ワインズバーグ・オハイオ
シャーウッド・アンダスン/山屋三郎訳
目 次
グロテスクなものの本
手
紙切れのボール
母
哲学者
だれも知らない
敬神
敬神(第二部)
降服(第三部)
恐怖(第四部)
観念につかれた男
冒険
お上品らしさ
考える人
タンディ
神の御力
先生
孤独
めざめ
「変りもの」
語られざる嘘
飲酒
死
世を知るころ
出発
訳者あとがき
[#改ページ]
ワインズバーグ・オハイオ
――オハイオ州小都市の生活を描いた一群の物語
[#改ページ]
[#ここから1字下げ]
[献詞]
人生にたいするするどい観察によって、人間生活の表面下を見ようとする欲望をはじめて私に目覚めさせてくれた私の母エマ・スミス・アンダスンに本書をささげる。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
グロテスクなものの本
白いひげをはやした老作家はベッドに入るのがいくらか困難だった。彼の住んでいた家の窓は高かったので、彼は朝、目覚めたとき木々の緑をながめたいと思った。一人の大工がやって来て、窓と同じ高さまでベッドを持ち上げる仕事にかかることになった。
このことについて大きな騒ぎがもちあがった。南北戦争に一兵卒だったというその大工は作家の部屋に入ってくると腰をおろして、ベッドを持ち上げるための台をこしらえることを話した。
作家は葉巻を部屋じゅうにころがしてあったので、大工はそれを吸った。
しばらくの間二人の男はベッドを持ち上げることについて語ったが、それから彼らはほかの話にうつっていった。その兵卒は南北戦争の話をきりだした。実のところ作家がその話題へ彼をみちびいたのだ。大工はかってはアンダーソンビルの獄舎に捕われの身となって、一人の弟を失った。弟は飢えで死んだのだ。その話にかかると大工は大声で泣いた。彼もまた老作家と同じように白い口ひげをはやしていた。そして彼が大声で泣くと、彼の唇が締めあげられて、ひげが上を下へとゆれた。その口に葉巻をくわえて泣き叫ぶ老人は滑稽《こっけい》きわまる姿だった。
ベッドを高めるために作家のこしらえた計画は見事に忘れさられた。そして大工はのちほど自分かってにその仕事をやってのけた。それで、六十を越えた老作家は、夜ごとベッドに入るとき椅子《いす》の助けをかりなければならなかった。
ベッドに入った作家は横にごろりとねころぶと、身動きもせずに横たわった。長い年月の間、彼は自分の心臓について、いろいろな考えに悩まされていた。彼はひどいタバコのみで、心臓の鼓動が乱調子だった。それで、いつか思いがけなく突然に死ぬのではないかという考えにとらわれていて、ベッドに入るといつもそのことを考えた。だが、それで恐怖の念にかられたというのではない。じっさい、その効果は一種特別のもので、簡単には説明しにくかった。その考えはベッドの中ではほかのときよりもいっそう、彼をいきいきとさせた。彼はまったく身動きもせずに横たわった。
彼の体はもう老いぼれて、もはやいくばくの役にも立ちそうに思われなかった。しかし彼の身内のあるものは、それこそまったく若々しかった。彼はたとえば、妊娠した女のようだった。ただそのちがいといえば、彼の身内にはらまれたのは嬰児《えいじ》でなくて青年だったというだけだ。いや、それは青年ではない。婦人だった。若い女だった。騎士のように鎖帷子《くさりかたびら》に身を固めた女だった。だが、老作家が高いベッドに横たわって、自分の心臓の変調子に聴き耳を立てているとき、彼の身内にひそんだものが何であるかを語り明かそうと試みることはばかげたことだ。むしろ必要なことは、その作家が、つまり作家の身内にひそんだ若々しいものが、何を考えていたかを知ることである。
老作家は世の中のあらゆる人々と同じように、その長い人生の間に、おびただしくたくさんな考えを頭の中につめこんだ。彼もかつては、かなりハンサムな青年だった。そして数多くの女性が彼と恋をした。で、もちろん彼は人々を知った。それも、諸君や私が人々を知っているというのとは意味の違った、ある一種特別の親しさで人々を知った。少なくともこの作家は、そう考えた。そしてそれが彼の心に悦《よろこ》びを与えた。とすれば、何だって一老人と彼の考えについていい争う必要があろう?
ベッドの中では、作家はある夢ではない夢を見た。いくらか眠くはなっていたが、まだ、意識のはっきりしている頃、数多くの姿が彼の眼の前に現れはじめるのだ。彼の身内にひそんだ、あの言葉にはいい表わしえない若々しいものが、彼の眼の前に数多くの姿の長い行列を駆りだしてくるのだと彼は想像した。
諸君にもわかるとおり、これらすべての事柄の興味といえば、それは作家の眼の前を進行するするかずかずの姿のうちにつながれている。それらはすべてグロテスクなものだった。かつて作家が知っていた男や女のすべてが、グロテスクな姿へかわっていた。
こうしたグロテスクなものがすべて恐ろしいものだったというのではない。あるものは楽しみを与えてくれたし、またあるものはほとんど美しくさえあった。だが、ただ一つ、まるで形のくずれてしまった女の姿は、そのグロテスクな形相のゆえに老人の心をいためつけた。彼女が過ぎ去るとき、彼は小犬のようにくんくん泣き声をたてた。もし諸君が彼の部屋に入っていたとしたら、諸君はおそらく老人が不愉快な夢か、さもなければ、たぶん消化不良になやんでいるのだと想像しただろう。
グロテスクな姿の進行は一時間ものあいだ老人の眼前を過ぎていった。それから、苦しいことではあったが、彼はベッドからはいでて書きものをはじめた。グロテスクな姿のあるものは彼の心に深い印象をやきつけていたので、彼はその姿を描きだそうと試みるのだった。
机の前で、作家は一時間もの間、仕事に励んだ。そうして最後には、彼は自らよんで「グロテスクなものの本」と名付ける一冊の本を書き上げた。それは売り出されることはなかった。だが、私はかつてそれを一読して、消しがたい印象を心に与えられた。その本には、一つの中心をなす考えがあったが、それはひどく奇怪なもので、つねに私の心にとどまっていた。それを想い出すことによって、私はそれまでは不可能であると思われていた多くの人々や、また、物事を理解することができたのである。その考えはいり組んで複雑だったが、それを簡単に述べればおよそ次のようになる――
すなわち、この世の中が若々しい初めのころは、非常に数多くの考えというものがあったが、しかし真理と名付けるようなものは存在しなかった。かずかずの真理は人間が自分から造り出したもので、一つ一つの真理は、非常にたくさんの漠然《ばくぜん》とした考えの合成物にほかならなかった。この世の中にはいたるところに数多くの真理が存在して、それらはすべて美《うる》わしかった。
老人は数百に達する真理のかずかずを彼の書物の中に書きこんでいった。私はそれらのすべてを諸君にお話しようとは思わない。そこには純潔の真理や、愛情の真理があった。またそこには富の、貧困の、勤倹の、放埓《ほうらつ》の、軽率と絶望の真理があった。真理は数百数千と数えきれないほどあって、それらはすべて美わしいものだった。
ところが、それから人々が現われてきた。人々は現われると、おのおのかってに真理の一つを取りあげていった。そして力のある者は十数の真理をわしづかみにした。
世の人々をグロテスクなものにしてしまったのは、このかずかずの真理であった。老人はこのことについてじつに精密な理論をたてていた。人々のあるものが、かずかずの真理の一つを手に入れて、それを彼の真理だととなえ、そしてそれによって人生を生きようと試みるその瞬間から、彼は一つのグロテスクなものとなってしまい、そして、彼の抱きしめた真理もいつか、偽りとなってしまうのだというのが彼の考えだった。
一生を書きものに暮らして、無数の言葉にみたされていた老人が、なぜこのことについて数百ページもの書きものをしたのかと言うことは、諸君自身でも良くわかるだろう。その問題は彼の心のうちにまったく大きくふくれあがって、彼自身さえ、グロテスクな姿になろうとする危険にさらされたからだ。だが、彼はグロテスクにならなかった。思うにそれは彼がその本を出版しなかったのと同じ理由によるのだ。つまり老人が救われたのは彼の身内にひそむ若々しいもののせいにほかならなかったのである。
作家のためにベッドを高める仕事をやった老大工については、わたしはただ彼が世の中の凡人と呼ばれる数多くの人々と同じように、作家の書物のあらゆるグロテスクなもののうち最も理解のゆきやすい、そして最も愛すべきものに最も近い姿をとっていたという理由から彼について一言のべたにすぎないのである。
[#改ページ]
手
オハイオ州ワインズバーグの町に近く渓谷のはずれに立った小さな木造家屋のなかば壊れかかったベランダの上で、小柄に太った男があちこちいらいらと歩きまわっていた。クローバーの種をまくのだが、おびただしい黄色|芥子草《からしぐさ》を生《お》いしげらせるだけにすぎない。長くひろがった畑のかなたには公道が見渡せて、今しも畑がえりの苺《いちご》摘み人足たちを満載した馬車が通っていた。若者や娘の苺摘み人足たちは喧騒《けんそう》のうちに笑いさんざめいた。青シャツをまとった少年が馬車から飛び降りると娘の一人を引きずりおろそうとした。すると、乙女たちは金切り声をあげて、甲《かん》高くそれをののしった。路上の少年の足から蹴り上げられる塵埃《じんあい》の雲が斜めに流れて夕陽《ゆうひ》の面をかすめた。長い畑を越えて、か細い、乙女らしい声が聞こえた。
「さあ、つばさのビッドルバウムさん、髪をくしけずりなさい。眼に入るわよ」それは頭の禿げ上った、むき出しの白い額を、あたかも山なす乱髪でもくしけずるように気ぜわしげな小柄な手でなで上げている当のその男にむかって投げられた声だった。
たえまなくおどおどと恐ろしい疑惑の念にせめさいなまれているつばさのビッドルバウムは二十年来住みなれた町ではあったが、決して自分をその町の生活の一部だとは考えなかった。あらゆるワインズバーグの人々のうちで、彼に近よった者といえばただ一人きりだった。新しいウィラード・ハウスの持主トム・ウィラードの息子ジョージ・ウィラードとだけは、彼は友だちといえそうな間がらになっていた。ジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル社の記者だった。そして夕べになると時おり、つばさのビッドルバウムの家へやって来た。ところで老人はベランダの上を歩きまわりながら、両手をいらだたしげに動かして、ジョージ・ウィラードがやって来て一夕をいっしょに過ごしてくれればいいのにと願うのだった。苺摘み人足たちを満載した車が行ってしまうと、彼は丈の高い芥子草の中をぬけて畑をこえて行った。そして木の柵によじ登ると気がかりそうに路《みち》にそって町の方をうかがった。しばらく両手をこすりあわせながら路をあちこちながめて、そこに立ちつくした。それから急に恐怖に襲われて家へ走りかえると、彼はふたたび自分の家のべランダを歩きまわりはじめるのだった。
二十年の間、町の謎であったつばさのビッドルバウムもジョージ・ウィラードの前ではその臆病さをいくらか失って、彼の疑惑の海の底に沈められていた影のような個性が、世の中をのぞき見ようとするように頭をもたげてくるのだった。年若い記者が彼のそばにおりさえすれば、彼はまっ昼まの本町通りを歩くことも辞さなかったし、また興奮して語りながら彼の家の前のゆらゆらしたべランダの上を大またに歩きまわるのだった。低くふるえを帯びた声も鋭く甲高くなった。前かがみにかがみこんだ彼の背もまっすぐに立つのだった。漁師に捕えられた魚がふたたび小川に放たれたときのように、一種のたくるように沈黙の人ビッドルバウムは語りはじめた。沈黙の永い年月のあいだ彼の心のうちに積みあげられた種々さまざまな考えを言葉に表わそうともがくのだった。
つばさのビッドルバウムは多くのことを彼の手で語った。きゃしゃで表情的なその指は、つねに活動性にとんでいて、つねにポケットのうちや、彼の背のうしろにかくれようとつとめながらも、ひとたび現れれば彼の表現機械のピストン棒となるのであった。
つばさのビッドルバウムの物語は手の物語である。両手のたゆむことのない活動は、たとえていえば籠《かご》の鳥の羽ばたきにも似て彼の名前となった。町のある無名詩人がそれを考えついたのである。彼の手はその持主を恐怖させた。彼はつねにその両手を人目にふれないようにつとめた。そして彼のかたわらの畑中で働く人々や、あるいは田舎道を眠そうな牛の群を駆りたててすぎてゆく人々の、静かな表情のない手を驚異の眼でながめるのであった。
ジョージ・ウィラードと話を交わす段になると、つばさのビッドルバウムは手を握りしめて、テーブルでも、あるいは彼の家の壁でも、あたりかまわずに打ち叩《たた》いた。叩くことがますます彼を楽しくした。二人で野原の中を歩いているうちに、何か話したいことを思いつくと、彼は木の切り株や、柵の頂板を探しだして、いそがしげにそれを叩きながら、あらたまった心やすさで語りはじめるのだった。
つばさのビッドルバウムの手の物語はそれ自身一冊の書物にする値うちさえもっている。心をこめて書きあらわせば、それは必ずや、世に埋もれた人々のかずかずの奇異で美わしい人間性を展開して見せることだろう。それは、詩人の仕事である。だが、ワインズバーグでその手が人目をひいたのは、その働きのせいだった。つばさのビッドルバウムはその手でゆうに一日百五十クォートもの苺を摘んだものだ。両手は彼のすばらしい特長となって、彼の名声の源をなした。それにその両手は、そうでなくてさえグロテスクな捉えがたい人間を、さらにグロテスクにした。ワインズバーグの人々がつばさのビッドルバウムの手を誇っていたといえば、それはとりもなおさず彼らが、銀行家ホワイト氏の石造りの新しい家を誇り、またクリーヴランドの秋の競馬で二分十五秒クラスの速歩《トロット》に優勝したウェズリー・マイヤーの栗毛の種馬トニイ・チップを誇っていたのとまったく同じ気持だったのである。
一方、ジョージ・ウィラードはいくたびとなくその手について質問してみたいと思った。ときにはほとんど圧倒的な好奇心におそわれることがあった。その手の不思議な働きと、そしていつも人目につかれまいと、おどおどしている様子には、何かいわれがあるに違いないと感じられた。しかし、つばさのビッドルバウムにたいしてしだいに芽生えてきた尊敬の念のために、彼の心にしばしば浮かぶ疑惑の念も口にすることができなかった。
一度など、あやうく彼はきりだすところだった。ある夏の午後、野原の中を歩いていた二人は立ちどまると、芝草におおわれた堤に腰をおろした。つばさのビッドルバウムはその日の午後いっぱい、まるで霊感でもえた人のように語りつづけた。棚のそばに立ちどまると、彼は巨大な啄木鳥《きつつき》のように棚の頂板を叩きながらジョージ・ウィラードに叫びかけて、彼があまりにも周囲の人たちに影響されやすい傾きがあることを非難した。
「あんたは、自分から自分をぶちこわしているのです」と彼は叫んだ。
「あんたは孤独を好み、夢見る性質を持っておりながら、夢を見ることを、恐れているのです。あんたはこの町の人たち並みになりたいと思っとる。あんたは奴《やつ》らの語るのを聞いて、それを真似したいと思っとるのです」
草におおわれた堤の上でつばさのビッドルバウムはもう一度彼の主張をはっきりのみこませようと努めた。彼の声はやわらかになり、回想的となった。そして満足のため息をもらしながら、夢におぼれた人のように、ながながと曲がりくねってつづく物語を語りはじめた。
その夢の中から彼はジョージ・ウィラードに一幅の絵を描いて見せた。その絵の中ではふたたび田園の黄金時代が現われた。緑に開けわたった田園をよこぎって、汚れのない若人《わこうど》たちがあるいは歩き、あるいは馬にうちまたがって現われた。若人たちは群をなして、ささやかな園の樹かげに座をしめた老人の足もとにつどい集まった。そして老人は彼らに向って物語を語るのだった。
つばさのビッドルバウムは、まったく霊感そのものとなった。いまという今、彼は自分の手を忘れてしまった。ゆるやかに、そしてしのびやかに両手が現われてジョージ・ウィラードの肩の上にのせられた。ある新しい、大胆なあるものが語りつづけてゆく彼の声のうちに現われた。
「あんたは、これまで学んだことなんざあ、みんな忘れてしまうように努めなさい」と老人は語った。
「夢を見ることからはじめなきゃいかんです。これから先、けっして世のけんけんごうごうの声に耳をかすんじゃありませんよ」
語るのをやめたつばさのビッドルバウムは、しげしげと長い間ジョージ・ウィラードを見つめた。彼の眼が輝いている。ふたたび彼は若者ジョージを愛撫するために彼の両手をもちあげた。だが、そこで恐怖の面影がさっと彼の顔面をかすめた。
からだをひきつるように急に動かしてつばさのビッドルバウムは跳びたった。そして両手をふかぶかと、ズボンのポケットに突っこんだ。彼の眼には涙がうかんでいる。
「わしは帰らにゃならん。もうあんたとお話はできません」と彼はどぎまぎして言った。
後をふりかえることもなく老人は丘を下り、牧場をよぎって急ぎ足に去った――困惑と恐怖におびえたジョージ・ウィラードを草堤《くさつづみ》の上にただ一人残したまま。恐怖に身ぶるいしながら少年は立ちあがった。そして道づたいに町の方へ向った。
「あの人の手についてはけっして質問などしてはいけないのだ」老人の眼に現われた恐怖の色の憶《おも》い出に心乱されながらジョージは考えるのだった。
「何か変なことがあったにちがいない。だが、それが何であるかなど、知りたくもないさ。あの人が≪ぼく≫ばかりでなく、他のあらゆる人々を恐れているのも何かきっとあの手といわく因縁があるのだ」
ジョージ・ウィラードは正しかった。ひとつ簡単にその手についての物語をうかがってみよう。おそらくその物語を語りはじめれば、詩人も立ちあがって、あの世間の力という秘められた驚くべき物語をはじめるであろうし、彼の手もいわばたんにそうした力の存在を示してへんぽんとひるがえる標示旗にほかならないと言うであろう。
つばさのビッドルバウムは若いころペンシルヴァニアのある町で学校の教師をやっていた。もちろん当時はつばさのビッドルバウムといっていたのではない。アドルフ・マイヤーズという句調のあまりよくない名前でとおっていた。アドルフ・マイヤーズとして彼は、生徒たちからずいぶん愛慕されたものだ。
アドルフ・マイヤーズは、先生向きにできていた。世の中では「愛すべき気弱さ」の名でとおっている、あのしとやかな力で人々を制御してゆく男――それは世の中にはごくまれな、世の中の人々からは理解されることのすくない男だが――彼はそうした男の一人だった。彼らのあずかった少年たちにたいする、そうした男の感情というものは、いわば気だてのやさしいご婦人の男性にたいする愛情にもくらぶべきものがある。
だが、これははなはだ粗雑ないい方にすぎない。おそらくそれを述べることは詩人でなければできない。アドルフ・マイヤーズは少年たちといっしょに夕べには散歩をしたし、また夢の物語にあたりを忘れて学校の踏み段に夕闇がせまってくるまで語りつづけた。彼の手は少年の肩を愛撫し、乱れた髪の毛にたわむれながら、あちこちと動かされるのだった。
語ってゆくうちに、彼の声は柔らかに音楽的となった。声のうちにもまた愛撫の情がこめられていた。ある意味では、その声もその手も、そしてその肩を叩き、髪の毛にたわむれることも、つまるところは少年たちの心の中に夢を注ぎこむ先生の努力の現われであった。指先にこめられた愛撫によって、彼は自らを表現していた。あの生命を創《つく》る力を自らのうちに凝集するのでなくて、かえってそれをふりまいて歩く男、彼はそうした男の一人であった。彼の手の愛撫のもとで少年たちの心の中から疑惑とうたぐりの雲が散りさって、彼らもまた夢を見はじめるのだった。
それから悲劇が起こった。すっかり年若い先生に魅せられた少年たちのうちに一人の半馬鹿の子供がいた。彼は夜、床に入って、口には出せない、忌わしいことがらを想像した。そして朝、自分から進みでると、その夢を事実であると語った。奇怪な、忌わしい非難の言葉が、だらしなく垂れた唇をもれた。そしてこのペンシルヴァニアの町は驚きにふるえた。アドルフ・マイヤーズについてまえまえから人々の心にひそかにしのんでいた影のような疑惑の雲が今では固い確信にまで高められた。
悲劇はためらうことをしない。少年たちは震えながらベッドから叩きおこされて問いただされた。
「先生は私に腕をまきつけました」と一人はいった。
「先生はいつも、指で私の髪の毛をもてあそんでいました」と他の者がいった。
ある午下《ひるさ》がり、町で酒場《サルーン》を営んでいる町の顔役へンリー・ブラッドフォードが学校の玄関口に現われた。アドルフ・マイヤーズを校庭に呼び出すと彼は拳《こぶし》をかためて彼をなぐりはじめた。彼の固い拳が恐怖した教師の顔に打ち下ろされるにつれて、彼の憤りはますますたけりたった。悲しみに悲鳴をあげながら、巣をあらされた蟻《あり》のように少年たちはあちこちと逃げまどった。
「おれの児に手をだしやがって、その結果がどうなるものか思い知りやがれ、この獣《けだもの》め!」と酒場の亭主はどなりちらし、殴るのにも疲れはてると、校庭じゅう教師を蹴りまわしはじめた。
アドルフ・マイヤーズは夜のうちにペンシルヴァニアを追われた。手に手にランタンをさげた十二人の男がひとり住いの彼の家の表口に現われた。そして彼に着がえをして表に出るようにと命じた。その日は雨が降っていた。ある男は手に綱をたずさえていた。彼らは教師を絞首刑にするつもりだった。しかし彼の小《ち》っぽけな蒼白《あおじろ》い、いかにも憐れげな姿を見ると、あわれみの情をもよおして、彼の逃げるのにまかせた。闇の中を彼が走りさって行く姿をながめているうちに、彼らは自分らの弱さがくやしくなって、彼の後を追った。悲鳴をあげてますます早く闇の中へ走りさってゆく姿に向って彼らは罵《ののし》り声をあげながら、棒切れや、柔らかな泥の塊りをなげつけた。
二十年間というものアドルフ・マイヤーズはただひとりワインズバークに住んでいた。彼はようやく四十歳だったが、その姿は六十五歳とも思われた。ビッドルバウムの名前も彼が東オハイオの町を列車で過ぎるとき、とある貨物停車場で見かけた荷箱から取ったものだった。 彼はワインズバーグに伯母をもっていた。まっ黒な歯をした老婆で鶏を飼っていた。彼は彼女が死ぬまでいっしょに暮した。彼は、あの恐ろしいペンシルヴァニアの経験ののち、一年間というもの病の床にふせていた。そして、病がいえた後には日傭取《ひようと》りとなって畑で働いた――臆病におどおどと歩きまわって、いつも彼の両手を人目にふれないようにと努めながら。もちろん彼はあの恐ろしい出来事がなぜ起こったのか理解することができなかった。だが、その罪が彼の手にあるにちがいないことは感づいていた。くりかえしくりかえし少年たちの父親はその手について語った。
「手出しをつつしみやがれ!」と学校の校庭では怒りにおどり狂いながら、酒場の亭主がほえたてた。
太陽が西に沈み、畑のかなたの路が灰色の影の中に消えてしまうまで、つばさのビッドルバウムは渓谷近くの彼の家のベランダの上を歩きまわっていた。家の中に入った彼は、パンを一切れ切って、蜂蜜をその上にひろげた。その日の苺の収穫を積みこんだ急行貨車をはこびさる夜行列車の響きも消えて、夏の夜の静けさが、ふたたび帰ってくると、彼はまたもやベランダに出て歩きまわった。暗闇の中では手を見ることもできないので、手は静かになっていた。
彼はなおも、あの彼の人間への愛着の心を表わす仲介物である若者の現われるのを渇望していたが、その渇望の想いはふたたび彼の孤独感ともなり、また彼の期待の心ともなった。ランプをともしたつばさのビッドルバウムは、彼の簡単な夕べの食事によごれたわずかな皿を洗いおわって、ベランダに通ずる網戸のそばに、折りたたみのベッドをこしらえると、夜の着替えの準備にとりかかった。テーブルのそばのきれいに拭かれた床《ゆか》の上には、わずかにこぼれた白いパンのくずが散らかっていた。ランプを低い椅子の上にすえると、彼は、そのパンのくずを拾いはじめた。そして一つずつ信じられないほどの早さでそれを口へもっていった。テーブルの下の濃い影の中で、彼のひざまずいた姿はあの教会の祈祷にわれを忘れた僧侶の姿を思わせた。光と影との間を出入りする、いらいらと表情にとんだ指は、おそらくあの十から十とすばらしい早さで数珠《じゅず》をたぐっていく礼拝者《らいはいしゃ》の指とも思い誤られたことだろう。
[#改ページ]
紙切れのボール
彼は白いひげと、巨大な鼻と手をもった老人だった。われわれが彼を知るようになるよりずっと昔のころ、彼は医者だった。そしておいぼれた白馬を駆っては、ワインズバーグの街々を家から家へまわり歩いていた。そののち彼は資産もちの娘と結婚した。娘のおやじが死ぬと、広い豊かな農園が娘の手にのこされた。それはおとなしい背の高い黒髪の娘だった。そして多くの人々は彼女を大変美しいと思った。ワインズバーグの全ての人々はどうして娘がお医者さんと結婚したのだろうかといぶかった。結婚して一年もたたないうちに娘は死んでいった。
お医者さんの手のくるぶしは驚くばかり大きかった。手を握りしめたところを見ると、それはちょうど胡桃《くるみ》の実ほどの大きさのペンキも塗っていない木の球を鉄の棒にくしざしにしたように見えた。彼はコーンコブのパイプでタバコをすった。そして妻君の死後というもの、終日空虚な医務室の中で蜘蛛《くも》の巣におおわれた窓の近くにすわっていた。窓を開けることもなかった。かつてある八月の暑い日に、彼はあけようとしたが、窓が固くくっついてしまっていることがわかった。それからというもの彼はそんなことは忘れてしまった。
ワインズバーグの人々もこの老人のことは忘れていた。だがドクター・リーフィの体内には、ある非常にすばらしいものの種がひめられていた。彼はただひとりパリ呉服商会の売り場の階上にあるヘフナー・ビルのかび臭い医務室にあって、たえまもなく仕事をした。ある物を造りあげては、また自分からそれを壊してゆくのだ。真理の小さなピラミッドを建設してはまたそれをふたたびたたきこわした。そうしてまた別なピラミッドをきずきあげるために、いろんな真理を集めてゆくのだった。
ドクター・リーフィは背の高い男で、ただ一枚の服を十年間も着ていた。袖口《そでぐち》は糸目が見えて、ひじや膝頭《ひざがしら》には小さな穴がのぞいていた。医務室の中では、彼はまた大きなポケットのついたリンネルのダスターを着ていて、たえまもなく紙の切れはしをポケットにおしこんだ。数週間ののちには紙の切れは小さな固いボールとなった。そして、ポケットがいっぱいになると、彼はそれをどさっと床の上へ落とした。十年もの間に、彼はただ一人の友だちをもったにすぎなかった。これもやはり老人で、ジョン・スパニャードといい苗木園をもっていた。ときにはおどけた気分で、リーフィ老人はポケットからひとつかみの紙切れボールをつかみ出すと、苗木園の主人に向って投げつけた。
「そうら、これでお前さんなど、くたばれってことよ。おしゃべりのおいぼれセンチメンタリストたあお前さんのことじゃ」とからだじゅうを笑いでふるわせながら彼は叫ぶのだった。
ドクター・リーフィと、そしてあの彼の妻となって財産をのこして死んでいった丈の高い黒髪の娘との求愛物語は、とても珍しい物語である。ワインズバーグの苗木園になる、あのなりの歪《ゆが》んだ小さなりんごにも似て、それは微妙な味の物語である。秋になると人々は霜柱で固くなった土地を踏みしめながら苗木園へやって来る。りんごはすでに、採取人足たちに取りさられたあとだ。それは、樽《たる》につめられて町に送られたのだ。書籍や、雑誌や、家財や、人々でいっぱいなアパートで、そのりんごは食べられるだろう。樹にはわずかに採取者たちにはねられたわずかばかりの瘤《こぶ》だらけのりんごが残っている。それはまるでドクター・リーフィのくるぶしのようだった。人々はそれにかぶりつく。するとそれは微妙な味を持っている。りんごにできた小さなおでこの中には、そのうまさのすべてが集っているようだ。人々は霜で固まった土地の上をかけずりまわって瘤のついた歪んだりんごをちぎって、彼らのポケットをいっぱいにする。だが、なりの歪んだりんごのうまさを知っているのはまことにわずかな人だけにすぎない。
娘とドクター・リーフィとが、求愛をはじめたのは、ある夏の午後だった。そのとき彼は四十五歳で、すでにあの紙の切れはしをポケットの中で丸い固いボールにしては、投げ棄ててゆく癖をもちはじめていた。よぼよぼの、灰色の馬にひかれた軽馬車に腰をおろして、ゆるゆると田舎道をよぎるとき、そうした習慣がつくられたのだ。紙切れの上には、かずかずの考えが、かずかずの考えのはじめや終りが、書きつけられてあった。
一つずつドクター・リーフィの心の中で考えが造られていった。多くの考えが集ると、彼はそれを一つの真理へこしらえあげたが、その真理は、彼の心の中で巨大にそびえたった。その真理は世の中をおおいつくした。それは恐るべきものとなって、それから消えさった。そうして、彼にはふたたび小さい考えのかずかずがつもりはじめるのだった。
背の高い黒髪の娘はドクター・リーフィに面会にやって来た。というのは彼女は子供をはらんで、それに恐怖を感じたからだ。彼女がこのような事情におちいったのも、またかずかずの不思議な因縁によるのである。
彼女の両親の死と、そして、彼女にのこされた豊かな数エーカーの土地とは、彼女のまわりに一連の求婚者の群れをつきまとわせることとなった。二年間というもの、彼女は、ほとんど毎夜のように求婚者と顔を合わせた。だが、二人の例外を除いて、彼らはすべて似たりよったりだった。彼らは彼女にむかって恋の熱情について語ったが、彼女を見つめる彼らの眼や彼らの声には何か無理に情熱を見せようとするふうがうかがわれた。だが例外の二人だけは、ちがっていたし、その二人もお互いにとてもちがっていた。一人は、ワインズバーグの宝石商の息子で、背がひょろ長く、白い手を持った若者で、つづけざまに処女性について語った。彼女と一緒にいる間、彼は決してほかの話題にうつることはなかった。もう一人は、大きな耳をもった黒髪の少年で、まるっきり、ものをいわなかったが、いつも何とかうまく、彼女を暗闇にひっぱりこむと、そこでキスをはじめるのだった。
しばらくの間、娘は宝石商の息子と結婚するだろうと思っていた。何時間もの間、彼女はただだまって彼の語るのを聞きながらすわっていた。すると、何となく恐怖を感じてくるのだった。彼の処女性の物語を聞きながら、彼女はまた何ものにもまして楽しいある快楽のあることを考えはじめていた。ときには、彼の語って行くうちに、彼女のからだが彼の腕の中に抱きかかえられているように感じられた。彼は彼女のからだを彼の白い手の中でゆるゆるまわしながらそれを凝視しているように想像した。床に入った彼女は彼が彼女のからだにかぶりついてきて、そして彼の顎《あご》から血がしたたっている夢をみた。彼女はその夢を三度みた。それから彼女は、あのものをいわない男に許してみごもった。だが、彼は熱情の瞬間、ほんとうに彼女の肩にかみついた。そして数日の間彼女の肩先には彼の歯がたがのこっていた。
背の高い黒髪の娘がドクター・リーフィを知るようになってから、彼女はもう二度と彼のもとを去りたくはないと思った。ある朝、彼女は彼の医務室に入ってきた。そして、彼女がべつに何もいわなくても、彼は女にどんなことが起ったのかを知りつくしているように思われた。
医者の医務室には一人の婦人が来ていた。ワインズバーグの町で、本屋をやっている男の妻君である。すべての旧式なやぶ医者先生と同じように、ドクター・リーフィは歯を抜いた。そして待ちかまえた婦人はハンカチを歯にあててうなり声をあげた。彼女の夫もそのそばにいて、歯が抜きとられると二人はいっしょになって金切り声をあげた。そして婦人の純白の衣装の上に血がしたたり落ちた。背の高い黒髪の女は、そんなことにはふりむきもしなかった。婦人と夫とが去って行ったとき、お医者さんはほほえみをうかべていった。
「わたしゃ、あんたをつれて田舎に遠乗りに出かけようと思っとるよ」
数週間というもの、背の高い黒髪の娘とお医者さんはほとんど毎日いっしょになっていた。彼女を彼のもとへともなってきたあのからだの徴候は、一種の病気となって終った。彼女はたとえていえばあのなりの歪んだりんごのうまさを知った数少ない人々のようなものだった。彼女はふたたび、あの町のアパートで食べられる円く立派なりんごに手を出したいと思う気になれなかった。秋になって、彼と彼女が親しくなりはじめてのちに、彼女はドクター・リーフィと結婚した。そして、次の春には死んでいった。冬の間じゅう、彼はあの紙の切れはしに書きつけてあったあれこれの考えのすべてを彼女に読んできかせた。彼は読んでしまうと笑って、それをポケットの中につめこんだ。そしてそれは丸い固いボールになっていった。
[#改ページ]
母
ジョージ・ウィラードの母、エリザベス・ウィラードは背の高い、ものすごくやせぎすな女で、その顔にはほうそうの痕があった。わずか四十五歳にすぎない彼女ではあったが、何か名の知れない病気が彼女の姿から生命のほのおを奪いさっていた。ものうげな姿で、雑然と古ぼけたホテルの中を歩きまわっては、色あせた壁紙やぼろぼろのカーペットを見つめていた。そして歩きまわることができるときには、脂《あぶら》っこい旅の男に汚されたベッドの間で女中の仕事もやった。
夫のトム・ウィラードは、両肩をはって、軍隊式に敏速な足どりで歩き、両端を鋭く上向にひねりあげた黒い口ひげをもった、すらりと、品の良い男だったが、彼は心の中から妻の姿を追いだしてしまいたいと努めていた。ホテルの廊下をのろのろと動いてゆく丈の高い幽霊のような妻の姿を見ることは彼にとって、自分自身への叱責《しっせき》の言葉を浴びせられるように思えた。彼女のことを思い出すと、彼は怒りっぽくなって、悪罵《あくば》の言葉をはいた。ホテルはもうけがなくて、いつも破産寸前の状態にあったし、また彼自身もそんな仕事からは抜けだしたいと思っていた。
彼はその古ぼけた家と、そしてそこにいっしょに住んでいる彼の妻を敗北と挫折《ざせつ》の残骸だと考えた。輝かしい希望にみちて人生を出発したそのホテルも、今ではまるでホテルの姿で出てきた幽霊にほかならなかった。服装も小ぢんまりと、事業家気どりでワインズバーグの街々を歩いているときにも、どうかすると彼は急に立ちどまって、あのホテルと妻の亡霊が街の中までも彼についてまわっているのではないかと恐れをなしてふりかえった。
「ちくしょう! あんな生活はごめんだ。ちくしょう!」と彼はわけもなく唾《つば》を飛ばした。
トム・ウィラードは、町の政治に強い情熱をもっていた。多年のあいだ強力な共和党の町にあって、彼は民主党員だった。彼は自分自身に語りきかすのだった――いつか世の風向きがおれの好都合にうつりかわってくれば、ながい間のむくわれない御奉公も、大きな功績としてむくわれる日もあろうさ、と。彼は議員に選ばれ、また、州の知事になった夢を見た。かつてある民主党の会合の席で、一人の若い党員が立ちあがって自分の忠実な党への奉公を誇りはじめると、トム・ウィラードは、顔面蒼白となって怒った。
「貴様、やめろ!」とあたりを睥睨《へいげい》しながら彼はどなった。
「奉公だなんて、貴様に何がわかるか? 貴様なんかまだ小僧っ子じゃないか? おれがここでやった仕事を見てみろ。民主党員といやあ罪人扱いにされたころから、おれはこのワインズバーグじゃあ民主党員だったんだ。昔は奴らは、まったく、鉄砲でおれたちを捜しまわったもんだぞ」
エリザベスと彼女のただ一人の息子ジョージとの間には、すでに遠い昔に消えさった乙女の夢に根をもった、深くいい表わしがたい愛情のきずなが、横たわっていた。息子の前では、彼女は臆病で控えめだった。だがときには、息子が新聞記者の仕事に熱中して、町じゅうをかけまわっている間に、彼女は彼の部屋に入りこんで、ドアをしめると、窓辺に置かれた、台所用テーブルを造りなおした小さな書卓のそばにひざまずいた。部屋の中の書卓のそばで、彼女は礼式を行った。それは天に向かってよびかけるなかば祈りであり、またなかば要求の礼式だった。彼の子供らしい姿の中に、彼女はあのかつては彼女自身の一部分であったが今ではすでになかば忘れさられたあるものが再現されるようにと願うのだった。彼女の祈りはそのことだった。
「もしわたしが死んでも、わたしはきっと何とかしてお前を失敗から守ってあげるよ」と彼女は叫んだ。そうして、彼女の強い決心に、全身がわなわなと震えた。彼女の眼はもえて、こぶしを強くにぎりしめた。「もしわたしが死んで息子がこのわたしと同様なくだらない人間となるようなことがあったら、わたしはきっとまた、この世にもどってきます」と彼女はいいはなつのだった。
「神様どうかわたしにその特権をお与え下さい。わたくしは、それを要求します。そのためには、どんな報いでもおうけします。神様、あなたのこぶしでこのわたくしをお打ち下さい。ただ一つお願いはわたくしの息子がわたしたち二人のためにこの世で、何かを表わしますことをお許し下さい。そうなれば、このわたしはいかような神様の刑罰をも甘んじておうけいたしますわ」不安げに口を閉じると彼女は少年の部屋あたりを凝視した。
「だけど、息子が、才ばしって、世の成功者となることはお禁じ下さいますよう」と彼女はおぼろ気につけ加えた。
ジョージ・ウィラードと彼の母との交《まじ》わりは外面的には何らの意味もない形式的なものだった。彼女が病気になって彼女の部屋の窓べにすわっているときなど、彼はときたま夕べに彼女を訪れた。二人は小さな木造建物の屋根をこえて本町通りを見下ろせる窓べにすわった。頭《こうべ》をめぐらせば、また別な窓から本町通りに並び立った店々の裏手をはしる路地にそってアブナー・グロフのパン屋の裏戸を見ることができた。
ときにはそうして二人がすわっている間に、町の生活のいきた画面が彼らの眼の前に展開された。アブナー・グロフは棒切れや空《から》のミルク壜《びん》を持って、店の裏木戸に現われた。パン屋とシルベスター・ウェストの灰色の猫との間には、長い間戦いが行われていた。少年と母とは、その猫がパン屋の戸口にしのび込んで、すぐさまパン屋に追われて飛び出して来るのを見た。パン屋は罵《ののし》り声をあげて、腕をふりまわした。パン屋の眼は小さくて赤く、黒い髪の毛とひげがパン粉で白くなっている。あるときなどひどく怒った彼は、すでに猫の姿は消えてしまっているにもかかわらず、棒切れや、ガラスの破片や、商売道具までも投げつけるのだった。一度など彼はシンニングの金物店の裏手の窓を破ってしまった。
路地に出ると、灰色猫は、くず紙やわれ壜のいっぱいつまって、あたりにはまっ黒に蝿《はえ》の群れたかったビール樽のうしろに潜んだ。あるとき、エリザベス・ウィラードはただひとりでいたとき、パン屋の長くつづいて何のかいもないたけりくるう姿をながめていた後、その細長い白い手に、顔をうずめてすすり泣いた。その後には、彼女はふたたび、その路地の側をながめることはなかった。そして、ひげ男と猫との闘争を彼女の記憶から追い出してしまおうと努めた。それは彼女自身の生活のくりかえしを見るようだったし、そのなまなましさはまことに恐ろしいものに思われたからである。
夕方、少年が母といっしょに部屋の中ですわっているとき、あたりの沈黙は二人をきまり悪く当惑させた。夕闇がせまって、夕べの列車が停車場についた。窓下の街では、板ばりの歩道の上を足音があちこちと消えていく。停車場の構内も夕べの列車が去った後には、おもおもしい静寂が領している。おそらく通運会社のスキンナー・リーズンは、トラックをプラットホームいっぱい動かしたことだろう。本町通りの方から笑う男の声が聞えた。通運事務所のドアがばたんと、大きな音をたてた。ジョージ・ウィラードは立ちあがると部屋を横ぎってドアの握りを手探りにさがした。ときには彼は、椅子にぶつかって、それを床の上で引きずったこともある。窓の側では、病身の母がまったく身動きもせずにものうげにすわっている。彼女の白く血の気のない長い手が椅子の肘掛の端からだらりと垂れているのが見える。
「わたしゃ思うのだがね、お前、男の子と一緒にあそんだ方がいいだろう。お前、あんまり家の中にばかりいすぎるようだからね」と出て行く者の気まずさを救おうとするように彼女はいった。
「ぼく、散歩しようと思ったんだよ」と気まずくまごついてジョージ・ウィラードが答えた。
七月のある夕べ、ニュー・ウィラード・ハウスを一時の宿にした臨時の客もまばらになって、焔を小さくした石油ランプの光でわずかに照し出された廊下も夕闇の中にひたりきったころ、エリザベス・ウィラードは一つの冒険をやった。数日の間彼女は病気で床にふせっていた。そして息子も彼女を訪れなかった。彼女は恐怖におそわれた。彼女の体内に残されていたよわよわしい生命の残り火が、心配の気持から焔にまで吹きあげられた。そして床からはいでた彼女は、衣装をつけると、大げさな恐れにわなわなとからだを震わせながら息子の部屋へと急いだ。彼女は壁紙をはった廊下の壁に手をすべらせながら自分のからだをささえた。息をするのも苦しげだった。彼女の歯の間から息が口笛のように鳴った。そうして彼女は廊下をいそぎながら、なんと自分は考えの足りない女だろうと考えるのだった。
「あの児は、子供らしい事柄に気をとられているのだろうに」と彼女はひとりごとをいった。「きっとあの児も今ごろは、娘っ児と夕べの散歩をはじめているだろうに」
エリザベス・ウィラードは、ホテルの客に見られることを恐れていた。ホテルはかつては彼女の父のものだった。その所有権は今でも彼女の名前になって郡の裁判所に登記されている。ホテルはそのむさくるしさのゆえに、つづけざまに客を失った。そして彼女自身もまた自分をむさくるしい女だと考えた。彼女自身の部屋は、ホテルのどことも知れない隅っこにあった。そして、からだの具合がよくて仕事のできそうなときには、彼女は自分からすすんで、ベッドの間で女中の仕事をやった。お客がワインズバーグの商人の間に商売をさがしに出かけている間にやれるような仕事があれば、そうした仕事の方を彼女は好んだ。
息子の部屋のドアのそばにぬかずくと母は部屋の内から何か音でも聞えはしないかと聴き耳をたてた。少年が部屋の内を歩きまわりながら低い声でひとりごとをいっているのを聞くと、母の唇にはほほえみがもれた。ジョージ・ウィラードはひとりごとをいう癖があった。そして、それを聞くことは、母にある特別なよろこびを与えた。彼のそうした習慣は、二人の間に存在する秘密のきずなを、ますます強めてゆくもののように思えた。いくたびとなくくりかえして彼女はそのことについて自分自身につぶやくのだった。
「あの子は自分自身を見いだそうともがいているのだわ」と彼女は考えるのだった。
「あの児はおしゃべりで、才のきいただけの平凡な男ではないのだわ。あの児の内には、何か秘密な何ものかがあって、それが大きく成長しようともがいているのだ。それはわたしが、あのわたしの心の中で殺させてしまった≪あのもの≫にほかならないのだ」
ドアのそばの、廊下の暗がりの中で、病身な母は立ちあがると、ふたたび彼女の部屋の方へ足をはこびはじめた。彼女はドアが突然開いて、自分と少年とがぶっつかることを恐れた。彼女はもう大丈夫だと思われる、第二の廊下への曲り角まで来て角をまわりかけると立ちどまった。そして両手でからだをささえながら、そうして待っておれば、力の抜けてしまいそうな、からだのふるえも振い落せるだろうと考えた。少年が部屋の中にいたことは彼女の気持を幸福にした。長い間ただひとりベッドの中にあって、彼女の心の中にわきでた小さな恐れが巨大な恐怖へと化していた。だが、今では恐怖もさった。
「部屋にかえったらぐっすり眠れることだろう」と彼女はよろこばしそうにつぶやいた。
だが、エリザベス・ウィラードは、彼女のベッドへかえって、眠ることにはならなかった。彼女はふるえながら暗がりの中に立ちつくしていたとき、少年の部屋のドアが開いた。そして現われたのは少年の父トム・ウィラードだった。彼は戸口から流れ出る光の中で、手にドアの握りを持ったまましゃべりつづけた。そして彼のいった言葉は母を激怒させた。
トム・ウィラードは、彼の息子にたいして野心をもっていた。彼は自分でやったことは何一つうまくいかなかった。だが自分では常に成功をかちえた男だと思っていた。そして彼がニュー・ウィラード・ハウスの見えないところまで来て、彼の妻に出くわす恐れもないとなると、彼は肩をはって大またに闊歩《かっぽ》し、自らを町の有力者の一人だと劇中人物化しはじめるのだった。彼は、自分の息子の成功を願った。少年のためにワインズバーグ・イーグル社に仕事を見つけてやったのも彼だった。さて、彼は今や熱中して声をとどろかせながら、何か少年の行動について忠告の言葉をはいている。
「おれはな、ジョージ、お前が目覚めなけりゃいけないってことをいうんだよ」と彼の言葉は鋭い。
「ウィル・ヘンダースンも、そのことについちゃ三べんもこのおれに話したよ。あの人の話じゃ、お前、人から話しかけられても返事もしないで長い間何かやってるが、まるで、女のくさったようなふうだっていうじゃないか。一体どうしたっていうのさ」トム・ウィラードが、お人好しらしく笑った。
「だが、きっとお前も間もなく、そんなくせはなおしてくれるだろうな」と彼は語るのだった。
「おれはウィルさんにもそういったよ。お前も馬鹿や女じゃない。立派なトム・ウィラードの息子だ。きっと目覚めるだろうてな。おれはべつに心配はしとらん。お前のいったことで万事がちゃんとはっきりしたんだ。新聞記者をやってることから、お前が小説家になりたいと思うようになったのなら、それもいいさ、ただわしが思うのはな、お前がそうなれるように目覚めてくれなけりゃいけないっていうだけのことさ」
トム・ウィラードは元気よく廊下から事務所の方へ階段を下りていった。暗闇に立ちつくした母は、彼が事務所の入口で、退屈な夕べをまどろみすごそうとしていた一人の客と笑いながら語りあう声を聞いた。彼女は息子の部屋の戸口へひきかえして来た。体のよわよわしさが、奇蹟のように消えて、彼女は大胆に足どりをすすめた。数かぎりない考えが頭の中を走りすぎた。だが、椅子を引きずる音がして、紙の上を走るペンの音を聞いたとき、彼女はふたたびきびすをかえすと、廊下を自分の部屋の方へひきかえした。
このワインズバーグ・ホテルの持主の敗北した妻は、重大な決意をかためていた。その決意は、長い年月静かに、またむしろ効果もなく考えあぐんだ結果だった。
「これからわたしゃ実際に行動しなけりゃ」と彼女は自分自身にいいきかせるのだった。「あの児を嚇《おど》すものがいるんだわ。わたしゃあの児からそいつを追いはらわなけりゃならない」
トム・ウィラードとジョージとの対話がむしろおだやかで、自然なものだったことは、何か二人の間に黙約でもあるかのように、彼女をひどく怒らせた。もちろん長い年月、彼女は夫を憎んでいた。とはいえ、彼女の憎しみの情も前にはまったく相手のないものだった。夫はただ彼女の憎むあるものの一部分だというにすぎなかった。だが今、あの戸口で耳にした二、三の言葉から、夫はまったく彼女の憎しみの対象そのものとなった。彼女の部屋の暗闇の中で、彼女は拳を握りしめ、あたりを睨《ね》めまわした。壁の釘《くぎ》からたれさがった布袋のところへ歩みよると、彼女は一挺の縫物|鋏《ばさみ》をとりだして、匕首《あいくち》のように握りしめた。
「わたしゃ、あの人を刺し殺してやる」と彼女は大声にいった。
「あの人は自分からすすんで悪魔の声となった。わたしゃ、あの人を殺してやる。わたしがあの人を殺したら、きっとわたしの身内の命の綱も切れて、わたしも死んでしまうだろう。そうすりゃ、わたしたち、みんなのものが救われるというものだわ」
彼女の娘時代、トム・ウィラードと結婚する以前には、エリザベスはワインズバーグの町であまり芳しくない噂の持主だった。長い間、彼女は世間でいう「芝居狂い」の類《たぐい》だった。そしてけばけばしい衣装をまとっては、父のホテルに宿をとった旅役者たちをうながして彼らのへめぐった町々の生活を語ってもらい、また彼らといっしょにワインズバーグの街々を練り歩いた。一度など彼女は男の衣装をまとって自転車で本町通りを乗りまわした。そして町の人々をあっといわせたものだ。
この背の高い黒髪の娘も、そのころはまだ彼女自身の心がひどく混乱していた。彼女の心の中には大きないらだたしさがわだかまっていて、それが二つの形をとって現われた。まず第一には変化を求め、その生涯のある大きな決定的な転機をもとめる彼女の不安な欲求がそれだった。彼女の心を舞台へと誘ったのも結局はそうした気持からだった。彼女は何かある旅の劇団に加わって、つねに新しい人間に接しながら、あらゆる世界の人々に彼女自身の中のあるものを与えながら世界を遍歴する夢をみた。夜などときには、彼女はそうした考えにまったく自分を忘れてしまった。だが、そうした事情をワインズバーグにやって来て父のホテルに泊まった劇団の人々にうちあけようとする段になると、彼女はまったく途方にくれた。彼らに彼女のいおうとすることの意味がわからないふうだった。さもなければ、もし彼女が自分の情熱の一端をあらわすことがあっても、彼らはただせせら笑うだけだった。
「そんなもんじゃありませんぜ」と彼らはいうのだ。
「そりゃこの土地と同じに退屈な、面白くもねえものでさあ。ほんとに、つまらんもんですぜ」
旅の役者たちや、またのちほど知ったトム・ウィラードについても、彼女がいっしょに歩きまわるときには事態がまったくちがっていた。彼らはいつも彼女を理解し、彼女に同情してくれているように思われた。町の小径《こみち》の中や樹々の暗がりの中で、彼らは彼女の手を握った。すると彼女は、彼女自身の中のある表現されないあるものが彼らの中のやはり表現されないあるものの一部分となってゆくように思われた。
それから彼女のいらだたしさが第二の形で表現された。それが現われたときには、彼女はしばしの間救われたように幸福を感じた。彼女は自分といっしょに散歩をした男たちを責める気にはなれなかったし、またその後にはトム・ウィラードも責めようと思わなかった。それはいつも同じものだった。接吻からはじまって、奇怪な野獣じみた激情の後には、心の静けさとそれからすすり泣く悔恨の情に終るのだった。
彼女はすすり泣きながら、その手で男の顔をなでた。そして彼女はいつも同じことを考えるのだった。たとえ男が大きなからだでひげを生やしていたとしても、彼女には男が突然小さな少年になってしまったように思われた。彼女はなぜ男もすすり泣かないのかと不思議に思うのだった。
古ぼけたウィラード・ハウスの隅《すみ》っこに押しこめられた彼女の部屋で、エリザベス・ウィラードはランプをともすと、それをドアのそばの衣装用テーブルの上に置いた。ある考えが心のうちにわき起こって、彼女は納戸《なんど》の中へ入って行くと小さな箱を持ちだしてテーブルの上においた。その箱には化粧の道具が入っていた。それはかつてワインズバーグで解散になった旅の劇団が、他のいろいろな品といっしょに残していったものだ。エリザベス・ウィラードは、自分でも美しくすれば、美しくなれるのだと心に決めていた。彼女の髪の毛はまだ黒々として、編んで巻きつけた髪の毛のふさは頭上で大きなたばになっていた。
彼女は階下の事務所でこれから行われる情景を心の中に描きはじめた。けっして面やつれした幽霊のような姿がトム・ウィラードの前に現われるのではない。それは、まったく予期もしない驚くべきものであるはずだ。丈が高く浅黒い頬をして、髪の毛は大きな束になって肩からたれ下がったまま、ホテルの事務所でぶらぶらしている人々の驚きに見はった眼の前を大またに階段を下りてゆくのだ。沈黙はしているが――敏速に、そしてものすごい形相である。その仔《こ》が死の脅威におちいっている牝虎《のめとら》ような形相で、彼女は闇の中から歩み出て、音もなく忍び歩き、そして彼女の手には長いものものしい鋏が握りしめられているはずだった。
ささやかなきれぎれのすすり泣きをそののどにこめて、エリザベス・ウィラードはテーブルの上の灯火を吹き消すと闇の中でよわよわしく震えながら立った。奇蹟のように彼女のからだにあらわれた力が今では消えてしまって、彼女は、椅子の背につかまりながら、なかばよろめきながら部屋を横ぎった――彼女が長い年月ワインズバーグの本町通りへと、トタン屋根の並びをこえて凝視をつづけながら日々を送っていたその椅子の背につかまって。廊下に人の足音がして、ジョージ・ウィラードが戸口にあらわれた。彼は母のそばの椅子に腰をおろすと語りはじめた。
「ぼくはここから出てゆこうと思うんだよ」と彼がいう。
「ぼくは自分でも、どこに行くのだか、何をしようってのだか、わからないんだけど、とにかくぼくは出ていくよ」
椅子にすわった母は待ちかまえながら、震えていた。ある衝動が身内にひらめいた。
「わたしゃ思うんだがね、お前、目覚めた方がいいんだよ」と彼女がいう。
「お前、考えてるかね? 町へ出てお金をもうけようと思うかね、え? だけど、実業家になる方がお前のためにいいんじゃないかね? きびきびとスマートで、それに元気よくやる方がね?」彼女は待ちかまえて震えていた。
息子は首をふった。
「ぼくぁお母さんにうまく説明ができないんだよ。ああ、しゃくにさわるな、できるといいんだけど」と彼は熱心に語った。
「ぼくぁお父さんにだって、そのことじゃ理解してもらえないんだ。だが、もういいよ。しかたがないんだ。ぼくぁ何をしたいんだか自分でもわからないんだ。だがぼくぁただ、ここから出ていって人々を見たり、考えたりしたいんだよ」
少年と母が対座した部屋の中には、沈黙が領していた。ふたたび、あの先夜と同じように二人は当惑した。しばらくすると、少年はふたたび語りはじめようとした。
「ぼくは、何もそれを、この一、二年内に実行しようっていうんじゃないんだけど、ただ、そんなことをしょっちゅう考えているんだよ」と彼は立ちあがって戸口の方へ行きながらいった。
「ぼくは、お父さんのいったことから、たしかにここから出てゆかなけりゃいけないんだと思いついたんだ」と彼はドアの握りを手探りにさがした。部屋内の沈黙は彼女にはたえがたいものに思われた。息子の唇をもれた言葉を聞いてからは、彼女は悦びに大声に叫びたいほどだった。しかし悦びの表現は彼女にとって不可能なものとなっていた。
「わたしゃ思うんだがね。お前、すこしは男の子といっしょに外で遊んだほうがいいんだろう? お前、あまり家の中にばかりいすぎるようだからね」と彼女がいった。
「ぼくはちょっと散歩してこようと思ってたんさ」ときまり悪げに部屋から出るとドアをしめながら息子は答えた。
[#改ページ]
哲学者
