ケルトの薄明
W.B.イエイツ/井村君江 訳
目 次
* 時は滴り落ちる
* 妖精たちの群れ
* この本について
1 話の語り手
2 信じることと信じないこと
3 人間が力を貸すこと
4 幻を見る人
5 村の幽霊たち
6 「塵がヘレンの目を閉じさせた」
7 羊の騎士
8 耐える心
9 妖術師
10 悪魔
11 幸福な理論家と不幸な理論家
12 最後の吟唱詩人
13 女王よ、妖精の女王よ、来たれ
14 「そして美しく恐ろしい女たち」
15 魔の森
16 不可思議な生き物たち
17 本のアリストテレス
18 神々の豚
19 声
20 人さらい
21 疲れを知らぬ者
22 地と火と水
23 古い町
24 男とブーツ
25 臆病者
26 オブライエン家の三人と悪い妖精
27 ドラムクリフとロセス
28 幸運な厚い頭蓋骨
29 船乗りの宗教
30 天国とこの世と煉獄の近さについて
31 宝石を食べるもの
32 丘の貴婦人
33 黄金時代
34 幽霊や妖精の性質を歪めたスコットランド人への苦情
35 戦争
36 女王と道化《フール》
37 妖精の友達
38 教訓のない夢
39 道ばたで
40 薄明のなかへ
訳者あとがき
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時は滴り落ちる
「時」は燃えるローソクの
滴のように無くなっていく、
山々と森はその日々を持つ、
それぞれの日々を。
あなたがたは、どうぞ、
モミから生まれた森の
昔の軌道から、お願いです
外れていかないように。
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妖精たちの群れ
妖精たちの群れは、馬を走らせる、
クノックナリアの丘から、クルスナベアの墓地を越えて。
キールタは炎のように髪を逆立て、
ニアムは呼びかける「来なさい、逃れて来なさい、
この世の夢でいっぱいの心を、空にしなさい、
風は目覚め、木の葉はあたりをめぐっている。
われらの頬は青ざめ、われらの髪はほどされ、
われらの胸は高鳴り、われらの眼は輝き、
われらの腕は波打ち、われらの唇は開いている。
もしこの世の者のまなざしが、急ぎ行く群れを見たならば、
われらはその者のなす仕事を遮り、
われらはその者の胸の希望を壊すだろう」
群れる妖精は、昼と夜との境界に押し寄せる。
どこにこのような美しい望みと行為があろうか?
キールタは炎のように髪を逆立て、
ニアムは呼びかける「来なさい、逃れて来なさい」と。
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この本について
T
どんな芸術家でもするように、私もこの醜くゆがんだ世の中にある美しく快いそして意義あるものから、小さな世界を造り、私が頼むと耳を傾けるわが国の人々に、アイルランドの顔を映像の中に示したいと望んだ。そのために、ただ想像したものではなく、私が見たり聞いたりしたものに解説をつけ、率直に正確を期してこの本を書き上げた。さらに、私と農夫たちの信仰を、区別する事で違和感を抱かせることがないように、また私の意見の中や話に出てくる男や女、そして精霊や妖精たちのことを、怒らせたりしないように心がけた。人間が見たり聞いたりしたものは生命の糸である。その糸を絡まった記憶の糸車から、気を付けながら引き出せば、それで好きな信仰の衣類をなんでも編み出す事ができるものだ。私もその様にして、私の衣類を編んでみた。そして私はそのなかで暖まり、それが似合わなくならないかぎり幸せである。
「希望」と「思い出」には一人の娘がいるが、その名は「芸術」である。彼女は人生のすさまじい戦場の戦いの旗として、人間がお互いの衣類を掛ける枝から、遠ざかった場所に住家を造っている。愛する「希望」と「思い出」の娘よ、少しのあいだ私と一緒にいてくれることを願う。
[#地付き](一八九三)
U
このたび、私はまた前のようにして書いた新しい章を、ここにいくつか付け足した。もっと書き足したかったが、人は年をとるにつれ、夢の明るさを失ってしまうものだ。そして人生を両手で掴むようになり、人生の花より実を大切にするようになる。それは悪いことではないかも知れない。これらの新しい章では、前に書かれたものと同じように、私の解説以外にはなにも創作していない。そしてその他は、この上手とはいえない話し手が、悪魔と天使との掛け引きを、身近な人たちに知られないためにつけ足した、いわば人欺しのような一、二行だけである。私はやがて、妖精共和国についての大きな本を出版するだろうが、この手に乗るような夢を許してもらう為に、その本は出来るだけ計画的に、そして知的に書く積りである。
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1 話の語り手
この本に収められている話の大半は、パディ・フリンという老人が私に語ってくれたものである。生き生きとした小さな目をしたその老人は、バリソデア村の雨漏りする一部屋しかない小屋に住んでいたが、彼に言わせればそこは「スライゴー地方の中でいちばん穏やかな所」――つまり妖精の国だという。ほかの人々もたぶんそうだと言うだろう――ただし、ドラムクリフとドロマヘアの次という意味ではあるが。初めて会ったとき、この老人は一人でマッシュルームを料理していた。次に会ったときには、寝顔に笑みを浮かべながら、生け垣の下で眠っていた。老人はほんとうにいつも機嫌がよかった。とはいえ、その目(しわの間から兎の目のようにすばしこく動く)には、喜びの一部といってもいいような憂鬱が見て取れた。それは純粋に本能的であり、あらゆる動物に共通するものだった。
その上、彼を憂鬱にさせることが実生活の中には、もっとたくさんあった。年齢と奇癖と耳の遠いという三重苦のために、子供たちに悩まされるようになっていたからだ。人を楽しませ、希望を与えてくれるような老人の性格が、たぶん子供たちにつきまとわれる原因だったのかもしれない。たとえば、聖コラムキルがどういうふうに母親を励ましたのかを話すのが、彼は好きだった。「ご機嫌はいかがですか? おかあさん」聖人は言う。「前より悪いね」母親は答える。「明日はもっと悪いといいですね」聖人は言う。次の日にコラムキルはまたやってきて、まったく同じ会話が繰り返される。しかし、三日目に母親はこう言った「前よりよくなったね。ありがたいことだよ」。そして聖人はこう答えた「明日はもっとよくなるといいですね」。彼はまた、最後の審判の日に、神がいかに皆に平等に微笑むかを話すのが好きだった。善人には報いを与え、地獄に落ちた者には永劫の炎に灼かれるよう宣告するのだ。彼にはいろいろと不思議なものを見る力があり、その力は彼の気分を浮き立たせたり、あるいは沈み込ませたりしていた。彼に妖精を見たことがあるかと尋ねると、こう答が返ってきた、「おれがあいつらに悩まされないかって?」。また、バンシーを見たことがあるかどうかも尋ねてみた。「見たことはある。そこの水ぎわで、両手で川面を叩いていたんだ」と彼は言った。
このパディ・フリンの言葉は、私が彼に会ったすぐあとに、彼の話や言ったことがいっぱい書いてある雑記帳から、ほんの数語変えただけでそのまま書き写したものである。私はこの雑記帳を、後悔しながら見ている、空白になっている頁は、もう決して埋められることがないからだ。パディ・フリンは死んでしまった。私の友人は、彼に大きなウイスキーの瓶を与えた。パディはいつも真面目な男だったが、ウイスキーの量が多いときの彼の目付きは、何ものかにとり憑かれているようであり、幾日かそうした状態でいてから彼は死んでしまった。かれの体は年と辛い年月のために衰弱していて、若い時と同じような飲み方には、もう耐えられなかったのである。彼は普通のロマンスなどの語り手ではなく、物語の偉大な語り部であった。天国も、地獄や煉獄そして妖精の国や地上までも空白にしてから、いかにそこを自分の物語の人物で一杯にするかを知っていた。彼は小さく縮んだようなこの世には住めなかった。しかしホーマー自身が書いたと同様に、周りの環境は豊であることも知っていた。たぶんゲールの人達は、彼がやったように古代の人達の持つ単純さと豊かな想像力を、再び取り戻すことであろう。文学とは、象徴と出来事という道具を用いて、そのときの情緒を表現することではないだろうか。この荒廃した現世と同様に、天国や地獄、煉獄や妖精の国を表現のために必要とするのは、情緒ではないだろうか。いや、あえて天国や地獄、煉獄や妖精の国を一緒に混ぜてしまおうとしたり、怪物の頭を人間の体につけようとしたり、人間の霊魂を岩の中心部に入れようとする人がいなければ、表現が見出だせないのも情緒なのではないだろうか。話の語り部よ、心が望む餌食はなんであれ捕らえて、恐れずに続けていって欲しい。すべてのものは存在するのだし、すべてのものは真実なのだ、この地上はわれわれの足の下の小な塵に過ぎないのだ。
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2 信じることと信じないこと
西の地方の村にさえ、うたぐり深い人々はいる。ある女の人は昨年のクリスマスに、私に地獄も幽霊も信じないと話してくれた。地獄というのは、人々に善良な心を持たせておくために牧師が考えだしたものだし、幽霊はみずからの自由意志で、この世を歩きまわることができないものだが、「でも妖精や小さなレプラホーン、水棲馬や堕落した天使はいる」と彼女は考えていた。またこれとまったく似て、信じることと信じないことを区別して考える男に会ったことがあるが、彼は上腕にモホーク・インディアンの入れ墨をしていた。何を疑おうとも人は妖精だけは疑えない、モホーク・インディアンの入れ墨のある男が言ったが、それは「筋道立てて考えるに値する」からである。たとえ事務的な考えをする心を持っていたところで、こうした信仰からは逃れられまい。
ベン・バルベンの海側の斜面の、ちょうど麓にあるグランジ村で奉公していた少女が、三年前のある夜、とつぜん姿を消した。妖精が少女を連れ去ったのだと噂され、あっというまに騒ぎはその近くのあたりに広がった。ある村人が少女を妖精たちに渡すまいとして、必死に抱きとめていたが、けっきょくは妖精たちの力が優り、村人の腕の中には箒の柄だけが残っていたという。地元の治安官が捜査にあたって、ただちに一軒一軒の家を捜索して回り、それと同時に、オグルマ草(バカラヌス)は妖精にとって神聖なものだから、少女が消えた野原のオグルマ草をみんな焼いてしまったほうがいいと助言した。村人は一晩かけて野原を焼き、その間ずっと治安官は呪文を繰り返していた。朝になると少女は、野原をさまよっているところを発見された。少女が言うには、彼女は妖精たちの馬に乗せられ、ずっと遠くまで連れていかれた。ついに大きな川に行き当たったが、こういうのは妖精の魔法のめちゃくちゃなところだが、彼女が連れ去られるのを止めようとした村人が、小舟に乗って流されていくのが見えたという。少女を連れて行こうとした者たちはその道すがら、もうじき死ぬ村人のうちの幾人かの名前を、挙げていたということである。
治安官は、たぶん正しかっただろう。真実と不合理を、否定するために否定するよりも、多くの不合理さとわずかの真実を信じるほうが、たしかに良いのだ。もしそうしたなら、私たちの歩む道を照らす、灯心草のローソクの薄暗い光や沼沢地の上を歩む私たちの前を踊っていく精霊ではなく、出来損ないの悪霊が住む大きな空虚を探し求めることが必要になるからである。そしてもし私たちの暖炉と心に小さな火をともし、人間であろうと幻の存在であろうと、普通以上のものが暖をとりに訪れたときには、両手を広げて迎え、たとえ悪霊であろうと「消え失せろ」といった厳しい言葉を浴せずにもてなせば、それほど悪い目に会わないのではないだろうか。すべて言うべきことが言われ、なすべきことがなされれば、自分の不合理さが、他の人の真実さより良いということが、判らないことはないであろう。なぜならば、それらは私たちの暖炉と心で暖められ、そこに真実の蜂が巣を造り、甘い蜜ができるようになるからだ。おお蜂よ、おおお蜂よ、再びこの世に来れ。
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3 人間が力を貸すこと
古い詩の中には、人間が神々の戦いに力を貸すために連れて行かれたことや、ク・ホリンが女神ファンドの妹とその夫に手を貸し、|約束の地《ランド・オブ・プロミス》のもうひとつの国を打ち負かすことで、ファンドにしばしの勝利を収めさせたことなどが、歌われている。妖精界の人々はハーリングをするのでさえ、どちらかのチームに人間がいなければ試合ができない。そしてチームに入った人間の体は――語り部がよく言うには、何かが身代わりになっているらしいが――家で寝ていたというが、そういう話を私も聞いたことがある。人間の力を借りなければ、妖精たちは影のような存在にすぎないので、ボールを打つことすらできない。ある日のこと、ゴロウェイの沼地を友人と歩いているとき、ひとりの醜い顔の老人が、溝を掘っているのに出くわした。友人はこの老人が、すばらしい幻視体験をしたことがあると聞いていたが、私たちはついに、老人からその話を聞き出すことができた。
その老人が少年だったある日のことである。彼は三十人ほどの男や女や少年たちと一緒に働いていた。その場所はトゥアムよりは先で、ノックナガールからさほど遠くないところだった。ほどなくして三十人全員が、百五十人ぐらいの妖精が半マイルほど先にいるのを見た。その中の二人は、その時代の者が着るような黒っぽい服装をして、互いに百ヤードばかり離れて立っていたが、ほかの者たちは、「四角の」つまり格子模様の極彩色の服を着ていたが、なかにはその上に赤いチョッキをつけている者もいた。
妖精たちが何をしているのかはよく分からなかったが、全員でハーリングをしていた、「そんなふうに見えた」。ときどき妖精たちはいなくなったかと思うと、「誓ってもいいが」、次の瞬間、黒いスーツを着た二人の男の体から、再び現れてきた。この二人の男は普通の人間の大きさだったが、ほかの連中はずっと小さかった。三十分ぐらい眺めていると、そこに雇主がやってきて、鞭を振り上げて言った「仕事だ、仕事だ、でないと片づかないぞ!」。私は雇主も妖精を見たのかどうかを尋ねてみた。「もちろん見たがね、だけど、雇主は自分の懐から金を払っている仕事を、おれたちにさぼられるのがいやだったんだ」。そこで彼はみんなを一所懸命働かせたので、そのあと妖精たちがどうなったのかは誰も知らない。
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4 幻を見る人
先日の夜のこと、ある青年が私の住まいを訪ねてきたが、天地の成り立ちや、そのほかいろいろなことを、たくさん話していった。私は彼の暮らしのこと、今やっていることなどを尋ねてみた。前に会ったときには、彼は詩や絵や神秘的な図柄などをたくさん描いていたのに、いまはそれを止めているようだった。精神を強く生き生きとさせ、そして平静な状態に置いておきたいが、そのためには芸術家の情緒本位の生活は、あまり良くないと考えたからだという。しかし自作の詩は、たちどころに暗唱してみせた。自分の詩はぜんぶ覚えており、なかにはまだ紙に書いていない詩さえあった。そうした詩には、葦間を吹く風のような生の音楽があり(註)、ケルトの哀しみの内なる声というか、いままで人々が見たこともない無限のものへのケルトの憧れ、といったものが歌われているようだった。とつぜん、彼があたりを見まわしているのに気づいた。「何か見えるんですか、X君」と私は言った。「長い髪におおわれた、翼のある女の人が、光りながら、入り口に立っている」と彼は答えた、というよりこうつぶやいた。「私たちのことを思っているこの世の誰かの心が作用し、その想念が象徴的な姿形をとって現れたのかな」と言ってみた。幻を見る人間がどんなふうになるのか、またどんなふうに話すのかを、私は知っていたのだ。「いや違う。もし生きている人間の想念なら、私の体に生きている人の力の作用を感じるはずです。心臓は早く打ち、息も苦しくなるんです。あれは霊魂です。死んでいる人か、まだこの世に生れていない存在でしょう」と彼は言った。私は彼が今どんな仕事をしているのか尋ねてみると、ある店に勤めているということだった。しかし丘をめぐりながら、幻の見える変わった農夫と話したり、良心の呵責に悩む人たちの面倒をみたりするのが、楽しみということだった。またある夜のこと、その青年の住まいに行ってみると、幾たりかの人が、信じることと信じないことについて語りあっていたが、彼の心の微妙な光りが、その問題を説き明かすように思われた。人々と話をしているとき、幻が時々彼に現れ、その人々の過去のことや、遠く離れている友人のことを言い当てるので、この不思議な導師を目の当たりにして、人々は畏敬の念で、しんと静まってしまったと言う噂がある。まだ少年よりいくらか年上にしか見えないこの青年が、人々のなかの年長の者よりも、賢いわけである。
暗唱して聞かせてくれた詩には、彼の気質と幻想が溢れていた。詩には彼が生きていたと信じている前の世代の体験が歌われていたり、人々の心の中に現れた人に語りかけた詩もあった。彼のことや詩作品についても書きたいのだが、と私が言うと、名前を出さないなら書いてもよい、自分はいつも「人に知られず、無名で、目立たない」人でいたいから、と言う返事だった。次ぎの日、詩作品のはいった小包みがとどいたが、こんな言葉書きがそえてあった、「あなたが気に入ったと言われた詩を、ここに送ります。私はもう詩を書いたり、絵を描いたりできないと思います。別の人生の活動の輪のなかに、入る準備をしているのです。私の根や枝を、強靱なものにしたいと思います。今は葉を茂らせたり、花を咲かせたりする時ではないのです」。
それらの詩は、ある高邁な捉え難い情調を、映像の網のなかに掴もうと努力しているものであった。どの詩のなかにもすぐれた詩句があったが、時としてそれらが嵌め込まれている思想は、彼の心にとって明らかに特別な価値があるとしても、ほかの人にとっては、見知らぬ国の貨幣に等しいことが多かった。他人にとって、それはたんなる金属か銅、よくても銀メッキほどの価値しかないようにみえた。時としてそれらの思想が持つ美は、詩を書くのはばかばかしい行為かもしれない、という思いにとつぜん襲われたかのように、軽々しい書き方になっていて、駄目になっている場合があった。彼はときどき詩に挿絵を描いており、それらは細部描写があまり完全な絵ではなかったが、かといってそこにある美しい感情が殺されているというわけではなかった。彼は妖精の存在を信じており、それを主題に多くの挿絵を描いているが、なかでも薄明のなかにじっと座るアーセルドゥーンのトマスのそばに、若く美しい妖精がもの陰から身をのりだし、彼の耳になにかをそっと囁いている絵が印象的であった。彼はとりわけ、色彩の強烈な効果を楽しんでいた。たとえば、頭に髪の毛の代わりに孔雀の羽の生えた精霊たち。渦巻く炎のなかから、星に手を差しのべている幻。玉虫いろをした水晶の球――魂の象徴――を手のなかに半ば隠すようにして、通り過ぎていく精霊たちなど。だがいつもこうした色彩の豊かさの陰には、人間の壊れやすい希望に訴えかける、ある優しい説話が潜んでいるのだった。この心の切望が、彼と同じように啓示を求めたり、また消え去った喜びを嘆いたりする人たちを、彼に引き寄せるのである。こうした人たちのなかに、忘れることの出来ない人がいた。
昨年か一昨年の冬の夜のこと、青年は年寄りの農夫と、山の中を長い時間、話しながら歩きまわっていた。ほとんどの人とは口をつぐんで話もしないこの農夫が、青年に悩みを打ち明けたのである。二人とも幸福ではなかった――Xは芸術や詩が、自分には合わないということを、初めてはっきりと分ったからであり、老いた農夫は、何一つ目的を達成できずに、人生が終わっていくのを感じ、先に希望がなかったからである。この二人はなんとケルト的であろうか。言葉や行為では、決して完全に表現できないものに、全力を傾けていたからである。農夫は癒されぬ哀しみを、心に抱いてさ迷っていた。あるとき彼はたまらなくなってこう叫んだことがある「神には天国がある――神には天国があるのだ――なのに神はこの世までも欲しがっている」と。また年をとった近所の人たちがこの世を去って、みな自分を忘れてしまったと嘆いた。昔はどの家でも、暖炉のそばに椅子をよせて迎えてくれたのに、今では「あの爺さんはだれかね」と言われるのだから、「もうお終いだね」と彼は繰り返し言った。そしてまた神や天国のことを話し始めるのだった。また山の方に向って腕をふりながら、何度もこう言うのだった、「四十年前に、あの茨の木の下で、なにが起こったかを知っているのは、このわしだけなんだがね」。涙が彼の頬を伝い、月の光にきらりと光った。
X君のことを思うたびに、この老人のことが浮かんでくる。二人はともに求めていたのだ――真実の言葉を、一人はさ迷いながら、もう一人はそれを象徴的な絵画や微妙な寓意的詩歌のなかに――表現の限界を越えて横たわる、あるものを表現しようとして。そしてもしX君がこう言うのを許してくれるなら、それらのなかには、ケルトの心の底にある茫漠とした伝統に染まった言い方があったと言いたい。昔は領主を敵にまわして戦った者、いまは幻を見る農夫と、騒々しいかずかずの伝説――ク・ホリンは二日のあいだ海で戦い、波に飲み込まれて死ぬ。キイルータは神々の宮殿を嵐のごとく襲い、オシーンは三百年のあいだ、妖精の国のあらゆる楽しみを求め、満たされぬ心を鎮めようとしたが無駄であった――これら二人の神秘家は、決して夢ではない真実の言葉、彼等の魂の中心にある夢を、あちこち野山を歩きまわりながら語り、その心は偉大なケルトの幻影に、――その意味をこの世のだれも分からず、天使さえ表現したことがない幻影に、興味をいだいていたのである。
[#この行2字下げ](註)この文章はずっと以前に書いたものである。ここに見られる悲哀は、古代の人の情緒を保っている人たちが持っている感情の一つであると、いまの私には思える。以前のように神秘的な種族に私は掴われてはいないが、この一文やこの手の文章もそのままにしておいた。一度信じて書いたものを変えても、おそらく良くはならないであろう。
[#改ページ]
5 村の幽霊たち
大きな都市に住む者は、重んじられなくなっていく、小さな町や村に住めば、住む人が十分でないだけ、重要になる。強制的に世の中が、わかってくる。ひとりひとりが階級的な位置を持ち、毎時間のように新しい意欲的な試みに向かえる。村の外れの宿屋を通りかかれば、自分の趣味を気ままに喋って帰れる、判って一緒に話せる人など居ないからだ。雄弁なお喋りを聞き、本を読み、本を書き、宇宙の出来事をみな解決する。無口な村人はなんの変化もなしに毎日をすごしている。手のなかの鋤の感触は、他人との話しになんらの変化も与えない。良い季節には昔とおなじように、悪い季節が続くからだ。無口な人たちは、村の池の錆びた門から顔をのぞかせる年取った馬ほどにも、われわれとは関係が無い。その昔、地図を作った人達は、人跡未踏の地帯には、「ここにライオンがいる」と書き入れた。漁師たち、ろくろ師たちの世界は、われわれの世界とはずいぶん違うのだが、その人たちの村に一筆だけ書き入れるとすれば、どうしても「ここに幽霊がいる」と書かざるをえない。
私の幽霊達はレンスターのH――村に住んでいる。この古い村には別にこれといった歴史はなく、曲がりくねった小道、丈高い草が茂る古い僧院の境内、小さな樅の木の青々とした背景、そして桟橋に漂う漁師の漁船が数隻。昆虫学の記録では、この村の名前はよく知られている。村のやや西の方には、小さな入江があり、そこで夜毎見張っていると、宵の口かまたは夜が明ける頃に、潮沿いに珍しい蛾がひらひら飛んでいるのが見られる。その蛾は、百年前にイタリアから、密輸業者の絹織物やレースの船荷にまじって、運ばれてきたと言われている。もし蛾の採集者が捕虫網を捨てて、幽霊の話やリリスの子供達と呼ばれる妖精の話を追いかけた方が、はるかに根気がいらないだろう。
その村に夜になって近寄るには、臆病な人間ならば、相当に作戦を練らなければなるまい。ある男がこんな風に嘆くのを聞いたことがある。「まったく、どうやって行けばいいんだろう。ダンボーイ丘を通れば、死んだバーニー船長が見張っているだろうし、海からまわって桟橋の階段を昇れば、その桟橋には、首無し人間が一人二人と出てくるだろう。別の道をまわれば、スチュワート夫人の幽霊がヒルサイド・ゲートに現れるし、ホスピタル・レーンには、悪魔が出てくるんだからな」。
彼がどの幽霊に出会ったかは聞かなかったが、ホスピタル・レーンは先ず駄目だったろう。コレラが流行った頃、そこに患者を収容する小屋が建てられた。やがて小屋は用がなくなりとり壊されたが、小屋のあった土地は後までずっと、幽霊と魔物と妖精のものになった。H――村にパディ・B――という名前の農夫がいたが、力持ちで禁酒を誓っていた。彼の女房とその妹は、その男の大力にすっかり感心していたが、一方で、もし酒を飲んだらどうなるかと心配してもいた。その彼がある夜、ホスピタル・レーンを通りかかったとき、妙なものに出会った。はじめはおとなしい兎のように見えたが、やがてそれは白い猫だと気がついた。しかし近寄ってみると、その生き物はだんだん膨れ始め、それにつれて吸い取られるように自分の力が抜けていくのを感じた。彼は向きを変えると、逃げ出した。
ホスピタル・レーンのあたりには「妖精の道」がある。毎晩のように、妖精たちが丘から海へ、あるいは海から丘へと移動する道である。その「妖精の道」が海に接する所に、小さな家が一軒あった。ある夜のこと、その家に住んでいたアーバネシーの細君は、息子が間もなく帰ってくると思って、家の扉をあけておいた。夫は暖炉のそばで眠っていた。すると一人の男が入ってくると、夫のそばに腰を下ろした。男がそのまま暫く座っているので、「一体あなたは誰なの?」と女房はたずねた。男は立ち上がると、出て行きながらこう言った。「こんな時間に戸をあけといちゃ、いけないよ。悪いものが入ってくるからね」。細君は夫を起こして、今の出来事を話した。「『善い人たち』の仲間が来てたんだな」と夫は言った。
先に話した臆病な男は、おそらくヒルサイド・ゲートのスチュワート夫人の幽霊に出会ったのだろう。夫人は生前、プロテスタントの牧師の妻だった。「あの幽霊が、人に危害を加えたという話は聞かない。あれはこの世に現れて、懺悔しているだけさ」と村人たちは言っている。このスチュワート夫人の幽霊が出るヒルサイド・ゲートから、さほど遠くない場所に、もっと恐ろしい幽霊がよく出たことがあった。それは村の西の端に通じている草原の小道だった。ついにその話を記せるのだが、それは典型的な村の悲劇だった。村のはずれのその道端に一軒の農家があり、ペンキ屋のジム・モンゴメリーの一家が住んでいた。彼には子供が数人いた。ジムは少しばかりダンディだし、近所の連中より家柄も良かった。細君の方は、ずい分と大柄な女だった。彼は酒癖が悪いので、村の聖歌隊を追い出されたが、ある日のこと細君を殴った。細君の妹がそれを聞いて駆けつけ、窓の鎧戸をはずすと――モンゴメリーは何事につけうるさい男で、どの窓にも鎧戸をつけていた――ジムに殴りかかった。妹も姉に劣らず柄が大きく、力が強かった。ジムが、訴えるぞと脅かすと、妹は「そんなことをしたら、あんたの体の骨という骨を全部へし折ってやるからね」と言い返した。このことがあってから、姉は何があっても妹に打ち明けるのはやめ、この小柄な男に殴られっぱなしになっていた。ジム・モンゴメリーの素行は、ますます悪くなっていき、間もなく女房は食べ物が十分でなくなった。だが誰にもそのことは言わなかった。とても自尊心の強い女だったからだ。寒い夜に、しばしば火を燃せないこともあった。近所の者が来ると、ちょうど寝るところで火を落としてしまったと言うのだった。夫が彼女を殴るのが、人々の耳にも度々聞えていた。しかし彼女は、このことを誰にも何も言わなかった。彼女はやせ細っていった。ついにある土曜日、自分にも子供達にも食べ物がぜんぜん無くなってしまった。彼女はもう我慢できず、司祭のところにお金をもらいに行った。司祭は彼女に三十シリング与えた。夫は待ちうけていて、金を取りあげ、彼女を殴った。月曜日には、彼女は重い病気になって、ケリーの細君を呼びにやった。ケリーの細君は、彼女を見るなり、「これじゃあ、お前さん死んじまうよ」と言って、司祭と医者を呼びにやった。彼女は一時間後に、死んでしまった。彼女の死後、モンゴメリーは子供達の世話をしなかったので、地主は救貧院に子供を引きとらせた。子供達がいなくなって数日たった夜、ケリーの細君が野中の小道を歩いて家に帰る途中、モンゴメリーの細君の幽霊が現れ、彼女のあとに従いて来た。幽霊は、彼女が家に着くまでそばを離れなかった。ケリーの細君は、司祭で考古学者としても知られているS神父に、この事を話したが、信じてもらえなかった。それから二、三日後の夜のこと、ケリーの細君はまた同じ場所で幽霊に出会った。彼女はすっかり恐ろしくなり、自分の家まで歩き通すことができず、途中で近所の家に寄って中に入れてくれと頼んだ。その家の者達は、ちょうど寝るところだと答えた。彼女は大声で叫んだ、「何としてでも中に入れておくれ、そうじゃないと戸をこわして開けるよ」。家の者が戸を開けてくれたので、幽霊から逃げることができた。翌日彼女はまた司祭にその事を話した。今度は司祭も話しを信じ、それでは幽霊と話しをしてみるといい、でないと幽霊は、いつまでも従いて来るだろうと言った。
ケリーの細君はまた、野原の道で幽霊に出会った。そこで、どういうわけで迷い出てくるのかと尋ねてみた。幽霊は、子供達を救貧院から引き取ってもらいたい、自分の身内には救貧院などに入った者はいないからと言い、また霊を慰めるためミサを三度あげて欲しいと頼んだ。「夫があんたの話しを信じなかったら、これを見せてやっておくれ」と幽霊は言うと、ケリーの細君の腕に三本の指でさわった。指が触れた所は、腫れ上がって黒くなった。そのとたんに、幽霊は消えてしまった。モンゴメリーはしばらくの間は、妻の幽霊が現れたことを信じなかった。「あいつはケリーの細君なんかに、姿を見せやしないよ、偉い人がいくらでもいるんだから、そういう人のところに出てくるはずだ」と彼は言った。その彼も、三本の指の跡を示されると本気になって、救貧院から子供を連れ戻した。司祭はミサをあげた。亡霊は安らかな眠りについたに相違ない、その後はまったく姿を見せなくなったからである。しばらくたって、ジム・モンゴメリーは救貧院で死んだ。酒のために貧乏のどん底に落ちていたのである。
