスパーサル・ポイントの高い盛り土が視野を遮《さえぎ》った。ディスパーサル・ポイントと、遠くにちらりと見えた格納庫は、すでに私が直感していたことを裏づけた。前方に開けた平らな土地は飛行場以外の何物でもなかった。
飛行機が手に入りさえすれば! そうなのだ。はじめてのことではない。前の時は今よりもっと不利な情況だったではないか。樅《もみ》の木立と、月光を浴びて銀色に見える砂地の記憶が甦《よみがえ》った。そして、格納庫から洩《も》れる光を背にした男たちの黒い影。瞼《まぶた》にありありと浮かんだ光景は、私の身内にあの時とまったく同じ興奮を呼び覚ました。神経は張りつめ、体力が湧《わ》いて来た。私はとっさに森のほうへ向きを変えた。
森の中はいくらか暖かだった。それとも、希望を見出して私は寒さを忘れたのだろうか。闇《やみ》は濃かった。夜陰に方角を見失う危険なしとしなかったが、幸い枝越しに、小さく揺れる蝋燭《ろうそく》の灯にも似て木星が光っていた。星明りで私はもと来た道を確かめることができた。森の木は行く手を遮り、小枝は私の顔をなぶった。たちまち額の傷から生温かい血が頬《ほお》を伝った。口の端に舌先を覗《のぞ》かせると辛《から》かったが、傷は痛くなかった。傷などに構ってはいられない。私の意識にはたった一つのことしかなかった。たった一つ――飛行機を手に入れることだ。
森を抜けて誘導路の端へ出た。タールマカダム舗装、幅五十ヤードの誘導路は霜にひび割れて盛り上がり、ここかしこに夏の名残りの枯草が茎をさらしていた。左右に伸びる誘導路は地平線の果てまでも続いているかと思われた。その向こうに拡《ひろ》がる飛行場は、月下に黒い土をさらけ出している。芝は抜き取られ、今は一面の耕地に変えられているのだ。小丘の頂きに開けた飛行場は、地球の曲面それ自体を思わせるように、遮るものもなく星空に円弧を限っていた。そして、その空虚な景観に一点、わずかに単調を破る変化を添えているのは、ずっと左手に立ち上がって、あたかもその肩に月を支えているかのような格納庫の黒い影だった。
私はその場に立ちつくした。服を通して風は容赦なく肌を刺した。荒涼として人気《ひとけ》のない飛行場を前に、最前の興奮は潮のように退《ひ》いて行った。畑に変えられたフィールドや足もとの枯草、霜に痛んだタール舗装を見れば、この廃市のような雰囲気もうなずける。飛行場はもう使われてはいないのだ。おそらくは重爆撃機の基地であったろう。それが終戦を機に閉鎖されたのだ。最盛期の飛行場を想像することはむずかしくなかった。地上は活発な動きに満ちていたことだろう。作戦から帰還する飛行機の爆音は耳を聾《ろう》するばかりであったに違いない。大型の爆撃機はさながら翼を拡げた猛禽《もうきん》のように尾部を下げて、重たげに滑走路に降り立つ。かく言う私自身、かつて六年半、爆音の中で暮したのだ。今では、飛行機は私の幻想の中に姿を留めているにすぎない。あたりにはただ荒廃があるばかりで、やがてはそれすらも、もとの土に帰る運命であろう。
私は失望を味わいながら誘導路に沿って格納庫が並んでいるほうへ歩きだした。格納庫も、もはやただの廃屋《はいおく》にすぎまい。それでも、せめて一夜の塒《ねぐら》にはなるだろう。吐気が衝《つ》き上げて、急に疲労が襲って来た。おまけに、私は少なからず怯《おび》えていた。飛行場の荒廃が神経に作用して、私は孤独を強く意識していた。
誘導路は果てしなく続いているかと思われた。寒風を空《す》きっ腹に吸い込み、強張《こわば》った体でよろめく足を一歩運ぶごとに、私の意識の中で誘導路は幅員を増し、荒廃が進んだ。私は眩暈《めまい》を感じた。事故で頭を打ったせいに違いにない。と、わずかな希望を見出して私は気を取り直した。月光を背後に浴びて、格納庫群は前方に黒々と立ち上がっていた。いずれも鉄骨を露わに倒壊の一歩手前というありさまだったが、コンクリート・エプロンのはずれの一棟だけは荒れ果てていず、屋台もまだしっかりしているようだった。一列に並んだ窓も破れていず、微《かす》かな星明りを映していた。
私は足を速めた。土地の農夫か地主が、この廃絶した飛行場に自家用機を置いているかもしれない。考えられないことではなかった。一縷《いちる》の望みにすがって私はエプロンを横切った。格納庫の陰から陰を伝いながら、飛行機に燃料があってくれればいいのだが、と私は祈る思いだった。
格納庫一棟が健在であるという些細《ささい》な事実に望みを託した私は、愚かだったかもしれない。しかし、溺《おぼ》れる者は藁《わら》をも掴《つか》むというではないか。めざす格納庫に行き着く以前から、すでに私の気持ちは小型飛行機の操縦席に坐《すわ》っていた。飛行機は夜空をフランスへ向かっている。私は眼下を流れる陸岸の地形を、掌《たなごころ》を指すようによく知っていた。月光を斜めに受けて、私の針路とは直角に縮緬皺《ちりめんじわ》を寄せる穏やかなイギリス海峡の夜景がありありと目に浮かんだ。私は以前に何度か泊ったことのある、モンマルトルの小さなホテルに部屋を取る。ひと休みしたら、バドゥワンのところへ顔を出すのだ。あとはバドゥワンが良いように計らってくれるだろう。バドゥワンに会いさえすれば、その先は万事うまく行くに違いない。
格納庫に行き着いて、私は暗がりに足を止めた。息は乱れていたが、もう吐気も眩暈《めまい》も感じなかった。ふるえは神経のせいだろう。体力は戻っていた。こうなった上は、誰にも邪魔はさせない。私は角を回って大きな引き戸の前に立った。
私はついていた。引き戸の中央に切られた小さな潜《くぐ》り戸は、手を触れると音もなく開いて、その奥に格納庫の暗闇が覗いた。私は中に入って後ろ手にドアを閉じた。格納庫の中はひときわ寒く、足下から湿ったコンクリートに特有の黴《かび》臭さが立ち昇っていた。どこからか月明りが射し込んでいると見えて、目の前に大きな四発の飛行機の翼と機首が黒い影となって迫《せ》り上がった。私に鼻面を向けている飛行機は、格納庫の暗がりでことさら大きく感じられた。
何という幸運だろう。私は左の翼の下をくぐって冷たい胴体に手を這《は》わせ、ドアを探った。
「じゃあ、父の仕事は葬《ほうむ》られることになるのね」
私はぎくりとした。若い女の声だった。
男の声が答えた。「気の毒だがな。戦争はどだい、きれいごとじゃないんだ」
「でも、戦争はもう終ったわ」
「ああ、そうだ。そっちは敗《ま》けたんだ。それを忘れるなよ」
「ドイツが敗けたからって、父が踏みつけにされなくてはならないの? 今までさんざん踏みつけにされて来たのに」
「親父《おやじ》さんはもう死んだんだ」非情な言葉だった。その声はあくまでも冷やかに、突き放すようだった。
沈黙が続いた。尾翼ごしに覗くと、カンテラの火影の中に向き合う二人の影が見えた。男は背が低く、胸板の厚い、頑丈そうな体つきだった。女のほうへ近づきながら、男はカンテラの蓋《ふた》をはずした。鈍い光が格納庫の間口いっぱいに据えられた作業台を照らし出した。台の上には機械部品や工具が雑然と散らばり、かたわらにベルト駆動の旋盤が影を作っていた。
私は迷わず向きを変えた。カンテラの明りが機体の外板を照らしていた。胴体に沿って潜り戸のほうへ引き返す途中、私ははじめて飛行機がテューダーであることに気づいた。四発のエンジンのうち、胴体寄りの一基が取りはずされていた。
そのまま何事もなく引き揚げていれば、私はこうしてベルリン空輸にまつわる逸話の中でもまず類のない、特異な体験を書き綴《つづ》ることにはならなかったはずである。ところが、私はトタン板の切れはしに蹴《け》つまずいてしまったのだ。コンクリートの床に鳴るトタン板のけたたましい音に、私は立ちすくんだ。
「誰だ?」男が怒鳴《どな》った。常に人の上に立っている者の権威に裏打ちされた鋭い声だった。「そうか、お前たち、示し合わせて乗り込んだな」懐中電灯の光束が機体を掃いた。私は眩《まぶ》しい光の輪の中に釘付《くぎづ》けにされた。「何者だ? 何の用だ?」
私は身動きもならず、ただ目をしかめるばかりだった。心臓は躍りくるって、今にも口から飛び出すかと思われた。
懐中電灯の光がふっとそれて、壁のスイッチが鳴った。外で発電機が始動し、格納庫に明りがともった。
尾翼を挟んで向き合った男は拳銃《けんじゅう》を手にしていた。背は高くない。が、肩幅の広さは驚くほどだった。太い頸《くび》でやや前かがみになった恰好《かっこう》は、まさに飛びかかろうとする牡牛《おうし》を連想させるものがあった。私は女のほうに注意を払う余裕もなかった。
「返事をしろ。貴様、何者だ?」男は重ねて誰何《すいか》しながら私のほうへ寄って来た。その確実な足の運びを見れば、この場の事態をさばく絶対の自信を持っていることがわかる。
私は遮二無二《しゃにむに》駆けだした。こんなところで捕まってはかなわない。格納庫に閉じ籠《こ》められて、飛行機を盗もうとしたことを責められては目も当てられない。そうでなくても車を盗んで追われている身なのだ。森へ逃げ込めば何とか姿をくらます望みもあるだろう。床を蹴る男の足音を背後に聞きながら、私は翼の下をくぐり抜けた。ドアに飛びついたところで、男がドイツ語で叫んだ。
「|止まれ《ハルト》! |動くな《ハルト》! |野良犬めが《ドウ・フェアリュクター》!」
その忌《い》まわしい言葉に、収容所のいつ果てるとも知れぬ耐え難い日々と、脱走の際の身も世もあらぬ恐怖の記憶が甦《よみがえ》り、私は最後の力をふるい起こした。
潜り戸から飛び出すと、私は暗い森を目指して誘導路を一散に走った。滑走路のはずれを横切る時には、私の咽喉《のど》は鞴《ふいご》のように鳴っていた。意識は錯綜《さくそう》して、私は収容所に引き戻され、地下道からモミの森に向かって死物狂いで駆けている気持ちだった。今にも軍用犬どもの咆声《ほえごえ》が聞こえて来はしないかと思うと生きた心地もなかった。ドイツのあの夜と同じように、肩胛骨《けんこうこつ》のあたりが引き攣《つ》り、銃弾に撃ち抜かれる瞬間を想像すると私は肌に粟《あわ》を生じた。コンクリートはひび割れ、枯草に覆われていた。間もなく私は畑に走り込んだ。ねば土に足を取られて私はのめった。
私は森に這《は》い込んだ。背後で男が下枝を踏みしだくのが聞こえた。小枝が顔を笞打《むちう》つのもかまわず、私は逃げ道を捜した。方角をつかみかけたと思ったのも束《つか》の間《ま》で、すぐに刺《とげ》だらけのイバラの繁みに行手を遮られた。枝を分けて突き進むと、男は繁みを避けて先回りしていた。私は踵《きびす》を返したが、下草が深くて身動きが取れなかった。私は再び男に向き直った。
考える隙《ひま》もなく、私は男に掴みかかった。どういうつもりだったか、その時の気持ちは自分でもわからない。おそらく、殺意を抱いていたと思う。男の叫んだドイツ語で、私は危うく追いつめられて射殺されかけた過去の場面に引き戻されていた。男は私の腕をしたたかに打ちすえた。私は構わず踏み込んだ。男の咽喉仏に手が触れた。締めつけると男は苦しげな声を発した。が、次の瞬間、相手は膝で私の股間《こかん》を蹴り上げた。私が苦痛の声を上げる番だった。手を放して体を二つに折りながら、私は男が拳《こぶし》を固めるのを見た。次に起こることがわかっているにもかかわらず、私は防御の術《すべ》もなかった。月明りの中で、男の拳はことのほか大きく見えた。顎《あご》に一撃を喰《くら》って、私の意識は粉々に砕け散った。
それから先は記憶が定かでない。半ば肩を支えられ、半ば引きずられるようにして、起伏の激しいところを歩いたことをぼんやりと憶えている。私は明るい一室の簡易ベッドに寝かされ、まずドイツ語で、それから英語で執拗《しつよう》に問い詰められた。相手は一人、私を殴り倒した男だけである。女の姿はどこにもなかった。男は椅子《いす》に跨《またが》って私の上に屈《かが》み込んでいた。下から見る私の目に、そのいかつい大きな頭は宙吊《ちゅうづ》りの錘《おもり》と映った。落ちて来れば私は押し潰《つぶ》されてしまう。体を動かそうとして、はじめて手足をくくられていることに気づいた。顔の真上よりやや左寄りの明るい電灯に目を射られて、私は眉《まゆ》をしかめた。顎《あご》が疼《うず》き、頭痛も激しく、私は何度も気を失ったが、その間も男は諦《あきら》めず、尋問は延々と続いた。一度、額の傷に消毒薬が染みる焼けるような痛みで意識を回復した覚えがある。その後、私は眠りこけた。
目を覚ますと夜が明けていた。天井を見上げながら、私はコンクリートが打ち放しになっているのを不思議に思った。壁は剥《む》き出しの煉瓦《れんが》だった。一隅のモルタルが欠け落ちたところに粗末な棚が吊られ、その上に古新聞が無造作に重ねられていた。ゆっくりと前夜の記憶が甦ってきた。飛行場。格納庫。森の中の格闘……。
はっとして起き上がると、たちまち割れるような頭痛が襲って来た。顎の痛みも去らず、おまけにだいぶ腫《は》れていた。額の傷にリント布が絆創膏《ばんそうこう》で止めてあった。体を包んだ軍隊毛布に乾いた血がこびりついている。私は両脚をそっと床に降ろし、ベッドの端に浅く腰かけて、顎をさすりながら馴染《なじ》みのない室内を見回した。
狭苦しい一室で、例の男が事務所に使っていることが明らかだった。安物のデスクにケースに入ったままのポータブル・タイプライター。古びた回転椅子。スチール製の書類戸棚。雑然とちらかった本や書類。本は工学、機械工作、航空学など、いずれも技術関係のものばかりだった。読み古しと見えて、手垢《てあか》にまみれている。板張りの床には敷物もなく、壁ぎわに錆《さ》びたストーヴが一つ。煙突が天井へ抜ける穴の隙間《すきま》は不細工に目張りがしてあった。鉄格子の嵌《は》まった窓の外は瓦礫《がれき》の山で、その向こうに取り壊された建物の煉瓦の土台が、カタバミの枯れた茎に半ば覆われていた。どこを見ても、すべてが崩壊に瀕《ひん》しているようだった。私は窓の格子に目を凝らした。太い鉄の棒は窓枠のセメントにしっかりと埋められていた。私は閉じこめられた恐怖を覚えてドアに向き直った。鍵《かぎ》がかかっていた。靴を捜したが、どこかに持ち去られていた。私はうろたえ、靴下のまま部屋の中央に立ちつくして思案をめぐらせた。
一時のうろたえが去ると吐気がつき上げてきた。私はベッドに横たわった。吐気はじきにおさまった。頭が働きだした。容易ならぬ事態だった。自身を偽る気は少しもなかった。私は人を殺しかけたのだ。男の頸《くび》を締め上げた時の感触は今も指の腹に残っている。相手は私の殺意を知っていたろうか?
私はゆっくりと室内を見回した。鉄格子。鍵のかかったドア。靴が持ち去られている事実……。男は殺意を感じていたに違いない。
私は無意識に煙草《たばこ》を捜した。上着は椅子の背に掛かっていた。煙草入れを探る拍子に、指先が内ポケットに触れた。内ポケットは空だった。財布も取り上げられている。
私は煙草を吸いつけて仰向けに寝そべった。財布には現金よりも貴重なものが入っている。操縦士の免許証と偽造の身分証明書……。これはまずい。男が新聞を読んだら万事休すだ。私は煙草を深々と吸って、疼《うず》く頭で考えた。早くこの場から抜け出さなくてはならない。しかし、どうする術《すべ》もない。私にどんな手段があるだろう? 私は焦燥に駆られてあたりを見回した。時計は八時十五分を指していた。もう朝刊は来ているに違いない。もっとも、新聞を読もうと読むまいと、男は警察を呼ばずにはおくまい。
どこか煉瓦の壁の向こうでドアが鳴った。私は起き上がって耳を澄ませた。聞こえるのは自分自身の心臓の鼓動と、天井の角で蜘蛛《くも》の巣に掛かった蠅《はえ》の羽音だけだった。誰もやって来る気配はなかった。時間はのろのろと過ぎて行った。時おり、建物の奥で何かが動く音がした。八時三十五分に車が一台、裏手の戸口に乗りつけた。ドアの音がして、人声が聞こえた。五分ほどして、車は走り去った。
私は緊張に耐えかねた。無力感が重たくのしかかって来た。突然、無性に腹が立ち、私はドアを力いっぱい叩《たた》いた。足音が近づいて来た。コンクリートにブーツの鋲《びょう》を鳴らして、どっしりと落ち着きはらった足音だった。男の声がした。「起きているのか?」
「当たり前だ。起きている」私は不機嫌に答えた。「ここを開けてくれないか」
ちょっとためらう気配があって、男は言った。「そいつは事と次第によるな。昨夜《ゆうべ》のことがあるから、こっちは少々用心深くなっているんだ。あやうく締め殺されるところだったからな」
私は黙っていた。ややあって、鍵を差し込む音がして、ドアが開いた。昨夜の、あの背の低い、肩幅の広い頑丈な男だった。濃い髪は、こめかみのあたりに白いものが混じりはじめている。角張った顎は強い意志を示して引き締まり、そのせいか唇は薄くすぼまっている。男は油染みたオーバーオール姿で、首に絹のスカーフを巻いていたが、前夜私の指が食い込んだ跡の黒ずんだ痣《あざ》は隠すべくもなかった。
「昨夜は……済まないことをした」私は口ごもった。
男は部屋に入ろうとせず、やや足を開きぎみに戸口に立って、警戒の目で私を見つめた。鋭い目はスレート瓦《がわら》のような灰色だった。「気にするな」目つきほどでもない声で男は言った。「鏡を見たか? こっちも少し手荒な真似《まね》をしたな」
ぎこちない沈黙がわだかまった。なぜか私は、警察はいつ来るのかと尋ねる気にはなれなかった。「顔を洗いたいんだがね」
男はうなずいた。「この突き当たりだ」男は私に道を開けた。腹を立てている様子はなかったが、用心深く間合は保っていた。
煉瓦敷の廊下には朝陽《あさひ》が溢《あふ》れていた。ドア越しに、建物の傍まで迫っている森が見え、木の間隠れに、向こうに飛行場の平らなフィールドが拡がっていた。あたりはひっそりと静まり返っている。ドアは自由の世界に通じているのだ。私の心の動きを読み取ったかのように、男は言った。「うかうか外へ出て行くのは考えものだぞ、フレイザー。警察の手が回っている」
「警察?」私はおうむ返しに言って男の顔を覗き込んだ。相手の言葉の裏に隠された意味が気にかかった。
「車が発見されたよ。ベイドン・ヒルの中腹で君がぶつけた車だ」彼は私の額の傷に目をやった。「応急手当てで、できるだけのことはしておいてやったがね。傷はかなり深いらしいが、まあ、黴菌《ばいきん》は入っていないだろう」
私は男の態度を理解しかねた。「警察はいつここへ来るんだ?」
「その話は後だ」彼は言った。「とにかく、顔を洗うことだな。洗面所はこの突き当たりだ」
倦怠《けんたい》と軽い眩暈《めまい》を覚えながら、私は廊下を洗面所へ向かった。背後に続く男の足音が途中で止った。「俺《おれ》の剃刀《かみそり》を出しておいてやったよ。何か用があったら怒鳴ってくれ。今、朝飯を作ってるところだ。卵はいくつだ? 二つか?」
「迷惑をかけたくはないな」私は曖昧《あいまい》に答えた。男のこともなげなふるまいに呆《あき》れて、ほかに言葉も浮かばなかった。
「なあに、卵なんぞはいくらでもある。毎日、女の子が農家から牛乳と一緒に持って来るんだ」一瞬、フライパンに油の焦げる音が洩れてドアが閉まった。私は廊下に独りきりになった。廊下のはずれの戸口に射し込む光が自由の世界へ私を手招きしているかのようだった。しかし、逃げおおせる見込みはない。逃げられるとわかっていたら、男が私をこんなふうに独りにするはずはない。私は向きを変え、靴下のまま廊下を進んだ。
洗面所は狭く、小さな窓がイバラの藪《やぶ》に向かって開いていた。かつては整備兵たちが使用していたに違いない洗面所の流しは縁《ふち》が欠け、便座は壊れたままだった。ペンキの剥《は》げ落ちた壁には鉛筆の落書きが薄く残っている。窓枠の釘に、ひび割れた鏡がかかっていた。私は曇った鏡で自分の顔を見た。お世辞にも賞《ほ》められた顔ではなかった。少なくともここ十五年は毎朝見馴れている濃い髯《ひげ》はともかく、紫色に腫れ上がった顎や、額の傷から流れて固まったどす黒い血は、われながら醜悪というほかはなかった。疲労のために両の目は落ちくぼみ、白眼は血走って、異様な光を宿していた。そして何よりも見苦しいのは、額の右側を斜めに横切っている仰々しい絆創膏だった。
「大|馬鹿《ばか》者が!」私は自分を罵《ののし》った。鏡の中の唇の動きがなかったら、まるで赤の他人に声をかけているのと変りがなかった。この顔で逃げ出す気だったと思うと、こみ上げる笑いを禁じ得なかった。
髯を剃《そ》ると、いくらかましになった。ほんのいくらかは、だ。顎の腫れがひどいところは剃り残さないわけには行かず、そのせいで私の顔は妙に歪《ゆが》んで見えた。冷たい水で顔を洗うと、多少、気持ちがすっきりした。しかし、目のふちの黒い隈《くま》と額の絆創膏は、洗い流せるものではなかった。
「飯ができたぞ」
ふり返ると男が戸口を塞《ふさ》いでいた。彼は顎をしゃくって私を先に立て、数歩後からついて来た。「油断がないな」私は言った。声が尖《とが》るのは自分に対する腹立ちのせいで、男に恨みはなかった。
「一番奥の右だ」男は私の言葉に取り合おうともしなかった。
部屋に入ると、前線基地でよく使われた架台に板を渡しただけのテーブルに、二人分の食事が用意されていた。ベーコン・エッグに焼きたてのトーストが湯気を上げ、ポットに紅茶が入っている。「遅くなったが、俺はセイトンだ。ビル・セイトン」
「こっちは……自己紹介の必要もなさそうだな」私は声がふるえるのをどうすることもできなかった。セイトンは戸口を入ったところに根が生えたように立ちはだかって私を見据えていた。見る間にこの男から発散する何かが部屋中に脹《ふく》れ上がり、私を圧倒するかのようだった。
「ああ、君のことはあらかたわかっているつもりだ」彼はゆっくりと言った。「坐れよ」
抑揚に欠けた、感情の乏しい声だった。私は坐りたくなかった。それよりも、靴と財布を返してもらいたかった。こんなところにぐずぐずしてはいられない。そう思いながらも、私は腰を降ろした。じっと私を見つめるセイトンの態度には有無を言わせぬものがあった。「財布を返してもらえないか?」
「そいつは後だ」彼は言い捨てると、窓を背にして私の向いに坐り、紅茶を注《つ》いだ。私は咽喉を鳴らして紅茶を飲み、煙草をつけた。
「卵二つはそっちの注文だぞ」
「腹は空《す》いていないんだ」私は煙草を深々と吸った。昂《たか》ぶった神経が落ち着いた。「連中はいつ来るんだ?」私は尋ねた。もう声は普通だった。
セイトンは眉を寄せた。「誰のことだ?」頬張ったまま彼は問い返した。
「警察だよ」私は気がせいていた。「電話したんだろう、え?」
「いいや、まだだ」セイトンはフォークで私の皿を指した。「まあ、そうしゃちこばるな。とにかく、そいつを食えよ」
私は彼を睨《にら》みつけた。「じゃあ、警察は私がここにいるのをまだ知らないのか?」信じられなかった。官憲の手が伸びている保証もなしに、前夜自分を締め殺そうとした男と悠然と朝食を共にする人間がいるだろうか。と、私は最前車の音がしたことを思い出した。外に出るのは考えものだと言ったセイトンの言葉も耳の底に甦った。「警察は三十分ばかり前にここへ来たな。違うか?」
セイトンは答える代りにサイドテーブルから新聞を取って私に投げてよこした。第一面に大見出しで載っていた。「パレスチナ行きの飛行機立往生――警察またも航空機の違法出国を阻止――キャラハン氏の謎《なぞ》」あのいまわしい出来事の詳細が概要《リード》付きの五段抜きで報道されていた。
私は新聞を脇《わき》へ押しやった。「どうして警察へ突き出さなかった?」顔を伏せたまま私は言った。セイトンの真意は測りかねたが、嵌《は》められたという気持ちは拭《ぬぐ》えなかった。
「その話は後だ」彼はまた返事をはぐらかした。
子供を相手にするような彼の口ぶりが腹に据えかねて、私はかえって気が大きくなった。だいたい、この閉鎖された飛行場に独り住みつき、夜《よる》の夜中にテューダーのエンジンをいじくっているセイトンとは何者だろう? 彼はなぜ、警察に通報しなかったのだろう? 猫が鼠《ねずみ》をなぶるように、彼は私をいいようにあしらっている。こんなことはもうたくさんだ。どの道、逮捕は免れまい。ならば、この場でけりをつけたほうがいい。「警察を呼んでくれよ」私は言った。
「馬鹿なことを言うな。いいから飯を食え。気持ちが落ち着くぞ」
私は腰を上げた。「私は自首する気なんだ」声がふるえた。半ばは腹立ち、半ばは恐怖のせいだった。セイトンには何か秘密がありそうで、それが私は気に入らなかった。わけがわからないから始末が悪い。とにかく私はけりをつけてしまいたかった。
「坐れ!」セイトンは立って私の両肩を押えつけた。「興奮しているな。それだけのことだ」
「興奮なんてしていない」私はセイトンの手を払いのけた。二人の目が合った。意志に反して私は腰を降ろし、テーブルの皿を見つめた。
「ああ、それでいい」
「どうして私を引き止めるんだ? あんた、ここで何をしている?」
「飯が済んだら話をしよう」
「今、聞きたいな」
「飯が先だ」
抗議しかける私を黙殺して、セイトンは新聞を拡げた。私は無力感に襲われて、われ知らずナイフとフォークを手に取った。食べはじめたとたんに、自分がどんなに空腹かわかった。前の日の午後から何も食べていない。私は餓《う》えていた。沈黙がテーブルを覆った。裁判と、避け難い有罪判決のことが頭に浮かんだ。懲役一年か、あるいはもっと長くなるかもしれない。私は逮捕に抵抗し、警官を殴って車を盗んでいるのだ。シュタラグルフト第一捕虜収容所で暮した一年半の記憶が打ち寄せる波のように私の意識を満たした。二度と囚《とら》われの身にはなりたくない。逮捕を免れるものなら、どんなことでもする、と私はその時そう思った。私はそっとセイトンの顔を窺《うかが》った。逆光で彼の表情は読めなかった。彼は新聞の上に覆いかぶさるようにしていた。テーブルを隔てて泰然と構えているその姿を見て、私は一瞬、この男に運を託《たく》す気になった。空腹がおさまるにつれて徐々に希望が湧《わ》いて来た。
「腹ごしらえが済んだら格納庫へ行くぞ」彼は新聞をめくって煙草をつけた。顔を上げようとはしなかった。
私は急いで食べ終えると、すぐに腰を上げた。
「上着を着ろよ」彼は言った。「靴を持って来てやる」
十一月にしては穏やかな陽気だったが、森には朽葉の匂《にお》いが漂い、深まる秋の気配が感じられた。黄葉にナギの赤い実が映じ、バラの繁みは枯れたツルクサに覆われている。かつては花壇があったところであろう。今は荒れるにまかしている。
花壇を抜けて森陰の道に入った。空気はひんやりと湿って、若いシラカバの幹に木洩れ日が躍っていた。木々はじきに疎《まば》らになって、私たちは飛行場のはずれに出た。深い群青色の空にちぎれ雲が点々と浮いていた。地上の標識の剥げた石灰にまぶしく日が当たり、飛行場の向こうに拡がる丘の裾《すそ》は茶色く枯れた草地だった。飛行場は閉鎖されてすでに久しい。滑走路はひび割れて雑草がはびこり、森陰に点在する建物はどれも荒れ果てて崩れかけていた。そして、フィールド自体が今は一面の畑に変えられている。五十ヤードほど左手の格納庫だけが命脈を保っていると見受けられた。
「ここは何という飛行場かね?」私は尋ねた。
「メンベリー」
「こんなところに独りっきりで、何をしているんだ?」
セイトンはそれには答えず、黙って先を急いだ。格納庫の角を回って正面のドアの前に出た。セイトンは鍵束を取り出して、前夜私が押し開けたあの潜り戸の錠前をはずした。湿ったコンクリートから立ち昇る黴《かび》臭い匂いは昨夜と同じだった。昼間見ると、テューダーのエンジンは内側の二基がはずされていた。エンジンのない飛行機は歯の抜けた口で笑っているような印象を与えた。セイトンは潜り戸をぴったり閉じて奥の作業台に向かった。
「そこへ坐ってくれ」彼は私に丸椅子を勧め、自分もかたわらの椅子を足で引き寄せて、差し向かいに腰を降ろした。「さあて、と……」彼はポケットから私の財布を取り出し、油で黒く汚れた作業台に中身をぶちまけた。「君はニール・レイデン・フレイザー。パイロットだ。そうだな?」
私はうなずいた。
彼は私のパスポートを取り上げた。「一九一五年、スターリング生まれ。身長五フィート十一インチ。目の色は茶色。髪も茶と。今のその顔にくらべると、この写真はめっぽう男前だな」彼はページを繰った。「何度も大陸との間を往き来している……」彼はじっと私の顔を覗き込んだ。「飛行機を、ずいぶん他所《よそ》へ運んでいるのか?」
私は何と答えたものかと迷ったが、ここで嘘《うそ》をついてもはじまらない。
「三機ばかりね」
「なるほど」彼は私から目をはなそうとしなかった。「時に、何でまたこういう危い仕事に足を突っ込んだ?」
「どういうつもりか知らないが」私はかっとした。「尋問したかったら警察へ突き出したらいいだろう。それをしないというのは何か理由があるな? だったら、その理由を聞こう。話したくないのか?」
「いいや、そんなことはない。どうせこっちから話すつもりだ。が、その前に、今の俺の質問に答えてもらいたい。警察へ突き出すかどうかはその答え次第だ」彼は乗り出して私の膝を叩いた。「あらいざらい俺に話したほうがいいぞ。君のいかがわしい仕事仲間を別とすれば、君がキャラハンを名乗っているパイロットだということを知っているのは俺だけだ。図星だろう」
言うべきことは何もなかった。私は黙ってうなずいた。
「ようし。君を突き出すか、知らぬ顔で通すかは俺の胸一つだ。つまり、俺は判事の立場だ。そこで、もう一度|訊《き》くが、どうして君は法律に触れる商売にのめり込んだ?」
私は肩をすくめた。「誰がはじめから違法を承知で危い橋を渡るものか。非合法とは知らなかったんだ。事実、はじめはやましいことはなかった。ある商事会社の社長に頼まれて、飛行機を操縦しただけだからね。西ヨーロッパから地中海を股にかけて商売しているユダヤ人だ。それが縁で、飛行機を運んでくれと言われるようになったんだ。売買契約の決まった飛行機だよ。ところが、相手国の対英感情があまり良くないというんで、イギリス人とひと目でわかるような名前は使わないほうがいいと言われた。で、パリへ行ったらキャラハン名義の書類を渡されたんだ」
「運んだのはフランスの飛行機か?」
「ああ。収めた先はハイファだよ」
「それはいいとして、そもそも、どうして君はそういう連中とかかわりになったんだ?」
「どうしてもこうしてもないさ」私は不機嫌に言った。「戦後の事情はわかっているだろう。何百人というパイロットが仕事にあぶれていたんだ。これでも終戦の時は飛行隊長だよ。戦争が終って、以前勤めていたクライドの造船所へ顔を出してみたところが、二ポンド給料を上げて、週給六ポンド十シリングで雇ってやろうという話さ。あんまり馬鹿にするなと言って、これはこっちからお断りしたよ。その後ぶらぶらしているうちに金もなくなって、食い詰めているところへ、今の仕事の口がかかったんだ。これには飛びついた。誰だって飛びつくはずだろう。パイロットが一年も飛ばずにいれば、どうしたってそうなるさ」
セイトンはゆっくりうなずいた。「まあ、おおかたそんなところだろうと察しはついていたよ。女房はいるのか?」
「いや」
「結婚話は?」
「それもない」
「ニール・フレイザーがいなくなったらあちこち捜して回るような家族や親類はいるか?」
「まず、いないだろうな」私は言った。「母は亡くなっているし、父は再婚して、すっかり疎遠になっている。どうしてそんなことを訊くんだ?」
「友だちはどうだ?」
「去る者は日々に疎《うと》しだよ。いったい何の話だ、これは?」
セイトンは作業台に向き直り、思案げに私の財布の中身を眺めやっていたが、やがて色|褪《あ》せて角の折れた一枚の写真を取り上げた。「俺はこれに興味があるんだ」彼は期すところある口ぶりで言った。「というより、これを見たからこそ、昨夜《ゆうべ》は警察に連絡しなかったし、今朝もやつらが来た時には何も知らないふりで押し通したんだ。ここに一緒に写ってるのは、空軍婦人補助部隊の女兵士だな。裏に、≪一九四〇年九月、空襲の後、古巣《オールド・ホーム》の前でジューンと≫、としてある」セイトンは昨夜来はじめて、その目に笑いを浮かべて私を見た。「二人とも、げっそりしているな」
「ああ。命拾いでね。屋根がもろに崩れ落ちたんだ。まさに九死に一生だよ」
「そうらしいな。俺が興味を持ったのは、この崩れた建物だ。君が古巣と書いている、こいつは見たところ、整備格納庫だな。違うか?」
「そのとおり。ケンリー飛行場だよ。昼間の低空爆撃で、形を留《とど》めないほど徹底的にやられたんだ。それが、何か?」
「一九四〇年に整備格納庫が古巣だったとすれば、君は飛行機のエンジンや機械工学に関して、そこいらの素人とはわけが違うはずだな?」
私は黙っていた。セイトンはしびれを切らせて畳《たた》みかけて来た。「どうなんだ? エンジンのことはわかるのか、わからないのか?」
「わかるよ」私は言った。
「経験があるのか? それとも、理論を知っているだけか? 設計明細と工具があったら、君はエンジンを組み立てられるか?」
「何が言いたいんだ?」私は首をかしげた。「私に何を……」
「訊かれたことに答えろ。旋盤は扱えるのか? 切削や研磨、穴開け、ネジ切り、といった仕事がやれるのか?」
「ああ」私はうなずいてから一言つけ足した。「ジェット・エンジンのことはわからないがね。ピストン・エンジンなら、どの型でもひととおりのことは心得ている」
「ほう。しかも、君はパイロットだな?」
「ああ」
「いつパイロットになった?」
「一九四五年。ドイツから脱出した後だ」
「パイロットになった動機は?」
「さあね。変化を求めたとでもいったところかな。一九四四年に航空機関士として爆撃機に乗り組むようになって、操縦訓練をはじめてね。撃墜されて捕虜になったけれども、一九四五年に入ってすぐ、収容所から脱走したんだ。ドイツ軍の飛行機をくすねて、イギリスの飛行場に不時着する程度のことはそれまでに身につけていたよ。その後、じきに資格を取った」
セイトンは上の空で小さくうなずき、椅子の上で体をよじって、テューダーの底光りする胴体を見つめた。高い窓から射し込む陽光を受けて、彼の目は何やら異様な輝きを宿しているかのようだった。私に向き直って、彼は言った。「君は当分、身動きが取れない。そうだな?」弱味を衝《つ》くというよりは、ただありのままの事実を指摘するにすぎない口ぶりだった。「そこで、俺から一つ話がある。そこのエンジンを見ろ」私はふり返った。壁ぎわに寄せて、角材の上にエンジンが一基据えてあった。「こいつは完成品だ。すっかり出来上がっている。あらかたこの格納庫で、手作業でこしらえたんだ。あとは取り付けだけだ。ところが、この図体を空へ持ち上げるには、もう一基エンジンがいる」彼はテューダーのほうへ顎《あご》をしゃくった。「一月二十五日にはベルリン空輸に一役買うことになっているんだ。燃料輸送だよ。機体にはすでにタンクを据え付けてある。そっちの準備はできているんだ。問題はもう一基のエンジンだ。仕事にかかっちゃあいるがね、もうあまり時間がない。はじめの一基に半年かかっているんだ。そこへ持って来て、ずっと一緒にやって来たカーターのやつが臍《へそ》を曲げやがってな。俺はパイロットで、機械のことはわからん。ここでカーターに降りられたらお手上げだ。ところが、やつは本気で降りることを考えているらしい。となると、こっちは仕事ができる人間を捜さなくちゃならない」彼は目を細めて私の顔を見つめた。「というわけで、どうだ? 君はいざとなったら独りであれと同じエンジンをこしらえられるか?」
「それはどうかな」私は口ごもった。「物を見ていないし、工具はどのくらい揃《そろ》っているのかな?」私はひとわたり作業台に目を這わせた。旋盤。ネジ切りタップ。金型。治具。熔接《ようせつ》機。
「まあ、やってやれないことはないだろうな」
「ようし」セイトンは、話は決まりとばかり、立ち上がって完成したエンジンのそばへ寄った。しばらくエンジンを眺めた後、彼は何か久しく気持ちの負担になっていたものをふり切るように肩を揺すって私に向き直った。「手当ては出せないが、寝る場所と食事はこっちで引き受ける。ビール、煙草、そのほか、必要最小限のことは俺が面倒を見よう。エンジンが完成するまでだ。その後は……それはまあ、その時になってからの話だ。万事うまく行って、そっちがその気なら、仕事はいくらでもあるぞ」
「私が話に乗るものと、頭から決めてかかった言い方だな」
「あたり前だろうが」彼は肩をそびやかした。「ほかに道があるのか、君は?」
「ちょっと待ってくれ……あんた、何を企《たくら》んでいるんだ? こっちはただでさえ臑《すね》に傷があるんだ。この上……」
「俺は悪いことはしていない」彼はいきり立った。「これは俺がやってる会社だ。セイトン航空機と、ちゃんと、れっきとした名前もある。俺はこの飛行場を航空省から借りているんだ。やましいことは何もない」
「だったら、何だってこんな辺鄙《へんぴ》な土地を選んだんだ? それに、昨夜の様子を見ると、あんた、何かに怯《おび》えてるね。私に向かってドイツ語で怒鳴った。どうしてドイツ語を使うんだ? ここにいた女も気になるな」
セイトンは私のほうへすり寄って来た。顎を突き出し、太い頸のあたりには縄を捩《ねじ》ったように筋肉が盛り上がっていた。「悪いことは言わない、フレイザー。黙って俺の言うとおりにしろ。何も訊くな」堅く食いしばった歯の間から押し出すように彼は言った。
私は腰を上げて言った。「この飛行機は、まさかどこかから盗んで来たんじゃないだろうな」腹が立つなら立てればいい。私はこれ以上、泥沼にはまりたくはなかった。
殴られる、と一瞬、私は覚悟した。が、セイトンは脇を向いて低く笑った。「冗談じゃねえ。誰がこんなものを盗んで来るものか」彼は激しく私に向き直った。「エンジンだってそうだ。工具も、機械もだ。三年間、俺はこの格納庫で頑張って来たんだ。三年間……汗水垂らして、知恵を絞って、俺はやって来た。馬鹿者どもを見返してやろうと……」彼はふっと言葉を切り、傍目《はため》にもそれとわかる努力で声を抑えながら、あらためて私に語りかけた。「君は何も気にすることはないんだ、フレイザー。法律に触れるようなことは、俺は何一つしていない。飛行機が飛びさえすれば……」
外で激しく戸を叩く音がした。セイトンは外の気配をうかがいながら、声を落とした。「警察かもしれないぞ。さあ、どうする? エンジンを完成するか? それとも、突き出すか? ここで二、三日じっとしていれば、ほとぼりは冷めるぞ」
戸を叩く音と私の鼓動は一つに重なった。いったんは忘れかけた逮捕の恐怖は、今や眼前に迫る現実だった。私は前途に見出した微かな光明から、もはや目をそらすことができなかった。
「やるよ」私は言った。
セイトンははじめからわかりきっていたような顔でうなずいた。「飛行機の中に隠れろ。後部の便所がいい。そこまでは覗かないだろうからな」
私は言われるままに飛行機にもぐり込んだ。仄《ほの》暗い胴体の前部に、円筒型の大きな燃料タンクが三基据え付けられているのが見えた。ドアの開く音に続いて人声が聞こえた。ドアはすぐに締まった。セイトンが外に出たのかと思ったが、コンクリートに鳴る足音が作業台のほうへ移動して行った。低く圧し殺した、せっつくような男の声が聞こえた。セイトンがそれを遮《さえぎ》った。「わかったよ。どうしても降りると言うんなら、好きなようにしろ。とにかく、事務所で話そう。ここじゃあまずい」怒気を孕《はら》んで尖った声だった。
「そうじゃないって、ビル。落着けよ。俺は何も、降りるとは言ってない。ただ、このままじゃあ二進《にっち》も三進《さっち》も行かないじゃないか。それは君だってわかっているはずだろう」
二人は胴体のすぐ近くで足を止めていた。相手の男はまるで息切れでもしているようだった。嘆願に近い口ぶりで、微かにロンドンの下町の、いわゆるコックニー訛《なま》りが混じっていた。
「だから、言ってるだろう。もう、金がないんだ。逆さにふっても鼻血も出ない」
「そんなことはお互いさまだ」セイトンは吐き捨てるように言った。「でもな、俺は泣きごとは言わないぞ。あと三月すりゃあ……」
「今までもう、二年もかかっているんだ」相手の男は穏やかに口を挟んだ。
「それを忘れる俺だと思うか?」セイトンも声を和らげた。「なあ、タビー。三か月経てば俺たちは世の中恐いものなしだ。そこを考えろよ。あとほんの三月の辛抱だ。せっかくここまで一緒にやって来て、その三月が辛抱できないっていうのか?」
男はふんと鼻を鳴らした。「何ていったって、君は独り身だからな。そうだろう」
「女房がいい顔をしないんで弱気になったか。そうなんだな、え? そういうこととは知らなかったよ。でもな、俺がこの飛行機を飛ばすのを、お前の女房に邪魔されて……」セイトンは腹立ちまぎれに声を張り上げかけて、ふっと言葉を切った。「とにかく、事務所へ行こう。ここで言い合っていたってしようがない」
「いいや」男は頑《かたく》なに言った。「言うだけのことは、ここで言わせてもらう」
「なあ、事務所へ行こう」セイトンはなだめにかかった。「お茶でも飲みながら、ゆっくり話そう」
「いや」男は相変らず頑固に言い張った。「今、ここで話をつけよう。何の関係もないことで君がダイアナを責めたりしたら……」
「ダイアナ?」セイトンはかすれた声を撥《は》ね上げた。「まさか、連れて来たんじゃあ……」
「事務所にいるよ」男は押し出すように言った。
「事務所に? 気は確かか? ここは女の来るとこじゃない。女ってやつは黙ってることができないんだ」
「ダイアナは口が堅い。それに、ほかに行くところがないんだ」
「ロンドンの友だちと一緒にアパートを借りてるって話じゃあなかったのか?」
「じれったいな、まったく」男は叫んだ。「俺の言ってることがわからないのか? こっちはもう、すっからかんなんだ。預金だって二十ポンド借り越しになっている。銀行からその分を三か月以内に返済しろと言われているんだ」
「女房はどうした? 仕事をしてるんじゃないのか?」
「もう厭《いや》になって、仕事は辞めたよ」
「女房が仕事に飽きが来たからって、お前はこれまでやって来たことを投げ出すのか。それだから女ってやつは始末が悪いんだ。お互い、辛いところを頑張ってるんじゃないか。一緒に耐えるのが女房ってものだろう。ダイアナはそれくらいのこともわからないのか」
「ダイアナのことを悪く言うのは止《よ》してくれ」男はきっとなって言った。「ダイアナを責めるのは筋が違う。俺に言わせれば、ここまでよく我慢してくれたよ。でも、もう駄目なんだ。こうなった以上、俺が仕事を捜して人並みの暮しができるだけのものを稼《かせ》ぐか、さもなければ……」
「なるほど」
「なるほどって、君は何もわかってやしないじゃないか」男の声は抑えかねる怒りにふるえていた。「君はエンジンのことしか頭にないんだ。飛行機のことばかり考えて、君はまるで人間の感情というものを忘れているんだ。でもな、俺は違う。俺には女房がいる。俺はちゃんとした家庭を持ちたいんだ。君のエンジンのおかげで結婚生活を破壊されるのはご免だよ」
「誰がエンジンを抱いて寝ろと言った、え?」セイトンは厭味に言った。「いいだろう。わかったよ。お前は女房といちゃいちゃするのに忙しくて、手を伸ばせば掴める将来のことを考える閑《ひま》もない……」
「今の一言は取り消したほうがよくはないか?」男は陰《いん》にこもって言った。
「そうかい、そうかい」セイトンはいきり立った。「わかったよ。じゃあ、失言は取り消しだ。それよりも、なあ、タビー。頭を冷やして、自分が何をしようとしているか、よく考えてみろ」
私はこのあたりが顔を出す潮時と踏んで便所のドアを乱暴に開け、胴体の鉄の床を鳴らして昇降口へ向かった。二人は声もなく私を見上げていた。セイトンと言い争っていた相手は、草臥《くたび》れたフラノのグレイのズボンに革のパッチのスポーツ・ジャケットを着た太り肉《じし》の小男だった。蓬髪《ほうはつ》の下の艶《つや》やかな赤ら顔は、セイトンの苦味走ったいかつい顔と対照的だった。私と同年配と思われたが、いかにも人の好さそうな童顔である。目の縁の厚い脂肪に刻まれた皺《しわ》のせいで、今にも笑いだしそうな表情に見えた。
「誰だ?」男はセイトンをふり返った。
「ニール・フレイザー。エンジニアだ。もう一基のエンジンを手伝ってもらうことになった」
「俺の後釜《あとがま》というわけか」男は呑《の》み込んだ顔で言った。「俺が辞めることは、とっくに計算済みだったんだな」
「馬鹿なことを言うな。お前がそんなつもりでいたというのは今日が初耳だ。ただ、もう時間がないからな。人手が増えれば……」
「給料はいくら払うんだ?」
「いい加減にしろ」セイトンは一喝した。「寝る場所と食事だけだ」彼は私に向き直った。「フレイザー。こいつがタビー・カーター。さっき見せたエンジンを完成した男だ。便所のドアはもう直ったか?」
「ああ」私は言った。「修理は終った」私は飛行機から降りてカーターと握手した。
「フレイザーとは長い付き合いでな」セイトンが横合いから言った。
カーターは茶色のボタンを思わせる小さな目で、怪訝《けげん》そうにまじまじと私の顔を見つめた。「喧嘩《けんか》でもして来たような顔だな」
私は答えに窮した。カーターは私の顔に視線を据えたまま、瞬《まじろ》ぎもしなかった。セイトンが助け船を出してくれた。
「ナイトクラブで絡《から》まれたんだそうだ」
しかし、カーターはなおも私から目をはなそうとしなかった。「ニール・フレイザー……」その名に聞き覚えがありそうな様子に、私は暗澹《あんたん》としないわけには行かなかった。警察はキャラハンの正体を突き止めて、すでにそのことが世間に知れているのではあるまいか。考えられないことではない。私はセイトンが取っている新聞一紙しか読んではいないのだ。
「ひょっとすると、君はパイロットじゃないか?」
私はうなずいた。
「ニール・フレイザー!」カーターは急に顔を輝かせて指を鳴らした。「一〇一爆撃大隊。捕虜収容所から地下道を掘って脱走して、メッサーシュミットを乗っ取ってイギリスへ飛んで帰った猛者《もさ》だっけな。前に一度会ったことがあるよ。憶《おぼ》えていないか? ミルドンホールで」彼はセイトンをふり返った。「どうかね、俺の記憶力は、え? 一度会った顔は絶対に忘れないんだ」彼は愉快そうに声を立てて笑った。
セイトンは新たに強く関心をそそられた目つきで私を見やってから、カーターに言った。「お前はここでフレイザーと昔話でもしていろ。俺は、ちょっとダイアナに話がある」
「いや、それは止してくれ、ビル」カーターは行きかけるセイトンの腕をつかんで引き止めた。「これは君と俺と、二人だけの問題だ。ダイアナは巻き込まないでくれ」
セイトンは打って変わって穏やかな声で言った。「心配するな、タビー。お前の女房を怒らせるようなことは言わない。約束するよ。でもな、お前が妙なところへのめり込む前に、ダイアナには事実を知らせてやる必要があるんだ。土曜日にお前が出て行った後、情況は変ったからな。フレイザーに手伝ってもらえば、今からだって空輸の日程にじゅうぶん間に合う」
「あれ一基に半年かかったんだぞ」カーターは完成したエンジンのほうへ顎《あご》をしゃくった。
「テストも含めての話だろうが」セイトンは言い返した。「途中で厄介な問題にもぶつかったしな。今は全部解決している。そうだろう。ダイアナだって、あと二か月待てないなんてわからないことは言わないはずだぜ。金の心配は俺にまかせておけ。素手で首を締めあげてでも、ディックのやつから絞り取ってやる。あの男も、あれでもう少し……」彼は言葉を噛《か》み切るかのように、ふいに口を閉ざした。「お前はここにいろ。ダイアナとは俺が話をつける。ダイアナだって馬鹿じゃない。将来の見通しが立つとなれば、女は誰だって知恵が働くものだ。材料は全部揃っているんだからな。あとはこいつを完成するだけのことだ」セイトンは飛行機を見上げた。「飛行機さえ仕上がればこっちのものだ」彼はまるで意志の力で飛行機を宙に浮かべようとするかのように、しばらくテューダーを見つめていたが、やがて、心を残す体《てい》にカーターをふり返った。「お前たち夫婦は前に事務所にしていた表《おもて》の部屋で寝起きすりゃあいい。まあ見ていろ。きっとうまく行く。ダイアナには料理を引き受けてもらおう。そうすれば、ダイアナも忙しくて気が紛《まぎ》れるし、こっちはその分仕事にかかりきれるというものだ」
「それは駄目だって。女房はもう、意志を決めているから」カーターは投げやりに言った。
セイトンは笑った。皮肉を帯びた刺《とげ》のある笑い方だった。「女が自分で意志を決めるなんてことがあるものか。女ってやつは人に意志を決めてもらうようにできているんだ。だから人間は滅びないで済んでいるんじゃないか」
カーターは格納庫を出て行くセイトンを黙って見送り、作業台の端の電話の脇から作業服を取り上げた。袖《そで》を通しながら、彼は不思議そうな目つきで私のほうを盗み見た。
「そうかい。君はエンジニアか」
胸のジッパーを上げて、彼は片隅の小型ガソリン・エンジンを始動させた。「今、ピストンの切削にかかっているところなんだ」
カーターは分厚いフォルダーを持ち出して作業台に拡げた。鉛筆描きの精密な図面だった。「ほら、これが設計明細だ。旋盤はいじれるんだな?」
私はうなずいた。彼は私を旋盤のところへ案内した。空軍払い下げの旋盤で、ケンリーの整備格納庫で使っていたものと同じ型だった。はずみ車が回っていた。カーターは器用にベルトを掛け、同時になかば切削の進んだ部材を取り上げた。「ようし。この先は君にやってもらおう。ピストンの明細は、径五インチ、長さ七インチ。リング・チャンネルは三本。うち二本はオイル掻きリング用だ。リストピン・スリーブの孔《あな》は径四分の三インチ。くれぐれも言っておくけどな、材料を無駄にしないように。もうわかっているだろうがね、なにしろ、ここは乏しいんだから」
最後に旋盤を使ってから、かなり時間が経っている。もっとも、旋盤の扱いは一度覚えたら忘れないものだ。カーターが背後から手もとを覗くので、私はいささか緊張したが、鉄の切り屑《くず》が散りはじめると自信を取り戻した。過去二十四時間の出来事は意識の外に遠ざかり、私は一個の金属塊を機械部品に変える仕事に集中した。カーターがそばにいることも気にならなくなった。頭と手先は連動して、じきに勘《かん》が甦った。ピストンが徐々に形を現わすにつれて、私は忘れていた職人の誇りを味わった。
一息ついてふり返ると、カーターは図面の上にかがみ込んでいたが、その目は図面を睨んでいず、彼はただ漫然と手にしたボルトとナットを嵌《は》めたりはずしたりしているだけだった。個人的な悩みを抱えて心ここにあらずといったありさまなのだ。顔を上げて私と目が合うと、彼はボルトを放り出してそばへ寄って来た。
私は再び仕事にかかった。しばらく私のすることを眺めてから、カーターは言った。「セイトンとは、いつ頃《ごろ》からの知り合いかね?」
何と答えてよいかわからず、私は黙っていた。
「セイトンは沿岸防備隊のパイロットだぞ」
私の手の下から銀色の細い切り屑が螺旋《らせん》を描いて流れ出た。
「以前からの知り合いだとは信じられないな」
私は旋盤を止めた。「こいつをオシャカにさせたいのか?」
カーターは切り屑を指先でもてあそんだ。「いや、ちょっと気になって……」彼はふと思い直した様子で鉾先《ほこさき》を転じた。「セイトンという男を君はどう思う?」今や彼はまっすぐに私の目を見つめていた。「もちろん、あの男はまともじゃない。でも、何か大きなことをやろうという人間は、だいたいにおいてまともじゃあないからね」
カーターはセイトンを尊敬している。英雄に憧《あこが》れる少年のような口ぶりからもそれは明らかだった。
「セイトンはね、自前の飛行機さえあれば、国中のチャーター会社を相手に競争して勝てると思っているんだ」
「どうせ、どこの運送会社も破産寸前だろう」私は言った。
カーターはうなずいた。「二年間、一緒にやって来たよ。こう見えても、共同経営者なんだ。前は単発機一機でやっていたんだがね、そいつが墜落して……」彼はまた切り屑を指の間で転がした。「セイトンは恐ろしいやり手だよ。あの精力には舌を巻くね。なにしろ、自分が思いつめたら、必ず人もその気にさせてしまうんだ。一緒にいると、いつの間にかこっちはセイトンの思いどおりのことを信じさせられているんだよ。さっき、ドアの修理をしながら、俺たちの話を聞いたろう?」
「一部始終というわけではないがね」私は当たり障《さわ》りのない答え方をした。
カーターはこだわるふうもなくうなずいた。「女房は気の強い女でね。アメリカ人なんだ。セイトンはもう三か月辛抱するように女房を説得できると思うか?」彼はもう一つのピストンになるはずの材料を手に取った。「そりゃあ、確かにセイトンの言うとおりだよ。三人でやれば、二か月でもう一基のエンジンは完成するだろうな」彼は溜息《ためいき》をついた。「ここまで来たからには、俺だって最後まで見届けたいよ。この格納庫だって、自分の体の一部みたいな気がしてるくらいだからな」彼はゆっくりとテューダーの尾翼に目を這わせた。「俺はこいつが飛ぶところを見たいよ」
嘴《くちばし》をはさむ立場でもなく、私は再び旋盤を回した。カーターは作業台に向かって、インダクション・コイルの細工に取りかかった。
三十分ほどして、セイトンが戻って来た。彼は私の背後から、ピストンヘッドをスクリュウ・マイクロメーターで測る私の手もとを覗き込んだ。カーターがそばへ寄って来た。
「どうだった?」彼は恐るおそる尋ねた。
「ああ。話はついた」セイトンはこともなげに言ったが、その蒼《あお》ざめた顔から、話合いはかなり難航したらしいことが察せられた。「食事はこっちへ運んでくれる」
カーターは一瞬信じられない顔をしたが、すぐに頬をほころばせ、持ち前の人の好《よ》さそうな表情を見せた。「へえ、こいつは驚いた」彼は口笛を吹きながら作業台に戻って、インダクション・コイルの細工を続けた。
「旋盤加工はお手のものだな」セイトンは私に向かって言い、それから、いきなり声を張り上げた。「野郎! 見ていやがれ。二か月で飛行機は完成だ!」
電話が鳴った。
セイトンはぎくりとした。その顔から見るまに血の気が退《ひ》いた。いずれはかかって来る電話と予期していたかのようだった。彼は大儀そうに作業台に足を運んで受話器を取った。背中を丸めて受け答えするうちに、次第にセイトンの表情は険しくなった。「俺を裏切る気か? 冗談じゃないぞ、ディック……もちろん、それはわかってる……いや、ちょっと待て。とにかく、こっちの言うことを聞けって。人を一人増やしたんだ。二か月待ってくれ。それ以上とは言わない……じゃあ、六週間でいい……いや、それは何とも請け合えないさ。でも、もうちょっとの辛抱じゃないか。二か月すれば飛行機は使えるようになるんだ……なあ、二か月は持ち堪《こた》えられるだろう?……そうか、そっちがそういう気なら、わかった。その前に、とにかく一度話し合おう……ああ、こういうことは、じっくり話すことが肝腎《かんじん》なんだ……それじゃあ、明日な。待っている」
彼はのろのろと受話器を置いた。
「ディックか?」カーターが尋ねた。
セイトンはうなずいた。「ああ。飛行機とここにある工作機械を人手に渡す気だ。俺たちを見捨てるつもりなんだ」彼は丸椅子をつかむなり、格納庫の奥へ投げ飛ばした。「糞《くそ》っ垂れが! 運が向いて来たのがわからないのか?」
カーターは口を開こうとしなかった。私は旋盤に向き直った。セイトンは設計明細の分厚いフォルダーに手を伸ばした。今にも図面を引き裂きかねない様子で、その顔はどす黒い憤怒に歪《ゆが》んでいた。一呼吸あって、彼はフォルダーを投げ出し、壁ぎわの角材の上に据えたエンジンの前に立った。セイトンがスイッチを押すと、エンジンは轟音《ごうおん》を発して始動した。耳を聾《ろう》する爆音は、旋盤の音を圧して格納庫を揺るがせた。セイトンは愛撫《あいぶ》するかのような目つきでエンジンに見入っていた。彼の世界はその圧倒的な響きの中に閉じこめられているのであった。
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第二章
旋盤に向かって時間の流れに身をまかせているうちに、徐々に私の中で嘘《うそ》のような幸運に恵まれたという意識が目覚めた。私は新たな機会を与えられたと同じだった。ここにいるかぎり、罪に問われることはない。セイトンの言葉だけでは心もとなかったが、タビー・カーターの登場で、とにもかくにも彼らが会社組織で仕事をしていることがはっきりした。カーターは嘘のつけない男だ。彼と二人きりで作業をしているうちに、何もかもがごく当たり前のことのように思えて来た。
セイトンとなると話は別だった。彼を信用しなかったわけではない。それどころか、彼の強靭《きょうじん》な神経と旺盛《おうせい》な闘争心に私は気圧《けお》されるほどだった。ケルト人の豪放|磊落《らいらく》な感性とサクソン人の馬車馬のような押しの強さが一つになって、セイトンは挫《くじ》けることを知らぬ男と見受けられた。生来親分肌で、その身に備わった馬力が人にやる気を起こさせる。鈍な大衆を熱狂に駆りたてる術《すべ》を心得ている男だ。みずから恃《たの》むところのある彼は、人の助けを必要としない。自分だけが頼りなのだ。エンジンの唸《うな》りを止めて作業台に向かい、スターター・モーターのコイルを巻きはじめた彼の姿を見て、私はつくづくそんなふうに思った。生活の土台が今や足の下から崩れ去ろうとしている。相棒は彼を見捨てようとしているのだ。しかし、セイトンは弱音を吐かなかった。彼は苦しみや怒りを力に換えて、黙々と仕事に打ち込んでいる。脳裡《のうり》には、ただ完成した飛行機の威容だけが浮かんでいるに違いなかった。
そばで作業をしている私たち二人にも、セイトンの執念が乗り移ったようだった。自分の手の中で複雑な機械の部品が少しずつ形を成して行く陶酔に浸って、私は時間の経《た》つのも忘れていた。カーターの妻が昼食を運んで来たことさえ知らなかった。セイトンが紅茶とサンドイッチをそばの作業台に置いてくれた。私は食べながら仕事を続けた。それはセイトンとカーターも同じだった。
四時過ぎに、発電機を回して明りをつけたところで、ちょっとした出来事があった。ドアを叩《たた》く音がして、セイトンが大声で相手を訊《き》くと、男の声が答えた。「警察の者ですが」
私は飛び上がった。心臓が口からこぼれ出るかと思われた。何もかも忘れて仕事に没頭していただけに、捜査の手が伸びていると知った衝撃は激しかった。
セイトンは熔接《ようせつ》用のマスクを投げて寄越した。「そいつをかぶれ」鋭い声で彼は言った。「酸素ボンベはそっちの隅だ」
カーターが怪訝《けげん》な顔で私を見ていたが、そんなことにかまってはいられない。私はマスクをつけて酸素ボンベのほうへ走った。
セイトンが警部と部長刑事を案内して来た時には、私はバーナーでありあわせの屑鉄《くずてつ》を焼き切っているところだった。
「ほんの形だけですから」警部は私たちに身分証明書の提示を求め、ざっと目を通しながら、もっぱらセイトン一人を相手に話した。「捜査を打ち切る前に、念のためメンベリー付近をひと回りしておこうと思いましてね。いや、犯人はもうこのあたりにはおらんでしょう。おそらく、自家用機を手に入れて、国外に逃亡したものと思われます。そうは言っても、万一のことがありますから、こうして見回っているわけです。閉鎖された飛行場というのは、犯人が身を潜《ひそ》めるには持って来いの場所ですからな」警部は見終った証明書をセイトンに返した。「お宅の飛行機は盗まれる心配はありませんよ。エンジンが二基はずれていたんじゃあ、飛ぼうにも飛べませんからな。そうでしょう」
「ええ」セイトンはうなずいた。警部は自分の軽口に気を好《よ》くして笑ったが、セイトンは眉《まゆ》一つ動かしもしなかった。
刑事たちが引き揚げると、私はマスクをはずして旋盤に戻った。最後の障害を乗り越えた気持ちだった。もう安心だ。メンベリーにいるかぎり、これ以上追われることはない。
それから日暮れまで、カーターが時おり作業台の向こうから私の顔をうかがっているのを意識せずにはいられなかった。八時には仕事を切り上げた。私は草臥《くたび》れきっていた。緊張が解けた反動で、いくらか気持ちが滅入っていたのかもしれない。しかし、セイトンは私の肩を叩いて言った。「君ほどの技術屋は、捜して見つかるってものじゃあないな」その一言で私は疲れを忘れた。「しかし、残念だな」セイトンは首をふった。
「何が残念なんだ?」カーターが尋ねた。
「ディック・ランドールのやつが、技術のことはまるでわからないからさ」セイトンは言った。「俺《おれ》たち三人が、飯もそこそこに今日一日でどれだけ仕事をしたか、それがわかれば、必ずうまく行くってことも納得できるはずなんだ」
格納庫を出ると身を切るような北風だった。額の傷は骨をやられているのではないかと思うほど激しく痛んだ。宿舎にはチキンを焼くにおいがあふれていた。私たちは顔と手を洗って食堂に入った。テーブルには布が掛けられていた。間に合わせの古いカーテンだったが、それだけでも室内の空気が和らいだように感じられた。四人分の食事がととのっていた。セイトンは食器棚からウイスキーの瓶とグラスを取り出した。
「すっからかんじゃなかったのか?」カーターが言った。
「銭に見放されたやつほど贅沢《ぜいたく》をするものだ」セイトンは笑い声を上げたが、目は笑っていなかった。「ランドールのやつは明日にも会社を潰《つぶ》す気だからな。酒なんぞ取っといたってしようがねえや」
コンクリートの床にハイヒールの音がすると、セイトンはすかさず部屋を横切ってドアを開けた。
ダイアナ・カーターは夫からでは想像もつかない、線の太い女だった。私は少々|面喰《めんくら》った。戦争の落とし子であるダイアナは生活体験に鍛えられた、したたかな女と見受けられる。官能的な厚い唇とヘンナで染めた髪は、平凡な世話女房の雰囲気にはほど遠かった。彼女は赤いプリーツ・スカートと赤茶の髪を翻して、ついと部屋に入った。セーターは目の色と同じ緑。その身ごなしにはおよそ慎《つつ》ましやかなところがなかった。彼女はまっすぐにセイトンに向けた視線をテーブルの瓶に移した。
「ああら、何のお祝いかしら、ビル?」微《かす》かにアメリカ訛《なま》りの混じった、深いアルトの声だった。
「会社が潰れたお祝いだ」セイトンは答えて彼女にグラスを渡した。「ランドールのやつが、明日会社をたたむって言うんだ。君はタビーとどこへなりと好きなところへ行って、子供でも作りゃあいい」
ダイアナは彼に向って口を歪《ゆが》めてみせ、グラスを上げた。「どうせあなたはうまいこと言って、あの人を丸め込むんでしょう。それはそうと、この部屋、カーテンがいるわね。それに、テーブル掛けとシーツ。食器も足りないわ。豚小屋みたいなとこで暮すのはまっぴらよ。ベッドだって、人数だけないじゃないの」彼女は私にじっと視線を注いでいた。緑の目をわざとらしく細めたその見方は、ただ物珍しさと言うには意味ありげにすぎた。
セイトンが私たちを引き合せた。ダイアナは私の額の絆創膏《ばんそうこう》から目をはなさなかったが、一言だけぽつりと言った。「この人、どこで寝るの?」
「それは俺が何とかする」セイトンは心得た顔で言った。
ダイアナは彼を見つめてうなずいた。「二か月と言ったわね、ビル?」彼女にはどこか息せき切っているようなところがあった。男ばかりで格納庫に閉じこもっていた後では、そんな彼女のかもし出す空気が好もしいものに感じられた。彼女の目の奥に揺れる興奮の色から察して、どうやら、ロンドンで友だちと相部屋で暮らすよりも、人里離れた飛行場で男どもの面倒を見るほうが楽しいという判断に傾いているらしかった。
「朝、牛乳と卵を届けに来る女の子。あの人、誰《だれ》?」ダイアナは尋ねた。
「ああ、あれはそこの農家の手伝い女だ」セイトンは眼中にない口ぶりで答えた。「エルゼっていうんだ」
「農家の娘っていうより、兵隊相手の商売女みたいね」彼女は当てこするようにカーターの顔を覗《のぞ》き、その目をセイトンに転じた。「あなたに気があるの?」
「よしてくれ、ダイアナ」セイトンは瓶を取って彼女のグラスに注《つ》ぎ直した。「どうした、向こうの部屋は住めるようになったか?」
「まるまる一日がかりだったわよ。私が来る前は、あの子が食事の世話をしていたの?」
「時々、夜の支度をしに来てもらったことはあるな」セイトンはうなずいた。「あそこの農家とそういう話になってるから」
「私のこと、生クリームを横取りされた猫みたいな目で睨《にら》んだわよ」ダイアナは冗談ごとではない口ぶりで言い、探るように夫の顔を見た。「私、いい時にここへ来たようね」彼女の声には刺《とげ》があった。ダイアナは絶えず手を伸ばした先にある何かを追い求める性質《たち》の女に違いない。彼女はゆっくりとセイトンに向き直った。「あの子、外国人? 言葉がちょっと変だけど」
セイトンはうなずいた。「ああ、ドイツから来た難民だ。名前はエルゼ・ランゲン」彼はあまりその娘の話をしたくない様子だった。「そろそろ食事にするか、ダイアナ」
彼女はグラスを空け、台所に行きかけてふり返った。「私がここにいる間は、あの子が来ても、手伝いは外回りの仕事だけにして」
セイトンは笑った。「そう言っとこう」ダイアナが部屋を出た後も、彼は何がおかしいのか独りで咽喉《のど》を鳴らして笑い続けた。
意外にも、ダイアナは料理が上手《うま》かった。食事は素晴しかった。しかし、ストーヴの温《ぬく》もりとウイスキーのせいで、私は途中で睡気を催した。長い一日だったし、前の晩はほとんど満足に寝ていない。翌朝は七時に作業開始ということで、私は早々に、あてがわれた奥の一室に引き揚げた。セイトンがキャンプ・ベッドを入れてくれた。ところが、横にはなったものの、三人の話し声が耳について、なかなか眠れなかった。部屋の寒さもあった。が、それ以上に、メンベリーに転げ込んでからの事どもが私の気持ちを掻《か》き乱した。何もかもが中途半端で、夢うつつのまま私は輾転《てんてん》反側した。
それはともかく、新しい人生がはじまったという事実は私の意識を領して揺るがなかった。メンベリーにいれば私は安全だ。セイトンの会社がどうなったところで、私にとって損はない。しばらくはここにいて、ほとぼりが冷めたらどこかへ行って仕事を捜そう。飛行機に乗れなくたっていい。技術屋に戻る道がある。一日仕事をしてみて、まだ技術屋でやれることがわかったし、この世界ならあぶれる気遣いはない。
眠りに落ちながら、一つだけ気にかかったのは、セイトンがすぐにも会社をたたむとなると、私はまだ大っぴらに世間に顔出しできないことだった。世の中、成功者と失敗者を隔てるものは、つまるところ個々の人間性であろう。臑《すね》に傷持つ私にとっては、そこが大きな問題に思われた。
翌朝は六時半に起き出して食事をした。ダイアナが甲斐甲斐《かいがい》しく支度をととのえてくれた。彼女はパジャマに着古しの青いガウンを重ねた起き抜けの身なりだったが、化粧だけはきちんとしていた。私たちは石油ランプの明りで黙りこくって食事を済ませた。倒産の危機を迎えて重苦しい空気が陰鬱《いんうつ》な薄日のように食卓を支配していた。ダイアナは絶えず何かを期待する目でセイトンの顔をうかがっていた。セイトンは食事の間、ついに一度も顔を上げなかった。一日の仕事をしおおせるためにやむを得ず食事を詰め込んでいるという態度だった。それに引きかえ、タビー・カーターはおよそ屈託のない、晴ればれとした顔つきだった。
食事を終えて作業服を取りに行く途中、セイトンの部屋を覗くと、奥の壁ぎわに寄せて床にマットレスが敷いてあった。壁には前夜セイトンが着ていたジャケットが無造作に掛かっている。彼は自分のベッドを私に提供してくれたのだ。このことが、私の後の行動に直接影響したかどうかはわからない。しかし、セイトンの部屋を見た時、私がはっきりと仲間意識を抱いたことは事実である。以来、私はセイトンの成功を強く祈るようになった。何としても飛行機を完成させて、ベルリン空輸に参加しなくてはならないと私は思った。
格納庫へ行くと、私たちは打ち合せも何もいっさい抜きに、ただちに各自、前夜の仕事の続きにかかった。とはいえ、仕事を進めるうちに格納庫の空気が張りつめて行くのを意識せずにはいられなかった。セイトンは何度も手を休めては苛立《いらだ》たしげに時計を見た。こめかみのあたりが引きつっていた。が、彼は今日一日、何の憂いもありはしないという態度を装って着実に作業を片付けて行った。
十一時を回った頃《ころ》、ダイアナがコーヒーを運んで来た。彼女は何やら意味ありげな薄笑いを浮かべて私に朝刊を投げて寄越し、それから、セイトンに向き直って言った。「ねえ、あの人、来てるわよ」
「ランドールか?」
「そう」
「だったら、何でここへ連れて来ないんだ?」
「私が待つように言ったのよ。あの農家の女の子と話し込んでるわ。それより、ランドール一人じゃないのよ」
「誰か一緒なのか?」セイトンはきっと彼女をふり返った。「男か?」
「ええ」
「どんな奴《やつ》だ?」
「背が低くて、髪の毛がだいぶ薄くて、眼鏡をかけて……」
「形姿《なりかたち》を訊《き》いてるんじゃない。どういう人種だ?」
「さあ、どうかしらね」ダイアナはセイトンをじらして楽しんでいるふうだった。
「だから、どういう商売か、見当くらいつくだろう」セイトンは食ってかかった。
「ダーク・スーツに中折れ帽。金融街《シティ》に出入りしてるような人じゃないかしら。たとえば、弁護士とか」
「弁護士? 野郎! まさか事務弁護士を連れて来たんじゃないだろうな。とにかく、待たせておいてくれ。すぐ行く。娘っ子は追っぱらえ」
ダイアナはヒールを鳴らして立ち去った。セイトンは低く悪態を吐きながら作業服を脱ぎ捨て、ジャケットをはおると、コーヒー茶碗《ぢゃわん》をゆっくりと口に運んだ。腹の底に煮えたぎっている激しい感情を鎮めようとしているのが傍目《はため》にもよくわかった。ややあって、彼はカーターに向き直り、抑えた声で厳しく言った。「何が何でもあいつを納得させてやらなきゃあな、タビー」
カーターはうなずいた。「でも、この前みたいにかっとなるなよ、ビル。怒鳴りつけたら、あいつはますます話がわからなくなるばかりだからな。あれで技術屋だったら……」
「そんなこと言ったってしようがないだろう。やつは技術屋じゃないんだ」セイトンは声を尖《とが》らせた。「やつをご贔屓《ひいき》の叔母《おば》さんから、五万ポンドの遺産をもらっただけの話よ」セイトンは両手をポケットに突っ込んだ。「ああ、わかっているよ。かっとならないように気をつけよう……向こうがまともに言うことを聞けばな」彼は、厭《いや》なことはさっさとけりをつけてしまいたいという態度で足早に格納庫を出て行った。
カーターは彼の後ろ姿を見送って肩をすくめた。「どうも困ったものでね。ランドールが相手となると、セイトンは鉄の塊にスティームハンマーで鋲《びょう》を打つような物の言い方をするんだ」
「ランドールっていうのは、どういう人物かね?」私は尋ねたが、内心はまるで関心がなかった。私の知ったことではない。私は新聞を拡《ひろ》げ、前日のキャラハン事件の追跡記事を捜していた。
「まあ、悪い人間じゃあないんだ。金はあるけど、頭の回転が速くないというだけでね」
目当ての記事が見つかった。警察は、キャラハンがすでに国外に逃亡したものと判断しているという。私は新聞をたたんで作業台に投げ出した。もはや心配の種はない。私はカーターのほうへ向き直った。「ランドールは何だってこの仕事を投げ出すっていうんだ?」
カーターは肩をすくめた。「飽きが来たんだろうな。もともと、飛行機が好きでやってるんじゃない。あいつは競馬しかない男さ。それに、もう、かれこれ三年になるからなあ」
私は飛行機に目をやった。どうも釈然としないものがある。前から意識の奥にわだかまっていた疑問だが、自分自身の面倒が解決した今、それが急に正面に迫《せ》り出して来た。
「飛行機一機に三年もかかるということはないだろう」
カーターは警戒する目つきで私を見返した。「セイトンからエンジンのことは何も聞いていないのか? 前からの知り合いだって話だったじゃないか」
私は深入りすることを避けて、旋盤に向かった。
三十分ほどして、セイトンが怒りに蒼《あお》ざめた顔で戻って来た。長身で姿勢の良い男が一緒だった。生姜《しょうが》色の口|髭《ひげ》をきれいに刈り揃《そろ》えて、目もとの涼しい男だった。ツイードのズボンにシープスキンのジャケット。オープンネックの襟元に、金糸をあしらった紺地の絹のスカーフを巻いている。その後ろに、ブリーフケースを抱えて小柄ながらよく肥《ふと》った物静かな男が控えていた。
セイトンはまっすぐにカーターのほうへ向った。「そんなコイルなんぞ打っちゃっとけ、タビー。もう終りだ」彼は捨てばちに言った。
カーターは、手放したくないとでもいうふうにコイルを掴《つか》んだまま椅子《いす》の背にもたれ、信じられない顔つきでランドールを見上げた。「あと二か月あれば何とかなるっていうのがわからないのか?」カーターはセイトンに向かって尋ねた。「フレイザーに手伝ってもらえば……」
「それはもう、俺が話した」セイトンは彼を遮った。「ランドールじゃあ埒《らち》があかんよ。話をするなら、ラインバウムさんだ」彼は丸顔の小男のほうへ顎《あご》をしゃくった。男は生白い指でブリーフケースの留金をまさぐっていた。「抵当権者はこちらさんだからな」
「それは、どういうことかな?」カーターは首を傾《かし》げた。「抵当権はディックが会社に融資した金に対する担保として設定したはずだろう。どうしてそこへラインバウムとかいう人が出て来るんだ?」
ランドールは調子《ばつ》が悪そうに咳払《せきばら》いした。「その権利を形《かた》に借金をしたもので」
「だったら、金を返せば……」
「そういう話はもうさんざんしたんだって」セイトンがじれったそうに口をはさんだ。「ランドールはな、競馬で盛大にすりやがったんだ」唾《つば》を吐き捨てるような口ぶりだった。「ラインバウムのところへ、飛行機と機械、工具、そっくりまとめて買い取りの申込みがあって、ランドールとしてはうんと言うしかないんだ」
「こんないい条件の話は願ってもありません」ラインバウムが言った。かすかに外国語|訛《なま》りが耳についた。
「全部ひっくるめて」セイトンは口を歪めた。「二万五千ポンドだとさ。元を取って二千ポンドのお釣が来る計算だぜ」
「そうなると、会社を畳むということだろう」カーターは言った。「それはランドールの一存ではできないぞ。君か俺か、どっちか一人の同意がなきゃあ。今のままなら二対一だ。会社の定款では……」
「あの、カーターさん」ラインバウムが割って入った。「これは自発的な清算とはわけが違います」
「じゃあ、そっちは無理にも清算を強《し》いる気か?」カーターは問い返した。後へは退《ひ》かぬ態度に触れて、私はこの男を見直した。
「まずいことに」セイトンが腹立たしげに言った。「最後にランドールが五千ポンド出した時、弁護士はその金がエンジン製作の材料購入に充てられる以上、完成したエンジンも抵当物件に含まれる、と釘《くぎ》を刺しているんだ」彼は激しくランドールに向き直った。「まったく。俺がなあ、手が後ろへ回るようなことはしたくないからいいようなものの、さもなきゃあ、貴様……」セイトンはいても立ってもいられぬ様子で格納庫の中を行きつ戻りつしはじめた。両の拳《こぶし》を握りしめ、顔は怒りにどす黒くくすんでいた。彼は完成したエンジンの前に立ち止まり、壁の始動スイッチを押した。エンジンは小さく動揺し、二度ばかり咳き込んで、轟然《ごうぜん》と回りはじめた。格納庫は底力のあるエンジンの爆音に満たされた。彼はランドールをふり返った。「こっちへ来い、ディック。こいつを見ろ! この力《りき》を腹で味わえ! こいつはもう、据え付けるばかりになっているんだ」彼は作業台を指さした。「もう一基も恰好《かっこう》がついて来た。ひと月あれば出来上がる。六週間後にはテストができる。一月二十五日は空輸の仕事に就ける。ふた月もすれば、お前は世界の注目を集める飛行機を持った会社の社長だぞ。考えてもみろ! セイトン航空の輸送機は燃費がべらぼうに安いんだ。おい、お前には野心てものがないのか? ひと財産|稼《かせ》げるんだ。そのために、あとほんのふた月、時間をくれと言ってるんじゃないか。これまで三年、この会社をやって来たんだろう。あとふた月が何だっていうんだ」