ドクター・パーシバルは黄色いひげにおおわれ、垂れ下がった唇をもった大男だった。彼はいつもきたなくよごれた、白のチョッキをまとっていて、そのポケットからは数多くの「細身」とよばれる黒い葉巻が首をつきだしていた。彼の歯はまっ黒で不揃いだったし、眼もまた何か奇怪なしろものだった。左のまぶたはけいれんしていて、垂れ下がるかと思うと、ぱっと開くのだった。それはまさしく窓についたシェイドにもたとえられるしろもので、お医者さんの頭の中に誰か立っていて、その紐《ひも》で遊んでいるように思われた。
ドクター・パーシバルは若者ジョージ・ウィラードに愛着を覚えた。そのはじまりはジョージがワインズバーグ・イーグル社に入って一年もたったころだった。そしてそのまじわりは、まったくお医者さんの側から作ったものだった。
イーグル社の所有主であり編集長でもあったウィル・ヘンダースンは、午後おそく、トム・ウィリーの酒場《サルーン》へ出かけていった。路次をとおって酒場の裏戸から滑りこんだ彼はスロージンとソーダ水をまぜた酒をのみはじめた。ウィル・ヘンダースンは官能主義者で四十五の年齢に達していた。彼はジンが彼の体内の若々しさをふたたびよみがえらせてくれるものと思った。多くの官能主義者と同じように彼も女の話が好きだった。そして一時間もの間トム・ウィリーと噂話《うわさばなし》をやりながら尻をあげなかった。
酒場の亭主のトムは丈のひくい肩幅のはった男で、彼の手には奇怪な印が入っていた。例のときどき男や女の顔を赤く色どる焔の色にも似たあざがトム・ウィリーの指と手の裏を赤く染めていた。ウィル・ヘンダースンに話しかけながら酒台《バー》のそばに立った彼は、しきりに両手をこするのだった。そして彼が興奮してくればくるほど、彼の手の赤い色が濃い赤色へ変った。それはまるで、乾燥して色あせた血の中で彼の両手を染めあげたかのようだった。
ウィル・ヘンダースンが赤い手をながめながら、女の話で酒台前にぐずぐずしていたころ、彼の助手ジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル社の事務室に腰をおろして、ドクター・パーシバルの話に耳を傾けていた。
ドクター・パーシバルは、ウィル・ヘンダースンが姿を消すとすぐに現われた。考えようによっては、お医者さんが彼の医務室の窓から、編集長が路次を通って出てゆくのを監視していたとも思えるほどだった。表のドアから入ってきて、自分から椅子にすわると、彼は「細身」の一本をとり出して火をつけ、そして足を組むと語りはじめた。彼はある自分でもはっきりといい表わすことのできないような一連の行動をとることが賢明な策だと熱心に若者を説きふせようとしている様子だった。
「もしあんたが眼をあけてよく見るなら、わしゃ自分じゃ医者だというとるものの、恐ろしく患者のすくない医者じゃということがわかるじゃろう」と、彼は語りはじめるのだった。「それにはわけがあります。そりゃ偶然事でも、またほかの奴らほどわしに医学の知識がないせいでもありません。あんたもごらんのとおり、その理由というのは、ちょっと表面からはわかりません。つまるところ、そりゃわしの性格に根ざしとるもんでして、あんたも考えたらおわかりじゃろうが、そいつは、いろんな不可思議なくせをもっとるんですからな。わしがなぜ、こんなことを、あんたに話すかというわけについちゃあ、このわしにもはっきりわからん。わしゃあ黙って口をつぐんでた方が、あんたの見る眼にももっと信用がおけるのかもしれんて。実のところ、わしゃ、あんたにこのわしを尊敬してもらいたいのです。そうなんです。その理由はわしにはわからん。だが、それだから、わしはこうやってお話をするんです。どうです、面白いじゃありませんかね、え?」
ときには医者は、自分自身に関する長い長い話をはじめた。若者にとって、そうした話は非常にいきいきとしていて意味の深いものだった。彼はこの肥って不潔に見える男を尊敬しはじめた。そして、ウィル・ヘンダースンが立ち去ったあとの午後には、彼は強い興味にわきたちながら医者のやって来るのを待った。
ドクター・パーシバルはワインズバーグに来ておよそ五年になった。彼はシカゴからやって来た。そして彼が到着したときには酔っぱらっていて、手荷物運搬人のアルバート・ロングワースと喧嘩をはじめた。その喧嘩は、トランクのことからはじまって、医者が町の留置場に送られたことでケリがついた。彼は許されて出て来ると、本通りの下手《しもて》のはずれにある靴修繕屋の二階に一室をかりうけた。そして彼が医者だということを宣伝した看板をかかげた。
彼はわずか数人の患者を、それも薬代の払えないような貧乏人の患者をかかえているにすぎなかった。だが、生活のためには多額の金をもっている様子だった。彼は夜は話にならないほどきたない医務室にねたし、また停車場の向いの、ちっぽけな木造建築の中のビフ・カーターの食堂で食事をとった。夏になると食堂は蝿でいっぱいだった。そしてビフ・カーターの白エプロンは彼の食堂の床《ゆか》よりもっときたなくよごれていた。ドクター・パーシバルは、そんなことは意にとめないふうだった。彼は食堂に入って来ると、食事台《カウンター》の上に二十セント投げだした。
「何でもあんたの好きなもんで食わせてもらおうか」と彼はほほえみながらいった。
「ほかのお客に売れないような食べものがあったらみんな出しなさい。わしゃ何だってかまわん。ごらんのとおり、わしゃ世に秀でた者じゃ。だから、わしゃあ食うものなんかにかまっちゃおられんのです」
ドクター・パーシバルがジョージ・ウィラードに語る話というのは、どこからともなくはじまって、またどこともなく終った。ときには若者は、それらの話のすべては作り話で、からっきしの嘘八百にちがいないとも思った。しかしそれからまた、それらは真理の精髄を含んだ物語だとふたたび信じこむのだった。
「わしは、あんたがここでやっていると同じように、新聞記者だったのです」とドクター・パーシバルは語りはじめた。「それはアイオワ州のある町でした――いや、イリノイ州だったかな? わしは憶えとらんが、とにかく、そりゃどうだってかまわん。たぶんわしゃ昔のわしの素性があらわれるのを恐れて、あまりはっきりしたことはいいたくないのでしょうて。あんたはきっと、わしがべつになんの仕事も持たんのに食うにことかかぬ金を持っとるのを変に思うたことがあるでしょう? ひょっとすると、わしゃここへ来る前に多額の金を盗むか、さもなけりゃ、ある殺人事件の仲間だったのかもしれませんて。こりゃうたぐりの種にもなることですて、え? もしあんたがほんとうに機敏な新聞記者なら、きっと、このわしのことを、洗ってみただろうがね。シカゴにドクター・クローニンという男がいて殺害されたが、あんたはその話を聞いたことがあるかね? ある数人の男が彼を殺してトランクにつめこんだ。暁方《あけがた》早く彼らはそのトランクを町をとおってはこび去った。トランクは運送用車の後部にのっけられてたのだが、奴らはまるっきり知らぬ顔して座席にすわっていたね。奴らはまだすべての者が眠りに落ちている静かな街々を通って行く。太陽がまさに、湖から昇ろうとしておる。滑稽じゃないですか、え?――ちょっとまあ考えてごらん。奴らは車を駆りながらパイプを吹かしてしゃべくりながら、この今のわしにもおとらない知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいたのですよ。おそらく、このわしも奴らの一人だったのかもしれませんて。だが、そうだとすりゃずいぶんと奇妙な世のまわりあわせということになるもんでさ、そうじゃないかね、え?」
ドクター・パーシバルはさらにふたたび彼の物語をはじめるのだった――
「それはとにかく、わしゃあそこで、あんたがここでやってると同じように、走りまわったり小さな欄を印刷に送ったりして新聞の記者をやっとりました。わしのおふくろはすかんぴんなんで、洗濯物をひきうけとりました。おふくろの夢といえば、このわしを、長老教会の牧師にすることでした。で、わしもそのつもりで勉強していたものです」
「わしのおやじは、永い間気が狂っていました。あのオハイオ州のデイトンで狂人病院に入れられておりました。そら、わしはとうとう口をすべらせてしまった。こういうことは、みんなオハイオ州で、まさにこのオハイオ州で起ったことです。もしあんたが、このわしのことを洗ってみる気があったら、こりゃあ大切な調査の鍵になりますぜ」
「わしはあんたに、わしの兄貴のことをお話するつもりだったのです。こんな長たらしい前おきをやったのも、つまりはその話が目的だったのです。これこそわしがいいたいと思っていたことなのです。わしの兄貴は鉄道のペンキ塗りでした。そして、ビッグ・フォア鉄道に勤めておりました。あんたもご存知のように、あの鉄道はこのオハイオ州を通っております。ほかの男たちといっしょに、彼は函《はこ》型貨車の中で生活しながら町から町へ移って、鉄道用具に――切換機や踏切りや橋梁《きょうりょう》や、そして停車場に――ペンキを塗って歩いたものです」
「ビッグ・フォア鉄道じゃあ、その停車場をきたないオレンジ色に塗りますが、わしはその色がどうにも嫌いでしたね。わしの兄貴は、いつもそのきたない色のペンキでおおわれていましたよ。給料日にゃ彼はいつものんだくれて、そしてペンキでよごれはてた服のままで金をもって帰ってくるのです。彼はその金をおふくろに与えるでもなし台所のテーブルの上に積みかさねておくのでした」
「あのきたないオレンジ色のペンキでおおわれた服で、兄貴は家のまわりをうろついたものです。わしにはその姿が目に見えるようです。わしのおふくろは小柄で、赤いうるんだ眼をしていましたが、よく裏の小屋から母屋《おもや》の方にやって来ました。というのはその小屋で、おふくろは洗濯|盥《だらい》の上にかがみこんで他人のきたない着物をごしごしやってたのです。で、おふくろはよく母屋にやって来ましたが、いちめん石鹸《せっけん》の泡におおわれたエプロンのまま、自分の眼をこすりながら、テーブルのそばに立っていたものです」
「『そいつにさわっちゃいかんぞ。その金にちょっとでもさわっちゃいかんぞ』とわしの兄貴はほえたてたものです。で、それから彼は自分じゃ、その内から五ドルか十ドルをとると酒場へぶらりと出かけて行くのでした。彼は持って行っただけの金を使ってしまうと、また、残りをとりに帰ってきました。彼はけっしてわしのおふくろに金を与えたことはありません。ちびちび小出しに持ち金をみんな使ってしまうまで、家でぶらぶらしていました。それから彼はまた鉄道のペンキ塗り仲間といっしょに仕事に出かけて行くのでした。彼が行ってしまった後からは、いろんな品物が、食料品とかそういった品物が家に送りこまれて来るのです。あるときにはおふくろに衣装を、わしには一足の靴というようなものも来ましたね」
「変なことですね、え? とにかく兄貴は、親切な言葉一つ吐くでもなし、ときにゃ三日間も机の上に置きっぱなしにしてあるような金でも、もしわしらがちょっとでもそれに触れようものなら、それこそそのままではおかないというようなおどし文句をほざきまわる男でしたが、わしのおふくろときては、このわしよりも、特別にわしの兄貴をかわいがったものです」
「とにかくわしらは何とかうまくやっていきました。わしは牧師になろうと思って勉強するしお祈りをしました。わしゃあまるで馬鹿者みたいにお祈りをあげてたものです。あんたにも一度わしのお祈りを聞かせてあげたかった。わしのおやじが死んだときにゃわしは終夜お祈りをしましたが、それとちょうど同じように、わしの兄貴が町でのんだくれては、わしとおふくろにいろんなものを買ってまわっていたころ、わしはよくお祈りをあげたものです。夕方晩めしがしまうと、わしはあの金ののっかった机のそばにぬかずいて何時間も何時間もお祈りをしたものです。わしは誰も見ていないころを見はからっては、一ドルか二ドル盗んでわしのポケットにねじこんだものです。今考えりゃ笑いごとにも思えますが、そのころにはほんとに恐ろしいことでした。わしはいつも心にとがめだてられていました。そのころわしは、新聞の仕事で一週六ドルもらっておりましたが、それをまっすぐ、おふくろのところにもってかえったものです。で、わしは、兄貴から盗んだ金をわしの小使銭にしてました。例のつまらんものだが、お菓子とかタバコとか、まあそういったものを買ったものです」
「わしのおやじが、あのデイトンの狂人病院で死んだときには、わしはわざわざ出かけて行ったものです。わしの働いてた男から金を借りて、夜行列車で出かけました。その日は雨が降っていました。狂人病院では、わしを王様のようにもてなしてくれました」
「狂人病院で働いている人たちは、わしが新聞記者だということをかぎ出したわけです。そこで奴らは恐れをなしたんです。あんたもおわかりのように、おやじが病気でいる間に、何か取扱い上の怠慢か不注意でもあったのでしょう。奴らはわしが、きっとそれを新聞に書き立てて、一騒動ひきおこすだろうと考えたのです。わしには、そんなつもりは露ほどもなかったのですがね」
「とにかく、わしは、おやじの横たわった部屋に入って行って、死骸に祝福を行いました。わしは、どうしてそんな考えがわしの頭の中にわき起ったのか今でも不思議に思っています。だが、わしの兄貴のペンキ屋も笑おうとはしませんでした。そこで、わしは死骸の上にのしかかるように立って、わしの両手をひろげました。狂人病院の院長や、その助手たちも入って来て、おずおずしたようすでまわりに立っていました。それはとても面白い情景でした。わしは両手をひろげていいました――『この死骸の上に平和よ巣くい給え』とな。それがわしのいった言葉です」
突然立ちあがって話を切ると、ドクター・パーシバルはジョージ・ウィラードが聴き耳たてているワインズバーグ・イーグル社の事務所の中を歩きまわりはじめた。彼はぶざまな男で、それに事務所は狭くるしかったので、彼は立てつづけにいろんな道具にぶっつかった。
「べらべらおしゃべりしたりして、わしゃあなんという馬鹿者だろう」と彼はいうのだった。
「わしがここに来て、あんたに近づきになってもろうたのも、つまりはそんな目的じゃなかった。わしゃあほかに考えがあったのです。あんたは、わしが昔やったと同じように新聞記者をやっとる、そこであんたはわしの注意をひいたのです。あんたもまた、このわしと同じような馬鹿になる恐れがあるからな。わしはあんたをいましめ、またいましめつづけて行こうと思っとるのです。そういうわけで、わしはあんたをさがし出したんです」
ドクター・パーシバルは、社会の人間にたいしてジョージ・ウィラードのとるべき態度について語りはじめた。若者にはこの男のいうことはすべてただ一つの目的を念頭においているというふうに見えた。つまり、すべての人間は軽べつすべきしろものだということを思いこませることが目的だと。
「わしはあんたの頭に、憎悪と軽べつの念をつめこんで、そうしてあんたが、すぐれた人間になってくれるようにと願うのです」と彼はいいはなった。「わしの兄貴を見てごらん。あれこそ立派な人物じゃろう、え? いいかね、兄貴はすべての人間を軽べつしていたね。あれがどんな軽べつの念でこのわしやおふくろに臨んでいたかは、あんたには、とうてい理解ができまい。だから兄貴こそはわしらよりもずっと優れた人間だったじゃないかね? 事実そうだったのです。あんたは兄貴に会ったことはないが、わしゃああんたにそれをじかに感じさせてあげた。あんたにその実感を与えてあげたのです。兄貴ぁ死にました。あるときあれは酔払って、鉄道線路の上にねてました。すると、あれが仲間のペンキ屋と住んでいた車があれをひき殺して走っていったのです」
八月のある日ドクター・パーシバルはワインズバーグで一つの冒険をやった。一ヶ月の間というものジョージ・ウィラードは毎朝一時間、医者のところですごすことになっていた。そもそもこの訪問がはじまったのは、医者のがわの希望で、彼が今書きつつある本の数ページを毎週若者に読んで聞かせようと申し込んだからだった。ドクター・パーシバルのいうところでは、その本を書くことが、すなわち彼がワインズバーグに来た目的なのだった。
八月のある朝、まだ少年が訪れない前に、一つの事件が医者の事務所で起こった。それは本町通りで一つの事故がおきたからだ。一隊の馬が列車に驚いて、縄を切って逃げ出した。そしてある農夫の娘の児が軽馬車《バッギィ》からふり落とされて死んだのである。
本町通りではすべての人々が興奮して、医者を呼ぶ声が高まった。すべてで三人の町の本業の医者がいそいでかけつけた。しかしその娘はすでに死んでしまっていた。群集の中のある者は、ドクター・パーシバルの医務所にもかけこんできた。だが、彼は医務所から出ていって死んだ娘を診《み》ることをぶっきら棒にことわった。彼の拒絶が生んだ無益な惨虐性もべつだんとがめだてられることはなかった。事実、彼をよぶために階段をかけのぼって来た男は、その拒絶の言葉をきくまでもなく、急いで出て行ったのだったから。
そういうことのいきさつをドクター・パーシバルは少しも知らなかった。そしてジョージ・ウィラードが彼の医務室にやってきたときには、医者は恐怖にからだをわなわなと震わせていた。
「わしのやったことはこの町の人々を怒らせることだろう」と彼が興奮していいはなった。
「わしは人間の性質というものを知らなかったのだろうか? わたしはその次に起る事柄が何であるかを考えなかったのだろうか? わしの拒絶の言葉は町じゅうのささやきとなってひろがるだろう。間もなく男たちが群れ集まって、そのことを話しあうだろう。そうして彼等はここにおしかけてくるだろう。わしらは喧嘩になって、そして絞首刑の話になる。そこで奴らはふたたび手に手に縄をもってやってくるじゃろう」
ドクター・パーシバルは恐怖に震えていた。
「わしにゃ予感がするよ」と彼は語気を強めていいはなった。
「たぶん、わしが今話しとるようなことは、今朝のうちには起らんかもしれん。たぶん、今夜まではのばされるかもしれん。だが、わたしは絞め首にあうのじゃ。すべての者がいきりたつことだろう。わしは首を絞められて本町通りの街灯柱の上につるされることじゃろう」
きたなくよごれた小さな医務室を戸口のほうへ歩いて行くと、ドクター・パーシバルは、街に通ずる階段をおずおずとのぞきおろした。彼の眼にあらわれていた恐怖の情は、彼が戻って来たときには疑念の念にかえられていた。つま先だって部屋を横切ると、彼はジョージ・ウィラードの肩先をたたいた。
「もし今でなくても、いつかはやって来るね」と彼は首をふりながらささやいた。
「結局のところ、わしは十字架の刑に処せられるのです。何の益もなく十字架の刑に処せられるのです」
ドクター・パーシバルはジョージ・ウィラードに訴えはじめた。
「いいかね。あんたはわしのいうことをよく聞いておきなさい」と彼はうながすのだった。
「もし何か起るようなことがあっても、わしが書き終えずにしまいそうなあの本を、あんたならきっと完成することができましょう。その本の考えというのは大変単純なことなので、もしあんたが気をつけていないと、忘れてしまうくらい、まったく単純なものです。それはつまりこうなんです――この世の中のすべての者はキリストであって、彼らはすべて十字架の刑に処せられるということです。これがすなわち、このわしのいわんとすることなのです。あんたはこれを忘れんように憶えていなさいよ。どんなことがあってもあんたはこれを忘れちゃいけませんぞ」
[#改ページ]
だれも知らない
注意深くあたりを見まわしながら、ジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル社の事務所の椅子を立ちあがって、裏口から急いで出ていった。その夜は生温《なまあたた》かで曇っていた。そして時刻はまだ八時にもなっていないころだったが、イーグル社の事務所の裏手の路地は黒すみを流したような闇だった。
どこか闇の中につながれた一隊の馬が、煉瓦だたみの地面の上で蹄鉄のひびきをたてている。一匹の猫がジョージ・ウィラードの足もとから飛びだして、夜のとばりの中へ走りさった。若者は神経質になっていた。終日彼は一撃をくらって目がくらんだ男のように仕事に歩きまわっていた。路地に出た彼は、恐怖に襲われたようにからだを震わせた。
闇の中を注意ぶかく気を配りながらジョージ・ウィラードは路地を進んでいった。ワインズバーグの店々の裏戸はあけっ放しになっていて、店のランプの下にすわっている人々の姿が見えた。マイアーバウムの小間物店の中では、酒場のおかみさんのミセス・ウィリーが、手にはバスケットを抱えて商品台のそばに立っている。番頭のシド・グリーンが彼女の接待をやっている。彼は商品台の上にのしかかるようにして、熱心にしゃべっている。
ジョージ・ウィラードは身をかがめると、ついでその戸口から流れ出ている光のしまを飛びぬけて行った。彼は闇の中をひたむきに走りはじめた。エド・グリフィスの酒場の裏手では、町ののんだくれのジェリー・バード老人が地面にねそべっていた。ジョージは、その長々とのばされた足にけつまずいた。老人がきれぎれに笑い声をたてた。
ジョージ・ウィラードは、ある冒険にとりかかっていた。彼は終日その冒険をやり終えられるように彼の決心をにぶらせまいとして苦心していた。そして今や彼は実際に行動にうつっているのだ。ワインズバーグ・イーグル社の事務所の中で、彼は六時ごろから自分の考えをまとめようとしてすわっていたものだ。
しかし、彼には決心がつかなかった。彼はただわけもなくとび立つと、印刷室で校正刷を読んでいるウィル・ヘンダースンの横を通りすぎ、そして路地をどんどん走りはじめていた。
街から街へと、ジョージ・ウィラードは通行人を避けながら進んだ。彼はジグザグに同じ道を横切ってはまたふたたび横切った。街灯のともっているところに来ると彼は帽子をまぶかにひきおろした。彼はあえて、ものを考えようとはしなかった。彼の心のうちにはある種の恐怖がまきおこっていたが、それはあたらしい種類の恐怖だった。彼のとりかかったこの冒険が失敗に終りはしないかということを彼は恐れていたのだ。勇気をなくして途中から逆もどりするようなことはないだろうかと自ら恐れていたのだ。
ジョージ・ウィラードは、ルイズ・トランニョンが彼女の父の家の台所にいるのを見いだした。彼女は石油ランプの光で皿を洗っていた。家の裏手にある掛小屋のような小さな台所の、あみ戸のうしろに彼女は立っていた。ジョージ・ウィラードは、杭垣《くいがき》のそばに立ちどまって、からだの震えをとめようと試みた。冒険《アドベンチャー》から彼をひき離しているものは、わずかに狭いひとうねのじゃがいも畑だけだ。彼は彼女によびかけても大丈夫だと感じるまでに五分もの時間がすぎた。
「ルイズさん、ルイズさん」と彼はよびかけた。その叫び声は彼ののどにはさまって、彼の声はしわがれたささやき声となった。
ルイズ・トランニョンは手に皿布巾を持ったままじゃがいも畑をこえてやって来た。
「わたしがあんたといっしょに出て行きたいと思ってるなんて、どうしてあんたにわかるの?」と彼女がすねたように言った。「なんだってあんた、そんな自信がもてるのよ?」
ジョージ・ウィラードは答えなかった。沈黙のうちに二人は垣をへだてて闇の中につったった。
「あんた先に行っててよ」と彼女はいった。
「お父さんがうちにいるからだめよ。わたしすぐ行くから。あんた、ウィリアムの納屋《なや》のところで待ってて」
年若い新聞記者は、ルイズ・トランニョンから一通の手紙を受けとっていた。それはその朝ワインズバーグ・イーグル社の事務所にとどけられた。手紙の文句は簡単だった。
「もし、このわたしが欲しいのなら、わたしはあなたのものです」とあった。闇の垣根のそばで、彼女が二人の間には何ごともなかったかのようなふうをよそおっていたのは彼にとって苦痛に思われた。
「あれは大胆な女だ。ほんとにあれは大胆な女だ!」と彼はつぶやきながら路をすぎ、トウモロコシの植わった一列の空地をよこぎって行った。トウモロコシは肩の高さまであって、小路のすぐ下まで植えてあった。
ルイズ・トランニョンが彼女の家の裏戸から現われたときには、彼女はやはり、皿を洗っていたときと同じ木綿縞《もめんじま》の服をきていた。帽子はかぶっていない。彼女が手にドアの|握り《ノブ》をもったまま、家の誰か、たしかに彼女の父のジェイク・トランニョンに話しかけている姿が見えた。ジェイク老人はなかば聾《つんぼ》だった。それで、彼女は大声に叫びたてた。ドアが閉じられると、その小さな路地の中のすべてが闇と沈黙にとざされた。ジョージ・ウィラードは以前よりもっとはげしくからだを震わせはじめた。
ウィリアムの納屋のかげでジョージとルイズは話もせずに立っていた。彼女はとりたてて綺麗だというのではなかった。そして彼女の鼻の横にはまっ黒なすすがついていた。彼女は何か台所の壺を持ちはこんだあとで、指で鼻をこすったにちがいないとジョージは思った。
若者は神経質に笑いはじめた。
「あったかいね」と彼はいった。彼はその手で彼女に触ってみたいと思った。
「おれは大胆さがなさすぎるな」と彼は考えた。よごれた木綿縞の服のひだに触ってみるだけでも、たまらなく快楽を与えてくれそうに思われた。彼女はたわむれるように語りはじめた。
「あんた、わたしよりすぐれた人間だくらいに思っているのね。言い訳しなくったっていいわよ。わたし、わかってるわよ」と彼女はしゃべりながら彼の方へにじりよって来た。
ジョージ・ウィラードの口から洪水のように言葉が流れ出はじめた。彼は二人が街であったとき娘の眼にひそんでいた顔つきを想い出した。そしてまた彼女が書いてよこした手紙のことを想った。疑惑の念は彼の頭からさった。彼女に関して町でとやかく噂されているいろいろのひそやかなささやき話も彼に確信を与えてくれた。彼はまったく大胆な攻撃的な男性と化した。彼女にたいする同情の念も心のうちから消えさった。
「さあ、おいでよ、かまやあしないじゃないか。誰にも何も知れやあしないよ。どうして人にわかるものか?」と彼はうながすのだった。
二人はせまい煉瓦の歩道を進んで行った。煉瓦の割れ目から丈の高い雑草がつき出ている。そして煉瓦のあるものは失われて、歩道はあらくれて不規則だった。彼は彼女の手をとった。それもやはりあらくれていた。そしてそれは、愉快なほど小さいと彼は思った。「わたし遠くへは行けないのよ」と彼女がいう。その声は平静でおちついていた。
二人は小川にわたした橋をわたると、さらにトウモロコシの植わった空地を横ぎって行った。道はそこで終っていた。道路のそばの小径では二人は前後にならんで歩かなければならなかった。道のかたわらにはウィル・オバートンの苺園があって、そこには板材がつみかさねてあった。
「ウィルさんはここに苺|笊《ざる》をしまっておく小屋をたてるつもりなんだよ」とジョージはいった。そして二人は、板材の上に腰をおろした。
ジョージ・ウィラードが本町通りにもどって来たときには、時計はすでに十時をまわって雨が降りはじめていた。三たび彼は本通りを端から端まで往復した。シルベスター・ウェストのドラッグストアはまだ開いていた。そこで彼は入って行ってタバコを買った。店番のショーティ・クランダルが彼といっしょに表口まで出て来たとき、彼は何となく愉快に感じた。五分のあいだ二人は店の日除けのかげに立って話した。ジョージ・ウィラードは心のみちたりた気持だった。彼はとにかく、何をおいてもだれかと話をまじえたいと思った。ニュー・ウィラード・ハウスに向って四辻をまがりながら彼はかろやかに口笛を吹いて足をはこんだ。
ウィンニーの金物店のそばの歩道には、サーカスの絵をぬりたてた高い板塀があった。彼はそこまで歩いて来ると口笛をやめた。そして闇の中の歩道で完全に立ちどまると、なにか彼を呼ぶ声を聞き分けるかのように注意深く聞き耳を立てた。そして彼はふたたび、神経質に笑った。
「あの娘は何もおれにかぶせたりはしないさ。誰も知りゃしないんだから」と思いつめたように彼はつぶやいて歩をはこんだ。
[#改ページ]
敬神
(四部の物語――第一部)
そこには、かならず三人か四人の年寄り連中がいて、家の表口に腰をおろすか、またはベントリー農園の庭先をぶらついていた。そのうち三人は婦人でジェッシーの姉妹だった。彼女らはいちように生気のないよわよわしい声の女たちだった。それからもう一人はうすい白髪をいただいたもの静かな老人で、彼はジェッシーの叔父さんだった。
その農家は丸太の骨組の上に板を打ちつけて造った名ばかりの木造家屋だった。実際にはそれは一つの家というより、ほとんどでたらめに継ぎあわされた家の群れとでもいいたいしろものだった。家の中はじつに驚くべきものにみたされていた。居間から食堂へ行くにも階段を上り、またいたるところに階段があって部屋から部屋へと通じるにも上ったり下りたりしなければならなかった。食事どきには、家の中はまるで蜂《はち》の巣をつきくずしたようだった。しばらくまったく静寂だと思っていると、そこで部屋部屋の戸が開きはじめ、階段を上り下りする靴の音が聞え、静かなつぶやくような人声がわきおこって、どこからともなく人々が姿を現わして来るのだった。
すでに述べたこれら年寄り連中のほかにも多くの人々がベントリー家には住まっていた。四人の雇夫たち、家政のやりくりをするキャリー・ビービおばさん、寝床をとったり乳しぼりの手伝いをするエリザ・ストートンという半馬鹿の娘、厩《うまや》に働く少年、そして、それらすべての所有主でありまた支配者であるジェッシー・べントリー自身など。
アメリカ南北戦争が終って二十年もたったころには、北オハイオ州のベントリー農園のある地方もすでに開拓者の原始生活から抜けだしはじめていた。ジェッシーはこのころすでに、穀物刈入れ用の機械を所有していた。彼は近代式の穀倉を設けたし、また彼の所有地の大部分は、念入りなタイルばりの水溝《すいこう》で水はけされていた。だがジェッシーという男を理解するためには、われわれはもっと初期のころの物語にかえらなければならない。
ベントリー家は、ジェッシーの時代よりまえ、すでに数世代の間、北オハイオに住まっていた。彼らはニューヨーク州からやって来た。そしてまだその地方が新しくて、土地もごく安く買えたころ、そこに住みついた、永い間、彼らはあらゆる中西部《ミドルウエスタン》の人々と同じようにひどく貧困な生活を送っていた。彼らの定住した土地というのはいちめんがひどく茂った森林で、くちた丸太や下生えの雑林におおわれていた。永い苦しい労役によって、それらのじゃまものを取りのぞき木を切りつくしてしまっても、その後にはなお、切株の始末をする仕事が残っていた。畑をすく鋤《すき》は地中に埋もれた木の根やいたるところに散らばった石ころにつきあたった。低い地面には水がたまって、トウモロコシの若葉は、黄色にしおれてかれていった。
ジェッシー・べントリーの父とそしてその兄弟たちがその土地を所有するようになるころまでには、土地開墾の苦しい労働は大部分終っていた。だが彼らは古い習慣をそのまま守って、まるで酷使される牛馬のように労働にはげんだ。事実彼らの生活が当時のあらゆる農家一般の生活だったのだ。春とそして冬の大部分を通じて、ワインズバーグの町に通ずる公道は泥の海と化した。家族のうちの四人の若者たちは終日野にでてはげしい労働をやり、おそまつな脂っこい食物を腹いっぱいつめこんで、そして夜は疲れたけもののように藁床《わらどこ》にねむった。彼らの生活の内には、荒くれて野獣的なもの以外にはほとんど何物もないといってもいいほどだった。そして外見上彼ら自身もまた荒くれて野獣的な姿だった。
土曜の夕方には、彼らは三人乗りの馬車に一隊の馬をつけて町へくり出した。町では彼らは店々のストーブのまわりに立ちはだかって他の農夫や、店の主人としゃべりあった。彼らはオーバーオールをつけて、冬になると泥がしみになった重い外套《がいとう》をまとった。ストーブの熱気に向けて延ばされた彼らの手は、ひび割れて赤かった。彼らには、おしゃべりすることは困難だった。そこで彼らはほとんど大部分おしだまっていた。彼らは肉や、麦粉や、砂糖や、塩を買いこむと、ワインズバーグの酒場の一つにくりこんでビールを飲んだ。日ごろは新しい土地の開墾という英雄的な労働におさえられていた彼らの性質にひそんだ強く快楽をもとめる心がアルコールの影響で開放された。一種なまなましく動物に似た詩的熱情が彼らのうちにわきおこった。家へ帰るみちみち、彼らは馬車の座席の上に立ちあがると星に向って叫びかけた。あるときには彼らは長い間格闘したし、またあるときにはいっせいに歌を唱いはじめた。
あるとき、これら青年のうちでも一番年上のエノック・べントリーが鞭《むち》の台尻でしたたか父のトム・べントリー老人を打ちたたいた。そうして老人は、ほとんど死んでしまいそうに見えた。数日の間エノックは厩の屋根うらの麦藁の中にかくれていた。そうして、たとえ一時的な激情の結果にほかならないとしても、もしそれが殺人罪になるようなことがあったら、さっそく、姿をくらまそうとまちかまえていた。母が彼のもとに食べものをはこび、そして傷ついた老人の病いの経過を報告してきかせた。万事うまくいったとき、彼はかくれ家から現われた。そして、まるで何事もなかったかのようにふたたび開墾の仕事にかえるのだった。
ベントリー家の運命に大きな変化をもたらしたのは南北戦争だった。それにこの戦争はまた最も年下の弟ジェッシーが世に出るための原因ともなった。エノック、エドワード、ハリーと、そしてウィル・ベントリーは、すべて兵士を志願した。そしてあの長い戦いが終るまでには彼らはみな殺されていた。彼らが南部へ出征したのちしばらくの間、トム老人は農園をやっていこうとした。しかし彼にはうまくいかなかった。四人兄弟の最後の一人まで殺されてしまうと、父親はジェッシーに家にかえってほしいといってやった。
それから、一年の間あまり健康のすぐれなかった母親が突然に死んだ。そして父親はまったく元気を失ってしまった。彼は農場を売りはらって町へ移る話をもちだした。終日彼は首をふり、口に何かぶつぶついいながら歩きまわった。畑の仕事は放置されて、トウモロコシの苗の間には雑草が高々とおいしげった。トム老人は人足をやとった。だが、それをうまく使う道を知らなかった。朝、人足たちが畑に出て行ってしまうと、彼は森の中にさまよい込んで、丸太の上に腰をおろした。あるときには彼は夜になっても家に帰ることを忘れていた。そして娘たちの一人が彼を探しに出かけなければならなかった。
ジェッシー・ベントリーが農園にかえって来て、仕事の管理をはじめたころには、彼はやせぎすで、敏感な顔つきをした二十二歳の青年だった。彼は十八の年に家を出ると、学者となり、またゆくゆくは長老教会の牧師になるために学校に入った。彼の少年時代はずっと、わが国でいわゆる「変り者」と呼ばれる部類に属していたし、また彼の兄弟たちともうまく折りあいがつかなかった。たくさんの家族の中で彼を理解する者といえば、ただ母だけだった。だが、その母も今では死んでいた。当時すでに六百エーカー以上の広さになっていた農場の管理のために彼が故郷に帰って来たときには、農場に働く人々や、また近隣のワインズバーグの町のすべての人々は、それまで四人の頑強な兄弟でやっていた仕事をひとりで処理しようとくわだてている彼の考えにほほえむのだった。
事実そのほほえみには立派なわけがあった。当時の標準からすれば、ジェッシーは結局一人前の男とは見られていなかったからだ。彼は小柄で、非常にやせぎすだったし、またそのからだつきは女のようであった。それに若い牧師の伝統を、忠実にまもって、長い黒衣をまとい、細い黒の紐ネクタイを結んでいた。数年の歳月をへてふたたび彼にあったとき近隣の人々は、これは面白いことになったぞと思った。それに彼らは、彼が町で結婚してつれてきた婦人を見たとき、なおさら面白いことになったぞと思った。
もちろんジェッシーの妻は間もなく死んだ。それはおそらくジェッシーの罪だったろう。南北戦争後の困難な時代にあっては、北部オハイオの農園はけっしてよわよわしい婦人に似あわしい土地とはいえなかった。それにキャセリン・ベントリーはひ弱いつくりの女だった。当時、ジェッシーは、周囲のすべての人々につらくあたったと同じように彼女をも苛酷にとりあつかった。彼女は周囲にいる近隣の女たちのやるような仕事を人なみにやろうとこころみたし、また彼も彼女の仕事にくちばしを入れるようなことをしなかった。彼女は乳搾りの手伝いをし、また、家事の処理にもあたった。彼女は男たちのベッドをこしらえたり、また彼らの食事の用意もした。一年の間彼女は陽の出どきから夜おそくまで働いた。それから子供を生むと彼女は死んでいった。
ジェッシー・ベントリーについては――もちろん彼は繊細なつくりの男ではあったが、彼の体内には何かある容易に殺すことのできないものがひそんでいた。彼は巻き上った褐色の髪の毛と、灰色の眼を持っていた。そしてその眼はときどきけわしく鋭くなり、またあるときには不安と動揺の色をうかべた。彼はやせているばかりでなくまた丈が低かった。その口は感情的な、また我意の強い子供の口を思わせた。ジェッシー・ベントリーは一種の狂信者《ファナティック》だった。彼は彼の時代と土地の産物だった。そしてそれゆえに自らも苦しみ、また他をも苦しみにまきこむこととなった。彼は人生から得たいと望んでいたものを手に入れることには成功しなかった。それに自分が望んでいるものが何であるかも自分自身わからなかった。
彼がベントリー農園の自分の家に帰って間もなく、そこに働くすべての人々は彼をいささか恐れはじめた。そして彼の母と同じように彼には最も密接な結びあいを持っているはずの彼の妻までも彼を恐れはじめた。彼が帰って来て二週間たつと、トム・ベントリー老人は土地のすべての所有を彼にゆずって舞台裏へしりぞいた。するとすべての者が舞台裏へしりぞいた。彼の若さと経験のなさにもかかわらず、ジェッシーは彼の使用人たちの魂を支配する術《すべ》を心得ていた。彼は、彼のなすこということすべてにあまりにも熱心だったので、だれも彼を理解する者はなかった。彼は農園に働くすべての人々にかつてない労役をしいた。それにそれは楽しみのない労役だった。もし万事が都合よくゆくとすれば、それはジェッシーにとっての都合よさであって、けっして使用人にたいしてのものではなかった。
近年のアメリカに現われた数多くの頑強な男と同じように、ジェッシーもただ半面の意味でだけ頑強だというにすぎなかった。彼は他を支配することはできたが、彼自身を支配することを知らなかった。かつて行われたことのない突飛な農園の経営法も、彼にとってはいともたやすいことだった。クリーヴランドの学校を退いて家に帰って来ると、彼はその周囲のすべての人々から遮断して農園の設計にとりかかった。日夜農園について考えをめぐらした。そしてそれはいかにも上首尾に行くように思われた。農園に働く他の人たちはあまりに多く働いて、考えをめぐらすにはあまりに疲れはてていた。しかしジェッシーにとって、農園に考えをはせ、その成功のためにたえず計画をめぐらせることが一つの生活の救いだった。
それはまた部分的には彼の情熱的な性質のあるものを満足させた。彼は家に帰って来ると、すぐに古い母屋《おもや》に一翼を建て増した。そして、大きな西向きの部屋は、一方には窓越しに穀物置場をのぞんでおり、他方の窓からは畑を越えてはるか遠くまで見渡せた。窓辺にすわった彼は考えにふけった。幾時間も幾時間も、そして来る日も来る日も彼はそこにすわって丘を見わたしながら、彼の人生における新しい地位を考えぬいた。彼の性格にひそむ情熱的に燃える心が焔となってたぎりたち、そして彼の目はけわしくなった。彼は自分の農場からこの州のどこにもいまだかって産出されたことのないほどの収穫をあげたいと考えた。それにまた他のあるものをもかち得たいと願った。
それは彼の心のうちにひそんだある名づけることのできない渇望であり、彼の眼を不安げに動揺させ、また人々の面前で彼をますます沈黙におとし入れるものであった。彼は心の平和をかちうるためには多くの犠牲をもおしまなかっただろう。だが彼の心中にはその平和はとうてい彼の手に入らないのではないかという恐怖がひそんでいた。
ジェッシー・ベントリーのからだは、全身いきいきとしていた。その小さな体格の中には歴代の強者の力が集積されていた。たえず農園で暮していた小さい少年のころには、彼は特にいきいきしていたし、またそののち若者となって学校に行っていた頃もそうだった。学校では彼は魂をこめて勉強をし、神や聖書に想いをはせた。時がたって、彼が他の人々をよりよく知りはじめてからは、彼は自分自身を特別な男、彼の仲間とはかけ離れた男だと考えはじめた。
彼は自分の生涯を非常に重要なものにしたいと心から願った。そうして彼の仲間の者たちを見まわして、彼らがいかに土くれのような生活をしているかを見いだしたとき、彼もまたそんな土くれのような男になることはたえがたいことだと思った。彼は自分自身とそして自らの運命に気をとられて、彼の妻が身重になってのちでもからだの頑強な女の仕事をやりつづけ、そうして彼にたいする奉仕のうちに彼女自身を殺しつつあるのだということには全然盲目だった。とはいえ、彼はけっして彼女にたいして、不親切を行おうという意志があったわけではない。年をとって苦役に腰の折れまがった父が農園の所有権を彼にゆずって、家の隅っこにひっこんで死の到来を待つことに満足している様子を見たときにも、彼は肩をすぼめて、老人の姿を彼の心から追いだした。
ジェッシーは彼の所有に帰した畑の見わたせる窓辺にすわって彼自身の問題に考えをはせた。厩の中からは彼の馬の蹄《ひずめ》の音や家畜の動くたえまのない騒音が聞えてきた。遠く野べにはまたほかの家畜が緑の丘をさまよっているさまが見わたせた。男たちの声や、彼のために働く傭人たちの声が窓を通してきこえて来る。ミルクハウスからは半馬鹿の娘エルリザ・ストートンのまわすバター製造機の音が、たえまなくごとんごとんと聞える。
ジェッシーの心は、旧約聖書の時代の人々のもとへかえっていった。彼らもまた土地を所有し、家畜をかっていたのだ。彼は神が空からまいおりて来て、これらの人たちに語ったことを憶いだした。そして神が彼にたいしてもまた言葉を下され、また注意を与えられんことを望んだ。一種子供っぽい熱病的な熱心さで彼は何らかの方法でこれらの人々に与えられた意義のある人生を何とか自らの上にもかちえたいと願った。祈祷《きとう》をこととする彼は自分の願いを神に向って声高に祈った。そして彼の言葉の響きは彼の熱情をますます強め、またつちかっていった。「われはこの土地を所有するにいたった新しい人間なり」と彼は宣言した。「おお、神よ、われに恵みをたれ給え。またわが隣人、およびこの地においてわれに先立ちしすべての者に恵みをたれ給え! おお、神よ! かの古《いにし》えのごと人類すべ、また統《す》ぶる者たるべき息子らの父たるあのジェッシーを再びわれのうちに創り出し給わんことを!」
ジェッシーは声高に語っているうちに興奮してきた。そして急に跳びあがると部屋の中をあちこちと歩きまわった。彼は幻想のうちに自らを旧約の古い時代に、そして古き人々の間に住む者のように思った。彼の前に開けている大地はこの上なく大きな意義をもってきた。それは彼の幻想によって、彼自身から生れた新しい人類の住まう国となった。あの古えの時代と同じように彼の住まう現代にももろもろの王国が建設され、そして一人の選ばれた神の子を通じて語られる神の力によって人間の生活に新しい息吹きがふきこまれるように感じられた。彼はそうした神の子たらんことを熱望した。「われこの国に来たりしは神のみ働きを行わんがためなり」と彼は声たかだかと宣言し、彼の矮小《わいしょう》なからだがまっすぐにつっ立った。そして何か神の協賛の後光のようなものが彼のまわりに輝いているように思うのだった。
こうしたジェッシー・ベンドリーを理解することは、後代の男女にとっては、おそらく困難なことだろう。過去五十年の間に、わが国民の生活には大きな変化がもたらされた。事実一つの革命が行なわれたのだ。工業主義《インダストリアリズム》の勃興にともなって種々さまざまな事件の咆哮《ほうこう》と騒音や、海を渡ってわれわれのもとにやって来た数百万の新しい金切り声の叫びや、列車の往来、都市の膨張や、都市と昔の農村とを結びつける都市間連絡鉄道の建設や、それに最近になっての自動車の出現は、われわれ中部アメリカ住民の生活や、慣習に驚くばかり大きな変化をもたらした。書籍は現代の焦燥《しょうそう》の時代にあって下手な想像と筆で書かれたものではあろうが、あらゆる家庭にそなえられ、雑誌は何百万部と発行され、新聞はいたるところで読まれている。店のストーブのそばに立った農夫の心にも現代では他人の言葉があふれるまでにつめこまれている。新聞や雑誌が農民たちにポンプのようにつめこんだものだ。
あの美わしくも子供らしい無邪気さをひめた昔の野性的な無知も永久に姿をかくした。ストーブのそばに立った農夫も町の人々の兄弟にひとしいものとなった。そしてもし注意深く聞くなら、彼らもまたわれわれの中でも最もよりぬきの町の男と同じように流暢《りゅうちょう》に意味もない話をべらべらまくしたてるのだ。
だが、ジェッシー・ベントリーの時代においては、ことに南北戦争後の中西部地方の農村地区においては事情は異なっていた。人々は過激な労働で本を読むにはあまりにも疲れはてていた。彼らには紙に印刷された言葉にたいする欲求はまったくなかった。彼らは野に出て働くうちに、いろいろな漠然としてなかばしか形になっていない思想にとりつかれるのだった。彼らは神を信じたし、また彼らの生活を支配する神の力を信じていた。日曜には彼らは小さな新教の教会に集まり、そして神と神の働きのお説教を聞いた。教会は当時の社会的な、また知的な生活の中心だった。神の姿は人々の心の中に大きな席をしめていた。
このようにして空想にとんだ子供と生まれつき、また偉大な知的熱情を胸中にひそめたジェッシー・ベントリーは真心をこめて神に心を傾けた。南北戦争で彼の兄たちが奪いさられていったときにも、そうした事件の中に彼は神の手を見た。彼の父が病気になってもはや農園の経営を指図できなくなったときにも、彼はやはりそれを神のお指図だと思った。町にいて召喚の手紙が来たときにも、彼はその問題を考えながら夜中の街々を歩きまわった。それに彼が家に帰って農園の仕事がうまくゆきはじめた時にも、ふたたび彼は夜の森の中や低い丘のあたりを歩きまわって神を考えた。
彼は歩いているうちに何かある神の計画の中で彼自身重要な人物となっている気持になりはじめた。彼は貪欲《どんよく》になった。そして彼の農園がわずかに六百エーカーしかないことが、たまらなく不満になった。ある牧場のすみっこの垣根のはしにひざまずくと彼はあたりの静けさに向って祈りの声をはりあげた。そして空をあおぐと星が彼に向って輝いているのを見た。
ある夕べ、父が死んで数ヶ月たち、そして妻のキャセリンが、いつ産褥《さんじょく》にふせなければならないかもわからないというとき、ジェッシーは彼の家をあとにして長い散歩に出た。ベントリーの農園は、ワイン・クリークの流れに灌漑された小さな渓谷にあった。ジェッシーは、流れの土手にそって彼の所有地のはてから、さらに近隣の人々の畑までつきぬけて進んだ。彼が歩いて行くにしたがって谷間は広くなり、またせまくなった。大きく開けわたった野と森のひろがりが彼の面前に展開した。月が雲のかげから現われた。そしてひくい丘を登ると彼は腰をおろして考えにふけった。
ジェッシーは神の真の奉仕者として彼がいま歩いて来たすべての土地は、ことごとく彼の所有に帰すべきものだと考えた。彼は死んだ兄たちのことを考え、また彼らがもっと懸命に働かなかったことや、もっとより多くの土地を得ることができなかったことを責めたてた。月の光をあびて彼の眼前には小さなせせらぎが岩をこえて流れ下っていた。そして彼は彼と同じように家畜や土地を所有していた古代の人々のことを考えはじめた。
なかば恐怖であり、なかば貪欲である狂気的な衝動がジェッシー・ベントリーの心を襲った。彼は旧約聖書の物語の中で、神があのもう一人のジェッシーの面前に現われて、エラの峡谷でサウルとイスラエルの民がペリシテ人と闘っている場所に、彼の息子ダビッドを送るようにと告げたことを憶った。ジェッシーの心の中では、ワイン・クリークの渓谷で土地を所有しているオハイオの農民たちはすべてペリシテ人であり、神の敵であるという考えがわき起った。彼は自分自身に向ってささやいた――「もし彼らのうちからガスのペリシテ人ゴリアースのような奴が現われてこの自分を打ちまかし、そして自分の所有物をうばいさってしまうようなことになったらどうしよう」
彼は幻想のうちに、そうした考えがダビッドの来る前のサウルの心を重く圧迫していたにちがいないと考えると、嘔吐《おうと》をもよおすような恐怖の情にとらわれた。彼は飛びたつと夜の闇の中をかけはじめた。彼は走りながら神の名を呼んだ。彼の声はひくいあたりの丘をこえていちめんにひびきわたった。「戦の神エホバよ」と彼は叫んだ。「われにこの夜キャセリンの腹より一人の息子を送り給え。汝神の恵みを下し給え。ダビッドと呼ばるべき息子をわれのもとに送り給い、かくてあらゆるペリシテ人の手よりこの土地をうばいとり、また彼らをして汝神の奉仕につかえしめ、かくて地上における汝神の王国建設のために役立たしめるようわれに助けの手をのべ給わんことを」
[#改ページ]
敬神(第二部)
オハイオ州ワインズバーグのディビッド・ハーディはベントリー農園の所有主ジェッシー・ベントリーの孫だった。彼は十二の歳になると、昔のベントリー家で暮すことになった。母のルイーズ・ベントリーはジェッシーが一人の息子を与えられんことを神に向って叫びながら野をかけた、あの夜にこの世に生れ出た娘だった。彼女は農家で一人前の女に育つと、ワインズバーグの若者ジョン・ハーディと結婚した。ジョンは後に銀行家になった。
ルイーズと彼女の夫との結婚生活は幸福とはいえなかった。そしてその不幸の原因は彼女にあるのだというのがすべての人々の意見だった。彼女は鋭い灰色の眼と、黒髪をもった小柄な女だった。子供のころから彼女はかんしゃくをおこすくせがあった。そして、かんしゃくをおこしていないときには、しばしば不機嫌にむっつりしていた。ワインズバーグの町では彼女は酒をのむという噂があった。彼女の夫の銀行家は気のよくとどく抜け目のない男だったが、彼女を幸福にしようといろいろ心を悩ました。彼は金ができだすと、ワインズバーグのエルム街に彼女のために大きな煉瓦造りの家を買いとった。そして彼は、妻の馬車を駆るために男の召使をやとった最初の男となった。
だがルイーズを幸福にすることはできなかった。彼女はなかば狂人のようにかんしゃくを爆発させた。その間あるときにはむっつりしているかと思うと、またあるときにはやかましくわめき立てた。彼女は憤怒《ふんぬ》のうちに悪口を吐き泣き叫んだ。台所からナイフを持ち出して来ると、彼女の夫の生命をさえ奪おうとした。あるときには彼女は故意に家に火を放った。そして彼女はしばしば何日間も自分の部屋にとじこもって誰にも会おうとしなかった。
彼女のなかば隠遁者のような生活は、彼女に関するあらゆる噂話の原因となった。ある話によれば、彼女は麻薬をのむといい、またある話では、彼女はしばしばひどく酔っぱらっていて、それは人目につかずにはおかないほどなので、しぜん人目をさけるようにしているのだということだった。夏の午後など、あるときには彼女は家の中から出て来ると馬車に乗った。そして御者をおい払った彼女は自分から手綱を握ると、街々をフルスピードで駆りたてた。もし歩行者が面前にいても彼女はそれをさけようともせず一直線に駆りたてた。そこでどぎもをぬかれた町の人々はかろうじて轍《わだち》の犠牲から逃れるのだった。町の人々にとっては、まるで彼女は彼らを轢《ひ》き殺そうとでもしているように思われた。ひき裂くように辻々をまがり、鞭で馬を打ちたたきながらかずかずの通りを駆りたててすぎると彼女は田舎の方へ車を駆った。家々の姿も見えなくなった田舎の道路まで来ると彼女は馬の足をゆるめた。そして彼女の兇暴で向う見ずな、狂気じみた気持は消えさった。
彼女はもの思いに沈み、ぶつぶつひとりごとをいった。あるときには涙が彼女の眼にあふれていた。しかしそれからまた町へもどってくると、彼女はふたたび静かな街々を狂気のように駆りたてた。もし彼女の夫の勢力とそして町の人々の間にかちえた彼にたいする尊敬の念がなかったなら、彼女は一度ならず町の警官に捕えられていただろう。
少年ディビッド・ハーディはこうした女といっしょに一軒の家で暮してきた。それで想像できるように、彼の少年時代はあまり楽しいものではなかった。そのころ彼はまだ他の人々にたいして自己の意見をもつにはあまりに年若かった。だがときとして彼は自分の母である女にたいして、決然とした意見をいだかすにはおれなかった。
ディビッドはつねにもの静かなきちんとした少年だった。そしてワインズバーグの人々は長い間彼をのろまに近い少年だと考えた。彼の眼は褐色で、子供のころ彼は自分の見ているものが何であるかを見分けようとするふうもなく人々や事物を見つめる癖をもっていた。彼の母があらあらしくののしられるのを聞いたり、また彼女が父をまくしたてている声を聞くと、彼は恐怖におそわれて身をかくすために走りさった。あるときには、彼はかくれ場所を見つけることができなかったが、それは彼の気持を転倒させた。顔を木に向ってすりつけたり、または家の中なら、壁に向って顔をおしつけながら、彼は自分の目を閉じて何も考えまいと試みた。彼は自分自身に向って声高にひとりごとを言うくせがあった。そうしてまだ人生の芽生えどきに、はやくも静かな悲しみの情がしばしば彼の心をとらえた。
ディビッドはベントリー農園に彼の祖父を訪れたときには、まったく幸福で満足を感じた。しばしば彼は町の家に帰らずにおられたらいいのにと思った。あるとき農園に永いこと滞在して帰宅したとき、一つの事件がおこった。そしてそれは彼の心に永久に消しさることのできない焼印をおした。
ディビッドは傭人の一人といっしょに町へ帰ってきた。その男は自分自身の用事で気をせかせていた。そこでハーディ家のある街の入口まで来ると少年を置去りにしてさった。それは秋の夕べの、うす明るいころで空には雲がたちこめていた。ディビッドの心にある想いがわきおこった。彼には父母の住む家に帰って行くことは耐えがたいことに思われた。それで衝動的に家から逃げさろうと決心した。彼は農園の祖父のもとにもどって行くつもりだった。だが彼は道に迷った。そして幾時間もの間恐怖に襲われてすすり泣きながら田舎道をさまよった。それに雨が降り出して空には稲妻がきらめきはじめた。少年の空想はかりたてられて、彼は暗闇のうちに奇怪なものを見、また聞きとられるような幻想にかられた。彼はいま、いまだかって人間が住んだこともない、ある恐怖に満ちた虚無の世界の中を歩きまわり、またかけまわっているのだという気持が一つの確信となって彼の心にうかびあがった。周囲の暗黒ははてしもなく彼をつつんでいるようだった。
