ケルト妖精物語
W・Bイエイツ編/井村君江編訳
目 次
序文 W・Bイエイツ
群れをなす|妖精《フエアリー》たち
妖精
フランク・マーティンと妖精たち
司祭の晩餐
ラグナネイの|妖精の泉《フエアリー・ウエル》
タイグ・オケインと死体
パディー・コーコランの女房
クシーン・ルー
白い鱒――コングの伝説
|妖精の茨《フエアリー・ソーン》
ノックグラフトンの伝説
ドニゴール地方の妖精
|取り替え子《チエンジリング》
卵の殻の醸造
妖精の乳母
ジェミー・フリールと若い娘――ドニゴールの物語
盗まれた子供
メロウ
魂の籠
フローリイ・キャンティロンの葬式
ひとり暮らしの妖精たち
レプラホーン 妖精の靴屋
主人と家来
ドニゴールのファー・ジャルグ
プーカ族
笛吹きとプーカ
ダニエル・オルールク
キルディア・プーカ
バンシー
トーマス・コノリーがバンシーに会ったいきさつ
嘆きの歌
地と水の妖精たち
妖精の踊り場
糸紡ぎの競争相手
幼い笛吹き
妖精の魔法
リー河のタイグ
妖精のグレイハウンド犬
ゴルラスの婦人
付録[#「付録」はゴシック体] アイルランドの|妖精《フエアリー》の分類 W・B・イエイツ
編者解説[#「編者解説」はゴシック体] アイルランドの|物語の語り手《ストーリー・テラー》 W・B・イエイツ
訳者あとがき[#「訳者あとがき」はゴシック体]
文庫版訳者あとがき[#「文庫版訳者あとがき」はゴシック体] ケルト妖精物語
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序文
[#地付き]W・B・イエイツ
オックスフォードとノリッジの司教であったコーベット博士は、イギリスの妖精たちが消え失せてしまったことを、かつて嘆いていた。「メリー女王の時代には」と書いている――
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「トムが仕事を終わって帰り、
シスも乳搾りに出かければ、
さて、小太鼓は楽しくひびき、
妖精の足は陽気に踊る」
[#ここで字下げ終わり]
しかしいまやジェイムズ王の時代になると、妖精たちはみんないなくなってしまった。というのは、「その役割りが古くなったため」と「歌がみなアヴェ・マリア」になってしまったからである。アイルランドでは妖精たちはいまだに生き残っていて、心やさしい者たちには恩恵を与え、また、気むずかし屋たちを苦しめている。「今までに|妖精《フエアリー》とか、何かそういったものを見たことがありますか」とわたしはスライゴー地方の老人に尋ねてみた。「奴らには困ったもんだよ」という答えが返ってきた。「このあたりの漁師たちは、人魚を知っていましょうか?」と、わたしはダブリン地方のある村で、一人の女に尋ねてみた。「ほんとのところ、漁師たちは、メロウに会うのを好んではいないんですよ」と彼女は答えた、「なぜってメロウが現われると、いつでも天気が悪くなるんですからね」「ここにいる男は|幽霊《ゴースト》がいると信じているんだ」と外国船の船長は、わたしの知り合いの水先案内人を指さしながら言った。「このあたりでは、どんな家にも」と水先案内人は自分の生まれたロセッスの村を指さして言った、「二つや三つはいるもんですよ」。たしかに、いま古い多くの人々から崇められる独断家の『時代精神』というものが、この辺りではまるで幅をきかせてはいない。ほんのしばらくの間、現われては消える最近のこの時代精神というものが、穏当にも墓に葬られると、それに代わって別の、古い多くの人々に崇められた時代精神が現われてくるが、それとてこの辺りに入り込んでくることは決してあるまい。そのあとにまた他の、そしてまた他のと、いくつもの時代精神が変転して現われようと、ことは同じである。こうした時代精神のどれかが新聞社の事務室や教室や居間や、都会の居酒屋やそれ以外のところで話題にのぼるものかどうか、あるいはそもそも『時代精神』というものは、いつの時代でも泡のようなものではなかったかどうか、こうしたことについては確かに疑問の余地はある。ともかく、こうした時代精神のたぐいが束になってかかっても、ケルト民族を大して変えるようなことはあるまい。ジラルダス・キャンブレンシスは、西の島の民族たちを、取るに足らない異教徒だと思っていた。「神は何人いるんですか?」と、少し以前にある司祭が、イニスター島から来た男に尋ねた、「イニスターには一人だけだよ、広いところなのに、と思うだろうがね」と男は言い、そして司祭は、ジラルダスがちょうど七世紀前にしたように、神への恐れに両腕を差し上げた。言っておくが、わたしはこの男を責めているのではない。たくさんの神を信じるということは、ぜんぜん信じなかったり、神はただ一人だと思うことより、ずっとはるかにいいことである。ただ、この男はいささか感傷家で頑固で、十九世紀向きでないということだ。ケルト民族は、その|巨石群《グロムレツク》や石柱ともども、それほど変わるものではない。まったくの話、いつになっても、誰一人として変わりはしないとさえ思われる。多くの人々が声を大にして反対を唱えようとも、また賢い人々や教授連が何と言おうとも、大部分の者たちは今でも、十三人で食事のテーブルについたり、塩を人に取ってもらったり、梯子の下を歩いたり、かささぎがたった一羽その格子縞の尾を振り動かすのを見たりするのを、忌み嫌う。もちろん、こうしたことをぜんぜん意に介さない、開化された子供たちというものはいる。が、たとえ新聞記者といえども、もし真夜中に墓場に誘い出されたなら、|妖怪変化《フアントム》の存在を信じるだろう。というのは、どんな人間でも、もし人の心の奥に深い傷跡を残すような目に会えば、みんな|幻視家《ヴイジヨナリー》になるからだ。しかし、ケルト民族は、心に何の傷を受けるまでもなく、|幻視家《ヴイジヨナリー》なのである。
たしかに、注意してほしいのだが、西部地方の村を訪れたからといって、見ず知らずの者が|幽霊《ゴースト》や妖精の伝説を聞かせてもらうのは、なかなか容易なことではない。してもらうには気をつけて上手にふるまって、子供たちや年寄りと友だちになることである。子供や年寄りならまだ日が高いということを気にかけないし、年寄りはそんな気づかいを次第にしなくなるか、あるいはほどなく日の光を見ることが無くなってしまうからである。年老いた女が一番の物知りだが、話してもらうのはそうたやすいことではない。というのも、妖精たちは非常に秘密を重んじ、自分たちのことが話されるのをひどく憤慨するからである。危うく墓の中に引き込まれそうになったり、妖精が送った風の一吹きで五感が麻痺してしまった老女の話が、たくさん知られているではないか。
海辺では、人々が網を乾したり、パイプに火をつけているような時など、物語を知っている幾人かの老人たちは多弁になり、ボートのきしむ音にあわせて物語を語り聞かせてくれる。聖なる祝日の前夜もまた、逃し難い機会であって、かつては|徹夜《ウエイク》祭でもたくさんの物語が語られたものだった。しかし、司祭がこうした|徹夜《ウエイク》祭の習慣を止めさせてしまったのである。
『アイルランド地方誌』の中で、物語の話し手たちが夜、一堂に会したおりおりの様子や、もし誰かが他の人たちと異なった話の型を知っているときには、皆はそれぞれ自分の話を暗誦して聞かせ、それから意見を出し合って話を一つに統一し、それと違った話を知っている者も、その決定に従わなければならなかった、ということが記録されている。こうして物語は、たとえば長い『ジャドラ』の話に見られるような正確さをもって、王立ダブリン学会にある古い手稿そのものとほとんど一語一語同じままに、この世紀の初頭まで語りつがれてきたのである。手稿が変えられた唯一の場合があるが、それは手稿のほうが明らかに間違っていたのである――ある一節が写筆者によって書き落とされていたのだ。しかしながら、こうした正確さは、妖精伝承物語よりは、むしろ民話や吟遊詩人の物語によく見られる。というのは、妖精伝承物語のほうはふつう近在の村々にある伝説や、一地方に知れ渡った妖精の出現の話などに応じて、いろいろに変えられているからだ。どの地方にも妖精たちから恩恵や害を受けていると思われている家族や人物がいる。たとえばハケット城に住み、祖先は妖精だとされるゴルウェイのハケット家。あるいはスライゴーのリサデル家にいたジョン・オ・ダーリィなどがそうであり、彼は、スコットランド人が剽窃して『ロビン・アデーア』と呼び、また、ヘンデルが自分の|聖譚曲《オラトリオ》のどれよりも、その作曲をしたかった歌、『アイリーン・アルーン』や『ケリーのオドノフー』などを書いた。物語は、自然にこうした人々にまつわるものになってゆき、時にはそのために、以前の主人公たちの影がうすくなることもあった。とくに詩人たちをめぐって物語は集められていった。というのはアイルランドでは、詩は不思議な仕方でつねに魔法と結びついていたからである。
こうした民間の伝承物語は純朴さと音楽性に富んでいる。というのは、それらが、決まっている一定の暮らしの中ですべての出来事、誕生、愛、苦しみ、そして死などが幾世紀にもわたって何の変哲もなく起こりつづけてゆく階層にある人たちの文学だからである。人々はこうしたあらゆることを心に深く刻み込み、またそうした人たちにとってはあらゆることが|象徴《シンボル》であった。彼らは人間が太初から力をこめて地を掘った「踏みぐわ」を持っている。都会の人間には、無味乾燥で|成り上がり《パルヴニユ》の機械があるばかりだ。農民たちにあまり事件は起こらない。炉のそばに坐って、長い生涯にあったことを思い返すことができるのだ。わたしたちにあっては、一つの意味を持つようになるまで何も待ってはくれないし、度量の広い心の持ち主でもなお、一つ一つしっかりと受けとめるには、あまりにもたくさんの事が起こりつづけている。世界で最も雄弁な民族は、素肌の砂漠の地平と、太陽が余計なものをすべて追いやった空しか知らないアラブ人であると言われている。「知恵は、三つのものに宿っている」と諺に言う、「中国人の手と、フランク人の頭脳と、アラブ人の舌に」。思うに、これこそが、近頃しきりにあらゆる詩人たちが求めているあの素朴さの内実であり、いかなる値段を払っても手に入らないものである。
わたしの知る限りで最も注目に値し、かつ最も典型的でもある|話の語り手《ストーリー・テラー》は、B――村に、雨漏りのする一部屋だけの小屋をかまえて住んでいるパディ・フリンという、小柄で明るい目をした老人である。「スライゴー地方じゅうで一番ものやさしい――すなわち、妖精のいる――場所」と彼はB――村のことを言う。もっとも他の人々は、この栄誉をドラマヘアーかドラマクリッフに与えたいと言い張るかもしれないが……。信心深さの点においても、ひとかたならぬ老人だった! もしたまたま敬虔な気持でいる時なら、老人が神がかりめいたふるまいに及ぶまでしばらくの間、その風変りな姿やほつれた髪をじっくりと見ることが出来るだろう。不思議な献身である! コラムキルの古い物語で、まず老人が自分の母親に言うことはこんなふうである。「おかあさん、今日はごきげんいかがです?」「悪いね!」「明日はもっと悪くなりますように」。そして次の日には、「おかあさん、今日はごきげんいかがです?」「悪いね!」「明日はもっと悪くなりますように」。さらにその翌日、「おかあさん、今日はごきげんいかがです?」「いくらかいいよ、神様のおかげさ」「明日はもっとよくなりますように」。こうした無責任な話し方のうちに、老人はコラムキルの身にしみついた陽気さを語るのだ。そうしてから自分のお気に入りの主題にふらりと入ってゆく――判事がどんなふうに、報いられた善良な人々と、容赦のない火刑を宣告された敗訴者とにひとしく微笑を向けたかを、である。パディ・フリンにとっては、判事のこうした憂いを含んだ言外に何かを示す陽気さが、とても心地よいものに思えるものらしい。それに彼自身の陽気さも、きわめてはっきりと見てとれるが、どうやらそれは世間一般のものではないらしい。わたしが最初に会ったとき、この老人はただ一人きのこ料理を作っていた。その次のときには、生け垣のもとに横たわって眠りながら微笑んでいた。ひどく年老いたパディ・フリンのたくさんの皺にかこまれたあの目――兎の目のように素早く動く眼――の中には、たしかに何かこの堅固な地上世界に属するとも思われない喜びが輝いていた。彼の目が示している陽気さのただ中にある憂愁――それはほとんどその喜びの一部分をなす憂愁であり、純粋に本能的な性質の、すべての動物に見られる夢みるような憂愁である。老年に至ってどの世代にも縁者はなく、そのうえ常人ではないし、いくらか耳も遠いので、出向く先々で子供たちにいじめられた。
この老人の語る妖精や霊を見る力の確かさについては、そのすべてに同意するわけにはいかない。或る日、わたしたちはバンシーのことを話していた。「わしは見たことがあるよ」と、彼は言った。「あそこのみぎわでな、手で川の水をはねかしておった」。この老人が、妖精たちに悩まされていると言った、その人である。
これら西方の村々においても、無信仰の人々がまったくいないわけではない。わたしは或る朝、そんな男が畑で穀物をハンカチで束ねているのを見たことがある。パディ・フリンとはまるで違い、その顔の皺すべての上に無信仰を露わにしており、それに流れ者でもあった。その証拠に、一尺ばかりのモホーク・インディアンのいれずみを片腕に刻みつけていた。「流れてゆくものたちは」と近在の司祭は首を大きく振りながら言い、そしてトマス・アケンムピスを引きながら続けた。「神聖なものに近づくことはまずないものです」。わたしはさきの無信仰者に、|幽霊《ゴースト》の話をして見た。「幽霊だって」と男は言った。「そんなものはぜんぜんいやしないよ、でも、神がかりのほうは、まあ、理屈に合っている。というのは、|悪魔《デヴイル》のやつが天国から落ちたとき、やつは弱い心の者たちを連れ出して、そいつらを荒れ野に置き去りにしたのさ。で、そいつらが神がかりの連中だ。だが、今じゃそいつらはだんだん減ってきているんだ、なぜってそいつらが幅をきかせた時代は、ねえ、もう終わっちまって、やつら、もといたところに帰っていっているんだからな。だが、幽霊なんてのは、いないんだ。それにおれが信じていないものをもっと言えば、そいつは――地獄の火だよ」。それから声を低めると、「そんなものは、牧師や説教師の暇つぶしのためにでっちあげたものにすぎないんだ」。そう言ってからすぐにこの男は、何もかも知っているといった顔つきで、穀物を束ねる仕事に戻っていった。
アイルランドの|民間伝承《フオーク・ローア》のさまざまな採集者たちは、わたしたちの眼から見れば一つの大きな長所を持っているが、他の人たちにすれば、それはまた大きな短所でもある。採集者たちは自分たちの仕事を、学問というよりは文学に仕立てており、人類の太古の宗教とか、民俗学者が探し求めている多くの事柄よりも、アイルランドの農民についてわたしたちに語っている。学者と見られるためには、採集した物語を雑貨屋の勘定書きのような一覧表にまとめなければならなかった――妖精の王の項、女王の項という具合に……。こんなことをする代わりに、採集者たちはまさに民衆の声そのもの、生命の脈動そのものを捉え、そして捉えられたものはみな、その時代で最も注目すべきものを表現している。クローカーとラヴァーはそそっかしいアイルランド的な気取りを、思いつきの中にほとばしらせ、ものごとすべてをユーモアを持って眺めた。彼らの時代、アイルランド文学を興してゆく力は――おもに政治的な理由によってだが――大衆をあまり重んじようとはせず、自分の国を|諧謔家《ユーモリスト》のアルカディアだと空想するような階層のうちから生まれてきた。大衆の情熱、その憂鬱、その悲劇については彼らは何も知らなかったのだ。とはいえ、彼らのしたことが全部いつわりだったというのではない。彼らは船頭や御者や郷士の召使いたちのうちに最も頻繁に見られるあの典型を、それに値しないにもかかわらず国民全体の典型にまで拡大し、そうして芝居に登場するようなアイルランド人を作りあげたのである。一八四八年生まれの作家たちは、飢饉の体験もあいまって、自分の内にあったものをいっせいに吐露した。彼らの仕事には、先行する怠惰な階層の浅薄さと同様に、激しく鋭いものがある。クローカーにあっては、至るところに美がひらめいている、――それは上品なギリシャ的な美である。農民の出であるカールトンになると、その数多くの物語の中で――わたしはほんの小品ていどのものを二つ三つ収録することしか出来ないが、――そしてとりわけその|幽霊譚《ゴースト・ストーリー》の中で、ユーモアのある一方でひどく深刻な語り口を用いている。ダブリンの年老いた本屋であったケネディは、どうやら何らかの仕方で真底妖精を信じていたらしいのだが、やがて前の二人に続くことになる。彼は、文学的才能という点でははるかに劣るが、しばしば物語を語られた言葉のとおりに記述するほどの、驚くべき正確さの持ち主だった。だが、クローカー以後の最良の書物は、ワイルド夫人の『アイルランドの昔話集』である。ユーモアはすべて|悲哀《ペイソス》と情感とに道を譲った。ここにおいて、わたしたちは、何年にも及ぶ迫害を通して、愛を知るようにまでなったケルト民族の、最も内奥の心を見るのだ。その時、ケルト民族はやさしく夢をおのれにあてがい、薄明に妖精の歌を聞きつつ、魂や、死んでしまったものたちのことをしみじみと考えるのである。ここにはケルト民族がいる。ただ夢みているケルト民族ではあるが……。
これらの人たちのほかに、その著書は刊行されてはいないが、二人の重要な作家がいる、――レティシィア・マクリントック嬢とダグラス・ハイド氏とである。マクリントック嬢は半ばスコットランド方言がかったアルスター地方のことばを、正確にそして美しく書きとめている。ダグラス・ハイド氏はゲール語の民間説話を集めた書物を準備中であり、その中のほとんどすべては、ロスコモンとゴルウェイのゲール語話者から逐語的に書きとられたものである。彼は、おそらくどの作家よりも信頼に値する。彼以外の人々はアイルランド人の一面を見ているのだが、彼はそのすべての要素をわきまえている。彼の作品はユーモアに富んでいるというわけでも、もの悲しいというわけでもない。それはまったく人生そのものなのである。わたしは彼が自分の集めた話のいくつかを|歌謡《バラツド》の形にしてくれることを望んでいる。というのは、彼はわたしたちの時代にあって、ワァルシュとカラナン――その作品からは|泥炭《ターフ》の煙が香る人たち――の流れをくむ歌謡作者たちの最後の一人だからである。このことは|呼び売り本《チヤプ・ブツク》に注意を向けるようにわたしたちを促す。それらは|泥炭《ターフ》の煙に茶色くなって小屋の棚の上に置かれており、呼び売り屋がみんな手ずから売りはするのだが、このサセナッハ市の図書館では見つけることが出来ぬものだ。『王国妖精譚』『アイルランドの物語集』『妖精伝説集』などは民衆の妖精文学である。
わが国の妖精詩については、いくつかの作例がある。そうした詩は、イングランドのものよりも、スコットランドの妖精詩に類似している。イングランドの妖精文学に現われる登場人物たちは、多くの場合、単に美しく仮装した人間であるにすぎない。誰もそんな妖精を信仰したりなぞしない。それは|南仏《プロヴアンス》から吹き流されたロマン的な泡である。誰も妖精のために自分の家の玄関に、新しい牛乳を出して置いたりはしない。
この本の中でわたし自身が筆をとった部分について言えば、そこでは紙数の許す限り、アイルランドにおけるあらゆる種類の|民間信仰《フオーク・フエイス》を一望のもとに見渡せるように努力した。読者はたぶん、わたしが注解の中のどこでも、ホブゴブリンをただの一回も説明していないのを、不思議に思われることだろう。それについては、わたしはソクラテスの次のことばを援用したいのである。
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パイロドス[#「パイロドス」はゴシック体] 教えていただきたいのですが。ソクラテス、このあたりが、ボレアースがイーリッソス河の岸辺から、オリイシアを|攫《さら》っていったと言われている場所なのでしょうか?
ソクラテス[#「ソクラテス」はゴシック体] 言い伝えによればそうだ。
パイロドス[#「パイロドス」はゴシック体] で、ここがまさしくその場所なのでしょうか? 小さな流れは楽しげに明るく澄みわたっています。乙女たちがこの近くで遊びたわむれているような気がしてきます。
ソクラテス[#「ソクラテス」はゴシック体] ちょうどここがその場所というわけではないのだ。しかし、四分の一マイルほど下流に下ると、アルテミスの神殿に行き着くのだが、そこには何かボレアースの祭壇に当たるようなものがあると思うが。
パイドロス[#「パイドロス」はゴシック体] ちょっと思い出せません。ですがソクラテス、お願いですから聞かせて下さい、あなたはこの話を信じておいでですか?
ソクラテス[#「ソクラテス」はゴシック体] 賢い人間というのは疑い深い。そこでわたしがもしそうした者たちのように疑うならだ、わたしは風変わりだと思われることもないであろう。こんなふうに言えば、わたしは理屈にあった説明をしたことになるのかもしれぬ。すなわち、オリイシアはファーマーシアと遊んでいた、と、そのとき、突如として吹き来たった北風が、彼女を近くの岩の上へ吹き上げ、彼女はそのために死んでしまったのだから、人々は彼女はボレアースに連れ去られてしまったと言ったのだ、と……。だが、場所については異なったことが伝えられているのだ。この物語の他の伝承によれば、彼女はここからではなく、アレオパゴスから連れ去られたことになっている。さて、これらの寓話がとても出来のいいものであるのを認めるのに、わたしはやぶさかではないが、これらを作り出したものを嫉んだりしてはならない。多くの労力と才知とが要求されるし、いったん話を作りはじめたなら、ケンタウロスやキマイラにそれら本来の恐ろしさを取り戻させるまでは、中途でやめるわけにはいかなかったのだ。ゴルゴーンや翼のある馬たちが急ぎ足で次々と現われ、それから思いもよらぬおぞましい、怪物たちが数限りなく続く。そこでもし彼がそれらのものに疑いを抱き、すすんでそれらを一つ一つ、現実での物事の起こり方の諸法則に当てはめようとするなら、この種の未熟な哲学は、その時代の人々すべての心を捉えることとなろう。ところで、わたしにはそんな質問にかかわりあっている時間はまったくないのだ。どうしてか言ってあげようか。わたしはまずわたし自身を知らねばならぬ、デルフォイの碑銘に言われているように。すなわち、自分自身についていまだ無知でありながら、自分のなすべきこと以外に好奇の目を向けるのは、愚劣となろうと。だからそれゆえに、わたしはそうしたことすべてから離れるのだ。広く行きわたっている見解だけでわたしには十分だ。というのは、先ほどから言っているように、わたしはそうしたことではなく、わたし自身を知りたいからだ。いったいわたしはタイホの蛇よりも混み入った出来をし、熱情に満ちた驚くべき人間であるのか、あるいはよりおだやかで単純な種類の生き物で、そして自然からより神聖なかつより謙虚な、運命を与えられているのだろうか?
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群れをなす|妖精《フエアリー》たち[#「群れをなす|妖精《フエアリー》たち」はゴシック体]
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妖精のことをアイルランド語で〈シーオーグ〉(sheehogue〔sidhe..〕) というが、これは〈バンシー〉(banshee) の「シー」という指小接尾語から派生した言葉である。妖精たちのことは〈ディネ・シー〉(deenee shee〔daoine sidhe〕) という。
妖精とは、いったいどういうものであろうか? 「救われるほど良くもないが、救われぬほど悪くもない堕天使」と農民たちは言い、「地上の神々」と『アーマーの書』にはある。「異教の国アイルランドの神々のトゥアハ・デ・ダナーン(Tuatha De Danan 女神ダーナの巨人神族)のことで、もはや崇拝もされず、供物も捧げられなくなると、人々の頭のなかで次第に小さくなっていって、今では身の丈がわずか二、三十センチほどになってしまったのだ」とアイルランドの好古家たちは言っている。
その証拠に、と彼らは言うだろう。その証拠に妖精の|長《おさ》たちの名前は、古いダーナ巨人神族の英雄たちの名前になっているし、彼らがとくに集まってくる場所はダーナ巨人神族の墓地であり、また、トゥアハ・デ・ダナーンは〈スルゥア・シー〉(slooa-shee〔sheagh sidhe〕妖精の群れ)とも、〈マクラ・シー〉(Marcra shee 妖精の行列)とも呼ばれている、と。
しかし一方では、彼らが堕天使であるという証拠もたくさんある。この生き物の性質をよく見てみると、彼らは気まぐれで、善人には善をもって報いるが、悪人には悪をもって報い、ひじょうに魅力的であるが、ただ良心――節操がない。また、とても怒りっぽいので、あまり妖精たちのことを語ってはならないし、「|紳士《ジエントリー》たち」とか、「|良い人《グツド・ピープル》たち」を意味する〈ディナ・マッハ〉という呼び名以外は口にしてはいけない。しかし一方では、すぐにおだてに乗るので、夜、窓の敷居のところに少しばかりのミルクを置いてやれば、一生懸命に不幸からその人を守ってくれる。民間信仰によれば、概して、妖精たちは、天から堕ちはしたけれど、その悪戯にはまったく悪意がないので、地獄には堕ちなかったのだと言われている。
妖精は「地上の神々」なのであろうか? あるいはそうかも知れない。いつの時代でもどこの国でも、多くの詩人たち、それに神秘家や玄秘学の学者たちはみな、目に見えるものの背後には、意識を持った生き物たちが鎖のように連なっている、とはっきり言っている。この生き物は天上のものではなく、地上のもので固有の姿というものを持たず、自分の気分とか見る者の心次第で姿を変える、というのである。人が手を上げれば、必ずこの隠れたものに影響を与えたり、その影響を受けたりする。目に見える世界はそうした生き者たちの表皮でしかない。私たちは夢のなかで妖精たちと交わり、戯れ、そして戦う。この気まぐれ者たちは、おそらくは混沌の領域の中に投げ込まれている人間の魂なのであろう。
妖精たちを小さいものとばかり思ってはいけない。何をしても気まぐれであるから、背丈すらも気分次第、自分の好きなように背丈や姿を変えるらしい。妖精の主な仕事といえば、ご馳走を食べたり、|戦《いくさ》をしたり、恋をしたり、世にも美しい音楽を奏でることである。仲間うちの働き者はたった一人、靴屋のレプラホーンしかいない(日本では従来レプラコーンという英語読みで親しまれている。訳者注)。たぶん、妖精たちはよく踊るので、靴をはきつぶしてしまうのであろう。バリソディアという村のはずれに、妖精たちと七年のあいだ暮らした|小女《こおんな》がいたが、家に戻ってきたときには、足の指が一本もなかった。踊りすぎて指が磨りへってしまったのである。
妖精たちには年に三度の大きな祭りがある。五月の宵祭りと盛夏の宵祭りと十一月の宵祭りとである。七年ごとの五月の宵祭りは収穫の争いであり、穀物のうちの最も出来の好い穂をめぐって、至るところで戦いがくり展げられる。至るところといってもほとんどは|美しい草原《プレイ・ナ・ボーン》(どこでも良いのだが)で行なわれる。妖精たちの争いを見たことがあるという老人が私に語ってくれたことによると、妖精たちは戦いの真最中に、或る家の藁ぶき屋根をもぎ取ってしまったそうである。誰かがその側にいて見ていたとしても、ただ何もかも巻き上げながら吹き荒れる、大風としか見えなかったであろう。風が藁や木の葉を巻き上げながら通ってゆけば、それは妖精たちなので、農民たちは帽子を取って、「妖精たちに神の祝福を」と言う。
盛夏の宵祭りで、聖ヨハネのために丘という丘に篝火がともされると、妖精たちは心底から陽気になり、美しい人間を自分の花嫁にしようとこっそり連れ去ることもある。
十一月の宵祭りには、妖精たちはすっかりふさぎ込んでしまう。というのは、昔のゲール族の計算では、この夜が冬の初夜になるからである。この夜、妖精たちは幽霊といっしょに踊り、プーカが現われ、魔女どもは呪文を唱える。娘たちは、未来の恋人の生霊が窓からご馳走を食べにやってくるかもしれないので、悪魔の名を唱えて、食卓を用意する。十一月の宵祭りがすむと、木苺はもう毒になる。プーカが食べられなくしてしまうからである。
妖精たちは怒ると、人間や家畜を投げ槍で痺れさせる。
機嫌が良いと、妖精たちは歌をうたう。その歌を聴き、その歌声に恋い焦がれ、哀れにもやつれ果てて死んだ娘がたくさんいる。アイルランドには昔の美しい歌がいっぱいあるが、それはすべて、妖精の音楽を立ち聴きした人が残したものである。賢い農民は、決して妖精のいる|円型土砦《ラース》の側で、「|牛乳《ちち》搾る美しき娘」を口ずさんだりはしない。というのも、妖精たちは嫉妬深く、自分たちの歌を無格好な人間どもに歌ってほしくないのである。アイルランド最後の吟遊詩人カローランは|円型土砦《ラース》で寝たので、それ以後、いつも妖精の旋律が頭に響いていて、あのような偉い人になったのである。
妖精たちは死ぬことがあるだろうか? ブレイクは妖精の葬儀を見た。しかしアイルランドでは、妖精たちは不死であると言われている。
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妖精
[#地付き]ウィリアム・アリンガム
天に聳えるお山を登り、
|藺草《いぐさ》しげった谷間を下り、
狩には行くまい、
小人が恐い。
小ちゃなやつら、気の好いやつら、
緑の上着に赤帽子、
白い梟の羽毛つけて、
ぞろぞろ揃ってやってくる。
岩肌ごつごつ海辺へ下り、
そこがお|家《うち》の奴もいて、
黄色の泡のビスケット、
かりかり喰って暮らしてる。
黒いお山の湖の
ほとりにしげる葦の葉の
中に住んでるやつもいて、
番犬がわりの蛙たち、
やつらのために寝ずの番。
高い高い丘の上、
老いぼれ王さま坐ってる。
今じゃ|白髪《しらが》年とりすぎて、
何がなんだかわからない。
霧たつ白い橋わたり、
コラムキルの谷間を通り、
陛下の旅は厳かに、
シュリーヴァリーグからロセッスへ。
楽を奏してお出ましは、
冷たい星の|煌《きら》めく夜に、
北の光の女王さまと
楽しくお食事なさるため。
いとしい娘、ブリジット、
小人にさらわれ七年経って、
帰ってみれば友達おらず、
まだ夜も明けぬ明け方に、
あの|娘《こ》はこっそり戻されて、
ぐっすり眠ると思っていたが、
あの|娘《こ》は悲しみ死んでいた。
それからずっと小人らは、
湖のなかの奥ふかく、
菖蒲の葉っぱのベッドの上に、
目覚めを待って寝かせてる。
岩がごろごろ小山の崖や、
草木も生えてぬ沼地をめぐり、
あっちこっちと面白がって、
小人が植えた茨の木。
その木ほるような向こう見ず、
夜に寝てみるベッドの中は、
痛い痛い棘だらけ。
天に聳えるお山を登り、
|藺草《いぐさ》しげった谷間を下り、
狩には行くまい、
小人が恐い。
小ちゃなやつら、気の好いやつら、
緑の上着に赤帽子、
白い梟の羽毛つけて
ぞろぞろ揃ってやってくる。
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フランク・マーティンと妖精たち
[#地付き]ウィリアム・カールトン
マーティンは、わたしが会ったときには、痩せて顔色が悪く、生まれつきひ弱なのだろう、病気のように見えた。髪の毛は明るい|鳶《とび》色で、|顎髯《あごひげ》にはほとんど剃刀が当てられていなかった。手は異常なほど華奢で白かったが、それは病弱な身体のせいもあろうが、彼の仕事自体が楽なせいでもあったろう。マーティンは、ほかのことなら何でも他の人と同じように、考え深く、真面目で、理性的だった、が、こと妖精の話になると、この男の熱狂ぶりはたいへんなもので、手のつけようがなかった。実際、わたしは彼の目つきが異様に気狂いじみて空ろだったことや、細長いこめかみのあたりは皮膚の色も悪く、やつれていたことを覚えている。
さて、この男は生活に苦労していたわけでもないし、妖精に夢中になるという病気で、苦しんだり恐怖を感じたりしている様子もなかった。他人の目にはそうは映らなかったのだ。それどころかマーティンと妖精たちはとてもしっくりいっていて、双方のやりとりは――悲しいことに一方通行だったと思われるが――彼にとっては大きな喜びだったに違いない。というのは、少なくとも彼の側では、そのやりとりをしながら、大いに浮かれ笑っていたからである。
「ところで、フランク、おまえさんいつ妖精を見たんだい?」
「しっ、静かに。いま、この機織り工場にいるんだ、二十人ほどいるぜ。枠のてっぺんにはちっちゃな年寄りが坐っていらあ。おれが機を織るあいだ、みんなゆらゆら揺られようってんだ。やつらにゃまったく困るよ。ちょこちょこあばれまわって悪戯をやらかすんだからな。ほら見ろよ、あそこにいるぜ。脂糊*の桶のところにもいるぜ。あっちへ行け、この間ぬけめ、どうにでもなっちまえってんだ。よさないなら、ぶんなぐってやろうか、え! 行けよ、この|盗《ぬす》っ|人《と》め!」
「フランク、おまえさん、恐かねえのかい?」
「おれがか、へん、何で恐がらなきゃならねえんだ。このおれさまには、やつら何も手出しは出来ねえのさ」
「そりゃまたどうしてなんだ、え、フランク?」
「そりゃあなあ、おれが妖精除けの洗礼を受けてるからさ」
「そりゃ、どういうことだ?」
「だからさ、おれが洗礼を受ける時に、ちゃんとした妖精除けのお祈りをしてくれるように、親爺が司祭に頼んでくれたからさ。頼まれりゃ、司祭ってのは断わらねえからな。それでやってもらったのさ。いや本当にやっといてもらってよかったよ。――(|脂《あぶら》に触わるな、大食いの餓鬼め――見てみろよ、やつらちっこい|盗《ぬす》っ|人《と》が、おれの|脂《あぶら》を喰っているぜ)――やつらはおれを妖精の王様に仕立てようとしていやがったんだからな」
「そんなこと出来るのかい?」
「おれの言ったことには、これっぽっちの嘘もねえよ。なんならやつらに聞いてみな。そうすりゃ教えてくれるよ」
「やつら、どのくらいの大きさなんだ、フランク?」
「ああ、ひどくちっぽけなやつさ。緑色の上着を着て、おまえなんぞ見たこともねえような、きれいな靴穿いてな。ほれ、糸巻きのところを二人走っていやがるだろう、二人ともおれの古い馴染みさ。あのかつらを被った|爺《じじい》はジム・ジャムってんで、あの三角帽をつけたもうひとりのやつは、ニッキー・ニックってんだ。ニッキーは笛を吹くんだぜ。ニッキー、いっちょう吹いてくれ、やらねえとひどい目に会わすぜ。さあ、『エルヌ|湖《ロツホ》の岸辺』をやれ。しっ、さあ――聴きな」
この哀れな男は、四六時中、あらん限りの速さで機を織っていたが、それでも必死になって笛の音に耳を傾け、本当にその音が聴こえているかのように楽しそうに見えた。
だが、わたしたちの目の前に無いものが、実際に感じているものに比べて、より大きく強い幸福感の源でないなどと、誰がいったい言えるだろうか。名前は忘れたが、ある詩人はこう言っている。
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「不思議なるかな|汝《な》が掟、
幻は|現《うつつ》よりもなお麗し。
『空想』の描きし美しき景色を、
『自然』が描きたる|例《ためし》なし。」
[#ここで字下げ終わり]
ほんの六、七歳の子供だった頃、わたしは好奇心と恐ろしさにとまどいながらも、フランクが|妖精《グツド・ピープル》たちと話すのを聞こうとして、彼の機織り工場へ、幾度となく出かけたものだった。朝から晩まで彼の舌は、ちょうど|梭《ひ》のように、ひっきりなしに動きつづけていた。これは皆が良く知っていたことだが、夜中に目を醒ますと、この男は必ずまず手を突き出し、まるで妖精たちがいるかのように、ベッドから彼らを追い払うような仕草をするのだった。
「出て行きやがれ、この泥棒め――さあ、失せろ、おれを一人にしてくれ。ニッキー、何時だと思ってるんだ、笛なんか吹きやがって。おれは眠いんだぜ、さあ、出ていけ――吹くなら吹いてみろ、明日どうなるか見ていろよ。おれは新しい洋服を作るんだからな。行儀良くしてりゃ、壺の中のものは残しておいてやるよ。まんざらでもなかろう。おっと、可哀そうに、おとなしいやつらなのに。みんな行っちまったんだなあ、おや、赤帽子一人だけ残っている。やつめ、よほどおれと別れたくないんだなあ」。こうしてこの妖精偏執狂は、また無邪気に眠りこけていくようだった。
この頃、ひじょうに珍しい事件が起こり、それによってフランクは、近所の人たちに大へん重んぜられるようになったといわれている。このフランク・トマスという名の男には、ミッキー・ムローリーの家で初めて舞踏会を催した時に会ったことがある。この男には病気の子供があったが、今ではそれが何の病気だったかも、容態がどの程度だったかも覚えていない。それは大したことではない。このトマスの家の破風の一つは、タウニー、正しくはトーナ・フォースと呼ばれる|土砦《フオース》、すなわち|円型土砦《ラース》に向かい合って、というよりはむしろ、その中に入り込むようなかたちで建てられていた。その場所には妖精たちが現われると言われていたが、とりわけわたしの目に気味悪く映ったのは、その南側に二つ三つあった青々とした塚だった。この塚は洗礼を受けなかった子供たちの墓だと言われており、そこを越えていくのは危険で縁起の悪いことだとされていた。それはともあれ、季節は真夏だったが、夕暮れも近いある午後のこと、そのトマスの子供が病気で寝ていると、鋸の音が|円型土砦《ラース》から聞こえてきた。何かおかしいというわけで、しばらくしてから、フランク・トマスの家に集まっていた人々のうちの何人かが、あんな所で鋸を挽いているのはいったい誰か、こんなに遅くいったい何を切っているのかを見届けようと出かけていった。というのは、この地方一帯では、|円型土砦《ラース》の上に生えている白い茨の木を切り倒す者などいないということは、誰でも知っていたからである。ところが調べにいってみると、驚いたことには、その場所全体を残り隈なく捜してみても、鋸とか木挽の影すら見つからなかった。実際のところ、そこにいた人たち自身を除けば、自然界の生き物や超自然界の生き物はおろか、目に見えるものなど何ひとつ見当たらなかった。そこで皆は家に戻ったが、坐るか坐らぬうちに、また例の音が、十メートルと離れていない所から聞こえてきた。そこでもう一度、屋敷の中を調べてみたが同じことだった。ところが、今度は|円型土砦《ラース》に立ってみると、百五十メートルほど下にある小さな窪地から、鋸の音が聞こえてきた。窪地の中は何から何まで皆の目にさらされていたが、そこには人っ子ひとり見えなかった。ある連中は、もし出来ることなら、この不思議な音と目に見えない仕事が何を意味するのかを見定めようとして、すぐに下に降りていった。ところが、問題の場所に来てみると、鋸の音に、今度は槌の音や釘を打ち込む音が加わって、上の|円型土砦《ラース》から聞こえてくるし、また一方、|円型土砦《ラース》に立っていた人々には、相変わらず窪地の方からその音が聞こえていたのである。皆は相談をしてその結果、誰かにほんの七、八十メートルほど下ったところにあるビリー・ネルソンの家に行って、フランク・マーティンを連れてこさせることにした。フランクはすぐにやってきて、たちどころに謎を解いてしまった。
「妖精だよ」と彼は言った。「やつらが見えらあ、せわしいやつらだ」
「でもな、やつら何を切ってやがるんだ。え、フランク?」
「子供の棺桶を作ってんのさ」と彼は答えた。「もうお棺は出来上がっちまって、やつら、いま、蓋を釘で打ちつけてるところさ」
この夜、子供が死んだ。話では、次の晩、棺桶を作るために呼ばれた大工は、ベンチ代わりにテーブルをトマスの家から|円型土砦《ラース》に持ち出したそうである。そして、その仕事を仕上げるのにとうぜん聞こえてくる鋸や槌の音は、少なくとも前の晩の音とそっくり同じだったそうである。わたし自身、その子供が死んだことや棺桶が作られたことは覚えているが、例の超自然界の大工の話は、埋葬がすんで何カ月か経つまでは、村人たちから聞かれなかったように思う。
フランクはどう見ても憂鬱症にかかっているようだった。わたしが会ったときは、彼は三十四歳ぐらいだったが、体つきが弱々しかったことや、健康が衰えていたことから見て、そのうち何年も生きていたとは思われない。フランク・マーティンは、みんなのかなり強い関心や好奇心の的だった。わたしは人々がフランクを「『|妖精《グツド・ピープル》たち』を見ることが出来た男」と言って、ほかの地方からやって来た人に教えているところに、しばしば居合わせたことがあった。
[#2字下げ]* |脂糊《あぶらのり》――ドロドロしたかゆのような糊で、織糸に刷けで塗り、糸を丸く平らにし、また|梭《ひ》の摩擦で糸がすり切れるのを防ぐ。
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司祭の晩餐
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
こうした生き物のことをよく知っている人々によると、「|良い人《グツド・ピープル》たち」、すなわち妖精たちは、天から追われてこの地上に降り立った天使たちなのだが、他の天使たちは、もっと深い罪のために堕落して、更に悪い所にまで、はるかに堕ちていってしまったのだそうだ。そのとおりかもしれないが、それはともかくとして、九月も終りに近い月の明るい晩に、踊ったり、|巫山戯《ふざけ》たり、はしゃいだりして楽しんでいる妖精の群れがあった。この妖精たちの楽しみの舞台は、コーク地方の西、インチギーラからほど遠からぬ所にあった。そこは軍隊の兵営があったとはいえ、貧しい村だった。この村を取り囲んでいる大きい山々や、草木も生えない岩地をどこか別の所に持っていったとしたら、そこはどんな土地であれ、いっぺんに貧しくなってしまうだろう。しかし、妖精たちは欲しいものは何でも手に入れることが出来るので、貧しさはあまり問題にはならない。妖精たちは、誰にも楽しみを邪魔されないような、人里離れた隠れ場所を捜し出すことに、全神経を傾けているのだ。
川のほとりの鮮やかな緑の芝草の上で、この小さな仲間たちは輪になって、大浮かれで踊っていた。飛び跳ねるごとに、その赤い帽子は月の光にひかってゆらゆら揺れていた。妖精たちはとても軽やかに飛び跳ねるので、露の玉は足もとで震えていたのに、振り落とされはしなかった。こんなふうに妖精たちはぐるぐる回ったり、体をよじったり、ぴょこぴょこ頭を動かしたり、もぐり込んだり、ありとあらゆる格好をしてはしゃぎつづけていたが、そのとき、仲間のひとりがこう陽気に歌いだした。
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「止めろ、止めろ、太鼓を止めろ、
浮かれ騒ぎも、ここらが潮どき、
おいらの鼻が言っている、
坊主がこっちへやってくる!」
[#ここで字下げ終わり]
すると、妖精たちは皆一目散に逃げ出して、ラズモアの青葉の蔭に身を隠す者もいた。そこならば、赤い小さな帽子がちらちらと覗くようなことがあっても、ラズモアの真紅の鈴のように見えるというわけだ。石や茨の蔭に身を隠す者も大勢いたし、或る者は川の堤の下やいろいろな物の裂け目や穴に隠れる者もあった。
あの妖精の言ったことは間違っていなかった。というのは、川から見える道をホリガン様が仔馬に乗ってやってきたからだ。神父様は、だいぶ遅くなったので、小屋でもあれば、そこで今日は旅装を解こう、と考えていたところだった。そう心に決めていたので、神父様はデルモッド・リアリの家の前で立ち止まり、掛け金をはずして、「ここにいる皆の者に祝福を」と言って中に入った。
ホリガン神父がどこでも歓迎されたのは言うまでもない。この地方で神父ほど、敬虔で人望のある者はなかったからである。さて、デルモッドは馬鈴薯に何かを付け合わせて、心のこもった夕食を出したかったのだが、二十歳を出たばかりの女房、彼の呼び方でいえば「婆さん」が、鍋の中に煮込んであった馬鈴薯のほかには何もなかったので、大いに弱った。デルモッドは川に仕掛けておいた魚の網のことを思い浮かべたが、仕掛けてからわずかしか経っていないから、一匹もかかっていない可能性が強かった。「まあ好いだろう」とデルモッドは思った。「見に行ったからって、別に差し障りがあるわけじゃあるまい。神父様の夕食に魚がご入用なんだ。おれが行く前に、一匹ぐらいかかってても不思議じゃないさ」
デルモッドは川岸に下りていった。するとどうだろう、今までに見たこともないような見事な鮭が一匹、「広々としたリー河」の光り輝く水の中で跳ねていた。ところが、この鮭を取り出そうとかかったとき、網が反対の方向に引っぱられた。どうしたのか、誰がやったのか彼には分からなかったが、鮭は逃げ出し、まるで何事もなかったかのように、愉快そうに流れに乗って泳いで行ってしまった。
デルモッドは、鮭が川面に残した水跡を悲しげに眺めた。それは月の光のもとで一筋の銀の糸のように輝いていた。デルモッドは怒りに右手を震わせ、地団太を踏みながら、思っていることを口にした。「夜も昼も、どこへ行ったっておまえなんぞは恐ろしい災難に見舞われるってんだ、この悪党のペテン師野郎! 恥を知れ、恥を。あんな、どじを踏ませやがって。おれにははっきりと分かってんだ、おまえらなんかにろくなこたあねえ。悪魔みてえなやつらか何かに手伝ってもらったんだからな。本当に悪魔が自分で網を曳いたのかもしれねえな、あんなに強く引っぱりやがるなんて」
「そりゃ違うねえ」と、あの神父様が近づいてきたときに、一目散に逃げ出したちびの妖精たちの一人が、仲間を従えてデルモッド・リアリに近づきながらこう言った。「おれたちほんの二十人足らずで引っぱったのさ」
デルモッドは驚いて、自分に話しかけてきたこのちびの妖精をまじまじと見つめた。妖精は続けた。「神父様の夕食のことなんかぜんぜん気にしなくてもいいんだよ。あんたさえ、帰っておれたちの代わりに、あの神父様にひとつ聞いてもらえりゃ、いままでにお目にかかったこともないような豪華な夕食を、あっという間にテーブルの上に出してやるからね」
「おまえなんかにゃ、用はねえよ」。デルモッドはきっぱりと答えた。そしてしばらくしてから言い足して、「おまえさんがそう言ってくれるのはとても有難いんだが、たかが夕食ぐらいのことで、おまえみたいなやつに自分を売るほど、おれは馬鹿じゃねえ。それだけじゃねえよ、ホリガン神父様はおれの魂を大事に思って下すっているから、そいつをずっと質草に取られちまうなんてことは、お望みじゃねえ。おれは分かってるんだ、おまえらが、神父様に何を出したところでだ――だから、この話はやめだ」
妖精はデルモッドの態度にひるむことなく、しつこく続けた。「失礼な質問じゃないんだから、あの神父様にひとつ聞いてくれないかな?」
デルモッドはしばらくのあいだ考え込んだ。そうするのも当然だった。礼にかなった質問なら、誰にも迷惑などかかるまい、と彼は思ったのだ。「そうすることにゃ異存はねえよ、皆さん」とデルモッド。「そうするからって、おまえさんたちの用意してくれる夕食のためってわけじゃないからな――覚えておいてくれよ」
「じゃあ行ってホリガン神父に聞いてきてほしいんだ。おれたちの魂が、ちゃんとしたクリスチャンの魂みたいに、最後の審判の日に救われるのかどうかって。そして、もしおれたちのことを思ってくれるなら、すぐにその答えを持ってきてくれよね」と先程からしゃべっているちびの妖精が言った。そのあいだにほかの妖精たちが、あちこちからこのちびの妖精の後ろに集まってきた。
デルモッドが小屋に戻ってみると、例の馬鈴薯がテーブルの上に無造作に出されてあり、人の好い女房が、中でも一番大きいやつをホリガン神父に手渡していた。ほくほくして、皮がはち切れている真赤な林檎のようなやつで、霜の降りる寒い晩に乗り回された馬のように湯気を立てていた。
「まことに申しわけねえんでやすが」とデルモッドは少しためらってから言った。「失礼ながら、あなた様にひとつお伺いしてもよろしゅうございますですか」
「何かな」とホリガン神父。
「ぞんざいな口をきいて申しわけねえんですが、じゃあ申し上げます。例の『|妖精《グツド・ピープル》たち』の魂は、最後の審判の日に救われるかどうかってことなんですが、へえ」
「誰に言われて、そんなことを尋ねるのじゃ、リアリ」と神父はデルモッドを睨みつけながら言った。デルモッドは神父に見つめられていることにまったく耐えがたかった。
「この件についちゃ、あっしは嘘を申しません、本当のことだけを申します」とデルモッド、「お尋ねしてくれと言ったのは、他でもない『|妖精《グツド・ピープル》たち』自身なんでして、あっしがお返事を持って帰るのを、やつらは土手のところに大勢集まって待ってやがるんで」
「では、ぜひとも皆のところに戻って、言ってやりなさい」と神父は言った。「それが知りたければ、わしのところに自分で出かけてこいとな。そうすれば、先程の質問でも、他の質問でも、何なりと喜んで答えてやるとな」
そこで、デルモッドは妖精たちのところへ戻った。妖精たちは神父が何と答えたかを聞こうと、彼のまわりに集まってきた。デルモッドは、いつものとおり臆することなく、彼らに大声で話をした。彼らは自分で神父のところへ行かねばならないと聞くと、哀れなデルモッドの脇をさっとかすめて、四方八方に逃げ去った。妖精たちの数の多さと、その逃げ足の速さは大変なものだったので、デルモッドはまったく気が転倒してしまった。
ほどなくわれにかえって小屋に戻り、デルモッドはホリガン神父といっしょにポサポサした馬鈴薯だけを食べた。神父は妖精のことなど何とも思っていなかったのだが、デルモッドのほうは、あんなに簡単にことばで妖精を追い払う力を持ったお方に、夕食のおかずも出せなかったことや、網の中の素敵な鮭に、あんなふうに逃げられてしまったことは残念だった、と思わずにはいられなかった。
(画像省略)
[#改ページ]
ラグナネイの|妖精の泉《フエアリー・ウエル》
[#地付き]サミュエル・ファーガスン
悲しい弔いの歌うたってよ、心から――
「ああ、聴いてよエレン、可愛い妹、
わたしには涙ながして吐息する
それよりほかの救いはないの?
あの人は希望を奪って去ったのに、
なぜ思い出だけを残していった?
ああ、聴いてよエレン、可愛い妹、
(悼ましい葬いの歌うたってね、悼ましい)――
シュレミッヒの丘に行き、
妖精の|山査子《さんざし》摘んで、精たちを
思いのままに、自由にさせよう、
良いか悪いか知らないけれど、
いまだにわたしを悩ませる、
あの思い出を払うため。
(悲しい弔いの歌うたってよ、心から――)
妖精は、無口な種族、
蒼ざめて、見れば百合の花のよう
夢の国をさ迷うわたしは、蒼ざめた顔など気にしない、
追い払ってしまうのよ、思い出なんか――
アンナ・グレースがわたしのそばにいてくれたら!」
悲しい弔いの歌うたってよ、心から――
聴いてよ、わたしの悲しい話――
まだ明けそめぬベッドのなかで、
泣きつつ聴き入る妹エレンに、
声をひそめて、色白のウーナ、
たった一人の姉は言った。
そこで悲しく静かに答えるエレン――
「ああ、ウーナ、ウーナ、
(聴いてよ、わたしの悲しい話)――
聴けばわたしの悩みとなる
こんな忌わしいお嘆きから、
どうぞお願い、身を引いて、
すれば、お役に立ちます、出来るだけ。
――ラグナネイの|妖精の泉《フエアリー・ウエル》――
――近くに寄って、わたしこんなに震えてる、
ウーナ、わたしは賢い女が言うのを聴いた、
(聴いてよ、わたしの悲しい話)――
いまだ朝露おりぬ間に、
氷のような湧水に|真実《まこと》の乙女身をひたし、
清き手で|三度《みたび》胸を洗い、
|姫蕨《ひめわらび》をば三本摘んで、
泉のまわりを|三度《みたび》めぐれば、
乙女はたちまち涙と嘆きを忘れ果てる、と」
聴いてよ、わたしの悲しい話!
ああ、悲しいことか、何もかも!
「ああ、エレン、可愛い妹、
あなたと行くわ、あの丘へ、
恵みの術を試みに」
二人はそっと音もなく身を起こし、
母を残して旅立った、
目ざとい母の気づかぬうちに。
(ああ、悲しいことか、何もかも!)
そして程なく二人は着いた、|妖精の泉《フエアリー・ウエル》
それはもの淋しい高原に、大きく見開く山の目か、
|冴《さや》かに冷たく灰色に。
二人は佇む、どれほど時が経ったやら、
ついに夜の明けそめる頃、
色白のウーナはあらわす豊かな胸を。
(ああ、悲しいことか、何もかも!)
ふるえる胸に、あやしく溢れる
妖精の波、|三度《みたび》そそげば、
水はきらめき流れ落つ、
さて次は、魔力持つ三本の|蕨《わらび》を探し、
飾りの付いたスカートにそれを摘み入れ――
そのあとウーナは泉をめぐり、
わが|運命《さだめ》にと立ち向かう。
ああ、悲しいことか、何もかも!
妖精の呪いからわれらを救いたまえ!
水に映った姉の顔を、
エレンは目にした、二度、三度、
そして、それが最後――
泉も丘も乙女もみんな水のなか、
おぼろにおぼろに溶けあって!
「ウーナ! ウーナ!」と嘆きの妹、
(妖精の呪いからわれらを救いたまえ)
いくら呼んでも、色白の姉ウーナの手足、
二度と帰らぬ、もう二度と。
夢の世界の広間をば、
姉のウーナは歩みゆく、
この世の人の目に見えぬ!
ああ! こんなことがあろうとは、
楯より壁より堅い守りが破られる、
そんなことなど誰が知ろう、
ジュラッハ・ドーン以外には。
(妖精の呪いからわれらを救いたまえ!)