桟橋で首のない幽霊を見た、と信じている人たちを何人か知っている。またある男は、夜中に古い墓地の塀ぎわを通ると、白いふちどりのある帽子をかぶった女が、いつの間にか出てきては、後から従いて来て、男が自分の家の戸口に帰りつくまで、離れないのであった。村人たちは、その女が男の後に従いて来るのは、何か恨みを晴らすためだと考えていた。「死んだらとり憑いてやる」というのは、よく言うおどし文句だ。また男の妻は、悪魔だと思った犬の姿をしたものに、とり憑かれて死にそうになったことがあった。
外に現れる幽霊の例を、いくつか挙げたが、幽霊には家庭的なものがあり、そういう種族は屋内に、南の地方の軒端に飛び交う燕のように、たくさん集まってくる。
ある夜のこと、ノーランの細君は、フラディズ・レーンの自分の家で、死にかけているわが子を見守っていた。とつぜん、扉をノックする音が聞えた。何か人間でないものが叩いているような気がして、扉を開けなかった。音は聞えなくなった。しばらくして、表の扉、次いで裏の扉が、勢いよく開いたかと思うと、また閉じた。どうしたのかと、夫が見に行ってみたが、扉の閂《かんぬき》は両方とも下りていた。子供は死んでいた。また扉が前のように開いて閉じた。それでノーラン夫人は、出ていく魂のために、窓か扉を開けておく習慣があったのに、それを忘れていたことに気がついた。扉が開いたり、閉じたり、叩かれたりしたあの不思議な出来事は、死にかけている者に付き添う霊たちの、予告と催促であった。
家につく幽霊は、普通は無害で人に好意的なものである。人はその幽霊に、出来るだけ長く家にとどまってもらおうとする。こうした幽霊は、自分の居る家の人々に、幸運をもたらす。私は、一つの小さな部屋に、母親や兄弟姉妹と一緒に寝ていたという二人の子供のことを想い出す。その部屋には幽霊も居た。子供たちはダブリンの街でニシンを売っている漁夫の娘の幽霊がしたように――そしてそのあと急いで、安らかな眠りにつくのである。それらの幽霊たちは、すべて物事を穏やかに秩序だてて行う。白猫や黒犬に変身するのは魔物で幽霊ではない。幽霊話をするのは、貧しくて真面目な漁民で、彼らは幽霊のやることに、恐怖の魅力を感じている。西部地方の話には、気ままな優しさや奇妙な誇張がある。それらの話をもの語る人たちは、いつも飛ぶ雲の浮かぶ幻のような空の下、野生のままの美しい風景の中に暮らしている。そうした人たちは、農夫や労働者で、時には海へ魚を捕りに出ることもある。幽霊をあまり恐れず、むしろ幽霊がやることに、芸術的でユーモラスな楽しささえ感じている。 幽霊自身も、そうした人たちと一緒になって浮かれている。さびれた波止場に、草が生い茂るある西部地方の町では、こうした幽霊が大変に元気がよく、幽霊を信じていない男が、大胆にも幽霊屋敷で寝たところ、聞くところによると、幽霊たちはその男を窓から放り出し、その後からベッドも放り出したそうである。そこの近くの村では、幽霊たちが妙な変装をするという。老紳士の幽霊は大きな兎の姿になって、自分の家の菜園からキャベツを盗み、ある悪徳な船長は、鴨の姿をしてある農家のしっくい壁の中に、恐ろしい音を立てながら何年も居て、壁が取り壊されるとやっとそこを離れ、固いしっくいの中から、鳴きながら飛び去ったということである。
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6 「塵がヘレンの目を閉じさせた」
T
ゴロウェイのキルタータン郡にある、村とも呼べないほどの小さな集落だが、その名前がアイルランドの西部じゅうに知れわたっているバリリーを、最近私は訪れた。そこには、農夫とその女房の住む方形の古城バリリーがあり、そして娘夫婦の住む小別荘、年老いた粉屋の住む水車小屋、そして小さな川と大きな踏み石に緑の影を落とすトネリコの老木がある。昨年は、粉屋と話をするために二、三度そこを訪ねた。話というのは、数年前クレアに住んでいた賢い女性ビディー・アーリィについて、「バリリーの二つの水車の間には、すべての悪からの救いがある」という彼女の言葉について、そして彼女が言おうとしていたのは、いったい流水の間の苔なのか、それともほかの薬草のことなのか、これらのことを粉屋か、あるいはほかの人に確かめることだった。今年の夏に一度行ってきたのだが、秋になる前にもう一度訪れるつもりだ。というのは、メアリー・ハイネスという、その名は今も炉辺では驚異の的である美しい女性が、六十年前にそこで亡くなっているからである。それはこの世のものではないのだと自分たちを納得させるために、その美しい女性が悲しみに満ちた人生を送った場所に、私たちの足はつい止まりがちになるからだ。老人は水車小屋と城から続く小道を案内してくれ、イバラやリンボクの茂みの中でほとんど消えかけている細長い道を下っていったところで、こう言った。「あれがこの館の小さくて古い基礎なんだ。しかし、もうほとんどが、建物の壁に使うんで持っていかれてしまったがね。それに山羊どもがこのあたりの茂みを、がたがたになるまで食っちまうんで、もう生えてきやしない。彼女はアイルランドでいちばんのべっぴんさんだった、ということだ。その肌は降りしきる雪」、――老人はたぶん降り積もった雪というつもりなのだろう――「のように白くて、頬は薔薇色だった。彼女にはハンサムな兄弟が五人いたが、みんなもういないんだ!」その女性のことを有名な詩人のラファタリーがアイルランド語で書いた詩について、私は老人に話した。その詩の中で「バリリーには地下に頑丈な穴倉がある」といわれている。頑丈な穴倉というのは、川がちょうど地面の下にもぐり込む大きな穴のことだ、と彼は言い、私を深い池に連れていった。そこではカワウソが大きな丸石の下へあわてて消えていったし、老人の話では、朝早くには暗い水の底からたくさんの魚が、「丘から下ってくる新鮮な水を味わうために」顔をだすということだ。
その詩を私が最初に聞いたのは、川からおよそ二マイルほど登ったところに住んでいる老女からで、その老女はラファタリーやメアリー・ハインズのことを覚えていた。「メアリーほどきれいな娘に、いままで会ったことがないし、これから死ぬまでも会えないだろうね」と老女は言い、詩人はほとんど目が見えなくて、その辺をめぐり歩いて、いくつか家を選んで訪ね、そこで近所の人たちが詩を聞くために集まってくる、という手段で生活するしかなかった、と話してくれた。詩人はよくもてなせば誉めたが、そうでなければ、アイルランド語で非難したという。彼はアイルランドでは最も偉大な詩人で、たまたま木の根元に立ち止まれば、その木について詩を作ったという。雨宿りをするのに立ち止まったという木があり、彼はそれを誉め讃える詩を作ったが、雨が木の葉を通して落ちてくると、けなす詩を作った。老女はその詩をアイルランド語で、私と友人のために歌ってくれたが、その言葉はみな聞き取り易く、表現豊かであった。そしてそれは歌のアイルランド語が持つ力が流れ変化していくとともに、流れ変化していく音楽が、言葉を飾る衣裳として誇らかなものになる前に、言葉はいつもこうであると私が考えるように、聞きやすく、表現が豊かなのであった。その詩はたしかに今世紀の最高のアイルランド語の詩といえるほどは自然でない。それは歌う内容が、はっきりと伝統的な形式のなかに入っているからである。ほとんど目の見えなかったその哀れな老人は、すべて一番いいものを自分の愛する女に差し出してしまう金持ちの農夫のように話そうとしたのだが、その詩は純真で優しい詩句に満ちている。私と一緒にいた友人が一部を翻訳してみたが、ある部分はすでに地元の人々によって翻訳されていた。それは、翻訳された詩に見られるよりも、アイルランドの詩のもつ単純さを、よく示していると思う。
神のみむねで、ミサに行き、
その日は雨が降り、風が吹き、
キルタータンの十字路で、
私はメアリー・ハインズと出会い、
その時、その場で、恋に落ちた。
優しく、丁寧に、彼女に話した、
噂に聞く、彼女自身と同じやり方で。
すると、彼女はこう言った。
「ラファティ、わたし、気分がいいの、
今日、バリリーに来てもよくってよ」。
その誘いを聞いて、ぐずぐずしてはいなかった、
彼女の言葉が胸に届き、私の心は高鳴った。
野原を三つよぎって行けば、
バリリーへ、二人は昼の光を行ける。
テーブルにはグラスとクォートの計量カップ、
彼女は金髪で、私の横に腰を降ろし、
そして言った、「飲んでちょうだい、
ラファティ、本当によく来てくれたわね、
バリリーには、頑丈な穴倉があるのよ」
おお、収穫の季節の輝く星よ、太陽よ、
おお、亜麻色の髪よ、この世の伴侶よ、
日曜に、私と教会にくるだろうか、
そうすればみんなに二人は認められる。
日曜日の夕方ごとの歌にも、私は不平を言わない、
飲めればテーブルには、パンチとワイン、
だが、栄光の王よ、わが行く手の道を乾かしてください、
バリリーへの道を見つけるまでに。
バリリーから下を見おろせば、
丘の斜面に、爽やかな空気が漂い、
木の実、ブラックベリーを摘みつつ谷間を歩けば、
鳥の音楽や妖精の調べが流れている。
お前のそばの枝に咲く花の光を手にいれるまで、
偉大さの価値など、何だというのだ?
これを否定する神も、隠そうとする神もいない、
彼女は私の心を悩ませた天の太陽なのだ。
さまざまな川から、山の頂上まで、
入り口が隠れているロッホ・グレンの淵までも、
そしてわかった、彼女の背後にしか美のないことが。
その髪は輝き、眉も輝いていた、
その顔は彼女の心を表し、
その口は快くやさしかった。
彼女は華やかで、私はその枝だった、
彼女はバリリーの輝ける花だった。
メアリー・ハインズは、
穏やかで、気持ちのよい女性、
心も美しく、顔も美しい、
たとえ書記が百人集まっても、
彼女の物腰を、書き留められまい。
ある年老いた織工は、夜に息子を妖精《シー》たちに連れ去られてしまったらしいのだが、次のように言っていた、「メアリー・ハインズは、これまで生きていたものの中で、最も美しかった。俺の母親は、よく彼女のことを話して聞かせてくれたもんだ。ハーリングの試合っていうと、必ず姿を見せたし、どこへ行くにも白い服を着ていた。一日のうちに多いときで十一人もの男が、彼女にプロポーズしたが、彼女は誰も選ばなかった。キルベカンティの向こうのたくさんの男たちが、ある晩一緒に酒を飲み、彼女のことが話題になった。するとそのうちの一人が立ち上がり、彼女に会いにバリリーへ向けて出発した。しかし、そのときはクルーン・ボグ沼地が開放されていたので、その男はそこまで来て沼の水の中に落ちてしまい、翌朝死んでいるのが見つかった。メアリーが熱をだして死んだのは、あの飢饉よりも前のことだった」。また別の老人は、彼女に会ったのは、まだほんの子供の頃だったけれど、近所でいちばん力の強いジョン・マッディンという男が、バリリーに行こうとして夜中に川を渡って風邪をひき、結局は彼女のために死んだのだ、と話してくれた。おそらくこれは、前の話に出てきた男のことが、別な形で記憶されたものだろう。言い伝えというものは、一つのことにさまざまな形を与えるものだからだ。メアリー・ハインズのことを覚えている老女が、アハッグ丘のデリブリエンに住んでいたが、そこは広大な荒れ地で、古い詩に「アハッグの冷たい頂上にいる雄ジカの耳に、オオカミの遠吠えが聞こえた」と歌われてから、少しは変わったが、しかしこの地にはまだたくさんの詩や古い言い伝えが残っている。「太陽も月も、これほど美しい人の上に輝いたことはなかった。その肌は白すぎて青白くみえるほどで、両の頬には小さく紅みがさしていた」と老女は話してくれた。また、バリリーの近くに住んでいたしわくちゃの老婆は、私に妖精の話をたくさんしてくれたことがあり、「メアリー・ハインズにはよく会ったよ。本当に彼女はきれいだった。両頬のわきには巻き毛が二房たれていて、それは銀色だったね。向こうの川で溺れたメアリー・モリーや、アルドラハンにいたメアリー・ガスリーにも会ったけど、メアリー・ハインズはその二人よりもきれいで、とても器量が良かったね。彼女のお通夜にはわたしも出たよ――あの娘は世界を見すぎたのさ。彼女は親切だった。ある日、向こうの野原を通って家に帰る途中で、あたしは疲れちまって、誰か来たと思ったら、それは『華やかな花』だった。彼女はしぼりたてのミルクを一杯あたしにくれた」。この老婆にとって、美しく明るい色は銀貨の色だった。ある老人は――もう死んでしまったが――こう言っていた、彼女は妖精が知っているように、「この世のすべての悪を治す方法を知っていた」かもしれないが、金貨を見たことがあまりなかったので、金の色は知らなかったのだろう。しかし、キンヴァラの海岸近くに住む男は、メアリー・ハインズのことを覚えているには年が若すぎるが、こう言った。「誰もが、あれほどきれいな人に会ったことがないと言っていた。彼女は美しい金髪をしていた。金貨の色だった。貧しかったけれど、毎日着ている服は、日曜日に教会に行くときの晴れ着と同じように、たいそうきちんとしていた。そして、もし彼女が何かの集まりに出ようものなら、みなは一目見ようと押し掛ける始末だった。メアリーに恋した男はたくさんいたのに、彼女は若くして死んでしまった。『賛美された者は、誰も長生きしない』と言う」。
多くの人から賛美を受ける者は、妖精に連れ去られる。妖精たちは自分たちの目的に、そうした支配されない感情を使いたいために、父親が子供を手渡したり、夫が妻を彼らの手に委ねるような気持ちにさせてしまうのだと、年老いた薬草博士《ハーブ・ドクター》は、私に話してくれたことがある。賛美された者、望まれた者は、妖精たちの姿を目にしたときに、「神の祝福がありますように」と言ってもらえれば、無事なのである。歌をうたってくれた老女も、歌詞にある通り、メアリー・ハインズは「連れ去られた」のだと考えている。「だって、きれいじゃない者たちが、たくさん連れていかれているんだよ。彼女を連れて行かないはずがないじゃないか。あちこちから大勢の人たちが彼女を見に来ていても、中に『神の祝福がありますように』と言わなかった連中がいたかも知れないものね」。デュラスの海辺に住んでいた老人は、彼女が連れ去られたことを、少しも疑っていない。「彼女が向こうの祭に来たときのことを、よく覚えている者がまだ何人か生きているし、それに彼女はアイルランドでいちばんの別嬪さんだったって言うじゃないか」。彼女が若くして死んだのは、神たちに愛されたからだ、妖精は神々なのだから。私たちが文字通りに理解するのを忘れてしまった古い諺は、古い時代の死に方を語っていよう。こういった貧しい田舎の人たちは、教養のある人たちよりも、かえってその信条においても、感情においても、物事の根源の近くに美しいものを配する、古代ギリシャの世界により近いのである。「彼女は世界を見すぎてしまった」。しかしこの老人たちが、メアリー・ハインズの話をするときは、彼女ではなく別の者を責めるし、また彼らは頑なでもあるが、ヘレンが城壁の上を通ったとき、トロイの老人たちが穏やかになったように、彼らも穏やかになるのだった。
詩人はメアリーが有名になるのに手を貸したが、彼自身もアイルランド西部で、たいそうな名声を手にいれたわけである。ある人たちはラファティはほとんど目が見えないと思っており、「ラファティを見かけたよ、陰気な男だが、彼女が見えるだけの視力はあったんだ」とかなんとか言った。しかし、別の人たちは彼は全盲だったと思っており、その時おそらく人生の最後の時期を迎えていたと考えていた。寓話はすべてのことをその流儀に従って完全なものにするのだが、目の見えない人たちは、世界も太陽も見たことがないはずだ。ある日、妖精の女性が目撃されたナヴナシーという池を探していたときに、途中で出会った男の人に、もしラファティがまったく目が見えなかったのなら、どうやってあれほどメアリー・ハインズを賛美できたのだろうかと尋ねてみた。「わたしはラファティは全盲だったと思います。だけどそういう人って、ものを見る何らかの方法を持っていたり、目の見える人よりももっとたくさんのことを知っていたり、感じたり、行動したり、想像したりする力を持つわけで、ある種の機知や知恵を与えられているのでしょう」と彼は言った。実際にみなは、ラファティは賢かったと言うだろう、なぜなら、かれは目が見えないだけでなく、詩人だったからであろう。
メアリー・ハインズについて話してくれた織工は、「彼の詩の才能は神さまからの贈り物だよ。神さまからの贈り物には三種類あるんだ、詩と踊りと節操だよ。だから、古い時代に山から降りてきた無知な男が、今出会うような教養のある人よりも、うまく行動できたり、優れた知恵を持っていたりするんだ。そういう人たちは、神さまからその才能を贈られたんだよ」と言った。そして、クールの男は、「彼が頭のある部分に指を当てれば、まるで本に書いてあるみたいに、すべてのことが彼にはわかるんだ」と言った。また、キルタータンの年老いた年金受領者は、「あるとき、彼は茂みの下に立ち、それに話しかけ、それは彼にアイルランド語で答えた。答えたのは茂みだという人たちもいるが、それは魔法の声で、世界のすべてのことについての知識を彼に与えたのだ。その後、その茂みは枯れてしまい、いまでもこことラハシンの間の道っぱたにあるのが見えるよ」と言った。茂みについての彼の詩があるのだが、私はまだ見ていないし、寓話の大釜からこの形で出てきたのかもしれない。
私の友人が、ラファティが死んだときに一緒にいたという男と会ったことがあるが、彼は一人で死んで行ったと言われており、モウルティン・ギレインという男はハイド博士にこう語った。「ラファティが横たわっていた家の屋根からは、天に向かって、一晩じゅう、光が射していて、彼と一緒にいたのは天使だった。そして、一晩じゅう、あばら屋にはまぶしい光があふれ、彼を起こそうとしていたのも、天使だった。彼にそんな名誉が与えられたのは、彼が優れた詩人で、敬虔な歌を歌ったからだ」。大釜の中で死すべき者を不死の者に変えてしまう伝説は、これから数年のうちに、メアリー・ハインズとラファティを、美の悲しさと、夢のすばらしさと、貧弱さの完璧な象徴にしてしまうだろう。
[#地付き](一九〇〇年)
U
しばらく前、北部地方の町に行ったとき、少年時代にすぐ近くの農村地帯に住んでいたという男と、長いこと話した。男が言うには、血筋に美しい者がまったくいない家に美しい女の子が生まれると、その美しさは妖精から贈られたものといい、不幸がいっしょに付いて来る、と言うそうである。その男は、知っている美人の名前をいくつか挙げ、美人は誰にも幸福をもたらさない、と言った。美人は、誇りだが同時に、恐れだとも言った。あのときの男の言葉を書き留めておけばよかった。覚えているよりも、もっと真に迫ったものだったからだ。
[#地付き](一九〇二年)
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7 羊の騎士
ベン・バルベンやコープ村のはるか北に、ゲール人の時代には、「羊の騎士」と呼ばれる屈強な農夫が住んでいた。先祖は中世の最も勇猛果敢な氏族のひとつから出ていることを誇りにしていたその男は、言葉においても、行いにおいても同様に、力の強い男であった。それと全く同じような男が一人だけいるが、この男はベン・バルベンの山のかなり上の方に住んでいた。パイプをなくしたときに、彼はこういった。「天の神様、こんな仕打ちを受けるなんて、わしがいったい、何をしたっていうんですかい?」また山に住む彼をおいてほかには、市の日の取引で彼の言葉に勝てる者はいなかった。彼は感情の起伏が激しく、急に行動に出ることがあり、怒っているときには、左手で白い顎髭を振り回すのだった。
ある日、私と彼が一緒に食事をしているところに、「オドンネルさんとおっしゃる方がお見えです」と、女中が伝えにきた。年老いたこの男と彼の二人の娘は、急に黙り込んでしまった。しばらくしてついに姉娘が、いくぶん辛辣な口調で父親に言った。「入っていただいて、お食事をご一緒にとお勧めなさいよ」。老人は部屋を出ていったが、かなりほっとした様子で戻ってきて、こう言った。「食事はいらないと言っておる」。「それなら」姉娘は言った、「居間にお通しして、ウィスキーをお出ししてくださいな」。ちょうど食事を終えたばかりの父親は、不機嫌そうにその言葉に従った。居間――夕方には姉妹が腰を降ろして縫い物をする小さな部屋――に、二人の男は入り、ドアの閉まる音が、私の耳に届いた。姉娘は私の方を見て、「オドンネルさんは徴税吏なのです。昨年、彼は税金を引き上げました。父はたいそう腹を立て、あの方を酪農場へ連れていき、乳絞りの女を使いに出してから、さんざんに罵りまくったのです。『お教えしておきますがね、旦那』オドンネルさんは言いました。『役人は法律で守ってもらえるんですよ』。しかし、父は証人が誰もいないことを注意してやりました。とうとう父も疲れてしまい、それにすまないと思ったのでしょう、帰りの近道を教えてやろうと言いました。二人が大通りへ出る道の半分ほどまで来たところで、父の小作人が土地を耕しているのに出会いました。これがまた悪いことを思い出させてしまったのです。父は小作人を使いに出して、また徴税吏を罵りはじめました。わたくしはこのことを聞いたとき、オドンネルのような可哀そうな男に、そんなことをまくしたてた父にうんざりしました。そして、二、三週間前にオドンネルのたった一人の息子が死んでしまい、彼が悲しみにうちひしがれているというのを耳にして、次にオドンネルが来たなら、親切にしてやるようにと、父に言って頼んだのです」。
そのあと姉娘は隣人の様子を見に行き、私はぶらぶらと居間の方へ足を運んだ。ドアのそばに近づいたとき、中から腹立たしげな声が聞こえてきた。明らかにまたも税金の話になり、二人の男は言い合いをしているようだ。私はドアを開けた。私の姿を見て、農夫は平和をもたらそうと思い付き、ウィスキーがどこにあるか知っているかと、私に尋ねた。前に彼が食器棚にしまうのを見ていたので、それを見つけて取り出すと、徴税吏のやせて悲嘆にくれた顔に目を向けた。徴税吏は私の友人よりもやや年上で、もっと弱々しく疲れきっているらしく、かなり性格が違うようであった。頑健で成功をおさめた友人とはまったく似たところがなく、地の上に足を休ませる場所を見つけられないという類の男だった。私は「幻の子供たち」の一人を思い出し、こう言った。「あなたは、あの古いオドンネル一族の生まれに違いないですね。宝を埋めて、いくつもの頭のある蛇に護らせている川底の穴のことを、私はよく知っていますよ」。「そうですよ」彼は答えた、「私は王子の直系の最後のひとりなのです」。
そのあと私たちは共通のことについて話がはずみ、友人は顎髭を振り回すこともなく、とても好意的であった。やせこけて年老いた徴税吏はついに腰をあげ、私の友人はこう言った、「来年は一緒に乾杯といきたいですな」。「いや、いや」と彼は言い、「私は来年には死んでますよ」。「私も息子たちを亡くしましたよ」友人は、とても低い声で言った。
「でも、あんたの息子さんたちと、私の息子とは違っていたな」。そして二人の男は、怒りに顔を紅潮させ、苦い想いを心に抱いて別れた。私が彼ら二人の間に、共通の言葉か何かを投げかけなければ、別れなかったかもしれないが、死んだ息子たちの価値について、怒りに満ちた言い争いになったかもしれない。もし私が「幻の子供たち」に、何の哀れみも感じていなければ、二人が言い争うままにさせておいただろう。そうすれば、今ごろはたくさんのすばらしい罵りの言葉を、記録できていただろう。
「羊の騎士」が勝利を納めたかも知れない、というのは血と土から作られた衣服を身につけた者は誰も、彼に勝ることはできないからだ。しかし、一度だけ彼が言い負かされたことがあった。彼の話では、事の次第はこうであった。彼と何人かの作男たちが、大きな納屋の端にさしかけられた小屋の中で、カード遊びをしていた。その小屋には、かつては意地悪な女が住んでいた。カードで遊んでいたうちの一人が突然、エースのカードを放り出すと、何の理由もないのに罵りはじめた。あまりにひどいその罵り言葉に他の男たちが席を立ち、私の友人はこう言った、「何かおかしいぞ。奴に霊が取り憑いているんだ」。彼らは納屋に通じるドアに殺到し、出来るだけ早く逃げ出そうとした。しかし木の閂《かんぬき》がどうやっても動かず、そこで「羊の騎士」は、手近な壁に立てかけてあったノコギリを手に取ると、閂をひき切った。すぐにドアは大きな音をたて、勢いよく開いたが、あたかもそれまで、誰かがドアを押さえていたかのようであった。皆は一目散に逃げ出したという。
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7 耐える心
ある日、私の友人があの「羊の騎士」のスケッチを描いていた。老人の娘がそばに腰を降ろし、いつのまにか話が愛や愛の行為になってしまったとき、娘は言った。「ねえ、おとうさん、この人におとうさんの恋愛沙汰の話を、聞かせてあげてよ」。老人は口からパイプを離して言った。「愛する女と結婚する者など、誰もおらんのだよ」。そして、喉の奥で笑いながら、「わしも、結婚した女よりも、もっと好きだった女が、十五人はいたな」こういうと、たくさんの女の名前をくりかえした。さらに続けて、若い頃におじいさん、つまり母方の祖父のために、どれほど働いたかということや、(なぜだかは忘れてしまっていたが)そのおじいさんの名前で呼ばれていたことなどを話した。名前はドーランとでも呼んでおこう。彼には親友がいたが、そいつのことはジョン・バイルンと呼ぼう。ある日、彼と親友はクィーンズ・タウンへ向かい、移民船を待つことにした。その船でジョン・バイルンはアメリカに渡る予定だった。二人が波止場を歩いていたとき、少女がひとり、椅子に腰を降ろし、哀れっぽく泣いており、その前では二人の男が立ったまま口喧嘩をしているのに出くわした。ドーランは言った。「何がまずいのかわかるような気がするよ。あっちの男が彼女の兄貴で、そっちの男が恋人だ。兄貴はあの娘を恋人から遠ざけるために、アメリカにやってしまおうとしている。あんなに泣いて! だけど、俺ならあの娘を慰められると思うな」。やがてその恋人と兄貴はいなくなったので、ドーランは娘の前を行ったり来たりしはじめ、「いいお天気ですね、おじょうさん」とかなんとか声をかけた。しばらくして娘はドーランに言葉を返すようになり、三人で一緒におしゃべりを始めた。移民船が到着するまでにはまだ数日あった。そこで三人はただ無邪気に愉快に屋根なしの馬車に乗っては、見るべきものはすべて見て回った。ついに船が到着し、ドーランが自分はアメリカには行かないのだと打ち明けたとき、娘は最初の恋人と別れたときよりも、もっと激しく泣きじゃくった。バイルンが船に乗り込むとき、ドーランはこうバイルンに耳打ちした。
「おい、バイルン、あの娘をおまえにやるのが惜しいわけじゃないけど、若いうちに結婚なんかするんじゃないぞ」。
話がこんな具合になると、農夫の娘は、「おとうさんはバイルンのためを思って、そう言ったのかしら」と、からかうように口をはさんだ。しかし老人は、彼のためを思って、本当にそう言ったんだと言い張り、バイルンとその娘が婚約したという手紙を受け取ったときには、また同じ忠告を書いて送ってやったと言った。やがて年月は流れ、彼らからは何の音沙汰もなく、ドーランも結婚したが、彼女がどうしているのかを考えずにはいられなかった。とうとう、アメリカにまで行き、その目で確かめるため、たくさんの人たちに消息を尋ねて回ったが、何もわからなかった。さらに年月がたち、妻は死に、彼自身は歳のわりには丈夫で、少なからぬ財産を手にした裕福な農夫となっていた。何やらあやふやな仕事を口実にして再び彼はアメリカへ渡ると、また彼女を探し始めた。ある日、列車の中でたまたまアイルランド人と出会って話をし、いつものようにいろいろな所からの移住者について尋ね、最後に「イニス・ラースから移住した粉屋の娘については、何か聞いてませんかね」と言って、探している女性の名前を口に出した。「ああ、知ってますよ」相手はいった。「その女性は私の友人のジョン・マッカーウィンと結婚したんです。シカゴのこれこれという通りに住んでいますよ」。ドーランはシカゴに行き、彼女の家の扉を叩いた。扉を開けたのはほかならぬ彼女自身で、その姿は少しも変わっていなかった。祖父が死んだあと継いだ彼の本当の名前と、列車の中で出会った男の名を言った。彼女には彼が誰なのかわからなかったが、古い友人のことを知っている人に会えたら、夫が喜ぶでしょうから、夕食までいてください、と言った。彼らは大いに語り合った。しかし、実にいろいろなことを話題にしたにもかかわらず、私には何故だかわからないのだが、またおそらく彼にもわからなかったのだが、ドーランは自分が何者なのかは語らなかった。夕食の席で、ドーランが彼女にバイルンのことを尋ねると、彼女はテーブルの上につっぷして泣き出してしまった。あまり激しく泣くので、ドーランは彼女の夫が怒り出すのではないかと心配になった。バイルンの身に何が起きたのかを尋ねるのが恐くなり、ドーランは早々に立ち去り、二度と彼女と会うことはなかった。
老人は話を終えて、こう言った。「ミスター・イエイツにこの話をしてやんなさい。あの人は、たぶん、このことを詩に書いてくれるだろう」。しかし、娘はこう言った。「まあ、だめよ、おとうさん、誰もそんな女のことを、詩にしたりしないわ」。悲しいことに、私はその詩をまだ作ってはいない。たぶん、ヘレンや世界中の愛らしく気ままな女たちを愛してきたこの心が、苦痛にさいなまれるからだろう。あまり深く考えすぎないほうがよいこと、飾りのないありのままの言葉が、もっともふさわしい事があるのだ。
[#地付き](一九〇二)
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9 妖術師
