あるスパイの墓碑銘
エリック・アンブラー/田村隆一訳
目 次
あるスパイの墓碑銘
訳者あとがき
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登場人物
ジョーゼフ・ヴァダシー……ハンガリー生れの語学教師
ロベール・デュクロ……フランス人実業家
アンドレ・ルウ……フランス人
オデット・マルタン……ルウの恋人
メアリー(ウォレン)・スケルトン……若いアメリカ人兄妹
ワルター(フルデ)・フォーゲル……スイス人夫妻
ハーバート(マリア)・クランドンハートレイ……イギリス人夫妻
エミール・シムラー……ドイツ人
アルベルト(シュザンヌ)・ケッヘ……レゼルヴ・ホテルの支配人夫妻
ミシェル・ベガン……警部
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あるスパイの墓碑銘
わたしが、ニースからサン・ガシヤンにたどりついたのは、八月十四日、火曜日。そこで、一人の警官と一人の私服の警部に逮捕され、警察署へ連行されたのは、八月十六日、木曜日、午前十時四十五分のことである。
ツーロンからラ・シオタへ向かう途中の数キロメートルでは、線路が海沿いに走っている。このあたりには、たくさんの短いトンネルがあり、汽車がトンネルを縫《ぬ》って疾走して行くと、眼下では、めくるめくほど青い海や赤い岩、それに松林のあいだの白い家々などが一瞬のうちにとび去って行く。まるで短気な係員が捜査しているカラースライドの映写を見ているようなものだ。眼は細かいところまで見ている暇がない。もしあなたがサン・ガシヤンを知っていて、景色をじっくり見たいと思っても、見えるものといったら、レゼルヴ・ホテルの薄黄色の漆喰《しっくい》壁と鮮紅色の屋根ぐらいのもの。
ホテルは岬《みさき》のいちばん高い所にあり、建物の南側一面にはテラスが張りだしていた。テラスのむこうは、十五メートルほどの垂直な崖《がけ》である。下からのびてきた松の枝は、欄干《らんかん》の柱に達している。もっとも、さらにそのかなたでは、地面がふたたび高くなっていた。乾いた緑の潅木帯には、赤い岩の裂け目が見える。海の強烈な青さに対しては、風に吹きさらされた数本の御柳《タマリスク》が、そのたわんだ枝を黒々と波打たせている。ときどき、下の岩からは、白い水けむりがあがった。
サン・ガシヤン村は、ホテルが建っている小さな岬の風下にひろがっている。家々の壁は、大方の地中海沿岸の漁村で見られるように、白っぽい卵殻色のブルーか、バラのようなピンクで塗られていた。岩の多い高台からのびている、松におおわれたスロープは、湾の反対側の浜辺にむすばれ、ときおり、北西から強烈に吹いてくる南仏特有のミストラルから、この小さな港を守っていた。人口七百四十三。そのほとんどが漁業で生計をたてている。コーヒー店二軒、酒場三軒、店舗七軒それに湾をかなりまわった所に警察署がある。
しかし、あの朝、わたしが坐っていたテラスの端からは、村も警察署も見えなかった。もう暑くなっていて、ホテルの横のテラスをしつらえた庭では、蝉《せみ》が単調にないていた。頭を少し動かすと、欄干越しに、ホテル用の海水浴場が見えた。華やかな色の大きなビーチ・パラソルが二本、砂浜に立っている。一本のパラソルから男と女の脚が二組、突きだされている。若い人たちの脚らしく、よく日焼けしていた。ここからは見えない海岸の日蔭のあたりにも、ほかの宿泊客たちがいるらしく、話し声がかすかにきこえてくる。頭と肩を日光から守る大きな麦わら帽子をかぶった番人は、台へあおむけにのせたボートの舷側に、ペンキで一筋の青線を塗っていた。湾のかなたから、岬をまわり、一隻のモーターボートが海岸目指してやってくる。ボートが近づくにつれ、舵柄によりかかっているホテルの支配人ケッヘのやせた姿がはっきりしてきた。ボートの中のもう一人は、村の漁師である。二人は明け方から海に出ていたにちがいない。きっと昼食には、獲物のヒメジがつくさ。湾の外には、マルセイユからヴィルフランシュへ向かうネーデルランド・ロイド会社の商船が走っている。なにもかも心地良く、平和を絵に描いたようなものだ。
そうだ、明日の晩、スーツ・ケースの荷造りをし、土曜の朝早くにバスでツーロンへ出て、パリ行きの汽車に乗らなければ、とわたしは考えていた。汽車は日中の暑いときにアルルの傍を通るだろうから、わたしのからだは三等のコンパートメントのコチコチの革椅子にひっついてしまうだろう。それに、そこいら辺は、埃《ほこり》と煤《すす》でいっぱいなはずだ。ディジョンにつくころには、さだめしクタクタになって、のどがカラカラさ。水を一びん忘れるなよ、そうだ、少し葡萄酒をまぜとくか。パリについたらさぞかしホッとするだろうが、そう思うのも束《つか》の間《ま》。ガール・ド・リヨン駅から地下鉄の駅まで歩かなくちゃならない。そうなると、スーツ・ケースが重いぞ。ヌーイ行きでコンコルドまで。乗り換え。メーリ・ディシー行きでガール・モンパルナスまで。乗り換え。ポルト・ドルレアン行きでアレジアまで。下車。モンルージュ。シャティヨン通り。オテル・ド・ボルドー。そして、月曜日の朝はカフェ・ド・ロリヤンのカウンターで朝食を立ち食いして、ふたたび地下鉄でのご出勤となる。ダンフェール・ロシュローからエトワールへ、最後にマルソー街までテクテク歩く。マチス氏はもうきているはずだ。「おはよう、ヴァダシー君! たいへんお元気そうですな。今学期はあなたに初級英語と高等ドイツ語、それに初級イタリア語を受け持ってもらいましょう。高等英語はわたしがやります。新しい生徒は十二人で、実業家三人と給仕九人。みなさん英語をとられます。ハンガリー語の希望者はありません」これで、また一年、過ごすわけだ。
しかし、目下のところは、松林と海と赤い岩と砂があるだけ。わたしは気もはればれと、のびをした。と、そのとき、一匹のトカゲがテラスのタイル張りの床をす早く横切った。トカゲは、わたしの椅子が投げかける影を抜け、急にパタッと止まって日光の中でぬくもっている。のどがピクピク脈打っているのが見える。しっぽがきれいな半円を描き、タイルを斜めに分ける切線となっている。トカゲという代物《しろもの》は、デザインなんかに不思議なセンスを持っているな。
と、わたしに写真のことを思いださせたのは、このトカゲであった。
この世でわたしの貴重品といったら、たった二つだけ。一つは、カメラ。もう一つは、デアク(ハンガリーの中道派の政治家。一八〇三―七六)からフォン・ボイスト(オーストリアの政治家。外交官。一八〇九―八六)にあてた一八六七年二月十日づけの手紙である。もしだれかが、この手紙を金とかえようといってくれたら、わたしはありがたくその申し出を受けるだろう。だが、カメラにはすごく愛着があるから、飢えでもしないかぎり、手放すわけにはいかない。べつにわたしはとくに腕のいい写真家ではないが、まんざら捨てたものじゃないぞと己惚《うぬぼ》れられるだけでも、ずいぶん楽しみなものである。
わたしは、このレゼルヴ・ホテルでも写真をとっている。前の日にも、写し終わったフィルムを一本、村の薬屋へ現像にだした。普通だったら現像を他人に任せるなど思いもよらない。アマチュア写真の楽しみの半ばは、自分の暗室で、いろいろ仕事するところにあるのだ。ところが、わたしはこのところ写し方の実験をしていて、サン・ガシヤンを発つ前にその結果がわからないと、せっかくの実験を利用する機会に恵まれそうもなかった。そこで、フィルムを薬屋においてきたのである。十一時までには、現像も終わり、乾きあがっているはずだ。
十一時半になった。いま、薬屋に行けば、帰ってから泳いだり、昼食前にアペリティフを飲んだりする時間もあるだろう。
わたしはテラスを通り、庭をまわって、道路へ通ずる階段をあがった。もう日差しも強くなっているので、アスファルトの上の空気は、ゆらめいていた。帽子をかぶっていないから、髪にさわると、燃えるように熱い。わたしは頭にハンカチをのせて丘をのぼり、それから港へつづく大通りへとおりていった。
薬屋の店はヒンヤリとしていて、香水と消毒薬の匂いがした。ドアについている鈴の音がなりやまぬうちに、薬屋がカウンターを距《へだ》てて、わたしとむきあった。二人の眼があったけれど、彼はわたしをおぼえていないらしい。
「何かご用で?」
「きのう、フィルムの現像を頼んだのだけど」
「それが、まだなんでして」
「十一時の約束だったじゃないか」
「まだできておりませんので」しつっこくおなじことを繰り返す。
一瞬、わたしは黙ってしまった。薬屋の態度が、何か腑《ふ》に落ちないのだ。分厚く盛りあがっている眼鏡の奥で拡大された男の眼が、じっとわたしの眼を見すえている。妙な目つきだ。と、そのとき、わたしはその目の色をさとった。こいつはおびえているんだ。
今でも憶えているが、こう気がついたときは、ほんとにショックだった。薬屋がわたしをこわがっている――他人を怖れるのに終始してきたこのわたしが、ついに人をこわがらせることになろうとは! わたしは笑いだしそうだった。と同時に、心配にもなってきた。いきさつが読めたと思ったからだ。きっと薬屋はわたしのフィルムをだめにしてしまったのだ。
「フィルムはちゃんとしてるんだろうね」
男はすごい勢いでうなずいてみせた。
「そいつは大丈夫ですとも。ただ、まだ乾いていないんで。お名前とお所さえ教えていただければ、できしだい、うちの息子に持たせてやりますから」
「いや、けっこう、また、きますよ」
「ま、そうおっしゃらずに。なんでもありませんから」
その、薬屋の口調に、なにか切迫しているような奇妙なひびきがあった。胸のうちで、わたしは肩をすくめてやった。もしこの男が、もうフィルムをだめにしてしまっていて、そんな汗の出るような話を伝える役目はしたくないなんて子供っぽく心配しているのなら、それはわたしの知ったことではない。わたしは写真の実験など、もうあきらめていた。
「じゃ頼む」わたしは名前と住所を伝えた。
薬屋は書き取りながら、それを大きな声で繰り返した。
「レゼルヴ・ホテルのヴァダシーさん」そこで声を低め、舌で唇をペロリとなめまわしてから、「できしだい、届けさせますから」
わたしは礼をいうと、店のドアのほうへ足をすすめた。と、パナマ帽をかぶり、からだに合わない黒服を着た一人の男が、わたしの前に突っ立っている。歩道が狭いのに、その男が道をあけないものだから、わたしは「失礼」とつぶやいて、身をよじりながら男の横を通り抜けようとした。と、その瞬間、男はわたしの腕に手をかけた。
「ヴァダシーさんですね」
「そうですが?」
「警察署までご同行願います」
「いったい、なんのためです?」
「ちょっと、旅券の件で」男はいやに礼儀正しい。
「じゃ、ホテルから旅券を持ってきましょうか?」
男は答えずにわたしの背後を見て、かすかにうなずいて見せた。と、残っていた片方の腕も、だれかにしっかりとつかまれてしまった。ふりかえると、わたしの背後の店のドアの前に、制服の警官が立っているではないか。薬屋のおやじはもういない。
二人の男の手に力がはいり、わたしは前に押しだされた。
「どうしたというんだ」わたしがいった。
「じきに思いあたる」背広の男が、ぶっきらぼうに答えた。「Allez, file !(おい、歩け!)」
もうていねいなところは、ひとかけらもなかった。
警察署につくまで、だれひとり、口をきくものはいなかった。連中が身分を明らかにしてからは、警官が二、三歩後へさがり、私服とわたしが先に立って歩いた。まるでスリのように村中を歩かされるのはたまらなかったので、これはかえってありがたかった。それでも、幾人かの好奇の眼はひいたし、通行人が二人、おもしろ半分に、豚箱《ヴィオロン》行きだな、といっているのを耳にした。
フランス語の隠語ぐらい、厄介《やっかい》なものはない。警察署《コミサリア》という言葉よりも、ヴィオロンのほうが、かえって思いつきにくいだろう。このサン・ガシヤンには、一つだけ醜悪な建物があり、こいつは眼のような小さな窓のついている汚らしいコンクリートの塊なのである。湾沿いの村から数百メートル離れた所にあって、サン・ガシヤンを中心とするこの地域の警察機関がはいっているので、この建物はかなり大きい。サン・ガシヤンもまた、この地域ではいちばん小さな村の一つであり、一年中事件らしい事件も何一つ起こらず、お上品でいやに生真面目な村である、という事実など、責任感にあふれている警察の眼中にはまったくなかった。
わたしが入れられた部屋といえば、テーブルが一つと木のベンチが数個、ただそれだけだった。私服はもったいぶって立ち去り、あとはわたしと、隣のベンチに腰かけている警官だけになった。
「長くかかりますか?」
「話をしてはいかん」
わたしは窓の外を眺めた。湾のかなた、レゼルヴ・ホテルの海水浴場に色彩にあふれたビーチ・パラソルの群れが見えた。泳ぐ時間もなくなるな、とわたしは思った。ま、帰りには、どこかのカフェでアペリティフぐらいは飲めるだろう。まったく迷惑千万だ。
「おい!」突然、かたわらの警官が叫んだ。
ドアが開くと、ペンを耳にはさみ、制服の上着のボタンもかけていない無帽の中年男が、ドアから出ろ、と顎《あご》をしゃくってみせた。警官は襟《えり》もとをなおし、制服のしわをのばしてから、制帽をきちんとかぶり直すと、必要以上にわたしの腕を強くつかんで、廊下のはずれにある部屋まで連行していった。それからもの慣れた手つきでドアをたたいてから開け、わたしを中へ押しこんだ。
わたしは足の裏に、すりきれた絨毯《じゅうたん》を感じた。書類の散らかったテーブル越しに、わたしと対座したのは、いかにもてきぱきした物腰の、眼鏡をかけた小男だった。その小男が署長だった。テーブルの傍で、曲がった腕つきの小さな椅子にちぢこまるように坐っているのは、タッサーの絹服を着たデブだった。太い頸《くび》のまわりの脂肪の部分に短く刈ったねずみ色の剛毛が残っているだけで、あとはテカテカの禿頭《はげあたま》だった。顔の皮膚ときたら、たるみきって厚いひだをつくり、口の端にダラリとたれさがっている。もっともそのおかげで、このデブの顔にいかめしい色をかすかに与えている。服はいやに小さく、見るからに重たげなまぶた。顔からたえまなく汗がふきだすものだから、デブはまるめたハンカチをカラーの中にあてっぱなし。この男はわたしの顔に眼をむけない。
「ジョーゼフ・ヴァダシーだね?」
たずねたのは署長だった。
「はい」
署長がわたしの背後の警官にうなずいて見せると、彼はドアを静かに閉めて立ち去った。
「きみの身分証明書は?」
わたしは財布から証明書をだして、署長に手渡した。彼は紙を一枚だして、メモをとりだす。
「年は?」
「三十二歳」
「語学の教師なんだね」
「そうです」
「勤務先は?」
「パリ市マルソー街一一四のB、ベルトラン・マチス語学校です」
署長がペンをはしらせているあいだ、わたしはデブの顔をチラッと見やった。男は眼を閉じたまま、ハンカチでゆっくり顔をあおいでいる。
「|おい、きみ《アタンシオン》!」署長が鋭くいった。「ここできみはどんな仕事をしている?」
「わたしは休暇中です」
「ユーゴスラヴィア人か?」
「いいえ、ハンガリー人です」
署長はびっくりしたようだった。わたしの気持ちはめいった。わたしの国籍、いや、むしろ無国籍についての長々しいこみいった説明を、またここでむし返さなければならないのか。そうなれば、必ず役人気質のもっとも忌《い》むべき本能を刺激《しげき》してしまうのがオチだ。署長はテーブルの上の書類をかきまわしていたが、突然、わが意を得たりとばかりに叫び声をあげると、紙片をわたしの鼻先にヒラヒラさせた。
「じゃ、きみ、こいつはどう説明してくれるんだね?」
「こいつ」というのがわたし自身の旅券だったので、すっかり驚いてしまった――なにせ、ホテルのスーツ・ケースの中にあるものとばかり思いこんでいたのだから。つまり警察はわたしの部屋を探したのだ。わたしはだんだん不安になってきた。
「さ、きみの説明を聞かせていただこうじゃないか。ハンガリー人だというきみが、ユーゴスラヴィア人の旅券を使っているのはどうしたわけだね? それに、これはもう十年も前から無効になってるじゃないか?」
デブが、顔をあおぐのをやめたのが、わたしの視覚にはいった。わたしは、もう空で憶《おぼ》えてしまっている説明をやり始めた。
「わたしが生まれたのは、ハンガリーのスザバドカです。ここは、一九一九年のトリアノン条約で、ユーゴ領になりました。一九二一年、ブダペスト大学にはいり、そのために、ユーゴスラヴィアの旅券を取りました。わたしが大学にいるあいだに、父と兄は政治事件でユーゴの警官に射たれて死にました。母も第一次大戦中に死に、わたしには親戚も友人もなくなったのです。ユーゴに帰る気なんか起こすな、とよく忠告されたものです。しかし、ハンガリーの状況もひどいものでした。一九二二年に英国へ渡り、そこへとどまって、一九三一年まで、ロンドンの近くの学校でドイツ語を教えましたが、このとき、わたしの労働許可が没収されたのです。たくさんの外国人がそのころ許可書を取りあげられ、わたしもその一人だったわけです。旅券の期限がきれたとき、わたしはロンドンのユーゴスラヴィア公使館に再発行を申請したのですが、もうユーゴの国籍はないからという理由で、申請は却下されました。後になってわたしはイギリス人への帰化願いをだしていたのですが、労働許可書を取りあげられてからは、どこかよその国で仕事を探さざるを得なくなりました。わたしはパリへ行ったのです。警察は居住を許可してくれましたが、一度フランスから出たら、再入国は認めないという条件つきの書類をくれました。それからというもの、わたしはフランスの市民権をずっと申請してきたのです」
わたしは署長からデブのほうに目を移した。デブは煙草に火をつけている。署長はさもばかにしたようすで、わたしの役にも立たない旅券をポンとはじき、デブの顔を見た。わたしが署長をじっと見ていると、はじめてデブが口をきいた。その声を耳にしたとたん、思わずわたしはとびあがりそうになった。なぜって、あの厚い唇から、いかつい顎《あご》から、そして、巨大なからだから、すごくかろやかな、ハスキーのテナーがもれてきたのだから。
「きみのお父さんと兄さんが射殺されたのは」とデブがいった、「どういう政治事件だったのかね?」
まるで自分の声がすりへるのを警戒しているみたいに、デブはゆっくりと注意しながらしゃべった。わたしが顔をむけて答えようとすると、デブは葉巻きにでもつけるような仕草《しぐさ》で煙草に火をつけ、その燃えている端にけむりをフーッと吐きかけた。
「父も兄も、社会民主主義者だったんです」わたしが答えた。
署長は、「そうか!」と、まるでいまやすべての疑念がはっきりしたという調子で声をあげた。
「それでわかった……」署長は苦虫を噛みつぶしたみたいな口調ではじめた。
だが、そのときデブが署長を手で制した。その手は、まるで赤ん坊の手頸のようにくびれ、小さくて、プクプクしていた。
「何語をお教えかね、ヴァダシー君?」
「ドイツ語、英語、イタリア語、それからハンガリー語もときたま教えます。でも、そんなこととわたしの旅券とどんな関係があるのか、わかりかねるのですが」
デブは、わたしのせりふなど頭から無視してしまった。
「イタリアにいたことがあるかね?」
「はい」
「いつ?」
「子供のころです。学校のお休みにはいつも行ってました」
「現在の政権(ムッソリーニの政権)になってから、行ってないかね?」
「むろん、行ってませんとも」
「フランスにいるイタリア人に友だちはあるかね?」
「勤め先に一人います。わたしみたいな教師です」
「その友人の名前は?」
「フィリピーノ・ロッシです」
署長はこの名前を書き取った。
「ほかには?」
「いいえ、もうありません」
「きみは写真家だな、ヴァダシー君?」
ふたたび署長の質問だ。
「まあ――アマチュアですけど」
「いくつカメラを持っているかね?」
「一つです」変な質問だなと、わたしは感じた。
「どこの製品?」
「ツァイスのコンタックスです」
署長は机の引き出しを開けた。
「こいつかね?」
わたしのカメラだった。
「そうですよ」わたしはカッとして答えた。「でもどんな権利があって、わたしのものを部屋から持ちだしたのか、うかがいたいものですね。さ、すぐ返してください」わたしはカメラのほうに手を伸ばした。
と、署長はカメラを引き出しに入れてしまった。
「これ以外には、カメラを持っていないかね?」
「もうお答えしたじゃありませんか。持っているのは、一つだけです!」
勝ち誇ったような笑いが、署長の顔を横切る。そしてまた、引き出しをあけた。
「それでは、親愛なるヴァダシー君、村の薬屋に、この映画フィルムの現像を頼んだ事実をどう説明するかね?」
わたしは署長の顔を穴のあくほど見つめた。署長がいっぱいにひろげた両の手に持っているのは、わたしが薬屋の店においてきたフィルムのネガのほうだった。窓からさす光で、坐ったままでも、わたしの実験写真を見ることができた、一巻のうち二十四枚が、たった一つの被写体――トカゲを写していた。ここでまた、署長がニヤリとする。わたしもできるだけ彼をいら立たせてやろうと、負けずに笑う。
「なるほど」わたしはもったいぶっていった、「あなたは写真をご存じない、署長さん。これは映画のフィルムじゃありませんよ」
「映画のじゃないって?」
「そうですとも。たしかにちょっと似てはいますがね。映画のフィルムは、幅がもう一ミリ狭いんですよ。これは、コンタックス用の二十四ミリ×三十六ミリの三十六枚どり標準フィルムですからね」
「じゃこの写真はこのカメラ、つまりきみの部屋にあったカメラで撮ったものだな?」
「ええ、そうですとも」
ここで、意味あり気な間《ま》がおかれた。わたしは、署長とデブが目配せするのに気づいた。そして、
「サン・ガシヤンには、いつ着《つ》いたのかね?」こんどはデブである。
「火曜です」
「どこから?」
「ニースです」
「ニースを発《た》ったのは何時だね?」
「九時二十九分の汽車で発ちました」
「レゼルヴ・ホテルについたのは?」
「夕食の直前ですから、七時ごろです」
「だがね、ニース発の汽車は、三時半にツーロンへつくのだよ。四時にはサン・ガシヤン行きのバスが出る。だからきみは五時にはついているはずだ。どうしてそんなに遅かったのかね?」
「これはまた、異なことをいわれますね」
デブはサッと顔をあげた。その小さな眼は、冷やかで、わたしを脅かした。
「質問に答えるのだ。なぜ遅くなったのかね?」
「では、お答えしましょう。わたしはツーロンの駅にスーツ・ケースを預け、波止場のほうへブラリと散歩に行ったのですよ。ツーロンははじめてですし、六時にもバスがあったものですから」
デブは思案顔で、カラーの内側の汗をぬぐった。
「きみの給料はいくらかね、ヴァダシー君?」
「一ヵ月千六百フランです」
「たいしてよくないね?」
「まさにそのとおりです」
「コンタックスは高いカメラだろう?」
「ええ、高級品ですよ」
「そうだろうね、しかし、きみがいくらで買ったかうかがいたいものだな」
「四千五百フランです」
デブは軽く口笛を吹いた。「ほとんど三ヵ月分の給料じゃないか、え?」
「写真はわたしの道楽ですからね」
「いやに高くつく道楽だな。千六百フランぐらいの給料で、|やりくり《ヽヽヽヽ》が上手いらしいな。レジャーはニースで、レゼルヴ・ホテルご滞在か! われわれ貧しき警察官には逆立ちしても真似ができんよ、ねえ、署長」
署長が嘲笑した。わたしは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
「カメラを買うのに貯金したんですよ」とわたしはいった。「休暇にしたって、五年間働いてやっともらえたんです。この旅行のためにも、ずっと貯金していました」
「そりゃそうでしょうな!」署長はそう言いながらニヤリとした。
それがわたしを憤激させた。
「さあ、署長さん」すっかり腹を立てて、わたしは抗議した。「もうたくさんです。こんどはわたしが説明していただく番だ。いったい、なにがお望みなんです? わたしの旅券のことでおたずねになるのなら、なんなりとお答えします。しかし、わたし個人のものを盗む権利はあなたがたにもないはずですよ。それに個人的なことに、こんなふうに立ち入って質問することもできないはずだ。それから、そちらでいやに重要視しておられるそのネガにしても、トカゲ撮影禁止令なんてまだきいたこともありませんね。さて、おふた方、わたしはなんにも犯罪など犯してませんよ。それなのに空腹で、おまけにホテルではもう昼食の時間ですからね。さ、どうかすぐに、カメラも、写真も、旅券も返してくださいよ」
一瞬、水を打ったようにシーンとなった。わたしは署長とデブを順ぐりに、にらみつけてやった。二人とも、化石になったみたいに動かない。
「それでは」とうとう、わたしが口を切って、ドアにむかって歩いて行った。
「待て」デブが声をかける。
わたしがとまる。
「なんですか?」
「お互いに時間をむだにしないことだな。ドアの外にいる警官がきみを帰しやしないぞ。ききたいことが、もう少しあるんだ」
「力ずくでわたしをここにとめておくことはできても」わたしは頑強に主張する、「あなたがたの尋問《じんもん》に答えるのを強制することはできませんからね」
「まあな」デブがゆっくりといった。「強制するのは法律でだって禁じられているからな。しかし答えたまえとすすめるのはできるんだ、きみ自身の利益のためにね」
わたしは何もいわなかった。
デブは、署長の机のネガを手にとって、光のほうにかざすと、指で素早く繰っていった。
「二ダース以上の写真なのに」デブがいった。「みんな同じものか。どうも腑に落ちんね。きみはそう思わんか、ヴァダシー?」
「いや、ちっとも」わたしはそっけなく答える。「ま、あなたが少しでも写真のことを知っていて、ごく常識程度に観察眼があるなら、その一枚一枚の明るさが違うので、影のぐあいも違ってきているのに気づくはずですよ。被写体がいつもトカゲだなんてことは、ちっとも大事じゃないんです。どの場合にも露出《ろしゅつ》と構図だけ変えてあるんですからね。とにかくわたしがトカゲの写真ばかり何百枚写すとしたって、あなたのほうになんの関係があるとも思えませんがね」
「ばかにうまい説明をしたもんだな、ヴァダシー。いや、ほんとうにうまいよ。では、こちらの考えていることを話すとするか。きみはこの二十六枚の分には、なにを写すかなんて少しも問題にしていなかった。ただ、このフィルムを一本できるだけ早く撮ってしまって、前に写した十枚を現像したかったんじゃないか」
「前に写した十枚ですって? いったい、なんの話です?」
「いつまでシラをきるつもりなんだ、ヴァダシー?」
「なんの話だかさっぱりわかりませんよ」
男は重たげに椅子から身を起こすと、わたしの傍に立った。
「わかりませんだと? じゃはじめの十枚は、ありゃなんの写真だい、ヴァダシー? きみはなぜこんな写真を撮ったのか、署長とおれに説明したまえ。きっとおもしろい話だろうな!」デブはわたしの胸板を、指でコツコツたたいた。「ツーロン軍港の外側の新要塞で写真が撮りたくなったのは、光のせいかね、それとも影のぐあいだったのかね?」
わたしはポカンと口を開けたまま、デブの顔をながめた。
「冗談もいい加減にしてくださいよ、トカゲのほかにこのフィルムで写したのは、わたしが発つ前々日にあったニースのカーニバルの写真だけですよ」
「このフィルムできみが写真を撮ったのは認めるね?」デブが慎重にたずねた。
「だから認めるっていってるじゃありませんか」
「よろしい。まあ、これを見てごらん」
わたしはネガを手にとり、光にかざしながら指のあいだでゆっくり繰ってみた。トカゲ、トカゲ、トカゲ。何枚かはうまく撮れたものもあるらしいぞ。トカゲ。またトカゲ。と、急にわたしは手をとめる。ヒョイと顔をあげる。二人の男はじっとわたしを見つめていた。
「ずっとそのまま見てみろ」署長が、皮肉な調子でいった、「なにも驚いたふりなんかすることはないよ」
自分の眼が信じられず、わたしはふたたびネガを見やった。カメラのレンズの近くに木の枝のようなものがあって、部分的にボンヤリはしているけれど、それは海岸線の遠景写真であった。その海岸線になにかあるぞ――短い、ねずみ色の細片のようだ。同じものを撮った写真がもう一枚、こんどは違う角度で近くから写してある。その片側には引き窓のようなものが見える。また、同様の写真だ。そのうちの二枚は同じ角度から撮ったもの、もう一枚は上からもっと近づいて撮ってある。次の三枚はカメラの前の黒い影で何がなんだかわからない。影の端はほぼ焼けており、かすかに布片のように見える。それから接写のが一枚、これにはピンぼけでコンクリートの表面のようなものが撮ってある。最後のは露出過多だけれど、一つの隅がかすんでいるだけだった。幅広いコンクリートの歩廊のような所の端から撮ってあった。そこにお目当てのものが奇妙なぐあいに写っているらしい。はじめは戸惑ったが、わたしにはとうとうわかった。わたしは要塞砲の、長く、しなやかな砲身を見つめていたのだった。
わたしの逮捕手続きは治安行政官が行なった。彼は、いじけた小男だったが、デブからせかされて、とおりいっぺんの尋問をした後、わたしを告発するよう署長に指示した。わたしは、スパイ行為、要塞地帯不法侵入、フランス共和国の安全を脅かす写真の撮影及びその所持という理由で告発されたとのことだ。告発文が朗読され、わたしがそれを理解したむね表明すると、ズボンのベルト(たぶん、自殺でもされてはと懸念《けねん》したのだろう)やポケットの中身が取りあげられた。わたしはズボンをおさえた姿のまま、警察署の奥の独房へ連れて行かれた。やっと一人になれたのだ。
まもなく、わたしは前より冷静に考えはじめた。ばかばかしいにもほどがある。いや、ひどい話だ。まったくあり得ないことだ。それなのに現実に起こってしまっている。このわたしがスパイ行為で告発され、逮捕されて独房にいるのだ。もし有罪になれば、おそらくは四年の禁固刑だろう。フランスの刑務所での四年間、そして国外追放。わたしだって、刑務所ぐらいには耐えられる――たとえフランスの刑務所でも――だが、国外追放とは! 胸の中がだんだんむかつきはじめ、たまらなく恐ろしくなってきた。フランスから追放されれば、わたしにはもう行くところがない。ユーゴでは逮捕されるだろうし、ハンガリーだって受け入れてはくれまい。ドイツやイタリアだってそのとおりだ。イギリスにしても、スパイの前科のある男が旅券なしにやってきたら、働くことを許さないだろう。アメリカにとっては、好ましからざる外国人が、また一人ふえるにすぎない。南米の諸共和国は、真面目に生活するための保証金として、わたしが手にしたこともない巨額の金を要求するだろう。ソ連は、イギリス以上に、スパイ前科のある男などを毛嫌いするにきまっている。中国でさえ旅券は必要だ。わたしの行く所なんかどこにもありはしない。どこにも。けっきょく、なんだっていうんだ? 無国籍の、つまらぬ語学教師にふりかかった事件など、世間の人にはおもしろくもないさ。そんな男のために調停してくれる領事などいやしない。イギリス議会も、アメリカ議会も、フランス下院も、わたしの運命など、|はな《ヽヽ》もひっかけてはくれまい。公的には、わたしという人間は存在しないのだ。わたしは抽象的存在であり、幽霊なのだ。堂々と、しかも論理的にふるまえることといえば、自分自身を抹殺《まっさつ》するしかないのである。
だが、わたしはたちまち元気をとりもどした。ヒステリックになっていたのだ。なにもまだ有罪のスパイときまったわけではない。まだフランスにいるのだ。頭を使え、胸に手をあててよく考えろ、わたしのカメラにどうしてあんな写真がはいっていたか、その理由を、その|からくり《ヽヽヽヽ》をズバリ発見しなければならぬ。原因を慎重につきとめねばならぬ。それには思いをニースにまでもどそう。
わたしは月曜に新しいフィルムをカメラに入れ、カーニバルの写真をとったのを憶えている。それからホテルに帰り、カメラをスーツ・ケースにしまった。その晩、わたしが荷造りしたときにも、カメラはそのままだった。火曜の晩、レゼルヴ・ホテルについて荷物をあけたときにも、まだスーツ・ケースの中にあった。ツーロンに寄ったときは、スーツ・ケースは駅の預かり所においた。わたしがツーロンで散歩していた二時間のあいだに、だれかがカメラを使ったのだろうか? そんな真似はできっこない。スーツ・ケースには錠がおりていたし、預かり所にあるというのに、何者かがそれを開けて、カメラを盗みだし、あの危ない写真を撮り、二時間後にはふたたびスーツ・ケースにもどすなんてことはありえない。おまけに、どうしてわざわざカメラをもどしたのだろう? こいつは|くさい《ヽヽヽ》ぞ。
と、そのとき、新しい考えがパッと浮かんだ。わたしが撮ったものとにらまれている写真は、フィルムのはじめの十枚である。それもそのはず、わたしのトカゲの連続写真の最後はNO36だった。フィルムを逆に巻くことはできないし、二重写しは一枚もない。つまり、こんどの旅行では、ニースのカーニバルから写しはじめたので、新しいフィルムはツーロン軍港の写真が撮られる前に、入れられたにちがいない。
わたしは腰かけていたベッドから、興奮してとびあがった。そのとたんに、ズボンがズルッとさがった。わたしはズボンをあげてから、ポケットに両手を突っこみ、独房を歩きまわった。あ、そうだ! あれだ。さあ、思いだしたぞ。わたしがトカゲの実験写真をはじめたとき、カメラの枚数表示盤にNO11がでていたものだから、ちょっと変に思ったっけ。ニースでは八枚しか撮ってないはずだけど、三十六枚撮りの場合には、何枚撮ったか忘れがちなものだ。こうあのとき、思ったのである。だが、そうじゃなかったのだ、フィルム自体が変えられていたのだ。では、変えられたのはいつ? 絶対にわたしがレゼルヴ・ホテルにつく前ではないはずだ。トカゲの写真は、その翌日の朝食後にはじめたのだから。つまり、こういうことになる――火曜の午後七時と水曜の午前八時三十分(朝食の時分)のあいだに、何者かがわたしの部屋のカメラを盗んで、それに新しいフィルムを入れ、それからツーロンへ直行して、守備堅固な要塞地帯に忍びこみ、写真を撮り、ホテルに引き返す。そして、何|喰《く》わぬ顔でカメラをわたしの部屋にもどしておく。
だが、どうもそんなことは、ありそうにもなかった。ほかの障害は一応別問題としても、光線という、明々白々な問題があった。午後八時にはもう暗くなっているし、わたしが到着したのは七時ごろなのだから、火曜日はもう撮影ができないはずだ。カメラを盗んだ人物が、夜中にツーロンへ行って夜明けに撮影したとしても、その人物は、わたしが窓の外を眺めながらベッドに横たわっているあいだに、カメラをわたしの部屋にもどすという離れ業《わざ》を演じなければならぬ。だが、それにしても、どうしてまたフィルムを入れたまま、カメラを返したのだろうか? なぜ、この問題に警察が介入してきたのか? 写真を撮った人物が、匿名《とくめい》で警察へ密告でもしたのか? そうだ、薬屋のおやじがいたっけ。あきらかに警察はネガの持ち主が現われるのを待っていたのだ。おそらく、薬屋は写真を警察に押えられ、現像の依頼者がわたしだと証言したのにちがいない。だが、そうだとすると、わたしの実験写真が、この機密写真と同じフィルムに写っていた理由が説明できないではない。ネガにはフィルムを継《つ》いだ跡もなかったし。こいつはまったくわけがわからなくなってきたぞ。
フィルムの謎解きに、これでもう三回も、夢中になって没頭していると、廊下に足音が聞こえ、独房のドアが開いた。さっきの絹服のデブが入ってきたのだ。男は後ろ手でドアを閉めた。
「まあ、坐れよ、ヴァダシー」
わたしは、この部屋の中の唯一の家具である、木蓋《きぶた》のついたエナメル塗りの鉄製ビデに腰かけた。毒蛇のような小さな眼が、じっとわたしを見つめている。
「スープとパンでもどうだい?」
肩すかしを喰ったようなせりふだった。
「いや、けっこうです。べつに腹もすいてません」
「じゃ、煙草は?」
デブはくちゃくちゃになったゴーロワズ(フランスのたばこの名)の紙袋をすすめる。うさんくさいサービスだと感じながらも、わたしは一本とった。
デブは自分の煙草の火を貸してくれた。それから上唇と両耳のうしろの汗をていねいにぬぐった。
「どうしてきみは」とうとうデブは切りだした、「あの写真は自分が撮ったものと認めたんだね?」
「正式の尋問なんですか、こいつも?」
デブは汗まみれのハンカチで、腹の上のタバコの灰をはらい落とした。
「なに、正式の尋問なら、この地区の予審判事がやるさ。おれの縄張りじゃないよ。おれは警察本部の人間で、海軍|諜報《ちょうほう》部に属しているんだ。ま、おれなら、楽な気持ちでしゃべってくれて大丈夫だよ」
海軍諜報部の人間が、スパイから気楽な話を期待しているなんて、まったく腑《ふ》に落ちないことだったけれど、わたしは黙っていた。実際のところ、わたしは許されたとおり、できるだけ気楽に話そうと思っていた。
「よくわかりました。わたしが写真を撮ったから、撮ったと認めたのです。ただし、あのはじめの十枚を除いた分ですよ」
「なるほど。じゃあ、あの十枚をどう説明してくれる?」
「フィルムが入れかえられたんですよ、きっと」
デブは眉をつりあげた。わたしは、ニースを出発してからの行動と、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられる羽目になった機密写真の謎についての自分なりの推理を、とうとうと弁じ立てた。デブは話を終わりまで聞いてはくれたものの、いっこうに動じる気色を見せなかった。
「そんな話は、むろん、証拠にならないさ」
わたしが語りおわったとき、デブがこういった。
「なにも証拠にしようとして話したわけじゃありませんよ。わたしはただ、この怪事件を合理的に説明してみたかっただけですよ」
「署長は明々白々だとにらんでいるぞ。ま、それも無理もないと思うがね。事件を額面どおりに受け取れば、きみを告発したのはあたりまえの話だからな。なにせ、きみが自分のものだと認めているネガに、機密写真が写っているんだからね。おまけにきみ自身も疑わしい人物とくる。疑いの余地まったくなし!」
わたしはデブの眼を見つめた。
「ですけど、どうやらあなた自身、その解釈に満足していないようですね」
「べつにそうはいわなかったさ」
「それはそうだ、でも、心から満足なら、なにもここまで足を運んで、こんな話はしないでしょうに」
デブの顎が、いまにもニヤリと笑いそうに歪《ゆが》んだ。
「おまえさん、あんまり自分を買いかぶりなさんな。おれはスパイなんかに興味はないよ、だが、スパイを雇ってるやつには大ありなんだ」
「だったら」わたしは憤然として叫んだ、「時間つぶしもいいところだ。わたしは機密写真を撮った犯人じゃないし、わたしの雇い主といったらマチス氏だけですからね。それも外国語学校のサラリーマンだ」
だが、それも馬耳《ばじ》東風だった。一瞬、言葉が途切れた。
「署長とおれは意見が一致したんだよ」デブが口を開いた、「つまり、きみは三つのうちの一つだというわけだ。頭のきれるスパイか、|とんま《ヽヽヽ》なスパイか、それとも無実の人間かだ。署長は、きみが二番目のやつだとにらんでるらしいぜ。おれは、はなっからきみのことを無罪だと思ってるがね。きみの行動は実にばかげきっている。犯罪人にこんな間抜けなやつはいないさ」
「ありがとう」
「なにもお礼なんていってもらいたくないよ、ヴァダシー。なにせ、おれのいちばんきらいな幕切れになりそうだからな。いずれにしろ、今はきみになに一つしてやれない。残念だが、そこのところをわかってくれよ。きみは署長に逮捕されてる身なんだからな。ま、きみは無罪になるだろうけれど、かりに刑務所へきみが送られるとしても、おれはいっこうに気にかけんよ」
「そうでしょうな」
「それはそうと」デブは慎重に考えながらつづけた、「あの要塞写真を撮影した真犯人をつきとめることが、おれにはイの一番にたいせつなんだ」
そこでまた言葉が途切れた。この男は、おれに何かいわせたいのだなと、わたしは感じた。しかしわたしは、デブが口を開くのをじっと待っていた。ややあってから男は口を切った。
「もし真犯人が見つかりさえすれば、われわれだって、ヴァダシー、きみのために力になってやれるんだ」
「力になってくれるんですって?」
男はゴホンと大きく咳払いをした。
「いいかい、きみのために調停してくれるような領事は一人もいないはずだ。そこでだ、きみが合法的に扱われるように一肌ぬぐのが、われわれの責任というものよ。ま、魚心あれば水心、きみがわれわれの意向をくんで協力してくれるなら、なにもビクビクすることはないのさ」
「そんなこといったって、知ってることは全部、話しましたよ、ムッシュー……」
わたしは口ごもった。のどがつまってしまって言葉が出てこない。だが、デブは、わたしが彼の名前をきかせてもらいたくて言葉をつまらせたものと思いこんだのだ。
「ベガン」デブがいった、「おれはミシェル・ベガンだ」
そこで言葉を切ると、デブはまた、自分の腹を見た。独房はさながら焦熱《しょうねつ》地獄、ベガンの胸からジクジクふき出た汗が縞のシャツをとおして見えた。「ま、いずれにしろ」彼はつけ加えた、「きみはわれわれに協力できると思うがね」
デブはベッドから腰をあげると、独房のドアに近づき、こぶしで一度叩いた。鍵がカチリとなって、ドアの外に制服の警官が一人立った。わたしの耳には聞こえなかったが、デブは警官に何かささやき、ドアがふたたびしまった。男はたたずんだまま、またタバコに火をつけた。一分もするとドアが開き、男は警官から何か受け取った。ドアがしまると、デブはわたしのほうに向きなおった。彼の手には、カメラがあった。
「これがわかるかね?」
「ええ、むろん」
「手にとって、じっくり調べてごらん。なにか変なところがあるかどうか知りたいんだが」
わたしは、カメラを受けとると、いわれたとおりに、調べて見た。シャッターを押し、ファインダーをのぞき、距離計を調べた。レンズもはずして見た。カメラの隅から隅まで調べてから、ケースにもどした。
「なにも変なところはないようです。わたしがおいといたままになってますよ」
ベガンはポケットから折り畳んだ紙片をとりだすと、わたしにつきつけた。
「ヴァダシー、こいつがきみのポケットにあったんだがね。見てみたまえ」
わたしは紙片を受け取って、開いた。それからデブの顔を見つめた。
「この紙切れがどうかしたんですか?」わたしは用心深くいった。「カメラの保険証じゃありませんか。さっきあなたもいわれたとおり、値段の張る品物ですからね。何フランか保険をかけたわけですよ、紛失したり」わざと当てつけにつけ加えてやった、「盗まれたりしたときにそなえてね」
デブは馬鹿につける薬はないものか、といったため息をつくと、わたしから保険証を取りあげた。
「きみはついてるよ」デブがいった、「フランスの法律では犯罪者同様に精薄も、面倒をみることになっているんだ。この保険証には、ツァイス・イコン・コンタックス・カメラ、製造番号F/64523/2、紛失の際は、ジョーゼフ・ヴァダシー氏に損害を弁償するとある。ま、きみがそこに持っているカメラの製造番号を見てごらん」
わたしは調べた。番号が違っている。
「じゃ」わたしは興奮して叫び声をあげた、「こいつはわたしのカメラじゃないんだ。だが、いったいどうして、このフィルムにわたしの写真が写っていたのだろう?」
「つまりだな、精薄君、とり換えられたのは、フィルムじゃなくてカメラだったのさ。このカメラは標準型で、世間で使われている。要するにきみはツーロン軍港を撮影したフィルムのはいってるカメラで、愚にもつかぬトカゲの写真を撮ったのだ。フィルムの撮影番号が、きみのカメラのものと違ってると気づいたくせに、きみはフィルムをはずして薬屋へ持って行ってしまった。薬屋ははじめの十枚を見た。そうすりゃどんな馬鹿だってなにが写ってるかわかるよ、そこであわてて警察へ通報する。え、わかったかい、精薄君?」
そうか、それでわかった。
「それじゃ」わたしはいってやった、「いやに寛大ぶってぼくの無実を信ずるなどといっておきながら、その実、あんたはすっかり事情がわかってたんですね。そうとわかったら、いったいなんの権利があって、ぼくをこんな目にあわせるのか、きかせてもらいたいな」
デブはハンカチで頭をふくと、まぶたのたれさがった小さな眼で、わたしをジロリと見た。
「きみの逮捕はおれの知ったこっちゃないよ。おれにはなにもできん。じつは署長も弱ってるんだ、保険証の証拠が告発状を無効にしてしまうからね。しかし、法を守るために、署長も三つの訴因を取り消すことには賛成したよ。一つだけは残っているがね」
「何が残ったんです?」
「きみは、フランス共和国の安全を脅かす写真を所持しておった。こいつは重大な罪だ。もしもだよ」デブは意味ありげにつけ加えた、「この罪状を取り消す手段が見つからなければ、訴因は残ることになる。おれはきみのために署長にとりなすつもりだけど、それは特別措置だからね、署長が充分納得するだけの理由がなくちゃ、告発手続きはどんどん進んでしまうおそれがある。ま、うまくいって、国外追放かもしれんな」
頭が氷のように冷たくなった。
「するとあなたは」わたしは一語一語に力をこめていった、「わたしが、協力とやらに同意しなければ、警察はこのばかげた告訴に強引に踏み切るというんですね?」
デブは答えなかった。四本目の煙草に火をつけている。つけおわると、ゆるんだ唇に煙草をだらりとくわえた。そのままでけむりを吐き、思いあぐねたように空白の壁を見つめている。あたかもその壁に絵がかかっていて、入札しようかしまいかと、きめかねている画商のようだった。
「二つのカメラが」デブは考え深げにいった、「とり換えられたのには、まず三つの理由があるが、そのうちの一つにちがいない。第一は、何者かがきみに濡れ衣を着せようとした場合。第二は、何者かが急いで機密写真を処分したかった場合。そして第三は、まったく偶然にカメラがとり換えられた場合だ。ま、第一の仮説は、無視していいだろう。ちょっと凝りすぎているよ。そもそもきみがフィルムを現像にだすかどうか、そして薬屋が警察に通報するかどうか決まっていないものな。第二の仮説も、ちょっと考えられない。機密写真はすごく貴重だし、そいつを取りもどす段になると、からっきし脈がないからな。おまけに、カメラに入れとくのがいちばん安全なはずさ。で、おれはね、まったくの偶然だったとにらんでいる。二つのカメラは同じ型で、同じ標準ケースにはいっていた。しかし、どこで、いつ、とり換えられたのか? ニースではない、きみは、カメラをホテルに持って帰り、ちゃんとしまったというからな。それから、カメラはずっと鍵のかかったスーツ・ケースにしまってあったんだから、ニースからホテルまでの旅のあいだでもない。とり換えられたのは、やっぱりレゼルヴ・ホテルでだよ。それが偶然ならば、きみの部屋以外の場所、つまり、いろんな連中が自由に出入りする場所ということになる。ええと、何時だっけ? きみ、昨日の朝食のとき、カメラを持って降りてきたっていってたね。朝食をとったのはどこでだね?」
「テラスですよ」
「カメラは持ってったのかね?」
「いいえ。ケースに入れたままホールの椅子の上においといて、後で庭に出るとき、持って行こうと思ってたんです」
「朝食には何時に行ったのかね?」
「八時半ごろですよ」
「庭へは?」
「一時間ばかり後です」
「それから写真を撮ったんだね?」
「ええ」
「庭からもどってきたのは何時かね?」
「十二時近くでした」
「で、それから?」
「まっすぐ自分の部屋にもどり、写し終わったフィルムをカメラからだしました」
「じゃ、八時半から九時半までの一時間をのぞいたら、トカゲの連続写真の撮影をはじめるまで、カメラは手離さなかったんだね?」
「そうですよ」
「そして、問題の一時間のあいだ、カメラは庭に通じるホールのドアのそばの椅子に置いてあったわけだな」
「ええ」
「いいかね、よく胸に手をあてて考えてくれよ。きみが椅子にあるカメラをとりにきたとき、カメラはきみが置いたそのままのところにちゃんとあったのかね?」
わたしはじっと考えてみた。
「そうだ、もとの場所じゃなかった」わたしはやっと口を開いた、「わたしはケースの革紐を椅子の背にかけておいたんです。食事をすませて、カメラを手に取ろうとしたら、ほかの椅子のシートにおいてあったんですよ」
「きみは元の場所にかかっているかどうか、調べてみなかったのかい?」
「そんなことしませんでしたよ。椅子のシートにあったもんだから、それを手に撮ったんです。元の場所を見なきゃいけなかったですかね?」
「椅子の背にまだかかってたかどうか、確かめられたかもしれないからな」
「それもむずかしいでしょうね。革紐は長いから、カメラ自体はシートより低いところにぶらさがってたはずです」
「なるほど。つまり、カメラを椅子の背にかけた。食事からもどってみると、そのカメラは別の椅子のシートにおいてある。そいつを自分のカメラだと思って持っていった。きみのほんとうのカメラは元の椅子におきっ放しだ。さて、二番目のカメラの持主が後で現われ、椅子のシートにおいたはずのカメラがないのに気づく。あたりを見まわすと、きみのカメラを発見する」
「ありそうなことですね」
「ホテルの客は、ひとり残らず朝食をとりにおりてきていたかね?」
「さあ、そいつはわかりませんね、このホテルには部屋は十八しかないし、それも全部ふさがってたわけじゃありません。それにわたしは、前の晩についたばかりですからね、わかりませんでしたよ。だれでも下へ降りたり、ホールを通り抜けたりするには、椅子の傍を通るはずなんです」
「とすると、ヴァダシー君よ、現在、レゼルヴ・ホテルに泊まっている客の中の何者かが、このカメラの持ち主で機密写真を撮った人物だと、断言できるわけだ。それにしても、どいつだろうな? ま、給仕や従業員たちは除いてもいいだろう、この村や近所の村からきてる連中だからね。むろん、ひととおり当たってはみるが、まず連中からはなにもききだせないだろうな。そのほかには客が十人と、支配人ケッヘ、それにその細君がいる。ヴァダシー、犯人はここにあるのと同じ型の、ツァイス・イコン・コンタックスを持ってるはずだ。ま、きみにもわかるだろうが、客を一人残らず逮捕して、虱《しらみ》つぶしに連中の荷物を探すなんて、とてもできない芸当だからな。それに、領事が厄介なことを言いだすにきまっている外人客がまじっていることは、一応別にしてもだね、カメラは出てこないだろうな。そうなると、犯人は警戒してしまって、われわれは手も足も出ないことになる。捜査は」デブはするどい口調で、「ホテルにいても疑いを持たれない者、問題のコンタックス・カメラをだれが持っているか慎重に探しだせる者、そういう人物によってなされなければならない」
「それがわたしだってわけですか?」