見よ、岸辺はあらわに青々として、
落ち込む穴などどこにも無い。
確かに――泉を隈なく見ても、
そこには滑る小石のほかは、
くるくる回る藁屑だけか。
急いで家へ、帰って祈れ、
妖精の呪いからわれらを救いたまえ、と。
[#改ページ]
タイグ・オケイン(タイグ・オ・カハーン)と死体
[#地付き](英文はダグラス・ハイドによるアイルランド語からの逐語訳)
昔、リトリム地方に、一人の若者がいたが、身体は強く快活で、ある豪農の息子だった。父親は大金持だったので、息子のために惜し気もなく金を使った。そういうわけでこの少年が成人したときには、仕事より遊びが好きになっていたが、ほかに子供がなかったので、父親はこの息子をたいそう可愛がり、したい放題のことをさせていた。この息子はたいへんな浪費家で、他の人なら銀貨を撒くところを、金貨をばら撒くという具合だった。自宅にいることなどめったになく、十マイル以内のところで、もし祭りとかレースとか集まりなどがあるとすれば、そこに行けば間違いなく彼を見つけられた。それに、父の家で夜を過ごすということもほとんどなく、いつも外をぶらぶらと歩きまわり、昔のショーン・ブイのように、
「シャツの胸のあたりには、すべての女の恋心」が入っていた。彼が接吻したり、されたりした女の数たるやたいへんなものだった。というのも、この息子はたいへんな男まえだったからだ。その両方の目でじっと見据えられると、この地方の娘で恋に陥ちぬものはなかった。そこで彼のことをこんな|唄《ラン》にしたものがあった――
[#ここから1字下げ]
「そら見ろよ、あの悪党を、接吻漁りにうろつき回り、
何の不思議もあるものか、それがあ奴のやり口さ。
老いぼれた針鼠のように、ここかしこ
夜ともなればぶらつき歩き、昼はぐうぐう寝て暮らす」
[#ここで字下げ終わり]
とうとう息子はひじょうにふしだらになり、手に負えなくなった。昼も夜も父の家に寄りつかず、ここかしこ、こっちの家からあっちの家へとほっつきまわり、|夜の訪問《ケイリー》に出かけたりしていた。そこで、老人たちは首を振りながらこう話しあった。「あの爺さんが死ねば、爺さんの土地がどうなるかってのは分かり切ったことだ。一年のうちに伜が食いつぶしちまうだろうし、その前に、土地の方で奴さんに我慢ならなくなるだろうよ」
その息子は、いつも賭博やトランプや酒に明け暮れていたが、父は息子のその悪い癖を気にもとめず叱りもしなかった。ところが或る日、息子が近所の娘を辱しめたという話が耳に入ると、老いた父はひじょうに怒った。そこで息子を呼びつけると、穏やかな思慮深い口調で言った――
「なあ、せがれや」と父、「おまえも知ってのとおり、わしは今までずい分とおまえを可愛がってきたし、おまえがすると決めたことなら、それが何であろうと、やめろと言わなかった。金は唸るほど渡していたし、わしが死んだら、家や土地、それにわしの持っているものは一切合財、おまえに残してやりたいと思っていたのに。だがな、今日、おまえのことを耳にして、愛想が尽きた。おまえのことで、あんな話を聞くなんて、わしがどれだけ悲しんだか、口じゃ言えないほどだ。こうなればはっきり言っておくが、あの娘を嫁にしなければ、家や土地や何もかも、甥にやってしまうからな。財産をとことん悪用して、おまえのように女を騙したり、娘を甘い言葉で釣ったりするようなやつには、誰だろうと遺産などやるわけにはいかん。さあ、あの娘と結婚して、二人でわしの土地を財産として貰い受けるか、それとも、結婚しないで、手に入れるはずだったものをぜんぶ諦めるか、どちらかに決めるがいい。どちらに決めたか、朝になったら返事を持って来なさい」
「ああ、|何てこった《ドムノ・ヒイリイ》! 父さん、おれにそんなこと言えないはずだよ、おれはご覧のとおり、こんなに良い息子なんだから。あの娘と結婚しないなんて、誰が父さんに言ったんだい?」と息子は言った。
しかし、父はもうそこにはいなかった。この若者は、父が決して自分の言葉を曲げたりしないこともよく知っていた。息子はひどく心配になった。というのは、父はもの静かでやさしい人だったが、一度口にしたことは必ず実行するし、この地方に彼ほど頑固な者はいなかったからである。
息子はいったいどうしたら良いか分からなかった。確かに彼はその娘に恋をしていたし、いずれは結婚したいと思ってはいたが、すぐまたこれまでどおりにこのまま酒を飲んだり、博奕を打ったり、トランプをしたりして面白おかしくやっていたいとも思った。それに、父が結婚を命令して、結婚しなければ威すだろうと思うと、彼は腹が立ってきた。
「親父はほんとに馬鹿じゃねえのかな」と息子はひとり言を言った。「おれはメアリーと結婚する覚悟も充分しているし、ぜひともしたいと思っているのに、威された今となっちゃ、何が何でもしばらくは、うっちゃっといてやるからな」
息子の心はあまりに昂ぶっていたので、どちらを選ぶべきか、まだ迷っていた。とうとう、彼は興奮を鎮めようとして夜の闇の中に出て、通りの方へと歩いていった。パイプに火を|点《つ》けると、気持のよい晩だったので、いつまでも歩きつづけた。そうするうちに、足早に歩いたので、心配事を忘れかけた。明るい、半月の夜だった。そよとの風もなく、静かで穏やかだった。三時間ほども歩いた頃、夜もだいぶ更けたし、帰らねばならないことに不意に気づいた。「何てこった。ぼうっとしていたらしいな。もう十二時近くに違いない」
この言葉が口から洩れるか洩れないうちに、大勢で話す声や足音が、息子の行手の方から聞こえてきた。「こんな夜更けに、こんな寂しい道に、いったい誰がいるのかな」と、彼はひとり言を言った。
立ち止まって耳をすますと、大勢の人たちががやがや話し合っているのが聞こえたが、何を言っているのかは分からない。「ああ、そうだ。アイルランド語でもないし、英語でもない。まさかフランス人じゃあるまいし」。二メートルほどさらに先へ進んでみると、小人たちがぞろぞろとこちらの方へやってくるのが、明るい月の光に照らされてはっきりと見えた。小人たちは何か大きくて重いものを運んでいた。「さあ、大変だ」と息子はひとり言を言った。「あそこにいるのは、まさか妖精どもじゃないだろうな」。髪の毛の一本一本が逆立ち、節々ががたがたと顫えた。小人たちが自分の方に向かって足早に近づいてきたのである。
もう一度息子は小人たちの方をよく見ると、その数は二十人ほどで、背丈が一メートル以上の者はひとりもいないようだったが、髪に白いものがまじった、たいそう年寄りらしい者もいた。もう一度目を|凝《こ》らして見たが、小人たちが運んでいる重そうなものが何かは、すぐそばに来るまで見当がつかなかった。やがて小人たちは息子を取り囲んだ。小人たちはその重いものを道に投げ出したが、一目でそれが死体であることが分かった。
息子は死神のように冷たくなった、白髪まじりの小人が近づいてきて、「おまえさんに会えるなんて、ついてるじゃあないか。タイグ・オケイン」と言ったときには、血管を流れる血が、みんな止まってしまったような感じがした。
哀れにもタイグは、世界をやると言われたとしても、一言でも口をきくことはおろか、口を開けることさえできず黙ったままだったろう。
「タイグ・オケイン」と白髪まじりの小人がまた言った、「うまい時に会ったとは思わないかい」
タイグは答えられなかった。
「タイグ・オケイン」と小人、「これで三度目だが、うまい時に会ったもんだ、ついてるとは思わないかね」
しかし、タイグは依然として黙ったままだった。言葉を返すのが恐ろしくて、舌はまるで上顎に縛りつけられたようになっていた。
白髪まじりの小人は仲間の方に向き直った。そのきらきらした小さな目には喜びがあふれていた。「おやおや」と例の小人、「タイグ・オケインは、一言も口をきけんのじゃな。奴さんをどうしようと、こちらの心次第というわけだ」「タイグ、なあ、タイグ」と続けて例の小人が言う。「おまえさんは乱れた生活を送っとるな。わしらはおまえさんを今すぐ奴隷にすることも出来るんだぜ。逆らおうったって、そりゃあ無理だ、無駄なこった。さあ、この死体を持ちな」
タイグは恐ろしさのあまり、やっと一言、「厭だ」と口に出したきりだった。恐ろしいことは恐ろしかったのだが、タイグは相も変わらず頑固で強情だった。
「タイグ・オケインは死体を持ちたくないってよ」と例の小人が、まるで|藁束《ロツク》とか乾燥した|小枝《キピン》を折るような、またひびの入った鈴のような意地の悪い小さな笑い声を立て、耳ざわりな声を低めて言った。「タイグ・オケインは死体を持ちたくないってよ――持たせろ」。この言葉が例の小人の口から洩れるか洩れぬうちに、小人たちは皆、哀れなタイグを取り巻いて、がやがやとしゃべり合ったり、笑い声をあげたりした。
タイグは逃げ出したが、小人たちは後を追ってきて、そのうちの一人は走る前に足を伸ばしたので、タイグはどっと道端に積んであるものの中に倒れ込んだ。そして、起き上がろうとすると、妖精たちはタイグの手や足を掴み、身動きできないようにうつ伏せにしっかりと押えつけた。それから六、七人がかりでその死体を引っぱり上げタイグのところまで運んでくると、その背中に乗せた。死体の胸はタイグの背中と肩をぎゅっと押えつけ、その腕は頸に巻きついた。それから妖精たちは二、三メートルほど後に下がると、タイグを立ち上がらせた。タイグは口から泡を吹き、悪態をつきながら起き上がると、背中から死体をはねのけようと身体を揺さぶった。死体の二本の腕はしっかりと頸に巻きつき、二本の脚は尻にぴったりとくっついていて、いくら強く振り払おうとしても馬が鞍を振り落とせないように、死体を払い落とすことができなかった。タイグの驚きと恐ろしさはどんなだったろうか。タイグはひじょうな恐怖に襲われて、もうお終いだと思った。「ああ、おれが乱れた生活を送ってきたから、|妖精《グツド・ピープル》たちがこんな目に合わせるのだ。神様、マリア様、ペテロ様、パウロ様、パトリック様、ブリジット様、お誓いいたします。この危機から逃れることが出来るなら、行ないを改めて生涯良い生活をいたします――あの娘とも結婚します」とひとり言を言った。
すると、あの白髪まじりの小人がまたタイグのところへやってきて、言った。「さて、タイグ、おまえはわしが死体を持ち上げろと言ったとき、言うことを聞かなかったが、ほれ、こうやって持たされるってことが分かったろう。死体を埋めろと言っても、たぶん、無理にでもやらされない限り、埋めやしないだろうなおまえさんは」
「あなた様のためでしたら、出来ることはなんなりといたします」とタイグは言った。すでに正気に戻りかけていたし、恐ろしくてたまらなかった。もし恐怖に襲われていなかったら、タイグは決してこんな丁寧な言葉を使ったりはしなかっただろう。
例の小人はまた笑いともつかぬ笑いを浮かべた。「落ち着いてきたようじゃな、タイグ」と小人は言った。「請け合ってもいいが、用が済むまではすっかり落ち着くさ。まあ、聞きなよ、タイグ・オケイン。わしがやれと言ったことは何でもしないと、後悔することになるからな。背中の死体をティンポル・ディムスまで持っていって教会に運び込み、教会の真ん中にその墓を建てるんだ。敷石を起こしたら、完全にもとどおりに置くんだぞ。そして、その土は教会から運び出し、おまえさんがそこに行く前と変わりのないようにしておかなきゃならん。誰が見ても分からないようにな。だが、それでお終いとはいかん。たぶんこの死体は、教会には埋葬させてもらえんじゃろう。誰か他の人がそこに横たわっているだろうからな。もしそうならば、そいつはこの死体といっしょに墓の中に横たわるのを嫌がるだろうよ。で、ティンポル・ディムスでこいつを埋葬できなかったら、キャリハッド・ヴィコルスに持っていき、そこの教会墓地に埋葬してくれ。もし、そこに持ち込めないなら、ティンポル・ロナンへ持って行きな。そこの教会墓地が閉まっていたら、イムログ・ファダへ持っていってくれ。そこでこいつを埋葬できなかったら、もう後はキル・ブリージャまで持っていくよりほかはあるまいな。そこなら、こいつを邪魔されることなく埋葬できる。どの教会でこの死体を土に埋めることが出来るのか、おまえに教えてやることは出来んが、いま言ったうちのどれかには、埋葬できることは分かっているんだからな。この仕事をおまえさんがきちんとやったら、わしらは恩にきるだろうよ。おまえさんを悲しませるものもなくなるだろう。だが、もしぐずぐずしたり怠けたりしたら、いいか、ただじゃ済まさんからな」
白髪まじりの小人が話し終わると、仲間の連中は手を打って笑った。「グリック! グリック! フウィ! フウィ!」と小人たちは口々に叫んだ。「行け、行け、八時間で夜が明ける。お天道様が昇る前に、男を埋葬しなければ、おまえさんはお終いだ」。妖精たちはタイグを後ろから拳固や足でこづいて追い立て、道を進ませた。タイグは歩かないわけにはいかなかった。しかも足早に歩かねばならなかった。小人たちが休ませてくれなかったからだ。
タイグは、じめじめした小道にしろ、薄汚い路地にしろ、また曲がりくねった戻り道にしろ、この夜、歩かなかった道は、このあたりに一本もないような気がした。その晩は時折りひじょうに暗くなった。そして、月に雲がかかると、タイグは何も見えなくなり、しょっちゅうひっくりかえった。怪我をしたこともあったし、逃げ出したこともあったが、いつもすぐに起き上がらされ、先を急がされるのだった。時折り月がさやかに顔を出すことがあったが、そうした時にタイグが後ろを振り返ると、自分の後ろについてくる小人が目に入るのだった。すると、小人たちがおしゃべりをしたり、わめいたり、|鴎《かもめ》の群れのように金切り声をあげたりするのが聴こえた。たとえ、小人たちがしゃべっていることが、自分の魂を救ってくれることであったにせよ、そのことばの意味は彼には一言も分からなかった。
どのくらい歩いたか、タイグにははっきりとはしなかったが、ようやく小人のひとりが大声で「ここで止まれ!」と言った。タイグが立ち止まると、小人たちはみな、彼のまわりに集まってきた。
「あそこの枯木が見えるか?」とまた例の年老いた小人が言った。「ティンポル・ディムスはあの木立の中だ。おまえはひとりで行かなくちゃならん。わしらは後からついてゆくわけにも、いっしょにゆくわけにもいかんのでな。わしらはここに残ってなければならんのだ。さあ恐がらずに行くんだ」
タイグがその男から目を移すと、そこには、なかば崩れかけた高い塀や、その塀の中の古い灰色の教会、そして、それを取り囲むようにして、枯れた老木が十本ほど散らばって生えているのが見えた。どの木にも、葉もなければ小枝もなかった。だが、その葉も小枝もついていない曲がりくねった枝は、怒った男が人を脅すときのように、腕を拡げていた。タイグは先へ進むより他に道がなかった。教会は二、三百メートルほどのところにあったが、タイグはかまわず歩きつづけ、教会墓地の門のところに来るまで、決して後ろを振り返らなかった。この古びた門は壊れていたので、タイグは何なく中に入ることが出来た。それから、タイグは、誰か小人がついてこやしないかと振り返って見たが、たまたま月に雲がかかり、とても暗くなったので何も見えなかった。墓地の中に入り、御堂に続く草の生い茂った古い小径を歩いていった。扉のところまで来てみると、扉には鍵がかかっていた。扉は大きく頑丈だったので、タイグにはどうして良いか分からなかった。終いに、タイグはやっとのことでナイフを取り出すと、ひょっとしたら腐っているのではないかと扉の木に突き立ててみたが、駄目だった。
「さて、もうどうしようもないな」とタイグはひとり言を言った。「扉は閉まっているし、開けることは出来ないし」
そう思うか思わないうちに、耳もとで囁く声がした。「扉の上か塀の上に鍵があるかないか見てみな」
タイグはぎょっとして、「誰だ、おれに話しかけるのは」と叫ぶとあたりを見回したが、誰もいなかった。「扉の上か塀の上に鍵があるかないか、見てみな」と、また耳もとで声がした。
「何だろう」と彼は言ったが、額から汗が流れ落ちた、「誰がおれに話しかけたんだろう」
「おれさ、おまえさんに話しかけたのはこの死体だよ」と例の声。
「おまえしゃべれるのか?」と、タイグが言った。
「時にはな」と死体が言った。
タイグが鍵を捜してみると、それは塀の上にあった。彼はひじょうに恐怖にかられていたので、それ以上何も言えなかったが、それでも大急ぎで扉を開け放すと、死体を背負ったまま中に入っていった。中は真暗闇で、可哀そうにタイグはがたがたと顫えはじめていた。
「蝋燭を|点《つ》けろや」と、死体が言った。
タイグはやっとのことでポケットに手を入れると、火打ち石と鋼とを取り出した。それを打ちつけて火を出すと、ポケットにあった燃えさしのぼろ布に火を|点《つ》けた。そして、炎が出るまで息を吹きかけあたりを見回した。教会はひじょうに古く、壁はところどころ崩れ落ちていた。窓は吹き破られたりひびが入ったりしており、椅子の木は朽ちていた。そこにはまだ六つ七つ鉄製の古い燭台が残っており、その一つに、タイグは古い蝋燭の燃えさしを見つけたので、それに火を|点《つ》けた。何とも奇妙で恐ろしい所にやってきたものだ、と、タイグがなおもあたりを見回していると、冷たくなっている死体が耳もとで囁いた。「さあ、おれを埋めてくれ、今、埋めてくれ。鋤もあるから、土を掘りかえせ」。見ると、祭壇の脇に鋤がある。それを取り上げると、その刃を側廊の中央にあった敷石の下に当て、柄に全身の重みをかけて敷石を持ち上げた。最初の敷石を起こしてしまうと、その側の石を起こすのはどうということはなく、三、四枚の石ははずれてしまった。下の土は柔らかくて楽に掘り返せたが、シャベル三杯か四杯分の土を掘り起こすと、鋤が何か肉のような柔らかいものに触ったような感じがした。まわりの土をさらに三、四杯ほど掘り起こしてみると、それは埋められていた別の死体だった。
「ひとつの穴に死体を二つ埋めるなんて、ぜったいに駄目だろうな」と、タイグは心に思った、「背中の死体さんよう」と彼はたずねた。「ここにおまえさんを埋めてもいいかな?」。しかし、死体は一言も答えなかった。
「こいつあ、うまい」とタイグはひとり言を言った。「奴さん安心してるんだな、きっと」。そこで、タイグはもう一度鋤を地面に突き立てた。おそらく、もう一つの方の死体を傷つけたのだろう、そこに埋められていた死人が墓の中に立ち上がると、恐ろしい声で叫んだ、「フー! フー!! フー!!! 行け! 行け! 行け! さもなきゃ、おまえは、死、死、死ぬぞ!」そう言うと、死体はまた墓の中に倒れた。この夜見た不思議なことのなかで、これが一番恐ろしかった――とタイグは後になって人に語った。タイグの髪は、豚の剛毛のように逆立ち、顔からは冷汗が流れた。それから骨という骨が顫え出し、もう卒倒するのではないかと思われた。
だが、しばらくして、この死体が静かに横たわったのを目にしたタイグは、度胸がすわってきた。そこでまた死体の上に土を投げ入れると上を平らにならしてから、注意深くもとどおりに敷石を置いた。「もう起き上がれやしまい」と、彼は言った。
タイグは側廊を少し扉の方に進み、背中の死体の墓を作る場所は他にないかと、また敷石を起こしはじめた。そして、敷石を三、四枚持ち上げると脇に置き、それから土を掘った。間もなくすると、シャツ一枚のほかは何も身につけていない婆さんを掘り出した。その婆さんは先程の死体より元気だった。というのは、婆さんのまわりの土をどけるかどけないうちに、起き上がって叫びはじめたからである。「ホー、この無骨者めが! ハー、この無骨者め! 墓がないなんて、そいつは今までどこにいたのかい?」
可哀そうにタイグは後ずさりした。婆さんは返事がないのを知ると、おとなしく目を閉じ、生気を失って、静かにゆっくりと土の中に倒れた。タイグは先程男にしたように、婆さんにも土をかけ直し、それからその上に敷石を置いた。
タイグはまた、扉の近くを鋤で掘りはじめたが、二、三度土をすくうかすくわないうちに、男の手があらわれた。「もう掘るのはやめだ」と彼はひとり言を言った。「こんなことをして、いったい何になる?」タイグはそこで、また男の上に土を投げ入れると、もとどおりに敷石を置いた。
そうしてから、タイグは教会を立ち去った。心はとても重かったが、扉を閉め鍵をかけると、それをもとどおりの場所に置いた。そしてからタイグは、扉の側の墓石に腰をおろすと、考えはじめた。どうしたらいいのか、タイグはとんと見当がつかなかった。両手に顔を埋めると、疲れと悲しみのために泣いてしまった。この時は生きて家へは帰れない、と信じ切っていたのである。頸を締めつけている死体の手をほどこうともしてみたが、その手はまるで|鎹《かすがい》ででも留めてあるようで、ほどこうとすればするほど、ますます強く頸を締めつけるのだった。タイグはもう一度、腰をおろそうとした。するとその時、死人の冷たい恐ろしい口が彼に向かって言った。「キャリハッド・ヴィコルスだ」。タイグは、さっきの場所に死体を埋葬できなかったら、そこへ持っていけ、と|妖精《グツド・ピープル》たちが命じたことを思い出した。
タイグは腰を上げると、あたりを見回して言った、「道を知らねえんだがな」
タイグがこう言ったとたん、死体は首を締めつけていた手を不意に伸ばすと、行くべき道を指し示した。そこでタイグは指が伸びた方に歩いてゆき、墓地を出た。気がついてみると、古い|轍《わだち》の残っている石ころだらけの道にさしかかっており、どこで曲がれば良いのか分からずにまた立ち止まった。すると死体が再び骨ばった手を伸ばし、もう一つの道、あの古い教会に行ったときには通らなかった道を指し示した。タイグはその道を辿っていったが、分かれ道のところにやってくるたびに、死体は必ず手を伸ばして、その指で行くべき道を指し示すのだった。
何度となく道を曲がり、曲がりくねった小径を何度となく歩いて行くうちに、とうとう道の傍に古い墓地があるのが見えてきた。しかし、そこには教会も礼拝堂もなく、ほかの建物もひとつもなかった。死体が強く頸を締めつけたので、タイグは立ち止まった。「おれを埋めろ、この墓地に埋めてくれ」と死体の声がした。
タイグはこの古い墓地に近づいていった。しかし、二十メートルも行かないうちに目を上げると、何百という幽霊が――男や女、それに子供の幽霊が――墓地の周囲の塀の上に腰を掛けたり、塀の内側に立ったり、あるいは駈足で行ったり来たりして、彼の方を指さしているのが目に入った。タイグには、幽霊たちがまるで話し合ってでもいるかのように、口をぱくぱくさせているのが見えたが、その言葉はおろか、音ひとつ聴こえなかった。
タイグは先へ進むのが恐ろしくなったので、その場に立ち止まった。するとその瞬間、幽霊は皆おとなしくなって動かなくなった。そこで、幽霊たちが自分を中に入らせないようにしているということが分かった。タイグが二、三メートル前へ進んでみると、すぐに幽霊たちは皆、タイグが行こうとしていた所にどっと押し寄せ、ぎゅうぎゅう詰めに寄りかたまった。それはたいへんなもので、たとえ押し破ろうという気を起こしても、とても出来るものではないとタイグには思われた。だがもともと彼にはそんな気はなかった。タイグは打ちひしがれ、がっくりして引き返した。そして墓場から二百メートルほど行ったところで、また立ち止まった。どの道を行ったらいいのか分からなかったのである。すると、死体が耳もとで言う声がした。「ティンポル・ロナンだ」。そして、また骨と皮ばかりの手が伸びてきて、彼に道を指し示した。
疲れていたが、タイグは歩くよりほかなかった。道は近くもなく、平坦でもなかった。夜はいつもより暗く、進むのは容易ではなかった。タイグは何度となく引っくり返り、身体にはいくつも傷を負った。しかし、とうとう墓地の真ん中に立っているティンポル・ロナンが、はるか向こうに見えてきた。タイグはそちらの方へと進んでいった。そして、塀の上には幽霊も何も見当たらなかったので、大丈夫、安全だと思った。そして、今度こそはぜったいに邪魔されずに荷物を置いてこられるだろう、と思った。門のところまで来て、中へ入ろうとしたとき、敷居に躓いた。起き上がらないうちに、何か目に見えないものが、首や手や足を掴み、ほとんど死にそうになるほど、傷を負わせ、揺さぶり、咽喉を締めつけた。最後にはタイグを持ち上げて、そこから百メートル余りも運んでいったかと思うと、依然として彼にしがみついている死体もろとも、古い溝の中に投げ込んだ。
タイグは傷を負い、痛みでひりひりする身体で立ち上がったが、恐ろしくてもう一度先程の場所に近づく気にはなれなかった。というのは、何も目には見えないのに投げ倒されて、運び去られたからである。
「背中の死体さんよう」とタイグは言った、「もう一度、あの墓地へ行こうか」――が、死体は答えなかった。「ということは、もう一度やってみろとは、おまえさん言わないわけだな」とタイグは言った。
タイグはどうしたらいいのか、もうまったく分からなかった。と、死体が耳もとで言った。「イムログ・ファダだ」
「ああ、こいつは堪ったもんじゃない!」とタイグは言った。「おまえさんをそこまで運んでいかなきゃならないのか。そんなに長く歩かされりゃ、おまえさんの下敷になっちまうだろうよ」
とはいえ、タイグは死体が指し示した方へ歩きつづけた。どのくらい歩いたか、自分でも分からなかったが、突然、後ろの死体がしがみつき、「あそこだ」と言った。
タイグが目をやると、小さな低い塀が見えたが、ところどころ崩れ落ちていて、とても塀といえるしろものではなかった。そこは道から離れてだだっ広い野原のなかにあり、石というよりは岩といったほうがいいような、大きな石が三つ四つ隅にあるだけで、墓地とか埋葬地とかいったものの存在を示すものは、何ひとつなかった。
「これがイムログ・ファダかい。ここに埋めようか?」と、タイグは言った。
「ああ」という声。
「でも、墓も墓石も見えないぜ。ここに石が積んであるだけで」と、タイグ。
死体は答えなかったが、肉の削げ落ちた長い手を伸ばすと、どちらへ行ったらいいかをタイグに示した。そこで、タイグは歩きつづけた。しかし、この前の所で起こったことを思い出したので、恐怖にかられていた。彼は、後になって語ったことだが、「びくびくしながら」歩きつづけたのである。そして、あの小さくて低い、四角い塀から二十メートル足らずの所まで来たとき、突然、青い条の入った、明るいオレンジ色の稲妻がぴかっと走ると、塀のまわりを一筋になってぐるぐる回り、雲のなかの燕のように素早く飛んだかと思うと、見る間にますます速度を増して、とうとう、古い墓場を取り巻く光り輝く炎の輪のようになり、そこを通ろうとする者はきっと、みな焼け死ぬに違いなかった。タイグは、こんなに不思議で、素晴らしい光景を生まれてから一度も見たことがなかったし、またこの後も見ることはなかった。この炎は白や黄や青の火花を散らしながら、ぐるぐる回っていた。そして、始めはごく細い一条の線だったのに、徐々に幅を増して、ついにはひじょうに太い帯になった。そして、なおも高く強く燃え上がり、ますますきらめいた火花を散らして、とうとうこの地上にある色で、この火の中に見出せない色はないほどまでになっていった。稲妻が光っても、炎が燃え上がっても、これほどまでに明るく光り輝いたことはなかった。
タイグはあっけにとられた。疲労のあまりなかば死んだようになっており、塀に近づく勇気も残っていなかった。目が霞み頭がくらくらして、仕方なく恢復を待とうとして、大きな石の上に腰をおろした。彼には光の他には何も見えなかった。そして、光が稲妻よりも速く、矢のように囲いのまわりを走るときに出すひゅうひゅうという音のほかは、何も聴こえなかった。
タイグが腰をおろしていると、例の声がまた耳もとで、「キル・ブリージャだ」と囁き、死人が力いっぱい頸を締めつけたので、タイグは叫び声をあげた。苦しみ疲れて再び顫えながら立ち上がると、指図通りに進んでいった。風は冷たく、道は悪かった。背中の荷物は重く、夜は暗かった。そして、自分自身も疲れ切っていた。もしもっと遠くへ行かねばならなかったとしたら、タイグはその荷物の下敷になって死んでいたに違いなかった。
ようやくのことで、死体が手を伸ばして言った。「あそこに埋めてくれ」
「これが最後の墓場だ」とタイグは心のなかで言った。「どれかには埋めることが出来るって、その白髪まじりの小人が言っていたから、これがそいつに違いねえ。奴さんをここに埋めさせてくれねえなんてことはありっこないだろう」
『日輪』の最初の幽かな光が東の方に現われ、雲が火のように染まりはじめていたが、月が沈み、星も出ていなかったので、とりわけ暗くなっていた。
「急げ、急げ」と死体が言った。タイグは出来るかぎり急いで墓地への道を進んだ。そこは木のない丘の上の小さな所で、墓がほんの二つ三つあるだけだった。彼は開いていた門を思い切って通り抜けたが、何ひとつ彼に触れるものもなく、また何ひとつ見えも聴こえもしなかった。墓場の真ん中まで来ると立ち止まって、墓を掘るのに、鋤かシャベルがないかとあたりを見回してみた。そして振り向いて見て驚いたことには、真正面に掘られたばかりの墓が目に入った。それで、そこまで行って下を覗いてみると、墓の底には黒い棺桶があった。タイグは墓穴の中に這い降りて、その蓋を持ち上げてみた。すると(思ったとおり)棺桶の中は空だった。それからタイグは穴から上がると、その縁に立った。するとその時、八時間以上もタイグにへばりついていた死体が、突然、頸に巻きつけていた手の力を抜き、腰に回していた脛を離すと、ばたん[#「ばたん」に傍点]と蓋の開いたその棺桶の中に落ち込んだ。
タイグは墓の縁に膝をつき、神に感謝を捧げた。そしてから、ぐずぐずせずに、きちんと棺桶に蓋をすると、両手でその上に土を投げ込んだ。そして墓穴が埋まると、しっかりと土が固まるまで、その上を跳んだり踏んだりしてから、そこを立ち去った。
タイグがこの仕事を終えると、太陽は見る見るうちに昇ってきた。タイグは何よりもまず、道まで引き返して、身体を休める家を探した。そして、とうとう一軒の宿屋を見つけると、ベッドに身を横たえ、夜までぐっすり眠った。一度目を醒まして軽い食事をしたが、そのまま、また朝まで眠りに落ちてしまった。翌朝、目が醒めると、タイグは馬を借りて家路に着いた。家から二十六マイル以上も離れた所まで来ていたのである。しかも、死体を背負って一晩のうちにこんな遠くまでやってきていたのだ。
家の者はみな、タイグがこの土地を出ていってしまったに違いないと思っていたので、戻ってきたのを見るとひじょうに喜んだ。皆はタイグにどこに行っていたのかと尋ねはじめたが、彼は父のほかは誰にも教えようとはしなかった。
タイグはその日以来、人が変わったようになった。決して深酒はしなかったし、またトランプをして金を失うようなことも決してしなかった。そして、わけても世間を欺いたり、暗い晩に一人で夜遅くまで外を出歩くようなこともしなくなった。
タイグは、家に戻って二週間と経たないうちに、愛していた娘のメアリーと結婚した。ふたりの結婚式は楽しいものだった。そして、その日からタイグは幸福な人間になった。わたしたちも、タイグのように幸福になれると本当にいいですがね。
[#2字下げ]〔ダグラス・ハイド氏のこのすぐれた物語をどこに位置づけたものか、これは難しい問題であった。幽霊の物語の中か、それとも妖精たちの中か。これを妖精の物語の中においたが、それはこうした幽霊とか死体は、〈ピショウグ〉、すなわち妖精の魔力によるので、決して幽霊や死体からではないという理由からである。アイルランドではこうした|幻影《ヴイジヨン》についてよく耳にする。この話の中の男のように荒れた生活をしていたが、或る暗い晩に、この物語に出てくるようなそんなに怖くはない幽霊に出会って、その性格ががらっと変わってしまったという男に会ったことがある。その男は夜は外に出ようとしない。出しぬけに話しかけようものなら、顫え上がる。臆病な変わり者になってしまったのである。彼は司祭のところに行き、聖水を施してもらった。「その幽霊はきっと戒めにやってきたんだろう」。司祭は言った。「だが、偉い神学者たちの意見では、未だかつて幽霊を見た者はおらぬそうだ、というのは、見たら最後、生きていられる人間はいないからだ」――編者。〕
(画像省略)
[#改ページ]
パディー・コーコランの女房
[#地付き]ウィリアム・カールトン
パディー・コーコランの女房は、数年のあいだ一種の病気のようなものに悩まされていたが、誰ひとりその正体をはっきり掴むことは出来なかった。具合が悪いようでもあり、悪くないようでもあり、元気なようでもあり、元気でないようでもあった。また、亭主を愛する妻でありたいと願うようでもあり、そういうことは望まない女のようでもあった。実際のところ、彼女の身に何が起こったのか誰にも分からなかった。胸がいつも苦しく、それは夫にひじょうな負担となっていた。というのは、神の救いの手をもってしても、夏の日などには、この苦しみに打ち勝つような食欲が湧かなかったからだ。可哀そうに彼女は信じ難いほど弱ってしまい、まったく食欲がなく、多少とも気をひくものといえば、マトン・チョップとか焼肉とか、まあ少しばかりの肉だけで、確かに可哀そうな話だが、干した馬鈴薯とか、それに付け合わせる酸っぱいバターミルクにはまったく食欲が湧かず、とくに気分が弱り切っているときはぜんぜん駄目だった。まったく、こういう状態[#「こういう状態」に傍点]にある女にたいして――何しろ、具合が悪かったので、哀れにもパディーは、女房は四六時中そういう[#「そういう」に傍点]状態にある、と信じざるを得なかったのだが――そういう女にたいしても神は思し召し下さるものだ! というのは、彼女はそうしたことを気にかけてもいなかったからである。それまでは、塩をつけた一個の馬鈴薯が上手に焼かれ、煮てあるならば喜んで食べた――御名に栄光あれ――それなのにどうして喜んで食べなくなったのだろうか? それでも、ひとつだけ慰めがあった。夫といっしょに暮らすのも、したがって、夫をわずらわすのも、そう長いことではないだろうということだった。何を食べようと、それは大した問題ではなかったが、胸をさいなむ苦しみのために、時々は少しでも肉を食べなければ、健康によくないということは、自分でもよく分かっていた。確かに、夫が肉を惜しんで食べさせないとしたら、いったい誰がそれをくれるというのだろうか。
さて、今まで述べてきたように、パディーの女房は長いこと病気で床についたきりだった。男や女、腕の良し悪しを一切問わず、いろいろな種類の医者に診てもらっても、ぜんぜん効果がなかった。そして、こうした苦労を重ねた末に、可哀そうにパディーは、「少しばかりの肉」を女房のために確保するのにも苦心するという、ほとんどぎりぎりの状態にまで追い込まれてしまった。七年目も暮れかかろうとしていた或る収穫の日のこと、パディーの女房は自分の手の付けようのない容態を悲しみながら、台所の炉の向こうのベッドで横になっていると、小ぎれいな赤い外套を着た、とても小さな女が入ってきて、炉の側に腰をおろした。そして、言うことには、
「ねえ、キティー・コーコラン、あんたはそこに仰向けになって、長いこと、七年間も寝ているんだね。そしてとても治る見込みはないんだね」
「|ああ、悲しい《マブロン・アイ》」とキティーが言った。「たった今、あたしが考えていたのもそれなんですよ。それを思うと悲しくってねえ」
「そりゃあ、あなたが悪いんだよ」と小さな女。「まったく、そのことについちゃ、そこにいるあんたが悪いんだよ」
「あら、どうしてですか?」とキティーが尋ねた。「そりゃあ確かに、出来ればこんなところにいたくないですよ。あんた、あたしゃ病気で寝てますけど、それが楽だとか愉快なことだとか思ってるんですか?」
「思いやしないよ」と例の女。「じゃあ、本当のこと教えてあげようか。この七年っていうもの、あんたはあたしら[#「あたしら」に傍点]を悩ませてきたんだよ。あたしゃ|妖精《グツド・ピープル》たちなんだけど、あんたのことを気にかけているんで、あんたがなぜこんなに長いこと具合が悪いのか、その訳を教えてやりにきたのさ。ちょっと思い出してごらんよ、あんたが病気の間ずっと、あんたの子供たちは、日が暮れてからと、日の昇る前とに、あんたが汚した水を外に捨てていただろう。ちょうどその時間に、あたしらはお宅の戸口のところを通るんだよ。日に二度通るんだけどね。だからさ、それをやめて、ほかの場所に、別な時間を選んで捨てれば、病気は治るだろうよ。胸の苦しみも消えて、昔のように元気になるってわけさ。言うとおりにしなけりゃ、そりゃあ、あんたはこのままさ。人間じゃあ、逆立ちしたって、あんたを治すことは出来はしないよ」。小さな女はそれから、さようならを言うと消え去った。
こんな簡単なことで病気が良くなるなんて、と喜んで、キティーは早速、妖精の指図どおりにした。そうすると、翌日、キティーは生まれてこの方一度もなかったような、健康な身体になっていた。
[#改ページ]
クシーン・ルー
[#地付き](原文はJ・J・カラナンによるアイルランド語からの翻訳)
眠れよわが子、樹々はさらさら、
夏のそよ風の息に揺れ、
快き調べの妖精の唄、
やさしくあたりに漂う。
眠れよわが子、啜り泣く花々は、
かぐわしき|泪《なみだ》をおまえの頭にそそぎ、
愛の声はおまえの眠りを慰める、
おまえの枕は母の胸。
眠れよわが子、眠っておくれ!
この館にさらわれてから、
ものうく侘しい時は過ぎた、
浮きたつ広間の宴はなやぎ、
笑いさざめきも館のうちに響きはしても。
眠れよわが子、眠っておくれ!
大勢の乙女や匂うような花嫁たちが
住んでいるあの壮麗な高殿に――
そして大勢のものさびた白髪の賢者、
年老いて腰の曲がった大勢の女たちも。
眠れよわが子、眠っておくれ!
ああ、この恐ろしい唄を聞いたなら、
嘆き悲しむ夫に伝えておくれ、この便り。
持ってくるよう言っておくれ、不思議な刃を持つナイフ、
ナイフの放つ閃光で、魔法の力は消えるだろう。
眠れよわが子、眠っておくれ!
急いでおくれ! あした朝日が昇ったならば、
忌わしき呪いが新たにかかろう。
わたしの心はわが家を離れられない、
衰えた心臓から、|生命《いのち》が去って行くまでは。
眠れよわが子、眠っておくれ!
眠れよわが子、樹々はさらさら、
夏のそよ風の息に揺れ、
快き調べの妖精の唄、
やさしくあたりに漂う。
[#2字下げ]〔この歌はあるうら若い花嫁の歌ったものだと考えられている。この花嫁は、アイルランドによくある|砦《フオート》のひとつに、無理矢理に引きとめられていたが、そこは|妖精《グツド・ピープル》たちが好んで集まる所だった。花嫁は、子供を寝かしつけるふりをして|砦《フオート》の外に出ると、近くに見かけた若い女に自分の歌を繰り返し歌いかけた。そして、自分の置かれている境遇を夫に知らせ、魔法を解く鉄のナイフを夫に持ってきてくれるよう伝えてほしいと頼んだ。〕
[#改ページ]
白い鱒――コングの伝説
[#地付き]S・ラヴァー
ずっと遠い昔のこと、一人の美しい姫君が、はるか向こうの湖のほとりの城に住んでいた。姫は王子と約束があり、二人は結婚することになっていた。ところが突然、王子は殺され、可哀そうにその湖に投げ込まれてしまった。だから、もちろんのこと、王子はその美しい姫君との約束を守ることは出来なかった――本当に可哀そうなことだった。
さて、話によれば姫君は王子を失って、気も狂わんばかりだったようだ――可哀そうにわれわれ同様、姫はやさしい心の持ち主だった。王子を思い焦れ、ついにはどうしたものか、姫君の姿は見えなくなってしまった。妖精たちに連れ去られたのだと人々は言った。
さて、しばらくすると、「白い鱒」(この鱒にお恵みを)が向こうの小川に現われた。たしかに人々はこの生き物を、どう考えたら良いのか分からなかった。こんなに白い鱒[#「白い鱒」に傍点]を見たという話は、後にも先にも聞いたことがなかったのである。何年も何年も、鱒は現われた時とまったく同じ場所にいた。それがどれくらいの年月だったか、わたしには分からない――実際、村一番の年寄りも覚えていないぐらいだった。
とうとう鱒は、妖精に違いないと人々は思うようになった。それよりほかに考えようがあったろうか――そこで誰もこの白い鱒に傷を負わせたり、悪さをしたりすることはまったくなかった。ところがある時、ならず者の兵隊たちがこのあたりにやってきて、鱒は妖精に違いないなどと思っている人々をみな馬鹿にしたり、あざ笑ったりした。そして、ことにその中の一人は(なんと罰当たりか、こんなことを口にするとは、神よお許しあれ!)、その鱒を捕えて、晩飯に食べてみせると誓った――何という悪党だろう!
さて、この兵隊の悪事をどうお思いになるだろうか。果して、この男は鱒を捕えて家に持ち帰ると、フライパンをかけ、その中にこのきれいな小さい魚を抛り込んだ。鱒はまるで人間のように悲鳴をあげた。するとまあ皆さん、兵隊は腹が裂けるほど笑ったとお思いあれ――この男は筋金入りの悪党だった。魚の片側が焼けたと思って、裏返してみるとどうだろう、まったく焼けた様子がない。もちろん、兵隊は焼けないなんて変な鱒だと思ったが、「でも、もう一度ひっくり返してみるか」と、どんな運命が自分を待ち受けているかもぜんぜん考えずに言った。異教徒なのだ。
さて、兵隊はもう焼けただろうと思って、また裏返してみた。ところがどうだろう、こちらの側もぜんぜん焼けていない。「何てこった」と兵隊は言った。「こりゃあ参った。だが、もう一度やってみるか、え、おまえさん。自分じゃ抜け目ないと思ってんだろうがね」。そう言って、男は鱒を裏返したが、このきれいな魚には、まったく火の跡がつかなかった。「そうかい」とこの悪党はやけくそになって言った――(確かに、この悪党は完全に破れかぶれになっていた。いくらやっても駄目なのだから、間違ったことをしているのが分かっても良さそうなものだった)――「そうかい」と兵隊、「大したやつだな、おまえさんは。よく焼けているように見えないが、おそらくまあよく焼けてるだろう。毛焼き猫みたいに、見かけよりはましだろうさ。食ってみりゃあ、いけるってわけだ」。そう言うと、兵隊は一切れ味わってみようとして、ナイフとフォークを取り上げた。ところが何と、この魚にナイフを入れたとたん、魚は鋭い悲鳴をあげた。もし、皆さんがこの悲鳴を耳にしたら、生命が自分から離れてゆくように思えただろう。鱒はフライパンから床の真ん中に飛び出した。鱒が降り立ったその場所には、美しい女のひとが立ち現われた――それは誰も目にしたこともないような絶世の美人で、白い衣服をまとい、髪には金の飾り紐をつけ、腕からは一筋の血が流れていた。
「見てよ、おまえに切られたのよ、悪い人ね」と、姫君は言いながら腕を差し出した――兵隊は、目が眩みそうな気がした。
「わたしはね、おまえがわたしを捕えたあの川で、涼しく気持良く暮らしていたのに、手を出さなくたっていいじゃないの。わたしのお務めを邪魔しなくたっていいじゃないの」と、姫君は言った。
さて、兵隊は濡れた袋の中の犬のように顫えあがっていたが、ようやく吃りながら何か言うと、命乞いをし、姫君に許しを願った。そして、姫君が務めの最中だったとは知らなかったとか、自分はあなたにちょっかいを出すほど馬鹿な兵隊じゃない、とても善良な兵隊なのだ、などと言った。
「わたしはあのとき、お務めをしていたのよ」と姫君は言った。「わたしの本当の恋人が、川に沿ってわたしのところにやってくるのを待っていたのよ。もし、わたしのいない間に、あの方がやって来てお会いできなかったとしたら、わたしはおまえを鮭の赤ン坊に変えて、地面に草が生え、川に水が流れている限り、追いかけ回してやるわ」
さて、兵隊は鮭に変えられてしまうのかと思うと、生命が失せてゆくように思われ、姫君の情けを乞うた。すると、姫君が言った――
「悪いことはおやめなさいな。じゃないと、あとで後悔することになるから。これからは良い人間になって、きちんと懺悔所にお行きなさい。さあ、わたしを連れていって、もとどおり川に帰しておくれ」
「ああ、お姫様」と兵隊は言った。「どうして、あなたのようにお美しい方を溺れさすことが出来ましょう」
だが、男が後を続ける間もなく、姫君の姿は消え失せ、そこにはあの小さな鱒が転がっていた。そこで、男は鱒をきれいな皿にのせると、姫君がいない間に恋人が来ては大変だと思い、必死になって走っていった。兵隊はひた走りに走りつづけ、再び洞穴のところに行き、鱒を川に投げ込んだ。すると、おそらく例の傷のためだろう、しばらくのあいだ川の水が、血のように赤く染まった。この赤い色は、やがて水の流れが洗い流してしまったが、今でも鱒の脇腹には、傷跡の赤いしるしが残っている(鱒の脇腹にはじっさいに赤い斑点がある)。
ところで、あの兵隊はその日から、打って変わった人間になり、行ないを改めた。きちんと懺悔所に通い、週に三度は精進した――男は恐ろしい目にあった跡なので、精進の日にはぜったい魚を食べなかったが、それでなくても、こんなことまで言うのをお許し願いますが――魚は決して彼の胃袋には落ち着いてはいなかった。
まあとにかく、前にも言ったように、その兵隊は打って変わった人間になり、やがて軍隊をやめると、とうとう世捨て人になった。そして、いつも「白い鱒」の魂のために祈っていたということだ。
[#2字下げ]〔こうした鱒の物語はアイルランドの到る所にある。数々の神聖な泉には、このような祝福された鱒が現われる。スライゴーのギル湖のほとりにある泉にも鱒が一匹いるが、この鱒もかつては誰か異教を信じる者によって、焼き網にのせられたことがあり、今でもその跡が残っている。昔、この泉を聖別した聖人が、その鱒をこの泉に入れたのである。今日ではこの鱒は、きちんと罪を償った信心深い人の目にしか見えない。〕
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|妖精の茨《フエアリー・ソーン》
[#地付き](アルスター地方の民謡 サミュエル・ファーガスン卿)
「お立ちよアンナ、退屈な糸車を離れて、
父さんは丘の上、母さんは眠ってるもの。
さあ岩に登り、ハイランド・リールを踊りましょう、
あの崖の、|妖精の茨《フエアリー・ソーン》のまわりをめぐって」
アンナ・グレースの門口で、乙女らは呼ぶ大声で、
緑のスカートの楽しげな美しい娘三人。
巻き竿おいて、糸車はなれるアンナ、
四人の中で、たしかにアンナは一番美人。
あらわな|頸《うなじ》や足首を、乳色に波うたせ、
静かな夕べの薄あかりの中を素早くよぎって、
眠たげに歌うゆるやかな流れをあとに、
乙女らは来た、不気味な空にそびえる岩山。
手に手をとって歌口ずさみ、恐れもせずに、
乙女らはすすんで行った小山の道を、
そしてねずみ色した|山査子《さんざし》の近く、
美しくひとり立つ「ななかまど」のそばに来た。
|山査子《さんざし》は立つ、すらりと高いとねりこ二本の間、
まるで|双児《ふたご》の孫娘ひざに抱いたおばあさん、
ねずみ色しておぼろな「ななかまど」の低い枝には、
赤い実が鈴なりに、赤くやさしい唇のよう。
楽しげな四人の乙女は列つくり、愛らしい、
二組の踊り手はすっくと立つ「ななかまど」の幹のまわりを、
うねうねと波描き、かすめ飛ぶ鳥のように踊る。
ああ、鳥でさえこんなにも楽しげには唄わない!