木々の間を吹く風の音は恐怖に満ちている。彼の行く道に一隊の馬が現われてきたときには、彼は肝を冷やして垣根によじのぼった。彼は畑をつきぬけてほかの道に出るまでいちもくさんに走った。そしてそこで彼はひざまずくと自分の指でやわらかな地面にさわってみた。彼はまったくの暗黒の中で祖父の姿を失ってしまいはしないかということを恐れた。そして祖父の姿を失ってしまったら、この世の中はまったく空虚なものになってしまうだろうと考えた。
町から家へ帰ろうとしていた一人の農夫が彼の泣き叫ぶ声を聞きつけた。そして彼が父の家に無事つれかえってくれたときにも、ディビッドはまったくの疲労と興奮につかれはてて、彼におこっているのがなんであるかも理解できないほどだった。
偶然な機会でディビッドの父は彼が見えなくなったということを知った。街で彼はベントリー農園からやって来た傭人に会った。そして彼の息子が町に帰ってきたということを知った。それなのに少年が家に帰って来ないと知れたとき、ひとさわぎがもちあがった。そしてジョン・ハーディは数人の町の男たちと田舎の方を捜索に出かけた。ディビッドが人さらいにあったという報《しら》せはワインズバーグの街々にあまねくふれまわされた。彼が家に帰ってきたときには灯火《ともしび》もともされていなかった。だが彼の母が現われて、情熱的に彼をその腕の中にかきいだいた。ディビッドには母が突然別な女になったかのように思われた。彼には、そんなよろこばしい出来事がおころうとは、信じられなかった。ルイーズ・ハーディは自分の手で少年のつかれきったからだをゆあみしてやり、自分から食物を料理した。彼女は彼がただ一人でベッドに入って行くことを許そうとしなかった。そして彼が寝巻に着かえ終ると母は灯火をふき消して、椅子に腰をおろすと彼を自分の腕の中にだきかかえた。
一時間もの間、彼女は闇の中にすわって少年をだきかかえていた。たえまなく彼女はひくい声で話しつづけた。ディビッドにはどうしてこんなにも母の態度が変ったのか理解できなかった。彼女のいつもの不満にふくれた顔も今ではもっとも平和な、もっとも麗《うる》わしいものに思われた。彼が泣きじゃくりはじめると、彼女はますますしっかりと彼をだきしめるのだった。静かに彼女は語りつづけた。それは彼女が夫に向って放つようなあらあらしい言葉や、または金切り声とは打って変って、たとえば木の葉に降りそそぐ雨だれの音のようにも思われた。
間もなく人々が帰ってきて、彼がまだ見いだされないという報告のためドアの入口まで現われた。しかし彼女は彼に姿をかくさせて人々を戸口から追払うまで彼に静かにさせておいた。それは母と町の人々とがいっしょにやっているたわむれごとにちがいないと思った。そして彼は愉快げに笑った。彼の心のうちには、彼が暗闇の中で道を失って恐怖におののいたことなど、まったく何でもなかったのだと思う気持がわきおこった。そして彼は考えるのに、あの長い長い暗闇の道の終わりにも、彼の母が思いがけなくあらわした、このような麗しいものが見いだせるものなら、ああした恐ろしい経験を幾千回くりかえしてもかまわないとさえ思うのだった。
ディビッドが少年時代を終るころには、母に会うことはごくまれだった。したがって彼にとって母はかつていっしょに住んでいたことのある女だという以上の何ものでもなかった。だが、それでも彼は母の姿を心のうちからぬぐいさることはできなかったし、また彼が年をとるにしたがって彼女の姿はますますはっきり彼の心にうかびあがってきた。彼は十二の年にベントリー農園へ移った。ジェッシー老人が町にやって来て、まっこうから少年の養育をひきうけることを要求した。老人は興奮していた。そしてかたくなに自分の考えを実行しようとした。
彼はワインズバーグ貯蓄銀行の事務所でジョン・ハーディと会談すると、二人はそろってルイーズと話すためにエルム街の家にやって来た。彼らは二人ながら彼女がめんどうな問題をおこすだろうと思っていた。その考えは誤っていた。彼女は大変もの静かだった。そしてジェッシーが彼の使命を物語り、また少年を屋外に遊ばせ、古い農家の静かなふんい気の中で養育することの有益な点を少々くどくどと述べたてたときにも、彼女は賛意を現わしてうなずくだけだった。
「それはわたしの存在でけがされていないふんい気ですもの」と彼女は鋭くいいはなった。彼女の両肩は震えをおび、彼女は今にもかんしゃくを爆発させそうな様子だった。
「それはわたしにはけっしてむかない土地でしたけど、男の児にはあつらえ向きの場所です」と、彼女はつづけていった。
「お父さんは、わたしがあの地にいることを好みませんでしたね。それにもちろん、あの家の空気はこのわたしにいいことは一つもなかった。それはわたしにとって血液中の毒素のようなものでした。だが、あの子にとっては事情がちがうでしょう」
ルイーズはからだをめぐらすと、二人の男を困惑の沈黙の中に残したまま部屋から出ていった。以前にもしばしばあったことだが、それから数日の間彼女は自分の部屋にとじこもっていた。
少年の衣類が荷造りされ、そして彼が連れさられていったときにも、彼女はとうとう姿を見せなかった。息子を失ったことは彼女の生活にはっきりした変化をもたらした。そしてそののち彼女は夫といい争う気持をかなり失ったようすだった。そこで、ジョン・ハーディは万事がまことにうまくいったものだと思った。
このようにしてディビッドはベントリー農園でジェッシー老人といっしょに住まうこととなった。老人の姉妹のうちの二人はまだ元気よく農園で暮していた。彼女らはジェッシーの姿を恐れて、彼があたりにいるときには言葉もほとんど交わさないほどだった。姉妹のうちの一人は若いころ、その燃えるような赤毛で有名だった。彼女は生れつき母の気質を備えていた。そして少年の身のまわりの世話をした。毎夜彼が床に入ると彼女が彼の部屋に現われた。そして彼が眠りにおちいるまで床の上にすわっていた。彼がうとうとと、まどろんでくると彼女は大胆になって、いろいろのことをささやくように語った。後になってそのことを考えると、彼は夢を見ていたにちがいないとも思った。
彼女のやわらかにひくい声が彼を愛くるしい愛称でよびかけた。そうして彼は、母が彼のもとに訪れてきたかのように思い、彼が逃亡をくわだてたのち母が示した、あの慈愛にとんだ態度へと母が変ってしまったように夢みるのだった。彼もまた大胆になって、手をのばすと床《ゆか》にすわった女の顔を軽くなでた。すると女は恍惚《こうこつ》として幸福にひたった。少年がやって来てからというもの、古い家に住むすべての人々は幸福を感じた。家のうちの人々を臆病な沈黙におとしいれ、そして娘ルイーズの存在で追いはらうことのできなかったジェッシー・ベントリーのかたくなな面が少年の現われによって明らかに拭いさられたかのようだった。あたかも神が憐みをもよおされて、この男のもとへ一人の息子を送ってよこしたかのようでもあった。
ワイン・クリーク渓谷の中にあってただ一人神の真の奉仕者であることを宣言し、またキャセリンのはらから、一人の息子を与えられ、神がその恩恵をあらわさんことをと願ったその男は、いまこそとうとう彼の祈りがむくわれたのだと考えはじめた。彼はそのときわずかに、五十五歳にすぎなかった。だが外見は七十歳とも思われた。そしていろいろな考えごとや、計画ごとで憔悴《しょうすい》しはてていた。彼の所有地をひろげていこうとする努力はうまく成功した。そしてその谷間の中で彼の所有でない農園はほんのわずかしかなかった。だが、ディビッドがあらわれるまでの彼は、にがにがしく失望にむしばまれた男にすぎなかった。
ジェッシー・ベントリーの心の中には二つの力が働いていた。そして彼の全生涯をとおして彼の心はこれら二つの力の闘争の場となっていた。まず彼の心には昔の想いがわだかまっていた。彼は神に仕える人間となり、また、そのような人間の指導者とならんことを欲した。彼が野の中を歩きまわり、また夜の森の中をさまようことは、彼と自然とを密接に結びつけた。そして熱狂的な宗教人のうちにひそむもろもろの力と合流するのだった。キャセリンから望んでいた息子のかわりに娘の児が生れ出たことによってうけた失望は、ある目に見えない手によつて下された打撃のように彼の心を打ちひしいだ。そしてその打撃は彼の我意の強さをいくらか柔らげはした。しかも彼はなお、神がいつか風に乗ったり、あるいは雲間から姿を現わすかもしれないと信じていた。だが彼はもはやそうした神の現われを要求することはなかった。そして要求のかわりにそれを祈った。
あるときには、彼はまったく疑惑につつまれた人間にかえって、神もこの世を見棄てさったのだと思った。彼はあの不思議な雲のあらわれを見ては畑をさり、家をすてて新しい人類創造のために荒野へと走った、あの素朴なそして甘美な時代に住むことのできない彼の運命を悲しんだ。彼は自分の農園がますます収穫をますように、また彼の所有地がますます広くなるようにと日夜心を砕いたが、その間にも、神の殿堂の建設のため、不信仰なものの征服のため、またなべて地上における神の名の栄光をいやますための仕事に自己のみちあふれた力を用いることができないことを残念におもった。
それがジェッシーの渇望したものだったが、さらにまた彼の渇望してやまない他のものもあった。彼の生長したのはアメリカ南北戦争ののちの時代だった。そして当時のあらゆる人間と同じように彼もまた、当時の近代工業主義が勃興した時代に汪溢《おういつ》していた大きな力の影響をうけた。彼はより少数の人間で農園の仕事を立派にやってのけることができるいろんな機械を買いいれはじめた。そして、もし彼がもっと若かったら農業などまったくやめてしまって、ワインズバーグに機械製造の工場を建てたことだろうとしばしば考えた。
ジェッシーは新聞や雑誌を読む習慣をつけていた。彼は針金で垣根を造る機械を発明した。あの彼の心のうちに長い間つねにつちかいやしなわれてきた旧約の古い時代と場所のふんい気も、他の人々の心の中に現在芽生える新しいものに較べてはまったく縁もゆかりもない奇怪なものにすぎないということがかすかながら彼にもわかってきた。世界の歴史のうちでもかつてない唯物的な時代がはじまろうとしており、そこでは戦いは愛国的熱情もなく戦われ、人々は神を忘れ、わずかに道徳律だけがかえりみられ、奉仕への意志にとってかわって戦力への意志がものをいい、そして人類の物質欲へのしゃにむな恐るべき突進の中で美の観念もほとんど忘れさられてしまうであろう。
そうした時代のはじまりが、彼の周囲のあらゆる人間にたいしてと同じように、また神に仕える男ジェッシーにたいしても大きな影響を与えつつあった。彼のうちにひそむ貪欲心は、田畑を耕してうるよりもっとすみやかに金をもうけることを求めた。一度ならず彼はワインズバーグに出てきては、義理の息子ジョン・ハーディとそのことについて語った。「あんたは銀行屋だから、わしの持てなかったようないろんな機会がつかめます」と彼は語った。そして、彼の眼は輝いた。
「わしはしょっちゅうそのことを考えとるのですが、この国じゃすばらしいことが企てられましょうぜ。わしの夢見たことのないような金ができてきましょうぜ。あんたはそれを見のがしちゃいかん。わしももっと若けりゃあ、あんたのような機会にめぐまれとったろうになあ」
ジェッシー・ベントリーは銀行の事務所の中を歩きまわりながら、話をしているうちにますます興奮してきた。彼は一時期、中風で倒れそうになった。そしてそののち彼の左半身はいくらかよわよわしくなっていた。彼が話をするとき、左の眼はけいれん的にしばたたいた。後ほど彼が馬車を駆って家にかえるとき、夜のとばりが訪れて星が空にきらめきはじめたときにも、あの頭上の天空に住まい給い、その手をさしのべて彼の肩の上におき、彼にある英雄的な事業の完成を命じ給うかもしれない、あの切実な人格化された神を身近に感じていた感情も、いつかふたたびとりもどすことの困難なものになっていた。ジェッシーの心はひたすらに新聞や雑誌にあらわれた記事や、商売上手な機敏な男がほとんど努力もなしにこしらえあげる財産というようなものに固定された。彼にとって少年ディビッドの出現こそは更新された力をもって彼の昔の信仰をとりもどす力となった。そして神もついに好意ある態度で彼をながめるようになったのだと彼は思った。
農家にきた少年にとって、人生は数かぎりない新鮮な歓びにみちた姿であらわれはじめた。彼の周囲のすべての人々の親切な態度は、彼のおとなしい性質をのびのびと生長させた。そしていつもまわりの人々にたいして持っていた、なかば臆病な遠慮がちな態度も失われていった。ながい昼の納屋《なや》や野の中の冒険ののち、あるいは祖父といっしょに畑から畑へと馬を駆ったのち、夜ベッドに入った彼は家の中のすべての人々を抱擁したいと思った。もし毎夜彼のベッドのそばの床の上にすわってくれる女シャーリー・ベントリーがすぐにやって来ないことでもあると、彼は階段の上り口に出て大声に叫びたてた。彼の若やいだ声は、長い間沈黙の伝統にとじこめられていた狭い廊下にひびきわたった。あさ目覚めて静かにベッドに横たわれば、窓をとおして彼の耳を訪れる種々さまざまな物のひびきが彼の心を歓喜にみたした。
彼はあのワインズバーグの家の生活や、またいつも身の毛がよだつ思いをせずにはおられなかった母の怒った声を思うと身ぶるいした。この田舎ではあらゆる音響が愉快なひびきをもっていた。あけ方目覚めてみれば家の裏手の納屋前の庭も目覚めている。家々には人々が動きまわっている。半馬鹿娘エリザ・ストートンは、傭人から胸のあたりをつつかれて、騒々しげにくくと笑った。遠くの野で牝牛が鳴くと、うまやの中の家畜もそれに和して鳴く。そして傭人の一人はうまやの入口で馬の手いれをやりながら馬に向って鋭くどなった。ディビッドはベッドからとび起きると窓口へ走り出た。動いている人々のすべてが彼の心の興奮剤となった。そして町の家で母は今何をやっているだろうと不可解に思うのだった。
彼自身の部屋の窓からは、農夫たちが朝の仕事をはじめるために集まる納屋前の庭は、直接には見下せなかった。しかし彼は人々の話し声をきき、また馬のいななきを耳にすることができた。男の一人が笑うと彼もまた笑った。彼はあけっ放した窓から半身をのり出して果樹園をながめた。そこには肥った牝豚が一連隊の子豚をひきつれて歩きまわっている。毎朝彼は豚の数をかぞえるのだった。
「四、五、六、七」指をぬらして、窓の張出しに行儀の悪い線の印をつけながら彼はゆっくり数えていった。ディビッドは窓べを走りさるとズボンとシャツを着はじめた。戸外に飛び出したいはげしい欲求が彼の心をとらえたのだ。毎朝彼は階段をかけおりながら大変な音をたてた。それで家政婦のサリーおばさんは、ののしり声をあげて、彼が家をふみつぶそうとしているのだとわめきたてた。彼は大きな音をたてて途中のドアをしめたてながら、長い旧家を走りぬけると納屋前の庭へあらわれた。そして何ものかを待ちかまえるような驚異の眼をもってあたりをながめまわした。
彼にとってこうした場所には、何か驚くべきことが夜の間におこっていたにちがいないと思われた。農夫たちは彼を見て微笑を送った。ジェッシーがこの地を所有して以来農園に働いている老人で、ディビッドの現われる以前には、けっして冗談をいったことがないので有名なヘンリー・ストレイダーは毎朝きまって一つ文句の冗談をいった。それが面白くて、ディビッドは手をたたいて大声に笑った。
「や、や、ここにきてごろうじろ」と老人は叫ぶのだった。「ジェッシーおじいさんの白牝馬が、黒靴下をはきやぶっとるぞ」
長い夏の間くる日もくる日もジェッシー・ベントリーは孫をつれるとワイン・クリークの谷間をあちこちと農園から農園へ馬を駆った。彼らは白馬にひかれた乗心地のいい旧式の軽馬車に乗っていた。老人は彼のまばらな白ひげをなでながら、彼らの通って行く畑の収穫を増加させる計画や、またあらゆる人間のつくりだす計画なるものに働く力について、自分自身に語るのだった。ときおり彼はディビッドの方をふりかえって幸福そうにほほえんだが、それからまたふたたび彼は長い間、少年の存在を忘れてしまった様子だった。
日がたつにつれてしだいに彼の心はまたもや、あの彼がはじめて町から帰ってきてこの地に定住したころ彼の心をみたしていた夢へもどっていった。ある夕べ彼は自分の夢にまったくわれを忘れてディビッドを驚かせた。彼は少年を証人として祈祷の式を行なった。そしてそれは彼と少年との間に芽ばえはじめていた楽しみの情をほとんど破壊してしまいそうな事件をひきおこした。
ジェッシーと、彼の孫は家から数マイルへだたった谷の遠くの方を走っていた。森が路のそばまでせまってきて、ワイン・クリークの流れは森をぬけて岩の上をのたくるように流れながら遠くの河へ流れ下っている。その日の午後ずっとジェッシーは考えに沈んでいるふうだった。だが今や彼は語りはじめた、彼の心はあの巨人があらわれて彼の所有物を盗み掠奪してゆくのではないかという恐怖におびえた夜の記憶にたちかえった。そして彼はふたたび息子を求めて大声に叫びながら田畑の中をかけまわったあの夜と同じように、ほとんど気も狂わんばかりに興奮してきた。馬をとめると彼は馬車からおりた。そしてディビッドにもおりるように求めた。
二人は垣をよじ越えて流れの岸にそって歩いた。少年は祖父のつぶやき声には何の注意も払わなかった。そして彼のそばを小走りにかけながらこれから何がおこるのだろうかといぶかった。兎がとびたって森の中へ逃げさったとき、彼は手をたたいて悦びおどった。彼は高い木々を見上げては、小さな獣のように何の恐れもなく空中高くよじのぼることのできない自分を残念に思った。腰をかがめると彼は小さな石ころを拾いあげて、祖父の頭ごしに木立のしげみに投げこんだ。
「おきろ、けだもの、さあ、木のてっぺんまでよじのぼるのだ」と彼は金切り声で叫んだ。
ジェッシー・ベントリーは頭を垂れて、今にも爆発しそうにブスブスいぶる心をいだきながら樹々の下を歩いた。彼の謹厳な様子は少年の心にも伝わった。そして少年は間もなく口をつぐんで胸の内にかすかな恐怖をいだいた。老人の心には今やまさしく神が天空から、言葉か、あるいは御印《みしる》しを送ってよこすにちがいないという考えがおこった。森の中の寂《じゃく》とした地にひざまずいている少年と老人との存在は、彼が待ちかまえていた奇蹟を今やほとんど必然的に出現せしめずにはおかないのだと考えるのだった。
「それはちょうどこういう場所だった。あの、もう一人のディビッドが羊番をしているとき、もう一人の父ジェッシーがやって来て、サウルのもとに行くようにと命じたのは」
少年の肩をあらあらしくとらえると、老人は倒れた大木をよじ越えて行った。そして樹々にとりかこまれた開けた土地まで来ると、彼はひざまずいて声高くお祈りをはじめた。
今だかつて意識したこともない恐怖がディビッドの心にわきおこった。木の下にうずくまると、彼は眼の前の地上にぬかずいた老人を見守った。そして彼の両膝は震えてきた。彼はいま、彼の祖父の面前にいるばかりでなく、まるである他の人間、ある彼に危害をおよぼす恐れのある人間、ある無情な、そして危険きわまりのない獣的な人間の面前にいるかのように思った。彼は泣き叫びはじめた。そしてかがみこむと小さな木の片を拾い上げ、彼の手のうちにしっかりと握りしめた。
ジェッシー・ベントリーは、自分の考えにあたりを忘れて、突然に立ちあがると少年の方へ進んできた。すると、少年は恐怖で全身がわなわなと震えた。森のうちには無限の静寂があらゆるものの上にのしかかっているようだ。そして突然そのしじまを破って老人のあらあらしいかたくなな声が聞えた。少年の肩をわしづかみにするとジェッシーは彼の顔を空に向けて叫んだ。彼の顔の左の半面全体がけいれんで波うっている。そして少年の肩にかけた手もまたけいれん的にふるえている。「神よ、われに御印しを与え給え。大空よりわれのもとにあらわれ給い、かくて汝の存在をわれに知らしめ給え」
恐怖の叫び声とともにディビッドは身をひるがえすと、彼をとらえた手をふり払って森の中を逃れていった。彼には、あの顔を仰向けてあらあらしい声で空に向って叫びたてる男が彼の祖父であるとは思われなかった。その男は彼の祖父とは似ても似つかない姿だった。ある恐るべき奇怪なことがおこったのだという確信、何らかの奇蹟で、新しい危険きわまりない人間が、親切な老人の肉体に入りこんできたのだという確信が少年の心を捕えた。彼はすすり泣きながら、どんどん丘を走り下りた。彼は木の根につまずいてぶっ倒れた。そして頭をしたたかぶっつけたときにも彼はふたたび立ちあがって逃げようともがいた。彼の額は傷ついて、そのため倒れると動けなくなった。だが彼の恐怖がすっかりいえたのは、ジェッシーが彼を馬車へとはこびこんで、老人の手が気絶している彼の頭をやさしくなでさすっているのに気づいたときだった。
「おうちに帰ろうよ。あすこの森の中には恐ろしい奴がいるんだもの」と少年はしっかりした口調で述べた。そしてその間にもジェッシーは樹々の頂きをこえて遠く眼をはせながら、またもや彼の唇は神に向って叫び出すのだった。「何ゆえに汝神はわれをよみし給わずや」と彼は軽くつぶやいた。そして彼は少年の傷ついて血のにじんだ頭をやさしく肩先にもたせかけながら迅速《じんそく》に馬をかり立てて路をいそぐ間にも、幾たびも幾たびもくりかえしその言葉をつぶやくのだった。
[#改ページ]
降服(第三部)
ジョン・ハーディ夫人となってワインズバーグのエルム街にある、煉瓦造りの家に住んだルイーズ・ベントリーの物語は一つの誤解の物語である。
ルイーズのような女性が理解され、そして彼女たちの生活が生活できるものとなるためには、多くのことがなされなければなるまい。慎重な考慮をはらった種々の本が書かれ、また慎重な考慮の生活が彼女らをとりかこむ人々によって生活されなければなるまい。
よわよわしく過労に疲れはてた母と、衝動的でかたくなで、空想的な父との間に生れ、それに彼女の世に生れ出たことを好意をもってながめることのなかった父との生活によって、ルイーズは子供のころから神経病患者であった。それは近代|工業主義《インダストリアリズム》によってその後の時代に、数多くこの世に生みだされた、あの過度な敏感さをもった女性族の一人にほかならない。
子供のころ彼女はベントリー農園で生活した。この世の中の何ものにもまして愛を飢えもとめながら、それを得ることのできない黙り屋の気むずかしい娘だった。十五の年に彼女はアルバート・ハーディの家族といっしょにワインズバーグに住むことになった。というのはアルバート・ハーディはその町で軽装馬車や荷馬車を売る店をもっていて、その町の教育委員会の委員をつとめていたのだから。
ルイーズはワインズバーグ高等学校に入学するためにこの町へやって来た。そして、アルバート・ハーディと彼女の父とが友人だというのでハーディ家で生活することになった。
ワインズバーグの車輌商ハーディは当時の多くの人々と同じように教育に熱心な男だった。彼は書物からの学問はないままこの世の中で自分の道を切り開いてきた。しかし彼はもし彼が書物を読んでいたとしたら、もっといい途《みち》がひらけてきただろうと確信していた。彼の店にやって来るすべての人々に彼はそのことを語った。そして家庭にあってもそのことをくどくどと述べたてて家族の者を当惑させた。
彼には二人の娘と一人の息子ジョン・ハーディがあった。そして再度ならず娘たちはまったく学校などやめてしまおうとする恐れがあった。もちろん彼女らは原則としてちょうど罰をうけないですむ程度の勉強はした。「わたし書物なんかきらいよ。それに書物なんか読む人は誰だってきらいだわ」と妹のハリエットは勢いこんでいいはなった。
ワインバーグに来てもルイーズは農園にいるときと同じように幸福になれなかった。長い間彼女は世の中にとび出して行けるときを夢みていた。そして彼女はハーディ家の家庭に移り住むことは自由への大きな一歩だと待ち望んでいた。彼女はそのことを考えるとき、いつも町は歓喜と生活とにみちみちていて、そこでは男も女もたとえば頬にたわむれる風のおとないを享受するように、友情と愛の語らいをとりかわしあって自由で幸福な生活をしているにちがいないと思った。ベントリー家の沈黙と歓喜のない生活を後にして、彼女は温かな生活と現実に波打っている世界に乗り出してゆくことを夢みていた。それで、もし彼女が町へ出てきたとき、ただ一つの誤りを犯さなかったとしたら、おそらくルイーズは彼女がこんなに飢えもとめているものの幾分かをでもハーディ家の家庭で手に入れることもできただろう。
ルイーズは学校の勉強に心を傾けたことからハーディ家の二人の娘、メリーとハリエットの不興をかった。彼女は学校のはじまるその日にやって来た。それで勉強のことについて二人の娘のもっている気持については何も知るところがなかった。彼女は臆病で、最初のひと月の間は彼女らと親しくなることもなかった。毎金曜日の午後には農園から傭人の一人が馬車を駆ってワインズバーグにやって来た。そして週末の休みのために彼女を家につれ帰った。それで彼女は土曜の休日を町の人々とともに送ることもなかった。彼女は当惑し、孤独を感じていた。だがそれゆえに彼女は学校のことをたえまなく勉強した。
それはメリーとハリエットにとって、あたかもルイーズが勉強で彼女たちを困らせようとしているかのように思われた。よく思われようとする熱心から、ルイーズは先生がクラスの生徒たちに出すすべての質問に答えようとした。彼女は元気のいい立居ふるまいをやり、彼女の眼はかがやいた。それにクラスの他の者が答えのできないような質問に答えた場合には彼女は幸福にほほえんだ。
「ごらん、わたしがかわってあんたたちに答えてあげたのよ」と彼女の眼は語っているようだった。
「あんたたちは何も心配しなくったっていいのよ。わたしがみんな質問には答えてあげるわ。わたしがここにいる間は誰だってみんな安心していていいのよ」
ハーディ家の食事が終った夕べには、アルバート・ハーディはルイーズを賞賛しはじめるのだった。先生の一人が彼女のことを大変ほめたたえた。それで彼は得意になっていた。「さあ、わしはまた聞きましたぞ」と彼は自分の娘たちに鋭いまなこを送ると、それからふりかえってルイーズにほほえみを送りながら語りはじめた。
「またほかの先生も、ルイーズの立派な成績をほめましたぞ。ワインズバーグの誰でもが、この娘の、スマートさをほめないものはないのです。わたしぁ人々が、わしの娘について、そういってくれないのが恥ずかしいわい」やおら腰をおこすと商人は部屋の中を歩きまわって夕べのタバコに火をつけた。
二人の娘はお互いに顔を見あわして、退屈げに首をふった。彼女らの無関心げなふうを見ると父親は怒った。
「わしぁいうがね。これぁお前たち二人にとっちゃぁ考うべきことなんですぞ」と彼女らをにらみつけながら、彼は叫んだ。
「このアメリカにも大きな好機が恵まれようとしている。そして、勉強だけが来るべき時代のただ一つの希望ですぞ。ルイーズは金持の娘だが、あの娘《こ》は勉強することを恥とは思っとらん。ほんとにあの娘のやることを見て、お前たちぁ恥ずかしいとは思わんのかね」
商人は入口のそばの帽子掛から帽子をとると夕べの外出の用意をした。ドアの入口で立ちどまると彼はじろっとにらみかえした。その態度はひどく鋭いものがあってルイーズは恐怖を感じた。そこで彼女は自分の部屋へと階段をかけのぼった。娘たちは、自分らのかってなことをおしゃべりしはじめた。
「わしのいうことをよく聞きなさい」と商人がほえたてた。「お前たちの心は腐っとる。教育にたいするお前たちの無関心の態度というものぁ、お前たちの性格までも腐らしておるわ。お前たちぁ、ろくなものになるまい。わしのいうことをようく聞いときなさい――ルイーズはお前たちをまるっきり引きはなしてしまって、もう追いつくこともできないのですぞ」
怒りに気の転倒した男は家から出ると憤怒にからだを震わせながら街へと歩きでた。彼は小声につぶやきながら呪いの言葉を吐きながら歩いた。だが本町通りに出てきたとき彼の怒りは消えうせていた。彼はほかの商人や、あるいは町に来た農夫をとらえては時候や、穀物のみのりについて語りあった。そして彼の娘のことはまったく忘れているか、さもなければもし想い出しても、ちょっと肩をすぼめるにすぎなかった。
「うん、まあ娘は娘だからな」と彼は哲学的につぶやくのだった。
家では、ルイーズが二人の娘たちのいる部屋におりてきたときにも、二人の娘たちは彼女とかかわりあいを持たないようにするのが常だった。ルイーズがその家に来て六週間以上もたったころ、あいも変らず取扱われる冷たい態度に心を打ちひしがれていたある夕べ、彼女はわっと涙にかきくれた。
「泣くのなんかおよしよ。部屋にかえって本でも読んだらどう」とメリー・ハーディが鋭くいった。
ルイーズの占めていた部屋はハーディ家の二階にあった。そして部屋の窓は果樹園を見おろしていた。部屋にはストーブがすわっていた。そして毎夕べ年若いジョン・ハーディが腕いっぱいに薪《まき》をはこんで来ては壁ぎわの箱に入れた。その家に来て二か月目になると、ルイーズはハーディ家の娘たちと友だちになろうとするあらゆる希望をなげすてた。そして夕べの食事が終るとすぐに彼女は自分の部屋へとじこもるのだった。
彼女の心はジョン・ハーディと友だちになろうという考えとたわむれはじめた。彼が薪を腕いっぱいにかかえて部屋に入って来ると彼女は勉強にいそがしいふうをよそおいながら、その実、熱心に彼を見守った。彼が薪を箱の中におさめて部屋から出て行くために振り向くと、彼女は顔をうつむけて赤くなった。彼女は話かけようと試みたが、何もいうことができなかった。そして彼が去った後では、彼女は自分の愚かさに自分からむかっ腹をたてるのだった。
田舎出の娘の心はその若者に接近したいと思う考えでいっぱいになった。彼女にとっては彼の中にこそ彼女がその生涯の間人々の心の中に探し求めていたあるものを見いだせるように思われた。彼女にとって彼女自身とこの世の中のあらゆる他の人々との間には一つの壁が打ちたてられていて、彼女は他の人々にとっては大っぴらに開放され、諒解されうるものであるにちがいない温かい人生の外がわに立って生活しているにすぎないもののように思われた。彼女は、あらゆる彼女の人づきあいをまったくちがったものにするためには、ただ彼女の側のある勇敢な行動だけが必要なのであって、またそうした行動によってのみ、たとえば人が戸をあけて部屋の中へ入って行くように新しい生活へも入って行けるのだという考えにつかれていた。
夜も昼も彼女はそのことを考えた。だが彼女がそれほど熱烈に飢え求めていたものは何か大変温かな身近なものではあったが、なお、それは性《セックス》との意識的なつながりをもってはいなかった。それは、そうした決定的なものにはなっていなかった。そして彼女の心がジョン・ハーディを対象にして燃えていたというのも、それはただたんに彼が手近にいて、彼の姉妹のように無愛想ではなかったという理由からにすぎなかった。
ハーディ家の姉妹のメリーとハリエットは、どちらもルイーズより年上だった。この世のある種の知識にかけては彼女らは数年年上だった。彼女らの生活はあらゆる中西部の年若い女性の生活と変りなかった。当時では年若い女が故郷の町を出て東部の大学《カレッジ》に入ることはなかった。また社会的な階級についての考えもまだ存在しはじめてはいなかった。労働者の娘も、農民の娘も、また商人の娘も社会的には同一の地位にあった。有閑階級は存在しなかった。
「娘は器量よし」かまたはその反対だった。もし器量よしの娘なら彼女は相手の男を持っていて、日曜や水曜の夜になると、男は女に会うために女の家へやって来た。あるときには彼女はその若者といっしょに舞踏や教会の催しものに出かけた。またあるときには彼女は家で彼をもてなしたが、その目的のために客間を用いることも許された。誰も彼女のところに侵入するようなことはなかった。何時間も何時間も二人は閉ざされたドアの内にすわっていた。あるときには灯火の芯が低くかきおろされて若者と娘は抱擁しあった。頬は熱くほてり髪はほつれ乱れた。一年か二年たって彼らの心の衝動が十分ねばり強くまた強力なものである場合には彼らは結婚した。
ワインズバーグに来て最初の冬のある夕べ、ルイーズは一つの冒険をやった。そして、それは彼女とジョン・ハーディとの間に横たわっていると考えられた障壁を打破したいと思う彼女の欲求に新しい拍車をかけることになった。それは水曜日だった。そして、夕べの食事が終るとすぐにアルバート・ハーディは帽子をかぶって家を出た。若者ジョンはルイーズの部屋に薪を持って来て箱の中に入れた。
「よく勉強するね」と彼がおずおずいった。そして彼女が返事をするひまもなく彼は部屋から出て行った。
ルイーズは彼が家から出て行くのを聞いた。そして彼の後を追って行きたい狂気じみた欲望にとらわれた。部屋の窓をあけると、半身をのり出して小声に呼んだ。
「ジョンさん。可愛いジョンさん。もどってきて、行ってしまっちゃいや」それは曇った夜で彼女は闇の中を遠くまでは見通せなかった。だが彼女が待ちかまえているうちに誰か果樹園の樹々の間をつま足立って通って行くような、柔かな小さな音が聞えてくるように幻想した。彼女は恐怖を感じて、すばやく窓をしめた。興奮にうち震えながら一時間もの間彼女は部屋うちを歩きまわった。それから、彼女は待つのにたえられなくなると廊下にしのびでて、そして階段を下りると客間に通じる物置みたいな部屋へしのびこんだ。
ルイーズは、数週間心のうちで考えぬいていたある勇敢な行動を、あえてしようと決心していた。ジョン・ハーディは彼女の窓の下の果樹園にひそんでいるにちがいないと彼女は確信した。そして彼女は彼を見つけだし、彼が彼女のそばに近くによって、彼女を胸の中にいだきしめ、彼の考えや夢を彼女に語ってきかせてくれるように、また彼女が彼女の想いや夢を語る間は耳を傾けて聞いてくれるようにと願っているのだということを彼にうちあけようと決心した。
「闇の中だったらうちあけることもたやすいだろう」と彼女はその小さな部屋の中に立って入口を手さぐりに探しながら自分自身にささやいた。
そのとき突然ルイーズは家の中にいるのは彼女ひとりではないということに気づいた。ドアの反対側の客間の中でやわらかな男の声がした。ルイーズはやっとのおもいで階段の下の小さな隙間に身をかくすと、メリー・ハーディが若者にともなわれて小さな闇の部屋に入って来た。
一時間もの間ルイーズは闇の中の床《ゆか》にすわって聴き耳をたてた。言葉もなくメリー・ハーディは一夕を彼女とともに送るために訪れた若者の助けをかりて、この田舎出の娘に男と女との間の知識を教えこんだ。丸く小さな球になるまで頭を床におしつけながら彼女は微動だもせず横たわった。彼女にとっては、ある神々の不思議な力によってメリー・ハーディにある偉大な賜物《たまもの》が与えられ、したがって彼女は年老いた婦人たちの頑強な非難の声など気にするひまはないのだというふうに思われた。
若者はメリー・ハーディを彼の胸の中に抱いて接吻した。彼女が抵抗して笑い声をたてると彼はますますしっかりと彼女を抱きしめた。長い間二人の争いがつづいてそれから彼らは客間へもどつて行った。そしてルイーズはのがれるように階段をかけ上った。
「あんたたち、あすこじゃあ静かだっただろうね。あのねずみさんの勉強をさまたげちゃぁいけないわよ」と二階の廊下の彼女の部屋の入口に立ったとき、ハリエットが彼女の姉に向っていっているのが聞えた。
ルイーズはジョン・ハーディに手紙を書いた。そして、その夜おそく家じゅうのすべての者が眠りにおちいっているころ、階下にしのびおりると彼のドアの下にそれをしのばせた。彼女はもしすぐにもそれを敢行しないなら、そうした勇気をなくしてしまうだろうと恐れた。手紙の中で彼女は、自分の欲していることを、明らかに書き表そうと試みた。「わたし誰かから愛してもらいたいの。そしてまたわたし誰かを愛したいと思うの」と彼女は書いた。
「もしあなた、わたしでよかったら、夜果樹園にきてわたしの窓の下で合図をして下さい。わたし小屋の屋根からはいおりて、あなたのところに行くくらいは、たやすいことだわ。わたしそのことをいつも考えてるの。もしあなた、いらっしゃるのなら、早い方がいいわよ」
長い間ルイーズには、愛人を獲得しようとする大胆な試みがどんな結果を生むものかわからなかった。ある面からすれば彼女はいったい彼に来てほしかったのか、あるいはそうでなかったのか自分にもわからなかった。固く抱擁され接吻されることは、あるときには人生をつつむ偉大な神秘であるようにも思われたし、またあるときには新しい衝動におそわれて彼女はひどく恐怖を感じた。所有されたいという、時代を問わない女の願望が彼女を捕えたのだ。だが彼女の人生の考え方はひどく漠然としたもので、たとえばジョン・ハーディの手がちょっと彼女の手にふれあっただけでも満足しただろうと思われるくらいだった。彼女はそうしたことが彼に理解できるかどうかをあやしんだ。
次の日食事の席では、アルバート・ハーディがお説教をし、そして二人の娘がささやきあい、また笑いあっている間、彼女はテーブルの上ばかり見つめてジョンの顔を見上げることができなかった。そして食事を終ると、できるだけ早く席をのがれさった。夕べになると彼女は家から出て行った。そして彼が薪を彼女の部屋にもってきて出て行ったことをたしかめるまでは帰らなかった。数日の間懸命に聴き耳をたてた夕べを送ったのち、果樹園の暗がりの中から何らの呼び声も聞くことができなかったとき、彼女は悲しみでなかば気も狂わんばかりだった。そして、あの人生の悦びから彼女をしめだしている壁を打ち破る道は彼女にとってはまったく存在しないのだとひとり決めてしまった。
そののち彼女が手紙を書いて二、三週間たったある日曜日の夕べ、ジョン・ハーディが彼女を訪れた。ルイーズは彼が訪れるという考えをまったく放棄していた。それで長い間果樹園からの呼び声には気づかなかった。その前の金曜日の夕べには彼女は週末の休みに農園にかえるために傭人の一人に馬車で送られながら、衝動的に自分でも驚くようなことをやってのけた。それでジョン・ハーディが窓下の闇の中に立って彼女の名前をやわらかに、そしてながながと呼びたてたとき、彼女は自分の部屋の中を歩きまわりながら、いったいどうした新しい衝動が彼女をあのようなばかげた行動に導いたのだろうかと不可解に思うのだった。
黒い巻き毛の若者の傭人は、その金曜日の夕べいくらか遅く彼女をむかえに来た。そして彼らは闇の中を家へと馬車を駆った。ルイーズの心はジョン・ハーディの考えでいっぱいになっていた。そして彼女は話をはじめようと試みた。しかし田舎の少年は当惑して何も答えようとしない。彼女の心は自分の幼年時代の孤独をふりかえりはじめた。そして彼女は現在彼女を訪れている新しくはげしい孤独を、胸のうずきとともに心に意識した。「わたし、すべての人間をにくんでやるわ」と彼女は突然に叫んで、それから彼女の従者を恐怖させるような毒舌を吐きはじめた。
「わたし、お父さんもそれからハーディおじさんだってきらいだわ」と彼女は激しくいいはなった。
「わたし町の学校で勉強してるけど、それだってわたしのろってるのよ」
ルイーズは振り向くと、傭人の肩に彼女の頬をおしつけてますます彼を恐怖させた。おぼろ気ながら彼女はあのメリーといっしょに闇の中に立っていた若者のように、彼がその腕を彼女のからだにまわして接吻してくれればいいのにと思うのだった。しかし田舎の少年はただますます警戒的になるばかりだった。彼は鞭《むち》をあげて馬をうつと口笛を吹きはじめた。「ひどい路だね」と彼が大声にいった。かんしゃく玉を爆発させたルイーズは手をのばすと彼の頭から帽子をひったくって路の上へ投げだした。彼が馬車から飛び降りてそれを拾いに行っている間に、彼女は馬を駆りたてた。そしてとりのこされた少年は農園への残りの道を歩かなければならなかった。
ルイーズ・ベントリーはジョン・ハーディを彼女の愛人に選んだ。それが彼女の求めていたものだというのではなかった。だが若者が彼女の態度を解釈したところではそうしたものにほかならなかった。そして彼女は、あるそのほかのものを得たいと思う願望にあまりに熱中していたので、何らの抵抗もしなかった。数か月たって彼女が母になろうとしているということを恐れなければならなくなったとき、二人はある夕べ田舎の屋敷にかえって結婚式をあげた。数か月の間彼らはハーディ家で生活したが、それから彼らは自分らの一家をかまえた。最初の一年の間、ルイーズは、あの彼女に手紙を書くようにと導いたところの、そして今でも満たされることのない、おぼろげな解きほごすことのできない心の飢えを夫に理解してもらおうとした。一度ならず二度ならず彼女は彼の腕の中にはいこみながらそれを物語ろうと試みた。
だが、それはいつも不成功に終った。男女の間の愛についての自己流の考えでいっぱいになった夫は彼女の言葉になど耳を傾けようとせず、唇の上に接吻をはじめるのだった。それは彼女の気持をまったく混乱させて、とどのつまり彼女は接吻されることをも願わなくなった。彼女には自分の飢え求めているものが何であるか自分でもわからなかったのだ。
彼らを結婚へ追いこんだ恐怖の情が根拠もないものだとわかったとき、彼女は怒ってにがにがしく相手を刺すような言葉をはいた。そののちディビッドが生れたときにも彼女は彼に乳を与えることができなかった。それに彼女は子供の生れることを望んでいたのか、またそうでなかったのかさえ自分でもわからなかった。あるときには彼女は終日彼とともに部屋にとじこもって、部屋じゅうを歩きまわり、思いだしたように彼のそばへしのびよって、やさしく手で彼に触れてみるのだった。それからまたあるときには、この家に現われたちっぽけな生物を眼に見ることも、またその近くにいることもいやだというような日があった。
ジョン・ハーディが彼女の愛情のなさを非難したとき彼女は笑った。
「これは男の児ですもの、結局すきなことをやるようになるのだわ」彼女の言葉は鋭かった。
「これがもし女の児だったら、わたしはどんなことだってこの児のために骨おしみするようなことはないでしょうがね」
[#改ページ]
恐怖(第四部)
ディビッド・ハーディが、背の高い十五の少年になったころ、彼は母と同じように彼の人生の全体の流れを変えて、彼をおだやかな流れの一隅《いちぐう》から人生の荒波へと押しだすことになったある冒険をおこなった。彼の生活環境の殻が打ち破られて、彼は新しく出発することをよぎなくされたのである。彼はワインズバーグを去った。そして誰もそののち彼と会ったものはない。彼が姿を消してのち、彼の母も祖父もともに死んでしまった。そして父は大変な金持になった。父は息子の所在をさがすために莫大な金を費した。だが、それはこの物語の関するところではない。
それは、ベントリー農園の異常な年の秋おそくだった。いたるところで穀物が重くみのっていた。ジェッシーはその春、ワイン・クリークの渓間《たにま》にある一連の細長い黒土の沼地の一画を安い値段で買いとった。だが、その改良のためには多額の金を使った。大きな溝が掘られ、無数の土管がうめられなければならなかった。近隣の農夫たちはそうした多額の出費を見て首をふった。彼らのある者はあざわらい、そしてジェッシーがそうした投機でひどい損害をこうむればいいのにと思うのだった。しかし老人はもくもくと仕事をはこんで何も語らなかった。
土地の水はけができあがると彼はそこにキャベツとねぎを植えた。で、近隣の者はふたたびあざ笑った。しかしみのりは大変なものだった。そして良い値をだした。その一年間にジェッシーは土地の手入れの費用の全部を支払うのに十分な金をこしらえあげ、そのうえまたその剰余金から二つの農園を買いとることができた。彼は得意満面で、その悦びをかくすことができなかった。彼の長い農園所有の歴史のうちで、彼が傭人たちに笑顔で接したのはこのときがはじめてだった。
ジェッシーは労働の費用を切り下げるためたくさんの新式の機械を買いいれた。そして一連の豊かな黒土の沼地の残りの部分をも買いいれた。ある日彼はワインズバーグの町に出かけると、ディビッドのために自転車と新調の洋服を買った。そして彼の二人の姉妹にはオハイオ州クリーヴランドの宗教上の大会に出席する金を与えた。
その年の秋、霜がおりてワイン・クリークぞいの森の樹々が黄金色をおびてくると、ディビッドは学校に出る以外のあらゆる時間を戸外の山野で送った。ただ一人かあるいはまた他の少年たちといっしょに、彼は毎日午後には森に出かけて木の実をあつめた。ほかの田舎の少年たちは大部分ベントリー農園に働く労働者の息子たちだった。彼らは鉄砲をたずさえて、兎やリスを射とめた。だが、ディビッドは彼らといっしょに出かけることはなかった。彼はゴム・バンドと木のまたでできた|石投げ《パチンコ》を自分でこしらえると、ひとりで木の実あつめに出かけた。歩きまわっているうちに彼にはいろいろな考えがわきおこった。彼はほとんど自分が大人になりかかっているように思い、また人生で自分はどんなつとめをはたすのだろうかと不思議に思った。しかし、それらの考えは何らかの形をとる前に消えていった。そして彼はふたたび少年にかえった。
ある日彼は低い木の枝にとまって、彼にしゃべりかけてきたリスを射とめた。手にリスを握って、彼は家へといちもくさんにかけた。ベントリー家の姉妹の一人がその小動物を料理した。そして彼は大いにそれをうまがって食べた。彼はその皮を板に鋲《びょう》ではりつけると、板をひもにつるして彼の寝室の窓からつるしておいた。
それは彼の気持に新しい転機を与えた。そののちには彼は|石投げ《パチンコ》をポケットに入れずには森に出かけることがなかった。そして樹々の褐色の木の葉の間にかくれた空想の動物をうちとめながら数時間を送るのだった。大人になるという考えもいつか心から消えうせて、彼は少年らしい気持の少年であることに満足していた。
ある土曜日の朝、彼はポケットに|石投げ《パチンコ》をしのばせ、肩には木の実を入れる袋をかけて森へ出かけようとしていたとき、祖父が呼びとめた。老人の眼には、あの病的な沈鬱《ちんうつ》の様相が現われていて、それはディビッドにとっては、いつも少々気味の悪いものだった。そうしたときジェッシー・ベントリーの眼はまっすぐに前方を見ることがなく、不安気にたゆたいながら、空《くう》をみつめているように思われた。ある眼に見えないカーテンがこの世のあらゆるものと老人との間におりているようだった。
「わしはお前に来てもらいたい」と彼が言葉少なにいう。そして彼の眼は少年の頭をこえて空に凝視を送っていた。
「わしたちゃぁ今日は大切なことをするのじゃ。もしなんなら、木の実袋はもって来てもいいが、とにかくわしらは森に行くのじゃ」
ジェッシーとディビッドは白馬にひかれた古い馬車を駆って、ベントリー農園を出発した。沈黙のうちに長い路《みち》のりをかけると彼らは羊の群れの放牧されている牧場の一隅に車をとめた。羊の群れの中には一匹の季節はずれの仔羊がいた、それをディビッドと祖父は捕えると、小さな白い球に見えるほどしっかり縄をかけた。ふたたび車をはせはじめるとジェッシーはその仔羊をディビッドの腕にだかせた。
「わしはそやつを昨日見つけた。で、そいつは長いことわしの心に願っていたものを想い出させたのだ」と彼はいった。そしてふたたび彼は不安げなたゆとう凝視をもって少年の頭上をこえてはるかかなたを見つめるのだった。
その年の成功の結果ジェッシーを訪れた意気高揚の気持ののちには、またちがった気持が彼をとらえていた。長い間彼は非常に敬虔《けいけん》な、ぬかずいて祈りをささげるときのような気持でさまよい歩いた。ふたたび彼は夜ただ一人神を考えながらさまよい歩いた。そして歩きながら彼はふたたび己れの姿をあの往古の人々の姿と結びつけていた。星の輝きの下では彼は湿った草の上にぬかずくと声をはりあげて祈りの言葉を叫んだ。今や彼は、あの聖書のページをみたしているかずかずの物語の主人公のように、神に向って生けにえをささげようと心にきめていた。
「私はあの豊かなみのりを与えられた。そしてまた神はディビッドと呼ぶ息子を送られた」と彼は自分自身にささやくのだった。
「おそらく、私はこういうことはすでに早くやっていなければならないのでした」彼にはそうした考えが娘のルイーズが生れる以前すでに彼の心に浮んでこなかったことを残念に思った。そして今こそ彼はある森の中の静かな場所で燃える柴木《しばき》をつみかさね、仔羊の肉を生けにえとしてささげるときには、たしかに、神が彼の面前にあらわれて、彼にある使命をさずけるにちがいないと考えるのだった。
そのことを考えれば考えるほど、彼はますますディビッドのことを思った。そして彼の熱情的な自我愛はある部分忘れさられた。
「あの児もそろそろ世の中に出ることを考えていいころだ。それに神の使命もつまりはあの児についてのものだ」と彼は心に決めた。
「神はあの児に一つの路をお開き下さるだろう。ディビッドの人生でとるべき位置を、またあの児が人生の路に発足していい時を神はこのわしに語って下さるだろう。もしわしに幸運が恵まれて、神の御使が姿を現わされるときには、ディビッドは人間の面前に現われた神の美と栄光をまのあたりに見ることになるのだ。そうすればあの児もほんとうに神に仕える人間になるというものだ」
沈黙のうちにジェッシーとディビッドは車を走らせた。そしてとうとう彼らはあのジェッシーがかつて神への訴えの叫びをあげて、彼の孫を恐怖におとしいれた場所へやって来た。朝の空気は輝かしく朗らかだった。だが今や、はだ寒い風が吹きはじめて、太陽は雲におおわれた。ディビッドはそれが一度来たことのある場所だとわかると恐怖に震えはじめた。そして樹々の間から小川の流れくだっている橋のたもとに車をとめたときには、彼は馬車から飛びおりて逃げだそうとさえ思った。
数多くの逃げ出す計画がディビッドの頭の中をかすめてすぎた。しかしジェッシーが馬をとめ垣をこえて森へ入って行くと、彼もまたそれにしたがった。
「恐れるなんてばかげたことだ。何もおこりはしないのだ」彼は仔羊を腕にかかえて歩をはこびながら自らに語るのだった。腕の中に固くかかえられたその小さな動物の絶望の有様には心を打たれるものがあって、それはかえって彼の勇気を鼓舞することになった。彼はその動物の早い胸の鼓動を感じることができた。そしてそれは彼の胸の鼓動をかえって和らげた。彼は祖父のうしろから急いで歩きながら、仔羊の四つ足をしっかりくくりつけた紐をといていった。「もし何かおこったら、ぼくたちはいっしょに逃げだすのだ」と彼は考えた。
森の中を道路から長い路のり歩いたのちジェッシーは樹々にとりかこまれた空地に来て立ちどまった。そこはいちめん小さい草むらにおおわれた空地が小川の流れから高まっているところだ。祖父は依然として沈黙のまま、ただちに枯れ枝を集めてつみ重ねるとそれに火をつけた。少年は腕に仔羊をかかえて地上に腰をおろした。彼の想像は老人のあらゆる動作をけげんな思いのうちに探索しはじめた。そして彼は一刻一刻とますます恐怖をおぼえてきた。
「わしは羊の血をあの児の頭にふり注ぐのだ」と、枯れ枝が貪欲な焔をあげて燃えはじめるとジェッシーがつぶやいた。そしてポケットから長いナイフをとりだすと、彼は身をひるがえし、空地をよぎって急ぎ足にディビッドの方へ歩みよった。
恐怖が少年の魂までもとらえた。彼は嘔吐《おうと》に似た恐怖を感じた。一しゅん彼は微動だにしないですわっていた。だがそれから彼の全身は硬直して、彼は飛びおきた。顔色はあたかも羊の毛のように蒼白《そうはく》だった。そして羊もいま急に解きはなたれたのをみて丘をかけ下りた。ディビッドもまたかけた。恐怖は彼の足を飛ぶように早めた。低い草むらや丸木をこえて狂気のように彼はかけた。かけながら彼は手をポケットの中につっこむと、あのリスを射つための石投げのついた股木の枝をとりだした。岩の上をざあざあと音をたてて流れ下る浅い小川まで来ると、彼は水の中にとびこんであとをふりかえった。そして祖父がやはり長いナイフをしっかりと握りしめて彼の方へかけて来るのを見ると、彼はためらわずに、腰をかがめて小石を拾いとると、それを石投げにつけた。あらゆる力をしぼって強いゴムのバンドをひきしぼると石はうなりを立てて空中をとんだ。それはジェッシーにあたった。少年の存在などまったく忘れてて、ひたすら仔羊を追っていたジェッシーの頭のまっただ中に命中した。うめき声とともに彼は前にのめると、ほとんど少年の足もとに倒れ伏した。ディビッドは祖父が身動きもせずに倒れて、死んだように見えたとき、彼の恐怖は数かぎりなくひろがっていった。それは狂気じみた恐怖と化したのである。
叫び声をあげて身をひるがえすと、彼は森の中をけいれん的に泣き叫びながらかけた。
「かまうものか。ぼくはお祖父《じい》さんを殺した。だがかまうものか」と彼はすすり泣いた。彼はかけてゆくうちに、自分はふたたびベントリー農園にも、あるいはワインズバーグの町にも帰っては行くまいと、突然心に決めた。
「ぼくは神様の人間を殺した。だからぼくは、ぼく自身大人になって世の中に出てゆくのだ」彼はかけるのをやめると力強くつぶやいた。そして森や野をぬけて西へ流れ下るワイン・クリークのうねりにそった路を彼は足早やに歩き下った。
小川のほとりの地上では、ジェッシー・ベントリーが苦しげにのたうった。彼はうめき声をあげて眼を開いた。長い間彼は身動きもせずに横たわって、空をながめていた。それからとうとう彼は立ちあがったとき、彼の精神は混乱していた。そして少年の姿が見えないことも彼を驚かせはしなかった。路のかたわらの丸太に腰をおろすと彼は神について語りはじめた。これが人々の彼から聞きえた物語のすべてなのだ。ディビッドの名が述べられると彼はいつもぼんやりと空を見つめた。そして神の御使が少年を連れさったのだと語るのだった。
「こんなことのおこったのも、わしがあまりに神の栄光をむさぼりたがったからです」と彼はいいはなった。そしてそのことについてはそれ以上話したがらなかった。
[#改ページ]
観念につかれた男
彼は母といっしょに暮していた。母は人目にたつほど灰色の顔をした、ごま塩まじりの髪の毛をした無口な女だった。彼らの住まっていた家は樹木のおい茂った小さな森の中にあった。そしてそのついさきではワインズバーグの本町通りがワイン・クリークの流れと交叉《こうさ》していた。
彼の名前はジョー・ウェリングといった。そして彼の父は町でもそうとう権威のある男だった。というのは彼は弁護士で、コランバスにある州議会の議員をやっていた。
ジョー自身はからだの小さな男で、彼の性格には町の人々とはある似ても似つかないものがあった。たとえば彼は小さな噴火山のようだった。数日の間静けさを保っているかと思うと、それは突然に火をふきはじめる。いやそうではない――彼は発作の病をもった男のようだった。仲間の男たちの間を歩きまわって恐怖の情をうえつけてゆく男なのだ。というのは、発作がやぶから棒に彼をおそって、嵐のように奇怪なものすごい病状に彼を吹きやると、彼は眼の玉をむいて、手足をけいれん的に急動させるのだったから。
