蒼い氷壁
ハモンド・イネス/大門一男訳
目 次
第一章 船出
第二章 コースが変わる
第三章 「捕鯨船十号《ヴァール・ティー》」の声
第四章 捕鯨場
第五章 潜水夫を忘れるな
第六章 ここに死体は眠る
第七章 高原の小屋
第八章 サンクト・ポール氷河で
第九章 ジョージ・ファーネル
第十章 「|蒼い氷《ブローイーセン》」
訳者あとがき
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登場人物
[ビル・ガンサー卜]主人公。BM&I社の生産部長を退職し、帆船ディヴァイナー号で地中海旅行に出ようとしていたとき、事件に巻き込まれる。
[ジョージ・ファーネル]ノルウェーで、ある貴重な鉱石を発見した男。犯罪事件に関係して脱走し、戦争中、バーント・オルセンの変名で、ノルウェーの軍隊に入り、対独抵抗運動をしていた。
[クリントン・マン卿]BM&I社の会長。
[ジル・サマーズ]帆船に乗り込んできた謎の女性。戦争中はノルウェーの抵抗運動をしていたリンゲ部隊の無線係。
[ディック・エヴァード]元海軍士官。ビル・ガンサートと帆船の旅に出ようとしていた。
[カーティス・ライト]イギリスの陸軍少佐。戦争中、ジョージ・ファーネルと知合っていた。
[ウィルソン/カーター]両名とも帆船ディヴァイナー号の船員。
[クヌウト・ヨルゲンセン]ノルウェー製鋼会社およびボヴォーゲン捕鯨会社の重役。
[ヤン・ダーレル]戦争中、自分の捕鯨会社をヨルゲンセンに奪われた、不具者の老人。
[ローヴォス船長]捕鯨船十号の船長。以前人を殺したという噂のある男。
[アルベルト・ヒエルラン]捕鯨場の支配人。
[ハンス・シュラウダー]ナチスドイツに協力したオーストリア系のユダヤ人。
[アルフ・スンネ]捕鯨場の潜水夫。
[ぺール・ストゥールヨハン]スンネと組んで仕事をしている男。
[エイナール・サンヴェン]潜水夫と働いている漁夫。
[ヨーハン・ウルヴィック]BM&I社のノルウェー代理人。
[ムーレル]ヨルゲンセンの元部下。
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第一章 船出
あの朝のことは、いまでもはっきり覚えている。あれは四月の初めで、冷たい風がテムズ河の濁った水面をたたき、小さな荒々しい波頭を立てていた。河の向こうには、ロンドン塔が、雲の飛ぶ空を背景に一段と白く際立っていた。頭上では、タワー・ブリッジが交通ラッシュで騒音をあげている。一団の勤労者が、欄干に集まって、ぼくらが新しい主帆《メンスル》を取り付けているのを見下ろしていた。大気は麦こうじの強いにおいに満ちていた。カモメがたえず輪をえがき、きゃあきゃあ鳴いた。周囲には船がせわしげに往き来していた。
そのときのぼくの浮々した気分だの、待ち遠しい気持は簡単には説明できない。カモメはぼくらに急げと鳴き立てているような気がした。索具《リギング》をバタバタさせる風も、新しく塗りかえた船体を打つ波のささやきも、何かせかすようだった。タグボートが気短かに汽笛を鳴らし立てた。あつらえ向きの船を見つけるための長い探索、船の索具を取り払い、改装する月日、食糧や備品をかき集めるのに要した日々――それらのすべてがいまこの一日に凝縮されたような気がする。今日は待機の最後の日だ。明日は、夜の白む前に、ぼくらは引潮に乗ってすべるように河を下るのだ――はるかな地中海を目ざして。
ひと月前に、この瞬間はやっと単なる空想ではないような気がしてきた。それまでは、原料や労働力の不足、輸出目標、外国市場、人間管理――そういったものがぼくの生活だった。BM&I社――卑金属工業会社――の生産部マネジャーが、これまでぼくのやってきた仕事だ。カナダでニッケル鉱を発見し、開発した功績によって、バーミンガム郊外にあるその大工場の地位にのぼったのだ。大戦ちゅう、ぼくはその仕事をつづけた。仕事は愉しかった。それはぼくが戦争好きだからではなく、武器の生産を掌握し、アフリカの砂漠やノルマンディの野を征《い》く銃砲やタンクに、自分のエネルギーの最後の一滴まで注ぎたかったからである。けれど、いまぼくはそれらのすべてをおわった。人は三十六歳でぼくが仕事から逃避したというだろう。祖国は当時混乱していた。ぼくは半分はカナダ人で、生まれつき喧嘩好きだった。しかし、何に対して戦うかをぼくは心得ているつもりだった。統制や禁止令を相手に戦うことはできない。戦争はぼくの独創力を自由に伸ばさせてくれたが、平和はそれを狭いわくにとじ込めた。
ディック・エヴァードがそのいい見本である。彼はイギリス生まれの男のいい代表だ――のっぽで、くしゃくしゃの金髪をして、そばかすがあり、伝統的な海軍魂ともいうべき誠実さと強い意志を持っている。二十歳で彼は海軍士官になった。二十四歳の時、彼は多数の兵員や装備を自分の指揮下に置き、同時に無限の責任を背負う、コルヴェット艦〔輸送船の護送をおもな任務とする高速の小型艦〕をあずかる海軍中尉になっていた。そして二十八になったいま、彼は世間から一介の機械の番人としてしか見られていなかった。あの訓練の一切を棒にふって!
この船に乗組むあとの二人、ウィルソンとカーターはそれとは違う。この二人は雇われ船員だ。船に乗るのが彼らの仕事である。しかしディックはそうではない。彼は地獄から抜け出すために来たのだ――いまやっていることよりましなことがイギリスには一つもないので、よその国で可能性を試したいと願ったのである。
ぼくはブーム〔帆のすそを張る円材〕にもたれて、ディックの器用な指が帆の先端をメイン・ガフにしっかり止めて行くのを見つめながら、この男が祖国に受け容れられないのは、国にとってどんなに損失かと考えないわけにいかなかった。こんな風に大勢の人間がイギリスから流出して行くのだ。
彼の眼がぼくの眼と合って、にやりとした。「オーケー、ビル」彼は言った。
「帆を上げろ」
カーターがピークの揚げ綱に、ぼくがスロートにかかって、主帆《メンスル》を上げた。帆布は黒ずんだ倉庫を背景にして雪のように白かった。そして風で前後にバタバタ揺れた。ぼくらはピークに乗って、スロートにてこをかけた。「これでしっかりしたぞ」とディックが言った。
ぼくは甲板を見渡した。すべてがきちんと整頓されている。甲板の床板は白くみがかれていた。真ちゅうの機具は鈍い日ざしに光っている。これは美しい船だった。五十トンの斜桁帆装式二本マスト船《ガフケッチ》で、船はどこへでも行くと考えられていた時代に建造されたものだ。ぼくは内部の装置を取り払い、自分のデザインで改装した。新しいメイン・マストも立てた。索具も帆もすべて新しくして、補助エンジンも海軍払い下げの大型エンジンに取り替えた。戦後初めて、ぼくは世界を足下に踏まえたような気がした。ぼくは食糧や燃料や乗組員を用意した――このディヴァイナー号でぼくが行けない所はどこにもないのだ。
ディックはぼくの気持を察していた。「順風に乗れば一週間で日当りのいい所に出られるな」彼は、バージー〔長い三角形をした旗〕をかすめて飛ぶ灰色の雲を横目で見ながら言った。
ぼくは、タワー・ブリッジに並んだうらやましそうな顔の行列を見上げた。
「うん」とぼくは言った。「アルジェだろうと、ナポリだろうと、ピレエフスだろうと、ポートサイドだろうと……」
その時、ぼくはクリントン・マン卿が波止場を横切ってやってくるのを見た。クリントン卿はBM&Iの会長である――猫背の長身の人で、態度は不愛想だ。シティ〔ロンドンの金融・商業の中心地〕関係からその仕事に入ったのである。彼は金ぐりと帳簿を一手に握っていた。生産の汗や労働には、大臣のように縁遠い存在だ。シルクハットで甲板に降りてきたその姿は、どう見てもしっくりしなかった。
「おはようございます、クリントン卿」と、ぼくはなぜ彼がやってきたのかと訝《いぶか》りながら言った。彼は挨拶に進み出たぼくを冷やかに見た。ぼくは自分の汚れたメリヤスのスウェターやコール天のズボンが気になった。これまで社の会議室以外で彼に会ったことはなかったのだ。
「船をごらんになりませんか?」と、ぼくはすすめた。
「結構だ。わしは仕事で来たのだ、ガンサート」ぼくは彼を下のサロンへ案内した。
「いつ出帆する?」と彼は聞いた。
「明日です。朝の潮に乗って出るつもりです」
「地中海へか?」
ぼくはうなずいた。
「きみのプランを変えてもらいたい、ガンサート」と彼は言った。「代りにノルウェーへ行ってほしいんだ」
「なぜです?」ぼくはまごついて聞いた。それから、彼の指図を待っていると思われるのを恐れて、急いで、「残念ですが、クリントン卿、明日出発するんで――」
彼は手を上げて制した。
「まあ聞き給え、ガンサート。きみはもうBM&Iとは何の関係もない――それはわしも承知だ。しかしきみの生涯で八年間関係したことを、きれいさっぱり忘れてしまったわけではあるまい。たとえば、珪《けい》トリウム合金だ。きみはあれを手がけた。あれはきみの努力の結果として開発された。そしてもしわれわれがあれをフルに生産できるようになったら――」
「あれはとっぴな空想です」とぼくは言った。「あなたもそれはご存じです。珪トリウムはドルが要ります。それにあなたが世界じゅうのドルを手に入れても、原料は十分にはありません。アメリカの産出量は取るに足らないもので、しかもそれが知られている唯一の出所です」
「そうだろうか?」彼はオーバーのポケットから小さな木箱を取り出すと、テーブルごしに押してよこした。「それなら、これは何だ?」
ぼくはふたを開けた。箱の中の脱脂綿の上に、一塊の金属らしい鉱石が載っていた。ぼくはそれを取り上げると、急に興奮を覚えて、窓ぎわへ持って行った。
「これをどこで手に入れたんです?」
「それより、まずそれは何だね?」と彼はたずねた。
「テストしてみなければ確かなことは分りません。しかし珪トリウム鉱でしょうね」
卿はうなずいた。「珪トリウム鉱だ。その点はすっかりテストずみだ」
ぼくは窓からロンドンの河の煤煙と汚れを眺めた。心の中では、長いコンベヤーベルトが、鋼鉄より強く、アルミニウムより軽くて、さびず、きらきら光る珪トリウム合金の製品をつぎつぎと運んでくるさまを想像していた。もしわれわれが大量の珪トリウムを採掘できれば、イギリスはアメリカにもう遅れをとることはないのだ。
「これはどこから採掘されたんです?」ぼくは聞いた。
彼は椅子に深く掛け直して、「それがわしには分らないのだ」
「しかし、どこから来たのかはご存じでしょう?」
彼はうなずいた。「うん、どこから来たかは分っている」その声はそっけなく、無感動だった。「ハートルブールの魚屋がわしに送ってよこしたんだ」
「ハートルプールの魚屋が?」ぼくは彼をじっと見つめた。彼が冗談を言ったと思ったのだ。
「そうなんだ。その魚屋は鯨肉の箱の中からそれを発見した」
「というと、鯨の胃袋からこれが出たと言うんですか?」
ぼくは南氷洋の氷の下に隠されている、だれも知らない鉱物資源のことをちらっと考えた。
「いや。その鯨肉はノルウェーから来たのだ。それにその鉱石は鯨の消化器の中に入っていたものではない。包装されるとき、肉の間に一緒に入れられたのだ」彼はまを置いて、それから言った。「わしらはこのイギリスから可能な限り調べ上げた。この肉は、委託急送便で、ノルウェーの沿岸捕鯨基地の一つからニューカッスルに届いたものだ」彼は体を乗り出した。「ガンサート、きみの意見を聞かせてもらいたい。ノルウェーにいるイギリス人でこの道の権威は誰かね?」
「金属についてのですか?」とぼくは聞いた。
彼はうなずいた。
それなら改めて考えるまでもなく、みんな知っている。大半がぼくの友人なのだ。
「プリチャードがいます。アイナー・ヤコブセンも優秀だし、スウェーデン生まれのクルトもそうです。ああ、それにウィリアムソンもそうです。しかしわれわれが何か頼むとしたら、まあプリチャードでしょう」
「あれはだめだ」と卿は言った。「このことを知っているのは、われわれだけではない。|ノルウェー製鋼会社《デ・ノシュケ・ストールセルカップ》もこれに目をつけている。いまイギリスに来ているあの社のヨルゲンセンは、必要な装備を買い入れているところだ。彼はまた、わしらやキャスレット製鋼会社に提携の誘いを掛けている。あらゆる必要な情報を握っていると称してはいるが、わしらを頼ってやみくもにこの開発に割り込もうとしているのだ。わしが彼にそんなことはできないと言ったら、アメリカ人に話を持ちかけるとおどかした。あちらのプリチャードに言ってやって、時間をつぶしているわけにはいかん。プリチャードが何ヵ月捜しても、何も発見できんだろう。われわれが必要なのは、自分の知識でわれわれに助言をしてくれる人物だ」
「それができるたった一人の人間がいますよ」とぼくは言った。「けれど恐らく現在はこの世にいないでしょう。が、もし生きていたら、その男はあなたの望みに応えてくれますよ。彼はノルウェー通で――」ぼくはそこで口をつぐむと、肩をすくめた。「そこが問題なんです」とぼくは言い足した。「彼はノルウェーに居すぎた――自分の時間と、他人の金でね」
クリントン卿はじっとぼくを見つめたが、その眼には興奮の輝きが浮かんでいた。
「というと、ジョージ・ファーネルのことかね?」
ぼくはうなずいた。「しかし彼は失除して以来もう十年になります」
「知っている」クリントン卿は、書類カバンを指でコツコツたたいた。「二週間前、ノルウェーにいるうちの代理人が、あの国の中央部で新しい鉱石が発見されたという噂があると、オスロから打電してきた。それ以来わしはジョージ・ファーネルの足跡を追っているのだ。彼の両親はどちらも他界している。彼には縁者も友人もいないらしい。彼に有罪の判決が下る前に彼を知っていた人々は、失踪以来彼の消息を聞いていない。わしは秘密探偵社に調べさせた。だが巧くいかなかった。そこでわしは『タイムズ』の個人通信欄に広告を出した」
「それでどうでした?」と、彼が一息ついた間に、ぼくはたずねた。
「うむ、二、三、返事があった――魚屋のこともその一つだ」
「しかし、魚屋はあなたの広告と、その鉱石をどうやって結び付けたんです?」
「これだ」クリントン卿は汚れた一枚の紙片を取り出した。それは鯨肉の血がしみてこわばり、折り目は破れていた。黒ずんだ血痕を通して、クモのような筆跡がおぼろげに認められた。書かれているのは、二行の詩のようなもので――その最後に一つの署名があった。
十年! とても信じられなかった。「彼の署名じゃありませんか?」とぼくは言った。
「そうだ」クリントン卿は細長い一枚の紙片をぼくによこした。「これが筆跡の見本だ」
ぼくは二枚の紙を見較べた。疑う余地はない。汚れて、血痕で半ば消えてはいたが、ほご紙の署名は、見本のそれと同じ筆勢の筆跡だった。
ぼくは椅子に深く掛けて、ジョージ・ファーネルのことを考えた――どうやって彼は急行列車から飛び降り、その後完全に姿をくらましたのだろう? 彼は一時南ローデシアのある租借地でぼくと一緒に働いていたことがある。すごく活気に満ちた、小柄な、浅黒い男で――角ぶち眼鏡の奥にさまざまな力を隠していた。彼は卑金属の権威で、中部ノルウェーの大山脈群の中に知られざる鉱物資源があるという考えに取りつかれていた。
「これは、彼が生きて、ノルウェーにいるという証拠ですね」と、ぼくはゆっくり言った。
「きみの言う通りであってほしいが」とクリントン卿は答えて、書類カバンから新聞の切り抜きを出した。「ファーネルは死んだ。これは二週間前に出たものだ。そのときわしは見なかった。あとで気がついたのだ。ここに墓の写真が載っている。それに、わしがノルウェーの軍関係で調べたところでは、彼は戦争ちゅうバーント・オルセンという名で、リンゲ部隊に加わっていた」
ぼくは切り抜きを取り上げた。「英雄の墓に眠る脱走囚人」という見出しがついていた。写真の簡素な白木の十字架に、バーント・オルセンという文字が黒くくっきり書かれていた。その背景には木造の小さな教会があった。
記事には、ファーネルが仲間のヴィンセント・クレッグの署名を偽造して一万ポンドの金をだまし取り、有罪の判決を受けたことや、パークハーストへ護送の途中、列車の洗面所の窓から脱走して姿をくらましたことなどが書いてあった。それは一九三九年八月のことだった。ノルウェーの事情に通じて交易をやっていたファーネルは、どうやらバーント・オルセンという名でノルウェー軍隊に志願をしたらしい。彼はリンゲ部隊に入り、一九四一年十二月、マロイ進攻に参加した。この作戦ちゅう、彼の失綜が報じられたのだ。記事のこのあとには、青鉛筆でマークをつけた短かい文章があった――『最近、ボヤ渓谷で発見された男の死体は、のちにバーント・オルセンと身元が確認された。彼はヨーロッパ最大の氷河ヨステダルを単身横断しようとした。しかし吹雪で道に迷ったものと思われる。彼はフィアールラン上部の氷河本流から岐《わか》れる支流ボヤ氷河に、一千フィートの高所から転落したものに相違ない。占い棒〔地下水や鉱脈をさぐるための道具〕や、その他冶金の器具を持っていた。死体から発見された書類は、英雄バーント・オルセンと囚人ジョージ・ファーネルの間のつながりを証明している』
この記事は気取った文章で結ばれていた――『かくて、イギリスのいま一人の息子は、祖国の非常時に際して神の栄光を見出した』
ぼくは切り抜きをクリントン卿に返して聞いた。「これは一ヵ月前に起こったんですね?」
彼はうなずいた。「そう。確かめたところではな。死体は三月十日に発見された。墓はフィアールランにある。そこはヨステダル氷河の下を流れるフィヨールドの源に当っている。その紙きれの署名の上の文句を読んだかね?」
ぼくはまた血染めのほご紙に眼を落とした。文字はひどくぼやけていた。
「わしは専門家に判読させた」とクリントン卿はつづけた。「こう書いてある――もしわたしが死んだら、これをわたしの形見と思え――」
「≪これ≫いうのは、珪トリウム鉱の見本のことでしょうね?」とぼくは言った。「それはこうつづくんじゃありませんか? もしわたしが死んだら、これをわたしの形見と思え――異国の野の片隅に、永遠《とわ》のイギリスこそあらめ、と」
あきらかに人の気をそそることばだ。が、どこの片隅とも書いてない。「これは誰に宛てたものなんです?」
「それが問題だ」とクリントン卿は答えた。「魚屋は上書きを捨ててしまった。血でびしょぬれで、とても読めなかったと言うのだ」
「残念ですな。もしそれさえ分れば……」ぼくは、珪トリウムの鉱床に手を出したがっているいろんな人々のことを考えた。珪トリウムをもとにして新しい合金を作りたがっているのは、BM&I一社だけではない。
「彼は何か予感を持っていたようだ」とクリントン卿はつぶやいた。「何でまたルパート・ブルークの詩の一節を引いたのかな?」
「まったく、どうしてでしょう?」とぼくも言った。「それに、なぜヨステダル氷河へ行って死んだんです?」それがぼくには何よりふしぎだった。
ファーネルは生涯のほとんどをノルウェーの山の中で過ごした。少年時代、彼は徒歩旅行でそこへ行ったのだ。二十歳《はたち》になったときは、たいがいのノルウェー人より山のことをよく知っていた。南ローデシアでのあの暑い夏の間じゅう、彼はその話しかしなかった。ノルウェーは彼の黄金郷《エル・ドラード》だった。彼は、スカンジナビアの万年雪の中にとざされた鉱物の発見だけに、生き甲斐を賭けていた。彼が仲間をだましたのも、ノルウェーへ採鉱の探検旅行に出る資金調達のためだった。それが裁判になる結果となった。
ぼくはクリントン卿のほうを向いた。
「どうも話が妙じゃありませんか。急行列車から飛び降りて助かった男が、マロイ進攻に参加し、抵抗運動をするというのは――すべて彼がそれまでやらなかったことばかりだ――それに、自分が精通している場所で自ら死を招くなんて?」
クリントン卿は微笑して、腰を上げた。
「彼は死んだのだ。ここに出ているのはそのことだけだ。だが、彼は死ぬ前に何かを発見した。彼はヨステダル氷河へ行ったとき、自分の身に危険が迫っているのを知っていた――それで、珪トリウムの見本と書き置きを残したのだ。イギリスのどこかに、その見本を待っている誰かがいるのだ」
クリントン卿は新聞の切り抜きをたたみ、珪トリウムの見本が入った箱を上着のポケットにしまった。「わしらが知りたいのは、彼が死ぬ前に見つけたのは何かということだ」彼はそこでいったんことばを切った。「ええと――今日は月曜か。わしはウルヴィックを――それがうちのノルウェーの代理人だが――今週の金曜日からフィアールランへ出張させておく。きみはファーネルがどうして死んだか――なぜ彼がヨステダル氷河に行ったのか――それにこの珪トリウムの見本はどこから出たのか、それらの一切を探り出すのだ。言うまでもないが、ノルウェーできみが要するすべての経費はうちの代理人が権限をもって支払うことになっている。それにわしらは、きみがこの件に関して、会社に対して自由な立場で行動することも忘れんようにしておこう」
彼は当然ぼくが旅行の計画を変えるものと思い込んでいるらしかった。その態度にぼくはむっとした。「クリントン卿、ぼくは金は要りません。それにあなたは、ぼくが明日地中海へ向けて立つことを忘れておいでのようですね」
彼は船室の入口で振り返った。
「地中海か、ノルウェーか――そんなことがどうだと言うんだ、ガンサート?」彼はぼくの腕をぐっとつかんだ。「わしらはあちらへ信用できる人間を送りたい。ファーネルを知っている男で、こうした金属に精通している人間をな。それに第一、事の緊急を理解している人物が必要だ。ファーネルは死んだ。わしは彼が死ぬ前に何を発見したかを知りたい。わしはきみに旅行の目的を提供した――それと必要な外貨をな」彼はうなずくと、背を向けた。「よく考えて見るんだね」
ぼくはためらった。彼は甲板の階段を登りかけていた。「書類をお忘れですよ」とぼくは声をかけた。
「きみが読んでみるといい」と彼は答えた。
ぼくは彼について甲板へ上った。「幸運を祈るよ!」と彼は言った。それから彼は波止場への鉄梯子を登った。ぼくは、彼の長身の猫背が倉庫の間に消えるまで、そこに立って見送っていた。なんて男だ! なんで彼はぼくの計画を邪魔しに来たのだ? あいつなんかクソくらえだ――ぼくは断然、暖かい明るい陽光の中に入って行くのだ。
そしてぼくは、ファーネルのことだの、他の誰もが採掘の仕事はなくなったと考えている現代に、彼がどうやってあの銅の薄層を見つけたのかを考えた。いったい、なぜ彼は氷河へ出掛けて自殺しなければならなかったのか?
「あの人はどうしてほしいと言うんだね?」ディックの声がぼくを現実に引き戻した。
手短かにぼくは事の次第を彼に話した。
「それで?」と、ぼくが話しおわると、彼は聞いた。「どっちにするんだ――地中海か、それともノルウェーか?」彼は失望には慣れていたが、それでもその口調にはにがい響きがあった。ノルウェーは彼にとっては、寒い、暗い国だった。彼は日光と機会を求めていた。
「地中海さ」と、ぼくはとっさに心を決めて言った。「おれは金属の奪い合いはやめたんだ」
風が陽気に索具をひゅうひゅう鳴らした。もうすぐぼくらはビスケー湾を帆走するのだ。そのときは、ぼくらは甲板に寝ころび、泳ぎ、気ままにして、酒を飲もう。
「引き潮になって、ドロの中に取り残される前に、あの給水船が舷側に来るように気をつけていてくれ」とぼくは言って、サロンに引き返した。ぼくは部屋を横切って舷窓へ行き、なんとなくそこに立って一艘のはしけが引き潮に乗って流されて行くのを見守った。それにしても、なぜファーネルはヨステダル氷河で死ななければならなかったのか? それが頭から離れなかった。戦争ちゅう、彼はおそらく山の中で暮らしていたのだろう。彼はあらゆる氷河を知っていた。ぼくはテーブルへ眼をやった。クリントン卿が置いていった書類が、まだそのままそこに残っている。ぼくは読むともなしに、見出しを見た。それからファーネルの書き置きのことを考えた――もしわたしが死んだら――なぜそんな詩を引用したのか?
青鉛筆で囲った記事がぼくの眼についた。『金属の専門家、囚人の墓を訪問』――と見出しがついている。ぼくは新聞を取り上げた。記事は短かいもので、以下の通りだ……
『中部ノルウェーで鉱物が発見されたという最近の報告は、ノルウェーのヨステダル氷河で一月前に死体となって発見された囚人の英雄、ジョージ・ファーネルの死因に新しい興味を引き起こした。ファーネルはノルウェーの鉱物に関しての専門家だった。キャスレット製鋼会社と卑金属工業会社(BM&I)の二社は、とくにこれに興味を示している。BM&I社の会長クリントン・マン卿は、昨日こう語った――≪ファーネルは何かを発見したと考えられる。当社はそれを調査してみたい≫
最近までバーミンガムにあるBM&I社の合金工場の生産部主任をしていた≪ビッグ≫ビル・ガンサート氏が、選ばれてその任務に当ることになった。氏は地中海周遊の計画を延期し、明日そのヨット、ディヴァイナー号でノルウェーへ向けて出発する。ガンサート氏の調査に何らかの助けとなる情報を持つ人は、ヨット上の同氏に連絡を取られたいよし。なお、同船はタワー・ブリッジに近い、ロンドン、ヘリングーピックル街、クローチ・アンド・クローチ商会の波止場に繋留中』
ぼくは腹を立てて新聞を投げ出した。いったいどんな権利があって彼はこんな記事を出させたのか? ぼくを力ずくでねじ伏せる気か? ぼくはこれまでに読んだギリシアやイタリアの廃墟、ピラミッド、原始的なエーゲ海の島々、シチリアの丘の町々などを思い起こした。ぼくは世界じゅうのどこへも行けると考えていた。けれど、実際にまだそれらを見たことはなかった。ぼくはいつも何かの金属を追いかけて、ほうぼう飛び回り、大きな会社の機構の中で歯車の一つとしての役目を果たしてきた。気に入った所があっても、そこに逗留して、のんびり日なたぼっこをし、あたりを見回すなんてゆとりは一度もなかった。ぼくの知っている世界は、市《まち》と採鉱キャンプだけだった。ぼくは新聞を取り上げて、もう一度記事をよく読み返した。それから甲板へ上った。
「ディック!」とぼくは怒鳴った。「この潮に乗って出て行けないかな?」
「だめだ」と、彼は驚いたように答えた。「たったいま船底が、ドロについた。なぜだね?」
「これを読んでくれ」と、ぼくは彼に新聞を渡した。
彼はそれをすっかり読んだ。それから言った。「どうやらノルウェー行きになりそうだな、そうじゃないのか?」
「いや」とぼくは言った。「そうはならん。こういうことに首をつっ込むのはもうごめんだ」
「ファーネルのことはどうする?」
「どうするとは?」
「きみは彼がどうしてあの氷海で自殺するようになったかを知りたいんだろう?」彼は遠回しに言った。
ぼくはうなずいた。彼の言うことは当っていた。ぼくはそれが知りたかった。「ことによると誰かが情報を持ってきてくれるかも知れないな」ぼくは小声で言った。
「『モーニング・レコード』には四百万の読者がいる」とディックは言った。「その中の誰かがきみに会いに来るよ」
彼の言うことは今度も当った。それから一時間のうちに、三人のジャーナリスト、何人かの物好きな連中、一人の保険勧誘員、それに乗組員志望の二人の男などが、ぼくを訪ねてきた。ぼくはうんざりした。ぼくは税関にも行きたかったし、ほかにも寄りたい所があった。「昼めし時に『デュークス・ヘッド』で会おう」とディックに言うと、ぼくはあとの訪問客を彼に任せた。
昼食で彼に落ち合うと、彼は大型の封筒をぼくに渡した。
「BM&Iの使いが届けて来た。クリントン・マン卿からだ」
「他に誰かきみを悩ました者はなかったか?」ぼくは封筒を開きながら聞いた。
「記者が二人ほど来た。それだけさ。ああ、それからここにいるミス・サマーズだ」彼が振り向いたので、見ると彼のすぐ後ろに一人の娘が立っていた。背の高い、金髪の女だった。「サマーズさん、こちらがビル・ガンサートです」
ぼくの手を握った彼女の手には、力がこもっていた。眼は灰色で、その態度は、この混み合った酒場の中でさえ、妙に緊張しているのがこちらに伝わってくるほどだ。「飲みものは?」とぼくは彼女にたずねた。
「ライト・エールを」と彼女は言った。その声は低く、やさしかった。
「さて」と、ぼくは注文をすましてから言った。「何のご用でしょうか、サマーズさん?」
「わたしを一緒にノルウェーへ連れて行って頂きたいのです」今度は緊張がその声に現われた。
「ノルウェーへ? でも、ぼくらはノルウェーへは行きませんよ。ディックがそうご注意すればよかったんだ。ぼくらは地中海へ行くんです。あなたはあのへんな新聞記事をごらんになったんでしょう?」
「おっしゃることが分りませんわ」と彼女は言った。「わたしは新聞記事は見ませんでした。今朝、クリントン・マン卿が電話をかけてこられたんです。あなたに会いに行けって。あの方は、あなたが明日、ノルウェーへ出発すると言っていました」
「じゃ、彼のまちがいです」ぼくの激しい語気に、彼女は動揺したようだった。「なぜあなたはノルウェーへ行きたいんです?」ぼくはやや穏やかな口調でたずねた。
「クリントン卿はあなたが、ジョージ・ファーネルの――死因を調査に行くと言っていました」彼女の眼には悲痛な表情が浮かんだ。「わたしもそこへ行ってみたいのです。彼のお墓を見て――どうして死んだかを確かめたいんです」
ぼくはエールを彼女に渡しながら、その顔をじっと見つめた。「ファーネルをご存じなんですか?」
彼女は頭をコックリさせた。「ええ」
「マロイ進攻の前ですか、後ですか?」
「前です」彼女は飲みものをぐっと飲んだ。「わたし、リンゲ部隊で働いていましたの」
「それ以後、彼から消息を聞いていませんか?」
彼女はためらったようだ。「いいえ」
ぼくはその点を強いてつっ込まなかった。
「彼をジョージ・ファーネルとして知っていたんですか、それともバーント・オルセンとして?」
「両方です」と彼女は答えた。それから急に、もうどっちつかずではいられないというように言った。「お願いです、ガンサートさん――わたし、ノルウェーへ行かなければなりません。わたしにはそれしか道がないのです。わたしは何が起こったかを知りたいんです。それにわたしは――どこに彼が埋められたかを見たいのです。お願いです――わたしを助けて下さい。クリントン卿は、あなたがノルウェーへ行くと言ってました。どうかわたしを連れて行って下さい。あなたのお邪魔になるようなことはしません。約束します。わたしはヨットの航海に慣れています。甲板員でも、料理番でも――何でもやります。行かせて下さい」
ぼくはしばらく何も言わなかった。彼女の嘆願の裏にあるのはなんだろう、とぼくは訝《いぶか》った。何か彼女を駆り立てているものがある――彼女が口に出さない何かが。ファーネルは彼女の恋人だったのだろうか? だが、彼女のさし迫った口調からすると、ただそれだけのことではなさそうだ。
「クリントン卿は今朝、なぜあなたの所へ電話をしたんです?」とぼくは彼女に聞いた。
「いまお話したでしょう――あなたに連絡を取るようにと言ってきたのです」
「いや、ぼくの言うのは、あなたが興味を持っているのを、どうして彼が知ったかということです」
「ああ。あの方はこの間『タイムズ』に広告を出したんです。わたしはそれに応えました。行ってお会いしましたの。それでわたしが戦後のジョージ・ファーネルのことを何か知っていると、あの方は考えたようでした」
「じゃ、知っているんですか?」
「いいえ」
「あなたは彼が冶金《やきん》家で、ノルウェー通だということをご存じですか?」
「ええ、それは知っています」
「しかし、ここ数ヵ月の間に、彼がノルウェーで何か重大な発見をしたかも知れないということは、知らなかったんですね?」
またあの一瞬のためらいがあった。「ええ」
そのあとは沈黙がつづいた。すると、ディックがふいに言った。「ビル――明日、テムズを出たら、ノルウェーへ行ってみようじゃないか」ぼくはちらっと彼のほうを見た。彼はぼくの心中を察したらしく、すぐにつづけた。「つまり、そのファーネルという男にぼくは興味を持ったんだ」
ぼくもそうだった。ぼくは女のほうへ眼をやった。筋の通った鼻、毅然としたあご、彼女の顔立ちは勝気そうだった。彼女はちらっと眼を動かして、ぼくの視線に会うと、またその眼をそらした。ぼくは封筒を取り上げると、その中身をカウンターの上にあけた。娘が小さな叫びをあげた。カウンターの上からジョージ・ファーネルの何枚かの写真がぼくをじっと見上げていた。ぼくはそれをす早くパラパラめくった。南ローデシアでぼくが見たのと同じカーキ色の開襟《かいきん》シャツ姿のがあった。背広を着てひどくぎごちない様子をした全身像もあるし、パスポートの写真の複写や、占い棒を立てているのもあった。ぼくはパスポート用の写真に眼を落とした。それは妙に真剣な顔をしていた――面長な、知的な顔つきで、チョビひげを生やし、薄い黒い髪と、突き出し気味の耳をして、角《つの》ぶち眼鏡の奥で眼が光っていた。裏の日付は――一九三六年一月十日となっていた。そのほかに、有罪判決を受けたあとの、正面と横向きの警察写真や、指紋の写真があった。クリントン卿はあらいざらい調べ上げたらしい。
これらの写真には一枚のメモが付けてあった。
『こうした写真が役に立つかも知れない。小生は≪タイムズ≫の広告に応えた二人の人に電話をした。その人たちは貴下と共に行きたがっていた。娘のほうは、もし貴下がその信頼を得れば、助けとなるだろう。ノルウェー人のほうは、今朝小生に連絡してきた。彼は戦争ちゅう、ノルウェーでファーネルを知っていた。なお、小生はノルウェー製鋼会社のヨルゲンセンにも再度会見した。小生は重役会に彼の申し出をはかる前に、もっと詳細な報告を入手しなければならぬと彼に告げた。彼はそれに対して、ニッケルやウラニウムのことを語っていた。二十四時間内に小生の決心を聞きたい、と彼は言うのだ。彼は土曜日にアメリカへ飛ぶ。その後の進展を逐次《ちくじ》小生にご連絡乞う』
それにはクリントン・マンと署名してあった。
ぼくはメモをディックに回して、ビールを乾した。それからファーネルの写真をかき集めて封筒に戻し、上着のポケットにつっ込んだ。
「後で会おう」とぼくはディックに言った。「サマーズさんのお相手をしていてくれ」
ぼくは戸口へ歩きかけてから、足を止めた。「サマーズさん。ひょっとしてあなたは、ファーネルの裁判に立会われたんじゃありませんか?」
「いいえ」と彼女は答えた。「当時の彼は知りません」その口調はしんから驚いたようだった。
ぼくはうなずくと、二人をそこに残して出た。そしてタクシーで、『モーニング・ポスト』社へ行った。そこでぼくは、資料室で一九三九年八月付けのファイルから研究したい人物を調べ上げた。ジョージ・ファーネルの裁判資料はよく揃っていた。ファーネルと、その仲間ヴィンセント・クレッグの写真もあったし、父親と一緒のファーネルや、クリントン卿が届けてきたのと同じ占い棒を持っている写真もあった。
しかし、記録の隅々まで調べても、彼を死に追いやったと考えられる記事にはぶつからなかった。原告側からも被告側からも、証人として異質な人物は出ていない。話は単純明快なものだった。ファーネルとクレッグは、一九三六年に鉱業コンサルタントを設立した。以後三年間、仕事は順調に発展した。その後、クレッグは自分の知らないうちに、何枚かの小切手が現金化されていることを発見した。小切手の署名は彼のものになっていた。その額は一万ポンドに近かった。ファーネルは共同経営者の署名を偽造した罪を自認した。陳述で、彼は会社の代表としてではなく、大掛りな経費を要するノルウェーでの有望な試掘の仕事に巻き込まれた、と申し立てた。彼は中部ノルウェーの山脈ちゅうに、貴重な鉱物が存在していると確信していたのだ。彼の共同経営者は、彼に資金を出すことを拒んだので、彼は独自の行動を取ったのである。
証人として呼ばれたのは、事務所の人々や、プリチャードだけで、後者は冶金家として、ノルウェーの鉱物の可能性について意見を述べるために召喚されたのだった。そしてファーネルは六年の判決を受けた。
それだけのことだった。ぼくはファイルをとじて、冷たいフリート街の喧騒の中に出た。そして西行のバスにとび乗ったが、ストランド街を通る間、裁判のことはもう念頭になかった。ぼくはあの娘のことを考えていた。『もし貴下がその信頼を得れば、助けとなるだろう』クリントン卿の言うことは正しいかも知れない。彼女は何かを知っているかもしれないのだ。ぼくはトラファルガー・スクエアでバスを降りた。ベルゲン汽船会社の事務所で、ぼくは社の会合で何度か顔を合わせた男に会って、話をした。彼は将来役に立つかも知れないノルウェー政府の要人で、ベルゲン在住の人々をぼくに紹介してくれた。それからぼくはそこを出て、ノルウェー沿岸へ向けて航海するための、海軍海図や航海指導書を手に入れた。
シティまでバスで行き、そこから歩いてタワー・ブリッジを渡ったのは、もう午後もおそくだった。ぼくは欄干でちょっと足を止めて、ディヴァイナー号を見下ろした。潮が満ちてきて、船は甲板を波止場とほとんど平行にして浮かんでいた。高いマストの青い船体が、とても美しく見えた。シティの人々がいまぼくの立っている所に立って、この船を見下ろしている気持が理解できた。河上のほうは日ざしが薄れ、鉛色の縞《しま》の中に傾いた太陽が、冷たい、しめっぽい大気をオレンジ色に染めていた。大きな事務所のある一郭には、電灯がともっている。時を知らせる鐘が鳴ったので、腕時計を見ると、もう六時だった。ぼくは足を早めた。
高い倉庫の間へ折れようとしているとき、一台のタクシーがぼくを追い越して、波止場に停まった。一人の男が降り立って、運転手に料金を払っていた。
「失礼ですが」と彼は声をかけてきた。「あのヨットがディヴァイナー号でしょうか?」彼は波止場の上に突き出しているほっそりした帆げたのほうへあごをしゃくった。痩せぎすの、上品な身なりをした男で、アメリカの実業家のように見えた。それに、いやにはっきりした発音と、かすかなウェールズなまりをべつにすれば、アメリカ人みたいな話しぶりだった。
「そうです」とぼくは言った。「誰にご用ですか?」
「ガンサートさんに」と彼は答えた。
「ガンサートはぼくです」
彼は驚いたように濃い眉をちょっと上げたが、なめし革のようなその顔はまったく無表情だった。「それは幸いでした。わたしはヨルゲンセンといいます。わたしのことはもうお聞きおよびでしょう?」
「ええ」とぼくは言って、手を差し出した。
彼の手はしなやかで、その握り方はおざなりだった。「あなたとお話したいのです」と彼は言った。
「じゃあ、船へいらっしゃい」と、ぼくはさそった。
ぼくが甲板に降りると、カーターが機関室のハッチから首を突き出した。彼の顔は油まみれだった。「エヴァード君はどこだ?」とぼくは聞いた。
「サロンにいます」と彼は答えた。「ミス・サマーズと、もう一人の人が一緒です。その人はスーツケースを持って、週末旅行にでも行くように乗って来ましたよ」
ぼくはうなずいて、中央の甲板昇降口の階段を急いで降りた。「頭に気をつけて下さい」と、ぼくはヨルゲンセンに注意した。サロンに入ると、娘がディックと向い合って薄暗い中にすわっていた。彼女のわきには、赤毛のがっしりした体格の男が立っていた。ぼくは一目でその男が分った。「カーティス・ライトじゃないか?」
「覚えていたか」彼はうれしそうに言った。「きみはぼくが訪問をたのしみにしている数少ない人間の一人だ」彼は力強い握り方でぼくの手をつかんで、言い足した。「きみはぼくたちの欲しいものを知っていて、事をはこぶ」ひところ、彼はわが社の銃砲装置のテストを担当していて、かなり長期間、その仕事についたり、やめたりしていた。彼は正規の兵士だった。
「ぶらりと遊びに来たのか?」とぼくはたずねた。「それとも、ファーネルのことで来たのか?」
「ファーネルのことで来たんだ。今朝、クリントン・マン卿が電話をかけてきた」
「ファーネルを知ってるのか?」
「うん、戦争ちゅうに会っている」
ぼくは急にヨルゲンセンのことを思い出した。彼をみんなに紹介し、カーターに明りをつけさせるようにディックに頼んだ。ヨルゲンセンの訪問の理由が気になった。
「あなたもファーネルのことで相談に見えたんでしょう、ヨルゲンセンさん?」
彼は微笑した。「いや。わたしはそれよりもっと重大なことをご相談に来たんです――個人的にね」
「なるほど」とぼくは言った。
ディックがその時、また戻ってきた。
「ちょっと変わった人物が上に来てるよ。約束したとか言ってるが」
「名前は?」とぼくが聞いた。
「わしはダーレルという者です」戸口から声がした。低い、外国なまりの声だった。ヨルゲンセンが何かで背中をどやされたように、くるっと振り向いたのをぼくは見た。サロンの戸口に、小柄な、ぶざまな風采の男が立っていた。ぼくは彼が入って来たのに気がつかなかった。彼は風のように現われたのだ。その黒っぽい服は、影の中に溶け込んでいた。ただ、鉄灰色の髪の下の、白いぼーっとした顔だけが眼についた。彼が進み出たので、片手が腕|萎《な》えであることが分った。
かん高い回転音を立てて、配電装置が動き出し、サロンに電灯がともった。
ダーレルは足を止めた。彼はヨルゲンセンを認めたのだ。彼の顔にしわが深く寄った。そして眼がふいにぎらりと光ると、憎悪の色が浮かんだ。それから彼が微笑すると、ぼくの体を悪感が走った。それは何とも言いようのない、ゆがんだ、不気味な微笑だった。God dag, Knut.〈よう、クヌウト〉と彼は言ったが、ぼくは彼がノルウェー語を使ったのに気づいた。
「ここへ何しに来たんだ?」とヨルゲンセンは答えた。人ざわりのいい彼の口調が消えて、声には怒りとおどかすような響きがあった。
「わしはガンサートさんとファーネルのことを話そうと思ってここに来たのだ」不具の男はヨルゲンセンをじっと見上げた。それから彼はぼくのほうを向いた。「あなたはファーネルをご存じでしょうな?」
彼の唇の端には、まだあのゆがんだ微笑が残っていて、ぼくは突然、彼が顔まで半分麻痺していることを知った。彼はことばも多少不自由らしかった。顔面麻痺のためにいくぶんどもり気味で、小さなつばきのつぶが口の端に光っている。
「ええ。昔、彼と仕事をしていました」
「彼が好きですか?」質問を発しながら、彼の眼はぼくにじっと注がれていた。
「ええ。なぜです?」
「わしはどちら側の人かを知っておきたいのでね」彼はしずかに答えて、またヨルゲンセンを見た。
「あんたは何でここへ来たんだ?」ヨルゲンセンは目下の者に話すように、つっけんどんにたずねた。
ダーレルは何も言わなかった。身動きもしなかった。彼は、ヨルゲンセンをただ黙ってにらんでいるだけなので、切迫した雰囲気になった。二人の間には、言わず語らずに何か伝わるものがあるようだった。最初に沈黙を破ったのはヨルゲンセンだった。
「ガンサートさん、あなたと二人きりでお話がしたい」と、彼はぼくのほうを向いて言った。
「あんたは率直に提案するのを恐れているのだ」ダーレルのその声には悪意の響きが籠っていた。「この場にファーネルがいて、ガンサートさんに忠告してくれないのが残念だ」
「ファーネルは死んだ」
「彼が?」ダーレルはふいに体をのり出した。巣の隅から急にとび出したクモのようだった。「あんたは何の確信があって、彼が死んだと言うのかね?」
ヨルゲンセンはためらった。いまにも彼は帽子を取り上げて、船を降りて行きそうだった。ぼくはそうさせたくなかった。もしヨルゲンセンを船上に止めておくことができたら……その時、ぼくはタワー・ブリッジの警告ベルが鳴るのを聞いた〔中央部を開閉するときに鳴らす〕。ぼくはこのとき、自分が何をしようとしているかを知っていた。ぼくはドアのほうへにじり寄った。
「わたしは、ファーネルのことでここへ話しに来たのじゃない」とヨルゲンセンが言った。ぼくは部屋を抜け出して、急いで甲板に上った。
不定期貨物船が一隻、近くの波止場からじりじりと出て行くところだった。タワー・ブリッジの交通は停止していた。カーターとウィルソンが手すりのところに立って、話していた。ぼくは二人のところへ行った。
「カーター、エンジンは暖まっているか? すぐ運転を始められるか?」
「エンジンのことじゃ、ずいぶん自分で苦労なさったじゃないかね、ガンサートさん」と彼は言った。「わたしが指をパチンと鳴らせば、すぐ出航できますぜ」
「じゃ、出してくれ。そっとな」
彼が機関室のハッチヘとんで行くと、ぼくはウィルソンに、もやいづなを解くように命じた。「そっとやるんだぜ」と念を押した。
彼は手すりをよじ越えて、二本のもやいづなをたちまち甲板に上げた。ぼくは船尾へ行って、舵を握った。エンジンは二度せきをして、それから生きもののようにうなり出した。
「全速後進」ぼくはカーターに呼びかけた。船尾の下であぶくがぶくぶく立ち、船は動きはじめた。波止場をすっかり抜け出すと、「全速前進」と命じて、舵を回した。エンジンはうなりを立てた。スクリューがあわを吹き、水中でごぼごぼいった。長い第一斜檣《バウスプリット》が、大きな弧をえがいて、タワー・ブリッジの中央開閉部をまっすぐ指した。
ディックが甲板昇降口の階段からあわててとび出してきた。そのすぐ後にヨルゲンセンがつづいていた。
「どうしたんだ?」とヨルゲンセンは詰問した。「なぜ河を出て行くのだ?」
「停泊位置を変えるんですよ」と、ぼくは説明した。
「どこへ?」と、彼は疑わしそうに聞いた。
「ノルウェーへ」とぼくは答えた。
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第二章 コースが変わる
ぼくがヨルゲンセンにノルウェーへ向うのだと告げると、彼は猛烈に怒り出した。ディックのわきをすり抜けて、彼はぼくが舵を握っている船尾にきた。
「すぐ引っ返せ。わたしは上陸させてもらう」
ぼくは何も言わなかった。タワー・ブリッジの中央開閉部がちょうどぼくらの頭上にきていた。八の字にはね上がった二本の車道が、船のエンジンの響きをこだまさせた。ぼくらは不定期貨物船のすぐ前を通り抜けた。第一斜檣《バウスプリット》の先には、河が黒い道路のように、曲りくねりながら海までつづいている。両側の倉庫は低い崖のように立っていた。そしてぼくらの後ろでは、無数の灯火が街を覆う低い雲に反映して、ロンドンが燃えていた。
「このままですますことはできないぞ、ガンサート」と、ヨルゲンセンは怒鳴った。ぼくは一瞬、彼が舵を奪おうとするのではないかと思った。ぼくは一言もいわなかった。異常に高揚した気持になっていた。もちろん、このまま巧く行くとは思わなかった。ぼくには誘拐はできない。しかし、もし彼にはったりをかけて、船にとどまらせることができたら……彼が何かを失うことを恐れて、上陸を躊躇するほど心配させることができたら……ぼくはファーネルのことを何か知っている三人の人間を押さえている。狭い、限られた船内に閉じ込められていたら、彼らから話を引き出すことができるだろう。それに、アメリカへ行く代りに、ヨルゲンセンが船に乗っていれば、ぼくは時間の問題を心配しないでもすむ。
「これが最後だ、ガンサート君」と、ヨルゲンセンはやや穏やかな口調で言った。「わたしを上陸させてくれ」
ぼくは彼を見上げた。「ヨルゲンセンさん、あなたはどうしても上陸したいんですか?」
「それはどういう意味だ?」彼の声にはしんから驚いた調子があった。
「あなたは今晩、なぜぼくに会いに来たんです?」とぼくは聞いた。
「きみの力でクリントン卿を動かしてもらいたいと思ったからだ――わが国の鉱物資源の開発に協力を約束するよう、彼を説得してもらいたかったからだ」
ぼくは初めて彼が少し舌足らずの発音をするのに気がついた。けれど、柔弱な感じはしなかった。むしろあべこべだ。rの発音に力をこめるので、その話し方は語勢を強調するようだった。
「あなたの言うことは信じない」と、ぼくはぶっきらぼうに言った。「ぼくらがジョージ・ファーネルのことをどの程度探り出したか、あなたは偵察に来たのだ」
「ばかな」と彼は言い返した。「そのファーネルとかいう男に、なんでわたしが関心を持たねばならないんだ? 彼は以前は優秀な技術者だったかも知れない。しかし、それは十年も昔の話だ」
「その十年間を彼はほとんどノルウェーで送っている」と、ぼくは彼に注意した。それから、「なぜ六時きっかりにぼくに会いに来たんです?」
彼は一瞬ためらったようだった。
「ノルウェー大使館で会議があった。それより早くは来られなかったんだ」
「ぼくがファーネルを知っている人たちに六時に会うことを、クリントン卿から聞いて、それで来たんじゃないんですか?」それは当てずっぽうの質問だった。彼が答えないので、ぼくはつづけた。「あなたは、ぼくと一緒に誰がノルウェーへ行くのか知りたいんでしょう?」
「わたしが何で知りたがるんだ?」
「あなたはぼくらと同様、ジョージ・ファーネルに関心を持っているからですよ」とぼくは答えた。
「ばかばかしい。ファーネル、ファーネルって何だ? その男は死んでいるのだ」
「しかしぼくは彼からの通信を受取りましたよ」
ぼくが彼の顔を見つめていると、海図室の戸口から差す明りに、彼の眼が細くなるのが分った。
「いつ?」
「ごく最近です」とぼくは言い、彼がそれ以上質問しないように立ち上った。「ディック、舵を代ってくれ」とぼくは言った。それから、「心配することはありません、ヨルゲンセンさん」とぼくは彼に言った。「あなたの気持に反してまで、ノルウェーへ連れて行ったりはしません。まあちょっと下へ降りて、ぼくの言うことも聞いて下さい」ぼくは振り向いて、甲板昇降口の階段を降りた。
サロンには、ぼくが出て行ったときと同じにカーティスと、ミス・サマーズが掛けていた。ダーレルは部屋をあちこちしていた。ぼくが入って行くと、彼はくるっと向き直った。
「なぜ河を下るんです、ガンサートさん? わしは上陸したいのだ」
「お掛けなさい」とぼくは言った。ヨルゲンセンが戸口に姿を見せた。ぼくは椅子を引き寄せて、彼をそこに掛けさせた。「船を降りたい人は誰でも降ろしますよ。しかし、その前にぼくの言うことを聞いて下さい」
ダーレルはテーブルに腰を掛けて、不自由な腕で体を支えると、ぼくをじっと見上げた。
「理由はともあれ、みなさんはみんな一つの事でここに集まったのです」ぼくは一同の顔を見回しながら、口を切った。「ジョージ・ファーネルの死ということでね」この一言でぼくは一同の注意をひいた。
彼らはいずれもぼくに注目した。ぼくは何か途方もない重役会の議長にでもなったような気がした――二日酔いで目を覚したとき、空想するような重役会だ。彼らはそれほど風変わりな組合わせだった。しかし、その底には強烈な感情が互いに流れている。それは電気の抵抗のように、あたりの空気中にも存在していた。うわべは、彼らは四人のばらばらな人間にすぎない。しかし、あるふしぎな状態で彼らが一つの輪につながれていることが、ぼくには確信できた――その輪はジョージ・ファーネルだ。
「ぼく自身としては」とぼくは言った。「ジョージ・ファーネルの死について納得していません。ぼくはどうしてそうなったかを知りたいのです。そしてそれを突き止めるため、いまノルウェーへ向っています」ぼくはカーティス・ライトのほうを向いた。「きみも荷物を持ってきたからには、行きたいんだろうな?」
彼は娘のほうをちらりと見て、それから言った。「うん、行きたいね」
「なぜだ?」と、ぼくは彼にたずねた。
彼はにやりとした。「第一に、ぼくは三週間の休暇をもらったんで、こうして過ごすのが最上の方法だと思ったからさ。もう一つは、ぼくもファーネルの死についてもっと調べてみたいと思った。ぼくは彼からメッセージを託されている。マロイ進攻の時に彼と一緒だったのでね」
「進攻のあとで、彼が失踪したと聞いたとき、なぜそれを相手に渡さなかったのかね?」
「彼が死んではいないのを知っていたからさ」とカーティスは答えた。「きみがそれを知らなかったのも、無理はないと思うよ。当時、ぼくは彼の失踪を報告するべきだったかも知れない。しかし、ぼくはしなかった。戦闘ちゅうは、人間はやると思われていることをつねにやるとは限らない。そして後になってからでは――もう遅いような気がしてきた」
彼はことばを切った。誰も口をはさまなかった。みんなが彼を見つめていた。彼はポケットから金色の懐中時計を出して、もてあそびだした。娘は魅せられたようにそれを凝視していた。
「ぼくはマロイ進攻で、リンゲ部隊とわが部隊の間の連絡将校をやっていた」とカーティスはつづけた。「ぼくらが突撃に移ろうとした時、オルセンはぼくの所に来て、いろんな人たちに通信を託した。『ただし、おれが死んだと確認された時に渡してくれ』と彼は言った。『この戦闘ちゅうに、おれは失踪したということになるだろう』ぼくがそのわけを聞くと、彼はこう答えた。『おれは、おれたちが命じられた任務をつくす。しかし部下を海岸に戻したら、おれは彼らをそこに置去りにするんだ。おれは一人でノルウェーへ入る。そこでおれはやらなければならないことがあるんだ――戦前から手をつけているあることをな。それが重大だ』ぼくは彼と言い争った――部下と共に報告に戻れと、ぼくは将校として彼に命令した。しかし彼はただ笑って言った。『すまん。いずれきみにも分るだろう』と。五分間内に行動を起こさなければならない時だったので、ぼくは彼を逮捕することができなかった。そのまま放っておくよりなかったのだ」
「それでどうなったんです?」質問をはさんだのはヨルゲンセンだった。
カーティスは肩をすくめた。「彼はやると言ったとおりやった。部下を海岸に連れ戻した。それから、自分は再び姿を晦《くら》ます、と一同に告げた。その後は二度と彼を見た者がないので、ぼくらは彼を捨てて土地を離れた。もし彼が脱走したのだと思えば、ぼくはこの件を上司に報告している。しかしそうではないことをぼくは確信していた。彼は脱走するようなタイプの男ではない。肉体的の意味ではなく、道徳上の意味で、彼は強い男だ。それは彼の眼を見れば分る」
ぼくは体をのり出した。「ノルウェーで彼がしなければならないと言ったのは何だろう?」
「それは分らん」とカーティスは答えた。「何もそれほど重大なことではなかったかも知れない。しかし、彼にとっては重大だったということは分る」
ぼくはヨルゲンセンをちらりと見た。彼はぴたりとカーティスに眼をすえて、体をのり出していた。その正面では、不具の男が椅子に深く掛けて、しずかな微笑を浮かべていた。
「ダーレルさん、あなたはどうなんです?」とぼくは言った。「なぜあなたはぼくに会いに来たんです?」
「わしもファーネルの死についてもっと知りたかったからだ」と彼は言った。
「じゃ、なぜ船を降りたがるんです? その回答は、ぼくらとフィアールランへ行くほかないじゃありませんか?」
「わしもそうしたい。しかし不幸にして――」と、彼は肩をすくめた。
「そうしたいと言うんですか?」ぼくは彼の真意を計りかねた。
彼は指で半ば中身のない服の袖をぐっとつかんだ。「それにはむずかしい問題があるのだ」彼の顔がぴくぴく痙攣《けいれん》した。全身が緊張しているようだった。
「どんなむずかしい問題が?」とぼくはたずねた。
「ヨルゲンセンに聞いたらいい」と、彼は乱暴な口調で言った。
振り向くと、ヨルゲンセンの顔は蒼白だった。なめし革のような肌は冷静な仮面のままだったが、青い眼は細く、油断がなかった。
「自分で言ったらいいだろう」と彼は言った。
ダーレルはとび上るように席を立った。「自分で言えだと!」と彼は叫んだ。「いや。わしが自分の国へもう入れないことを、なぜ自分で言わなきゃならないんだ?」彼は椅子を後ろへ蹴って、一歩ヨルゲンセンのほうへ向った。それからふいにくるりと体を回すと、いら立ったような歩き方で料理室の戸口まで行った。そして急に振り返って、ぼくらのほうを向いた。「わしはその事は金輪際《こんりんざい》言いたくない」彼の茶色の眼が異様なほどぼくにぴたりと向けられていた。「わしは行く、ガンサートさん。ファーネルに借りがあるのだ」彼はじろりとヨルゲンセンを見た。「わしはいまその借りを返していると信じている」
「どういう種類の借りです?」とぼくは聞いた。
「ファーネルはわしの命を救ったのだ」と彼は答えた。
「きみは思い違いをしている、ダーレル君」と、ヨルゲンセンはしずかに言った。「ノルウェーで、きみは逮捕を免かれないぞ」
「今度はきみの部下の誰が、わしのことをきみに密告したんだ?」ダーレルは冷笑してたずねた。「それとも、自分でこのげすな仕事をやり出したのかね?」彼は頭をヨルゲンセンのほうへ突き出し、いくぶん一方へ体をねじりながら、ゆっくりと部屋を横切った。「あれだけやっても、まだ気がすまないのか?」
「お掛けなさい、ダーレルさん」とぼくは言って、その肩に手を掛けた。
彼がくるっとぼくのほうを向いたので、一瞬、ぼくは手に噛みつかれるのではないかと思った。それほど彼の顔には憎悪の色がたぎっていた。それから突然、彼は気をゆるめると、腰を下ろして、「失礼した」と言った。
ぼくはヨルゲンセンのほうを見た。
「さあ、いよいよあなたの番です、ヨルゲンセンさん。あなたはここに来て、BM&Iがあなたの社と提携する可能性があるかどうかを相談したいと言われた」
ぼくは彼のほうへ体をのり出した。
「前にも言ったように、ぼくはあなたを信用しない。あなたはわれわれ同様、ファーネルに興味を持ってここへ来たのだ。あなたはクリントン卿に、ニッケルやウラニウム鉱のことを話した。あれはただの当て推量だ。ノルウェーでどんな金属が発見されたか、あなたは知らないのだ」ぼくは一息入れて、それからゆっくりつづけた。「だが、ぼくは知っている――それはニッケルでもウラニウムでもない。鉱床の位置についても、あなたは何の知識も持っていない。あなたがここへ訪ねて来たのは、ただ虚勢を張るためだけだ」
「では、きみは発見された金属が何だかを知っているのかね?」彼の眼は無表情だった。そこから彼の思惑を読むことはできなかった。「それをきみに告げたのはファーネルかね?」
「そうです」とぼくは答えた。
「いつ彼から聞いたのかね?」
「彼が死んだ後で通信が届いたのです」
娘が小さな叫びをあげて、前へ出た。ダーレルはヨルゲンセンをじっと見つめていた。
「もしお望みなら、上陸させて上げますよ」とぼくは言った。「しかし断っておくが、ここのこの船室で、ぼくはファーネルに関する真相のすべてを集める確信がある――少なくとも、ぼくらが知る必要のある事柄をね。そしてあなたがアメリカへ行っている間に、ぼくらはノルウェーに着くのだ」ぼくはことばを切って、彼を見つめた。それからドアのほうへ行き、「よく考えてみるんですね」と言った。
「よかったら、グリニッジであなたを下船させます。急いで肚《はら》を決めて下さい。五分以内に桟橋を通過しますから」
ぼくはドアを閉めて、甲板へ上った。船室のまばゆい光のあとでは、とても暗かった。回りにあるのは、ちらほらと見える明りだけだった。風が冷たく顔に当った。甲板は足の下で震動していた。しゅっしゅっと、水が陽気に船腹をかすめて過ぎた。ぼくらは門出したのだ。
船尾へ行くと、舵の後ろに不動の黒い彫像のように、ディックが掛けていた。ほっそりしたミズンマスト〔後檣〕が、ロンドンの街の光にヤリのような輪郭を浮かび上らせている。
「舵を代ろう」とぼくは言った。「きみは下へ行って、お客たちを区分けしてくれ。船室を割り当て、毛布でも、シーツでも、衣類でも、何でも入用なものを出してやってくれ。彼らを忙しくさせるんだ、ディック、それからヨルゲンセンとダーレルは離しておけよ。サマーズという娘を料理室に案内して、食事の支度をさせろ。誰にも考えるひまをあたえるな。ぼくは誰にも、とりわけヨルゲンセンに、ここへ上ってきて、上陸させろなどと言わせたくないんだ」
「オーケーだ、船長」と彼は言った。「出来るだけやってみよう」
「ああ、それから便りをしたい者は、誰でも書くように言ってくれ」彼が行きがけるのへ、ぼくは言い添えた。「無電の受信器や送信器の設備もあると説明してな」
「分った」と彼は言うと、甲板昇降口の階段から消えた。
ぼくはダッフルコートをひっかけて、舵の後ろに場所を占めた。ウィルソンがもやいづなを輪に巻いていた。ぼくが呼ぶと、彼は船尾にきた。彼はコーンウォール地方の生まれで、若くはないが腕のいい船員だった。「セイルロッカーから一番ジブ〔船首に張る三角帆〕とステイスル〔支索に張る長三角形の帆〕を出してくれ」とぼくは言った。「それからジブヘッデッド・トップスルもな。もし風が強くならなければ、それで進めるだろう」
「アイ、アイ、サー」と彼は言った。左舷の航海灯の明りに、彼のしわの寄った、日焼けした顔が赤く染まっていた。彼はちょっとためらった。「エヴァードさんが言ったのは本当ですか、わしらがノルウェーへ行くとかいうのは?」
「そのとおりだ」とぼくは言った。「何かさしつかえがあるのか?」
彼のごつい顔に、にやにや笑いが拡がった。
「地中海よりノルウェーのほうが、釣りにはずっと向いてますよ」彼は地中海なんか意味ないと言わんばかりに、ペッと風下の手すりごしにつばを吐くと、前部へ行った。ぼくの視線はマストの先のあたりをさまよった。ぼくらが動力で航行している船であることを示す灯が、裸の索具《リギング》に光っていた。ぼくは船が河口へ下る長い徹夜の操舵を自分から買って出て、腰をすえた。海図の必要はなかった。ぼくは、帆をかけてたびたびテムズを上下していた。あらゆる湾曲部や、浮標灯や、陸標を心得ている。動力で河を下るのは比較的簡単だ。ぼくが心配するたった一つのことは、ヨルゲンセンが船に残るかどうかだった。
だから、闇の中でグリニッジの王立海軍兵学校が過ぎたのを見た時は、ほっとした。彼は優柔不断な男ではない。もしそうしたいと彼が言うのだったら、ぼくは彼をグリニッジで上陸させると言った。それを頼みに来ないところをみると、彼は船に残ることを心に決めたのだ。しかし、ノアが見えるまでは、まだ安心はならなかった。そこを過ぎてしまえば、もう引き返しはきかないのだ。
三十分経って、ディックが上ってきた。「さあ、全部割りふりがすんだ」そして、肩ごしに振り返ってから、彼は耳打ちするような恰好で、「きみは信じるかどうか知らんが、ノルウェーの有名な実業家ヨルゲンセン氏が、ジルの食事づくりの手伝いをしているよ」
「ジルというのは、ミス・サマーズのことか?」
「そうさ。彼女は素晴しいぜ。たちまち板についた。自分のすることを、ちゃんと心得ている娘だ」
「ダーレルはどこだ?」
「右舷のサロンの前の個室をあてがった。娘は左舷の個室さ。ヨルゲンセンはきみと同室で、カーティス・ライトはぼくと一緒だ」
彼は一束の便箋を出した。「これはぼくが送信しようか?」
「何だ?」
「発信する通信さ」
「海図室に置いといてくれ」と、ぼくは彼に言った。
「至って簡単なものばかりだ。ヨルゲンセンが三通、ダーレルが一通、娘が一通だ」
「それでも一応目を通しておきたい」とぼくは答えた。「もう一度下へ降りてくれ、ディック。海に出るまでは、あの連中を放って置きたくないんだ」
「オーケー」彼は下へ行った。
寒い晩で、舵のところに掛けていると、時間のたつのがのろかった。ぼくは河口を出るのを待ちきれない気持だった。両岸のドックや倉庫の灯がしだいにまばらになり、開けた田園や平らな湿地のしるしとなる真暗な区域が現われた。船はゆっくり上流に向う一隻の大型貨物船とすれ違った。貨物船の甲板の灯がす早くわきをかすめ、たちまち闇にのみ込まれた。全速前進でゆうに八ノットは出ていた。それに四ノットの引き潮を足すと、船はかなりの速度で流れを下っているのだ。ディックに呼ばれて下へ行ったウィルソンは、カーターとぼくに湯気の立つコーヒー茶碗とサンドウィッチを持って戻った。八時に、ぼくらはチルベリーやグレイヴゼンドを通過し、三十分後にはサウスエンドの灯火を見た。ぼくらはいま河口を出たのだ。船は少し揺れはじめた。風は南東で、闇の中で船腹に当ってくだけるたび、怒ったようにシューシューいう短気なけわしい海を、その風があおっていた。
はるか彼方にまたたいているノア灯台の明りをぼくが認めた時、ディックがやってきた。
「ひどい晩だ」と彼は言った。「いつ帆を張るかね?」
「これからノアにかかるところだ。そうしたらおあつらえ向きのリーチング・ウィンド〔真横から受ける風〕でコースを進むことができるだろう。下の様子はどうだい?」
「うまく行ってるよ」と彼は言った。「ダーレルはまっすぐベッドへ行った。船に弱いんだそうだ。ライトとヨルゲンセンは、スコッチを飲みながらスキーの話をしている。娘は着替えをしている。今夜はどうする――当直を割りふるかい? ライトは航海の経験があるそうだし、ヨルゲンセンも小型船なら操縦できると言ってるけど」
それはぼくが願った以上だった。この船は操縦しやすかったし、われわれ四人で十分満足にやることができる。けれど、もし航程がうんと変わったら、ぼくらはそのうちくたくたに疲れて、眠るために船を足踏みさせてしまうだろう。しかもぼくは一刻も早くノルウェーへ着きたいと思っているのだ。
「よし」とぼくは言った。「当直を割り当てよう。ディック、きみはカーターや、ライトや、ヨルゲンセンと、右舷の当直につけ。左舷の当直は、ぼくと、ウィルソンと、娘がやる」
当直の選択は考えもしないでやった。しかし後になってみると、それはきわめて重大なことだった。別の割りふりだったら、局面は変わっていたかも知れない。この選択はヨルゲンセンをぼくの監視下に置くことになった。しかしその時は、狭い閉ざされた船内で暴行の芽がはぐくまれていようとは、ぼくは夢にも思わなかった。
ぼくは舵をディックに渡して、コースを調べに海図室へ行った。そこで通信文に目を通し、それを送信した。どれもノルウェーへ向うという簡単な通知だった――ジル・サマーズは父親へ、ダーレルはホテルヘ、そしてヨルゲンセンはホテルと、ロンドンやオスロのノルウェー製鋼会社へ宛てたものである。