「なあに、きみは客の中でだれがカメラを持ってるか、それだけを調べていけばいいのさ。コンタックス以外のカメラを持っている客は、ぜんぜんカメラを持ってない人間より、嫌疑が少ないわけだ。ヴァダシー、きみのカメラを持ってる人物は、もう、カメラが変わってるのに気がついたろうよ。そうなると、そいつはツーロン港の機密写真を撮ったカメラの持ち主だとバレるのを心配して、あわててきみのカメラを隠すにちがいない。それからまた」デブは夢でも見ているような、ものうい口調で、「そいつは、自分のカメラを取り返そうとするかもしれん。ま、そこんところを、きみは警戒するんだな」
「まさか、大真面目でそんなことをいってるんじゃないでしょうね?」
デブは冷やかにわたしの顔をジロッと見た。
「ねえきみ、もっとうまい手がほかにあるんなら、おれだって嬉しいんだけどね。どうやらきみはあまり血のめぐりのいいほうではないな」
「現に、わたしは逮捕されてるんですよ。正直なところ」わたしは苦々しげにいってやった、「あなただって、わたしを釈放するように署長を説得できないんでしょう?」
「きみはまだ逮捕中だが、仮釈放にはなれるだろうよ。きみの逮捕を知っているのは、支配人のケッヘだけだ。われわれはきみの部屋へ行ったんだよ。ケッヘはあまり良い顔をしなかったけど、旅券の件で調べるんで、きみも承知のうえだと話したのさ。ま、ホテルの連中には、なにかの誤解で、間違って留置されたといえばいい。毎朝、電話で、おれに報告すること。それ以外のときに連絡したかったら、署長のほうへ電話してくれたまえ」
「しかし、わたしは土曜の朝、パリへ発たねばなりません。新学期は月曜からはじまるんです」
「出発の許可がおりるまでは、足止めだ。それに、警察以外の外部の者とはいっさい連絡してはならん」
鉛のような絶望感が重くのしかかってきた。
「それじゃ失業してしまいますよ」
ベガンが立ちあがって、わたしに向かいあった。
「いいかね、ヴァダシー」とデブはいった。その奇妙な声音には、署長の怒声よりもはるかに脅迫的な、どす黒いひびきがあった。
「出発の許可があるまで、レゼルヴ・ホテルにいるんだ。無断で発とうとでもしてみろ、また、逮捕されるぞ。そしたら、おれの手で、きみをドゥブロヴニクへ船で追放し、関係書類をユーゴ警察へわたしてやる。これだけは、はっきり肝《きも》に銘じておくんだ。機密写真の真犯人を見つけるのが早ければ早いほど、きみはすぐに出発できるんだ。しかし、トリックはよせよ、手紙も書くな。いわれたとおりにやればいいんだ。さもなきゃ国外追放だぞ。ま、追放されずにすめば、きみにとっちゃ大儲けだよ。だから、くれぐれも気をつけろよ。いいか、わかったな?」
わかったとも――わかりすぎるくらいだ。
その一時間後、わたしは警察署から村へ通ずる道路を歩いていた。肩にはコンタックスがかかっている。ポケットに手をいれると、タイプで打ったレゼルヴ・ホテルの滞在客のリストがふれた。
わたしがホテルにたどりつくと、事務室には支配人のケッヘがいた。そのまま、自分の部屋へ行こうとして、そのそばを通ると、彼が出てきた。ブルー・ジーンズにサンダル、それに運動シャツ姿で、髪が濡れているところから見ると、ついいましがたまで泳ぎに行ってたのにちがいない。背がヒョロ高く、やせて猫背でけだるい物腰、どう見たって支配人らしくない。
「おや、お客さま」愛想笑いを浮かべながら、ケッヘが声をかけた。「お帰りなさいませ。たいしたことではなかったごようすで。今朝、こちらへ警察の方が見えましたね、旅券を持って行くのに、お客さまの承諾を得たなどと申しまして」
わたしはできるだけふくれっ面《つら》をしてみせた。
「ああ、たいしたことじゃなかった。身元を調べたり、それに誤解もあってね。間違いとわかるまでに、ばかばかしいほど手間がかかってしまった。警察の連中もさかんにあやまっていたけれど、いまさらどうにもなりません。フランスの警察って、まったくどうかしてますね」
支配人は大真面目な顔つきで驚きと義憤を表明し、わたしの寛容さをほめてくれた。だが、わたしの言葉を信じていないことは火を見るよりもあきらかだった。といって、支配人を責めるわけにはいかない。警察の横暴に怒る市民の演技を迫真的にやりこなすには、わたしの気分はめいりすぎている。
「それはそうと、お客さま」わたしが階段をあがりかけると、支配人がフッと思いついたようにいった。「お立ちは土曜日の朝でしたね?」
支配人は、一刻も早くわたしを追いだしたいのだ。そこで、わざとわたしは考えるふりをしてやった。
「その予定だったんだが、もう一日か二日、滞在するかもしれません。それも」わたしは冷やかな微笑を浮かべて、「警察が反対しなければね」
一瞬、支配人はためらった。
「それはそれは」だが、いっこうに熱のない口調。
きびすを返して歩きだしたとき、これはわたしの眼の迷いだろうか、どうもケッヘの眼が、わたしのカメラにそそがれているような気がしてならなかった。
いまになって考えると、それからの二時間のことはほとんど記憶に残っていない。しかし、自分の部屋に入ったとき、わたしの念頭にただ一つの疑問だけがあったのを覚えている――『日曜の午後に、ツーロンからパリ行きの汽車があるだろうか?』わたしはスーツ・ケースに走りより、夢中で時間表を探したっけ。
こんなひどい目にあいながら、パリ行きの汽車などという些細なことに頭を悩ますなんて、ずいぶんおかしな話だと思うひともいるだろう。しかし人間というものは、すごい緊急事態に遭遇すると、奇妙な振舞をするものなのだ。沈没寸前の船の乗客は、最後のボートが舷側からおろされるまぎわに、つまらぬ私物を取りに船室へかけこむものだそうである。また、死の床にある人は、死出の旅路につこうというのに、未払いの小額の勘定書のことなんかを気に病んだりする。
このとき、わたしが気にしてたのは、月曜の朝の授業に遅れはしまいかということだった。マチス氏は出欠簿に非常に厳しかった。教師であれ、生徒であれ、遅刻した者は彼の不興を買うのだった。そして、遅刻のために、授業にさしさわりができるとなると、そのときには、氏の不興は、痛烈な毒舌と雷のような大声で爆発するのである。しかも、遅刻してから、授業がすむまでの数時間後でなければ、面罵《めんば》されないときている。だから、その間《かん》というものは、サスペンスのだいご味をたっぷり味わうことになるのだ。
もし日曜の午後、ツーロン発の汽車に乗れれば、一晩かかってパリへつき、学校にまに合うかもしれないと、わたしは考えた。月曜の午前六時にパリ着の汽車があるのを発見したときのホッとした感じを、わたしはいまだに忘れられない。わたしの心は深い霧の中でさまよっていた。あのベガンのやつ、土曜に発ってはならん、などといってたっけ。身の毛もよだつ! マチス氏がカンカンになって怒るぞ。日曜に発てば、始業時間に間に合うように、パリへつけるかな? や、シメシメ、つけそうだぞ! この汽車で立てれば、万事OKだ。
もしそのとき、だれかが、きみは日曜にだって発てないんだよ、などといったら、きっとわたしは頭から笑い飛ばしたことだと思う。もっとも、その笑いはヒステリックなものだったにちがいないが。なぜって、スーツ・ケースの蓋を開けたまま床にペッタリ坐っていたわたしの胸には、恐怖の念がわき起こり、まるで駆けつづけていたかのように、心臓はドキドキし、呼吸は短く、荒くなっていたのだから。わたしは、そうすれば心臓のドキドキがおさまるオマジナイみたいに、ひっきりなしに唾をのみこんだ。おかげで、咽喉が猛烈に渇いてしまった。一息ついてわたしは起ちあがると、洗面台へ行き、歯磨きコップで水を飲んだ。そしてもどってくると、足でスーツ・ケースの蓋をパタンと閉めた。と、そのとき、ポケットの中で、ベガンのくれた紙片がカサリと音を立てた。わたしはベッドの上に腰をおろした。
どうやら一時間以上も、ベガンがくれた紙片をぼんやり眺めて、わたしは坐っていたにちがいない。何度も読み返してみた。いくつもの名前は暗号となったり、意味のない文字の羅列《られつ》となったりした。わたしは眼をつむり、また開き、そしてふたたび読み返した。わたしはリストに載っている連中を知らなかった。ホテルにはまだ一日しか滞在していないのだ。それにこのホテルは、敷地が広い。わたしは食事のときに、この連中と会釈をかわした。たったそれだけである。とにかくわたしは、ひとの顔がよく覚えられないたちだから、道路で会ったってだれのことも気づかずに行き過ぎてしまいそうだ。しかし、この中のだれかが、わたしのカメラを持っているのだ。わたしに会釈した連中の中に、スパイがいるのだ。この中のだれか一人が、金をもらってひそかに要塞地帯にはいりこみ、コンクリートの要塞と要塞砲の写真を撮ったのだ、いつの日にか、洋上の敵国の戦艦が安全かつ確実に目標に向かって艦砲射撃を浴びせ、要塞も砲も守備兵も一挙に粉砕することができるために。そして、この謎の人物をつきとめるのに、わたしには二日の猶予《ゆうよ》しかないのだ。
名前だけ見ると、べつにスパイみたいなやつはいそうもないと、わたしは愚かに思ったものだ。氏名、国籍、住んでいる町が記されている。
[#ここから1字下げ]
ロベール・デュクロ氏(仏)ナント
アンドレ・ルウ氏(仏)パリ
オデット・マルタン嬢(仏)パリ
メアリー・スケルトン嬢(米)ワシントン市
ウォレン・スケルトン氏(米)ワシントン市
ワルター・フォーゲル氏(スイス)コンスタンス
フルデ・フォーゲル夫人(スイス)コンスタンス
ハーバート・クランドンハートレイ少佐(英)バクストン
マリア・クランドンハートレイ夫人(英)バクストン
エミール・シムラー氏(独)ベルリン
アルベルト・ケッヘ(支配人)(スイス)シャフハウゼン
シュザンヌ・ケッヘ(同夫人)(スイス)シャフハウゼン
[#ここで字下げ終わり]
ま、こんな滞在客名簿なら、南フランスのたいていの小さなホテルから集められるだろう。まず、こんなホテルには、きまってイギリス軍人夫妻が泊まっている。それから、かならずというほどでもないにしろ、アメリカ人はけっして珍しくない。スイス人もいるし、フランス人もちらほらといる。たったひとりのドイツ人は変だが、まったくおかしいというほどでもない。スイス人でホテルの支配人をしている夫婦者なんてのは、よくあるものだ。
さて、わたしはどういう手を打つべきか? どこから仕事にかかるべきか? そうだ、デブのベガンが、カメラ対策を指示したっけ。わたしは滞在客のうち、だれとだれがカメラを持っているかを探りだし、報告しなければならなかった。わたしは、その実際的な段どりに頭をしぼった。
まず第一は、一人ずつ、あるいは一組の夫婦ごとに話しかけ、話題を写真のことにもって行く方法である。しかし、そいつは無駄だ。もしスパイが、命がけで撮影した写真がなくなり、コンクリートの要塞や大砲の写真のかわりに、ニースのカーニバルのはなやかな写真がはいっているのに、もう気づいていたとしたら、どうなる? たとえカメラが取りかえられたのを、とっさにさとらなかったにしろ、これは臭いとにらんで、警戒するにきまっている。そんなとき、話題を写真にもって行きたがっている者がいれば、スパイに疑惑の念を抱かせるのがオチだ。もっと間接的な方法でやらなければいけない。
わたしは時計に目をやった。七時十五分前。窓からは、まだ海岸に人がいるのが見える。部屋から見える細長い砂浜に、小さなビーチ・パラソルが一本、それからに靴も一足おいてある。わたしは髪に櫛《くし》をいれると、外に出た。
いとも簡単に、赤の他人に打ちとけられる人間がいるものである。そんな連中は、目の前にいる見ず知らずの他人の心の動きに、パッと同調できる不思議なまでに柔軟な性質を持っているのだ。こういう人間は、アッというまに他人の興味に共鳴してしまえる。ニッコリ微笑する、すると、見ず知らずの人間も、それに応える。問いかけると、サッと答えがくる。ものの一分もしないうちに、二人は友だちになり、和気あいあいとつまらぬことまでしゃべりあう仲になる。
とてもわたしには、こんな魅力的な才能はない。他人から話しかけられないかぎり、ひとに言葉なんかかけられるものじゃない。それに、話しかけられたとしても、うわべだけの挨拶をするか、しゃべりすぎるかになってしまう。おかげで、他人はわたしのことを、気むずかし屋ととったり、腹黒い油断のできぬやつ、とにらんだりするのである。
とはいうものの、海岸へ出る石段をおりながら、わたしは、とにかくこんどだけは目をつぶって、自分の殻を破ろうとはらを決めた。つらの皮を厚くし、愛想よくするんだ、おもしろいこともいわなくてはいけない、巧妙に会話の舵《かじ》もとらねばならぬ。どうしてもやりとげなければならぬ仕事なんだ。
小さい砂浜には、夕闇がせまり、海からの微風が木々の梢《こずえ》をそよがしていた。だが、熱気はまだ残っている。二組の男女の頭が、デッキ・チェアーの背越しに見える。わたしがそのそばまで行くと、連中はフランス語で話を運ぼうとしているのがわかった。
わたしは砂浜を横切ると、連中から数メートル離れた台の端に腰をおろした。台の上にはペンキの塗りかけのボートがおいてある。わたしは湾のかなたをじっと見つめた。
わたしが腰をおろすときにチラッと観察したところによれば、わたしに近いほうの椅子には、二十三歳ぐらいの若い男と、二十歳前後の娘が坐っていた。二人とも、いままで泳いでいたのだ。そして、今朝わたしがテラスから見たのは、あきらかにこの二人の、陽に焼けた脚だった。二人のあやしげなフランス語から、わたしは、これはアメリカ人のウォレン・スケルトンとメアリー・スケルトンだなと見てとった。
ほかの二人は、まったくちがうタイプだった。このカップルはいずれも中年ですごく肥っている。そういえば、前に見かけたおぼえがあった。男のほうは満面|笑《え》みをたたえたお月さまといった顔で、離れたところから見ると、胴体も球体のように見える。もっともそう見えたのは、男のはいているズボンのせいもいくらかある。ズボンは黒っぽい布地で、脚の部分がひどく短いうえに細かった。股上《またがみ》はすごく長くて、太いズボン吊りで腕の付け根くらいまで引っ張りあげられ、男のタイコ腹を覆っていた。開襟のテニス・シャツだけで、上衣は着ていない。まるで漫画雑誌からそのまま抜けだしてきたみたいなスタイルだ。スイス人の夫婦にはよくあるタイプで、細君のほうが、亭主より少し背が高く、見るからにしまりのない女だった。女はやたらに大口をあけて笑いころげ、笑ってないときでさえ、いまにも笑いだしそうな顔をしている。亭主も細君に同調して、むやみとニコニコしている。この夫婦は、まるで一組の幼児みたいに無邪気で、自意識というものがないように見える。どうやら青年のスケルトンは、お月さまのフォーゲル氏にアメリカの政治組織について解説をはじめたところ。
「共和党ト民主党、コノ二ツノ政党ガアリマス」青年は苦心しながらフランス語で話していた、「両党トモ、右ナンデス。シカシ共和党員ノホウガ民主党員ヨリモット右翼ナンデス。ソレガチガウトコロデス」
「ソウデスカ、ヨクワカリマシタ」とフォーゲル氏がいった。お月さまは急いで今の話をドイツ語に訳す。フォーゲル夫人が、それを聞いて無作法に歯をむきだしてニタリと笑った。
「聞クトコロニヨルト」フォーゲル氏は、語尾のはっきりしないフランス語で喰いさがる。「選挙ノトキハ、ギャング団(お月さまはガーングと発音した)ガ決定的ナ力ヲ持ッテイルソウデスネ。ツマリ、ギャング団ハ、中道派トイウトコロデスカ?」お月さまは固い話が大好きで、そのためなら、つまらぬおしゃべりはストップといったところがある。若い娘は、あきらめて、ただクスクス笑っていた、兄のほうは、ふかぶかと息を吸いこむと、慎重に説明しはじめた――さだめしあなたは意外に思われるだろうが、アメリカ人の九九・九パーセントはギャングなんて見たこともないんです――しかし、スケルトンのフランス語は、すぐつまってしまった。
「タシカニ、カナリノ……」青年は口をモグモグしたまま立ち往生。
「メアリー」彼は妹に助け舟をもとめた、「汚職のフランス語はなんていうんだっけ?」
まさにチャンス到来である。たぶん、わたしは教えるのが、習い性となっているのだ。教授本能が、あたかも飢餓や恐怖のように、社交的な抑制を打破したのである。わたしは娘がむなしく肩をすくめるのを、横目で見るや、間髪を入れず、言葉がわたしの口からとびだしていた。
「汚職はシャンタージュです」
四人がいっせいにわたしを見つめた。
「あら、どうも」と娘がいった。
青年の眼がとたんに輝きだした。
「あなたは、英語と同じように、フランス語も話せるんですか?」
「ええ」
「そんなら」と青年が|しんらつ《ヽヽヽヽ》な口調でいった。「左に坐っているうすのろのおじさんに、アメリカじゃギャングという字は小文字で書く(たいした存在ではないという意味)し、やつらには議席もないって、話してくださいませんか? 少なくとも、表向きにはね。それから、アメリカ人はかんづめばかり食べてるわけじゃないし、みんながみな、エンパイヤ・ステート・ビルに住んでるわけでもないって、いってやってくださいよ」
「ええ、いいですとも」
娘がニッコリ笑った。
「兄は本気でいってるんじゃありませんわ」
「ばかな! このおじさんの無知ときたら、まさに、国際的な脅威だよ。だれかがちゃんと説明してやらなくちゃ」
フォーゲル夫妻は、困ったような微笑を顔に浮かべて、さっぱりわからない英語のやりとりをじっと聞いていた。わたしはできるかぎりてぎわよくドイツ語に翻訳してやった。それを聞いた夫妻は、腹をかかえて笑った。笑いの発作の合間に、フォーゲル氏は、アメリカ人に会うと、どうしてもからかいたくなるのだと、説明した。ギャング党! エンパイヤ・ステート・ビル! そこでもう一笑い。どうやら、このスイス人の夫婦は、見かけによらず一筋縄ではいかないぞ。
「こんどはなにがおかしいんです?」とアメリカの青年がたずねた。
わたしが説明すると、青年は歯をむきだしてニヤニヤ笑った。
「なにも悪意があるわけじゃないでしょう?」青年はこういうと、夫妻の顔をもっとよく見ようとして、前にのりだした。「どこの人かな、ドイツ人ですか?」
「スイス人だと思いますよ」
「このおじさん」娘が口をはさんだ。「『ソックリ人間』の漫画に、それこそそっくりよ。あんなズボンはいてるところなんか!」
この批評の対象になっている夫婦は、不安そうにわたしのほうを見ている。フォーゲル氏がわたしにいった。
「若イ人タチ、ワタシラノ軽イ冗談ヲ、気ニシナイデショウネ?」
「こちらはね」わたしがスケルトン兄妹に説明する、「あなたがたのお気を悪くしなかったかといっているのですよ」
スケルトン青年は驚いた顔をして、
「とんでもありません、ええと――」青年はフォーゲル夫妻のほうに顔をむけて、「トテモ愉快デシタ。アリガトウゴザイマス」ドイツ語で心をこめてそういうと、こんどはわたしに「気になんかしてないって、通訳してくださいな」といった。
わたしはいわれたとおりにした。そこで四人はうなずきあったり、にっこり笑ったりした。そして、スイス人の夫婦は二人だけで話しはじめた。
「何カ国語しゃべれるんですか?」と青年はわたしにたずねた。
「五カ国語です」
彼は愛想をつかしたように声をあげて笑った。
「それじゃ、よく説明していただけないかしら」妹のほうが口をだした、「どうやってあなたが外国語をマスターなさったのかを。あたしには五カ国語なんていりませんけど。でもあなたが同時に、五カ国語でものを考えなさるとしたら、兄もあたしもそんなお話、とてもおもしろいと思いますわ」
わたしはいろんな国に住んでいたので、言語に関する『耳』をこやせたのだとボソボソ話してから、兄妹はこのホテルに長く滞在しているのかと、たずねた。
「ここへきてから、もう一週間くらいになりますよ」と兄が答えた。「来週、アメリカから両親がコンテ・ディ・サヴォイア号でくる予定で、ぼくたちはマルセイユまで迎えに行くつもりです。あなたは火曜につかれましたね?」
「そうなんです」
「いやあ、英語で話せる方がいらして、ほんとに嬉しいですよ。ケッヘの英語も悪くないけど、長く話す気がしませんでね。英語を話すのは、あのイギリス人の少佐夫妻だけだったんです。少佐はいやにお高くとまってるし、奥さんときたら、なにも話してくれないんですからね」
「そのほうが、かえって気が楽だわ」と妹がいった。
一見、彼女はとりたてて美しくはないけれど、非常に魅力があった。口は大きく、鼻の均斉《きんせい》もあまりよくないし、それに顔が平面的でおまけに頬骨が高かった。しかし、唇の動きにユーモアと知性があるので、鼻や頬骨までが魅力的に見えるのだった。からだの皮膚は小麦色で引き締まり、黄褐色の美しい髪は、デッキ・チェアーの背に豊かに乱れて、夕闇の中であやしく輝いている。いや、彼女はなかなかきれいだぞ。
「フランス人とつきあって困るのは」青年が、話しだした、「フランス語をちゃんとしゃべらないと、あの連中、すごく怒るってことなんですよ。フランス人が英語をうまく話せなくたって、ぼくはちっとも怒らないけどな」
「そうですね、だけど、たいがいのフランス人は、自分たちの国語の音《おん》がとても好きだからなんですよ。あなただってヴァイオリンの初心者にギコギコやられちゃたまらないでしょうけど、それ以上に、あの連中は、へたなフランス語のアクセントが聞くに耐えないんです」
「音楽のお話はだめなんですよ」妹がいった。「兄は音痴《おんち》ですもの」彼女は立ちあがり、水着のしわを伸ばした。「さあ、少し着たほうがいいんじゃなくて?」
フォーゲル氏が椅子から肥ったからだを起こし、巨大な腕時計を眺めると、フランス語で七時十五分だといった。それからズボン吊りをさらに吊りあげ、自分たちの持ち物をまとめはじめた。わたしたちは行列をつくって、石段をあがって行った。わたしはアメリカ人兄妹の後だった。
「そうだ」青年は一行が歩きだすと、たずねた、「まだお名前をうかがいませんでしたが」
「ジョーゼフ・ヴァダシーです」
「ぼくは、ウォレン・スケルトン。これは、妹のメアリーです」
だが、わたしはほとんど聞いてなかった。フォーゲル氏の分厚い背中に、カメラがかかっていたのだ。これと同じようなやつをどこかで見たことがある、わたしはなんとかして思いだそうとする。わかったぞ。ボックス型のフォイクトランダーだ。
暑い夜には、レゼルヴ・ホテルの晩餐《ばんさん》はテラスで供される。そのために縞模様のテントが立てられ、テーブルにはローソクの灯がともされた。どのテーブルにもいっせいに灯がともると、すごく華やかだった。
その晩、わたしはテラスへ、イの一番に出ようと決心した。というのは、なによりも空腹だったし、それに滞在客をいっぺんに観察してみたかったからだ。だが、わたしが行ったときには、もう三人の客が席についていた。そのうちの一人は男で、連れもなく、わたしの席の真うしろにポツンと坐っているので、クルリと頭をふりむけぬかぎり、観察するわけにはいかない。そこでわたしは、自分のテーブルにつくまでのあいだ、できるだけじっくりと男のようすを見ておいた。
テーブルのローソクの位置と、その男の前かがみの姿勢のおかげで、短めの、半白の金髪が分け目なしで横になでつけてある頭の部分くらいしか見えない。白いシャツを着て、一目でフランス製とわかる目《め》のあらい麻のズボンをはいている。
わたしは席につくと、ほかの二人の客に注意をむけた。
その二人は、ひどくかしこまって一つのテーブルに向きあっている。男は額がせまく白髪《しらが》のまじった茶色の髪、それに、きちんと刈りこまれた口ひげ。女はみるからに無神経そうな中年者。骨太で血色悪く、小ざっぱりと結いあげた頭は白髪である。いずれも、晩餐のためにわざわざ着替えている。女は白いブラウスに黒いスカート。男はグレイのフラノのズボン、茶縞のシャツに軍隊式タイ、それに荒いチェックの乗馬用上衣を着ている。見ていると、男はスープのスプーンを置き、安ものの赤ぶどう酒のびんを手にとって、ローソクの灯にかざした。
「ねえ、おまえ」男の声が聞こえてくる、「どうも給仕がわしのぶどう酒を飲むらしいぞ。昼食のとき、このびんにソッとしるしをつけておいたんだからな」
男の声はよくとおり、上層中産階級の話す英語だった。女はお義理みたいに肩をすくめた。男の言葉など、頭からみとめていないのだ。
「ねえ、おまえ」男が言葉をかさねる、「これはものの道理だろうが。給仕たちのしつけをせにゃあならん。それとなく支配人に注意してやろう」
女はまた肩をすくめると、ナプキンを口に当てた。この二人は、あきらかにクランドンハートレイ少佐夫妻にちがいない。
もうそのころには、ほかの宿泊客たちも席に続々とつきはじめていた。
フォーゲル夫妻は、少佐夫妻のむこう側のテーブル、つまりテラスの手すりのそばに坐った。もう一組のアベックは壁ぎわのテーブルへと歩いていった。
そのカップルはまぎれもなく、フランス人である。男は黒い髪にギョロリと突き出た目、それに、無精ひげをのばした顎、年のころは三十五歳ぐらい。連れは、ブロンドのやつれた女で、サテンのビーチ・パジャマを着て、ぶどうの粒ほどの模造真珠の耳飾をつけている。男より年上らしい。二人はぞっこん惚れあっているといったところだ。男が女のために椅子をひいてやりながら、女の腕を愛撫する。女もソッと男の指を握ってそれに応え、だれかに気づかれなかったかと、すばやく辺りを見まわす。わたしは、フォーゲル夫妻がこれを見て、声をおし殺して笑いこけているのを見てとった。テーブル越しにお月さまが、わたしに片目をつむって見せた。
ブロンドの女は、たぶん、オデット・マルタンだと、わたしはにらんだ。彼女の連れは、デュクロかルウだ。
それから、アメリカ娘のメアリー・スケルトンとその兄がやってきた。兄妹は、親しげに会釈してから、わたしの顔を見るとわたしの右うしろのテーブルについた。あと一人くるはずだ。しんがりをつとめたのは、白い顎ひげの老人で、幅の広い黒リボンのついた鼻眼鏡をかけていた。
給仕がスープの皿をとりにきたとき、わたしはソッとたずねた。
「あの白い顎ひげの客はどなた?」
「デュクロさまでございます」
「じゃブロンドの婦人といっしょの客は?」
給仕は用心深く微笑して、
「ルウさまとマルタン嬢で」給仕は、この「嬢《マドモアゼル》」という言葉に、アクセントをこめた。
「なるほど。じゃシムラーさんは?」
給仕の肩がいぶかしげにあがった。
「シムラーさまですか? うちにはそういうお客は、お泊まりになっておりませんが」
「たしかだね」
「はい、それはもう」
わたしは肩越しに目をやって、
「いちばんはじのテーブルの客は?」
「パウル・ハインバーガーさまでございます。スイスの小説家で、支配人のお友だちですが。魚をお持ちしますか?」
わたしがうなずくと、給仕は足早に立ち去った。
ほんの一、二秒のあいだ、わたしは息をつめたまま坐っていた。それから、心をおちつかせながらも、どうしても震えてしまう手で、ポケットの中のベガンからもらったリストをさぐった。そして、ナプキンの中にリストを包んでから、下をうつむき、リストの端から端までじっくりと読み返した。
もっとも、すでにわたしはすっかり暗記していた。ハインバーガーなんて名前は、リストになかったのだ。
ひょっとすると、わたしは頭が少し変になっていたのかもしれない。魚の料理を食べながら、やたらと想像をほしいままにしていた。リストにない男がホテルにいたという意外な新事実をベガンが聞いたらどんな顔をするか、わたしはデブとの会見の場面をあれこれ想像して、ひとりほくそ笑《え》んだ。
わたしは冷静に、しかも恩着せがましくしてやろう。
「ところで、ベガンさん」と切りだす。「あなたからこのリストをもらったとき、当然、これにはホテルの使用人をのぞいた滞在客の名前が一人のこらず載ってるものと思ったんですがね。ところが、まず第一にパウル・ハインバーガーという男の名前が、リストにないじゃありませんか。この男のこと、なにかご存じですか? どうしてリストにないんですかね? この点に関して、即刻、ご返答いただきたいですな。それでね、ベガンさん、この男の所持品を検査なさるよう、ご忠告しますよ。ま、ツァイス・イコン・コンタックス製のカメラと、ニースのカーニバルが写ってるフィルムが出てきたところで、べつに不思議はありませんがね」
給仕が魚の皿をさげた。
「ベガンさん、それからもう一つ。支配人のケッヘを調べてごらんなさい。なんでもハインバーガーはケッヘの友だちだって、給仕がいってるんですよ。こいつは、支配人もからんでるってことですな。ええ、わたしは、驚きやしませんよ。ケッヘがわたしのカメラを妙な目で見ていたのを、とっくにわたしは気がついていたんだから。やつを洗ってみるだけのことはありますよ。支配人のことなら、なんでもわかってるつもりだったんでしょうが? ま、わたしがあなただったら、も少し丹念に調べますがね。早合点は危険千万ですよ」
と、そのとき、給仕が、大皿に盛ったレゼルヴ特製の鶏料理を、テーブルにおいた。
「ベガンさんよ、ハインバーガーみたいな名前の男がいたら、いつも洗ってみることですね」
いや、こいつはあまりパッとしないな。さも軽蔑したように鼻で笑ってみせるのがいちばんかもしれない。そこで、わたしは実際にそんな笑い方をやってみた。ニタリ。ちょうど四回目のニタリを半分までやりかけたとき、給仕の視線とぶつかった。給仕は、心配そうに、あわててやってきた。
「鶏料理に何かいけない点でもございますので?」
「いや、いや。とてもおいしいよ」
「失礼いたしました」
「いや、いや」
顔を赤らめながら、わたしは料理を口にはこんだ。
しかし、給仕のおかげで、空想の世界から、わたしは現実にひきもどされた。とどのつまり、わたしは重大な発見をしたのだろうか? 問題のパウル・ハインバーガーは、今日の午後おそく、ついたのかもしれないではないか。もしそうなら、ホテルはまだ彼の旅券の詳細を警察にしらせていないだろう。だが、そうなると、エミール・シムラーはいったいどこにいるのか? ホテルには、そんな名前の客は泊まっていないと、給仕がきっぱり明言した。おそらく給仕の思い違いかもしれない。警察にだって手落ちがなかったとはいえない。いずれにせよ、明朝、ベガンに報告するよりほかはない。とにかく、じっと待つことだ。しかし、そのあいだにも、時間は過ぎて行く。いくらあせっても、明朝九時にならなければ電話はベガンに通じない。十二時間以上も無駄になるのだ。わたしの持ち時間は六十時間くらいしかないのに、そのうち、十二時間も空しく消えてしまうことになる。日曜にはどうしても汽車に乗らなければと思うと、わたしはいまにも発狂しそうだった。マチス氏に手紙を書いて、わたしが病気だと嘘でもつければよいのだが、それもおぼつかなかった。いったい、どうすればいいんだ? わたしのカメラを持っている男――こいつは馬鹿であるはずがない。スパイなんて、頭がよくて狡猾でなければつとまらない商売だ。どうしてわたしに、そんなやつの尻っぽがつかめられるというのか? しかも期限はたったの六十時間! 六十時間なんて、アッというまに過ぎてしまう。
給仕がきて、鶏料理の皿をさげた。と、そのとき、非難がましい目つきで、わたしの両手をにらんだ。思わず下を向くと、指でデザート・スプーンをいじくりまわしたあげく、とうとう二つに折り曲げてしまっていたのに、わたしは気づいた。あわててスプーンをまっすぐにのばすと、わたしは席を立って、テラスから出た。もう満腹だった。
ホテルを通りぬけて、わたしはガーデンへ出た。海岸にむかって見晴らしのよくきく下のほうのテラスの一つに、|あずまや《ヽヽヽヽ》風のテラスがあった。いつも人気《ひとけ》のないところで、わたしはそのテラスへ行ってみた。
太陽は沈み、夕闇がせまっていた。湾のかなたの山上には、もう星がキラキラ光っている。微風は肌寒く、ほのかな海草の香を運んでくる。わたしは、熱っぽい両の手をテラスの欄干の冷たい煉瓦の上にのせ、ほてった顔に心地よく微風をうけていた。背後に広がるガーデンのどこかで、蛙《かえる》が鳴いている。海はしずかで、砂浜にうちよせる波の音もほとんどしない。
暗い沖のほうで、一条の光が点滅している。たぶん、船が信号をかわしているのだ。一隻は、鏡のような海を、東へ向かって快走する客船、もう一隻は、積み荷をおろして船足も軽く、一路、マルセイユ目指して帰航する貨物船だろうか。さだめし、あの客船の旅客たちは、ダンスを楽しんだり、デッキの手すりにもたれて、海面にうつる月を眺めたり、舷側に砕けて飛散する波の音にきき入っていることだろう。その旅客たちの足の下、船底では、耳を|ろう《ヽヽ》するばかりの重油ボイラーのうなりとプロペラの騒音の中で、汗まみれになって働いている半裸のインド人水夫たちが、ひしめいているにちがいない。自動車のヘッドライトが湾づたいのかなたの道路を、ひとなでしたかと思うと、一瞬、海面を照らし、立ち並ぶ木々のあいだを、ツーロンへ向かって、消えて行った。ああ、ぼくもあんなふうに車で……
と、そのとき、背後の小石を敷きつめた斜面で、靴がきしった。テラスへ出る階段をおりて行くものがある。や、テラスへおりたぞ。わたしは靴音の主《ぬし》が右へ折れて、わたしから離れてくれればいいがと、心のなかで祈った。一瞬、靴音が途絶えた。どっちへ行こうか迷っているな。やがて、あずまやへ通ずる小道におおいかかっているつる草をかき分ける音が、カサコソして、濃紺の夜空をバックに、男の頭と肩のおぼろげな輪郭が浮かびあがってきた。少佐だった。
少佐は不安気に、ジッとわたしのほうを見ている。それから手すりにもたれると、湾のかなたを眺めやった。
わたしは最初、立ち去ろうと、とっさに思った。バクストン生まれのハーバート・クランドンハートレイ少佐と話す気などすこしもなかったからだ。だが、そのとき、少佐についてのスケルトン青年の批評を思いだした。『いやにお高くとまってる』男。そんな男なら、むこうから話しかけてくることは、まずあるまい。しかし、わたしの予想はあっさりはずれた。
わたしたち二人は、テラスの手すりにもたれて立っていたが、十分もすると、少佐のほうから話しかけてきたのだ。実際のところ、わたしは少佐の存在などをほとんど忘れていたのだが、突然、少佐は咳払いすると、じつにいい晩ですね、といったのである。
わたしは同意した。
それっきり言葉が途切れて長いあいだ、沈黙がつづいた。
「涼しいですな、八月だというのに」とうとう少佐が口を開いた。
「ほんとうに」わたしはあいづちを打ったものの、少佐がずっとこのことを考えていて、ほんとうに涼しいと思ったのか、それとも、単なる社交辞令でいってるのか、わたしには判断がつきかねた。涼しいというのが、少佐の本音《ほんね》なら、エチケットの上からも、わたしは、沖のほうから吹いてくる微風に少佐の注意をひかなければならないところだ。
「長くご滞在ですか?」
「いや、ほんの一日か二日です」
「では、ときどきお目にかかれますな」
「ええ、楽しみにしております」
こんなのは、『いやにお高くとまってる』うちにははいらないだろう。
「いや、あなたがイギリス人だとは思いませんでしたな。もっとも、夕食の前に、あのアメリカの若い方と話しておられるのを、耳にしましたけどね。失礼ですが、あなたはイギリス人ばなれをしておられる」
「なにも恐縮されることはありませんよ。わたしはハンガリー人です」
「道理で! わたしはまた、イギリス人だとばかり思っていましたよ。家内はイギリスの方じゃないといっとりましたが、なにしろあれは、あなたの流暢《りゅうちょう》な英語を聞いておりませんからな」
「わたしはイギリスに何年もおりましたので」
「そうですか。それでわかりました。大戦(第一次世界大戦)でイギリスへ?」
「とんでもない、戦争のときは子供ですし、もっとあとです」
「ああ、そうでしょうとも。どうもわたしのような老兵には、あの大戦が昔のこととは、今もって思えませんのでね。わたしなど、大戦のぼっ発した一九一四年から一八年まで戦線に出っぱなしでしたよ。わたしの部隊は、一八年の三月の総攻撃に加わったのです。ところが、その一週間後に、負傷してしまいましてな。ま、幸運でしたよ。予備役に編入されて、そのまま戦傷除隊というわけです。もっともこれは、あなた方の運命とまったく無関係な話ですがね。聞くところによると、今のオーストリア人はじつに勇敢な兵隊だそうですな」
べつに少佐は、わたしの返事を期待しているようにも思われなかった。ここでまた沈黙の叫びが流れた。と、少佐は、奇妙な質問で、その沈黙を破った。
「あの支配人を、あなた、どう思います?」
「えっ? ケッヘのことですか?」
「あれは、そう発音するのですか? そう、ケッヘのことですよ」
「さあ、わかりませんね。なかなか切れる支配人のように見えますが、しかし――」
「そのとおり! 『しかし』なんですよ! まったくもって監督不行き届き、あの給仕どもに、勝手放題な真似をさせておる。給仕どもときたら、わたしの葡萄酒を盗み飲みするのですからな。わたしは、この眼ではっきりと見たのですよ。ケッヘは、給仕どもに気合いを入れにゃあいかん」
「料理はなかなかいいんですがね」
「ま、申し分はないが、しかし快適にすごすには、うまい料理以上のものがなくてはね。わたしがここの支配人なら、もっとしめあげてやるんだが。ケッヘとはよく話をなさいますか?」
「いや、いっこうに」
「あの男のことではちょっとおもしろい話があるのですよ。このあいだ、家内とわたしはツーロンへ買い物に行きましてな。買い物をすませると、わたしたちはアペリティーヴォを飲みに、カフェにはいったのです。と、ちょうど注文したとき、ケッヘがやってくるじゃありませんか。あんな、やつの急ぎ足は、見たこともない。わたしたちに気がつかないから、一杯どうだと声をかけようとしたんだが、やつはそのまま道を横切って、むこう側に首を突きだして歩いて行っちまう。二、三軒通りすぎたところで、だれか見てないかとチラリとあたりを見まわして、ある家の中にはいりおった。わたしたちは飲みおわってからも、じっとその家のドアから眼を放さなかったのだが、やつはいっこうに出てこない。ところがです、あなた、どう思います? わたしたちがバスの停留所に行ってみると、まぎれもなくやつが、サン・ガシヤン行きのバスに乗ってるではありませんか」
「おどろきましたね」わたしはつぶやいた。
「わたしたちもそう思いましたよ。いや、いささか面喰《めんくら》いましたな」
「そうでしょうとも」
「ところが話はまだほんの序の口でしてな。支配人の女房というのをご存じかな?」
「いいえ」
「それはもう気の強い女でね。フランス人で、年上ときている。わたしがにらんだところでは小金をためておるな。ま、いずれにせよ、亭主のアルベルトは尻に敷かれているのです。亭主はお客たちといっしょに浜へ出て、泳ぎたい。女房は家事のきりまわしから女中の監督までやっとるから、亭主を自分の目のとどくところにおいときたいわけだ。だから亭主が浜へ出て十分もしないうちに、女房はテラスから身を乗りだして、すぐもどってこいとがなり立てる。しかも、お客が、みんないる前でね! そういう女です。あの女房は。客はこんな場面を見せつけられて、さぞやケッヘのやつ困っとるだろうと考える。しかし、さにあらず、ただニヤニヤしとるだけだ、ほら、あの眠そうな薄ら笑い。それから、給仕どもが大声で笑いだすところを見ると、顔を赤らめるようなひどいことをフランス語でブツクサいうらしいんですな。そして、とどのつまり、女房の言いつけどおりになる。
ま、話は前にもどるが、わたしたちはバスに乗り、支配人に声をかけた。そうなれば、どうしたって町であなたを見かけたと言いたくなるのが人情。正直なところ、あの男がどういう反応をしめすか、やつの顔をジッと見つめてたのですよ。ところがどうです、やつは眉一本動かさん!」
わたしは口のなかで、驚きの声をあげた。
「いや、ほんとうの話です。眉一本動かさないのですよ。むろん、やつが|かぶり《ヽヽヽ》をふって、人ちがいだというのかとわたしは思った。家内もわたしも、やつが消えたのは、入り口が二つある、いわゆる、『水夫の家』といったたぐいでな、そこで闇の品物でも仕入れたと、とっさににらんだからですよ。ところが、ひどい目にあいましてな」
「とおっしゃると?」
「あの男は話を否定するどころか、どこ吹く風か、といった顔をしおってな。やつのいうには、女房は鼻についてしまったから、ブルネットの情婦をあそこに囲ってる。これには、さすがのわたしも、あいた口がふさがらなかった。それから、あの眠そうな薄ら笑いを浮かべて、ながながと〈のろけ話〉をはじめそうになったものだから、わたしはあわてて、やつの口を封じようと思った。なにしろ家内ときたら、宗教心の厚いほうですからな。で、わたしは、そんな話は聞かないほうがいいからと、かなり露骨にいってやったのですよ」少佐は星を見あげると、「女というものは、こういう話になると、どうにも厄介なしろものでしてな」
「そうでしょうね」わたしに相槌《あいづち》をうてるせりふといえば、こんなものぐらいだ。
「女なんて、けったいな動物ですわ」少佐は感慨深げにつぶやくと、短く、気弱そうに笑った。「しかし」老人はわざとおどけた口調でいった、「ハンガリー人でいなさるのなら、あなたはわたしみたいな老兵とちがって、女にはくわしいでしょうな。ところで、わたしはクランドンハートレイです」
「ヴァダシーと申します」
「それではヴァダシーさん、もう中にはいらなければなりません。夜気は、わたしのからだに悪いそうだから。たいがい夜は、あの年寄りのフランス人、デュクロと玉を突くのです。聞くところによると、デュクロは、ナントで果物の罐詰工場をやってるという話ですがね。どうもわたしのフランス語は、義理にもうまいとはいえませんのでね。ただの管理人なのかもしれませんよ。気性のいい男なんだが、ひとが見てないと思うと、きまってズルをするんでね。神経にカチンとくるときがありますよ」
「ごもっとも」
「さて、寝るとしましょう。あのアメリカの若い人たちも、今夜はテーブルについてましたな。なかなかきれいなお嬢さんだし、いい青年だ。しかし、若い男のほうは、ちょっとしゃべりすぎでな。ああいう若い連中は、わたしの現役時代の連隊長にでもシゴかれなければ、ものになりませんよ。話しかけられてから、はじめて話す、これが、青年将校の規律でしたからな。では、おやすみ」
少佐は、テラスから去った。階段をあがりつめると彼は咳き込みはじめた。いかにも苦しそうな咳だった。靴音が小道のほうへ遠ざかってしまっても、少佐のいまにも息のつまりそうな咳だけは、まだ聞こえていた。そうだ、前に一度あんな咳を聞いたことがあったっけ。ヴェルダンの激戦地で毒ガスにやられたという男の咳だった。
ながいあいだ、あたりは物音一つしなかった。わたしは二、三本たてつづけに煙草を吸った。ケッヘを洗え! ベガンなら、きっと捜査の手がかりになるようなものを握っているはずだ。
月が高くのぼっていて、下の竹薮の輪郭がくっきりと照らしだされている。そのすぐ右のほうに、浜の一部が見える。じっと目をこらすと、いくつかの影が動き、女の笑い声が聞こえてきた。やわらかな、こころよいひびきで、たのしさとやさしさがいりまじっていた。一組の男女が明るいところに出てきた。男が足をとめ、女をひきよせる。男は両手で女の顔をはさむと、眼と唇にキスした。男は無精ひげをはやしたフランス人、女はブロンドだった。
しばらくのあいだ、わたしはじっと見守っていた。二人は語りあっている。砂の上に腰をおろすと、男が女の煙草に火をつけてやった。わたしは腕時計を見る。十時半。わたしは煙草の火をもみ消し、テラス沿いに歩いて、階段をあがった。
小道は、急勾配の斜面を、うねうねと曲がっていた。両側の繁みから枝が突き出ているので、わたしは片手で顔をかばいながら、ゆっくりとあがっていった。小道をあがりきったところと、ホテルの入り口のあいだに、舗装した小さな前庭があった。わたしの皮のサンダルは履《は》きなれていたので、足音がぜんぜんしなかった。入り口のドアまで行きつかないうちに、わたしは足をとめ、息をのんで、その場に立ちつくした。ホールは真っ暗で、わずかに支配人室と境のガラスをとおして、一条の光線がさしこんでいる。ケッヘの部屋のドアは開き放しになっていて、中から話し声がきこえてくる――ケッヘの声と、もう一人の男の声だ。ドイツ語だ。
「明日もう一度やってみるよ」ケッヘがいっている、「だが、まず無駄骨だろうな」
一瞬、言葉が途切れた。こんどは相手の男がしゃべりだした。ケッヘの声より太いが、静かに話すので、ともすれば聞きもらしそうになる。
「おれのために、あきらめずにやるんだ」男はゆっくりいった。「おれは、何が起こったか、それに対して自分はどういう手を打つべきか、そいつが知りたいのだ」
また言葉が途切れた。こんどはケッヘが口を開いたが、いままでに聞いたことのないような、猫なで声だった。
「あんたにできることなんてないのさ、エミール。相手の出方を待つだけだよ」
エミール! これが興奮せずにおられようか。こんどは相手の男、つまりエミールがしゃべった。
「もう、あきあきするほど待ったぜ」
またもや沈黙。この、ときどき訪れる沈黙には、一種奇妙な、情緒的な味があった。
「わかったよ、エミール。もう一度、やってみるからな。じゃ、安心しておやすみ」
相手は返事をしなかった。やがて、ホールに足音がした。わたしの心臓は高鳴り、サッと壁のかげにわたしは身を隠した。男は出てくるなり、入り口のドアのあたりで、一瞬、立ちどまった。衣服には見覚えがあったけれど、はじめて見る顔だった。給仕が、ハインバーガーと呼んでいる男だった。
男は、テラスへ通じる小道を、小走りにおりて行ったが、その瞬間、電灯の光にサッと照らしだされた顔を、わたしは見た――薄く引き締まった唇、たくましい顎、するどくこけた頬、広くひいでた額。しかし、こんな特徴など重要ではない。わたしはさして気にもとめなかった。わたしの心に焼きついたのは、なにかほかのもの、ハンガリーを去って以来、出会ったことのなかった〈なにか〉だった。それは、苦しみを解消するのに、死という手段しか残されていない絶望的な人間の眼だった。
わたしは部屋にもどると、鎧戸《よろいど》を開け、カーテンをひいて、ホッと溜息つきながらベッドにはいった。ヘトヘトに疲れきっていた。
しばらくのあいだ、眠りにつこうとして、わたしは眼をとじたまま横になっていた。頭が熱いので、枕はなまあたたかくなり、汗と油でジトジトしている。なんべんも寝返りを打つ。眼を開けたり閉じたりする。パウル・ハインバーガーはエミール・シムラーだったのだ。いや、エミール・シムラーがパウル・ハインバーガーなのだ。ケッヘは彼に依頼されたことをやるにちがいない。きっとシムラーはことの真相を嗅ぎつける。シムラーにケッヘか。両方ともスパイなのだ。とうとう尻っぽを握ったぞ。ベガンに連絡しなくては。明日の朝だ。こいつは待ち遠しいぞ。夜があけたら、そうだ六時に電話してやる。いや、郵便局はまだ閉まってるし、ベガンはベッドの中だ。パジャマ姿のベガン。一刻も早く知らさなくては。ああ、なんということだ。もうクタクタだ。さ、眠らなきゃ。ハインバーガー、別名シムラー。やつらはスパイだ。
わたしはベッドからおりると、浴用着をまとい、窓ぎわに腰をおろした。
ハインバーガーはシムラーだった。即刻逮捕だ。だが、罪名は? 偽名罪? しかし、警察は彼の本名をちゃんと知ってたじゃないか。エミール・シムラー、ベルリン生まれのドイツ人。給仕がわたしに、あれはハインバーガーだと教えたのだ。ほんとうはシムラーなのに、ハインバーガーだと名乗ったら、これは罪になるのかな? つまり、ヴァダシーなる人物が、勝手に自分はカール・マルクスだとか、ジョージ・ヒギンズだとか名乗れるものだろうか? クソッ、そんなことは犬にでも喰われろ、だ。とにかく、シムラーとケッヘはスパイなのだ。スパイにきまっている。やつらがおれのカメラを持っている。そして今、命がけで撮った機密写真がどうなってしまったか、頭をかかえている最中なのだ。
それにしてもわたしには、さっきのシムラーの表情に、カメラや写真のことを、気にかけている色はすこしもなかったぞ、という疑惑の念がぬぐいきれなかった。それに、あの男には、なにか〈わけ〉があるぞ、いわくありげなあの声、あの絶望的な眼……だが、たとえどんなにスパイに見えようとも、スパイらしいスパイなんて、現実にいるわけがない。ほんもののスパイがスパイのレッテルをはって歩くものか。ヨーロッパ中、いや世界中にスパイが暗躍し、しかもそのあいだ、各国の情報部では、刻々とはいってくるスパイの情報を蒐集《しゅうしゅう》し、リストにしているのだ――装甲板の厚み、大砲の仰角度、砲弾の初速度、射撃指揮装置と距離測定器の細目、信管効率、要塞の防禦度、弾薬庫の位置の詳細、重要軍需工場の配置、爆撃目標など。世界中が戦争準備に奔走している。スパイ商売大繁昌だ。あらゆる機密情報の中央交換所といったスパイ会社でもはじめれば、笑いがとまらないこと間違いなし。わたしは、ケッヘが足早にあやしげな横町にはいりこみ、うさんくさい家に入って、別の出口から出て行くところを頭にえがいてみた。もし女をほんとうに囲っているとしたら、ああもスラスラと自分のほうから吹聴するものだろうか? こんな甘い手にのるのは、あの間抜けなイギリス人の退役少佐ぐらいなものだ。このおれは、そうはいかないぞ。スパイの総本山はツーロン。ケッヘとシムラー。シムラーとケッヘ。スパイめ。
わたしはブルッと身をふるわせた。夜気が冷たいのだ。わたしはあわててベッドにもぐりこんだ。
もう一度眼を閉じると、考えもしなかった別の恐怖が胸の中にわき起こり、ふくれあがった。こいつは大変なことになるぞ。もし宿泊客の一人がホテルを発ったらどうなるんだ。
いや、ありそうなことだぞ。明日、フォーゲル氏か、デュクロ氏が、あるいは、ルウ氏とブロンドの女か、だれかが、「急に発つことになった」などと言いだしかねない。現に、明朝出発するために、荷造りしてるものがいるかもしれないのだ。どうしたら、おれにその客がひきとめられるのだ? 待てよ、もしケッヘとシムラーがスパイでなかったらどうする? もしルウとブロンドの女が、にせのフランスの旅券を持つ外国のスパイだったとしたら? あるいは、あのアメリカ人兄妹かスイス人夫妻、それともイギリスの少佐夫妻がスパイだとしたら、どうなる? やつらはまんまとおれの指のあいだから、逃げ失せてしまうのだ。その場になったら、なんとかなると高《たか》をくくったって、それこそ無駄だ。それでは手遅れだ。では、どういう手を打つのがいちばんいいのか? さ、急げ! みんなホテルを発ってしまって、朝になったら残ったのはおれだけということにもなりかねないのだ。どうする? ベガンからピストルを借りるか? そうだ、そいつがいい、ベガンからピストルを借りるんだ。真剣だぞ。「おとなしくしろ、さもないとどてっ腹に鉛の玉をお見舞いするぜ」十連発だ。「一人に一発ずつあるんだぞ」いや、八連発かな。ピストルの型によりけりだ。二挺用意しなくちゃ。
わたしはパッと浴用着を脱ぎ捨てると、ベッドの上にガバッと身を起こした。この調子だと、朝までに気がくるってしまうぞ。わたしは洗面台に行き、冷たい水で顔をザブザブ洗った。きっとこいつは夢なんだと、われとわが身に言い聞かせたものの、一睡もしなかったことは、いちばんわたしが知っていた。
カーテンを開け、月光に照らされた樅《もみ》の林を見る。わたしは事実を冷静に――文字どおり冷静に――調べねばならぬ。まず、ベガンはなんといっていたか?