そうだったのか。セイトンは新しい工夫を凝らし、燃費を下げるようエンジンに改良を加えているのだ。蜃気楼《しんきろう》にも似たこの課題に挑《いど》んで苦汁を舐《な》めたのは、何もセイトンがはじめてというわけではない。が、その張りつめた声音《こわね》と憑《つ》かれたような執念には、人の心を動かすに足るものがあった。私はランドールの様子をうかがった。あとふた月というセイトンの要求を容《い》れてもよくはなかろうか。私はエンジンの完成を見届けたいと思った。改良されたエンジンを搭載して飛行機が離陸するところを見たかった。そのためにも、セイトンは仕事を続けなくてはならない……。
ランドールは首を横にふった。「済まないと思っているよ、ビル」彼は恥じ入って、吃《ども》りがちだった。「こっちも、もう、身動きが取れないんだ」
「競馬に注ぎ込むだけ注ぎ込んで、抵当権を買い戻す金もないっていうのか?」セイトンはランドールを睨《にら》みすえた。
ランドールはうなずいた。
「馬があるだろう。車はどうした? ハットフィールドの家を手放したって金はできるんじゃないのか?」
ランドールは血相を変えて叫んだ。「それはあんまりだ。屋敷は売れない。先祖代々、ずっと暮して来た家だからね。馬を手放すのもご免だね」ランドールは開き直って顎をぐいと突き出した。「本当に、済まないとは思っているよ、ビル。でも、もうあるだけの金は全部出したんだ。弁護士が忠告して……」
「弁護士が何を言おうと知ったことか」セイトンは声を張り上げた。「どうしてわからないんだ? あと二か月すれば……」言葉が続かなかった。ランドールの目の奥に頑《かたく》なな拒否の色を見て、セイトンは不快げに顔をそむけた。彼は手を伸ばしてスイッチを切った。爆音は残響の尾を曳《ひ》いて跡絶《とだ》えた。セイトンはプロペラが取り付けられるべき軸の尖端を握って、ゆっくりとラインバウムに向き直った。「というわけで、あとはあなたと直接の話合いですね、ラインバウムさん。そうでしょう?」低く抑えた声で彼は言った。
ラインバウムは頬《ほお》をほころばせて軽く会釈した。
「で、どういう条件が揃えば飛行機の完成まで待ってもらえますか?」
ラインバウムはかぶりをふった。「お気持ちはわかりますが、セイトンさん。私は思惑《おもわく》では何とも申しかねます」
「私らが何をやっているか、ここを見ればだいたいのことはわかるでしょう。何とか折り合いを付ける手はあるんじゃありませんか?」
「私が受けている飛行機とこの場の機材買い取りの申込みは、四十八時間の期限付きです」ラインバウムはお気の毒さまとでも言いたげに両手を拡げた。「それまでに債務の弁済がなければ、受戻権喪失の手続を取らなくてはなりません」
「そんなことを言われたって、ないものは払えませんよ。二か月待ってもらえれば……」
「こちらとしては、すぐにも現金が入用なのです、セイトンさん」ラインバウムも次第に強硬になった。
「何とか、二か月待ってもらえませんか」セイトンはすがるような口ぶりで言った。「いつまでもとは言ってないんだ。二か月すれば、こっちの事業も目処《めど》がつくし……」
「何度も申し上げますが、債務は弁済していただきませんと……」ラインバウムは肩をすくめた。
セイトンは顔をそむけた。高い窓から射し込む明りで、彼の目に涙が光るのを私は見た。彼はゆっくりと作業台に向かい、私たちに背中を見せて、長いこと苦労して巻き上げたモーターのコイルを手に取った。
「どうやら、結論は出ましたね」ラインバウムは血の気も失せてむっつり黙りこくっているランドールの顔を覗いた。「それじゃあ、行きましょうか、少佐」
私はこの閉鎖された飛行場という避難所が、今まさに眼前から消え失せようとしていることを悟った。それだけではない。私はセイトンを信じていた。私はエンジンの完成を見届けたかった。飛行機の移送と為替《かわせ》の差益で稼いだ金はきれいな金ではない。しょせんはあぶく銭なのだ。同じどぶへ捨てるなら、ここで役に立てたほうがまだしも功徳というものではあるまいか。
「ちょっと待って下さい」私は行きかけるラインバウムとランドールを呼び止めた。「期限切れになっているのは、債務の一部ですね?」
ランドールが首を横にふった。「いや。金利です」
「金利?」私は思わず大声で訊き返した。「いくらです?」
「千百五十ポンド」ランドールは歯切れの悪い声で言った。
私はセイトンをふり返った。「そのくらい、何とかならないのかい? 何か売ったらいいじゃないか」
セイトンは投げやりに答えた。「ここにはなくていいようなものは何もないからな。工具一つだって、なくなったら仕事は続けられないんだ。それに、全部抵当に入ってる。この格納庫にあるものは洗い浚《ざら》い、旋盤の切り屑までも抵当に入っているんだ」
「でも、自分の金がまるっきりないわけじゃないだろう」私はこだわった。
「うるせえな!」セイトンはかっとした。「そんなことを、お前さんに確かめてもらわなくたっていいんだ。俺はからっけつだ。このひと月、何から何まで付けで暮してるんだ。銀行には百ポンド以上の借りができているよ。それはカーターも同じだ。言われない先にこっちから断っておくが、金を借りられる友だちはいないかなんていう話を持ち出すなよ。借りられるところからは借りつくした。もうどこへ行ったって、この俺に千百ポンドの金を貸そうなんて物好きはいやあしねえんだ」彼はランドールとラインバウムに向き直った。「さあ、二人とも、とっととここから出てってくれ。どうでも好きにしたらいいだろう」
二人は行きかけた。
「ちょっと待った」私はもう一度彼らを呼び止めた。「千百五十だな?」
ラインバウムが答えた。「正確には、千百五十二ポンド四シリング七ペンスです」
「そうですか。じゃあ、受取りを書いてもらいましょうか」私は財布から小切手帳を取り出した。
ラインバウムは足下から床が抜け落ちたとでもいう顔で私を見つめた。
「受取りを書いて下さい、ラインバウムさん」私はたたみかけた。
ラインバウムはゆっくり私のほうへ寄って来た。「あなたの小切手が不渡りにならないという保証がありますか? 受取りを書けと言われても……」
「もし、仮にそういうことになったとしても、そっちは法律で保護されているでしょう。あなたが法的に抵当権者であることを示す書類はありますね?」
私はこの場の成りゆきを楽しんでいた。驚愕《きょうがく》を孕《はら》んで格納庫を閉ざした沈黙に私は酔った。ラインバウムは困惑の体《てい》で目を白黒させるばかりだった。どういうわけか、彼は支払いを喜んでいないらしかった。金の出どころを考えると、私は急に飛行機の運び屋をしていてよかったと思えて来た。闇《ヤミ》商売もまんざら悪いことばかりではなかった。
セイトンが誰よりも早く驚きから立ち直った。「ちょっと待てよ、フレイザー。君にそんなことをしてもらう義理はないし、第一、無駄だよ。この分を払ったところで俺たちは借金で首が回らないんだ。それに、向こうふた月、食いつなぐ当てもありゃあしない」
「わかっているよ」私は言った。「飛行機が完成するまで、最低どのくらいあればやって行けるんだ?」
彼は床に目を落とした。「千ポンドあれば、何とか」その声に生気が甦《よみがえ》った。「うん、材料はあるし、金型もある。機械は揃っている。あと、溜《た》まっている付けをいくつか払って、生活費があれば……」彼はふっと眉を曇らせて言葉を切った。「しかし、金利を払って、その上生活費、経費となると、二千五百ポンド近いものが必要だぞ」
私は腰を降ろして小切手帳を開いた。「誰|宛《あて》にしますか?」
「ヴァイナー・ラインバウム。ラインバウム社です」ラインバウムはしぶしぶ答えた。
セイトンは小切手の控えに金額を書き入れる私の手もとを肩越しに覗いた。「本当に、二千五百ポンドという金が当座にあるのか?」彼は信じられない口ぶりで尋ねた。
「当座にはそれだけはないがね」私は言った。「生命保険があるから、どうにかなるさ」
セイトンは無言のまま私の肩を強くつかんだ。
私はラインバウムが不承不承ブリーフケースから取り出した書類をあらためて、小切手を渡し、領収証を受け取った。やりとりをじっと見守っていたセイトンは、ラインバウムが顔を上げるのを待って言った。「エンジンが目当てだったな。違うか、ラインバウム?」陰にこもった声だった。
「何が目当てということはありませんよ」ラインバウムは逃げ腰だった。「払うものを払っていただければ、それでいいんです」それでセイトンがおさまるはずはないと見て取ったか、彼はあわてて言い足した。「依頼人はチャーター・ビジネスに関心を持ってはいますが」
「誰だ、その依頼人ていうのは?」セイトンは前と同じ低い声で詰め寄った。
「そればかりは、私の口からは申し上げられません」
セイトンはそっとラインバウムの胸《むな》ぐらを取った。「そいつの狙《ねら》いはエンジンだな。そうなんだな? あんたが抵当権者だということを、洩《も》らしたやつがいる」彼はランドールをふり返った。「この前、十月にここへ来た時、抵当権を形《かた》に金を借りていたのか?」
「さあ、どうだったかな?」ランドールは口ごもった。「あるいは、そうだったかもしれない」
「そのことを、誰かにしゃべったか? エルゼあたりに聞かせたんじゃないのか?」
ランドールは赤くなった。「さあ、それは。憶《おぼ》えていないな。私は……」
「どこの馬の骨だかわからない難民の小娘にはしゃべって、俺には内緒か」セイトンは怒りに頬をふるわせた。「それが会社の役員のすることか。見損なったな」彼はラインバウムを締め上げて激しく揺さぶった。「何者だ、貴様の依頼人は?」彼はラインバウムの頸《くび》をへし折りかねまじき権幕だった。
ラインバウムの眼鏡が飛んだ。金の指環《ゆびわ》をした白い手が空を掻いた。「乱暴はいけません。警察を呼びますよ」
「ふん。呼べるものなら呼んでみろ」セイトンは食いしばった歯の間でせせら嗤《わら》った。「ここにはあんたの味方はいない。皆、俺はあんたに指一本触れていないと証言するぞ。さあ、言わないか。依頼人は誰だ?」彼はなおもラインバウムを締め上げ、悲鳴を発するところをぼろ人形のように突き放した。ラインバウムはたたらを踏んで後退《あとずさ》り、椅子に足を取られて汚れたコンクリートの床にどうと倒れた。
「これでも言わないか?」セイトンは覆いかぶさるように立ってラインバウムを見降ろした。
ラインバウムは眼鏡を捜して手で床を掃《は》いた。セイトンは眼鏡を蹴《け》りやって、ブリーフケースを取り上げると、中身をその場にぶちまけた。ほどなく、彼は目当ての書類を見つけ出し、窓から射し込む明りにかざした。見るまに顔はどす黒い怒りに染まった。
「そうか。そうだったのか!」彼は書類をポケットに押し込んでラインバウムを睨みすえた。「やつら、エンジンの一号機《プロトタイプ》が俺のところにあると、どうしてわかった? どこから聞き込んだ?」
ラインバウムは頑なに首を横にふった。セイトンは顔をそむけた。「もういい。聞いたところでどうしようもないからな」彼は散らばった書類をひとまとめにしてブリーフケースと一緒に、倒れたままのラインバウムの腹の上に放り投げた。「さあ、とっとと帰ってくれ」
ラインバウムはブリーフケースに書類を押し込んで小脇《こわき》に抱え、逃げるように立ち去った。
「ざまあ見やがれ」セイトンは格納庫の中央に突っ立ち、闘牛士《マタドール》を一人|角《つの》にかけた雄牛が次の相手に挑む目つきでランドールに向き直った。「自分のしたことがわかっているのか? お前のせいで、もう一歩で……」セイトンはみなまで言わず、唇を堅く結んでじりじりとランドールに詰め寄った。「お前みたいなやつを社長にしてはおけないな」
ランドールは何やらわけのわからないことを口走った。
「そこへ坐《すわ》れ」セイトンは怒りに声をふるわせた。「今ここで、辞表を書いてもらう」
「断ると言ったら?」ランドールは蒼くなった。顔はセイトンに向けていたが、視線は脇へそれていた。
「断るだと?」セイトンは目の縁《ふち》に隈《くま》を作ってランドールを睨みすえた。「俺たちがここで、何とか仕事を完成しようとして死ぬ思いで頑張っている間、貴様、どこで何をしていた? 博奕《ばくち》に正体をなくしやがって。よくも会社の将来を博奕に注ぎ込んでくれたな。こっちはいい面《つら》の皮じゃねえか。俺とカーターが一日二十四時間、汗水垂らして働いているのは何のためだ? 会社のことなんぞこれっぽっちも考えない誰かの博奕の元手を稼ぐため……」
「それは違う」ランドールは言い返した。「そもそも、ドイツからあのエンジンを持ち出したのは誰なんだ? 私が自腹を切ってあれをこっちへ運んだからこそ、君は今、ここでこうやっていられるんじゃないか。これまでの開発にかかった費用を負担したのは誰だ? 君が金を出せと言えば、いつだって私は黙ってぽんと……」
「担保を取っておいて何を言うか」セイトンは陰《いん》にこもって言った。「貴様が一ペンスでも渋らずに金を出したことがあるか? カーターと俺は何の保証もなしに、あるだけを吐き出しているんだ。会社はお前に何の借りもない。あるとすれば、プロトタイプをこっそり持ち込むのにかかった金だけだ。それは必ず返してやる。抵当権については、そいつを形《かた》に金を借りて博奕に注ぎ込んだお前一人の責任だ。俺の知ったことじゃあねえや」セイトンは息をついだ。「自業自得だな、ディック」彼はまるでなだめすかすような声で言い、ポケットから万年筆を抜いてランドールの手に押しつけた。「身辺多忙につき、とでもするんだな」
ランドールは逡巡《しゅんじゅん》を示したが、覆いかぶさるように立ちはだかったセイトンの態度には有無《うむ》を言わせぬものがあった。ランドールはちらりとセイトンを見上げ、カーターが突き出した便箋《びんせん》にペンを走らせた。
ランドールが署名を終えるのも待ちかねる様子でセイトンは辞表を取り上げ、ざっと目を通してポケットにねじ込んだ。「ようし。俺がラインバウムを締め殺さないうちに、あの悪党を連れてとっとと失《う》せろ」
ランドールは腰を上げると未練がましく私たちを見回した。何か言うかと思ったが、憎悪の沈黙に気圧《けお》されたか、そのまま向きを変えて出て行った。私たちは格納庫のドアが音を立てて閉じるまでその背中を見送った。セイトンはハンカチを引っぱり出して顔をこすった。「まったく。会社が無傷でここを乗り切れるとは思ってもいなかったぜ」彼は私に向き直った。「君にここにいてもいいと言ったのが、俺の生涯の運のつきはじめだな」彼は両手を擦り合わせながら、打って変って晴ればれとした声で言った。「さあて、こうなると定款に決められている役員三名に欠員が出た勘定だな、タビー。そこで俺は、会社の急場を救ってくれたことに対する感謝の気持ちとして、フレイザー氏を役員に迎えることを提案したい」安堵《あんど》のせいか、彼は今にも笑い出しそうだった。「異議があるか、タビー?」
カーターは私を見やり、一瞬|躊躇《ちゅうちょ》してから言った。「いや、異議なしだ」
セイトンは寄って来て私の肩を叩いた。「今から君はセイトン航空の役員だ。年俸二千五百ポンド」彼は短く笑った。「会社はまだ一度も報酬を払っていないがね。それも、もうひと息の辛抱だ。もうひと息……」彼はふっと真顔になった。「フレイザー。君には何とも礼の言いようがない」彼は私の手を取った。「君はどういうつもりか知らないが……とにかく、何と礼を言ったらいいかわからない……」セイトンは言葉にはつくせない気持ちをこめて私の手を握りしめた。「何と思ってあんなことをした? え? どういうつもりなんだ?」と、彼は爆《はじ》けるように笑い出した。「君が受取りを書けと言った時の、ラインバウムの顔といったらなかったな。あれは一生忘れられないだろうな」彼はひとしきり涙を流して笑い、それからまた、裏返すように真剣な表情になった。「なあ、どういうつもりだ?」
「つもりというほどのこともないさ」私は返事に窮《きゅう》した。「ただ、そうしたかっただけ、と言うしかないね」私は間の悪い思いで目をそらせた。セイトンの感きわまったような声は聞くに忍びなかった。
短い沈黙があって、セイトンはふと我に返った口ぶりで言った。「ようし、仕事だ仕事だ」彼の目に輝きが甦るのを見て、何故《なぜ》か私は急にセイトンという男に親近感を抱いた。私は旋盤に向かって未完成のピストンを取り上げた。
ところが、私はなかなか作業に集中できなかった。ランドールの言葉が気になってしかたがない。一度密輸で逮捕された私は、もう危ない橋を渡りたくなかった。セイトンたちが外国の特許を無断で使用しているとすれば、どんないざこざに巻き込まれないものでもない。
私は旋盤を止めて、セイトンのところへ行った。彼は未来をその手に掴んだ男の気迫を見せつける態度で、コイルの続きに取り組んでいた。私がそばに立つ気配を感じて、彼は顔を上げ、突慳貪《つっけんどん》に尋ねた。「何の用だ、え?」
「詳しい事情を話してくれないか。これからは、こっちも手探りで仕事はしたくないからね」
セイトンは腹立たしげに唇を結び、額に皺《しわ》を刻んで私を睨《ね》め上げた。彼の手が作業台の上でゆっくり拳にかたまるのを私は見た。同時に彼は何かを警戒するように目を細めた。それはまさしく、二日前の夜、飛行場のはずれの森で私を殴り倒した男の目つきだった。「何が言いたい?」
私はたじろいだが、やはり、自分の立場をはっきりさせておかなくてはならなかった。旋盤に向かって過ごした何時間かで、私もまた多少の自信を取り戻していた。
「どうした? 言いたいことがあるならさっさと言わないか」セイトンは声を尖《とが》らせた。「何を考えているんだ?」
「このエンジンだがね……」私は壁ぎわの木製の架台に据えられた黒光りするエンジンを顎でしゃくった。「これは、君の設計ではないな。そうだろう」
「何だ、そんなことか。俺が他人の設計を盗んだと思っているな。違うか?」
「そうは言ってない」私は怒りを孕《はら》んだセイトンの冷たい目に射《い》すくめられてたじたじとなった。「ただ、君が設計したかどうか、それを訊いているだけだよ」
「俺が設計なんぞ、するはずがないだろう。考えたってわかりそうなもんだ。俺がエンジンの設計をやれる技術屋じゃないことは知っているだろうが」彼はゆっくりと立ち上がった。足をやや開き気味にして顎を突き出す特有の姿勢である。「まあ、君は役員の地位を金で買ったわけだから、知る権利はあるということだな」いくらか態度を和らげて彼は言った。「どうしても知りたいというんなら教えてやろう。こいつは、言わば戦利品だ。いずれそのうち一部始終を話してやるが、今は駄目だ」
「特許は誰が持っているんだ?」私は尋ねた。
「俺だ。プロトタイプはついに完成しなかったからな。ずいぶんいろんな目を見てきたにしちゃあ、君はおそろしく気が小さいらしいな」セイトンはまた無造作に腰を降ろした。「さあ、もういいだろう。仕事をしようぜ。ただでさえ今日は邪魔が入ってずいぶん時間を無駄にしているんだ」
私が旋盤へ戻る間もなく、ドアを叩く音がした。「誰だか出てみてくれ、フレイザー」セイトンは言った。「ランドールだったら俺は会わないぞ」
ランドールではなかった。ダイアナが色|褪《あ》せた茶色の上っ張りを着た若い女を連れて立っていた。私はすぐに思い出した。はじめてメンベリーに迷い込んだ夜、格納庫でセイトンと言い合っていた女だ。女のほうでも私の顔を認めてはっと息を呑《の》んだ。秀《ひい》でた額に皺《しわ》を寄せて私を見つめる彼女の、地味ながら整った顔は、どことなく愁いを帯びていた。
「ビルに会いたいんですってよ」ダイアナが言った。
私はドアを大きく開けて道を譲った。女はまるで罠《わな》を恐れるかのように躊躇《ためら》いを見せたが、すぐに昂然《こうぜん》と顔を上げて格納庫の奥に向かった。
セイトンは彼女の顔を見て跳び上がった。「何しに、のこのこやって来た?」彼は太い眉を寄せて身構えた。
女はひるむ気配もなく、作業台に視線を這《は》わせた。大きく知的な目は何ものも見逃すまいと思われた。やがて、彼女は完成したエンジンに目を止めた。表情がいくらか穏やかになったようだった。
「お前が連れて来たのか、ダイアナ?」セイトンは苦々しげに言った。
「そうよ。あなたに会いたいっていうから」
「こいつが誰に会いたかろうと、そんなことはどうでもいい」セイトンは突っかかるように言い、努めて自分を抑えながら私に向き直った。「外へ行って話を聞いてやってくれ。ここは駅じゃあないからな、勝手な人間に出入りされちゃあ迷惑なんだ」言う傍から彼は気が変った。「いや、いい。俺が話す」
セイトンは大股《おおまた》に格納庫の隅へ向かった。女は一瞬とまどいを見せて、散らかった作業台に目をやったが、すぐにセイトンの後を追った。
「変な子ね」ダイアナは夫をふり返って言った。「ランドールがこっちへ来てる間は、まるで灼《や》けた煉瓦《れんが》の上の猫みたいにそわそわしてたわよ。それから飛行場へ出てったと思ったら、今度は真っ蒼になって涙を流しながら森の中を飛んでくの。あの子、強制収容所か何かに入れられてたんですって?」
「父親が収容所で死んだんだ」カーターは言った。「それ以上のことは俺も知らない」
セイトンが怒りに顔を歪めて戻って来た。歯を食いしばっているためか、顎の筋肉が縒《よ》ったように盛り上がっている。
「あの子、何だっていうの?」ダイアナが尋ねた。
セイトンは彼女の声も耳に入らぬ体《てい》で作業台のベンチに坐り込んだ。「一時半に、三人前の食事をこっちへ運んでくれないか」
ダイアナは不満らしかったが、セイトンの態度には近寄りがたいものがあった。
「いいわ」彼女は小さく言って立ち去った。
私は旋盤に戻ったが、あの最初の夜、格納庫に潜《もぐ》り込んではからずも耳にした、セイトンと女のやりとりが思い出されて、仕事が手につかなかった。
途中で二度、私はそっと顔を上げてセイトンのほうをうかがったが、彼の強張《こわば》った表情を見ると、咽喉まで出かかった質問を口にする気にはなれなかった。三度目に、とうとう私は言った。「何者だ、あの女は?」
セイトンはきっとふり返った。「あれがエルゼだ」
「父親は何をしていたんだ?」
セイトンは握り拳《こぶし》で作業台を叩きつけた。「しつっこいぞ、お前」
彼の凄《すさま》じい権幕に、いきなり横面を張られたような気がして私は旋盤に向き直った。気がつくと、彼がそばへ来て立っていた。
「悪かった、ニール」セイトンは静かに言った。「気にしないでくれ。俺は時々大きな声を出すんだ」彼は私の腕をつかみ、空いたほうの手で部品の散らばった作業台を指した。「俺はな、時々、これが自分の臓物のような気がして来るんだ。俺自身が、一つ一つゆっくり組み立てられて行くような気持ちだよ。何かのことで完成を妨げられるんじゃないかと思うと、俺は……」彼は言葉を濁《にご》し、そっと私の腕を放した。「ちょっと疲れて気が立っているだけだ。飛行機が飛び上がるまではこんなふうだと思ってくれ」
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第三章
それから数週間、メンベリー飛行場から一歩も外へ出ることのない私にとっては、時の流れが止まっているのと変りなかった。十一月は知らぬ間に過ぎた。六時起床、七時に作業開始。十一時|頃《ごろ》コーヒー休み。昼食も午後のお茶も作業台で済ませた。朝晩の食事だけは事務所兼宿舎で摂《と》った。その日その日の仕事の進み具合で、夜の食事は七時半の時もあれば、九時になることもあった。誰《だれ》もが焦燥をつのらせ、日毎《ひごと》に澱《おり》のような疲労が溜《た》まって行った。ダイアナ・カーターは食事の席で、チャールズ王子やパレスチナ紛争や、テーゲル空港の開港などを話題にしたが、新聞を読まない私は自分にはかかわりのないことと聞き流すしかなかった。薄暗い洞窟《どうくつ》に似た格納庫のほかに私の生きる場所はない。仕事に没頭している私にとって、メンベリーの外の世界は存在しないと言って良かった。
しかし、そのような生活の底を貫いて一筋のささやかな糸が通じていた。それは技術屋だけが知る純粋な喜びとでも言うべきものだった。セイトンは私にエンジンについて何一つ説明しなかったが、彼がサタン・マークUと名付けたそのエンジンが次第に形を成すにつれて、私は発見を重ね、そのつど、喜びは大きくなった。
このエンジンの最も顕著な特徴は、点火システムと燃料噴射の方式にあると思われた。混合気は高圧インジェクターによって燃焼室内に噴射される。圧縮、点火のタイミングがエンジンの出力を左右するわけだが、サタン・マークUにおいては混合気の噴射のタイミングを調節することによって、より効率を高める工夫が凝らされている。加えて、飛行機の高度に応じて燃料の流量を制御する複雑なシステムが採用されている。基本的には圧縮点火エンジンで、一見ジーゼル・エンジンとはおよそかけ離れているが、私には、この原型を開発した技術者はジーゼルを知りつくした人物に違いないことがすぐにわかった。
二基目の完成に五週間と少しかかった。まさに時間との競走だった。私の預金残高はようやく底をつきかけ、空輸開始の時期は刻々と迫っていた。
不思議な生活だった。私たちは、セイトンの執念と、徐々に姿を見せはじめたエンジンによって、あの孤絶した飛行場に繋《つな》ぎ留められていた。タビー・カーターとダイアナの夫婦とは深く知り合うようになった。二人はまったく水と油だった。だからこそ結婚したのかもしれない。私にはかかわりのないことだが、とにかく妙な夫婦だった。
タビーはのっそりとした、感受性に乏しい男だった。童顔で丸々と肥えている。シャワー室などで見かける裸の彼は、キューピッドがそのまま大人になった按配《あんばい》である。性格は円満で人懐こい。彼ほどのお人|好《よ》しを私は見たことがない。それに、彼ほど面白味のない人間も珍しい。空を飛ぶことと機械をいじることを除いて、彼は世の中に何の関心もなかった。仕事に邪魔が入りさえしなければ、彼はすべてをあるがままに容認し、何があろうとどこ吹く風だった。ランカスターの養鶏農家に育ったこの無欲な男が何と思って飛行機乗りになったのか、私はついに知る機会がなかった。何でも、はじめは鍛冶《かじ》屋の職人だったという。そこが潰《つぶ》れて、彼は農機具を造る工場に勤めた。潮の流れに身をまかせて波の間に間に漂うような生き方である。やがて彼は、どうしためぐり合わせか自動車工場に転じ、さらに航空機産業の技術者になった。彼の性格から言って、志があって飛行機乗りを目指したとは考えにくい。おそらくは、それも偶然の成りゆきであったろう。神経が鈍いゆえに物に動じない彼は、爆撃機の乗組員の中にあって理想の航空機関士だったことだろう。
タビーを見ていると、上機嫌で口笛を吹きながら手仕事に熱中している子供を連想せずにはいられない。その風貌《ふうぼう》には太った雑種の犬を思わせるものがある。エアデールとパグの合の子といったところだろうか。茶色の目に愛敬があり、声をかけられれば誰にでも尻尾《しっぽ》をふってついて行く。ところが、今、一人の男としてタビーのことを考えようとすると、何故《なぜ》か彼の手だけしか記憶に浮かんで来ない。体は太っているのに、タビーの手はすんなりと細作りで形が良かった。その上、セイトンのように毛むくじゃらではない。一片の金属板を渡して何か作ってみせろと言えば、彼はたちまち一人前の男に変貌し、全霊を指先に集中する。頬《ほお》は嬉《うれ》しさにほころび、目は輝きを帯びてくる。厚い唇から洩《も》れる節《ふし》にならない口笛は、細工の間、途切れることがない。タビーは根っからの技術屋だった。子供染みたところは多々あるが、こと仕事に関しては無欲|恬淡《てんたん》を補って余りある意志の強さを持ち合わせている。いったんこうと決めたら梃子《てこ》でも動かない。誰からも好かれる男だが、この執念には皆、一目《いちもく》置いていた。
ダイアナはおよそ正反対の性格で、二人が夫婦でいることが信じられないほどだった。鉄道建設技師だった父親は、彼女が十七の時、倒壊したクレーンの下敷になって死んだ。それまでの十七年間、彼女は父親に連れられてアメリカ各地の建設現場を転々と渡り歩き、旅から旅の根無し草の暮しと、飯場の空気が身についていた。イタリア人との混血児だった母親は、ダイアナを産んだ後、産褥《さんじょく》熱で死亡し、彼女は男ばかりの世界で成長した。そのせいか、彼女はいろいろな意味で男っぽい性格だった。思いきりが良く、常に目標に向ってまっすぐに進もうとする。権勢欲が強い。しかも、ダイアナはイタリア人の血を引く気性の激しい女である。
父親が亡くなって彼女は看護婦になった。真珠湾攻撃によって日米の戦端が開かれると、彼女はいちはやく海外勤務を志願した。陸軍婦人補助部隊の一員としてイギリスにやって来たのが一九四三年。彼女はエクセターに程近いB17の基地に配属された。タビーとはじめてそこで知り合った。二人は一九四五年にフランスのルーワンで再会し、結婚した。それから、彼女は一時期マルカム・クラブ・オーガニゼイションで働いた。タビーは空輸大隊で輸送機に乗り組んでいた。
私は前にダイアナのことをいかにも擦《す》れっからしの、したたかな女であるように書いた。それが第一印象であったには違いない。ただ、はじめて会った時、私はもっと若くて物柔らかな女性を期待していたことを白状しておかなくてはなるまい。ダイアナはタビーよりいくつか年上で、小さい時から苦労している。兄はドイツのオペルに務めていたから、ニューヨークの大病院で看護婦をしている間、彼女は天涯孤独だった。この時期のことを彼女は話したがらない。父親とともに渡り歩いた鉄道建設現場や、婦人補助部隊で勤務したイギリス、フランス、ドイツについては話題はつきないが、彼女がニューヨークの病院の体験を語るのを私は聞いたことがない。
彼女にかかるとタビーはまるで子供扱いだった。何かの手術をして子供の産めない体になったとは聞いているが、そのことと、夫に対する態度に因果関係があるかどうか、私は知らない。それはさておき、一つはっきり言えるのは、彼女がセイトンに首ったけだということである。セイトンの発散する男臭さや、彼の作り出す張りつめた空気にダイアナは酔っている。セイトンという男に、彼女は娘時代のあらゆる種類の興奮を見出しているらしい節《ふし》がある。父親と共にアメリカ各地の鉄道建設現場で送った暮しを、セイトンは彼女のために再現していると言って良いかもしれなかった。
そんなふうに、カーター夫婦についてはかなり理解できたつもりだが、セイトンは私にとっていつまでたっても得体の知れぬ男だった。経歴も謎《なぞ》のままである。彼はあたかも戦禍の余燼《よじん》から、分捕《ぶんど》り品のエンジンを鷲《わし》づかみにして甦《よみがえ》った不死鳥のようだった。セイトンはベルリン空輸を足がかりとして世界の航空界に羽ばたくことを夢見ている。その野望について彼は熱っぽく語り、私たちにも期待を抱かせたが、自分自身に関してはいっさい黙して語らなかった。セイトンは、戦前テストパイロットをしていたという。南米、特にブラジルに詳しく、石油会社の飛行機に乗っていたこともあって、ヴェネゼラもよく知っている。南アフリカで金鉱捜しをしていた時期もあるらしい。しかし、彼がどんな家に生まれ、どのような生い立ちをしたか、私は今もって知らない。パイロットになった経緯も聞かされていない。
セイトンと付き合うのは、言わば完成品を受け取るようなものである。目の前にいる彼の人柄について私がどうこう言う筋はない。彼の生涯の秘められた部分を穿鑿《せんさく》するつもりもない。彼にとってはエンジンが唯一の生甲斐《いきがい》のようである。ランドールとの一件があってから、彼はエンジンが盗み出されることを恐れてか、格納庫で寝起きするようになった。飛行機が飛ぶまでは神経がささくれ立って荒れることもあると断ったのは、決して気休めの科白《せりふ》ではなかった。彼は感情の起伏が激しく、焦燥に駆られ、腹立ちが募《つの》れば相手かまわず口汚く罵《ののし》った。私が会社に金を融通すると約束した翌日、セイトンは旋盤に向かっている私のところへやって来た。
「エンジンが出来上がるまでは金の面倒を見ると言ったな」まるで喧嘩《けんか》腰だった。「いくらか出してくれ」
私はそのことについて詳しい話合いをしなかった不行届を詫《わ》びようとしたが、彼は短気にそれを遮った。「そんなことはどうでもいいんだ。小切手を書いてくれ」
高飛車な物言いに私は憮然《ぶぜん》としたが、これがセイトンのセイトンらしいところなのだ。会社の資金繰りに貢献する私に対して下手《したで》に出る気はさらさらない。
何かの払いを済ませるのにすぐにも金がいるという。私は小切手帳を取りに事務所へ戻った。この異様な物語の第五の登場人物、エルゼとはじめてまともに顔を合わせたのはこんなきっかけからである。彼女はダイアナを訪ねて来たところだった。
「格納庫へコーヒーを届けに行ってるよ」私は言った。
声に驚いて彼女はふり返った。前の日と同じ茶色の上っ張りを着て、鶏を四羽手に提《さ》げている。鶏たちは鋭い目を光らせてじっとしていた。
「これ、持って来たの」彼女は鶏をつかんだ手を小さく持ち上げた。中の若い雄鶏が怒って激しく羽ばたいた。
「今夜そういう御馳走《ごちそう》があるとは知らなかったな」
「そうじゃないのよ。カーターさんの奥さんが飼うことにしたらしいの」
彼女の外国語|訛《なま》りを聞いて、私は何年か過去に遡《さかのぼ》った気持ちがした。パイロットなら誰しも、行く先々の街のバーやホテルの部屋で、儚《はかな》い思い出を残す束《つか》のまの出逢《であ》いを体験しているはずである。
「すぐ戻って来るよ。君やその鶏たちが待てるものならね」
私は奥へ行きかけて足を止めた。目が合って、どちらからともなくにっこり笑った。
「あなた、今はセイトンさんの会社の重役ですって?」ややあって、彼女は言った。
「ああ」
エルゼはうなずき、格納庫を隠す木立に目をやった。彼女の顔はどちらかと言えば四角張っていた。頬骨が高く、白い肌にそばかすが浮いている。鼻は、子供の時に窓ガラスに押しつけてばかりいたのではないかと思わせるように、先がちょっと上を向いていた。化粧はしていない。太い眉《まゆ》は風がなぶるにまかせた髪と同じ金色である。彼女は体ごとゆっくり向き直り、何か言い出しそうに微《かす》かに唇を割りながら、思案げに眉を寄せて私を見つめた。柳の葉のように斜めに流れた眉の下で、彼女の視線は私の額の絆創膏《ばんそうこう》をかすめてから、まっすぐに私の目を覗《のぞ》いた。朝まだきの谷に漂う霧に似た、柔い灰色の眸《ひとみ》だった。
「あの晩、格納庫で何をしていたんだ?」考えるより先に私は尋ねた。
エルゼは唇の端をちょっと歪《ゆが》めた。表情豊かによく動く唇だ。
「それより、あなたはあの時、どうして逃げ出したのかしら?」
私は一瞬、彼女が警察の捜査と私を結び付けたのではないかと恐れた。しかし、彼女は重ねて尋ねた。
「あなた、エンジニア?」
私はほっとした。「ああ」
「セイトンさんのエンジンの仕事をしているのね?」
私はうなずいた。
「だったら、また会えるわね」彼女はにっと笑って私の手に鶏どもを押しつけた。「カーターさんの奥さんに渡して下さい」行きかけて、彼女はちょっとためらった。「自分を持て余すような時があったら、お話しにいらっしゃい。ここは淋《さび》しいところだから」
空地を引き揚げて行く彼女の背中を見送りながら、私は血が騒ぐのを意識した。
エルゼ・ランゲンの過去については、嵌《は》め絵をつなぎ合わせるように少しずつ探り出すしかなかった。その夜、私はセイトンに彼女のことを尋ねたが、ドイツから逃げて来た避難民だという答が返って来ただけだった。
「それはわかっているよ。でも、どういう人物なんだ?」私は食い下がった。「タビーの話では、父親が強制収容所で死んだんだそうだね」
セイトンはうなずいた。
「それで?」私はなおも質問を重ねた。
彼は目を眇《すが》めた。「何だってそうしつこく訊《き》くんだ? あの女に何か吹き込まれたのか?」
「午前中、ちょっと立ち話をしたよ」
「とにかく、あいつには近寄るな」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもない。俺《おれ》が近寄るなと言ったら近寄るな。あの女は信用できない」
「でも、料理を頼んだりしていたんだろう」
「それはな……」セイトンは言いかけて唇を歪め、あらためて諭《さと》すように言った。「しっかりしろよ。あの女はドイツ人だ。俺たちが今造っているエンジンはな、もともとドイツで設計されたものなんだ」
「それで君は格納庫で寝泊りしているのか?」私は一歩踏み込んだ。「心配なんだな。エルゼが……」
「俺は何も心配していない」セイトンは声を張り上げた。「ただ、あいつに近づくなと言っているだけだ。それとも、何か? 五週間も遠ざかっていると、女に手を出さずにはいられないっていうのか?」
セイトンの下卑《げび》た言い方に、私は思わず腰を浮かせた。「もう一度言ってみろ……」
「おい、よせ、ニール。坐れよ。俺はな、ここにいる四人は、内々《うちうち》以外とは口をきかないでくれと頼んでいるだけだ。俺のためばかりじゃない。こいつはお前のためでもあるんだ」彼は私の弱味をついた。
単調な暮しに神経が参っていなければ、私はセイトンの忠告を聞き入れたと思う。いや、単調と言っては間違いだろう。私は緊張に耐えかねていたのだ。仕事自体はやり甲斐があった。ただ、気を抜く隙《ひま》がないのが辛かった。四人は飛行場に立てこもって一歩も外へ出ず、重苦しい空気の中で絶えず顔を突き合わせていなくてはならない。二週間もしないうちに私は息が詰まりそうになった。タビーは仕事をしながら口笛を吹かなくなり、愛嬌《あいきょう》のある童顔も曇りがちで、むっつりと黙り込むことが多くなった。ダイアナは精いっぱい陽気にふるまっていたが、格納庫で長い時間息を詰めて仕事に打ち込んだ後では、彼女のおしゃべりもかえって耳ざわりだった。セイトンは誰よりも手に負えなかった。苛立《いらだ》ちが昂《こう》じて情緒不安定になっている彼は、些細《ささい》なことにすぐ怒りを爆発させる。それどころか、理由もなしに当たり散らすことさえ珍しくなかった。
棘々《とげとげ》しい空気は私の神経を嘖《さいな》んだ。何かに気散じを求めないわけには行かない。いつしか私は、しきりにエルゼのことを思うようになっていた。ここは淋しいところだから……。彼女の当惑げな眉毛や、笑いを孕《はら》んだ目や、表情豊かな唇の動きが瞼《まぶた》に浮かんだ。自分を持て余すような時があったらお話しにいらっしゃい……。これ以上の誘いはない。作業を進めながら、ともすれば私は彼女の言葉を頭の中で繰り返して心ここにあらずといったありさまだった。ダイアナがエルゼのことを、男なら相手構わずだ、と言ったのも気になった。セイトンはそれを否定しなかった。私は思い余ってタビーに訊いてみた。「あの娘には興味ないね。つまり、君がその意味で言っているならさ。俺はもともと外国の女は苦手だから」
「セイトンはどうなんだ?」私はさらに尋ねた。
「ビルか?」タビーは肩をすくめた。「そいつはどうかな」と、彼は急に不機嫌になった。「女はみんなあいつに憧《あこが》れるんだ。どういうわけか、女の気をそそるものがあるらしくてさ」
「エルゼもか?」
「ダイアナが来るまでは、ここへ入り浸《びた》っていたよ」彼は組立て中の燃料ポンプからふてくされたように斜めに私を見上げた。「禁欲が辛くなって来たのか? まあ、エルゼなら、そう手こずることもないだろう。ランドールはよく車でどこかへ連れ出していたよ」
晴れわたって穏やかな暖かい夜だった。食事の後、私は散歩と言って席を立った。セイトンはちらりと私を見上げたが、口を開こうとはしなかった。夜露に湿った森に出ると、私は飛行場の重苦しい空気から解放されて、身も心もすっきり軽くなった。街道へ通じる小径《こみち》を少し行くと旧《ふる》い農家の木戸があった。木の間ごしに明りが洩れ、芝生の向こうから発電機の低い唸《うな》りが聞こえていた。梟《ふくろう》が一羽、大きな蛾《が》のように森の葉陰をかすめ去った。
母屋の横手へ回ると、カーテンを閉じていない窓からエルゼの立ち姿が見えた。テーブルに向かって大きなハムに塩をしているところだった。腕まくりして、頬を紅潮させている。骨太で大柄な彼女は肩幅も広く、胸も豊かだった。それでいて、広い調理場で立ち働いている彼女には、しっとりとたおやいだものがあった。私はその女体のまろやかな温《ぬく》もりに手を触れたい気持ちが疼《うず》くにまかせて、しばらく彼女の動作や、仕事に熱中した表情に見とれていた。どのくらいそうしていたろうか。私は正面へ回ってドアを叩《たた》いた。
エルゼは私の顔を見て嬉しそうに笑った。「あら! とうとうやりきれなくなったようね」
「散歩に誘おうと思ってね」私は言った。「今夜は暖かいよ」
「散歩?」彼女はそっと覗き込むように私を見上げた。「ええ、いいわ。じゃあ、着替えて来るから、キッチンで待ってて」
広いキッチンは暖かで、居心地がよかった。天井の鈎《かぎ》にベーコンや乾燥した薬草の束が吊《つ》られ、鶏を焙《あぶ》った名残りらしい匂《にお》いがかすかに漂っていた。
「クリームは好き?」エルゼは濃いクリームの鉢と、パンに自家製のジャムを添えてテーブルに運んだ。「どうぞ召し上がって。すぐ来ますから」
クリームを味わうのは何年ぶりだろうか。スプーンを舐《な》めているところへエルゼが戻って来た。
「少し持って帰るといいわ。エルウッド奥さまなら大丈夫よ。親切な人だから」
「いや、いいんだ」持って帰ればセイトンに出どころを話さなくてはならない。
彼女はちょっと眉をしかめたが、無理に勧めようとはしなかった。「行きましょう。沼に案内するわ。夜行くと面白いのよ。蛙《かえる》だの、いろいろな生きものがいて」
納屋の裏手から畑を横切って、牧草地へ出た。「秋には茸《きのこ》がたくさん生えるわ。あなたのお名前は?」
「ニール・フレイザー」
「飛行場で仕事をしているのね」
「ああ」私は彼女がそばにいることしか頭になかった。彼女は散歩の誘いを断らなかったのだ。
「仕事はうまく行っていて?」
「ああ。順調だよ」
「エンジンはいつ頃できあがるの?」
私はエルゼの手を握った。しっとりと柔かく、温かい手だった。彼女は拒《こば》まなかった。
「ねえ、いつ頃?」
「ごめんよ」私は言った。「今、何て言った?」
「いつ完成するのか訊いているのよ。飛べるようになるのはいつ?」
「さあ、何とも言えないね。あとひと月くらいかな」
「そんなにすぐなの?」彼女はそれきり口を閉ざした。森に入って道は下りにかかった。鏃《やじり》のような形をしたカワヤナギの葉が夜風に鳴った。私はエルゼの手を強く握ったが、彼女は気にするふうもなく、私自身が飛行機乗りだと知って、ドイツ空軍にいた兄のことを話しはじめた。
「今どうしているの?」私は尋ねた。
彼女はしばらく間を置いてから答えた。「亡くなったわ。イギリスで撃墜されて」彼女は深刻な目つきで私を見上げた。「ドイツとイギリスの間に、本当に平和が来ると思う?」
「現に平和じゃないか」私は言った。
「これが? イギリスは戦勝国でしょう。軍隊を駐留させてドイツを占領しているのよ。これは平和じゃないわ。条約も何もなし。ドイツは国際機関に加盟することも認められていないのよ。貿易だってできないのよ。ドイツは何もかも取り上げられてしまったわ」
私は黙っていた。政治談議に興味はない。それに、ことさらエルゼがドイツ人であることを思い出させられたくなかった。私はただ彼女と一緒にいたいだけだ。彼女の温《ぬく》もりを肌で感じていれば、それで良かった。カワヤナギの繁みがつきると、小さな自然の水溜りを見降ろす急|勾配《こうばい》の斜面に出た。アシに囲まれた白磁の皿のような水面が星を浮かべていた。
「ね、きれいでしょう」
夜|啼《な》く鳥の声が静寂を裂き、どこかで蛙がひび割れた声を立てた。深沈《しんちん》とした冬の気配の中で、私は自分の鼓動が聞こえるほどだった。肩に手をやって引き向けると、エルゼは私の腕に頭を預けた。私は屈《かが》み込んで彼女に接吻《せっぷん》した。
彼女は私にしなだれかかり、濡《ぬ》れた唇を割って私を迎えた。と、ふいに彼女は体を堅くして顔をそむけた。打って変わって私を突きのけようとする彼女の顔には、激しい憎悪が浮かんでいた。私たちはひとしきり揉《も》み合った。彼女は思いのほかに力が強かった。執拗《しつよう》な抵抗に遭って私は気を殺《そ》がれ、彼女を放した。
「あなた……何をするの……」エルゼは声をつまらせて肩で息をした。「私がドイツ人だから、あなたは私を自由にできると思っているのね。|人でなし《フェアフルフト・ケルル》! |顔も見たくないわ《イヒ・ハッセ・ジー》!」
エルゼは怒りの涙に頬を濡らし、踵《きびす》を返すと一目散に走り去った。カワヤナギの繁みがその後ろ姿を隠すと、私は嘲《あざ》けるような蛙の声を聞きながら一人その場に立ちつくした。
事務所の前で格納庫に寝に帰るセイトンと鉢合わせした。
「何だ、どうした?」彼は太い眉を寄せて言った。「傷口がまた割れてるじゃないか」
私は額に手をやった。指先に血が滑《ぬめ》った。エルゼが揉み合った拍子に引っ掻《か》いたに違いない。
「何でもない」私は言った。「木の枝が当たっただけだよ」
セイトンはふんと鼻を鳴らして格納庫のほうへ歩み去った。カーター夫婦の部屋の前を通ると、ダイアナの激した声が聞こえた。「わかったわよ。言っときますけどね、私がその気なら、いつだってマルカム・クラブで……」
私は閉鎖された険悪な空気の中に引き戻されていた。そこから抜け出す唯一の機会をつかみ損《そこ》ねたことが悔やまれる。苦い思いで私は床についた。自分自身に腹を立ててもいた。エルゼが言ったとおりなのだ。私は彼女のことをチョコレート一つで買うことのできる占領下の街の女のように扱おうとしたではないか。
翌日、来訪者があった。ダイアナが有線電話で格納庫に取り次いだ。
「空軍の将校さんと、航空省のガーサイドさんていう人。ビルに話があるんですってよ」
たまたま電話に出た私がそれを伝えると、セイトンはまるで笞《むち》で打たれでもしたように跳び上がった。「こっちへ来させないように言ってくれ。俺が事務所へ行って会う」彼は作業台に目を走らせ、がらくたの中に埋もれた部品を掻き集めた。「タビー。こいつをどこか裏へ持ってって隠せ。ここをよくあらためて、旧いエンジンの部品は一つも残すな。五分か十分は俺が向こうで時間を稼ぐから」
「耐空性試験の前に機体を見に来ただけのことじゃあないのかな」タビーは言った。
「あるいはな。でも、用心にこしたことはない。君は顔を出さないほうがいいぞ、ニール」
セイトンはあたふたと格納庫を出て行った。タビーはただならぬ気配で作業台のあちこちを見渡し、部品を拾ってはズックの袋に投げ込んだ。私は捜査の手が伸びたかと不安を覚えながら、なす術《すべ》も知らずにただタビーのすることを見守っていた。
タビーが袋を隠して戻るところへ、セイトンが二人の男を案内して来た。「うちの技術屋です」彼は言った。「カーターとフレイザー。タビー、こちら、空軍情報部のフェルトン中佐。こちらは民間航空省のガーサイドさんだ。それで、具体的に、そちらが見たいとおっしゃるのは?」
セイトンは努めて愛想よくふるまっていたが、怒り肩に首を埋めるようにしているのを見れば、臓物が煮えくり返っていることがわかる。
「いや、事実プロトタイプを持ち込んだものならば、目につくところへ転がしておくような真似《まね》はしないでしょう」空軍将校が言った。「そこで、現在それに基いて作業している設計図を見せていただきたい」
「あいにくですが、それだけはお断りします」セイトンは撥《は》ねつけた。「完成したエンジンを見せる分にはかまいませんがね、設計図は飛行機が飛ぶまで秘密です」
「あまり協力的じゃありませんね」情報将校は言った。
「当たり前でしょうが」セイトンはむっとした。「ドイツの会社が、イギリスの家内工業に企業秘密を盗まれたと訴えた。たちまちイギリスの役人はドイツの会社に味方して、うちへ調べに来る。私にどう協力しろっていうんです?」
「私個人としては、ドイツの会社が泣こうが喚《わめ》こうが、どうでもいいことです」フェルトン中佐は言った。「ただ、先方は航空管理委員会に話を持ち込んで、調査の必要を認めさせたのです。私はBAFO〔占領空軍司令部〕からの命令を受けています。ここにいるガーサイドは管理委員会の要請で調査に当たっているわけです」
「ラウフ・モトーレン社はプロトタイプの設計図を提出したんですか?」セイトンは尋ねた。
「いいえ」
「だったら、私が設計を盗んだかどうか、うちの図面からどうしてわかるっていうんです?」
情報将校は連れの男をふり返った。
「私が聞いたところでは」ガーサイドが引き取って答えた。「ラウフ・モトーレンは、設計図はプロトタイプのエンジンと一緒に持ち去られた、と主張しています」
「図面なんぞは引き直せばいいじゃないか」
「設計者がすでに故人でしてね。例の、七月二十日のヒトラー殺害の陰謀に荷担した疑いで、仕事の最中に引っ張られて収容所送りになったんですが、ドイツ当局も馬鹿《ばか》なことをしたものです」
「それじゃあ、こっちの知ったこっちゃない」セイトンは吐き捨てるように言った。
「特許権侵害の申立てをしているのがラウフ・モトーレンだということを、あなたはどうして知っているんです?」情報将校が尋ねた。
「だから、言ってるでしょう。私はラウフ・モトーレンのプロトタイプを見て、知恵が湧《わ》いたんだ」セイトンは穏やかに答えた。その自制心は実に見上げたものだった。「現に同じ会社がラインバウムとかいう男を使ってうちを乗っ取りにかかりましたよ。ここにある飛行機も、工作機械も、その男に抵当権を握られているんです」彼は正面から二人に向き直った。「イギリス政府はいったいどういうつもりですか? 自分の国でこつこつやってる私らみたいな者を踏みつぶしてでも、ドイツの会社に新型エンジンを開発させたいのかね? カーターと私は、かれこれもう三年、この仕事にかかりきりですよ。もし、すでに実用段階に達しているラウフ・モトーレンのプロトタイプを失敬して来たんだとすりゃあ、私ら、とうの昔に空を飛んでますよ。それがどうです。このとおり、抵当権で首を締められて、二基目のエンジンだっていつ出来上がるかわかったものじゃない」
調査に来た二人はそっと視線を交《かわ》した。
「そっちがプロトタイプを横取りしたことが証明されないとなると……」情報将校は肩をすくめた。「ただ、まずいことに、管理委員会はドイツに味方しているのでね。私個人は、そんな気持ちはないと思ってくれていいんだ、セイトン。三年前はドイツへ飛んで行っては爆弾を落としていた立場だからね。君が完成したプロトタイプを分捕《ぶんど》ったのだとしても……」彼は調査役をふり返った。「どうだろうかね、ガーサイド?」
航空省の男は空しく格納庫を見回して思案げに言った。「仮にそうだとしても、今となってはもう、立証はむずかしいでしょう」ガーサイドはセイトンに向き直った。「いずれにせよ、あなたはあなたでこのエンジンに三年という時間をかけているわけですね。私としては、なるべく早いうちに特許を押さえることを勧めますね。ラウフ・モトーレンがエンジンを開発して特許を申請すれば、特許庁は当然、両方の設計を比較しますから」
「私はね、ラウフ・モトーレンでプロトタイプを見て、すぐ空軍司令部に、ドイツではこんなことをやっているというのを文書にして出したんだ」
情報将校はうなずいた。「ああ、あの報告書は私も読んだ。航空省の倉庫から見つけ出すのがひと苦労だったよ。君の取った行動は正しい。その点については心配ない。ただ、ガーサイドの言うように、特許は押さえておくことだな。一日遅れれば、その分だけドイツ側の言い分が説得力を増すようになる」彼はセイトンの手を握った。「成功を祈るよ」
「事務所へ寄って、コーヒーでも飲んで行きませんか」セイトンは二人を急《せ》き立てるようにして格納庫を出て行った。
「いったいどういうことなんだ、タビー?」ドアが閉じるのを待ちかねて、私は尋ねた。
「飛行機が完成しても、依然として問題は残るということだね」タビーは気のない返事をして再び作業台に向った。
セイトンは上機嫌で戻って来ると、にったり笑って言った。「やつらには黙っていたけどな、設計図はもう特許庁へ出してあるんだ。俺を出し抜くつもりなら、ラウフ・モトーレンはのんびり構えちゃあいられまい」
「さっきの二人、ランドールの線を手繰《たぐ》って来たんだろうか?」タビーは眉をくもらせた。
「ランドール? 冗談じゃねえ。ランドールが尻尾をつかまれたら、それこそ大ごとだ」
その夜、食事の席でセイトンはロンドンへ出かける予定を話した。「ちょっとディックに会って来る。それに、特許庁にも顔を出しておく必要があるからな」
ダイアナはフォークを口へ運びかけて宙に止めた。「どのくらい行ってるの、ビル?」張りつめた声だった。
「二日ばかりな」
「二日?」
不思議なもので、朝晩顔を突き合わせていると、目の前で何かが起こっていながら、あまりにも微々たる進展ゆえに気づかずにいることがある。タビーは妻を横目で見た。蒼《あお》くなって体を堅くしている。一瞬、室内の空気は電気を帯びたように張りつめた。ダイアナはその口ぶりに、はしなくもセイトンに思いを寄せていることを覗かせてしまったのだ。タビーにはそれがわかった。セイトンにしたところで何も感じないはずがない。彼女から目をそらせて、取ってつけたような返事をした。「ここを空けるのは一晩だよ。それだけのことさ」
私はいたたまれない気持ちを味わった。どうというほどのやりとりがあったわけではない。にもかかわらず、ダイアナは滑走路の真ん中で声を限りにセイトンへの思慕を訴えたに等しかった。予定を尋ねた時のただならぬ気配も、「二日?」、とまるでそれが永遠を意味するかのようにおうむ返しに言った声の抑揚も、彼女の心を剥《む》き出しにしていた。稲光《いなびかり》を伴って頭上を脅かす嵐《あらし》の前の雲のように、沈黙は重苦しくテーブルを覆った。
タビーは拳《こぶし》を握り締めていた。今にも彼がテーブルをひっくり返してセイトンにつかみかかりはしないかと、私は気が気でなかった。戦争中、沈着冷静で分別のある男たちが、恐怖と狭い兵舎の抑圧に耐えかねて常軌を逸した行動に走るのを私は何度も見た。
しかし、そこはサクソン人種の鈍重な性格を絵に描いたようなタビーのことである。彼の椅子《いす》が床に軋《きし》る音が沈黙を叩き割った。「ちょっと外の空気を吸って来る」かすかに声をふるわせてタビーは言った。その声と、丸顔の中で異様に光る小さな目だけが彼の煮えくり返る腹の裡《うち》を示していた。席を立った彼の頬は心なしか引きつっていた。彼は馬鹿丁寧にドアを閉じた。足音は凍《い》てついた土の上を森のほうへ遠ざかった。
私たち三人は、しばらくは声を失っていた。ややあって、セイトンは言った。「行って声をかけてやれ、ダイアナ。ここであいつに出て行かれると困る。あいつがいなくなったら万事休すだ」
「あなた、エンジンよりほかに考えることはないの?」ダイアナは眉を吊り上げて叫んだ。
彼女を見返すセイトンの顔に浮かんだものを何と言ったら良かろうか。情熱と焦燥がないまぜになったその表情は、ある種の自嘲《じちょう》と読めないでもなかった。
「俺にはそれしかないんだ」深いところから絞り出すように、彼は言った。
ダイアナはテーブルごしに蒼ざめた顔を突き出した。目を大きく見開いて肩で息をする彼女の姿には、ラスト・スパートに死力をつくす走者を思わせるものがあった。「ビル、私、もうたくさん。わからないの? あなたは……」
「俺のほうから来てくれと頼んだ覚えはないぞ」セイトンは声を荒げた。「俺は来てほしくなかったんだ」
「私がそれを知らないとでも思ってるの?」二人は私がそこにいることも忘れて睨《にら》み合った。絡《から》み合った視線は、互いに相手の奥底にあるものを抉《えぐ》り出そうとしていた。「でも、現に私はここにいるのよ。こんなことがいつまでも続いたら耐えられないわ。あなたは支配者よ。私まで支配しているのよ。あなたが何日留守だろうと、私はかまわないわ。でも、私……」彼女はふっと口をつぐみ、はじめて気づいたような目つきで私をふり返った。
立とうとする私の手をとっさにつかんで、セイトンは言った。「ここにいろ、ニール」彼はダイアナと二人きりになることを恐れていたのだと思う。何かにすがりつくように私の手をつかんだまま、彼はダイアナに向き直った。「タビーのとこへ行ってやれ」すでに感情の波は去って、彼の声はあくまでも冷やかだった。「あいつには君が必要なんだ。俺は、君に用はない」
ダイアナは唇を小刻みにふるわせてセイトンを見つめた。何とかして彼が二人の間に築いた壁を突き崩そうとしているに違いなかった。しかし、そうする間にも、セイトンの言葉は深く彼女の胸を刺していた。彼女の目に涙があふれた。ダイアナは席を蹴《け》って立ち去った。彼女の部屋のドアが音を立てて閉じる刹那《せつな》、私は圧し殺した嗚咽《おえつ》を聞いたと思った。
セイトンはやっと私の手を放した。「まったく、女なんぞは糞喰《くそくら》えだ」彼は吐き捨てるように言った。
「君はダイアナをものにしたいのか?」私は考えるより先に尋ねていた。
「そりゃあしたいさ」セイトンはヴァイオリンの弦のように張りつめた声をふるわせた。「それは向こうもわかってる」彼はふてくされた口ぶりで言い、大儀そうに立ち上がった。「でもな、俺はダイアナじゃなくたっていい。女なら誰だって同じことだ。それも、あいつは知っている……今ではな」部屋の中を行きつ戻りつしながら、彼は無意識にポケットの煙草《たばこ》を探《さぐ》った。「俺はずっとここで、世の中とは縁を絶って暮して来たんだ。そうさ。俺は将来だけを考えて来た。あとひと息。俺の夢が実現するのももうじきというところまで漕《こ》ぎつけた。それが、一人の女が俺の生理的な欲求を見抜いたばっかりに、下手《へた》をすりゃあ、これまでの努力も水の泡だ」
「ダイアナを遠ざけることだってできないわけじゃないだろう」
「あいつが出て行きゃあ、タビーも出て行く。タビーは自分や、自分の将来よりもダイアナを大事にしているからな」セイトンは足を止めて私に向き直った。「それに、ダイアナだって亭主が好きなんだ。これはただ……」彼はちょっと言いよどみ、それからぶっきらぼうに吐き捨てた。「何て言うか、その、俺は人を愛するようにはできていないんだ。愛なんていう言葉がどだい、俺には理解できない。それはエルゼが知っているよ。俺はあの女が、この辛い時期を乗り切る助けになってくれるものとばっかり思っていたんだ。ところが、いざとなったら、こっちに備えのないことを要求しやがる」彼はふんと鼻を鳴らした。「その点、ダイアナは違う。でも、ダイアナにはタビーがいるからな。要するに、ダイアナはちょっと目先を変えてみたいだけの話よ。女には必ずそういうところがある。飽きっぽくて、わがままだ。どうして今のまま満足するっていうことができないんだ?」彼は私の肩を強く押さえた。「行ってタビーと話してくれないか、ニール。あいつに……ああ、何を話そうと、それは君の勝手だ。何でもいいから、あいつをなだめてくれ。俺一人じゃエンジンは完成しない。君がいたって、それは同じだ。この仕事は、あいつがはじめからやって来たことだからな。プロトタイプは失敗だったよ。それから、俺は長いことかかって機械のことを勉強してな、人に訊いたり、他所《よそ》から知恵を盗んだりして、改良型をこしらえたんだ。そいつを旧式のハリケーンに積んで飛んだところが、じきに墜落だ。その後、タビーと知り合ったんだ。機械に関しては、あいつは天才だよ。あいつのお蔭《かげ》で何とかここまで来られたんだ。とにかく、あいつと話をしてくれ。少なくとも、もうひと月はいてくれないと困る。タビーに抜けられたら、君だって金をどぶへ捨てたことになる」
タビーは格納庫で静かに仕事をしていた。私がはじめて彼に心から尊敬の念を抱いたのはこの時だったと記憶している。彼は昼間なかなかうまく行かなかったベアリングの組立てをやり直していたが、私が声をかけるより先にふり返って言った。「ビルに言われて話しに来たんだろう」
私はうなずいた。
彼はベアリングを作業台に置いた。「わかっていると伝えてくれよ」彼は私よりも、むしろ自分自身に言い聞かせる口ぶりで言葉をついだ。「ビルが悪いんじゃあないんだ。ビルには何か、ダイアナを惹《ひ》きつけるものがあるんだよ。ここへ来る前から、ダイアナは新しいものを求めてうずうずしていたんだ。ここへ連れて来れば、と思って俺は……」彼は曖昧《あいまい》に手を上げて肩をすくめた。「自然となるようになって行くさ。子供ができればいいんだろうけどね、それが……」彼は溜息《ためいき》をついた。「とにかく、ビルに、気にするなと言ってくれないか。よっぽどのことがないかぎり、ビルを責めるつもりはないよ。そのうち何とかなる」彼は自分にうなずいた。「時間が解決してくれるよ」
セイトンは翌朝、飛行場唯一の交通手段である、くたびれたオートバイで出かけて行った。彼がいなくなってみると、それまですべてがいかにセイトンの執念によって支えられていたかが如実にわかった。人を追い立て、弾《はず》みをつける彼の気迫に代わる何ものもない格納庫は、空気までが薄くなったように感じられた。タビーは仕事に打ち込んでいたが、それは気を紛《まぎ》らせようとする消極的な動機からでしかなかった。時間の経つのがやけに遅かった。私は日が暮れたらエルウッド農場へ出かけてエルゼととっくり話し合おうと思い立った。なぜか彼女のことが気にかかってしかたがない。はじめてメンベリーに迷い込んだ夜、彼女がセイトンと二人で格納庫にいたことに私はこだわっていた。浮いた話ではないことはすでにはっきりしている。私は何としても隠された事実を知らずには済まされない気持ちになった。淋しかったこともある。その意味では、若い女でさえあれば相手は誰でも構わなかったと思う。そうは言っても、近くにはエルゼしかいない。仕事を切り上げると、その足で農場へ向かった。
キッチンのカーテンは閉まっていた。私は正面へ回ってドアを叩いた。衣摺《きぬずれ》の音がして、半白の髪をした年配の女が顔を出した。ジャスミンの微かな香りが漂った。
「エルゼ・ランゲンがいたら、ちょっと会いたいんですが」私はいささかうろたえて言った。
年配の女はにっこり笑った。「エルゼなら二階で着替えしてるところですよ。飛行場の方? じゃあ、フレイザーさんね? さあ、どうぞ。はじめまして。私、エルウッドの家内です」彼女は私を請じ入れて、後ろでドアを閉じた。「飛行場は今時分、さぞ寒いことでしょう。セイトンさんも、ちゃんと暖房の設備をすればいいのにね。私、皆さんに家庭の温《ぬく》もりが恋しいような時はいつでもどうぞって言ってるんですけれど、セイトンさんも忙しい人だから……」
キッチンに入ると、エルウッド夫人は絹のドレスの上にはおったガウンの袂《たもと》を気にしながら、アーガ製のコンロに向かって勢いよく鍋《なべ》を掻きまぜた。「食事はもうお済み、フレイザーさん?」
「いえ、まだですが……」
「だったら、ご一緒にいかが? シチューしかありませんけれど……」夫人はちょっと口ごもった。「今日は私が料理番で。これから赤十字のダンス・パーティでモールボロまで出かけるものですから。それもね、エルゼのためなんですよ。可哀相《かわいそう》に、あの娘はうちへ来てから、ほとんどどこへも行っていないでしょう。そりゃあ、あの娘は世間で言うDP〔難民〕だし、うちでは下働きですけれどね。でも、どうしてDPなんて言うんでしょう? 厭《いや》な呼び方だことね。いえね、下働きだろうと何だろうと、年頃の娘をこんな楽しみも何もないところに閉じこめておくのは気の毒じゃありませんか。飛行場の皆さんはちっとも顔を見せて下さらないし。ここはなにしろ淋しいところだし。あなた、エルゼをどうお思いになって? 好い娘でしょ、フレイザーさん?」
「とても好い娘だと思いますよ」私は曖昧に答えた。
エルウッド夫人は小首を傾《かし》げるふうに私をふり返った。灰色の羽をした小さな雀《すずめ》を思わせる夫人は、何もかも見通している気配だった。「今夜は何か予定がおあり?」
「いえ、ただちょっと……」
「だったら、一つお願いがあるんですけれど。一緒にダンスに行って下さらないかしら。そうして下さると、とても有難いの。実はね、息子に来てもらうことにしていたんですよ。スウィンドンの鉄道に勤めていましてね。それが、今日の午後になって電話を寄越して、急にロンドンへ行く用事ができたとかで。エルゼがイギリス人なら私だって何も心配しやしません。でも、田舎《いなか》というのがどんなところか、あなたもおわかりでしょ。それに、何と言っても……」夫人は声を落とした。「あの娘はドイツ人ですから。ね、人助けと思って、一緒に行ってやって下さいな」
「そう言われてもねえ、着るものもないし」
「ああ、着るものね!」夫人はその場で私を夜会服姿に変身させる魔法使いの思い入れでスプーンをふり立てた。「それなら心配いらないわ。ちょうど息子と背|恰好《かっこう》も同じようだし。ちょっと、いらっしゃい」
なるほど、出された服は私にちょうど良かった。こうなったら乗りかかった船である。着替えを済ませて階下に降りると、大広間にエルウッド夫妻とエルゼが顔を揃《そろ》えていた。この家の主《あるじ》、在郷軍人のエルウッド大佐は暖炉の炎にきらめくデカンターから食前の酒を注いでいるところだった。長身で姿勢が良く、銀髪を戴《いただ》いて彫りの深い面長の紳士である。夫人は絹のドレスの裾《すそ》をさばいて小まめに座を取り持った。エルゼは大きな肘掛《ひじかけ》椅子に体を沈めて暖炉の火を見つめていた。濃紺のドレスを着た彼女の顔から肩へかけて、白い肌は大理石のようだった。孤独に怯《おび》える風情で、彼女は私をふり返ろうともしなかった。自分の殻に閉じこもっているらしいことは傍目《はため》にもそれと感じられた。エルウッド夫人の声に彼女ははじめて顔を上げた。「フレイザーさんは紹介するまでもないわね」
エルゼは私を見て目を丸くした。私は彼女が床を蹴って走り去るのではないかとどぎまぎした。
「こんばんは」エルゼはそっけない挨拶《あいさつ》をしたきり、無表情に暖炉に向き直った。
食事中、彼女はひとことも口をきかなかった。車に乗ってからも、彼女は私を避けて向こう側のシートの隅に小さくなっていた。ヘッドライトの鈍い照り返しの中で、彼女の顔は白くぼやけて、表情も定かでなかった。暖かい会場で、ダンスがはじまってからやっと彼女は頑《かたく》なな沈黙を破った。見知らぬ人々に囲まれた孤独感が彼女に口を開かせたのだろう、とその時私は理解していた。
「どうしてダンスに来る気になったの?」
「淋しかったからね」私は言った。
「淋しかった?」エルゼは私を見上げた。「でも、飛行場には皆がいるでしょう」
「僕はたまたまあそこで仕事をしているというだけのことなんだ」
「でも、親しい仲間でしょう」
「三週間前は顔も知らなかったよ」
彼女は首を傾《かし》げた。「あなたは共同経営者じゃないの? お金を出したんでしょう? 第一、見ず知らずだったら、どうして一緒に仕事をするようになったの?」
「話せば長いことでね」曲に合わせて彼女を抱き寄せると、急に何もかも話してしまいたい気持ちになった。それを堪《こら》えて、私は言った。「エルゼ。このあいだの晩は済まなかったね。あの時、僕は……」何と言って良いやらわからず、私は質問に転じた。「はじめて僕がメンベリーに来た夜、どうして君はセイトンと二人で格納庫にいたのかな?」
エルゼは私の額の傷に目をやった。「それもまた、話せば長いことなのよ」思案げな口ぶりながら、いつか彼女は打ちとけていた。「あなたって、不思議な人ね」
「あの時、セイトンはどうして僕のことを君の知り合いだと思ったんだ?」私は重ねて尋ねた。「何と思ってドイツ語で話しかけて来たんだろう?」
エルゼはすぐには答えなかった。はぐらかされたかと諦《あきら》めかけた頃、彼女は言った。「いつか、そのうちお話しすることになるでしょうね」
しばらく黙って踊った。エルゼは大柄な割には驚くほど身ごなしが軽やかだった。私の腕の中で、彼女はまるでアザミの冠毛のようにふんわりと曲に乗り、それでいて彼女の温《ぬく》もりは大きく私を包み込んだ。その甘美な空気と音楽に身を委《ゆだ》ねているうちに、孤独感は薄れ、ここ何週間かの緊張がゆっくりと解けて行くのがわかった。
「今日はどうして農場へ?」彼女はふいに尋ねた。
「君に会おうと思ってさ」
「謝るために?」エルゼはその晩はじめて笑顔を見せた。「そんな必要はなかったのに」
「だから、さっきも言ったろう。淋しかったんだよ」
「淋しいですって?」彼女は眉を寄せた。「淋しいってどんなことか、あなたにわかるかしら。ねえ、何か飲みたいわ」
一曲終って私は彼女をバーに案内した。
「じゃあ、エンジンの完成を祈って!」彼女は浮きうきしたふうを装っていたが、グラスを傾けながら私を見つめる目は笑ってはいなかった。
「どうして飲まないの? セイトンさんと違って、あなたはエンジンに狂ってなんかいない、ということかしら?」
彼女は狂うという言葉を文字通りの意味で使っていた。
「そのとおりだよ」私は言った。
エルゼはうなずいた。「やっぱりね。あの人にとっては、今ではエンジンが自分の本性の一部になっているのよ。首から大きな石|臼《うす》をぶら下げているようなものね」何やら考え込む様子で彼女は言葉を続けた。「生きているかぎり、人間は皆、それぞれの地獄を抱えているのよ。セイトンの場合は、それがあのエンジン。違うかしら?」彼女は正面から私の目を覗き込んだ。「いつ完成するの?……飛行機が飛べるようになるのはいつ?」
私は答えて良いものかどうか迷ったが、隠したところではじまらない。エルウッド農場は飛行場と隣り合っているのだ。飛行機が飛べば、どうせ知れることである。「うまく行けば、クリスマスまでには飛べるようになるだろうな。耐空性試験は一月第一週の予定だよ」
「そうなの」エルゼはきらりと目を光らせた。「いよいよベルリン空輸に参加するのね。セイトンもさぞ満足なことでしょう」彼女は微かに声をふるわせた。目の奥に浮かんだ興奮の色は一転して怨念《おんねん》に変わった。
「君はどうしてそうセイトンにこだわるんだ?」私は尋ねた。
「こだわるですって? セイトンに?」エルゼは唖然《あぜん》としてみせた。
「恋してるのか?」
彼女は険しい顔で唇を噛《か》んだ。「あの人、あなたに何を話したの?」
「別に」私は言った。
「だったら、どうして恋してるかなんて訊くの? 憎んでいるのに何で恋するもんですか。あの人はね……」彼女はふっと口をつぐんで私を睨《にら》んだ。「失望したわ。何もわかっていないのね。あなたに何がわかるもんですか」グラスを握る彼女の手は関節が白く浮き出していた。
「どうしてセイトンを憎むんだ?」私は尋ねた。
「どうして? たった一つだけ残されたものを、あの人に差し出しているからよ。あの人の前で、私は犬のように地べたに鼻をこすりつけなくてはならないからよ……」彼女は怒りに蒼ざめていた。「それを見て、あの人は嗤《わら》うのよ。面と向かって嘲笑《あざわら》うのよ。まるで私がはしたない娼婦《ヌッテ》か何かのように」彼女はセイトンを憎む以上に自分自身を蔑《さげす》む口ぶりで言った。「そこへ、カーターの奥さんが来たでしょう。セイトンは獣だわ」彼女は声を落とし、悲しげな目つきで混み合ったバーを眺めやった。「あなたは淋しいと言うけれど、これが本当の淋しさだわ。こんなにたくさんの人がいながら、同じ国の人は誰もいなくて、どこへ行っても独りぼっち……」
「僕にはわからないと思うかい?」私は努めて穏やかに言った。「僕はね、一年半、ドイツの強制収容所で暮したんだよ」
「それと私が言っていることとは別よ。収容所だって仲間はいたでしょう」
「脱走してからは独りぼっちだよ。三週間、独りきりでドイツをあちこち逃げ回った」
エルゼは私を見上げて小さく溜息をついた。「それなら、あなたにもわかるかもしれないわね。でも、ここでは独りぼっちじゃないでしょう」
私はいくらか迷ってから言った。「今以上に孤独を感じたことはないね」
「今以上に……」彼女は怪訝《けげん》な顔をした。「でも、どうして?」
私は彼女の手を引いて椅子のあるところへ連れて行った。すべてを話す気になっていた。いずれは打ち明けなくてはならないことである。それに、エルゼはドイツ人だ。イギリスのその筋とは何の繋《つな》がりもない。私の過去を話したところで大事ない。薪《まき》の燃えさかる暖炉の前で、ダンス音楽を遠くに聞きながら私は彼女に、メンベリーに流れ着くまでの経緯を物語った。聞き終えると、彼女は私の手を取った。
「どうして私に話してくれたの?」
私は肩をすくめた。どうしてと訊かれても答えようがない。「踊ろう」私は言った。
それきりお互いにほとんど口をきかず、ただ音楽に浸って時間の流れに身を委《ゆだ》ねていた。しばらくするとエルウッド夫人がやって来て帰りを促した。大佐は明日の朝、早く出掛ける用があるという。車の中でもエルゼは口を閉ざしていたが、行きと違って私の肩にもたれていた。私は彼女の手を握った。彼女は拒《こば》もうとしなかった。「どうして黙ってばかりいるの?」私は尋ねた。
「ドイツのことを思い出していたの。楽しかった頃のことを。ヴィースバーデンは知っていて?」
「空から見たことがあるだけだね」私は言った。エルゼが唇を噛むのを見て、まずかったと思ったが、もう遅い。
「そうでしょうね……空からね」彼女は手を引っ込めた。同時に自分の殻に閉じこもってしまい、車がメンベリーの登りにかかるまで再び口を開くこともなかった。農場に近づくと、彼女は声をひそめて言った。「もう会いに来ないで、ニール」
「そうは行かないな」
「いけないわ」思いがけない激しさで彼女は言い、暗い中で目を光らせながら私の手を握った。「お願いだから、わかってほしいの。私たち、壁の割れ目からちらっと覗き合っただけでしょう。父がナチスにどんな目に遭わされようと、私はやっぱりドイツ人よ。私はそのことにすがりついて生きて行くしかないの。今となっては、それが私に残されたすべてですもの。私はドイツ人よ。あなたはイギリス人。それに、あなたは飛行場で……」エルゼは口をつぐみ、握り合う手に一層力をこめた。「私、今でももうあなたに近づきすぎているわ。お願いだから、もう会いに来ないで。お互いのためにも、これ以上会わないほうがいいの」
私は答えるべき言葉もなかった。飛行場へ通じる道が分かれるところで車が止まった。「服は明日返して下さればいいわ」エルウッド夫人が言った。私は車を降りて、夫妻の一晩の好意に礼を言った。ドアを閉じようとすると、エルゼが身を乗り出して言った。「イギリスではダンスの相手におやすみのキスをするのではなくて?」暗がりに、目を大きく見開いた彼女の顔が白く浮かんでいた。私はその頬に接吻するつもりでかがみ込んだ。彼女は唇で私を迎えた。「さよなら」彼女は小さく言った。
エルウッド夫妻は陽気に笑いながら走り去った。私は赤い尾灯が農場の馬車道へ曲がり込むまで見送り、エルゼの言ったことを頭の中で繰り返しながら事務所へ戻った。
それきり三週間近く、エルゼの顔を見る機会はなかった。次の晩にはセイトンが帰っていたからだ。航空省は彼に、一月十日をもってベルリン空輸に参加することを求め、耐空性試験日を一月一日と定めた。