ぼくがそこから出てくると、ライトとヨルゲンセンと娘が、そろってコックピット〔操縦室〕に掛けていた。彼らは航海のことを話しているところだった。ノアの灯台が、強烈な光の東でぼくらの頭上をさっと払いながら、そのたび船を赤々と照し出して近くに迫ってきた。
「舵を代ってやって下さい、サマーズさん」とぼくは言った。「船を風上に向けているように」
彼女がディックと交代すると、ぼくはカーターを呼び、三人で主帆を揚げた。海図室の両側にある航海灯の不気味な赤と緑の光の中で、ブームが前後にぶつかり、帆布がバサバサ鳴った。ピークとスロート装置がしっかり止められ、風上側の後支索を張ると、ぼくはエンジンを停めて、ジル・サマーズにコースを北五十二度東で、バロー・ディープへ向けて進むように指示した。船が横に傾いて揺れるにつれて、主帆がふくらんだ。たちまち船はスピードを加え、水が風下側の手すりをさか巻いてかすめた。ぼくらがジブと、ステイスルと、ミズンを張りおえると、船は列車のようにひた走り、荒海の中でジグザグに動いて激しく揺れ、ぐっとつっ込むたびに水が甲板の排水孔でゴボゴボ音を立てた。
ぼくは、ディックと、その組の当直員たちを下へやった。彼らは深夜の勤務だった。ウィルソンは下で用具を船倉にしまっていた。ぼくは娘と二人だけ甲板に残された。舵を操る彼女の手はしっかりしていて、正確な手ぎわで船を波に乗せ、コースを一定に保っていた。羅針儀箱の灯は、ほえる暗い海を背景に、彼女の顔をちょうどシルエットに浮かび上らせた。彼女は防水用のウィンドブレーカーの下に、ポロネックのスウェターを着ていた。「あなたは船にとても慣れていますね」とぼくは言った。
彼女は笑った。その笑い方で、彼女が風だの、足の下の船の感覚を愉しんでいることがぼくには分った。「帆走するのはずいぶんしばらくぶりよ」と彼女は言った。それからちょっと考えて、「十年ぶりぐらいかしら」
「十年? どこで習ったんです?」
「ノルウェーよ。母はノルウェー生まれで、わたしたちはオスロに住んでいました。父はサンネ・フィヨールドにある捕鯨会社の重役でしたわ」
「そこでファーネルに最初に会ったんですね?」ぼくは聞いた。
彼女はす早くぼくを見上げた。「いいえ、前に話したじゃありませんか。わたしはリンゲ部隊で働いている時に彼に会ったんです」彼女はちょっとためらってからつづけた。「あなたは、あの不幸なダーレルさんが、なぜジョージの死を探索するのだと思います?」
「ぼくには分らない」ぼくには、その点が疑問だったのだ。「あなたは、なぜ彼のことを――不幸なダーレルさんというんです?」
彼女は体をのり出して、羅針儀箱をじっと見つめ、それから舵の握り方を変えた。「あの人はとても悩んでいますわ。あの腕――あれを見ると、わたしはたまらないわ」
「前に彼と会ったことがあるんですか?」
「ええ。ずっと、ずっと昔にね――わたしの家で」彼女は微笑しながら、ぼくを見上げた。「あの人は忘れています。わたしはそのころ、お下げの小娘でしたもの」
「彼はあなたのお父さんと仕事のつながりがあったんですか?」
彼女がうなずいたので、ぼくは彼がどういう仕事をしていたのかと聞いた。
「船のです」と彼女は答えた。「あの人は近海汽船の船団と二、三隻のオイル・タンカーを持っていました。その会社が、うちの父の会社に燃料を入れていたのです。彼が父に会いに来たのはそのためですわ。それに、あの人は沿岸捕鯨場の株を持っていたので、二人は話が合ったのです。父は鯨の話ができる人なら大歓迎でしたわ」
「ダーレルはなぜノルウェーへ帰るのをおそれているんです?」とぼくはたずねた。「彼が逮捕を免れないと、なぜヨルゲンセンは言うんです?」
「知りません」彼女はその理由を解こうとするように、眉をひそめた。「あの人はいつ会ってもいい人でした。うちに来るたびに、南アメリカからわたしにお土産を持って来てくれました。わたしに贈物をするために、タンカーを持っているのだと、よく言ったのを覚えています」彼女は笑った。「一度は、わたしをスキーに連れて行ってくれました。いまのあの人では考えられないでしょうけど、名スキーヤーでしたわ」
その後は沈黙がつづいた。ぼくはかつてのダーレルを胸のうちに描いていた。彼女も過去の思い出にひたっている、とぼくは考えていた。すると、ふいに彼女が言った。
「ライト少佐はあの通信文をなぜ渡さなかったんでしょう?」そして答えを予期していないようにつづけて、「この船に乗っているみんなが、彼のお墓を見に行くのね。なんだか――気味の悪い話だわ」
「あなたは彼をよく知っていたんでしょう?」とぼくは聞いた。
彼女はぼくを見た。「ジョージを? ええ。知っていました――とてもよく」
ぼくはちょっとためらってから言った。「このことばに何か心当りがありますか――もしわたしが死んだら、これをわたしの形見と思え」
この質問が、彼女にそれほどショックをあたえるとは、ぼくは予想していなかった。彼女は一瞬、呆然としたように動かなかった。それから、ものに憑《つ》かれたようにあとの句をつぶやいた――「異国の野の片隅に、永遠《とわ》のイギリスこそあらめ」彼女は眼を大きく見開いて、ぼくを見上げた。「あなたはどうしてそれを――」そして口をつぐむと、羅針儀に眼を落とした。「ごめんなさい。コースが外れたわ」彼女の声は風と波の響きでほとんど聞き取れなかった。彼女が舵を左に回すと、船はまた横に傾き、風下側の排水孔がやかましい音を立て、風圧が帆布にかかるのが感じられた。「あなたはなぜわたしにルパート・ブルークの詩を引用したんです?」それは感情を押えた、きつい口調だった。それから彼女はまたぼくを見上げた。「彼の通信にそう書いてあったんですか?」
「そうです」
彼女は顔をそむけて、闇の中をじっと見つめた。「では、彼は自分が死ぬことを知っていたんですね」ことばはつぶやきになって、風でぼくに投げ返された。「なぜ彼は、そんな便りをあなたによこしたんです?」彼女は突然振り向くと、ぼくの顔をさぐるように見てたずねた。
「ぼくによこしたんじゃありません。それが誰に宛てたものか、ぼくには分らないんです」彼女が何も言わないので、ぼくはつづけた。「彼と最後に会ったのはいつです?」
「前に言いましたわ」と彼女は答えた。「わたしはリンゲ部隊で働いていたとき、彼に会ったのです。それから彼はマロイ進攻に参戦しました。それっきり――帰って来なかったんです」
「その後は、彼に一度も会っていないんですね?」
彼女は笑った。「何度聞かれても同じですわ」笑い声は沈黙のうちに消えた。「もうその話はやめましょうよ」
「あなたは彼が好きだったんですね、そうでしょう?」とぼくはなおも喰い下った。
「お願いです」と彼女は言った。「あの人は死んだんです。そっとしておいて」
「もしあなたがそっとしておきたいなら」とぼくは言い返した。「なぜあなたはノルウェーへ行く支度をして、今朝やって来たんです? たんに墓を見たいというセンチメンタルな願いだけだったんですか?」
「わたし、お墓を見たいとは思いません」彼女はかっとしたように言った。「彼のお墓なんか見たくありません」
「では、なぜあなたは来たんです?」
彼女は怒って何か言い返そうとしたようだった。けれど、突然気持を変えて、眼をそらした。「分りませんわ」と彼女は言った。その声はとても低かったので、風がそれを夜の闇の中にさらって、何を言ったのかよく聞き取れなかった。それから彼女はふいに言った。「ねえ、舵を代って下さい。わたし、ちょっと下へ行きますから」
これでぼくらの会話は打ち切りになった。しばらくして、彼女はまた甲板に上ってくると、左舷の航海灯のわきに風に吹かれて立っていた。ダッフルコートを着てはいたが、その姿はすらりとして気品があり、船が揺れるにつれてリズミカルに動いていた。ぼくは舵のところに腰を下ろし、下のコックピットにいるウィルソンと話しながら、彼女がどの程度知っているか、ファーネルは彼女にとってどういう意味を持っているのかなどと考えた。
船はいまサンク灯船〔灯台の代わりをする船〕に近づいていた。ぼくはスミス・ノール灯船のほうヘコースを変えた。一時間後に、右舷の当直を呼び、ぼくは測程器でスピードを計って、海図にわれわれのコースを記入した。帆を張ってからというもの、ぼくらは平均八ノット半の速力を出していた。「コースは北三十六度東だ」と、ぼくはディックに舵を渡しながら言った。
彼はぼんやりうなずいた。海上に出た第一日目には、彼はいつもこんな風だった。海軍に六年もいながら、いまだに船酔いを克服できないのだ。ライトも気分がすぐれなかった。海図室のまばゆい明りに、髪が赤々と輝いているのと対照的に、顔は青ざめて、汗をかいていた。一方、スウェターと防水服の借り着姿のヨルゲンセンは、長年、オンボロ貨物船のかまたき場や機関室になじんできたカーターと同様、船の揺れにはいっこう影響されなかった。
ぼくは午前四時にまた当直についた。風圧は五度に強まっていたが、船はらくに波に乗っていた。彼らは帆を一ヵ所まき揚げていた。それでも、船の動きは油断できなかった。波はしだいに高くなり、ディヴァイナー号は闘牛士の剣のように、第一斜檣を波の峰につっ込んだ。その日は一日じゅう、強いリーチング・ウィンドの南東の風がつづき、それがぼくらを平均七、八ノットの速度で北海を越えるコースに乗せて行った。
ぼくは帆走の醍醐味に酔って、ノルウェーへ旅する理由を忘れかけていた。天気予報はしきりに強風警報を告げていて、真夜中には、ぼくらはまた帆を詰めなければならなかった。しかし翌日は、風は少し弱まり、北東にまわった。ぼくらは詰めた帆の一つを広げ、船首をいっそう風下に向けたが、それでもコースを進むことができた。
この二日間のあいだに、ぼくはジル・サマーズをよく知ることができた。彼女は二十六歳で――背が高く、きびきびしていて、危機にのぞんでもひどく落ち着いていた。ふつうにいわれるような意味の美人ではないが、少年のような身軽な動作や、人生に対する強い好奇心が、彼女に独得な美しさを添えていた。彼女の魅力は、その挙動や、ちょっとすねたような微笑を湛《たた》えているやや大きめの口元にあった。そして、彼女が微笑すると、灰色のその眼も笑った。彼女は帆走が好きで、風の推進力に興奮して、ぼくらはジョージ・ファーネルのことを忘れた。たった一度だけ彼の名が口にのぼった。
彼女は、ドイツ軍が侵入してくる直前にどうやって父親とノルウェーを脱出したか、その後数ヵ月して、イギリスでノルウェー軍当局を通してリンゲ部隊に連絡を取り、その組織で働くようになったかを、ぼくに語った。
「わたしはただほんの小さな事をしただけです。ほかのみんなとそこへ入りたかったのです。父はうまく立ち回りました。ロンドンのノルウェー海上貿易会社に入ったのです。わたしはスコットランドへ行き、さっそく部隊本部で働き出しました――わたしと、ほかの五人の娘で、二十四時間勤務の無線当直に当ったのです。わたしがバーント・オルセンと知り合ったのは、そのときでした」
「彼の本名がジョージ・ファーネルだということは知っていたんですか?」とぼくは聞いた。
「その時は知りませんでした。でも、彼は色が黒くて、背が低いので、ある日わたしは、あの人に本当のノルウェー人かとたずねました。そのとき、本名を知らされたのです」
「自分が脱走した囚人だということも、彼は話しましたか?」
「ええ」彼女はしずかにほほ笑んだ。「そのとき、自分の身の上をすっかりわたしに話しましたわ」
「それでも、あなたの気持は変わらなかったんですね?」と、ぼくはつっ込んで聞いた。
「もちろん、変わりませんわ。わたしたちは一緒に戦っていたんですもの。それにあの人は、当時敵の領土だった所へ、初の必死の進攻をしようという訓練を受けていたのですから。それから三ヵ月後に、あの人はマロイ進攻でノルウェーへ行きました」
「彼はあなたにとって大きな意味を持っているんでしょうね、ジル?」
彼女はうなずいた。それからしばらく黙っていたが、やがて口を切った。「ええ――あの人は、わたしにとって大きな意味を持っています。彼は他の人たちとは違っていました――他の人たちよりずっと真剣で、内気でした。人生に何か一つの使命を持っているような感じでしたわ。わたしのいう意味が分ります? 彼は軍服を着て、決死の苦しい訓練をしていましたが――でも、それになりきれなかったようでした。彼はその外側の世界に――心のうちでは住んでいたようでした」
これが、ぼくをとまどわせたマロイ進攻前のファーネルの姿だった。ファーネルの人生における興味は金属だった。この点で、彼は画家や音楽家と同様、芸術家ということができる。金属発見の刺激に較べたら、戦争や彼自身の生活など取るにも足らぬことだった。カーティス・ライトの説明によるマロイ進攻の瞬間のバーント・オルセンや、ジルが乗船する前に言った彼のことは、いずれもぼくの胸に一つのことを確信させた――ファーネルはノルウェーの山中へ、新しい金属を追って行ったのだ。
三日目に、風は南南東に向きを変えた。ぼくらは最後の縮帆部を解き、メイン・トップスルとヤンキーをセットした。海はややしずまって、高いうねりになってきた。ぼくらはすでに四百マイル近くも進み、太陽は輝いていた。そして、アバジーンのトロール漁船の船団が見えてきた。そのあたりにはカモメがいて、ときおりウミツバメが、飛び魚のように、うねる波の上を低くかすめた。
それは事件が展開しはじめる日の朝のことだった。ぼくらはくつろいで、帆走以外のことを考えるゆとりができた。正午に、ぼくは舵をヨルゲンセンにあずけた。ディックは両舷の当直を前部へ連れて行って、メイン・トップスルを降ろし、ジャム・スウィプル・シャックル〔自在軸受けの一種〕の一つを取り替えていた。
船出していらい、ぼくははじめてヨルゲンセンとふたりきりになった。「コースは北二十五度東です」と、ぼくはこわばった体を操舵席から起こしながら彼に言った。彼はうなずいて舵を握ると、体をかがめて羅針儀をのぞいた。それから彼は眼を上げて、メイン・マストの回りで揚げ綱にたかっている連中のほうを見た。最後に彼はぼくを見上げた。「ガンサートさん、ちょっと」ぼくが手を貸そうと船首のほうへ行きかけるのに、彼は声をかけた。そしてぼくが足を止めると、彼は言った。「この小旅行で、わたしの健康は非常によくなった。しかし仕事のほうはそう好転しているとは思えんのです――われわれが何か取りきめを結ぶまではね」
「それはどういう意味です?」とぼくは聞いた。
彼は、がっちりした指で軽々と舵を操りながら、胸をそらした。
「わたしがファーネルに関心がないと言ったのは、正直でなかったと思います。ことに――最近彼が、あなたに連絡をとったのを知ったいまとなってはね。思うに、彼はノルウェーでの重要な鉱物の発見を、あなたに告げたんでしょう?」
それを否定する理由はなかった。「彼の通信はそういうことをほのめかしていましたよ」
「どんな金属を発見したのか言っていましたか?」と彼はたずねた。
ぼくはうなずいた。「ええ。サンプルをよこしました」
「郵便で?」彼の眼はぼくをじっと見つめていた。
ぼくは微笑した。「彼はもっと変わった方法を取りました。しかし、ぼくが無事にそのサンプルを入手したことをお知らせするだけで、あなたには十分だと思います」
「で、その鉱物がある場所も、あなたはご存じなんですね?」と彼は聞いた。
彼が当然そう考えているのを、わざわざ訂正する必要はなかった。
「その情報がなかったら、サンプルだけでは大して役に立ちませんからね」とぼくは言ってやった。
彼はちょっとためらってから言った。「わたしたちは、ある種の取りきめをしておいたらと思うんです。われわれは、まっすぐベルゲンへ向うんでしょう? そこであなたがクリントン卿と連絡する前に、とくに提案しておきたいんですが――」
彼の声がと切れた。彼はぼくの後ろのほうをじっと見つめていた。ぼくは振り返った。ダーレルが、甲板昇降口の階段を上った所に立っていた。ぼくは、ダーレルが船尾へ行こうとしているとき、薄暗い中でぶつかった以外、テムズを離れてから一度も彼を見かけなかった。彼の世話はジルがやいていたのだ。
太陽が雲の陰からのぞいて、しわのよったダーレルの顔が、明るい日ざしの中で灰色に見えた。彼はディックのだぶだぶのスウェターを着て、古い灰色のズボンのすそを二重に折り返していた。その眼はヨルゲンセンをじっとにらんでいる。ぼくはこの二人の目に見えない憎悪がまたしても気になった。ダーレルはぎごちない足どりで、上下に揺れる甲板を歩いてきた。彼はヨルゲンセンのことばを小耳にはさんだらしく、こう言った。「それで、とくに提案する時期が来たというのかね?」
「それがあんたにどうだというんだ?」とヨルゲンセンは噛みつくように言った。
「別に」と、不具者は例のひねくれた微笑で答えた。「わしは興味を持っただけさ。あんたは骨を盗《と》られまいと心配するイヌのようだ。いったん埋めたが、ほかのイヌが来て掘り出しやしないかと心配しているんだ。あんたはサマーズさんにまで聞き回っている」
ヨルゲンセンは何も言わず、ただ相手をじっと見つめていた。あごの筋肉が神経質に、ちょっとピクピクした。
「わしは彼女に何も言うなと言っておいた」と、ダーレルは言い足した。
「あんたはいつから彼女の保護者になったんだね?」と、ヨルゲンセンは冷笑して聞いた。
「わしは彼女の父親の友人だ。さいわい、あんたは彼女からも――ライト少佐からも、何も聞き出せなかった」とダーレルは微笑した。「わしの船室のドアがいつもぴったり閉まっているわけではないことを、あんたは知らなかったんだろう、なあ?」彼はぼくのほうを向いた。「ガンサートさん、その特別な提案とかを相談する前に、彼がジョージ・ファーネルのことで何を知っているかをあなたがさぐり出すように、わしは勧めたい」
舵を固くつかんだヨルゲンセンの指の節が白くなった。「あんたはなぜそうファーネルに関心を持つのだ?」と、彼はダーレルにたずねた。
不具者は船の上下動をこらえるために海図室の屋根によりかかった。「バーント・オルセンはフィンセからわしらを逃がしてくれた」彼は突然頭を前へ突き出した。「その晩、わしの家をドイツ兵が襲うように指令したのは誰かも、彼は教えてくれた。わしがそれを承知なのを、あんたは知らなかったろう?」
「あんたはやりもしないことを大言壮語していたから、家を襲われる羽目になったんだ」
「ベルゲンのあんたの社の代理人、ムーレルはそれに無関係だというのかね?」
「もし関係があるとすれば、彼は対独協力で六年の刑を受けたことでそれを償っている」
「あんたの命令で彼がしたことによってかね」
「|それはウソだ《デ・アール・ロングン》」ヨルゲンセンは興奮してノルウェー語になった。彼の顔は怒りに赤くなっていた。
「ウソではない」とダーレルは言い返した。
「では、証明しろ」
「証明しろだと?」ダーレルは微笑した。「そのためにわしはここにいるのだ、ヨルゲンセン。わしはそれを証明しに行く。わしは、ムーレルがいま受けている刑を、あんたも受けるべきだということを証明しようとしているのだ。わしがファーネルを見つけ出したら――」
「ファーネルは死んだ」とヨルゲンセンはさえぎったが、その口調は辛辣で、感情を殺していた。
ダーレルは、それっきりもうあと何も言わなかった。ファーネルは死んだというそっけない一言が、ぴたっと彼の口を封じたようだった。彼は向き直って、甲板昇降口のほうへ歩きかけた。しかしそこで足を止めると、くるつと振り返った。
「ガンサートさん、彼の提案を検討する前に」と、彼はしずかに言った。「最近イギリスのためにあくせく働いているように、情勢がこうなるまえは、彼がドイツのために働いていたことを忘れないで下さい」それだけ言うと、彼は甲板昇降口の階段を降りて見えなくなった。
その時、ディックがふいに怒鳴った――「コースに気をつけろ」船首がまっすぐ風に向って、帆布がどこもかしこも狂ったようにバタバタしていた。ヨルゲンセンは船首を風下へ向けて、船をコースに戻した。それから彼はため息をつき、「ガンサートさん、占領された国にはこういうことがつきものです」と、しずかに言った。
ぼくが何も意見を言わないと、しばらくして彼はつづけた。
「戦争前、ヤン・ダーレルとわたしは一緒に仕事をしていました。彼の持っているタンカーが、わたしの金属工場に燃料を運んでいたのです。ところが――」彼は肩をすくめた。「あの男はばかだった。イギリスの特務員を助けて、それをみんなに吹聴して回ったのです。ムーレルはドイツびいきだったので、彼のことを密告した。ダーレルはそれをわたしのせいにしているんです。そして彼はフィンセを脱走した」ヨルゲンセンはぼくを見上げた。「ドイツのある士官は、彼の脱走の代償として、彼らが求めていた資料を入手したことを認めている。その資料というのは、うちの技術者が開発した新しい型の船舶エンジンに関するものでした。この設計図は、ノルウェーが敵に占領されたとき、『紛失した』ことになっていた。しかし、ダーレルはよそからの注文がある前に、そのタンカーに取付けることをわたしが約束していたので、それについて知っていたのです。そんなわけで――秘密が漏れて、設計図はわれわれの手から取り上げられた」
「その責任はダーレルにあるというわけですね?」とぼくは聞いた。
「証拠はありません――わが国の情報機関のきびしい追求にあって参ってしまったそのドイツ士官を除いてはね。しかし、設計図を要求する敵の命令は、ダーレルがフィンセを脱走した直後に来たのです。当局が彼のノルウェーに戻るのを望まない理由は、それなんです」
「フィンセで彼は何をしていたんです?」とぼくは聞いた。
「強制労働です。ドイツ軍はヨークレンの氷原に、何かとっ拍子もない計画を持っていました」ヨルゲンセンはタバコを取り出して、火をつけた。「ガンサートさん、あなたにも想像がつくでしょう。自分を護るために、あの男は機密をしゃべったに違いない。それに――」と、彼はちょっとためらって――「困ったことに、わたしのような地位の者は、占領下では厄介な立場に置かれるということです。自分の国の解放運動につくすためには、表面ドイツ軍に友好的な態度を示さなければならない。もし彼らに信用されなかったら、わたしは役に立たなくなるでしょう。わたしがひそかに準備していることを知らない大多数の人々は、わたしを親独派と信じていました。だから、ダーレルのような男がむちゃな言いがかりをつけるのを聞くと、わたしは腹が立つ。わたしは自分の務めがどんなに誤解され易かったかをよく知っています」彼はちょっと寂しそうに微笑した。「しかし誤解されても、やったほうがよかったと思っています」と彼は言い、それからつけ加えた。「ところで、ベルゲンへ直行して、協定を結ぶというのはどうです?」
ぼくはためらった。二つのことが、ぼくの心を占めていた。一つは、戦争ちゅうのある期間、ファーネルがフィンセにいたという情報である。もう一つは、ヨルゲンセンがBM&Iにもう条件をつけずに、ただ求めてばかりいることだった。ぼくは話を打ち切る口実をさがして、船首のほうへ眼をやった。ディックがまた上檣帆《トップスル》を巻き上げていたが、それが途中で引掛った。「待て」とぼくは彼に怒鳴った。「トッピング・リフトがもつれているぞ。そのことは後で相談しましょう」ぼくはヨルゲンセンに言うと、ディックに手を貸しに急いで船首へ行った。
トップスルがセットされ、すべてがきちんとするとすぐ、ぼくらは食事のために下へ降りた。ぼくは、ヨルゲンセンの態度が変わったことについて考える時間がほしかった。ぼくらが降りて行ったとき、ダーレルはサロンにすわっていた。ジルが料理室から顔をつき出した。「四人ね?」と彼女は聞いた。
ぼくはうなずいた。眼はダーレルのほうへ向けていた。彼は船の動きにつれて、前後に体をしずかに揺すっていた。
「あなたはヨルゲンセンに少々きつく当ったようですね?」とぼくは言った。
「きつく?」彼は陰気な笑い声をあげた。「クヌウト・ヨルゲンセンは――」と口ごもって、それから言った。「あの男はビジネスマンだ」彼は揺れるテーブル越しに、ぼくのほうへ体をのり出した。「いいかね、ガンサートさん。ノルウェーで一番危険な人物は、ノルウェーの実業家さ。わしはノルウェー人で、その上、実業家だった。だから知っている。わしらはあけっぴろげで、のんきで、気持のいい人間だ――取引きが始まるまではな」
「そうなると?」とぼくは聞いた。
彼は達者なほうの手でぼくの袖をしっかりつかんだ。「そうなると――なんでもできないことはない」と彼は答えた。その言い方に、ぼくは内心ぎょっとした。その時、ジルが入ってきて、たちまちすべてが常態に返ったような気がした。
けれど食事のあと、自分の船室へ寝に戻ると、またダーレルとヨルゲンセンのあの騒動がぼくの頭に返ってきた。ぼくは眼をあけたまま横になり、船の動きに耳を澄ましながら、二人のノルウェー人の激しい対立を感じて、どうしたものかと思案した。二人を離ればなれにさせておくことは、狭い船内では無理というものだ。彼らを一緒にさせて、たえず見張っていることだ、それよりほかにはない。
ぼくが寝棚からとび降りて、甲板へ行くと、ヨルゲンセンが舵のところにいて、コックピットからダーレルがそれをじっと見つめていた。ヨルゲンセンのなめし革のような肌が、いつもより青ざめているように思えた。彼の視線は羅針儀箱からマストの先の三角旗へ、行ったり戻ったりしていたが、ダーレルのほうへは絶対に向けられなかった。甲板には風が吹きすさび、ディヴァイナー号は波のまにまに大きく揺れているのに、彼らの間の緊張は手にとるように分った。
「ダーレルさん」とぼくは言った。「気分が直ったら、ぼくの当直の組に入って下さい」
「いいとも」と彼は言った。
「ぼくらは、いま当直の番ではないんです」と、ぼくは当てつけるように言い添えた。
彼は微笑した。「わしはここのほうが気に入っている。ここにいたほうが胃の具合がいいんだ」
そこで、ぼくも甲板に残ることにした。しかし、そんなことをしても役に立たないことを、ぼくは承知していた。もしダーレルがそこにすわって、ヨルゲンセンを見張っていたかったら、右舷の当直勤務についていれば、できるのだ。ぼくの当直の際に、二人が出会うように計らえたら、監視していられるのだが。しかしそれにしても、ぼくだってときには眠らなければならない。
その晩、ぼくは真夜中に非番になった。天気予報は、イギリスのすべての島の沿岸に、強風注意報を発していた。風はすでに南西に変わっている。ぼくらは当直ちゅうにジャイブ〔縦帆とブームを反対側の舷に移すこと〕しなければならなかった。そしてテムズ河口を出ていらい初めて、右舷の排水孔が水に漬かるほど船が傾いた。主帆《メンスル》を妨害しないように、ミズンをたたまなければならなかった。
「気をつけろ」とぼくはディックに言った。「風が逆転するとは思えないが、もしふいにそうなったら、ジャイブするぞ。風圧に気をつけてろよ。もっと強く吹きだしたら、ヤンキーが外れるからな」
ぼくは彼をそこに残して、下へ降りた。ダーレルはもう自分の船室に入っていた。ドアの下から明りが漏れていた。ジルとウィルソンはラムを入れたお茶を飲んでいた。彼女はぼくにも一杯いれてくれた。「ラムは?」と彼女は聞いて、ぼくの答えを待たずにラムを注いだ。彼女の顔はひどく青ざめ、熱でもあるように眼が光っていた。彼女はぼくにコップを渡した。「元気を出すんだ!」と、ぼくはコップのふちごしに彼女を見つめて言った。
ウィルソンが船首のほうへ行くと、彼女は言った。「ビル、あなたはヨルゲンセンさんと協定を結んだの?」その声はひきつったように、多少かん高かった。
「それはどういう意味だね?」
「ダーレルさんがそう言ったわ。あなたとヨルゲンセンさんが協力するんですって――ジョージ・ファーネルに対して」
「ジョージ・ファーネルに対して?」ぼくにはわけが分らなかった。「ジョージ・ファーネルは死んだんだよ」と、ぼくは彼女に注意した。
彼女はうなずいた。「わたしも、そうダーレルさんに言ったわ。でも、あの人はただこう言うの、『ガンサートを離すな――それだけだ』って」
「ぼくと話をするように、彼はあなたに頼んだのか?」
「はっきりそうは言わなかったわ。でも――」彼女はためらった。それから一歩ぼくのほうへ寄ると、腕をつかんだ。「ビル、わたし恐いわ、理由は分らないけど。この船には、今日、何かあるわ。みんな、いらいらしているのよ。みんながいろいろ聞いて回ってるわ」
「誰があなたに聞きにきたんだ?」
「今朝はヨルゲンセン、午後はカーティスよ。なんにも聞かないのはあなただけだわ」彼女はふいに笑い出した。「その代り、わたしが聞くわ。ヨルゲンセンのことはどうなの?」
「ノルウェーに着いたら決めよう。いまはあなたは部屋に帰って、少し寝たほうがいい」
彼女はうなずいて、飲みものの残りを乾した。ぼくは、彼女がその船室の明りをつけるまで待って、それからサロンの明りを消すと、船尾の自分の部屋へ行った。
ぼくはひどく疲れていたので、服を着たまま寝棚で眠りに落ちた。船の動きは、ゆりかごを揺すっているようだった。ぼくは眠りながらそれを感じて、ひどくぜいたくな気分になった。まるで深紅色のビロードに包まれて、木の頂きでゆらゆら揺られているような夢を見ていた。と、その動きが変わって、鈍く重々しくなった。何かに強襲されるたび、夢はぐらぐら揺れた。そして激しく一方に傾いた。ぼくは毛布を押えて、一揺れごとに寝棚のふちをつかんだ。急に眼が覚めて、甲板へ出なければと思った。下の船室にいて、それを感じた。ぼくは夢の中でそれを感じたのだ。風が船を押えつけている。帆を張りすぎているのだ。ぼくは海員靴に足をつっ込んだ。下を波が通り過ぎるごとに、船がいやいや体を持ち上げるのが、感じられた。
ぼくは船室のドアをあけた。サロンに電灯がついていた。甲板昇降口の階段の下で、ぼくは足を止めた。口論する声が高まるのを聞いたからだ。ぼくは振り返って、半開きになってやるドアからのぞき込んだ。ヨルゲンセンとダーレルが、サロンのテーブルをはさんで向い合っていた。
Sa det er det De tenker a gjore, hva?≪じゃ、あれはあんたがたくらんでしたことだな?≫ヨルゲンセンの声は、低い、激した口調だった。船がぐーっと持ち上って、彼は中央の支柱をつかんだ。彼の背後でジルの船室のドアが開いた。彼女はふだんの服装になっていた。二人の口論で眼を覚したに相違ない。De far ikke anledning.≪あんたにはもうチャンスはないんだ≫とヨルゲンセンはノルウェー語でつづけた。Sa fort vi kommer til Bergen skal jeg fa Dem arrestert.≪ベルゲンに着きしだい、ぼくはあんたを逮捕させる≫
「逮捕ですって?」とジルが叫んだので、彼はくるっと振り向いた。「なぜこの人を逮捕させるんです? この人が何をしたんです?」
「戦争ちゅう、敵に秘密を売ったのだ」とヨルゲンセンは答えた。
「そんなこと、わたし信じません」彼女はかっとして言い返した。
ぼくはサロンのドアをさっとあけた。「甲板に出て下さい、ヨルゲンセンさん。帆を詰めなければならない」
ぼくは彼の答えを待たずに、急いで甲板昇降口の階段を登った。甲板に出てみると、夜の闇の中で海が荒々しくほえていた。ぼくは暴風手すりにとび付いて、コックピットに集まっているおぼろな人影に向って、後部へ這って行った。風はまもなく強風になるだろう。突風がぼくを打つたびに、その風圧がまして行くのが感じられた。「ディック!」とぼくは叫んだ。「帆を詰めるときだぞ。あのヤンキーは風を受けすぎてる」
「いま詰めようとしているところだ」と彼は答えた。その声は内心の不安を表わしていた。彼は自分がうっかりしていたことを知っているのだ。ヨルゲンセンが、ジルの先に立って甲板に出てきた。つづいてダーレルも現われた。ぼくは不具者が上ってきたのに舌打ちした。しかしそんなことに気をつかっているひまはなかった。もし彼が波にさらわれたら、その責任は彼自身にあるのだ。カーティスが舵のところにいた。
「追い風で走るようにするんだぞ」とぼくは彼に命じた。「ディック、きみとカーターは第一斜檣《バウスプリット》へ行け。ヨルゲンセン、あなたはぼくに手を貸してくれ」
ぼくらは前部へ這って行った。船は激しく上下動《ピッチング》していた。ディックとカーターはへさきから第一斜檣索のところへ行き、索を解きはじめた。ジルがシートをゆるめると、ヤンキーは自然と風を抜いてバタバタし出したので、ヨルゲンセンとぼくは滑車で帆を下ろした。第一斜檣に出ていたディックとカーターは、それをたぐり寄せて、後ろのぼくらのほうへよこした。ぼくらはふつうのジブをセットし、それからメイン・トップスルを取り込みはじめた。それでもまだ追い風に、船は帆を張りすぎていた。風が船を駆り立てた。それが感じで分った。
スポットライトの明りで、ぼくは前部の索具に配置した人員を、トツプスルのハリヤード〔ロープ〕とシートへ交替させた。しかしトップスルは下ろそうとすると、引掛った。風圧が帆を主帆《メンスル》の斜桁《ガフ》に押しつけて、帆布がからまったのだ。それを離そうとしているとき、ぼくは風向きが変わるのを感じ、後ろから風が当って主帆のクルー〔帆耳〕が上るのを見た。
「カーティス」とぼくは怒鳴った。「取り舵にしないと、ジャイブするぞ。風が変わった」しかし彼はすでに危険が迫ったのを感じて、舵を大きく切っていた。「コースのことは気にするな」とぼくは彼に言った。「追い風に乗っていればいいんだ」
「オーケー」と彼は怒鳴り返した。
追い風は危険だ、ことに夜間はそうだった。メインブームが勢いよく揺れる。もし風が変わるか、あるいは知らぬまにコースを外れていて、突風が帆布の後ろへ吹き込んだら、ブームはさッとひとなぎに船上を回り、マストを引裂くような勢いで、ガツンと向こう側のタックにぶつかるだろう。そういうジャイブは禁物だった。
ぼくらはまたトップスルを離そうとした。だがそれはびくとも動かなかった。それを離すにはもっと人手が要った。
「カーティス」とぼくは呼んだ。「舵をジルに渡して、こっちへ来てくれ」彼の力を借りて、帆布を犠牲にして、ようやくもつれを解くことができた。布の裂ける音がして、帆は滑車で降りてきた。
「押えるんだ!」とぼくは怒鳴った。「ヨルゲンセン、下りてくるジャックヤードをつかめ」彼はちょっと後ろへ下って、メインハッチの上に立ち、帆桁《ヤード》のほうへ手を伸ばした。
「いいか」とぼくは叫んだ。「引張れッ」
帆は大波がうずを巻くように、バタバタしながら下りてきて、たぐり込もうとするぼくらをしきりに打った。その瞬間、ぼくは船が揺れるのを見た、というより肌に感じた。帆布をわきへかなぐりすてたとたん、風が主帆のリーチの後ろへ回るのが見えた。大きな、かさばった帆布が、反対側へふくらんだ。ブームは船上をゆらゆら回りはじめた。
「ジャイプだ!」とぼくは叫んだ。「ヨルゲンセン! 伏せろ! 伏せるんだッ!」
ぼくは彼がちらりと右舷のほうへ眼をやるのを見た。「ディック!」とぼくは怒鳴った。「みんな」
ヨルゲンセンはブームに打たれるのを防ぐように、手を挙げた。それから急にハッチのふたの上にぱっと身を伏せた。右舷の側の重みが除かれて、船が棒立ちになるのをぼくは感じた。ぼくは帆布とジャックヤードにからまれ、頭からそれをかぶって、甲板を転げ回った。次の瞬間、大きな主帆のブームが船上を回ってきた時、ぼくの体は裂けた帆布から引離された。重いブームが体をかすめて、ジルが悲鳴をあげるのが聞えた。船はヒール〔傾斜〕し、ブームがうなって左舷に回ると、飛沫をあげて波間につっ込んだ。竜骨まで揺がすような音を立てて、ブームの回転がふいに止まると、下の料理室で瀬戸物の割れる音がした。つづいて木の裂ける音が起こり、左舷の後支索《バックステイ》が舷檣からもぎ離されて、ガランガラン鳴りながら索具に打ち当った。
ヨルゲンセンがようやく立ち上った。彼は蒼白になっていた。ぼくはトップスルを引張って、ディックやカーティスやカーターの上から取り除きながら、このうちの誰かがブームに当ったのではないかと気になった。さいわい怪我をしたのはカーティスだけだった。彼は肩をやられたらしかった。ぼくはカーティスをディックにまかして、船尾へ行った。だがそこには、ヨルゲンセンがぼくより先に行っていた。舵のところにはダーレルがいた。彼の顔は青ざめた仮面のようだった。ヨルゲンセンは彼の上着の襟をつかんで、舵の後ろから引きずり出した。
ぼくは一瞬、ヨルゲンセンが不具者を海へ投げ込むのではないかと思った。ぼくはヨルゲンセンに怒鳴った。ヨルゲンセンはダーレルの顔に、悪意に充ちた右手の一撃を加えた。ダーレルはもがくのをやめた。相手がぐったりすると、ヨルゲンセンはその無気力な体をまた舵のほうへ投げ出した。
「後ろへ下がれ、ヨルゲンセン!」とぼくは命じた。「こんなことをする権利はきみにはないんだ。あれはダーレルの落度ではない。彼は船乗りじゃないんだ。カーティスが彼に舵を渡したのがいけないんだ」
「ダーレルの落度じゃないって!」ヨルゲンセンはうつろな笑い声をあげた。「あれは偶然の事故ではない。サマーズさんに聞いてみるがいい」
ぼくはジルを見た。「どうしたんだ?」
だが、彼女はおびえて口もきけないようだった。その場につっ立って、ただダーレルのぐったりした体を見下ろしていた。
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第三章 「捕鯨船十号《ヴァール・ティー》」の声
あのジャイブが意図したものか、偶然の事故か、ぼくには知るよしもない。それに、その時は考えているひまもなかった。ダーレルの体が舵の上にぐったりかぶさって、舵は動きが取れなかった。ほえる風の中で、まだ帆布に過重がかかっている主帆は、マストをぐいぐい引いていた。左舷の後支索《バックステイ》が外れ、右舷の後支索がゆるんで、太い帆柱が突風のたびにしなった。船首を越して流れ込む水の響きを圧して、マストが頭上できしむのが聞えた。
ぼくは、舵のところがらダーレルの体を引きずり出すと、コックピットへ押し込んだ。それから舵をうんと右へ切り、船を風に向けて立てた。「メインシートをたぐれ、ヨルゲンセン」ぼくは、ブームがゆらゆら船上を回りはじめたので怒鳴った。
それでもどうやら船をクローズ・ホールドにして、右舷の後支索を止めることができた。ぼくは舵をジルに渡して、主帆をリーフ〔帆をちぢめて受ける風圧を少なくすること〕し、左舷の後支索を直すために、ヨルゲンセンと前部へ行った。カーティスの怪我は大したことはなかったが、肩をかなり強く打っているので、ウィルソンが甲板に出てくるとすぐ、カーティスを下へやった。
「ダーレルを一緒に連れて行けよ」と、ぼくは彼に言った。それから急に、彼が元来舵を取っていなければならなかったことを思い出して、「ジルに舵を渡せときみに言ったのに、なぜダーレルにあずけたんだ?」と聞いた。
「ジルはコックピットにいなかったんだ」と彼は言った。「きみが困っているのを見て、舵から立ち上ったら、ダーレルがわきに寄ってきたのさ。あの男は昼間ずっと舵のところにいたから、間違いないと思ったんだ。そうすれば、ジルを急の手伝いに残しておけるしな。おれはまさか――」
「もういい」とぼくは言った。「下へ行って、傷の手当をしろよ。ダーレルは寝かせてやれ。ぼくが後から見に行くから」
いろんな物をきちんとし、船をちゃんと針路にのせるのには、一時間近くかかった。ぼくは大事をとって、三ヵ所リーフした。損害は大したことはないように思えるが、檣上の索具は夜が明けてみなければ分らない。主帆が逆に引かれたあの風の力はすごかった。マストの先端の備品は、もぎ取られるか、ゆるんでいるに違いない。船がようやくらくに走り出すと、ぼくはカーティスの腕の手当にジルを下へやり、ヨルゲンセンを舵につかせた。ディックとあとの二人は、前部で帆をたたんでいた。ぼくは航海日誌を書き、それから羅針儀でコースを照合した。羅針儀箱の明りがヨルゲンセンの顔をかすかに照していた。
「なぜダーレルを殴ったんだ?」とぼくは聞いたが、彼が答えないので言い添えた。「あの男は不具者なんだ。この風の中で舵を持たせるのは無理な話だ。押えきれなかったに違いない」それでもヨルゲンセンは何も言わなかった。「あんたは、彼がわざとやったと思ってるのか?」
「あんたはどう思う?」と彼はたずねた。
ぼくはヨルゲンセンがハッチのふたの上に立って、ジャックヤードに手を伸ばした姿を思い出した。もし、ぼくがジャイブすることを感じて、気をつけろと彼に怒鳴らなかったら、ブームが彼を水中へ払い落としていただろう。それは彼の横腹に当って、瀕死の重傷を負わせていたに違いない。もしダーレルがヨルゲンセンを片付けようと思ったら……。
「あれは偶然の事故だ」とぼくは怒ったように言った。
「事故だって?」と彼は笑った。「ダーレルはこれまでずっとセーリングをやっていた。事故なんかじゃない、ガンサート君。甲板に出てくる前、サロンでわたしたちが言い合いをしていたのを、あんたは聞いたろう」
「あんたは彼を逮捕させるとおどかしていた。しかし、それだからといって、彼がやった証拠にはならない――あんたを事故に巻き込んだ証拠にはね」
「あんたの言うのは、わたしを殺そうとしたという意味だろうね」彼は舵の握りを変えた。「物事ははっきり言ったほうがいい。ダーレルがやったことは殺人未遂だ」彼の言い方はいかにも毒々しかった。
「ぼくは下へ行って、ダーレルと話してみる」とぼくは言うと、舵のところに彼を残して離れた。
ダーレルが彼を殺すつもりだったとは、どうしても考えられない。とはいっても、舵のところに坐って、ヨルゲンセンがハッチの上に立っているのを見たら、生殺与奪の権は彼の掌中にあるのだ。舵を回しさえすれば、当然ジャイブが起こる。偶然の事故。それが偶然の事故ではないと証明できる者は、一人もないのだ。それに、帆がからまり、索具が外れている船上で、ヨルゲンセンを海中から救い上げるチャンスはなかったに相違ない。もしダーレルが帆走に慣れない男だとしたら、それも分らないではない。彼が舵を取る直前には、カーティスもうっかりして似たような失敗をやりかけたのだ。けれど、ダーレルがずっと帆走をやっていたとすると……。
ぼくはサロンのドアを開けた。カーティスがメリヤスのスウェターを頭から着ているところだった。ジルは料理室で割れた瀬戸物を片付けていた。
「肩はどうだい?」とぼくはカーティスに聞いた。
「大丈夫だ。ちょっと痛むだけだ」
「ダーレルは船室か?」
「うん。彼も元気になった。唇を切って、頬をすりむいただけだ。ヨルゲンセンは何で彼を殴ったのかな。あの二人はどうも変だ。お互いに性《しょう》が合わんらしい」
ぼくはダーレルの船室へ行った。明りをつけて、彼は寝棚にまっすぐ坐り、まだ血の止まらない唇を軽くたたいていた。ぼくはドアを閉めた。その音に、彼はハンカチを顔に当てたままこちらを見た。
「やあ」と彼は言った。「わしがやった被害はどの程度かね?」
「相当なもんですよ。あなたはセーリングを知らないのに、なぜ舵を握ったんです?」
「きみがライトに、前部で手を貸せと言ったとき、わしはちょうど彼のそばにいたのでね。わしは手伝いにならん。ジル・サマーズなら手伝える。だからわしはライトと舵を代ったんだ。それにわしは、セーリングのことも知っていた、ガンサートさん。ただ残念なことに、わしは――こうなってからは、やっていないのだ」彼は萎《な》えた腕をぼくのほうに振った。「船が突風でヒールしたはずみに、舵がわしの手から外れたんだ」
「ヨルゲンセンは、あなたがわざとやったと思っていますよ」とぼくは彼に言った。
「そうらしい」と、彼は唇を軽くたたいた。「あんたもそう思うかね?」彼の陰気な眼がじっとぼくに向けられた。船室の明りが並外れて大きなその瞳に反射した。
「ぼくは、あなたの言うとおり信じるつもりです」
「ガンサートさん、あんたはわしがわざとやったと思うかどうか、わしは聞いてるんだ?」
ぼくはためらった。「分らない。ヨルゲンセンはさっきあなたを逮捕させるとおどかした。それにあなたは、彼に対する憎しみをかくべつ隠そうとしていないから」
「なぜ隠さなければならないんだ?」と彼は言い返した。「わしは彼を憎んでいるさ」
「なぜです?」
「なぜかって?」彼はふいに声を高めた。「彼がわしにしたことのためだ。これを見るがいい」彼は萎えたほうの腕をぼくに突きつけた。「ヨルゲンセンがやったのだ。わしの顔を見るがいい。これもヨルゲンセンのお蔭だ。戦争前、わしは相応な暮らしをしていて、しあわせだった。妻もいたし、事業もあった。わしは何不足ない身分だった」彼はため息をついて、枕に深くよりかかった。「それは戦争前のことだ。考えると、ずいぶん昔のことのような気がする。わしの商売は海運業だった。沿岸回りの貨物船団と、ノルウェー製鋼会社に石油を運ぶ四隻のタンカーを持っていた。その後、ノルウェーは敵に侵略された。タンカーはイギリスの港へ行くようにわしが指令した。貨物船の一部は沈められ、何隻かは逃亡した、がその大半は運転をつづけていた。そしてヨルゲンセンがオスロでドイツ軍の司令官に取り入っている間、わしはわが国の解放運動につくしたのだ。アルヴェールストルンメンのわしの家は、イギリスの特務員の隠れ家だった。ベルゲンのわしの事務所は、国を脱出する青年たちの連絡所になっていた。すると突然、わしの家は手入れを受けた。イギリスの特務員が一人捕まった。わしは逮捕されて、ベルゲンに監禁された。そこまではまだそう事態は悪くなかった。妻が面会に来たりした。だがその後、ドイツ軍はわしらを強制労働に駆り出した。わしはフィンセに送られた。ドイツ軍はヨークレンの頂上に飛行場を建設する計画を立てたのだ。ドイツ軍のあの途方もない道楽を聞いたことがあるかね?」
「ヨルゲンセンがいつか言ってたけど――」とぼくは口を切った。
「ヨルゲンセンが!」と彼は叫んだ。「ヨルゲンセンが何を知ってるというんだ? あの男は利口すぎる」
彼は寝棚から体をのり出して、上着のポケットからタバコを出した。ぼくはそれに火をつけてやった。彼はせわしなくそれをふかした。その指先が震えていた。この男は興奮して、一人でしゃべりまくっている。ぼくは、彼の話を聞くのは初めてだし、それに彼がジョージ・ファーネルと会ったのは、そのフィンセだったので、黙って耳を傾けた。
「では、あんたはヨークレン計画のことを知らんのだな? イギリスにいた者は、誰もそんな事を聞いていないらしいな。戦争ちゅうはいろんな変わった事が起こるが、国外の人間は、ごく限られた者たちがたまたまそれを耳にするだけのようだ。ノルウェーでは、ドイツ軍とヨークレンのことは誰でも知っている。あれは有名な笑い話だ」彼はまをおいて、それからつづけた。「だが、そこで働かされた者にとっては、笑いごとではなかった」彼はぼくのほうへ体をのり出して、ぼくの腕をつかんだ。「あんたはヨークレンの標高を知ってるか?」
ぼくは首を振った。
「あそこは、ハルダンゲル高原で一番高い所だ。一八七六メートルの高所にある氷河で、万年雪に覆われている。やつらは気違いだ。そこに飛行場を作れると考えたのだ。あそこの雪は、風に吹かれて波のようになっている。やつらは、重い鉄のローラーを付けたトラクターを、頂上まで運び上げた。そして丸いローラーでは前に雪が固まるのに気がつくと、八角形のローラーを作った。氷河の割れ目にはおがくずを詰めようとした。まったく傑作な笑い話だ。が、わしらはそこで働かなければならなかったし、冬場のヨークレンは、ときによって零下五十度にもなった」彼は早口にまくし立てた。そしてふいに枕によりかかると、眼をとじた。「わしがいくつか知っているかね。ガンサートさん?」
彼の齢を当てることなどできそうもなかった。「いや」
「六十を出たばかりだ。そのときわしは五十四だった。バーント・オルセンがいなかったら、わしはフィンセから降りてこられなかったろう。彼はわしら六人を逃がしてくれた。わしらを航空エンジンの木箱に入れてな――ドイツ軍はフィンセ湖のそばで、凍結状態の下でのエンジン・テストをやっていたのだ。ベルゲンから、抵抗運動の同志がわしらを船でフェジェ島へ逃がした。それから数日して、わしらはイギリスの水雷艇に移された」
それはとても信じられないような話だった。ぼくの驚いた様子に気がついたとみえて、彼はつづけた。「こうなったのは後のことだ」と、彼は萎えた腕をさした。「イギリスへ行ってからなんだ。後遺症さ。麻痺したのはな。わしがフィンセにいたその年に、妻は死んだ」彼はひじで苦しそうに体を動かした。「ガンサートさん、それもみんなヨルゲンセンがわしの船団を欲しがったためなのだ。あれはわしの父親が始めた、伝来の事業だった。わしが捕まってから、ドイツ軍はそれを接収した。ヨルゲンセンは会社を設立して、それを彼らから買ったのだ。それなのに、あんたはなぜわしがあの男を憎むかと聞くのかね?」彼はぐったりしたように後ろへもたれて、タバコを深く吸った。「わしが言ったことを覚えているか? ノルウェーで一番危険な人物は、ノルウェーの実業家だ」
「ファーネルのことはどうなんです?」とぼくは聞いた。「フィンセで彼は何をやっていたんです?」
ダーレルはぱっと眼を開いて、ぼくをにらんだ。「ファーネルだって?」そして急に笑い出した。「きみらイギリス人は――まるでブルドッグみたいだ。喰い付いたら離さん。ほかのことは一切無視して、自分に関係のあることにしか注意を向けん。わしの言ったことなど、きみにはどうでもいいんだ。馬の耳に念仏だ、そうだろう?」突然怒ったように彼は声を高めた。「わしは、不正が行なわれたことを、一人の男がもう一人の男によって破滅させられた話をしたのだ。それなのに、きみが考えていたのは――」そこで彼は声を落とした。「いいとも、話してやろう。ファーネルはベルゲン鉄道に勤めていた。彼はバーント・オルセンという名で、フィンセ駅の構内で働いていた。彼は抵抗運動をやっていたのだ。わしらを救い出すために彼は命を賭けた。わしはいま彼を助けたいのだ――もしできることならな」
「彼が死んでいるのに、どうして助けることができるんです?」
「もし彼が死んでいたら――その時はその時さ。だが、もし生きていたら……。わしの生涯は終った。わしには未来はない……なんにもない。ガンサートさん、あんたがそういう立場に立ったら、少しは思い切ったこともしてみたくなるだろう」
「たとえば――人殺しもやりかねないというわけですね」と、ぼくはそれとなく言った。
彼は微笑した。「あんたはあのジャイブが偶然か、そうでないか、まだ疑っている――そうだろう? ヨルゲンセンはわしがわざとやったものと思っている、そうじゃないか?」彼はくすくす笑った。「わしが死ぬまで、あの男は一生びくびくしているだろう――窓の物音は何だろうとか、急死するんじゃなかろうか、などと考えてね」彼は神経質に毛布をむしり始めた。「ファーネルはヨルゲンセンのことをいろいろ知っている。わしがファーネルを見つけ出すことができさえしたらなあ。ヨルゲンセンはファーネルの死んだことを確信しているのかな?」彼は眼をとじた。
その時ドアがあいて、ジルがビーフティ〔濃く煮つめた牛肉スープ〕のコップを持って入ってきた。「具合はどうかしら?」と彼女はぼくに聞いた。
ダーレルは寝棚に起き上って、「とてもいい、ありがとう」と、はっきり言った。
彼女は彼にコップを渡した。「これをお飲みなさい。それから少し眠るようになさるのね」
ぼくは彼女の後について船室を出ると、ドアを閉めた。「ヨルゲンセンがここらにいる時は、いつもダーレルのそばに誰かいるようにしなければならないな」
彼女はうなずいた。
「あれは偶然の事故か、どう思う?」とぼくは彼女に聞いた。
「分らないわ」彼女はす早く背を向けて、料理室へ向おうとした。
ぼくは彼女の腕をつかんだ。「あなたは現場を見たんだ。少なくとも、ヨルゲンセンはあなたが見たと思っている。どうだったんです――事故か、それとも――殺人未遂か?」
彼女はその露骨な表現にたじろいだ。「分らないわ」彼女はくり返した。
ぼくは手を離した。「彼は憎む理由を十分に持っているようだ。とにかく、今後は機会をあたえないようにしよう」
彼女は料理室へ入った。ぼくは振り向いて、甲板へ出る階段を上った。ハッチから出ると、とたんに風の重圧がぼくを打った。ぼくはよろめくように暴風手すりへ行き、闇の中を見回した。
こわれたウェーヴトップが、船が波に持ち上げられるたびに、ひもじそうにヒーヒーいった。海はいたずらにうねって喧嘩した。一波一波が船と海との格闘で、ときには海が勝ち、どっと船上にとび上り、風下の排水孔からやかましく落ちて行った。
ヨルゲンセンは相変らず舵を握っていた。ディックはコックピットの陰で、カーティスの横にうずくまっていた。
「いまどのくらい出ている?」とぼくは彼に聞いた。
「七ノットくらいだ」
「ダーレルに会ったかね?」とヨルゲンセンが聞いた。
「ああ」とぼくは言った。
「彼は何て言ってた?」
「事故だと言ってる」とぼくは答えた。「舵が彼には重すぎたんだ」
「うそだ」
「かもしれない。が、あなたは裁判で事故ときまっても納得しないだろう。しかしあの男が不具者で、片腕だということは事実なのだ」ぼくはディックのほうを向いた。「ぼくが当直を代る時間だ」
ヨルゲンセンは何も言わずに舵をぼくに渡した。ぼくは彼が緑色に光る右舷の航海灯を横切って、メインハッチから下へ消えるのを見送った。「彼から眼を離さないでくれ、ディック。ぼくらが見張っていないと、あのうちの一人が海へさらわれるぞ」
「お互いに気が合わないようだな、あの二人は」と彼は言った。
「見たとおりさ。きみは二、三日サロンに寝てくれないか?」
「見張りかね? いいとも。だが断っておくが、おれは眼をつぶったが最後、一連隊の人殺しがおれを踏んづけて行っても、まぶたが開かないたちだぜ」
彼は下へ降りて行き、ぼくは怒号しながら上下する夜の闇の中にひとり取り残された。舵のところに掛けていると、ディヴァイナー号が波のひとうねりごとに、水を裂いて進むのが分った。それから船は、船尾を先にして、渦巻く波の谷間に滑り落ち、つぎの波で持ち上げられると、風が闇の中へ船を駆り立てる。それは不気味な光景だった。赤と緑の航海灯が、この世ならぬ輝きで――悪魔のような燐光で、帆布を照らし出している。
ぼくは、あの互いに憎み合い、互いに恐れ合っている二人の男――ヨルゲンセンとダーレルのことを考えた。そして大声で笑い出した。ヨルゲンセンにはったりをかけて、テムズから連れ出したことを思うと、ひどく愉快だった。しかし、また考えてみると、グリニッジで彼を上陸させるように、よく思案するべきだったかも知れない。
ぼくの心の迷いは、ジルの出現によって中断された。
「ダーレルはどうしてる?」ぼくはコックピットに掛けた彼女にたずねた。
「寝てるわ。とても疲れてるようよ」
「ヨルゲンセンは?」
「自分の船室へ行ったわ。ディックはサロンに落着いてるわ」彼女はため息をついて、海図室によりかかった。羅針儀箱の明りで、青白い卵形の彼女の顔が見える。そのほかは、スウェターと防水布の黒っぽい輪郭しか見えなかった。ときどき水しぶきがパッとかかって、塩気で眼がちかちかした。
「疲れたかね?」
「少しね」と、彼女はねむそうに答えた。
「どうして下へ降りないんだね?」とぼくはそれとなく言った。「この当直ではもう帆を替えることもないだろう」
「わたしはここにいたほうがいいわ」と彼女は答えた。「新鮮な空気の中にね」
ウィルソンが、熱いコーヒーのコップを持って上ってきた。それを飲んでから、三時間の当直時間がのろのろと経《た》った。流し網漁船の航海灯が一度だけ見えた。それ以外、船は真の闇の中を突き進んだ。ともすれば睡魔がまぶたをふさごうとする。眼を覚しているには、たえず闘っていなければならない。朝の四時に、ぼくらは右舷の当直を呼び起こした。微《かす》かな灰色の光が低い雲間からにじみ出し、後ろから押し寄せる大波の輪郭が見えてきた。
まる一日海上にいるのは、この日が最後だろう。風はいくぶん凪《な》ぎ、海は静まった。日の光の中で見ると、檣上にも大した被害はなく、ぼくらはいろんな帆をまた張った。正午になると、薄くかすんだ太陽が現われて、位置を測ることができた。これでぼくらの現在位置が確認された――ノルウェーのスタバンゲル港の真西三十マイルほどのところだった。ぼくはコースを北十一度東に変えた。
この日一日じゅう、ダーレルは船室に寵っていた。ジルの話によると、彼は心身ともに消耗した上、船酔いで食べものも取れないということだった。ぼくは昼の食事のあとで、彼を見舞った。船室はいやなにおいがして、風通しが悪かった。ダーレルは眼をとじて、横になっていた。青黒い頬の打ち傷と、赤い唇の切り傷をのぞけば、不精ひげの伸びたその顔は灰色だった。ぼくは彼が眠っているのかと思った。が、部屋を出かかると、彼は眼をあけて、「ノルウェーにはいつ着くかね?」と聞いた。
「明日の明け方です」
「明日の明け方か」と、彼はゆっくりくり返した。その言い方で、それが彼にどんな意味を持っているかをぼくは悟った。彼はずいぶん長い間祖国を見なかったのだ。そして最後にそこにいた時は、囚人として、四千フィートを越す山中で、ドイツ軍の奴隷として強制労働に従っていたのである。しかも、彼は脱走者として祖国を離れた。ぼくは、独軍の航空エンジンを収めるはずの木箱に入って、ベルゲンへ鉄道輸送された恐ろしい旅のことを考えた。それから島へ行き、最後に水雷艇での航海。そしていま初めて帰国するというのに、逮捕の脅迫を受けているのだ。ぼくは急に彼がひどく気の毒に思えた。
「イギリスへ向ってベルゲンを出る汽船を見かけると思いますよ」とぼくは言った。「もし見かけたら、あなたを乗せてもらうように信号しましょうか?」
彼はふいに体を起こした。「結構だ」と彼は激しい口調で言った。「結構だ。わしは恐れてなんかおらん。わしはノルウェー人だ。ヨルゲンセンにしろ、誰にしろ、わしの帰国をとめだてはさせん」彼はけわしい眼つきになった。「この船はどこへ向うんだ?」
「フィアールランです」
彼はうなずいて、後ろへよりかかった。
「よし! わしはファーネルを見つけ出さなければならん。もしファーネルを見つけ出すことができたらあの男は真相を知っている。記録もある。抵抗運動をしていた連中は、ドイツ人と疑わしいノルウェーの民間人との間に何があったか、記録に取ってあるのだ」
ぼくは、ファーネルはこの世にいないのだ、と彼に念を押すことができなかった。こんなに興奮し切っている状態では、そんな事を言っても役には立たないだろう。彼がまた眼をとじたので、ぼくはしずかにドアを閉めてそこを出た。
ぼくは、目的地はフィアールランだと彼に言った。しかしその晩起こったあることで、それを変更することになった。ぼくらは朝の七時と晩の七時に、超短波の無線当番を置いていた。七時から七時十分まで、送信したり受信したりする仕事で、その時間に当直に当ったディックかぼくが、波長の整調をやった。この晩は、ディックの番に当っていたが、七時ちょっと過ぎに、彼はジルとぼくがしずかに一杯やっているサロンにとび込んできた。
「船長、あなたにメッセージが来た」と彼は興奮して言った。
「何を言ってきたんだ?」と、ぼくは紙片を受取りながら聞いた。
「会社は、ファーネルがあの通信文を忍ばせた鯨肉の積出し先をつきとめた。あれはボヴォーゲン・ヴァールという会社から出たものだ」
「ボヴォーゲン捕鯨場《ヴァール》?」とジルが声を高めた。
ぼくは、メッセージの内容を軽率に口にしたディックに、内心腹を立てながら、彼女のほうをじろりと見た。「それがあなたにどんな関係があるんです?」
「あれは、ベルゲンの北の、ノルドホールドラン群島にある捕鯨場です」
「そこを知っているんですか?」とぼくは彼女に聞いた。
「いいえ。でも――」彼女はためらった。何か興奮して、迷っている様子だった。
「それで?」とぼくはたずねた。
「それはダーレルさんが関係していた捕鯨場ですわ」
「ダーレルが?」ぼくはメッセージに眼を落とした。その最初にこう書いてある――『鯨肉は、ノルウェー、ベルゲンのボヴォーゲン捕鯨場《ヴァール》からの委託品であることをつきとめた』ダーレルがこの航海に出たのは、そのためだろうか? 彼がファーネルの死に疑いを持っているのは、このためか。ぼくは突然ある事を思い出して、ジルのほうを見た。
「ヨルゲンセンはダーレルの海運事業を買収したそうだが、ボヴォーゲン捕鯨場も手に入れたのだろうか?」
「知りません」と彼女は答えた。
ぼくはふいに疑惑にとらわれて、ディックのほうを向いた。「きみがこのメッセージを受けた時、ヨルゲンセンはどこにいた?」
彼は眼を伏せた。「そうか!」と彼は言った。「そいつは考えつかなかった。あの男は海図室でぼくのすぐ横に坐っていた」
「それで、この通信を一言残らず聞いたってわけだな」とぼくは言った。
「とにかく、彼を追い出すわけにも行かないからな」
「そりゃそうだ」と、ぼくはあきらめて答えた。
彼はまた紙片をぼくにつきつけた。「日付を見てくれ。じつにおもしろいから」
ぼくは紙片に眼を落とした。『発送日付は三月九日』――三月九日! ファーネルの死体が発見されたのは三月十日だ。『ボヴォーゲンへ直行し、ファーネルがいかにして、九日に捕鯨場から通信文を送り、翌日ヨステダルで殺されたかを探り出されたし。ボヴォーゲンに到着の上、毎日無線にて報告乞う。マン』
「ノルウェーの地図を持ってきてくれ」ぼくはディックに言った。
彼が去ると、ぼくはメッセージをもう一度よく読み返した。もちろん、ファーネルは誰かほかの者を使って、鯨肉の託送便の中に、小包をそっと入れることもできたろう。そうとしか解釈のしようがない。
「ビル」と、ジルの声がぼくの一連の空想をさえぎった。「そのメッセージは、ほかに何を言ってきてるの?」
ぼくはためらった。が、メッセージを彼女に回した。ヨルゲンセンはもう知っているのだ。彼女が知ったところでさしつかえはないだろう。ディックが地図を持ってきたので、ぼくらはそれをテーブルに拡げた。ジルがぼくらと一緒になってボヴォーゲンを捜した。それは、ベルゲンの沿岸から三十五マイルほどのところにある大きな島の一つ、ノルドホールドランに位置していた。ボヴォーゲン捕鯨会社。北をさしている長い指のような島の端にそれはあった。そして島の南端からは、二十マイルほど隔たっていた。アルヴェールストルンメンという地名が、ぼくの眼についた。
「ダーレルの家があったのはここじゃないかな?」と、ぼくはジルに聞いた。
「そう。アルヴェールストルンメン。そこよ」彼女はメッセージに眼をやって、それからまた地図に向った。「あなたが受取ったジョージの通信は、鯨肉の便の中に隠してあったのね?」彼女が聞いた。
「うん」ぼくはソグネ・フィヨールドからフィアールランヘの線を眼で追っていた。
「輸出用の鯨肉は非常に急いで積み出すんです」とジルは言った。「もしその品物がイギリスへ向けて九日に発送されたのなら、その日か八日に梱包《こんぽう》されたものです。それ以前に梱包されるということは考えられないわ」
「なるほど。とすると、ファーネルには、ヨステダルへ登る時間はあまりなかったわけだな」
「汽船で行くこともできるじゃないか」とディックが言った。
「うん」とぼくはうなずいた。「それにしても、そこまで行くにはひどく急がなければなるまい」ぼくはそのルートを指でなぞった。それには、ボヴォーゲンから北へ二十マイルほど上り、さらにノルウェー最大のフィヨールドの長い割れ目を東へさかのぼるのだ。バーレストランドまではおよそ百マイル近くあり、そこから支流のフィヨールドをまた二十マイル上って、フィアールランに達するのである。「汽船でも一日がかりだ」とぼくは言った。「それからあと彼はヨステダルの頂上まで五千フィートも登って、ボヤ氷河へ転落した。まったくぎりぎり一杯だったろう」ぼくはジルのほうを向いた。「あそこには汽船の便があるのかな?」
「ええ」と彼女は言った。「でも、ベルゲンからです。レイルヴィークで汽船をつかまえたら、バーレストランドで一晩泊らなきゃならないでしょう。十日の晩までにフィアールランへ着くことは不可能です――ふつうの汽船ではね」
「それじゃだめだな」とぼくは言った。「だとすると、漁船を使ったに違いない。もしそうだとしたら、ぼくらがフィアールランに着けば、誰の持ち船か見つけ出せるだろう。それ以外の解釈は、彼がボヴォーゲンにいなかったということしかない。その場合は、彼に代って誰が通信文を送ったかをつきとめることだ」ぼくはディックのほうを向いた。「このメッセージが届いたとき、ヨルゲンセンの反応はどうだった?」
「さあ、どうだったかな。ぼくはヨルゲンセンのことなんか念頭になかったんでね」
「じゃ、ぼくが行って当ってみよう」とぼくは言った。
甲板へ出ると、カーターが舵を握っていた。風は凪いで、船は長いなめらかなうねりの上を滑っていた。陽は傾いて、薄ずみを流したような東の水平線に、ノルウェーの陸地が黒くつづいていた。
「夜になったら、もっと風が出ますぜ」とカーターがぼくに言った。
ぼくは風下側の手すりをかすめる水の速さに眼をやった。「それでも四ノットは出ているな」
「ええ」と彼は答えた。「こいつは微風の中では、りっぱな船だ。白鳥みたいにすいすい進むからね」
「ヨルゲンセンはどこだ?」
彼は海図室へあごをしゃくった。「あそこにいますよ」
ぼくはコックピットに降りて海図室へ入った。カーティスが海図室の寝棚にひつくり返り、ヨルゲンセンはテーブルに向っていた。ぼくが入って行くと、彼は顔を上げて、「いま距離を計っていたところです」と、海図へあごをしゃくった。「風がつづけば、明日は着きますね」
「どこへ?」とぼくは聞いた。