わたしはかなり長いあいだ、そこに立っていたにちがいない。思いなおしてベッドにはいったときには、もう湾のかなたの空が明るみはじめていた。明け方の寒さにからだはコチコチになっていたが、心は安らかだった。わたしは一つの計画をたてたのだ。わたしの疲れた頭には、それは成功疑いなしのように思われた。
ふたたび眼を閉じたとき、とある考えがわたしの心に浮かんだ。あの、イギリス人の少佐の言葉の中に、ごくささいなことだけれど、なにか妙な点があったのを思いだしたのだ。だが、そんなことはもう気にしなかった。わたしは睡魔にひきずりこまれていった。
目をさますと、頭がズキズキした。
カーテンを閉め忘れたので、開け放った窓からは朝日がさしこみ、もう暑かった。このぶんじゃ、今日も暑くなるぞ。それなのに、わたしにはすることが山ほどある。可能なかぎり早くベガンを電話でつかまえること。それからわたしの計画を実行に移さねばならぬ。その作戦が、数時間、暗闇の中で練っていたときと同様に、ごく簡単な仕事に見えたので、わたしはすっかり気をよくしていた。眼の前がパッとあかるくなってきたのだ。
わたしは早くからテラスにでると、クロワサンとコーヒーの朝食をとりながら、われとわが身を祝福した。なにせ、いたって神経質で、暴力と聞いただけでふるえあがるような語学教師のわたしが、ほんの数時間で、おそるべきスパイを捕える、すばらしいアイデアを思いついたのではないか。その同じわたしが昨夜まで、月曜の朝にパリに帰れないのじゃないかと、頭をかかえこんでいたとは! 二杯目のコーヒーを飲むと、ズキズキしていた頭痛までサッと消えうせた。
外へ出る途中、わたしはフォーゲル夫妻の坐っているテーブルのそばをとおった。わたしは立ちどまって挨拶する。
と、そのとき、夫妻が別人のようにいやに真面目くさった顔をしているのに気づいた。わたしの挨拶に、夫妻も反射的にほほえんだけれど、まるでお義理といった感じだった。フォーゲル氏はわたしのいぶかし気なまなざしに気づいたのか、
「今朝は悲しいことがありましてな」といった。
「それはそれは」
「スイスから悪い報せがあったのです」彼はテーブルの手紙を指でたたいた。「親しい友人が死んだのですよ。ま、夫婦そろって、少々ぼんやりしておっても、どうか、ご勘弁を」
「さぞかしお力落としでしょう」
どうやら夫妻は、二人だけになっていたいのだ。わたしは通りすぎた。と、つぎの瞬間、わたしは夫妻どころの騒ぎではなくなってしまった。わたしは尾行されているのだ。
郵便局は村のはずれの乾物屋の中にあった。丘をおりて行く途中、一人の男がわたしの数歩後から、散歩でもするような歩き方で、尾行してくるのに気づいたのである。わたしは最初にあったカフェの外で足をとめ、振りかえった。男もとまった。なんと、前日、わたしを逮捕した刑事ではないか。刑事はにこやかに会釈した。
わたしがテーブルにつくと、刑事もやってきて、テーブルを二つはなれたところに坐った。手でまねくと、わたしのテーブルに移ってきた。いやに親しげな態度だった。
「お早う」とわたしがいう。「どうやらぼくの尾行をするように命令されたらしいね?」
刑事はうなずいた。「まことに遺憾ながら、そうなんで。いや、疲れる仕事ですよ」男は自分の黒服に眼をやった。「この服がものすごく暑くてね」
「じゃ、どうしてそんなものを着てるんです?」
馬面《うまづら》の、いかにも抜け目のなさそうな百姓の顔が、突然、ものものしくなった。
「実は母親の喪《も》に服しているのです。母が死んでから、まだやっと四カ月ですよ。結石が原因《もと》でね」
そのとき、給仕が近づいてきた。
「なにがいい?」
刑事はちょっと考えてから、炭酸のレモネードと答えた。わたしは給仕に注文してから、椅子を立った。
「それじゃ」わたしはいった。「ベガン氏に電話しに、この通りの郵便局まで行ってきますよ。ま、五分もしないが、そのあいだ、きみの目の前からいなくなるわけだ。きみはここに腰かけて、さきに飲んでいたまえ。もどってきたら、ぼくもお相伴《しょうばん》するから」
刑事は首を振る。「なにせ、尾行するのがわたしの役目なんで」
「それはわかってるさ、だけど、ぼくが警察に尾行されているのを、村中の人に知られてしまうじゃないか、そんなことはまっぴらご免だな」
刑事の顔に頑固そうな表情が浮かんだ。
「とにかく尾行しろという命令なんです。買収はされませんからな」
「なにもきみを買収しようなんて思っちゃいないさ。ただ、おたがいの幸福のために、相談しただけじゃないか」
刑事は頑固に首を横に振る。
「役目にはかえられませんや」
「どうぞご随意に」わたしはカフェからサッサと出ると、通りを歩きだした。刑事が注文したばかりの炭酸のレモネードのことで、給仕と言い争っているのが聞こえる。
郵便局の電話は、文字どおり公衆電話だった。片側には、天井からにんにく入りのソーセージがずらりとさがり、もう一方には、空の粉袋が積みあげてあった。電話室なんかないのだ。わたしは片手で送話器を覆って「警察をたのむ」とささやいたのだが、サン・ガシヤン中がじっと聞き耳をたてているような気がした。
「総務課デス」やっとフランス語の返事があった。
「ムッシュー・ベガン、イマスカ?」
「イマセン」
「署長サンハ?」
「ソチラハ?」
「ヴァダシーデス」
「切ラズニオ待チクダサイ」
そのまま待っていると、やがて署長の声。
「やあ、ヴァダシーだね?」
「はい」
「報告があるのかね?」
「ええ」
「ツーロン市の八三―五五へ電話して、ベガン君を呼びだしてくれ」
「わかりました」
署長が電話を切った。わたしがサン・ガシヤンにいるとさえ見とどければ、あきらかに署長の責任は果たされたわけだ。わたしはツーロンの八三―五五につないでもらう。この番号は、まるで呪文みたいな|ききめ《ヽヽヽ》があった。ものの一分もしないうちに、電話がつながり、その数秒の後には、もうベガンが出ていた。妙に高ぶった声がひびいた。
「いったい、だれがこの番号を教えたんだ?」
「署長ですよ」
「カメラの情報を手に入れたのかね?」
「それはまだです」
「じゃ、どうして電話なんかしたんだ?」
「ちょっとわかったことがあるものですから」
「なんだ?」
「ドイツ人のエミール・シムラーは、パウル・ハインバーガーと名乗っているんです。この男と支配人のケッヘがおかしな話をしているのを、ドア越しに聞いたんですよ。シムラーがスパイで、ケッヘが共犯者であることは、間違いありません。それにケッヘのやつも、ツーロンのある家まで出かけているんです。そこに女を囲ってるなんて自分ではいってますが、まず〈まゆつば〉ものですよ」
電話口で、こうしゃべっている口の下から、まるでザルの目から水が洩れるように、自信が消え去るのを、わたしは感じた。まったくばかげた話だ。電話口のむこうで、あわてて笑いを押し殺している声がしたように思った。ところがそれはわたしの錯覚だった。
「おい、よく聴けよ」ベガンの怒声がキンキンひびいた、「きみにはちゃんと指示してあるはずだぞ。きみは、客のうちでだれがカメラを持っているか、そいつを調べればいいんだ。刑事みたいな真似をしてくれなんて頼みはせん。指図どおりにすればいいんだ。子供にだってやれる簡単な仕事だぞ。どうしてやらないんだ? また暗いところへ帰りたいのか? くだらない話なんかもうたくさんだ。さっさとホテルに引き返して、客たちのカメラをあたり、わかったらすぐに報告するんだ。余計なチョッカイをださずに、いわれたとおりのことをするんだ。わかったな?」電話がガチャンと切られた。
カウンターの向こうの男が、いぶかしげな目つきで、わたしを見ている。どうやら、発見の重大性をベガンに強調しようとしたあまり、わたしは大声をはりあげたのにちがいない。わたしは男をにらみ返すと、雑貨屋を出た。
おもてには、暑さと待ちくたびれたいらだちに、顔をゆでタコのようにした刑事が、立っていた。わたしがプリプリして大股に歩きだすと、刑事もだるそうに足をひきずりながら、すぐについてきたが、わたしに八十五サンチームとチップ代、合計一フラン二十五サンチームの貸しがあるとささやいた。炭酸のレモネードを注文したのは、わたしなのだから、支払うのが当然だと繰り返すのである。あんたさえ余計な真似をしなければ、自分からレモネードなんか、注文しなかったはずだ。警察ではこんな経費は認めてくれないんだ。さ、一フラン二十五サンチーム返してくれ。レモネードが八十五サンチームでチップはたった八スーじゃないか。わたしは貧乏なんだ。任務はちゃんと果たしてるんだ。買収なんかされないぞ。
わたしの耳には、刑事の泣きごとなど、ほとんどはいらなかった。では、わたしがホテルの客たちに訊ねてまわり、そのなかで、だれとだれがカメラを持っているか探しだすというのか! 馬鹿な! そんな真似をしてみろ、スパイが泡をくって逃げてしまうのは火をみるよりあきらかだ。ベガンみたいな間抜けなやつの掌中に、わたしは握られているのだ。いわば、あいつにわたしの首根ッ子をおさえられているかっこうだ。余計なチョッカイをださずに、いわれたとおりのことをしろ、だと! しかし、スパイを逮捕するのがおれの仕事じゃないか。スパイに逃げられてみろ、それこそ身の破滅というものだ。諜報部といえば低脳の代名詞だとよく聞くが、いや、こんどの件がなによりのその証拠だ。ベガンやツーロンの海軍諜報部のいうがままになっていたら、それこそ月曜にパリへなんか帰れるものか。よし、あくまでもおれの作戦で動け。そのほうがカタイぞ。シムラーとケッヘの化けの皮をはがねばならぬ。それを、このおれがやるんだ。最初にたてた計画を実行しよう。ベガンの鼻先にやつの欲しがってる証拠をつきつけてやったら、どんな間抜け面《づら》をすることか。客のカメラをあたるにしろ、おれはじかに訊いてまわったりはしないぞ。情報を集めるんだ。それなら安全だからな。それにしても、石橋をたたいて渡らにゃならん。
「八十五サンチームとチップ代八スー……」
刑事とわたしはレゼルヴ・ホテルの門までたどりついた。わたしは刑事に二フラン貨幣をやり、門内へはいった。
入り口で、スケルトン兄妹が出てくるところにぶつかった。二人は水着姿で、タオルに新聞、それに日焼け止めのオイルのびんを持っていた。
「いやあ、今日は!」と青年が声をあげた。
妹はニッコリ笑った。
わたしも挨拶した。
「浜へ行きませんか?」
「ええ、着がえてから、すぐ行きますよ」
「英語も忘れずにおねがいしますよ」わたしの背後で青年が叫んだ、すると「あのすてきな方をからかうものじゃないわ」と妹にいわれているのが聞こえた。
それから数分もしないうちに、わたしは部屋からひっかえすと、庭を横切って、浜に出る階段のほうへ歩いて行った。そのとき、最初の幸運が訪れたのだ。
第一のテラスに近づいたとき、なにやら興奮しきった声が聞こえたのである。つぎの瞬間、ホテルのほうへ夢中になって急いで行くデュクロ氏の姿があらわれた。と、つづいてウォレン・スケルトンがあらわれ、一気に階段をかけあがると、デュクロ氏を追うようにしてとんで行った。わたしとすれちがいざま、彼はふりむいて、なにか叫んだ。「カメラ」という言葉だけが、わたしの耳に残った。
わたしはテラスへ急いでおりた。すると、二人が駆けだして行った理由がわかった。
満帆をはった一艘の大きな、白いヨットが、湾の中へ滑るようにして入ってくるところだった。白い作業ズボンに木綿の日除け帽子をかぶった男たちが、しみ一つない甲板で忙し気に働いている。見たところ、ヨットは風をまともに受けていた。帆ははためき合い、主帆は斜桁《ガフ》がさがるにしたがってしぼんできた。上帆、船首三角帆、つづいて支索帆もしぼみ、船首に泡立つ海水も、長くて深い波紋をえがきながらしずまっていった。錨《いかり》の鎖がガラガラと鳴った。
テラスの端に、ヨットに見惚れている一団の人びとがむらがっていた。水着姿の支配人のケッヘ、メアリー・スケルトン、フォーゲル夫妻、イギリス人少佐夫妻、フランス人の男女、シムラー、それにケッヘの細君らしい仕事着姿の太ってずんぐりした女といった連中。そのうちの何人かはカメラを手にしていた。わたしは急ぎ足で近づいた。
ケッヘはシネ・カメラのファインダーをのぞいていた。フォーゲル氏は、すごい勢いで新しいフィルムを入れかえている。クランドンハートレイ夫人は、夫の頸にかかっている野戦用双眼鏡でヨットを偵察している。マルタン嬢は、興奮しきった彼氏の指令のもとに、小型のボックス・カメラを操作中。その一群から少し離れて立ったシムラーは、ケッヘがシネ・カメラで撮影しているのを眺めている。見た目にも元気がなく、疲れているようす。
「すてきじゃない?」
わたしに声をかけたのはメアリー・スケルトンだった。
「ほんとうに。それにしてもお兄さんが、あの小道で、フランス人のじいさんを追いかけているのかとばかり思いましたよ。こんな騒ぎとはつゆ知らずね」
「カメラを取りに行ったんですわ」
と、このとき、兄がコダックの高級品を手に、もどってきた。「どうです、この子供みたいな熱意!」彼がブツブツいう。「どうしてこのぼくが、他人さまのヨットの写真を撮らなくちゃならんのか、さっぱりわからんな」と口ではいったものの、青年は二枚写した。
スケルトンのあとを追うようにして、旧式の大型リフレックスをカタカタいわせながら、デュクロ氏がやってきた。苦しそうにあえぎあえぎ、彼はリフレックスの上蓋《うわぶた》をとり、手すりによじのぼった。
「あのじいさん、ファインダーに自分のひげを入れて写すか、写さないか?」スケルトンが小声でささやいた。
デュクロ氏が写真機のシャッターをかけると、大きくカチリと音がして、一瞬シンとなり、それからやおらシャッターを切ると、こんどはやわらかい音が鳴った。デュクロ氏はさも満足気な顔で手すりからおりた。
「じいさん、きっと乾板入れるのを忘れたな」
「あなた、見なかったのよ」妹がいった。「さ、浜へ行きましょう」
クランドンハートレイ少佐夫妻は階段のてっぺんの手すりに寄りかかっていた。少佐がわたしに軽く会釈した。
「なかなかいい船ですな。見たところ英国製のようです。一九一七年の大戦の休暇には、ノーフォーク湖沼地方で、ヨット遊びをしたものですよ。豪快なスポーツでな。しかし、こんなのになると金がかかってね。湖沼地方はご存じですか?」
「いいえ」
「いや、まったく豪快なスポーツだ。それはそうと、家内をご紹介するつもりでした。こちらヴァダシーさんだよ、おまえ」
夫人は平然と、無関心な面《おも》持ちでわたしをジロッと見たが、その実、わたしの品定めをしている感じだった。とにかく、水着姿じゃ話にならない。夫人は口の端に軽く微笑を浮かべて会釈した。わたしはなにもいわずに頭をさげた。どんな挨拶の言葉にしろ、下手に口にだすと、生意気だと思われそうな、ぎこちない感じがしたのである。
「あとでごいっしょに玉突きでもしませんか」少佐が快活な口調でいった。
「ありがとうございます」
「それでは、また、のちほど」
夫人はそっけなくうなずいた。
それで退参。
わたしは、スケルトン兄妹が海岸の片隅のビーチ・パラソルの下で寝そべっているのを、見つけた。二人が場所をあけてくれたので、そこにわたしは腰をおろした。
妹のメアリーが、さも幸福そうに、ホッとため息をつく。「ねえ、ヴァダシーさん、あのスイス人ご夫婦って、ほんとに変わっているとお思いにならない?」
わたしは彼女の視線をたどる。フォーゲル氏が長い鉄の三脚にカメラをすえつけているところだ。その前には、赤くなったフォーゲル夫人がクスクス笑いながら、立っている。こちらから見ていると、彼は自動シャッターをかけ、三脚のかげからパッと走りだすと、細君に腕をまわしたポーズをとった。カメラからかすかにジーッと音がして、シャッターがカチリとおりると、夫妻はどっと笑いころげた。死んだ親友のことなど、もう二人の念頭にはまるっきりないのだ。
この滑稽な場面を面白そうに見物していたのは、フランス人の男女《カップル》と支配人のケッヘだ。ケッヘはわたしたちも見ているかどうか、こちらを一瞥《いちべつ》すると、こっちにやってきた。
スケルトンがいった。「あんた、お客の余興用にあの夫婦を雇っているのかい?」
ケッヘは白い歯をむきだしてニヤリと笑った。「お客さまのお慰みにずっとご滞在願おうかと思っとります」
「そいつはいい。スイスの夫婦善哉《めおとぜんざい》。全国津々浦々に上品なお笑いをまきちらし、ニューヨークの舞台で大好評を博し、ご当地に直行。お好みによっては豪華な衣裳番組もありってわけだね」
ケッヘは、いささかもてあましぎみの面持ちだった。そしてなにか答えようとしたちょうどそのとき、上のテラスから金切り声が起こって、あたりの空気を引き裂いた。
「アルーベール!」
わたしはビーチ・パラソルの一角から見あげた。ケッヘの細君が両手を口に当て、手すりに上半身乗りだしている。
「アルーベール!」
ケッヘは見むきもしない。
「尖塔より声あり」彼は軽口をたたいて、「忠実なる僕《しもべ》を祈りに誘う」そしてわたしにうなずいて見せると、支配人は階段のほうへ歩いていった。
「ねえ」スケルトン青年がうわのそらでいった。「ぼくが、|やつ《ヽヽ》なら、あのガミガミ女なんか殺してやるんだけどなあ」
「チェッ!」妹が舌を鳴らすと、わたしにいった、「泳ぎません、ヴァダシーさん?」
メアリーもその兄も、泳ぎはずばぬけて上手だった。わたしがゆっくりした〈横のし〉で五十メートルばかり泳いだころには、兄妹は湾のなかほどに錨をおろしているヨットのぐるりで飛沫《ひまつ》をあげていた。わたしはゆっくり浜にひきかえした。
スイス人夫妻も海にはいっていた。すくなくとも亭主は水中にいた。女房はゴムボートに寝そべっていたが、亭主がそのまわりで叫んだり、水をはねかえしたりするものだから、笑いこけ、そのおかげでボートがグラグラ揺れていた。
わたしはビーチ・パラソルへもどると、髪を乾かした。それから寝そべると、煙草に火をつけた。
客のなかでだれとだれがカメラをもっているか、という問題も、だんだん明確になってきている。わたしは観察の収穫を、胸の中で思い描いてみた。
フォーゲル夫妻……フォイクトランダー・ボックス型
デュクロ氏……旧式リフレックス
スケルトン兄妹……コダック・レチナ
ルウ氏及びマルタン嬢……ボックス型(フランス製)
ケッヘ夫妻……シネ・カメラ(パテ製)
シムラー氏……なし
クランドンハートレイ少佐夫妻……なし
わたしは最後の三つの名前について考えた。
イギリス人の少佐夫妻は、まず写真を撮るようなタイプの人間ではないな。たぶん、夫人が横槍《よこやり》を入れるだろう。シムラー氏に関しては、もうこれ以上、証拠集めをするまでもないと思うようになっている。もっともまだベガンは情報をさかんに求めている。なにか手にはいったら知らせてやるさ。支配人のケッヘは? なに、今にわかることだ。わたしはビーチ・パラソルのかげからモゾモゾと腹這いになって出た。砂は熱く、陽《ひ》は強い。頭からタオルをかぶった。スケルトン兄妹が水をしたたらせ、泳ぎ疲れて、そばにやってくるころには、わたしはぐっすり眠ってしまった。
スケルトン青年が、わたしの横腹を小突いた。
「昼食の時間ですよ」と彼はいった。
十二人の、客の中のだれかがわたしのカメラを持って行った。わたしはその人間と同じカメラを持っていたのだ。その彼あるいは彼女が、写真の紛失に気づけば、ベガンが指摘していたように、その人物は自分の撮った写真をとりもどすのに躍起となるはずだ。ところで、この人物について現在わかっていることといえば、フィルムがまだカメラの中で現像されずにあるという段階までである。だから、カメラをふたたび取り換えられるチャンスにでもめぐまれれば、この人物は絶対にのがさないはずだ。
わたしの計算というのは、現在わたしの手にあるコンタックスを、ホテルの滞在客が一人残らず、そのカメラを見る機会のある時をえらんで、とりわけ人目に立つ場所に置き、わたしは物陰にかくれて、その結果を待つ、というのである。もし何ごとも起こらなければ、それはカメラがすり変わっているのにスパイが気づいてない証拠だ。この場合には、大舟に乗った気でいればいい。もし何ごとか起これば、そのときには間違いなくスパイの正体がわかるわけである。
わたしは、どこに罠《わな》を仕掛けたものか、と、随分頭をひねったものだ。そして、さんざん考えたあげく、最初にカメラがすり換えられたホールの椅子ということにした。場所としたら、ごく当然の所だし、おまけに見張っているのに都合がいい。ホールの反対側には、境のドアが開け放してあるので、図書室から見通しがきく。この図書室の壁には、金ぶちの小さな鏡が鉤《かぎ》でつるしてあり、少し前に傾いている。で、図書室の大きなひじかけ椅子を一つ動かし、わたしがドアに背を向けて腰かけると、鏡の中にホールの例の椅子が写っている、という寸法である。しかも椅子の高さにまで身をかがめ、図書室のドアから鏡をのぞかないかぎり、ホールからわたしの姿は絶対に見えない。いかに慎重な人物といえども、そんな真似はしないはずだ。
わたしは大急ぎで昼食を片づけると、テラスを出て図書室にむかい、ひじかけ椅子を所定の位置に移動させた。お膳立てがすむと、カメラを持ってきた。一分後、息を殺して腰をおろし、かたずをのんで待った。
客がつぎつぎにテラスを去りはじめた。
まず最初にフォーゲル夫妻がホールにやってくる。それからしばらく間《ま》があり、つぎにデュクロ氏が現われ、ひげについたパンくずをとりながら歩み去る。つづいてフランス人のカップル、ルウ氏とマルタン嬢、クランドンハートレイ少佐夫妻と若いアメリカ人兄妹。しんがりにシムラー氏が登場。わたしは息をつめた。もしカメラがすりかえられたら、もどされた自分のカメラを、まっさきに取ってしまわねばならぬ。
十分経過した。マントルピースの上の置き時計が、二時を打った。まばたき一つした瞬間にも何ごとか起こっては大変と、わたしは眼を大きくあけたまま、鏡を凝視していた。おかげで、涙が出てくる始末。二時を五分すぎる。と、一度窓の外をなにかが、あるいはだれかがサッと通りすぎたみたいに、なにやら黒い影が部屋を横切ったような気がした。だが、太陽は、ホテルの反対側から射しているのだから、はっきりしたことはいえない。いずれにしろわたしは、影なんかよりも、はるかに手ごたえのあるものを待ちかまえているのだ。二時十分。
さすがにもう飽き飽きしてきた。どうやらわたしは机上の作戦に頼りすぎていたようだ、自分の推理に「もしも」が多すぎたわけだ。眼が緊張でうずきはじめる。視線もさだかではない。
と、わたしの背後のどこかで、かすかに何かがきしった。思わずわたしの視線は鏡に集中する。なにも変わりがない。
と、突然、わたしは椅子から跳びあがりざま、ホールの境目のドアにぶつかって行った。だが、間一髪、遅かった。わたしの手は閉まるドアに泳いだ。ドアが音を立てて閉まった。間髪入れず鍵がカチリとまわった。
あわててわたしは、ドアの把っ手をガチャガチャ動かしてみてから、血走った眼で室内を見まわした。窓。わたしは飛んで行くなり、掛け金《がね》をまさぐり、窓を開けた。わたしは気ちがいみたいになって花壇を二つ、踏みにじり、ホテルの入り口へ殺到した。
ホールには人ッ子ひとりなく、水を打ったように静まりかえっていた。わたしがカメラを置いておいた椅子には、なにもなかった。
罠はみごとに功を奏した。だが、まんまと罠にかかったのは、このわたしだった。わたしの身の潔白を裏書きしてくれる唯一の証拠物件を、ついにわたしは失ってしまったのである。
その日の午後、わたしは長い長い時間を、自分の部屋ですごした。そして、いまのわたしにできることといったら、レゼルヴ・ホテルからマルセイユへ直行し、ボーイか平《ひら》水夫にでもなって、東洋航路の貨物船にもぐりこむのが関の山だ、としきりに考えていた。
脱走の筋書きが全部できあがった。まず手はじめにケッヘのモーターボートを借用して、サン・ガシヤン西方の人気のない地点へ上陸する。それからボートの舵に錠をおろし、エンジンをかけたまま海へ流してから、わたしは陸路オーバーニュへ逃げる。そしてマルセイユ行きの汽車に乗る。
ところが、ここで、いくつかの難問にぶつかった。海へ流れた若者たちの話や、水夫に身をおとして航海しながら、船賃を稼ぎだした連中のことは、よく本やなにかでお目にかかる。なにもむずかしい資格がいるわけではないらしい。べつにロープがうまくつなげなくたっていいんだし、高いところにのぼれなくたっていい。仕事といったら、錨にペンキを塗りたくったり、デッキの錆《さ》びを落としたり、高級船員になにか命ぜられたらなんでも『はい、はい』といっていればすむ。そりゃあ、骨の折れる生活だし、ぐるりは海の荒くればかりだ。貨物船の堅パンにはゾウ虫がついているし、薄がゆのほかにはこれといって食べ物はない。喧嘩は拳骨で片がつき、腰から上は裸で働くのだ。もっとも、だれか一人ぐらいは、手風琴を持っていて、一日の仕事がすめば、合唱する。ま、余生は、この水夫生活をもとにして、本の一冊も書くか。
だが、わたしの場合も、こんなふうに話がうまくゆくだろうか? いや、どうもそうはゆきそうもないぞ。たぶん、ツイてないのだろうが、わたしがなにか計画すると、本の筋書きのようにスマートにいったためしがないのだ。
デッキの錆《さび》落としにしろ、高度の技術がいる仕事かもしれない。陸《おか》の人間が、そんな仕事はだれにだってできるなどと簡単に考えたら、それこそ水夫たちに笑われるにきまっている。それに欠員もないだろう。かりにあったとしても、ツーロン行きの沿岸航路の蒸気船かもしれない。また、出港の三月前には、警察から、出航許可証といったような厄介なものを、ちょうだいしなければならないかもしれぬ。あるいは、視力検査で、不合格になることも考えられる。それに、根っからの新米では、採用してくれないかもしれない。現実には障害がつきものなのだ。
わたしは煙草をふかしながら、自分の現在の立場をふたたび考えてみた。
一つだけはっきりしていることがある。それは、わたしが二度目のカメラをなくしたのを、ベガンに絶対に知らせてはならぬということだ。知らせたら最後、その場で再逮捕は間違いなし。なにしろ署長は有罪にしたくてウズウズしているんだからな。カメラという物的証拠がなければ、予審判事の前で、身の潔白を証明する機会も失われてしまうのだ。おれはなんという間抜けなのだ! 今こそ全力をあげて、自分自身のために謎を解かなくてはならない。死中に活を求めるのだ。シムラーが二個のカメラを持っているのを確かめねばならない。そして、なにがなんでも、ベガンを納得させる以外に手はない。打つべき手はただ一つ。シムラーの部屋を捜索するのだ。
だが、この作戦は、わたしをおびえさせた。もし捕まってみろ、現在のスパイ容疑のほかに、窃盗容疑のおまけがつくのだ。しかし捜索はしなくてはならぬ。しかも、成功する見込みがあるのだ。今やろうか? 心臓の早い鼓動を感じながら、わたしは腕時計を見た。もうすぐ三時だ。いま、シムラーがどこにいるか、その所在をまず確実につきとめねばならぬ。冷静、かつ沈着。この文句がわたしの気分をほぐしてくれた。冷静、かつ沈着。ヘソの下に力を入れろ。ゴム底の靴は? こいつは絶対必要。ピストルは? 馬鹿な! 第一、そんなものは持っていないし、たとえ持っているにしろ……懐中電灯は? 間抜け! まだ明るいぞ。そしてわたしは、シムラーの部屋の番号さえ知らないことに気がついた。
とたんに全身から力がぬけてしまった、そしてすぐに、そんな自分がたよりなくなった。わたしの感じたのが、当惑にしろ、安堵にしろ、シムラーの部屋の番号がわからないのは事実だと、いくら自分に言い聞かせてみてもしかたがなかった。すこしでも目先のきく人間なら、部屋の番号ぐらい、とっくにわかっているはずではないか、そこのところが問題なのだ。自分の身を守る手段がこんな間の抜けた調子なら――障害にぶつかって、かえってホッとするなどとは――やれやれ、神よ、助けたまえだ。
ま、テラスにおりて行ったときの、わたしの心理状態はこういうものだった。だれもいないといいな、と祈っていたのだが、そうは問屋がおろさなかった。テラスの片隅のデッキ・チェアーに腰をおろし、パイプをふかしながら本を読んでいるのは、なんとシムラーではないか。
やつの部屋の番号さえわかっていれば、今こそ捜索の絶好のチャンスなのだ。よほどわたしは、踵《きびす》をかえそうかと思った。だがわたしは、その場に釘づけになってしまった。むなしく指をくわえて絶好のチャンスをのがすのか。しかし、敵を知るために、やつを会話にひきずりこむのも悪くないぞ。つまるところ、敵の心を知ることこそ、すぐれた兵法の定石《じょうせき》なのだ。
しかし、シムラーの心を知ると簡単にいっても、さて、実行に移す段となると、頭で考えている以上にむずかしかった。わたしは、ヤナギの枝編みの安楽椅子を、敵のそばの日かげに移すと、腰をおろして、ヘエンと咳払いしてみた。
シムラーはパイプをくわえなおすと、本のページをめくった。わたしのほうには一瞥もくれない。
たしか、意中の人の後頭部を一心に凝視して、相手がふりむくようにおまじないをすればたちどころに念願がかなう、という話を聞いたことがある。わたしはシムラーの後頭部をみつめて、十分以上もおまじないをした。おかげで今も、彼の後頭部なら、人体測定学的にスケッチしてごらんにいれられる。しかし、わたしのおまじないは、さっぱり相手に通じなかった。そこで、なんとかして本のタイトルを見ようとした。それは、ニーチェの『悲劇の誕生』の原書だったが、図書室の本棚で見かけた数冊のドイツ語の本の中の一冊だった。わたしはニーチェと張り合うのはあきらめて、沖のほうに目をやった。
太陽は強烈だった。水平線のあたりは、灰色にもやっている。暑さで、石の手すりのあたりにかげろうがゆらめいている。庭では蝉《せみ》のコーラスだ。
一匹の大きなトンボが、花のついている蔓草《つるくさ》をひとめぐりし、それから樅《もみ》の木のてっぺんのほうへ舞いあがって行くのを、わたしは眺めていた。スパイのことで頭をいためているのには、もったいないような午後だ。いますぐにでもベガンに電話して、客のなかでだれとだれがカメラを所持してるか、その調査結果を報告しなくてはならぬのは百も承知していた。しかし、彼には余裕があるはずだ。そうだ、もうすこしあとになって、涼しくなってから、郵便局まで電話をかけに行けばいい。見た眼にも暑苦しそうな黒い服を着た例の刑事は、門の外の埃まみれのシュロの木蔭で、汗をかきかき、炭酸のレモネードを飲みたがっているだろう。わたしは、刑事が羨ましかった。心の平和が得られるものなら、わたしだって喜んで、暑い夏の日に黒い服を着て汗をかき、張り込みもすれば、見張りもする、炭酸のレモネードだって飲みたがるというものだ。なんてすばらしい人生だ! それにひきかえおれの人生ときたら、まるで罪人みたいにコソコソしていなくちゃならぬ。なにしろおれは見張られているほうだからな。
あのメアリー・スケルトンはわたしのことをどう思っているのだろう。たぶん、思うも思わないもないだろうな。かりに思ったとしても、お行儀のいい、外国語のよくできる生年ぐらいのところだろう。そういえば、わたしに聞こえないと思って、彼女がいった言葉を思いだした。『素敵な方』だって。本音は、好意のある冗談さ。ま、ホテルの相客に対しては適当なところだ。あのメアリー・スケルトンに関心をしめされれば、だれだっておどりあがってよろこぶさ。あの娘は兄を完全に理解している。これは、はっきりしている。兄のほうも妹を理解しているつもりでいることは間違いない。それは妹に対する青年の態度を見ればいい。だがメアリーのほうは……
と、そのときシムラーが本をパタンと閉じると、デッキ・チェアーの木の部分でパイプを軽くたたいた。
わたしは、この機を逸さなかった。
「ニーチェは」わたしが声をかけた、「こんな暑い日のお相手にはちょっとむきませんね」
シムラーはゆっくり顔をむけると、わたしをジロジロ見た。
そのこけた頬は、昨夜見たときよりも血色がよく、青い瞳にも苦悩のかげは消えていた。むしろもっとむきだしになった感情――疑惑の色がくっきり浮かんでいる。口もとの筋肉がギュッとひきしまるのが見えた。
彼はパイプにタバコを詰めはじめた。話しだしたときの彼の声は、ごく自然におちついたものだった。
「いや、あなたのおっしゃるとおりかもしれない。しかしわたしは、なにも話し相手を求めているのではありません」
これがほかのときだったら、こんな冷たい挨拶をかえされれば、わたしはみじめに黙りこむより手がなかったろう。だが、今はそんなことぐらいでへこたれるものか。
「ニーチェは現代でも読まれているんですか?」
ばかげた質問だった。
「読まれてはいけませんか?」
あっさり切り返されて、わたしはまごまごしてしまった。
「いいえ、べつにその――ただ、ニーチェはもう時代遅れだと、思ってたものですから」
シムラーはくわえていたパイプを口からはなすと、肩越しにわたしの顔を見つめた。
「いったいなんの話をしているのか、あなたにはわかっているのですか?」
わたしはあっさりカブトを脱いでしまった。
「じつは、まるっきりわからないんです。あなたとお話がしてみたかったものですから」
一瞬、彼はわたしの顔を穴のあくほど見つめたが、やがて彼の薄い唇に微笑が浮かんだ。すごく魅力的な微笑だったので、わたしもついつりこまれて、ニッコリ笑った。
「もう何年も前のことですが」とわたしはいった、「学生のころ、友人が、ニーチェの偉大なゆえんを、何時間もかかって説明してくれたものですよ。わたしは、ツァラトゥーストラに心酔していましたけど」
彼はパイプを口にくわえると大きく伸びをし、空に見入った。
「お友だちは間違ってましたね。ニーチェは偉大に|なり得たかもしれぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》人物なのですよ」彼は、膝の上の書物を人差し指で軽くはじいた。「この本は、ニーチェのごく初期のもので、偉大になり得る素質がありますね。ソクラテスをデカダンと診断するところなど、じつに型破りです。デカダンスの症状としての道徳! なんという着想でしょう。しかし、その二十年後に、ニーチェはなにを書いたと思いますね?」
わたしは黙っていた。
「自分で、若いころの自分の考え方をひどくヘーゲル的だと言いだしたのです。たしかに、そのとおりなのです。同一性は、単純、直截《ちょくせつ》な、いわば生命のない物体に対してだけの定義だ。しかし、矛盾はすべての運動や生命力の根源なのだ。ものはそれ自身の中に矛盾を有するかぎりにおいてのみ運動し、推進力と行動力を持つのです」シムラーは肩をすくめた。「しかし若き日のニーチェがヘーゲルの力を借りて認識したものを、晩年のニーチェは鼻で嘲笑したのです。年老いてニーチェは気がちがってしまったのですね」
シムラーの話には、とても歯がたたなかった。そこでわたしは、ぎごちなくいった。「あなたは水泳をなさらないようですね」
「泳ぎはやらないが、ま、お望みならロシア式玉突きでもしましょうか。たぶん、東欧じゃバガテルといってるんじゃないかね?」
まるで吐きだすような口調だった。彼は不可避の運命に対しても、しぶしぶ従うといった男の感じだ。
わたしたちはホテルの中に入った。
玉突き台はラウンジの片隅にあった。わたしたちは黙々としてやりはじめた。ものの十分もしないうちに、彼はあっさりわたしを負かしてしまった。とどめの一突きを終えると、シムラーは背を伸ばし、白い歯をむきだしてにやりと笑った。
「ま、あなたにはあまりおもしろくなかったでしょうな」彼がいった。「それに上手だとはいえないしね。どう、もう一ゲームしますか?」
わたしは微笑した。シムラーの態度はぶっきらぼうで、ひとかけらの愛想もなかったが、どこかこの男にはすごくあたたかいものがあった。わたしは、自分がこの男に親しみをもちたがっているのを感じた。おかげで、あやうく、シムラーが容疑者第一号なのを忘れるところだった。
わたしはもう一ゲームやりたいと申し出た。彼はスコアのダイアルをゼロにもどすと、キューにチョークをつけ、最初の一突きをしようと前こごみになった。窓の光が男の顔にさし、かなり高い頬骨を浮き彫りにし、先細りの頬を形づくり、そのひいでた顔をひときわ引きたてていた。画家なら、描かずにはいられないような美しい顔である。手も見事だった。大きいけれど、よく均斉がとれ、動きもしっかりして、正確である。キューを軽やかに握った右手の指は、左手の親指にかけたキューを自由にあやつった。シムラーが口をひらいたときも、眼は赤玉にそそがれたままだ。
「なにか警察とトラブルがあったそうですな?」
まるで時間でも聞くみたいな軽い口調でいうではないか。と、その瞬間、音がして玉が三つ、つづけざまに落ちた。
わたしもまた、なにくわぬ顔をよそおった。
「すごい! なに、ぼくの旅券のことで、ちょっと誤解がありましてね」
シムラーは玉の並べ方を変えようと、玉突き台を少しまわった。
「きみはユーゴ人じゃないのかな?」
こんどは玉が一つしか落ちない。
「ハンガリー人です」
「あ、そうか、トリアノン条約で?」
「ええ」
シムラーは、次の|一突き《ショット》で、ピンを倒してしまった。溜息をついている。
「いや、こうなるだろうと思ったよ。スコアは――ゼロか。さ、きみの番だ。ユーゴの話を聞かせてくれないかね」
わたしは玉突き台にかがみこんだ。このゲームは二人でできる。
「十年以上もユーゴにはよりつきませんよ。あなたはドイツ人ですね?」
点数は少ないが、わたしはどうやら赤玉をホールに入れた。
「その調子! だんだん上手になるぞ」しかしわたしの言葉には答えない。もう一度くいさがってやる。
「このごろはレジャーに外国へ行くようなドイツ人にめったに会いませんね」
わたしはまた、赤玉をホール・イン。
「すごい! いや、あざやかなものだ。ところできみ、いまなんと言いました?」
「このごろはレジャーに外国に行くドイツ人にめったに会わないっていったんですよ」
「ふうん? だけどわたしには関係ないね。わたしはバーゼルからきたんだから」
嘘もいいところだ。思わず興奮してしまって、わたしは手玉を的《まと》だまに当てずにホールへ入れてしまう始末。
「運が悪かったね。チョークはどこ?」
わたしは無言でチョークを手わたした。キューにていねいにチョークをつけると、彼はまた、プレーにかかった。スコアがみるみるうちにあがって行く。
「いま、どのくらいになったかな?」しばらくして彼が呟《つぶや》いた。「六十四?」
「ええ」
彼はあらためて玉突き台にかがみこむ。
「ドイツをよく知ってるかね、ヴァダシー君?」
「一度も行ったことはないんですよ」
「ぜひ行ってみたまえ。ドイツ人は、なかなかいいぞ」赤玉が、あとひと息で高い点数を稼ぐところでむなしくとまってしまった。「ああ、力及ばず。六十四か」シムラーは背中を伸ばした。「きみはなかなかドイツ語がうまいね、ヴァダシー君。まるで何年もドイツに住んでいたみたいだよ」
「ブダペスト大学では、ほとんどドイツ語で話してましたからね。それに語学教師ですもの」
「そうなの? さ、きみの番だ」
わたしは突いた。しかしかんばしくなかった。頭をゲームに集中できなかったのだ。三回もピンを倒す|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》だ。一度なんか、みごとに空突きだった。いろんな疑惑が、胸の中で渦巻いた。この男は、わたしから何を聞きだそうとしているのか? 今までのやつの質問だって、なかなかの〈くせもの〉だ。その狙いはなんだろう? わたしが、あの機密写真を故意にとったとでも、疑っているのだろうか? さまざまの答えの得られぬ疑問のなかに、この男はスパイではありえないという考えもまじっていた。このシムラーには、そんな疑いがばかばかしくなるような雰囲気がある。気品のようなものがあるのだ。それに、スパイがヘーゲルの哲学を引用するかな? ニーチェなんか読むだろうか? シムラーなら、「スパイだと読んじゃいけないのかね?」とでも言いそうだ。なに、いっこうにかまわないじゃないか。すると、こういう質問も成り立つわけだ。「スパイは良い亭主になれるか?」良い亭主になって、なにが悪い? どうしていけないのだ?
「さあ、きみの番だよ」
「あ、すみません。ほかのことを考えていたものですから」
「なるほど」彼はかすかに笑った。「どうやら玉突きは、きみのお歯に合わないらしいな。よすとするか?」
「いや、もういいんです。うっかり忘れてたことを思いだしましたから」
「重要な仕事でなければいいが」
「なに、ほんのつまらないことですよ」
だが、実は重要なことだった。いますぐにでもベガンに電話して、平あやまりにあやまり、まんまとカメラをしてやられた顛末《てんまつ》を説明しなければならない。そして、このあいだ、警察がわたしの部屋を捜索したように、シムラーの部屋も捜索してくれと頼むのだ。とにかくやつは偽名を使っているのだから、捜索の口実にはこと欠かぬはずだ。それにしても、どんな些細なことでもいい、具体的な証拠が欲しいものだ。カメラとシムラーの関係を裏づけてくれるものか、あるいはわたしが、見当はずれのところを探っているのではないという、納得のいくような証拠があればどんなにいいだろう。一か八か、思い切って危険を冒してみるか? シムラーがカメラを持っているかどうか、ズバリ当たってみるか? そうしたって、これ以上面倒なことにはなるまい。図書室のドアを手荒く閉めて、二つ目のカメラを失敬した人物なら、この事件とわたしの関係を知っていることは、火を見るよりもあきらかだ。
わたしは玉を突く。一度に二つ、ホールにはいった。
「こいつはまぐれ当たりですよ」わたしがいった。
「どういたしまして」
「ぼくには」次の|一突き《ショット》をしようと、玉突き台をまわりながら、言葉をつづけた、「道楽が一つあるんですよ」
わたしは失敗し、彼の番にかわった。
「なんです?」
「写真なんですよ」
シムラーはキューの先に目を細める。
「それはけっこう」
ここでわたしは運命を決する重大な質問を放ってから、ジッと相手の顔を読んだ。
「カメラを持ってますか?」
シムラーはかがみこんでいたからだをゆっくり起こすと、わたしをみつめた。
「ヴァダシー君、ぼくが、この一突きをするあいだは、話しかけないでくれたまえ。いま、むずかしいところなんだ。いいかね、そこのクッションにあてて、まず白玉をかすり、その勢いでもう一つクッションにあててから、赤玉をホールに入れて、最高点というわけだ。この白玉が五点をかせぐんだよ」
「どうもすみません」
「そいつは、こっちのせりふさ。このばかげたゲームが病みつきでね。いや、まったく反社会的なゲームだ。ま、麻薬みたいなものでね。なにしろ思考力を喪失するんだ。なにか考えだしたら最後、プレーがガタッとくる。わたしがカメラを持ってるかって? そんなものは持ってないな。いつごろカメラを持ってたか、まったく思いだせないくらいだよ。こんな返事をするのに、べつに頭を使うわけじゃないが、気が散ると、いっぺんで呼吸が乱れてしまうのだ。こんどばかりは失敗するぞ」
シムラーが、ひどくもったいぶった口調でいった。あたかも全世界の運命が、この|一突き《ショット》の成否にかかっているみたいだ。もっとも、その表情豊かな眼には、冷笑の光があった。わたしには、その冷笑の理由がのみこめるような気がした。
「それじゃぼくは」わたしがいった。「玉突きなんかとても駄目ですね」
しかし、シムラーはふたたび玉突き台にかがみこんでいた。と、ややあってからカチッカチッと軽い音がしたかと思うと、二つの玉がこころよいひびきを立てて、ホールにころがりこんだ。
「大勝利!」と声がかかった。
振り向くと、支配人のケッヘだった。
「大勝利か」シムラーが口のなかで呟いた、「べつに戦争しているわけじゃないよ。このヴァダシー君はね、我慢しいしいわたしとつきあってくれたのだ。どうやら玉突きは、ヴァダシー君のお気に召さなかったようだ」
わたしには、どうも二人が意味あり気な目くばせをかわしたような気がする。それにしてもシムラーは、『戦争』なんて場ちがいな言葉を使って、何が言いたかったのだろう? わたしは追いかけるようにして、そんなことはない、玉突きはとてもおもしろかったと、シムラーの言葉を打ち消した。明日もまた、お相手をおねがいしますよ。
シムラーは、ただ、お義理でうなずいてみせただけだった。
「ハインバーガー氏はね」支配人のケッヘが陽気な口調でいった、「ロシア式玉突きではエキスパートでしてね」
しかし、雰囲気が妙なぐあいに変わってきた。二人が、わたしが出て行くのをジリジリしながら待っているのはあきらかだった。わたしはわざと、いとも優雅に別れの挨拶をやってやった。
「このかたがエキスパートだということは、とうにわかっていましたよ。ではこれで失礼させていただきますか? 村まで行く用事があるものですから」
「さ、どうぞ、どうぞ」
二人は立ちはだかったまま、わたしが出て行くのを見送っていた。わたしの耳に話し声がとどかなくなるくらいまで、やつらはきっと一言も話さないにちがいない。
わたしがホールを通り抜けたとき、ちょうどクランドンハートレイ少佐夫妻が階段をのぼってくるところだった。わたしは小声で挨拶したが、どちらも無言のままだった。夫妻のようすがどこか変だし、まるで石のように黙っているのが気になって、わたしは思わず足をとめ、ちらりと見あげた。階段のてっぺんで夫妻が曲がるとき、夫人がハンカチを顔に当てるのがわかった。あのクランドンハートレイ夫人が泣いている? そんな馬鹿な。ああいうタイプのイギリス婦人が人目のあるところで泣くなんて。たぶん、眼になにかはいったんだ。わたしはそのまま歩み去った。
門の所でわたしを見張っていたのは、交替した別の刑事だった。新顔の刑事は、浅い麦藁帽子をかぶった、背の低い、見るからにがっちりした男で、郵便局まで行くわたしの背後からついてきた。
ベガンには、すぐ電話が通じた。
「やあ、ヴァダシーか? カメラの調べは片づいたかね?」
「はい。しかし、シムラーの件ですが」
「いま、忙しいんだ。カメラの話だけにしてくれないか」
わたしは彼が書き取れるように、リストをゆっくり読みはじめた。ベガンはいらいらして鼻を鳴らした。
「おい、もっと急いでくれよ。一日中話してるわけにゃいかんし、それに通話料も高くつくぞ」
思わずカッとして、わたしはすごい早口でリストをまくしたててやった。なんだ、通話料を払うのはこのわたしで、彼ではないのだ。まったく手のつけられない男だ。わたしは一気にリストをまくしたててやったが、きっともう一度繰り返せといわれるものと覚悟していた。ところが、すっかり当てがはずれた。
「よろしい! で、カメラを持っていない三人というのは?」
「シムラー、つまりハインバーガーと名乗っている男のことですが、やつにはじかにあたってみました。持ってないそうです。イギリス人の少佐夫妻のほうは、まだ調べる機会がありません。だけど、この夫婦は、双眼鏡を持ってますよ」
「なにをだと?」
「双眼鏡です」
「そんなものは問題じゃないよ。とにかくきみはカメラのことだけ念頭にあればいい。ほかに報告することは?」
一瞬、わたしはためらった。思いきって切りだすのは、今しかないのだが……
「もしもし、ヴァダシー。聞いてるか?」
「はい」
「おい、グズグズするなよ、さ、ほかに報告することは?」
「ありません」
「よし。では明朝、いつものように署長に電話すること」彼は電話を切った。
わたしは鉛のような重い心をいだいてレゼルヴ・ホテルにひきかえした。なんて馬鹿なんだ、おれは。小心で卑怯な馬鹿者め。
すごい暑さで、シャツが身体にベトベトにくっついてしまった。わたしは着替えをしようと、自分の部屋へ行った。
たしかに鍵は、わたしがいれておいたと同じ鍵穴にあった。しかし、ドアはきっちり閉まっていないではないか。把っ手にちょっと手をかけると、掛け金がカチリと音を立てて、ドアはすこしあいてしまう。わたしは部屋の中へ入るなり、ベッドの下からスーツ・ケースをひきずりだした。
ある一つのことに気づきさえしなければ、十中八九までわたしは普段と変わった点など見いだせなかったろう。ある一つのことというのは、スーツ・ケースの止め金を一つしかかけないというわたしの習慣のことだ。ところがどうだ、両方の止め金がかかっているではないか。
わたしは止め金をはずして、中をあらためた。
これが普段なら、シャツが少々乱れていたくらいでは、なんとも思わないはずだ。だが、この時ばかりは、パッと立ちあがるなり、チェストの所にとんで行った。一見、異常はなかった。だが、いちばん上の引き出しの隅に重ねてあるハンカチが、わたしの眼をとらえた。色糸の縁どりのあるハンカチは一枚しかない。わたしは、いつもそのハンカチをいちばん下にしまっておいたのだ。これがいちばん上にのっているではないか。わたしは部屋の中をぐるりと見まわした。ベッドの上の掛けぶとんの端が、敷きぶとんの下にはさまっている。ホテルの女中ならこんな真似をするはずがない。
火を見るよりあきらかだった。なにものかが、部屋も、わたしの所持品も調べたのだ。
自分の所持品が調べられたと感づいたときの気持ちは、身ぶるいが出るほどいやなものだ。
そうとわかったとたん、なによりも、まっさきに怒りが爆発した。なにものか得体《えたい》の知れぬ人間の手で、わたしのスーツ・ケースが開けられ、そいつに中身をジロジロ見られ、まさぐられるなどと、まったく身の毛のよだつような話だ。それにしても、スーツ・ケースに止め金をかけてさえなければ、わたしはまるっきり怪しみもしなかったことだろう。ああ、憎いのはそれなんだ! 頭にくるのは、まさにそこなんだ。ひとの所持品をこっそりとのぞいたり、かきまわしたりしたのも腹にすえかねるが、それよりも敵が、わたしなんかに気づかれっこないと|たか《ヽヽ》をくくって、ごていねいにもスーツ・ケースの止め金を二つもかけて行ったとは。うすばかめ! 止め金が一つしかかかってないのに、敵はちゃんと気づくべきなんだ。それに、チェストの引き出しの中には、白無地のハンカチがいちばん上になっていたことにも注意をはらうべきだったんだ。気のきかない真抜けめ!
わたしはチェストの引出しまで行って、ハンカチを元のように重ねなおした。スーツ・ケースにも一つだけ止め金をかけた。ベッドの掛けぶとんもなおした。これで少しは気分もおさまり、わたしは椅子に腰をおろした。ひとの部屋をさんざんかきまわしておいて、なに一つとらない人間なんて、スパイ以外にはあるまい。もしスパイが自分のカメラを取りもどして、肝心のフィルムがなかったと知れば、こんどはわたしの部屋を探す気を起こすのが理の当然というものだ。理の当然? そうだ、敵は、わたしが見張っているのを図書室の窓から見たんだな。そしてわたしが罠をしかけている以上、わたしがフィルムを現像して、やつの写真がただものではないことに気づいたものと、敵はにらんだにちがいないのだ。と、そのとき、わたしはニースで写して、まだ現像していないフィルムを二本、スーツ・ケースの底にしまっておいたのを、フッと思いだした。そうだ、わたしはそのフィルムが無事にあるかどうか、たしかめるのをうっかりしていたのだ。わたしはまたスーツ・ケースを引きずりだすと、慎重に調べた。フィルムは二本とも、なくなっていた。あきらかにスパイは、計画的に行動しているのだ。今後は、このことを充分頭に入れておいたほうがいいぞ。
もしわたしがもうすこし早く部屋にもどってきて、敵の現場が押えられたらなあ。わたしは、そのシーンをいろいろ想像してみて、ちょっとのあいだ、愉しんだ。ベガンにスパイを引きわたすなんて、朝めし前だ、といったぐあいである。わたしは、ひざまずいて泣いている卑劣漢をひきずりだして、張りこんでいる刑事の手にゆだねるところを心に描いた。
このわたしの想像のなかに出てくるスパイが、シムラーでないことに気づくと、自分でもいささかびっくりした。それは、支配人のケッヘでさえなかった。レゼルヴ・ホテルの滞在客のだれでもないのだ。それは、いかにも悪党|面《づら》した、復讐心にもえたネズミのような男、尻のポケットに連発ピストル、内ポケットにはナイフ。ひとつとして取りえのない虫けらみたいなやつ。――そいつをスパイに使っている連中からさえ|はな《ヽヽ》もひっかけられないような、小ずるくて陰険な男だった。
いやほんとうに、これほどはっきり自分の無能ぶりを示すものはないと、われながら苦々しく思った。いうところなしだ! 十二人の宿泊客のうちで、だれがわたしの部屋をかきまわしたのか、その犯人を割りだそうとするどころか、まるで雲をつかむような十三人目の架空の悪漢を、創造するのに大わらわだったんだからな。これじゃ、失敗するのが当り前さ。
「よし」わたしは声にだしていった、「おまえの頭に叩きこむんだ。いいか、このスパイ、つまり、あの写真とおまえの命から二番目のカメラをとった男、あるいは女。図書室の窓越しにおまえを見て、そこにおまえを無力な痴《し》れ者のごとく閉じこめ、そのあいだに椅子からカメラを持ち去った人物。おのが機密写真を求めておまえの部屋に忍びこみ、所持品をさんざん探しまわった人物。そやつこそ実在の人物、ピンピン生きている、その辺にいる、ごくありふれた人間の一人なんだ。そいつは見るからにスパイみたいな顔をしているんじゃないぞ、どあほう! 悪党面でもなければ、尻のポケットに連発ピストルもつっこんでいやしない。ごく普通の人間なんだ。ひょっとしたら、デュクロ老人のように白い顎ひげを生やしているかもしれないし、ルウみたいに出目金かもしれない。あのシムラーみたいにヘーゲルの哲学を引用したり、支配人のケッヘのように眠そうな顔してるかもわからないんだ。それからスパイが女なら、クランドンハートレイ少佐夫人のように、いやにお高くとまっていてパサパサしたご婦人かもしれないし、あのアメリカ娘のメアリー・スケルトンのようにピチピチしていて、すごくチャーミングな女性ともかぎらない。フォーゲル夫人みたいに大声をたてて笑ったり、マルタン嬢のように恋愛中ってなこともあるだろう。フォーゲル氏みたいな太っちょも、クランドンハートレイ少佐みたいな痩せっぽちも、あるいはウォレン・スケルトンみたいにたくましく日焼けした男かもしれない。愛国者か裏切り者か、ぺてん師か正直者か、あるいはその両方がまじりあっているか。老人か、若者か。女だったら、黒髪か金髪か、インテリか無知か、金持ちか貧乏か。スパイがどんな人間だろうと、いいか、能なしのうすばかめ、おまえがここでじっと坐ってちゃ、なんにもならないんだぞ」
わたしは椅子から立ちあがり、窓の外を見た。
ちょうどスケルトン兄妹が海岸からあがってきて、下のテラスのテーブルに坐ったところだった。とぎれとぎれに二人の話し声が聞こえる。ウォレンが一度声をあげて笑い、それからまるでナポレオン一世みたいにもったいぶった。妹がはげしく|かぶり《ヽヽヽ》を振った。あの兄妹は、いったいどんな話をしているのかしらと、わたしは漠然と思った。そうだ、もし二人が、午後のあいだずっと海岸にいたのなら、何人かの客のアリバイがわかるかもしれないぞ。なぜなら、わたしの部屋が捜索されたのは、わたしがシムラーといっしょにいたあいだか、または、ベガンに電話しに村へ行っていたあいだとしか考えられないからである。たぶん、電話しに行ったあいだだろう。きっとわたしがホテルを出るところを、敵に見られたのだ。わたしがシムラーの部屋の捜索を計画していたその同じ時刻に、やつもこっちの部屋の捜索を練っていたのかもしれないぞ。ちょっとした皮肉じゃないか。するとシムラーは、わたしの部屋の番号を知っていたことになる。もっともわたしのスーツ・ケースに止め金を一つかける代わりに、二つもかけたのがシムラーだとしたらだが。たぶん、そのときのやつの顔は、ニーチェの『悲劇の誕生』なんかで一杯だったものだから、そんなヘマをしたんだ。いや、家捜《やさが》ししたのは支配人のケッヘかもしれないぞ、あるいは、フォーゲル氏かデュクロ老人、それとも……
もう、この日は金曜日だった。出発までにあと一日しかないというのに、わたしはまだ胸をおどらせたり、疑心暗鬼になったり、いたずらに名前をつらねてはつぶやいている始末――「ケッヘ、シムラー、フォーゲル氏、デュクロ氏」――こうしてむなしく時が過ぎて行くのにまかせたまま、ただあれこれと心の中で思うだけで、ただ手をこまねいている。行動が先決だ。なにかしなければならぬ。それも急いでだ。
わたしは部屋を出ると、すごく慎重にドアの鍵をかけてから、その鍵をポケットにしまった。人間、せっぱつまると、ユーモアのセンスにあふれたうまい手が思いうかぶものだ。
わたしはゆっくりと下のテラスへおりて行った。スケルトン兄妹はまだおしゃべりの最中だったが、わたしがそばまで行くと、二人は顔をあげた。と、意外なことに兄妹は歓呼をあげて、わたしをむかえてくれた。
「やあ、さっきからお待ちしてたんですよ」兄がわたしに近づくなり、わたしの腕をとって、探るような眼で見つめた。「もう聞きましたか?」
「いったい、なんのことです?」
青年はわたしの腕をはなしもしないで、そのまま自分たちのテーブルへつれて行った。
「まだ聞いてないんだって」彼はいかにも満足そうに妹に告げた。
「あら、まだ聞いてないんですって?」妹が嬉々《きき》として応じた。そして彼女は立ちあがるなり、わたしのもう一方の腕をとった。「ヴァダシーさん、さ、おかけになって、話を聞いてくださいな」
「今週の大事件!」兄が口を入れた。
「まるで嘘みたいな話なんですの」
「おまえが話すかい、それともぼくかい?」
「兄さんから話してよ。あたしは、クライマックスをね」
と、だしぬけに、スケルトンがわたしを椅子に押しこむなり、鼻先にタバコの箱を突きつけた。
「一服やると神経がしずまりますよ」
「だどまた、なんだって?……」
「あ、マッチ?」
わたしは煙草に火をつけた。
「あのね」妹が熱心な調子で口をはさむ、「どうかあたしたちのこと、クレイジーだなんてお思いにならないでね。じつは今日の午後、あたしたち、とても妙な事件をこの眼で見てしまったんですの……」
「ありゃあ、あなただってきもをつぶしますよ」兄が助太刀《すけだち》をして、「おまけに、この話をだれかにしてやりたくて、ムズムズしてたんですよ。ヴァダシーさん、あなたという聞き手があらわれて、ほんとにたすかった」
しかたがないので、わたしは弱々しく微笑した。どうも少し厄介な目にあいそうだぞ、とわたしは思いはじめたのだ。
「あなたがお話を聞いてくださらなくちゃ」妹が鼻をならしていった、「兄さん、がっかりしてしまいますわ」
「さあ、事件の話にはいりますよ」兄がいった。「ヴァダシーさん、今朝やってきたヨット、知ってますね?」
「ええ」
「イタリアのヨットですってね」
「ほほう?」
「ぼくたち、今日の午後、何人かの人たちといっしょに、海岸へ行ってました。スイス人夫妻にフランス人の例のアベック、それに白い顎ひげのご老体といった連中です。それから少したってイギリス人少佐夫妻もやってきましてね」
「もっと先をいそいで!」妹が声をあげる。
「そうせかせるなよ! ヴァダシーさんのために、あのときの情況を、再現したいんだよ。ま、こういったぐあいでしてね。少佐夫妻は他の連中より一足遅れてやってきたのです。今日の正午ときたら、うだるような暑さでしたからね。昼食に若鶏のクリーム煮が出たせいもあったりして、食後はみんなぐったりして、椅子にもたれてウトウトしてたんですよ。と、そんなところへ、椅子がこわれてるのどうのという少佐の声がしたものですから、夫妻がやってきたことがわかったんです」
「ええ、そうなの」妹が割ってはいった、「少佐夫妻は右側の近くに坐ったものですから、あたしたちの目と鼻のところでしょう、なにからなにまでよく見えますの。それで……」
「おだまり」兄がいった。「おまえが、しゃべったんじゃ、迫力がなくなるよ。じきにおまえの番になるからな。ヴァダシーさん、いま、お話ししたように、ぼくたちみんなでそこに坐りながら、もっと暑くなるだろうかとか、いささか食べすぎたんじゃないかなどと考えていたんですが、そのとき、スイス人の奥さんがご亭主になにかいったんです。ほら、いつものやつですよ。なに、言葉がわからなくたって、調子でわかることがありますね。で、ぼくが眼を開けると、スイス人夫妻は、入り江のほうを見てるんです。ぼくもそっちを見ると、ヨットからボートがおろされ、水夫がそいつを漕いで舷門にまわるところなんですよ。その舷門から、ヨット帽に白い綾織《あやおり》の木綿の服を着た男がおりてきました。肉づきのいい、ふとった男でしたが、いとも身軽にヒラリッとボートに飛び移りましてね。すると水夫は、海岸目指して、ボートを漕ぎだしました。ええ、この光景を見て、みんな活気づきましてね。きっと、若鶏のクリーム煮の消化どころではなくなったからですよ。そしてガヤガヤしゃべりだしたんです」ここで青年は思いいれもよろしく指を一本振ってみせた。「それからさき、どのような運命が待ちぶせているか、だれひとりわかっちゃいなかったんですよ
「ところがもうすでに」だしぬけに妹が口をはさんだ、「事態は紛糾《ふんきゅう》しつつあったんですの、なぜって、突然イギリス人の少佐夫妻がしゃべりだしたんですから。それが妙なことに、イタリア語で話しているんです。もっと変だと思ったのは、ほとんど夫人ばかりがしゃべりまくっていて、しかも、夫人はずっとボートを指さしてるんです。で、少佐もボートを見て、話しだしましたわ。どうやら夫人の言い分に反対らしく、少佐は頭を横にふりながら、女の子の名前のような発音、ケイというような言葉を口にしてました。夫人にはそれが気に入らないらしく、また、近づいてくるボートを指さしました。でもそのときは、ボートがもう十二ヤードほどのところにきていましたわ。ヨット帽の男が、岩に出ている鉄の輪に引っかけようと、爪竿《つめざお》を持って立っています。そのときでした。夫人が突然叫び声をあげました。彼女はなにやらわめきながら、水際までいちもくさんに駆けておりて行き、ボートの男に手をふるのです」
「と、同時に、爪竿を手にしている男も、夫人を見ました。そして興奮のあまり、ボートから落ちそうになったくらい」とウォレン・スケルトンが話に割ってはいった。「男が叫びましたよ、『マリア!』ってね。ぼくにはイタリア語がわからないから、いったい二人がどんなことを話してたか説明できませんけどね、でも水をへだてたボートごしに、なにやら夢中でしゃべりあっていました。やがて男は上陸用の岩にボートをつけると、ヒラリッと浜にとびおりたんです」
「そこで」妹がいった、「男はさっと腕をだして、夫人を抱きしめると、二、三度キスするじゃありませんか。はた目にも、二人の仲が深いってことがはっきりわかるくらい。あたしなら、あんな男に一度だってキスされたくないわ。だって肥ってるし、それに帽子をとったとき見たら、いやに短く髪を刈っているものだから、頭がまるでうすぎたない灰色の卵みたいなんですもの。それにのどの皮ときたら、たるんでいるし。わたし、のどの皮がだぶついている男なんて、いちばんきらいですわ。それにしても、わたしがびっくりしたのは夫人の態度ですの。それまでというものは、あの奥さん、ただの一言だって話さなかったくせに、まるで学校から帰ってきた子供みたいにペチャクチャしゃべるし、顔じゅうにヒビがはいるのじゃないかと思われるくらいに、ニコニコしどおしなのよ。こんなところで、ダブダブ氏に会えるなんて、夢にも思わなかったんだわ、ま、奥さんにとって、よろこばしき驚き、といったところね。ダブダブ氏はヨットを指さして、『どうだい、すごいだろう』とでもいうように自分の胸を得意気にたたいていましたわ。奥さんはホテルのほうを指さして、あそこに泊まっているとでもいったのでしょう。それからまた、抱きあったり、キスしたり。浜辺にいた連中は、みくなお芝居でも見るみたいにすっかりたのしんじゃったわ」
「みんなといってもね」兄が言い足した、「少佐をのぞいてですよ。さすがに少佐は仏頂面をしてました。いや、ああいうのを、苦虫をかみつぶした顔っていうんでしょうね。二度目の熱烈なラブ・シーンがはじまると、少佐は椅子からおもむろに身を起こして、二人のほうへ歩みよったのです。少佐はしずかに歩いて行っただけですが、なにかこう、殺気みたいなものが感じられましたよ。スイス人夫妻は白い顎ひげのフランス人と、さっきからしゃべりあっていたんですが、それが三人とも、ピタッと口を閉じてしまいましてね。波の音さえしなければ、砂の上にピンが落ちても聞こえるほど、あたりは無気味にしずまりかえりました。しかし、何ごとも起こりませんでしたよ――このとき、ダブダブ氏は視線をあげて少佐の顔を見ると、白い歯をむきだしてニヤリと笑いました。たがいに面識はあるようでしたが、相手を軽蔑しあっているようにも見えます。二人が握手しているあいだも、ダブダブ氏はずっと薄笑いを浮かべどおしでしたが、夫人ときたらまるで消化剤でもかけられたみたいに、いつもの味もそっけもない顔にもどってしまいました。それから三人は、なにやら静かに話しだしました。ま、この辺でお芝居も幕切れか、と連中の大半は思ったらしいのですが、ぼくはなおも観察しつづけましたよ。これでもぼくは、人間性の研究をしている学徒ですからね。人類に対する真の研究はなまの人間にあり、というのが、ぼくのモットーなんです」
「ね、後生《ごしょう》だから」妹がさえぎった。「道草をくわないで。ヴァダシーさん、兄が言いたいのはね、三人とも、いろんな話はしていたけれど、いちばん話したいことにはふれずにいたらしいってことなんですわ」
「それも」兄が割ってはいった、「だれかが思い切って切りだすまでのことですがね。もっとも、最後の大詰めまでは、ちょっと間《ま》がありましたよ。そりゃあぼくだって、だんだん退屈してきましたよ。と、そのとき、だしぬけに三人が、いや、そのうちの男二人ですけど、高い声をだしはじめたのです。遠くから聞くイタリア語って、まったくおかしなものですね――まるで、自動車の気化器がつまったみたいな音ですよ。と、だれかが急にアクセルを踏んだ。ダブダブ氏は烈火のごとく怒ってまくしたてて、少佐の顔に手をあげました。少佐は顔面蒼白です。そこでダブダブ氏は思いとどまると、勝負はついたといわんばかりに、なかば背をむけました。しかし、そのときダブダブ氏は小憎らしい捨て台詞《ぜりふ》を思いついたにちがいありません、少佐のほうにクルリとまた向きなおると、なにかいうなり、頭をのけぞらせて高笑いしたんですよ。
と、その瞬間、少佐がこぶしを固め、腕をグイッと引くのをぼくは見ました。だれかが叫んだ――きっと、あのフランス人の若い女だったと思います――少佐はものすごいパンチを相手のみぞおちにぶちかましました。あなたもその場にいればよかったのに、じつにみごとなボディ・ブローでしたよ。ダブダブ氏は口をあんぐり開けたまま笑いをやめ、風呂の水が引くような声をだしましたっけ。それから、ヨタヨタと一歩さがると、空気がぬけたみたいに砂の上にへたりこんでしまいました。ちょうどそこへ、波がうちよせてきましてね。クランドンハートレイ夫人は絹をさくような金切り声をあげると、少佐のほうに向きなおって、イタリア語でわめきだしました。少佐はひどく咳こんでいました。止まりそうもありません。むろん、そのときにはぼくたち野次馬も、その場に駆けつけていました。ボートに乗っていた水夫もパッととびおりて、ダブダブ氏を介抱している若いフランス人を助けようと、水の中をバチャバチャしぶきをあげてやってきました。そのあいだに、スイス人のご亭主とぼくは、少佐をおさえつけていたのです。スイス人の奥さんとフランス人の若い女性、それに妹のメアリーで、少佐夫人をかこむという騒ぎ。白い顎ひげのフランス人の老人ときたら、なんたることだ、と言いながら、やたらととびまわっている始末。もっとも、わたしたちにできることといったらあまりなかったのですよ、だって、少佐は咳こみっぱなしで、そのあいまあいまに、『豚め!』とあえぐばかりですし、少佐夫人はヒイヒイ泣きだして、下手くそな英語で、ああ、どうしましょう、どうしましょう、うちの夫は気ちがい狼だ、とわめきどおし。もっともぼくには少佐が気ちがい狼だなんて、とても見えませんでしたけどね。ダブダブ氏は息をふきかえすと、こぶしを震わせながらイタリア語でがなり立て、ズブ濡れのズボンのまま、ボートへヨタヨタと戻って行きましたよ。少佐の咳もようやく止まり、少佐夫妻はいつもの取りすました顔にもどって階段をのぼって行きました。こんなおもしろい事件を見のがすなんて、あなた、残念じゃありませんか?」
「ヴァダシーさんならイタリア語の話の内容もすっかり通訳してくだされたのにね」妹がさもくちおしそうにいう。
しかしわたしは、兄妹の話をあまり気にとめていなかった。わたしは熱心に身を乗りだした。
「この事件は、何時ごろ起こったのですか?」
兄妹は、この質問に、がっかりしたような顔をした。きっとわたしに、いまの話の真価がわかっていないと、二人は思ったのだ。
「さあ、そんなことよく覚えていないけど」スケルトンがイライラしていった、「三時半ごろだったかな。でも、どうしてですか?」
「連中は夕方までずっと浜辺にいたんですか?」
青年はじれったそうに肩をすくめた。
「そんなこと、わかるもんですか。なにしろ人の出入りがはげしかったしね。事件の興奮がおさまると、一人か二人、水着に着替えに上へ行ったのもいますよ」
「名探偵、手がかりをつかむ、といったところね」と妹がいった。「さ、ヴァダシーさん、お考えになっていることを話して」
「べつに、話すことなんか、なにもありませんよ」わたしは蚊《か》の鳴くような声で答えた。「郵便局へ行こうと思ってホテルの階段をおりてきたときに、下からあがってくるクランドンハートレイ少佐夫妻とすれちがったのですよ。夫人はハンカチを眼に当てていましてね。きっと泣いていたんでしょうな」
「ああ、よかった! 事件の真相を、あなたがつかんでしまったのかと思って、わたし心配していたの。あなたにまだわからないなら、ほんとにうれしいわ。だってあたし、すばらしい推理を立てたんですもの」
「ぼくたち兄妹で、すごい謎解きをしたんですよ」兄がおぎなった。
「そうよ、あたしたち二人でね。ねえ、ヴァダシーさん、こういう推理ですの。いまから一《ひと》昔まえのこと、クランドンハートレイ夫人は南イタリアの――ほら、バロックふうの白壁の農家が建ち並び、下水道もないような小さな村に、お百姓の両親といっしょに住んでいました。彼女は、やはりお百姓の息子で、そのころはいまとちがって若くてハンサムな、あのダブダブ氏は婚約していたのです。ところが、ある日、傲慢不遜《ごうまんふそん》な少佐殿が口髭をひねりひねり、この村へやってきたというわけ。よくある話だと思ったら、とめてくださいね。さて、何が起こったでしょうか? 少佐は、都会ふうな口のうまさと、特別あつらえのスマートな軍服とで、単純な百姓娘をポーッとさせてしまったのです。つまり、大ロマンスを要約すると、少佐は、彼女をはなやかな都会へ連れだして、結婚したのです」
「待った!」スケルトンがいった。「彼女と結婚するところは、筋書きになかったぜ」
「だって、ちゃんと結婚してるじゃないの。たぶん、彼女だってそれほど単純じゃなかったのかもよ」
「わかった。さ、その先を」
「歳月はめぐりめぐって」彼女はわたしたちに、さも自信ありげな微笑を浮かべた。「一方、幻滅の悲哀に打ちひしがれた若きダブダブ氏は――そのおかげで、あんな顔つきになってしまったのですが――働きぬいて成功したのです。貧苦のどん底から出発した彼は、やみくもに働き、働き、今や、イタリアでは名うての悪徳弁護士になりあがったのです」
「どうもぼくは」共同執筆者が口をはさんだ、「幕切れがまずかったと思うんですよ。殴ったのがダブダブ氏で、ズボンが腰までズブ濡れになったのが少佐だったら、辻褄《つじつま》があうんですがね」
妹は思案深げな表情。
「まあね」彼女はわたしを見つめて、「きっとあたしたちのこと、ずいぶんくだらないとお思いでしょうね。だけど、すごく不愉快な出来ごとだったから、冗談でもいって笑いとばしてしまわなければ、やり切れなかったんですの」
わたしはどういっていいか、わからなかった。
「もうヨットは出て行ってしまったようですね」わたしは口のなかでボソボソいった。
「ええ、一時間ぐらいになりますか」スケルトンが憂鬱そうに答えた。
ちょうどこのとき、フォーゲル夫妻が階段の上に姿を見せた。二人とも、なんだか沈んだようすだ。そしてわたしたちのテーブルのところにたたずんだ。
「こちらのお若い方たちから、午後の事件の話をお聞きになっていたのですね?」フォーゲル氏がわたしに、ドイツ語でいった。
「ええ、あらましのところをね」
「じつにかないませんな」彼は重々しくいった。「家内はクランドンハートレイ夫人に、気つけ薬を飲ませてみたんですが、たいして効《き》くとも思えませんな。いや、気の毒な男です。なんでも奥さんの話では、少佐は戦傷を受けてから、どうも頭がいけないらしい。やること、なすことが発作的なようです。なんでもヨットできた男は、ホテルで葡萄酒を買って、氷を少し分けてもらうつもりでここへ上陸したようですがね。クランドンハートレイ夫人は、彼が古い友人だと気づいた。たったそれだけのことなんですよ。ところが哀れな少佐は、それを誤解したわけです」
夫妻はホテルのほうへのぼって行った。
「いま、なんていってたんです?」スケルトン青年は目をかがやかしてたずねた。
「なんでも、クランドンハートレイ夫人から、少佐が戦争で重傷を受け、そのために頭がおかしくなったという話を聞いたそうですよ」
一瞬、兄妹は言葉をのんだ。それから、妹が、考え深そうに額にしわを寄せた。
「でもね」どちらへともなく、彼女がいった、「あたしには、それがほんとうだとは思えないわ」
青年がじれったそうに鼻を鳴らした。
「もう忘れましょうよ。ヴァダシーさん、なにをお飲みになります? 辛口のデュボネ? けっこうです。三人分ね。だれが取りに行くか、銭投げできめようじゃないですか」
わたしが負けた。
酒を注文しに行くと、わたしはデュクロ氏がなにやら興奮して支配人のケッヘと話し合っているのを見かけた。老人は額に強烈なアッパーカットを喰わせるところを実演していたのだ。
クランドンハートレイ少佐夫妻は、夕食におりてこなかった。