以後、毎日が肉体的な疲労の極限だった。仕事以外のことをする時間も体力もなかった。私たちは文字通り、夜を日についで作業に没頭した。休みはおろか、仕事中の小休止もない二週間だった。セイトンは私たちを駆り立てるより、むしろ先頭に立って引き回した。作業は私たちと同じだけこなし、その後も彼は格納庫で遅くまでタイプライターを叩き続けた。物資を注文し、借金の言い訳をし、会社経営の裏方仕事はすべて彼が一手に引き受けていた。私はそういうセイトンをかぎりなく尊敬したが、なぜかその孤軍奮闘ぶりに同情を寄せる気にはなれなかった。セイトンは畏敬《いけい》すべき男ではあっても、好感を持てる相手ではなかった。彼は人間離れしている。私たちが組立てを急いでいる機械仕掛けと同じで、切っても赤い血は出ないのではないかとさえ思われた。あるいはまた、彼は自分の馬から最後の一オンスの力まで引き出すことを心得ている馭者《ぎょしゃ》に似て、次の宿駅に時間通りに行き着きさえすれば、馬が泡を吹こうとどうしようとかまわない態度でひたすら私たちをせき立てた。
苦しかったが、ある種の興奮を味わったことも事実である。その興奮に支えられて、何とかクリスマスまで持ちこたえたのだと思う。本格的な寒さがやって来て、飛行場の地面は堅く凍《い》てついた。晴れた朝、滑走路は霜で真っ白だった。もっとも、たいていはどんよりと曇った空の下に灰色に侘《わび》しく横たわっているばかりで、その滑走路のふちの耕された黒土は冷え固まった熔岩《ようがん》のように凍結し、叩けば金属的な音がした。暖房設備のない格納庫はまるで氷で建てられた霊廟《れいびょう》だった。私たちはひたすら仕事に精を出し、疲労|困憊《こんぱい》するまで体を痛めつけることによって寒さを凌《しの》ぐしかなかった。
セイトンはエンジンの完成を十二月二十日、取付けを二十三日、最初の試験飛行をクリスマスと予定した。厳しい日程だった。試験にはまる一週間ほしいところだった。私たちは連日徹夜で頑張った。それでも予定は遅れがちで、二基目のエンジンがやっと完成したのはクリスマス・イヴのことだった。
夜八時半に最後の調整が終った。私たちは疲れ切って朦朧《もうろう》としながら、黒光りする金属の複雑な塊を打ち眺めた。誰も口を開こうとはしなかった。私は煙草を取り出してセイトンに放った。彼は吸いつけて深々と一服した。ほかにこの緊張をほぐす術はないとでもいうふうだった。「ようし。オイルを入れろ、タビー。燃料をチェックしろ。ダイアナを呼んでやろう。始動するところを見たいだろうからな」
彼が事務所に電話をする間に、私はタビーを手伝ってエンジンにオイルを入れた。燃料が満タンになっていることを確かめてから、給油ホースを繋《つな》ぎ、電気系統を点検した。
私たちは張りつめた沈黙の裡《うち》にダイアナを待った。五週間の労働の形見が目の前にある。スターター・ボタンのひと押しが私たちの仕事に審判を下すのだ。これは切削加工から組立てまで設備のととのった工場で完成した製品ではない。何から何まで手作りの細工ものなのだ。精密加工のどこか一か所に毛筋ほどでも疵《きず》があれば……。私は今さらのように重たい疲労を意識した。エンジンが完璧《かんぺき》に仕上がっていると考えるほうが誤りではないかという気がした。
ドアを叩く音が不必要にけたたましく感じられた。タビーがドアを開けて妻を迎え入れた。
「ほら、見ろ、ダイアナ」セイトンはエンジンを指さして、心なしか上ずった声で言った。「君が一所懸命やってくれた結果がどうなったか、お目にかけようと思ってな」
私たちは無理に笑った。
「ようし、タビー。やってくれ」セイトンはぎこちなく肩を揺すり、自分はエンジンに背を向けて作業台の端に立った。スターターに手を触れるどころか、始動のさまを見るさえ辛いとでもいうふうに、彼はしきりに煙草を吹かしながら、意味もなく作業台に転がった半端《はんぱ》の部分を弄《もてあそ》んだ。
タビーは戸惑い顔でセイトンのほうを窺《うかが》った。
「いいから、早くやれ」セイトンはぞんざいにタビーを促した。
タビーはちらりと私を見やり、唾《つば》を呑《の》み込んで、すでに接続されているスターター・モーターの前に立った。彼はスイッチを入れた。エンジンは始動したが、金属の擦れ合う耳障《みみざわ》りな雑音が混じって回転が上がらなかった。タビーはエンジンを止め、熟練した職人の目で点検と調整を繰り返した。再度スターターを押すと、雑音はかなり減って回転が上がりはじめた。と、思う間もなく、破裂音がしてエンジンはノッキングを起こした。スターターが唸《うな》り、咳《せ》き込んで止まったエンジンに代ってモーターの空回りする音が激しく格納庫を揺さぶった。タビーはすかさずスイッチを切り、制御装置を調整し直した。今度は滑らかに回転が上り、底力のある響きに雑音もなく、エンジンは発電所のタービンのように安定して回り続けた。
セイトンは煙草を揉《も》み消して、作業台に沿ってエンジンに近づいた。顔が汗で光っていた。「大丈夫だな」彼は爆音に逆らって叫んだ。半ば断定、半ば質問の口ぶりだった。タビーはふり返ると、丸々とした童顔を皺《しわ》くちゃにして嬉しそうにうなずいた。「キャブレターはまだ調節の必要があるがね。それと、点火のタイミングが……」
「そんなものはうっちゃっとけ」セイトンは声を張り上げた。「調整なんぞは明日でいい。これで行けるとわかれば今日のところは上等だ。ようし、もう止めろ。乾杯しよう。なあ、これまで頑張った甲斐があるというもんだ」
タビーがエンジンを止め、格納庫に嘘《うそ》のような静寂が戻った。しかし、もはや最前までの重苦しい緊張はなかった。私たちは有頂天で肩を叩き合った。タビーはダイアナを抱きすくめた。私たちの興奮が乗り移って彼女は目を輝かせ、もうじっとしてはいられない様子だった。「キスしてもらいたい人は?」彼女はそばにいた私をつかまえて唇を重ねて来た。そして、彼女はセイトンにすがりつき、菜っ葉服の背中に腕を回して思うさま彼に唇を押しつけた。セイトンは邪険に彼女の手をふりほどいた。「もういい。それより乾杯だ」彼は声をとがらせた。
セイトンがこの日のために取っておいたウイスキーを開けた。
「空輸の前途を祝して」彼が音頭を取った。
「乾杯」私たちはグラスを上げた。
ストレートで飲みながら、私たちは興奮に駆られてエンジン取付けの段取りについて話し合った。試験飛行の成績も楽しみだった。二基のエンジンで飛行機はどこまで性能を発揮するだろうか。セイトンは四発のエンジンの外側の二基は、離陸の時だけ使用する方針だった。改良して出力を上げたサタン・マークU二基で飛行は充分という考え方である。話題はそれからそれへ発展した。会社の規模拡大。将来購入すべき飛行機の機種。開設すべき路線。大量生産に乗り出す場合に買収する製造会社……。壜《びん》はたちまち空になった。セイトンは最後の一滴を逆さにふって、空壜をコンクリートの床に叩きつけた。「こいつは俺の生涯最高のスコッチだ」彼は声を張り上げた。「その空壜をごみ溜《た》めに転がしてなんぞおけるものか」スコッチの酔いと興奮が一つになって、目が据わっていた。
私たちのグラスも空になり、皆、拍子抜けしたように口をつぐんだ。これで終りにするにはいかにも惜しい夜だった。セイトンも気持ちは同じらしかった。「おい、タビー」彼は言った。「お前、あのおんぼろオートバイでひとっ走り、ラムズベリーまで行って来ないか。二本ばかり買って来いよ。値段なんぞは気にするな」彼は私をふり返った。「いいだろう、ニール? 付けを払うのはお前だけどな」
私がうなずくと、セイトンは私の肩を叩いた。「金を出しちゃあもらったが、後悔はさせないからな。聖書に出て来る、九百六十九年生きたとかいうメトセラよりもっと長生きしたとしてもだ。これ以上の有利な投資はありゃあしめえ。スコッチだ、タビー!」彼は腕をふりまわした。「オートバイですっ飛ばせ。酒が切れてるんだ。さあ、行け。皆で見送ってやる。サドルバッグに二本ばかり突っ込んで、帰って来たら、万歳で出迎えてやる」
私たちは笑い転げながらオートバイの置いてある小屋に向った。タビーは喜色満面、さながら愛馬に拍車をくれるかのようにオートバイの尾部を叩き、ギアを入れて轟然《ごうぜん》と走り出した。テイルライトが木の間を遠ざかると、あたりは急にしんと静まり返った。セイトンは手の甲で目をこすった。「中へ入ろう」彼は大儀そうに言った。目尻の筋肉が引きつっていた。疲労の極限に達している。それは誰もが同じだった。こんな時は愉快に飲むのが一番だ。私はふとエルゼのことを思い出した。「今夜はパーティと行かないか。エルウッド夫婦を誘って来るよ」大佐夫婦が出掛けて来るはずはない。しかし、エルゼは諦《あきら》めたものでもあるまい。セイトンが引き止めるのをふり切って私は歩き出していた。
母屋の窓の明りは親しげに差し招くかのようだった。
エルウッド夫人は私を見て大仰に驚いた。「あらまあ、フレイザーさん。もう他所《よそ》へいらしてしまったのかと思っていましたよ」
「このところ、えらく忙しかったもので」私は口ごもった。
「さあ、どうぞ、お入んなさい」
「いえ、ここで結構です。実は、これからうちでパーティをやるもんですから、大佐とお揃いでお出掛け下さいませんか。良かったら、エルゼもどうぞ」
夫人はきらりと目を光らせた。「エルゼがお目当てね。まあ、残念だことねえ。せっかくあなたが来て下すったのに。エルゼはロンドンへ行ってるの。何か移動の手続きだとかで。ご存知《ぞんじ》なかったかしらね。あの娘《こ》、ドイツへ帰るんですよ」
「ドイツへ?」
「ええ。それが、本当に突然でね。あの娘がいなくなったら、どうしたらいいだろうって家で言ってるんですよ。本当によくやってくれましたから」
「いつ出発ですか?」私は尋ねた。
「ここ二、三日中だと思いますけれど。なにしろ急な話でね。このあいだのダンスの後、あの娘のところへ手紙が来て、お兄さんの加減がとても悪いとかで。それで国へ帰ることになったんですけれど、書類のことで何か厄介があるらしくて。出発前にぜひ一度、会ってやって下さいな」
「ええ」私は上の空で答えた。「近いうちにまた来ます」エルゼに兄が二人いるという話は聞いていたろうかと訝《いぶか》りながら、私は後退《あとずさ》った。「お邪魔しました、エルウッドさん。おいでいただけないとは残念です」
背後にドアの閉じる音を聞きながら、私はもと来た道を引き返した。何ということだ。急に張り合いがなくなった。歩いているうちに無性に腹が立って来た。人を馬鹿にした話ではないか。よりによって今晩この夜、エルゼは何でまた外出しなくてはならないというのか。
森の近道を抜けた。向こうに事務所が見えて来たあたりで私ははっと足を止めた。後ろで下枝を分ける音がした。肩越しにふり返ると、暗がりからぬっと人影が現われた。「誰だ?」そういう声はタビーだった。
「ニールだ。スコッチは手に入ったか?」
答える代わりに彼は壜と壜を軽く打ち合わせた。「そこまで来てガソリンが切れてしまってね」舌がもつれ加減だった。パブで何杯かひっかけたか、買ったばかりの壜を早々と開けるかしたに違いない。「こんなところで何をしてるんだ? 森の小人でも捜してるのか?」
「農場まで行って来たところだ」私は言った。
「エルゼか、え?」タビーは笑って私に腕を絡《から》めて来た。
私たちは黙って先を急いだ。窓の明りが木の間ごしに誘導灯のように見えていた。森をはずれると、ちょうど窓を覗く格好になった。セイトンとダイアナが間近く向き合って立っていた。テーブルに酒壜を置いて、二人はグラスを手にしている。「はあてな、どこから湧いて出たのかね?」タビーは首を傾《かし》げた。「ようし、行って驚かしてやろう」
私たちが窓の手前まで進んだところで、ダイアナはグラスを置き、セイトンにすり寄ると、その手を取って何やら話しかけた。ガラスを隔ててくぐもった声が聞こえた。タビーは、つと足を止めた。セイトンはダイアナの手をふり払って行きかけた、彼女は追いすがってセイトンを引き戻し、顔をのけぞらせて笑った。その声は凍《い》てつくような夜気をふるわせて私たちの耳を打った。
タビーは磁力に似た何かに吸い寄せられる夢遊病者のように、怪しげな足取りで窓に近づいた。セイトンは険しい表情でじっとダイアナを見降ろしていた。頬が微かに痙攣《けいれん》するのがわかった。暗がりから覗く窓の中の光景は、さながら人形芝居の舞台面だった。
「そうか、そんなに言うんなら」セイトンの荒《すさ》んだ声は窓ガラスにさえぎられながらも、はっきり聞こえた。彼はぐいと呷《あお》ってグラスを置くと、邪険にダイアナを抱き寄せた。彼女は魂を奪われたかのようにセイトンの腕に体を預け、思うさまあおむいて髪を垂らした。
セイトンは気|後《おく》れする様子で唇を歪めていたが、やがて、さらに強く彼女を抱きすくめた。ダイアナは彼の首に腕を回した。その激情は覗き見をしている私までが気圧《けお》されるほどだった。そうする間も、私は絶えず傍にいるタビーを意識していた。舞台の袖《そで》で出を待つ心境で私は成りゆきを見守った。セイトンは酔いに顔を赤らめながら、荒々しくダイアナのドレスをまさぐった。と、彼はいきなりダイアナを突き放した。「もういい、ダイアナ。一杯|注《つ》いでくれ」
「そんな!」彼女は再びセイトンにすがりついた。「あなたがほしいのは私よ。お酒じゃないわ。自分でわかってるくせに。ねえ、ビル……」
彼はダイアナの手をふりほどいた。「注いでくれと言ってるだろう」
「じれったい人ね。どうしてそんなに意地を張るの?」彼女はセイトンに体をすり寄せ、彼の口の両端に深く刻まれた皺に沿って指を這《は》わせた。「あなたは私がほしいの。あなたは自分の気持ちを知っているはずよ」
タビーは身じろぎもせず、そのせいで私もまた、その場に釘付《くぎづ》けにされていた。
セイトンはゆっくりと手を上げ、ダイアナの肩をつかむと、投げ捨てるように突き飛ばした。彼女はよろけてテーブルの端にすがった。セイトンは二歩進んで彼女に覆いかぶさるように立つと、顎《あご》を突き出して彼女を睨んだ。
「馬鹿者が!」彼は怒鳴った。「俺にとって、お前なんか何でもないっていうのがわからないのか? いいか、お前なんか鼻を引っ掛ける価値もないんだ。身のほどをわきまえろ。この際はっきり言っておく。俺にはもっと大事なことがあるんだ。お前みたいな女にぶち壊しにされて堪《たま》るか」
「私みたいな女で悪かったわね!」ダイアナは怒鳴り返した。「そりゃあ、大事な大事なエンジンにくらべたら私なんてどうでもいいでしょうよ。でも、エンジンを抱いて寝られやしないじゃないの。私なら、好きなようにしてくれて構わないのよ。一晩くらい、エンジンのことなんて忘れたらどうなの。あなた、私がほしくてしようがないんでしょう。手を出したくてうずうずして……」
「うるさい!」
そう言われて黙るようなダイアナではなかった。彼女は媚《こ》びた笑顔すら浮かべてセイトンの気をそそった。「あなたはね、女っ気なしでいられるようにはできてないのよ。私のことを思って夜もろくろく寝られないんでしょう。違う? 私だって、あなたのことを思って毎晩辛いのよ。ねえ、ビル。いつまでこんな……」
「止さないか!」セイトンは額に青筋を立てて叫んだ。
ダイアナは声を落として、なおも彼を誘った。言葉は聞こえなかったが、彼女の目つきやそぶりを見れば、何を言っているか、あらかた想像できた。セイトンはそっと手を拡《ひろ》げて彼女を迎えようとするかに見えた。と、いきなり彼はずいと踏み込んで、ダイアナの頬に往復びんたを喰《くら》わせた。「止せと言ったら止さないか! 顔も見たくない」
ダイアナは口を押えて後退《あとずさ》った。顔面蒼白だった。今にもわっと泣き崩れるのではないかと思われた。セイトンは酒壜に手を伸ばした。「優しく言っているうちに注がないから悪いんだ」彼はもう声を張り上げはしなかった。「これからは、もっとよく相手を選ぶことだな」
彼は壜を小|脇《わき》に抱え、行きかけて戸口でふり返った。慰めの言葉をかける気になったのだと思う。しかし、ダイアナの目に燃える激しい怒りを見て、彼の態度は硬化した。
「俺とタビーの間に波風を立てるような真似をしてみろ」彼は陰《いん》にこもって言った。「その首をへし折るぞ。わかったか?」彼は乱暴にドアを開けて立ち去った。
踵《きびす》を返す閑《ひま》もなく、表のドアが開いて私とタビーはこぼれ出た光の中に捉《とら》えられていた。セイトンはぎくりとした。「お前たち、いつからここに……」彼はドアを叩きつけるように閉めた。「見せ物じゃねえや。俺は格納庫にいるからな」凍土を踏む硬い足音が森の暗がりを遠ざかった。
タビーも私も、しばらくはその場に立ちつくしたままだった。冬の夜の静寂の底に、散らかったテーブルに突っ伏したダイアナの嗚咽《おえつ》が洩れ聞こえて来た。タビーは氷のように冷たくなった二本の壜を私に押しつけた。「これを格納庫へ持って行ってくれ」彼は強張った声で言った。
私は重たい足を引きずって事務所へ入って行くタビーの背中を見送った。根が生えたように、私はその場から動くことができなかった。食堂の奥のドアからタビーが姿を現わした。第二幕の愁嘆場を見るに忍びず、私はセイトンの後を追って格納庫へ急いだ。
セイトンは作業台のベンチに掛けて、完成したエンジンを眺めながらラッパ飲みしていた。「こっちへ来いよ、ニール」彼は壜を差し上げた。「一杯やれ」すでに呂律《ろれつ》が怪しかった。私が格納庫へ来るまでのわずかな間にどれほど飲んだのだろうか。
私は壜を受け取った。ブランデーだった。半分空になっている。かっと焼けるような咽喉《のど》越しに私はむせた。
「全部見ていたな?」彼は尋ねた。
私はうなずいた。
彼は笑った。引きつったような不自然な笑い声だった。「タビーのやつは、どうするかな」
「さあね」
セイトンは立ってそのあたりを行きつ戻りつしはじめた。「だいたい、やつは何だって女房をここへ連れて来やがったんだ? ここはあの女の来るとこじゃあねえ。あれは派手好きな女だからな。人が大勢いて、わいわい賑《にぎ》やかなのがいいんだ。男はどうして手前《てめえ》の女房を理解しねえんだ? まあ、そんなことはどうでもいい」彼は何かを払いのけるように手をふった。「何だ、それは? スコッチか?」彼は私が作業台に置いた壜を手に取った。「これで、とにかく酒はある、と」私が持っているブランデーの壜に目をやってセイトンは言った。「そんなものをこっそりしまい込んでいやあがって、妙な女だ」彼はスコッチの栓を開けた。
「もう、だいぶ飲んでるんじゃないか?」私はそれとなく注意した。
セイトンは険しい目で私を睨んだ。「今日はクリスマス・イヴじゃあないのか、え? エンジンだって完成したんだ。今日は樽《たる》ごとだって飲んでやるからな」彼は危なっかしげに体を前後に揺すりながら壜から飲んだ。「おかしな話よ」彼は手の甲で殴るように口を拭《ふ》いて言った。「祝杯を上げるはずだったところが、気がついてみりゃあ、このとおりの自棄《やけ》酒だ。なあ、ニール」彼は空いたほうの手で私の肩を抱いた。「お前に一つ訊きたいことがある。真面目《まじめ》な話だ。正直に答えてくれ。お前、俺が好きか?」
私は答えに窮した。酔っていればどうでもいいことだったろう。しかし、私は素面《しらふ》だったし、セイトンもそれを知っていた。
彼はふらふらとエンジンのほうへ近づいた。前に立つと、彼はエンジンに向かって悪態を吐いた。「この罰当たりめが!」ぐらりとよろけて彼は私に向き直った。「俺はな、誰も友だちがいないんだ」自己|憐憫《れんびん》の涙を孕《はら》んだ捨てばちな声だった。「この広い世の中に、友だちというものが唯《ただ》の一人もいないんだ」彼は繰り返した。「ダイアナが言ったとおりだよ。エンジンはどこまで行っても金物《かなもの》だ。血の通った人間のようなわけには行かん。だからって、それがどうした? 俺の知ったことか。ざまあ見やがれ。俺の知ったこっちゃあねえや。人間なんぞ、誰も彼も糞《くそ》喰らえだ。どうせ俺は人から嫌われてるんだ。だったら、他人がどうなろうと、こっちは痛くも痒《かゆ》くもねえ。俺は人を当てにしちゃいねえんだ。俺は俺でやりたいようにやる。俺にとっちゃあ、そこが肝腎《かんじん》なんだ。俺の言うことがわかるか? 人がどう言おうと……」
ドアの音にセイトンは口をつぐんでふり返った。
タビーが悄然《しょうぜん》とやって来た。「酒をくれ」彼は言った。
セイトンが壜を渡した。タビーは貪《むさぼ》るように飲んだ。セイトンは体を堅くしてその様子を見守った。
「それで?」彼は水を向けたが、タビーは物も言わなかった。セイトンは痺《しび》れを切らした。「おい。何とか言ったらどうだ。あれからどうした?」
タビーは上目遣いにセイトンを見た。しかし、その目は相手の顔を捉えていなかったと思う。タビーは腰のベルトに手をやった。「張り倒してやったよ」抑揚に欠けた声で彼は言った。「今、荷物をまとめてる」
「荷物?」セイトンはいっぺんに酔いが醒《さ》めたかのように鋭く訊き返した。
「電話でタクシーを呼んだ」
セイトンはのっそりと近寄ってタビーの胸倉を取った。「お前、俺を裏切る気か、タビー? あと何日かで試験飛行だっていう時に。今までやって来たことはどうなるんだ?」
「一晩くらい、エンジンのことを忘れたってよくはないか?」タビーは草臥《くたび》れきった声で言った。何をか言わんという口ぶりだった。「いくらか金を融通してほしいんだ、セイトン。それでここへ来たんだ」
セイトンは爆《はじ》けるように笑い出した。「どこに金があるかよ。考えてもみろ。空輸の仕事にありつくまでは、こっちはからっけつだ」彼はすっかり狼狽《ろうばい》から立ち直っていた。タビーを引き止める口実を手にしたために違いない。
「いくらいるんだ、タビー?」私は財布を出して言った。
セイトンは怒りに顔を歪めて激しく私に向き直った。「お前、気は確かか? 二人だけで飛行機を飛ばせると思うのか? もうあんまり時間がないんだぞ。改造が必要だとなったら、俺もお前も……」彼は顔をそむけて苛立たしげに肩をすくめた。
「いくらいるんだ?」私は重ねて訊いた。
「五ポンドでいい」
私は金を数えて渡した。
「俺だって、こうはしたくないんだ、ニール。でも……」タビーは言葉を濁した。
「気にするなって。本当にそれで足りるのか?」
彼はうなずいた。「ダイアナがロンドンへ行く分だけあればいいんだから。友だちのところへ厄介になるんだろう。仕事の口はあるらしい。当座の二、三日つなげればいいんだ。またマルカム・クラブで働くつもりでいるんだよ。戦争中、しばらくあそこにいたし、ベルリン空輸がはじまってからこっち、向こうでもしきりに誘いをかけて来ているしね」彼は金をポケットに押し込んだ。「これは必ず本人から返させるようにするから」
出て行こうとするタビーを押し止めて、セイトンは言った。「マルカム・クラブは女しか雇わないぞ。技術屋に用はないんだ。お前、どうするつもりだ?」
タビーはきょとんとした。「俺はこのままさ。飛行機が飛ぶまでという約束だろう。約束は守るよ。ただ、その先は……」
セイトンはみなまで聞かず、処刑を免れた囚人のように目を輝かせると、打って変って雀躍《こおどり》せんばかりにタビーに駆け寄った。「そうかそうか。お前は出て行くんじゃないんだな」彼はタビーの手を強く握った。「そうか。それならいいんだ」
「ああ」タビーはそっと手を引っ込めた。「何も心配することはないんだ、ビル」
しかし、顔をそむけたタビーの目に涙が光るのを私は見た。
セイトンはタビーを見送って私に向き直った。「ようし、ニール。飲み直そう」彼はスコッチの壜を高く掲げた。「試験飛行の成功を祈って」
この男はたった一つのことしか頭にない。私はうんざりして酒の相手を断った。「今日はもう寝かせてもらうよ」
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第四章
翌日になってはじめて私は、ダイアナが皆のためにどれだけ大きな働きをしていたかを思い知らされた。料理、洗濯、掃除、雑用といった話ではない。むろん、そうしたことは生活のために欠くことができず、かつ、労多くして報われない仕事には違いない。しかし、何よりも私が認識を新たにしたのは、彼女の存在そのものに対してだった。そこにいるだけで陽《ひ》が差したように周囲が明るくなるダイアナのお蔭《かげ》で、私たちは仕事に疲れてささくれ立った神経をどれほど慰められたか知れない。ダイアナは私たちの疲れを癒《いや》し、次の日の労働に必要な活力を与えてくれたのだ。彼女のいないメンベリーは索漠として味気なかった。
その日は私が朝の支度をした。ダイアナを送って明け方近くに戻ったタビーは、げっそりやつれた顔で起き出して来た。持ち前の人|懐《なつ》こい表情は影をひそめて、暗くうつろな目をしていた。格納庫からやって来たセイトンは宿酔《ふつかよい》で食事も咽喉《のど》を通らず、土気色の顔にはまるで生気がなかった。その上、彼は自己嫌悪の塊《かたまり》だったろう。彼の中には自分自身を駆り立ててやまない何かがある。野望と言うのは当たるまい。もっと切羽《せっぱ》つまった、彼の本性にかかわる衝動である。満たされぬ創造への憧憬《どうけい》か。彼は前夜、酔って朦朧《もうろう》とした意識の中でその得体の知れない力と必死に戦っていたに違いない。セイトンは並の人間ではない。ただ一つの目的を与えられた非情の機械である。その彼と、ケルト人の血を引くもう一人の彼が格闘しているのだ。
これほど惨めなクリスマスを送ったのは後にも先にもこの年だけである。私たちは完成したエンジンの試運転と取付けに一日を費やした。格納庫には天井クレーンの設備がある。アメリカ軍の基地だった頃《ころ》、ここは整備格納庫だったのだ。クレーンがなければとうていエンジンの取付けは覚束《おぼつか》ない。そこはセイトンのことだから、飛行場を借り受けるに当たっては、むろん、その点まで計算していたはずである。料理番の私はもっぱら缶詰で間に合わせたが、それでも三人前の支度にはかなり時間を取られた。先が見えているのがまだしもの救いだった。
さりながら、ことはただダイアナがいなくなったというだけの話ではなかった。気の毒なのはタビーである。本来、彼は楽天家で、ちょっとやそっとのことではへこたれない。彼の人懐こい笑顔に元気づけられて、私は何とかここまでやって来られたようなものだ。そのタビーがすっかりふさぎ込んでいる。口笛は跡絶《とだ》え、笑顔は影をひそめた。セイトンばかりか、仕事自体もまた夫婦を引き裂いた元兇《げんきょう》とでも言いたげに、タビーはがむしゃらに働いた。私はそれまで自分がいかに、この人の好《よ》い大らかな男に支えられていたかをつくづく悟った。タビーはいっさい私の過去を問わなかった。はたして彼がどこまで私のことを知っていたか、今となっては尋ねる術《すべ》もない。タビーは黙って私を受け入れた。そのことと、彼の円満な人柄が飛行場に私のいる場所を作り出し、過去を遠くへ押しやったのだ。
情況は一変した。外界のとばくちに追い詰められたという不安が格納庫に忍び込み、私は厭《いや》でも先のことを考えざるを得なくなった。飛行機がメンベリーを飛び立つと、またぞろ警察の手が伸びて来るのではあるまいか。私はにわかに外界に対する恐怖を覚えた。
ダイアナが出て行った最初の一日は特に辛かった。エンジンの試運転の爆音は閉ざされた格納庫で耳を聾《ろう》するばかり。おまけに私たち三人はそれぞれに思い屈して、とかく気持ちがちぐはぐになりがちだった。しかし、次の日には宿酔の取れたセイトンが六時半に格納庫から出向いて食事の支度をした。彼はあまり口をきかなかったが、落ち着き払って自信に満ち溢《あふ》れていた。この時ほどセイトンが立派に見えたことはない。エンジンの取付けが終れば、いよいよ試験飛行という段取りである。三年間の苦心がたった一日の試験に集約されるのだ。先の試みでは飛行機が墜落したという。それを考えれば、セイトンは緊張の極《きわ》みであったろう。にもかかわらず、彼はそんなそぶりも見せなかった。彼は意識して私たちに自信を植えつけ、やる気を起こさせようとしていたに違いない。見せかけの空元気だったなら、タビーも私も白けてしまったことだろう。セイトンはそんな愚かな真似《まね》はしなかった。彼はその個性と気迫で私たちを動かしたのだ。奥底から湧《わ》いて出る情念に偽りはなかった。私はセイトンが手を伸ばして自分と同じ昂揚《こうよう》の頂点に私を引き上げようとしているのを感じた。セイトンの熱意はタビーにも伝わっていた。タビーは口笛も吹かず、例の人懐こい笑顔を見せることもなかったが、二基のエンジンに鎖をかけ、発動機架《ナセル》に降ろす段になって、私は彼が再びすべてを忘れて純粋に仕事に打ち込んでいることに気がついた。
作業は夜の十時過ぎまでかかった。エンジンの取付けは完了した。翌日、電気系統を接続してプロペラを装着すれば、いよいよ試験飛行である。「うまく行くと思うか、タビー?」セイトンは言った。
「うまく行ってくれなきゃあ」タビーはにこりともせずに答えたが、飛行機を見上げる目の色が変っていた。その目には、汗水垂らして作り上げた二基のエンジンを搭載してガトウへ向かう飛行機の雄姿が浮かんでいたと私は想像する。
もう大丈夫だ、とその時私は思った。セイトンは飛行機への愛着と事業に賭《か》ける執念によって、一日のうちに密《ひそ》かに、かつ巧みに、タビーの苦渋を霧消させたのだ。
十二月二十八日、火曜日、私たちは試験飛行に備えて最後の仕上げに追われた。日暮れ方、格納庫の扉を開け放って二基のエンジンを始動した。プロペラが起こす風に舞ってコンクリートの微塵《みじん》が作業台に白く積もった。そんなことに構っている場合ではない。濛々《もうもう》と渦巻き流れる塵埃《じんあい》の中で、タビーと私は顔を見合わせて笑った。セイトンがエンジンの回転を上げると、機体はブレーキの拘束を嫌って、身悶《みもだ》えするように動揺した。セイトンがエンジンを切り、プロペラが惰力を失って停止すると、タビーは私の手を握って言った。「やったね。これなら上等だ。自分で作ったものが調子よく動くっていうのは嬉《うれ》しいよ。なにしろ、寄せ集めの部品でエンジンをこしらえたのははじめてだからなあ」
その夜、私たちは残りのスコッチを酌み交《かわ》しながら、空中楼閣を築く体《てい》の気焔《きえん》をあげた。ベルリン空輸は雄飛《ゆうひ》の踏み切り板にすぎない。世界の航空業界へ進出をもくろむ私たちの夢は、どこまでも脹《ふく》らんで止《とど》まるところを知らなかった。セイトンは、船よりも安い料金で格段に速い飛行機が世界中に路線網を張りめぐらす時代がやって来ることを熱っぽく語った。巨大な工場の組立てラインから輸送機が次々と吐き出され、航空会社は地球の隅々まで飛行機を飛ばすようになるだろう。
「旅客便はいずれジェット機が主流になるな」彼は言った。「でも、貨物便は料金の安いプロペラ機で充分やって行ける」彼はじっとしていられず、立ち上がって目を輝かせながらタビーと私の肩を押えつけた。「考えてもみろよ。俺《おれ》たち三人、どこの何さまっていうわけでもない、ごく当たり前の人間だぜ。それも、素寒貧《すかんぴん》で、毎日借金で食いつないでいるありさまだ。その俺たちが、明日はこの荒れ果てた飛行場から離陸する。史上例のない大航空会社の記念すべき一号機だ。何か月か経《た》ってみろ。俺たちは世界中の話題になるぞ。ここまで来るのに、えらい苦労もしたっけなあ」彼はにったり笑った。「けどな、先のことを考えたら、こんなものは苦労のうちに入らないぞ。会社がでっかくなりはじめたら、今こうやっているのがまるで休暇のお楽しみだったみたいに思えるようになるんだ」
セイトンはふっと厳しい顔になって腰を降ろした。「ようし、じゃあ今ここで、明日のことを決めておこう。まず第一に、飛行機を格納庫から出すのに、走行《タクシー》はさせたくない。途中で傾いて何かに当たったりすると、ことだからな。ニール、君はエルウッド夫婦に顔が利くな。行って、トラクターを一台借りて来い。八時にはこっちへ回してもらえ」彼はタビーに向き直った。「地上テストは午前中いっぱいかかると思うがね、昼ごろには離陸したい。燃料はどうなっている? 満タンか?」
タビーは首を横にふった。「いや、メイン・タンクにあるだけだ。三分の二といったところかな」
「それだけありゃあ充分だ」
「操縦系統の点検はどうする?」タビーは慎重に言った。「機体を総点検しなくちゃあ」
「そいつはここへ運び込んだ時にやった」セイトンはじれったそうに答えた。
「それはわかっているさ。そうは言っても……」
「時間がないんだ、タビー。機体は無傷でここへ来たし、買い取りの契約を交わす前にちゃんと点検した。その時異常がなかったんだから、今だって異常なしだ。ニール、じゃあ、トラクターの件は頼んだぞ。いいな? 今夜は早寝としよう。明日は皆、すっきりしてないとまずいからな」セイトンは立って頭を掻《か》きむしった。「明日が勝負だぞ。しかし、俺は寝られそうもないな。わくわくしているよ。こんなことは、はじめての単独飛行以来だ。明日がうまく行けば……」彼は有頂天の自分を戒《いまし》めるふうに、上ずった声で笑った。「じゃあな」言い捨ててセイトンは立ち去った。
私はタビーをふり返った。彼は曲にならない鼻歌を歌いながら、紐《ひも》の切れ端をいくつも瘤《こぶ》に結んでいた。彼も気持ちが昂《たか》ぶっている。それは私にしたところで同じだった。試験飛行だけの話ではない。私は自分の将来を考えなくてはならなかった。メンベリーは避難所だったが、今や外部の世界がじりじりと私を取り巻く輪を狭《せば》めている。私は椅子《いす》を引いて立ち上がった。「トラクターのことを掛け合って来る」そうは言ったが、私はエルゼのことを考えていた。この世にただ一人、私の身を案じてくれる誰《だれ》かがいると思いたかったのだ。
農園の母屋の灯は消えていたが、発電機の回る音はまだ聞こえていた。ドアを叩《たた》くと、エルゼが顔を出した。
「もう発《た》ってしまったかと思っていたよ」私は言った。
「月曜日に発つわ。お入りなさい」エルゼはドアを大きく開けた。私は暖炉に太い薪《まき》が赤々と燃えている広間に通った。「大佐はご夫婦でお出掛けよ」彼女はくるりと私に向き直った。「今日は何のご用?」
「明日、エルウッド大佐のトラクターを拝借したいと思ってね」
「格納庫から飛行機を引き出すのに?」
私はうなずいた。「明日、試験飛行なんだ」
「それは良かったわね。あのエンジンで飛行機が飛ぶのは嬉しいわ」エルゼは声を弾ませたが、すぐに憂い顔になった。「でも……もう、父がそれを見ることもないのね」
彼女は暖炉の前に立ち、ほとんど無意識と見える動作でサイドテーブルから煙草《たばこ》を取って吸いつけた。それきり長いこと、彼女は黙って暖炉の火を見つめたまま、煙草を深々と吸い続けるばかりだった。私は声をかけてはならないような気がした。静まり返った部屋に火影が揺れた。沈黙は気詰まりではなかった。むしろ、その温《ぬく》もりが私には心地よかった。どのくらいそうしていたろうか。再び口を開いたエルゼの声も穏やかな空気を乱しはしなかった。「長かったわ」彼女は薪の焔《ほのお》に向かって言った。彼女の心はこの場ではなく、どこか遠い記憶の彼方《かなた》にある様子だった。「どうぞ、お掛けになって」エルゼはふり返って私に煙草を勧めた。「もう来ないでって言ったこと、憶《おぼ》えていて?」
私はうなずいた。
「あなたと私の間には壁があるって言ったでしょう」エルゼは神経質に頭を揺すって髪を掻き上げた。「私ね、孤独だったせいで、淋《さび》しさに負けてあなたに余計なことを話してしまうのではないかと思って、それが恐《こわ》かったのよ。でも、現にあなたはこうしてここにいるのだし……」彼女は肩をすくめて、また暖炉の火に見入った。「あなた、ほかのことなんてどうでもいい、と思うくらい何かを強く望んだことがある?」答を求める口ぶりではなかった。ややあって、彼女は問わず語りに身上話をはじめた。
「私はベルリン育ちなの。ファッセネン通りのアパートで暮していたのよ。母は冷たい人でね、音楽ときれいな服のほかには何にも関心がない、ぎすぎすした性格だったわ。兄のワルターは母の生き甲斐《がい》で、兄のこととなると、まるで自分というものがないみたいに、何から何まで兄が第一なの。父も、父の仕事も、母にとっては問題外。機械工学なんて別の世界のことという態度だったわね」エルゼは暖炉からふり返って淋しげに笑った。「私は望まれずに生まれて来たらしいのよ。間違ってできた子供なのね。父は決してそうは言わなかったけれど、私はそうだと思うの。だって、兄と八つも離れているし、私を産んだ時、母はそろそろ四十に手が届く頃ですもの」エルゼの顔から笑いが消えた。「きっと難産だったと思うわ。母には冷たく邪険に扱われて、小さい時にはずいぶん悲しいこともあったわね。父の顔はめったに見なかったし。そう、父はたいていベルリンを留守にして、どこかの工場で仕事をしていたから。私は学校を出てから秘書養成所へ通って、クロックナー・フンボルト・ドイツに勤めたの。仕事はタイピストよ。そこで上司と恋をして……」彼女はふんと鼻を鳴らして笑った。「相手にしてみれば、私みたいな世間知らずの小娘は扱いやすかったでしょうね。オーストリアへスキーに連れて行ってくれたりして、それから、小さなアパートを借りて何か月か一緒に暮したわ。要するに寝るだけの場所だったわけだけれど。向こうはじきに飽きて、私は捨てられて、気が狂うくらい泣いたわ。その頃になってはじめて父と本当にわかり合ってね、母は私が邪魔だったから、ヴィースバーデンで父と暮らすように仕向けたの。それが、一九三七年のことよ」
エルゼは暖炉に目を戻した。「父は素敵な人だった」彼女はゆっくりと言葉を続けた。「私が一緒に暮らすようになるまで、父は本当に独りぼっちだったのよ。私は家の用事をして、書類のタイプをして、父と二人でライン下りをしたり、|黒い森《シュヴァルツ・ヴァルト》を歩いたりしたわ。その頃すでに頭は真っ白だったけれど、父には子供みたいなところがあってね。私はと言えば、父の仕事にすっかり魅せられてしまって、それはもう、夢中だったわ。男はもうこりごりで、触られるのも厭《いや》なくらいだったでしょう。正確無比な機械の世界は、それは楽しかったわ。そこには、はっきりとした形で、信じられるものがあるんですものね。そういう私を見て、父はびっくりしたんだと思うの。女にも物を考える頭があるっていうことをはじめて知ったのではないかしら。それで、フランクフルトの大学へ行かせてくれて、私は工学士の国家試験に通ったのよ。それからヴィースバーデンに帰って、父の助手として一緒にエンジンの開発に携《たずさわ》ることになったのが一九四一年。すでに戦争がはじまっていて、父は何か画期的に新しいことを考えなくてはならない立場でね。三年間、一緒に仕事をしたわ。私たちにとっては、ほかのことはどうでも良かったの。もちろん、父が体制を嫌っていることは知っていたわ。以前から親しくしている父の友人の中には、ヒトラーがドイツを滅ぼすという考え方の人たちもいたしね。それはともかく、空襲さえなければ、ヴィースバーデンはまだのんびりしていて、私は設計室でも工場でも、いつも父と一緒だったの」
彼女は吸いさしの煙草を暖炉に投げ捨てた。火影の中で、私に向けた顔は蒼《あお》白く、目だけが異様な光を宿していた。「工場で仕事をしているところへ、ヒムラー配下のSS将校が二人連れで乗り込んで来て、問答無用で父を逮捕したのよ。ヒトラー暗殺計画に関係した疑いがあるという理由だったけれど、嘘《うそ》だわ。父はあの陰謀にはいっさいかかわりがないのよ。ただ謀議に加わった人の中に父の友人がいたのは事実だけれど。それで、仕事の最中に引っ張られて、私が着替えの用意をする閑《ひま》もなかったわ。忘れもしない、一九四四年七月二十七日よ。ダッハウの収容所に入れられて、父とはそれっきり」彼女は唇をふるわせて私から目をそらすと、新しい煙草に手を伸ばした。
「それで、君はどうしたね?」私は尋ねた。
「どうもこうもないわ。私一人じゃ何もできないんですもの。もちろん、父に面会しようとして、いろいろやってはみたわよ。でも、どうにもならなかったわ。周囲は急に私たちを冷たい目で見るようになるし、父が長いこと仕事をしていた会社の社長さんでさえ、力になってはくれなかったくらいですもの。同情してはくれたけれど、当局から私を雇ってはいけないと通達を受けていて、手も足も出なかったのよ。それで、私はベルリンに帰ったの。二、三日して、父が亡くなったという知らせが来たわ。母は顔色一つ変えもしなかったけれど、私は目の前が真っ暗よ。父は私のすべてだったんですもの。それからひと月後に兄のワルターがイギリスで撃墜されて亡くなって、国は兄に鉄十字章を授けたけれど、母はどっと寝ついてしまって、私が面倒を見なければならなくなったの。兄は母のすべてだったでしょう。息子も、きれいな服も、音楽も、話をする相手も失って、おまけにソ連軍の侵攻でベルリンは陥落するし、母はワルターが戦死して、もう生きる気力を失っていたと思うわ。それ以後ずっと寝たきりで、去年の十月に亡くなったの」
「最後まで、君が看病して?」私はエルゼが何らかの言葉を期待している気配を察して尋ねた。
彼女はうなずいた。「あの時ほど惨めな思いをしたことはないわ。母が亡くなって、父や、父の仕事がしきりに思い出されるようになって、私、ヴィースバーデンへ戻ったのよ。ところが、設計図も試作品も、何も残っていないの。でも、ラウフ・モトーレンは細々ながらまだ健在で、私を雇ってくれたのよ。仕事は……」彼女は言い澱《よど》んだ。
「エンジンの復元か」私は言った。
「そのとおりよ」
「君はそのために、このメンバリーにいるのか」
父親の話を聞かされた今、すべてはあまりにも明白だった。私はエルゼの勇気と執念に驚嘆を禁じ得なかった。
彼女はうなずいた。
「どうして僕にそこまで話すんだ?」
彼女は肩をすくめ、大きな樫《かし》の丸太を蹴《け》りつけた。火の粉が舞って煙突に吸い込まれた。「さあ、どうしてかしら」彼女は激しく頭をふり立てて、挑《いど》むように私に向き直った。「孤独だからよ。父を失って以来、ずっと孤独だったからよ。それに、あなたはイギリス人で、私には何のかかわりもない人だから」追い詰められて最後の抵抗を試みる小動物を思わせる態度だった。「もう帰って。前にも言ったでしょう。あなたと私は、壁の向こうとこっちなのよ」
私は腰を上げて数歩エルゼに近づいた。「恨みに思っているんだね」
「恨む?」彼女の目に怒りの色が走った。「ええ、そう。恨んでいるわ。私が今、生きる目的はただ一つ。父の仕事が正当に評価されるのを見届けることよ。父が、ドイツの産んだ誇るべき技術者だと認められるまでは、死んでも死にきれないわ」何かが崩れるように、彼女はふいに私に背を向けた。「ほかに何があるっていうの?」悲しみの底から湧いて出る声だった。
私はそっとエルゼの肩に手をやった。彼女はそれをふり払った。「放っといて! 私に触らないで!」ヒステリックな叫びを発して、彼女ははっと私に向き直った。「ごめんなさい。あなたに罪はないわ。こんな話をした私がいけなかったのよ。お願い、今日はお引き取りいただけないかしら」
私はちょっとためらってから手を出した。「わかったよ。さよなら、エルゼ」
「さよなら?」彼女は申し訳《わけ》に私の手を取った。暖炉の火に焙《あぶ》られていながら、エルゼの手は冷たかった。「そうね。もう、会うことはないでしょうね。さよなら」
「エルウッド大佐に一つだけ伝えてくれないか。明日の朝八時に、お宅の一番大きなトラクターを飛行場へまわしてほしいんだ」
「伝えるわ」エルゼは私の目を覗《のぞ》き込んだ。「試験飛行は、あなたが操縦するの?」握り合う手に力を込めて彼女は言った。「うまく行きますように」彼女は期待に目を輝かせた。「見物させていただくわ。あのエンジンで飛行機が飛ぶところを……父の仕事だとは誰も知らないとしても……」最後の一言はほとんど聞き取れないほど微《かす》かな囁《ささや》きだった。
エルゼは戸口まで私を送ってきた。広間から洩《も》れる柔い光を背に受けて立つと、彼女は不思議に母音が際《きわ》だつドイツ訛《なま》りで言った。「ニール! もしベルリンに来るようなことがあったら、私、ファッセネン通り五十二番地にいるわ。クルフュアステンダムの近くよ。マイヤーと言ってちょうだい」
「マイヤー?」
「そう。エルゼ・マイヤーが本名なの。こっちへ来るには他人の名前を使うしかなかったのよ。というのは……私、ナチだから。ヒトラーユーゲントにも加盟していたのよ……父が殺される前はね」彼女は唇をふるわせた。「さよなら」手と手が触れ合ったと思う間もなく、ドアが閉まって私は凍てつく暗がりに取り残されていた。しばらくは身じろぎもならなかった。エルゼの嗚咽《おえつ》を聞いたような気がしたが、あれは風の唸《うな》りだったろうか。
その夜はなかなか寝つけなかった。何と痛ましい話であろう。だと言って、セイトンを責める気にもなれない。私はイギリス人だ。エルゼはドイツ人。彼女の言うとおり、二人を隔てる壁は厚く、高かった。
一夜明けると、試験飛行の準備に追われてエルゼの身上話をふり返っている閑《ひま》はなかった。冷たい雨のそぼ降る陰鬱《いんうつ》な朝だった。滑走路に雲は低く垂れ込めていた。もっとも、天気のことなど気にしてはいられない。私たちは三人とも、飛行機のほかは頭になかった。エルゼは約束を守って私の伝言を大佐に取り次いでくれた。八時きっかりに大きなトラクターが雨に濡れたタール舗装のエプロンにキャタピラを鳴らし、黒土と石灰の跡を残しながらやって来た。私たちは格納庫の扉を開け放ってトラクターを飛行機の前輪に繋《つな》いだ。
四発のテューダーが格納庫からゆっくりと鼻面を突き出すのを眺めながら、私は誇らかな気持ちを味わった。それはもはや、この五週間、朝ごとに歯の抜けた口で笑いながら私たちを迎えた、あのテューダーではなかった。四発のエンジンが揃《そろ》ったその威容には、はっきりとした目的と意志を感じさせる精悍《せいかん》な趣《おもむき》があった。トラクターは滑走路まで飛行機を牽引《けんいん》すると、何事もなかったかのようにのろのろと農園へ這《は》い戻った。
「ようし、行くぞ」セイトンは勇んで飛行機に乗り込んだ。私もすぐ後に続いた。タビーがバッテリーを運び出して結線した。エンジンは一基また一基と始動した。セイトンは風防の上部中央に突き出ているスロットル・レバーに手を伸ばした。スロットルを絞るとエンジンは鋭敏に反応して回転が下がった。タビーが乗り込んでコックピットのドアを閉じた。「パラシュートは?」彼は言った。
セイトンはにったり笑った。「ちゃんと後ろに積んである。そこにぬかりがあるものか。昨夜《ゆうべ》のうちに俺がきちんとしておいたから大丈夫だ」
エンジンは快調な爆音を発し、機体はまるで逸《はや》り立つ馬のように激しく胴ぶるいした。私は副操縦士の席に坐《すわ》り、タビーは二人の間から首を覗かせ、全員で計器をあらためた。燃料、油圧、温度、冷却液、回転……どれも正常だった。
「ようし」セイトンは言った。「地上テストだ」彼はブレーキをはずした。機体は濡《ぬ》れた滑走路を走り出した。方向|舵《だ》をわずかに動かすと、飛行機は忠実に左右に尾部をふった。昇降舵、異常なし。安定板、水平垂直とも異常なし。ブレーキ、異常なし。一時間あまり、滑走路を往復し、誘導路を周回して私たちは燃料消費量、オイルの循環、エンジン四基と、内側の二基のみを使用した場合と、それぞれの操縦性などを調べた。タビーは二つの操縦席の間隙《かんげき》に立って耳を澄ませ、計器を睨《にら》んでは手帳に必要事項を書きつけた。
やがて、セイトンは格納庫前のエプロンに飛行機を止めて、エンジンを切った。
「どうだ?」タビーをふり返って彼は尋ねた。爆音の跡絶《とだ》えた後の静けさの中で、その声は不必要に大きく響いた。
タビーは拇指《おやゆび》を立ててにっこり笑った。「二、三細かい点が気になるだけだな。右翼のエンジンの噴射のタイミングはまだ調整の余地がある。燃料フィルターも調べてみたほうがいいな。ちょっと回転が落ちているし、音も不安定だから」
セイトンはうなずいて席を立った。飛行機から降りようとして私は、事務所の手前に張り出した雑木林で人影が動くのを見た。エルゼだった。セイトンも彼女に気づいた。「あの女、何だってあんなとこにいやがるんだ?」彼は腹立たしげに呟《つぶや》き、はっと私をふり返った。「今日、試験飛行だっていうことを、あいつにしゃべったのか?」
「ああ」
「あいつに近づくなと言ったはずだろう」セイトンは詰《なじ》る目つきで私を睨み、すぐに林のほうへ視線を転じた。すでにエルゼの姿はなかった。「警察も、そろそろあいつを何とかしたらよさそうなもんだがな」
「どういうことだ?」私は聞き咎《とが》めた。
「やつは偽のパスポートで入国してる。ランゲンは本名じゃあねえぞ」
「そのことなら、もう俺だって知っているよ」私はセイトンの言ったことの意味を悟った。「じゃあ、何か? 君はエルゼのことを警察に密告したっていうのか?」
「それがどうした? こっそり覗きに来ちゃあ俺たちのやってることを逐一《ちくいち》ラウフ・モトーレンに報告しているんだぞ。そんな真似をさせておいていいのか? どだい、あいつの入国を認めたことからして間違ってるんだ」
「君はこの上、まだあの人を傷つけたいのか?」私は腹が立って言った。
「傷つける?」セイトンは陰険な目で私を見た。「お前、いったいあいつについて何を知ってる?」
「このエンジンはあの娘の父親が設計したということさ。父娘《おやこ》二人で開発したっていうじゃないか」私はセイトンの腕を取った。「どうして折り合おうとしないんだ? 向こうの希望は、ひたすら父親の仕事が世間に認められることだけだろう」
セイトンは私の手をふり払った。「ははあ、誑《たら》し込まれたな。ランドールと同じだ……俺も危くやられるところだったけどな。あいつは祖国の栄光とやらのためには誰とだって寝る安女郎だぜ」
私は殴り倒してやりたいところを、歯を食いしばって堪えた。「君は人の気持ちというものがわからないのか? エルゼは父親思いなんだ。父親の仕事が認められることを願っているエルゼの気持ちが理解できないのか?」
「親父の仕事?」セイトンは鼻で嗤《わら》った。「あの女の頭にはな、ドイツのことしかないんだ。父親を殺されていながら、まだドイツを有難がっていやがる。ラウフ・モトーレンにあのエンジンを作らせるなら俺の女になってやるとか言って色仕掛けで近づいて来やがって。冗談じゃねえ、あれは俺のエンジンだ。タビーと俺で何年もかかって作り上げたんじゃねえか。俺が独りでここにいるもんで、弱味につけ込もうとしやがって。あそこでダイアナが来なかったら……」彼は考えたくもないという態度で肩をすくめた。「君と同じでな、エルゼの親父なんぞは俺のエンジンとは何のかかわりもありゃあしねえんだ」
「そうは言っても、君はプロトタイプを盗み出して……」
「盗み出しただと? 人聞きの悪いことを言ってもらいたくねえな。俺たちはな、ドイツのせいでさんざんな目に遭った。だから、こっちはこっちで好きなようにやる権利があるんだ。もし、プロフェサー・マイヤーがあのエンジンを完成していたら……」セイトンは言いかけて口を噤《つぐ》み、怒気を孕《はら》んで私を見据えた。「おめでたいのもいい加減にしろよ、ニール。何で君があの女だの、死んだ父親だのに同情しなきゃあならないんだ? マイヤーがダッハウの収容所に入れられるまで、娘はいっぱしのナチだったんだぞ。マイヤーだって、もともとナチだ」セイトンは唇を歪《ゆが》めて厭味《いやみ》に笑った。「プロフェサー・マイヤーが、爆撃機用のディーゼル・エンジンを開発した技術陣の一人だってことを君は知るまい。その爆撃機がロンドンに何百トン何千トンという爆弾を降らせたんだ。俺のおふくろは、一九四〇年の電撃作戦で殺されたよ」
彼は両肩をいからせ、ポケットに深く手を突っ込んで歩み去った。私はその後を追ってゆっくり格納庫へ向った。エンジンをめぐってさまざまな動機が複雑に絡み合っていることを思うと、暗澹《あんたん》としないわけには行かなかった。
タビーは一時間以上かかって問題のエンジンを調整し、ほかの三基も今一度念入りに点検した。午後一時をまわる頃、やっと彼は地上に降りて脚立《きゃたつ》をはずした。「まあ、こんなところだろう。これ以上はいじくりようがない」
「ようし」セイトンは言った。「腹ごしらえだ」私たちにも自信を持たせようとする気の焦《あせ》りか、彼の声は不自然に浮わついていた。私は飛行機を見上げた。雲が切れて、機体は淡い陽光を反射していた。地上テストと、実際に飛行機に乗って離陸するのとはとうてい同日の談ではない。しかし、目の前の飛行機は私のよく知っているテューダーに違いなかった。エプロンに翼を休めている飛行機を眺めていると、そのまますぐに、どこへでも飛んで行けそうな気がした。
セイトンが用意したパンとバターとチーズを格納庫で食べた。皆、黙りこくっていた。三人とも飛行機がなくなってがらんとした格納庫の広さを意識していたのだと思う。その飛行機はエプロンで試乗を待っていた。私たちは早々に食事を済ませて飛行服に着替えた。セイトンは私とタビーにパラシュートの着用を厳命した。
午前中と同じく、セイトンと私が操縦席に乗り、タビーは座席の間隙にうずくまった。エンジンは快調だった。セイトンの手がスロットルに伸びた。エンジンの回転が上がり、飛行機はエプロンから誘導路を経て、滑走路の端へ向かった。前方に、濡れたまま淡い陽光を浴びて白く浮き出た滑走路が長く伸びていた。
「いいか?」セイトンは私たちをふり返った。奥歯を噛《か》みしめて厳しい表情だった。が、その目はつき上げる興奮を示して異様な光を宿していた。
「いいよ」タビーは答えた。私は黙ってうなずいた。セイトンはゆっくりとスロットルを倒した。四基のエンジンは一斉に出力を増し、小突《こづ》くような衝撃が機体を揺さぶった。
機は滑走に移った。
私は平静だったと言ったら嘘になる。ありていに言えば、かすかな恐怖すら覚えていた。ただ、それ以上に興奮は激しかった。それゆえ、危険を意識することもむずかしかった。コックピットから見るエンジンは、いずれも同一同型である。内側の二基が私たちの手作りであることを思い出させるものは何もなかった。何週間も格納庫に籠《こも》って悪戦苦闘した記憶だけがそのことを裏付けてはいるものの、すでに、あの苦しさの記憶さえ色|褪《あ》せている。ある意味では、これは私がかつて何度となく体験した通常の離陸と少しも変わるところがなかった。
私は努めて計器に意識を集中したが、スピードが上がるにつれて、私の目は機体の下をすり抜ける滑走路から両側の耕作地、そして前方の森へ吸い寄せられて行った。繁みの中に切って嵌《は》めたような事務所の建物が視野をかすめた。急にそこが自分の帰るべき家であるように思えて来た。あの脚立《うま》に板を渡しただけのテーブルを囲んで、成功を祝ってスコッチを酌み交わすことになるだろうか? あの堅く坐り心地の悪い椅子に掛けて、世界中に路線網を拡げる大航空会社の夢を際限もなく語り合えるだろうか? そう思ったとたんに私は胃の腑《ふ》の底が抜け落ちたような恐怖に襲われた。私が最初に加工したピストンに欠陥はないだろうか? 部品のどれか一つでも不良だったとしたら……? たちまち、あらゆる種類の惨事の恐れが私の意識にあふれかえった。前からあった二基のエンジンは大丈夫だろうか? われ知らず、私は操縦|桿《かん》を握りしめていた。尾部が浮き上がるのがわかった。
私はセイトンをふり返った。彼は片手にスロットル、片手に操縦桿を掴《つか》み、厳しい顔で前方を注視していた。彼が機体のぶれに合わせて左足で踏み棒を加減するのを私は見た。滑走路の終点は目の前に迫っていた。その向こうの下り斜面の樫《かし》の森が見る間に近づいて来る。もう止まれない。このまま離陸するしかない。右翼の内側のエンジンは依然として回転が上がらなかった。機体が横揺れした。またしても左へぶれている。私は息を凝らした。早く! 回転計や速度計に目を配っていなくてはならないはずだったにもかかわらず、私は前方の森から視線を引き剥《は》がすことができなかった。森は視野いっぱいに迫《せ》り上がった。
握りしめる手の中で、操縦桿が傾いた。前輪がひび割れた滑走路に弾んだ。右のエンジンはやはり音が不安定だった。飛行機は左へ尻《しり》をふった。と、ふいに爆音が遠のくように変化して機体は宙に浮いた。私は背中がシートに押しつけられるのを感じた。目の前に迫っていた森が、落ち込むように視野から消えた。飛行機は軽々と一線に上昇した。風防側面のガラスごしに、滑走路と誘導路の幾何学模様で耕作地を画するメンベリーが背後に遠ざかって行くのが見えた。四角い格納庫は玩具《おもちゃ》の家のようだった。機はエンジンの出力を全開にして、輪を描きながら急角度で上昇した。
私はセイトンをふり返った。彼は体の力を抜いてシートに沈んでいた。その姿勢以外に彼の安堵《あんど》をうかがわせるものは何もなかった。「脚がおさまっているかどうか見ろ」水平飛行に移って彼は叫んだ。私は外を覗いた。右の前輪は間違いなくウイング・ケーシングに収納されていた。私はうなずいた。セイトンは厳しい目で計器盤を睨んでいた。タビーは計器の目盛を読んで、数字を手帳に書き取った。油圧、八三……温度、六八……冷却液温度、九〇……回転、二三〇〇。右翼内側のエンジンだけは二二七〇に止まっていた。真空圧、四・五……高度、一五〇〇。しばらくその状態で飛んでから、さらに高度を上げた。油圧、八八……温度、七七……冷却液温度、九九……回転、二八五〇プラス九……真空圧、四・五。私は時計を見た。上昇速度は毎分一〇五〇フィートだった。
高度六〇〇〇フィートで水平飛行に移った。「外側のエンジンを切るぞ。いいな?」セイトンはタビーを横目に見て言った。タビーは真剣な顔でうなずいた。風防を透かして照りつける日光にしかめた目は、丸々と太った童顔の中に深くめり込んでしまいそうだった。エンジンの回転が落ちるのがプロペラの動きでわかった。羽根が一枚一枚見わけられるようになり、やがて、プロペラは静止した。爆音が低くなり、コックピットに伝わる震動も減った。機は私たちのエンジンだけで飛び続けた。速度、一七五。高度、六三〇〇。さらに高度を上げながら大きくバンクして旋回すると、はるか東の眼下にスウィンドンの町が拡《ひろ》がっていた。
二基のエンジンは安定していた。セイトンは操縦桿を引いた。機首が起きて、二基のエンジンは六五〇〇、七〇〇〇、八〇〇〇と私たちを上空へ引き上げた。上昇速度は毎分四〇〇フィートである。急旋回と、四〇〇〇フィートまでの急降下、そして上昇。これを十数回繰り返した。エンジンはびくともしなかった。右側のエンジンは、たしかにやや爆音が乱れ、回転も左翼に劣っていたかもしれない。しかし、出力は充分だった。
セイトンは機を水平に戻した。「一服つけるか」すっかり緊張が解けて、彼は晴ればれとした笑顔を見せていた。「なあ、これで俺たちの苦労も報われるというものだ。このとおり、エンジンは上等だ。俺たちは、ちゃんと目標を達成したんだ」
タビーも童顔を皺《しわ》くちゃにして笑っていた。その唇から、節にならない歌がこぼれた。
南に旋回してホワイトホース・ヒルの上を飛んだ。ランボーンの競馬場が丘陵の裾《すそ》に、昔のままに弧を描いていた。上昇、旋回、急降下。私たちはモールボロの丘の上を二時間あまり縦横に飛び回った。セイトンは満足げに言った。「ようし。帰って食事にしよう。明日は離着陸のテストだ。それが済んだら、貨物を満載して燃費を見るぞ」
「その前に、右のエンジンを取りはずして手直ししなきゃあ」タビーは声を張り上げた。
セイトンはそっけなくうなずいた。彼にしてみれば大きな声で言われるまでもない。エンジンは立派に完成した。あとは、いかに最高の性能を引き出すかの問題である。「いいだろう。時間はたっぷりある。耐空性試験は来週後半へ持って行くように手続きしよう」彼は操縦桿を軽く前に倒した。機は茶色の地肌を見せているなだらかな丘陵へ向けて高度を下げた。ラムズベリーの飛行場が眼下を流れ去った。傾いた日の中にケネット河が鈍色《にびいろ》の帯を解き捨てたようにうねっていた。丘を越えると前方にメンベリーの眺望が開けた。外側のエンジンが始動した。
「降りるぞ」
タビーと私は黙ってうなずいた。
セイトンは横目遣いに地上を見降ろした。「下でウイスキーの壜《びん》が待っている」彼はにったり笑った。機は石綿を葺《ふ》いた事務所の屋根を真下に見て旋回した。「ダイアナはこいつが飛ぶところを見ないで惜しいことをしたな」セイトンは口を滑らせた。私はタビーの顔色をうかがった。彼は聞かぬふりだった。
「脚を降ろせよ」タビーは言った。
セイトンは笑った。「俺がこいつをぶっ壊すと思うのか? 何年俺と付き合ってるんだ」彼は前方を見つめたまま、手を伸ばして脚を降ろすレバーを引いた。風防越しに機外を覗いた彼は、はっと手もとを見返って、レバーを引き直した。その顔は激しい狼狽《ろうばい》に引きつっていた。私は身を乗り出すようにして右翼の前縁に目をやった。「右の脚はちゃんと出ているぞ」私は言った。
セイトンは乱暴にレバーを揺さぶった。「左の脚が出ない」彼も乗り出して左翼の下を覗いた。「野郎! 噛んでやがるな」
セイトンはこの時、自分が危険にさらされている意識はなかったと思う。それよりも、胴体着陸を敢行するとなれば、これまでの努力が一瞬にして無に帰する。何よりもその点を彼は恐れていたのだ。
「だから、機体を点検しなきゃあ駄目だって言ったろう」タビーはセイトンがつかんでいるレバーを見つめながら、声を上ずらせて言った。
「今さらそれが何になる?」セイトンは食いしばった歯の間で喧嘩《けんか》腰に言い返した。「ニール、操縦を代わってくれ。七〇〇〇まで上昇しろ。何とか脚を降ろす工夫をするからな。タビー、手動じゃあどうだ?」
セイトンは席を立ち、私は操縦桿を握る手に軽い抵抗を感じた。私は機首を立て直すと同時にスロットル・レバーに手を伸ばした。たちまちエンジンの回転が上がってメンベリーは眼下に遠ざかった。私は操縦桿をつかみ直し、出力全開で螺旋《らせん》状に上昇した。セイトンとタビーは手動ハンドルを回して脚を降ろそうと試みた。ハンドルはそのつど何かに引っかかっては空回りした。
高度七〇〇〇で私は水平飛行に移った。タビーは床板を剥《は》がして隙間《すきま》に首を突っこんでいた。刺すような寒風がコックピットに吹きつけて渦を巻いた。一時間近く、そんな状態でメンベリー上空を旋回した。やがて、タビーは顔を紫色にして、凍えた指先に息を吐きかけながら起き上がった。
「どうだ?」セイトンがもどかしげに尋ねた。
タビーは首を横にふった。「駄目だ。連接棒《コネクティング・ロッド》が折れている。金属疲労だろう。とにかく、ロッドが折れているとなると、こいつはどうしようもないな。脚は降りない」
セイトンは土気色の顔をうつろにして、しばらくは物も言わなかった。「そういうことであれば、|平落とし着陸《パンケーキ・ランディング》で何とかうまく降りるしかないな」ここ数週間の疲労が一時に襲ったかのように、抑揚のない声だった。「本当にどうしようもないんだな? 打つ手はないんだな?」彼はタビーに念を押した。
タビーは再度かぶりをふった。「どうしようもない。ロッドが折れているし……」
「そいつはもう聞いた。一度言やぁわかる」セイトンはポケットから煙草を出して私に勧めた。私が一本取ると火をつけてくれた。じたばたしてもはじまらない、と腹を括《くく》った態度だった。わずかなりとも希望が残されていたとすれば、彼がコックピットで煙草を吸うはずがなかった。
「もう日が翳《かげ》るぞ」私は言った。「それに、燃料もあまり残っていない」
セイトンはうなずいて深々と一服した。
「アップエイヴォンへ行こう」タビーが叫んだ。イギリス空軍の基地だ。そこへ行けば救助隊もいるし、救急車も常駐している。
「いいや、メンベリーへ降りるぞ」セイトンは頑《かたく》なに言った。「お前たち、後ろへ行ってドアを開けろ。三〇〇〇フィートで飛行場の上を飛ぶ。風は東。風力2といったところだ。フィールドへかかったところで飛び降りろ」彼は操縦席に戻った。「ようし、ニール。あとは俺が引き受ける」
操縦桿を通してセイトンの意志が私の手に伝わった。タビーが抗議しかけるのを彼は頭ごなしに押さえつけた。「黙って俺の言うとおりにしろ。飛行場のはずれへかかったら飛び降りろ。怪我《けが》ぁするのは俺一人でたくさんだ。お前がいみじくも言ったとおり、こいつは俺の責任だからな。たしかに、機体を点検すべきだったよ」
右の脚が引き上げられるのを私は目の端で見た。
「悪かったよ、ビル」タビーは弁解した。「そんなつもりで言ったんじゃあ……」
「無駄口をきくな。早く行け。お前もだ、フレイザー」彼はすっかり依怙地《いこじ》になって声を荒げたが、すぐに気を取り直して言い足した。「二人とも、無事でな」
私は半ば腰を浮かせて思案した。セイトンは厳しい顔で前方を見つめながら、徐々に操縦桿を前に倒し、飛行場へ向けて高度を下げはじめた。タビーは顎《あご》をしゃくって私を促し、隔壁のドアを抜けて後部へ移った。「幸運を祈るよ」私は口の中で言った。
セイトンはちらりと私をふり返って冷たく笑った。「俺はもう、運を使い果たしたぜ」皮肉な口ぶりに彼の気持ちがよく現われていた。不時着して命は取り止めたとしても、彼はもはや、やり直しがきかない。私はなおも決心がつきかねていた。セイトンが飛行機もろとも地面に激突して果てる気ではないかという疑心は拭《ぬぐ》えなかった。
「何をぐずぐずしている?」
「俺もこのまま乗っていたほうがよさそうだな」私は言った。私が乗っていれば、彼も胴体着陸を試みざるを得まい。
そんな私の思惑を見透かしてか、セイトンは爆《はじ》けるように声を立てて笑った。「お前、俺という男がよくわかってねえな、え、ニール」声に皮肉な響きはなくなっていたが、目つきは冷たく険しかった。「早く行け。タビーと一緒に飛び降りろ。余計な心配をするな。英雄気取りってやつは、俺は大嫌いだ」彼はいきなり喚《わめ》き出した。「わかったら早く行け! 俺の言うことが聞けねえか? それとも、何か? 俺が突き落としてやらなきゃあ駄目だっていうのか?」彼は目を細めて私の顔を覗き込んだ。「パラシュートははじめてか?」
「一度だけ、やったことがある」ウェストファリアの森林に夜《よる》の夜中に降下した時の記憶がありありと甦《よみがえ》った。パラシュートが木の枝に引っかかり、私は腕が折れたまま宙吊《ちゅうづ》りになって助けを待たなくてはならなかった。
「恐いか、え?」セイトンはせせら嗤《わら》った。
彼が計算ずくでけしかけているとわかっていながら、私はまんまとそれにはまっていた。事実、私は恐《こわ》かった。たった一度の体験は私にパラシュート降下の恐怖を焼きつけたのだ。
「何が、恐いことがあるものか」私は言い捨てて立ち上がった。背中のパラシュートがやけに重たく感じられた。
タビーはすでに胴体のドアを開け放っていた。身を切るような風が頬《ほお》をなぶった。飛行機は格納庫の上を旋回しながら急速に高度を下げていた。タビーは口をきかなかった。降下の前は誰しもほかのことを考えている余裕などありはしない。事務所の屋根が視野をかすめた。雑木林の陰の小ぢんまりとした建物がこの上もなく頼もしく、また、懐かしく感じられた。鶏小屋の鶏が何羽か、綿屑《わたくず》を散らしたように小さく見えた。機体は大きく傾いて滑走路へ向かった。森が眼下をすり抜けた。ラムズベリーからうねうねと登る道を目で辿《たど》って行くと、タビーの肩越しに飛行場が開けて来た。彼は強張《こわば》った笑顔を浮かべて私の腕をぎゅっと握ると、目を見合わせたまま宙に身を投じた。
タビーは大きく回転しながら落ちて行った。手動レバーを引くのが見えた。ナイロンの傘が大輪の花のように開いて、彼は吊索に支えられ、ゆっくりと揺られながら降下した。
飛行機はフィールドの真上にさしかかった。私は寒さと恐怖で身動きもままならないありさまだった。にもかかわらず、額は汗に濡《ぬ》れていた。セイトンが早く飛び降りろと叫ぶのが聞こえた。見ると、彼は座席を離れてこっちへやって来ようとしていた。操縦を放棄してまで私を突き落とす気だろうか。私は目をつむり、パラシュートを開く冷たい鉄のレバーを握りしめて、ごうごうと鳴るプロペラの後流《スリップ・ストリーム》の中に身を躍らせた。折り曲げた両脚が背中に付くかと思うほど、私は風に揉《も》みくちゃにされた。目を開けると、空も太陽も地平線も、思いもかけぬ方角に入り乱れて揺動し、上下の感覚を奪われた視野の奥で飛行場がめまぐるしく回転していた。私はレバーを引いた。パラシュートが開かぬことを恐れて、何度も引いた。
肩がもげるほどの衝撃が伝わり、内股《うちまた》にちぎれるような痛みが走った。両脚がやっと真っすぐに伸びて、天地が正常になった。私は宙に浮いていた。風もなく、物音一つ聞こえない……。いや、上昇しつつ遠ざかる爆音だけが耳の底に尾を曳《ひ》いていた。あたりを見回すと、セイトンの飛行機が黒い小さな点となってフィールドの向こうに消えようとするところだった。頭上には白いパラシュートが雲のように柔く拡がり、天辺のエアホールから薄暮の冬空が覗いていた。私は地上に目を転じた。タビーは着地して、教科書どおりに地面を転がり、すぐに跳ね起きると両足を踏ん張ってパラシュートを引き寄せ、傘が孕《はら》んだ空気を押し出してきれいにたたんだ。
あるかないかの風に流されていると、空中は音のない世界だった。私は飛行場の上空に永遠に宙吊りにされているような気がした。自分が動いているとも思えなかった。時空は消滅して、私は昼の花火のように、ただそこに浮かんでいた。爆音は遠くに消えた。今しがたまで聞こえていたことが信じられなかった。私は快い静寂に包まれていた。が、意識の底には恐怖という名の刺《とげ》が突きささっていた。
動きは感じなかったが、地面との相対的な位置関係は見るまに変化した。私は東西に走る滑走路に沿って流されていた。事務所を囲む繁みを睨《にら》んで降下の角度を計算しようと試みたが、速度がつかめず、自分がどんな状態にあるのか、まるで見当がつかなかった。一つだけはっきりしているのは、自分で感じる以上に急速に降下しているに違いないことだった。つい最前、私はぽっかり宙に浮かんでいたのだ。それが、今、アスファルトの滑走路は恐ろしいほどの勢いで目の前に迫《せ》り上がって来るではないか。
着地の衝撃に備えようとする意識が先走って、私は両脚に力を入れすぎていた。建物の屋上から道路に飛び降りるのと同じだった。衝撃は踵《かかと》から脳天へ駆け上がった。吊索に引かれて私は前にのめった。辛うじて地面に手をついたのを憶えている。額を打って私は意識を失った。
気絶していたのはそう長いことではなかったと思う。肩をつかまれ、滑走路を引き摺《ず》られているのがわかった。私は四つん這《ば》いになった。顔から血が滴って、アスファルトのひび割れに吸い込まれた。誰かが私の名を呼んだ。私はかつて教えられたとおりに吊索を引いてパラシュートをたたもうとしたが、手足に力が入らなかった。再び意識がかすれかけて、私は地べたに寝そべった。全身が堪《たま》らなくだるかった。
肩をつかんでいた手が離れた。誰かが私の上にかがみ込んで、吊索のバックルをはずしている。「ニール! 大丈夫? しっかりして」
私は目を開けた。エルゼだった。「こんなとこで……何してる……?」私は尋ねた。思うように声が出なかった。
「試験飛行を見に来たのよ。どうしたの? どうして脱出したの?」
「脚が降りなくてね」私は言った。
「脚が? じゃあ、エンジンじゃないのね? エンジンは大丈夫なのね?」
「ああ。エンジンは大丈夫だ。脚が降りなくて……」
エルゼは目を輝かせて空を見上げていた。私には理解できない何かが、彼女の興奮を煽《あお》っているらしかった。
「どうかしたか?」私は尋ねた。
「だって……」エルゼははっと私に向き直った。「さあ、私につかまって」
彼女は腋《わき》の下に手を入れて私を助け起こそうとした。立ち上がると、強烈な眩暈《めまい》に襲われた。私はエルゼの肩にすがって飛行場のぐるぐる回るのが止まるのを待った。血が口に流れ込んだ。私は額に手をやった。古い傷がまたぱっくり割れていた。これがそもそものはじまりだ、と思った。「タビーはどうした? 怪我はないか?」
「大丈夫。今、こっちへ来るわ」
私は目に入った血を払ってふり返った。滑走路の向こうから駆け寄って来る小さな人影があった。しきりに何やら叫んでいる。私は理解できなかった。そうだ、思い出した。セイトン。飛行機。救急車! こうしてはいられない。事務所までは五百ヤード足らずだった。
「大急ぎだ、エルゼ。電話しなきゃあ」
両足を捻挫《ねんざ》したのか、走るのは死ぬ思いだった。それでも事務所まで辿《たど》り着いて電話に飛びついた。息切れがして声も満足に出なかったが、交換手はスウィンドンの病院と消防署につないでくれた。電話を切ったところへタビーがやって来た。「救急車と消防隊を呼んだ」私は言った。
「ようし。君は横になっていろよ、ニール。ひどい怪我じゃないか」
「大したことはないさ。飛行機はどうなった?」行動の必要に迫られて、私は元気を取り戻した。
「セイトンは高度五〇〇〇でこの上を旋回している。燃料が切れるまで、降りられないから」タビーはエルゼに向き直った。「湯を沸かしておいたほうがいい。ひどい状態で担ぎ込まれるかもしれないから」
エルゼはうなずいてキッチンへ走った。
「何であの娘がここにいるんだ?」タビーは私に尋ねたが、答を待つふうもなくフィールドに跳び出した。私も後に続いた。
夕陽に目を射られて頭がくらくらした。私はふらつきながらも何とか踏み堪《こた》えた。旋回する機体が沈みかける日を受けて輝くのが見えた。森が風を遮って、あたりは静かだった。爆音が意外に近く聞こえた。時間はのろのろと過ぎて行った。飛行機が旋回を止め、降下に移る避け得ない瞬間を、私たちは黙って待ち受けた。脚の力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。
「君は横になってりゃあいいじゃないか」タビーは腹立たしげに言った。
「いや、大丈夫だ」私は事務所に引き揚げるつもりはなかった。セイトンのことを思っていたからではない。私は飛行機のことを考えていた。飛行機は何事もなく旋回を続けている。私たちの成功を阻《はば》んだのは、忌々しい脚一本である。何と皮肉な成りゆきだろう。
「お湯をたっぷり沸かしたわ」エルゼが熱い湯を張った洗面器を持って来て私のそばにしゃがんだ。「傷の手当てをしますからね」
額の傷に湯が沁《し》みて、私は飛び上がった。消毒薬の強い臭いが鼻をついた。包帯をしてもらうと、いくらか気分がよくなった。
「はい、おしまい。これで怪我人らしくなったわ」
「冗談じゃない。本当に怪我してるんだ」紺色に深みを増す空を背に、エルゼは上から私の顔を覗き込んでいた。彼女には若く優しい母親を思わせるところがあった。私は彼女の太股《ふともも》の柔い温もりを後頭部に感じた。これが五月の草原だったら、どんなにか快いことだろう。遠い爆音が蜂《はち》の羽音のようだった。エルゼの後《おく》れ毛の向こうで、機体が夕陽に光った。
「救急車は何をやってるんだ?」タビーがそわそわして言った。「そろそろ降りて来るぞ」
私は時計を見た。電話してから二十分経っていた。「あと十分くらいで着くだろう」
タビーは歯噛みをした。「それじゃあ間に合わない」