銀色の夕もや音もなく厳かに、乙女の唄声
|谺《こだま》なく、深い静けさに|呑《の》まれていき、
妖精の現われるこの丘の|黄昏《たそがれ》は夢のように、
より夢うつつにも夕やみは深くなっていった。
さやかな森をよぎって鷹の影が滑っていくと、
空にさえずる|雲雀《ひばり》がおし黙るよう、
不意の怖れに胸つかれ、唄声をはたと止め、
乙女らはその場に身を伏せた。
それは、高い空から低い草地、山に生える
「ななかまど」と|山査子《さんざし》の古木のあわいから、
かすかにも不思議な力が身をよぎったため、
乙女らは互いに草の中に身を伏せたのだ。
口もきかずに身を伏せていつしか寄り添い、
うな垂れたきれいな|頸《うなじ》に可愛い腕を巻きつけ、
あらわな腕を隠そうと無駄な骨折してみても、
こんどはすくめた頸がまたあらわれる。
このように抱きあってひれ伏して|首《こうべ》うな垂れ、
高鳴る胸の鼓動――これが唯一の人の気配――
耳には声なき妖精の群れの絹の足音、
めぐり行く、中空を流れる小川のように。
誰ひとり、叫びもならず祈りも出来ず、
おじ怖れ、三人はただ言葉なく――
美しいアンナ・グレースが音もなく連れ行かれても、
感じはしても、見きわめる勇気すらない。
乙女らの髪に離れゆくアンナ・グレースの金髪はからみ、
その顔が遠ざかり、しなやかに垂れる巻き毛を感じ、
アンナの腕が痺れた腕から滑り抜けるのを感じても、
乙女らはその訳をつきとめることすら出来なかった。
苦痛と恐怖の驚くべき夜のあいだ不思議な力が、
乙女らの心の上に重くのしかかっていたが、
いかに怖れおののいても、わななく眼は開けられず、
冷たい地面から手足を上げることすら出来なかった。
やがて露ぬれた大地が、夜からめぐり現われ、
妖精の住む山と谷川の流れが眼下に見えると、
黄色い朝の光に霧がとけてゆくように、
乙女らの夢幻も消えていった。
こうして幽霊のように蒼ざめて乙女らは飛び帰り、
案ずる友だちに悲しい話を語っても無駄なこと、
やがて一とせも経たぬうち乙女らはやつれて世を去った。
ふたたびアンナ・グレースを見た者は誰もいない。
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ノックグラフトンの伝説
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
昔、うす暗いガルティー山脈のふもとに広がるアッハロウという肥沃な谷あいに、哀れな男が一人住んでいた。この男の背中には大きな瘤があったが、それはちょうど身体が巻き上げられて両肩の上に乗ってしまったかのようで、腰掛けているときは、頭がひじょうな重みで押しつけられるので、顎をいつも膝の上で支えるのだった。土地の人々は、寂しい場所でこの男と出会うのを避けていた。というのは、この男は可哀そうに、生まれたばかりの赤児のように無邪気だったが、ほとんど人間とは思えないほどの不具であったため、意地の悪い人たちが、妙な話を言いふらしていたからである。この男が薬草と魔法のことをたいへん良く知っているという噂があったが、藁や|藺草《いぐさ》で帽子や籠をつくるのがとても上手であったことは確かで、この男はそれで暮らしを立てていた。
この男は自分のちっぽけな麦藁帽子に、いつも|妖精の帽子《フエアリー・キヤツプ》、すなわち〈ラズモア〉(狐の手袋)の小枝を差していたので、ラズモアという綽名をつけられていたが、このラズモアは、編み仕事の手間賃をいつも誰よりもたくさん手に入れていた。それでおそらく、こうしたことで、人の妬みを買い、妙な噂を立てられたのかも知れなかった。それはともかくとして、ある晩のこと、ケールという美しい町からカパーの方に帰ってゆくときのことだったが、小男のラズモアは背中に大きな瘤を背負っているので、ゆっくりゆっくり歩いていた。道の右手にあるノックグラフトンの古墳のところに差しかかったときには、あたりはもう真暗になっていた。ラズモアはくたくたに疲れ果て、これから先の道のりや、夜を徹して歩かねばならないことなどを考えると、まったくうんざりしてしまっていた。そこで、一休みしようと思い、その古墳のすそに腰をおろし、とても悲しい気持で月を見上げた。月は――
[#ここから1字下げ]
「厳かに雲に包まれて昇りゆき、
やがて、比類なき光のヴェールをぬぎ捨て、姿を見せた女王は、
その銀色のマントを、暗闇の上に投げかけた」
[#ここで字下げ終わり]
しばらくすると、地上のものとは思われない、何か物狂おしい歌の調べが、小男のラズモアの耳に入ってきた。彼は耳をすまして聴き入りながら、こんなに人をうっとりさせる音楽は聴いたことがないと思った。それは、大勢の人の声の響きだったが、それぞれの声が不思議にも融け合っており、みな別々の旋律を唄っていたのに、ひとつの声のように思われた。歌の文句は次のようなものだった――
[#ここから1字下げ]
「|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》、|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》、|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》」
[#ここで字下げ終わり]
そこでちょっと途切れてから、また同じ旋律が繰り返されるのだった。
ラズモアは、わずかな音をも聴き洩らすまいとして息を殺し、熱心に聴き入った。すると、その歌は古墳の中から聴こえてくるのだということが、今度ははっきり分かった。ラズモアは、初めはこの歌にすっかり魅了されていたが、何の変化もなしに、繰り返し繰り返し唄われる同じ旋律を聞かされて飽きはじめてきた。そこで、「|月曜《ダルーアン》、|火曜日《デモルト》」と三度唄われたあとでその途切れの間を利用して、同じ調子で「|それまた《アガス・》|水曜日《ダダーデイン》」と後を付けた。それから、古墳の中の声に合わせて、「|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》」と唄いつづけ、再び途切れの間があいたときに、「|それまた《アガス・》|水曜日《ダダーデイン》」と、この歌の終りを結んだ。
ノックグラフトンにいた妖精は――その歌は妖精の調べだった――自分たちの歌にこう付け足されるのを聴いて、たいへん喜び、自分たちよりずっと歌の上手なこの人間を連れてくることをすぐに決めると、ちっぽけなラズモアはつむじ風に巻かれて、すごい速さで妖精たちのところに運ばれてきた。
彼の動きに拍子を合わせた妙なる音楽にのって、ラズモアが藁のように軽々とくるくる回りながら古墳の中に降り立つと、目の前に開けたその光景は素晴らしいものだった。妖精たちはラズモアをすべての楽士の上に置いて敬意を払い、召使いたちにかしずいて、何もかも彼の心にかなう温かいもてなしをした。手短かに言うなら、まるでこの世に現われた最初の人間ででもあるかのように、もてなされたのである。
しばらくすると、ラズモアは、妖精たちが大会議をしているのに気づいた。妖精はみな丁重だったが、彼はひどく怯えていた。すると、中のひとりがラズモアの方に歩いてきて言った――
[#ここから1字下げ]
「ラズモア、ラズモア、
嘆きなさるな、心配御無用、
背中に背負ったおまえの瘤は、
もう無くなっちまったぞ、
下を見てみろ、ラズモアよ、
瘤があるだろう、床の上」
[#ここで字下げ終わり]
このことばが口にされると、ラズモアはひじょうに身体が軽くなったような、幸福になったような感じがしたので、猫とバイオリンの話に出てくる牛のように、一跳びに月を越えることさえ出来そうに思えた。そして、瘤が背中から床に転げ落ちるのを、言いようもなく嬉しい気持で眺めた。それから、ラズモアは顔を上げようとしたが、自分のいる大広間の天井に頭をぶつけてしまいそうな気がして、用心して頭を上げた。ラズモアは何度も何度もあたりを見回したが、すべてのものが彼にとっては驚きであり、喜びであった。そして、ますます美しさを増していくようにさえ思われた。ラズモアは、この眩いばかりの光景に圧倒されて、頭がふらふらになり、目が霞んできた。そしてとうとうぐっすり寝込んでしまった。目が覚めてみると真昼間で、太陽は燦々と輝き、小鳥が楽しげに鳴いていた。ラズモアはちょうどノックグラフトンの古墳のすそのところで、草を食べている牛や羊に囲まれて寝ていたのである。祈りを捧げたのち、ラズモアは真先に後ろに手を回し、瘤をさぐってみたが、背中に瘤のある気配はまったくなかった。そこで、彼は大威張りでわが身を眺めた。というのは、いまや小綺麗で姿のよい小男になっていたうえに、一揃いの真新しい服を身につけていたからで、この服は妖精たちが作ってくれたものに違いない、とラズモアは思った。
ラズモアは、まるで生まれてからずっとダンスの教師をしていたかのように、軽やかに一歩ごとに跳びはねながら、カパーの方へと進んでいった。途々出会った人は一人も、瘤がないのでそれがラズモアだとは分からず、自分はラズモアだと皆を納得させるのにたいへん苦労した――実際のところ、外見に関するかぎり、彼は元のラズモアではなかったのである。
もちろんすぐに、このラズモアの瘤の話は知れわたって、人々はたいへん驚いた。この地方数マイル四方の人々は、貴賤を問わず、みなこの出来事を噂し合った。
或る朝のこと、ラズモアがのんびりと小屋の扉のところに腰をおろしていると、一人の老婆がやってきて、カパーへ行く道を教えてくれと頼んだ。
「教えて上げる必要はありませんよ、お婆さん」とラズモアは言った。「だって、ここはカパーですからね、で、どなたにお会いなさりたいのですかな?」
「ラズモアさんという人を訪ねて、ウォーターフォード地方のディシスの田舎からやってまいったんですが、何でもそのお方は、妖精に瘤をとってもらいなすったと聞きましてね。わしの茶のみ友だちの一人に息子があって、それが瘤もちで、そのために死ぬようなことになるかも知れないのですが、でも、もしかして、ラズモアさんと同じような|呪《まじな》いをかければ、その瘤も取れるだろうなと思いましてね。まあこうしてはるばるやってまいった次第で。出来ましたら、その|呪《まじな》いのことを知りたいのですがね」
いつも人の好い小男のラズモアは、ノックグラフトンで妖精に歌を唄ってやったこと、肩の瘤がとれ、おまけに新調の服一揃いを貰ったことなどを、こと細かに老婆に語ってやった。
老婆はすっかり喜び、ラズモアに厚く礼を述べると、安心して帰っていった。そしてウォーターフォード地方の友だちの家に帰ってくると、ラズモアの話してくれたことを残らず教えてやり、それから二人して生まれつき気むずかしくてずるい瘤のある小男を車に乗せると、この田舎から遠い道のりをはるばる運んでいった。それは長い旅だったが、瘤が取れるものなら、そんなことぐらい何でもなかった。一行はちょうど日暮れにノックグラフトンに着き、二人はその瘤男を古墳のすそに置いていった。
ジャック・マドン、とこの瘤持ちの男は言ったが、彼がそこに腰をおろすと、ほどなくして、以前にも増して楽しげな歌が古墳の中から聴こえてきた。以前にも増してというのは、妖精たちは、ラズモアが決めてやったとおりに唄っていたからである。その歌は「|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》、|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》、|月曜《ダルーアン》、|火曜日《ダモルト》、|それまた《アガス・》|水曜日《ダダーデイン》」と、休みなく続いていた。ジャック・マドンは瘤を取ってもらいたいとしきりに焦っていたので、妖精が唄い終えるのを待つとか、また時機を待ってラズモアより高い声で唄うということなど考えもせず、妖精たちが続けざまに七度も唄うのを耳にすると、その歌の拍子とか調べの気分などおかまいなしに、また、文句のきちんとした入れ場所も考えずに、「|それまた《アガス・》|水曜日《ダダーデイン》、|それまた《アガス・》|木曜日《ダヒナ》」とがなり立てた。そして心の中で、ラズモアが一日増して良かったのなら、二日増せばもっと良いはずだ、ラズモアが新調の服を一揃い貰ったんだから、そうすりゃ自分は二着貰える、などと思っていた。
ところがこの文句がジャックの口から洩れるが早いか、彼はものすごい力で持ち上げられたかと思うと、古墳の中に引っぱり込まれた。妖精たちは怒り狂って、金切り声をあげたり、「おれたちの歌を台無しにしたやつは誰だ? おれたちの歌を台無しにしたやつは誰だ?」と大声で怒鳴りながら、この男のまわりに群がってきた。そして、中のひとりが歩み出てきて言った――
[#ここから1字下げ]
「ジャック・マドン、ジャック・マドン、
おれたちが喜び感じたこの歌も、
おまえの言葉で台無しだ――
おまえを一生悲しませようと、
城のなかへと連れてきた、
ジャック・マドン、そら持って行け瘤二つ!」
[#ここで字下げ終わり]
それから、一番力のある二十人の妖精たちがラズモアの瘤を持ってくると、哀れなジャックの背中の瘤の上に置いた。すると、その瘤は、一番腕の良い大工が、二十ペンス釘で打ちつけでもしたように、しっかりとくっついてしまった。その後で妖精たちは、城からジャックを蹴り出した。朝になってジャック・マドンの母親とその茶のみ友だちが捜しにやってきてみると、この小男は半死半生の状態で、背中にもう一つ瘤をつけ、古墳のすそに横たわっていた。どんなに驚いたことか、二人は顔を見合わせたが、瘤が自分たちの背中にくっつきはしまいかと恐ろしくなり、口もきかなかった。これまでになく心は沈み、見るからにしょんぼりして、二人はこの不運なジャック・マドンを連れて家路についた。この小男はほどな群れをなす妖精たちくして、新しい瘤の重みと長旅がもとで、死んでしまった。ジャックは死に際に、また妖精の歌を聴きに行こうなどというやつはくたばれ、と言ったそうだ。
(画像省略)
[#改ページ]
ドニゴール地方の妖精
[#地付き]レティシア・マクリントック
そのとおりなんです。あの連中の気分を害すのは、確かによくないことなんです。怒らせれば妖精たちは薄情な隣人にもなるし、親切に取り扱えば、良き隣人にもなるのです。
私の叔母が或る日のこと、たった一人家にいて、大きな鍋を火にかけ湯を沸かしていますと、小人の一人が煙突から落ちてきて、足を熱湯のなかに滑らせたのです。
その小人がものすごい悲鳴をあげると、たちまち家の中は小人でいっぱいになって、例の小人を鍋から引っぱりだすと、床の上に運んでゆきました。
「あの女が|火傷《やけど》させたのか?」と小人たちの話す声が、叔母の耳に入ったそうです。
「いや、違うさ。自分で火傷したのさ」と、例の小人。
「そうか、そうか」。小人たちは言いました。「おまえが自分で火傷したんなら仕方がないが、あの女が火傷させたんだったら、おれたちは仕返しをしてやるところだった」
[#改ページ]
|取り替え子《チエンジリング》[#「|取り替え子《チエンジリング》」はゴシック体]
[#改ページ]
[#ここから1字下げ]
時折り、妖精たちは人間を惑わして自分の国へ連れてゆき、その代わりに病弱な妖精の子供や木切れを置いてゆく。そうしたものは魔法をかけられているので、衰えて死んでゆく人間に見え、そのまま埋葬されてしまう。ふつう多くの場合には、子供が盗まれる。もし誰かが「子供をじっと見ていた」なら、つまり嫉ましそうに見ていたなら、それは妖精がその子供に手を出しかけているのだ。その子供が〈|取り替え子《チエンジリング》〉であるかどうか見分けるのにいろいろなことが行なわれるが、ひとつぜったいに確かなやり方がある――その子供を火の上にかざし、こういう文句を唱える、「燃えろ、燃えろ、燃えろ、――|悪魔《デヴイル》のものなら燃えてしまえ、けれど神さま聖者さまの、下さりものなら傷つくまい」(ワイルド夫人による)。そこで、もしこの子供が〈|取り替え子《チエンジリング》〉であるならば、叫び声をあげて一目散に、煙突から上へと逃げてゆく。というのは、ジラルダス・キャンブレンシスによると、「あらゆる種類の幽霊にとって、火は最大の敵であり、また、幽霊を見たことのある人間にとっても、火の輝きを感じれば、すぐに気を失ってしまう」からである。
ときには、もっと穏やかなやり方で〈|取り替え子《チエンジリング》〉を追い払うことも出来る。ある記録によれば、かつてある母親がしわくちゃの〈|取り替え子《チエンジリング》〉をのぞき込むようにしていると、|閂《かんぬき》が上がり、妖精が盗んでいった健康な子供を返しに家に入ってきたという。「この子を盗んだのは、ほかのやつらだ」と妖精は言って、その母親に、自分の方の子供を返してくれと頼んだということである。
或る説によると、連れ去られた人間はとても良い暮らしをしており、音楽を聴いたり、浮かれ騒いだりして幸せに生きているという。しかしほかの説によれば、妖精たちはこの地上にいる友人たちをいつも恋しがっている、という。ワイルド夫人は、妖精には二種類あって、一方は陽気で優しいが、他方は邪悪で毎年|悪魔《サタン》に生け贄を捧げており、そのために人間を連れ去るのだ、という暗い言い伝えを書き残している。ほかのアイルランドの作家は、誰もこの言い伝えを書いていない。おそらく、そうした妖精がいるなら、一人暮らしの妖精――プーカやファー・ジャルグなどの仲間であるに違いない。
[#ここで字下げ終わり]
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卵の殻の醸造
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
サリヴァン夫人は、自分の末の子供は、〈|妖精の盗み《フエアリー・シフト》〉にあって取り替えられたのだと思った。確かに、その子供の様子を見れば、そう思うのも無理からぬことだった。というのは、或る夜のこと、夫人の元気のよい青い目の男の子は、ほとんどいるかいないか分からぬほどに縮んで小さくなり、いっときも泣きわめくのをやめなくなってしまったからである。こんなことになって当然のことながら、サリヴァン夫人はとてもみじめだった。近所の人たちはみんなして夫人を慰めるため、あなたのお子さんは間違いなく|妖精《グツド・ピープル》たちに連れていかれてしまい、その代わりに妖精たちは自分の子供を置いていったのですよ、と言った。
サリヴァン夫人はむろん、皆の言うことを信じぬわけにはいかなかった。しかし、夫人は手元にいる子供を傷つけたくなかった、というのは、たとえその子供の顔がしなびており、身体もほとんど骸骨のように痩せこけていたとはいえ、それでもなお自分の子供に、どこか似たところがあったからだ。だから、自分の子供を取り戻すには、この子を生きたまま鉄板にのせてあぶるとか、赤く焼けた火ばしでその鼻を焼き潰すとか、雪の積もった道端に捨ててしまうとか、そのほか似たような処置をとるようにとしきりと勧められたけれど、夫人はそんなことをする気になれなかった。
或る日のこと、サリヴァン夫人は、ほかでもないあのエレン・リー(または|白髪《グレイ》エレン)の名で、そのあたりによく知られていた知恵のある女の人に出会った。この女性はどうやって修得したものか、死者たちがどこにいるとか、その魂を休ませるにはどうしたらいいかというようなことを語る天賦の才をもっており、また魔法をかけていぼ[#「いぼ」に傍点]や瘤を取ったり、こうしたたぐいの驚くべきことをたくさん行なうことができた。
「サリヴァンさん、今朝は何か悲しいことがおありですね?」とエレン・リーは、のっけからこんな言葉を夫人に向けた。
「そう言われても仕方がないわね、エレン」とサリヴァン夫人は言った。「悲しいのには、それだけの訳があるのよ、だって、あたしの可愛い子供が、『よろしければ』とか、『お許し下さい』とかいう挨拶すら抜きで揺り籠からさらわれ、子供のいたところには、骨ばかりの皺だらけの醜い妖精の子が置かれていたんだもの。だから、エレン、あたしが悲しんでいたって、何の不思議もないでしょう」
「何もあんたのせいじゃないですよ、サリヴァンさん」とエレン・リーは言った。「ですがね、その子が妖精だってことは、そりゃ確かなことですか?」
「確かですとも」とサリヴァン夫人はこだまのように答えた。「悲しいことだけど本当なんですよ、それともわたしのこの二つの目を、信じちゃいけないっていうの? 母親の心を持ってれば、誰だってあたしに同情してくれるに違いないわ!」
「年寄りの忠告を聞き入れてくれますかね?」とエレン・リーは言い、何かに憑かれたような不可思議な目つきで、このあわれな母親をじっと見つめた。そうしてしばらく間をおいてから、こう付け加えた。「だがね、あんたはきっと、ばかげたことだと言うだろうよ」
「あんたには、わたしのほんとうの子を取り戻すことが出来るの、エレン?」とサリヴァン夫人は力をこめて言った。
「もしあんたが、あたしの言うとおりにしてくれればね」とエレン・リーは言葉を返した。「いいかね」。サリヴァン夫人は胸をときめかせながら黙っていた。するとエレンはこう続けた。「大鍋に水をいっぱい張って火にかけ、水が大暴れするまで煮立たせるんだよ。そうしてから、産みたての卵を十二個割り、中身はうっちゃって、殻だけとっておく。それをし終わったら、その殻を煮立っているお湯の中に入れる、そうすれば、あんたはそいつが自分の子供なのか妖精なのか、すぐに分かろうというもんだ。で、揺り籠にいるやつが妖精だと分かったら、火かき棒を真っ赤に焼いて、それをやつの醜い|咽《のど》に突っ込むのさ、そうしてしまえば、やつのために手を焼くこともないだろう、請け合うよ」
サリヴァン夫人は家に帰ると、エレン・リーが言ったとおりのことをやってみた。大鍋を火にかけ、たくさんの泥炭をくべ、そうして、もし水というものが赤く焼けるものなら、確かにそうなったに違いないほど、その水を煮立たせた。
驚いたことに、子供はとても気持よげに、静かに揺り籠の中で横になっていたが、ときどきその目を、寒夜の星みたいにきらりとまたたかせながら、盛んに燃え上がる火や、その上にかかった大鍋の方に向けていた。そしてサリヴァン夫人が卵を割ったり、その殻をたぎる湯の中に入れたりするのを、注意ぶかくしげしげと見つめていた。とうとうその子供は、とても年をとった人のような声でこう尋ねた。「何をしてるの、お母ちゃん?」
サリヴァン夫人は、子供がこうしゃべるのを聞いたとき、夫人自身の言葉を借りるなら、驚きで心臓が咽元まで飛び上がり、危うく息が詰まるところだったそうである。しかし夫人は火かき棒を火に入れるかたわら、この驚きをことばに現わすまいとしながらこう答えた。「|醸造《かも》しているんだよ、坊や」
「何を|醸造《かも》してるの、お母ちゃん?」と、小さな鬼子は言った。こんな年頃でしゃべれるということ自体、あり得ないことだから、この子供が妖精の|取り替え子《チエンジリング》であることは、いまやはっきりしたことだった。
「火かき棒が早く赤くならないかしら」とサリヴァン夫人は思った。だが、火かき棒は大きかったので、熱くなるのに時間がかかった。そこで夫人は、火かき棒が鬼子の咽に突き刺すのにちょうどよくなるまで、話して時をかせぐことに心を決め、今度はこちらから問いかけた。
「あたしが何を|醸造《かも》しているか知りたいかい、坊や?」と彼女は言った。
「うん、お母ちゃん。何を|醸造《かも》しているの?」と妖精は応じてきた。
「卵の殻なんだよ、坊や」とサリヴァン夫人は言った。
「おお」と小鬼は叫んだかと思うと、揺り籠の中に立ち上がり、両手を打ち合わせた。「おれは五百年間この世にいたが、卵の殻を|醸造《かも》すなんてのは、今まで一度も見たことがない」。火かき棒はこのとき芯まで真っ赤に焼け、サリヴァン夫人はそれを握りしめると、猛烈な勢いで揺り籠の方へ向かっていった。が、どうしたものか足を滑らせると、夫人はばったり床に倒れてしまった。火かき棒は手をすり抜け、家の反対側にまで滑っていった。だが、時を移さず立ち上がりざま、揺り籠のほうへ向かい、その中の邪魔なやつを、煮えたぎる大鍋の中へ放り込んでやろうとした。ところが、夫人はそこに自分の子供が、柔らかく丸々とした両腕を枕の上に投げ出し、気持よさそうに眠っているのを見たのだった――子供の顔は、その眠りが一度も破られたことがないかのように、穏やかだった。ただその薔薇色の口だけは、おとなしい乱れぬ呼吸に合わせて動いていた。
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妖精の乳母
[#地付き]エドワード・ウォルシュ
いとし児よ、|黄金《こがね》の揺りかごはお前を|抱《いだ》き、
やわらかな雪のように白い毛はお前を包む、
そよ風が樹々の梢を吹き過ぎるところ、
中空のあずま屋で、わたしはお前の眠りを守る。
シュヒーン、ショー ルロー、ロー!
母親たちが心を痛め悩んでいるとき、
若妻たちが夫と遠く離れているとき、
おお、嘆き悲しむ女たちを淋しさからだと思ってはいけない、
それは時が来て消えゆく妖精のために泣くのだから。
シュヒーン、ショー ルロー、ロー!
輝くわたしの魔法の広間で、
軽々と踊るたくさんの白い雪の足は、
さらわれた娘たち、妖精のお|妃《きさき》たち――
そして妖精の王、み空の妖精の|長《おさ》たちだ。
シュヒーン、ショー ルロー、ロー!
お休みいとし児! わたしはお前をいとおしむ、
お前を生んだ人間の母親にもおとらぬほどに。
わたし達の馬はとても速いみごとな馬、
妖精の群れの足音が高く響く所を走りゆく。
シュヒーン、ショー ルロー、ロー!
お休みいとし児! やがてお前のその眠りは、
不思議な「|妖精の楽の音《キヨル・シー》」で醒めるだろう、
そよ風が樹々の梢を吹き過ぎるところ、
中空のあずま屋で、わたしはお前の眠りを守る。
シュヒーン、ショー ルロー、ロー!
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ジェミー・フリールと若い娘――ドニゴールの物語
[#地付き]レティシア・マクリントック
ずっと昔、ファネット村の奥に、ジェミー・フリールとその母親が住んでいた。ジェミーはやもめの母親にとって、暮らしを支えるたった一人の男だった。その屈強な腕は疲れることなく働き、土曜の夜が来るたびに、その稼ぎを母親の膝の上にあけ、タバコ銭にと返してくれる半ペンスにきちんとお礼を言っていた。
ジェミーは多くの隣人から、今まで見たことも聞いたこともない孝行息子だと賞められていた。だが、自分のことを何と言っているか分からない隣人たちもいた――その隣人とは、とても近くに住んでいるのに見たこともなく、|五月の聖夜《メイ・イヴ》や|万聖節《ハロウイーン》の夜のとき以外は、めったに人間の目に見えることのないといった隣人である。
彼の小屋から四分の一マイルほどのところにある荒れた古城が、〈|小さな人々《ウイー・フオーク》〉の棲み家だと言われていた。万聖節の夜のたびに、その古びた窓からは光が漏れ、道行く人々は城の中で、小さな人影がちらちら行ったり来たりするのを見たり、また|笛《パイプ》や|横笛《フルート》の|音《ね》を耳にしたりした。
妖精たちのお祭り騒ぎが行なわれていることはよく知られていたが、誰一人として、そこに出かけてゆくほど勇気のある者はいなかった。
ジェミーはよく遠くから小さな人影を見たり、うっとりするような音楽に耳を傾けては、いったい城の中では、どんなことが行なわれているのだろうか、などと思いを馳せていたが、ある|万聖節《ハロウイーン》の夜のこと、寝床から起き上がって帽子をつかむと、母親にこう言った。「運を試しにお城まで行って来ます」
「何だって!」母親は叫んだ。「あそこに行こうってのかい? おまえは、この哀れな後家のたった一人の息子なんだよ! お願いだから、そんな向こう見ずの馬鹿はよしとくれ、ジェミー。あの連中はきっとおまえを生かしちゃおかないよ。そうなったら、あたしゃ、どうしたらいいんだい?」
「心配ないですよ、お母さん、なんにもまずいことなんか起こりっこありませんよ。どうしても行かなきゃならないんです」
ジェミーは家を出ると馬鈴薯畑を横切り、城の見えるところまでやってきた。城の窓は燃えるように明るく輝き、その光はまだ野リンゴの枝に残っていた枯れ葉の赤さを金色に変えていた。
廃墟の片側にある木立の中に立ち止まって、|小妖精《エルフ》たちの浮かれ騒ぎに耳を傾け、その笑い声や歌声を聴くと、前にもまして彼は先へ進もうという決意を固めるのだった。
たくさんの小人たち、その中の一番背の高いのは五歳の子供ぐらいだったが、|横笛《フルート》やバイオリンの音楽にあわせて踊っており、ほかの者たちは、酒を飲んだり、ご馳走を食べたりしていた。
「ようこそ、ジェミー・フリール、いらっしゃい、ジェミーさん!」と一同は、お客が入ってくるのを見ると大声で言った。城の中にいた者が、みんな、口々にそう言うものだから、「ようこそ」は何度も何度も繰り返された。
時が流れ、ジェミーはとても楽しんでいたが、やがてもてなし役の妖精がこう言った。「わたしらは今夜、若い娘を盗みにダブリンまで乗りつけるんですが、どうです、ジェミーさん、いっしょにいらっしゃいませんか?」
「ああ、いいですとも!」と冒険に飢えたこの若者は、向こう見ずにも言い放った。
一群れの馬が扉のところに立っていた。ジェミーが跨がると、馬は彼を乗せたまま空中に上がっていった。いまや母親の小屋の上を|小妖精《エルフ》の一団に囲まれて飛んでゆき、人々が胡桃を焼いたりリンゴを食べたりで、|万聖節《ハロウイーン》の夜を楽しく過ごしているときに、この一行は険しい山々や低い丘、深いスウィーレー湖、それに町々や家々の上を飛んで、ずんずん進んでいった。ダブリンに着く前に、自分たちはアイルランドをひと巡りしてしまうのではないかとジェミーには思われた。
「ここはデリーだ」と妖精たちは大聖堂の塔の上を飛びながら言う。すると一人の言ったこの言葉を残りの者たちみんなが繰り返し、終いには、五十の小さな口がいっせいに叫び出す。「デリーだ! デリーだ! デリーだ!」
こんなやり方で、ジェミーは道々飛び過ぎる町の名を知らされていたが、とうとう誰かが銀のようによく響く声でこう叫ぶのを聞いた、「ダブリンだ! ダブリンだ!」
妖精たちがその来訪の栄誉を与えようとしていたのは、みすぼらしい家などでなく、それどころか、ステーブンズ・グリーン街で、最もりっぱな家の一つだった。
一行が窓のそばに降り立つと、ジェミーは、素晴らしい寝台の枕に横になっている美しい顔を見た。
その若い娘が持ち上げられて運び去られ、娘のいた寝台に置かれた木の棒が、娘そっくりの形になるのを彼は見ていた。
一人の乗り手が自分の前に娘を置いてしばらく運んでから別の者に渡し、前のように町の名前がいくつも大声に名乗られていった。
一行は自分たちの棲み家に向かっていた。ジェミーは「ラスモラン」とか、「ミルフォード」とか、「タムニー」とかの名前を聞き、自分の家の近くに来ていることを知った。
「みんなひとわたり娘さんを運んだようだから」と彼は言った。「どうだろう、こんどはしばらく、おれが引き受けようじゃないか」
「おお、ジェミー」と一同は嬉しそうに答えた。「確かに、こんどはあんたが娘を運ぶ番だ」
お目当てのものをしっかりと抱きかかえると、ジェミーは母親の小屋の戸口目がけていっさんに降りていった。
「ジェミー・フリール、ジェミー・フリール! まったくなんてことをしやがるんだ!」と、妖精たちは叫びながら戸口の近くに降りてきた。
ジェミーはしっかり抱きかかえてはいたものの、自分が何を持っているのか分からなかった。というのも、妖精たちは、娘を考えつく限りの奇妙な形に変えてしまうからだった。一時、娘は吠え立てて噛みつこうとする黒犬だった、すると今度は、熱くはなかったが赤く焼けた鉄の棒に、それからもう一度、毛の大袋に変わっていた。
しかしジェミーはそれでも娘をかかえていた。そして妖精たちの中で一ばん背の低いちっちゃな女が、「ジェミー・フリールはあたしたちから娘を取ったけど、そんなことなんにも娘のためになりゃしない。あたしが娘を聾で唖にしてやるからね」と言って何かを娘に振りかけるのを見届けると、裏をかかれた妖精たちは、くるりと背を向けて行ってしまった。
妖精たちが気落ちして馬で去ってゆくのを尻目に、ジェミーは|閂《かんぬき》をあけて中に入った。
「ジェミー、おまえかい!」と母親は叫んだ。「一晩中帰ってこないなんて、あの連中はおまえに何をしたのかい?」
「何も悪いことなどしやしませんよ、お母さん、おれは幸運の中でも、まさに最高のやつをつかんだんですよ。ほら、お母さんの友だちになればと思って、この美しい娘さんを連れてきたんです」
「おや、まあ、どうしよう!」と母親は叫んだが、あまりにも驚いてしまったので、しばらくはこのほかに何を言ったらいいのかまるで分からなかった。
ジェミーはあの晩の冒険のことを語り聞かせ、話の最後をこう結んだ。「まさかお母さんだって、この|娘《こ》がやつらに襲われて、永久に連れていかれてしまうのを、黙って見てろとは言わないでしょうね?」
「でも、いいとこの娘さんなんだよ、ジェミー! いったいそんな娘があたしらみたいな粗末な食べ物を食べて、こんな貧乏暮らしをしていけると思うのかい? え、答えてごらんよ、考えなしだね、お前は」
「分かってますよ、お母さん。ですがね、この|娘《こ》にしてみれば、あっちへ連れていかれるより、ここにいたほうがずっとましに違いないんです」。そう言いながら、彼は城の方角を指さした。
一方、聾で唖の娘は、薄い着物しか身に着けていなかったので寒さに震えはじめ、ささやかな泥炭の火の方に歩み寄った。
「可哀そうに、この|娘《こ》はおとなしくて美人だね! なるほどあの連中が目をつけるのも無理はないよ」と年老いた女は、自分の家の客に憐れみと賛嘆のまなざしを向けながら言った。「まず、着物を着せてやらなくちゃ。でも、いったいぜんたい、この|娘《こ》に着せておかしくないようなものがあるかしらね」
母親は「お部屋」の箪笥へ行って、日曜に着る茶色い毛織りの長い上着を出し、それから引き出しをあけて、雪のように白い上等のリンネルで作った長靴下と、自分の「死に装束」と思っていた帽子を取り出した。
こうした衣装類は、いつか自分が主要な役割を務めることになる悲しい儀式のために、長いあいだかかって準備したもので、ただ時たま、虫干しのときだけ、日の光に当てられるものだった。しかしこうしたものさえ母親は、この震えている美しい娘に自分から進んであてがおうとした。娘のほうは、おし黙って悲しみに沈んでゆきながらも、探るような目を母親からジェミーへ、そしてジェミーから母親へと向けていた。
可哀そうな娘は、されるがままに着物を着せてもらうと、暖炉の隅にある「|低い腰掛《クリーピー》」に腰をおろし、両手に顔を埋めてしまった。
「おまえさんのようないい娘さんを養っていくには、いったいどうすればいいだろうね?」と年老いた女は言った。
「おれが二人のために働くよ、お母さん」と、息子は答えた。
「それに、どうして、いいとこの娘さんが、うちの粗末な食べ物で生きていけるっていうんだい?」と彼女は言いつのった。
「おれがあの娘のために働くよ」と、これ以外にジェミーには答えようがなかった。
そのことばに嘘はなかった。若い娘は長い間ひどく悲しんでばかりいて、幾晩も幾晩も、母親が火のそばで糸を紡ぎ、ジェミーが少しでもこの客に楽をさせようと、覚えたばかりの鮭網作りをしているときなど、涙がその頬を伝って流れ落ちるのだった。
しかし娘はいつも優しく、自分を見ている目を感じたときは、微笑みを返そうとし、そして次第に、親子の暮らし方に自分をあわせていくようになった。ほどなくして娘は豚に餌をやり、馬鈴薯をつぶし、鳥の料理を食べ、青い|梳毛《そもう》の靴下を編むようになった。
そうして一年が過ぎ、再び|万聖節《ハロウイーン》の夜がめぐってきた。「お母さん」とジェミーは帽子をかぶりながら言った。「古い城まで、運をためしに行ってきます」
「気でも違ったのかい、ジェミー!」と母親は恐れをなして叫んだ。「去年、あの連中にあんなことをしたんだよ、今度こそ殺されるに決まってるじゃないか!」
ジェミーは母親の心配をたいして気にかけず出かけてしまった。
野リンゴの木立に着いたとき、彼は城の窓が以前と同じように明るく輝いているのを見、大声にしゃべり合う声を聞いた。窓の下に忍び寄って、その〈|小さな人々《ウイー・フオーク》〉の話し声に耳を傾け「去年のこの晩には、ジェミー・フリールのやつがきたないまねをしやがって、すてきな若い娘をおれたちから盗んでいったっけなあ」
「そうだよ」とちっちゃな女が言った。「でもね、あたしが罰を与えておいたよ、だって、そら、娘は口もきけないで、暖炉のそばに|木偶《でく》のように坐ってるんだからね。それに、やつはあたしがいま手に持っているこの杯の中身が三滴あれば、娘がまた聞いたりしゃべったり出来るようになるってことも知らないんだからね」
ジェミーの心臓は、その広間に入ってゆくとき、小刻みに打っていた。今度もまた彼は一同の「ようこそ」という合唱に迎えられた。「おや、ジェミー・フリールが来たぞ、いらっしゃい、ようこそジェミー!」
騒ぎが収まるとすぐあのちっちゃな女が言った、「ジェミー、あんたはあたしの手からこの杯を受け取って、あたしらの健康のために飲んでくれなきゃいけないよ」
ジェミーはその女から杯をひったくると、一気に戸口までつっ走った。どこをどう走ったのかまったく分からなかったが、ともかく自分の小屋に着き、息を切らして暖炉のそばの石の上にどっかと腰をおろした。
「可哀そうにね、きっと今度こそ殺されるような目に会ったんだろうね?」と、母親が言った。
「いいえ、とんでもない! 今度のほうがずっとついてるんですよ」。そう言って、馬鈴薯畑を気違いのように走ってきたにもかかわらず、まだ杯の底に残っていた三滴の雫を、娘に飲ませた。
娘はしゃべりはじめた、最初に言ったのはジェミーへの感謝のことばだった。
小屋に住んでいたこの三人には、互いに伝え合うことがじつにたくさんあったので、一番鶏が鳴き、妖精の音楽がぱったりと絶えてからも、長いこと火を囲んで語りつづけた。
「ジェミーさん」と娘が言った。「どうか紙とペンとインクを下さいな。わたし、お父様に手紙を書いて、わたしがどうしているか知らせてあげたいんです」
娘が手紙を書いてから一週間が過ぎたが、返事はなかった。何度も何度も書いてみたが、それでも返事は来なかった。
とうとう娘はこう言った。「ジェミー、ぜひわたしをダブリンへ連れていって、いっしょにお父様を探して下さいな」
「おれには金がなくて、あんたを乗っけてゆく馬車を雇えないんだよ。それに、歩いてダブリンまで行くなんて、あんたには出来っこない」と彼は答えた。
だが、娘があまり一生懸命に頼むので、ジェミーは二人で出かけることを承諾し、ファネットからダブリンまでのはるかな道のりを歩いていった。それは妖精の旅のように楽なものではなかった。しかし最後には、ステーブンズ・グリーン街にある家の戸口の前に立ち、二人はその呼び鈴を鳴らした。
「お父様に、娘が帰ってきたとお伝えしておくれ」と、娘は扉を開けた召使いに言った。
「お嬢さん、ここにお住いの旦那様には娘さんなぞいませんよ。|先《せん》には一人いらしたけど、一年ばかり前にお亡くなりになったんです」
「サリヴァン、わたしが誰だか分からなくて?」
「残念ですが、お嬢さん、分かりませんね」
「旦那様に会わせてちょうだい、会ってもらうだけでいいのよ」
「なるほど、それくらいなら、してあげないこともない。まあ、一応はお聞きしてみましょう」
ほどなくして娘の父親が戸口のところにやってきた。
「懐かしいお父様、わたしに見覚えがございませんか?」と、娘は言った。
「わしを父親呼ばわりするとは、いったいどういう了見だ」と、怒った老紳士は大声で言った。
「おまえは人の名を|騙《かた》るペテン師だ。わしには娘なぞないのだ」
「お父様、わたしの顔をよくご覧下さい。そうすればきっと、わたしを思い出しますわ」
「わしの娘は、もう死んで埋葬されてしまった。あの|娘《こ》はずっと、ずっと前に死んでしまったのだ」。老紳士の声には怒りが消え、代わって悲しみが表われていた。そして最後に、「さあ、もう行って下さい」と言った。
「待って! お父様、わたしが指にはめているこの指輪を見て下さい。お父様のお名前と、わたしの名前がここに刻まれているでしょう?」
「まぎれもなくわしの娘の指輪じゃ。どうしておまえがこれを手に入れたかは知らんが、いずれまともなやり方ではあるまいな」
「お母様をお呼び下さい。お母様なら[#「お母様なら」に傍点]、きっとわたしをご存じのはずですわ」と、可哀そうに娘は、この時にはもうひどく泣きだしながら言った。
「可哀そうなわしの妻は、やっと悲しみを忘れはじめ、今ではもうほとんど娘のことは口にせぬ。死んでしまった者のことを思い出させて、どうしてまたあれを悲しませなければならんのだ?」
しかし若い娘は引きさがろうとはせず、とうとう母親が呼びにやられることになった。
「お母様」と、娘は老婦人が戸口に近づくと口をきった。「あなたの娘がお分かりになりませんでしょうか?」
「わたくしには娘なぞございません。わたくしの娘はずっと、ずっと前に、死んで埋葬されてしまいました」
「さあ、わたしの顔をよくご覧になって、そうすればきっとわたしを思い出しますよ」
老婦人は頭を振った。
「すっかりお忘れなのね、それなら、この首のほくろを見て、ねっ、お母様、今度こそ、わたしが誰だかお分かりでしょう?」
「そう、そう」と母親は言った。「わたしのグラシーにも、首のところにそんなほくろがありましたっけ。でもわたしは、あの|娘《こ》が棺に入れられて、蓋が閉められるのを見てるんですよ」
今度はジェミーが話す番だった。彼は妖精たちが旅をして若い娘を盗んで、その寝ていたところに|人型《ひとがた》を置くのを見たこと、彼女がファネットで自分の母親といっしょに暮らしていたこと、それからこのあいだの|万聖節《ハロウイーン》の夜に手に入れた三滴の雫が、彼女を魔法から解いたことなどを物語った。
ジェミーが話しおえると、娘がそのあとを引きつぎ、どんなに彼ら親子が自分に親切だったかを語った。
どんなことをしたところで、両親はジェミーに十分お礼することは出来なかった。両親たちはあらゆる特別のもてなしをし、そしてジェミーがファネットへ帰りたい、と言いだすと、自分たちの感謝の気持をどう表わしたらいいか分からないと言った。
だが困ったことが持ち上がった。娘はジェミーが自分を残して行ってしまうのをどうしても許そうとしなかったのだ。「ジェミーが行くなら、わたしもまいります」と娘は言った。「この人はわたしを妖精たちから救ってくれて、今までずっとわたしのために働いてくれたんです。この人がいなかったら、ねえ、お父様、お母様、お二人とも、二度とわたしの顔を見ることがなかったのよ。この人が行くなら、わたしもまいります」
娘がこう決心してしまったので、老紳士はジェミーに自分の義理の息子になってくれないか、と言った。四頭立ての馬車をやって母親をファネットから迎えると、盛大な結婚式が催された。
彼らはみなダブリンにある大きな屋敷でいっしょに暮らし、ジェミーは義父の死んだあと、莫大な財産を相続した。
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盗まれた子供
[#地付き]W・B・イエイツ
スュリッス森の高原の
岩山ふかい湖に、
木の葉の茂る島がある、
白鷺羽根を拡げれば、
まどろむ鼠の目をさます。
そこに隠した妖精の|樽《たる》は、
いちごがいっぱい、盗んできた
真っ赤な桜んぼもあふれてる。
こちらにおいで! おお人の子よ!
いっしょに行こう森へ、|湖《うみ》へ、
妖精と手に手をとって、
この世にはお前の知らぬ
悲しい事があふれてる。
月の光の波に照る
ほのかに暗い砂の上、
遠いはるかなロセッスで、
夜どおし踏むは足拍子
揺れる昔の踊り振り、
手に手をつなぎ見交して、
月が隠れてしまうまで、
あちらこちらへとび跳ねながら、
空っぽの泡を追いかけまわす。
この世は辛いことばかり、
心配事で眠れもしない、
そんな嘆きはよそにして。
こちらにおいで! おお、人の子よ!
いっしょに行こう森へ、|湖《うみ》へ
妖精と手に手をとって、
この世にはお前の知らぬ、
悲しい事があふれてる。
カー谷見下す小山から
溢れ流れる湧き水は、
|藺草《いぐさ》の中に溜り水、
星さえ顔をのぞかせぬ、
そこにまどろむ鱒たちの
耳に口寄せ囁いた、
不吉な夢を鱒は見る、
|羊歯《しだ》からそっと身を出して、
涙の露をはらはらと、
羊歯は落とした新川に。
こちらにおいで! おお、人の子よ!
いっしょに行こう森へ、|湖《うみ》へ
妖精と手に手をとって、
この世にはお前の知らぬ
悲しい事があふれてる。
その子は真面目な眼付きをし、
妖精たちとやってくる、
暖かな小山の原で鳴く牛も、
炉棚でやかんがうたう歌も、
平和なこうした歌声を二度と聞くまい、
茶色の鼠が麦びつを、
くるくる廻る姿さえ二度と見るまい、
その子は来たのだ、人の子は、
森へ、そして|湖《うみ》へ、
妖精と手に手をとって、
この世にはその子の知らぬ、
悲しい事があふれてる。
[#改ページ]
メロウ
メロウ(アイルランド語では、〈|Moruadh《モルーア》〉あるいは〈|Murr徃hach《モルーハ》〉と書き、"|muir《ムイール》"((海))"|oigh《オーイ》"((娘))という二語からきている)は、荒れた海岸に割合によく現われると言われている。漁師たちはメロウたちを見るのを好まない、というのはそのあと、必ず大風が吹くからである。男のメロウは、(こんな言い方はおかしいかもしれぬ――だがわたしはメロウという語の男性形を聞いたことがない。)歯が緑で髪も緑、目は豚のようで鼻は赤いが、女のほうは美しく、魚のような尾をもち、指の間にはアヒルのような水かきがある。時折、女のメロウたちは、いささかけしからぬことだが、海にいる自分たちの恋人よりも、見た目に美しい漁師の方を好きになってしまう。前世紀にバントリーの近くに、魚のように全身が鱗でおおわれた女がいたが、その女はこうした結婚から生まれたのだと言われている。ときどきメロウは海から上がってきて、小さな角のない牝牛の姿を借りて海岸をさ迷い歩く。メロウ本来の姿をしているときには、"|cohullen《コホリン》|《・》|druith《ドウリユー》" と呼ばれる帽子を被っているが、その帽子はたいてい羽でおおわれている。これが盗まれてしまうと、メロウたちは二度と海の中に潜ってゆけない。
赤という色は、どこの国でも魔法を表わす色であり、また太初からずっとそうであった。妖精や魔術師の帽子は、ほとんどつねに赤である。
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魂の籠
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
ジャック・ドハティはクレア地方の海岸に住んでいた。ジャックは父や祖父の後を受けて、同じように漁師の仕事をしていた。先祖たちと同じように彼もまた一人で(妻はいたが)、まったく同じところに住んでいた。人々はなぜドハティの一族が、誰一人寄せつけようとせず、散在する巨岩の間の荒れる海のほかは何一つ見えない、ああした荒涼たるところで暮らしたがるのか、とよく首をひねったものだ。しかし、この一族にしてみれば、それはちゃんとしたわけがあってのことだった。
そこは、人が豊かに暮らしてゆけるこの海岸のたった一つの場所だった。こぢんまりとした小さな入江があり、そこにボートをつないでおけば、巣にうずくまる鳥のようにどこへも行かなかったし、それにこの入江からは、水に隠れた岩棚が、外海のほうにまで延びていた。さて、例によって大西洋に嵐が荒れ、強い西風が岸を目がけて吹きつけると、高価な荷を満載した何隻もの船が、この岩に打ちあたっては、粉々になる。すると、綿やタバコの|梱《こり》とか、ワインの樽やラム酒の大樽、それにブランデーを入れた箱やジンの小樽などが、岸辺に流れてくるのだった! ドハティ一族にとってこのドゥンベッグ湾は、ちょっとした地所も同様だったのである。とはいえ、もしも遭難した水夫が運よく岸までたどり着いたようなときには、一族の者は親切に温かく世話をした。そして本当のところ、ジャックは何度も、小さなコラー(これは、正直なアンドリュー・ヘネシーが描いた救助船とはいささか違ったものだが、まるでカツオ鳥のように敢然と大波に向かってゆく)に乗り、難波した船乗りを助けようと、手を差し延べていた。だが、船が粉々に砕けて乗組員もみな死んでしまったときには、目についたものをみんな拾ったからといって、誰がジャックを責められようか?
「こんなことしたからって、いったい何が悪いんだね? 王様にしたって、おっと失敬、あのお方が海に浮かんでるものを取ろうとしないのは、そんなことをしなくても、今のままで充分金持ちだからってことは分かり切っていることさ」と、彼は言っていた。
ジャックは、こんな人里離れた暮しをしているのに、気立てのよい陽気な男だった。他の者だったら、ビディー・マオニーをエニスの真ん中にある楽で居心地のよい父親の家から連れ出して、何マイルも引っぱってきたあげくのはてのお隣さんがアザラシやカモメばかりという、こんな岩だらけのところに住まわせることなど、きっと出来なかったに違いない。しかしビディーはジャックが女を幸福にし、楽をさせてくれる男であるのを知っていた。というのも、|魚《さかな》のあがりは別にしても、ジャックの持ち物は、入江に流れつく「神の賜物」のおかげで、このあたりの紳士連の半分ほどになっていたからだ。なるほどビディーの選択は、誤っていなかった。なぜなら、ドハティ夫人はどんな女よりいいものを飲み食いして長く眠り、日曜の礼拝堂では、誰よりも晴れがましい装いをしていたからである。
容易に想像がつくことだが、ジャックはたくさんの奇妙なものを見たり、何度も耳なれぬ音を聞いたりしていたが、一度たりとも臆したりはしなかった。そんな彼が、およそメロウだとか何だとかを恐がるはずはなく、何よりもまず心に懸っていた彼の|願望《のぞみ》は、はっきりとメロウを見届けることだった。ジャックはメロウがふつうのキリスト教信者たちにとてもよく似ており、また知り合いになれば必ずいいことがある、ということを聞き知っていた。だから、霧の衣を身につけて水の面をかすめてゆくメロウを、決してぼんやりと見過ごしたりはせず、まっすぐにその後を追うのだった。何度もビディーは彼女なりのやさしいやり方で、ジャックが一日じゅう海にいながら、一匹も|魚《さかな》を持ち帰らないことに小言を言った。可哀そうにビディーは、ジャックがどんな魚を追っかけているのか知るよしもなかったのだ!