知らぬ間《ま》にわたしは、この夫妻に興味を抱きはじめていたのだ。そうか、夫人はイタリア人だったのか! これでいろんなことに説明がつく。たとえば、前の晩、少佐がわたしに話しかけたとき、アペリティフを「アペリティーヴォ」とイタリアふうに発音したのも納得できるし、夫人の近よりがたい沈黙の理由ものみこめた。つまり彼女は、ブロークンな英語を話すのがはずかしかったのだ。そういえば少佐が「家内は少々信心深くて」といったのも、彼女がカトリック信者の多いイタリア人だからとうなずけるし、容貌がイギリス人らしくないことも、これで合点《がてん》がいく。それに少佐自身は、行動になんの責任ももてないような戦争|痴呆《ちほう》症の患者だそうじゃないか。そうだ、メアリー・スケルトンは、その点に疑いをもっていたっけ。もし、スケルトン兄妹が報告してくれた浜辺の事件のいきさつがそのとおりなら、わたしだってやっぱり疑いたくなるぞ。単に神経症の突発事故として片づけられぬなにかがあるようだ。しかし、そんなことはわたしの知ったことじゃない。わたしには、もっと考えなければならぬ大事な仕事があるのだ。わたしの立場からいえば、クランドンハートレイ少佐夫妻のくだらぬ事件のおかげで、スケルトン兄妹からはなんの手がかりも得られぬ結果になったわけだ。『なにしろ人の出入りがはげしかったしね』という証言だけじゃ、しようがない。ま、おそらくわたしが村の郵便局に行ってる留守に、敵はわたしの部屋を捜索したにちがいないのだ。これでは、手がかりの望みはまったくない。
そろそろ夕食が終わりに近づいたとき、テラスに支配人のケッヘがやってきて、庭の木蔭にピンポン台をしつらえましたから、どうぞ、とアナウンスした。わたしが食事をまだすませないうちに、もうピンポンの音が聞こえてきた。わたしはピンポン台のほうへブラブラ行ってみた。
緑色のピンポン台の上にのびている木の枝に、電灯がつけてあって、プレーヤーの顔をあかるく照らしだしている。アメリカ人のスケルトンとフランス人のルウの対戦だった。築山《つきやま》の石に腰をおろして観戦しているのは、マルタン嬢とメアリー・スケルトンだった。
ルウは腰をかがめて、熱戦敢闘中。白いボールを追う彼のとびだした眼玉は、まるで破裂寸前の爆弾だった。彼は派手にとびまわっている。それにひきかえ、スケルトンの、しまりのないものうげなプレーは、どことなくぎごちなく威力がないように見えた。ところが、彼のほうがはるかにポイントをあげているのに、わたしは気づいた。ルウの恋人であるマルタン嬢は、いっこうに無念さを隠そうともせず、スケルトンがポイントをあげるたびに、絶望的な金切り声をあげていた。たまたまルウがポイントをあげようものなら、これまた大きな歓声をあげるのだった。一方、メアリー・スケルトンはというと、さもおもしろそうに、そういうマルタン嬢のようすを横目で観察していた。
ゲームが終わった。マルタン嬢は、勝者のスケルトンをジロッとにらみつけると、ルウのハンカチで男の額の汗を拭ってやった。負けたからって、あなたへの愛情は変わらないわ、と彼女の慰めるのが聞こえた。
「どうです、一ゲームやりませんか?」スケルトンがわたしにいった。
ところが、わたしが答えるよりも早く、ルウはピンポン台の向こう側にとんで行くなり、ラケットを威勢よく振りまわしながら、ニッコリ笑って、復讐戦がしたいと宣言した。
「なんていってるんです?」スケルトンが小声でたずねた。
「復讐戦がしたいんだそうですよ」
「よし、望むところだ」彼はウィンクした。「どうか雪辱《せつじょく》してもらいたいものですよ」
二回戦が始まった。わたしはメアリー・スケルトンのそばに坐った。
「どうしてあたし」彼女がいった、「あのフランス人の言葉がちっともわからないのかしら? とても変わったアクセントですのね」
「たぶん、プロヴァンス(フランス南東部の方言)じゃないですか。パリッ子だって、プロヴァンスのフランス語となるとチンプンカンプンですよ」
「まあ、それなら安心しましたわ。あたし、プレーがすごく長びいたら、あのひとの眼玉、ポンと飛びだしやしないかと、ハラハラしていますの」
わたしはそれに返事するのも忘れてしまった、というのは、自分だけの得心のために、ルウのアクセントを頭の中で夢中になって追っていたからだ。ちょうど、あれとそっくりなアクセントを、耳にしたばかりだ、それもつい最近。それは、絶対に間違いない。と、そのとき、マルタン嬢のあげたすごい歓声が、わたしを現実によびもどした。
「兄ときたら、その気になればいくらでも上手に負けられるのよ」妹がいった。「ときどき、あたしとやって、わざと負けてくれるんですけど、それがあんまりうまいものだから、まるであたしがほんとうに強いものと、いつも思ってしまうくらい」
ゲームの中途から姿をあらわして、スコアを数えさせろといってきかないデュクロ氏が、ルウと激しく論じ合っているのを、スケルトンは仲裁せざるを得なかったが、とどのつまり、僅差《きんさ》で相手に負けてやったのである。有頂天になったマルタン嬢はルウの耳朶《みみたぶ》にキスした。
「あの白い顎《あご》ひげのじいさん」スケルトンがささやいた。「あれは、危険人物ですよ。玉突きで自分のスコアをごまかしたのを、ぼくは知ってるんですが、まさか他人がやっているピンポンのスコアまでごまかすとは思いませんでしたね。ぼくは自分でスコアをちゃんと数えてたんですよ。五点の負けで、二点じゃないんだ。ゲームがもっとつづけば、じいさんのおかげでぼくは勝たせてもらったでしょうよ。ま、窃盗癖の裏返しなのかもしれませんね」
「ところでと」この酷評を受けている当のご本人は、冗談半分にいけしゃあしゃあとした顔でいった、「今宵、イギリス人少佐夫妻はいずくにありや? なにゆえお二方はピンポンをなさらぬのかな? さだめし少佐殿は手ごわい相手でござろうが」
「ばかなおじいさん!」メアリー・スケルトンがいった。
デュクロ氏は、ポカンとした顔で、彼女にニッと笑ってみせた。
「おい、およしよ」兄がいった。「英語がわかるかもしれないぜ」
どうやら英語が使われているとわかるらしく、マルタン嬢は恋人のルウに「オーケイ」とか「ハウドュユドゥー?」などと話しかけ、笑いこけては、恋人からうなじにキスしてもらっていた。メアリーのいった英語は、だれにもわからなかったらしい。デュクロ氏はわたしを相手に、浜辺の事件をながながと話しはじめた。
「いや、あの冷静な軍人に、妻であるイタリア女への、あのようなはげしい情熱と愛情があったとは、だれひとり、夢にも思わなかったでしょうな。もっともイギリス人という人種は、みんな、ああいう手合いです。表面はつめたくて、ビジネスライクでしてな。イギリス人といっしょにいると、四六時中、ビジネス一辺倒のような気がしてくる。しかし、内面には、どんな情熱の焔が眠っているかわからんのだ!」老人は眉をしかめた。「わしも、これまでにいろいろな人生を見てきたが、イギリス人とアメリカ人というのはどうもわからんね。なんとも不思議な人種ですわ」こういってデュクロ氏は、顎ひげをしごいた。「それにしてもみごとな一撃でしたよ、イタリア人のあげたうめき声も堂に入ったものだ。顎にストレートがきれいにきまる。イタリア人はまるで石のようにダウン」
「たしかボディだと効きましたが」
デュクロ氏はジロッとわたしをにらんだ。「ボディのあとにチンですよ、あなた。二発目は顎ですて。痛烈なパンチ二発!」
それまで横で聞いていたルウが、さえぎった。
「いや、パンチなんかありませんでしたよ」彼はきっぱり断言した。「イギリス人の少佐は柔術を使ったのです。なにしろぼくは、すぐそばで見てたんですからね。それに、ぼくもいささか心得がありますしね」
デュクロ氏はおもむろに鼻眼鏡をかけると、にらみつけた。
「うんにゃ、たしかに顎へパンチがきまりおった」と、厳然と言い放つ。
ルウは両手をあげて、肩をすぼめた。いまにも両眼がとびだしそうだ。苦り切った顔。
「いったいあんたは、なにを見てたんです」吐きだすようにいうなり、クルリと彼はマルタン嬢のほうにむきなおった。
「|ねえ、きみ《マ・プチット》、ちゃんと見たね? きみの眼はいいんだものね。こちらのご老体みたいに眼鏡のご厄介なんかにならないしさ。あれは柔術にきまってるじゃないか、ねえ?」
「|ええ《ウイ》、|あなた《シェリ》」彼女は恋人にキスした。
「どんなもんです!」ルウがあざ笑った。
「顎に一発じゃ、疑いの余地はない」デュクロ老人の鼻眼鏡が怒りでブルブル震えている。
「フフン!」ルウは鼻をならすと、「じゃ、いいですか!」
不意に彼は、わたしのほうへむきなおるなり、わたしの左手頸を掴み、グイッと手前へひいた。わたしは本能的に体をうしろにひく。と、つぎの瞬間、わたしはみごとに倒れていた。ルウはわたしの右手を掴んで、引き起こしてくれた。その握力の強さはすさまじかった。彼の、針金のようにやせたからだに、力のみなぎるのが、わたしにわかった。と、そのとたんに、わたしは自分の足で立っていたのである。
「どんなものです!」ルウはさも得意気にいった。「これが柔術ですよ。ごく簡単なわざです。ぼくは、この方に、イギリス人の少佐がヨットの男を倒したとおなじような技をかけてみただけでね」
デュクロ氏は姿勢をただすと、そっけなく会釈した。
「なかなかけっこうな実演ですな。しかし、そんなものは不要ですわ。わしの眼は、だてについているわけではないのでな。あれは、顎にパンチがきまったのじゃ」
あらためて頭をさげると、老人はホテルのほうへ大股に立ち去った。ルウは、そのうしろ姿に嘲笑を浴びせかけると、指を鳴らした。
「タヌキじじいめ」さも軽蔑したふうにルウがいった。「じいさんがスコアをごまかしても、みんな、知らんぷりしてるものだから、われわれのことをあきめくらだと思ってるんですよ」
わたしはあたりさわりのない微笑をうかべただけだ。マルタン嬢はこの場をみごとにさばいた恋人の手腕を、おくめんもなしに讃えだす。いつのまにかスケルトン兄妹は、ピンポンをしている。わたしは、ゆっくりと下のテラスのほうへ歩いていった。
墨を流したような木立ちの闇のむこうに、無言の人影が二つ、手すりにもたれていた。少佐と夫人だった。小道にきしるわたしの足音に、少佐はふりむいた。少佐は、夫人になにかやさしくいうと、二人は連れだって立ち去った。ほんの少しのあいだ、わたしは二人の足音が小道づたいに消えて行くのに聞きいっていたが、それから夫妻の立っていた場所に歩みを移そうとした。と、そのとき、木々のあいだの暗闇に、パイプの火がもえるのが見えた。わたしはパイプの火のほうへ近づいて行った。
「やあ、今晩は、ハインバーガーさん」
「今晩は」
「ロシア式玉突き、一番いかがですか?」
相手が椅子のわきでパイプを叩いたものだから、火の粉があたりに散った。
「いや、今晩はどうも」
なにか説明できないような理由から、わたしの胸はドキドキしはじめた。さまざまな単語やせりふが口まで出かかってくる。わたしは、いま、そこにいるその男に、わたしのありったけの疑惑をぶちまけ、この闇の中に腰をおろしている男、この見えざるスパイにむかって、頭から告発してやりたいというはげしい衝動にかられていた。『カメラ泥棒め! スパイ!』こんな言葉を、この男に浴びせかけてやりたかった。自分でも、からだが震えているのがわかる。わたしは口を開け、唇を動かした。と、このとき、だしぬけに、マッチがシュッと音をたて、焔がパッともえあがったので、男の顔が浮きあがった。黄色い光の中の頬のこけたゆがんだその顔は、奇妙に印象的だった。
彼はマッチの火をパイプの口に近づけると、焔を吸いこんだ。焔は二度ばかり燃えあがって、消えた。パイプの火が、男のしぐさどおりに動いている。
「どうしてかけないのかね、ヴァダシー君。そこに椅子があるよ」
いや、まったく、わたしはまるでばかみたいに、口をあんぐり開けたまま、彼をにらんで突っ立っていたのだ。ちょうど、疾走してくる自動車にはねられるところを、間一髪、あやうくまぬがれたような気持ちで、わたしは椅子に腰をおろした。しかも命をひろったのは、わたしの身が敏捷《びんしょう》だったためではなく、むしろ自動車の運転がうまかったせいだという感じだ。なにか話をせずにいられなかったので、わたしは、イギリス人夫妻の浜辺の事件を知っているかどうか、彼にたずねてみた。
「その話なら、もう聞いたよ」それから少し間をおいて、「なんでも少佐は、気が変だという話だね」
「あなたは、それを|ま《ヽ》に受けますか?」
「必ずしも、そうではないがね。問題は、どの程度、少佐が挑発されたかだよ。いくら気ちがいだって、刺激されなければ、狂暴にはならんからね」そこでまた言葉が切れた。「暴力というものはね」やがて彼は口をひらいた。「じつにおかしなものなんだ。ノーマルな人間の心には、暴力にブレーキをかけるきわめて複雑なメカニズムが働いているわけだよ。しかし、このメカニズムの制動力は、文化が異なるにつれ、変わってくる。西洋人は東洋人より、その力が弱いね。むろん、わたしは戦争のことをさしているのではない。戦争にはまた、別の要素が作用するわけだ。インド人が、この場合、適例になる。ま、無理のない話なのだが、英領インドにおけるイギリス人官憲の暗殺計画は掃いて捨てるほどある。ここで興味のあるのは、この計画の十中八九が未遂に終わっている点だ。これは、インド人がとくに射撃下手だからだという理由ではなく、決定的な瞬間になると、素人の暗殺者は、暴力否定の本能のために身動きがとれなくなってしまうからなのだ。かつてわたしは、インドのコミュニストとこのことを話しあったのだがね。なんでもインド人のなかには、憎悪の念にもえながらピストルを忍ばせて圧制者であるイギリス人の地方役人を殺しに行く者があるのだそうだ。男は見破られずに、群集からまんまとぬけだす。絶好のチャンス、狙う敵が近づいてくる、ピストルをあげてピタッと狙う。役人の命は、男の胸先三寸だ。この瀬戸ぎわで、インド人はためらってしまうのだよ。彼の眼に見えるものは憎むべき圧制者ではなく、一個の人間なのだ。思わず狙いがぐらつき、つぎの瞬間には、彼自身が護衛兵に射殺されてしまうのだ。ドイツ人やフランス人、あるいはイギリス人が、そのインド人のおなじ憎悪の念にもえていたなら、なんのためらいもなしにブッ殺すだろうね」
「すると、どんな憎悪の念にもえて、クランドンハートレイ少佐は、あのヨット乗りのイタリア人のみぞおちにパンチを一発かませたと、お考えになります?」
「ま、たぶん」ハインバーガーは少しいらいらした調子でいった、「少佐はその男がきらいだったのだな」彼は椅子から立ちあがった。「火急の手紙を出さにゃならんのでね。失礼する」
彼は行ってしまった。しばらくのあいだ、そのままわたしはじっと椅子にかけて、考えこんでいた。頭の中にあるのは、クランドンハートレイ少佐ではなく、シムラーから聞いたインド人だった。『彼の眼に見えるものは憎むべき圧制者ではなく、一個の人間なのだ』わたしはそのインド人に共感をいだかざるをえなかった。だが、それだけではすまされない、『つぎの瞬間には、彼自身が護衛兵に射殺されてしまう』からだ。一言でいえば、ここにすべてがある。恐怖、すなわち死。それとも、恐れる恐れないにかかわらず、殺されるのか? しかり、殺されるのだ。善も勝たず、悪も勝たずだ。両者は分裂し、たがいに破壊しあって、新しい善と悪を創りだすのだが、これもまた、たがいに殺しあうようになるのだ。本質的矛盾。『矛盾こそあらゆる運動と生命力の根源なのだ』そうだ、シムラーがそんなことをいったっけ。わたしは闇の中で思わず眉をひそめた。いや、まったく、シムラーの哲学的な話なんかにとらわれずに、彼の行動にもっと注意していたら、わたしの調査も、もっと進展していたかもしれないのだ。
わたしはホテルへあがって行った。図書室はからだった。シムラーの『火急の手紙』とはこんなものなのだ! わたしがラウンジを通りぬけてくると、シーツを一山かかえこんでくるケッヘの細君とすれ違った。わたしは「今晩は!」と声をかけた。
「今晩は。|うち《ヽヽ》とお会いになりまして? おや、お会いにならない? じゃきっと下でピンポンでもしてるんですわ。お利口さんは、毎日を愉しく遊んで暮らすし、愚か者は、舞台裏で奴隷みたいにせっせと働くってわけですのね。といって誰かが仕事をしなくちゃならないし。このホテルでは、なにからなにまで女がするんですからね」細君はかん高く「マリー」と女中を呼びながら、階段をあがって行った。
わたしはだれもいないラウンジを通り抜けて、上のテラスへ出た。
手すりのそばのテーブルに、ペルノーを飲みながら葉巻きをくゆらしているデュクロ氏が坐っていた。老人はわたしを見るなり、椅子から立ちあがって会釈した。
「これは、これは! さきほどはだしぬけに座をはずして、ほんとうに失礼しました。しかし、侮辱されて、おめおめと居残っているわけにはまいりませんからな」
「まったくそのとおりですよ、お察しします」
老人はあらためてまた会釈した。「なにかお飲みになりますかな? ペルノーならあるが」
「おそれいります、ではヴェルモット・シトロンでも」
老人は注文のベルをならすと、わたしに葉巻きをすすめてくれたので、一本ちょうだいした。
「いや、この年になっても」デュクロ氏は、自分のグラスに水を注ぎながらいった、「わしは誇り高き男でしてな。まことに自尊心が強い」氷をいれるあいだ、老人はちょっと言葉を切った。わたしには、年をとるとどうして誇りが消え去るのか、まったくわからなかったけれど、幸いなことにわたしが口をひらくまえに、デュクロ氏が話をつづけてくれた。「この年になっても」と老人は繰り返して、「あんなルウくらいは殴り倒せますよ。しかしご婦人があの場にいたのではね」
「もっと高貴な態度をとられたわけです」そういって私は老人を得心させた。
デュクロ氏は顎ひげをしごいた。「そう思ってくださって、感謝にたえない。しかし、あんな目にあって、誇り高き男が怒りをおし殺すのは、いかにむずかしいことか。わしは学生のころ、決闘をしたことがあるのですよ。ある男と口論したあげく、わしは相手を殴ってしまったのです。すると、そやつが挑戦してきおったので、決闘ということになった。友人たちがそのお膳立てをしてくれましてな」
若き日のことを思いだして、老人はホッと溜息をついた。「十一月の寒い朝でした。あまり寒かったものだから、手が紫色になって、かじかんでしまったくらいです。こんなささいなことが気になるのですから、じつに妙なものです。わしらは馬車で決闘の場所へむかいました。馬車に乗るだけの金がなかったので、友人は歩いて行こうとさかんに言いましたがね、わしは強引に言いはって馬車にしたのですよ。わしが殺されてしまえば、金なんぞ問題でなくなる。反対に、もし殺されなければ、そりゃもうホッとするわけだから、馬車の出費なんか屁とも思わなくなる。そこで馬車を雇ったわけです。だが、それにもかかわらず、かじかんだ手が念頭をはなれません。わしは両手をポケットにつっこんだが、いつまでたってもひえきっている。かといって、腋《わき》の下に手を入れてあたためるわけにもいかなかった。決闘が恐いものだから、背中をまるめているんだなどと、友人からあらぬ誤解を受けますからな。で、こんどは、両手を尻の下に敷いてみたのですがね、なにせシートが皮だもんだから、スベスベと光って、余計に冷たいという始末。いやもう、かじかんだ手のことで頭がいっぱいでしたわ。どういうわけだか、わかりますかね?」
わたしはかぶりを振った。鼻眼鏡の奥で、老人の眼がキラリと光った。
「まず第一の理由は、わしには相手をまともに撃《う》てる自信がなかったし、第二には、相手の手もひえきっていれば、弾丸がまぐれでわしにあたるかもしれない、ということですよ」
わたしは思わず微笑した。「なるほど、で、結局、おたがいに怪我はなかったんですね」
「まさにそのとおり! 二人とも、みごとに弾丸がはずれましてな。いや、はずれるどころか、すんでのところで介添え人に当たるところでしたよ」老人はクスクス笑った。「それ以来、相手と二人で何度も話しては腹をかかえて笑ったものですよ。その男は、今、わたしのところの隣に工場を持ってましてね。五百人ほど、工員を使っています。わしの工場は七百三十人いますがね。その男の工場は機械を作り、うちでは包装用の箱を作っているので」給仕がきた。「この方にヴェルモット・シトロンだ」
わたしはちょっととまどった。たしかスケルトンか、少佐が、デュクロ氏は罐詰工場を経営しているといっていたではないか。するとわたしの思い違いなのだ。
「まったく、せちがらい時代ですな」老人は言葉をつづけて、「工賃はあがる、物価はあがる。と、こんどは物価がさがったくせに、工賃はあがりっぱなしだ。経営者としては、なんとしてでも工賃をさげざるを得ない。すると、どうなる? うちの工員連中はストライキとくる。連中のなかには、わしと何年も苦楽をともにしてきたのもいるんですよ。名前だってわしはちゃんと知っているし、わしが工場を見まわるときには、こちらから声をかけて、わざわざ挨拶してやるくらいなものです。ところがアカのやつらがもぐりこんできおって、工員連中をアジって、わしに刃向かわせたのだ。それでストライキになってしまったのだが、わしがどう出たと思いますね?」
と、このとき給仕がヴェルモットを運んできたので、もっけの幸いと、わたしは返事せずにすませた。
「わしがどんな手を打ったか? わしは頭に手をやってじっくり考えてみましたよ。なんだってうちの連中は、このわしにたてつくような真似をしたのか? いったいなぜなんだ? 答えは――無知ですよ。いや、可哀相な連中だ、連中にはなにもわかっちゃおらん、ものを知らないのです。ここでわしは総員集合をかけて、単純明快なものの道理を説明してやろうとはらをきめたのです。わしが、おまえたちの父親がわりである、このデュクロが、ようく説明してやろう、というわけです。いや、これには勇気がいりましたな、なにせ若い工員ときたら年輩の連中ほどには、わしがどういう人間か、よくわからないし、アカのやつらがアジりまくった後でしたからな」
ここでデュクロ氏は、ペルノーをなめた。
「わしは工場の階段の上に立ちはだかり」老人は身振り手振りよろしく、「工員連中と向かいあったのです。まずわしは、おもむろに手をあげて静粛をもとめました。水を打ったようにしずまりかえった。『親愛なる工員諸君』と、わしは口をひらきました。『諸君は賃上げを望んでおる』われんばかりの拍手。そこでふたたびわしは片手をあげ、静粛をもとめてから、本題にはいって行きました。『諸君、もしわたしがおまえたちの望みどおりに賃上げをしたら、どういうことになるか、説明させてもらいたい。そのうえで諸君が判断してくれればよい』全員はざわめいたものの、また、静かになりました。わしは、勇気が湧きあがってくるのを感じましたよ。『物価はさがってきているのだ』とわしはつづけました。『物価はさがっている。今、諸君の工賃をあげれば、わが社の製品価格は同業者より高くなってしまうのである。さすれば注文がこなくなるのは当り前だ。諸君の大半が失業するのだ。諸君はそれを望むのかね?』『ノウ!』と叫び声があがりました。アカのやつらは、利益けずれ、などと無知な叫びをあげましたよ。しかしだね、利潤は投資にあてるべきだとか、利潤がなければ企業は成立しないとかいうことを、こんな大ばかどもにだれが説明できるものですか? わしはアカのやつらの怒号など頭から無視してやりました。そして工員たちに対するわしの愛情や、彼らの幸福を確保せんとするわしの責任感をじゅんじゅんと説き、わしがどれほど最善を尽くそうと望んでいるか、われわれ自身と祖国フランスのために、労使協調がいかにたいせつかを話して聞かせたのですよ。『いまやわれわれはこぞって』とやりました、『公益のために犠牲をも耐え忍ばねばならぬ』そしてわしは前にもましてよりいっそう熱心に働こうとする決意と勇気とをもって、賃下げを受け入れるように、全員に訴えたのですよ。演説が終わるや、いっせいに拍手が起こりました。年輩の連中が協議して、全員、職場にもどることになりました。いや、じつに歴史的な一瞬でしたな。もうわしは嬉しくて嬉しくてただ涙あるのみでした」鼻眼鏡の奥で、老人の両眼がきらめいた。
「たしかに歴史的な一瞬だったでしょうね」わたしは如才なくバツをあわせた。「それにしても、そんなに簡単なものでしょうか? だって工賃がさがれば、当然購買力も弱くなるから、物価はさらに下降するじゃないですか?」
デュクロ氏は肩をすくめた。
「ま、人間がみだりに干渉するとロクな結果にしかならないような経済の法則があるのでね」老人は口をにごした。「工賃が常識の水準を超えるとなると、経済機構の微妙な均衡が崩れるんですな。いや、不粋《ぶすい》な話であなたを退屈させるわけにはいかない。こう見えてもわしは、うちの工場では、機敏で決断力に富む、ニラミのきく社長ですわ。もっとも今は休暇中ですからね。ま、目下のところ、社の重責から放免されているようなもので。星を眺めては沈思黙考、疲れた頭を休めるのはなによりの薬ですよ」
デュクロ氏は仰向いて、夜空の星を見あげた、「いや、きれいだ!」うっとりして呟く。「じつにすばらしい! 無数の星! 形容を絶する!」
老人はまた、わたしの顔を見た。「わしは美というものに敏感な性分でしてな」というと、グラスのほうに向いて、酒を水で割ると飲みほした。それから腕時計に目をやると、椅子から腰をあげた。
「もう十時半ですな」老人はいった。「年ですからね。ま、いろいろとお話しできて、愉快でした。お先に失礼して床へはいりますわ。ではお休み」
老人は会釈して、わたしの手を握ってから、鼻眼鏡をポケットにしまい、千鳥足でホテルの中へはいって行った。と、そのときになってはじめてわたしは、デュクロ氏が、その夜、ペルノーを一びん以上も飲んだのではないかと気がついたのだ。
それからしばらくのあいだ、わたしはラウンジに腰をおろして、二週間前の『グランゴワール』誌に目をとおした。やがて、それに退屈したので、スケルトン兄妹でもいないかと庭に出てみた。
ピンポン台には人影もなかった。ただ電灯だけがあかあかと台を照らしだしているばかり。台の上には二枚のラケットが十字においてあり、その二つの柄のあいだにへこんだ球がチョコンとおいてある。わたしは、その球をつまみあげると、台の上ではずませてみた。妙な音が出た。球をラケットのあいだにもどすと、わたしのすぐ近くに足音が聞こえた。だれかいるのかと、わたしは振り返ってみた。ピンポン台の周囲だけは明るかったが、その向こうは漆黒の闇である。たとえだれかがいるにしろ、わたしのほうからは見えない。わたしはきき耳をたてたが、もうなにも聞こえなかった。いまの物音がだれであれ、ただ通り過ぎただけなのだ。わたしは下のテラスにあるあずまやへ行くことにした。
灌木《かんぼく》をかき分けて小道へ出ると、わたしは下へおりはじめた。階段にあと一息というところ、糸杉の木立ちのあいだから、濃い藍色の星空がチラチラ見えたときだった、事件が起きたのは。
左手の灌木の中から、かすかな葉ずれの音がした。わたしはふりかえろうとした。と、その瞬間、後頭部をなにかで打たれた。
まるっきり気を失ったつもりはないが、はっきり覚えていることといったら、小道から半分身をのりだして、うつ向けに倒れていたこと、そしてなにものかが、相当な力で、わたしの両肩を地面にグイグイ押しつけていたことである。眼の奥で火花がとび、はげしい耳鳴りがした。しかも耳がガンガン鳴っているにもかかわらず、わたしは、なにものかの激しい息づかいを聞き分け、方々のポケットが手で探られているのを感じた。
朦朧《もうろう》とした頭でこれらの事実をまとめようとしたが、もうすべては終わってしまった。わたしの両肩にかかっていた重みが急に消えると、小道にきしむ靴音がして、あとはまた水を打ったように静まりかえった。
数分間、わたしはぐったりと横たわったまま、激痛が波のように襲ってくるたびに、両手で頭をかかえこんでいた。やがて激痛の波がおさまってきたので、わたしはゆっくりと立ちあがり、マッチをすった。わたしの財布は口を開いたまま地面に捨ててあった。中身は小銭と数枚の紙幣だけだ。なにもとられていない。
わたしはホテルにむかって歩きだした。二回ほどめまいで立ち止まり、なおるまで待たなければならなかったが、とうとう一人で、だれの眼にも触れず、自分の部屋までたどりつくことができた。溜息をつくと同時に、わたしはベッドにからだを投げだした。やわらかい枕に頭をのせてやすめるという安心感が、痛ましいくらいだった。
そのころになって脳震盪《のうしんとう》を起こしたのか、あるいは疲れ切っていたものか、ものの一分とたたぬうちに、わたしは寝入ってしまったらしい。最後の意識が、つじつまのあわないものだったから、やっぱり脳震盪だったのかもしれない。
「いいか、しっかりおぼえておけ」わたしは自分に言いつづけていた、「クランドンハートレイ夫人はイタリア人だ、とベガンに報告するんだぞ」
いま、それからあとの二十四時間を追想してみると、まるでオペラグラスを逆にして、舞台を眺めているような気がする。さまざまな登場人物は動いているのに、その顔が小さくてさだかでない。オペラグラスのむきを正しくしなければならないのだ。だが、それにもかかわらず、正しくむきを変えると、こんどは登場人物の顔の形がぼんやりして歪んでしまうのである。で、つまり、はっきり見ようとするには、それと同時に舞台のほんの一部分を眺める以外にないのだ。むろん、今になって考えると、わたしは平衡感覚をまったく失っていたにちがいない。ま、あとからそう考えるのはじつにやさしいものである。ただ、その翌日もわたしが現実感覚を完全に喪失していたわけではないことは、特筆に値する。ま、割引しても、その日は幻想的な一日だったといってよい。その幻想的な一日の開幕は、だれよりもさきにクランドンハートレイ少佐によってだった。
わたしは遅れて朝食におりて行ったので、もうテラスにはフォーゲル夫妻だけしか残っていなかった。
わたしの後頭部には、まるで砲弾ぐらいの大きさにも感じられるようなこぶができてしまった。もう、はげしい痛みはなかったが、すごく敏感で、歩くと踵《かかと》が床につくたびに、ズキンズキンとこぶにひびいた。
わたしはソロソロと歩いて行って、テラスの椅子に腰をおろした。ちょうどフォーゲル夫妻が席を立つところだった。夫妻はわたしを見てニッコリすると、やってきた。おたがいに朝の挨拶をかわした。すると、フォーゲル氏がこの日の初弾をブッ放したのだ。
「ご存じですか」彼はいった。「イギリス人の少佐夫妻が発つそうですな?」
そのとたんに、頭に激痛がきた。「何時です?」
「それは知りませんがね。デュクロ氏から聞いたのですよ。なにしろあの老人は情報屋さんですからな。ま、いちばんいいと思いますよ。つまり、あの少佐夫妻がホテルを発つのはいちばんいいことだ、という意味です。昨日のような事件があったあとじゃ、居心地が悪いでしょうからね。それはそうと、あなたもこれから浜へいらっしゃるんでしょう?」彼はウィンクした。「アメリカ人の娘さんはもう行ってますよ」
わたしがあいまいに言葉をにごすと、夫婦は行ってしまった。とうとう、暗に恐れていたことが起こったのだ。クランドンハートレイ少佐がスパイだという可能性など、九分九厘まで考えなかった。考えただけでもばかばかしい話である。しかし、クランドンハートレイ夫人が敵性国であるイタリア人だという事実がある。そういえば、わたしは、あの署長室でベガンから、イタリア人に知人はないかと、しつこく攻め立てられたっけ。それにしても夫人がスパイだなんて考えられない、だが待てよ……
打つべき手はただ一つ、ベガンにすぐ電話をすることだ。わたしはコーヒーをガブリと飲むなり、ラウンジとホールを通り抜けて車道へ出た。ところが、その道を半分も行かないうちだった。庭へつづいている茂みの小道からこちらへやってきたのは、少佐ではないか。それに、わたしの行く手をさえぎるような気配までありありと見える。
「いや、ほうぼう探して歩きましたよ、ヴァダシー君」声がとどくくらいの距離になると、少佐は声をかけた。わたしが足をとめると、こちらに近づいてきた。少佐はこそこそと声を落として、「今、特別忙しくないようなら、ごく内密の話がしたいのですが」
正直なところ、そんな考えはばかげていると百も承知のくせに、まずまっさきにわたしの頭にひらめいたのは、少佐は自分がスパイだと自白するつもりだぞ、ということだった。一瞬、わたしはためらったものの、ていねいに会釈した。「結構ですとも、少佐殿。おともしましょう」
無言のまま少佐はわたしの先頭に立ってホテルへ引き返すと、図書室へ入った。そして椅子を引き寄せると、「どれもロクな椅子じゃないな」少佐は弁解がましくいった。「もっともラウンジの椅子よりはましですがね」
なに、そんなことはないのだ。少佐が四六時中、人気《ひとけ》のないこの図書室をわざわざ選んだのは火を見るよりもあきらかだ。わたしたちは腰をかけた。
「煙草を持ってないのでおすすめできんが」彼がいった。「わたしが吸わんのでね」
少佐の当惑ぶりは痛々しいくらいだった。わたしは自分の煙草に火をつけた。少佐は椅子から身をのりだして、しきりに両手を組んだりほどいたりしている。両眼はじっと床に落としたままだ。
「ねえ、ヴァダシー君」少佐はだしぬけに言葉をきった、「じつは、特別の理由から、きみと話がしてみたかったのです」そこで言葉が途切れた。わたしは煙草の先を見つめたまま、相手の言葉を待った。沈黙のなかで、マントルピースの上の時計の音が、カチカチ聞こえてくる。
「きみは昨日の午後、海岸にいませんでしたね?」少佐は意外な質問をした。
「ええ」
「いや、そうだろうと思った。きみを見た覚えがないのだからね」少佐は次の言葉を捜しながら、口のなかでためらっている。「ま、たぶん、昨日の事件を、もう聞いたことと思いますがね。思わずカッとなってしまったのですよ。じつに不愉快きわまる」
「聞いたといっても噂程度ですが」
「そうか、思ったとおりだ。人の口には戸がたてられんのでね」少佐はふたたび口ごもった。わたしはいつになったら本題にはいるのか、と思いはじめた。と、突然、少佐は顔をあげると、わたしの眼を直視した。
「連中は、わたしが気違いだ、自分の行動になんの責任もとれない男だと噂しているだろうね?」
この言葉に、わたしはまったく度肝《どぎも》をぬかれてしまった。なんと答えたらいいものかわからなかった。自分でも、顔が赤くなるのがわかった。
「なんといわれたんです?」
少佐は弱々しく笑った。「いや、急にこんなことを言いだして悪かった。だが自分の立場を知っておく必要があったものだからね。きみの顔つきを見ただけで答えが『イエス』だということはわかる。じつはそのことできみと話がしたかったのです、ほかにもすこしあるがね」
「ああ、そうですか」わたしは気違いだと見なされている人間から、その理由を説明されるのに、いかにも慣れてでもいるように、努めて無造作な返事をした。少佐はこちらの返事など、ろくに聞いていないようすだった。
「わたしにも」彼は話しだした、「私事の重荷をあかの他人に、ま、いわばほんの行きずりの人に負わせるのは非常によくないということはわかっておる。だが、それにはそれなりのちゃんとした理由があるのです。ねえ、ヴァダシー君、このホテルでは、きみは、わたしの話し相手になってくれる唯一の人物なのだ」彼は憂鬱そうにわたしを見た。「どうか気にかけんで欲しいが」
いったいなんの話だろうといぶかしく思いながら、わたしは、気になどしていないと答えた。
「いや、そういってくれるとほんとうにありがたい」少佐は言葉をつづけた。「あの外人どもめ……」さすがにまずいことを口ばしったものと気がついたらしく、少佐は口をとじた。「ああ、ヴァダシー君、これは家内のことなんだ」そしてまた黙ってしまった。
わたしはだんだんうんざりしてきた。「どうかぼくの善意を素直におとりになって」とわたしは提案した、「胸にあることを話しておしまいになったらどうです。それに、あなたがどんな話をなさるのか、ぼくには見当もつかないですよ」
少佐は顔をあからめた。そして、いかにも軍人らしい態度にかえる気配が見えた。「よろしい。なにごとも率直でなければいかん。わたしだって理由がなければ、こんな所できみの時間を無駄にしたりはせんよ。さ、わたしのカードをテーブルの上に全部ひろげて見せよう。なにからなにまで話してしまおう。そのうえで、きみに判断してもらえるというものだ。きみだけには、誤った考え方をしてもらいたくないのでな」少佐は、|こぶし《ヽヽヽ》をもう一方の手のひらに静かに押し当てた。「さ、わたしのカードをテーブルの上に全部ひろげるぞ」少佐はあらためていった。
「わたしは、一九一八年の初頭に、ローマでいまの家内と知り合ったのです」彼はそこで言葉を切った。わたしはまた、手間がかかるのかと案じたが、こんどはすぐにつづいた。
「そうだ、イタリア軍がカポレットーで敗れ、ピアヴェ河を渡って退却した直後のことだ。わたしは師団長付き武官として幕僚に転補されたのです。英仏の陸軍省はイタリアの状況にハラハラしていたものだ。むろん、国民の大部分は、オーストリア軍がミラノ近辺の工業地帯を狙っているものとばかり思ってましたな。しかし、独|墺《おう》連合軍の参謀本部が、わざわざそのためだけに西部戦線から大量の兵力を移動させるようなことは考えられない、連合軍参謀本部の真意はリヨン攻略を目標に、北イタリア平野を経てスイス国境の防禦線を包囲する作戦ではないかという噂が、高かったのですよ。ま、|西方進出の一種ですな《ドランク・ナハ・ヴェステン》」少佐はぎごちないドイツ語で発音してみせた。
「いずれにせよ、わが英仏軍は敵の侵入を阻止せんものと軍隊や火器をイタリアへドシドシ送りこんだ。そこでわれわれ数名の幕僚が軍需物資をえり分けるために現地へ派遣されたというわけです。最初にわたしはピサへ行った。いやもう、鉄道はひどく混乱している。むろん、わたしには鉄道のことなど、さっぱり見当もつかんのだが、ちょうどいっしょに行った特務士官が、イギリスにいたころ、鉄道に勤めていたというので、万事トントン拍子に運んでね。そのあと一九一八年に、わたしはローマへやられたのです。
ローマの冬をご存じかな? いや、なかなか悪くないですよ。その当時、ローマには英国のかなり大きな租界《そかい》がありましてね。ま、大半は軍人だったが、イタリア人と交際して友好関係を増すのがわれわれの職務の一部みたいなものでね。二股かけるために、イタリアは講和してましたからな。ま、二カ月ばかりローマにいるうちに、わたしはひどい目にあいましてね。なにせ、イタリアの騎兵将校のなかには、乗馬にかけてすごい名手がいましてな、しかも少々気違いじみている。乗り手が乗り手なら、馬もそうなのだ。ある日、そんな連中の一人とわたしは馬をはしらせた、ところがそいつはジャンプをやった。わたしなど、大障害レースでもやる気のせんような高さだ。わたしの馬もつづいて跳ぼうとしたからたまらない、わたしはみごとに落馬して、片足と肋骨《ろっこつ》を二本ばかり折ってしまった。
わたしはホテル住まいだったが、そこでは看護ができぬということで、入院する破目になった。運が悪いことに、ちょうどそのころ、イタリアの北部で激戦があった。新しい戦傷者を収容するベッドをあけにゃならんので、前線の野戦病院から傷病兵たちがローマの病院へどんどん運ばれてくる。たちまちわたしの入院していた病院のベッドは超満員になるし、人手もまったく足りなくなった。で、わたしは懇意にしていたイタリア参謀将校にたすけを求めたおかげで、その翌日、わたしはローマ郊外にある、大きな別荘に移されたというわけだ。その別荘というのは、ある家族が、病後の将校の療養にと、すすんで提供したものでね。その一家はスタレッティ家と言いました」
少佐はわたしの顔をチラリと見た。「さぞかしあなたは、こんな話をきいていて、昨日の浜辺の事件と、いったい、なんの関係があるのかとお思いでしょうな」
わたしにしてみれば、そんなことを思いわずらっているどころの騒ぎではないのだ。第一、浜辺の事件そのものが、わたしになんの関係があるのかと考えているくらいだ。だが、わたしはただうなずいてみせた。
「じつは話はこれからなのです」少佐はそういうと、寒さにこごえているかのように、自分の指をこすりあわせた。
「いや、スタレッティ家はまことに奇妙な一家でした。ま、少なくともわたしにはそう思われた。母親はすでに亡く、老いた父親と子供たちだけで――マリアにセラフィーナという二人の娘とバチスタという息子が一人。マリアは二十五歳ぐらいで、セラフィーナは姉より二つほど下でした。息子のバチスタは三十二だった。父親のスタレッティは、すっかり枯れきったしなびたじいさんで、モジャモジャの白髪頭でした。年はもう七十で、ローマの大銀行家、億万長者です。ま、ご存じのとおり、他人の家に何週間もいれば、だんだん気がねも出てくるものです。わたしは患部に包帯を巻いたまま、ほとんど一日中庭で椅子に腰かけていたので、家の人たちがやってきては話して行きました。もっともスタレッティは別です、老人はたいてい銀行に出ているか、大臣連中と会うかしていましたからな。大戦当時のローマでは、老人は重要な人物だったわけだ。ところで、姉のマリアはしょっちゅう庭にいるわたしのところに出てきてました。セラフィーナもときどき顔をだしたものの、わたしをその家に紹介してくれたイタリア将校のことだけしか話さないのですよ。二人は結婚する仲だったのでね。そのうち、兄のバチスタもわたしのところにくるようになったのです。
バチスタは父親を毛嫌いしていてね、老人のほうも息子とじっくり話をする暇もあまりなかったようですな。バチスタの性格にはひねくれたところがあって、軍隊にはいれなかった、そんなところからいろいろトラブルがあったらしいのだがね。なにしろ老人は、オーストリア軍を全滅させるのだといって、それはもう一所懸命だった。ま、いずれにしろバチスタは、父親が自分を働かせすぎるとか、金を雀の涙ぐらいしかわたさぬとか、始終わたしに愚痴をこぼしてね、父親が死んで、財産がころがりこんだら、そのときはどうするの、こうするのと、さかんにゴタクをならべおってね。いささかうんざりしましたな。最低の男でね、そのころからブクブク肥っておった。といって、わたしにはあたりの景色でも眺めるほかになにもすることがなかったが、その景色がまた、退屈しごくでね。糸杉の木立ちがそこかしこにある長くて平べったい野っ原で、まったく単調なものだった。もっともバチスタには一つ、感心な面があった。父親の商売上手をゆずりうけて、つねに三手先を読むといった手のこんだ狡猾さを持っていてね。いや、後になってから、あの男にはそれ以上の抜け目なさがあるのに気づいたくらいですよ。
そんな調子で数週間がまたたくまにすぎて行きましてね。マリアとわたしはかなり親しくなった。正直にいって看護婦と患者の関係以上のものだった、わたしの世話をしてくれる専門の看護婦がちゃんといたのでな。しかしマリアは、わがもの顔に大手を振って邸内を歩きまわり、遠慮会釈もなく辺りを眺めまわす青二才のイタリア人将校どもが、大嫌いだった。マリアは、妹とちがって、将校連中を上手にあしらえなかったのでね。ま、いずれにもせよ、マリアとわたしは戦争が終わったら、わたしがマリアのところにもどってきて結婚しようと約束したのです。もっともわたしたち二人はだれにも婚約のことを話さなかったが、こういったことに鼻のよく利《き》く妹のセラフィーナにはわかっていたようだ。それにマリアがカトリックなので厄介な点があったし、準備ができるまでは、とやかくいわれたくなかったのだ。春になると、わたしはフランスへ転属を命じられましてね。
八月までは、すべてが無事に運んだのだが、このとき、わたしは毒ガス弾にやられてしまった。やっと片肺が正常に復し、暖かくて空気の乾燥した気候の土地に住むようにと勧告されて、除隊したのは、一九一九年も終わりに近いころでした。で、これ幸いと、わたしはローマにやってきた。みんな、歓迎してくれましてね、とりわけマリアはわたしとの再会を非常に喜んでくれた。その数週間後にわたしたち二人は婚約を発表したのです。
最初のうちはなにもかも順調のように見えた。スタレッティ老人も心から喜んでいた。どうやら老人は、わたしが毒ガスなんかにやられずに、手か足の一本もなくしたほうがましだったと思っているようだったが、それでもわたしたちに土地をくれる約束をしましたよ。結婚式の準備も進み、よい気候のおかげでわたしの肺もめざましく恢復《かいふく》した。そしてトラブルがはじまったのは、このときだった。
もうこのころにはバチスタは、父親の仕事をかなりさかんにやっていたが、ある日、わたしのところへやってくると、ひと儲けしたくないかとたずねるのです。そんなことをいわれれば、私も詳しい話が聞きたくなるではないか。なんでもイタリア政府からあまった機関銃を安く買って、シリヤに船で運び、楽に金儲けしている連中がたくさんいるらしいのだ。シリヤではアラブ人からイタリア製の六倍もの値段で機関銃を買っていたわけだ。この際、必要なのは機関銃を買い入れる資金だけだ。これがバチスタの話だった。
ま、ご想像どおり、わたしはこの金儲け話にとびついたのです。
バチスタは、ドルで一千ポンド相当の金しか手持ちにないが、どうしても一儲けするには少なくとも五千ポンドぐらいの資金が必要だと、口説《くど》くのだ。そこでわたしは四千ポンド出資することを承知したわけだ。わたしは、年金と従弟《いとこ》の不動産からあがる少額の利息のほかに、ちょうど現金で四千ポンド持っていてね、これをなんとしてでも六倍にしたくなったのだ。
わたしには商売のことなどかいもくわからない。陸《おか》にあがった河童《かっぱ》とはこのことです。兵隊と鉄砲と任務さえあたえられれば、立派に遂行してみせる。しかしだね、口先だけで商売するとなると、わたしのようなものにはまったく手が出ない。で、そういう仕事は全部バチスタにまかせたのですよ。買い入れ資金は現金でなければ、というものだから、わたしはちゃんと現金を揃えたのだ。細かいことは彼が見るというので、それもまかせた。サインがいるといえば、たくさんの書類にサインだってしましたよ。たしかにわたしもばかだったかもしれぬが、たとえ彼の言動に目を光らせたくとも、そんなことができるほど、わたしのイタリア語はうまくないのでな。
しばらくのあいだというもの、何ごともなかったが、ある日、わたしはスタレッティ老人に呼びつけられた。なんでもわたしが、シリヤへ機関銃を出荷する件で二人の男と取り引きをして、もっともそんな男たちの名前など聞いたこともないのだが、その男たちにシリヤへ売却した総価格の二十五パーセントを支払うむねの保証書を書いたことが、老人の耳にはいったというのです。そこでわたしは、二十五パーセントの件はまったく関知しないことだが、機関銃を出荷する件ではバチスタに四千ポンド投資したと答えた。商売のことはそれ以上わたしにはわからないから、そういうことはバチスタに訊ねたほうが早い、といってやったのです。
すると老人は頭から湯気を立てて怒るじゃないか。わたしの書いた保証書があるのだからね。いったい、おまえはサインしたのか、しないのか、というわけです。そこで、サインしたことはたしかだが、どういう書類にサインしたのかわからなかった、といったのですよ。老人は、ばかにするのもいい加減にしろ、ちゃんとわかるように説明しないか、と言いましてね。ま、その|いきさつ《ヽヽヽヽ》をかいつまんで説明すると、こういうことなのだ、わたしがサインした書類というのは、機関銃売却の当事者であるイタリア陸軍省の二人の役人に、売却価格の二十五パーセントを支払うというわたしのサイン入りの保証書であることがわかった。なんのことはない、大規模な贈賄《ぞうわい》ではないか。ところが、ちょうどこのときは政治状勢が微妙だったものだから、陸軍大臣あたりがスタレッティ老人に、いったい貴公の将来の婿《むこ》殿は何をやっとるのだと、すごい勢いで重圧をかけてくる始末。ご老体にはかなり厄介な問題だったろうね。
むろん、わたしは頭から否定したので、こんどはバチスタが呼ばれた。バチスタが部屋に入ってきた瞬間、やつの顔を見るなり、こいつはまんまとしてやられたと、わたしは悟ったのだ。そのとり澄ました薄笑いを見たとたん、わたしはほんとうにやつを殴り倒してやりたかった。やつは保証書の件などまったく知らないと、|しら《ヽヽ》をきったのです。おまけに、青天の霹靂《へきれき》などとぬかしおってね」
少佐は関節が白くなるくらいに、こぶしを固く握りしめた。
「もう話も終わりに近いがね」やっとのことで少佐は言葉をつづけた。「それはもう、スタレッティ老人は遺言書を書きかえて、財産の半分をマリアにのこすことにしていたことはたしかだ。バチスタは、それをなんとかしてやめさせようと懸命だったが、とうとうやつの思いどおりになってしまった。そのうえ、わたしの四千ポンドまでまんまとせしめたのだ。わたしは、老人と泥仕合《どろじあい》を演じてしまってね。なにせ、息子の名を汚し、娘とは遺産めあてに結婚する気かって、面罵するんだからな。あげくのはてに、婚約は解消だ、二十四時間以内にイタリアから立ちのかなければ、贈賄事件があかるみに出るのを覚悟のうえで、貴様を逮捕させる、とこうなんです。わたしはイタリアを退去した」そして少佐はゆっくりとつけ加えた、「しかし、ばかは死ななければなおらないとはわたしのことです、父親のはげしい反対まで押しきって、わたしはマリアを連れて行ったのですからな。わたしたち二人はスイスのバール市で結婚しました」
少佐はここで口をとじた。わたしはなにもいわなかった。いうことなどなにもなかったのだ。だが、少佐の話は、まだ残っていた。おもむろに少佐は咳払いした。
「女というのはじつにおかしなものですな」少佐はうつろな口調でいった。そのまま、ポツンと言葉が途切れて、それから、「家内がわたしといっしょに行きたいと言いだしたとき、わたしにはほんのわずかな金しかないということを、彼女は知らなかったらしいのです。なにしろ家内は安ホテルなどに泊まることを、ひどくいやがりましてね。わたしたちはイギリスにもほんのしばらく行ってみたが、わたしの肺では住めたものではなかった。それからスペインへ行きました。厄介なことが怒るたびに、わたしたちは移動せにゃあならなかった。しばらくのあいだ、南フランスのジュアン・レ・パンにも滞在したものの、シーズン中は宿泊料が高くなるので、ここへきたのですよ。家内は、こんな暮らしが大嫌いでね。あれは故郷を離れるべきではなかったのですよ。家内にとっては、われわれすべてが異邦人なのだ。英語で話すのさえいやなんだからね。ときどき、家内はわたしを憎んでいるのだ、と思うことがある。わたしがバチスタにまんまとしてやられたのを、あれは絶対に許せないのだ。だからわたしのことを気違いだなどというのだ。ときには他人にまで吹聴するのだからね」少佐の声は疲れ切っていた。
「昨日、海岸でバチスタに会ったときの家内のようすを、きみに見てもらいたかったくらいです。わたしに、やつがどんな仕打ちをしたか、百も承知しているくせに、会ったとなると、あのはしゃぎようだ。いや、あんなに面くらったことはなかった。それなのに、バチスタのやつ、いい気になってしゃべりまくる。今ではやつも老人の遺産をついでいるのだが、わたしを侮辱しおった。昔のやつの仕打ちを笑い草にするのだ。冗談だと! ばかにするな、銃を持ってたら、撃ち殺してやったにちがいない。ところが射殺するどころか、せせら笑いを浮かべているやつの顔さえ殴れずに、あのボテボテした腹に一発お見舞いしただけですよ。あの豚めが!」少佐の声はうわずり、咳をしはじめたが、どうにかおさまった。そして彼は、挑《いど》むような眼でわたしの顔を見つめた。「たぶんきみは、このわたしのことをばかなやつだと思ってるんでしょうね?」
そんなことはない、とわたしは口の中で呟くようにいった。
少佐は自嘲するような笑い声を立てた。「いや、無理もないな。これでわたしがきみになにかお願いしたら、きみはなんというやつだと思うだろうね」
どういうわけか、わたしの頭がひどくズキズキしだした。いよいよおいでなさったぞ。わたしは、「それで?」といって、相手の言葉を待った。
少佐は身をこわばらせ、ふたたびどぎまぎしている。まるで一語一語が口から出にくいみたいに、口ごもりながら話しだした。「その、こんな話をきみにすべきでなかったのかもしれん、しかしヴァダシー君、きみにわたしの境遇を理解してもらいたかったものだからね。いや、人になにかを依頼するということは身を切られるように辛いものだ。じつは、昨日のような事件があったあとでは、家内もわたしも、とてもこのホテルに滞在するわけにはいかない。ホテル中で噂してる始末だ。八方ふさがりとはこのことです。おまけに、この土地の気候もわたしの肺にはあまりかんばしくない。毎月曜日、マルセイユからアルジェ行きの船が出ているので、わたしたちはそれに乗ろうと思っているのだが。それが、困ったことには――」少佐はそこで言いよどんだ。「その――こんな個人的な用件で、きみを煩《わずら》わすのは気がすすまないのだが、じつのところ、わたしは今、進退きわまっているのですよ。アルジェ行きの旅行など、まったく予定していなかったことだし、それにホテルの勘定書も予算をかなり上まわっている。ま、こういった始末なのです。まことにあつかましい話だと、きみは思われるにちがいない。このわたしにしろ、縁もゆかりもないきみに借金を申しこむのは耐えられないのです。だが、背に腹はかえられない。ヴァダシー君、きみが今月末まで二千フラン貸してくだされば、ほんとうに助かるのです。こんなことをお願いするのは心苦しいのだが、こういったわけなので」
なんと挨拶したらいいものか、わたしにはわからなかったが、とにかく口をひらきかけた。と、少佐は先まわりしていった。
「むろん、担保もなしに金を拝借できるとは考えておりません。コックス銀行の先付け小切手をおわたししておきますよ――きみさえポンドでかまわなければね。フランよりは安全でしょうが、ハッハハ!」少佐は不自然な笑い声をあげた。こめかみには汗が小さな粒々になって並んでいる。「いや、きみにこんなご迷惑をかけようとは夢にも思わなかったのだが、なにせ、このホテルを引きはらう破目になったものだから、このような苦境におちいってしまったわけです。ま、わたしの気持ちも察してください。このホテルで、こんなことをお願いできるのはきみだけだし――それに、いうまでもないことだが、きみが、このホテルに泊まりあわせたことを、心から感謝しているのですよ」
わたしはみじめな気持ちになって、少佐の顔を見つめていた。いま、ポケットに五千フランも持っていて、おおらかに微笑して、おもむろに財布をとりだし、少佐を安心させてやれることができるなら、みんな|はたいて《ヽヽヽヽ》しまったかもしれなかった。「ああ、いいですとも、少佐! どうしてもっと早くおっしゃらなかったのですか? なんでもありませんよ。いっそのこと五千フラン、おもちになったほうがよくありませんか。とどのつまり、小切手を現金にするだけのことですからね、コックス銀行の小切手なら、いつだってイングランド銀行の紙幣と同じようなものです。いや、お役に立ててうれしいですよ。よく相談してくださいました」だが、現実には五千フランなんて持ってなかった。それどころか二千フランさえないのだ。パリまでの帰りの切符と、レゼルヴ・ホテルの宿泊料ぎりぎりの金、それに一週間分の生活費しかなかったのだ。わたしにできることといったら、少佐の顔をまじまじと見つめ、マントルピースの上の置き時計のカチカチ刻む音に耳を傾ける以外にはなかった。少佐はわたしを見あげた。
「残念ですけど」わたしは口ごもった、そして同じことを繰り返した。「残念ですけど」
少佐は腰をあげた。「いや、結構」ひどく無造作にいった。「なに、重要なことではないのだから。ただ、きみに都合がつくかどうかと思ったのでね。それだけですよ。だいぶ、時間をとって申しわけなかった。えらく無分別でした。金の件は忘れてください。ただ、どうかなと思ったものだからね。もっとも、きみとおしゃべりできておもしろかった。なにしろ、英語で話せる機会があまりないのでね」少佐は背筋をのばした。「それでは、荷造りでもするか。明朝、早く発つ予定なのでね。それに、電報も打たなくちゃならんし。ま、発つ前に、もう一度お会いしよう」
そのころになって、やっとわたしの舌がまわりはじめた。
「都合がつかず、ほんとうに残念です。なにも小切手をいただいて現金を融通するのが厭なのではありません。じつは二千フランしか持ってないのです。なにしろ、ホテルの勘定がどうにか払える程度しかないので。ぼくにお金の余裕がありさえすれば、よろこんでご融通するのですがね。ほんとうに残念です。ぼくだって――」いったん、口をひらいてしまった以上、なんとかして少佐に自尊心をとりもどさせてやろうと、わたしはあやまりつづけた。しかし、それも長くはつづかなかった。わたしがまだしゃべっているというのに、少佐はクルリと背をむけると、サッサと部屋から出て行ってしまったではないか。
それから十分ほどして、わたしは警察へ電話して、署長につないでくれというと、ベガンのいらいらした声がはね返ってきた。
「おい、ヴァダシーかね!」
「報告したいことがあるんですよ」
「なんだ?」
「クランドンハートレイ少佐夫妻は明朝、出発の予定です。少佐はアルジェ行きの夫妻の旅費を貸してくれと、わたしにいってきましてね」
「それで? 金を貸したのかね?」
「なにしろツーロン軍港の機密写真料を、スパイの親玉からまだもらってませんのでね」わたしは無鉄砲に言い返してやった。
ところが意外なことに、こんな生意気なせりふに対して、相手からは、きしるような忍び笑いが返ってきただけだった。
「ほかには?」
無分別にも、わたしはもう一度、嘲弄してやりたい衝動にかられた。
「あなたはたいしたことじゃないと思うでしょうが、昨夜、ぼくはホテルの庭でだれかに殴り倒されて、持ち物を探られたんですからね」そういう言葉の下で、わたしは自分の愚かさに気づいていた。こんどはふくみ笑いがかえってこず、もう一度説明してみろと、鋭く命令された。わたしは繰り返した。
意味ありげな沈黙がつづいた。
「愚にもつかぬことばかりしゃべっていて、なんだって最初からそういわなかったんだ? 犯人の見分けはついたのかね? さ、説明したまえ」
わたしは説明した。と、わたしが内心ビクビクしていた質問が浴びせられた。
「で、きみの部屋は探られたのか?」
「そうらしいんです」
「『らしい』ってのはどういう意味だ?」
「フィルムが二本、スーツ・ケースからなくなっているんです」
「いつだ?」
「昨日です」
「他にとられたものは?」質問はすごく慎重だった。
「ありません」カメラがやられたのは、部屋からではなく、ホールの椅子からなんだから、そう答えたってかまわないわけだ。
そこでまた沈黙。こんどはきっと、カメラは大丈夫か、と訊ねてきそうだぞ。だが、ベガンはそうしなかった。わたしは電話が切れたものと思って「もしもし」と呼んでみた。すると、しばらく待て、と相手がいった。
頭がズキズキうずいた。そのまま二分も待った。むこうの話し声がガヤガヤ聞こえてくる。ベガンの声はキイキイきしみ、署長のは雷のとどろくような声だが、なにを話しているかはさっぱりわからない。やっとのことでベガンが電話口に出てきた。
「ヴァダシー!」
「はい?」
「いいか、注意して聞けよ。きみはすぐにレゼルヴ・ホテルへ帰り、支配人のケッヘに会って、きみのスーツ・ケースがこじ開けられ、二、三の品が盗まれたというのだ――銀のシガレット・ケース、ダイヤモンドのピンがはいっている小箱、金の時計鎖、それにフィルムが二本やられたというんだ。騒ぎたてるんだ。ほかの滞在客にもしゃべりまくれ。泣きごとをならべるんだ。レゼルヴ・ホテルの連中一人のこらずに知れわたるようにしてもらいたいのだ。しかし、警察は呼ぶなよ」
「でも――」
「四《し》の五《ご》のいうな。いわれたとおりにするんだ。スーツ・ケースはこじ開けられたのか?」
「いいえ、それが――」
「よし、それなら、支配人に話すまえに、きみがこじ開けておくのだ。それから、こいつは大事なことなんだが、フィルムのことは、後から思いだしたように、話してくれたまえ。なによりもまずきみは貴重品がやられて頭を抱えているんだからな。いいな、わかったね?」
「ええ、だけどぼくは、シガレット・ケースもダイヤモンドのピンも、時計の金鎖も持っていないんですがね」
「むろん、持ってないさ。みんなとられちまったんだからな。さ、しっかりたのむぞ」
「そんな真似、ばかばかしくて、やられるもんですか。いくらあなただって、そんな無理なこと――」だが、相手はすでに電話を切ってしまっていた。
わたしはせっぱつまった思いでホテルに引き返した。この事件で、わたしよりもっとばかなやつがいるとしたら、そいつはベガンだ。だがやつは、最悪の場合でもスパイをとり逃がすだけで、失うものはなにもないのである。
十一
わたしはすごい緻密《ちみつ》さでもって、盗難の証拠作りにとりかかった。
まずスーツ・ケースをだして錠をおろす。それから錠をこじ開けるのに、なにかかっこうなものはないかと、わたしは部屋のなかを見まわした。手はじめに、爪切りばさみで、ためしてみた。錠は薄っぺらなものだったが、はさみを|てこ《ヽヽ》代わりにするわけにはいかなかった。五分間、無駄骨を折ったあげくに、わたしは爪切りばさみの片刃をポキッと折ってしまった。そこで、もっと頑丈な道具はないものかと、さらに数分間をむなしく費やした。わたしは|やけくそ《ヽヽヽヽ》になって、寝室のドアから鍵をとると、そいつの上に平たい鋼《はがね》の輪をかけ、|かなてこ《ヽヽヽヽ》の代用にして使ってみた。やっとのことで、これで錠はあいたものの、寝室の鍵を曲げてしまったので、そいつを伸ばすのにまたまた手間どった。それからスーツ・ケースの蓋を開け、中のものをかきまわすと、いかにもひどい目にあったという表情をつくって、大急ぎで支配人のケッヘを探しに階下へ降りた。
ケッヘは事務所にいなかった。そして、水着でぶらぶらしている彼を海岸で見つけたころには、せっかくつくったものすごい表情も、おどおどした心配顔にゆるんでしまっていた。アメリカ人のスケルトン兄妹、フランス人の恋人たち、そしてデュクロ氏もケッヘといっしょだった。とっさに、もっと良い機会を待つかと思ったが、はねのけた。いいか、泥棒にはいられてしまったのだぞ。グズグズするな。貴重品がわたしの部屋からごっそり盗まれたんだからな。こんなひどい目にあったとき、だれでもするようなことを、おれはしなければならないんだぞ。たとえ支配人が海水パンツしかはいていなくたって、やつにすぐ知らせなくちゃならないのだ。むろん、こういった場合には、きちんと黒服を身につけた支配人のほうが、ふさわしいけれど、そんなことはいってはいられない、とにかくケッヘにぶつかって、全力をふるってひと芝居うつしかない。
わたしは海岸へ出る階段をかけおりると、支配人めがけて砂浜を横切ろうとした。と、その瞬間、横槍がはいったので、わたしは出鼻をくじかれてしまった。階段をおりるわたしの足音を聞きつけたスケルトンが、ビーチ・パラソルの端からキョロキョロ見まわして、わたしを見つけたのだ。
「やあ!」彼が声をかけた。「今朝はずっと見えませんでしたね。昼飯前に水につかりませんか?」
一瞬、わたしはためらったが、道草など喰ってはいられないと思いかえして、歩きつづけた。すると砂の上にうつぶせになっていたメアリー・スケルトンが頭をあげて、ウィンクしてみせた。
「てっきりお見限りだと思ってましたわ、ヴァダシーさん。あたしたちの好意を、そんなふうにないがしろにする権利なんか、なくてよ。さ、水着に着替えてきて、クランドンハートレイ事件のスキャンダルでも話してくださらないの。あたしたち、朝食の後で、あなたが少佐と話しているところを、図書室の窓からちゃんと見たんですもの」
「まったく駄目だな!」兄が不満そうに声をあげた。「おもむろに、本題にひきずりこもうかと思ったのに。で、なんだったのです、ヴァダシーさん?」
「あの失礼だけど」わたしは急いでいた。「ケッヘに話がありますので、いずれのちほど」
「きっとですよ」青年がわたしのほうへ叫んだ。
支配人のケッヘは、ルウとデュクロにむかって、さかんにしゃべっていた。まえの晩の口喧嘩など、すっかり忘れてしまっているのだ。わたしは、ケッヘがフランスの南東部の都市、グルノーブルの美観について一席ぶっている最中にわってはいった。わたしは唇をきっと結び、真剣な表情。
「ちょっと失礼、内密に話したいことがあるのです。急を要するのだが」
支配人は眉をつりあげると、二人に話の中断をわびた。わたしとケッヘは、二人から少し離れた。
「いったい、なんのご用で?」
「せっかくのところ悪いのだが、ぼくの部屋まできてもらいたいのです。ついいましがた、村へ行ってるあいだに、ぼくのスーツ・ケースがこじ開けられて、貴重品を二、三やられたんだよ」
支配人の眉が、またつりあがった。ケッヘは歯のあいだからヒューッと鳴らすと、チロッとわたしの顔を見た。そして、「ちょっとお待ちを」とつぶやくなり、彼は砂浜を横切り、タオルとサンダルをひろいあげて身にまとい、わたしのところにひきかえしてきた。
「さ、おともしましょう」
あたりにいる連中の、好奇心にみちた視線を浴びながら、わたしとケッヘは海岸をはなれた。
わたしの部屋にむかう途中で、彼は何が紛失したのかとたずねた。わたしは、ベガンのグロテスクな選定による貴重品を二、三あげてから、フィルムのこともさりげなくつけ加えておいた。ケッヘはうなずいたが、無言のまま。わたしはなんだか心配になってきた。そりゃあたしかに彼が偽装盗難だということをかぎつけることは十中八九までないはずだ。だが、ことを起こした今となって、わたしは不安になってきた。ケッヘはしじゅうブラブラ油を売ってはいるものの、けっしてばかではない。それに、彼そのものがフィルムを盗み、昨晩、庭でわたしを気絶させた犯人かもしれぬということを、忘れるわけにはいかないのである。もしケッヘが犯人なら、わたしの嘘が簡単にバレてしまう。結果は、わたしがひどい目にあうこと、火を見るよりもあきらかだ。わたしはあらためてベガンをはげしく呪《のろ》った。
ケッヘは陽気な眼つきで、わたしがこじあけておいたスーツ・ケースの錠を調べた。やがて彼が身を起こすと、その眼が、わたしの眼をのぞきこんだ。
「たしか、部屋を九時ごろ出たといわれましたね?」
「ええ」
「そのとき、スーツ・ケースには異常がなかったのですね?」
「そうだとも。とにかく階下へ降りる直前に錠をおろし、ベッドの下へいれたんだからね」
ケッヘは腕時計を見た。「今、十一時二十分ですが、この部屋におもどりになったのは?」
「十五分ぐらい前ですよ。もっとも、スーツ・ケースをすぐだして見たわけじゃない。やられた、と気づいてから、まっすぐきみのところへとんで行ったのですよ。まったく不愉快だ」わたしはぎごちなくつけたした。
ケッヘはうなずくと、わたしの顔を、穴のあくほど見つめた。「では、事務所まで、おいで願えますか? 紛失物の詳細を教えていただきたいので」
「いいですとも。だが、あらかじめいっておくけど」わたしは口のなかでモグモグいった、「なにしろ責任は支配人のきみにあるのだから、盗まれた貴重品をすぐ探しだし、犯人をつかまえてください」
「それはごもっともで」支配人はいんぎんに答えた。「お品はじきに取り返してごらんにいれます。ご心配なさることはありませんから」
せりふを忘れた素人俳優のようなわびしい気持ちで、わたしはケッヘのあとについて行った。事務所のドアを、ケッヘは入念にしめると、わたしに椅子をすすめてから、ペンを手にした。
「ええと、とられたものは、まずシガレット・ケースでしたね。たしか金だといわれましたな」
わたしはケッヘの顔に視線を走らせた。彼はさかんに紙に筆記している。思わずわたしは、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》した。待てよ。さっき海岸からあがってくるとき、ぼくは金のシガレット・ケースだといったかな? まるっきり思いだせないぞ。それとも、やつはぼくに|カマ《ヽヽ》をかけているのか? と、その瞬間、わたしの頭にインスピレーションがひらめいた。
「いや、ケースは銀で、ふちが金です」われとわがせりふに元気を得て、わたしはいった、「それからぼくの頭文字のJ・Vが片隅に彫《ほ》ってあるし、外側は機械仕上げでね。十本入りのケースで、中のゴムひもはなくなっているんです」
「よくわかりました、それで鎖は?」
わたしは、パリのモンパルナスの停車場のそばの、宝石店の飾り窓で見たことのある中古の鎖を思いうかべた。
「十八金。厚味のある古風なやつで、ずっしりと重いんだ。一九〇一年のブラッセル博覧会記念のちっぽけな金メダルがついていてね」
ケッヘは、慎重にわたしの一語、一語を筆記した。
「それではと、ピンのほうを」
これは、そうあっさりとははこばなかった。「なあに、ただのネクタイ・ピンでしてね。長さは六センチほどのもので、直径三ミリぐらいの小粒のダイヤが一個、ピンの頭にはめこんであるんですよ」ここまでいうと、わたしは腰くだけになってしまって、「ダイヤといったって」弱々しい笑いを無理にうかべながら、わたしはいった、「模造品ですよ」
「それにしてもピンは純金でございましょう?」
「かぶせ金ですよ」
「で、その貴重品のはいっていた箱というのは?」
「錫《すず》の箱ですよ。煙草入れでね。ドイツ製です。製品のマークはおぼえていないな。おまけに、コンタックスのフィルムが二本、その箱の中にはいってましてね。もう撮影ずみのものですがね」
「すると、コンタックスのカメラをお持ちで?」
「ええ」
支配人はまた、わたしの顔を見つめた。「カメラはお確かめになったでしょうな。なにしろ、カメラを盗めば、いい金になりますからね」
その瞬間、心臓の鼓動が二回ばかり止まったみたいな感じだった。すごい|ヘマ《ヽヽ》をしでかしてしまったのだ。
「カメラ?」思わずわたしは間の抜けた声をだした。「そいつは確かめなかったなあ。カメラは引出しに入れておいたんですよ」
支配人はサッと立ちあがった。「じゃ、すぐ行って確かめてみなければ」
「おお、そうだとも」自分でも、顔が真っ赤になっているのがわかった。
わたしとケッヘはまた二階にかけあがり、わたしの部屋にとんで行った。その道すがら、必ずはりあげなければならなくなる落胆と怒りの叫び声がうまくだせるようにと、心の中でわたしは慎重に予習していたのである。
わたしはいかにも心配そうにタンスへ駆けよるなり、いちばん上の引き出しを開けて、必死の形相でかきまわした。それから、パッと大仰に振りかえった。
「やられた!」わたしは、すご味のある声でいった。「こいつはあんまりだ。あのカメラは五千フラン近くもするのだ。さ、犯人を、即刻探してくれたまえ。いますぐ、なんとか方法を講じてください」
と、おどろいたことに、支配人の唇に薄笑いがうかんだので、わたしはめんくらった。
「たしかに方法は講じますがね」ケッヘはおちつきはらっていった、「しかし、カメラの場合には、その必要はないようですな。ごらんのとおり!」
わたしは、ケッヘが顎をしゃくったほうを見た。ベッドのそばの椅子の上に、ケースにおさまったままのコンタックスのカメラがちゃんとあるではないか。
「いやあ」ふたたび階段をおりながら、わたしは間の抜けた口調で弁解した、「きっと椅子の上に置いたのを、すっかり忘れてしまったんですよ」
ケッヘはうなずいた。「さもなければ泥棒が引き出しからカメラをだしたくせに、あわてて持って行くのを忘れたのかもしれませんな」その口調に、皮肉なひびきを感じたのは、きっとわたしにひと芝居打ったという弱味があるせいだ。
「ま、いずれにしろ」わたしは心から陽気にいった、「カメラがあってよかった」
「きっと」支配人は重々しくいった、「他の貴重品もすぐ見つかりますよ」
わたしも勢いをこめて同調した。わたしたちは事務所に引き返した。
「シガレット・ケースと時計の鎖のお値段は、いかほどでしょう?」と支配人がたずねた。
わたしはじっくりと考えた。「さあ、そいつは困ったな。そうですね、ケースは八百フランぐらい、鎖は五百フランぐらいのところかな。どっちも、ちょうだいものでね。ネクタイ・ピンは正真正銘の安物だけど、ぼくにはすごくなつかしい思い出があるんでね。それからフィルム。こいつは、とられたとなると、惜しいにきまっていますが、そうかといって――」わたしは肩をすくめた。
「いや、わかりました。シガレット・ケースと鎖には保険がかかっているのでしょうな?」
「いいや」
支配人はペンをおいた。「ま、おわかりになっていただけると思うが、この種の事件では、嫌疑が従業員たちにかかりがちなものです。そこで、わたしも、まず従業員にあたってみることにします。わたしが単独で調査にあたります。ですから、現在の段階で、警察を呼ぼうなどとお考えにならず、とにかく慎重にことを運びますから、わたしにどうぞおまかせください」
「ええ、いいですとも」
「それから、ほかのお客さま方には、今回の不祥事《ふしょうじ》をどうかおもらしにならぬようにお願いしたいのですが」
「ええ、むろん」
「それは、それは。なにせ、このような盗難事件がありますと、手前どものような小さなホテルは、信用に大きくひびくものでしてね。では、調べがつきしだい、ご報告いたします」
わたしは、まったく憂鬱な気分になって、事務所を出た。ほかのお客たちにはぜひ内聞《ないぶん》にしてくれと、ケッヘに頭をさげて頼まれた。自分としては、そのぐらいのことはよろこんで応じたい気持ちなのである。いや、こんな事件が他人の耳にはいらないですめば、それこそ願ったりのことなのだ。しかしベガンは、このニュースをホテルの客たちに吹聴して歩けと強要する。この点にかけては、ベガンは一歩もゆずらないのだ。わたしは騒ぎ立てる義務がある。だが一方、気の毒な従業員の身にもなってやらなければならない。あちらを立てれば、こちらが立たず、まさにわたしは板ばさみだ。おまけにわたしの見るところでは、まったく無意味なのである。もっとも、わたしの関知しない何ごとかが進行しているのならば別だが。いったい、シガレット・ケースと時計の鎖がスパイとなんのつながりがあるのか、わたしにはまったくもって理解しがたいところだ。ベガンは、でっちあげの盗難事件を口実に使って、スパイを逮捕しようとでもいうのか? 馬鹿な! いったいどこから証拠が出てくるというのか? もう今ごろは、盗まれた二本のフィルムは現像されたあげく、捨て去られてしまったことは、火を見るよりもあきらかだ。それにシガレット・ケースと時計の鎖は架空のものだ。問題にまともにぶつかる賢明な方法はただ一つ。それは、まず第一にスパイの正体をつきとめ、わたしのカメラを所持しているところを逮捕するのだ。そうだ、〈わたし〉のカメラ!