飛行機は冬の夕映《ゆうばえ》を背景に黒い点となってラムズベリーの上空を飛んでいた。私はエンジンの完成をめざして悪戦苦闘した毎日を思い出し、独りぼっちで操縦桿を握っているセイトンの姿を瞼《まぶた》に描いた。傷の痛みなどは何ほどでもなかった。ラムズベリーのほうを仰いで、私は全神経を飛行機に集中した。飛行機は大きく旋回して森の向こうに沈んだ。いよいよ失速着陸の姿勢に入ったに違いなかった。
再び姿を見せるまでの時間が限りなく長く感じられた。機はいきなり滑走路のはずれに迫《せ》り上がった。フラップを垂れて、辛うじて森の梢《こずえ》を飛び越えるさまは、大きな図体を持て余す鈍重な鳥に似ていた。すでにプロペラの回転が落ちていた。私は跳び起きて走り出した。タビーも走った。セイトンは機体を水平にした。地面に近づくにつれて、飛行機は私たちに向けて猛然と加速しているかと思われた。
飛行機は滑走路に腹を擦《こす》った。外板の破片が飛び散り、一瞬遅れてけたたましい衝突音が響きわたった。飛行機は大きく弾み、耳を裂くばかりの破裂音とともに路面に激突して胴体を捩《よじ》った。横腹に亀裂《きれつ》が走り、尾部がちぎれ飛んだ。タールマカダムの微塵が灰神楽《はいかぐら》のように舞い、ジュラルミンの外板が木の葉のように飛散した。機体は横倒しになり、逆立ちかけて腹から落ちた。胴体が真っ二つに割れた。金属と滑走路の擦れ合う凄《すさま》じい不協和音は、機体が止まってからもしばらくはあたりに谺《こだま》の尾を曳いた。そして、底無しの静寂が訪れた。飛行機は見る影もなく大破して滑走路に横たわっていた。物の動く気配もなかった。西の空が真っ赤に染まって森の樹々《きぎ》が黒々と立ち上がっていた。飛行場はあたかも事故に無関心を装っているかのように静かだった。誰かが飛行機を墜落させた。戦争中、数えきれないほど何度も起きたことだ。どこで何があろうと、時はおかまいなしに流れて行く……。
タビーは飛行機に駆け寄った。私は根が生えたようにその場に立ちつくしていた。今にも飛行機が爆発炎上するのではないかと思うと胃の腑《ふ》が裏返しになりそうだった。しかし、大破した機体はことりとも動かず、何事も起こりはしなかった。私も走り出した。
二人してセイトンを助け出した。夥《おびただ》しい血が飛び散っていたが、それは鼻血だった。彼は気を失っていた。手と額をひどく擦り剥《む》いている。しかし、脈搏《みゃくはく》はしっかりしていた。タビーがカラーを寛《くつろ》げてやると、彼は目を開けてぼんやり私たちを見上げた。と、たちまちその目に生気が甦って、彼はぎくしゃくと起き上がった。苦痛の呻《うめ》きが唇から洩れた。
「飛行機はどうなった? 機体は……」あたりを見回して彼は言葉を呑《の》み込んだ。「うむ、こいつはひどい」セイトンはエルゼの前もはばからず、飛行機の残骸《ざんがい》に向けてあらんかぎりの下卑《げび》た雑言を吐いた。
「エンジンは無事だよ」タビーは慰めるように言った。
「エンジンだけで空を飛べるかよ」セイトンはふんと鼻を鳴らした。「降りる時、ちょいと尻《けつ》を下げすぎたな」彼はまた悪態をついた。
「少し横になったほうがいい」タビーは言った。「飛行機はもうどうしようもないんだ。とにかく、気を落ち着けて。今すぐ、救急車が来るから」
「救急車?」セイトンは眉《まゆ》を寄せた。「馬鹿《ばか》者が! 誰が救急車を呼べと言った?」彼はハンカチを引っ張り出して顔の血を拭いた。「街道へ出て救急車を追い返せ」彼はタビーに向かってぞんざいに言いつけた。「何でもないと言え。事故なんぞなかったことにしろ。でたらめだろうと何だろうと、とにかく言いくるめて救急車をここへ近寄せるな」
「君はそれで良くっても、ニールは手当てを受けさせなきゃあ」タビーは言った。
「だったら、勝手に病院でもどこでも連れて行け。何が何でも、他所《よそ》の人間を来させるんじゃない。事故のことを知られちゃあまずいんだ」
「どうして?」
「どうしてだと?」セイトンは目をこすり、血の混じった唾《つば》をアスファルトの路面に吐いた。「どうしてもこうしてもあるものか。知られたくねえと言ったら知られたくねえんだ。いいから、ぐずぐずしてねえで、早いとこ行って救急車を追い返せ」
タビーは閉口した。「その鼻はかなりひどいぞ。潰《つぶ》れてるみたいじゃないか。ほかにもどこか悪いところがあったら……」
「ほかは何ともない」セイトンは苛立《いらだ》って声を尖《とが》らせた。「悪いところがありゃあ、俺は自分で医者へ行くよ。早くしろ」
タビーは私をふり返った。
「俺は大丈夫だ」私は言った。
タビーはうなずき、さして急ぐふうもなく緩慢な動作で走り去った。セイトンは大儀そうに立ち上がり、危なっかしげに上体を揺すりながら事故の惨状を眺めわたした。その目にはどす黒い怒りと怨念《おんねん》を宿していた。ひとしきりあって残骸から顔をそむけた彼は、エルゼに気づいて両の拳《こぶし》を握り締めた。「ドイツへ帰るんじゃあなかったのか」陰にこもって彼は言った。
「月曜日に発つわ」エルゼは恐怖に目を見開いて言った。
「俺が死ぬところを見届けてからか、え? それに合わせて日を決めやがったろう」
「何の話かしら?」
「何の話かしらか、え?」セイトンはわざとらしく彼女の口ぶりを真似た。「どうしてこういうことになったか、知りたいか、え?」彼はよろめく足でエルゼに近づいた。額に汗の粒が噴き出し、目に伝い落ちていた。「知りたきゃあ聞かせてやろう。コネクティング・ロッドが折れていたんだ。それで、脚が降りなかった。どうだ、驚いたか、え? ロッドが折れていたとは知りゃあしまい」
セイトンの表情を見て私は足がすくんだ。まさに憎悪の仮面だった。エルゼは目を瞠《みは》り、わずかに口を開けて立ちつくしていた。次の瞬間、彼女は詰め寄って来るセイトンを言葉の矢弾《やだま》で押し戻そうとするかのように、息もつかせずまくし立てた。「私はあなたの飛行機に指一本触れていないわ。私はこの事故にいっさい関係ないわ。本当よ。お願い、信じて。どうして私が事故の原因になるようなことをすると思うの? あれは父のエンジンよ。父と私で開発したものよ。飛んでほしいわよ。あのエンジンで飛行機が飛ぶところを見たいわよ。私にとっては、たった一つの父の形見ですもの。父と二人で仕事をしたわ。あの頃、父は幸せだったのよ。私も幸せだった。だから、飛んでほしいのよ。父のエンジンが……」
「親父のエンジンだ?」
セイトンの露骨な侮蔑《ぶべつ》の声に、エルゼは平手打ちを喰《くら》ったように口をつぐんだ。
「あれは俺のエンジンだ。俺が開発したんだ。お前の親父が作ったエンジンは、まるで使いものにならなかった。お蔭《かげ》でこっちは墜落して、脚を折る目に遭ったんだ。あんなもの、何の役にも立たん。俺たちははじめっからやり直した。まったくのゼロからだ。新しい設計で、全部俺たちが作ったんだ」
エルゼはきっと顔を上げた。子供を守る母|虎《とら》の態度だった。「新しい設計ではないわ。たしかに別のものではあるけれど、原理は同じよ。父が開発したのよ。父はあのエンジンを……」
セイトンは引きつった声で厭味に笑った。「三年間、俺が体を張ってやって来たものを、よくも叩き壊してくれたな。嬉しいか、え? 腹の中で笑っていやがるな。これでまた、ドイツが主導権を握ったと思っているだろう。どっこい、そうは問屋がおろすものか」彼はエルゼに詰め寄った。「よくも俺たちを殺そうとしたな。こうなりゃあ、こっちだって……」
「何てことを言うの?」エルゼは叫んだ。「私は事故に何のかかわりもないわ。飛行機にはいっさい触れてないと言ってるでしょう」
「じゃあ、どうしてここにいる? 俺が胴体着陸に失敗して死ぬところを見物に来たんじゃないのか」
「何度言ったらわかるの?」エルゼは地団駄を踏んだ。「私は飛行機を見に来たのよ。父のエンジンを積んだ飛行機が飛ぶところを、この目で見たかったのよ。それが私にとってどんなに嬉しいことか、あなたはわからないの? 私が事故を期待するなんて、どこを押したらそういうことが言えるの?」
セイトンはエルゼの両肩をむずとつかんだ。彼女はおろおろ声を発した。「私は何もしてないわ。本当よ。事故は私のせいではないわ」
彼女の訴えも聞かばこそ、セイトンは顎を突き出して低い呪詛《じゅそ》の言葉を吐いた。「よくも俺たちを殺そうとしたな。どこまで俺の邪魔する気だ? はじめは色仕掛け。次が会社の乗っ取り。それも駄目となると、今度は打ち壊しか。ほしいものが手に入らなきゃあ打ち壊す。それがドイツが命のお前のやり方だ。何だろうと、手に触れるものは打ち壊す。すべてドイツのためなんだ」
「ドイツじゃないわ」エルゼは叫んだ。「父のためよ。私のすることは何もかも、すべて父のためなのよ。あなたはどうして父の仕事を正当に認めようとしないの?」
「俺はな、餓鬼の時分から、ドイツに対しては恨み骨髄《こつずい》に徹しているんだ」セイトンは血|反吐《へど》をはきでもするような声で言った。彼の両手がエルゼの首にかかった。「前の戦争で親父を殺された。今度の戦争ではおふくろだ。お前のドイツは人を殺すほかに能がねえんだ。こうなったからは、こっちが貴様を殺してやる……手足ばらばらにしてやるから、そう思え」
セイトンの節くれだった指が喉頸《のどくび》に食い込んだ。エルゼは白目をむいてもがいた。私ははじかれたように飛び出した。が、止めに入るまでもなかった。セイトンは膝《ひざ》からくずおれ、エルゼにすがりつくようにしながらずり落ちて地面に突っ伏した。
セイトンは意識を失った。
エルゼは恐怖に蒼ざめて彼を見降ろした。死んだと思ったに違いない。「飛行機には指一本触れていないわ!」彼女は嗚咽《おえつ》に声を詰まらせ、うろたえた目で私をふり返った。「ニール! 飛行機には触っていないわ。本当よ」
セイトンはすぐに息を吹き返し、地面を掻きむしりながら、膝を突いて上半身を起こした。エルゼは身をひるがえして駆け去った。
戻って来たタビーと二人してセイトンを事務所にかつぎ込み、ベッドに横たえた。彼は脇腹《わきばら》をひどく擦りむいていたが、骨折はしていない様子だった。昏倒《こんとう》は精神的なショックによるものと思われた。セイトンはまだ朦朧《もうろう》としていたにもかかわらず、私たちに、エルウッド大佐からトラクターを借りて、夜のうちに飛行機の残骸を格納庫へ運び込むように命じた。余人の与《あずか》り知らぬ何らかの理由から、彼は事故の証拠を速やかに隠滅しなくてはならないと思いつめているらしかった。自分の怪我よりは飛行機の破壊に苦痛を感じているふうで、暗がりで傷を舐《な》める犬のように、飛行機の残骸を格納庫に隠してやるという態度だった。
夜十時までかかって残骸を残らず格納庫に運び込んだ。機体はまったく形を留《とど》めていなかった。ちぎれた胴体を二度に分けてトラクターで引っ張った。セイトンみずから滑走路へやって来て、手落ちがないように私たちの作業を監督した。
この時すでに彼の頭の中で具体的な考えが固まっていたかどうかは知る由もない。おそらく、そこまでは行っていなかったと思う。彼は深慮遠謀に基いてではなく、直感的な判断で行動していたに違いない。仮に計画があったとしても、残り少ないスコッチを飲みながら先のことを話し合った席では、おくびにも出さなかった。
タビーの気持ちは決まっていた。それは前からわかっていたことである。
「また飛行機に乗るよ」考え直す余地はないという口ぶりで彼は静かに、しかし、きっぱりと言った。「フランシス・ハーコートは知ってるだろう? テューダー二機で空輸の仕事をやっていてね、今ちょうどイギリスへ戻っていて、さらに二機、買い入れの交渉を進めているところなんだ。クリスマス前に手紙を寄越して、航空機関士として乗らないかと言って来た」
「乗ることにしたのか?」セイトンは尋ねた。
答える代りに、タビーはポケットから封筒を出してみせた。すでに封をして切手が貼《は》ってあった。
「航空省が最初に出して来た日程を守ってくれりゃあ、俺んとこは空輸就航まで、まだひと月あるぞ」セイトンは無表情に言った。
「ひと月?」タビーは取り合わなかった。「六か月あったって、飛行機は飛べるようになりゃあしないだろう。第一、金がない」彼は乗り出してセイトンの腕をつかんだ。「なあ、ビル。俺は二年間ここでタダ働きしたよ。その結果がこれだ。この上まだ続けろと言われたって、いくらなんでも、そりゃあ無理だ。本気で言ってるとしたら、君はちょっとおかしいぞ。だいたいにおいて、金はどうするんだ? 俺はもう、すっからかんだ。逆さにしたって鼻血も出ない。ニールだって似たようなもんだろう。どっちを向いても借金だらけ。もう終りだよ。会社はとうに潰《つぶ》れてるんだ」
セイトンが絆創膏《ばんそうこう》の下で唇を歪めるのを見て、タビーは声を落とした。
「そりゃあ、俺だって残念だよ。君の気持ちもよくわかる。そうは言っても、やっぱり現実には勝てないじゃないか。これ以上はやって行けないよ」
「そうかな? いいや、諦《あきら》めるのはまだ早い。今この場でどうするという当てはないが……きっと何とかなる。来月中には必ず就航に漕《こ》ぎつけるから、見てやがれ。やると言ったら、俺はやるんだ」セイトンは声をふるわせた。とはいえ、意地を張っているばかりで、自信があるとも思えなかった。「あんなひよっこのドイツ女に仕事を台無しにされて、俺が黙っていると思ったら大間違いだ。あのエンジンで空を飛ぶためには、俺は何だってやるぞ」
「事故がエルゼのせいだとどうしてわかる?」私は言った。
「そうに決まってるだろうが」彼は食ってかかった。「さもなきゃあ、ラウフ・モトーレンの回し者の仕業《しわざ》に違えねえんだ」
「証拠がないじゃないか」
「証拠もへったくれもあるものか。ほかに考えられるかよ。あいつは俺を追っかけてここまで来やがったんだ。どこで俺のいどころを嗅《か》ぎつけたか知らないが、いつのまにかエルウッドのところへ入り込んでいやがった。こっちは人手が足りないから、掃除洗濯だの、夜の食事なんぞを頼んだんだ。ただの避難民だと思ってな。まさかマイヤーの娘とは知らなかったぜ」
「いつわかったんだ?」
「君がはじめてここへ来た晩、あいつが格納庫にいたろうが。あの時だよ」セイトンははっとして指を鳴らした。「そうだ、あの時やりゃあがったんだ。あいつが格納庫に一人で入ったのは、あの時以外にないからな」
「エルゼがコネクティング・ロッドを切断したと、本気で考えているのか?」タビーが信じられない顔で言った。
「あいつだって、あれで技術屋の端《はし》くれだろうが、え? あの時、三十分くらいは一人であそこにいたんだ。ランドールの抵当権を形《かた》に会社を乗っ取る計画が、どこまで見込みがあるか、まだあいつはわかっていなかったろうしな。でも、そんなことはどうだっていいじゃねえか」セイトンは声を荒げた。「ドイツ人の完全主義か、あの女の持って生まれた悪たれ根性か、それがわかってみたところで、ぶっ壊れた飛行機はもとへ戻りゃあしねえ。ようし、あとはまた明日の話だ」
彼は食いしばった歯の間から押し出すように言い、ふるえる手で椅子を引いた。激しい憎悪と抑え難い憤怒《ふんぬ》が男の涙となって溢れ出る寸前だったと思う。そうでなくてもセイトンは心身ともに疲れきり、神経はぼろぼろにささくれ立って、ちぎれる一歩手前だった。彼は立ち上がってタビーを睨みすえた。「その手紙、投凾《とうかん》する気か?」
「ああ」タビーはうなずいた。
「そうか」セイトンは額に青筋を立てた。「じゃあ、俺から一つ言っておく。ハーコートんとこへ行くんなら、もう、この会社の人間じゃないからそう思え。いいな?」
「わかっているよ」タビーは顔色も変えずに言った。
「馬鹿野郎が!」セイトンはドアを叩きつけるように閉じて立ち去った。
私は疲れきっていた。ひどい頭痛がしていた。自分の部屋に引き取り、枕《まくら》に頭がついたと思う間もなく、私は眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めても私はいっこうに気が晴れなかった。仕事は行き詰まり、懐中無一物に等しいありさまである。旋盤に向かっていた頃が懐かしくさえ思われた。疲労は肉体の限界を超えていたとしても、過去五週間はまだ夢があった。
どんより曇った寒い朝だった。窓には霜の花が咲き、風が建物を揺すっていた。タビーは自分一人が出て行くことに引け目を感じている素振りで、紅茶を淹《い》れ、ベーコン・エッグを焼いた。食事をしても、暗く重苦しい空気は変らなかった。私たちは黙りこくったまま早々に食事を済ませて格納庫へ出かけた。思うに、私はこの五週間のうちにいつしかセイトンの飛行機に自分の将来を託した気になっていたらしい。灰色の朝の光の中で、尾部はちぎれ、胴体はよじれて、屑鉄の山と言うしかない状態で横たわった残骸を見ると、急に言い知れぬ寂寥《せきりょう》の感が襲って来た。三人で作業をするのもこれが最後だった。もはや私たちは共通の目的で結ばれてはいない。これからは、それぞれが別の道を行くのだ。そう思うと、ますます気持ちが沈んでやりきれなかった。ここにいるかぎり、私は安全で、しかも懐疑に陥ることはなかった。私は自分の信じている道に打ち込むことができたし、目標は手の届くところにあった。しかし、今はもう何もない。
私たちは張り裂けてまくれ上がった外板を胴体から剥《は》がし、脚の状態を調べることにした。実りのない調査だった。何かがわかったところで今さらどうなるものでもない。お互いに気が乗らず、声を掛け合うこともなく、作業は滞《とどこお》りがちだった。十一時少し前に電話が鳴った。ハーコートからタビーへの連絡だった。セイトンと私は作業の手を止めて耳を澄ませた。
「ああ。……ああ、行くよ。ダイアナはもうドイツへ行っている……そうだな、ガトウ基地の酒保で連絡が取れるだろう……わかった。じゃあ、その折りに」タビーは目を輝かせ、上機嫌で口笛さえ吹きながら電話を切った。
「で、いつ発《た》つんだ?」セイトンは感情を隠そうとする時の常で、ぶっきらぼうな声を張り上げた。
「明日の十時にノーソルトで会いたいとさ」タビーは言った。
「だったら、もう行けよ」セイトンは出て行けがしに言った。
「いや、いいんだ。夜の汽車で発つよ。その前に、事故の原因も突き止めたいし」
「突き止めてどうする気だ? お前には関係ないことだろうが」
「とにかく、知っておきたいんだ」タビーは引き下がらなかった。
セイトンは肩をすくめた。「そうか。じゃあ、検屍《けんし》解剖を片づけるとするか」
彼は関心がないふりを装ったが、その実、大いに問題にしていることは顔に書いてあった。むしゃくしゃを投げつける相手を捜している。セイトンはそういう男だ。コネクティング・ロッドを取りはずしてみると、明らかに鋳鉄に鬆《す》が入っていた。
「やっぱり、エルゼの仕業じゃあなかったな」私は言った。
「ああ」セイトンはコンクリートの床に折れたロッドを投げ出して顔をそむけた。「フレイザーにも仕事の口を見つけてやれよ」彼は肩越しにふり返り、タビーにひとこと言い捨てて格納庫を出て行った。
タビーはその午後、荷物をまとめてメンベリーを引き払った。彼がいなくなって、事務所はますます重苦しく陰気になった。セイトンは始末におえなかった。ただ口をきかないというだけではない。何を考えているのか、彼は額に縦皺《たてじわ》を寄せ、腕組みをして俯《うつむ》いたまま、苛立たしげに室内を歩き回ってばかりいた。一月二十五日までに就航にこぎつけてみせると彼は言ったが、どう知恵を絞ったところで実現の手段があろうとは思えなかった。一度、彼は足を止めて私を見据えた。鼻に絆創膏を貼っているためか、ただでさえどす黒い顔が異様に歪んで見えた。その目には狂気が宿っていた。
「こうなったら自棄《やけ》だ」彼は言った。「何としても、飛行機を手に入れるぞ。いいか、どんな手段に訴えてでもだ」
実際、飛行機が手に入るものなら、そのために人を殺すくらいのことはやりかねないと私は思った。セイトンはそこまで自分を追いつめていた。目つきや話しぶりにも彼の執念がうかがわれた。セイトンは諦めていなかった。それが、あの不気味な空気を醸《かも》し出していたのだと思う。彼は異常だった。まともな人間なら不可能を不可能と認めるはずである。セイトンは違った。この期《ご》におよんで彼はなお、自分のエンジンで飛ぶことを考えている。私には信じられなかった。信じられない以上に私はそんなセイトンにある種の恐怖を感じていた。一つことにあくまでこだわって、これほど激しく執念を燃やす人間を私は見たことがない。
「君はどうかしているよ」私は言った。
「どうかしている?」セイトンは異様に上ずった声で笑った。それから、何やら期するところある顔で彼は言った。「うん、あるいはな。お前の言うとおり、俺はまともじゃないかもしれない。だいたい、パイオニアにまともなやつはいないんだ。まあ、見ていろ。どっかから飛行機を盗んででも、俺はあのエンジンで飛んでやるからな」彼は気味悪い薄笑いを浮かべて私の顔を覗き込んだ。「ああ、そうだとも。何としても、空輸の仕事にありつかずにゃおかねえんだ」自分に言い聞かせるような、ゆっくりした口ぶりだった。彼は事務所を出て行った。霜に凍《い》てついた土を踏む足音が遠ざかり、やがて、森を揺るがす風に呑《の》まれた。
私はエルゼに会いにエルウッド農園へ出かけた。脚の故障は彼女のせいではないことがはっきりしたと一言伝えておきたかった。しかし、彼女はすでに発った後だった。次の朝早くハリッジから船に乗るために、午後の汽車でロンドンへ向かったという。なす術《すべ》もなく私は事務所に引き返した。これで私とこの土地をつなぐものは何もなくなった。
続く二日間は悪夢の中に生きているようだった。私はただ蹌踉《そうろう》として格納庫と事務所を往復してメンベリーにしがみついていた。外の世界に出て行く勇気はなかった。私は怯《おび》えていた。仕事もなく、預金も底をつきかけている。加えてエルゼの面影が絶えず瞼に浮かんで私を悩ませた。自分でも不思議だった。エルゼに惹《ひ》かれているわけではない。私は何度も自分にそう言い聞かせた。しかし、それで気持ちが片づくこともなかった。心の拠《よ》り所になってくれる異性を求めていたのは事実である。格納庫に横たわっている飛行機の残骸と同じで、私はまったくどうしようもないありさまだった。
遊ばせておくわけには行かないと思ってか、セイトンは私に酸素アセチレン・バーナーを押しつけて、機体を切断するように命じた。友人の亡骸《なきがら》を切りきざむような気持ちだった。二基のエンジンを取りはずした飛行機は、死期を悟った老人が歯のない口で笑う顔に似ていた。事故がなかったら今頃どうなっていたろうかと思うと、私は不覚にも目頭が熱くなった。メンベリーの上空に舞い上がった時の興奮を何度思い出したかしれない。自分たちの手で作り上げたエンジンの、何と頼もしかったことだろう。あの時、私は世界を手中に握ったように感じた。それが、今は見る影もなく大破した飛行機の残骸をバーナーで焼き切っている始末である。
セイトンは、それが修理作業ではないことを隠そうともしなかった。にもかかわらず、あの鬱々《うつうつ》とした表情は影を潜めていた。足取りも心なしか弾んで見えた。時おり、ふと気がつくと、何やら意味ありげな薄笑いを浮かべて私のすることを眺めていることがあった。こんなことなら喚《わめ》きちらしてくれたほうがいい、と私は思った。いっそのこと叩き出してくれたら、私なりに覚悟も決まるだろう。セイトンの不可解な態度は気味が悪かった。
ある意味では、私の思いどおりになったと言えないこともない。セイトンが私に代ってふんぎりをつけてくれたのだ。とはいえ、それは私の期待とはおよそかけはなれた成りゆきだった。タビーが出て行って三日目の夜、事務所へ戻ったところへ電話が鳴った。セイトンは飛び上がって、タビーとダイアナが寝室にしていた部屋に駆け込んだ。ひとしきりくぐもった声の応答があって、受話器を置くチンという音が聞こえた。しばらくしてから、足音がゆっくり廊下を近づいて、食堂のドアが開いた。
セイトンはすぐには入って来ず、戸口に立ったまま顎を胸に埋めるようにして上目遣いに私を見た。その目は異様な昂《たか》ぶりを示して輝いていた。「タビーからだ」彼は低く言った。「君に仕事の口があるそうだ」
「仕事?」厭な予感がした。「どんな仕事だ?」
「ハーコート航空のパイロットよ」彼は部屋に入って後ろ手にドアを閉じた。思わせぶりな、こっちの隙をうかがうような動作だった。私は大きな猫を連想した。彼はテーブルの向こうに腰を降ろした。胸板の厚い頑丈な体に私は圧倒された。「ハーコートが新しく買い入れたテューダーに乗るんだ。一昨日、俺から頼んでタビーに話をつけさせたんだ」
私は礼を言いかけて口ごもった。思うままに言葉が出て来ず、自分の声がまるで他人がしゃべっているように遠くに聞こえた。私はうろたえていた。メンベリーを離れたくなかった。この場所にいれば安全だという幻想は捨て難かった。
「明日、ノーソルトへ行ってハーコートと飯を食え」セイトンは続けて言った。「一時に酒保で落ち合う段取りだとよ。タビーが紹介する。こんな旨《うま》い話はめったにあるもんじゃないぞ」セイトンは顔ばかりか、声にまで興奮を露《あら》わにしていた。「ハーコートが雇ったパイロットが、肺炎で乗れなくなったとかでな」酔ったように真っ赤になった彼は、ほしいものをついに手に入れた子供にも似た浮わつきようだった。「俺たちのエンジンをどう思う、ニール?」
私は返事に窮したが、彼は構わずまくし立てた。「いいか。あのエンジンは優秀だ。それは自分の目で見て知っているだろう。なにしろ燃費がいい。嘘じゃないぞ。従来のエンジンの半分だ。こいつはタビーと取付け前にテストしたから間違いない。そこでだ……一月十日にこっちの飛行機が準備できたとして……」
「そんな馬鹿な!」私は叫んだ。「できっこないことはわかりきってるじゃないか」
「エンジンは異常ないだろう。違うか? 要するに、新しい機体がありさえすりゃあいいんだ」セイトンは私を呪縛しようとするかのように、顔を寄せて私の目を見つめた。「まだ諦める手はないぞ、ニール。ハーコートの飛行機はテューダーだ。あと何日か後には、君はヴンストーフから空輸物資を積んでベルリンへ飛ぶ。もし、ソ連占領地区でエンジンが故障したら、どうなる?」
セイトンはじっと私の反応を見守った。私は声を失った。頭から冷たい水を浴びせられた気持ちだった。
「君は乗組員全員にパラシュート降下を命じればいい」セイトンは子供を相手に教え諭《さと》す態度で言った。「話は簡単だ。ちょいとばかり芝居をして、うろたえてみせりゃあ、君はテューダーのコックピットに一人っきりだ。あとはまっすぐメンベリーへ飛んで来るだけのことだ」
私は開いた口が塞《ふさ》がらなかった。「君は狂ってる……」私は思わず言った。「そんなことがまかり通ると思うのか? 調査の手が伸びて、飛行機を見られたら、たちまちばれてしまうじゃないか。ハーコートだって馬鹿じゃない。それに……」
彼は手を上げて私を制した。「君はわかってない。調査で何がわかるっていうんだ? 乗組員は飛行機がソ連占領地区で不時着するしかない状態だったと証言するだろう。ソ連側は否定するな。ところが、ソ連の言うことは誰も信用しない。飛行機が確認されたらどうするってか? だいたい、どうして確認されるんだ? ここで俺たちが飛行機を一機駄目にしたことは誰にも知られていない。事故のことが伝わっているにしても、どの程度の規模かわかりゃあしまい。どういうことかっていうとだな、ベルリン空輸を請け負っていた飛行機が消息を絶つ。そこへ、一月十日に別の飛行機が現われて、そのあとを受け継ぐ、とこういうわけだ。ハーコートのことは心配ない。どうせ保険がかかっているんだ。イギリスにとっても損はない。テューダーの数は変らないんだからな。どうだ、え? これでこっちも運が向いて来た。ひと儲《もう》けできるぞ。お互い、今までの苦労が報われるというものだ」
「そううまく行くものか」私はとてもついて行けなかった。
「どうして行かないことがあるものか。こっちは間違っても疑われる気遣いはないんだぞ。仮に疑われたとしたって、何を恐がることがある? 機体番号だのエンジン番号なんぞは、うちのぶっ壊れたやつのとすり替えりゃいいんだ。エンジン二基は俺たちのを付け替える。残骸は小さくばらして始末する。それを今、君がやってるんだ。あと何日かありゃあ、全部ばらばらだ。そいつをソ連地区のどっかへ持ってってぶちまけてやりゃあいいじゃねえか。運びきれない分は、飛行場のはずれの沼へ叩き込んじまやぁ、それっきりだ。へっ! こいつはいいや。あとは、お前がハーコートの飛行機をここへ運んでくれりゃあ、めでたしめでたしだ」
「いいや、お断りだ」私は腹が立って来た。
「お前、ドイツにあのエンジン開発の手柄を譲ってもいいのか?」彼は私の肩をぐいと押さえつけた。「断る前に、ちょっと考えてみろ。だいたい、お前には冒険心ていうものがないのか? ここでいくらか危ない橋を渡りゃあ、イギリスは世界一の航空運輸会社を誇る国になるんだ。世界中に、俺たちの飛行機が飛ぶことになるんだ」
セイトンの憑《つ》かれたような目の色を見て、私は背筋が寒くなった。彼は常軌を逸している。
「何と言われても、そんなことはできない」私は重ねて拒んだ。
「君が飛行機をここへ回して来たら、今度は俺が君を運んで、イギリス地区のはずれへ落としてやる。君はヴンストーフへ行って、ソ連地区で不時着して自力で境界線を越えて戻ったと報告すりゃあいい。餓鬼《がき》にだってやれることじゃあねえか」
「俺は厭だ」
セイトンはけたたましく笑った。「恐いか、え?」
私は返す言葉に詰まった。セイトンの大それた考えを拒否するのは恐怖ゆえか、倫理観からか、自分でも判断がつきかねた。が、いずれにしろ、そんなことに巻き込まれるのはご免だった。逃亡者の苦しみは、もうこりごりだ。傷持つ臑《すね》で逃げ隠れするのはうんざりだ。私は胸を張って陽の当たる場所へ出たかった。
セイトンはふっと私の肩から手を放した。「そうか」彼は言った。そのわざとらしく物静かな口ぶりと、得体の知れない薄笑いが私は気に入らなかった。「そうか、どうしても厭か」彼は目を細めて私を見据えた。「いつか俺が、何としてでも飛行機を手に入れると言ったのは憶えているな?」
私はうなずいた。
「いいか、俺は本気だぞ。出まかせを言ってると思うな。何だってやるんだ。なりふり構っちゃいられねえ。俺が飛ぶのを邪魔するやつは殺してやる。誰だろうと容赦しねえ。大の虫、小の虫ということがあるんだ。俺はな、自分の将来だけを考えているんじゃないぞ。間違ってくれちゃあ困る。俺は自分の国を思っているんだ。あのエンジンは、俺が国家に対してできる最大の貢献だ。俺のエンジンはイギリスのものだ。ほかの国へ渡してたまるか。そんなことはさせない。俺の命を棒にふってもだ」
セイトンは声を張り上げた。血走った目は焦点が怪しかった。
「手前のことは忘れろ。俺のことは構うな。国のために、やるのか、やらねえのか?」
「やらないね」
「この野郎、どの口でそういうことを言うんだ? お前、戦争では国のために体を張ったんだろう。だったら、どうなんだ? 戦争がなきゃあ、国のためには戦えないっていうのか? 何も大層なことをやれと言っちゃいねえ。俺はただ、飛行機をここへ運んでくれと頼んでるだけじゃねえか。それのどこが悪いんだ? ハーコートにゃあ何の迷惑もかからないんだぞ。それとも、何か? 危ない橋は渡りたくねえか? だったら心配無用だ。黙って俺の言うとおりにすりゃあ、万事うまく行く。恐がることは何もないんだ」
「誰が恐いと言った?」私は怒鳴《どな》り返した。
「じゃあ、何がいけねえんだ?」
「厭なものは厭だ。俺はやらないぞ」
セイトンは溜息《ためいき》をついて、そろそろと立ち上がった。「そうか。俺がこれほど頼んでも駄目か……」沈黙が室内を閉ざした。私は緊張に耐えかねて、ただ意味もなく声の限りに叫びたい衝動に駆られた。ややあって、彼は言った。「そっちがその気なら、俺にも考えがある。どうしても厭だと言うんなら、警察へ突き出すからそう思え」
セイトンの非情な声に、私は胃の腑《ふ》が縮み上がる思いだった。「お前、収容所にいたっていうじゃないか。そうだな? だったら、刑務所がどんなところかもわかるな。三年も喰らい込んでみろ。刑務所は、人間が人間でなくなる場所だ。お前、耐えられるか? とうてい正気は保てまい、え? 最初にここへ迷い込んで来た時も、気が狂う一歩手前だったろうが。刑務所送りになりゃあ……」
「卑劣漢!」われ知らず、私は叫んだ。悪態が続けざまに口をついて出た。いつの間にか立ち上がっていた。全身にふるえが走り、汗が額を流れ落ちた。恐怖と怒りで見境もなくなっていた。セイトンはそんな私をじっと見守っていた。肩を怒らせ、顎《あご》をやや突き出して、私がつかみかかるのを待ち受けているかのようだった。落ち着き払って、不敵な薄笑いすら浮かべていた。
「それで?」私が息切れするのを待って、彼は言った。「やるのか、やらねえのか?」
「君は狂ってる」私は叫んだ。「こっちまで気が変になりそうだ。そんなでたらめをやれると思うのか? 死者が出たらどうする? 事実が明るみに出たらどうなる? 無理にもやらせれば、君は俺に借りができる。それは我慢できないことだろう。そうなれば、君は俺を殺すな。何が国のためだ。君は自分のことしか考えていない。君は権力欲に憑《つ》かれてわけがわからなくなっているんだ。そんな大それたことをやって……」
「やる気があるのか、ないのか?」セイトンは顔を引きつらせ、ひび割れた声で言った。「お前が、ハーコートの仕事を引き受けるか、俺がこの場で警察に電話するか。三十分だけ待ってやるから腹を決めろ」彼はちょっと思案して言い足した。「独房暮しがどんなものか、ようく考えるんだな。鉄格子の間からしか空は拝めない。夢も希望もない。務めを終えて娑婆《しゃば》へ出たところで、先行き何の当てもない。いいか、俺はお前に飛行機乗りの仕事を世話してやると言っているんだぞ。引き受けりゃあ、運が開けるんだ。頭を冷やしてよく考えろ」彼は言うだけ言って部屋を出た。
ドアが閉じて、部屋は急に寒々としてがらんどうに感じられた。外から錠をかう音がして、あとはしんと静まり返った。すでにして私は独房に閉じこめられたも同じだった。木のドアと、石の廊下に不吉な音を響かせる鉄の扉の違いがあるだけではないか。シュタラグルフト第一捕虜収容所……。幾列にも並ぶ収容棟。鉄条網の柵《さく》。夜も昼も目を光らせている看守たち。ぎらぎらと闇《やみ》を射るサーチライト。死ぬほどの倦怠《けんたい》。そんな収容所のありさまが、今しがたまでそこにいたかのように生々しく記憶に甦った。もうたくさんだ。二度と再び幽囚の身にはなりたくない。何としても、そればかりは……。
[#改ページ]
第五章
自己弁護するつもりはない。セイトンは私に飛行機を盗めと言い、私はそれに同意した。だから、その後のことはすべて私の責任である。
私たちはラムズベリーへ出かけ、樫《かし》材の板壁をめぐらせた古びたパブの、もうもうと立ち込める煙草《たばこ》のけむりの中で細かく計画を打ち合わせた。人にはとうてい信じられない話だと思う。高度に組織化されたベルリン空輸の根拠地から飛行機を盗み出し、エンジン二基を付け替えて、再びその同じ飛行場に乗り込もうという大それた計画である。しかし、セイトンは周到綿密に計画を練り上げていた。聞いているうちに、私にはそれが決して不可能ではないように思えて来た。
彼の執念が私に乗り移ったとでもいうしかない。パブの喧噪《けんそう》の中で興奮に目を輝かせ、立て続けに煙草を吸いながら、自身を駆り立ててやまない冒険心を私に吹き込もうとしていたセイトンの顔を、私は今もはっきりと憶《おぼ》えている。自分の信じていることを人にも信じさせずにはおかないところが彼の身上である。どんな場合も彼は全力を尽くくすから、人は彼に従わざるを得ない。セイトンは生まれながらの指導者なのだ。いやいやいうことを聞いた私は、いつの間にかすっかり乗気になっていた。無残な失敗から、彼は手品さながら成功の夢を取り出してみせたのだ。私の目の前に手の届く目標が形を現わした。何よりも私は、計画が大胆不敵であることに心を惹《ひ》かれた。金を使い果たして二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなっていたこともある。どうせまともに稼いだ金ではなし、どぶへ捨てたほうがいいと思ってはいたものの、何とかなりそうだとなると欲が出るのは人情というものだ。ただ、その人情は彼の計算にはなかった。
パブを出しなに彼は言った。「明日タビーに会っても、何も言うなよ。いいな? あいつは何も知らないほうがいい。あいつの家は代々メソジストだからな」それでタビーの人柄がそっくり説明されるとでもいうように、彼はにったり笑った。
翌朝早く、セイトンはハンガーフォードの駅までオートバイで私を送ってくれた。おんぼろオートバイの後ろに跨《またが》って、真っ白に霜が降りたケネット渓谷を突っ走るのはわくわくするほど爽快《そうかい》だった。五週間あまり、私はメンベリー飛行場から数マイルと外へは出ていない。まさに蘇《よみが》えるような気持ちだった。つい前の日、私は警察に追われることを思って戦々兢々《せんせんきょうきょう》としていた。が、今は違う。警察の捜査何するものぞとばかり、勇猛心に駆られて、私はドイツに向かっていた。
タビーはノーソルトで私を待っていた。「よく来たな、ニール」彼は顔を皺《しわ》くちゃにして私の手を強く握った。「モーガンが病気になって幸いだったよ。いや、何も人の病気を喜ぶわけじゃないがね、君は運がいいんだ。ハーコートは今夜テューダーでヴンストーフへ飛ぶけれど、その前に、俺《おれ》たちの飛行機で君とテストをやると言っている」
私は眉《まゆ》をしかめた。「俺たちの飛行機?」
タビーはにんまりうなずいた。「そうさ。君が機長《スキッパー》。俺は航空機関士だよ。ハリー・ウェッストロップっていう若いのが通信士。航空士はフィールドだ。みんな来ている。紹介するよ」
弱ったことになったと私は思った。いっそのことタビーに洗いざらい話してしまいたい衝動に駆られた。実際、そうしていたらよかったと今にして思う。が、その時はセイトンに言われたことが頭にあった。タビーの人懐っこい笑顔を見ると、とても話す気にはなれなかった。問題外である。タビーは真面目一途《まじめいちず》な男なのだ。それにしても、乗員の中に彼がいるとなると、降下を命じるのは辛い。
私は気が重かった。機長として飛行機に乗るのは久しぶりである。バーに入って、タビーが私を皆に紹介した。ウェストロップは縮れた金髪で背の高い、内気な男だった。青年というよりは、まだ少年のあどけなさを残している。フィールドはずっと年長で、柄は小さく、鋭い目と尖《とが》った鼻をした陰気な男だった。
「何を飲むかね、スキッパー?」フィールドは言った。スキッパーと呼ばれて私はほとんど忘れかけていた夜間爆撃の毎日を思い出した。酒はスコッチを頼んだ。
「フィールドは空軍を除隊したばかりでね」タビーが言った。「現役の時からずっとヴンストーフで空輸をやっている」
「どうして空軍を辞めたんだ?」私は尋ねた。
フィールドは肩をすくめた。「飽き飽きしてね。それに、民間のほうが金になるし」彼は小さな目で探るように私を見た。「101飛行大隊にいたって? というと……」彼ははっと思い出した。「ああ、例の脱走で名前をあげた……?」
私はうなずいた。
彼は天井を見上げて唇をすぼめた。私には彼の頭の中が手に取るようによくわかった。「うん、思い出した。何でも、またとないような、えらく長いトンネルを掘って抜け出して、三週間逃げて回って……」彼はちょっと首を傾《かし》げてから、指を鳴らした。「そうそう、ドイツ野郎の飛行機をふんだくって舞い戻ったっていう、あれがあんたか」
「ああ」私は言った。身構えるような気持ちになっていた。次は、あれからこっち、どこでどうしていたかと尋ねて来るに違いない。
「痛快、痛快!」ウェストロップが乗り出して子供じみた声を発した。「聞かせて下さいよ。どうやって飛行機をかっぱらったんです?」
「その話はしたくないんだ」私はそっぽを向いた。
「そんな。いいじゃないですか。だって……」
「話したくないと言ってるだろう」助けてくれだ。こんな若僧はパラシュートが開かずに墜落してしまえばいい。ヒロイズムは願い下げにしてもらいたい。夜間飛行まで、乗員とは付き合わないほうがいい、と私は思った。
「俺は、ただちょっと……」
「うるさいぞ!」私は思わず声を荒げた。
「まあ、一杯行こう」タビーが穏やかに言ってグラスを差し出し、ウェストロップをふり返った。「お前、向こうへ行ってレーダーの点検をしておけよ、ハリー」
「やったばかりですよ」
「だったら、もう一度やり直せ」タビーは前と変わらぬ静かな口ぶりで言った。ウェストロップは不平らしくタビーと私を見くらべたが、じきに肩を落として立ち去った。
「あいつはまだ子供だからな」タビーはグラスを上げた。「じゃあ、空輸の前途を祝して」
空輸の前途を祝して……。タビーはメンベリーの食堂で、四人で乾盃《かんぱい》した時のことを憶えているだろうか。あれからすでに長い月日が経《た》ったような気がした。私はフィールドに向き直った。「これまで、どんな飛行機に乗っていたね?」
「ヨークだよ。やくざなドイツ人のために食糧を積んで、ヴンストーフとガトウの間を往ったり来たりさ」彼はぐいとグラスを呷《あお》った。「考えてみれば、おかしな話さ。なあ、つい三年ばかり前には、五百ポンド爆弾を抱いた爆撃機でベルリン通いをしていたんだ。それが今は、同じベルリンに小麦粉なんぞを運んでいるんだからな。イギリスとアメリカがドイツのために負担を引き受けてさ。立場が逆だったら、ドイツはこっちのためにそこまでやると思うか?」フィールドは鼻で嗤《わら》った。「まったく、ロシアさまさまだぜ。ロシアがベルリンを封鎖しなかったら、こっちも今|頃《ごろ》は苦労してるかもしれないんだ」
「ドイツ人が嫌いらしいな」私は言った。話題が変ってほっとしていた。
フィールドは薄い唇を歪《ゆが》めて笑った。「収容所にいたんなら、ドイツ人てやつがどんな連中だか、よく知ってるはずだろう。あいつらの顔を見ると虫唾《むしず》が走るよ。赤い血の通った人間とは思えないな。民主主義というものを、やつら、ヒトラーがチェコのリディツェ村をぶっ潰《つぶ》して以来の冗談と心得ているんだ。ミルトンの『失楽園』を読んだことがあるか? まさに、あれがドイツだな。いや、ドイツの話はよそう。ヴンストーフは知っているかね?」
「前に一度、爆撃したことがある」
「その頃から見りゃあ、多少変っているよ。ガトウも変った。基地も拡張したしな。あんた、行ったら驚くぞ。ガトウへ降りる時は、そりゃあ大変だ。バス・ターミナル並みだからな。なにしろ、接地したらそのまま突っ走らなきゃならないんだ。すぐ後ろから降りて来るのがいるか、さもなきゃあ、こっちの背中を踏んづけるようにして飛び発《た》って行くのがいるからな。まあ、詳しいことは基地のほうから話があるだろう。とにかく、全体が自動式のシステムで動いているようなもんだ。退屈なことといったらありゃあしない。晴れても降っても一日二度、八時間の乗勤だよ。俺はBOACを当たってみたんだけどな、航空士は間に合っていると言われて、また空輸の仕事に逆戻りさ。これじゃあ何のために軍を辞めたんだかわからない」彼はちらりと入口に目をやった。「おっと、旦那《ガヴァナー》のお出ましだ」
ハーコートは根っから組織型の人間と見受けられた。背は低く、髪は淡茶で小さな髭《ひげ》を蓄えている。端整な顔は几帳面《きちょうめん》な性格をうかがわせた。加算機のように語尾をぷつりと切る話し方に特徴があった。初対面の挨拶《あいさつ》はそっけなく、短い質問を発しては小さくうなずき、灰色の鋭い目で瞬《まばた》きもせずに私の顔を覗《のぞ》き込んだ。昼食の席はいささか気詰まりだったが、タビーが何かと気を遣って座を取り持った。ハーコートはなかなか行き届いた男である。もっとも、やたらに人と馴《な》れ合うことはない。むしろ、大工が道具を扱う態度で組織の人間を使いこなすといったところがある。私にとってはそこが有難い。
とは言うものの、試験飛行ではかなり緊張した。新規購入の飛行機に試乗するという名目だが、パイロットとしての力量を見られていることは誰《だれ》よりも当の私がよく承知していた。ハーコートは副操縦士の席に陣取った。離陸するまで、彼の冷たい視線は計器盤ではなく、私の顔に注がれていた。
もっとも、いったん離陸してしまえば、あとは問題ない。私はすぐに自信を取り戻した。テューダーは私の意思によく従った。つい数日前に同型の飛行機に乗ったことも私にとって幸いだった。私はハーコートのお眼鏡《めがね》にかなったに違いない。BEAのオフィスに向かってエプロンを横切りながら、彼は言った。「あとは君にまかせたぞ、フレイザー。手続きを済ませて、明日の昼に発ってくれ。最初は昼間の飛行のほうがいいだろう。ヴンストーフで待っている」
翌日、私たちは冬の弱い陽射《ひざ》しを浴びてノーソルトを出発した。北海の上空で日が翳《かげ》った。フィールドが話したとおり、ヴンストーフは八年前に爆撃した時とはすっかり変わっていた。高度千フィートのあたりで雲から抜け出ると、目の前にだだっ広い飛行場が開け、アウトバーンのようにまっすぐに伸びた滑走路と、エプロンに駐機したたくさんのヨークが見えて来た。整備工事であちこちが掘り返され、飛行場のはずれまで鉄道の側線が引かれていた。その向こうに荒涼としたウェストファリア平野が拡《ひろ》がり、遠く針葉樹林に覆われた丘陵が、空と陸とを画していた。
どしゃ降りの雨の中の着陸だった。濡《ぬ》れた滑走路が冷たく光りながら、風防を打つ雨|飛沫《しぶき》になかば霞《かす》んでいた。私は急角度で降下し、操縦|桿《かん》を起こしてふんわり接地した。自分でも満足できる着陸だった。幸先《さいさき》がいい。舵《かじ》棒を踏んで誘導路へ回り込んだ。コンクリート舗装に撥《は》ねかえる雨滴が視界を閉ざし、両側に駐機している飛行機の輪郭も定かでなかった。
「懐かしのヴンストーフ、か」イヤフォーンを通してフィールドのひしゃげた声が聞こえた。「よく降るなあ。俺が発った時も雨だったよ。あれからずっと降り続けかね」
トラックが迎えに来た。手荷物を提げて乗り込み、空港ビルへ向かった。くすんだ灰緑色に塗られたコンクリートの建物は、機能本位の、およそ殺風景な施設だった。一階の司令部作戦室へ行って当直の少佐に挨拶した。
「部屋は宿舎のほうで手配しているから、直接向こうへ行くように」
少佐はフィールドの姿を認めて声を張り上げた。
「よう、ボブ! 何だ、もう帰って来たのか?」
「除隊してどうしたかって言やあ、二週間ぶらぶらしていただけさ」フィールドは言った。
「給料も良くなったろう」少佐は私に向き直った。「あとはこの男に任せておけばいい。朝ここへ顔を出せば、出発時間その他、必要事項を伝える」
そこへ基地司令官がブロンドの大きなアルザス犬を連れてやって来た。「例のスカイマスターについて、その後何かわかったか?」
「いや、まだ何の連絡もありません」少佐は言った。「今もツェレから電話がありました。予定より二十分遅れているので、だいぶ心配しています。ソ連地区上空は相当の荒れ模様らしいですね」
「ほかの基地はどうだ?」
「ルーベック、フールスブッテル、ファスベルク……いずれも情況がつかめていません。どうやら、どこかに不時着した可能性が濃いようです。目下ベルリンがソ連当局と接触していますが、これまでのところ安全センターへは何の連絡も入っていません」
「次の一隊は午後五時出発だな? それまでに飛行機の消息が知れなかったら、パイロット全員に監視態勢を徹底させるように。いいな?」
司令官は行きかけて私たちをふり返った。
「制服を脱いで里帰りか、フィールド? はっきり言って、男前が上がったようにも見えないな」司令官はにやりと笑い、私に向かって手を出した。「フレイザーだな。よく来てくれた。ハーコートなら宿舎で待っている」司令官は少佐に指示した。「宿舎に電話してハーコート中佐に、もう一機のテューダーが着いたと伝えろ」
「承知しました」
「そのうち、一緒に飲もう、フレイザー」司令官は犬を連れて立ち去った。
「車を呼ぼう」少佐の「ファーラー!」と呼ぶ声が石の廊下に谺《こだま》した。
宿舎は一個師団でも収容できそうな、とてつもなく大きなコンクリートの建物だった。
名前を告げると、受付のドイツ人は長い名簿に指を走らせて言った。「C棟の231号室と235号室です。荷物はそこへ置いてって下さい。あとで運びます。どうぞこちらへ。ハーコート中佐がお待ちです」
ハーコートはここでは空軍時代の階級で通っているということか。案内に従《つ》いてラウンジへ入った。駅の待合室のようなそっけない場所だった。ハーコートはすぐにやって来た。
「途中、どうだったね?」
「快適でしたよ」私は言った。
「視界はどうだ?」
「雲高千フィートといったところですね。オランダ上空で雲に入りました」
ハーコートはうなずいた。「ようし、これで六機|揃《そろ》った」彼は誇らしげに言い、一瞬きらりと目を輝かせた。自慢に思うだけのことはある。これだけの規模でやっているところはほかに一社しかない。どこから金を調達して来るのか私は知らないが、彼はほんの三月前、たった一機でこの仕事をはじめたのだ。それが今では飛行機六機を擁する主力業者にのし上がっている。破竹《はちく》の勢いと言わなくてはなるまい。セイトンが死物狂いで目指していることを楽々とやってのけている、とその時思ったことを憶えている。私は知らず知らずのうちに二人の性格をくらべていた。二人はおよそ似ても似つかない。ハーコートはなかなかの遣《や》り手だが、謹厳で内向的な男である。一方、セイトンは、良く言えば磊落《らいらく》だが、粗野で攻撃的な冒険家だ。
「フレイザー!」
ハーコートの声に、私ははっと我《われ》に返った。「何か?」
「明日、十時の便でいいかと訊《き》いているんだ」
私はうなずいた。
「結構。交替乗員が二組しかいないから、仕事はきついだろうが、まあ、しばらくは我慢してくれ」ハーコートは目をしょぼつかせた。「その代わり、超過勤務手当は契約書にあるとおりだ」彼は時計に目をやった。「さて、そろそろ行かないとな。五時に出る便があるんだ。ここのことは万事フィールドが心得ている」
ハーコートと別れて、私は部屋を捜した。宿舎というよりは、飛行機乗り向けの独身寮とでも呼んだほうがふさわしい、とりとめもない場所だった。私は刑務所を連想した。長い廊下に猥《みだ》りがわしい笑い声や洗面所の水音が響いていた。監房に似た小さな部屋にはそれぞれ二、三台のベッドが用意されていた。私は誤って人の部屋を覗いた。灯火管制用のブラインドを降ろして非番の乗員たちが寝ていた。明りをつけるとたちまち怒声が湧《わ》き起こった。廊下を進んで行くと、開け放った戸口から部屋部屋の様子が見えた。カードに興じる集団もあれば、本を読みふけっている者もいた。これから寝に就く者もいれば、起き出そうとしている者もいる。裸電球に照らされたトンネルのような廊下に、ヴンストーフの生活のすべてがあった。洗面所では制服姿の男が顔を洗っている隣で、パジャマを着た起き抜けの男が髯《ひげ》を剃《そ》っていた。それらの光景は私に、ベルリン空輸が本質的には軍の作戦行動であることを実感させた。整然とした規律のもとに際限もなく続けられる活動である。
私たちは二人部屋を当てがわれていた。タビーと私が同室し、ウェストロップとフィールドがもう一つの部屋に入った。フィールドがポケット壜《びん》を手にして、ふらりと私たちの部屋にやって来た。
「飛行機が六機で交替乗員が二組しかいないとなると、こいつは重労働だぞ」彼は言った。「毎日びったり十二時間勤務だ」
「俺は構わんよ」私は言った。
荷物を整理していたタビーが顔を上げた。
「やっぱり飛行機に乗ってるほうがいいか?」
私はうなずいた。
「長続きはしないって」フィールドが口を挟んだ。
「何が?」
「すぐ熱が冷めるっていうことさ。戦争中とは違うんだ」彼は自分の部屋へ駆け戻り、フォルダーを手にして取って返した。「こいつを見てみろ」
枡《ます》目を切った紙片を示して彼は言った。枡の一目が月を表わし、どの枡も短い斜線で真っ黒に埋められていた。「斜線一本がベルリン往復だよ。一回二時間。来る日も来る日も同じさ。晴雨にかかわらずどころの話じゃない。霧で視界が悪かろうと、強風が吹き荒れていようと、時計仕掛けと同じで、きちんきちんと飛ばなきゃならないんだ。休む閑《ひま》もありゃあしない。しまいにはうんざりするぜ」彼はフォルダーを腋《わき》の下に抱え込んだ。「そりゃあまあ、稼がなきゃあ食って行けないけどな。それにしても、きついばかりで退屈な仕事だよ。嘘《うそ》じゃないって」
軽い夕食を済ませて、私は飛行場を散歩した。独りきりになりたかった。雨は上がったが、強い風が松の梢《こずえ》を鳴らしていた。積み降ろしエプロンには人気《ひとけ》がなく、濡れた地面が鈍い照明を浴びて冷たく光っていた。駐機しているのは修理点検中の飛行機ばかりで、風雨に打たれた翼がいかにも草臥《くたび》れて見えた。ほかの飛行機は掻《か》き消えたようにいなくなり、人の動く気配もない滑走路は、メンベリーとさして変わるところのない寂寞《せきばく》の感を漂わせていた。
松林を抜けて引き返す途中、左へ折れて飛行場の境界線に接するところまで伸びた鉄道の側線に出た。油送車が幾|輛《りょう》となく連《つら》なっていた。私たちがベルリンへ空輸する石油である。そのあたりもひっそり静まり返っていた。線路の向こうは柵《さく》もなく、木立もなく、ただ見渡すかぎりの耕地だった。そのだだっ広く捉《とら》えどころのない風景は、この土地の人間の頑迷で、感情の起伏に乏しい、鈍《どん》な性格を反映しているように思われた。踵《きびす》を返そうとして、ふと線路の向こうを見ると、四発の輸送機が空を横切るところだった。イギリスによるドイツ占領のシンボルである。何故《なぜ》か急に、その果てしない平地にあって遠い機影がひどく頼もしい気がした。
翌朝九時に運行担当の将校から指令伝達を受けた。十時には誘導路に長い飛行機の列を作って待機していた。待機中は燃料節約のためにエンジンを切った。これについてはハーコートからうるさく言われていた。「空軍はその必要がないんだ。納税者が燃料費を負担するからな。こっちは一回飛んでいくらの請負い仕事だ。条件が許すかぎりはエンジン二基で飛べ。待機中は必ずエンジンを切れ」私はセイトンがあの低燃費高出力のエンジンにかける意気込みが理解できたと思った。
セイトンのことが頭に浮かんで、私は彼との約束を思い出した。すぐにも実行したい気がした。早いところ、けりをつけてしまいたい。とはいえ、昼間は無理である。私は密《ひそ》かにタビーの様子をうかがった。彼は副操縦士の席に坐《すわ》っていた。飛行ヘルメットに取り付けられたイヤフォーンのせいで、顔が横に脹《ふく》らんで見える。その目はじっと計器盤に注がれていた。機関士が誰《だれ》かほかの男だったらどんなに気が楽なことだろう。タビーを騙《だま》すのはむずかしい。
すぐ前の飛行機がエンジンの回転を上げて滑走に移った。その一機が離陸するかしないかのうちに、イヤフォーンに管制塔の指令が響いた。「オーケー、2‐5‐2。離陸を許可する。滑走路へ出たら直ちに発進しろ」
滑走路の端へ向けて走行《タクシー》しながら、一度昼間のうちに飛んでおいたほうがいいのかもしれないと考え直した。
定刻一〇時一八分に離陸した。北側からベルリンに通じる回廊《コリドール》を指して四十五分、針路を北東に取って飛んだ。「コリドール・ビーコンに接近中」フィールドがインターコムで言った。「針路一〇〇度。時間一一・〇一。三〇秒マイナス」これは、規定の時間に三十秒遅れているという意味だ。運行はすべて秒刻みで管理されている。誤差は規定時間の前後わずか九十秒しか認められていない。その範囲を逸したら着陸を見送って基地に舞い戻るしかない。着陸予定時間はソ連地区を縦断するコリドールの両端に設けられているレーダー・ビーコンを通過した時点から算出する。運航高度は定められているから、対向機と空中衝突の危険はない。私たちは〈エンジェル35〉すなわち高度三五〇〇フィートで飛んでいた。フローナウ・ビーコンの手前二十マイルで、ウェストロップがガトウ管制センターを呼び出した。
ベルリンに近づくにつれて、私は不思議な興奮を覚えた。ベルリンの上を飛ぶのは一九四五年以来のことである。当時は夜間爆撃専門だった。昼間、空から見るベルリンはどんな様子だろうか。タビーも同じ思いでいるらしかった。窓から下を見降ろして、しきりに体を動かしている。私はヘルメットを押し上げて大声で話しかけた。「終戦後、空からベルリンを見たことはあるか?」
タビーはそっけなくうなずいた。「輸送機に乗ってたから」
「だったら、何でそう、そわそわしてるんだ?」
彼はちょっと困ったような顔を見せてから、にっと笑った。邪気のない少年にも似た笑顔だった。「ダイアナがガトウにいるんだ。マルカム・クラブで働いてる。俺が飛行機に乗ってることは知らないんだよ。驚かしてやろうと思ってさ」
管制センターと交信するウェストロップが現在位置をフローナウ・ビーコン上空と報告した。ガトウの管制塔が出た。「了解、2‐5‐2。ランカスター・ハウスで再度連絡しろ」
ダイアナがガトウにいる。そう聞いたとたんに、ガトウが旧《ふる》くから馴《な》れ親しんでいる場所のように思えて来た。ダイアナに会うのが楽しみだった。目の下に被爆の跡を残す田園地帯が拡がり、その向こうに廃墟《はいきょ》と化した市街地が続いていた。街は焼野が原だったが、瓦礫《がれき》の中を縦横に走る道路は、空からもはっきり認められた。満足に屋根のある建物は一つもなかった。ソ連軍が進攻したあたりを通過した。四年前のベルリン陥落がまるで昨日のこととでもいうふうに、街は荒廃のままに打ち捨てられているとしか思えなかった。
中心街の上空でフィールドが新しい針路を指示し、ウェストロップは管制塔と交信した。「了解、2‐5‐2。二マイル手前で進入許可を求めるように。着陸順位は三番だ」
そのあたりは比較的被害が少なかった。急角度で高度を下げて行くと、オリンピック競技場が視野をかすめ、グリューネヴァルトの松林地帯が眼前に迫《せ》り上がった。ハーフェル湖は鏡のように静かな水を湛《たた》えていた。総統地下|壕《ごう》最後の生存者たちは、この湖を渡って逃亡を図ったのだ。ウェストロップがまた管制塔を呼んだ。「こちら、2‐5‐2。進入許可を求む」
管制塔が応答した。「着陸後、直進走行しろ。後続機あり。ヨーク一機後続」
私は脚を降ろしてフラップを下げた。すれすれにかすめるばかりに森を飛び越えると、夜間誘導灯の支柱が並んだ向こうに、ガトウ空港の孔開き鋼板の滑走路が伸びていた。飛行場の境界線にかかるあたりで姿勢を直した。機は、一度弾んで着陸した。鋼板の継ぎ目を跨《また》ぐ衝撃が胴体に伝わった。滑走路の突端まで行ってブレーキをかけ、回頭して積み降ろしエプロンに乗り入れた。
ヴンストーフにくらべるとガトウはいささか期待はずれだった。空港の規模も小さく、全体に活気に乏しいような気がした。エプロンには飛行機が五機しかいない。にもかかわらず、ここではアメリカ管理区のテンペルホーフやフランス管理区のテーゲルよりも大量の空輸物資を捌《さば》いているのだ。エプロンに回り込むと、ちょうどすぐ後ろのヨークが着陸するところだった。いまだに灰色の野戦服を着たドイツ人の作業員たちを乗せた陸軍のトラックが二台、降り立ったばかりのヨークに向かって走り出した。
私はさらに、かまぼこ兵舎の並ぶエプロンの縁《ふち》に沿って格納庫の手前まで機を進めた。テューダー油送機が二機、燃料積み降ろし専用のエプロン、通称ピカデリー・サーカスに駐機していた。私は空いたパイプに合わせて機体の向きを変えた。エンジンを切ってシートから腰を上げる頃には早くもイギリス軍の兵士らが胴体のドアを開けて燃料パイプを連結していた。
「マルカム・クラブはどこかね?」タビーがフィールドに尋ねた。心なしか声がふるえていた。
「あっちのかまぼこ兵舎だよ」フィールドは積み降ろしエプロンのほうを指さして答えた。私をふり返ると、フィールドはエプロン全体を示す仕種《しぐさ》でぐるりと腕を回した。「陸軍じゃあ、ここを何て呼んでるか知ってるか? 以前、イギリス海峡を横断するパイプラインをプルートー〔PLUTO〕と言っていただろう。同じ伝《でん》で、ここはプルーム〔PLUME〕だよ。母なる大地を潜《もぐ》るパイプラインの頭文字を取ってさ。うまいことを言ったもんだな、え? 油送管はここからハーフェル湖へ通じている。その先は艀《はしけ》でベルリンへ運ぶんだ。これで輸送に使う燃料がうんと節約できる」
私たちはエプロンを横切り、かまぼこ兵舎に沿って歩いた。最初の二棟はドイツ人でいっぱいだった。
「ドイツ人労働者だよ」フィールドはわけ知り顔で言った。
「あの塔は何だ?」私は尋ねた。三棟目の兵舎の上に見張り小屋のある高い櫓《やぐら》が組まれていた。竹馬に小屋を乗せたようだった。
「積み降ろし作業をあそこから監視するんだ。ここは全体、陸軍の管理下だからな。先遣隊飛行場補給編制。これを略してFASOという。マルカム・クラブは、ほら、そこだ」
イギリス空軍の紋章をあしらった青い看板が掲げられていた。
「コーヒーを飲むなら急いだほうがいいぞ」
タビーは戸惑った様子で低く言った。「ダイアナはいるかな……」
「行きゃわかるだろうが」私は腕を取って彼を急《せ》かした。
兵舎の中はむっとするほど暖かく、焼き立てのケーキの匂《にお》いが漂っていた。軍隊ストーヴに赤々と火が燃えて煙草のけむりが濃く立ち込め、談笑する声が一つになって騒然と渦巻いていた。カウンターに陣《じん》取った乗員は、ざっと四組ほどだろうか。ダイアナの姿はすぐに目についた。彼女は飛行士の一団に囲まれ、アメリカ軍将校の腕に手をやり、その顔を見上げて嬉《うれ》しそうに笑っていた。
タビーはつと足を止めた。私はメンベリーで窓の外から食堂を覗いたあの夜のことを思い出した。ダイアナもすぐに私たちに気づき、ぱっと顔を輝かせて駆け寄るなりタビーを強く抱きしめた。それから、私にも接吻《せっぷん》して、上気した声で将校を呼んだ。「ハリー! ハリー! タビーが来たわ!」夫に向き直って彼女は言った。「兄のハリーがベルリンにいるって話したことあるでしょう。あのハリーよ」
タビーの顔がほころんだ。彼は大柄なアメリカ人と愛想よく握手を交した。「やあ、これは、ハリー。写真を見たことがあるのに、すぐにはわからなかったよ。ダイアナの男友だちかと思ってね」彼は安堵《あんど》を隠そうともしなかった。ダイアナも、夫の不意の出現に驚くあまり、メンベリーを飛び出してから後のタビーの境遇を案じるふうもなかった。「こっちへ来るなら、なんで連絡してくれなかったの? あんたも人が悪いわねえ。今すぐコーヒーを淹《い》れるわ。どうせとんぼ返りだものね」
タビーをカウンターに案内するダイアナの背中を見送りながら私は、彼がメンベリーのことをどこまで話すだろうかと気にかかった。私がタビーをソ連占領地区に降下させると知ったら、ダイアナはどうするだろうか。
「フレイザーだね」アメリカ人将校が話しかけて来た。「君のことはダイからいろいろ聞いているよ。ああ、遅くなったけど、ハリー・カリヤーだ。よろしく」
眉から目にかけたあたりを別とすれば、兄妹はほとんどどこも似ていなかった。感情の起伏が激しいダイアナと違って、ハリーは茫洋《ぼうよう》として口数も少なく、ひと目で信用できそうな男だった。「ああ。君のことも、セイトンとかいう狂った悪党のこともさんざん聞かされたよ。セイトンというのは本名かね?」彼は肩を揺すって笑った。「ダイの言うとおりだとすれば、なるほど悪魔《セイタン》かもしれないなあ」
ダイアナはこの兄にどんな話をしたのだろうか。「君も空輸の関係で?」
ハリーはかぶりをふった。「いや、私はアメリカ軍政部の管理局でね。戦前、私はオペルにいたもので、軍服のまま占領地区の自動車工業を監督しろということなんだ。まあ、それはともかく、コーヒーにしようか」
コーヒーは濃く、甘かった。瓶詰の肉のサンドイッチと、こんがり焼き上げて人造クリームをかけたケーキが添えてあった。
「煙草は?」私はハリーに箱を差し出した。
「いやあ、これはどうも。ベルリンではこれが悩みの種でね。なにしろ煙草が手に入らないんだ。私らはまだいいけれども、一部では一日十五本に制限されているくらいだよ。ところで、ガトウはどうかね?」
失望した、と答えると、彼は笑った。
「飛行機がいっぱいいると思っていただろう、え? これが組織の力というものだよ。テンペルホーフでも同じだ。ドイツ人労働者たちは十五分で飛行機を離陸させるからね」
「ガトウへは、仕事で? それとも、ダイアナに会いに来たのかね?」
「まあね。たまたまうまい口実もあったけれども」彼はにやりと笑った。「あるドイツ人女性がここの労働組合に検査係として勤めることになったのだがね、手続きに書類不備があって、至急フランクフルトで面談しなくてはならない。それで出て来たわけなんだ」
「じゃあ、ベルリン駐在ではないのか」
「ああ。普段はアメリカ占領地区にいる。ここにくらべれば、静かでいいよ。今、あそこにいるイギリス軍情報部の少佐と話していたところだ。何かと大変らしいな」
「何で情報将校がここにいるんだ?」
「それが、ちょっとソ連側といざこざがあってね。君は、ここははじめてだったな。そうか。あそこの、飛行場のはずれに森があるだろう」彼は窓のほうへ顎《あご》をしゃくった。「あれが境界線だよ」
「ソ連管理区の?」
「管理区じゃない。占領地区だ。昨夜《ゆうべ》、ドイツの車が許可を得てイギリス管理区へ入ったところを赤軍の警備兵が銃撃してね。その上、集団で越境して車をソ連地区へ押し込むという事件があった。イギリス空軍のお膝元《ひざもと》でだよ。イギリスとしては、これは穏やかじゃない」
「イギリス領内で車が狙撃《そげき》されたって?」
ハリーはこともなげに笑った。「このやくざな街ではそんなことが毎日起こっているらしいな。誰かに用があるとなれば、西側へずかずか入り込んでさらって行く」彼は目尻《めじり》に小さく皺を寄せた。「もっとも、こっちだって東側に対して同じことをやっているようだがね」
空軍の当番兵が入口から声をかけた。「2‐5‐2、整備完了しました」
「ああ、もう出発か。会えてよかったよ、フレイザー」
「ニール!」ダイアナが追いすがって私の腕をつかまえた。「タビーに聞いたわ。事故を起こしたんですってね」彼女は兄と挨拶を交しているタビーにちらりと目をやった。「ビルはどうしてるの?」彼女は声を落として早口に尋ねた。何と答えてよいかわからず、私は黙っていた。「馬鹿《ばか》ねえ。私はもう何とも思ってないわよ。でも、あの人にとっては痛手でしょうね。今どこにいるの?」
「相変らずメンベリーだよ」私は冗談めかして言った。「封蝋《ふうろう》で機体を継《つ》ぎ接《は》ぎしてる」
「まさか、まだしがみついてるんじゃないでしょうね」
「さあ、もう行かなきゃあ。また来るよ、ダイアナ」
「さよなら」彼女は怪訝《けげん》そうな顔をしながら、ほとんど無意識に挨拶を返した。
雨は降り続いていた。私たちは飛行機に乗り込んで、すぐ滑走路へ出た。
「2‐5‐2、発進を許可する。2‐6‐0接近中。高度、エンジェル35」
ベルリンから外へ向かう唯一の航空路を飛んで、ちょうど、昼食に間に合う時間にヴンストーフに帰着した。宿舎へ戻ると、私|宛《あて》に手紙が届いていた。タイプで打った表書で、ベイドンの消印である。
〈前略。解体はほぼ完了した。夜間照明路も整備した。一度低空で通過してくれれば、あとは誘導する。幸運を祈る。ビル・セイトン〉
手紙を読み終えてたたんだところへ、タビーが入って来た。
「ハーコートから連絡があった。一五・三〇時の予定が変更になって、俺たちは二二・〇〇時の便だ。向こうの乗員は、今夜はゆっくり寝かせるんだとさ」
とうとうやって来た。私は急に吐気を覚えた。
タビーは気遣わしげに私の顔を覗き込んだ。「どうかしたか、ニール?」
「別に。何かおかしいか?」
「顔色がよくないぞ。まさか、緊張なんてことはないだろうな。君としたことが。戦争中、夜間飛行はさんざん経験してるはずじゃないか」彼は私が持っている手紙に目をやったが、何も言おうとはしなかった。私は手紙を小さく破ってポケットに入れた。
「夜間飛行になるんなら、ゆっくり午睡《ひるね》しとかなきゃあな」私は言った。眠れるはずがないことはわかりきっていた。まったく、何と思って私はこの無謀な企てに同意したのだろうか。私は恐怖に襲われた。危険を恐れたわけではない。もとより、危険は意識になかった。が、ラムズベリーのパブで酒を飲みながら話し合った時にはいとも造作なく思えた計画が、実際に空輸の現場に臨んだ今では容易ならぬことであると悟っていた。路線バスの運行のように整然と組織された空輸作戦に潜《もぐ》り込んで飛行機を乗っ取るなどは、まさに狂気の沙汰《さた》である。しかも私は、タビー・カーターのような有能な航空機関士を含む乗員に故障と偽って、場所もあろうにソ連占領地区でパラシュート降下を命じなくてはならないのだ。ソ連地区のことを考えると薄寒《うそさむ》い気がした。ベッドに横たわって一五・三〇時の一隊が飛び発って行く爆音を聞きながら、私は煩悶《はんもん》した。今さら後へは退《ひ》けない。事故を偽装することを思うと鳥肌が立った。
食事が咽喉《のど》を通らない。私は紅茶ばかり何杯も飲み、立て続けに煙草を吸った。その間、絶えずタビーの心配そうな視線を意識していた。食事の後、私は飛行場へ出て、薄暮の中を次々に帰着する輸送機編隊を眺めた。輸送機は巨大な蛾《が》のように翼を鈍く光らせて滑走路に降り立った。私は自分の搭乗する2‐5‐2機が着陸して誘導路へ回り込むのを目で追った。乗員が引き揚げ、整備点検も済んであたりに人気《ひとけ》がなくなるのを待って私は、濡れたタールマカダム舗装の上に照明を浴びて黒く蹲《うずくま》っている飛行機に乗り込んだ。
いかにして故障を偽装するかについて、セイトンと私は考えられるかぎりの手段を検討した。最も手っ取り早い方法は燃料を絶つことであろう。しかし、燃料遮断弁は右側、すなわち機関士が制御する位置にある。あれこれ話し合った末、私たちは点火プラグに細工するのが一番確実なやり方であるという結論に達した。私はコックピットにかがみ込んで計器盤の裏の配線を探った。小さなクリップを両端に付けた絶縁線六本はあらかじめ用意してあった。私はそのうちの二本を点火装置に繋《つな》ぎ、他端を操縦席の左手いっぱいに伸ばして計器盤の背後に押し込んだ。時機を見はからってクリップを噛《か》ませ、点火装置をショートさせる寸法である。
細工にはかなり時間がかかった。やっと終ったところへタンクローリーが乗りつけた。左翼のタンクにパイプがつながれ、ローリーのポンプで燃料が送り込まれるのが音でわかった。
私は早くも臑《すね》に傷持つ逃亡者の心境で、しばらくじっと息を殺していた。飛行機の下を足音が行き来した。自分の飛行機のコックピットでこそこそしているところを見|咎《とが》められるよりはと私は後部へ移り、三つ並んだ楕円《だえん》筒型のタンクを乗り越えてエプロンに跳び降りた。そのまま行きかけようとして、懐中電灯で照らされた。
「誰だ、そこにいるのは?」
「フレイザー少佐だがね」私は咄嗟《とっさ》に現役時代の階級で答えた。「出発前の点検をしていたところだ」
「失礼しました。お気をつけて」
「ご苦労さん」私は早々に宿舎へ引き揚げた。ベッドに寝転がって本を読もうとしたが、とうてい集中できなかった。本を持つ手がふるえた。私はひっきりなしに煙草を吹かした。七時半を少し回った頃、ウェストロップが戸口に顔を覗かせた。「夜食はどうします?」
「腹ごしらえをしておいたほうがいいな」
足音が谺《こだま》する廊下を抜け、石炭殻を撒《ま》いた通路を食堂へ向かう間、ウェストロップはのべつ幕なしにしゃべり続けた。私は聞き流していたが、彼の口から出た言葉がふと耳にひっかかった。「何だ、その墜落っていうのは?」
「昨日ここへ着いた時、スカイマスターが一機、消息を絶ったって騒いでいたでしょう。ソ連地区に緊急着陸したそうですよ。今、非番で上がって来た空軍大尉から聞いたんです。午後便で飛んだ一機が不時着の現場を発見したっていう話です。ソ連側はその事実を認めてないらしいですよ。ソ連地区に不時着した乗員はどうなるんですかね」
「さあな」私はそっけなく答えた。
「大尉は、抑留されて尋問されるんだろうって言ってました。でも、あんまり心配はしてないみたいでしたね。それはいいとして、怪我《けが》してませんかね。ソ連側はちゃんと怪我人の手当てをすると思いますか? でも……」彼はちょっと口ごもった。「ソ連の医者に手術されるの……俺、厭《いや》だな。機長はどうですか?」
「俺だって厭だ」
「ソ連はベルリンを封鎖して何の得になるんですかね。また戦争する気はないはずですよね。戦闘機が接近して威嚇《いかく》することもなくなったから、戦争にはならないな。前にヨークが墜落した時は大騒ぎでしたよね。さっき工兵隊の少佐から聞いたんですけどね、ソ連ていう国は、通信網がえらくお粗末だそうですよ。道路も悪いし、ソ連と東ドイツを結ぶ鉄道は単線だし。でも、ソ連が遅れてるのはそんなことだけじゃないですよね。技術なんて、西側と同じはずがないですよ。それに、やることだって、たとえば、こんな空輸作戦なんて組織できないんじゃないですか。第一、飛行機がないですよ。いまだに戦争中にアメリカから手に入れたB29を改造して使ってるんだから」
ウェストロップの話は止《とど》まるところを知らなかった。私は堪忍袋の緒を切らした。「いい加減にしないか。ソ連の話なんて聞きたくもない」
「済みません、機長……」彼はうろたえた。「俺、夜間飛行ははじめてだもんで……」
私はこの時はじめてウェストロップが不安を紛《まぎ》らそうとしてしゃべりまくっているのだと気づいた。私は胸が痛んだ。何ということだ。この青年はロシア人を極度に恐れている。今から数時間後に、私はそんなウェストロップに向かって、パラシュートで飛び降りろと命令しなくてはならないのだ。それを思うと吐気がした。乗員がフィールドのような人間ばかりだったらどんなに気が楽だろう。フィールドがどうなろうと私の知ったことではない。戦争中のベルリン上空からだって降下を命じて気の毒には思うまい。問題はタビーと、この若僧だ……。
私は無理にも食物を腹に詰め込んだが、その間もウェストロップの饒舌《じょうぜつ》は止《や》まなかった。おまけに、彼は穿鑿《せんさく》好きの地獄耳と来ていた。ベルリンへの回廊をなす航空路はソ連占領地区七十マイルを貫通している。ウェストロップはどこで聞き込んで来たか、ソ連側が抑留者をどう扱うかについて詳しい知識を持っていた。捕虜や被疑者は独房に閉じこめられ、さんざん恐怖を煽《あお》られてから、眩《まぶ》しい電光にさらされて、昼夜の別なく厳しい尋問に責め立てられるという。「ナチスと変わりないですよね。だって、そうでしょう? ただ、拷問はやらないらしいですよ。特に軍人に対しては」彼はちょっと思案した。「俺も軍服だといいのになあ。もし捕まるようなことになっても、イギリス空軍の服を着てればひどい目に遭《あ》わずに済むんじゃないですか」
「心配ないよ」考えるより先に私は言った。
「そりゃあわかってますよ。不時着なんて考えられないですからね」ウェストロップは私の胸の裡《うち》も知らずに言った。「整備はアメ公たちより丁寧だし……」
「さあ、それはどうかな?」私はうんざりした。「煙草でも吸って、不時着の話はもう止めにしろ」
「済みません、機長」彼は私の差し出す煙草を取った。「俺、えらく臆病《おくびょう》だと思われるかもしれないけど……何ていうか、いつも先に何があるかはっきりしてないと駄目なんですよ。わかってたほうが、度胸がつくんです」