彼はそうした男だった。ただジョー・ウェリングにおそいかかる発作は精神的なもので肉体的なものではなかった。彼はいろんな考えに攻めたてられた。そして、そうした考えの苦しみの中で自分を制御することができなかった。数多くの言葉が彼の口からまろび出《い》で、ころがり出た。一種独特のほほえみが口べに現われた。金冠をつけた歯の尖端が光の中でぎらぎらした。そばに立った男につかみかかるように彼は語りはじめる。そばの男にはのがれるすべもない。興奮した男はそばの男のまっこうから言葉を吐きかけ、眼の中をのぞきこみ、ふるえる手でその胸をたたいて、聴き手の注意を要求し、無理じいするのだった。
その当時スタンダード石油会社は、今日のように石油を大きな車やトラックにつんで消費者に配給するのでなく、小売の食料品店や金物店や、その他そうした店に卸売していた。ジョーは、ワインズバーグと、ワインズバーグを通る鉄道の上下にあるあまたの町々のスタンダード石油会社の代理店をやっていた。彼は勘定を集めたり、注文をとったり、そのほかいろんな仕事を一人でやった。州議員の彼の父がその仕事を見つけてくれたのである。
ワインズバーグの店々を出たり入ったりジョー・ウェリングは歩いてまわった――だまってばかていねいなほど丁重《ていちょう》な彼は商売に熱心だった。人々は恐怖の念をまじえた興味の眼で彼を見守った。人々は逃げ仕度をととのえながら、彼の発作の爆発を待ちかまえた。もちろん彼におそいかかる発作は、まったく害のないしろものだったとはいえ、それはけっして一概に笑いさることのできないものだった。それは圧倒的な力をもっていた。ある一つの考えにがんとまたがって、彼は圧倒的な力となった。彼の人格は巨大なものとなった。それは彼の話しかけた男を征服し、圧倒し、あらゆるものを、彼の声のとどくかぎりに立つあらゆる人々を圧倒した。
シルベスター・ウェストのドラッグ・ストアの中には四人の男が立って競馬の話に花をさかせていた。ウェズリー・モイアーの種馬トニー・チップはオハイオ州のティフィンで催される六月競馬に出場するはずだった。そして、この馬の経歴中でもっとも苦しい競走をやらなければならないだろうという噂だった。あの偉大な競馬馬ポップ・ギアーズそのものが、それに出場するという話だったからだ。それでトニー・チップの成功を疑う気持がワインズバーグのうちに重くかかっていた。
ジョー・ウェリングは、あみ戸を激しくおしあけてドラッグ・ストアの中に入ってきた。思いにつかれた怪奇な光を眼にただよわせながら彼はエド・トーマスに――例のポップ・ギアーズをよく知っていてトニー・チップの勝つ見こみについて、その意見は傾聴に価《あたい》するエド・トーマスに向って――おそいかかった。
「ワイン・クリークの水かさが増していますぞ」と、マラソンの戦いでギリシア軍勝利の報知をもたらしたフィーデピーディスのような姿で彼は叫んだ。彼の指がエド・トーマスの広い胸でたったったっと鳴った。「トランニョン橋のたもとでは橋の下十一インチ半まで水かさが高まっておりますぞ」と彼はしゃべりつづけた。言葉は息もつかせず流れでて、歯の間でひゅうひゅう小さな音をともなった。絶望的な苦悩の表情が四人の顔にあらわれた。
「わたしのいう事実は正しいのです。疑うべからざるものです。わたしは、シンニングの金物店に行って物差しを借りると、またひきかえして測定したのです。わたしは自分の眼さえ信じられないほどでしたよ。なぜって、この十日間雨は降っていないのですからね。わたしは最初どう考えていいのかもわかりませんでした。いろんな考えがわたしの頭を走りすぎました。わたしは地下の水路や泉のことも考えてみました。わたしの心は地の下まで掘りかえしてみました。わたしは橋の上に腰をおろして頭をひねってみました。空には一片の雲もありません。通りに出てごらん。うそはいわない。雲は一片もなかった。今だって一片もありません。いや、じつは雲はあったのです。わたしは事実をかくしておくことはきらいです。雲はありました。西のかた水平線近くに人間の手ほどもないちっぽけな雲があったのです」
「だがわたしはそいつが何らか関係のあるものだとは思いつきませんでしたよ。そうら、あんた方もおわかりでしょう。わたしがどんなに当惑していたかをね」
「それから一つの考えがわいてきました。わたしは笑いだしました。あんた方だって笑いだすでしょうよ。もちろんあのメディナ郡じゃ雨だったのです。え? もし汽車もなく、手紙もなく、電報もないとしてもあのメディナ郡で雨の降ったことがちゃんとわかるのです。というのはそこからあのワイン・クリークが流れて来ているからです。そのことは誰だって知ってます。あのちっぽけなワイン・クリーク先生が報知をもたらすというものでさあ。面白いじゃありませんか。わたしゃふき出しましたよ。こりゃあ話になるわいとわたしゃ考えましたよ――ほんとに面白いじゃありませんか、え?」
身をひるがえすとジョー・ウェリングは戸口から出て行った。彼はポケットから帳簿をひっぱりだすと立ちどまって、帳簿のページに指をはしらせた。ふたたび彼は、スタンダード石油会社の代理人として職務に熱中しているのだ。
「ヘンリー食料店じゃ石油が減っているはずだな。ちょっと見てこようか」街をいそぎ足に進みながら、そして行きすぎる左右の人々に、ていねいに頭を下げながら、彼はつぶやくのだった。
ジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル社に勤めるようになったとき、ジョー・ウェリングにせめたてられた。ジョーはこの若い記者をうらやんだ。彼には天性から新聞記者になる素質が与えられているのだと自分で思った。「こんりんざいうそのないところ、わたしは新聞記者になるべきだったのです」とドアティの飼料店の前の歩道の上で、彼はジョージ・ウィラードを押しとどめながら、のべたてるのだった。彼の眼は輝きを帯び、その指が震えはじめた。
「もちろんわたしはスタンダード石油会社に勤めておれば金はたんとはいります。だが、いいですかね」と彼はつづけた。
「わたしはべつにあんたを敵と思っとるわけじゃないが、わたしこそあんたの仕事をやるべきだったのです。わたしなら時間外でもそんな仕事はやれまさあ。わたしゃあ、あちこちかけまわって、あんたのけっして見つけないようなことをあばき出してみせまさぁね」
ますます興奮してくるとジョー・ウェリングは年若い新聞記者を飼料店の店さきに押しつけてしまった。眼玉をぐりぐりさせながら、やせて神経質な手で髪の毛をなであげながら彼は自分の考えにわれを忘れている様子だった。彼の顔には一種のほほえみが浮んだ。そして彼の金冠つきの歯がぎらぎらかがやいている。
「さあ、あんたは手帳をだしなさい」と彼は命令した。
「あんたはメモ帳をポケットにもっとるはずだろう? わたしゃ知っとる。うむ、で、あんたはこう書くのです。わたしは、それを先日考えたのだが、たとえを腐敗にとりましょう。いいですかい。腐敗とは何ぞや? それは火です。それは木や、その他のあらゆるものを焼きつくすのです。あんたは、そんなことを考えたことがありますかい? もちろんない。この舗道にしろ、この飼料店にしろ、またあの街の樹木にしろです――それらはみんな燃えているのです。それらはみんな焼きつくしつつあるのです。で、腐敗はつねに行われています。そりゃあとまるところがないのです。水だって、ペンキだってそれをとめるこたあできません。もし、鉄製だったらどうでしょう? そりゃあご存知のとおり錆びますわい。それも、つまるところ燃えているのです。世界は大火災。と、こんなふうにあんたの新聞記事を書きだしてごらん。とにかく、大見出しで『世界は大火災』とやってごらん。きっと、やっこさんたちゃあ目をむきますわい。で、あんたは一躍すばらしい人気者になるというものです。わたしゃかまわん。わたしゃあんたをうらやみゃせん。わたしゃほんのちょいとそんなことを想いついたまでです。わたしだったら、新聞をすばらしいものにしますね。あんたもそのことは認めなきゃなりますまい」
すばやく身をひるがえすと、ジョー・ウェリングは足早やに歩きさった。それから、数歩足をはこんだところでふと彼は立ちどまってふりかえった。
「わたしゃあんたをひいきにしています」と彼がいう。
「わたしゃあんたを人気者にしようと思ってます。わたしゃ自分で新聞をやるべきです。当然やらにゃならんのです。わたしゃすばらしい人気者になるだろう。そのこたあ、みんな知らんものはありませんて」
ジョージ・ウィラードがワインズバーグ・イーグル社につとめて一年もたったころ、四つの事件がジョー・ウェリングに起こった。彼の母が死んだこと、彼がニュー・ウィラード・ハウスに住むようになったこと、彼が恋愛事件にまきこまれたこと、そして彼がワインズバーグ・ベースボール・クラブを組織したことがそれだった。
ジョーが、ベースボール・クラブを組織したというのは、彼が野球の監督になりたいためだった。そして、その地位にあって彼はこの町の人々の尊敬をあつめはじめた。
「彼はすばらしい」とジョーのチームがメディナ郡のチームを負かしたとき、人々は叫んだ。「彼のチームの統率ぶりったらすばらしいよ。彼は大したものになるぜ」
野球場ではジョー・ウェリングは一塁ベースのそばに立っていた。全身が興奮に震えている。われしらずあらゆる選手たちが彼をじっと見守った。そして相手側の投手は混乱させられた。
「さあ! さあ! さあ! さあ!」と、興奮した男は叫んだ。
「ぼくを見て! ぼくを見て! この指を見て! この手を見て! この足を見て! この眼を見て! さあ一心同体だ! ぼくをみて! 勝利の動きはぼくにある! ぼくとともに動いて! ぼくとともに動くのだ! ぼくを見て! ぼくを見て! ぼくを見るのだ!」
ワインズバーグ・チームの走者が塁に出ると、ジョー・ウェリングはさながら神の啓示でもうけたようだった。塁に出た走者はただわけもなくジョーを見守って、ある目に見えない糸にあやつられているように、塁をにじりでて、突進し、またひきかえした。相手方チームの選手たちもまたジョーを見守った。そして彼らは魂をうばわれた。しばし、彼らは見守ったかと思うと、その次の瞬間には、あたかもその魔法の力を打ち破ろうとするように、むちゃくちゃにボールを投げ交わしはじめた。そして、監督のつづけざまな野獣のような鋭い叫び声のうちに、ワインズバーグ・チームの走者たちは本塁へむけて殺到した。
ジョー・ウェリングの恋愛事件はワインズバーグの町の人々に≪るいらん≫の思いをさせた。事件のはじまりには、すべての人々はささやき交わし、首を振った。人々が笑おうとしたときにも、その笑いは無理じいな不自然なものとなった。ジョーはサラ・キングと恋におちた。彼女はやせぎすな淋しい顔つきの女だった。そしてワインズバーグ共同墓地に通ずる門に向いあった煉瓦造りの家に、父と兄といっしょに住んでいた。
キング家の二人の男、父のエドワードと息子のトムはワインズバーグで人気のいい方ではなかった。彼らは見識が高くて、危険な男だといわれていた。彼らはどこか南部からワインズバーグへやって来てトランニョン有料道路沿いでサイダー製造工場を経営していた。トム・キングはワインズバーグに来る前には人殺しをやったという噂だった。彼は二十七歳で灰色の子馬で町をのりまわした。彼はまた長くのびた黄色い口ひげをはやしていて、それが口の上まで垂れさがっていた。そうして彼はいつも重い意地の悪そうなステッキを手にもっていた。あるとき彼はそのステッキで犬を打ち殺した。犬は靴屋のウィン・ポージィのもので、歩道に立って尾をふっていた。トム・キングは一撃の下にそれを打ち殺した。彼はとらえられると、罰金十ドルに処せられた。
老人エドワード・キングは背丈の低い男だった。そして彼が通りすぎると、街の人々は怪しげな不快そうな笑いをかわすのだった。彼は笑うとき、右の手で、左の肘《ひじ》をがりがりかいた。彼の上衣の袖《そで》は、その習慣のためほとんどすり切れてしまっていた。彼が神経質な視線を投げながら、うす笑《え》みをうかべて街を歩いているのを見ると、おし黙った鋭い顔つきの息子より、いっそううす気味の悪い男に思われた。
サラ・キングがジョー・ウェリングと夕べの散歩をとりはじめたときには、町の人々はある予感のうちに首をふった。背の高い青い顔をした彼女は、目の下に黒い輪をもっていた。二人の散歩をしている有様はじつに奇怪なものだった。二人は樹々の下を歩きながら、ジョーがしゃべった。共同墓地の壁垣《かべがき》のあたりの暗闇の中や、水道用貯水池から市場用地へ高まっている丘の上の樹々の深い影の中からもれてくる彼の熱情的に熱心な愛の講義は、ふたたび町の店々でくりかえしのべたてられた。人々はニュー・ウィラード・ハウスの酒場に立って、ジョーの求愛事件を語ったり笑ったりした。だが笑いののちには人々は沈黙した。彼の監督しているワインズバーグ・ベースボール・チームは試合ごとに勝っていた。そして町の人々は尊敬の念をもって彼を見はじめていた。ある悲劇を予想しながら、人々は神経質に笑いながら待ちかまえた。
ある土曜日の午後おそく、それを予想して町の人々にるいらんの想いをさせていたジョー・ウェリングとキング家の二人の男との会見が、ニュー・ウィラード・ハウスのジョー・ウェリングの部屋で行われた。ジョージ・ウィラードがその会見の目撃者だった。その事情は次のようなものだ。
夕べの食事がおえた年若い記者は彼の部屋にかえるとき、トム・キングと彼の父がなかばうす暗いジョーの部屋にすわっているのを見た。息子の方は手に重いステッキをかかえて、入口の近くにすわっていた。一方老人エドワード・キングは、彼の右手で左の肘をひっかきながら神経質に室内を歩きまわっていた。廊下には人影もなく静まりかえっている。
ジョージ・ウィラードは自分の部屋にかえって机の前にすわった。彼は書きものをしようと試みた。しかし手が震えてペンがとれないほどだ。彼もまた神経質に室内を歩きまわった。ワインズバーグの町のあらゆる人々と同じように彼もまた当惑して、どうしたらいいのかわからなかった。
ジョー・ウェリングが停車場のプラットホームにそってニュー・ウィラード・ハウスの方へ帰って来たのは七時半ごろだった。外はほとんど暗闇になっていた。彼は手に一束の雑草と草花の花束をかかえていた。からだじゅうが震えるほどの恐怖の念にもかかわらず、ジョージ・ウィラードは、花束をかかえてプラットホームをなかばかけるように歩いて来るちっぽけで敏しょうな姿を見ると一種のおかしさを禁じえなかった。
恐怖と不安にからだをわななかせながら青年記者は、ジョー・ウェリングがキング家の二人の男と語りあっている部屋のドアの外側の廊下にたたずんだ。呪いの言葉がはかれ、老人エドワード・キングの神経質なくすくす笑いがもれ聞え、それから沈黙が訪れた。そこでジョー・ウェリングの鋭い明朗な声が沈黙を破った。ジョージ・ウィラードはほほえみはじめた。彼には理解ができた。あの彼の面前のあらゆる人々を圧倒してしまわずにはおかなかったのと同じような力で、いまやジョー・ウェリングは津波のような言葉の奔流の中で二人の男の足をかっさらってしまったのだ。廊下にたたずんだ聞き手は驚きにわれを忘れてあたりを歩きまわりはじめた。
部屋の中ではジョー・ウェリングは、トム・キングのぶつぶつうなる脅迫などすこしも意にかいさなかった。ある考えにわれを忘れて、彼はドアをとざすとランプに火をともし手いっぱいに握った雑草と草花の束を床の上にひろげた。
「わたしはここににすばらしいものをもっています」と彼はおごそかに宣言した。
「わたしはこのことをジョージ・ウィラードに語って、新聞の記事にさせようと思ってました。あんた方がいて、わたしは大変うれしい。わたしはサラさんもここにいてくれたらと思いますよ。わたしはあんた方の家を訪ねて、わたしの考えの幾分かをでもあんた方に聞いていただこうかと思っていました。こりゃじつに面白いことです。だが、サラさんがだめだっていうんです。わたしたちが喧嘩をするだろうって、あの娘《ひと》はいうのです。だが、ばかげたことですよ」
二人の困惑した男の前を足早に、歩きまわりながらジョー・ウエリングは説明をはじめた。
「ところで、あんた方は誤解してもらっちゃあ困りますよ」と彼は叫んだ。「こりゃあじつにすばらしいことです」彼の声は興奮で、金切り声となった。
「とにかくわたしのいうことを聞いてごらんなさい。あんた方はきっと興味をもちますよ。そりゃもう当然です。そして、こういうことを想像するのです――あらゆる麦や、トウモロコシや、燕麦や、エンドウ豆や、じゃがいもなどすべてのものが、ある奇蹟で、うばいさられてしまったと想像します。わたしたちゃあこの国に住んでいますね。こりゃあ事実です。だが、わたしたちすべての者のまわりには高い高い垣根がまわされています。そういうことを想像するんですよ。誰もその垣根を乗りこえるものはおらんのです。そしてあらゆる地上の産物は破壊されてしまったのです。そしてこれらの雑草、これらの草花のほかには何も残ったものはないのです。わたしたちゃあくたばってしまうでしょうか? これが問題です。わたしたちゃくたばってしまうでしょうか?」ふたたびトム・キングがうなり声をたてた。そしてしばしの間、部屋の中には沈黙がつづいた。それからふたたびジョーがまっしぐらに彼の考えの解説にとりかかった。
「しばらくの間は世の中は苦しいでしょう。そりゃわたしもそう思います。それは認めざるをえないのです。それは何ともさけられないことです。わたしたちゃあ、さだめし苦しいはめに落ちいるでしょう。さだめしみなの肥っ腹がめりこむことでしょうよ。だが、わたしたちゃあくたばることはありません。わたしゃああえてくたばることはないと申しましょう」
トム・キングが人のよさそうに笑った。そして、エドワード・キングの震えをおびた神経質な笑い声が家じゅうに鳴りひびいた。ジョー・ウェリングはいそいで先をつづけた。「事実、わたしたちゃ新しい野菜や果実を植えつけるでしょう。間もなくわたしたちは失ったすべてのものを取りかえしているでしょう。だがです。わたしはべつにその新しいものが昔と同じなものだろうというのじゃありません。そんなことはないでしょう。大方そりゃあもっと良いものになるかもしれませんし、またそれほど良いものでないともかぎりません。こりゃあ面白い問題じゃありませんか、え? あんた方もそれを考えてごらんになると良いですね。そりゃたしかに精神の薬ですよ。そうじゃありませんか、え?」
部屋の中に沈黙が訪れた。それからふたたびエドワード・キングが神経質な笑い声をたてた。
「いや、わたしはサラさんもここに来ておればよかったのにと思いますね」と、ジョー・ウェリングが叫んだ。
「これからあんた方の家に行こうじゃありませんか。わたしはこのことを、あの娘《ひと》にも話しておきたいと思うのです」
部屋のうちで椅子のぶつかりあう音がした。ジョージ・ウィラードが彼自身の部屋に退いたのはこのときだった。彼は窓から半身をのり出すと、ジョー・ウェリングがキング家の二人の男と街を歩いて行くのを見た。トム・キングはそのちっぽけな男と足なみをあわせてゆくために特別大またで歩かねばならなかった。彼は大またに歩調をとりながら前かがみに上体を傾けて聞き耳をたてた。そしてうっとりと夢中になった有様である。ジョー・ウェリングはふたたび興奮したように叫んだ。
「たとえばここに、ノゲシを取ってみましょう」と彼が叫んだ。
「ノゲシからだってすばらしいものができんとも限りません。そりゃあほとんど信じられないほどです。わたしはあんた方にもそのことを考えてもらいたいのです。わたしはあんた方二人にもよく考えてもらいたいのです。つまり新しい植物の王国ができるだろうというのです。面白いじゃありませんか、え? こりゃあ大した考えです。とにかくサラさんに会うまで待つとしましょう。サラさんにはこの考えがわかるでしょう。あの娘《ひと》は興味を感じるでしょう。サラさんはいつも考えというものに興味をもつているのですからね。あんた方が何といったって、サラさんの頭のよさにはかないませんよ。ね、そうでしょう? もちろん、かないませんよ。おわかりのとおりにね」
[#改ページ]
冒険
アリス・ハインドマンはジョージ・ウィラードがまだほんの子供だったころ二十七歳の女だった。そして彼女の全生涯をワインズバーグの町で暮してきた。彼女はウィンニー呉服商店の店員をしていて、二度目の夫と結婚した母といっしょに住んでいた。
アリスの義父は車のペンキ塗り師で、のんだくれだった。彼についての物語は奇妙なものである。それはまた他日語る値うちをもっているだろう。
二十七歳のアリスは背が高く、そしていくらかやせぎすな女だった。頭は大きくて、そのからだを圧倒していた。両肩はいささか前かがみになっていて、髪の毛と眼は褐色だった。彼女は大変もの静かな女だった。しかし、そのおちついた外観の裏では、たえず生命の発酵が行われていたのだ。
彼女が十六の小娘だったころ、そして店の勤めに出る前のころ、アリスは一人の若者と恋を語った。若者はネッド・キューリーといって、アリスより年上だった。彼はジョージ・ウィラードと同じようにワインズバーグ・イーグル社に雇われていた。そして長い間ほとんど毎晩アリスと会うために出かけた。二人は街々をぬけて樹々の下を歩いた。そして将来の二人の生活について語りあった。そのころアリスは大変小ぎれいな娘だった。そしてネッド・キューリーは彼女を腕の中にだきしめると接吻した。彼は興奮してきて、いおうとも思っていなかったことまでしゃべりたてた。アリスもまた、彼女の比較的狭い生活の中に、何かある美わしいものを取入れたいと思う願望に誘われて興奮した。彼女もまたしゃべりたてた。彼女の生活の固い外殻と、またあらゆる彼女の生まれつきの内気さとつつましさとは打ち棄てられて、彼女は恋の情緒の中に身をゆだねた。彼女の十六歳の秋おそく、都会の新聞に地位をえて世に出たいと願ったネッド・キューリーがクリーヴランドにさったとき、彼女もいっしょに行きたいと願った。震えをおびた声で、彼女は心の思いを彼に語った。
「わたしも働くし、あんたも働くのよ」と彼女は語った。
「わたし、あんたの出世をさまたげるようなつまらない出費で、あんたをがんじがらめにしようとは思っていないわ。いま結婚しなくてもいいのよ。そんなことは抜きでいっしょにやってゆきましょうよ。そして立派にそれでやってゆけると思うわ。わたしたち同じ家に住んでたからって、誰もとやかくいうものはいないはずだわ。都会だったら、わたしたちは誰にも知れないし、それに誰もわたしたちに注意する人などありはしないわ」
ネッド・キューリーは彼の恋人の決心とすてばちな気持に当惑したし、また、それと同時に強く心を打たれた。彼はそれまでこの娘を自分の情婦にしようと思っていた。だが彼は気持をかえた。彼は彼女を庇護し、世話してやりたいと思った。
「君は自分でいってることの意味が、自分でもわからないんだよ」と彼が鋭くいった。
「ぼくがそんなことを君にさせやしないってことは、君にはわかってるはずだ。ぼくはいい仕事が見つかりしだいかえってくるよ。いまのところ君はここに留まっていなければいけない。それが、ぼくたちのただ一つのとりうる道なんだから」
彼が都会の新しい生活に踏みだすために、ワインズバーグを去る前の夕べ、ネッド・キューリーはアリスを訪れた。二人は街から街へと長い間歩きまわった。そして、それからウェズリー・モイヤーの貸馬車屋から馬車を一台借りうけると田舎へ遠乗りに出かけた。月が上って二人は語りあうことさえ不可能に感じた。悲しみのうちに若者は、娘にたいする行動について心にきめていた決心をまったく忘れはてた。
二人は長い牧場がワイン・クリークの流れの岸まで下っているところで馬車を下りた。そしてそこのうす暗い光の中で二人は愛をかわした。真夜中ごろ町へかえってきたとき、二人はともどもに悦びを感じた。彼らにとっては、将来どんな事件がおころうとも、あそこでおこったあの出来事の驚異と美しさはけっして今後とも拭いさることができないだろうと思った。
「さア、これからぼくたちはお互いにしっかり結びあってゆくことだね。どんなことがおころうとも、そうすることが必要なのだ」とネッド・キューリーは娘の父の家の入口で娘と別れるときにいった。
年若い新聞記者はクリーヴランドの新聞に口を見つけることに成功しなかった。そして西の方のシカゴへ去った。しばらくの間彼は孤独だった。そしてほとんど毎日のようにアリスに手紙を書いた。それから彼は都会生活の流れの中に捕えられた。彼は多くの友人をこしらえ、人生に新しい興味を見いだしはじめた。シカゴでは数人の女が住んでいる家に彼は宿をとった。彼女らの一人が彼の注意をひきつけた。そして彼はワインズバーグのアリスを忘れた。一年目の終りころには、手紙を書くことも中止した。そして長い間にときたま、孤独を感じたとき、また町の公園にいって、月の光があのワイン・クリークの流れのかたわらの牧場の夜を思わせる輝きを投げているのを見かけたとき、わずかに彼女のことを思いだすにすぎなかった。
ワインズバーグでは、このかつて愛された娘は一人前の女に生長した。彼女が二十二になったとき、馬具修繕商を営んだ彼女の父がとつぜん死んだ。馬具製造人は軍隊上りの老人だった。それで死後数か月たつと彼の妻に寡婦年金がさげられた。母は最初の年金をうけとると機《はた》を買いいれて、じゅうたんの織工となった。そしてアリスもまたウィンニーの店に働き口を見つけた。長い年月のあいだ、ネッド・キューリーは結局帰って来ることはないのだと彼女に信じこませるような出来事は何一つおこらなかった。
彼女は店に雇われていることを悦んだ。というのは店うちの日々の労働は彼女の待つ時間をより短いものに思わせ、またそれを関心外におくことにもなったからだ。彼女は金を貯えはじめた。そして二百ドルか三百ドルの金を貯めたときには、都会へ愛人の後を追って行って彼女の出現が彼の愛情をふたたびもとへもどすことになるかどうか試してみようと思っていた。
アリスはあの牧場の月の光の中でおこった出来事にたいしてネッド・キューリーを責めることはなかったが、彼女はふたたびほかの男とは結婚できないものと思った。彼女にとっては、彼女が今もなおただネッドだけに捧げうると思っていたものを、ほかの男へ与えるなどということはまったく恐ろしいことだった。ほかの若い男たちが彼女の注意をひきつけようと試みたときにも、彼女はつねに彼らとかかわりあいを持たないようにつとめた。「わたしはあの人の妻だわ。そしてあの人が帰って来ようと、帰って来ないにしろ、わたしはいつでもあの人の妻として待っていよう」と彼女は自分自身にささやくのだった。そして、自分はよろこんで自分から生活をたててゆこうと思っていたにもかかわらず、女が独立を主張して、すべて取るにも与えるにも女自らの生活目的のためにのみ行動をとるという、近ごろますます発達してきた近代的な考え方にはどうしても理解がゆかなかった。
アリスは呉服商店で朝の八時から夜の六時まで働いた。そして一週間のうちに三晩は、さらに七時から九時まで店にとどまるために出かけた。時がたつにつれ、そしてますます孤独を感じてくるにつれて、彼女はあの孤独な人間に通有ないろんなことをやりはじめた。夜、彼女は階上の自分の部屋に入ってゆくと床《ゆか》の上にぬかずいてお祈りをした。そしてそのお祈りの中で自分の愛人に語りたいと思ったことをささやくのだった。彼女は命のない事物にまで愛着をおぼえた。そしてそれがたんに彼女の所有物であるという理由から、彼女の部屋の器物が他人に触れられることを耐えがたく思った。
ある一つの目的のためにはじめた金を貯えるという習慣は、町に出てネッド・キューリーを探しだす計画がすてさられた後にも、依然としてつづけられた。それは一定の固定した習慣となった。そして新しい衣装が必要なときにも彼女はそれを買おうとしなかった。店にあっても雨の降る午後など、あるときには彼女は銀行預金帳をとりだして、それを彼女の面前にひろげたまま何時間も何時間も、彼女とその未来の夫との生活をささえるのに十分な利子がとれる金を貯えようという、とうてい望みのない夢を夢みながら時を送るのだった。
「ネッドはいつも旅をしてまわるのが好きだったわ」と彼女は考えた。
「わたし、あの人にその機会をつくってやりましょう。いつか、わたしたちが結婚して、そしてあの人の収入もわたしの収入もすべて貯えていったら、わたしたちお金持になれるのだわ。そうしたらわたしたちいっしょに世界じゅうを旅行しましょう」
呉服商店の中ではアリスが愛人の帰りを夢みながら待っている間に、週は月へ、月は年へと流れていった。彼女の雇い主はうすい灰色の口の上まで垂れさがった口ひげを生やして、義歯を入れた、ごましお頭の老人だった。それに彼は話をあまりしたがらなかった。それで、しばしば雨の日や、また本町通りに嵐の吹きすさぶ冬の日には、客といって誰一人訪れるものもない長い沈黙の時間がすぎた。アリスは品物をとりそろえたり、またふたたびそろえなおしたりした。人通りもない街の見おろせる店先の窓べに立って、彼女はネッド・キューリーといっしょに歩いた夕べのことを、また彼の語った言葉のかずかずを考えてみるのだった。
「ぼくたちはお互いにしっかり結ばれあってゆくのだ」その言葉は成熟期に達した女の心の中でこだまし、また、ふたたびこだまをかえすのだった。彼女の眼には涙がうかんだ。彼女の雇い主が出て行ってただひとり店にすわっているとき、彼女はしばしば勘定台の上に頭をおしつけて涙を流した。
「おお、ネッド、わたし待ってるのよ」と彼女はくりかえしくりかえしささやいた。しかもその間いつも、彼はふたたび帰って来ないのではないだろうかという、しのびよる恐怖が彼女の心の中でますます強くなってゆくのだった。
春になって、雨の時期もすぎ、そして長い暑い夏の日の訪れる前になると、ワインズバーグあたりの田舎は楽しかった。町は開けわたった野べの中央に横たわった。しかし、その野べのかなたには楽しい森の地帯があった。森にかこまれたそれらの地帯にはたくさん、ちょっとした人目につかない場所があった。それは日曜の午後愛人たちが出かけて腰をおろすにはふさわしい静かな場所だった。樹々の間をとおして彼らは野べをいちめん見渡せた。そして農夫たちが穀倉のあたりで働いているのや、また人々の道の往《ゆ》き来《き》をながめられた。町中では、教会の鐘が鳴りわたり、あるときには、遠く玩具のように見える汽車の行きかいが見わたせた。
ネッド・キューリーが去ってのち数年の間、アリスは日曜日になってもほかの若者と森の中に入ってゆくことはしなかった。しかしある日、彼が去って二年か三年たったころ、そして彼女の孤独が耐えられないものに思われたとき、彼女は晴れ着をつけて出かけた。町とそして長い野のひろがりの見わたせるささやかな木陰《こかげ》を見いだして、彼女は腰をおろした。
すぎゆく歳《とし》とふがいなさにたいする恐れが突然に彼女の心におそいかかった。彼女は静かにすわっているのに耐えられずに立ちあがった。そして野を見渡しながら立ちつくしたとき、彼女はあるものが、おそらく季節の流れに表現されているたゆみのない生命の想いが、彼女の心の眼をすぎさった年月のうえに注がしめたのだろう。恐怖の戦慄《せんりつ》に震えながら、彼女は青春の美と新鮮さとがすべて自分から失われてしまったのだとさとった。はじめて彼女は欺《あざむ》かれたのだと感じた。彼女はネッド・キューリーを咎《とが》めだてることはできなかった。それに何を責めていいのかも彼女にはわからなかった。孤独の感が彼女の全身を圧倒した。彼女はひざまずくとお祈りをはじめようとした。しかし、彼女の唇からもれたのは祈りの言葉ではなく、神にたいする抗議だった。
「それは結局わたしにはこないのです。幸福は結局わたしに訪れることはないのだわ。わたしがどうして自分自身に偽りをいいましょう?」と彼女は叫んだ。そして不思議に胸のすく想いが彼女の心を訪れた。それは、すでに彼女の日常生活の一部にまで化していた恐怖の念とたち向おうとする、彼女の大胆な試みの最初のものであった。
アリス・ハインドマンが二十五歳になったとき、彼女の日常の単調平凡な生活をかき乱す二つの出来事がおこった。母がワインズバーグの車の塗装師ブッシュ・ミルトンと結婚したことと、彼女自身ワインズバーグ・メソジスト教会の会員になったことである。彼女が教会に入ったのは、彼女の人生における孤独な地位に、自ら恐怖を感じてきたからにほかならなかった。母の再婚事件は彼女の孤独感をいっそう強いものにした。
「わたしは年をとって、変な女になってゆくのだわ。もしネッドが帰ってきても、わたしはきらわれるでしょう。彼の住んでる都会では人々はいつも若々しくしているのだから。活動のはげしい都会では年をとるひまなんかないのだろうから」すごいばかりの笑いをうかべながら彼女は自らにつぶやいた。そうして決然として多くの人々と知りあいになる仕事にとりかかった。毎木曜日の夕べには彼女は店がしまると、教会の地階で行われる祈祷会《きとうかい》に出かけたし、また日曜日の夕べにはエプウォース・リーグ(向上会)とよばれる集会に出席した。
ドラッグ・ストアの番頭で、やはり教会に出席していた中年男のウィル・ハーリーが彼女にお伴《とも》して帰ろうと申しいれてきたときにも、彼女はそれに反対はしなかった。「もちろんわたし、この人に、わたしといっしょになるような真似はさせないわ。でも、この人がときたまわたしを訪れるというくらいのことなら、そりゃ何も害はないと思うわ」なお依然としてネッド・キューリーにたいする貞節を固く心に誓いながら、彼女は自分自身に語るのだった。
何がおころうとしているのかもはっきりとは理解できないまま、アリスは最初はよわよわしく、だがしだいにはっきりした決断のもとに、新しく人生をつかもうと試みた。ドラッグ・ストアの番頭のそばを彼女はおし黙って歩いた。しかし暗闇の中を二人でぼんやり歩いているうちに、彼女はしばしば手をのばして、彼の上衣のひだにそっと触れてみた。彼が彼女の母親の家の門口で別れをつげたときにも彼女はすぐ家内に入ることはしなかった。そしてしばらくの間ドアのそばに立ちつくした。彼女は薬屋の番頭を呼びかえしたいと思った。暗闇の家の入口に彼女といっしょに腰をおろしてくれるようにつげようとも思った。しかし彼女が恐れたのは彼がその意味を理解できないのではないかということだった。
「わたしの好きなのはこの人じゃないのだ」と彼女は自らに語った。「わたしはただ、あまりひとりでばかりいるのを避けたいと思うだけだわ。気をつけないと人づきあいもできないようになりはしないかと恐れるだけなんだわ」
二十七歳の秋のはじめころ、アリスは激しい焦燥《しょうそう》におそわれた。彼女はドラッグ・ストアの番頭との交際も耐えられないものに感じた。そして夕べに散歩をともにしようと彼が訪れたときにも彼を追いかえしてしまった。彼女の心は非常な勢いで活動していた。そして長い間店の勘定台の前に立って疲れきったからだを家にはこび、床の中にはらばいこんだときにも、彼女は眠りにおちいることができなかった。凝視の目を見はって暗闇の中をみつめた。彼女の空想は、長い熟睡から目覚めた幼児のように部屋の中をめぐってたわむれた。彼女の心の奥底にはある幻想だけではとうてい欺ききれないあるものがあって、ある決定的な人生からの解答を要求するのだった。
アリスは枕を彼女の両腕に抱えこむと、強くそれを彼女の胸に抑えつけた。床《とこ》の中から抜けでた彼女は毛布を取りだすと、それが暗闇の中では床の中にねているものの姿とも見えるようにこしらえた。そして床の側にひざまずくと彼女はかずかずの言葉をくりかえしくりかえし歌の折りかえしのようにささやきながら、それを愛撫した。
「なぜよいことがこないんだろう。なぜわたしはひとりぼっちなんだろう?」と彼女はつぶやいた。もちろんときにはネッド・キューリーのことを考えることもあったが、彼女はもはや彼には頼りのつなをかけていなかった。彼女の願望は漠然ととりとめのないものとなっていた。彼女はネッド・キューリーを求めるのでも、また誰かほかの男をしたうのでもなかった。彼女はただ愛されることを、彼女の心のうちにますます声高く叫んでくる要求に何らかの解答が与えられんことをひたすら願うのだった。
それから、ある雨の降る夜アリスは一つの冒険をやった。それは彼女の心を恐怖にみちびき混乱におとしいれた。彼女は夜九時に店から帰ってみると、家の中には誰もいなかった。ブッシュ・ミルトンは町に、また母は近所の家に出かけていた。アリスは階上の自分の部屋に上って暗闇の中で衣装をといた。しばらく彼女は窓べに立ってガラス板にあたる雨の音を聞いていた。だが、そこで突然、奇怪な情欲が彼女の心を捕えた。自分で何をしようとしているのかを考えるひまもなく彼女は暗闇の家を階下へかけおりると、雨の中へ走り出た。家の前の小さな草地に立って冷たい雨を彼女のはだに感じたとき、彼女は街々をまっぱだかでかけぬけたいという狂気じみた欲望におそわれた。
雨はある驚異的な、そして創造的な力を彼女の肉体に与えるかもしれないと彼女は考えた。長い年月のあいだ、彼女はこのときほど青春の気力と覇気《はき》とを身内に感じたことはなかった。彼女は跳ね、かけ、叫び、また誰か同じように孤独な人間を見いだして抱擁してやりたいと思った。家の前の煉瓦歩道の上を一人の男が帰宅の道をいそいでいた。アリスはかけだしはじめた。ある狂暴な絶望的な気持が彼女に襲いかかった。
「誰だってかまやしないわ。あの人はひとりなんだもの、わたしがあの人のところに行ってあげるんだわ」と彼女は考えた。そしてさらに彼女の狂気のさたの当然の結果については考えをめぐらすいとまもなく、彼女はやさしくよびかけた。
「お待ちなさいよと」彼女は叫んだ。「行っちゃいやよ。誰だってかまわないわ。お待ちなさいな」
歩道の上の男は、足をとめると耳をかたむけて立ちどまった。彼は老人で、いくらか耳が遠かった。彼は口もとに手をあてがうと大声に叫んだ。
「なに! なんだって?」と彼が呼びかえした。
アリスは地上にくずれ折れると震えながらうち伏した。彼女の行なった行動を振り返ったとき、彼女はまったく恐怖に打ちのめされた。そして、その男が歩きさった後にも彼女は立ちあがる勇気さえ失って、草の上を手と膝ではらばいながら家へ帰って来た。彼女は自分の部屋にたどりつくとドアに閂《かんぬき》をかけて、さらに衣装机を戸口に引きずり出した。全身が悪寒《おかん》を感じたように震え、手は夜着をかかえることさえ困難なほどに震えた。ベッドの中に入ると彼女は顔を枕の中にうずめ、そして、絶望したようにすすり泣いた。
「わたしはいったい、どうしたというんだろう? もし気をつけなかったらどんなことをしでかすかわかったものじゃないわ」と彼女は考えた。そして顔を壁の方に振り向けながら、多くの人々が孤独のうちに生活し、そして死んでゆかなければならないのだ。もちろんワインズバーグでもその例外があるわけはない、という現実の事実に勇敢にたち向うよう自分自身に言いきかせはじめるのだった。
[#改ページ]
お上品らしさ
もし諸君が都会に住んでいて、日曜の午後公園を散歩したことがあるならば、諸君はおそらく、鉄の檻《おり》の隅《すみ》っこでまたたきをしている巨大で、グロテスクな一種の猿を見かけたことがあるだろう。それは醜悪な、むきだしなたるんだ皮膚を両眼の下にたくわえて下半身をうす紫に染めた動物である。この種の猿はじつに怪物である。そのあますところのない醜悪さにおいて、それは一種の歪《ゆが》められた美を完成している。
子供たちはその檻の前に立ちどまって恍惚《こうこつ》と魅了されるし、男性は嫌悪の情をこめてきびすをかえし、そして女性はおそらく彼女らの男の知りあいの中で、誰がそれに少しでも似ているかを憶いだそうとするように、あたりにたたずむのである。
諸君がもし諸君の幼年時代を、オハイオ州ワインズバーグに暮していたことがあったなら、諸君はおそらく、あの檻の中の獣《けもの》にたいしても何らの神秘を感じることはなかっただろう。
「あれぁ、ウォッシ・ウィリアムズにそっくりだ」と諸君は叫んだことだろう。
「やつがあの隅っこにすわっているようすときたら、あれぁ、あのウォッシ老人が、事務所をしめたあとの夏の夕べ、停車場の草の上にすわっている姿とそっくりだよ」
ワインズバーグの電信技手ウォッシ・ウィリアムズは町でもっとも醜悪なしろものだった。彼の胸は無限に大きく、首はやせて、足はひょろひょろだった。彼はよごれていた。彼の周囲のあらゆるものが不潔だった。彼の両眼の白眼さえよごれているように思われた。
だが、わたしはしゃべりすぎた。ウォッシの周囲のあらゆるものがみな不潔だったというのではない。彼は自分の手をいたわった。その指は肥えていた。そして電信事務所の機械のそばのテーブルの上に置かれた彼の手には、何か繊細なそして見る眼をたのしませるものがあった。若いころ、ウォッシ・ウィリアムズは州でも最も腕ききの電信技手だといわれた。そして名も知れないワインズバーグの事務所へ落ちぶれて来たとはいえ、彼はなお、自分の技術については誇りを失っていなかった。
ウォッシ・ウィリアムズは彼の住んでいた町の人々とはつきあいをしなかった。
「おれぁ奴らとはなんのかかわりあいも持ちたくないよ」と電信事務所をよぎって、停車場のプラットホームを歩きさって行く人々を、かすれた眼で見送りながら彼はいうのだった。夕べになると彼は本町通りをすたこらエド・グリフィスの酒場へやって来た。そして信じられないくらいたくさんのビールをひっかけると、ニュー・ウィラード・ハウスの彼の部屋へ、その夜の彼の寝床へひょろひょろと立ち去って行った。
ウォッシ・ウィリアムズは勇気のある男だった。ある出来事がおこって、そのため、彼は人生を嫌悪するようになった。そして彼は心の奥底から、詩人の絶望的な気持をもって人生を嫌悪した。なかんずく女を嫌悪した。「ばいた」と彼は呼ぶのだった。だが、男にたいする彼の感情はいささか異なったものだった。彼は彼らに同情をもった。
「あらゆる男という男の人生は、何らか、ばいたどもによって支配されていないものがあろうか?」と彼はいうのだった。
ワインズバーグの町では、ウォッシ・ウィリアムズと、彼の人間嫌いにたいしては何らの注意も向けられなかった。かつて銀行家の妻君ホワイト夫人は、ワインズバーグの事務所がきたなくて、いまわしいにおいがすることを申し立てて電信会社に苦情を申し込んだ。だが、その苦情の申し立ては無効に終った。
あちこちで電信技手は人々から尊敬の念をもってむかえられた。本能的に人々は彼ら自身では憤りを爆発させる勇気を持たない、あるものにたいする、燃えるような憤怒《ふんぬ》の情を彼の姿のうちに感じとった。ウォッシが街々を歩いているのを見かけると、そうした男は、本能的に彼に尊敬の意を表わして帽子をとり、あるいはうやうやしく頭を下げた。ワインズバーグを通る鉄道の電信技手の監督官をしている男もまたそうした感情を持っていた。彼がウォッシを名も知れないワインズバーグの事務所にすえておいたのも、彼が首を切られるのを避けるためだった。そして彼はウォッシをひそかにそこにかくしておくことを考えついたのだ。銀行屋の妻君からの苦情の手紙を受取ったときにも、彼はその手紙をひき破って、不愉快な笑いを顔にうかべた。何ということはなく、その手紙をひき裂くとき彼は彼自身の妻の姿を心に描いていたのである。
ウォッシ・ウィリアムズもかっては妻君を持っていた。彼はまだ若者のころ、オハイオ州デイトンで一婦人と結婚した。その婦人は背の高い、やせぎすな女で、青い眼と黄色い髪の毛をもっていた。ウォッシ自身も、立派な青年紳士だった。彼はその後あらゆる女にたいしていだいた嫌悪の情と同じように強い熱狂的な愛をもってその婦人を愛したのである。
あらゆるワインズバーグの人々のうち、ウォッシ・ウィリアムズの性格と人となりをこのような醜悪なものとしてしまった物語を知っているのはただ一人だった。彼はかつてその物語をジョージ・ウィラードに語った。そしてその物語が語られたというのは次のような事情によるのだ。
ジョージ・ウィラードはある夕べ、ベル・カーペンターと散歩をするために出かけた。ベル・カーペンターは婦人帽の装飾工でケイト・マクヒュー夫人の営んでいる装身具店で働いていた。若者はその女と恋におちていたというのではない。というのは彼女は事実、エド・グリフィス酒場のバーテンダーをやっている男を求婚者に持っていたからだ。しかし、二人で樹々の下を歩きまわっているうち、二人は想い出したようにときどきお互いに抱擁をかわした。夜の気とそして彼ら自身の種々のさまざまな考えが二人のうちにあるものを呼び覚ましていた。彼らは本町通りへひきかえす道すがら、停車場のそばの小さな草原をよぎった。そしてウォッシ・ウィリアムズがとある木の下の草原の上に、見たところ眠りこんだように横たわっているのを見かけた。次の日の夕べ電信技手は、ジョージ・ウィラードといっしょに散歩に出た。彼らは鉄道線路を下ると貨車のかたわらの腐りかけた鉄道枕木の積み上げた上に腰をおろした。そして電信技手が彼のにくしみの物語を青年記者にうちあけたのはこのときである。
おそらく十数回はジョージ・ウィラードと、そして彼の父のホテルに住む奇怪でぶかっこうな男とは話をかわすところだった。ホテルの食堂のまわりに凝視をつづけながら、いまわしい横目でにらみつけている顔を見つめているうちに若者は好奇心に心を奪われた。その凝視をつづける目にひそんだあるものは、ほかの男には何も用はないが、彼には何ものかをうちあけたいということを語っているように思われた。夏の夕べ、鉄道枕木の上に腰をおろして彼は期待に胸をとどろかせながら待ちかまえた。電信技手がおし黙って、見たところ物語をはじめようとしていた気持を変えてしまったように思われたとき、彼は会話をはじめようと試みた。
「あなたは結婚したことがありますか、ウィリアムズさん?」と彼ははじめた。「ぼくはあると思うんだが、そして奥さんは亡くなられたのですね? そうでしょう?」
ウォッシ・ウィリアムズが、つづけさまに呪いの言葉を吐いた。
「うん、奴ぁ死んだよ」と彼がうなずいた。
「奴ぁ死んだんだ。あらゆる女という女が死人であるのと同じにな。あの女は生ける屍《しかばね》さ。この世の中をほっつきまわって、よごれた姿でこの地上をけがして行きやがったのだ」若者の眼のうちを凝視しながら、その男は憤怒で紫色になった。
「ばかな考えをもっちゃあいけないぜ」と彼は命令的にいった。
「わしのワイフは、死んださ。うん、たしかに奴ぁくたばった。わしぁいうがね、あらゆる女という女は死人だよ。わしのおふくろにしろ、あんたのおふくろにしろ、そしてあんたが昨日連れだって歩いていたのを見かけた、あの装身具店で働く背の高い黒髪の女にしろ――あらゆる女は、みんな死人さ。わしはいうがね、奴らにはあるけがらわしいものがつきまとってる。たしかに、わしぁ結婚したよ。だがわしのワイフは、わしと結婚する前に死んでいた。奴ぁ、奴よりももっとけがらわしい女から生れた、けがれたやつなんだ。奴ぁわしの生活を耐えられんものにするために送られて来たようなものだ。わしぁ、いいですか、ちょうど今のあんたと同じように、馬鹿だったのだ。わしぁもっと男が女というものを知るようになれぁ良いのにと思いますわい。女というものぁ、男がこの世の中をもっと値打ちのあるものにしようとするのを妨げるために送られて来たようなものです。それぁ自然のいたずらというものでさぁ。ちえッ! 奴らはふくよかな手と青い眼の玉を持ちやがって、まるで虫けらのようにのたうちまわる。女の面《つら》を見るとわしぁ胸くそが悪くなるのです。なぜわしが、見かけた女はみなたたき殺してしまわんのかといやぁ、それぁわしにもその理由はわからんですがね」
なかば恐怖の念をいだきながら、なお醜悪な老人の眼のうちに燃える光に魅惑されて、ジョージ・ウィラードは好奇心にみちて聞き耳をたてた。夕べの暗闇が訪れた。そして、彼は語ってゆく老人の顔をうかがうように前かがみにのり出した。老人の紫色にはれあがった顔と燃える眼が、せまってくる夕闇につつまれると、彼は不思議な幻想にとらわれた。ウォッシ・ウィリアムズの語ってゆく、低いたいらな声の調子は彼の言葉をますますものすごくした。夕闇のうちに青年記者は、ある黒髪の、黒く輝いた眼をした美わしい若者とならんで、鉄道枕木の上に腰をおろしているかのように自ら想像した。にくしみの物語を語ってゆく醜悪な男ウォッシ・ウィリアムズの持つ声のうちには、ほとんど美わしいとも思われるあるものがあった。
夕闇のうちに鉄道枕木の上に腰をおろしたワインズバーグの電信技手は一人の詩人となっていた。にくしみの情が、彼を詩人の高みへまで高めていた。
「わしがあんたにこういう物語をするのも、何もわけがないからじゃあない。わしはあんたがあのベル・カーペンターの唇に接吻しているところを見かけたからのことです」と彼は語った。
「わしにおこったようなことが、こんどはあんたにもおこらんともかぎらんからのことです。わしはあんたに注意してもらいたいと思っとる。あんたもすでに、夢を懐《いだ》きはじめているじゃろう。わしはそいつをぶちこわしてやりたいと思うのです」
ウォッシ・ウィリアムズは、青い眼をした背の高いブロンドの娘と彼との結婚生活について物語をやりはじめた。それは彼がまだ年若い電信技手だったころオハイオ州デイトンであった娘との物語である。彼の物語は悪《あし》ざまな呪いの言葉と織りかわされて数多くのうるわしい美の瞬間をあやなしていった。電信技手は歯医者の三人姉妹のいちばん年下の娘と結婚した。結婚の当日には、そのすぐれた技術のゆえに、彼は月給を増額されて電信発送人の地位にすえられた。そして、オハイオ州カランバスの事務所に派遣された。そこで彼は年若い妻と一家をかまえ、月賦払いで家を買い入れた。
年若い電信技手は狂気のような恋に落ちた。一種の宗教的な情熱で彼は青年時代の陥穴《おとしあな》をつきぬけ、そして彼の結婚ののちまでも童貞でとどまっていた。彼はオハイオ州カランバスの家にあって彼の年若い妻君との生活の有様をジョージ・ウィラードに描いて見せた。
「わしたちは家の裏手の庭にいろんな野菜を植えつけたものです」と彼は語った。「たとえば、エンドウ豆とか、トウモロコシとか、そんなものをです。わしたちは三月の初めにカランバスにやって来た。そして温かな日が訪れはじめるとすぐに、わしは庭の仕事にとりかかったのです。わしは鋤《すき》でまっ黒な土を掘りかえして行った。で、その間に妻は、わしの掘りかえした虫けらを恐れるようなしなをつくったり、笑い声をたてて見たりしてかけまわっていたものです。四月の終りころになると種まきの時期がやって来ます。すると種床の間の小さな小路に奴ぁ立って紙の袋をかかえているのです。袋は種子でいっぱいです。一度に少しずつ奴はわしに種子を手渡してゆきます。で、わしぁそれを温かな柔かな土の中にさしこんで行くのでした」
夕闇の中で語ってゆく男の声の中には瞬間あるよどみができた。
「わしぁ奴を愛していました」と彼は語った。
「わしぁ自分でも馬鹿じゃないとはいいません。わしぁ今でも奴を愛しているのです。春の夕べのうす闇の中で、わしは黒土の上を奴の足もとへはって行って、奴の前にひれ伏すのでした。わしは奴の踝《くるぶし》に、そして靴の上に露われた踝に口づけするのでした。奴の衣装の縁《ふち》でもわしの顔にふれようものならわしは震えあがったものでした。こうした生活が二年の間つづいたのち、奴がいつの間にか三人の愛人をこしらえているのを見いだしたときにも、わしはけっして奴にも、また三人の奴らにも手だしをしようとは思いませんでした。奴らは、わしが仕事に出て、いない間を見はからっては、きまってわしの家を訪れていたのです。わしは妻を、奴のお袋の家に送りかえして、何の苦情もいいませんでした。何もいうことはなかったのです。わしは銀行に四百ドルあずけていました。それをそっくりそのまま奴にくれてやりました。わしは奴のいいわけなど聞こうとはしませなんだ。わしは何の文句もいいませんでした。そして奴が行ってしまうと、わしは馬鹿息子のように泣き叫んだものでさあ。わしは、それからすぐ、機会を見つけると家を売り払いました。そして、その金もわしぁ奴に送ってやったものです」
ウォッシ・ウィリアムズとジョージ・ウィラードとは鉄道枕木のつみかさねた上から立ちあがると、鉄道線路に沿って町の方へ歩いていった。電信技手は早口に、息もつかずに彼の物語の結びをいそぐのだった。
「わしは奴のお袋から呼びよせられました」と彼は語りつづけた。
「奴ぁわしに手紙を書いて、デイトンの奴らの家に来るようにといってよこしました。わしがそこに着いたときは、ちょうど、今時分の夕べでした」
ウォッシ・ウィリアムズの声はなかば叫び声へ高まった。
「わしはその家の客間で二時間もすわらされていました。奴のお袋が、わしをそこへ連れてって、おきっぽりにしたわけでさあ。奴らの家はハイカラなものでした。それぁいわば上流家庭ともいわれるものだったのです。部屋の中にはぜいたくな長椅子がありましたっけ。わしの全身はブルブル震えていました。わしはあの男の奴らを憎みました。奴らが彼女を過《あやま》ったのだと、わしは考えたのです。わしはただひとり、孤独に生活をして行くのには耐えられませんでした。で、わしは、奴の帰ってくることを待ち望んでいたのです。わしは長いこと、そこに待っておればおるだけ、わしの心はうずきを覚え、はりつめた気もよわよわしくなっていきました。わしは考えたのです。もし奴が入って来て、奴の手でちょっとでもこのわしに触れようものなら、わしはきっと気絶してしまうだろうと。わしの心は、すべてを許し、そして忘れさろうとうずいていたものでさ」
ウォッシ・ウィリアムズは足をとめると、ジョージ・ウィラードを見つめて立ちつくした。若者の全身は悪感でもするように震えた。そしてふたたび、男の声が柔らかく低い調子へもどった。
「奴はまっぱだかで部屋に入って来ました」と彼はつづけた。
「それぁ、奴のお袋がさせた仕業《しわざ》です。わしがそこですわりつくしている間にも、奴ぁ娘の衣装をぬがせておったのです。きっと衣装をとるようにと娘をなだめすかしておったのです。わしは最初、ちょっとした廊下につづいた戸口に人声を聞きました。それから、その戸が静かに開きました。娘は恥じらって、床を見つめたまま、身動きもせずに立っていました。お袋は部屋のうちには入って来ません。奴は娘を部屋の中におし入れると、廊下にたたずんで待ちかまえていたのです。わたしたちが、きっと――え―とにかく――待ちかまえていやがったのです」
ジョージ・ウィラードと、電信技手はワインズバーグの本町通りへ出て来た。店々の窓からもれる灯火が輝かしい光を投げて、歩道の上にかがやいていた。人々は語りあい、笑い声をかわしながらすれちがった。年若い記者は、胸の悪くなる思いがした。そして、身内のよわよわしさを感じた。彼もまた、想像のうちに年をとった、ぶかっこうな男へ化していた。