メロウが海老みたいにうようよいるところに住んでいながら、面と向かって一度もその姿を見たことがないのは、ジャックにしてみればかなり腹立たしいことだった。それ以上にしゃくにさわるのは、父もおじいさんも、メロウをちょくちょく見かけていたことである。それに一族のうちで最初にこの入江に居を定めたおじいさんが、とてもメロウと親しくなり、司祭を怒らせてはいけないので、メロウを自分の子供の一人にしていたといういきさつを、子供のころ聞いた覚えすらあった。だがこの話は信じていいのかいけないのか、ジャックにはよく分からなかった。
だがとうとう、運命の女神は、ジャックも父や祖父が知っていたことを同じように知るのは良いことだ、と考えはじめた。そういうわけで、或る日のこと、彼が岸辺に沿って北に向かい、いつもより遠くまで歩き回り、ちょうど方向を変えようとしたとき、何か今までに見たこともないようなものが、やや海を隔てた岩の上に腰かけているのが目についた。遠くから見た限りでは、その体は緑色で、とても考えられないことだが、確かに手につばのある三角帽子(コホリン・ドゥリュー)を持っていた。ジャックは目を見張り、小首をかしげながら半時間ほどそれを見つめて立っていたが、その間じゅう相手は手も足も動かさなかった。とうとうジャックは我慢しきれなくなり、鋭く口笛を吹いたり、呼んでみたりした。すると、メロウ(じつは相手はこれだった)は驚いて立ち上がり、三角帽を頭にかぶりざま、岩を蹴って頭から海に潜ってしまった。
ジャックはいまや好奇心をかき立てられ、休まずに一歩一歩その場所の方へと足を向けた。だが、そんなことをしても、もうちらりともその三角帽をかぶった海の紳士を、見ることは出来なかった。そこで、この出来事をつらつら考えているうちに、とうとう彼には自分が夢を見ていたのだと思えてきた。だが波が山のように盛り上がったあるひどい嵐の日のこと、ジャック・ドハティは、メロウの岩を見にゆこうと心を決めた(というのも、それまでは晴れた日にしか見にいったことがなかったからである)。すると、得体の知れないものが岩のてっぺんで跳ね回り、やがて海に飛び込んだかと思うと岩に戻り、それからまた飛び込むのが見えた。
これからは、ただジャックがその時を見計らって(つまり風の強い日に)来さえすれば、いくらでも気のすむまで、この海の住人を見ることが出来るのだった。しかしこれぐらいのことでジャックは満足しなかった――「たくさん貰えば、もっとたくさん欲しくなる」というわけだ。いまや彼の望みは、メロウと知り合いになることだったが、それもうまくいった。ある恐ろしく風の強い日に、ジャックがメロウの岩が見える方へと向かってゆくと、折しも嵐がすさまじい勢いでやってきたので仕方なく、彼は海岸沿いにたくさん並んでる洞穴の一つに身を隠すことにした。中に入ってみると、何と驚いたことに、彼の目の前に、緑の髪と緑の歯、赤い鼻と豚の目をしているものが坐っていたのだ。それは魚の尾をつけており、脚は鱗でおおわれ、腕は鰭のようで短かった。服も着ないで、三角帽子を小脇にかかえ、見たところ、何かとても深刻に考えつめているふうだった。
いくら勇気のあるジャックでも、さすがに少しひるんでしまった。しかし今を逃してはもう二度と機会はないと思い、腹をすえると思案顔の|魚人《フイシユ・マン》のところへ歩いてゆき、帽子を取って、かつてないほど深々とおじぎをした。
「ごきげんうるわしゅう」とジャックは言った。
「やあ、ごきげんよう、ジャック・ドハティ」とメロウは答えた。
「何てことだ、まあ、よくあなた様はわたしの名前をご存じですね!」とジャックは言った。
「わしがおまえの名前を知らないわけないだろう、えっ、ジャック・ドハティ。それどころか、わしはおまえのおじいさんを、おばあさんのジュディー・リーガンといっしょになる前から知っておったんだよ。ああ、ジャック、わしはおまえのじいさんが好きじゃった。生きてる時分には、まったく大した男だった。貝殻に注いだブランデーの飲みっぷりの良さといったら、陸にも海にも、あれほどの男は後にも先にも見たためしがなかったわい。望むらくは、なあ、おまえ」と老人は言って、いたずらっぽく目を輝かした。「望むらくは、おまえがあの人の孫にふさわしい男だといいのだが!」
「なに、ご心配には及びませんよ」とジャックは言った。「もしおふくろのおっぱいがブランデーだったら、おれは今の今まで乳飲み子のまんまでしょうよ」
「うむ、わしはおまえのそんな男っぽい話しっぷりが気に入ったよ。わしとおまえはもっとよく知り合いにならなきゃならん。おじいさんのよしみってこともあるしな。だがジャック、おまえのおやじのほうはどうもいただけなかったな。あの男は、まったく頭が空っぽだった」
「あなた様は水の中に住んでおいでですが」とジャックは言った。「あんな住みづらく湿っぽい、冷えるところで体をあったかくしておくには、きっと強い酒を飲んで力をつけなくちゃならんのでしょうな。ところで、よく人が使う言い方に、魚のように飲むってのがあるんですが、失礼でなかったら、みなさんがどこで酒を手に入れるのか教えてもらえませんかねえ」
「そう言うおまえはどうやって手に入れているのかね、ジャック」とメロウは言うと、親指と人指し指でその赤い鼻をつまんだ。
「そうだったのか」とジャックは叫んだ。「なるほど、分かりました。ですが、下じゃあ、酒をしまっておくにも、りっぱな水の入ってこない貯蔵室がいるでしょうね?」
「貯蔵室のことは聞かんでくれよ」とメロウは意味ありげに左目を閉じて言った。
「そいつあ、きっと」とジャックは続けた。「一見の価値はありそうですね」
「まあそういったところだよ、ジャック」とメロウは言った。「もし、次の月曜に今日ときっかり同じ時刻にここに来てわしと会うなら、そのことについて、もうちょっと話し合おうじゃないか」
別れるときには、ジャックとメロウはこの世にまたとない友人同士になっていた。月曜に二人は会った。そしてジャックはメロウが二つの三角帽子を、両脇に一つずつかかえているのを見て、少なからず驚いた。
「お聞きしてもかまいませんか?」とジャックは言った。「どうしてあなた様は、きょう二つ帽子を持っておいでなのです? まさか珍品[#「珍品」に傍点]としてとっておくようにと、一つくれるってわけじゃないでしょう?」
「いや、やりはしないよ、ジャック」とメロウは言った。「この帽子はそうやすやすと手に入るもんじゃないんだ、だからそんなことでは手放したりはせん。おまえに下に来てもらっていっしょに食事をしようと思ってな。それでわしは、おまえの潜水のためにこの帽子を持ってきたのじゃ」
「主よ、われらを守りて救いたまえ!」とジャックは驚いて叫びをあげた。「塩からい水に潜って、海の底まで行ってほしいって言うんですか? 水の中じゃ息が詰まって、溺れてしまうに決まってるじゃありませんか! そんなことになったら、可哀そうにビディーはどうなるんです。あれは何て言うでしょうね?」
「あの女が何と言おうと知ったことか、えっ、この臆病者。ビディーが泣きわめいたところで、それがどうしたっていうんだ? 昔、おまえのおじいさんはそんなことを言わなかったぞ。何度もあの人はこれと同じ帽子をかぶって、ものおじせずにわしの後から海に潜り、そして水の中で何度も二人はいっしょに充分な食事をとり、貝殻にブランデーを注いでは、たらふく飲んだものだった」
「ほんとうですか、ええっ、冗談は抜きですよ」とジャックは言った。「まっ、そういうことなら話は別だ。おれがじいさんよりきっぷが悪いとなった日にゃ、これからずっと恥ずかしい思いをすることになるんだからな。さあ、行きましょう――ですが、冗談はいやですよ、こちとら命がけなんだから!」とジャックは叫んだ。
「まったく、おまえはおじいさんそっくりだよ」と老人は言った。「それでは出かけるとするか。いいか、わしのするとおり真似するんだぞ」
二人は洞穴を出ると歩いて海に入り、岩のところまで少し泳いだ。メロウは岩のてっぺんに登り、ジャックはその後についていった。岩の反対側は家の壁のようにまっすぐで、その下の海はまたとても深そうだったので、ジャックは危うく怖じ気づくところだった。
「さて、いいかなジャック」とメロウは言った。「この帽子を頭にかぶって、目を大きく見開いているんだぞ。わしの尾っぽをつかんで後からついてくるんだ。そうすれば、まあ、いろんなものが見られるってわけだ」
そしてメロウは水に飛び込み、その後からジャックも思いきって飛び込んだ。二人はずんずん進んでゆき、ジャックはどこまで行ってもきりがないような気がしてきた。何度も彼は、家にいてビディーと二人、暖炉のそばに坐っていたほうがよかったなと思った。だが、大西洋の波の下へどうやら何マイルも下ってしまった今、そんな願いが何の役に立つだろう? 依然として、ジャックはすべすべしてつかみにくいメロウの尾をしっかり握りしめていた。そしてついに二人は水から抜け出し、じつに驚くべきことだが、たしかにジャックは海の底にある陸地に立っていた。二人は蠣殻でとてもきれいに屋根を葺いた、りっぱな家の正面に着陸したのだ! するとメロウは振り返り、ようこそと彼を先に立てた。
ジャックはその驚きを、またあんなに速く水の中をよぎったときの息切れを、どうやってことばに表わしてよいのか分からなかった。あたりを見回すと、そこにはゆったりと砂の上のあちこちを歩いている数多くの蟹や海老以外、生きてるものは何もいなかった。頭上には、空のように海が横たわり、その中を、魚が鳥のように行き来していた。
「おまえ、どうして黙っているんだい?」とメロウは言った。「おまえさん、まさかこんなところに、これほど居心地のいいちょっとしたところがあろうとは思いもよらなかったろうが? どうだい、息が詰まって苦しいかい? 溺れそうかい? まだビディーのことが気にかかるかい?」
「おお、そんなこたぁありませんとも」とジャックは言うと、いかにも気分よさそうに白い歯を見せて笑った。「しかし、こんなものを見るなんて、まったく考えてもみなかったなあ」
「さあ、こっちへ来なさい。ひとつ今日の献立を見るとしよう」
ジャックはとても空腹だったので、煙突からもくもくと出ている煙の柱に目をとめ、その家の中で何が行なわれているかを知ったときには、少なからず嬉しかった。メロウに続いて家の中に入っていくと、そこには必要なものをちょうどよく取り揃えたりっぱな調理場があった。趣味のいい戸棚や、いくつもの鍋やフライパンが並べられ、二人の若いメロウが料理を作っていた。主人はそれからジャックを部屋の方に通したが、そこはかなりみすぼらしく見えた。中にはテーブルも椅子もなく、坐って食事をするときには、ただ丸太や厚板を使うのだった。だがしかし、暖炉には火が赤々と燃えており、それを見るだけでもジャックの心は和むのだった。
「さあ、おいで、今度はしまってあるところを見せるとしよう――何をだかは分かってるだろう?」とメロウはいたずらっぽい顔つきをして言った。そして小さな扉を開けると、ジャックを地下室へと連れていったが、そこには大小さまざまの樽がいっぱい置かれてあった。
「どうだね、こいつは? ジャック・ドハティ。ええっ、まだおまえさんは、水の下では気持よく暮らせないと思っているのかね?」
「いいや、決して」とジャックは言うと、自分の言ったことをまた噛みしめるように、上唇を一度鳴らした。
二人が部屋に戻ってみると、食事の支度が整っていた。なるほどテーブル・クロスはなかったが、――だが、そんなことはどうということじゃない。ジャックの家でも、いつもテーブル・クロスを敷いているわけではないのだから……。その食事は断食日になら、このあたりで一番の名家で出してもおかしくないものだった。当然のことながら、選りに選った魚料理が出された。ヒラメ、チョウザメ、カレイ、海老、蠣、その他二十種類もの料理が一度に厚板の上に並べられ、そして最高級の外国製|蒸留酒《スピリツト》が、たっぷりと運ばれていた。老人の言うには、ワインは腹が冷えていけないということだ。
ジャックはもうこれ以上は入らないというまで、飲んで食べた。そこでブランデーを満たした貝殻を取り上げて言った。「あなたさまの健康のために……。ところで、こうしてお知り合いになったのに、まだお名前を教えていただいていないのは、失礼ながら、とてもおかしい気がするんです」
「そのとおりじゃ、ジャック」と相手は答えた。「今まですっかり忘れておった。が、遅まきでも、ぜんぜん言わぬよりはましだろう。わしはクーマラという者だ」
「そりゃ、またけっこうなお名前で」とジャックは言うと、また貝殻に酒を満たし、「クーマラの健康のために! さらに五十年、長生きなさいますよう!」
「五十年だと!」クーマラは繰り返した。「いやはや、ありがたいことだ! もしもおまえが五百年と言っていたら、少しは願い事をする気にもなったろうがな」
「何ですって!」とジャックは叫んだ。「この水の下じゃあ、そんなに長生きするんですか! あなたはおじいさんと知り合いだったが、あの人が死んでからもう六十年以上は経っている。きっとここは健康にいい、暮らしやすいとこなんでしょうね」
「そうともさ。が、さあ、ジャック、酒の気の抜けないうちに一杯いこう」
何杯も何杯も、二人は貝の杯を干していった。だが、いくら飲んでも決して酔いがまわらないので、ジャックはひどく驚いた。思うに、これは上の方にある海が、頭をいつもすっきりと冷やしてくれていたからだろう。
クーマラ爺さんはえらくごきげんになって、歌をいくつか唄ったりした。だが、ジャックは命を取るぞと脅されても、これ以上はどうしても思い出せなかった――
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「ラム・ファム・ブードゥル・ブー、
リップル・ディプル・ニッティ・ドォブ、
ダムドゥー・ドゥードル・クー、
ラッフル・タッフル・チッティブー」
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これは或る歌の|繰り返し《コーラス》の部分で、ほんとを言えば、わたしの知る限り誰一人としてこの文句の意味をさぐり得たものはいない。だが、今日では、こうしたことは他のたくさんの歌詞についても同様であるに違いない。
歌も終わると、クーマラ爺さんはジャックにこう言った。「さあて、坊や、わしについてくるなら珍しいものを見せてあげるよ」。そして小さな扉を開け、ジャックを大きい部屋に連れていったが、ジャックはそこでクーマラが折にふれて集めてきたとてもたくさんの半端物を見せてもらった。しかし、とくに彼の注意を引いたのは、壁に沿って地面に置かれた、海老籠のようなものだった。
「どうだねジャック、わしの珍品が気に入ったかね?」と、クー爺さんは言った。
「ほんとうにまあ」とジャックは言った。「見せていただいてとってもありがたいものばかりです。が、失礼でなかったら教えていただきたいのですが、あそこにある海老籠のようなものは何なのですか?」
「おお、あれか、あれは魂の籠さ」
「何ですか、そりゃ?」
「わしは魂をここにある籠に入れておくのさ」
「ええっ! 何の魂ですって?」と、驚いたジャックは言った。「魚は魂を持っていないじゃありませんか」
「おお、むろんそうじゃ」と、クーは冷静に言った。「魚に魂はない。が、あそこに入っているのは、溺れ死んだ船乗りの魂なんだ」
「主よ、われらをすべての災いから守りたまえ!」とジャックは呟いた。「いったいぜんたいどうやってそれを手に入れたんです?」
「なに、わけはない。ひどい嵐になりそうな時に、ただこいつを十ばかし置いておくのだ。やがて船乗りが溺れ死に、魂が水中でその体から離れるのだが、可哀そうに魂は寒さに慣れていないから、ほとんど死にそうになってしまう。そこで寒さを避けようとわしの籠に入ってくるのさ。で、わしは魂が気持よくしていられるように、|家《うち》に連れてくるわけさ。哀れな魂にしてみれば、こんなすてきな宿にいられるのは、ありがたいことじゃないのかね?」
ジャックは雷に打たれたようになってしまい、言うべきことばが見つからぬまま黙っていた。二人は食堂へ戻り、さらに極上のブランデーを重ねたが、ジャックはもうずいぶん時が経って、ビディーが心配していると思ったので、立ち上がると、そろそろ帰る時間のようだと口を切った。
「好きなようにするがいい、ジャック」とクーは言った。「だが行くまえに、別れの杯をやっていけよ。これから冷たい旅路が待ってるからな」
ジャックは別れの杯を断わるような、ぶしつけなまねはしなかった。
「|家《うち》までうまく辿り着けるもんでしょうか?」と、ジャックは言った。
「心配するこたあない」とクーは言った。「わしが道を教えてやるよ」
二人が家の前に出ると、クーマラは三角帽子を一つ取り出し、前後のつばを横向きにしてジャックの頭にかぶせ、それから水の中に投げ上げようと彼を自分の肩にのせた。
「さあ」と彼はジャックを持ち上げると呼びかけた。「飛び込んだと同じところに上がってゆくからな。そしたら、いいかジャック、忘れずに帽子を投げてよこすんだぞ」
彼は肩に乗ったジャックを、ひょいと放った。するとジャックは泡のようにすいすいと浮いていった。――ひゅう、ひゅう、ひゅっ――ジャックは水をよぎって上がってゆくと、ついに、先ほど自分が飛び込んだ、まさにその岩のところに顔を出した。その岩に登って、帽子を海に投げ込むと、それはまるで石のように沈んでいった。
穏やかな夏の夕べの美しく晴れた空に、ちょうど陽が沈んでゆくところだった。宵の明星がただ一つ、雲のない大空にかすかにまたたき、一面にさし込む|黄金《こがね》色の光を受けながら、大西洋の波がきらめいていた。そこで、すでに遅くなったのを知ったジャックは、家へと向かった。だが家に帰り着いても、彼は自分が一日じゅうどこにいたかを、一言もビディーにしゃべりはしなかった。
海老籠に閉じ込められた哀れな魂の様子を思ってジャックはたいそう心を悩まし、どうしたら魂を自由にしてやれるかを、あれやこれやと考えていた。はじめはこのことを司祭に話してみようと思った。が、司祭にいったい何ができよう。それに司祭の言うことなど、果してクーがきくだろうか? そればかりか、クーは人のいい老人だし、自分が何か悪いことをしているとは思っていないのだ。ジャックはこの老人を尊敬もしていたし、それにもしメロウのところへ食事に行ったことが人に知れたら、彼にとってあまり名誉になることでもなかったろう。つまるところ、一番いいやり方は、クーを食事に呼んで、出来るものなら酔わせてしまい、それから帽子を失敬して海に潜り、籠をひっくり返してくることだった。しかし、とにかく何よりもまず、ビディーをどこかへやっておかねばならなかった。というのも、ジャックは慎重な男だったので、このことを女である彼女には隠しておきたいと思ったからだ。
そういうわけで、ジャックは突然とても信心深くなってしまって、エニスの近くの聖ヨハネの泉へ行って、そのまわりを回ってくるのが、自分たちの二人の魂のためになることだ、とビディーに言った。ビディーもまたそう考えた。そこで彼女は或る晴れた朝、家のことはくれぐれもたのむとジャックに言い置き、夜の明けきらぬうちに出かけていった。岸辺にはもう誰もいなくなったので、ジャックはクーマラにあらかじめ決めておいた合図をしようと、例の岩のところへ行った。その合図とは大きな石を海に投げ入れることで、ジャックがそうすると、クーは素早く現われ出てきた。
「お早う、ジャック」と彼は言った、「何かわしに用かね?」
「なに、取り立ててどうってことはないんでございますがね」とジャックは返した。「ただちょっと、食事に付き合ってもらえないかと思いましてね。まあ、こんなことを申し上げるのは失礼かとも思いましたが、思いきってお願いしてみたんです」
「そいつはとてもありがたいね、ジャック、いや、ほんとうだよ。何時に来ればいいかな?」
「いつでもご都合のよろしい時でいいんですが――まあ、一時ということにしましょう。そうすれば、明るいうちに帰ることもできますから」
「それじゃ後で来よう」と、クーは言った。「きっと来るから心配いらないよ」
ジャックは家に戻ると、高級な魚料理の準備をし、例のことのために、最高の外国酒を、たっぷりと、二十人は酔っぱらわせるほど持ち出した。時間ぴったりに、クーは三角帽子を小脇にかかえてやってきた。食事の支度は整い、二人は席につくと、酒や食べ物を豪快に片づけていった。ジャックは海の底で、籠に入れられている哀れな魂を思いながら、しきりとクー爺さんにブランデーをすすめ、爺さんが食卓の下に倒れることを望みながら、歌うようにと焚きつけたりした。しかし、可哀そうなことに、ジャックは頭を冷やしてくれる海が、今は頭の上にないことを忘れていた。ブランデーの酔いが頭に回り、ジャックはすっかり正体をなくし、クーの方は受苦日の鱈のようにぐんなりとしたこの宴会の主を後に残して、千鳥足で自分の家に帰ってしまった。
ジャックは翌日の朝まで目が覚めず、われに帰ったときは、何やら心が沈んでいた。「あの老いぼれの海賊野郎を酔っぱらわそうなんて、出来ることじゃないんだ」とジャックは言った。「それならいったい、どうすれば海老籠に入れられたあの哀れな魂を助け出すことが出来るんだろう?」。ほぼ一日じゅう思いめぐらしたあげく、ある考えがひらめいた、「そうだ」と言って膝を打った、「あれだけ年を食っていたって、クーのやつはポチィーン酒なんてものは、一度も見たことがないに決まってる。あれを飲ませれば、やつをやっつけることが出来るぞ! おお! それなら、ビディーがまだ戻ってこないこの二日のうちに、もう一度やつをひっかけてみることにしよう」
ジャックが再びクーを招くと、クーはジャックが酒に弱いのを笑い、とってもおじいさんにかなうもんじゃない、と言った。
「ええ、ですが、もう一度試してみて下さいな」と、ジャックは言った。「そうすれば、わたしはあなたが酔っぱらって、それから醒めて、さらに二度目に酔っぱらうまで、飲みつづけてみせますよ」
「おまえがそれほど言うのだから」とクーは言った。「わしに出来ることなら、何でもしよう」
今度の食事では、ジャックは心して自分の酒はかなり水で割っておき、クーには持ちあわせのうちで、最も強いブランデーをあてがった。そうしておいて、とうとう彼はこう言った、「あの、お伺いしますが、ポチィーン酒というのを飲んだことがおありですか? 正真正銘の密造ウィスキーなんですがね」
「いいや」とクーは言った。「それは何だ? どこで作られてるんだ?」
「おお、そいつは秘密です」とジャックは言った。「ですが、ものはいいんです。ブランデーとかラム酒なんかより、五十倍もうまいこと請け合いですよ。ビディーの兄貴が贈物にと、ついこのあいだ少し送ってくれたんです。こっちがブランデーを送ってやったお返しにね。で、あんたはこの|家《うち》の古くからの知り合いだから、ひとつ、ふるまおうと思ってとっておいたんですよ」
「そうか、まっ、どんなもんだか、見てみようか」とクーマラは言った。
そのポチィーン酒は本物だった。それは第一級品で、確かな風味を持っていた。クーは喜んで飲み、何度も何度も『ラム・バム・ブードル・ブー』を歌い、笑ったり踊ったりしていたが、終いには床に倒れて眠ってしまった。それまで|素面《しらふ》でいようと充分に気をつけていたジャックは、それを見ると三角帽子をひったくり、岩のところまで走っていくと、海に飛び込み、そうしてすぐにクーの住居に辿り着いた。
何もかもが、真夜中の墓地のように静まりかえっていた。メロウは、年取ったものだろうと若いのだろうと、一人もそのあたりにはいなかった。ジャックは家に入ってゆくと籠をひっくり返したが、何も見えず、ただ籠を持ち上げたとき、何か口笛か鳥の鳴き声のような小さな音を聞いただけだった。これには彼も驚いてしまったが、やがて司祭がよく言っていたこと、つまり魂はちょうど風や空気のように生きている人間には見えない、ということを思い出した。さて、魂のためにしてやれることはみんなすませてしまったので、彼は籠をもとどおりに並べ、哀れな魂がこれからどこへ行こうとも、安全に旅するようにと祝福の言葉を述べた。それからジャックはどうやって帰ったものかを考えはじめた。前と同じに帽子の前後のつばを横向きにしてかぶり外に出てみたが、見れば水は頭上はるか高くにあり、クーマラ爺さんが自分を持ち上げてくれないことには、どう見てもそこに入っていくことは出来なかった。梯子を探して歩き回ったが見つからず、それに見渡す限りたった一つの岩もなかった。とかくするうち、彼は海がほかのところよりもかなり低く垂れ下がっている所を見つけ、そこから飛び込んでみようと心を決めた。その場所へ行き着いたちょうどそのとき、大きな鱈がたまたまその尾を水の下に突き出した。ジャックは飛び上がってその尾をつかむと、鱈は胆をつぶして一跳ねし、ジャックを上へと引き上げた。帽子が水に触れるやいなや、ジャックはあっという間に引き込まれ、そしてコルクのように素早く浮き上がっていった。鱈から手を放すのを忘れていたので、可哀そうに、魚は尾を先にしてジャックに引っぱっていかれた。ほどなくして例の岩に着き、時を移さず家へと急いだが、ジャックの心は、自分のした善い行ないのために喜びでいっぱいだった。
しかしその間、家ではたいへんなことが持ち上がっていた。というのは、われらのジャックが魂を解放しようと家を出たそのすぐ後に、ビディーが、魂を救おうと出かけていた泉から戻ってきたのだ。彼女が家に入り、食卓の上がめちゃくちゃに乱れているのを目にすると――「何てことなの!」と彼女は言った。「あの人ったら、ほんとにひどい――あんな男といっしょになるなんて、何てあたしは運がなかったんだろう! あの人、あたしがあの人の魂に良かれとお祈りをしているときに、どこかのごろつきを引っぱり込んで、兄さんが送ってくれたポチィーン酒や、それにきっと旦那衆に売らなきゃならないお酒なんかも、みいんな飲んでしまったんだわ」。そのとき、異様な鼻声が聞こえたので彼女が下のほうを見ると、食卓の下に、クーマラが倒れていた。
「聖処女様、わたくしをお守り下さい」と、彼女は叫んだ。「この獣が、ほんとうにジャックなの! そっ、そうだわ、お酒を飲みすぎて獣になった人の話をちょくちょく聞いたことがあったっけ! おお、どうしよう、どうしよう、――ジャック、ねえ、あなた、いったいどうしてあげりゃいいの? それに、あなたがいなくなったら、あたしいったいどうしたらいいの? ちゃんとした女が獣といっしょに暮らしてゆくなんて、考えてみることもできないじゃないの?」
こんな嘆きの言葉を口にしながら、ビディーはどこへ行くあてもなく家を飛び出した。と、彼女は、聞き覚えのある、陽気なジャックの歌声を耳にした。彼が魚とも人間ともつかぬものになってもいず、無事で元気にしてるのを見て、ビディーはとても喜んだ。ジャックは仕方なく何もかも彼女に打ち明け、ビディーは、もっと前に話してくれなかったことをいささか|怒《おこ》りはしたものの、哀れな魂のために、夫がとても良いことをしたのを認めた。二人はしごく打ち解けて家へ戻り、そしてジャックはクーマラを起こし、彼がかなりぼんやりしているのを見てとると、別にしょげることはない、よくあることで、要するにポチィーン酒に慣れていないだけのことなのだから、と言い、頭をはっきりさせるには自分を噛んだ犬の毛を呑むといい、と彼に勧めた。しかしクーは、飲みすぎたと思っているようで、ひどくきまり悪そうに立ち上がり、海の水につかって少し頭を冷やそうと、一言の挨拶もお礼もせず、こそこそと家を出ていった。
クーマラは、魂をなくしたことを気にやみはしなかった。クーマラとジャックはそれからずっと、世にまたとない友人同士であった。おそらく誰も、魂を煉獄から解放するということを、ジャックと同じようには出来ないだろう。というのは、ジャックは、爺さんの知らぬ間にその海の下の家に行き、魂を籠の外に出したことへの、五十もの言いわけを考え出していたからだ。たしかに魂を一度も見なかったことは、ジャックにとって残念なことだったが、そんなことは人間には出来ないと知っていたので、それで満足するよりほかはなかった。
二人の行き来は何年か続いた。しかし或る朝、いつものようにジャックは石を投げたのだが、答えは返ってこなかった。さらに一つ、また一つと投げてみたが、いっこうに返事はなかった。一度そこを離れ、翌朝もう一度来てみたが、無駄だった。ジャックには帽子がなかったから、潜っていって、クーマラがどうしたかを見届けることもできなかったが、この爺さん(あるいは老魚とでも言おうか何と言おうか)は、ともかく死んでしまったか、さもなければこのあたりを去って、よそへ行ってしまったに違いないと思えた。
(画像省略)
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フローリイ・キャンティロンの葬式
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
キャンティロン家の古い墓は、バリーヘイグ湾に浮かぶ島にあった。この島は岸からさしてほど遠からぬところにあったが、ずっと昔、大西洋からケリー海岸のあたりに押し寄せた津波のために、水の下に沈んでしまった。漁師たちは、晴れた午後、澄んだ碧い海に船を走らせているときなど、しばしば水を通して、崩れた礼拝堂の壁が海の中に見えたと言っている。このことの真偽はともかくとして、キャンティロン家が、他のアイルランドの一族と同様に、自分たち一族の古い墓に強い愛着を持っていたことはよく知られている。この愛着は、家族の誰かが死んだとき、その遺骸《なきがら》を海辺へ運び、満ち潮が届くところにその柩を置いておくという習わしを生んだ。朝になると柩は見えなくなっている。人々が信じてきたところによれば、それは死んだ人の祖先が、一族の墓へとその柩を運んでいくのだという。カナール・クロウは、クレア地方の出であったが、婚姻によってキャンティロン家の親類になった。ふだん彼は「ブレントラ七番街、カナール・マックイン・クルーア」と呼ばれており、この名前で呼ばれるのを、当人も得意がっていた。カナールが健康を気づかい、六合余りの塩水を朝食前に飲むことは人々に知られていた。そしておそらく同じ目的のためのようだが、朝食から夜になるまでには、その倍の|生《き》のウィスキーを飲んでいた。そんなことをしていたが少しも身体にさわらず、その点ではモイファータの男爵領に住む他の男たちにひけを取らぬばかりか、クランデラローやイブリカンの男たちを引き合いに出したところで、こう言っても誤っていないと思う。
フローレンス・キャンティロンが死んだとき、カナール・クロウは海の下に古い教会があるという話が、果してほんとうかどうか確かめてみようと心を決めた。そこでカナールは老人の死を知らされると、アードファートまで出かけていった。そこにはフローリイの柩が気高くしつらえられ、遺骸は美しく飾られていた。
フローリイは、若いときどんな人よりも快活で陽気な男だった。その通夜もまた、そうした彼にじつにふさわしいものだった。何やかやと口実をもうけては宴会が催され、楽しみになることは何でもかでも行なわれた。そのうえ、少なくとも三人の娘がそこで婿を取った――ふだんより日がいいというわけなのだ。何もかもがしかるべく行なわれた。あたり一帯、ディングルからターバートまでが喪に服し、弔いの「泣き歌」が長々と悲痛に歌われていた。そして一族の習わしに従って、柩はバリーヘイグの海岸に運ばれ、死者の休息を願う祈りの声のうちに、その浜辺に横たえられた。
弔いの人々は、三々五々立ち去っていき、とうとうカナール・クロウただ一人だけ残ってしまった。そこで、カナールは、彼に言わせれば慰めの雫であるウィスキーの瓶を取り出したが、悲しいときには、これなしではいられないのだ。それから突き出た岩の陰にあって、外からよく見えない大きな石に腰をおろすと、辛抱強く幽霊の葬儀屋たちが現われるのを待った。
日の暮れは穏やかで美しくなっていった。何かいわれない恐怖を追いはらってしまおうとして、彼は子供の頃耳にした古い歌を口笛で吹いた。しかし、その曲の調べは、かえって心をかき立てて数々のことを思い出させ、そしてそのために、夕暮れはただいっそうもの淋しくなったかに思われた。
「おれの今いるのが、もし、懐かしい|故郷《ふるさと》にある、あのダンモアの薄気味悪い塔のそばだったなら」とカナール・クロウは言うと溜息をついた。「城の地下牢でずっと前に殺された囚人たちが、この柩を欲しがって持っていくってこともあるだろうが……、なぜって囚人たちは一人もちゃんと埋葬してもらえず、柩といえるようなものに入っているのは誰もいないのだからな。たしかにおれは、よく嘆きの声や弔いに泣く声が、ダンモア城の地下牢から漏れてくるのを聞いたものだ。だが……」。ここで彼は、無言に自分を慰めてくれる友――ウィスキーの瓶の口に愛をこめて唇を押しつけてから、言葉をついだ。「よく分かってるはずじゃないか、さっきからずっと聞こえているのは、崖や岩の窪みで立ち騒いで、それから泡になって消えてしまう陰気な波の音だってことぐらい……。おお、そうとも、塔を突き立てたダンモア城だ。あれこそ気味悪い日に、気味悪い丘を背にして、気味悪く見えるというものだ。もし人が心に暗い思いを抱いていれば、岸辺で藻を焼く煙も幽霊に見えてしまう。そんな気持のときにあれを見たらば、主よ、われらを救いたまえ。そのときには真夜中の|青人《ブルー・マン》湖のように、恐ろしく見えるんだ。それはそうと……」とカナールはここで一息ついた。「ともかく今日はいい夜じゃないか、まあ、月がひどく青白いことはたしかだが……。聖セナンおん自ら、われらをすべての災いから守って下さるさ」
ほんとうに、その日は美しい月夜だった。暗くかげった岩や、ほの白く見える小石の浜には、ただ波が耳につく陰鬱な呟きを立てながら砕けるだけで、どんな物影もあたりには見えなかった。白い浜に、黒い柩が置かれてあるさまは、確かに荘厳な眺めだった。しだいに彼は、想像の働くままに、海のいつもの深い呻きに、悲しげな死者の泣く声を聞き、岩の窪みに宿った影に、奇妙な幻のかたちを見立てていった。
夜が更けてゆくほどに、カナールは柩を見守っていることに疲れを感じはじめた。一度ならず彼は頭がこっくりと下がったところで目を覚まし、そしてすぐに頭を振ると、黒い柩のほうを見たりした。が、狭苦しい死人の家はどこへも行かず、彼の前に横たわっていた。
真夜中をだいぶ過ぎて、月が海に沈みかけたときだった。海の重々しく空恐ろしい唸りの中に、だんだんとはっきりしてくる何人もの声が聞こえた。彼は耳をすませた。するとほどなく、えも言えぬ、美しい「泣き歌」を聞き分けることができた。その歌声は、波の上下に合わせて起こっては消え、また、波は、その調べに伴奏をするかのように、一体となって深い呟きを発するのであった!
「泣き歌」はしだいに大きくなり、どうやら岸のほうへと近づいてくるらしかった。と、そのとき、それは嘆きに満ちた低いすすり泣きに変わった。その泣き声がやんだとき、ほの暗い光をうけて、不思議な姿をした一団の見慣れぬ人々が海から現われ、柩を取り囲み、それを海に入れようとしているのを、カナールは目のあたりにした。
「こんなことをしなければならんのも、あのお方が地上のやつと結婚なさったからだ」と中の一人が、はっきりはしているが、それでも空ろな調子で言った。
「まったくだ」ともう一人が、さらにぞっとする声で応じた。「王女様のドゥーフラ様が人間の夫の手で、あの島の墓地に埋められていなかったら、王様だって、白い歯をした齧り屋の波にあの岩の根を喰いちぎってしまえ、とは言わなかっただろうにな」
「だがそのうちに」と三番目が柩のほうに身をかがめて言った、
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「人の目が――おれたちの仕業を見つけ出し、
人の耳が――おれたちの|悼《とむら》い歌を聞くだろう。」
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「そうなれば」と四番目が言った。「おれたちがキャンティロン家の埋葬をしてやるのも、これっきりお終いなんだ!」
と、言葉とともに柩は退いてゆく波に乗って岸辺から運び去られ、海に住むものたちの一団はそれにつき従ってゆこうとした。だが、たまたま中の一人が、石の上に坐ったまま、驚きと恐れでぴくりとも動かないカナール・クロウを見つけたのだ。
「やったぞ!」と、この世ならぬ者は叫んだ。「とうとうやったぞ。人の目が海のものたちの姿を見、人の耳がその声を聞いたのだ。キャンティロン家とはおさらばだ。海の息子たちが地上の塵を葬るのも、もうこれっきりお終いだ!」
一人また一人と、彼らは魔法にかかったように動けずにいるカナール・クロウのまわりをゆっくり回り、その顔をのぞき込んだ。それから、また悼いの歌を唄いだすと、彼らはやってきた波に乗って柩の後を追っていった。嘆きの声は消えてゆき、最後には、ただ波の砕ける音が聞こえるばかりだった。柩と海の一族の行列は、古い墓地へと沈んでいった。そしてこの老フローリイ・キャンティロンの葬式以後、この一家の死者は、もはやバリーヘイグの海辺に運ばれることもなく、大西洋の波の下の、代々の墓場に持ってゆかれることもなかった。
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ひとり暮らしの妖精たち[#「ひとり暮らしの妖精たち」はゴシック体]
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ダグラス・ハイド氏は、わたしに次のように書いて寄こした。〈レプラホーン〉(Lepracaun) という名前は、アイルランド語の〈レイ・ブローグ〉、いわば片方の靴屋から来ている。というのは、たいていその靴屋は片方の靴しか作らないからだ。アイルランド語の〈レイ・ブロゴーン〉は、(Leith bhrogan) とか、〈レイ・フロガン〉(Leith phrogan) とか綴るが、ある地方では〈ルクリマン〉(Luchryman) と発音し、オカーニーはひじょうに貴重な本の中で書いているが、〈フエッシュ・ティ・ホナン〉(Feis Tigh Chonain) ともいうのだそうである。
レプラホーン、クルラホーン、ファー・ジャルグ。これらは違う感情や容姿をとった同じ一つの精霊なのであろうか? 二人のアイルランド作家のあいだでも意見が合わない。この三種の妖精たちは、三種に分けるとすれば、多くの点で互いに類似している。皺が寄り、年をとっていて、ひとり暮らしであって、どの点から見ても、「群れをなす妖精たち」のように交際好きな妖精とは似ていない。その服装も妖精らしくない質素なもので、本当のところ、汚なく、無精で、あざけることや悪戯することの好きな精霊である。
〈レプラホーン〉は、たえず靴作りをしているので、次第に大金持ちとなった。昔、戦いの時に埋蔵されたたくさんの宝の壺を、今日では自分のものにしている。今世紀の初めの頃、クローカーの言うところによれば、ティペラニーにある新聞社で、レプラホーンが忘れたという片方の小さい靴をよく見せてくれたそうだ。
〈クルラホーン〉〔オカーニー地方では〈クルヴェル・キャン〉(Clobhair-ceann)〕は、地主の地下の貯蔵室で酔ったりする。或る者は、クルラホーンはただ酒に浮かれているレプラホーンなのだと思っている。クルラホーンのことは、コノート地方や北部地方ではほとんど知られていない。
〈ファー・ジャルグ〉(Fear dearg) は「赤い男」の意味で、赤い帽子と赤い上着を着ているのでこう呼ばれ、悪戯、とくに気味悪い悪戯を実際によくやる。ファー・ジャルグはこのこと以外は何もしない。
〈ファー・ゴルタ〉(Fear-Gorta)(飢えた男)は、飢饉の時に国中を歩き回る痩せ衰えた妖怪で、施し物をせがみ、恵んでくれた人には幸運をもたらす。
この他にもひとり暮らしの妖精たちはいるが、「家の精」とか「|水の精《ウオーター・シーリー》」、これはイギリスの「|鬼火《ジヤツク・ランタン》」の実の兄弟であるし、「プーカ」や「バンシー」(これらに関しては後で述べる)、また〈ドュラハン〉(Dullahan) とか「首なし妖怪」(これは前までスライゴーの街に闇夜になるとよく現われたといわれる)、それに「黒犬」もいるが、これはおそらくプーカが姿を変えたものである。スライゴーの埠頭に寄港している船には、しばしばこの黒犬が現われ、「世界じゅうの錫のスープ皿」ぜんぶを船艙のなかに投げ込んだような音を立てて、自分がいることを知らせる。船員といっしょに海にまでついてさえ行く。
〈ラナン・シー〉(Leanhaun Shee)(妖精の情人)は、人間たちの愛を求めている。人間から拒まれれば、その人の召使いにならなければならない。だがもし人間が同意すれば、ラナン・シーのものとなって、代わりの他の人間を見つけるまで、彼女からは逃げられない。この妖精は人間の生命を食べて生きているので、その人間は次第に衰えてゆく。死んでも彼女から逃れられない。ラナン・シーはゲール人の|詩の女神《ミユーズ》で、自分にしつこくつきまとう人には、霊感を与えるからである。ゲールの詩人たちは若死するが、それはこの妖精――意地の悪い幻の精――が気ぜわしく、それで、詩人たちをこの世に長くとどめておかないからである。
これらの妖精のほか、さまざまな種類の怪物がいる――〈アッハ・イシュカ〉(水棲馬)〈ペシュタ〉(ピエスト・ベスティア)〈|湖竜《レイク・ドラゴン》〉といったものである。だがこれらはいったい動物なのか、妖精なのか、精霊なのか、わたしには分からない。
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レプラホーン 妖精の靴屋
[#地付き]ウィリアム・アリンガム
一
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淋しい|囲い地《ラース》の緑の塚で、
牛飼い男が聞く音は、
黄色いほおじろ焼けつく原で
かなしく唄うその鳴き声か?
チャリ、チャリチャリチー!――
あるいはバッタか、蜂の声?――
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「ティプタップ、リップラップ、
ティック・ア・タック、ツー!
真っ赤な革を縫い合わせ、
片方靴が出来上がる。
右か左か、しっかりお履き、
夏の日盛り暑いもの、
冬は地面の下ごもり、
嵐なんぞは笑い顔!」
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丘に耳つけ聴いてごらん。
聴こえるだろう小さい音が、
せわしいエルフの小槌の音が、
楽しく仕事に合わせて唄う、
レプラホーンの金切り声が。
背丈は人の指ぐらい、
やつを見つけて、しっかり掴め!
そうすりゃなれる
金持ちに!
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二
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夏の昼間は牛の番、
じゃがいも食べて、乾草枕、
お出かけどきは馬車に乗り、
公爵の娘を嫁にして、
そういうことがしたいなら――
屋を見つけて掴まえろ!
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「狩りにゃブーツだ、
居間はサンダル、
白は婚礼、ピンクは舞踏。
ああして、こうして、
片靴作る。
ひと|縫《ステツチ》いごとに、|金持《リツチ》ちだ
ティックタックツー!」
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守銭奴フェアリー持っている、
九十九箇の宝の壺を、
隠したところは山の中、
森かげ、岩かげ、
廃墟に尖塔、洞穴、|囲い地《ラース》、
あるいは鵜の作った巣にも、
大昔から番をして、
どれにもこれにも、いっぱいに、
口のとこまで溢れてる、
金貨たくさん!
[#ここで字下げ終わり]
三
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或る日仕事の最中に、やつをわたしは掴まえた、
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「狐の手袋」生える城の堀で――
|皺《しわ》でしなびた髯づらエルフ、
とんがり鼻に眼鏡をのせて、
銀のバックル靴につけ、
革のエプロン――膝に靴――
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「リップ、タップ、ティップ、タップ
ティック・タック・ツー
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(バッタがわしの帽子に乗った
蛾のやつひょいと飛んでった)
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妖精王には半長靴を、
王子さまにはブローグ靴じゃ、
きちっと払えよ、きちっと払え、
わしの仕事が済んだらな!」
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たしかにやつを手に入れた。
じっと見てやりゃ、じっと見返し、
「家来、でございます!」「ふふん!」
と言いざまに、嗅ぎ煙草をば取り出して、
たくさんつまんで、愉快な笑顔、
不思議なちびのレプラホーン、
箱を差し出す奇妙な礼儀――
プウー! と顔に塵ふきかける、
わたしがくしゃみしているひまに、
やつはどこかへ雲がくれ!
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主人と家来
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[#地付き]T・クロフトン・クローカー
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それまで、ビリー・マック・ダニエルといえば、守護聖者の祭りのときなど、木靴を振り上げたり、大きな酒びんを空っぽにしたり、かしの棒を振り回したりするような若者だった。恐いもの知らずだったが、いくじが無くなるときはといえば、酒が飲めなかったり、酒代を払ってくれる人が気になったりするときで、どうやったら面白く飲めるか、などということばかり考えていた。酔っていても、|素面《しらふ》でいても、ひとこと言えばすぐに人をなぐるのが、ビリーのいつものやり口で、だれかれの見さかいなく、会えばすぐ喧嘩を始めるか、喧嘩別れになるのが朝飯前のことと心得ていた。そして困ったことに、この恐いもの知らずの乱暴者のビリー・マック・ダニエルは、悪い仲間たちとつきあうようになった。|妖精《グツド・ピープル》たちほど悪い仲間というものは、ほかにはいないのだった。
クリスマスが終わって間もないある晴れた霜夜のこと、ビリーは家に向かって歩いていた。心まで晴れるように月がまんまるく輝いて、寒さがつねられるように感じられた。「まったくな、ちょっと一杯ひっかけりゃ、凍りつきそうなこの胸だってあったまるんだがな。上等のやつがたくさんありゃあもっと結構だ」。ビリーはひとりごとを言った。
「よしきた、引き受けた、ビリー君」と小さい男が言った。三角の帽子をかぶり、身体じゅうに金のレースをつけ、どうして歩けるのか不思議に思えるほど、大きな銀の止め金のついた靴をはいた小さい男だった。その身体ぐらい大きなコップをビリーに差し出したが、その中には、見たことも味わったこともないような良い酒が、なみなみと入っていた。
「でかしたぞ、兄弟」。ビリー・マック・ダニエルは言った。その小さい男が妖精だということはビリーには分かっていたが、少しもひるまなかった。「とにかく、きみの健康を祝して飲もうじゃないか。感謝するよ。酒代は誰が払おうとかまやしない」。彼はコップを受け取るや、一気に飲みほした。
「でかした!」と小さな男は言った。「どういたしまして、ビリーさん。ですがね、あんたがほかの人たちにしていたように、わたしまでだまして、金を払うまいなんてことを考えちゃいけませんよ。紳士らしく財布からすっぽりと払って下さいよ」「おれがおまえに金を払うんだって?」。ビリーは言った。「おれさまはな、いますぐやろうと思えば、おまえをひっつかんで、木いちごみたいにすぐさま、おまえをポケットの中につまみ入れることだって出来るんだぜ」
小人は怒りだした。「ビリー・マック・ダニエル、おまえは七年間、わしの家来になるのだ。それが報いだ。いいか、わしについてくるんだ」
ビリーはそのことばを耳にすると、小人に向かって、いままで乱暴なことばをならべ立てていたことを、ひじょうに後悔しはじめた。だが、どういうことか分からないながら、その小人の後から、生け垣やみぞをとび越えたり、沼やどぶを通って、休む間もなく夜っぴて、村や畑のあちこちをついてゆかなければならないように感じた。
夜が明けはじめると、小人はビリーの方を振り向いて言った。「もう家に帰ってもいいぞ、ビリー。だが今夜、必ず『とりでヶ原』に覚悟をきめてやってくるんだ。もし会いにこなけりゃ、結局はおまえのためにならないだろうよ。だが、おまえが良い家来になれば、わたしも思いやりのある主人になってやろう」
ビリー・マック・ダニエルは家に帰った。ひどく疲れ果てていたのに、小人とのことを考えるとひとつも眠れず、その命令にそむけば恐ろしいと思い、夕方になると起き上がって、『とりでヶ原』に出かけていった。着いてみると、すぐに小人がやってきてこう言った。
「ビリー、今夜、わしは長い旅に出かけたい。だから、わしの馬に鞍をおいてくれ。もう一頭の馬には、おまえの鞍をつけてよい。夕べ長いことわしの後について歩いて、だいぶ疲れているだろうからな」
ビリーはこの主人の思いやりに感謝したが、こうつけ加えた。「ですが、まことに恐れ入りますが、|厩《うまや》へはどう行ったらよいのでしょうかね。こう見回してみましたところ、この『とりで』と、野原のすみっこの古い茨の木と、丘のふもとを流れる小川と、行手をさえぎる沼としかないようでございますがね」
「つべこべ聞くな、ビリー」小人は言った。「あの沼に行って一ばんしっかりした灯心草を二本とってこい」
そこでビリーは、いったい小人はどうするつもりなんだろうと思いながら、丈夫そうなやつを二本引き抜いて、主人のところに持ってきた。
「ビリー、馬に乗れ」と、小人は灯心草を一本とり、それにまたがって言った。
「どこに乗るんでございますか?」。ビリーは尋ねた。
「もちろん馬の背中だ、わしのように」と、小人は言った。
「ご冗談をおっしゃっちゃいけませんよ。灯心草に馬のようにまたがれってのですか? たったいま向こうの沼から引き抜いてきたやつを、馬だと思えというのですかい?」とビリーは言った。
「ぐずぐず言わずに乗れ、乗れ!」。小人はひじょうに怒った顔をしながら言った。「おまえがいままでに乗った一ばん良い馬だって、これとは比べものにならんのだぞ」。そこでビリーは冗談を言われているんだと思いながらも、主人を怒らせまいとして、その灯心草にまたがった。「ボラーン! ボラーン! ボラーン!」。三度小人は叫んだ(これは英語で、大きくなれという意味である)。そこでビリーも真似して同じように叫んでみた。すると灯心草はまたたく間に大きくなって、立派な馬になり、全速力で駆け出した。だがビリーは両足の間に灯心草をはさんだだけで、やり方を気にとめなかったので、馬の背中に逆にまたがっていて、おかしなかっこうで、顔を尻尾のほうに向けていた。その元気な馬は、ふり向けないほど速くビリーを乗せて駆けだしたので、尻尾をしっかりとつかまえているより仕方がなかった。
二人の旅はついに終わって、立派な屋敷の門前に止まった。「さて、ビリー」。小人は言った。「わしのやるとおりにするんだ。ついてこい。だが、お前は自分が乗っている馬の頭と尻尾との区別もつかんほどだから、今度は真直に立っているのか、逆立ちしているのか分からなくなるだろう。頭がくるくる回らぬように注意するんだぞ。古い酒というものは、猫にものを言わせられるし、人間を唖にすることだって出来るということを覚えておくんだな」
それから小人は不思議な文句を言い、ビリーには何のことかちっとも分からなかったが、あとについて真似してみた。すると二人はドアの鍵穴をくぐり抜けられ、また鍵穴から鍵穴へと通り抜けて、ついに酒倉に入り込んでみると、そこにはいろいろな酒がしまってあった。
小人は、出来るだけぐいぐいと夢中で飲み、ビリーもその手にならって負けじとばかり、同じように飲んだ。「まったく、あんたは、最高のご主人様だ」。ビリーは小人に言った。「あんたのほかにはいませんや。いつもたらふく飲まして下さりゃあ、喜んであんたのために働きますがね」
「おまえとそんな約束はしていない。しようとも思わない。立ってわしの後についてこい」。小人はこう言った。二人は鍵穴から鍵穴へと抜けてゆき、入口のドアのところに乗り捨てておいた灯心草にまたがると、「ボラーン、ボラーン、ボラーン」と言ううちに、馬は行く手の雲を、まるで雪のようにけ散らしながら駆けだした。
『とりでヶ原』に帰りつくと、小人は明日の晩の同じ時刻にここに来るように、と命じてから、ビリーを帰してくれた。
このようにして二人は毎晩のように行く先を変え、今晩はここ、明晩はあそこ、時には北、時には東、時には南へと走ってゆき、アイルランドの酒倉で、二人が行かないところは一つもないほどになり、そこに使われている召使いよりも上手に、酒倉にあるぜんぶの酒の味を言い当てることが出来るまでになった。
或る晩、ビリー・マック・ダニエルは、例によって『とりでヶ原』で小人に会った。そして旅のための馬を取りに沼に行こうとすると、主人はこう言った。「ビリー、今夜はもう一頭馬がいるんだ。いつもより大勢で帰ることになるかもしれないからな」。今はもう主人から与えられる命令に、あれこれ言わぬことが利口なやり方だ、とビリーは知ってはいたが、いったい誰がいっしょに帰ってくるのかな、仲間が一人増えるのかな、などといぶかりながら、もう一本灯心草をとってきた。
「もし仲間が増えるなら、そいつに毎晩、沼から馬を取ってこさせることにしよう。そりゃ当然だと思うよ。どこから見たっておれさまは、主人と同じく立派な紳士なんだからな」と、ビリーは思った。
さてビリーは、もう一頭の馬を連れて主人とともに出かけ、道中少しも休まずに、リマリック地方のとある一軒の小さな百姓家に着いた。その家はあの名高いブライアン・ボルーが建てたといわれるキャリゴニエル古城のそびえる近くにあった。家の中では酒盛りが始まっていたが、小人はしばらくのあいだ家の外に立って耳をすましていた。そして急にビリーの方を振り返るとこう言った。「ビリー、わしはちょうど明日で千歳になるんだよ!」
「神様の至福がありますように。旦那様、ほんとうですか?」
「そんなことばを二度と使うなビリー。さもないとおまえはわしを永久に浮かばれないものにしてしまう。なあ、ビリー、わしはまったくのところ、明日でちょうど千歳になる。結婚するにはちょうどいい時だと思うよ」と、この年とった小人は言った。
「まったくもってごもっとも、わたしもそう思いますよ。あなた様がご結婚なさるおつもりならばね」と、ビリーは答えた。
「そのためにこうやって、はるばるキャリゴニエルまでやってきたのだ。この家で今夜、これからダービー・ライリーとブリジット・ルーニーとが結婚するんだ。ブリジットは背の高いきれいな娘で家柄もよい。わたしはその娘をわしと結婚するためにさらってゆこうと思うんだ」と小人は言った。
「でもそうしたら、ダービー・ライリーは何と言うでしょうかね」とビリーは言った。
「黙れ!」小人はすごい剣幕で言った、「おまえにつべこべ言わせるために、ここに連れてきたんじゃないぞ」。小人は議論を打ち切ると、例の妙な呪文を唱えはじめた。そして空気のようにやすやすと鍵穴をくぐって中に入っていくので、ビリーも同じようにしながら、おれ様も何と上手に唱えられるんだろうと、自分で感心しながら、小人の後について呪文を言った。
二人は中に入った。その部屋にいる連中をもっとよく見ようとして、小人はちょうど皆の頭の上にかけ渡されている大きな|梁《はり》の上に、雄雀のように素早く止まった。ビリーも小人に向き合うかっこうで、もう一本の梁の上に同じように止まったのはいいが、そんなことはやりつけないので、両足はだらしなくぶら下がり、小人がちゃんとしたかっこうで坐っているのとは似ても似つかぬありさまだった。小人はもし長いこと仕立屋だったとしても、こうもきちんとは坐れまいと思われるほどに、ちゃんとして坐っていた。
そこにそうして主人と家来は、下のにぎやかな酒盛りを見下ろしていた。下には神父と笛吹き、ダービー・ライリーの父親、その側にはダービーの兄弟と叔父の息子がおり、またブリジット・ルーニーの両親もいた。ブリジットの年老いた両親は、その夜、自分の娘たちのことで得意そうだった。それも当然で、四人のブリジットの娘たちは新しいリボンをつけた帽子をかぶっていたし、三人の男の兄弟たちもマンチェスターの三人の兄弟に、いずれもおとらぬほどさっぱりして利口そうだった。そのほかにも叔父さんたち、叔母さんたち、友達や従兄たちなどが、大勢で家の中は一杯で、テーブルの上には、それらの人数がたとえ二倍に増えたところで、皆が充分食べたり飲んだり出来るほどたくさんのご馳走が、ずらりと並んでいた。