ウェストロップはまだ若い。私も以前は同じように感じたものだ。
「二一・四六時に搭乗だ」私は言い捨てて食堂を出た。時計を見ると、まだあと一時間ある。私はエプロンを散歩した。夜気は冷え込み、雨が上がって星が明るかった。飛行機が思い思いの向きに駐機していた。地上で見る飛行機は不恰好《ぶかっこう》で鈍重なものに感じられた。トラックが何台もせわしなく行き来し、FASOの兵士らが次の便に備えて物資の積込みに追われていた。私は柵にもたれて自分の搭乗機を眺めた。テューダーの列の左端に駐機している。燃料の積み込みも、整備点検も終って、今や出発を待つばかりだった。周囲が活気に満ちている中で、無人の飛行機はまるでじっと息をひそめているかのようだった。時間はのろのろと過ぎて行った。私は骨の髄《ずい》まで冷えきった体で、これからの行動に向けて自身を叱咤《しった》しながらその場に立ちつくしていた。
不思議なことに、仮にも計画を放棄しようとは考えなかった。私がその気なら、何かと技術的な困難を言い立てて、セイトンが意欲を失うまで延引《えんいん》を重ねることもできたはずである。後日、私は何故《なぜ》そうしなかったかと繰り返し自問したが、今もって本当のところはわからない。ただ、セイトンに警察へ突き出すと威《おど》されたことは、もはやこの時、私の意思を左右しはしなかった。計画そのものが思い切って大胆なところに気持ちが動いたのは事実である。それに、私はセイトンと彼のエンジンに賭《か》けてみたかった。空輸の現実に触れてその気持ちは一層強まった。そして、何よりも私は自分の将来を考えなくてはならなかった。そうしたことが一つになって私の動機を形作っていたというのが一番当たっていると思う。が、それはともかく、ヴンストーフ飛行場の片隅で計画実行の時を待つ間、ついに手を引く気は起きなかった。
九時十五分、私はゆっくり宿舎に戻った。飛行服に着替えているところへタビーが入って来た。「晴れてよかったな」彼は嬉しそうに言った。「ここへ来てはじめての夜間飛行にGCAが頼りじゃ面白くないからな」
GCAとは着陸誘導管制のことである。夜間または計器飛行状態の航空機の安全を期するため、地上監視員がレーダーを使用して着陸誘導を行なう。
九時五十分には全員が搭乗した。二二・三六時に発進。冬の星座が明るい空へ向かって重厚な輸送機を押し上げるようにしながら、私は胃の腑《ふ》の底に氷の塊にも似た冷たく堅いものがわだかまっている気持ちだった。タビーはスロットルに手をかけて、じっとエンジンの響きに耳を傾けていた。私はひそかに手を伸ばし、計器盤の背後に仕組んだ結線のクリップ同士をわずかに接触させた。左翼の内側のエンジンが咳込《せきこ》んだ。結線に誤りはない。私はタビーをふり返った。彼はスロットルから手を放し、首を傾《かし》げて耳を澄ませていた。「今のを聞いたか? エンジンが点火不良を起こしてるぞ」彼は叫んだ。
私はうなずいた。「燃料に≪ごみ≫が入っていたんじゃないのか」
タビーはなおしばらく耳を澄ませてから、再びスロットルに手をやった。私は速度計と自分の時計を見くらべた。このまま行けば、回廊空路の入口に当たるレストルフ・ビーコンまであと四十五分の計算である。
時間の流れがやけに遅く感じられた。単調な爆音は普段なら睡気を誘うほどだった。途中で二度、私は前と同じ配線をショートさせた。タビーは席を立ってフィールドと何やら話し合った。私はクリップを噛ませてみた。エンジンは停止した。クリップをはずすと、エンジンは息を吹き返した。タビーが座席に戻って言った。「どうもこの音が気に入らないな」
「まったくだ」私は相槌《あいづち》を打った。
タビーはまたしばらく耳を澄ませた。「やっぱり、点火に問題があるんだな。ガトウへ着いたらきちんと調べさせよう」
私は時計を見た。十一時十六分。ソ連地区はもう目の前だ。フィールドの声がイヤフォーンを伝って来た。「コリドール・ビーコン通過。針路一〇〇度。マイナス一〇秒」
針路を変えながら、私は冷たいものが背中を這《は》い上がるのを感じた。しかし、もう、気後《きおく》れはなかった。胃の腑のわだかまりも解けていた。私は計器盤の裏を探り、クリップを順に噛ませた。エンジンは一基また一基と停止して、右翼の胴体側を残すだけとなった。機内は急に静かになった。タビーの悪態がひどく耳ざわりに聞こえた。
「電気系統を調べろ! 燃料もだ!」私はうろたえた声を装って叫んだ。夜光塗料を塗った速度計の針は一五〇から一〇〇に落ちた。高度計の針も見る見る下がった。「分当たり八〇〇フィートで高度が落ちている」
タビーは警告灯に視線を走らせた。「燃料系統は異常ない。電気系統だ! 整備の連中が断線を見逃したな」
「何とかならないか? もう三〇〇〇まで落ちたぞ」
「何とかならないかと言われたって、ぐずぐずしてる閑《ひま》はないんだ」
「打つ手はあるのか、ないのか。ないとなれば脱出だぞ」私はフィールドとウェストロップに聞こえるように、インターコムのマイクを口から離さずに言った。
タビーは体を起こした。「やむを得ない。脱出だ」計器盤の仄《ほの》暗い光の中で、彼の顔は強張《こわば》っていた。
「パラシュートをつけろ」私はインターコムで後ろの二人に指示した。「フィールド。荷物室のドアを開けろ。このままじゃあ墜落だ」わずかにふり向くと、パラシュートを装着する二人の様子が目の端に映った。フィールドがウェストロップに何やら叫び、パラシュートが二つコックピットの床に押し込まれて来た。
「荷物室へ移れ」私はウェストロップを急《せ》き立てた。「飛び降りる段になったら、カーターに介添えさせてやる」高度計を睨《にら》んで、私はタビーに言った。「高度、二六〇〇」
彼は計器盤から顔を上げた。「駄目だ。どこかで配線がおかしくなっている」
「ようし。二人を先に脱出させろ。君が飛び降りる時は声をかけてくれ」
タビーは一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したが、すぐに意を決した。「わかった」私の腕をつかんで彼は言った。「ソ連地区で会おう」
そう言いながら、彼は手を放そうとしなかった。「何なら、先に降りないか。その間、操縦を代ってもいいぞ」
私は彼がメンベリーでパラシュート降下した時のことを思い出しているのだと気がついた。私が怖気《おじけ》づくことを心配しているのだ。どこまで人が好いのだろうか。私は唾《つば》を呑《の》み込んで怒鳴りつけた。「俺は大丈夫だ。自分のことを心配しろ。早く二人を降ろしてやれ」
タビーは私の顔を覗き込んだ。澄んだ茶色の目は私の腹の裡《うち》まで見透かしているかのようだった。
「気をつけてな!」彼は隔壁のドアをもぐって後部へ移って行った。私は座席から乗り出してふり返り、燃料タンクを乗り越える彼の後ろ姿を見送った。先の二人は胴体のドアを開けて待っていた。タビーは二人のところへ行き着いた。ウェストロップが真っ先に、続いてフィールドが飛び降りた。タビーが私に向って何か叫んだ。
「行け!」私は叫び返した。機体が少し横すべりした。私は向き直って姿勢を制御した。
再びふり返って見ると荷物室は空っぽだった。私は独りきりだった。ほっとして計器に目をやった。高度、一六〇〇フィート。速度、九五マイル。一〇〇〇フィートまで高度を下げれば、降下中の三人からは地平線に遮られて機影は見えなくなるはずである。前方を小さな光点が横切ろうとしていた。先行機の尾灯である。私の尾灯も後続機からあのように見えているのだろうか。ままよとばかり、私は大きく針路を変えると同時にクリップを一つはずした。羽根の角度を立ててやると、たちまち左翼外側のエンジンが息を吹き返した。
航空路をはずれて水平飛行に戻るとたんに背後で声がした。「何をやってるんだ、ニール。まだパラシュートも着けてないじゃないか」
私は愕然《がくぜん》として、コックピットに引き返して来たタビーを見上げた。
「何で飛び降りなかった?」
「慌てることはないからな」タビーは落ち着きはらって言った。「ひょっとすると、ほかのエンジンも調子を取り戻すかもしれない。君のことが気になって、引っ返して来たんだ」
「自分の面倒くらい見られるぞ」私は食ってかかった。「早く飛び降りろ」
タビーは私の狼狽《ろうばい》を誤解していた。パラシュートの収納袋に視線を落として彼は言った。「パラシュートをつける間、操縦を代ってやるよ。エンジン二基で、何とかガトウまで辿《たど》り着けるかもしれないしな」
早くも彼は副操縦士席に腰を降ろしていた。操縦桿が私の意志を離れて角度を変えた。「さあ、パラシュートをつけろよ、ニール」彼はなだめるような口ぶりで言った。
私たちはしばらく睨み合った。どうしていいかわからなかった。高度計の針は三〇〇〇を指して止まっていた。タビーは私の視線をたどって計器を見やり、私に目を戻すと、訝《いぶか》しげに眉を寄せた。「飛び降りる気はなかったな。そうなんだな?」
私はなす術《すべ》もなく彼を見返した。こうなっては、タビーを乗せたままメンベリーへ飛ぶしかない。「ああ、そうだ」私は言った。急に腹が立って来た。「何だって俺が言った時脱出しなかった?」
「君がパラシュートは苦手だというのは知っているよ」タビーは言った。「どうする気だったんだ? 飛べるだけ飛んで不時着する覚悟でいたのか?」
私は答に窮した。もう一度だけ脱出を勧めてみようと思い立って、私は密かに計器盤の裏を探り、左翼外側の点火装置をショートさせた。エンジンは止まった。自動操縦に切り替えて、私は叫んだ。「また止まった。ようし、脱出するぞ」私は腰を浮かせてタビーの腕を引いた。「急げ!」
どうやら彼は納得した、と思ったのも束《つか》の間《ま》で、タビーは私の手をふり払うと操縦士席のほうへ体を乗り出した。私が呆然《ぼうぜん》と見守る前で、彼はワイヤーを引っ張り出し、クリップをはずしてプロペラのフェザリング角度を直した。エンジンは底力のある轟音《ごうおん》を発して回り出した。タビーは自分の席に戻って手動操縦に切り替えた。私は事が露見した気まずさに身の置きどころもない思いを味わいながら、高度計の針が夜光の文字盤を掃《は》いて立ち上がって行くのを、ただぼんやりと見つめていた。
どのくらいそうしていたろうか、私はわれに返って席に坐り、操縦桿にしがみついた。タビーが何か叫んだ。中身は憶えていない。私は舵棒を蹴《け》って大きく機首を回らせた。「メンベリーへ帰るぞ」
「メンベリー?」タビーは呆気《あっけ》に取られた顔をした。「そうだったのか! 君は自分で回路をショートさせて、あの二人を放り出して……」あとは言葉にならなかった。「気は確かか? どういうつもりなんだ?」
私は引き攣《つ》るように笑う自分の声を遠くに聞いた。衝《つ》き上げる興奮に、神経は張りつめ、音を立ててちぎれる寸前だった。「どういうつもりだって? そいつはセイトンに訊いてくれ」私はなおも笑いながら言った。
「セイトン?」タビーは私の腕を取った。「君らはどうかしてる! こんなことをして、ただで済むと思うのか?」
「ああ、思うとも」私は開き直って叫んだ。「このとおり、うまく行ってるだろうが。どうせ誰にもわかりゃあしない」有頂天になった私は、タビーが座席に深く腰を落ち着けたのにも気がつかなかった。うまくいった。私は不可能を可能にしてのけたのだ。私はベルリン空輸に向かう輸送機の編隊からまんまと一機乗っ取った……。歌うなり、叫ぶなり、何らかの形でこの昂揚《こうよう》を表わさずにはいられない気持ちだった。
私の手の中で操縦桿がぐいと傾いた。タビーはベルリンへ機首を向けようとしていた。私は抵抗した。コンパスの針は激しく動揺した。タビーは大柄なだけに力も強かった。私は根負けして、コンパスが本来の針路に戻るのを見送った。
歓喜は風船が爆《はじ》けたように消し飛んだ。「何をする、タビー?」私は噛みついた。「これがどういうことか、よく気を落ち着けて考えてみろ。どこにも実害はないんだぞ。ハーコートは保険金が入る。空輸に穴が開くといったって、二、三週間もすりゃあ飛行機は戻るんだ。その時は俺たちのエンジンを積んでいる。それでこそ、俺たちは成功するというもんだ。成功の夢がないのか、君は?」いつのまにか、私はセイトンの論理をふりかざしていた。
タビーは動じなかった。「君はあの二人をソ連地区へ放り出したんだぞ」
「ああ、そうだ。それがどうした?」私はむきになって言い返した。「あいつらは心配ない。ハーコートは損しない。これで俺たちもうまく行くんだ」
タビーはじっと私を見つめた。その顔はすっかり血の気が失せていた。目尻《めじり》の小皺は常のとおりだが、茶色の目は笑っていなかった。一歩も退《ひ》かぬ覚悟を示したタビーには、花崗岩《かこうがん》の塊を思わせるものがあった。
「メンベリーへ転がり込んで来た時から、俺はどうも君という人間が信用できなかったよ。セイトンはな、思い込みは激しいが、あれで純粋なところがある。その点、まだ許せるんだ。君はやることが汚いぞ。卑劣だよ。男の風上にも置けな……」
これは言い過ぎだ。恐怖と怒りで私は気も狂わんばかりだった。タビーの正義漢ぶった態度は腹に据えかねた。いったい、彼はその信念に殉じる覚悟があるというのか。私は計器盤の裏に手を伸ばした。開け放った後部のドアから吹き込む冷たい気流に感覚も麻痺《まひ》した指先で、私はクリップを噛ませた。エンジンは残らず止まり、コックピットは沈黙の世界と化した。計器から洩《も》れる仄白い光を受けて風防に映る自分の顔は、まさに亡霊だった。実際、私はこの世との繋《つな》がりを絶たれたに等しかった。白い光点が流星のように頭上をよぎった。ベルリンへ向かう飛行機だった。それはまた、私と現実を結びつける唯一の接点でもあった。
「馬鹿なことは止せ、フレイザー!」音のないコックピットに、タビーの声は異様に大きく響いた。
私は笑った。われながら厭な声だった。もはや気持ちの収拾がつかなくなっている。食いしばった歯の間から押し出す言葉は、まるで他人がしゃべっているようだった。「メンベリーへ飛ぶか、このまま墜落するか、二つに一つだ。それが厭なら飛び降りろ」私は肩越しに、風の唸《うな》る胴体のほうへ顎《あご》をしゃくった。
「ワイヤーをはずせ!」タビーは叫んだ。
私は指一本動かしもしなかった。
「それをはずしてエンジンを回せ! さもないと叩《たた》きのめすぞ」タビーはシートの脇《わき》のポケットから大きなスパナを持ち出した。彼が操縦桿から手を放すと、機体は左へ傾きながら横すべりした。私は反射的に操縦桿を握って機首を立て直した。タビーはスパナをふりかぶって腰を浮かせた。
私は横ざまに彼に組みついた。肩をしたたか打ち据えられて左腕が痺《しび》れたが、私はタビーの飛行服をつかんで引き寄せた。体を密着させると、彼はもうスパナをふり上げることができなかった。と、その刹那《せつな》、飛行機がすとんと落ち込んだ。私たちは取っ組み合ったまま荷物室に投げ出され、燃料タンクに叩きつけられた。
一瞬、目が眩《くら》んだ。タビーが先に立ち直り、私をふり切ってコックピットへ駆け戻ろうとした。私は必死で追いすがった。操縦桿を渡すわけには行かない。ガトウへ飛んで飛行機泥棒の責めを受けるくらいなら、タビーを道連れに墜落したほうがましである。私は後ろから跳びかかって腕をねじ上げ、引き戻してタンクに押しつけた。またしても機体が揺れて、私たちは吹きさらしの荷物室に倒れ込んだ。便所の前で睨《にら》み合う格好になった。タビーが再びスパナをふり上げて向かって来るところを素手で殴りつけた。肩に二度目のスパナを喰《くら》いながら、私は重ねて殴り返した。これが顎に決まってタビーはのけぞり、胴体の内壁で後頭部を打った。機体が急激に落下し、タビーの体は開け放ったドアの脇へ飛んだ。彼が突起した鉄の補強材に額を打ちつけるのを私は見た。眉間《みけん》が割れて鮮血が噴き出した。彼は膝からくずおれた。
私は駆け寄った。倒れたタビーは、四角くのぞく黒い闇《やみ》のほうへ床をずっていった。彼の飛行服をつかんだ拍子に機体が尻をふって、私はまたもや便所のドアに叩きつけられた。タビーの脚は翼の後端に生じている目に見えない渦に吸い込まれて行った。わずかの間、タビーの大きな体は風圧と機体の傾斜に支えられてその場に留まった。私もまた、傾斜のためにドアに押さえつけられて身動きが取れない。どうすることもできなかった。目の前で、タビーの体は袋詰めの荷物のように、ゆっくりと機外へ引き摺《ず》り出されて行った。投げ出した両手は何かにつかまろうともしなかった。次の瞬間、タビーは翼の後流に呑まれて姿を消した。私は風の唸りの中に独り取り残されていた。鉄の床に糸を引く生々しい血痕《けっこん》を見れば、今眼前に起こった事実は疑うべくもなかった。
戦慄《せんりつ》が全身を駆け抜けた。私はドアを閉じてコックピットに戻った。ひとりでに高度計に目が行った。七〇〇フィート。私は操縦席にすべり込み、ふるえる手でワイヤーを引きむしった。エンジンは轟然《ごうぜん》と始動した。私は操縦桿を握りしめ、舵棒に足を掛けると、大きく旋回しながら急上昇した。眼下に町の灯と蛇行する川筋が見えていた。タビーのことを思うと吐気がした。高度、二四〇〇フィート。針路、八五度。タビーがどうなったか、見届けなくてはならない。
旋回急降下して、五〇〇フィートで水平飛行に戻った。タビーはどうしたろうか。意識を回復してパラシュートを開いてくれさえすれば……。そう、冷たい空気の流れに打たれたら、息を吹き返すはずではないか。頼むから死なないでくれ。私は思わず涙声で叫んでいた。町の灯を見ながら川に沿って遡《さかのぼ》った。川縁を一本の道が月光を浴びて走っていた。私はエンジンを絞ってフラップを降ろした。タビーが落下したあたりだった。私は風防ガラスに顔を押しつけるようにして地上に目を凝らした。松の林の中に、切って嵌《は》めたような小さな飛行場と点在する廃屋が見えるばかりで、パラシュートは影も形もなかった。どこを捜しても、白い茸《きのこ》のように地面に拡がった傘は見当たらなかった。私はその付近を十数回往復した。月明りの中に飛行場と松林、被爆したまま打ち捨てられた建物ははっきり見えた。しかし、白い絹のパラシュートとおぼしきものはついに発見できなかった。
タビーは死んだ。私が殺したのだ。
私は茫然自失の体《てい》で、その白い墓場のような無人の飛行場を後にした。高度を一〇〇〇〇フィートに上げて、月光の中を西へ飛んだ。右手の彼方《かなた》に、回廊航空路を行く編隊の赤と緑の航空灯が列をなしてルーベックのほうへ続いていた。が、それもじきに視界から消え、私は夜の虚空に独りぼっちになった。風防ガラスに映った自分の顔のほかは、話しかける相手もなかった。眼下には塩田にも似てウェストファリアの白い平野が拡がっているばかりだった。
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第六章
方位に迷うこともなく、神経を奪われるほどの気象の変化もなかった。眼下の地形は白地図を見るに等しかった。フリシンゲンで北海に出ると、私は勝手を知った道を行くようにその南限を横切り、テムズ河口を見つけてケネット河の合流点まで遡《さかのぼ》った。最前の出来事が頭に焼きついて離れなかった。タビーの死はあまりにも空しかった。私のことを、男の風上にも置けない卑劣漢と呼んだばかりに彼はあんな死に方をする破目になったのだ。風防ガラスからこっちを見る亡霊のような顔は、私のやりきれない気持ちをそっくり映し出していた。
気持ちを整理して、冷静に事実を見つめる時間はたっぷりあったにもかかわらず、私は事実を見つめることを怠っていた。今はそれを認めることができる。自己嫌悪にはじまった夜間飛行は、セイトンに対する激しい憎悪に終った。私に無理矢理片棒をかつがせたのはセイトンである。ゆえに、タビーの死はセイトンの責任である。私に責任はない。ケネット河にさしかかる頃、私は一途《いちず》にそう思いつめていた。
どす黒い怒りを燻《くすぶ》らせながら、私は一〇〇〇フィートまで高度を下げ、ラムズベリーを確認して北東に針路を変えた。ベイドン・ヒルの黒い森を越すと、すぐ前方にメンベリーの格納庫が見えて来た。一度、飛行場を低くかすめて通過した。雑木林の中の事務所は私が発《た》った時と少しも変わらず、懐かしい気持ちを誘った。しかし、タビーはもう帰らない。月光はすべてを洗ってメンベリーを夢幻の世界に変えていた。
誘導灯の必要はなかった。私は急旋回して脚を降ろし、フラップを下げると腹立ちまぎれに乱暴に着地した。
セイトンが格納庫から走り出て私を迎えた。興奮に顔を輝かせていた。「よくやった、ニール! 上等だ」彼はエンジンを切って降り立った私の手を痛いほど握りしめた。
私はその手をふり払った。咽喉《のど》がつかえて声が出なかった。セイトンは舐《な》めるような視線を機体に這《は》わせていた。死んだ息子に代って新しく子供を授かった父親の態度だった。私はその喜色をたたえた顔を潰《つぶ》れるほど殴りつけてやりたい衝動に駆られた。
セイトンはふり返ると私の目を見て言った。「どうかしたか?」
彼は私の腕を強くつかんだ。私の気持ちが伝染してか、その声は陰にこもっていた。
私は胃の腑《ふ》が堅く収縮して引きつるのを感じた。奥歯を噛《か》みしめて、私は言った。「タビーが死んだ」
「死んだ?」セイトンの爪《つめ》が私の腕に食い込んだ。が、彼はすぐにその手を緩《ゆる》めて冷やかに尋ねた。「何があったんだ?」
私はその場で一部始終を話した。昏倒《こんとう》したタビーが荷物室からふり落されたこと。上空を何度も行き来して捜したが、パラシュートは見つからなかったこと……。
セイトンは聞き終えて飛行機を見やり、思い切るように頭をふって言った。「ようし。飛行機を格納庫へ入れよう」
「飛行機?」私は自分のいびつな笑い声を他人事《ひとごと》に聞いた。「おい、タビーが死んだんだぞ」
「ああ」セイトンは腹立たしげに言った。「そいつはもう聞いた。死んだものはどうしようもないだろう」
「ガトウでダイアナに会った。マルカム・クラブで働いているんだ」こっちをふり返ってタビーに気づいた時の彼女の嬉《うれ》しげな顔がありありと記憶に甦《よみがえ》った。
「ダイアナとこれと、どういう関係があるんだ?」セイトンは唇を歪《ゆが》めた。「どうせ、すぐけろっとする女だ。さあ、格納庫を開けるのを手伝ってくれ。早いとここいつを隠さなきゃならねえからな」
私は臓物《はらわた》が煮えくり返った。「何てことを言うんだ。この人でなし! 自分のエンジンで飛行機が飛びさえすれば、誰《だれ》が死のうと平気なんだ、君ってやつは。ほかのことは頭にないだろう。さっき話したことがわからないのか? タビーは気を失った状態でふり落とされたんだぞ。今ごろは、ソ連地区の廃止になった飛行場で冷たくなってるんだ。タビーは死んだ。君が殺したんだ!」私は喚《わめ》き立てた。「それなのに、飛行機のことしか考えられないのか? 一言悔やみを言う神経もないのか? タビーは一本気な、人の好《よ》いやつだった。そのタビーが死んだら、君はもうあいつのことなんか忘れて……」
セイトンはいきなり私の頬《ほお》を平手で張った。「いい加減にしないか!」彼は声をふるわせた。しかし、それは怒りのためでもなく、憎しみのせいでもなかった。「君はわかっていないな。俺《おれ》はタビーが好きだったんだ。生涯で友だちと呼んでもいいかもしれないのは、あいつだけだ」自分自身に言い聞かせるかのような、噛んで含める口ぶりだった。彼は私に背中を向けた。肩をそびやかし、顎《あご》を胸に埋めて両手を深くポケットに突っ込んでいた。手を出していたら何をするかわからないとでもいうふうだった。「ようし、手を貸せ。格納庫を開けるんだ」
私は渋々《しぶしぶ》彼の後に続いた。目頭が熱くなり、霜が降りたような月光の照り返しが眩《まぶ》しかった。セイトンは潜《くぐ》り戸を入って、中の閂《かんぬき》をはずした。二人がかりで扉を押し開けた。月の光が傾《なだ》れ込んだ格納庫は寒々しいまでがらんとしていた。テューダーの残骸《ざんがい》は姿を消し、焼き切られた金属片が両側の壁に寄せて堆《うずたか》く積み上げられていた。一番奥の旋盤も、そのほかの工作機械も今は息をひそめたように静まり返り、作業台の上もきれいに整頓《せいとん》されていた。何を見ても、眼間《まなかい》にタビーの面影が浮かんだ。作業台に坐《すわ》って額にうっすらと汗を光らせ、目尻《めじり》に笑い皺《じわ》を寄せて、節《ふし》にならない口笛を吹きながら仕事をしている彼の姿がありありと瞼《まぶた》に甦った。
エンジンが始動した。風防ガラスを透してセイトンの顔がぼんやり見えた。彼は走行して格納庫に乗り入れた。私たちは、また二人して大扉を閉めた。
「事務所へ行こう。一杯やるといい」彼は私の肩に手を置いた。「さっきは悪かった、ニール。君の怒鳴《どな》りたい気持ちはよくわかるよ。そういうことがあった後だからなあ」
「タビーのことは一生忘れられないよ」私はセイトンよりも、むしろ自分に向かって言った。
私たちは無言で森を抜け、食堂へ入った。何も変っていない。木の馬に板を渡しただけのテーブルも、四脚の椅子《いす》も、隅の食器棚も、みなもとのままだった。しかし、今では二人きりである。私は寒さと疲労で全身が強張《こわば》っていた。
「坐れよ。今、酒を注《つ》いでやる」
セイトンは待つほどもなく、ウイスキー・グラス二つと一連の地図を抱えて戻って来た。
「ぐっとやれよ」彼は穏やかに言った。「気分がよくなるぞ」
私にウイスキーを注いで、彼は地図を拡《ひろ》げた。「それで? 正確な場所はどこだ?」
「その話はしたくないな」私は投げやりに言った。
セイトンはうなずいた。「気持ちはわかる。でもな、記憶が新たなうちにちゃんと聞いておきたいんだ。いいか、ここがレストルフ。回廊の起点だ。エンジンを切ったのはいつだ?」
「ビーコンを通過して三分くらいだったかな」
「航空士はフィールドとか言ったな?」
「ああ」
「速度は?」
「百六十ノットくらいだろう」私はグラスを置いた。「どうしようっていうんだ?」
「そいつをこれから考えるんだ」
「タビーは死んだんだ」私はふてくされて言った。「気を失ったまま、荷物室のドアから落っこちた。どこを捜してもパラシュートが開いた形跡はなかったよ。今さら、どうしようもないじゃないか」ある考えが頭の中で形を成して来た。「俺はやっぱり自首して出るべきだろうな」
「そんなことをして何になるっていうんだ?」セイトンはふんと鼻を鳴らした。
私は首を横にふった。「何にもなりゃあしないさ。ただ、俺はもうまっぴらだ。タビーが俺のことを何て言ったと思う? やることが汚いとさ。あいつは俺を、男の風上《かざかみ》にも置けない卑劣な人間だと言ったんだ。それがそもそものはじまりだよ」私はグラスの底を覗《のぞ》き込んだ。「タビーの言うとおりだな。それがこっちは応《こた》えたんだ。前がキャラハン事件。今度はこれだ。なあ、セイトン。俺はもう、こんなことはやっていられない。このままじゃ気が変になりそうだ。いつもいつも……」
「手前《てめえ》のことばかり考えるのは止《よ》せ」彼は険しい声で言った。額に青筋を立てていた。
「俺たちはタビーを死なせたんだ」私は繰り言《ごと》を重ねた。「君と俺と、二人であいつを殺したんだ」
「そうじゃない」セイトンはきっと顔を上げた。「タビーが死んだのは事故だ」
「タビーは俺が飛行機を乗っ取るのを止めようとしたんだ。法律的に見れば、あれは……」
「法律なんぞは糞喰《くそくら》えだ。そうか、お前、あいつにしゃべったのか」
「仕方がなかったんだ。ほかの二人が飛び降りた後、タビーはコックピットに帰って来てな」私は目をこすった。「俺はもう腹を決めているよ。もう、こんなことはやっていられない」
「おい、いい加減にしないか!」セイトンは顔を寄せて私の目を見据えた。「お前、俺のことを血も涙もねえやつだと思っているな。違うか?」彼はゆっくりと地図に目を落として肩をすくめた。「まあ、そう思われてもしようがねえか。身のまわりであんまりたくさん人間が死んで、馴《な》れっこになっているからなあ。俺はフランスで一年ばかり、爆撃機の基地で司令官を務めたことがあるんだよ。その一年で部下が五十五人死んだ。何かの縁で俺とすれ違って行った若い者たちだよ。そんなことがあって、俺は人が死んでも驚かなくなっているんだろうな」彼は再び私の目を覗き込んだ。「でもな、タビーは行きずりの若い者とはわけが違う。だってそうだろう。二年間、一つの目的のために一緒になって苦労したんだからな。タビーが死んだとお前の口から聞いた時は、お前を殺してやりたいくらいだったぜ。お前はどじをふんだ。そのせいで、俺は大事な人間を亡くしたんだ。それが、今聞いてりゃあ、何だ? もう、こんなことはやれないだと? いいか、ニール。これから俺が言うことを、ようくその頭へ叩《たた》き込め。お前がここで降りたら、タビーは犬死だぞ。イギリスの会社が世界の航空運輸業を制覇《せいは》するためにタビーが死ななきゃならなかったというんなら、それはそれでいい。けどな、お前がここで降りちまったら……」
「警察へ行って、全部話すよ」私は思いつめていた。
「まだそんなことを言ってるのか? 警察に話したって何の役にも立たねえぞ。タビーは死んだ。しようがないだろう。死んだ者は、もう帰って来ないんだ。だったら、何とかしてあいつの死を無駄にしないようにすることを考えてやろうじゃないか」彼は地図を私のほうへ向け直した。「いいか。フィールドと、もう一人が飛び降りたのがこの辺だ。そうだな? それから、どうした?」
「編隊の針路からはずれたよ」私は答えた。声がふるえるのをどうすることもできなかった。「そして、タビーがコックピットへ帰って来た。俺がパラシュートは苦手なのを知っていたからだよ。俺が飛び降りるのを見届けようとしたんだ。高度は一〇〇〇フィートくらいだった……」
「それで?」
「どういうつもりなんだ、君は? 俺の話してることがわからないのか? タビーはどこまでも親切に人のことを考えていた。それで自分が死ぬ破目になったんだ。俺が飛び降りるまで操縦を代わってくれる気で……」私は嗚咽《おえつ》をこらえきれなかった。
セイトンは私の手にグラスを押しつけた。「飲めよ」
氷を抱いたような胃の腑から、スコッチの温《ぬく》もりが徐々に体じゅうに拡がった。
「その時、高度が一〇〇〇と。それから、どうした?」
私はもう一口飲んだ。「エンジン二基で飛んでいたのを、一基だけにした。それでタビーも諦《あきら》めかけたんだ。ところが、荷物室へ行きかけて、ワイヤーに気がついてな。自分で操縦|桿《かん》を握って、回廊のほうへ引っ返そうとしたんだ」
「なるほど。で、君はあいつを説得して、メンベリーへ帰ろうとした。その時、こっちの計画をしゃべったんだな?」
「ああ、そうだ。でも、耳も貸さなかったよ。メソジストだからな。これは君から聞いたんだ。ここを出る前に君は俺に……」私は意識が朦朧《もうろう》として来た。疲労はすでに限界を越えていた。
セイトンは私の肩を揺すった。「それからつかみ合いになったんだな。そうだな?」
「ああ。汚い、と言われて、かっとなったんだ。それで、エンジンを全部切った。俺に操縦をまかせるか、さもなきゃあ、一緒に墜落か、と言ってやったんだ。タビーはスパナをふり回してかかって来た。それから先は、さっき話したとおりだ」瞼《まぶた》は鉛のように重く、もう目を開けていられなかった。「どうする気だ?」私はもつれる舌で言った。
「タビーがコックピットへ戻ってから取っ組み合うまで、どのくらい時間があった?」
「五分か、十分か……はっきりしない……」
「あいつがふり落とされた時の高度は?」
「さあ、それは……いや、待てよ……七〇〇くらいだな。そこから二〇〇〇ちょっとまで昇って、そのあと、五〇〇に下げてタビーを捜したんだ」
「無人の飛行場とか言ったな?」
「ああ」私は首を垂れた。肩を揺すられているのをぼんやり意識した。「小さな町があって、川が流れていたな。町からまっすぐ北へ伸びる道が……飛行場をかすめて……」必死で目を開けると、セイトンは地図に物指《ものさし》を当てがって距離を測っていた。「どこだかわかるか?」
彼はうなずいた。「うん。ホルミントだ。間違いない」
「どうするつもりなんだ?」私は尋ねた。
「どうというほどのこともないが、旧《ふる》い知合いでダコタに乗ってるやつがルーベックにいてな、そいつに電報を打って、昼間、空から捜してもらうように頼んでみよう」
私はまた目を閉じて、わけもわからずにうなずいた。
「かなり参ってるな、ニール。もう寝たほうがいい」セイトンの声が遠くに聞こえた。抱《かか》えられるのがわかった。「さあ、しっかりしろ。ほら」
セイトンはスコッチに何か入れたのだと思う。それから後のことはまるで憶《おぼ》えていない。目を覚ますと、よく知っている殺風景な部屋に明るい日が差していた。こんなことははじめてである。私は時計を見た。午後の二時を回っていた。着のみ着のまま十二時間、昏々《こんこん》と眠り続けたということか。私は煙草をつけて仰向《あおむ》けになった。
前夜の出来事が記憶に甦ったが、目覚めと同時に、なかば忘れかけた悪夢にも似て、タビーの死がすでに遠い過去のことのように感じられた。何もかもが妙に色|褪《あ》せて、出来事の輪郭すら定かでなかった。格納庫へ出かけ、セイトンが早くもテューダーのエンジンをはずしにかかっているのを見て、はじめて私は現実に立ち返った。
「気分は好くなったか?」彼は言った。「食う物を用意しといてやったが、食ったか?」
「いや」私は機首のほうへ回った。何と、すでに右翼のエンジンは取りはずされていた。私はセイトンの凝《こ》り固まった一念に舌を巻いた。
「こっちのエンジンの留めネジにてこずってるんだ。ちょっと手を貸せよ」
私は銀色の刃物を思わせる翼を打ち眺めながら、根が生えたようにその場に立ちつくしていた。飛行機が憎かった。セイトンなどは顔も見たくない。しかし、何にもまして私は激しい自己嫌悪にさいなまれていた。私は視線をゆっくりと機械から格納庫全体にめぐらせた。あらためて驚嘆せずにはいられなかった。私がヴンストーフにいる間、セイトンは大車輪で孤軍奮闘したに違いない。前のテューダーは、主翼も尾翼も胴体も見分けが付かぬまで酸素アセチレン・バーナーで切断され、金属の細片となって壁ぎわに積み上げられていた。二基のエンジンだけが無傷で残っている。
セイトンは車のついた整備架台から降りて私をどやしつけた。「目を覚ませ、ニール! 作業服に着替えて仕事にかかれ」
近くで見ると、彼はげっそりやつれて、睡眠不足のせいか目のまわりに隈《くま》を作っていた。急に年取ったようだった。「俺はひと睡《ねむ》りするぞ」彼は作業台の上に横になったが、私が整備架台に上がって仕事にかかるのを見届けるまでは目をつむろうとしなかった。そして、それから後は、夕方、日が落ちて私が発電機を回すまで死んだように眠り続けた。
セイトンが食事の用意をして、さらに二人で作業を進めた。左翼のエンジンを取りはずしてコンクリートの床に降ろしたのが八時四十五分だった。
「そろそろニュースの時間だな」私は言った。煙草をつける手がふるえた。
機内のラジオでニュースを聴いた。主なニュースの項目には消息を絶ったテューダーのことはなかった。イヤフォーンを耳に押しつけて、私は自分の頭の中で話しているようなアナウンサーの声に聞き入った。政治問題。ストライキ。アイスランドの経済不況。どれも私には関心のないことばかりだった。ところが、終りに近く、アナウンスがしばらく跡切《とぎ》れた。紙のこすれる音がして、再び声が聞こえた時、私は思わずシートの端を強くつかんだ。
「ただ今入りましたニュース。昨夜、ベルリン空輸の途上で消息を絶ち、安否が気遣われていたテューダー輸送機は、ドイツのソ連占領地区で墜落した模様です。パラシュートで脱出した乗員二人が今朝、徒歩で境界線を越え、イギリス地区へ帰り着きました。この二人は航空士のR・E・フィールドと、通信士のH・L・ウェストロップで、二人の報告によりますと、同機は北側からベルリンに進入する回廊航空路にさしかかってまもなくエンジンが故障し、機長が乗員に脱出を指示したということです。機長のN・L・フレイザーと、航空機関士のR・C・カーターは消息を絶ったまま、今なお行方《ゆくえ》不明です。墜落したと見られるテューダーの後続機の機長は、高度約一〇〇〇フィートでパラシュートが一つ開くのを目撃したと語りました。事故当時、現場上空はよく晴れて月が明るく、視界は良好でした。フィールド航空士とウェストロップ通信士はほぼ同時に着地しているところから、そのパラシュートは残る二人の乗員のいずれかであると思われます。これまでのところ、ソヴィエト当局は占領地区内で墜落事故があったことを認めておらず、乗員を拘束しているのではないかとするイギリス側の疑惑をいっさい否定しております。墜落機はハーコート・チャーター社所属のテューダー油送機で、機長の元イギリス空軍少佐ニール・フレイザーは戦時中ドイツの捕虜となり、収容所を脱走してメッサーシュミット機を奪い……」
私はラジオを消してイヤフォーンをかなぐり捨てた。パラシュートが一つ開くのを目撃した……。
「生きていると思うか?」にわかに湧《わ》いた希望に私は声がふるえた。セイトンは何も答えず、ただ漠然と飛行機の胴体を眺めやっていた。
「パラシュートが一つ開くのが目撃されているんだ。タビーだよ。ほかの二人は一緒に飛び降りて、ほとんど同時に着地している。今ニュースでそう言った」
「まあ、明日の新聞を待つとしよう」セイトンは大儀そうに腰を上げた。
私は行きかける彼の腕をつかんで引き止めた。「どうしたっていうんだ? 嬉しくないのか、君は?」
彼はスレート瓦《がわら》のような灰色の目で私を見降ろした。「そりゃあ、俺だって嬉しいさ」
そう答えた声には感情のかけらもなかった。
私は水を差されたようでやりきれなかった。ニュースは、はじめから終りまですべて伝聞だった。後続機のパイロットは二つのパラシュートを一つと見間違えたのかもしれない。ニュースは結局、何も伝えていないのと同じではないか。しかし、ニュースが本当だとしたら……。私は格納庫の土間に降り立って飛行機を見上げた。エンジンを取りはずすとは、セイトンもまた何と早まったことをしてくれたのだろう。飛行機が満足な状態なら、すぐにもあの無人の飛行場へ飛んで付近を捜索できるではないか。現実的ではないと知りつつ、私はその考えを捨てきれなかった。
セイトンも同じ気持ちだったか、直ちに手製のエンジンを取り付ける作業にかかった。明け方の三時に取り付けを終っても、私は睡気を感じなかった。月光の中に茸《きのこ》のように開いた白い絹のパラシュートが瞼《まぶた》に浮かんでは消えることを繰り返した。私はタビーが冷たい気流に頬をなぶられて意識を回復し、自分の手でパラシュートを開くところを何度となく想像に描いた。新聞が待ち遠しかった。
八時に目を覚ました。事務所はもぬけの殻だった。セイトンは格納庫かと、ふと見ると食堂のテーブルに、ベイドンまで新聞を買いに行く、と書き置きがあった。ベーコンを焼いているところへ彼が戻って来た。その顔を見れば、何か進展があったらしいことがわかる。彼は睡眠不足も解消して若返ったとでもいうふうに目を輝かせていた。
「どうした? タビーは発見されたか?」私は急《せ》き込んで尋ねた。
「いや」
「じゃあ何だ?」
「こいつを見ろ」彼は一通の電報を取り出した。
『フメイノテューダ ーニカワリ、ダ イシキュウキデ ンノヒコウキヲモトム。コウクウショウCAクリアゲ ニド ウイ。ETAレンラクノウエスミヤカニヴ ンストーフシュットウノコト。BEAアイルマー』
(不明のテューダーに代り、大至急貴殿の飛行機を求む。航空省CA繰上げに同意。ETA連絡の上速やかにヴンストーフ出頭のこと。BEAアイルマー)
私は読み終えてセイトンに電報を返した。
「タビーがどうなったか、君は新聞をめくってみようともしなかったんだろう」
「いい加減にその話は忘れたらどうなんだ」セイトンは苛立《いらだ》ちを隠さずに言った。
「いいや、そうは行かない。新聞は買って来たんだろうな」
「気の済むまで読め」彼は幾種類もの新聞の束を私に押しつけた。「昨夜のニュース以上のことは何も書いてありゃしねえぞ」
食事にかかるセイトンを見送って、私は新聞に目を走らせた。当局の発表をそのまま刷ったものと見えて、どの新聞も記事は同じだった。ただ、中の二紙だけはパラシュートが目撃された位置を、ほかとは違ってホルミントの北方二マイルと報じていた。
食堂へ行くと、セイトンは皿の傍《かたわ》らに電報を拡げ、何やらメモを取りながら食事をしていた。私は彼の前に新聞を突きつけた。「読んだか?」
彼は頬張ったまま私を見上げてうなずいた。
「タビーは生きてるっていうことだ」私は声を張り上げた。「息を吹き返して、パラシュートを開いたんだ」
「だといいがな」セイトンは心ここになかった。
「ほかに考えられないじゃないか」
「ルーベックの知り合いに電報を打つと言ったろう。あの朝、電話で発信したんだ。今朝、返事が来た。読んで聞かせよう」
彼はポケットから別の電報を取り出して読み上げた。
『カーター、フレイザ ートモショウソクツカメズ。ヘンタイゼ ンキニゴ ゼ ン三ジ イコウホルミント一タイカンシヲシジ。カイロウキョウカイセンカンシノタメシンロウカイ。シカイリョウコウ。キョウカイセンフキンデ パ ラシュート二テンカクニン。ウェストロップ フィールドノモノ。モクヒョウチイキニキタイ、パ ラシュート、キュウナンシンゴ ウハッケンサレズ。アシカラズ。マニング』
(カーター、フレイザーともに消息つかめず。編隊全機に午前三時以降ホルミント一帯監視を指示。回廊境界線監視のため進路迂回。視界良好。境界線付近でパラシュート二点確認。ウェストロップ、フィールドのもの。目標地域に機体、パラシュート、救難信号発見されず。悪しからず。マニング)
「それじゃあ何の証拠にもならないじゃないか」私は言った。「タビーは怪我《けが》してるかもしれないんだ」
「怪我してたって、発煙筒を焚《た》くなり何なり、合図するくらいはできるだろう」セイトンは食事を続けた。
「それもできないくらいひどい怪我だったらどうなる? また気を失ったかもしれないし」
「だったら、パラシュートをたためないから、上から見えるはずだろう」
「そうとも言えないぞ。ホルミント飛行場は松林の中なんだ。林へ降りたら、空からはなかなか見えない」
「林へ降りればパラシュートは木の枝に引っかかる。これ以上目立つことはないぞ」
「降下するのが見えて、ソ連軍の警備隊か、あるいは、地元のドイツ人に保護されたっていうことはないだろうか?」私は躍起《やっき》になって言った。何としてもタビーに生きていてもらいたい。私はホルミント付近でパラシュートが目撃されたという報告に一縷《いちる》の望みをつないで、ひたすらそれにすがりついていた。
セイトンは顔を上げた。「タビーが転落したのは何時だ?」
「さあ……十一時半前後だと思うがね」
「二日の夜だな?」
私はうなずいた。
「その数時間後には、ルーベック基地のパイロット全員に地上を見張るように指示が出ている。つまり、明け方からずっと上を飛ぶ連中は、一帯に目を光らせていたということだな。夜が明けるまでの七時間のあいだにタビーが発見されたかもしれないと、君は本気で考えているのか?」
「あの晩は月が明るかったからな」
「うん。じゃあ、まあ五時間は月明りで視界も利《き》いたとしようか。タビーが自力でパラシュートを開いたとすれば、夜明け頃にはまだ降下地点の近くにいたはずだな。怪我をしてパラシュートをたためない状態なら、パラシュートは空から見える。怪我をしていなければ救難信号を発したはずだ」彼はちょっと言い澱《よど》んだ。「反対に、タビーが意識を失ったまま落下したとすると……」
「何を言うんだ、君は。そうか、君はタビーが死んだと思いたいんだな」
セイトンは両の拳《こぶし》を握りしめて突っ立っている私を黙殺した。私は彼の肩を揺すった。
「俺はタビーがどうなったか知りたいんだ。わからないのか? このままじゃあ、生涯俺は人殺しの意識から逃れられない。こうなったら、何としてもタビーを捜し出すぞ」
「捜し出す?」セイトンは狂人を相手にする顔つきで私を見た。
「ああ、捜し出す」私は叫んだ。「タビーはきっと生きている。そう思わないわけにはいかないんだ。そうでも思わなきゃあ……」私は意味もなく手をふりまわした。どう言ったらこの気持ちをセイトンに伝えられるだろうか?
「死んだとしたら、俺が殺したんだ。これは殺人だ。そうだろう? なら、俺は人殺しだ。だから、死なれては困るんだ」私は自分を抑えきれなかった。「タビーは生きている!」
「とにかく、腹ごしらえをしろよ」セイトンはやけに穏やかに言った。何と憎たらしいことだろう。慰撫《いぶ》に用はない。私は戦いたかった。行動しなくてはならなかった。
「飛行機はいつ乗れるようになるんだ?」私は噛みつくように言った。
「明日中には何とかなるな。どうしてだ?」
「それじゃあ遅すぎる。今夜のうちに仕上げなきゃあ」
「それは無理だ」セイトンは眉《まゆ》をしかめた。「今夜中に二基目を取り付けるのがやっとだな。それから、テストをしなけりゃあならない。燃料を入れて、前のテューダーの残骸を積み込んで、書類を……」
「テューダーの残骸?」私は耳を疑った。「じゃあ、君はこうなっても、まだはじめの計画どおり事を運ぶ気なのか? タビーを放ったらかしにして、君は自分の……」
「タビーは死んだ」セイトンは腰を上げた。「いつまでもぐずぐず言ってたってしようがないぞ。死んだ者はもう帰って来ないんだ」
「君はそう思いたいんだ。違うか?」私は皮肉をこめて言った。「君にとっては、タビーが死んでくれたほうがいい。生きていたら君の計画をぶち壊しにされる危険があるからな」
「俺がタビーのことをどう思っていたか、話したはずだな」彼は怒りに蒼《あお》ざめた顔で低く言った。「無駄口を叩いてねえで、早いとこ飯を食え」
「タビーが死んだとしたら、俺はあいつが生きていればこうするだろうと思うとおりに行動するぞ。まっすぐ警察へ行って……」
「お前、いったい俺にどうしろっていうんだ、フレイザー?」
「現場へ飛ぶんだ」私は言った。「こんなことは馴れっこの乗員たちが三〇〇〇フィート上空からいくら捜したって何も見つかりっこない。思いっきり低空で飛ばなきゃ駄目なんだ。それでも発見できなかったら、俺はホルミントの飛行場へ降りて、歩いて捜すよ」
セイトンはしばらく私の顔を覗き込んでから言った。「よし、わかった」
「いつ行く?」
「いつ?」彼は当惑を示した。「今日は火曜だな。夕方までには二基目のエンジンを取り付けられるとして、明日、耐空証明を取りに行く。捜索は金曜の夜だな」
「金曜の夜!」私はかっとした。「耐空証明を取るまでタビーを放ったらかしておく気か? それはないだろう。今夜のうちにも……」
「耐空証明が先だ」セイトンは一歩も譲らぬ態度で言った。
「でも……」
「馬鹿《ばか》なことを言うな、フレイザー」彼はテーブルごしに私のほうへ顔を寄せた。「耐空証明なしには俺は飛ばないぞ。飛び発ったらもう二度とここへは帰らない。ヴンストーフへ行く途中、ホルミントへ寄るのはいいが、一つはっきり言っておく。俺はお前みたいに希望的観測はしていない。早く食事を済ませろ。やることは山とあるんだ」
「今夜中に行きたいな」私はなおもこだわった。「何度言ったらわかるんだ? 俺の気持ちは……」
「お前の気持ちは言われなくたってわかっているよ」彼は断ち切るように言った。「タビーのような好いやつを殺したとなりゃあ、誰だって気持ちは同じだ。それはそれとして、耐空証明なしには俺は飛ばない。わかったな?」
「君はそう言うがね、耐空証明が下りるのに一週間はかかるぞ。下手をすればもっと……二週間かかるかもしれない」
「こればっかりはこっちの都合でどうなるものでもないんだ。BEA〔イギリス欧州航空〕のアイルマーは、航空省が手続を早めるのに同意したと言って来た。結構じゃないか。俺は二日で片づくと計算しているが、もっとかかったとしたってやむを得まい。早く飯にしろ。早く仕事にかかれば、その分だけ早くホルミントへ行けるんだ」
どうする術《すべ》もなかった。私はキッチンからベーコンを運んでテーブルについた。
「もう一つ、言っておくことがある」セイトンは言った。「月が出ていなけりゃあ、ホルミントへは降りないぞ。真っ暗だったら、パラシュートで降りてもらう」
またパラシュートで飛ばなくてはならないかと思うと私は胃袋が縮み上がった。「どうして昼間行かないんだ?」
「真っ昼間からソ連地区を飛べると思うか?」
「エンジンが大事だからか」
「くどいぞ、ニール」セイトンは声を荒げた。「俺はお前と取引きした。夜の夜中だって、着陸すること自体、危険なんだ。その危険を俺は敢《あ》えて冒そうと言ってるんじゃないか。それでそっちの気が済むならさ」
「タビーのためじゃないのか?」
セイトンはそれには答えようとしなかった。彼の頭の中は手に取るようによくわかった。私の話が正確なら、タビーは生きているはずがない、と思っているのだ。しかし、とにもかくにも彼は捜索することに同意した。私は引き下がるしかなかった。
タビーを捜したい一心で、私はメンベリーに来てからはじめてと言っていいほど夢中で仕事に打ち込んだ。ボルトや給油パイプや複雑な電気配線に精神を集中した。しかし、そうする間も、セイトンの小まめな働きぶりには驚嘆を禁じ得なかった。彼はタイプを叩いて会社の雑用を処理し、新たに契約した乗員の誰彼に電話して、イギリス空軍輸送隊司令部にヴンストーフ行きの優先飛行許可を申請するよう指示した。天地がひっくり返ろうとも、セイトンは自家製のエンジンでベルリン空輸に参加することしか考えていない。私は彼の執念が憎かった。
二基目のエンジンを取り付けて配線がすっかり終ったのは真夜中過ぎだった。セイトンは夜明けを待って出発した。水道管が凍結して、雨水桶《あまみずおけ》の氷を割って水を確保しなくてはならなかった。メンベリーはどこもかしこも白く凍っていた。霧が濃く立ち込め、太陽は黒ずんだ光円となって丘に昇った。テューダーは離陸してまもなく、霧に隠れた。私は事務所へ引き返して孤独の憂愁を託《かこ》った。
続く二日ほど時間が長かったことはない。ひま潰《つぶ》しに、セイトンは飛行機の残骸をさらに小さく切断するように言い置いて出かけた。だから手は塞《ふさ》がっていたが、単純労働で、ともすれば私は妄想に陥りがちだった。飛行場を離れるわけには行かなかった。どこへも行けず、人に会うことも許されない。セイトンはこのことで強く念を押して行った。誰かに顔を見られたら、ホルミント行きは中止するという。そんなわけで、エルウッド夫婦を訪ねることもできなかった。孤独を持て余した私は、金曜日の朝には数分置きに格納庫の扉の陰から空を見上げて、テューダーの機影を捜し、爆音に耳を澄ますありさまだった。
セイトンは土曜の午後に戻って来た。耐空証明を手に入れていた。乗員たちはすでにヴンストーフに向かっている。
「条件が良ければ、今夜行くぞ」彼は言った。私たちはただちに出発の準備にかかった。燃料を満たすと、彼は前のテューダーの残骸を積み込むように言った。あくまでも計画どおりに事を運ぶつもりなのだ。作業の間、彼はしきりに耐空性試験の話をした。「検査官のやつら、俺のエンジンを見て面喰っていやがった。こっちは上手《うま》いこと燃費のテストを逃げてやった。設計が新しいのは見りゃあわかるが、このエンジンの真価となると、やつら、まだわかっちゃいねえんだ」
セイトンの有頂天な様子に私はうんざりした。
暮れ方に積込みを終った。格納庫にはまだがらくたがたくさん残っていたが、セイトンは気にかけるふうもなかった。私たちは黄昏《たそがれ》の中を事務所に引き揚げた。これがメンベリーの見納めだった。月の出る頃には、もうドイツに飛んでいるはずである。仮眠の毛布にくるまりながら、私は寒さも忘れて、タビーが転落したあたりの地形を記憶に呼び出すことに努めた。
十時半にセイトンに起こされた。彼は紅茶をいれてベーコンを焼いていた。食事を済ませると、彼はそそくさと格納庫へ立って行った。私は石油ストーブの温《ぬく》もりから去りがたく、先のことをとりとめもなく思案しながら煙草を吹かしていた。セイトンは毛皮で裏打ちした飛行服を着て戻って来た。「用意はいいか?」
「ああ、いつでも出られる」私はのろのろと立ち上がった。
外は凍《い》てつくばかりの寒さだった。夜空は晴れわたって星が明るかった。セイトンは石油ストーヴを提げていた。森をはずれると、彼は足を止め、格納庫が黒い影を落とすエプロンに駐機しているテューダーに目をやった。「多少、未練がなくもないな」彼はぶっきらぼうに言った。「俺はここが気に入ってたんだ」
彼はエンジンを暖めておけと言い捨てて、格納庫へ姿を消した。五分ほどしてコックピットに乗り込んで来た時には、長い距離を走った後のように肩で息をしていた。微《かす》かに石油の匂《にお》いがした。
「ようし、行くぞ」彼は操縦席に着いてスロットルに手を伸ばした。ところが、彼は滑走路へは向かわず、格納庫のほうへ機首を回した。潜《くぐ》り戸の奥に小さな炎が揺れているのが見えた。プロペラの回転につれて機体が振動した。
「何でこっちへ向けるんだ?」私は尋ねた。
「乗り捨てる船に火を掛けたのよ」
格納庫の中はすでに火が燃え拡がっていた。石油ストーブはこのためだったのだ。鈍い爆発音がして、潜《くぐ》り戸から火焔《かえん》が噴き出した。一瞬、燃えさかる庫内が照らし出された。激しい火勢が誘う風の唸《うな》りは、エンジンの爆音をも圧倒するばかりだった。
「さあて、これでよしと」セイトンは言った。火遊びをする子供のように笑っていたが、私をふり返ったその目には、思いつめた自棄《やけ》の色を宿していた。再度爆発が起きて側面の窓ガラスが砕《くだ》け、あふれ出た火焔が外壁を舐《な》めた。セイトンはスロットルを引いた。エンジンの回転が上がった。機体は回頭して滑走路の端へ向かった。
炎上する格納庫を背に、酷寒の夜空へ飛び発《た》った。セイトンは機体を傾けて住み馴れた飛行場に最後の一瞥《いちべつ》を与えた。黒い円周の向こうの端に、オレンジ色の火柱が上がっていた。セイトンの肩ごしに覗いたちょうどその時、格納庫は鉄の柱を残して燃え落ちた。上空から見る火焔はガイ・フォークス記念日の篝火《かがりび》ほどの大きさもなかった。
私たちはドイツを指して東に針路を取った。私は計器盤の微かな光の中で唇を堅く結んだセイトンの横顔を盗み見た。もう後へは戻れない。彼は格納庫を焼くことで過去のすべてを消し去ったのだ。メンベリーは灰燼《かいじん》に帰した。後にはエンジンの姿も留《とど》めぬ焼けただれた金属塊が残されているばかりである。私の心を読み取ったかのように、彼は言った。「さっき君が寝ている間に、機体番号を消して刻印を打ち直したよ」彼はにったり唇を歪めた。ハーコートの飛行機を強奪したと告発しようにも、証拠は何もない、と釘《くぎ》を刺したつもりだったに違いない。
オランダ沿岸にさしかかるあたりで、のっぺりと黄色い月が出た。蛇行するスヘルト川の銀波が背後に去って、霜をかぶった地面に変わった。
「さあ、ドイツに入ったぞ」セイトンは勝ち誇ったように声を張り上げた。ドイツ! それは彼の将来を意味していた。葬り去った過去に取って代わる、輝ける未来だった。しかし、私には何があるだろう? 私は寒々とした孤独を意識した。私には気を失ったタビーが、今私が乗っているまさにこの飛行機から引きずり出されるように転落して行った光景が記憶に残っているばかりだった。そして、その記憶に誘われて、意識の襞《ひだ》にひそんでいた恐怖が頭をもたげた。骨折した腕を容赦なくなぶる木の枝。鉄条網。逃亡者の焦燥……。
頭に鉛の箍《たが》をはめられたように思考が働かなかった。空白の意識のまま、機は私を乗せてドイツのイギリス占領地区を飛んだ。眼下に空輸編隊の航空灯が列をなしていた。私たちは高度五〇〇〇フィートで回廊に入った。セイトンは機首を下げ、航空路からそれると南西に向かって一〇〇〇フィート足らずまで降下した。月明りの中に、白茶けた耕地と黒い森が迫《せ》り上がって来た。
ホルミントで針路を北に取ると、飛行場はもう目の前だった。セイトンはヘルメットのマイクを口に近づけた。「後ろへ行って雑物《ぞうもつ》をばら撒《ま》け。飛行場の北側を旋回するからな」
私がためらうのを見て、彼はさらに言った。
「着陸しろと言いたいんだろうが、このままじゃ荷が重すぎる。あの滑走路はここ四年ばかり使われていない。霜にひび割れて凸凹《でこぼこ》だろう。荷が軽くなるまでは、迂闊《うかつ》には降りられねえな。早いとこ行ってぶちまけろ」
ここで言い合っても無駄だった。私は荷物室へ立った。燃料タンクを乗り越えると、切断されたテューダーの残骸は天井までいっぱいに胴体を塞《ふさ》いでいた。鉄片の尖《とが》った角で飛行服に鈎《かぎ》裂きができた。屑《くず》鉄置場のような中を、体を斜めにすり抜けて胴体のドアを開けた。たちまち寒風が機体を揺るがした。高度は二〇〇〇フィートほどだろうか、月の光を浴びて白地図のような田園の広野が眼下を流れて行った。セイトンが旋回に移って機体は大きく傾いた。頭上をベルリンへ向けて南東を指す空輸編隊の航空灯が過《よぎ》った。目を転ずると川のうねりが一瞬、銀色に光った。一本の道がホルミントから北に伸びて黒い森に消え、その向こうには霜に凍《い》てついた耕地の起伏が果てもなく拡がっていた。
エンジンの回転が落ち、空気制動で機体が押し返されるのがわかった。私は手近な破片を引きずり出し、風の唸る機外へ投げ落とした。破片は後流の渦に巻かれて、きりきり舞いしながら消えて行った。銀紙の吹雪のように、テューダーの残骸は一つ、また一つと宙に舞い、それらが連《つらな》って月光にきらめくさまは、海面に流した測程索《ログ・ライン》を見るようだった。
最後の破片を投げ落として荷物室の床が空っぽになった時には全身汗みずくだった。壁にもたれて息をつくと、たちまち汗が冷えて飛行服の下でシャツがごわごわになった。私は歯の根も合わぬ寒さにふるえながらドアを閉じて、コックピットに引き返した。
「終ったぞ」
セイトンはうなずいた。「よし。じゃあ降りるぞ。まず、ホルミント飛行場を中心に、半径を伸ばしながら旋回するからな。いいか?」
彼は機首を下げた。滑走路が地面に横たわる大きな白木の十字架のように目の前に迫って来た。セイトンは時計方向に旋回したから、傾いた機上から私は地面を精査することができた。
「飛行機のことは俺にまかせて、よく目を見張ってろ」彼は叫んだ。
飛行場が森の向こうに遠ざかるまで、機は半径を拡げながら何度も何度も旋回した。ぎっしりと聖樹を立て並べたように、眼下には月光に洗われた針葉樹の森が果てもなく続いていた。その尖《とが》った樹冠と梢《こずえ》をあやどる黒い影の流れを見つめるうちに、私は眩暈《めまい》に襲われた。翼端は森を切り裂かんばかりに、すれすれに葉末をかすめた。ところどころに切って嵌《は》めたような耕地や、用水池とおぼしき水溜《みずたま》りが覗いていた。同じ地形がわずかずつ位置を移しながら、繰返し眼下をすり抜けて行った。
やがて森は尽き、目を遮るものとてない耕地に変わった。セイトンは姿勢を水平に直して北へ向かった。
「どうだ?」
何一つ発見はなかった。信号灯も焚火《たきび》も見えず、木の枝にかかったパラシュートもなく、視野を流れるのはただ針葉樹の森と開けた耕地ばかりだった。私は体の中で何かが崩れて行くのを感じた。この森のどこかにタビーは落ちたのだ。この暗い森のどこかに、彼は今もなお、無残に押しつぶされた体を横たえているのではあるまいか。私はヘルメットのマイクを引き寄せた。「やっぱり、降りて歩かなきゃあ駄目だ」
「いいだろう」セイトンはぞんざいに答えた。「降りるから、しっかりつかまってろ。かなり揺さぶられるぞ」
機首を回らせると、まっすぐ前方に森を切り開いて整備した飛行場が浮き上がって来た。フラップを下げ、脚を降ろしてモミの木に腹をこするように降下した。滑走路はひび割れて、枯草に覆われていた。前輪が接地した。機体は舌を噛みそうになるほど激しく動揺した。森に突入する一歩手前で、機首を西に向けて止まった。
セイトンは私の後から滑走路に降り立った。飛行場には微かな灯影一つなかった。誰何《すいか》する声もない。メンベリーと同様、そこは荒廃にまかせた無人の飛行場だった。セイトンは私に紙袋を差し出した。「パンとチーズだ。水筒も入れといたからな」
「一緒に来るんじゃないのか?」私は言った。
彼は頭をふった。「明け方四時にヴンストーフ着の予定だからな。それに、俺が一緒に行ったところでどうしようもないだろう。一時間近くこの上を飛んで何も見つからなかったんだ。歩いて捜すとなると、何日かかるかわかったもんじゃないぞ。空から見たら大したこともないかもしれないが、人間の足じゃあ……」彼は重ねて頭をふった。「この飛行場の広さを見ろ。こいつを突っ切るだけだって三十分はかかるぞ」
私は暗い森を眺めやって立ちつくした。孤独に対する恐怖がのしかかって来た。
「すぐ戻るよ」私は言った。「一時間か、せいぜい二時間……待っていてくれないか」
飛行機が急になくてはならぬもののように思われた。飛行機は私と顔見知りの、同じ言葉を話す人間とを結び付けるよすがである。ここで飛行機に発たれてしまったら、私はドイツに、それも、ソ連占領地区に独りぼっちで取り残されることになる。
セイトンは私の腕を取ってなだめすかすように言った。「わかってないな、ニール。君は今のところ、まだ俺の飛行機の乗員じゃあない。君はこの北寄りで墜落した飛行機のパイロットだ。どんなに言われても、君を乗せてヴンストーフへ行くというわけには行かないだろうが。気が済むまで捜して、ベルリンへ行け。ここから南東約三十五マイルの見当だ。ベルリンまで行って、イギリス管理区へ潜《もぐ》り込め」
私は愕然《がくぜん》とした。「じゃあ、俺を置いて行く気か?」恐怖が背中を駆け上がった。
「予定では、君をここへ落とすはずだった。その考えは変っていないが、現に俺はこうやって着陸したんだ。パラシュートで降りないで済んだだけでも有難いと思えよ」
恐怖を押しのけて、どす黒い怒りが衝《つ》き上げてきた。セイトンはタビーのことなど小指の先ほども思っていない。自分のエンジンを引っ提《さ》げてベルリン空輸に割り込むことしか頭にないのだ。私は食ってかかった。「俺を置いては行かせないぞ、セイトン。とにかく、タビーが生きているかどうか、確かめるのが先決だ」
「そいつはとっくに知れてるだろうが」彼は軽く受け流した。
「タビーは死んでない」私は叫んだ。「君が勝手にそう思ってるだけだ。君はあいつに死んでもらいたいからな。でも、タビーは生きている。死ぬはずがないんだ」
「どうとでも言え」セイトンは肩をすくめて飛行機のほうへ行きかけた。
私は追いすがって引き戻した。「わかったよ。君がそう言うなら、死んだでもいい。タビーは死んだ。君が殺したんだ。たった一人の友だちだったんじゃないのか、え? その友だちを、君は殺したんだ。君という男は、誰だろうと邪魔者は殺すやつなんだ」
彼は探るように私の顔を覗きこむと、険しい目つきで陰にこもって言った。「お前、情況をきちんと理解していないな。タビーを殺したのは俺じゃない。お前が殺したんだ」
「俺が?」私は声を立てて嗤《わら》った。「ハーコートのテューダーに細工して故障に見せかけるというのは、君の知恵じゃなかったのか? そこにあるのは、もともと君の飛行機か? 冗談じゃない。君は俺を脅迫して、自分の思いどおりにしたんじゃないか。暴露《ばくろ》してやるからな。俺はもう、どうなったってかまわない。タビーのことで目が覚めたよ。君は狂人だ。わかるか? 君は狂ってる。理性も良識も何もない、でたらめな人間なんだ。君は自分が満足することしか考えていない。そのためには誰を犠牲にしても平気なんだ。言っておくがね、それで済むと思ったら大間違いだぞ。ベルリンへ行って、洗いざらいぶちまけてやる。銃があれば、君は今この場で俺を殺すだろう。それとも、人手を借りなきゃ殺せないか、え? いずれにせよ、君は銃を持ってない。俺は何としてでもベルリンまで辿《たど》り着いてみせるからな。全部しゃべってやる。俺は……俺は……」
私は息切れがして声が続かなかった。
「しゃべったところでタビーは帰って来ない。第一、お前のためにもならないぞ。頭を冷やしてよく考えろ。フレイザー。タビーは死んだ。お前が殺したんだ。だったら、あいつの死を無駄にしないようにするのがせめてもの功徳《くどく》というものだろう」
「俺じゃない!」私は叫んだ。「殺したのは君だ」
セイトンはせせら嗤《わら》った。「しゃべったところで、誰がお前を信じる?」
「事実がわかれば誰だって信じるさ。警察がメンベリーを捜査して、機体を調べて、尋問ということになれば……」
「証拠は何もない」彼は落ち着き払って言った。「ハーコートの飛行機の残骸はこの北寄りの森に散らばっている。フィールドとウェストロップはお前が脱出を命じたと証言する。エンジンが故障したこともだ。何よりも、お前自身が墜落現場からひょっこり帰って来るんだ。メンベリーを調べたって、格納庫の焼跡からは何も出て来やしない」
私は急に激しい疲労を感じた。「俺がどう出るかも計算済みだったのか。メンベリーを発つ前から、こうなることはわかっていたんだな。それで、俺を言いくるめて残骸をばら撒かせたのか。よくも……」
「俺に手出しするんじゃない!」セイトンは鋭い声を放った。「年こそお前より取っちゃあいるが、まだ衰えるには早い。腕ずくなら引けは取らん」彼は脚を開き、拳《こぶし》を固めて前かがみに身構えた。
私はのろのろと両手で頭を抱えた。「ああ……」底知れぬ無力感が私を捉《とら》えて放さなかった。
「また会う時までに、多少はまともなことを考えておくんだな」セイトンは言った。「このまま喧嘩《けんか》別れでもねえだろう。相棒同士じゃねえか。この先も一緒にやって行けるんだ。まあそれも、ベルリンで会った時のお前の態度次第だがな」
答える代りに、私はセイトンに背を向けてゆっくり森のほうへ歩き出した。
一度だけ、私はふり返った。セイトンはその場を動かず、じっと私を見送っていた。森の暗がりに入ったところでエンジンの始動音が聞こえた。交差する枝の間から、私は飛行機が滑走路のはずれで向きを変えるのを見た。爆音が一段と高まったと思うまもなく、機体は地面を離れて急角度で上昇した。白色の尾灯が流れ星のように遠ざかり、やがて星屑にまぎれて消えた。静寂があたりを支配し、漆黒の闇《やみ》が押し寄せて来た。私はソ連占領地区にたった独りで取り残されていた。
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第七章
飛行機が見えなくなってから、私は長いこと森のはずれに立って無人の滑走路を眺めわたしていた。微《かす》かな風に頭上でモミの梢《こずえ》がそよぎ、数分置きに回廊航空路をベルリンに向かう空輸編隊の遠い爆音が聞こえた。それを除けばあたりは物音一つしなかった。寒気は飛行服に忍び込み、手足は冷えて強張《こわば》った。ようやく私は意を決して森の奥へ向かった。いくらも進まぬうちに、もう木々は四囲を遮って、ふり返っても飛行場からの距離すらわからなくなった。森の中はあくまでも静かだった。絨毯《じゅうたん》のように散り敷いた針葉樹の落葉に吸い取られて、自分の足音もほとんど聞こえない。時おり、遠い爆音が耳をかすめたが、森が視界を閉ざして、機影を見ることはなかった。私は現実世界からまったく隔絶していた。ただ、どこからともなく降り注ぐ神秘的な光に、寒月がまだ森を白く照らしていることを知るばかりだった。
小径《こみち》に出て東へ辿《たど》ると、古いディスパーサル・ポイントの土塁に行き着いた。霜にひび割れたコンクリート舗装の通路が森を貫いて飛行場に続いていた。私は立ち止まって思案した。タビーが荷物室のドアから転落した時の光景が瞼《まぶた》に甦《よみがえ》った。あの時、飛行機はほぼ真南を指していた。すぐにコックピットに取って返し、操縦士席の窓から覗《のぞ》くと眼下にこの飛行場が見えたのだ。だとすれば、タビーはここからやや北西に寄ったところに落ちたはずである。
コンクリートの通路に沿って飛行場に出、森との境い目を北西のはずれまで歩いた。そのあたりに廃墟《はいきょ》と化した付属施設が点在していた。私は建物を避けて再び森に入り、方角を見定めて奥へ進んだ。
四時|頃《ごろ》から本腰を入れてあたりを捜しはじめた。セイトンはそろそろヴンストーフだ、と思ったことを憶《おぼ》えている。飛行機はもとどおりテューダーの列に混じってエプロンに駐機していることだろう。しかし、乗員の顔ぶれが変っている。機体番号と、そして、エンジンも違う。セイトンは運航管理部に名前を届け、宿舎のあの足音の反響する迷路のような廊下を抜けて飛行機乗りたちが屯《たむろ》する部屋へ向かうのだ。彼は何食わぬ顔で、世の中が寝静まる頃に起き出し、人が髯《ひげ》を剃《そ》る頃ベッドにもぐりこむだろう。夜が明けて、この上空をベルリンに向かう編隊の一機は、彼のテューダーかもしれない。セイトンは成功という名の目的地を指して飛んで行く。私はこの暗い森で寒さにふるえながら、彼のエンジンを完成するために二年間、汗水垂らして働いた男の死体を捜して、さ迷っている。こんな話があるだろうか。セイトンはあの飛行機を手に入れるために、いったい何をしたというのか。あれは私が体を張ってメンベリーへ運んだのではないか。セイトンが本当に自分のものだと言えるものは何もない。あのエンジンにしてからが、エルゼの父親の設計を盗んだのだ。
やり場のない怒りでしばらくは頭が働かなかったが、私は気を取り直してタビーを捜すことに専念した。まず、二マイルの幅で東西に往復しながら徐々に北へ移動する考えだった。森の中を隈《くま》なく歩くことははじめから不可能だとわかっている。手許《てもと》には小さなポケット・コンパスが一つあるきりである。幸い樹間は広く開いていたが、木はどれも見た目に同じだった。目印になるものは何もない。一つところを何度も行ったり来たりするかと思えば、大きく間隔を開けて北へ寄ってしまう可能性は充分に考えられた。とはいえ、さしあたってほかに思案も浮かばない。私は空しさを感じながら西へ向かって第一歩を踏み出した。五時過ぎに森の西端に出た。荒涼としたメックレンベルクの向こうに月が傾きかけていた。そこへ行き着くまでに何度足を止めたかわからない。小暗い大樹の根方に転がった朽木は人の腕に見え、月光に白く輝く松の幹はパラシュートの断片を思わせた。
引き返して東のはずれへ出たところで夜が明けた。木の間に曙光《しょこう》が差しはじめ、月明のあやなす影が次第に薄れて行った。ホルミント飛行場の北端に被爆の跡をさらして朽ちかけている格納庫群を目にして、はじめて私は日が昇ったことに気づいた。とはいえ、早くも、北の空から雪を孕《はら》んだ雲が拡《ひろ》がり、灰色に澱《よど》んだ寒い夜明けだった。
私はセイトンが用意してくれたサンドイッチを二切れ食べた。水筒の中はラムだった。胃の腑《ふ》からラムの温《ぬく》もりがほっかりと全身に拡がった。しかし、再び折り返して西に向かった時には疲労が重く背中にのしかかっていた。風はそよとも吹かなかった。森全体が凍《い》てついて息を殺しているかのようだった。聞こえるのは遠く微かな爆音だけである。その単調な響きは絶えることがなかった。私の耳にそれは何と頼もしく聞こえたことだろう。爆音は私が現実世界に触れるたった一つのよすがだった。私は木の間を透かして次第に明るんで行く空を仰いだ。機影が視野を過《よぎ》った。私とは直角の方向に三〇〇〇フィートほどの高度を飛んでいた。ずんぐりした姿は、まぎれもなくヨークとわかった。ヴンストーフから飛び発《た》ったに違いない。機上の男たちは、まだ明けやらぬ宿舎の電灯の下で暖かい食事をしたことだろう。熱いコーヒーも飲んだであろう。
私は飛行機が消え去るまで足を止めて見送った。子供の頃、近所に店頭でいつもコーヒーを挽《ひ》いている雑貨屋があった。芳《かぐわ》しい香りが通りにあふれていた。記憶の中のその香りは、森に立ち込める松の木の匂《にお》いを圧倒して私の鼻腔《びこう》を満たした。一機が森の彼方《かなた》へ消えると、別の一機が視野に飛び込んだ。同じ針路を同じ高度でベルリンへ向かっていた。私は次々に現われては消えて行くヨークの機影を飽かず眺めていた。遊園地の射的場で機械仕掛けの標的が絶えず同じ順序で回り続けるのを見る思いだった。
記憶に漂うコーヒーの匂いに未練を残しながら、私はまた暗い森を歩き出した。
昼過ぎから雪になった。鉛色の空に黒い斑点《はんてん》を散らして降る雪は、木の枝や地面に落ちると白|無垢《むく》に変った。雪が降り出して、寒さはいくらか和らいだ。しかし、睡魔と空腹は耐え難かった。サンドイッチ二切れとラムが半分残っていたが、それは夜の分として、私は棒のような脚を引きずって先を急いだ。
四往復目の途中で、木の枝にかかった飛行機の破片を見つけた。形を留《とど》めていなくとも、メンベリーでセイトンが胴体着陸させたテューダーの水平尾翼であることはひと目でわかった。たかだか十二時間足らず前、眼下にこの森を見降しながら自分の手でその破片を投げ落としたのが嘘《うそ》のようだった。
それから一時間ほどして、私は危くソ連軍の警備隊と鉢合わせしかけた。低い話し声にはっと気づいた時には、すでに彼らは目と鼻の先だった。さして背は高くないが、胸板が厚く、いかつい顔をした男たちで、黒革の長靴を穿《は》き、褐色の軍服は詰襟である。兵士らがライフルを杖《つえ》に円陣を作り、その中で二人の士官が鈍い光を放つ飛行機の破片の上にかがみ込んでいた。
彼らは森に散乱する破片を何と見たろうか。私は抜き足差し足でその場を迂廻《うかい》して東へ向かった。雪は激しくなり、空は暗さを増した。木々の根方にも、うっすらと雪が積もりはじめた。足跡を付けてはならず、雪のないところを選んで歩くのは骨だった。黄昏《たそがれ》が迫るころ、私は疲労の極に達し、木を見ればソ連兵かと怯《おび》えるまでになった。日が暮れてあたりが闇《やみ》に閉ざされ、前に進むことがむずかしくなったところで、私は大きなモミの枝が低く伸びている下に穴を掘り、落葉をかぶって横たわった。
サンドイッチで餓《う》えを凌《しの》ぎ、ラムの残りを飲み干したが、一時間と経《た》たぬうちに骨の髄まで冷えきってしまい、手足は鉄の枷《かせ》をはめられたように強張《こわば》って、眠るどころではなかった。私は凍てついた闇の底にちぢこまって何を考えるでもなく、ただただ自分の惨めなありさまを嘆いた。夜が更けるにつれて気温はさらに低くなり、乾いた粉雪が降りしきって、雪折れの音が静寂を裂いた。
真夜中近く、私はついに寒さに耐えかねて起き出し、足踏みをして腕をふりまわした。吐く息は白い湯気となって顔の前に立ち昇った。雪は上がって晴れわたり、月が出て、森は白銀の聖樹が立ち並ぶ夢幻の世界に変わった。
私は西を指してやみくもに歩き出した。どこへ向かおうとかまわない。とにかく体を動かしていないことには凍え死んでしまいそうだった。そんなふうに当てもなくさ迷った先で、私はタビーのヘルメットを見つけたのだ。歩きながら、ふと見ると斑《まだら》に地面を覆った雪の上にヘルメットが転がっていた。木の枝に引っかかっていたものが、雪の重みで枝が撓《たわ》んで落ちたに違いない。
興奮を感じた記憶はない。寒さと疲労で神経が鈍麻していたのだと思う。私は驚きさえしなかった。何としてもタビーを捜し出す決心でいた私は、仮にも空しい結果に終るとは考えていなかったのだ。日頃から私は、何事も一念に徹すれば必ず思いどおりになると信じていた。だからこの時も、タビーが見つからなかったら、という不安ははじめからなかった。それはともかく、ヘルメットは見つけたものの、タビーの姿はどこにもない。ヘルメットだけではどうにもならない。