アイルランドでは、悪い魔術(註)に関する話はあまり聞かないし、実際にそれを見た人となると、もっと稀である。というのは人々の想像力というものは、夢想的なそして気まぐれなものに宿っているからで、その夢想や気まぐれを、悪とか善とかに結びつけるなら、その生命の息吹ともいえる、自由さが無くなってしまうからだ。賢者によれば、人がいるところならどこにも、人間の貪欲さを満たそうとする悪い魔術はあり、心の密房に蜜を蓄える光る生きものや、薄明りのなかをあちこち飛び回る生きものと同じ様に、激しくもの悲しい群れとなって、人間を取りまいているという。彼らはまたこういう意見も持っていた。すなわち長いことそうしたいと願ってか、あるいは偶然に生まれながらにしてか、人々の隠れたところを見通す力のある人には、以前に激しい情熱に囚われた男女とか、巧妙な悪意を抱いてゆっくり動く、地上に住んだことのない者たちがいるのが見えているという。悪い魔術はまるで古木に止まったコウモリのように、昼も夜も私たちから離れようとしない。私たちが悪い魔術についてあまり多く聞かないのは、悪い種類の魔術は、僅かな修行を積むだけですむからである。私がアイルランドで、悪い力と関係しようとしている人に、実際に会ったことはあまりないが、会えた少数の人たちは、まわりに住んでいる人たちに知れぬように、ひそやかに事を企て、実行している。彼らは主に勤め人かそういった人たちであり、秘法を行うためには、黒い垂れ幕の懸かっている部屋に集まるのだが、その部屋がどこの町にあるのか私には判らない。彼らは私がそうした部屋に入るのを許してくれなかったが、私がその秘法について全く何も知らないと判ると、よろこんで別の場所で、彼らのやることをして見せてくれた。大きな製粉所の事務をやっているリーダーはこう言った、「我々の所においで下さい、そうすればあなたに向かって話しかける霊をお見せしましょう。その霊は我々と同じように、堅くて重い肉体を持っているんです」と彼らのリーダーは言うのであった。
私は、天使や妖精――昼間の子供たちと、薄明の子供たち――と夢うつつの境地で交感する能力について語ったが、彼は、日常の普通の心理状態で見たり感じたり出来るものしか、信ずべきでないと主張した。「それでは、いっしょに参りましょう」と私は言った、「ですが、私も夢うつつの状態にならぬようにして、あなたの言っている霊というものが、私の言う霊と違うもので、我々の日常の感覚で、触れたり感じたりできるものかどうか、確かめたいですね」とも言った。私はあの世の存在が、人間の肉体を身につける力があるのを否定はしないが、彼が言っているような単純な呪法では、心を夢うつつの状態に惹きこんで、昼間と薄明と暗黒のなかに、連れだすことしかできそうにないと思えたのである。彼はこう言った、「しかし、我々はそうした霊たちが、家具をあちこち動かすのを見たことがあるんです。霊たちは我々の命令で行動し、何も知らない人々に力を貸したり、害を加えたりするんです」。彼が話した言葉を一字一句、間違いなく伝えることはできないが、その話の内容は、出来る限り正確に伝えようと努めた。
約束した夜の八時頃に、私はその場所に行ってみた。あのリーダーは、奥まった小さな部屋のほとんどまっ暗い闇の中に、ただ一人で座っていた。まるで昔の絵に描いてある異端審問官が着るような、黒いガウンを羽織っていた。そのため私に見える彼の体は眼だけで、それが二つの小さな穴のようにみえ、そこからじっとこちらを見つめていた。前のテーブルの上には、真鍮の皿が置いてあり、中では薬草が燃えていた。また大きな鉢、いちめんに様々なシンボルが描かれている髑髏、交差して置かれた二本のナイフ、私には使い道がわからなかったが、石臼のような形の多くの道具も置いてあった。私もまた黒いガウンを着たが、なにか体にぴったり合わず、体を動かすときにかなり邪魔になったことを覚えている。やがて妖術師は、黒いおんどりを籠から取り出すと、ナイフでその首を切り、大鉢のなかにその血を流しこんだ。彼は本を開くと呪文をはじめたが、明らかに英語でもアイルランド語でもない言葉が、太い喉声で唱えられた。その呪文が終わらないうちに、別の妖術師が入ってきたが、やはり黒のガウンを着ると、私の左隣りに座った。呪文祈祷者は、ちょうど私の前に来ていたが、フードの小さい穴から光る眼が、私に妙な作用を及ぼし始めた。私はその作用を受けまいと逆らっているうちに、頭痛がしてきた。呪文は続いていたが、数分のあいだは何も起こらなかった。呪文を唱えていた男は立ち上がると、廊下の明りを消したので、ドアーの隙間からもれていたかすかな光りも、消えてしまった。真鍮の皿で薬草を燃やしている火のほかは、光りは一切なく、太い喉声でつぶやく呪文のほかは、なんの物音も聞こえなかった。
やがて私の左に座っていた男は身をゆすると、「おお、神よ! おお、神よ!」と叫んだ。私はどうしたのかと尋ねたが、彼には自分が口をきいたという意識がなかった。そのすぐ後で、彼はいっぴきの大きな蛇が、部屋のなかを動きまわっているのが見えると言って、かなり興奮していた。私にははっきりした形のものは何も見えなかったが、私のまわりに黒い雲が発生したように思った。私はそれに抵抗しないと、夢うつつの状態に惹き込まれてしまうと思ったし、またこの心の状態を惹き起こそうとしている作用は、それ自体が調和からはずれている、いわばそれが悪なのだと感じた。懸命に抵抗して黒雲をおい払い、また普通の感覚で観察できるようになった。こんどは二人の妖術師に、黒と白の柱が部屋中を動いているのが見え始め、しまいには修道僧の服装をした男が見えてきたようであったが、私にはこうしたものは全く見えなかったので、だいぶ戸惑っているようであった。二人にとってそれらの物は、眼の前のテーブルと同じくらい確固としたものだったからである。呪文を唱えていた男は、次第に力を加えていくようであった。まるで闇の潮が彼から流れでて、私のまわりに集中してくるような感じを受け始めた。この時、左に座っていた男が、死んだような恍惚状態になっているのに気づいた。私は最後の力をふりしぼって、黒い雲を払いのけたが、私が夢うつつの状態に入らずに見える物の形は、この位が限度かと感じ、またその黒雲もあまり気持ちのよいものではなかったので、明りをつけてくれるように頼み、必要な悪魔払いののちに、日常の世界に戻った。
私は二人の妖術師のうち、力のある方に尋ねてみた、「もしあなたの霊の一つが、私に乗り移るとしたら、どうなるのでしょうね?」「あなたがこの部屋を出ていくとき、あなた自身の性格のうえに、その霊の性格が入っているでしょうね」と彼は答えた。彼の妖術のもとについて聞いて見ると、父親から学んだということのほかは、たいした情報は得られなかったが、それは秘密厳守の誓約をしているからのようであった。
数日のあいだ、私のまわりにつきまとう醜く気味の悪いものの姿を、払い除けることができなかった。明るい力はいつも美しく好ましいものであり、ぼんやりした力は、あるときは美しかったり、妙に不格好だったりするが、暗い力は恐ろしく醜い姿に、出来損ないの性質を持つもののようである。
[#この行2字下げ](註)私はいまではもっとよく知っている。思ったより多く、悪い魔術はあるのだが、スコットランドほど多くはない。しかし人々の想像力は、主として夢想や気まぐれの中に宿っていると思う。
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10 悪魔
ある日、メイヨーに住む古くからの友だちである老女が話してくれた。何かとても邪悪なものが道の向うからやって来て、向かいの家に入って行ったという。それが何なのかあえて彼女は言わなかったが、わたしにはよくわかっていた。またある日には、悪魔と思われる者から愛された二人の友だちのことを話してくれた。友だちの一人が道端に立っていると、男が馬に乗ってやって来て、後ろに乗って遠出をしませんかと誘われた。彼女が断ると、男の姿は消えてしまった。もう一人は、夜遅く外に出て恋人を待っていたとき、何かがかさこそと足元に転がってきた。それは新聞紙のようなもので、そうしているうちに彼女の顔に張り付いたが、その大きさから「アイリッシュ・タイムズ」だということがわかった。それはとつぜん若い男に姿を変えると、一緒に散歩をしませんかと誘ってきた。彼女が断ると、男は消えてしまったという。
わたしはベン・バルベンの丘の麓に住む老人を知っている。その老人は悪魔がベッドの下で鐘を鳴らしているのを見つけると、教会の鐘を盗んできてそれを鳴らし、悪魔を追い出したということだ。老人をやっかいごとに巻き込んだのは、他の話にもあるように、悪魔ではなく、ひずめの足をした哀れむべき森の精であった。
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11 幸福な理論家と不幸な理論家
T
メイヨーの女性が、かつて私にこう言った。「神様のために、首を吊った召使いの女の子を知ってますよ。その娘は牧師さんや自分の教区でのつき合いが恋しくて、スカーフを使って欄干にぶら下がっちまったんです。彼女の死に顔は、百合の花のように真っ白でした。これが殺されたんだったり、自殺だったりしたら、真っ黒々になっていたでしょうがね。キリスト教の葬式を出してもらって、牧師さんが言うには、あの子は死んだその瞬間に、神様のもとへ行ったんですって。だから神様のためにすることなら、何も問題ないんですよ」。この話をするときの、彼女の満足そうな様子を、私は不思議とは思わないが、それは彼女自身が聖なる物事が大好きで、すぐさまそれを唇に当てたがるほど熱心だったからだ。後で自分の目で確かめられないようなことを、お説教の中で聞かされたことは一度もない、と話してくれた。彼女の目に映った煉獄の門について、聞かせてもらったことがあるが、悩める魂を見られず、門しか目にはいらなかった、といったことしか覚えていない。彼女の心は絶えず、快くて美しいものに留まっているのだ。ある日、何月と何の花が、一ばん美しいと思うかと彼女は尋ねた。私が分からないと答えると、「五月ですよ、聖母マリアの月ですからね。それと、谷間の百合。罪を犯したことがなく、岩の間から無垢な姿を見せるからですよ」と言った。そしてまたこう尋ねた、「冬の寒い三か月というのは、何のためにあるんでしょうね?」。それも分からないと言うと、「人間の罪と、神様の復讐のためですよ」と言った。キリストは神聖なだけでなく、あらゆる人間的な調和も完璧にとれている、と彼女の目には映っており、それと同じくらいキリストの中では、美と聖とが調和している、と彼女は考えていた。あらゆる人間の中でキリストだけが、身の丈がちょうど六フィートで、他の者たちは皆、それよりもわずかながら大きいか小さいかだと言うのである。
妖精族についての、彼女の見方や考え方もまた、快く美しいもので、妖精たちを「堕天使」などと彼女が呼ぶのを、一度も聞いたことがない。妖精たちは私たちと同じような姿形をしているが、ただ彼らの方がもっと姿がいいという。彼女は何度も何度も窓辺へ行って、妖精たちが何台もの馬車を長く連ねて、空を渡って行くのを見たり、戸口へ行って、彼らが遠くで、歌ったり踊ったりするのを、眺めたりしていた。主として歌っていたのは、「遙かな海」という歌だったらしい。妖精たちは一度、彼女を叩きのめしたことがあったが、彼女は決して彼らを悪く思ったりはしなかった。彼らをよく見たのは、キングス地方で奉公していたときで、しばらく前のある朝、彼女は私にこう言った、「昨日の晩ですけどね、あたしは御主人様を寝ないで待っていて、十一時を十五分ばかり回ったころでしたかね。テーブルのちょうど真下で、大きな音がしたんですよ。『キングス地方のどこもかしこもだ』って言うんです。あたしは死ぬほど笑いころげてしまいましたよ。あれは夜更かしがすぎるぞっていう警告だったんです。あの人たちはあの場所が要りようだったんでしょうね」。妖精を見て気絶した人のことを、前に彼女に話してやったことがあったが、彼女はこう言った、「それは妖精なんかじゃありませんね。何か邪悪なものですよ。誰も妖精を見て気絶なんかしません。悪魔だったんですよ。あの人たちがそばにいたって、ベッドの下にいたって、屋根を通り抜けて行ったって、あたしは恐いと思ったことなんぞありませんよ。あなたが仕事をしていて、何かが階段をぺたぺたとウナギのように登ってきて、きいきい声をあげたときだって、わたしは恐くなんかありませんでしたね。それは家じゅうのドアを開けようと試してました。でも、わたしのいるところへは入ってこれません。もし入って来たら、炎か閃光のようにさっと、宇宙の果てへ送り飛ばしたでしょうよ。わたしの町のある男なんですが、これがすごい男で、あの人たちの一人を取り押さえたんです。外出して道の真ん中で出会って、きっと喧嘩になったんですね。でも、妖精たちはとても『良いお隣さん』なんです。良いことをしてやれば、良いことをしてくれるけど、通り道をふさがれるのは好きじゃないんですよ」。別なときに彼女はこうも言った「あの人たちは、貧乏人に、いつも良くしてくれますね」。
U
しかし、ゴロウェイの村には、ものごとを悪くしか見られない男がいた。ある人たちはその男をとても敬虔だと思い、別の人は少しばかり狂っていると思っていたが、彼のある話は、ダンテに『神曲』の構想を与えたらしく、古代アイルランドの幻想の一つである三つの世界のことを思わせた。しかし、この男が天国を見ているとは、どうも私には想像できない。彼は妖精族の人々に、とくに腹を立てていて、ごく普通の子鹿に似た足のものたち、実際には牧羊神《パン》の子どもたちだが、それを魔王の子どもだと証明できると言った。彼はまた「彼らが女などたくさんいると言っているのに、女たちをさらっていく」ことを認めていない、そして「彼らは海の砂粒ほどたくさんいて、人間を誘惑するのだ」と堅く信じていた。
彼はこう言った。「わしの知っている神父さんなんだが、何か捜してるみたいに、地面をなめるように見ていると、こんな声が聞こえてきた、『彼らを見たいのなら、いやというほど見せてやろう』。神父さんが目を開けて見ると、やつらが地面いっぱいにうじゃうじゃいた。ときどきやっているように、歌ったり踊ったりしていたが、やつらは山羊みたいな蹄をずっと出したまんまだった。やつらがどんなに歌ったり踊ったりしても、神父さんはキリスト的でないものを軽蔑していたので、立ち去れと命令さえすれば、やつらは行ってしまうだろうと考えていた。ある晩、キンヴァラからの帰り道で、森のそばを歩いていたとき、何かがわしの横に近寄って来たのがわかった。そいつが乗っている馬と、そいつの脚のあげ方は感じでわかったんだが、そいつは普通の馬の蹄と音が違っていた。そこでわしは立ち止まるとそっちを向いて、『消えちまいな』とでっかい声で言った。するとそいつはどこかへ行っちまって、二度とわしにちょっかいだしてこなかった。それから、死にかけていた男のことを知っている。何かがその男のベッドに近寄ってきたんで、男はそいつに向かって叫んだ『出て行け、このへんてこりんな獣め!』。すると、そいつは男から離れていった。やつらは堕落した天使なんだ。堕落したあと、神様は『地獄に墜ちろ』とおっしゃったので、すぐさまそうなったのさ」。
暖炉のそばに腰かけていた老女が、「神様はわたしらを救ってくださるさ。そんなことをおっしゃったのは悲しいことだけど、その日までは地獄なんかなかったかもしれないね」と言いながら話に加わったが、妖精を見た男は、この老女の言葉には気づかなかった。彼は話を続けた。「では、人々の魂と引換えに、何を手に入れるのか、と神様は悪魔に尋ねなさった。すると悪魔は、聖母の息子の血のほかには、満足できるものはないと言い、それを手に入れ、そして地獄への門は開かれたのだ」。彼はこの話を、あたかも謎めいた古い民話かなにかのように、思っているようだった。
「わしはこの目で地獄を見たことがある。あるとき、幻想の中でそれを見たんだ。周りは高い壁、それも金属製の壁に取り囲まれ、アーチ型の門で、中へまっすぐな道が続き、まるで農場主の果樹園に続いているみたいだったけれど、縁はツゲの植え込みじゃなくて、真っ赤に焼けた金属で飾られていた。壁の中には十字路があって、右側に何があったのかはわからないが、左側には五つの大きな溶鉱炉があって、そこは鎖に繋がれた死者の霊でいっぱいだった。わしはくるりと踵を返すと、とっとと立ち去った。振り返って、もう一度壁を見てみたが、どこまでも果てしなかったよ」。
「それとはまた別のときに、煉獄を見たんだ。それは平地にあって、取り囲む壁はなかったけど、全体がぎらぎらと輝く炎で、死者の霊たちが、その中に立っていた。そして霊たちは地獄と同じぐらい、苦しんでいた。ただ違うのは、そこには悪魔たちがいなくて、天国へ行ける希望があるんだ」。
「そこからわしに呼びかける声が聞こえた。『ここから助け出してくれ!』ってね。そっちを見ると、軍隊で見知った男がいた。この地方出身のアイルランド人で、アセンリーのオコナー王の子孫だと、わしは思っていた。そこで、まず腕をさし出して、こう言ってやった、『あんたから三ヤードのところに近づく前に、わしのほうが炎に焼かれちまう』。すると彼は、『じゃあ、おまえの祈りで、わたしを助けてくれ』と言うので、わしはそうしてやった」。
「そして、コンネラン神父さまも、同じことをおっしゃった。死者を助けるには祈りをもってせよ、とな。神父さまはとても頭が良くていいお説教をなさるし、ルルドから持ち帰った聖水で、ずいぶんと治療なさっているんだ」。
[#地付き](一九〇二)
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12 最後の吟唱詩人
ミッチェル・モランは、一七九四年頃に、ダブリン特別行政区のブラック・ピッツのはずれ、ファドル横町で生まれた。生後二週間で、病気のためにまったく目がみえなくなってしまった。しかしこれが両親にとっては神の恵みとなり、さっそく彼にリーフー川の向かいの道端や橋の上で、歌を歌って物乞いをさせることができた。両親は彼のような子どもがいっぱい授かればいいと思ったかもしれない。目に見えるもので邪魔されることがないので、彼の心は完全な反響室となり、一日のあらゆる動きや、世間の人々の感情のあらゆる変化が、それ自身で韻を踏み、あるいは風変わりでおもしろい言い回しとなって、彼の心には響いていたからである。大人になる頃には、特別行政区でバラード作りの商売仲間の公認の長となっていた。織物師のマッディン、ウイックロー出身の目の見えないヴァイオリン弾きカーネイ、ミース出身のマーティン、出身の分からぬマックブライド、そしてマックグレイン、彼は後にモランがいなくなったとき、借り着で装う、というよりは借りぼろ服をまとって気取って歩き、彼をおいて他にモランはいないと言うことを見せていたが、こういった連中やそのほかの大勢の者たちが、モランに臣下の礼をとって、彼ら一派の仲間の長としていたのである。目が見えなくても妻をめとるのには何も困らず、ぼろを着ていても、女心には大事に思える才能ある若者だったので、自由に選ぶだけでよかった。また妻となる方も、まったく普通の女性であるから、意外なものや曲がったもの、当惑させられるものをかえって好んだのである。ぼろをまとっていても、モランには優れたものがないわけではなかった。彼はケイパー・ソースが大好きであったが、あるときそれが買ってないことに心底腹を立て、マトンのもも肉を妻に投げつけたことがあった。フード付きで、波型の縁どりのある目の粗いラシャのマントに、古いコーデュロイのズボン、大きな普段用の短靴をはき、がっしりとした杖を皮ひもで手首に固定させたその姿は、さして見るほどのものではない。しかし、もし王の友人だった吟唱詩人マックコングリンが、コークの石の柱から予言のヴィジョンのなかにその姿を見たならば、恐ろしいショックを受けただろう。また短いマントと皮の下げ袋がなくても、モランはやはり本物の吟唱詩人であり、それに詩人、道化師であり、人々のニュースを伝える者であった。朝になって食事を終えると、彼の妻か隣人の誰かが、新聞を声を出して読みあげる。モランが「もういい――瞑想に入る」というまで、読み続ける。そしてその瞑想から、彼のその日の冗談や詩が生れてくる。モランのラシャのコートの中には、中世のすべてがあるわけだ。
しかしながら、マックコングリンの教会や牧師に対する憎しみは、彼にはなかった。というのは、瞑想がうまく実らなかったとき、あるいは聴衆が何かもっと堅い話を聞きたいといったときには、聖人か殉教者か聖書の中の冒険について、韻律をつけて話を吟唱したり、歌ったりした。彼は道の辻に立ち、聴衆が集まると、こんなふうに始めるのだった(彼を知っている人の記録を写させてもらった)――「まわりに集まってくれ、みんな、集まってくれ。俺は水たまりに立っていないかな? 濡れている所に立っていないかね?」すると、少年たちが叫ぶ。「ああ、だいじょうぶだよ、だいじょうぶ、ちゃんと乾いた所に立ってるよ。マリアさまのお話をしてよ。モーゼの話をしておくれよ」。それぞれがお気に入りの話をせがむ。するとモランは、疑わしそうに体をもじもじさせて、ボロ服をきつくつかみ、「俺の心の友はみんな、陰口を言うようになっちまった」と突然叫びだし、最後に「からかうのや、話をそらすのをやめないと、おまえたちをひとまとめにして、洗っちまうぞ」と少年たちに警告すると、歌を諳じ始めるか、あるいはまだぐずぐずして、「おれのまわりに、人がたくさん集まっているかい? ならず者の異端者たちはいないか?」などと尋ねた。彼がよく語る知られた宗教の話は、「エジプトの聖マリア」だった。すばらしく荘厳な長い詩で、あるコイル司祭の物語のもっとも長い作品から、いいところだけをとって縮めたものである。その話では、マリアという名の奔放な女が、よからぬ目的を持ってエルサレムへの巡礼に従ったが、超自然的なものの干渉があって、寺院には足を踏み入れることができなかったことから、罪を悔いて砂漠へ逃れ、残りの人生を孤独な難行苦行に費やした。そしてついに彼女が死を迎えたとき、神は彼女の告解を聞いてやるためにゾジマス司教を遣わし、最後の聖餐を与え、やはり神はライオンを遣わし、その助けを借りて墓が掘られた。この詩には十八世紀の狭く限られた調子があるが、非常に人気があって、みなからこの話をせがまれたので、モランはやがてゾジマスとあだ名されるまでになり、彼のことはその名前で思い出されるようにさえなった。彼には自作の「モーゼ」という詩があり、それはかなり詩に近いものであった。しかし、彼はあまり厳粛なものには我慢がならなかったので、まもなく自分で自分の詩を、次のようなくだけた調子に茶化したものにしてしまった。
エジプトの、ナイルの川のほとりに近く、
パラオ王の娘は沐浴に、気取って出かけた
王女は身体を水にひたすと、陸へあがった
王女は岸辺を駆けていった、やんごとなき肌を乾かすために
パピルスに足をとられ、倒れたところで目にしたものは
ひとかたまりのワラの中で、笑っている赤ん坊
王女は赤ん坊を抱き上げると、やさしくこう問いかけた
「おまえたちのうちの誰が、この子のおかあさんなの?」
しかし、彼はユーモアあふれる詩の調子で、しばしば同時代の人達に矢を向け、奇抜な言い回しで皮肉ったりからかったりした。たとえばある靴屋に、金持ちであることを見せびらかしていることや、体が清潔ではないことなどを、取るに足らない歌の中で思い出させるのが、彼の楽しみだったが、その歌の最初のスタンザだけが今も伝わっている。
ダーティ・レインの汚いすみに、
汚い靴直し屋のディック・マクレインが暮してた。
女房は年とった王の領土で、
威勢のよい勇敢なオレンジ売り。
エセックス橋で喉をふりしぼり、
六個で一ペニーで売っていた。
だが、ディッキーは真新しい上着で、
郷士の仲間入りをした。
彼は偏屈者、一族の者たちと同様に、
町のまん中で、気ままに歌い、
古女房と共に馬で行く。
おお、ローリー、トーリー、トーリー、
モランには、直面してすぐさま解決しなければならないさまざまな問題や、数多い無許可営業の問題などたくさんあった。一度、おせっかいな警官が彼を浮浪者として逮捕したことがあったが、モランがホメロスもやはり詩人で、盲目で、乞食だったと申し立て、自分はその前例に敬意を払っているのだということを思い出させ、警官のほうが裁判所でもの笑いの種となって追い出されたことがあった。名声が上がるにつれ、モランはより深刻な問題に立ち向かわなくてはならなくなった。あちこちの辻に、さまざまな偽者《にせもの》が現れ始めたからだ。たとえば、ある俳優は、モランの言い回し、歌、舞台での立ち方をまねして、モランが稼ぐシリング硬貨よりももっとたくさんの金貨を稼いだ。ある晩のこと、この俳優が友人たちと夕食を共にしていたとき、彼のものまねは誇張しすぎではないかと議論になった。そして、町の人たちに見てもらって、決めてもらおうということになった。有名なコーヒー店での夕食代四〇シリングが賭け金だった。俳優が舞台に選んだのは、モランが頻繁に訪れるエセックス・ブリッジ で、そこにはすぐに小さな人だまりができた。彼がほとんど「エジプトの地の、ナイルの川のほとり近くで」を歌い終えようというときに、モランその人が、群衆を引き連れて現れた。群衆はたいへんな騒ぎと笑いでぶつかった。「なんてことだ」偽者は叫んだ、「この哀れな盲目の男をからかおうとする輩《やから》がいようとは」。
「あれは誰だ? 詐欺師だな」モランが応じた。
「消え失せろ、あさましい奴め! おまえこそペテン師だ。この哀れな盲目の男をからかって、天の光に目を焼かれるのが、恐ろしくはないのか?」
「聖人と天使さま、こんなひどいことから、守ってはくださらないのですか? まっとうな稼ぎをこんなふうに奪うなんて、お前はどうしようもない人でなしだ」哀れなモランが言った。
「お前もだ、あさましい奴め。この美しい詩を最後まで歌わせてくれないか? キリスト教徒のみんな、お願いだから、この男を追い払ってくれないか? 奴めは、おれの目の見えないのを利用しているんだ」
偽者は、勝ち目が自分にあるのが判った上で、群衆が同情して守ってくれたおかげで、この詩の先を続けられたが、モランの方は動揺して口をつぐんだまま、耳を傾けていた。モランはしばらくすると、再び抗議の声をあげた。
「誰もこの俺が判らないなんてことがあるか? このおれこそが本物で、あいつは別人だってことが、判らないのか?」
「この美しい話の先を進める前に、」と偽者は途中で歌をやめて言った、「俺が先を続けられるよう、寛大な寄付をお願いしたいのだが」。
「お前には救われるべき魂がないのか? 天を嘲ける者よ」。この最後の侮辱に完全に我を忘れて、モランは叫んだ、「お前は哀れな男から盗むだけでなく、世間をも欺くのか? ああ、こんなひどいことがあるだろうか?」
「君たちにまかせよう、友よ」と偽者は言った、「みんながよく知っている本当の盲目の男に寄付するかどうか、そしてあの陰謀家から俺を守ってくれるかどうかは、きみたち次第だ」そう言いながら、彼はペニー青銅貨や半ペニー銅貨をかき集めた。そのあいだに、モランは自分の「エジプトのマリア」を歌い始め、怒った群衆は彼の杖をつかんで打ちすえようとしたが、彼がとてもモランに似ているのに気づいて、しりごみした。偽者は群衆に向かって、「その悪漢を捕まえておいてくれ、詐欺師はどっちなのかを、すぐに判らせてやるから」と言った。群衆は彼をモランの方へ連れていった。しかし、彼はモランにつかみかかるのではなく、その手に二、三シリングほど押し込み、群衆に向かって、自分は役者にすぎないが、賭けに勝ったのだ、と説明して、いっそう激しくなった騒がしさを離れて、勝ち取った夕食を食べに行った。
一八四六年の四月に、ミッチェル・モランは死んだという知らせが、司教のもとに届けられた。パトリック通り十五番地(現在は十四の五番地)の藁のベッドに、モランが横たわっているのを司教は見た。部屋には、彼の最後の瞬間に励ましにきた、ぼろ服のバラード歌いたちでいっぱいだった。モランが息を引き取った後、バラード歌いたちは、ヴァイオリン弾きたちと共にまたやってきて、りっぱな通夜《ウエイク》をしてやり、それぞれが知っている詩歌、お話、古いヴァイオリン曲、あるいは風変わりでおもしろい詩などで、陽気に騒いだ。モランは一生を終え、祈りを捧げ、告解を済ませたのだ。みんなが心からの送別をしないわけがないではないか? 葬式は次の日に行われた。大勢のモランの賛美者や友人たちは、じめじめとして天気が悪かったので、棺と一緒に霊柩車へ乗り込んだ。さほど遠くへ行かないうちに、ひとりが「ひどく寒くないか?」と言い出し、別なひとりが「まったくだ、墓場に着くまでに、俺たちも死体みたいに、かちんかちんになっちまうぞ」と言った。「モランなんぞ、くそくらえだ。もちっと気候がよくなってから、おっ死んでくれりゃいいのによ」三人目が言った。そこでキャロルという名の男が半パイント瓶のウィスキーを取り出し、死者の魂のためにみんなで飲んだ。ところが、不幸なことに、霊柩車は人を乗せすぎていたので、一行が墓地に到着する前に、スプリングが壊れ、それと一緒にボトルも割れてしまった。
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13 女王よ、妖精の女王よ、来たれ
ある夜のこと、中年の男と彼の親戚にあたる若い娘と私とで、遠い西の砂浜を歩いていた。その中年の男は、辻馬車の騒音から遠く離れて暮らしており、また娘は、草原にいる家畜の群れのあいだに動く怪しい光を、感知できる透視力を持っているといわれていた。私たちは「|忘れっぽい連中《フオゲツトフル・ピープル》」――妖精はときどきこう呼ばれるのだが――のことを語りながら歩いていたが、その話の最中に、ちょうど妖精たちが現れる場所として知られる、黒い岩に囲まれた浅い洞窟のところにやって来た。その洞窟は濡れた砂の上に影を落としていた。私はその「忘れっぽい連中」に尋ねたいことがたくさんあったので、若い娘に何か見えるかと尋ねてみた。娘は数分のあいだ、黙ってじっと立っていたが、目覚めたまま一種のトランス状態にはいって行くようで、冷たい海からのそよ風にも、ものうげな波の寄せる音にも、注意力を乱されていない様子だった。そこで私は主な妖精の名前を呼んでみると、次の瞬間、娘は岩の内部から音楽が聞こえるし、何かがやがや話す声や、目に見えない演奏者を褒めそやして、人々が足踏みしているような音が聞こえると答えた。それまで数ヤード離れた所をあちこち歩いていた中年の友だちは、私たちのほうへやってくると、歩きながらとつぜん、「邪魔が入りそうだな。どこか岩の向こうで子供の笑い声が聞こえるからな」と言った。だが、われわれのほかには誰もいなかった。この土地の精霊が、彼にもまた影響し始めていたのだ。次の瞬間、娘によって彼の言うことが本当だとわかった。というのは音楽の中に、どっと笑う声や話し声や足音が混じってきた、と彼女が言ったからである。次に娘は、洞窟から明るい光が一筋流れでて、洞窟は前より深くなったようで、赤を基調に色とりどりの服を着た、たくさんの「|小さい人たち《リトル・ピープル》(註)」が、何かわからない調べに合わせて踊っているのが見えると言った。