ところがそのときはからずも、ブリジット・ルーニーが、自分の前にあった白いちりめん玉菜がきれいにそえられている豚の頭の肉を、一切れ、まず神父様にすすめながら、大きなくしゃみをしたのである。テーブルをかこんでいた人々はみんなびっくりしたが、そのとき誰も「神様、ご祝福を」(大丈夫ですか)とは言わなかった。こう言うのは神父の務めなのに、そのとき運の悪いことには、ちょうど豚肉と野菜を口一ぱい頬ばっていたので、とうぜん神父様がそう言って下さるはずだとみなは知っていたが、神父はそうすることが出来なかった。それで神様に祝福をお願いする者もなく、またすぐ婚礼の楽しい酒盛りは続けられたのだった。
ビリーとビリーの主人とは、そうした事の成り行きを高い所から目をこらして見ていた。「ハア!」と小人は片足を振りながら有頂天になって叫び、目を異様に光らせ、両眉をゴシック建築のアーチのように曲げた。「ハア!」小人は横目で花嫁を見下ろし、次にビリーのほうにその目を向けながらこう言った、「たしかにあの女はもうわしのものと同じになった。あと二度くしゃみをしたところで、司祭がいようと祈祷書があろうと、ダービー・ライリーがいようと、あの女はおれのものだぞ」
また、この美しい花嫁がふたたびくしゃみをした。小人のほか誰も気づかぬほど小さなくしゃみをして顔をあからめたのだが、それでも誰も、「神様の祝福を」と言おうとはしなかった。
ビリーはずっと哀れむような顔付きで、この可哀そうな娘のことを見ていた。というのもその大きな青い目と透き通るような肌のえくぼのある頬をした、健康と喜びにあふれている十九歳の若い娘が、もう一日経てば千歳という年になる醜い小人と結婚しなければならないなんて、何という悲しいことだろうと思っていたからだった。
その危機一髪という瞬間に、花嫁は三度目のくしゃみをした。そこでビリーは力一杯、「神様、ご祝福を!」と叫んだ。この叫び声はひとりごとだったのか、常日頃の習慣から出たものか、ビリー自身にもはっきりとは言えなかったが、小人はすぐに真赤になって怒りだし、がっかりしながら止まっていた梁から飛び移ると、こわれたバグパイプの楽器のような金切り声で、「ビリー・マック・ダニエル――おまえはお払い箱だ。そら、これがおまえへの給金だぞ」と言ったかと思うと、ビリーの背中をすさまじい勢いで蹴飛ばしたので、この不運な家来は、晩餐のテーブルの真只中に、顔と両手をついたかっこうで落ちていった。
ビリーも驚いたが、挨拶もなしにビリーに飛び込まれた一座の人々も、それ以上に驚いた。だが、ビリーからそれまでの話を聞かされると、クーニー神父様は、ナイフとフォークをテーブルに置き、すぐさま若い二人の者を結婚させた。ビリー・マック・ダニエルは二人の結婚式の席で、『リンカ』という踊りを踊ってみせてから、あびるほど酒を飲んだ。踊るよりも飲むほうが、ビリーにとっては素晴らしいことだったからである。
(画像省略)
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ドニゴールのファー・ジャルグ
[#地付き]レティシア・マクリントック
いかけ物屋のパット・ダイバーは流れ者の生活をしていて、見も知らぬ屋根の下で寝ることには慣れていた。くすぶったような小屋で乞食の毛布に入れてもらって眠ったこともあるし、けわしいイニシュオェンの山のあちこちの山陰でウィスキーが密造されるのだが、そのたくさんある蒸留器のそばにうずくまっていたこともあれば、また青天井の何もないヒースの原や、溝の中に寝たこともあった。だが或る特別な晩のことに比べれば、こうした冒険の毎夜のことなど、まったくもっておだやかでしごく平凡なものだった。
その前の晩まで、日中はずっとモービルやグリーンキャスルという所で、やかんだのソース鍋だのの修理をしていたが、カルダフへ行く途中で淋しい山道にさしかかったときには、日はとっぷり暮れてしまった。
ポケットには半ペニーの銅貨をじゃらじゃらさせ、一夜の宿を借りたいと家々の戸を叩いて頼んだが、どこでも断わられてしまった。
いつも自分を間違いなく受け入れてくれたあの親切だったイニシュオェンは、いったいどこへ行っちまったんだろう? みんながこんなにけちなら、いくらこっちが金を払うと言ったって駄目だ。こんなふうに考えながら、パットは少し遠くの方に見える明かりの方へ歩いて行き、もう一つの家の戸を叩いてみた。すると年とった夫婦が炉をかこんで坐っていた。
「恐れ入りますが、一晩泊めて下さいませんでしょうか?」。パットは丁寧に頼んでみた。
「話がお出来なさるかな?」。老人は言った。
「いいえ、出来ません。話しするのは得意じゃありません」。いかけ屋は当惑しながら答えた。
「それなら出て行ってもらおうか。話の出来ない人は、この家に入れるわけにはいかんからな」
この答え方がきっぱりしていたので、パットはもう一度頼んでみようとする気持も砕け、がっかりして疲れた足をひきずりながら、もと来た道を引き返していった。
「お話が出来なさるか、だって? まったく」。彼はつぶやいた。「ガキどもを楽しませるババアのおとぎ話ってわけか!」
いかけ物の道具の包みを取り上げながらふと見ると、その母家のすぐ後ろのほうに納屋があるのが見えたので、折からのぼってきた月の光をたよりに、その方へ歩いていった。納屋は小ぎれいで広く、片隅に麦藁が積み上げられてあった。なかなかばかにならない隠れ場所なので、パットは藁の下にもぐり込み眠ってしまった。
そんなに長いこと眠らぬうちに、足音で目が覚めた。身体ごとすっぽりかぶっている藁のすき間からのぞいてみると、四人の大きな男が人間の死骸を引きずりながらこの納屋に入ってきたかと思うと、乱暴にその死骸を床に転がすのが見えた。それから四人は納屋の真ん中に火をたき、死骸の足を屋根の梁に太いロープでしっかりとしばりつけた。一人の男が火の前で、ゆっくりとその死骸を回しながらあぶりはじめた。「さあて」と、その男は、四人の中でも一ばん背の高い男に声をかけた――「おれは疲れたよ、こんどはおまえの番だぜ」
「いやなこったぜ、おれはひっくり返しはしないよ」。その大男は答えた。
「その藁の下にパット・ダイバーがいるから、やつに今度させたらいいだろう」
すさまじい大声で四人は、みじめな気持でいるパットの名を呼んだ。もう逃れるすべとてないのを知り、命令どおりに出てゆくのが、一ばん利口なやり方だと思った。
「さあ、パット、死骸をひっくり返せ。だが焦げすぎると、おまえをそこにしばりあげてその代わりに火あぶりにするからな」
パットの毛は逆立ち、額からは冷汗が流れたが、その恐ろしい仕事をするよりほかはなかった。
パットがうまく死骸をあぶり出したのを見とどけると、四人は出かけていった。
だがほどなく、焔が高く燃え上がって綱を焼いてしまい、死骸は大きな音をあげて火の上に落ち、灰やもえさしがぱっとあたりに飛び散った。哀れな料理人は苦悩の悲鳴をあげながら、猛烈な勢いで戸口にとんでゆき、一目散に駆け出した。
疲れて倒れそうになるまで走りつづけたが、丈高い鬱蒼とした草におおわれた溝があるのに気がつくとその中に入り、夜が明けるまで隠れていようと思った。だが溝に入るやすぐに、またあの重々しい足音が聞こえ、例の四人の男が荷物をかついでやってきて、溝のふちにそれを下ろした。
「おれは疲れたよ」。一人が大男に向かって言った。「この死骸を運ぶのは、今度はおまえの番だぜ」
「いやなこったぜ、おれは運ばんぞ」。大男は言った。「それより、溝の中にパット・ダイバーがいるから、あいつに出てこさせて、運ばせたらいいじゃないか」
「出てこいパット、出てくるんだ」。吠えるように四人が言うので、パットは恐ろしさに死んだようになって、這い出していった。
パットは死骸の重みの下でよろよろと歩いていたが、キルタウン僧院のところまで辿り着いた。そこは蔦がからんでいる廃墟で、一晩じゅう茶色の|梟《ふくろう》がホーホー鳴き、茨やつる草が幾重にももつれ合ってからまる壁のまわりには、無縁仏の死体が眠っているのだった。いまではもう誰もそこには埋葬はしないのだが、この背の高い連中たちはその荒れた墓地に入ってゆくと、墓を掘りはじめた。
パットは、四人がそうやって墓掘りに熱中しているのを見て、もう一度逃げ出そうと思い、垣根に植えてある|山査子《さんざし》の木によじ登り、うまく枝の中に身をかくそうとした。
「おれは疲れたよ」。墓を掘っていた男が、「そら、シャベルを取れよ」と大男に向かって「おまえの番だぞ」と言った。
「いやなこった、おれの番じゃないぞ」。前と同じように答えた。「パット・ダイバーがあの木の上にいる。あいつを下ろして代わらせりゃいいじゃないか」
パットは下りてきてシャベルを取り上げたが、ちょうどそのとき、僧院のまわりの小さい農家の庭や小屋で、おんどりが鳴きはじめ、四人の大男たちはお互いに顔を見合わせた。
「おれ達は行かなけりゃならん」。その連中は言った。「パット・ダイバー、おまえにとって運のいいことだぞ。おんどりが鳴きださなけりゃ、おまえはその墓の中へ、死骸といっしょに放り込まれるところだ」
二カ月は過ぎた。パットはドニゴール地方を広くあちこち歩いてから、たまたま|市《いち》のたっているラフオーに着いた。その|市《いち》の真ん中にある広場に群がっている人々のあいだで、思いがけず、あの大男に出会ったのだ。
「元気かね、パット・ダイバー」。男はいかけ屋の顔を、腰をかがめてのぞき込みながら言った。
「どうもお見それいたしましたが、あなた様はいったいどなたで?」。パットは口ごもりながら言った。「おれを知らないのかい、パット」。男はささやくような小声で言った――「イニシュオェンに帰ったら、話して聞かせる話があるだろうが!」
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プーカ族
プーカ〈P彡a とも書く〉は、本来動物の精霊のようである。或る人はこの名前は〈ポック〉即ち「牡山羊」から派生したものだといい、考えをめぐらす人は、シェークスピアの〈パック〉の祖先なのだと思っている。淋しい山の中や古びた廃墟に住んで、「孤独のために一層恐ろしい姿となって」おり、「夢魔」とも同族である。ダグラス・ハイド氏は、わたしに次のように書いて寄こした。「〈マック・ナ・ミホーイルラ〉と呼ばれる作者不詳の古い写本の中に、こういうことが書いてあります。『レインスターのある丘から、太って艶のある|駿馬《しゆんめ》が腰まで姿を見せて、やってくる人ごとに人間のことばで十一月のことを話す。そして来年の十一月までの間に、自分の身の上に起こることについて相談をする人には、気のきいたちょうど適切な答えを教えてくれていた。それで、人々はお供え物や贈り物をこの丘に置いてくるのが習わしになっていて、聖パトリックと聖職者たちがやってくるまでそれは続いていた。』この伝説は、プーカのものと同じ種類の伝説だと思われます」。これが単に〈アッハ・イシュカ(|each《エアハ》|《・》|uisg・/T-FONT>《イシユカ》 ともいう)〉や「水棲馬」でないとすれば、プーカのことである。というのは水棲馬たちは聞くところによれば、こうしたものは昔はよくふつうにいて、水の中から現われては砂地や野原をよく駆け回っており、人々がその動物に河のふちの所で|轡《くつわ》をはめるか、水の見えない所に置いておきさえすれば立派な馬になるのだが、いざ、ちらとでも水を見たら最後、乗り手を背中にしたまま水の中にもぐってしまい、水底で乗り手を引き裂いてしまうといわれている。しかし先に書かれたものは十一月の精霊なので、プーカ族として語るのに都合がよい。というのは十一月の祭日というのはプーカ族をまつる日なのだ。こうした野性的で荒々しい超自然の生きものが、おしゃべり好きで、人間に親しいものになるということを理解するのは難しい。
プーカ族はいろいろなものに姿を変える――いま馬になったかと思うと、今度はロバになり、次に牡牛になったかと思うと、今度は山羊になり、次に鷲になるという具合である。すべての精霊と同じように、この形ある世界では、半分の存在であるに過ぎない。
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笛吹きとプーカ
[#地付き]ダグラス・ハイド
昔のこと、ゴルウェイ地方のダンモアというところに、一人の間抜けな男が住んでいた。ことのほか音楽が好きであったが、たった一曲のほかは覚えられなかった。たった一曲とは「ブラック・ロウグ」(ロゲラ・ドブ)という曲だった。旦那衆からかなりたくさんのお金を貰うのだが、それはみなこの男をからかって楽しんでいたからである。或る夜のこと、この笛吹きが或る家に踊りにいって、ほろ酔い機嫌で家に帰るところだった。ちょうど母親の家のそばにかかっている小さな橋までやってきたとき、その男は笛を握って例の「ブラック・ロウグ」を奏ではじめた。後ろからプーカがやって来て、その男を背中に放り上げた。プーカには長い角があるので、笛吹きはしっかりそれを両手で握ってこう言った――「こん畜生め、このいやらしいけだものめ、家に帰してくれ。おれのポケットにゃ、母さんに渡す十ペニー銀貨があるんだ。これで嗅ぎ煙草を買ってやるんだからな」
「母親のことなんぞ心配するな」。プーカは言った。「それよか、しっかり角につかまってろよ、もし落ちでもしたら、おまえの頸も笛も折れちまうぞ。『シャン・ヴァン・ヴォホト』の曲を吹いてくれよ」
「そんなの知るもんか」。笛吹きは言った。「知ってても知らないでもかまやしない」。プーカは言った。「吹いてみろ、教えてやらあね」
笛吹きは空気袋に空気を入れると、自分で不思議に思うほど上手な演奏をした。
「まったくもっておまえさんは、素晴らしい音楽の名匠だ」。笛吹きは尋ねた。「だけど、いったいぜんたい、おれをどこへ連れてこうってんだい?」
「今夜、クロオ・パトリックのてっぺんのバンシーの家で大宴会があるんだ」。プーカは答えた。「そこで音楽をやってもらうために、おまえを連れていこうというわけだ。謝礼がたんまり貰えることは請け合うよ」
「じゃ頼むよ、おれをそこに連れてってくれ」。笛吹きは言った。「てのは、この前の聖マーチン様のお祭りのとき、ウィリアムお上人様の鵞鳥を盗んだもんで、ちょうどクロオ・パトリックへ行けと言われてたんだ」
プーカは笛吹きを、丘や沼地や荒涼とした所をせき立てながら、とうとうクロオ・パトリックの頂上に連れてきた。そしてプーカが三度足を鳴らすと、大きな扉が開いて、二人はいっしょに豪華な部屋の中に入った。
部屋の真ん中には黄金のテーブルがあるのが、笛吹きの目に入った。それを囲んで大勢の婆さんたちが腰をおろしていた。婆さん連は立ち上がると言った。「ようこそお出で下さいましたな、十一月のプーカさんや。お連れのお方はどなたさんですかな?」
「アイルランド一の笛吹きですよ」とプーカは言った。
婆さんのうちの一人が床を鳴らすと、壁の一方の扉が開いて、そこから出てきたのを見れば、まさしく笛吹きが、ウィリアム上人から盗んだ例の鵞鳥だった。
「ほんとうのところ」と笛吹きは言った。「おれと母さんとであの鵞鳥は食べちまって、羽根だけは残して、それはモイ・ルアにやったんだ。するとあの女め、おれが鵞鳥を盗んだことを、お上人様に言っちまったんだ」
鵞鳥はテーブルの上を片づけると、それを運んでいった。するとプーカは言った、「ご婦人がたに、一曲吹いてくれ」
笛吹きが笛を吹くと、婆さんたちはみなで踊りはじめ、くたくたになるまで踊った。それからプーカが笛吹きに金を払うように言うと、婆さんたちは一人残らず金貨を出して、それを笛吹きにやった。
「聖パトリックにかけて、おれは殿様の息子みたいに金持ちになったぞ」
「いっしょに来い」。プーカは言った。「おまえの家まで連れて帰ってやる」
そこで二人は出かけたが、ちょうどプーカの背中に笛吹きがまたがろうとしたとき、例の鵞鳥がやってきて、新しい笛を一本くれた。プーカはほどなくダンモアに笛吹きを連れ帰った。いつもの小さい橋の上に彼を投げ出し、家に帰るように言ってからこうつけ足した。「さておまえは、今まで持っていなかったものを二つ手に入れたんだ――おまえには、いまや、知恵と音楽とがあるのさ」
笛吹きは家へ帰り、母親の家の戸を叩いて言った。「入れてくれよ、おれは殿様の息子みたいに金持ちになったんだよ、アイルランド一の笛吹きになったんだよ」
「おまえは酔っぱらってるね」。母親は言った。
「いいや、本当なんだ」。笛吹きは言った。「一滴だって飲んじゃいないよ」
母親は息子を中に入れると、笛吹きは金貨をたくさん母親に渡した。それから「ちょっと待って」と言った。「おれの音楽を聴かせるから。さあ、始めるよ」
笛をしっかり握って吹きはじめたが、曲の代わりに、まるでアイルランド中の鵞鳥がいっせいにガーガー鳴き立てたような音がした。近所の人たちが目を覚ましてしまい、みなは笛吹きを笑い、馬鹿にした。それで今度は、古いほうの笛を使って、快い音楽を吹いて聴かせた。そのあとで、その晩にあったことを全部みんなに話して聞かせた。
その翌朝、母親が例の金貨を見にいったところ、そこには葉っぱしか残っていなかった。
笛吹きは坊さんのところへ行ってその話をしたが、坊さんは笛吹きのことばを少しも信じなかった。そこで笛を吹いてみると、鵞鳥やあひるのガーガーいう声が始まった。「消えてなくなれ、この盗っ人めが!」。坊さんは言った。
だが笛吹きは古いほうの笛を手に、この話が本当だということを、坊さんに分からせるまでは、どうしても出てゆこうとはしなかった。
笛吹きはその古いほうの笛を、しっかりかまえて、快い調べを吹いた。その日からその男が死ぬまで、このゴルウェイ地方では、この男ほど上手な笛吹きは決していなかったということである。
[#地付き]〔『シュゲーリヒタの|書《リヤワル》』のアイルランド語からの翻訳〕
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ダニエル・オルールク
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
ダニエル・オルールクのかの名高い冒険の話を、これまでに聞いた人はたくさんいるかも知れないが、オルールクが天上や地上でいろんな危ない目に会ったのは、プーカの塔の壁の下のところで眠っていたためだったということを知っている人はあんがい少ない。わたしはオルールクをよく知っていた。オルールクはハングリー丘のふもとに住んでいたが、そこはちょうど、バニトリーに通ずる道の右側に当たっていた。オルールクがこの話を私に聞かせたときには、もう白髪頭の鼻の赤い老人になっており、それは、一八一三年六月二十五日で、それまでにないほどよく冴えた晩のことで、オルールクはポプラの老木の下でパイプをくゆらしながら、彼の口から直接この話をするのを私は聞いたのである。その日の朝、わたしはグレンガリフで過ごしてから、ダーシー島の洞窟に行ってみようとしていたところだった。
「わしは何度もこの話をしてくれと頼まれますんでさあ」。オルールクは言った。「だから、これが初めてというわけじゃない。わしの旦那の息子さんというのは、フランスやスペインなどの国々をめぐってお国に帰ってきなすった。その頃はよく若い殿方が、ボナパルト以前にはよくそういったところに行きなさったものだと聞いてますがね。そして帰りなすったとき、その土地の者たちは、身分があろうが無かろうが、金持ちであろうが貧乏人だろうが、ぜんぶご馳走になったもんですよ。おまえさまの前でなんですが、昔の旦那方は、何と言ってもやっぱり旦那然としてたもんですよ。昔の旦那方は、たしかに少しばかり叱りとばしたり、時には鞭で打って傷を負わせたりはなすったが、けっきょくのところはわしたちはちっとも損はしなかった。また堅苦しくもなければ親切だったし、がたがたした家なんかをたくさん持っていて、喜んで入れてくれましたし、地代をしぼりとることもなければ、一年のあいだ、何回も何回も地主さまのご恩をこうむらない小作人というのは、ほとんどいなかったですよ。だが、今はぜんぜん違いますな。そんなことはどうでもいいことですがね。わたしの話を始めたほうがいいでしょうな。
さて、わしらは最上のものをどっさりと味わいましたよ。食べて、飲んで、踊って、それに若旦那さんもボヒリーンから来たペギー・バリーと同じように踊ったもんですよ。――このお二人は今こそ落ちぶれてますがね。当時はそれこそ可愛らしいお似合いのカップルだった。長くなるので話をはしょりますがね、そのときは酔っぱらっちまったようで、その時のことをよく覚えてないんですが、どうやってそこを出かけたのやら。だがとにかく、そこを出かけたのは確かなんです。さて、こんなふうだったんですが、そのときこう思ったんです。|妖精女《フエアリー・ウーマン》のモリー・クロノハンの家に行って、何かにとり憑かれたようになっている雌の子牛のことを話してこようとね。さてそこでバリアシェノホの浅瀬を飛び石づたいに渡っていきながら、星を見上げてお祈りしたんでさあ、――なぜかって? 通告節の日だったからですよ。――その時足を踏みはずして、ざぶんと水の中に落っこった。『こいつあたいへん!』。わしは考えた。『溺れるかもしれないぞ!』。だが自分のいとしき生命のためにも泳ぎに泳いで、どうやらこうやら岸辺に着いた。だがなぜ、淋しい孤島に着いてしまったのか、わしはもちろん、誰一人分かりっこありません。
わしはそこらじゅうをやたらと歩きに歩いた。どこをうろついているかまったく分からなかった。すると、とうとう広い沼地に入り込んでしまった。月の光はまるで真っ昼間のように、旦那の美しい奥さんの目のように(いや、奥さんを引き合いに出してすまんですが)光ってましたよ。わしは東を見た、それから西、南、北と四方八方見回したが、目に入るものといったら、ただ沼、沼、沼――何でこんなところに入り込んでしまったのか分からなかった。心臓は、恐ろしさに冷たくなり、きっとここでくたばってしまうだろうと思った。運のいいことに近くに石があったので、そこに腰をおろして、頭をひっかきながらウラゴンの唄をやりだした――と突然、月が暗くなり、見上げてみると、おかしなことに、月からこっちに何やらが動いて降りてくるが、そのときは何だか分からなかった。つかみかからんばかりにやってくると、わしの顔をじろじろ見た、それは一羽の鷲だったじゃありませんか。ケリー王国に昔飛んでいたような、一羽の立派な鷲だったんです。鷲は顔をのぞき込むようにしてこう言った。『ダニエル・オルールクさん、お元気ですかね?』。で、わしは、その鳥がクリスチャンのようにものを言うのに変な気がしていぶかりながら、『有難う、元気ですよ、あなた様も、お達者でいらっしゃいますか?』と言った。『誰に連れられてここにきなすったのかな、ダンさん?』と鷲は言った。『誰ですか、まったくわからんのです』と答えた。『わしはただ無事に家へ帰りたいんです』『この島からおまえさんは出たいというわけですな、ダンさん?』。鷲は言った。『そうなんでございますよ』とわしは言ってから、立ち上がって少々飲み過ぎて、水に落ち、この島に泳ぎついたことや、沼地に入ってしまって出られなくなったことなどを話してみた。『ダンさん』。鷲はしばらく考えてから言った。『あんたが通告節の日に飲み過ぎたのはひじょうに不謹慎だったが、あんたは上品で真面目で、ミサにもよく行くし、鷲一族にも石も投げず、野原で追い立てたりもしなかった、――あんたのために一肌脱いであげよう』。そうして、『さあ、背中に乗りなさい。振り落とされないように、しっかりわたしにお掴まりなさい、この沼地から飛び出してあげるから』と言った。『おからかいなすってるんじゃないですか、鷲の背中に馬乗りになって走るなんて、聞いたことないですよ』。こう言ってみた。すると鷲は右脚を胸に当ててこう言った。『おまえさんの名誉のためにも、わしは真面目に言ってるんだ。わしの言うとおりにするか、それともこの沼の中で飢えて死ぬかどちらかを選ぶんだな――ところが、あんたの重みでその石は、だんだん沈んでるじゃないか』
鷲の言ったことは本当だった。石がだんだん自分の下でめり込んでゆくのが分かったのです。どちらにしようなんて選んでいる暇などなかった。そこでちらと考えた、ひっこみ思案じゃ、よい女は手に入れられんとね。これはまことによい説得。『ご厚意、痛み入ります』。わしは言った。『ご厄介になります、あなた様のお申し出に従いましょう』。そこで鷲の背中に乗り、その喉にしっかり掴まると、まるで雲雀のように鷲は空にのぼっていった。鷲がどんなわなをかけようとしているかなんて知りやしません。上へ――上へ――上へ――と、どんなに高く飛んだのか、神様だってご存じないほどでしたよ。『ちょっと、何でございますですが』。鷲に帰り道が分からないのじゃないかと心配して、とっても丁寧に言ったんです――なぜかって? まったくのところ鷲の思いのままにされるかもしれなかったからですよ。『まことに恐れ入りますが、あなた様、もう少し低くお飛び下さるようご配慮願えませんでしょうか。いまちょうどわたくしめの家の真上を飛んでいらっしゃるので、ここで出来ますれば、お下ろし願いたいのですが、そうしていただければ、甚だ有難いのでございますが』
『おやダンさん、あんたはおれを馬鹿だと思っているのかい? あの野原を見下ろしてみろよ、鉄砲をもった二人の男が目に入らんのか? 冗談じゃないぜ、沼の冷やっこい石の上から拾ってやった酔払いから頼まれたからって、こんなふうに鉄砲でやられたひにゃ、堪らんからな』『いまいましいやつめ』。わしは心の中で思ったが、口に出したところで何もならないので言わなかった。さて旦那さん、鷲のやつは高く飛びに飛んでゆくばかりでしたので、低く飛んでくれるよう、しょっちゅう頼んだのに、無駄でした。『いったいぜんたいどこに行くんですかい?』。わたしゃ言いましたよ。『口を開くな、ダン、大きなお世話だ、他人のやってることを邪魔するな』。鷲が言うので『こりゃ他人事じゃないと思いますがね』とわしが言うと『黙れ、ダン』と言われたので、もうそれっきり口は開かなかったんです。
やっと着いたところといえば、それはまさしく、月の中だったんです。ここからじゃお見えになりませんでしょうか。その月の脇にはこんなふうに麦刈り鎌が突き出ている、いや、そのとき、突き出てたんです(と言いながら、杖の先で土の上に Q と描いてみせた)。
『ダン』。鷲は言った。『長いこと飛んだので疲れた、こんなに遠いとは思わなかった』『あなた様、いったい誰にこんな遠くまで飛んでくるようにお頼まれなすったのですかい?――このわたしにですか? わたしなら、三十分前に、止まって下さるよう、あんなにお願いもし、お頼みも申したじゃありませんか』『つべこべ言うな、ダン』。鷲はこう言った。『おれはひどく疲れてる。だからおまえは下りて、おれが休むまで月に腰かけているんだ』『お月さまに腰かけるんですって?』。わしは言った。『あの円い小さい物の上に腰かけるなんて、まったく、すぐに滑って、砕けて、粉みじんだ。あんたはひどい嘘つきだね――そうだ、まったくあんたは』『そうじゃない、ダン』。鷲は言った。『月の脇に出っ張っている鎌にしっかり掴まってれば、ちゃんとしていられるんだ』『でも、わたしゃ出来ませんや』と言うと、『そうかもしれんな』。落ち着き払って鷲は言った。『だが、おまえがそうしないならだね、いいか、おれがゆさ振って、翼を一振りやりゃ、おまえは地面に落ちて、身体の骨は木端微塵、キャベツの上の朝露同様だろうさ』『いやはやまったく、おまえのようなやつについてきて、えらい目に会ったもんだ』とひとりごとを言ってから、分からないようにと思ってアイルランド語で、さんざん悪口を言ってから、しぶしぶ鷲の背中から下りたんです。そして月の鎌に掴まって月の上に坐ってみて驚いた、冷たいのなんのって、口に出して言えないほどでしたよ。
鷲は背中からうまく下ろしてしまうと、こっちを向いて言った。『あばよ、ダニエル・オルールク。さあ、おまえをうまく騙してやったぞ。去年、おまえはおれの巣を盗んだ(これは本当でした。でもどうやってそれが分かったのか不思議ですよ)。その仕返しとして、おまえは掛鶏あそびの鳥みたいに、ぶらぶら月につり下がって足を自由に冷やしてればいいんだ』
『これでお終いか、こんなふうにおれを置いてっちまうんか、こん畜生め!』。言ってやった。『ブスの怪物め、しまいにこんな目に会わせるのか、くたばりやがれ、この鉤鼻野郎、おまえら一族郎党みんなくたばれ、この悪党めが!』。こう言いちらしたところで無駄でした。鷲は大きな翼を拡げ、わっはっはっと笑い出したかと思うと、電光石火のごとく飛んで行っちまいました。止まってくれ、と大声でその後ろから呼べど叫べど聞いてもくれず、わたしは空しく叫んでいるばかりでした。鷲は行っちまいました。それっきり今日まで、ついぞその姿を見たことはないんです――悲しいことも鷲といっしょに飛んでってもらいたかった! わしがどんなにがっくりいったか、お分かりでしょうな。人目もはばからず嘆き悲しんで、大声あげて泣きました。すると突然、月の真ん中の戸が開いたんです。まるで一カ月も前から開けたことがないように、戸はギイギイ|蝶番《ちようつがい》が鳴ったんですが、わしが思うところ、油を塗らなかったからですな。するとその戸から出てきたのは――いったい誰だったと思いますかね、まさしく月の中の男、その人だったんです。毛むくじゃらだったんで分かりましたよ。
『お早う、ダニエル・オルールク』。その男は言った。『元気かね?』『元気です、有難うございます。あなた様もお元気でなによりです』。わしは答えました。『何でここへ来たのかね?』。男は尋ねた。それで、わしは話して聞かせましたよ、主人の家で酒を飲み過ぎたこと、孤島に打ち上げられたこと、沼地で道に迷ったこと、そして鷲の盗っ人めがそこから連れ出してくれると約束し、家に連れてってくれる代わりに、こうして月まで連れてこられてしまった事の次第を話したんです。『ダン』。月の男は嗅ぎ煙草を一つまみしてからこう言った。『あんたはここにいてはいけない』『お仰せのとおりでございます』。わしは言った。『わたしだってちっともここにはいたくございませんですよ。だが、どうやったら帰れましょうか?』『おれの知ったことではない』。男は言った。『ダン、おれはただ、おまえにここにいるべきではないと言うだけだ。だから早速に出ていってもらおう』『わたしは何も悪いことなど致そうとはしません。ただこうやって月の鎌にしがみついておりますのも、ただ落ちるといけないと思うだけなんで』と言うと、『それがいけないと言うんだ』と男は言った。『どうか後生ですから』。わしは頼んだ。『あなた様はどのくらい大勢のご家族でいらっしゃるのですか、この哀れな旅人に宿をお貸しいただけないほど多いんですか? よそから来た方にわずらわされることは、そうたびたびおありじゃないと思いますがね、こんなに遠いんですから』『おれは一人きりだ、ダン』。男は言った。『じゃ、こうやって鎌につる下がっていたっていいじゃないですか。二度ほど叩けば割れそうだ。あんたが放せと言えば言うほどわたしゃ手を放しませんからね』。こうきっぱり言った。『放すんだ、ダン』。また言われた。わしはその月の男の頭のてっぺんから足の先まで見て、目でその男の重さを計ってみてから言った。『それならよろしい小人君、取り引きには両方の言い分があるわけだが、わしのほうはぜったいこのままでいる。あんたのほうはどうぞご随意になすって下さい』『いまにどうなるか見ていろ』と言いざまに、男は引っ込みながら戸をぴしゃっと音を立てて閉めた(腹を立てたことは一目瞭然でした)。その戸の大きな音で、月も何もかもいっしょに落っこちてしまうかと思いましたよ。
さて、わしはその男と一勝負やらかすかと用意してましたが、男は料理用の庖丁を手にしてやってきたかと思うと、一言も言わず、わしがつり下がっていた鎌の柄のところを二度叩いた。するとバシン! と柄は二つに割れた。『さよなら、ダン』。この意地の悪い小さい老人のおいぼれめは、わしが柄の端を握ったまま、まっすぐに落ちてゆくのを見ながら言った。『ようこそ訪ねてきなすった、ダン君、ご機嫌よう』。わしは答える暇などあらばこそ、コロコロと転がりに転がっていった、まるで鷲狩りの時のような速さでしたね。『助けてくれ! だがなこれは、こんな夜にうろついているような上品な紳士方には、いいみせしめかもしれん、まったくおれもひどい目に会ったもんだ』。このことばが口から出きらぬうちに、ヒューッと耳をかすめて飛んできたのは、一群の鵞鳥だった。バリアシェノホの沼からやってきたようで、さもなきゃ何でこのわしを知ってるもんですかい。群れの大将格の年とった鵞鳥が、振りむきざまにこう叫んだ。『ああダンさんじゃないか!』『そうですよ』と答えたが、鵞鳥がどんなことを言ったってもう驚きはしませんよ。もう騙されるのに馴れちゃってますし、その鵞鳥を昔は知ってましたからね。『お早うさん、ダニエル・オルールク。今日はおからだの調子はいかがですかね?』『調子はいいですよ、有難う』と言いながら息を吸い込んだ、とても息が切れてましたからね。『あなた方もお達者そうで』『落ちてゆくとこですか、ダニエルさん?』。鵞鳥は言った。『まあそんなところです』。わしは答えた。『そんなに急いでどこへ行きなさるんですか?』。鵞鳥は言った。そこでこれまでのこと、一杯飲んで、或る島に着いて沼地で迷い、鷲のやつめが月まで連れてっちまったこと、月の男に追い出されたことなど話して聞かせた。『ダンさん』。鵞鳥は言った。『わたしが助けましょう。手を出してわたしの脚に掴まんなさい。あんたの家まで連れてってあげよう』『あなたの脚は、まるで蜂蜜のつぼの中に手を入れたみたいに気持いいですね。素晴らしいお方だ』。こう言ったが、心の中じゃ、おまえさんのこともあまり信用してないぞ、と思っていた。だが、ほかに道もないので、雄の鵞鳥の脚に掴まると、ほかの鵞鳥たちのあとについて跳ねでもするような速さで飛んでいったんです。
わたしらは飛びに飛んで、とうとう海の真上までやってきました。水の上に突き出ているクリアー岬が目に入ったので、その海がどの辺か分かりました。『ああ、旦那様』。わしは鵞鳥に向かってとにかく、丁寧なことばを使ったほうが最上策だと思ったのでこう言った。『どうか陸地のほうにお飛びになって下さいまし』『そりゃしばらくは出来ぬことだダンさん。アラビヤへ行くんだからね』『アラビヤへ行くんですって!』。わたしは言った。『そりゃたしか遠い外国のどこかでしょう。ああ、鵞鳥さま、そりゃ、まったく、このわしを哀れと思し召して下さいまし』『やかましい、黙っていろ、馬鹿め』。鵞鳥は言った。『口をきくな、アラビヤってのはな、それはひじょうに心地よい、いいところだ、カーベリーの西部地方みたいにな。そこと瓜二つみたいなとこだ。ただ、もう少したくさん砂があるんだ』
ちょうどこうやって話しているとき、一隻の船が帆に風をはらんで走ってゆくのが目に入った。『ああ、どうぞ、あの船の上にわたしを落として下さいませんか』と言ってみた。『まだちょうど船の上には来てない。いま落とせば、おまえは海の中へザンブリ落ちるだろうよ』。鵞鳥がこう言うので、『そんなことないですよ』。わしは言った。『そんなことより大丈夫、ちょうどわたしたちの下にはなんにも無いですからね、さあ、いますぐ落として下さいよ』
『おまえがぜひというなら、落とさなきゃならん』。鵞鳥は言った。『さあ、勝手にしろ!』。鵞鳥が爪を開くと、その言ったことは正しかったとみえて――たしかにわしは塩辛い海のまっただ中にざぶんと落ち込んでしまった。海のどん底まで落ちてゆき、もう駄目だと諦めたちょうどそのとき、一匹の鯨が夜の眠りから覚まされたように、身体をかきながらこっちにやってきたじゃありませんか。わしの顔をジロジロ見て一言も言わず、尻尾をあげたと見るや、冷たい塩水をぴしゃっとわしの身体じゅうに何度もかけた。服全体がもう乾かせないほどでしたよ。すると誰かがこう言うのが聞こえたんです――それは何か聞き覚えのある声でしたが――『起きなさいよ、この酔っぱらい、目を覚ましてよ』。この声で目が覚めてみると、ジュディーが水のいっぱい入った手桶を持って、わしの身体じゅうに水をビシャビシャかけているとこでした。――心配しやがって、ジュディーはいい女房でしたが、わしが酔っているのを見かねて、そんなひどいことをやらかしたんですよ。『起きなさいよ』。女房はもう一度こう言ったんでさ。『何も好き好んであのキャリガプーカの古壁の下で寝てなくったって、この教区にはあんたが寝られるほかの場所はたくさんあるじゃないの? きっと寝苦しかったでしょうよ』。ほんとうのところ、たしかに寝苦しかったんですよ。だってあんた、鷲のやつにうまいとこ、正気を失うほど苦しめられたんですからね。月の中の男たちにも、飛んでゆく鵞鳥のやつらにも、鯨にもね。沼の中をくぐらせられたり、月まで昇っていかされたり、真青な海の底まで落とされたりしたんですからね。あの十倍もの量の酒を飲んでいたとしたら、寝てしまった同じ場所で正気に返るのに、もっと長いことかかったでしょうよ」
(画像省略)
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キルディア・プーカ
[#地付き]パトリック・ケネディ
H・R氏は、生前に永いことダブリンで暮らしていたが、ただ一度だけ「一七九八年の出来事」のために、かなり長いあいだ国外に出ていたことがあった。だが召使いたちは、|円型土砦《ラース》にあったその大邸宅を守っていた――まるで家族がその家に住んでいたときと、まったく同じようにして。さて召使いたちは、いつもベッドに入ってから後で、台所の戸がバタンと鳴ったり、アイロンやら、鍋やら、大皿小皿やらが、カチャカチャ鳴ったりするのにいつも驚かされていた。或る夕方のこと、召使いたちは皆で、お互いに覚えている幽霊や生霊などの話をしながら、たいへん夜遅くまで起きていた。そのとき、何が起こったかお分かりになるだろうか――いつもは暖炉のそばに来られないで馬小屋の上で眠っていた皿洗いの小さな少年が、温かい炉辺に忍び込んできて、皆の話に聞き倦きると、恐がるどころか、そこでぐっすり眠り込んでしまった。
とにかく、召使いたちがみんな出ていってしまい、台所の火がいけられてしまうと、その少年は台所の戸が開く音と、台所の床の上を歩くロバの足音で目を覚ました。ちらっと見てみると、どうだろうか、たしかに大きなロバが、火の前で尻ずわりに坐ってあくびをしているのが目に入ったのだ。ロバはしばらくあたりを見回していたが、やがてとても疲れているような様子で、耳をかきはじめるとこう言った。「最後にやるより、最初にやっちまったほうがいいかな」。可哀そうに少年は歯をカチャカチャと頭に響くほど音を立てながらこう言った。「あいつはこれからおれを食う気なんだ」。だが、その長い耳と尻尾の生えたやつは、別にすることがあったのだ。火をかき立ててから、井戸からバケツに水を汲んできて、出てゆく前に炉にかけておいた鍋の中に水をいっぱい入れた。それからロバは、手――つまり足のことだが――を炉辺のほうに差し伸ばすと、少年を引きずり出した。少年は恐ろしさにわっと声を上げたが、プーカはただ少年を見ると下唇を突き出し、おまえのことなどどうでもいいんだといった顔をしてから、少年を再びつまみ上げて、もとのところに投げ込んだ。
さて、プーカはそれから湯がたぎってくるまで火の前で横になり、それから食器棚からたぶん全部と思える大皿、小皿、スプーンを持ち出して鍋の中に入れると、そこからダブリンまでにいるどんな台所女にもひけを取らぬ手際のよさで、一つ残らず洗って乾かした。それから食器をみんな棚の決まったところに片づけたが、台所できれいに掃除できなかったものは、この次に残しておいた。そうしてからプーカは少年の前に来て坐ると、片耳を下げもう片耳をぴんと立てると、にやりと笑った。可哀そうに少年は、大声を出そうとしたが、声がちっとも咽から出てこなかった。最後にプーカは火をいけると、家が崩れ落ちずにはすむまいと思うほど、バタンと戸を閉めて出ていってしまった。
さて翌朝のこと、少年がこのことを皆に話したときには、もうまったく、上や下への大騒ぎだった。一日じゅう、誰もほかのことを口にしないありさまだった。一人がこうと言えば別の一人はああと言うふうだったが、太っちょで怠け者の洗い場の女が、誰よりも一ばん気のきいたことを言った。「なあんだって?」と彼女。「そんなふうに、プーカがあたしたちの寝てる間に、何もかも綺麗にしてくれるなら、どうしてあたしたちがその仕事のためにせっせと骨を折らなきゃならないんだい?」「そうよ、まったくだわ」ともう一人が言った。「コースちゃん、あんた珍しくいいこと言うじゃないの。あたしもあんたと同じ考えだわ」
言われたとおりのことになった。その晩は、一枚の大皿小皿もぜんぜん水につけられず、床の上はほうきで掃かれず、誰もかれも日が沈むとすぐにベッドに入ってしまった。次の朝、台所では、何もかも申し分なく綺麗になっていて、市長様でもそのお皿から晩餐をいただけるほどになっていた。ほんとうに、それは怠け者の召使いたちにとっては、たいへんに楽だった。万事がそうして好都合にいっていたのだが、恐さ知らずのこの小僧っ子が、或るとき、夜に居残って、プーカと話をしてみると言いだした。
ドアが開け放たれ、ロバが火のところまで進んできたとき、さすがに少年は少し気おくれがした。
「あの、恐れ入りますが」と、最後に勇気を出して言った。「お差し支えなかったら、貴方がどなた様で、どうしてそんなにご親切に、女中たちの半日分の仕事を、毎晩なさっているのか、お教えいただきたいのですが」
「ぜんぜん差し支えありません」とプーカは言った。「喜んでお話ししましょう。わたしはもと郷士R様の父上の時代に召使いでしたが、養われて着物をいただいていた者たちのうちで、一ばんの怠け者の悪いやつで、ご恩に報いるようなことは何一つしなかったのです。わたしはあの世へまいりましたとき、こんな天罰を受けるはめになりました――毎晩ここへやってきて、いろいろこうした仕事を片づけてから、寒空の戸外に出てゆくことです。良い天気のときはそんなに辛くはありませんが、吹きっさらしの冬の夜、真夜中から夜明けまで、嵐に面と向かいながら、足の間に頭をまるめ込んで立っているのはどんなものか、とても貴方には分かりますまい」「お気の毒に、わたしらに、何かして差し上げられることがないでしょうか?」と少年は言った。
「残念ながら、よくは分かりませんが」とプーカは言った。「ですが、もしたっぷり綿を入れた防寒外套でもあれば、寒い夜長に命をつなぐ手助けになるとは思うのですが」「そんなことですか。あなたの辛さが分からぬようなら、わたしらはほんと言って、ひどい恩知らずということになりますよ」
かいつまんで話せば、それから三晩目に、少年はまたそこにいた。可哀そうなプーカは、少年が目の前に立派な暖かい外套を拡げれば、喜ぶことは受け合いだった。少年に手伝ってもらい、プーカは外套の四つの袖に足を通し、胸から腹にかけてボタンをはめると、とても満足げに自分の姿がどんなふうになったかを見に鏡の前まで歩いていった。「ああ」とプーカは言った。「これまで曲がり角もない長い道のりだった。あなたとお仲間の方々にほんとうに感謝します。やっと幸福になることが出来たんです。おやすみなさい」
そうしてプーカは出てゆきかけたので、少年は叫んで言った。「ああ、あなた、お帰りが早過ぎますよ。洗いものと掃除はどうしたんですか?」「ああ、女中たちに、また前のようにしなきゃならんと言ってやって下さい。わたしの罰は、義務を果たしているうちに、誰か人から褒美を貰うに価すると思われるまで続くことになっていたんです。もうここへやってくることはないでしょう」。そして二度と、召使いたちはプーカに会わなかった。あんなに急いで恩知らずのプーカに褒美をやったことを、召使いたちはほんとに惜しいことをしたと思うのだった。
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バンシー
バンシー(ban〔または bean〕は「女」、shee〔ゲール語 sidhe〕は「妖精」を意味する)は、旧家の家族の者に従う|付き添いの妖精《アテンダント・フエアリー》で、人が死にそうになると泣きわめく。バンシーが泣きながら手を|拍《う》って歩いているのを、たくさんの人が見かけている。キーン (keen〔|caoine《クイーナ》〕)、すなわち葬式での農民たちの弔い泣きは、バンシーの泣き叫ぶ声の模倣であると言われている。何人ものバンシーが現われ、声をそろえて泣き、歌っているときは、誰か聖者か偉人が死んだときである。時にバンシーに伴ってくる|前兆《オーメン》の一つは、〈コシュタ・バワー〉(coach-a-bower〔c..ste-bodhar〕) である。それは巨大な黒い馬車が|柩《コーチ》を積み、ドュラハンの駆る首なし馬に引かれて通るものだ。それはあちこちとさ迷いながら人の家の戸口に行き、そしてクローカーによれば、もしその家の人がドアを開ければ、たらい一杯の血が、その人の顔に浴せられることになるという。こうした首なしの幽霊は、アイルランド以外の地でも見つけられる。一八〇七年、セント・ジェイムズ公園の外に詰めていた二人の見張り番が、恐怖のために死んだ。上半身が裸の首なし女が、真夜中になると公園を通っては、柵に登ったりしていたのだった。ほどなくして見張り番は、もはや幽霊の出没する場所には詰めなくなった。ノルウェーでは、幽霊の力を弱めるために死体の頭は切り落とされる。おそらくこうしたことから、ドュラハンというものが存在することになったのであろう。もし、ドュラハンが、自分の首を歯でくわえて、英仏海峡を泳ぎ渡った、あのアイルランドの巨人の子孫でないのならば、のことである。
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トーマス・コノリーがバンシーに会ったいきさつ
[#地付き]J・トドハンター
ああ、バンシーのことですか、あなた。そうですね、お話ししようと思っていたところですよ。わたしは或る日、さっき話したカシディさんのところから、夕暮れどきに家に帰るところでした。わたしは一マイル――そう、道は二マイルはありませんでしたが――まだそのくらい歩かなきゃならなかったんです。わたしは、仕事に近いようにと、懇意にしている後家さんで、名をビディ・マグアイアーという人の家に置いてもらっていました。
あれは十一月の最初の週のことでしたが、淋しい道を通ってゆかねばなりませんでした。木々が道の上におおいかぶさって、ひどく真暗でした。道の中ほどのところで、わたしはドダー川に流れ込んでいる小川にかかった、ちょっとした橋を渡らなければなりませんでした。わたしは道の真ん中を歩いてゆきました。というのはね、ハリーさん、それからもずっと長い間そうでしたが、その頃は、人間の通れるような道はなかったんですよ。しかし、いま言いましたように、わたしはずっと橋の近くまで歩いてきました。そこまで来れば、道はちょっと開けていて、そこに橋があるわけですが、たしかに、わたしは毀されるまでは、そこにあった古いつくりの橋の上に、豚の背中のような盛り上がりを見たと思うと、真白い霧が川から立ち昇ってきて、あたり一面を覆ってしまいました。
さて、そこで、ハリーさん、わたしは前にはよくその場所を通ったことがあったのですが、その夜は何だか妙な気がして、まるで、劇の中に出てくる場面のように思えました。その橋まで辿り着くと、わたしは冷たい風が胸の中の洞穴を、吹き過ぎるような感じがしだしたのです。「どうしたんだい、トーマス」とわたしはひとりごとを言ってみました、「そん中にいるのはおまえ自身じゃないのかい?」。わたしは続けた。「だとしたら、いったいぜんたい何がどうしたっていうのかい?」。そこでわたしはそんなことをくよくよするのはよしにして、一生懸命に苦労して、足を一歩一歩前に踏み出しながら、やっとのことで橋の盛り上がったところまで来たのです。するとそこに、驚いたことには、壁に映るロウソクの光の中に、どうやら年取った女がしゃがんで背中を丸くしてうずくまり、頭を垂れてものすごく苦しんでいるようでした。
さて、あなた、わたしはその年寄りが可哀そうになって、こう思ったんです。おれも大したことないな、死ぬほど恐がるなんてと、それからすぐにわたしはその年寄りに言ったんです。「おばあさん、こんなところにいちゃ寒いだろう?」。するとおばあさんは、ただの一言も答えないのです。まるでわたしが何も声をかけなかったみたいに、わたしのことなど気にもとめずに、まるで心臓が破裂しかけているみたいに、ただ体を左右に揺すりつづけるだけでした。そこでわたしはもう一度言ってみました。「ねえ、おばあさん、どうしたんですか?」。で、そう言ってからわたしは、その肩に手をかけようとして、ふと立ち止まったのです。というのは、近づいて見てみますと、それは年寄りでもなければ老いぼれ猫でもなかったからです。最初にわたしの注意を引いたのは、ハリーさん、それは両肩から下へ垂れているその髪の毛でした。その女の両側の地面へたっぷり一ヤードのところまで、その髪の毛はのびていたんです。ああ、いやはやまったくもって、あれが髪の毛だとはなあ! 若かろうと年寄りだろうと、そんな髪の毛のある人間の女の人など、これまで見たことがないし、これからもないでしょうよ。それは女の頭から、細身の娘にはよくあるのと同じくらいたくさん生えていましたが、その色が不思議で、何とも表現出来にくいものでした。最初にちらっと見たときには、それは老いぼれの牡羊のような白髪だと思ったのですけど、近づいてから、かすかな空の明るみに透かしてみますと、それは何だか黒みがかった紫のような暗い感じの色で、その光り方は、まるでかま糸のようでもありました。それは女の両肩を覆って伸び、形のよい腕の上に女は頭をのせており、ほんとうに絵で見たマグダラのマリア様そっくりでした。それから灰色の外套とその下の緑色の上衣とは、わたしがいままでこの地上では見たこともないようなもので出来ているのに気がつきました。ところで、ねえあなた、言うまでもないことでしょうが、こうやって話せば長いのですが、わたしはこれらのことを皆、またたく間に見てとったのです。そこでわたしは一歩後ずさりして、そして「主よ、われらを災いから守りたまえ」と大きな声で口に出して、自分自身に加護を与えたのです。さて、ハリーさん、このことばがわたしの口から出るが早いか、女はわたしのほうに顔を向けたのです。おお、ハリーさん、わたしを見上げたその女の顔ときたら、あんな恐ろしい化け物を、わたしはいままでに見たことがありません! こんなことを言うのを神はお許し下さるといいのですが、その顔は、わたしが示すことが出来るどんな顔よりも、もっともよくマールバラ街の礼拝堂にある〈アクシー・ホモ〉の顔に似てました。死人のように青ざめていて、七面鳥の卵のようにいっぱいそばかすが浮き出ていました。そして二つの目のふちは、ものすごい勢いで泣いていたに相違なく、まるで赤い糸で縫い取りをしたようでした。その両方の目といったら、ハリーさん、二つの忘れな草のように青く、霧の夜に沼地の穴から見るお月様のように冷たく、そして生きているのか死んでいるのか分からない感じがあって、わたしはそれを見て膝ががくがく震えだしてしまいました。人間なのだろうか! あのときわたしの頭の毛から流れ落ちた紅茶茶碗一杯の冷や汗を、あなたは呼び鈴を鳴らして持ってこさせることが出来たでしょう。さて、女は腰をあげて身を起こしたのです。すると何と、ネルソンの記念塔とほとんど同じくらいの高さになったのを見たときには、これでわたしは一巻の終わりかと思いました。女はこちらをじっと見返すと両腕を差し伸ばし、そして杖を突きつけたときには、わたしの頭の毛は、暖炉ブラシの豚毛のように剛くはね上がってしまいました。すうっと女は滑るように行ったかと見るまに、橋の隅をかすめるように回って、下を流れる小川の中へ飛び込んでしまったのです。そのときになって、わたしはその女が、いったい何者なのだろうかと怪しみだしました。「そうとも、トーマス」とわたしはひとりごとを言って、一生懸命に努力しながら、恐怖のためにひきつって動きそうもない二本の足を、素早く動かそうとしました。どうやってその夜、わたしが家に帰りついたのかは、自分ではまったく言えません、神様だけが知っておられるでしょう。わたしはたぶん、転がって戸口にぶつかり、頭から真っ先に床の真ん中に飛び込んだに違いありません。そこにほとんど一時間ぐらい死んだように気絶して横たわっていました。気がついたとき最初に分かったことは、マグアイアー夫人がパンチを入れた大きなコップを手にして身をかがめ、わたしをのぞき込み元気を取り戻させようとして、わたしの咽にパンチを流し込むところだったのです。わたしの頭には、水がたまってました。それは夫人がわたしを一目見て驚き、わたしに浴びせた冷水だったのです。「まあ、コノリーさん」と夫人は言いました、「どうなさったんですの?」と彼女。「こんなふうに、一人ぼっちの女を驚かしたりなんかなすって」と言いました。「わたしはいったいこの世にいるんですか、それともあの世ですか?」とわたしはこう言ったのです。「何ですって、あなたは、ただここに、他でもないあたしの家の台所にいるのじゃありませんか」と夫人。「おお、神に栄光あれ」とわたしは言いました。「だが、わたしは夕べは煉獄にいたんです。もっといやなところだとは言わないにしても」とわたしは続けました。「ただやたら寒かったんです、暑すぎるどころじゃありませんでした」とわたしが言うと、「ほんとにねえ、わたしがいなかったら、きっとあなたは半分そこへ行くとこでしたよ」と、夫人は言いました。「でも、いったいどんな目にお会いなすったの? コノリーさん、自分の生霊でも見なすったの?」「ああ、気にしないで下さい」とわたしは言ったんです。「わたしの見たものなんか気にかけないで下さい」。そうしてわたしは、だんだんいくらか正気をとりもどしてゆきました。で、これがわたしがバンシーに出会った事の次第なんですよ、ハリーさん!
「だがねトーマスさん、結局、それが本当にバンシーだとどうして分かったんですかね?」
「神にかけて、そりゃあなた、わたしにはその女が亡霊だということが分かってました。だけどその時の、そうなっていく事の成行きが、もっとはっきりと分からせてくれたんですよ。知っておいでだろうが、オネイルズさんがこの近くの或るところに来たことがあるんです――オネイルズさんは、珍しいアイルランドの旧家テイローン地方の由緒あるオネイルズ家の出身でしたが――すると、その同じ夜に、バンシーが家のまわりで泣き叫んでいるのが聞こえたんです。それは一人以上の声でした。そして案の定、ハリーさん、次の朝、オネイルズさんはベッドの中で死んでいたんです。だから、もし、あの晩、わたしの見たのがバンシーでないのなら、いったいほかの何だったのか、教えてもらいたいものですね」
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嘆きの歌
――一六四二年、フランダースで殺された ケリーのナイト、
モーリス・フィッツジェラルド卿の死に寄せて――
[#地付き]クラレンス・マンガン訳
悲しみの声が湧き起こった、一つになって
人間の悲しみより遥かに悲痛な嘆きの歌が、
ずっと広く南の地方のあちこちを通り、
倒れた指導者の死を弔んで。
静まりかえった夜の闇のその叫びはわが身を震わせ、
思わず真夜中の天空を見上げた、
わが心は夜の闇のようだった
|跪《ひざまず》き祈るときの心のように。
その夜、グールの湖水の上を、
一度、二度、いや三度までも――
勇者を|悼《いた》む悲痛な泣き声がひびき渡った、
その半ばは、月を映す波に氷となって、
渦を巻きつつ入って行った。
すると、多くの音色の荒狂う讃歌が起こった、
オグラの暗い谷から湧きあがる合唱となって、
モギーリの幽霊の女たちが、
ジェラルディン家を嘆き悲しんでいるのだ!
遥かカラ・モナのエメラルドの野原に、
何時間も、鋭い叫びと溜息が交じって聞こえた
ファーモイはその調子に合わせて
答え歌った、塔の上から。
ヨアル、キーナルミーキ、イモキリは、
声を揃えて嘆いた、その哀歌は
インチクイーンの静かな峡谷の
さ迷う生命を目覚めさせた。
ラッハモーから黄色い土のドナノールまで、
恐怖は拡がっていった、トラリーの行商人は
黄金の店をそそくさとたたみ、
逃れゆく支度を始めた。
舟や館の中に、朝から晩まで、
かすかな明け方の陽の光が照っていた、
|異国《とつくに》の人々は「恐ろしき者」の
警告の声を聞いたのだ!
彼らは言った『これは死を予告するもの、
その運命から早く逃げよう!』
うぬぼれの強い愚か者たち!
かくしてすさまじい喧噪の渦!
岸辺や海の音のように、嘆きの歌は鳴りひびく、
だがそれは、下賎な値切り屋サクソン商人のためではない!
バンシーたちは嘆き悲しむ、
だがそれは、行商人の心を持つ卑しき者のためではない!
高貴なアイルランド民族のためにだけ、
バンシーの悲しみの音楽はいつも流れる!
殺された、|古《いにしえ》の王座の後継者のために、
低く身を横たえている指導者のために!
聞け!……再びバンシーの泣き声が聴こえるようだ、
彼方に! あの時のように今この近くにいるのか?
それとも、夜風が空ろな谷間を
吹き下ろしているに過ぎないのか?