付近をくまなく捜し歩いてから、いったんヘルメットの落ちていた場所へ戻った。木々は枝を濃く差しかわして、暗がりではほかに何かが樹上にかかっていないかどうかを見きわめることはむずかしかった。私は真上に枝を伸ばしている木によじ登って、天辺から頭を突き出し、雪を戴《いただ》いた樹冠が敷きつめたように隙《すき》もなく連なって月光に洗われている周囲を見渡した。枝がたわんで雪が落ちた後の針葉樹の緑は目も覚めるばかりだった。しかし、そこが確かにタビーの落ちた場所であることを示すものは何もなかった。
光と影の交錯する夢幻の世界へ降りる途中、幹にすがる手に、何やら柔らかいものが触れた。私はあらためて指先でそのふんわりとした感触を確かめた。手に取ってみるまでもない。ナイロン・シルクに間違いなかった。つかんで引くと、果たせるかな、スカーフほどのパラシュートの切れ端だった。
今度は興奮が湧《わ》き上がった。一片のナイロン・シルクはタビーが意識を回復して自力でパラシュートを開いた紛《まぎ》れもない証拠である。私は首筋から雪が解けて背中に流れ込むのも忘れて木から滑り降りた。タビーは生きている! それ以外のことは頭になかった。怪我《けが》をしたには違いない。しかし、彼は意識を取り戻し、自分でレバーを引いてパラシュートを開いたのだ。地面に立つと、たちまち恐怖が襲って来た。肉は裂け、骨は砕けて血まみれになったタビーがそのあたりに転がっているのではないかと思うと、もう、いても立ってもいられなかった。私は雪を蹴散《けち》らして半狂乱で付近一帯を捜し回った。森へ降下した後、タビーはいったいどうしたろうか。
しかし、雪はすべての痕跡《こんせき》を消し去っていた。
しばらく後、私は疲れ果てて乾いた地面にへたり込み、大きな幹にもたれて、最後になった煙草《たばこ》を吸いつけた。ヘルメットがあった地点を中心に、私は半径五十ヤードの範囲を虱《しらみ》つぶしに捜した。にもかかわらず、タビーの足跡一つ見つけることができなかった。考えられる可能性は二つしかない。彼は無事に着地して、徒歩でどこかへ向かったか、さもなければ、倒れているところを付近の農夫か樵《きこり》に助けられたかのいずれかだ。いや、もしかするとソ連軍に連れ去られたかもしれない。前日の午後、森の中で出会ったあの警備隊が彼を発見して、ホルミントへ拉致《らち》したのではあるまいか。またしても、タビーは死んでいるのではないかという不安が意識の片隅でうごめきはじめた。何とかしてタビーの無事を確認しなくてはならない。
私は今一度立ち上がった。もう少し範囲を拡げて捜す必要がある。再びヘルメットを見つけたところから輪を描くように歩き出した。積雪が幸いして、私は前の足跡の外側外側と螺旋《らせん》状に半径を伸ばして行けばよかった。月は中天にかかり、森は冷たく澄んだ光に満たされていた。二時間あまりそんなふうに歩き続けて明け方の四時頃、私は太い轍《わだち》に出くわした。地面に深く抉《えぐ》れた轍は、農家の荷車と思われた。見ると荷車はあるところで止まって、それ以上先へは進んでいない。私はタビーがそこで倒れたに違いないと判断した。死体で発見されたのだろうか。寒さと、つのる不安にふるえながら、私は引き返した轍に沿って森のはずれに出た。ようやく傾きかけた月の光を浴びて白々と耕地が開けていた。
雪は地面を覆っていたが、南西に伸びる深い轍はなお目でたどることができた。そして、その先にクリスマス・カードによくあるような急|勾配《こうばい》の切妻屋根の農家が見えた。私は迷わずそのほうへ向かった。半開きになった納屋の戸口から黄色い灯影がこぼれていた。一人の男が土間を掘り下げた室《むろ》からジャガイモをすくい出して、叺《かます》に詰めているところだった。泥のこびりついた板切れが干草の山に無造作に立てかけられ、扉の裾《すそ》に土塊《つちくれ》が堆《うずたか》く盛り上がっていた。
入口に立った私の気配に、男ははっとふり返った。小柄ながら頑丈な体つきをした、額の広い男だった。怯えた目で男は言った。「誰《だれ》だ? 何の用だ?」
「私はイギリスの飛行機乗りです」私はドイツ語で答えた。「友人を捜しています。友人は怪我をしていると思います」
男はピッチフォークを放り出して近づくと、こわごわ私の顔を覗き込み、飛行服に目を這《は》わせた。
「まあ、こっちへ入って、そこを閉めろや。風で煽《あお》られるから」彼はふるえる手で閂《かんぬき》をかけると取ってつけたように笑った。「ソ連兵かと思ってびっくりしたよ。やつら、何でも手当たり次第まき上げるから。畑の物でも何でも、東側へさ」一語一語、吐き捨てるような話し方だった。「豚の餌《えさ》くらいは取っとかにゃあ」
彼はまだ警戒する様子でランタンを掲げたが、どうやら私の風体から敵意はないと判断したらしかった。「だいぶ疲れてるな。よっぽど遠くから歩いて来たかね、え?」
「私の友人はどうしていますか?」私は尋ねた。「お宅へ担ぎ込まれたでしょう。違いますか?……死にましたか?」私は心臓が縮み上がる思いで返事を待った。
男はゆっくり頭をふった。「いや、死にぁあしない。けども、森へ落ちて、ひどい怪我をしてる。あんた、そこの藁《わら》ん中でひと休みするといい。俺《おれ》は明るくならないうちにここを片付けなきゃあならんから。それが済んだら、まあ、何もないが、朝飯くらいは食わせるよ、え」
私はそれどころではなかった。「よかった!」われ知らず声が大きくなった。タビーは生きている。とうとう見つけ出した。私は殺さなかったのだ。急に頭の中が空っぽになったような気がした。笑いがこみ上げて来たが、笑い出したら止まらなくなりそうだった。私は息を詰めて必死に笑いを堪《こら》えると、なりふりかまわず干草の中に転げ込んだ。安堵《あんど》の波が全身を洗った。私はできるだけのことをした。運命は私に味方したのだ。タビーはここにいる。タビーは生きている。「見つかったのはいつです?」
「四日前だな」男はピッチフォークを取り上げて言った。
「ソ連軍に引き渡さなかったんですね」
男はジャガイモをすくったフォークを宙に止めて私をふり返った。「ああ、ソ連軍へは渡さない。それについては、俺の連れ合いに礼を言ってくれや。うちの娘がベルリンにいてな。フランス管理区で鉄道員の亭主と暮しているんだが、連合軍がベルリン空輸ということをやってくれなかったら、娘んとこも、ここと同じで、ソ連のお蔭《かげ》で辛い目を見るこったろう」
私は回らぬ舌で何度も礼を述べた。顔を上げているのも大儀だった。干草は暖かく、気が遠くなるほど心地よかった。「怪我はひどいのかな?」
「ああ。大怪我だな。あばらを何本も折ってる。腕もだ。頭を打ったらしいが意識はある。話はできるよ」
「医者に診《み》せなきゃあ」自分の声が遠くに聞こえた。もう目を開けていられなかった。
「そのことなら心配いらない。うちの掛かり付けの医者が毎日来てくれているよ。良い医者だ。これがソ連嫌いでな。というのは、一年ばかり東側へ連れて行かれて、捕虜の手当てをやらされたことがあるからなんだ。そん時、うちの伜《せがれ》に会ったんだわな。伜のハンスは一九四五年からソ連の捕虜だ。その前は北アフリカとイタリア、それから東部戦線へ回されてな。もう六年になる。まあ、そのうち帰って来るとは思うがね。二度ばかり、手紙を寄越した……」
男の声は快く遠退《とおの》いて、私は瞼を閉じた。シュタラグルフト第一捕虜収容所の夢を見た。看守らはみな褐色の詰襟を着て、膝《ひざ》まで来る黒革の長靴を穿《は》いていた。収容所は雪に埋もれ、解放の望みも脱走の機会もない。あるものは、ただ死の予感だけである。私は絶えず尋問に苦しめられていた。敵は私に、タビーを殺したことを認めろとしつこく迫った。ぎらぎらする光が目を射た。誰かが私の肩を揺すっていた……。目を覚ますと、最前の農夫が私の上にかがみ込んでいた。「起きろや、フレイサーさん」彼はSの音を濁らずに発音した。「七時だよ。食事をして、友だちに会うといい」
「どうして私の名前を?」私は睡い目をこすりながら言い、ふと気がついて内ポケットに手をやった。身分証明書はもとのままだった。農夫は名前を見てポケットに戻したのであろう。私はぎくしゃくと立ち上がった。疲労は重く、寒さが身に沁《し》みた。
「その飛行服は、干草の下に隠してもらえないかね、え? イギリスの飛行機乗りがいるのを人に知られたくないんでなあ。人の口に戸は立てられないということがある。密告を流行《はや》らせたのはナチスだけどな」
彼は、雪崩《なだれ》やそのほかの天災について話すような口ぶりでナチスと言った。
私は飛行服を干草の下に押し込み、案内されるままに前庭を横切って母屋に向かった。どんより曇って、また雪になりそうだった。ベルリンへ向かう飛行機の爆音は続いていたが、雲高は一〇〇〇フィートに足りず、機影を見ることはなかった。
クレフマンの家の記憶は定かでない。暖かい母屋の、ベーコンを焼く匂いと、武骨な姿の大きなストーヴに赤々と燃える火が印象に残っている。小作りながら、目が活《い》き活きした、いかにも世話好きらしいクレフマンの妻は髪に白いものが混じりはじめていたが、悠揚迫らず、営々と土に生きる農婦のしたたかさを強く感じさせた。タビーが傷を養っていた屋根裏の小さな寝室も忘れがたい。童顔の頬《ほお》はこけて、やつれ果て、高熱のためか、その目は異様な光を宿して据わっていた。縦縞《たてじま》の地に蝶《ちょう》をあしらった壁紙は、煤《すす》けてみすぼらしかった。壁には両親が首を長くして帰りを待つ息子、ハンス・クレフマンのおびただしい写真が飾られている。子供の頃の写真にはじまって、ホルミントの学校に通った少年時代、ヒトラー・ユーゲントの制服に身を固めた青年期、国防軍の兵士として出征してからの戦地のスナップに至るまで、そこにはハンスの生い立ちが写真によって綴《つづ》られていた。プラハのフラッチャニー宮を背景にした写真や、ポーランドの田舎《いなか》で撮った写真がある。パリではエッフェル塔の下に立ち、北アフリカの砂漠では戦車にもたれている。ローマのスナップでは左の肩越しにサン・ピエトロ寺院のドームが覗いている。イタリアのリヴィエラ海岸で水浴びをするハンス。ナポリで黒い髪の娘と戯れるハンス。ドロミテ山中でスキーを楽しむハンス……一室は運命の支配にあらがう術《すべ》もなくソ連軍の捕虜への道をたどった青年ハンスの郷愁に満たされていた。クレフマン夫婦は私に息子の手紙を見せた。文面はわずかに四行「僕は元気で暮しています。ソ連軍は親切にしてくれます。食事も良いし、何の不自由もありません。そちらも達者で暮して下さい。ハンス」とあった。
質素なベッドに横たわったタビーは、厄介な招かれざる客に違いない。
私が行った時、タビーは眠っていた。夫婦は私をその場に残して一日の仕事にかかった。タビーは不規則に苦しげな寝息を立てながらも眠り続け、私は壁の写真を眺めて彼が目を覚ますのを待つしかなかった。色|褪《あ》せた写真を何度も繰返し眺めるうちに、ハンスが年来の知己であるように思えて来た。思い上がって畏《おそ》れを知らぬ勝者と、打ちのめされて痛恨の臍《ほぞ》を噛《か》む敗者の姿が、一人の青年の生涯に重なっていた。私はその部屋で、ドイツの将来に思いを馳《は》せた。鍛冶《かじ》の神ヘーパイストスの盾《たて》さながらに、米英ソ三国の政治という槌《つち》に打たれているドイツは、この先どうなって行くのだろうか。一九四四年の秋にポーランドのルヴフで撮られたという眦《まなじり》を決したハンスと、ホルミントの学校を背にニッカボッカ姿で屈託のない笑顔を浮かべている少年ハンスの写真を、私は何度となく見くらべずにはいられなかった。
タビーは目を覚ましてじっと私を見つめた。わからないのではないか、と私は不安だった。が、一呼吸あって、タビーは笑った。と言うよりは、苦痛に歪《ゆが》んだ顔の中で、目だけが笑っていた。「ニール! どうしてここがわかった?」
私は一部始終を話した。聞き終えて、彼は言った。「わざわざ来てくれたのか。優しいところがあるんだな」口をきくのも辛そうだった。
「ここにいて、ちゃんと面倒を見てもらえるのか?」
タビーはうなずいた。「小母さんは好い人だ。まるで自分の子供みたいに世話してくれる。医者もよくやってくれるよ」
「入院しなきゃまずいんじゃないか」私は言った。
彼は重ねて弱々しくうなずいた。「でもな、ソ連の手に渡されるよりは、このほうがいい」
「いやあ、それにしても、よく無事だったな。俺はてっきり……」私は言葉に詰まった。「大変なことをしたと思ったよ。ふり落とされた時、君は意識がなかったからな。あれは弾《はず》みだったんだ、タビー。君に対して含むところはなかった。これだけは信じてくれ」
「いいんだよ」彼は言った。「わかってる。君はこうやって俺を捜しに来てくれたんだし」息を吸うとどこかが痛むと見えて、タビーは顔をしかめた。「飛行機は、セイトンに渡したのか」
「ああ。俺たちのエンジンを積んで、セイトンはもうヴンストーフへ行っているよ。あの後すぐ、ハーコートのテューダーの穴埋めを頼まれてな」
タビーは笑いかけて、また顔をしかめた。
「やっぱり入院しなきゃあいけないな」私は言った。「なあ、もう一度、ホルミント飛行場まで荷車で揺られて行く勇気はあるか?」
タビーは思い出すだけでも痛みが襲うという顔をした。
「病院へ行けばきちんとした治療が受けられるんだ。そこを考えて、我慢できないか?」
タビーの額に脂汗《あぶらあせ》が吹き出した。「ああ」ほとんど聞き取れないほど微かな声で彼は言った。「そりゃあ、堪えることはできるだろう。ここへ来る医者にモルヒネを打ってもらう手もあるし。でも、ドイツは今、薬品が不足しているし、そりゃあ、できるだけのことはしてくれるだろうけれど、病院だって設備がととのっていないから……」
声が跡絶《とだ》えた。意識が遠のかないうちにと、私は急《せ》き込んで言った。「俺はもう行くからな、タビー。今夜、ベルリンへ向かう。できるだけ急いで行くよ。ベルリンへ着いたら、すぐ飛行機を手配して迎えに来る。いいな?」
タビーはうなずいた。
「じゃあ、ひとまずこれで。何とかして、君を病院へ担ぎ込む。それまで頑張ってくれ。大丈夫、きっともとの体に戻るから」
タビーは苦痛に唇を引きつらせながら弱々しく笑った。「気をつけてな」彼はシーツの下から手を出して、立ちかける私を引き止めた。「ニール……」
私はかがみ込んで彼の口もとに耳を寄せた。
「念のために、言っておくがね……俺は何もしゃべらない……事実は、あったとおりだ。飛行機は落ちた……エンジンの故障だ……点火不良で……」それだけ言って彼は目を閉じた。
息に喘鳴《ぜんめい》が混じっていた。額の汗を拭《ふ》いてやりたかった。枕《まくら》の下に覗いているハンカチを引き出してみると、どす黒い血に染まっていた。肺臓破裂を起こしているに違いない。私は自分のハンカチでタビーの額を拭《ふ》き、そっとハンスの部屋を出ると、狭い階段を土間へ降りた。
あてがわれた一室で夕方まで眠った。ストーヴが景気よく燃えるキッチンで盛りだくさんの食事をよばれてから、私はクレフマン夫婦に暇乞《いとまご》いをした。
「二、三日うちに、必ず飛行機で怪我人を迎えに来ますから」
「ああ、それがいい、それがいい」クレフマンはしきりにうなずいた。「だいぶひどいようだしな。それに、うちもあの人を置いとくと何かと都合の悪いことがあってな」
クレフマンの妻が寄って来て、大きな紙包みを差し出した。「途中で食べて下さい、フレイサーさん。パンとバターと、チキンを少し、それとリンゴを入れときましたから」彼女はちょっと言い澱《よど》んだ。「何かの事情で来られないようになっても、心配することはないですよ。あの人は、あたしらで世話をしますから。ドイツとイギリスは戦争しましたけど、うちのハンスはソ連の捕虜です。ハンスが病気になれば、向こうで面倒を見てもらわなきゃならないでしょう。だから、あなたの友だちのことは、あたしらで何とかします。お気をつけて」彼女は目に涙を浮かべ、皹《あかぎれ》だらけの手で私の腕をそっと押えるようにすると、慌てて顔をそむけた。
クレフマンが戸口まで見送ってくれた。「毎週ベルリンまでジャガイモを運んでいくトラックにあんたが乗れるようにしてやろうと思ったがね……」彼は肩をすくめた。「あいにく、運転手が加減が悪くて、今日は行かないそうだ。ホルミントをはずれて三マイルばかり行ったところに運転手相手のカフェがあるから、そこでわけを話しゃあ、誰か乗せてくれるだろう」彼はホルミントを迂回する道を教えてくれて、私の手を握った。「達者でな、フレイサーさん。早く帰ってくれや。怪我人はだいぶ悪いようだから」
昼の間に雪が深く積ったが、強い東の風に雲が吹きやられて、夜空は冷たく澄み渡っていた。月の出前の星は明るく、目が馴《な》れると夜道はさして難儀ではなかった。頭上を三分置きに空輸編隊の飛行機が過《よぎ》った。赤と緑の航空灯が星|屑《くず》の間を縫い、銀河を跨《また》いだ。尾灯の白い光点は私をベルリンへ導くしるべだった。次々に現われては消え去って行く尾灯を追って歩き続けさえすれば、いずれはガトウへたどり着くはずである。ガトウまで、飛行機なら二十分の距離だろう。しかし、私は二本の脚で歩くしかない……
ホルミントの町へ通じる街道を南へ向かった。この先どれだけ時間がかかるか見当もつかない。足の下で乾いた雪が軋《きし》んだ。私はクレフマンからもらった国防軍の灰色の古びた外套《がいとう》を着て、これも国防軍の戦闘帽をかぶっていた。外套の下はハンスの着古しである。ドイツにもぐり込んで以来はじめて、私は餓えと寒さを忘れることができた。
街道には人影もなく、雪のために車の行き来もふっつり跡絶えているかと思われた。頭上はるかの爆音と電線に鳴る風を除けば、夜は静まり返っていた。ホルミントを迂回する岐路に出た。道標に、ベルリン、五十四キロとしてあった。
五十四キロなら大した距離ではない。三十マイルちょうど、一日で歩けるはずである。ただし、それは条件にもよりけりだ。クレフマンの家でゆっくり休ませてもらったとはいえ、やはり私は疲労が激しく、体じゅうが強張《こわば》っていた。おまけに足は靴|擦《ず》れと肉剌《まめ》で痛んだ。はじめのうちこそ歩くことで体が暖まりはしたものの、疲れて汗をかくと寒風が身にしみた。刺すような風は体を吹き抜けて、骨の髄《ずい》まで凍えそうだった。弱り目にたたり目とはこのことだ。脇道《わきみち》にそれてから新しい雪を踏んで、いったいどのくらい歩いたろうか。その間、一台の車に会うこともなかった。ベルリンへ通じる道へ戻る目印を見逃したらしい。さんざん迷って街道へ出た時は、もうかれこれ真夜中に近かった。クレフマンの言った運転手相手のカフェは見当たらず、黒い森のほかは、ただどこまで続くとも知れぬ耕作地帯を覆って、風に均《なら》された処女雪が拡がっているばかりだった。
街道へ出てから何度も通りがかりのトラックに拇指《おやゆび》を立てたが、そのつど、鼻面の長いドイツの大型トラックは私を黙殺し、これでも喰《くら》えとばかり、人の顔に雪を撥《は》ね上げて走り去った。
やっと何台目かが止まって、上から声が降って来た。「どこへ行くね、同志?」
「ベルリンだ」私は叫び返した。
一呼吸あって、赤軍の兵士が運転台から降り立った。睡気に襲われていたらしく、ライフルを車内に置いたままである。お蔭で私は命拾いした。兵士は拙《つたな》いドイツ語で身分証明書の提示を求めた。幸い、そのあたりは森が道路ぎわまで迫っていた。私は横っ跳びに森に駆け込むと、木の枝に顔をなぶられるのもかまわず、息が切れるまで走りに走った。
夜明け方、私は森に沿った雪の小径を、遠い爆音を頼りに重たい足を引きずって歩いていた。曙光は空を赤い血の色に染めた。荒々しいまでの寒さだった。太陽のくすんだ光円が梢の上に昇る頃、私は森蔭に風を避け、クレフマンの妻の心尽しのパンとチキンで腹を満たすと、松の落葉にもぐって眠った。
私は終日眠り続けた。いや、眠ったというよりは、体中が凍えて昏睡《こんすい》状態で横たわっていたというべきかもしれない。心身とも疲労の極だった。夢うつつの中で、過去と現在が不可分に絡み合い、何としてもベルリンに行き着かねばならないという義務感と、一刻も早くドイツから逃げ出したい衝動がせめぎ合った。私の意識は、逃亡者として餓えと寒さに苦しんだあの数週間に引き戻されていた。
長い一日が過ぎて、暗く冷たい夜がやって来た。星は見えなかった。私は遠い爆音をたった一つのしるべとして、南東を指して歩き出した。小さな町を通ったが、町の名を知りたいとも思わなかった。やがて、大きな道に出た。雪は行き交う車に掻《か》き乱されていた。最初に通りかかったトラックが追い越しかけて脇に止まった。ヘッドライトの明りで見ると道の両側は真っ平らな雪野原だった。森が近ければ、私は考えるより先に逃げ出していたと思う。現実には、身を隠す場所はどこにもなかった。
「あんた、どこへ行くね?」運転手が声をかけて来た。
「ベルリンだ」声が上ずってふるえた。今にも褐色の詰襟を着た赤軍の兵士がぬっと顔を出すかと思うと足がすくんだ。ところが、案に相違して、運転手は言った。
「乗ってけよ。俺もベルリンだ」
夢ではないかと疑いながら、私は助手席に這い上がった。運転手一人で、相棒はいなかった。ギアが軋《きし》り、車輪が一瞬、雪で空回りしてから古びた大型トラックは重たげに走り出した。車内は空気が澱《よど》んで蒸し暑く、排気ガスの匂いが一種懐かしく感じられた。
「ベルリンに何の用だ?」
「仕事だよ」私はドイツ語でぞんざいに答えた。
「ロシアから逃げ出して、西側の管理区へ入り込もうっていうのか」運転手は心得顔ににやりと笑った。目に落ち着きがなく、風采《ふうさい》の上がらない小男だった。
「まあ、それもいいさな。向こうへ行って運転手の口があるもんなら、俺だってこのまま越境したいくらいだよ。でも、ルーベックに女房子供がいて、そうも行かねえんだ。毎日ここを行ったり来たりさ。俺も空輸《ルフト・ブリュッケ》の飛行機に乗れたらと始終思ってるよ。俺は空軍で通信士をやってたんだ。戦争前はちっちゃなラジオ屋でね。でも、今はとても商売にならない。売ろうにも品物がねえんだから。それでこうやって、トラックに乗ってるんだ。でも、飛行機ならベルリンまでほんのひとっ飛びだしなあ。女房のやつがいつも言うんだが……」
彼は自分の境涯について際限もなく話した。単調な彼の声とエンジンの音、雲の中の爆音が一つに融け合って不思議に快い響きを醸《かも》し出した。私は別天地のような車内の暖気にたちまち睡魔に襲われた。男の声が遠ざかってエンジンの響きに呑《の》まれた。時おり、窓の外を流れる町の灯を意識しながら私は浅い眠りを貪《むさぼ》った。ベルリンまで二十七キロの道標を見たのを憶えている。車に蹂躙《じゅうりん》され、茶色く汚れた雪の路面が夢うつつの私の視野を流れ去った。
気がつくと、私は肩を揺すられていた。「起きろよ! おい、起きろ。ベルリンだ」
私は睡《ねむ》い目をこすりながら、灯火も絶えた廃墟の街を眺めやった。五年前、私たちが叩《たた》きつぶしたきり復興の手は着けられていない。が、ともかくここはベルリンなのだ。
「おたくはどこへ行くのかね?」私は尋ねた。
「ポツダムだよ」男は横目遣いに私を見た。「ソ連地区さ。そっちは向きが違うんじゃあないか」彼はわざとらしく笑った。前歯の欠けているところから息が洩《も》れた。
「ここはどこだ?」
「オラニエンブルク」相変わらず私の顔を窺《うかが》うような目つきをしながら、彼は言った。「あんた、ポーランドの人だな。違うか? そのしゃべり方は、ドイツ人じゃないな」
私は何とも答えなかった。
運転手は肩をすくめた。「まあ、どうだっていいや。なあ」彼はアクセルを緩《ゆる》めた。「それで、どこへ行きたい、え? 俺はこの先で右へ曲るぜ。ソ連地区から出ちゃあいけないことになってるからな。あんた、これをまっすぐ行きゃあフローナウだ。フローナウはフランス管理区だよ」
フローナウ! フローナウ・ビーコン! 空輸に従事する飛行機乗りにとっては、フローナウはとりも直さずベルリンのことである。とはいうものの、私はトラックの暖かい車室に未練があった。フローナウからガトウまではかなりの距離がある。ベルリンを一直線に突っ切っても二十キロを下るまい。
「おたくは、右へ曲ってどこへ行く?」私は尋ねた。
「フェルテン、シェーネヴァルト飛行場、ファルケンゼー、シュターケン飛行場、それから、ガトウを通ってポツダムだ。好きなところで降ろしてやるぜ。こっちはどこだって同じだ」
「ガトウを通るって?」
運転手は急に目つきが変った。「ガトウに何の用だ、え?」彼は刺《とげ》を含んだ声で言い、乱暴にブレーキを踏んでオラニエンブルク=ベルリン街道から右へ曲り込んだ。「何だってガトウへ行くんだよ?」彼は重ねて尋ね、私が答えずにいると含むところある口ぶりで言った。「ガトウはイギリス管理区だ。罰当たりのイギリス人が支配してるんだ。毎晩毎晩、空襲に来やがって、糞《くそ》っ垂れが! 俺はな、家族をハンブルクの両親のとこへ預けたんだ。そのハンブルクも、毎晩イギリスの空襲でやられた。ハンブルクはイギリスの卑怯者《ひきょうもの》めらのせいで、めちゃめちゃよ。俺の子供が二人、九つの伜と、五つになる娘が壊れた家の下敷になって死んだ」彼はふっと言葉を切って私の顔を覗き込んだ。「あんた、ガトウに何の用だ、え?」
「イギリス管理区で仕事をするんだよ」私は言った。
「何の仕事だ?」
私は必死で知恵を絞った。ガトウ空港の積み降ろしエプロンのはずれにひしめいていた、かまぼこ兵舎を思い出して、私は言った。「荷役作業だよ。友だちがガトウで検査係をやってて、空輸《エア・リフト》の荷役の口を世話してくれたんだ」
男は唇を歪めた。「今、エア・リフトって言ったな。ここじゃあ誰だって空輸《ルフト・ブリュッケ》だ。何だってまた、そんな言い方をするんだ?」
私は黙ったまま肩をすくめた。
「イギリスとアメリカの罰当りどもだけだ、エア・リフトって言うのは」
張りつめた沈黙が長く続いた。トラックはファルケンゼーにさしかかっていた。その先がシュターケンの飛行場、そして、次がガトウである。
「なあ、身分証明書を見せろよ。ちょっと確かめたいことがある」
私は口ごもった。「そんなもの、持っちゃいないよ」胃の腑の底が抜け落ちるような気がした。
「そうか。身分証明書はなしか」
運転手は体を乗り出して前方の闇を透かした。わずかにちらほらと灯火が見えるばかりで、ファルケンゼーの町は寝静まっていた。と、ヘッドライトの光束が伸びきった向こうに、灰色の制服を着たドイツの警官二人の姿が浮かび上がった。運転手はアクセルを緩めてそわそわと私を横目で見た。私には彼の腹の裡《うち》が手に取るようによくわかった。この場を切り抜ける道はただ一つ。私はとっさにドアを押し開けた。凄《すさま》じい寒風が頬をなぶり、ドアを煽《あお》ってトラックの横腹に叩きつけた。車輪が撥《は》ね上げる泥まじりの雪が、目の前を流れた。運転手が引き止めようとして何やら叫ぶのを背後に聞いて、私はひと思いに体を投げ出した。
雪の路面に足を突いた拍子に撥ね返されて、トラックの荷台で頭を打った。私は顔から雪の中に昏倒した。意識を失ったのはほんの一瞬だった。気がついた時、トラックはけたたましく警笛を鳴らしながら、やっと尻《しり》をふって止まろうとしているところだった。汚れた雪から顔を上げ、四つん這いの恰好《かっこう》で体を起こしたとたんに、自分の血が泥まみれの雪を染めているのを見て激しい吐気に襲われた。しかし、そんなことに構ってはいられない。私は跳ね起きて手近な路地に駆け込んだ。叫び声が追って来た。
肩越しにふり返ると、警官二人はすでにトラックを過ぎて路地のほうへ走っていた。呼子が闇を裂いて鳴り響いた。狭い路地の両側は、空襲で破壊されたままの廃墟と瓦礫《がれき》の山だった。私は煉瓦《れんが》とコンクリートの塊の堆積をこけつ転《まろ》びつ躍り越えて、隣の街路の地下室の跡へ飛び降りた。半開きの壊れたドアの奥に、差し招くように暗がりが拡がっていた。私は壁に貼《は》りついて肩で息をした。鼻をつく人糞の臭気を厭《いと》っている場合ではなかった。
呼子と叫び声が近づいて来た。足音は私が乗り越えた瓦礫《がれき》の山を登った。モルタルの微塵《みじん》が煙のように戸口から傾《なだ》れ込んだ。
「こっちだ、クルト。どっかその辺へもぐり込んだぞ」
私の隠れている真上で険《けん》を帯びただみ声が聞こえた。石塊が崩れ落ちる音がして、やや遠くで別の声が答えた。
「いいや、こっちだ。ここからフリードリヒ街へ抜けられるからな」
足音はひとしきり頭上の瓦礫を踏み荒らして遠ざかった。
じっと息を殺していた私は、ひと安心と額の汗を拭《ぬぐ》った。指先がぬめって、鋭い痛みに私は思わず顔をしかめた。額の古傷がまた口を開けていた。生温かい血が指を濡《ぬ》らした。低い雲にのっぺりと黄色い月がかかってドアの隙間から弱い光が差し込み、掌《てのひら》から滴り落ちる赤い血を照らし出した。傷口から流れる血は目に染みた。頬を伝って口にも流れ込む血の辛味は、はじめてメンベリーにたどり着いたあの時と同じだった。が、それに加えて、トラックから跳び降りたとき顔面を打ったせいか、歯がぐらついて、噛みしめようとすると飛び上がるほど痛かった。
私は服の裏で手に付いた血を拭き取り、ハンカチで額の傷を押さえた。ふるえがおさまるまで、かなりの時間、私はその場に立ちつくしていた。その寒さといったらない。体の芯《しん》まで冷えきったところへ、戸口から刃物のような寒風が容赦なく吹き込んだ。精神的な動揺と、トラックから跳び降りて受けた肉体的なショックが重なって、私は生きた心地もなかった。凍てついた臓物を中から暖めてくれる酒があったらどんなに救われることだろう。私はこの時ほど酒を恋しく思ったことはない。
ようやく気持ちが落ち着いて、悪臭の強い地下室から這い出した。そのあたりでは焼け跡の取り壊し作業が進められている様子で、線路ぎわにダンプトラックがずらりと駐車していた。粉雪は廃墟を薄く覆い、残った石組みの土台や煉瓦の壁の陰などに吹き溜《だま》りを作っている。一か所に石材の破片や砕けた煉瓦《れんが》が山をなした向こうに、半壊の建物の煙突が鈍《にび》色の空を指さしている。ガトウへ向かう空輸編隊の爆音が微かに風に運ばれて来るほかは、あたりは物音一つなかった。どうやら私は追っ手をまいたと判断してよさそうだった。
私はしばらくその場に立って方角を思案した。ここはベルリンの西の郊外、ファルケンゼーである。ガトウに離着陸を繰り返す編隊の遠い爆音がかぎりなく頼もしく、また懐かしいものに感じられた。マルカム・クラブのコーヒーとケーキの香りが現実に鼻腔を満たすかとさえ思えるほどだった。とはいえ、まっすぐガトウへ向かおうとすれば、ソ連占領地区を突っ切らなくてはならない。東へ行けばイギリス管理区へ出られるはずである。大した距離でもあるまい。私は風に逆らって歩き出した。
左脚の自由が利かず、無理に動かすと痛みが走った。転んで膝を擦剥《すりむ》いた時、併せて筋《すじ》を違えたらしい。しかし、弱音を吐いてはいられなかった。とにかく、一刻も早くソ連地区を抜けてイギリス管理区へ入り込むことだ。人影と見れば私は廃墟の物陰に潜んで息を殺したが、その同じ道をほんの数マイル先まで行けば、最初に出会った相手に駆け寄って助力を乞うことができるはずだった。
瓦礫の山を縫うようにしながら、私は絶えずガトウ空港の爆音を右に聞くことで方向を保った。やがて、まっすぐ東へ伸びる大きな通りへ出た。ファルケンハゲナー・ショーセー。まさに定規で引いたように一直線にシュパンダウに通じる道である。シュパンダウはイギリス管理区だった。
時刻は午前三時。ファルケンハゲナー・ショーセーには人っ子一人いず、動くものの影もなかった。焼け跡は白くうっすらと雪をかぶり、ところどころに一部だけ残った壁や石柱が黒く立ち上がっているさまは、イタリアのアッピア街道沿いで見かけた二千年前の墓地の景観を思わせた。ベルリンのどこかで汽車の汽笛が化石の森の梟《ふくろう》の声のように遠く谺《こだま》した。あたりには灯火の瞬《またた》きも人影もなく、生命の息吹を感じさせる何もなかった。見渡すかぎり、あるものはただ悠久の時間の流れの中で風化していく廃墟ばかりだった。
私は足を引きずって一時間あまり、まっすぐ東へ進んだ。絶え間なく未明の空を行く飛行機の音だけが私にまだ人間世界に生きていることを思い出させ、希望を与えた。疲労が重くのしかかり、もはや足を一歩前に運ぶことすらが苦痛になった頃、はるか前方に夜間照明を浴びて遮断機が見えて来た。ソ連地区の境界線だった。たちまち元気が湧いて来た。遮断機の五百メートルほど手前で横手の路地へ曲った。
無灯火の小型トラックが一台、人目をはばかるふうに交差点を東へ突っ切った。私はその後を追って線路沿いの人気《ひとけ》の絶えた狭い道を進んだ。貨車の入れ替えが行なわれていた。緩衝器《バッファ》のぶつかり合う音は静まり返った町の暁暗《ぎょうあん》をことさらけたたましく揺るがせた。
さらに三十分ばかり、ふらつく足で東へ向かった。何度か人影に怯えて物陰に隠れたが、いずれも私の疑心暗鬼だった。そして、その間にどこかで境界線を跨《また》いでイギリス管理区に入ったに違いない。違法越境のドイツのトラックは、はからずも私を抜け道に案内してくれたのだ。
線路伝いにシュパンダウに出ると、私はすぐに早番で五時起きだというドイツ人の鉄道員にイギリス陸軍自動車隊の所在を尋ねた。私はよほどひどい風体をしていたのだと思う。鉄道員は胡散《うさん》臭げにじろじろ私を見ながら必要なことだけを答えると、そそくさと逃げるように立ち去った。
場所はすぐわかった。そこは陸軍造兵隊の兵站《へいたん》部で、大きな表示板の案内に従って引き込み線に沿って行くと、もとは大きな工場だった建物の前に出た。草臥《くたび》れきってふるえが来るほどだった。気がゆるんだせいか、私は吐気を催した。ドイツ人の守衛が一人ぽつねんと控えているだけで、兵站部はまだ寝静まっていた。守衛は明らかに私を見くびってけんもほろろだった。私は英語であらんかぎりの悪口雑言を浴びせかけた。ドイツ人などは一人残らず地獄の底に堕《お》ちてしまえばいいと喚いた時には、腹立ちのあまり鼻の奥が熱くなった。それでも守衛は腰を上げようとしなかった。見ると壁にホルスターに差したままのリボルバーが下がっていた。私はしゃにむにそれを抜き取って、ふるえる拇指で撃鉄を起こした。
「当直士官を呼べ!」私は叫んだ。「早くしろ、さもないと撃つぞ」
守衛はうろたえたが、銃口を見て奥へ駆け込み、ほどなく長身で痩《や》せ形の若い士官を連れて来た。パジャマの上にはおった士官外套の肩に金星が一つ光っていた。
「何だ、この騒ぎは?」士官は睡い目をこすりながら言った。
「私はフレイザーだ。空軍少佐、フレイザー。今、ソ連占領地区からこっちへ入ったところだ。直ちにガトウへ向かいたい」
若い中尉は私が構えているリボルバーに目をやった。「君はそうやって相手かまわず銃で威嚇《いかく》するのか?」彼は進み出て、私の手からリボルバーを取り上げた。「陸軍の武器だな。君のか?」
「いや」私は壁のホルスターを顎《あご》でしゃくった。「そこにあった」
中尉はきっと守衛に向き直った。「何だってここに武器がある、ハインリヒ?」
二人は、誰であれ士官たる者が守衛室に武器を放置する不始末が何故《なぜ》見過しにされたかについて際限もなくやり合った。私は痺《しび》れを切らして叫んだ。「いい加減にしないか!」
中尉は険しい目つきで私をふり返った。「ハインリヒに銃を突きつけたそうだな」
「何度言ったらわかるんだ?」私は腹立ちのために両手がふるえるのを抑えようもなかった。「私はイギリス空軍の将校だ。空輸編隊の機長を務めている。搭乗機がホルミントで墜落した。今、ソ連地区から抜け出して来たところだ。直ちにガトウへ帰投しなくてはならない。何でもいいから輸送手段を提供してもらいたい。わかるか? 私はガトウへ行かなくてはならないんだ」不必要に声が尖《とが》るのが自分でもわかった。私は狂人としか見えなかったろう。それはしかたのないことだ。実際、私の神経は音を立ててちぎれる寸前だった。
「身分証明書を見せてもらえますか?」
私は財布を取り出した。気が急《せ》いて手がふるえ、身分証明書が床に落ちた。ドイツ人の守衛がそれを拾い上げ、私に差し出して踵《かかと》を打ち鳴らした。その目に最前の蔑《さげす》みの色はなかった。
中尉は証明書に目を走らせて言った。「ホルミントに墜落した、ということでしたね?」
私はうなずいた。
「いつですか?」
いつ? 一昨日の夜だろうか? いや、それを言ってはいけない。向こうが訊《き》いているのは事故があった日だ。タビーが飛行機からふり落とされた夜のことだ。私は必死で記憶を漁《あさ》ったが、日付の感覚はまるで失《う》せていた。
「何日か前だが……正確には何日だったか……どうだっていいだろう、そんなことは」
「基地はどこです」
「ヴンストーフだ」
「乗っていたのは、ヨークですか?」
「いや、テューダー油送機だ」
「テューダーですか」中尉はきらりと目を光らせ、それから、ばつが悪げににやりと笑った。「どうも、これは、大変失礼しました。あなたのことはよく知っています。戦争中、メッサーシュミットでドイツから脱出した、あのフレイザー少佐ですね。ええ、新聞に大きく出ました……いえ、ですから、その事故のことですが、墜落機はまだ発見されていません。あなたとカーターが行方不明と伝えられたきりです」中尉はちょっと口ごもった。「だいぶ難儀をされたようですが、大丈夫ですか? 何なら救護所へご案内いたしますが」
「ガトウへ行かなくてはならないんだ」
「ええ、それはわかっています。私がお送りします。着替えて来ますから、ちょっとお待ち下さい。すぐ来ます」中尉は行きかけてふり返った。「お茶でもいかがです? 顔を洗いませんか? 怪我がひどいようですが」
中尉の案内で洗面所に行った。水は痛いほど冷たかったが、とにかく、顔と手だけは洗った。中尉は自分の救急箱から絆創膏《ばんそうこう》を出してくれた。ドイツ人の守衛がブリキのカップで舌が焼けるような、濃い紅茶を運んで来た。十分後、私は一トン半積みの軍用トラックに揺られてヴィルヘルム街を下っていた。
ガトウヴァーダムで左へ曲った。帰り着いた、という実感が湧いて来た。フラップを下げた飛行機が頭上を低くかすめ、夜間照明のナトリウム灯や、ガトウ空港への進入路を表示するクロスバーの高輝度の照明が雲の縁を染めていた。
ガトウ空港の検問所で止まると、紺の戦闘服に白いモールを這わせた空軍憲兵隊の伍長《ごちょう》が車内を覗き込んで、身分証明書の提示を求めた。
「墜落したテューダーのフレイザー少佐だ。ソ連地区から戻られたところだ」中尉が簡潔に説明した。
伍長は身分証明書に目をやろうともせず私に返し、しゃちこばって敬礼した。「ようこそご無事で、少佐」
トラックは空港に乗り入れた。「どこへ行きますか?」中尉は尋ねた。「ターミナルですか?」
ガトウに向かう間、私はずっと次に取るべき行動を思案していた。何はさておき、真っ先にダイアナに会ってタビーが生きていることを伝えなくてはならない。それから、セイトンに会うことだ。秩序が保たれた占領下のベルリンに戻った今、私はタビーを救出するためにソ連地区にイギリス空軍の飛行機が着陸することの困難を思わずにはいられなかった。正規の手続では、まず許可されないと考えなくてはなるまい。無断で強行してソ連軍に見|咎《とが》められれば事態は外交問題に発展し、しかも、長く尾を曳《ひ》くことになるだろう。しかし、セイトンを説得すれば……。彼にはそれだけの勇気がある。もともと、法律や外交問題など意に介さない男なのだ。何としてもセイトンを口説き落とさなくてはならない。
「まっすぐマルカム・クラブへ行ってくれないか」私は言った。
「マルカム・クラブ? というと、FASOのほうですね?」
「ああ、そうだ」
「先に運行管理部へ顔を出さなくていいんですか?」
「ああ。マルカム・クラブへやってくれ」
「わかりました」
トラックは森を抜け、明るく灯のともった宿舎の前を過ぎた。前方に赤と黄色の誘導灯が眩《まばゆ》いガトウ空港の景観が開けた。右手に四角い箱のようなターミナルビルが黒い影を作り、屋上に聳《そび》える管制塔の高い窓から光がこぼれていた。トラックは左へ折れて白いペンキ塗りの柵《さく》を過ぎ、BEAのスカイマスターを小回りに避けて、粉雪が風に均《なら》されてうっすら積ったタールマカダム舗装の上を滑るように進んだ。左手に格納庫が黒々と建ち並び、前方にピカデリー・サーカスが黄色い照明を浴びていた。プルームには飛行機は駐《と》まっていなかった。誘導路を走行する飛行機の発動音は、その向こうの滑走路の爆音を圧倒した。何もかもが私の知っているとおりだった。ほんの数日間とはいえ、まるでバスの発着所さながらに滞《とどこお》りなく運行されている空輸態勢から離れていたことが嘘のように思えた。
舗装の継ぎ目をまたぐタイヤが規則的なリズムを刻み、トラックはやがてピカデリー・サーカスの外側を回って、アーク灯の強い光に照らされたFASOのエプロンに乗りつけた。飛行機と荷物運搬用のトラックが頻繁に出入りし、ドイツ人の作業員たちが忙しく立ち働いていた。かまぼこ兵舎の上に抜け出た監視塔の仮小屋も、前に見たままの景色だった。
「お待ちしますか?」空軍の紋章を掲げたマルカム・クラブの前へトラックを寄せながら、中尉は言った。
「いや、それにはおよばない。ここまで来れば、もう大丈夫だ。いろいろ親切にしてくれてありがとう」
「どういたしまして」中尉はトラックを降り、助手席のドアを開けると、まるで重病人を扱いでもするように私に手を貸した。
「それでは、私はこれで失礼します。どうぞお達者で」彼は閲兵式でも通用しそうな敬礼をした。
私は気おくれして、クラブの前で中尉がトラックを回して走り去るのを見送った。赤い尾灯は見る間に遠ざかり、夥《おびただ》しい空港の灯火に紛れて消えた。私は次々に降りて来る飛行機を見上げた。ルーベックから石炭を運ぶヨークの編隊だった。シャーベット状の雪に覆われたエプロンに、先に着いたヨークがずらりと並んでいた。すぐ近くの一班で荷物検査に当たっていた若い女の係官が積荷目録から顔を上げて私をふり返った。金髪で頬骨の高い大柄な女だった。私はエルゼのことを思い出した。女の顔は炭塵《たんじん》で真っ黒だった。私はマルカム・クラブの入口に立ったが、何となく入りにくい気がした。ダイアナがいてくれれば問題はない。いなかったら……。私は自己紹介をして、このみすぼらしい形《なり》を弁解しなくてはなるまい。たちまち、入れ替り立ち替りやって来る乗員らに取り囲まれ、事故について土砂崩れのような質問攻めに遭うことは目に見えている。
一団の空軍兵士らが声高に笑い交わしながら戸口にあふれ出ると、コーヒーとケーキの懐かしい匂いが鼻をくすぐった。ここでぐずぐずしていてもはじまらない。おまけに、芳香を嗅《か》いだとたんに私は激しい空腹を意識した。私は外套の埃《ほこり》をはたいてドアを押し開けた。
ストーヴに赤々と火が燃えて、クラブの中は汗ばむほど暖かく、煙草のけむりが立ち込めて、談笑する声が渦巻いていた。私は細長いフロアをまっすぐ奥のカウンターへ向かった。周囲の視線が案山子《かかし》の化物のような私に集まり、急にざわめきが鎮まった。
「カーターの奥さんはいるかな?」私はカウンターの中の女に尋ねた。低く話しかけたつもりだったが、静まり返った中で私の声は異様に大きく響いた。
「いいえ。七時にならないと出て来ませんけど」
私は時計を見た。六時半だった。
「待たせてもらうよ。コーヒーとサンドイッチを頼めるかな」
女はちょっとためらった。「はい、わかりました」
肩を叩かれてはっとふり向くと、ブロンドの髪に房々と口|髭《ひげ》を蓄えた、いかつい男が立っていた。「あんた誰だ?」男は尋ねた。周囲の乗員たちの目も一斉に同じ質問を発していた。
「フレイザーだがね」私は言った。
「フレイザー?」男はおうむ返しに言い、一瞬、首を傾《かし》げると、たちまち目を輝かせて声を張り上げた。「フレイザー! あの、テューダーの機長の?」
「ああ、そうだ」
「フレイザー! いやあ、これはどうも」男は私の手を握り締めた。「あんたがフレイザーとは知らなかったよ。ここで帰還を迎える役回りとは光栄だな。おい、ジョアン……コーヒーとサンドイッチは俺の奢《おご》りだ。いやあ、それにしても無事で何よりだったなあ。事故の情況を聞きたいね。どういうことだったんだ? なあ、聞かせてくれないか。俺たちはもうすぐ発たなきゃあならないんだ。話してくれよ」
飛行機乗りたちは血に飢えた狼《おおかみ》の群よろしく、興奮に目を光らせて私を取り巻いた。たちまち八方から質問の雨が降り注いだ。
「話すほどのことは何もないんだ」私は口ごもった。「エンジンの故障だよ。ホルミントの近くへ墜《お》ちた」
「で、ソ連地区から舞い戻ったのか?」
「ああ」
カウンターの女がコーヒー茶碗《ぢゃわん》とサンドイッチの皿を私の手に押しつけた。「申しわけないがね、あまりその話はしたくないんだ」室内の温もりのせいで、頭がくらくらした。「疲れているんだ。失礼して、坐《すわ》らせてもらうよ」
一同は寄ってたかって私の両腕を支え、なかば担《かつ》ぎ上げるばかりにしてストーブのそばの安楽|椅子《いす》に私を運んだ。「さあ、ゆっくりそこへ掛けてコーヒーを飲んでくれ。すぐ部屋を取ってやるから」
「カーターの奥さんに会いたいんだ」私はこれだけは譲れない口ぶりで言った。
「よし、呼んで来てやる」
男たちはひとまず私のそばを離れた。私はコーヒー茶碗を両手で包むように持ち、腕から体へ伝わって行く温もりと、生き返るような芳《こうば》しい香りを味わった。男たちは片隅に額を集めて、しきりに私のことを取り沙汰《ざた》していた。一団が発って行くと入れ替りに別の乗員たちがやって来た。噂《うわさ》はたちまち拡まって、遠巻きにして私のほうをうかがいながら、ひそひそ話をする声が耳に入った。
中の一人がそばの床にしゃがみ込んで話しかけて来た。「本当に、無事で何よりだったな、フレイザー。君はきっと、世界一の脱出の名人だな。君が帰って来たと知ったら、ヴンストーフの連中は喜ぶぞ。皆、てっきりもう駄目だと諦《あきら》めているからな」
「ヴンストーフ?」私は男を見返した。どこかで見た覚えのある顔だった。
「そうさ。憶えてないか? 事故の晩、君が出発する前、食堂で俺は隣に坐っていたんだ。君はウェストロップがしきりにソ連軍の話をするのをうるさがっていたっけな。今から思うと、ウェストロップのやつは虫が知らせていたんじゃあないかな。司令官には俺から君のことを伝えるよ」
「ヴンストーフからの便は、もう入って来ているのか?」私は尋ねた。
「ああ、ちょうど降りはじめたところだ」
「セイトンという男がテューダー油送機に乗っていないか?」
「乗っていないかって?」若い男は声を立てて笑った。「いるいる。一昨日から飛んでいるけどな、それが、まわりはみんな度肝を抜かれているんだ。離陸した後は、内側のエンジン二基だけでどこまでも飛ぶということをやってのけるんだからな。このエンジンの燃費が、飛行機の設計技師の理想をはるかに超えるというやつでな。君もあのエンジンを作るのに手を貸したっていうじゃないか。いったいどうやってあれだけのものができたのかって、そりゃあ大変な評判だよ。明日、ファーンボロの技術屋が民間航空省の技官と、補給編成局のお偉方を連れて見に来ることになっている。セイトンも、もうじき来るだろう」
「もうじき、というと?」
「あと十五分もすれば着くんじゃないか。テューダーの編隊は俺のすぐ後から発ったはずだからな」
空軍の伍長が赤十字のマークの頭陀袋《サッチェル》を提げてやって来た。「外に救急車を待たせてありますが、歩けますか、少佐? 担架を持って来ましょうか?」
「誰が救急車を呼べと言った?」私はかっとした。どうして放っておいてくれないのだろうか。「俺はカーターの奥さんに会う用があるからここにいるんだ。余計なことはするな」
伍長は困った顔をした。「わかりました。それでは、しばらくしたらまた来ます。その傷だけは手当てをさせて下さい。かなりひどいようですが、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」私は声を尖《とが》らせた。「現に夜っぴて二十マイル歩いて来たんだ」
「わかりました」
伍長は退散した。入れ違いにダイアナが駆けつけた。
化粧っ気のない顔はげっそりやつれていた。ストーヴのそばの安楽椅子にもたれている私を見ると、彼女は目を疑うふうに、つと足を止めた。「あなた、本当に帰って来たのね」詰《なじ》るような口ぶりだった。あらためて、彼女はゆっくり私のそばへ寄った。「どういうことなの? タビーに何てことをしてくれたの? どうしてほかの人と一緒に脱出させなかったのよ?」
ダイアナは声をふるわせた。その目は悲しみに曇っていた。
「心配することはないよ。タビーは生きてる」
彼女はきっとなった。「嘘! 生きているはずがないでしょう」
「嘘じゃない。タビーは生きてる」
「まさか、そんな……」彼女は声にならぬ声で言った。「嘘に決まってるわ。あなたが生きてるなら、死体はタビーの……」嗚咽《おえつ》で言葉が続かなかった。
「タビーは生きてるんだ」私は重ねて言った。彼女の手を取ったが、冷たい指は握り返しては来なかった。「ダイアナ。力を貸してくれないか。タビーは生きてる。ただ、怪我してるんだ。救出しなきゃならない。君からセイトンにそう言って、飛行機で迎えに行くようにしてもらいたいんだ」
「何よ、それ?」ダイアナは蔑《さげす》むように冷やかに言った。
私には解《げ》しかねる態度だった。「嬉《うれ》しくないのか? 俺は君に知らせたくて、まっすぐここへ来たんだぞ」
「あなたが無事で嬉しくないかっていうの?」彼女は顔をそむけた。「そりゃあ嬉しいわよ。でも、タビーはどうなるの?」彼女は泣き崩れた。「私、あの人を愛してたのよ……本当よ……」
誰かが私の上にかがみ込んだ。空軍の制服を着た、黒い目が鋭い、鷲鼻《わしばな》の将校だった。「フレイザーだな。話を聞いて飛んで来たんだ」
「放っといてくれ!」私は将校を押しのけた。「俺はカーターのかみさんと話してるんだ」
「ああ、わかっている。とにかく、私の言うことを聞いてもらいたい。私はここの情報将校だ。君の飛行機については全部わかっているぞ。ホルミント飛行場の北方二マイルのところに墜落した。鼻面からもろに突っ込んでいる」
私は将校の顔を覗き込んだ。「ホルミントに墜ちたというのは、どこから聞いた?」
「ソ連軍だ」
「ソ連軍?」
「ああ。事故後何日かはいっさいを否認していたのだが、昨日になって、そういう報告があった。ホルミントの北へ寄った森林地帯で墜落機の残骸《ざんがい》が発見されたそうだ」将校は再びかがみ込んで声を潜《ひそ》めた。「同時に死体が一つ発見されている。それが、君かカーターか、今まで判断の材料がなかったのだよ」将校は、両手で顔を覆っているダイアナにちらりと目をやった。「こうやって君が無事に帰ったとなれば、死体が誰かは考えるまでもないな」彼は体を起こした。「ひと休みしたら直ちに私のオフィスで事情聴取に応じてもらいたい。基地司令官|宛《あて》に報告書をまとめなくてはならないからな」
私は狐《きつね》につままれた気持ちだった。ソ連軍は何と思ってそんな報告をイギリス側に伝えたのだろうか。筋の通らない話ではないか。私は背中に冷たいものが走るのを覚えた。この分では、私の言うことは何一つ信じてもらえないのではあるまいか。そう思うとぞっとした。
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第八章
それからの十五分はまさに悪夢だった。私はソ連側の報告が事実を伝えていないことを情報将校に納得させようと試みたが、これがいけなかった。将校はソ連軍の報告を鵜呑《うの》みにしていた。そこへ持って来て、ガトウまで送ってくれた陸軍の中尉が、マルカム・クラブで私を降ろした後、情報将校に会って事情を話した。私が造兵隊でドイツ人の守衛にリボルバーを突きつけたことも伝わっていた。
「君は自分の言っていることがわかっていない……というより、自分の行動について自覚がないな、フレイザー」彼は聞く耳持たぬ態度で言った。「とにかく、私のところへ来てもらいたい。病室を手配しよう」
私はホルミントの森で見かけた赤軍の警備隊を思い出した。彼らは飛行機が頭から地面に撃突したのではないことを知っているはずである。
「その、ソ連側の報告とやらを見せてもらえるかな?」
「私のオフィスにある」
「詳しいことが書いてあるかね?」
「ああ、詳細をきわめている。墜落機が君のテューダーであることは疑問の余地もない。機体番号もちゃんと、2‐5‐2と明示されているのだからね」将校はそこへ戻って来た軍医|伍長《ごちょう》をふり返った。「ミセス・カーターを宿舎へ帰すように」
「ちょっと待ってくれ」私は言った。情報将校が駄目なら、せめてダイアナには話を聞いてもらわなくてはならない。私は椅子《いす》から立って彼女の肩を揺すった。穏やかに話している場合ではない。「ダイアナ、俺《おれ》の言うことを聞いてくれ」
彼女は顔を上げ、涙に濡《ぬ》れた目で私を見つめた。
「俺は昨日、タビーと一緒だったんだ。タビーは生きている」
信じたい、と思う心は彼女の顔に表われていた。一瞬、目の奥に希望の色が走ったが、彼女は唇を噛《か》んで感情を殺した。「この人を連れてって下さい」呟《つぶや》きとも取れる声で彼女は言った。
情報将校はダイアナの肩から私の手を引き剥《は》がした。「生きているものなら、ソ連軍が死んだと報告して来るはずがないだろう」彼はそっと私を椅子に押し戻した。「落ち着くんだ。君は、神経が昂《たか》ぶっている。それはともかくとして、カーターの奥さんに希望を持たせるようなことを言うのはよくないぞ。カーターは死んだ。この点は間違いない。それよりも、私が君に訊《き》きたいのは……」
「カーターは死んでいない」私はいきり立った。「大|怪我《けが》はしているが、生きているんだ。土地の農家に……」
「止《や》めて、ニール!」ダイアナは叫んだ。「そんな話、聞きたくもないわ。死んだとわかりきっているのに、どうしてあなたは生きてるなんて言うのよ?」打って変わって、沈んだ声で彼女は言った。「あたしがいなかったら、あの人、飛行機なんて乗りゃあしなかったわ。ずっとビル・セイトンと組んでたはずよ。ビルはあの人を墜落させるようなことはしなかったでしょうね。ビルとはうまく行ってたのよ。ああ、どうしてこんなことに……」
ダイアナは自分を失っていた。私は彼女の悲嘆の表情を見上げながら、いったいどうしたらタビーが生きていることを納得させられるかと、暗澹《あんたん》たる思いに駆られた。情報将校に向き直って、私は言った。
「基地司令官に会わせてくれないか。今夜、飛行機を使わせてほしいんだ。許可をもらえるだろうか?」
「飛行機をどうしようというのかね?」将校は興奮した子供をなだめすかすような口ぶりで言い、ちらりと伍長に目配せした。
「ホルミント飛行場へ行きたいんだ」私はここぞと乗り出した。「ホルミントに降りられれば、カーターを救出できる」
「救急車はまだ表にいるか?」情報将校は伍長に尋ねた。
「はい。フレイザーさんはそんな必要はないと言われましたが、念のために……」伍長は私の顔を見て言葉を濁した。
「ようし。行こう、フレイザー。一杯飲んで、暖かいベッドに横になるといい。すぐ手配しよう」将校は静かに私の腕をつかみ、しかし、強引に椅子から立たせようとした。
私はその手をふり払った。「これだけ言ってまだわからないのか? タビー・カーターは生きている。墜落事故で死んじゃあいないんだ」そもそも事故などありはしなかった、と咽喉《のど》まで出かかって私は思い止《とど》まった。すべて洗いざらい打ち明けないかぎり、信じてはもらえまい。セイトンに会うまでは、それはできないことである。「農家の世話になって、ドイツ人の医者の手当てを受けているんだ。腕と肋骨《ろっこつ》を何本か折って、肺が破裂している。早くきちんとした病院に入れてやらなきゃ危ないんだ」
「まあ、落ち着け、フレイザー」情報将校はまた私の肩に手をやった。「君の気持ちはよくわかるがね、カーターを置き去りにして自分だけ脱出した引け目があるからといって、死んだ者を生きていると思い込もうとしたって駄目だ。事故については後できちんと始末をつけるとして、とにかく、君は休んだほうがいい」
私はタビーを墜落死させたと思われている! かっと頭に血が上った。それは違う。私はタビーを見捨てて脱出しはしなかった。現に私は、彼の所在を突き止めたではないか。私はやる方ない憤懣《ふんまん》と無力感にさいなまれた。
ダイアナが私の手を取った。「さっきから、しきりと農家の話が出てるけど、それはどういうこと?」信じたい気持ちは顔に書いてあった。
私はクレフマン夫婦と息子ハンスのことを話した。「タビーはそのハンスの部屋に寝かされているよ」私は半ば目を閉じて、屋根裏の小部屋の記憶を漁《あさ》った。「蝶々《ちょうちょう》の模様の壁紙でね、そこにハンスの古い写真がいっぱい貼《は》ってある。鉄と真鍮《しんちゅう》のベッドで、屋根裏が一つ。その下に納屋が見えていたな」
私は再びダイアナの肩を揺すった。
「信じてくれ、ダイアナ。セイトンに、今夜のうちにもホルミントへ飛んでタビーを連れて来るように、君からも口添えしてもらいたいんだ。俺は本当のことを言ってるんだ。頼むから、信じてくれよ」
彼女は私の目を見て投げやりにうなずき、半ば自分に言い聞かせる口ぶりで答えた。「そうね。あなたがそんなにまで言うならね。あなた、自分が何を言ってるか、わかっているんでしょうね? 自分の身を守るために……出まかせを言ってるんじゃないでしょうね?」
「身を守る?」
「そうよ。自分だけ脱出したんじゃないっていうふうに、人に思わせようとして……」彼女は唇を噛んだ。「まさか、あなたはそんな人じゃないわね。やっぱり、あなたの話は本当かしら」彼女は情報将校をふり返った。「ちょっと二人きりにさせてくれません? 私、この人と話したいことがあるんです」
将校は気遣わしげな顔をしながらも、場所をはずしてカウンターへ引き取った。
「ビルがここへ来ることを、あなた、どうして知ってるの?」机の上に低くかがみ込んで彼女は言った。虚を衝《つ》かれて私はぎくりとした。疲労が重くのしかかって来た。ストーヴの温《ぬく》もりは睡気《ねむけ》を誘った。私は両手で顔をこすった。「さっき、ヴンストーフから来たやつに聞いたから……」私は必死で頭の霧を払った。ダイアナに事実を打ちあけるわけには行かない。話してしまったら、セイトンはいっさい協力を拒むだろう。「セイトンはいつ着くんだ? あいつに話があるんだ。このままターミナルビルへ行けば、俺は質問攻めのあげくに病室へ押し込まれてしまう。それは困るんだ。どうしても、セイトンにホルミントまで運んでもらいたい。今夜のうちにタビーを救出しなきゃあ」
「どうしてビルが行かなきゃいけないの?」
「セイトンはタビーの親友だろう。タビーがいたからこそ、エンジンだって完成したんだ。セイトンがそれくらいのことをするのは当然じゃないか」
「それだけ?」彼女は探るような目で私を見つめた。「やっぱり、あなた、タビーを置き去りにして自分だけ脱出したっていうこと?」
彼女にまたもや切り込まれて私はたじろいだ。「そんなことは言ってない。そうやって俺に責任をなすりつけるのは止めてくれ」私は声を尖《とが》らせた。
「だったら、どうしてうちの人だけ怪我をして、あなたは何ともないの?」
「それは……」私は顔を伏せ、指先で強く目頭を押えた。頭に箍《たが》をはめられたような気持ちは、ほぐそうとしてほぐれるものではなかった。「そんなこと言われたって、答えようがないよ」私はうんざりして言った。「そうやっていろいろ訊かないでくれよ。とにかく、セイトンに会わせてくれないことには話にならないんだ」
ダイアナはいきなり私のドイツ国防軍の外套《がいとう》の胸倉を取った。「嘘《うそ》をついてるわね」彼女は食いしばった歯の間で鋭く言った。「嘘でしょう、ニール。隠したって駄目よ。何かあたしには言えないことがあるのね。どうして? 何があったの?」彼女は激しく私を揺さぶった。「言ってよ、ねえ。何があったの?」
「放っといてくれないか」私は低く言った。放っておいてもらいたい。私は考えなくてはならなかった。「セイトンを連れて来てくれ。話したいことがある」
「あの晩、何かあったのね? そうでしょう? 何があったの? しっかりしてちょうだい、ニール。何があったか、私に言えないの?」
ダイアナは床にひざまずき、あたりをはばかるふうもなく甲高い声を発した。室内がふっと静まり返り、人々の視線が私に集まるのがわかった。事情を知らない飛行機乗りたちは、私の胸倉にむしゃぶりついて喚《わめ》き立てているダイアナの姿から勝手な想像をするだろう。
「ねえ、何があったの? 私には言えないことなの?」
「セイトンが来るまで待ってくれよ」
「ビルに何のかかわりがあるのよ? 事故はビルの責任だとでもいうの?」彼女はうろたえた目であたりを見回し、再び激しく私に向き直った。「ビルがいれば話すの? 私に、あの晩何があったのか、本当のことを聞かせてくれるの?」
「ああ。君が今夜中にホルミントへ飛ぶようにセイトンを説き伏せてくれればね。ホルミントの飛行場へ降りさえすれば、タビーを救《たす》け出せるんだ。そうすりゃあ、タビーはもとの体になれる」
「ホルミントの飛行場は、今はぜんぜん使われてないでしょう。あたし、昨日ニュースを聞いてから調べてみたのよ。そんなところに飛行機が降りられると思うの?」
「一度降りてるんだ」
「何ですって?」
私は頭を抱えた。「何でもない。別に意味はないんだ」少し眠らないと、頭に浮かんだことを右から左へしゃべってしまいそうだった。「自分でも何を言ってるのかわからない。疲れてるんだ。セイトンを連れて来てくれ。頼むから、もう何も訊かないでくれないか」
彼女はまだ何か訊きたそうにしていたが、思い直して言った。「ビルはまだ着いていないわ」
情報将校が立って来た。「セイトンか? セイトンならもうじき着くぞ。今、テューダーの一番機が降りたところだ。そう言えば、君はセイトンのエンジン製作を手伝ったそうだな」
「ああ」私はもう口をききたくなかった。その筋の人間は頼りにならないという思い込みは抜き難く、私はひたすらセイトンを当てにしていた。室内の暖気と疲労で頭は働かず、額の血が凝固して皮膚が引きつれるのをぼんやり意識しながら、私は惚《ほう》けたように入口を見やっていた。クラブに出入りする飛行機乗りたちは、ベルリン空輸の型に嵌《は》まった日常とはかけ違った異様な光景に、いかにも胡散《うさん》臭げな目つきをしてそばをすり抜けて行った。
ほどなく、セイトンは乗員を引き従えて姿を現わした。彼はカウンターのほうへ行きかけて私に気づき、たたらを踏むような恰好《かっこう》で立ち止まると、破顔一笑して私の肩をつかんだ。「よう、ニール。よく無事に帰ったな」
セイトンは相好を崩していたが、目は笑っていなかった。そのスレート瓦《がわら》に似た冷たい灰色の目を見れば、私の出現をまずいと思っていることがわかる。白い絹のスカーフを首に巻き、飛行服の前をはだけたセイトンは、数日の間にひとまわり大きくなったように感じられた。「大変な目に遭ったなあ。どうやって舞い戻った?」
「トラックに便乗して、あとは歩いて来たよ」
気まずい沈黙が続いた。訊きたいことは山とあるに違いないが、彼は周囲を気にして口を閉ざしていた。私はセイトンが怯《おび》えていることを悟った。日頃《ひごろ》の彼からは想像もつかないことながら、煙草《たばこ》をくわえてマッチを擦る手がふるえていた。「もう聞いたろう。エンジンのことさ。予想以上の性能だぞ。出力が二〇パーセント上がって、燃費は何と四五パーセント低減だ。この分で行くと……」
「タビーは生きているぞ」私は言った。
「生きている?」彼は思わず訊き返した。まるで私が卑劣な真似《まね》をしたとでも言いたげだった。彼はすぐに気を取り直した。「間違いないか? まさか……」まわりの視線を意識して、彼は言葉を呑《の》み込んだ。「今、どこにいる?」
「ホルミント飛行場の近くの農家にいる」
「そうか」セイトンは深々と煙草を吸った。衝撃は大きかった。この事態をどうしたものか、彼が考えあぐねているのがよくわかった。セイトンはちらりとダイアナを見やり、その目を情報将校に転じた。将校は彼を脇《わき》へ引き寄せた。将校が「ソ連軍の報告」と言うのが唇の動きでわかった。私は危うく吹き出すところだった。イギリス空軍の情報将校はセイトンを相手に墜落事故の模様をことこまかに説明している。墜落したはずのその飛行機は現在|只今《ただいま》、外のエプロンで空輸燃料を積み降ろしている最中なのだ。
話を聞き終えて、セイトンは言った。「わかった。俺から目を覚ますように言ってみよう。二人だけにさせてくれるか?」
情報将校はうなずき、ダイアナの手を引いて脇へ退《さが》った。セイトンは私の前に立った。すっかり自信を取り戻して、不敵な笑いすら浮かべていた。「ソ連軍もご親切なことだな、え? 報告のことは聞いたろう。死体が発見されたっていうじゃないか」
私は黙っていた。背後から明りを受けて、セイトンの顔は影になっている。はじめてメンベリーで向き合った時と同じだった。なおも薄ら笑いに唇を歪《ゆが》めて彼は言った。「お前、どこであいつに会ったって?」
私はタビーを見つけ出してガトウへたどり着くまでの一部始終を話した。
「怪我してるのか。ひどいのか?」
「腕とあばらを折って、肺が破裂しているんだ。こっちへ引き取って、入院させなきゃあ」
「それが無理だとしたら?」
「何とも言えないな。ドイツ人の医者が手当てをしてくれてはいるがね。かなりひどい様子だったから、入院させなきゃ危ないんじゃないか」
「そうか」彼は髯剃《ひげそ》り跡の蒼々《あおあお》とした顎《あご》をさすった。「で、お前、これからどうする気だ?」
「俺は動きが取れないんだ。あの情報将校はこっちの言うことに耳も貸さないからな。だから、君からあいつに、俺の話は本当だって言って、俺たちに飛行機を使わせるように掛け合ってほしいんだ」
「俺たち?」セイトンは鼻で嗤《わら》った。
「タビーはしゃべらないぞ」私は急《せ》き込んで言った。「俺にはっきり約束した」
「俺はあと一歩というところだ」セイトンは言った。相変わらず彼は自分のことしか頭にない。
「ああ、聞いたよ。イギリスから技術屋が見に来るって?」
彼はきらりと目を光らせてうなずいた。「万事、うまく行ってるからな。最初に飛んだ時、航空機関士がエンジンの性能に目を丸くしたよ。翌日にはもうヴンストーフの宿舎はその話で持ち切りだ。空軍の技術屋が試乗に来る騒ぎでな。今度は航空省と補給編成局の連中がファーンボロの技術屋とこっちへ来るという。今日の午後には……」
「タビーのことはどうするんだ」私はセイトンを遮った。「見捨てるなんて許されないぞ。何としてでも救出しなきゃあ」
「お前、こっちへ来たらその足で警察へ訴えると言ったんじゃあないのか。だったら、その前にタビーのことをよく考えておくべきだったな」
「俺はしゃべらない」私は慌てて言った。「それはタビーも約束した」
「今さらそんなことを言ったって、もう遅いぞ」セイトンは間を置いて、もったいをつけるように言い足した。「俺に関するかぎり、タビーは死んだんだ」
本気で言っているとは思えなかった。私は愕然《がくぜん》としてセイトンの冷やかな目を覗《のぞ》き込んだ。
「とにかく、こっちへ連れて来なきゃあ」私は食い下がった。
彼は肩をすくめた。「お前の言うことを聞けるかどうか、考えてもみろ。そんなことをしたら、こっちは命取りだ」
私は耳を疑った。「タビーをソ連地区に放ったらかしてはおけないだろう」
「空軍当局はソ連の報告を真に受けているじゃねえか。寝た子を起こすような真似はしないことだ」
セイトンが本気でそう思っていると知って、私は恐怖がじわじわと背中を這《は》い上がるのを覚えた。「じゃあ、君は……」声が詰まって言葉にならなかった。
「そうよ。タビーなんぞ、うっちゃっとけって言ってるんだ」
よかろう。セイトンがそこまで冷血に徹するなら、こっちにも覚悟がある。「君は俺を脅迫して飛行機を盗ませた。それを忘れてはいないだろうな」
セイトンは酷薄な笑いを浮かべてゆっくりうなずいた。
「そんなら、今度はこっちが脅迫する番だ」私は言った。「今夜、俺を乗せてホルミントまでタビーを迎えに行けばよし、厭《いや》だと言うなら、あそこにいる情報将校に全部ぶちまけるぞ。事故を偽装して飛行機を乗っ取ったこと。俺がタビーを殺しかけたこと。君が機体番号をすり替えて、前のテューダーの残骸《ざんがい》をホルミントの森にばら撒《ま》いたこと。証拠|湮滅《いんめつ》のために、君がメンベリーの格納庫に火を掛けたこと。洗いざらい話してやるからな」
「やつがお前の話を信じると思うのか」彼はふんと鼻を鳴らした。
「タビーを救出しろよ、セイトン」私は声を殺してつめ寄った。「さもないと、君の将来もめちゃくちゃだぞ。それでもいいのか?」
セイトンは微《かす》かに目を細めた。少なくとも私が本気であることだけは通じた証拠だった。
「お前がベルリンにたどり着いた時のことを考えて、俺が手を打っておかなかったと思ったら大間違いだ」彼は低く押し出すように言い、ダイアナと情報将校をふり返ると、わざとらしく声を張り上げた。「なるほどな。それじゃあパラシュート降下が恐《こわ》いわけだ。君は想像力豊かな、大した飛行機乗りだよ」セイトンは情報将校に向かって一つ小さくうなずいた。「役に立てなくて済まないが、どうにも話が通じない。だいぶ神経が参ってるらしいな。墜落した時、頭を打つか何かして、どこかおかしくなっているかもしれない。しきりと飛行機を盗んでカーターと取っ組み合いになったという話をするんだがね、この男は一九四四年にドイツから脱出したから、その時のことと事故が頭ん中でごっちゃになっているんじゃないかと思うんだ」
セイトンと情報将校は声をひそめて話し合った。将校の口から「精神分析」という言葉が出た。ダイアナは希望を失ったうつろな目で私のほうを見ていた。肩を落とした姿が哀れだった。セイトンらは二人して私のそばにやって来た。彼は言った。「墜落の情況がわかれば……」
「墜落なんかしていないことは、自分がよく知っているだろう」私は堪《たま》りかねて叫んだ。激しい憎悪にすべてを忘れて、私はわれ知らず椅子を蹴《け》って立ち上がっていた。「君の考えていることはわかっている。タビーが死んでくれたほうがいいんだ。エンジン開発はタビーの手柄だ。だから、君にとってはタビーは邪魔者なんだ」
彼らは檻《おり》の中の獣を見る目で私を見つめた。
「私が連れて行こう」情報将校が小さく言い、セイトンはうなずいた。
私はダイアナに向き直った。こうなったら彼女を納得させるしかない。彼女はセイトンという男を知っているし、これまでの事情にも通じている。何よりも、彼女はタビーの生存を祈っている唯一の人物である。「ダイアナ。俺の言うことを聞いてくれ」私はすがる思いで言った。「これは本当なんだ。タビーは生きている。俺は昨日の午後、会ったんだから」私は眩暈《めまい》がしてこめかみを押さえた。「いや、昨日じゃない。一昨日《おととい》だ。怪我はひどいがね、ちゃんと話もした。俺は必ず迎えに来ると約束したんだ。タビーのことを思うなら、ダイアナ、俺の力になってくれ。ここにいる連中にそう言って……」
「いい加減にしろ」セイトンが私の肩をつかんで脇へ引き向けた。顔を寄せて、彼は言った。「止《よ》さないか。何度言ったらわかるんだ。タビーは死んだ。自分の都合ででたらめを言うな。ダイアナの気持ちを考えてみろ。お前がひょっこり現われる前は、そりゃあまだ望みもあった。ソ連軍が墜落機の中で発見した死体は、誰《だれ》だってお前だと思うのが当たり前だろう。機長はお前だからな。そこへ、お前が舞い戻った。これでタビーが死んだことがはっきりしたんだ。今さら妙なことを言って人に当てもない希望を抱かせるというのは……」
私は彼の手を払いのけた。「君はそれでも人間か? もとはと言えば、これは全部君が起こしたことじゃないか。タビーが今ソ連占領地区で怪我に苦しんでいるのは君のせいだぞ」私はダイアナに向き直った。「飛行機は墜落してなんかいないんだ。俺がメンベリーへ飛んで帰ったんだよ。セイトンに無理やりやらされたんだ。タビーは俺を止めようとした。それでつかみ合いになって……」
誰一人、まともに耳を傾けてはいなかった。
「連れてってくれ」セイトンが言った。「これじゃあ、カーターの奥さんが気の毒だ」
私は両脇からつかまれて、ドアのほうへ引っ立てられた。首をよじってふり返ると、セイトンがげっそりした土気色の顔で立ちつくし、ダイアナはそんな彼をじっと見つめていた。唇がふるえていた。二人の背後に黙りこくった飛行機乗りたちの顔が並んでいたのを憶《おぼ》えている。ドアが閉まり、私は朝まだきのガトウ空港の喧騒《けんそう》の中に投げ出された。頭上の爆音は引きも切らず、トラックやドイツ人労働者たちは、整然と秩序に従って荷物を捌《さば》いていた。
通りがかりに、私はFASOのエプロンを一瞥《いちべつ》した。雪は踏み荒らされて汚れていた。ドイツ人たちがダコタの胴体から石炭の叺《かます》を降ろしていた。その向こうでは、今しも降り立ったばかりのダコタが空軍伍長の誘導でエプロンへ回り込もうとしているところだった。いちはやく、トラックがそのほうへ向かった。空軍憲兵隊の軍曹が救急車のドアを開けて待っていた。私は空輸貨物のように押し込まれ、情報将校も続いて乗り込んだ。軍曹は敬礼をしてドアを閉じた。車内は暗く、飛行機の爆音に包まれていた。腰を降ろした担架に伝わる振動で車が動き出すのがわかった。ピカデリー・サーカスのパイプラインの前を、半ば解けた雪を踏んで車は加速しながらすり抜けた。
「どこへ連れて行くんだ?」私は尋ねた。
「診療所だ」情報将校は言った。「マルカム・クラブからジェントリー少佐に電話しておいたよ。軍医少佐だ。向こうで待っている」
私は弱小な個人が、なす術《すべ》もなく組織の力に圧殺される惨めさを思い知らされた。軍医少佐の手に渡されたら、どのような扱いを受けるかわかったものではない。何事によらず私の要求は治療の妨げとして斥《しりぞ》けられるであろう。私は薬漬けにされ、果ては廃人にされないともかぎらない。
「司令官に会わせてくれないか」私は言った。
情報将校は聞かぬふりをした。私は要求を繰り返した。
「悪いことは言わないから、フレイザー、とにかく、まず軍医に会ったほうがいい」彼は冷やかに言った。
私は思案した。情報将校の声には明らかに警告の響きがあった。しかし、私は自分のことよりタビーの身の上が心配だった。
「どうしても司令官に会わせてもらいたいんだ」
「それは断る。軍医少佐に会わせるから、要求があるなら少佐に言え」車内の暗がりで、彼がじっと私を観察しているのがわかった。「私はね、君自身のためを思って言っているんだ」
「俺のため?」情報将校は問答無用とばかり顔をそむけた。前びさしのある帽子の下で、シルエットになった横顔は取りつく島もなかった。私は諦めずに言った。「俺はどうなってもいい。ただ、カーターを何とかしてやりたいんだ」
「今となってはもう、時間の無駄ではないかね」
私はかっとして言った。「民間航空のパイロットは、空軍の指揮下にあってその規律に準じることになっている。そうだな?」
将校はゆっくりうなずいた。
「よし、わかった。じゃあ、基地司令官に会わせてくれ。これは正規の要求だ」