そこで私は娘に、出てきて私たちと話しをするよう、その「小さい人たち」の女王に呼び掛けてほしいと頼んだ。しかし、彼女の呼び掛けに答えはなかった。それで私は自分で、大声で呼び掛けの言葉を繰り返してみると、次の瞬間、とても美しい背の高い女の人が洞窟から出てきたと、娘は言った。私もまたこのとき、一種のトランス状態に引き込まれており、いわば非現実的なものが、確固とした現実性を持つように感じ始めていたのである。黒い髪と金の飾りという印象を受けたが、それは現実の映像とも違うものだった。そこで、お供の者たちを自然な配列順に並ばせて、私たちに見せることを、この背の高い女王が命令するよう、私は娘を通じて頼んだ。前と同じようにこの呼び掛けも、私自身が繰り返してやらねばならなかった。すると小さい人たちが、洞窟から出てきて整列し、私の記憶が正しければ、それは四つの集団に分かれていた。娘の説明に従えば、ひとつの集団は手に手にトネリコの枝を持ち、他の集団は蛇の鱗でできた首飾りをしていたが、どんな服を着ていたかは思い出せない。私は女王に、このあたりの洞窟は妖精がよく現れる場所なのかどうかを、透視力を持った娘に答えてくれるように頼んだ。女王の唇は動いたが、その答えは聞きとれなかった。わたしは透視力のある娘に、女王の胸に手を当てるよう頼んだが、そうするとそれから言葉が一つ一つ、はっきり聞きとれるようになった。「いいえ、ここは妖精がよく現れる所ではありません。もう少し先に行ったところに、彼等が好んで出没する場所があるんです」と娘は言った。そこで私は尋ねてみた、「女王と妖精たちが人間をさらって行くというのは、本当ですか? もしそうなら連れ去った者の代わりに、ほかの魂を置いていくのでしょうか?」すると女王は答えた、「私たちは体をとり替えるのです」。「妖精たちの中で、人間に生まれたことのあるものはいるのですか?」「います」。「私が知っている人の中に、生まれる前にあなたたちの仲間だった者はいるのでしょうか?」「います」。「それは誰ですか?」「それを知ることは、私たちの掟では許されないことです」。そこで私は尋ねてみた。「女王とその一族は、私たちが持っている気分を劇的に現したものなのでしょうか?」。すると娘が言うには、「女王はわからないようです。しかし妖精はとても人間に似ていて、人間がすることはたいがいするのだ、と言っています」。私は女王にほかの質問をしてみた。妖精の女王の性質とか、この宇宙における目的とかを聞いてみたのだが、女王はただ困ったような様子をするばかりだった。ついに女王は耐えきれなくなったように、私に対して砂の上にこういう言葉を書いた、いわば幻の砂の上に。「注意せよ、我々のことを、多く知ろうとしてはいけない」。女王を怒らせたことがわかったので、私は女王が示したり語ったりしてくれたことにお礼を言ってから、洞窟の中に帰ってもらった。しばらくすると、若い娘はトランス状態から覚め、海からの冷たい風を感じて身震いし始めた。
私はこうした事を、できる限り正確に、そして自分の意見で話を曖昧にしないようにして書いた。人が持つ考えなどはせいぜいつまらぬもので、私の意見の大部分は、ずっと前に無くなってしまっている。私はどんな意見よりも、「|象牙の門《ゲート・オブ・アイヴオリ》」が開く音のほうが好きで、その門の蝶番いがきしみ、バラを敷きつめた敷居を通ると、はるか彼方に「|角の門《ゲート・オブ・ホーン》」がかすかに光るのが見えるのである。そしてもしウインザーの森で占星術師リリーが、「|女王よ、妖精の女王よ、来たれ(レギーナ、レギーナ・ピグメオルム・ヴエニ)」と叫び声をあげるように私たちも叫べば、それとともに神が夢のなかで子らを訪れたもうので、すべてはうまく行くだろう。すれば、たけ高くかすかに光りかがやく女王は、近くに来たりたもう、女王よ、御身のおぼろに見える髪にさした、その影なす花々をふたたび見せて欲しい。
[#この行2字下げ](註)アイルランドの「|小さい人たち《リトル・ピープル》」、妖精たちは、時折り私たちと同じ大きさであるか、時としてもっと大きく、時には三フィートぐらいの背丈をしていると言われている。私がよく引き合いに出すメイヨーの老婆は、妖精が大きかったり小さかったりするのは、見ているこっち側の目のせいだと考えている。
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14 「そして美しく恐ろしい女たち」
ある日、私の知り合いの老女が、壮麗な美しさを持つ女性と間近に出会った。その美は、「老いても変わらぬ高貴な美しさ」とブレイクが言い、われわれが進歩と呼ぶ頽廃が始まってから、芸術から消え失せ、肉感的なものに代わろうとしている美しさだった。老女がその美女を見たのは、窓辺に立って、メーヴ女王が葬られていると言われるノックナリーの山を眺めていたときで、「いままで見たこともないほど美しい女性が、山から降りてきて、真っ直ぐこちらへ向かって来たんです」という。美女は剣を腰の脇に下げ、短剣を手にして、白い服に身を包み、腕や足には何もつけていなかった。「とても強そうだったけど、悪い人つまり残酷な人、には見えなかった」そうだ。老女はアイルランドの巨人を見たことがあり、「巨人はとってもいい男だったけれど」、この女性に比べたら何でもない。「だって巨人は太っていて、あの女性ほど堂々と歩みを進めることなんて、できなかったからね」「彼女は**夫人に似ていたけど」。**夫人とは、近所に住む堂々とした女性のことである。「高慢ではなく、すらりとしているけど肩幅があり、いままでに会った誰よりも凜々しかったね。年は三十くらいだろうか」、老女は両手で目を覆い、その手を降ろしたときには、幻影は消えていたようだった。近所の人たちはその美女のことで夢中になっていた、と老女は話してくれた。皆はそれがメーヴ女王だと確信していたし、女王はよく水先案内人のところに姿を現すので、老女はメッセージがあるかどうか確かめるのに、ぐずぐずしてはいなかった。ほかにもメーヴ女王のような人に会ったかどうか、彼女に聞いてみると、「何人かは髪の毛をおろしていたけど、見てくれは全く違っていたね。新聞なんかで見るような、眠たそうな顔でね。髪をまとめあげている人たちはこの人みたいだったね。ほかの人たちは裾の長い、白いドレスを着ていたけれど、髪をまとめあげている人たちのドレスは、丈が短くて、ふくらはぎまで見えるくらいだからね」。いくつか細かい質問のすえ、その人たちはバスキンの一種によく似たものを履いていたのがわかった。老女はさらに続けた、「彼女たちは立派で颯爽としていて、まるで、二、三騎ずつかたまって剣を振り回しながら、丘の斜面で馬を走らせる男たちみたいだった」。彼女は何度も繰り返して「そんなふうな人たちは、今はもういない。あれほど立派に均整のとれた人は誰もいやしない」というようなことを言い、またこうも言った、「今の女王様(註)はすてきだし、愛想の良さそうなお人だよ、だけどあの方とはまったく違うね。あまり貴婦人のことが気にならないのは、あの方のような人に、いままで会ったためしがなかったからですよ」。つまり精霊のような、ということだった。「あの方と一緒にいた、貴婦人方のことを考えると、まるで正しい服の着方も知らないので、その辺を走り回る子どもたちみたいだけど、それで貴婦人なんでしょうかしらね? ええ、あの方たちは、ただの女とは言えませんよ」。このあいだ、私の友人の一人がゴロウェイの救貧院にいる老女に、メーヴ女王について尋ねたら、こんなふうに話してくれたそうだ、「メーヴ女王は凜々しく美しい方で、どんな敵でもハシバミの杖で打ち負かしてしまうんですよ。なぜって、ハシバミは神聖で、手に入れられる最上の武器なんです。それを持っていれば、世界中を歩いて行けるでしょうね。だけどしまいには、とても気難しくなってしまうんです――とっても気難しくね。そんなことは、口に出さないのがいちばんですよ。本と聞き手の間に放っておくのが、いちばんいい」。私の友人は、ロイの息子ファーガスとメーヴ女王との出来事が、老女の頭にあったのだろうと思っている。
そして私自身も、バレン・ヒルズの若者に会ったが、彼はアイルランド語で詩を作った老詩人のことを覚えていた。その老詩人は若い頃に、自分はメーヴ女王だ、「あのものたち」の女王だ、という者に出会い、金と喜びとどちらを望むかと尋ねられて、喜びがいいと答えると、彼女はしばらく彼に愛を与えてから、やがて去って行ったが、それ以来詩人は、悲しみに沈んだままだったという。若者は老詩人が自作の哀歌を口ずさむのをよく耳にしたが、それが「とても哀調に満ちていた」ということ、老詩人が彼女を「美女の中の美女」と呼んでいたことなどをよく覚えていた。
[#地付き](一九〇二)
[#この行2字下げ](註)ヴィクトリア女王のこと。
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15 魔の森
T
去年の夏、一日の仕事を終えるといつも、広々とした森を歩きまわったが、その森でよく土地の老人に会い、いまやっている仕事のことや森のことなどを話した。何度か私の友人が一緒について来たが、その老人は私よりもこの友人に、思うことを気易く語った。老人は洋種ハルニレの木やハシバミ、イボタやクマシデなど、森の道をふさぐ木々を切り払うことを、仕事として暮らしていたが、森に住む野性の生き物に、そして超自然の生き物にも、ひじょうに興味を持っていた。老人はハリネズミ――それを彼は「大麦の実」と呼んでいた――が、「人間みたいにぶつぶつ言う」のを聞いたことがあるし、またハリネズミは林檎の木の下をころげまわって、針の一本一本に林檎を突き刺して取っていくのだ、と信じ込んでいた。その森にはたくさん猫がいたが、猫たちには彼ら固有の言葉があり、それはある種の古代アイルランド語だ、と彼は確信していた。「昔、猫は蛇だった。この世に大変動があったとき、蛇は猫になってしまった。だから猫は殺そうとしてもなかなか死にやしないし、猫をかまうのは危険だ。猫を怒らせて引っかかれたり、噛まれたりした者は、体に毒がまわってしまう。蛇に噛まれたのと同じなんだから」と言うのである。老人の考えによれば、猫は時として山猫に変わり、尾の先に爪が生えるという。この山猫は、いつも森の中にいるテンとは違う。キツネは、今日の猫と同じように、昔は人に馴れていたが、逃げだして野性化したのだそうだ。リスを除いて――彼はリスが嫌いである――あらゆる野性の動物について、興味深げに愛情をこめて語るのである。またある時には、愉快そうに目を輝かせて、自分が少年の頃、丸まったハリネズミの体の下に、火をつけた麦わらを持っていき、その体を開かせたこともある、といったような思い出話をした。
私にはその老人が、どうも自然のものと超自然のものとを、はっきり区別しているとは思えなかった。ある日のこと、彼の話によれば、キツネや猫は日暮れになると、かくべつに好んで、保塁や砦などにやって来るという。彼はキツネの話をしているうちに、いつのまにか霊の話に移っていってしまうのだが、このときもまた、いまでは珍しい動物になっているテンの話を始めるのと全く同じ調子で、声を変えることもなく、霊の話へ移ってしまった。何年も前のこと、この老人は庭園で働いていたが、ある時、納屋に寝かされたことがあった、という。その屋根裏部屋には林檎がいっぱい貯えてあったが、その夜、頭上で皿やナイフやフォークをカタカタ動かす音が夜通し聞こえたそうだ。またある時は、森の中で不思議な光景を見ている。彼が言うには、「ある時期、わしはインチイで材木用の木を切る仕事をしておった。ある朝じゃったが、八時ごろそこへ行ってみると、娘が一人、木の実を拾っていた。栗色の髪は肩まで垂れ、顔は清らかで美しく、背が高かった。頭には何もかぶらず、服はちっとも派手でなく質素じゃった。わしが近づくのに気付くと、娘は身を縮め、まるで地面に吸い込まれるみたいに消えてしまった。わしは娘の後を追って捜したが、あの日からずっと今日まで、二度とあの娘の姿を見かけない、二度とな」。新鮮で美しい言葉を使うように私は心がけているが、この老人の使う言葉にも、清らかな美しさがあった。
「魔法の森」で霊を見たという人が、ほかに何人かいた。森で働いている人が友だちから聞いたのだが、森の中のシャンワラで見た霊のことを話してくれた。この場所の呼び名は、森の手前にあった昔の村の名称からきている。話はこうである。「ある日の夕方、ローレンス・マンガンと仕事場で別れた。あいつはさよならを言って、シャンワラの道を通って帰っていった。だが二時間後には戻ってきて、馬小屋の蝋燭に灯をつけろって言った。あいつの話によると、シャンワラまで来たとき、背丈が人間の膝位までしかなく、頭が人間の胴体ほどもある小男が近寄ってきて、来いと言うのでついて行くと、道からそれていき、あちこち引き廻されたあげく、しまいに石炭を焼くかまどの所に連れて行かれた。そこにあいつは一人残され、小男は消えちまったそうだ」。
ある婦人は川の深みのそばで、連れの者と見た光景の話をしてくれた。それはこういう話である。「礼拝堂を出ると、土手の踏み越しの階段を上り、川の方へと歩いていきました。幾人かが、私と一緒でした。するととつぜん、激しい突風が襲ったかと思うと、木が二本、しなって折れ、川に落ちました。水しぶきが空に舞い上がりました。そのとき皆は、木が落ちた跡に、大勢の人の姿を見たのでした。でも私には、一人の人間の姿しか見えませんでしたが、木が倒れ落ちた岸に、座っていました。その人は黒い服を着て、首がありませんでした」。
ある男は次のような話をしてくれた。少年の頃、彼はある日、友人の少年と一緒に、馬を掴まえようと、ある野原に行った。その湖のほとりには、森が途切れて少しばかりが開けた野原があったが、石がごろごろしていて、ハシバミ、ハイネズ、ハンニチバナ等の灌木が生い茂っていた。彼は連れの少年に言った「あの茂みに石を投げれば、きっとあの上に乗っかるな」。つまり、灌木がマットを敷いたようにびっしり茂っているので、石を投げればその上に乗って、下まで落ちないだろうというのである。そこで彼は、「牛の糞ぐらいの大きさの石」を拾い上げた。「石が茂みに当たったとたん、今まで聞いたことのない美しい音楽が、そこから聞こえてきた」のである。二人は逃げ出した。二百ヤードほど走って振り返って見ると、白い服を着た女の人が、茂みのまわりをぐるぐるまわっていた。「はじめそれは女の姿をしていたのに、すぐに男の姿になり、茂みの周囲をまわり続けていた」という。
U
幻影の正体は何かということについて、インチイの森の道よりもっと入り組んだ議論に巻き込まれることがよくある。だがそういうとき私は、イーリソス河のニンフについて博学な意見を聞かされたソクラテスが言ったように、「常識的な意見はたくさんです」と言うことにしている。とくに森にいるとき、あらゆる自然は目に見えない生き物でいっぱいだと思えてくる。それらの中には、醜いものも奇怪なものもいるし、悪いものや恐ろしいものもいれば、これまでに見たこともないような美しいものも沢山いる。気持ちのよい静かな所を歩いていると、そういった美しいものたちが、さほど遠くないところにいると思う。少年のころもよく森を歩いていて、求めるともなく探し求めていた誰かが、そして何かが、目の前にあるような感じがしたものだった。私はこうした想像に深くのめり込んでしまい、いまでも時折、たいした特色もない雑木林の隅々を、足音をしのばせながらなにかを探し求めることがある。たしかに誰でも、こうした想像に出会うかもしれない。どこか自分を支配する星の作用する所で、たとえば土星にうながされて行った森でとか、また月にうながされて行った海のほとりでというように。はたして陽が沈んだとき、何事も起こらないとはっきり言えるだろうか、日没には、死者たちがその牧者である太陽のあとを追い求めていく、と私たちの祖先は想像していたのだ。また陽が沈むと、何もないに等しいほとんど動く気配もない、なにか漠然とした存在しかないのであろうか。もし美が、生れた時にわれわれを捕らえた網から逃れる出口でないとすれば、それはもう美ではないだろう。そうなれば緑の木の葉のあいだに、光と影が生み出す素晴らしい光景を眺めるよりは、家の暖炉のそばに座って何もせずに体を肥らせるか、愚かしい楽しみごとに駆けまわっているほうがましだ、ということになるかも知れない。私は議論の茂みからうまく逃れたときなど、あの「聖なる人々」はたしかにあそこに居るのだ、とひそかに思う。純真な心を持たず叡智もない人たちが、その存在を否定するのだ。いつの時代でも純真な人や、古代の叡智ある人たちは、あの「聖なる人々」に会ったり話したりしているのだ。あの生きものたちは、私たちとはさほど遠くない所で、情熱的に生き続けているのだと思う。もしも自分の性質を、純粋にそして情熱的に保っていけるならば、私たちは死んだ後、彼等の仲間になるのだと思う。死が私たちをすべてのロマンスに結びつけ、いつか私たちが緑の山で竜と戦う日がこないとも限らない。それともロマンスというものはすべて、『地上の楽園』で老人たちが、上機嫌のときに考えたような、
いまより偉大だった時代の人の不正な行為
その映像と混じりあったさまざまな予徴
に過ぎないものなのだろうか。
[#地付き](一九〇二)
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16 不可思議な生き物たち
「魔法の森」にはテン、アナグマ、キツネなどがいるが、もっとすばらしい生き物たちがいるのは確かで、網でも縄でも捕えられないものを、湖はかくまっている。その生き物たちは、アーサー王伝説に見えかくれする白い雄鹿であったり、ベン・バルベンの山が海風と混ざりあう所で、ディルムッドを殺した邪悪な豚だったりする。それらは希望と恐怖の魔法がかった生き物で、空を飛んだり、死の門のまわりの藪を追ってきたりする。知り合いの男が、ある晩、父親がインチイの森にいたときのことを覚えていた。「その森は、ゴートのやつらが、よく小枝を盗みに来たところだった。おやじは壁のそばに腰かけ、そばには犬がいた。オーボーン・ウェアの方から何かが走ってくるのが聞こえたが、目には何も見えなかった。しかし地面を走る音は、なにか鹿の足音のようだった。それがそばを通ったとき、犬がおやじと壁の間に入って、なにかを恐がり壁に爪を立てていたが、何も見えず、蹄の音だけが聞こえていた。そいつが通り過ぎてしまってから、おやじは家に帰ってきたそうだ」。その男はこんな話もした、「別な時のことだが、おやじが言うには、その日ゴートの奴ら二、三人と、湖に出ていた。そいつらのうちの一人が、ウナギ用の槍を、水の中に突き刺した。すると何かに当たったが、その男は気を失ってしまったので、みんなしてそいつをボートから岸へ運んだ。気がついてから男が言うには、『俺が突き刺したのは、子鹿みたいだった。ほかの何かかもしれないにしても、あれはぜったい、魚なんかじゃなかった!』」。友人の一人は、確信を持って次のように言っている。ふつう湖の中に住むとされる、こうした恐ろしい生き物は、古代の巧みな魔法使いが、知恵の門を見張るのに遣わしたものだ。もし私たちが水の中へわれわれの魂を送れるなら、それらを恍惚と力という、妙な雰囲気をもつ実体のあるものにできるだろうし、それを水の外へ出せれば、世界を征服することもできるかも知れない。とはいえ、もしそれらが本当に生きているのだとしたら、もっと力強い生命に満ちた奇妙な映像に、私たちはまず大胆に立ち向かうだろうし、おそらくそれを破壊しようとするだろう。私たちは最後の冒険、つまり死を耐え忍ぶときには、それらを恐れずに見られるだろう。
[#地付き](一九〇二)
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17 本のアリストテレス
あの樵からほかの人よりも、もっとうまく話を引き出せる友人が、その樵の年とったかみさんに最近会いに行った。森の外れからさほど遠くない小屋に住んでいたその樵のかみさんは、旦那と同じくらい古い話をたくさん知っていた。この時は伝説の石工、ゴーバンと彼の知恵の話をし始めたが、急にこういうことを言った。「本のアリストテレスもまた、とても知恵があるし、たくさん経験も重ねていた人なのに、最後には蜂にしてやられたではないですか。アリストテレスは、蜂がどうやって蜜房をいっぱいにするかを知ろうとして、ほとんど二週間も無駄に蜂の巣を眺めていたあげく、蜂がそうしているところを見られなかった。それで今度は、ガラスの蓋のついた巣を作って蜂の上に被せ、見てやろうと考えた。けれどガラスにべったりと蜜蝋が、ポットのように真っ黒くついていたので、前と同じように見えなかった。これまでこんなに馬鹿にされたことはなかった、と彼は言ったんです。まったく彼は、蜂の思うがままにさせられたんですよ」。
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18 神々の豚
私の友達が若かったころ、あるコノート・フェニアン部隊の連中と、訓練をしていたときに起こった出来事というのを、数年前に話してくれた。彼等は一台の馬車に乗るぐらいの人数だったが、丘に沿って走っていくうちに、静かな所にやってきた。彼等は車から降りるとライフルを持って丘にあがり、しばらく訓練をした。丘から降りてくるとき、痩せて足の長いアイルランド系の豚が、みなの後からついて来るのに気がついた。そのうちの一人が、「これは妖精豚だ」とふざけて言ったので、みなはそれにあわせて駆けだした。すると豚も駆けだした。そして思いもかけぬことだったが、このふざけた恐怖が本物の恐怖にかわり、みなは死にものぐるいで逃げ出した。馬車にたどり着いて、できるかぎり早く馬を走らせたのに、豚は後について来た。それで一人がライフルを構えて撃とうとしたが、狙った銃の筒先にそって見たところには、何も見えなかった。そのまま道の角を曲がって、彼等はある村に来た。村人にいま起こった出来事を話すと、村人はシャベルや三つ又を持って豚を追い払うため、一団がやって来た道に沿っていった。だが、道の角を曲がってみると、そこには何もいなかった。
[#地付き](一九〇二)
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19 声
ある日、インチイ森に近い沼沢地を歩いていた時、突然、ほんの数秒のあいだ、キリスト教神秘主義の根源と思える感動にとらわれた。ある種の心のひるみ、そして遠くにあっても身近に感じる、ある偉大な人物に頼りたい気持ちが、私を襲ったのである。私はいつもオインガスとエーデイン、そして海の神の息子マナナーンの事しか思っていなかったので、この時の感動など考えてもいなかった。その晩、仰向きになって寝ていた私は、上からひびいて来る声を聞いて目が覚めた。「人間の心は二つと同じ物がない。神のさまざまな要求の一つさえ満足させ得る人間の心などないので、人間の心に対する神の愛は無限だ」。このことがあってから数日後の夜のこと、目が覚めると、今まで見た事がないほど美しい人達を見たのである。古いギリシアの衣服のように仕立てられた、オリーヴ・グリーンの服を着た若い少年と少女が、ベッドの脇に立っていたのだ。その少女を眺めて気づいたが、その服は首元でひだが寄せられ、鎖かそれとも蔦の葉に似せて造られた固い刺繍になっていた。だが私をとても不思議に思わせたのは、少女の超自然的な穏やかな顔であった。こうした顔をした人は、もう最近はみかけない。美しい顔と言うものは、数少ないが、彼女の顔はほんとうに美しかった。だが、欲望や希望、恐怖感やもの思いに耽っている人が持っている輝きがなかった。その顔は、動物のような平穏さ、夕ぐれの山中の泉のように平穏であったが、あまりに平穏なのですこし悲しげであった。一時、私は彼女がオインガスの恋人かと思ったが、いつも追われ、人をうっとりさせ、幸せでそして不死身である人が、こうした顔をしているのだろうか。彼女は月の子たちの一人には違いないが、どの子なのかは絶対に知ることができないだろう。
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20 人さらい
スライゴーの町よりやや北、ベン・バルベンの南側の山腹の、ちょうど平野の上、数百フィートの高さに、石灰岩の小さな白い真四角なところがある。それに手を触れた人間は一人もなく、そのそばで草を食べた羊や山羊もいない。おそらくこの世で、これほど近寄り難く、これほど恐ろしい雰囲気に囲まれ、不安を抱かせる場所はないであろう。この四角なところは、妖精の国への扉なのである。真夜中になると、扉はぱっと開き、この世ならぬものの群れが、勢いよく現れる。その陽気な群れは、夜通し地上をあちこち飛びまわり、それは誰にも見えないのだが、ドラマクリフやドラマヘアーのように、いつも「静かな」場所では、「妖精学博士《フエアリー・ドクター》」が、ナイトキャップをかぶった頭を戸口から突き出し、「|紳士がた《ジエントリー》」がどんな悪戯をしているかを、見ていることもある。彼等の慣れた目や耳には、野原いっぱいに赤い帽子の乗り手たちが溢れ、空気中は甲高い声でいっぱいになっているのが判るのである。その声は、昔のスコットランドの幻想家の記録にあるように、口笛を吹くような音声で、天使の話す声とはぜんぜん違う。天使は、占星師のリリーが述べているように、「アイルランド人のように、おもに喉で話す」からである。生まれたばかりの赤ん坊か、結婚したばかりの花嫁が近所にいると、「博士達」はいつもより気を配り、目を凝らして見張る。というのはそのような時には、この世ならぬ不思議な群れが、必ず手ぶらでは帰らず、時には花嫁や赤ん坊を、山へ連れて行ってしまうからである。彼らの入った後で、扉がぱたんと閉まると、さらわれた赤ん坊や花嫁は、血のぬくもりのない、妖精の国で暮らすことになる。言い伝えによれば、そこでの暮らしは幸せだという。だが、最後の審判の日に、このような人間は、輝く気体になって溶ける運命にある。霊魂というものは、悲しみなしには生きられないからだ。この「一ペニーで喜びが買える」国の白い石の扉や他の扉から、物語の王や王妃、王子たちがたくさん入っていったのだが、妖精の力は次第に小さくなっていくので、その悲しい記録の中にはいまでは農民しか入っていない。
十九世紀始めの頃、スライゴーのマーケット通りの西の端、いまでは肉屋の店がある所に、キーツの『レイミア』のような宮殿ではないが、とつぜん薬剤店が現われ、オペンドン博士という奇妙な人物が、その店を経営していた。この人物がどこからやって来たのか、誰も知らなかった。当時スライゴーに、オームスビーと言う名前の婦人がいて、その夫が不思議な病気にかかった。その病気は医者にも手がつけられなかった。どこも悪いところは無いようなのに、夫は日に日に弱っていった。そこで細君は、オペンドン博士を訪ねた。彼女は店の応接室に通された。暖炉の前には、黒猫が背筋をぴんと伸ばして座っていた。食器棚にはいっぱい果物が置いてあったので、「こんなにたくさん果物を、博士が貯えているのは、果物が健康に良いからだろう」などと思っていると、オペンドン博士が入って来た。彼は、猫と同じように黒い服を着ていたが、後から入って来た彼の妻も、同じように黒い服を着ていた。オームスビーの細君は一ギニー払うと、小さな瓶に入った薬を貰った。この時、夫は回復した。 その後も黒衣の博士は、多くの人々を治療したが、ある日、一人の金持ちの患者が死亡した。その翌晩、猫も夫人も博士もみな、姿を消してしまった。一年後にオームスビー氏は、また病気になった。彼はなかなかの美男だったので、これはきっと「|紳士がた《ジエントリー》」が彼を求めているのだと、細君は思った。彼女は、ケアンズフットにいる「妖精学博士《フエアリー・ドクター》」を訪ねた。「博士」は彼女の話を聞くと、すぐに裏口の扉の蔭に行き、呪文をぶつ、ぶつ、ぶつと唱え始めた。この時も、夫は良くなった。だがしばらくすると、彼はまた病に倒れた。これが三度目の正直であり、今度ばかりは、助かる望みはなかったが、細君はもう一度、ケアンズフットに出かけた。「妖精学博士」は裏口の扉の外に出て、ぶつぶつと呪文を唱え始めたが、間もなく入って来ると、もう効き目はない、あなたの夫は死ぬだろうと言った。その言葉通りに、夫は死んだ。それからのち、オームスビーの細君は夫のことを話す時、首を振りながら、夫がどこにいるかよく知っている、それは天国でも地獄でも煉獄でもない、といつも言った。おそらく彼女は、いなくなった夫の代りに丸太棒が置いてあり、それに見事に魔法がかかっていて、それが夫の死体のように見えたのだと信じているようであった。
彼女自身ももう死んでしまったが、彼女のことを覚えている人は、現在たくさん生きている。彼女は私の親戚の家の下働きか、住込みの使用人か、どちらかだったように思う。