「ガンサートさん、あなたは命令に従って、ボヴォーゲンへ直行するんでしょう」
「じゃ、あなたは通信を聞いたんですか?」
「やむをえなかったんですよ」と彼は答えた。「わたしはエヴァードさんの横に坐っていた。ジョージ・ファーネルがどうやってあなたに連絡を取ったか、わたしは非常に興味をそそられていたのです。あなたの言ったとおり、彼のやり方はいささか風変わりでしたな。あなたはそれをどう思います?」
「彼はふつうの郵便による方法を恐れていたのでしょう」
「わたしには、重大な鉱物を発見した男が、その情報をこんな手段で伝えるということが、どうも信じられない」彼の口調には押えきれない好奇心が浮かんでいた。「何かそのわけを言っていましたか? 自分の通信が届くことを、どうして彼は知っていたんです?」
「ヨルゲンセンさん、ぼくが知っているのは、彼がふつうの方法を用いることを恐れた、それに」と、ぼくは慎重に言い足した。「彼は死の予感を持っていた、ということだけです」
ヨルゲンセンは重い真鍮《しんちゅう》の海図定規の上に手を置いた。そしてテーブルの上で、ゆっくりそれを前後にころがしはじめた。彼の顔はいつもながら無表情だった。が、その眼はぼくの視線を避けて、いらいらしているのがこちらに感じられた。どうやら自分がかぎつけた情報で、彼は気をもんでいるらしい。
「これからどうするつもりです、ガンサートさん?」と彼はふいにたずねた。「あなたはボヴォーゲン捕鯨場へ行くんでしょうが、それから後は?」
「ぼくは、ボヴォーゲンから三月九日に通信を送ったファーネルが、どうして十日にヨステダルで死体となって横たわっていたかをつきとめるつもりです」
「なぜです?」と彼は聞いた。「それがあなたにどうして重要なんです? ガンサートさん、テムズを出て以来、これをあなたにおたずねしたいとわたしは思っていたのです――あなたに言わせると、あなたの会社は重大な情報を握っているのに――金属の性質やその所在地を知っているのに、なぜそうファーネルにこだわるんです。誰が考えても、その土地へ直行して、情報を自分で確かめたらいいと思うでしょうがね。あなたは卑金属の専門家だ、そうするのが当然でしょう。それなのにあなたは、ファーネルにこだわっている。あなたの会社もそうだ。まるで――」彼は眉を上げて、ことばを切った。
「それで?」とぼくは言った。
「わたしが言おうとするのは――つまり、あなたが見せかけほどは十分な情報をつかんでいないようだ、ということです」彼は終始何気ないしゃべり方をしていた。しかしぼくは、彼の眼がじっとぼくに注がれているのを意識した。
「わたしはこう考えているんですがね」と彼はつづけた。「われわれ二社の間で協定したら、両方に利益があると思うんです」
「ぼく個人としては興味がありませんね。それはあなたとBM&Iとの間の問題です。ぼくがノルウェーを訪れる目的は、ファーネルの身に何が起こったかを探り出すことです」
「そうして、彼が何を発見したか――それはどこにあるかをね」彼は突然きびしい口調になった。「ガンサートさん、ここはノルウェーです。その金属はノルウェーにある。わたしの目的は、わが国の鉱物資源の開発が、外国資本に支配されないように監視することにある。われわれの国は小国で、何かの援助なしにはそれを開発することができない。わたしはクリントン卿に四十パーセントの利益配分を申し出た。その提案はまだ生きている」
「しかしあなたはどこにその鉱物があるのか、ご存じですか? それと、どんな種類の物かを? その情報を入手するまでは、そんな申し出をすることはできないはずだが」
「じゃ、あなたはそれを手に入れてるのかね?」と彼は笑った。「そんなことはあるまい、ガンサートさん。もしあなたが入手していれば、死んだファーネルの亡霊を追いかけ回したりはしないはずだ。あなたは冶金の道具を持って山に登り、イギリス外務省は全力をあげて採掘権の申請を援助するだろう。しかしわたしは、イギリスの大工業会社の代表者に無礼なまねはしたくない。あなたの捜索にわたしはあらゆる助力を惜しまんつもりだ、ガンサートさん。今夜八時にわたしに無線を使わせてくれませんか?」
「なんのためにです?」
「ダーレルがあなたに話したと思うが、戦後、わたしは彼のいろんな事業を受け継いだ。その一つが、ボヴォーゲン捕鯨会社です。わたしはその会社の管理職をしている。八時にキャッチャーボートは会社に無線で報告をする。わたしはその時、支配人に連絡を取って、この船の水と燃料を用意させ、ついでに発送した鯨肉の中に誰が通信文を忍ばせたか、あらかじめ調査をさせておきましょう。あなたが知りたいのはそれでしょう?」
それを拒む理由はなかった。ぼくは彼の交信を聞くために、ジルを一緒に海図室へ連れて行くことにきめた。「どうぞ」とぼくは言った。それから下の船室に寝ている不具の男のことを思い出した。「ダーレルはどうするんです?」
「どうするとは?」と彼は聞き返した。
「あなたはダーレルを逮捕させるとおどかしていたが」
彼はまた定規をおもちゃにしだした。「あれは大したことじゃない」と彼はゆっくり言った。「あなたも知ってるように、あの男はここが少しおかしい」と、彼は額を軽く叩いた。「彼が面倒を起こしさえしなければ、わたしは何もしない。ボヴォーゲン捕鯨場では、船に残っているように、あなたから彼に言い聞かせたらどうです? 戦前のあそこでは、彼の言うことは何でも通った。しかしいまは――何の力もない彼が、またあそこを見たら、どんな影響があるか分りませんからね」
彼は必要以上に妙にそのことばを強調した。いまは――何の力もない彼が、と。ヨルゲンセンにとっては、他人に権力を揮わない男は無力なのだ。権力こそは彼が何よりも愛するものだった。他の男に対して、できれば女性に対しても、権力を持つこと。如才のない、口先き上手なこの男が! 借り着姿でも、彼は何となくブルジョア的な品位を保っていた。だがその裏側は、権力の喜びでふくらんでいる。それが彼の眼つきだの、濃い眉をちょっとしかめる動作にうかがえる。が、それ以上は決して表に現わさない。ビロードの手袋をした鉄のつめだ。ぼくはこういう人間をたびたび見てきた。
ぼくの心の中を読むように、彼がじっとこちらを見つめているのにぼくはふいに気がついた。彼は微笑した。「ガンサートさん、あなたはこれで一財産作れますよ。もし上手に立ちまわればね」
彼は腰を上げると、ぼくの肩に手を置いて、海図室のドアのところで立ち止まった。「新しい金属の争奪戦がどういう意味を持っているか、あなたも長い経験でご存じでしょう。しかもあなたは一匹狼なのだ。よく考えるんですね」
「あれはどういう意味だい?」ノルウェー人が前部へ行ってしまうと、カーティスがたずねた。
ぼくは彼のほうを見て、彼が職業軍人として、自分自身を一個人として考えるのに慣れていないことを悟った。彼は連隊の一員であって、安全な組織の限界から外へ踏み出すようなことは、これまでしたことがないのだ。
「あれは、ぼくに莫大な金をくれようという遠まわしな言い方さ――もしぼくが品物を引き渡せばね」
彼はびっくりしたようだった。「わいろかい?」
「うん、まあ誘惑と言っておこう」とぼくは訂正した。そして急に彼の無頓着な気持をかき乱したい衝動を覚えた。「これもそうだが、金属の事業に伴う金というのは、どのくらい大きなものか知っているかね?」
「全然知らんな」と、彼は興味もなげに答えた。
「正規に売買しようと思ったら、数百万は要るんだ」
彼は笑った。「ぼくに何百万という話は向かんよ。ぼくの給料は年約千五百ドルだ。いや、きみのいう数百万というのは本当だと思うよ。だけど、もしぼくがそれを持ったって、そんな金をどうしていいか分らんものな。きみにしたってそうだろう」そして彼は言い足した。「きみは、このりっぱな船だの、航海の自由だの、ほどほどの金を持っている。百万なんて金は、ただきみの人生をややこしくするだけだ」
「それは人が何を望むかによるさ」とぼくは言った。「目下のところは、これがぼくの望む生活だ――帆をかけて走ることがね。だが、一度鉱山を開発するスリルを味わったら――それこそとっつかれるぞ。それは金じゃない。物事を処理する純粋な興奮だ。ぼくは運よくニッケル鉱にぶつかって、カナダで一度それを経験したことがある。それは力の観念だ。あらゆる方面から自分に向って難問が起こってくるのを見、それを支配することの楽しさだ」
彼はうなずいた。「うん、きみの言うことは分るよ」とゆっくり言い、眉をしかめた。「だが、どうも分らないのは、ファーネルがどうやって鉱石のサンプルを採集したかだ。優秀な探鉱家が鉱脈をつきとめることができるというのは、ぼくにも理解できる。しかしサンプルを取り出すには、機械力が要ると思うんだがね」
それは確かに要点を突いていた。「ぼくも最初はそれをふしぎに思ったよ。鉱石自体が氷の侵食作用によって露出していたと考えるより他はないな。あのサンプルは、氷河のすその、ごろた石の中から見つけ出したものかも知れない」
「なるほど」と彼は言った。「それにしても、きみもヨルゲンセンも、まだ立証もされない発見を信用しすぎているような気がするな」
「いや、ぼくはそうは思わない。ファーネルは他に類がないほど優秀な男だ。サンプルを送る前には、自分一人の直観だけでなく、土地の地質まで十分考慮しているに違いない。彼は何事にも手抜かりをやらない男だ。ヨルゲンセンはそれを知っている。もしぼくらが協定したら、彼もぼくも、莫大な金をもうけられるのだ」
彼は眉をあげてぼくを見た。「まさかあの男の提案を受け容れるつもりじゃないだろうね?」
「うん」とぼくは笑って言った。「だが、その選択は、きみみたいに明快には行かないよ。ぼくは誰に忠誠を尽さなければならないわけじゃない。一匹狼だからな」
「じゃ、どうするんだ?」
「ぼくはぼくなりのやり方で行く――もし切り札がそろえばね」
ぼくは立ち上って、甲板に出た。そして思案を自然と忘れるのにまかせた。ぼくは手すりのところに立って、暗い海ごしにノルウェーのほうを見つめた。かつてぼくは西へ行って、ニッケル鉱を発見した。いまぼくは東へ向って、この寒い、雪に覆われた国で、チャンスを見出そうとしている。ファーネルもそれと同じ強い衝動を感じたのだ。彼はいかなる障害も意に介さなかった――あそこの山々の下にある鉱物の呼び声に、彼は盗みをし、脱走し、そして闘った。同じ衝動がぼくの内にもある――同じようなわくわくするスリルが。それに、ぼくはファーネルよりましなあるものを持っている――ぼくはそれを発見したとき、組織を作り、鉱物を開発する能力を持っている。
ぼくがそうした高揚した気持に浸りながら、手すりのわきに立っている時、下からヨルゲンセンが上ってきた。
「八時になる」と彼は言った。「ボヴォーゲン・ヴァールへ連絡しよう。あなたはきっとサマーズさんを呼んで、わたしの言うことを確かめたいでしょうな」彼は微笑して、海図室へ降りて行った。
彼の言うとおりだった。ぼくは彼が何を言うのか知りたかった。下からジルを呼んで、ぼくらも海図室に腰をすえた。ヨルゲンセンはもう波長を合わせていて、ノルウェー語らしいことばが入っていた。だが、急にそれは英語で、「ひどい漁だ。あばよ、ジョニー」と言うと終った。
「スコットランドのトロール船だ」とヨルゲンセンは言った。それから、「ほら、聞えた」トロール船員の微かな声を通して、ふいに太い、低い声が入ってきた――Ullo-ullo-ullo. Ul-lo Bovaagen Hval. Ul-lo Bovaagen Hval. Dette er Hval To. Ullo-ullo-ullo-Bovaagen Hval. ≪もしもし。もしもし、ボヴォーゲン・ヴァール。もしもし、ボヴォーゲン・ヴァール。こちらは捕鯨船二号。もしもし――ボヴォーゲン・ヴァール≫それからピーッ、ピーッと二度鳴って、別の声が聞えてきた。Ullo-ullo-ullo. Ul-lo Bovaagen Hval. Wl-lo Bovaagen Hval. Detter er Hval To. Ullo-ullo-ullo-Bovaagen Hval. ≪もしもし、もしもし。ボヴォーゲン・ヴァール。もしもし、ボヴォーゲン・ヴァール。こちらは捕鯨船二号。もしもし――ボヴォーゲン・ヴァール≫それからピーッ、ピーッと二度鳴って、別の声が聞えてきた。Ullo-ullo-ullo Hval to Bovaagen Hval her. ≪もしもし、捕鯨船二号。こちらボヴォーゲン・ヴァール≫またピーッと二度鳴って、ノルウェー語でペラペラ話す最初の声が聞えた。
「捕鯨船二号が――キャッチャーボートのうちの一隻が――七十フィートの鯨のことを報告しているわ」とジルがささやいた。
それが終ると、また別の声が聞えた――捕鯨船五号からだった。「五号は何も見えないと言ってるわ」と、ジルがぼくに耳打ちした。「五号のいるところはまだ天気が悪いんですって――二百マイルほど北のほうらしいわ」
捕鯨船五号が交信を終った合図をすると、ヨルゲンセンは送信機にスイッチを入れて、マイクに口を近づけた。Ullo-ullo-ullo-ullo Bovaagen Hval. Det er direktor Jorgensen. Er stasjonmester Kielland der? ≪もしもし、もしもし、ボヴォーゲン・ヴァール。こちらはヨルゲンセン専務。捕鯨場長のヒエルランはいるか?≫ピーッ、ピーッと二度鳴って、拡声器に声が入った。Ullo-ullo-ullo direktor Jorgensen. Det er Kielland. Hvor er De na?≪もしもし、ヨルゲンセン専務。こちらはヒエルランです。いまどこにいるんです?≫
Jeg er embord pa den britiske yachten Diviner.≪わたしはイギリスのヨット、ディヴァイナー号に乗っている≫とヨルゲンセンは答えた。Vi ankrer opp utenfor Bovaagen Hval imorgen tidlig. Vaer sa snild a sorge for vann og dieselolje≪われわれは明日の朝早く、ボヴォーゲン・ヴァールの外に停泊する。水とディーゼル油を用意しておいてくれ≫
「彼は何て言ってるんだ?」とぼくはジルに聞いた。
「わたしたちが着いた時、水と油の手配を頼んでいるのよ」と彼女は小声で言い返した。「いまは、鯨肉の荷に入っていた通信文のことを説明しているわ。支配人のヒエルランに、どうして通信文が鯨肉の中に入ったか、わたしたちが着いた時に報告するように、調査を命じているのよ」
Javel, herr direktor,≪承知しました、専務≫と支配人の声が答えた。Jeg skal ta meg arsaken.≪わたしがやるべきでしょう≫
Utmerket.≪よし≫とヨルゲンセンは答えた。そして通話を終った合図をすると、ぼくのほうを向いた。「明日、この小さななぞの答が出ますよ――うまく行けばね」と彼は言った。
その時、呼び出す声がぼくらの注意をまた無線へ戻した。Ullo-ullo-ullo. Hval Ti anroper direktor Jorgensen.≪もしもし。捕鯨船十号からヨルゲンセン専務へ≫
ヨルゲンセンは再びマイクを取り上げた。Ja, Hval Ti. Det er Jorgensen her.≪はい、捕鯨船十号。こちらはヨルゲンセン≫
Dette er kaptein Lovaas.≪こちらはローヴォス船長です≫と声は答えた。
ジルがぼくの腕をつかんだ。「捕鯨船十号の船長よ。彼は何かを知っているらしいわ」
会話はノルウェー語でちょっとつづいたが、やがてヨルゲンセンはぼくのほうを向いた。「ローヴォスは何か情報を持っているらしい。ファーネルの特徴を知りたがっている」ヨルゲンセンはマイクをぼくに突きつけた。「ローヴォスは英語が分る」
ぼくはマイクにかがみ込んだ。「ファーネルは背が低く、色が黒い。きまじめな、面長な顔つきで、度の強い眼鏡をかけている。それに左手の小指の先がない」
ヨルゲンセンはうなずいて、マイクを取った。「ところで、きみの情報というのは何だ、ローヴォス?」
「今度は英語で話しましょう」拡声器から大きな含み笑いが聞えてきた。「わしの英語は上手じゃない。だからかんべんして下さい。二日前、ボヴォーゲン・ヴァールを出るとき、船員の一人が病気でした。それで別の男を――知らない男を乗せて出ました。ヨーハン・ヘスターとその男は名のっていました。非常に上手な舵取りでした。羅針儀に磁石を仕掛けて、わしが鯨に近づくころだと思ったときには、シェトランド島の沖合に来ていました。彼はシェトランドへ行ったら、わしに大金をくれると言うんです。彼はファーネルという男と一緒に、ヨステダルで鉱物を捜していたそうで、イギリスの会社がその発見に対して彼に金を払うと言っています。わしはそのファーネルとかいう男が、ボヤ氷河で死体になって見つかったことを思い出したので、彼を船室に監禁しました。彼の服を調べたら、本名はハンス・シュラウダーだという書類が見つかりましたよ。それと、小石のかけらがね」
男の本名を聞いたとき、マイクを握ったヨルゲンセンの手に力が籠った。「ローヴォス」と、彼は相手の話をさえぎった。「きみはシュラウダーと言ったな?」
Ja, herr direktor.≪ええ、専務≫
「すぐ転回して、フルスピードでボヴォーゲン・ヴァールへ帰るんだ」とヨルゲンセンは命じた。
再び、低い、太い、含み笑いが、拡声器から流れてきた。
「もう六時間前からそうしていますよ」とローヴォスは答えた。「あなたが興味を持つと思ったからです。明日、お目にかかりましょう、専務」ピーッ、ピーッと、あざけるように鳴らして、彼は通話を打ち切った。海図室に沈黙が落ちた。単調な東部ノルウェー訛《なま》りの、太い陽気な声は、ぼくに大柄な男を連想させた――人生を愉しんでいる、悪党じみた大男を。ぼくはその後、この声の持ち主と知りすぎるほど知るようになった。が、ぼくの最初の印象は変わらなかった。
「シュラウダーというのは誰です?」と、ぼくはヨルゲンセンに聞いた。
彼は顔を上げて、ぼくを見た。「知らないな」と彼は言った。
だが、彼は知っている。そのことにぼくは確信があった。
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第四章 捕鯨場
その夜、ぼくはほとんど眠れなかった。ローヴォス船長の声と、彼が無線で伝えてきた情報が頭を占めていた。なぜ彼はファーネルの特徴を知りたがったのか? なぜ彼はノルウェー語ではなく、英語で話したのか。それに、ハンス・シュラウダーとは誰か? こうした疑問が、ぼくの疲れた頭を責めつづけた。
ヨルゲンセンは、ハンス・シュラウダーという名前を知っている。それは確実だ。彼がその名に心当りがあるなら――その名がファーネルの死のなぞに関連を持っているのに心当りがあるなら――彼は、ファーネルがたった一人でヨステダルにいたのではないことを、知っているはずである。
ファーネルは殺されたのだろうか? ファーネルが情報を握っているので、そのシュラウダーという男は彼を殺したのだろうか? そうでないとしたら、男の持ち物の中からローヴォスが発見したという「小石のかけら」を、どう説明したらいいのか。この小石のかけらが何であるか、疑う余地はなかった。それは珪トリウム鉱のサンプルにきまっている。それを捕鯨船の船長からヨルゲンセンが受け取れば、たちまちぼくと同様、彼にも分ってしまうのだ。
ぼくは朝の四時に当直についた。船は暖かい南西の微風にヒールしていた。月の光が、北へ向って進む、長い、平らな波のうねりを照らし出し、海面にはその風向きに従ってさざ波が立っていた。ダーレルがぼくらの後から上ってきた。彼は海図室の屋根に腰を下ろし、ノルウェーの方向をじっと見つめていた。彼は背を丸め、身動きもせずにそこに坐って、故国をまっ先に見ようとするように、月の光が薄れて東のほうから日が昇るのを待っていた。ジルも口をとざしていた。彼女もまた東のほうへ顔を向けているので、ぼくはファーネルが彼女にとってどれほどの意味を持っていたかを改めて考えた。
ぼくは興奮した気持を覚えはじめた。青白い、冷たい光が強まるにつれて、その気分はますますつのってきた。ジルがぼくの袖に手をかけた。「ほら、あれが見える、ビル? わたしが思っていたより近いわ」
視界のはずれに、低い、黒っぽい線が現われた。それは急速に、はっきりと、黒くなってきた。そしてボーッとしたしみのようなものから、小さい丘陵や岩に囲まれた入江の形になった。それは、船の右真横、五マイルほどのところにあるノルウェーの島々だった。その後ろには、山々の姿が大きくつづいていた。あたりが明るんできて、重畳《ちょうじょう》たる山岳の頂が雪をかぶっているのが眼についた。
日の光は薄ぼんやりした灰色から、冷たい青色になり、やがてオレンジ色の輝きに変わった。真赤な太陽のへりがのぞくと、一瞬、山々はくっきりした黒い線になった。それから太陽が昇ると、雪は深紅のふちをしたピンク色に染まり、島の白ペンキを塗った木造の家々が見えてきた。
ぼくはダーレルのほうをちらっと見た。彼は身動きもしなかった。小さなトロール〔北欧伝説の巨人〕のように、そこにうずくまり、海岸線をじっと見つめていた。暁の光の中で、彼の顔がなごんでいるようにぼくには思えた。
カーティスが甲板に出てくると、手すりのところに立って、陸地のほうを眺めた。島と島との間に、長い割れ目のような一つのフィヨールドが口を開いている。岬には、瀟洒《しょうしゃ》な小さい町がきらきら光っていた。それがソルスヴィークだった。その向こうには、ベルゲンへ通じるイエルテ・フィヨールドが横たわっていた。カーティスが船尾にきた。
「ぼくが初めてノルウェーを見たのは、駆逐艦の甲板からだった」と彼は言った。
「それはどのへんだった?」とぼくは聞いた。
「もっと北のほうさ。アンダルスネースだ」彼はまた島のほうを見つめた。そしてため息をついて、頭を振った。「あれはひどい戦いだったな。ノルウェー軍にはなんにもないんだ。ぼくらも装備は貧弱だった。ドイツ軍は制空権を握っていた。ノルウェー人たちには希望がなかったが、よく戦った。ぼくらは敗退した。が、ノルウェー側はあきらめなかった。ぼくらは北のフィンマルクで彼らを助け、彼らは逆襲に出た。そうしてトロムセまで、ずっとドイツ軍を押し戻したが、その時、フランスヘの突破作戦が命令されたので、ぼくらは行かなければならなかった。それまでの努力は水のアワさ」
「あなたはその後でも戻って来たんでしょう――つまり、戦後にも?」とジルがたずねた。
彼は振り向いて、ちょっとのま、彼女をじっと見た。「ええ」と彼は言った。「一九四五年の初めから、翌年半ばごろまで、ノルウェーにいましたよ。ベルデンにね」と彼は言い足した。
二人はしばらく互いに眼を見合わせていた。それからジルが視線をそらした。彼女は望遠鏡を取り上げると、海岸線を眺めだした。カーティスがぼくのほうを向いた。
「あのローヴォス船長というのは、いつ入港するんだろう?」
「分らない」とぼくは答えた。「ヨルゲンセンはゆうべ、彼が今朝九時にまた無線で連絡してくると言っていた」
「その時までには、ぼくらは捕鯨場に着いているな?」
「たぶんそうなるだろう」とぼくは答えた。
「ローヴォス船長がどうしたって?」
ぼくは振り向いた。そう言ったのはダーレルだった。彼はいつのまにか海図室の屋根から降りて、ぼくのわきに立っていた。その手は、上着の生地をいら立たしそうにむしっていた。
「その男はボヴォーゲンのキャッチャーボートの船長の一人です」とぼくは言った。「彼はファーネルの死に関係のある情報を握っているらしい。そうか――あなたは彼を知っているんですね?」
「うん、その男なら知っている」彼が手をゆっくり握りしめるのをぼくは見た。「ローヴォス船長か!」固く食いしばった歯の間から彼はその名を洩らした。そしてふいにぼくの肩をつかんだ。「あの男には気をつけたがいい、ガンサートさん――危険な男だ。乱暴者で、根性がねじれている」彼はジルのほうを向いた。「彼は一時、あなたのお父さんの下で働いていたことがある、サマーズさん。だが、長いことではなかった。わしはあなたのお父さんが、当時こう言ったのを覚えている――『たとえノルウェーじゅうに射撃手が一人もいなくなっても、わたしはポール・ローヴォスは使わん』とね」
「なぜですの?」とジルが聞いた。
「それにはいろいろわけがある。だが一番の原因は、彼が一人の男を殺したからだ。証拠はない。彼の乗組員たちは彼を恐れるあまり、口を揃えてその男が海にさらわれたと言った。しかし、あなたの父上は、ローヴォスがその男を殺したことを確信していた。お父さんは確かな情報の筋を持っていたのだ。ローヴォスは怒ると見境いがつかなくなる。一度など、南極の工作船で、鯨をウィンチで揚げているときにへまをやったというので、ある男を皮はぎ刀を持って追い回したとも言われている」彼はぼくの肩をぎゅっとつかんだ。「ファーネルの死について、ローヴォスが何を知っているというんだね?」
彼にそれを隠しておく理由はなかった。「ファーネルが死んだとき、彼と一緒にいた男を乗船させていると言うんですよ。その男は――ハンス・シュラウダーとかいうその男は――」
「ハンス・シュラウダー?」
ぼくはびっくりして顔を上げた。「ええ、何かその名に心当りがあるんですか?」
「その男は冶金家かね?」と彼は聞いた。
「だと思います。ファーネルと一緒にいたというのなら」
ぼくはその時、ローヴォスが男の持ち物の中から見つけたという鉱石のサンプルのことを考えていた。「なぜです?」とぼくは聞いた。「その男は誰なんです?」
ぼくはダーレルの体がこわばるのを感じた。ぼくの肩に置いたその手から力が抜けた。ぼくは眼を上げた。ヨルゲンセンの姿がメインハッチから出てきた。朝の日ざしの中で、彼の顔は疲労で灰色に見え、眼の下には小さなたるみができていた。彼は横になっても一睡もしなかったのではないか、とぼくは思った。
「それで?」と、ぼくはダーレルを見上げてうながした。
「ヨルゲンセンに聞くがいい」ぼくには理解できない激しい言い方で、彼は答えた。「ハンス・シュラウダーは誰かと、彼に聞いたらいい」
ヨルゲンセンはその名を耳にして足を止めた。それから彼はゆっくりと船尾にきた。眼はじっとダーレルに注がれていた。ふいに無頓着な様子で彼は言った。
「おはよう、諸君。おはよう、サマーズさん。いよいよソルスヴィークに近づきましたね。朝食までにはボヴォーゲンに着くでしょう」彼はぼくらの警戒するような顔を一通り見回してから、島のほうへ眼をこらした。
「ヨルゲンセンさん、あのハンス・シュラウダーというのは誰です?」ぼくは聞いた。
彼はくるっとぼくのほうを向いた。
「わたしが知るはずはないでしょう?」その声は怒ったような調子だった。それから彼はダーレルのほうを向いた。「あなたはシュラウダーについて何を知ってるんだ?」
不具者は微笑した。「わしよりあんたから、彼のことを話すがいい。彼はあんたの部下だったんだから」
「わたしはそんな名前は聞いたこともない。あなたはいったい何の話をしているんだ?」ヨルゲンセンは声を高めたが、その声は怒りで顫《ふる》えていた。
「わしはきみが彼のことを知っていると思うね、ヨルゲンセン」
ヨルゲンセンはケースからタバコを取り出すと、火をつけた。「あなたはきのう殴られたために、頭がおかしくなったんじゃないのか。ハンス・シュラウダーなんて名前はわたしには覚えがない」彼はマッチを海へはじき飛ばした。炎が水に当って、シュッと小さな音を立てた。「いまどのくらいのスピードが出ています?」と彼はぼくに聞いた。
「五ノットぐらいです」ぼくは彼の顔を見つめていた。「ヨルゲンセンさん、ハンス・シュラウダーというのは誰か、ぼくは知りたいんですがね」
「知らないと言ってるじゃありませんか」彼は拳《こぶし》で海図室の屋根をたたいて語気を強めた。ぼくがおし黙っていると、彼はまた言った。「わたしを信用しないんですか?」
「しませんね」とぼくは静かに言った。それからダーレルのほうを向いて、「ハンス・シュラウダーというのは誰です?」と、たずねた。
「ノルウェー製鋼会社に雇われていた冶金家だ」とダーレルは答ええた。
ぼくはヨルゲンセンを見た。彼はダーレルを見つめていた。体を固くして、右手を握りしめていた。ダーレルはコックピットに降りてくると、向こう端に腰を下ろした。彼は静かな微笑を浮かべていた。
「その男のことを何か知っていますか?」とぼくは聞いた。
「うん」とダーレルは言った。「彼はオーストリア系のユダヤ人だ。一九三六年にドイツを去って、ノルウェーに落着いた。ノルウェーに帰化したのだ。戦争が始まった時、彼はノルウェー製鋼会社の調査部にいた。ノルウェーが侵略されてからは、ドイツ軍の下で働いていた」
「あなたは彼にどこで会ったんです?」
「フィンセでだ」
「彼はそこで何をしていました?」
「あの男は卑金属の専門家だった。彼はフィンセ湾ぞいにあったドイツの実験工場で、ある低温テストの実験に従っていた」
「ファーネルはフィンセで彼に会ったんですか?」
ダーレルは肩をすくめた。「それは分らん」と彼は言って、ヨルゲンセンを見上げた。「シュラウダーは、ファーネルとヨステダルで何をしていたのかね?」と彼はたずねた。
けれど、ヨルゲンセンはもう余裕のある態度を取り戻していた。
「知りませんなあ」と彼は言った。「ガンサートさん、あなたがいまみたいな態度を取られたので、わたしはびっくりしましたよ。わたしがそのシュラウダーとかいう男のことを聞いたのは、ゆうべが初めてだ。ダーレルさんの言うように、その男は対独協力者かも知れない。そしてノルウェー製鋼会社で働いていたかも知れない。しかし、わたしは会社の業務を管理してはいるが、実験室や、作業場や、鋳物工場で働いている者全部を知っているとは限らないことを忘れないで頂きたい」彼は背を向けて、甲板昇降口のほうへ行った。「ボヴォーゲン・ヴァールに近づいたら知らせて下さい」
ぼくは、彼を不当に扱っていたかも知れないと思いながら、彼が下へ降りて行くのを見守った。シュラウダーがノルウェー製鋼会社で働いていたとしても、ヨルゲンセンが知らないということは確かにあり得ることだ。それに、売国奴の烙印を押されたダーレルを、一国の産業界の指導者の一人をさし置いて信用する理由があるだろうか? それからまたぼくは、ファーネルが遭難したとき、なぜシュラウダーがヨステダルにいたかを考えはじめた。
そしてこの事だけは是が非でもやってやろうと決心した――ぼくはファーネルの死体を検屍しなければならない。それに格闘の跡があるかどうかを確かめなければならない。もしシュラウダーがファーネルを殺したのなら……だが、シュラウダーがノルウェー製鋼会社で働いていたのだったら、なぜ鯨肉の荷の中に通信文を入れたのか? なぜイギリスへ行きたがったのか? どうも筋が通らなかった。
ぼくは、かなり長い間、そこに坐って思案にふけっていたに違いない。その証拠に、カーティスが急に海図室から出てくると、こう言った。「船長――ボヴォーゲンへ向う水路にかかったようだぜ」
言われてぼくは、船が群島に近づいているのに気がついた。それらの島はいずれも塩の作用でいためつけられた裸岩でできていて、人が住んでいる気配はなかった。コリントス運河のように、絶壁のある細長い割れ目が、イエルテ・フィヨールドヘつづいている。ぼくは海図で確かめてから、舵をとっているカーターに針路を変えるように命じた。船が割れ目にすべるように向うと、風がぱったりとだえた。ぼくは舵をとって、エンジンをかけさせにカーターを下へやった。
海は鏡のようになめらかだ。割れ目は水で舗装した街路のようだった。両側の岩の断崖が、ぼくらのエンジンの響きをこだまさせた。ぼくらは小さな波止場のある一つの狭い入江を過ぎた。子どもたちが、かん高い声で叫びながらぼくらに手を振った。船はイエルテ・フィヨールドの広い水路にすべり込んだ。そこもまた海は鏡のようで、船首から左右に別れる航跡だけが長い波紋を立てた。そして風がまったく凪いだので、ぼくらは帆を降ろした。それからぼくらは、はるか先の一隻の沿岸汽船の航跡を追って、北へ転じた。
ダーレルがぼくの腕に手をかけて、船尾のほうの陸地を指さした。
「あれがヘルドラ島だ。ドイツ軍はノルウェーの海岸一帯に五百に近い重砲陣地を築いた。ヘルドラ島はそのうちの最も強力なものの一つだった」
「ヘルドラ島のことをどうして知っているんです?」とぼくは聞いた。
「わしはそこで働いていた。三ヵ月、わしは重砲陣地の穴掘りをやらされた。それからわしらはフィンセに移されたのだ」彼は船首が向いている方角へあごをしゃくった。「この正面はフェジェ島だ。それがフィンセから脱出したあと、わしらが連れて行かれた島さ。わしらはそこでイギリスの水雷艇の到着を二週間待った」
彼はまた沈黙に返った。誰も口をきかなかった。エンジンの震動と、水を切る音だけが聞えてきた。青く澄み切った空は日ざしで暖かく、低い、岩ばかりの群島の向こうには、雪をかぶった山々が、冷たく、白くそびえている。ぼくらはイエルテ・フィヨールドを斜めに横切って、ノルドホールドランの沿岸を遡《さかのぼ》って行った。
船は、ノルドホールドランの最初の北向きの岬の突端を通過し、ダーレルの指示に従って右舷へ一ポイント方向を変えた。たえずぼくらの頭上をめぐっている、海鳥のフンで白くなっているいくつかの小島を過ぎた。一つのフィヨールドがそこに口を開いていて、これが魚の工場のあるボヴォーゲンへ通じる水路だと彼が言った。黒白の碁盤縞の水路標が、そこが航路であることを示していた。
と、ふいに捕鯨場が見えてきた。そこは、岩のくぼみに半ば隠れて、低い島々で北側をふさがれていた。不格好な工場の建物の波形のトタン屋根と、煙りを吐く高い鉄の煙突が、ウェールズ盆地にある炭坑のように、島の自然の美観をどす黒く汚していた。ほかの建物はそこには見えなかった。ぼくらは岩と水の世界に入ったのだ――西イングランドにあるような、頂上に草のはえた黒っぽい御影石の断崖ではなくて、なめらかにすりへって、丸味をおびた小丘から水際まで達している、薄い金色をした岩だった。それはぼくにシチリア島を思い出させた。岩は、シチリアと同じ火山性で、天日に焼かれていた。しかも、まばらな雑草と、大きな岩生植物とを除けば、どれも裸岩なのだ――一番高い岬の頂上まで裸だった。そしてたえず海鳥がその上を舞っていた。
まもなく、船はボヴォーゲン捕鯨場へ通じる水路へ入った。ぼくはスピードを半分に落とすように命じて、静かに波止場へ向った。水は油っぽくなり、黒いねばっこい廃棄物で縞になっていた。灰色の腐りかけた肉片が、いくつも流れて行った。生臭いにおいが、鼻をついた。埠頭につながれた一隻のポンポン蒸気船が、鯨肉の箱を積み込んでいる。その向こうには、皮はぎデッキまで引揚げ用の斜面がゆるくつづき、揚げたばかりの鯨のくずが散らばっている。長い、直刃の蒸気|鋸《のこ》が、巨大な背骨を引き切り、それを手ごろの断片に切り分けていた。埠頭の端には、小人数の一団の男たちが、ぼくらのほうを眺めていた。
ヨルゲンセンが甲板に出てきて、右舷の手すりのところに立って、工場のほうをじっと見つめた。ぼくは、ポンポン蒸気のすぐ先の埠頭に船を寄せて、停船した。こちらを見ていたグループの中から初老の男が一人抜けて、ぼくらのほうへやってきた。彼は濃い白髪に、マホガニー色の顔をした、長身で痩せぎすの男だった。God dag, herr direktor.≪こんにちは、専務さん≫と、彼はヨルゲンセンに声をかけた。小さな、いたずら小僧のような、愛敬たっぷりの顔つきで、目じりにはちりめんじわが寄っていた。
ぼくは手すりを乗り越えて、埠頭にとび降りた。
「こちらは捕鯨場の支配人のヒエルラン君だ」とヨルゲンセンがそっけなく紹介した。それから、つづけて英語で言った。「ヒエルラン、イギリス向けのあの鯨肉の荷のことで何か分ったかね。通信文はどうしてあれに入ったんだ?」
ヒエルランは処置なしというように両手を拡げた。「残念ですが、何も見つけ出せませんでした。解釈のしようがないのです」
「みんなに聞いてみたか?」
「はい、専務。誰にも覚えがないそうです。まったくふしぎというほかはありません」
「その時、どのキャッチャーボートが入っていました?」とぼくは聞いた。
「捕鯨船十号じゃなかったか?」ヨルゲンセンの口調は、鋭くきびしかった。彼はいま目下の者と話しているのだ。ぼくはふいに、こういう男の下では働きたくないものだと思った。
けれど、ヒエルランは上役の口調にも平然としていた。「はい」と、やや意外そうに彼は答えた。「捕鯨船十号でした。ローヴォスがその鯨を運んで来たのです。このシーズンの初漁でした。どうしてご存じなんですか?」
「どうして知っているのかなんてことはどうでもいい」とヨルゲンセンは言った。「事務所へ来てくれ、話がある」そして彼は包装工場の間を抜けて行った。
ヒエルランはぼくのほうを向いて微笑した。「行ってみましょう」と彼は言った。ジルとカーティスの二人も、船を降りてきた。二人は、ヨルゲンセンの後を追うぼくと一緒になった。「ひどいにおいね」とジルが言った。彼女はハンカチを鼻に当てていた。圧倒的な悪臭に、ハンカチのほのかなにおいも消されがちだった。
「これは金《かね》のにおいですよ」ヒエルランがくすくす笑った。「捕鯨場にはいつも金のにおいがしています」
「じゃ、ぼくは金持でなくって助かった」と、カーティスが笑った。「ぼくはこんなひどいにおいをかいだことがない――砂漠のにおいもときによっちゃ相当なものだが、これほどじゃないな」
ぼくらは、鯨肉を床から天井まで、何段にも深い棚に積み重ねた包装工場の間を行った。それから、皮はぎデッキに抜け出した。そこは、工場の建物に囲まれた、板張り床の作業場だった。ぼくらの左側には引揚げ道の斜面が海までつづいていた。右側にはウィンチがあって、脂にまみれた太綱がデッキに散らばっている。そして正面には、大樽へ鯨の脂肪を上げて煮るための巻揚げ機をそなえた、工場の本館があった。背骨の巨大な塊りや、バカでかい骨から紅い花づな状に垂れた肉塊が、デッキの上いちめんに散らばっている。重い長靴を穿いた男たちが、血で濡れた板張りの床を滑走するようにして、長い鉄の手かぎで切り分けた骨を巻揚げ機のほうへ引きずって行く。板張りの床は、獣脂の厚い膜で覆われてつるつるしていた。ジルがぼくの腕をとった。そこはひどくすべり易かった。ぼくらはウィンチの前を通り、ボイラー室や石油タンクのそばの炭がらを敷いた坂をのぼって、平らな岩の上にある木造の建物の群れのほうへ行った。
事務所の中は、においがいくらか薄れていた。窓から、煙りを吐いている煙突だの、波形のトタン屋根ごしに海が見晴らせた。
「では、あの鯨を運んで来たのはローヴォスだな」ヨルゲンセンは無線機のわきの机の前に坐っていた。「それは八日か、それとも九日か?」
「九日です」とヒエルランが答えた。彼はジルに椅子を勧めた。カーティスとぼくは勝手に机の端に腰掛けた。「彼は夜明けに入港しました。肉は裁断して包装し、その晩、運搬船で積み出したのです」
「ローヴォスが出港したのはいつだ?」とヨルゲンセンがたずねた。
「九日の夕方まではいました。水と燃料を積み込んでいたのです」
「すると、通信文は場内の者でも、捕鯨船十号の乗組員でも、だれでも肉の中に入れようと思えば入れられたわけだな?」
「はい」
「包装主任はどうしていたんだ? なぜ、そういうことを監督していなかったんだ?」
「監督していました。しかし、出入りの者全部を監督するには、包装工場が広すぎます。それに、デッキから埠頭に出てくる者を、いちいち見張っていなければならない理由はありませんのでね」
「肉を盗む者があるだろうが?」
「そんな事をする必要はありません。わたしはみんなに、好きなだけ持って帰れと許可していますから」
「なるほど」ヨルゲンセンはあごをなでて、無精ひげを指先でかいた。金の印形指輪が日光にきらっと光った。「では、場内の誰にでもやれたわけだな?」
「そういうことです」
ぼくには、ヒエルランが協力しているようには見えなかった。彼が、このきびしい尋問を、不快に思っていることは明らかだった。ヨルゲンセンは腕時計を見た。
「ちょうど九時だ」とつぶやくと、彼は無線機のスイッチを入れた。すると、あのおなじみの、Ullo-ullo-ullo-ullo Bovaagen Hval≪もしもし、もしもし、ボヴォーゲン・ヴァール≫という、キャッチャーボートから呼び出す声が、事務所の中に広がった。捕鯨船二号が現在位置を報告し、五号が鯨の報告をしてきた。ヨルゲンセンはマイクを取り上げて、捕鯨船十号に現在位置をたずねた。ローヴォス船長の声がそれに答えた。Vi passerer Utvaer Fyr, herr Jorgensen, Vi er fremme klokken ti.≪いまウットヴェール灯台を通過したところです、ヨルゲンセン専務。十時にそちらに着きます≫
「ローヴォスは何て言ってるんだ?」と、ぼくはジルにささやいた。
「ウットヴェール灯台をいま過ぎたところだと言ってるわ」と彼女は答えた。「午前十時に入港するそうよ」
あと一時間だ。一時間すれば、彼はこの事務所にやってくる。彼は委細をヨルゲンセンや、ぼくに話すかも知れない。あるいはまた、反対に、ヨルゲンセンは彼とふたりで会って、彼の口を封じるように説きふせるかも知れないのだ。
「ウットヴェール灯台というのはどのへんにあるんだ?」とぼくはジルに聞いた。「ボヴォーゲンの北かね?」
「ええ、二十マイルほど北よ」
ヨルゲンセンはスイッチを切った。彼はかみそりを当てなかったあごをまだなでながら、そこに坐って、窓の外へじっと眼を注いでいた。ぼくは立ち上った。
「ローヴォスが入港するまで、ぼくらのやることはありませんね」とぼくは言った。「行って、朝食にしましょう」ぼくは、立つようにカーティスにあごをしゃくった。ヨルゲンセンがちらっとぼくを見上げた。「あなたは船で食べますか、それともここで?」
「ありがとう、わたしはここで食べましょう」と彼は答えた。
ぼくはヒエルランのほうを向いた。「ところで、ローヴォス船長というのはどういう人です? いい船長ですか?」
「あなたの言う意味でなら、彼は腕ききのシッテルです」そしてぼくが腑《ふ》に落ちない顔をしていると、彼は言った。「シッテルというのは、あなたのお国のことばでいうと射撃手のことです。わたしたちは、船長がきまってもり打ち砲を扱うので、そう呼んでいます。わたしは、そのほかのことには一切関心を持ちません。もっとも捕鯨船二号と捕鯨船五号は違いますがね。その二隻はうちの社の船で、わたしが船長を選びます。しかし、捕鯨船十号はローヴォスの持ち船です。彼は自分で船を持ち、捕獲したものを歩合で会社に売っています」
「じゃ、彼は好きなことができるわけですね?」
「自分の船の上でなら――そうです」
「それで分った」と、ぼくはつぶやいた。
「何が分ったんです?」ヒエルランは怪訝《けげん》な顔つきでぼくを見つめた。
「何年か前、彼が人殺しをやったとかいう話を聞きましたよ」
彼はうなずいた。「わたしもそんな噂を聞いています」
「こちらのご婦人は、ウォルター・サマーズ氏のご令嬢だ――サンネ・フィヨールドにある会社『ピーターセン・アンド・サマーズ』のな」とヨルゲンセンが、ジルのほうへあごをしゃくって説明した。
「そうでしたか!」ヒエルランは、ヨルゲンセンからジルのほうへちょっと視線を移した。
「電話を貸してもらえますか?」とぼくは聞いた。
「さあ、どうぞ」ヒエルランは電話器をぼくのほうへ押してよこした。
「ジル」とぼくは言った。「フィアールランを呼んでくれないか。ぼくはウルヴィックという男と話したいことがある――ヨーハン・ウルヴィックだ。彼はたぶんそこのホテルに泊っているはずだ」ヨルゲンセンの顔をじっと見つめていたぼくは、社の代理人の名を聞いて、突然彼の眼に好奇の色が浮かんだのを認めた。
彼女は受話器を取り上げて、フィアールランを呼んだ。短かい沈黙があった。ヨルゲンセンは机に敷いてある吸取り紙を、指でコツコツたたきだした。
Er det Boya Hotel?≪そちらはボヤ・ホテルですか?≫とジルは聞いた。Kunne De si meg om der bor en herr Johan Ulvik der? Utmerket. Jeg vil gjeme snakke med ham. Takk.≪ヨーハン・ウルヴィックという男の方がそちらに泊っていらっしゃいますか? そう、よかったわ。わたし、その方にお話したいことがあるんですけど。ありがとう≫
電話を待つ間、彼女は背を伸ばして、窓の外をじっと見た。彼女の顔はぴんと緊張していた。いつもとは違う顔だ。これは戦争ちゅう、リンゲ部隊で働いていた娘の顔だった。そしてぼくは突然、魅力的なだけでなく、彼女はまた非常に有能だと気がついた。受話器から声が聞えてくると、彼女は急いで身をかがめた。
Er det herr Ulvik?≪そちらはウルヴィックさんですか?≫それから英語で、「ちょっとお待ち下さい。ガンサートさんに代りますから」
ぼくは、彼女から受話器を受取りながら、「あなたとカーティスは船で朝食の支度をしてくれないか。ぼくもすぐ行くから」と言った。カーティスがぼくの意を体したかどうか、ぼくはちょっと彼のほうを見た。それから受話器にかがみ込んだ。
「ウルヴィックさんですか?」とぼくは聞いた。
「こちらはウルヴィックです」その声は電話を通して、濁ってはっきりしなかった。
「こちらはガンサートです。クリントン・マン卿があなたに連絡したと思うが?」
「はい。それでわたしは、フィアールランに来ています」
「なるほど。ところでぼくは、フィアールランに埋められているジョージ・ファーネルの死体を発掘したいと思っている。死体を検屍したいのです。それについて、何かむずかしいことがありますか?」
「警察はその理由を知らせろと言うでしょうね」
「彼の死が偶然の事故ではないと信じる理由があると言って下さい」ぼくはヨルゲンセンのほうをちらっと見た。彼はじっと窓の外を見つめていた。が、その指はもう吸取り紙をたたくのをやめていた。一言も聞き逃すまいと緊張しているのだ。「できるだけ早く死体の発掘ができるように取り計らって下さい。いいですか?」
「それはむずかしいですなあ」という答えが返ってきた。「偶然の事故ではないという見方を裏書きする何か証拠をお持ちですか?」
「いや。死体からその証拠が見出せると思います――格闘の跡か何かをね」
「わたしが聞いたところでは、死体を運び降ろしたとき、多少損傷していたということです」
「死亡証明書を書いたのは誰です?」とぼくは聞いた。「土地の医者ですか?」
「ええ、レイカンゲルから来た医者です」
「じゃ、その人をつかまえて下さい。検屍の申請に彼の力を借りたらいい。ファーネルが転落したとき、彼と一緒にもう一人の男がいたと警察に言って下さい」
「そのもう一人の人と、あなたは話したんですか?」とウルヴィックはたずねた。「警察はこちらの申請に好意的になると思うんですがね、もしその人が――」
「ファーネルと一緒にいた男はハンス・シュラウダーといって、以前ノルウェー製鋼会社にいた冶金家です。ぼくはまだ彼に会っていない。しかし彼は生きていて、この国を脱出しようとした。その医者をつかまえて、警察に工作して下さい。あすの晩、ぼくがフィアールランに着くまでに死体発掘の許可証が出来ているように頼みます」
「しかし、ガンサートさん――そんな短兵急に――そう早くは運びませんよ」
「あなたの力を当てにしていますよ、ウルヴィックさん」とぼくはさえぎるように言った。「その許可証をどうやって手に入れるか、いくら金がかかるか、そんな事はどうでもいい――とにかく、手に入れて下さい。分りましたね?」ぼくは受話器をかけた。
「するとあなたは、かわいいファーネルの顔を一目見に行こうというんですな?」と、ヨルゲンセンが微笑しながら言った。
「ええ」とぼくは言った。「もしあれが殺人事件だったら、陰に隠れているのは誰かを、神様が教えてくれるでしょう」彼はまだ微笑を消さなかった。「ローヴォスが到着したら、もっとよく分るかも知れません」ぼくはドアのほうへ向った。「ぼくは朝食を食べに行きます。ひどく腹がへった」
ぼくは日光の下に出ると、炭がら道を工場のほうへ降りて行った。ぼくは気がせいていた。しかし、彼らが事務所の窓からこちらを見ているのが分っていたので、わざとゆっくり歩いた。皮はぎデッキを横切って、包装工場の陰に入ると、やっとぼくは後ろを振り返った。誰も後をつけてくる者はなかった。彼らは明らかに何も疑ってはいないのだ。
ぼくが船の手すりをとびこえると、カーティスが甲板昇降口から出てきた。
「朝食の支度ができてるよ」
「朝食なんかどうでもいい。船首と船尾のもやいづなを外すんだ」ぼくは彼を押しのけてハッチへ行くと、「カーター!」と下へ向って怒鳴った。
「はい?」
「エンジンをかけろ――急いで」
「アイ、アイ、サー」
ぼくが命じた理由を考えているひまもなく、カーティスは埠頭にとび降りると、船首のもやいづなを甲板へ投げ上げた。つづいて船尾のもそうした。「どうしたんだ?」彼は船上にはい上ってくるとたずねた。
「ローヴォスさ」とぼくは言った。「ヨルゲンセンがあの男に働きかける前に、会っておきたいんだ」
エンジンがうなって息をふき返した。
「半速前進」と、ぼくは伝声管に命令を伝えた。スクリューがともの下のきたない水をたたいた。埠頭がすーっと後ろへすべって行った。ぼくは舵を回した。第一斜檣《バウスプリット》が埠頭の陰になっていた群島のほうへ勢いよく向きを変えた。その時、ヨルゲンセンが包装工場の間から出てきた。彼はぼくの計画にあわてていた。が、もう手遅れだった。ぼくらと埠頭の間はすでに開き、彼が走ってくる間にそれはますます拡がった。
「ローヴォスと話をしに行きます」と、ぼくは彼に向って叫んだ。「ふたりっきりでね」
彼は立ち止まった。その顔が怒りでどす黒くなっていた。彼は何も言わずに、くるっと背を向けると、包装工場の間を通って帰って行った。全速前進でぼくらは群島の間を抜け、乳白色のもやがかかった北海に入って、ウットヴェール灯台を目指した。右前方に、小型の二隻の船が停泊していた。一隻はふつうのノルウェーの漁船だったが、もう一隻は変わった恰好をしていたので、ぼくは眼をひかれた。それはぶざまに改装した屋根船のような形をしていた。二人の男が船首の四角な甲板室に立っていて、はしごが水中に降ろされている。ぼくらがわきを通りかかると、水面にあぶくが浮かび、丸い潜水帽をかぶった潜水夫が一人浮上してきた。
「この下に何があるんだ?」右舷の手すりにもたれていたディックが、大声で呼びかけた。
英語で答えが返ってきた。「飛行機のエンジンだ」
「ここではみんな英語を話すんですか?」
ぼくは海図室にいたダーレルに聞いた。彼はボヴォーゲン捕鯨場にいた間、ずっとそこに入っていた。
「たいがいの者がな」と彼は答えた。「船を持っている者はみんな、戦争ちゅうイギリスへ渡った。櫓《ろ》かい舟で渡ろうとした者さえあった」彼は肩をすくめてみせた。「そのうちのいく人かはシェトランドに着いたが、なかには運の悪かった者もあった。そうしてかなり大勢の者が、イギリスやアメリカの商船で働いていた。英語をしゃべれないのは、年寄りか農夫ぐらいだ」彼はコックピットから体を起こした。
「では、あんたはローヴォスに会いに行くんだね?」そして後ろによりかかると、前方をじっと見つめた。「わしは一度あの男に会ったことがある。彼はわしの持っている近海汽船の船長になりたがったのだ。わしは下へ行っていよう。あの男には会いたくない」
「彼はどんな男です?」
「ローヴォスかね?」彼は首をまわして、しばらくぼくを見守った。「あれはウナギみたいに、捕えどころのない男さ」彼の唇が皮肉な微笑にゆがんだ。「しかし、みかけはウナギどころじゃない。まるで反対だ。あの男は背が低くて、たいこ腹をしている。よく笑うが、眼は笑っていないのでみんなが彼を恐れるのだ。あれには妻も家族もない。ひとりきりで生きている男だ。シュラウダーに口を割らせるために、あんたはいくらぐらい払うつもりだ?」
「分りません」とぼくは言った。まだそこまでは考えていない」
「ローヴォスが、あんたやヨルゲンセンの知りたがる情報を持っているとしたら――相当要求するだろう」
「彼がその情報の価値を知らなかったとしたら?」と、ぼくは言った。
ダーレルは笑った。「ローヴォスは、いつだって物の値打ちを心得ている男さ」
そのあと、ぼくは、どんなふうにこの捕鯨船の船長をあしらったものかと考え込みながら、黙って坐っていた。静かに凪いだ海を北へ向って進むうちに、もやはしだいに濃くなり、太陽は真珠のような光沢に変わって、寒さがましてきた。霧がわくにつれて視界はだんだんせばまり、ローヴォスの船を見逃すのではないかと心配になってきた。
けれど、十分ほどすると、カーティスがへさきからぼくに声をかけた。「ポート・クォーターに船が見える、船長」
ぼくは海も空も一色に見えるどんよりした空間に眼をこらし、左舷一ポイントのあたりにおぼろげな一つの形が光を受けているのを認めた。舵をそちらへ向けると、近づくにつれて、それは一隻の船の形になってきた。高い船首から、海面とほとんど水平になっている甲板へ、急な傾斜がついていて、後ろへ傾いた一本の煙突が立っていた。その船はへさきで高い波を立て、煙突からは一条の黒煙を曳いて、かなりなスピードで走って来た。前部には、ブリッジから低い甲板へ通じる、狭い通路がついていた。甲板には一基の砲がある――もり打ち砲だった。ぼくはディヴァイナー号をさらに左へ回し、相手の進路をさえぎろうとした。こっちの船が相手の船首の前を横切りそうになったとき、ぼくは平行するように向きを変えて、相手が高波を立てて通過しようとするのに声をかけた。「ローヴォス船長! そっちへ行ってもいいですか?」
向こうの船の機関室の信号ベルが鳴るのが聞えて、一人の男が狭い通路に現われた。彼は背の低い、太った男で、まびさしのついた帽子をあみだにかぶり、緑色の上着を着ていたが、その銀ボタンが強い日ざしにキラキラ光った。
「あんたはだれだ?」と、彼は大声で言った。
「ファーネルの特徴をあなたに知らせた者です」とぼくは答えた。
彼は振り返って、何か命じた。機関室の信号ベルがまた鳴って、キャッチャーボートの工ンジンが停まった。「そばに寄んなさい」と彼は怒鳴った。「ここへ横付けにするんだ」そして舷側を指さした。
「これはぼくに委せてくれ」先方の船に接近しながら、ぼくはカーティスに言った。「ほかの者は船内に残っていてくれ」
キャッチャーボートはスピードを考慮して、低く造られていたので、こちらの防舷材《フェンダー》が向こうの鋼鉄の舷側にぶつかると、ぼくはらくに先方の甲板へよじのぼることができた。
ローヴォスはぼくを迎えに、ブリッジから甲板へ降りてきた。ダーレルの言ったとおり、彼は背が低く、たいこ腹をしていた。彼が歩いてくると、暗緑色の上着が風にあおられて開き、共色のサージのズボンが脚にからまった。銀色のバックルがついた幅広の革ベルトだけが、その巨大な腹をしっかり支えているように見えた。
「ぼくはガンサートといいます」
彼は薄茶色の生毛《うぶげ》におおわれた大きな手を差し出した。「わしはローヴォスだ。わしらは前に会っていますな――お互いに声でね」と彼は笑った。腹の中からこみ上げてくるような太い笑い声だった。「声でね」と、彼はその文句が気に入ったようにくり返した。「まあ、一杯やらないかね。こっちへ来なさい」彼はぼくの腕をとった。「わしの船に来た者で、一杯やらん者はないのだ」そしてヨットをちらっと見た。「あなたの船をつなごう。そうすれば、話しているまに進んで、時間をつぶさんですむ。Hei! Jan! Henrik! Fortoy denne baten!≪おーい! ヤン! ヘンリック! この船をつなぎとめろ≫」
二人の男がその仕事にかかると、彼はぼくを船首のほうへうながした。「あなたはいい船をお持ちだ。だが、これもいい外洋船でしょうが? わしの持ち船だ」彼はぐるっと手をふりまわした。「そっくりわしの物だ――とても安かった。買った値の三倍で売れますぞ」彼はくすくす笑って、ぼくの腕をぐっとしめつけた。「掘り出し物だ。まったく掘り出し物だった。わしは二度、工作船で南極へ行った。だがもうごめんだ。このほうがいい。自分の好きなようにやれる。わしはもう捕鯨会社では働かん。自分一人で働いて、獲物を会社へ売るのだ。そのほうがましだろうが? なあ、ましじゃないかね?」彼はひとりで悦《えつ》に入っているように、二度くり返す癖があった。「ここだ」と、彼はブリッジの下の小部屋へ通じるはしごを上りきった所で言った。「ハルヴォシェン」と彼は呼んだ。Full fart forover sa snart den andre baten er fortoyet. ≪あのヨットをつなぎしだい、全速前進するんだ≫
「はい」と返事が聞えた。
「ここだ、さあ」ローヴォスはドアをあけた。「わしのケビンだ。いつも取り散らしている。女がおらんのでな。女を船に乗せたことはない。おかにはいるが、船に乗せたことはない。ほら、こいつらだ」彼は、寝棚の上の壁にピンで留めた女たちの写真を指さした。「さてと、アクアビットはどうだね? それとも、ブランデイか? フランスのプラソディがある――無税の、上等な代物だ」
「アクアビットってどんなんです?」とぼくは聞いた。ノルウェー独得の酒だとかねがね聞いてはいたが、飲んだことはなかった。
「アクアビットをやったことがないって?」彼は大声で笑い出して、ぼくの腕をたたいた。「じゃ、やってみるんだな」彼は鼻息を立ててかがみ込むと、机の下の戸棚から一本のびんと二つのグラスを取り出した。頭の上で、機関室の信号ベルが鳴ると、エンジンがゴトゴト動き出した。「ほら」と彼はびんを持ち上げた。「本物の赤道を越したアクアビットだ。レッテルの裏側を見なさい。赤道を越えて南へ行った船の名と、持って帰った船の名が入っているだろうが? いいアクアビットはみんな赤道を二度越えている」
「どうしてです?」
「どうしてだって? さあ、そいつは知らん。それはこれを造っている者に聞かんと分らんな。わしに分っているのは、そうするとよくなるということだけだ。さあ――乾杯《スコール》」彼はグラスをあげて、一口に乾すと、ふーっとため息をついた。「うまい! あんたがもっと太っていれば、なおうまいんだ」そして彼はまた腹をたたいて哄笑した。ぼくはダーレルの言ったことを思い出して、彼の細い血走った眼が笑っていないのに気がついた。その眼の回りの脂肉は、笑《え》みじわの中にたたみ込まれていたが、眼そのものは、青く、冷たく、たえずぼくを見つめていた。
「さあ、掛けなさい。掛けなさい」彼はぼくのほうへ椅子を蹴ってよこした。「あんたはシュラウダーのことを知りたいんだろうが?」
「ええ」
彼は寝棚に腰をおろした。「ヨルゲンセン専務も知りたがっている」彼が専務というその言い方は、せせら笑っているようだった。「わしは、あんたが来るのを待っていたのだ」
「ぼくを待っていたんですって? なぜです?」
「無線さ。わしらは半時間ごとに無線を聞いている。ヨルゲンセンはあんたが出てから、わしに言ってきた」ぼくはまた、こちらを見つめている彼の眼が気になってきた。「もう一杯どうだね?」
「いや、結構です」
「あんたはイギリスの会社を代表しているそうだね?」彼が二つのグラスに酒を注ぐと、びんがゴボゴボ鳴った。「乾杯《スコール》」と彼は言った。「ガンサートさん、何という会社かね?」
「卑金属工業会社(BM&I)です」とぼくは答えた。
彼の太い、薄茶色の眉があがった。「ほう! 大会社だね? ノルウェー製鋼よりずっと大きい」
「ええ」ぼくはこの男にしゃべらせたかった。この男の人物を見定めたかった。が、彼はぼくが口を切るのを待っているので、ついにぼくは言った。「そのシュラウダーという男はどこにいるんです?」
「船室に監禁している」と彼は答えた。
「彼に会わせてもらえますか?」
「会わせないこともない」彼はグラスを振って、ドロリとした無色の液体をぐるぐる回した。それから鋭い細い眼で、ぼくをじっと見た。彼は何も言わなかった。船の霧笛が、エンジンのたえまない騒音を消して、突然船室に鳴り響いた。彼はじっと待っていた。霧笛がまた鳴った。
「いくらです?」とぼくは聞いた。
「いくら?」彼は微笑して、肩をすくめた。「あんたは買いたいと言うんだね。だが、何を買おうとしているか、ご存じかな、ガンサートさん?」
「あなたは何を売ろうとしているか知ってるんですか?」とぼくは反問した。
彼は微笑した。「知ってるつもりだ。わしの船には、重要な新しい鉱床の所在を教えることのできる人間が乗っている。ヨルゲンセンがそうわしに言った。あの男を――シュラウダーを、あんたと話しをさせずに、ボヴォーゲン・ヴァールへ連れてくるように、とヨルゲンセンは言った。わしがそれで当惑しているのが、あんたにもお分りだろう、ガンサートさん。ヨルゲンセンは、わしが鯨を売っている捕鯨会社の専務だ。あれは手ごわい男さ。もしわしがシュラウダーを彼に引渡さなかったら、捕鯨場はもうわしの鯨を買い取らんだろう。ノルウェーにはたった三つの捕鯨場しかない。その各捕鯨場は三隻のキャッチャーボートしか持つことを許されていないのだ。もしボヴォーゲン・ヴァールがわしを締め出したら、わしはどこへも鯨を持って行けんのだ。そうなったら、どうして生きて行く? わしの乗組員をどうして食わせて行ける? それに、この船だ――サンネ・フィヨールドにつないで、朽ちるに委せるよりほかにないだろう。もし彼が出し惜しみをして、あんたのほうが余計払うようだったら――わしはイギリスへ行って暮らすようになるかも知れん。なあ? そのときは、この腹を何で養うかな?」彼は腹をゆすって笑いながら、張り出したそこをたたいた。「お国のソーホーにはきっとうまい闇料理屋があるだろう。だが、まずわしらはヨルゲンセンと話をつけなきゃならん」
彼は立ち上ると、舷窓から前方をうかがった。それから腕時計に眼をやった。「あと五十分以内にボヴォーゲン・・ヴァールに着く。そうしたら分るだろう。もう一杯どうかね?」彼はまたぼくのグラスを満した。「乾杯《スコール》」そしてぼくがグラスに手をつけないでいると、彼は言った。「ガンサートさん、わしがスコールと言ったら、あんたは飲むんだ。あんたが飲まんと、わしも飲めん。これがノルウェーの習慣さ。それに、わしは飲みたいんだ。スコール」ぼくはグラスをあげて、その液体をのどにぐっと流し込んだ。ピリッとした強烈な味だった。
「シュラウダーはなぜシェトランドへ行きたがったんです?」とぼくは聞いた。
「彼が誰かを殺したためだろう。わしは知らん。だがあの男はあやうくわしを愚弄するところだった――羅針儀に磁石を仕掛けおって」彼はまたぼくをじっと見ていた。「あのファーネルの特徴は――あんたは、左手の小指の先がないと言ったな?」
「そのとおりです。ぼくが彼とローデシアにいたとき、そうなったので知っています。砕石機にかまれたんです。なぜです?」
彼は眼を飲みものに戻した。「いや。どうしたのかと思っただけさ。シュラウダーとかいうあの男は、その事をなにも言ってなかった。あれの言ったことは、あんたの言うこととぴったりだが、左手の小指のことは何も言わなかった」
機関室の信号ベルが鳴って、エンジンがゆるやかになった。ぼくは立ち上って、前方をのぞいた。霧が濃くなっていた。だが、その中から、ボヴォーゲン・ヴァールを隠している小さな群島の一つがぼんやり現われてきた。
「もう着いたようなもんですね」とぼくは言った。彼は何も答えなかった。彼はヨルゲンセンとぼくとがからんでいる交渉を、どううまくさばこうかと考えているんだな、とぼくは想像した。それに、なぜ彼はファーネルの小指のことを持ち出したのか、すべてのいきさつをどの程度知っているのか、などとぼくは考えた。
このとき、突然、異様な騒動が起こった。叫び声が聞え、つづいて鉄のとびらがバタンと鳴ると、後部甲板へつづく鉄板を踏み鳴らす足音が起こった。そして水音がした。それからいろんな怒鳴り声や、甲板を走る大勢の足音が聞えた。機関室の信号ベルがまた鳴って、エンジンを全速後進に切り換える震動が起こった。
最初の叫び声で、ローヴォスは大きな体に似ないす早い動作ですっくと立ち上ると、ドアのほうへ行った。Hvarl or hendt?≪どうしたんだ?≫と彼は怒鳴った。彼の肩ごしに、顔から血を流した男が、下の手すりからこちらを見上げているのが、ちらっとぼくの眼に入った。Det er Schreuder.≪シュラウダーです≫と、その男は怒鳴り返して、右舷の手すりを指さした。Han unnslapp of hoppet overbord.≪海へとび込んで逃げました≫
De fordomte udugelig idiot!≪しようのないバカ者どもだ!≫ローヴォスは叫ぶと、ブリッジのはしごを急いで登った。
「どうしたんです?」ぼくは彼の後につづきながら聞いた。
「シュラウダーだ」と彼は答えた。「やつが逃げ出して、海へとび込んだのだ」彼はブリッジへ通じるとびらをさっと開いた。航海士がそこで双眼鏡をのぞいていた。Kan De se ham?≪彼が見えるか≫とローヴォスはたずねた。
Nei≪いいえ≫と航海士は答えた。それからふいに言った。Jo, Jo――der borte.≪ああ――あそこに≫
ぼくは彼の指すほうを見た。霧に煙った視界のはずれで、どんよりした海面に、一瞬、黒いしみのようなものがちらっと見えた。そして、それは消えた。