将校は私に向き直った。「そんなに言うなら会わせてやるが、どうなっても知らないぞ。それに、司令官に会う元気があるなら、憲兵隊のピアス少佐にも会えるはずだな」彼は運転席との境の仕切り板を叩《たた》いた。小さな窓が開いた。「先にターミナルビルへ行ってくれ」
「何でそこへ憲兵隊が出て来るんだ」私は聞き咎《とが》めた。
「ピアスが君に会いたがっている。何か、身元調査の件で訊きたいことがあるそうだ」
身元調査!「どういうことだ?」この時ばかりはタビーのことを考えてはいられなかった。身元調査……。セイトンは私の過去をばらしたのだろうか? 私がベルリンにたどり着いた時のことを考えて手を打ったというのは、これだったのか。セイトンは私が信用を失うように仕向けたのだろうか。「その憲兵隊の少佐は、どういう立場で身元調査をしているんだ?」
「それについては、私は何も知らない」情報将校はあくまでも冷やかだった。
重ねて尋ねる閑《ひま》もなく、車はターミナルビルに着いた。雲が低く垂れ込めた早朝の鈍い光の中で、そのコンクリート造りの建物はいかにも殺風景だった。高い管制塔の窓も今は生気を失って暗然と滑走路を見降ろしている。テューダーが一機、誘導路を移動して行った。この空港が、世界で最も飛行機の発着が頻繁な航空交通の要衝《ようしょう》であると言われても実感が湧《わ》かない。ベルリンの上空を覆う陰鬱《いんうつ》な雲の中からダコタが一機、目に見えぬ糸に牽《ひ》かれた玩具《おもちゃ》の飛行機のように降下して来た。まだ覚めやらぬあたりの空気を揺るがせて発進するテューダーを見送って、私たちはビルに入った。
情報将校は私を二階へ案内した。急ごしらえの板壁で仕切られたオフィスのドアに小さな名札が掲げられていた。紺地に白抜きで〈シムズ大尉。情報将校。広報官〉とある。ドアを開けて彼は言った。「ここで待っていてくれないか。司令官が来ているかどうか、ちょっと覗《のぞ》いて来る。たいてい今頃だがね、食事の前に一巡りする習慣なんだ」将校は軍医伍長をふり返った。「伍長、君はここでフレイザーさんと待っているように」
彼が横目遣いに様子を窺《うかが》うのを黙殺して、私はオフィスに入った。私が逃げ出すとでも思っているのだろうか。伍長がドアを閉じた。足音が広い廊下を遠ざかった。
ゆったりとしたオフィスで、FASOのエプロンと格納庫に臨む窓が二つ並んでいた。その寂然とした一月の朝、エプロンは薄闇《うすやみ》の底に沈んで、遠目にはどのあたりか場所も定かでなかった。アーク灯は消えていたが、滑走路や誘導路の照明はなお赤と黄の錯綜《さくそう》する電飾模様を描き出していた。ダコタが降り立って、新たにテューダーが誘導路に鼻面を突き出した。パイロットが管制塔を呼び出して離陸の許可を求める声が聞こえるようだった。あのテューダーはセイトンだろうか。格納庫の向こうの積み降ろしエプロンから、ルール産の石炭を山積みしたトラックが重たげに車体を揺すりながら、続々とベルリンへ向けて出発して行った。
「フレイザー!」
声にふり返ると、情報将校がドアを開けて空軍中佐の制服を着た短躯《たんく》肥満の男を請じ入れるところだった。「こちらが司令官だ」
情報将校はドアを閉じて明りをつけた。
「掛けたまえ、フレイザー」司令官は椅子のほうへ顎《あご》をしゃくった。「無事で何よりだった。カーターは気の毒なことをしたな」彼は感情のかけらもない声で言い、制帽をスティール・キャビネットの上に置いて将校のデスクに坐《すわ》った。裸電球に照らされたビーバーボードの壁一面に、色とりどりの地図や図表が貼《は》り出されていた。ソ連軍の戦車や飛行機。ベルリンの測量図。回廊航空路を白いテープで示したドイツの地図。空軍基地の番号をふった旗が点々と立つ、イギリス占領地区の拡大図。ソ連軍の部隊番号を色分けして記入した東ドイツの地図。いずれも、何らかの形でソ連軍にかかわる、機密ないしはそれに準じる情報と思われた。
「何か私に話があるそうだな」
言葉|尻《じり》を撥《は》ね上げた司令官の言葉に、私はきっかけを与えられたことを知りながら、その場の成りゆきに気おくれがして切り出しかねていた。
「それで?」
私は木の椅子の肘掛《ひじかけ》を握りしめた。部屋がぐるぐる回りはじめた。暖房のせいか息苦しいほど暑く、裸電球がやけに眩《まぶ》しかった。
「飛行機を貸して下さい。カーターは生きています。今夜のうちに迎えに行かなくてはなりません。ホルミントに降ります。カーターは飛行場から三マイルばかり離れた農家に世話になっています」口を開くと、私の意志を離れて言葉は順を追わずに飛び出した。「二時間あれば行かれます。飛行場は無人ですが、滑走路の状態は着陸に支障ありません」
「どうしてわかる?」
司令官の突っかかるような言い方に私は罠《わな》を感じたが、目の前が霞《かす》んで中佐の表情は読めなかった。「どうして、と言われても……」私は血のこびりついた額をさすった。「とにかく、私にはわかっているんです。大丈夫です」私は努めて姿勢を正した。「今夜、飛行機をお借りできませんか?」
背後でドアが開き、一人の少佐が書類を手にしてデスクに寄った。怪訝《けげん》な顔で私を見やってから、少佐は言った。「軍医に連絡を取りました。ピアスは私の部屋におりますが、こちらへ寄越しますか?」
司令官はちらりと私のほうをうかがってうなずいた。「そうしてくれ。回廊出口の高射砲演習について、その後何か情報は入ったか?」
「いえ、新しい情報は何もありません。航空安全センターからソ連側に抗議しましたが、今のところ、到達高度二〇〇〇〇フィート前後ですから、こちらに直接の影響はありません」
「影響があったら大変だ。ソ連軍は示威運動のつもりでやっているだけだろう。空輸編隊機を撃墜したらどういうことになるか、その点は心得ているはずだからな」司令官は大きく溜息《ためいき》をついた。「もういい、フレディ。また何かあったら知らせてくれ」
少佐が立ち去ると、司令官は滑走路に目をやった。輸送機がまた一機、爆音を轟《とどろ》かせて飛び発った。乗員四名を乗せて回廊を基地へ戻る飛行機が小さな点となって低い雲に消えるまで見送ってから、司令官はゆっくり私に向き直った。
「何の話だったかな? ああ、そうだ。君はカーターが生きていると言うがね……」彼は副官が置いて行ったファイルから一葉の紙片を抜き取った。「これを読みたまえ、フレイザー。君の搭乗機に関するソ連軍の報告だ」
私は書類を受け取ったが、文字がぼやけてただの黒い線にしか見えなかった。もともと、そんなものは読む気もしない。「これについては知っています。まったく事実無根です。私は墜落していません。黒焦げの死体が発見されるはずがないんです。ソ連軍はあの飛行機については何も知りません。報告はでっち上げです。残骸は何マイル四方にもわたってばらまかれています」
「それはどういうことだ?」司令官は鋭く問い返した。
私はこめかみをさすった。いったいどう話したら正しい事実を伝えることができるだろうか。私にとっては、それはいかにも単純明快だが、言葉に置き換えると、たちまち荒唐無稽《こうとうむけい》に聞こえるであろうことは想像に難くなかった。
「こっちから一つずつ質問する形にしたらいいと思いますが」情報将校が言った。その声は不思議に遠くで聞こえたが、なおかつ、ヤマアラシの鳴き声に似て棘々《とげとげ》しく私の耳を刺激した。「本人も非常に疲れているようですから」
「いいだろう、シムズ。君がやってくれ」
私は自分なりに筋道を立てて話したかったが、その希望を述べる隙《ひま》もなく、情報将校は勢いづいて質問を繰り出した。「君の話だと、カーターは生きていて、ホルミント近くの農家で手当てを受けている、ということだね。ホルミントというと、ウェストロップとフィールドがパラシュート降下した地点から三十マイルの距離がある。飛行時間にして十分前後だ。その十分間のずれをどう説明するね? カーターは、ほかの二人と一緒に飛び降りなかったのか?」
「ああ」
「コックピットにいたのか?」
「そうなんだ。私がパラシュートは苦手なのを知っていて……」私は何もかもありのままに話すことにした。すべてを包み隠さず打ち明ければ、彼らとしても信じないわけには行くまい。「前に一度メンベリーで、セイトンのテューダーの脚が降りなくて、パラシュートで脱出する破目になったことがあってね。それでカーターは私が苦手なのを知っていて、介添えをする気でわざわざ操縦席へ引き返して来たんだよ。そこで私は、故障と見せかけたエンジンをもとどおりにして、メンベリーへ向かった。それを知って、カーターは腹を立てて……」
「ガトウへ戻ろうとしたのではないかね?」
「いや、メンベリーだ」私は将校の目を見つめた。何とかして、メンベリーが勘違いではないことを理解させなくてはならない。「テューダーをメンベリーへ運ぶ手筈《てはず》になっていたんだ。ハーコートに雇われることにしたのもそのためだ。はじめからの計画でね。空輸編隊から飛行機をくすねて……」司令官のきょとんとした顔を見ると、後が続かなかった。だから、はじめから私の思うとおりに話をさせてくれればよかったのだ。
「どうも君の話は飛躍しているように思うのだがね、フレイザー」司令官の口ぶりは穏やかだったが、内心の苛立《いらだ》ちは隠しきれなかった。「カーターと二人きりになったところへ帰って、そこから話を続けてくれないか。ウェストロップとフィールドが飛び降りた。それからどうした?」
「お願いです……」私は拝むように言った。「とにかく、私の言うことを聞いて下さい。メンベリーに着いてから……」
「君は訊かれたことだけを答えるように。いいな、フレイザー?」高圧的に威嚇する態度は、セイトンに一脈通じるところがあった。「次に誰が飛び降りた?」
私は無性に腹が立った。殴りつけてでもこっちの言うことを呑み込ませてやりたかったが、悲しいかな、それだけの元気はなかった。質問に答えたほうがはるかに楽である。
「カーターです」私は投げやりに答えた。
「しかし、カーターはコックピットに引き返したのではなかったかね?」
「私が突き落したんです」
「なるほど。君はカーターを突き落としたと」まるで信じていない口ぶりだった。「それからどうした?」
「メンベリーへ飛びました。月が出ていましたから、迷うことはありませんでした。メンベリーに着陸して……」
「ちょっと待った。フレイザー。私はカーターが飛び降りた直後のことを聞きたいのだよ。質問に正直に答えてくれないか。カーターが飛び降りてから、どうした? 飛行機が頭から地面に激突したことはわかっている。私が知りたいのは……」
「だから、言ってるでしょう。飛行機は地面に激突しやしません。私はそのままメンベリーへ飛んで帰ったんです」
司令官は立って傍へ寄ると、そっと私の肩に手を置いた。「頼むから、しっかりしてくれ。私らが君の口から詳しい事実を聞きたいと思うのは当然だろう。ソ連軍の報告に疑うべき点は何もない。尾翼の断片も届けられているのだからね。あれは間違いなく君の飛行機だ。機体番号から言ってもテューダー以外ではあり得ない。墜落の原因は何かね?」
「墜落していないんです」私はほとほとうんざりした。「さっきから言ってるでしょう。飛行機はメンベリーへ……」
「墜落してもいない飛行機の破片を、ソ連軍はどうやってここへ届けて来たんだね?」
「ですから、あれは私らがばら撒《ま》いたんです」私はわっと叫びたいのを堪《こら》えて言った。「飛行機に積んで、現場へ運んだんです。私が残骸を投げ落とす間、セイトンはホルミントの上空を旋回しました。その後、あそこの飛行場に私を降ろして、セイトンはヴンストーフの空輸編隊に割り込んだんです。私はまる一昼夜、カーターを捜して付近を歩きました。雪になったところでヘルメットを見つけました。まったくの偶然で……」
「どうも君の話はさっぱりわからん」司令官は私を遮った。「飛行機の中だけに話を限ってくれないか」
私が答えるより先にドアが開いた。
「ああ、ピアス。こっちへ入ってくれ。君もだ、ジェントリー」司令官は立って二人を迎え、何やら小声で話しかけた。二人はそれとなく私のほうを盗み見た。シムズ大尉は黒い目で無遠慮に私を見つめながら、すんなりと形の良い指で小刻みにデスクの端を叩いていた。
私は目に見えぬカーテンで彼らから隔《へだ》てられている恐怖に駆られ、腰を浮かせて声を張り上げた。「まだわからないんですか? 私はね、はじめから飛行機をくすねる目的でハーコートに雇われたんだ。私らの飛行機はその前に事故で大破したんですよ。それに代わる飛行機を手に入れて、エンジンのテストをやる必要があったんです。セイトンは二十五日から空輸に就航することに決まっていました。飛行機がなくてはチャーターの仕事は受けられない。手に入れるとすれば、編隊から一機くすねるしかない。テューダーでなきゃあ駄目なんだから。それで私が……」
彼らの目があからさまに私を狂人と捉《とら》えていることに気づいて、私は声を失った。
司令官と話していた男が静かに言った。「何かでひどいショックを受けているようですね。錯乱状態です。過去の脱走体験と混同しているんでしょう。直ちに病室を手配します」
司令官はもう一度私の顔を覗き込んでうなずいた。「そうしてくれ。それにしても、私は飛行機がどうなったのか、正確なところを知りたいと思うがね」
「どうもしやしませんよ」私は叫んだ。「故障も何もありません。飛行機は私がメンベリーへ運びました。ソ連軍が発見した残骸は……」
「わかった、わかった」司令官は私を遮った。「それはもう聞いた。ようし、ジェントリー。フレイザーは君に預ける。可及的速やかに、筋の通った話が聞けるようにしてくれ」
軍医少佐はうなずいて、私のほうへやって来ようとした。それを引き止めて、第二の男が言った。「その前に、ちょっと私に話をさせて下さいませんか?」
司令官は肩をすくめて小さく笑った。「いいだろう、ピアス。君は、錯乱状態のほうがかえって本当のことを聞き出せると計算しているな。収穫があればいいがね」彼はドアに手をかけてふり返った。「ああ、シムズ。食事の後で、ちょっと話がある」
情報将校は立ち上がって答えた。「かしこまりました」
司令官はドアを閉じて立ち去った。私が椅子にへたり込むと、憲兵隊の少佐がデスク越しに乗り出した。微かに痘痕《とうこん》のある、いかつい顔が逆光の中に黒ずんで浮かんでいるように見えた。
「空軍憲兵隊のピアスという者だが、君がフレイザーだな?」
私はぼんやりうなずいた。司令官が立ち去って飛行機を借り受ける望みは絶たれた。私は精も根もつき果てていた。せめて私の言うことを終りまで聞いてくれたらよかったものを、と思ってみてもはじまらない。どのみち信じてはもらえまい。
「洗礼名は、ニール・レイデンに間違いないな?」
私は重ねてうなずいた。私が何者かわかっていながらくどくどしく名前を確かめるとは何と愚かなことだろう。
「ある筋からの依頼で、いくつか君に質問するから、ありのままを答えてもらいたい」顔に似ず穏やかな、情味のある声だった。「去年の、十一月十八日の夜を憶えているかな?」
私は記憶を探った。もう何年も昔のことのような気がした。その夜、私ははじめてメンベリーに迷い込んだのだ。
「ああ」私は言った。「あれがセイトンと仕事をするようになった最初だから」
「メンベリーで?」
「ああ」
「メンベリーへは……車で行ったのかね?」
「うん、車だ。汽車はないから」
「当夜、ベイドン・ヒルの麓《ふもと》で車が発見されている。あれは君の車だな。そうだな?」
この男は何を探っているのだろうか。私は思わず額の傷に手をやった。「事故を起こしてね」
少佐はうなずいた。「君にはもう一つ別の名前がある。キャラハンというのは、君のことだな?」
私は愕然《がくぜん》とした。そうだったのか。セイトンが言ったのはこのことだ。私はまっすぐに少佐の目を見返した。手が回ったとあれば、うろたえたところではじまらない。こんなことなら、セイトンにハーコートの仕事を受けろと言われた時、きっぱり断わればよかったのだ。いや、もうそんなことはどうでもいい。あれからいろいろなことがあった。過ぎたことを悔んだところで何の意味もない。私はタビーに与えた仕打に対して、皮肉な形で償いを求められている気がした。
「ああ」私は声にならぬ声で答えた。「キャラハンは私だ」室内を閉ざした沈黙の中で私は尋ねた。「私はどうなるんだ?」
少佐は肩をすくめた。「それは私の与《あずか》り知らぬことだ。イギリス本国へ報告すれば、私の責任はそれまでだよ。君はいずれ送り返されることになるだろう。その上で、君をどう扱うかは当局の判断だ。今のところ、逮捕令状やそれに類するものは何も出ていない」少佐はわざとらしく咳払《せきばら》いした。「いや、ソ連地区から脱出して来たばかりの君とこんな形で会うのは、私としても心苦しいのだがね。それでは、この辺で君をジェントリー少佐に預けよう。傷の手当てをしてもらって、ゆっくり休養するといい。私は……少なくとも当分は君を煩わすこともないだろう。気を楽に持つんだな」
私はことを分けた少佐の口ぶりに感じ入った。この少佐にタビーの現状を訴えたら信じてもらえるのではなかろうか。私は眩暈《めまい》をこらえて立ち上がり、行きかけるピアスをすがる思いで呼び止めた。「ちょっと待ってくれないか。こっちからも話がある」
少佐は戸口で足を止め、眉《まゆ》を寄せてふり返った。
「セイトンだな。そうだろう? 私が何者か、セイトンが警察へ密告したんだな。あの男が、どうしてそんなことをしたと思う? 私が事実を話すことを恐れたからだ。私は自分から飛行機を盗みゃあしない。セイトンに無理にやらされたんだ。セイトンに威《おど》されて……」私は目を閉じて部屋の波動にあらがった。窓の外の誘導路を走行する飛行機の爆音が耳鳴りに重なった。滝の音に似て、その轟然《ごうぜん》たる響きはいつ果てるとも知れなかった。「わかるだろう?」私は喘《あえ》いで言った。「セイトンは私を脅迫して……」
膝《ひざ》の力が抜けて目の前が真っ暗になった。倒れながら、誰かが叫ぶ声を遠くに聞いた。体を支えられるのがわかった。自分の脚が、まるで汚水となって流しの孔に吸い込まれて行くようだった。意識が散りぢりに消し飛んで、私は気を失った。
鎮静剤を打たれたのだと思う。気がつくと、私はベッドに寝かされて、看護婦が上から覗き込んでいた。
「気分はどうですか?」優しい声に心が洗われるようだった。
「ああ、だいぶよくなった」私は目を閉じて記憶の断片をつなぎ合わせた。
「はい、口を開けて。熱を測りましょうね」
私は大人しく口を開け、看護婦は舌下に体温計を差し込んだ。「ここへ運ばれて来た時は熱が高くて、しゃべりとおしでしたよ」
「譫言《うわごと》を言っていたのか。何をしゃべった?」
「いけません、口を動かしちゃあ。飛行機のことと、ソ連地区にいるお友だちのことばっかり言ってらしたわ。さっきまでピアス少佐がいらしたんですけど、軍医さんが診て大丈夫なようなら、明日、あなたを飛行機でイギリスへ送りますって」
「明日、飛行機で?」私は毛布を蹴《け》って起き上がりかけた。イギリスへ送り帰されたらタビーはそれまでだ。
「駄目ですよ、静かにしてなきゃあ。おとなしくしてないと、帰してあげませんよ」看護婦は私の肩に手をやって、そっとベッドに押し戻した。
私は室内を見回した。看護婦のほかは誰もいない。爆音が黒いカーテンの裏の窓を揺すった。「今、何時かな?」私は体温計をくわえたまま尋ねた。
「口をきいちゃいけませんったら。もうすぐ七時ですよ。熱が下がっていたら、食事にしますからね」彼女は体温計を抜き取ると、分厚い眼鏡の奥で目を細めた。「まあ、よかった。もう平熱だわ」馴《な》れた手つきで水銀をふり下げて、彼女は言った。「食事にしましょうね。おなか、空《す》いてます?」
私ははじめて胃の腑《ふ》に感じていた得体の知れない物足りなさが空腹であることに気づいた。最後にいつ食事をしたかすら思い出せなかった。「ぺこぺこだよ」私は言った。
彼女は看護婦特有の優しげな、それでいて冷やかな笑顔を浮かべた。
「ああ、ちょっと」私は行きかける彼女を呼び止めた。「ここは、ガトウだね?」
看護婦はうなずいた。
「一つ、頼まれてくれないか。カーターの奥さんがマルカム・クラブにいるから、大至急、会いたいと伝えてほしいんだ。今すぐ」
「カーターさん……。ああ、そのお友だちの奥さんですね。わかりました」
看護婦はドアを閉じて立ち去った。私は眩《まぶ》しい電灯を見上げて、離着陸を交互に繰り返す飛行機の音を聞きながら、ダイアナが会いに来たら何をどう話したものかと思案をめぐらせた。これ以上、失敗は許されない。今度こそ彼女の信頼を勝ち得なくてはならない。ダイアナは頼みの綱である。明日の朝、飛行機に乗せられたが最後、私はタビーのために何一つ行動を起こせなくなってしまう。セイトンのことも考えた。私は腹が立ってならなかった。そもそも、あのセイトンという男と出会ったのが間違いの因《もと》だった。
待つほどもなく、看護婦は盛りだくさんの料理を盆に並べて運んで来た。
「さあ、みんな大盛りですからね。きちんとした食事なんて久し振りでしょう」
「カーターの奥さんはどうした? 来てくれるって?」
「あらあ、まだ連絡してないわ」
「それは困る」私は口をとがらせた。「頼むよ。大急ぎだ」
「はいはい、わかりました。そんなに恐い顔しないで。じゃあ、これから伝えに行きますから、たくさん食べて下さいね」
私は礼を言い、彼女はそそくさと立ち去った。しばらくは物を食うことの有難さで、ほかのことを考える隙《ひま》もなかった。が、満腹して横になると、またぞろタビーのことが気になりだした。
文章にしたらどうだろう……。ふと考えが浮かんで、私は「これだ!」と膝を叩いた。詳細正確な報告を読めば、私が錯乱を来《きた》しているのではないことが知れるはずである。ピアス少佐|宛《あて》にすればいい。少佐は冷静かつ公平な判断ができる男だ。ピアスが私の書いたものを事実に基づく供述と認めれば、軍当局もこれを無視するわけには行くまい。天井を睨《にら》んで供述の段取りを思案しているところへ看護婦が戻って来た。
「よっぽどおなかが空いてらしたのね」きれいに片付いた皿を見て彼女は言った。「顔色もすっかり良くなったわ。あとで軍医さんが回診に見えますからね。大丈夫、明日の朝にはP19で出発できますよ」
「カーターの奥さんはどうした? 伝えてくれたかい?」
「伝えましたよ。ちゃんとマルカム・クラブまで行って。でもね、フレイザーさん。お気の毒ですけど、会いたくありませんって」
「急を要することだって言ってくれたかい?」私は再び不信の壁に囲まれていることを意識した。
「ええ、言いましたよ。あなたの回復にもかかわることだからって」
「そうしたら?」
「あなたに会ったところでどうなるものでもないでしょうって」
私は仰向けに寝そべって目を閉じた。どっと疲労がのしかかって来た。空しい抵抗を続けることに、いったい何の意味があるだろう? そうだ、供述書だ。
「紙と鉛筆を貸してもらえないか?」
看護婦はにっこり笑った。「ガールフレンドにお手紙かしら?」
「ああ、そうだ」私はうなずいた。「すぐ持って来てくれ。大急ぎだ」
彼女は声を立てて笑った。からりとして気持ちのよい笑い声だった。「あなたは何でも大急ぎね」
「できたらペンのほうがいいな」私は言った。インクのほうが正式で重みがあるような気がした。「服はどこかな? 飛行服のポケットに万年筆があるはずだ」
「服は廊下のロッカーよ。私が取って来ます。便箋《びんせん》はありませんけど、タイプ用紙でいいかしら?」
「ああ、それで上等。とにかく、早くしてくれ。書くことは山ほどあるんだ。回診までに終らせたいからね」
軍医少佐は回って来なかった。枕《まくら》にもたれて体を起こし、メンベリーに迷い込んだそもそものはじまりから書き出した。もはや包み隠すことは何もない。ペンは紙の上を飛ぶように走った。途中まで書き進んだところへ、セイトンが飛行服姿でやって来た。
「気分はどうだ?」彼はつかつかとベッドに寄った。
「試験飛行じゃなかったのか?」私は言った。
「ああ、そうとも。ただ、編隊からはずれて試験なんていう悠長なことはやってられないからな。技術屋たちを乗っけて普通に飛んでるんだ」
お互いに何のわだかまりもないふりを装っているのは珍妙でなくもなかった。セイトンはベッドの端に腰を降ろした。「供述書か?」
「ああ」
彼はうなずいた。「そんなこったろうと思った。でもな、ニール……タビーのやつがそいつを裏づける証言でもしないかぎり、供述書なんぞは何の役にも立たないぞ」彼は時計に目をやった。「俺はあと五分で出発だ。だから、ここで言うだけのことは言っておく」考えを整理するふうにちょっと間を置いて、セイトンは言葉をついだ。「君は会社にかなりまとまった金を用立ててくれた。そいつを俺が恩に着ていないとは思うなよ。借りは必ず返す。君に損はさせない」
セイトンの気持ちに嘘はなかったと思う。
「ピアスに会ったか?」
「ああ」
「俺がたれ込んだことも、読めているな?」
私はうなずいた。
「言っておくがな、俺だってあんなことはしたくなかった。それを、せざるを得ないようにしたのはお前だぞ。そうだろうが? 俺は、タビーは死んだものと思っていたんだ。なのに、お前はタビーが見つからなかったら警察へ駆け込むと、はっきりそう言った。そんなことをされてたまるか。だから、俺は先手を打って、誰もお前の言うことには耳を貸さないようにしたんだ」彼は煙草を出して、私にも一本すすめた。火を貸しながら、彼は探る目つきで私の顔を覗き込んだ。「俺は成功まであと一歩というところだ、ニール。俺のエンジンは優秀だから、軍も警察も、お前の供述は歓迎できまい。ラウフ・モトーレンはアメリカ政府を抱き込んだ。お前の供述が受け入れられれば、裁判になって何もかも明るみに出る。そうなったら、アメリカはイギリスに圧力をかけて、エンジンをラウフ・モトーレンへ返せと言って来るだろう。そこまで行かないとしても、あの設計はどこの誰が使ってもいいことになるな。こう言やあ、俺の狙《ねら》いはわかるんじゃないか?」
「俺に、口を閉じろということか?」
「そのとおり。ソ連軍の報告は事実に相違ないと認めりゃあいいんだ」
抗議しかける私を、セイトンは手を上げて制した。
「そっちが辛いのはわかっているよ。お前はキャラハンの一件で喰《くら》い込むな。でもな、空輸編隊のパイロットだってことになりゃあ、一年か、あるいはもっと短くて済むだろう。それに、お前は立派な経歴の持ち主だ。かすり傷一つ負わずに舞い戻ったことについては、タビーのほうがパラシュートを恐がって脱出しなかったと言やあいい」
「一つ大事なことを忘れてはいないか?」私は言った。
「何だ、それは?」
「現にタビーは生きてるんだ」
「忘れてなんぞいるものか」彼はぐいと私に顔を寄せた。「俺はな、お前の供述も、タビーの証言も、痛くも痒《かゆ》くもないぞ。そっちが組んでかかって来たところで屁《へ》でもねえから、そう思え」
「どういうことだ?」
「お前が俺の言うとおりにすりゃあ、タビーが生きて帰ったって慌てることはないんだ。重傷を負った男のたわごとなんぞ、誰が真に受けるものか。それから、金の件だけどな。一万ポンドでどうだ? 会社の役員の地位はそのままだ。そんな金がどこにあるかと言うんなら、心配無用だ。二、三日うちに、必要な金は入る当てがある」
「どうあっても、タビーはあの農家に押しつけっ放しにしておく気か?」
セイトンは肩をすくめた。「俺にはどうしようもないだろう。考えてもみろ。お前がソ連軍の報告を事実と認めたら、こっちはタビーが死んだと納得するしかないんだ」
「俺がこの供述を提出したら?」
彼は時計を見て立ち上がり、じっと私を見降ろした。「俺はもう行くぞ。そんな供述書は何の役にも立たん。知れたことだ。タビーの証言がなきゃあ、そんなものは紙屑《かみくず》だ。そいつを裏づける証拠は、俺が残らず握り潰《つぶ》す」
私は呆然《ぼうぜん》として彼を見上げた。いかにもさりげない口ぶりに威嚇の響きは感じられなかった。
「それはどういう意味だ?」私は尋ねた。
「自分でよく考えることだな。俺はやっとここまで来たんだ。ここで邪魔されてたまるものか」
「タビーを病院へ運んで、きちんと手当てを受けさせるつもりはないんだな?」
彼はうなずいた。「お前が俺の言うことを聞こうと、逆らって供述を提出しようと、どの道、タビーは今のままだ」
「よくもそんな不人情なことが言えるな。タビーは君が友だちと呼べるたった一人の男だったんじゃないのか?」
これはよほど神経に障《さわ》ったと見えて、セイトンは額に青筋を立てた。「俺が好んであいつをソ連地区に放ったらかしにしていると思うのか? 俺にどうしろっていうんだ? 俺にとってはな、ここは人一人の命よりも大事なところなんだ。あのエンジンで俺が空を飛ぶことを邪魔するやつはただでは置かないと、前にもはっきり言ったろう。それは今も変らない。俺に関するかぎり、タビーはもう死んだ人間だ」彼はもう一度時計を見た。「なあ、よく考えろよ、ニール」親しげな声に戻って彼は言った。「どうやったって、タビーを助け出すのはできない相談だ。供述書なんぞはうっちゃっちまえ。……なあ、知り合って日が浅いにしちゃあ、よくここまで一緒にやって来たよな、ニール。この先も、この調子で行きたいじゃないか。会社が二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなった時、君はあれだけのことをしてくれたんだ。運が向いて来たところで降りる手はないぜ。なあ、これからも一緒にやろう」
セイトンはにやりと笑ってドアを開けた。彼の頑丈な背中が廊下の向こうに消えて、私はまた独りぼっちになった。
今しがたの会話を頭の中で繰り返しながら、私はセイトンの倫理観の欠如に背筋が寒くなる思いだった。彼は知り合ってからわずかの間に、三度私にのっぴきならぬ選択を迫った。しかし、今度ばかりは彼の言いなりになってはいられない。仮にもセイトンの言うことを聞く気はなかった。何としてもタビーを救出しなくてはならない。私はそれしか頭になかった。
いつ病室から脱出する決心をしたか記憶にない。気がついた時には、ほかに道はないと思いつめていた。ここにいれば、明日の朝にはP19に乗せられてしまう。タビー救出の望みは断たれてしまうのだ。ここを抜け出して組織の手を逃れれば、まだ可能性はある。
腹が決まったところで、私は供述書の続きに取りかかった。十時十五分に書き上げて、私はベッドに寝そべり、額に手をかざして眩しい明りを避けながらひと息ついた。十一時少し前に看護婦が様子を見に来た。
「まだ明りがついてるのね」彼女は枕を叩いて形を直した。「何だか草臥《くたび》れた顔をして。まあ! ガールフレンドに、ずいぶん長い手紙ですことね」
「女に出す手紙じゃないよ」私はいくらか不機嫌に言った。「軍医少佐はどうした?」
「今夜はもう回診はありません。でも、心配することないですよ。明日の朝一番に診て下さるから」
明日の朝では遅すぎる。今夜のうちに、誰かそれなりの権限を持った人間に読んでもらわなくてはならない。「君は、ピアス少佐を知っているね?」
「ええ、もちろん」
「一つ、頼まれてくれるかい? これを今夜のうちに少佐に渡してほしいんだ」私は番号をふったタイプ用紙を折りたたんで彼女に渡した。「直接、本人に届けてもらいたいんだがね」
「大急ぎでしょ?」彼女は子供をあやす母親のように笑った。「いいわ。その代わり、おとなしく寝るんですよ」
「今夜中に必ずピアス少佐に渡してくれれば、おとなしくするよ。約束してくれるかい? それを読めば、少佐もこっちが深刻だっていうのがわかるはずなんだ」
看護婦は私に調子を合わせるふうに、大|真面目《まじめ》にうなずいた。「じゃあ、もう寝ましょうね。おやすみなさい」
彼女は明りを消して立ち去った。私は跳び起きて後を追いたい衝動を抑えて、闇《やみ》の中で息を殺していた。急《せ》いてはことを仕損ずる。早まった行動に出れば、看護婦は私を狂人扱いするだろう。軍医が駆けつけて鎮静剤を打つ。私は眠っている間に飛行機に乗せられてしまうことにもなりかねない。ドアの閉じる非情な音に、私は再び孤独を強く意識した。一刻を争う状態のタビーと、不信の壁に隔てられた世界をわずかに繋《つな》ぐものは、私の狂気を疑う看護婦の手に託された数葉の紙切れでしかない。
三十分ほど待ってから、ベッドを抜け出してドアを細目に開けた。刺すような風が吹き込んだ。廊下のはずれの階段の上に青い常夜灯がともっていた。素足にコンクリートの床は痺《しび》れるほど冷たかった。
ロッカーはすぐにわかった。私は服を抱えて部屋に取って返すと、手探りで着替えを済ませ、冷たく濡れた靴|紐《ひも》を結んで、飛行服のジッパーを引き上げた。ドイツ国防軍の大外套をはおって、包帯の上から戦闘帽をかぶると、すっかり身支度はととのった。
今、この時のことをふり返ってみると、私は数日間の疲労が蓄積して、多少、気が変になっていたと思う。行動の手順を思案した記憶はまるでない。当面する現実の困難を考えることもなかった。ただ、何が何でもガトウ基地の支配地域から逃れなくてはならないと思いつめていた。一時に一つことしか処理できないロボットのように、私は先のことを計算する余裕もなく、目的だけを見据えて自身を駆り立てていた。
青い常夜灯に照らされた廊下に人の気配はなかった。時おり、爆音が耳をかすめるほかは、あたりはしんと静まり返っていた。私は後ろ手にドアを閉じると、迷わず階段に向かった。踊り場ごとに常夜灯のともる階段を二つ降りて、明るい玄関に出た。正面に車を寄せて男が一人、所在なげに立っていた。私は一瞬足を止めかけたが、ここでこそこそしてもはじまらない。ままよとばかり、歩を速めて玄関ホールを突っ切った。ドイツ人運転手は「グート・ナハト」と陰気に挨拶《あいさつ》した。
「グート・ナハト」と答えた時には心臓が口から飛び出すかと思われるほどだった。運転手は私を呼び止めようとはしなかった。私は闇にまぎれて歩き出した。モミの枝が風に鳴る中を、発着する飛行機の音を左手に聞いて進んだ。ほどなく、ゲートから宿舎を経てターミナルに通じている道に出た。追い越して行くフォルクスワーゲン・サルーンのヘッドライトで自分のいる場所を正確に知ることができた。ワーゲンの尾灯が向こうへ消え去るのを待って私は道を横切り、モミの繁みに踏み込んだ。
こうして私は見とがめられることもなく、難なくガトウ空港から抜け出した。森へ入ってからは絶えず爆音を背中に聞いて方角を保った。時おり、木の間ごしに建物の明りや走り過ぎる車のライトが見えたが、それを除けばあたりは真の闇だった。下枝に顔をなぶられ、木の根に足を取られながら、手探りで先を急いだ。鉄条網のフェンスを乗り越えると、前方にクラドーヴァーダムをベルリンに向かうトラックの列が続いていた。
ハンスの着古しの外套が物を言って、最初に手を上げたトラックが止まってくれた。FASOのエプロンから夜を徹してベルリンへ物資を運ぶベッドフォードだった。運転手は私のことを家へ帰る途中のドイツ人労働者と思ったに違いない。私は荷台に這い上がり、小麦粉の袋の間に横になった。悪路の動揺で粉が舞い、鼻の奥をくすぐった。
夏期にはズンダーランドが着水するハーフェル湖を近くに見ながら、トラックはアン・デア・ヘーア街道をベルリンへ向かった。ガトウと同様、ソ連地区から電力を供給されている街道筋は灯火が明るかった。しかし、グリューネヴァルトにさしかかるあたりから周囲は暗くなり、トラックの荷台から見るカイザーダムの広い通りは廃墟《はいきょ》を貫く黒い溝《みぞ》だった。
トラックは速度を落とし、運転手が窓から乗り出して私に声をかけた。「どこへ行くね?」
「どこかベルリンの真ん中で降ろしてくれないか」私はドイツ語で答えた。
「ゲデヒトニスキルヒェじゃあどうだ?」
ゲデヒトニスキルヒェなら知っている。カイザー・ヴィルヘルム記念教会。ベルリンでも最も有名な建物の一つだ。私たち空軍のパイロットにとっては、爆撃の際の目印でもあった。「そいつは有難い」私は言った。
しばらしてトラックは止まった。教会の塔は痛ましいまでに破壊された姿をさらして闇の中に聳《そび》え立っていた。汽車が汽笛を鳴らし、高架橋に動輪の音を響かせて通過した。私は荷台の縁をまたいで降りた。「お蔭《かげ》で助かったよ。気をつけてな」
「あばよ」運転手の声は、小麦粉を満載したトラックの排気音に呑み込まれた。私はトラックが広場の向こうへ曲って消えるまで見送った。爆撃の跡も生々しいままのゲデヒトニスキルヒェの巨塔は今にも頭上から崩れ落ちて来るのではないかと思われた。
私はクルフュアステンダムをゆっくりと歩き出した。かつてはベルリンのピカデリーと謳《うた》われたこの場所も、今は荒廃を極めて、見る影もない。さびれた大通りに面する建物の一階は、あり合わせの材木や石膏《せっこう》ボードで体裁をととのえた店々が櫛比《しっぴ》してはいるものの、傾いた上階の重みに耐えかねて、いつ押しつぶされても不思議はなさそうなありさまである。ソ連のベルリン封鎖によって燃料を空輸に頼らなくてはならない西側占領地区はいずこも同じで、クルフュアステンダムは灯火が絶えていた。にもかかわらず、毀《こぼ》れた壁の奥に暮らす幾千の市民たちの息遣いは、ある種の熱気となって街路に溢《あふ》れ出ているように感じられた。
すでに真夜中を過ぎて冷え込みは厳しかったが、人気の絶えた歩道のカフェに娼婦《しょうふ》らが屯《たむろ》して、通りがかる男どもの袖《そで》を引いていた。闇屋の車や、ドルを売りにやって来た黒人兵を乗せたタクシーも目についた。暗がりには得体の知れない人影がうごめいていた。ヒモがいる。闇の両替屋がいる。両替屋は「西マルク、五東マルク」と囁《ささや》きかけてすれ違う。ボロをまとった浮浪者が廃屋の玄関口にうずくまり、あるいは木靴を鳴らして屑籠《くずかご》の残飯を漁《あさ》っている。これがどさくさの中のベルリン中心街のありさまだった。
周囲の怪しげな気配をぼんやり意識しながら、私は当てもなくクルフュアステンダムをうろついた。自分からのめり込んだことながら、前途多難と思わずにはいられなかった。それまでは、ただただガトウ空輸基地の組織の束縛を逃れ、P19旅客機に乗せられることを避けたいと、それだけしか頭になかった。ところが、この占領下のベルリンで、イギリス民間航空のパイロットの身でありながら、私はドイツ人労働者を装い、懐中にドイツ通貨は持ち合わせず、もとより頼るべき知友もない。自分の愚かしさを思い知って、私ははたと途方に暮れた。
充分な食事を摂《と》って、寒さがさほど応《こた》えないのがせめてもの慰めだった。頭痛は残っていたが、意識は冴《さ》えて、自分の抱えている問題をつぶさに検討することができた。
「両替するよ」
耳打ちして脇をすり抜けた男を呼び止めて、私はドイツ語で話しかけた。
「イギリス・ポンドでも替えてくれるか?」
「エングリッシェ・プンデ?」
「ああ」
「ドイツ・マルクかい? それとも、ドルかい?」
「西ドイツ・マルクがほしいんだ。相場はいくらだ?」
「ポンド、三十二マルクでどうかね」通り過ぎる車のライトに、唾液《だえき》に濡れた金歯が光った。鍔広《つばひろ》の黒い帽子の下で、揉《も》み上げの濃い陽焼《ひや》けした顔が笑っている。長くとがった鼻はギリシャ人か、ポーランド人か。ドイツ人でないことは確かだった。
私は闇の両替屋に十ポンド渡して、マルクを買い、札束を飛行服のポケットに押し込んでひとまずほっとした。さて、これからどうしたものだろう。私は物々交換や尋ね人のビラでいっぱいの掲示板を眺めながら、どうしたらタビーをソ連地区から救出できるか思案した。タビーを救出すれば、私の供述は裏づけられるはずである。
とはいえ、ベルリンに助力を乞《こ》える知人はいなかった。
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第九章
自国が占領した街にいながら、知辺《しるべ》もなく、身の置きどころもないとは情けない話だ。訪ねようにも相手がいない。ダイアナの兄、ハリー・カリヤーは今もベルリンにいるのではないかと思わないわけでもなかったが、同胞の誰《だれ》も信じようとしなかった私の話を、アメリカ人の彼がまともに聞いてくれるだろうか? それに、連合軍の軍政部や飛行機乗りの溜《たま》り場に顔を出せば、また同じことの繰り返しになることは目に見えている。それでは何のためにガトウから抜け出して来たのかわからない。
考えが浮かんだきっかけははっきりしない。おそらく、英語で声をかけて来た娼婦《しょうふ》だったと思う。
「ちょっと、お兄さん」歩道の暗がりから呼びかける媚《こび》を含んだ鼻声は、妖《あや》しく私の耳朶《じだ》をくすぐった。ふり向かずにいると、黒い影がすり寄って来た。
「あんた、アメリカさん?」クルフュアステンダムではアメリカ・ドルが大いに幅を利かせていると見える。
「いや、イギリス人だ」
女は餓《う》えた目で私の着ている国防軍の外套《がいとう》を見つめた。脱走兵と踏んでいるらしかった。脱走兵はみなこの大通りに流れて来る。しかし、女はそんなことにこだわりはしなかった。「ねえ、あたしんとこへ寄ってかない? この二つ先。静かでいいとこよ」
私は答えなかった。女のドイツ訛《なま》りを聞いて、頭の中で何かが動き出していた。
「ねえ、いらっしゃいよ」女はすがるように言った。「今日は宵の口から立ちんぼで、あたし、おなか空《す》いてんの。どっかへ連れてってくれない? 安くて気楽なとこ、知ってるわよ」女は私に腕を絡《から》ませて来た。「ねえ、お願い。何なら、あたしの歌を聞かせてもいいわ。こう見えても、以前はオペラに出てたのよ。でも、今は誰もお金払ってオペラなんか聴きに来ないでしょう。赤ん坊を抱えて、とても食べてけないのよ。そうじゃなきゃあ、誰がこんなことするもんですか。あたし、ヘルガっていうの。気に入ってくれた? 歌を聞かせて、うんと優しくしてあげるわよ。厭《いや》なこと忘れて、一晩楽しみなさいよ。ね、行こう」彼女は私の腕を引いた。「ねえ、いいじゃない」
「ファッセネン通りっていうのは、どのあたりかな?」私は尋ねた。
「このすぐそばよ。どこへ行きたいの? 案内するわよ」喰《くら》いついた客を逃がしてなるものかという口ぶりだった。「ねえ、こんなとこに立ってると風邪引くから。行きましょ」
「じゃあ、案内を頼むよ」
「いいわ」
私は女に手を取られてクルフュアステンダムを歩き出した。女は背が高く、しきりに私に腰を押しつけながら、ヴェルディのアリアの一節を口ずさんだ。
「どこへ行きたいの?」四つ角で足を止めて彼女は尋ねた。「ここを突っ切ってるのがファッセネン通りよ。どっか、当てがあんの?」
「五十二番地へ行きたいんだ。サヴォイ・ホテルの近くらしいんだがね」
「ああ、サヴォイね。なら、こっちよ」
市街電車の線路に沿って陸橋をくぐり、サヴォイ・ホテルを過ぎると、じきに五十二番地だった。彼女は閉じたドアを怪訝《けげん》そうに見やった。「何でこんなとこへ来たの? ここ、クラブじゃないでしょう。何も食べられないじゃない。何でこんなとこへあたしを引っ張って来たのよ?」
「知り合いのところなんだ」私は古風な呼鈴の紐《ひも》を引いてから、彼女に二十マルク握らせた。彼女は狐《きつね》につままれた顔で手にした金を見つめた。
「それで何か暖かいものでも食べるといい。案内してくれてありがとう」
女は目を丸くして私を見上げた。「あたしには用がないっていうの?」
私に下心はないと納得したのか、彼女はそれ以上誘おうとはしなかった。「ダンケシェーン」彼女は私に接吻《せっぷん》すると、踵《きびす》を返して立ち去った。闇《やみ》に遠ざかる彼女のヒールの音を聞きながら、もしかしたら、あの女は本当に子持ちのあぶれたオペラ歌手なのかもしれないと思った。
防犯チェーンの音がして、重い扉の片側が細目に開いた。年配の女のおどおどした声が何の用かと尋ねた。
「フロイライン・ランゲンの知り合いの者ですが」私はドイツ語で答えた。「ちょっと会わせてくれませんか」
「ランゲンなんていう人、ここにはいませんよ」
閉じかけるドアを私は足で押えた。
「じゃあ、フロイライン・マイヤーを呼んで下さい。わざわざイギリスから会いに来たんです」
「イギリスから?」女はちょっと間を置いてから、若い頃《ころ》に学校で習ったとでもいうふうに、英語でゆっくり訊《き》き返した。「イギリスの方ですか?」
「そうです。イギリスの飛行機乗りです。ニール・フレイザーと伝えて下さい」
鎖の長さいっぱいにドアが開いて、隙間《すきま》から小さな目が覗《のぞ》いた。「イギリス人には見えないわね。どこでフロイライン・マイヤーと知り合いましたか?」
「メンベリーです」私は言った。「事故に遭ったものですから、それでこんな形《なり》をしていますが」
「メンベリー? それはそれは。さあ、どうぞ。こんな時間に人が来ることはめったにないもので、つい……」ドアが開いた。私が入るのを待ちかねたように、女はすぐに閂《かんぬき》と鎖をかけた。「なにしろ、近ごろは物騒《ぶっそう》でね。ソ連軍の兵隊は何をするかわからないんですから。いきなりやって来て人をさらったり」懐中電灯の弱々しい光が廊下を照らした。「マイヤーさんも気の毒にね、あんなに器量良しで頭の良い人が。身分証明書のことで何だか厄介があるとかで」私は草臥《くたび》れたような年配の女について階段を上がった。夜の静けさの中で床板がけたたましく軋《きし》んだ。「イギリスがあの人を東側の警察に引き渡したらどうなるかと思うと、あたしまで気が気でなくってね。ロシア人は、あなた……女に悪さをするっていうでしょう……」
女は懐中電灯を消してドアを叩《たた》いた。マッチを擦る音がして、蝋燭《ろうそく》がともった。
「なあに、アンナ?」エルゼの声に間違いなかった。
「イギリスからお客さんよ。フレイザーさんて方。メンベリーであなたと知り合ったとかで」
「フレイザーさん?」エルゼは訝《いぶか》しげに言い、蝋燭を掲げて私の顔を覗きこんだ。怯《おび》えた目を見開き、ガウンの襟を掻《か》き合わせていた。
「ニール! あなただったの?」彼女は弾《はじ》けるように笑い出した。私だとわかって安堵《あんど》したせいだと思う。「まあ、おかしな恰好《かっこう》して、ベルリンで何してるの? どうしてまた国防軍の服なんて着てるの?」
「話せば長いことでね」私は言った。
「また、長い話? あなた、前にもそう言ったわね。憶《おぼ》えてる?」
「入れてくれないか。話したいことがあるんだ」
「ええ、どうぞ。狭いところだけれど……」彼女はちょっと気兼ねするふうに老婦人に目をやった。「ベルリンはどこも住宅難だから」それから、私の包帯を見てエルゼは言った。「あなた、また怪我《けが》してるのね」
「事故に遭ってね」
「さあ、入って」彼女はドアを大きく開けた。「アンナ。コーヒーはまだあったかしら?」
「ヤア。でも、ほんの少ししか残ってないわ」
「封鎖のせいでベルリンもさんざんね」エルゼは肩をすくめた。「いいわ。あるだけ飲みましょう、アンナ。なくなったら、なくなった時のことよ」
「シェーン」老婦人は懐中電灯を階段の手すりに叩きつけて寿命のつきた電池に活《かつ》を入れ、弱々しい光を頼りに立ち去った。エルゼは私を請じ入れてドアを閉じた。寝室と居間を兼ねた広い部屋で、窓ぎわに長|椅子《いす》と写真を飾ったドレッシング・テーブルを置き、隅に大きなダブルベッドが据えてあった。長いこと火の気の絶えた部屋に特有の、底冷えのする寒さが一室を覆っていた。
「傷の具合はどう? 手当てしましょうか?」
「いや、いいんだ。ガトウでちゃんとしてもらったからね」
「ガトウ? あなた、いつガトウへ着いたの?」
「今朝だよ」
「やっぱり! じゃあ、マルカム・クラブの前で見掛けたのは、あなただったのね」
私は炭塵《たんじん》で顔を真っ黒にした検査係の女を思い出した。
「君は労働組合で働いてるのか?」
「そうよ」エルゼは明るく笑った。「本当に、世の中は狭いのね」
「でも、何でまた?」
彼女は肩をすくめた。「私だって働かなくては暮せないわ。それに、セイトンが空輸の仕事に就くかどうか、ガトウにいて見届けたいと思って。私にとっては、あのエンジンがどうなるか、最大の関心事ですもの」
「ああ、もう飛んでるよ。今日、会った」
エルゼはうなずいた。「そう、一昨日はじめて飛んで来たのよ。父のエンジンは音でわかるわ。一つ訊きたいのだけれど、あの人、どうやってこんなに早く立ち直ったの? セイトンの飛行機はこのあいだの事故で使いものにならなくなってしまったでしょう。今乗っているのは別の飛行機ね?」
「そうだよ」
「でも、どうやって手に入れたの? 買い入れるお金なんてないって、あなた、言っていたわね。あなたが飛行機を確保したの?」
「ああ」エルゼの怪訝《けげん》そうな顔を見て、私は言葉を足した。「脅迫《ブラックメイル》っていう英語はわかるかな?」
彼女はうなずいた。
「つまり、セイトンに脅迫されてね、空輸編隊から一機くすねたのさ」
「くすねた? それ、どういうことかしら?」
私はそれまでのあらましをざっとかいつまんで話した。エルゼは蝋燭の炎を見つめて立ちつくした。
「あの人、異常だわ」エルゼは溜息《ためいき》まじりに言い、微《かす》かな笑いに唇の端を歪《ゆが》めて私を見上げた。「あなたも、ちょっとまともではないようね」
「自分でも、どうかしていたと思うよ。タビーが生きているとわかった時の気持ちといったらなかったね」
エルゼは静かにうなずいた。
「それが、弱ったことに、セイトンにはタビーを救出する意志がないんだ。自分のエンジンのことしか頭にない」
彼女は正面からきっと私に向き直った。「セイトンは狂人よ。これははっきり言えるわ。父の仕事を横取りした時、あの人の中で何かが動き出して、今ではもう、止めても止まらないようになっているのではないかしら」
私自身が考えていることをエルゼの口から聞くに等しかった。タビーはどうしているだろうと思うと気が気でなかった。私が供述書を提出したと知ったら、セイトンはどう出るだろうか。墜落のショックで私がありもしないことを妄想しているのだと供述を否認するに違いない。とはいえ、ホルミントの農家に重傷の身を横たえているタビーを黙殺するわけには行くまい。タビーの存在そのものが、セイトンの渇望する将来を脅かすのだ。私の意識の中に、セイトンは異形の怪人となって立ちはだかった。エルゼが言うとおり、今や彼は止めても止まらなくなっている。
「何とかタビーを助け出さなくちゃあ」私は言った。
「それで私に会いに来たの?」
私はうなずいた。エルゼが私の訪問に別の理由を求めているらしいことに気づかないでもなかったが、疲労のせいでうわべを取りつくろう根気がなかった。ガトウの病室で意識を回復して以来、私はひたすらタビーのことだけを思って行動している。タビーが苦難に遭ったのは私の責任だ。私は彼を助けなくてはならない。
「力を貸してほしいんだ」私は言った。
「どうして私が?」エルゼは声を尖《とが》らせた。「奥さんがマルカム・クラブで働いているでしょう。あの人に頼んだらいいじゃないの」
「でも、ダイアナはタビーが死んだと思い込んでいる。それはさっき話したろう」
「あの人が死んだと思うなら、私もそう思ったって不思議はないはずね」
私は進み出て彼女の肩を押さえた。「頼むから、協力してくれ、エルゼ」
「お門《かど》違いではないかしら」彼女は大きな目で探るように私を見上げた。
お門違い? 私はエルゼの肩から手を放して顔をそむけた。なるほど、たった二、三度会っただけの彼女に助けを求めようとするのは無理かもしれない。
「そう言われては、返す言葉もないけれど」私は言った。
ドアを叩いて、最前の老婦人がコーヒーの盆と小さな石油ランプを運んで来た。「コーヒーが沸きましたよ、エルゼさん」
「あなたの分は、アンナ?」エルゼは尋ねた。
老婦人はぎこちなく頭をふった。「私はいいの。ちょうど一杯ずつでおしまいよ」彼女は小さな目で私を見ながら言った。「お客さまがお帰りになるまで起きてて、表の戸を開けましょうか?」
エルゼはドイツ語で何やら早口に答えた。
老婦人は笑い、珍しい動物を見る目つきで私をふり返った。「おやまあ。それじゃあ私はこれで」ドアを閉じながら、彼女はまだ笑っていた。
「何の話だ?」
エルゼは私に向き直った。「私のことを心配してくれているのよ。あなたは大丈夫って言ったのだけれど……」彼女もまた、にやりと笑った。
私はむっとした。「沼に蛙《かえる》の声を聞きに行った時のことを話せばよかったじゃないか」
「そんな話をしたら、あなた、追い出されるわ」彼女はコーヒーを注《つ》いだ。「あなただって寝るところがなければ困るでしょう。とっても疲れた顔をしてるわ。私も疲れてるの。ガトウへ行くトラックに乗るのに毎朝五時起きよ」
私は顔をこすった。疲れきっていた。「本当に、ここに泊めてもらえるのかな?」
「私はかまわないわ。そこの長椅子でよければね。ちょっと堅いけど、寝る分にはさしつかえないでしょう。私も何度か寝たことがあるわ。さあ、冷めないうちに、どうぞ」
「じゃあ……」私は面喰《めんくら》った。「この部屋に?」
「ベルリンで、あなた、ほかに行くところがあるの?」
「いや、どこも当てはないんだ」
「だったら、話は決まりね。あなたは長椅子で寝てちょうだい。私はこっち」彼女はベッドから毛布を引き剥《は》がした。「掛けるものはこれで我慢してね。別の部屋に泊めてあげられるといいのだけれど。以前はこの階全部が私のうちだったのよ。部屋が七つに浴室とキッチンがあって、何でも揃《そろ》っていたわ。でも、今は焼け出された人たちが何世帯も共同で使っているの」彼女は肩をすくめた。「キッチンがかち合うのは困るけれど、それさえ我慢すれば、特に不自由はないわ。ちょっと、寒いから失礼して……」彼女はベッドにもぐり込んでコーヒーに手を伸ばした。「あなた、煙草《たばこ》持ってる?」
私はポケットを探り、看護婦がくれた一箱を取り出して勧めた。エルゼは私の擦ったマッチの火を透かしてこっちを見ながら吸いつけ、長いけむりを吐いた。
「ああ、おいしい。ほっとするわね。イギリスを発《た》って以来よ」
「ガトウで手に入らないの?」
「そう。私たちには売ってくれないのよ。イギリス人は吸いたい放題でしょうけれど」
「仕事はきついかい?」
「そんなことはないわ。積荷目録と現物を突き合わせて、不足がないかどうか確認するだけですもの。ただ、一日じゅう吹きさらしの飛行場に立ちっぱなしでしょう。それが辛いといえば辛いわね」
私はベッドの端に腰をかけてコーヒーを飲んだ。一つ部屋で間近に向き合ったせいか、そこでふっつり話が跡絶《とだ》えた。もとより、話すほどのことは何もないような気がして、私はエルゼを見つめながら、コーヒーの温《ぬく》もりが体に拡《ひろ》がって行くのを味わった。疲れきっていたにもかかわらず、私は耳の底に自分の鼓動が反響するのを意識した。私ははっきりエルゼを求めていた。こんなことははじめてだった。その場にかぎっては、彼女の健気《けなげ》な姿や技術者としての才能などどうでもよかった。エルゼは毛布にくるまってダブルベッドにうずくまった一人の熟《う》れた女だった。彼女のほうでも私が手を出すのを待っているといいのだが、と正直、私は強く思った。にもかかわらず、私はどうすることもできなかった。その場の雰囲気をぶち壊したくなかったこともある。誘いかければ彼女は応じたろう。しかし、そうなれば、私がここまで思いつめて来た本当の目的は失われてしまうに違いない。私は自分を抑えて言った。「エルゼ。力を貸してくれないか?」
彼女は眉《まゆ》をしかめてガウンの襟を掻き合わせた。「カーターを助け出すのに?」不審げな顔で彼女は問い返した。
私はうなずいた。「ソ連地区から連れ出してやらなきゃあ」
「あなたにとって、そんなに大切なことなの?」エルゼの表情は険しかった。「救出しなかったら、カーターはどうなるの?」
「まずくすると、死ぬかもしれない」
「あの人が死んだら?」
「供述書を裏づける証人はいなくなってしまう」
「セイトンは私の父が開発したエンジンで飛び続けるのね?」
「そうだよ。何の咎《とが》めも受けずにさ」
エルゼはそれが聞きたかったという顔でうなずいた。「わかったわ。できるだけのことはするわ」
礼を言いかける私を、彼女はきっぱり遮った。「あなたのためじゃないのよ、ニール。セイトンを破滅させたいから協力するの」彼女は毛布を握りしめ、コーヒーの受け皿に置いた吸いさしの煙草も忘れてじっとランプの炎を見つめた。「セイトンは父が遺して行ったものをそっくり巻き上げたのよ。あれは父と私で作ったエンジンだわ。私は赦《ゆる》せないの。この気持ち、あなたにわかるかしら」彼女は激しい感情に噛《か》みしめた歯の間から、吐き捨てるように言った。「あの人は人間の心を持っていない冷血動物よ。あなたがはじめてメンベリーに来た夜、私は自分からあの人に身を任せようとしたの。セイトンが私に目をつけているのはわかっていたから。私はあの人を憎んでいるけれど、父の仕事を正当に認めてくれるなら体と引き換えにしてもいいという気持ちだったわ。そうしたら、セイトンはどうしたと思う? 鼻で嗤《わら》ったわ」彼女は肩を落として煙草を手に取った。「ちょうどそこへ、あなたが格納庫へ入って来たの。あのあと、私はすぐラインバウムに電話して、セイトンの会社を潰《つぶ》すように言ったのよ」彼女は苦々しげに低く笑った。「ところが、あなたの援助でセイトンは窮地を脱したわ。それからあの事故で、今度こそセイトンも終りだと思ったら、あなたはまたあの人を助けたのね」彼女は淋《さび》しげな笑顔を浮かべた。「そのあなたが、私に協力を求めるとはね。何て皮肉な話でしょう」じっと考え込むふうにしばらく口をつぐんだ後、彼女は思い切りよく煙草を揉《も》み消した。「いいわ、ニール。できるだけのことをしましょう。今夜はもう寝なくては。誰かソ連地区へ行ってくれる人を捜すとしたら……闇商売の方面を当たることになるわね。明日の夜……」
「誰か、心当たりがあるのかい?」
彼女はうなずいた。「何とかなると思うわ。ガトウに出入りしている運転手には顔見知りもたくさんいるから。ホルミントの近くまで行ってくれる人を捜すわよ。西側の管理区からソ連地区へは始終トラックが行き来しているし、ソ連当局も物資が流れ込むから黙認しているのよ。誰か、きっと乗せてってくれるわ」
「君には何とお礼を言っていいか……」
「私にお礼を言う必要はないわ。あなたのために何かをするわけではないんですもの。おやすみなさい」
エルゼは毛布をかぶって横になった。私は腰を上げたが、長椅子のほうへ行きかねて、彼女の寝姿をふり返った。私の目には二人のエルゼが映っていた。一人は私の欲情をそそる女としてのエルゼ、今一人は復讐《ふくしゅう》に燃え、祖国と父親のためには身を捨てて顧《かえり》みないドイツ人としてのエルゼである。
「おやすみ」私は彼女から視線を引き剥がしてランプを吹き消した。
カーテンを閉ざした暗闇で、私は下着だけになって毛布にくるまった。寒さは骨の髄《ずい》まで染みとおるようだった。しかし、ソ連占領地区の農家に重傷の身を横たえているタビーのことを思うと、贅沢《ぜいたく》は言えなかった。エルゼに何とかしてあの農家へ行く手立てを確保してもらいたい。私はタビーを連れ帰って、供述が事実であることの証《あかし》を立てなくてはならない。
寒さも、絶え間なしの爆音も、眠りを妨げはしなかった。寝ついたと思う間もなく、ランプの明りで目が覚めた。エルゼが前夜の老婦人と話しながら髪を梳《す》いていた。アンナは戸口でちびた蝋燭をかざしていた。「寒くありませんでしたか、フレイザーさん?」彼女はドイツ語で話しかけて来た。それからエルゼに何か早口で言った顔に蔑《さげす》みの色が浮かんでいると見えたのは、私の気のせいだろうか。
「何だって?」私は老婦人が立ち去るのを待ってエルゼに尋ねた。
エルゼは笑いを噛み殺していた。「別に」
「でも、何か言ったじゃないか」
「本当に知りたい?」彼女はいたずらっぽい目つきをした。「あなたはね、ドイツ人とぜんぜん違うって。あなたが典型的なイギリス人だとしたら、どうしてドイツが戦争に敗《ま》けたのか不思議ですってよ。よく寝られた?」
「ああ、ぐっすり眠ったよ」私は憮然《ぶぜん》たる思いだった。こんなことなら、エルゼと一つ床で寝ればよかったのだ。
「寒くなかった?」
「それ以上に熟睡したから」
「あなた、すねてるのね。アンナの言うことなんて気にしないで。あの人は古風なのよ。ねえ、顔を洗う間、あっちを向いてて」
私は厚地のカーテンを引いた窓のほうへ寝返った。「今、何時?」
「五時十五分よ」
「まいった」私は寒さにふるえながら、この寒気の中で冷水を使うエルゼの意志の強さに舌を巻いた。「それ、お湯かい?」私は尋ねた。熱い湯が使えるものなら顔を当たってさっぱりしたかった。
「とんでもない。お湯なんて沸かせないわ。火を使えるのは炊事だけよ。しばらくここにいれば、あなただってこういう暮しに馴《な》れるわよ」
「しばらくいれば?」私はたちまち現実に目覚めた。このベルリンで、私は逃亡者なのだ。タビーをソ連地区から連れ戻らないかぎり、イギリス人社会に立ち帰ることはできない。
「どうしても今夜中にホルミントへ行く足を確保してもらわなくてはね」じっとしていられない気持ちで私は言った。「早くしないとタビーは……」思わずふり返ったとたんに、タビーのことも、将来への不安も頭から消し飛んだ。エルゼは上半身裸で洗面器にかがみ込んでいた。ランプの明りを受けて、白い乳房が豊かに盛り上がっていた。
私の気配を感じて、エルゼもタオルを手にしたままふり返った。首筋から胸に伝った水が、尖《とが》った乳首から洗面器に滴《したた》り落ちた。
「あっちを向いててって言ったでしょう」彼女は屈託もなく笑った。「そんなに物欲しげな目つきをしないで。何も、女のこういう格好を見るのははじめてなんていうわけではないでしょう」
彼女はタオルを水に浸して、顔の石鹸《せっけん》を洗い落としにかかった。男の見ている前で身仕舞いをすることに何の抵抗もない自然なそぶりだった。
「こんなことは、しょっちゅうあるのか?」私はいささか面白くなかった。
「何が?」タオルの中から彼女は問い返した。
「いや、何でもない」私は慌ててカーテンのほうに向き直ったが、彼女の白い肌は瞼《まぶた》に焼きついて離れなかった。
エルゼは素足で音もなく部屋を横切り、長椅子の脇《わき》に立った。私は彼女の視線を感じた。彼女はそっと私の頭に触れた。
「あなたを見ているとね、ニール、何て世間知らずな、初心《うぶ》な人なんだろうって思うことがあるの。それは、世の中がこんなふうだからかしら。私たち、今は本当にぎりぎりの、裸の生活を強いられているでしょう。ベルリンにいながら、まるで小舟か山小屋で暮しているようなものですものね」彼女は溜息をついて私から手を放した。「戦争前のドイツを知ってもらえたらって、つくづく思うわ」
エルゼが服を着終えたところへアンナが食事を運んで来た。黒パンにバターを少し添えただけの粗末な食事だった。「何もないけれど……」エルゼは言った。「これも、しばらくいればじきに馴れるわ」
今しがたの彼女とはまるで別人だった。汚れたレインコートをはおって、化粧気もないエルゼは、すでにして名もない群衆の中に埋没したに等しかった。わずかに、ランプの明りに絹の光沢を放つ髪の毛だけは常のエルゼと変わりない。
六時十分前、彼女はよれよれの茶色のベレーをかぶって立ち上がった。「クルフュアステンダムでトラックに拾ってもらうのよ。あなたは出歩かないほうがいいわ。通行証もないんだし、国防軍の外套にその靴じゃあ、たちまち警察に怪しまれるわ」
私は借り物の外套の襟を掻き合わせながら、戸口にエルゼを見送った。
「とにかく、私にまかせておいて。何とかしてタビーを助け出すように段取りをつけるわ」
私はエルゼの手を取った。冷たい手だった。
「ありがとう。君は親切だね」
「親切とは違うわ」彼女は突っぱねるように言った。「これは私自身のためよ。こんなふうに言いたくはないけれど、でも……」彼女は悲しみに曇った目で私を見上げた。「それが本心よ」彼女は私の手を強く握り返した。「ただ、一つだけ言っておきたいことがあるの。これは、あなたの希望でもあるでしょう。気持ちは別でも、目的は共通なのよ。それが私には救いだわ」この成りゆきに自分が責任を感じているかのような厳しい口ぶりだった。そして、彼女は二人の絆《きずな》を確かめようとするふうに、伸び上がって私に唇を重ねた。「待っててね。きっと何とかするから」
「今夜じゅうに?」
「できればね」
彼女はにっこり笑って部屋を出た。「あなたはここでじっとしてるのよ」
エルゼは確然とした足音を響かせて薄暗い階段を降りて行った。表のドアが閉じると、建物の中はひっそり静まり返った。私はランプのともった部屋の奥に戻った。出て行ったばかりのエルゼの温もりは、まだ室内に満ちているかのようだった。
私は所在なく、しばらく部屋の中を行ったり来たりした。乏しいとはいえ、家具調度にはこの国特有の重厚さが感じられた。写真や散らかった所持品の数々は、私にエルゼの存在を強く意識させた。衣類。本。裁縫箱。空っぽになった銀の煙草入れ。ヘアブラシ。洗面道具。古新聞。寝乱れた毛布。ガウンとスリッパ。それらの一つ一つが、今は部屋にいないエルゼの面影を呼び出すよすがだった。
行きつ戻りつしながら、私は何度も写真の前に立った。顎髯《あごひげ》を短く刈りととのえ、秀《ひい》でた額から白髪をオールバックに撫《な》でつけた、押し出しの見事な男の写真がほとんどだった。一目でエルゼの父親と知れる。物静かで真摯《しんし》な人柄を思わせる顔立ちで、唇の両端がやや垂れ下がり、鼻は丸く大きく、広い額にはエルゼが怪訝《けげん》な表情をした時とよく似た皺《しわ》を刻んでいる。目尻《めじり》の小皺から今にも顔全体に笑いが拡がろうとしているかのようである。穏やかなその顔には、エルゼのあの思い詰めたような激しさはない。彼女の気性は母親譲りと見受けられる。プロフェッサー・マイヤーは娘よりもはるかに思慮深く、度量の大きな人物だったに違いない。そのことは、二人が一緒に映っている写真からも容易にうかがわれる。父娘は休みを利用してよく登山やスキーに出かけたようだった。こうして見ると、エルゼの危うげなところが浮き彫りにされた形だが、写真を通して彼女の父親の人柄を想像できたのは収穫だった。私は彼女が父親を慕い、今は亡き父親とともに取り組んだ仕事に執着する気持ちが理解できたと思った。
なおもエルゼの気配を強く意識しながら、私は長椅子に横たわり、二人の間に育ちかけている特別な感情について思案した。自分自身の気持ちを分析しなくてはならない、と思いつつ、いつしか私は眠りこけていた。
午後遅く目を覚ますと、空はどんより曇って、寒気の中に破壊された建物の残骸《ざんがい》が黒い影を作っていた。飛行機の音は聞こえたが、低い雲に遮られて機影は見えなかった。アンナが食事を運んでくれた。パンと、ジャガイモばかりのスープだった。彼女は私に話しかけようとはしなかった。私はこの老婦人との間に人種の違いというだけでは説明しきれない隔たりを感じたが、書棚に立てかけられた一冊のアルバムにその疑問を解く写真を見つけた。幼い少女と姿の良い中年の看護婦が並んでいる写真の下に、たどたどしい子供の字で「私とアンナ」としてあった。
五時頃にはあたりがすっかり暗くなり、手に取った本の不馴れなドイツ文字が判読できなくなった。私はエルゼがソ連地区へ行く足を確保してくれたろうかと気を揉《も》みながら、また部屋の中を歩き回った。不安と焦燥に寒さが加わって、何ともやりきれない気持ちだった。
六時を回った頃、階段を上がる足音を聞いて私ははたと立ち止った。木靴が床に鳴る音ではなかった。革靴を穿《は》いた男の足音である。この建物の住人ではあるまい。
足音は踊り場で止まり、これははっきりアンナとわかる木靴の音が近づいて来た。「今日はいつもより遅いようですね」彼女はドイツ語で言った。「どうぞ、部屋でお待ち下さい」
「じきに戻りますか?」男が尋ねた。間延びした拙《つたな》いドイツ語だった。私はうろたえてあたりを見回したが、隠れ場所もなく、部屋の中央で途方に暮れているうちに、早くも足音はドアの前に達した。
「普段は五時に帰るのに、どうしたんでしょうね」
アンナはドアを叩き、私の返事も待たずに開けた。「この方は言葉が通じますよ。話をしながら待ってて下さいな」
私は窓ぎわに後退《あとずさ》った。アンナは脇へ避けて男を請じ入れた。茶色い靴とオリーヴ・カーキのズボンが目に入った。アメリカ人だ。相手の顔を見て、私は思わず叫んだ。「これは!」ダイアナの兄、ハリー・カリヤーだった。「どうして俺《おれ》がここだとわかった?」
「何で君に会いに来たと思うんだ、フレイザー?」
「ダイアナに言われて来たんじゃないのか?」
「ダイアナ? とんでもない」
「じゃあ、どうしてここへ?」
「それはこっちが訊きたいね」カリヤーはひとわたり部屋を見回した。国防軍の外套に目を止めて、彼は言った。「そうか。ここに隠れていたのか。君が病室から姿をくらましたことはガトウで聞いたよ」
「今日……飛行場へ行ったのか?」
彼はうなずいた。「飛行場からこっちへ回ったんだ」
「ダイアナに会ったかい?」
「ああ。何で?」
「じゃあ、ダイアナはもう、全部わかっているんだな?」カリヤーが不審げに眉を寄せるのを見て、私は慌てて言い足した。「タビーが生きていることは知っているな? そうだな?」掌《てのひら》は汗で湿り、膝《ひざ》がふるえた。
「タビーが生きている? あいつが死んだことは誰よりも君がよく知っているはずだろうが」カリヤーは、やや前かがみになって私の顔を覗き込んだ。その目はもう親しげに笑ってはいなかった。「やっぱり聞いたとおりか」
「何を聞いたって?」
「いや、つまり、その……君はだいぶ神経をやられているという話だったから」彼は長椅子に帽子を投げて、その隣に腰を降ろした。「マイヤーのお嬢さんはいつ帰ってくるね? どうやら、飛行場ですれ違いになったらしいんだ」
「俺に訊かれても答えようがないよ。飛行場で、ピアスか、情報将校に会ったか?」
「ああ、両方とも会った」カリヤーは懐かぬ犬を警戒する目つきで私を見た。
「供述書をピアスに渡したんだがね。何か言ってなかったか?」
「いや、何も聞いていないな」
「俺のことは話に出なかったのか?」
「そうやって次から次へ質問するのは止《よ》してくれないか」カリヤーは険しい顔で突慳貪《つっけんどん》に言った。
「でも、俺は訊きたいんだ。ピアスは俺のことを何て言った?」
「そうか。そんなに知りたいか。ピアスはな、君はまともじゃないと言ったよ」カリヤーは私から目を離そうとしなかった。患者の反応を見守る医者の態度だった。
私は帽子を挟んでカリヤーと反対の端にへたり込んだ。「文書にしたものを見ても、ピアスは俺の話を信じようとしないのか」私は急に無力感に襲われた。このまま口を閉ざしてイギリスへ舞い戻り、自首して出て裁判を受けたほうがどんなに楽か知れない。
「タビーを助け出さなきゃあ」私は言った。「何としても……」私は気持ちが萎《な》えかける自分を叱咤《しった》した。しかし、カリヤーは私を狂人としか見ていない。「エルゼを待っているんだな?」
彼はそっけなくうなずいた。
「だったら、その間に、あの晩回廊で何があったか俺の話を聞いてくれないか? 信じられないことかどうか」
「少し休んだほうがいいんじゃないか」彼はうるさそうに言った。「えらく疲れてるみたいだぞ」
「煙草、あるか? 俺は切らしちまって」
カリヤーは箱ごと投げて寄越した。「全部やるよ」
「かたじけない」私は一服つけた。「皆は俺のことを狂っていると言うかもしれないけどな、だからって、俺の記憶がでたらめだということにはならないだろう。何よりも重大なのは、タビーが生きている事実だよ。セイトンの悪党がいなければ、今頃はベルリンで元気にやってるはずなんだ。ダイアナまでが俺の言うことを真面目に聞こうとしないのは残念だな」
カリヤーははじめて関心を示した。私は一部始終を詳しく話した。
ちょうど話が終るところへ、足音が階段を上がって来た。エルゼに違いなかった。ドアを開けた彼女は草臥《くたび》れきった顔だった。
「話をつけたわよ、ニール。私……」彼女はカリヤーに気づいて、はっと口をつぐんだ。「ごめんなさい、カリヤーさん。お待たせしてしまったかしら」
「なあに、そんなことはありません」カリヤーは立ち上がった。「フレイザーと話をしていましたから。いや、こっちはもっぱら聞き役ですがね」
エルゼは私とカリヤーを見くらべた。「あら、お知り合い?」
「前にガトウで会ったことがありましてね」カリヤーは言った。「さっき飛行場へ行ったんですが、一足違いであなたが出た後でした、マイヤーさん」彼は当惑げにちらりと私のほうを見た。「どこか、話のできる場所はありませんか?」
エルゼは両手を拡げて肩をすくめた。「あいにく、ここは一部屋なんです。ニール、ちょっとこっちだけの話だけど、いいでしょう?」
彼女はカリヤーに向き直った。「で、イギリス側は同意しましたの? 私、フランクフルトへ行けるのかしら?」
カリヤーは今一度、ためらいがちに私のほうを見やってから言った。「全部、話は片付きました、マイヤーさん。書類が下り次第、あなたにフランクフルトへ行ってもらいます。ラウフ・モトーレンのプロフェッサー・ヒンクマンと連絡を取って、すぐにも仕事にかかっていただくことになるでしょう。当然ながら、セイトンが一歩も二歩も先を行っていることは承知しておいて下さい。向こうは現にあのエンジンを積んだ飛行機に乗っているんですから」
「それはわかっています」エルゼはうなずいた。「特許のほうはどうなっていますか?」
「それはまだ結論が出ていません」カリヤーは答えて言った。「あなたのお父さんが基本設計をしたことを根拠に申請を却下するように働きかけているところですが、ただ、実用化に漕《こ》ぎつけたのがセイトンであることは否定できない事実ですからね。まあ、何とか、競《せ》りの形で解決すると思いますが。それはともかく、ここで大切なのはイギリス当局があなたのフランクフルト行きを認めたことです。何はさておき、それをあなたに知らせようと思いましてね」
「本当に、ご親切にどうも……」エルゼはちょっと言い澱《よど》んだ。「イギリスで使っていた書類については、問題ありませんの?」
「それは大丈夫です。不問に付すということですから」
エルゼはここではじめてベレー帽を脱ぎ、樫《かし》材の大きな整理ダンスの上の父親の写真を仰いだ。「父もきっと喜んでくれるでしょうね」彼女はきっとカリヤーに向き直った。「イギリスの保安当局に私の書類のことを密告したのはセイトンでしょう。そうですね?」
カリヤーは肩をすくめた。「それはもう、気にすることじゃあないでしょう、マイヤーさん」
「たしかに、どうでもいいことかもしれませんけれど」エルゼは私をふり返った。「セイトンは基地司令官に、ホルミントまでの飛行許可を求めたわ」
「ホルミントまで?」私は耳を疑った。「いつ?」
「今夜よ」
「間違いないか?」私は乗り出して尋ねた。「君はどうしてそれを知ってるんだ?」
エルゼはにやりと笑った。「こう見えてもガトウではけっこう顔が広いのよ。イギリス軍|輜重《しちょう》隊の将校から聞いたの。セイトンは念のために今夜ホルミントへ行ってみるんですって」
私は救われた思いだった。セイトンも、最後の最後まで血も涙もないわけではなかった。やっとタビーのために腰を上げる気になったのだ。と胸を撫《な》で降ろしかけて、ふいにエルゼの言葉が気にかかった。念のために……。たちまち私の意識の中に幽鬼のようなセイトンが立ちはだかった。
「念のために?」私は声に出して繰り返した。「まずい! あいつはタビーのことを心配してるんじゃない。その反対だ!」
「何の話だ?」カリヤーが聞きとがめた。
しかし、私はエルゼに気持ちを伝えることに急だった。「どうしても今夜でなきゃあ」
「何が今夜でなきゃあいけないって?」カリヤーは尋ねた。