ときどき連れ去られた人が、幾年もたってから――普通は七年――友人などにたった一度限りだが、ひと目会うのを許されることがある。かなり昔のことだが、スライゴーの庭で、ある婦人が夫と歩いているときに、とつぜん姿を消してしまったことがある。その時、息子は赤ん坊だったが、成長してから次のような知らせを受け取った。その知らせは何となく届いたので、人に手渡されたものではなかった。それによると、母親は妖精の魔法にかかって、しばらくの間グラスゴーのある家に閉じこめられており、息子に会いたがっているというのである。グラスゴーといえば、帆船時代の当時には、農夫にとってほとんど世界の果てのように思えたが、この親思いの息子は、出掛けていった。長いことグラスゴーの街を歩きまわったあげく、やっとある地下室で、母親が働いているのを見つけた。母親は「わたしは幸せだよ、食べる物だって、一番上等なのを食べてんだよ。お前も食べないかい?」と言って、テーブルの上に色々な食べ物を並べた。だが息子は、母親が妖精の食物を食べさせて、彼に魔法をかけようとしていると気づいたので、それを断ると、スライゴーの仲間のところに戻ったそうである。
スライゴーの五マイルほど南に、木々に囲まれた陰気な池があり、水鳥がたくさん集まる場所で、その形からハート・レークと呼ばれている。サギやシギ、ノガモのほか、不可思議な見知らぬものたちが好んで集まる所であった。ベン・バルベンの白い四角な石と同じように、この池からも異界のものの群れが現れた。あるとき人々は、この池を干そうとしたが、その仕事を始めた時、とつぜん一人の男が、「おれの家が燃えている」と叫んだ。振り返ってみると、なんとそこにいる連中の家がみんな燃えている。みな急いで家に駆け戻ったが、それはけっきょく、妖精の魔法だったのである。今でも池のまわりには、人間の不敬な行為を示すもののように、掘りかけの溝が残っている。この池から少し離れた所で、美しくもの悲しい「妖精の人さらい」の話を聞いたことがある。私はその物語を、白い帽子をかぶった小柄なおばあさんから聞いた。おばあさんはゲール語で歌いながら、若い頃の踊りを想い出すように、次々とステップを踏んでいた。
ある日暮れ時、一人の若者が、迎えたばかりの花嫁の実家に行く途中で、浮かれ騒ぐ一行に出会ったが、その中に彼の花嫁もいた。実はその連中は妖精で、若者の花嫁を盗んで、仲間の親方の妻にしたのであった。若者には人間の陽気な一行としか見えなかった。花嫁は、先ほどまで自分の夫であった若者を見ると、親しく挨拶したが、彼も自分と同じように、妖精の食べ物を食べて魔法にかけられ、この世から血のぬくもりのない暗い国に連れて行かれるかもしれないと心配だった。そこで彼に、一行のなかの三人と、トランプをするように勧めた。若者は何も知らずにトランプをしていたが、ふと見ると、親方が花嫁を腕に抱いて連れていこうとしていた。驚いて立ち上がった彼は、その一行が妖精であるのに気づいた。その浮かれた連中は、夜の闇の中にゆるやかに、溶けるように消え失せてしまった。若者は急いで、花嫁の家に駆け戻った。家に近づくと、女達の泣く声が聞こえ、自分の妻が死んだことを知った。ある無名のゲールの詩人が、この話を古い形のバラードに作ったが、白い帽子をかぶった友人が、その詩の端々を想い出し、私のために歌ってくれた。
さらわれた者が、生きている人々の良き守護神として働く話を、こうした歌で時折り聞くことがある。妖精が現れる池の近くでやはり聞いたのだが、ハケット城のジョン・キルワンの次のような話も、その例である。キルワン家(註)は、農民の物語のなかで、色々と噂の多い一族で、人間と精霊の子孫であると信じられている。この一族の容姿の美しさは、昔から評判であり、現在のクロンカリー卿の母は、その一族出身だというのを、私は何かで読んだことがある。
ジョン・キルワンは、馬のレースにたいへん熱心だった人である。ある時のこと、立派な馬を連れてリヴァプールに上陸し、中部イングランドのどこかで行われる馬のレースに出掛けたことがあった。その晩、彼が船着き場の近くを歩いていると、やせこけた少年が現れ、どこの厩に馬を入れたかと尋ねた。これこれの場所だと彼が答えると、「そこはいけないね。その厩は今夜、焼けてしまうよ」とその少年は言った。キルワンは馬を他の場所に移したが、前の厩は本当に焼け落ちてしまった。翌日また少年が現れると、お礼の代りに今度のレースには、自分を騎手として乗せてほしいと言い、どこかに行ってしまった。レースの日がやって来た。レース開始の直前に、少年は走って出て来ると、馬に跨りながらこう言った、「もし僕が、左手で馬を鞭で打ったら負けだが、右手だったら、あんたは間違いなく、大儲けだよ」。この話をしてくれたパディ・フリンの言葉によれば、「左手は何の役にも立ちゃしない。左手で十字を切ってた日にゃ、それがたとえクリスマスの日でも、バンシーだってそんな十字なんか、箒ぐらいにしか思いやしない」のであった。ところで、やせこけた少年は、右手に鞭を持って馬を駆ったのである。ジョン・キルワンは競馬場の金をすっかりさらってしまった。レースが終った時、「今度は何をしてあげたらよいのかね」とキルワンが言った。すると少年は言った、「何もいらないよ。ただ僕の母さんが、あんたの領地に住んでるんだ――連中が揺籃から僕を盗んでいったのさ。母さんに親切にしてやってよ。ジョン・キルワン、そしたらあんたの馬がどこに出ても、悪いようにはしないからね。でも、僕にはもう二度と会えないだろうな」。そう言うと、少年は風のように消えてしまった。
時には動物が、さらわれていくことがある――どうやら水に溺れた動物を、さらっていくことが一番多いようだ。パディ・フリンが話したところによれば、ゴロウェイのクレアモリスに、ある貧しいやもめが住んでいたが、一匹の牝牛と子牛を飼っていた。牝牛が河に落ちて、押し流されてしまった。その近所に居た男が、ある赤毛の女の所に、相談に行った――こういう女は、こうした事柄に通じているとされている。赤毛の女は、それを川べりに連れていき、隠れて見ているようにと言った。男は言われた通りにすると、日暮れ頃に、子牛が鳴き出した。暫くすると、あの牝牛が川べりを歩いてやって来て、子牛に乳を飲ませ始めた。それから彼は、やはり言われた通りに、牝牛のしっぽを掴んだ。男と牝牛は大変な勢いで突き進んでいき、生け垣を越え、溝を越えて、しまいに王の領地――アイルランドの異教時代には、円形の溝とか、円形土砦《ラース》、土砦と呼んだ――にやって来た。そこには、彼の村から死んでいなくなった当時の人々が、みな歩いたり、座ったりしていた。一人の女が膝に子供を抱いて、端の方に座っていた。女は彼に声を掛け、「あの赤毛の女の言いつけを、よく聞くがいいよ」と言った。男は、「牛の血を取れ」と赤毛の女が言ったことを想い出した。そこで彼はナイフを牛に突き立てて、血を出した。するとその呪縛が解けて、牝牛を家の方に向けることができた。「脚にかける綱を、忘れるんじゃないよ」と子供を抱いた女が言った。「この中にあるのを持っておゆき」。灌木に綱が三本かかっていた。男はそのうち一本を取って、やもめの家まで無事に牛を追っていった。
大体どこの谷間や山の辺でも、住民の中から誰かがさらわれている。ハート・レークから二、三マイル離れたところに、若い頃さらわれたことがあるという老婆が住んでいた。彼女はどうしたわけか、七年後にまた家に戻されたのであるが、その時には足の指がなくなっていた。踊り続けて、足の爪先がなくなってしまったのである。
都会にいるよりも、私が語った多くの地方にいるほうが、こうしたことは容易に感じられる。たそがれに灰色の道を歩き、白い小屋のかたわらに咲く香り高いノイバラのそばで、はるかに霞む山に集まる雲を眺めていると、感覚にかかる薄い蜘蛛のヴェール越しに、白い四角の石から北へ向かって、あるいは南にあるハート・レークから、こうした生き物、ゴブリンたちが、急いで駆けて行くのが見えるのである。
[#この行2字下げ](註)キルワン家は聞くところでは、これはキルワン家ではなく、人と精霊から出ているハケット一族のことで、彼等はハケット城に住むキルワン一族の末裔であり美しいことで知られていた。クロンカリー卿の母親はこのハケット一族から出ているようである。この話を通して語られるキルワンの名前は、古い名前に入れかわっている。伝説というものは、すべてを一つの釜の中で混ぜ合せてしまうものである。
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21 疲れを知らぬ者
混じり気のない感情を持つことが出来ない、というのが人生の大きな問題である。つねに敵のなかにも好きなものがあるし、恋人のなかにも、なにか嫌いなものがある。こういう気持ちのもつれで、人間は年老い、額に皺が寄り、目の回りの溝が深くなる。もし妖精のように、心から愛したり憎んだりできるなら、私たちも妖精のように、長生き出来るのかも知れない。そういう日がくるまでは、疲れを知らない喜びや悲しみは、妖精が持つ魅力の半分なのである。妖精の愛は疲れることがなく、星の円環の運行も、妖精の踊りの足を疲れさせることはない。ドネゴールの農夫は、こうした妖精の話を覚えていて、鋤の上に身をかがめているとき、また夕方、畑仕事に疲れて料理の鉄板のそばに座っているとき、忘れてしまわないように、妖精の話をするのである。
暫く前のこと、とその農夫が言うには、妖精とわかる「|小さい生きもの《リトル・クリーチヤー》」、一人は若者で、もう一人は若い女性であったが、二人は農家にやって来ると、一晩じゅう暖炉を掃除したり、家のなかをきれいに片付けていった。次ぎの晩、二人はまたやって来ると、農夫の留守中に、家具をすっかり二階の一つの部屋に運び込み、部屋を立派に見せたいらしく、家具を壁にそってぐるりと並べると、踊り始めた。二人は踊って、踊って、幾日も幾日も過ぎ、近所の農家の人たちが見にやってきても、二人の足は疲れなかった。その間、農夫はその家に住まなかったが、三か月経って、もうこれ以上は我慢しまいと決心すると家に帰り、踊る二人に、神父さんが来ると言った。これを聞くと、小さい人たちは妖精の国へ帰っていった。その国で、あの二人の喜びは、灯心草の茶色の葉の先が色褪せないかぎり、神が口づけとともにこの世を燃やしつくす時まで続くだろう、と人々は語ったということである。
疲れない日々を知っているのは、妖精だけではない。人間の男女で、妖精の魔力を受けて、おそらく神から授けられた良い魂からでもあろうが、妖精よりも豊かな生命と感情を持つようになった者もいる。死すべき人間が、不滅の美の薔薇の幸せの葉の中にあわれにも去って、星を目覚めさせる風に、あちこち吹かれているとき、薄暮の王国がその出生を認めて、そうした者たちに最上のものを与えたのだと思われる。そうした人間が、はるか昔に、アイルランド南部の村で生まれた。その子が揺籠のなかで眠っており、母親がそばに座って揺籠を揺らしていると、妖精《シー》が入ってきて、「その子は妖精の花嫁に選ばれたので、王子の愛の情熱が続くかぎり、王子の妃として老いることもなく死ぬこともない、その子は妖精の命を与えられるだろう」と言った。母親は火の中から燃える薪をとって庭に埋め、それがなくならない限り、その子は長く生きるというのである。母親は薪を埋め、子供は成長して美しい娘となり、妖精の王子と結婚し、夜ごとに王子はやって来た。七百年経つと王子は死に、今度は別の王子が代わって王国を治め、その美しい農夫の娘と結婚した。七百年経ってまたこの王子が死ぬと、別の王子が代わって、別の夫としてやって来た。このようにして娘が七人の夫を持つまで続いた。とうとうある日のこと、教区の神父がやって来ると、七人の夫と娘の余りに長い命のために、彼女の評判がそのあたり一帯でとても悪いと言った。「申し訳ないと思うけど、私が悪いんじゃないわ」と娘は言った。そして薪のことを話すと、神父はすぐに外に出て庭を掘り続け、やっと薪を見付けると、それを燃やしてしまった。すると娘は死んだので、キリスト教徒として埋葬され、人々は喜んだ。こうした人間も「クルース・ナ・ベア(註)」で、世界じゅうをめぐって、妖精の命を十分に沈められる深い湖をいつも探していた。「クルース・ナ・ベア」は、妖精の長い命に疲れてしまい、丘から湖へ、湖から丘へと跳んだりしていたが、その足が着いたところには、石積みのケアンができた。そしてついに、スライゴーの「鳥山」の頂上にある、世界で最も深い湖、アイア湖を見つけた。
あの二人の「小さな人たち」は踊り続けるだろうし、「薪の女」と「クルース・ナ・ベア」は安らかに眠るだろう。なぜなら彼等は、なにものにも妨げられない憎しみと、混じり気のない愛を知っており、「はい」と「いいえ」に悩み疲れることなく、また「かも知れない」と「たぶん」という悲しい網に足を絡ませたこともないからだ。大風が吹いてくると、彼等は彼等自身になるのだ。
[#この行2字下げ](註)「クルース・ナ・ベア」はたしかに「カイリャッハ・ベーラ」のことで、老婆ベアという意味である。「ベーア」「ベール」「ヴェーラ」「デラ」「ディーラ」はよく知られた人物で、おそらくは神々の母であろう。私の友人は、彼女を見付けたと思っており、リース湖あるいはフュース山のグレイ湖にたびたび行っていた。たぶん先の話のアイア湖というのは、私の聞き違いか、あるいはリース湖というのは沢山あるので、話をしてくれた人がロッホ・リース(リース湖)の発音を間違えたのかも知れない。
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22 地と火と水
少年の頃に読んだあるフランスの作家は、さ迷うユダヤ人の心に砂漠が入り込んで、今のようなユダヤ人を作ったのだと言っていた。その作家がどういう理由でユダヤ人が、今日でも滅ぼされざる大地の子であると証明していたのか覚えていないが、四大要素(地・水・火・風)には子があるというのは、もっともなことだと思う。もし拝火教徒のことをもっと知れば、数世紀に亘るかれらの敬虔な儀式が報われ、火はその性質の幾分かを教徒たちに分け与えていたことが分かるであろう。そして水は、海や湖、霧や雨の水は、その映像によってアイルランド人を作りあげたのだと、私は確信している。それらの映像は、まるで水面に映る影のように、私たちの心のなかに、いつでも形づくられている。
古代から神話の時代まで私たちの生は続いており、いたるところに神を見ていた。私たちは面と向かって神々に話しかけ、神々と人々との親交の話は、アイルランドには非常に多く、その数はヨーロッパの同じような話の数よりも多いようである。今日でも私たちの国の人たちは、死者や私たちが死と思っているような死に方を、恐らくしなかった人々と話をしているし、教養のある人でさえ、幻を見る状態であるあの静寂な状態に、なんの苦もなく入っていく。私たちは心を静かな水面のようにすること地と火と水ができるので、私たちの心の映像が見えるようにと、生きものたちが、私たちの回りに集まってくるのかも知れない。そして心の静寂さのために、私たちは一時、より透明な、恐らくはより激しい人生を生きることが出来るのである。賢者ポーフィリーは、「水からすべての魂は生れ、心のなかに浮かぶ映像は、水から発している」と考えたのではなかろうか。
[#地付き](一九〇二)
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23 古い町
十五年前のある夜、私は妖精の力と思われるものの中に堕ちてしまった。ある若者とその妹――私の友人でもあり親戚でもある――と一緒に、田舎の老人のところへ民話を採集に行った帰り道、老人が語ってくれたことについて、話をしながら家に向かっていた。あたりはうす暗く、老人の幽霊の話で、私たちの想像力は掻き立てられており、知らぬ間に、眠っているとも目覚めているともつかぬ境界にいたようだった。その状態では、スフィンクスやキマエラが目を見開いて座り、いつでもその呟き声やささやき声が聞こえていた。私たちが見たのは、目覚めた知性の想像力が、生み出す光景だとは考えられぬものだった。私たちは、道を暗くしているある木の下にやって来た。するとその時、友人の妹が、明るい光がゆっくり道をよぎって動いているのを見た。彼女の兄と私自身は何も見なかった。少なくとも私たちが、川岸の小道を三十分ほど歩き、蔦におおわれた教会の廃墟や、クロムウェル時代に焼け落ちた「古い町」の礎石が残る、ある野原に来るまでは、何も見えなかった。思い出せるかぎりでは、石やイバラやニワトコの茂み一面の野原を見渡しながら、数分ほど立っていた。するとその時、水平線に小さな明るい光が見え、その光はゆっくりと空の方へ昇ってゆくように見えた。それから微かな光が一、二分のあいだ見えた。そして最後に、松明の炎のような明るく燃えるものが、急に川の上を動いていった。まるで夢を見ているようにそれを見ていて、本当のこととは思えなかったので、今までこのことを私は書いたことも話したことも一度もなかったし、考えたときでも、不合理な衝動におそわれ、話し合うことに重きを置くことすら避けてきた。現実感覚が弱まった時に見たものの記憶は当てにならないと、たぶん私は感じていたからであろう。
しかし数か月前に、あの二人の友人とこの事について話し合い、彼等のうすれた記憶と私のものとを比べてみた。非現実という感覚は思ったより素晴らしいものだ。というのは翌日、あの光と同じように、説明できない音を聞いたからである。このとき非現実だという気持ちはぜんぜんなく、全くはっきりと自信を持って、あの光を思い出していた。友人の妹は、大きな古めかしい鏡の下に座って本を読んでおり、私は二、三ヤード離れたところで、本を読んだりものを書いたりしていた。するとその時、まるで豆がパラパラと鏡に投げつけられるような音を聞いた。そこを見ているともう一度、音がした。しばらくして私が一人で部屋にいると、豆よりもっと大きな何かが、古い町私の頭のそばの羽目板にぶつかったような音がした。このことがあって数週間のあいだ、私にではなく、友人やその妹、召使たちに、別の光景や音が見えたり聞こえたりした。ある時は明るい光で、ある時は読みとる前に消えてしまう火の文字で、ある時は誰も住んでいないような家で、動き回る重い足音であった。昔、人間の男や女が住んでいたところに住む(と農民たちが信じている)生き物が、古い町の廃墟から、私たちに付いて来たのだろうか。それとも最初の光が、一瞬ひかったあの木のそばの、川岸から来たのだろうか。
[#地付き](一九〇二)
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24 男とブーツ
ドネゴールに疑い深い男がいて、幽霊話とか妖精《シヨーグ》の話を、どうしても聞こうとはしなかった。ドネゴールに人々が思い出せるかぎり古くから、幽霊が出る一軒の家があり、これはその家がこの男を負かした話である。男はその家に入ると、幽霊が出る部屋のちょうど真下の部屋で、暖炉の火をおこした。それからブーツを脱ぐと暖炉の上に置き、足を延ばすと体を暖めた。しばらくの間は、幽霊なぞ信じなくともうまくいったのだが、夜になってあたりが暗くなったころ、ブーツの片方が動き始めた。ブーツは床から起き上がり、ドアーの方にゆっくりと跳び始めたのである。もう片方のブーツも同じことを始め、次に最初のブーツがまた跳んだ。それですぐに男は、目に見えない生きものが、ブーツをはいて部屋から出ていこうとしているのに気づいた。ブーツはドアーのところまで行くと、ゆっくりと階段をのぼり、それから男は頭の上の、幽霊が出る部屋をブーツがどしんどしんと歩きまわる音を、聞いたのである。
それからブーツの音はまた階段の上に聞こえ、それから廊下で聞こえた。つぎにブーツの片方がドアーから入ってくると、もう片方も跳んで部屋の中に入ってきた。ブーツは両方とも、男に向かって跳んで来たのである。そして片方は飛び上がりざま、男に打ちかかってきた。その後でもう片方が男を打ち、それからまた最初の片方が、男を打った。このようにして何回も打ちかかって、ついにブーツは男を部屋から追い出し、とうとう家からも追い出してしまった。このようにして男は、自分のブーツに蹴り出されてしまった。ドネゴールの疑り深い男は仕返しをされたわけである。この目にみえない存在が、いったい幽霊だったのかそれとも妖精《シー》だったのか、記録されていないが、仇を討つという空想的な性質は、ファンタジーの中心に住む妖精《シー》の仕業のようである。
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25 臆病者
ある日のこと、私はベン・バルベンの山の向こう、コープの山に住んでいる友人の家に居た。彼はがっしりした農夫で、その家で二人の娘に嫌われている若者に会った。なぜ彼が嫌いなのか娘たちに尋ねてみると、臆病者だから、ということであった。これを聞いて私は彼に興味を持った。というのは強い自然の児であるべきなのに、臆病だと思われている、それはその人が彼等の生活や仕事に向かない、細い神経を持っている男や女に他ならないからである。私はその若者を見かけた。だがその血色のよい白い顔と、強そうな体には、感受性の強すぎる様子などなかった。しばらくしてその若者は、自分の経験したことを語ってくれた。二年前のある日まで、彼は荒っぽい向こうみずな生活をしていた。その夜、彼は遅く家に帰るところだった。とつぜん、彼はまるで体が、幽霊の世界に沈んでいくように感じた。一瞬、死んだ兄の顔が、目の前に浮かび上がるのを見た。つぎの瞬間、向きをかえると、走った。一マイルほど先の道の外れにある家まで、走るのを止めなかった。彼はとても激しくドアーに体を投げかけたので、厚い木の掛け金が壊れ、彼は床に倒れた。この日から、彼は荒れた生活を止めたが、どうしようもない臆病者になった。昼であろうと夜であろうと、どうしても彼があの顔に会った場所を、彼に二度と見せることはできなかった。その場所を避けるために、たびたび二マイルも回り道をした。もしパーティーのあと一人になっても、「この地方で一番可愛い娘」でも、彼を説得して家に送ってもらうことはできないだろう、と彼は言った。この若者はすべてのものを恐れた、というのは一度見たら変わらない顔――計り知れぬ魂の顔――を見てしまったからなのである。
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26 オブライエン家の三人と悪い妖精
薄明の王国には、優れたものが豊富にたくさんいる。そこには地上よりも多くの愛があり、地上よりも多くの踊りがあり、地上よりも多くの財宝がある。この世の初め、地上は人間の欲望を満たすために作られたが、今では地上は、古くなり朽ち始めた。私たちがあの別の王国の財宝を、盗みたいと思っても、何の不思議があろうか。
以前に友人が、スリーヴ・リーグ近くの村に住んでいた。ある日彼は、「カシニル・ノア」と呼ばれる円形土砦《ラース》をぶらぶら歩いていた。ぼさぼさ髪の恐ろしい顔をして、破れた布の下がった服を着た男がやって来ると、穴を掘りはじめた。友人は、近くで仕事をしていた農夫の方を向くと、あの男はだれかと尋ねてみた。「あれはオブライエン家の三男坊ですよ」という返事だった。数日後に、彼は次ぎのような話を知った。異教時代に、夥しい財宝が円形土砦《ラース》に埋められ、多くの悪い妖精が、その財宝を守っていたが、いつの日か財宝は発見されて、オブライエン家のものになることになっていた。その日までに、オブライエン家のものが三人、それを見つけるために、死ななければならない。二人がすでにそうなっていた。最初の者は、掘りに掘り、とうとう財宝の詰まっている石の棺を一目見た。けれど、すぐさま巨大な毛深い犬のようなものが、山を駆け降りてきたかと思うと、彼をずたずたに引き裂いてしまった。次ぎの朝、財宝は再び、地中深く消えてしまった。二番目のオブライエンがやって来て掘りに掘り、その箱を見付け蓋を開けると、黄金が中でぴかぴか光っているのが見えた。彼は次ぎの瞬間、ある恐ろしい光景を見て、発狂しすぐに死んだ。その財宝は再び沈んで見えなくなった。三番目のオブライエンが、今掘っているのである。財宝を見付けた瞬間に、恐ろしい方法で死ぬだろう。だがその魔力は破られて、オブライエン家は昔のように、永遠に金持ちになるだろうと、かれは信じている。
近くに住む農夫が、かつてその財宝を見た。農夫は草の上におちている、野兎の骨を見付けた。その骨を拾うと、そこには穴があいていた。その穴をのぞいてみると、黄金が地下に山と積まれていた。農夫は鋤をとりに、急いで家に帰ったが、再び円形土砦《ラース》に戻ったときには、財宝を見付けた場所は、分からなくなっていた。
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27 ドラムクリフとロセス
ドラムクリフとロセスはその昔、この世にないものが出没する場所であったし、また今もそうであるが、天の意にかなうならこれからもそういう場所であろう。私はその近くの土地やその場所に住んだことがあり、妖精に関する伝説を、折りにふれてそこでたくさん集めたことがある。ドラムクリフはベン・バルベンの麓にひろがる緑の谷で、暗くなるとその山の斜面には、四角の白い扉がゆるみ、妖精の騎馬行列がこの世に入ってくる。谷に残るたくさんの古い遺跡を作ったあの偉大な聖コロンバ自身も、ありし日には天国に近づくため、信者たちとともにこの山を登って行ったのである。ロセスは海にかこまれた砂地の野原で、まるで緑のテーブルクロスのように、丈の低い草でおおわれ、てっぺんが円い石塚になっているノックナリアと、「鷹で知られるベン・バルベン」とのあいだの、波立つ泡のなかに横たわっている。
ベン・バルベンとノックナリアが無かったら
あわれや水夫は、波にさらわれたことだろう
歌にはこうある。
ロセスの北の角には、砂と岩と草の小さい岬があるが、ここは妖精が好んで現れる場所である。賢い農夫なら、その低い崖のふもとで眠ったりはしない。そこで寝てしまった者は目が覚めると、「良い人たち」(妖精)に魂をさらわれて、「うつけ」同様になっていることがあるからだ。この千鳥のむれる岬ほど彼等のうす暗い王国へ通じる、おあつらえ向きの近道はない。いまは砂山ですっかりおおい隠されて見えないが、長い洞窟がそこから遙かかなたの「金銀であふれるこよなく美しい居間や客間」へと通じているのだ。昔この洞穴がまだ砂におおい隠されていなかったころ、一匹の犬がなかに迷い込んだが、その犬のむなしい吠え声が、陸のはるか奥地の城塞の深い地下から聞こえてきたという。こうした城塞や円形土砦《ラース》は、現代の歴史が始まる前に造られたもので、ロセスやコラムキル全土にひろがっている。その犬が吠えていたという砦には、ほかの砦と同じように、真ん中に蜂の巣型の部屋があった。私がそこを探索していたとき、ことのほか理知に富む読書家でもある農夫の一人が付いてきて、入り口の外で膝をついて待っていたが、おじけづいたような声で「大丈夫ですか?」とささやいた。私がしばらく地下にいたので、犬のようにつれ去られてしまったかも知れない、と心配したのだった。
この農夫の心配はもっともで、この砦をめぐる悪い噂話がいろいろと伝わっていた。この砦は小さな丘の尾根にあって、北側の斜面には、小さい小屋が点在していた。その小屋の一つからある夜、一人の息子が出てきたが、砦が燃え上がっているのを見て、その方へ駆け寄っていった。すると「魔法」がかかって、彼は柵に飛び乗ったかと思うと、足を組み、棒で柵を叩きはじめた。柵を馬だと思い、馬に乗って一晩じゅう田園を、素晴らしい気分で走っていたのだ。朝になってもまだ彼は、柵を叩いていたので、家に運ばれて行ったが腑ぬけのようになってしまい、三年たってやっと元に戻った。この少し後のこと、ある農夫がこの砦を壊そうとした。彼の牛や馬は死に、さまざまな災難に襲われ、彼もまたしまいには人の手で家に運ばれていくことになり、廃人になってしまい、「死ぬ日まで、暖炉のそばで膝に首を垂れていた」のであった。
ロセスの北の角を南へ数百ヤード行くと別の角があり、ここにも洞穴があるが、それは砂でおおわれてはいなかった。二十年ほど前のこと、二本マストの帆船が、この近くで難破し、その無人の廃船を二、三人の漁師が、日が暮れてから見に行った。真夜中に彼等は、洞穴の入り口の石の上で、赤い帽子をかぶったヴァイオリン弾きが二人、懸命に曲を奏でているのを見た。漁師たちは逃げかえった。村人たちはそのヴァイオリン弾きを見ようと、大勢してその洞窟におしかけたが、その連中はもう消え失せていた。
賢い農夫にとって、自分をとりまく緑の丘や森は、けっして褪せることのない神秘にみち溢れている。その土地の老婆は夕暮れに戸口に立って、彼女自身の言葉によれば「山々を眺め、神のみ恵みを思う」とき、異教の力が近くにあるからこそ、神はなおさら身近にましますと言っている。ベン・バルベンの北側は鷹で知られているが、夕暮れになると白い四角な扉が開いて、あの奔放な異教の騎馬の乗り手たちが、そこから野原に押し出て来るし、南側では、あきらかにメイヴと思われる「白い貴婦人」が、ノックナリアの壮大な雲の綿帽子の下をさ迷うのである。老婆にとってはこうしたことを、たとえ司祭が首を振ったところで、どうして疑うことができようか。牛飼いの少年がつい最近見たのは、「白い貴婦人」ではなかったろうか? 彼女はその服の裾が少年に触れるほど、近くを通って行った。「少年は倒れ、三日のあいだ死んだようになっていた」。だがこれは妖精の国についての、ほんのわずかな挿話にすぎない――この世とあの世とを繋ぐ、ほんの数針の糸目にすぎないのである。