Full fart forover babord motor. Full fart akterover styrbord motor.≪左エンジン全速前進。右エンジン全速後退≫
ローヴォスは不透明な空間をじっと見つめていた。船首が回るにつれて、黒いしみがまたぼくの眼に入った。それはくるりと回ると、後方を見たので、人間の頭だとぼくは悟った。その男は水から両腕を上げた。着ているものを脱ごうとして、もがいているのだ。それから、頭は見えなくなった。水温がどのくらいあるのか、見当がつかなかったが、ひどく冷たいに違いない。しかも、見えなくなった瞬間、その男は外洋の方向を目指していた。気の毒にあの男は方向の感覚を失っていたに違いない。傾きながら回る船上で、バランスをとって立っているぼくのところからは、おぼろに島影が見える。しかし、水の中の位置からは恐らく何も見えないのだろう。
ぼくはローヴォスのほうへちらっと眼をやった。彼は男の頭が消えた個所を、霧を通して凝視していた。ブリッジの端を固く握ったその手が、船の回転の遅さにじりじりしていることを示していた。ぼくは、キャッチャーボートに引索《ひきつな》でぴんと引張られているディヴァイナー号を見下ろした。もし、ローヴォスではなく、ぼくらがシュラウダーを救い上げることができたら……ぼくはすぐさまはしごを降りた。「ディック! カーティス!」と怒鳴った。「つなを切れ、早く!」
ぼくが機関室のハッチのわきを抜け、メインデッキへ通じるはしごを降りかけると、ローヴォスがノルウェー語で水夫に何か怒鳴るのが聞えた。はしごの下で誰かがぼくをさえぎろうとした。ぼくはそれを足で蹴とばし、まっしぐらにディヴァイナー号の甲板にとびおりた。ディックとウィルソンが、それぞれおのを手にしていた。一撃で引索は断ち切られ、ぼくが甲板に立ち上ったときには、エンジンがかかって、船はキャッチャーボートから離れはじめた。
ローヴォスが狭い通路に出てきた。彼は急いで船首へ降りてきながら、ぼくに向って拳を振った。その手が大きなもり打ち砲にかかって、こちらをちらりと見た。「面舵一杯!」とぼくは、舵をとっているジルへ叫んだ。
「面舵一杯」と彼女が答えると、船はぐらっと揺れた。ぼくはキャッチャーボートからできるかぎり遠ざかりたかった。両船の間が急速に拡がったのに、彼の怒っている様子ははっきり分った。もしぼくらがシュラウダーを救い上げるのに成功したら、彼はどうするだろうかとぼくは考えた。
だが、ぼくは成功しなかった。そしてローヴォスにもできなかった。ぼくら二隻の船は、その狭い海域を何度も行ったり来たりした。
が、シュラウダーは影も形も見えなかった――ただ、彼の脱ぎ棄てた上着が、水死体のように袖を拡げて、浮きつ沈みつ漂っているだけだった。あたりにはそよとの風もなく、海は鏡のようだった。それに、霧が濃いので、ぼくらは時々キャッチャーボートを見失った。ぼくは海水をバケツに汲み上げて、その中に手をひたしてみた。氷のように冷たかった。こんな冷たい水の中ではどんな人間でも長くは生きていられないだろう。半時間後、ぼくはあきらめて、霧の中をゆっくりボヴォーゲン・ヴァールへ向うキャッチャーボートの後に従った。
その場所を離れながら、ぼくはジルが船尾からじっと後方を見ているのに気がついた。
「もしあの人を助けることができたら」と彼女は言った。「あの人はいろんな事をわたしたちに話してくれたでしょうね。わたし、きっと話すと思うわ」彼女はふいにぼくのほうを向いた。「あなたは、ヨステダルで何があったと思います?」
「分らない」とぼくは言った。そんなことは考えないほうが彼女のためにいいのだ。
「でも何かあったに違いないわ」と彼女はつぶやいた。「あの人はジョージとそこにいたのよ。そのあとで――事故のあったあとで――彼はイギリスへ行こうとしたわ。彼はノルウェーに止《とど》まることを恐れたんだわ。氷の海に自分からとび込むほど恐れていたのよ。それにあの鉱石のサンプル。あれは彼がジョージの死体から取り上げたものに違いないわ。ビル!」彼女は緊張した声で言うと、ぼくの腕をつかんだ。「あなたはどう思う――彼がジョージを殺したんだと思わない?」
「ぼくはどう考えていいか分らない」ぼくは、彼女の顔を見ないようにして答えた。彼女の痛ましい眼つきを見る気がしなかった。
「とにかく、その男が何をやったにしろ、もう死んでいるんだ」と、カーティスが口を入れた。「何があったか、その真相はもう分らないんだ」彼は振り向いて、船尾のほうをじっと見た。「やあ! 霧がすこし晴れてきた。さっきのあの二隻の船はどうしたかな?」
「二隻の船って?」とぼくは聞いた。
「覚えてるだろう――飛行機のエンジンを捜していた潜水夫さ。もっと向こうだったかな。この霧じゃ、はっきり言えないけど、しかし、たしかこのあたりだったぜ。ディックがあの連中に声をかけたとき、あの島があそこにあったのを覚えているからな」彼は、ぼくらが近づいている島のほうへ、あごをしゃくった。
「そのとおりだ」と、ディックが相づちをうった。「あれはこのへんだったよ」
カーティスは三角形の旗を見上げた。それはパタパタはためいていた。「微風が出てきた。見ろよ、霧が晴れてきた」
「もう少し早かったらなあ」とディックが言った。「シュラウダーの命を救うことができたかも知れない」霧は急速に晴れて、薄日がそこから洩れてきた。「潜水夫が見えないな」と彼は言い足した。
「たぶんもう仕事をしまったんだろう」とカーティスは言った。
ディックは首を振った。「いや、そんな事はない。海がこんなに凪いでいる日なんて、めったにあるもんじゃない。潜水にはもってこいの日和だ。それに、まだ早い。あの連中は作業をはじめたばかりじゃないか」
ぼくは彼を見た。ぼくらは、そろって同じ事を考えていたようだ。「シュラウダーは潜水夫の船に泳ぎつき、おかへ連れて行くように彼らを説きふせたとは思わないか?」とぼくは聞いた。
ディックは肩をすくめた。「彼の死体は見つからなかった。それに船も見当らない。たとえあの船がここを出て行ったとしても、ぼくらのエンジンの響きで、向こうの小さなエンジンの音は聞えなかったろう。キャッチャーボートのローヴォスにも聞えなかったはずだ。それにしても、あんなにす早く、いかりを揚げて逃げるように、どうやって彼はあの連中を説きふせたんだろう?」
「分らないな。だが、ほかに彼が逃れるチャンスはなかったんだ」ぼくはエンジンを止めるようにカーターに命じて、海図室へとび飛んだ。そして海図の上に散らばっている鉛筆や定規をどけて、ノルドホールドランの周辺をじっと見た。ほかの者たちも回りにかたまって、ぼくの肩ごしに海図を見つめた。
「カーティス」とぼくは言った。「これは、きみ向きの問題だ。シュラウダーは何かの理由で必死になっている。彼は脱出したいんだ。もしきみがシュラウダーだとして、助けてくれるようにあの潜水夫たちを説きふせたとしたら、どっちへ向う?」
彼は海図にかがみ込んで、じっと眼をこらした。「彼はローヴォスのそばから離れたいだろう。彼にとっては、ローヴォスはボヴォーゲン・ヴァールと同じなのだ。その場合、ぼくならボヴォーゲンのような狭い陸地は避けるね。どんなにイギリスへ渡りたいと思っても、ぼくは島へは行かない。島へ行ったら、もうかごの鳥だ。いや、待てよ。ここから北のほうの次の島へ行って、アウストレイムに近い静かな入江に上げてもらうんだ。その島の反対側から、漁船をつかまえてフェンス・フィヨールドを越え、本土のハールスヴィクへ行けるだろう。そうしてそこから山へ入って、捜索騒ぎが一段落するまで身を隠しているな」
「でなかったら、ソグネ・フィヨールドへ行く汽船を止めることもできるわ」とジルが口をはさんだ。「あの汽船は、船から声をかけると、どこででも乗せてくれますもの」
「よし」とぼくは言った。「じゃ、これからアウストレイムへ向おう。もしぼくらの考えが当っていれば、ここへまた仕事に戻ってくる潜水夫たちに途中で会えるだろう」
それからまもなく微風が吹き起こり、霧が晴れて日の光が明々とさしてきた。けれど、潜水夫の船はどこにも見えなかった。アウストレイムに見えないだけではなく、沿岸のどの入江にも見当らなかった。ぼくらはしぶしぶ引き返した。
ボヴォーゲン・ヴァールへ戻る途中、妙な事が起こって、ぼくはまごついた。アウストレイムは船尾にかすんで見えなくなった。ぼくは、乗組員たちに飲みものを用意しようとして、サロンへ降りて行った。だが、そこのドアの外で足を止めた。ドアは半開きになっていて、その隙間から、ジルとカーティスがよりそって立っているのがぼくの眼に入った。ジルの眼は涙で濡れていた。カーティスは手に懐中時計を持っていた――それは彼が初めて船にやってきたときに、ぼくが見かけたあの金時計だった。
「すまなかった」と彼は言っていた。「もっと前にあなたにこれを渡さなければいけなかったんだ。が、ぼくには彼が死んだことが信じられなかった。しかし、いまは確信している。だから」――彼は金時計を彼女の手に押しつけた――「これは彼の父親の形見だった。彼がこれをぼくにあずけたとき、あなたの住所が裏ぶたの中に入っていた。ぼくは上陸用舟艇の中でうっかりそれを開いた。そしてあなたの住所を書いた紙切れを、風で海へさらわれた。あとにはあなたの写真だけが残っていた。それでぼくはあなたが一目で分ったんだ」
彼女は時計をしっかり握りしめた。「あなたは――ベルゲンであの時、わたしたちを見たのね、そうでしょう」
「うん」
「わたしが最後に彼に会ったのは、あの時よ」彼女は背を向けると、静かにすすり泣いた。「何か言伝《ことづて》がありました? 彼がこれをあなたに渡したときに?」
「ええ」とカーティスは答えた。「ルパート・ブルークの詩の一節を――」
ぼくはそっと踵《くびす》を返すと、甲板へ戻った。彼女はなぜ泣いたのだろう?」まだ彼を愛しているのだろうか? ぼくはカーターと舵を代った。ファーネルと愛し合っている彼女のことを、考えたくなかった。
ぼくらが捕鯨場に戻ったときは、正午になっていた。埠頭には二隻のキャッチャーボートが入っていた。ぼくらがおかに上ると、ウィンチがガラガラ鳴って、大きな一頭の鯨が尾を縛られて、引揚げ用の斜面を上げられてきた。ぼくらはちょっと立ち停まって、それを眺めた。ウィンチが止まった時には、大きな動物の図体は皮はぎデッキいっぱいに横たわっていた。巨大な尾はウィンチのわきに届いたが、ピンク色の舌をのぞかせた大きく開いたあごは、まだ引揚げ道の上に突き出している。たちまち皮はぎ刀を持った六人ほどの男たちが作業にとりかかった。ウィンチ綱が、あごの後方の、頭の両側から切り裂いた皮のはしに結び付けられた。こうして鯨の皮や脂肪をはぐ仕事が開始された。ウィンチが脂肪を引き裂いて行くにつれて、男たちはそれを刀で切り離すのだ。そうして、背骨にそった肉がむき出しになる。それからウィンチ綱が要所要所に縛り直され、鯨はウィンチで巻かれて、灰白色の腹を皮はぎ刀の前にさらした。
ぼくらが立ち停まって見ていると、ヒエルランがそこへ来た。彼は旧ドイツ軍のひざまである長靴を穿き、古いカーキ色のシャツを着ていた。「やあ、戻られましたね」彼は男の一人に何か大声で指示して、それから言った。「あのシュラウダーとかいう男は海へとび込んだそうですな。救い上げられなかったんですか?」
「だめでした」とぼくは言った。作業員たちはいま鯨のまわりに集まっていた。肉は大きな塊りに切り分けられると、高架移動滑車のかぎにひっかけられて、包装工場へ運ばれて行った。「ヨルゲンセンはどこです?」とぼくは聞いた。
「肉を運ぶ船でベルゲンへ行きました」ヒエルランの態度には、彼の留守をよろこんでいるようなふしがあった。
「ローヴォスは?」
彼は眼じりにしわをよせて微笑した。「ひとりでぷりぷりしていますよ」
「シュラウダーの持ち物はどうしました? あれはどうなったんです?」
「ローヴォス船長が、警察に引渡すように、ヨルゲンセン専務にあずけました」
「どういう物があったか、あなたは見ましたか? その中に、鈍い灰色をした石のかけらはなかったですか?」
彼は眉をあげた。「あなた方が、シュラウダーに関心を持っているのはそのためですか? それは何です――金ですか、銀ですか、何か貴重なものですか?」
「ええ、かなり貴重なものです」ヨルゲンセンが急いでベルゲンへ行ったのもふしぎではない。彼はあの石のかけらをノルウェー製鋼会社の試験室へ持って行って、一日もすればぼくと同じ知識を得るだろう。
「わたしは船へ帰ります」とジルが言った。「わたし――とてもがまんができませんわ」彼女はハンカチで鼻を押えていた。
「お願いです――わたしや妻と食事をなさって下さい」とヒエルランが言った。「もう用意ができています。あなたのいらっしゃるのをお待ちしていたんです。妻をがっかりさせないで下さい。妻はイギリスのお客さんが好きなんです」彼はぼくの腕をゆすぶった。「この島にいるわたしたちは、みんなとてもイギリスびいきなんです。わたしたちはお国の人たちと同じ漁夫や船乗りです。平和なときでも戦時でも、わたしたちは同じ戦いを戦っています。だから食事に来て下さい」
「それはご親切に」とぼくは言った。
「どういたしまして。それに、もし船にあきておいでのようなら、ベッドの用意もありますよ。いらっしゃい、一杯やりましょう。わたしたちは食事の前にいつも一杯やります」彼はくすくす笑って、まだ鼻にハンカチを当てているジルにあごをしゃくった。
「ガンサートさんの奥さんは、このにおいがお好きじゃないようですな。でも、わたしたちは好きですよ。わたしにとっては、これは金《かね》のにおいですからな。わたしはしょっちゅう、そうみんなに言うんです。これは金のにおいだってね。あの鯨をごらんなさい。いま計ったところ、七十三フィートありました。ということは、およそ七〇トンはあります。脂肪で千ポンド以上の油の値うちがありますし、肉もそれと同じ価値があります。だからわたしはこのにおいが好きなんです」彼はジルの手を軽くたたいた。「うちの妻は、新しいドレスのにおいだと言いますよ。七〇フィート以上の鯨が入荷するたびに、わたしはあれに新しいドレスを作ってやる約束になっているんです。だからあれも、いまではこのにおいが好きになっています。いらっしゃい、一杯やりましょう」
彼はぼくらの先に立って、事務所へ行く炭がら道を登った。事務所の背後に、細長い、低い一軒の家があった。ぼくはそこへ入りながら、ジルとちょっと眼を見交わした。彼女の眼には愉しそうな笑いが浮かんでいた。ぼくらは上品な家具を備えた客間に通された。
主人がコニャックを注いでいるとき、ヒエルラン夫人が部屋に入ってきた。彼女は生々とした眼つきと、捕鯨場には似つかわしくない優雅さとを持った、明るい女性だった。ヒエルランがぼくらを紹介した。ジルは、ぼくの妻ではないことを説明した。
「おやおや」とヒエルラン夫人は笑った。「アルベルトはほんとにそそっかしいんですよ。それに、鯨のことのほかは、なんにも知らないんですから。ここに少し長くいらっしゃれば、このうちでは鯨の話しか出ないことがお分りになりますよ」彼女は夫のほうを向いた。「アルベルト、さっきヌールダール船長が運んできた鯨はどのくらいありました?」
「七十三フィートあったよ、マルタ」と、彼は子どもみたいににっと笑って答えた。
「七十三フィート」と、彼女はうれしそうな笑い声を立てた。「さあ、あなたがたのご健康を祝して」彼女はグラスをあげた。「スコール」
一同が乾杯した。その時、ドアがあいて、黒い髪の、しわのよった顔つきの、小柄な男が入ってきた。「あら、スンネさん」とヒエルラン夫人は言った。「こちらへ来て、一杯おやりなさい、スンネさん。イギリスの方たちに会っていただきたいわ」
その男に紹介されたとき、ぼくはとっさには誰だか分らなかった。ごつい顔つきの男で、ぼくらと飲むのが何かばつが悪そうに多少当惑した様子だった。ぼくは彼のことを職人だとふんだ。しかし、彼は英語を解しているらしかった。
「あなたは捕鯨場で何をしておいでです?」男が隣に立ったとき、ぼくは聞いた。
「スンネさんは捕鯨場にはいませんのよ」とヒエルラン夫人が言った。「こちらはアルベルトのもう一つの小さな事業にたずさわっているんです」
「何をやっておいでです?」とぼくは彼にたずねた。
「わしは潜水夫でさ」と彼は言った。
その生粋のロンドン訛りに、ぼくはびっくりした。「潜水夫ですって?」
「そのとおりでさ」
ぼくはディックと眼を見交わして、それから言った。
「捕鯨場に頼まれて潜水しているんですか?」
「そのとおりでさ」と彼はくり返して、飲みものに気をとられている様子をした。
「何のために潜水するんです?」
「飛行機のエンジンでさ」と彼は答えた。「ドイツの飛行機が捕鯨場の沖で撃ち落とされたんですよ。そのエンジンを引揚げようというんです」
「じゃ、ぼくらが今朝、島を出たところで見たのは、あなた方の船だったんですね。あの潜水船と、小さな漁船は?」
「そのとおりです」
「あなたの船はいまどこにいます?」
「潜水船は岬のあたりにつないであります」
「もう一隻は――漁船のほうは?」
彼は薄青い眼をあげて、グラスごしにそれとなくぼくのほうを見た。「わしの仲間は、用事でボヴォーゲンへ行きましたよ」彼はつぶやくように言うと、グラスのコニャックをぐっと乾した。
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第五章 潜水夫を忘れるな
ぼくは、小柄な、ロンドン訛りの潜水夫が、二杯目のコニャックをすするのをじっと見つめながら、彼は何か隠し事をしているに違いないと思った。ほかの者たちも同じように考えているらしく、じっと潜水夫を見つめていた。ジルがぼくの腕をつかんだ。
「ビル!」と彼女は小声で言った。「あの人は今朝、シュラウダーを救い上げたんじゃないかしら?」その声はぴんと張りつめていた。
「分らない。でも、できないことではない。きみはどう思う?」
「わたし――」彼女は口籠った、それからぼくを見上げた。「ビル、わたし、今朝、彼が身近かにいるような気がしたわ――とても身近かに。まるで――」彼女はまをおいて、「わたしにも分らないわ。ただ、彼が身近かにいるような気がしたの、それだけよ」
「ファーネルが?」
彼女は、うなずいた。
ぼくは、黒い髪の小柄な潜水夫のほうを見た。彼はヒエルランと話していた。話をとぎらせたくないように、早口にしゃべっていた。その話がきれぎれにぼくの耳に入った。水深だの、酸素アセチレン切断器のことを話しているようだった。
「あの男は、ひどくびくびくしているようだ」と、ぼくはジルに低く言った。「できるだけ早く一人にして、よく話を聞き出してみよう」
しかし、昼食の前には彼を一人にすることはできなかったし、それに昼食のときにはちょっとした事が起こって、彼と内緒に話したいというぼくの気持をますます高めた。食事は、捕鯨船の船員の食堂とは別の、細長い、天井の低い部屋に用意されていた。そこの窓からは、起伏する裸岩越しに、黒い掘割が見晴らせ、その先にガラス板のような海がつよい日ざしを浴びて静かに広がっていた。食事は――ミッダアと彼らが呼ぶそれは――豪華版だった。まず、トマトやポテトをそえた大きな鯨肉のステーキで始まった。つづいて、冷肉料理が出た――くん製のさけ、塩水につけた鱈《たら》、プレスした鯨肉、そのほかいろんな肉の盛合わせなど、さまざまに調理された数かぎりない罐詰の魚が、サラダやいく種類ものチーズと共に供された。飲みものとしては、ミルクとノルウェー産の軽いビールが配られた。
ローヴォスや、捕鯨船二号のヌールダール船長が、そこに同席した。話はおもに鯨のことだった。スンネは皿に眼を伏せて、何か話しかけられたときのほかは口をひらかなかった。もしディックが彼に話しかけなかったら、ぼくは自分の知りたいことを彼から聞き出すことができ、ローヴォスは二度とこの物語に登場しなかったかも知れない。けれど、ディックは、どうして英語が上手なのか、どうしてロンドン訛りがあるのかと、スンネにたずねた。
小柄な潜水夫は顔をあげた。「わたしのおふくろがロンドンっ子なんでさ」と、彼は食べものを頬張りながら答えた。「おふくろは、どうしてもノルウェー語が覚えられなくって、わたしは初めて口をききだしたときから、おふくろに英語で育てられたんです」
「今朝、あなたと仕事をしていたのは誰です?」とディックは聞いた。
「わたしの仲間と、漁夫ですよ」
その時、雑談がひと区切りついたローヴォスが彼のほうを見た。「漁夫だって? 何を釣っていたんだね?」と彼はたずねた。
ロンドン訛りのあるノルウェー人はにやりとした。「飛行機のエンジンでさ、ローヴォス船長。わしは潜水夫です。きのうからかかったんですがね」
「スカルヴ島沖で撃墜された、あの旧式なユンケル八八型のエンジンを引揚げているんですよ」とヒエルランが説明した。
「スカルヴ島の沖で?」突然興味を示したローヴォスの声が、強烈なパンチのようにぼくを見舞った。ぼくはそうなるのが分っていながら止めることができなかった。ぼくはイギリスの港での引揚げ作業のことを話しはじめた。だが、聞いているのはヒエルラン夫婦だけだった。ローヴォスは食事をやめて、潜水夫を見つめていた。「スンネさん、今朝、あんたはそこに出ていたのかね?」と彼は聞いた。
ぼくはかまわず話をつづけた。が、ぼくの回りはしんとしていた。スンネはおびえたような一瞥《いちべつ》をローヴォスへ向けて、皿に眼を落とした。彼はそわそわとナイフやフォークをもてあそんでいたが、何も食べなかった。「そうですよ」と彼は言い、それから急いでつけ加えた。「エンジンを下見に行ったんでさ。それで異状のないことが分ったんで、仲間がアセチレン切断器を買いにボヴォーゲンへ行ったんです」
ローヴォスはタカのように、彼に襲いかかった。「ボヴォーゲンヘ?」
「そうです」とスンネは答えた。その言い方は確信のない口調で、薄切りのチーズを肉の上にのせようとして、彼はナイフを取り落とした。
「あんたは誰と仕事をしていたんだね?」とローヴォスはつづけて聞いた。
「ペール・ストゥールヨハンでさ。わしはあの男と組んでいるんです。一緒に船や道具を持っていますよ」
「で、漁夫は?」
「あれは近在の者です」とヒエルランが口を入れた。「ノールハンゲルから来たエイナール・サンヴェンです」
「ノールハンゲルから?」ローヴォスはこの情報をじっと胸のうちで吟味している様子だった。「今朝、あんたが仕事を切り上げたのは何時ごろかね?」
スンネはぼくのほうを見て、それからローヴォスへ眼を移した。彼はグラスをとって、ビールを一口飲んだ。ぼくはテーブルごしにのり出して言った。「そのエンジンのことをもっと聞かせてくれませんか? それは何年も前に撃墜された飛行機だと思うんですが、エンジンはもう使いものにならないほどさびてるんじゃありませんか?」
スンネはほっとしたように、ぼくの持ち出した新しい話題にとびついた。「そんなことはありませんよ。ちゃんとしたもんです。金物は水の中ではさびませんからね。金物がさびるのは、空気と水のせいです。ご存じのように、船は空気に当ってさびが出るんです。だけど、船を水に沈めて後から見に行ってごらんなさい――ちっともさびちゃいないから」
彼がまをおくと、すかさずローヴォスが言った。「あんたは今朝、どのくらいスカルヴ島の沖に出ていたね、スンネさん?」
「さあ、どのくらいでしたかな?」とスンネは答えた。「一時間か二時間そこらかな。なんでです?」彼はローヴォスのほうを見たが、どうにも相手の凝視を受け止めかねるように、また皿に眼を落とした。
「仕事を始めたのは何時かね?」とローヴォスは食い下った。
「よく分らないけど、八時ごろでしたかね」
「では、朝の十時にはまだあそこにいたわけだな?」
「何時までいたか、覚えてませんね。わしの仲間にお聞きなさい。あれは時計を持っているから」
「その男はいつ戻ってくるんだね?」
「さあ、分りませんね。アセチレン切断器を買いに行ったんですからね。ベルゲンまで行ったかも知れませんよ」
ローヴォスはスンネのほうへ体をのり出した。そのずんぐりした、がんじょうな体格には、何か人をおびやかすようなものがあった。
「わしらがシュラウダーを捜していたとき、あんたはスカルヴ島沖に出ていたんだね?」
「それが捕鯨船十号から海へ落ちた人の名ですか?」スンネはそわそわしている様子を一所懸命隠そうとしながら聞いた。
「そうだ」と、ローヴォスは不愛想に答えた。
「じゃ、わしたちはそこにいなかった。なんにも聞かなかったからね」
ヒエルラン夫人がローヴォスの腕を軽くたたいた。「わたしは、スンネさんがその場にいたら、すぐそう言うと思いますよ、ローヴォス船長さん」
ローヴォスは何も言わなかった。彼は坐ったまま、じっとスンネを見つめていた。気まずくなるほど、食卓には長い沈黙がつづいた。ヒエルラン夫人が口を切った。「ほんとにおそろしいわ。ボヴォーゲン・ヴァールで人死にが出るなんて初めてですものね。それも捕鯨場のすぐそばで――実際考えられませんわ」
「人が死んだのはこれが初めてですか?」と、ぼくはヒエルランに聞いた。
彼はうなずいた。「事故はたびたびあります。皮はぎ刀で怪我をしたりね。それに、ウィンチに足をはさまれた者もありました。しかし、それはみんな工場での出来事です。船の上ではまだ一度もありません。これが最初です」ぼくはローヴォスのほうを見た。「しかし、あなたは初めてじゃありませんね、ローヴォス船長?」
「それはどういう意味かね?」ふいの怒りに彼の眼がきらりと光った。
「あなたは以前、人を一人殺したとかいう話をぼくは聞いていますよ」
「誰がそんなことを言ったんだ?」
「ダーレルという人です」
「ダーレルだと?」彼の眼が細くなった。「わしのことをあの男は何と言ったんだ?」
「人を殺したので、キャッチャーボートの船長をくびになったというだけの話ですよ」
「そんなことはうそだ」
「たぶんね。だが、このシュラウダーという男が死んだことは、警察にどう説明します?」
「説明だと? シュラウダーは海へとび込んだのだ」
ローヴォスはパンの一片を、指先でボロボロにもんでいた。ぼくはふいに勝ったと思った。「ぼくの証言はどうします?」とぼくは言った。
「でも、その人は船からとび込んだんですわ」とヒエルラン夫人が言った。「それに違いないんでしょう? まっすぐにとび込んだとみんなが言っていますわ。あなたとローヴォス船長さんは一緒に捜したんでしょう?」
「その男は必死になっていたんです」とぼくは言った。「だからとび込んだんですよ。ローヴォス船長、彼が必死になるほど、あなたは彼に何をしたんです? あなたは彼を脅迫したんですか?」
ローヴォスは椅子を後ろへ押して、立ち上った。彼は憤怒で赤くなっていた。「わしは侮辱されてここにいるわけにはいかん。あんたはこの家の客だ。もしそうでなかったら、ただでは済まんところだ。わしは船へ戻る。だが気をつけたほうがいいぞ、ガンサートさん。せいぜい気をつけるんだな。口は禍いの元だから」彼はヒエルラン夫人のほうを向いて、Takk for maten.≪ごちそうさん≫と言うと、ちらりとぼくのほうを見て、部屋を出て行った。
ぼくは少々やりすぎたようだった。もっと穏やかにやる方法があったろう。だが、ぼくは彼の注意を、スンネやあの二隻の潜水船からそらしたかった。ぼくは静かになったテーブルを見回した。ヒエルランがこっちを見つめていた。その眼は例の上機嫌な輝きを失っていた。「捕鯨船十号の上で何があったのか聞かせてくれませんか?」と彼はたずねた。
ぼくは彼に話した。ぼくが話しおわると、彼は言った。
「あなたはヨルゲンセンさんと同じ理由で、そのシュラウダーという男に興味を持っているんですね?」
ぼくはうなずいた。
彼は何も言わずに、考えに沈むように椅子に深くもたれていた。
「あの男の死んだことについて、何か取調べがあるんでしょうね?」と、ぼくは彼に聞いた。
彼は顔をあげた。「いいや、そんな事はないと思いますよ」
「しかし、それにしても――」
彼は手を上げて、ぼくを制した。「あなたは忘れていらっしゃる。ヨルゲンセンさんはとても有力者です。わたしたちは、あなたのお国の人たちと変わりはありません。勤勉で、正直で、法律を守る国民です。しかし、高度な政治や大きな事業に関する事となると――その時は――」彼はちょっと口籠った。「そのときは、それをよく心得ている人の手に任せるのが一番です。いらっしゃい。向こうへ行って、コーヒーでも飲んで、こんなことは忘れましょう」
ぼくらはヒエルラン家の居間でコーヒーを飲んだ。スンネはヒエルラン夫人の隣に坐った。それでぼくは彼と二人になる機会がつかめず、コーヒーの後では、ヒエルランがぼくら三人に場内を案内すると言い張った。彼はぼくらを、油の大樽に蒸気を送るボイラー室へ連れて行き、そこから、臭気を放つ鯨骨の残骸が高く積まれた屋根つきの広場に出た。そこには大きなドラム罐ほどもある背骨の断片が山のように積まれているが、どれもよく蒸気で蒸してあるので、巨大な軽焼きパンのかたまりのように見えた。
そこからぼくらは、工場の本館へ降りて行ったが、そこには溶鉱炉のように、大樽が片側に六台ずつ、二列に長く並んでいた。ぼくらはその間の狭い通路を歩いて行った。暑さはものすごかった。両側にあるやけどしそうに熱いみぞには、薄黄色い鯨油が流れていて、ふたのない大きなタンクに注いでいる。「あのタンクから冷やされて出て行くのです」とヒエルランは説明した。「そうしてドラム罐に詰められます。それから、石けん、ろうそく、化粧品、マーガリンの材料として、全世界へ送られて行くのです」
ぼくは興味を持ったふりをしようとしたが、心の中では、ローヴォスがスンネと二人きりで話し合う前に、スンネのところへ引き返したいといらいらしていた。けれど、捕鯨場に生涯を捧げているヒエルランは、ぼくらにすべてを観せようと決心していた。彼はぼくらを一つの大樽のところへ案内した。それは油をすっかり抜いて、炭がらできれいに洗い上げられていた。上半身裸になった二人の男が樽の下部にあるとびらから、鉄の≪じょれん≫で汚れものをかき出していた。
「これも肥料になるんです」とヒエルランは言った。「すべてが金になります。鯨のどんなきれはしも金になるのです。尾ひれまで役に立ちます。それはイギリスへ行って、ブラシになるのです。いらっしゃい。肉を切ったり、包装するところをお目にかけましょう」
ぼくらは皮はぎデッキに出た。日光が熱く、ギラギラ照っていた。蒸気|鋸《のこ》がぶんぶんうなった。男たちが大きな星形に切断した骨を、つるつるしたデッキにそってすべらせて行った。今朝、ぼくらが引揚げ道を引きずり上げられてくるのを見た巨大な動物は、もう長い、ギザギザした、血だらけの背骨だけになっていた。肉はすっかり取り除かれて、男たちはホースでデッキの下を洗っていた。ヒエルランはぼくらが驚いているのを見て言った。
「わたしたちは時間をむだにしません。ここには四十人の男がいますが、もし必要とあれば一日三頭の鯨を処理しますよ」
「日に三頭も!」とカーティスが言った。「しかしそんなことはめったにないでしょう。キャッチャーボートが三隻しかないんですからね」
「ええ、シーズン初めはそうです」とヒエルランは答えた。「しかし、あとになると鯨は南に下ってきます。九月には、この島のすぐ沖で獲れますよ。そうなると、毎日のように三隻がそろって入ってくるんです。けれど誰も文句は言いません。みんながそれでうるおうんですからね」
ぼくらはデッキを横切って、包装工場へ行った。ヒエルランがほかの者たちと話している間に、ぼくはぶらりと埠頭へ出てみた。そこでぼくは足を止めた。ヌールダール船長の捕鯨船二号はそこにつないであったが、捕鯨船十号の姿は見えなかった。ぼくは引き返した。「ヒエルランさん、ローヴォス船長の船はどこへ行ったんです?」
彼は大きな赤い鯨の肉を手にして振り返った。「捕鯨船十号ですか? あそこにいるでしょう」
「いませんよ。漁場へ帰ったんでしょうか?」
彼は首を振った。「いや。それには水や燃料を補充しなきゃなりませんからね。たぶんボヴォーゲンへ行ったんでしょう」彼は眼元に笑みを浮かべた。「ボヴォーゲンに彼女がいるんですよ。それに、あの航海士は、細君をあそこのホテルに泊めています。彼の船の水夫は大半、あそこに細君か恋人を持っているんです。きっとボヴォーゲンへ行ったんだと思いますよ。彼はほかの船よりよけい鯨を獲っていますからね。あわてることはないんです。それにいま、|ノルウェー海《ノシュケハーヴェ》は悪天候だそうです――捕鯨船五号から濃霧の報告が入っています。これをごらんなさい、ガンサートさん。この肉をどう思います?」彼は厚切りの赤い肉をぼくにさし出した。「鯨肉は全部が全部こうじゃありません。いろんな等級がありますが、これが最高級品です。これはペルゲンかニューカッスルのレストランへ行くことになるでしょう。それからソーセージ用の別の肉もあります。一番悪いところはキツネのえさにするんです。ノルウェーには、大きなキツネの飼育場がありますよ」彼は包装工場の棚へその肉を投げ返して、腕時計をのぞいた。「さあ、うちへ戻りましょう。四時の無線を聞いて、それからお茶を飲みましょう」
ぼくは帰りを急いだ。スンネに会いたかったのだ。けれど、居間にはヒエルラン夫人しかいなかった。彼女は編み物を置いて、ぼくらを迎えに立ち上った。「アルベルトがほうぼうご案内したでしょう?」彼女はジルの手を取った。「あなたはほんとに勇気がおありですわ。あのにおいに慣れるのはたいへんだったでしょう。でも、肉をごらんになりましたか?」ジルはうなずいた。鯨にはもううんざりだろう、とぼくは思った。「あれをどう思います? いい肉でしょう? お国の牛肉のようでしたろう?」
「ええ、とても」ジルはしずかに椅子にかけた。
「あの潜水夫はどこへ行ったんです?」とぼくは聞いた。
ヒエルラン夫人は振り返った。「スンネさんですか? おや、どうしたのかしら? お昼の食事いらい見ませんわ」
「あの道具のことで、仲間の手伝いにボヴォーゲンへ行ったのかも知れませんよ」とヒエルランが言った。
「そうね」と、夫人は相づちをうった。「そうかも知れませんよ。きっとそれで行ったんでしょう。あの人とお話しなさりたいんですか?」
「ええ」とぼくは言った。「ぼくは――ぼくは潜水のことをもっと聞きたかったんです。失礼して、彼がいるかどうか、そのへんをぶらぶらしてきます」カーティスにあごをしゃくうと、彼はぼくの後について出てきた。
「あの男はボヴォーゲンなんかへ行くものか」と、カーティスはドアをしめながら言った。「ローヴォスがそこへ行った以上はな」
「彼が先に行って、ローヴォスがそれを追ったのかも知れないぜ」とぼくは答えた。「場内にいないか、まず調べてみよう」
この国で軍隊勤務についていたので、ノルウェー語を多少解するカーティスは、行き会う人たちに聞いて回った。けれど、昼食のあとでスンネを見かけたのは、船の給仕一人だけのようだった。彼は、スンネが捕鯨場から降りてきて、海が入り込んでいる掘割のほうへ行くのを見たと言った。ぼくらは裸岩の上をこえて、そこへ降りて行った。太陽は捕鯨場の煙突のうしろへ傾き、岩は暖かい金色をしていた。ぼくらは掘割に出た。そこは狭く、潮が退くにつれて海水が勢いよく流れ出していた。ぼくらは橋を渡って、歩いて行った。長年人に踏みならされた跡が、ギザギザした岩の肩を、白い小径になって頂上までついていた。その頂上から、ボヴォーゲンの教会の白い尖塔が、薄青いつやつやした空を背景に、光ったヤリの穂のように立っているのが望まれた。そして、左手には、小さな入江の中に一隻の櫓《ろ》かい舟が岩につながれていた。その近くの岩からは、一本の長いロープが脂の浮いた水中に垂れていた。
「あそこにもう一隻あったのかも知れないぜ」とカーティスは言った。「スンネはボヴォーゲンへ小舟でこいで行ったんじゃないかな」
「かも知れないな」
「それとも歩いて行ったかな」遠い小丘の上に建った小さな木造の教会を眺めながら、カーティスは言い足した。「毎日歩いている者にとっちゃ、そう遠くはないからな」
「たしかにそうだ。とにかく、彼らの家はたぶんこちら側の部落にあるんだろう。行こう。ディヴァイナー号で行ってみよう」
ぼくらは踵を返して、夕陽に向って歩き出した。掘割にかかった木橋を渡って行くと、家路へ向う男たちに出会った。彼らは汚れた服を着て、みんなが手に血の滴る赤い肉の塊りを提げていた。もの静かな、人なつっこい様子でぼくらに笑いかけ、「こんにちは」とあいさつしてすぎて行った。カーティスは、その二、三人に話しかけた。ほとんどの者が、ボヴォーゲンよりずっと近い所に住んでいた。ボヴォーゲンまでは早足で歩いても一時間以上かかる、と彼らは言った。
ぼくらはお茶の時間までにヒエルラン家に戻り、お茶をごちそうになった。飲みおわるとすぐそこを辞して、船へ向った。もう人気のなくなった捕鯨場を歩いているとき、ジルがぼくに言った。「ボヴォーゲンでスンネさんが見つからなかったら、ノールハンゲルへ行ってみましょうよ」
「エイナール・サンヴェンの家へかね?」とぼくは聞いた。
彼女はうなずいた。「ボヴォーゲンからノールハンゲルへ行く道があるわ」
ぼくらが薄暗いほら穴のような包装工場の間を抜けている時、船の警笛が島の低い丘々にこだました。ぼくは足を止めて、その響きが消えて行くのに耳を澄ました。すると、またしても太い低い、うつろなその音が聞えてきた。先頭に立っていたカーティスは、埠頭へ走って行った。そこから彼は振り向いて、ぼくらに怒鳴った。「ローヴォスだ。彼が帰ってきた」
西に傾いた日が、捕鯨船二号の影を埠頭に大きく落としていた。カーティスは不気味なもり打ち砲をそなえた、彼方のキャッチャーボートのへさきを指さした。群島の間のせまい割れ目を縫って、そのキャッチャーボートはこちらへ向って来た。警笛から出た蒸気が、白い花冠のように船尾にまだかかっていた。静かな海面をこえて、機関室の信号ベルの音がこちらまで聞えた。埠頭に着けようとして、キャッチャーボートは向きを変えはじめた。ブリッジの側面に、金色の日ざしがいっぱいに当った。捕鯨船十号と書いてあった。「行こう」と、ぼくは二人に声をかけた。「あんまり興味を持っているように見られるとまずい」
ぼくらは埠頭に積み出されるのを待っている鯨肉の五十キロ箱の山のわきをすぎ、捕鯨船二号の横を通った。ぼくらがディヴァイナー号に着くまで、捕鯨船二号の甲板には全員が出てきて、入ってくるローヴォスの船を見守っていた。ディヴァイナー号の甲板には人影がなかった。ニスを塗った、裸のマストが、傾く日ざしの中で暖かく光っている。ぼくらは船にあがると、下へ降りて行った。ダーレルが一人でサロンに坐っていた。「カーターとウィルソンはどこです?」とぼくは彼に聞いた。
「あの二人は捕鯨船二号へ行った。一杯やりに行ったんだろう」と彼は微笑した。その手元に、ウィスキーのびんと、半分つがれたコップが置いてあった。「あなた方が帰ってきてわしはうれしい。ここはひどく退屈だ。だが、わしは工場を見たくないのだ」彼はびんに手を伸ばした。「一杯やらんかね。みんなここへ来て、一杯やんなさい」彼はふいにドスンと、びんをテーブルに置いた。「わしはほんとに工場を見たくないんだ」そしてびんを押しやると、萎えた片腕を上げた。「あんたはなぜわしをここへ連れて来たんだ?」と、彼はなじるようにぼくに言った。「なぜここにわしを連れて来たんだ? わしを苦しめるためか? わしがここを気に入ると思ってるのか――このヨットに一人で放って置いて――甲板に上れば、工場と――わしの工場と顔をつき合わせるのが分っておるのに。あんたがヒエルランと食事に行っている間、わしはここに降りていたんだ。わしは考えていた。わしは、自分の持っていた船や、タンカーや――クヌウト・ヨルゲンセンのことを考えていた」彼は部屋をゆるがすような激しさで、その不自由な手でテーブルをドシンとたたいた。「わしはそんな事を考えたくなかった」と彼は叫んだ。ろれつの乱れた、ヒステリックな口調だった。「そんな事を考えてもむだなんだ」ことばを切ると、彼は狡猾そうに眼を細めて、ぼくのほうへのり出した。「あんたならどうするね、ガンサートさん?」と彼はしずかにたずねた。「わしの立場に立ったらどうするね?」そこでまた荒々しく彼は叫んだ。「わしのするとおり、あんたもするだろう。ここには正義はない――神はないのだ。わしは二つの大戦を経験した。悪が栄えて、善が敗れるのを見てきた。そうなんだ――ここには――正義はない」それから、口の端につばをためて、いっそう早口にしゃべり出した。「だが、わしは自分で正義を行なってみせる。彼らの武器で、わしは彼らと戦ってやる。分るかね?」
ジルは進み出ると、彼の手を取った。「ええ、分りますわ、ダーレルさん」その声はもの静かで、相手の気持をなだめるようだった。「さあ、掛けましょう。みんなであなたと飲みましょう」彼女はびんを取り上げて、彼にほほ笑みかけた。「ダーレルさん、あなたはあんまり残しておいて下さらなかったんですね」
「そうか」と彼は言い、ぎごちなく一口飲んで、また腰を下ろした。彼は突然、疲れきった、もの哀しい老人のようになった。そしてぐったりした様子で、顔を手でなでた。「わしは少し飲みすぎた」と彼はつぶやいた。それからふいにまた猛々しくなった。「だが、クヌウト・ヨルゲンセンがわしの場所を占めている間、わしは手をつかねてここで見てはおらんぞ。この工場を建てたのは、わしのおやじだ。当時はごく小さかった。それをわしは拡張したのだ。おやじが死んだとき、船は五隻しかなかった。ドイツがノルウェーに侵入してきたとき、わしは十四隻の近海汽船と四隻のタンカーを持っていた。総計で二万三千トンだ」彼はコップをつかむと、あごにウィスキーをたらしながら飲んだ。「それがみんな失くなった」と彼はつぶやいた。「なんにも残っていない。なんにも残っていないんだ――聞いてるか? ちくしょう!」彼は両手のうちに頭をうずめた。彼は泣いているのだ。
「もっとグラスを取ってこないか、ディック」とぼくは言った。「海図室にいくつもころがっている」
彼がドアをあけると、ノルウェー語で何か叫んで命じている声と、キャッチャーボートが後退するエンジンの響きが聞えた。ジルがぼくのほうを見た。「これからどうするの?」と彼女は聞いた。「ボヴォーゲンへ行くの?」
ぼくはためらった。ダーレルが涙によごれた顔をあげた。彼の眼は荒々しく血走っていた。「飲もう」彼はびんをつかんで、テーブルごしにぼくのほうへ押してよこした。「みんなに、わしと一緒に飲んでもらいたいんだ」と、彼はグラスをあげて言った。「わしと一緒に、みんなに飲んでもらいたいんだ――ヨルゲンセンが地獄へ落ちるように」彼はグラスを乾して、腰を下ろした。
ディックがあわただしく通路を走ってきた。「ビル、ローヴォスがやってきたぜ」
「この船にか?」
「うん」
ぼくはジルのほうを向いた。「ダーレルを船室へ連れて行ってくれ。カーティス。そこにとじ込めるんだ。ローヴォスを彼に会わせてはまずい」
頭上の甲板に、重々しい足音が聞えた。
「ガンサートさん!」ローヴォスの低い太い声が降ってきた。「ガンサートさん! 誰か下にいないかね?」
ジルとカーティスは、ダーレルを間にはさんで、テーブルから立ち上った。
「おーい?」とぼくは声を高めた。「ぼくを呼んだのは誰だ?」
「ローヴォス船長だ」と、声が追ってきた。「そこへ降りて行ってもいいかね?」
ぼくは甲板へ通じる階段の下へ行った。「何か用ですか、ローヴォス船長?」
「あんたと話がしたいんだ」
ぼくはサロンを振り返った。カーティスがダーレルの船室のドアを閉めたところだった。「どうぞ」とぼくは言った。「降りてきて下さい」
ローヴォスのずんぐりした体が、甲板の昇降口をいっぱいにふさいだ。「パーティだったのかね?」彼は笑いながら、テーブルのグラスを見た。「うまいときにきた。わしは酒を勧められて、断ったためしがない」彼は晴れやかでひどく愛想がよかった。
「ウィスキーは?」びんとグラスを取り上げて、ぼくは聞いた。
「ウィスキー、結構だ」差し出したグラスを、肉太の、力強そうな指がつかんだ。二つのグラスが満たされるのを待って、彼は言った。
「スコール!」
「スコール!」とぼくも答えた。
彼は一息にグラスをあけて、満足そうな吐息をついた。「これはいいウィスキーだ、ガンサートさん」
ぼくはまた彼のグラスに注いだ。「何の用でぼくに会いに来たんです?」
ぼくのぶっきらぼうな口調に、彼は笑った。「あんたはわしが怒っていると思っているんだろう? わしは気が短かいんだ、ガンサートさん。すぐかっとなるが、すぐ忘れてしまう。昼食のときに起こったことなんか、もう覚えちゃいない。それよりもっと大事なことがある」彼はほかの者たちをちらりと見た。「ガンサートさん、二人きりで話そうじゃないか?」
「そんな必要はありません」とぼくはきっぱり答えた。
彼は肩をすくめた。「あんたのお望みにまかせよう」彼は椅子をひっぱりよせて、勝手に腰を下ろした。暗緑色の上着を着たどっしりした体が、椅子をのみ込んだように見えた。「わしはボヴォーゲンへ行っていた。そこから自動車でノールハンゲルへ行った」彼はポケットから短かい葉巻を出して、火をつけた。「エイナール・サンヴェンはノールハンゲルにいなかった。ボヴォーゲンにもいなかった。ペール・ストゥールヨハンもボヴォーゲンにいない。二人とも、きょうはボヴォーゲンに行かなかったのだ。スンネはうそつきだ」彼は微笑した。鈍重な、ずるそうな微笑だった。けれど、その青い眼は、細く、油断がなかった。「しかし、あんたはその事を知っていたと思うがね、ガンサートさん?」
「それで?」とぼくは言った。
彼はしーんとした部屋を見回した。「あんたも、あんたのお友だちも、みんな、あの男――シュラウダーに興味を持っている。わしと同じように、あんたも、あの潜水夫が彼を救い上げたと考えているのだ。彼はまだ生きている。もしそうだとしたら、彼の足どりをつかめるわけだ」彼は一息ついて、葉巻を吸った。「ガンサートさん――あんたはイギリスの大金属会社を代表してここに来た。あんたの会社に雇われてもおらん男の死因を確かめに、はるばるここまで来たわけではなかろうが。そのファーネルという男は、金属の専門家だそうだな。ことによると、シュラウダーが彼を殺したのかも知れん」何か秘密の冗談のように、彼は微笑した。「ことによると、彼は自殺したのかも知れん。だが、わしの船から逃げた男は、わしが言ったように灰色の小石のかけらを残していった。わしがそれをヨルゲンセン専務に見せると、あの男はそれをひっつかんで、ベルゲンヘとんで行った。わしはバカじゃない。事が重大な場合はちゃんと心得ている。あれをヨルゲンセンに渡したとき、彼の眼は探照灯のように輝いた。探照灯のようにな。彼は興奮していたのだ。だからわしはこれがカギだと悟った」彼は葉巻をぼくに突きつけて、体をのり出した。「あの小石のかけら――あれは金属のサンプルだと思うが、そうじゃないかね?」
「ご想像に任せますよ、ローヴォス船長」
「想像に任せるって!」彼は大声で笑って、ひざをたたいた。「それもよかろう。用心深いな。いや、なかなか外交に長《た》けている」それから彼の声は急に引き締った。「わしは長談義は好かん。わしの言うことは当っているか、それともはずれているかね?」
「お好きなように考えたらいいでしょう」とぼくは答えた。
「なるほど」と彼は微笑した。「分った。ところで、ガンサートさん。形勢はこんな具合だ。あんたは、この金属が何かを知っている。ヨルゲンセンは知らん――いまのところはな。明日になれば、彼にも分る。だがいまは――いまこの瞬間には――彼は知らん。あんたは一日先んじているわけだ。わしはそのことをじっくり考えてみた。わしの考えはこうだ。あんたはその金属が何かを知っている。だが、それがどこにあるかは知らない。そのために、あんたはここまで来たのだ。そこでだ、あんたの知らないある事をわしは知っている」
「それは何です?」とぼくは聞いた。
彼は笑った。「それはわしの秘密さ。あんたが金属の秘密を言わんのと同じだ。だがそれはそれとして、ひとつ仕事の話をしようじゃないか。わしらはお互いに助け合える。あんたは利口な男だ。ヨルゲンセンはばか者さ。あの男はわしから金属のかけらを取り上げた。が、なんにも払わん。おどかしただけだ。わしはあの男を助けようと思えば助けられる。だが、ごめんだ。あの男は偉い専務さんだ。それに較べて、わしはノルウェーで優秀な射撃手にすぎん。あんたはその点、なかなか賢い。わしらが一緒になって、彼を見つけたら――」
「どうやって見つけるんです?」
「わしにはいろいろ方法がある。間違いなく見つけてみせる。さあ、どうだね?」
ぼくはためらった。この男はばかではない。けれど、彼が知っていて、ぼくが知らないというのは何だろう? ぼくがためらっていると、うしろでダーレルの船室のドアがあく音が聞えた。
「では、あんたは自分の上役を裏切る気かね?」ダーレルの口調はもう、しゃんとしていた。
ローヴォスはとび上った。「ダーレルさんか?」彼はびっくりしたような声で言うと、怒り出した。「あんたは何でここにいるんだ? これはいったいどういう策略なんだ?」
「わしを見て驚いたかね?」ダーレルはテーブルをつかんで体を支えた。「何でそうびっくりするんだ? わしが自分の国を訪ねてはいかんというのか?」その声は突然荒っぽくなった。「ボヴォーゲン・ヴァールにわしが戻っていいか、わるいかなんて、誰が決めるんだ? 言ってみろ! あんたは戦争ちゅう何をしていた? いいかね、あんたはドイツ人の協力者だ。金のある所ならどこへも行った。ドイツ軍の下で働いていたんだ。やつらのために、船長として――」
「もうたくさんだ、ダーレルさん」とローヴォスはわめいた。「あんたが新しい船舶エンジンの機密を売ったことや、フィンセで手厚く保護されるように計らったことは、ノルウェーで知らない者はない。あんたがイギリスへ逃げていた間、わしは祖国のために働いた――地下でな」ローヴォスはふいに腰を下ろした。彼は荒々しい息づかいをしていた。「だが、わしはあんたの悪口を言いにここへ来たのではない、ダーレルさん。わしはガンサートさんに話しがあって来たのだ」
ぼくはダーレルをちらりと見上げた。彼の顔は青白かった。疲れ切っているように見えた。しかし、その眼にはあやしい光があった。
「いや、すまなかった」彼の声はわびるように、穏やかになった。「つい口がすべったんだ。わしは取り乱していた」そしてぼくの横の長椅子に掛けた。「ヨルゲンセンはあんたに一文も払わなかったって?」と彼は低く笑った。その笑い声は冷たく、むしろ上機嫌にさえ聞えた。「あんたは金が好きだ、なあ、ローヴォス船長?」彼はす早く体をのり出した。「あの金属のあり場所を知ったら、どういうことになるか、あんたは承知かね。いいかね、ローヴォスさん。そこにはすばらしい幸運があるんだ。ヨルゲンセンはあんたの鉱石のサンプルを持ってベルゲンへ行った。彼はそこからオスロへとぶだろう。明日までには、彼の部下たちがそのサンプルを検査する。一日か二日で、彼は知るのだ。あんたはその事に気づいている。だから、自分も一枚加わろうとしてここへ来たのだ。そうだろうが?」
ローヴォスはうなずいた。彼の眼はじっとダーレルに注がれていた。そこには、冷たい、どん欲な光があった。
「ダーレルさん」とぼくは言った。「この場はぼくに任しておいてくれませんか?」
彼はぼくの顔をうかがうように、頭を横に傾《かし》げた。「恐れることはありませんぞ」と彼は低く言った。「わしはあんたに味方を見つけてあげる――わしら二人にとっての味方をな」彼はローヴォスのほうへ顔を向けた。「今朝、あんたの船から逃げた男を見つけるがいい、ローヴォス船長。あんたのやることはそれだけだ。だが、急がにゃならん。ヨルゲンセンはあの金属のことを知ったら、一刻も猶予しないからな」
ローヴォスは微笑した。「あんたはヨルゲンセン専務があまり好きではないようですな、ダーレルさん?」
専務ということばを強調したのが、ダーレルを刺激した。「好きではないって!」と彼は叫ぶように言った。「それどころか――」そこでふいに、にやっと笑うと、彼は口をつぐんだ。
ローヴォスは声をあげて笑った。それからす早くぼくのほうを向いた。「ガンサートさん――わしらは一緒にやれるのか、やれんのか? あんたの言いぶんはどうなんだね?」
「いまのところ、別に言いぶんはありませんよ、ローヴォス船長。しかし、あなたがシュラウダーをつかまえて来たら――そのときはまた話し合いましょう」
ローヴォスは微笑した。「分った。イギリス人のいう代金引替えというやつだね」彼は立ち上った。「よろしい、ガンサートさん。わしがあの男をつかまえたとき、もう一度話し合おう」そして戸口のところで足を止めた。「ガンサートさん、潜水夫のことを忘れんようにな」
「あの男はボヴォーゲンへ行きましたよ」とぼくは言った。
「うん、ボヴォーゲンにいた。わしは彼と話して来たのだ」彼は微笑した。「うまいスコッチだった。ここが暖かくなりましたぞ」彼は大きな腹をたたいた。「暖かく、友情的にな、ガンサートさん」
みんな、彼が出て行くのを黙って見送っていた。その重い足音が甲板に鳴った。何やらノルウェー語でほえるように命じていたと思うと、あとは静かになった。彼がいなくなって、サロンは急にがらんとしたような気がした。
「あの男はほんとにスンネと話しをしたと思うかね?」とディックが聞いた。
ぼくは返事をしなかった。ローヴォスを使ったものかどうか、と思案していた。
ダーレルがよろよろと立ち上った。「わしは甲板に出てくる。新鮮な空気に当ってこよう」彼はぼくを押しのけた。その顔はひどく青かった。ドアを出て行く足どりも少しもつれていた。
「ついて行ってくれ」とぼくはカーティスに言った。「気づかれないようにな。あぶなくないように気をつけてやってくれ。飲みすぎているから、波止場と間違えて海に落ちかねない」
ジルがため息をついた。「ダーレルさんはかわいそうに。運の悪い人だわ」
まもなくカーティスはサロンに戻ってきた。
「ダーレルは大丈夫か?」とぼくは聞いた。
「少しふらふらしていた。しかし、ちゃんと波止場に降りて、捕鯨船十号へ行ったよ」「捕鯨船十号へ?」とぼくは叫んだ。
彼はうなずいて、自分の飲みものを取り上げた。「うん。まっすぐローヴォスに会いに行った。あれをどう思う、船長?」
ぼくは考え込みながら、椅子に深く体をしずめた。「彼はローヴォスの何かを握っているんじゃないかな」とディックは考えを述べた。「ローヴォスがこれまで鯨ばかり獲って暮らしていたんじゃないことは確かだ」
「ヨルゲンセンはダーレルよりもっと彼の急所を握っているだろう」とぼくは答えた。「ダーレルが帰ってきたら、それとなく聞いてみよう」
ダーレルが戻ったのは、それから一時間以上もたってからだった。ぼくらは彼をベッドへ連れて行った。彼はすっかり酔っぱらっていた。「ウィスキーの上に、アクアビットをやったんだ」カーティスが彼の息をかいで言った。「一、二時間は何を聞いてもむだだろう」
サロンに戻ると、カーティスは言った。「ぼくらが会わなきゃならないのはスンネだ」
ぼくはうなずいた。「シュラウダーの行方を知っている者があるとすれば、彼だけだろうな」
「あの人はそれをローヴォス船長に打ち明けたと思う?」とジルが聞いた。
「いや、ぼくはそうは思わない」スンネがそわそわして、ローヴォスの質問を避けていた昼食のときの光景が、ぼくの眼に浮かんだ。「それに、もしローヴォスがそれを知っていたら、さっきこの船に来たときの態度が違っていたはずだ。ローヴォスは何かを知っている。だが、それはシュラウダーの居所じゃない」
カーティスは自分のグラスをまた満たした。「ぼくの考える方法でやれば」と彼は言った。「スンネに口を割らせることができる」
「それはどういう意味だ?」とぼくは聞いた。
「彼はボヴォーゲンでローヴォスに何も話してないだろう。村にいれば彼は安全だ。しかし、ここへ帰ってきたら――」彼は意味ありげにぼくを見て、グラスを上げた。「ダーレルにああけしかけられたからには、ローヴォスはやみくもにつっ走る。スンネをつかまえて、どんなことをしても真相を聞き出さずにはおかないだろう」
ぼくもそれと同じことを考えていた。ぼくは急に決心した。ぼくがそんな事をしなければならなくなったのは、ずいぶん久しぶりだ。ぼくはタバコを一本取り、その罐をみんなに押しやった。
「一時間以内に高潮になるだろう。そうすれば、捕鯨場の裏手の掘割は流れがゆるくなる。ぼくらはここを一たん出帆して、フィアールランへ向うように見せかけるんだ。そうして島の外側へ出たら、引っ返して、工場の裏の掘割まで流して行こう。そこでスンネを待つんだ」
カーティスはうなずいた。「きみはスンネがボヴォーゲンへ小舟をこいで行ったことを確信しているんだね」
「きょう午後、ぼくらが見たあの入江には、きっと二隻の小舟があったと思う」とぼくは言った。「あの水の中に垂れていたロープの長さから考えてもな」
「ぼくも同感だ」とカーティスは言った。「しかし、ローヴォスも同じように考えるかも知れないぞ」
「その心配はたしかにあるな」
彼はにやりとした。
「よし」とぼくは言った。「ディック、きみは捕鯨船二号へ行って、カーターとウィルソンを呼んできてくれ。二人に怒鳴るんだ。出帆すると言ってな。ぼくはそれをローヴォスの耳に入れたい。分ったな? それからエンジンをかけよう。カーティス、きみはヒエルランの家へひとっ走り行ってきてくれ。船の給仕か、会社の事務員に会うんだ。そうしてあの入江に小舟が二隻あったかどうか、確かめてくれ。同時に、スンネがまだ戻っていないことも確かめるんだ」
二人が急いで甲板へ出て行くと、ぼくはジルのほうを向いた。彼女はテーブルにひじをついて、両手のうちにあごをうずめていた。「スンネをつかまえしだい、ぼくらはフィアールランへ向おう」
彼女はぼくを見上げた。「早くこんなことが片づくといいわ」と彼女は言った。そしてぼくから眼をそらすと、見るともなしにジンバル〔水平を保つための十字つり装置〕に入った非常用ランプのほうをじっと見た。ぼくには彼女の真意が計りかねた。彼女はため息をついて、酒を一口飲んだ。それからだしぬけに言った。「それはつまり、あの人を誘拐するということなの?」
「スンネを?」とぼくは言った。「まあ、そうだ。ローヴォスから彼を護る、といったほうがいいだろう。きみが心配することはない。すべての責任はぼくが負う」
「わたし、心配なんかしてないわ」と彼女は落着いて答えた。「あの人がわたしたちにどの程度の話ができるかを考えていたのよ」
その時、埠頭で叫び声があがった。乗組員たちに命令しているディックの声が聞えてきた。それから足音は頭の上の甲板に移った。まもなくエンジンがかかった。ぼくは甲板昇降口の階段を駆け上った。日はもう沈んでいた。追ってきた宵闇の冷たい、鈍い光の中に、包装工場の上部の建物が黒々と不気味に浮かんでいた。
「ローヴォスにはよく聞えたらしい」とディックが言った。「ブリッジに上って、こっちを見ているよ」
ぼくは捕鯨船十号の高い船首を見上げた。ブリッジの輪郭だけが見える。ローヴォスは狭い通路に足をふんばって立っていた。ディックがぼくの腕をたたいた。「カーティスが帰ってきた」
ぼくは振り向いた。「どうだった?」カーティスが船尾のコックピットに来たのでたずねた。
「きみの言ったことは当っていた」と彼は言った。「給仕の宿舎にいた電気係と話してきたよ。あの入江にはいつも二隻のボートがつないである、と言っていた。捕鯨場のものだそうだ。きょう午後、昼食のすぐ後で、スンネがその一隻をこいで掘割を下るのを見たと言ったよ。スンネはまだ戻っていない」
「彼は帰ってくるかな?」とぼくは聞いた。
「うん。持ち物がみんなあそこに置いてある。それに、ボヴォーゲンには彼の知人はいないんだ。電気係は、彼が泊るはずはないと言った」
「よし」とぼくはウィルソンのほうを向いた。「へさきとともに行ってくれ」とぼくは彼に命じた。「ディック、きみとカーティスは主帆《メンスル》のカバーをはずせ。用意ができしだい、ピークとスロートに上ってくれ」ぼくは伝声管を取り上げた。「半速前進」最後のフェンダーがドサッと甲板に放り出されると、ぼくはカーターにそう伝えた。
ぼくらが捕鯨船十号のわきを通ったとき、ローヴォスは通路の手すりから体をのり出して、声をかけた。「どこへ行くんだ。ガンサートさん?」
「フィアールランだ。何か話があったら、そっちへ来てくれ」
「オーケー。また会おう」彼は片手をあげた。
メンスルのカバーがはずされて、彼らはいま揚げ綱にかかっていた。キャッチャーボートの灰色の影が、船尾の宵闇のうちにのみ込まれると、主帆が航海灯を浴びて大きな白い飛沫のように拡がったが、上のほうは闇の中に溶け込んでいた。後方では、二隻のキャッチャーボートの明りが、工場の黒い姿を背景に、小さな部落のように光っている。群島の間を抜けながら、ぼくらはジブとミズンをセットした。それからぼくは舵を回して、右へ方向を転じた。キャッチャーボートの明りは島の陰に見えなくなった。掘割に通じる入江に着いたときには、すべての帆はまたたたまれていた。
船が静かに掘割にすべり込んだとき、潮の流れはゆるやかになっていた。最初に目についたころあいの所で、ぼくはロープを岸へ投げて、船をつないだ。ぼくは暗礁を恐れていたのだ。ディヴァイナー号は上げ潮の流れにゆるやかに揺れていたが、やがてフェンダーを静かにこすって直立した岩にぴったり横付けになった。ぼくは岩に上ると、掘割にそって橋までの道を歩いて調べた。スンネが小舟をもやったあとで、橋のきわでとっつかまえようと考えた。
岩の間はとても暗く、静かだった。ぼくらは橋まで行くと、足を止めて、掘割を流れて島のどこか奥のくぼ地へ注ぐ水の音を聞いていた。
「あの人は波止場に上らないかしら?」とジルが言った。
「そんなことはしないと思うな」とカーティスが答えた。
「うん」とぼくは相づちをうった。「彼はローヴォスを避けようとしているからな」
「だったら、ボヴォーゲンに泊りゃしないかな」とディックが言った。
「あるいはな」とぼくは答えた。「しかし、彼はローヴォスがこんなに遠くまで来るとは思わんだろう」
カーティスは笑った。「ローヴォスがぼくらと同じことを考えたとしたら、滑稽なことになるな」
「それにしても」とぼくは言った。「おそらく、ローヴォスは捕鯨場で彼をつかまえようとするだろう」
「たぶんな」とカーティスはうなずいて、ふいにぼくの腕をつかんだ。
「あれは何だ?」
ぼくは耳をすました。が、橋の下を流れる水の音しか聞えなかった。
「誰か呼んでいるような声が聞えたと思ったが――工場のほうで」
「きっと工場の人間だろう。まだ早い」
ぼくらは岩の間を流れる潮の音を聞きながら、しばらくそこに立っていた。けれど、もうほかには何の物音も起こらなかった。そこでぼくらは船に戻り、ウィルソンとカーターを見張りに立てて、食事をすませた。
十一時少しすぎに、ディックとカーティスとぼくは岸に上った。ぼくらはゴム靴を穿き、黒っぽい服を着ていた。月が昇りはじめて、空がかすかに明るんできた。ぼくらは橋に近い、岩の重なり合った陰に腰をすえた。もう掘割からは何の物音も聞えなかった。潮は上りきって、流れはゆるやかになった。寒さがましてきた。空はむらなく明るかった。眼が、橋や、掘割の黒い影にすぐ慣れてきた。
と、突然、ぼくの左のほうで、オールのキーキーいう音が起こった。「聞えたか?」と、ディックがささやいた。「掘割に入ってきたぞ」
ぼくはうなずいた。
ぼくらの右手で、ゆるんだ小石がコロコロ落ちて、岩に当った。ぼくはそれにもほとんど気がつかなかった。入江とおぼしいあたりのかすかな明るみをすかして見ながら、オールのきしみに耳を傾けていた。けれど、岩と水のおぼろな影のほかは、何も見えなかった。オールのキーキーいう音がやんだ。一瞬しーんとして、それから小舟が岩に当る音がした。オールを舟に上げる音が聞え、すこしまをおいてから、掘割の向こう側の岩を越えてくる長靴の足音が聞えてきた。
「来たぞ」とディックがぼくの耳にささやいた。彼がそう言ったとき、一個の人影が橋のほうへ来るのがぼくの眼に入った。その長靴が岩に鳴った。コツコツいう足音は、橋板にかかると、うつろな響きに変わった。それはまぎれもなくスンネだと分った。「橋を渡ったらすぐやろう」ぼくは二人にささやいた。とび出して、彼をつかまえようと、緊張して身構えた。
その瞬間、ノルウェー語で鋭く命じる声が起こった。スンネが足を止めた。逃げ出そうと考えたように、ちょっと躊躇した。声がふたたびあがった。力強い、命令する口調だった。すると、ぼくらのはるか右の岩の陰から二つの人影が現われた。まだ月の昇らない青白い光の中に、ずんぐりしたローヴォスの姿が見えた。彼は手にピストルを持っていた。一緒にいるのは、航海士のハルヴォシェンだった。
スンネは待伏せされていた理由を悟った。ローヴォスがスンネの行手をさえぎった。マックス・ベークというような名が呼ばれて、ローヴォスが高笑いをするのが聞えてきた。二人の男は潜水夫に近づいた。そして、両側からスンネをはさむようにして、捕鯨場のほうへ歩き出した。
ぼくは、その影のような隊列が、岩のてっぺんから見えなくなるまで待った。「急ごう! やつらが船へ行く途中を襲うのだ」
「工場がいい」とカーティスがささやいた。「やつらにふいをくわせるのは、あそこしかない」
ぼくらは右へそれて、大回りしながら懸命に走った。できるだけ岩の間の低いくぼ地を選んだ。ゴム靴は音を立てなかった。ぼくらは、腹をすかした島の羊が工場にまぎれ込むのを防ぐ、金あみのさくにつき当って、一つの木戸から構内へ入った。ぼくは事務所の陰で一息入れて、振り返った。空はしだいに明るくなってきた。丘陵の黒い輪郭の上に、月の端がのぞいた。裸岩をこえて、三つの黒い人影がこちらへ向ってくるのが見えた。