「何でもありません」エルゼがとっさに話をそらせた。「済みませんけど、カリヤーさん、私、とっても疲れているし、ちょっと用があるもので」
カリヤーは気遣わしげに私たちを見くらべながら、帽子を手にして立ち上がった。「わかりました、マイヤーさん。それでは、私は失礼します。手続きがととのったら、また連絡します」
「いろいろと、ありがとうございます」彼女はドアを開けた。
カリヤーは戸口で足を止め、怪訝な顔で私をふり返った。
エルゼは彼の腕を取った。「フレイザーさんのことは、誰にも内緒に、ね」
カリヤーは肩をすくめた。「それは、私にはかかわりのないことだから」
しかし、そうとは言いきれない。何にしろ彼はダイアナの実の兄である。
「近々、妹さんに会うかな?」私は尋ねた。
彼はうなずいた。「この足でガトウへ行くからな」
「伝言を頼みたいんだ。タビーは必ず助け出す。供述書の中身は全部事実だと伝えてくれないか」
カリヤーはエルゼをふり返った。「供述書のことは、知っているんですか?」
エルゼはうなずいた。
「本当だと思いますか? フレイザーの言うとおり、カーターは生きていると信じますか?」
「もちろん」エルゼはきっぱり答えた。
カリヤーは重々しく頭をふった。「私自身、どう考えていいか……。とにかく、君の伝言は伝えるよ、フレイザー。セイトンが行ってみれば……」彼はもう一度肩をすくめた。「それでは、失礼します。マイヤーさん。早くけりがつくといいですね。非常に可能性の高い有望な計画だし、軍上層部としては……」
エルゼに階段のほうへ促されながら、カリヤーは何やらしきりにしゃべり立てていたが、私は耳を澄ませる気にもならなかった。タビーのことしか頭になかった。セイトンはホルミントへ飛ぶという。さて、どうしたものだろう。私は窓に向き直った。今すぐにも出かけたい。何としてもホルミントへ行かなくてはならない。ドアの音にふり返ると、エルゼと目が合った。
「大丈夫、ニール?」
「ああ、僕は大丈夫だ。さっき、帰って来て、君は何か言いかけたね?」
「そう、それよ。ソ連地区へ行くトラックがあるの。話をつけたわ」
「いつだ? 今夜中に行きたいんだ。ぐずぐずしてはいられない」
彼女はうなずいた。「ええ、今夜行けるわ」
「よかった!」私は大股《おおまた》に床を跨《また》いでエルゼの腕をつかんだ。「どうやって渡りをつけたんだ?」
「どうやってって、ガトウに出入りする運転手に紹介してもらったのよ。ファッセネン通りとカント街の角に十時半」
「もっと早くならないか」飛行機ならほんのひと飛びではないか。「セイトンは何時に発つって?」
エルゼは頭をふった。「それは、私には何とも言えないわ。でも、ホルミントに降りて飛行機を離れるとなれば、相当遅い時間でしょうね」
エルゼの言うとおりだった。
「そのトラックで、ホルミントまでどのくらいかかるかな?」
彼女は肩をすくめた。「まっすぐには行かれないのよ。あちこち品物を届けなくてはならないから。そう、二、三時間は見ておいたほうがいいでしょうね」
二、三時間! 私はエルゼに背中を向けて言った。「先にホルミントへ行くように、交渉できないかな?」
「それは無理だと思うわ。話してはみるけれど。お金を払えば……」
「金がないことはわかってるだろう」私は声を荒げた。「全部はたいたって何マルクか……」
「じゃあ。私たちとしては成りゆきにまかせるしかないわね」
私ははっとふり返った。「私たち? 君は一緒にソ連地区へ乗り込む気か?」
「もちろんよ」
私は思い止《とど》まるように説得に努めたが、エルゼの意志は堅かった。
「私が行かなかったら、あなた、乗せてもらえないわ。向こうだって危ない橋を渡るんですもの。赤軍の検問に遭ったりした場合、もっともらしい理由がないと駄目でしょう。ドイツの女が一緒に乗っていたほうが安全なのよ」彼女はベッドに目をやった。「さあ、ひと眠りしておかなきゃあ。あなたも休んだほうがいいわ。≪健全な人とは違う≫んだから」
健全な人とは違う……。長椅子に横たわって、私はこのひと言にさんざん悩まされた。
エルゼはベッドにもぐり込むと同時に寝ついた様子だが、終日ゆっくり休んだ私は睡《ねむ》くなかった。寒気は服を透《とお》して肌を刺し、空輸編隊の爆音は絶えずエルゼの言葉を意識させた。彼女もやはり私の話を疑っているのだろうか? 私の言うことが本当か、常軌を逸した男の幻想か、それを確かめたいばかりに一緒に来る気だろうか? 別れぎわのカリヤーの態度も気になった。
それでも、いつの間にかうとうとしていたらしい。タビーは事実死んでいて、ガトウ基地のお歴々がソ連軍の報告を信じたことは正しかったのではないか。そう思うことの恐怖に、寝ながらにして全身汗に濡《ぬ》れていた。
身支度をととのえるエルゼを見て、私ははっきり目が覚めた。すべてはもとのままだった。私たちは密輸業者のトラックに便乗してソ連地区へ出かける。何時間か後には、タビーを無事に連れて帰るはずだった。エルゼが一緒に行ってくれるのが有難かった。タビーが死んでいたとしても、あるいは、帰る途中で息を引き取ったとしても、彼がホルミントの農家に匿《かくま》われて生きていた事実は、エルゼの証言によって明らかにされることだろう。
腹ごしらえをして、十時半にファッセネン通りとカント街の角に出た。トラックはなかなか来なかった。冷え込みは厳しく、十一時まで待たされると、もう私の忍耐も限界を越え、何か手違いがあったと一人決めに思い込んで腹を立てた。しかし、エルゼは辛抱強かった。「きっと来るわよ。ね、もう少し待ちましょう」
約束より四十五分遅れて、トラックはのろのろとやって来た。鼻面の長いドイツ製の不恰好なトラックで、顎に火傷《やけど》の跡があるクルトという青年が運転していた。年かさの相棒が助手席に乗っていた。私たちは物資を山と積んだ荷台の隙間《すきま》に押し込まれた。ギアがけたたましく軋《きし》って、ようやく私たちはベルリンを後にした。オイルと排気ガスの臭気が鼻を衝《つ》き、積荷は頭の上で危なっかしく揺れた。
三時間ほどかかったろうか。寒さと、排気ガスのせいで吐気にさんざん悩まされた。トラックは途中で何度も止まり、そのつど、積荷の一部が肉や小麦粉に変わった。私は焦燥をつのらせた。トラックが止まるたびに、セイトンより先に着かなくては取り返しのつかないことになるという危機感は、いっそう強まった。
やがてベルリンから積んで出た物資はすべてなくなり、最後に止まったところで何百という締めた鶏が積み込まれた。幌《ほろ》の隙間から覗くと、トラックが南へ向かっているのがわかった。ほどなくクルトはトラックを道端に止め、私に助手席へ移って道案内することを求めた。私たちはやっとホルミントの村はずれにさしかかった。
ところが、長時間、幌の陰にうずくまっていた私は土地カンをつかむのに苦労した。目的地はホルミントの北寄りだということだけが頼りだった。何度か道を間違えて、やっと見覚えのある大きな街道へ出た。その頃には、クルトはすっかり機嫌を悪くして乱暴に飛ばしたから、すんでのところで農家へ続く枝道を見逃しかけ、慌てて後進する始末だった。轍《わだち》の深く抉《えぐ》れた細い道を見て、クルトは曲がることを拒んだ。エルゼが荷台から降りてなだめすかしたが、クルトは頑として首を縦にふらなかった。「うっかりこいつを入って脱輪でもしたら、ことだからな。それに、相手はこっちの知らない人間だ。赤軍の兵隊がいたらどうするんだよ。何が起こるかわかったもんじゃないぜ。曲がるのはお断りだよ。ここで待っててやるからさ、早くしてくれ。こんなとこにいつまでも駐《と》まってたら、目立ってしようがねえからさ」
エルゼと私は黒い鋼《はがね》のように凍てついた道を歩くしかなかった。
「どのくらいあるの?」彼女は尋ねた。
「半マイルくらいかな」私は言った。歯が鳴ったのは寒さのせいだけだったろうか。私は寒気とは別の、何やら冷たいものが背筋を這《は》い上がるのを感じていた。
道は二つに分かれていた。あの晩、私はどっちから出て来たのか、遠い昔のことのようで確信がなかった。
「だって、あなた、前にここへ来ているんでしょう、ニール?」エルゼは不安を隠しきれぬ声で言った。
「もちろんだよ」私は左手の道を選んだ。一軒の納屋の前で行き止まりだった。引き返して右の道を行きながら、エルゼはしきりに私を急《せ》かした。「早くしなくては。クルトはすごく気が小さいのよ。置いてきぼりにされたら大変」
「わかっているよ」ベルリンに向かった夜の悪夢の記憶が甦《よみがえ》った。
今度は間違いなく、星明りの中に農家の母屋や納屋の黒い影が見えてきた。
「これでいいんだ」私は言った。見覚えのある農家がもうすぐそこだった。「ここだよ」
「そうだったの。本当だったのね。タビーは生きているのね」
「だから何度も……」
「ごめんなさい、ニール」エルゼは私の手を握った。
「やっぱり、君も疑っていたのか」
「あなたは怪我をしていたし、とても気持ちが昂《たか》ぶっていたでしょう。私、あなたの話をどう受け取っていいかわからなかったのよ。ただ、あなたはどうしてもここへ来なくてはおさまらないようだったし、それで、私も一緒に来ることにしたの」
暗がりで、彼女の大きな目が光った。私は彼女の手を握り返した。「行こう。どうか、タビーがまだ……」
納屋の角を回ると、母屋のキッチンからランプの明りが洩《も》れているのが見えた。時刻はやがて夜中の二時になろうとしている。にもかかわらず、クレフマン夫婦はまだ起きているのだ。閉じたカーテンを男の影が過《よぎ》った。私は前庭を走り抜けて窓を叩いた。
主人のクレフマンが裏手のドアを開けて暗闇を透かした。「クレフマンさん!」私は声を殺して呼びかけた。「私です。フレイザーですよ。入れてもらえますか?」
「ああ、これは。さあ、どうぞ、こっちへ」
私たちを請じ入れるクレフマンの顔はキッチンの明りを受けて蒼《あお》ざめていた。それは驚きを超えた恐怖の表情だった。
「どんな具合です?」
「あんたの友だちかね。ああ、大丈夫だ。あの時から見たら、いくらか良くなっていると思うよ」
私は安堵の溜息を吐いた。「街道へ出たところにトラックを待たせてあるんです。……ああ、こちら、フロイライン・マイヤー」
クレフマンはエルゼの手を取った。「さあさあ、どうぞ」彼はせかせかとドアを閉じ、私たちをキッチンへ案内した。「|母ちゃん《ムツター》、フレイサーさんが来た」
クレフマンの妻は控え目な笑顔で私たちを迎えたが、何故《なぜ》か落着きがなく、しきりに奥の階段を気にするふうだった。「どうしてだろうねえ」彼女は不審げにドイツ語で呟《つぶや》くと、亭主をふり返ってまともに尋ねた。「どうして迎えが二人も来るのさ?」
私はエルゼの立場を説明しかけて、はっと口をつぐんだ。クレフマンの妻が言っているのはエルゼのことではなかった。傍《かたわ》らの椅子の背に、毛皮の裏のついた厚手の飛行外套がかかっていた。エルゼもそれに気づいた様子だった。私はクレフマン夫婦に向き直った。夫婦は暗い階段の上り口を見つめて立ちつくしていた。頭上で足音が農家の静寂を破った。足音は階段を下って来た。
エルゼは私の腕にすがった。「あれは何?」
私は答えかねて階段口に視線を据えたまま、おぞましい疑惑に金縛《かなしば》りにあったように身じろぎもならなかった。足音は踊り場の床を軋ませて、最後の階段にかかった。ブーツが覗き、飛行服が現われた。私はジッパーに沿って視線を上に向けた。
「セイトン!」その名は低い呟きとなって私の口からこぼれ出た。何ということだ! 私はこの時の彼の顔を忘れようとして忘れることができない。私たちを見て、セイトンは階段の途中で立ち止まった。土気色の顔にも、血走った目にも、生きた人間の表情はかけらもなかった。これこそはまさに亡者の姿ではあるまいか。
「タビーはどうだ?」われながら耳ざわりな、かすれ声で私は言った。
「どうということもない」セイトンは階段を降りきった。「お前、何だってこんなところへ来なきゃあいけないんだ?」抑揚に欠けた声で彼は言った。にもかかわらず、その声は底知れぬ悲痛の響きを孕《はら》んでいた。
「タビーを迎えに来たんだ」私は言った。
彼はゆっくりと首を横にふった。「今となってはもう遅い」
「何だって?」私は声を張り上げた。「どうもない、と今その口で言ったじゃないか。君はタビーに何をした?」
「何もしていない。無駄なことは、何も」
階段のほうへ行きかける私の前に、セイトンは立ち塞《ふさ》がってもう一度首をふった。「行くんじゃない。タビーは死んだ」
「死んだ?」そのひと言に笞《むち》打たれたように、私はセイトンを突きのけて階段に向かった。が、彼は私の腕を取って引き止めた。
「行っても無駄だ、ニール。タビーは死んだと言ってるだろう」
「まさか、そんな!」ストーヴのそばの椅子に退《さが》っていたクレフマンの妻が声を挟んだ。「今朝がたも医者が来て、この分なら大丈夫だろうって言ったばかりですよ。それだのに、死ぬなんて」
セイトンは指先で目頭を押えた。「おそらく、心臓発作か……何かそういうことで……」
「でも、ついこの夕方も、冗談を言って笑ったりしてたんですよ」クレフマンの妻は納得しなかった。「そうだね、あんた?」彼女は亭主をふり返った。「ちょうど、おたくさんが来る前でしたよ。あたしが食事を運んで行ったら、おかげで名前のとおり樽《タビー》みたいに太ったって、笑って言ったんですから」
「タビーはどこにいるの?」エルゼがそっと私に尋ねた。
「この上の、屋根裏だよ。行ってみよう」
セイトンはまたしても私の前に立ちはだかった。「死んだと言ってるのがわからないのか? タビーは死んだんだ。行って顔を見たって生き返りゃあしないぞ」
私はセイトンの顔を見つめた。空《うつ》ろな目。小さく閉じた瞳孔《どうこう》。セイトンは殻《から》にこもって萎縮《いしゅく》しているようだった。私は彼のちぢかんだ瞳孔の奥に、ある種の恐怖と、社会規範を逸脱して制御を失ったどす黒い執念を見た。私はじっとしていられず、セイトンを突き飛ばして階段を駆け上がると、踊り場にあった小さなランプを引ったくるようにして屋根裏に走った。
タビーの部屋のドアは細目に開いていた。ランプの明りは壁を埋めるハンスの写真を照らし出した。ベッドに目をやって、私は何者かに押し戻されたかのように立ちすくんだ。乱れた毛布の下から、タビーは真っ赤に腫《は》れ上がった目で私を見返していた。ランプの淡い光の中で、その顔は紫色にくすんでいた。口の端から泡立った血があふれ、大きく脹《ふく》れた舌が唇を割ってはみ出している。さんざんもがき苦しんで事切れたに違いない。ひしゃげたベッドの上に、タビーの体は不自然にねじくれた格好で横たわっていた。
私は彼の瞬《またた》かぬ目を避けて部屋を横切り、床に垂れた手に触れた。まだ温もりを残していた。
エルゼが上がって来て、戸口に足を止めた。「やっぱり、本当だったのね」私と目が合うと、彼女は身ぶるいした。「タビーはどうして……?」
「心臓発作だろう。あるいは……」私は声が続かなかった。エルゼはベッドの脇の床の一点を見つめていた。
「見て!」彼女はふるえながら床に落ちた枕《まくら》を指さした。
私は枕を拾い上げた。タビーが顔を伏せて喘《あえ》いだ中央部はへこんで、ぐっしょり血を吸っていた。彼がどのようにして息絶えたかをありありと物語る証拠が私の手の中にあった。
「セイトンね」エルゼは声をひそめて言った。「あの人が殺したのね」
私は仕方なくうなずいた。はじめからわかっていた。タビーの顔を一目見れば、自然死でないことは歴然としている。気の毒なことをした。生きているだけで、タビーはセイトンの将来を脅《おびや》かした。それゆえ、セイトンはわざわざベルリンからやって来て、抵抗する術《すべ》もないタビーを枕に押さえつけて窒息死させたのだ。これまで彼を駆り立てて来た力は、とうとうセイトンを後戻りできないところまで押しやってしまった。セイトンは、その人なくしてはエンジンの完成を見なかったであろうかけがえのない友人を殺害したのだ。
≪誰だろうと、俺の邪魔をするやつはただじゃおかない≫
私はセイトンがメンベリーの食堂に仁王《におう》立ちになって言ったことを思い出した。その言葉どおり、彼はタビーを葬ったのだ。私は穢《けが》らわしいもののように枕を床に捨てた。
「セイトンは人間じゃないわ」エルゼの怯《おび》えた呟《つぶや》きは、私の気持ちをそのままに代弁していた。と、その時、重たげな足音がそろりそろりと階段を上って来るのが聞こえた。セイトンに違いない。私は彼と向かい合う心の備えがなかった。考えるより先に、私はとっさにドアを閉めて閂《かんぬき》をかけ、近づいて来る足音に耳を澄ませた。
「ドアから離れて」エルゼはうろたえて言った。
私は数歩後へ退《さが》った。エルゼの怯えようは見るに忍びなかった。
足音はドアの前で止まり、把手《とって》が回った。松板がたわみ、セイトンの荒い息遣いが聞こえた。音の絶えた部屋で、エルゼと私は体を堅くして成りゆきを見守った。彼女は今にもドアが破れはしないかと気が気でなかったに違いない。私はこれといって思案もなかったが、セイトンと口をきくことだけは何としても避けたかった。はりつめた沈黙が部屋を押さえつけた。ややあって、足音は階段を下って遠ざかった。
私はドアを開けて耳を澄ませた。階下で低くやりとりする声がして、裏手のドアがけたたましく鳴った。窓から見ていると、飛行服に身を包んだ大柄なセイトンが前庭を横切り、納屋の脇の木戸を抜けてそそくさと立ち去った。私はほっとした。口をききたくなかっただけではない。私はセイトンを恐れていた。エルゼの怯えが伝わったこともある。しかし、そうでなくても、私はやはり恐怖に襲われたと思う。極度の異常は、正常な人間が何よりも恐れるものである。異常はすべてを巻き込んで暴走する。それが恐ろしい。
私はドアに向き直った。「クレフマンを呼んで来る。タビーをトラックでベルリンへ運ぶんだ」
タビーの生命を失った目はじっと私を見つめていた。私は急いで階段を降りた。エルゼが後を追って来るのがわかった。
キッチンは最前と少しも変わった様子はなかった。クレフマンの妻は厚地のガウンの襟を掻き合わせて火のそばにうずくまっていた。クレフマンは落ち着かず、土間を行ったり来たりしていた。緊張した空気を別とすれば、暖かく居心地の好《よ》い農家の母屋で惨劇が演じられたことを示すものは何もなかった。クレフマンの妻ははっと顔を上げた。
「本当ですか? あの人は、亡くなりましたか?」
「ええ、死にました」
「どうしてそんな……」彼女は顔をくもらせた。「本当に心の優しい、いい人だったのに」
「さっきの……セイトンと言ったかな? あの人は、何であんなに慌てて出て行ったのかね?」クレフマンが不審な顔で言った。
疑惑を抱いていることは明らかだったが、私は屋根裏で何があったか、話したところではじまらないと思った。「飛行機が心配なんでしょう。カーターを運ぶのを手伝ってもらえますか? ベルリンへ連れて帰ります」
「ヤア」クレフマンはうなずいた。「うん、それが何よりだ」
「何か、遺体を載せるものはありませんか?」私はクレフマンの妻に言った。
彼女は小さくうなずいて大儀そうに腰を上げた。まだ信じられずに呆然《ぼうぜん》としているふうだった。
「君はここにいたほうがいい、エルゼ」私は言い置いて、クレフマンの後から屋根裏に取って返した。二人してタビーの遺体を毛布で包み、急な階段をかつぎ降ろすと、キッチンでクレフマンの妻とエルゼが箒《ほうき》の柄二本に毛布を渡して急ごしらえの担架を用意していた。私たちはそこへタビーを横たえた。クレフマンの妻はタビーの変わり果てた姿を見て、声もなく泣いた。ソ連の捕虜収容所で苦役をさせられている息子のことを思っていたに違いない。
エルゼは担架に盛り上がった毛布を見つめながら、凍りついたように立ちつくしていた。
「ついでに、トラックまで運ぶのに手を貸してくれませんか」私はクレフマンに協力を求めた。
「いいだろう。うちとしても、早く運んでってもらいたいからな」クレフマンは声をふるわせた。額が汗に濡れていた。タビーが自然死でないことは一目でわかる。クレフマンにしてみれば、いっときも早く死体を運び出して、厄介事と縁を切りたかったろう。彼は何も言わなかったが、誰の仕業《しわざ》かは当然見当がついていた。そして、彼もまた恐怖にさいなまれていたのだ。
クレフマンと私で担架を持ち上げた。
「行くよ、エルゼ」私は言った。
彼女は身じろぎもしなかった。私の手がドアの閂《かんぬき》にかかると、彼女は恐怖に上ずった声を発した。「待って! セイトンが……私たちが≪それ≫をベルリンに運ぶのを、黙って見逃すと思うの?」彼女は駆け寄って私の腕を強く揺すった。「あの人にしてみれば、私たちをベルリンに帰すわけには行かないのよ」
私はエルゼの顔を見て立ちつくした。彼女の言ったことの重みが、じんわりと胸にのしかかって来た。
「きっと、その辺で待ち伏せしているわ」彼女は窓のほうを指さした。
その目を見れば、彼女があり得べからざる格好でベッドに倒れていたタビーのむごたらしい姿を記憶から消しかねていることは明らかだった。私は担架をテーブルに降ろして窓ぎわに寄った。カーテンを開けようとする私の手にすがって、エルゼは言った。「窓から離れて。お願い、ニール」彼女のふるえが腕に伝わった。
私は仕方なく一歩退がって思案した。本当にセイトンは待伏せしているだろうか? 掌が汗で濡れた。セイトンはこうと思って動き出したら止まらない。今となってはなおさら後へは退《ひ》かれまい。エルゼと私は、彼にとっては縛り首の縄にも等しい存在である。私は精神的にほとほと草臥《くたび》れはてて動作も鈍りがちだった。
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
誰も私の問いに答えようとはせず、ただ、私が行動を起こすのをじっと待っているばかりだった。
「お宅に銃はありますか?」私はクレフマンに尋ねた。
彼は重々しくうなずいた。「ああ。ショットガンがある」
「それなら上等だ。貸してもらえますか?」
クレフマンはすぐに奥の一室から銃を持って来た。イギリスの十六口径と同じもののようだった。彼は一握りの実包を添えて私に銃を差し出した。
「向こう側の窓から外へ出ます。あとはしっかり戸締りして下さい」私はエルゼをふり返った。「街道まで行って、トラックをここへ着けるようにクルトを説得するからね」
エルゼは唇を堅く結んでうなずいた。
「大丈夫となったら、口笛でマイスタージンガーを吹く。それ以外は絶対に戸を開けるんじゃないよ」私はクレフマンに向き直った。「このほかに、銃はありますか?」
彼はうなずいた。「カラスを撃つやつがある」
「結構。それを用意して下さい」
私は銃身を折って二つ並んだ薬室に弾《たま》を込めた。血に餓えた野獣を仕止めに出かけるような気持ちだった。
私は銃尾をもとに戻した。エルゼは私の腕にすがった。「気をつけてね。お願いよ、ニール。あなたにもしものことがあったら、私、どうしていいかわからないわ」
私はその思いつめた声音に驚いてエルゼを見返した。「大丈夫。必ず帰って来る」
私はクレフマンに案内を乞《こ》うて、母屋の裏手へ回った。
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第十章
窓から跳び降りて藪陰《やぶかげ》に身をひそめた。真上の空は星が明るかったが、西から黒い雲が拡《ひろ》がっていた。風はいくらか暖かくなったようだった。コートの襟を立て、壁に沿って母屋のはずれまで進むと、そこから一気に前庭を突っ切って納屋の陰に駆け込んだ。冷たい銃身を握りしめて、私は夜陰に耳を澄ませた。物音は一つ一つ正確に聴き分けることができた。風に揺れる木の枝が納屋の板壁を叩き、仕切りにつながれた牛が蹄《ひづめ》を踏み鳴らした。豚が低く唸《うな》り、梟《ふくろう》の羽ばたきに、葉末《はずえ》に凍った露が降った。そして、それらの幽《かす》かな音を圧して、耳の底に私自身の心臓の鼓動が響きわたっていた。
物の動く気配に怯《おび》えながら、銃を手にして冷たい闇《やみ》の底に息をひそめているのがどれほど愚かしいことか、何度自分に言い聞かせたか知れない。馬鹿《ばか》馬鹿しいと思いかけては、そのつどタビーの悶絶《もんぜつ》の表情が瞼《まぶた》に浮かび、セイトンが今や殺人鬼と化していることを訴えた。物音なり、動く影なりがセイトンの所在を告げることを期待しながら、私は長いこと納屋の羽目板に背中を押しつけてじっとしていた。
とはいえ、夜が明けるまでただ待っているわけには行かない。街道で待つと約束したクルトはそろそろ痺《しび》れを切らしているに違いない。置いてきぼりにされたりしたら……難儀な道をベルリンに向かった夜の記憶が私に行動を促した。
あたりに気を配りながら、私は納屋を離れ、堆肥《たいひ》の山を避けて、打ち捨てられた農機具の間を進んだ。足の下で枯枝の折れる音がした。轍《わだち》に張った氷を踏み割った。いずれも幽《かす》かな音でしかなかったが、それが私の耳には飛び上がるほど大きく響いた。一度、左手の闇に物の動く気配を感じた。が、足を止めると、最前聴き分けた類《たぐい》の夜の音のほかは何も聞こえなかった。
セイトンの影にも会わずに農場をはずれると、私は街道を指して歩き出した。地面にえぐれた轍《わだち》を避け、イバラが裾《すそ》に絡む路肩の草の上をゆっくり進んだ。
突然、懐中電灯の眩《まぶ》しい光に目を射られた。咄嗟《とっさ》に横っ跳びして身を避けたが間に合わず、私は銃弾に貫かれるのを感じながらイバラの藪に倒れ込んだ。懐中電灯の光束が藪をさぐり、凍てついた土を踏んでブーツの足音が近づいて来た。私はショットガンを取り上げて光源を撃った。銃の反動を肩に受けると気が遠くなるほどの激痛が襲ったが、懐中電灯は消え、銃声に重なって鋭い悲鳴が私の耳を刺した。私はイバラの刺《とげ》に顔や手を責められながら藪を這《は》った。右半身は痛みの塊となって、まるで言うことを聞かなかった。繁みの陰にしゃがんで薬莢《やっきょう》を捨て、弾《たま》を込め直した。右手は何としても力が入らず、指は強張《こわば》って、銃弾に血がぬめった。銃尾を戻すガシャリという音が、静まり返った藪陰に異様に大きく響いた。
懐中電灯の光で眩《くら》んだ目も、また徐々に闇に馴《な》れ、あたりの様子がわかって来た。星明りで、私は浅い窪地《くぼち》の底にいることを知った。左右と背後に緩《ゆる》やかな斜面が這い上がっている。セイトンが背中へ回ろうとすれば目に入らないはずはない。私は正面だけを警戒すればよかった。不思議なことに、セイトンと間近に対決していると思うと腹が据わって、もう恐怖は感じなかった。
はるか左手の街道でトラックのエンジンが始動した。ヘッドライトが闇を裂いて動き出した。銃声を聞いたクルトは、わが身大切と私たちを置き去りにしてベルリンに向かったのだ。私は歯ぎしりをして遠ざかるトラックを見送った。エンジンの音はたちまち風に吹き消され、微《かす》かな尾灯もじきに闇に呑《の》まれた。葉ずれと遠くで鳴く鳥の声のほかは、あたりはひっそり静まり返っていた。
左手の藪で何かが動いた。もう一度。前よりも近かった。私は銃を取り上げた。すぐ横手で、土塊《つちくれ》が崩れ、イバラの枯枝が折れる音がした。私はそのあたりに見当をつけて発砲した。直ちに背後でリボルバーの音がそれに応じ、弾は私の足下の地面を穿《うが》った。私はかっとした。セイトンは卑怯《ひきょう》にも土塊を投げて私の裏をかこうとしたのだ。星明りの中にうずくまるセイトンの姿を認めるより早く、私は引金を引いた。手応《てごた》えがあって、彼がどうと地面に突き伏すのが気配でわかった。私は死物狂いで銃身を折り、新たに二発|装填《そうてん》した。
銃尾をもとに戻すと、私は闇を透かして音のしたほうへ進んだ。この場で決着をつけなくてはならない。それ以上は神経が保《も》たない。私はふるえの来る体全体でそう感じていた。どっちへ転んでも、ここでけりをつけるしかない。低く構えて向こうを見ると、セイトンが体を伏せて待ち受けているのがわかった。この距離ならショットガンが物を言う。私は銃弾に貫かれる衝撃を覚悟した。撃たれたら撃ち返す。私は二発ともセイトンに浴びせずにはおかぬ決意だった。
が、それにはおよばなかった。ショットガンにやられたら首がもげるほどの距離まで近づいても、セイトンは身動き一つしなかった。よく見ると、彼は顔をねじ曲げて突き伏した恰好《かっこう》で、凍てついた土を掻《か》きむしった手もそのままに意識を失っていた。かたわらに転がった懐中電灯が星の光を小さく反射していた。拾い上げてスイッチを入れると、私の手に生温かい血がべったり付いた。クロームの胴はひしゃげて血を浴びていた。私はセイトンを仰向けに寝かせた。軍用のリボルバーが彼の手から抜け落ちた。彼の左腕は血みどろで、掌《てのひら》は無残に潰《つぶ》れていた。こめかみのあたりも張り裂けて皮膚がめくれ上がっている。しかし、深手を負いながらも命に別状はないと見え、呼吸は乱れていなかった。弾は懐中電灯に撥《は》ね返って彼の側頭部をかすめたのだ。一瞬にして意識を失った彼は、苦痛を感じることすらなかったのではなかろうか。
私はリボルバーをポケットにおさめ、藪の疎《まば》らなところを選《よ》って小径《こみち》に出た。懐中電灯がまだ役に立ったことは幸いだった。私自身、手傷を負って朦朧《もうろう》としていたから、足下が暗かったら果たして農家まで帰り着けたかどうか覚束《おぼつか》ない。
母屋の裏口にたどり着いた時は、すでに体力の限界だった。すがるようにドアを叩いたのを憶《おぼ》えている。自分では叩いたつもりだが、掌が戸板を掻いただけだったかもしれない。その場にへたり込んで私は意識を失った。エルゼは耳を澄ませて外の様子を窺《うかが》っていたに違いない。私はマイスタージンガーどころではなかった。
気がつくと私は火のそばの椅子《いす》にもたれていた。エルゼが血に染まった上着の肩口を切り裂いているところだった。私が目を開けるのを見て、彼女は私の髪を掻き乱した。「あなたは怪我《けが》してばかりいるのね、ニール」彼女は優しく笑った。「誰《だれ》かがそばにいて面倒を見なくては駄目ね」
「クレフマンは?」私は尋ねた。
「ここだ」クレフマンは私の上にかがみ込んだ。「何か用かね?」
私はリボルバーを渡して、セイトンを連れて来るように言った。「まだその辺にいるとしても、もう危険な相手じゃないですよ」
「どうなったの?」エルゼが尋ねた。
話しているところへクレフマンの妻が洗面器に湯を張って運んで来た。エルゼが傷を洗ってくれた。熱湯で傷は疼《うず》いたが、さっぱりしていくらか人心地がついた。
「弾が入ったままだわ」エルゼは懐中電灯で傷口をあらためて言った。
「しっかり包帯をしてくれればいいよ。これから飛行機に乗らなきゃならないんだ」
「飛行機?」
「ああ。トラックは行ってしまったからね。クルトは銃声を聞いたとたんに逃げて帰ったよ。こうなったらセイトンの飛行機を使うしかない」
「でも、飛行場まで一マイル以上もあるのよ」エルゼは眉《まゆ》を寄せた。「この傷じゃあとても歩けないでしょう」
「無理かもしれないな。クレフマンに荷馬車を借りよう。≪帰る客を喜んで送る≫はずだよ」
こんな時にホメロスが出たのは我ながら上出来だ。笑おうとしたが、吐気がつき上げて来た。包帯が巻けるのを待って、私はエルゼにクレフマンの妻を手伝って荷車に馬をつなぐように指示した。タビーの遺体を馬車に移して、私も乗り込んだところへクレフマンがセイトンを担いで戻って来た。クレフマンが頑健な農夫であることが有難かった。セイトンはまだ意識を失ったままだった。消防夫の要領で肩にかついで来たセイトンを、クレフマンはジャガイモの袋か何かのように堆肥の山に投げ出した。
「いいか?」彼は言った。
「ええ、いつでも出られます」
一刻も早く発《た》ちたかった。飛行機はベルリンへ帰る唯一のよすがである。この騒ぎの後でクレフマン夫婦が私たちを泊めてくれるはずがないことはわかりきっている。飛行機をいつまでも放っておけば、それだけ赤軍の兵士に発見される危険も大きい。
エルゼが手を貸して、クレフマンはセイトンを馬車に乗せた。それから、自分で馭者《ぎょしゃ》台に上がって、馬に向かって舌を鳴らした。クレフマンの妻が木戸を開けた。彼女は夫に何やら早口で耳打ちした。クレフマンはうなずいた。馬車は轍の凍てついた道を動き出した。私は別れの挨拶《あいさつ》をしたが、クレフマンの妻はそれには答えず、ただ無表情に立ちつくしていた。私たちを送り出して、内心はほっとしていたことだろう。
私はクレフマンが返して寄越したリボルバーを外套《がいとう》の左のポケットの中で握りしめていた。森陰を馬車に揺られて行く間、私は意識のないセイトンから片時も目を離さなかった。雨雲が拡がって、森の中は漆黒の闇だった。誰も口を開こうとはせず、馬車の軋《きし》りと、時おり馬が鼻を鳴らすほかは、あたりには物音一つなかった。私はセイトンの体に足を掛けていた。馬車が轍に嵌《は》まって激しく揺れ、傾くたびに、刃物で突かれるような痛みが肩胛骨《けんこうこつ》を襲った。私を抱きかかえているエルゼにはその痛みがわかるらしく、波動痛がやって来ると彼女はそっと私の左腕を支えた。
森の中ほどを過ぎた頃《ころ》、セイトンは身じろいだ。意識を回復した彼はしばらく呻《うめ》いて起き上がった。暗い中に白い顔がぼうっと浮かんで見えた。私は思わずポケットの中でリボルバーを取り直した。「動くな」私は言った。「銃を持っているんだ。動くと撃つぞ」
長い沈黙の後、彼は言った。「そう言うお前は、ニールか?」
「ああ」
セイトンは姿勢を変えようとして苦痛の声を洩《も》らした。「俺《おれ》は、どうしたんだ?」
私は答えなかった。自分で考えるがいい。タビーの死が皆の記憶を支配して、重苦しい沈黙が馬車を覆った。
「タビーはどうした?」ややあって、セイトンは尋ねた。「埋めたのか?」
「いや。死体は君の隣だ」
「ええ? 何だって置いて来なかった?」
再び沈黙がわだかまった。私は努めて毛布の下から覗《のぞ》いていたタビーの顔を思い出すまいとした。このかぎりにおいては痛みが幸いした。激痛は意識を占領して、物を考えられる状態ではなかった。私は拳銃《けんじゅう》にすがりついていた。セイトンが妙な動きをしたら迷わず撃つ気だった。彼は私の殺意を感じてか、森を抜けるまで身じろぎ一つしなかった。
やがて、馬車は森をはずれて飛行場に乗り出した。真っ暗な空から大粒の雨が落ちはじめた。
「飛行機はどこに駐《と》めた?」
セイトンは私の問いに答えようとしなかった。黙っていれば飛行機の在処《ありか》は知られまいという計算だろうか。私は前方の闇に目を凝《こら》した。馬車は揺れながら果てしない暗黒の奥を指しているとしか思えなかった。しかし、人間の目が利かぬ闇夜でも、馬は目が見えるのかもしれない。気がつくと、すぐそこに飛行機の輪郭も定かでない黒い影が立ち上がっていた。クレフマンは手綱を絞って私をふり返った。「誰か行って様子を見たほうがいいな」
「私が見て来るわ」エルゼはそっと私から体を引いて身軽に跳び降りた。見るまに彼女は闇に呑まれた。私は体を堅くして待った。今にもソ連軍の兵士に誰何《すいか》されるのではないかと気が気でなかった。しかし、雨音を除いては、飛行場に何の物音も聞こえはしなかった。エルゼはほどなく戻って来た。「大丈夫よ」
馬車はまた飛行機に向かって動き出した。エルゼが馬の先に立って、飛行機の横腹に馬車を誘導した。
この飛行機が私たちとベルリンを結ぶ掛け橋だと思うと、一種言いがたい感慨に打たれずにはいられなかった。今ここに駐まっている飛行機は、生命のない金属の集合物にすぎない。パイロットがこれを制御することによって飛行機はガトウへ飛ぶのだ。飛行機は不可能を可能にする人間の知恵を象徴するものと言える。飛行機に乗れば、わずか数分にして見知らぬ土地から住み馴《な》れた町へ帰ることができる。しかし、それにはパイロットが操縦しなくてはならない。飛行機を掛け橋たらしめるのは、ほかならぬ自分であることに思い至って、私は暗澹《あんたん》たる気持ちに襲われた。傷を押して、航空士の助けもなしに、暗夜を飛行しなくてはならないのだ。飛行機がダコタだったのはせめてもの慰めだった。四発機だったら、とうてい私の手には負えなかったと思う。
エルゼとクレフマンがタビーの遺体を飛行機に運び込む間、馬車には私とセイトンの二人きりになった。彼は体を揺すった。
「じっとしてろ」私は命令した。
「どうする気だ?」
「君の飛行機でガトウへ帰るんだ」
「俺は?」
「もちろん一緒だよ」
しばらく考えてから、セイトンは言った。「お前、怪我してるんじゃないのか、え?」
「ああ。でも、心配するな。ちゃんと飛んでみせる」
「途中でへばったら、どうする?」
「その時は、君が替ってどこへでも好きなとこへ飛んで行きゃあいい」私はその場の機転でこう言ったわけではない。しかし、今にして思えば、このひと言でセイトンは踏み止《とど》まったに違いない。長時間、意識を失っていた彼は、その場で逃亡を図るだけの体力がなかったかもしれないが、もし、あそこで逃げ出していたら、彼にも生き延びる望みはあったのではなかろうか。
エルゼとクレフマンが昇降口に顔を出した。
「乗れ!」私は銃を抜いてセイトンに命令した。「妙な真似《まね》をしたら容赦しないぞ」
彼は無言で立ち上がった。動作が鈍いことを除けば、怪我を負っているようには見えないふてぶてしい態度だった。私は眩暈《めまい》と吐気に悩まされながら、背後へ回って彼を追い立てた。クレフマンは馭者台に上がって手綱を取り、舌を鳴らして馬を急《せ》かした。私は昇降口から礼を言ったが、彼はふり向こうともしなかった。すでに馬車は闇に隠れ、車輪の軋《きし》りと蹄の音だけが、今しがたまでたしかに彼がそこにいたことを伝えているばかりだった。
「クレフマンさんもこれで厄介払いね」エルゼは張り詰めた声で言った。
クレフマンを責めることはできない。さんざん迷惑をかけておきながら何一つ埋合せらしいこともできないのが心残りだった。夫婦は本当にタビーによくしてくれたのだ。
「ようし、ドアを閉めて」私は言った。室内灯をつけて、はじめてセイトンの顔を見た。蒼《あお》ざめた顔に泥と血が縞《しま》を作っていた。左腕は力なく脇《わき》に垂れ、潰《つぶ》れた手からまだ血が滴り落ちていた。
「坐《すわ》れ」私は指示した。
胴体の片側に並んだシートのほうへ行きかけて、セイトンは私をふり返った。
「ニール。ここは一つ、取引きしないか?」
「お断りだ」私は突っぱねた。「今さら、どの口でそういうことを言うんだ」
「タビーのことがあるからか?」
「ああ」
セイトンはふんと鼻を鳴らして血だらけの顔をこすった。「仕方がなかったんだ」彼は大儀そうに言った。「お前のせいだ」
「あれははっきり故意の殺人だ」
セイトンは肩をすくめた。「お前のせいで、切羽《せっぱ》つまって俺はやったんだ。お前が大きな目で物を見られないのが残念だな。俺たちの将来を考えたら、人一人の命が何だっていうんだ?」
「タビーは友だちじゃないか」
「俺が喜んであんなことをやったと思うのか?」彼はきっと気色ばみ、それから自分に言い聞かせるように言葉をついだ。「あいつはなかなか死ななかったよ。枕《まくら》を引っ張り出した時、あいつは俺がどうする気か察していたに違いないんだ。俺だってあんなことはしたくねえ。俺にあんなことをさせた貴様が憎かったぜ」
私はリボルバーを握りしめた。
「もう済んだことだ」彼は言った。「うっちゃっておきゃあいいものを。何だってタビーを犬死にさせるんだ?」
私の供述書を差し止めようとした時とまったく同じ論法だった。セイトンは自分の野望という視点からしか物を考えられない男なのだ。
「坐れ!」私は重ねて命じてエルゼをふり返った。「こいつを見張るんだ。これの使い方はわかるね?」
彼女はリボルバーを受け取ってあらためた。「安全装置は、はずれているの?」
「はずしてある」
彼女はうなずいた。「それさえわかればいいわ。あとは大丈夫」
セイトンは腰を降ろした。
「君はこっちだ」私はエルゼに場所を指示した。「近づいては駄目だよ。セイトンが席を立とうとしたら構わず撃つんだ。いいね? それだけのことで人を撃つ覚悟があるか?」
エルゼはちらりとセイトンに目をやった。「心配しないで。撃ち方はわかるわ」
彼女はセイトンにぴたりと銃をあてがった。銃口は微動だにしなかった。セイトンが腰を浮かせば、エルゼは迷わず引金を引くに違いない。コックピットへ行きかける私の手を取って、彼女は言った。「あなたは大丈夫、ニール? 手伝うことはないの?」
「大丈夫だ」私は言った。
彼女はにっこり笑い、私の怪我していないほうの腕を叩いて低く言った。「しっかりね」
正直なところ、大丈夫と胸を張れる状態ではなかった。操縦席に坐った時には眩暈《めまい》がして、気が遠くなりそうだった。エンジンは一発で始動した。暖機回転させながら、私は航空士の席へ移って針路を検討した。離陸さえ無事にやってのければ、ベルリンへ飛ぶのに何の困難もあるまい。気がかりなのは、空輸編隊が引きも切らずに運行していることだった。編隊より高度を上に取ったにしても、ベルリン上空に達したら割り込まなくてはならない。おまけにこの天候である。雲の中で空輸編隊に割り込むとなると、衝突の危険なしとしない。
私はしばらく航空士の席に坐ったまま、萎《な》えて行く自信を呼び戻すことに努め、胃の腑《ふ》の底が抜け落ちるような恐怖と戦った。行先はベルリンと決まったものではないのではなかろうか。空輸基地のどこかへ向かう手もある。ヴンストーフでもいいし、ツェレならもっと近い。北のルーベックならなお近い。とはいえ、航空士はいず、私は満足に飛行機を操縦できる状態ではなかった。ルーベックまではほぼ百五十マイル。一時間の距離である。ガトウなら、たかだか二十分で飛べるのだ。
私はスロットルに手を伸ばし、エンジンの回転を上げた。迷わずガトウへ行くことだ。前照灯をつけてブレーキを放した。滑走路の端で位置に着いて、私はエルゼに声をかけた。
「いいかい? ベルトは締めたね?」
「ええ」彼女は答えた。「いいわ」
「行くぞ」スロットルを握る手に力を入れると、たちまち目も眩《くら》む激痛が肩に走った。右手は使えない。エンジンを制御するには操縦|桿《かん》を放さなくてはならなかった。またしても、胃の腑の底が抜け落ちるような恐怖が襲って来た。こんな体で飛べると思った私は馬鹿だった。とはいえ、ほかに道はない。何はさておき、ソ連地区から抜け出さなくてはならないのだ。
エンジンの回転が上がって機体は激しく動揺した。私は計器盤に目を走らせた。すべて異常なし。風防を透かして前方を見ると、雨はいつしかどしゃ降りに変わっていた。前照灯の光が届く果ての、枯草に覆われた滑走路に早くも濁流が迸《ほとばし》り、銀の紗幕《しゃまく》を垂らしたような雨脚が視界を遮っていた。
一瞬、私はたじろいだ。が、理性が恐怖を肯《がえ》んじるより早く、私はブレーキを放していた。飛行機は篠《しの》つく雨の中を滑走に移った。濁流の走る滑走路が見るまに速度を増しつつ機体の下をすり抜けて行った。私は操縦桿を膝頭《ひざがしら》で支えながらエンジンを制御した。後輪が浮き上がるのがわかった。私はまるで自分の腕力で機体を引き揚げるような気持ちで操縦桿を起こした。何かが眼下をかすめ去った。樹冠か、廃墟《はいきょ》と化した飛行場の付属施設か、確認する隙《ひま》もなかった。墨を流したような闇の中を機体は一線に上昇した。雨が叩きつける風防に、コックピットの明りに照らされた私自身の蒼白い顔が映っていた。
私はエンジンの調子を見ながら、緩《ゆる》やかな弧を描いて上昇した。高度七〇〇〇フィートで雨雲を抜け、星の明るい空に出た。私は水平飛行に移ってひとまずほっとした。油圧もエンジンの回転も正常だった。全身から力が抜けて行くような気がした。瞼《まぶた》がひとりでに閉じた。私は自分を叱《しか》って大きく目を見開いた。ここで気を許しては、たちまち意識を失う恐れがある。私は敗北を拒む一心で、必死に睡魔と戦った。時計の針は五時十五分前を指していた。この分なら五時にはガトウに着ける。それにしても、この寒さは耐え難い。
一度エルゼが様子を見にやって来た。彼女も疲労の色が濃く、蒼い顔の中でその目はことさら大きく見えた。彼女は後部に銃を向け、セイトンに視線を据えたまま、私に声をかけた。
「セイトンはどうだ?」私は尋ねた。
「おとなしくしてるわ」
「席から立ったりしないかい?」
「ええ、じっとしているわよ。こんなことになって、茫然《ぼうぜん》としているのではないかしら。それに、出血がひどいでしょう。体力も弱っているんだと思うわ」彼女はそっと私の肩に触れた。「着陸は、大丈夫?」
「ああ。いいから席へ戻って、ベルトを締めて。もうすぐ降りるぞ」
彼女はうなずいた。「気をつけてね、ニール」
私は答えなかった。エルゼは後部の座席に戻った。眼下には灰色の雲海が拡がっていた。雨雲の天辺である。星の降る晴れた夜空を飛ぶことは何の造作もないが、あの雨雲を潜《くぐ》って着陸するとなると話は別だった。あとほんの数分もすれば、私は濃い雲を突き抜け、激しい雨の中にわずか一マイル四方の定められた場所を見つけ出して、そこへ降りなくてはならない。そう思っただけで吐気がした。こんなことならルーベックへ向かえばよかったのだ。北寄りのルーベックなら気象条件ももっと好いのではなかろうか。しかし、今となってはもう遅い。
私はコックピットで名状し難い不安に駆られていた。このままどこまでも飛び続けたいと思った。時間も場所も、意識すらもない無限の彼方《かなた》まで飛んで行くことができたら、どんなに楽なことだろう。私は何度も時計に目をやった。針が五時を指すと、私はほとんど無意識のうちに操縦桿を倒して飛行機の高度を下げた。長年の飛行体験で身についた習い性だった。意志が体に命じた動作ではない。この時の私は意識も肉体も、挙げて着陸行動を拒んでいたのだ。
厚い雲が目の前に迫った。今しがたまで平らな雲海と見えていたものが、渦巻き流れる煙霧の波動と化した。星は掻き消え、視界は闇に閉ざされた。私は高度計の文字盤を見据えた。六〇〇〇……五五〇〇……五〇〇〇。イヤフォーンにフローナウ上空の飛行機に指示を飛ばすガトウ管制部の声が入って来た。「オーケー、ヨーク315。チャンネルA‐エーブル。管制塔を呼べ」別のヨークが二十マイル手前で機体番号と積荷を報告した。「ヨーク270。進入許可」
私はAボタンを押してガトウの管制塔に周波数を合わせた。「ヨーク315。QSY許可。チャンネルD‐ドッグ。ガトウの監視員を呼べ」
チャンネルD‐ドッグ。着陸誘導管制のことである。地上は最悪の条件に違いない。視界ゼロのどしゃぶりだろう。誘導管制に従って着陸しなくてはならない。まったくはじめてのことだった。私が爆撃機に乗っていた現役時代には、そのようなシステムすらありはしなかった。私は咳払《せきばら》いすると、Bボタンを押してガトウ航空を呼び出した。「ハロー、ガトウ航空。ガトウ航空」
イヤフォーンにガトウの応答する声が微かに返って来た。「こちら、ガトウ航空。機体番号と現在位置を知らせろ。機体番号と現在位置、どうぞ」
「ハロー、ガトウ。機体番号はない。ホルミントから帰還途中のセイトンのダコタだ。フレイザーが操縦中。今から水平飛行に移って、フローナウ・ビーコンで位置を知らせる。着陸誘導を願う。以上」
「こちら、ガトウ航空。ガトウは着陸不能。繰り返す。ガトウは着陸不能。通過《オーバーシュート》してヴンストーフへ向かうように。ヴンストーフへ回れ。以上」
眩暈《めまい》がして意識が遠のきかけたが、辛うじて持ちこたえた。「こちら、フレイザー。何としてもガトウへ降りたい。負傷しているんだ。ガトウへ着陸する」私はタビーのことやセイトンの状態も報告したが、まるで相手にされなかった。
「オーバーシュートしてヴンストーフへ回れ。繰り返す。オーバーシュートしてヴンストーフへ回れ」
「これ以上飛べる状態じゃないんだ!」私はいきり立って叫んだ。「俺は降りるぞ。繰り返す。俺は降りる」
しばらく沈黙があってから管制官は応答した。「了解、フレイザー。現在位置は? どうぞ」
私はとっさに計器盤を見回した。飛行機はスペリー自動航行装置を積んでいた。「フローナウ・ガトウ間でM/F方位を確認するから、それまで待ってくれ」
私は自動航行に切り替え、航空士の席に移って方位を確認し、現在位置を割り出した。シュパンダウのほぼ真上だった。私は操縦席に戻った。弾《はず》みで腕をこじり、胃袋が裏返しになりそうな激痛に襲われた。操縦桿の上に倒れ込むようにしながら、私はガトウを呼んだ。
「ハロー、ガトウ。こちら、フレイザー。現在エンジェル5でシュパンダウ上空を飛行中。誘導願う。誘導願う。現在、針路〇八五。誘導願う。以上」
「ハロー、フレイザー。現在の高度と針路を保つように。追って指示を与える。了解したら現在の速度を報告しろ」
「速度、一三五。指示を待つ。以上」
私は額の汗を拭《ぬぐ》って自動航行装置を解除した。またもや吐気がこみ上げ、頭は鉛が詰まったようで、まるで意識が働かなかった。イヤフォーンから空輸編隊に呼びかける管制塔の声が聞こえていた。後部からセイトンが声をかけて来た。
「フレイザー! どうかしたか?」
「いや、大丈夫だ」
「何なら、手を貸すぞ」
頼む、と言いたいところだが、セイトンは信用がならない。「大丈夫だと言ってるだろう! 余計な口を叩くな!」咽喉《のど》がつかえ、舌はぼろ雑巾《ぞうきん》のようだった。吐気はさらに募《つの》った。
「ハロー、フレイザー。ガトウからフレイザーへ。聞こえたら応答しろ」
「こちら、フレイザー。聞こえるぞ」声を出すと胃袋の中が逆流しそうだった。私は深く息を吸った。助けてくれ。早く終りにしてくれ……。
「着陸誘導管制が君の飛行機を確認した。チャンネルD‐ドッグで地上監視員を呼べ」
「了解」私は汗に濡《ぬ》れてふるえる指でDボタンを押した。「ハロー、ガトウ監視員。フレイザーから誘導管制監視員へ」
それまでとは別の、歯切れの良い声が応答した。「針路を一八〇に取れ、フレイザー。針路、一八〇」
「了解」
私は勇を鼓して操縦桿を倒し、同時に方向|舵《だ》を右に傾けた。機体の横揺れを感じると、額に脂汗が噴き出した。着陸までとても持ちこたえられそうにない。操縦桿が鉛のように重かった。舵棒《かじぼう》を踏むと肩がシートの背もたれに触れる。痛みは容赦なく肩を貫き、頸部《けいぶ》から頭の芯《しん》に伝わった。やっと機首を立て直した時には死ぬ思いだった。これはまだ序の口だろう。地獄の苦しみとはこのことだ。
「ようし、上等だ、フレイザー」誘導管制監視員の声がイヤフォーンに響いた。「レーダーははっきり機影を捉《とら》えている。次は左二四五に針路を取って、高度を三〇〇〇に下げろ。了解したらその旨、応答するように」
「了解」
私は監視員の声に神経を集中して針路を変えた。依然、吐気に悩まされていた。誘導管制で着陸したことがないのが悔やまれる。滝のような雨が風防を叩いていた。機体は激しく動揺し、針路を保つための動作がことごとに肩の傷を責めた。私は計器盤に視線を据えて息をつめた。高度計の夜光の針は徐々に傾き、コンパスの針は二四五を指してふるえていた。
エルゼが私の肩に触れた。「大丈夫、ニール? 何か私でできることはある?」
「いや、心配しなくていい。君はセイトンを見張っていればいいんだ」
彼女はハンカチで私の額の汗を拭いた。「手伝えることがあるなら……」
「大丈夫だって」私は声をとがらせた。「座席へ戻ってベルトを締めろよ。もうすぐ着陸するぞ」
エルゼは去りかねる様子でそっと私の手を押さえた。愛撫《あいぶ》でもあり、力になりたいという意志表示でもあった。ややあって、彼女は無言で立ち去った。コックピットに独りになった私の耳に監視員の声が響いて来た。
「右二五〇に針路を取れ、フレイザー。針路、右二五〇。速度を一二〇に落とせ。ようし、その調子だ。もうすぐ無線標識進入路《グライド・パス》に入る。気分はどうだ?」
「ああ、気分は上々だ」私は答えた。口をきくのも大儀だったが、目が霞《かす》んで計器が見えないと訴えたところで、どうなるものでもない。神経を集中すると眩暈《めまい》は波のように襲って来た。
「ハロー、ヨーク270。高度三〇〇〇に上昇して基地へ戻れ。高度三〇〇〇で基地へ戻れ。前方に緊急着陸機。応答せよ。どうぞ」
ガトウの管制塔が私のためにほかの飛行機を退去させていた。ヨーク270は直ちに指示に従った。誘導管制がまた私に呼びかけた。
「右二五二だ、フレイザー」
私は舵棒を軽く踏んで針路を修正した。
「いいぞ、フレイザー。それでグライド・パスに入った。速度を一〇〇に落せ。フラップを下げて、脚を降ろせ。接地まであと二マイルだ。その調子。聞こえるか? どうぞ」
「ああ、聞こえる」私は答えた。
また別の声に変った。「今から着陸誘導に入る。応答の要はないから、確実に指示に従うように。フラップと脚の作動を点検しろ。毎分五〇〇フィートの割で高度を下げろ。今、グライド・パスの五〇フィート上に出ている。ああ、それでいい。ようし、グライド・パスに入った。あと一マイル……」
風防に映った自分の顔のほかは何も見えなかった。計器盤は針も数字もぼやけて読み取れない。イヤフォーンから聞こえてくる誘導管制の指示だけが頼みである。私は全身これ痛みと化しながら、ひたすら指示に従った。痛みは神経網を駆けめぐり、防犯ベルのように頭の芯《しん》に響いた。今にも頭が割れそうだった。頼むから、ここで意識を失うようなことにだけはならないでくれ。私は祈った。
「……あと半マイル。進入角度が急すぎるぞ。グライド・パスの下へ出ている。機首を上げろ、フレイザー! 機首を上げるんだ!」
私は歯を食いしばって操縦桿を引いた。
「ようし来た。そのまま、そのまま。左へ一度。接地するぞ。姿勢を水平に直せ。もう滑走路灯が見えるはずだ。水平に直せ。水平だ。前方注視。そこからは、進入角を目視確認して接地しろ」
私は雨の流れ落ちる風防を透かして前方を注視した。誘導灯の列が見えて来た。滲《にじ》んだ光が幻想的だった。機体が急に沈むのを感じた。私は尾部を下げすぎていた。機首を上げる隙《ひま》もなく誘導灯は目前に迫った。接地の衝撃が肩に伝わって、私は思わず苦痛の叫びを発した。機体ははずんで宙に浮いた。私はとっさに舵棒を蹴《け》って操縦桿を正位置に直した。機体は再び接地した。今度は弾まなかった。私は全身を苦痛の炎に焼かれながら、操縦桿にもたれ込んでブレーキをかけた。機体は大きく傾き、尻《しり》をふって、のめるように止まった。私は意識を失った。
ほんの一瞬のことだったと思う。気がつくと、エルゼが駆け寄って来るところだった。「大丈夫? ニール!」
私はのろのろと体を起こした。機体が静止しているのが信じられない気持ちだった。助かった。どうにか着地しおおせたのだ。私は手の甲で目に流れ込む汗を拭《ぬぐ》った。機外の人声や車の音、私の後を追うように着陸して来る飛行機の爆音が一つになって耳を打った。
「ああ」私はやっとのことで言った。「大丈夫。君は?」
「私はちゃんとベルトを締めていたから」エルゼはひざまずいて私の襟を寛《くつろ》げた。「立派だったわ、ニール。セイトンはあなたのすることを正気の沙汰《さた》じゃないって。無事に降りられるわけがないって言ったわ。無事に降りてほしくないからよ。それなのに、降りたとなったら、今度は……」胴体のドアが開く音に彼女はふり返った。「基地の人たちよ。すぐ病院で手当てを受けられるわ。今度こそ、あなたもゆっくり休めるわね」
コックピットの入口から何人もの男がなだれ込んで来た。目がかすんで顔がわからなかった。
「どういうことだ、フレイザー?」フライング中佐の声だった。「君のせいで飛行機が二機、オーバーシュートして基地へ舞い戻る破目になった。君はヴンストーフへ回るように指示され……」
「待って下さい」エルゼが中佐をさえぎった。「この人は負傷しています」
「自分で蒔《ま》いた種だ」中佐はけんもほろろだった。「指示に従っていれば……」
「ニールは撃たれているんですよ」エルゼは言い返した。「どうやってヴンストーフまで飛べっていうんですか? 早く医師の手当てを受けさせて下さい。重傷です」
私は左手でエルゼの腕にすがった。「立たせてくれ」
彼女は私の腋《わき》の下に手を回した。私は航空士のテーブルにつかまって目を閉じ、遠ざかる意識を呼び戻した。基地司令官が昇降口に顔を出した。司令官が看護兵を呼ぶ声がどこか遠くで聞こえたような気がした。司令官は私に向き直った。
「救急車に乗る前に、一つ訊《き》きたいことがある。交信中の異常な発言をどう説明するね、フレイザー?」
「何のことでしょう?」私は理解しかねて訊き返した。
「カーターが殺害されたという意味のことを言っていたようだが……」
私は目頭を押えた。助けてくれ。こっちが死にそうだ……。
「カーターは殺害されました。私がソ連地区から救出することを嫌ってセイトンが殺したのです。私がカーターを連れて帰れば、供述書の事実が立証されますから」
眩暈《めまい》がいくらかおさまって、司令官の背後に控えたピアス少佐の顔がわかった。
「これで、でたらめじゃあないことがわかったろう」ピアスに向かって私は言った。
「セイトンはどうした?」彼は尋ねた。「一緒に連れて帰ると言ったんじゃないのか?」
「セイトンに使用を許可した飛行機を君が操縦して戻ったのはどういうわけだ?」司令官が割り込んだ。
「セイトンはどうした?」ピアスが重ねて尋ねた。
寄ってたかって質問ばかり。どうして放っておいてくれないのだろうか。
「何で俺の言うことをまともに聞こうとしないんだ?」私は出ない声を張り上げた。「今もまだ疑っているな。ようし、これを見ろ」私は人垣を押し分け、ふらつく足で荷物室へ歩いた。タビーは毛布にくるまってシートにくくりつけられたままだった。「ピアス! ここへ来て、これを見ろ」
ピアスは毛布の端をまくって、あっと息を呑んだ。張りつめた沈黙がわだかまった。「そうか。カーターは、本当にそのホルミントの農家にいたのか」彼はゆっくりと毛布をもとに戻すと、向き直って私の左手を握った。「済まなかった、フレイザー。私は間違っていた。で、セイトンはどうした?」
セイトンの姿はどこにもなかった。私はエルゼをふり返った。「君が見張っていたはずだろう。どこへ行った?」
エルゼは肩をすくめた。「どこって……。私は着陸してすぐコックピットへ行ったから、その後のことは知らないわ」
ピアスは昇降口へ走った。「軍曹! まっ先に駆けつけたのはお前だな。誰か飛行機から降りた者はいないか?」
「はい、少佐」機外で答える声がした。「長身で体格の良い男が一人……」何やら早口で低いやりとりがあってから、軍曹が言った。「緊急の報告があると言ってジープを一台徴発しました。負傷している様子で、血だらけでした」
ピアスは私をふり返り、タビーの遺体を顎《あご》でしゃくった。「セイトンがやったんだな?」
「ああ」私はうなずいた。
「わかった。軍曹! 俺のジープを使え。そいつを逮捕しろ。名前はセイトンだ」ピアスは険しい表情でコックピットに駆け込んだ。やがて、彼が無線で空軍憲兵隊を呼び出し、直ちに空港の出入口を閉鎖して、駐機場を捜索するように指示する声が聞こえた。
輸送機がまた一機、爆音を轟《とどろ》かせて降下した。司令官は私の腕を取った。「済まなかった、フレイザー。私らは、揃《そろ》って間違いを犯したようだな。それでは、君を軍医少佐に預けるとしよう」司令官は私を支えて昇降口へ向かった。救急車が待機していた。「ああ、ジェントリー。フレイザーは負傷している。直ちに病室へ運ぶように」
エルゼと司令官の肩を借りて、私は飛行機を降りた。誘導灯が激しい雨脚ににじんでいた。救急車に乗ろうとするところへ、ピアスが昇降口から何やら叫んだ。「どうした、ピアス?」司令官が尋ね返した。
「セイトンです」ピアスは急《せ》き込んで言った。「今、管制塔から無線連絡がありました。481号機……セイトンのテューダーが管制塔の前を通過して滑走路へ向かいました。制止しても応答しないそうです。空軍連隊のパトロールカーがこっちへ向かっています」
私たちは一斉に赤い信号灯の並ぶ東の誘導路をふり返った。雨の幕《とばり》を透かして、今しも角を曲って滑走路へ乗り出そうとする飛行機の前照灯が微かに見えた。断続的に強まる雨脚にその光は瞬《またた》いた。と、エンジンの回転が上がり、一対の光点は加速しながら私たちの目の前を流れ去った。上昇した白色の尾灯は、たちまちにして厚い雨雲に呑まれて消えた。地面を揺るがせて眼前を過《よぎ》った一瞬、私はセイトンのテューダーをはっきりと見た。それは私のテューダーでもあった。タビーを死に追いやった一機だった。
逃亡を図ったセイトンのことを思うと、私は何ともやりきれない気持ちだった。エンジンのこともある。セイトンに協力してタビーが心血を注いだエンジンだ。
「追跡して下さい」私は司令官に言った。「逃がしたら駄目です」
「心配するな」司令官はこともなげに答えた。「逃がすものか。戦闘機を発進させて、強制着陸させる」
私は後悔した。私は人狩りをけしかけたことになる。セイトンは逃げきれまい。私は激しく身ぶるいした。軍医少佐が私を救急車に押し込んだ。病室へ運ばれる間、私はずっとテューダーのコックピットで操縦桿を握っている孤独なセイトンのことを思い続けた。私と同様、彼は傷を負っている。彼には目指すべき目的地もない。苦痛を癒《いや》す術《すべ》もない。いずれは意識を失う時が来る。そして……。
「あの人はあれでいいのよ」エルゼが物思わしげに言った。
私はうなずいた。たしかに、これでいいのかもしれない。しかし、私は割り切れない気持ちだった。セイトンはどこへ向かう気だろうか? ソヴィエトか、あるいはその衛星国のいずれかか。ソ連は喜んで彼のエンジンを買うだろう。鉄のカーテンの向こうで、彼は生涯安楽に暮すことになるのだろうか。
私の心を読んだかのように、エルゼは言った。「セイトンのことは心配しなくていいのよ。鉄のカーテンの向こうへ行ってしまったんですもの。それよりも、西側が失ったあのエンジンを作り直すのが私の役目だわ。そのためには、あなたの助けが必要なのよ、ニール。あのエンジンを知っているのはあなただけですもの」
私は答えなかった。私はセイトンが国のために二度の戦争を戦ったことを思い出していた。何としてもあのエンジンをイギリスの手で量産させたいと思うばかりに、彼は人をあやめてしまったのだ。そのセイトンが、身の安全と引き換えに、あのエンジンをソ連に渡すだろうか?
軍医少佐は私をベッドに寝かせようとした。しかし、弾を抜いて包帯を巻いてもらうとすぐ、私は司令部に案内を求めた。軍医の親切はわからないわけでもなかったが、ベッドに横たわってじっと知らせを待つのはとうてい耐えられなかった。結局、軍医が折れて、乾いた服の上に毛布をはおることを条件に、私が司令部の作戦室で情況を見守ることを許した。
作戦室は混み合っていた。基地司令官。ピアス。フライング中佐。例の情報将校。知った顔がみな揃っている。誰かが私に付き添ったエルゼを締め出そうとした。私はその男をどやしつけて追い払った。ハリー・カリヤーがやって来た。
「ダイと死体公示所へ行って来たよ。妹から君に、くれぐれもよろしくと……」彼は曖昧《あいまい》に言葉を切った。「妹はかなり参っているよ。無理もないな」
「セイトンはどうした?」私は尋ねた。
「戦闘機編隊が追跡しているよ」
基地司令官が私の声を聞きつけてふり返った。「逃がしはせんよ。天気も西から晴れて来ることだしな」
「西から?」私は訊き返した。
司令官はうなずいた。
「じゃあ、セイトンは西へ向かっているんですか?」
「そうだ。ついさっき、移動レーダー隊がハノーヴァーの南でセイトンを発見した」
「じゃあ、ソ連へは行かなかったのね」エルゼが目を丸くして言った。
「行くはずがないさ」私の思ったとおりだった。
「でも、どうしてソヴィエト領へ逃げないのかしら? 東側へ逃げ込めば安全なのに、そこに気がつかないなんて、私には理解できないわ」
万事理詰めのドイツ人に、セイトンがなぜ東側に対してそっぽを向いたかわからせるのは至難の技《わざ》だろう。私はエルゼに説明することを放棄して、手近の椅子にへたり込んだ。その間も拡声器からひっきりなしに無線連絡が流れていたが、私は聴く気にもなれなかった。戦闘機から刻々と入って来る報告に、私は胸の裡《うち》で耳をふさいでいた。戦闘機の編隊に追われているセイトンを思うと背筋が寒くなった。その意志があれば、彼はとうの昔に引き返しているはずではないか。
時間はのろのろと過ぎて行った。五時半……六時……六時半。飛行場に曙光《しょこう》が差しはじめた。いきなり拡声器から雑音混じりの報告が流れ出した。
「ただいまセイトンを追尾中。高度一〇〇〇〇フィート、針路西北微西。セイトン機は現在スヘルト河口上空。イギリスへ向かっているものと思われます。うるわしの故郷ですか。どうします?」
「針路を妨害してドイツへ向かわせるように言え」司令官が通信士に指示した。「編隊で包囲しろ」
一同は固唾《かたず》を呑んで交信に耳を傾けた。編隊は直ちに蜂《はち》の群さながら、セイトンのテューダーを取り囲み、鼻先をかすめ、上下左右から威嚇して反転させることを試みた。私はテューダーのコックピットで孤独と戦っているセイトンの姿を思い描いた。手当てをしていない傷口からは今も血が滴《したた》っている。戦闘機は風防に接触するばかりに至近をかすめて威嚇を繰り返す。私は戦闘機が耳を圧する爆音とともにすり抜けるたびに、テューダーの塗料が剥落《はくらく》するのを自分の肌で感じるほどだった。操縦桿のわずかな動きにも目が眩《くら》むばかりの激痛が伴う。その苦痛は今なお私自身の記憶の中で疼《うず》いている。私にはセイトンの胸中が手に取るようによくわかった。
通信士は何度もセイトンに呼びかけ、ガトウかヴンストーフに引き返すよう説得した。私は今にもセイトンの声がはね返って来はしないかと体を堅くして待ち続けたが、ついに彼が応答することはなかった。時間は這うように緩慢に経過した。絶えず無線交信が錯綜《さくそう》する中で、将校たちが厳しい表情で居並んでいる作戦室が、私には現実世界とは思えなかった。いつか私はテューダーのコックピットにセイトンと並んで乗っている気持ちになっていた。
「針路を変えて北進中。針路、北。繰り返し針路妨害を図っていますが、セイトンは反転する気配もありません。まっすぐ北に向かっています。行動を指示願います。これ以上は接近できません」
編隊長は危険な追跡飛行の興奮に声が上ずっていた。
私は司令官の応答を聞かなかった。私の意識は機上のセイトンとともにあった。彼は蒼ざめた顔で操縦桿に覆いかぶさっている。舵輪は血汁にぬめり、握る指の間からはなおも血が沁《し》み出している。胸板の厚い頑丈なセイトンの姿が眼前に見るように瞼《まぶた》に浮かんだ。闘牛士の赤いケープに徴発された雄牛に似て、もはや突き進む以外はないセイトン。どうする気だろうか。彼は何を考えているのだろうか。
私の疑問に答えるかのように、編隊長の声が弾《はじ》けた。「セイトンが機首を下げました。現在、北海上空」隊長は一段と声を張り上げた。「動力急降下! われわれをふり切る意図か、動力急降下に移りました。あぁっ! いえ、何でもありません。フレディが急降下するテューダーの鼻先を横切りました。てっきり接触すると思いましたが、間一髪でかわしました。自分はセイトンを追尾中。出力全開で降下しています。対気速度三二〇。至近距離で追尾中。なお降下しています。高度五〇〇〇。四〇〇〇……三〇〇〇……二〇〇〇。駄目です。これでは立ち上がれません。とうてい無理です。立ち上がれません」
沈黙が続いた。戦闘機は追尾を断念して機首を立て直したに違いない。編隊長の報告を待つまでもなく、結果はわかりきっていた。
「反転上昇、旋回中。テューダーは頭から海へ突っ込みました。今は水煙もおさまって、海面にわずかに油が拡がっているだけです。機体は沈んで、破片一つ見当たりません。機首を起こそうとする様子もなく、そのまま、まっすぐ突っ込みました。これより帰還します。編隊、これより帰還」
重苦しい沈黙に覆われた作戦室に、部下たちを呼集する編隊長の声が響いた。それを遠くに聞きながら、私は言いようのない喪失感を味わっていた。セイトンのような男は同情に価《あたい》しない。彼の野望は社会規範を逸脱し、ついに彼は人を手にかけたのだ。だが、しかし……セイトンが人間としてある種の卓越したものを具《そな》えていたことは否《いな》めない。セイトンは幻を見た男だった。
私は椅子の中で強張《こわば》った体を起こした。ふと我に返ると、エルゼが私の手を握っていた。カリヤーが最初に口を開いた。「気の毒に。意識を失ったんだろうな」
私はそうでないことを知っていた。エルゼも同じだった。
「あの人は最善の道を選んだのよ」そういう彼女の声には畏敬《いけい》の響きがあった。
「こういう結果になったのは残念だ」司令官が低く言った。戦闘機を発進させたことを後悔していたと思う。
私は目を閉じた。綿のように疲れきっていた。
「フレイザー」
顔を上げると、カリヤーが覆いかぶさるように立っていた。
「君はセイトンがあのエンジンを完成するのに手を貸したんだったな?」
私はうなずいた。口をきくのも億劫《おっくう》だった。
「知ってのとおり、今、アメリカ政府とラウフ・モトーレンの間で、ここにいるマイヤーさんの協力を得て、あのエンジンを復元しようという話が進んでいるんだ。もちろん、それにはかなり時間がかかるだろうがね。そこで、イギリスの知恵も借りられないものだろうか? 君たち二人して、この計画に参加するというのはどうかね?」
まだエンジンがどうだこうだと言っているのか。エンジンなんぞは糞喰《くそくら》えだ、と喚《わめ》いてやりたかった。そのために人が二人死んだではないか。
と、私とエルゼの目が合った。彼女の目は期待に輝いていた。私はそこに自分の将来を見出した。
「いいね、一緒にやろう」
考えてみれば、それも悪くない。エルゼと私で西側のためにあのエンジンを復元すれば、タビーとセイトンの死も無駄には終るまい。気持ちが片づくと、体じゅうの緊張が解けていった。本当に久しぶりで私は心から安らいだ。エルゼは頬《ほお》をほころばせた。彼女は満足していた。肩の傷はまだ痛かったが、私もまた、これでいいと思った。
[#改ページ]
訳者あとがき
本書は一九五一年に発表されたハモンド・イネスの Air Bridge の全訳で、冒険小説の巨匠の初期に属する作品である。大戦後の混乱から立ち直ろうとするヨーロッパ、なかんずく、分割占領下のドイツの情況を巧みに描いてハモンド・イネス一流の歯応《はごた》えのある佳編というに相応《ふさわ》しい。
ベルリン封鎖は一九四八年から翌四九年までのことだから、ハモンド・イネスは本文中の描写から推して、おそらく、両年にまたがる冬期にベルリン空輸の現場を取材し、その後一年余をかけて本書を書き上げたと想像される。周知のとおり、ハモンド・イネスは常に作品の背景となる土地や事件を綿密に調べ上げ、そこに独特の個性を備えた人物を登場させて、虚実の間に豊かなドラマを展開する作家である。彼の作中人物は、ひとことで言えばジョン・ブルの典型であって、その闘争心が歴史の所産である情況の只中《ただなか》で孤立無援の戦いを貫くところに物語の真骨頂がある。本書もまた、そうしたハモンド・イネスの数多い作品に共通する特色をよく示していると言える。
今日の読者にとっては、本書の舞台である分割占領下のドイツや、アメリカの音頭で続けられたベルリン空輸について多少の説明が必要かもしれない。すでに御存知《ごぞんじ》の向きは飛ばして読んで下さればいいとして、この作品に直接かかわりのある事柄をざっと紹介しておこう。
一九四五年五月八日、ナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏して、ヨーロッパではひとまず戦乱は終息した。ドイツは米英仏ソの四カ国が分割占領するところとなり、首都ベルリンも四カ国の共同管理下に置かれた。
これが実はその後の「東西冷戦」の発端だった。ドイツの戦後処理をめぐって米ソがことごとく対立したからである。ソ連にしてみれば、ベルリン陥落に際して同国軍が一番乗りを果たしたことをもってベルリンはソ連のものという意識が強かった。西側三国はソ連の占領政策によるドイツの赤化を恐れ、ソ連はそういう西側の反共攻勢に神経を尖《とが》らせた。
各国はそれぞれの占領地区で復興の努力を進めたが、ソ連地区の住民が生活水準向上の目立つ西側へ流出する事態が起こり、ソ連当局は検問所を設けてこれを防ごうとした。西側がソ連のやり方を、ドイツの経済的統一を妨げるものと非難したことは言うまでもない。すでにして対立は深まっていた。
西側はその後、ドイツの経済復興を足掛りとしてヨーロッパの資本主義的再建に努めた。アメリカ大統領トルーマンは一九四七年にあの有名な「トルーマン・ドクトリン」で共産主義封じ込めを宣言し、次いでマーシャル国務長官が西ヨーロッパの経済復興援助を謳《うた》った「マーシャル・プラン」を発表するや、ソ連も態度を硬化させ、東欧圏の結束がために乗り出した。
こうした情勢を背景に、一九四八年二月、米英仏三国はついに西ドイツ分離政策を打ち出した。ソ連はこれに強く反発して同年三月、ドイツ管理理事会を脱退し、四国によるドイツ管理態勢はここに終止符を打った。六月、西側三国が占領地区〔西ドイツ〕で通貨改革を断行したのを機会に、ソ連は同国占領地区と西ドイツの交通を遮断し、さらにはベルリンと西ドイツ間の交通も閉鎖した。これがすなわち『ベルリン封鎖』である。
電力の供給を絶たれ、郵便も物資輸送も途絶して陸の孤島と化した西ベルリンには、占領軍の将兵一万と二百二十万の市民がいた。彼らの窮状を救うために、わずかに残された回廊航空路を利用して生活物資を運ぼうというのが『ベルリン空輸』で、アメリカ軍最高司令官クレイ将軍の発意による作戦行動であった。
燃料や食料はもとより、医薬品や消耗品も含めてありとあらゆる物資が毎日八千トンも空輸されたという。空輸は一年以上にわたって続けられ、飛行回数は延べ二十八万回、輸送された物資は総計二百十一万トンに上ると伝えられている。
ここに訳出したハモンド・イネスの『ベルリン空輸回廊』は、ベルリン空輸秘話とでも言うべき作品だが、特に興味深いのは、イギリスにおいてはこの大規模な作戦が民間の参加に支えられていた事実があるらしいことである。それも、セイトンのような男が手づくりのエンジンを引っ提《さ》げて割り込む余地があったのだ。イギリスもまた、戦後の混迷はただならぬものであったことを我々はこの作品から窺《うかが》い知ることができる。それだけに、野望を抱く男にとっては活躍の舞台が用意されていたでもあろう。
もっとも、セイトンを衝《つ》き動かしているのは一攫《いっかく》千金の夢ばかりではない。彼の歪《ゆが》んだ性格には二度の戦争が暗い影を落としている。語り手である〈私〉や、デウス・エクス・マキーナ〔機械の神〕の救いをもたらすエルゼ、そして無残な死にざまを強いられるカーターにも同じことが言える。総じて彼らは戦争の落とし子という共通の境涯にあって、それぞれに孤独である。ならば、ハモンド・イネスは彼らのそんな孤独を情況のなせる業《わざ》として描いているだろうか。いや、そうではあるまい。むしろ、ここに登場する人物たちはいずれもその性情のゆえに自らのうちに孤独を飼い馴《な》らしつつ生きていかざるをえないのだ。ハモンド・イネスは彼らの孤心に冒険者の資質を見ている節がある。
ともあれ、半世紀の長きにわたって、常にその時々の最も生きのいい素材で読者を楽しませ続けてきたハモンド・イネスの若き日の作品が、このたび発掘されるのは大変喜ばしいことであり、これによって従来の読者はもとより、はじめてこの作家に触れる方々にもハモンド・イネスの小説世界の面白さを味わっていただけたら訳者望外のしあわせである。
一九八七年一〇月