ある晩のこと、H夫人のソーダ・パンをご馳走になっていたとき、彼女の夫が、長い話を語ってくれた。それは私がロセスで聞いた話のうちで、もっとも面白いものである。フィン・マクールの頃から私たちの時代まで、たくさんの貧しい人々がこうした冒険話を語り続けてきた。なにしろ「良い仲間たち」は、同じことを繰り返しやりたがるものだ。そして話を語る者も、同じことを繰り返し語りたがるものだ。「わしらが運河を使って旅をしていた頃のこと」と彼は話し始めた。「わしはダブリンから旅をして来た。マリンガーまでくると、運河が終ってしまい、歩き始めたのだが、なかなか進まず、疲れてぐったりしてしまった。何人かの連れの仲間も、あるときは歩いたり、また荷馬車に乗ったりしていた。やがて娘らが牛の乳をしぼっているのに出会ったので、立ち止まって娘たちと冗談を言ったりした。しばらくしてわしらが『ミルクを一杯くれないかね』と言うと、『ここにはミルクを入れる器がないから、一緒に家に来なさいな』と娘たちは言った。わしらは娘についてその家に行くと、暖炉を囲んで話をした。しばらくしてほかの者たちは出て行ったが、わしは暖かい火のそばを離れるのがいやで、一人だけ残っていた。そして娘になにか食べるものが欲しいんだが、と言った。火には鍋がかかっていたが、娘はその鍋から肉をとると皿に盛ってくれ、頭のところは食べないように、と言った。わしが肉を食べると娘は出ていったが、そのあと娘たちは、二度と姿を見せなかった。あたりはしだいに暗くなってきた。それでもわしは、暖かな火の側を離れるのが嫌なので、じっとそこに座っていた。しばらくすると、二人の男が人間の死体を運んで入ってきた。連中がやって来るのに気づいたので、わしは扉のかげに隠れていた。男の一人が死体を焼き串にさしながら、相棒にこう言った。『誰が肉を炙るんだい?』。するとその相棒の男が言った『マイケル・H――、そこから出てきて、この肉をまわせ』。わしは震えながら出て行くと、死体をまわして炙りはじめた。『マイケル・H――、それを焦がしたら、代わりにお前を串に刺すからな』と初めに口をきいた男が言うと、二人は出ていってしまった。わしはそこに座ったまま、震えながら真夜中近くまで、死体をまわして炙っていた。男たちは戻ってくると、一人が『肉が焦げている』といったが、もう一人は『ちょうど良いでき具合だ』と言った。二人は肉のことで言い争いになったが、今回はわしを責めないことにすると言った。暖炉のそばに座りながら、一人が大声で言った『マイケル・H――、お前なにか話ができるか?』。『一つも駄目です』とわしは言った。男はわしの肩に手をかけると、鉄砲玉のようにわしを外に放り出した。はげしい風の吹く晩だった。生れてこの方、こんな夜にはけっして出会ったことはなかった――天もこれほど真っ暗な夜を、生み出したことはなかったろうな。いったい自分がどこに居るのかすら、皆目わからなかった。すると男が出てくるなり、わしの肩を掴んでこう言った、『マイケル・H――、今度は話ができるか?』。『できます』とわしは言った。男はわしを家のなかへ引っ張り込むと、火のそばに連れて行き、『さあ、話をはじめろ』と言った。『一つの話しか出来ません。』とわしは言った。『わたしがここに座っていると、お前さまがた二人が、死体を運んで入って来ると、焼き串に刺し、わたしにそれを炙らせた』。『それでいい』と男は言うと『お前はあそこへ行って、あのベッドに寝ろ』と言ったので、わしはほっとして寝てしまったが、次ぎの朝になってみると、わしがいたのは、緑の野原の真んなかだった」。
ドラムクリフは、さまざまな前兆が現れる所である。大漁の季節が訪れる前には、嵐の雲のなかに、イワシの樽が現れるし、沢や沼があるコラムキルの浜には、月夜になると聖コロンバの乗った船が、沖のかなたから漂ってくるが、これは素晴らしい収穫の前兆である。恐ろしい出来ごとの前兆もある。ある漁の季節のこと、漁師の一人が水平線の彼方に、あの名高い「至福の島」(イ・ブラジル)を見た。この「至福の島」に行った人間は、もう働くことも心配事も、人の嘲り笑いを受けることもなく、こんもりと茂る森の木陰を歩き、ク・ホリンや英雄たちとの会話を楽しむのである。この「至福の島」の幻影は、国難の前兆なのである。
ドラムクリフやロセスには、幽霊が息詰まるほど溢れている。沼地のほとりに道端に、円形土砦や丘のふもと、そして海辺に、幽霊たちはさまざまな姿をして集まってくる――首なし女、鎧をつけた男、影だけの兎、火の舌を持つ猟犬、口笛を吹くアザラシ等々。あるときはこの口笛を吹くアザラシが、船を沈めた。ドラムクリフには、ひじょうに古い墓地がある。『四人の学者の年代記』には、八七一年に死んだドナダッハという名前の戦士を歌った次ぎのような題の詩がある「コン族の敬虔な戦士は、ドラムクリフのハシバミの十字架の下に眠る」。あまり以前のことではないが、ある老婆がその墓に夜、お祈りに行ったところ、目の前に鎧を着た男が立ちあらわれて、どこへ行くのかと尋ねた。それは「コン族の敬虔な戦士」であり、いまでも昔ながらの敬虔な気持ちを持ち続けて、墓を見まわっているのだ、とその土地の賢者は言っている。またこのあたりでは、ごく幼い子供が死ぬと、戸口の上がり段に鶏の血を撒く,という風習がいまだにゆき亘っているが、これは(信仰によれば)弱い魂から、悪霊を血のなかに引き入れるのである。血は悪霊を強く呼び集める力があるからだ。砦の所の石で手を切ると、とても危険だと言われている。
ドラムクリフとロセスの幽霊のなかでも、カモメの幽霊ほど奇妙なものはいない。私がよく知っている村のある家の裏には、藪があった。その場所がドラムクリフかロセスか、ベン・バルベンの山の斜面か、それともノックナリアのまわりの野原か、それは正当な訳があって言えない。その家と藪には、あるいわれがあるのだ。昔そこに住んでいた男が、スライゴーの桟橋で、三百ポンドの札束が入った包みを見付けた。それは外国の船長が落とした物だった。拾った男はそれを知っていたのに、何も言わなかった。それは船長が船荷と引き換えに受け取った金なので、荷主たちに顔向けができず、船長は海の真ん中で自殺してしまった。間もなくして、男も死んでしまった。彼の魂は、安らかに眠れなかった。その船荷の金をかけて家は大きくなり豊かになったのに、とにかく家じゅうには奇妙なもの音が聞こえるのだった。彼の妻が庭に出ては、例の藪に向かって祈っているのがよく見かけられたが、それは死んだ男の亡霊が、時折その藪に現れたからだと言う。その藪は今日まで残っており、一度は生け垣の一部でもあったが、いまでは藪だけになっている。もうそこに鍬を入れたり、木の枝を下ろしたりしようとする者が誰もいないからである。不思議なもの音は、数年前まで消えることがなかったが、修理をしている最中に、堅い漆喰のあいだから、カモメが一羽出てきて、飛び去っていった。近所の人々の話によれば、札束を拾った男の苦しんだ魂が、遂に解放されたのだということである。
私の祖先や親戚たちは、ロセスやドラムクリフの近くで、長年暮らしてきた。北の方へ数マイル行くと、私にはまったく見知らぬ土地になってしまい、何も見付け出すことができない。妖精の話を聞かせてくれと私が言うと、ベン・バルベンの海に面して突き出た岩下にある白い石の砦――アイルランドにある数少ない砦の一つ――の近くに住んでいる婦人はこう答えた、「妖精たちはいつも、他人のことには口出ししない、わたしもそうなんだよ」。これは妖精のことを話すのは危険だ、ということなのである。こちらと親しくなったとき、あるいは祖先のことをよく知っている場合に、そうした婦人もはじめて用心深く、閉ざした口を緩めてくれるのである。私の友人「やさしいハープ奏者」(酒量計り人に知られるとまずいので、アイルランドの名前は隠しておく)は、頑なな心を開かせるコツを心得ており、密造酒を造っている連中に、自分の畑でとれた麦を持っていったりする。その上、彼は大エリザ世紀の「精霊」を呼び出した有名なゲールの魔術師の子孫であり、あらゆる種類の異界の生きものについての話が聞ける権利を、あらかじめ持っていた。もし人々が魔術師たちについて言っていることが正しいならば、異界の生きものたちは、この友人の親戚なのである。
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28 幸運な厚い頭蓋骨
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昔、アイスランドの農民のいくたりかが、詩人エルギーが葬られている墓地で、ひじょうに厚い頭蓋骨を見つけた。その頭蓋骨があまりに厚いので、これは偉大な人物で疑いもなくエルギー本人の物だろうと、一同は思った。それを確かめようと、みなは頭蓋骨を壁の上に置いて、ハンマーで力いっぱい叩いてみた。ハンマーが当たったところが白くなっただけで、壊れなかったので、その頭蓋骨がほんとうに詩人のもので、すべての栄誉に値するものとみなは納得した。アイルランド人である私たちには、アイスランド人やデーン人と呼ばれる人たちや、スカンジナヴィアの国々に住む人たちと、多くの類似点がある。山あいや不毛の場所、あるいは海沿いの村では、今なおアイスランド人がエルギーの頭を試したのと同じ方法で、互いを試しあっている。こうした習慣を私たちは、たぶん古代のデーン人の海賊から学んだのであろう。その海賊の子孫であるロセスの人々は、かつて祖先のものだったアイルランドの野原という野原、塚という塚をいまでも記憶しており、ロセスを自分の出生地と同じように描写することができると言っている。ローグレイという名で知られる海沿いの地域があるが、そこにいる男たちは、けしてのびた赤い髭を剃ったり整えたりはしないし、また徒歩で戦ったりはしない。そうした男たちが、小船で競争するとき、互いに争い、ゲール語でわめき、オールで殴りあうのを、私は見たことがある。そのとき最初の小船は坐礁してしまい、その船の連中が、二番めの船が通れないように長いオールで叩き、けっきょくは三番目の船を勝たせることになった。
ある日スライゴーの人がこう言ったのだが、ローグレイから来た男が、スライゴーで喧嘩をして頭蓋骨を割られそうになったが、アイルランドで知られているような弁解を言った、頭の骨が薄い人もいるから、頭をなぐるのは危険だと。追及している弁護士は「もしあなたが殴っていたら、あの小さい奴の頭蓋骨は、卵の殻みたいになっていたでしょうな」といったので、男は軽蔑の視線を向け、猫なで声でこう言った「だけどその男は、あんたの支配権なんぞは、二週間ぐらい殴り飛ばしていたろうがね」。
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この話は何年も前に、古くなってしまった記憶をたよりに書いたものである。先ごろ私はローグレイにいたが、そこがほかのさびれた土地とさして変わりがないことに気づいた。もっと荒涼としたモーグホロウのような場所だと、ずっと思っていたのである。子供時代の記憶というものは、はかなくて頼りにならないものだ。
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29 船乗りの宗教
船橋の上に立っているときや、甲板室から外を見ているときには、神や世の中のことをいつもより考えるものだ、とある船長は言う。はるか谷あいのトウモロコシや雛げしの花々の中にいれば、顔に降りそそぐ陽光の暖かさや、生け垣の下のやさしい影のことなど忘れてしまうものだ。しかし嵐や暗闇のなかをくぐりぬけ、旅をつづけた人ならば、たぶんそうした事を考える必要があるのだろう。
何年か前の六月に、私の知らない所から西の川へ入ってきたセント・マーガレット号のモラン船長と私は夕食をともにした。彼は船乗りにありがちな、彼の性格を前面にだして考えを述べる男だということを私は発見した。彼は風変わりな海の男のものの考え方で,神や世の中のことを語ったが、その語る言葉の方はと言えば、その職業がもっている力強い精力を弱めるようなものだった。
「旦那は」と彼は言った「これまでに船長の祈りの文句というやつを、聞いたことがありますかね?」。「いいや」私は言った。「どういうものなのかね?」
「『おお、主よ! わが唇を頑張らせたまえ』というんですよ」と彼は答えた。
「で、いったいどういう意味なんだね?」
「それは」彼はいった、「ある晩、奴等が私のところにやって来て、私を起こすとこう言ったんです『船長、われわれは沈んでいきます』。私は馬鹿なことをして、もの笑いの種になりたくなかった。なぜって旦那、われわれは大西洋のど真ん中に浮かんでいたんですよ。船橋の上に立っていると、死にそうなほど具合が悪そうな三等航海士が上がってきたのでこう言いました『お前は船に乗るとき、毎年かなりの割合で船が沈んでいることを知らなかったのか?』『いいえ、船長』と彼は答えました。『沈んでいくが構わないか?』『ええ、船長』。それで私はこう言いました『それじゃ男らしく沈んでゆけ、呪われろ!』」
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30 天国とこの世と煉獄の近さについて
アイルランドでは、この世と死後に我々が行く世界は、あまり離れていないところに存在している。一本の木の中に、また橋のアーチの中に長いこと住んでいた幽霊のことを私は聞いたことがある。わがメイヨーの老女は言った。「私の土地の上に藪がありましてね、その下で、ふたつの魂が罪の償いをしているのだと人々は言ってました。風が一方から吹くと、片方の魂が隠れ場所を得るし、風が北から吹けばもうひとつの魂が隠れるのだと。藪は下が隠れ場所となるようなねじくれた形に根付いているということでした。私はそれを信じてませんが、夜になるとそこを通りたがらない人もたくさんいますよ」。実際、ふたつの世界がとても近づいてしまい、この世の道具類が向こう側にあるものの影のように思える時すらある。私が知っている婦人は、かつて長いペチコートを引き摺って走り回っている村の子供を見て、どうして短く切らないのか尋ねた。「これ、おばあちゃんのだったの」子供は言った。「膝の上までのペチコートを着ておばあちゃんを向こうに行かせるの。死んで四日にしかならないのよ」親族に短すぎる死衣を着せられたため、煉獄の炎が膝を焼くといって彼らのもと天国とこの世と煉獄の近さについてに幽霊となって現れた婦人の話を、私は読んだことがある。小作農たちは墓所のあちら側でも、屋根が雨漏りしないで、白い壁の艶が失われないで、搾乳所から良いミルクやバターがなくなることがなければ、他はこの世と同じ家を望んでいる。しかし時々は神が正義と不正をいかに分け与えているかを示すため、地主や周旋人、計測人たちがパンを乞うことをも期待しているのだ。
[#地付き](一八九二年と一九〇二年)
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31 宝石を食べるもの
心がときおり、日常の関心事から遠ざかって、忙しいことを少しのあいだ忘れるようなとき、目覚めたままで夢を見ることがある。その夢はある時はぼんやりとしてかすかで、影のようであり、またある時は足元の物質界のように、生き生きとして輪郭がはっきりしている場合もある。それらの夢は、漠然としたものであれ、明確なものであれ、私の力ではどのようにも変えることができない。夢はそれ自身の意思をもっていて、あちこちに飛んだり、その意思の命ずるままに変わっていく。
ある日のこと、真っ黒な大きい穴がかすかに見えたが、そのまわりには壁がめぐらされ、その上には数えきれぬほどの猿が座って、掌に宝石をのせて食べていた。宝石は緑色に、そして紅色にかがやき、猿たちはそれらの宝石を貪り食べているのだが、まるでいつまでも飢えが治らないようであった。私はそこにケルトの地獄、私自身の地獄、そして芸術家の地獄を見た。美しく素晴らしいものを、飢えかわくように求める人には、安らぎも形も消え、醜く卑しいものに変わってしまう。また他の人の地獄も覗いたような思いがした。ある地獄には、悪魔のピーターがいたが、顔は黒く唇は白く、奇妙な二重の秤《はかり》の前で、目に見えぬ影の者たちが犯した悪行と、まだ行っていない善行とを計っていた。秤が上がったり下がったりするのは見えても、ピーターのまわりに群がっているはずの、影の者たちの姿は見えなかった。ある時には、沢山の悪魔を見たが、さまざまな姿をしていた――魚のような姿、蛇のような姿、猿のような姿、犬のような姿。それらの悪魔たちは、私の地獄に見えた暗い穴のまわりに座り、穴の深みからさしてくる月の光のような、天上の反射光を眺めているのであった。
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32 丘の貴婦人
私たちが子供の頃、距離を表すのに、郵便局からどのくらいとか、肉屋や食料品屋からどのくらいという言い方をせず、森にある蓋つきの井戸からとか丘の狐穴からどのくらいという計り方をしたものだ。その頃私たちは神と神の被造物、そして古の日々から伝わった事物に属していた。山々の上の白いマッシュルームの間で、輝く天使の足に出会っても、さして驚きはしなかったろう。なぜならかつては、我々は果てしない絶望と、底知れぬ愛――あらゆる永遠の感情――を知っていたのだから。しかし今では引き網が私たちの足元にあるのだ。ロウ・ギルから数マイル東に、一人の若いプロテスタントの娘がいた。彼女は美しく、そして白と青の美しい服を着て、山キノコの間を縫うように登っていった。私は、彼女が子供たちの一団に出会い、そして彼らの夢の一部になった様子を記した手紙をもらった。最初子供たちが彼女を目にしたとき、彼らはとてもおびえているらしく、イグサの床に頭から飛び込んでしまった。しかし少したって、他の子供たちがやって来ると、彼らは起き上がり、勇気をふるい彼女の後からついてきた。娘は子供たちが怖がっていることに気付いたので、じきに立ち止まって両腕を差しのべた。小さな女の子が叫びながら彼女の腕に飛び込んできた。「ああ、あなたは絵の中から出てきた聖母様ね!」。「違うわ」やはり近くに寄ってきた別の子が言った。「彼女は空の妖精よ。だって空の色を着てるじゃない」。「そうじゃないよ」三番目が言った。「大きくなったジキタリスの妖精だってば」。しかし他の子供たちは娘が聖母の色の服を身に着けていたので、聖母だという意見を受け入れたようだった。娘の良きプロテスタントたる心はとても苦しんだ。そこで彼女は子供たちを周りに座らせて自分が誰かを説明しようとした。だが彼らは娘の説明をまったく受け入れようとはしなかった。説明が何の役にも立たないと気付いた娘は、子供たちにキリストのことを聞いたことがあるかどうか尋ねた。「あるよ」一人が言った。「でも好きじゃない。だって聖母様のためじゃなければ、あの人きっと僕たちを殺してたもの」。「私たちに親切にしてってあの人に言って」別の一人が彼女の耳に囁いた。「キリストは私たちを側に寄らせてさえくれないもの。だってパパはあたしは悪魔だっていうんだもの」三人目の子が叫んだ。
娘は彼らに長いことキリストと十二使徒について話して聞かせたが、最後には杖を持った老女に遮られた。その老女は、娘を冒険好きな猟師の気を変えさせるかのように扱い、子供たちが天国の偉大な女王が山に降りてきて、自分たちに親切にしてくれているのだと説明したにもかかわらず、一同を追い払ったのだった。子供たちがいなくなってしまうと、娘はまた歩き始めた。半マイルほど歩いた時、「悪魔」と呼ばれた子が道端の高くなっている溝から飛び下りて、もしも「二枚のスカート」をはいていたなら、彼女が「普通の貴婦人」だと信じたのに、と言った。なぜなら「貴婦人とはいつも二枚のスカートをはいている」ものなのだ、と。娘が二枚のスカートを見せたので、その子はがっかりして行ってしまった。だが数分後再び溝から飛び降りてきて、怒った口調で叫んだ。「パパはアクマ、ママもアクマ、私だってアクマなんだから。あんたなんかただの貴婦人じゃないの」。そして一握りの泥と小石を投げ付けると、すすり泣きながら走り去った。わが美しきプロテスタントの娘が家に帰り着いた時、彼女は傘の飾り房を落としてきてしまったことに気付いた。一年後、たまたま彼女は同じ山を登ったが、その時は簡素な黒い服を着ていった。そして最初に彼女を絵から出てきた聖母と呼んだ子供に出会って、その子の首に自分の飾り房がかかっているのを見た。彼女は言った。「私は去年あなたたちに会って、キリストのことを話してあげた貴婦人よ」。「違う! あんたなんかじゃない! あんたなんかじゃない! あんたなんかじゃないってば!」怒った答えが返ってきた。結局、子供たちの足元にあの飾り房を投げたのは、わが美しきプロテスタント娘ではなく、悲しみと美しさをまとい、多くの山の上や岸辺を今でも歩いている、海の星たるマリア様なのだ。実際、少しの間良いことや悪いことをするのを、また星のロザリオを語る古き時を眺めるのを子供たちに許すように、平和の母、清純の母、そして夢の母に祈るのは、人々にふさわしいことなのだ。
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33 黄金時代
少し前のこと、私は列車でスライゴーに近づいていた。この前このあたりに来た時、私は悩んでいることがあったので、魂の世界に住んでいるものたちか、または形のない雰囲気、とにかくそれがどういうものであれ、メッセージを望んでいたのだった。メッセージはもたらされた。というのはある晩、半ばイタチで半ば犬という、驚くばかりの特徴のある黒い獣が石壁のてっぺんに沿って動いているのを見たからである。じきにその黒い獣は消え、反対側から白いイタチと犬の合いの子が来た。ピンク色の閃光がその白い毛皮を通して輝き、体全体が輝く炎に包まれていた。私は昼と夜、善と悪を表す二匹の妖精犬に関する農民たちの信仰を思い出し、この素晴らしい前兆に心慰められたのだった。しかし今私は、違った形でのメッセージがもたらされるのを待ちこがれている。そしてもし機会があるものなら、機会がもたらされるのを待っている。なぜなら一人の男が列車に乗り込んで来て、明らかに古い黒い箱でできたフィドル(ヴァイオリン)を弾き始め、私には全く音楽的素養がないにもかかわらず、その音色はとても不思議な感情で、私をいっぱいにしたのであった。黄金時代からの哀歌を歌う声を私はそこに聞いたように思った。その声は私に、我々は不完全で不十分な存在で、美しく織り上げられた蜘蛛の巣などではなく、ひとまとめにくくられて隅に放り投げられた紐のようなものだと告げていた。その声は、かつて世界は全てが完璧で優しかった、そして今なお完璧で優しい世界は存在しているのだが、鋤《す》き返された土の下のひとかたまりの薔薇のように、葬られてしまっているのだと告げた。妖精たちや、より無垢な精霊たちがそこには住んでいて、風が投げ上げた葦の嘆きや鳥の歌声の中に、波のうめき、そしてフィドルの甘やかな泣き声の中に、私たちの堕ちてしまった世界を嘆いているのだ。我々の世界では美は賢さでなく、賢さは美ではないと言われる。そして私たちの最も素晴らしい瞬間は、僅かな卑俗さや悲しい思い出のひと刺しによって損なわれ、フィドルはその全てをずっと嘆き続けるのだ。黄金時代に生きている人々が死に絶えてしまったなら、我々は幸せだろうに、とその声は言った。そうすれば悲しみに満ちた声など聞かずにすむだろうから。だが、ああ彼らは歌わねばならず、私たちは永遠の門がゆれて開くまで嘆かねばならないのだ。
私たちは大きなガラス張りの屋根の終着駅に着き、フィドル弾きは彼の古い黒い箱を置いて、銅貨を貰おうと帽子を私たちの方に差し出し、それから扉を開けて去っていった。
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34 幽霊や妖精の性質を歪めたスコットランド人への苦情
妖精信仰がまだ続いているのは、アイルランドだけではない。自分の家の前の湖に、「水馬」が出没すると信じている、スコットランドの農夫の話を聞いたのは、つい先日のことである。彼は水馬がこわくて、湖を網でさらったり、湖水をポンプで吸い上げて干そうとした。もしそのスコットランドの農夫が水馬を見つけていたら、水馬はひどい目に会っていただろう。アイルランドの農夫なら、その生き物と仲好くなっていたろう。というのはアイルランドでは、人間と精霊とはおずおずとではあるが、愛情を通わせているからである。相手をひどい目に会わせるのは、ちゃんとした理由がある時だけである。相手に対して互いに思いやりがあるのだ。どちらにもこれだけは越えない、という線がある。アイルランドの農夫ならば、捕まえた妖精に、キャムベルの話にある男がするような仕打ちは、誰もしないだろう。この男は水馬を捕まえて、自分の馬の後につないだ。水馬は暴れたので、男は水馬に錐と針を突き刺した。水馬は叫んだ、「錐で突いてもいい、後生だから、髪の毛みたいに細いの(針)で、突くのはよしてくれ」。男と水馬たちは宿屋に着いた。男がランタンの灯を水馬に向けると、たちどころに水馬は、「流れ星のように」ばったり倒れて、ゼリーのようにどろどろした塊に解けてしまった。水馬は死んだのだ。またアイルランドの農夫は、スコットランド高地の古詩に歌われているような、妖精たちのような扱いはしないだろう。ある妖精が、妖精の丘の辺りでいつも芝草を刈る可愛い子と仲良しになった。妖精は毎日のように、魔法の力のあるナイフを、丘から差し出してくれた。その女の子はいつもそのナイフで芝草を刈った。ナイフには魔法がかかっているので、芝草を刈るには暇がかからなかった。兄たちは、なぜそんなに早く女の子が、芝草を刈れるのか不思議に思った。しまいに自分たちの目で確かめようと決め、そして子供に手を貸しているのが誰なのかが判った。地面から小さな片手が出てきて、子供がその手からナイフを受けとるのを兄たちは見た。芝草をぜんぶ刈り取ると、女の子はナイフの柄で、地面を三度叩いた。すると小さな手が丘から出てきた。兄たちは女の子の手からナイフをひったくると、地面から出てきた手を、一撃で切り落としてしまった。このことがあってから、妖精は二度と現れることがなかった。妖精は、血の滴る自分の腕を、地面のなかにひっぱり込んでいった。女の子が裏切ったので、自分は手を失くしたのだと妖精は思ったようだ、と文章には書いてある。
スコットランドでは人々の考えは、あまりに神学中心で、またあまりに陰鬱である。悪魔さえ信心深いものに仕立てられてしまう。魔女裁判で明らかにされたところによれば、街道で悪魔が魔女に出会ったとき、悪魔はこう言ったそうである。「やあ、お前さん、どこで暮らしているのかね。ところで牧師さんは元気かな」。スコットランドの人々は、魔女をみな火炙りにしてしまった。アイルランドでは魔女は放ったままだった。たしかにカリックファーガスの町では、一七一一年三月三一日に、「王党少数派」が、キャベツの切り株で、ある魔女の目を飛び出るほど叩いた。だがそのときも、「王党少数派」の半分はスコットランド人であった。スコットランドの人々は、妖精は異教の者で、悪い者だと見てきたようで、治安判事の前に、妖精を引っ立てたい気持ちなのであろう。アイルランドでは、戦いに優れた人間は、妖精の仲間に入っていき、妖精の戦闘に力を貸すが、妖精の方は逆に、人間に薬草のすぐれた使い方を教えてくれたり、ある少数の人間には、妖精の音楽の調べを、聞かせてくれたりする。カロランは妖精の円形土砦《ラース》で眠ってしまったことがあった。それからずっと後になっても、彼の頭の中には、いつも妖精の調べが流れ、そのお陰で彼は大音楽家になった。スコットランドでは、公然と説教壇から、妖精を非難する。アイルランドでは、司祭が妖精の魂の状態を、相談してやる。しかし残念ながら、司祭は、妖精には魂が無くて、最後の審判の日に妖精は、きらきら光る水蒸気のように蒸発してしまうと判定した。しかし司祭は、こうしたことに怒りよりも悲しみを抱いているのだ。カトリック教は、隣人と仲良くやっていきたいのである。
このように違う二つの物の見方は、それぞれの国の妖精や小鬼の世界全体にも、影響を及ぼしている。妖精たちの陽気で優雅な振る舞いを見るには、アイルランドへ行かねばならない。彼らの恐ろしい行為を見るなら、スコットランドへ行くとよい。アイルランドの妖精の恐ろしい話には、何か作って信じさせているような趣がある。ある農夫が不思議な一軒家に迷い込み、一晩じゅう暖炉で、鉄串に刺した死体を炙らされる話を聞きながらも、我々は別に不安を感じない。この男は目覚めてみると、緑の野原の真ん中にいて、古びた上着は露に濡れていた、といった結末になると、我々にはよく判るからだ。スコットランドでは全く事情が違う。幽霊や小鬼のもつ、本来のすばらしい性質を、スコットランドの人たちは歪めてしまったのだ。ヘブリディーズに住む笛吹きのマクリモンは、犬を連れ、バグパイプを抱えて、高らかに吹き鳴らしながら、海の洞窟へと進んで行った。暫くの間、人々の耳にはバグパイプの音色が聞こえていた。マクリモンが一マイルぐらい進んだと思う頃、何か争う物音が聞こえてきた。それから突然、笛の音が聞こえなくなった。しばらくすると、洞窟から犬が出てきたが、見るとすっかり皮を剥がれ吠える力もなくなっていた。そのあと洞窟からは何も出てこなかった。次に湖に潜った男の話がある。その湖の底には、宝があると信じられていた。潜った男は水底に、大きな鉄の箱を見つけた。箱のそばには怪物がいて、男に帰れと警告した。男は水面に浮かび上がって来た。だが、見物人たちは、宝を見たという男の話を聞くと、もう一度潜るようにと男を説き伏せ、男は潜った。暫くして、男の心臓と肝臓が浮かび上がり、湖水が真っ赤に染まった。男の体のほかの部分を見たものは誰もいない。
こうした水のゴブリンや|水の怪物《ウオーター・モンスター》は、スコットランドの民間伝承にはよく出てくる。アイルランドにもそれに似たものはいるが、人々の恐怖感はずっと少ない。われわれの話では、こういった生き物たちがやる事を、好ましく愛すべきことに変えてしまうし、またそうした生き物たちによく合うものにしてしまうからである。スライゴー川に穴があって、そこにこのような怪物がよく出た。そんな怪物がいることを、多くの人々は信じ、疑わないのであるが、土地の人々はかくべつ恐ろしがりもせず、怪物についての話しを楽しみ、それをめぐって、更に空想をたくましくするのである。私が子供の頃、ある日その怪物の穴に鰻をとりに行った。私は大きな鰻を肩に掛け、そのくねる頭を前に垂らして抑え、しっぽの方は後ろに引きずりながら帰る途中、良く知っている漁師に出会った。私は、いま捕まえてきた奴の三倍もある、とてつもなくでかい鰻がいるが、それが釣り糸を切って、逃げてしまった話を始めた。「そいつが例の奴なんだ」。と漁師は言った。「おい知ってるかい、俺の兄貴はそいつのお陰で、よそへ引っ越しちまったのさ。兄貴は水に潜るのが商売でよ、桟橋をこさえるための石を掘り出していたのさ。ある日あの怪物が、兄貴に近寄って来るとこう言ったんだ。『何を探してるんだい?』『石でさあ』と兄貴は言った。『いい加減によそへ行ったほうが良かあないかい?』『そうですね』と兄貴は言った。それで兄貴は行ってしまったのさ」。皆が言うには、「兄貴は貧乏くじをひいたというけど、本当じゃないよ」。
あなたがた(スコットランドの人々)は、地・水・火・風の精霊たちと親しくしていない。闇をあなたがたの敵にしている。我々(アイルランドの人々)は、この世を越えた者と、親しい付き合いをしている。