ぼくらは炭がら道を下って、皮はぎデッキのほうへ向った。ボイラー室のわきで足を止めた。両側に建物があるので、そこの道は狭かった。ディックとぼくはボイラー室の暖かい闇の中に身を隠した。カーティスは向こう側の戸口に陣取った。お互いに行動を起こす合図をきめて、待機した。
岩の上を行く彼らの足音が聞えた。だが、彼らはぼくらの通った木戸からは入ってこなかった。工場の裏手にそって、金あみの外側を歩いていた。カーティスがその隠れ場所からそっと出てきた。「もう一つの木戸がある」と彼はささやいた。「きょう午後、ヒエルランに案内されたとき、見ておいた。工場の後ろについているんだ。そこからドアで、油の樽のある所につづいている」
「じゃ、工場の中でとっつかまえよう」とぼくは言った。「やつらがキャッチャーボートへ行くのを止めなきゃならん」
ぼくらは炭がら道を駆け降りて、脂でつるつるした皮はぎデッキを横切った。月の光がもうこうこうと差してきた。反対に、工場の内部はひどく暗かった。はるか外れに、一つの電灯がぽつんとともっている。それが、天井へ伸びている油の大樽の黒っぽい姿を照らしていた。ぼくは用心して進んだが、たちまちひどい悪臭を放っているかたまりに蹴つまずいた。こやしの山のように生暖かい、樽から出されたばかりのかすの塊りだつた。ここは漏れる蒸気の音で満されていた。たえずシューシューいうその音は、むっとする温気やにおいとともに、この建物の一部になっているような気がした。蒸気の音が、耳鳴りのように、ぼくらをつつんだ。そしてかすかにゴボゴボいう音が聞えてきた。それはわき立った油が、大樽の間のみぞを流れる音だった。
カーティスがぼくの腕をつかんだ。この建物の向こう側の、蒼白い月光がさし込んでいる長方形は、彼のいう戸口だろう。そこが一瞬、影でふさがれた。それからまた明るくなった。ガチャンと何か金物の落ちる音がして、ノルウェー語でぶつぶついうのが聞えた。懐中電灯が床を照らした。「きみはローヴォスを押えろ」とぼくはカーティスに言った。「ディック、きみはもう一人の男にかかれ。ぼくはスンネを護る」
ぼくらは背後から彼らに迫った。もしディックが何かにつまずかなかったら、それはもっと簡単にいったろう。ガラガラという音が起こった。すると、懐中電灯がさっとぼくらに向けられた。カーティスがタックルの姿勢でとび出すのが、ぼくの眼に映った。ディックが拳で激しく突くと、骨と骨がぶつかる鈍い音が起こった。それからあとは、ののしる声となぐり合う音が入り乱れた。
「スンネ」とぼくは叫んだ。「早く。ヨットが掘割に来ている」ぼくの声が聞えたらしく、小柄な姿が戸口へまっしぐらに走って行くのが見えた。カーティスとディックが互いに相手の名を呼んだ。そしてぼくら三人は戸口を抜けて、懸命に裸岩の間を走った。前を駆けて行くスンネの姿が、月の光にはっきり見えた。その長靴がなめらかな岩の上でつるっとすべった。ぼくらは急いで彼に追いついた。
後ろで叫び声が聞えた。ぼくは肩ごしに振り返った。工場の波形のトタン屋根が、月光の中にくっきり白かった。ローヴォスが追ってきた。一閃のオレンジ色の炎につづいて、弾丸がピューンとそばをかすめた。彼が走りながら撃ったのだ。
一つの小丘に登ると、ディヴァイナー号のマストが見えた。ぼくはエンジンをかけるように、船に向って大声で怒鳴った。息がいまにも切れそうだった。ぼくは体がなまっていたのだ。岩を駆け降りて掘割に出たときは、エンジンがゴトゴトいっていた。ジルがコックピットから手を振った。ウィルソンは引潮に流されないように、船尾のつなで船を引き止めていた。「行こう」みんなが甲板に上ると、ぼくは彼に言った。彼が手を離すと、船はたちまち潮の流れで岩を離れた。
ジルがぼくの腕をとった。「よかったわ、怪我をしなくて、ビル。撃ち合いになったの?」
「うん。ローヴォスが撃ってきたんだ」ぼくはカーターにフルスピードを出すように命じて、舵を取った。スンネはすっかり参っていた。顔が真青だ。「彼を下へ連れて行ってくれ」とぼくはカーティスに言った。「ジルに彼の手の手当をさせるんだ」スンネは指の関節をひどく切っていた。「きみは大丈夫か、ディック?」
「なんともない」と彼は答えた。
ぼくは後ろを見た。船が進むにつれて、二条の波紋が対角線に入江へ拡がって行った。ぼくらが船をもやった岩の上に、人影が現われた。ローヴォスだった。彼はじっと立ったまま、しばらく船のほうを見つめていた。それから背を向けると、工場のほうへ戻って行った。
「ディック、ここを代ってくれ」とぼくは言った。「ぼくはスンネと話がしたい」
「どこへ向うのかね、船長?」
「ソグネ・フィヨールドだ。ぼくらはフィアールランへ行くのだ」
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第六章 ここに死体は眠る
スンネに会いに下へ行く前に、ぼくは海図室に入って、針路を調べた。ソグネ・フィヨールドの入口に達するまでには、無数の島々があったが、どんな島も避けたいと思った。
「ログ〔測程器〕は入れてあるか?」とぼくはディックにたずねた。
「いや」と彼は答えた。「流してみようか?」
「うん、頼む」
ぼくは潮流の資料を少しばかり持っていたが、それで押し流される割合を計算するのはむずかしかった。しかし、ぼくらが向うコースには、二基の灯台があるので、それにたよってきめることができる。ぼくはコースを線で書き入れ、それからコックピットへ出て行った。ディックは舵を離れて、ログにロープを結んでいた。ぼくが舵をとっていると、彼は大きなひれの付いた測程器を水中に落とした。細いロープが航跡の中をひきずられ、最後のロープを落とすと、ログの輪は回りはじめた。彼は戻ってきて、舵を取った。
「コースは?」
「北三十度西だ」とぼくは答えた。
この辺りの海岸には、低い岩が並んで、月光に白く光っていた。やがて右手の岩は小さい丘に変わり、それもしだいに消え失せた。左側には広い海が開けてきた。正面には、一つの灯がたえずまたたいていた。
「あれがヘレスオイ灯台だ」とぼくは言った。「フェジェ島にあるんだ。あれを左舷に見て通るんだが、できるだけ島に近づけてくれ。そうすると、右舷のへさきにウートヴァー灯台が見えてくる。十マイルこのコースで進んで、それからウートヴァーが船首左舷になるように転回するんだ。ぼくは海図に書き入れておいた。いいな?」
「分った」と彼は言った。「当直はどうする?」
「スンネと話をしてきてからきめよう」とぼくは言った。彼の顔は蒼白く、眼の回りに青黒い打撲傷のあとがついていた。
「ひどく打ったな」とぼくは言った。
「ああ、これか」彼は手を眼にやった。「なんともない。やつの頭がぶつかったんだ」
「大丈夫か?」
「大丈夫さ、ありがとう。だけど、少し冷えるな。ダッフルコートを取ってくれないか?」
ぼくはコックピットのロッカーをあけて、コートを彼に投げた。「ウィルソンをきみの代りによこすよ」と言うと、前部のメインハッチへ行った。
はしごを降りながら、ぼくはサロンの開いたとびらごしにスンネの声を耳にした。「わしはなんにも知らないと言ってるじゃありませんか」と彼は言っていた。そして痛そうな悲鳴をあげた。
「ごめんなさい――痛かった?」ジルの声はやさしく、慰めるようだった。「ほら、これでいいわ。この手はわたしがすぐ直してあげますよ、スンネさん。わたし、あなたに助けて頂きたいんです」
「わしにできることならなんでもしますよ、お嬢さん」
ぼくは昇降口の下で足を止めた。ゴム靴を穿いているので、ぼくが降りてきたことに二人は気づかなかった。開いた戸口から、緊張したジルの顔が見えた。彼女はサロンのテーブルごしに潜水夫と向い合って腰をおろし、その手に包帯したスンネの手をささえていた。
「わたしにとってはとても大事なことなんです」彼女の声は落着いていた。「一月ほど前、ジョージ・ファーネルという人がヨステダルで殺されました。その人は――」彼女はちょっとためらって、「わたしは彼をとても愛しています。スンネさん。この間までわたしはそれを事故だと思っていました。彼が一人だと思っていたのです。その後、彼が誰かといたことが分りました。その人は、シュラウダーという名です――ナチスに協力していたオーストリア系のユダヤ人です。警察へ訴えて、ファーネルの死因を話す代りに、彼はボヴォーゲン・ヴァールに来て、ローヴォス船長の船に船員として乗組み、シェトランド島へ逃げようとしました。きのうの朝、捕鯨船十号から海中にとび込んで――あなたが救い上げたのは、その男です」
「ねえ、お嬢さん。わしはそんな事はなんにも知らねえですよ。わしはただの潜水夫だ。わしは厄介事はごめんだ」
「あなたは今晩、厄介事に巻き込まれたんでしょう。ねえ?」ジルはゆっくり言った。「わたしはライト少佐に全部聞きました。もしガンサートさんがいなかったら、あなたはもう生きていなかったかも知れませんわ。あなたが知っていることをローヴォス船長に話したら、ローヴォス船長はあなたを片づけるでしょう。あなたは、ガンサートさんや、ガンサートさんと一緒にいた二人の人に――ライト少佐とエヴァードさんに、命を助けられたんですよ。そうじゃありません?」
「そのとおりだと思いますよ、お嬢さん」スンネの声は、しゃがれていて、よく聞き取れなかった。「だけど、わしは厄介事はごめんだ。それに、わしには仲間がいる。その男とわしは戦争ちゅう一緒にやってきて、わしらは誰にも卑怯な仕打ちをしたことがないんでさ」
ジルはため息をついた。「ねえ、スンネさん。誰も厄介事に巻き込まれたりはしないんですよ。わたしたちが知りたいのは、シュラウダーがどこへ連れて行かれたかということだけです。わたしたちは彼を見つけて、話がしたいのよ。それだけですわ。警察へ彼を引渡すようなことはしません。何があったかを知りたいだけです。お願いです――わたしたちを助けて下さい」彼女はスンネのもう一方の手を取った。「スンネさん」その声はほとんど聞き取れなかった。「わたしはジョージ・ファーネルを愛しています。彼がどういう死に方をしたのか知りたいんです。わたしにはそれを知る権利があります。そのシュラウダーという人が教えてくれるでしょう。お願いです――彼はどこにいるんです?」
潜水夫はためらった。浅黒い顔が、疲労で白っぽくなっていた。彼は達者なほうの手で眼をぬぐった。「わしは知らん。あれはまったくいやな夢のようなものだ。だけど、わしは誰にもなんにも言わないことにしている。まず、わしの仲間と話し合う前にはね。あの男はわしの隊の知恵者だった。わしはただの潜水夫でさ。ノルウェーで一番の潜水夫でさ。だけど、頭を働かせるのはあの男だ。あれが商売のほうをやってるんだ。わしは四〇年いらい、あの男と一緒だった。ドイツのやつらが入ってきたとき、わしらはピーペルヴィカで引揚作業をやっていて、オスロにいた。わしらは山に入って、そこで編成された部隊に入った。だけど、わしらはドイツ軍にさんざんにやられて、スウェーデンの国境ごえに逃げ出したんだ。あれがえらい旅のはじまりだった――スウェーデンとフィンランドをこえ、ロシアに下って、シベリアを横切って、中国へ入ったんでさ、ホンコンのイギリス領事がわしらをシンガポールへ送り、そこからインドへ行って、そこでクライド行の船に乗せられたんです。わしの仲間が、この長い旅の一切のさいはいを振るったんですよ」彼は首を振って、ため息をついた。「わしらはいろんな目にあってきた――ぺールとわしはね。わしはまずあれに意見を聞かないと、なんにもしないことにしている。あの男はいつもわしにこう言うんでさ――アルフ、お前はシラミほどの頭もないってね。ノルウェー語でそういうんですよ」彼はにやりとした。「ぺールはえらく考え深い男でね。むずかしい本を読んでますよ」
ジルは体をのり出していたが、その顔が急に上気したようになった。「アルフ」と彼女は言った。「あなたとそのお仲間は、イギリスに着いてからどうしたんです?」
「わしらは長くはそこにいなかった。スコットランドで少しばかり訓練を受けてから、ノルウェーにパラシュートで降下したんでさ。まったく笑い話みたいだ――国をやっとこさ逃げ出して――世界じゅうを回り歩いたあげくに、イギリスに着いたと思ったら――またノルウェーにパラシュートで降ろされた」彼は再び手で顔をなでた。彼は疲労困憊していたが、話をやめることができなかった。ぜひ聞いてもらいたい大事な点にかかったのだ。「だけど、国を出るときはリュックサック一つだったが、帰ってきたときはわしらはいろんな物を持っていた。イギリス軍が、わしらと一緒に、自動小銃や、ニトログリセリンや、手榴弾の入った箱を落としたんでさ。あのころはまったくおもしろかったな。わしらはベルゲンへ行って、船を壊しはじめた。いまでも人は、ヴォルケンドルフ・タワーのそばで弾薬船が爆破したのは、ドイツの溶接工がうっかりしたためだと思ってまさ」と、彼はくすくす笑った。「だけどそうじゃない。あれはわしとペールがやったことさ。わしは腕っこきの潜水夫だ。ペルゲンで船の仕事をしている者なら、誰に聞いても分りますよ。みんなはこう言いまさ――アルフ・スンネか。あの男は頭はからっきしだが、水にもぐらせたらノルウェー一だってね」
「あなたがノルウェーに降りたときは、なんという隊に入っていたんです?」ジルが興奮を隠しながら、相手の話をさえぎった。
「そりゃノルウェーの軍隊ですよ、お嬢さん」
「ええ――でも、なんという部隊?」
「ええと、そうだ――リンゲ部隊でさ」
ジルの眼が輝いた。「握手しましょう」と彼女は手をさし出した。「わたしたちは、同じ目的のために働いていたんですわ」
「あんたが、お嬢さん――リンゲ部隊で?」彼女の感激に誘われて、スンネの顔もぱっと明るくなった。
「ええ」と彼女はうなずいた。「わたしはあの部隊で無線係をしていたんです」
「そうだったのか」彼女の手をつかんで、彼は言った。「そういえば、どこかで聞いたような声だと思った。あんたは無線でわしらに指示を与えていた娘さんたちの一人だったのか」ふたたび彼女はうなずいた。「こりゃ驚いた! そのあんたに一度も会ったことがないんだから。わしの仲間には会ったかね――ぺール・ストゥールヨハンには? あれは伍長だったが」
ジルは首を振り、相手のほうへ身をのり出した。「あなたは部隊の人たちを知っていますか?」
「一年近く一緒に訓練を受けていたからね――あれは一九四一年だった。そのころ、スコットランドにいた者ならたいてい知ってまさ」
「バーント・オルセン伍長を知ってますか?」
「バーント・オルセン?」スンネの顔が凍りついたようになった。「うん――バーント・オルセンなら知ってる。なぜだね?」
「バーント・オルセンの本名はジョージ・ファーネルです。ヨステダルで殺されたのは、その、バーント・オルセンよ。そうしてシュラウダーがその時、彼と一緒にいたんです。ねえ、お願い――お願いですから、あなたがどこヘシュラウダーを連れて行ったか話して下さい。あなたは今朝、彼を救い上げたんでしょう、ねえ?」
ぼくは、スンネが知っていることをそっくり彼女に話すように祈りながら、昇降口のはしごの陰にいっそう身をちぢめた。
「まあ――そうでさ、お嬢さん」それは当惑した、あいまいな口調だった。「とにかく――わしらは今朝、一人の男を救いましたよ。それは確かだ。だけど、わしはその男が誰か、どんな男かってことは知らないんでさ。もしあんたがそれをもっと知りたかったら――そうだ、ぺールのとこへ行って聞くといい。あの男が話しますよ。もしオルセンがあんたのいい人なら――行って、わしの仲間に話したらいい」
「それで、あなたのお仲間はどこにいるんです?」
「うん」と、彼は薄黒いあごをなでた。「それはわしには分らない。もしわしがあんたに話したら、その男の居場所を教えるようなもんだからね」
「でも、あなたは言わなきゃいけないわ」ジルがささやいた。
「誰が言わなきゃいけないんだ?」スンネはドシンとテーブルをたたいた。「ねえ、お嬢さん。わしは誰にもなんにもしゃべらないんだ。わしは一度ゲシュタポ〔ナチスの秘密国家警察〕につかまったが、なんにもしゃべらなかった。だから、戦友の命があぶないいまも、わしはしゃべらないんだ」
「戦友ですって? それはどういう意味です?」とジルは聞いた。
「戦友じゃないかね? わしらは一緒にやってきたんだ」
「今朝あなたが救った人が?」ジルはスンネの腕をつかんで、ゆすぶった。「わたしがさっき話したでしょう――その人は、ノルウェーに帰化して、ドイツ軍に協力していたオーストリア系のユダヤ人だって」
スンネはまた、疲れたように手で顔をなでた。「あんたの話を聞いてると、頭ン中がごちゃごちゃしてくる。わしはどう言っていいか分らないんだ。疲れて、すっかりへたばっているからね。お嬢さん、あんたはなんでわしを休ませてくれないんだね? これじゃまるで拷問だ。わしを少し眠らせてくれ。そうしたら、はっきり考えられるようになるから」
「いいわ」とジルが疲れたように言った。
そこへぼくは入って行った。「やあ、スンネさん。気分はどうです? 手は大丈夫ですか?」
「まあまあでさ」と彼は答えた。「いろいろとありがとう、ガンサートさん。ローヴォスっていうのはバカなやつだ」
「あなたはきょう午後、ノールハンゲルへ行ったんですね?」とぼくは言った。
彼はちょっとためらってから、「ええ」と答えた。
「ローヴォスはあなたより先にそこへ行ってたんですか?」
「ええ。自動車《ドロシエ》であの男が帰ってきたとき、わしはボヴォーゲンで見かけましたよ」
「それからあなたは、一人でノールハンゲルへ行ったんですね?」
「そのとおりでさ」
「ローヴォスはエイナール・サンヴェンから何か聞き出しましたか?」
「エイナールはそこにいなかった」
「どこにいたんです?」
「どこにいたかは、わしは言えない」
「彼の細君はどうです?」
「あれもなんにもしゃべらない」
「細君はシュラウダーがどこへ連れて行かれたか、知っているんでしょう?」
「察してはいるだろうがね。だけど、しゃべる女じゃない」彼はテーブルに手をついて立ち上ろうとしたが、テーブルが傾いたのでよろめいた。
ぼくは彼をまた椅子へ押し戻した。「お掛けなさい。まだ一つ二つあなたに聞きたいことがある。今朝――いや、もうきのうの朝だが、どういうことがあったんです? あなたはキャッチャーボートが霧の中を行く音を聞いた。たぶんそれを見たかも知れない。それから、叫び声を聞き、少しして男があなたの船のほうへ泳いで行った。その時、あなたはもぐっていたんですか?」
「いいや。わしは道具を取りに上っていた。潜水服をつけたままでね。ちょっと休んでいたんだ」
「で、どうしたんです? あなたは彼を船内に引っ張り揚げた。しかし、すぐさまいかりをあげて、立ち去る決心をしたのは、どういうわけです? あなたは、キャッチャーボートがその男を捜していたのを知ってたはずだ」
「わしらは彼のことならなんでも知ってまさ。だから、彼がこう言うとすぐ――」そしてスンネは口をつぐんだ。
「それはどういう意味です、彼のことならなんでも知っているというのは?」
「ほら、あんたはまたしゃべらせようとする」彼は再び立ち上った。「まあ、そのうちおりを待ちなさい。わしはくたくたなんだ。ほんとだ」
ぼくは言った。「掛け給え」
「だけど、あんた――わしはもう」
「黙れ! ぼくの言うことを聞き給え。ぼくは、そのシュラウダーという男がどこにいるか知りたい。サマーズさんは、バーント・オルセン、別名ファーネルの友人だから、知りたがっているんだ。彼女はあのヨステダル氷河で何が起こったかを知りたがっている。ぼくも――それとは違う理由で知りたいんだ。スンネ、ぼくはそれ以上のことを探り出そうと思っている」
「だけど、わしから探り出すことはできませんぜ」と彼は不機嫌に答えた。
「おい」とぼくは怒って言った。「あんたをローヴォスから逃したのは誰だ?」
「それはあんたさ。だから、わしはありがたいと――」
「あんたに感謝なんかされたくない」とぼくはさえぎった。「ぼくは情報がほしいんだ。ぼくらがあんたの友人だということが分らないのか? ぼくらはシュラウダーを苦しめようというんじゃない。ただ何があったかを知りたいんだ、それだけだ」
カーティスが料理室のドアから首をつき出した。「スープが暖まったよ」
「よし」とぼくは言った。「飲ませてみよう。それで口がほどけるかも知れない」
だが、効き目はなかった。それからたっぷり二時間、ぼくは情報部の将校が敵の捕虜を尋問するように、そこに坐っていた。ぼくは彼を殴らなかっただけで、そのほかのあらゆる交渉手段に訴えた――そして一度は腹立ちまぎれにもう少しで殴るところだった。しかし、何の効果もなかった。そのたび、ぼくは――「わしの仲間に聞いてくれ」という頑強な壁にぶつかった。
ついにぼくは言った。「そうか、であんたのその仲間はどこにいるんだ?」
彼は弱々しい微笑を浮かべた。「もしわしがそれをしゃべったら、あんたはもう一人の男がどこにいるかを知るだろう、なあ?」
「じゃ、なぜあんたの仲間に聞けというんだ?」ぼくはかんしゃくを起こしてきめつけた。
「わしがどうするか話そう」と彼は突然言った。「この次、船が近づいた土地で、わしを上陸させてくれたら、あんたとどこかで落ち合うようにぺールに電話をしよう。あんたはどこへ向うのかね?」
「フィアールランだ」
「ソグネ・フィヨールドの?」
ぼくはうなずいた。
「そりゃ好都合だ。夜が明けたらレイルヴィークのそばまで行くだろう。そこで上げてくれれば、わしは仲間へ電話をして、彼が戻る途中、フィアールランであんたに会えるようにしよう」
「どこから戻るのかね?」
だが、彼は微笑して、首を振った。「その手はくいませんや、ガンサートさん。どこから戻るって、どこからかさ」
「彼はシュラウダーを連れてソグネ・フィヨールドをさかのぼったんだな、そうだろう?」
「そうでさ。そこまでは知られてもかまわない。レイルヴィークで降ろしてくれたら、わしは、フィアールランであんたに会うように、ペールに電話しますよ」
「そしてあんたはフィアールランまで、ぼくらと一緒に来るんだろうな?」
「いいとも」と彼は言った。「そうすれば、わしは仲間と一緒に帰れる」
それで満足しなければならなかった。少なくとも、シュラウダーがどこへ行ったかという多少の知識が得られたのだ。ぼくは彼を寝床へ行かせた。彼は、窮地に追いつめられたときのロンドンっ子の強情さを、よく身につけていた。もっと上手に彼を扱う方法があったかも知れない。もしぼくがジルに任せておいたら――。
「ソグネ・フィヨールドにはそういくつも適当な所はなさそうだ」とぼくは彼女に言った。「もしあれの仲間が現われなかったら、フィヨールドの波止場を片っぱしから調べてみよう」
「それには時間がかかるわ」と彼女は言った。
「どのみち、おそらく彼らはどこの波止場にも寄ってはいまい」とカーティスが言った。「彼らは夜の闇にまぎれて、人気のない海岸に彼を降ろしたろうさ」
「そうかも知れない」とぼくは言った。「あの潜水夫が知ってることをしゃべってくれたらなあ」
ジルがぼくの手をぎゅっと握った。「その事は心配しないで」と彼女は言った。「朝になったら、わたしがもう一度スンネさんと話してみるわ」
カーティスは立ち上って、伸びをした。「ああ、眠くなったぞ」と、眼をこすって、「コーヒーでもわかそう」
その時、ディックが大声で下のぼくらに呼びかけた。「微風が出てきた、船長。少し帆をセットしないか?」
その一言でぼくは彼を交代して休ませることをすっかり忘れていたのを思い出した。「いま行くぞ。カーティス、ウィルソンに声をかけてくれ。みんなで帆を張ろう」
ぼくが甲板昇降口の階段のほうへ行こうとすると、ジルがぼくの腕を押えて、「きょうはありがとう」と言った。彼女は、微笑していた。蒼白いその肌に、唇があざやかに紅かった。「わたしはもう一人ぼっちじゃない――いい友だちがいるんだって気がしてきたわ」
「ぼくはなんにもしてないよ」と言って、ぼくはす早くそこを離れた。しかし、甲板のはしごを登りながら、ぼくはこのことが、ぼくよりも彼女にとって、どんなに重大なことかに気がついた――きびしい物の利潤追求よりも、人の感情のほうがどんなに重大か、を。
ハッチから頭を出すやいなや、微風が吹いてきたのを感じた。氷のように冷たい、さわやかな風だった。
「すまなかった、ディック」とぼくは言った。「ついうっかりした。きみを交代させるのをすっかり忘れていた」
「いいんだ」と彼は答えた。月は雲間に隠れて、彼の姿は舵の上にかがみ込んだ黒いダッフルコートのかたまりのようで、その輪郭だけがかすかに青光りする船の航跡に浮かび上っていた。「一度きみに注意しようと思ったけど、あの男を責めているきみの声が聞えたんで、ほうっておいた。うまくいったかい?」
「彼は仲間がいなきゃ話さんと言うんだ」と、ぼくはぷりぷりして答えた。「朝になったら、仲間に電話をすると言った」
ほかの連中も上ってきて、帆をあげた。ヘレスオイ灯台はすでに船尾になり、フェジェ島の黒い大きな姿が、揺れるビームと向い合って、シルエットになって立っていた。右舷の船首に別の光がまたたいていた。「ウートヴァー灯台かしら?」とジルが聞いた。
「うん」とぼくは言って、セットした帆を見上げた。船はころあいの斜めからの微風を受けて傾いていた。「ログ〔測程器での航海〕であと八マイル行ったら、針路を変えよう。そこでソグネ・フィヨールドの入口にまっすぐ向うんだ」ぼくは風上にいるディックに声をかけた。「きみとカーティスはなかへ入って、すこし寝てくれ。ジル、きみもだ」
「あなたはどうするの?」と彼女はたずねた。
「ぼくは海図室の寝棚で寝る」
ぼくは彼らを下へ追いやった――カーターも一緒に行かせた。できるだけ彼らに眠ってもらいたいと思ったからだ。明日、ソグネ・フィヨールドを遡行《そこう》するとしたら、いろんな仕事があるだろう。ついにぼくはウィルソンと甲板に二人きりになった。ぼくはコックピットに立って、両手を海図室の屋根にもたせ、帆布と索具が夜空にぼーっとにじんでいる高いメイン・マストをじっと見上げた。船体はゆるやかに傾き、風下の手すりをかなり下げて、甲板排水孔に海水をゴボゴボさせながら、水の中を進んで行った。帆走にはもってこいの夜だった。しかし、風は凍傷を起こすほど冷たかった。ぼくはぶるっと身震いして、海図室へ降りて行った。「ウィルソン、コースは?」
「北三十度西です」
ぼくは海図でそれを確かめた。船は、右舷の沿岸に点在する無数の島々を、もうすっかり後にしていた。「新しいコースへ向ったら起こしてくれ」と言うと、ぼくは寝棚に這い上った。船のかすかな動揺と、索具のリズミカルにきしむ音が、たちまち眠りに誘った。
船がコースを変えたとき、ぼくは舵を取り、ウィルソンを寝かせに下へやった。時刻は四時で、ひどく寒かった。風がビュービュー吹きつけた。ぼくは寒さでこごえそうになった。風はいま左舷後方からに変わり、船はメインブームと、ミズンブームを右舷につき出して、まっすぐ波に乗っていた。ぼくはウートヴァー灯台が真横に来、船尾に移り、やがて島の高地の陰に隠れるまで見つめていた。冷たい、灰色の、明るい暁が、東から訪れた。山脈が夜の闇の中から姿を現わして、船の回りをかこんだ。山々は灰色のどっしりした様子をしていた。けれど、巨大な砂糖菓子のような形をしている一つを除けば、それらは威圧的ではなかった。ぼくはアイルランドか、スコットランドの狭い入江を帆走しているような気がした。山には雪の痕跡がすこし残っていたが、それは奥地の広い雪原のほんの裾《すそ》にすぎなかった。日の光が明るくなるにつれて、山は黒みをました。雲が空一面に集まっていた。灰色の雨雲が巻き上り、木々に覆われた斜面をぐるっと包んだ。空は赤みをまして、しだいに燃え立つように赤々と輝きはじめ、それから山脈の頂上に炎を放つ砲弾のような太陽が昇った。海はぼくらの両側で赤くわき立っていた。そのうち、雨雲が、悪霊のように寄り集まって、あらゆる暖かみを水びたしにすると、明るい炎が空から消えた。突然、太陽は姿を消し、すべてが灰一色に還《かえ》った――霧がぼくらを包んだ。灰色に、どんよりと。
それにもかかわらず、この土地にぼくは興奮を覚えた。船はいま、ノルウェー最大のフィヨールドに入ろうとしていたのだ。全長百三十マイル、東へ向って、ノルウェー最高の山岳地帯の真ん中へ伸びている。幅は五分の二マイルほどで、両岸に高くそびえた山々が垂直に水へ落ち込み、山が高くなるほど、水は深かった。
船の向う先には、ヨーロッパで最大の氷河――五八○平方マイルの固い氷にとざされたヨステダルがある。その氷河の下のフィアールランで、ぼくはファーネルについての真相を発見したいと願っていた。彼が死んだ動機が、彼が何を発見したかということと同様に、いまぼくにとっては重要なことになった。ジルの灰色の眼に浮かんだ苦悩の表情を見ているうち、彼女の内部にある何か切迫したものが、自然とぼくにも伝わったのだ。
冷たい霧の湿気が、ぼくの興奮を醒ますどころか、かえって逆にあおった。ときどき、風向きが少し変わるたび、一瞬灰色のヴェールが横に引かれて、山頂までは見えないが、背後により大きな物のあることを暗示する山腹がちらっと眼に映った。しめった舵輪を握り、風の着実な推力がディヴァイナー号を山あい深く駆って行くのを感じながら、この土地の神秘な魅力にぼくは取りつかれた。
われを忘れて考えにふけっていると、いつもは長い夜明けの時間が、す早く過ぎた。八時に風は真横に変わり、ぼくはメインとミズンの帆脚索をゆるめた。それからディックを呼び上げて、少し寝るために下へ降りた。
「風に気をつけろよ」と、ぼくはハッチから首を出して言った。「見えないけれど、船のまわりは山ばかりだからな」
ぼくは疲れ切っていたに違いない。たちまち眠りに落ちて、カーティスにゆり起こされるまで何も覚えていなかった。眼を覚したとき、船は一方に傾き、へさきに波のしぶきをあげながら、軽やかに水を切り裂いて進んでいた。
「レイルヴィークにはいつ着くんだ?」とぼくは聞いた。
彼はにやりとした。「一時間前に、レイルヴィークを出た」
ぼくは起こさなかったことを彼に毒づいて、「スンネはどうした?」とたずねた。
「電話をかけたよ」
「彼は船に帰ってきたか?」
「うん。ぼくが彼について行ったんだ」
「スンネが電話をした先は分らないか?」
彼は首を振った。「分らない。電話ボックスにぼくを入れてくれないんでね」
「ダーレルは元気になったか?」
「ああ、彼は大丈夫だ。二日酔いらしいが、ほかに異状はない」
ぼくは起き上って、サロンへ行った。ダーレルとスンネがそこに向い合って、ライス・プディングを食べおえようとしているところだった。ぼくはまた、マックス・ベークという名を聞いた――今度はスンネの口からだ。彼の口調は神経質で、多少高調子だった。ぼくが入って行くと、スンネはちらりとこちらを向き、邪魔が入ってほっとしている風に見えた。
「マックス・べークって誰です?」テーブルにつきながらぼくは聞いた。
ダーレルは席を立って、「スンネさんの仕事の上の知合いですよ」と落着いて答え、潜水夫に、「マックス・べークのことは後で話し合いましょう」と言うと、ぼくのほうを向いた。「天気はまだよくなりませんか、ガンサートさん?」
「知りません。まだ甲板へ出ていませんからね」
彼が出て行って、ぼくはスンネと二人で残された。「マックス・べークって誰です?」ぼくは牛肉の罐詰をあけながら、もう一度たずねた。
「ダーレルさんや、わしの知ってるある人ですよ」と彼は答えた。それから口の内で挨拶すると、立ち上って、急いでサロンを去った。
食事をおわると、ぼくは甲板へ上った。雨になっていた。船は濃い霧のとばりに包まれている。両側の山々はぼーっとかすんでいた。風は真横で、見えない山腹の峡谷にぶつかって、さっと吹き下ろしてきた。ディックが舵を取っていたが、その黒い防水衣は水で光り、まゆ毛には水滴のつぶがはりついていた。ジルとダーレルはコックピットに立っていた。
「よく眠れた?」とジルが聞いた。彼女の顔色はピンク色をして、さわやかで、黒いノルウェー風の暴風雨帽のまびさしの下から、一握りの金髪がこぼれていた。灰色の眼がぼくを冷やかすように微笑した。彼女はいかにも子どもっぽく見えた。
「ぐっすり寝た、ありがとう」とぼくは答えた。「ここはしょっちゅう降ってるのかね?」
「いつでもよ」と彼女は答えた。
「ソグネ・フィヨールドの入口は年じゅう降っている」とダーレルが言った。「雨の多い所だ」彼は薄ずみ色の空をちょっと見上げた。「もうすぐ晴れる。まあ、見ていなさい」
彼の言ったことは当っていた。ぼくらがクヴァム島の近くにきたころには、太陽が出ていた。風が変わって、フィヨールドをまっすぐに吹き下ろしてきた。ぼくらは帆を縮帆し、エンジンをかけた。山岳は遠くへ退いて行った。それは一層高く、堂々としてきたが、しかし威圧するようではなかった。丸い山頂に深い雪をかぶってはいるが、こんもりと木々の茂った斜面が、なだらかにフィヨールドの静かな水際までつづいている。それは心地よげに日を浴びて、明るい緑と、きらきら輝く雪の交響楽をかなでていたが、ぼくはなんだかだまされたような気がした。水際に四千フィートものけわしい崖が、黒く、高くそびえ立ち、その花崗岩の断崖に大きな滝が白いレースのようにかかっている図を想像していたのだ。このほほ笑む岩は、あまりにも優しすぎた。
風がすっかりしずまった。フィヨールドの水面は鏡のように平らになった。船は真昼の暖かさの中を進み、舵のところに掛けていると、半袖のシャツ一枚でも汗ばむほどだった。ディックは寝床へ行き、ダーレルも下へ降りた。ほかの者たちは甲板に長くなって、日なたぼっこをしながら眠っていた。ジルが後部にきて、コックピットのぼくの横に腰を下ろした。彼女は何も言わず、あごを手で支えて坐ったまま、フィヨールドの前方の広い湾曲部を見つめていた。彼女はヨステダルをいち早く見たいと待機しているのだ。
ぼくはこの午後のことをときどき考える。それはぼくの人生に、ある新しいことが始まったときだった。舵のところに掛けて、前方にゆっくり拡がってくるフィヨールドの湾曲部を見つめているうち、ぼくは初めて他人の感情というものを意識した。ぼくには彼女がどう感じているかが分った。自分のもののようにそれを感じた。彼女は深紅のジャージーのスウェターに、緑色のコール天のスラックスを穿き、金髪を微風にそよがせていたが、それは金色のマユのように日ざしにきらきら光った。ぼくも彼女も何も言わなかった。聞える物音といえば、エンジンのリズミカルな鼓動と、船首が左右に押し分けて行く静かな水音だけだった。
船首左舷の大きな岬はしだいに後退し、北のほうの山岳が、現われてきた。そして突然、ぼくらは回りを囲む山塊を脱して、バーレストランドとフィアールラン・フィヨールドを正面に見た。それは息をのむような美しい眺めだった。奥地へ向って層々とつづく山岳は、のこぎり状の山頂をもたげ、累々たるけわしい岩が、蒼空を突き上げるように屹立していた。松の濃い緑が下方の斜面を覆い、谷間はエメラルド色をしている。けれど、高い所では草木は消え失せ、切り立った灰褐色の岩々が、白く輝く雪原の集団をくい止める要塞のように、積み重なっていた。
「どう、きれいでしょう?」とジルがささやいた。けれどぼくには、彼女がこの土地の自然の美しさなど考えていないことが分っていた。彼女は船首の前方に、陽を受けて魔法の絨毯のように光っているヨステダルの雪原を見つめてファーネルのことを思い出しているのだ。
そのあとしばらく、彼女は何も言わなかった。彼女はただじっとそこに掛けて、彼のことを考えていた。ぼくは彼女の想いを自分の身内に感じたが、それはなぜともなく胸の痛む想いだった。彼女の左手がコックピットのへりにそって投げ出されていた。すんなりした手首に、細い青い静脈が浮かんだ、きゃしゃな象牙色をした手だった。それは、ぼくの手のすぐそばの、ニス塗りの暖かい茶色の、マホガニー材の上に置かれていた。思わず、ぼくはそちらへ手を伸ばした。指は冷たく、なめらかで、それに触れるやいなや、彼女に親しみを感じた――これまで誰にも覚えなかったほどの親しみを。ぼくは手を退《ひ》こうとした。が、彼女の指はふいにぼくの指をしめつけた。そして彼女はぼくを見た。灰色の眼が、大きく、ぼーっとかすんでいた。何かを失うのを恐れるように、彼女はぼくの手にすがった。「ありがとう、ビル」と彼女はそっと言った。「あなたはいい人だわ」
「彼はきみにとってそんなにも大切だったのかね?」とぼくはたずねたが、その声はわれながら調子が変わっていた。
彼女はうなずいた。「そんなにもね」そして彼女は、また山のほうへ眼をそらした。「そんなにも――遠いむかしにね」彼女はまだぼくの手を握りながら、ちょっと黙っていた。「六週間だったわ」と、彼女は独り言のようにつぶやいた。「わたしたちが一緒にいたのは。それから彼は行っちゃったわ」
「しかしきみは、あとで彼に会っただろう――戦後に?」
「ええ。一週間ね。それだけよ」彼女はぼくのほうを向いた。「ビル。女には理解できない何かのために、どうして男は愛情を捨てることができるの? たとえば、あなたよ。あなたは恋をしたことがあって?」
「何度もある」
「でも、真剣じゃないわ。それがほかの何よりも大切だったんじゃないんでしょう?」
「うん」
突然、ぼくの掌《てのひら》に爪が食い込むほど、彼女はぎゅっとぼくの手を握った。「なぜなの?」と、彼女は低く叫んだ。「なぜなの? そのわけを話して頂戴。もっと大切な何があるの?」
ぼくはどう答えていいか分らなかった。「刺激さ」とぼくは言った。「生きて行く上の刺激さ。他人の知力に対して、自分の知力を戦わせる刺激さ」
「その場合、妻は足手まといになるわけね?」
ぼくはうなずいた。「一部の男たちには――そうだ」
「で、ジョージはその一人だというの?」
「おそらくね」ぼくはためらった。ジョージ・ファーネルのような男は、自分自身よりも金属のほうを愛しているのだなぞと、どうして彼女に言えよう。
「ジル」とぼくは言った。「ファーネルは芸術家だ。彼はぼくの知っている誰よりも金属のことにくわしい。彼の人生の生きがいは、ここの山々を開発し、そこに埋蔵されている鉱物資源を吐き出させることだった。世間一般の人たちにとっては、彼は山師で、ペテン師で、逃亡した囚人で、脱走兵だった。だが彼の心の中では、それはすべて正当化されていた。それは最後まで変わらなかった。彼の芸術がすべてだった。いまきみが見ているこの国の、この氷の下に、金属があるという信念に、彼は自分自身を賭けていた。もしそのために彼がきみを苦しめたのだったら――それは、彼自身が自分を苦しめていたことと変わりはない」
彼女はそれを理解したとみえて、ゆっくりうなずいた。「すべてのことが、そのために二の次にされていたわ」と、彼女はため息をついた。「そうよ。あなたの言うことは正しいわ。でも、もしわたしにも分ったら。そうすれば、わたし――」彼女はことばを切った。「いいえ。そうなっても、なんの違いもないわ。あの一つの目的にひたむきな様子、あの人の内側に燃えていた火に、わたしは引きつけられたんですもの」彼女は眼を閉じて、しばらくじっとしていた。彼女の手がぼくの手のうちで、ぐったりやわらかになった。「あなたはどうなの、ビル?」と、彼女はほど経てたずねた。「あなたは恋をしたと言ったわね――何度も。何があなたにそうさせたの?」
ぼくはためらった。「よく分らないけど、刺激だと思うな。物事を動かして行くこと、ぼくがそれを片づけるまでは、とても手に負えそうもないような難問に、いつもぶつかる刺激さ。ぼくは野心家だ――商売人としてね。ぼくはいつも次の峰の頂上を目指していた」
「それでいまは?」
ぼくは肩をすくめた。「いまは充ち足りている――いましばらくはね。戦争ちゅう、ぼくは頂上に達した。ぼくは自分をへとへとにし、力に対する自分の強い衝動に満足していた。いまぼくは、寝ころがって日なたぼっこをすることに満足している――いや、していたと言ってもいい」
「していた、というのは?」彼女の細いまゆが上がった。
「ぼくにも分らない。この山々に向って帆走しているあいだに、昔のあの興奮が、ぼくの内にわき起こってきたんだ。もし、ファーネルの発見したものを、ぼくが見つけ出せたら――」ぼくはそこで口をつぐんだ。この死者の財宝捜しは、いかにも残忍なように聞えたからだった。
「分ったわ」と言って、彼女は山のほうへ眼をそらした。それから急に思いがけない激しい口調で言った。「まったく、わたしってなんで女なんかに生まれたのかしら?」
彼女は立ち上ると、下へ行き、ぼくはふいに孤独になったような気がして、そこに坐っていた。山々はそれまでのように明るくなくなり、空は青さを減じたように思われた。ぼくはそのとき悟った――そして初めて自ら認めた――ぼくは人生で何かを捕えそこなったのだ、と。ぼくは一瞬、その手を捕えた。が、それだけのことだった。それはぼくの物ではなかった。ぼくはそれを死者から借りたのだった。
甲板にころがっている静かな体の一つが、もぞもぞ動いた。「スンネさん」とぼくは声をかけた。
彼は起き上って、眼をこすった。それから立ち上ると、船尾へきた。「あなたの仲間にはどこで会えるんです?」とぼくは聞いた。
「フィアールランでさ」と彼は答えた。
「彼はエイナール・サンヴェンの舟でフィアールランにくるんですか?」
「ええ」
「いつ?」
「それは知らない。わしは彼に言伝《ことづて》をしただけだから」
「じゃ、彼はいまフィヨールドを下っているところですね?」
「そのとおりでさ」彼は額に手をかざして、広々とひらけた光る水上をじっと見つめた。そして望遠鏡を取り上げたが、首を振った。「まだそれらしい舟は見えない」
ぼくは望遠鏡を彼から受取って、広いフィヨールドを見回した。数隻の船が見えるが、どれもそんなに小さくはなかった。ぼくは望遠鏡を、山岳や、フィアールラン・フィヨールドの狭い峡谷へ向けた。モミの木に覆われた斜面が、急勾配に水へ落ち込んでいるが、そこはふしぎに変わった色をしていた――冷たい緑色だった。フィヨールドの合流点に突き出した岬は、緑の沃地で、大きなホテルの白い正面が日を浴びて光っていた。この岬の先端がバーレストランドで、波止場に一隻の蒸気船が入って行った。その赤い煙突の上に、ちょっと白い羽毛のような蒸気がかかっていた。まもなく、山々ははるかな船の汽笛の響きをこだました。
「美しいでしょう?」ぼくは眼を上げた。ダーレルがぼくの横に立っていた。
「あれはバーレストランドでしょう?」とぼくは聞いた。
彼はうなずいた。「ソグネ・フィヨールドで一番目当りのいい所だ。あなたが見ているホテルは、クヴィクネス・ホテルです。非常に大きい、木造の建築だ。ノルウェー随一のホテルです。わしはあそこにいろいろ愉しい思い出がある。カイゼルはそこによくヨットをつないだものだった」彼は振り向いて、右舷船尾の低い岬のほうへあごをしゃくった。「あそこはヴァングスネスだ。あそこにブロンズの銅像が見えるでしょうが。わしは一度、あの銅像のてっぺんまでのぼったことがある」望遠鏡を通して、それははっきり見えた。岩の台座の上に建てられた男の巨大な銅像だった。「あれはカイゼルがあそこに建てた伝説のフリッショフ〔ノルウェーの伝説の英雄〕の銅像だ。カイゼルは、バルホルムにも別の銅像を建てている。もしヒトラーがもっと旅行をしていたら、おそらくここに鋼像を建てただろう」
「ここはとても平和そうに見えますね」ぼくはバーレストランドのたたずまいだの、ホテルの白い破風《はふ》造りやバルコニーに、また眼を戻して言った。
「あなたはもっと荒々しく、恐ろしい景色だと思ったかね?」と、彼は首を振った。「ソグネは荒っぽい恐ろしい所ではない。が、もっと狭いフィヨールドに入ると、ちがってきますぞ」
「まあ、フィアールラン・フィヨールドに入るまでお待ちなさい」とスンネが言った。
ダーレルは微笑した。「そうだ。スンネさんの言うとおりだ。フィアールラン・フィヨールドに入るまで待ちなさい。ボヤ氷河の端と、スップヘッレ氷河が、フィヨールドに落ち込む所では、水は氷のように冷たく、山は暗くてものすごいから。フィアールランを見たら、あなたもきっとがっかりはしないだろう」
彼の言ったことは当っていた。バーレストランドを過ぎると、暗い山々がぼくらを取り囲み、エンジンの響きを投げ返してきた。太陽は相変わらず照り、空は青かった。が、日の光には暖かみがなかった。フィアールラン・フィヨールドの水は半透明で、氷のように冷たい緑色をしていた。空の色はもう水に映っていない。このフィヨールドは、二十マイルにおよぶ山あいの割れ目にすぎなかった。岩の絶壁がぼくらを取り巻いていた。傾斜地は、どこもひどくけわしく、そこを覆っている松がいまにもまっさかさまに冷たい水の中へ落ちて来そうに見えた。上部の、丸石が一面に散らばった峡谷には、灰色の、氷で摩滅した岩が、深い雪の中から突き出して、日にきらきら光っていた。場所によっては、水際まで雪がつづいている所もあった。峡谷に白いレースのようにかかった奔流は、雪の下に穴を掘って、くずれやすい橋を渡していた。ここの陰欝さは、暗い恐怖となって、ぼくら一同の上にのしかかり、すべての会話を沈黙させた。
一時間ほど、ぼくらはその狭いフィヨールドを遡行した。そよとの風もなかった。冷たい緑色の水は鏡のように平らで、陰気な日の当らぬ松や、けわしい黒い岩を映していた。
それからぼくらは、最後の湾曲部を回って、ヨステダルを眼にした。それはフィヨールドの突き当りに、水の緑や、陽光を浴びて明るい緑に映える谷間の草地と対照的に、純白の姿で屹立していた。美しい、人をどきっとさせるような景観だった。巨きな尖塔に似た岩が、稜堡《りょうほう》のように、青空に黒々とそびえている。それ一つが、その背後の広大な雪をせき止めているように見えた。そしてその両側からは、氷河がフィヨールドに落下していた。右手のはスップヘッレだった――凍った波が雪原のへりをこえて下の谷間に注ぐように、青緑の氷塊が積み重なっている。左手の狭いボヤ氷河は、下の小さな開拓地を水びたしにしようとするように、一つの峡谷を細長く下っていた。
フィヨールドの色が変わった。緑色の水はしだいに土色を呈し、ついには何か液状の化学薬品のような色になった。それはぼくが初めて見る、一番冷たい色だった。
船は小さな木造の教会や、木の間に半ば隠れたホテルを過ぎて、材木を組んだ桟橋に着いた。「あれがあなたの仲間の船かな?」ぼくは、波止場のすぐ向こうに浮かんでいる小さなポンポン蒸気をさして、スンネにたずねた。だが、スンネは首を振った。彼の仲間はまだ到着していなかった。
ほかの者たちを船に残して、ぼくは一人でホテルへ行った。女の給仕が、刺しゅうをほどこした黒いボディスに、ひだ飾りのついたレースのブラウスという民族衣裳で、玄関ホールに立っていた。「ウルヴィックさんはこちらに泊っていますか?」とぼくは聞いた。
彼女は首を振って、笑った。Et oyeblikk sa skal jeg finne eieren.≪ちょっとお待ち下さい、いまマスターをさがしてきますから≫
ぼくは待った。氷と雪とけわしい岩山ばかりの絵はがきが、何段にも並べてあった。給仕のデスクの後ろには、あざやかな色どりの手製のもうせんや、模様を打ち出した革のベルトや、ふしぎな形をしたステッキがつる下っていた。ホールの片隅にはリュックサックや、ザイルや、登山靴や、アイス・アックスや、スキーなどが積んであった。ここの雰囲気は、島のそれとはがらりと違っていた。
階段に人の足音がしたので、ぼくは眼をあげた。背の低い、太った小柄な男が、こちらへ急ぎ足に降りてきた。彼は黒い服に、白いカラーのシャツを着ていて、体育館に書記が現われたように場違いの感じに見えた。彼は白い、ずんぐりした手をさし出した。
「ガンサートさんじゃありませんか」にっこり笑うと、金歯が光った。
「ウルヴィックさんですか?」とぼくは聞いた。
「はい。そうです」彼は少しアメリカ訛りのある英語で言った。「いらっしゃい。ラウンジへ行きましょう。お茶はおすみですか?」
「まだです」
「じゃ、お茶を飲みましょう」彼はぼくの腕を取って、壁や天井に精巧な手描きの絵がある部屋へ案内した。そこには人気がなかった。
「いまはシーズン前なのです。フィアールランはまだ寒すぎます。ホテルも開いたばかりなんです」彼はお茶を命じて、それから言った。「ガンサートさん、あなたのお望みどおり事は運ばなかったですよ。そのバーント・オルセンという男の死体発掘の申請は――なんて言いますかな――握りつぶされました」
「握りつぶされた!」とぼくは叫んだ。「なぜです?」
彼は肩をすくめた。「分りません」
女給仕がケーキやバター・トーストを載せた盆を持って入ってきた。彼女が出て行くと、彼はつづけた。「最初は万事好調に運びました。わたしはレイカンゲルで医者に会い、一緒に警察へ行ったのです。警察では、何も面倒なことはないと言われました。そしてベルゲンへ電話をしてくれたのです。わたしはきのう一日、レイカンゲルにいました。申請は許可され、わたしは必要な準備をととのえました。そうして汽船をつかまえて立つばかりになっていた時、警察が許可を取り消してきたのです。ベルゲンから電話があって、とにかく発掘する理由はないと決定したとのことでした」
「しかし」と、ぼくはむっとした。「ぼくはあなたに、どんなに費用がかかってもかまわんと言ったはずだ。あなたはベルゲンの弁護士に連絡したんですか?」
医者が気むずかしい患者をなだめるように、彼は丸っこい短かい指の白い手で、ぼくの腕をなでた。「わたしを信じて下さい、ガンサートさん。わたしはできるだけのことをしました。わが社の弁護士にも電話をしましたし、ベルゲンの警察のお偉ら方にも電話をしました。オスロの国会議員の一人にまで電話をしたんです。しかし、だめでした。何か邪魔が入ったんです。これはどうも政策に反することのようですよ」
政策に反する! それは、ただ一つのことを意味している。ヨルゲンセンがその権力をもって、死体の発掘を阻止したのだ。なぜだろう。それがぼくには疑問だった。なぜ彼はファーネルの死体が発掘されることを恐れたのか? ファーネルは殺されたのだろうか? そしてヨルゲンセンがそれに何か関係しているのだろうか。ぼくは黙ってお茶を飲みながら、頭の中でそれを解明しようとした。ヨルゲンセンが直接そんな殺人事件に巻き込まれるようなことはするまい。けれど、莫大な金がそこに介在していると、こういう事がよく起こるのをぼくは知っている――イギリスでも起こるし、ノルウェーでも起こるだろう。
「申請を阻止したのは誰です?」とぼくはウルヴィックに聞いた。
「わたしには分りません。聞き出そうとしたんですが、みんなひどく口が固いんです。誰かとても重要な人物のようですな」
ぼくは彼を見た。彼はぼくの凝視に会って神経質にそわそわした。この男は買収されたのではなかろうか? が、ぼくはその考えをしりぞけた。ぼくはこの男が気にくわない。けれど、彼は会社の代理人だ。会社は買収されるような海外代理人を使うほど無能ではない。だがそれにしても、途方もないわいろを使ったとしたら――。
「わたしは自分にできることは何でもやりました」彼はぼくの心の内を読んだように弁明した。「信じて下さい、ガンサートさん。わたしはこのノルウェーで、あなたの会社の代理人を十五年もやっています。わたしは抵抗運動でも働きました。ドイツがここに進駐して、イギリスが戦いに負けている間も、わたしは連絡を絶やしませんでした。しかしこれは――何か非常に妙です。重大な事業に関係しているような気がします」
ぼくはうなずいた。「あなたの落度じゃない」と言い、窓ごしに、フィヨールドの冷たい緑色をした水面へ眼をやった。ボートの上で男が釣りをしていた。向こう岸の草原に当っている日ざしに、もう暮色が見えた。なぜ、彼らはファーネルの死体が発掘されることを阻止したのか? ぼくはいま、このふしぎな事件の答は、ぼくらが通り過ぎて来たあの教会の、小さな墓地に横たわっていることを、いよいよ確信した。ぼくは椅子を後ろへ押した。
「あなたはぼくに金を持ってきてくれましたか?」
「ええ――ええ、もちろんです」彼は、何かすることができたのに、ほっとしたように微笑した。「ちゃんとここに持ってきています。十万クローネあります。それで足りますか?」
「それはどのくらいになるんです?」
「一クローネは一シリングに当ります」彼は部厚い紙入れを取り出した。「ほら」彼は一束の紙幣をぼくに手渡した。
「これで五千ポンドです。これにサインをして下さい――代理店勘定につけておかなければなりませんのでね」
ぼくは札をかぞえて、サインをした。そして席を立った。
「ご用はそれだけでしょうか?」と彼が聞いた。
「いまのところは結構です」とぼくは答えた。
「ほかにご用はありませんか? クリントン・マン卿は、何でもあなたの言われることを聞くようにと、わたしに手紙で言ってきました。ご用があったら、何でもおっしゃって下さい、ガンサートさん――」
「ベルゲンへ帰って、電話を待っていて下さい。あなたの番号は?」
「ベルゲンの一五五―一〇二です」
「よろしい。それから死体発掘の命令を誰が邪魔したのか、探り出して下さい」
「はい。やってみましょう。電話をお待ちしています」彼はぼくの後から戸口までついてきた。「もしさしつかえがなければ、わたしは今晩ここを立ちます。今夜バーレストランドへ行く船がありますのでね。バーレストランドはずっと暖かです。あなたは船をここに持っておいでになったんでしょう? バーレストランドへいらっしゃいますか?」
「さあ、分りません」一つの考えが、ぼくの胸に浮かんだ。彼が今夜立ってくれるのはありがたい。
「では、あなたの電話をお待ちします。わたしにできることならなんでも――」
「ええ、電話しましょう」と言って、ぼくは車道への階段を下りた。
道路に出ると、ぼくはちょっとためらった。左へ折れて波止場のほうへ行くかわりに、ぼくは右へ曲って、ゆっくり教会のほうへ歩いて行った。
教会は、ホテルから少し離れた小丘の上に、ぽつんと建っていた。白いペンキ塗りの建物が、傾く陽を浴びていた。ソグネヘうねって下るフィヨールドの陰欝な背景と対照的に、それはとても明るく生々とした小妖精のような教会だった。そこの上方には、細長い丸石に覆われた谷間が、白雪を頂いた、冷やかな、よそよそしい山岳へ向って伸びている。墓地の先には、急流がフィヨールドへ走り下っていた。ぼくは木戸をあけて、あたりの墓を調べながら、教会への小径を登って行った。なかには石碑の立っているものもあるが、多くは木の小さな十字架で、死者の名が黒くそこに書いてあった。教会の影は、墓地の上から、フィヨールドの端まで、長く伸びていた。その向こうの日当りの中に、ぼくは自分の捜しているものを見出した。バーント・オルセンの名を書いた、まだペンキのま新しい十字架だった。
ぼくはローデシア時代のファーネルを思い出した。こういう場所のことを話していた彼の姿が眼に浮かぶ。ランプの油煙が小屋に籠り、びんのウィスキーが底をつくまで、彼はあきることなく山上の雪や氷河について、狭いフィヨールドについて語りつづけた。当時それはずいぶん遠い国の話のような気がした。というのは、ぼくらがローデシアにいたその時期には、燃えるような太陽の下で、土地はチリのように乾ききっていたからだ。けれど、いまぼくは彼の話していたことを理解した。そしてぼくは、彼が愛していたこの土地に、その資源のために彼が一切をなげうったこの地に、埋められているのを知ってよろこんだ。
ぼくがその考えを口に出したかのように、一つの声がやさしく言った――「こここそ、あの人が埋められるのにふさわしい所だわ」
ぼくは振り返った。声の主はジルだった。その顔は真青で、唇は震えていた。彼女は泣いているなとぼくは思ったが、たしかなことは分らなかった。
「ぼくもいまそう思っていた」ぼくはフィヨールドや山々のほうを見回した。「彼が生きていたのは、ここのためだ」それから、まだ草が生えるほど地面が固まっていない、生々しい盛り土の上につき立てられた、小さな十字架へ眼を戻した。彼の死は自然死だろうか――それとも殺されたのか? なぜ、死体発掘の申請は妨害されたのか? その答はここに横たわっているのだ。土を除いて、棺まで掘り下げれば……ぼくはジルをちらりと見た。彼女は死体の発掘が許可されれば、立会う覚悟をしていた。とすれば、大した相違はないはずだ。が、それにしても……「彼はここに葬られて仕合わせだ」と、自分の考えを推測されるのを恐れて、ぼくは急いで言った。
「ええ」と彼女はつぶやいた。「ビル、わたしを連れて来て下さってありがとう」彼女はまた唇を震わせると、墓地の小径を木戸のほうへ歩きだした。ぼくは後からついて行ったが、道に出ると、彼女は言った。
「発掘はいつになったの?」
「やらないことにした」とぼくは答えた。「申請が許可されなかったんだ」
彼女はため息をついた。安堵のため息のようにぼくには聞えた。「よかったわ。いまあの人の眠りを乱す必要はありませんもの」
ぼくは彼女を見た。「きみはあれが事故だったか、そうでないか、知りたいとは思わないかね?」
「いいえ。わたしたちがどんな事をしても、あの人を生き返らせることはできないわ」
ぼくはもう何も言わずに、彼女と桟橋の板を渡った。ぼくらが甲板に上ると、ディックとカーティスとスンネが待っていた。
「どうだった?」とカーティスが聞いた。
「だめだった」とぼくは言った。「申請は上部で邪魔が入った。誰かが検屍に反対したんだ」
「ヨルゲンセンか?」
「たぶんな」と答えて、ぼくはもやいづなを解くように命じた。
「待ってくれ」とディックが言った。「ダーレルがホテルへ電話をかけに行っている」
「彼は誰に連絡をしているんだ?」
だが、ディックは知らなかった。そして船に戻ってきたダーレルも、何の説明もしなかった。「手間をとらせて済まなかった」と彼はわびた。
「いいんです。フィヨールドを少し行ってみるだけだから」ぼくはウィルソンにもやいづなを解いて、エンジンをかけるように命じた。
ぼくらがフィアールランを離れた時、陽が沈んだ。ちょっとの間、部落のはるか上方のヨステダルの雪が、ピンク色に染まっていた。それから光は薄れ、フィヨールドは山あいの暗く冷たい割れ目に返り、その水はもはや緑色ではなく、インクのように黒ずんでいた。夜のとばりが急に下り、波止場をめぐってかたまった建物の群れに灯がともりはじめた。
部落から一マイルと離れない、岬のすぐ向こうで、ぼくは船を浮き桟橋へ向けた。そこの上のほうには、狭い高台の草地に、漁夫の掘立て小屋があぶなっかしく立っていた。船を朽ちたくいにつなぐと、ぼくはボートを降ろすように命じた。
「どうするつもりだ?」とカーティスが聞いた。
ぼくはあたりを見回した。ジルがコックピットのわきに立って、ぼくらを見つめていた。
「社の代理人がホテルで起きているのに、フィアールランで寝たりしたくないんだ。あの男を誘って、少しこいでくる」それからぼくはジルに、ウィルソンと一緒に食事の支度をするように頼んだ。
彼女が下へ行くやいなや、カーティスは言った。「その代理人というのは、黒い服を着た、丸顔の背の低い男じゃないのか?」
「そうだ」
「それなら、その男はきみとジルが船に帰ってくる十分ぐらい前に、漁船に乗ってフィヨールドを下って行ったよ」彼はさぐるようにぼくを見て、「ビル、きみは何をするつもりだ?」とたずね、ぼくが即答しないと、こう言った。「きみは、ファーネルの死体を掘り出そうとしているんだろう?」
「うん。教会にはまるで人気がない。月は真夜中を過ぎないと昇らないんだ。ぼくらにはまだあと四時間ある」
彼はぼくの腕をつかんだ。その眼がふいに怒りに燃えた。「そんな事はいかん」
「いかんって?」と、ぼくは笑った。「ばかなことを言うな。安全なんだ。誰もあそこにはいやしない。たとえとがめられてもぼくらが誰だか、相手には分らないんだ。それで、ぼくは、フィアールランに停泊したくなかったのさ」
「ぼくはきみが見つかることを恐れちゃいない」と彼は答えた。「ぼくが考えてるのは、ジルのことだ」
「ジルのこと?」ぼくは彼女がため息をついたことや、死体を発掘しないと聞いてよろこんだことを思い出した。「ジルには知らせないよ」
「なんてことを!」と彼は叫んだ。「きみがボートを出せと命じた時、彼女は真青な顔をして立っていたぞ。きみがなぜここに船をつないだか、彼女が察しないと思っているのか?」
「ぼくはそうは思わない。きみは彼女に話す気か?」
「もちろん、そんな事はしないさ」
「よし」とぼくは言った。「さあ、ボートを降ろしにかかろう」
だが、彼はぼくの腕をつかんでゆすった。彼の指が万力のように肉に食い込むのを感じて、彼がジルを恋しているのだという考えがふいにぼくの頭にひらめいた。
「きみはどうしてもやる気か?」と彼は怒ったように言った。
「ああ。お願いだ。カーティス――子どもじみたことはやめてくれ。ジルは何も知る必要がない。が、ぼくはファーネルがどうして死んだかを知らなければならないんだ」
「なぜ?」
「分りきってるじゃないか。もし彼が殺されたのなら、シュラウダーは鉱床のある場所を知っている。もし死体に格闘の跡がなければ、おそらく秘密は彼と一緒に葬られただろう。ぼくはその答を知らなければならない」
「答を知らなきゃならんって!」と彼は冷笑した。「きみは鉱物を横取りすること以外、何も考えられないのか? あの娘《こ》は、死体がそっとほうっておかれることを望んでいる。彼女はきみの欲を満足させるために、あの土地を乱されたくないんだ」
「これは私欲のためじゃない」ぼくはかっとして言った。「何十万という人々が、その鉱床のために繁栄して行くことができるんだ――もしそれが存在しているとすればな。ぼくはそれを発見しようとしているのだ。ジルには知らせる必要はない。それに、もし彼女がその事に気づいたら、ぼくは諒承してもらえると思う。もし死体を見るのがいやだったら、きみは何もしないでいい」
カーティスは笑った。「死体が恐いわけじゃない。ぼくはあの娘のことを考えていたのだ。もしきみがどうしてもやるつもりなら、彼女に言わなきゃいかん。彼女の許しを得るべきだ」
「ぼくは彼女に頼むつもりはない」ぼくはそっけなく言った。
「しかし、彼女は相談にあずかる権利がある」
「権利だって? 彼女には権利なんかない」
「いや、あるとも。彼女は権利を――」
ぼくは彼の腕を取った。「おい、カーティス」こんなばかげた議論には、もううんざりだった。「この船の船長は誰だ?」
彼はちょっとためらって、「きみさ」と答えた。
「それにこの旅の責任を負っているのは誰だ?」
「きみだ」と、彼はしぶしぶ答えた。
「よし」とぼくは言った。「さあ、あのボートを舷側に降ろせ。この甲板で十一時半に会おう――きみと、ディックと、ぼくの三人でな。冷えないように厚着して、ゴム靴を穿くんだ。娘の監視はぼくがする」
ぼくはちょっと、彼がむし返すのではないかと思った。しかし、命令に服従する長い間の習慣が、彼の良心の突然の爆発に打ち勝ったようだった。彼は背を向けると、ボートの吊りづなを引いて手すりの外へ出した。
その夜、夕食の席では、みんなが不自然に黙りこくっているように思えた。ジルは眼を皿に落として、黙々と食べていた。ただダーレルだけがよくしゃべった。ぼくは彼がホテルから誰に電話したのかと訝った。「このつぎはどういう手をうちます、ガンサートさん?」と彼はだしぬけにぼくに聞いた。
「スンネさんの仲間を待ちましょう」
「スンネさんが、仲間が来ないとしゃべらないのは残念ですな」彼はぼくと眼を合わせた。その黒い瞳に、意地の悪い笑いが浮かんでいた。彼はちらりとスンネを見た。
潜水夫はす早く顔をあげた。そしてまた皿へ視線を向けた。彼はそわそわしているようだった。
ダーレルは微笑した。この男の体からは異常な興奮が発散していた。
食事のあとで、ぼくはみんなをベッドに追い立てた。長い一日で、彼らも疲れていたのだ。それに、海岸から急に山の空気の中に移ったので、みんな眠そうだった。
ぼくは船室に入って、寝棚に横になった。ぼくと同室のスンネは、それから間もなく入ってきた。彼は長い間、寝返りを打っていた。ぼくは睡魔と戦いながら、横になって闇の中を見つめていた。船は静かだった。ゆらりとも動かず、舷側を洗う水の音も聞えなかった。うそのようにしんと静まり返っていた。スンネがいびきをかきだした。ぼくは山岳の下の教会の墓地のことを考えた。あそこをあばくと考えると、何か空恐ろしい気がする。カーティスの言ったことは、たぶん正しいだろう。そんな事をするべきではないかも知れない。墓をあばいて死体を取り出すのは、何かおぞましいことだった。だが、ぼくらは死体盗人ではない。ぼくらは、一人の男の死の真相をつきとめようとしているのだ。ぼくは眠気がすっかり覚めて、暗闇の中に横たわりながら検屍の医者もなしに、ファーネルの死が自然死かどうか、果して判断がつくだろうかと考えた。
しかし、とにかくファーネルの死体を見ることに決心して、十一時半にそっと起き上ると、ゴム靴に足をつっ込んだ。ディックが甲板で待っていた。山岳の後ろから、かすかな光が見えた。月が昇ったのだ。ぼくらはつるはし一本と、シャベル一丁しか持たないことにした。ぼくはそれを船尾の貯蔵室から出し、ディックが舷側に降ろしておいたボートに入れた。カーティスがやってきて、仲間に加わった。ぼくは海図室から懐中電灯を取った。
「先に乗れ」とぼくはディックに言った。彼はそっと舷側を降りた。カーティスがそれにつづいた。と、その時、一つの手がぼくの腕をつかんだ。ぼくははっとして振り返った。ダーレルが横に立っていた。「あなたを待っていた」と彼はささやいた。「わしも死体を見たいのだ」
「これから何をしに行くか、どうして分ったんです?」