わたしは階段の最後の数段を一気に駆けあがるなり、部屋へとびこんだ。わたしの怖れていたことをこの目でたしかめるのに、数秒とはかからなかった。〈わたし〉のカメラだった。スパイ逮捕の有力な証拠品が、丁重《ていちょう》に返されていたのである。
わたしは絶望的な気持ちで、海水パンツに着替えた。むろん、ベガンに嘘をつくことだってできる。わたしの知らないあいだに、カメラが二度も、すりかえられていたといえばいい。とにかく、知らなかった、の一点張りという手もある。わたしの部屋が何者かによって荒らされたとき、すりかえられたのかもしれないといってやってもいい。まさか一日中、何時間ごとかに、わたしがカメラの番号を調べるものと、いくらベガンだって思ってはいまい。わたしがうまくやれば、約十八時間、どちらのカメラもわたしの手もとになかったことなど、ベガンに知れるわけがない。もっとも、ベガンがスパイを逮捕すれば、いっぺんにバレてしまうけど。スパイが逮捕されるとなると、こいつはえらいことになるぞ。ベガンは、せっかく捕えたスパイを釈放せざるを得ぬ羽目になるかもしれないのだ。スーツ・ケースをこじ開け、時計の鎖を盗んだなどという筋書きで、スパイを逮捕できるあてなど、万に一つもあるものか。ま、こいつはベガンの領分だ。たかだかわたしはチェスの歩《ふ》、目に見えない歯車にまきこまれた一匹の蠅だ。わたしの心には、陰惨な自己|憐憫《れんびん》の情があふれてきた。わたしはシャツのまま立ちあがり、自分の姿を鏡に写してみた。哀れな愚か者め! まるで蚊《か》のスネだ! わたしは着替えをおえた。わたしが階段をおりて行くと、シムラーがケッヘの後から事務室に入り、ドアを閉めるのが見えた。シムラー! わたしの胸の中をうつろな風が吹いた。ほかのことはとにかく、今日こそシムラーの部屋を捜索するのだ。
浜辺では、フォーゲル夫妻がフランス人の恋人たちと合流していた。アメリカ人の兄妹は水泳中。わたしはデュクロ氏に近づくと、そばのデッキ・チェアーを引きよせて腰をおろした。一、二分、とりとめのない言葉をかわしてから、わたしはおもむろに仕事にかかった。
「あなたのような方が、ほんとうの苦労人というのでしょうね。そこで、ちょっとしたデリケートな問題について、ご助言がいただければ、ありがたいのですが」
デュクロ氏の顔に、いかにもうれしそうな色がひろがった。そして老人はさもいかめしく顎ひげをしごいた。「なに、経験というほどのこともないが、さ、どうぞお気がねなく」老人はおどけて両の眼をクルリとまわしてみせた。「わしの助言をおのぞみなのは、たぶん、アメリカのお嬢さんのことでしょうな」
「え、なんとおっしゃったんですか?」
デュクロ氏は、ちゃめっけたっぷりに、クックッとのどの奥で笑った。「なにもそうテレることはないでしょう。ま、わしにおまかせなさい。こういうことなら、わしにも少々考えがあるので」老人は声をひくめると、顔を近づけてきた。「お嬢さんだって、あなたを見る眼がちがっていますよ」そして一段と声をひくめると、老人はこんなことをわたしの耳にささやくではないか。「いまのようにあなたが水着だけだと、とりわけ眼の色がちがいますぞ」デュクロ氏は顎ひげをふるわせて、忍び笑いをもらした。
わたしは冷やかに、老人の顔を見つめたまま、「わたしの相談というのは、スケルトン嬢とはなんの関係もないことです」
「関係がない?」老人はいかにもがっかりしたようす。
「じつはわたしの部屋から、二、三の貴重品が盗まれたので、そのことで頭がいっぱいなのです」
デュクロ氏の鼻眼鏡がひどく震えたものだから、ずり落ちてしまった。そいつを小器用につまむと、あらためて鼻にかけた。
「すると窃盗《せっとう》ですな?」
「まさにそのとおりです。今朝、わたしが村へ行ってる留守に、スーツ・ケースがこじ開けられ、シガレット・ケース、時計の金鎖、ダイヤのネクタイ・ピン、それにフィルムが二本盗まれましてね。被害はしめて二千フラン以上です」
「なんという!」
「盗られてしまってほんとにがっかりですよ。ネクタイ・ピンにはなつかしい想い出がありましたしね」
「|ひどい話だ《セ・タフルー》!」
「まったくそうなんですよ! 支配人のケッヘに苦情をいってやったものだから、いま彼が従業員を調べているところですがね。それにしても――じつはそのことであなたのご指導がたまわりたいので――どうもわたしは、ケッヘの処置に満足できないものですから。どうもケッヘには、被害の大きいことがわからないんですな。警察ざたにしてもさしつかえないものでしょうか?」
「警察?」デュクロ氏は興奮してそわそわしている。「おお、そうですとも! むろん、警察に依頼すべき事件です。お望みなら、いますぐ交番までごいっしょしますよ」
「待ってください」わたしはあわてて言いたした、「ケッヘは、この事件に、警察を介入させないほうがいいとの意見でしてね。で、彼が従業員たちを調べることになったのです。ま、その結果を待ったほうがいいかもしれませんね」
「そうですか。いや、そのほうがいいかもしれませんな」そうはいうものの、そう簡単に警察をあきらめたくない気ぶりだった。「それにしても……」
「ありがとうございました」わたしはおだやかにさえぎった。「ご助言を感謝します。おかげでわたしのはらがきまりました」デュクロ氏の視線は、フォーゲル夫妻やフランス人の恋人たちのほうをしきりにさまよっていた。「むろん、あなたにだけお話ししたのですからね。なにしろ、いまのところでは慎重な態度でのぞみませんとね」
老人はものものしくうなずいた。「そうですとも。これでも実業界の荒波をくぐってきた人間です。ま、その点は信用してくださって大丈夫ですよ」デュクロ氏はそこで言葉を切ると、わたしの海浜用のガウンの袖をひっぱった。「で、犯人の心当たりは?」
「いいえ、ひとりも。証拠もないのに疑いをかけるのは危険ですからね」
「いや、そのとおりです、しかし――」老人は声を落とすと、ふたたび、わたしの耳にささやきだした。「あの、イギリス人少佐を怪しいとは思いませんかね? 乱暴な男ですわ! それに、あの男は何で食べているというのです? なにもしてないのですぞ。このホテルに三カ月もご滞在だ。そうだ、あなたの耳に入れておくことがまだありましたよ。今朝、あの男は食事がすむと、下のテラスにいるわたしのところへやってきおってね、二千フランの借金を申しこむじゃありませんか。ひどく金に困っているようすでしたよ。月に五分の利息をつけるなどと言いおってね」
「で、お断わりになった?」
「あたりまえですとも。腹が立ってならなかったが、なんでも、アルジェに行く旅費がいるからというんですよ。いったい、なんだってこのわしが、あの男のアルジェ行きの旅費を立て替えにゃならんのです? あの男も世間の人間同様セッセと働きゃあいいんだ。おまけに細君のことでもなにかあるらしいが、わしの知ったことじゃない。あの男のフランス語ときたら、さっぱりわからないんだ。あれはたしかに頭が少し変ですよ」
「すると、少佐が犯人だとにらんでいるのですか?」
デュクロ氏はいかにもわざとらしく微笑すると、片手をあげて抗議した。「いやいや、なにもわしは、そうはいってませんよ。ただ、なんとなくそんな気がするだけでしてな」まるで老人は、すごく手のこんだ法律上のかけひきをしているような態度だった。「あの男は無職、一文なし、自暴自棄になっている、といったところを、わしは指摘しただけでね。|やけ《ヽヽ》にでもなってなければ、月に五分の利息などと、だれが言いだすものですか。わしには、入金予定の金がつかないのだとかいってましたがね。なにもあの少佐が犯人だと、わしはいっているのじゃない。ただ、そんな気がしないでもないのでな」
と、アメリカ人兄妹が海から浜辺にあがるのが見えた。わたしは腰をあげた。
「いろいろとありがとうございました。ご助言はしっかと胸にきざんでおきます。むろん、確証があがるまでは、慎重にいたしませんとね。ま、後刻、この問題について、いろいろとお話しすることになりましょうが」
「そのときには」デュクロ氏がうなずいた、「従業員たちの調査の結果がわかってますからな」
「そのとおりです」わたしは会釈した。
砂浜を歩いてわたしがスケルトン兄妹のところにたどりつくころには、デュクロ氏はもうフォーゲル夫妻やフランス人の恋人たちと話に熱中していた。話題は、憶測《おくそく》するまでもないことだ。デュクロ氏が、ベガンの指示を文字どおり遂行してくれることは、火を見るよりもあきらかだ。
スケルトンときたら、寝室に貼《は》ってある注意書を頭から無視して、ホテルのタオルでからだを拭いていた。
「やあ!」これが青年の挨拶である。「情報屋さんのご登場!」
妹は、ビーチ・パラソルのかげに、わたしの座をもうけてくれた。「こちらへお坐りになって、ヴァダシーさん。もう支配人なんかとこそこそ逃げたりしないでくださいね。あたしたち、真相が知りたいわ――なにもかも」
わたしは腰をおろした。「いや、あんなふうに雲がくれしてすみませんでした。ちょっと、不愉快なことがあったものですから」
「あら、また?」
「そうなんですよ。じつは今朝、ぼくが村へ行ってる留守に、スーツ・ケースがこじ開けられ、二、三の品が盗まれてしまったのです」
スケルトンが、まるで脚でも折れたみたいに、がっくりとわたしのそばに坐った。
「ヒューッ! そいつはひどい。貴重品ですか?」
またここで、わたしは盗難品を列挙した。
「盗まれたのは、いつでしたって?」たずねたのは妹のほうだった。
「ぼくが村へ行ってる留守ですよ。そう、だいたい九時から十時半のあいだですね」
「だけど、あなたが少佐と話しているのを、わたしたちが見かけたのは、九時半ごろだったわ」
「そうです、でも、ぼくが部屋を出たのは九時だったのですよ」
スケルトンが、秘密めかして身を乗りだしてきた。「いいですか、少佐があなたとしゃべっている|すき《ヽヽ》を狙って、細君が荒稼ぎしたとは思わないかな?」
「ウォレン、よしなさい。冗談ごとじゃないのよ。きっと犯人は、従業員のなかにいるわ」
スケルトンはいらだって鼻を鳴らした。「どうしてそういうことになるんだい? うんざりするな。盗難事件が起こると、きまって奉公人だとか、メッセンジャー・ボーイみたいな弱い立場の人間を、容疑者の対象にするんだからな。真剣に考えろっていうんなら、今朝、あのスイス人のおやじさんは、廊下を忍び歩きしたりして、いったい、なにをしてたのかな?」
「でも、あの廊下はヴァダシーさんの棟じゃなかったわ。ヴァダシーさん、お部屋の番号は?」
「六号です」
彼女は両腕に、日焼け止めのオイルをすりこみはじめた。「やっぱりそうだわ! スイス人のフォーゲルさんの部屋は別棟で、あたしの部屋の一つおいた隣ですもの。あたしの隣室は支配人のお友だちが泊まっているわ」
一瞬わたしは砂をわしづかみにしたものの、指のあいだからこぼれるのにまかせた。「それは何号室あたりでしょうか?」わたしはわざとものうげにたずねた。
「盗難のこと、支配人はなんていってるんです、ヴァダシーさん?」
「どうやら、従業員たちを疑っているようですよ」
「あたりまえだわ」妹は活発にいった。「ウォレンは、従業員のような弱い立場のものの肩を持ちすぎるのよ。きっと犯人は、盗癖の気《け》のある、お金にはなんの不自由もない古顔の従業員だと、だれだって思うにきまっているわ。ところが、真相は、哀れな給料の安い女中が、村のボーイ・フレンドにシガレット・ケースを盗んでプレゼントしたかったといったところかもしれないわね」
「じゃ時計の金鎖にダイヤのネクタイ・ピン、それに二本のフィルムもかい?」兄が皮肉な口調でたずねた。
「ホテルのボーイのしわざかもしれないわ」
「ひょっとするとデュクロ老人か少佐かもしれないぞ。それはそうと、少佐の話というのは、どんなことだったんです、ヴァダシーさん?」
わたしは、少佐の半世紀を話してきかせて、兄妹をたのしませてやるのはよそうと決心した。
「なあに、昨日のことで、ホテルの連中に迷惑をかけて申しわけなかったと、あやまっただけですよ。なんでもヨットの男は、少佐の義弟だそうですよ。金のことで、義弟とずっと仲たがいしていたという話です。そいつをまた、むしかえされたものだから、少佐は逆上してしまったのですね。少佐の話だと、夫人も狂乱状態だったので、彼を気違いだなどと口走ったのは、本心じゃなかったそうですよ」
「なんだ、それだけですか? いったいなんだってそんなことを、あなたにわざわざ話したんでしょうね?」
「少佐は、昨日の事件がひどくこたえたとみえますね。ま、ぼくがその場にいあわせなかったものだから、ぼくに話しかけたまでですよ」デュクロ老人が少佐から通りいっぺんの謝罪と、おなじような借金の申し込みを受けたことなど、わたしは話す気持ちはなかった。「ま、いずれにせよ、少佐夫妻はホテルをひきはらうんですし、それに……」
「言いかえれば、こういうことなのよ、ウォレン」妹が口をだした。「あたしたちは、自分の頭の上の蠅さえ追っていればいいので、おせっかいな子供みたいな真似はしなさんな、というわけでしょ。そうですわね、ヴァダシーさん?」
まさにそのとおり、だがわたしは顔をまっ赤にして抗議しはじめた。すると、兄のウォレン・スケルトンが、わたしの言葉をさえぎって、「や、どこからか酒のにおいがしてくるぞ! さ、行きましょう。もう泳ぐわけにはいきませんよ。そろそろ昼食の時間ですからね」
青年が飲み物をとりに行っているあいだに、妹のメアリーとわたしは、下のテラスのテーブルのほうへ歩いて行った。
「ウォレンのいうことなんかお気になさっては駄目よ」彼女は微笑しながらいった。「なにしろ、兄はこんどがはじめての海外旅行ですもの」
「じゃ、あなたははじめてじゃないんですね?」
ちょっとのあいだ、返事がなかったので、わたしは彼女に聞こえなかったのかと思った。彼女はまるで、なにか重大なことでも発言するかのように、ためらっていたのだ。それから、かすかに肩をすくめた。「ええ、まえにも外国へ旅行したことがありますわ」わたしたちがテーブルにつくと、彼女はわたしに微笑みかけた。「ウォレンが、あなたにはどこか謎めいたところがあるって言いますのよ」
「へえ、兄さんがね?」
「なにか秘密のある人みたいですって。それから、ひとりの人間が一カ国以上の言葉を完全にあやつるのは、すごく不自然だ、ともいってますわ。きっと兄は、あなたの正体が、思わず胸のはずむような任務についているスパイかなにかだと、ほんとに痛快だな、とでも思っているのでしょうよ」
わたしはまた、自分でも顔が赤くなるのがわかった。「スパイですって?」
「兄のいうことなんか、お気になさらないでって、いったばかりじゃありませんか」メアリーはふたたび微笑した。知的な、たのしげに輝いている彼女の眼が、テーブル越しに、わたしの眼とピタッと合った。と、だしぬけにわたしは、彼女のまえになにもかもぶちまけたくなった。じつは秘密をもっている人間だということを告白して、彼女の同情と助けが得たくなったのだ。わたしはテーブルに身を乗りだした。
「ほんとうをいうと……」とわたしは切りだした。だが、それだけでわたしは彼女になにも打ち明けはしなかったし、いまはもう何を話そうとしていたかも忘れてしまった。なぜって、ちょうどこのとき、兄のスケルトンが飲み物をのせた盆を持ってもどってきたものだから。彼が、このときもどってきてくれて、ほんとによかった。
「給仕がテラスのほうにかかりきりだから」彼はいった、「ぼくが自分でもってきましたよ」彼はグラスをあげると、「さて、ヴァダシーさん、女中のボーイ・フレンドが、あなたのシガレット・ケースを気に入りませんように!」
「それとも」妹が真剣な顔をしていった。「二本のフィルムかもしれなくってよ。フィルムのこと、忘れちゃ駄目だわ」
十二
昼食はほんの少ししか食べられなかった。
というのは、頭がふたたびズキズキ痛みだしたからでもあるが、スープといっしょに、支配人のケッヘから伝言がとどいたからである。その伝言には、食後、おさしつかえなければ事務所までお立ち寄りいただきたい、とあった。あいよ、さしつかえなんかあるものか。しかし、予想すると不安だった。もしケッヘが『哀れな給料の安い女中』を犯人ときめたとしたら――。いったいどうすればいいんだ? あの低脳のベガンは、こうした不慮の出来ごとを計算に入れていないのだ。気の毒な女中は、当然、頭から罪を否認するだろう。おれはなんといえばいいのだ? 無実の小娘が、逆上したケッヘにおどかされ、身におぼえのない窃盗罪の濡れぎぬをきせられるのを、腕をこまぬいて黙って見ていろというのか? こいつは恐ろしいことになったぞ。
だが、その心配はまったく無用だった。女中はなんの嫌疑もうけなかったのである。
わたしがテラスを離れると、デュクロ氏がさっそくとんできた。
「いよいよ警察をよぶご決心がつきましたかな?」
「いや、今、支配人に会いに行くところですよ」
老人はがっかりしたような顔をして、顎ひげをしごいた。「ずっと考えておったのだが、こっちが一秒のばすごとに、それだけ泥棒は有利になるのですぞ」
「まったくそのとおりなんですが。しかし……」
「一実業家の意見として、即刻積極的な手を打たれんことを勧告しますぞ。ケッヘには厳しい態度でのぞまれんことを」老人は顎ひげをはげしく突きだした。
「ええ、一歩もゆずりませんとも、それでわたしは……」
と、ちょうどそこへ、フォーゲル夫妻が通りあわせて、わたしに握手すると、盗難見舞いの挨拶をした。デュクロ氏は、口外しないというわたしとの約束|不履行《ふりこう》の証拠が目の前にあるというのに、いささかも動ずる気配がない。
「フォーゲル氏と完全に意見が一致したのですが」デュクロ氏がいった、「ただちに警察署長を呼ぶべきですよ」
「いや、五千フランとは」フォーゲル氏が重々しくうなずいた、「たいへんな被害ですな。こいつは考えるまでもなく、警察にもちこむべき事件です。ルウ氏も同意見ですよ。ほかの滞在客の財産の安全も考えなくてはね。マルタン嬢は、なにせ神経質な若いご婦人のことだから、自分の宝石類が心配で心配でビクビクしている始末。ルウ氏も、彼女をしきりになだめてはいるのですが、彼も泥棒が見つからなければ、このホテルを発たざるを得ないといってましてね。支配人ケッヘにも、もっと真剣に事件に取り組むように、ハッパをかけてやらなくてはね。なにせ五千フランの盗難ですからな!」――彼はデュクロ氏が倍増して吹聴したわたしの被害をふたたびあげた――「大事件ですよ」
「まったくですわ!」とフォーゲル夫人。
「だからいわんこっちゃない!」デュクロ氏が得々《とくとく》として口をはさむ、「どうしても警察を呼ばにゃあならん」
「ヴァダシーさん、あなたにも犯人のめぼしがついているらしいが」フォーゲル氏がささやくようにいった、「今のところ警察には話さないほうがいいと思いますね」
「犯人のめぼしがついているですって?」思わずわたしはデュクロ氏をジロリと見た。わたしの視線を避けるように、老人はわざとらしく鼻眼鏡に手をやった。
フォーゲル氏は寛大そうに笑って見せた。「いや、なにもかも承知しとりますよ。まあ、何もいわんほうがいいでしょうな」――彼は素早くあたりに目をくばると一段と声を落とした――「イギリス国籍の某人物をさすと思われるようなことはね、わかりましたな?」そしてウィンクした。「こういった事件は慎重に扱わにゃならんですよ」
「そうですとも!」フォーゲル夫人が陽気に雷同《らいどう》した。
わたしは、犯人の目星など、なにもついていないというようなことを、口のなかでボソボソ言いながら、その場から逃げだした。デュクロ氏に広告代理店をまかせたのは、いささか危険だということがわかったのだ。
支配人のケッヘは事務所で待っていた。
「やあ、ヴァダシーさん、どうぞお入りください」彼はわたしのうしろのドアを閉めた。「椅子を? さ、どうぞ。ではさっそく用件に移りますが」
わたしは被害者の役を演じた。「さだめし満足すべき結果が得られたでしょうな。どっちつかずというのはじつにいやなものですからね」
支配人は沈痛な面持ち。
「それがまことに残念ですが、わたしが調べたところ、なんの手がかりも得られなかったのです」
わたしは思いきり眉をしかめてみせた。「それは困った」
「いや、困りました。まったく困りました!」ケッヘは前においた紙に眼をとおすと、人差指で一、二度、コツコツたたいてから、わたしの顔を見あげた。「ま、いずれにせよ、事件についてどんな手がかりでもいい、従業員のなかに一人ぐらい提供してくれるものがいるかと思いましてね、給仕から庭師にいたるまで、使用人全部を調べてみたのですよ」言葉が途切れた。「ま、正直なところ」しんみりした口調でつづけた。「めいめいから、盗難のことはこれっぽちも知らぬという言葉をきいたとき、わたしには真実を語っているとしか思えなかったのです」
「すると、滞在客の中に犯人がいるというのですね?」
一瞬、ケッヘは口をひらかなかった。わたしは理由もさだかではないのに、よりいっそう不安にさえなってきた。ケッヘはゆっくりと頭を横にふった。「なにもわたしは、お客さまの中に犯人がいるとは申しませんので」
「じゃ外部の人間だとでも?」
「いや、そうともいってはおりません」
「それでは……?」
支配人はグッと身を乗りだした。「これは警察にまわすべき事件だと決心したのですよ」
こいつは面倒なことになってきたぞ。どんなことがあっても警察は呼ぶなと、ベガンから、はっきり釘をさされているのだからな。
「しかしだね」わたしはあわてて抗議した、「それは最後の手段だよ。そんなことをしたらホテルの醜聞《スキャンダル》になる」
ケッヘの唇が固く結ばれた。これは、いままでに見たことのないケッヘだった。もはや、あの、なげやりなお人好しの男ではなく、非常にてきぱきしたケッヘだった。突然、室内には不快な緊張感がみなぎった。
「遺憾ながら」彼は鋭くいった。「ホテルの信用は、とっくに台なしになりましたよ。お客さま方は事件をかぎつけて、いろいろ取りざたされているばかりか、一人の方をほんとうに犯人かもしれないと疑っておられるくらいですからね」
「それはお気の毒だ、わたしは――」
彼はわたしの言葉を無視してつづけた。「わたしがこの事件を調べ終わるまでは、黙っておいでになるよう、あれほどお願いしたはずです。あなたは黙っているどころか、もっともひどいやり方で、お客さま方に吹聴なさったのですな」
「警察に報せたものかどうか、デュクロ氏に、そっとご忠告をお願いしただけだよ。デュクロ氏が慎重を欠いていたのなら、そいつは残念ですな」
ケッヘが答えたとき、その声にはあざけりのひびきがあった。「それでデュクロ氏のご忠告というのは?」
「警察を呼べという話でしたよ、でも、あなたのほうに敬意を――」
「するとわれわれの意見は完全に一致というわけですな。あなたにはちょうどいい機会だ」ケッヘは電話に近づいた。「すぐ警察へ連絡しましょう」
「ま、待ってくれたまえ、ケッヘさん!」支配人の手が電話の上でとまった。「わたしはただ、デュクロ氏の忠告を繰り返していっただけじゃないか。わたしから見れば、警察を呼ぶ必要なんかないのだ」
ケッヘが電話から手をひいたので、わたしはホッと安心した。それから支配人はゆっくりと向きなおると、わたしの眼の中をじっとのぞきこんだ。
「ま、そんなところだろうと思いましたよ」わざとらしい口調で、彼がいった。
「いや、きっとね」わたしはできるだけ愛想よくいった、「警察より、支配人さんのほうが、効果的に事件を処理してくれると思うんだ。それに人に迷惑をかけたくないしね。盗まれた品物がもどれば、それこそ願ったりだけど、ま、もどらなくても、あきらめますよ。とにかく、警察というものは事件の解決の助けになるよりも、こっちの邪魔をするほうが多いからね」
「たしかにそうでしょうよ」こんどはあざけりの色をむきだしに見せた。「そりゃあなたの場合なら、警察を、大変な邪魔ものと思うでしょうからな」
「どういう意味だね?」
「おわかりにならない?」ケッヘは冷やかに微笑した。「これでもわたしは、長年、ホテル商売をしてきた人間なんですよ。以前にも、あなたみたいなお客にお目にかかったことがあるといっても、べつに失礼にはあたらないでしょうな。客を見る目は、ちゃんと養ってきているんですからね。いいですかい、あんたがこのでっちあげの盗難事件を知らせにきたとき、シガレット・ケースがなくなったと言いなさった。あとからわたしが、金のケースでしたね、とほのめかすと、あんたはためらってから、銀製の金縁だといって、体《たい》をかわしなさった。こいつはちょっとうますぎますぜ。あんたの部屋へ行ったとき、わたしはスーツ・ケースの近くの床にころがっている、はさみの片刃に気がついた。もう片方の刃はベッドの上にあった。あんたは両方の刃を二度も見ておきながら、それについちゃ一言もふれない。いったい、どうしてなんです? あきらかに旅行鞄をこじ開けるのに使われているんですよ。重要な証拠じゃありませんか。それなのにあんたは|はな《ヽヽ》もひっかけない。鞄がどうやってこじ開けられたか知っているからこそ、あんたははさみの片刃なんか、屁《へ》とも思わなかったのさ。あんたが自分でスーツ・ケースをこじ開けたんだ」
「ばかな! ぼくは――」
「おまけにあんたは、わたしがカメラに注意をむけさせると、ギョッとしたじゃありませんか。わたしが、椅子の上にカメラがあると教えてあげたときのあんたの驚き、あいつはたしかに本物だった。あのとき、あんたはほんとうに何かが盗まれたのかと、ギョッとしたんだ」
「ぼくは――」
「シガレット・ケースの値段の点でも、あんたはまた、へまをしでかしたよ。あんたの話のようなシガレット・ケースなら、少なくとも千五百フランはするからね。ま、あんたはいただきものだといってはいたが、それにしても、半値以下に過小評価することはないでしょう。ものをなくしたりすると、人間、必ずほんとうの値より高く言いがちなもんでさあ」
「ぼくはけっして――」
「ただ、どうしてもわたしにわからないのは、あなたの動機だ。ま、婦人客に割合多いんだが、弁償してもらえなければ警察を呼ぶとか、そうなれば他のお客に迷惑がかかるとかいってホテルをおどかすのは、よくある手ですがね。ホテルがこういう不慮の災難に対して、保険をかけているのは、だれでも知ってますよ。ところが、あんたときたらすぐに他のお客に吹聴して歩いたのだから、こんなことにはまだ駆けだしなのか、あるいはなにか他に動機があるにきまっている。どうです、ほんとうの動機をあっさり吐いていただけませんかね」
思わずわたしはパッと立ちあがった。もう演技どころではない、ほんとうに怒ったのだ。
「なんというひどい言いがかりだ。こんなに侮辱されたのは生まれてはじめてだぞ」激怒で、言葉がうまく出ない。
「ぼ、ぼくは……」
「じゃ、警察を呼びましょうか?」とケッヘはあおるような口調でいった。「電話ならここにありますよ。でもまああんたは警察を呼びたくはないでしょうな」
わたしはできるだけいかめしい顔をしてやった。「こんな茶番劇はいいかげんにしてもらいたいね」
「なかなか話がわかるじゃありませんか」ケッヘは椅子を傾けて、身を乗りだした。「じつはわたしは、あんたを怪しいとにらんでたんだ、ヴァダシーさんよ、木曜日の警察での訊問がばかに長かったからね。フランスの警察は、よっぽど容疑が濃厚でないかぎり、個人の部屋は捜索したりしないもんだ。パスポートの調査だなんていわれたって、あっさり、そうですかと引きさがれないよ。警察とはこれ以上かかり合いたくないというあんたの気持ちもよくわかるがね。それに茶番劇をここいらへんで打ちあげにしたいというあんたの意見には、両手《もろて》をあげて賛成だ。だからわたしは、あんたの勘定書を作っておいたよ。これが、わたしのお慈悲だなんて思わないでくださいよ。こっちの気持ちとしちゃ、あんたを黙って警察へ突きだすか、さもなくば一時間以内にホテルからとっとと出て行け、というところさ。もっとも、女房は、そんなことをしたら他のお客が余計、騒ぐだろうっていうんだ。あれのほうが、このわたしなんかより、世知にたけている、というわけさ。で、女房の意見にしたがったんだ。あんたは、|うち《ヽヽ》を、明朝一番で発ってもらいたいね。ま、そのとき、わたしが警察に報せるかどうかは、残された短い時間内の、あんたの行状いかんにかかっているというわけだ。他のお客さんには、盗難事件はとんだ勘違いで、品物は置き忘れただけだった、スーツ・ケースが壊れたのは、自分の不注意から合わない鍵を使い、錠を駄目にしたからだ、とでも説明してもらいたいね。あんたなら、|うぶ《ヽヽ》な連中に、こんな話を信じこませるぐらい、なんのぞうさもないはずだ。え、いいですかい?」
わたしはまだかすかに残っていた冷静さをフルに活用した。「よし、わかった。いずれにしろ、きみからこんな妙な言いがかりをつけられたんじゃ、このホテルにいる気はしないからね」
「よしゃ! さ、勘定書だ」
わたしは、計算違いでもないかと、穴のあくほど勘定書を見てやった。こんな態度は幼稚きわまりないが、このときわたしは、まさに幼稚そのものだったのだ。支配人のケッヘは無言で待っていた。どこにも間違いはなかった。わたしは、どうやら支払いにたりるくらいの金は持っていた。ケッヘは、まさかいっぺんにキレイに払ってもらえるとは思っていなかったらしく意外な面持ちで、金を受け取った。
ケッヘが領収書を書いているあいだ、わたしはそばの壁にとめてある『イタリア・コステリック航路』の航海日程表を、ぼんやりと見つめていた。彼が領収書をわたしてくれるまでに、わたしは日程表を二回も見なおしていた。
「ありがとうございます。レゼルヴ・ホテルへまたどうぞとお願いできないのが残念ですな」
わたしは事務室を出た。
部屋にたどりついたときには、わたしは頭のてっぺんから足の先までふるえていた。ベッドのシーツだけ残して、あとのホテル専用の小物類、タオルとか果物皿とか、運べるものはすべて持ち去られているのに気がつくと、いっそう気分が悪くなった。水道の蛇口に顔をよせて、水を飲み、煙草に火をつけてから、窓際の椅子に腰かけた。
ケッヘのやつには、もっとおちついてピリッとしたことをいってやるはずだったのに、とわたしは考えはじめた。すると少しして、震えがとまった。これはベガンの手落ちで、わたしがヘマをやったわけではない。こんな子供だましの筋書きはうまく行くわけがないことぐらいは、やつにだってわかりそうなものなのに。そりゃあ、失敗の憂《う》き目を見たのは、たしかにわたしが不注意で下手くそだったからかもしれぬ。しかしわたしには、そんじょそこらのペテン師みたいな真似はできっこないのだ。不当な仕打ちに抗する怒りが、わたしを襲った。いったいベガンは、なんの権利があって、わたしをこんな惨めな立場におとしいれたのか? もしわたしが、わたしの諸権利を領事が擁護《ようご》してくれるような国籍のはっきりした人間なら、いくらベガンだってこんなむごい仕打ちはしないはずだ。いずれにもせよ、これはどんなつもりなのか? わたしのでっちあげ事件が見破られるのは、ベガンの筋書きだったのだろうか? それじゃわたしは、気違いじみた実験に使われたモルモットにすぎないではないか? たぶん、そうかもしれぬ。だが、それがなんだっていうんだ? 問題は、ベガンが介入して強権を発動でもしないかぎり、わたしは明朝ホテルから追いだされるということだ。そうなればどうなる? おそらく警察の留置場行きだろう。いま、ベガンに電話して、事情を説明しておいたほうが……。
だが、そういう考えが胸に浮かんだものの、それを実行に移せないのは、自分でわかっていた。ほんとうのところは、ベガンが恐いのだ、ケッヘに見破られたことで、ベガンから責められるのがこわいのだ。とりわけ警察に逆もどりさせられ、あの狭くて汚らしい独房にとじこめられるのがこわかった。
わたしは窓の外を眺めた。海は、陽《ひ》の光のなかで微風に波打つ青草を、見渡すかぎり敷きつめたようだ。平和そのものだった。あの冷たい海の深みにはいってしまえば、もはや人は、恐怖にも疑惑にも、また不安にもさいなまれないのだ。そうだ、海岸へおりて海へはいり、湾のかなたへと泳ぎ出るのだ。両腕が疲れて岸へもどれなくなるまで、泳ぎつづけるのだ。水のかき方が遅くなり、疲れてくる。それからとまって、沈む。海水がわたしの肺にドッと流れこむ。わたしはもがき、生への執着が頭をもたげる――どんな代償を払ってでも生を――しかしわたしは、もう絶対に帰れないようにあらかじめ手を打っておいたのだ。苦しいといっても一、二分、そしてわたしは静かに忘却のかなたへと沈み行く。それからどうなる? ユーゴスラヴィア国籍のジョーゼフ・ヴァダシー(新聞はわたしの名前の綴りをきっと間違えるぞ)は昨日サン・ガシヤン海岸で遊泳中、水死。救助もむなし。遺体はいまだ発見されず。そのほかには? いや、なにも。これで一巻の終わり。ただ死体が腐るだけ。
煙草の火は消えていた。そいつを窓から投げ捨てると、わたしは箪笥の鏡の前に近よって、自分を写して見た。「おまえさんはめちゃくちゃになりそうだな」わたしはつぶやいた。「おいもう少ししっかりしろよ。なんだ、一分前には自殺を思いつめ、いまは自問自答か。さ、元気をだせ。あんまりむきになるなよ。肩を怒らせるのはよくないぜ。なにも重量あげの試合に出るわけじゃないのだからな。筋肉なんて、おまえさんにはいらないさ。いるのはちょっとした知性だよ。この仕事は、おまえさんが考えているほど重大じゃないのかもしれないんだ。いいか、つぎのことだけは覚えておいてくれよ。いまは三時。いまから今晩までのあいだにコンタックス・カメラを持っている人間を探すんだぞ。これだけだ。え、たいしたことはないじゃないか? ホテル中の部屋を片端から探すだけのことさ。あの男、シムラーからはじめるんだ。いちばんくさい人物だ。だいいち偽名なんか使っている。ほんとうはドイツ人のくせに、スイス人などと偽証している。なにか心配事もあるようだし、ケッヘとも関係がある。いいか、ケッヘも臭《くさ》いということを忘れるな。それだからこそ警察を呼ばずに、おまえさんをホテルから追い払おうとしているのかもしれないのだ。そうだ、こいつはちょっとしたアイデアだぞ? おまえさんはまだ負けちゃいないんだ。しかし気をつけろよ。頭を使え。一回戦はまんまとやられたんだからな。二度と繰り返すなよ。シムラーが真犯人なら、やつの尻尾をつかむには、よっぽどの知恵がいるぞ。なにしろ剣呑《けんのん》なやつだからな。昨夜、おまえさんの頭を殴って、この猛烈な頭痛を起こさせたのも、やつの仕業《しわざ》じゃないか。部屋の番号はわかっているな。あのアメリカ娘が教えてくれたろ。まず、現在、やつがどこにいるかつきとめるのだ。慎重にやれよ! さ、急げ」
わたしは鏡から離れた。そうだ、急がねばならぬ。シムラーがどこにいるか、探りだすのだ。そういえば、よく彼はテラスに一人で坐っているじゃないか。イの一番に、テラスから探してみよう。
だれにも会わずにラウンジにくると、わたしは窓に足音をしのばせて近よった。案の定《じょう》、シムラーはテラスにいた。例のごとく書物をひろげ、パイプをくわえたまま、本の上にかがみこむようにして、読書にふけっているようす。しばらくのあいだ、わたしは彼を見つめていた。すごく立派な頭だ。この男がスパイだとは、とても思えなかった。
だが、こんどというこんどは、わたしの決心も固かった。急げ! どんな人間だろうと、スパイみたいな顔はしていないのだ――その正体をつきとめるまでは。とにかく、スパイと見ようと見まいと、わたしの勝手だし、各自の自由なのだ。シムラーには、あきらかにスパイの嫌疑のかかる要素がある。それだけで充分!
わたしはふたたび二階へあがった。自分の部屋の前で、わたしはちょっと足をとめた。なにか忘れものでもあるかな? ピストル? 冗談じゃない! そんな物騒なしろものがいる仕事じゃないぞ。そっと部屋を調べるだけ、それでおしまいだ。心臓の鼓動が激しくなったが、わたしは自分の部屋を通りすぎ、廊下を歩いて行った。すると新しい恐怖に捕えられた。もしだれかに会ったらどうする! スケルトン兄妹かフォーゲル夫妻にでも! わたしがこんな所にいるのを、どう説明したらいいだろう? なにをしてると思われるか? と、このとき、浴室《サル・ド・バン》と札のかかっているドアの前を過ぎた。もし必要なら、この部屋に入り、風呂を浴びているふりをすればいいさ。だが、わたしはだれにも会わなかった。じきに十四号室の前に立っていた。
思索と行動のあいだの深淵に橋をかけるのは、じつに難儀な作業である場合が多い。他人の部屋を調べてやろうと、ただ頭で考えるのはやさしい――鏡の前で自問自答していたときはべつに良心の呵責《かしゃく》など感じもしなかった――しかし、それが現実の仕事となって、いざ実際に部屋に入りこむ段になると、とてもなまやさしいなんてものじゃない。なによりも気持ちが鈍《にぶ》るのは、ただ見つかるのが恐いばかりではない。尊重すべきプライヴァシーを犯さねばならないからなのだ。見慣れぬドアに見慣れぬノッブ、そのむこうには他人の生活がある。ドアを開けられるのは、一組の恋人をのぞき見すると同じくらいに許しがたい侵入行為なのである。
わたしは、しばらくのあいだ、ドアの前に立ちつくし、罪の意識と戦い、そいつをなんとかして罪とは反対の意識に合理化しようとつとめた。メアリー・スケルトンの思い違いで、これはシムラーの部屋ではないかもしれない。それに昼食がすんでから、まだ間もない。わたしは、シムラーに、もっとテラスに腰をおちつけている時間をあたえるべきだった。それに彼がカメラを隠してしまったとしたら、それこそ時間の浪費というものだ。まずドアには鍵がかかっていることだろうし、そいつをこじ開けようとしているところに、だれかがやってくるかもしれない。いや、きっとだれかが……
打開策はただ一つ。忍びこんだりしないことだ。部屋の中に人がいたり、だれかに見られたりしたら、部屋を間違えたことにすればいい。さっき、スケルトン青年は、わたしの水泳の仕度ができたら、呼びにきてくれといっていたじゃないか。あ、お部屋が違いましたか? どうも失礼。これでサッと退散する。もっともスケルトン兄妹に見られないかぎりでの話だが。しかし、ここにあまりながく立っているとだれかに見られてしまう。深呼吸を一つして、わたしはドアをノックし、ハンドルを握ってからまわした。鍵はかかっていなかった。敷居に立ったままでドアを押し、開くにまかせた。部屋にはだれもいない。ほんの二、三秒、待ってから部屋に入り、ドアを後ろ手に閉めた。とうとうやったぞ。
あたりを見まわす。わたしの部屋より狭く、調理場のある別棟が見えた。糸杉の木立ちが窓に近いので、外からの光線があまりささない。わたしは、窓からできるだけ離れて立ち、シムラーのスーツ・ケースを探した。ところが、スーツ・ケースなど一個もないことがすぐにわかった。たぶん、彼は中身をたんすの引き出しに移すと、|から《ヽヽ》になったスーツ・ケースは物置にしまわせたのだろう。引き出しを開けて見る。いちばん上の引き出し以外にはなにもはいっていなかった。その引き出しには、洗いざらした白ワイシャツ一枚、グレイのネクタイ一本、小さなポケット櫛《くし》一個、かかとに大きな穴のあいた靴下一足、清潔だがしわくちゃの下着一組、石鹸一包み、それにフランスのタバコ一罐があった。カメラはない。わたしはネクタイの商標を調べた。ベルリンの業者の名前と住所がついている。下着はチェコスロヴァキア製である。ワイシャツはフランスである。洗面台へ行って見た。剃刀やひげそり用石鹸、それに歯ブラシと練り歯みがきはフランス製である。わたしは押し入れへ向かった。
その押し入れは幅広で、奥行も深く、真鍮《しんちゅう》の金具には洋服掛けがずらりとさがり、靴の棚もあった。背広と黒のレインコートが一着おいてある。それだけだった。背広には濃いグレイでひじがぬけている。レインコートは裾のほうに三角の裂け目があった。
これと、引き出しの中身をあわせて、たったこれだけが「ハインバーガー氏」の衣裳か。こいつは変だぞ! あの男が、たっぷり金を持って、このレゼルヴ・ホテルに滞在しているのなら、もっと衣類を持ってるはずじゃないか?