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マッカーシー家のバンシー
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
チャールズ・マッカーシーは、一七四九年には、係累の多い一家の中でただ一人の跡取り息子となった。父親は彼が二十歳にならないうちに死に、マッカーシー家の土地財産を彼に遺したが、アイルランドのことではあるし、彼はさほどそれに煩わされることはなかった。チャールズは陽気で男前で、父親や後見人たちの束縛を離れて金の融通もきくようになったので、二十一歳になると品行方正な生活の型の中には収まっていなかった。身を持ち崩したとまでは言い切ることはできないにしても、要するにきわめて放埒な若者だった。仲間は察しもつくように、近隣の上流階級の青年だった。たいていはチャールズよりも金持ちで、つまりよりいっそう気ままに快楽へと赴くことの出来る手合いだったので、彼はたちまち刺激を受け、またそうした青年たちのうちに、自分のふしだらの口実を見つけたのである。さらにこういうこともある。アイルランドの青年が冷静で堅実であるということは、今日に至るまであまり耳にしないし、当時は、金で買える情熱の放縦については、ほとんどの場合、他のどこの国よりも安上がりに賄える所でもあった。いまわしい収税吏が、しかつめらしい書物片手に、仮借なきペンをもう片方に――あるいは帽子の帯に差して――「告発者の黒き紋章」なるインク壺をチョッキのボタンにぶらさげた収税吏が、あちこちの酒場を回っては、酒を扱うあの愛国者たちに、文句をつけるようなことはなかった。商人たちは好んでウィスキーを売り――イングランドの法律など無いも同然、やすやすとその網の目をかいくぐり――英国「|議会《パーラメント》」が無理やり普及させようとしているかの有害な酒、その名もパーラメントを商うのは気が進まなかった。法の記録天使である検量官殿が、居酒屋のおやじの過失を見つけて手帳に書き留めたとしても、ぽろりと涙の一しずく、すれば事は永久に抹消されてしまうという具合。それもそのはず、課税監督はどこにあっても隣人の手厚いもてなしを受けたからで、彼らとしても自分の思うまま享受している逸楽を損うのは、気がすすまなかったというわけである。こうして危ない目に会うこともほとんど無い密売者と、何ら保護も受けない、いわゆる正規の販売者とが、市場を競い合った結果、アイルランドは、牛乳と蜂蜜ばかりか、ウィスキーとブドウ酒までが溢れる土地となったのである。チャールズ・マッカーシーはこうした酒の愉しみや数多いこの種の享楽、惰弱な若者が身をまかせがちの逸楽に耽り、ほんの二十四歳になった頃のこと、一週間も飲み騒いだあげく、高熱に冒されてしまったのである。それはたちの悪い熱で、もともと頑丈でなかったチャールズは、回復の一縷の望みさえ無い状態になってしまった。はじめのうちは息子の悪習を数えあげ、やめさせようといろいろ手を尽くしていた母親は、最後にはわが子が刻々と静かな破滅へ歩んでいくのを、絶望して見守っているほかはなく、日夜その枕元で看病していた。親としての悲しみに混じって、なおいっそうみじめな思いがあった。それは、目に入れても痛くないこの最愛の子を美徳と敬虔さの中で育てようと骨を折り、その子が大人になるにつれて、そこに自分の心が望み得るかぎりのすべてのものが育まれゆき、またそのことで誇らしい気持の絶頂にあるとき、また親馬鹿の甘い期待がほとんど成就しかけたそのときに、この愛の偶像たる子供が、無茶な放蕩へと道を踏みはずして真逆様に転落し、あれよあれよというまに悪徳の限りを尽くして、いまや悔悟の|暇《いとま》もその力もないまま、この世の果てにしがみついているのを目のあたりにしている、そういう人にしか分からないみじめな気持である。母親は懸命に祈った。もし息子の命が助からぬものなら、せめて病気の初めから次第にひどくなってきたうわ言が、死ぬ前には消えますように、そして光と静けさとが与えられ、怒れる神との和解ができますようにと。しかし数日後には体力も尽きてしまったらしく、病人は死んだように静かな状態に沈み込んでゆき、それは安らかな眠りかと見紛うばかりであった。蒼白な顔は大理石を思わせたが、これはふつうの魂がその|住処《すみか》を離れる確かなしるしであった。目は閉じられて落ち窪み、まるで誰かが優しい手を差しのべ、最後のお務めは了りましたと示すかのようだった。土気色した唇は半ば開かれて並んだ歯を見せ、それが恐ろしくも人を打つ死の形相を与えていた。仰向けの体の両脇にはだらりと腕が伸びて、動く気配はまったくない。気を取り乱した母親は、あれこれ手を尽くしたが、息を吹き返す|徴《しるし》を見つけることも出来なかった。居合わせた医者はおきまりのやり方で、まだ命があるかどうか検べた末、臨終を宣告し、そして悲しみに満ちたこの家を出ようと支度にかかっていた。彼の馬が戸口へやってくるのが見えた。窓辺に集まっていた人々や、正面の芝生のあちらこちらにかたまっていた者たちは、戸が|開《あ》くといっせいにそこへ押し寄せてきた。乳母や作男や貧しい縁者たちや、可哀そうに思って来た者もいたし、物見高い気持もあるが、ただそれだけでない何かに惹かれてやってきた者もあった。人が他界しようという時になると、その家のまわりにはより低い身分の人々が寄り集まってくるものだが、それはこうした気持がさせるのである。彼らは医師がホールの戸口を出て、馬のほうに近づいていくのを見た。医師がゆっくりとそして憂鬱な様子で馬に跨ろうとしたとき、皆はもの問いたげな顔で、そのまわりに駆け寄ってきた。誰も一言も交わさなかった。が人々が言いたいと思うことは、はっきりしていた。内科医は鞍に身を置いた。従者は出発を遅らせようとするかのように手綱を握ったまま、その顔に目をやった、主人が皆の懸念に解決を与えるのを待っている、といったふうに。と内科医は首を横に振り、小声で、「ジェームズ、みんな終わったよ」。こう言うと|徐《おもむ》ろに立ち去った。医者のことばを聞いたとたん、そこに居合わせた大勢の女たちは悲鳴をあげ、それが三十秒ほど続いてから、急に今度は声をふりしぼった騒がしい耳ざわりな悲しいすすり泣きに変わり、その中に混じって、男の低い声が時として聞こえてきた。それは深く沈んだ嗚咽の声だったかと思うと、悲痛な叫びだったりした。チャールズの乳兄弟に当たる者が悲しみあまって手を打ったり、こすり合わせたりしながら、群れている人々の間を歩き回っていた。可哀そうにこの男は、子供時分のチャールズの仲間で遊び相手であり、後ではその召使いとなったが、いつも主人からはことのほか目をかけられており、男も若い主人を自分の命のように、いやそれ以上にいとおしく思っていたのである。
マッカーシー夫人が、可愛い息子にとうとう最後の一撃が加えられ、最後の審判の席へ、それも何ら自分の過ちに気づかぬままに送られるのだと悟ったとき、しばらくの間、息子の冷たい顔にじっと目を据えたまま動かなかった。するとそのとき、まるで何かが急に彼女の細やかな愛の心の琴線に触れでもしたかのように、看病と不安で青ざめた彼女の頬を、ぽろぽろと涙が止めどなく滴り落ちてくるのだった。母親はなおも息子を見つめつづけていた。明らかに自分が泣いていることさえ忘れ、ハンケチで目をぬぐうことさえしない。しかし比較的よい暮し向きの百姓女たちが大勢、声をあげて泣きながら部屋いっぱいになってきたので、自分に課されているこの国の習慣である悲しい務めを思い出した。夫人は部屋を出ると、通夜の指図をし、あらゆる階層の夥しい弔問客に出す、こうした悲しい儀式にはつきものの軽い食事の用意を言いつけた。その声はほとんど聞こえず、召使いや彼女を助けて必要な準備を行なう年老いた侍者のひとりふたりのほかは、誰も夫人の姿を見なかったが、すべてはこの上なく整然と運ばれていった。夫人は悲しみに身をまかせ切っていたが、いつにもまして|邸内《やしきうち》の者たちの手際が要求されるいま、さらに注意を怠るわけにはいかなかった。この不幸な時に当たって夫人がいなかったら、家の中はまったく混乱してしまったことであろう。
夜はかなり更けていた。昼のあいだ家の内外に吹き荒れていた悲しみの嵐は去って、重々しい通夜の静けさが訪れた。マッカーシー夫人は長い看病に疲れ切っていたが、いまだに胸の痛みに眠れず、息子の隣の寝室でひざまずいて熱心に祈っていた。突然、その勤行はただならぬ物音に妨げられた。この音ははじめ遺体のまわりで通夜をしている者たちの間に聞こえたのである。はじめはそっと呟く声だった、と思うと今度は物音ひとつしなくなる。それはまるで狼狽のあまり身動きできないといったふうだったが、次に恐怖の叫び声が中にいたすべての者の口から上がった。戸が開け放たれ、われ先に飛び出し、おし合いへし合いで下敷になったもの以外は、すごい勢いで階段へ通ずる廊下へと押し寄せた。マッカーシー夫人の部屋はその廊下に面していたので、人々を押しわけて息子の寝室へ行った。見ると息子は寝台に身を起こし、まるで墓場から起こされた者のように、ぼんやりあたりを見回していた。落ち込んだ顔の表情やげっそりと|痩《こ》けた体を照らす灯りのもとで、その全体のありさまは、まさにこの世のものとも思われぬほど恐ろしかった。マッカーシー夫人はしっかりした人だったが、何といっても女、土地の迷信にまったく囚われていないとは言えなかった。膝を落とすと両手を合わせ、声を上げて祈りはじめた。目の前の人影が唇を微かに震わせ、ようやくのこと「母さん」と声を出し、さらに何か言いたげに蒼い唇を動かすのだが、舌がもつれていうことをきかなかった。マッカーシー夫人は駆け寄ると、息子の両腕をつかんで叫んだ。「お話し、どうかお願いだから、話してごらん、おまえ生きてるのかい!」
息子は静かに母親の方へ向き直ると、相変わらず見るからに苦しげな様子を見せながらこう言った。「ええ、母さん、生きてるんです――でも、坐って落ち着いて。ぼく話すことがあるんだけど、それは母さんが今見たより、もっとびっくりすることなんです」。息子はまた枕にもたれかかり、寝台の脇に膝をついたままずっと息子の片手を両手の中に握りしめ、自分が今見聞きしていることが信じられないといった面持で、息子に目を注いでいる母親に向かってこう続けた。「黙って終りまで聞いてね。今のうちに話しておきたいんです。だってぼく今、自分が生き返ったんで気が張ってるでしょ。じき疲れちまいます。そしたらたっぷり休まなくちゃならないのは、目に見えてますから。病気になったばかりの頃のことは、こんがらがっていてよく思い出せないんです。でもこの十二時間のうちにあったことはよく覚えているんですけど、その間ぼくは神様のお裁きの座にいたんです。そんな不思議な顔して見ないでよ――。ぼくが罪深い人間だということが本当であるように、これは本当のことなんです。また、これから悔い改めるのが本当であると同じくらい、本当のことなんですよ。その心がお慈悲をたれるというのでなくて、裁きを下すことへと代わってゆくのです。恐ろしい様子で並んでいる畏れ多い審判者たちを見ました。思い返してもぞっとします。お怒りになっていらっしゃる神様のご威光をぼくは見たんです――頭ん中にそれははっきり刻まれてます。でも人間のことばでは言い表わせない。出来るだけ説明するつもりですけど――そう手短かにこう言ったらいい。つまりぼくは計りに載せられたんです。目方が足りんと言われた。最終判決が下されようとしてました。ぼくをじろりと見つめた全能の審判官の目を見て、審判のおおよそは分かりました。その時、守護天使さまがその顔に慈悲と同情を浮かべながら、ぼくを見ていらっしゃるのに気がついたんです。子供時分、母さんは守護天使さまにお祈りするようにって言ってらした。ぼくは両手を差しのべて、一生懸命、神様にとりなして下さいって守護天使様にお願いしました。どんな辛いことがあってもいい、罪の償いがしたいから、一年いや一月だけ待って下さい、って泣いてお願いしました。天使さまは『審判官』の|足下《あしもと》に身を投げて慈悲を乞うて下さいました。ああ、決して決してぼくは、一万年の輪廻を経巡ることになっても、あの時の恐ろしさは永久に忘れないでしょうね。ぼくの運命は宙にぶら下がっていて、ただの一瞬で、言うに言われぬ苦しみが、永遠のぼくの定めになるかも知れなかったのですもの。でも、ついに『正義』は判決をご猶予下さり、ゆるぎないしかも優しい『恵み』の声がしたのです。『そちとこの世を造り給うた神の掟を、そちはただ犯すために生きていたような現世に戻るがよい。悔い改めのために、三年の歳月をそちに与えよう。その月日が果てたら、おまえは再びここに立たねばならん。そのときは、救われるか永遠に破滅するかなのだ』。あとは何も聞こえませんでしたし、何も見えませんでした。ふと気がつくと生き返ってて、じき母さんが入ってみえたんです」
この最後のことばを口にするまで体力はもっていたが、すぐにチャールズは目を閉じ、ぐったりとして横たわってしまった。母親は前にも言ったように、神秘的な出来事を信じたがる傾向があった。息子は生死の境だったような昏睡状態から醒めたとはいえ、まだうわ言を口走っている状態にあるのかどうか不確かだった。しかしともかく、安静が必要だった。母親は息子の眠りを妨げるようなことがないようすぐに取り計らった。数時間経って彼は爽快な気分で目を覚ますと、その|後《のち》はゆっくりではあるが、着実に恢復していった。
息子は自分が目のあたりにしたこと、一度自分が語ったことの真実性について、繰り返して説明しようとやっきになった。それを本当にあったことだと確信していることは、その習慣や行ないが目に見えて変わったことで明らかだった。以前の友達とのつきあいをすっかり断わったわけではない。改心したからといってその気質が気難しくなったりはしなかった。しかし決して友人たちといっしょになって度を過ごすことはなく、むしろ彼らを|諭《さと》そうとして骨を折ることもしばしばだった。その敬虔な気持からする努力が、どの程度功を奏したか私は知らない。だが息子本人については、見せかけではなく信仰に篤く、穏和でしかも堅苦しいところは無かったと記されている。彼は限度を越えずに節制をして、人望も幸福も失うことなく、悪徳を捨てて美徳につくことができた生きた見本を示したものだと伝えられている。
時は流れた。三年にはまだよほど間があったが、息子が見た幻の話は忘れられた。時折り話題になることはあっても、あんなことを信じるなんて馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに引き合いに出されるのがつねだった。チャールズは規則正しい生活と節制のおかげで、かつて無いほど丈夫になった。二十七歳近くになる頃、次第に何ものかに真剣に取り組んで心を奪われているような様子を見せるようになり、実際のところ友達にもよくひやかされた。とはいえ、日頃の持ち前の陽気さと快活さを見せてふるまうことのほうがはるかに多かった。人々は彼の定めとされている事柄について執拗に問いただしても、彼はいっさいそれに触れなかったが、なお堅く信じていることは、家の者にははっきり分かった。その予言が、仮にそれが実現されるとしての話であるが、その日がほとんど真近に迫ってきたが、見たところチャールズの様子は、この先、病気の心配はまず無いように見えた。友人たちに説得されて、「スプリング・ハウス」に大勢招んで誕生の祝宴を張ろうということになった。この祝宴の開かれたときの出来事やそのあたりの事情などは、次の二通の手紙が|詳《つぶ》さに余さず語ってくれるはずである。これは一家の親戚の者が大事にとっておいたものである。第一の手紙は、マッカーシー夫人が、ごく近い親類筋に当たり、また親友でもあった婦人に宛てたものである。その婦人の住んでいたところはコーク地方で、この「スプリング・ハウス」からは約五十マイル離れたところにあった。
カースル・バリーのバリー夫人宛
一七五二年十月十五日、火曜日、朝
スプリング・ハウス発信
[#ここから1字下げ]
親愛なるマリー様、
こんなお手紙を差し上げて、貴女の昔からの友人で親戚でもある私に対します貴女のご厚情を、何だか試すことになりはしまいかと心配でございます。貴女の誠実なお人柄と友情にお縋り申してこそ、私はこの時候に、しかも荒野のひどい道を二日も旅して会いにきて下さるようお願い申すのでございます。貴女にお目にかかりたいと申しますのも、じつはただならぬ問題があるからです。伜の話はお聞き及びでございましょうね。私の口からその事は申し上げられません。詳しいことはともかく、次の日曜に、伜の夢のといいますか幻のお告げが、本当かどうかはっきり致すのでございます。で私はだんだん胸苦しくなってきて致し方ありません。でも、マリー様、こういう悲しいときはいつもそうでしたけれど、貴方がいらして下すったら、この辛さも紛れるように思われますの。甥のジェームズ・ライアンが、ジェーン・オズボーン(ご存知のように伜の後見でございます)を、嫁にとることになっておりまして、その披露宴がまた次の日曜日に当地で催されるのです。チャールズは一日、二日延ばすようにと強く言い張ったのですが。神様、どうかお願いでございます――いえ、このことはいずれお目もじの上、お話し致しましょう。農事のご都合で、もしご主人様がご一緒下されないのでしたら、お淋しいこととは存じますが、お一人でもぜひいらして下さいませ。お嬢様方もご一緒にね。日曜にならないうちに、なるべく早くおいでになって下さいませ。心よりお待ち申し上げております。
マリー様をいつもお親しく思う従妹にして友人である
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]アン・マッカーシーより
使いの者が沼地の馬車も馬も通れぬ小道を二日歩いた末、この手紙をカースル・バリーへ届けたのは、水曜の朝早くだった。バリー夫人はすぐに出立するつもりだったが、家事の整理に手間取ったため(アイルランドの中流の|郷士級《ジエントリー》の家にあっては、一家の女主人がいないとなると、たちまち家事が混乱をきたすのだ)、夫人が二人の娘を連れて出発できたのは、やっと金曜の朝、陽もだいぶ高くなってからのことであった。一番上の姉娘は父親といっしょに家事の監督のため家に残ることになった。旅に出る者たちは、アイルランドでは今も使われている|遠出馬車《ジヨーテイング・カー》という一頭立ての屋根なし馬車で旅をせねばならず、それでなくても悪い道はひどく降った雨の後で、さらにひどくなっていた。そこで一行は旅程を二つに分け、楽な旅をして、土曜の夕刻にはスプリング・ハウスに着くはずであった。朝出るのが遅れたため、一日目にはたかだか二十マイルしか行けなかったので、この予定は変更せねばならなかった。そこで三人は、カースル・バリーから三十マイルと離れていない懇意にしているバーク氏の家で、一晩泊めてもらうことに決めたのだった。うんざりするほど馬車に揺られ、ともあれ無事にバーク邸に辿り着いた。翌日、スプリング・ハウスに行く道々、そしてそこに着いてから、一行の者たちにどういう事がふりかかってきたか、それは真ん中の娘が姉に宛てた次の手紙に余さず語られている。
一七五二年十月二十日、日曜日、晩
スプリング・ハウス発信
[#ここから1字下げ]
エレン様、
同封したお母様のお手紙をご覧になれば、悲しい消息のおおよそはお分かりかと思いますが、もっと詳しくお話ししましょう。それにはこの二日の間に起こった奇妙な出来事を思い出しながら、順序立てて書いたほうがよいと思います。
金曜の晩は遅くまで、バークさんのところの人たちに引き留められましたので、昨日の朝出発できましたのは、かなり遅くなってからでした。そういう次第ですから、わたしたちはここから十五マイルばかりの所まで来たときには、日も暮れてしまいました。先週降った雨のせいで、道はどうしようもなくぬかるんでいて、わたしたちはほんとうに、そろそろとしか馬を進められなかったものですから、とうとうお母様はバークさんの弟さんのお宅(お邸は道を逸れて四分の一マイルほどです)に一晩泊めていただいて、翌日、こちらへ来てから朝御飯をいただくことにしようと決めました。その日は一日風が吹いたり急に雨になったりで、お天気は変わりやすく、どんよりとしたはっきりしない空模様でした。お月様は満月でした。時折り明るく輝くかと思うと、濃い真黒なけわしい山のような雲の中に隠れてしまいます。その雲といったら飛ぶように流れ、次第次第に大きくなって、まるで力を貯えて嵐を呼ぶために互いに集まってくるみたいでした。顔に吹きつけてくる風は、低い垣根に沿ってひゅうひゅう吹いてくるし、狭い道はあちこちに深いぬかるみがあってなかなか前に進みません。その先数マイルの間は、雨宿りする小屋も木立もなかったのです。お母様が御者のリアリーに、バークさんのお邸まであとどのくらいあるか尋ねました。「辻まで、そう十スペードほどでごぜえます、奥様。そしたらそこを左に折れて並木道に入ればよろしいんで」「そうかい。辻へ来たらすぐバークさんのお邸へ回しておくれ、リアリー」。こうお母様が言い終わるか終わらないかの時でした。鋭い悲鳴にわたしたちはぞっと身慄いし、心臓を突き通される思いがしました。その叫び声は道の右手の垣根のあたりから聞こえました。この世のものとも思われませんでしたが、|喩《たと》えて言うなら、誰か女の人が、いきなり死ぬほど強く打たれて、劇痛に悶えながら、まさに息を引きとろうとする泣き声のようでした。「神よ、お護り下さい」とお母様は声をお上げになりました。「垣の向こうへお行き、さあ、リアリー、まだ大丈夫だったら、あの女の方をお助け申すんです。わたしたちはついさっきの小屋へ引き返して、近くの村に急いで知らせます」。リアリーは激しく馬に鞭をくれながらふるえ声で申します。「女ですって?」とリアリーは乱暴に馬に鞭をあてながらふるえる声で言いました。「女なんかじゃありませんよ、あれは。早く逃げなくちゃ駄目ですよ、奥様」。こう言いながらも彼は馬を速めようと無我夢中です。何も見えませんでした。月が隠れ、あたりは真暗だったからです。じきに土砂降りになるような予感がしました。リアリーの声がするとともに鞭を入れられた馬が、急にぐんと歩みを速めたその時です。両手を強く打ち鳴らす音が、はっきりと聞こえました。続いてと切れと切れの叫び声があがりました。それは誰か垣根の内側を、私たちの進みと歩調を合わせて走っている人が出している絶望と苦悩の最後の叫び声かと思われました。しかし依然として何ひとつ見えませんでした。辻の手前十ヤード足らず、左へ並木道を行くとバークさんのお邸、道なりに右へ進めばスプリング・ハウスというところまで来て、雲間から突然、月が輝きだしました。そう、今この便箋を見るのと同じように、わたしははっきりと見たのです。それは背の高い痩せぎすの女で帽子は被らず、豊かな髪を肩に波打たせていました。ゆったりした袖無しマントを着ているような、敷布を身にまとっているようにも思われました。その人は、スプリング・ハウスに続く道が交わっている垣根の角に立って、こちらの方に顔を向けて、左の手でスプリング・ハウスの方角を指し、右の腕をさかんに振ってわたしたちをそちらへ招き寄せようとでもしているようでした。馬は急に現われた人影に、明らかに驚いて急に止まりました。その女は今言ったような様子で立って、相変わらず三十秒ばかりのあいだ、あの突き刺すような悲鳴を上げていました。それから道のほうへ飛び移ると、一瞬、視界から消え失せ、今度はわたしたちが進もうとしていた並木道を少し行ったところの、高い壁の上に立っているのです。その人影はなおスプリング・ハウスへ行く道の方を指差し、ちょうどわたしたちが並木道へ進むのはいけないというような様子で、挑むような命ずるような格好をしているのです。その人影はいまやすっかり黙っていましたし、風にひらひら舞っていた服が、ぴったりとその人を包んでいました。「さあ、リアリー、スプリング・ハウスへやっておくれ、後生だから」とお母様がおっしゃいました。「この世のものかあの世のものか、ともあれ、この先あの人を苛立たせることはもうしますまい」。リアリーは申しました。「あれはバンシーですよ、奥様。この生命にかけて、この恵み深い晩に是が非でもスプリング・ハウスに行かなけりゃなりますまい。だが何か縁起でもないことが待ち受けているらしいですよ。でなきゃ、あの女が、わしらをあっちに差し向けるようなことはありますまいから」。こう言いながらリアリーは馬車を進めました。道が右へ折れるところまで来ると、月明かりは突然失せ、亡霊の姿はもう見えなくなったのですが、ただ手を打つ音がはっきりと長く糸引くように聞こえ、それは何か急いで引っ込んでゆく人が立てる音のように、次第に遠のいて、消えていきました。道は悪く、可哀そうに馬も疲れていましたが、許すかぎり大急ぎで進んでいきました。そしてここへ辿り着いたのは、|昨晩《ゆうべ》の十一時頃でした。で、お母様のお手紙でご存じのあの場面が、わたしたちを待ち受けていたという次第です。余さずお話しするには、まずこの一週間に、ここで起こったいくつかの事件のことをお話ししなくてはなりません。
お姉様もご存知のように、ジェーン・オズボーンが、今日ジェームズ・ライアンと結婚することになっていて、二人とその友人たちは、先週からこのお邸に来ておりました。先週の火曜、つまり従兄のマッカーシーが招待状を持たせて急ぎの使いを出したのが、ちょうどその朝だったのですが、その日人々は、じき晩餐という頃に邸内を散歩していました。数日来ライアンさんに騙されていた可哀そうな女の方が、お邸の近辺を、ふさいだ物憂げな様子でうろうろしていたのを見た人があるらしいのです。ジェームズはその女の人と、数カ月前から別に暮らしていました。でもかなりきちんと面倒は見ていたようです。その人は結婚の約束にごまかされていたのです。自分の不幸な身の上を恥じる気持に失望と嫉妬が輪をかけて、その人は気が変になっていたのでした。その火曜日も午前中ずっと、スプリング・ハウスにほど近い木立の中を、袖無しマントをぴったりと着て、フードを目深に被って歩いていましたが、この家の者とは誰とも話を交わすことも、いえ、顔を合わすことさえ避けていたということです。
チャールズ・マッカーシーは、先にお話ししました晩餐前のことですが、皆の少し後をジェームズ・ライアンと他のもう一人の者に挟まれながら、植込みに沿った砂利道を歩いていました。すると拳銃の音がして全員が立ちすくんでしまいました。それはチャールズたちが行き過ぎようとしていた植込みの鬱蒼としたあたりから発射されたのです。突然、チャールズが倒れました。脚をやられたことが分かりました。お客の一人にお医者様がいたので、すぐ駆けつけて診て下さり、傷はごく浅く骨折もない、二、三日もすればきっとよくなるとはっきり言って下さいました。チャールズは自分の部屋へ運ばれる途中でこう言いました。「日曜までにはもっとはっきりするだろうな」。傷は早速手当てされ、軽い怪我なので大した差し障りもなく、何人かの友達が晩までチャールズの部屋にいました。
調べが進み、あとでわかったことですが、このいまわしい発砲の犯人は、さっき申し上げた例の可哀そうな娘だということでした。こういうこともはっきりしたのです、娘はチャールズを狙ったのではなくて、並んで歩いていた男、自分の操を穢し、幸せを台無しにした男を狙ったのでした。さて、庭じゅう捜しましたが、娘は見つかりません。すると、自分から家へ入ってきて、笑い、踊り、大声で歌っては、しきりに自分はとうとうライアンをやっつけたと叫んでいます。しかし射たれたのはライアンさんではなくチャールズだと聞かされますと、娘は突如、激しい発作に見舞われ、痙攣的に身を慄わせていたかと思うと、戸口へと駆け出し、追いすがる人々をかき分けて逃げていってしまいました。人々は追いかけましたが、つかまったのはやっと昨晩のことで、わたしたちが着く少し前、ここへ連れてこられたのですが、娘は完全に発狂してしまっていたのです。
チャールズの傷はさして心配ないということで、日曜の披露宴の支度が例のとおり進められました。ところが金曜の夜になると、心の不安を覚えるようになり、熱も出てきました。そして土曜(つまり昨日)の朝には、いよいよ容態が思わしくないため、これは再びお医者様に診て頂かなければということになりました。内科のお医者様二人に、外科のお医者様が一人、診察に立ち会われました。その日の十二時ごろに協議の結果、恐ろしいことが告げられたのです。晩までに容態が好転しないかぎり、あと二十四時間とはもちますまいというのです。傷口に当てられた包帯がきつく巻かれたせいか、あるいは手当ても適切ではなかったらしいようです。お医者の予想は当たりました。好転の兆しは見えず、わたしたちがスプリング・ハウスに着いたときには、とうに希望の光はことごとく消え去った後でした。着く早々、わたしたちが目撃した光景を見れば、悪魔でも胸を痛めたことでしょう。門のところで、チャールズ様は危篤でございます、と聞かされていました。家まで来て玄関を開けてくれた召使いに聞くと、いよいよそれは確かでした。中へ入ったちょうどその時、階段からもの凄い悲鳴がしたのでわたしたちはぞっとしました。お母様はお可哀そうなマッカーシーのおば様のお声を聞いたように思われ、あわてて駆けだされました。わたしたちも後に続きました。階段を数段上がると、若い女の人が気が狂ったように、激しく二人の下僕と争っていたのでした。駆け上がろうとするのを二人がかりでやっと抑えていますし、上の方にはマッカーシーのおば様が、あまりの興奮に卒倒なさっておいででした。あとになって分かったのですが、その女の人は、先程お話ししました不幸な娘さんでした。娘はチャールズの部屋に行って、『自分に殺されたということを、あの世へチャールズさんが訴えに行く前に許してもらいたい』というためだったのです。この無茶な考えはそれと争うようなもう一つの心のこだわりと溶け合っていました。それが以前彼女の心を支配していた考えと争っているのです。一つにはチャールズに許しを乞いたいということ、もう一つにはジェームズ・ライアンが、チャールズと自分を殺した犯人として非難したいということでした。とうとう彼女は追い返されてしまいましたが、最後に喚きながら、「ジェームズ・ライアン、おまえだよ、あの方を殺したのは、私じゃない、おまえさ、あの方を殺したのは」、こう言うのが聞こえました。
マッカーシーのおば様はわれに帰ると、お母様の腕の中に倒れ込んでしまわれました。お母様を見てたいへんほっとなされたご様子です。おば様は泣かれました。ご自分でおっしゃるには、あの不幸な事件このかた、涙を流すのは初めてだそうです。おば様はわたしたちをチャールズのお部屋へ連れていかれました。彼はわたしたちが着くとすぐに会いたがったそうです。死期が近づいていると悟っており、残された数時間は、お祈りと黙祷に捧げたいと願っていました。穏やかで諦め切った様子に、快活ささえ浮かべていました。そして真近に迫った恐ろしい事件のことを、勇気と確信をもって語りました。それは定めであり、自分は以前病気で不思議な目に遭った時から、もう心の準備はできている。こうなるという予言も決して疑ったことはない、こう語りました。チャールズはわたしたちに別れを告げました。それはちょっと気楽な旅にでも出かけるというふうでした。皆は嘆き悲しんでいましたが、わたしたちは心を揺さぶられるような思いで、チャールズの元を立ち去ったのでした。この気持は、一生涯忘れることはないでしょう。
お可哀そうなマッカーシーのおば様……、今、わたしに来るようにって、言ってお寄こしになりましたわ。家の中になにか騒ぎがもち上がったようです。もしかしたら――
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手紙は最後まで書かれていなかった。同封の手紙のことが何度か言われていたが、そこに簡単に結末が述べられている。マッカーシー家について私が知っているのは、これで全部である。二十七回目の誕生日が暮れる前に、チャールズの魂は創造主の最後の審判に委ねられるために去っていったのである。
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地と水の妖精たち[#「地と水の妖精たち」はゴシック体]
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妖精の踊り場
[#地付き]ウィリアム・カールトン
ランティー・マックラスキーは女房をもらった。で、もちろん、いっしょに住む家がいることになった。そこでランティーは、六十エーカーばかりのちょっとした農場を手に入れた。ところが、その農場には家がなかったものだから、それを自分で建ててみることに決めた。そして、出来るだけ住み心地のよいものにしようとして、ランティーは妖精たちの遊び場と思われていた、あの美しい緑の茂った円い土地の一つを、家の敷地に選んだ。よしたほうがいいと反対されたのに、ランティーは頑固者で、その上、めったに怖じ気づくたちでなかったから、たとえヨーロッパじゅうの妖精みんなを敵にまわすことになっても、こんな快適な場所を諦める気なぞない、と言った。それから、いよいよ家作りに取りかかり、とても小綺麗に仕上げると、こうした折には近所の人や友人たちを招待してもてなすのが習わしだったから、ランティーもまた、その良い好ましい古い習慣にならって、昼間のうちに女房を家に入れると、バイオリン弾きを呼び、ウィスキーをたくさん用意し、夕刻には、訪ねてきた人たちとダンスを踊った。万事は順調に運んでおり、陽気な楽しさに、一同はだんだん活気づいていった。しかし日が沈み夜になったとき、屋根のてっぺんのところで、垂木や横梁を押しつぶしたり、引っぱったりするような物音が聞こえてきた。そこに集まっていた人々はみなこの物音に耳を傾けた。たしかにそれは、何かを押しつぶしたり引っぱってずらしたり、うなったり、あえいだりしている音に違いなく、それはまるで、千人もの小さい人たちが、屋根を引きずりおろそうとしているかのようだった。
「そおーれ」と命令するような調子の声が聞きとれた。「しっかり働け、真夜中までに、ランティーの家を引き倒しておかなきゃならんぞ」
それはなんともランティーには有難くないことだったので、敵が自分の|太刀打《たちう》ちできる相手ではないのを見てとると、ランティーは外へ出て、こんなふうに妖精たちに言ってみた。
「紳士方、あんた方の土地に家を建てたことを、平にご容赦願います。が、もしみなさんがご親切に、今夜一晩お見のがし下さいますなら、明日の朝から、わしが自分でこの家を取り毀し、片付けはじめるつもりでおります」
するとこのことばに続いて、とても小さなたくさんの手が拍手するような音と、「いいぞ、ランティー! 小道の途中、二本のさんざしの間に家を建てろ!」という叫び声が聞こえた。そして次から次へと、心からの喜びの湧く、小さな叫びが打ちつづき、それから勢いよく駆け抜ける音がしたかと思うと、もう何一つ聞こえなくなった。
だが話は、これでおしまいではない。というのは、ランティーが家の土台を掘り起こしていると、毀れていない金の小鉢を見つけた。妖精たちに遊び場を残してやろうとして、ランティーはほかの誰もがなれぬような大金持ちになったわけだが、これも妖精と出会わなければなれぬことだ。
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糸紡ぎの競争相手
[#地付き]ウィリアム・カールトン
北アイルランドでは、しばしば農家で未婚の女たちによる「ケンプ」と呼ばれる紡ぎ仕事の競技会が催された。手早く、腕のよい紡ぎ手だという評判の若い娘たちが誰もかれも、ふつう夜の明ける前に、「ケンプ」のある場所に集まってきた。そうしたときには、紡ぎ車を運んだり、時には、道や野原を通って、女たちを無事に送りとどける恋人か親戚の男が同伴してくるのだった。
「ケンプ」というのは、まったく活気に溢れた楽しい光景であり、そのうえ、娘たちの勤勉さと上品な誇らしさとを、より増すようにも計算されていた。遠く、朝の静けさを破って、はしゃいだり、歌ったりするたくさんの乙女たちの快活な声や、忙しく回る紡ぎ車のうなる音――じっさいそれは、かん高い音や、糸巻きのひっかかる音などで、少し耳障りなほどだ――それも巻き手が娘の名前を呼んだり、その時までに紡いだ量を大声で確認する声などを聞くときほど、朗らかで快い気持にしてくれるものはまたとない。この競技はふつう一般に夜明けの二、三時間前に開始される。この陽気なざわめきは、ダンスへの期待へと続いてゆく――そのダンスで「ケンプ」は幕を閉じるわけだ。そして公正に選ばれた勝利者が指名されると、その娘は競技会の女王と見なされ、当然のこととして尊敬の念をもって遇される。
さて、話というのはこうである。ショーン・ブィー・マガヴァランが、フォー・ア・バラーの教区じゅうで一番純情で、行ないの正しい、また一番の働き者でもあることは、誰もが知っていた。ショーンよりも上手に、から竿や鋤や鎌を扱い、また日々の仕事を彼よりしっかりと手際よく片付けることのできる若者を見つけるのは、難しいことだった。それに加えて、人が|市《いち》ですれ違うような、見栄えのする、立派な体格の美男の若者だった。そうした目立った男だったので、ショーンのことをきれいな娘たちが、お互いに争わないことはなかったようだ。しかし、ショーンは、外見が美しいのと同様、心も慎み深い男だった。妻をほしいと思っていたが、残念ながら、ただ仕事の手際のよい、小綺麗な、自分自身と同じように身持ちがよくて働き者の娘を娶りたいと望むだけだった。だが、ここに困ったことがあった。というのは、近所には、そうした娘が一人だけでなく、十人を下らぬほどもいたからだ――みんながみんな同じくらい彼に似合いの娘たちで、また彼の妻になりたがっており、そして同じくらいに美しかった。とはいうものの、ほかの娘たちより、ほんの少しだけいいと思われる娘が二人いた。しかし、このビディー・コリガンとサリー・ゴーマンの二人は、計りにかければほとんど等しいほどだったので、ショーンは自分の人生の伴侶に、この二人のうちのどちらを選べばいいのか決めかねていた。二人とも、かつて「ケンプ」で優勝したことがあった。どちらがどちらに勝てるものでもない、というのがわけ知りの人たちの言うところだった。この二人の娘以上に敬愛されている者は、教区のうちにはいなかったし、またそうされるに値する者もいなかった。当然のことながら、この二人の娘はみんなから誉め言葉や、好意を受けていた。さて、ショーンはすでにこの二人の娘の糸をひっぱっていたのだか、二人の間にいてどちらにしていいか決めかねており、もし出来ることなら、娘たちのほうで決めてくれたほうがいい、とさえ思っていた。そこで、その週の或る日に、自分のところで「ケンプ」をすると、ショーンは近所の人に知らせ、とくにビディーとサリーには、二人のうちのどちらかこの「ケンプ」に勝ったほうと結婚するつもりだと言った。というのも、教区の人々と同様に、どちらか一人が勝つことを彼も知っていたからだ。娘たちはひじょうに上機嫌で、このことに同意した。ビディーはサリーに向かって、サリーさんが勝つに違いないわと言い、サリーもまた、礼儀正しさではひけをとらず、同じことをビディーに言ったりした。
さて、その週も終わろうとし、「ケンプ」の日まで余すところ二日となったとき、およそ三時ごろに、老パディー・コリガンの家へ、踵の高い靴を穿き、赤の短いマントをはおった小柄な女がやってきた。その時間には、ビディーのほか誰も家にはいなかったので、立ち上がると椅子を一つ火のそばに持っていき、赤い服を着たその小柄な女に、腰をおろして休むように言った。女はそこで言われたとおりにし、ほどなくして生き生きとしたおしゃべりが、二人の間で始まった。
「そこでだが」と見知らぬ女が言った。「ショーン・ブィー・マガヴァランのところで、たいした『ケンプ』があるんだってね?」
「たしかにございますわ」とビディーは答えて微笑んだかと思うと、すぐまた顔を赤らめた。なぜなら、自分の運命がそれにかかっていることが分かっていたのだ。
「それで」と小柄な女は続けた。「『ケンプ』に勝った者は、誰だろうと、ご亭主をもらえるってわけだね」
「ええ、そのようですわ」
「まあ、誰だろうとショーンと結婚できる女は幸せだよ。なにしろあれは、いい若者の見本みたいだからね」
「とにかく、それは本当のことに違いありません」とビディーは応ずると、ほかならぬ自分が彼を失うことになるかもしれぬと思い、その心配で、溜息をついた。たしかに、若い女というものは、いくらでも悪いほうのことを考えては、溜息をつくものだ。「それはそうと」とビディーは話題を変えながら言った。「お疲れではありませんの。何か少しお食べになって、ボニア・ラワル(濃いミルク)をたっぷりお飲みになれば、これから先の、旅の助けになりましょうから」
「ご親切に、有難う、娘さん」とその女は言った。「では少し、有難く頂戴することにしよう。それに、わたしがいただく物を、今日から十二カ月のあいだ、あんたが不自由することがないようにと願っておくよ」
「はい、たしかに……」と娘は言った。「親切から人さまに差し上げたものは、いつも必ずその後に祝福を残してゆきますもの」
「ほんにそのとおりじゃ、それが親切心から出たことならばな」
そこで女は、ビディーが持ってきた食べ物に遠慮なく手をつけ、食べ終わったときには、とても元気になったように見えた。
「さて」と女は立ち上がりながら言った。「あんたはとてもいい娘さんだ。もしあんたが『ケンプ』の日、火曜日の朝より前にわたしの名前をつきとめられたら、その時はね、あんたは『ケンプ』に勝って、ご亭主を手に入れられるんだよ」
「まあ……」とビディーは言った。「わたし、あなたには初めてお目にかかりますし、あなたがどなたで、どこに住んでおられるのかも知りません。いったい、どうやってお名前を知ることができましょう」
「おまえはわたしを今までに見たことがないとな、そうだろうとも」と年取った女は言った。
「それにおまえはこれっきり、二度とわたしに会うことはないんだよ。それでも、もし『ケンプ』の終わるときまでにわたしの名前をおまえが分からないときは、おまえは何もかもなくしてしまうのさ。そんなことになれば、おまえもさぞ辛いことだろう、おまえがショーン・ブィーを愛しているのは、わたしもよおく知っているんだよ」
そう言ってから女は立ち去った。あとに残された可哀そうなビディーは、その女の言ったことにまったく気が沈む思いだった。というのも、本当のところ、ビディーはとてもショーンを愛していたし、それなのに、どうやら彼女にとってとても大切であるらしいあの小柄な女の名前を、つきとめられそうな希望などまるっきりなかったからである。
同じ日の、まったく同じ時刻、サリー・ゴーマンは、「ケンプ」のことを考えながら、父親の家に一人で坐っていた。と、誰あろう、あのおなじみの、あの赤い服を着た小柄な女が家に入ってきたのだ。
「あなたに、神の祝福を」とサリーは言った。「今日はいいお天気ですわ、主よ、感謝します」
「まったくじゃ」と女は言った。「望みうる限りの上天気だね」
「旅で何か珍しいことでもありまして?」
「このあたりで珍しいことと言えば……」と相手は答えた。「ショーン・ブィー・マガヴァランのところで開かれるはずの、例のたいした『ケンプ』のことだけさ。人が言うには、あんたがあの男を勝ちえるか、さもなきゃ取られちまうそうじゃないか」としゃべりながら、じっとサリーを見つめて、付け足した。
「そのことは、たいして気にもかけていないんです」とサリーは自信ありげに言った。「あの人のことでわたしが負けたとしても、それはそれでいいんです」
「それはそれ、というわけには、なかなかゆくまいよ」と年取った女は言い返した。「それに、あの男を勝ちえられたら、たしかにうれしいに違いなかろう、もし出来るならばだがね」
「そのお話はやめにしましょう」とサリーは言った。「ビディーはいい子ですわ、分かっています。でも糸紡ぎにかけては、いつまでたってもわたしを出し抜くことはできませんわ……坐ってお休みになりません?」とサリーは付け足した。「きっとお疲れなんでしょう」
おまえにとって今が考え時なのだぞ、と女は心で思ったが、口には出さなかった。「だが」彼女は考えごとを続けながら自分に言った。「遅くなってもしないよりはまし――ひとつしばらく腰を据えて、この娘が何をするか、もう少しはっきり見定めるとしよう」
そこで女は腰をおろすと、半時間ばかり若い娘の好みそうないくつかの話題を選んでおしゃべりをした。そのあと、立ち上がり、小さな杖を手に取ると、サリーにさよならを言って出ていった。家から少し離れたとき、女は振り返り、こんなひとりごとを言わずにはいられなかった。
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「あれは気のきく気立てのいい|娘《こ》、
でも真心というものが無い。
あれはさっぱり小綺麗な|娘《こ》、
でも、ご馳走は出さなかった」
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可哀そうに、ビディーはあの年取った女のことを、思いつく限り尋ね回ったが、みな何の役にも立たなかった。その女のことを尋ねたどの人も、今までそんな女を見たことも聞いたこともないというのだった。ビディーはとても落胆し、途方に暮れはじめた。なぜなら、もしショーンを失うような羽目にでもなれば、きっと何日も悲しい日々を送ることになるだろうから……。自分にとってこれから先、ショーンほど愛せる人は、決して見つかりはしないということが分かっていた。とうとう「ケンプ」の日がやってきて、近所のきれいな娘たちはみんな、その日、ショーン・ブィーの家に集まった。中でも、妻の座を競うはずになる二人の娘は、まぎれもなく他の娘たちよりはるかに抜きん出て美しく、誰もが二人を誉めそやした。ほんとうに、「ケンプ」は愉快で陽気なものだ。その日は軽やかな笑いと甘い歌声が、いくつもいくつも、可愛らしい唇から聞こえてくる。ビディーとサリーは、みんなの期待に違わず、他の娘たちよりずっと速く仕事をした。しかし、二人を比べたとき、まったくの五分五分だったので、巻き手たちはどちらが勝っているかをなんとしても決めかねていた。美しい二人の娘は、首と首とをつき合わせ、頭と頭を並べて競いあい、「ケンプ」に来ていた人々はみな、二人のどちらが勝つだろうかと、最高度に興味や好奇心をかきたてられ、胸苦しさを覚えるほどだった。
その日もいまやなかばとなったが、二人にはまるで差がなかった。と、そのとき集まった人すべての目を見張らせ、無念の声をあげさせたのだが、このとき、ビディーの糸送りが二つに割れてしまったのだ。もうどう見ても、この競技は相手方の勝ちに終わると決まったようなものだった。そしてさらにビディーをくやしがらせたのは、これまで同様、あの赤い服を着た小柄な女の名前が分からないことだった。どうすればいいのだろう。出来ることはみんなした。十四ばかりになるビディーの弟が、たまたま事故の起きたときにいたので、糸紡ぎの競いの勝負がどんな成り行きかを伝えに、父母のもとにやらされた。続いてこのジョニー・コリガンは、糸送りを直してもらうために、大急ぎで車大工のドネル・マッカスカーのところにやらされた。これがビディーにとって最後の、しかし見込みのないチャンスだった。ジョニーは、もちろんどうあっても姉さんを勝たせたかったから、少しでも時を無駄にすまいとして、畑を抜けてゆき、妖精たちの遊び場として名高いキルラッデンの先のところを、通り抜けてゆこうかと、その近くまでさしかかった。だが、驚いたことに、さんざしの木のところを通り過ぎようとしたとき、紡ぎ車の回る音といっしょに、女の声でこんな唄を歌うのが聞こえてきたのだ。
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『この町にゃ、わたしの名前を知らぬ娘がいる。
わたしの名前は、イーヴン・トゥロット、イーヴン・トゥロット』
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「この町には娘がいる」と少年は言った。「娘はとても悲しんでいる。だって、糸送りを毀してしまい、旦那様をもらえなくなるんだもの。ぼくは今、それを直してもらいにドネル・マッカスカーのところへ行くとこなんだ」
「その娘は何て名だい?」と、赤い服を着た小柄な女が言った。
「ビディー・コリガン」
小柄の女は、すぐさま自分の紡ぎ車から糸送りをさっと取り出すと、それを少年に手渡し、ドネル・マッカスカーのことなど考えずに、それを姉のところに持ってゆくようにと言った。
「おまえにはあまり時間がない」と彼女は言い添えた。「だから、戻って姉さんにこれをお渡し。だが、どうやっておまえがこれを手に入れたかを教えてはいけない。それに、わけても、イーヴン・トゥロットがこれをおまえにくれたなどとは、言っては駄目だよ」
少年は引き返した。そして姉に糸送りを手渡したあと、当然のことながら、それを寄こしたのは、イーヴン・トゥロットという赤い服を着た小柄な女であると話した。事の次第を知ったビディーの目からは、うれし涙がこぼれ落ちた。というのも、いまや、あの老女の名前がイーヴン・トゥロットであることが分かり、それを知ったからには何か良いことが自分の上に起こるはずだと感じたからである。それから、ビディーは紡ぎ仕事に立ち戻った。人の指がこれほど素早く糸を繰り出すことはなかったろう。その「ケンプ」に居合わせた人みんなが、彼女が次から次と糸巻きを太らせるその量に驚きあきれた。一時間、一時間と、どんどんビディーは相手方に追いついてゆき、友人たちの胸は高鳴りだし、サリーの仲間の者たちの気分は沈んでいった。サリーは、ビディーが追いすがってくるのを知るや、今までの二倍の速さを出そうとでもするように、出来る限り頑張っていた。とうとう二人はまた互角となった。するとちょうどそのとき、ビディーの友達のあの赤い服を着た小柄な女が入ってきて、大きな声で問いかけた。「この『ケンプ』の中に、わたしの名前を知っている者はいるかい?」
ビディーが勇気を奮い起こして返答することができるまで、その女は三度もこの問いを繰り返した。やっとビディーはこう言った。
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『この町には、あなたの名前を知る娘がいます。
あなたの名前は、イーヴン・トゥロット、イーヴン・トゥロット』
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「そうだ」と老女は言った。「そのとおりさ。その名前を、おまえと、おまえのご亭主との生涯の導き手とするがよい。しっかりやってゆくんだ。いつも同じ歩調でゆくんだよ。立ち止まったりせず、いつも前に進んでゆきなさい。そうすれば、おまえは初めてイーヴン・トゥロットに会った日のことを、悔やむようには決してなるまいからな」
ビディーが「ケンプ」に勝って、夫と結ばれたこと、そしてショーンと二人して長いあいだ幸福に暮らしたことは、付け加えるまでもないことだろう。だから読者よ、わたしは今となってはこう願いたいだけだ――みなさんとわたしが、いっそう幸せに長生きをしますように、と。
(画像省略)
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幼い笛吹き
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
それほど昔でもない頃、ティペラーリイ地方のはずれに、ミック・フラニガンとジュディー・モドゥーンという、慎み深く正直な夫婦が住んでいたが、男ばかりの四人の子供といっしょに、諺にあるとおり、この貧しき人々には幸いがあった。子供のうちの三人は、太陽が地上を照らしてからこのかた、気立てがよく、体格もよくて健康で、顔立ちも美しい子供たちだった。そして、この子たちが晴れた夏の日の一時頃に、頭には亜麻色の巻き毛を垂れ、頬を二つのバラ色のリンゴのように染め、笑ってでもいるような湯気を立てている大きなじゃがいもを手にして、父親の小屋の戸口に立っているのを見れば、どんなアイルランド人でも、自分の国民の血統を誇りたくなるだろう。こうした子供たちを誇りにしているのは、ミックという男で、ジュディーもまた誇りにしている女であった。たしかに、そういう理由はあった。しかし、残りの一人、上から三番目の子については、誇りどころの話ではなかった。これは神様が、かつて生命をお与えになったうちで、最もみすぼらしく醜く、不健康な赤ん坊だった。育ちも悪く、一人で立つこともできなかったし、揺りかごを出ることすらなかった。髪の毛はすすのように黒くもじゃもじゃしてもつれ、マットのようなちぢれ毛だった。顔は黄味がかっており、目は燃える二つの石炭のようで、まるで永久に動きつづけてでもいるかのように、顔の中で、いつも動いていた。生れて十二カ月も経たぬのに、口には大きな歯がいっぱい生え、手は鳶の足のようで、足は鞭の握りより太く、ほとんど鎌みたいに湾曲しており、もっと悪いことには、鵜のように食い気は盛んで、すすり泣いたり、叫んだり、金切り声をあげたり、うなったりはしたが、口はきかなかった。
近所の人々はみな、この子が何か正統な人間の子ではないと疑いはじめた。とくにこんなことがあってからは、なおさらのことだった。それは人々が、田舎ではよくあることだが、火のまわりに皆が集まって、宗教のことや、善行のことなどを話しはじめたときだった。そのとき赤ん坊は、母親が気持のよい場所にと選んだ、いつもの暖炉のそばの揺りかごの中で寝かされていたが、人々の話の途中で幾度も起き直っては、まさにそれこそ、|悪魔《デヴイル》が憑いてでもいるかのように、大きくうなり声をあげた。このことがあってから、前にも言ったが、近所の人々は、まったくこの子は人の正しい道にかなった子ではない、と考えるようになった。そこで、或る日、公に相談会がもたれ、この赤ん坊をどうするのが一番いいかが話し合われた。或る者は、シャベルに乗せ棄ててしまえばいいと言ったが、これはさすがにジュディーの気がすすまなかった。たしかに、自分の子供が、まるで死んだ子猫や毒を食らったねずみのように、シャベルで堆肥の上に放り上げられるなどとは、あまりにひどいことだった。駄目、駄目、ジュディーはそんなことには耳を貸そうとしなかった。妖精の術や妖精のことに通じていると思われていた或る老婆が、火ばしを火に入れて真赤に焼き、それで赤ん坊の鼻をつまむようにと、しきりと母親にすすめた。そうすれば、疑いの余地なく、自分が何であり、どこから来たかを、赤ん坊に言わせることができるというのである。(なぜならば、みんなの疑いは、この赤ん坊が妖精によって取り替えられたものということだったから)だが、ジュディーはあまりに心優しく、この鬼っ子を可愛く思っていたので、みんなが彼女の間違いを言い立ててもなお、どうしてもそうしたやり方には同意しようとしなかった。おそらくは間違っていたのかもしれぬ。しかし、母親をとがめるのは、やりにくいことだ。そうやって、誰かが一つのことを提案すると、こんどはまたほかの誰かが別のことを主張した。最後に或る人が、この件を相談するために、とても徳があり学もある司祭を呼びにやってはどうか、と言った。もちろんジュディーも、これには何の異存もなかった。しかしジュディーは、いつもなにやかやあって、実行できずにいた。そしてつまるところ、司祭は赤ん坊を見ることはなかった。
少しのあいだは、以前と何の変わりもなかった。手のつけられぬこの子は、相変わらず大声をあげたりうなったりしながら、兄弟三人をあわせたよりもたくさん食べ、笑っていてはすまされないようないろいろないたずらもした。この子はひどく手のつけられない悪たれ小僧だった。ところが或る日、たまたま盲目のバグパイプ吹き、ティム・キャロルが、旅まわりの途中にこの家に立ち寄り、火のそばに坐ってこの女房と少しばかりおしゃべりした。こと音楽について、ティムはもったいぶるような男ではなかったので、しばらくすると、何本かの管を結びつけ、鋭い調子でバグパイプを吹きはじめると、そのとたん、この子は、それまで揺りかごの中でねずみのようにちんまりしていたのに、起き直り、にやりと笑って醜い顔をひきつらせ、くすんだ色の腕を振り、曲がった足を蹴立てて、音楽がとても気に入ったことを教えようとしだした。ついには、その手に|笛《バグパイプ》を持たせてやらなければ、どうにもならぬ始末だった。母親は、この子をなだめようと、ほんの少しのあいだ、この子に笛を貸してやってくれ、とティムに頼んだ。ティムは子供には優しく、喜んで承知してくれたので、目の見えないティムに代わって、ジュディーは自分でそれを揺りかごに持ってゆき、子供のそばに置いてやろうとした。だが、そんなことをするまでもなかった。というのは、子供は行動を起こそうと待ちかまえていたのだ。勢い込んでその笛をひったくると、一方の腕で吹き口を手に、もう一方の下に空気袋をかかえこむと、まるで二十年のあいだずっとこんな
ことはしてきたと言わんばかりに、慣れた手つきでその両方を扱って、調子もよく、「シーラ・ナ・ギーラ」を、まったく文句のつけようがないほどの巧みさで吹き奏でた。
みんなは、これにはびっくり仰天した。おろおろした母親は十字を切った。ティムは、前にも言ったが目が見えず、どんな人が吹いているのかよく分からずにいたのでとても喜び、いま吹いているのが、まだ五歳にもならぬ嘴の黄色い|小僧っ子《プレハーン》で、生まれてからこのかたバグパイプなど見たこともない、というのを聞いたときには、そんな息子を持ったお母さんは嬉しいことでしょうと言い、もしこのお子さんを手放す気があるなら、自分が連れていきたいと頼んだ。また、このお子さんは生まれつき天性の笛吹きに違いないから、自分が少しのあいだ、いくつか役に立つことを教え磨きをかければ、国じゅうで並ぶものとてない笛吹きになるだろうと言い切った。哀れな母親はこうした話を聞いて、ひじょうに喜び、とくにティムがこの子の持つ天性について言ってくれたことは、近所の人がこの子を、真人間でないらしいと言うのは本当かもしれぬ、と自分も思いかけていたので、その懸念を吹きとばしてくれた。さらに、自分の可愛い子(母親はこの小僧っ子を本当に愛していた)が、追い出され、物乞いになることからまぬがれて、自分のパンをまっとうな仕方で稼ぎ出せるようになるかもしれぬ、と考えると、母親としてはいっそう有難い気持になった。そこでミックが夕方、仕事から帰ってくると、女房はすぐこの出来事と、ティム・キャロルが言ったことを洗いざらい話して聞かせた。ミックも、当然のこと、それを聞いてひじょうに喜んだ。この子供のみじめな救いようのないありさまには、まったくのところ困り切っていたからだ。そこで次の日、父親は豚を|市《いち》で売った金を持ってクロンメルに行き、子供の丈に合うような真新しい|笛《バグパイプ》一式をあつらえた。