「わしはとうとうお袋をたたき殺すことができませなんだ」とウォッシ・ウィリアムズは街の上下をねめまわしながら語った。
「わしはただ一度、椅子で奴をなぐりつけました。それから近隣の奴らが入って来て、椅子を奪いとりました。奴はまったく、大きな声で泣き叫んだものでさあ。わしぁ、今となっちゃ結局、奴をたたき殺す機会はないというものです。奴アその事件から一と月目に熱病でくたばってしまったからです」
[#改ページ]
考える人
ワインズバーグのセス・リッチモンドが彼の母と住んでいた家というのは、かつては町が誇りにした屋敷だった。しかし、少年セスがそこに住むようになったころには、昔のはなやかな面影もうすらいでいた。銀行家ホワイト氏のバックアイ街に建てられた巨大な煉瓦造りの家がそれを圧倒したからだ。リッチモンドの屋敷は本町通りのはずれから、さらにはるかへだたった小さな谷間にあった。南へ走る埃《ほこり》っぽい道路を町へやって来る農夫たちは、胡桃《くるみ》の木の森をすぎると、広告でうめられた高い板囲いの市場用地をまわり、谷間のリッチモンドの屋敷よこをすぎて町へ馬をかりたてるのだ。
ワインズバーグの南北に連なる畑は、多くは果実やいちごの栽培をやっていた。それでセスは、少年や娘たちやそして婦人たちのいちご摘み人足をいっぱいつんだ多くの馬車が朝方は畑へ、そして夕べには埃をあびて帰って来るのをながめた。車から車へとむきだしな冗談を投げあって過ぎる、ペチャクチャとしゃべりあう人のむれは彼の心を鋭い怒りへ誘った。彼自身そうぞうしく笑いあい、意味もない冗談を叫びかわすこともできず、路を行きかうたわむれとさんざめきのたえまない流れの中に自分も加わることができないのを残念に思った。
リッチモンドの家は石灰石で建てられてあった。そして町では昔の面影は失われたという評判ではあったが、その実、年とともにますますその美しさを加えていた。すでに時代の古さはその石の色どりに現われはじめていた。その表面は黄金色のゆたかな輝きにかがやいて、夕方または曇った日には、その庇下《ひさしした》の影間の場所は褐色と黒のたゆとう縞《しま》に彩《いろど》られるのだった。
その家は石切人だったセスの祖父によって建てられた。そして、北に十八マイルへだたった、エーリ湖に臨んだ石切場とともに彼の息子の、そして、セスの父にあたるクレアランス・リッチモンドにのこされたものだった。
クレアランス・リッチモンドはもの静かで激情的な男だった。そして近隣の人々からは特に尊敬の念をもって見られていたが、オハイオ州トレドーの新聞記者と町中で決闘を演じて殺された。クレアランス・リッチモンドの名前が、女の学校教師のそれと並んで新聞に書かれたというのがそもそもの決闘の原因だった。しかしその決闘は彼が新聞記者に発砲することからはじまったという理由で、殺害者を罰しようとする努力はすべて不成功に終った。そして石工の死後、彼にのこされた大部分の資産は、数多くの友人の手をとおして行われた曖昧《あいまい》な投資や投機ですり減らされてしまっていることがわかった。
わずかな収入をかかえてとりのこされたバージニア・リッチモンドは町におちつくと隠遁生活のうちに息子の養育に専心した。彼女は夫と父の死によって、いたく心を打たれたとはいえ、夫の死後、彼についてふれまわられた種々の噂話には少しも信をおこうとしなかった。彼女の思うには、あの、あらゆる人間が本能的に愛を感じていた子供らしい、感じやすい男は、一個の不幸な人間、日常の生活に耐えゆくにはあまりに繊細な人間だったのだ。
「お前はいろんな噂話を耳にするだろうけど、けっしてお前の聞いたことを信用してはいけないよ」と彼女は自分の息子に語り聞かすのだった。
「お前のお父さんは立派な人だったのですよ。慈愛にみちた人間だったのです。そして世の中のわずらいごとに手出しなどできる人ではなかったのです。お前の将来について、わたしはどんな計画をたて、夢をみたとしても、お前がお前のお父さんほどの立派な人間になってくれれば、それにこしたことはないと思うのです」
夫の死後数年たつと、バージニア・リッチモンドはだんだん増してくる収入の必要におびやかされはじめた。そして収入をふやす仕事にとりかかった。彼女は速記術を学んだ。そして夫の友人のあっせんで田舎の裁判所に速記者の口を見つけた。裁判所の開いている間じゅう、毎朝彼女は汽車で通った。そして裁判の開かれない日には、彼女は庭のばらの苗木の間で終日働きながら暮した。彼女は女としては背の高い、すらりとした方だった。そして色気のない顔と、ふさふさした褐色の髪の毛をもっていた。
すでに十八歳のころから、セス・リッチモンドのあらゆる人々との交わりに色彩《いろど》りを与えはじめていた特色は、彼と彼の母との関係にも現われはじめていた。若者にたいするほとんど病的な尊敬の念のために、母は彼の前ではほとんど言葉もきけないほどだった。彼女が鋭く彼を叱りつけたときにも、彼はただ彼女の眼をしっかりとにらみかえせばよかった。そうすれば、彼はすでにほかの人の例でも感づいていたあの当惑した眼の色が、彼女の眼にもうかびはじめるのを見た。
実のところ、息子はすばらしい明せきさでものを考え、母はそうでないということだった。母はあらゆる人々からもれなく、あるしきたりふうな生活の解答が与えられることを期待していた。息子はわたしの息子だもの、叱ればあの児はからだを震わせて床に眼を落すだろう。ひどく叱りつければ、あの児は泣き出して、そしてすべては許されるだろう。すすり泣いてあの子が床に入った後には、わたしはあの児の部屋にしのびこんで、そして接吻をおくってもやろうに。
バージニア・リッチモンドは、彼女の息子がどうしてこうした態度をとってくれないのかを理解することができなかった。鋭い非難の言葉を浴びせられた後にも、彼はからだを震わすこともなく、また床の上に眼を落すこともなく、かえって彼女をじっと見つめるのだった。そして彼女の心のうちには不安と疑惑の雲が立ちこめはじめた。彼の部屋にしのびこむという問題については――セスが十五の年をすぎた後には、彼女はいつもそんなことをやることをなかばおそろしいことのようにさえ考えた。
かつてセスが十六歳の少年であったころ、彼は仲間の二人の少年とつれだって家を逃げだした。三人の少年は貨車の開けっぱなしの戸口からよじ登って、ほとんど四十マイルもへだたった市場のひらかれたある町へ乗りつけた。少年たちの一人は、ウィスキーと、黒苺酒《くろいちごしゅ》のまぜあわせの壜《びん》をたずさえていた。そして三人は貨車の戸口に足をぶらつかせながら、壜かららっぱ飲みに酒を飲んだ。セスの二人の仲間は歌を唱い、過ぎて行く町々の停車場近くにたたずむ怠け者たちに手を振ってあいさつを送った。彼らは家族連れで市場を訪れてくる農夫たちの弁当籠を襲うことを計画した。「ぼくたちは王様のように暮そうよ。市場や競馬を見るにも一文だって金なんか払っちゃ≪うそ≫だぞ」と彼らは誇らし気にいいはなったのだった。
セスが姿を消してのち、バージニア・リッチモンドは、漠然とした恐れの念をいだいて家の床上を歩きまわった。もちろん次の日には町の警察の捜索で、少年たちの冒険旅行の次第も明らかにはなったが、しかし彼女は平静な気持をとりもどすことができなかった。夜っぴて彼女は、時計の刻みの音を耳にしながら、そしてセスもまた彼の父と同じように突然むごたらしい死に方をするのではないだろうかと自問自答しながら、眠られない夜をすごした。彼女はもちろん、町の警察が少年の冒険の邪魔をすることは許しがたいことだと思ったが、しかし今度という今度こそ少年に十分彼女の怒りの恐ろしさを思い知らせてやらなければならないと固く心に決めた。
彼女は筆と紙をとりだすと彼に浴びせてやろうと心に決めた鋭い、胸をさす非難の言葉のかずかずを書き連ねていった。彼女は庭園を歩きまわって役者がせりふを覚えるときのように、その非難の言葉を声高に語りながら暗記していった。
しかし、その週の終りになって、セスが、疲れの様子をみせ、耳のあたりや目のまわりを石灰|媒《すす》にまみれて帰って来たときには、彼女はまたもや彼に非難の言葉を浴びせることは不可能だと感じた。家の内に入ってくると、少年は台所の入口の釘に帽子をかけて母をしっかりと凝視して立った。
「ぼくは出てって小一時間もしたら帰ってくるつもりだったのだよ」と彼は説明した。「ぼくはどうしていいのかわからなかったのだもの。お母さんが心配してることはぼくにもわかってたんだけど、もし途中からやめて帰ったらぼくの恥になるんだとも思ったんだよ。ぼくはただぼくの名誉を考えてあんなことをやったんだよ。ほんとに不愉快ったらありゃしないや。湿った藁《わら》の中に寝たり二人の酔っぱらいの黒人といっしょに寝たりしてさ。ぼくは農夫の馬車から弁当籠を盗み出したときだって、子供たちが一日じゅうすきっ腹をかかえているのだろうと思うとほんとにやりきれなかったよ。ぼくはもう、することなすことすべていやになっちゃったんだ。だけど、ほかの者が帰ろうといいだすまでは、何でもやりとおさなけれぁいけないのだと心に決めていたんだよ」
「お前、よくやりおおせたわね」となかば憤りの心をいだきながらも母は答えた。そして家まわりの仕事にいそがしそうなふうをよそおいながら少年の額に接吻した。
ある夏の夕べ、セス・リッチモンドは、ニュー・ウィラード・ハウスに彼の友ジョージ・ウィラードを訪ねた。その日の午後は雨が降っていた。しかし、彼が本町通りに歩き出たときには、空は一部晴れあがって、西の方は黄金色にかがやきわたっていた。角をまがると、彼はホテルのドアを入って、彼の友人の部屋につづいた階段を上りはじめた。ホテルの事務所にはホテルの持主と二人の旅客とが政治議論に熱中していた。
階段の途中で立ちどまると、セスは下から聞えてくる人々の声に聞き耳をたてた。彼らは興奮して、早口にしゃべり立てている。トム・ウィラードが客をののしっている。
「わしは民主党員《デモクラート》です。だがあんたの話はわしの気にくわん」と彼がいう。「あんたはマッキンリーを理解しとらん。マッキンリーとマーク・ハンナは友だちです。おそらくあんたには、そんな事実を理解することはむずかしいでしょう。友情とは金銭にかえがたく深く偉大なものであって、州の政治などとは代えがたい値打のものだといったところで、あんた方はただセセラ笑うだけでしょうがね」
ホテル主の言葉は客の一人によってさえぎられた。それは食料雑貨卸商店に働いている背の高いごま塩ひげの男だった。
「あんたは、このわしが長い年月マーク・ハンナも知らないで、クリーヴランドで暮していたとでもいうのですかい?」と彼は反駁《はんぱく》した。「あんたの話はでたらめです。ハンナは金銭の奴隷でそれ以上の何者でもないです。で、このマッキンリー先生は奴の道具にすぎなかったのです。奴はマッキンリー先生を恐喝したことがあったが、あんたもそれくらいのことは憶えていなさるがいい」
階段の上の若者はそれ以上議論のつづきに耳を傾けて立ちどまってはいなかった。そして階段を上ると小さな暗い廊下へ歩いていった。ホテルの事務所の人々の語りあう声を聞いているうちに、彼にはある一連の考えが心のうちにわきおこった。彼は孤独だった。そして孤独は彼の性格の一部分だとも、また彼からは離れがたいものだとも考えられた。わきの廊下に歩みこむと、彼は裏路地を見下した窓べに立ちどまった。町のパン屋アブナー・グロフが彼の店の裏手に立っている。彼のちっぽけな血走った眼が裏小路の上下をギョロギョロと見まわしている。店のうちから、誰かパン屋を呼びたてた。だが彼は聞えないふりをした。パン屋はミルクの空壜を手に握りしめて、両眼が怒りでふくれあがっている。
ワインズバーグの町ではセス・リッチモンドは「深みのある児」と呼ばれていた。「あの児はお父さんとそっくりだ」と彼が街々を歩くとき人々は語った。「あの児はきっと近いうちに大したことをやり出すだろうよ。まあ、待っててみるがいい」
町の人々の語りあう言葉や、また、沈黙の男にたいしてよくやるように町の人々や少年たちが彼にたいして本能的にあいさつをかわし、敬意を表わしてゆくことは、セス・リッチモンドの自己にたいする、また人生にたいする考え方に強い影響を与えた。彼もまた多くの少年たちがそうであると同じように、少年たちはあてにならないといわれる以上にある深いものをもっていた。だが、町の人々やまた彼の母さえもが考えていたほど深い考えをもった少年ではなかったのだ。彼の習慣的な沈黙のうちには何か偉大な、ひそめられた目的が横たわっているというのではなく、また、彼が人生にたいして決定的な計画をもっているというのでもなかった。彼の仲間の少年たちがやかましくはしゃぎたてたり、また喧嘩をおっぱじめたりしたときにも、彼は静かに片側に立って、もの静かな眼で仲間の者たちのものものしい、活発な姿をながめていた。
彼はその場で行われていることにたいしては何にも取り立てた興味をひかれなかった。そしてしばしば彼は、今後とも彼にたいしてなんらか取り立てた興味のもてるようなものが生じるのだろうかと考えるのだった。さて彼はうす闇の窓べに立ってパン屋をながめながら、なにか、たとえばパン屋グロフの有名なむっつりした憤怒の発作のようなものでもいい、なにか彼の心をひっかきまわすようなことがおこってくれればいいのにと思うのだった。
「もしぼくが興奮することができて、ほら吹き先生のトム・ウィラード老人のように政治論でも戦わせることができるようだといいのだが」と彼は窓べを離れてふたたび友人ジョージ・ウィラードの占める部屋の方へ廊下を歩きながら考えた。
ジョージ・ウィラードはセス・リッチモンドよりも年上だった。だが、二人の間のむしろ奇妙な友だちづきあいの関係では、いつもやさしい言葉をかけるのはジョージであって、年下の少年は言葉をかけられる方だった。ジョージの働いていた新聞は一つの政策をもっていた。というのは新聞は、毎号できるだけたくさんの町の人々の出来事を、名前入りの記事にでっちあげようとしていたのだ。さかりのついた犬のようにジョージ・ウィラードはあちこちかけまわっては、誰それが商用で田舎の裁判所に出かけたとか、其々氏が隣村の訪問から帰ったとかいうことを、メモ帳に書きつけてゆくのだった。終日、彼はかずかずのささやかな事実を手帳に書きつけていった。
「エイ・ビー・リングレット氏は、麦藁帽の荷の受取りを終る。エド・バイアーバウムとトム・マーシャルの両氏は金曜日クリーヴランドに出発。トム・シンニングズ老人は目下バンイ街の所有地に新しい納屋を建設中」
ジョージ・ウィラードが他日一人前の小説家になるだろうという考えはワインズバーグの人々の中で彼の地位を高いものにしていた。そして彼はセス・リッチモンドに会うといつもそのことを語った。
「あらゆる生活という生活の中でもっとも安易《イージー》な生活なんだ」と彼は興奮してほこらしげにいいはなったのだった。
「どこに行ったからって、誰も親方なんてものはいないのだ。インドに行こうとメキシコ湾上にボートでうかんでいようと、ただ、ペンを持って書きさえすれば、それでいいんだ。まあ、ぼくが名前をあげるまで待っていてごらんよ。すばらしいことをやってごらんにいれるから」
一方の窓からは裏の路地が見おろせるし、他方の窓からは鉄道線路をこえて停車場の真向いのビス・カーターの食堂まで見渡せる、ジョージ・ウィラードの部屋の中で、セス・リッチモンドは椅子に腰をおろすと床を見つめてすわった。長い間することもなく鉛筆とたわむれながらすわっていた。
ジョージ・ウィラードは彼の姿を見ると噴水のような歓迎の言葉をあびせかけた。「ぼくは恋愛小説を書こうと思っていたのだ」と神経質な笑い声をたてながら彼は説明した。パイプに火をつけると、彼は部屋うちをあちこちと歩きまわりはじめた。「ぼくは考えたのだがね。ぼくは恋におちいろうとしているのだ。ぼくはここにすわってそのことをくりかえし、くりかえし考えたのだ。ぼくは結局恋におちいろうとしているのだ」
自分の言葉そのものに当惑したかのように、ジョージは立ちあがって窓べに行くと、友だちに背を向けて窓から半身をのり出した。「ぼくが、その恋におちいった相手というのはね」と彼は声を鋭くして語った。「それはヘレン・ホワイトなんだ。この町の娘っ子のうちで見ばえのする女といえば、まああれ一人くらいなもんだね」
新しい着想をえたかのように年若いウィラードはふりかえると訪問者の方にあゆみよった。
「さあいいかね」と彼はいった。
「君はヘレン・ホワイトとはぼくよりも仲がいいね。で、ぼくのいったことをあの娘《こ》に話してくれ給え。君はただあの娘に話をする機会をつくって、ぼくが恋してるってことを話してもらえばいいんだ。で、あの娘が何といいだすか、どんな態度をとるか、君はよく気をつけてみているんだよ。そして、ぼくにそのようすを話してきかしてくれ給え」
セス・リッチモンドは立ちあがると戸口の方へ歩いて行った。彼の友の言葉が、耐えがたいほど彼を憤激させた。
「うむ、失敬」と彼はブッキラ棒にいった。
ジョージは驚いた。走りだすと彼はセスの顔つきを見分けようとするように暗闇の中に立った。
「どうしたんだい? 君、どうしたというの?君、もっとここで話そうじゃないか?」と彼はうながした。
彼の友だちや、たえまもなくつまらないことをペチャクチャしゃべりあっている町の人々や、また何といってもことに自分自身の沈黙の習慣にたいして向けられた憤りの波がセスをなかばやけくそな気持に追いやった。
「君自身話したらいいんだ」と彼は吐きだすようにいい終ると、すばやく戸口を出て、友の面前で、激しくドアをしめた。
「ぼくはヘレン・ホワイトのところに行って話してみよう。だが、彼のことなぞ、口に出してやるものか」と彼はつぶやくのだった。
セスは階段をおりると、怒りに唇を震わせながらホテルの表玄関から出て行った。埃っぽい小路をよぎって、低い鉄の手すりを登って行くと、彼は停車場広場の草の上に腰をおろした。ジョージ・ウィラードは大馬鹿者だと彼は考えた。そして彼はそのことを大声にいってやればよかったと思うのだった。銀行家の娘ヘレン・ホワイトと彼との親しさというものは、外面的には、ほんの些細なものにすぎないように見えもしたろうが、彼の想いはしばしば彼女を中心にひろがってゆき、彼女こそ彼の心のひそやかな、秘められた対象であるとも思われたのだった。
「三文小説書きの大馬鹿者が」と肩ごしにジョージ・ウィラードの部屋の方を凝視しながら彼はつぶやくのだった。「よくもまあ、彼は、あのとめどもないおしゃべりに疲れないことだ」
それはワインズバーグの苺取り入れの季節だった。それで、停車場のプラットホームの上では男や少年たちが、側線に入った二輌の急行貨車に赤い香りの高い苺の箱を積み込んでいた。西のかなたでは嵐の気配が見えた。だが、空には六月の月がかかって街灯もともされていない。薄闇のうちで、急行貨車の上にのっかって苺の箱を貨車の中に投げこんでいる人々の姿が、わずかに見わけられるほどに浮きでている。停車場前の芝生を囲った鉄の手すりの上には多くの人々が腰をおろしていた。タバコの火がともされて町の諧謔《かいぎゃく》があちこちととりかわされた。遠くで汽車の汽笛が鳴った。そして貨車に苺を積み込んでいる人々は改まった元気で仕事にとりかかった。
セスは芝生の上から立ちあがると静かに手すりの上にたたずんだ人々の横をとおって、本町通りへ歩いて行った。彼はある決心を固めていた。
「ぼくはこの町を出て行くのだ」と彼は自らに語った。
「ここにいてなんの用があるのだ。ぼくはどこか都会に出て働くのだ。明日になったらそのことをお母さんに話ししよう」
セス・リッチモンドはゆるゆると本町通りを通って、ウェイカーのタバコ店や、町役場をすぎ、そしてバックアイ街へと歩いて行った。彼は自分自身町の生活の一部分となることができないことを考えると憂鬱《ゆううつ》だった。だが、自分がまちがっているのだとは考えなかったので、その憂鬱の想いも彼の心を深く切りさいなむことはなかった。ドクター・ウェリング氏の宅の前の大きな木の濃い影の中で彼は足をとめると、半馬鹿のターク・スモレットが手押車を押して来るのをながめて立った。ばかげて子供らしい心を持ったその老人は手押車に十数枚の長い木の板をのせていた。そして彼は道を急ぎ足に押し進みながら、とても巧みにその荷の釣り合いを保っていた。
「うまいぞ、ターク! しっかりやれ。オールドボーイ!」と老人は自らに向って叫び、そして板荷が危なげにゆれるほど笑い声を高めた。
セスはターク・スモレットを知っていた。彼はなかば恐れられた老|木挽《こびき》だった。そして彼の奇行は町の生活に多くの彩りを与えていた。タークが本町通りに現われると、彼は驚きや、笑いや叫び声の渦巻《うずま》きの中心になった。それに実のところ老人は本町通りを通って、板ころがしの巧みの技《わざ》を示すためにわざわざ道を大まわりしてやって来るのだということもセスは知っていた。
「もしジョージ・ウィラードがこの場にいあわせたら、彼もきっと何か一言いわないではすまさないところだろう」とセスは考えた。
「ジョージはこの町の人間だ。彼はきっとタークに何か叫びかけて、タークもまた彼に叫びかえすことだろう。彼らはともどもに叫びあう言葉のうちに、心秘かに快哉《かいさい》をさけんでいるのだ。だが、ぼくはちがう。ぼくはこの町の人間ではない。ぼくはべつにそんなことで文句をいおうとは思わない。だが、ぼくはこの町から出て行ってしまうのだ」
セスは自分の町におりながら、まるで追放者のような気持を味わいながら薄闇の中をすたすた進んだ。彼は自分自身に憐れみを感じはじめた。しかし、そうした考えの愚かさを感じると彼はほほえんだ。結局彼のこうした気持も彼が年相当以上にふけた考えを持っているせいであって、けっして自分は自己|憐憫《れんびん》の対象となるような男ではないのだと思いあたった。
「ぼくは働くために生れたのだ。ぼくは真面目に働けば、自分で自分の地歩を築きあげることもできるのだ。で、すぐにもそれにとりかかるのが賢明の策というものだろう」と彼は心に決めるのだった。
セスは銀行家ホワイト氏の家の方へと歩いて行くと、表戸のそばの闇の中にたたずんだ。戸口には重そうな真鍮《しんちゅう》のノッカーがぶらさがっていた。それはヘレン・ホワイトの母によって、この町に取り入れられた一つの新工夫なのだ。彼女はまた町に詩を研究するための婦人クラブを組織した女でもあった。セスはノッカーを取りあげると、それを地上にすべり落した。そのおもおもしい落下音が遠くとどろくの大砲の音のように鳴り渡った。
「なんというぶざまな、馬鹿な奴だろう」と彼は自ら考えた。「もしホワイト夫人でも出てこようものなら、ぼくぁどういって言いわけしたらいいのかわからないじゃあないか」
戸口に現われて、セスが玄関口にたたずんでいるのを見いだしたのは、しかしヘレン・ホワイトであった。よろこびに頬を赤らめながら彼女は戸口を出ると静かにドアをしめた。
「ぼくは町を出ようと思っているのだ。ぼくは何をしていいのだか自分でもわからないのだけど、ぼくはとにかく、この町を出て働こうと思っているのだ。ぼくはたぶんカランバスに行こうと思っているよ」と彼はいった。
「たぶんぼくはあすこの州立大学に入るかもしれない。とにかく、ぼくは出て行くのだ。ぼくは今晩お母さんにも話そうと思ってるよ」彼は言葉につまって、疑わしげにあたりを見まわした。
「たぶん、君、ぼくと散歩に出てもいいんだろう?」
セスとヘレンは街々をぬけて樹々の下を歩いた。ものものしい雲が月の面をかすめてただよっている。そして彼らの前方には深い夕闇の中を短い梯子《はしご》を肩にのせた一人の男が歩いている。前へ前へといそぎながら、その男は街の十字路で足を止めると、木製の街灯柱に梯子を立てかけて町の灯火をつけて行った。そして、二人の進む道は、低く垂れた樹々の枝の投げる深い影と、そしてランプの光とによって、なかばは闇の中に埋められた。樹々のいただきには風がたわむれはじめた。そして眠りをさまたげられた、仮寝《うたたね》の鳥がもの悲しげな声をあげながらあたりを飛び交った。ランプの周囲の照らし出された空間には二匹の蝙蝠《こうもり》がむらがり集まる夜虫の群れを追いながら、縦横に飛び交っている。
セスがまだ半ズボンの少年だったころから、その夜はじめて散歩をともにした乙女《おとめ》との間にはあるなかば無言のうちに取り交わされた親しみの情が存在していた。ひところには彼女は苦しみのあまりセスにあてて手紙を書くという狂気じみた行動に出たこともあった。セスはそれらの手紙が彼の学校の教科書の間にはさみこまれているのを見いだしたし、また一通は街であった子供っ児から手渡された。そしてその他の多くの手紙は、町の郵便局の手を通じて彼のもとに配達されたのだった。
手紙はまるぽちゃな、子供じみた筆跡で書かれてあった。そして小説の耽読《たんどく》で燃やしつけられた心の有様を想わせた。セスは銀行家夫人の便箋《びんせん》の上に鉛筆でなぐり書きされた、そのかずかずの言葉のあるものにはいたく心を動かされ、また気をよくしたものではあったが、彼はそれに返事を出すことはなかった。上衣のポケットに手紙をおさめると、彼はポケットのあたりに燃えるものを感じながら、街を歩いたり、また校庭の棚のそばにたたずんだりした。彼はこのように町の最も金持の、そして最も魅惑的な娘の相手として選ばれたことを、すばらしいことと考えるのであった。
ヘレンとセスは、低い真っ暗な建物が街に面して立っている近くで、垣根のかたわらにたたずんだ。その建物はかつては樽板《たるいた》の製造工場であったが、今は空屋になっていた。街の反対側の一軒の家の門口では、男と女が彼らの幼年時代の物語をとり交わしていた。彼らの声は路をこえてはっきりと、なかば当惑して立った若者と乙女の耳へ聞えてきた。椅子のガタゴトと動かされる音がして、その男女は砂利道を木の門の方へくだって来た。門の外側に立ちどまると、男は女の上にのしかかって接吻をとり交わした。「昔のおなごりだ」と男はいった。そして身をひるがえすと歩道を足早に歩き去った。
「あれはベル・ターナーよ」とヘレンはささやいた。そして大胆に彼女の手の指をセスの手の中に差し入れた。
「わたしあの女が、男を持っているとは知らなかったわ。わたし、もうあの女はお婆さんだと思っていたのに」セスは不安そうにほほえんだ。娘の手は温かだった。そしてある不思議な眩暈《めまい》するような気持が身内に感じられた。彼はいつか、けっしてうちあけまいと固く心に決めていたことまでも彼女に話してしまいたい欲望にさそわれた。
「ジョージ・ウィラードは君に恋しているんだよ」と彼はいった。彼の心の苦悶《くもん》にもかかわらずその声はいやにおちついてもの静かだった。
「彼は小説を書いているのだが、恋をしたいと思っているのだよ。彼はそれがどんな感じのものか知りたいと思っているのだ。彼はぼくにいいつけて、そのことを君に話して、君の意見がどんなだか聞いて来てくれというのだ」
ふたたびヘレンとセスは沈黙のうちに歩いた。二人は古風なリッチモンドの屋敷をとりかこんだ庭園へ出た。そして籬垣《まがき》のすきまをぬけると、藪《やぶ》におおわれた木のベンチに腰をおろした。
町の道を娘と並んで歩いているうちに、セス・リッチモンドの心のうちに新しい大胆な考えがわきおこっていた。彼は町から出て行こうと決心したことを後悔しはじめていた。「町にいて、街から街をしじゅうヘレン・ホワイトと散歩することは、まったく新鮮な、喜びにみちたことだろうに」と彼は考えた。彼は心のうちで彼女の腰に腕をまといつけ、彼女の腕がかたく彼の首にまきついているのを感じている自分の姿を想像した。
かずかずの事件や種々の場面の不可思議な結びつきによって、彼は数日前に訪れたある場所と、そしてこの娘との愛をとり交わす場面とを結びあわせて考えた。彼はそのとき市場用地を越えた丘の中腹に立ってる農家に使いに行った。そしてその帰りには野辺をつき抜けた小路づたいに歩いていた。農家から下って、丘のふもとまで来ると、セスはとあるすずかけの樹の下に立ちどまってあたりをながめまわした。ある柔かな空気を震わす音がブンブンと彼の耳にあいさつを送ってくる。しばらくの間、彼はその樹が蜜蜂の群れの巣になっているのだろうと考えた。
しかし、それから足もとを見おろすと、セスは彼のまわりの長い草むらの中にいちめん蜜蜂がむらがっているのを見いだした。彼は丘の中腹からだらだらのびている野原で、胸の高さほどに生いしげった雑草の群れの中に立っていた。雑草は小さな紫色の花をつけていちめんに咲き乱れ、あたりをはらう芳香を放っていた。そして、草花のあたりには蜜蜂が働きの中で歌声をはりあげながら大群をなしてむらがっていた。
セスは夏の夕べ、その木の下の雑草の中に深く埋れて横たわっている自分の姿を想像した。彼の幻想でつくりだされた場面の中で、ヘレン・ホワイトは彼のそばで自分の手と彼の手とを結びあわせて横たわっていた。あるものうい気持から彼は彼女の唇に口づけをすることもなかった。だが、もししたいと思えばいつでもできることだという感じだった。それで、彼はまったく身動きもせずに横たわって、彼女をながめ、また頭上でたえまなくすばらしい労働歌をうたっている蜜蜂の群れに聞き耳をたてた。
庭園のベンチの上でセスは不安げにからだを動かした。娘の手を放すと、彼は手をズボンのポケットに突っ込んだ。彼の固めた決心の重大さを同伴者の胸にしっかりと焼きつけたいと思う欲望が彼の心にわきおこった。そして彼は家の方に顔を向けるとうなずいてみせた。
「お母さんはきっと騒動をおこすことだろうよ」と彼はつぶやいた。
「お母さんはぼくが将来何をするかということなど考えたことがないのだ。お母さんはぼくが一生ここで、あいも変らず子供でいるくらいにしか考えていないのだ」
セスの声は子供らしい熱情の色を帯びてきた。
「でね、ぼくは自力でやらなけりゃならないのだ。ぼくは働かなけりゃならないのだ。それがぼくに向いたことなんだ」
ヘレン・ホワイトは強く心を動かされた。彼女は首を上下してうなずいた。嘆賞の気持が彼女の身内にみちみちた。
「そうでなければならないのだわ」と彼女は考えた。
「この人は、もはやただの少年ではないのだ。強い意志と目的を持った大人《おとな》なのだわ」彼女の身内を浸していたあるおぼろげな情熱が消え去って、彼女はからだを正してベンチの上にすわりなおした。雷の音がなおもとどろきつづけて、東の空には稲妻がひらめいた。神秘さに満ちて無限にひろがっているようにも思われた庭園は、いかにも不可思議な、驚異に満ちたかずかずのアバンチュールの背景にふさわしい場所のようにも思えたのだが、それが今ではすでに整然と棚にとりかこまれた、月並みなワインズバーグの裏庭にほかならないものとなっていた。
「都会に出てあなた何をするつもり?」と、彼女はささやいた。
セスはベンチの上でなかばからだをねじると、闇のうちに彼女の顔を見分けようとした。ジョージ・ウィラードとくらべものにならないくらいにものわかりのいい、そして純真な人間だと彼は考えた。そして彼が彼の友におさらばを告げて来たことを悦ばしく思った。彼の心のうちにわだかまっていた町の人々にたいする耐えがたい気持がふたたび彼の心に帰ってきた。そして彼はその気持を彼女に説明しようと試みた。
「すべての者がおしゃべりばかりしているんだものね」と彼ははじめた。
「ぼくはもういやになっちゃうのだ。ぼくは何かやりはじめるのだ。おしゃべりなんか問題にならないところで何か仕事を見つけだすのだ。ひょっとするとぼく、機械工になって工場で働くかもしれないよ。だがわからないのだ。そんなことはどうでもいいのだ。ぼくはただ働いておしゃべりなんかしないところに行きたいのだ。ぼくの考えているのはそれだけなんだ」
セスはベンチから立ちあがると彼の手を差し出した。彼はそのまま二人の会合を終わりにしてしまおうとは思わなかった。だが、それ以上話す材料を想いつかなかったのだ。
「二人で会えるのも、これが最後だね」と彼はささやいた。
激しい感情の波がヘレンの全身を襲った。彼女は自分の手をセスの肩にまわすと、自分の上むきにそった顔の方へ彼の顔をひきよせた。それはまったく純真な愛から出た行動ではあったが、またあたりに立ちこめる夜気のうちに感じられる、あるおぼろげな冒険が、もうふたたび実現されることもなく終ったのだと思う、身を切るような悲しみの情から出た行動でもあった。
「わたしもう帰った方がいいと思うわ」と彼女は手をだるげにおとしながらいった。ある考えが彼女に訪れた。
「あなた、わたしといっしょに来ちゃいやよ。わたし一人になりたいの」と彼女がいった。「あなたは帰ってお母さんにお話しなさいな。今がいいのよ」
セスは躊躇《ちゅうちょ》した。そしてさらに彼女の言葉を待つようにたたずんでいたとき、娘は身をひるがえすと、籬垣《まがき》の間をぬけてかけ去った。彼女の後を追って行きたい気持にかられはした。だが、彼はいつも町の生活のあらゆるものにたいしてそうであったと同じように、彼女のそうした態度にたいしてもただ当惑を感じ、心をまどわされて、凝視の眼をなげながら立ちつくした。彼女もまた、町の生活から生まれ出たものにほかならないのだ。家の方へとのろのろ歩きながら、彼はとある大きな樹の下に足をとめると、灯火にともし出された窓べで母が熱心に編物をしているのを見上げた。夕べ早くに訪れていたあの孤独感がふたたび彼の心に立ちかえって来て、彼がいま通って来た冒険の想いにある色づけを与えた。
「ちぇっ!」とヘレン・ホワイトが立ち去った方に身を向けると凝視の眼を投げながら彼は大声に叫んだ。
「万事そうなるのが、おきまりというものだ。あの娘《こ》だって、町の奴らとちっとも変ってやしないさ。これからは、あの娘だってこのぼくを変な眼で見ることだろうよ」彼は地上を見つめてそのことを考えた。
「ぼくがここにぐずぐずしていたら、あの娘はきっと不思議に思って、わけがわからないというような顔をするだろう」と彼は自らにつぶやいた。
「それにちがいない。万事そうなるのがおきまりというものだ。誰かと恋するといったところで、その相手がぼくでないのはわかりきった話だ。きっとほかの奴だ――誰か馬鹿な奴なんだ――ペチャクチャとおしゃべりする野郎なんだ――きっと、あのジョージ・ウィラードみたいな奴なんだろうさ」
[#改ページ]
タンディ
七歳の年になるまで、彼女はトランニョン有料道路のはずれにある廃《すた》れた路のかたわらに立ったペンキも塗らない古ぼけた家に住んでいた。父は彼女にはほとんど注意も払わなかった。それに彼女の母は死んでいた。父はしょっちゅう宗教のことを語ったり、また考えながら日を送った。父は自分を不可知論者《アグノスチック》だととなえた。そして、近隣の人々の心の奥底深くしのびこんだ神の考えを打ちこわすことにまったく専心うちこんでいて、死んだ母の血縁のもののお恵みで、あちらこちらと廻り歩いて生活していた。なかば忘れさられたその可憐な子供のうちにこそ、神がその姿を顕《あら》わしているのだということには気づかなかった。
一人の見知らぬ男がワインズバーグに現われた。そして彼は、父が見いだすことのできなかったものをその子供のうちに見いだした。彼は背の高い赤毛の若者で、ほとんどしょっちゅう酔っぱらっていた。あるときには、彼はニュー・ウィラード・ハウスの前で、子供の父トム・ハードとともに椅子に腰をおろしていた。神などありえないと宣言してトムが語っていくうちに、その見知らぬ男は微笑をうかべて、かたわらの人々と意味ありげなまばたきを交わすのだった。彼はトムと友だちになった。そして多くの時間を彼らはいっしょにすごした。
見知らぬ男は、クリーヴランドの富裕な商人の息子だった。そしてワインズバーグにやって来たのは一つの使命をはたすためだった。というのは彼は自分の飲酒の癖をなおしたいと思ったからだ。そして都会の悪友たちからのがれて、田舎の町に住むことになれば、彼を破壊しつつある欲望との戦いを勝ちとるためによい機会を見いだすことになるだろうと考えたからだった。
だが、彼のワインズバーグの滞在は成功とはいえなかった。日々の暮しの単調さは、彼の飲酒の癖をますますひどいものにした。だが彼は、あることをなしとげるのに成功した。というのは、彼はトム・ハードの娘に、意味も豊かな名前をあたえることになったのだから。
ある夕べ、長い乱酔から目覚めかけたころ、その見知らぬ男は、町の本町通りをよろめきながら歩いて来た。トム・ハードは、そのとき五つだった娘を膝の上にのせて、ニュー・ウィラード・ハウスの前の椅子に腰をおろしていた。彼のそばの板の歩道の上には年若いジョージ・ウィラードもすわっていた。見知らぬ男は彼らのかたわらの椅子に腰をおろした。彼のからだはふるえて、話をしようとすると、その声までもふるえをおびていた。
それは夕方おそくだった。そして町の上にも、またホテルの前の小さな傾斜のふもとをとおる鉄道線路の上にも夕闇がたちこめていた。遠くどこか西の方から、旅客列車の汽笛が長く尾をひいて響いた。路傍に寝ていた一匹の犬が立ちあがってほえたてた。見知らぬ男はぶつぶつと語りはじめた。そして不可知論者の胸にもたれた子供の上に、ある予言の言葉を語ったのである。
「わたしは、ここに酒をやめるために来たのです」と彼はいった。そして涙が、彼の両頬をつたわって流れ始めた。トム・ハードを見上げようともしなかった。そして前かがみにかがみこむと、まるで何かある幻影をでも見つめるかのように闇のうちに凝視をつづけた。
「わたしは酒癖をなおすために田舎にのがれて来たのです。しかしわたしは失敗でした。それにはあるわけがあるのです」彼はふりむくと娘を見つめた。そして父の膝の上にまっすぐにすわっていた娘もまた彼の眼を見つめた。
見知らぬ男はトム・ハードの腕に手をやった。
「わたしの耽溺《たんでき》しているのはただ酒だけではありません」と彼は語った。「まだ、ほかにもあるものがあるのです。私は愛を持つ男です。それに私は愛すべきものを見いださないのです。もしあなたが、わたしのいうことを十分おわかりになったら、それは重要なことなのです。で、わたしの破滅はさけられないものです。だが、それをはっきり理解してくれる人はめったにありません」
見知らぬ男は沈黙におちいった。そして悲しみに心うちひしがれた様子だった。しかしふたたび聞えて来た旅客列車の汽笛の音に彼は目覚めたようにふたたび語りはじめた。
「わたしは信仰を失ったというわけではないのです。それは断言していいです。ただ、わたしはわたしの信仰がけっして実現されることのないような場所に生れて来たのだというのにすぎないのです」と彼はしわがれた声でいいはなった。彼は娘をつくづくと凝視した。そして父にはそれ以上注意をむけることもなく、彼女に向って語りつづけるのだった。
「ここにある女が訪れようとしているのです」と彼は語った。そして彼の声は今ではまったく力強く熱をおびていた。
「わたしは彼女と会いそこなった。彼女はわたしの時代には現われなかったのです。お前さんは、その女の人になるのです。わたしが酒で自分を破滅してしまい、そして彼女がまだほんの子供にすぎない今夜のような夕べに、ただ一度わたしが彼女の面前に立ったというのも、これは、運命というものでしょう」
見知らぬ男の肩は激しく震えた。そしてタバコを巻こうとしたときにも、タバコの紙は彼の震える手からすべり落ちた。彼は怒りっぽく、呪いの言葉を吐いた。
「人々は、女となることは、そして愛されることはたやすいことだと考えています。だがわたしは、ようく知っている」と彼は述べたてるのだった。彼はふたたび娘の方にふり向いた。
「わたしにはよくわかっているのです」と彼は叫んだ。
「おそらくあらゆる男たちのうちで、わかっているのは、わたしただ一人だけでしょう」
彼の眼《まな》ざしはふたたび、闇におおわれた街の方へただよっていった。
「わたしは彼女を知っています。彼女はかつてこのわたしと出あったことはない。だが、わたしはようく知っています」と彼は言葉やさしく語った。
「わたしは彼女の苦しい闘いを、そしてまた彼女の敗北を知っています。彼女が私にとって慕わしいものであるのも、それはあの女の敗北のゆえなのです。あの女の敗北の中からこそ、女の新しい、美わしい特質が生れ出て来るのです。わたしはそれに名前を与えました。それはタンディと呼ばれるのです。わたしはその名前を、わたしがほんとうの夢見る男であったころ、わたしのからだがまだこんなにまで腐りはててしまわないころに創《つく》りあげました。それは愛されることに強くあるという特質です。それは人々が女性から要求するものではありながら、しかも誰もまだ得ることのできないものなのです」
見知らぬ男は立ちあがった。トム・ハードの前に立った。彼のからだは前後によろめいて、今にも倒れそうに思われた。しかし彼はひざまずくと、小さい娘の両手をもちあげ、酒臭い唇をおしあて、その手に恍惚として接吻した。
「タンディになんなさいよ。娘さん」と彼は訴えるようにいった。
「あくまで強く、そして勇敢になりなさい。それが唯一の道です。何でもとびこんでやることです。勇敢に、愛されることを忘れてはなりません。そして平凡な男女以上のあるものになることです。タンディになるのです」
見知らぬ男は、立ちあがると街をよろめきながら歩きさった。それから二、三日後には彼は列車の人となってクリーヴランドの自宅へ帰って行った。ホテルの前でそうした会話がとりかわされた後、ある夏の夕べ、トム・ハードはその娘を親戚の家へつれて行った。彼女はそこでその夜を送るようにと招《よば》れていたのだ。夕闇につつまれた樹々の下を歩きながら、彼はあの見知らぬ男がつぶやいた言葉などは忘れはてていた。そして彼はふたたび人々の心のうちにある神への信仰をうちこわそうとするかずかずの言葉を彼の心のうちにくりかえしていた。彼は娘の名前を呼んだ。すると彼女はすすり泣きをはじめた。
「わたし、そんな名で呼ばれるのはいやだわ」と彼女は述べ立てた。
「わたしをタンディと呼んでちょうだい、タンディ・ハードだわ」娘はトム・ハードの心をうつまでに激しくすすりないた。そして彼は娘を慰めようとしなければならなかった。彼はある木の下に立ちどまると彼女を腕に抱きかかえて、愛撫しはじめた。
「さあ、もういいよ」と彼は鋭くいった。だが彼女は泣きやめようとはしなかった。子供らしい絶望の色をその顔にうかべて、彼女は悲しみに全身をゆだねていた。彼女の声は街の夕べの静けさを破って響き渡った。
「わたし、タンディになりたいの。わたしタンディになりたいのだわ。わたしタンディ・ハードになりたいのよ」と彼女は泣き叫んだ。手をふりながら、そしてあたかも彼女の若々しい力も、あの酔っぱらいの数語がもたらした彼女の幻影の重みには絶ええないもののようにすすり泣くのであった。
[#改ページ]
神の御力
カーティス・ハートマン師はワインズバーグ長老教会の牧師であった。そして十年このかたその職にあった。彼は四十歳で、人となりは大変もの静かな、無口な男であった。人々を前に据えて、説教壇で説教するなどということは彼にとってはつらいことだった。それで、水曜日の朝から土曜日の夕方まで、彼は日曜日に説教しなければならない二つの説教のことを考える以外には他に何一つ考えられないほどだった。
日曜の朝になると早くから彼は教会の鐘楼の中にある書斎と呼びならわされた小室へ登ってお祈りをした。彼の祈りの言葉のうちには、一つのつねに力をこめて述べられる文句があった。
「神よ、願わくば汝の御仕事《みわざ》のために、われに力と勇気とを与えさせ給え!」露《あらわ》な床の上にひざまずき、彼の面前に横たわる仕事の前にうやうやしく頭を垂れながら、彼は哀訴の言葉を投げるのだった。
ハートマン師は褐色のひげを生やした背の高い男だった。妻はガッシリと頑丈《がんじょう》な、神経質な女で、オハイオ州クリーヴランドの下着製造工場主の娘だった。牧師自身は、むしろ、町の人気者だった。彼はもの静かな見栄を張らない男だというので、教会の年長者たちには好意をもたれていたし、また銀行家の妻君ホワイト夫人によれば学者肌な洗練された男だと考えられていた。
長老教会はワインズバーグの他の教会にくらべると、いささか見識高くとまっていた。それは他の教会にくらべて、はるかに大きく堂々としていたし、牧師の給料もずっと豊かだった。彼すらも自家用の馬車を所有していて、夏の夕べなどしばしば、妻と同乗で、町の中を乗りまわすのだった。本町通りを抜け、バックアイ街を上下しながら、彼は行き交う人々におもおもしげに頭を下げた。その一方、彼の妻君は、ひそかな誇りを心に燃やしながら、眼のすみから彼を盗み見ながら、馬がものに驚いて逃げ出すようなことがなければよいがと気をもんでいた。
彼がワインズバーグにやって来てから永《なが》の年月の間、カーティス・ハートマンにとっては万事が好都合にいった。彼は教会の礼拝者たちの間に鋭い熱情をわきたたせるような男ではなかったが、また一方では敵をつくるような男でもなかった。実際のところ、彼は大変まじめな男で、自分が町の大通りや小路を、神の言葉を叫びながら歩く勇気がないということで、しばしば長い間悔恨の情に苦しみもしたものだ。
彼は心のうちで実際に魂の炎が燃えているのかどうかは、怪しいものだと思った。しかしいつの日にかは、ある力強い、すがすがしい、新鮮な力の流れが台風のように彼の声とそして彼の魂の中にわきおこって、彼のうちに顕示された神の姿の前で人々が震えおののく時も来るだろうと夢見るのだった。「わたしは哀れむべき愚かものだ。だからそんなことはよもや、わたしにおこることはあるまい」と彼は心くじけて力なく思いにふけった。しかし、それから、ある忍耐強いほほえみが彼の顔に輝きでた。
「まあいいわ。わたしはこれでも相当にやっているつもりなんだから」と彼は哲学的なもの静かさでつけ加えた。
日曜日の朝ごと、牧師が彼のうちに神の力がいや増さんことをと祈るその教会の鐘楼の小室は、窓をただ一つしか持っていなかった。その窓は長く狭くて、ドアと同様に蝶番《ちょうつがい》で外むきに吊るされてあった。小さな色ガラスをはめこんでできた窓の上にはキリストがその手を小児の頭の上に横たえた模様がえがいてあった。ある夏の日曜日の朝、牧師は大きな聖書を眼の前に横たえて、説教用の原稿をそのあたりにとり散らしたまま部屋の机の前にすわっていたとき、彼は隣りの家の階上の部屋で、一人の女がベッドに横たわって、タバコをふかしながら本に読みふけっているさまを見つけ、身ぶるいのするほど驚きに打たれた。
カーティス・ハートマンは爪先立って窓べに歩みよると、静かに窓をしめた。彼はタバコを喫っている女のさまを考えると恐怖におそわれた。時もあろうにちょうど聖書のページから眼をあげたところに、女のあらわな肩と白い首すじに目がかちあったことを思うと、身ぶるいを禁ずることができなかった。旋風のように渦巻く頭をかかえたまま彼は説教壇に下り立つと、身振りや声の出しっぷりにはちっとも考えをめぐらすこともなく、長い長い説教をやってのけた。説教は日ごろにない力と明せきさのゆえになみなみならぬ聴衆の注意をひいた。
「あの娘はわたしの説教を聞いているかしらん? このわたしの声であの女の魂の中に神の御言葉を吹き込むことができるだろうか?」と彼は考えた。そしてこれからさきざきの日曜の朝には、見たところ秘密の罪悪に深入りしていると思われるその女の心を強くゆり動かし、そしてその罪から目覚めさせるような言葉のかずかずを述べたてたいものだと思いはじめるのだった。
窓を通して牧師を少なからず仰天させた光景がながめられた、長老教会の隣りの家には、二人の女が住まっていた。エリザベス・スイフト伯母は、ワインズバーグ国民銀行にその金を貯えたごま塩髪の賢そうな顔つきの寡婦《かふ》だったが、彼女は学校の先生をしている娘のケイト・スイフトとともにそこで暮していた。学校の先生は三十歳だった。そしてさっぱりと小綺麗な顔立ちの娘だった。彼女は、友だちという友だちももたず、口が悪いという評判を頂戴していた。彼女のことを考えはじめたとき、カーティス・ハートマンは、彼女がヨーロッパに行っていたことがあって、また二年間というものニューヨークで暮したこともあるということを想いだした。
「つまるところ、あの娘がタバコをすっていたことも、たいした意味はないのではなかろうか」と彼は考えるのだった。彼がまだ大学の学生であったころ、そしてときたまに小説本にも眼を通していたころ、あるとき彼はふと手に入れた書物のページに、いささか世俗じみてはいたが、しかし、善良な一人の女がタバコをふかしていたことを想いだしはじめた。突如として新たな決心に駆りたてられると、彼は数多くの説教を書きつづけた。そして、この新たな聞き手の耳とそして魂にまでも彼の説教を注ぎこみたいと思う熱心に捕えられた彼は、あの説教壇の上での当惑の気持も、また日曜の朝ごとにおこる書斎のうちでのお祈りの必要も、ともどもに忘れはてた。
ハートマン師の女についての経験はおよそ限られたものだった。彼はインディアナ州マンシーの荷車製造業者の息子だった。そして大学時代は、ずっと苦学で働きとおしてきた。下着製造工場主の娘も、彼の学生時代をすごした家に宿をとっていた。そして、彼と彼女とは、型どおりな長い求愛――それも大部分は彼女の側からおし進められた求愛――の後に結婚した。二人の結婚の日には下着工場主は娘に五千ドルの金を与えた。そして遺言では少なくともその倍額の金をのこしておくことを約束した。結婚では、牧師は自分を恵まれたものと考えた。そしてゆめゆめほかの女を心のうちにえがくようなことはしなかった。彼はほかの女を心のうちにえがきたい欲望はもっていなかったのだ。彼の欲望といえばただ、神の御仕事《みわざ》を静かに、そして熱心に続けて行くということであった。
牧師の魂にはある苦悶《くもん》が目ざめていた。ケイト・スイフトの耳に彼の言葉をふり注ぎたいと思う欲望から、そして彼の説教を通じて彼女の魂の中までも分けいりたいと思う欲望から、彼はまた同時にあの静かにそして純白にベッドに横たわった姿をふたたびうかがい見たいと思いはじめた。日曜日の暁方さまざまな考えで寝つかれなかった彼は、起き上ると街へ散歩に出た。本町通りをつきぬけて、古めかしいリッチモンド広場の近くまで来かかったとき、彼は立ちどまって石を拾いあげると、急いで鐘楼の例の部屋へとかけあがった。石で窓ガラスの隅っこを叩きわると、彼はドアに鍵をおろし、そして聖書を眼の前にひろげ、机の前にすわりこんで待ちかまえた。ケイト・スイフトの部屋の窓の、ブラインドが上げられたとき、彼はその小孔をとおして、まっすぐ彼女のベッドをうかがい見ることができた。しかしそこには彼女の姿は見えなかった。彼女もまた起き上ると散歩に出かけたのだ。そしてブラインドをあげた手はエリザベス・スイフト伯母さんのそれであった。
牧師はこの「覗《のぞ》き見」の肉欲的な欲望からとき放されたことを涙を流さんばかりに喜んだ。そして神を讃えながら、自分の家へと帰って行った。しかし彼はうっかり抜かった間に、窓の孔をふさいでおくことを忘れていた。窓の一隅の破れ去られたガラスの一片は、恍惚としたまなざしで、身動きもせずキリストの顔にながめ入った少年の、むきだしの踵《かかと》をまさにちょっぴり欠いていた。
その日曜日の朝、カーティス・ハートマンは、彼の説教の言葉を忘れてしまった。彼は会衆に向って座談的に話しかけた。そして、その座談のうちで彼は牧師というものが人々とはまったく別個な人間で、生れながらにして、とがのない人生を送るように定められたものだと考えるのは誤っていると語るのだった。
「わたくしの経験から申しますれば、神の御言葉の実行者であるはずのわたくしたちにしろ、つまりはあなた方と同様、種々さまざまな誘惑にとりまかれているのでございます」と彼は述べ立てた。
「わたくしは今までにも、いろいろ誘惑にいざなわれ、また誘惑に打ちまかされもいたしました。だが、このわたくしをふたたび立ちあがらせて下されたのは、申すまでもなく、このわたくしの頭上にくだしおかれた神の御手の働きにほかならないのです。神がこのわたくしを立ちあがらせて下されたと同様に、またあなた方をも立ちあがらせて下さるでしょう。けっして絶望の心などをおこすものではありません。罪あるとき、あなた方はあなた方の眼をあげて天をお仰ぎなされ。必ずやあなた方は一度ならず、二度ならず救われることでござりましょう」
決然として牧師は、ベッドの中に横たわった女についての種々さまざまな考えを心の中から追い払うと、妻の面前では、何か愛人ででもあるかのようなふるまいをとりはじめた。ある夕べ彼らはともどもに馬を駆ってバックアイ街から出て、水道用貯水池の上手にあたる|福音の丘《ゴスぺル・ヒル》の暗闇の中まで登って来ると、彼は腕をサラ・ハートマンの胸のあたりにまわすのだった。朝の食事が終って、家の裏手の書斎に出て行こうとするときにも、彼はテーブルを廻って、妻の頬の上に接吻をおくった。ケイト・スイフトの考えが彼の頭にうかんだときには、彼は微笑をたたえて空を仰ぎ見た。
「神よ、わたくしに力をば籍《か》し給え」と彼はつぶやいた。
「汝の御仕事《みわざ》にのみつづく狭き径《みち》に、このわたくしをとどめ給わんことを」
このようにして褐色のひげを生やした牧師の魂のうちには真物《ほんもの》の闘争が始まった。ふとしたはずみから彼は、ケイト・スイフトが暮方ごろ、彼女のベッドに横たわって本を読む習慣を持っていることを発見した。ベッドのかたわらのテーブルの上にはランプがともっていて、その光は、彼女の純白な両肩とあらわな首へと流れおちていた。その発見をとげた日の夕べ、牧師は九時から十一時すぎまでも書斎の机の前にすわっていた。そして彼女の部屋の灯火が消しさられると、彼は教会からまろぶように外にとび出して、さらに二時間もの間街々を歩きまわり、そして祈りの言葉を吐いた。彼はケイト・スイフトの両肩や、首に接吻したい欲望は持っていなかった。それに、そんな考えにふけることは彼の気持が許さないことだった。彼には彼の飢えを求めているものが、何であるかは自分にもわからないのである。
「わたしは神の子であるのです。そして神はこの汚れたわたしを救って下さらなければならないのです」彼は街々をさまよいながら、樹々の暗闇の下で叫ぶのだった。ある樹木のそばに立ちどまると彼はいちめんに急ぎ流れる雲に覆われた空を仰ぎ見た。彼は神に向って親しげに、そしてひそやかに語りはじめた。
「願わくば、神様、なにとぞこのわたくしをお忘れなきよう。なにとぞ明日は行ってあの窓の孔をふさぎ直すだけの力をわたくしに与えさせ給わんことを。わたくしの眼《まなこ》をふたたびあの高き空へと高めさせ給え。神の下僕たるこのわたくしの苦しみの時に、なにとぞこのわたくしに御力を与えられ給わんことを」