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35 戦争
しばらく前に、フランスと戦争になるかもしれないとの噂が流れた頃、私は知り合いの、あまり裕福ではないスライゴーの婦人に会った。彼女は兵士の未亡人であったが、私はロンドンから届いた手紙の一節を、彼女に読んで聞かせた。それは「ここの人々は戦争熱にとりつかれています。でもフランスは、事を平和のうちに進めたがっているのです」というような文章だった。その未亡人の心の中にはたくさんの戦争の思いが湧いてきたが、それはかつて兵士たちから聞いたものや、九八年の反乱について言い伝えられている事柄などであった。ロンドンという言葉は、彼女の興味を多く引きつけた。それはロンドンには多くの人々が住んでいるのを知っており、彼女自身も以前に、その「過密地域」に住んでいたことがあったからである。「ロンドンには溢れるほど沢山の人がいます。人々はこの世に疲れきっています。殺されることを望んでいるのです。しかし確かなことなのですが、たとえフランスが求めているのが平和と平穏だけであろうと、ここの人々は戦争になるのを気にかけてすらいないのです。いまの状態以上に悪くなるはずがないのですから。彼らも神の前で勇ましく死んでゆき、天国で必ずや慈悲を得ることでしょう」。そして彼女は、子供達が銃剣の上に放り投げられるのを見るのは辛いことだ、と言い始めたので、私には彼女があの大反乱を思い出しているのが判った。やがて彼女は言った、「戦争に参加すると、後でそれを語りたがる人はいません。すぐに彼らは干し草の山から干し草を投げ下ろすようになるのです」。少女の頃、彼女は近所の人々と暖炉の側に座って、よく迫り来る戦争の話をしたものだ、と語った。そして今、彼女はまた戦争になるのではないかと恐れていた。なぜなら彼女は湾という湾が「干上がり、海草で覆い尽くされている」夢を見たからだった。私は彼女にもしこれがフェニヤン時代だったら、こんなにも戦争を恐れただろうかと尋ねた。だが彼女は叫んだ。「私は一度だってフェニヤン時代のような楽しみや喜びを味わったことなどありません。私はかつて幾人かの将校が滞在している家におりました。そして昼間は兵士たちの一団の後ろからついて歩き、夜には庭の端まで行って、真っ赤なコートを着て、家の後ろの野原でフェニヤンの訓練をしている兵士を見ていたものです。ある晩のこと、男の子たちが、死んでから三週間もたった老馬の肝臓を、私の家のノッカーに結び付けたのです。翌朝、私が扉を開けた時にそれを見付けました」。それから私たちの戦争についての会話は、話にありがちなように、ブラック・ピッグ(黒豚)の戦いへと移っていった。この戦いを彼女はアイルランドとイングランドの間の戦いだと思っていたのだが、私にとってそれは全てを再び原初の暗闇へと消し去るこの世の終末の戦争とも思えた。そしてさらに戦争と復讐についての言い伝えの話になった。「ご存じですか」彼女は言った、「四人の祖先の呪いのことを? 彼らは男の子を槍にかけました。すると何者かが彼らにこう告げたのです。『おまえは子孫四代にわたって呪われるだろう』。だから災害やそういったものは、いつも四世代のうちにふりかかってくるものなのです」。
[#地付き](一九〇二)
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36 女王と道化《フール》
クラーレとゴロウェイの州境に住む「ヘアルネ」、つまり「妖精博士《ウイツチ・ドクタ》ー」が、こう言うのを聞いたことがある。妖精の「どんな種族」にも「女王と道化」がおり、普通の妖精に触わられるなら治るが、女王か道化に触わられたら決して治らない。道化は「恐らく誰よりも賢く」「むかし国を巡業していた仮装無言劇《ママーズ》の役者」に似た服装をしていると言うのである。それから後、友人が道化の話をいくつか集めてくれたが、「道化」がハイランド地方でも知られていることが分かった。いまこの文章を書いているところからさして遠くない、古い粉挽き小屋の炉端に、ひょろりと背の高い毛むくじゃらの男が座っているのを見たことがあり、その男が道化だと教えられた憶えがある。友人が集めてくれた話では、その男は眠っている間に、妖精を訪ねるそうである。だがその男が「アマダーナ・ブレナ」(砦の道化)なのか、それともその家に取り付いているものなのか、私には言えない。妖精のところにいた経験のある、わたしのよく知っている老女は、道化についてこう言っていた。「道化は妖精たちに混ざってるんです。バリリーの『アマダーン』のような、私たちに見える道化たちは、夜になると妖精とどこかに行っちまいます。私たちが『オインサーチ』(類人猿)と呼ぶ女の道化も、まったく同じですね」。クラーレの州境に住む妖精博士の親族で、人々や家畜を呪文で癒すことのできる婦人はこう言った。「私にも癒せないことはありますよ。女王や『砦の道化』に打たれた人を、助けることは出来ないんです。女王を見たことがある婦人を知ってるんですが、女王はなにかキリスト教徒のように見えたそうですよ。道化を見たという話は、この婦人の他からは聞いたことがありません。彼女がゴート近くを歩いていたとき、『後から砦の道化がついて来る』と叫ぶと、一緒にいた友人たちも、何も見えなかったのに、いっしょに叫び声をあげたんだそうです。そのとき何の害も被らなかったのは、道化がその叫び声で、行ってしまったからだと思いますね。道化は大柄で、強い男のようだった、と彼女は言ってました。半分は裸だったそうで、それしか道化については言ってません。私自身は道化を目撃したことはないんです。でもじつは私は『ヘアルネ』の従姉妹でして、私の叔父は、二十一年のあいだ行方不明でした」。年老いた粉挽きの女房はこう言いました、「あの連中のほ女王と道化とんどは、『良い隣人』なんですが、道化に打たれると決して治りません。道化に打たれた者は、みんなこの世から逝ってしまいます。それで私たちは、道化を『アマダーナ・ブレナ』と呼ぶんです!」。またキルタータンの沼地に住む、貧しい老女はこう言いました。「アマダーナ・ブレナに打たれると、決して治らないというのは、本当ですよ。私が昔知っていた老人が、一本の紐を持ってました。彼はその紐で人々を測っては、皆が受けた被害について言うことが出来ました。またその老人はいろんな事を知ってました。ある時、彼は私にこう尋ねました『一年のうちで、どの月が最悪ですかね?』と。それで私は答えました『もちろん五月でしょう』。『五月じゃありませんね』彼は言いました『六月ですよ。なぜってアマダーナ・ブレナは、六月に人々を打つんですからね』。道化は見かけは普通の人々と変わらないようですが、ただ横幅が広く、機敏ではありません。ある時、壁ごしに自分を見ていた一匹の子羊に、顎鬚があるのを見たので、驚いた少年を私は知っています。六月だったので、少年にはそれがアマダンだと判ったのです。そこで皆はその少年を、さっき私が話した、『紐を持っている老人』のところへ連れて行きました。その少年を見ると、老人は言いました『司祭のところへ連れて行き、ミサをあげてもらいなさい』。人々は言われた通りにしました。それでなにはともあれ、少年は今でも元気で、家族を持って暮らしていますよ!」。
あるリーガンは言いました「別の世界の住人たちが、あんたのすぐ側を通って、あんたに触わるかもしれないな。だけどそのうちの誰が触わったとしても、アマダーナ・ブレナが触わったようにはならないだろうね。彼が六月によく人々に触わるというのは、本当だ。実際に彼に触わられた人を知っている。自分からそのことを私に話してくれたんだが、それは私の良く知っている少年で、ある晩、彼のところに一人の紳士がやって来たが、よく見るとその紳士は、とっくに死んだはずの地主だったそうだ。紳士は少年に、『一緒に来て他の男と戦って欲しい』と頼んだので、少年が一緒に行ってみると、死んだ人たちの二つの集団に会った。その片方の集団にも生きた人間が一人いて、少年は彼を相手に戦った。それは激しい戦いだったが、少年は相手を打ち負かした。すると彼の側の連中が大きな叫びをあげたと思うと、少年は再び家に戻っていたということだ。けれど三年ほど経って、少年が森で藪を刈っていると、アマダーンがやって来た。アマダーンは手に大きな器を持っており、それが光っていたので、少年にはほかのものは、見えなかった。しかしアマダーンはその器を後ろに置くと、走って近づいて来た。少年が言うには、アマダーンは丘の斜面のように、野性的で大きかったそうだ。それで少年が走ると、アマダーンは後ろから少年めがけて、その器を投げた。器は大きな音を立てて壊れ、そこから何が出たにしろ、その頭はたちまち消えてしまった。少年はその後しばらく生きていて、私たちにいろいろ話してくれたが、気が違ってしまった。少年によれば、連中(妖精たち)は、アマダーンが誰かを打つのが好きではないようだし、自分たちに何かが起こるのを、いつも恐れていたということだ」。またゴロウェイの救貧院にいる老女が、メーヴ女王について少し知っているということだが、ある日こう言った、「アマダーナ・ブレナは、姿を二日ごとに変えます。ある時は少年の姿に、ある時は恐ろしい獣の姿になって、いつもやるように人間に触れようとするんです。近ごろ彼が撃たれたということを聞いたんですが、彼を撃つのは難しいと思いますがね」。
古代アイルランドの愛と詩と恍惚の神オインガス、自分の四つの口づけを鳥に変えたというこの神の映像を、心の中に呼び出そうとした男を知っている。とつぜん彼の心眼に、帽子をかぶり鈴をつけた男の姿が、勢いよく出てきて、次第にその姿は鮮明になり、自分は「オインガスの使者だ」と男は名乗って語りはじめたという。また私は、幻の庭にいる白い道化を見たほんとうにすぐれた透視力のある人を知っている。その庭には葉の代わりに孔雀の羽根をつけた木々が茂り、白い道化が手に持ったケイトウの花で触わると、花々が開き、中から人の顔が現われたという。また別の時には、池の縁に座った白い道化が、たくさんの美しい金髪の女たちが、池から浮かび上がってくるのを見て、笑みを浮かべていたということである。
死は英知と力と美の始まり以外の、何であろうか? また愚かさは、一種の死かも知れない。人間の脳には強すぎる魔術、英知、夢などの入ったきらめく器を持つ道化を、「妖精の一族」のなかに、多くの人が見なければならないのは、素晴らしいこととは思えない。全ての妖精一族に、女王がいるのは当然だが、王についてはあまり知られていない。というのは女性のほうが男性よりも、古代の人や野生の人が、唯一の知恵と見なしている英知に、たやすく到達するからである。私たちの英知の基になっている自我は、愚かさによって粉々にされるし、女性の唐突な感情で忘れられてしまう。だから道化も、そして女性も、痛みに満ちた旅の末に、確かさを手に入れ、また憩いの場所を垣間見ることができるのだ。ある白い道化を見た男が、農夫の妻ではないある女性についてこう言った。「もし私に彼のような幻を見る力があるなら、神々の全ての叡智を得るだろうし、幻のほうでも彼女に興味を持つことはないだろう」。また眠っているうちに、この世ならぬ美しい国々を通ったという女性を知っている、彼女も農民ではない。彼女は家事や子供の世話で忙しく、これまでほかのことなど気に掛けなかった。すぐに薬草を使う医者が呼ばれて、彼女を治療した。思うに、英知と美と力は、時として毎日のように死にゆく人々が生きているうちに、訪ねてくるのではないだろうか。その死はシェイクスピアが言う死とは別のものである。生者と死者との間には戦いがあり、アイルランドの話では、それが繰り返し語られる。馬鈴薯や麦、大地に実るものは衰えれば、妖精のもとで熟し、木々の中を樹液が巡るとき、われわれの夢は英知を失い、その夢は木々を衰えさせる。また十一月に妖精の子羊が鳴くのを聞けば、盲いた眼はほかのどんな眼よりも、多くのものを見る事ができる。それは魂はいつもこういうもの、またこれと似たものを信じるものであり、小屋や荒れ地は、人がいないままということはないし、恋人たちは詩が分からない者たちの世界に入ってくる、そう信じられるからだ。
あなたは聞いていないだろうか、
天国にさえ鳴り響く、吟遊詩人の快い言葉を?
あなたは聞いていないだろうか、
死んだ人たちが、恍惚の世界に蘇るのを?
恋人たちが手足をからませるとき、どんな「愛」が、
人生の夜が砕けるとき、どんな「眠り」が、
この世のおぼろな境界を思うとき、
愛する人の歌う「音楽」が、いったい
死だと言えるのだろうか?
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37 妖精の友達
妖精族の人たちとしばしば逢い、妖精についての知識をたくさん持っているのは、ごく貧しい人たちであり、そうした人たちは、一般の人々を越えた知識を持っていると考えられている。メイルズーンが、衰弱したワシが水浴びをして若返るのを見た、あの美しい湖を、うっとり眺めているような印象を、その人たちが与えるからであろう。
ゴートから少しはなれた沼地の近くに、マーティン・ローランドという老人が住んでいた。この老人は若いころからよく妖精を見ており、彼を妖精の友達とは言いにくいが、人生の終り近くには、いつも妖精に会っていたようである。死ぬ数か月前に私に話してくれたのだが、「彼等」が夜になると、アイルランド語でいろいろ叫んだり、笛を吹いたりして、眠らせてくれなかったそうである。老人がどうしたらよいかと相談をもちかけると、友達は「笛を買ったらいい、妖精たちが叫んだり遊んだりし始めたら、それを吹くんだ、そうすりゃたぶん彼等は、もうお前を悩まさないだろうよ」と言ったので、その通りにしてみた。老人が笛を吹きはじめると、妖精たちはいつも野原へ逃げていったそうである。その笛を見せ、吹いて音をだしてくれたが、老人は笛の吹き方を知らないようだった。彼がひき倒してしまったという、妖精が座って笛を吹いていた煙突の跡を、見せてくれた。私と老人の共通の友人の婦人が少し前、「彼等」の三人が来て、お前は死ぬぞと老人に言ったというので、彼に会いにいってみたという。その時の老人の説明によれば、「妖精たちは、わしにそう警告すると、姿を消しちまった。それから子供達も(妖精にさらわれた子供達のようだ)、いつも妖精たちとやって来ては、家のまわりで笛を吹いていたんだが、どこかへ行っちまった。きっとこの家が寒いと感じたんだろうな」ということであった。こうしたことを話して一週間後、老人は死んだのである。
近所の人たちは、年とった彼に、そうしたすべてのことが本当に見えていたのかどうか疑っていたが、若いころの彼が、いろいろな幻を見ていたことは信じていた。「兄貴は老いぼれて、なんでも自分の頭のなかで見ていただけさ。これが若い時だったら、言うことを信じるけどね」と弟は言っていた。老人は融通がきかず、兄弟ともうまくいっていなかった。近所の一人はこう言った、「気の毒だね、妖精なんて、ほとんどあの人の頭のなかにいるだけさ、と近所の連中は言ってるけど、二十年前にはあの人も、粋ないい男で、夜には若い娘たちが連れ立って歩くように、妖精が二組になって手をつないで行くのを見ていたのさ。あれはファロンのとこの女の子が、妖精に連れていかれちゃった夜だったよ」。そして彼女は、ファロンの女の子が、「銀みたいに光った赤毛」の女に会い、その女にさらわれた話をした。また近所の別の女の人は、妖精たちの砦に入っていったので、妖精から「横っ面の耳のところを殴られた」のだが、次ぎのような話をしてくれた。「妖精たちは、ほとんどあの爺さんの頭のなかにあるだけだと思うわ。昨日の夜、爺さんが戸口のそばに立っていたので、こう言ってやったの、『あたしの耳にゃ、いつも風が吹いてるよ。風の音がいつまで経っても、消えやしない』と。そう言えば爺さんも、俺もそれと同じなのかなって、少しは気がつくと思ったの。ところがこう言った『俺には奴等が、しょっちゅう歌ったり、音楽をやったりしているのが聞こえるのさ。そん中の一人なんぞは、笛を持ち出してそいつを吹いて、ほかの奴等に聞かせてるんだ』。それからこれはあたしがよく知ってることなんだけど、妖精の笛吹きが、いつも座って笛を吹いていた煙突を、爺さんはひき倒しちゃって、またそこに石を積みあげたのよ、年寄りだというのに。いくらあたしが若くって力があるといったって、あんなふうに持上げられるもんじゃない」。
アルスターの女の友人が、妖精たちと真の友情関係を持っていた人の話を送ってきた。この話の記録は正確だった。というのは、彼女が老婆からその話を聞いたのは、私がそれを教えてもらうだいぶ前のことだったが、彼女は老婆に何度も話してもらって、それをすぐに書き取ったからだった。彼女が幽霊や妖精がいるから、家に一人でいるのが恐いと言うと、老婆はこう言った、「なにも妖精がいたって、怖がることなぞないですよ、お嬢さん。わたしは妖精か何かそのような人、ともかくただの人間じゃない不思議な者と、話をしたことがあるんです。その女の人は、わたしが若い頃、よくあんたのお祖父さん、いや、あんたのお母さんのお祖父さんの、家のあたりにやって来たんです。あんただってその女の話は聞いたでしょうよ」。その女の話は聞いたけど、だいぶ前だから、もう一度聞かせてほしいと言うと、老婆は次のように話した。「そうさねぇ、あの女が現れるという話を、私が初めて知ったのは、あんたの伯父さん、つまりあんたのお母さんのお兄さんのジョゼフが結婚して、お嫁さんのために家を建てていた時でしたよ。ジョゼフはお嫁さんを迎えたとき、初めは湖のそばの自分の父親の家にいた。わたしたちと父は、彼が新築していた家のそばに住んでいて、仕事をしている男たちを眺めていた。父は織物師で、織り機なんかを近くの小屋に置いていたんですよ。その建築の現場では土台の設計が描かれ、石材も近くにあったんですけど、石工の姿はなかった。そんなある日のこと、母親と一緒にその家の真向かいに立って眺めてましたら、小綺麗な小さい女のひとが、小川の向うの野原を、こちらに向かってやって来たんです。わたしはその頃まだほんの小娘で、跳んだりはねたりして遊び回ってたんですけど、その女のひとのことは、いま目の前に見ているように、はっきり覚えていますよ」。その女はどんな服を着ていたかと尋ねると、老婆はこう答えた。「灰色のマントを着て、緑のカシミヤのスカートをはき、黒い絹のハンカチを頭にかぶっていましたね。その頃、土地の女がしていた服装と同じですよ」「その女のひと、どのくらい小さかったの?」と尋ねると、老婆が答えるには、「そうだねぇ、〈|小さい女のひと《ウイ・ウーメン》〉と呼んでいたけど、いま思うとちっとも小さくなかったね。普通の女のひとより大きいくらいだったけど、背がそれほど高くはないのさ。三十くらいの女で、髪は褐色で、丸顔で、あんたのお祖母さんの妹のベティに似ていたよ。ベティはほかの誰とも違っていた、あんたのお祖母さんとも似てないし、誰にも似ていなかった。丸顔で溌剌としていたけど、結婚はしていなかった。亭主を持とうという気なぞ、全然なかったし、男っけも無かったね。ベティに似ている〈小さい女のひと〉はね、多分、背がすっかり伸び切ってないうちにさらわれて、妖精の仲間になった人間だと、わたしたちはいつも言っていた。彼女はわたしたちの後を追ってきては、注意したり予言したりしてくれた。あの時はわたしの母親が立っている所へ真っ直ぐやって来ると、『今すぐ、湖に行くんだね』こんな風に命令するんだよ、『湖のそばの家に行って、ジョゼフに言いな。この家の土台は、いま案内してやるから、茨のやぶの向かいにある所へ移さなくちゃいけない。わたしが言うところが、家を建てる場所なんだよ』。その家を建てようとしていたところは、どうやら『通り道』、つまり妖精たちが出掛けるときに通る道だったらしい。それで母はジョゼフを連れてきて、その女のひとが案内してくれた場所を教えてやった。ジョゼフは言われた通りに土台を移し代えたのだけど、言われた通りの場所に移したんじゃなかった。けっきょくジョゼフが帰ってみると、お嫁さんは馬車の事故で死んでいたのさ。馬鍬をつけた馬が、藪と壁との間を右へ曲がろうとしたら、狭くて曲がれないので、事故が起こっちまったんですよ。〈小さい女のひと〉は、次に来た時には不機嫌で怒っていて、こう言ったんです『ジョゼフは、あたしが言った通りにしなかったんだね。でも自分の間違いに気づくだろうよ』ってね」。私の女友達が、その女のひとはどこから来たのか、そして服装は前と同じだったかどうかと尋ねると、老婆はこう話した。「いつも同じさ。小川の向うの野原を歩いてくるんだよ。夏には薄いショールをはおって、冬にはマントを着て、何度も何度もやって来た。そしていつも私の母に有り難い助言をしたり、よい運に恵まれなかったときには、こうしてはいけないと忠告してくれたりしたんだよ。その女のひとを見た子供は、わたし以外にはいなかったのさ。その女のひとが小川沿いにやって来るのが見えると、いつも嬉しくて駆け出していき、そのひとの手をとったり、マントを掴んだりして、『〈小さなおばさん〉が来たよ』って、母に向かって叫んだもんですよ。男の人には、この小さなおばさんは見えなかったんです。わたしの父親は見たがっていたので、母親と私に腹を立てていた。私と母が嘘をついてたり、ふざけたりしているんじゃないかと思っていたようだね。ある日のこと、〈小さなおばさん〉がやって来て、暖炉のそばに腰かけて母と話しをしていたとき、私はそっと抜け出して、父親が畑を耕しているところへいって『〈小さなおばさん〉が見たいんなら、おいでよ。いま、暖炉のそばに座って、お母さんと話しているからさ』と言ってみたんです。父は私と一緒に家のなかに入って来たんですが、あたりを見回しても何も見えないので、怒ったような顔をして、『俺をからかったりして、こうしてやる』と言って、そばにあったホウキで、私をひどく殴った。それからぷんぷん怒りながら、出ていってしまったんです。その後で、〈小さなおばさん〉はこう言ったんです、『あたしを見せようという魂胆で人をひっぱってくるから、そんな目に会うんだよ。男にはあたしは見えないんだし、これからも見えないだろうね』」。
「けれどある日のこと、父は〈小さなおばさん〉に会ったのかどうか知らないけど、とにかくこのことですっかり怯えてしまった。牛の群れにいるときに、突然こうなったんだけど、体をふるわせながら家に入ってくると、『もう、〈小さなおばさん〉の話なんぞ一言も聞かせてくれるな、もう沢山だ』っていうんです。またある時のこと、父がゴーティンへ馬を売りにいったんだけど、出掛ける前に、〈小さなおばさん〉が家に入ってきて、母に雑草のようなものを手渡して、こう言ったんです、『旦那さんが、ゴーティンに行って帰る途中、とても恐ろしいことが待ち受けてるんだよ。でもこれを上着に縫い付けておけば、旦那さんは安全だよ』。母はその草を受け取ったものの、『こんなもんは役にたたないわ』と思ってしまい、火にくべてしまった。ところがほんとうに、父はゴーティンから帰る途中、これまでに出会ったこともないような恐い目に遭ってしまった。どんな目に遭ったのか、ちゃんと覚えちゃいないけど、とにかく酷い目に遭ってしまった。もらった草を火に投げ込んでしまった母は、頭がおかしくなるくらい〈小さなおばさん〉を怖がっていた。思った通り、〈小さなおばさん〉は次に来たとき、とても怒って、こう言ったんです。『あたしの言った事を、信じなかったんだね。せっかくあげた草を火に投げ込んでしまうなんて、あの草を探すのに、とても遠いところまで行ったのにね』。またある時のこと、〈小さなおばさん〉はやって来ると、ウィリアム・ハーンがアメリカで死んだと言った。『さあ、湖の方へいって、ウィリアムが死んだ、幸せに死んだと言うんだよ。彼が最後に読んで いたのはこの章なのよ』と『聖書』の章と節を教えてくれた。それからこう言った。『さあ行って、この次の集会で、ここのところを読むように、皆に言っておくれ、そしてウィリアムが死ぬとき、頭を抱いてやったのは、この私だったということもね』。そのあとで、たしかに彼女がいったその日にウィリアムが死んだと言う知らせがきたんだよ。みなは言われた通りに、聖書を読み賛美歌を歌ったんだけど、あんな集会はこれまでになかったね。ある日、〈小さなおばさん〉と私と母が立ち話をしていたんです。その時おばさんは母に、なにか注意をしていましたけど、突然、『ほら、レティ嬢が、おめかししてやって来るよ。あたしはもう行くからね』。こう言い残すと見るまに、そこに立ったままで渦を巻きながら、空中に舞い上がってしまったんです。まるで螺旋階段を昇るみたいだったけど、それよりも速く、ぐるぐる回りながら、どんどん昇って行ってしまったんです。どんどん昇って行って、しまいには雲に向かっ妖精の友達て飛んで行く、小鳥ぐらいに小さくなってしまった。そのあいだずうっと歌を歌いながら、昇って行ったんですよ。あの日から今日まで、二度と聞いたことのない美しい調べでしたよ。あれは賛美歌ではなくて詩でしたね、美しい詩でしたよ。私と母は、ぽかんと口を開け、体を震わせながら立っていました。『いったいあのおばさんは、何だったのかしらね、母さん、天使なの、妖精なの、それとも何なのかしらね』と私は言った。そこへレティ嬢、つまりあんたのお祖母さんがやって来た。その頃彼女はレティ嬢だったのさ。ここはどうしてもレティ嬢と言わなくちゃね。わたしたちがあんな風に、口をぽかんと開けて見上げているのを見て、不思議そうにしてたので、その訳を話してやったのさ。その時、レティ嬢は派手な服を着て、きれいでしたよ。小道を歩いてきたんだけど、〈小さなおばさん〉が、『ほら、レティ嬢が、おめかししてやって来るよ』と言ってから、不思議な昇天をした時、私たち二人には、彼女がそこにやって来るのが見えなかったのさ。〈小さなおばさん〉は、どこか遠い国へ行ったのか、それとも誰かが死ぬのを見に行ったのか、だあれも知りはしないのさ」。
「私が覚えているところでは、〈小さなおばさん〉がやって来るのは、暗くなってからでなく、いつも昼でしたね。でも一度だけ、暗くなってから来たことがあったけど、それはハロウィーンの夜だったんです。母は火のそばで、夕飯の支度をしており、そこにはカモとりんごが置いてありましたね。そこにそっと〈小さなおばさん〉は入ってくると、『あんたたちとハロウィーンの夜を、一緒に過ごそうと思ってね』って言うので、『いいですよ』と母は言ったのですが、『おばさんに今夜は、すてきなご馳走がしてあげられる』と思ったようでした。おばさんは、しばらく暖炉の側に座っていてからやがて『それじゃ食事は、あたしの言うとこへ持ってきておくれね。あの向うの部屋の機織り機の側だよ。腰掛けとお皿を持ってきておくれね』って言うので、『今夜ここで過ごすなら、テーブルの側に座って、わたしたちと一緒に食べればいいじゃないですか』と母が言うと『わたしの言う通りにして、ご馳走はぜんぶ向うの部屋に置いておくれよ』って言うので、母はカモの肉を盛ったお皿やリンゴやほかのご馳走を、言われた所に置いて、わたしたちはわたしたちで食べて、おばさんはおばさんで別々に食事をしたんですよ。食事が終ったあとで、向うの部屋へ行ってみると、なんとまあ驚いたことに、食べ物は少しずつ手がつけられてそこにあったのに、おばさんの方は、すっかり居なくなってたんですよ」。
[#地付き](一八九七年)
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38 教訓のない夢
メーヴ女王とハシバミの杖の話を聞いてきた友人が、またある日その救貧院に行ってみた。その女友人の話では、はじめ老人たちは、「冬の蠅のように」寒そうで惨めな様子をしていたのに、話を始めると、寒さも忘れてしまうのである。ついこのあいだ死んだ男が、円形土砦《ラース》で妖精たちとトランプをした話が出た。妖精たちは「じつに公正な」勝負をしたそうである。ある老人は、魔法の黒豚を見た話をしており、また二人の老人は、ラフテリーとキャラナンとでは、いったいどちらが優れた詩人か、ということで言い争っていた。一方がラフテリーについて、「彼は大物だよ。彼の歌は世界じゅうに鳴り響いているからな。俺は彼をよく覚えている。まるで風のような声をしていたな」と言えば、もう一方は、「キャラナンの歌を聞くためなら、たとえ雪の中に立ってでも、耳を傾けるだろうよ」ときっぱり言うのであった。やがてある老人が、私の友人にある話を語り始めた。みなが喜んで耳を傾け、時おりどっと笑い声をあげたりした。これから私が語る話は、その時のものをそのまま伝えようとするもので、こうした取りとめのない野放図な昔話は、ありのままの素朴な人生をしいられ、貧しく厳しい生活に追われる人々を、楽しませるものなのである。そうした人たちが語るのは、何事にも必然的な因果関係などない時代の話である。そういう時代には、たとえ殺されたとしても心が善良なら、誰かが魔法の杖を一振りすると生き返ってしまうし、王子に生まれ偶然に、兄弟が瓜二つだったりすると、兄の妃と床を共にすることも起りかねないし、そうなっても後でちょっと喧嘩になるだけで、解決がついてしまう。われわれも弱く貧しい人間であり、何をしても不幸になりそうな心配があるなら、力にあふれた昔の夢を片っ端から想い起こして、肩に背負っているこの世の重荷を、抛り投げてしまえばよいのだ。
その昔、ある王様がいたが、男の子がなくてとても困っていた。そのあげく王様は、お抱えの助言者の長に相談した。すると彼は、「わたしの言う通りになされば、たやすく解決できましょう。これこれの場所に、魚を獲りに行かせなされ。魚を獲って来たら、それをあなたのお妃、王妃さまが召しあがりますように」と言った。
そこで王様は、言われた通りに魚を獲りに行かせ、魚が運び込まれると、料理番の女に魚を火で焙らせたが、火ぶくれができないように用心せよと命じた。だが魚の皮がふくれないようにして焙るのは、とても出来ないことだった。皮のあるところに火ぶくれができたので、料理番の女は指でそれを平らにしたが、それがとても熱かったので、その指を口にくわえた。だから彼女は僅かでも、その魚を味わったことになった。そうして魚はお妃のもとに届けられ、お妃はそれを食べた。お妃の食べ残しの魚が裏庭に捨てられたが、庭にいた雌馬と猟犬が、その捨てられた残りを食べた。