しかし、そんなことは本筋ではない。わたしはカメラを探した。マットレスの下がくさいとにらんだが、突き出たスプリングの端で、手にひっ掻き傷をつくっただけだった。部屋全体がわたしの神経をいらだたせはじめた。目的の品が見つからないのだ。もう行かねばならぬ。しかし、もう一つだけやって見たいことがあった。
押し入れに引き返し、背広をおろしてポケットの中を探った。はじめの二つは空《から》だったが、胸ポケットに、薄い紙表紙の本のようなものを探り当てた。外へ引きだす。それは本ではなく、二冊にわかれたパスポートだ。一つはドイツ、一つはチェコ発行のもの。
最初に、ドイツのパスポートを調べた。エミール・シムラー、新聞記者、一八九九年エッセン生まれ、発行は一九三一年。これには驚いた。シムラーは四十をずっと過ぎているように見えたのだ。ヴィザのページを調べる。ほとんどが白紙である。しかし、一九三一年にフランスで二回、一九三二年にソビエトで数回、ヴィザを受けている。ソビエトでは二カ月過ごしている。前の年の十二月にはスイスのヴィザ、その年の五月にはフランスのヴィザがあった。次にチェコのパスポートを調べてみる。
まぎれもないシムラーの写真が貼ってあったが、名前はパウル・チッサール、商社代表、一八九五年ブルノ生まれとある。発行は一九三四年八月十日。ドイツとチェコのヴィザ・スタンプがたくさんおしてある。チッサール氏はベルリン=プラハ鉄道で、その周辺を動きまわっているようすだった。少しばかり苦心したが、わたしはいちばん新しい日づけを読み取った。今年の一月二十日――ほぼ八カ月前の日づけである。
重大な発見にすっかり夢中になっていたおかげで、わたしは、すぐドアの外にくるまで、廊下を歩いてきた足音に気づかなかった。もし気づいたとしても、果してどんな処置がとれたか疑わしい。あわててパスポートを、シムラーの背広の胸ポケットにねじこむなり、ドアのハンドルがまわる直前に、その背広をまるめて押し入れに投げこむだけの時間しかなかった。
つづく数秒のあいだに、頭もからだも麻痺《まひ》してしまったかのように思われた。わたしは立ちすくんだまま、ハンドルを見つめて、白痴ように口をポカンと開けていた。叫びだすか、押し入れに隠れるか、窓からとびだすか、それともベッドの下にもぐりこむか――。しかしわたしはなにもしなかった。ただ、口をアングリ開けたまま、その場に立ちつくしていた。
するとドアが開いて、シムラーが部屋に入ってきた。
十三
しばらくのあいだ、シムラーはわたしがいることに気づかなかった。
戸口から入ってくるなり、彼は書物をベッドの上にポイと投げだし、たんすの引き出しのほうに行こうとした。
と、その瞬間、二人の視線がピタッと合った。
彼は驚いたようだった。が、やがてゆっくりとたんすに歩みよると、タバコのかんを取りだして、パイプに詰めはじめた。
この沈黙は、とうてい耐えうるものではなかった。鉛のように重いものが胸を押しつぶして、いまにも息がつまりそうだった。血が、わたしの頭部でズキンズキンと脈打っている。魅惑されたようにわたしは、シムラーの指が、パイプにタバコを詰めこんでいるのを、ただじっと見つめているばかりだった。
ついに彼が口を開いたとき、いかにも平静で、さりげない口調だった。
「ここには金めのものなんか、なにもなかったろうに?」
「そんな、ぼくは――」かすれた声でわたしが言いかけた。しかし、彼は、片手のパイプをあげて、わたしの言葉をさえぎった。
「いや、釈明はたくさんだよ。いいかね、わたしはきみに同情しているのだ。きみのような仕事をする人は、危険な橋を渡らなければならないからな。あげくのはてに、獲物がなにもないとなりゃあ、いい加減がっかりするだろう。とりわけ」パイプに火をつけながら、彼はいった、「あぶない橋を渡った先が刑務所ではね」そして煙をはきだした。「それではと、支配人とはここで会うかね、それとも事務所にするかね?」
「支配人なんかには会いたくありませんよ。なんにもとらないんですからね」
「それはわかってるさ。とるものがないんだからね。しかしきみは招かれもしないのに、わたしの部屋に入ってたんだよ」
恐怖で消えうせていたわたしの機知が、息をふきかえした。
「ほんとうのところはですね」わたしが言いだすか言いださないうちに、彼にさえぎられてしまった。
「いや! そいつがそろそろ出てくるころだと、思ってたんだ。『ほんとうのところはですね』という説明がはじまったら、ま、たいてい、嘘にきまっている。しかし話してみたまえ、きみのほんとうってやつをね?」
わたしの顔面は怒りに燃えあがった。
「ほんとうはですね、今朝、ぼくのスーツ・ケースから、貴重品が盗まれてしまったのです。じつは、犯人はあなたじゃないかと疑いました。ここの支配人が事件をまともにあつかってくれないものだから、それじゃ自分で調べてやろうと決心したんですよ」
彼は、さも意地悪そうな微笑をうかべた。「なるほど。最上の防禦は攻撃なり、というわけだな。わたしがきみをおどすと、こんどはきみがわたしをおどしにかかるのか。気の毒だけど、きみの訴えについては、ちょうどケッヘ君と話してたところなんだ」彼は意味ありげに言葉を途切らせてから、「ここの勘定はすんだのだね」
「不本意ながら、引きはらうつもりですよ」
「じゃ、不本意の延長で、この部屋に入ってたのかね?」
「おのぞみなら、そうお考えください。しかし、ぼくが間違っていたことはみとめます。あなたは犯人じゃありません。無断であなたの部屋に入ったことを深くおわびして、退散します」そういって、わたしはドアのほうへ行こうとした。
と、その行く手をさえぎるようにして、彼が立ちふさがった。
「残念ながら」彼は重々しい口調でいった、「そうはいかないね。このような事情じゃ、二人とも、ここにいてケッヘ君にきてもらったほうがよさそうだな」彼はベルのところへ行って、それを押した。わたしはがっかりした。
「ぼくはなんにもとらないんですよ、なにひとつこわさない。それでぼくを告発しようたってできない相談だ」わたしの声が高くなった。
「ねえ、ヴァダシー君」彼はうんざりした口調でいった、「どうせきみは、警察のご厄介になっている身なんだろう。それだけでおつりがくるよ。逃げ口上が言いたいのなら、好きなだけ言いたまえ。しかしそいつは、署長のまえでご披露願いたいものだな。きみは、この部屋に、盗みの目的で忍びこんだのだ。きみの自分勝手な釈明は、刑事にするがいい」
いまやわたしは絶体絶命だった。このピンチを脱出する手だてを必死でまさぐった。いま、ケッヘがきてしまえば、三十分もしないうちに警察に送られることは必定《ひつじょう》。わたしの最後の切り札は、ただ一言。わたしはそいつを彼の鼻先になげた。
「いったい、どこのだれが」わたしはたんかを切ってやった、「このぼくを訴えるというんです? ハインバーガー氏か、ベルリンのエミール・シムラー氏か、それともブルノのパウル・チッサール氏ですか?」
すこしは手ごたえがあるとは期待していたものの、そいつがあまり大きすぎたので、こっちが驚いてしまったくらいだった。シムラーはゆっくり振り返ると、わたしに向き合った。するどくこけた頬は蒼白、皮肉なまなざしが冷たい憎悪のまなざしに変わっている。彼が一歩踏みだすと、わたしは思わず一歩後退した。彼は立ち止まった。
「するときみは、ただのこそ泥ではないんだな」
静かな、ほとんどいぶかし気な口調だったが、その侵蝕《しんしょく》するような感じが、わたしを震えあがらせた。
「だからぼくは空巣《あきす》なんかじゃないといったじゃありませんか」わたしは快活な口調でいった。
と、だしぬけに一歩前へ踏みだすなり、彼はわたしのシャツの胸元をつかんでグイッと引き寄せたものだから、二人の顔は数センチの距離に近づいた。わたしはすっかり肝《きも》をつぶしてしまって、反抗する気も起こらない始末。彼はわたしをゆっくりと前後にゆさぶりながら、言葉を浴びせかけた。
「そうか、泥棒でもなく、ただのねずみでもない、いやらしいスパイの端くれなのか。しかも狡猾なスパイだ」唇が軽蔑したようにねじれる。「世間には内気で純真な語学教師、そのロマンティックな顔つきと、悲しげなマジャール人の眼には、絵描きといえどもだまされる。どのくらいこの商売してるのかね、ヴァダシー? いや、どうせ偽名にきまっている。この仕事のために、やつらがきみを選んだのか、それともきみが拷問《ごうもん》つきの留置場から痛めつけられて出てきたところなのか?」そこで激しく突きはなされたものだから、わたしはヨロヨロと壁にぶつかった。
シムラーがこぶしを固めて、ふたたびわたしに近づこうとしたとたん、ドアにノックの音がした。
一瞬、二人は無言のまま眼と眼を見あわせた。やがて彼は姿勢を正して歩いて行くと、ドアを開けた。給仕だった。
「お呼びでしたか?」と給仕の声。
シムラーはためらっている気配。ややあって、
「いや、すまなかった、ベルを鳴らすつもりじゃなかったんだ。さがってよろしい」といった。
彼はドアを閉めると、そこによりかかったまま、わたしをみつめた。「邪魔がはいったおかげで、きみは命拾いをしたよ。わたしがこんなに逆上するなんてめったにないことなのだ。殺してやるつもりだった」
わたしは声を震わすまいと懸命だった。「どうやらあなたも気がおちついたようだから、ひとつ、話しあおうじゃありませんか。さっきあなたは、最良の防禦は攻撃なり、と言いましたね。ぼくのことをスパイ呼ばわりするなんて、この格言をそのまま実行に移すにしろ、少々幼稚すぎませんかね。そう思いませんか?」
彼は押し黙っている。わたしは冷静さをとりもどしてきた。こいつは思ったより簡単にすみそうだぞ。いまのところ、重要なのは、彼がカメラをどう処分したか、そいつを探ることだ。それから、スキを見て、さっきの給仕を呼びもどし、ベガンに電話してもらうのだ。
「もしあなたが」わたしは言葉をつづけた、「ぼくにかかった迷惑を知れば、もっと同情してくれていいはずだ。昨夜、あなたに殴られたおかげで、頭がいまだにズキズキしているんですよ。それに、二本のフィルムが駄目になっていないなら、警察がこないうちに返してくださいよ。連中ときたら、事件が解決しないかぎり、ぼくをパリへは帰さないというんです。ね、そこのところをわかってもらいたいんですよ。それはそうと、カメラはどうしたんです?」
シムラーは不安げに眉をしかめた。「これがなにかの罠だとしたら……」そう言いかけて口をつぐんだ、そして「なんの話やらさっぱりわからんね」とむすんだ。
わたしは肩をすくめた。「ずいぶんとぼけるのが上手なんですね。ベガンという男を知ってますか?」
彼は首を横に振った。
「なに、すぐに知るようになりますよ。ツーロンの海軍諜報部に配属されている警察本部の男でしてね。これでもわかりませんか?」
彼はゆっくり部屋の中央へ出てきた。思わずわたしは防禦の姿勢をとった。視線の端にベルのボタンがあった。よし、二、三歩で手がとどくぞ。やつがちょっとでも動いてみろ、ベルにとびついて、ボタンを押してやるから。だが、彼は化石のように立っていた。
「どうもおかしいね、ヴァダシー、われわれの話はどこかでひどく食い違ってるようだ」
わたしはニヤリと笑った。「さあね」
「じゃ、きみの話はまるっきりわからんな」
わたしはいらだたし気に溜息をついた。「しらばっくれるのも、いい加減にしたらどうなんです? よく考えてくださいよ。カメラはどうしたのですか?」
「これはなにかの冗談なのかね?」
「そうじゃないことはすぐわかりますよ」事態をうまくさばけないのが、自分でも感じられて、わたしはイライラしてきた。「警察を呼ぼうじゃありませんか。文句がありますか?」
「警察だと? ああ、いいとも。こっちから願いたいくらいだ」
ただのからいばりなのかもしれないが、わたしも少しばかり不安になってきた。証拠のカメラが出なければ、それこそわたしはお手あげだ。そこで、わたしは戦法を変えることにした。一、二秒、彼の顔をじっと見つめてから、わたしは気弱げに、ニタリと笑った。「どうやら」わたしは恥かしそうにいった、「ぼくが間違ってたような気がしてきましたよ」
シムラーの眼が、用心深くこちらの眼を探った。「そのとおりさ」
わたしはホッと溜息をついた。「とんだご迷惑をおかけして申しわけありません。ほんとうにぼくはばかだった。デュクロ氏がいちばんおもしろがるでしょうよ」
「だれだって?」まるでピストルの弾丸のように、質問が発射された。
「デュクロ氏ですよ。愉快なおじいさんでね、少しおしゃべりだけど、思いやりのある人ですよ」
シムラーが懸命に自己を抑えているのが、わたしにもわかった。彼はわたしのほうに近づいてきた。その声は無気味なほど、冷静だった。「いったい、きみは何者なのだ? なにが望みなのだ? 警察の人間かね?」
「まあ関係はありますがね」われながらこのせりふはパンチがきいていると思った。「名前はご存じのとおり。望みというのは、ほんのすこしの情報でしてね。あのカメラはどうしたんです?」
「なんの話かさっぱりわからんと、また、わたしが答えたらどうするかね?」
「警察で訊問してもらうだけですよ。いや、それだけじゃない」――わたしは、シムラーの顔を穴のあくほど見つめた――「あなたがいやに人目を避けて、ひっそりと暮したがるようすもしらせますよ――本名がハインバーガーでないこともね」
「そんなことなら警察はとっくに知ってるさ」
「ええわかってますよ。残念ながらぼくは田舎の警察の情報網なんか信じないのでね。どうです、これ、どういう意味だかわかりますか?」
「いいや」
わたしは微笑を浮かべながら、彼のまえを通り抜けて、ドアのほうへ行こうとした。と、シムラーはわたしの腕をつかむなり、彼はグルッとわたしをふりむかせた。
「ばかだな、おい、よく聞けよ」彼は語気荒くいった、「さっぱりわからんが、どうもきみはわたしにたいしてなにか固定観念をいだいているようだね。どんな観念にしろ、きみは、わたしが自分の正体を人目から隠したがっていることを、きみの考えが正しいという証拠だと見なしているのだ。それに違いなかろうが?」
「だいたいのところはね」
「よろしい。わたしがハインバーガーと名乗っている理由は、きみとはなんの関係もないことだ、ただケッヘだけがその理由を知っている。警察もわたしの本名をちゃんと知っているのだ。自分の関知しない情報を、わたしが提供しなければ、本名を使わぬ理由も知らないくせに、きみは故意に訳のわからぬごたくをならべたてる。これも間違いないな?」
「まあ、結構でしょう。むろん、あなたが情報をおもちでないと仮定してですがね」
わたしの最後のせりふを無視して、彼はベッドの端に腰をおろした。「どうしてきみに怪しいと感づかれたのか、わたしにはわからん。たぶん、ここの警察がなにかきみの耳にふきこんだか、それとも押し入れの中のパスポートのせいかだな。いずれにしろ、わたしの秘密が、これ以上ひろまるのはごめんだ。いいかね、きみにはまったく率直な態度をとっているのだ。とにかくきみに断念してもらわなくちゃならん。それには、わたしが本名を隠している理由を、きみに話してしまうのが、ただ一つの道だ。なに、それほど変わった話ではない。ほかにもよくある例なんだがね」
そこで言葉を切ると、彼はパイプに火をつけた。パイプ越しに、彼の眼がわたしの視線にピタッとあった。その眼には、また皮肉な色がもどっていた。「ヴァダシー、どうやらきみはひとの言葉をまるっきり信じようとしないらしいね」
「まあ、そうでしょうよ」
シムラーはマッチの炎を吹き消した。「なに、いまにわかることさ。しかし、一つだけ覚えておいてもらいたい。わたしはきみを信頼しているのだ。むろん、わたしにはそうするより手はないがね。無理にわたしの話を信じてくれ、というわけにもいかないが」
ここで言葉が途切れたが、それは、いかにも自分を信じてくれと願っている彼の意図が感じられた。ほんの一瞬、わたしは弱気になった、だがそれもつかのま。
「ぼくはだれも信じてませんね」
シムラーは、ホッと溜息をついた。「よろしい。話はすこし長くなるが、一九三三年のことだ。わたしはベルリンの社会民主主義新聞『テレグラーフブラッツ』の編集長だった」彼は肩をすくめた。「今はもうないが、かなりいい新聞だったよ。部下も腕利きの記者連中だった。東プロシアの製材工場主が経営していた。これが立派な人物で、ゴッドウィンやジョン・スチュアート・ミルのような十九世紀のイギリスの自由主義者たちを崇拝している改革者だった。シュトレーゼマン(ドイツの自由主義政治家。一八七八―一九二九)が世を去ったときは喪《も》に服してたくらいだった。彼はときおり、論説を送ってきてくれたが、人間の兄弟関係とか、労使間の紛争を、キリスト教に基づいた協力精神で解決する必要性を論じていた。自分の工場の従業員とは非常にうまくやってたのだが、製材所の経営は赤字だったらしい。そこで一九三三年だ。
大戦後におけるドイツ社会民主主義の苦悩は、その片手が支持するものを、もう一方の手で、そのおなじ相手と戦わねばならぬことだった。労働者を搾取《さくしゅ》する個々の資本家の自由も、組合を結成し資本家に対抗して戦う労働者の自由も、ともに信じたのだ。妥協の可能性を無限と信じたのは大きな錯覚だった。ワイマール憲法でユートピアが建設できるものと考え、至高の政治概念は改革だとし、同時に世界の崩壊にひんした経済構造は、上部構造による物質支配によって下部構造を支え得るものと考えていた。なかでもいちばん悪いのは、ちょうど、狂犬も撫《な》でればおとなしくなるものと錯覚するように、力にも善意で対抗できると考えていたことだ。一九三三年にドイツ社会民主主義は、いわば狂犬にかみつかれたあげく、苦悶の中に崩壊したのだ。
『テレグラーフブラッツ』紙が、イの一番に弾圧された。われわれは、二回も襲撃をくらったのだよ。二回目には、手榴弾で輪転機がやられた。それでもわれわれは手をあげなかった。幸いにもいままでどおりの新聞を印刷してくれる所が見つかった。しかし三週間後には、そこからも断られた。警察の調べがあったのだね。そのおなじ日に経営者から電報がきた。工場の経営で大損をしたから、新聞社を人手にわたす羽目になったというのだ。買い手はナチの官僚で、デトロイト銀行あての手形で支払ったそうだ。その翌日の夜、わたしは自宅で逮捕され、留置場にたたきこまれたのさ。
そのまま、留置場ぐらしが三カ月間、おまけに告発もされないのだ。訊問さえしないのだからな。やつらから聞きだせたのは、わたしの一件が考慮中ということだけだ。はじめの一カ月というものは、とても慣れるところまではいかないから、なんといっても骨身にこたえた。警察の連中は、悪くはなかったよ。ある警官などは、わたしの書いた記事を、ちょいちょい読んでいたそうだ。ところが三カ月目のしまいには、わたしはハノーヴァーの近郊の収容所に移されてしまったのさ」
そこでシムラーは一息いれた。わたしは窓際の椅子にじっと腰かけたままである。
「収容所のことは、きみも話にいろいろと聞いてるにちがいない」彼はそのまま言葉をつづけた。「ま、十中八九までは聞いてるはずだ。だが、真相はなかなか伝わらないものだよ。話だけだと、四六時中、囚人の歯をゴムの棍棒《こんぼう》で叩きだしたり、胃の腑を蹴りあげたり、銃の台尻で指をへし折るものと想像するだろう。だが、そんなことはない、少なくともわたしの入っていた収容所ではなかった。ナチの残虐性は、はるかに非人間的なものなんだ。ナチの目当ては、人間の精神なのだ。ま、きみが、二週間の禁錮《きんこ》をくらって、穴ぐらのような真っ暗な独房から出てきた男を見たことがあるなら、わたしの話もわかるだろう。理屈では、収容所の生活も、ほかの刑務所暮らしのみじめさと、なんの変わりはないはずだ――ただ理屈だけでいえばだよ。しかし、聞いて極楽、見て地獄というやつなのだ。収容所の戒律ときたら、この世のものとは思えないのだよ。
ナチの仕事のあたえ方――石の山をシャベルですくって一カ所から他へ移し、そこからまた元の場所に石の山をきずくのだ――たとえ痛む背中を伸ばすにせよ、一瞬なりとも手を休めたりすれば、命令違反のとがで笞《むち》打ちをくらわされ、一週間の重禁錮だ。文字どおり、一息もつけないのだ。番兵はひっきりなしに交代するのだから、やつらは看視疲れを知らない。収容所のまわりを行進させられるにしたって、機関銃の銃口が向けられている。喰いものときたら、くず肉とキャベツの芯《しん》を水で煮たシチューみたいなやつで、こんな豚の餌を喰わされているあいだだって、機関銃のご接待だ。この機関銃に耐えられなくて、いつも食べてはすぐ吐いてしまう男がいたよ。なかには衰弱しきって、立てなくなったものもある。新入りのうちは反抗する。ナチの連中は、それをちゃんと計算にいれているのだ。やつらは、組織的な手段を駆使して、新入りの精神を破壊してしまうのだ。規則的な笞打ちと長い重禁錮が、その秘訣だ。効果てきめんさ。あくまで頑強に抵抗してみても、じょじょに人間的な精神が失われていくのが自分でもわかるくらいだ。わたしはやつらに降参したふりをしたよ。こいつはなまやさしいことじゃなかった。いいかね、やつらは囚人の眼を見ただけで、本心が見ぬけるのだ。囚人の、やつらを見る目つきで、こいつはまだ動物になりきらずに人間の尻尾がついていると、やつらに見ぬかれて、とことんまでしごかれてしまうのだ。だからいつも下ばかり向いていて、なにか話しかけられても番兵の目を見てはいけない。わたしは、そのエキスパートになってしまったものだから、自分自身でも、こいつは錯覚で、おれも他の囚人同様、動物になってしまったのじゃないか、と思ったくらいさ。わたしはこの収容所に二年はいっていたのだ」
パイプの煙草が燃えつきた。シムラーは反射的に、自分の掌に、パイプを打ちつけた。
「ある日、わたしは収容所長の部屋に連行された。わたしがドイツを去り、二度と足をふみいれぬと誓って、ドイツ市民権を放棄する書類に署名しさえすれば、釈放してやるという話だった。最初、わたしの化けの皮をはぐやつらの新手のトリックかと思った。しかし、トリックではなかった。やつらのもったいぶった国民法廷も、わたしを有罪とする材料は見いだせなかったのだ。わたしは書類に署名した。収容所から出られるためなら、わたしはどんなものにだって署名したにちがいない。正式の許可がおりるまで三日かかった。このあいだ、わたしは他の囚人連中から隔離された。囚人たちといっしょに強制労働に従事するかわりに、便所掃除をおおせつかったのさ。しかし、夜は同じ大部屋へ帰って寝た。このとき、不思議なことが起こったのだ。
囚人たちのあいだでは、会話が禁じられていたが、規則があまり厳しいので、下ばかり向いている手は、囚人対番兵のあいだばかりでなく、囚人対囚人にもよく使われたものだ。他の囚人の顔をうっかり見たりすると、ナチのやつらには、話そうとしてたくらいに|とら《ヽヽ》れるのだ。だから、すぐ横にいる男でも、顔なんかろくろくわからず、その男の体つきや脚の形で、識別したものだ。わたしの収容所最後の夜、囚人一同、大部屋へ行進して行ったときのことだ。隣の男が、わたしの視線をしきりにとらえようとしているのにわたしは気づいたものだから、さすがにギクッとしたな。四十歳ぐらいの、顔色の悪い、いかにも陰気そうな男だった。入所してからまだ半年ぐらいの新入りで、よく一人だけひきずりだされては殴られていたから、きっと共産党員にちがいないとにらんでいたのだ。われわれのすぐそばには番兵もいることだし、正直いって、やつらにわたしの出所許可を取り消させる口実を与えるのが恐かった。で、わたしは、す早く寝床にもぐりこむと、息を殺して横たわっていた。
囚人連中が悪夢にうなされるのは通り相場だ。口の中でモグモグ呟《つぶや》く場合もあったが、ときには眠ったまま叫んだり悲鳴をあげたりしたものだ。だれかがうなされだすと、番兵がバケツで水を持ってきて、その男にぶっかけるのだ。わたしは眠りの浅いほうだったが、とりわけその夜はまんじりともしなかった。明日という日は、いよいよこの収容所から出られるのだ、と、そんなことばかり考えつづけていたのだ。まっくら闇の中で、二時間ばかり横たわっていると、さっきの隣の男がなにやら寝言を言いだしたじゃないか。番兵がやってきて、男のようすを見まもったが、寝言はもうやんでしまった。番兵が立ち去ると、またはじまったが、こんどは少し声高なので、いっていることがはっきりわたしにわかった。目を覚ましているか、とわたしにたずねているのだ。
わたしはかるく咳をしてから、いかにも寝苦しそうに寝返りをうち、溜息もついたので、男には、わたしが起きていることがわかったはずだ。するとまた男は寝言を言いはじめたが、わたしにプラハのある場所へ行け、といっているのがわかった。それもたった一度しかいえなかった。番兵がまたやってきて、怪しみだしたからだ。と、突然男は寝返りを打つと、やみくもに両腕を振りまわし、助けてくれと絶叫しはじめたではないか。番兵が思いきり男を蹴とばした。すると男はいかにも悪夢からさめたといったふりをしたので、おとなしくしないとバケツで水をぶっかけるぞと、番兵におどかされた。それからは、もう男は一言も寝言をいわなかった。翌日、待望の許可がおり、わたしはベルギー行きの汽車に乗せられた。
ひとが自由の身にもどったときの気持ちがどんなものか、あえてわたしはきみに話そうとは思わない。ま、はじめのうちは面喰ったものだよ。鼻孔には、あの収容所特有の臭気がこびりついたままはなれず、昼日中でも暇さえあればいつも眠っていたが、収容所にまた連行された夢ばかり見たよ。それでもしばらくすると、どうにか快復《かいふく》して、もとの人間らしい心がよみがえってきた。パリに一、二カ月いて、新聞社のアルバイトをしたが、外国人のわたしには言葉の障害のためにほとんど仕事にならなかった。せっかく記事を書いても、ちゃんとしたフランス語にしてもらうのに、わたしは翻訳料を払わなければならなかったのだ。で、とうとうプラハへ行ってみようと、わたしは決心した。もっともそのときは、例の男から聴いた場所を訊ねてみる気持ちはなかった。正直なところ、忘れかけていたところだ。それが、プラハで会ったあるドイツ人の話から、その場所を調べてみるつもりになったのだ。その場所というのは、ドイツ共産党地下宣伝組織の本部だったのさ」
シムラーはパイプに火をつけるので、ちょっと言葉を切ったが、やがて語りつづけた。
「しばらくして、彼らに信用されると、わたしは地下組織のために働くようになった。その地下組織の主要な任務は、ニュース、しかも真実のニュースをドイツに流すことだった。われわれは新聞を発行していた――その新聞の名前なんかどうでもいいだろう――そいつを少部数ずつドイツへこっそり持ちこんでいたものだ。その新聞は、すごく薄いインディア・ペーパーに印刷し、手のひらのなかに隠して持ち運べるように、一部ずつ小さな塊りに折ってあった。その持ち込み方法には多種多様あって、なかにはじつに巧妙きわまるものさえあった。相当部数を小さな油紙の袋に詰めこみ、プラハ=ベルリン線の列車の軸箱の中に隠すのも、その方法の一つだ。つまり、終点のベルリン駅で、仲間の車輛検査係が、その油紙の袋を集めるわけだが、それからしばらくして、その男がゲシュタポに挙げられてしまったので、ほかの持ちこみ方法も考えざるをえなくなったのだ。すると、仲間の一人から、チェコの旅券をなんとかして手に入れて、行商人に身をやつし、その商品見本のなかに新聞をひそませて持ちこめないか、というアイデアが出た。わたしはその仕事を買って出た。ま、いろいろと厄介なことはあったが、その持ちこみに成功したよ。
その年、わたしは三十回以上もドイツにもぐりこんだよ。この仕事で、とくに警戒しなければならないのは、つぎの二つだけだ。その一つは、自分の正体がバレて検挙される場合、あと一つは、新聞をわたしから受け取り、そいつを地下の配給機関へはこぶ仲間に当局の眼が光る場合だ。事実、その男はほんとうに嫌疑をかけられてしまったのだ。当局は、その男を即座に逮捕しないで、泳がせて監視していた。わたしたちはいつも郊外の小さな駅の待合室で落ち合い、そこで同じ汽車に乗ることにしていた。わたしが汽車を降りる際、新聞包みを網棚においてくると、男がそいつを持ち去るという仕組みだ。ところがある日、汽車が駅を発車したかと思うまもなく、停車してしまった、と、ナチの黒シャツ隊の一隊が線路から汽車の中にドカドカッと乗りこんでくるではないか。やつらのお目あてが、果してわたしたちであるかどうかわからなかったものだから、わたしたち二人は離ればなれのコンパートメントに行って、なに喰わぬ顔をして坐っていたのだ。と、相棒を逮捕する気配が聞こえてきたので、わたしは首を洗って待っていた。だが、やつらはわたしの旅券を調べただけで、あっさり行ってしまったのだ。その翌日、プラハの近くまできて、自分が尾行されていることにやっと気づいた。幸運にも、こいつは党本部に直行しないほうがいいな、と思いつくだけの分別がわたしにはあった。幸運にも、といったのは、わたしの仲間にとってだ。わたしにとっては、あまりありがたくなかった。わたしがやつらの目指す本拠に連れて行かないと気づくと、やつらは、まずわたしをドイツに入国させてから、拷問にかけて、わたしの口から情報をひきだすのが最上の策だと決意したのだ。すでにわれわれの新聞はやつらを悩ましはじめていて、本拠につながる唯一の手がかりが、このわたしだったわけだね。われわれの組織のドイツ国内の細胞は、新聞の配布だけに専念していたので、ナチのやつらは指導部を躍起となって追及していたのだ。わたしには逃亡あるのみ。しかもチェコ国外に出なければならなくなった。というのは、やつらが、わたしのことを、指名手配中のドイツ人窃盗犯で、パウル・チッサール名義のパスポートを詐取《さしゅ》したものであるとチェコ警察に通報したからだ。
スイスでは、あわやというところでわたしは誘拐《ゆうかい》されるところだった。わたしはコンスタンス湖畔に滞在していたが、休暇で釣りにきていたという二人の男と親しくなった。ある日、その男たちから、いっしょに出かけないかと誘われた。わたしも身をもてあましていたものだから、あっさり同意した。ところが、間一髪というところで、二人がスイス人ではなくドイツ人であり、しかも二人のボートが湖のドイツ領側の貸しボート屋のものであることに、まったく偶然のことから、わたしは気づいたのだ。そんなことから、わたしはチューリッヒへ逃げた。さだめし二人の男はわたしの尾行をつづけたにちがいないが、ドイツからこう遠くへきてしまっては、誘拐することもできまいと思ったからだ。しかし、チューリッヒにも長くはいなかった。ある朝、プラハからの手紙で、ゲシュタポがついにわたしの本名はシムラーだと、どうやらつきとめたらしいといってきた。むろん、当局は、前からパウル・チッサールはチェコ人ではなくドイツ人であると知っていたが、本名が割れた現在では、わたしをドイツへ連行するのに誘拐という手段に訴えることもなくなったわけだ。それからというもの、わたしは逃亡者の生活をつづけているのだよ。二度もすんでのところで捕まりそうになった。スイスにはゲシュタポの手先がうようよしていたのだ。そこでわたしはフランスへ行こうと肚《はら》をきめた。プラハの仲間は、わたしをケッヘのところによこした。じつはケッヘもわれわれの仲間なのだ。
あの男はすばらしい友人だよ。わたしがまったくの文無《もんな》しでこのホテルについたのに、服はくれる、おまけに無料で滞在させてはくれる。しかしわたしも、これ以上は逃げられそうもない。わたしには金がないし、ケッヘにしたところで、わたしにみつぐほど余裕がない。ケッヘ自身は無一物だからね。このホテルにしろ、女房のものなのだから、あの男にできるのは、わたしを居候《いそうろう》においてやってくれと女房に頼むことぐらいだ。わたしも、なにか働かせてもらいたいといったのだが、女房がいい顔をしないのだ。あの女はやきもちやきで、亭主を尻に敷いてないと気がすまないのだ。どうしてもわたしはこのホテルから出るんだ。もうここも、あぶないのさ。数週間前、ゲシュタポの手先がフランスへ派遣されたという情報をにぎったのだ。やつらの嗅覚には、まったく驚くね。おかげで追われるほうでも、第六感が一段と発達するよ。危険が身近に迫ると、ピーンとくるようになる。これでも外見をひどく変えたつもりだが、きっともう身元は割れてしまっていると思うよ。こっちだってゲシュタポの手先には目星がついているのさ。だが、相手も裏付けがあがるまでは、行動に移らないのだ。わたしにとって唯一のチャンスは、やつを騙《だま》すことだよ。きみにははなっから警戒していなかった。さすがにさっきは、こいつは眼鏡が狂ったかなと思ったがね。ケッヘは、きみのことをケチなペテン野郎だなんて、こきおろしていたよ」シムラーはここで肩をすくめた。「ヴァダシー、わたしにはきみが何者だかわからない。だが、きみに話したことは事実だ。これからどうするつもりだね?」
わたしは彼の顔を見つめた。「実のところぼくにもわからないんですよ」とわたしはいった、「いまのお話は、一カ所だけのぞけば、だいたい信じられますね。つまり、当局にあなたの本名がシムラーだとわかったことが、なぜ、あなたの立場を悪化させることになったのか、それを説明なさらなかった。チッサールという名前の場合は、強制的にドイツへ連行することができないのに、本名が割れたとなると、どうしてそれができるのです?」
シムラーの視線が、わたしの眼に喰いこんだ。彼の唇の両端がピクピクけいれんした。それは抑制されていた感情をあらわす唯一の暗示だった。話しだしたその声はあくまでも平静で、抑揚がなかった。
「なに簡単なことだよ」彼はゆっくりといった。「ドイツにはまだ、家内と子供がいるのだ」
「ナチのやつらがドイツからわたしを追放したとき」しばらくおいて、シムラーは語りだした、「家族と会わせてくれなかった。もう二年以上も会っていないのにね。わたしが収容所送りになるまえに、家内が子どもを連れ、ベルリン郊外の実家へ移ったことが、わたしの耳にはいった。わたしはベルギーとパリから家内に手紙をだし、わたしがフランスかイギリスにおちつけたら、子供を連れてすぐ出てくるようにと、打ち合わせてあったのだよ。しかし、パリでは、自分だけ食べてゆけるのがやっとだということがじきにわかった。ロンドンにしても同じことだったろうね。わたしは一介のドイツを追われた亡命者にすぎなかった。プラハで会ったある男から、共産党員にはたくさんのぬけ道があって、うまくドイツへ出入りできるという話を聞いた。わたしは家内や子供と会って、話がしたいと熱望していた。この気持ちが、収容所で教えられたプラハの地下組織へ、わたしを行かせたのだよ。むろん、ドイツへ出入りできる話なんてのは、まったくのナンセンスだった。それはすぐにわかったさ。しかし、機会があったときは、わたしはとびついた。チェコのパスポートで旅行したとき、三度ばかり、極秘裡に家内と会ったことがある。
家内は、子供ともどもプラハへ連れて行ってくれとわたしに哀願したが、わたしはうなずかなかった。実際問題として、生活の|めど《ヽヽ》がつかなかったので、父親のいる、妻の実家ならのんびりと暮らせるうえに、息子も学校へ通えるのだから、それがいちばんいいと思ったわけだ。
わたしが第一の危険に見舞われたとき、自分のとった処置がなによりもうれしかった。ゲシュタポめ、できるものならおれを連れもどしてみろ、とね! たしかに、おれを連れもどしたところで、ゲシュタポのやつらには、なんのたしにもならないのさ。共産党の指導部は、どんなに党に忠実な人間でも、ナチの拷問にかけられれば、機密をもらしてしまうことぐらい知りぬいているのだよ。プラハまで、わたしが尾行されたときだって、地下の本部はちゃんと移動していたくらいだ。現在、本部がどこにあるのか、わたしにだってわからない。連絡の宛先はプラハ局どめなんだ。それにしても、ゲシュタポはじつに徹底している。やつらはわたしをなんとしてでも連れもどそうとしている。それにわたしはやつらをみくびりすぎていた。チェコの旅券が危なくて使えなくなり、わたしは古いドイツの旅券を使うことにした。これは、家内が大事に隠しておいたもので、わたしたちが会ったとき持ってきてくれたものだ。やつらに、わたしの足跡がたどれたのは、このパスポートの出所をつきとめたからにちがいないのだ。
わたしの本名がやつらに知れたと聞いたときには、身の毛のよだつほどだった。ナチのやつらには、わたしの妻子を人質《ひとじち》にすることができるのだ。わたしの身代わりに、家内が留置されているかどうか、なんらかの手を打って知るなり、あるいはドイツにもぐりこんで自分でたしかめてみるべきだった。わたしはなんども考えた。ゲシュタポから最後|通牒《つうちょう》がつきつけられるまでは、たぶん、家内は安全だろう。まず監視はされているだろうが、留置はされていまい。わたしの打つべき手はただ一つ――家内の情報が手にはいるまで、地下に潜行することだ。もし家内が無事で、まだ父親といっしょに暮らしているのなら、やつらがわたしを探し飽きるまで、身を隠しつづけるのだ、そして新しい旅券を手に入れて、家内をドイツから連れだすのだ」
シムラーは手の中の使い古したパイプをじっと見つめた。「もう四カ月以上も首を長くして待っているのだが、なんの連絡もないのだ。ドイツの検問がこわいから、わたしのほうから手紙を書くわけにはいかない。ケッヘがツーロンに秘密の連絡場所をもっていて、手紙はそこへくることになっているのだ。しかし、返事がいっこうにないのだよ。ただ手をこまねいて、待つ以外にはないのだ。ここでやつらに見つかれば、ま、あきらめるだけだね。二、三日のうちに家内から連絡がなければ、いずれにせよ、わたしはドイツに帰らなければならない。わたしにやれるのは、これだけなのだ」
しばらくのあいだ、沈黙がつづいた。やがて彼は、わたしの顔を見あげると、かすかに歯をみせてニヤッと笑った。「きみを信じてもいいな、ヴァダシー?」
「むろんですとも」もっと言いたかったけれど、言葉にならなかった。
彼はただうなずいて、感謝を表明した。わたしは腰をあげると、ドアのほうに歩みよった。
「ところで、きみのほうのスパイはどうする?」彼は肩ごしにつぶやいた。
一瞬、わたしはためらった。それから、「ほかのところを当たって見ますよ、ハインバーガーさん」とわたしは答えた。ドアを閉めるとき、シムラーがゆっくりと、両の手で顔をおおうのが見えた。わたしは足早に立ち去った。
と、このとき、すぐ近くで別のドアが閉まる音がした。わたしは気にも留めなかった。ハインバーガー氏の部屋から出るのを見られたって、べつにこわがる理由はないのだ。自室にもどると、わたしはベガンのリストを取りだして、しばらくのあいだ、それを見つめていた。やがて三人の名前――アルベルト・ケッヘ、シュザンヌ・ケッヘ、およびエミール・シムラーの名前に線を引いて消した。
十四
八月十八日の午後四時半、わたしは目の前に一枚のホテル用の便箋をひろげ、問題を解こうとしていた。
もう長いこと、わたしは白紙を見つめていた。その便箋をかざして、すかし文字を眺めたりもした。とうとうつぎのような文章をゆっくりと、鮮明な文字で書きあげた。
「かりに、ある人物が、三人の容疑者を消去するのに三日を費やすとするならば、同一の条件下で、彼が八人の容疑者を消去するに、何日費やすか?」
わたしはちょっと頭をひねってから、質問の下に書きとめた。「答え、八日」そしてアンダーラインをひっぱった。
そして、罪人のぶらさがっている絞首台の絵を描いた。その死体には『スパイ』の札《ふだ》をつけてやった。それから、こんどは、汗をかきかき、その死体に太鼓腹を鉛筆で描き加えて、札を『ベガン』にあらためた。おしまいに、太鼓腹をけずりとり、ふさふさした髪の毛を死体の頭に描きたし、眼の下に半円を描いて、さらにまた札を『ヴァダシー』と改名した。さすがに死刑執行人の姿を描くのは、あまり気がすすまなかった。
八日! ところがどうだ、実際には八時間もないのだ! むろん、ケッヘがそれ以上のわたしの滞在を、許してくれなければの話だが。シムラーは彼の友人だ、シムラーが、わたしのことをペテン師じゃないと、ケッヘに証明してくれれば……しかしシムラー自身、ほんとうにそうわかっていてくれるのだろうか? いや、もう一度彼の部屋へ行って、はっきりと説明したほうがよさそうだぞ。しかし、そんなことをしてみて、なんになるのか? もう金も、残ってはいない。たとえ滞在をのばすことができたとしても、これ以上レゼルヴ・ホテルに宿泊する金がないのだ。ベガンのやつの手ぬかりのおかげで、ここでもまた思いがけない障害にぶつかる羽目になってしまったのだ。ベガン! あいつの無能力と愚鈍さは、まさに記念碑になるぞ。
わたしは落書きしていた用箋を破り捨て、もう一枚の紙をとったときには、すでに五時になっていた。わたしは窓の外を見た。太陽が落ちてきたので、まるで海は、液状の金属を流したプールみたいに、微かにキラキラと光っている。湾のかなたの山々は、木々にふちどられ、あかあかと輝いている。海岸にも影がのびてきていた。
いまごろ、パリにいたらすばらしいだろうな、とわたしは思った。都会の午後のうだるような暑さも、退散しただろうに。リュクサンブール公園の木蔭、それからマリオネット劇場近くの木蔭に腰をおろしたら、どんなに気持ちがいいことか。そうだ、今ごろは、あのあたりはすごく静かだからな。一人、二人、学生が本を読んでいるほかは、人影とてない。そこでは、労働する人間の苦悩、破滅にむかって驀進《ばくしん》する文明のことなどスッパリ忘れて、木の葉のそよぎに耳をたのしませる。そこでは、この真鍮《しんちゅう》のようなヌメッとした海、血のような赤い土からも離れて、あくまでも冷静に二十世紀の悲劇について思索をめぐらすことだってできる。もっとも、あくまでも冷静にといったって、潜在意識の存在からにじみだす原始時代の獣的な分泌物から、なんとかして自己を守ろうと悪戦苦闘している人類には、あわれみの情がわいてしまうだろうが。
しかし、ここはサン・ガシヤン、パリではないのだ。レゼルヴ・ホテルであって、リュクサンブール公園ではない。わたしは役者であって、舞台見物にうつつをぬかしているお客ではないのだ。おまけに、よっぽど血のめぐりがいいか、運がよくなければ、ただちに「退場」とあいなるのだ。そこでわたしは、あわてて仕事にもどった。
スケルトン兄妹、フォーゲル夫妻、ルウとマルタン、クランドンハートレイ夫妻、それにデュクロ老人――わたしはみじめな思いでリストに見入った。よし、手はじめはスケルトン兄妹からだ! わたしはこの兄妹について、いったい、なにを知っているんだ? 二人の両親が来週、コンテ・ディ・サヴォイア号でつく予定という以外には、なにも知らないじゃないか。それと、今回が兄妹の初の海外旅行ということぐらいのものだ。むろん、兄妹はリストから完全に除外できよう。そのとき、わたしはフッと考えた。どうして「むろん」なのか? そんなことで、あらゆる事実の、冷静かつ客観的な調査などといえたものか? いや、断じていえないぞ。スケルトン兄妹については、彼ら自身の口から聞いた話以外には、わたしはなに一つ知らないのだ。こうなると、シムラーやケッヘをリストから消去したのは、ちょっと早すぎたのかもしれないな。しかし、この場合は、シムラーの旅券、それに立ち聞きしてしまったケッヘとの会話があって、わたしが聞いた話の裏づけとなっている。だが、スケルトン兄妹には、話の裏づけがない。こいつはどうしても調べてみなくちゃいけない。
フォーゲル夫妻は? この二人も除外したいものだ。およそフォーゲルぐらい、スパイのイメージからグロテスクなほどかけ離れている人物はいない。しかし、この夫婦も慎重に調べてみよう。
ルウとマルタンは? ルウがすこし気になるフランス語をしゃべるのと、女がやたらに愛情を表現することをのぞけば、特別の注意もいらぬようだ。とはいっても、ちゃんと調査すること。
クランドンハートレイ夫妻には問題があるぞ。この夫妻については、かなり多くのことがわかっている。むろん、裏づけをとっていないことばかりだが、すこぶる興味深い話だ。きわめて暗示的な点は、少佐が金に困っていることだ。少佐は、二回もひとから金を借りようとしている。おまけにデュクロ老人の話では、送金を待っているそうだ。機密写真の代金じゃないのかな? その可能性は大きいぞ。デュクロ老人は、少佐がやけ気味だという。これもありそうなことだ。そしてクランドンハートレイ夫人はイタリア人なのだ。まるでスパイの条件、ぴったりじゃないか。
だが、デュクロ老人も、信頼のおける証人ではない。わたしにもいやというほどわかっているとおり、あの老人の想像力はあまりにも豊かすぎる。まずスパイの容疑者としてはちょっと考えられない。なにしろスパイらしくなさすぎるよ。そういえば、全員、スパイらしくないな。わたしは、デュクロ老人のことをどれだけ知っているのだ? 老人は、ひとの噂話をしたり、ゲームをごまかしたりするのが大好きな、小工場主である。あるいは、「であるらしい」というだけのことだ。では、結論は? ということになるとさっぱりわからない。
と、このとき、わたしは大発見をした。よっぽどの大間抜け野郎でもないかぎり、とっくに気がついているところなのだ。つまり、この連中の日常の起居動作をいくら研究したってなんの役にも立たないということが、わかったのである――額面どおりに受け取ってもらえるときに、演技するくらいやさしいことじゃないか――一人一人が演技をしているという仮定のもとに、この連中の正体をあばきださなければならないのだ。彼らと親しくなっては駄目だ。むしろ喧嘩を売るのだ。連中の自己評価を、そのまま素直にうのみにするのではなく、徹底的に疑って、分析するのだ。これまで、あらゆる問題を、なんの裏づけもなしに、真実だと考えていたのだ。そうだ、いま、攻勢に転ずべきときがきたのだ。
それにしても、こんな状況では、どのような手を打って、攻勢に出ればいいのか? 飢えた猛犬さながら、このレゼルヴ・ホテルの構内を、めったやたらに歩きまわり、行く手に現われた人間に片端からとびかかり、喰いつけばいいというのか? 否、なすべきことは、疑いを念頭におき、コツコツとたずねて歩くことだ。そして、エチケットに束縛されて思うようにたずねられなくなったら、思いきってそいつを突破するのだ。うわべはあくまでも愛想よく、しかも冷酷に相手の感情に爪を立ててやって、連中の本性をさらけだしてやるのだ。スパイのような卑劣漢には、鷹のごとく猛襲してやるのだ、こうわたしは、心に固く誓った。
五時二十五分、九人の名前を紙に書くと、わたしは眼を閉じ、鉛筆をグルグルッとまわしてから、ポンと紙を突いた。眼を開けると、フォーゲル夫妻が第一の犠牲者になっている。わたしは髪に櫛を入れ、この夫婦を探そうと、階下へ行った。
フォーゲル夫妻は、いつものことながら、海岸にいて、デュクロ老人、スケルトン兄妹、それにフランス人のアベックがいっしょだった。わたしの姿が見えると、デュクロ老人はデッキ・チェアーからとびあがるなり、息せき切ってやってくるではないか。や、こいつはトチッたぞ、「盗まれた」貴重品がもどってきたという〈いきさつ〉を、さもほんとうらしく説明する筋立てを考えておかなければいけなかったのに、うっかり忘れていたのだ。
あわてたわたしはクルッときびすをかえして、いちもくさんに逃げだそうとした。だが、一瞬、ためらったおかげで、もはや手遅れと、わたしは観念した。デュクロ老人は、わたしにむかって一直線にやってくる。にこやかに会釈して、老人をやりすごそうとしたものの、老人はす早くわたしの横にまわるや、ピタリとわたしに寄りそって、みんなのほうへ歩きだすではないか。
「お話が一刻も早くうかがいたくてね」老人は息をはずませながら、話しかけてきた。「警察は呼んだのでしょうな?」
わたしは〈かぶり〉を振った。「いや。もっけのことに、その必要がなくなりましたのでね」
「すると、貴重品が見つかったので?」
「ええ」
と、老人は、新事実をみんなに告げようと、わたしをおいて走って行った。「泥棒が見つかったそうですよ」老人の吹聴している声がきこえる、「盗品も返ったそうでね」
わたしがみんなのところにたどりつくと、いっせいに興奮して、まわりにあつまってきて、質問を矢つぎ早に浴びせかける。
「従業員だったのですか?」
「きっとイギリス人の少佐……」
「庭師かな?」
「給仕頭でしょう?」
「待ってください!」わたしは手で連中を制した。「じつは犯人なんかいなかったのです。品物は盗まれなかったのです」みんな、びっくりして嘆声をあげた。
「いやあ、みんな」わたしはぎごちない快活さでいった、「間違いでしてね……なんともばかばかしい勘違いだったんですよ。それが」――わたしはピンチを切り抜けようと、必死で知恵をしぼった――「それがね、ベッドの下においてあった箱が、掃除のときに、奥のほうへおしこまれてしまったのですね、それで、見えなくなってたらしいのですよ」この言いわけは、いかにも力弱くひびいた。
ルウが、フォーゲル夫妻をかき分けて出てきた。「それじゃ」彼は得々としてたずねた、「スーツ・ケースの鍵がこじあけられてたのは、いったいどうなるのかね?」
「ああ、そうだ」フォーゲル氏がいった。
「そうだわ、ほんとうに!」と女房も同調する。
「いまのフランス人はなんていったんです?」スケルトン青年がたずねた。
とにかく時間をかせごうと思って、わたしはルウのフランス語を通訳してやった。「だけど」わたしはつけ加える、「あの人が、なんのことをいってるのかわからんのですがね」
スケルトン青年はきつねにつままれたような顔をした。「だって、スーツ・ケースの鍵は、こわされてたんでしょう? たしか、あなた自身がそういってたじゃありませんか」
わたしはゆっくりと〈かぶり〉をふった。いい考えが浮かんだのだ。
ルウはつんぼさじきに置かれた、といった顔つきで、いらいらしながら、わたしとアメリカ青年のやりとりを聞いている。わたしは、ルウのほうにむいた。
「あなたが誤解しているらしいと、このアメリカの青年に説明してたのですよ。どこでそんなことを聞かれたかしらないが、わたしのスーツ・ケースがこじ開けられたというようなことは、絶対にないのです。この盗難については内密にしていたもので、こちらのデュクロさんにご相談しましたが、鍵の話など出なかったのです。もしも」わたしはきびしい口調でつづけた、「真相を知らぬ人に、あらぬ噂をたてられると、とんでもない事態が生じかねないともかぎりません。フォーゲルさん、あなたも鍵がこじ開けられたという印象をおもちになったのですか?」
フォーゲル氏はあわてて首を横にふった。
「そんな、とんでもない!」女房がいった。
「ルウさん」わたしはおもおもしく追及した、「それではあなたが……」だが、ルウがそれをさえぎった。
「おかしいじゃないか?」彼はプリプリしていった。「そこのじいさんだぜ」――彼はデュクロをさした――「おれたち二人にそういったのは」
いっせいに、一同の眼がデュクロ氏に集中した。老人は姿勢を正した。「みなさん、不肖《ふしょう》、わたしは」老人は断固とした口調でいった、「長い経験を有する実業家であります。内密に属するようなことをふれ歩くような真似はいたしません」
ルウが、けたたましく不愉快そうに笑った。「あんたはフォーゲルやおれに、泥棒事件の話をしたとき、鍵がこじ開けられたといったのを、否定する気かい?」
「それは内密ですよ、きみ、内密なのです!」
「ちえっ!」ルウがマルタン嬢のほうへ顔をむけた。「内密だと! 聞いたかい、|おまえ《マ・プチット》?」
「|ええ《ウイ》、|あなた《シェリ》」
「じいさん、ドロを吐いたよ。むろん、内密でね!」ルウがあざ笑った。「鍵の件は、じいさんの創作だって、みとめたんだよ」
デュクロ老人は激昂《げっこう》した。「それは、きみ、違っとるぞ!」
ルウは腹をかかえて笑いころげ、おまけにペロリと舌までつきだした。わたしはデュクロ老人が気の毒になってきた。だって、鍵がこじ開けられたと、老人に話したのは、このわたしなのだから。しかし、老人は、自分の防禦に無我夢中だった。顎ひげを、すさまじい勢いでしごいた。
「わたしが若ければ、ただではすまさんぞ!」
「まあまあ」フォーゲル氏がハラハラしながら、中に割ってはいった、「とにかくおちついて話しあおうじゃありませんか」彼はズボン吊りを一センチほど、たくしあげると、片手をルウの肩においた。
だが、その手は、にべもなく払いのけられた。「こんな老いぼれと話すことなんか、あるものかい」ルウが大声をはりあげて啖呵《たんか》をきった。
デュクロ老人はひと息深く吸いこんだ。「あんたは、嘘つきじゃ!」老人は一語一語のばすようにして、ゆっくりいった。「このヴァダシーさんから、品物を盗んだのは、貴様だな。さもなければ、スーツ・ケースがこじ開けられたことなど、どうしてわかる? このデュクロが貴様を訴えてやる。泥棒の嘘つきめ!」
一瞬、あたりは水を打ったように静まりかえった。このとき、ルウが猛りたって、老人にとびかかろうとしたので、スケルトン青年とフォーゲル氏がす早く彼の両腕をおさえた。
「はなせ!」ルウは怒って絶叫した、「このおいぼれを絞め殺してやる!」
それこそフォーゲル氏やスケルトン青年が怖れていたことで、二人はルウにしがみついた。デュクロ老人は、しずかに顎ひげをしごきながら、もがいているルウを、さもおもしろそうに眺めていた。
「泥棒の嘘つきめ!」とっぱなに、自分がこう叫んだのを、まるでわれわれが聞かなかったとでもいうように、老人はまた繰り返した。
ルウは怒り狂って、大声をはりあげ、デュクロ老人に唾《つば》を吐きかけようとした。
「デュクロさん」わたしがいった、「お部屋へ行ったほうがいいですね」
老人は態度を硬化させた。「うんにゃ、ルウが謝罪しないかぎり、わしはここから一歩も退きませんぞ」
いや、なにはともあれ、あなたこそルウにあやまったほうがいいですよ、とわたしは老人を説き伏せようとした。と、このとき、うしろのほうでヒステリックになっていたマルタン嬢が恋人の頸《くび》に両腕をまきつけて、このおいぼれなんか殺してちょうだい、などとけしかけるものだから、すっかり出鼻をくじかれてしまった。フォーゲル夫人とメアリー・スケルトンは、泣きじゃくっているマルタン嬢をひきはなした。もうそのころには、ルウはまともに口がきけるようになり、罵詈雑言《ばりぞうごん》をさかんに浴びせだした。
「モンキーじじい!」
デュクロ老人も逆上して、矢面《やおもて》に躍り出た。「インポの色気違いめ!」と烈しくやりかえす。
マルタン嬢は泣き叫ぶ。ルウは激怒して、あらためて敵に集中攻撃をくわえる。
「中気《ちゅうき》のらくだ野郎!」とわめく。
「私生児の低能め!」デュクロ老人が咆哮《ほうこう》する。
ルウは唇をなめて、唾をのみこんでいる。一瞬、わたしは、こいつは二の句がつげなくて、これでルウの負けかと思った。しかし、彼は|とどめの一撃《クウ・ド・グラース》に全精力を集中していたのだ。ルウは唇を動かし、息を深く吸いこんだ。それから、全肺活量をふりしぼって、一語、デュクロ老人の顔にたたきつけた。
「共産党!」
その環境によっては、政治や宗教の信条を示す言葉も、致命的な侮辱となりうる。回教徒高僧会議で「このキリスト教徒め!」というせりふが使われたら、きっと議場騒然となるにちがいない。また、中年の白系ロシア人の集会では、「共産党員め!」というせりふが猛毒のこもった悪口となる。だが、ここは白系ロシア人の集会ではない。
一瞬、あたりは静まりかえった。すると、だれかがクスクス笑った。たぶん、メアリー・スケルトンだろう。これで充分だった。みんながいっせいに笑いだす。デュクロ老人も、バツの悪そうな顔をしてあたりを見まわすと、納得して、みんなの仲間にはいった。ルウとオデット・マルタンだけはニコリともしなかった。ルウは、鋭くみんなの顔をにらみつけていたが、フォーゲル氏とスケルトン青年に抑えられていた腕をふりほどくと、階段のほうへ大股に歩いて行ってしまった。女がその後を追った。彼女がルウと並ぶと、ルウは、わたしたちのほうにクルリッと向きなおって、こぶしをふりあげてみせた。
「どうもぼくには」スケルトン青年がいった、「なんのことやらわからなかったけれど、レゼルヴ・ホテルではたしかに、人生勉強をしましたよ」
デュクロ老人は身仕舞《みじまい》を整えていた――トロイが陥落したあとのユリシーズ気取りである。老人は一同に握手を求めてまわった。
「とにかく危険な男です」老人は漠然と評した。
「ギャングみたいなやつですな」とフォーゲル氏。
「ほんとにそうだわ!」
みんな、ことの起こりをわすれてしまったらしいので、わたしはホッと胸をなでおろした。だが、スケルトン兄妹だけは、忘れていなかった。
「さっきのフランス語、あたしにはだいたいわかったけれど」妹がいった、「あのフランス人のほうが正しかったのじゃないかしら? だってあなた、スーツ・ケースの鍵がこじ開けられた、といってたんじゃないの?」彼女は、けげんな面もちで、わたしの顔をじっとみつめた。
わたしは、自分でも顔が赤くなるのがわかった。
「いや、そいつはあなたの思い違いですよ」
「つまりだね」スケルトン青年がゆっくりいった、「犯人は、客の中にいたわけだよ」
「いったい、なんのことです」
「そうか、わかったぞ」青年は歯をむきだしてニタリと笑った。
「盗品が返ったものだから、表ざたにしないというわけなんですね。よし、もうなにも言いませんよ」
「どうぞご勝手に、兄さん。でも、ここだけの話だけど、ヴァダシーさん、犯人は、このホテルの従業員でしたの、それともちがって?」
わたしは憂鬱そうに〈かぶり〉をふった。こいつは厄介な質問だ。
「だってお客さんではないんでしょう?」
「だれでもないのですよ」
「すっきりしないのね、ヴァダシーさん」
まさにそのとおりなのだ。このとき、さいわいにもデュクロ老人が、自分はホテルの支配人に正式に抗議するつもりだと、よくひびく声で宣言した。
わたしは、スケルトン兄妹に、ちょっと失礼といってから、デュクロ老人をはなれたところへ呼んだ。
「じつは、この件に関しては、もうなにもいっていただかないほうがありがたいのですよ。こんどのことは、なにからなにまで不愉快きわまりないものでしたが、これはある意味では、わたしにも責任があるのです。どうか水に流してくださいませんか。あなたが、この不幸な出来事を見のがしてくださるなら、ご好意は身にしみて感謝いたしますが」
デュクロ老人は顎ひげをしごいていたが、鼻眼鏡越しに、チラリとわたしの顔を見た。
「あの男は、このわしを侮辱したのですぞ。しかも公衆の面前でね」
「ごもっともです。しかし、わたしたち一同、あなたの毅然たる態度を、いちぶしじゅう見ておりました。それに反し、ルウはまったく筋がとおっていません。これ以上つまらぬもめごとにまきこまれたりしたら、あなたの面子《めんつ》にかかわりはしないかと、心配なのです。あんなやつは頭から無視してやるのがいちばんですよ」
老人もじっくりと考えた。「ま、あなたのいわれるとおりかもしれん。だがね、わしは、スーツ・ケースの鍵を無理にあけた犯跡はなかったと、あれほどはっきりいってやったのに、あの男が勝手に、鍵がこじ開けられていたなどと言いふらす権利がどこにあります」老人は、まばたき一つせず、じっとわたしの眼を見つめた。
このあざやかな転身ぶりには、なんぴとたりとも敬意を表さざるを得ぬだろう。「あの男の態度を見れば」とわたしも同調して、「自分が悪いのを百も承知だということがわかりますよ」
「いや、そのとおりです。それでは、たってのお頼みとあれば、わしは、この事件から手をひくとしましょう。ま、わしの名誉は保たれたと、いってくださったのですからな」
デュクロ老人とわたしはたがいに会釈した。老人は他の連中のほうにむきなおった。
「この方のご依頼により」老人は重々しく宣言した、「わしは、この事件から、きれいさっぱり手をひくことにいたします。以上」
「じつに賢明なご決断です」フォーゲルは荘重にいうと、わたしにウィンクしてみせた。
「まったくですわ!」
「ま、ルウという男も、以後、行いをつつしむことでしょう」デュクロ老人が、まるで予言するような口調でつけ加えた。「今後、あの男から、かさねて侮辱を受けるようなことがあったら、断じて許しませんぞ。虫けらにも劣る卑劣者め、みなさん、先刻、お気づきのとおり、あの男は、あの若い女と正式の結婚などしておりませんぞ。ふびんな女だ! ああいう男が若い女を誘惑して、徳の道から転落させるのじゃ!」
「そうだ、そうだ」そういってフォーゲル氏は、ズボンをたくしあげると、わたしにウィンクして、ゆっくり立ち去った。デュクロ老人がそれにつづいた。
「うじ虫めが!」老人は、歩きながらまだブツブツいっている。「汚らわしい!」
スケルトン兄妹は、たがいに日焼け止めのオリーヴ油をからだに塗りあっていた。わたしは、砂の上に仰向けになり、ルウのことを考えた。
ひねくれた、虫ずの走るような男。だが、女があの男に惚れこんだのも、うなずける。なんといっても、あの男のからだの動きはキビキビしている。いわば、積極的な男らしさと、繊細な思いやりみたいなものが同居しているのだ。たぶん、情夫としてはうってつけにちがいない。
ルウには、ねずみのようなずるさと、単純さがあるように見える。その心は、狭量でせっかち、同時に、窮鼠《きゅうそ》猫をかむ、といった危険さもひめている。やつの行動を見ただけで、なにを考えているか、いっぺんにわかってしまう。たしかに危険な男だ。外見はやせて見えるが、肉体的にもすごくタフだ。まるで、|白いたち《フェリット》そっくりだ。
|白いたち《フェリット》!(捜しだすという動詞もある)そうだ、シムラーがつかった言葉だ。「やつらがものを探しだす手口にはまったく舌を巻くよ」その口調が、まだわたしの耳に残っている。「ゲシュタポの手先が、フランスへ派遣されたという話だよ」ああ、なんという間抜けなんだ、おれは! とっくに気づくべきだった。ゲシュタポの手先、本国へ帰れとドイツ人の共産党員を『説き伏せる』目的で、フランスへ派遣された男、シムラーが、だいたいくさいとにらんでいるといっていた男、獲物の正体をはっきりとつきとめるまで、じっと静観している男――ルウ。まさに、火を見るよりもあきらかである。
わたしは目をとじて、ひとりほほえんだ。
「なにがおかしいの、ヴァダシーさん?」メアリー・スケルトンだった。
わたしは目をあけた。「おかしいことなんかあるもんですか。考えごとをしていただけですよ」
「あら、まるでいいことでもあるみたいよ」
そうだ、たしかにいいことがあるぞ。それにまた、べつの新しい考えが浮かんだのだ。
十五
浜辺は、ふだんより早く淋しくなってしまった。肌寒い風が吹き、パリ出発以来はじめて、厚い雲におおわれた空を見た。海は黒味がちの灰色に変わっている。赤い岩も、いまは輝きを失っていた。沈み行く太陽とともに、まるで海辺の活気は、死にたえていくようであった。
厚着でもしようと階上へあがって行くとき、給仕たちが一階の食堂で、テーブルを並べているのが見えた。わたしの部屋に入ると、窓の外の蔦《つた》の葉に、雨がパラパラと落ちかかる音が聞こえてきた。
わたしは服を着替え、ベルを押して、女中を呼んだ。
「ルウさんとマルタン嬢の部屋は何号?」
「九号室でございます」
「ああ、それだけだ、ありがとう」ドアが閉まった。わたしは煙草に火をつけると、ここでひとつ、作戦計画を立て、まず行動を起こすまえに、細部にわたって入念に検討しておこうと、椅子に腰をおろした。
いいか、この作戦計画は、馬鹿にだってできることなのだぞ。――とわたしは、自分に言いきかせた――このホテルには、シムラーという名の人物を探しだそうと、やっきになっているゲシュタポの手先がいるのだ。おまけに、こやつの仕事は、どうやら九分九厘まで、成功しそうな気配である。つまり、ゲシュタポの手先が、レゼルヴ・ホテルの客の身元をことごとく洗ったものと考えられる。そして、その手先が握っている情報が、とりもなおさず、このわたしにとって、すごい値打がある、ということになるのだ。この情報が手にはいるか、あるいはその男から、なにか聞きだすことができるなら、自分にとって必要な手がかりがつかめるにちがいない。まさにチャンス到来である。しかし、ことは慎重に運ばねばならぬ。どんなことがあっても、ルウに毛ほどの疑いも抱かせてはならないのだ。わざと無関心をよそおって、やつから情報をひきだし、おもむろに吸いあげてやる。いかにもお義理で聞いてやるといった顔をしてやるのだ。とにかく用心しなければならぬ。いいか、こんどこそドジを踏むな。
わたしは椅子から腰をあげて、廊下に出ると、九号室にむかって歩いて行った。部屋の中から、低い話し声が流れていた。ドアをノックすると、話し声がピタッとやんだ。足をひきずって歩く音がする。中の押し入れのドアがきしった。それから、女の声がした、「|どうぞ《アントレ》!」わたしはドアを開けた。
マルタン嬢は、半透明の薄青い化粧着《ペニョワール》をまとって、ベッドに腰かけ、マニキュアの最中だった。おそらく、今まとっている化粧着も、あわてて押し入れから取りだしたのだ。ルウは洗面台で、立ったままひげをあたっていた。ご両人とも、けげんな顔をして、わたしをみつめた。
わたしは、ぶしつけな訪問をわびようと、口を開きかけたとたん、ルウのほうから口をきった。
「なんの用だ?」まるでかみつきそうな口調。
「だしぬけにお邪魔したりしてすみません。その、じつはおわびにあがったのです」
わたしの顔を穴のあくほど見つめているルウの眼には、疑わしげな光があった。
「なんのために?」
「今日の午後、デュクロ老人があなたを侮辱したのは、このわたしにも責任があると思っているのじゃないかと、心配になったものですから」
ルウは、背中をみせると、顔についた石鹸を拭きはじめた。「どうして、あんたに責任があるんだ?」
「とどのつまりは、わたしの思い違いから、あんなことになったのですから」
ルウは、タオルをベッドに投げだすと、女にいった。「なあ、海岸からもどってきてから、おれがこのひとのことを、一言でもいったかね?」
「|いいえ《ノン》、|あなた《シェリ》」
ルウはわたしのほうに顔をむけて、「これでわかったろう」
わたしは剣《けん》が峰《みね》でグッとこらえた。
「しかしですね、それではわたしの気持ちがすまないのです。わたしがもっとしっかりしてさえいれば、あんなことにはならなかったのですから」
「いまさらツベコベいったって、はじまらないよ」彼が吐きだすようにいった。
「そういっていただければ、なによりです」なんとかして、やつの虚栄心をくすぐってやろうと、わたしは必死だった。「ま、正直なところ、あなたの態度は見あげたものです。よくぞ、歯を喰いしばって我慢なさったものだ」
「おれの腕さえ押えられていなかったら、あのおいぼれの息の根を止めるところよ」
「ああまで侮辱されましてはね」
「あたりまえよ」
これでは、とても話題が発展しようもない。よし、もう一度、ブチかませろ。
「このホテルには、もうかなり長いことご滞在ですか?」
ルウは、疑惑の視線を、わたしにピタッとむけた。
「どうして、そんなことまで知りたがる?」
「いえ、その、べつに。ただ、ごいっしょに玉突きでもしたいと思いましてね――なんのしこりも残さなかったというおしるしに」
「あんたはうまいのかい?」
「それが、たいしたことはないので」
「じゃ、たぶん、勝負にならないだろうよ。なにしろ、こっちは玄人《くろうと》だからな。あのアメリカ人の坊やにも勝ったよ。あいつは、からっきし下手くそなんだ。おれは、下手なやつのお相手はごめんこうむる。あのアメリカ人は、退屈だった」
「でも気持ちのいい青年じゃありませんか」
「まあな」
わたしはなおも喰いさがった。「あの妹は、なかなかチャーミングでしてね」
「おれのお歯にはあわないよ。肥りすぎてらあ。おれはやせぎすでないと、ジーンとこないのよ。な、|おまえ《シェリ》?」
マルタン嬢は、ブリキみたいな、けたたましい声で笑った。ルウは、ベッドに腰をおろすと、からだをのばして、彼女をひきよせた。二人は情熱的にキスをした。やがて、ルウは女をつきはなした。女はさも勝ちほこったように、わたしにニンマリ微笑むと、髪をなでつけて、また、マニキュアにとりかかる。
「なあ」ルウがいった、「こいつは、やせぎすだろう。こういう女がジーンとくるのよ」
わたしは、おそるおそる椅子の腕に腰をおろしてみた。「マダムはじつに魅力的ですなあ」
「まあな」このくらいの女が、おれに惚れるのは当り前といわんばかりに、ルウは、黒い細巻きのシガーに火をつけると、わたしの顔にむかって、煙を吹きつけた。そしてだしぬけに、「いったい、なんだってあんたはここへきたんだい?」とたずねた。
思わずわたしはギョッとした。「むろん、おわびにですよ。いま、いったとおり……」
彼は、いらだたしげに首を横にふった。「ちがうよ、どうしてここに、つまりだな、このホテルなんかにきたのかと聞いてるんだ」
「レジャーですよ。ニースによって、それからここへきたんですがね」
「ここはたのしかったかい?」
「そりゃあもう。でも、休暇はまだ残っているんですよ」
「いつ帰るつもりだい?」
「まだ決めていませんが」
ルウの、肉の厚い瞼《まぶた》が、ダラッとさがった。
「あんた、あのイギリス人の少佐をどう思う?」
「これといってべつに。ありきたりのイギリス人じゃありませんか」
「少佐に金を貸してやったのかい?」
「いいえ。じゃ、あなたにも借金を申しこんだのですか?」
ルウはせせら笑った。「ああ、頭をさげられてね」
「で、貸したんですか?」
「おい、おれがそんな間抜けに見えるのかい?」
「じゃ、どうして少佐のことなんか、きくんです?」
「あの男は、朝早くホテルを発つはずだ。少佐が支配人に、マルセイユからアルジェへ行く船の一等船室の予約を頼んでいるのを、おれは耳にしたのさ。どうやら、金を貸してくれる間抜けを、少佐は見つけたにちがいない」
「いったい、だれでしょう?」
「それがわかってりゃ、おまえさんにわざわざ聞きはしないよ。おれには、こういうとるにたりないことがおもしろくってね」彼は、唇のあいだで葉巻きをまわして、吸い口をしめらせた。「こいつは別口だが、おれをおもしろがらせてくれるネタがあるんだよ。ハインバーガーってのは、どういう人間だね?」
このせりふが、スラッとルウの口から出てきた。ちょうど、退屈な会話をダラダラつづけているうちに、なにかおもしろい話題はないものかと、お義理にたずねたような口調である。
理由もなしに、わたしの背筋を氷のようなものが走った。
「ハインバーガー?」と、わたしは繰り返した。
「そうよ、ハインバーガーだ。なぜ、いつもひとりきりでテラスにポツンといるんだ? なぜ、泳ぎをしないんだ。おまえさん、こないだ、あの男となにか話してたね」
「彼のことはなんにも知らないんですよ。スイス人じゃないんですか?」
「知らないね。おまえさんにきいてるんだよ」
「じゃ、残念ながらわかりませんね」
「どんな話をしていたんだい?」
「さあ、おぼえていませんね。おおかた、天気の話でしょうよ」
「やれやれ、世の中には暇人《ひまじん》がいるもんだ! おれは、どうせ話をするくらいなら、相手のしっぽをつかまなけりゃあ気がすまないのさ。相手の口さきと、本心との喰いちがいをつきとめたいのよ」
「そうですか! じゃ、その喰いちがいというのは、いつでもあるものなんですか?」
「そりゃあ、あるとも。男は一人残らず嘘つきだ。女は、ときたま本音を吐くがね。だが、男は、どんなことがあっても本心はあかさないよ。そうだろう、|おまえ《マ・プチット》?」
「|ええ《ウイ》、|あなた《シェリ》」
「|ええ《ウイ》、|あなた《シェリ》か!」ルウは、鼻で笑うみたいに真似をした。「この女は、おれに嘘なんかつけば、頸の骨をへし折られるものと、覚悟しているんだ。ま、おまえさんにいっとくが、男はみんな、卑怯者さ。男は本音を吐くのがきらいなんだ、嘘と感情のオブラートでつつんで、真実の鋭い針に傷つけられないとなりゃあ別だけどね。だからよ、男が本心をあかすとなれば、そいつは危険人物だぜ」
「なんとも、|しん《ヽヽ》の疲れる話ですね」
「だがね、おれにはそいつがおもしろくてたまらないのさ。人間ぐらい興味のある動物はないね。たとえば、おまえさんだ。おまえさんだって、おれにはたまらなくおもしろいんだ。自称、語学教師。ユーゴの旅券を持ったハンガリー人」
「まさか、こうやってあなたと話していて、わかったんじゃないでしょうね」わざとわたしはおどけていった。
「なに、地獄耳というやつよ。支配人がフォーゲルにしゃべった。フォーゲルは、好奇心のかたまりだ、支配人に喰いさがってはなれない」
「あ、そうか。しごく簡単ですね」
「いや、ちっとも簡単じゃないな、すごい謎ときだよ。おれは自問自答してみる。なぜ、ユーゴの旅券を持つハンガリー人が、フランスに住んでいるのか? 毎朝、その男が村まで腑《ふ》におちない散歩をするのは、いったい、なにが目的か?」
「たいへんな観察眼ですね。わたしはフランスで働いているから、フランスに住んでいるのです。村へ出かけるのも、残念ながらちっとも不思議じゃないんでね。パリにいる婚約者に電話するので、郵便局まで行くんですよ」
「そうかな? 電話もずいぶん進歩したものだな。あたりまえなら、パリまで通じるには、一時間かかるはずだよ」彼は肩をすくめた。「ま、どうでもいいや。もっと手ごわい難問がいくらだってひかえているのだからな」彼は葉巻きの灰を吹き落とした。「いいかい、たとえばだね、なぜ、ヴァダシー君のスーツ・ケースが、午前中にはこじ開けられていたのに、午後はこじ開けられてないことになったのか?」
「これだってじつに簡単な話ですよ。デュクロ老人の記憶力がわるいからですよ」
彼は葉巻き越しに眼を光らせて、じっとわたしの顔をみつめた。「そうだ、たしかにものおぼえが悪い。ひとから聞いた話がちゃんとおぼえていられないのだからな。嘘をついてもすぐにしっぽをだすようなやつは、記憶力が弱いんだ。やつらの心は、自分の嘘でむせかえっているのよ。だが、おれは知りたくてウズウズしてるんだ。あんたのスーツ・ケースの鍵は、こじ開けられてたのかい?」
「もうその件は、片がついたはずですけど。こじ開けられてはいなかったんです」
「そうだろうとも。どうだい、煙草は? ひとりで吸っていたって、ちっともうまくない。オデットも吸うよ。あの女《こ》に一本やってくれないか、ヴァダシー」
わたしはポケットから煙草の箱をとりだした。と、ルウの眉毛がつりあがった。「おや、シガレット・ケースじゃないのかい? 不用心だぜ。だいじなシガレット・ケースは盗まれないように、ポケットにちゃんと入れてるかと思ったよ。こうしているときだって、ハインバーガーか、あのイギリスの少佐殿が、あんたのシガレット・ケースを盗みにはいってるかもしれないんだぜ?」彼はホッと溜息をついた。「ま、いいやな! オデット、|おまえ《シェリ》、煙草は? おれがひとりで吸うのをいやがるのはおまえだって知ってるじゃないか。歯なんてよごれやしないよ。こいつの歯を見たかい、ヴァダシー? きれいなもんだ」
ルウは、だしぬけにベッドから身を乗りだすと、女をあおむけに倒して、親指で彼女の上唇をめくりあげた。女は反抗しようともしなかった。
「え、きれいだろ?」
「ええ、とても」
「おれの大好物だ。美しい歯ならび、やせぎすのブロンド女」彼は女をはなした。女は身を起こして、ルウの耳たぶにキスすると、わたしの煙草をとった。ルウがマッチをすってやる。火を吹き消すと、彼はまた、わたしの顔をみつめた。
「おまえさん、一日中、警察へ行ってたことがあったっけな?」
「その話は、ホテル中に知れわたってしまったようですね」わたしはかるくいなした。「どうやら警察は、わたしの旅券がお気に召さなかったようで」
「いったい、どうして?」
「更新するのを忘れたのです」
「それでよくフランスに入れたな?」
わたしは声をあげ笑ってみせた。「まるで警察ですね」
「おれは、人間に興味があるといったばかりじゃないか」ルウは片ひじまくらに横たわった。「そうだ、気がついたことが一つある。嘘つきであろうとなかろうと、どの人間にだって共通するものが一つあるのだ。そいつがなんだかわかるかい?」
「さあ」
ルウは、突然、前に身を乗りだすと、わたしの片手をつかむなり、人差し指で掌を軽くつついた。
「金欲というやつよ」いやにソフトな口調でそういうと、わたしの手をはなした。「ヴァダシー、あんたは幸せもんだぜ。いまは貧乏だろうが、金がたんまりはいってくる。あんたは、べつに政治的な信念にしばられているわけじゃないんだから、どんなことをしたって罪の意識に悩むこたあない。金をたんまり握るチャンスがあるんだ。宝の山にはいりながら、ってやつよ」
「あなたのいうこと、さっぱりわからないな」たしかに一瞬、ルウの言葉が、わたしにはのみこめなかったのだ。「どんなチャンスがあるっていうんです?」
一瞬、ルウは黙った。女はマニキュアの手を休め、指先にやすりを当てたまま、きき耳をたてている。
「今日は何曜日だね、ヴァダシー?」
「今日? むろん、土曜日ですよ」
ルウはゆっくり|かぶり《ヽヽヽ》をふった。
「いいや、ヴァダシー。金曜日さ」
わたしはにが笑いをした。
「そんな、絶対に土曜日ですよ」
ふたたび、彼は首を横にふった。
「金曜日さ、ヴァダシー」彼は目を細めると、わたしのほうにグイッと乗りだしてきた。「いいかい、おまえさんの持っているちょっとした情報を、おれに進呈してくれるなら、ヴァダシー、今日が金曜だというほうに五千フラン賭けたっていいんだぜ」
「それじゃ、あなたの負けだ」
「そのとおり。五千フランはおまえさんにとられる。ただし、そのかわりに、ちょっとした情報が手にはいるさ」
そうか、やっとわかったぞ。わたしは買収されかけているのだ。シムラーの言葉が、パッと頭にひらめいた。『ゲシュタポというやつははっきりとした裏付けがないかぎり行動に出ないものだ』この男は、わたしがシムラーと話しているところを、見ている。ひょっとすると、シムラーの部屋にわたしが入るところも、見たかもしれない。と、突然、わたしは、あの十四号室を出たときに、近くのドアの閉まる音がしたのを思いだした。ルウは、わたしがハインバーガーの秘密を握っていると考えていることはあきらかだ。で、やつは、ハインバーガーの正体を裏づける証拠が買いたいのだ。――わざとわたしは、キョトンとした顔をして、やつの顔を見てやった。
「五千フランもする情報が、このわたしに提供できるものですか」
「へえ? そいつはほんとうか?」
「そうですとも」わたしは腰をあげた。「いずれにしろ、はなっから勝負のきまっているようなものには、わたしは賭けませんよ。いや、あなたは大真面目なのかと、一瞬、思ったくらいです」
ルウはニヤッとほくそえんだ。「案外、そうかもしれないぜ、ヴァダシー、おれはあまりばかげた冗談はすきじゃないんでね。ところでおまえさん、このホテルを出たら、どこへ行きなさる?」
「パリへ帰りますよ」
「パリ? なんでまた?」
「だってわたしは、パリに住んでいるんですよ」わたしはルウの眼をみつめた。「たぶん、あなたはドイツへ帰るのでしょうね」
「おい、ヴァダシー、どういうわけであんたはおれがフランス人じゃないというんだ?」彼は声を低めた。微笑はまだうかんでいたものの、ゆがんでいた。いまにも跳びかからんばかりに、ルウの脚の筋肉が、ビクッとひきしまった。
「ちょっとアクセントが気になったものですからね。で、ただなんとなく、あなたはドイツ人じゃないかなと思っただけですよ」
ルウは〈かぶり〉をふった。「おれはれっきとしたフランス人だよ、ヴァダシー。断っておくが、外国人のおまえさんなんかに、きっすいのフランス語のアクセントがわかってたまるもんかい。あんまりナメなさんなよ」ルウの肉の厚い瞼が、球根のような眼にたれさがって、まるで眼を閉じてるみたいに細くなった。
「これは失礼しました。もうアペリティフを飲む時間ですね。どうです、マダムとごいっしょに?」
「まっぴらだね」
「お気を悪くされたようですね」
「どういたしまして、たいへんたのしゅうございました――いや、ほんとうにね」まったくいんぎん無礼というやつで、いやにチグハグな口調だった。
「そういっていただくと恐縮です」わたしはドアを開けた。「|ではまた《オーヴォワール》、|ご主人《ムッシュー》、|そのうちにまた《オーヴォワール》、|奥さん《マダム》」
ルウは立ちもせずに、「|じゃまたな《オーヴォワール》、|お若いの《ムッシュー》」と皮肉な口調でいった。
わたしはドアを閉めた。歩きかけると、部屋の中から、やつのかんにさわるような高笑いの声がひびいてきた。
わたしは、なんとも小ばかにされたような、うつろな気持ちで、階下へおりていった。相手から話を聞きだすどころか、わたしのほうがカモになってしまったのだ。あれじゃ有力な情報をうまくひきだすどころの騒ぎじゃない、まるでわたしは守備一点ばりだ。証人席に立たされたみたいにヘドモドしながら相手の訊問に答えてしまった。あげくのはてに、すっかりナメられて、買収の話までもちかけられる始末。やつもまた、でっちあげの盗難事件に気づいていることはあきらかだ。ケッヘと同様、わたしがちょっとしたペテン師だとにらんでいるのだ。一筋縄ではいかない野郎だ! かわいそうだが、あのシムラーに、あんな男の眼をくらませるチャンスなど、万に一つもありはしない。毎度のことだが、あのときは、あいつにああいってやればよかったなどと、わたしはクヨクヨ考えはじめた。どうしてこうも、おれの頭の回転はにぶいんだろうな。クソッ! うすのろの低能め!