もの静かな街々をぬけて、牧師はあちらこちらと歩きまわった。そして幾日も幾日も、また幾週間も幾週間も彼の魂は苦悶にもだえつづけた。彼は、彼を訪れた誘惑を理解することも、またその訪れの理由をおし測ることもできなかった。また一方では彼は、自分が今まで長い間正しい道を踏みはずさないために苦労をして来たことを、そして、いまだかつて自ら罪悪を求めて彷徨《ほうこう》したことなどない彼であることを自らにのべたてて、神を非難しはじめるのだった。
「わたくしの年若かりしころを通じ、またわたくしのこの地における生涯を通じまして、このわたくしはただ黙々と私の仕事をつづけてまいったのでございます」と彼はのべたてた。
「今さらに何ゆえ、私は誘惑の試練を経《へ》なければならないのでしょう。何の罪を犯したからといって、この重い重荷をわたしは背負わなければならないのでしょう?」
秋早いころからその年の冬にかけて、三たびカーティス・ハートマンは彼の家からしのび出て、そして鐘楼の小室へと上ると暗がりの中にすわって、ベッドに横たわったケイト・スイフトの姿にながめ入り、それからふたたび街々を歩きまわって、祈りの言葉を述べたてた。彼は彼自身を理解することができなかった。数週間もの間、彼はほとんど学校の先生のことは考えずにやっていけた。そして彼は彼女の肉体をのぞき見したいと思う、肉欲的な欲望は完全に征服しおおせたのだと自分に語りきかせるのだった。しかし、それからまたことがおこった。自分の家の書斎にすわって、一心に説教用の文句をひねくっている間にも、彼はしばしば、イライラした気持におそわれて、部屋の中をあちこちと歩きまわりはじめるのだった。
「わたしは街まで散歩して来よう」と彼は自らにつぶやいて、それから教会の入口を入って行くのであったが、そのときでさえも、なお執拗《しつよう》に彼はそこに行く理由を自らに拒みつづけていた。
「わたしは窓の孔はふさがないでおこう。そしてわたしは毎夜ここに来て、あの女の面前で、わたしの眼をあげずにすわっておるだけの試練をつむことにしよう。わたしはけっしてこんなことに敗れはせん。神はこの誘惑をこのわたしの魂の試練として考案なされたのだ。だから、わたしは何とか闇黒から正義の光明へと正道を手探りしてゆくことをつづけましょう」
ある一月の激しい寒さの夜、ワインズバーグの街々が深い雪に埋められていたころ、カーティス・ハートマンは教会の鐘楼の部屋に、彼の最後の訪問を行なった。彼が自分の家を出かけたのは九時をはるかにまわったころだった。そして出かけるのに非常にあわてていた彼は、オーバー・シューズをはいてくることも忘れていた。本町通りの街頭には夜警人のホップ・ヒッギンズを除いてはだれ一人として姿を見せるものもなかった。そして町全体を通じて目覚めているものといっては、夜警人と、そしてワインズバーグ・イーグル社の事務室に腰をおちつけて小説を書こうと試みていたジョージ・ウィラードのほかにはだれもいなかった。街をぬけ、吹雪をぬって教会へと足をいそがせた牧師は、こんどこそは完全に罪悪にその身をゆだねることになるだろうと考えた。
「わたしはあの女をのぞき見て、そして、あの女の両肩に接吻することを考えたいのだ。だから、わたしはこれから、わたしの好きな考えに身をまかすことにしよう」と彼はにがにがしげにいいはなった。そして彼の両眼には涙がうかんでいた。彼は、牧師の職をなげ捨てて、何かほかの生活の道を試みなければなるまいと考えはじめていた。
「わたしはどこかの町に出て商売でもはじめよう」と彼はいいはなった。
「わたしの性質が罪悪に打ち勝ちえないものだとすれば、わたしは結局罪悪に身をゆだねるよりほかはあるまい。だが、わたしは少なくとも偽善者にはなりたくない。神の御言葉を吐きながら、心では他人の女の首や肩を考えているような奴にはなりたくはない」
その一月の夜は教会の鐘楼の小室は寒かった。そしてカーティス・ハートマンは、小室の中に入るとほとんど間もなく、ここにとどまっていては病気になるだろうと思った。彼の足は雪の中をさくさくと歩いて、ぬれそぼれており、それに小室には暖をとる火もなかった。隣の家の例の部屋にはまだケイト・スイフトの姿は現われていなかった。ものすごい決心のもとにその男は腰をおろして待ちかまえた。椅子に腰をおちつけ、聖書ののった机の端をがっしりとつかまえて、彼は彼の生涯のうちで最も暗黒なかずかずの考えにふけりながら暗闇のうちを凝視した。彼は妻のことを考え、そしてその瞬間、ほとんど嫌悪に近いものをさえも彼女に感じた。
「あれはいつも情熱を恥としていた。そしてこのわたしはそれに欺かれて来たのだ」と彼は考えた。
「女のうちに美を求め、また生きた情熱を要求するのは男の権利ではないか。人間もつまりは動物だということを忘れるはずの権利など、男は持ちあわせていないはずだ。そしてこのわたしのうちには、何かあるギリシア的なものがひそんでいるのだ。わたしはこのわたしの胸のうちにひそんだ今までの女の姿など投げすててしまって、ほかの女たちを探し求めるのだ。わたしはあの学校の先生を征服するのだ。わたしはあらゆる男の仮面にまともから反抗するのだ。わたしが淫楽の男だというのなら、わたしは淫楽を求めて生きるまでのことだ」
心乱れた男は頭のてっぺんから足の爪までも打ち震えた。それは一部分寒さのためでもあったが、また一部には彼の心のうちに闘われていた苦悶のせいでもあった。数時間の時がたって、彼のからだは熱に襲われた。彼ののどは冒されて、歯はガタガタと鳴りはじめた。書斎の床の上の彼の足は二本の氷の塊《かたまり》のように感じられた。だが彼はなおも断念しようとはしなかった。
「わたしはこの女をのぞいて、そしてわたしが今までけっして考えることを肯《がえ》んじなかったさまざまの考えにふけってやるのだ」と彼は自らにひとり語って、机の端に固くつかみかかったまま待ちかまえた。
カーティス・ハートマンは、教会の中で待ちかまえたその夜のおかげでほとんど死ぬような目にあったとはいえ、また彼はそこでおこった出来事のゆえに、彼にふさわしい人生の道とも思われるものを見いだした。まちかまえたかずかずの夜、そのガラスの小孔を通して彼のうかがいえたのは先生の部屋の中でも彼女の寝台のある一部分に限られていた。暗闇の中で待ちかまえていると、突如として女が現われて、まっ白な寝間着をまとってベッドの上にすわった。灯がともされると彼女はいくつかの枕の間に身をささえながら、本を読んだ。あるときには彼女は巻きタバコの一本を取ってすった。だが、そこに現われているのはあらわな肩と首もとだけだった。
その一月の夜、彼は、寒気のためにほとんど死にひんし、事実二、三度は彼の心はすでに奇怪な幻想の国へとすべりこんで行き、わずかに意志の力によってどうやら意識をとり戻していた。そのとき、ケイト・スイフトが現われた。隣の家にはランプがともされ、待ちかまえた男は空虚《うつろ》な寝台の中を凝視した。そこで彼の眼の前の寝台の上には全裸の女が身を投げ出した。顔を下にうつ伏せて、彼女はすすり泣きながら、拳をかためて枕を打ちたたいた。最後のはげしい泣き叫び声とともに、彼女はなかば立ちあがった。そして、その女をながめながらみだらな想いにふけろうと待ちかまえた男の面前で、その罪の女は祈祷をはじめるのだった。ランプの光に輝き出された、細っそりと頑丈な彼女の姿は、ちょうどあの色ガラスにえがき出されたキリストの前にたたずむ少年の姿を思わせた。
カーティス・ハートマンは、どうして彼が教会から抜け出して来たのかは記憶していなかった。叫び声をあげて立ちあがると彼は重い机を部屋の中じゅうひきずりまわした。聖書は机から落ち、静寂の空気の中で激しい音を響かせた。隣りの家の灯が消しさられると、彼は、階段をつまずきながら街へとおりていった。通りをいそぎ足にかけながら、彼はワインズバーグ・イーグル社の入口からかけこんだ。彼は、これもまた彼自身の煩悶《はんもん》を背負いこんで、事務室の中をあちこちと歩きまわっていたジョージ・ウィラードに向って、なかばしどろもどろの言葉で語りはじめた。
「神の道というものは、とても人間輩の理解できるものではありません」と彼はせきこんでかけこむと、ドアをしめながら叫んだ。彼はまっしぐらに若者の方へ突進した。彼の眼は輝き、彼の声は熱情にたかくなった。
「わたしは、光を見いだしました」と彼は叫んだ。
「この町に来て十年たった今日、はじめて神は女の肉体となって、このわたしの前に現われ給うたのです」彼は声を落すと、ささやき声に語りはじめた。
「わたしにはわからんことです」と彼はいった。
「わたしの魂の試練とも考えていたことは、ただ、新たなるより美わしい魂の輝きの現われ出る準備にすぎなかったのです。神は私の前にケイト・スイフトの肉体となって現われました。あの学校の先生は全裸体でベッドの上にひざまずいていたのです。あんたは、ケイト・スイフトをご存じじゃろう? あの娘はまだそれとはさとっていないかもしれないが、あの娘こそは真理の言葉をたかだかとかかげた神の御手なのです」
カーティス・ハートマン師は踵《きびす》をかえすと事務所からかけ出した。戸口のところに立ちどまった彼は、人影もない通りの上下をながめまわしたのち、ふたたびジョージ・ウィラードの方をふりかえった。
「わたしは救われました。恐れてはいけませんよ」と、彼は血のしたたる拳《こぶし》を若者の前につき出した。
「わたしは窓ガラスを叩き破ったのです」と彼は叫んだ。
「で、そいつは全部とりかえなくてはなりますまい。神の御力がこのわたしのうちに現われたのです。そこで、わたしは、わたしの拳で窓を一撃に叩き破ったのです」
[#改ページ]
先生
雪はワインズバーグの街々を深く埋めつくした。それは朝の十時ごろから降りはじめ、それに風がまきおこって、雪は雲をなして本町通りを吹きまくった。町に通じた多くの泥道もすばらしく滑らかになって、ところどころぬかるみが氷におおわれていた。
「こりゃあいい橇《そり》遊びができようぜ」とエド・グリフィス酒場のバーのそばに立ったウィル・ヘンダースンはいった。酒場から出た彼は、薬屋のシルヴェスター・ウェストが、北極用と呼びならされた重たげなオーバー・シューズようのものをはいて、すたこらやって来るのに出あった。
「この雪じゃあ、土曜には町は人出が多いことでしょうな」と薬屋はいった。二人の男は立ちどまるとかってな話に花を咲かせた。うすい外套をひっかけたままで、オーバー・シューズもはかないウィル・ヘンダースンは右足の靴先で左足の踵《かかと》をけった。
「この雪では小麦は上出来でしょうな」と薬屋が賢げに意見をのべた。
何もすることのない若者ジョージ・ウィラードは、その日は働いているような気もしないで喜んだ。週間新聞は印刷を終って、水曜日の夕方には郵便局に運ばれていた。そして雪が降りはじめたのは木曜日だった。朝の八時に、午前の列車が通りすぎると彼はスケートをポケットにしのばせて、水道用貯水池へと出かけて行った。しかし彼はスケートをやったのではなかった。池をよぎり、ワイン・クリークの流れに沿った小径《こみち》に沿って、彼はぶなの森へとやって来た。そこで丸太の側で火を焚《た》きつけると、考えにふけるように丸太の端《はし》に腰をおろした。雪が降りはじめ、風がうなり声をたてはじめると、彼はいそがしげに薪を求めてかけまわった。
年若い新聞記者は、かつて、彼の学校の先生であったケイト・スイフトのことを考えていた。前の日の夕べ、彼は、彼女が読むようにとすすめてくれた本を借りに彼女の家を訪れた。そして一時間もの間、彼女とただ二人でいた。四度か五度話しているうちに女は非常な熱心さで話かけてきた。だが、彼には彼女の話したことが何を意味しているのか、はっきりのみこめなかった。彼女が、彼にたいして恋を感じているのかもしれないと彼は思いはじめた。そして、その考えが喜ばしくもまた心苦しくも思えるのであった。
彼は丸太から躍り上ると、薪を火の上に積みかさねはじめた。あたりを見まわして人気のないことをたしかめると、彼はその女の面前にいるかのように声高に語った。
「おお、あなたはほんの見せかけをやっている。そうでしょう」と彼は叫んだ。「ぼくはあなたの正体を見とどけてやるよ。今に見ていてごらん」
若者は立ちあがると、森の中に炎々と燃え上った火を後にして、小径を町へと戻って行った。街々をぬけて歩くとき、ポケットの中ではスケートがカラカラと音を立てた。ニュー・ウィラード・ハウスの自分の部屋へ入って来ると、彼はストーブに火を入れて、ベッドの上に身を横たえた。彼は種々さまざまな情欲的なことを思いめぐらしはじめた。そして窓のブラインドをおろし、眼を閉じると壁の方へと顔をふり向けた。彼は枕を腕に抱えこんだ。そしてそれをだきしめると、まず、彼女の言葉によって心の中に何物かを掻きたてられたあの学校の先生のことを考えた。それからまたのちには、彼が長い間なかば恋におちいっていた、町の銀行家の細っそりした娘ヘレン・ホワイトのことを考えた。
夜の九時ごろまでには雪は深く街々を埋めつくした。そしてひどい寒さが襲って来た。それは街々を歩きまわるには困難な夜だった。町の店々は灯火を消し、人々はすでに彼らの家の中へとはいりこんでいた。クリーヴランドからの夜行列車はひどく遅れていたが、だれも列車の到着に興味をよせているものはなかった。そして十時になると、町の千八百人の住民のうち、ただ四人の例外を除いて、すべての者がベッドの人となっていた。
夜警人のホップ・ヒッギンズは、なかば眠りにおちいっていた。彼はびっこで、重そうな杖をもっていた。暗闇の夜には彼は提灯《ちょうちん》をさげて歩いた。九時から十時までの間、彼は夜警に出かけるのだった。本町通りをあちこちと、吹雪の中をつまずき歩いて、店々の戸締りをしらべまわった。それから彼は裏小路にまわって裏戸をしらべて歩いた。どこの扉もしっかりとしまっているのを見とどけると、彼は四つ角をいそぎまわって、ニュー・ウィラード・ハウスへといそぎ、そして、その扉を叩くのだった。彼はその夜の残りの時間をずっと、そこのストーブのそばですごしたいと思っていた。「お前さんベッドに入りなよ。わしが、ストーブのお守りはしてあげるからな」ホテルの事務室の吊り床に寝ることになっている少年に向って彼はいうのだった。
ホップ・ヒッギンズはストーブのそばに腰をおろして靴をぬいだ。少年がベッドに入ってからは、彼は彼自らのことをいろいろと考えはじめた。春になったら家をペンキで塗るつもりにしていた。そしてストーブのそばにすわると彼はペンキ代とその手間賃の勘定をはじめた。夜警人は六十歳だった。そして隠居の生活に入りたいと思っていた。彼は南北戦争の時には一兵士として働いた。そしてわずかの年金をもらっていた。彼は何か新しい生活の方法を見いだしたいと思った。そして、専門的なシロイタチの飼育家になりたいとあこがれていた。彼はすでに、このスポーツマンが兎追いに使う、見馴れぬ恰好《かっこう》の荒くれた小動物を彼の家の地下室に四匹だけ飼っていた。
「ところで、わしは雄を一匹に雌を三匹もっておるが」と彼は瞑想《めいそう》するのだった。
「もし春までにうまくゆけば、わしは十二匹か十五匹は持つことになろうて。そうすりゃあ次の年にはわしはスポーツ新聞にシロイタチ販売の広告を出しはじめることもできるだろう」
夜警人は椅子にからだを埋めた。そして彼の心はうつろになった。彼は眠っているのではなかった。長い間の習慣で、彼は幾時間となく長い夜を眠るでもなく目覚めているでもなく、椅子に腰をおろしていることができるように、そのからだをきたえあげていた。そして朝になると彼はふたたびまるで熟睡をとったように元気をとりもどしているのだった。
ホップ・ヒッギンズがストーブのうしろの椅子の中で安全にかくまわれてしまうと、ワインズバーグの町で目覚めている者といえばただ三人になった。ジョージ・ウィラードはイーグル社の事務室で小説を書きふけっているようにみえた。だが、その実彼はその朝森の中の焚火の側でひたっていたあの気分を味わいつづけていたのだ。長老教会の鐘楼の上では、カーティス・ハートマン師が神の啓示を今やおそしと待ちかまえて腰をおろしていた。そして学校の先生ケイト・スイフトは嵐の中に散歩をしようと家を出るところだった。
ケイト・スイフトが家を出たのは十時をすぎたころだった。その散歩はべつにまえまえから考えられていたものではなかった。それはあたかも、彼女の考えからあみ出された相手の男や少年が冬の街頭へ彼女を追いたてているようだった。エリザベス・スイフト伯母は彼女の出資している抵当物件についての商用で、郡の首都へ出かけていた。それで、次の日までは、帰ってくることもなさそうだった。娘は居間のベイス・バーナーと呼ばれる大ストーブのそばにすわって本を読んだ。だが、突然、彼女は跳び上ると表戸のそばの架枠から外套をひったくって、表へとびだした。
三十の歳《とし》になったケイト・スイフトはワインズバーグの町では、きれいな女だとはいわれていなかった。彼女は顔色が悪く、顔面は不健康を示すように吹出物でおおわれていた。だが、冬の夜の町をただ一人歩く彼女の姿は愛くるしいものであった。彼女の背はすらりと、その肩は正しく張っていた。そしてその姿はちょうど、夏の夜の薄闇の中で、庭園の脚柱台《ペデスタル》の上に立った小天女の姿にも思われた。
午後のうちこの学校の先生は、彼女の健康の相談でウェリング博士のもとを訪れた。医者は彼女を非難して、彼女は聴力を失う危険があるといいはなった。そのケイト・スイフトが嵐の中をうろつきまわるということはばかげたことだ。それはばかげたというばかりでなく、またおよそ危険なことでもあったのだ。
通りに出た女は、医者の言葉など想いうかべてはいなかった。よし想いうかべたにしても、きびすを返すことはなかったであろう。彼女は非常に寒気を感じたが、五分間も歩いているうちに、寒さも意に介さなくなった。
まず彼女は家の前の通りをつきぬけると、それから飼料納屋の前の広場にすわった一対《いっつい》の乾草|秤《はかり》の上をこえて、トランニョン街へと入った。トランニョン街に沿って、彼女はネッド・ウィンターの納屋のあたりまで行き、それから東に折れて、|福音の丘《ゴスペル・ヒル》をこえて通ずる低い木造家屋の屋並みの路をサッカー街へと歩いて行った。サッカー街は浅い谷間を走り下って、アイク・スミードの養鶏所をすぎ、水道用貯水池へと続いていた。彼女は歩いて行くにしたがって、あの、彼女を戸外へと駆り立てた向うみずな興奮した気持があるときには消え去り、またあるときにはふたたびもりかえしてくるのであった。
ケイト・スイフトの性格には、あるしんらつな、人々をはねかえすものがあった。接する人すべてがそれを感じた。教室では彼女は、押し黙った、冷静な、そして厳格な先生だった。しかし、ある変な工合に彼女は生徒と大変親密なものとなっていた。長い間をおいて、たまにあるものが彼女の全身をつつむようだった。そして、彼女は幸福な様子だった。教室の子供たちもまた、彼女の幸福感をわかち与えられた。しばらくの間子供たちは勉強も手につかずに、自分たちの椅子にふんぞりかえると彼女をながめてすわっていた。
両手を背に組みあわせると、学校の先生は教室をあちこちと歩きまわりながら非常な早口でしゃべりたてた。彼女の心の中にわいて出たのがどんな話題であろうと彼女はおかまいなしの様子だった。あるとき彼女は子供たちにチャールズ・ラムの物語をした。そしてこの前世紀の作者の生活について、不思議に親しみのあるかずかずの小話を創りあげた。その物語は、あたかもチャールズ・ラムと同じ家に住んで、彼の私生活の秘密はすべて知りつくした者が語ってでもいるように物語られた。それで、子供たちは少々戸惑いを感じて、チャールズ・ラムとは昔ワインズバーグに住んでいたことのある人にちがいないと考えた。
またあるときには先生は子供たちに向って、ベンヴェヌート・チェリーニの物語を語った。そのときに子供たちは笑った。この昔の芸術家はなんと高慢ちきで、あらあらしく、勇敢で、また愛くるしい男にされ終ったことか! 彼についてもまた彼女はかずかずの逸話をでっちあげた。そこにはドイツ人の音楽教師がいて、彼はミラノの町のチェリーニの下宿の階上の部屋を占めていたというのだ。そしてそれは少年たちを大笑いさせた。シュガーズ・マクナッツという肥って赤い頬の少年は、あまりひどく笑ったのでめまいがして座席からころげ落ちた。そしてケイト・スイフトは少年といっしょに笑い声をあげた。だが、それから突然に、彼女はふたたび冷静で厳格な先生にかえるのだった。
人影もないいちめん雪におおわれた街を歩きまわったその夜、ある危機がこの学校の先生の生活にしのびよっていた。ワインズバーグの人々はだれ一人そうした疑いをいだくものもなかったが、彼女の生活は、非常に冒険的になっていた。そして今もなお冒険的な気持がつづいていた。来る日も来る日も彼女は学校の教室で働き、そして街々を歩きまわりながら、彼女の心の中では悲哀、希望、情欲が入りまじって戦いをつづけていた。冷静な外観の背後では、最も異常な種々さまざまな出来事が彼女の心のうちにまきおこっていた。
町の人々は彼女をかたくなな老嬢と考えた。そして彼女のとげとげしい声や、またわがままな独立生活のゆえに、人々は、あの人々の生活を押し進めたり、あるいは阻害したりするはなはだ大きな力をもった人間感情というものはすべて彼女には欠けているのだと考えた。しかし事実は、彼女こそ彼らのうちで最も飢え渇いた熱情的な魂の持主であったのだ。そして、彼女が旅から帰って来て、ワインズバーグにおちつき、学校の先生になって以来五年間というもの一度ならず彼女は家をとび出して、心の内に荒れ狂う戦いを戦いぬきながら夜半までも歩きまわらずにはいられなかったのだ。
ある雨の降る夜、彼女は六時間もの間家を出たきりで帰って来なかった。そしてそのあげく家に帰ると、エリザベス・スイフト伯母と口喧嘩をやった。
「わたしは、お前が男に生れて来なくてよかったと思うんだよ」と伯母は鋭い声でいった。「わたしは一度ならず、二度ならず、お前のお父さんが、またどんな新しい厄介事にまきこまれたかも知らないまま、家でかえりを待っていたものだよ。わたしゃもう、そんな心配ごとは飽きるほど味わされたのだから、お前がお父さんの悪いところばかり生き写しなのを見るにつけて、この眼をおおってしまいたいくらいに思うのもそりゃお前、わたしの咎《とが》じゃあないんだよ」
ケイト・スイフトの心はジョージ・ウィラードのことを考えて燃えたっていた。彼が学校の生徒だったころに書いたあるものに、彼女は、彼にひそんだ天才のひらめきを認めていた。そして彼女はそのひらめきを守り育てていきたいと思った。ある夏の一日彼女はイーグル社を訪れて、彼の仕事の手のすいているのを見いだすと、彼を本町通りから市場用地へと連れ出した。そしてそこで二人は草地の堤に腰をおろして物語った。学校の先生は少年の心に彼が作家となって当然当面しなければならない種々の困難にたいして、しっかりした考えを植えつけておきたいと思った。
「あんたは人間の生活というものを知らなければなりません」と彼女はいいはなった。そして彼女の声は熱心のあまり震えをおびていた。彼女はジョージ・ウィラードの肩をつかみ、彼の眼の中を真っすぐに見いることができるように彼のからだをふりむけた。もしその場に通行人がいたとしたら、二人は抱擁しようとしているのだと考えたかもしれない。「もしあんたは作家になろうと思うのなら、あんたは言葉をもてあそぶことはやめなければいけません」と彼女は説いた。
「もっと準備のできるまでは、書こうと思う考えさえも棄ててしまった方がいいのです。今は生活をするときです。わたしはあんたを、驚かしたくはないのですが、しかしわたしは、あんたがこれからやろうと思っていることの意味を十分のみこんでもらいたいと思うのです。ただの言葉の商売人ではだめですよ。ほんとに学ばなければならないのは、人々の考えていることです。けっして人々のおしゃべりしあうただの言葉だけではないのです」
カーティス・ハートマン師が教会の鐘楼のうちにすわって彼女の肉体をうかがい見ようと待ちかまえていた、あの吹雪《ふぶき》の木曜日の夜の前の夕べには、若者ウィラードは、一冊の本を借りるために学校の先生を訪問した。あの若者の心を混乱させ、当惑させた出来事がおこったのはそのときである。
彼は本を腕の下に抱えると彼女の家から帰ろうとした。すると、ふたたびケイト・スイフトは非常な熱心さで語るのだった。夜が訪れようとしていた。そして部屋の灯火はますますうすれていった。彼が部屋を出て行こうとして身を翻えしたとき、彼女は柔らかな声で彼の名を呼んだ。そしてつと、衝動的な動作で彼の手をとるのだった。少年記者はすでに急速に一個の男性となっていた。そしてその男性としての魅力のあるものは、少年のはればれしさと結びあって、孤独な女の心を掻き立てた。彼に人生のもつ意味を了解させ、それをありのままに、正直に理解してゆくことを教えたい熱望が、彼女の全身にみなぎった。まえかがみにかがみこむと、彼女の唇は彼の頬をかすめてすぎた。そしてその瞬間彼ははじめて、彼女の顔立ちのきわだった美しさを意識した。彼らは二人とも間の悪さに当惑した。そして彼女はその感情をはらいのけるかのようにあらあらしく横柄なふうをよそおった。
「まあ、しかたのないことだわ。だってあんたにこんなお話をしたところで、その意味が十分のみこめるまでには、まだまだ十年はかかるだろうからね」と彼女は熱した叫び声をあげた。
嵐の夜、牧師が教会に腰をおろして彼女を待ちかまえていた間に、ケイト・スイフトは若者とふたたび話をとりかわしたいと、ワインズバーグ・イーグル社の事務室に出かけていた。雪の中を長い間歩きまわったあげく、彼女はこごえあがって孤独に、そして疲れはてていた。本町通りをぬけてやって来たとき、彼女は新聞社の窓から光がもれ、雪の上に輝いているのを見た。で、衝動的にドアを開くと彼女は中に入った。
一時間もの間、彼女は事務室のストーブのそばにすわって人生を語った。彼女は激情的な熱心さで語った。彼女を雪の中へと駆り立てた、あの心の衝動が語りゆく彼女の言葉のうちに滝のように流れ出た。彼女は彼女が学校の子供たちの前でしばしば感じるような高揚した感情にとらわれた。かつては彼女の教え子であった、そして人生を理解する才能を持ちあわしているのが感ぜられるように思われたこの若者にたいして、人生の扉を開いてやりたいと思う偉大な熱情が彼女の心をとらえた。彼女の熱情はあまりに強く、肉体的なものとなって現われた。またもや彼女の手は彼の肩をつかみ、そして彼のからだを振りむけるのだった。うす暗い灯火のもとで、彼女の眼は燃えていた。彼女は立ちあがると笑った。しかし、それは彼女の日ごろの鋭い笑いでなく、奇妙にためらいのあらわれた笑いだった。
「もうわたし帰るわ」と彼女はいった。
「もしわたしがここにとどまっていたら、きっと、わたしは今にも、あんたに接吻を要求したくなるかもしれないからね」
新聞社の事務室ではある混乱がまきおこった。ケイト・スイフトは身をひるがえすと戸口の方へ歩いていった。彼女は先生であった。だが、また一人の女でもあったのだ。彼女はジョージ・ウィラードをながめていると、あの何千回となく彼女の肉体に嵐のようにまきおこった男に愛されたいという激情的な欲望が彼女におそいかかった。ランプの光に照らし出されたジョージ・ウィラードの姿はすでに一個の少年ではなかった。男性の役割を十分にはたしうる準備のととのった男として彼女の眼には映るのだった。
学校の先生はジョージ・ウィラードが彼女を彼の胸の中にいだくのにまかせた。温かな小さい事務室のうちの空気は急におもおもしく感ぜられた。そして彼女の肉体は力を失った。ドアのそばの、低いカウンターにもたれかかって彼女は待った。彼が来て、その手を彼女の肩のせたとき、彼女はふり向いて自分のからだをおもおもしく彼の上にもたせかけた。ジョージ・ウィラードにとって気持の混乱がただちに測り知れないものとなった。瞬間彼は女のからだを彼のからだにしっかりと抱きしめた。すると、それから彼女の肉体はきりっとしまった。二つの小さな鋭い拳が彼の頬を打ちはじめた。学校の先生が走りさって、ただ一人とりのこされたとき、彼はあらあらしく呪いの言葉を吐きながら事務室のうちを、あちこちと歩きまわった。
カーティス・ハートマン師がひょっこりと姿を現わしたのはこの混乱のときであった。彼がはいって来たとき、町は気狂いになったのだとジョージ・ウィラードは考えた。血のしたたる拳を空にふりまわしながら、牧師はあのジョージがわずかにたった一瞬間前腕にいだきしめた女を真理の言葉を高くかかげた神の御使いだと宣言したのである。
ジョージは窓べのランプを吹き消すと印刷所のドアに鍵をかけて家路へついた。ホテルの事務室をぬけ、シロイタチを育てる夢に埋もれたホップ・ヒッギンズのそばを通って、彼は自分の部屋へと上って行った。ストーブの火はすでに消えさって、彼は寒気のうちに服を脱いだ。ベッドの中に入ると敷布はまるで乾燥した雪の毛布のように思われた。
ジョージ・ウィラードはベッドの中で――その日の午後枕を擁してケイト・スイフトについていろいろと考えをめぐらしたあのベッドの中で――転々ところげまわった。そして急に正気でも失ったのだろうかと思われたあの牧師の言葉が、彼の耳の中でガンガンなりわたった。彼の両眼は部屋うちを凝視した。混乱した男にありがちな憤怒の情も消えさって、彼はその出来事をふたたび考えなおそうと試みた。だが、それは不可能だった。
くりかえしくりかえし、彼はその事件を心のうちに想いかえしてみるのだった。そして数時間のときがすぎ、やがて次の日の暁も間近にせまっているのだと彼は思いはじめた。四時になると彼は首のあたりまで上掛けを引きずり上げて睡りに入ろうと試みた。彼はまどろみかけて眼をとじると、たかだかと手を高くさしあげて、暗闇のうちを手探りした。
「ぼくは何かつかみそこねた。ケイト・スイフトがぼくに話してきかせようとした何ものかを、ぼくはつかみそこねた」と彼は眠りのうちにつぶやいた。それから彼は眠りにおちた。そしてその冬の夜、あらゆるワインズバーグの人々のうち、彼は眠りにおちいった最後の人だった。
[#改ページ]
孤独
彼はアル・ロビンスン夫人の息子だった。アル・ロビンスン夫人はかつてはワインズバーグの東にあたり町の境からさらに二マイル離れた、トランニョン有料道路につづいた小路に面して農園をもっていた。農家は褐色のペンキに塗られて、道路に面したすべての窓は鎧戸《よろいど》を閉ざしてあった。家の前の道路には、ひなの群れが二羽のほろほろちょうに伴われて、深い埃の中に横たわっていた。
そのころエノックは母とその家に住んでいた。そして幼い少年だった彼はワインズバーグ高等学校に通った。年老いた町の人々の記憶では、彼はもの静かな、いつもほほえみを顔にうかべた、沈黙がちの少年だった。町に出て来るとき彼は道のまん中を歩いた。そしてしばしば本を読みふけっていた。だから家畜の群れを駆りたてて行く人々は大声にどなりたて、悪罵《あくば》の言葉をはいて彼がいったいどこを歩いているのかを思い知らさなければならなかった。そこではじめて彼は、歩き慣れた道のまん中を離れて道をあけるのだった。
エノックは二十一歳の年にニューヨークへ出た。それから十五年間彼は都会人として暮した。フランス語を勉強し、持っていた絵の技能をのばしたい希望で美術学校に入った。彼の心のうちで、パリに行ってそこの巨匠たちに交わり、彼の芸術の訓練に最後のみがきをかけたいと計画していた。だが、その計画は実現されないで終った。
けだし、エノック・ロビンスンにとって、何一つとして実現されたものはなかった。彼は絵もうまくかけたし、また頭の中には、鉛筆で表現することも可能だろうと思われた不思議に繊細な考えのかずかずも持っていた。だが、彼はいつも子供だった。そしてこのことが彼の世俗的な発展の弱みとなった。
彼はけっして大人になることがなかった。もちろん彼は人々を理解することができなかったし、また人々に彼を理解してもらうこともできなかった。彼のうちにひそんだ小児はつねに物事に、金や、性や、そして世上の意見というような現実の物事にぶつかってつまずきつづけた。あるとき彼は町の乗合馬車と衝突して鉄柱に投げつけられた。びっこになったのはそのためだ。このことはエノック・ロビンスンにとって何一つうまく実現されたものがない数多くの出来事のただ一つの例を示しているにすぎない。
ニューヨークでは、彼がはじめてそこに住むようになったころ、まだ、人生のもろもろの事実に当惑させられ、あるいはまごつかされることのなかったころには、エノックは大いに若い人々と歩きまわった。彼は男女のまじった年若い芸術家の群れに加わった。そして彼らはしばしば夕べになると彼の部屋を訪れた。あるとき彼は酔っぱらって、警察に引っぱられた。そして警官はひどく彼をおどしつけた。
またあるときには、彼は彼の下宿の前の小径で出あった町の女と関係をつけようと試みた。女とエノックは連れだって三丁ばかりをいっしょに歩いた。そこで若者は、恐怖を感じて逃げ出した。それで、その出来事は女をよろこばせた。女はあるビルディングの壁によりかかって心から大声で笑いたてた。そこでほかの男が立ちどまって彼女といっしょに笑った。その男女はさらに笑いあいながらともにつれだって立ちさった。そしてエノックは震えながら、心まどって自分の部屋へにげこんだ。
若者ロビンスンが、ニューヨークで住んでいた部屋は、ワシントン・スクェアに面した、長く細い廊下に似た部屋だった。このことは諸君の記憶によくとどめておくことが必要である。というのは、事実エノックの物語はいわば一人の男の物語というよりも、むしろ、一つの部屋の物語であったのだから。
このようにして夕べになると年若いエノックの友だちがその部屋へ集って来た。そこにはべつだんにこれというすばらしいこともなかった。ただ注意しなければならないのは、彼らは一種のおしゃべり芸術家といわれる一団であったことだ。おしゃべり芸術家については、だれでもが知っていよう。世界のあらゆる既知の歴史を通じて、彼らは種々の部屋に集っては、おしゃべりをやったものだ。彼らは芸術を語った。そして芸術に関しては、熱情的な、いやおよそ熱病的な真剣さを示した。彼らは芸術の重要さを、その実際の重要さ以上に値ぶみしようとさえしていたのである。
このようにして人々は群がり集って、あるいはタバコをふかし、あるいはおしゃべりをやった。そしてワインズバーグ在の農園の息子エノック・ロビンスンもその場に顔を出した。彼はすみっこにたたずんで、ほとんど大部分沈黙を守った。彼の大きく青い無邪気な眼はなんとあたりに凝視をつづけたことか! 壁の上には、彼の描いた絵が、蕪雑《ぶざつ》な仕上げもなかばの絵が、かかっていた。彼の友人たちはその絵についてしゃべりあった。椅子の中にふんぞりかえって、彼らはおしゃべりからおしゃべりへと、頭を左右にゆり動かしながらしゃべりまくった。線について、色彩価値について、そして構図について、平凡な、つねにいいならされた言葉のかずかずがならべたてられた。
エノックもまた語りたいと思った。だが、彼にはどういっていいのかわからなかった。彼はつじつまの合った話をきり出すにはあまりに興奮を感じていた。彼が語りだそうと試みたときにも、彼はただ唾《つばき》をとばし、口ごもり、そして彼の声は自分の耳にも奇妙なきしり声に響くのだった。それで、彼は語るのをやめた。彼には自分のいいたいことはわかっているのだが、また彼には、どうしてもそれを口にだしていうことは不可能だということもわかっていた。彼の描いた絵が議論の対象となったときにも、彼はたとえば次のようなことをせいいっぱい、吐き出してやりたいと思った。
「君らのいうことは大事な要点にふれていないよ」と彼は説明したかった。
「君らの見ている絵は、君らの見ているような、そしてしゃべりあっているようなそんなものからできあがっているのではない。そこには何かあるものが、君らのちっとも目をつけていないあるものが、君らのちっとも目をつけようとはしないあるものがひそんでいるのだ。このここにあるやつを見てみたまえ。ここから、ちょうど窓から光の落ちているこの入口のそばから見てみたまえ。君らは少しも気がつかないかもしれないが、路のかたわらの黒い点は、いいかね、あれはすべてのもののはじまりを示しているのだ。ここには、ニワトコのしげみがある。それは、あのオハイオ州ワインズバーグのぼくらの家の前を通った路の傍によく生えているやつなのだ。で、そのニワトコのしげみの中には、そこにあるものがかくされている。そのありようは一人の婦人なんだ。彼女は馬から投げ落とされ、そして、馬はすでに視野の外に走りさっているのだ。いかにも、あの荷車を押している老人の顔つきは心配げに見えるじゃあないか? あれはその路の上手に農園を持つサッド・グレイバックなんだ。彼はワインズバーグのカムストック水車場で麦粉をひいてもらうために車に麦をのせてひいているのだ。彼はそのニワトコのしげみのうちに何かいる、何かかくされていることを知っている。だが、彼はまだそれが何であるかはまったく知らないのだ」
「それはごらんのとおり一人の婦人なんだ。ほんとのところ、そうなんだ。それは一人の女で、そして、おお、彼女の愛くるしいことよ! 彼女は傷つき、そして苦しんでいる。だが、彼女は声ひとつたてない。君らにもそのありさまがわかるだろう? 彼女はまったく身動きひとつせずに、顔色|蒼白《そうはく》に、そして静かに横たわっている。そしてその美は、彼女からぬけ出してすべてのものの上へひろがる。それはあの背後の空に、そしてあたりのあらゆるところへみなぎっているのだ。ぼくはもちろん、その婦人を描こうとしたのではない。彼女は描くにはあまりに美しいのだ。構図だとか、なんだとか、なんと退屈な話だ! なぜ君らは、ぼくがまだ子供のころ、あのオハイオ州ワインズバーグでやっていたように、空をながめ、それからかけさって行くことをしないのだ?」
こうしたことが、ニューヨークの町に住まって若者エノック・ロビンスンの震えるほどにいいたいと心|悶《もだ》えた言葉であった。が、彼はつねに何ものもいわずじまいに終った。それから彼は自分自身の心に疑いを持ちはじめた。彼は彼の感じたことが、彼の描いた絵には現わされていないのではないかと恐れた。なかば憤りに似た気持のうちに彼は人々を部屋に招待することをやめた。そしてその後まもなくドアには鍵をかける習慣がついた。すでに十分すぎるくらいたくさんの人々が訪れて来たのだ。だからそれ以上人々に会う必要はないのだと彼は考えた。
溌剌《はつらつ》とした想像力をもって彼は彼自身の心のうちにまざまざと言葉をとり交わし、そして生きた人間には説明を与えることのできなかった事柄をも容易に説明しうるような空想の人物を考えだしはじめたのである。彼の部屋には男や女の生霊が居をかまえはじめた。そして彼はそのうちに立ち交わって彼の順番が来ると声高に話しかけた。それはちょうどエノック・ロビンスンの会ったことのあるすべての人々が、彼らのうちのある要素――彼が自らの空想でかってに型を変え鋳《い》なおすことのできるようなあるものを、たとえば、あの絵のうちに描かれたニワトコの影の傷ついた女のような、すべてのそうしたものを理解することのできるある人物を――彼のもとにおき忘れて行ったかのようであった。
柔和な青い眼のオハイオ出の若者は、完全なエゴイストであった。それはあらゆる子供がエゴイストであるのと同様だった。子供は友だちを要求しないという至極単純な理由から、彼もまた友だちというものを要求しなかった。彼は何よりもまず彼自身の心のうちの人物を――彼が真実に心を語りうる人物を、時間借りでもよい、大声でどなりたて、またののしり合うことのできる人物を、すなわち彼の空想|裡《り》の召使いを――要求していたのだ。こうした人物の間では彼はつねに自信にみちて勇敢だった。もちろんこうした人物でも、彼らのいうことだけはいい、またときには堂々と彼らの意見をも述べ立てるのではあるが、しかしその最後にすべてのけじめをつけて、名演説を行なうのはつねに彼自身であった。彼はたとえばその頭脳のうちに考え出した人物の間にいそがしく立ちまわる一人の作家のようなものだった。いわば彼は、ニューヨークはワシントン・スクェアに面した一週六ドルの小部屋に鎮座ましました、ちっぽけな青眼の王様でもあった。
それからエノック・ロビンスンは結婚した。彼は孤独を感じはじめた。そしてほんとに血の通った人間をその手に触れてみたいと思いはじめた。日がたつにつれて彼の部屋はまったく空虚なものに思われてきた。彼の肉体は快楽を求め、心には欲望が生長した。夜は不思議な熱が身うちに燃えて眠りをさまたげた。彼は美術学校で隣りの席にすわっていた娘と結婚した。そしてブルックリンのあるアパートで生活した。女には二人の子供が生れて、エノックは広告用の挿画を造る店に仕事をみつけた。
このようにしてエノックはまた異なった様相の生活をはじめることになった。彼はまた、新しい勝負ごとをはじめたのだ。しばらくの間彼は世界の市民を製造してゆく彼の役割に大きな誇りを感じていた。彼は事物の本質などというものは傍におしやって、現実と太刀打ちをはじめた。秋には彼は選挙の投票を行った。すると彼の玄関口には毎朝新聞が投げこまれた。夕方仕事から帰って来るときには、彼は乗合馬車をおりるとだれか通りがかりの実業家の後からおちつきはらってゆったりと歩をはこび、いかにも相当重要な人物でもあるかのふうを装おうとつとめた。また一人の納税者として彼は世の中の流れに詳細に通暁していることが必要だと考えた。
「おれは何か重要な、州とか市とかそういった、実質的なものにおいおい一役かって出る身となりつつあるのだ」と威厳の縮図とでもいいたいようなほほえましい態度で彼は自分自身につぶやくのだった。あるときフィラデルフィアからの帰りみち、彼は列車の中で、ある男と議論をたたかわせた。鉄道は政府が所有して運転するのが有利だというような話をエノックはした。そしてその男は彼に葉巻を与えた。政府側のそうした活動こそ好ましいものだというのがエノックの考えだった。そして彼は話してゆくうちにまったく興奮してきた。のちほど彼は自らしゃべった言葉を愉快げに思い出した。
「おれはある考えるべきことを、あの男に語った」とブルックリンのアパートの階段を上りながら彼は自分につぶやくのだった。
たしかにエノックの結婚生活は、何の成果をももたらさなかった。彼は自分から結婚に結末をつけた。彼はアパートの生活にたいして、閉じこめられたような、窒息するような気持を持ちはじめた。そして妻や子供にたいしてさえ、かつて彼を訪れていた友人たちにたいして懐いたのと同じような感情をいだいた。彼は夜の街をただひとり歩きまわる自由が得られるような商用にかこつけて、少しずつ嘘をつきはじめた。そして良い機会にめぐまれると彼はひそかにあのワシントン・スクェアに面した部屋をふたたび借り入れた。
それからワインズバーグ在の農園ではアル・ロビンスン夫人が死んだ。それで彼は母の財産の管理者となっていた銀行から八千ドルの金を引き出した。それでエノックはまったく人間の世界から引きずり出されることになった。彼はその金を彼の妻に与え、そして彼はもはや妻とともにアパートの生活をつづけることはできないのだと妻に告げた。彼女は泣き叫び怒って、おどし文句をはいた。だが彼はただ彼女をじっと見つめて、それから彼自身の道に進んで行った。じっさい妻はさほどそのことを気に悩んではいなかった。彼女はエノックのいささか気狂いじみていることを考えておじけづいていたのだ。彼がふたたび立ち戻って来ることはないことが確かになると、彼女は二人の子供をつれて少女時代をすごしたコネチカットのある村にさった。その後彼女は不動産の仲買をやる男と結婚して、十分満足した生活を送った。
このようにしてエノック・ロビンスンは彼の幻想裡の人々と相交わって、あるいはたわむれ、あるいは言葉をとり交わし、子供のように幸福に、ニューヨークの一室で暮した。彼らエノックの人物たちは奇妙な仲間だった。彼らは実際に彼の会ったことのある人間から、あるいは何かあるはなはだぼんやりした理由から彼の心に強く訴えるもののあった人間から創り出されたもののように思われる。そこには、その手に剣をふりかざした女がいたし、犬をつれてまわる長い白ひげをたれた老人がおり、またストッキングがいつもずり下がって、靴の先までもたれている年若い娘もいた。そうしたエノック・ロビンスンの≪子供心≫に発明せられた影の人物は、二ダース以上にものぼっていたに相違あるまい。そして彼らは彼とともにその部屋に暮していたのだ。
エノックは幸福だった。部屋に入って行くと彼はドアに鍵を下ろした。ばかげてもったいぶった様子で声高に語り、あるいは教訓を与え、また人生の解釈をくだすのだった。彼は幸福だった。そして広告社につとめ、自分で生活をやって行くことに満足した。だが何かおこらなくてはならなかった。もちろん何ものかがおこった。彼がワインズバーグに立ち戻って生活するようになって、われわれが彼を知るようになったのもそのためである。
事件というのは女だった。ありそうなことだ。彼はあまりに幸福すぎていた。何ものかが彼の世界にあらわれなくてはならなかった。何ものかが彼をニューヨークの一室から駆り立てなくてはならなかったのだ――西に傾いた太陽がウェズリー・モイヤーの貸馬車屋の屋根のかなたに沈んでゆくころ、オハイオの町の街々をあちこちとふらつきまわっている、見なれない、けいれんするような歩みの小さな姿の男を駆り立てて、あくまで彼の生命をまっとうさせずにはおかなかったのだ。
その事件というのは――エノックはある夜、それをジョージ・ウィラードに語った。彼はだれかに話したいと思った。そして彼はその年若い新聞記者を相手に選んだ。というのは二人が偶然にも落ちあったとき、年若い男はそうした話に同情のもてる気分になっていたからだ。
青春の悲哀、若者の悲しみ、年の暮れの田舎町に生長をとげる少年の悲哀、そうしたものがその老人の唇を開かせることになった。ジョージ・ウィラードの心のうちには悲哀があった。そしてその悲哀たるや意味もないものではあったとはいえ、それはエノック・ロビンスンの胸を打つものがあった。
二人が会って話を交わした夜は雨が降っていた。霧のように立ちこめた湿っぽい十月の雨だった。その年の取入れも終って、空には月のかかった、すばらしく晴れわたった夜も訪れ、またさわやかにはだ身を刺す霜のおとないを想わせる空気もただよっていいはずであったのに、事実はそうでなかった。雨がふりつづいて、本町通りの街灯の下には小さな水溜りが輝いていた。市場用地のかなたの闇の森のうちでは黒くしめった樹木から水滴がしたたっていた。樹々の下には濡れそびれた木の葉が地面から突き出た根に糊づけされていた。ワインズバーグの家々の裏庭では、しなびて皺《しわ》くちゃになった馬鈴薯のくきがのたくるように地面にはびこっていた。
人々は夕べの食事が終ると、町へ出てどこかの店の裏手ででも、人々と宵《よい》の時間を、はなしのうちにすごしたいと計画を立てていたが、その計画を変えてしまわなければならなかった。ジョージ・ウィラードは街の中を歩きまわった。そして雨の降っていることを喜んだ。彼の気持がそんなふうだったのだ。彼はあのエノックが彼の部屋から現われ出て街々をただひとり歩きまわっていた夕べなど、どこかこのエノック老人と似たところがあった。ただジョージ・ウィラードは背の高い若者で、泣きごとを並べたり変な態度をとったりすることは男らしくないと考えていたのが、せめてものそのちがいといえばいえたくらいだ。一と月の間、彼の母は大変重い病いにおちいっていた。そしてそのことが彼の悲しみの情とかかわりあいをもった。とはいえ、それは大したことではなかった。彼は自分自身のことを考えていた。そして、それがつねに、若者に悲しみの情をもたらしていたのである。
ワインズバーグの本町通りをすこしはずれたモーミー街にある、ヴォイトの荷車店の前の歩道の上にひろげられた木製の雨覆いの下で、エノック・ロビンスンとジョージ・ウィラードとは出くわした。二人ともどもに雨に洗われた街々をつきぬけて、ヘフナー・ビルの四階にある老人の部屋へと歩いて行った。年若い新聞記者の心は勇んでいた。二人が十分間ほど立ち話をしたのち、エノック・ロビンスンは彼に出かけようといった。
少年はいささか不気味に思ったが、これまでになくエノックの生活に好奇心をわき立たせていた。彼はこれまでも幾百回となく、この老人がいくらか気が変ったという噂《うわさ》を聞いていた。だから、彼は結局彼を訪れることはむしろ勇敢な、男らしい行為だと考えた。雨の街の中で、はじめから老人はなにか変なふうに物語を切り出した。そして、ワシントン・スクェアの部屋の物語や、またその部屋うちの生活を語ろうとした。
「あんたが、うんと努力さえすれば、わかる話なんですよ」と彼は駄目をおすようにいった。「わしはあんたが街を通っているのを見かけて、あんたにならわかってもらえると思ったのです。何もむずかしいことじゃありません。ただ、あんたはわしのいうことを信じさえすればそれでいいのです。ただよく聞いて、信じてもらえばです。で、それだけのことですよ」
エノック老人がジョージ・ウィラードをヘフナー・ビルの彼の部屋にともなって、彼の重要な話の要点である、ある女の物語をはじめ、そしてどうして彼が町から追放されて、その余生をワインズバーグの町で孤独な敗残者として生活しなければならなくなったかを、ながながと語ったのはすでに夜の十一時もまわったころだった。彼はその手に頭をかかえて、窓べの吊り床《どこ》の上にすわっていた。そして、ジョージ・ウィラードはテーブルのそばの椅子にすわっていた。
石油ランプがテーブルの上に置かれて、部屋には家具といってはほとんど何ものもなかったが、それは几帳面なほどきれいに片づけられていた。老人が語って行くうちにジョージ・ウィラードは椅子から立ちあがって、彼もその吊り床の上に腰かけたいと思った。彼はその小柄な老人の肩に彼の腕を横たえてやりたいと思った。薄闇のうちで老人は語り、そして少年は悲しみの情に満たされて聴き耳を立てた。
「わしの部屋にだれも訪れるものもなくなって数年もたったころから、あの娘《こ》はわしの部屋へやってくるようになったのです」とエノック・ロビンスンは語った。
「あの娘はわしとはあの家の廊下で会って、それから知りあいになりました。わしはあの娘が自分の部屋では何をしているのやらちっとも知りませんでした。わしは一度もあの娘の部屋は訪れたことがなかったのです。あの娘は音楽家で、ヴァイオリンをひいていたように憶えています。ときおりあの娘はやって来て、わしの部屋の戸をノックしました。で、わしはドアをあけました。あの娘は入って来て、わしのそばに腰をおろします。ただすわって、あたりを見まわしているだけで、何もいいません。とにかく、あの娘は必要以上には口をきかない娘でしたよ」
老人は吊り床から立ちあがると部屋うちを歩きまわった。彼の着た外套は雨に濡れそぼれて、水の滴《しずく》がポトポトとやわらかな音を立てて落ちつづけた。老人がふたたび釣り床の上に腰をおとすと、ジョージ・ウィラードは椅子から立ちあがって彼のそばにすわった。
「わしはあの娘にたいして愛着をおぼえました。あの娘はあの部屋にわしといっしょにすわりました。だがあの娘は部屋には不釣合いなほど大きすぎるようでした。あの娘はあの部屋の何もかもおしのけてしまうように感じられました。わしたちはつまらんことをしゃべりましたよ。だが、わしは静かにすわっていることができませんでした。わしはわしの手であの娘に触れ、接吻してやりたいと思いました。あの娘の手ときたらそれは強そうでした。だがあの娘の顔はまた、すばらしく美しいものでした。そしてあの娘はしじゅうこのわしを見つめていたものです」
老人のふるえをおびた声は静まって、彼のからだは悪寒《おかん》をおびたように震えた。
「わしは恐れたのです」と彼はつぶやくようにいった。
「わしは恐ろしく恐怖を感じたのです。あの娘がドアをノックしたとき、わしはあの娘を部屋に入れたくなかったのです。だがわしはじっとすわっていることができませんでした。『いやいけない。いけない』とわしは自分に向っていいました。だが結局わしは立ちあがって、ドアをあけたものです。あの娘はまったく成熟しきっていましたよ。あの娘は立派な一人前の女だったのです。あの部屋の中じゃあ、あの娘はこのわしよりも大きく見えただろうとわしは思いました」
エノック・ロビンスンは、ジヨージ・ウィラードを凝視した。彼の子供らしい無邪気な眼はランプの光に輝いていた。ふたたび彼のからだは震えるのだった。
「わしはあの娘を飢え求めていながら、しかもわしはいつもあの娘の来るのを願いませんでした」と彼は説いていった。
「それからわしはわしのまわりの人間について、またこのわしに何らかの意味をもったあらゆることについてあの娘に物語ってゆきました。わしは静かにおちついていようと試みました。だがそれは不可能でした。それはちょうどわしがドアを余儀なくあけたのと同じです。あるときには、わしは、あの娘が行ってしまって、ふたたび帰って来ることがなければいいのにと、願うのでした」
老人は跳び上がるように立ちあがった。そして彼の声は興奮に震えていた。
「ある夜、事件がおこりました。わしはあの娘にこのわしをわかってもらい、またこのわしがあの部屋ではいかに偉大なものであるかを知ってもらいたいと狂気のようになりました。わしはあの娘にこのわしがいかに重要な人間であるかを見てもらいたいと思ったのです。わしはくりかえしくりかえし語りました。あの娘が部屋から出て行こうとしたときには、わしはかけて行ってドアに鍵をかけました。わしはあの娘を追いまわしたのです。わしはしゃべり立てました。それから万事が破滅でした。あの娘の眼にはある輝きがあらわれました。そして、あの娘が理解したのだとわしは知りました。おそらくあの娘は、それまでにも、いつもわかっていたのです。わしは怒りたけりました。わしには、そいつは耐えられなかったのです。わしはあの娘にわかってもらいたいと思っていたのです。だがあんたもご存知のとおり、わしはあの娘にわかってもらうことができなかったのです。で、わしはあの娘にわかってもらえたとすれば、何もかもあの娘は理解してしまって、このわしは溺れ死んでしまうだろうと思ったのです。で、これがありのままのところです。そのわけは、このわしにもわかりません」
老人はランプの傍の椅子の中に、どたりとからだを投げた。そして少年は畏怖の念に満たされて聴き耳を立てた。
「出て行っておくれ、お若いの」と老人はいった。
「もうお前さんには用事はない。わしはあんたに話してきかせたらいいじゃろうと思った。だが、そうじゃない。わしはもうこれ以上話したくはない。出て行っておくれ」
ジョージ・ウィラードは首を振った。彼の声には命令するような調子が含まれていた。
「いまやめちゃあだめですよ。ぼくに残らず話してくださいよ」と彼は鋭くいった。「で、それからどうなったのです? ぼくに残らず話してくださいよ」