彼は微笑した。暗闇の中で彼の歯並びが白く光った。「ガンサートさん、あなたはこうと決心したらどこまでもやる人だ。フィアールランまで目的もなしに来はせんだろう」
ぼくはボートヘあごをしゃくった。「乗りなさい」
彼の後からぼくは降りた。ディックとカーティスがオールを持つと、ぼくは船を押してボートを離した。オールをつっ込むたびにオール受けがきしみ、ヨットの輪郭は闇にのまれて行った。フィアールランへ向ってこいで行くと、山岳の鋭い稜線が月光に照らされて空にくっきり黒く浮かび出た。ぼくらは岬を回り、海岸線にそって進んだ。フィアールランの灯はすでにみんな消えていた。あたりには死のような静寂があった。聞えるものといっては、オールのきしみと、山から流れ下る水音だけだった。
空がしだいに明るくなり、眼が闇に慣れてくると、岸の黒っぽい線だの、フィアールランの波止場をめぐる建物が見分けられるようになった。教会の下の、フィヨールドに注いでいる急流に近づくと、水音はしだいに大きくなった。そして、小丘の上に、黒く静かに立っている教会が見えてきた。ぼくはボートを岸へ向けさせた。ぼくらはささやくようにものを言った。へさきがふいにガリガリと石に当り、それから砂利をこすった。一同は這い降りて、もやいづなを一つの岩にひっかけた。そして墓地のほうへ坂をのぼりだした。
ぼくらはすぐ、ペンキを塗って間のない十字架や、ファーネルの休息所である新しい盛り土をさがし当てた。ぼくはシャベルの柄を握って、芝土を除き、十字架を引き抜いて、掘りはじめた。表面の土は、鉄のように固かった。つるはしの先を凍った土に振り下ろしながら、ぼくらは汗を流してふうふういった。ゆっくりと、きわめてゆっくりと、狭い穴が掘られて行った。つらい、骨の折れる作業だった。ぼくらは肌着一枚になり、白い息を吐きながら、冷たい大気の中で汗をかいた。
その時、月が山の端に昇って、雪が白く冷たく輝いた。スップヘッレの氷河の積み重なった氷塊が、冷たい緑色に光った。フィヨールドの水は、これまでになく黒ずんで見えた。ぼくは後ろへ下って、カーティスにつるはしを渡しながら、教会から部落のほうを見渡した。すべてが墓場のように静かだった。けれどぼくは、誰かに見守られているような感じにとらわれた。いまにも怒った村人たちが、聖物を汚す者からこの小さな墓地を護ろうと、とびかかってきそうな気がした。「誰かが見えるのか?」と、ディックが低い声でたずねた。
「いや」と答えたぼくの声は、かすれていた。
彼はシャベルにもたれて、部落のほうをじっと見た。
「それを貸せよ」と言って、ぼくは彼からシャベルを取ると、カーティスのつるはしでゆるんだ土を揚げはじめた。
一休みごとに、ぼくは月明りと静寂が気になった。細い急流は丸石にさらさら音を立てながら、フィヨールドのほうへ向っている。山の静寂が冷やかに、よそよそしく、ぼくらの前に立ちはだかった。ぼくらの姿は何マイルもの先から見通しなのに相違ない。
土はしだいにやわらかくなってきた。穴が深くなり、ふいにつるはしが木に当った。まもなく、ぼくらは白木の松材の棺から土を払い落とした。そしてかがみ込むと、狭い墓穴からそれを持ち上げて外に出した。
その瞬間、ダーレルが体をピクッと動かした。「誰かがくる」と、彼は制止した。
「どこに?」と、ぼくはささやいた。
彼は小川のほうへ首を向けた。「あそこを誰かが渡ってくる」
「あんたはビクビクしているからだ」とディックが低い声で言った。
ぼくは棺のほうへ向き直った。カーティスがつるはしを持っていた。「さあ」とぼくは言った。「開けるんだ」
だが、彼は動かなかった。彼もフィヨールドへ注ぐ小川のほうをじっと見ていた。「あそこに誰かいる。ほら!」彼はぼくの腕をつかんで、指さした。
月明りの中で、一つの人影が川床を渡ってくるのがぼくの眼に映った。月光を浴びてその姿は白かった――白い服を着た人影だった。それは立ち止まって、ぼくらのほうを見上げた。それからまた歩き出した。急流をこえて、坂を登ってきた。
「誰だろう?」ディックがささやいた。
ぼくは薄紅色のジャンパーがちらりと眼に入ったので、それが誰だかを知った。「その棺を開けろ」と、ぼくはカーティスにぶっきらぼうに言った。
けれど、彼は動かなかった。ややあって、ジルがぼくらと向い合って、足を止めた。苦しそうに息をはずませ、青白い顔に眼を大きく見張っていた。彼女は明るい色のレインコートを着ていたが、それは破れて、どろだらけになり、スラックスはひざまで濡れていた。
ぼくは前へ出た。「きみはここへ来ちゃいけないんだ」
しかし彼女は、掘り出した土の上に傾《かし》いでおかれてある棺を、じっと見つめていた。「どうしてこんなことを!」と彼女は息を切らして言った。そして押さえきれなくなったように、泣きじゃくりだした。
ぼくは彼女の裂けた服を見て、彼女が道もない暗いなぎさを、月の光を頼りにどんなに急いで来たかを悟った。
「こうしなければならなかったんだ」ぼくは荒っぽく答えた。それからカーティスのほうを向いた。「それを開けろ」
「いかん」と彼は答えた。「きみは、彼女の許可を得ずにこんな事をしてはいけなかったんだ」
「きみがやらないんなら、ぼくがやる」ぼくは彼の手からつるはしをひったくった。ふたと横板のすきまに先端をこじ入れたとき、ぼくはジルの叫び声を聞いた。木の裂ける音がして、ふたがこじあけられた。それはそっくり一枚のまま外れた。くぎが少ししか打ってなかったのだ。ぼくは両手でふたを持ち上げ、後ろへほうり出した。カーティスがジルを引張って下がらせた。彼女は顔を彼の胸に埋めて、すすり泣いていた。ぼくは、そっと死体にかけてある白い死衣を引き下げた。
そしてぶるっと身震いした。死体はずたずたに裂けた、凍った血と肉の塊りだった。頭は割れ、首は折れ、左腕と手は果肉のように押しつぶされていた。ぼくは体を起こした。ファーネルの死が事故によるものか謀殺か、これではどうして分るだろう。死体があまりに損傷されているので、それがファーネルだということすら、見分けがつかないくらいだ。腐敗は全然していない。凍った地面のためだろう。それにしても、彼と認知できるものは何一つ残っていないのだ。顔はずたずたに裂け、手は……ぼくは急いでかがみ込んだ。なぜこの手はこんなにひどくつぶされたのだろう? もちろん、自然にそうなることだってある。彼は非常な高所から転落したのだ。岩が彼の上に落下したのかも知れない。ぼくはいろんな事故を見てきた――落磐で人が圧しつぶされた鉱山の事故を見てきた。だが、これほどめちゃめちゃになった死体を見たことはなかった。これはまるで、認知できないように、わざと損傷した死体のようだった、この左手は。ぼくは折れて、ぐしゃぐしゃになった、その手を持ち上げた。裂けた肉と凝結した血が、固く凍りついていた。懐中電灯の明りで、指の骨が全部つぶされ、ギザギザした骨の破片が、鋭い歯のように肉から突き出ているのが見えた。小指を調べた。ファーネルの小指と同じように、上の二つの関節が無くなっている。しかし、一本の長い腱が切断された関節からとび出していた。
突然、ぼくは激しい興奮を覚えた。ほかにファーネルはどんな肉体的特徴を持っていただろう? ぼくには考えつかないが、何かあるに違いない、何か肉体的なしるしが。ぼくはジルのほうを向いた。
「ジル、顔や、左手の小指のほかに、ジョージ・ファーネルだときみが見分けられるなにかがないか?」
ぼくの口調にある何かが彼女に伝わったものとみえて、彼女は泣きじゃくりを止めると、ぼくのほうへ頭を向けた。「それをどうして知りたいんです?」
「これが実際にジョージ・ファーネルの死体かどうかを知りたいからさ」とぼくはゆっくり言ったが、ぼくが言いおわると、彼女は背を伸ばして、棺のほうへきた。
ぼくは死体の死衣を引き上げた。「よせ。これは――そうきれいな見ものじゃない。口で言ってくれ――彼と確認できるものは何かないか?」
「あるわ」その声はもうはっきりしていた。「両足の足裏に傷があるわ。このノルウェーで彼は一度、ナチスに捕まったんです。そのとき、足の裏をさんざん叩かれたのよ。でも、あの人は何もしゃべらなかったので、釈放されたわ」
ぼくは棺を見下ろした。両足は潰《つぶ》れていなかった――片方の足首が折れて、ひん曲っているが、ほかには異状はない。ぼくは硬直した右足を無理に棺の外へ出して、懐中電灯で足の裏を照らした。傷はなかった。もう一方の足も同様だった。ぼくはジルを見上げた。彼女の眼は興奮で輝いていた。「それは確かかね?」とぼくは聞いた。
「ええ。もちろん、確かよ。白っぽい傷跡になっているわ。そこに付いている?」
「いや」
「それに右のわきの下に弾丸の跡があるわ」
ぼくは右腕を上げた。わきの下には銃創はなかった。
ぼくは体を起こすと、棺を回って彼女のそばへ寄った。
「ジル、あの身元確認のしるしに、まちがいはないんだね?」
「ええ」と答えて、彼女はぼくの腕をつかんだ。「じゃ、ジョージじゃないのね――これは? もしそういう傷跡がなければ、ジョージではないわ」
「うん」とぼくは言った。「これはジョージ・ファーネルの死体じゃない。誰かほかの人間のものだ」
「だけど――だけど、どうしてそれがここにあるんだ?」とカーティスがたずねた。
ぼくは彼を見た。彼にとっては、人生はまっすぐな一本道なのだ。「この男は殺されたんだ」
「しかし、ファーネルの――書類が死体から発見されたんだろう」
「そのとおりさ」とぼくは言って、ジルのほうをちらりと見た。彼女の眼がぼくの眼と合い、彼女が真意を理解していることをぼくは悟った。ぼくはカーティスのほうを向いた。「身元を告げる書類さえ見出だされれば、ファーネルだと確認されるように、死体をこんな風にめちゃめちゃにしたのだ」
「でも、なぜだ?」と彼はたずねた。
「そんな事はどうでもいいじゃないの」とジルが言った。「あの人は生きているんだわ。それだけが大切よ」
ぼくは彼女を見て、憐憫《れんびん》の情を覚えた。それだけが大切なのだろうか? おそらく、いまこの瞬間はそうかも知れない。しかし後では……
「あの人はどこへ行ったと思います?」と彼女が聞いた。
「それをスンネから聞き出さなきゃならない」
「スンネさんに?」彼女は一瞬ぽかんとした顔になったが、それから眼を大きくした。「というと、キャッチャーボートからとび込んだのは――」
「そうだ、あれはファーネルだった」そしてぼくは、足下の死体をあごでさした。「これはシュラウダーだ」
「じゃ、ファーネルが――」と言いかけて、あとのことばをのみ込んだ。
ぼくはうなずいた。「そうらしいな。さあ、死体をもとに戻して、スンネと話しをしに行こう」
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第七章 高原の小屋
死体はシュラウダーで、ファーネルは生きているという発見のショックが、ジルをすっかり動転させてしまったようだった。ぼくらが棺をもとに戻して、墓穴を埋めている間、彼女は困惑した表情で黙ってじっと立っていた。凍った土くれが、薄い松材のふたにうつろな音を立てて当った。ぼくらは芝土をもとのようにならし、バーント・オルセンと書かれた小さな木の十字架をその上に立ててから、ボートのほうへ降りて行った。船へこぎ戻るまで、誰も口をきかなかった。ときどきぼくは、向かいの席に腰掛けたジルをちらりと見た。彼女の顔は固く、無表情だった。その胸の中で何が起こっているかを、ぼくは考えた。あれがショックだったことはよく分る。しかし、彼女の眼に浮かんでいるものや、きっとしたその表情に、ぼくは当惑した。興奮だの、うれしそうな様子が見えてもいいはずなのに、それはなかった。ただぼーっとしているその眼つきが、ぼくの胸の底の何かを強くゆり動かした。彼女がそんな様子をしているのを見るのは、ぼくにはつらかった。
思うにそれは、ぼくが彼女に恋をしていたという、最初のそれとない知らせだったのだろう。その時はぼくは、それとはっきり気がつかなかった。気がついたのは、後になってからだった。しかし、ぼくは不安になり、気持が沈んだ。彼女はひどく緊張していた。たのしそうにしていていいはずなのだ――彼が生きていると考えることで、たのしそうにしていなければならないはずだ。だが、彼女は少しもたのしそうではなかった。
ぼくは、あのテムズ河ぞいの酒場で初めて会った時の、彼女の切迫した様子を思い出した。彼女はノルウェーへ行って、彼の墓を見ることを、心から願っていた。そしていま……ぼくはこれをどう解釈していいか分らなかった。シュラウダーは殺されていた――ファーネルによって。それで彼女はあんなに心を痛めているのだろうか? それとも、彼が生涯を賭けたもののためには何でもやる――うそをつき、詐欺を働き、軍隊を脱走し、人殺しまでやる男と知ったためだろうか。ぼくはふいに、彼にとっては彼女はごく小さなものにすぎなかったのだ、ということに気がついた。彼女はほんの付けたりの人間にすぎなかったのだ――自分が、心に決めたことを成し遂げようとする男のつらい戦いのうちの一時の快楽。
ソグネ・フィヨールドを遡っているとき、ぼくらは話し合った。あの時、彼女はこうぼくに聞いたものだ――女には理解できない何かのために、どうして男は愛情を捨てることができるのか、と。
ぼくはまた彼女のほうを見た。彼女はへさきごしに、松が影を落としている暗い山腹を背景に、白く浮かんだディヴァイナー号の帆柱をじっと見つめていた。その顔には、石のように冷たい、よそよそしい表情があった。それはもう娘の顔ではなかった。疲れた、わびしい女の顔だった。そしてぼくはそのとき、ファーネルが生きているよりも、死んでいたほうが、彼女にとってはずっと魅力的だったのではないかと気がついた。
ファーネルが生きていたという発見でひどく影響されたのは、ジルばかりではなかった。ともに腰掛けたダーレルは、達者なほうの手で、指の節が白くなるほどしっかり舟べりをつかんでいた。彼は興奮しているのだ。月明りに異様にギラギラ光っている眼で、ぼくにはそれが分った。彼の顔はぴんと引き締り、全身が緊張していた。そしてグランド・ナショナル〔リバプールで毎春おこなわれる障害物競馬〕で馬に乗ったように、ボートに坐っていた。彼の口の端のしわが薄くなり、唇は引きつって、歯がのぞいていた。その顔は、残忍で、上気しているように見えた。
船に上るやいなや、ぼくはエンジンをかけて、もやいづなを解くように命じた。ウィルソンとカーターを甲板に呼んで、フィヨールドを下ることを二人に任せると、ぼくはサロンへ降りた。ほかの者たちはもうそこに集まっていた。ディックがコップにウィスキーを注《つ》いでいた。ジルは暗赤色のマホガニーの羽目板を背に、ひどく青白い顔で、じっと長椅子に掛けている。ダーレルは片手で上着を引張りながら、眼を輝かして、自分の船室の戸口に立っていた。
「スンネを呼んできてくれ」とぼくはカーティスに言った。「彼に話があるんだ」
「その必要はない」ダーレルが緊張した声で言った。
カーティスは足を止めて、振り向いた。みんながダーレルを見た。
「あなたの知りたいことは、みんなわしが話してあげよう」彼は腰を下ろすと、萎えた手に体の重みをかけて上体をかがめた。「さあ、掛けなさい。スンネさんはあんたに話さんだろう。あの人は仲間が来ないと、何も言わんつもりだから。だが、わしはきょうあの人と話をした。少々彼を説得したのだ――わしが知っている男に使われて、彼がちょっとした密輸をしていたのを種にな」
「それであなたはフィアールランのホテルから電話をしたんですか?」
「マックス・べークにか? いいや」
「じゃ、誰に電話をしたんです?」
彼は微笑した。「それはあんたの知ったことではない。さあ、掛けなさい――みんな」彼は体をのり出したが、その眼には、ぼくがボートの中で認めたのと同じ奇妙な光があった。残忍な、勝ち誇った表情だった。ぼくは背すじに寒けが走るのを覚えた。この不具者は突然この場の主役になり、ぼくら一同を威圧した。
ぼくは腰を下ろした。
「あなたはファーネルの行方を知っているんですか?」とぼくは聞いた。
「それを聞いたほうがましだ。知ってるとも。わしはファーネルがどこにいるか知っている」
「どこです?」
「彼はいまごろ山に入っただろう」とダーレルは答えた。「彼は逃亡しようとしている。あの男には逮捕令状が出ているのだ」
ぼくはジルを見た。彼女はじっと坐ったまま、ダーレルを見つめていた。「どうしてそれを知ってるんです?」とぼくは聞いた。
「あんたはヨルゲンセンがどうすると思う?」と、彼は詰問するように言った。「彼はファーネルを見つけ出さなければならない。だから警察の力を借りたのだ」
「しかし、ファーネルは何のために逮捕されるんだ?」とカーティスが聞いた。
「殺人のためにさ」とダーレルは答えた。
「だが、あの墓の死体がファーネルではないということは、ぼくら以外に誰も知らないはずだが」とぼくは指摘した。
ダーレルは笑った。短かい、鋭い笑い声で、固唾《かたず》をのんだ静寂の中でいやな響きを立てた。
「あんたにはまだよく分っていない。ファーネルはシュラウダーなのだ。逮捕されようとしているのはシュラウダーさ――彼はファーネル殺害のかどで逮捕されるのだ」
「しかし――」と、ぼくはどもった。何て皮肉な話だ!「生きているのがファーネルだということを、ヨルゲンセンは知っているのかな?」
「もちろんだとも。ローヴォス船長が彼の船から脱走した男の様子を説明するやいなや、ヨルゲンセンはそれがファーネルだと悟った。あの小指だ。あれは隠しようがない。あんたはファーネルだと気がつかなかったのかね?」彼はまるで楽しんでいるように微笑した。
「いや」とぼくは言った。「あなたも気がつかなかったでしょう」
「わしは知っていた」と彼は答えた。「スンネさんが、あの人の仲間とエイナール・サンヴェンが男を救ったことを認めたとき、すぐに分った」
「どうしてです?」
「どうして?」彼の声はふいにきびしくなった。「なぜなら、シュラウダーはオーストリア系のユダヤ人で、ドイツ軍のために働いていた。あんたは、スンネとストゥールヨハンがリンゲ部隊で抵抗運動をしていたことを忘れている。エイナール・サンヴェンも抵抗運動の仲間だ。従って彼らが助けたのは、旧同志のファーネルでなければならない――彼らの知っている名で言えば、バーント・オルセンだ。いいかね。あんたはあの通信文がどうして鯨肉の中に入ったかを知りたいだろう。わしがそれを話してあげよう。ファーネルはシュラウダーを殺したあと、フィアールランからボヴォーゲンへ小舟で来た。彼がボヴォーゲンに来たのは、戦争ちゅう彼をかくまってくれた仲間がそこにいたからだ。彼はエイナール・サンヴェンやそのかみさんと、ノールハンゲルに泊っていた。鯨肉の荷に通信文を入れたのはサンヴェンだった。ローヴォス船長に話をもちかけて、ファーネルを臨時の船員として捕鯨船十号に乗組ませたのもサンヴェンだ」
ぼくはじっと彼を見つめた。その話にぼくは疑いを持たなかった。それはぼくの知っていたことと、すべて符合する。そのほかの解釈はありえないのだ。ファーネルはおそらく、キャッチャーボートに乗組むとき、捕鯨場でスンネかストゥールヨハンに会ったのだろう。そうしてシェトランド島へ行く計画が失敗したときに、潜水夫たちのことを思い出したに違いない。彼は潜水夫たちがどのへんで作業をしているかを知っていて、キャッチャーボートから決死の逃亡をくわだてたのだ。そうだ、そう考えればすべてがぴったり合う。ぼくは、キャッチャーボートの上でローヴォスと話していたとき、下の船室に監禁されていた男が、ほかならぬファーネルだと考えると、思わず唇を噛んだ。もしもあの時、ローヴォスを多額の金で誘ったら……だが、ぼくはそうしなかった。そしていま、ファーネルは殺人の罪で――自分自身を殺した罪で、警察に追われて、山の中へ逃げ込んだ。まったくおかしな事態というほかはない。
「彼はいまどこにいるんです?」とぼくは聞いた。
「いまも言ったとおり、山の中さ」
「でも、どこです?」
またあのひねくれた微笑が浮かんだ。「まず、アウルランドへ行ってみることだな」
「それから?」
「それからはそれからさ」
ぼくは彼が何を追い求めているのかと訝りながら、じっと見つめた。彼の眼はまばゆい電灯の光に黒々としていた。萎えた片手が、かぎづめのように曲っている。見方によっては、彼はこの状態を愉しんでいるようだった。
「スンネを連れてきてくれ」とぼくはディックに言った。
潜水夫が眠そうに眼をこすりながら入ってくると、ぼくは言った。「ファーネルは――バーント・オルセンはどこにいるんです? アウルランドですか?」
スンネは驚いたように大きく眼を見張った。「誰があなたに話したんだ――」そして彼はダーレルをにらむと、急にことばを切った。「誰にも話すなと言ったのに」と彼は怒ったようにつぶやいた。
「じゃ、彼はアウルランドにいるんだな?」
潜水夫の表情が頑《かたく》なになった。
ぼくはディックの腕をつかんだ。「海図を取って来てくれ」
彼が戻ると、ぼくは海図をテーブルに拡げた。アウルランドはソグネをずっと遡ったところにある――南へ下っている二つ目のフィヨールドだった。ぼくはスンネを見上げて、「あなたはアウルランドに縁者がいるのかね?」と聞いた。
「いいや」その声はむっつりしていた。
「サンヴェンやストゥールヨハンは?」
彼は答えなかった。
「よし、アウルランドへ行くことにしよう」
ぼくはまた海図を見た。ファーネルは山に入るだろう、とダーレルは言った。アウルランド平原から一つの谷間がヴァスビグデンヘつづき、そこからステーンベルグ谷へ登ることができる……突然興奮に駆られて、ぼくはそれと思われるルートを眼で追った。というのは、ステーンベルグ谷は山脈の中を通って、フィンセやヨークレンへ向っているからだ。ぼくはダーレルのほうへ眼を向けた。「ファーネルはフィンセに知っている者がいるんですか?」
彼は微笑しただけで、何も言わなかった。ネコのような男だ――彼はクリームの皿をあたえられたネコのようだった。ぼくには彼が喉を鳴らしているのが聞えるような気がした。こんちくしょう! こういう情勢の中で、彼はいったい何を愉しんでいるのだろう?
ぼくはまた地図に眼を落とした。フィンセを通る鉄道線路がはっきりしるされている。ベルゲン―オスロ線だろう。ぼくはふたたびダーレルを見上げた。ベルゲンからフィンセに行くのはしごく簡単だ。そしてヨルゲンセンはベルゲンに行っている。「フィアールランから誰に電話をしたんです?」とぼくは詰問した。
彼はほほ笑んだ。しかし、答えはなかった。
ふいにぼくは怒りにとらえられた。彼の肩をつかんで、答えるまでゆすぶってやりたいと思った。「あれはヨルゲンセンだったのか?」と、テーブルの端をつかんで、ぼくは聞いた。
「なぜわしがヨルゲンセンに電話をしなきゃならんのだ?」
ぼくは体を起こした。どうして彼がヨルゲンセンに電話をする必要があるだろう? 彼はあの男を憎んでいるのだ。彼がヨルゲンセンに電話をしたなどと、どうしてぼくは考えたのか? こっちの頭までおかしくなったようだ。ぼくはほかの連中を見回した。みんなが緊張して、いっせいにダーレルを見つめていた。ジルの顔は、月明りの中のフィアールランの小さな教会のように、蒼白かった。
「みんな少し寝たほうがいいだろう」とぼくは言った。「当直は一度に二人ずつ当ればいい」
ディックがぼくにウィスキーのコップをよこした。ぼくはそれを飲みほして、甲板に上った。月がヨステダルの白雪の上に、銀の珠《たま》のようにかかっていた。それはフィヨールドを照らして、水を黒ずんだ山あいの明るい光の帯に変えていた。「ぼくを六時に起こしてくれ」とウィルソンに言うと、ぼくはまた下へ降りた。
サロンはがらんとしていた。テーブルの上のコップが、エンジンの震動でカタカタ鳴った。ぼくが船室のドアをそっとあけたときには、スンネはもうベッドに戻っていた。ぼくは彼の寝棚に腰を下ろして、なぜぼくがファーネルに会いたがっているかを説明した。しかし、彼からえたのは、仲間が来たらもう一度話し合おうという約束だけだった。
ぼくは服をぬいで、自分の寝棚にもぐり込んだ。疲れていたが、いろんな問題に頭を占められてなかなか寝つかれなかった。闇の中に横になり、エンジンのゴトゴトいう音を聞きながら、ファーネルが谷間から雪をかぶった山へよじ登って行く姿を想像した。ぼくがスキーができるのはありがたかった。それからぼくは眠りに落ち、ディックに揺り起こされるまで何も覚えがなかった。「甲板へ出てくれ――すぐに」と彼は言った。興奮した口調だった。
服を手早く着ると、ぼくは彼の後から甲板昇降口の階段を上った。六時を過ぎたばかりで、太陽は船尾の山々の陰から昇っていた。ウィルソンがまだ舵を取っていた。ダーレルは小柄な不具な体に、足首まで届きそうなダッフルコートを着こんで、海図室によりかかっていた。船はバーレストランド近くまできている。しだいに明るくなる日ざしの中で、クヴィクネス・ホテルの白い正面がきらきら光って見えた。
「見ろよ!」とディックは言うと、ぼくの腕をつかんで、前方を指さした。
ぼくらの前には、ソグネ・フィヨールドの幅広いゆるやかな曲線が拡がっている。そして広々とした左舷船首に、黒っぽい山岳を背景にして、一隻の捕鯨船の灰色の影が見えた。それは、灰色のぺンキを塗った高い船首に、白波を立てて、コルヴェット艦のような速さでフィヨールドを突進してきた。
ぼくは海図室にとび込んで、望遠鏡を取り上げた。二つのレンズにキャッチャーボートが近々とはいり、ブリッジの横に捕鯨船十号とあるのが眼についた。ぼくは望遠鏡を下ろして、ダーレルのほうを見た。彼はじっとぼくを見つめていた。「じゃ、あんたが電話をしたのはあれだな?」とぼくは言った。
彼は首をまわして、フィヨールドからキャッチャーボートのほうへ視線を移した。ぼくは彼のほうへ一歩ふみ出して、足を止めた。ぼくは彼を殴ってやりたかった。その細い首をつかんで、気を失うまでゆすぶってやりたかった。だが、そんな事をしてもむだだろう。
「ディック、ダーレルを下へ連れて行って、彼に朝食の支度をさせろ。そうしてスンネをぼくのところによこしてくれ」と言ってから、ぼくは船尾へ行って、舵をウィルソンと交代した。
スンネが上ってくると、ぼくはキャッチャーボートを指さした。「あれはあんたの友人のダーレルがやったことだ」
「わしの友だちじゃない」と彼は答えた。
「ダーレルはローヴォスに電話をしたんだ――きのう、ホテルから」ぼくは彼の肩をつかんで、向き直らせた。「いいか、ぼくらはローヴォスより先にファーネルをつかまえなきやならん。分ったかね?」
彼はうなずいた。
「ぼくらはあんたの仲間に、アウルランドか、そこへ行く途中で会うだろう。もし会わなかったら、あんたがファーネルのところへぼくらを案内してくれるかね?」
「するとも」と彼は言った。そして、水を切りながらフィヨールドを走ってくるキャッチャーボートの、ほっそりした船体へ眼をやった。
「ローヴォスはまったくばか者だ」彼はまたぼくのほうを向いた。「ガンサートさん、わしはあんたの言うことは何でもする。なぜなら、あんたはバーント・オルセンを無事にノルウェーから連れ出せるたった一人の人だからね。あんたがあの人の友だちだってことを、わしらが知らなかったのは残念だ。あの人を山へ逃げ込ませたりせずに、あんたの船で密航させることもできたのになあ」彼は海図室の屋根を拳でドシンとたたいた。「あのひどい戦争ちゅうだけでたくさんなのに、またバーント・オルセンが逃げ回っているのかと考えると――。ペールとわしは、あの人とこの山の中で働いていた。わしらはひところ、ベルゲン―オスロ線の列車を脱線させるのに忙しかったもんさ。オルセンは勇気のある男だった。ドイツのやつらはあの人を捕まえたけど、何もしゃべらせることができなかった。わしやわしの仲間は、あの人に命を救われたんだ。そうしてその後では、わしらが船を沈めにべルゲンへ行かされるまで、あの人はわしらと一緒に働いていた」彼はぼくの腕をつかんだ。「わしはあの人がシュラウダーを殺そうがどうしようが平気だ。あいつは当然の報いを受けたんでさ。シュラウダーはドイツのやつらのために、フィンセで働いていた。オルセンが何をしようとわしは構わない。わしが手伝ってあの人を逃がせるものなら、何でもやりますぞ」
彼の口調の激しさに、ぼくは驚かされた。
「あんたはファーネルが連れて行かれた先を、どうしてダーレルに話したんだね?」
「あの男におどかされたからでさ」と彼は答えて、ちらりとぼくを見た。「オルセンがフィンセであの男に何をしてやったかをわしは知ってるんで、てっきりあれもオルセンを助けたがっていると思って話したんでさ。ガンサートさん」彼は言い足した。「ダーレルは頭がおかしいに違いない」
「なぜかね?」
「よく分らないがね。ダーレルは、オルセンが訴えられていることの反証を挙げるために、あの人に会いたいと言っていた。オルセンは反証を挙げることなんぞ、できっこない。あれは本当のことだからね」
「オルセンは、ダーレルや、その五人の仲間を、航空エンジンの箱に忍ばせて、助けてやったんじゃないのかね」
「そのとおりでさ。それに違いない。だけど、ダーレルがどうして衛兵の監視の眼をくらましたのか、そこのところがわしには分らないんだ。わしはどうもうろんなところがあるような気がする」彼はまたキャッチャーボートのほうへ眼をやったが、それはぼくらが通ってきた岬を回って、姿を消そうとしていた。「ローヴォスってやつは」と彼はつぶやいた。「まだ戦争がつづいていて、わしらが小型機関銃を持っていたら――」彼は敵を撃ちまくる身ぶりをした。
「ローヴォスはドイツ軍のために働いていたのかね?」
「もちろんでさ。あいつは金になる所ならどこへでも出かける。あれが何でいまオルセンを追っていると思うんです?」
キャッチャーボートは見えなくなった。
「ローヴォスはアウルランドへ向ったんだろうな」とぼくは言った。
「それでなくて何であいつがソグネ・フィヨールドを遡るもんかね」とスンネは答えた。「ソグネには鯨はいませんぜ。鯨のいる所から離れれば離れるほど、あの男は損をする。そいつはつまり、ここに大金があるからだ――やつがバーント・オルセンを追っているのは、そのためだとわしは思ってる。あの男はそれでアウルランドへ向っているんだ」
ぼくらが岬を回ると、キャッチャーボートの姿が再び見えてきた。しかしそれは船尾の部分で、それもすぐ薄いもやの中に隠れてしまった。ディヴァイナー号は八ノットがせいぜいだが、捕鯨船十号は十二ノットは十分出せそうだ。
ぼくは舵のところに残って、なぜダーレルはローヴォスに電話をしたのかと考えた。ダーレルは何を望んでいるのだろう? あのゆがんだ心で、彼は何を考えているのだろう? もし時間の余裕があったら、ぼくはレイカンゲルかヘルマンスヴェルクで船を止めて、彼をおかへほうり出しただろう。しかし、いまは一刻もむだにはできないとぼくは感じていた。
時間がゆっくり経った。船がソールスネスに達し、南下してアウルランド・フィヨールドに入ったとき、ジルが甲板に出てきた。彼女の顔は蒼白い仮面のようだった。彼女は何も言わなかった。手すりをつかんで長い間立っていたが、また下へ降りて行った。雲が出てきた。太陽がその陰に隠れ、あたりが冷えてきた。アウルランド・フィヨールドの山容は、これまでのとは違っていた。木に覆われた斜面はなくなり、深い峡谷から雪解け水がごうごうと落ちてきた。山々は、ぼくらの両側に、五千フィートもの高さで岩の壁をつくっていた。その頂上は、丸く、裸で、氷に浸蝕された岩がなめらかな灰色をしていた。そしてその背後には、氷砂糖のような雪が積み重なっていた。
アウルランドはフィアールランよりも優雅な土地で、そう荒涼とはしていなかった。それは肥沃な谷間の低地にかたまっていた。けれど、周囲は山ばかりで、それが黒い岩と、冷たい灰色の雪との陰欝な背景をつくっていた。雨が降り出して、フィヨールドにカーテンを引いたように、雲が下りてきた。
ぼくが望遠鏡を取り上げて、町に焦点を合わせたのは、もう正午に近かった。一隻の小蒸気船が波止場へ入って行くところだった。蒸気がわた帽子のように煙突の上にかかり、その汽笛が山々にいく度もこだまして、遠い静寂の中に消えて行った。一瞬、ぼくはローヴォスがまだ着いていないのかと思った。が、小蒸気船の陰から、もやを通してキャッチャーボートの灰色の船体がかすかに見えた。
ぼくはディックに、捕鯨船十号から遠く離れた波止場に、ディヴァイナー号を着けさせた。スンネがぼくと一緒に船首に出てきて、船が桟橋に着くと、ぼくはとび降りた。彼もぼくにつづいた。「どっちだね?」とぼくは聞いた。
「こっちだ」と言うと、彼は先に立って木造の倉庫の間の路地へ入って行った。
本通りに出ると、右へ曲って、古い石造りの教会のある狭い広場に入った。そこを横切って、幅の広い川にかかった橋にぶつかった。木の橋脚の回りに水がうずを巻いていたが、その色は冷たい緑色で、とても澄んでいた。川床は山から流れ落ちてきた丸石で埋まり、水は石の上であわ立ち、無数の小さな白い波頭を立てていた。ぼくらが急ぎ足に橋を渡ると、橋板はうつろな音をあげた。スンネは橋をこえて、右側の二軒目の家の門を入った。白と赤黄色の二匹の子ネコが、じゃれるのをやめて、大きな、もの珍らしそうな目で、ぼくらを見つめた。ぼくらがドアをノックすると、ネコたちはニャーニャー鳴きながら寄ってきた。
「ここには誰が住んでるんだ?」とぼくは聞いた。
「ペールの妹でさ。アウルランドの男と一緒になったんですよ」スンネは長靴で子ネコを押しやって、またノックした。鉄のノッカーが木の門扉《もんぴ》に空虚な響きを立てた。彼はそこに坐ってニャーニャー鳴いている子ネコを見下ろした。「腹がすいてるんだな」と言うと、彼は乱暴にドアをたたいた。
Hva vil De?≪何かご用ですか?≫と、白いエプロンをした、太った女が、隣の家から出てきた。Men det er jo hr. Sunde.≪まあ、スンネさんじゃありませんか≫と彼女は言った。
Hva er?≪どうしたんです?≫と彼は聞いた。
このあと早口のノルウェー語が交わされた。そのあげく、スンネはガラスを一枚割ると、二匹の子ネコをつれて、窓から這い込んだ。ぼくもそれにつづいた。「彼らはどこへ行ったんだろう?」とぼくは聞いた。
「今朝早く立ったそうだ。ゲルダと、その亭主と、ペールと、知らない人の四人でね」「ファーネルか?」
彼はうなずいて、台所へ入った。子ネコたちは悲しそうにニャーニャー鳴きながら、彼の後について行った。彼はどんぶりにミルクを入れて、それを板張りの床においた。
「みんなが大きな荷と、スキーを持ってたそうだ」彼は食糧戸棚をあけると、魚の皿を出し、ミルクのどんぶりとならべて床においた。「よっぽどあわてていないかぎり、ゲルダが子ネコに食べものをおいて行かないなんてことはない」
「しかし、なぜおかみさんはみんなと一緒に行ったんだろう?」とぼくは聞いた。
「なぜだって?」と彼は笑った。「あんたは山に籠るのが、どういうことか知らないんだね。オルセンはそこへ身を隠そうとしているんだ。あの人は、ツーリストのヒュッテを目指しているかも知れないし、夏場の別荘になる古い小屋を目指しているのかも知れない。この時期には、誰もそんな所へ行かないからね。どこも雪にとじこめられているだろう。だから、食糧を何から何まで持って行かなきゃならない。戦争ちゅう、わしらはそうして暮らしていたもんだ。隣のグンデルセン一家や、ゲルダのような人たちと、山に籠って暮らしていた――そうさ、女も男とおんなじように、わしらのところへ食糧を届けてくれたもんだ」彼は台所のかまどのところに行き、手を煙突につっ込んだ。
「何を捜しているんだ?」
「戦争の記念品でさ。ゲルダの亭主はそれを煙突にしまっていた。だけど、無いようだな」
「戦争の記念品って?」
「ピストルでさ。ドイツのやつらから取りあげた二丁のルガーさ」
「じゃ、ファーネルは武器を持っているんだな?」
「そのとおり。それに、運がよかった――あの連中は四時間早く立ったからね」
「それはどういう意味だ?」
「ローヴォスは一時間半前にここへ来たんだそうだ。やつもいまごろは山へ入ったろう」彼は窓ぎわへ行って、外をのぞいた。雨は霧雨のようになっていた。「谷間が雪になっていれば、あの連中にはいいんだが。だけど、雪になっていなかったら」彼は肩をすくめた、「ガンサートさん。ペールの後を追ってみよう。あんたはスキーができるかね?」
ぼくはうなずいた。「得意だよ」
「ようし。わしは半時間のうちに船へ行く。リュックサックや、スキーや、食糧はみんなわしが用意する。あんたの靴のサイズは?」
そのてきぱきした態度に、ぼくはびっくりした。それからの数時間の間に、アルフ・スンネはいろいろぼくを驚かすことをやってのけた。
「わしらは早いとこやらなきゃならない」玄関のドアを出て、橋のほうへ引き返しながら彼は言った。「あんたは軽い防水服と暖かい衣類が要る。ピストルはあるかね?」
「ある。スミス・アンド・ウェッスンが二丁ある」
「両方持って来なさい」
「なんだって! ローヴォスだって、まさか撃ってくることはあるまい」
「撃ってくるまいって?」彼は笑った。「そりゃふつうならな。だけど、今度は違う。こいつはあの男が法律を破ってもおかしくないような大仕事だと思うがね。新しい事業が手に入るかどうかという時には、つんぼになる男もいると、あんたは言ったじゃないかね?」
ぼくはあの捕鯨場での夜の事件を思い出した。スンネの言うとおりだ。その代償を知っているローヴォスは、あくまで手をひかないだろう。「ピストルは持って行く」
ぼくらは広場で別れ、ぼくは急いで船に戻った。甲板に上ると、ジルとカーティスが並んで手すりにもたれていた。
「スンネさんはどこへ行ったの?」と彼女が聞いた。「ローヴォス船長は、航海士のハルヴォシェンと、船員の一人――ゴールデルというのを連れて、一時間前に出かけたわ。みんな、リュックサックとスキーを持って。ビル、いったいどうなったの?」
「ファーネルは山に入ったんだ」と言って、ぼくは甲板を見回した。「ダーレルは?」
「あれも出て行った」とカーティスが答えた。「蒸気船をつかまえてな」
「ベルゲンへ戻ったのか?」とぼくはたずねた。
「いや。フィヨールドを遡ってフロームへ行く船だった」
「フロームヘ?」何か聞いたような名だった。ぼくは海図室へとび込んで、地図を見た。ジルとカーティスもぼくを囲むようにして、のぞき込んだ。フロームはアウルランド・フィヨールドのつき当りにあった。そしてフロームからの登山鉄道が、ミイルダールでペルゲン―オスロ本線に接続していた。ミイルダールからフィンセまでは列車で小一時間の距離だった。ぼくは振り向いた。「きみたち、スキーはできるか?」
「ええ」とジル。
「少しな」とカーティス。
「よし。ぼくが荷物をまとめしだい、ディックがきみたちをフロームへ運ぶ。そこでダーレルに追いついてくれ。彼に追いついても、姿を見られないようにな。もし彼が出て行った後だったら、つぎの列車でミイルダールへ行き、それからフィンセを通るオスロ行の列車をつかまえるんだ。ぼくの考えが当っていれば、そこでダーレルの足どりが分るだろう――ダーレルのがだめなら、ヨルゲンセンのが分る。あの二人をフィンセで待ちうけてくれ。分ったか?」
カーティスはうなずいた。だが、ジルの顔には不服の色が浮かんでいた。「あなたはどこへ行くんです?」
「スンネと一緒に山に入る」
「わたしも一緒に行くわ」
「いかん」彼女が抗議しかけたが、ぼくはそれをさえぎった。「きみはぼくらに手間をとらせるだけだ。ぼくらは急がなきゃならない。ローヴォスがファーネルをつかまえる前に、ぼくらは追いつかなきゃならないんだ。頼む、分ってくれ!」彼女が再び何か言いかけたので、ぼくは叫んだ。「ぼくの言うとおりやってくれ。ダーレルを追うんだ、ローヴォスが何をしようとしているかは、ぼくには分っている。だが、ダーレルの腹の中は分らないんだ。ぼくの知る限りでは、あの男はほかの二人より危険だ」
ぼくは船室へ降りて、ディックを呼んだ。「ディック、きみは船に残ってくれ。ジルとカーティスをこの船でフロームへ送って、ここに帰ってくるんだ。フィヨールドに停泊して、見張っていてくれ。ウィルソンとカーターは、きみと一緒に残す。どんな用事があっても、ここを離れないようにな」
ぼくはロッカーの引出しの底に手をつっ込んで、二丁の軍用連発ピストルを取り出した。彼のまゆが上るのがぼくの眼に映った。
「オーケーだ」と彼は言った。「逃げ出さなきゃならんほど水が浅くなっても、ここにがんばるよ。もしきみが夜分くるようなことがあったら、懐中電灯でG―E―O―R―G―Eと信号してくれ」
「よし」と言って、ぼくは紙入れをあけた。「ここに五万クローネある。カーティスに二万、ジルに一万渡してくれ。残りはきみが持っているんだ。もしウルヴィックに用があったら、ベルゲンの一五六―一〇二に電話してくれ」
引出しをひっかき回して、ソックスや、スウェター、手袋、防水服など、必要な品々を取り出した。「タバコと、マッチと、チョコレートと、ウィスキーを半びん持ってきてくれ」とぼくはディックに言った。「それからローソクを二本ばかりな。みんな料理室にある。小型の懐中電灯も一緒に頼む」
五分間で一切の物を古い軍隊用|衣嚢《いのう》に押し込んで支度をすますと、ぼくはそれを舷側から桟橋に落とした。
「さあ、出発だ」とディックが命じた。ウィルソンはもやいづなの所へ走って行った。ジルがぼくのほうへきた。「幸運をお祈りするわ」彼女の灰色の眼が不安そうに曇っていた。「うまく間に合うように、あの人に追いつけますように」と彼女はささやいた。それから急に上体をかがめると、ぼくの口に唇を重ねた。「ありがとう」彼女はささやくように言うと、す早く背を向けて去った。
「船尾へ行こう」ディックがウィルソンに声をかけた。エンジンがうなって息をふき返した。ぼくはカーティスのほうを向いた。
「きみがダーレルに追いつくことを頼みにしてるよ。もしあの男がベルゲンへ行くようだったら、後を追うな。フィンセへ行ってくれ。ぼくらとヨルゲンセンの間に入るように、あそこへ来てもらいたいんだ」
「よし」と彼は言った。
「ぼくはできるだけ早く、フィンセのホテルできみに連絡する」
彼がうなずいたので、ぼくが波止場にとび降りると、船はゆっくり後退しはじめた。軽い霧雨の中に立って、ぼくはディヴァイナー号が穏やかな水面を優雅に回って行くのを見送った。スクリューが船尾にあわを立て、船はすべるようにフィヨールドを上って行った。ほっそりした帆柱に帆はなかったが、真鍮の器具が鈍い光線の中で誇らしげに光っていた。ぼくは船が厚い霧のカーテンの中に、ぼんやりかすむまで見つめていた。
一台のオープンのタクシーが、警笛を騒々しく鳴らしながら、波止場へつっ込んできた。車が停まると、運転席のよこからスンネがとび出した。後部の座席にはリュックサックとスキーが乱雑に積み込まれていた。
「うしろへ乗んなさい」と、彼は衣嚢《いのう》をひったくって言った。「走りながらリュックサックを詰められるから」彼はドアをあけて、リュックサックの上に衣嚢を投げた。ぼくが乗り込むと、彼がまだもとの座席に掛けないうちに、車は走り出した。「ヴァスビグデンまでこの車で行けますぜ」広場を抜けて、左に曲り、川の堤にそって走っているとき、彼は言った。
こんな乱暴な運転は、ぼくは初めてだった。運転手はスンネの抵抗運動時代の仲間で、事が急を要することを知っているらしく、後ろから悪魔に追いかけられたようなとばし方だった。道路は石ころ道に等しかった。ぼくらはガタガタ揺られながら谷間を登った。
前方の山々は霧に半ばかすんだ灰白色の雪の世界だった。車は両側から道に迫る山の間を縫って、突き出した絶壁の下に出た。この絶壁からは、いく星霜もの冬の氷でひび割れた岩々が、いまにも頭上に降ってきそうな気がした。
ぼくが、車からほうり出されないように用心しながら、懸命にリュックを詰めていると、スンネがその座席から振り向いた。「ローヴォスはわしらよりきっちり一時間先に行ったそうだ。このハーラルは――」と彼は運転手のほうへあごをしゃくって、「わしが呼びにやったとき、彼をヴァスビグデンへ送って帰ったばかりのところだったよ」
一時間か! それにしても本気で急いだら、彼に追いつけないこともないだろう。ぼくはローヴォスの大きな腹のことを考えた。それから彼の敏捷な歩き方を思い出した。一時間を取り返すのは容易ではない。しかし、ぼくらには一つだけ有利な点があった。ぼくらは彼が先行しているのを知っているが、彼はぼくらが後から追ってくるのを知らないのだ。
「彼は誰と一緒だった?」
「航海士と、もう一人の男だ」という返事だった。
頭上の絶壁は平らになり、松に覆われた傾斜地に変わった。谷間に細長い湖水が現われた。「ヴァスビグ湖だ」とスンネが叫んだ。はるかな湖の対岸に、屋並みがかたまっていて、それがやわらかな緑の水面にくっきりした影を落としていた。
湖のへりを回り、さらに谷間を何マイルも登って、ヴァスビグデンの部落に入った。そこで自動車《ドロシエ》は停まった。道は行止まりだった。ぼくらは車を降りて、リュックサックを背負った。それは途方もなく重かった。衣類をべつにしても、チーズやチョコレートを主として、いろんな食糧が入っていたからだ。スキーは横にして、リュックの上にゆわえつけた。大気は冷たく、しめっぽかった。リュックサックが、慣れないぼくの肩にくい込んだ。借り物のスキー靴は大きすぎた。ぼくはファーネルをのろって、汗をかきだした。
ぼくの半分ぐらいの体格で、やせた小男なのにもかかわらず、リードして歩調をとったのはスンネだった。そしてぼくが、この午後、ローヴォスに追いつけるかとたずねると、彼は言った。「わしらは夕方までにはオステルブウのツーリスト・ヒュッテに着かなきゃならない。さもないと、あんたは古い、人の住まなくなった小屋に寝なきゃならないからね」
「今夜は月が昇る」とぼくは息を切らして答えた。「月明りで強行軍してもいい」
「場合によってはな。まあ、その時になってあんたがどう思うか、それによってだ。オステルブウまでは相当な道のりだ――ノルウェーのマイルで、二マイル以上ある。ノルウェーの一マイルは、イギリスの七マイルに当りますぜ」
ぼくらはそのあと黙って登った。霧の中へ入り、一つの谷のへりにそって登って行った。ぼくの足下では、川が狭い峡谷に音を立てて、ヴァスビグ湖へ流れ下っていた。ところどころで、小道は平らになり、川が高くなって道をふさいでいた。ぼくらは、水の流れが深く早い、狭い峡谷を歩いて渡った。濡れた黒い岩が両側に屹立し、その頂上は雲の中に隠れているので、まるで果てしなく空へ向って伸びているような感じがする。前方に水音が聞え、しだいにその音が大きくなると、霧の中から幅広いリボンのような飛瀑が現われた。勢いよくうずを巻く流れのわきを登りながら、ものを言おうにも声にならなかった。川は雪解け水であふれ、水は濃い緑の波となって、岩棚の上で曲線を描いている。水勢で岩壁の谷間全体がゆすぶられて、フィヨールドにくずれ落ちて来そうな気がした。
滝の頂上では、岩は少し後ろへ下り、青々とした春草の斜面が、頂上の見えない黒い岩の壁までつづいていた。家ほどもある大きな一つ岩が、この谷間にはごろごろしている。逆立ちしたような平らな岩の陰に、一軒の木造の小屋の残骸が立っていた。
「アルメン小屋だ」スンネがぼくの耳元で怒鳴った。「この小屋は二百年以上経っている。ずっと昔、ここに夏も冬も一人の年寄りが住んでいた。その男はこの谷間にやってくる人間を片っぱしから殺したそうだ。ほんとの人間嫌いだったんだな」
小屋は古びて、朽ちていた。壁は、両端を≪ありつぎ≫にした、おので刻んだ角材でできていて、その端が棒切れの山のように、小屋の四隅から突き出していた。屋根にはドロのようになったシラカバの樹皮が載っていた。巨きな、逆立ちしたような一枚岩が、頭上の高い崖を落ちてくる石から、この小屋を護っている。ぼくは苦しい息をととのえるため一休みした。
「さあ、行こう、ガンサートさん」とスンネが声をかけた。「まだわしらは歩き出したばかりだ」彼は背を向けて、先に立った。小柄な体が重い荷物に占領されているように見えた。背中に家を背負ったカタツムリのようだった。それに、カタツムリのように決して急がなかった。けれど、彼の一定した足の運びには、一つのリズムがあった。急がず、確実に彼は進んで行った。白い短かいソックスの上のむき出しの脚に、一足ごとに堅い筋肉が盛り上った。あの筋肉は、青春時代を山登りやスキーで過ごしたかたみだろう。
ぼくは、急がないように、体を左右に振って行く彼のらくな動作に合わせるように、その後について行った。が、ぼくの脚は痛みだし、心臓はドキドキ鳴った。汗が顔に流れ、あらゆる毛穴からにじみ出して、着ているものを濡らした。ぼくは、つけられているとも知らずに先を行くファーネルのことを考えて、遮二無二歩いた。ローヴォスより先に彼に追いつかなければならない。自分を駆り立てるために、ぼくはそう決心した。そうでも考えていなければ、意志の力が最後まで保《も》ちそうもなかった。
谷間は広くなり、二つの道に岐《わか》れていた。ぼくらは左の岐れ道をとり、あぶなっかしい木橋を渡って、一つの丘の肩を行き、谷間のべつの岐れ道に出た。そこでぼくらは最初の雪を見た――細長い、白いすじが、川向こうの峡谷に広がっていた。このことと、短かい下り坂にかかったことが、ぼくを勇気づけた。ぼくは歩調を早めて、スンネに追いつくと、雪を指さした。「もうじきスキーが穿けるな」ぼくはあえいだ。
雪の上を滑走して、痛む手足を解放することを考えていた。
スンネはぼくを見た。彼の顔は若々しく、ほとんど汗をかいていなかった。「スキーはなるべく穿かないようにしたほうがいい。自分の足で歩くのが一番だ。いつもおんなじ歩調で歩くようにな。チペラーリでも何でも、口のうちで歌うといい。それに合わせて、体を振るんだ。この歩き方はすこし遅すぎる」
「ローヴォスの歩き方はこれより早いというのかね?」ぼくは聞いた。
彼はうなずいた。「まあそうだな。だけど、あんたがわるいんじゃない。わしらはこういう歩き方に慣れているんだ。あんたは慣れてない。口をきかずに、頭を下げて、ただ歩くんだ。わしの歩調に合わせてな。さあ、すこし遅れてきた、急ごう」
彼はまた道をつづけた。ぼくは彼の足を見つめた。それは軽い、らくらくとした、す早い動きをはじめた――上りにも、下りにも、歩幅や歩調がけっして変わらない、長い、柔軟な歩き方だった。しばらくの間、ぼくらは川に接近し、いくつかの小さな滝のしぶきが顔に当った。ぼくはひざの痛みを無視して、彼の四肢のしなやかな動きをまね、その歩調について行った。それから登りにかかった。着実な、情け容赦のない登り方だった。ぼくがどんなに骨折っても、彼に追いつけなかった。ぼくは頭を前に突き出し、両手をひざのさらに当てていた。
早くファーネルをつかまえなければならない。ぼくは歯ぎしりしながら、ファーネルのことを考えた。早く彼に追いつかなければならない。一足ごとにあえぎながら、ぼくは歯を鳴らして、口の内で節をつけてそうつぶやいた。それはぼくの足の拍子にぴったりと合った。――早くファーネルに追いつかなければ。早くファーネルに追いつかなければ。
足がほてって、疲れが全身の骨まで達した。すねが痛み、靴は鉛のように重かった。体からは汗がふき出し、眼はくらみ、息が詰まりそうだった。その上、重いリュックが肩に食い込み、鎖骨の上の薄い筋肉を割り、首の筋肉を引き裂いた。ぼくは断固として、強情に、そのことばをくり返した――早くファーネルに追いつかなければ。
だが、ぼくの頭はしだいにしびれて、ぼーっとしてきた。まもなく、その文句は消えて、ぼくの頭は空白になった。ぼくはファーネルのことを忘れた。あらゆることを忘れた。ぼくの世界は、うねうねとどこまでも上る石ころだらけの小径と、大きなリュックをひょいひょい振って前を行くスンネの姿だけになった。
いま、ぼくらは谷間の片側を登って、川からしだいに離れてきた。そこの頂上は霧が濃く、ところどころに雪があった。ぼくらは、雪をかぶり、コケに覆われた大岩がゴロゴロしている荒涼たる場所に出た。ときどき、岩に赤ペンキで大きくTと書いてあるのに出会った――ツーリスト協会がつけた通り道の目印だった。そして、寂しい、ふしくれ立った木の間を行くと、突然、広い平らな岩の上に『ビヨールンスティーゲン』と黒い大文字で書かれ、矢印が左のほうを指していた。
スンネはそこでぼくを待っていた。「クマのはしごだ。ここが近道だよ。もしローヴォスがらくな道を取ったら、これで追いつくだろう。ちょっとした登りになるがね」
ぼくの気持は沈んだ。スンネが「ちょっとした登り」というからには、相当なものだろう。彼は左に折れて、ゆるやかな傾斜を登り始めた。「上に着いたら一休みしよう」と、彼は肩ごしにはげますように言った。
「なぜクマのはしごって言うのかね?」とぼくは聞いた。彼のリュックのすり切れた布に顔を押しつけるようにして、ぼくはその後につづいていた。
「おいぼれグマがこの道をいつも通っていたんで、そういう名がついたんだろう」
「この山にはクマが住んでるのかね?」
「もちろん、いるとも。うちのおやじはよくクマ狩りをしたもんだ。いまでもまだ少しはいるらしい。だけど、もう狩る者はいない」
坂がだんだんけわしくなったので、ぼくらは話をやめた。まもなく、ぼくらは垂直な岩壁の下をあえぎながら登っていた。汗が背中にしたたり落ちた。霧と汗がぼくのまゆ毛につぶをつくった。雪の吹き溜りを通りすぎた。吹き溜りの上に、靴のびょうの跡がついていた。スンネがそれを指さした。「みんな登っている。降りて来たのは一つもない。そのうちペールに会うだろう」
「ローヴォスもこの道を行ったのだろうか?」とぼくは息を切らして聞いた。
「わからないな」
一切のものが霧の中でしーんとしていた。川はもう水音しか聞えないほど遠くになった。また吹き溜りがあって、その先に雪に覆われた落石が、霧の中に高くまっすぐに立っていた。霧の陰には、おそらく何マイルも、何十マイルも、雪をかぶった峰々が積み重なっているのだろう。しかし、流れる汗を通してぼくの眼に入るのは、いま登っている山の垂直な岩壁の下にうねる、危険な雪の小径だけだった。荷物の重みで平衡を失って倒れそうになっては、両手と両足で何かにすがりつき、すべったり、悪態をついたりしながら、汗をかき、息を切らして、ぼくは懸命に進んだ。ぼくはここを歩いたおいぼれグマのことを考えた。クマは四つ足を持っているうえ、リュックやスキーを背負わされてはいないのだ。
スンネが立ち止まって、ぼくに手を貸すことがだんだん多くなった。けれど、ついにぼくらは頂上に達し、そこでリュックを下ろすと、スンネは薄焼きパンと、ヤギの乳から造った茶色いチーズを取り出した。
「急いで食べるといい」と彼は言った。「わしらはほんのちょっとしか休めない。それから雪は食べんようにな」
ぼくがそこにひっくり返って、食べているあいだ、彼は足跡を調べに、雪のある個所を歩き回った。だが、最後に彼は首を振った。「何人がここを通って行ったか、見当がつかん」
ぼくは眼をとじた。ぼくはどうでもよかった。たとえファーネルが殺されても気にならなかった。ローヴォスが霧の中から姿を現わして、ぼくにピストルをつきつけても平気だったろう。撃たれることは、慈悲深い救いになるのだ。ぼくはくたびれきっていた。霧が冷たいじっとりした毛布のようにぼくを包んだ。それは汗に濡れた衣服を通して、骨にまでしみ込んだ。それまでの暑さが、たちまち身震いするような寒さに変わった。
「よーし」とスンネが言った。「さあ、出かけよう」
ぼくは眼をあけた。彼はやさしい微笑でぼくを見ていた。「あんたもすぐこれに慣れるさ」
ぼくは懸命に立ち上った。体じゅうの筋肉が痛みに悲鳴をあげた。この短かい休息の間に、関節がさびついて、動かなくなったように、体がすっかりこわばっていた。スンネが手伝ってリュックを背負わせてくれた。ぼくらは山の肩をこえて、深い雪の中をもがきながら進んだ。まもなく、スキーをつけることになった。スンネがまずワックスを塗った。ノルウェーの人たちは雪の中を登るのに、獣皮のかわりに、いろんなワックスを使う。スキーはぼくの疲れた足に、重く、ぎごちなく感じられた。まるで足に二つのカヌーをしばりつけたようだった。山の肩をサイド・ステップで登り出すと、使い慣れない筋肉が痛さに悲鳴をあげた。それから短い距離を、ぼくらはほかのスキーの跡にそってすべり降りた。全部で七つのスキーの跡がついていた。雪は岩のところでとぎれた。ぼくが滑走を止めるために方向を変えると、重いリュックが背中でおどって転倒した。スンネは手を貸して起こしてくれた。「ローヴォスはわしらより先へ行っている」と彼は言った。
ぼくはうなずいた。ぼくもそのことにもう気づいていたのだ。
さらに登りになった。それからまたスキーをつけて、巨きな、雪をかぶった岩の間を、出たり入ったりした。ある地点で、スンネは何かを捜すように、山腹を前へ行ったり、後ろへ行ったりした。そのあげく、彼は大きな岩のところで立ち止まった。ぼくが渡しておいたピストルが、その手に握られていた。彼はスキーでそっと前へ出た。ぼくは用心して彼のほうにすべって行った。ぼくが近づいた時には、彼の姿はなかった。と、ぼくは雪に埋まった小さな山小屋の裏手にぶつかって、スキーを止めた。
スンネが頭を振りながら、小屋の横手から出てきた。「ホルメン小屋だ。誰もいない。スキーの跡はこの上のほうを通り過ぎている。しかし、確かめておきたいと思ってね」彼はポケットから地図を取り出した。「もう一つ近道を行けたらと思うんだが」しかし、ちょっと考えて彼は首を振った。「いや。やっぱりこの跡を追おう」
ぼくらはまた登り出した。スキーをリュックから外したので、肩の痛みは多少らくになった。しかし、脚はおがくずを詰めた人形の脚のような感じで、しかもそのおがくずに、しだいに水がしみてくるような気がした。ぼくはスキーをまっすぐにしているのさえ困難になった。もし長い、快適な滑降路さえあったなら。だがぼくはこのルートをいまでもありありと覚えている。アウルランドからフィンセまではずっと登り一方だった――ぼくらがそこへ行き着くまでには五十マイルはたっぷりあった。
ホルメン小屋から、ときには徒歩で、ぼくらはけわしいジグザグの道を登った。頂上に出ると、冷たい微風が吹いていた。霧は谷の奥のほうへ風で流されていた。それは白いもやのように、一瞬横に引かれて、はるか下の銀色をした川の線と、正面の黒い断崖をのぞかせるかと思うと、次の瞬間には厚い、見通しのきかない幕のようにさっと降りてくる。ここの雪はパリパリしていた。けれど、短かい下り坂を滑降すると、白いモグラ塚のような丸石が見え出したので、ぼくらは重い足どりで歩き始めた。まもなくまた、スキーのできる広い小径にそった川に出会った。谷間は広がり、川は一連の湖につづいていた。その中でも一番大きな湖のそばに、手入れの行き届いた一軒の山小屋があった。しかしここでも、ぼくらの先を行ったスキーの跡は、そこを通り過ぎていた。入口のドアにも、窓にも、錠がかかり、屋外便所も同様に閉っていた。
スンネは立ち止まって、スキーの跡を指さした。三つのスキーの跡が急角度でわきへそれ、ぼくらが追ってきた跡と交差していた。「ペールが戻ったんだろう」と彼は言った。「ほらここに跡がある」
「じゃ、なぜ彼らに会わなかったのかな?」と、ぼくはあえぎながら言った。ぼくはそう気にしていたわけではない。もうどうでもよかったのだ。頭がもうろうとして、前進することだけで精一杯だった。
「スキーで帰るため、あの連中は大回りをしたのかも知れない」
彼は道をつづけた。ぼくは殺人的な歩調に合わせようとして、よろめきながら彼の後を追った。ぼくは雪をすくって、口に押し込みたかった。スキーの下でサクサク音を立てる、その白く柔かな上に体を投げ出したかった。けれど、それらの欲望にもまして、いまたった一人で、どこかはるかな山の中の寂しい小屋で炉ばたに坐っているファーネルのことが頭に浮かんだ。スキーの跡ははっきりしていた――地図に彼のルートをしるしたようにはっきりしていた。そして、彼がひとりぼっちで疲れてそこに坐っている間に、ローヴォスとその二人の仲間は、彼に近づきつつあるのだ。
その想像がぼくを鼓舞した。ぼくらはローヴォスに追いつかなければならない。ファーネルに警告しなければならない。もし、ぼくらの着くのが遅れたら……ぼくはファーネルがしゃべることは心配してなかった。珪トリウムの鉱床の所在など、彼がローヴォスに話す気づかいはない。どんなに口説いても、彼はしゃべらないだろう。だが、もし彼が殺されたら……ぼくはローヴォスの灰色の眼に浮かんだ激しい怒りを思い出した。これまでの努力が無になったら、彼はファーネルを殺しかねない。そしてもし彼らがファーネルを殺したら、ファーネルがいままで苦労してきたことは永久に失われるのだ。
湖のはしちかくで、小径は切り立つ崖に接近していた。鉄の支柱の上にならべられた踏み板を渡って、ぼくらは張り出した岩の下の峡谷をこえた。下方には、湖が黒く、冷たく横たわっていた。日の光が薄れてきたのに、ぼくは初めて気がついた。時計を見ると、もう七時に近かった。ぼくらはまた何分か登った。
そして一つの山腹に出て、広々とした谷間を見晴らした。山々はぼくらが進むにつれて後ろに下がり、夜と共にまた霧が下りてきた。灰色の谷間には宵闇が濃くなり、岩も川も、かすかな、非現実のもののようになった。
あたりは暗くなった。闇は徐々に訪れたので、ぼくらの眼もそれに慣れることができた。けれど、それにしても、ひどく暗かった。ただ足下の雪だけがかすかに光っていて、ぼくらが突然めくらになったのではないことを証明した。
スンネはルートをかぎ分けるように、頭を前へつき出して、気をつけて道を選びながら、ゆっくり歩いていた。彼は磁石を手にしていて、それによって進んだ。ときどきぼくらは水際に近づき、岩にせかれる水音を頼りに進んだり、またときには小丘の肩を登ったりした。こういう肩にある岩は密集していて危険だった。
ついにぼくらは、岩も川もない、ぼーっと光る雪原のまん中に出た。スキーは平坦な雪の表面をかりかり音を立ててすべった。彼はほかの連中のスキーの跡を見つけて、山の夜に特有の闇と、白い微光の中で、その跡を追った。この世界には何一つ物音がなく、時間が停止しているような感じだった。そこは、冷たく、人気がなく、静まり返っていて、生と死の中間の影の世界に似ていた。ただ一つの物音は、ぼくらのスキーが立てる音だけだ。ぼくはもうあえいではいなかった。耳鳴りもしなくなった。ぼくはこごえて、感覚を失っていた。
スンネがぼくのそばに寄ってきた。「ほら!」
ぼくらは立ち止まった。静寂を通して何か遠くから物音が聞えてきた。それは岩にせかれる水の音だった。「あそこがオステルブウだ。うまくすると、あそこで彼に会えるだろう」
「ローヴォスはどうしたろう?」
「分らない」と彼は答えた。「ローヴォスはこの道を来なかったんだ。ほら――ここに四つのスキーの跡がある。だからこれはファーネルの一行だ。ローヴォスは湖のそばのあの小屋、ナスブーに残ったのかも知れない。あそこで一休みして、月明りでオステルブウへ行くつもりかも知れない」
「でも、あそこはみんな戸締まりがしてあったが」
「暗くなってから彼は引っ返したのかも知れない」
「しかし、ぼくらとすれ違えば、足音が聞えるはずだ」
「川のそばですれ違えば聞えないさ」彼はぼくの腕をつかんだ。「見なさい! 星が出てきた。今夜は晴れた晩になりそうだ」
ぼくらはかすかに見える四つのスキーの跡を追って進んだ。水音はしだいに大きくなった。ぼくらは石の壁につき当り、それにそって行って、急流にかかった橋に出た。橋板の上につもった雪は、いろんなスキーに踏み荒されていて、ここを通って行った人数を当てることは不可能だった。橋を渡って、ぼくらは右へ曲った。すると前方にかすかな灯がきらめくのが見えた――それは明滅するキャンプ・ファイアのように、赤い、柔かい色をしていた。
その灯のほうへすべって行くと、前方の空に星が点々とちらばっていた。霧のヴェールが引かれて、石の壁だの、ぽつんと十字架が二つ立った墓地だの、その向こうの鈍いはがね色をした湖など、いろんなものが形を現わした。
ぼくはリュックからピストルを取り出した。
まもなく、ぶざまに広がったツーリスト・ヒュッテが見えてきた。湖に一番近い所には屋根に芝土をおいた、石造りの、古い昔ながらの小屋があった。新しい木造の建物は、その後ろになっていた。灯が漏れてくるのは、そちらのほうだった。近づくと、それは炉の火がちらちら光っているのだと分った。雪は建物のきわまで、白くなめらかにつづいている。影一つ動かなかった。低い水音を除いては、何の物音もしない。スキーの跡は小屋の戸口までつづいていた。そして左側から来たべつの跡が、窓へ行き、そこから戸口へ向っていた。
錠のかちりと鳴る音が、星明りの闇を通して聞えた。あれは錠の音だろうか、それとも銃の撃鉄を上げた音か? ぼくらは凍りついたように足を止めた。また、聞えた。家の中からの音だった。スンネが突然ぼくの腕をつかんだ。
「ドアだ」
入口のドアが、かちりと鳴って揺れた。そこに暗いすき間が開いた。そしてまた揺れた。誰かが小屋のドアを開け放しにして、それが冷たい風に揺れているのだ。ぼくにはそれが首をつった男の踵《かかと》が揺れているように思えた。
「あんたは窓へ行け」とスンネが言った。「わしは入口へ回る」
ぼくはうなずいた。ぼくが疲れているのを見て、彼がそう受持ちを指示したのだと気がついたのは、後になってからだった。ぼくは小屋の暗い仕切り壁までスキーですべって行き、そこからそれにそって進んだ。いったい何があるのだろう? あの開いたドアは――ファーネルはドアを開け放しにするようなことはあるまい? それとも、そこに立って、やって来る者を待ちかまえているのか?