ホールで、わたしは給仕に呼びとめられた。
「あの、お客さま、いま、お探ししていたところです。パリからお電話でございますが」
「わたしに? ほんとかい?」
「はい、まちがいございません」
わたしは事務所へ行き、うしろ手にドアを閉めた。
「もしもし!」
「やあ、ヴァダシー!」
「どなたでしょう?」
「署長だ」
「給仕はパリから電話だといってましたけど」
「わしが交換手に、そういえと命じたのだ。きみ、ひとりかな?」
「はい」
「だれか、今日、レゼルヴ・ホテルを発《た》つという話を、耳にしたかね?」
「イギリス人夫妻が明朝、発ちます」
「そのほかには?」
「はい。わたしも明日発ちますが」
「それはどういうことだ? きみは、出発の許可が出るまで、発ってはならぬ。ベガン君の指示を忘れないだろうな」
「ところが、発つようにいわれたんです」
「いったい、だれから?」
「支配人のケッヘです」今日一日の不愉快な出来事を思うと、鬱積《うっせき》していた苦い感情が、わたしの胸底からいっぺんに吹きあがった。で、わたしは、いかにもソッケなく、プリプリした口調で、今朝のベガンの指示にしたがったら、こういう羽目になったいきさつを、説明してやった。
署長は無言で聞いていた。わたしの話がすむと、
「イギリス人夫妻以外にホテルを発つ客は、たしかにいないんだな?」
「ひょっとすると、ほかにもまだいるかもしれませんが、わたしの耳にはまだはいっていません」
ここでまた沈黙。やがて署長がいった。
「よろしい。いまはこれだけだ」
「しかし、このわたしはどうなるんです?」
「いずれ、追って指示する」
署長は電話をガチャンと切った。
わたしは、救いようのない気持ちで、じっと受話器をみつめた。いずれ追って指示する、か――。ままよ、どうにでもなれ、だ。わたしにはもう、なにをする気力もなくなった。
十六
時計が九時を打った。か細く、高い音だったが、とてもソフトな感じだった。
いまでもそのときの光景を、わたしはまざまざとおぼえている。すみずみまで、くっきりと眼底にのこっている。ピンぼけなど、まるっきりしてない。あたかもその部屋と室内の群像が写っている総天然色の複製写真を、わたしが立体のぞき眼鏡で眺めているような感じである。
雨がやみ、風もふたたび微風にかわり、なま暖かくなった。室内はむし暑く、窓という窓はいっぱいにひらかれている。窓辺近くまでのびた蔦《つた》の葉は雨に濡れ、壁のロココふうの金具に取りつけたローソク型の電灯に照らしだされている。テラスの石の手摺《てすり》越しに、樅《もみ》の木の葉隠れに月が昇ってくるのが見える。
スケルトン兄妹とわたしは、窓の近くに坐り、低いテーブルには、飲みかけのコーヒーがおいてある。むこうのほうでは、ルウとマルタン嬢が玉を突いている。ルウは、キューのさばき方を教えるのに、まるで女におおいかぶさるようにしている。こちらから観察していると、女のほうもからだを男に押しつけては、だれかに気づかれやしないかと、あたりにキョロキョロ眼をくばる。ホールに通ずるドアのそばには、二つの小さなグループがいる。鼻眼鏡をかけたデュクロ老人は、顎ひげをしきりとしごきながら、熱心に耳を傾けるフォーゲル氏の女房に、フランス語でしゃべりまくっている。フォーゲル氏は、ぎごちないイタリア語で、クランドンハートレイ少佐夫人になにやら話しかけている――夫人は、いつになく快活な顔をしている――一方、少佐は、唇にかすかな笑みを浮かべて、二人の話に聞き入っている。シムラー、それに当然のことだが、支配人のケッヘ夫妻の姿は、ここには見えない。
スケルトン青年が、おたがいに相手を無視しあっているルウとデュクロ老人のことで、わたしになにか、いっていたような気がする。わたしは、ほとんどその話を聞いていなかった。わたしは、室内のひとりひとりの顔を見るのに気をとられていたのだ。総勢九人。わたしは、これらの人間と全部、話をかわし、ひとりひとりを観察し、めいめいの話に耳をかたむけてきた、それなのに、いま――そうだ、いま、わたしの知っていることといったら、あの日――もう何年もまえのことのように思われる――レゼルヴ・ホテルにたどりついた当座に知ったことの範囲を出ないのだ。範囲を出ない? いや、そういったら、いささか正確さを欠く。たしかにわたしは、この九人のうちの何人かについては、その知られざる半面を知った。しかし、この人たちの本質的なものの考え方、真実の心の動きについて、いったい、なにがわかったというのか? 人間が自分の行為を釈明するのは、ただ習慣的に顔に浮かべている表情と同様、ある態度の表現、つまりその表明でしかない。立方体の四面を同時に見ることが不可能であるように、ある個人の全体像を一挙《いっきょ》に把握《はあく》するわけにはいかないのだ。人間の心というものは、無限の次元を有する形であり、やすみなく活動する底知れぬ謎の流動物ではないか。
少佐の口もとには、まだかすかな微笑がただよっていた。夫人は、フォーゲル氏になにか話しかけるたびに、両手を軽くふったりして、はじめていきいきとした表情をみせている。いや、そうこなくちゃ、かえって変だ! なにしろ少佐夫妻に金を貸したやつがいるのだからな。そいつはだれだ? たかだか、それくらいの推理も働かせられないのだから、このホテルのお客についてのわたしの知識はしれたものだ。
デュクロ老人は、例の鼻眼鏡をまたかけると、フォーゲル氏の女房ののどをふるわせるフランス語に耳をかたむけ、いかにも保護者ぶって頸《くび》をシャンとのばしている。ルウは、眼をギラギラさせながら玉に狙いをつけ、まさに一突きしようとするところ。わたしは、九人の人間に、われを忘れて見入っていた。まるで、音楽をさえぎっているガラスの窓ごしに、踊っているひとたちを見ているようなものだ。九人の奇妙な動作には、なにか狂気じみた厳粛さがあった……
と、だしぬけにスケルトン兄妹が大声で笑いだした。わたしは、いささかうんざりしながら振り返った。
「や、失礼しました」兄がいった。「じつはぼくたち、あなたの顔を見ていたんですよ、ヴァダシーさん。それが、だんだんに長くなるものだから、いまにもワッと泣きだすんじゃないかと、心配したんです」
「人間というものは、あかの他人とどのくらいまで友だちになれて、また、不仲になれるものか、考えていたのですよ。それはそうと、明朝、わたしは発ちますのでね」
兄妹の落胆があまりにはげしいものだから、ほんとうに二人は、わたしとわかれるのが辛いんだな、そんな感情に、突然わたしはおそわれた。感傷が、波のようにドッとわたしにおそいかかってきた、きっと自分が憐れだったのだ。わたしは、そんな感傷的な気分を一掃しようとした。
「じつは、わたしだってお名残りおしい」と、わたしがいった。「あなたがたは、まだ滞在するんですか?」
と、兄が答えるまでに、ほんの一瞬、間《ま》があった。わたしは、妹が兄の顔をチラッと見たのに気づいた。
「ああ」彼は無造作に答えた、「たぶん、もう少しいるつもりですよ」
と、妹が、身を乗りだして、「もうこれで、ちょうど三カ月になるのよ」こういうと、ふたたび兄の顔に視線を走らせた。「ねえ、もうヴァダシーさんに話したっていいじゃない。あたし、こんなお芝居しているの、あきあきしちゃったわ」
「なんてことを、メアリー……」スケルトン青年が、あわててたしなめようとした。わたしは急に吐き気をもよおした。
「あら、かまわないじゃない?」彼女は、わたしのほうにかすかに微笑んだ。「あたしたち、ほんとの兄妹じゃないんです、ヴァダシーさん。じつは従兄妹《いとこ》同士で、あたしたち、心から愛しあっていますの」
「それはおめでとう」とわたしは答えた。まだ吐き気があったが、いまは少しちがってきていた。嫉妬で、ムカムカしているのだ。メアリーは、無邪気にほほえんでいる。
「ぼくたちがごまかしてたこと、なにからなにまで話しちまったほうがいいよ」と、兄、じつは恋人が憂鬱そうにいった。「フランスじゃ、ぼくたちみたいな間柄の人間が、兄と妹のような顔をして旅行するなんてことはめったにないことですからね」
メアリーが肩をすくめた。「ほんとにばかばかしいったらありゃあしない。このホテルへついたとき、あたしたち、別々のお部屋にいれられたのよ。旅券や宿帳に記入した名前を見て、ホテルじゃ、あたしたちのこと兄妹だと思いこんでしまったのね。けっきょく、あたしたちがおなじ部屋で暮らせる仲だとわかってからは、ほかのホテルへ移るか、それともいままでどおりの兄妹として押しとおすか、どっちかにきめなきゃならなかったの」
「そうじゃないと、近親|相姦《そうかん》に見られるってわけでね」青年が、不機嫌そうに口をはさんだ。
「ま、あたしたち二人にとっては、ここが思い出の地になるので、そのまま、このホテルに滞在することにしたんです。まだ三カ月は、あたしたち結婚できないの。だって、ウォレンが、二十一歳になる前に結婚すると、祖父のスケルトンの遺産の五万ドルがもらえなくなるんですもの。ずいぶん、へんな話でしょ?」
「そうですね」とわたしはいったが、若い二人は、たがいに顔を見あわせるばかりだった。このひとたちが、どうして魅力的だったのか、いまになって、はじめてわたしにはわかった。二人は恋しあっていたからだ。
「まったく変な話でね」青年が微笑していった。
と、このとき、フォーゲルの女房にふられたのか、それともふったのか、デュクロ老人が、わたしのほうにぼんやりやってきた。
「こちらのアメリカの若い方たちは、じつにチャーミングですな」と老人がいった。
「ええ、ほんとうに」
「それにフォーゲル夫人も、なかなか魅力的ですよ。きわめて知的なご婦人でしてな。フォーゲル氏は、ご存じでしょうが、スイス電力会社の重役です。重要人物というわけですな。むろん、ご主人の名前は、前から知っておりました。ベルヌにある会社などは、市の名所のひとつですからね」
「そうですか、あの方はコンスタンスからおいでになったものと、思ってましたが」
老人は慎重な手つきで鼻眼鏡をかけなおした。「いや、コンスタンスにも立派な別荘があるのですよ。じつに豪華なものでしてな。わしも招待されておるんですがね」
「それは結構ですね」
「ええ。もっとも、行けば、仕事の話ばかり、ということになるでしょうがね」
「そうでしょうね」
「実業家というものは、気晴らしに集まっても、話はいつも仕事のことになるのですよ」
「ごもっとも」
「それに、おたがいの役にたつということもありますからな。ま、協力ですよ、おわかりかな? なんといっても、これが商売には欠かすことのできないものでしてね。つね日ごろ、うちの従業員に話してやってることなのです。彼らが社長のわたしに協力すれば、わたしもまた彼らに協力する。それにはまず第一に、従業員のほうからわたしに協力してくれにゃあならん。協力というものは、一方的ではなりたちませんからな」
「むろんですとも」
「ご老人はなんの話をしてるんです?」フランス語のわからないスケルトン青年がたずねた。「さかんに協力という言葉がでてきますけど」
「協力がたいせつだと、いっているのですよ」
「そいつは、すごい皮肉だ」
「ご存じかな」デュクロ老人がまた口をひらいた、「クランドンハートレイ少佐夫妻は明朝、お発ちだということを?」
「ええ」
「すると、だれか、金を貸した人間がおるわけですな。え、妙な話じゃありませんか? わしは、どんなことがあっても少佐には貸しませんよ。あの男から、一万フラン貸してくれと、借金を申しこまれましたがね。なに、とるにたりない金額です。なにもわしは金がおしいわけではない。ま、これは節操《せっそう》の問題です。なによりもわしは実業家ですからな」
「少佐が入用だったのは二千フランだと思いますがね。あなただってまえにそういってたじゃありませんか」
「なに、増額しおったのですよ」老人はケロリとした顔で答えた。「あの男は犯罪者のタイプですな、それにちがいない」
「わたしには、とてもそんなこと、考えられませんね」
「実業家というものは、悪いやつを見ぬく目をもっておるのでな。ま、さいわいなことに、イギリス人は悪いやつでも、しごく単純でね」
「へえ?」
「なに、子供だって知ってることですよ。フランス人の犯罪者は蛇、アメリカ人の犯罪者は狼、そしてイギリス人の犯罪者は鼠というところですよ。蛇に狼に鼠ね。鼠などというのは、すごく単純な動物ですよ。窮鼠《きゅうそ》猫を噛む、というやつで、追いつめられなきゃファイトがでない。あとはただ、ものをガリガリかじっているだけですからね」
「じゃ、ほんとにクランドンハートレイ少佐を犯罪者だと思っているのですか?」
デュクロ老人は、わざとゆっくり鼻眼鏡をはずすと、そいつでわたしの腕を軽くたたいた。
「あの男の顔をよくごらんなさい」と、老人がいった、「そうすれば、鼠が見えてきますよ。それにね」老人は鼻をうごめかしてつけ加えた、「これはあの男の口から、じかにわしが聞いたのですよ」
なんとも不思議な言葉だった。
デュクロ老人の早口のフランス語についてゆけなくなったスケルトン兄妹は、画報雑誌を見つけてくると、その中に出ている人の顔に、鉛筆でくちひげを描いていた。とうとうわたしひとりがデュクロ老人のお相手をひきうける羽目になってしまった。老人は椅子をひきよせると、わたしのそばにペッタリくっついた。
「むろん」老人は重々しく切りだした、「ここだけの話ですがね。イギリス人少佐は自分の身元が割れるのをすごく恐れておるのですよ」
「身元ですって?」
「じゃ、ご存じないのですか?」
「ええ」
「これはなんとしたことか!」老人は顎《あご》ひげをしごいた。「それなら、これ以上、おはなしせぬほうがいいでしょう。少佐は、わしの良識をすっかりあてにしておりますのでな」老人は椅子から立ちあがると、さも意味ありげな目顔をしてみせて、行ってしまった。と、そこへケッヘがシムラーと連れだって部屋に入ってきた。デュクロ老人は、急いで二人のまえに立ちふさがった。雨がやんだ、とかなんとかいっている老人の声がきこえた。ケッヘは愛想よく足をとめたものの、シムラーは二人のそばをすりぬけて、わたしのほうへやってきた。すごく顔色が悪い。
「明日発つんだってね、ヴァダシー」
「ええ、ほかになにか話を聞きませんか?」
彼は首を横にふった。「いや、少し説明してもらえると助かるんだが。ケッヘは、自分の知らない何ごとかが、このホテルで起こっているのを心配しているのさ。きみなら、この事態をすっきりさせてくれるだろうと思ってね」
「まず駄目でしょうね。ケッヘさえ警察の力をかりる気になれば……」
「そうか! やっぱりきみは警察のまわし者なんだな」
「たしかに警察の厄介にはなりましたが、わたしは警察の人間ではありませんからね。話はべつだけど、ハインバーガーさん。わたしとは、あまり長く話をしないほうがいいですよ。今日の午後、わたしがあなたの部屋を出るところを、だれかに見られたらしいのです。ある男から、そのことをきかれましてね」
彼はゾッとするような笑いをうかべた。彼と眼がピタッと合った。「で、その質問に、きみは答えたかね?」
「うまくごまかしたつもりですけど」
「そうか、ありがとう」彼はやさしくいった。それからわたしとスケルトン兄妹にかるく会釈すると、彼はケッヘのいるほうへ歩いて行った。
「いまにも五体がバラバラになってしまいそうな感じのひとだな」とスケルトン青年がいった。
なぜか、この言葉が、わたしのかんにさわった。「いつかきっと」わたしはせきこんでいった、「あのひとのことを、あなたがたに話してやりたいものだ」
「いまじゃ、どうしていけないの、ヴァダシーさん?」
「残念ながら駄目ですね」
「うまく料理しましたね」スケルトン青年がいった。「でも、そんなことであきらめませんよ。あれっ、メアリー、ごらんよ、ルウの台があいたよ。どうだい、一ゲームしないか? 失礼してよろしいですか。ヴァダシーさん?」
「どうぞどうぞ。さ、やってらっしゃい!」
兄妹は椅子から腰をあげると、玉突き台へ行った。やっとひとりになったわたしはじっくりと考えた。
どうやら、自由なのは、今晩が最後らしいぞ、と、わたしは胸のなかでつぶやいた。ここにいる連中を、はっきり頭にきざみつけておけ。この室内の光景も、眼をつむっても思い描けるようにしておくのだ。フォーゲル夫妻とクランドンハートレイ少佐夫妻はさかんにおしゃべりをしている。そのそばで、顎ひげをしごきながら、デュクロ老人が四人の話に耳をそばだて、口をはさむ機会を虎視眈々《こしたんたん》と狙っている。支配人のケッヘは、新聞のページをくっている。スケルトン兄妹は、玉突き台の上にかがみこんで、ゲームに熱中している。そして、この室内をみたしているものは、あたたかい雰囲気、かぐわしい夜、テラスにしたたる水の音、あるいは、岬の岩に砕けるひそかな潮騒、数々の星、木立ちから洩れる月の光なのだ。ありとあらゆるものが平和そのものに見える。だが、それにもかかわらず平和ではないのだ。この庭園の外では、昆虫の王国の奇怪な形をした虫どもがえじきをもとめて、雨にぬれた木々の枝や幹を、あくこともなくはいまわっているのだ。目をギラギラさせ、それこそ命がけで、喰うか喰われるかの生存競争である。暗黒のさなかで、惨劇がくりひろげられているのだ。安息も、静止も、この世界では、一瞬たりとも存在しない。夜は、闘争の悲劇をはてしなく演じる舞台なのだ。それにひきかえ、この室内では……
と、そのとき部屋の反対側からざわめきが起こった。フォーゲル夫人が椅子から立ちあがり、みんなに遠慮がちな微笑を投げかけていた。夫が、夫人に、なにかしきりにすすめている。と、ケッヘが、ルウとのおしゃべりをやめて、夫人のそばによっていった。
「みなさんも、きっとおよろこびになりますから」といっている。
夫人はあいまいにうなずいた。と、おどろくなかれ、ケッヘが、夫人を壁ぎわのピアノのところに案内し、その蓋を開けるではないか。夫人は、コチコチに硬直して腰をおろし、ふとくて短い指を、鍵盤に走らせた。スケルトン兄妹が、びっくりして、ピアノのほうにふりむいた。シムラーは新聞から顔をあげる。ルウは、いらだたしげに椅子にからだをしずめるなり、マルタン嬢をその膝にのせた。フォーゲル氏は、さも得意そうに、鼻をうごめかして室内を見まわした。デュクロ老人は、期待に胸をはずませて、鼻眼鏡をとった。
フォーゲル夫人はショパンのバラードを弾きはじめた。
シムラーはからだを乗りだし、奇妙な表情を浮かべて、夫人のがっしりと肥った体躯や、シフォンの妙な飾り紐が、手や腕のす早い動きにつれて、揺れるのを眺めていた。
さだめしフォーゲル夫人も、若いころは、才能のあるピアニストだったにちがいない。夫人の演奏には、古い舞踏会用の衣裳を入れた箱の中のバックルのように、奇妙な、色あせた輝きが感ぜられた。わたしはフォーゲル夫人を忘れ、ひたすら、音楽にきき入った。
演奏がおわると、室内は、一瞬、水を打ったように静まりかえった、それから、いっせいに、拍手がわき起こった。夫人は腰をおろしたまま、聴衆のほうにふりむくと、顔をパッと赤らめ、心配そうにケッヘの顔色をうかがった。そして椅子から立ちあがった。だが夫がアンコールをもとめたので、あらためて椅子に腰をおろした。ちょっとのあいだ、曲目を考えているようすだったが、やがて両手を鍵盤の上におくと、バッハの『主こそ、ひとの求むる歓び』をソフトなタッチで弾きはじめた。
やっと一日の勤めをおえて、自分の下宿に帰ると、ときどき、わたしは電灯もつけずに安楽椅子に深々と腰をおろし、そのままじっと、疲れた手足にゆっくりしみとおるこころよい痛みを、味わうことがある。この夜、フォーゲル夫人の演奏にきき入りながら、ちょうどそんな気分になっていた。ただ、このときは、疲れた肉体がいやされたのではなく、精神だった。手足にゆっくりとしみとおるこころよい痛みのかわりに、わたしの意識のなかにからみついてきたものは、バッハの聖歌序曲のメロディーだったのだ。わたしは眼をとじた。もしこのままの状態がつづきさえすれば。もしつづきさえすれば。もし……
この恍惚とした状態が中断されたとき、じつはわたしは、はじめのうち、まったく気づかなかったのである。ホールのほうから、低いどよめきがしてきたとき、だれかがシーッと制した。椅子のきしる音もした。眼をあけると、ちょうどケッヘが、小走りに部屋を出て、うしろ手にドアをソッと閉めるところだった。ところが、その数分後には、そのドアがすごい勢いで開かれたのである。
アッというまの出来事だった。しかし、はじめてわたしが異様な事態に気づいたのは、フォーゲル夫人が、小節の途中なのに、突然、手をとめたからだ。まっさきにわたしは、本能的に夫人のほうを見た。婦人は鍵盤の上に両手をうかしたまま、幽霊でも見るようなまなざしで、ピアノ越しのある一点を凝視しているではないか。やがて、だらりと鍵盤の上に、両手がおりた。やわらかい不協和音が鳴った。わたしは、視線をドアのほうに移した。その戸口に、制服の警官が二人、立っていた。
その二人は、威嚇《いかく》するような目つきで室内を見まわした。一人が一歩踏みだした。
「ジョーゼフ・ヴァダシーはどいつだ?」
わたしはゆっくり椅子から立ちあがったが、クラクラして口もろくにきけなかった。
二人の警官は、床をふみならして室内を横切るなり、わたしめがけて突進してきた。
「おまえを逮捕する。署まできてもらおう」
フォーゲル夫人が、ひくい叫び声をあげた。
「いったい……」
「つべこべいうな。こい」
二人がわたしの腕をつかんだ。
デュクロ老人が前にとびだした。
「なんの容疑です?」
「あなたには関係のないことです」そのうちの上級者らしい警官が、そっけなくはねつけた。そしてわたしをドアにむかって手荒く突きとばした。
デュクロ老人の鼻眼鏡が震えた。「これでもわしは、フランス共和国の市民ですぞ」老人ははげしく詰めよった。「知る権利がある」
警官は、一同の顔を見わたした。「それほど知りたいのかね?」ニヤリと歯をむきだして笑ってから、「よろしい、スパイ容疑なのだ。諸君は、危険人物と、おなじ屋根の下で暮らしていたのさ。おい、ヴァダシー。歩くのだ!」
スケルトン兄妹、フォーゲル夫妻、ルウ、マルタン嬢、クランドンハートレイ少佐夫妻、シムラー、デュクロ老人、支配人のケッヘ――一瞬のうちに、この連中の顔が、わたしの眼のなかにパッととびこんだ。いずれも顔面蒼白、化石になったみたいに身じろぎ一つせずわたしを見つめている。わたしはドアの外へ出た。背後で、たぶん、フォーゲル夫人らしい婦人が、ヒステリックな叫び声をあげた。
このひどい仕打ちが、わたしが受けた警察からの指示だったのだ。
十七
わたしは、三人目の警官が運転する護送車で、警察署へ連行された。
いや、ひょっとすると、こんなことは異例だと、思わなければいけないのかもしれない。あたりまえなら、たかだか五百メートルとはなれていない署まで、容疑者を自動車で運ぶようなぜいたくは、許されるはずがないからである。しかし、わたしは、べつになんとも思わなかった。サン・ガシヤンの村長や村会からの正式招待なら、さだめしびっくりもしたろう。とうとう来るべきものがやってきたにすぎないのだ。内心、予期していたことが、現実になったまでのことだ。わたしは、再逮捕されたのだった。つまり、保釈が停止されたわけだ。これで、全巻の終わりだ。正直なところ、わたしは、レゼルヴ・ホテルから、これほど劇的な退去のしかたをするものとは、自分でも思ってもみなかった。だが、いろいろと状況をあわせ考えてみるに、これでよかったのかもしれない――すくなくとも不安な気持ちで、もう一晩、ホテルですごさずにすんだのだ。これでもう、せいぜい自分の頭の上の蠅を追っていさえすればいいのだし、パリの外国語学校のマチス氏の皮肉ににがい思いをしなくてもすむ、このさきは不本意ながら、警察のいうことに黙従するしかないのだと思うと、かえって気分が楽になったくらいだ。
そういえば、スケルトン兄妹は、どう思っているだろうな。あの若い二人にとっちゃ、ショックだったにちがいない。むろん、デュクロ老人は、あまりの興奮に、われを忘れていることだろう。ま、おれのことは、ずっと前から正体をかぎつけていたなどと、みんなに吹聴しているところだな。シムラーはどうしているだろう。あのひとのことを考えると、いささか気がめいるよ。彼だけには、真相を知ってもらいたかった。ほかの連中はどうかな……支配人のケッヘはビクともしなかったろう。だが、少佐は背筋が凍る思いをしたはずだ。おそらく、あんな男は即刻、銃殺に処すべきだ、などと主張しているかもしれぬ。ルウは、あのいやらしい高笑いをたてているにちがいないし、フォーゲル夫妻は、深刻な顔をしちゃって、舌打ちしていることだろうな。しかし、このうちの一人は、じっくり考えているはずだ。その人間は、おれがスパイでも、危険人物でもないことを百も承知しているのだ。この人物こそ、ホテルの図書室のドアを手荒く閉め、おれの部屋をかきまわして二本のフィルムをまんまとせしめ、おまけにおれを殴り倒して、ポケットをさぐったやつなのだ。真犯人が大手をふって闊歩《かっぽ》しているというのに、無実のおれが、獄舎で朽ち果てるというのか。いま、真犯人はどう思っているか? 勝ち誇っているのか? だが、それがいったい、なんだというんだ。そいつがどう思おうと、おれとは無関係じゃないか。そうだとも。だが、それにしても、あの連中のなかの、いったいだれがスパイなのか――そいつを探りだすのは、ちょっとやめられないぞ。そうだ、もうこれからは、スパイを割りだす時間なら、たっぷりあるんだ。
タイヤが、警察署の前の砂利を敷きつめた広場できしると、護送車がとまった。わたしは木の長椅子が置いてある殺風景な待合室に通された。まえと同様、一人の警官がわたしを見張っていた。しかし、こんどは、わたしも話しかけようとしなかった。警官とわたしは無言のまま待っていた。
部屋の時計の針が十時半あたりを指したとき、ドアが開いて、ベガンが入ってきた。
わたしの見たかぎりでは、彼は三日前に着ていた、あのおなじ絹布の服を着たままだった。手には、やっぱりよれよれのハンカチをにぎっている。そして、あいかわらずの大汗かきだ。だが、ひとつだけ、意外に思ったことがある。それは、ベガンが、わたしの思っていたより小柄だったことだ。そこではじめてわたしは、自分の想像力で、彼を怪物にでっちあげていたことに、気づいたのだ。つまり彼は、喰人鬼《しょくにんき》、行きあたりばったりに罪なき人間を片っ端から餌食《えじき》とする、骨のズイまで腐敗しきった悪の権化、巨大な悪魔と化していたのである。だが、いま、眼前にいるのは、脂肪ぶとりにふくれあがった、汗っかきの男、ごく月並みな男にすぎないのだ。
一瞬、まるでわたしがだれだったか思いだせないみたいに、その厚ぼったい瞼のなかから、小さな眼がじっとわたしの顔をみつめた。やがて、彼は、警官に顎をしゃくってみせた。警官は敬礼すると、待合室から出て、うしろ手にドアをしめた。
「ヴァダシー、休暇はたのしかったかね?」そのキンキンひびく声で、不意打ちをくらったのは、これが二度目である。わたしはジロッとベガンをにらんでやった。
「けっきょくのところ、わたしは身代わりの羊なんですね、そうでしょ?」
ベガンは身をかがめると、壁ぎわから椅子を一脚引きよせて、わたしと向きあって腰をおろした。その重みで、木の椅子がきしった。そして、両手の汗を、ハンカチでぬぐった。
「ひどい暑さだな」そういうと、わたしの顔をチラッと見あげた。「きみが逮捕されたとき、あいつらはどうしたかね?」
「あいつらって、警官のことですか?」
「いいや、きみのお仲間のことさ」
「どうもしやしませんよ」しだいに自分の声が、トゲトゲしくなるのがわかった。逆上して血が頭にのぼって行くのが自分でもなかば意識していたものの、どうすることもできなかった。「どうもしやしませんよ」わたしはくりかえした。「あの連中が、どういう反応をしめせばいいんです? デュクロ老人は、逮捕の理由を知りたがってましたよ。フォーゲル夫人は金切り声をはりあげた。あとの連中、ただ手をこまねいて、見ているだけだ。ま、逮捕の現場なんぞ、しょっちゅうお目にかかれるものじゃないでしょうからね」突然、怒りがこみあげてきて、爆発点に達した、「いや、あの連中だって、このサン・ガシヤンにもうすこしゆっくり滞在していれば、逮捕現場なんかに見あきてしまうでしょうがね。ま、このつぎは、漁師が乱酔して女房に暴力をふるうような事件でも起これば、きっとあなたのことだ、その犯人としてフォーゲルあたりを逮捕するかもしれないな。それとも、わたしなんかとちがってスイス人のフォーゲルを、そう簡単には逮捕できませんかね? スイス領事からもの言いがつきますか? まあ、黙ってはいないでしょうよ。それとも海軍諜報部は、そいつをうまくさばく自信でもおありで? ねえ、ベガンさん、あなたが三日前に、ここの独房でわたしと話をしたときには、あなただって弱い者いじめをする、虎の威《い》をかる狐にちがいはないが、どこか、ほかの警察官とはちがうセンスがあるようだと、わたしは心から思ったんですよ。そりゃあ、威嚇《いかく》したり、ひどくばかげた訊問はしても、少なくともあなたは、自分がなにをしているのか、はっきりわかっている人間だと思ったのです。しかし、そいつは、わたしのとんだ眼鏡ちがいだとわかりましたよ。あなたなんか、これっぽっちの分別もなければ、自分がなにをしているのかも、まるっきりわかっていないんだ。あんたは大ばかだよ。あんたが、あんまり何度もドジをふむもんだから、とてもおぼえてはいられないぐらいだ。もしわたしに、少しの分別もなくて、あんたの指示を、自分なりに解釈することもできなければ、あんたの……」
ここまでベガンは、しずかにわたしのからむのを聞いていたが、だしぬけにパッと椅子から立ちあがると、いまにも殴りかからんばかりに、拳をふりあげた。「なんだと、もういっぺん、いってみろ?」彼はものすごい声をはりあげた。
そんなことでは、わたしだってすくみあがらなかった。もう破れかぶれだった。復讐の念に燃えあがっていた。
「どうやらほんとうの話をされると、耳が痛いようですね。いいですか、もしあんたの指示を真《ま》に受けて、わたしなりに解釈して実行しなければ、とっくにおめあてのスパイは、しっぽをまいて逃げてしまっていましたよ。ぼくはそういったんだ。あんたはホテルの滞在客のひとりひとりに、カメラのことをあたってみろ、とぼくにいった。こんなことは、気違いにだって、致命的な失策だということぐらいわからあ」
ベガンはふたたび椅子に腰をおろした。「じゃ、きみはどうしたのだ?」冷酷な口調でたずねた。「わたしにした報告はまっ赤な嘘なのか?」
「ヘッ、おつむを使っただけですよ。いいですか」――ここのところは、うんとワサビをきかしてやった――「ぼくはじつに単純に考えていたんだ、もしぼくがスパイの正体を突きとめたとき、逮捕の機会をのがさないだけの必要な材料をあんたに通報すれば、警察だって、ぼくの身のふりかたをすこしは考えてくれるだろうとね。あんたが、こんなひどいドジをふむものと前もってわかっていたら、ぼくだってなにも頭を悩ますことはなかったんだ。もっとも、カメラの調査ぐらいは、頭をつかうことはなかった、ぼくの肉眼だけでいとも簡単にやりましたがね。ま、あのでっちあげの盗難事件がバレたときだって、バレるのもあたりまえの話だけど、ホテルの連中の――すくなくとも大部分の人間の――頭をさんざん攪乱《かくらん》してやって、盗難事件は自分の勘違いだったと思いこませて、その場をなんとか切り抜けたんですからね。もうこうなっちゃ、事態の収拾《しゅうしゅう》がつくものか。いくらなんでも、もうこんどはあんたの尻ぬぐいは、ぼくにはできませんや。こんなつまらない手を打って、連中を警戒させてしまったんだからね。ま、いずれにしろ、クランドンハートレイ少佐夫妻は明日、ホテルを発ちますよ。こうなったら、あとの連中だって、ホテルに残っているばかはいないよ。容疑者一人のこらず消えてなくなるわけだ。もっとも」わたしは肩をすくめた。「あんたは痛くもかゆくもないだろうけどね。さぞかし署長は満足でしょうよ。なにしろ告発する容疑者が、一匹、ここにいるんだからね。あんたがたが欲しいのは、それだけなんだ、え?」わたしは椅子から立ちあがった。「もう、なにもいうことはないよ。なにからなにまで胸から吐きだしてしまいたかったんだ。どうです、そう小気味よさそうにジロジロみてないで、さっさと独房へぶちこんでくれませんか。なにしろ、この部屋ときたら、息がつまりそうだし、昨夜はろくろく眠ってないのでね。それに頭痛もするし、くたびれましたよ」
ベガンは、煙草をとりだした。
「どうだね、一本、ヴァダシー?」
わたしは鼻で笑ってやった。「いよいよ、最後のからめ手戦術とおいでなさったというわけか。こんどはどういうねらいなんです。供述書に署名しろ、というんですか? そいつが手に入れたいのなら、おあいにくさま。そいつだけはまっ平ごめんだ。いいですね、どんなことしたって、駄目ですよ」
「さ、火をつけろよ、ヴァダシー。まだ眠るわけにはいかないからな」
「そうか! 拷問にかける気だな、え?」
「|ばか野郎《サクレ・シャン》!」ベガンはかん高い声でどやしつけた。「一本とるんだ」
わたしは煙草をとった。彼は自分の煙草に火をつけると、マッチ箱をわたしのほうへ投げた。
「さて!」彼は思いっきり煙をはきだした。「じつは、きみにあやまらにゃあ、ならんのだよ」
「へえ?」わたしはこの言葉に、あらゆる意味をこめた。
「そうだ、あやまるよ。わたしの、とんだ眼鏡ちがいだった。きみの頭脳を過大評価していた。と同時に、過小評価しちまったんだ。その両方だ」
「こいつはご立派だ! で、ぼくにどうしろというんです、ベガンさん? 感涙《かんるい》にむせんで、供述書に署名でもすれば?」
彼は眉をしかめた。「黙ってきくんだ」
「きいてますとも――うっとりしてね」
ベガンは、ハンカチで、カラーの内側をす早くぬぐった。「おい、あんまりいい気になると、ヴァダシー、あとで後悔するぜ。だいいち、スパイの容疑者が、独房に入れられるかわりに、待合室なんかに坐っているのは、少々おかしいと思わないのかね?」
「そりゃあ思いましたとも。だから、どこにトリックが仕掛けてあるのか、そればかり考えていたんですよ」
「トリックなんか、あるもんか、きみもばかだな」彼は怒ったみたいにかん高い声でいった。「いいか。まず第一に、きみが知っておくべきことは、きみにあたえられたいろいろな指示が、ひとえにただ一つの狙いにあったということだ――つまり、スパイを、レゼルヴ・ホテルから立ち去らせるという狙いさ。この目的があるゆえに、きみは、滞在客のカメラの調査を指示されたのだ。われわれの狙いは、とにかくスパイをあわてさせたかったのだ。こいつが失敗したとき――今になると、なぜ失敗したのかわかるのだが――こんどは盗難事件のでっちあげを、きみに指示した。スパイは、すでにきみの部屋をあらし、おまけにきみのポケットまで探っていたのだからな。われわれは、敵をあわてさせるのが狙いだといったものの、あまり薬がききすぎて、あっさり逃げられてしまったらそれこそなんにもならない――で、警察はレゼルヴ・ホテルに近づかなかったのさ――とにかく敵が、これ以上、ホテルに滞在していてはあぶないぞと考える程度に、やりたかったわけだ。が、こいつも失敗した。最初のときは、きみが入手した事実から、きみなりの方法で、ことを運ぶなどと、こっちは勘定に入れてなかったのだ。これはわたしのミスだった。きみが、この事件について、ろくろく知らないということを、うかつにもわたしは忘れていた。二度目のときは、きみの未経験な点を計算に入れてなかった。なにしろ、ケッヘに、たちどころに見破られてしまうくらいだものな」
「しかしですよ」わたしは反撃した。「そんな子供だましみたいな手でスパイが捕えられるものと、ほんとうに思っているんですか? あんたの狙いは、なんだったのです? あわをくって荷造りして、レゼルヴ・ホテルからイの一番に逃げだすやつを逮捕するってわけですか? だったらクランドンハートレイ少佐を逮捕すればいい。少佐は明朝一番で発ちますからね。こんなのがスパイ逮捕法の極意《ごくい》なら、フランスは永遠に安泰ですよ」
意外なことに、ベガンの唇に微笑がうかんできた。彼は煙草をくわえ、ひと息深く吸いこむと、煙を少しずつ鼻の穴からだしてみせた。
「だけどね、ヴァダシー君よ」彼はやさしくいった、「きみはなんにも知らないのだ。とりわけ、もっとも重要な事実を知らないのだよ――つまり、三日まえに、きみが釈放されたときから、われわれには、すでにスパイの正体が割れていたという事実を。だから、いつでもおのぞみのときに、|やつ《ヽヽ》を逮捕できたのさ」
その意味がはっきりとのみこめるまで、少々手間どった。と、そのとたんに、わたしの頭のなかで、希望と絶望が入り乱れた。わたしはベガンの顔をみつめた。
「じゃ、スパイはだれなんです?」
彼は椅子の背にからだをゆったりともたせると、さもおもしろそうにわたしを眺めていた。そして軽く片手をふった。「ああ、それは後でわかるさ」
思わずわたしは、かたずをのんだ。「こいつもトリックですか?」
「いいや、そうじゃないさ、ヴァダシー」
「それなら」わたしの胸に、ふたたび怒りがこみあげてきた、「いったい、なにが目的でぼくを、こんなひどい目にあわせるのですか? この三日間、ぼくがどんな思いですごしたか、それがあんたにわかったら、まるでおもしろ半分にニタニタ笑って、いけしゃあしゃあと、肥った芋虫《いもむし》のお化けみたいに、そんなところに坐っていられないはずだ。このぼくが、あんたからどんなひどい仕打ちを受けたか、わかってるんですか? え、わかってる? クソッ、あんたって男は、あんたって男は……」
ベガンはわたしの膝をかるくたたいた。「まあ、まあ、ヴァダシー! 時間の浪費だよ。なるほど、わたしはふとっちゃいるが、けっして悦《えつ》に入っちゃおらん。それに芋虫でもないよ。まあ、そうカンカンにならずに、わたしの話をきいてくれればわかることだ、とにかくわたしは、やらなければならぬことをやったまでなんだ」
「じゃ、なぜぼくを逮捕したんです? なんで、警察なんかにおいとくんです?」
彼は、誤解しないでくれというように、首をふった。「なあ、ヴァダシー、とにかく静かにして、わたしの話をきいてくれないか。そら、あまり怒るものだから煙草がだいなしになっちゃったじゃないか。さ、もう一本どうだ」
「いりませんよ」
心臓を、氷のような憎悪がしめつけたが、そのままわたしは、ベガンをにらみつけていた。彼は二本目の煙草に火をつけた。そして、しばし、マッチ棒に見入った。
「さっき、きみにわびをいったが」やっとのことで彼は口を開いた、「あれには嘘いつわりはないんだ。わたしの任務だったのだ。そこのところを、どうかわかってくれ」
わたしがなにか言いかけようとすると、彼は手で制した。「いまから九カ月ばかりまえのことだが」とつづけた、「イタリアにいるわが情報部員のひとりから、イタリア諜報部がこのツーロン軍港に新しい機関を作ったらしい、という噂を報告してきた。ま、こういった仕事には、噂はつきものだから、わたしもはじめのうちは、この報告にあまり関心を持たなかった。だが、そのあとで、真剣に調べざるをえなくなったのだよ。ここの沿岸防備に関する情報が、規則正しくイタリア側に洩れているのだ。たとえば、イタリア北西部の海軍基地、スペツィアにもぐりこんでいるわれわれの仲間の報告によると、マルセイユに近い島で、フランス海軍が極秘裡に行なった要塞施設改造の詳細が、その作業のわずか三日後には、イタリアの海軍将校の話題になっている、というのだ。おまけに、この情報がどこから流れるのか、われわれにはまったく手がかりがつかめないという始末だ。われわれはほとほと手を焼いてしまったよ。だから、あの薬屋が、例の機密写真のネガを持って駆けこんできたときには、われわれは諸手《もろて》をあげて、絶好のチャンスにとびついたわけなんだ」ベガンは、その赤ん坊みたいなまるまっちい両の手で、ドラマティックに、ものにつかみかかるしぐさをしてみせた。
「当然、きみに嫌疑がかかった。しかし、その後の事件の経過や、カメラのすりかえられたいきさつをつきとめると、われわれは、きみを容疑者にあらずと判定した。ま、正直なところ、きみをあっさり釈放しようと思ったのだ。ところが、念のため」彼はなごやかな口調でつけ加えた、「カメラに関する報告がはいるまで、きみの釈放を、二、三時間のばすことにしたのだ」
「カメラに関する報告?」
「ああ、そうだった。こいつもきみの知らない事実だったね。カメラがすり換えられた事実がわかると、ただちにわれわれは、カメラの製造元に電話して、その番号のカメラの卸先《おろしさき》を調べてもらったのだ。するとマルセイユの北のエクス市の、ある小売店に卸したという返事だ。その小売店はよくおぼえていてくれたよ。幸いなことに、ひどく小さな店だったから、コンタックスのような高級カメラは、この二年間で、その一台だけしか売れなかったというのさ。客にたのまれて、わざわざ特別に仕入れたわけなんだね。その店のおやじは客の名前を教えてくれたよ。その名前が、レゼルヴ・ホテルに滞在している客の一人と、ピッタリ一致したのだ。その間に、撮影されている写真のほうも専門家に調べてもらったよ。被写体の影の位置から、撮影のほうも午前六時半前後、ある角度から望遠レンズをつけて撮影したものと判明した。そのうえ、地図と照合したり、何枚かの写真に写っている木の葉の茂りぐあいから推《お》すと、たった一カ所しか考えられない、ある特定の場所から撮影したことがわかった。そこは、狭くて小高い岬で、船でしか行けない場所なのだ。
そこで、われわれは、港の漁師たちの聞きこみをやってみた。と、どうだ、問題の人物は、その前日の朝の五時に、ケッヘのボートで出かけているじゃないか。釣りに行く、といったそうだ。ひとりの漁師がはっきりとおぼえていてね。というのは、普通なら、ケッヘかホテルの客が釣りに出るときは、その漁師がいっしょに船に乗って行って、餌をつけたりエンジンの調子を見たりするからなのだね。ところが、この客だけは、一人で釣りに行きたがったというのさ。
これでスパイの正体はつきとめたわけだ。ただちに逮捕することだってできる。署長は一刻も猶予したくなかった。だが、われわれはあえて逮捕しなかった。なぜか? きみもおぼえているだろうが、あの独房で、二人で話してたときに、わたしはスパイにはまるっきり興味がないが、そいつを背後であやつっているやつに興味があるといったな。つまり、そいつなんだ。わたしには、こんなスパイなんか眼中にないのだ。この人物のことは前からわれわれの耳にはいっていたし、身元書類からも、ただの使い走りにすぎないことがわかっていた。あくまでも目的はツーロンにある首脳部にあった。こんな人間は、いつでも好きなときに逮捕できるのだから、こいつを泳がしておいて、ツーロンの本拠の道案内をしてもらいたかったわけさ。それには、なんらかの方法で、こやつをレゼルヴ・ホテルから発たせ、それと同時に、こやつには、まったく疑われていないと思いこませておかねばならなかったのだよ」
「で、わたしに白羽の矢をたてたわけですね?」
「じつはそうなんだ。きみがカメラのことをたずねてあるけば、やつだって、自分の撮った機密写真がなくなっていることに感づき、きみが疑惑をいだいたと見てとって、警察にとどけられぬうちに、やつはホテルを立ち去ることになる。そこを、われわれが尾行する。ところが、いちばん厄介な点は、なにもうちあけずに、きみに狂言まわしの役をしてもらうように、説得することだった。だが、ここでもわれわれは幸運に恵まれた。きみの旅券は不備だったし、それに無国籍だ。あとは、スラスラはこんだよ」
「そうでしょうとも」わたしは、吐きだすようにいった、「たしかにスラスラはこびましたよ。それにしたって、スパイの正体ぐらい教えてくれてもよかったですね」
「そいつは不可能だった。そんなことをしてみろ、まず第一に、警察がきみに疑惑をいだいているという印象がうすれ、きみは、余計あつかいにくくなるのが|おち《ヽヽ》だ。第二に、われわれは、きみの思慮分別を頭から信頼するわけにはいかなかった。きみがだれかに秘密をもらさないともかぎらないし、スパイに対するきみの態度が、ぎごちなくなるかもしれないからだ。きみは、自分の利益になると信じて行動したのだろうけれど、こちらの指示に従わなかったのは、残念だったな。われわれの指示どおりに動いてもらえなかったことよりも、じつは、もっとわれわれが心をいためていたのは、まず第一に、ホテルのきみの部屋があらされたという事実、第二に、昨晩、きみが暗闇の中で殴り倒されたという事実だ。これはスパイが、われわれのおどしにひっかかりにくい証拠だと、われわれは見てとったわけだ。むろん、やつはカメラがすり換えられていたことに気づいていたにちがいないさ。自分のカメラを持っているのが、きみだということも知っていただろう。きみがやつと同じコンタックスのカメラを持っているところを、見かけたかもしれんしな。ま、いまになって考えてみると、きみがすりかわったカメラのフィルムの内容に気づいていないと、やつに思われたところに、殴り倒されるような目にあった原因があったんだな。それとも」彼はジロッとわたしの顔を見た、「きみは、わたしの知らないようなことでもしでかしたのか?」
思わずわたしは、ためらった。ホテルのあの図書室で、時計の音をききながら、鏡の中に眼をこらしていると、だしぬけにドアがパタンと閉まり、錠がカチリとかかった瞬間の自分の姿が、眼に浮かんできた。ベガンとわたしの視線がピタッとあった。
「あなたの知らないようなことで、重要なことはなに一つありませんよ」
彼はホッと溜息をついた。「まあ、いいさ。すんだことだからな。では、でっちあげの盗難事件の話に移ろうか。ヴァダシー、まったくきみにはすまないと思うよ。あんな真似をやらされるとは、さぞ不愉快だったろうな。しかし、どうしても必要だったのだ。きみの部屋をあらして、二本のフィルムをせしめたやつは、ほかの品物には指一本ふれなかったことを、自分では百も承知している。そこへ、きみが貴重品が盗まれたと吹聴してあるけば、やつはキツネにつままれたような気持ちになる。当然、こいつはおかしい、と疑うようになるだろう。ところが、こちらの予想以上に状勢が、急転直下、悪化してしまった。で、われわれは、荒療治をする以外になくなった。今晩、われわれがきみの逮捕に踏みきったわけも、それなんだ」
「じゃ、お芝居だったわけですか」
「だからさっきもいったじゃないか、ヴァダシー。もし本気できみを逮捕したのなら、こんな待合室に坐って、わたしとしゃべっているどころの騒ぎじゃないんだ。いいかね、きみ、われわれは、いよいよやつの化けの皮をはがなきゃならなくなったのだ。しかもあくまで慎重にだ。きみを逮捕しに行った警官には、逮捕理由を、連中の眼の前ではっきりいってくるようにと命令しておいた。だから、なにもデュクロがたずねなくたって、警官のほうから、スパイ容疑だということを大声で伝えてくる手筈《てはず》になっていたのさ。ところでひとつ、きみ自身、スパイの身になって考えてごらん。きみは、自分の撮影した機密写真が、なにかのはずみで、他人の手にわたってしまったことを百も承知している。きみだったら、どういう手を打つ? むろん、とりもどそうとするな。ところが、それに失敗したものだから、ヴァダシーという男は、なにか胸にいちもつがあるのじゃないかと疑いだし、相手の出方を待つことにする。ところが、ヴァダシーという男は、スパイ容疑で警察に逮捕されてしまう。さあ、きみはどう思う? まっさきにどんな考えがうかぶ? まず第一に、機密写真が撮影されたということを、警察が嗅ぎつけたということ、第二に、ヴァダシーが、自分の無実をあかすために、ベラベラしゃべって、きみに容疑がかかるかもしれない、ということだ。そこで、きみはホテルをひきはらわなければ、あぶない。しかも、一刻をあらそうのだ。わかったな?」
「よくわかりましたよ。しかし、スパイがホテルをひきあげないとしたら? そのときは、どうします?」
「その質問は無用だよ。もうすでに発ってしまったさ」
「なんですって?」
ベガンは、壁の柱時計に眼をやった。「十時二十五分だ。やつは村の自動車屋で車を借りだし、十分前にレゼルヴ・ホテルを出ている。ツーロンへ向かっているのだ。ま、しばらく泳がせておくさ。警察の車が尾《つ》けてるからね。じきに報告がはいるよ」彼は三本目の煙草に火をつけると、マッチをはじきとばした。「ところで、きみに手伝ってもらいたいことがあるんだが」
「いいですとも!」
「うん。いろいろな理由から、いまのところ、やつのスパイ容疑ということを公表したくないのだ。新聞に派手に書きたてられたりすると、さしつかえるんでね。窃盗容疑ということにしておきたいのさ――価格四千五百フランのツァイス・コンタックスの窃盗容疑だ。わかるね?」
「すると、そのカメラは、わたしが盗まれた品に相違ない、と証言しろというんですね?」
「まさにそのとおり」彼は、わたしの顔をまじまじとみつめた。「やってくれるね?」
思わずわたしは口ごもった。もうほかに手がなかった。おそかれはやかれベガンには、真相が知られてしまうのだ。
「どうなんだ?」彼はじりじりしながら、うながした。
「じつは、そう証言したいところなんですがね」わたしは、自分でも顔の赤くなるのがわかった。「ただし、一つだけ問題があるんですよ。じつは、レゼルヴ・ホテルのわたしの部屋にあるカメラは、わたしのものなんです。つまり、二度もすり換えられてしまったんですよ」
ところが意外なことに、ベガンはしずかにうなずいただけだった。「それは、いつのことだね?」
わたしは、なにもかも打ち明けた。と、ふたたび微笑が、彼の唇にひろがった。
「ま、そんなことだろうと思ってたよ」
「なんですって?」
「ねえ、ヴァダシー君、わたしはばかじゃないからね、きみのことなんか、あわれなくらい、見とおせるんだ。今朝のきみの電話じゃ、意地になったように、きみがカメラのことに触れようとしないものだから、きっとなにかあるぞとにらんでいたのさ」
「まさかそうとは――」
「当り前さ。しかしだね、きみも先刻承知のように、二つのカメラは、まったくうり二つだ。ツーロンの隠れ家で、これから警察の手で探しだそうというカメラを、きみの品物だと証言したところで、充分、情状|酌量《しゃくりょう》の余地があると思うがね」
わたしはあわてて同意しておいた。
「それから、あらかじめ断っておくが、あとできみの見まちがいだということがわかった場合には、|そつなく《ヽヽヽヽ》弁解してくれるだろうね?」
「むろんですとも」
「よし、これで話はきまった」ベガンは椅子から立ちあがった。「それからな」彼はやさしくつけ加えた、「ま、万事順調にはこべば、皮肉屋のマチス先生の学校で、きみが月曜日の授業にまにあうように、明日、パリへ発ってもかまわないからね」
一瞬のあいだ、わたしには、ベガンのしゃべっていることがピンとこなかった。やがて、わたしの頭の中に、その言葉の意味がしみとおってくると、わたしは、無我夢中で、支離滅裂な感謝の言葉を繰り返していた。ちょうど、夢からさめかかっているような気持ちだった。安堵と恐怖の入りまじったはげしい感情の嵐だった。とどのつまりは悪夢にすぎなかったのだという安堵、場合によっては現実になったかもしれないという恐怖、そして眼がさめていても夢ではないかと思う恐怖が、まじりあった気持ちである。だが、悪夢の断片はまだ残っていた。われとわが考えを信ずるのが怖ろしかった。きっと罠なんだ。感謝の言葉が、唇から消えさった。彼はけげんな顔をして、わたしを見まもっていた。
「あなたの言葉がほんとうなら」わたしは語気鋭くいった、「いまの言葉を、額面どおりに受け取っていいものなら、なぜ、即刻、釈放してもらえないんです? なぜ、明日まで発ってはいけないんです? なんの容疑もなければ、留置できないはずです。あなたにはそんな権利なんかない」
彼はうんざりしたように溜息をついた。「そりゃそうだよ。しかしだね、さっきもいったように、盗品の証言をしてもらうためには、どうしてもきみの助けがいるんだよ」
「しかし、わたしが断ったら?」
彼は肩をすくめた。「むろん、強制はできん。そうなれば、きみの力を借りずに、なんとかやりくりをするまでだ。ただし」彼は思案深げに言いたした、「当然、いろんな配慮がなされるわけだ。たしかきみは、フランスの市民権を申請していると言っていたな。今回の事件に対するきみの態度いかんによって、この申請の諾否《だくひ》が決まるのだよ。フランス国民なら、その要請に応じて警察に協力する義務があるのだからね。その協力を拒むような無責任な人間は……」
「なるほど。こんどは脅迫ですか!」
ベガンは、そのまるまると肥えている手を、わたしの肩にかけた。「ねえ、ヴァダシー、きみみたいに屁理屈をこねる男に、生まれてはじめて会ったよ」そういって彼は、わたしの肩から手をはなすと、内ポケットの中を探り、一通の封筒をつまみだした。「いいかね! きみは警察の要請で、われわれの仕事のために、三日間、レゼルヴ・ホテルに滞在してくれた。その労に対しては、われわれも公正でありたいからね。ここに五百フランはいっている」彼は、その封筒を、わたしの手の中に押しこんだ。「これだけあれば、余分な出費も、充分つぐなえるはずだ。どうだ、もう一時間だけつきあって、この騒ぎをひき起こした張本人の逮捕に、協力してくれないかな。それでも、筋はとおらんかね?」
わたしは、彼の眼をのぞきこんだ。
「さっき、質問に答えてくれませんでしたね。あらためてたずねます。だれがスパイだったんですか?」
ベガンは、思案深げに二重顎をなでながら、横目でチラッとわたしの顔を見た。「いや、残念だが」彼はゆっくりといった、「わざときみには話さないでいるのだ。悪いけど、いまは勘弁してくれ」
「そうですか。じつに巧妙な手ですね。どうしてもわたしにいっしょに行かせて、この眼でたしかめさせようってわけですね。そしてわたしに、カメラについて嘘の証言を、させる肚《はら》なんだ。ね、そうでしょう?」
だが、ベガンが答える間《ま》もないうちに、ドアにはげしいノックがして、ひとりの警官が入ってきた。彼は、ベガンのほうに合図をおくると、そそくさと出て行った。
「いまの合図はな」とベガンがいった、「スパイの車がサナリを通過したという意味だ。よし、出かけるとするか」彼はドアに歩みよってから、わたしのほうにふりかえった。「いっしょにきてくれるかね、ヴァダシー?」
わたしは、金のはいった封筒をポケットにしまうと、椅子から立ちあがった。
「ええ、行きますとも」と答えるなり、彼につづいて、待合室を出た。
十八
その夜、十時四十五分に、一台の大型ルノーが警察署のかたわらの路地からとびだし、海岸沿いの幹線道路を東へ向かって疾走して行った。車には、ベガンとわたしのほかに、二人の私服の刑事が同乗していた。その一人は運転し、もう一人は後部座席に、わたしとならんで座ったが、その顔には見おぼえがあった。あのレモネードの刑事だった。彼は、わたしを無視しつづけていた。
雲がくまなくはれた。月は中天にあって、その光で、車のライトが蒼白くみえる。サン・ガシヤンのはずれを通過すると、エンジンの音がグーンとたかまり、レゼルヴ・ホテルのある岬をこえて「S」字型のカーブを走るときには、雨にぬれた道路で、タイヤがスリップした。わたしは座席のクッションに背をもたせかけて、千々《ちぢ》に乱れる思いを、なんとかまとめようとしていた。
ここにいるのは、ジョーゼフ・ヴァダシーという男だ。ほんの二時間もしないまえには、職も自由も希望も失うものと観念していたくせに、いまは、フランス警察の車の後部座席にゆったりとおさまり、スパイを逮捕しに行く途中なのだ!