エノック・ロビンスンは飛び上るように立ちあがって、ワインズバーグの人影もない本町を見おろした窓べへとかけて行った。ジョージ・ウィラードも後を追った。二人は窓べに立った。背の高い、ものおじた少年のような大人と、小柄な皺のよった大人のような少年とは。そして子供らしい熱をおびた声が物語を続けていった。
「わしはあの娘に呪いの言葉を吐きました」と彼は説いていった。
「わしはあの娘を悪《あし》ざまにののしりました。わしはあの娘に、出て行って二度とやって来ないようと命じたのです。おお、わしは恐ろしいことのかずかずをいいました。はじめはあの娘は、わけがわからないというふうをよそおっておりました。が、わしは悪罵《あくば》をつづけたのです。わしは金切り声を出して、床《ゆか》をふみ鳴らしました。わしの呪いの言葉に家はがんがんと鳴りわたったものです。わしはもはや二度とふたたびあの娘とは会いたくないといいました。そしてわしは二、三悪罵を吐いたのちには、もはやふたたびあの娘とは顔合せはできないのだと思いました」
老人の声は、とぎれとぎれになって、老人は頭をふった。
「万事が破滅したのです」と彼は静かに、そしてもの悲しげにいった。
「ドアから外へあの娘は出て行きました。そしてその部屋うちのあらゆる生命はあの娘のうしろから出て行ったのです。あの娘はわしの心のうちのあらゆる人間をかっさらって行きました。奴らはすべて、ドアをぬけて、あの娘の後を追ったのです。で、万事がこうして破滅してしまったのです」
ジョージ・ウィラードは、きびすをかえして、エノック・ロビンスンの部屋を出て行った。彼が戸口を通って行くとき窓べの闇の中から、かぼそい年老いたすすり泣きと、くりごとがきこえてきた。
「わしはただひとり、まったくのただひとり」とその声はいった。
「昔は、わしの部屋にも暖かみと親しみがあったのに。今ではわしはまったくのただひとり」
[#改ページ]
めざめ
ベル・カーペンターは、膚のくろい、灰色の眼をした唇の厚い女だった。背丈は高くおまけに頑丈だった。彼女は陰鬱《いんうつ》になったときなどひどくおこりっぽくなって、自分が男だったら、そしてだれかをげんこつで殴りつけてやれたら、と思った。彼女は、ネート・マクヒュー夫人の経営している洋品店に勤めていた。一日じゅう店の窓ぎわにすわって帽子飾りをつけていた。彼女はワインズバーグの第一国民銀行の出納係ヘンリー・カーペンターの娘だった。そして、父親といっしょに、遠くバックアイ街のはずれの古ぼけた陰鬱な家に住まっていた。
家はぐるりと松の木に囲まれて、そして木の下には草が生えていなかった。錆びのまわったブリキ製の樋《とい》は家の裏手で留金からはずれて、風が吹くたびに小さな物置小屋の屋根にガランガランとぶつかった。その無気味な音はときどき一夜じゅうつづくのだった。
ベルがまだ小さい娘であったころ、親父のヘンリー・カーペンターはずいぶん彼女をつらい目にあわせたものだ。だが彼女がしだいに成長して一人前の女になると、父親の権力は失われていった。出納係の生活というのは、じつに無数の子細きわまることがらからできあがっていた。彼は朝、銀行に着くと化粧室に入って、永年着古した色あせた黒のアルパカの上衣を引っかけた。そして夜家に帰って来ると、別な黒のアルパカの上衣に着替えるのだった。彼は毎晩、町で皺くちゃになった服に押しをした。そのためには、彼は板の用意まで工夫していた。彼は外出着のズボンを板と板との間に挟んだ。そして板は頑丈なねじでしめつけられた。朝になると、彼はしめった布でていねいに板を拭って、食事室の扉の蔭に立てかけておくのだった。もしも留守中にその板が動かされでもしようものなら、彼は腹を立てて口もきかず、一週間も機嫌を直さなかった。
出納係は、いささかからいばりの男で、自分の娘を恐れていた。彼は自分が、妻にたいして乱暴な仕打ちをしたということを娘が話にきいて知っており、そのため自分を憎んでいるのだ、とさとっていた。ある日のこと、彼女は昼、家に帰ってくると、柔らかい泥を一つかみ道路からつかんで来た。そしてズボンに押しをする例の板にそいつを塗ったくると、彼女はせいせいした幸福な気持でふたたび仕事に出かけてゆくのであった。
ベル・カーペンターは、ときたま夕方になるとジョージ・ウィラードと散歩をともにした。心ひそかに彼女は他の男に想いを寄せていた。だが、だれ一人として知る者のないこの彼女の恋愛事件《ラブ・アフェア》は、彼女にとって非常な心痛の種であった。恋の相手は、エド・グリフィス酒場のバーテンの、エド・ハンビーという男だった。彼女は自分の悩ましい感情の放出口を見いだすために、若い新聞記者と連れだって歩いた。
彼女の生活の地位からすれば、想いを寄せたバーテンとの交際を大っぴらにやってもいいとは彼女には考えられなかった。それで、ジョージ・ウィラードをともなっては樹蔭《こかげ》を散策し、生れつき非常に強い彼女の恋情を和《やわ》らげるために、彼に接吻を許した。彼女はこの青年との関係ではけっして度をすごすようなことはないと思っていた。だが、エド・ハンビーにたいしては彼女の心ははなはだ不安だった。
バーテンのハンビーは、背の高い、肩幅の広い三十男だった。そして、グリフィス酒場の二階の一室に住居を構えていた。彼のげんこつは、巨大なもので、眼はめっぽう小さかった。だが、その声ときては、げんこつの力をしいて隠すためででもあるようにすこぶる穏かな、もの静かなものだった。
彼は二十五歳の時、インディアナの伯父から大きな農場を譲り受けた。それを売り払うと八千ドルという金が舞い込んできた。しかし、エドは六ヶ月でそれを使ってしまった。エーリ湖のサンダスキーへ行って、彼は飲めや歌えの底抜け騒ぎをはじめた。そしてその話は、やがて彼の故郷の町の人々を、畏敬の念をもって満たした。彼はあちこちに金をばらまいて歩いた。町じゅう馬車を乗りまわしたり、多数の男女の集まりに酒つきの宴会を張らせてみたり、莫大な賭金で骨牌《カルタ》遊びをやってみたり、また幾人もの妾を蓄えて何百ドルという衣装を買ってやったりした。ある晩、彼はシーダー・ポイントという遊び場で喧嘩をおっぱじめた。そして野獣のように暴れまわった。彼はホテルの浴室の大鏡をげんこつでぶち割った。それから窓をめちゃくちゃに打ち破り、また舞踏場の椅子をへし折った。彼は情婦《いろ》をつれて一夜を楽しもうと、サンダスキーからやって来た番頭たちのおびえた眼を見、床の上に砕けて散るガラスの音をきいては面白がって暴れまわった。
エド・ハンビーとべル・カーペンターとの間柄も表面から見ては何もなかった。彼は女とたった一晩いっしょになることに成功しただけだった。その夜、彼は、ウェズリー・モイヤーの貸馬車屋で馬と車を雇うと、彼女と相乗りでドライブに出かけた。彼は、自分が生来求めていた女はこの女であって、是非とも手に入れたいものだと固く心に決めていた。そして彼はその願いを彼女にうちあけた。バーテンダーはすぐにも結婚して妻を養うための金儲けにとりかかろうと考えた。だが、はなはだ単純な性質の男だったので、そうした自分の考えを説明するなどということはどうもできないことだった。彼の肉体は肉欲的な欲望にうずいた。そして男は自分の肉体で彼自身をいい現わした。男は、いくら女がもがこうともかまわずに、しっかり抱きしめると、女がへとへとになるまで接吻した。それからいっしょに町へひきかえして、女を馬車から降ろしてやった。
「今度お前をつかまえたらもう離しゃしないぜ。お前がおれをだまそうたって、それぁできない話だ」と彼は馬車をまわしながらふりかえっていった。それから馬車から飛びおりると彼は頑丈な両手で女の肩を掴まえた。
「このつぎ会ったら、もう永久にお前を離さないぜ」と彼が言った。
「お前もそのつもりでしっかり心を決めておくがよかろうぜ。これぁおれとお前だけの話。まだ結婚式がすまないからといってかまうものか、おれはお前をおれのものにしようと思ってるんだ」
ある新月のかかっている一月の夜のことであった。エド・ハンビーにとって、ベルを手に入れる唯一の障害であると思われていたジョージ・ウィラードは散策に出かけた。その夕べ早く、ジョージは、セス・リッチモンドと、肉屋の倅《せがれ》のアート・ウィルスンの二人と連れ立って、ランサム・サーベッグの玉突場へ入った。セス・リッチモンドは壁にもたれて黙りこくっていた。だが、ジョージ・ウィラードはしゃべりたてた。
玉突場はワインズバーグの若者たちでいっぱいだった。そして彼らはいずれも女の話にふけっていた。年若い新聞記者もそうした気分にとらわれていた。彼は、女は自分で警戒すべきものであって、たとえ何事がおころうとも、いっしょに出かけた男はその責任を負うべき筋合いのものではないのだとしゃべった。話しながら彼は、注意を集めるように周囲に眼を配った。彼が五分ほど床板を見つめていると、そこでアート・ウィルスンが口を切った。
アートはカル・プルーズの店で理髪職を習っていた。そして、野球、競馬、酒などにかけてはひとかどの権威者気取りで、女を連れてはあちこちと歩きまわった。彼はワインズバーグから来た二人づれの男といっしょに、郡の首都で淫売屋へ行った一晩の話をはじめた。彼は口の端に葉巻をくわえていた。そして語りながら彼は床の上に唾を吐いた。
「そこの女どもはこのおれを困らせようと思って、いろんなことをやってみたんだが、とうとうそれは無駄だったよ」と彼は誇らし気にいった。
「女どもの一人が出しゃばってこようとしたんだが、おれはその上手《うわて》にでてやったよ。奴がおしゃべりを始めるか始めないうちに、こっちじゃもう、ちゃんとやっこさんの膝の上にのっかったのさ。おれが女の唇に吸いついたときにゃ、その部屋にいた男はみんなで笑いやがったぜ。おれはその女に教えてやったんだ。おれなんかにゃ、いらんおせっかいはよしにしとくに限るとな」
ジョージ・ウィラードは玉突場を出ると本町通りへ出て来た。十八マイルの北方にあるエーリ湖から町にふきおろしてくる激しい風をともなって、この二、三日恐ろしい寒さがつづいた。だが、その夜はすっかり風もないで、新月のかかった夜の気はいつになく情緒に満ちていた。どこへ向いて歩いているのか、何をしようと思っているのかも考えないまま、ジョージは本町通りから足を進めて、木造家屋の立ちならんだ、うす暗い灯火に照らし出された街々を歩きはじめた。
戸外に出て星のまたたいている夜空の下に立つと、彼は玉突場の仲間のことは忘れてしまった。日が暮れてひとり戸外に立っていた彼は大きな声でしゃべり出した。たわむれの気持から彼は酔っぱらいの真似をして往来を千鳥足でぶらつき歩いた。それから彼は膝までとどく光った長靴をはいて、歩くたびに、がちゃんがちゃん鳴る剣を下げた兵隊になったことを想像した。で、兵士として彼はまた、気をつけの姿勢で長く一列に並んだ兵卒どもの前を歩いている検閲官になった自分を心の中に描いた。彼は兵卒たちの武器の点検をやりはじめた。樹木の前に立ちどまると彼は鋭い声でどなりはじめるのだった。
「貴様の背嚢《はいのう》はきちんと整頓されておらんぞ。本官は何度貴様にこのことを注意せにゃならんのだ。軍隊では規律が第一だ。今や困難多き秋《とき》にあたって、規律がなくて何事ができると思うのだ」
自分の言葉に酔ったようになって、若者は、なおも叫びつづけながら、板ばりの歩道をよろめき歩いた。
「軍隊には軍隊の規律というものがある。人間にだってそうだ」と彼は考えに夢中になってつぶやいた。
「規律というやつは小さなことからはじまって、しまいには何もかもおっかぶせるほどにひろがるもんだ。いくら小さいことにだって規律というやつがなくてはならぬ。人間の働く場所にも、服にも、考えにもだ。で、このおれ自身も規律正しくしなくちゃいかん。このおれも規律というやつを学ばなくちゃいかんのだ。何かおれも、あの空にゆらめいている星のように、きちんとした偉大なものと触れあわなくてはならないのだ。小さいながらも生命をもって、規律をもって、活動し、働き、そして、与えうるような、何ものかを学びはじめなくちゃならないのだ」
ジョージ・ウィラードは、とある街灯近くの塀《へい》の傍に立ちどまった。そして彼のからだは震えはじめた。彼はいまだかつて、たった今考えたようなこんなすばらしい考えにゆきあったことはなかった。で、いったいどこから、こんな考えがやって来たのだろうと不思議に思った。瞬間、それは彼が歩いているうちに、どこか外から聞えて来た声のように思われた。彼は、自分の考えに驚きまた胸を躍らせた。そしてふたたび歩き出すと彼は熱心にそのことを語りはじめた。
「ランサム・サーベックの玉突場から出てきて、こんなことを考えはじめようとは」と彼はつぶやいた。
「ひとりぼっちでいることは良いことだ。もしこのおれが、アート・ウィルスンのしゃべるようなことをしゃべったとしたら、なるほどあそこにいる奴らにはわかるだろう。だが、おれがここで考えていることは、あいつらにはわかりっこないのだ」
ワインズバーグには、二十年前のオハイオ州の他のあらゆる町々と同様に、日傭労働者の住んでいる地区があった。まだ工業時代の訪れないころ、労働者達は鉄道の工夫に雇われたり、農園に働いたりしていた。彼らは一日十二時間働いて、その長時間の労働に受けとる賃銀は一ドルだった。彼らの住んでいる家といえば、その裏にちょっぴりとした庭のついた小さな安っぽい木造のものだった。そのうちでも少々豊かなものは庭の隅に貧弱な小舎《こや》をたてて、豚や、またなかには数匹の牛を飼っていた。
ジョージ・ウィラードは、そうした日傭労働者たちの町に歩みをすすめた。晴れた一月の夜空の下で、彼の頭の中ではかずかずの考えがこだまをかえしていた。街にはうすぼんやりと灯火がともっていて、そこには歩道はなかった。彼の周囲に展開する光景は、すでに興奮にかりたてられていた彼の心の幻想をますますかりたてた。一年の間、暇さえあれば読書に夢中になっていた彼は、かつて読んだことのある中世の古い町々の生活の物語が、今やふたたびありありと思い出されてきた。そして彼は、何か前時代人の遺跡でもふたたび訪れたようなふしぎな感情にとらわれて、すたすたと歩いた。ふと衝動的に彼は路から歩み出ると、豚や、牛の小舎の立ち並んだ裏手の暗い露路の中へと入って行った。
半時間もの間、ぎっしりと小舎に詰めこまれた動物の鼻もちならぬ嗅いをかぎながら露路に突っ立って、彼は今までになくふしぎに新しい考えが心にわきおこるのに任せた。澄みわたった快い空気の中に漂っている、胸の悪くなるような動物の糞の臭気は彼の頭のうちにある逆上《のぼせ》をおこさせるものがあった。石油ランプにぼんやり照らされた小さな見すぼらしい家々、澄んだ夜気の中にゆれもせず上ってゆく煙突の煙、豚の鳴き声、安っぽいキャラコ服をまとい、台所で皿を洗っている女房たち、家から出て本町通りの店々や酒場へと急ぐ男たちの足音、犬の吠え声、子供たちの泣き叫び――すべてこうしたものは、闇の中にひそんだ彼にとって、人間のあらゆる生活から奇妙に遊離したまったく別物の世界を見るように思われるのであった。
興奮した若者は、自分の考えごとに堪えきれなくなって、露路に沿うて用心深く歩き出した。犬が飛びついて来た。それで、彼は石を投げつけて追っぱらわなければならなかった。すると一人の男がとある家の戸口から現われて、犬に向って口ぎたなくどなった。ジョージは空地の方へ歩みこんで行きながら、顔を後に投げると空を見上げた。彼は自分の通過しつつある単純な経験によって、自分の身が名状しがたいほどに偉大な、そして改造されたものとなっているように感じた。彼は一種の激情的な情緒の中で頭上の闇の中に両手を突き刺すように高くさしのばした。そしてかずかずの言葉をささやいた。言葉を吐き出したい欲望に圧倒されていた彼ではあったが、彼のつぶやく言葉はただ意味のないものであった。言葉は舌の上でころがり、ただ舌の上だけでしゃべっていた。それというのも、彼がいわんと欲したのは本当に意味の深い立派な言葉であったからなのだ。彼はつぶやいた。
「死だ、夜だ、海だ、恐怖だ、美わしいものだ」
ジョージ・ウィラードは空地から出て来た。そしてもう一度家々に向って突っ立った。彼はこの小さな通りの人々はみな彼の兄弟たちにちがいないのだと思った。で、何とかしてその人たちを家々から呼び出して一人一人と手を握りあいたいと思った。
「もしもここにたった一人でもいい、女がいたら、おれはその手をしっかりとつかまえて、二人はへとへとに疲れるまで、かけだすことだろうになあ」と彼は思った。
「ああ、そうなれば愉快だろうになあ」
心のうちに女のことを思い浮べると、彼はその通りをぬけてベル・カーぺンターの住まっている家の方へ歩き出した。彼は、彼女ならば自分の気持を理解してくれるにちがいないと思った。そうして、彼女の面前に立ったなら、彼の長い間あこがれていた彼女の恋人としての地位も得ることができるだろうと思った。かつて彼女といっしょにいて、その唇に接吻したときにも、彼は自分にたいしてさんざん腹を立てて彼女のもとを離れて来たのだった。彼は何かはっきりとはいい表わしえない目的のために、彼がだしに使われているような気持をあじわっていた。だが、今では彼は、もはやだしに使われたりするには、あまりに大きくなった自分だというふうに思えるのであった。
ジョージが、ベル・カーぺンターの家へやって来たときには、すでに一足先に一人の訪問客があった。エド・ハンビーが玄関に立ってベルを呼び出して話しかけようとしているのだった。彼は、女が家を出て、自分の女房になってくれるように頼もうと思っていた。だが、女が出て来て玄関に立つと、すっかり度胸を失って、ぶ愛想な顔つきになった。
「あの小僧とは分れるんだぞ」とジョージ・ウィラードのことを考えながらエド・ハンビーはうなるようにいいはなった。そしてくるりと背を向けると女にいった。
「今度お前たちをふんづかまえたら、お前もあの小僧も、骨っ節をへし折ってやるぞ」ハンビーは、口説きに来たので、恐喝《おどし》に来たのではなかった。しかしそれがまんまと失敗に終ったのですっかり怒ってしまった。
彼が行ってしまうと、ベルはドアをしめて急ぎ足に二階へかけ上った。二階の窓からエド・ハンビーが、通りを曲って、近くの家の前にある乗馬台に腰をおろした姿を見た。薄暗い光の中で、男は両手で頭を抱えて身動きもせずにすわっていた。その姿を見て彼女の気持ははればれとなった。そして玄関口へジョージが現われて来たときには、彼女は爆発するようなあいさつの言葉をのべて、大急ぎで帽子をかぶった。彼女は、この年若いウィラードと通りを歩けば、エド・ハンビーがきっと後からついて来るに相違ない。それで、エド・ハンビーを苦しめてやろうと思ったのだ。
一時間もの間、ベル・カーペンターと、年若い新聞記者とは、快い夜の木蔭を歩きまわった。ジョージ・ウィラードはしきりと大きなことをしゃべりたてた。あの露路の暗闇の中にいたときに彼の心うちにしのびこんできた力強い気持はいまだに残っていて、彼は大またに風を切って歩き、また腕を振って大胆に彼女に話しかけた。彼は以前の気の弱さは自分でも気がついていて、今ではすっかり人間が変ったのだということをベル・カーペンターに思い知らせたいと思った。
「どうだね、ぼくは変っただろう」と彼は両手をポケットにつっこんで正面から女をのぞきこみながらいいはなった。
「なぜだかわからないのだが、たしかに変ったのだ。あんたは、このぼくと、一人前の男としてつきあってくれるか、さもなけれぁ、おさらばだ。ほんとうなんだぜ」
新月に照らし出された静かな通りをあちこちと女と若者とは歩きまわった。ジョージがおしゃべりをやめてしまったころには二人は横丁へ曲って橋を渡り、ある岡へ通ずる小路へと歩み出た。その岡のふもとは水道用貯水池があって、さらに登ってゆけばワインズバーグの市場用地になっていた。山腹には小さな樹がはえ、また生いしげったやぶになっていた。そしてしげみの中にはところどころ小さな空地があって、今では堅く凍りついてはいたが、葉の長い草が生えて敷物《カーペット》のようになっていた。
女のうしろから岡を登って行くうちにも、ジョージ・ウィラードの心臓は早鐘のように激しく打って、彼の両肩はこわばっていた。突然彼はベル・カーペンターが自分に身を任せようとしているのだと思った。彼の中にわきおこった新しい力が、彼女に向って働きかけ、彼女に身を任せるようにさせたのだというようにも思われた。その考えは、彼を男性の力強い肉体の意識になかば酔いしれさせた。ジョージは彼らがいっしょに歩いているとき、彼女のいっこうに自分の言葉に耳を傾けてくれようとはしないふうに見えるのには、ひどく心を苦しめられていた。だが、現在、彼女が彼に伴われてここまでやって来ているという事実は、あらゆる彼の疑いを吹き消していた。
「変った。何もかもすっかり変った」と彼は思った。そして女の肩をつかんで振りむかせると、そのまえに立ちふさがって、誇らかに輝く両眼でじっと女を見つめた。
ベル・カーペンターはさからいはしなかった。彼が唇の上へ接吻すると、彼女はぐっと男に寄りかかって、男の肩ごしに暗闇の中を見つめた。彼女の態度にはすべて、何ものかを期待しているものの暗示があった。ふたたび、露路の中にいたときのように、ジョージ・ウィラードの心は、無限の言葉となってなだれ出た。そして女をしっかりと抱きしめると、夜の静寂の中でささやいた。
「肉欲――」と彼はささやいた。「肉欲と夜と女」
ジョージ・ウィラードは、その夜、岡の上でおこった出来事を理解することができなかった。あとで自分の部屋へ帰ったとき、彼はすすり泣きたいと思った。だが、それから憤怒と憎悪の念になかば気も狂いそうになった。彼はベル・カーペンターを憎んだ。そして生きているかぎりきっとその女を憎みつづけてやるのだと思った。山の上では彼は彼女を潅木《かんぼく》の繁みの中の草原へと伴って行くと、彼女の傍にひざまずいた。彼は、先刻、労働者たちの家の傍の空地にいたときのように、彼の中にこみあげてくる新しい力に感謝の言葉をなげて、喜ばしげに両手をさしあげた。そして女のよりそって来るのを待ちかまえていた。そのときエド・ハンビーが現われた。
エド・ハンビーは、彼の情人《いろ》を奪いさろうとしていた若者を打ちこらそうとは思わなかった。彼は若者を殴ったところで仕方のないこと、また自分のげんこつを使わなくとも大丈夫、彼の目的は達せられることをも知っていた。彼は、ジョージの肩をぐっと掴んで立ちあがらせると、片手で彼をひっつかんだまま、草の上にすわりこんでいるベル・カーペンターをにらんだ。そしていきなり荒っぽく若者をしげみの中へへたばるほどに突き飛ばすと、立ちあがっていた女に向って口ぎたなくののしりはじめた。
「このろくでなし」と彼はあらあらしくいいはなった。
「おれぁ、お前の邪魔だてなんかしたくないと思ってるさ、おれがお前に首ったけででもなけりゃあ、それぁお前のかってにもさせてやろうけどな」
ジョージは繁みの中に四つんばいになってじっとその有様を見ていた。そして考えをまとめようと一心に試みた。彼は自分を恥ずかしめたその男に飛びかかろうとした。たとえ打ちのめされたにしろ、こんなにも恥ずかしめを受けて、叩きつけられたままでいるよりはどんなにましかもしれないと思った。
年若い新聞記者は三度もエド・ハンビーめがけて跳びかかった。だが、そのたびにバーテンダーは、彼の肩をむんずとつかんで、繁みの中へ叩きすえた。年嵩《としかさ》の男は、そんな体操ごっこならいくらでもこいというふうだった。だが、ジョージ・ウィラードは頭を木の根にうちつけて、へたばったまま動けなくなった。そこでエド・ハンビーは、ベル・カーペンターの腕をとって、やすやすと彼女をかっさらってひきあげて行った。
ジョージの耳には二人が、草むらの中を進んで行く音が聞えた。若者は山を這い下りながら、彼の胸のうちはうずいた。彼は、自分自身を憎み、またこんな恥ずかしめを与えられた運命を呪った。彼はただひとり例の露路にいたときのことを思いかえすと、彼の心は惑って闇の中に立ちどまった。そして、ほんの一時前に彼の心のうちに新しい勇気を注ぎ込んでくれたあの声を、今いちど聞きたいものだと耳をかたむけた。
帰りのみちみち、ふたたびあの木造家屋の立ち並んだ通りへやって来たときにも、彼はその光景を堪えられなく思った。それは今となっては、ただ、むさ苦しいそして陳腐な光景にすぎなかった。彼は少しも早くその場を逃れようと、一目散にかけ出すのであった。
[#改ページ]
「変りもの」
ワインズバーグのカウリー・アンド・サン商会の裏手にいが栗のようにくっついている、荒っ削りの板小屋の中で、商会の息子エルマ・カウリーは、箱に腰かけてよごれた窓越しにワインズバーグ・イーグル社の印刷所をのぞいていた。
エルマは靴に新しい靴紐をつけようとしていた。それがうまくゆかないので、彼は靴を脱いでしまわなければならなかった。彼は片方の手にその靴をさげて靴下の一方の踵にある大きな穴をのぞきながら腰かけていた。それから急に首をもたげると、ワインズバーグでただ一人の新聞記者ジョージ・ウィラードを見た。彼はイーグル社の裏手に突っ立って、失神したようにぼんやりとあたりをながめていたのだった。
「よう、よう。またおいでなすったな!」
若者は靴を片手にさげたまま大声に叫ぶと、とび立つように腰を上げてしのびやかに窓際を離れた。
突然エルマ・カウリーは顔色をまっ赤にして、両手をふるわせた。旅から旅へと歩くユダヤ人の商人がカウリー・アンド・サン商会の勘定台の傍に立って、彼の父親と立ち話をしている。これはてっきり二人のしゃべっていることを、あの新聞記者に残らず聴き取られてしまうのだと彼は思った。そしてそう考えると、彼は怒りにもえたった。靴の片方をまだ手に持ったまま、彼は板小屋の隅っこにたたずんで、靴下の足で床板をバタンバタンとふみつけた。
カウリー・アンド・サン商会は、ワインズバーグの大通りには面していなかった。店の前はモーミー通りで向い側には馬車屋のヴォイトの店と、百姓たちの馬をつなぎとめておくための小屋があった。さらに商会の横は、大通りの商店街の裏小路になっていて、荷物をはこび込んだり積んで行ったりする荷馬車や運送馬車が一日じゅうひっきりなしに往来していた。
彼らの商会そのものは、何ともお話にならないしろものだった。かつてウィル・ヘンダスンは、この店を評して「何でも売っているが、何にも売っていない店」といった。モーミー通りに面している飾り窓の中には、こうした品物の注文にも応ずるということを知らせるために、ちょうど林檎樽《りんごだる》ほどの石炭の塊が突っ立っていた。まっ黒な石炭の塊の傍には蜜蜂の巣が三つ枠に入れられて、赤茶けて埃だらけになって並べてあった。
その蜂蜜は六か月の間も飾り窓の中に置かれてあった。もちろんそれはお客さんの御用に立ちたいばかりにしんぼう強く並べられている衣服掛けや、専売特許の留ボタンとならんで、売物として並べられていたのであった。
親父のエベニーザー・カウリーは店に立って、旅の男の唇をもれる夢中でしゃべりまくられる言葉をじっと聴いていた。彼は背の高いやせた男で、まだ顔も洗っていないような顔つきをしていた。彼のやせこけた首には黒白の毛の斑《まだら》に生えた大きな瘤《こぶ》があった。彼は長いプリンス・アルバート服を着こんでいた。その服はむかし、婚礼用の衣装として買入れたものだ。商人になる前には、エベニーザーは百姓をやっていた。そして結婚してからは、日曜日の教会通いや、土曜の午後、街へ商売に行くときにもこのプリンス・アルバート服を着こんで出た。畑を売り払って商人になってからは、彼は年がら年じゅうこの服を着こんでいた。もうずいぶん永く着ているので、すっかり色も赤茶けてしまい、あちこち脂肪《あぶら》のしみだらけになっていた。だが、エベニーザーはいつもそれを着こむと、盛装して町の祭の用意はいつでもできていますというような感じになっていた。
百姓の時代にも人生から幸福を奪われたような男であったが、商人になってからのエベニーザーも、幸せな暮しはしていなかった。だが、彼はなお生きていた。彼の家族は息子と、ほかにメイベルという娘の三人で、いっしょに店の二階の部屋に住んでいた。だから、べつに大して生活の費用はかからなかった。彼の苦労は財政の問題ではなかった。商人としての彼の苦労は、旅の商人が品物をもって彼の店先へやって来るのが恐ろしいということであった。彼は勘定台の後ろに頭を振りながら突っ立っていた。彼の恐れるのはまず第一に強情に品物を買うまいと突っ張ってそのためみすみす品物を売る機会を失ってしまいはしないかということ、また次には、突っ張り方が足らなくて、弱気を出したところをつけこまれて、たちまち売れもしない品物を背負いこんでしまいはしないかとつねに怖れていた。
その朝、店のうちでエルマ・カウリーが、イーグル社の裏口に立って、見たところ立ち聴きをしているらしいジョージ・ウィラードの姿を見つけたとき、彼をつねに憤激させずにおかないような情勢がもちあがった。旅の男はしゃべりまくり、父親のエベニーザーはポカンと聴いていた。そして彼の全身の様子はどうでも彼の心の不安をあらわしていた。
「このとおり、すばやいことがやれますぜ」カラーボタン代用の、小さな平べったい金具を売って歩く男はいった。片手でひょいとすばやく自分のシャツからカラーをはずすとまたすばやくくっつけた。旅の男はお世辞たらたらにべちゃくちゃとやった。
「どなた様も、もうこんなばかげた昔のカラーボタンには愛想をつかしていますんで、旦那さんこそ今後こいつの普及によって一儲けなさろうって番ですよ。こちら様をこの町の特約店にいたしましょう。このカラーボタンを二十ダースお求めくださりゃ、よそ様へはけっしておうかがいいたしません。旦那へ一手販売の権利を差し上げましょう」
旅の男は勘定台によりかかって、指先でエベニーザーの胸を軽くつついた。
「好機逸すべからずですよ。おやりになっちゃあいかがです」と彼はうながした。
「じつは、わたしの友人から旦那のことはうかがいましてな。カウリー氏に会いなさるがいい、あの方はなかなかのやり手だ、とその友人が申しましたよ」
旅の男はしゃべりやめて返事を待った。ポケットから手帳をとり出して、注文書を書きはじめた。息子のエルマ・カウリーはまだ靴を片手に持ったまま、ずっと店内に入って来て、話に夢中になっている二人の男の傍を過ぎ、入口に近いガラスの陳列箱の方へ行った。安物の連発拳銃を陳列箱の中から取り出すと彼はそれをあたりに振りまわしはじめた。
「やい、出てうせろ」と彼は叫んだ。「うちの店じゃカラーボタンなんて用はないんだ」ふとある考えが彼の頭にうかんだ。
「ねえ、おどしているんじゃありませんぜ」と言葉を加えた。「一発お見舞い申そうというわけじゃありません。おそらくわたしゃあ、この拳銃をしらべようと思って箱から取り出したまでのこってしょうよ。だが、お前さんは出て行きなすった方がいいでしょうぜ。ねえ旦那、まったくですぜ。お前さんの荷物をひっくるめて、さっさとお行きになった方がおためでしょうぜ」
年若い店員の声は次第に高まって金切り声になった。そして勘定台の後ろへ進むと、二人のかたわらへ歩み寄った。
「おれたちを馬鹿者あつかいにするのも大ていにしてくれ!」と若者は叫んだ。
「品物の売れもしないうちから買入れなんかまっぴらだ。おれたちぁ世間の奴らから変り者あつかいにされ、変な目で見られたり、聴き耳を立てられたりして、もう辛棒がならんのだ。出て行け!」
旅の男はその場から離れた。勘定台の上からカラー留具の見本をかき集めて、黒い革鞄になげ込むとかけ出した。彼は足の曲った小柄な男だった。そして不恰好《ぶかっこう》な様子で走り去った。黒鞄がイヤというほど入口の扉にぶつかった。彼は、つまずいてぶっ倒れた。
「狂人《きちがい》。ええこの狂人《きちがい》野郎め!」歩道から立ちあがると、男は口早にののしりながらいそぎ足に姿を消した。店では、エルマ・カウリーと親父とは互いに顔を見あわせて立った。息子は彼の憤怒の直接の相手が眼の前から消え失せたので、きまり悪そうな様子だった。
「なあに、冗談にやったんですよ。ぼくたちゃずいぶん永いこと変り者あつかいにされていたんですからな」息子はそういうと、陳列箱のところへ行って、連発拳銃をもとどおりに置いた。それから樽の上に腰をかけると、手にしていた片っ方の靴をはいて紐を結んだ。息子は、親父の口から何か機嫌直しの言葉でも聞けるだろうと待っていた。だが、エベニーザーが口を切ったときには、その文句はただふたたび彼を怒らせるにすぎないものだった。で、彼は返事もせずに店を飛び出した。親父は胡麻塩《ごましお》色の顎《あご》ひげをよごれた細長い指先でつかみながら、あの旅の男と対座していたときと同じぼんやりと不安げな眼つきで息子の後ろ姿を見送った。
「わしは、のりづけされるんだ」と彼は静かにつぶやいた。「そうだそうだ、わしは、洗濯して、アイロンをかけられて」
息子のエルマ・カウリーはワインズバーグの町から歩み出ると、鉄道線路に並行した田舎道を歩いていた。彼はいったい自分がどこへ行くのか、また何をしに行くのか、そんなことはすこしも考えなかった。路が右手に急角度に曲って、鉄道線路の下を通った深い切り通しになったところまで来ると、彼はその下で立ちどまった。そしてあの店内でかんしゃく玉を爆発させる原因となった、彼の心の激情がふたたび現われはじめるのであった。「おれは変り者になんかならんぞ。人から変な眼で見られたり、聴き耳を立てられたりする奴には――」彼は大きな声でいいはなった。
「おれは世間なみの人間になるのだ。そいつをジョージ・ウィラードに見せてやろう。奴に思い知らせてやるんだ、よし見せてやるぞ!」
心乱れた若者は、路のまん中に突っ立って街の方をにらみかえした。彼は新聞記者のジョージ・ウィラードを知っているわけではなかった。また街のニュースをかき集めるために町中をかけまわっている背の高い男にたいして、特別な感情を持っていたというのでもなかった。ただ新聞記者は彼がワインズバーグ・イーグル社の印刷所や、また事務室へ現われて来るということで、年若い商人の心のうちの何物かと対立することになったというにすぎないのだった。エルマ・カウリーは自分の店の前の路を行ったり来たりして、またあるときには路傍で人々と立話をしているその若者は、きっと自分のことを考え、また、おそらくは自分を嘲笑《ちょうしょう》しているにちがいないと考えた。
ジョージ・ウィラードは、この町に属した男で、この町を代表し、町の精神をその身に具現している男だと彼は思った。ジョージ・ウィラードの心のうちにも、また空虚な渇望や、深く心の奥に秘められた、これとなづけることのできない欲望がひそんでいて、彼もまた幸福に恵まれない生活を送っているのだということは、エルマ・カウリーにとっては思いもよらない考えであった。あいつは公衆の意見を代表して、カウリー父子が変り者だというワインズバーグの世論をでっち上げたのではなかったか。あいつは大通りを口笛を吹いて微笑しながら闊歩《かっぽ》していたではないか。あいつを叩きのめすことは、大きな敵を叩きのめすことになるのではないか――笑いながらいつもかってなふるまいをしている奴を叩きのめすことは、ワインズバーグの町の噂《うわさ》を叩きのめすことにはならないだろうか?
エルマ・カウリーは、ずば抜けて丈が高く、その腕は長く、とても力があった。彼の頭髪や眉毛《まゆげ》やまた彼の顎に生えかかっている生毛《うぶげ》のようなひげは、薄青くてほとんど白色に近かった。彼の歯は唇の間から突き出ていて、両眼は青いといえば青いのだが、それはちょうどワインズバーグの少年たちがポケットに入れて歩いている「アギー」とよぶ石はじきのような透明な青さだった。エルマはワインズバーグに住んで、すでに一年になっていた。だが、彼は友だちをつくらなかった。彼は友だちなしで、暮して行かなければならないように定められた人間のように思っていた。にもかかわらず、彼はそうした考えを嫌悪した。
陰鬱な顔つきをして背の高い若者は、ズボンのポケットに両手を突っこんだまま、道を進んで行った。ジメジメと冷めたい風が吹いて寒かった。が、やがて太陽が輝きはじめて、道路は溶けて泥濘《ぬかるみ》になった。路面いっぱいに、畝《うね》のように凍りついていた泥の頭が溶けはじめて、エルマーの靴は泥にまみれた。足はつめたく冷えてきた。
ものの二、三マイルも来ると、彼は本道をそれて畑を突っ切り、そして森の中へと入って行った。森の中では、彼は枯れ枝を集めると焚火を燃やしはじめた。そして彼はその傍に腰を下ろすと、心も肉体もみじめに疲れはてたからだを温めにかかるのだった。
ものの二時間も彼は焚火の傍の丸太に腰を下していた。それから立ちあがって密生した叢林《そうりん》の中を、用心深くうかがいながら垣根の方へと歩を進め、そして畑を越えて、いくつもの低い小屋に囲まれた小さな百姓家の方を望み見た。彼の口もとにはほほえみがただよった。そして彼は畑で麦打ちをやっている一人の男に向って彼の長い腕をふり動かしながら合図をした。
みじめな気持を懐いたときには、年若い商人は彼が少年時代をすごした田舎へと帰って来るのであった。そこには町の人間とは違った人間が住んでいて、そうした人間ならば彼を理解してくれることもできるのだと彼は考えた。畑に働いていたその男はムークという名の、うすのろの老人だった。老人は以前、エベニーザー・カウリーに雇われていた。そして畑が人手に渡ってからも、やはりそこに働いていた。老人は、その百姓家の裏手のペンキもぬってない小屋の一つに住んでいた。そして終日あちこちの畑をうろつきまわっているのであった。
うすのろのムーク老人はいかにも楽しげに暮していた。子供のような無邪気な信仰のうちに、彼は彼とともに小屋の中に住んでいる種々さまざまの動物の理解力を信じていた。そして淋しくなると牝牛や豚や、そして納屋の庭を走りまわるひな鶏《どり》と長い会話をかわすのだった。彼の昔の雇主の口に「洗濯」の言葉をしゃべらせたのは、この老人だった。何かの調子に興奮したり、驚いたりした時にも、彼はぼんやりとほほえんでつぶやくのだった。
「わしは洗濯してアイロンをかけられるんだ。そうだそうだ、わしは洗濯してアイロンをかけて、のりづけされるんだ」
うすのろの老人は麦打ちをやめてエルマ・カウリーに会いに森の中へやって来たときにも、彼は若者に思いがけなく会ったからといって驚きもしなければ、また特別にうれしがるようなふうもなかった。彼の足も冷たかったので、彼は火のそばの丸太に腰を下して、そのぬくもりをありがたがっていたが、エルマの言葉にたいしては、外見すこぶる無頓着なふうに見えた。
エルマは心からうちとけて、しきりと手を振って、そこいらを歩きまわりながら熱心に語った。
「爺さん、お前は、いまおれがどんな目に会っているか少しも知らないんだ。だからさ、お前がおかまいなしでいるのもかまわないさ」と彼はいいはなった。
「だがおれの方は大違いだ。まあおれが、いつもどんなふうに苦しんだかを聞いてくれ。親父が変り者の上に、死んだお袋までが変り者だった。お袋がいつも着ていた服といったら、まるでよその女《ひと》のとは違っていたんだ。ところで親父が、大いに着飾ったつもりで町へ着て行く服を見てくれ、そいつもまた、恐ろしく珍妙と来ているんだ。どうして親父の奴、新しいのを買わないんだろう。そんなに高いもんじゃないんだがなあ。実をいうと、親父は何も知らないんだ。そして死んだお袋も、生きてたころには、やっぱり気がつかなかったのだ。だが、メイベルはちがう。あいつはちゃんと知っている。だが一言もしゃべろうとはしないのだ。だが、おれはこの上、他の奴からじろじろ見られるなあまっぴらだ。いいかい、ムーク爺や。親父はな、あの町にある自分の店がまるで珍妙ながらくた屋だってことも、また親父の仕入れた品物なんか売れっこはないのだということも知らないのだ。そんなことは、親父さんちっとも御存知ないのだ。時々親父は商売がないと少々しょげている。だが、それから出かけて行ってまた何か買い出して来る。夜になると二階の炉端に腰を下して、やがて商売もあるぞというんだ。気なんぞもんではいないのだ。変り者だ。こうした親父だもの気苦労だなんてまるっきり御存知ないのだ」それでなくてさえ興奮していた若者は、ますます興奮してきた。
「親父は知らないのさ。だがおれは知ってるんだ」と、彼は歩くのをやめて、何の反響もないように押し黙ったのろまの老人の顔をのぞきこんで叫んだ。
「おれは知り過ぎているんだ。おれはもう我慢ができない。おれはここで暮していたころにはそんなことはなかったのだ。おれは働いて、夜になると床に入ってぐっすり休んだ。おれは人に会ったり、考えをめぐらせたりするにしても今のようなふうではなかった。町に行ってからのおれは夕べになると郵便局へ行ったり、でなきゃ停車場へ汽車の入るのを見に行くのだが、だれひとりだってこのおれに話しかけるような奴ぁありゃしない。そんな奴があたりに立って、笑いあい、そして語りあっている。だが、だれも、このおれに話しかけるやつはいない。そこで、おれは変な気持になってだれとも話などまじえることができないのだ。で、おれは立ち去る。おれには一言だって口はきけないのだ。おれはしゃべれないのだ」
若者は自らのうちにわきおこる憤怒の情を抑えることができなくなった。
「おれにはたえられないんだ」と彼は葉の落ちつくした木の枝を見上げながらわめいた。「それが、このおれに、たえられることだとでもいうのか」
丸太に腰かけて、焚火にあたっている老人の間の抜けた顔つきに狂気のような怒りを感じたエルマはちょうど先刻、路をふりかえってワインズバーグの町をにらみかえしたときのように、振り向いて老人の顔をグッとにらみつけた。
「帰って仕事でもしろ」と彼は叫んだ。「お前なんかに話したって、何のかいもありゃしないのだ」ふとある考えに想いあたって彼は声を落した。
「おれも臆病なんだな、そうだろう?」と彼はささやいた。
「お前は、このおれがなぜこんなところへ、一人ぼっちでわざわざ歩いて来たか知っているか? おれはだれかと話したかったのだ。そして話のできる奴といえばお前一人なのだ。おれは変り者の仲間を求めて歩いたんだ。実はおれは家を逃げ出したんだ。おれはあのジョージ・ウィラードみたいな奴とは対抗できなかった。おれはお前の所へ逃げて来なけりゃならなかったんだ。だが、おれは奴にいってやらなけりゃならん。よし、おれはいってやるんだ」
ふたたび彼の声は叫び声にまで高まった。そして彼は腕を振りまわした。
「奴にいってやるとも。おれは変り者なんかじゃありゃしない。だれが何と考えようと、かまいはしない。おれはそいつを容赦しないのだ」
エルマ・カウリーは、丸太に腰かけて焚火にあたっている老人をほったらかしにして森からかけ出した。老人はすぐに腰を上げて、垣根をよじのぼって越えると、畑へ帰ってふたたび麦打ちをはじめた。「わしゃ洗濯してアイロンをかけ、のりづけされるわい。おやおや、わしゃ洗濯してアイロンをかけられるわい」ムーク老人の心は興じていた。細道を通って畑へ出ると、そこには二匹の牝牛が積み重ねた麦束を喰っていた。
「エルマが来たぞい」と、老人は牝牛にいった。
「あの児は狂人《きちがい》じゃ。お前らはこの稲むらの後ろへ隠れたがええぞ。あの児に見つからんようにな、あれは今にきっと、だれかに怪我させるべえでな」
その夜の八時、エルマ・カウリーは、ジョージ・ウィラードがすわりこんで新聞記事を書いているワインズバーグ・イーグル社の事務室の入口に現われた。帽子を眼の上まで深くかぶって、その顔には、陰鬱な断乎《だんこ》たる怒りの形相がうかがわれた。
「おれといっしょに表へ出てくれ」彼は部屋の中へ踏み込むとドアをしめながらいった。だれもほかの者は中へ入れないとでもいうように、彼はドアの握りをしっかりと抑えていた。
「君、おれといっしょに外へきてくれ、おれは君に話したいことがあるんだ」
ジヨージ・ウィラードと、エルマ・カウリーとは、ワインズバーグの本町通りを歩いて行った。寒い夜だった。ジョージは新しい外套を着て、きちんとみなりをととのえていた。彼は両手を外套のポケットに突っ込んで、何かいかがわしそうに相手をながめた。ジョージは長いことその年若い商人と友だちになって、彼の心のうちに思っていることを聞いて見たいと思っていた。その機会が今めぐまれたのだと思うと、彼は悦びを感じた。
「いったいどんな用件かな。たぶん、新聞のタネでももっていると考えてるんだろう。半鐘がきこえたわけでもないから火事のあるはずもないし、それにだれも走ってやしないじゃないか」とジョージは心の中で考えた。
十一月の寒い夜には、ワインズバーグの大通りには人通りも少なく、通行人はどこかの店の裏手のストーブにたどりつこうと、前かがみにからだを斜めにして道を急いでいた。通りに並ぶ店の窓は霜で白くなっていた。そしてウエリング医院の医務所に通ずる梯子段の登り口にぶら下った、ブリキの看板は風にカラカラと鳴っていた。ハーン雑貨店の前には林檎の入った籠と、新しい箒《ほうき》のいっぱい詰った箱が歩道に置いてあった。エルマ・カウリーは、立ちどまるとジョージ・ウィラードと面と向って立った。彼は話を始めようとして腕を上下に動かした。その顔はピクピクとけいれん的にふるえた。彼は今にも叫び出しそうな様子に見えた。
「ええい、帰ってくれ」と彼は叫んだ。
「おれのそばを離れてくれ。何もお前にしゃべることなんかないのだ。おれはお前にゃ会いたくもないのだ」
気の狂った年若い商人は、変り者にはされたくないと思う決心を話しそこねたことで無性に腹が立って、ワインズバーグの街中を三時間もうろつきまわった。敗北したのだという感情が、彼の心に激しくこみ上げてきて彼は泣き出したいと思った。彼はその日の午後一文にもならない無駄なおしゃべりや、また年若い新聞記者の眼の前で演じた失敗を考えては、自らの将来にたいしてもまったくの希望を持てない暗闇の中を見るような気がした。
だが、その時新しい考えが湧いた。彼を包んでいる暗闇の世界から、一つの光明を彼は見つけ出した。急いで彼は、自分たちカウリー・アンド・サン親子が一年以上も無駄な商売をつづけている、暗く夕闇のうちに陰鬱になった店へ帰って行くと、そうっと中へ忍び込むのだった。そして、店の奥手のストーブの傍にある樽の中を手さぐりで探しまわした。樽の底の鉋屑《かんなくず》の下には、カウリー親子の現金を入れてある錫《すず》製の箱があった。毎晩親父のエベニーザー・カウリーは、店をしまうとその箱を樽の底にしまってから、二階のベッドへ行くのだった。
「奴らはこんな無雑作な所にあろうとは夢にもご存じあるまいさ」と彼は泥棒のことを考えながら一人語るのだった。畑を売った金の中から残っていた現金がたぶん四百ドルも入っていた小さく巻きこまれた札束の中から、エルマは十ドル紙幣を二枚取り出した。それから箱を元の鉋屑の中に入れると、彼は静かに表口から外へ出てふたたび通りを歩き出した。
彼は自らの不幸のすべてにけりをつけたいと考えた。その考えというのは、はなはだ単純なものであった。
「おれはここを逃げ出そう。出奔するのだ」と彼は一人つぶやいた。彼は貨物列車が夜中にワインズバーグを通過して、あくる日の明け方にはクリーヴランドに到着することを知っていた。彼はその列車にうまくただ乗りをやって、それからクリーヴランドに着いたら雑踏の中へ姿を消すこともできるだろう。彼はどっかの店に働き口を見出して、ほかの労働者たちとも親しくなることができるだろう。次第次第に彼も他の男と変らなくなって、見分けもつかないようになるだろう。そうすればかってにしゃべったり笑ったりすることもできるのだ。彼はもはや、変り者ではなくなって、友だちもたくさんできるだろう。そして他の者と同じように、生活も温かな、そして意義のあるものになってくることだろう。
背の高い不恰好な若者は、街の中を大またに歩きながら、彼が向っ腹を立て、そしてジョージ・ウィラードをなかば怖れていたことを自分自身に笑った。彼はその町を去る前に、もう一度若い記者と会って言葉を交じえてやろうと心に決めていた。彼に向っていろいろなことを語り、またおそらく彼にたいして戦いを挑み、彼を通して町の人々すべてに戦いを挑んでやるのだと固く心に決めていた。
新たな自信に燃えて、エルマはニュー・ウィラード・ハウスの事務所を訪れてそのドアを強く叩いた。ねむそうな眼をした少年が、事務所の吊り寝台に横たわっていた。少年は給料はもらっていなかったがそのホテルの食卓で飯をくい、「夜間勤務員」という称号を誇らかに頂戴していた。
「ジョージをおこしてくれ」とエルマは命令した。「あの男に、停車場まで来てくれるようにいってくれ。あれに一度会っておきたいのだ。おれは夜行列車で旅立とうと思っとる。服を着てやってくるようにいってくれ。おれはもうあまり時間がないのだ」
深夜の列車はワインズバーグでの仕事をすっかり終えて、駅員が貨車を連結していた。ランプを振りながら、また東の方へ列車を走らせる用意をしていた。ジョージ・ウィラードは、眼をこすりながら、そして今度も新しい外套を着こんで、好奇心に燃えながら駅のプラットホームへ走りこんできた。
「いよう。やって来たよ。何用だね。ぼくに何か話したいことがあるんだってね」と彼がいった。
エルマはくわしい訳を語ろうと思った。彼は舌で唇をうるおした。そして唸り声を立てて動き出した列車に目を注いだ。
「うん、実は――」とエルマは口をきった。が、それから先は舌がうまくまわらなくなった。
「おれは洗濯して、アイロンをかけられようぜ。おれは洗濯して、アイロンをかけて、のりづけされようぜ」と彼は辻褄《つじつま》の合わないことをつぶやいた。
エルマ・カウリーは、停車場のプラットホームの闇の中で唸り声をあげている列車の傍で憤怒にたけり狂った。光が空中へと躍り上って彼の眼前を上を下へと揺れた。彼は二枚の十ドル紙幣をポケットから取り出すと、いきなりジョージ・ウィラードの手に握りこませた。
「とってくれ」と彼は叫んだ。
「おれにはいらないんだ。親父に渡してくれ。おれが盗み出したんだ」彼は憤怒の叫び声をあげて振りかえると、長い腕が空中をあがきはじめた。まるで彼をつかまえた男から逃がれでようともがいてでもいるように、彼はジョージを目がけてその胸といわず、首といわず、口といわず、打って打って打ちのめした。
年若い新聞記者はその恐ろしい打撃の力になかば気を失って、ホームの上をころげまわった。走り出した汽車に飛びのると、列車の屋根を伝ってエルマは、無蓋車の中へ飛び込んだ。そして彼は身を伏せたまま、闇の中に倒れている男を見ようと振りかえった。誇らし気な気持が彼の心のうちに油然とわきおこった。「おれはめにもの見せてやった。たしかにおれはめにもの見せてやった。おれは何も変り者ではないぞ。おれは変り者でないことをたしかに奴に見せてやったのだ」
[#改ページ]
語られざる嘘
レイ・ピアスンとハル・ウインターズとは、ワインズバーグの北へ三マイル離れた農園に雇われている農夫だった。土曜の午後になると、二人は町へやって来て他の田舎から出てきた者たちといっしょに、あちらこちらと街をうろつきまわるのだった。
レイはもの静かな、どっちかといえば神経質な五十歳ぐらいの男で、茶色の顎《あご》ひげをはやしていた。そしてその両肩は、ひどく働きすぎたために丸くなっていた。彼はハル・ウインターズとは、およそ似てもつかない正反対の性質の男だった。
レイはじつに真面目な男だった。そして小柄の、尖った顔つきの女房をもっていた。女房は顔ばかりか声までも尖っていた。二人は六人のやせた足の子供といっしょに、親父が雇われているウイルズ農場の裏手のはてにある小川の傍の押しつぶされたような木造小屋に住んでいた。
雇われ仲間のハル・ウインターズは年の若い男だった。彼はウインターズという苗字は持っていたものの、ワインズバーグでとても身分のあったネッド・ウインターズの家族ではなかった。彼はワインズバーグから六マイル離れたユニオンビルの近くに木挽《こびき》場を持っていて、ワインズバーグのすべての人々からまったくの神に見捨てられた老人だと思われていたウインドピーター・ウインターズという老人の三人息子の一人だった。
ワインズバーグのある北オハイオ州からきた者なら、ウインドピーター老人が恐ろしく悲劇的な死を遂げたことを記憶しているだろう。ある夜、町ですっかり酔っぱらった老人は、ユニオンビルの家へ帰ろうと鉄道線路に沿って馬車を走らせた。そのあたりに住んでいた肉屋のヘンリー・ブラットンバーグという男は街はずれで老人をおし止めて、今行っちゃ下り列車にぶっつかるに違いないからといった。だが老人は耳をかすどころか、彼を鞭《むち》でひっぱたいて馬車を走らせた。そのとき、汽車がまっしぐらに走ってきて老人と老人の二匹の馬をひき殺した。そのとき傍の道路を通って馬車を急がせていた一人の百姓とその女房とは、その悲惨事を見かけた。彼らのいうことにはウインドピーター老人は馬車の馭車台《ぎょしゃだい》に立ちあがって、突進してくる機関車に向ってどなりつけ、呪いの言葉を吐いた。そして老人からめちゃくちゃに鞭打たれて狂い立った二匹の馬が、それこそ間違いのない死を目がけてまっしぐらに突き進んで行ったとき、老人は本当に歓喜の叫び声をあげたということだった。
ジョージ・ウィラードや、セス・リッチモンドなどの若者たちは、その出来事をまざまざと記憶しているだろう。というのはこの町の人々はすべてあの老人はまっすぐに地獄へ行っただろうといったり、またこの町は老人がいなくなってうまくゆくようになったなどとはいっているものの、人々はこの老人が自分のやっていたことをちゃんと知っていたのだと心中ひそかに思い込んで、そのばかげた蛮勇を賞讃していたのであったから。たいていの若者たちには、かろうじて雑貨店の番頭をやったり、くそ面白くもない自分たちの生活をつづけて行くよりは、いっそ華々しく死んでみたいとも思うかずかずの理由があったのである。
だが、これはウインドピーター・ウインターズの物語ではなく、また、レイ・ピアスンとともにウイルズ農場に働いていた彼の息子ハルの物語でもない。これはレイの物語なのだ。とはいえ若者ハルの物語を少々のべることは、諸君がこの物語の心髄にふれるためには必要なことであろう。
ハルはよくない男だった。だれでもがそういった。ウインターズの家には、ジョンとハルとエドワードという三人の兄弟がいた。そして三人ともすべてウインドピーター老人そっくりの、肩幅の広い大きな男だった。そして喧嘩好きな、女の尻を追いかけまわる、揃いも揃ってたちのよくない男たちだった。
中でもハルは特別で、いつも何か悪事をしなければ気がすまない男だった。あるとき彼は、親父の木挽場から板を一馬車分持ち出すと、ワインズバーグの町で売り飛ばした。その金で彼は安物のピカピカ服を買いこんだ。それから、へべれけに酔っぱらっているところへ、親父が狂気のように怒って息子を探しにやってきた。二人は顔をつき合わせると本町通りのまん中で殴り合いをおっぱじめた。そして二人はふんじばられると留置場へぶちこまれた。
ハルはウイルズ農場へ仕事に通った、というのは、彼の恋情をかり立てる女の学校教員がそちらの方にいたからだ。そのころ彼はまだやっと二十二だったが、すでにワインズバーグの言葉で「女でいり」といわれていることの二つや三つはやっていた。彼が学校の先生に溺れていることを耳にした人はだれでもが、たしかにこいつはまたろくなことにならないだろうと思っていた。