スンネの影が、ドアのほうへ寄って行った。彼がスキーを外し、ピストルを手にして、戸口をそっと入って行く姿が見えた。ぼくは窓のところへ行って、す早く中をのぞき込んだ。最初にちらっと見たところでは部屋はがらんとしているように思えた。けれど、急いで体を退《ひ》いた瞬間、部屋の向こう隅に包みのようなものがあるのが眼についた。ぼくはもう一度のぞいた。隅のほうに三つのリュックサックが置いてあった。その回りに、衣類や食糧品が散らばっている。テーブルの上にも食べものが載っていた。一丁のおのと一山のまきが、炉のわきに積んである。ぼくは室内をもっとよくのぞき込もうとして、割れたガラスで鼻を切りそうになった。窓わくに触れてみると、戸は動いた。それを押し上げると、炉の暖かみが顔を打った。部屋のドアがさっと開いて、スンネがピストルを手にして、そこに立った。彼は三つのリュックサックを見た。それから開いた窓ごしにじっとぼくのほうをすかして見た。
「すると、彼は出て行ったんだな」
ぼくのぼーっとした頭は、彼みたいにす早く回転しなかった。ぼくの眼に入るのは、ただ暖かそうな炉の火だけだった。ここでファーネルを待てばいい。もう急ぐことはなかった。彼のリュックもここにある。彼は暖かい火をおこしておいた。ぼくは一杯のお茶のことを考えた。スキーを外すと、急いで戸口へ回った。狭い小部屋が並んでいる暗い廊下を足をひきずって進み、火のある部屋に入った。そしてよろめきながらそちらへ寄ると、リュックを肩から外して、床に落とした。
炉の火はすばらしかった。しびれた体に信じられないほどのありがたさで、暖かみがしみた。もし喉をゴロゴロ鳴らすことができたら、ぼくはその瞬間、満足そうに鳴らしただろう。
「あんまり長居はできないな」とスンネは、頭をかいて、手を炎のほうへ拡げながら言った。彼はまだリュックを背中に背負ったままだった。それが体の一部ででもあるように、離さなかった。
「それはどういう意味だね?」ぼくは聞いた。
スンネはぼくをじっと見た。「ガンサートさん、あんたらしくもないな。ここにリュックがいくつある?」
「三つさ」とぼくはぼんやり答えた。しかし何か小さな考えがぼくの頭につきまとって、意識の底から頭をもたげてきた。それからぼくはしゃんとした。「ちくしょう! 三つだ。四つなければならないんだ」
彼はうなずいた。「そのとおり、やつらはわしらより先へ行っていた」
「ローヴォスがか?」
「そのとおりさ。窓から入ったんだ。ガラスを割ってな」彼は鋭い眼つきでぼくを見た。それから荷物を床に降ろして、ポケットに手をつっ込んだ。「これを一口やるといい」彼はフラスコをぼくに渡した。「わしはひと回りしてこよう」
ぼくはふたをゆるめて、強い酒を一口ふくんだ。ブランディだった。そのほてりが内側からぼくを暖ためた。スンネはしばらくすると戻ってきた。
「ここには誰もいない」と彼は言った。「争った跡もない。万事きちんとしている」彼は頭をかいて、フラスコからぐびぐび飲んだ。「わしの見たところじゃ、オルセンはペールたちと途中まで来て、それから引っ返して、ローヴォスたちが気づく前にその姿を見たんだろう。オルセンは望遠鏡を持っていたかも知れない」彼はぼくのほうを見た。「気分はどうだね?」
「よくなった。ずっとよくなったよ」
彼の言うことは理にかなっているように思えた。それがぼくを元気づけた。なぜなら、それはローヴォスより先にファーネルに追いつく希望がまだあることを意味していたからだ。ファーネルが気がついたということは、彼が何も知らずに山小屋で寝ていることとは、格段の違いがある。ぼくは残り火に眼を向けた。「彼が出て行ってから、そう時間が経ってはいまい。火がまだ燃えているんだから」
「さあ、これをもっと飲みな」彼はフラスコをぼくに渡してよこすと、手のピストルをテーブルに置いて、ナイフを取り出し、テーブルの上のパンとバターとチーズを切りだした。「少し食べておこう。それから出かけるんだ」
出かける! そう考えただけで、ぼくの手足はひどい痛みで叫び出した。しかし彼の言うことは正しかった。ローヴォスに追いつくたった一つの望みは、ただ歩くこと、歩きつづけること以外にない。「よーし」と言って、ぼくはこわばった体を起こした。
と、その瞬間、Sta stille!≪動くな!≫という声が聞えた。
四角い、茶色のチーズの塊りを切りかけたスンネが、ぎょっとしたように手を止めた。彼はナイフを落とすと、テーブルの向こう端にあるピストルのほうへ向おうとした。Sta stille ellers sa skyter jeg.≪動くな、さもないと撃つぞ≫スンネは立ち止まると、窓のほうを見つめた。ぼくは彼の視線を追った。開いた窓わくの中に、男の頭と肩が浮かんでいた――そしてピストルの銃口が。ちらちらする炉の火が、その男を赤々と照らし出した。彼の顔は浅黒く、あごひげを生やしていた。真赤におきた二つの石炭のような眼をして、耳おおいのついた、毛皮の帽子をかぶっている。
Hva er det De vil?≪何か用か?≫とスンネが聞いた。
ノルウェー語で答える男の声は荒々しい口調だった。しゃべりおわると、にやりとしたように、ひげの中から白い歯がのぞいた。
「なんて言ってるんだ?」とぼくは聞いた。
「わしらがおとなしくしていれば、何もしないと言っている。ローヴォスの仲間の一人だ――ローヴォスと航海士はファーネルの後を追って行ったそうだ。暗くなりかけたとき、やつらはわしらを見つけたらしい。こいつはその時からこのへんでうろうろして、わしらを待っていたんだ。ちくしょう! まんまと一杯くった」
ぼくは自分のピストルを見た。それは一メートル以上離れた所にあった。すると突然、ぼくは深い眠気に襲われた。ぼくはもうこれ以上進めないような気がした。ここにじっとして、休息したかった。けれど、スンネの眼に浮かんだ何かが、たちまちぼくの惰気《だき》を一掃した。彼は小さな体を緊張させ、テーブルのふちの下で、両手をかぎづめのように曲げていた。「|入れ《コム・イン》」と、彼はしずかに言った。
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第八章 サンクト・ポール氷河で
窓のところの男は、狭いすき間からどうやって巧く入ろうかと考えて、ためらった。
部屋はとても静かだった。聞えるものといっては、石の火床でパチパチ燃えるまきの音だけだった。炎は小屋の壁にゆらめく影を投げた。スンネの動かない姿が、床から天井までとどく巨きな影法師となっていた。ぼくは手足がゆるむのを覚えた。ぼくはひどく疲れていた! もうこれ以上何もできないのだ。なるようになれと、無責任な気持にぼくはなり始めた。
けれど、スンネが油断していない様子がぼくには分った。彼は炉のほうをちらりと見て、また窓へ眼を戻した。男は両手を窓敷居にかけた。「|動くな《ストー・スティレ》!」と彼は命じた。その眼が炉の火明りにぎらっと光った。
スンネはおびえたように一歩下がり、何もないのにつまずいて、頭を炉の火床に向けてぼくのわきに這いつくばった。窓ぎわの男は、ピストルをぐっと握って緊張した。ぼくは胃がむかついた。一瞬、ぼくは彼が撃ってくると思った。Hva er det De gjor?≪何をしてるんだ?≫彼が怒鳴った。スンネはうめいた。右手がほとんど火の中に入っていた。彼は左手をその上に当てがって、さも痛そうに身もだえした。最初、ぼくは彼がやけどをしたのかと思った。しかし、彼がノルウェー語で事情を説明しているうちに、怪我をしたはずのその手が、燃えているまきのほうへ伸びるのが、ぼくの眼に映った。
ぼくは窓のほうへ向き直った。男は相変わらずじっとぼくらを見つめていた。彼のルガーの銃口が、まっすぐぼくの腹に向けられているような気がした。その黒っぽい鋼鉄の輪が、火明りに鈍く光った。それから男は緊張を解いた。男はピストルを持った手を敷居において、す早く両手で体を持ち上げると、敷居に片ひざをかけた。
その瞬間、スンネは床から半身を起こした。彼の右手が上って、燃えているまきが、たいまつのように部屋を斜めに飛んだ。それは、ぱっと火花を散らして窓の黒い人影に当り、炎をあげて床に落ちた。苦痛の叫びと、悪態をつく声があがり、つづいて閃光と銃声が起こった。ぼくが自分のピストルのほうへころげて寄ったとき、弾丸が何か柔かい物に当った音が聞えた。スンネは身をよじってテーブルを回った。窓からまた撃ってきた。ぼくは自分の銃をつかんだ。床尾のごつごつした握りが、心強く掌に触れた。ぼくは安全装置を外した。ピストルを上げて撃とうとした瞬間、テーブルのわきから一条の光が走り、爆発音とともに、ものすごい息詰まるような悲鳴があがって、窓べの姿はボロ人形のようにくずれ、それからゆっくり後ろへ倒れた。
次の瞬間、煙の立ちこめる部屋には、スンネとぼくだけが立っていた。すべてがまた以前の静寂に返った。聞えるのは、炉の中でパチパチはぜる炎の音だけだった。そしていま起こったことを示しているたった一つのものは、窓下の床で燃えている一本のまきだけで、窓はきらきら光る白雪を向こう側にのぞかせて、細長く開いていた。ぼくはまきを拾い上げて、炉へほうり込んだ。
スンネはテーブルの上に大儀そうによりかかっていた。彼の顔は青白く緊張していた。「また戦争が始まったと、みんなが思うだろう」と、彼は言った。それから彼はしゃっきり体を起こすと、ドアのほうへ行った。ややあって、彼の頭が窓のところに現われた。
「ガンサートさん、懐中電灯を貸してくれ」
ぼくはリュックから懐中電灯を出して、彼のところへ持って行った。彼は、窓の下の雪の上に丸くうずくまっている体へ、懐中電灯の光を向けた。そしてそれをひっくり返した。あごひげを生やした男の顔色は、ひどく青白かった。口を開いて、眼はどんよりしていた。唇の端から一条の血が流れ出て、雪を点々と朱色に汚した。額に小さな孔があいていた。
ぼくは背すじに悪寒を覚えた。スンネにとっては、これはこの山でもう一人の人間を殺しただけのことにすぎないだろう。戦争ちゅう、彼はずっとこういうことをやってきたのだ。しかしぼくにとっては――ぼくはその影響を考えずにはいられなかった。戦時に人を殺すことは公認されている。しかしこれは平和なときの殺人だ。そしてノルウェーは法治国である。
「こいつを湖へ運ぼう」とスンネは言った。
ぼくは冷たい夜気の中に出て、死体をスキーに結びつけるのを手伝った。それからぼくらは雪の上を、奔流が流れ込む湖のほうへそれを曳いて行った。そこで男の足に石を結びつけると、ほうり込んだ。男の体が暗い水面に当って、冷たい、胸の悪くなるようなしぶきが上ったのを、ぼくはまだ覚えている。ちょっと波紋が拡がった。それから星の下でまたすべてが静寂に戻った。もしあれがイヌの死骸だったら、もう少し丁重に扱われたろう。
また小屋に戻ると、スンネはリュックを背負いはじめた。その動作が少し苦しそうなので、ぼくは彼に手を貸した。それから彼が手伝って、ぼくにリュックを背負わせてくれた。
「今度はどこだ?」と、ぼくは外へ出て、スキーをつけながら聞いた。
「ステーンベルグ谷からイエイテリゲンへ行こう――どっちにもツーリスト・ヒュッテがある。それからは、行ってみた上のことだ。ことによると、サンクト・ポール氷河を通ってフィンセへ行くようになるかも知れない。あるいは、彼は西へそれて、ハリングダールからミイルダールへ出て、そこで列車をつかまえるつもりかも知れない」
「イエイテリゲンまではどのくらいある?」
「二十マイルばかりだ」
「二十マイル!」ぼくの心は沈んだ。ぼくはちらちら光る小屋の窓を振り返った。雪の上でスンネのスキーの跡を追うぼくの足は鉛のようだった。二十マイル! それは二百マイルと言われたのも同然だ。荷物がぼくの肩を引き裂いた。ぼくの脚は、火ぶくれで赤膚になったような感じだった。一歩進むごとに、全身の筋肉が悲鳴をあげた。ぼくは頭を下げ、全身を占めている疲労以外のことを何か考えようと努めながら、機械的に重い足を運んだ。
長い斜面の頂上で、スンネは一息ついた。ぼくは彼の横に立って、振り返った。凍った暗い夜空に、星が無数の光の針先のように光っていた。ぼくらの下には、処女雪の広い平原が拡がっている。そしてその真中に、まだ窓から鈍い暖かそうな炉の火明りが漏れるオステルブウ小屋が、黒々と横たわっていた。今夜、あそこで一人の男が殺されたのだ――とぼくは思った。ぼくらは一人の男を殺して、その死体を湖へ投げ込んだ。だが、そんなことは少しも気にならなかった。まるで何も起こらなかったようだ。それは夢のように、非現実なものに思えた。ただ、極度の疲労感だけが現実にあった。そのほかのことは問題にならなかった。
ぼくらは向きをかえて、うねうねする小径を登り、黒い影が星まで届くかと思われる断崖の下に達した。レースを流したように、銀色の水のカーテンが頭上からさらさら落ちていた。ぼくらはとうてい頂上に達することはあるまいと思うほど、ひたすら登りつづけた。そしてついに、星のほかは頭上に何も見えない所に出た。ここで前方に、遠い滝の音を聞いた。
ぼくらは水音のほうへ降りて行き、一つの急流にそって進み、橋に出た。月が上って、山頂にかかるまで、重なり合った山の峰々が黒い輪郭で浮き上っていた。それからその光の輪は、突然、長い谷間にそった銀色の網目のような無数の湖を照らした。その向こうには、雪と氷で、固い透明な白色をした山々がそびえていた。
ぼくらは凍ってきらきらしている雪の上を、スキーで気持よくすべりながら、湖のほうへ下って行った。何の苦労もなしに動けるよろこび! こうしてぼくらはたえずほかのスキーの跡を追った。ファーネルとローヴォスは、ぼくらより先にこの道を行っているのだ。湖にそった前進はそれまでよりずっとらくだった。スキーはほんのわずかの努力で進んだ。ただ背中の荷だけが重かった。しかし、まもなくまた登りにかかった。
冷たい夜気のさわやかさのせいか、それとも慣れない動きを無理強いさせていた筋肉が抵抗をあきらめたためか、どちらとも分らなかったが、ぼくはいつかスンネと歩調を合わせることができるようになった。もちろん、ぼくは彼より体も大きい。それに船上での力仕事にも慣れていた。それに較べれば、ゴムの服を着て水中で働く潜水夫の仕事は、そう健康的な職業とは言えないかも知れない。
彼はいまではよく立ち止まった。それに、月明りで見る彼の顔は、蒼白く緊張していた。一度、ぼくは小休止をしようかと彼に言った。だが彼は言下に答えた。「ローヴォスは休んだりはしないだろう」
ローヴォスの名を聞くと、われわれの先で起こっている追跡に、ぼくの頭は向けられた。ファーネルはローヴォスよりゆっくり休んでいるに違いない。ファーネルはほっそりしているが、筋張っていて、こういうことには鍛練されている。けれど、ローヴォスはずっと体も大きく、それに力も強い。おそらく彼はスキーも上手だろう――。まもなくぼくらは彼らの姿を見ることだろう。見渡す限りの月明りの雪原で、先頭を行くのはファーネルの孤独な、小さい姿だ。その後ろには、彼の細い二すじのスキーの跡につながれた二個の人影がある。ローヴォスはどんな事があっても手をひかないだろう。それはオステルブウで起こったあの事件をみても明らかだ。
そう考えると、ぼくの脚は無理にも早くなった。そしていまでは、スンネのために遅れがちになることに気がついた。何度かぼくは彼の先に立ち、追いついてくる彼を待たなければならなかった。彼がしだいに気力を失う一方、ぼくの筋肉には新しい力があふれてくるような気がした。ぼくは彼の遅さに、いらいらし始めた。彼の顔は月の光に蒼白く、体力を消耗しているように見えた。ぼくはもう汗をかいていないのに、彼の額には汗が光っていた。彼は一休みしたとき、また地図をじっと見た。呼吸は短かく、あえぐように荒々しかった。
ぼくらは、後にしてきた湖に注いでいる滝のところに出た。ぼくは彼が追いつくのを待って、先導させるために彼を先に立てた。彼の後について、大きな丸石の荒地を登りながら、ぼくは地面に眼を落としていたが、その時ふいにぼくは雪の上に紅い斑点がついているのに気がついた。数ヤード進むと、また別の斑点があった。ぼくは眼を上げてスンネを見た。彼は荷物の重みで前屈みになり、左腕を前のほうにだらりと下げていた。そうだったのか。突然ぼくは自分のせっかちな気持が恥かしくなった。頂上で彼は一息いれた。ぼくは彼に追いついて、その左手を見た。血が雪の上にしずかにしたたり落ちていた。それは指の上で固まってはいるが、月明りに手の甲が濡れた紅い線で光っているのが分った。
「あんたは怪我をしているね」とぼくは言った。
「何でもない、あの男に肩を撃たれただけだ」
ぼくは彼が背負っている荷の重みを考えて、内心赤面した。彼にはこの荷がどんなに辛かったろう!「ちょっと傷を見せてくれ」とぼくは言った。
だが彼は頭を振った。苦痛を堪えるために食いしばっていた唇から、血が流れている。「ステーンベルグ谷はもうすぐだ。わしはそこに残る。あんたはそこから一人で行くがいい」
ぼくは頭を振った。「あんたを一人で残しちゃ行けない」
「わしは大丈夫だ」と彼は怒ったように言った。「大した傷じゃない」そして彼は背を向けると、相変らずの足どりでスキーを穿いたまま歩き出した。
ぼくは頭を下げ、しだいに数をます雪の上の紅い斑点だけを見ながら、それにつづいた。ぼくは彼より頑健だと思っていた。あの潜水は彼の体にひびいているのだと思っていた! そしてオステルブウに着くまで、彼が何度もぼくのために立ち止まってくれたことを思い出した。しかも、ぼくは怪我をしていない。ただ疲れているだけなのだ。
岩の数はしだいに少なくなった。そして突然、ぼくらは一つの尾根に立ち、向こうの谷間に小屋を認めた。それは丸太を組んだ四角い建物だった。その後方には屋外便所があった。月明りの中に模型のように見えるこの小屋は、吹き溜りの粉雪の中に、黒々と露出している大きな岩の上に建っていた。
スキーの跡はまっすぐにその小屋の戸口までつづいていた。ぼくはスンネに待つように言うと、大きく迂回してその裏手へ回った。そこの雪の上に、白い月光を浴びて、スキーの跡が、冷たい白い無限の世界へ向ってつづいていた――離ればなれになった、三つのはっきりした跡が。
ぼくはスンネに口笛で合図をした。「彼らは出て行ったよ」と、小屋の戸口に近づきながら彼に告げた。掛け金を上げると、ドアは開いた。内部は暖かだった。灰になったまきが、炉の火床でいぶっている。ドアを閉めると、部屋の暖かさが、眠気のように体に忍び込んだ。ぼくはまたしても自分がどんなに疲れているかに気づいた。時刻は午前二時だった。二十時間のあいだ、徒歩やスキーで二十六マイルもただ登りつづけたのだ。ぼくはリュックを床に投げ出し、おきを蹴って火をおこした。それからスンネのリュックを下ろしてやり、台所へ入って、まきを見つけてきた。松のまきが炎を上げ、体が暖まると、ぼくは小柄な潜水夫の肩の、血でこわばった下着を切り始めた。弾丸は上膊部の、肩のつけ根のすぐわきの外側の筋肉を貫通していた。
ぼくは炉で解かした雪水で傷を洗い、シャツを破いて包帯した。ぼくが手伝ってスウェターを着せると、彼は炉ばたに木のベンチを引張ってきて、腰を下ろした。「ガンサートさん、あの連中に追いつこうと思ったら、もう出かけたほうがいい。わしらは最後の行程でだいぶ時間をむだにしているからな」
時間をむだにしているって! いったい、彼はどのくらいの歩調をつづけるつもりなのか? ぼくはベンチに腰掛けて、靴や靴下をぬいだ。足は赤くはれ上っていた。筋肉が柔らかくなり、骨は傷ついたようにズキズキ痛んだ。ぼくはスンネのほうを見た。窓から斜めに差し込む月の光に、彼の顔は蒼白かった。炉の火が、壁や天井になっている大きな丸太に、彼の影をグロテスクに映していた。ぼくは彼が怪我をしているのに気づかなかった自分をののしった。彼は大量の血を失ったに相違ない。このまま進むことはとても不可能だ。しかし、一人で行くとなると! 彼が一緒なら、山は冷淡だが、取付けなくもないような気がする。しかし、いま外でぼくを待っている、あの白い、鋸《のこぎり》の歯のような怪物の群れのことを考えると――突然、彼らが冷酷で、狂暴なものに思えてきた。
行手にはまだけわしい登りがある。もしこのまま歩きつづけたら、間もなくあのスキーの跡は、雪に覆われた頂上から、氷河へとぼくを導くだろう。スンネはこの土地に明るい。ここは彼の領分のようなものだ。ぼくは方角の心配をする必要もない。しかし一人で行くとなると事情は違ってくる。たとえば、霧が下りてきたら。それでもスキーの跡を追えるうちはまだいい。しかし、吹雪になったらどうしよう? スキーの跡が消されてしまったら、どう見当をつけたらいいのか? ぼくはぶるっと身震いした。この炉のそばに残っていたいと、体じゅうの骨が叫び出した。ぼくは一人では行けない、と彼に言おうとした。その時、ファーネルのことを思い出して、こう言った。「靴下を取り替えたら、出かけよう」
彼は何の疑いも持たないようにうなずいた。そしてぼくが支度にかかると、彼は自分のリュックから地図と磁石を取り出した。「つぎの行程はそうつらくはない。川にそって行くと、湖のたくさんある所に出る。そこがイエイテリゲンだ。道に迷うような心配はない」
「そいつはたびたび聞かされたような気がするな」ぼくは靴を穿きながらつぶやいた。
彼はにやりとした。「あんたが谷間のコースを忘れんようにと思ったまでさ。最初、ドリフトアスカルまでは少々登りになる――そこは谷の上の山道で、農夫が牛を追ってよく通った道さ。それからあとはずっと丘を下るルートだ」
「イエイテリゲンまではどのくらいあるのかね?」
「十五キロばかりだ」
また十五キロか! ぼくは足が重くなるのを覚えながら、平たいパンとヤギのチーズを食べた。「イエイテリゲンには何があるんだ?」とぼくは聞いた。「そこにもツーリストのヒュッテがあるのかね?」
「そうだ。オステルブウやステーンベルグ谷のほどよくはないがね。少し荒れてるようだ。だけど、避難所にはなる」
「で、イエイテリゲンから先は?」
彼はためらった。「わしの考えでは、彼はフィンセへ行って、列車をつかまえるつもりだと思う。イエイテリゲンに着くころは、彼も疲れていることだろう」
「イエイテリゲンからフィンセまではどのくらいあるかね?」
「それも十五キロほどさ。それに、その道は厄介だ。イエイテリゲンから南へ折れて、千七百メートルの所に出るには、千三百ほどの登りになる。ええと」と、彼はなめし革のような小さな顔を、サルのようにしかめて、「つまり、サンクト・ポール氷河に出るまでには、千五百フィートほど登るわけだ。そうすれば、氷河の頂上に出る。もしそこで少し休みたければ小屋もある。それに、あそこにはルートを示すくいが立っている。もし霧や吹雪になったら、次のくいの見当をつけるまで、前のくいを見失なわないようにすることだ。そうすればハーリングスカルヴェに出られるが、もし道に迷ったら、その時は――」と彼は肩をすくめた。「ここに磁石と地図がある。地図はあんまり当てにならない。ドイツ軍が作ったもので、そう正確じゃない。霧や雪になったら、それに巻かれる前に方角を確かめておくといい」
ぼくは地図を受取って、リュックのわきポケットに入れた。磁石は、大事な品物なので、ポケットにしまった。
「ぼくが救助隊を頼むまで、あんたはここにじっとしていてくれ」痛む肩にリュックを背負いながら、ぼくは言った。
彼は頭を振った。「わしのことは心配しないでいい。わしはらくな道を引き返す。ここで山籠りをするつもりはない。それにまだブリザードの起こる時季でもないからな。ただ、あんたと行けないのが残念だ。しかし、わしがついて行っても役には立たん。あんたを手間どらせるだけだ」彼はベンチに手をついて、弱々しく立った。「あんたの幸運を祈るよ!」
ぼくは彼の手を握った。
「サンクト・ポールを過ぎたら、次のくいを見つけるまで、前のくいを見失なわんようにな。それに、あそこの頂上には小屋がある。スキーヤーのためにホテル協会が建てたものだ。一度わしはあそこで命を救われたことがある」彼の人なつっこい、しなびた顔が、笑《え》みくずれた。「もし誰かに聞かれたら、捕鯨船十号の男には会わなかったと言うんだ。誰にも会わなかったとな。いいかね、幸運を祈るよ――わしはアウルランドであんたを待っている」
「分った」とぼくは言った。「もし行き着けなくても心配するな。ぼくが戻ったとき、あんたがディヴァイナー号にいなかったら、アウルランドから救助隊を出すから」
「オーケーだ」
彼はぼくについて戸口にくると、ぼくがスキーを穿いている間、そこに立って、月明りと冷やかな山々のきらめきに、くんくん鼻を鳴らした。淡い粉雪がぼくの顔に吹きつけた。
「風が出たようだ」と彼は言った。「天気がくずれるかな」ぼくが体を起こして、手袋をはめていると、彼はぼくの腕をつかんだ。「ガンサートさん」と彼はきびしい口調で言った。「もしオルセンを助けようと思ったら、もっと早く歩かなきゃだめだ。わしらはだんだん引離されているからな」
「できるだけ早く歩こう」とぼくは言った。彼はうなずいて、にやりとした。ぼくは前屈みになって、スティックを突き出した。スキーは粒子の細かい雪の上をすべり出し、まもなくぼくは冷たい風を顔に受けながら、ほかのスキーの跡にそって斜面をすいすい下っていた。後ろからスンネの怒鳴る声がかすかに聞えた。「幸運を祈るよ!」
こうしてぼくは一人になり、聞えるものといっては、自分のスキーの音と、砂が谷間を渡るように、雪をさらさら払う風の静かなささやきだけになった。
ところどころで、ぼくの追っているスキーの跡は、半ば消えかけていた。また場所によっては、ファーネルとローヴォスがたったいま通過したばかりのように、深くはっきり刻まれている所もあった。谷間の台地への直滑降はひどく短かかった。まもなく、道は登り一方になった。小径は山の肩へ向って、大きくうねりながら、しだいにけわしくなった。まるで際限のない登りのような気がした。ぼくは手足が痛み、どろどろした液体になるかと思うほど登った。小径は丸石のちらばった間をどこまでも上へ上へとつづき、最後に四方何マイルも見晴らせる山の頂上に出た。まるで南極の写真を見るように、冷たく、よそよそしく、なめらかな雪をかぶった山々の頂きが、月の光に輝いていた。
ぼくはついに、スンネの言うドリフトアスカルに達したのだ。峠の頂上でぼくは一休みした。月はもう頭上に高くかかっていた。風が出てきて、周囲の表面の粉雪が、砂漠の砂あらしの前触れのように、岩を越えて移動して行った。望遠鏡でのぞいた月面のように、ここは荒廃して、白々としていた。ぼくはウィンドブレーカーを着て、下りにかかった。地面には岩がちらばっているので、一気につっ走ることはできなかった。が、道はらくだった。そして汗だくの登りの後では、冷たい夜気が骨までしみた。
このあとすぐ、ぼくは一つの小川をこえ、また登りだした。それ以後のイエイテリゲンヘの旅のことはよく覚えていない。ぼくが覚えているのは、通った土地が荒涼としていたことと、夜明けが近づくにつれて堪えられないほど寒くなり、疲労で体がすっかりこわばってしまったことだけだ。ぼくは雪の中をとぼとぼ歩きながら、スンネの言ったことばをたえずくり返していた――「もっと早く歩かなきゃだめだ。わしらはだんだん引離されているからな」
ときどき、ぼくは道に迷ったような気がした。スキーの跡が雪でかき消されていた。そのたび、ぼくはあわてて地図と磁石を取り出した。しかし、そのうち、きまってどこかの風陰でまたスキーの跡にぶつかった。月は西に傾き、光は色あせて、山々の上に拡がる、冷たい、灰色の微光にかわった。暁が、雪に覆われた世界をこえて、死のようにそっと訪れた。ぼくはそれにもほとんど気がつかず、頭を下げて、懸命に歩いた。ぼくを駆り立てているのは四肢の力ではなく意志の力だけだった。ぼくはこう考えつづけていた――ほかの者たちは休みもせずに、こんなにのべつ歩きづめに歩いてはいまい、と。だが、彼らもそうしていることが、つねにぼくの先を行く、スキーの跡で分った。
ついに月は山の陰に沈んだ。山頂の雪はもうクリスマスの砂糖菓子のように光らなくなった。そこは灰色で、冷えびえとし、夜明けの光はそこのあらゆる美しさをはぎ取って、わびしい、うつろなものだけを残した。ぼくはその時、この山中でまったく孤独なことを意識した。夏場は、この小径を歩く者の流れがたえずつづくことだろう。しかし、山に去年の冬の雪がまだ残っているいまは、一つの人影もない。ぼくはスンネのしなびた、人なつっこい顔を思い出して、彼が一緒にいてくれたらと思った。ただ、烈風の陰になって、消え残っている先行のスキーの跡だけが、ぼくをほかの人間とつないでいた。
ぼくはいま、細長い、凍った湖に向って下っていた。足下の谷間の水は凍っていなかった。それは、白雪の絨毯に生じたギザギザの割れ目のように、黒い奔流となっていた。谷底でぼくは高い岩の陰に立ち止まると、疲れを休めた。リュックを雪の上におろし、平たいパンと茶色のチーズで早目の朝食をとった。体はぼーっとして、感覚を失っていた。すべてが夢のようだった。それから進み出したときは、夢のなかでスキーをしているように、ぼくの動作は機械的だった。
薄い雲が青ざめた空に流れ、ぼくが湖にそって進んで行くうちに、それはピンク色の光に満ちてきた。光は空全体が真赤に彩られるまで増してきた。美しい、はっとするような日の出だった。灼熱の円盤さながらの太陽が昇り、雪の山頂を血のように染め、すべての物の上にオレンジ色の光を投げた。空は赤らみ、やがて、深紅色に燃えた。それから、しだいに色あせ、暖かみのない、冷たい、水っぽい日ざしになった。ピンク色の最後の名残りが、ノルウェーの海岸線にそった風上側に高く積み重なった積雲にしがみついていた。
ついにぼくは、スティックにもたれて、イエイテリゲンを眼下に見下ろす丘陵の肩に立った。そこの小屋は少しも美しくなかった。くすんだ赤ぺンキが塗ってあって、これまで見たうちで最も荒涼とした平原の中に、兵舎のように立っていた。凍って、雪の積った一連の湖が、半円形にそのまわりを囲んでいる。湖と湖の間には、凍らずに流れている水のしるしが、黒くついていた。湖がごっそり集まっている丘陵はなだらかだった。そこに散在している丸石もなめらかだ。ただ、ところどころ、岩は大きなハンマーで砕いたように、ギザギザのへりを見せていた。それは氷で叩かれたり刻まれたりした跡だろう。ここは恐ろしい、陰惨な土地だった。
けれど、そこには小屋がある。ぼくはそれを神に感謝した。その時ぼくは、ファーネルやローヴォスたちのことは念頭になかった。火をおこし、椅子に身を沈めて休むことだけを考えていた。ぼくは疲れていた――疲れて冷えきって、みじめな気持になっていた。そのほかのことは問題ではなかった、何一つも。その瞬間には、ソロモンの宝庫や、インカの財宝や、インドの富をくれるといわれても、ぼくは意に介さなかったろう。
ぼくは小屋を目指して下りはじめた。それから足を止めた。ある物が眼についたのだ――何か動くものが。ぼくは雪の白さで半ば盲《めしい》たようになっている眼をこらして、それをはっきり見ようとした。それは、小屋の右側の、凍った一番大きな湖の向こう岸を遠ざかって行った。そしてサンクト・ポールの黒ずんだ塊りへ通じる谷間のほうへ移っている。あれはクマだろうか? いや、いまさら考えるまでもなく、ぼくにはよく分っていた。ぼくは追跡の興奮が、疲れた四肢に力を与えるのを覚えた。あれはローヴォスだろうか――それともファーネルか? ファーネルなら、ローヴォスたちをやりすごしたのか? いや。先へ行く姿は一つではない――二つだ。ローヴォスたちに違いない。
ぼくは谷間の白い斜面の上のほうをじっと眼で探った。すると、その谷よりの高みに、べつの黒い点が雪の中をしきりに動いていた。
ぼくは考えるために立ち止まったりはしなかった。スティックを雪に深くつっ込むと、湖の平らな氷へ向けて、斜面をとぶように下った。ついにぼくはここで追いついたのだ。ファーネルは――ローヴォスを後ろに従えて――イエイテリゲンの小屋へ行こうとしている。あそこで彼らは急角度に右へ曲らなければならない。ぼくは湖をつっ切ることで、一マイルか二マイルの近道ができるのだ。
追跡はいまや熱をおびてきた。前には、獲物は架空のものだった。何か前にあることはあっても、スキーの跡でそれと分るだけだった。しかし、いまはそれが眼に見える。それは実在の物なのだ。彼らに追いついたらどうするか、そこまではまだ考えていなかった。いまぼくの努力は、一つのことに集中していた――あらん限りのスピードを出して、ローヴォスとの間の距離を縮めるのだ。
急勾配の雪の吹き溜りをすべり降りると、ぼくのスキーは凍った湖の固い雪をかんでパリパリ鳴った。氷は持ちこたえて、ぼくは平坦な湖面をらくに越えることができた。サンクト・ポールへ向う長い谷間を登り始めたときには、ぼくはローヴォスやその仲間から一マイル以上は離れていなかった。ときどき、谷間の肩で、雪を背景に黒く浮き上った二個の人影がちらっとぼくの眼に入った。ローヴォスの姿をそれと見分けることさえできた――彼は連れの男より、ずっと背が低く、それにでっぷりしていた。一度は、高い山腹に一つの点となっているファーネルの姿も認めた。
谷間の傾斜はしだいにけわしくなった。まもなく、ぼくを前へ駆るのは意志の力だけになった。前進することにすべての努力が集中された。二度、ローヴォスが振り向いて、肩ごしにこちらを見た。彼はぼくを見落とすようなことはあるまい。にもかかわらず、ぼくは追いついて何をするか、どうやって彼らを追い抜いてファーネルのところへ行くか、などと考えているひまはなかった。彼らの姿が見えるということだけで十分だった。ぼくはぺースを保つこと以外に、何も考えられなかった。
前方のスキーの跡は、もう深くはっきりしていた。ルートをさぐる面倒もなかった。ただそれを追って行けばいいのだ。しかし、この足の痛さは! 荒い息がヒューヒュー歯のあいだで鳴った。ぼくはまもなくサイド・ステップで登りだした。両足を広げて進むエネルギーはなく、ぼくのスキーの跡は目じりのしわのように歩幅が狭かった。相手も明らかに遅れていた。疲れ切っているのが自分だけではないと知ったことは、多少の慰めになった。
一度、とくにけわしい斜面で、ぼくは一息ついた。額に流れる汗に風が当って、氷のようになった。太陽はもう姿を消していた。寒風の吹きすさぶ、冬のような日だった。ぼくの右方で、海から流れ込んだ雲が、山頂を覆い始めた。そのため、氷河を越えるには視界が悪くなった。もしあれが霧になったら、ローヴォスを追い越して、ファーネルに追いつくことができるかも知れない。だが、雪になったら……そう考えると、ぼくは寒気がした。五千フィートの高所で吹雪に巻かれたら絶望だ。スキーの跡は消されるだろう。そしてルートの目じるしになるくいも隠されてしまうに相違ない。
ぼくは向きを変えて、道を急いだ。西のほうからわき起こった雲の恐怖は、遮二無二ぼくを前進させた。あれがぼくのところにくるまでに、氷河を越えてしまわねばならぬ。が、望みはなかった。五分もすると、視界はせばまり、大気はいっそう冷えてきた。ぼくは立ち止まって、サンクト・ポールの峰とおぼしいあたりにす早く方向を定めた。それからこつこつと、たえず登りに登った。
雲はもう一定の形をしていなかった。灰色のヴェールとなって、背後の谷間を消し、うずを巻く冷たいその先端は、黒い岩を包んで、隠してしまった。ぼくの世界は、薄明りの中に汚れて寒々とした足下の雪だけになった。その外側は灰色の空白だった。この空白の向こうの世界とぼくとをつなぐ唯一のつながりは、深く刻まれたスキーの跡だけだ。それは霧のカーテンの向こうに消えているが、それでもぼくが進むにつれてどこまでも伸びて行った。
風もいまではひどく冷たくなった。吹きまくる風は、冷たく、湿気があった。ぼくはカナダのロッキー山中の鉱山キャンプにいるような気がした。だが、あそこではモカシンの靴や、毛皮の帽子や、毛織の服をたっぷり着こんで、完全な装備をしていた。ここでは風が正面から吹きつけて、疲れ果ててすでに感覚を失った骨に食い込んだ。
高い細長いくいが霧の中から現われた。それは黒い御影石の柱で、雪の中に深く突き立っていた。これが最初の目じるしだ。ぼくは一つの尾根の頂上にいた。スキーの跡はぼくの前方を一直線に灰色の闇の中へ走っている。背後の目じるしが見えなくなる前に、ぼくは次の目じるしを見つけた。スキーの跡はそれにそって走っていた。一つ、また一つと、目じるしはつづいた。それからぼくは、再び、四肢の痛みに堪えながらサイド・ステップでけわしい斜面を登った。空気が希薄になり、寒さが増してきたことが分る。ぼくはこの尾根の頂きに達することはできないような気がしてきた。きっと、ここはサンクト・ポールの頂上に違いない。だが、その尾根に出ると、また別の尾根があった。
そして突然、第三の尾根の頂上の、目じるしのすぐそばで、スキーの跡は左に曲り、下り坂に向った。ぼくは無意識にそれを追った。二百フィートかそこらぼくはらくにすべり降りた。風がウィンドブレーカーを通して、体の汗を氷のような湿気に変えた。まるで衣服など着ていないも同然だった。雪まじりの突風が、突然霧の中からぼくを打った。幸いぼくはそうスピードを出していなかった。ぼくは半回転をして、スキーの線の跡を追った。足下の左側では、雪が急に落ち込んで見えなくなっていた。白い霧が上昇気流に乗ってうずを巻いているのを見て、ぼくは心臓がとび出しそうになった。ぼくは絶壁のふちにそってすべっていたのだ。絶壁の高さは百フィートあるか、千フィートあるか分らない。この時になって、最後の五百ヤードほど、ぼくは目じるしを見ていないのに気がついた。
ぼくは制動回転をして、立ち止まった。そこに立って揺れ動く空白の中をじっと見下ろしているうち、ぼくは突然ファーネルが仕掛けたわなに気がついた。彼はこの山々をよく知っている。追跡者をわざと目じるしのある道からそらし、霧と山の難所を利用して、スキーでの隠れん坊をやっているのだ。
ぼくはためらった。その間に、霧は深くなった。無数の黒い斑点が、ぼくの回りをかすめてすぎた。雪になったのだ。ぼくは前方をうかがった。そこにはスキーの跡が、深くはっきりついている。けれど、見るみるうちにそのへりはぼやけ、落ちてくる雪に形はおぼろげになった。
ぼくは振り向いて、ふいに孤独になることを恐れて、自分の足跡にそって急いで引き返した。雪は激しくなった。風が正面から顔に吹きつけて、眼をふさいだ。たちまちウィンドブレーカーは白くなり、冷たいねっとりした雪が顔にはりついてきた。
恐怖が四肢に力を与えた。ぼくがクリスティをした地点に達したときには、旋回の跡はほとんど消えていた。ぼくは、らくにすべり降りた長い斜面を、今度は逆に登り始めた。けれど、半分も登らないうちに、降りた跡は、大きなゴム消しで消したように見えなくなった。ぼくは立ち止まって、磁石を取り出した。風の向きで進むことは危険だった。風は到る所でうずを巻いているからだ。
ぼくはついに頂上に達して、下り始めた。それから目じるしの線を通り越したに違いないと思って、引き返した。そして広い地域を行ったり来たりして捜し回った。けれど何もなかった。ただ雪と、ところどころにギザギザした岩の頭が出ているだけだった。ぼくは磁石の指す方角に従って、その前後を捜した。だが、あのくいは霧の中から現われてこなかった。おそらくぼくが下った斜面はカーヴしていたのだろう。ぼくは自分がそれを覚えていなかったことをのろつた。ぼくはただ夢中で、何も考えずに、スキーの線の跡を追っていたのだ。
突然、恐怖に襲われて、右に曲ると、また登りだした。まもなく一つの尾根に立った。雪を濃い黒雲のように駆って、風がピューピュー顔をかすめた。ぼくは前後に眼をくばった。胸は動悸を打ち、腹はからっぽだった。ぼくはいったん降りかけたが、またあわてて引き返した。左に折れて、数分すると、スキーの跡にぶつかったが、それはさっき自分のスキーがつけたものだった。ぼくは別の尾根の頂上に登った。そこでぼくは立ち止まった。道に迷ったのだ。ぼくは完全に道に迷ってしまった。
ぼくは恐怖で泣き出しそうになった。ぼくはめつたなことでは驚かないほうだった。何を見ても驚いたことはない。けれど、ぼくはこごえて、疲れ切って、その上孤独だった。ぼくは眠気を覚えた。雪の上に体を投げ出したかった。そうすることは死を意味している。が、気にならなかった。それは慈悲深い赦しだ。何を気にすることがあろう? だが、ぼくはあきらめてはならない。ファーネルがいる。そしてジルもいるのだ。なぜ、ジルのことを考えるのだろう? ファーネルとジル。それがぼくに何の関係があるのだ? しかしぼくは行かねばならない。行かなければ。
それから後のことはよく覚えていない。寒さと疲労が、すべてを架空のもののようにした。ぼくはぼーっとして無感覚になっていた。そして登りつづけた。もし登りつづけて雪の上に抜け出したら、そこにさんさんと日が照っているという途方もない観念にとりつかれていた。
ふいに、ぼくは雪の中に深くつき立った、細長いくいの前に立っていた。ぼくは何の関心もないように、ただめずらしそうにそれを見ていた。それから頭がまた働きはじめ、突然希望が凍りついた神経を駆けめぐり始めた。ぼくはそのくいから次のくいに見当をつけ、歯を食いしばり、体内の隠れた力が疲れた肉体に鞭うつのにまかせて、標識から標識へと進んで行った。
やがて、両側に傾斜のついた一つの尾根の上で、何か四角ながっちりしたものが、吹雪の中から現われた。それは半ば雪に埋もれて、平らな岩の上に立っていた。そこに行き着く直前まで、ぼくの頭はそれが何であるか分らなかった。小屋だった。スンネの言った小屋だった。サンクト・ポールの頂上にある小屋であった。
ぼくはそこの風下側に回って、ドアを見出した。こごえた指先でスキーの留め具をまさぐった。ようやくそれを外すと、ドアの掛け金を上げた。ドアは開いた。ぼくはころげ込むと、後ろ手にそれを閉めた。ふいの静寂は天の恵みのようだった。表では、風がほえ、雪が音もなく降るのが、ここからも聞えるが、屋内はしんとしていた。ぼくは短かい廊下に立っていた。ギラギラする雪の中にいたあとでは、ここはひどく暗かった。廊下は暖かくはない。けれど風が衣服をつき通すことはもうなかった。部屋へ通じるドアをあけると、スキーがガタガタ床に倒れた。広い部屋の中には、細長い大きなテーブルとベンチがあった。テーブルの上にはリュックサックが一つ載っていて、サンドウィッチの包みが開かれていた。ぼくがよろめきながらベンチのほうへ行くと、ぼーっとした暖かみが体を包んだ。突然、目まいがした。テーブルが動き出した。それから部屋全体が回り始めた。脚が体の下でねじれるのを覚えた。誰かの叫ぶ声が聞えた。そしてすべてが空白になり、ぼくは柔かい、暖かい闇の中に、どこまでも沈んで行った。
小屋は夢ではなかったか? 雪の中で死ぬときはこんな気分になるのではないか? ぼくは懸命に意識を取り戻そうとした。雪の中に寝てはいられない。こんなことをしていれば、死ぬばかりだ。ぼくは覚醒しようとして戦った。ひどい目に遭ったというだけで、男は戦いをやめられるものではない。雪の中で死ぬ! そんな死に方ってあるものか。そしてやっと眼をあけることができた。一つの顔が、水槽の中の物のように、ぼーっと揺れながら視界に浮かんだ。若い女の顔だった。ぼくはジルのことを考えた。もしジルに行き会うことができたら。誰かがぼくの名を呼んだ。それは遠い声だった。ぼくは幻聴を起こしているのだ。これは現実ではない。ぼくはぐったりした。すべての物がしずかに忘却の中へ消えて行った。
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第九章 ジョージ・ファーネル
寝ている者が一分でも長くベッドにしがみつこうとするように、ぼくはいやいや意識を取り戻した。体がしびれて、眠気を覚えた。風の音が聞える。だが、体には感じなかった。ぼくは知覚を失ったようだった。とめどなく身震いがつづき、湿気と悪感を覚えた。何の夢を見ていたのだろう。小屋と女の声だ。急いで眼をあけると、上のほうに板張りの天井がぼんやり見えた。ぼくは木の床に寝ていたのだ。手でさわってみてそれが分った。頭は何か柔かい、けれどしっかりした暖かい物をまくらにしていた。右のほうに暖かいものがある。頭をそちらへ向けると、古風な鋳鉄のストーヴが、細い口からちらちら炎をのぞかせていた。その上で、ブリキのやかんが湯気を立てている。
「気分はどう?」それはやさしい、もの静かな、どこかで聞いた覚えのある女の声だった。とても遠くから聞えてくるような気がした。ぼくはため息をついて、ぐったりした。ひどく疲れていて、二度と動きたくなかった。
「これを少しお飲みなさい」ぼくの頭が持ち上げられて、コップのふちが唇に当った。ホット・ブランディのかおりが、ぼくの意識をもとに戻した。それを飲むと、暖かみが気持よく体内に拡がった。
ぼくは感謝のことばをつぶやいて、どうにか上体を起こした。そして首を回して、ジルの穏やかな灰色の眼に出会った。「いったいどうしてきみはここに来ているんだ?」
彼女はほほ笑んだ。「スキーでよ」それから急に真顔になって、「ビル、どうしたの? ジョージはどこ? わたし、みんなが殺しに集まる間、ホテルにじっとしていられなかったわ。今朝、まだ暗いうちにホテルを立ってきたの。イエイテリゲンまで行くつもりだったわ。そうしたら雪になって、この小屋までしかこられなかったの。あなた、ジョージを見かけた?」
「遠くのほうからね」とぼくは答えた。「雪になる前、サンクト・ポールを登っているときだった」ぼくはホット・ブランディのコップを彼女から取って、飲みほした。「ローヴォスとその仲間は、五百ヤードほど彼の後ろにいた」
「で、彼はいまどこにいるの?」
「雪が降ってくるとまもなく、彼は標識のあるルートからそれた。彼はみんなをサンクト・ポールの絶壁やクレヴァスのほうへ導いたのだ。あの二人は迷い子にされて、雪の中で死んだろう」
「死んだ? でも――」彼女はことばを切ったが、その眼は心配そうに曇っていた。それから言った。「あなたはずいぶん長い旅をしたのね、ビル。ヴァスビグデンからサンクト・ポールまでは相当な道のりだわ。どこでも休めなかったでしょう」
「オステルブウとステーンベルグ谷で休んだ。しかしどちらも小休止だった」
「アルフ・スンネはどこにいるの?」
「ステーンベルグ谷にいる」ぼくは顔をなでた。眼が疲れていた、ブランディの暖かみにもかかわらず、まだ眼まいを覚えた。
「なぜあの人をステーンベルグ谷に残してきたの?」
「彼は負傷している。弾丸が肩を貫通したんだ」
なぜ彼女はぼくを質問攻めにするのか? ぼくがしゃべりたくないのが分らないのか? しかしぼくは何か彼女に聞かなければならないことがあった――彼女が言ったことで。そうだ――「みんなが殺しに集まる間、きみはじっとしていられなかったと言ったけど、あれはどういう意味だ?」
彼女の眼が大きくなった。
「弾丸が肩を貫通したんですって? どうしてそうなったの? 何があったの?」
ぼくはもがいて立ち上った。頭が変になりそうで、足がガクガクした。ぼくは、体じゅうにその暖かみを吸収しようとして、ストーヴのわきに立った。「もうブランディはないかね?」と聞いた。自分の声が異様に響いた。
「あるわ」と言って、彼女はフラスコを出した。ぼくはコップにそれを注《つ》いで、やかんの湯を足した。それからコップを両手でつつんで暖め、かおりをかぎながら立ったまま飲んだ。
「スンネのことは心配しないでいい。あの男は大丈夫だ。筋肉の怪我だけだから。それよりぼくはフィンセで何が起こったかを知りたい。ホテルには誰がいるんだ?」ぼくはまた一口飲んだ。疲れ切っているときのホット・ブランディは、すばらしかった。「ダーレルはあそこにいるのか?」
「ええ。あの人はわたしたちと一緒の列車で着いたわ」彼女はそこでちょっとためらって、「それからヨルゲンセンが着いたわ。オスロからの列車で来たの」
「ヨルゲンセンが!」ぼくは急に彼女のほうを向いた。「ヨルゲンセンは何で来たんだろう?」
「分らないわ」
ヨルゲンセンがフィンセに来た! 誰かが彼に密告したに違いない。それとも偶然のめぐり合わせだろうか?
「彼は最初からフィンセで降りるつもりだったのかな?」ぼくは聞いた。「それとも、オスロからベルゲンへ行く途中、突然ダーレルを見かけて、泊る気になったのかな?」
だが、彼女は首を振った。「いいえ。あの人は最初から泊るつもりだったと思うわ。ダーレルはその時バーにいたから、ヨルゲンセンが列車から姿を見るはずはないわ。ヨルゲンセンはスーツケースを持ってまっすぐ入ってくると、部屋を頼んだわ」
「一晩泊りか?」
「いいえ。何日泊ることになるか分らないと、フロントで言っていたわ」
「彼はスキーは持ってこなかったかね?」
「ええ――スキーの服も持ってなかったようよ。でも、支配人に一揃い貸すように頼んでいるのを聞いたわ」
「ホテルで彼がダーレルを見つけたときの様子はどんなだった?」ぼくはダーレルがフィアールランから電話をしたことを考えた。誰かがヨルゲンセンに連絡をとったに違いない。
「二人が初めて顔を合わせたときには、わたしはその場にいなかったわ」とジルは答えた。「でもその晩おそく、わたしがバーへ行ったら、二人がそこにいたわ。ビル――あの二人の間には何があるの? ヨルゲンセンは臆病なタイプの人じゃないわ。それがダーレルにはびくびくしているのよ。ダーレルのほうは――よく分らないけど――何か愉しんでいるみたいだわ。あの二人の間の雰囲気は、ホテルの混んでいるバーの中でも人目につくほどだったわ。ヨルゲンセンはわたしを見たとき、はっきりびっくりしたようよ。それから、ちらっとダーレルのほうを見たわ。ダーレルは軽くわたしに会釈しただけよ。でも、あの人は眼を光らせて、あの妙な微笑を浮かべながら、ずっとヨルゲンセンを見ていたわ――わたし、それを見ていたら、何だか背すじが寒くなったわ」
ぼくはテーブルのところへ行き、ベンチをストーヴのそばに引張ってきた。「カーティスはどこにいる?」と、ぼくは腰を下ろしながら聞いた。
「まだホテルにいたわ」彼女は顔にかかった金髪をかき上げた。彼女の肌は、雪をかぶった窓を通してさし込む冷たい明りに、ひどく蒼ざめて見えた。「わたしはあの人が起きる前に出発したのよ、とてもきれいな夜明けだったので。ジョージに注意しようと思ったのよ」
「彼に注意するって? 何を?」
「警察よ。忘れていたわ。ゆうべおそく列車でフィンセにやって来たの。部長が一人に、警官が六人で、部長はすぐヨルゲンセンに報告していたわ」彼女は体をのり出して、ぼくの腕にさわった。「あなた、震えているのね。ブランディをもっと飲んでいらっしゃい、毛布を持ってきてあげるから。ここの戸棚にたしかあるはずよ」彼女は立ち上った。「ここはホテル協会が霧や雪に巻かれたスキーヤーに備えて持っているのよ」彼女はすぐに二枚の厚い毛布を持って戻ってくると、それでぼくを包んでくれた。それを拒む元気はぼくにはなかった。ブランディを飲んだのにもかかわらず、ぼくはしん底から冷え切っていた。ぼくはまた一口飲んで、考えようと努めた。ダーレルや――ヨルゲンセンや警官まで、みんなフィンセに集まっている! それはどういう意味だろう? それに、ファーネルはどこへ向っているのか? 彼はローヴォスを雪の中でまいた。それは確実だ。それからどこへ向ったのか? ぼくは窓のほうを見た。窓はほとんど雪でふさがれていた。不透明な窓ガラスを通して、風に舞う黒ずんだ粉雪が見える。彼はここに立寄るかも知れないし、寄らずに強行するかも知れない。もし彼が進みつづけたとしたら、どこを目指しているのだろう――フィンセか?