ゆったりと? いや、それは、いささか正確さを欠く。じつは、ゆったりなどしていなかった。むしろ声をはりあげてうたいたかった。だが、それにもかかわらず、なにがいったい、うたいたいようなはずんだ気持ちにわたしをさせるのか、自分でもわからなかった。あと二十四時間もすれば、わたしは汽車に乗って、パリへ近づいているのだ、ということがわかっているからか? それとも今晩すぐにスパイの正体がわかり、もう鉛筆や紙を使わずに、さんざん頭をなやました問題がとけるからなのか? わたしは、この二つのうち、どれがその原因なのだろうと、考えつづけていた。
これはすべて、過去三日間の、緊張に対する肉体的反応のあらわれではないかと思う。あらゆる生理的な徴候から考えて、そう結論せざるをえないのだ。たとえば腹がしょっちゅうゴロゴロ鳴っている。のどがかわいてたまらない。わたしは煙草に火をつけては、まだ吸いきらぬうちに、車の窓からポイポイ棄てていた。そしてなかんずくいちばん顕著な徴候は、なにか忘れたような、それもなにかとても必要なものを、サン・ガシヤンにおいてきたような妙な感じがしていることだった。むろん、そんなことはありえない。この夜、ツーロンで少しでも役立ちそうなものを、サン・ガシヤンにおいてくるはずはないのだ。
車は月光を浴びた並木道を疾走する。並木を抜けると、あたりがひろびろとした野にかわった。オリーヴの農園地帯だった。オリーヴの葉が、車のライトを受けて、銀灰色に光る。またたくまにいくつかの村を通過した。やがて小さな町に入る。広場にいた一人の男のそばを車がスレスレに走りぬけると、男は、車にむかって罵声を投げつけた。「あとひと息だ」わたしは胸の中でつぶやいた、「ツーロンはもうすぐだ」と、突然、わたしはだれかと話がしたくなった。わたしは、横にいる刑事のほうに顔をむけた。
「いま、通ったのはどこです?」
刑事は口からパイプをはなした。「ラ・カディエールですよ」
「逮捕にむかっている犯人の名前を知ってるんですか?」
「いや」刑事はふたたびパイプをくわえると、車の行く手をみつめた。
「いつかの、レモネードの件では」と、わたしがいった、「ほんとうに失礼しました」
刑事は口のなかでブツブツいった。「いったい、なんの話ですかね」
わたしはあきらめた。車は右にカーブを切ると、直線道路を、さらにスピードをあげて疾走した。わたしは、ヘッドライトの逆光をあびて、シルエットになっているベガンの頭と肩のあたりをみつめていた。ベガンは煙草に火をつけた、顔半分、こちらにむいた。
「アンリをいくらつついたって無駄骨だよ」と彼がいった。「刑事の権化みたいな男だからな」
「つくづくそう思いましたよ」
ベガンは、マッチを窓の外へポイと捨てた。「レゼルヴ・ホテルには、四日いたね、ヴァダシー? スパイの正体は見当もつかないのかい?」
「ええ、さっぱり」
彼はぜいぜい声でふくみ笑いをした。「クサイと思ったやつもいないのかね?」
「ぜんぜん」
アンリが身をうごかした。「そんなことじゃ、刑事になれませんぜ」
「なれなくて、幸いだ」わたしはそっけなくやり返してやった。
アンリは口のなかでブツブツいっている。ベガンが、またふくみ笑いをした。「おい、気をつけろよ、アンリ。この旦那はな、頭の中にするどい歯のついた舌があって、警察のことを、まだ怒ってるんだからな」それから運転手にむかって命じた。「オリウールの警察署でとめてくれ」
その数分後、オリウールの町へ入ると、広場にある小さな建物の前で車はとまった。制服の警官が一人、ドアの前で待機している。彼は近づいて敬礼すると、車窓へ身をかがめた。
「ベガンさんですか?」
「そうだ」
「幹線道路とサブレット街道の交差点で、あなたをお待ちしております。サン・ガシヤンのハイヤーは五分まえに帰途につきました」
「ご苦労!」
車はふたたび走りだした。五分もすると、前方の道路にとまっている車の、赤い後部ライトが見えてきた。ルノーは速力をおとし、その車の後にピタリと止まった。ベガンがおりた。
前の車のそばには、背の高い痩《や》せた男が立っている。彼はベガンのほうに歩みより、握手をかわした。ものの一、二分、二人はなにか話していたが、やがて背の高い男は前の車にもどり、ベガンも車にひっかえした。
「水上署のフルニエ警部だ」車に乗りこみながら、ベガンがいった。「このあたりは、あの男の縄張りだからね」ドアをバタンとしめて、運転手に命じた。「警部の車の後につづけ」
ふたたび出発。と、すぐに、オリウールの町からつづいていた木立ちがまばらになり、一つ、二つ、工場をすぎた。やがて、中央に電車のレールが走っていて、その舗道にカフェの立ちならぶ明るい道路に出た。車は右へカーブしたが、その曲がり角の建物には『ストラスブール街』という標識が眼にはいった。ツーロンだ。
カフェは、どこもかしこもいっぱいだった。フランス海軍の水兵たちが舗道をゾロゾロ歩いている。女の子もたくさんいる。つば広の帽子に、黒のタイトのドレスといった、きれいな有色人種の娘が、いともしとやかに車の前を横切ったので、運転手は急ブレーキをかけるなり、大声でどなった。老人がマンドリンをひきながら、道路ぞいの|どぶ《ヽヽ》のところをヨロヨロと歩いて行く。髪の黒いデブの男が、ひとりの水兵を呼びとめなにかいっていたが、水兵にヒョイッと小突かれると、盆にアイスクリームをのせて運んできた女にぶつかってしまった。それからまた進んで行くと、海軍のパトロールが一軒一軒のカフェを出たり入ったりしていた。内火艇に乗って軍艦へ帰る時間だと、ふれ歩いているのだ。ほどなくして、町はずれの人通りの淋しいところへくると、前の車はスピードをおとして、右へ曲がった。と、われわれの車は、暗くて狭い通りを、ちょうど網の目を縫うようにして走っていた。両側には、住宅や鉄の鎧戸《よろいど》をおろした商店がならんでいる。やがて家族が少なくなると、いやに高い単調な壁にかこまれた倉庫ばかりの通りがつづいた。やっと止まったのは、そういう通りの一隅だった。
「さ、降りるのだ」ベガンがいった。
暖かい夜だったが、冷たい石道に立つと、思わずわたしは震えてしまった。興奮からだったのかもしれないが、怖くもあったのだろう。倉庫の単調な壁は、なにか無気味な感じだった。
ベガンがわたしの胸にさわった。
「さ、ヴァダシー、あとひと息だ」
わたしたちの前には、警部とほかに三人の男が待機している。
「いやに静かですね」わたしがいった。
彼は低くささやいた。「いまじぶん、倉庫ばかりの通りに、なにかにぎやかなことがあると思ってたのかい? アンリといっしょに後からきてくれ。音をたてないようにな」
ベガンは警部と肩をならべ、三人の男が後につづいた。しんがりはアンリとわたし。運転手はいずれも車に残った。
壁がとぎれると、その先は、曲がりくねって見とおしのきかない通りだった。右手は倉庫の壁の端で、この後方には、われわれの車が停めてあるのだ。左手には、古びた家が立ちならんでいる。ほとんどが三階建てで、真っ暗だった。しかし、ところどころ、おろした鎧戸のむこうから、灯が洩れていた。月が、ひび割れた漆喰《しっくい》の壁に、ぼんやりした影を投げかける。どこか上のほうの部屋からは、ラジオのタンゴが大きくひびいていた。
「これからどうなるのです?」わたしがたずねた。
「ちょっと訪問するだけです」アンリがささやく。「しごく丁重なものですよ。さ、口をとじてください、さもないとわたしが困ります。いよいよ近づきましたよ」
通りの道の幅は、さらに狭くなった。角を曲がると、石の道は下り坂になったようだ。両側にはふたたび高い単調な壁がつづき、その壁はコンクリートの支えで補強してあった。地面にできた支えの黒い影のなかで、突然、なにか動いた。
胸がドキリとし、夢中でわたしはアンリの腕をつかんだ。
「だれかいる!」
「シーッ」彼は小声で制した。「警官ですよ。われわれは附近を包囲したのです」
さらに数メートル歩いた。地面は、ふたたびなだらかになった。すると、右側の壁に隙間が見えた。たぶん、倉庫についているトラック用の出入り口なのだろう。先を行く男たちは、影のなかに消え去った。なおもついて行くと、石の道が、石炭殻を敷きつめた道に変わったのがわかった。わたしは不安になって立ちどまった。
「左側を」アンリが声をひそめる。「横にまがる」
わたしは、この指示に、慎重にしたがった。手をのばすと壁にさわった。もう前方には、まったく動く気配もない。上を見る。深い峡谷の腹のような壁が、くさび型の星空にむかってそびえている。と、突然、懐中電灯の光が前方の闇を照らし、左手の壁につけられた木のドアの前に、ほかの連中が立っているのが見えた。わたしは前進した。懐中電灯がドアの表面を照らす。そこにはつぎのような文字が、ペンキで書いてあった。
回漕業、F・P・メトロオ商会
ベガンはドアの把っ手をにぎり、ソッとまわした。ドアが内側に開く。アンリがわたしの背中をつついた。わたしは連中のあとについて入った。
その店のなかには、短い廊下があり、急な白木の階段に通じている。上の踊り場にともった裸電球は、漆喰のはげた壁に冷たい光を投げかけている。メトロオ商会は、あまり景気がよくなさそうだ。
ベガンがソロソロとのぼりはじめると、階段がきしんだ。わたしも、そのあとにつづいたが、ふと見ると、わたしのすぐ後からのぼってくるアンリが、ポケットから大型ピストルをだしたところ。この調子じゃアンリの前口上とはちがって、この訪問は、とても『しごく丁重なもの』にはなりそうもない。心臓がドキドキしはじめた。なんの変哲《へんてつ》もない、いやな匂いのする、この不吉な建物のどこかに、わたしの知っている男がひそんでいるのだ。その男が、この階段、いま、わたしが足下に踏みしめているこの階段をあがって行ってから、三十分とはたっていないだろう。たぶん、十秒もしないうちに、ふたたびこの男と顔を会わせることになる。すごく恐ろしい役割だった。この男が、わたしに危害を加えるような真似はできないはずだ、しかし、それでもなお怖かった。と、不意に、顔の隠せるマスクがあったらいいな、と思った。むろん、そんなことはばかげている。それからスパイはだれなのだろうと思いはじめた。わたしが『逮捕』されたとき、棒立ちになったまま、わたしを凝視していた一人一人の顔を思いだす――ショックにおののいた顔、顔、顔――。そのなかの一人、そのなかの一人なのだが……
アンリはわたしの背中をつつき、早くあがれと合図した。
ベガンは、とっぱなの踊り場にある、いかにも重そうな木製のドアのまえに足をとめて、把っ手をまわした。ドアは難なく開いた。懐中電灯の光で、部屋にはだれもいないことがわかった。天上から落ちた漆喰のくずが、床に散乱している。ベガンは、ここでひと息つくと、額や首筋の玉のような汗を拭い、階段をさらにあがって行った。
三階に近づいたところで、彼はまた足をとめ、わたしたちに待てと合図した。彼と警部だけが、ここからは見えない三階の踊り場にあがって行った。
死のようにしずまりかえっているので、前にいる男の腕時計の音さえ聞こえるくらいだ。静寂がいっそう深まったとき、かすかな人声が耳にはいった。わたしは息をとめた。すると、階段の手摺《てすり》に警部の頭と肩があらわれ、あがってこいと合図した。
こんどの踊り場も、とっぱなのやつとまったく同じである。しかし、電灯はない。警部たちは物音もたてずに、ドアのまえで待機した。無意識のうちに、わたしは、ドアのそばの壁に、ピッタリ身を押しつけていた。室内の話し声は大きくなり、なにをいっているのか、聞きとれなかったが、片方の声の主は男で、イタリア語を話していた。
ベガンの手が把っ手にのび、一瞬ためらうと、しっかり握ってから、グルリとまわした。
ドアには鍵がかかっていた。しかし、ハンドルのまわるかすかな音が、室内の連中に聞こえたのにちがいない。話し声がピタリととまった。ベガンは、息を殺したまま、畜生と言い、ドアをはげしくたたいた。室内はしんとしたまま。ベガンはちょっと待ったが、サッとアンリをふり返った。アンリは床尾《しょうび》を先にむけて、ピストルをさしだす。ベガンがうなずいて、そいつを受けとる。ドアにむきなおるなり、ピストルの撃鉄を親指でもどし、銃口をななめに鍵穴にあてるなり、引き金をひいた。
轟音、その銃声は、わたしの耳を聾《ろう》せんばかり。一瞬のあいだ、ドアはまだ閉まっていた。二人の刑事が思いきり体当たりすると、すさまじい音をたてて内側に開いた。わたしの耳はガーンと鳴ったまま。わたしは、なだれこむ警官について、よろめきながら部屋のなかに入った。
事務所ふうの小さな部屋。一隅に鉄のベッドが置いてあった。室内に人影なし。だが、部屋の横手に、ドアがもう一つある。警部は喚声《かんせい》をあげて走りよるなり、ドアを力いっぱい押し開けた。
その部屋は真っ暗だった、だがドアがあくと、事務所の吊り電灯の光が、その部屋の向こう側の窓のあたりまでサッと照らしだした。闇のなかから女の悲鳴があがる。と、その瞬間、一人の男が、窓にパッと駆けより、そいつを開け放つと、窓枠に足をかけた。
すべてはアッというまの出来事だった。男が窓にとびついたのと、警部がやっと体勢をととのえたのと、ほとんど同時だった。ベガンがす早くピストルをかまえるのが、わたしの視野にはいった。と同時に、窓の男はふりかえりざま、一発撃ちはなった。パッと閃光《せんこう》が走り、銃声が轟いた。弾丸は警部の肩にあたった、一瞬遅れてベガンが発射。ガラスがくだけ、部屋のなかで女がまた悲鳴をあげた。窓がバタンとしまる。男は消えた。しかし、男がピストルを撃とうとふりかえったとき、わたしは男の顔を見た、スパイの正体をはっきりとつきとめた。
ルウだった。
警部はドアの柱にもたれたまま、苦痛に顔をゆがめている。わたしも警官たちのあとにつづいて、その部屋の中へおどりこんだ。
部屋の隅で、蒼白になってすくみあがり、すすり泣いていたのは、マルタン嬢だった。そのすぐそばに、禿頭《はげあたま》のデブが、両手を上にあげて、立っている。そのデブはイタリア語で、自分は真面目な商売人で、フランスの友人だ、なにもうしろ暗いことはしていないのだから、警察なんかに踏みこまれる|いわれ《ヽヽヽ》はないと、すごい剣幕で早口にまくしたてた。
ベガンはわき目もふらず窓へ近づいた。彼の弾丸で、窓ガラスが一枚壊れたが、ルウには当たったようすがない。アンリの肩越しに見ると、隣の建物の屋根は、二メートルばかり低いところにある。
ベガンがサッとふりむいた。
「おい、やつは屋根へ出たぞ。デュプラ、マレシャル、この二人を見張っていろ。モルテイエ、おもてへ行って、外の連中に屋根を見張り、やつを見つけしだい、射つようにいってくれ。すぐにもどって警部の看護をするんだ。負傷したらしい。アンリはおれといっしょにくる! ヴァダシー、きみもだ、なにかの役にたつだろうからな」
汗をかきかき悪態《あくたい》をついて、ベガンは、窓によじのぼり、となりの屋根にとびおりた。アンリとわたしが、そのあとにつづいたが、このとき、負傷した警部がモルテイエ刑事に、そんなところでばかみたいに立ってないで、命令どおり下へ行けと、弱々しくいっているのが聞こえた。
屋根にとびおりてみると、その平たい屋根の四方には、低い手摺がめぐらされ、まんなかには、胡瓜《きゅうり》づくりの温室のような天窓がついていた。周囲は、倉庫の単調な壁で囲まれている。月の光が、高い壁にさえぎられて、影をつくっているためによく見えないが、その屋根には、昇降口がありそうには見えない。しかし、ルウの姿は、完全に消えていた。
「懐中電灯、持ってるか?」ベガンがアンリにたずねた。
「はい、あります」
「おい、ぼんやりしていないで、天窓が、こっち側から開くかどうか見てきてくれ。大急ぎ!」
アンリが、鉛板のほうへとんで行くと、ベガンは手摺にそって歩きはじめた。口のなかで、畜生、畜生、などとさかんに悪態をついている。やがて、彼がどこへ行こうとしているのか、わかった。屋根の向こう側の隅の暗いところに、となりの倉庫の壁がまぢかに迫っていて、こちらの屋根とのあいだには、ほそい隙間があったのだ。ベガンが、この隙間に懐中電燈を向けたとき、アンリが、とても天窓からは逃げられませんと大声で伝えた。と、このとき、むこうの暗闇に、閃光が走り、銃声がとどろいた。弾丸は、わたしの背後に積んである煉瓦《れんが》に、ビシリッとあたった。
ベガンはサッと身をかがめ、鉛板のほうへ、ひざまずいたままにじりよる。わたしもそのあとにつづいた。アンリは、暗闇からぬけだすと、からだを折るようにして、こちらへ小走りに近づいた。
「やつは、その隅の壁のあいだにいます」
「|たわけ《ヽヽヽ》、いわれないでもわかってる。ヴァダシー、姿勢を低くして、ここにじっとしているんだ。アンリ、きみはその壁にとりつき、姿を見られないように隙間に近づいてくれ。やつの姿が見えたら、懐中電灯で照らす。さあ、追いつめたぞ」
アンリが壁のほうにとんで行くと、ベガンはピストルをかまえ、鉛板のほうをまわって、ゆっくりと隙間へ歩みよった。ほんの一、二秒、小さな雲が、月をおおい、ベガンの姿が見えなくなった。と、その瞬間、懐中電灯の光がパッと見え、そのとたんに二発の銃声が、つづけざまに起こった。壁の隙間のあたりに、懐中電灯の光がチラチラしている。銃声が静まると、ベガンがアンリに、これ以上先へ進むなと、命令しているのが聞こえた。
もう我慢ができなくなって、わたしもソロソロと前進した。暗闇のなかを、屋根の隅にやっとたどりつくと、あやうくベガンとぶつかりそうになった。彼は、壁と壁のあいだの真っ暗な隙間を、慎重にのぞいている。
「やつがわかりますか?」わたしは声を殺してたずねた。
「まだだ、やつのほうからはこっちがよく見えるんだぞ。うしろへさがっていたほうがいいよ、ヴァダシー」
「足手まといでなければ、ここにいたいんですよ」
「じゃ怪我をしたって泣きごとをいうなよ。やつは、この角を曲がって、二十メートルばかりむこうの、壁についている鉄の非常階段にいるのだ。われわれが来るまで通ってきた道路と平行に別な道路があってな、そこに面してる倉庫の裏手に、この階段がついているわけだ。アンリ、下へ行って、何人か、あの倉庫へまわるように伝えてくれ。夜警がまだ眠っていたら、ドアをたたき壊して入るんだ。背後から、やつをつかまえろ、とな。急げ、というんだぞ」
アンリが立ち去った。ベガンとわたしは、かたずをのんで待っていた。遠くでは、待避線で車輛を交換している列車の音、町の大通りを疾走する自動車の音がするけれど、あたりは死んだようにしずまりかえっている。
「下の連中がかけつけるあいだに、やつが逃げたとしたら……」とうとうわたしが口をきった。
ベガンが、わたしの腕をむんずとつかんだ。「だまれ! 耳をすましているんだ!」
わたしはじっと耳をそばだてた。はじめはなにも聞こえなかったが、やがて、かすかながら、きしるような音が聞こえてきた。うつろで金属的な、奇妙な音。ベガンは深く息をすいこむと、積みあげてある煉瓦山の端に、にじりよった。わたしも身をかがめたまま、手摺が見えるところまで進んで行く。と、だしぬけにベガンの懐中電灯が、闇に光った。向こう側の壁を、懐中電灯の光の輪が、なでていったが、やがて、ピタッととまった。非常階段だ。
ルウは、その階段のてっぺん近くまでのぼりかけている。ルウに懐中電灯の光があたると、ギョッとしてふりむき、ピストルをかまえた。顔面蒼白、光の輪のなかで、まぶし気である。その瞬間、ベガンのピストルが火をふいた。弾丸は階段にあたり、鋭い金属音があたりに響きわたった。ルウは、ピストルをおろし、必死でてっぺんにむかった。ベガンは、さらに一発撃つと、壁のあいだの樋《とい》をつたって、非常階段の下へかけよった。わたしは、一瞬、ためらったものの、その後を追った。わたしがかけつけたとき、ベガンはもう半分ばかりのぼっていた。肥ったからだがくっきりと浮きあがり、壁にうつったその影が、じわじわと上に動いてゆく。わたしも非常階段をのぼりはじめた。
だが、その一瞬後、のぼりはじめたことを、わたしは後悔した。だって、階段のてっぺんに、ルウの動きがはっきりと見えるじゃないか。
ベガンはのぼる足をとめて、わたしに、おりろと叫んだ。ルウの撃った弾丸が、わたしの足もとの鉄枠にあたった。ベガンは撃ち返したが、ルウの姿はもう見えない。ベガンが、最後の数段をてっぺんまで一気にかけのぼる。わたしが追いついたとき、彼は頭をあげ、屋根にめぐらしてある出っ張りを注意深く眺めていた。なにか口のなかでブツブツいっている。
「いませんか?」
わたしには答えずに、ベガンは出っ張りをつたって屋根へのぼった。
屋根は長くて狭いが、たいらだった。すぐそばには、大きな水道タンクがある。かなりむこうの端にある三角形の建物には、階下へ通ずるドアがあるようすだ。そこまでのあいだに、四角い鉄製の通風換気管がビッシリと林立している。ベガンは、わたしをタンクのかげにひきよせた。
「ほかの連中がかけつけてくるまで、待たにゃならん。こう換気管がたくさんあっては、とてもやつを探せないからな。頭をだしてみろ、狙われるぞ」
「だけど待ってるあいだに逃げられませんかね」
「なに、袋のねずみだよ。この屋根からは、二つの逃げ道しかない――非常階段と、あそこのドアだ。やつはたぶん、撃ちまくって逃げる気だろう。ほかの連中がかけつけてきても、きみはここに隠れていたほうがいいぞ」
だがしかし、逃げ道はもう一つあった。ルウはそこを通ろうとしていたのだ。
われわれはながくは待たなかった。ちょうど、ベガンが話しおわったとき、ライフル銃を持った騎馬警官が、ドアから続々と屋根に出てきた。ベガンは、散開してこっちにむかって進め、と彼らに叫んだ。彼らはただちに散開し、一線となって行動を開始した。わたしは息を殺して待った。
わたしは、どんなことになると予想していたのか、自分でもはっきりわからないが、実際に起こったことは、とにかく予想もつかないことだった。
警官の一隊は、換気管のほぼ最後の列に達した。こいつは、ルウに逃げられたのではないか、とわたしは思いはじめた。と、だしぬけに人影が、換気管のかげからパッととびだすと、われわれの反対側の出っ張りにむかって、つっ走った。ひとりの警官が叫び声をあげるや、はげしく追った。ベガンもとびだした。ルウは出っ張りにとびあがると、一瞬、ピタッと静止した。
そこで、わたしは読めたのである。こちらの屋根と隣の倉庫の屋根のあいだは、約二メートルあいている。ルウは、そいつをとび越えるつもりなのだ。
彼はとび越えようと、ジャンプの姿勢をとった。ルウにいちばんちかい警官は、二十メートルほどの間隔があった。その警官がつっ走りながら、ライフルの遊底をガチャッとかけた。ベガンは、まだかなり離れたところを走っていたが、このとき、パッと足をとめてピストルをかまえた。
ルウがかがめたからだをのばしかけた瞬間、ベガンの銃口が火をふいた。右腕に命中。ルウの左手がその右腕をおさえた。と、これで、からだのバランスが崩れた。
身の毛のよだつような瞬間だった。平衡をとりもどそうともがいたのもつかの間、落ちるしかないと直感すると、ルウは叫び声をあげた。
ルウの姿が消えると、叫び声がはげしい悲鳴にかわった。やがて、からだが、道路のコンクリートに叩きつけられる無気味な音がすると、同時に悲鳴もプッツリとまった。
ベガンは出っ張りに歩みよると、下をのぞいた。すると、わたしははげしい嘔吐《おうと》感におそわれた。これで、この二十四時間に、二度目だ。
警官隊がルウのところへおりていったとき、彼はこときれていた。
「あの男の本名は」と、ベガンがいった、「ヴェリュ。アルセーヌ・マリ・ヴェリュ。やつのことはもう何年もまえからわかっていたのだ。フランス人だが、母親がイタリア人でね。生まれは、イタリアの国境に近いブリアンソン。一九二四年に軍隊から脱走したのだ。それからまもなく、ユーゴのザグレブで、イタリアの手先として働いているという情報がはいった。そのあと、ルーマニアの陸軍諜報部で働いたりして、それからドイツへ行った。どこの国の手先かはっきりしないが、たぶんイタリアだろうな。フランスへは、偽造の旅券でもぐりこんだのだ。ほかに知りたいことは?」
われわれはメトロオ商会の事務所にひっかえした。負傷したフルニエ警部は、救急車で運ばれたあとだった。刑事たちは、書類やファイル、帳簿などを、小型トラックにせっせと積むのにおおわらわ。このトラックは、証拠書類を運ぶために呼ばれたのだ。一人の刑事は、皮ばりの椅子のシートを切り裂いて調べている。床板をはがしている刑事もいた。
「マルタンという女は?」
ベガンはかるく肩をすくめた。「なあに、やつの情婦というだけのしろものさ。むろん、やつがスパイだということは知ってただろうがね。気を失ってしまって、いま、警察にいるよ。意識がもどったら、調べるつもりだ。ま、釈放するよりしかたがないだろう。なによりの収穫は、マレッティ、自称メトロオをつかまえたことさ。やつがボスなんだ。ルウなんか、金で飼われている三下奴《さんしたやっこ》だ。残党もすぐにご用になるよ。なにしろ、ネタはすっかりあがってしまったんだからな」
ベガンは、床板をはがしている刑事のところに行くと、そこから見つけた一束の書類に目をとおしはじめた。わたしはひとり、とり残された。
そうか、スパイの正体はルウだったのか。やつのなまりをどこかで前に聞いたような気がしたわけが、いまになってやっとのみこめた。パリのマチス語学校のイタリア人教師、ロッシとおなじなまりなのだ。ルウが、ちょっとした情報に五千フランだそうといった意味も、これでわかった。やつは、機密写真の隠し場所が知りたかったのだ。わたしの頭を殴りつけ、ホテルの部屋をあらしたのも、あの図書室のドアを手荒く閉めて鍵をかけたのも、みんなやつのしわざだったのか。だが、いまは、そんなことなんかどうだってよかった。わたしの耳には、あの断末魔の、最後の悲鳴がいまだに残っている。そしてまなこには、玉突き台のまえに立ったマルタン嬢と、いまは亡き、スパイの姿がありありと焼きついているのだ。女は、やつに自分の肉体を押しつけていたっけ。それにしても……ルウは三下奴にすぎない……金で飼われている……女はやつの情婦というだけのしろものさ……むろん、そのとおりだ。そう見るのが、むしろ当然なのだ。
そのとき、警官が包みを手にして、事務所に入ってきた。ベガンは調べていた書類をおくと、その包みを開けた。ツァイス・コンタックスと大きな望遠レンズがはいっていた。ベガンが、わたしを呼んだ。
「やつのポケットにあったんだ」と、彼はいった。「カメラの番号をたしかめてみるかい?」
わたしは、ベガンの手にあるカメラをみつめた。レンズもシャッターも、無惨にこわれてねじ曲がっていた。
わたしは〈かぶり〉を横にふった。「あなたを信じますよ、ベガンさん」
彼はうなずいた。「じゃ、もうきみにいてもらうこともなくなった。アンリが階下にいる。きみを、車でサン・ガシヤンまで送るよ」ベガンは、ふたたび書類に眼をとおした。
ちょっとためらってから、わたしは口をひらいた。「もうひとつだけたずねたいことがあるんですよ、ベガンさん。ルウはなぜレゼルヴ・ホテルにいつまでもグズグズしていたんです、ただフィルムをとりもどしたい一心に?」
ベガンは、少しばかりいらだった顔を書類からあげると、肩をすくめた。「わからんよ。たぶん、フィルムをわたさないかぎり、ボスから金がもらえなかったのさ。ま、やつは金がほしかったのよ。じゃ、おやすみ、ヴァダシー」
わたしは階下へおりて、道路に出た。
「やつは金がほしかったのよ」
まるで、スパイへの墓碑銘だった。
十九
わたしが、レゼルヴ・ホテルにもどったのは、そろそろ午前一時半にちかかった。
ヘトヘトに疲れて、車寄せを、重い足をひきずって歩いて行くと、ホテルの事務所に、まだあかりがついているのが見えた。いささか憂うつになった。ベガンの話では、サン・ガシヤンの警察が、ケッヘに事情を説明したので、わたしが帰っても気がねなく泊まれるということだった。しかし、まただれかと、事件のいきさつを話しあうなどと、考えただけでも寒気がした。事務所のドアの前を、階段のほうへぬき足さし足で通りぬけて、手摺に手をかけたとたん、事務所のなかから、動くもの音がした。ふりむくと、ケッヘが眠そうに微笑して、ドアのところに立っていた。
「寝ないで、お待ちしておりましたよ。いましがた、署長さんが見えましたね。ほかに話もあったのですが、あなたがおもどりになるということをお聞きしたんです」
「そうですか。とにかく、クタクタに疲れているもんでね」
「いや、ごもっともで。なにしろ、スパイ狩りというのはひどく疲れるスポーツらしいですな」彼はふたたび微笑した。「サンドイッチに葡萄酒でもあがるかと思いましてね、こちらに用意しておきました」
そう聞いたとたん、だしぬけに、いまわたしが欲しいものは、サンドイッチに葡萄酒だと気づいた。支配人にわたしは礼をいって、二人で事務所へ入った。
「署長さんの話ときたら」と、葡萄酒のびんを開けながらケッヘがいった、「なんですか、雲をつかむみたいな話でしてね。ルウのスパイ活動を、ぜんぜん公表しない方針らしいですね。むろん、それと同時に、ヴァダシーさんが、昨日はスパイ容疑で逮捕されたのに、今日は何事もなかったようにホテルにもどられる理由も、説明しなければならないんですからね」
わたしはサンドイッチを二つ、三つ、つづけざまにのみこんだ。「そこんところが」わたしはやっと気分がおちついて答えた、「署長の悩みの|たね《ヽヽ》なのさ」
「そうでしょうな」ケッヘは、わたしに葡萄酒をついでくれて、また自分のグラスにもついだ。「しかしですよ」と、彼は言いたした、「朝になってごらんなさい、あなたはうるさい質問攻めにあって、ひとりで答えなくちゃならないでしょうよ」
だが、これ以上、わたしはこの件に立ち入りたくなかった。「しようがないね。だけど、それは、明日の朝のことだからね。とにかくいまは、ただ無性に眠りたいだけさ」
「そうでしょうとも。お疲れになったのも無理はありませんよ」と、不意にケッヘはニヤリと笑った。「ひとつ、今日の午後のことは、水に流してくださいませんか、わたしが失礼なことを申したりしましてね」
「そんなことは、とっくに忘れてましたよ。なにもきみが悪いわけじゃないもの。とにかく警察の命令だから、それに従ったまででね。察してくれるだろうけど、ぼくだって、盗難事件をデッチあげたりするのはいやだったが、断るわけにはいかなかったんだ。なにしろ、相手の切り札は、国外追放というやつだからね」
「へえ、そうだったのですか! 署長さん、なんともいってませんでしたよ」
「そりゃあそうさ」
ケッヘは、サンドイッチを一つつまむと、しばらくのあいだ、無言でかんでいたが、やがて話しはじめた。
「ま、ご存じのとおり」彼はしんみりした口調でいった、「この二、三日というもの、心配で、心配で、夜もねむれなかったくらいでしてね」
「そう?」
「わたしはね、パリの、ある大きなホテルで、副支配人として働いていたことがあるんですよ。支配人はピレウスキーというロシア人でした。ま、有名な男ですから、あなたも名前をご存じでしょうが、この道にかけては、天才でしてな。この支配人のもとで働けるのは、ほんとにうれしかった。じつにいろいろなことを教えてくれましたよ。ホテル業者として成功するには、お客を知りぬかなければいけないって、しょっちゅういわれたものです。いま、客がなにをしているか、いまなにかを考えているか、どういう職業に従事しているか、こういったことを、ちゃんとおぼえておけ、というわけでしてね。しかも、客を値ぶみするような態度は、みじんも表にだしてはいけない。わたしは、この言葉を心にきざみつけました。で、お客さんのいろいろな面が、直感的にピーンとわかるようになったのですよ。しかし、この二、三日というもの、わたしにとってまったく未知のなにかが、このホテルで起こっていると気づいたときは、ほんとうにどうしていいものか、わからなくなってしまったくらいです。つまり、わたしの職業意識が傷つけられたようなものです。この裏には、その原因となるような人間がいるにちがいない、とわたしは直感しました。はじめは、イギリス人の少佐かと考えました。そもそも、浜辺で、あんなスキャンダルを起こしましたし、今朝は、ほかのお客さんたちに借金を申しこんだことがわかりましたからね」
「たしか、まんまと金を借りられたという話だけど」
「そうなんで。あのアメリカの若い方が、二千フラン、少佐に貸したんですよ」
「スケルトン青年が?」
「はい、そのスケルトンです。ま、あの方に、ひとさまにご用立てするだけの余裕があればいいですがね。きっと、お金は、返してもらえないでしょうよ」ケッヘはひと息ついてから、つけ加えた。「そのつぎに、デュクロさんですよ、怪しいとにらんだのは」
わたしは声をあげて笑った。「いや、実際の話、ぼくだって、あのじいさんがスパイじゃないかと真剣に疑ったときがあったよ。あの老人ときたら、危険人物だよ。きみも知ってのとおりね。それにひどい嘘つきでゴシップ作りの常習犯だからね。ま、だからこそ、実業家として大をなしたのじゃないかな」
ケッヘの眉毛がつりあがった。「実業家ですって? あの老人は、あなたにそう話していたのですか?」
「ああ。なんでも工場をいくつも持ってるらしいね」
「デュクロさんはですね」と、ケッヘは、いやにもったいぶっていった、「ナントの近くにある小さい市の、衛生課の書記なんですよ。給料が月に二千フラン、毎年二週間の休暇には、このホテルへ保養にくるのです。なんでも数年まえには半年ほど、精神病院に入ったことがあるそうでしてね。ま、あの調子じゃ、じきに病院に舞いもどるような羽目になると、わたしはにらんでいますがね。なにせ去年より、今年はかなり進んでいますもの。いよいよ、あれは第三期ですよ。とにかく、このホテルのお客さまのことで、とっぴな話をでっちあげるんですからね。この二、三日というもの、あのイギリスの少佐を、警察に突きだせ、といって、わたしをさんざん手こずらせるんですよ。少佐のことを指名手配中の犯罪者だというのです。まったくやりきれませんや」
だが、わたしはもう、驚くことにはすっかり慣れてしまった。サンドイッチの最後のひと切れをたいらげると、わたしは椅子から腰をあげた。「じゃ、ケッヘさん、サンドイッチと葡萄酒、どうもご馳走さま。ほんとうに、いろいろとありがとう――おやすみ。これ以上しゃべっていると、ここで夜明かししてしまいそうだからね」
ケッヘが歯をむきだしてニヤリと笑った。「すると、明朝は、みなさんの質問攻めを、いさぎよくお受けになる気なんで?」
「みなさん?」
「このホテルのお客さんのことですよ」彼はグイッと前に身を乗りだしてきた。「いいですか。いま、あなたは、ひどく疲れておいでだ。そんなあなたを、わたしは、わずらわせたくないんですよ。それなのに、明朝、あなたはみなさんになんとおっしゃるつもりなんです?」
わたしはよわよわしく〈かぶり〉をふった。「そんなことは、てんで頭にうかばないよ。たぶん、真相をブチまけることになるだろうよ」
「しかしですよ、署長さんは……」
「いったい、署長がなんだっていうんだ!」とうとうわたしは爆発した。「どだい、警察がでっちあげたことじゃないか。その尻ぬぐいをするのは警察だよ」
と、ケッヘが椅子から立ちあがった。「まあまあ、ちょっと待ってください。ぜひ、お知らせしておきたいことがありますんで」
「まさか、またびっくりさせるんじゃないだろうね?」
「じつは今晩、署長さんがおみえになったとき、ラウンジにはまだイギリス人の少佐夫妻、アメリカ人兄妹、それにデュクロ老人が、あなたの逮捕話に花を咲かせていたんですよ。署長さんが帰ってから、わたしは独断で、話をひとつ、でっちあげたのです。そうすれば、あなたがスパイだという濡れぎぬもはれるし、それと同時に、みなさんの好奇心も満足させられますからな。そこでわたしは、これは絶対に秘密だけど、じつはヴァダシー氏こそ、軍情報部の防諜活動課員で、今日の逮捕は、単なる策略である、警察にさえ|しか《ヽヽ》とわからぬ、ある特別計画の一部なのだと話したのですよ」
あまりのことに、わたしは開いた口がふさがらなかった。「まさか、そんな子供だましみたいな話を、みんなが信じるとは思っていないだろうな?」と、ややあって、わたしはたずねた。
ケッヘは微笑した。「じゃ、みなさんが信じないとでも思うのですか? シガレット・ケースやダイヤのネクタイ・ピンの話を信じた人たちがですよ」
「それとこれとは問題がちがうよ」
「ごもっとも。しかしながら、あの窃盗事件も頭から信じ、そしてこんどのわたしの話も信じたのです。なにしろみなさんは、信じたがっているのですよ。アメリカ人兄妹は、あなたにひどく好意をもっているので、あなたのことを、犯罪者やスパイと思いこみたくなかった。それであの兄妹がたちどころにわたしの話を信じこんでくれたものだから、あとの人たちもすっかり乗ってしまったわけで」
「デュクロ老人はどうだった?」
「そんな話は、とっくの昔にあなたの口からじかに聞いて、知っていたそうですよ」
「おそれいったね、あのじいさんの言いそうなことだ。しかしだね」――わたしは、ケッヘの顔を正面から見すえた――「こんな話をきみがした目的は、いったいなんなのだ? きみの気持ちがさっぱりわからないんだがね」
「じつはですね」彼はもの柔らかな口調でいった、「ただ、あなたを、つまらないごたごたから、救いたかったからでして」なおも説得するような調子で先をつづけた、「もし今晩、ぐっすり安眠なさりたいなら、もし明朝、部屋から一歩も出ずにすまそうとするなら、また、いっさいをわたしに任せてくださるなら、ちかってあなたが、質問攻めにあうような羽目にならないようにしますよ。みなさんに顔をあわせないですむようにだってできるんですからね」
「おい、きみ、そいつは――」
「それはもう」ケッヘは早口に言葉をつづけた、「あなたのお許しもえないのに、こんなでたらめな話をしたことは、たいへん失礼とは思うのですが、なにせ、あのような状況では――」
「あのような状況では」わたしは意地悪く、相手の言葉をそのままつかって、さえぎってやった、「たかだか一日のうちに、窃盗事件、スパイの逮捕、墜落死とつづいたんじゃ、ホテル商売にこたえるだろうね。そこできみはぼくが防諜活動課員だなどという子供だましの話をでっちあげたのだね。ルウのことなんか、きれいさっぱりに忘れられてしまっている。警察はほくそえむよ。ぼくは板ばさみもいいところだ。まるっきり八百長《やおちょう》の連続で、かの有名な防諜活動課員、ヴァダシー氏は、目下、レゼルヴ・ホテルにもどって待機中とかなんとか吹聴《ふいちょう》するか、さもなければだれにも会わずにこっそりご退散、二つに一つというわけか。こいつは一本まいったよ!」
ケッヘは肩をすくめた。「ま、これも一つの考え方でしてね。では、ひとつだけおたずねします。それほど、みなさんの質問攻めに会いたいのですか?」
「そりゃあ、真実をみんなに話したいね」
「しかし警察が――」
「だから、警察がなんだっていうんだ!」
「なるほど」ここで、ケッヘは、わざとらしい咳ばらいをした。「では申しあげときますが、署長さんはあなたにメッセージを残されたのですよ」
「どこに?」
「いや、口頭です。フランス国民は、できうるかぎり警察に協力すべき義務があることを忘れぬように、とのことで。それに、できることなら、すみやかに帰化局に申請の手続きがとれるようになりたいものだともいわれましたがね」
わたしはおおきな溜息をついた。「おい、きみ」と、わたしはゆっくりいった、「さっきの防諜課員の話は、署長ときみの合作じゃないだろうな?」
ケッヘはパッと顔を赤くした。「もうそれは申しあげたはずですが。しかし――」
「そうか。やっぱり署長ときみの合作だったんだな。きみっていうひとは――」わたしは口ごもってしまった。突然、絶望的な感情に襲われたのだ。疲れに疲れはてて、もうこんな不愉快な話は、まっぴらごめんだ。手足は痛む、頭はいまにも割れそうだ。「もう寝る」わたしはきっぱりと宣言した。
「ボーイたちにはなんと申しておきましょう?」
「ボーイたち?」
「お起こしする時間ですよ。もういまでは、あなたは、正式のお客さまではないのですから、朝食もお部屋でそっとあがっていただき、車がきて、パリ行きの汽車に間に合うよう、あなたをツーロンまでお送りするときにも、ご出立《しゅったつ》がホテルのお客さまがたの眼にふれないようにとりはからえと、ボーイたちに申しつけてあるのですが。どういたしましょう?」
しばらくのあいだ、わたしは無言のまま、棒立ちになっていた。そうか、なにからなにまで、手はずがきまっていたのか。正式には、おれはもうレゼルヴ・ホテルには泊まっていないのだと。ふん――それがどうしたっていうんだ? と、明日の朝、テラスを歩いている自分の姿が目に浮かんだ。驚嘆、質問、驚愕の叫び、おれの説明、またまた質問、またまた説明、嘘、嘘に嘘を重ねていくのが聞こえてくる。こいつは、ケッヘの提案のほうが、ずっと楽そうだ。こいつは、むろん、百も承知なんだ。たしかにケッヘの言い分は正しくて、おれが間違っている。ああ、くたびれたなあ!
ケッヘは、わたしの表情を見つめている。「どう取りはからいましょう?」とうとう、彼がたずねた。
「よし、わかった。ただあまり早く朝食を持ってこさせないように頼むよ」
彼はニッコリ笑った。「ご安心ください。では、おやすみなさいませ」
「おやすみ。あ、そうだ!」ドアのところでふりかえると、わたしは、ポケットから、ベガンにもらった封筒をとりだした。「警察がくれたんだけどね、ここの滞在費用として、五百フランはいってる。ぼくはそんなに使わなかった。この封筒のお金を、ハインバーガーさんにさしあげてくれないか。きっと、なにかのたしになると思うんだけど?」
ケッヘは、わたしの顔を穴のあくほどみつめた。ほんの一瞬だが、わたしは、顔の作りをサッと拭き落とす役者――しかもホテルの支配人役を演じている役者――を眺めているような、奇妙な感じを受けた。彼は、ゆっくりと〈かぶり〉をふった。
「せっかくのご親切だが、ヴァダシー」彼はもう、わたしのことを『さん』づけでは呼ばなかった。「エミールから、あなたと二人でいろいろ話しあったということは聞いてましたがね。打ち明け話なんかして大丈夫かと、わたしは案じてたのですが、どうやらわたしの思い過ごしのようですね。それにしても、あの男には、もう金はいらないのですよ」
「でも――」
「つい二、三時間まえなら、あの男もきっと喜んだにちがいないでしょう。ところが、朝になったらドイツへ帰るのですよ。三人で、ツーロンから九時の汽車で発つことに、今日の夕方、話がきまったのですよ」
「三人で?」
「フォーゲル夫妻が、彼といっしょでしてね」
わたしは口がきけなかった。なんとしても言葉が出てこないのだ。わたしは、テーブルの上の封筒を手にとると、ポケットにしまった。ケッヘは、虚脱したような表情で、自分のグラスに葡萄酒をつぐと、電灯の光にすかしてから、わたしの顔に視線を走らせた。
「エミールは、あの夫婦が笑いすぎると、口ぐせのようにいってましたよ」と、彼はいった。「じつは二人が、ゲシュタポの犬だとわかったのは、昨日のことです。手紙が一通とどきました。二人は、スイスからの便りだなんていってましたが、切手はドイツのでしたよ。二人が部屋を留守にしてるあいだに、わたしは手紙を読んでみたのです。文面は、ごく短いものでしたが、もっと金がいるのなら、金がいるという証拠を見せろと書いてありました。夫婦は証拠を見せたわけですな。エミールの予感は的中したのです。二人は笑ってばかりいたが、グロテスクですよ。だれひとり、あの夫婦がわいせつだとも思いませんしね。女房のほうには秘密があるのです」彼は葡萄酒を一気に飲みほすと、グラスをガチャリとテーブルに置いた。「もう何年もまえのことですが、ベルリンで」と、彼はいった、「わたしは、フォーゲル夫人の独奏会を聞きました。そのときは、フルデ・クレーマーという名前だったのです。今夜、夫人がピアノの演奏をするまで、まるっきり忘れてましたよ。ときたま、クレーマーはどうしたかなと思いだしたりしてたのにね。そう、彼女はフォーゲルと結婚したんですな。まったく妙ですよ。そうじゃありませんか?」ケッヘは片手を差しだした。「おやすみ、ヴァダシー」
二人は握手をかわした。「またレゼルヴ・ホテルにきたいね」と、わたしはいった。
彼は会釈した。「レゼルヴ・ホテルは、いつでも当地にございます」
「じゃまるで、きみがこのホテルにいなくなるみたいだけど?」
「ごく内密の話だが、わたしは来月、プラハへ行くつもりなのだ」
「それも今晩、決心したの?」
彼はうなずいた。「そんなところだよ」
ゆっくり階段をあがって、部屋にもどるとき、図書室の時計が二時を打った。その十五分後に、わたしは眠った。
その日の正午、わたしは朝食をすませてコーヒーを飲むと、スーツ・ケースに革紐をしっかりかけ、窓ぎわの椅子に腰をおろして、時間のくるのを待っていた。
じつに素晴らしい日だった。太陽は燦然《さんぜん》と輝き、石造りの窓の敷居には、かげろうが燃えていた。だが、風がおだやかなので、海にはさざ波しか見られない。赤い岩が光っている。庭では蝉が鳴いている。浜辺には、大きな縞模様のビーチ・パラソルのかげから、日焼けした、若い男女の脚が四本見える。下のテラスでは、デュクロ老人が、ホテルについたばかりのお客たちとしゃべっている。まだ旅装のままの中年の夫婦だった。しゃべりながらも、デュクロ老人は顎ひげをさかんにしごき、鼻眼鏡をつりあげる。新来の客は、熱心に耳をそばだてている。
ドアのノックの音。外には、ボーイが立っていた。
「お車がまいりました。ご出立《しゅったつ》の時間です」
わたしは、部屋から出て行った。やがて汽車の窓から、レゼルヴ・ホテルの屋根をかいま見た。木立ちのあいだから見えたその屋根は、びっくりするくらい小さかった。(完)
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訳者あとがき
「何者かヨゼフ・Kを誣告《ぶこく》した者があるに相違ない。と言う訳は、ある朝、身に覚えのない彼が突然逮捕されたからである。――」
これは、フランツ・カフカの、一銀行員ヨゼフ・Kの奇妙な運命の物語、小説『審判』の有名な冒頭である。この小説は、一九一四年ごろ制作されたものだと推定され、カフカの死後、一九二五年に刊行されている。そして、一九三七年にイギリスで書かれた、あるスパイ小説の冒頭は――
「わたしが、ニースからサン・ガシヤンにたどりついたのは、八月十四日、火曜日。そこで、一人の警官と一人の私服の警部に逮捕され、警察署へ連行されたのは、八月十六日、木曜日、午前十時四十五分のことである」
カフカの、現代世界の構造的不条理と人間存在の不安を描いた『審判』が、第一次世界大戦の文化の危機と人間性への絶望から産み出されたものならば、エリック・アンブラーの『あるスパイの墓碑銘』もまた、第二次世界大戦前夜の政治的恐怖と、「組織と個人」というもっとも現代的でかつ悲劇的な主題から産み出されたものと言っても決して過言ではないであろう。
事実、『あるスパイの墓碑銘』は、一九三七年に書かれ、三八年に刊行されていて、この三〇年代の後半こそ、まさにヨーロッパは政治的軍事的危機の|さなか《ヽヽヽ》にあった。三四年にドイツでヒットラーが総統に就任するや、三五年フランス人民戦線結成、イタリア、エチオピアを侵略。三六年スペイン内乱、日独防共協定成立。三七年アジアでは日支事変ぼっ発、その十一月にはイタリア、日独防共協定に参加。そして三八年三月には、ナチス・ドイツはオーストリアを併合し、九月にはイギリスの首相チェンバレンがヒットラーに対して宥和《ゆうわ》策をとったミュンヘン会議。東欧の小国もまた、独伊の枢軸《すうじく》陣営とソ連の共産主義陣営とのはざまにあって、政治的苦闘がつづけられる。ユーゴスラヴィア、ハンガリーは枢軸側に早々に降り、ヨーロッパのコミュニストの最後の砦《とりで》となったプラハを首都とするチェコスロバキアとポーランドは、断乎、ナチス・ドイツに抵抗する。この『あるスパイの墓碑銘』においても、チェコのプラハは重要なキー・ワードになっている。三九年ナチス・ドイツはチェコに侵入、八月独ソ不可侵条約締結、そして九月三日第二次世界大戦ぼっ発。
これらの、全ヨーロッパ的な危機と恐怖を背景に、ロンドン生れのエリック・アンブラー(一九〇九年―)は、三七年から四七年にかけての暗黒の十年間に、ユーモアと文明世界に飢えている読者のために、きわめてすぐれたスパイ小説を書きつづけた。すなわち、『恐怖の背景』『デミトリオスの棺』『恐怖への旅』そして本書『あるスパイの墓碑銘』などがこれである。
一九五一年に、アンブラー自身によって書かれた「わがスパイ小説観」ともいうべき興味深い小文があるので、ここにその一部分を紹介しておく――
「たいていの人は、スパイをしたり、されたりするという考えに、心の深いところにある敏感な空想組織を刺激されるものである。したがって、エドワード朝時代のスパイ小説が注意ぶかく現実を避け、おおむね英独拮抗という、単純かつ安全な黒白の背景布《バック・ドロップ》を前に仕組まれた事実は、おどろくに足りない。おなじみのcloak and dagger(マントと短剣)という常套手段――黒ビロードの服を着た妊婦、イギリス諜報機関の低能な主人公、全能のスパイの親玉――これらはみなこの時期に、主としてウィリアム・ル・キューとその亜流によって創造されたものである。E・フィリップ・オッペンハイムは、ル・キューよりうまいストーリー・テラー(小説家)であった。外交官のサロン、大ホテル、一分のすきもない、巧みな陰謀という彼独自の世界は、まことに頼もしいものであったが、それでも立派なスパイ小説はごくわずかしか残さなかった。アースキン・チルダーズの『砂洲の謎』(一九〇三年刊、これは立派なスパイ小説であるばかりでなく、小さな帆船の機微について書かれた小説としては最高の作品である)、コンラッドの『密使』(一九〇七年)、ジョン・バカンの『三十九階段』(一九一五年)、W・サマセット・モームの『アシェンデン』(一九二八年)、これらは、決して同じ性質のものではないが、私にはスパイ小説というジャンルの中で最良のものと思われる。W・F・モリスの『ブレザトン』をリストに加える愛好家もいるかも知れない。
私は『あるスパイの墓碑銘』を一九三七年に書いた。ささやかながらリアリズムによる試みというつもりであった。中心人物は無国籍の男である(これはそのころ、そんなに珍しい存在ではなかった)。とくに悪漢という人物は登場しない。この小説に出てくる唯一のイギリス人は、すこぶる妥協性のない男である。私はいまでもこの男がちょっと好きだ」(北村太郎訳)
南フランスの小さなホテル。十二人の、フランス、アメリカ、スイス、イギリス、ドイツと国籍とセックスを異にした滞在客。一見、いかにも平凡な市民然とした保養客たちのなかに、一人のスパイがいる。第二次世界大戦前夜の緊迫するヨーロッパの過酷な政治状況――強制収容所、亡命、ゲシュタポ、無国籍者を背景に、物語は、追うものと追われるものという、いわばグレアム・グリーンの娯楽小説《エンタテインメント》の先駆的な形式をとりながら、「犯人探し」の本格探偵小説的な醍醐味までサービスしてくれる、『あるスパイの墓碑銘』こそ、エリック・アンブラーの数あるスリリングなスパイ小説のなかでも最上のものだと言えよう。グレアム・グリーンの、第二次世界大戦前後の娯楽小説『密使』(一九三九)『恐怖者』(一九四三)『第三の男』(一九五〇)といった諸傑作も、もし大戦前夜の、アンブラーの現代的な恐怖あふるる≪ご馳走≫なかりせば、はたしてこの世に生まれたかどうか――と怪しむものは、あながち訳者ひとりだけではないであろう。
一九七〇年三月一日