ほぼ二週間して、その笛は家に届いた。揺りかごの中の子供はそれに目をつけるや、嬉しがって金切り声をあげ、醜い足を投げ出したり、揺りかごに体をぶっつけたりして、何度も何度も奇妙なしぐさを続けた。とうとうしまいには、その子をなだめるために、両親は笛を渡した。と、すぐに飛びつくや、「ジグ・ポルトーグ」を吹き鳴らし、それを耳にした者はみな、その出来栄えに感心した。
この子供の笛のうまさは、いたるところで評判になった。というのは、「|老いたきつね《マダラ・ルーア》」とか「もろこし畑の兎」とか「きつね狩りジグ」とか「カシェルののんびり者」とか「笛吹きの気まぐれ」とか、またそのほか望もうが望むまいが、人々を踊らせてしまうようなどんな素晴らしいアイルランドの三拍子のジグ舞曲についても、このあたりの六つの国には、この子供と肩を並べられる者はいなかったのである。とりわけ、「きつね狩り」を流暢に吹くのを聞くのは驚きだった。聞く人は、ハウンド犬が舌を出してあえぎ、テリア犬がその後ろでうなり、猟師や猟犬使いが、犬どもを叱咤したり励ましたりしているのを、まるで本当に聞いているような気がし、いわば、狩りを目の当たりにしているようだった。
その子供の良いところは、音楽をやり惜しみしないことで、近所の若い男や娘たちは、その子の父親の小屋に集まり、何度も陽気なダンスを踊った。こうしてその子は皆のために曲を吹いたが、皆に言わせれば、まるで自分たちの足が、ひとりでに活発に動いてしまうようだと言い、そしてこれまでにダンスをしたときのどんな笛吹きの曲も、これほどまでに身軽に、こんなに快活に踊らせてはくれなかった、とも言うのだった。
しかし、すべてこうした素晴らしいアイルランドの音楽のほかに、その子供は一つ、不思議な曲を知っていたが、これは今までのどんな曲よりも奇妙なものだった。この曲を吹きはじめると、家の中にあるものがみんな、踊り出すように思われるのだ。お皿やお椀は戸棚でちりんと打ち合うし、鍋と吊しかぎは、煙突の下でかたかた鳴るし、人々は腰かけているスツールが、お尻の下で動くような感じがする。だが、スツールのほうは別としても、坐っているほうの人は誰であれ、決してそれ以上坐りつづけていられない。老いも若きも、いつだって力の限り、跳びはねはじめてしまうのだ。娘たちは、子供がこの曲を吹きはじめると、いつも踊らずにはいられなくなるが、そのとき床は氷のように感じられ、どうしてもうまく足が運べない、と言ってこぼしていた。一歩ごとに娘たちは、仰向けかうつぶせに倒れそうになった。自分の新しい舞踏靴や、明るい赤か緑と黄色の靴下などを見せびらかそうと思っていた若い者たちも、たしかにこの曲には戸惑わせられ、「ヒール・アンド・トー」や「カヴァー・ザ・バックル」や、そのほかのお得意のステップを上手にやり通すことができなくなる、と不平を言った。そしていつも目まいがして、何がなんだか分からなくなり、そのあげくに年寄りも若者も、まるで怒っているように押しのけ合ったり、ぶつかり合うことになってしまう。この不吉な小僧っ子は、みんなをこんな具合に床の上できりきり舞いさせておいては、にやりとしたり、含み笑いをしたり、早口にしゃべったりする。こうした悪さを彼がやりだすと、誰もかれもが猿のジャコのようになってしまうからだった。
大きくなればなるほど、そのいたずらはますます悪くどくなってゆき、六歳になったときには、この子供のために、家じゅうはもう目茶苦茶だった。いつも兄弟たちにやけどをさせたり、怒られるように仕向けたり、また、スツールや鍋に蹴つまずいて、向う脛を折るような羽目にあわせたりした。刈り入れの頃の或るとき、この子供はただ一人家に残された。母親が帰ってみると、犬の背中に、猫が顔を尻尾にくっつけるような恰好で馬乗りになって、猫の足は犬の胴のまわりに縛りつけられていて、あのいたずら小僧は例の怪しい曲を、二匹に聴かせていた。犬は吠えながら跳ねまわり、猫は命を惜しがって鳴き、尻尾を前後に振り、それがまた犬のあごにでも当たったりすると、犬はがぶりとそれを噛むし、そうやって上や下への大騒ぎだった。別の或るとき、ミックの主人のひじょうに礼儀正しい品のある農場主が、たまたまこの家に立ち寄ったことがあった。ジュディーは前掛けでスツールを拭き、彼にすすめて、歩いてきた疲れを休めるように、と腰かけさせた。農場主は背中を揺りかごにもたせかけて坐り、その後ろには血の入った平鍋がかけてあり、ジュディーは豚のプディングを作っていた。子供は自分の巣の中で少しも動かず、糸の先につけた鉤が具合よく引っかかりそうになるまでじっと機会をうかがっていたが、うまくそれを飛ばすように仕組んだので、鉤は男の新しい立派な鬘の房毛に引っかかり、血の平鍋の中に落ちてびしょびしょにされてしまった。また別のとき、母親が乳しぼりを終え、頭にバケツをのせて入ってきたときのことだった。母親を見るやいなや、あの地獄の曲を奏でだしたので、可哀そうに、母親はバケツを放り出し、横ざまに手を打ちながらジグ舞曲を踊りだし、夕食の煮物のために泥炭を運んできた自分の亭主に、こともあろうに、頭からミルクをかぶせる羽目になった。こんな具合に、このいたずら小僧の仕組んだいたずらや悪さのたぐいをみんな語ろうとしたら、いつまでたっても終わりはしない。
そんなことがあってから間もなく、農場主の家畜に悪いことが起こりはじめた。一頭の馬は暈倒病にかかり、立派な肉牛の子牛は疽腫で死に、何匹かの羊は血尻病にやられた。牝牛は性悪になってミルクのバケツを蹴倒しだし、家畜小屋の一方の隅の屋根が落ちてしまった。農場主はこうした災難すべての原因は、あのミック・フラニガンの不吉な子供にあると考えた。そこで或る日ミックを呼んで、こう言った、「なあミック、おまえも知ってのとおり、おれのところじゃ、どうも事が順調にいってないんだ。そこで正直言ってな、ミック、おれはそれがおまえんとこの子供のせいじゃないかと思うんだ。おれはほんとうに文無しになりかかっていて、やきもきしている。朝にならぬうちにこんどは何が起こっているだろうかと考えると、夜ベッドに横になってもなかなか眠れん。だから、おまえが出ていって、よその土地で仕事を見つけてくれるなら、おれは有難いんだが。おまえは国じゅうのどんなやつより役に立つ男だ。どこへ行ったって仕事を見つけられないなんていう心配はないさ」。ミックはこのことばに答えて言った。「わたしもそちら様の災難のことは残念に思いますし、それ以上に、そのことがうちの者のせいだ、と思われているのが残念でございます。わたしにしたところで、あの子にはとても気が休まらないんですが、あれはうちの者ですし、だから養っていかなきゃなりませんのです」。こうして彼はすぐに、よその土地に移ってゆくことを約束した。
そこで、次の週の日曜日のこと、ミックは礼拝堂で、自分がジョン・リオーダンの仕事をやめる気でいることをみんなに話した。するとすぐに、そこから二、三マイル離れたところに住んでいて、働き手を求めていた(最後の一人がちょうどやめて行ったところだった)農場主が、ミックのところに来て、庭つきの家を提供して、一年通しで雇おうと申し出た。その男がいい雇い主であるのを知っていたミックは、すぐに契約を取り決め、農場主は荷馬車を出してくれて、ミックのわずかな家具を運ばせ、その週の火曜に移ることになった。
火曜日になって、約束どおり荷馬車がやってきた。ミックは荷物を積み、子供と笛が入っている揺りかごを一番上に載せ、ジュディーは子供が転がり落ちて死ぬようなことがないようにと、その側に坐って気を配っていた。一行は牛を前に行かせ、犬を従えて、だが猫はむろん残して出発した。他の三人の子供たちはスキーホリー(さんざしの実)や黒いちごなどを摘みながら道を歩いていった。それは、刈り入れ時も終りに近づいた、或る晴れた日のことだった。
一行は河を横切らねばならなかったが、その河の両側は高い土手になっていたので、近づくまでは見えなかった。例の子供は、揺りかごの中でとても静かにしていたが、一行が橋にさしかかり、水の轟き流れる音を耳にすると(二、三日来の大雨で河はものすごい水かさだった)、揺りかごの中で起き直り、あたりを見回し、そして水を見ると、自分がその上を渡って連れていかれようとしているのを知るや、ああ、なんとすさまじくわめき、泣き叫んだことか、ねずみ取りでパチンとやられたねずみだって、こんな声は出しはしないだろう。「静かにおしよ、坊や」とジュディーは言った。「恐くなんかないんだよ、石の橋の上を渡っているだけなんだからね」――「呪われるがいい、このろくでなしめ!」と子供は叫んだ。「おいらをここに引っぱってくるなんて、いったいどういうつもりなんだ」。そう言ってからさらにわめきつづけ、橋を進んでゆけばゆくほど、声を大きくするのだった。とうとう、ミックはもう我慢ができぬとばかり、手に持っていた鞭でぴしゃりと思いっきり打ちすえた、「|悪魔《デヴイル》に締め殺されちまえ」とミックは言った。「いい加減にわめき散らすのはやめろ、おまえについてる耳にはなんにも聞こえないのか」。鞭が当たるのを感じるや、子供は、すぐさま揺りかごの中で躍り上がり、手早く笛を腕に取り、意地悪そうな笑い顔をミックに向けると、ひらりと橋の横壁を飛び越えて水の中に落ちた。「おお、坊や、坊や」。ジュディーは叫んだ、「あの子はもう帰ってきやしないわ」。ミックとあとの子供たちが橋のもう一方の側に走り寄って下をのぞき込んでみると、落ちたその子は、まるでなにごともなかったかのように、白い波頭の上に足を組んで坐り、陽気に笛を吹き鳴らしながら、橋のアーチの下から出てくるのが目に入った。河の流れはとても速く、子供はあれよあれよという間に、遠ざかっていったが、流れの速さと同じくらい、いやそれよりも速いくらいに笛を吹きつづけていた。ミックたちは土手に沿って懸命に後を追ったが、河が橋より百ヤードばかり下流で丘に当たり、急に曲がっているところまで行きついたときには、もうその姿は見えなくなっていた。このことがあってからのち、その子供を見たものは誰もいない。人々の考えによると、その子供は笛を持って、妖精である自分たちの一族のもとへ帰り、そこで仲間のために音楽を奏でているのだろう、ということだった。
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妖精の魔法
[#地付き]語り手 マイケル・ハルト
[#地付き]筆記者 W・B・イエイツ
まだ運河を使って人々が旅をしていた頃、わたしはダブリンから、これで下ってきたことがありました。マリンガーまで来ると、運河も終りとなり、わたしは歩きはじめましたが、ゆったりしたのろい船旅のあとだったのでひじょうに疲れて、体がこわばっているような感じでした。わたしは何人かの連れの者といっしょに歩いたり、馬車に乗ったりしていきました。そんなふうに旅を続けてゆくと、娘たちが牛の乳をしぼっているのに行き会い、わたしたちは何やかや冗談口をたたきながら休みました。しばらくしてわたしたちがミルクがほしいと頼むと、「ここには差し上げられるものがないので、いっしょにうちにいらっしゃいませんか?」と娘たちは言ったので、わたしたちはそのあとについて家に行き、火を囲んで坐りながらおしゃべりをしました。ほどなくして仲間の者たちは出かけましたが、わたしはその気持のよい火のそばを離れるのがどうにもいやなので、一人残りました。わたしは何か食べ物はないかと尋ねてみました。火の上には鍋がかかり、娘たちはそこから肉を取り出して皿に盛り、頭のところの肉だけ食べるようにと言いました。食べ終わると、娘たちは出てゆき、それっきり二度と戻ってきませんでした。
だんだん暗くなってきましたが、それでもわたしは気持のよい火のそばを離れるのがいやで、相変わらずそこに坐っていました。しばらくすると、二人の男が真ん中に死体をはさんで運びながら入ってきました。男たちを見て、わたしはドアの陰に身を隠しました。一人がもう一人に言いました、「誰が焼き串を回すのだ」。もう一人のほうが言いました。「マイケル・ハルト、そこから出てきて肉を回せ」。わたしは震えながら出ていき、焼き串を回しはじめました。「おい、マイケル・ハルト」と最初に口を切った男が言いました。「焦がしたりしたら、代わりにおまえを串刺しにしてやるからな」。そう言うと、二人は出ていきました。わたしはそこに坐って、真夜中まで、震えながらその死体を回していました。男たちはまたやってきて、一人は焦げていると言い、もう一人はそれでちょうどよいと言って、そのことで言い争いを始めましたが、二人ともおまえを今はどうする気もないよ、と言いました。すると火のそばに坐りながら、一人の男が大声でこう言ったのです。「マイケル・ハルト、何か話ができるかい?」「一つも……」とわたしが答えるや、その男はわたしの両肩をつかまえたかと思うと、鉄砲玉みたいにわたしを外に追い出しました。
天気の荒い、風の吹きすさぶ夜でした。生まれてこのかた、あんな夜は見たこともない――天から降りてきたこの世で最も暗い夜でした。わたしはどうしても自分がどこにいるのか分かりませんでした。だから、男の一人がわたしの後ろからやってきて肩に手をかけ、「マイケル・ハルト、今なら話ができるかい?」と言ったとき、わたしは「できますとも」と答えました。男はわたしを中に入れると、火のそばに坐らせ、「始めろよ」と言います。「わたしにできる話は一つしかない」と言いました。「それは、わたしがここに坐っていたら、二人の男が死体を運んできて焼き串に刺し、それをわたしに回させたという話だ」。「それでいいとも」と男は言いました。「あっちへ行ってベッドに横になっていい」。そこでわたしはいそいそとベッドに入りました。朝になってみますと、わたしはなんと、緑の野原の真ん中にいたのでした。
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リー河のタイグ
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
「こんな家にいられるもんか! カリグロハン古城に埋められてる金をみんなくれると言われたって、ここにいるのはごめんだ。いったいぜんたいこんなことってあるもんか! 昼も夜も人に面と向かってさんざん悪口を言うのに、その当人たちはとみれば、目の前に誰もいないなんて! そしてだ、おれが腹を立てていても、ホー、ホー、ホーとものすごいうなり声であざ笑われるのがおちだ。今夜限りでこの家とはおさらばだ。この国のほかで、暮らしてゆけぬというわけじゃなし……」。カリグロハンの古い領主の|館《やかた》の広間に、このジョン・シーハンの怒るひとりごとが響いた。ジョンはこの家の新しい召使いで、たったの三日しかいなかったが、この屋敷には幽霊が出るという評判があり、短いあいだなのに、ジョンはもう頭を樽に入れてしゃべったときのような声でののしられたり、嘲笑されたりしていた。それなのに、誰がしゃべっているのか、またどこからその声がしてくるのかも分からなかった。「こんな家にいるもんか!」とジョンは言った。「それでけりがつくんだ」
「ホー、ホー、ホー、静かにしろよ、ジョン・シーハン、さもないと、もっとまずいことになるぞ」
ジョンは急いで広間の窓に走り寄ったが、たしかにその声は、家のすぐそばで誰かが言ったに違いないのに、人影はまったく見えなかった。ほとんど窓ガラスに顔をすりつけんばかりにしていると、いま一度、「ホー、ホー、ホー」と、どうやらこんどは後ろの広間から大きな声が聞こえてきた。稲妻のように素早く振り返って見ても、生きているものは何も目に入らなかった。
「ホー、ホー、ホー、ジョンやい!」と、どうやら家の前の芝生あたりから叫んでいる声がした。「おまえ、タイグに会えると思ってるのかい――あ、無理なことさ、生きてるうちはな! だから、やつを探そうなんて気は起こすんじゃない。それに仕事を忘れるなよ。今日はコークからたくさん客人がここに晩餐をなさりにいらっしゃるんだ。そら、そろそろテーブルクロスをかける時間だぞ」
「主よ、お助け下さい。またやってきました。――これ以上、一日だってここにはいるものか」と、ジョンは繰り返して言った。
「黙れ! そこで静かに控えておれ。プラットさんの目をごまかすわけにはいかんのだ。ジェルウワさんのところで、スプーンをくすねたような真似はできんのだぞ」
ジョン・シーハンは見えない迫害者たちに、こんなことを言われて狼狽したが、それでも勇気を奮い起こしてこう言った、「おまえは誰だ! おまえが人間なら、ここへ来て姿を見せろ!」しかしこの返答には、ただこの世のものとも思われぬ嘲りの笑いを受け取っただけで、それにはこんなことばが付け加わった。「あばよ、晩餐のときにはおまえを見張ってるぞ、ジョン」
「主がおれたちを災いから守って下さる。これは何にも勝ることだ。晩餐のときにはおまえを見張っているぞ……か。好きなようにするがいい。今は昼の日なかだ、とすると、あれは幽霊じゃない。だがここは恐ろしいところだ。今日でここはおさらばだ。どうしてやつに、スプーンのことが分かったのかな。やつが誰かにそいつをしゃべれば、おれは破滅だ。やつにそいつを教えられる人間は、ティム・バレット以外、みな死んじまってるし、あいつは今、ずっと遠く離れたボトニイ湾の荒野にいる。じゃあ、どうやってやつは、あのことが分かったのかな、どうにも分からん、ややっ、壁の隅に見えるのは何だ! 人間じゃないぞ。なあんだ、おれはなんて馬鹿だろう。あれはただの古い切り株だ。それにしてもここは、人をぎょっとさせるところだな。こんなところにもういるもんか! 明日にはこの家を出てゆくんだ。ただこの家を見るだけで、誰だって恐くなるよ」
たしかにこの屋敷は荒れ果てた感じだった。それは、平らな芝生の上に建っていた。二、三本の水仙の株や建物と同じくらい古い何本かの木のほかは、あたりには何一つなかった。屋敷は道からやや離れたところにあり、一世紀以上を経たその建物には、時がその足跡を記していた。壁は天候のおかげで、いろんな色の|染《し》みを付けられ、屋根はさまざまな形に白い|斑《まだら》を見せていて、少しも心の休まりそうな屋敷ではなかった。外側では何もかもがくすんで薄汚れ、家の中では滅びつづけてゆく偉大さが発する、あの陰気な気配が漂っていて、それはまさに外見といい取り合わせだった。だだっ広い四角い広間を歩いたり、その広間をめぐる回廊に歩みを進めたり、あるいは、階段を下りたところのだらだらと長い廊下に踏み込んだりするときに感ずる、ほとんど神聖なものに対する恐れに近い印象を取り払うには、旺盛な若さや快活さを必要とした。舞踏会の広間と言われる大きな居間も、またその他いくつかの部屋もだんだん朽ち衰えており、壁には湿気が浸み出して跡を残していた。そして、わたしは今でもはっきりと憶えている、男の子らしい活発な少年で、ありあまる元気に溢れていたわたしが、その地下室に降りていったとき、全身にはい登ってくるように思われたあの戦慄の感覚を……。わたしは地下室に下りていった、わたしの内側も外側も、すべてのものが、その部屋の湿気と暗さで凍りついてしまった――その広さもまたわたしを恐がらせた。学校の友達二人は、尊敬されていた牧師の父親が、一時、地下室を住まいに借りていたので、よくそこではしゃいでいたが、それも夢幻を追いかけてゆくようなわたしの気分の邪魔にはならず、わたしはまた、地下室から上へと階段を登ってゆくのだった。
ジョンは晩餐の時間が近づくにつれて、しっかり自分を取り戻し、やがて何人かのお客が到着した。みんなが食卓に着き、素晴らしい食事を楽しみはじめた、そのとき、芝生のほうで声がした。
「ホー、ホー、ホー、プラットさん、可哀そうなタイグも晩餐のお仲間に入れて下さいよ。ホー、ホー、素敵なお客様方がいらっしゃり、おいしそうなご馳走がどっさりあるな。まさかこの哀れなタイグをお忘れじゃありますまいな」
ジョンは持っていたグラスを落としてしまった。
「あれは誰なのですか?」と砲兵隊の将校のプラット氏の弟が尋ねた。
「タイグだよ」とプラット氏は言って笑った。「わたしがよく話していたから聞き覚えがあるだろう」
「いったいそれではプラットさん」とほかの紳士が聞いた。「タイグというのは誰なんですか?」
「それは」と彼は答えた。「口ではうまく言えないんだが、これまでにまだ誰一人としてちらっとでもその姿を見た者はいないんだ。わたしは息子三人と一晩じゅう見張っていたことがあるが、それでも、声のほうは、ときどきほんの耳の間際で聞こえても、姿は見えない。たしかにわたしは、白ラシャの上着を着た男が、中庭から芝生のほうへと、ドアを通っていったのを見たような気がした。が、それはただの幻影に過ぎなかったかもしれない。というのは、ドアには鍵がかかっていたし、でもそいつは、誰か知らぬが、わたしたちの戸惑うのを見て笑っていたんだ。あれは折々やってくるが、時には、前に来たときと、ずいぶん長い|間《ま》を置いて来ることもある。今日もそんな具合なのだ。今まで二年間、わたしたちは窓の外に、あのこもったような声を聞くことがなかったからな。わたしたちの知る限り、あれは何も害になることをしたことがないし、一度皿を割ったときなぞは、それとまったく同じものを返して寄こしたよ」
「なんとも不思議だ!」と、何人かの客は感嘆の声をあげた。
「だが……」と一人の紳士が息子のほうのプラット氏に言いかけた。「お父上は、そのやつがお皿を割ったと言われたが、どうやって、あなたに見つからずに、お皿なぞ手に入れたのでしょうかね?」
「あの者が食事を求めているとき、わたしたちはそれを窓の外に置いて、その場を離れるのです。見ているうちは食べません。ですが、わたしたちが引き返してみると、すぐ食べ物はなくなっています」
「どうしてあなた方が見ているのが、そいつには分かるんでしょうね?」
「口ではうまく言えませんよ、だけど、知るか、感ずるかするんです。或る日のことですが、ロバートとジェイムズとわたしは、中庭のほうに向いている窓がある奥の居間にいました。するとあの者が外に来てこう言うのです。『ホー、ホー、ホー、ジェイムズにロバートにヘンリー様方、可哀そうなこのタイグに、どうぞウィスキーを一杯おくれ』。ジェイムズが部屋を出てゆき、グラスにウィスキーと酢と塩をいっぱい入れて持ってゆき、『ほら、タイグ』とジェイムズは言ったんです、『取りにおいでよ』――『そうか、それなら窓の外の階段の上に置いとくれ』。言われたとおりにして、わたしたちはじっと見ていました。『そら、もうあっちへ行けよ』とその者は叫びました。わたしたちは引き退りましたが、でも見守りつづけていたのです。『ホー、ホー、おまえたちはタイグ様を見ようとしているんだね。さあ、部屋から出てゆけよ、でないと、おれはウィスキーを飲めないんだぞ』。わたしたちはいったんドアの外に出てから戻ってみると、グラスは消えており、すぐにかんかんになって毒づいているうなり声が聞こえました。グラスは持っていかれてしまったのですが、次の日には、窓の下の、階段の石の上に置いてありました。まるでポケットに入れていたかのように、グラスの内側にはパン屑がついていました。それからというもの、今日まで、あの者の声を聞くことはなかったのです」
「おお」と大佐が言った。「わしがやつの姿を見てやることにしよう。みなさんには、こういうことはお得意ではないでしょう。歴戦の勇士におまかせなさい。さて、この鳥料理を片付けて食事も終りということにして、こんどやつが声を出したら、しっかりと見つけてやりますよ、――ベルさん、ごいっしょにワインをもう一杯いかがです」
「ホー、ホー、ベルさん」と、タイグが叫んだ。「ホー、ホー、ベルさん、あんたは昔、クエーカー教徒だった。ホー、ホー、ベルさん、あんたはとんだ坊やだね。根っからのクエーカーだったのが、今じゃ、クエーカーでも何でもない。ホー、ホー、ベルさんやーい! おや、パークスさんもおいでだね。ほんとにまあ、パークスさん、今日はとんでもなくご立派だ。髪粉をふって、けっこうな絹の靴下に、小粋な赤の新品のチョッキを着込んでるね。おや、コールさんもいる。こんな方々に今まで会ったことがないでしょうな、プラットさん。たいしたお客様方がお集まりになったもんだね。お固く乾いたクエーカーに、マロー・レイン家の気位高い貧乏貴族、コール・ケイ家の飲んだくれ収税吏とは。それにインド帰りの、やたらにぶっ放す砲兵隊の隊長さんにお目にかかっているというわけだ。ここにおいでの方々のうちでも最高のろくでなしの隊長さんにね」
「この無礼者!」と連隊長は大声でどなった。「正体を暴いてやるぞ!」。そう言って部屋の隅に置いてあった剣をひっ掴むと、窓から芝生へ飛び出していった。だが、すぐに人の声とも思われぬとても空ろな笑い声を耳にして、大佐と大きな樫の棒を手にあとについてきたベル氏とは、立ち止まってしまった。晩餐に集まっていたほかの連中も、続いて芝生に現われ、残った者たちは立ち上がり、窓辺まで行ってみた。「さあ、隊長さん」とベル氏は言った。「この生意気な悪漢のやつをひっ捕えてやりましょうや」
「ホー、ホー、ベルさん、ここだよ、ここにタイグはいるよ。どうしてつかまえないんだい。ホー、ホー、プラット大佐、可哀そうなタイグを切りつけようなんて、あんたはひどい軍人さんだね。悪いことなどこれっぽっちもしちゃいないのにさ」
「悪党、おまえの|面《つら》を見せろ」と、大佐は言った。
「ホー、ホー、ホー、おれをご覧よ、おれをご覧よ。プラット大佐、あんたあ、風が見えるかい。すぐにタイグを見られるから、戻って食事をすませたらどうだい」
「いいか悪党め、おまえがこの大地に足をつけている者なら、おれさまはおまえを見つけてやるからな」と大佐が言うと、例のこの世のものとも思えぬ大きな嘲りの声が、建物の隅の向こうから聞こえてくるように思われた。「やつはあの角を回ったんです」とベル氏が言った。「急いで、急いで!」
二人は、庭の塀に沿って|間《ま》をおいて聞こえる声のあとを追いかけたが、どんな人間の姿も見つけることができなかった。とうとう二人とも息をつくために立ち止まった。と、ほとんど耳元のところで叫び声が聞こえた。
「ホー、ホー、ホー、プラット大佐、どうだい、タイグは見えたかい。声が聞こえるかい。ホー、ホー、ホー、風を追っかけるなんて、あんたはたいした大佐さんだ」
「いや、ベルさん、そっちじゃない、そっちじゃない、こっちのほうだ」と大佐は言った。
「ホー、ホー、ホー、なんてあんたは馬鹿なんだ。あんたはあっちの野原で、タイグが姿を見せるとでも思ってるのかい。だがまあ、大佐殿、追っかけるのもまた、いいだろうさ。あんたは軍人だものな」。大佐は怒り狂っていた。生け垣を越え、溝を渡って、自分が捕えようとしている見えないものに笑われたり、嘲られたりしながら、その声を追ってゆくのだった。(ベル氏は、肥っていたせいですぐに落後してしまった)大佐はとうとうしまいには、追いかけるのに疲れ、自分が、ひじょうに深く黒々と水がたたえられているので、「地獄穴」と呼ばれる近くのリー河の崖のてっぺんに立っているのに気がついた。その、崖っぷちの先に大佐は立って、息を切らしながら、ハンカチで額を拭っていた。すると、どうやら足元近くで叫び声がした。「さあプラット大佐、あんたも軍人なら、さあ跳んだらどうだい。さあ、タイグを見に行こう。え、タイグを見たいんじゃなかったのかい。ホー、ホー、さあ見に行こうよ、暑いんだろう、ねえ、プラット大佐、だったら飛び込んで体を冷やすといいよ。タイグはこれから泳ぐんですからね」。声はこの目立つ崖のてっぺんから、底に下りてゆくようだった。しかし崖には、つたやつる草や藪がからまり合って、下りる足がかりが見つかりそうなところではなかった。
「さて大佐殿、跳ぶ勇気はおありですかな、ホー、ホー、ホー、なんてご立派な軍人さんだろうね、あんたは。さよならだ、十分経ったらまた家の中で会いましょうや。時計を見ろよ、大佐。だが飛び込んだっていいんだぜ」。すると、重いものが水に落ちたような音が聞こえた。大佐はじっと佇んでいたが、それ以上は何の音もしなかった。そこで大佐は、クラッグから半マイルとは離れていない自分の兄の家へ、ゆっくり歩いて帰っていった。
「どうだい、タイグを見たのかい?」と兄に尋ねられた。その傍では、甥たちがやっとの思いで笑いをこらえながら立っていた。
「少しワインをくれ」と大佐は言った。「こんなに飛びまわらせられたのは、生まれて初めてだ。やつはあっちこっちとわしを引き回し、あげくの果てに、崖の淵まで引っぱっていきおった。やつは『地獄穴』の中に降りてゆき、十分間そこにいるとわしに言った。もうそれ以上経っているんだが、やつはここには来ておらん」
「ホー、ホー、ホー、大佐殿、ここにいるよ。タイグは一生に一度も嘘はつかない。で、プラットさん、飲み物と食事を下さいな。そしたらみなさんにお休みを言ってお別れしましょう。あたしは疲れてますからね、それというのも大佐殿のおかげでね」。食べ物が一皿運ばれ、ジョンが恐がって震えながら、それを窓の下の芝生に置いた。誰もがじっと見守っていた、が、しばらくのあいだは、皿には手がつけられぬままだった。
「あっ、プラットさん、可哀そうなタイグを飢え死にさせようってんですかい。みんなを窓のところから離れさせて下さいよ。ヘンリー様を木の後ろから、リチャード様を庭の塀の陰から、出して下さい」
お客たちが木と塀のほうに目を向けると、二人の少年が見張るのをやめようとしているところだったので、客たちは二人に目を向けた。すると、「ホー、ホー、ホー、ご幸運を、プラットさん。うまい食事だった。紳士淑女のみなさん、お皿はそこに置いときましたよ。じゃ、さようなら、大佐殿。さようなら、ベルさん。みなさん、それではさようなら」という声が皆の注意を再び惹いた。すると、その時には、もう空になった皿が草の上にあるだけだった。そしてその晩は、もうタイグの声は聞かれなかった。それからのちも、タイグは何度もやってきたが、彼を見た者も、その容姿や性質をつきとめたものも、誰一人としていなかった。
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妖精のグレイハウンド犬
パディ・マックダミッドは、キルデア地方じゅうで最も陽気にはしゃぎ回る若者たちの一人だった。どんな|市《いち》だろうと守護聖人の日のお祭りだろうと、彼が出かけていかないものはなかった。パディはまるで不幸のように、いたる所に姿を見せたが、その貧しく小さな畑は、ちょうどよい時期には、ほとんど種を蒔かれたためしがなく、大麦を育てようと思っていた所には、雑草がはびこるばかりだった。貧乏なパディの財布の底は尽きてしまい、豚の次には牛、というようにして、持っていたものは、ほとんどすべて売り払ってしまった。だが、幸運がパディのところに舞い降りてきていた、もっともそれを心にとめるだけの|才覚《ゴムツフ》を、彼が持ち合わせていればの話だが――。或る夜、酔っぱらって帰れなくなり、モノーグの、堀に囲まれた野原で横になっていたとき、パディはとても素敵な夢を見た。自分が横になっているその下に、誰も憶えていないほど古い昔から、金を入れた壺が埋まっている、という夢なのだ。パディは次の日の夜まで、夢のことは誰にも洩らさず、鋤とつるはしと聖水を一瓶持って、|円型土砦《ラース》へ出かけ、その場所のまわりに円を描くと、じっさいに掘りはじめた。これで、いつまでもいつまでも金に不自由することはないんだ、と心の底からそう思い込んでいたのだった。膝二つくらいの深さまで掘り進んだとき、カチッとつるはしが石板に当たり、それと同時に、パディはすぐそばで何か息をする音を聞いた。顔を上げてみると、ちょうど目の前に、目鼻立ちのよい顔つきのグレイハウンド犬が、尻を地につけて坐っていた。
「神の祝福を」とパディは言ったが、髪の毛が一本一本、小枝のようにぴいんと逆立ってしまった。
「よき祝福を」――グレイハウンドは、「神」というのをはぶいて言い返した、なぜならこの動物は|悪魔《デヴイル》だったのだ。キリスト様は、わたしたちがこんな|輩《やから》に会わぬようお守り下さる。
「いったい、なあ、パディ・マックダミッド」と犬は言った。「そんなところに墓穴なんか掘って、何を探し出そうというんだい?」
「いや誓って、ほんとに、ほんとに、なんでもないんですよ」とパディは答えたが、お分かりのように、この見たこともないやつを、何か胡散臭いと思ったからだ。
「なんだい、恐がることなんかないよ、パディ・マックダミッド」とグレイハウンドは言った。「おまえが何を探しているか、おれはすっかりお見通しなんだぜ」
「まあ、それはそうでしょうとも。ご存じなら、申し上げるまでもございますまい。それに、とりわけあなたさまは、礼儀正しい紳士とお見受けいたします。それで、わたくしめのごとき貧しい若僧にも、お声をかけて下すったってわけでしょう」(パディは、少し相手を持ち上げてやろうとした)
「よおし、それなら」とグレイハウンドは言った。「そっから出て、穴の上のところに腰をおろせ」。そこでパディは、|愚か者《ゴムラツハ》のように言われたとおりにしたが、聖水で引いた円の外に皮靴を一歩踏み出すや、ハウンド犬は襲いかかると、|円型土砦《ラース》の外に彼を追い出してしまった。無理からぬことだが、犬の口から吹き出す火に、パディは怖じ気づいてしまったのだ。だが次の夜、金が埋まっているに違いないと確信しきって、パディはまたそこへ行き、前のときのように円を描き、石板に当たった。と、あのグレイハウンドの紳士が、前と同じ場所に現われた。
「おや、おや」とパディは言った。「やってきたな、でも、言っておくけど、もう一度おれをひっかけようとしても、そう簡単にはいかないよ」。そう言ってから石板をもう一打ちした。
「なあ、パディ・マックダミッド」とハウンド犬が言った。「金はどっちにしろおまえのものだ。だが、なあ、いったいいくらほしいんだ」
パディは頭をかきながらしばらくして言った。「いくら下さるおつもりなんでございますか」。礼儀正しくしたほうがいいと思って、こんなふうに言ってみた。
「おまえがちょうどいいと思うだけ、かっきりやろう、パディ・マックダミッド」
「なんだって」と、パディはひとりごとを言った。「こりゃたっぷりふっかけておくに越したことはないぞ」
「そう、五万ポンドだな」と言った。(十万ポンド、と言ったほうがよかった。なぜなら、この犬がいくらでも金を持っていることは保障してもよいことだから)
「よし、やろう」とハウンド犬は言って、しばらくのあいだどこかへ行っていたかと思うと、爪の間に、ぎっしりとギニー金貨の詰まった壺をかかえて戻ってきた。
「ここへ来て数えてみろよ」と犬は言った。しかしパディも相手に劣らずしたたか者で、円から出てゆこうとはしなかった。そこで壺は、恵み深い神聖な円のすぐ外のところまで押しやられ、パディはそれを引き入れて、しめたとばかり壺を手にした喜びにまかせて、一度も立ち止まらずに家に走り帰ったが、着いてみると、ギニー金貨は小さな骨に変わっていて、年老いた母親に笑われるばかりだった。そこでパディは、ごまかしをしたハウンド犬に復讐を誓い、次の夜、また|円型土砦《ラース》へ行き、そこで前のようにしてまたハウンド犬に会った。
「なんでまた来たのかい、パディ」とハウンド犬は言った。
「そうだとも、大ぼら吹き野郎!」とパディは言った。「おれはここに埋まっている金の壺を掘り出すまでは、どこへも行きゃしないからな」
「まったく、そのつもりらしいな」と犬は言った、「なあ、パディ・マックダミッド、おまえが勇敢で大胆な男だということは分かったから、もしおまえがこんな寒いところはよしにして、下へいっしょに下りてゆくなら、きっとおれはおまえに金を都合してやるよ」。じっさい、死にそうなほどに雪が降りつのっていた。
「いいや、ぜったい、出来れば、アシイになんか会いたくないね」とパディは返した。「あんたはただおれにろくでもない骨をいっぱい持たせたり、さもなきゃたぶん、おれのを噛み砕くつもりなんだろうが、どっちにしたってごめんだね」
「誓って言うが……」とハウンド犬は言った。「おれはおまえの友達だよ、自分の考えにしがみつくなよ。おれといっしょに来れば、ひと財産作れるんだ。そんなところに残っていたら、乞食同様に死ななきゃならんぞ」。そうして、ほんとうのところ、いくらか話し合いをしたあとで、パディは承知したのだ。すると|円型土砦《ラース》の真ん中に美しい階段が開け、パディと犬はそれを下りていった。そして折れたり曲がりくねったりした道を歩いたあとで、二人はレインスター侯の館よりずっと豪華な家に着いたが、そこのテーブルも椅子もすべて純金で出来ていた。パディはうれしくなってそこに腰をおろしていると、美しい婦人が飲み物を手渡した。しかし、それをほんの一口飲もうとするや、まわりじゅうから恐ろしい叫び声があがり、さっきまで美しく見えていた人々は、今、そのほんとうの姿を現わしたかのようだった。――それは怒り狂った「妖精たち」だった。パディが神の名を唱えるより早く、妖精たちはパディの手と足を捕え、河の上に、壁のようにそそり立っているひじょうに高い丘の上に運んでゆくと、そこからパディを放り投げた。
「人殺し!」とパディは叫んだが、どうなるものでもなかった。彼は岩の上に墜ちて、翌朝までそこに倒れていた。何人かの人が、こうしてクルホールの広場を取り囲んでいる堀の中で、妖精たちに運ばれてきたパディを見つけた。その時から死ぬ日まで、彼は世の中で最もすさまじいものになっていた。背を二つに折り曲げて歩き、その口は、あろうことか(神よ、お救いあれ)耳のあるべきところまで裂けていた。
(画像省略)
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ゴルラスの婦人
[#地付き]T・クロフトン・クローカー
或る夏の晴れた朝、ちょうど夜の明ける頃、スヴイックの港に近い岸辺に、ディック・フィッツジェラルドが、パイプを吹かしながら立っていた。太陽は高く聳えるブランドン山の向こうに、しだいに顔を出しはじめ、暗い海は光を受けて青みを帯び、谷から吹き払われた霧は、彼の口のはしから出る煙のように漂い、動いていた。
「今日もいい朝になってきたな」とディックは言うと、パイプを唇からはなし、磨きあげた大理石の墓のように、静かに動きもしないはるかな海を眺めやった。「ほんにまったく」と一息ついてから言った、「誰かがいるみたいにこうやって自分自身と話をするなんて、えらく淋しいことだなあ。おれに答えてくれる者は誰もいやしない。もっとも自分の声の子供、こだまというやつは別だがな。運がよくて、まあそれが不幸の始まりということもあるが……」とディックは憂わしげな笑いを浮かべて言った。「女がいれば、おれもこんなざまじゃないんだが。女房のいない男なぞ、この広い世の中でいったい何になるんだ。まったくもって、一滴も酒の入ってない空瓶みたいなもんじゃないか。音楽のない踊り、鋏の左の片一方、針のついてない釣糸、要するに、言ってみりゃ何かが足りないもんなんだ。ええっ、そうだろうが」とディックは言って、岸辺の岩のほうに目をやった。それは、声を出しこそしなかったが、証言を行なっているケリー人のように大胆に立ち、しっかり腰がすわっているように見えた。
だが、彼の目を驚かせたことは、まさにその岩の元のところに、若く美しい女が、青黒い海のような色をした髪を|梳《と》かしており、その髪のあたりで輝いていた海の水は、ふと朝の光に、キャベツに塗った溶けたバターのように見えたのだった。
ディックはすぐ、これはメロウに違いあるまい、と思った。そういうものをこれまで見たことはなかったが、メロウたちが海に潜るためにかぶる「コホリン・ドゥリュー」という魔法の帽子が、岸辺にいるその女のそばに置いてあるのを、目ざとく見つけたからだった。そして、その帽子を手に入れさえすれば、女は水の中に逃げてゆくことができなくなる、ということも聞いていた。そこでディックは全速力でそれをひっつかんだが、女は物音を耳にすると、キリスト教徒と同じように、何の奇異なところもなく振り向いた。
メロウは自分の潜水帽が取られてしまったのが分かると、塩からい涙――どうしたってメロウの涙は相当に塩からくなるだろう――がその頬を伝わって流れ落ち、生まれたばかりの赤ん坊のようなか細い声で、低く悲しげに泣き声をあげはじめた。ディックはむろん、なぜ泣いているのかよおく分かってはいたが、「コホリン・ドゥリュー」を返してやろうという気はさらさらなく、ひどく泣いている女をなだめて、このことからどんな運が開けてくるのかを見定めたい気持でいた。とはいえ、とても可哀そうに思わずにはいられなかった。女が頬じゅうを涙で濡らし、黙ってこちらの顔を見上げているのを見れば、ディックならずとも、この国の者のように、とても優しい心を持った人なら、誰しもそんな思いを抱いたことだろう。
「なあ、泣くのはおよしよ」とディックは言ったが、メロウはわがままな子供と同じように、その言葉でますますひどく泣くのだった。
ディックは彼女の横に腰をおろし、慰めてやろうとその手を取った。とくに醜い手というわけではなかったが、ただあひるの足のように、指と指との間には水かきがついていた。だがその手は、卵の中身と殻との間にある薄皮のように、白くきめ細やかだった。
「なあおまえ、名前は何て言うんだい?」と、ディックは相手が自分に親しみを感じるように言った。しかし、答えはなく、そこで、彼女がしゃべったり、人間の気持を分かったりすることなど、まるでないのだと気づかぬわけにはいかなかった。そこでディックは彼女に言うことを通じさせる最後の手段として、その手を握りしめた。こうすることは誰にも分かる言葉なのだ。それに、|魚《さかな》であろうと貴婦人であろうと、世の女ならば、必ずその意味を理解するものだ。
メロウはディックのこんな話し方をたいして嫌がる様子もなく、すっとすすり泣きをやめると、「あなた」とディック・フィッツジェラルドの顔を見上げながら言った。「ねえ、あなたはわたしを食べるおつもりなの?」
「ディングルとトゥラリーのすべての赤いスカートとチェックのエプロンに誓って」とディックは驚いて飛び上がり、こう言った。「そんなことをするくらいなら、自分を食うよ、おまえ。おれがおまえを食べるだって、ええっ、おまえ。そうか、おまえのそのちっちゃな頭にそんな考えを吹き込んだやつは、いやらしい悪党づらした魚泥棒に違いあるまい。その頭には素敵な緑の黒髪が、今朝はとてもきれいに梳かされて、垂れ下がっているというのに」
「あなた」とメロウが言った。「食べないんなら、わたしをどうなさるおつもりなの?」
妻にするという考えがディックの頭をよぎった。一目見たときから彼女を美しいとは思ったが、いざこうして彼女と、しかも人間の女と同じように話してみると、ディックはほんとうに彼女に恋をしはじめてしまった。決め手となったのは、彼女が「あなた」と彼に呼びかける、その感じのよい言い方だった。
「魚さん」とディックは、彼女の短い呼びかけの真似をしようと努めながら言った。「魚さんや」と言った。「きっぱり、はっきりと、この恵み深い朝、おまえに言うよ。おれはおまえを、フィッツジェラルド夫人にするつもりなんだ」
「あっ、それ以上言わないで」と彼女は言った。「わたし、喜んであなたのものになるつもりよ、フィッツジェラルドさん。でも、お差し支えなかったら、髪を結い上げてしまうまで、待って下さらない?」
満足がゆくように、彼女がすっかり髪を整えてしまうまで、しばらくかかった。どうしてこんなことをしたかと言えば、思うに、知らない人たちのところへ行けば、自分は見られるだろうと考えたからなのだろう。髪を結い終えると、メロウは櫛をポケットにしまい、それから岩の元近くまできている水に頭を傾けると、何やらことばを呟いた。
ディックは呟かれたことばが、ちょうど風のそよぎが波を立てて吹き過ぎるように、海の表面を大海のほうに渡ってゆくのを見て、びっくり仰天し、そして言った。「なあおまえ、おまえは海の水にしゃべっているのかい?」
「そのとおりですわ」とまるで何でもないことのように言った。「ただお父様が心配なさるといけないと思って、朝食には帰れないと、家の者に言ってやっただけですわ」
「で、おまえのおやじさんというのはいったい誰なんだい、あひるさん」
「なんですって」とメロウは言った。「お父様のことを聞いたことがないんですか、波の王に決まってるじゃありませんか」
「じゃあ、おまえさんは、ほんものの王様の娘ってわけかい」とディックは、両の目を見開いて、自分の妻になるべき女を、とっくりと大真面目に見つめながら言った。「おお、王様を父親にもつ娘と結婚できるなんて、おれはほんとうにうまくしたものた。きっと、王様のお金は、みんな海の底にあるんだろうな」
「お金って……」とメロウは言った、「それ、何のことですか?」
「ほしいときには持ってて悪いもんじゃないよ」とディックは答えた。「たぶん魚たちは、おまえが言いつければ何でも持ってきてくれるんだろうね」
「ええ、そうですとも」とメロウは言った。「ほしいものは何でも持ってきてくれます」
「それじゃ、正直に言うがね」と、ディックは言った。「おまえのためにと思っても、うちには藁の床のベッドしかないんだよ。で、おれが思うに、そんなのはどう見ても王様のお嬢様にはふさわしくない。そこでだ、おまえがいやでなかったら、素晴らしい羽入りベッドと新しい毛布を二枚、いや、おれはなんてことを言ってるんだろう、きっと水の中じゃ、ベッドなんてものは使わんのだろうね」
「いいですとも」と彼女は言った。「フィッツジェラルドさん、ベッドなら、いくつもご自由にしていただけますわ。わたしは十四、カキの|養殖場《ベツド》を持っています。ですが、新しいのを育て上げるために養殖を始めたばかりの一つだけは、言いつけないで下さいね」
「あるのかい」とディックは頭をかき、困ったような顔をして言った。「おれが言ったのは羽入りのベッドのことなんだがな。だがまあ、おまえのは間違いなく、眠ることと食べることの両方を一っところですまそうという、けっこうな考えを実現するには、まさに近道だね。誰だってどっちか一つをしているときは、もう一つのほうをすることはないんだからな」
だがしかし、ベッドがあろうとなかろうと、金があろうとなかろうと、ディック・フィッツジェラルドはメロウと結婚することを心を決めていたし、そしてメロウもそのことを承諾していたのだった。そこで二人はゴルラスを発って、その朝たまたまフィッツギボン神父のいたバリンラニグへ、岸辺を通って出向いた。
「この結婚にはいささか異論がある」と尊師は、ひどくむっつりとして言った。「おまえは魚の仲間の女と結婚しようというのか。主よ、お守り下さい。鱗あるものを、そうしたものたちのもとへ帰すがよい。それがどこから来たものであってもだ。これがわしの、おまえへの忠告じゃ」
ディックは「コホリン・ドゥリュー」を手に持っていて、それをいかにもほしそうに見ているメロウにほとんど返しかけた、が、一瞬考えてから言った。「しかし尊師様、これは王の娘でございます」
「たとえ五十人の王の娘であろうとも」とフィッツギボン神父は言った。「言っておくが、おまえたちを結婚させるわけにはいかん、女のほうが魚なのだからな」
「お願いです、尊師様」ともう一度、ディックは声を低めて言った。「これは月のように穏やかで美しい娘です」
「太陽や月や星やそのほかの何と同じくらい穏やかで美しかろうと、言っておくがな、ディック・フィッツジェラルド」と、司祭は右足を踏みならしながら言った。「おまえたちを結婚させるわけにはいかん、女のほうが魚なのだからな」
「しかしこれは、海の底にある金貨を言いつけるだけで、どうにでもできるんです。おれがこの娘と結婚すれば、おれは金持ちになれるし、そしたら」とディックはこっそりと目を上げて言った。「人を雇い入れることもできるんです」
「おお、それでは、事態がまるで異なる」と司祭は返した。「なんとも、やっとおまえは筋のとおったことを言ったな、どうしてそれをもっと前に言わないのだ。よろしい、結婚するがよい、そういうことならな。もっともっと魚らしい魚が相手でもかまいはせぬ。金というものは、こんな悪い時代では拒もうにも無理なものだからな。わしとてほかのものと同様、貰えるものは貰うことにしておるのじゃ。こう言ったとて、先ほどのような忠告をして、おまえにいやな思いをさせたことの、半分の償いにもなるまいが……」
そこでフィッツギボン神父は、ディック・フィッツジェラルドとメロウとを結婚させ、二人は、愛し合っている者たちの常で、互いに相手に満足しつつゴルラスへ帰っていった。ディックのすることは何もかもうまくいった――世の中の、日の当たる場所にいた。メロウはとてもいい女房になり、二人はこれ以上は望めぬほど満ち足りた暮らしをともに送っていた。
メロウがこれまでに育ってきたところを考えれば、どんなにこの女房が家の仕事で忙しく立ち働き、またどんなによく子供たちの面倒を見たかということは、まさに驚くべきことだった。というのも、三年の月日が流れるうちに、何人かの新しいフィッツジェラルドたち――息子二人に娘一人が生まれていたからだ。
要するにディックは幸福だった。そして、もし自分が手に入れたものをしっかりと保ってゆくだけの才覚が彼にありさえしたならば、死ぬ日まで幸福でありつづけただろう。しかし、ディックは別としても、他のたくさんの人々には、そんなことをするだけの賢さは欠けているかもしれない。
或る日、ディックはどうしてもトゥラリーに行かねばならず、家で子供の世話をしている女房を残して出かけていった。いくらもすることがある女房が、まさか彼の釣り道具をかき回すわけがない、と思っていた。
ディックが出かけてしまうと、すぐフィッツジェラルド夫人は家の掃除を始め、そしてひょっとしたはずみで、釣り用の網を引き倒してしまった。その後ろの壁にあいていた穴の中に見つけたものは、何あろう、彼女のあの「コホリン・ドゥリュー」だった。彼女がそれを引き出して、眺めていると、やがて王である父親や、女王である母親、それに兄弟姉妹たちなどが思い出されてきて、たまらなく皆のところに帰りたいと感じた。
小さなスツールに坐って、それまで海の中で過ごした幸せな日々を想い起こし、それから自分の子供たちに目をやると、可哀そうなディックの優しい愛情のことも考えられ、もし自分がいなくなれば、どんなに夫が心を痛めるだろうと思いやるのだった。「でも」と彼女は言った、「何もあの人は、あたしにまったく会えなくなるわけじゃないんだわ。だって、あたしはまた帰ってくるんだもの。それに、ずっとずっと離れて暮らしていたお父様やお母様に会いにいったって、誰も責め立てなどしやしないわ」
彼女は立ち上がると、ドアの方に歩きかけた。が、再びとって返すと、揺りかごで眠っている子供をもう一度見つめ、優しくその子にキスをした。キスをするとき、一粒の涙がしばらく彼女の目もとで揺らいでから、子供のバラ色の頬に落ちた。その涙を拭いてやり、それから一番年かさの女の子のほうに向き直ると、お母さんが帰ってくるまで、いい子にしていて、よく弟たちの面倒を見るようにと言った。メロウはそうして岸辺へ降りていった。海は、ただ日の光にきらめいてうねるばかりで、静かに、滑らかに横たわり、彼女は、自分を水の中へとさし招く、甘いかすかな歌声を聞いたような気がした。昔の日々の考えや感情などが、洪水のように心に満ちてくると、あっという間にディックや子供たちのことなど忘れてしまい、メロウは「コホリン・ドゥリュー」を頭にかぶると、海に飛び込んでしまった。
ディックが夕方家に帰ってみると、どこにも女房が見えないので、キャスリーンという小さな娘に、いったいお母さんはどうしたのだと尋ねたが、娘は何も知らなかった。そこで近所の人たちを尋ねまわり、そして女房が山形帽のような変なものを手に持って、岸辺のほうへ歩いてゆくのを見た、ということを教えてもらった。ディックは小屋に取って返すと、あの「コホリン・ドゥリュー」を探したが、それは消えていた。そのとき、何が起こったのかを、彼はとっさのうちに理解した。
何年も何年も、ディック・フィッツジェラルドは、妻が帰ってきはしないだろうかと待ちつづけたが、妻はもう二度と姿を現わさなかった。ディックは決して再婚せず、いつも、おそかれはやかれメロウが自分のところへ帰ってくると、思いつづけていた。ディックには、妻の父親である波の王が、力ずくで彼女を引き留めているとしかどうしても思えなかった。「なぜなら」とディックは言った。「あの女房が自分から、亭主や子供たちを棄てるはずはありませんからね」
メロウがディックといっしょに暮らしていたとき、どんな点から見てもとてもよくできた女房だったので、彼女は、その地方の伝承の一つの典型となり、「ゴルラスの婦人」という名を与えられて、今日まで人々に語りつがれている。
(画像省略)
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付録[#「付録」はゴシック体] アイルランドの|妖精《フエアリー》の分類
[#地付き]W・B・イエイツ
アイルランドの妖精には、大別して二種類ある。仲間といっしょにいるものと、一人でいるものとである。前者はおおむね温和だが、後者はまったく無情なものたちである。
仲間といっしょにいる妖精たち[#「仲間といっしょにいる妖精たち」はゴシック体] (The Sociable Fairies[#「The Sociable Fairies」はゴシック体])*
これらの妖精たちは群れをなして動き回り、人間の男や女とまったく同じように、喧嘩をしたり、愛し合ったりするが、彼らは陸に住む妖精、すなわち |Sheoques《シーオーク》(Ir. |Sidheog《シーオーグ》「小さな妖精」の意味)と、水中に住む妖精、すなわち |Merrow《メロウ》(Ir. |Moruadh《モルーア》「海の娘」の意味、男性を表わす語はない)とに分けられる。それと同時に、シーオークという言葉は時によっては、これら二者の両方を指すことがあるとわたしは考えたい。というのは、ある村の人々全部が、ひじょうに「小さな妖精」である赤い帽子をかぶった水の妖精が、バグパイプを吹くのを聴きに外に飛び出した、という話をかつて聞いたことがあるからである。
1 |Sheoques[#「Sheoques」はゴシック体]《シーオーク》 しかしながら、本来のシーオークは神聖な茨の茂みや、緑なす|円型土砦《ラース》に出没する|霊的存在《スピリツト》である。アイルランドの至るところに掘り割りで囲まれた小さな野原があり、それは昔の要塞や羊を飼った囲いだと信じられている。こうしたものが、|円型土砦《ラース》とか|土砦《フオート》とか、あるいは「|王領《ロイヤルテイ》」とか、さまざまに呼ばれている場所である。ここで陸の妖精たちはたくさんの人間が、こうした妖精のほの暗い世界に誘い込まれたと言われている。さらに多くの人々が、妖精の音楽に耳を傾けているうちに、人間らしい気づかいとか喜びなどが心の中から抜け出てしまい、そうした人間たちは「|妖精学者《フエアリー・ドクター》」といわれる偉大な農民の予言者となったり、キャロラインのように、偉大な農民詩人であり音楽家であるような人になったのである。キャロラインは妖精の|円型土砦《ラース》で眠っているうちに、これから歌うべき曲をいくつも聴き覚えたのである。さもなければ、誘い込まれた人間は、一年と一日の後にこの世から亡くなって、永遠に妖精の仲間にまざって暮らすことになる。これらのシーオークたちは概して善良なものたちであるが、一つだけ最もたちの悪い、魔女にふさわしいような習慣がある。即ち人間の子供を盗み取り、その代わりに、千歳かあるいは二千歳にもなるような皺だらけの妖精を置いてゆく。三、四年前のことだが、アイルランドのある新聞に、一人の男が自分の村で起こったそうした事件を伝えていたが、教区の牧師が、どうやって妖精たちに盗んだ子供を再び返すようにさせたかが書かれていた。時には、成人した男や女が連れてゆかれることがある。聞くところによると、若い頃にさらわれた経験のある老女が、スライゴーのコロネー村のあたりに住んでいるということである。まる七年経って故郷に戻ってきたとき、彼女にはつま先がなかったという。それはつま先がなくなるほど踊っていたからである。時たま誰かが陸の妖精にじっさいに怪我をさせられたという話を聞くことがあるが、そうした場合、いつもほとんどがそうされても仕方がないからである。わたしが今住んでいるダウン地方で、この六カ月の間に妖精たちが、人間を二人殺したという。殺された人たちは、シーオークのものである神聖な茨の茂みを、根こそぎにしたのである。
2 |Merrow[#「Merrow」はゴシック体]《メロウ》 この水の妖精は人がよく見かけるといわれる。わたしはかつてある農婦にその村の漁師がメロウを見たことがあるかどうか尋ねたことがある。「ほんとのところ、漁師たちはメロウに会うのを好んではいないんですよ」という答えだった。「なぜって、メロウが現われると、いつでも天気が悪くなりますからね」。ときどき、メロウは小さな角のない牝牛の姿をして海から出てくることがある。われわれと同じ人間の姿をして現われるときには、魚の尾を付け、アイルランド語でコホリン・ドゥリュー (cohuleen driuth) と呼ばれる赤い帽子をかぶっている。クローカーによると、男のメロウは、緑の歯と緑の髪、豚のような目と赤い鼻をしているが、女のほうは美しく、ときには自分たちの緑の髪をした恋人よりも、美男の漁師のほうを好きになるといわれている。前世紀にバントリーの近くに、体に魚のような鱗をつけた女がおり、人々の語り伝えるところによると、その女はこうした結婚から生まれたということである。わたし自身は、女のメロウの姿がこのように無気味なものであるという説は、一度も聞いたことがなく、思うにそれは、マンスターに特有の単なる地方的な伝承であろう。