ジルがぼくの考えを察したように言った。「ジョージはローヴォスからうまく逃れたのね、そうでしょう?」
「うん」
「それであの人はどこへ行くのかしら? もしフィンセへ向ったら――」彼女はそこで口籠った。そしてぼくはまた、ファーネルがいまの彼女にとってどんな意味を持っているのかと考えさせられた。濃紺のスキー服に、赤いソックスとスカーフの彼女は、一見とっつきにくいうちにも微妙なかわいらしさがあった。彼女の足下の床に、赤い毛糸の手袋が落ちていた。一度何か決めたら絶対にやめない性分の娘のようだった。
「きみはまだファーネルを愛しているのか?」と、ふいにぼくは聞いたが、その声は小屋の深い静寂の中でわれながらいやな響きに聞えた。
彼女はぼくを見た。「そんな事を聞くもんじゃないわ」と彼女は静かに言った。「いまはね」
「それは分っている」とぼくはものぐさに言った。ぼくには言い争ったり、無理じいをする気力はなかった。そして彼女が率直な返事を避けた理由を、ぼくはずっと後になって気づいた。
それから後はどちらも口をきかなかった。ぼくは火に向って体を丸めて坐っていた。腹の中まで暖めたいとぼくは思った。体の震えばしだいに収まった。ぼくは靴をぬぎ、新しい靴下に穿き替えた。顔が暖まって、眠気がさしてきた。小屋の内は静かだった。外では、風がほえ、窓をゆすり、壁の大きな板材をみしみし鳴らした。こもったような雪の音が、風の中から聞えてきた。まぶたが重くなった。ぼくは自分が眠りに落ちるのを感じた。
その時、ジルがふいに言った。「何かしら?」
ぼくは驚いて眼をあけた。「何だ?」
「誰かがいるような気がするわ」
ぼくは聞き耳を立てた。風と雪の音のほかには何も聞えなかった。「なんでもないさ」とぼくは眠そうに言った。「何が聞えたんだ?」
「人声を聞いたような気がしたわ」彼女は立ち上って、窓の一つへ行った。
「誰も来やしないさ」とぼくは言った。「ローヴォスとその仲間は、どこか雪の中にいる。ここは彼らには見つかりっこないだろう。それにファーネルはもう何マイルも先へ行っているはずだ」
「そうだといいけど」と彼女は言った。けれど、彼女はまたべつの窓へ行って、そこで足を止めた。「ほら。聞えない?」
ぼくはすっかり眠気がさめて、体を起こした。たしかに何か音がする――木と木がぶつかる音だ。またその音が起こって、今度は人声が聞えた。
次の瞬間、表のドアが開いた。そして短かい廊下に靴音がした。ノルウェー語を話す低い太い男の声が起こった。それから部屋のドアがあいて、冷たい風と雪がさっと舞い込んだ。つづいて表のドアのしまる音がした。
ジルが上気したように明るい顔になると、ドアのほうへ行きかけた。そして凍りついたように、足を止めた。一人の男が入ってきた。彼は耳おおいのついた毛皮の帽子をかぶっていた。顔も体も、白い雪で厚く覆われている。けれど、厚い衣服でいっそう張り出したその腹は、まぎれようもなかった。ローヴォスだ。
彼は顔から雪を払い落とした。皮膚が寒さでむらさき色に変わっていた。
「なるほど」と彼は言った。「サマーズさんだったか、それに」――と彼はぼくのほうを見て――「ガンサートさんか。入れよ、ハルヴォシェン」彼は肩ごしに声をかけると、ストーヴのそばに寄ってきた。「ガンサートさん、少し寄って下さい。わしらは少々暖まらなきゃならん」彼の声は濁って、疲れているようだった。足もともおぼつかなかった。「あんたの友だちのファーネルのために、わしらはすんでのところで殺されかけた。わしらが小屋を見つけたのはまったく運がよかったんだ」
彼の連れの、背の高い、細いとがった顔の男が入ってきて、ドアを後ろ手に閉めた。ぼくがジルのほうへ寄る間に、二人は火を囲んだ。彼らが赤く灼《や》けたストーヴの上に背を丸めると、その服から雪が湯気を上げた。「わしの部下のゴールデルはどうしたかな?」と、ローヴォスはぼくにたずねた。
「ゴールデルって誰だね?」ぼくは聞いた。
「わしの部下の一人だ。わしはあんたを見張るように、あれを後に残してきた。何があったんだ? それにあんたの連れはどうした? あれはスンネだったろう?」
「そうだ。ぼくと一緒にいたのはスンネさ。だが、彼は足をくじいた。だからぼくは一人で来たんだ」
「すると、ゴールデルも足をくじいたというわけか?」彼の太いまゆが寄った。赤いふちをした細い眼が、じっとぼくに向けられていた。「ガンサートさん、何があったんだ?」そしてぼくが返事をしないでいると、ふいに彼は怒鳴った――「答えないのか! 彼はどうなったんだ?」
「ぼくが知るわけがないだろう。そいつはきっと道に迷ったんだろうさ」
彼の身内に急に怒りが湧くのが、ぼくには分った。しかし彼は疲れていた。彼はため息をついただけで、ストーヴの鋳鉄のわくに大きな腹を押しつけた。「その事は後で話そう」
しばらく沈黙がつづいた。彼の顔に血の気がさしてくるのが、ぼくの眼に映った。もうそれはむらさき色ではなく、赤々と光ってきた。この男はひどく頑健なのだ。彼はぼくと同じように長い旅をして、ぼくがここで火の前にうずくまっていた間も、刺すような吹雪の中をスキーで歩いていたのだ。それにもかかわらず、彼はもう元気を回復している。
ぼくはスンネが短かい足でらくらくとあの道を歩いていたことを思い出した。それに、この男は寒さにも慣れているのだ。南極の捕鯨旅行にも参加している。ぼくはジルのほうをちらっと見た。彼は彼女に何かするかも知れない。彼は危険な男で、大金のかかった勝負をしている。そのためには法を破ることも辞さないのだ。目的を達するためには、これからも破るだろう。ファーネルの知っていることを握ってしまえば、彼は安全な身になるのだ。ぼくは気づかれぬようにじりじり自分のリュックのほうへ移って行った。
「動くな、ガンサートさん」と、ローヴォスは鋭く言った。Halvorsen. Ga gjennom tingene deres. Se om der er noen skyterapen.≪ハルヴォシェン。さあ、仕事をやってしまえ。武器を持ってないか調べるんだ≫
彼の仲間は部屋を横切ってぼくのリュックのところへ行くと、そこからピストルを取り出した。それから彼はジルの荷物を調べた。最後に彼はぼくらの後ろに回って、服の上から体をさぐった。そしてピストルをローヴォスに渡した。
ローヴォスは弾倉を調べた。「なるほど。あんたは一発も撃ってない。しかし、スンネはおそらく撃っているだろう、なあ?」
ぼくはその質問を無視して、窓のほうを見つめた。と、突然疲れた筋肉の中で神経がぴんとなった。窓から雪が拭《ぬぐ》われた。一つの手が外側からガラスをこすったのだ。そして明るくなったそこから顔がのぞいた。ファーネルか? はっきり分らなかった。ただ、鼻と口と、一対の眼が、一瞬ぼくの眼とかち合った。
「ゴールデルはどうなったんだ?」とローヴォスが詰問した。
ぼくは窓から振り返った。もしあれがファーネルだったら、警告してやらなければならない。彼がのぞき込んだあそこからは、ローヴォスは見えなかったに違いない。しかし、ぼくが話しつづければ、小屋に第三者がいることを彼も知るだろう。
「ゴールデルというその男は、あんたと一緒に出発したのか?」とぼくは聞いた。
「もちろんだ」ローヴォスは答えた。「わしらは三人でアウルランドを立ったんだ。ガンサートさん、あんたもそれは知ってるだろう。オステルブウで何があったんだ?」
「何が起こるはずだったんだ?」
「わしは何があったかとたずねているんだ」
「だから、何が起こるはずだったとあんたに聞いてるんだ、ローヴォス船長」ぼくはやり返した。「あんたは彼を後に残したんだろう。ぼくらを殺させるつもりだったのか?」
「わしはばかじゃない。あんたを殺しても仕方がない。あんたがどの程度知っているか、わしは知らないんだ」
表のドアが細目に開いたのを、ぼくは感じた。「では、なぜ彼を後に残したのかね、ローヴォス船長?」
「わしが彼を後にのこしたことをどうして知ってるんだ?」
「あんたがそう言ったからさ、ローヴォス船長」ぼくは大声で答えた。
「わしは何も言わん」と彼は鋭く答えた。そして彼はまたまゆを寄せた。「なぜそんな大声を出すんだ? それに、ローヴォス船長、ローヴォス船長といちいち言うのは、どういうわけだ? ガンサートさん、あんたは何をたくらんでるんだ?」
「やあ――やっぱりあんただったか、ガンサートさん」
ぼくの後ろで声が起こった。だがそれはぼくが期待していた声ではなかった。ぼくは振り返った。戸口にダーレルが立っていた。小さな体が雪に覆われ、顔は灰色をして、口元のしわが彫ったように深くなっていた。そして彼は例の不気味な微笑を浮かべていた。
「ヨルゲンセンはまだ着かないかね?」
「ヨルゲンセンが?」
「うん。まだ着かんかね?」
「ええ」とぼくは答えた。
「そうか。それはよかった。わしはホテルから彼の後を追ってきた。そうしたら吹雪の中で見失ったのだ。彼ももうすぐ着くだろう」
ダーレルはリュックをテーブルに下ろすと、萎えた手をこすりながら、ストーヴのそばに寄った。「あんたも来てたのか?」それがローヴォスに対する彼の挨拶だった。
「うむ。わしは来たが、部下を一人失った」
「どうしてだ? 何かあったのか?」ダーレルはす早くローヴォスからぼくに眼を移した。「誰か怪我でもしたのかね」
ぼくは答えなかった。
「スンネはどこだ?」と彼はたずねた。「ガンサートさん、あんたはあれと一緒に来たんじゃなかったのかね」
「彼はステーンベルグ谷にいますよ」ぼくは答えた。
「そうか」ダーレルは、頭をそらすと、ローヴォスを見上げた。「ファーネルはどこだね?」
「わしは知らん」ローヴォスはむっつりした口調で答えた。彼がダーレルを嫌っていることは明らかだった。が、この不具者に対すると、彼のから威張りは消えた。まるで彼はダーレルを恐れているようだった。
「わしは知らん、か?」ダーレルはその口まねをした。「何があったか、あんたにもいずれ分ることだろう。ヨルゲンセンはまもなくここに着く。そうしたら一騒動起こるだろう。あの男は寛大な人間ではないからな、ローヴォス船長。あんたは彼のじゃまをしたんだ。彼には警察がついている」
「警察が?」ローヴォスはうなった。「ここへ来るのか?」
「いや。警官はホテルにいる。だが、ヨルゲンセンはいまシュラウダーという名で知られている男より、ほかの連中を逮捕するように彼らを待機させているようだ」
ローヴォスはちょっとためらった。それから急にストーヴのそばを離れた。Kom, Halvorsen. Vi ma ga.≪来い、ハルヴォシェン。わしらは行くんだ≫
ダーレルは達者なほうの手で、彼の腕をつかんだ。萎えた手のほうはまだ赤く灼けたストーヴの上にかざしていた。「待ちなさい、ローヴォス船長。あわてることはない。ヨルゲンセンはまだ警官に何も言ってない――いまのところはな」ダーレルの小さな黒い眼が、捕鯨船の船長の顔にじっと向けられた。
「あんたは何を言いたいんだ?」とローヴォスは聞いた。その声はいらいらして、不安そうだった。
「わしは何も言うつもりはない」ダーレルはゆっくり答えた。「もしあんたがファーネルをつかまえたら――そのときは事情が変わってくる。あんたの身は安全になるのだ。船長、あんたは何事にもそそっかしい。事を急ぎすぎるのだ。法は守らにゃいかん。もしそれを破るつもりなら――成功するあてがなければならん、そうだろうが? ヨルゲンセンや、ここにいるガンサートさんが、ファーネルから聞き出そうとすることを、もしあんたが手に入れたら――あんたのやったことは正当化されるのだ。しかし、それがなかったら――」彼はことばをきって、それから静かに言った。「が、ここから警官のいるホテルまでは遠い。それにこの吹雪だ」と彼はネコのようにじっとローヴォスを見て、意味ありげに口をつぐんだ。
彼はローヴォスにヨルゲンセンを殺させようとしているのだろうか? この男を駆り立てているのは何だろう? ヨルゲンセンに対する憎しみか? 自分の無実を証明しようとする欲望か? 何のために彼はファーネルの後を追うのか――ファーネルの破滅を策しながら、一方で、戦争ちゅう彼をこの山中で捜し求めたように、また彼の助けを得たいと捜し求めているのか?
ぼくはスンネのことばを思い出した――「ダーレルは頭が狂っている」それ以外に説明のしようがない。戦争ちゅうに受けた苦しみで、彼の心は平衡を失ったのだ。彼は機密を敵に売ったのかも知れない。しかし、自分がそんなことをしたとは信じないのだろう。彼はあくまで自分が無罪であり、ファーネルがそれを証明してくれると信じているのだ。そして彼は、ファーネルのように、自分の目的を遂げるためにはどんな手段でも取るつもりなのだ。ヨルゲンセンは彼にとって、憎しみと戦いとの対象だ――先の見通しのきく、成功したヨルゲンセンは。彼はあらしの北海でヨルゲンセンを殺そうとした。いまぼくはその事に確信を持った。そして現在、彼は両立しない利害関係を説いて、ローヴォスをヨルゲンセンにけしかけている。そうだ、彼は狂っているのだ。
彼はふいにぼくのほうを向いた。「じゃ、あんたはファーネルに追いつけなかったんだね? ファーネルはいまどこにいる?」
「たぶんフィンセへ行く途中でしょう」ぼくは答えた。
彼はうなずいた。「そうかも知れん」そして腕時計を見た。「いまは十一時をちょっと回ったところだ。オスロ行の列車は十二時三十分にフィンセに着く。これが三十分おくれたとすると――この国の鉄道はいつもおくれるのだ――彼は二時間あることになる。それならおそらく間に合うだろう」彼はリュックサックのほうへ向いかけるローヴォスをちらりと見上げた。「ローヴォス船長、ただしその列車には警官が乗ってるだろう」
ローヴォスは足を止めた。それからゆっくりダーレルのほうへ戻ってきた。この不具者を絞め殺したいと彼が思っているのが、その顔つきでぼくには分った。だが、何かが彼を押し止めた。冷たい、生気のないダーレルの眼には、ふしぎに人を刺激する何かがあった。
「ファーネルの身辺には、すっかり網が張られている」と、ダーレルはうすら笑いをしながら言った。「そしてあんたの回りにもな」
小屋の横にスキーを立てかける音が聞えた。それから表のドアが開いた。ダーレルは微笑しながら、ローヴォスのほうをちらりと見た。表のドアがしまって、びょうを打った靴音が聞え、やがて部屋のドアが開いてヨルゲンセンが入ってきた。白いスキー服を着た長身の姿が、しなやかで、きびきびしていた。なめし革のような顔は、かぶった雪の白さで、ふだんよりいっそう黒ずんで見えた。彼は立ち止まると、部屋を見回した――まずジルを、それからぼくを、そしてローヴォスとその仲間を、最後にダーレルへ眼を向けた。
「彼はどこだ?」とたずねてから、ぼくのほうを向いた。「ガンサートさん、あなたは彼の後を追ったんでしょう。彼に追いつけなかったんですか?」
「彼ってファーネルのことですか」
「もちろんですよ」
「ぼくが彼の後を追ったことを、どうして知っているんです?」
「ノルウェーは狭い国です、ガンサートさん。もしそうしようと思ったら、どんな情報でも手に入れられますよ。どうもあなたの顔色から見ると、成功しなかったようですな」彼はローヴォスのほうを向いた。「きみはわたしの指示に従わなかったんだな? わたしはボヴォーゲン・ヴァールで命令を待つようにと、きみに言ったはずだ。しかし、きみは自分でやることに決めたらしいな。ローヴォス船長、やるがいい。が、気をつけたほうがいいぞ」その声は突然荒々しくなった。「わたしは無視されて黙っている男ではない――きみが成功すればともかくな。わたしにはきみが成功するとは思えん」彼はダーレルを黙殺してぼくのほうを向いた。「いま、ファーネルはどこにいるんです?」
「どこかそのへんでしょう」ぼくは雪の積った窓をさして言った。
彼はうなずいた。「アウルランド、オステルブウ、イエイテリゲン、サンクト・ポールか」と、彼は独り言のようにつぶやいた。「すると彼は鉄道を目指しているわけだな、よし」自分の手配に満足そうにうなずいて、彼はダーレルを見た。「あなたはこの国を出て行ったほうがいい。ガンサートさんとね」
「ぼくをほうり出す気ですか?」ぼくは聞いた。
彼は肩をすくめた。「とんでもない」と彼は心外そうに答えた。「しかしあなたは任務を果せなかったのだから、当然イギリスへ帰りたいでしょう――地中海への旅行に出るためにもね。クリントン・マン卿がノルウェーにいるあなたにいつまでも資金の援助をするとは思えませんな。あなたがこの任務に成功していれば――」そこで彼は肩をすくめた。「そのときはまた別ですがね。そうすれば、われわれも提携して仕事ができる。つまり――」と彼はあとのことばを濁した。
「しかしあなたはまだ財源を必要としているんでしょう」とぼくは言った。
「それはそうだが――」
「クリントン・マン卿はぼくの推薦しだいで事業の相談に応じるでしょう」ぼくはそれから言い足した。「これまであなたとの商談が進まなかったのは、あなたが珪トリウム鉱の性質も所在も知らないと思われていたためです」
そのとき、ジルが急に口を入れた。「でもヨルゲンセンさん、あなたはその鉱床がどこにあるか、まだご存じないんですわ」
彼はまゆを寄せた。「サマーズさん、警官は列車でファーネルをつかまえますよ」
「ことによるとね」と彼女は答えた。「でも、どうやって、彼にそれを話させるんです」
「話しますとも」彼は彼女のほうへ一歩寄った。「いいですか、サマーズさん。ジョージ・ファーネルは殺人のかどで追われているんですよ。彼はジョージ・ファーネルの殺人事件で、シュラウダーとして裁かれるかも知れない。あるいは、シュラウダーを殺したジョージ・ファーネルとして裁判になるかも知れない。そんなことはどちらでもいい。とにかく、ノルウェーに協力すれば、無罪放免になるのです」
「それであんたは良心がとがめないのか、ヨルゲンセン?」ダーレルが例の不気味な微笑を浮かべて聞いた。
「わたしのすることは、ノルウェーのためを思ってしているのだ」と、ヨルゲンセンは怒鳴った。「わたしのすることはすべてそうだ――戦中も、戦後も――わたしの考えているのはノルウェーのことだけだ。ノルウェーはこうした鉱物資源を必要としている。そうすれば魚と製材に頼る貧しい国から、富める国になるだろう。三百万の人間の暮らしに対して、一人の男の生命が何だ? それに、もしファーネルが殺さなかったとしたら、誰がシュラウダーを殺したのだ?」
「それでも、あなたは情報を手に入れることはできませんわ」とジルが言った。
ヨルゲンセンは急に笑い声をあげた。「サマーズさん、助かるのにわざわざ終身刑を受ける者がどこにいます。ファーネルは話すでしょう」
けれど、ジルは彼のほうへ歩み寄った。
「あの人は絶対言いませんよ。ジョージは金属のほかには、なんにも関心を持っていません。その目的のためには一切のものを犠牲にしているんです――一切のものを。わたしは知っています」彼女はしずかに言い足した。「あの人はしゃべりたくなければ、投獄するとおどかされても、何もしゃべらないでしょう。絶対にあの人は――」
ぼくの背後でドアがさっと開き、彼女はことばを切った。そして口を思わずあけると、ささやくような声になった。「ジョージ!」
「テーブルのところへ下れ、みんな」それはきびしい、必死の口調だった。
ぼくは振り返った。戸口に、ルガーを手にしたジョージ・ファーネルが立っていた。もしジルが名を呼ばなかったら、ぼくは見分けがつかなかったろう。彼の顔は蒼白で、何日もそらないひげが伸びていた。雪がその全身に張りついていた。彼の声は冷やかで、金属的だった。「さあ、下るんだ、みんな。ジル、きみもだ」彼女に言ったのはそれだけだった。彼は彼女を一目で見分けた。しかし、それが彼の挨拶のすべてだった。
「ファーネル!」とぼくは言った。「ここで会えてよかった。オスロ行の列車には乗るな。それには警官が乗っている」
「知っている。聞いたよ。ヨルゲンセンがここに着いていらい、おれはドアの外で聞いていたんだ。さあ、下るんだ――きみもだ、ガンサート。おれは誰も信用しない」
ぼくは体がテーブルの固いへりにつくまで後退した。
「ジル、テーブルの向こう側に回って、みんなからピストルを取り上げろ。それをおれのところへほうってよこせ」
だが、彼女は動かなかった。
「ジョージ。わたしの言うことを聞いて。ガンサートさんはアウルランドにヨットを持ってきてるのよ。わたしたち、あなたをイギリスへ連れて行けるのよ。あなたはここにいてはいけないわ。シュラウダーという男を殺したかどで、逮捕されようとしているのよ」彼女は声をつまらせた。「わたしはフィアールランでその死体を見たわ。あれは――あなたが殺《や》ったんじゃないんでしょう?」
「おれの言うとおりにするんだ」彼は感情を動かされた風もなく答えた。「みんなからピストルを取り上げるんだ」
ジルはためらった。「あなたは彼を殺してはいないんでしょう、ねえ?」と、彼女は再びたずねた。
「もちろん、おれが殺ったんだ」ファーネルは荒々しく答えた。「ほかにどうしようがあるんだ――ナチに協力していたブタが、おれの苦労したものを盗もうとしているときに? 二年間、おれはフィンセで強制労働をやらされたんだ。自分が発見したいもののために、自由を得ようとして、ドイツのやつらの機嫌をとりながら這いつくばってな。そして戦後は地下にもぐった。イギリスに帰ることもできなかった。あいつに跡をつけられて、仕事をしている所を見られたと気づいたとき、ほかにどうしようがあるんだ? さあ、ジル――ピストルを取り上げろ」
ぼくは彼女の顔をちらっと見た。鋭い、きびしい表情がそこにあった。彼女は顔をそむけると、テーブルの後ろへ回った。そして三丁のピストルを集めると、それをファーネルの足下の床へ投げた。
「よーし」とファーネルは言うと、それを足で部屋の隅へ蹴って、ストーヴのそばへ寄った。「そうか、あんたはオスロ行の列車に警官を張り込ませたのか、ヨルゲンセン?」彼はめがねごしに、ぼくらをじっとうかがった。「いったい、何でこんなにみんながここに集まってるんだ? 誰かがしゃべったのか」彼はぼくらの顔を探るように見た。それからその眼がブランディのフラスコに落ちた。彼はそれを拾い上げると、ぐーっと飲んだ。「うまい。そうか、ガンサート、きみは自分の船ではるばるイギリスから来たってわけか――おれを見つけるためにか?」
ぼくはうなずいた。
彼は微笑した。「人が生涯をかけて戦ったことをやっとやり遂げた時、他人が助けにきてくれたってわけか?」彼はいまいましそうに、くるっとぼくのほうを向いた。「その時はもう他人の助けなんぞ要らないんだ。助けが要るときには、いないくせにな。用がなくなってから、りっぱなヨットで遠路はるばる捜しにくる。ちくしょう! もしおれが鉱物学の代りに、考古学にでも興味を持っていたらなあ――おれの生涯はどんなに愉しいだろう! 考古学には金はかからん。だが鉱物には! 南ローデシアでやつらが給料さえ払わずに、おれたちを追っ払おうとしたのを覚えているか。あの時、おれは銅の鉱脈をつきとめた。それからってものは、やつらはおれたちにもう何もできなかったんだ――あのばか野郎どもはな」彼の顔が苦々しげにゆがんだ。彼は苦しい道を歩んで来たのだ。彼はしばらく物思いにふけっていた。誰も口をきく者はなかった。ゆっくりと彼は眼を上げると、ヨルゲンセンをまっすぐ見つめた。「ジルの言ったことは当っている」彼はしずかに言った。「あんたが刑務所を持ち出しておどしても、おれは何も言わん」
ジルが彼のほうへ一歩ふみ出して、足を止めた。「なぜあなたは珪トリウム鉱がどこにあるかビルに教えないの? 彼はあなたと公正な取引をするわ――彼のうしろにはBM&Iがついてるのよ」
「そうか、ビル? ビッグ・ビル・ガンサート」彼は皮肉な笑い声をあげた。「ジル、それできみはビルの保証人になるというのか? おれの女が彼をビルと呼び、彼の保証人になるからって、おれが生涯の仕事を彼にくれてやると思うのか。くそくらえだ」彼はぼくに向って叫んだ。それからジルのほうを向いた。「いったい、きみは――」そして口籠ると、手で顔をなでた。「いや、きみの落度じゃない。落度はおれにあるんだ。だが、きみに分らせることができたらなあ、ジル」
「でもわたし、分ってるわ」と彼女は穏やかに言った。
彼は長い間、探るように彼女を見ていた。
「きみは分ってくれているかも知れない」彼はため息をついて言った。「だが、いまとなってはもう遅い」彼は背を伸ばすと、銃口の向きをその視線に合わせて、ぼくらをぐるつと見回した。「おれはきみらみんなからおさらばする」
「フィンセには警官がいるわ」とジルが言った。
彼はうなずいた。「分ってる。そんな事だろうと思った。ヨルゲンセンがここにいるのを見て、そんな事だろうと思った」彼はピストルの台尻で壁板をガンと叩いた。「おれは自分の国から追い出された人間だ。今度はノルウェーからも追い出されようとしている。なぜだ? なぜなんだ?」彼の声はヒステリックに高まった。「おれは自分がやらなければならないことをやった。あの金属はおれが生涯をかけた仕事だ。おれは調査の費用が入用だった。イギリスの機関がそれをおれに出してくれたか? 大会社が関心を示したか? ノーだ」彼は憤然としてぼくを見た。「BM&Iだってそうだ。だからおれは金を盗んだんだ。仲間から盗んだんだ。あいつは、のろまな、想像力のない、ケチな男だった。だが、いま――いまおれは骨の折れる下工作をやり遂げて、やつらのほしがっている物を手に入れた――すると、やつらは殺人の罪を赦すという――シュラウダーのような裏切者の人殺しをやっつけたことを、殺人と呼ぶのならな。あれはきみらには渡さんぞ――きみらの誰にもな。おれは出て行く。誰にも知られない所へ行くんだ。そうして自分で話をつける」
「きみはこの場で好きなように話をつけられるんだ」ぼくは言った。
彼はぼくを見た。「それはどういう意味だ?」
「ぼくはBM&Iから一切の権限を任されている」とぼくは説明した。
彼は笑った。「それでおれにどういう提案をするんだ?」
ぼくはためらった。いったい、ぼくは彼にどういう提案をしたらいいのか?
「きみは売渡しの価格を知りたいのか、それとも原鉱の採掘による利益のパーセンテージをきめたいのか?」
「売渡したらいくらだ?」彼は冷笑しながら、ぼくをじっと見つめた。
「十万ポンドだ」とぼくは言った。「鉱床が採掘されている限り、五年以上にわたって支払われる」
彼は頭をそらして笑った。「十万ポンドだと! たとえ百万と言われたって、おれのやったことは償えないだろう――ジルにとっても――あの哀れなクレッグにとってもな。それでシュラウダーが生き返るわけでもなし、おれのおやじの自殺を止めることだって出来なかったんだ。きみは知らんだろう。おれのおやじは自殺したんだ。百万か! あの鉱床は、それを持った会社にとっては、百万の十倍もの値うちがあるんだ」
「ノルウェー製鋼会社の重役になって、事業の歩合を取ったらどうかね?」とヨルゲンセンが言った。
彼はため息をついた。「おれが持っているものが、あんたたちには分っていないようだ。それはノルウェー製鋼会社より大きいものなんだ。BM&Iより大きい。世界最大の工業会社になるだろう。とにかく、おれはきみらを信用してない」と彼は怒鳴った。「おれはきみらの誰一人も信用してない」
「じゃ、きみは誰を信用するんだ?」とぼくは聞いた。「きみがあのサンプルを送った人物はどうなんだ――鯨の肉の中に入れた。その人たちは信用しているのか? あれは誰に宛てたのだ?」
彼は眼を大きくした。「その相手が誰か、きみは知らないというのか? しかし、おれは――」彼はジルのほうを見た。「おれはきみがそれでここに来たと思っていた。きみがガンサートに知らせたんじゃないのか?」
今度はジルが眼を見張った。「あなたは何のことを言ってるの?」
「あのサンプルさ――きみはあれをガンサートに渡したんじゃないのか?」
「わたし、サンプルなんか全然受取らないわ。ガンサートさんが持ってるけど、それはクリントン・マン卿から受取ったものよ」
「あれは新聞広告でぼくらのもとに届いたものなんだ」ぼくは説明した。「包紙の宛名は血で読めなくなっていた」
「それでこういうことになったのか」彼はまたジルのほうへ眼を移した。「すまなかった。おれが考えていたのは――」
彼は手で顔をこすった。ひどく疲れている様子だった。
「なぜあなたはガンサートさんを信用しないの?」と、ジルが再び言った。「ねえ、ジョージ、お願い」
彼女は彼のほうへ寄ったが、彼は手を振って彼女を下らせた。「テーブルについているんだ、ジル。そのサンドウィッチの包みをほうってくれ」
彼女は包みを投げた。彼はまたフラスコからブランディを一口飲むと、サンドウィッチを食べだした。
「彼はあなたをノルウェーから連れ出してくれるわ」とジルは嘆願するようにつづけた。「彼はヨットを持って来ているのよ。準備はすっかりできてるわ。わたしたち、また最初からやり直すことができるのよ。ねえ、ジョージ――彼を信用して」
「おれは誰も信用しない」彼は口に頬張りながら、ののしった。
ぼくが見つめていると、ジルの下唇が震えていた。彼女の眼ざしは曇って、生気がなかった。
ダーレルが萎えた腕をゆすり始めた。右手は自分のスキー服をしきりに引張っていた。「ファーネルさん」と彼は言った。「あんたに話しがある。わしはあんたに聞きたいことがあるんだ。あんたは一度、わしの命を救ってくれた。わしはもう一度あんたに助けてもらいたい。わしがどうやって逃げたか、あんたからこの人たちに話してやってもらいたいんだ。ドイツのやつらにわしが秘密を売らなかったと言ってくれ。この人たちに――」
「黙っててくれ!」とファーネルは荒々しく叫んだ。「おれは考えているんだ」
「お願いだ――言ってくれ。そうしないと、わしはノルウェーに入れない。みんなはわしを売国奴だと言うんだ。わしはそんな人間ではない。わしは秘密を漏らさなかった。お願いだ、みんなにそう言ってくれ。フィンセからあんたがどうやってわしを逃したか、話してやってくれ」
「黙れというのに分らないのか!」ファーネルは絶叫するように言った。
ぼくはダーレルのほうを見た。彼の顔はもう狡猾そうでもなければ、皮肉な微笑も唇に浮かんではいなかった。彼は菓子を取り上げられた子どものような顔をしていた。その瞬間、ローヴォスのずんぐりした体が緊張するのが、ぼくの眼に映った。ジルもそれに気づいたとみえて、急に叫んだ。「ジョージ! 気をつけて!」とたんにローヴォスは両手でダーレルの体を抱き上げると、それをたてに、ファーネルのほうへ突進した。
ファーネルはためらわなかった。彼はピストルを構えると、腰のあたりから引金を引いた。銃声が狭い部屋にとどろいた。ローヴォスは叫び声をあげると、ダーレルを離し、左肩を押えてくるっと体を回した。ファーネルはサンドウィッチの残りを口へ押し込んだ。「このつぎは撃ち殺すぞ」血がローヴォスの指の間を流れた。彼の顔は蒼白で、痛みに歯をむき出していた。
「ガンサート」とファーネルが呼んだ。「こっちへ来てくれ。話がある」
ぼくは彼のほうへ部屋を横切った。彼はじっとぼくを見つめた。まだ煙の出ている銃口がぼくに向けられていた。
「きみの船はどこにあると言った?」
「アウルランドだ」
彼はぼくのそばに寄ると、上体をかがめて耳元でささやいた。「それをペルゲンの南のビヨールネ・フィヨールドへ回してくれ。ウーラフ・スティールに連絡して、そこでおれを待っていてくれ。おれは行くかも知れないし、行かないかも知れない」
「なぜぼくの提案を受け入れないんだ?」とぼくは言った。「少なくともBM&Iと交渉するチャンスぐらいくれてもいいだろう」
「おれの言うとおりにするんだ。その事は後で話そう。さあ、元へ戻れ」彼は床から起き上ったダーレルのほうを向いた。「外へ行って、おれのスキーのほかは全部坂から流せ。さあ、早くするんだ」
ダーレルはちょっとためらった。しかし、けわしいファーネルの眼つきに会って彼は出て行った。「おれのスキーはドアの左側にある」ファーネルはリュックを取り上げると、そのつり革に腕を通した。
「きみはばかだ」と、ヨルゲンセンが怒ったように言った。「わたしが面倒な事から助け出してやれるのに。もしきみが望むなら、イギリスとノルウェーの合弁会社を作ってもいい」
「そうしてあんたがその主導権を握るのか――シュラウダーや、いまの事件を種におれをおどして」彼はローヴォスのほうへあごをしゃくった。「ヨルゲンセン、きみこそおれをばかにしないでくれ」彼はふいに怒鳴った。「シュラウダーが誰に使われていたか、おれが知らないと思ってるのか? おれはおれのやり方でこれを処理する。きみが何をしようと、おれはやめないぞ」
「ジョージ!」とジルが一歩前へ出た。「あなたにはチャンスはないわ。警察が――」
「警察なんぞ、くそくらえだ」彼は腕時計をちらっと見た。「スキーは流したか、ダーレル?」
「ああ」という低い声が、開いたドアから吹き込む冷たい風にまじって聞えた。戸口のそばの板敷に、舞い込んだ粉雪が白く積っていた。
ファーネルは体をゆすって肩の荷の重みをかげんしながら、後退した。彼はひげの中から歯をのぞかせて微笑すると、ちょっと戸口に立っていた。「ヨルゲンセン、もしおれに用があったら、オスロ行の列車に乗っているぞ。だが、きみの警官はおれを見つけられまい」
そしてふいに彼は去り、ぼくらは閉ったドアをじっと見つめていた。そしてぼくはまたしても、小屋に当る風力と、窓に積った雪のことが気になった。
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第十章 「|蒼い氷《ブローイーセン》」
ファーネルが去っても、一瞬、小屋の中では誰も動かなかった。彼の出て行き方があまりふいだったので、虚を突かれて誰もどうしていいか分らなかったのだ。ローヴォスは肩を押えて、テーブルの上に屈み込んでいた。ハルヴォシェンが大きなナイフで彼のジャケットを切り裂いた。いつもはす早いヨルゲンセンも、じっと立ったまま閉ったドアをにらんでいた。ぼくはジルと眼を見合わせた。彼女はぼくを見ると、気持を傷つけられたように顔をそらした。その顔はひきつって、冷たかった。あごを男のようにきつく引いていた。
「何とかしなきゃいけないわ。もし警官に捕まったら――」彼女はそう言いかけて、ドアのほうへ向った。
ぼくはウィンドブレーカーのチャックを上げながら、その後に従った。彼女が表のドアをあけると、さらさらした粉雪がさっとぼくの顔を打った。戸外では、小屋の立っている尾根とほとんど水平に、雪が風で飛ばされていた。陰気な灰色の明りの中を、黒い斑点となって無数の雪片が流れて行き、全世界が動いているような気がした。ぼくらが小屋から出てくると、ダーレルが顔を上げた。彼は残った自分のスキーを穿こうとしていた。ぼくは彼に声をかけた。「ぼくらのスキーはどこだ?」だが彼はそれには答えず、スキーを足に留めるのに熱中していた。それから彼は体を起こすと、ぼくらに最後の一瞥をくれて、スティックを雪につき立て、背を向けて降りしきる雪の中をつき進んだ。
「ダーレルさん!」とジルが呼んだ。「待ってて下さい」
彼は肩ごしにちらっと振り返った。光線のせいか、ぼくにはその顔があせりで逆上しているようにゆがんで見えた。それから彼は前進をつづけ、たちまちぼーっとした影になったと思うと、吹雪に呑まれて見えなくなった。
ジルがぼくの腕をつかんだ。「早く! わたしたちのスキーはあそこにあるわ」
小屋の壁にまだ立てかけてあるスティックをつかむと、彼女はその二本をぼくの手に押しつけ、歩いてそちらへ向った。ぼくもその後を追った。柔かな雪の表面の下には、固く凍った根雪があった。降りて行くうち、風がやたらにぼくの顔を打った。雪の中を歩む苦しさと、冷たさが、ぼくの血の循環を元に戻した。ぼくがジルに追いついたとき、彼女はもう自分のスキーをつけていた。幸い、スキーはみんな吹き溜りの個所にかたまっていた。ぼくは自分のを見つけて、靴にむすんだ。ぼくが体を起こしたときには、ヨルゲンセンもそこに来ていた。
「サマーズさん、気をつけたほうがいい」と彼は言った。「この天候ではひどく危険だ。道に迷うかも知れない」
「危険は承知です」と彼女は答えて、小屋のほうへ坂をのぼり出した。
ぼくはその後についた。ぼくの手足は、板のようにこわばっていた。けれど、斜面の頂上に達したときには、四肢は多少自由に動き、苦しい歩行で体も暖まってきた。小屋の所在はもう吹雪の中に見えなかった。ぼくらが降りた跡も消えていた。ジルは磁石を手にしていた。「磁石で進むよりほかはないわ。フィンセは真南からちょっと西寄りよ。いいこと?」
ぼくはうなずいた。
彼女はスティックを雪につきさし、尾根にそってすべって行った。「離れないようについてくるのよ」と彼女は声をかけた。「危険だから、ゆっくりね」
こうしてまた気違いじみた旅が始まった。雪が降りしきるので、視界は数ヤードしかきかなかった。風はナイフのように体を切って過ぎた。いまは標識も見えない。ジルは磁石と直感でぼくを導いた。彼女のリードは巧みだった。彼女は土地勘を持っていたが、それは理屈ではなく、むしろ本能的なものだった。ぼくらは出来る限り尾根伝いに進んだ。しかし、ときどき急斜面を下って、また向こうの尾根によじ登らなければならなかった。が、行くうちに、上り坂より下り坂のほうがふえて、前進はずっとらくになった。
何度かぼくらはその先に何もない陥没地点にぶつかった。おそらくそれは二十フィートか三十フィートの陥没だろう。だが、雪の中ではその深さは分らなかった。一度などは、長い坂になった雪原を登って、雪でぶちになった黒い岩の切り立った崖にぶつかって、進路をはばまれた。ぼくらはそこを迂回して、山の長い切通しをすべり降りた。
この滑走でジルの姿が完全に見えなくなった。しかし彼女のスキーの跡はぼくの行手にはっきりついているので、前方のどこかにいることは分っていた。が、いったんその跡から離れたら、ぼくは降りしきる雪の荒野で一人になってしまうだろう。と、ふいに彼女の姿が吹雪の中から現われた。彼女はぼくに何か叫びながら、スティックを振り回している。ぼくはジャンプ・ターンをして、雪の中に顔をつっ込んで倒れた。ぼくの腕の下に手をさし込んで、彼女は立たせてくれた。「どうしたんだ?」とぼくは雪でほとんど見えなくなっている彼女の顔をのぞき込んでたずねた。
彼女はぼくを向きかわらせて、指さした。ぼくは身震いした。それはぼくがこれまで見たこともないような恐ろしい眺めだった。彼女がす早い回転をして雪をかき乱した個所のすぐ向こうで、雪は陥没し、白から冷たい緑色に氷の色が変わっていた。知らぬ間に氷河の上に出て、割れ目にかかっていたのだ。それは幅十五フィートもある大きな割れ目で、深さは分らなかった。ぼくはできるだけ近寄ってのぞき込んだが、底は見えなかった。
いま、ぼくらが眼の前にしているのは、緑の水晶のように、固くしっかり凍りついた数百万年も経た氷なのだ。ぼくはジルのほうを見て、彼女も同じことを考えているのを知った。彼女は危うく命びろいをしたのだ。もう少しスピードを出していて、この緑色の大きな割れ目を見逃したら、二人は奈落の底に落ち込むところだった。
「行きましょう」と彼女が言った。「引き返して、上のほうでこれを越えなきゃならないわ」彼女はつとめて気持を落着けるようにして言ったが、その声は震えていた。
ぼくらは向き変わって、クレヴァスと平行して、せっせと登った。割れ目はしだいに狭くなり、ついに雪がその間に橋をかけていた。ぼくらはさらにもう少し登って、そこからこの氷河を越えた。
その後はもうクレヴァスにも出会わず、まもなく雪の中から頭をつき出した巨きな岩が向こう側に一面に散らばっている一つの尾根の頂上に立った。足下には長い斜面がつづいている。ぼくらは再び南へ向って、そこを滑降しはじめた。しかし今度はジルはずっとペースを落としていた。
しばらくすると、雪は小降りになり、陰欝な灰色の光線は、ふしぎなにじ色の光によって薄められた。このにじ色の光はしだいに強くなって、しまいには眼が痛くなってきた。雪がふいにあがった。にじ色の光はもやだった。しばらくすると、もやは巨きな手でかき回されたように揺れ動き、ぼーっとしたヴェールがはがされて、太陽が輝いた。雪の白さは、目がくらむほどだった。西の空が青かった。雪を頂いた峰々は、ぼくらにやさしくほほ笑みかけた。小屋での激しい吹雪が、いまでは悪夢のように思われた。ぼくらは、白い雪と、茶色の岩の、気持のいい世界にいた。ジルが振り向いて、ぼくを手招きした。彼女は微笑していた。次の瞬間、ぼくらはスキーの上に低く身を屈め、風のように走り出した。スキーの先がさらさらした粉雪の中でしゅーしゅー鳴り、冷たい空気が頬を打った。
ぼくらは長い谷間を滑降した。先に立ったジルは、ぐんぐんスピードを出した。この果しない斜面を下って行くうち、ぼくは膝関節に疲れを覚えた。ファーネルの後を追う爽快な気分、雪の中を無事に進むための注意力の集中、クレヴァスを見たときぼくを襲った恐怖――そんなものが組合わされて、ぼくに力を与えていた。しかし、いま、やさしい直線の滑降にかかって、ぼくの力は衰え、あまりにも長かった徹夜の山越えの疲労が出てきた。
谷間の底でぼくらは山々のすそを大きく迂回した。ぼくが最初に転倒したのはそこだった。どうなったのか、ぼく自身にもよく分らなかった。雪は深く、ぼくはスキーを回して起き上ることができなかった。ぼくの膝関節は体の重みで溶けてなくなったような気がして、次の瞬間、ぼくはスキーもスティックもごっちゃにして、雪の上をずるずるすべって行った。
ぼくは立ち上るのにひどい苦労をした。雪は柔かく、ぼくの手足には余分の力は残っていなかった。ジルがぼくを待っていた。そしてぼくが雪まみれになって、彼女に追いつくと、こう言った。「疲れたの?」
「大丈夫さ」ぼくは答えた。
彼女はちらっとぼくを見た。「もう少しゆっくり行きましょう」
ぼくらはまたすべり出した。
彼女はずっとゆっくりすべっているようだったが、四肢が震えて痛むぼくにはそうは思えなかった。ちょっとむずかしいターンをするたびに、ぼくは転倒した。そのつど、彼女はぼくを待っていた。二度ほど彼女は引き返してきて、雪の柔かい所でぼくを起こしてくれた。それからついに斜面はゆるやかになり、ぼくらは肩を並べてらくにすべった。
このゆるやかな傾斜の雪の高原を越えているとき、新しい二つのスキーの跡に出会った。少し先を行っていたジルが、その線のほうへ向った。「ジョージとダーレルのよ」彼女が肩ごしに叫んだ。
「それに違いない」ぼくも言い返した。
ギザギザした岩の露頭のところに出ると、彼女は足を止めた。ぼくらの眼の先には、日を浴びて、見渡す限り白い雪原の中を、ベルゲン鉄道の細い黒い線路がくねくねと延びていた。ぼくの真下には、凍ったフィンセ湾が白く平らに広がっている。そして岸のそばには、小さな箱のような形をしたフィンセ・ホテルと、鉄道の車庫や小屋が、まぶしいほどの景色の中で黒くきわ立って見えた。フィンセの先の、谷間の向こう側に、巨大な水晶のドームのようにそびえているのは、白い広漠たるハールダンゲル・ユークーレンだった。ユークーレンの頂上一帯は雪に覆われていたが、左側で雪はふいに断ち切られ、黒いクレヴァスを静脈のように浮かべた、鮮かな蒼い氷河になっていた。
ジルが腕時計に眼を落とした。「十二時半よ。オスロ行の列車がもうすぐ来るわ。ほら、除雪車が出てきたわ」
ぼくはフィンセの向こうでカーヴしている線路のほうを見た。大きな材木を組んで作った雪除けが、ところどころで吹き溜りをすっかり覆っているので、線路を一望に見渡すことはできなかった。この雪除けは、雪の中にうがったトンネルに似ていた。雪除けの合間合間に、ナイフで平行に両側を裁ち落としたように、黒っぽい割れ目がついているのが線路のある所だった。線路そのものが見えるのは、曲り目だけだ――二条の細い黒い線が、日ざしに鈍く光っている。左のほうのはるか向こうに、軌道にそって大きな白い蒸気がじりじりと進んで行く。最初ぼくは機関車かと思った。その黒い上部が、雪の切通しの中に見えた。それからぼくは除雪車だったと気がついた。蒸気と見たのは、回転する雪かきで投げ上げられる雪だった。
ジルがふいにぼくの腕をつかんだとき、陰気な汽笛の響きがかすかに山々にこだました。彼女は右側の、ベルゲン寄りの山々の肩を回っている軌道のほうを指さした。肩の先端の下のほうに、一条の煙がちらっと見えた。
「オスロ行の列車よ」と彼女は言った。「見えた?」ややあって、羽毛のような煙がまた見えてくると、黒っぽい長い列車が、トンネル状の雪除けの一つから出てくるのが眼についた。三十秒ほど、それは日ざしの中を這うように進んだ。それからまた別の雪除けの中にゆっくり吸い込まれて行った。雪に覆われていない雪除けの片側から、小さな煙がぱっと上った。ぼくには列車は見えなかったが、凍てついた大気の中に動きもせずに次々と浮かんでくる小さな煙の断片で、列車が雪の下の穴をくぐりながら進行してくるのが分った。
「ジョージがあの列車をつかまえると言ったのは本気かしら?」とジルが聞いた。
「分らない。だけど、本気らしいな。このスキーの跡は彼とダーレルのだろう。ほかにこんな雪の中に出てくる者はいないから。これが彼のスキーの跡だとすれば、彼は鉄道を目指しているに違いない」
「でも、ほら、あの人たちはフィンセヘは下って行かなかったわ。これは左へ回ってますもの。この次の駅はウスタウーセよ。そこまでは二十マイル以上あるわ。とても時間には間に合わないわ。それに、途中で列車にとび乗ることもできないでしょう」
「それをつき止めるには、この跡を追ってみるよりほかはない」
彼女はうなずいて、ぼくらはまた出発した。スキーの跡は左へ左へとつづいていて、ついにフィンセを右の肩ごしに見るようになった。オスロ行の列車はいまフィンセ停車場に入って行った。黒い客車の列がゆっくりと停まるのがぼくの眼に映った。海抜四千フィートもの長い登攀で息切れがしたように、機関車が白い蒸気をプーッと吐いた。ぼくは自分の追っているのがはたして彼のスキーの跡かどうか、心配になってきた。
それから小さな岩を回ると、こちらへ懸命にやってくる一人の男の姿が見えてきた。ぼくらが進んで行くと、男は顔を上げて、遠くから叫んだ。「ジルじゃないか?」それはカーティスだった。
「そうよ」ジルが叫び返した。
「よかった! どうしたのかと思った。きみを捜していたんだが、ぼくはこいつに不慣れなんでね」カーティスはスキーをさして、それからぼくのほうを向いた。
「やあ、船長! 無事に来たか」
「ファーネルに行き会わなかったか?」ぼくは彼のほうへ走り寄りながらたずねた。
「知らんな。ちょっと前、二人の男が行ったけど。一人はもう一人のずっと先に立っていた。二人目の男はダーレルに似ていたが、まさか彼じゃあるまい。しかしダーレルもヨルゲンセンも、ぼくが朝食に降りて行ったときはホテルにいなかった。それに至るところ警官だらけだ。ジル、きみはどこへ行ったんだ?」彼はジルのほうを向いて聞いた。
「サンクト・ポールよ」と彼女は答えた。
下の谷間で、列車の汽笛が鳴った。その音は山々にこだまして、雪を頂いた無数の峰の中へしだいに消えて行った。
「それはダーレルに間違いない」とぼくは言った。「彼の先へ行ったのは、ファーネルだ」
「ほんとか!」
彼のつぶやくのを聞いたときは、ぼくはもうはずみをつけてスティックをぐいと押し、彼のわきを過ぎていた。ジルがぼくの横に並んだ。獲物はもう間近かだと思うと、追跡の興奮がぼくの足に力を取り戻した。もしファーネルと二人きりになれたら――ローヴォスやヨルゲンセンのような人間から離れて。彼は追われたことを恨み、それに疲れていたのだろう。そっと扱ってやることが必要だ。もし、ぼくが落着いて彼と話すことができたら。
ぼくらがもう一つの小さな高台の上に出ると、前方に重なって彼らのスキーの跡が雪の中に黒々とついていた。それは線路の上方に接近していた。フィンセでまた列車の汽笛の音が起こり、悲しげなその音は谷間を伝わってぼくらの所に上ってき、丘から丘へ投げ返された。ぼくは右肩ごしにちょっと振り返った。機関車が希薄な空気の中に、白く圧縮された大量の煙を吐き出した。煙はすぐ黒く変わった。重々しい機関車の太いあえぎが聞えて、長い客車の列が動き出した。
ジルがぼくのわきに来た。
「わたしたち、彼があの列車に乗るのを止めなきゃいけないわ」彼女が息を切らして言った。それから彼女はスティックを上げて、ぼくらの足下にみえる除雪された線路の、くっきりした線を指した。その切通しの上にそって、小さな人影がいくつも動いていた。
「警官だわ」
ぼくはうなずいて、スティックを柔かい雪の中につっ込んだ。疲労感がいっぺんにふっとんだ。もしファーネルがノルウェーの警官に捕まったら、ぼくの望む情報を得る見込みはまずあるまい。
肩を並べ、ぼくらは斜面を滑降した。頭を前へ傾け、船首が水を切るように、そった先端を表面の粉雪につっ込みながら、スキーはしゅーしゅー音を立てた。
ぼくらの前方で、二つの小さな人影が左へ回って行った。先頭の人影はまだ左へぐんぐん進んで行く。彼は長い切通しの個所で、いま線路に近づいていた。彼はそこで立ち止まると、頭を回して後ろを見た。ダーレルの小さな姿が、それに追い迫った。ファーネルは突然右に転じた。スピードをつけて回ったので、彼のスキーから大波のような雪煙りがさっと上った。一瞬の後、彼はぼくらの真下を線路と平行して走っていた。
ぼくはもう一度、肩ごしに振り返った。列車はフィンセを出て、ゆっくり進んできた。ジルもそれを見て、ぼくらは何も言わずに斜面をまっしぐらにファーネルのほうへ降りて行った。ジルが彼に向って叫んだ。それが聞えたとみえて、彼が顔を上げるのがぼくの眼に映った。ダーレルも回転した。ダーレルはぼくの真下を黒い点になって、線路のほうへびゅんびゅんとばしている。
ジルがまたぼくの先に立ち、ファーネルの動きに合わせて右へ大きく回った。フィンセの町は、細長く隆起した土地の陰に隠れて、もうここからは見えなかった。ダーレルをすぐ背後にして、ファーネルの姿も角を回って消えようとしていた。それから二人とも見えなくなった。フィンセを出て最初の雪除けにがかった列車の汽笛がかすかに聞えた。
まもなく、ぼくらも隆起した土地の先端を回った。いまぼくらは、雪除けの一つの屋根にそって、線路の真上をすべっていた。この雪除けは、湾曲部を回った所で切れている。線路はそこから中高のカーヴになり、別の丘の肩にかかって、次の雪除けに入っていた。ファーネルはフィンセ寄りの肩の側面を登っている。ダーレルは湾曲部の斜面をぐんぐん下って行った。彼はファーネルと線路の中間に割り込むつもりで、列車のほうへ向っているのだ。
事は一瞬のあいだに起こった。ダーレルが下っていた斜面は急だった。線路のすぐ上の谷底で、彼はジャンプ・クリスティをした。疲れていたせいか、それとも萎えた腕がハンディキャップになったのか、彼はクリスティをやり損じ、横になってずるずるすべり落ちた。次の瞬間、彼は垂直な切通しのふちから線路に転落した。
ジルが立ち止まったので、ぼくも制動回転をした。ぼくらは雪除けの端に立っていた。ぼくらの下には、丘陵の肩をなだれ落ちてくる雪を支える木のトンネルが、線路の上を覆っていた。所によっては、煤煙で黒くなった木の板が雪の中からのぞいていた。カーヴを回った向こうの突端には、次の雪除けがトンネルのような暗い口を開けていた。二つの雪除けの間は、除雪した切通しが中高のカーヴになっていて、固くかたまった雪の中に黒い線路が見える。切通しの壁は垂直で、そこの雪はカチカチに凍っていた。幅は列車一本ぶんの広さしかなかった。この切通しの中で、ダーレルは懸命に起き上ると、スキー服の雪を払った。
突端の向こうで、別の雪除けに入る列車が汽笛を鳴らした。ジルがぼくの腕をぎゅっとつかんだ。その指がぼくの筋肉に食い込んだ。ちょっとのま、ぼくには彼女が緊張した理由が分らなかった。それからぼくはダーレルが切通しの垂直な雪の壁をよじ登ろうとしているのを見て、彼の身に危険が迫ったことを悟った。
ぼくはす早く上のほうの山の肩を見上げた。ファーネルは下の線路との距離を計るように、ときどき肩ごしに振り返っては、まだそこを登っている。彼はいま、次の雪除けの真上にかかっていた。それからぼくはダーレルへ眼を戻した。ダーレルはスキーの足掛りを求めて、狂ったように両手で雪をかき探っていた。突端を回って近づいてくる列車の太いあえぎと地鳴りが聞えた。
「ダーレルさあーん!」とジルが絶叫した。「こっちよ。雪除けの下よ」彼女の指がぼくの腕を締めつけた。「雪除けの中には待避所があるのを知らないのかしら?」と彼女は息を切らして言った。「ダーレルさあーん!」
けれど、彼はあわてふためいていた。大きな機関車が突端の向こうから近づくにつれて、彼のいる所ではレールの震動が感じられるに違いない。
「ダーレル!」とぼくは叫んだ。「こっちだ!」
だが彼はそこに穴でもあけようとするように、夢中で雪の壁を引っかいていた。ときどき少しばかりくずした所で、彼はスキーを穿いたままよじ登ろうとした。
「ダーレル!」とぼくは怒鳴った。
彼は顔を上げた。ぼくは手を振った。「こっちだ。雪除けの下へ入れ」
彼はついに了解したらしく、体を起こした。機関車がまた汽笛を鳴らした。汽笛の音はもうはっきりしていた。それは突端の向こう側の雪除けに入る合図の汽笛だった。ダーレルは半ば振り返って、雪除けの黒い大きな口を見た。それからぼくらのほうへすべってきた。が、スキーがまくら木に引っかかって、彼は転倒した。
「スキーを外して走れ」ぼくは叫んだ。
彼は屈んで、気違いのようにスキーの留め具を外し始めた。
ジルがぼくの腕を引いた。ジョージ・ファーネルが突端の斜面の高い所に立っているのを、彼女は指さした。彼はジャンプのスタートを切ろうとするように、上体を屈めて、下の線路をうかがっていた。
「何をするつもりかしら?」とジルがささやいた。
列車の響きが大きくなった。その音は雪がアーチ状になっているトンネルでいっそう強められた。ダーレルはついにスキーを外した。雪除けの上方では、ファーネルがジャンプ・ターンをして、斜面を急滑降して来た。その時ふいに、ぼくは彼が何をしようとしているかを悟った。彼は列車がトンネルを出てきた所で、雪除けの端から進行中の列車の屋根にスキーでとび降りようとしているのだ。ジルもそれを悟ったとみえて、ぼくの腕を握る手に力が籠った。
列車の轟音はしだいに高くなった。雪除けの外側のあちこちから、小さな煙が冷たい空気の中ににじみ出した。ファーネルはいま体を前へ屈め、スティックを構えて、雪除けの真上にかかっていた。波打つ雪の中での見事なジャンプ・ターンで、彼は雪除けの屋根にそいながら、まっすぐぼくらのほうへ向って来た。ぼくは手が痛くなるほど固く自分のスティックを握りしめた。機関車が出てくる前に彼が雪除けの端に達したらどうなるか。しかし彼はいま制動回転をしていた。
ヘッドライトを陽の中で鈍く光らせながら、機関車の前部のぶこつな排障器がもうもうたる煙と共にトンネルから現われた。つづいて炭水車と最初の客車が出てきた。
その瞬間、ファーネルは雪除けの端に達してジャンプした。ぼくははっとしながら、前部の客車の屋根に雪が載っていないことに気がついた。機関車からの煙が、それを溶かしたのに違いない。彼はそれを完全に計算に入れていたようで、一瞬ぼくは彼が成切したと思った。彼は列車の速度と同じスピードですべって来て、屋根へとび移ったのだ。ちょっとのま、彼は客車の真上で、スキーを穿いたまましっかり立っていた。
それから、彼のスキーが何かに引っかかり、彼はすべって投げ出された。落ちそうになりながら、彼はひざを突いて、通風器の円錐形の突起をつかもうとした。巧くつかんだな、とぼくは思った。けれど、スキーの片方が客車の屋根と水平になっている雪に引っかかり、次の瞬間、彼の体は客車の屋根の上を無惨に後ろへ引きずられ、走る客車と雪の壁の間に落ち込んだと思うと、やがてまた切通しの上部の雪の上に吐き出された。
ジルが体を固くするのをぼくは感じた。ぼくは彼女を見下ろした。彼女は両手で眼を覆っていた。それから彼女は体をゆるめると、また眼を上げた。けれど、彼女はまた新たな恐怖に襲われて、体を固くした。
列車はいまカーヴにかかっていた。下の切通しの中で、ダーレルがこちらへ向って走ってくるのが見えた。その背後では、機関車が息を切らせ、轟音をあげながらカーヴを回ってきた。彼が肩ごしに後方を振り返った。そしてまたぼくらのほうを向いたその顔は、眼を大きく開き、走る努力で歯をむき出して、さながら恐怖の仮面のようだった。彼は若くはなかったし、午前ちゅうずっとスキーですべっていたのだ。その走り方はひどく遅いように思えた。
機関車は切通しの湾曲部を回って、ヘッドライトがまっすぐぼくらを照らした。その轟音は雪をかぶった丘陵を揺るがした。ダーレルは走った――命がけで走っていた。運転士が彼を見つけ、ブレーキがキーッと鳴った。しかし、重い列車は下り坂にかかっていた。ダーレルはまた頭を後ろへ向けた。彼はぼくらの手前二十ヤードほどの所にいた。汗がその顔に光っているのが見えた。機関車はまっすぐ彼に向ってきた。もう絶望だった。ぼくはジルが現場を見ないように、彼女を抱いて、顔をぼくの胸に当てさせた。
すべては一瞬のうちにおわった。鉄の怪物が自分に襲いかかってくるのを知って、ダーレルは列車と雪の壁との間に逃れようと、垂直な壁にとびついた。それがかえって悪かった。そこには彼の小柄な体を入れるすきさえ無かった。ぼくはなすこともなくそこに立ったまま、機関車の鋼鉄のふちが彼を引き裂き、固く凍りついた雪の壁で、血まみれのボロのようにずたずたにして行くのを見た。
わなにかかったウサギの悲鳴に似た、細い、甲高い彼の絶叫を、列車のブレーキのきしみが打ち消した。ぼくらの眼の前で熱い煙がシューッと上り、機関車は足の下の雪を重々しく揺すり、雪に埋もれた木組みを震動させながら、雪除けの下に入った。それからその響きは、余勢のついた客車の緩衝器がぶつかり合う金属的なやかましい音にかわった。
「おお、神さま!」とジルがつぶやいた。「なんて恐ろしい!」彼女は顔をぼくのウィンドブレーカーに埋めて、ぶるぶる震えた。このとき、彼女はファーネルではなく、ダーレルのことを考えていたのだ。それから震えが止まると、彼女は体を起こした。「どうしたかしら――ジョージは?」と彼女はたずねて、煙を通してカーヴの向こうのほうをうかがった。そこの切通しの上部の雪の上には、黒っぽい塊りになってジョージ・ファーネルの体が横たわっていた。
「行ってみよう」ぼくは言った。何かしらしていたかった。そこにつっ立って、ダーレルのずたずたになった死体が列車の後ろから出てくるのを待つ気にはとてもなれなかった。
ぼくらは雪除けの屋根を離れて、切通しの上にそって前進をはじめた。ぼくらの左下では、最後の客車の動きがだんだん鈍くなりながら、雪除けの暗いトンネルの口へ向っていた。
最後のハコがのろのろとぼくの下を過ぎて、トンネルから半ばはみ出して止まったところを見ると、列車は雪の下に停止したのだろう。ぼくは急いで切通しの中をちらっとのぞいた。ぼくの真下の壁がでこぼこになり、真赤なペンキをぶちまけたようになっていた。ダーレル自身の姿はどこにも見当らない。いずれ、二つのハコの間にその残骸が引っ掛っているのが発見されるだろう。彼の死体がどうなっているか、ぼくは考えたくなかった。
ぼくは首を戻すと、できるだけ急いで歩き出した。ぼくが駆け付けようとしているのはファーネルのところだった――ファーネルはまだ生きているかも知れない。けれど、ダーレルのことがぼくの頭について離れなかった。ぼくはあの男に好意を持っていた。彼には何かいやらしい、信用できない点があった。にもかかわらず、彼の過去をふり返ると、それらのすべてが無理もないように思えてくる。彼の死をぼくは気の毒に思った。だが、たぶん生きていても同じことだったのだろう。
「ピル! 彼が動いたようだわ」ジルの声は、自制を取り戻したように低くしっかりしていた。
ぼくは前方をうかがった。雪に当る日光の輝きは、幻覚を起こさせる。ぼくの眼は疲れていた。焦点が定まらなかった。「彼はまだ死んではいないだろう」とぼくは言って、凍った雪をスキーでざくざく踏みつけながら進んだ。
ファーネルのところに着いたとき、彼は体を固く丸めて、じっと静かに倒れていた。そのスキーの先端は雪の中に深くつき刺さり、切通しのくずれたふちにそって、なすったような血が付いていた。ぼくがその足のねじれを楽にさせようとして回すと、彼は低いうめき声をあげた。ぼくがそうしながら見上げると、彼は眼をあけた。ジルは彼の顔から血を拭っていた。無精ひげの伸びた彼の顔は、真白な雪を背景に象牙色をしていた。
「水を」と彼はささやいた。声が喉にからんでいた。ぼくらはどちらもリュックを持っていなかった。ジルが彼の額をなでた。彼は身もだえして、上体を起こそうとした。その顔が苦痛にゆがんで、彼はまた後ろへ倒れると、彼女のひざをまくらにした。歯をしっかり食いしばっていたが、彼女の顔を見上げて、それと知ると、彼は体をゆるめたようだった。
「もう少しで巧く行くとこだった」と彼はささやいた。「雪がまずかった。あれさえなければ――」彼はことばを切ると、せき込んで血のかたまりを吐いた。
「しゃべらないで」ジルがまた彼の顔を拭きながら言った。それからぼくに、「あの汽車にお医者さんが乗ってないか聞いて下さい」
ぼくが立ち上ると、ファーネルはそれを止めた。「要らん」
「きみは大丈夫だ」とぼくは言った。
だが、ぼくはそうでないことを知っていた。彼の眼でそれが分る。彼もそれを知っていた。そしてジルを見上げた。
「すまなかった」彼の声はほとんど聞き取れなかった。「おれはつまらない夫だった」
夫? ぼくは彼からジルヘちらっと眼をやった。そしてぼくには分った――これまでぼくをふしぎがらせていた一切の事が、突然はっきりした。
彼が眼を閉じたので、一瞬ぼくは彼が息を引き取ったのかと思った。けれど、ジルの手を握った彼の指に力が籠って、彼はふいにぼくを見上げた。その視線がぼくからジルへ移った。一言もいわずに、彼は彼女の手をぼくのそれに重ねた。それから言った。「ビル――おれがし残したところから、きみがやってくれ。珪トリウム鉱は――」彼は歯を食いしばって、起き上った。ジルがその背を支えた。谷間の向こうを凝視しながら、彼はまぶしそうに眼を細めた。「ブローイーセンにある」と彼はつぶやいた。
ぼくは首を回した、彼の見つめる方角を追った。彼ははるかなユークーレンの山の側面を見ていたが、そこには氷河の氷がきらきら蒼く光っていた。ぼくが彼に眼を戻したとき、彼はぐったりして、眼を閉じていた。ジルが屈み込んで、その唇にキスした。彼は何か言おうとしたが、もうものを言う気力はなかった。一瞬ののち、彼の頭はだらりと垂れ、開いた口から血が細いすじを引いて流れ出た。
ジルが彼を雪の上に寝かしているとき、ぼくらの上に影がさした。ぼくは眼を上げた。ヨルゲンセンがぼくらの前に立ちはだかっていた。雪除けの方角から大勢の声が聞えてきた。客車の半分がまだトンネルから突き出していて、切通しの中では警官たちが興奮した乗客の群れと押し合っていた。
ぼくはジルをちらりと見た。彼女はかわいた眼で宙を見つめていた。
「死んだかね?」とヨルゲンセンがたずねた。
ぼくはうなずいた。
「しかし、死ぬ前に彼はあなたに話したろうな?」
「ええ」
ぼくはまた手足の痛むのを意識しながら起ち上ると、首を回して谷間からユークーレンのほうをじっと見た。ぼくの足下にはジョージ・ファーネルの死体が横たわっている。しかしあそこには、蒼い氷の下に、彼が最善を尽して生き、そして苦労した、すべてが横たわっているのだ。あれが彼の生涯の総決算だった。何一つ眼には見えない――氷河期にユークーレンの側面の氷を蒼くするように神が定められていらい、何一つ眼には見えなかった。しかし――生涯を賭けた研究と労苦によって生まれたあるものが、岩と氷の下に確かに鉱物資源が存在するという一つの考えを支えた。そして、ぼくはここフィンセに留まって、前科者、詐欺師、偽造犯人、脱走兵士、殺人者として、この雪の中で息を引き取りはしたが、一切のものを一つの考えに捧げた偉大な人間、ジョージ・ファーネルの工業的記念碑を建設しようと、その時その場で神に誓った。
いま、ここに、それは半ば完成している。ぼくがこの物語にかかったとき、日は短かく、フィンセは氷にとざされていた。いまでもまだ氷は解けない。けれど、日は長くなった。春が訪れたのだ。長い冬のいく月かを、ジルとぼくはここで暮らし、仕事は着々と進んできた。ぼくらはすべての実地踏査をすませた。そしてジョージ・ファーネルがむだに死んだのではないことも証明された。まもなく、ぼくらは最初の鉱石を掘り出すことになるだろう。あの不格好に広がった木造の建物も、もうじき忙しくぶんぶんうなり出すだろう。フィンセは、世界最大の工業工場の一つの中心として、小さな都会になることだろう。
窓を開いて、雪の彼方を見てみよう。ぼくにはここからファーネルの死んだ地点が見える。そしてそのはるか右に、ぼくに歯を見せて、にっと笑っているように見える氷のあごは、彼が生涯を捧げた「|蒼い氷《ブローイーセン》」である。(完)
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訳者あとがき
イギリスにはむかしからすぐれた冒険小説の伝統がある。デフォーの「ロビンソン・クルーソー」を冒険小説のジャンルに入れるのは、いささか異議のある向きがあるかも知れないが、スティーヴンスンの「宝島」、コンラッドの「ロード・ジム」、キップリングの「ジャングル・ブック」というように、名作といわれる冒険小説がかなりある。イアン・フレミングのジェイムズ・ボンド物も、スパイが主人公ではあるが、一種の冒険小説にちがいない。この本の著者ハモンド・イネスも冒険小説作家としてはイギリスでフレミングに負けないほど広く愛読され、著書も数十に上っているが、どういうものかこれまで殆ど邦訳されていなかった。
イネスの数多い著書のうちでは、これまで「メリー・ディア号の遭難」がいちばん人に知られている。これは実際に起こった事件に基づいて彼が、「サタディ・イヴニング・ポスト」誌に書いた海洋冒険譚で、当時非常に評判になったので、MGMがさっそく映画化権を買い、一九五九年にゲイリー・クーパー、チャールトン・ヘストン主演で映画化した。翌年(昭和三十五年)日本でも同じ題名で公開されたから、ご記憶の方もあるかと思う。彼の小説の背景は、カナダ、南米、アフリカと殆ど全世界にわたっているが、中でも海洋を舞台にしたものがすぐれているといわれるのは、これも海洋国イギリスの伝統の強みであろう。
イネスは一九一三年生まれ、学校教師、雑誌ジャーナリストをはじめ、いろんな職業を転々として、一九三八年ごろからぽつぽつ小説を書き出したが、広く知られるようになったのは戦後のことである。
ノルウェーを舞台にとったこの小説には、フィヨールドのことが多く出てくるので、ここで簡単に説明しておこう。フィヨールドは辞書にはたいてい「峡湾」と記されている。ノルウェーの地形に独得の深い入江で、よく「日本の三陸海岸の地形に似ている」といわれるが、それとは全く別のものである。フィヨールドはノルウェーの西海岸にアミの目のように集まっていて、河口からいちばん奥まで一八○キロ以上もある大きなものが三つあり、ここに出てくるソグネ・フィヨールドはその内の最大のものである。フィヨールドの両側には山が迫り、その山頂には氷河が拡がっている。長い間にそこから徐々に滑り落ちた氷の塊りが、谷底を深くえぐって、海面より低くしてしまったので、海水が侵入して出来たのがフィヨールドである。従って、峡湾はV字形ではなく、U字形をしていて、水深が一〇〇〇メートル以上もあるので、海から二〇〇キロもの奥地の入江に五〇〇トンぐらいの汽船が自由に航行出来る。
このフィヨールド観光の足場となっているのがベルゲンで、ノルウェーでは首都オスロに次ぐ第二の都会である。「雨の港町」という別名があるほど、そこでは四季を通じて雨が降ったりやんだりしているという。
ノルウェーは北緯六〇度から七〇度の間に位置している。これは緯度でカムチャツカの北に当り、アラスカと等しい。世界でいちばん寒いといわれるシベリアのベルホヤンスクと同緯度だが、それでも比較的暖かいのはメキシコ暖流が沿岸を流れているためである。この国の自然の景観の美しさを描いている点で、この小説は冒険小説であると同時に、一種のトラヴェローグ(旅行譚)の役も果しているように思う。
なお、本書に出てくるノルウェー語に関しては、ノルウェー大使館事務局長・山越一夫氏に懇切なご教示を賜った。ここに記して、改めて感謝申し上げたい。