一年もたたぬうちに王妃は男の子を産み、料理番の女も男の子を産み、雌馬は二匹の子馬を、猟犬は二匹の小犬を産んだ。
しばらくのあいだ、二人の男の子はどこかで育てられたが、帰って来た時にはあまりにもよく似ていたので、どちらが王妃の子でどちらが料理番の子か、誰にも見分けがつかなかった。王妃は困って、助言者の所に行ってこう言った、「どちらがわたしの息子か、見分ける方法を教えておくれ。わたしの息子に与えるのと同じ食べ物や飲み物を、料理番の息子に与えるのはいやだから」。「わたしの言う通りになされば、見分けるのは簡単にお出来になります」と彼は言った、「外に出て門口に立ち、二人がやって来るのをお待ちなさい。二人がお妃様をご覧になったとき、あなたのお子様は頭を下げるでしょうし、料理番の息子はただ笑うだけでしょう」。
そこで王妃は言われた通りにした。彼女の息子が頭を下げた時、これからは見分けがつくようにと、家来たちは彼に印をつけた。そのあとでみなが食卓についた時、王妃は料理番の息子であるジャックにこう言った、「お前はここから出てお行き。お前はわたしの息子ではないのだから」。すると王妃の息子、ビルという名にするが、彼が言った、「ジャックを追い出さないで。僕たち兄弟じゃないですか」。だがジャックは言った、「ここが僕の父と母の家じゃないと判れば、とっくに家を出ていたさ」。そしてビルが何と言っても、ジャックを留められなかった。しかしジャックが出て行く前に、二人は庭の泉のほとりに行くと、ジャックはビルに言った、「もし僕に何か悪い事が起きたら、泉の上の水は血になり、下の水は蜜になるだろう」。
それからジャックは、二匹の小犬のうちの一匹と、雌馬が魚を食べて産んだ二頭の馬の一頭を連れて出て行った。ジャックは自分の後から吹いてくる風を引き離し、自分の前を吹く風に追いついた。やがて彼はある織工の家にやって来て、宿を乞うて泊めてもらった。それからまたどんどん行くと、ある王様の館にやって来た。ジャックは取り次いでもらい、その門のところでこう尋ねた、「王様は召使いを求めておいででしょうか?」。「わしが欲しいのは、毎朝、野原に牛を駆り出し、夜にはそれを連れ帰って、ミルクを絞る少年だ」と王様は言った。「わたしがそれをいたしましょう」とジャックは言い、それで王様はジャックを雇った。
朝になると、ジャックは二十四頭の雌牛を連れて出掛けたが、牛を駆り出すように命じられた場所は、牛の食べる草は生えていないかわりに、石がいっぱいころがっていた。そこでジャックは、もっと良い牧草がある所はないかと探した。暫くして青々とした上等の草が生えている野原を見つけたが、そこは巨人の土地だった。ジャックは塀を少し壊して、牛を中へ追い入れると、林檎の木に登って林檎を食べ始めた。その時、巨人が草原に入って来た。「フィー、フォー、ファン、アイルランド人の匂いがするぞ。どこにいるのかわかったぞ。木の上にいるな」と巨人は言った。「お前は一口で食うにはでかすぎるが、二口で食うには小さすぎる。どうしたらよかろうか。まず、すりつぶし、おれ様の鼻でくんくん匂いを嗅いでみにゃなるまい」「あなた様は強いのですから、どうか御慈悲を」と木の上からジャックが言った。「そこから下りて来い。ちびのドワーフめ」と巨人が言った。「さもないとお前と木を、一緒にひき裂いてくれるぞ。」そこでジャックは下りて来た。「熱いナイフを、お互いの心臓目がけて突き合うのがいいか、それとも熱い草の上で取っ組み合いをするのがいいか」と巨人は言った。「熱い草の上での取っ組み合いなら、お手のもんさ。お前の汚い足は、草の中にめり込むぜ。俺の足はとび跳ねるよ」とジャックは言った。そこで二人は取っ組み合いを始めた。固い地面は柔らかくなり、柔らかい地面は固くなって、青々とした草の中から泉が流れ出した。そんな風にして二人は、一日じゅう戦ったが、どちらにも軍配は上がらなかった。しまいに一羽の小鳥がやって来て茂みにとまり、ジャックに言った、「日が落ちるまでにあいつをやっつけないと、あいつがお前をやっつけるよ」。そこでジャックは全力を振りしぼり、巨人をうち伏せた。「命だけは助けてくれ」と巨人は言った、「そうすれば、俺の三つのいい物をあげよう」。「それは何だ」とジャックは言った。「何ものも太刀打ちできぬ無敵の剣と、着ればどんなものでも見えるが、こちらは見えないという上着、それから履けば風より速く飛んでいける靴だ」。「それらはどこにあるのだ?」とジャックは言った、「あそこの丘の赤い扉の中だ」。そこでジャックは行くと、剣を取り出した。「これをどこで試そうか」とジャックが言うと、「あの不格好な黒い木の切株で試せばいい」と巨人は言った。「お前の首ほど黒くて不格好なものはない」とジャックは言い、一撃で巨人の首をはねると、首は空中にすっ飛び、落ちて来るところを、ジャックは剣で受けて、真っ二つに斬ってしまった。「もう俺は胴体とくっつかない。お前の勝ちだ。もう一度くっついていたら、二度とぶった切られやしなかったろうに」と首が言った。「そんなことをさせてたまるか」とジャックは言い、魔法の上着を持って立ち去った。
日暮れ頃、ジャックは牛を連れて戻って来た。その夜、牛がたっぷりミルクを出したので、みなは驚いた。そして王様が娘である王女様や他の者達と食卓についた時、こう言った、「これまでは遠くから唸り声が三つ聞えていたのだが、どうやら今夜は二つしか聞えないようだ」。
翌朝、ジャックはまた牛を連れて出掛け、草がいっぱい生えている別の野原を見つけたので、塀を壊して牛をそこへ入れた。すると前の日と同じような出来事が起きたが、ただし今度の巨人は首が二つあった。ジャックと巨人は戦い、小鳥がまたやって来て、前の日と同じことをジャックに言った。そしてジャックが巨人を負かすと、巨人が言った。「命だけは助けてくれ。俺が持っている一番いい物をあげるから」。「それは何だ?」とジャックが言った。「上着だ。そいつを着れば、こっちからは誰でも見えるが、誰からもこっちの姿は見えない」。「どこにあるのだ?」とジャックは言った。「丘の斜面のあの小さな赤い扉の中にある」。そこで彼は行って、その上着を取って来た。それからジャックは巨人の二つの首をはね、落ちて来るところをまた半分ずつに斬ったので、二つの首が四つに割れた。「俺たちはもう胴体にくっつかない。お前の勝ちだ」と首が言った。
その夜、牛たちは帰って来ると、ミルクをたくさん出したので、ぜんぶの器はミルクでいっぱいになった。翌朝ジャックはまた出掛けた。そして前の日と同じような出来事が起きた。今度の巨人は首が四つあったので、ジャックはそれを半分ずつに斬り、四つの首は八つに割れた。巨人はジャックに、丘の斜面の小さな青い扉の所へ行けと言った。そこで彼は一足の靴を見つけたが、それを履けば風よりも速く走れる靴だった。
その夜、牛はあまりにもたくさんミルクを出したので、器が足りなくなってしまった。それで、小作人や道を通る貧しい人々にもミルクを配り、残りは窓から捨てられた。その時ちょうどそこを通ったので、このわしもミルクを飲ませてもらった。
その夜、王様はジャックに言った、「牛はどうしてこんなにたくさん、ミルクを出すようになったのだろう。どこかほかの草原に連れて行くのかな?」。ジャックは言った、「そうではありません。私は良い杖を持っていて、牛が立ち止まったり、寝そべったりしますと、それで叩きます。すると牛はとび跳ね、塀や石や溝をとび越えて行くのです。それで牛はミルクをたくさん出すのです」。
その夜、食事の時に王様は言った、「唸り声がまったく聞えなくなったわい」。
翌朝、王様と王女様は、ジャックが野原に出て何をするのか、窓から見ていた。ジャックはそれを知っていて、手にした杖で牛を叩き始めた。牛たちはとんだり跳ねたり、石や塀や溝をとび越えた。「ジャックの言ったことは、嘘じゃなかったな」と王様は言った。
ところでその頃、もの凄い大蛇がいて、七年ごとに出てきては、どこかの国の王女を食べることになっていた。王女のために戦う勇敢な男がいなければ、王女は大蛇に食われてしまうわけで、そして今度、大蛇の犠牲になる運命にあったのが、ジャックが訪れた国の王女様だった。王様は七年のあいだ、地下に暴れ者の用心棒を養っていた。この男は何事にも強くて、大蛇と戦う気力は充分だと皆が思うのは当然だった。
さてその時が来て、王女様は出掛け、用心棒は王女様を連れて海岸に向かった。二人がそこに着いた時、なんと用心棒は王女様を木に縛り、大蛇が楽々と王女様を呑み込めるようにしてしまい、自分は木蔦《きづた》の中に隠れてしまった。ジャックはこれから何が起こるかを知っていた。王女様がそれをジャックに話し、助けてくれるように頼んでいたからだ。しかしジャックは自分には出来ないと言った。だがジャックはやって来た。最初の巨人から手に入れた魔法の服を着て、王女様がいる場所の側までやって来た。ところが王女様にはそれがジャックだとは判らなかった。「王女様が木に縛られるなんて、あっていいものだろうか」とジャックが言った。「ほんとに、いけないことですわ」と王女様は言って、自分の身にふりかかった出来事を話し、もうじき大蛇が自分を呑み込もうとやって来ると言った。「王女様の膝を枕にして、ちょっと眠らせて下さい」とジャックは言った、「そして大蛇がやって来たら、起して下さい」。そうして彼は眠った。王女様は大蛇がやって来るのを見ると、彼を起した。ジャックは起き上がって、大蛇と戦い、大蛇を海へ追い返した。そして王女様を縛っている綱を切ると、立ち去った。すると用心棒が木蔦から出て来て、王女様を王様のところへ連れ帰った。用心棒は言った、「今日はわしの友人がやって来て、大蛇と戦ってくれた。わしは長いこと地下に閉じ込められていたので、一寸怖けづいてしまった。明日はわしが戦おう」。
翌日、王女様と用心棒はまた出掛け、そして前日と同じことになった。用心棒は、蛇が楽に襲いかかれる場所に王女様を縛りつけると、自分はまた木蔦の中に隠れてしまった。その時ジャックが、二番目の巨人から手にいれた服を着てやって来た。王女様はジャックだとは知らずに、昨日起きた出来事をぜんぶ彼に話し、誰か知らない立派な若者が現れて、自分を救ってくれたと言った。そこでジャックは、横になっていいか、王女様の膝を枕に眠ってもいいかと尋ね、大蛇が来たら起こして下さいと言った。そしてすべては前日と同じようになった。用心棒は王女様を王様の所へ連れて行くと、今日はまた別の友人を連れて来て戦ってもらったと言った。その翌日も王女様は、前の日と同じように海岸に連れて行かれた。大蛇がやって来て王女様をさらって行くのを見ようと、大勢の人々が集まって来た。ジャックと王女様は前の日と同じ話をした。だが今度はジャックが眠ると、王女様はこの人をもう一度、間違いなく見つけ出せるようにしたいと考え、鋏を取り出して彼の髪の毛を一房切り、それを小さな包みにくるんでしまっておいた。それから王女様は、彼の履いている靴を、片方脱がせて取った。
そして王女様は大蛇がやって来るのを見ると、ジャックを起こした。「今度こそ大蛇が、どこの国の王女様のことも、食い殺すことがないようにしてやるぞ」とジャックは言って、巨人から手に入れた剣を取り出すと、それを大蛇の首根っこに突き立てた。すると血と水が噴き出て、陸地の方に五十マイルも飛び散り、大蛇は息絶えた。それからジャックは急いで立ち去ったので、どこへ行ったか誰にもわからなかった。用心棒は王女様を王様の所へ連れて行き、自分が王女様を救ったと主張したので、用心棒は大いにもてはやされ、王様の第一の家来になった。
ところが、王女様と用心棒の結婚を祝う宴会の支度ができた時、髪の毛の房を取り出して、これとぴたりと合う髪の持主としか結婚しないと言い出した。また靴を見せて、足がこの靴にぴったり合わない人とは、結婚しませんと言った。用心棒はその靴を履こうとしてみたが、爪先すら入らなかった。用心棒の髪の毛はといえば、王女様が救ってもらった若者から切り取った髪の毛とは似ても似つかぬ髪だった。
そこで王様は、国中の主だった男達を集めて、その靴が合うかどうか履かせてみるために、大舞踏会を開いた。男達はみな大工や指物師の所へ行って、その靴が履けるように足を少し切ってもらったりしたが駄目で、一人としてその靴が履ける者はいなかった。
そこで王様は助言者の長の所へ行って、どうしたらよいかと尋ねた。彼はもう一度舞踏会を開くように勧め、今度は「金持ちだけでなく、貧しい人々も招くように」と言った。舞踏会が開かれて、大勢の人々が集まって来た。しかし靴は誰の足にも合わなかった。そこで助言者が言った、「この館で働いている者もみな、ここに来ているのですか?」「みな来ている」と王様が答えた、「ただ、牛の番をしている小僧が来ていないが、そいつはこういう場所には、来てもらいたくない」。
その時ジャックは下の庭にいて、王様の言葉を聞いた。彼は怒り狂い、剣を取って来て、王様の首をはねてしまおうと、階段を駆け上がったが、しかし王様の所に着く前に階段で門番の男と出会ってなだめられた。階段の一番上まで来たとき、王女様はジャックを見た。すると叫び声をあげて、王女様は彼の腕に駆け込んできた。靴を履いてみると、ジャックの足にぴったりだった。彼の髪も、切り取った髪の毛とぴったりだった。そこでジャックと王女様は結婚した。盛大な祝宴が三日三晩続いた。
祝宴の三日が過ぎたある朝、窓の外に一匹の鹿がやって来た。鹿がつけていた鈴がりんりんと鳴っていた。その鹿が声をかけた、「狩りをしませんか。狩人や猟犬はいませんか」。ジャックはそれを聞くと起きて、馬に乗って猟犬を連れ、その鹿を狩りにでかけた。彼が丘に登ってみると、鹿は谷間にいた。彼が谷間に下りると、鹿は丘の上にいた。その日一日じゅうそんな調子だった。日が暮れると、鹿は森に入って行った。ジャックもそのあとを追って森の中に入って行った。あたりには何も見えず、ただ泥壁の小屋が一つあった。ジャックが小屋の中に入って行くと、二百歳くらいの老婆が一人、座って火にあたっていた。「ここを鹿が通らなかったかな?」とジャックが聞くと、「いや、見なかったねえ。鹿を追うにゃもう遅いから、今夜はここに泊まりなよ」と老婆は言った。「馬と猟犬をどうしたらいいだろうか」とジャックが言うと、「ここに髪の毛が二よりあるからさ、それで馬と犬を繋ぎなよ」と老婆は言った。そこでジャックは外に出て、馬と犬を繋いだ。彼がまた小屋の中に入ると、老婆が言った。「お前はあたしの三人の息子を殺したね、今度はあたしがお前を殺してやる」と言って、拳闘のグラブを手にはめた。そのグラブは片方だけで重さが九ストーン(百二十六ポンド)もあり、長さが十五インチある爪がついていた。それから二人は戦いを始めた。ジャックは散々な目に会った。「猟犬よ、助けろ!」と彼が叫ぶと、「締めろ、髪の毛!」と老婆が叫んだ。そして猟犬の首に巻いてあった髪の毛が猟犬をくびり殺してしまった。「馬よ、助けろ!」とジャックが叫ぶと、「締めろ、髪の毛!」と老婆が叫んだ。すると馬の首に巻きつけてあった髪の毛が、馬をくびり殺してしまった。それから老婆はジャックにとどめを刺すと、彼を小屋の外に放りだした。
さてここでビルの話に戻ろう。ある日ビルが庭に出て泉をふと見ると、なんと表面の水が血になっているではないか。そして下の方の水は蜜になっていた。そこで彼は館に戻って母に言った。「ジャックの身に何が起こったのか判るまでは、もう二度とこの家の食卓で食事をすることも、この家のベッドで二度と寝ることもしないでしょう」。
そこでビルはもう一頭の馬ともう一匹の猟犬を連れて出発した。鶏も鳴かず、角笛も聞こえず、悪魔もラッパを吹き鳴らすことがない山々を、越えて進んだ。やがて織工の家にやってきた。ビルが家に入って行くと、織工は言った、「ようこそ、今日はこの前のときよりももっと持て成しができますよ」。織工はそこに来たのが、ジャックだと思ったのだ。ビルとジャックがあまりにも似ていたからである。「なるほど」とビルは思った、「ジャックはここに来ていたんだな」。翌朝出発する前に、ビルは鉢いっぱいの金貨を織工に与えた。それからまたビルが進んで行くと、王様の館にやってきた。彼が門口にくると、王女様が階段を駆け下りてきて、「ほんとに、まあ、よく帰ってくれました」と言った。それから人々が言った。「結婚してたった三日で、狩に出かけて、こんなに長いこと家を留守にするなんて、まったく驚いたことだ」。それでビルはその夜、王女様の部屋に泊まった。王女様はずっとビルが自分の夫だと思っていた。
翌朝、窓の下に鹿が鈴を鳴らしながらやって来て、呼びかけた。「狩りをしませんか。狩人や猟犬はいませんか」。そこでビルは起きると、馬に乗り猟犬を連れて出かけた。丘を越え、谷間を越えて鹿を追い、やがて森に踏み込んだ。あたりには何も見えず、ただ泥壁の小屋が一つあって、老婆が炉端に座っていた。老婆はここに泊まるように勧め、馬と猟犬を繋ぐ髪の毛を二より彼に渡した。しかしビルはジャックより機転が利いた。彼は小屋の外に出る前に、その髪の毛をこっそりと火の中に捨ててしまった。彼がまた入ってくると、老婆が言った。「お前の兄弟はあたしの三人の息子を殺した。だからあたしがあいつを殺してやったのさ。お前も道連れにしてやろう」。そして老婆はグラブを手にはめた。二人は戦いを始めた。やがてビルが叫んだ。「馬よ、助けろ!」。「締めろ、髪の毛!」と老婆は叫んだ。「締まらないよ、火の中だもの」と髪の毛が言った。そこへ馬が入って来て、蹄で一発老婆を蹴飛ばした。「猟犬よ、助けろ!」とビルがまた叫んだ。「締めろ、髪の毛!」と老婆が叫んだ。「駄目だよ、火の中だもの」ともう一つの髪の毛が言った。そのとき、猟犬が老婆に噛みついた。そしてビルは老婆を打ち負かした。老婆は慈悲を乞うて叫んだ。「命だけは助けておくれ。そうしたらお前さんの兄弟とその犬と馬を生き返らせる方法を教えてやるから」。「どうしたらいいのだ」とビルは言った。「あの暖炉の上に杖があるだろう」と老婆は言った、「それを持って、外へ出てごらん。緑色の石が三つあるよ。それをその杖で叩けばいい。その石がお前さんの兄弟とその馬と犬なんだよ。そうしたらみな生き返るから」。「そうしよう。だが、まずお前を緑色の石にしてしまおう」とビルは言って、剣で老婆の首をはねてしまった。
それから彼は外に出ると、石を叩いた。すると、間違いなくジャックと馬と猟犬が生き返った。それから二人は、まわりの他の石も叩き始めた。するとそれが人間になった。みな石に変えられていたのだ。数え切れないほどの大勢の人だった。
ビルとジャックは家に向かった。途中で二人は喧嘩になった。ジャックは、ビルが自分の妻と一夜を過ごしたことを聞いて、あまり愉快じゃなかったのだ。ビルは怒ってジャックを杖で叩いた。ジャックは緑色の石になってしまった。ビルは帰って来たが、王女様は彼の心に何かがつかえていることに気がついた。そこでビルは言った、「ぼくは兄弟を殺しちゃったのだ」。ビルは取って返して、ジャックを生き返らせた。そしてみないつまでも幸せに暮らした。籠いっぱいの子供が生まれた。シャベルですくうほど子供が生まれた。あるときわしが近くを通ると、ジャックとビルはわしを呼び入れ、お茶を一杯ごちそうしてくれたよ。
[#地付き](一九〇二)
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39 道ばたで
昨夜のこと、私はキルタータン通りの広場に、アイルランドの歌を聴きに出掛けた。歌手たちが来るのを待っているあいだ、一人の老人が、何年も前に死んだこの国の美しい人のことを歌った。そして老人は、自分の知っている歌手のことを話してくれたが、その歌手があまり美しく歌うので、馬さえ通り過ぎられずに頭をめぐらし、雄鶏も耳をそばだてたという。じきに大勢の男たちや少年、頭にショールを被った少女たちが、歌を聴こうと樹の下に集まってきた。誰かが「サムイルニン・デールス」を歌い、また別の誰かが、「ジミー・モミレストー」という、死による別離と漂泊の歌を、哀調を帯びて歌った。それから何人かの男が立ち上がって踊り始め、他の連中は彼らが踊れるように調子良く拍子をとった。そして「エブリナ・ルーン」が歌われた。この喜ばしい出会いの歌は、いつでも他のどんな歌よりも、私の心を動かしてきた。というのは子供の頃、私は恋する男が山陰で、毎日のように愛する人に、この歌を歌いかけるのを目にしていたからだ。歌声は薄明に溶けてゆき、木々の中へ混ざっていき、言葉は溶け去ってしまったと思っていたが、それは何世代もの人々の言葉と混ざり合っていた。それは詩の言葉であり、心の在り方であり、そして感情の型であり、私の記憶を古詩へ、忘れられた神話のもとへと誘ってくれるのだった。私は余り遠くまで運ばれてしまったので、まるで四つの河の一つまでやって来て、楽園の壁の下にある、生命と知恵の木々の根元まで、従って行ってしまったかのように思えた。人を彼方に誘う言葉や想いを持たない家々の間では、歌や物語は伝えられない。人は先祖についてほんの僅かしか知ることは出来ないが、この世の初めまで途切れることなく、高貴な中世の家系のように遡ってゆくことを知っているからである。実際のところ、民俗芸能は、古くは貴族階級のものと考えられていた。というのは民俗芸能が、卑しいものや偽りのものに対するのと同様に、束の間のものや、些細なもの、単に賢いだけや、きれいなだけのものを、確かに拒んでいるからであり、またその世代の最も単純で、最も忘れ難い思いの中に集約されるものだからである。それは偉大な芸術がすべて根を張る土壌なのだ。炉端で物語られ、道ばたで歌われ、横木に刻み込まれていようと、その時が来れば、一つの心が調和を与え、形造った芸術の評価は、速やかに広がっていくものなのである。
想像的な伝統を廃してしまった社会では、ほんの僅かな人々――何百万人かに三、四千人――だけが天賦の才や、恵まれた環境によって恩恵を受ける。そして人々はたくさんの労働の後でだけ、想像的な物事を、また「想像は人間そのものである」ということを理解する。中世の教会は、すべての芸術を教会の奉仕にしてしまった。というのは人々は想像力が欠乏したとき、賢明な希望と永続する信仰、そして慈悲に対する理解を目覚めさせる重要な声――唯一の声と言う者もいるだろう――は沈黙に陥ることさえなければ、途切れ途切れの言葉で語るだろうから。それゆえ古い歌を蘇らせ、本の中で昔の物語を集めることで、想像的な伝統を再び呼び覚まそうとするのは、まるでガリラヤの争いに加わっているように、私にはいつも思えたのだった。アイルランド人で、異国の路、それは魂の貧窮の路なのだが、に散ってゆく人々もまた、僅かではあるがそこに参加している。彼らの役割はユダヤ人と同様で、こう叫ぶことだ、「お前がこの男を行かせるなら、お前はカエサルの友人ではない」と。
[#地付き](一九〇一)
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40 薄明のなかへ
疲れ果てた時の、疲れた心よ、
善・悪の網をきっぱりと切って、来い、
再び笑え、心よ、灰色の薄明のなかで。
お前のアイレは、いつまでも若い、
露はいつも輝いて、薄明は灰色だ、
中傷の火に焼かれながら、
希望はなく、愛も失われていくけれど。
来い、心よ、丘が丘に重なるところへ、
そこには、虚ろな森と、丘をなす森の、
神秘的な兄弟たちがいる、
そこでは変わっていく月がその意思を遂げ、
神は佇んで寂しい角笛を吹き、
「時」と「この世」とはいつも飛びさり、
愛よりも灰色の薄明が優しく、
希望よりも朝の露が親しいところなのだ。
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訳者あとがき
本書は、アイルランドの詩人、劇作家、批評家であり、民俗学《フオークロア》の方面で多くの優れた業績を残したW・B・イエイツ(一八六五〜一九三九)が、自らの足で求め、耳で聞き、体験した妖精や超自然の生き物たちの話をまとめたものである。原題は The Celtic Twilight ―― Myth, Fantasy and Folklore(一八九三)であるが、翻訳の底本には一九九〇年版を用いた。
訳者は以前に大久保直幹氏との共訳の形で、国書刊行会から『神秘の薔薇』(一九八〇、「ケルトの薄明(抄)」「神秘の薔薇」「錬金術の薔薇」を収録)を出しているが、その時に用いたテキストは、一九五九年版のものであった。イエイツは出来上がっている作品に筆を加えることが多く、校訂の異同を示す「ヴェリオラム・テキスト」が、ジャンル別に出ていることはよく知られている。この『ケルトの薄明』は、イエイツの単なる創作ではなく、また民話・伝説の収集記録でもなく、いわば自らの体験を通して、民間に伝承されている話に、イエイツ自身の考えや感想を交えながら、ケルトの持つ独特の想像力とその世界を示そうとした作品集であった。
しかしイエイツはこの本の文章にも多くの筆を加えており、あるものは数行から多い時には半ページに亘る新たな文をつけ加えている。それらの加筆された部分からは、批評家イエイツの眼を通した判断による、際立った物の見方や、特色ある表現や、情緒に対する貴重な指摘をした記述が窺える。たとえば次ぎのような一節がある。「そうした詩には、葦間を吹く風のような生の音楽があり、ケルトの哀しみの内なる声というか、いままで人々が見たこともない無限のものへのケルトの憧れ、といったものが歌われているようだった」(「幻を見る人」)。また各作品の後に、イエイツの筆による短いが重要な注や、制作年代が付せられていることも、この一九九〇年版の特色である。したがって今回訳出した『ケルトの薄明』(ちくま文庫)は、前出の訳本とは独立したものと見做すことができようし、さらに全訳になっている。
イエイツは『ケルト妖精物語』『ケルト幻想物語』(井村君江訳、ちくま文庫、原題は Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry. 1888 : Irish Fairy Tales. 1892)にクロフトン・クローカーやダグラス・ハイドらが収集、再話した六十八篇、詩十三篇を編纂しまとめており、これに『ケルトの薄明』の四十の話と三つの詩が加わるわけであるが、これらの約百余りの作品は、共通した一つの世界を形成している。前者の序文で彼は、アイルランドのフォークロアの採集者たちの長所が、「集めた話を学問と言うより、文学に仕立てていること」「人類の太古の宗教とか、民族学者が探し求めている事柄よりも、アイルランドの農民について語っている」ことにある、と言っており、イエイツ自身も網を乾かす漁夫や、パイプをくゆらす農民たちから直接に話を聞いたことを記している。さらに彼は「わたしの知る限りで最も注目に値し、かつ最も典型的でもある|話の語り手《ストーリー・テラー》は、B――村に、雨漏りのする一部屋だけの小屋に住んでいる、パディ・フリンという小柄で明るい目の老人である」と書いており、実際にこの老人から聞いたバンシーやスピリット、幽霊などの話を記しているが、これは前者には収録されていない。それをイエイツはまさに本書の冒頭に、その題も「話の語り手」として、バリソディアに住むこの老人パディ・フリンが語った話をそのまま収録することから始めている。この事からも窺えるように、当時の著名な採話者クローカー、ハイド、ケネディ、カールトンらの再話作品を編纂していた当時のイエイツ自身、すでに民間伝承の採集作業に着手していたことが判る。その流れの中でイエイツが自らの筆でまとめたのが本書『ケルトの薄明』であった。
イエイツが生まれ、幼年期を過ごしたスライゴーにそびえるベン・バルペンの山裾や、ロセス岬、ドラムクリフの藁葺き屋根の下に暮らす素朴な人々の間に語り伝えられた目に見えぬ生き物たちの物語を集めたこの本は、出版されるとアイルランドの人々に郷土や自然に対する愛を目覚めさせ、それが次第に国民にケルト民族としての信念と誇りを与えてゆき、やがてはアイルランド文芸復興運動へと高まっていった。民間伝承の妖精物語が、人々の民族意識を強め、自分の土地への愛から国家への愛へと高揚させていったのである。
『ケルトの薄明』が出版されてちょうど百年たった今日、我が国でこの書の完訳を出すことは非常に意義のあることと思える。日本のいくつかの地方で、まさにこうしたイエイツの意図を汲んだかのように、妖精が人々に土地と自然へ愛着を覚えさせ、そこに「妖精の里」や「エルフィン・タウン」を構想させている現今である。物質生活が豊かになり、科学が発達しても、かえって人々の心は目に見えぬ超自然の世界へと志向しているようである。このことはとりもなおさず民族の遺産である、神話・伝説・民間伝承などのなかに、自分たちの根を求め、アイデンティティーを探すことなのである。イエイツのこの『ケルトの薄明』に登場する妖精たちは、ただ単なる想像の産物ではなく、自分の土地を愛する太初から今日に至る人々の「幾世紀にもわたって続けていく、何の変哲もない一定の暮らしの中のすべての出来事、誕生、愛、苦しみ、死」を貫いて、連綿として続く祖先の息吹きを象徴している。
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「ケルト民族はやさしく夢をおのれにあてがい、薄明に妖精の歌を聞きつつ、魂や、死んでしまったものたちを、しみじみと考える。ここにはケルト民族がいる。ただ夢みているケルト民族ではあるが……」
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[#地付き](イエイツ『ケルト妖精物語』より)
[#地付き]井村君江
ウィリアム・バトラー・イエイツ(William Butler Yeats)
一八六五−一九三九 アイルランドのスライゴーに生まれ、ロンドンで活躍し、パリで死ぬ。詩人・劇作家・思想家。アイルランド民間伝承復興運動の中心者。詩集『葦間の風』、戯曲『鷹の井戸にて』などがある。
井村君江(いむら・きみえ)
東京大学大学院比較文学博士課程修了。明星大学教授。イギリス、アイルランド・フォークロア学会会員。著書に『ケルトの神話』(筑摩書房)『妖精―不思議世界の住人たち』(河出絵はがき文庫)訳書に『ケルト妖精物語』(ちくま文庫)など。
本作品は一九九三年一二月、ちくま文庫として刊行された。