ひとり暮らしの妖精たち[#「ひとり暮らしの妖精たち」はゴシック体] (The Solitary Fairies[#「The Solitary Fairies」はゴシック体])
ひとり暮らしの妖精たちは、すべてなんらかの点で陰気で恐ろしい。だが、そのなかには、陽気で華やかな衣服を着ている者もいる。
1 |Lepracaun[#「Lepracaun」はゴシック体]《レプラホーン》(Ir. |Leith《レイ》|《・》|bhrogan《ブロガーン》、すなわち、片足靴屋) 垣根の先に坐って、靴を直している姿を見かけるといわれる。もし掴まえられれば、その人はレプラホーンから、黄金の入った壺を取り上げることができるという。というのは、彼はけちん坊の大金持ちである。しかし、もしレプラホーンから目を離すと、煙のように姿を消してしまう。レプラホーンは|悪霊《イーヴイル・スピリツト》の子供で、堕落した妖精だといわれており、マリナーによれば、七つずつ二列に並んだボタンの付いた赤い上衣を着て|三角帽《コツクス・ハツト》をかぶり、ときどきその帽子のてっぺんを支えにして、こまのようにくるくる回るという。ドニゴールでは、ラシャの上衣にすっぽり身を包んで現われる。
2 |Cluricaun[#「Cluricaun」はゴシック体]《クルラホーン》(Ir. |Clobhair《クロワル》|-《・》|cean《キヤン》 とオカーニイではいう) ある作家は、これをレプラホーンのほかの呼び名だと考え、彼が夜になって靴作りの仕事をやめ、飲んで浮かれ歩くときにその名前で呼ばれるという。クルラホーンたちがもっぱらすることといったら、酒倉に盗みに入ったり、羊や羊番の犬の背に跨って、一晩中乗りまわすことで、朝になると、クルラホーンたちは息を切らして泥まみれになっている。
3 |Ganconer[#「Ganconer」はゴシック体]《ガンコナー》 あるいは |Gancanagh《ガンカナー》(Ir. |Gean《ギヤン》|-《・》|canogh《カノツホ》 すなわち、恋を語る者) これはレプラホーン型のものであるが、それと異なっているのは、とてつもない怠け者ということである。ガンコナーはもの淋しい谷間にいつもパイプを口にくわえて現われ、羊飼いの娘や、乳しぼりの娘に言い寄って時を過ごす。
4 |Far[#「Far」はゴシック体]《フアー》|《・》|Darrig[#「Darrig」はゴシック体]《ジヤルグ》(Ir. |Fear《フアー》|《・》|Dearg《ジヤルグ》 すなわち、赤い服を着た男) これは、もう一つの世界に住む、性の悪い悪戯者である。わたしが「妖精の魔法」と題した野生味を帯びたスライゴーの物語は、おそらくファー・ジャルグの仕業によるものであろう。ただ独りで暮らす総じて邪悪といえる妖精たちのうちでも、まさにこのファー・ジャルグほど無骨なやつはいない。次に記す|幽霊《フアントム》と同様、彼には悪魔を見させる力がある。
5 |Pooka[#「Pooka」はゴシック体]《プーカ》(Ir. |P..a《プツカ》 このことばの語源は、或る人たちによると、Poc すなわち牡山羊にあるという) プーカは|夢魔《ナイト・メアー》の一族の出であるらしい。人間の姿を取って現われることはまずあり得ず、記録に残っている二、三の事例は誤っており、これはファー・ジャルグと混同されている。ふつうは馬や牡牛、山羊、鷲の姿か、さもなければ驢馬になる。プーカは自分に乗ってくれる者があると喜ぶ。乗り手を背中に堀や川を横ぎり、山々を越えて疾走し、そして夜明けの薄闇の中にその乗り手を放り出してしまう。とりわけ酔っぱらいを苦しめることが大好きだ。酔っぱらいの眠りは、プーカにとって王国である。ときには前に述べた獣や鳥とは異なった、意想外の姿をとることがある。キルケニーのデュン・オブ・コッホ・ナ・プーカに出没したプーカは、白いひと塊の羊毛となって姿を現わし、夜にはぶんぶんといううなりをあげて、あたりの野原に転がり出てゆくと、その音を家畜どもはたいそう恐れて、まだ乗り馴らされていない子馬などは、一番近くにいた人のところに走り寄り、身を護ってもらおうと、その首を人の肩にもたせかけるほどである。
6 |Dullahan[#「Dullahan」はゴシック体]《ドユラハン》 これは最も気味の悪いものである。首がないか、首を腕に抱えているかする。しばしばコシュタ・バワー (Ir. |Coite《コシユタ》|-《・》|bodhar《バワー》) と呼ばれる首なし馬に引かれた黒い|馬車《コーチ》を走らせている姿で現われる。馬車はがらがら走って家の戸口まで行き、そしてもし人が戸を開けようものなら、盥いっぱいの血を顔に浴せかけられてしまう。この馬車は、その前に止まる家に死人が出ることの前兆となっている。ついこの間も、このような馬車が夜の明けそめる頃、スライゴーの町を走り抜けていったという話を、自分の目でそれを見たと信じている一人の船乗りから聞いたことがある。わたしの知っているある村では、年に何度もこの馬車が行き来する物音が聞こえたと、村人たちは言っている。
7 |Leanhaun[#「Leanhaun」はゴシック体]《リヤナン》|《・》|shee[#「shee」はゴシック体]《シー》(Ir. |Leanhaun《リヤナン》|《・》|sidhe《シー》 すなわち、妖精の愛人) この|霊《スピリット》は人間の男の愛を探し求める。もし男が拒めば、彼女たちは奴隷のように男にかしずき、もし男が受け入れれば、男は彼女のものとなり、自分の代わりとなる別の男が見つかるまで、彼女から逃れられなくなる。恋人たちは弱り衰えてゆく。なぜなら、リャナン・シーは恋人たちの命を吸い取ることで、生きているのだ。ごく最近まで、ほとんどのゲールの詩人はリャナン・シーの恋人だった。というのは、この悪の妖精は、自分の虜になったものに霊感を与えるまごうことないゲールの|詩神《ミユーズ》なのである。彼女の恋人であるゲールの詩人たちは年若くして死ぬ。彼女の心は騒ぎだし、詩人を別の世界へ連れ去ってしまう。というのは、死も彼女の支配力を妨げることはないからだ。
8 |Far[#「Far」はゴシック体]《フアー》|《・》|Gorta[#「Gorta」はゴシック体]《ゴルタ》(腹をへらした男) これは飢饉のときに、国じゅうをめぐり歩きながら物乞いをし、そして物を恵んでくれた人に幸運をもたらす、やせ衰えた妖精である。
9 |Banshee[#「Banshee」はゴシック体]《バンシー》(Ir. |Bean《バン》|-《・》|sidhe《シー》 すなわち妖精の女) この妖精は、ファー・ゴルタと同様、その概して善良な性質ゆえに、一般の孤立した妖精の系譜からそれている。彼女はほんとうは全然独りでいる妖精のうちには属さず、もともと仲間とともにいた妖精が、非常に悲しいいきさつを経て、独りになってしまったのかも知れぬ。その名は、男の妖精を示す。あまり知られていないファー・シー (Ir. Fear sidhe) と一対をなす。ほとんど誰もが知っていることであるが、バンシーはアイルランドの由緒ある家族に死人が出たとき、その死を悼んですすり泣く。時には彼女はその家にとって敵であり、その声は勝利の叫びとなることもあるが、だいたいその家の友人である。二人以上のバンシーが来て泣くときは、死にかかっている男や女が、ひじょうに神聖であるか、勇敢であるときにちがいないのである。場合によってはバンシーは、疑いの余地なく仲間とともにいる妖精である。かつてはアイルランドの女王、それからマンスターの女神、そして今はシーオーグであるクリーナはこんなぐあいに、アイルランドの一級の好古家たちによって、言及されてきたのである。
オドノヴァンは、一八四九年に友人にあてて手紙を書いたが、その友人は手紙の言葉を『ダブリン大学紀要』に引いている。「わたしの祖父が、一七九八年、レインスターで死んだとき、クリーナが彼の死を悼むために、はるばるトン・クリーナからやってきたのですが、それからというもの、誰も彼女がわたしたち一族の者の死を悲しんで泣くのを聞いたことがありません。もっとも、彼女は、オーン・モールの一族が飢えで数多く死に、また彼女の故郷でもあるドゥルマリークの山中で、今でもすすり泣いていると、わたしは信じております」。一方、勝利を叫ぶバンシーのほうは、妖精のうちでも、死んでゆく人の祖先によって害を受けた人の|幽霊《ゴースト》に違いないと、しばしば信じられている。或るものはバンシーは決して海を越えることがなく、常に自分の生まれた地方に住んでいると言うが、それは間違っている。それどころか、或るすぐれた人類学者の文章は、彼が一八六七年十二月一日、中央アメリカはレベルタッドにほど近いピタルで、深い森をぬって乗り進んでいるときに、彼女の声を聞いたということを、わたしに納得させてくれた。彼女は色さめた黄金の服をつけ、こうもりの鳴き声のような叫びをあげた。彼女は彼の父親の死を告げ知らせにやってきたのである。以下のものが、彼が或るフランス人とバイオリンの助けを借りて、書きとめたバンシーの叫び声である。
(画像省略)
その人類学者は、一八七一年二月五日に、ロンドン、クウィーンズ・スクウェアー、デヴォンシャー街十六で再び彼女を見て、その声を聞いている。このとき、バンシーは彼の長子の誕生を知らせにやってきたのであり、一八八四年に、彼はもう一度、クウィーンズ・スクウェアー、東通り二十六で彼女を見聞きしたのだが、それは彼の母の死ゆえのことだった。
バンシーは、マンスターの東部では |Badh《バウ》 とか |Bowa《ボウア》 とか呼ばれ、バニムは自分の或る小説の中で、彼女に |Bachuntha《バフンタ》 という名を与えている。
10 その他の|妖精《フエアリー》と|霊《スピリツト》 前述のもののほかにも、まだひとりでいる妖精はいるのだが、はっきりしたことはあまりに少ししか知られていないので、それぞれについて個別に説明をすることはできない。それらは、たぶん「リー河のタイグ」などがその一例となるであろう「|家の霊《ハウス・スピリツト》」や、一種の鬼火であるウォーター・シュリー、形がなく、光を発して動くソウルス。湖に住んで隠された宝を守る竜 |Pastha《パスハ》 (|Piast《ピアスト》|-《・》|bestia《ベステイア》)。そしてダウン地方の沼地に住み、軽率なものたちを殺してしまうボー・メン|妖精《フエアリー》などである。或る特別な海草を束ねて一振りすれば、彼らを追い払うことができるらしい。彼らはスコットランドからの移住者とともに伝えられてきたスコットランドの妖精ではないかと思う。ところで、ある地方には、タイヴシャと呼ばれる大きな|幽霊《ゴースト》の種族がいる。
これらが、アイルランドの民間伝承のうちで、わたしの出会った妖精と霊のすべてである。おそらくこのほかにも、知られていないものがたくさんあることだろう。
〔* 'Fairy and Folk Tales of Ireland' では"The Trooping Fairies" と呼んでいる。〕
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編者解説[#「編者解説」はゴシック体] アイルランドの|物語の語り手《ストーリー・テラー》
[#地付き]W・B・イエイツ
アイルランドの農民たちは、妖精がいると今でも信じている――とわたしが言うと、人々はしばしば疑いの目を向ける。そうした人たちは、わたしが昔の失われた美しい夢幻の世界を、この巨大な発動機と運搬設備の時代に、ほんの少し甦らせようとしているだけだ、と思っているらしい。たしかに、車輪のうなりや型出しプレス機の轟音は、語り手たちに、妖精の黒い上着やコップの水を忘れさせ、その王国を蹴散らし、小さな踊り手たちの足の動きを封じさせてしまった。
とにかく、年寄りのビディ・ハルトはそうだとは思っていない。われわれの日進月歩の考え方は、決してこの年寄りの、黄色いベンケイソウが群らがる茶色いかやぶき屋根の下までは、届いていなかった。わたしがベンバルベンの中腹にあるこの老婆の小屋で、火のそばに坐り、手ずから焼いてくれたグリドゥル菓子を食べ、友達の話や、家の裏の茨が茂った緑の丘の上に住んでいる妖精たちの話を聴いたのは、そう遠い昔のことではない。この老婆は妖精がいることを固く信じ、妖精から害を与えられるのをなんと恐れていたことか! 「わたしはいつも自分のことで精いっぱい、あのものたちのことはあのものたちに聞けばいい」と言うばかりで、長いこと何一つわたしの問いに答えてくれようとはしなかった。だが、わたしの曾祖父が下の谷で一生を送ったことを少し話したり、また、わたし自身も七、八歳の頃、よくあなたの家に行ったということなどを、二言三言話して思い出してもらうと、彼女の口は軽くなった。彼女が「|よそ者《トウロウ》」と軽蔑するイギリスの旅行者よりもとにかくわたしのほうが、妖精の話をするのにより危険が少ないと思ったのかもしれない、わたしは妖精たちと同じ丘のもとに住んでいたことがあるのだから。だが老婆は話の終りに、「木曜日(その日はそうだった)には、あのものたちに神の祝福を」とわたしにも言わせるのを忘れず、またわたしたちが妖精たちのことを話して、彼らが怒った場合のことを考えて、気分を害さないようにひじょうに気を配っていた。というのも、妖精たちは人間に知られないように暮らしたり、踊ったりすることが好きなのだ。
いったん話しはじめると、老婆はしごく自在に語りつづけ、炉格子のほうに首を傾けたり、|泥炭《ビート》をかき立てたりするときなぞ、その顔は炎に照らされて赤く輝いていた。以前にコロネイ村の近くから或る人が連れ去られ、七年のあいだ彼女が妖精たちを丁寧に言うときの呼び方に従えば「|紳士がた《ジエントリー》」といっしょに暮らしていたこと、また、わたしがやってくる数カ月前にも、別の人がグレンジのあたりの村から連れ去られ、妖精の女王の子供の世話をさせられたこと、などを語ってくれた。妖精たちについて彼女が語ることは、いつもまったく事実のようであり、詳細にわたっていたし、まるでごく当たり前のことのように話すのだった。たとえば、最近立った|市《いち》のことや、去年ロセッスであった踊りの集まりでは、一番うまい踊り手に、男ならウィスキー、女ならリボンで飾ったケーキというように、それぞれ与えられたそうである。この老婆にとって妖精たちは、自分とたいして変わらないもので、ただすべてにわたって、自分よりは気高く立派なだけである。そして妖精たちは最も美しい客間と居間を持っている、と或る老人が以前わたしに語ったと同じようなことを、この老婆は誰の問いに対しても答えるだろう。老婆は妖精たちに自分が知っている限りの華麗さを与える、といってもそんなにたいした程度ではない。というのは、彼女の空想はほどほどのところで容易に落ち着いてしまうからだ。すべてが質素なこの木製の垂木と白塗りのキャンバスで覆われた、かやぶき天井の下にいる老婆にとっては、わたしたちにとってはそんなに素晴らしいとも思えぬものが、すべて素晴らしく思えるのだ。王冠をかぶり豪華な衣裳をつけ、金銀の壮麗な妖精の世界を想像しようとするとき、われわれには絵や本が助けになっている。だがこの老婆にとっては、ただ暖炉の上の聖パトリックの小さな肖像や、戸棚の明るい色合いの陶器や、|暖炉棚《マントルピース》の上に置かれた犬の石像の後ろに、娘が無理に入れた一綴りの|民謡《バラード》本があるだけである。したがって、この老婆の語る妖精が、わたしたちがいつも物語で読んだり、絵本で見たりするような空想的で華々しい妖精たちではないとしても、おかしくないであろう。妖精たちの行列に行き会ったのに、夜の闇の中に消えてしまうまで、自分たちと同じ百姓の群れが歩いているだけだと思っていた農夫たちのことや、壮大な妖精の宮殿がかすんで消えてしまうまで、ただ金持ちの紳士の豪荘と間違えていたことなどを語ってくれた。
この老婆の天国に対する見方も、同じように素朴である。もし機会が与えられれば、あの信心深いクロンダルキンの洗濯女と同じような素朴さで、天国にいる人たちのことを語るだろう。この洗濯女というのは、聖ヨセフの幻影を見たと言い、わたしの友人に「そのお方さまは、輝くばかりにご立派な帽子をかむり、世界じゅうにまたとないような胸飾りをつけておりました」と語った。だがこの女の場合には、何かその話に詩的粉飾をほどこしている。というのは、ベンバルベンとダブリンの系統のクロンダルキンでは、その世界にやはり違いがあるからである。天国と妖精の国――この二つの世界にビディ・ハルトは、自分の夢みる壮麗さを与え、魂を走らせる――一方には愛と希望を感じつつ、他方には愛と恐れを感じつつ――日を重ね季節を重ねてゆくように、茨の木々や聖なる井戸のほとりに出没する、聖者や天使、妖精や魔法使いなどは、わたしたちにとっての書物や演劇や絵画と同じものになってゆくわけである。もちろん、こうしたものの数ははるかに多い。それというのも、わたしたちにとってそうした存在は、あまりにも多くが散文的でごく普通のものになってしまったが、それにひきかえ、この老婆はその心に、いつでも音楽を溢れさせているからである。
「わたしはこうして戸口に立って」と、或るとき、天気のよい日に彼女は言った。「山を眺めては、神様の御慈悲のことを思うんですよ」。この老婆が妖精たちの話をするとき、何かその声には、ある優しさが感じられた。この老婆は、妖精たちが常に若く、いつもお祭り騒ぎをし、自分に襲いかかって、骨を苦痛で満たすような老いを決して知らぬがゆえに、また、ちょうど小さな子供のようであるという点でも、妖精たちを愛している。
もし妖精がいなかったなら、アイルランドの農民は、これほど豊かな詩情を持ちえたであろうか。ドニゴールの農家の娘たちは、もし大地や海が、そうした美しい伝説やとても悲しい物語によって愛すべきものになっていないとしたら、内地に働きに出かけるときいつもするように、ひざまずいてその海の水に唇を触れるということをするだろうか。老人たちは、もし数限りない精霊たちが、自分たちのまわりにいないとしたら、晴れやかに、こんな諺を呟きながら息を引きとることができるだろうか――「湖は泳いでいる白鳥を重荷とは思わない、馬は鞍を、そして人は、その内にある魂を重荷とは思わない」
一八九一年七月 クロンダルキン
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訳者あとがき[#「訳者あとがき」はゴシック体]
[#地付き]井村君江
『ケルト幻想物語集』三巻(原題『アイルランドの妖精譚と民話』)には、W・B・イエイツの編纂した二冊の本『アイルランド各地方の妖精譚と民話』('Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry' 1888) と『アイルランドの妖精譚』('Irish Fairy Tales' 1892) を全篇収録した。これらは過去二百年にわたってアイルランド各地方に残っていた民間伝承物語を、イエイツ自身及び多くの優れた文学者たちが採集して、ゲール語より英語に直し発表したものの中から、イエイツが選択して編集したものである。「この二冊はアイルランドの民話の代表的な素晴しい集録書だと信じている」とイエイツ自身も言うように、長い年月を経て農民や漁夫たちの生活に深く根ざし、素朴な心に育まれ形づくられた各種の物語は、そのままケルト民族の精神のエッセンスであり妖精文学の宝庫である。
|妖精《シーオーグ》や|人魚《メロウ》、プーカ、バンシー、レプラホーン、リャナン・シーなどアイルランド特有の超自然的生きものから、巨人・魔女・悪魔のたぐい、それに聖者・僧侶・英雄・戦士、王や王女、農民たち、盗人に関するまで様々な伝統や民間伝承の物語が収められているが、多くは超自然の現象となんらかの形で連関を持っている。前者には五十三の話と詩が十三篇収められており、後者には十四の物語が収録されているが、各項目に関して章ごとの冒頭に、詳しいあるいは短いイエイツの解説が付いている。それらは詩人の眼を通した詩情あふれる興味ふかいものであるが、それと同時にこれはまたアイルランドに古くから伝わる超自然界の生きものを解説した貴重な文献でもある。各巻の後に書かれた附記や『アイルランド妖精の分類』一覧もまた、妖精を「群れをなして暮らす妖精」と「ひとり暮らしの妖精」に二分し、さらにそれぞれにわたって容姿、性質から特色についてすべての物語から演繹してまとめたもので、十九世紀に初めて作成されたアイルランド妖精辞典の感があるが、事実、ごく最近に発刊されたK・ブリッグズの『妖精辞典』(Katharine Briggs : 'A Dictionary of Fairies' 1976) も、C・ホワイトの『アイルランドの妖精の歴史』(Carolyn White : 'A History of Irish Fairies' 1976) まで、アイルランドの妖精に関しては、このイエイツの解説を基にしているほどである。
イエイツはいかなる作者のいかなる作品から選んだのか――まず初めにこれを(一)収録作品数の多い作家順に掲げ、イエイツが用いた作品を主として列記しておく。次に(二)アイルランドの民間伝承を扱った本の中で見るべきものとしてイエイツが触れているものを記し、(三)収録作品のある雑誌類を次に記し、最後に(四)イエイツ以後、最近までの主なアイルランド民間伝承物語、及び妖精譚に関する本を参考までに掲げておこう。
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(I)
1. THOMAS CROFTON CROKER (1798-1854)〔15〕
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'Fairy Legends and Tradition of the South of Ireland', 3 vols. 1825.
'Legends of the Lakes', 2 vols. 1829.
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2. WILLIAM CARLETON (1794-1869)〔9〕
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'Traits and Stories of Irish Peasantry', 1830-33.
'Royal Fairy Tales. Tales of the Fairies. Hibernian Tales'.
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3. PATRICK KENNEDY (1801-73)〔5〕
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'Legendary Fictions of the Irish Celts', 1866.
'The Fireside Stories of Ireland and the Banks of the Boro', 1866-1870.
'The Bardic Stories of Ireland', 1871.
'Legends of Mount Leinster and Banks of the Duffrey'.
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4. LITITIA MACLINTOCK〔4〕
[#1字下げ]Articles in "Dublin University Magazine", 1839, 1878.
5. DOUGLAS HYDE (1860-1949)〔4〕
[#1字下げ]'Beside the Fire, a Collection of Irish Gaelic Folk Stories', 1890.
6. LADY JANE FRANCESCA WILDE (1826-1896)〔4〕
(II)
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Sir William Wilde : 'Irish Popular Superstitions'.
McAnally : 'Irish Wonders'.
Lageniensis : 'Irish Folk-Lore'.
Mr. & Mrs. Hall : 'Ireland'.
Lady Chatterton : 'Rambles in the South of Ireland'.
Gerald Griffin : 'Tales of a Jury-room. Leadbeater Papers'.
Barrington : 'Recollections'.
Lefanu : 'Memoirs of my Grandmother'.
O."Donovan ; Introduction to 'the Four Masters'.
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(III)
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"The Dublin and London Magazine"
"Dublin University Magazine"
"The Folk-Lore Journal"
"The Folk-Lore Record"
Publications of "Ossianic Society"
Publications of "The Kilkenny Archaeological Society"
"The Penny Journal"
"Newry Magazine"
"Sixpenny Magazine"
"Hibernian Magazine"
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(IV)
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Jeremiah Curtin : 'Irish Folk-Tales collected', 1835-1906.
[#6字下げ]'Myths and Folk-Lore of Ireland', 1890.
W. B. Yeats : 'The Celtic Twilight', 1893.
J. B. Campbel : 'Waifs sand Strays of Celtic Tradition', 1895.
W. H. Frost : 'Fairies and Folk of Ireland', 1900.
Wood-Martin : 'Traces of the Elder Faiths of Ireland', 2 vols. 1902.
Evans Wentz : 'The Fairy Faith in Celtic Countries, 1911.
Joseph Jacobes : 'Celtic Fairy Tales', 1892.
[#6字下げ]'More Celtic Fairy Tales', 1894.
Lady Gregory : 'Visions and Beliefs of the West of Ireland', 1914.
James Stephens : 'In the Land of Youth', 1924.
[#6字下げ]'Irish Fairy Tales', 1920.
Padrake Column : 'A Treasury of Irish Folklore', 1954.
Sean O"Suilleabhain : 'A Handbook of Irish Folklore', 1963.
[#6字下げ]'The Types of the Irish Folktale', 1963.
[#6字下げ]'Folktales of Ireland', 1966.
Maureen Donegan : 'Fables and Legends of Ireland', 1976.
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*
イエイツが採録した作品数の多い作家六人のうちでも、クロフトン・クローカーは十五篇で最も多い。少年の頃、クローカーは実際に自分の足で、コークやリマリック、ウォーターフォードなど南部諸地方を歩いて、その土地に伝承されている伝説・民話・民謡の蒐集につとめ、その書物はトマス・モアやウォルター・スコットの賞賛を得、グリム兄弟によってその一部はいち早くドイツ語に翻訳されている。かれの筆によってはじめて、靴作りのレプラホーンや死を予言して泣くバンシー、|赤い帽子《コホリン・ドユリユー》をかぶった飲んべえのメロウや、酒倉荒しのクルラホーンなど数々の愛すべきユーモラスなアイルランド特有の超自然の生きものたちが、地上の人々の眼の前に紹介されたのである。「クローカーの作品のいたるところには美がひらめいている。それは優しい|牧歌風《アルカデイア》の美だ」とイエイツは賞賛しているが、月夜の緑の草原や青い海原の底で、妖精と人間が織りなす物語が、巧みな会話や叙情的筆を通して生き生きと描かれている。
「クローカーとラヴァーは、そそっかしいアイルランド的な気取りを、思いつきの中にほとばしらせ、もの事すべてをユーモアを持って眺めた」とイエイツに書かれているラヴァーはダブリン生まれで、自ら詩を書き作曲して歌う才に恵まれた文学者であり、『白い鱒』のようにリズミカルな口調で幻想的な伝説を平明に素朴に物語っている。ワイルド夫人はオスカー・ワイルドの母であり、夫ウィリアムもアイルランドに残る迷信に関する本の著者である。イエイツは彼女の書物にはケルト人特有の|哀感《ペイソス》が流れており、その語り口にはケルト民族の最も内奥の心を見るものがあるとして、高い評価を与えている。ダブリンの年老いた本屋であったケネディは、消えてゆく伝説や民話などを惜しみ、その伝承文学保存につとめて、多角的に蒐集を行った人であるが、その中には他の国の民話と共通するものが多くあるのは、興味ふかい。即ち『怠け者の美しい娘とその叔母たち』はグリム童話の『糸くり三人女』と類似しており、『十二羽の鵞鳥』にはグリム童話の『十二人の兄弟』やアンデルセンの『白鳥』の物語と共通するものが見られよう。この他ついでに共通性の見られる話について触れるなら、カールトンの『三つの願い』は各国の昔話の中に見られる基本型を持つ話であろうし、ラヴァーの『ドゥリーク門の小男の機織り』にはイギリス民話の『一打ち七つ』との共通性が見られるし、ハイドの『ムナハとマナハ』の構成にも、グリムやイギリスの昔話『ジャックの建てた家』の型との類似がある。またクローカーの『ノックグラフトンの伝説』のこぶを背負ったラズモアには、自ずとわが国の「こぶ取り爺さん」の姿が重って浮かんでくるようである。もちろん、類似性を持たない物語にこそ、アイルランド民話の土着的面白味があることは言うまでもない。「文学的才能という点では劣るが、語られた言葉通りに物語を記述する驚くべき正確さの持主」というのが、このケネディに与えられたイエイツの評である。マクリントック嬢は、半ばスコットランド方言がかったアルスター地方の言葉を正確に美しく書きとめ、それらは「ダブリン大学雑誌」に掲載された。ダグラス・ハイドはアイルランド初代の大統領となった人であり、ゲール語の民話の正確な英訳につとめ、『ムナハとマナハ』に見られるように、ロスコモンやゴルウェイのゲール語話者の語る言葉を逐語的に書きとめた。イエイツはハイドをどの作家よりも信頼に値すると言い、その話のいくつかを|歌謡《バラード》にしてくれることを望んでいた。というのは「その作品からは|泥炭《ビート》の煙が香る人たちの流れをくむ歌謡作者たちの最後の一人といえるからである」と、かれには賛美を惜しまない。イエイツ自身は物語一つと詩篇を二つ載せている。詩人としてはウィリアム・アリンガムのものが、妖精やレプラホーンの姿や動き、性質をその絵画的映像と巧みなリズムの内によく歌い込んでいる。
クローカーやハイドや他の人たちが、いち早く口碑伝承の記録を始めていたとき、イエイツは青年であり、そしてこの書物の編纂にたずさわっていた一八八八年には二十三歳であった。当時アイルランドの青年たちの間では、イギリス本国より独立しようという政治運動が盛んであり、民族独自の想像力豊かな精神をイギリスの物質主義文明の圧迫から救い、アイルランドの国民文学を創造したいという盛んな意欲に燃えていた。文学史上でアイルランド文芸復興運動と呼ばれるそのきざしの中にいたイエイツは、アイルランド各地方の民衆の間に連綿と語りつがれてきた国民的遺産である神話・伝説・民話こそ、新しい文学の母体となるものであり、詩的想像力の源となるものだと確信していた。実際に平行してイエイツは『オシーンのさすらい』三部作を執筆しており、これはアイルランドの古い英雄伝説を掘り起こし、自らの想像力によって豊かに彩り生かした長篇叙事詩であった。民話編纂の完結した翌年の一八八九年にこの詩集も刊行され、イエイツは詩人としての地位を得ることになるわけである。イエイツの詩人としての生涯や作品を理解するためにも、このアイルランド妖精物語集は欠かせないものであり、イエイツがその伝承文学蒐集のバトンを渡したグレゴリイ夫人は言うまでもなく、ウィリアム・シャープ、M・J・シング、ライオネル・ジョンソン等の文学や詩の源泉も、ここにある。
イエイツは少年期の大半をスライゴーやバリソディア、ロセッスで過ごしており、それらの土地の人々も家族や彼をよく知っていたので、よそ者には警戒して話さない|妖精の物語《シーン・スギール》を語ってくれたという。ある時は|円型土砦《ラース》近くの茨のしげる葺ぶき屋根に住む老婆に、|泥炭《ビート》をたく香りと煙の中で、流れのほとりで|経帷子の洗い手《ウオツシヤー・オブ・シユラウド》に会った話を聴き、海辺で網を乾す老人の口から岩に坐るメロウと会った話を聴いた。そうした|物語話者《ストーリー・テラー》の典型的な一人としてスライゴーのパディ・フリィンという農民の年寄りの名前をイエイツはあげている。その時代には各地方に、こうした近在の村々の伝説や物語を語り継いでいる者が農村や漁村に多くいて、冬の夜など火を囲み一堂に会したときには、もし誰かが他の人たちと異なった|話の型《ヴアーシヨン》を知っている時には、皆それぞれ自分の話を暗誦して聞かせ、意見を出し合って話を一つに統一し、こんどはそれと違った話を知っている者もその決めに従わねばならず、そうして物語はローソクの火が燃えつきるまで一晩中、語り続けられた――というような物語継承の実際の模様が「アイルランド地方誌」に見出せる。そうした物語の口碑伝承を生涯の仕事としていた人たちを |Shanachie《シヤナヒー》 と呼ぶが、ブラスケット島に住んでいたペイグ・セイヤーズという老女が優れたシャナヒーであって四百近くの話を暗誦しており、ファー・ジャルグやプーカ、メロウなど妖精たちと人間との交渉や|妖精の住み家《フエアリー・フオント》の呪文などの物語を、|泥炭《ビート》の炉辺を囲む人々の前で、ゲール語特有のリズムで歌うように語って聞かせてくれたという。
セイヤーズ夫人は一九五八年に八十五歳で亡くなり、その一人の老女の死と共に「アイルランド民族の歌の宝庫が沈黙の底に沈んでしまった」わけであるが、最近までこうした語り|部《べ》が立派な職業としてアイルランドには存続していたことがわかろう。古代アイルランドには神話や英雄伝説、国の歴史的出来事を語り謳う吟唱詩人たちがいて、|Bard《バード》 とか |file《フイラ》 とか言われ、民族の遺産と国家的出来事を後世に語り伝えてゆくため、ドゥルイド僧などと共に人々に尊敬されていたが、地位が高く支配階級に属する詩人たちであったため、シャナヒーの方が一般の人々の間にあってその生活と心情とを代表的に語り継いでゆく詩人だったのである。詩人はもう一つの世界を垣間見ることが出来、その他界消息を言葉で表現し語る能力のある人として、アイルランドでは昔から人々の尊敬を受けていたが、今日でもなおそうであり、この秋に私がダブリンで会った詩人も、自分はバードの後継者の一人としての誇りを持ち、人々に尊敬されているが、アイルランド民族の過去を集約して今に歌い、英語を使ってもゲール語の響きとリズムは、自然に崩れないのだと自信を持って語っていた。こうして古代より語り伝えられてきた民間伝承物語の数多くの記録は一つに蒐集され、手記原稿の形のまま、今は|王立ダブリン協会《ロイヤル・タブリン・ソサイテイ》に保存されている。
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アイルランドの人々にとってこうした記憶の中に生き、幾世紀にも亘って語り継がれていった|妖精物語《シーン・スギール》は、実生活の一部であり、その国はつねに自分の存在の背後に在り、日々の生活の中で現実より生々しく、恐ろしいがしかし美しい可視のヴェールの背後に、いつでも垣間見られる世界の一部であるらしい。この目に見えぬ民族の文化は、時代を経てゆくにつれて絶えず更新されていったであろうし、文明の普及とともに|妖精信仰《フエアリー・ビリーフ》は稀薄になっていったであろうが、今日でもなお、アイルランドに住む人々は妖精の存在を信じており、これもまた今秋のことであるが、或るダブリナーが、バンシーの泣き声を、子供の時分に父親と一緒にはっきりと聴いた、という不思議な体験を聞かせてくれた。
「妖精は救われるほど良くもないが救われぬほど悪くもない堕落した天使だ」とアイルランドでは信じられている、とイエイツは解説で言っているが、紀元四三二年に聖パトリックによってキリスト教が伝えられても、イギリス本国で妖精たちを異教の神々としてデヴィルやデーモンの類として退けたほどの激しい攻撃や否定には出会わなかった。この異教的存在とキリスト教との穏やかな共存や交渉は、最後の審判の時に自分たちの魂も救われるかどうか坊さまに聞いてくれと頼む赤い帽子の小人たちの話や、海底のメロウの籠に入った人間の魂を救われるようにとひっくり返す漁夫の話などに、あるいは『僧侶の魂』や『小鳥の話』などの聖者や僧侶の伝説にうかがうことが出来よう。アイルランドの農民たちは素朴で穏和であり、キリスト教への篤い信仰を抱きながら妖精の言葉にも耳を傾け、木の葉をひるがえし藁屋根を吹き上げてつむじ風が通ると、妖精の群れが通り過ぎたと思い、帽子を脱いで「妖精たちにも神のお恵みを」と祈るのを忘れないのである。
『ケルトの薄明』の中でイエイツは、「人々の想像力は、むしろ幻想的で気まぐれなもののなかに住んでいる。そして幻想も気まぐれも、もしそれらが善なり悪なりと結びつけられるようなことがあれば、それらの命の息吹きであるところの自由さを失ってしまうのだ」と言っているが、アイルランドの妖精たちは善悪の規範にとらわれることなく、宗教の枠に縛られることなく、生き生きと「ケルト人の心の広大で止まるところを知らない法外さ」の中に住み、自由な「|中間王国《ミドル・キングダム》」で活躍を続けてきた。その気まぐれで幻想的な想像力が、時に飛躍して法外な誇張となり、現実の制約の中にいる人間をかえって法外に解き放ってユーモラスに行動させ、逆に諧謔めいたものにさえしてゆく。泥酔して水に落ち、鷲に助けられてその背に乗り、月まで飛んで行ったり雁にふり落とされ海底まで落ちたりするダニエル・オルールクの話や、おかまのカブトをかぶってドラゴンの背にまたがり、ダブリン市内まで飛んでゆくドリークの貧乏機織りの話などを読んでいると、ダブリンのセント・パトリック教会の司祭であったスウィフト描くところのガリヴァーが訪れた|巨人国《ブロデイグナジヤン》や|小人国《リリプツト》、それに|飛行浮島《ラピユータ》などの奇想天外な冒険の数々が連想されてくるし、ダブリン生まれのバーナード・ショウの鋭い機智や意表をつく構想も、オスカー・ワイルドの巧みな着想や鮮かな機智や、ジェームズ・ジョイスの或る種の言葉遊びの自在さやシニシズムも、こうした線上に理解されてくるようにさえ思えるのである。
「アイルランドの異教の神々トゥアハ・デ・ダナーンがもはや敬まわれもせず供物も捧げられなくなって、人々の想像の中で次第に小さくなった」のが妖精だと『アーマーの書』にあったが、ダグラス・ハイドによれば、こうしたアイルランドの超自然界の生きものたちは、或る部族神話の残存の跡をとどめながら、各地方ごとに異なった系列を示しており、そうしたものへの信仰も、アーリア系のものもあればケルト以前のものもあるという。ダン・アンガスの「|空《うつ》ろの丘」に住む丈高く美しい貴族階級の|妖精《シー》たちや古代の墓地遺跡に住むものたちは、ミレシア族の勃興以前のものであり、クルラホーンはマンスター地方の|精霊《スピリツト》であったという。一般庶民ふうな〈|小さな人たち《リトル・ピープル》〉や〈|良い人たち《グツド・フオーク》〉、妖精の靴屋とか鍛冶屋、牛追い、笛吹き、機織り、ホッケーの競技者たち――などの着ている革製の袖なし上着や太い格子縞の毛織物、三角帽子やバックル付きの靴、また行動範囲を調べることで、アイルランド先住民たちの職業や技能、工芸の跡を辿ることが出来るとすれば、或るものは先史時代に遡れようし、或るものはもっとわれわれの歴史に近いものかもしれない。またしばしば物語で妖精の神聖な|住み家《フオント》とされる|砦《フオート》や|円型土砦《ラース》や茨の木を農民や羊飼いが決して犯さないという伝統的な尊敬の気持は、レプラホーンが守っている墓や地下の宝物の場合と同様に、自分たちより以前に住んでいた所有者の物を荒さないという祖先崇拝の念から当然生まれてくるものであろうと言っている。したがって農民たちにとって、妖精の王国とはそれ自身の場所にずっと存続していて、現実の世界とはただ一枚の薄いヴェールで隔てられただけの過去の世界なのであろう。
この|中間王国《ミドル・キングダム》は|妖精《シー》の国であると共に「|常若の国《チル・ナ・ノグ》」であり、また、本質的な精霊や、かつて一度も人間であったことのない霊魂の世界をも、アイルランドではこう呼ぶのである。ブレイクは妖精たちの葬式を見たというが、一般に妖精は死なないと考えられている。しかしアンドリュー・ラングは「|妖精《シー》は一方では|黄泉の国《ハーデス》へと姿を消してゆく傾向がある――死者の幻影となってゆくのである」と言い、死という状態に入るわけではないにせよ、妖精自身がその存在を次第に変化させてゆくのだと言っている。妖精たちが死者たちと密接に関係を持ち、人の死を予言したり死体を運んだり人の魂を集めたりする話が数多く出てくるが、それはかえって死者側、即ち死んだ祖先や友人たち家族の者たちが、この世に生を送る者と混じり合って、今ここに居るのだという考え方から来ているようである。ダグラス・ハイドなどは妖精のうちのレプラホーンやクルラホーン、メロウの類と、「|幽霊《タブシー》」や「|帰還者《レヴナント》」とは全く異なる位相にいるものとして分けて考えようとした。またキャサリン・レインはこの世を旅立った魂は、いくばくかの間この「中間の国」に止まるのだと考えている。一方イエイツの考えを見ると、|妖精《シー》の国や|常若の国《チル・ナ・ノグ》は、われわれの魂がそこからやって来てまたそこへ帰ってゆく所として、そこにプラトンやプロティヌスの「|彼方《ヨンダー》」と同じものを見ているのである。
こうして考えを進めてゆくと、妖精信仰は、たんに一つの民族の過去の遺産というばかりでなく、現在あるその民族の魂の教義に属するものであることがわかってくる。「すなわち妖精の国は、いわば文明人も非文明人も、等しくそこをたとえば神や悪魔やあらゆる善と悪の霊などという見えない存在とともに、死者の魂が住んでいる場所、そうした状態とか条件を持った場所、あるいはその領域と同じではないにしても、きわめて似通った場所なのである。……妖精の国は、目に見える世界が未だ探検されていない海に沈む島のように、その中に呑まれてしまう目に見えない世界として、現実に存在している。そこにはこの世界よりも、より多くの種類の生きものが住んでいる。なぜなら比べものにならないほど、より大きくより変化に富む可能性が、その世界には存在しているからである」。エヴァンス・ウェンツのこの言葉は(『ケルト諸国に於ける|妖精信仰《フエアリー・フエイス》』)、そのへんの消息をよく説明してくれるものであろう。この中間王国の住人たちが、じつに様々な形姿をとり愛すべき性質を備えて生き生きと存在し、それとの交渉が今もってあるということは、とりもなおさずアイルランド民族の魂とその遺産の豊かさ、予見の力、想像力の非凡さを物語るものであろう。だがこうした理論とは関係なく、今でもアイルランドの農民たちは、十一月になって木いちごがすっぱくなって食べられなくなるのは、プーカが腐らせるためだと言い、家によいことがあるとエルフがそうしてくれたと信じ、感謝のために窓辺にミルクを一鉢置くのを忘れない。また現在に続く風習や歌謡のなかにも、妖精たちはまだ息づいているのである。最近キルディア地方を旅したとき、|泥炭《ビート》が埋高く積まれた一軒の農家の庭先にロバが遊んでいたが、急に跳ねまわったかと思うと、ヒースを踏みしだいて沼地へと駈けて行ってしまった。農家の主人は、あれはプーカの仕業なんだ、と教えてくれた。こうした素朴な心が、本書に見られるような様々な愛すべき妖精たちを、育み生かしていることを忘れてはならぬと思う。
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『アイルランド各地方の妖精譚と民話』の方は、現在手に入る形としては昭和十年に山宮允氏が抄訳されたものが岩波文庫に入っている。日本民話の語り口を生かした興味ふかい初訳である。イエイツは妖精の名前や地名などをアイルランド語やゲーリックの綴りそのままでなく英語に直して書いているために、かえって綴りと発音に混乱が生じてきているようである。そうしたものを元のものに返して、さらに出来るだけ忠実に日本語の発音に移そうとしたが、これはかなり難かしい仕事であった。発音表記に関しては全面的に日本大学英文科教授でゲーリックの専門家であられる三橋敦子先生に、お世話になったことを記して感謝を捧げたい。
またこの夏、アイルランドのダブリンに滞在中に、ゲール語に堪能な詩人マグダラ・ウッド氏にさらに名詞・固有名詞を発音していただき、アイルランド方言の意味についてもいくつか教示を頂けたのは幸いであった。訳者が現在ケンブリッジに在住しているため、海を渡る原稿を送ったり編集したり心配したり、また挿入の絵画を選んだりの労をとって下さった編集の阿見政志氏に、心から感謝申しあげる。
昭和五十二年十月十六日 ケンブリッジにて
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文庫版訳者あとがき[#「文庫版訳者あとがき」はゴシック体] ケルト妖精物語
[#地付き]井村君江
アイルランドの今世紀最大の詩人であり、劇作家・批評家でもあったW・B・イエイツ(1865―1939) が、アイルランド民族のすぐれた遺産である民間伝承の蒐集を選択し編纂した二つの書(一) 'Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry' 1888 と(二)'Irish Fairy Tales', 1892 の全作品六十七篇詩十三篇を、昭和五十三年に訳出して(一)『アイルランド各地方の妖精譚と民話』T、U巻(二)『アイルランドの妖精譚』V巻として、月刊ペン社「ケルト幻想物語集」の中に収めたが、今回はそのうち、「妖精」に関する話だけを一冊に集めた。(一)からは「群れをなす妖精たち」「取り替え子」「ひとり暮らしの妖精たち」の項から二十一篇に詩八篇、(二)からは「地と水の妖精たち」から七篇、合計二十八篇と詩八篇、およびイエイツの「序文」「アイルランドの妖精の分類」「アイルランドの物語の語り手」そして訳者の「あとがき」も入れた。
原著の名前は(一)「アイルランド農民の妖精物語と民話」(二)「アイルランドの妖精物語」である。イエイツはこの本が出た翌年(一八九三年)自らの足で求め、耳で聞いたロセッスの漁夫やコラムキルの老婆の語った話――妖精や幽霊、天使や悪魔にまつわる古い言い伝え――を集め、それにイエイツ自身が体験した超自然のものとの邂逅と随想を基に、縹渺とした幻想的物語集『ケルトの薄明』を世に出した。
イエイツは伝承物語の根源にアイルランド民族の祖先ケルトの想像力を見たのであろう。そのためイエイツは幽明のあわいに立ち現われてくる超自然のものたちの物語を、ケルトの薄明と名づけた。大陸に鉄器時代の担い手として登場し、紀元前五世紀頃に移動を開始して一部はヨーロッパに定着し(大陸のケルト)、一部はアイルランドに定着(島のケルト)したケルト民族の末裔は、いまその特色をアイルランドにしかとどめていない。アイルランドの古代へ遡行すれば、ケルト民族の想像力ケルトの幻想へつきあたらざるを得ない。本文庫版を『ケルト妖精物語』と名づけた所以である。
再編成するに当り全篇に目を通し、八年の歳月のあいだに気づいた点を加筆し、近く出版予定のK・ブリッグズ著『妖精事典』(冨山房)と特に固有名詞、妖精の名前の読み方などの統一を計った。『妖精事典』にも妖精の具体的な話の例として、このイエイツの本から多くの挿話が引用されており、またイエイツの妖精に関する考え方、とくにその分類、例えば「|群れをなす妖精《トルービング・フエアリー》」と「|ひとり暮らしの妖精《ソリタリー・フエアリー》」という二大別や、あるいは妖精の起源――|異教《ペイガン》の神トゥアハ・デ・ダナーン(ダーナ巨人神族)縮小説、堕天使説――等は、これ以後今日まで、妖精について書く学者たちに重要な指針を与えており、この書はいわば妖精学のそして民間伝承研究、フォークロアの分野において、一つの古典的存在となっていると言えよう。
文学史上でアイルランド文芸復興運動と呼ばれる気運の中にいた当時二十三歳のイエイツは、人々の間に連綿と語りつがれていた古代アイルランドの神話や英雄物語、妖精譚こそ民族の誇るべき文化遺産であることに気づき、ダグラス・ハイドやクロフトン・クローカー等先輩たちがすでに蒐集記録していた語り手(シャナヒーやフイラ)達や、地方に伝わる伝承の話から選択し、また自らスライゴーの山ベンバルベンの山裾やドラマクリフの草ぶきの小屋に住む老人たちから聴いた伝説や民話を、消えてしまわぬうちに記録していった。これ以前一八七二年に「文芸復興の父」といわれたスタンディッシュ・オグラディが、ダブリンの記録古文書からそのゲーリック語を格調高い現代英語にして英雄フィンやク・ホリン達を甦らせ、民族の霊魂を復活させて、文芸復興運動の先がけとなったが、イエイツのこの仕事は、まさにこの愛国的気運の熱気の中で行われていたといえよう。直接イエイツに民族精神の源としての伝承文学研究の必要をふき込んだのは、友人であり革命運動の闘士であるジョン・オリアリーであった。イエイツも古代の英雄を題材にした詩「オシーンの漂泊」(一八八九)や「ク・ホリン」を主人公にいくつかの戯曲を作っているが、この時は大地と共に生きてきた農民や海と生を共にしてきた漁夫たちが、祖先より語り伝えてきた素朴な人々の口碑伝承物語に、とくに注意を向けたのであった。その最初の集成ともいえるこの一冊は、P・W・ジョイスの『古代ケルト伝説』やグレゴリイ夫人の『神々と武人』、クロフトン・クローカーの『西アイルランドの妖精譚と伝説』等と共に、文芸復興運動の代表的な動力の書にも数えられるのである。
古代の神々と英雄と妖精とは、この文芸復興期に蒼然たる太古の世界から甦り、再びその存在を強調されたのであるが、興味ふかいことは、この三種の存在が、アイルランドでは密接に関係づけられていることである。妖精の祖先といわれるトゥアハ・デ・ダナーンというのは、神話に登場する女神ダーナから生れた金髪碧眼のすぐれた能力を持つ巨人神族である。古書『|侵略の書《レバ・ガバーラ》』に依れば、創世紀にアイルランドに入島した五つの種族(1)パーソラン(2)ネミディアンス(3)フィルボルグズ(4)トゥアハ・デ・ダナーン(5)マイリージァン各種族が互いに戦い興亡する推移がアイルランドの神話を形づくっているが、トゥアハ・デ・ダナーン族は、アイルランド民族の祖先で人間であるマイリージァン族に戦いで敗れ、海の彼方と地下に逃れて、そこに楽園|常若の国《テイル・ナ・ノグ》を造って住み、地下楽園(妖精の国)の王となったという。マイリージァン族が目に見える世界を治め、トゥアハ・デ・ダナーン族は目に見えぬ世界をとり、土塚に住む種族(シー妖精)となったと信じられている。
時が経ち神話の世界から逸脱していったトゥアハ・デ・ダナーンたちは伝承の世界へと移行し、|異教《ペイガン》の神々となったが、次第に崇拝もされず、供物も捧げられなくなると、身の丈が縮んでいって|小さな人々《リトル・ピープル》になったというのがアイルランド人の妖精観である。従って神々と英雄と妖精、そして人間とは互いに同じ生命の輪でつながっており、光の神ルーは英雄ク・ホリンに転生し、英雄キャリドウェンは兎となり、蝶は死んだ子供の魂かもしれぬが、また妖精ピスキーでもあるというように、目に見えぬ大霊がすべての間を永劫にめぐって生命を転生させていくと考えるのである。ケルト民族固有の「霊魂輪廻転生説」がこの考え方の底には存在しているようである。アイルランドの目に見えぬ世界は、現世と全く次元を異にしたところに存在するのではなく、家の裏手の森の中、丘の中腹、泉の底等この地にすぐ隣接しており、いわば現実に直結して存在しているので、妖精たちとふと、森の小径や月明りの野原で、出会うかも知れないのである。
古代のドルメンや|土砦《フオート》が人家に続く土地に散在し、森や丘や海がけぶる霧雨の中につねに変貌をみせるエメラルド・アイルランドの風土が、こうした妖精たちを豊かに生み出してきたのかも知れぬが、さらに「現実を夢と思いなす」心情や、縹渺としたケルト民族特有の想像力が、さまざまな妖精たちを生かし続けてきたのであろう。そしてもう一つ忘れてならぬことは、最初期キリスト教の布教者であった聖パトリックの恩恵である。キリスト教が入るとどこの国でも、これまでの土俗信仰や土着の神々は、|異教《ペイガン》の神、邪神として退けられ、悪魔として否定される運命に遭っている。だが少年の頃、牧童として農夫と共に働いた経験を持つパトリックは、農夫たちの生活と密接に結びついた土着信仰を知っており、紀元四三二年にキリスト教伝道に再び訪れたとき、これを全面否定しなかった。妖精にとっては幸いなことであり、このことが今日までアイルランドを妖精の豊かな棲息地にしていると言えよう。
「スライゴーの町からやや北、ベンバルベンの南面の山腹、平野を見下す数百フィートの高さのところに、石灰岩でできた小さい白い真四角なものがある。……これ程恐ろしい雰囲気に取り囲まれ、不安を抱かせる場所は殆んどないのではあるまいか。これは妖精の国の扉なのだ。真夜中になるとそれはぱっと開いて、この世には存在しないもの達が群れて勢いよく出てくるのである。夜通しその陽気な群が地上をあちこち飛び廻るのだが、それは誰れにも見えないのだ」(イエイツ著拙訳『神秘の薔薇』国書刊行会)。なにげなくいつも見ている山の中腹に、妖精の国への入口はある。スライゴーはイエイツが生れ幼年期を過した土地である。「|船首《ブナウ》」と呼ばれる奇妙な形の山ベンバルベンとその周辺は、不思議な伝承物語の伝わる場所であり、神話伝説の舞台でもあった。現世の活動を終えたいま、イエイツはこのベンバルベンを木々の間に望みながら、ドラマクリフの墓地に眠っている。ケルトの神秘と象徴と幻想を歌う詩人として、劇作家として批評家として数多くのすぐれた作品を遺したが、イエイツの心にはつねにベンバルベンの山が存在していたといえよう。イエイツの文学の世界を理解するのは勿論のこと、薄明りの幻想的な世界で、妖精たちと深くかかわっているアイルランドの人々の想像力と生活から生れた文学の秘奥を開く鍵の一つも、この書の中に隠されているといえるかも知れないのである。
本書に挿入した絵は、シシリー・ピールの手になる『ブリテンのボギー事典』という小冊子からとった。十年ほど前、ダブリン市中を流れるリーフィー河畔の古本屋で、文字通り床積みの本の山の中から掘り出したものである。
これは、十九世紀はじめのものと思われ、闇の中に長いこと葬られボギーという名で一括されていた妖精たちは、ほぼ百年後の今日の日本で日の目を見たことを、戸惑っているかもしれない。が、我々はこうした不思議な国の住人たちにめぐり会えたことは、非常によろこばしいことである。
アイルランド妖精物語がハンディな形になり嬉いが、その内容から装幀に至るまで、良い助言を惜しまなかった編集の中川美智子さんに心から感謝申し上げたい。
一九八六年二月二〇日
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ウィリアム・バトラー・イエイツ(William Butler Yeats)
一八六五−一九三九 アイルランドのスライゴーに生まれ、ロンドンで活躍し、パリで死ぬ。詩人・劇作家・思想家。アイルランド民間伝承復興運動の中心者。詩集『葦間の風』、戯曲『鷹の井戸にて』などがある。
井村君江(いむら・きみえ)
栃木県に生まれる。東京大学大学院比較文学博士課程修了。日本における妖精学の第一人者。明星大学教授、ケンブリッジ、オックスフォード両大学客員教授を経て、英国本島のコーンウォールに移住。イギリスフォークロア学会終身会員。イギリス児童文学会顧問。日本ワイルド協会顧問。著書に『アーサー王ロマンス』『ケルトの神話』『ケルト妖精学』『妖精の国』『妖精の系譜』『妖精幻視』、訳書にイエイツ『ケルト幻想物語』『ケルトの薄明』『神秘の薔薇』、ドイル『妖精の出現』など多数。
本作品は一九七八年「ケルト幻想物語集」(全三巻)として月刊ペン社より刊行され、一九八六年、再編集の後、ちくま文庫に収録された。