「どうせ女に難儀をかけるだけのことさ。今に見ててごらん」というのが、あたりにいい交わされた言葉だった。
このようにしてレイとハルの二人は、十月末のある一日農場で働いていた。二人はトウモロコシの皮むきをやっていた。ときどき何かしゃべっては笑いあった。それから二人は黙った。ハルよりも鋭敏な感情を持っていて、いつも何か考えごとにふけっているレイは、両手を傷つけていてそれが痛んだ。彼はその手を上衣のポケットに突っこむと、畑をこえてかなたへと眼を投げた。彼は心乱れた淋しい気持にひたって田園の美しさに心を奪われていた。
もしも諸君が秋のワインズバーグの郊外を知っていて、その低い岡の続きがいかに黄色や赤に点々といろどられるかを知っているなら、おそらく彼のそのときの気持も理解することができたであろう。彼は遠い昔のことを思い出した。ワインズバーグでパン屋をやっていた父親といっしょに暮していた若者のころの彼は、このような日には森の中へさまよいこんで、木の実を集めたり、兎を狩ったり、またはただぶらつきまわってはタバコをくゆらしたりしていたものだ。彼の結婚はこうした放浪の日の一日に生れた。彼は父の店につとめていたある娘を誘って、散歩につれ出しそして、あることがおこった。彼はその日の午後のことを考えた。そして、その日の午後の出来事が彼の人生にいかに強い影響を及ぼしたかを考えると、彼の心のうちにある反抗の精神が芽生えてきた。彼は傍にハルのいることも忘れてつぶやいた。
「たしかに、わしは神にあざむかれ、人生にあざむかれ、そしてわしは愚か者とされてしまった」と彼は低い声でいった。
その男の心持を理解するかのように、ハル・ウインターズが言葉をはさんだ。
「ところで、そいつは値打ちがありましたかね? どんなもんです? 結婚とか、そういったものは?」と彼はさぐりを入れると快活に笑った。ハルは笑いつづけていようと思った。だが、彼もまた生真面目な気持になってきた。そして、真面目になって話し出した。
「そいつはやらなきゃならないことだろうか?」と彼はたずねた。「一生涯縛りあげられて、馬車馬みたい駆りたてられなきゃならないものだろうか?」
ハルは答えも待たずに、跳び立つように立ちあがると、トウモロコシ束の間をあちこちと歩きまわりはじめた。彼はだんだんに興奮を感じてきた。突然に身を屈めると彼は黄色トウモロコシの実を一本拾い上げて、垣根の方へ投げつけた。
「おれはネル・ガンサーを面倒なことにひきずりこんだよ。話してきかすがね、お前さん他言は無用だよ」
レイ・ピアスンは、立ちあがってハルを凝視した。彼はハルよりも一フィートほど背が低かった。そして若い方の男が歩み寄って、両手を年とった方の肩に乗せたとき、二人はさながら画の中の人物に思われた。二人は刈り込みのすんだ広い野原に立った。そして、その後ろにはとうもろ束が黙々として一列に並び、赤に黄に、色美しく染め上げられた丘は、はるかかなたに横たわっていた。二人は、そうしたことには何の関心もおかない農夫であったから、すべてのものはなおさらお互いにとけ合って、いきいきとした場面をつくり上げていた。ハルはそのことに感づくと、彼がいつもやるようにニヤリとした。
「よう、おとっつぁん」と若者はぎこちなくいった。
「さあ、おれに意見をしてくれ。おれはネルと面倒なことになってるんだ。お前さんだっておれと同様に動きのとれないはめになったこともあるのじゃないか。人の意見を聞かにゃならんことはわかっているんだが、お前さんはどういってくれるかね。おれは女房をもらって身を固めるべきかね。おれは自分から馬具をつけてよぼよぼの馬車馬みたいに、くたばるまで働きつづけるべきかね。なあ、レイ、あんたはわかってくれてるだろう。このおれを手なずけうる者はだれもいないが、おれは自分自身を手なずけることはできるんだ。あの娘にいっしょになろうといおうか、それとも、地獄へでも失せやがれといおうか、なあ、いってくれ。お前がいい出したことは、何とでもそのとおりにするよ」
レイには返事ができなかった。彼はハルの手をふりはらうと身を返して、納屋の方へまっすぐに歩いて行った。彼は感情の強い男だった。で、彼の眼には涙が浮んでいた。彼はウインドピーター・ウインターズ老人の息子であるハル・ウインターズにいいたいことはたった一つだけあった。彼の今までの経験と、彼の知っているあらゆる人々の信仰が、讃意を表わすであろうただ一つの言葉を知っていた。だが彼自身の生活を想いあわせては、彼がいうべきであると知っているその言葉をも口に出すことができないのだった。
その日の午後四時半にレイは納屋前の広場をぶらぶらと歩いていた。すると、彼の女房が小川づたいに小径をやって来て、彼を呼んだ。ハルと話しを交わしたのちには、彼はトウモロコシ畑へはかえらずに納屋のそばで仕事をしていた。彼はすでに夕べの仕事も終っていた。そのときちょうどハルが着がえをして、町の夜の歓楽の準備をととのえて納屋から街道の方へと歩いて行くのを見かけた。彼は小径に沿って、家の方へと彼の妻の後から地面を見つめたまま、考え込みながらついて行った。
彼には彼の不幸の原因がはっきりわからなかった。彼はいつも眼を上げて、夕焼の美しい田園をながめるたびに、何ものかを、今まで一度もやったことのないような何ものかをやりたくてたまらなかった。大きな声でどなるとか、あるいは叫んでみるとか、彼の妻をげんこつで殴りつけるとかいうような、何か思いがけなく、人の驚くようなことがやってみたくてたまらなかった。彼はあれこれと考えて道を歩きながら、そうした不幸な感情をはっきり見さだめようと試みた。彼は激しい眼つきで妻の背中を凝視した。だが、女房が誤っているようにも思われなかった。
彼女は、ただ亭主が街の雑貨店へ行ってきてくれればいいのにと、そのことばかり思っていた。そして用向きのことを語り出す段になると、彼女はどなりはじめるのだった。
「お前さんは年じゅうぐずぐずしてるんだね」と彼女はいった。
「もっとテキパキおやりよ。家へ行ったって晩のおかずなんかありゃしないんだから、いそいで町へ行って、何か買ってきてくれなきゃこまるんだよ」
レイは自分の家へ入ると、ドアの後ろに引っかかっている外套を取った。それはポケットのあたりが破れて襟《えり》はあかで光っていた。女房は寝台へ行ったかと思うとすぐ片手に汚れた服を抱え、また片手に銀貨を三つ握って出てきた。家のどこかで子供がはげしく泣きたてていた。ストーブの傍に眠っていた犬はむっくりと起き上るとあくびをした。ふたたび女房はどなり声をあげた。
「子供があんなに泣いてるじゃないか。何をお前さんぐずぐずしてるんだよ?」
レイは家を出ると、垣根を越えて畑へ出た。それはちょうど黄昏《たそがれ》どきで、あたりはじつにうるわしいながめだった。かなたこなたの低い丘はすべて鮮明な色に彩《いろど》られて、垣根の傍の隅っこにある草の群れさえも、美しさでいきいきと輝いていた。レイ・ピアスンにとっては、全世界が活気づいて見えた。それはちょうどハルと二人でトウモロコシ畑に立ってお互いの眼を凝視しあった、あのときに二人が急にいきいきと人生を感じたのと同様な感情であった。
その秋の夕暮れ、ワインズバーグあたりの田園の美しさはレイにとってはあまりに耐えがたいものだった。その美しさは昔も今も変りがなかった。彼はそれを耐えがたいものに思った。突然に彼は自分が老いぼれの雇われ農夫であることも忘れて、いきなり破れた外套を投げすてると畑をこえてかけ出した。彼はかけながら叫び声をあげた。自分の生命にたいして、あらゆるものの生命にたいして、あらゆる人生を醜くする一切のものに反抗して叫び声をあげた。
「約束なんてしたことはないんだぞ」と眼の前にひろがっている、空漠たる天地の中で彼は叫んだ。
「おれは、おれのミニーに約束なんかしたことはない。ハルだって何もネルと約束なんかしたはずはない。わしはちゃんと知っとる。女が奴《やっこ》さんと森の中へ入ったというのも女が入りたかったからだよ。奴さんの思ってたこたぁ、女の思ってたことなんだ。わしの知ったことかい。ハルの知ったことかい。だれの知ったことでもないのだ。ハルの奴が老いぼれて、萎《しな》びてしまうのをほっとくわけにはゆかない。わしはいってやろう。ほっといてはだめじゃ。奴さんが町へ行かないうちにふんづかまえて、そういってやらなきゃならんのだ」
レイは不細工な恰好で走った。そして一度などつまずいて倒れた。「ハルをつかまえて、そういってやらなきゃ」彼はそう思いつづけた。そして息が切れそうになったのもかまわず、彼はますますはげしく走りつづけた。走っている間に、何年もの間、心に思い浮べたこともなかったことを思い浮べた――結婚したころ、彼はオレゴン州ボートランドにいる叔父の許へと西部行きを計画したことがある――西部では雇人になどにはなりたくないと思ったこと、西部へ行けば海に出て水夫になるか、さもなければひろびろとした牧場に働いて、西部の町々を馬で乗りまわし、家の中にいる町の奴らを、彼のあらくれた叫び声で笑わせたり、驚かしたり、叫ばしたりしようと思ったものだ。さらに彼は、走りながら彼の子供たちのことを思い出した。そして幻想のうちに彼にしがみついてくるいくつもの手を感じた。しかしあらゆる彼自身の考えは、またハルのことを思う心と一つになって、彼は子供たちがまたその若者にもしがみついてゆくもののように考えられた。
「ハルよ。子供なんぞというものは人生の偶然事だ。奴らはわしのもんでも、お前のもんでもない。奴らはこのおれの知ったことじゃないんだぞ」
レイ・ピアスンがなおも走りつづれて行くうちに、夕闇は次第に野面《のづら》をひろがって行った。彼の呼吸は低い啜《すす》り泣きに変った。野路の端の垣根のところへきて、ハルのすっかりめかしこんで、陽気にパイプをくゆらしながら歩いているのに出会ったとき、彼は彼の思っていたことも、また、彼の願っていたことも少しも口にすることはできなかった。
レイ・ピアスンは彼の決心も忘れてぼんやりしてしまった。そして実は、彼におこった物語というのはこれでおしまいなのだ。彼が垣根のそばまでたどり着いたときには、すでにあたりはほとんど夕闇に包まれていた。彼は横木の上に手をおいて、じっと前方を見つめ立ちつくした。ハル・ウインターズは水溜りを飛びこえると、レイの傍へ歩みよってきて、両方のポケットに手を突っ込み、そしてほほえんだ。
ハルはトウモロコシ畑でおこった先ほどの心持などは忘れてしまっているようだった。彼は頑丈な手を上げて爺さんの上衣の襟をつかむと、行儀の悪い犬をでもこづきまわすように老人を激しく揺すぶった。
「お前さんわざわざおれに話しにきたのかい?」と彼はいった。「なあに、どんなことをいわれようとおれあ、かまわんよ。おれは臆病者じゃないんだ。おれはもうちゃんと決心をきめたよ」彼はふたたびほほえんで水溜りをひょいと向うへ飛び越えた。
「ネルの奴あ利口者だ」と彼はいった。
「あの女は、おれにいっしょになってくれなんて頼みやしなかった。おれが奴といっしょになりたいのだ。おれは世帯を持って、餓鬼をつくりたいと思うのだ」
レイもまた笑った。彼は自分自身を、そしてこの世の中のあらゆるものをあざ笑っているように感じた。夕闇の中にハル・ウインターズの姿がワインズバーグへ通ずる路のかなたに消えて行くと、レイ爺さんはきびすをかえし、静かに野を横切って破れ外套をなげ捨てた方へとってかえした。歩いて行くうちに彼はあの小川のほとりのおしつぶされたような小さな家の中で、やせこけた子供たちと過した楽しい夜を思い出していたにちがいなかった。というのは彼は一人つぶやくのだった。
「どっちにしても同じことだ。おれが奴さんに何といったところで、そいつも嘘《うそ》になるかもしれないのだからなあ」と彼はもの静かにつぶやいた。そして彼の姿もまた野の闇のうちへ消えて行った。
[#改ページ]
飲酒
トム・フォスターが、シンシナチからワインズバーグの町へやって来たのはまだごく若いころで、いろいろの新しい印象を心に受けやすかった。彼の祖母は町にほど近い農場で育った。そして娘のころには、ワインズバーグの学校へ通っていた。そのころのワインズバーグは、トランニョン道路にある雑貨店の近くに十四、五軒の家がごちゃごちゃと集ってできた村に過ぎなかった。
祖母は故郷の辺鄙《へんぴ》な部落を離れてこのかた、本当になんという生活をしてきたことだろう。なんという彼女は強くて有能な老婆だったことだろう。カンザスに、カナダに、ニューヨークに、彼女は生前機械工であった夫とともに、旅から旅の生活をつづけた。夫と死に別れてからは、やはり機械工と結婚した娘と、シンシナチの川向うにあたるケンタッキーの町、コビングトンに住むようになった。
そのときからトム・フォスターの祖母の苦労の生活がはじまった。まず、婿がストライキのとき巡査に殺された。つづいてトムの母は病気になって夫の後を追った。祖母はわずかばかりの貯えを持っていた。だが、それは娘の病気と二つの葬式のために費い果たされてしまった。こうして彼女は衰えたからだを無理にも動かしてわずかの賃金を得、シンシナチの裏町にある屑屋《くずや》の二階に孫と二人暮しをはじめた。
彼女は五年の間、あるビルディングの床板を拭いた。それからレストランの皿洗いに雇われた。老婆の指は不恰好に曲ってしまった。彼女が雑巾や掃除ブラシの柄を握っているのを見ると、それはちょうど木の幹にからんだツタの、ひからびた茎のようにも思われた。
老婆はある好機をつかむと、さっそくワインズバーグへかえってきた。それはある夜のこと、仕事からの帰りみち、彼女は三十七ドル入りの財布を拾った。そしてこのことが彼女の生活の道を開いてくれることになった。旅は少年にとっては一つの大きな冒険だった。皺《しわ》だらけの手にしっかり財布を握って祖母が帰ってきたのは、夜の七時過ぎであった。彼女はひどく興奮していて、口もきけないふうだった。彼女はその夜のうちにシンシナーチを去るのだといい張った。そしてもしこのまま朝までいようものなら、きっと落し主は二人を見つけ出して、面倒なことになるだろうからと老婆はいった。そのときトムは十六歳だった。
彼は天にも地にもありったけの持ち物を破れた毛布にくるむと、自分の背中に斜《はす》に背負いこんで、息を切らせながらとぼとぼと老婆といっしょに停車場へ向った。少年の傍を歩く老婆はしきりに彼をせきたてた。老婆の歯の抜けた唇は、いらだたしげにひきつっていた。そしてトムが疲れて荷物を道端におろそうとすると、老婆はあわてて荷物をつかみ上げた。そしてもしトムが手を出さなかったならば、おそらく老婆は自分からそれを肩にしたに違いなかった。二人が列車に乗り込んで、列車が町を走り出ると、老婆はまるで娘っ子のように喜んだ。そしてトムがかつて聞いたこともないほどにしゃべり立てた。
その夜はガタゴトと進んで行く列車の中で老婆は一晩じゅうワインズバーグの物語をトムに語って聞かせた。そこではトムも畑で仕事をしたり、森で鳥や獣を射ったりして、どんなに楽しく暮せるかしれないと祖母は語るのだった。彼女は五十年前の小っぽけな村が、彼女のいない間に繁華な町に変っていようなどとは信じられないことだった。で、夜が明けて列車がワインズバーグの町に入ってきたときには、彼女は列車から降りたくないと思った。
「こりゃあ、わしの思ってたのとはちがう。これじゃあお前にもつらいことだろうよ」と彼女はいった。それから列車が出て行ってしまうと二人はワインズバーグの荷物係長、アルバート・ロングワースの前に立って、いったいどこへ行ってよいのかもわからないままにうろうろと立ちつくした。
しかし、トム・フォスターは、うまくやっていった。彼はどこへ行ってもうまくやってゆける少年だった。銀行家の妻君ホワイト夫人は、トムの祖母を炊事婦に雇った。そして少年は、銀行家の新しい煉瓦作りの納屋に厩《うまや》の番人として雇われた。
ワインズバーグでは、召使を雇い入れることはなかなか容易ではなかった。家の手伝いをさせるために「下女」を雇い入れると、その女たちは自分らもまた家族並みに、同じ食卓につきたいと主張するのだった。ホワイト夫人はこうした雇い女を嫌悪した。そして年とった町育ちの女を雇い入れたいと、その機会を待っていた。そしてトムの祖母がくると機敏にその機会を捕まえた。ホワイト夫人は納屋の二階をトム少年の部屋にしたてた。
「あの子は芝生が刈れますし、馬の手入れの手のすいているときには使い走りもできるのですよ」と彼女は夫に説明するのだった。
トム・フォスターは、年の割には小柄な少年だった。そしてまっすぐに立ちあがった硬い黒い髪の毛におおわれた大きな頭をもっていた。その頭髪の様子は、いっそう少年の頭を巨大に見せかけた。彼の声は、およそ想像のできる最ももの静かなものだった。それに性質も優しくおとなしかったので、トムが町の生活の中へすべりこんできたことは、いっこうにだれも気がつかないくらいだった。
人々はトム・フォスターが、どこからそんなに優しい性質を得てきたものか、不思議に思わずにはいられなかった。シンシナチにいたころには、彼の住んでいた近くには町をうろつきまわる不良少年の群れが大勢いて、彼は発育ざかりの少年のころには、ずっとこうした悪童連中《ギャング》といっしょに遊びかけまわっていた。彼はその後しばらく電信会社の使い歩きをやっていた。そして淫売屋の散在したあたりを使い歩きで歩きまわった。そしてこうした家の女たちもトム・フォスターを知って可愛がった。また不良の仲間の者たちも同じように彼を可愛がった。
彼はけっして自分の意地をつっ張ることがなかった。彼が曲った道へ入らずにすんだのも、そうしたためであったのだ。不思議に彼は人生の壁の蔭に立っていた。人生の陽《ひ》かげに立つように生れついていたのだった。彼は淫楽の家にむらがっている男や女を目にし、彼らのでたらめな、そして恐ろしい恋のいたずらも嗅ぎつけたし、また不良たちの喧嘩も見れば、その仲間の盗みや、飲酒の話も耳にしたが、彼は不思議に心を動かされることがなかった。
トムはあるとき盗みをした。それはまだシンシナチの街に住んでいたころだった。そのとき祖母は病みついていた。そしてトムも仕事にあぶれていた。家には何一つ食べるものもなかった。で、彼は横町の馬具店に入って行くと、手金庫の中から一ドル七十五セントを盗み出した。
馬具店の主人は、長いひげを生やした老人だった。彼は少年がかくれるように歩きまわっているのを見たが、べつに意にも留めなかった。彼が街に歩き出て、馭者と話を交わしている間に、トムは手金庫をあけて金をとり出すと店を出て行った。間もなく少年はつかまった。そして彼の祖母は一か月の間毎週二度ずつ店の雑巾がけに出かけることを申しこんで、ことの納まりをつけた。少年は、自分の行為を恥じたが、またどちらかといえば面白くも思っていた。
「恥ずかしい目に会ったってかまやしない。そいつぁぼくに新しいことを教えてくれるのだから」とトムは祖母にいった。祖母には孫のいうことはよくわからなかった。だが、彼をとても可愛がっていたので、彼の言葉に理解がゆこうとゆくまいと、そんなことはどちらでもかまわないことだった。
トムは一年間、銀行家の納屋に住んでいた。だが、それからその住み家を失った。彼はあまりよく馬の世話をやかなかった。そして彼はつねに銀行家の妻ホワイト夫人の腹立ちの原因となっていた。夫人はトムに芝生を刈るように命じた。だが、彼はそれを忘れた。それから店へ使いにやったり、あるいは郵便局に用たしに出した。だが、彼はすぐにはかえってこずに、大人や子供の群れにまじってその日の夕暮れまでも遊び暮した。あるいは町なかに突っ立ったり、あるいは立ち聞きをしていたり、また、たまには話しかけられるとふたことみこと言葉をかえしたりして遊び暮した。ちょうどあの淫売屋の立ち並んだ、そして夜になると町じゅうを荒しまわる不良少年たちのいた都会の生活の中にいたときと同様に、トムはワインズバーグに来てからも町の人々に立ちまじわっては自らを彼の周囲の生活の一部と化するだけの力をもっていた。だが彼はまた、彼の周囲の生活からは明らかに自らを分離して生活するだけの力をもつねに持ちあわせていた。
トムは、銀行家の家の住所を失ったのちには祖母といっしょには暮さなかった。だが、祖母はときどき夜になると彼を訪れた。トムはルーファス・ホイッチング老人の持っていた小さな木造家屋の裏手に一部屋を借りた。その建物は本町通りにほど近いドュエン街に面していた。そして長い年月の間、それはその老人の法律事務所に用いられていた。彼はすでに老いぼれてからだも弱く、その職業をやり抜くにはすっかり耄碌《もうろく》していたのだが、自身ではいっこう自分の無能を感づいているふうはなかった。
彼はトムを可愛がった。そして一か月に一ドルで部屋を貸し与えた。午後おそく法律家が自宅へ帰ってしまうと、トムはその事務所をすっかり自分のものにして、ストーブの傍の床の上に寝そべると、いろいろなことを考えながら長い時間をおくった。夕べになると祖母が訪れてきた。彼女は法律家の椅子に腰をおろすとパイプをとり出してタバコを吸った。そしてその間、トムは彼がだれの前ででもつねにそうであるように黙りこくって横たわっていた。
しばしば老婆は大変な元気で話をした。よく彼女は銀行家の家であった出来事にたいして向かっ腹を立て数時間もぶっとおしでぶつぶつといった。老婆は、彼女の稼ぎだめの中から雑巾を買ってくると、きれいに法律家の事務所の掃除をやった。そして少しの汚れもなく、部屋のうちが新鮮な空気に満ちると祖母は土製のパイプをとり出してタバコをつめた。そしてトムと祖母は、ともどもにタバコをくゆらすのであった。
「お前さんに死ぬ準備ができたら、わしも安心して死ぬよ」と椅子の横に寝そべっている少年に向って祖母はいうのだった。
トム・フォスターは、ワインズバーグの生活を楽しんだ。台所ストーブ用の薪を割ったり、家の前の芝草を刈ったり、彼はいろいろな手間仕事をやった。五月の末と六月のはじめには、彼は畑へ出て苺《いちご》をつんだ。彼にはぶらぶらしている時間が十分あった。そして彼はそれを楽しみにしていた。
銀行家のホワイト氏は不用の上着を彼に与えた。それは彼にはあまりにダブダブであった。だが、祖母はその裾《すそ》を切り落した。それから彼はまた同じところでもらった外套をもっていた。それは毛で縁どりされてあった。毛皮はあちこちすり切れてはいたが、温かだった。そして冬にはトムはそれにくるまって寝た。彼は自分の生活の方法はとても立派なものだと考えた。そして彼のワインズバーグの生活のなりゆきに、幸福を感じ、また、満足していた。
最もばかげたつまらないことにもトム・フォスターは幸福を感じた。私は想うに、これこそは、すべての人々が彼を愛した理由だったのだ。金曜日の午後になると、ハーンの雑貨店では土曜日の商売のいそがしさにそなえてコーヒーをわかすのがつねだった。そしてゆたかな香りは本町通りの下手の方をみたした。トム・フォスターは、そこへ姿を現わして、店の奥手の箱に腰を下ろした。一時間もの間、彼は動こうともせず、鼻をつく香ばしい薫《かお》りに満腹して、その幸福に酔いしれたように身動きもせずに腰をおろしていた。
「すてきだな」と彼は静かにいった。
「なんだかおれは遠い遠いところや、また遠くはなれたものを想いたくなる気がするよ」
ある晩、トム・フォスターは酔っぱらった。というのは、じつにおかしなことからそういうことになったのだ。彼はそれまでにもけっして酒に酔ったことはなかったし、また実際、彼の一生涯を通じて、アルコールを含んだ飲物を口にしたことはなかった。だがそのときばかりは彼は酔っぱらう必要があると思った。そして飲んで酔っぱらった。
トムはシンシナチにいたころから、多くのことを知っていた。醜悪さや罪科や淫欲についての多くのことを知っていた。事実彼は、ワインズバーグのだれよりも、そうしたことはたくさんに知っていた。ことに性についてはまったくおそろしい経験にぶつかって、彼の心に深い印象をきざみつけられていた。寒い夜ごとにむさくるしい家の前に立っている女たちの姿や、その女たちに話しかけようと立ちどまる男たちの眼つきのうちにひそんでいるものを見いだしてからというものは、トムは自分の生活の中から性というものはまったく追いはらってしまいたいと思った。あるとき、そのあたりの女の一人は彼を誘った。そして彼は彼女とともにその部屋に入って行った。彼はそのときの部屋の臭気やまた女の眼のうちにあらわれた淫欲な眼つきを忘れることができなかった。それは彼に嘔吐を催おさせた。そして恐ろしく彼の魂に深い傷あとをのこすことになった。
彼はつねに女というものは、彼の祖母と同様にまったく無邪気な罪のないものだと考えていた。しかしあの女の部屋でのただ一つの経験ののちには、彼は女の姿をまったく彼の心のうちから追い出してしまった。優しい性質の彼は、なにものをも憎むことはできなかった。そして彼に理解のできないものがあった時には、彼は忘れてしまおうと心に決めていた。
実際トムは、ワインズバーグへくるまでは忘れていた。だが、この町に住んでから二年にもなると、彼の心の中のあるものが動揺しはじめた。彼はいたるところで恋をしている若者たちを見かけた。そして彼自身もすでに若者であった。彼がまだはっきりとはそれが何であるのかを理解できないまえに、彼もまた恋に落ちいっていた。彼は、彼の世話になっていた家の娘ヘレン・ホワイトに恋をした。そして夜になると彼女のことを想いつづけている自分を見いだした。
それはトムにとっては重大な問題だった。そして彼は彼一流の調子でそれに解決を与えた。彼は、ヘレン・ホワイトの姿を思い出したときには、いつでも、彼女の考えに想いふけった。しかし彼の恋にふけったのは、ただ彼女にたいする彼のいろんな考え方だけであった。彼は戦った。彼はもの静かな、しかし決定的な小さな戦いを行なった。そして彼の種々さまざまな欲望を、ただ一つの彼にふさわしいと思われる溝《みぞ》の中だけに流しておくようにと彼は戦った。そしてどうやらその戦いは彼の側の勝ちであった。
それから彼の酔っぱらった春の夜が訪れた。その夜、トムは気が荒くなっていた。彼はちょうど狂人草《きちがいぐさ》を喰った森の無邪気な若い牡鹿《おじか》のようだった。その事件はもちあがると、どんどん進行して、そして一晩のうちにすべての片がついた。いうまでもなくワインズバーグの人たちは、だれもトムの乱暴な行いによって迷惑をうけた者はなかった。
まずその夜は、感じやすい性質の者を酔っぱらわせるような晩であった。町の住宅街に並んでいる樹々はすべて、やわらかな緑の葉に新鮮におわれていた。家々の裏庭では、人々が野菜の園を散歩していた。そしてあたりは、水を打ったような静けさがたちこめて、何ものかを待つような無言の夜が、人々の血をかきたてた。
トムは春の黄昏どきがようやく訪れてくるころに、デュエン街の彼の部屋を出て行った。まず彼は街々を歩いた。そして静かにやわらかに歩をはこびながら、彼はかずかずの考えにふけって、それを言葉に表わしたいと試みた。彼は一人つぶやいた。ヘレン・ホワイトは空中におどる炎の舞いだ。そして彼自身は空に向って鋭く突っ立っている葉もおちつくした小さな木だと。それからまた彼はつぶやいた。彼女は風だ。まっ暗な嵐の海から吹きよせて来る強烈な恐ろしい風なのだ。そして彼は漁夫によって岸べにうち捨てられた小舟であると。
こうした考えは少年を喜ばした。彼はこうした考えをもてあそびながらぶらぶらと歩いた。彼は本町通りへ出て、ラッカー煙草《タバコ》店の前の敷石の上に腰をおろした。一時間ばかりのあいだ人々の語りあうのをききながら、彼はそのあたりをぶらついていた。しかし、それは少しも彼の興をかき立てるものではなかった。で、彼はその場を立ち去って行った。それから彼は酔っぱらおうと心に決めて、ウィリーの酒場に入って行くとウィスキーを一本買い入れた。それをポケットに忍ばせながら彼は町から歩み出た。ただ一人いろいろなことを考え、そしてウィスキーを飲みたいと思った。
トムは町から北に一マイルばかり離れた路のかたわらの、新鮮な草の堤の上に腰をおろして酔っぱらった。眼の前には道が白く横たわり、後ろの方には林檎畑に花が盛りに咲いていた。彼は瓶《びん》を手にすると一口飲んで、それから草の上に横たわった。彼はワインズバーグの夜明けどきのことを考えた。そして銀行家ホワイト氏の邸宅の横の砂利をひきつめた馬車道の石々が、どんなに露にぬれて、朝の光のうちに照り輝いていたかを想った。彼は納屋ですごした夜のことを考えた。雨の降る夜など、彼は目覚めたままに横たわって雨滴のポトンポトンと落ちる音に耳をすましながら生温かい飼葉や乾草の臭いを嗅いでいた。それからまた彼は数日後、ワインズバーグの町じゅうを吹きまくって行った嵐のことを考えた。すると彼の心は昔にかえって、祖母とただ二人で列車に乗ってシンシナチを出発したあの夜のことを思い出した。静かに客車のうちにすわっているうちにも、闇の夜をついて列車を走らせている機関の力を身内に感じた時、どんなにか、それが不思議なものに思えたかを彼は鋭く心のうちに想いうかべた。
たちまちのうちにトムは酔っぱらった。彼はいろいろな考えを想い出すままに、瓶を口に持って行った。そして頭がぐらぐらしだすと彼は立ちあがってワインズバーグからさらにへだたって行く道を歩き出した。ワインズバーグから出て北方のエーリ湖に通ずる道には一つの橋がかかっていた。そして酔っぱらった少年はその道づたいに橋の方へと歩いて行った。そこまで来ると彼はすわり込んだ。彼はふたたび飲みはじめようとした。だが、瓶の口からキルクを抜いたときに彼は気分が悪くなって栓を元にかえした。彼の頭は後ろに前に揺れた。そして橋のたもとの石に腰をおろすと、彼はため息をついた。彼の頭はまるで車花火のようにとびまわっているように思われ、またそれから空中に投げ上げられるように思われた。そして彼の手や足は絶望的にあたりをばたばたと動きまわった。
十一時にトムは町へ帰って来た。ジョージ・ウィラードは彼のさまよい歩いているのを見いだしてイーグル社の中へつれこんだ。だが、それから彼は、酔っぱらった少年が床の上にヘドを吐くかもしれないと思って、彼をたすけて路地裏へとつれこんだ。
新聞記者はトム・フォスターの言葉に驚かされた。酔っぱらった少年は、ヘレン・ホワイトのことをしゃべった。そしてある海岸へいっしょに行って彼女と恋を語ったといった。ジョージはヘレン・ホワイトが夕方父親といっしょに町を歩いているのを見かけていた。で、てっきりトムの頭は狂っているのだと思った。ジョージはトムの言葉を聞くと、心の底に潜んでいたヘレン・ホワイトにたいする恋情が燃え上った。そして彼は腹立たしくなった。
「貴様やめろ」と彼はいった。
「ヘレン・ホワイトの名前を、酔っぱらってしゃべったりして、おれは承知しないぞ。おれは断じて承知せんのだ」彼はトムにわからせようとするように彼の肩を揺すぶった。
「やめろったら」と彼はもう一度いった。
このように、不思議にもいっしょになった二人の若者は、三時間もの間、印刷所のうちにとどまった。トムの気分がいくらか回復すると、ジョージは彼を伴って散歩に出た。二人は郊外へ出ると森のはずれ近くの丸太の上に腰をおろした。静かな夜のうちにひそんだ何ものかが二人を引き寄せているように思われた。そしてトムの頭がハッキリしてくると、二人は話しをはじめた。
「酔っぱらうってことは、いいことだね」とトム・フォスターはいった。
「それは何ものかをぼくに教えてくれるようだ。だが、もう二度とやらないよ。これからはもっとはっきりと、ものを考えられるのだ。そりゃきみわかるだろう」
ジョージ・ウィラードにはわからなかった。だが、ヘレン・ホワイトについての彼の怒りはおさまって、彼は蒼白《あおじろ》い顔をしてみじめな姿の少年に、今までかつて覚えたことのないほどに不思議に心をひかれるのであった。母のような心づかいをもって彼はトムに、立ちあがって歩きまわるようにすすめた。二人はふたたび印刷所へ戻って来た。そして暗闇の中におし黙ってすわった。
新聞記者にはトム・フォスターは、いったい何のためにあんなことをやってのけたのか理解がゆかなかった。トムがヘレン・ホワイトのことをふたたび語り出したとき、彼は腹を立ててののしり声で言いはじめた。
「よせよ」と彼は鋭くいった。
「君はいっしょになどいたはずはないのだ。何だっていっしょにいたなんていうのだ? いったい何だって君は、そんなことをいいはるんだ? そんな話はよしにしてくれ。いいかい?」
トムは悲しかった。彼はジョージと喧嘩はできなかった。なぜなら、彼は喧嘩のできるような男ではなかったのだから。で、彼は立ち去ろうと立ちあがった。ジョージ・ウィラードがなおも強く追究してきたとき、彼は自分の手をさし出すと、ジョージの手の上に置いた。そして彼はそのわけを話そうと試みた。
「そうだね」と彼は柔かにいった。
「どうしてだかわからないんだよ。ぼくは幸福だったんだ。どんなに幸福だったのか君にもわかるだろう。あの娘とそして夜の気がぼくを幸福にしてくれたのだ。ぼくは悩みたかったんだ。とにかくぼくは悲しみたかったのだ。悲しみはぼくの当然のことだと思っていたのだ。ぼくは悩みたかった。というのは悩みや過ちのない者などはいないと思えるのだからね。ぼくはしなけりゃならないいろんなことを考えたんだけど、それぁ、やれやぁしないんさ。それはきっとだれかほかの者を傷つけることになるのだからね」
トム・フォスターの声は高くなった。そして彼は生涯においてただ一度だけ、このとき興奮というほどのものを感じた。
「悩むってことは、恋をするようなものだよ。ぼくの意味するのはこのことなんだ」と彼は説明した。
「どんなだかわからないかい? ぼくのやったようなことは、ぼくを苦しませ、そしてすべてのものをとても不思議なものにしてしまうのだ。だからぼくはあんなことをやったのだ。で、ぼくは満足だ。それはぼくに、何ものかを教えてくれた。それなんだ。それこそぼくの求めていたものなんだ。わかるだろう? ぼくはいろんなことを学びたかったのだよ。だからぼくはやったんだ」
[#改ページ]
死
ヘフナー・ビルのパリ呉服商店の階上にある、ドクター・リーフィの医務室へ通ずる階段は、わずかにうすぼんやりしたランプに照らし出されていた。階段を登りきった所に腕金で壁にとりつけられたきたない煙突のついたランプがつるされてあった。そのランプには錆《さび》が出て茶褐色となり、埃にいっぱいまみれた錫製の反射器がとりつけられていた。階段を登って行く人々はその前を通ったたくさんな人々の足跡の上をふんで登った。柔らかい階段の床板はさんざん足の重みにおしひしがれて、深いへこみがその通路を示していた。
階段を登りきって、右へ回れば諸君は医者の医務室の扉の前に出る。左へまわれば、がらくた物のいっぱいほおりこまれた空部屋があった。古びた椅子、左官台、梯子《はしご》、空箱などが、入って来たものの脛《すね》をすりむいてやろうと待ちかまえて暗闇のうちにおかれてあった。うず高いがらくたはパリ呉服商店所属のものであった。店の勘定台や書棚が不用になると番頭はそれらを運び上げて、うず高く積み上げた上に投げ込んで行った。
ドクター・リーフィの医務室は、納屋倉ほどの大きさがあった。丸い腹をした暖炉が部屋のまん中にすわっていた。暖炉台の囲りには鋸粉《おがくず》がいっぱいに盛り上げられて、床に釘づけされたどっしりと分厚な板でかこまれていた。扉のそばには巨大なテーブルが据えられてあった。それはかつてはヘリック衣装店の商売道具の一つで、注文の衣装を陳列しておくのに用いられていた。そのテーブルの上にはいちめんに書籍や瓶、外科用器具がのっかっていた。テーブルの端の方に三つ四つ林檎が置いてあった。それは医者の友人、植木屋のジョン・スパニャードが扉をあけて入って来たときにポケットからすべり落したものであった。
中年のドクター・リーフィは背の高い不恰好な男だった。後になって生やした灰色の顎ひげも、そのころにはまだ現われていなかった。そして上唇には褐色の口ひげを備えていた。そのころの彼は、優美さを備えた男ではなかった。そして彼の手や足をどう処置しようかと多くの時間をついやした。そのころの夏の午後、息子のジョージも十二、三歳になったころであったが、エリザベス・ウィラードはよく医務室を訪ねて来た。すでに彼女の生れつきのすらりとした姿も腰が曲りはじめて、だらしなくからだを引きずって歩いていた。表面上彼女は医者に健康の相談を受けるために訪れるのであった。だが、大ていの場合、彼女の訪問の結果はまるで彼女の健康とは関係のないものであった。彼女と医者は健康について語りはしたが、大ていは彼女の生活について、二人の生活について、また二人がワインズバーグで生活するようになってからの、お互いの体験したかずかずの考えについて語りあうのだった。
大きなガランとした医務室の中で、男と女はお互いをながめあってすわった。そして二人ははなはだ似通っていた。二人の眼の色、鼻の長さ、二人の生活の境遇がそれぞれ異なっていたと同様に、二人の肉体はまるで比較にならないものではあったが、二人の心の中のあるものは同じことを思い、同じ心の慰安を求めて、見る者の目には同じ印象を与えたに相違なかった。そののち、彼が年をとって若い妻と結婚したとき、医者はしばしば妻に向って、その病身の女とすごした長い時間のことを語りきかせた。そしてエリザベスに向っては表わすことのできなかったいろいろのことを表現して見せるのだった。老年になってからの医者はほとんど一人の詩人であった。そしていろいろとおこった出来事についての彼の見解は詩人らしい性質のものだった。
「わしはわしの人生でお祈りをすることが必要な時間までやって来ました。そこで、わしは神々をあみ出してお祈りをささげました」と医者はいった。
「わしは言葉に出してお祈りをしたわけじゃない。またひざまずくこともせんじゃった。わしはただ静かに椅子に腰をおろしておったのです。午後もよほどたってから、大通りは暑くて人通りもないときや、また一日じゅううっとうしい冬の日には神々が医務室へ訪れて来るのじゃが、それはだれも知らないこととわしは思っておりました。ところがそれから、わしはあのエリザベスという女がわしとおんなじ神々を礼拝しとるということを知りました。あの女が医務室にやって来たのは、とりもなおさず神々がそこにやって来るだろうと、あの女が考えたからだとわしは思います――だがとにかくです、あの女は自分が一人じゃないということを見いだして幸福じゃったのです。そりゃあ、なかなか口では述べられない経験です。もちろんそれはあらゆるところで世の男や女がいつも経験しとることと思われますがな」
夏の午後、エリザベスと医者とは事務室の中ですわりあって、お互いの生活を語り、また他の人々の生活を語りあった。ときどき医者は哲学的な寸言を吐いた。そして彼は真面目そうにくくっと笑った。あるときには、しばらく沈黙のときがつづいたのち、ちょっとした言葉がしゃべられ、あるいは暗示的な言葉が口からもれて、それらが不思議に語るものの心を明るく興じさせるのだった。そして希望は欲望にとかわり、あるいはなかば死にはてた夢も突如として生命の炎となって燃え上るのだった。そうした言葉は大部分、女の口から語られた。そして女は、男の顔を見ることもなく、そうした言葉を吐いていった。
彼女が医者を訪ねて来た日にはいつもホテル主の妻は、日ごろよりいくらかくつろいでしゃべった。そして一時間か二時間、彼と会った後には彼女の日常の倦怠とはうって変った、すがすがしい力強い感情をもって階段を降り、大通りへと歩き出た。娘時代に若返ったかのようにからだをゆり動かしながら彼女は歩いた。しかし彼女は自分の部屋へもどって窓ぎわの椅子に腰をおろし、夕闇の迫るころとなって料理部屋から女中が盆に夕食を持って来たときには、彼女はそれを冷えるままにほっておいた。彼女の追想は、その熱情的な冒険への憧れを伴った娘時代へとかけていった。そして彼女は、冒険も彼女にとって日常事であったころ、彼女を抱擁してくれた男たちの腕を想い出した。
ことに彼女はしばらくの間彼女の愛人であって、そして彼の熱情の瞬間に「かわいいお前、かわいいお前、おお、かわいいお前」と同じ言葉を狂気じみてくりかえしくりかえし何回となく呼びつづけた男のことを、はっきりと想い出した。その言葉は彼女にとって、彼女が生涯のうちにやりとげたいと思っていることをいい表わしているように思われるのであった。
むさくるしい古いホテルの彼女の部屋の中で、ホテル主の妻は涙を流しはじめた。彼女は両手を顔にあてるとからだを前後にゆり動かした。彼女のただ一人の友、ドクター・リーフィの語ったかずかずの言葉が彼女の耳のうちになり響いた。
「恋は、闇夜の木陰の草にそよ吹く風のようなものです」と彼はいった。
「あんたは恋を、なにか形のあるものにしようとしてはなりません。恋は人生の神聖なる出来事です。もしあんたが恋を形のあるものにして、しっかりとその手に握りしめ、そして柔かい夜風の吹き渡る木陰に暮そうとするならば、さっそくにも失望の永い暑い日がやって来るのです。そして通りをとおる荷車から立てられるざらざらした塵埃《じんあい》が、情熱に燃えあがり、キッスで心地よげになった唇の上に積ってしまうものです」
エリザベス・ウィラードは、彼女がわずかに五歳のとき亡くなった母の姿を記憶にとどめていなかった。彼女の娘時代は、およそ想像のできる最もでたらめな生活を送ってきた。彼女の父は孤独でいることを願っていた男であったが、ホテルの仕事は彼の孤独を許さなかった。彼は一生を病身で暮して死んだ。
毎日彼ははればれしい顔つきで起き上ってきた。だが、午前の十時ごろまでには、あらゆる悦びは彼の胸から消え去ってしまうのだった。お客が食堂で食事の不平をいったり、あるいは、寝床をしつらえていた女中が、結婚してホテルを出て行ったりしたときには、彼は床板の上をガタガタと踏みしめて、ののしり声をあげた。夜になって、床につくと、彼はホテルを出入りする人の波にもまれて成長している娘のことを考えた。そして淋しさに心を打たれるのであった。娘が大きくなって、夕べになると男たちと出歩くようになったときには、彼は娘と語りあいたいと思った。だが、それを試みたときにはいつも不成功に終った。彼はいつも彼がいいたいと思っていたことを忘れてしまった。そして自分自身の不平をならべたてながら時を過ごしてしまうのだった。
彼女の若いころエリザベスは人生の真の冒険者となろうとすることにつとめた。十八の年には、人生が強く彼女に襲いかかって彼女はもはや処女ではなかった。だが、もちろんトム・ウィラードと結婚するまでに六人もの恋人があったとはいえ、彼女は欲望のおもむくままに、冒険に突入することは決してなかった。世のすべての女のように、彼女もまた、真実の恋人を欲していた。つねに盲目的に情熱に燃えながらも、あるものを、人生の秘められた不可思議を、求めて飢え渇いていた。両手を握りながら大またで歩いて行く美わしい娘、男とともに木陰を歩いて行く美わしい娘は、永久に闇の中へ手を突き出してだれか他の男の手を掴もうと試みていた。彼女がともに冒険を行なった男の唇を洩れるあらゆる泡沫《ほうまつ》のような言葉のうちから、彼女は自分にとって真実の言葉であると思われるものを見いだそうと試みた。
エリザベスは父親のホテルの番頭トム・ウィラードと結婚した。というのは彼が手近にいたし、またエリザベスが結婚しようと決心したときに彼は結婚を望んでいたからだった。しばらくの間は、おおよその処女と同じように、彼女も結婚というものは、人生の姿をかえてしまうものだと考えた。トムとの結婚の結果について彼女の心のうちに疑わしい気持がおこったとしても、彼女はそれを払いのけた。彼女の父は病に伏して、そのときすでに死に近かった。それに彼女はまた、ある恋愛事件にまきこまれて、その意味をなさない結果のゆえに当惑を感じているところであった。ワインズバーグの彼女の年ごろの娘たちは彼女のよく見知っている雑貨屋の店員や、年若い百姓たちと結婚していた。夕べになると彼らは本町通りを歩いた。そして彼女が通りかかったときには幸福そうにほほえんだ。結婚という事実は何か秘められた意味にみちたものではないだろうかと彼女は考えはじめた。彼女の語り合った新妻《にいずま》たちはしとやかに恥じらいながら語るのだった。
「夫を持つと、何もかも変って見えてくるものよ」と彼女たちはいった。
彼女の結婚の前の日の夕べ、当惑した娘は彼女の父と語りあった。後になって、彼女はあの病身の父とただ二人でいた数時間が彼女に結婚の決心をさせていなかったとしたなら、どうであったろうかと思うのだった。父は自分の生涯について語った。そして二度とふたたびそんないざこざの中に誘いこまれないようにと諭《さと》した。彼はトム・ウイラードをののしった。で、エリザベスは番頭の防禦に立たなければならなかった。病人は興奮して床から起き上ろうとした。彼女は彼を起き上らせまいとしたときに、父は繰り言のようにいいはじめた。
「わしはこれまで一人でおったことといってはけっしてない」と彼はいった。
「わしは一生懸命に働いたのじゃが、ホテルはうまくやってゆけなかった。わしは今でも銀行に借金がある。わしが死んだときにはお前にそれがわかるだろう」
病身の男の声は、熱心に力がこもってきた。立ちあがることができないので、彼は片手を差し出すと、娘の顔を彼の傍へ引きよせた。
「その逃がれ道はただ一つある」と彼はささやいた。
「トム・ウィラードにしろ、だれにしろワインズバーグの奴らと結婚しちゃいけない。わしはトランクの中の錫の箱に八百ドル持っとる。それを持ってよそへ行くがいい」ふたたび病める男の言葉は不平の調子に変った。
「お前約束してくれるだろうな」と彼はいった。
「もしお前が結婚しないといいきれないのなら、けっしてその金のことをトムに話さないと約束してくれ。その金はわしのものだ。そして、それをお前にやるからには、わしはそれを要求する権利があるんだ。その金をかくしてしまえ。それはお前にたいするわしの父親としての、失敗の埋めあわせだ。ことによるとそれはお前のための扉に、それも大きなあけ放たれた扉になるかもしれない。さあ、わしは死にかけている。どうか約束してくれ」
ドクター・リーフィの医務室では、四十一歳のやせこけた老女、エリザベスは、ストーブの傍の椅子にすわって床を見つめていた。窓の傍の小さな椅子には、医者が腰をおろしていた。彼は両手で机の上に置かれた鉛筆とたわむれている。エリザベスは彼女の結婚した女としての生活を語った。彼女は自分の身を忘れ、夫の身を忘れてしまった。そして彼女の夫もただ彼女の物語をおし進めるための模型人形にすぎないものとなってしまった。「それからわたし結婚しました。だけど、何の変化もありませんでしたわ」と彼女はにがにがしげにいった。
「わたしは結婚するそうそうから不安を感じてきました。わたしはあまりに何もかもその前から知り過ぎていたのです。それにたぶん彼との結婚のはじめての夜に、わたしはあまりにすべてのことを見いだしてしまったのでしょう。よくは覚えませんけど」
「なんてわたしは馬鹿だったでしょう。父がお金をくれて結婚の考えなどわたしから棄て去ってしまわせようとしたときにも、わたしは耳を傾けなかったのです。わたしは結婚した娘たちが結婚についてとやかくいった言葉を憶いうかべて、わたしもやっぱり結婚したいと思ったのです。わたしが望んでいたのはトムではありませんでした。わたしはとにかく結婚をのぞんでいたのです。父が眠りに落ちいると、わたしは窓にもたれて、すぎこし方のことを考えてみました。わたしは不評判な女にはなりたくなかったのです。町はわたしの噂で持ちきりでした。で、わたしはトムの気持も変りはしないかと怖れはじめたのです」
女の声は興奮にふるえはじめた。自分でも気のつかないうちに、ドクター・リーフィは彼女を愛しはじめた。そして彼の心のうちには不思議な幻想が生れてきた。彼女がしゃべっているうちに女の肉体は変ってきて、彼女は次第にわかわかしく強健に、そしてすんなりと背丈も伸びてきたように思われた。そして彼は、その幻想を心のうちから振りおとすことができなかったとき、彼は医者らしいコジつけを心のうちに考え出していた。
「こうやってしゃべりあうことは、どのみち、彼女のからだにも心にも良いことだわい」と彼は口の中でつぶやいた。
女は、彼女の結婚ののち、数か月たったある午後におこった出来事を語りはじめた。彼女の声はますますはっきりとすんできた。
「ほとんど暮れ方に近い午後でしたが、わたしは一人で遠乗りに出かけました」と彼女はいった。
「わたしは小さな馬車をもっていましたし、灰色の小馬をモイヤーの貸し馬屋にあずけておりました。トムは、ホテルの部屋の塗り替えや修繕をやっていました。彼はお金を欲しがっていました。で、父からもらった八百ドルのことをいってしまおうかとわたしは思っておりました。だが、その決心がつかずにいたのでした。わたしは心から夫が好きになれなかったのですもの。そのころの夫の両手や足には、いつも、ペンキがくっついていました。そして夫は一日じゅうペンキの匂いをたてていたものです。彼は古びたホテルを修繕し直して、新しくスマートなものにしようと骨折っていたのです」
興奮した女は、椅子のうちにきちんとすわりなおした。そして春の午後、ただ一人遠乗りに出かけた物語を語るうちにも、彼女は少女のような機敏な動作で自分の手を動かすのだった。
「その日は曇った日で、いまにも嵐のやってきそうな午後でした」と彼女はいった。
「黒雲は草や木の緑をくっきりと映えだして、その光は、わたしの眼を痛ませるほどでした。わたしは、トランニョン道路から一マイルかそこら出かけて、それからわき道へと曲りました。小馬は急ぎ足に丘を登り、また下って進みました。いろいろな考えが心のうちに湧きおこって、わたしはその考えを払いのけたいと思いました。わたしは馬を鞭打ちはじめました。黒い雲は低くたれて、雨がふり出しました。わたしは恐ろしいスピードでどこまでも永久にかけて行きたいと思ったのです。わたしの町から、わたしの服装から、わたしの結婚から、肉体から、そしてあらゆるものからわたしは逃げ出したいと思いました。わたしは、馬が死にそうになるまでかけさせました。そして馬がもう一歩もかけられなくなると、わたしは馬車から降りて、しまいに倒れて腹痛をおこすまで暗闇を走りつづけたものです。わたしは何もかもすべてのものから、逃げ去りたいと思ったのです。そして、また、わたしはある何ものかに向ってかけて行きたいと思ったのです。ねえ、あなた、そのわけはおわかりでしょう?」
エリザベスは椅子からとび上ると医務室の中を歩きまわりはじめた。今まで、だれも、そんな歩き方をしたものはなかった、と医者が考えるような彼女の足どりであった。彼女の全身には躍動とリズムがみなぎっていて医者を恍惚《こうこつ》とさせた。彼女が歩み寄って来て、医者の椅子の傍の床にひざまずいたとき、彼は女を両腕に抱擁して、情熱に燃えながら接吻した。
「わたしは家へ帰るまで、ずっと泣きつづけたのです」と彼女はいった。そして彼女はさらに狂気じみた遠乗りの話をつづけようとした。だが、彼はそれには耳を傾けようとしなかった。
「かわいいお前。かわいいお前。おお、かわいいお前」と医者はつぶやいた。そして彼は、四十一歳の疲れはてた女ではなくて、疲れ切った女をおおっていた肉体の殻を破って、何らかの奇跡で飛びだしてきた可愛い無邪気な少女を、彼の胸に抱きしめているもののように考えた。
ドリター・リーフィは、彼の胸に抱きしめた女を、ふたたび彼女の死後まで見ることがなかった。夏の日の午後、医務室のうちで彼が彼女の愛人になろうとしていたときに、あるなかばグロテスクな小さな出来事がおこって、彼の恋愛をまたたくうちに終結に導いてしまった。男と女とがしっかり抱きあっていたとき、重々しい足音が医務室の階段を登ってきた。二人は飛び離れて耳をそばだて、そしておののきながら突っ立った。階段の足音は、パリ呉服商店の店員のそれであった。大きな音を立てて、彼は空部屋のガラクタの積み重ねられた上へ空箱を投げ込んで、それから重々しい足どりで階段を降りて行った。
エリザベスもほとんどそれと同時に、店員のあとにつづいて出て行った。彼女のただ一人の友に語っているうちに彼女のうちにいきいきとよみがえってきたものは突如として消えて行った。彼女も、医者と同様に神経質になった。そして物語を続けようとは思わなかった。彼女は肉体の中に高鳴る血潮を覚えながら町じゅうを歩いた。だが、本町通りをはずれて、眼の前にニュー・ウィラード・ハウスの灯《ひ》が見えだしたとき、彼女の総身はおののき、そして膝はふるえるのであった。そして、しばらくの間は彼女は今にも街の中でぶっ倒れるだろうと思われるほどであった。
病みついた女は、死ぬ前の数か月というもの死を待ちこがれながら暮した。死の道をたどり、探し求めながら彼女は歩いた。彼女は死の影を、生命のあるもののように想像した。そしてあるときには丘をめぐってかけまわる、たくましい漆黒の髪の毛の青年のように考え、またあるときには、生活の道に深い傷あとをのこされた厳粛な、もの静かな人間であるかのように考えた。まっ暗な部屋の中で、彼女は手をのばすとベッドの覆いの下から手をつき出した。そして死も生きものと同様に、その手を自分の方にさしのべているのだと想像した。
「愛《いと》しい方、我慢して。いつまでも若く美しく、そして我慢強くね」
病いがその重々しい腕を彼女のからだの上に横たえて、かくまってあった八百ドルの金のことをジョージに語りたいと思った彼女の計画をも台なしにしてしまったその夕べ、彼女は床の中から起き上るとなかば部屋の中を歩いて行き、そうして死に向って、せめてもう一時間の間だけ生きのびさせてくれるようにと嘆願するのだった。
「まだ、待って。あの息子が、息子が、息子が!」彼女はあのように待ちに待っていた死の愛人の両腕をはらいのけようと、あらん限りの力をもって闘いながら哀願の言葉をいいつづけた。
エリザベスは、息子のジョージが十八歳になった年、若者にとってはいまだ母の死の意味もほとんど理解できないころ、三月のある日に死んで行った。ただ時間の経過のみが、彼に向ってその意味を教えることができたであろう。一か月の間母が青ざめて身動きもせずに、無言のうちにベッドに横たわっているのを息子は見ていた。それからある日の午後、医者は廊下で彼をおしとどめると二、三の言葉を語った。
ジョージは自分の部屋へ戻って、ドアをしめた。彼は腹のうちが空虚になったような不思議な気持を味わった。瞬時彼は床を見つめてすわっていた。だがそれから飛び立つと散歩に出かけて行った。駅のプラットホームに沿って行き、住宅街を通り抜け、そしてまったく自分自身のことにばかり頭をいっぱいにして学校の高い建物のそばを通って行った。
死という考えは彼には理解のできないものだった。そして事実彼は母がその日に死んだという事実にさえも少なからず心を悩まされていた。彼は今、町の銀行家の娘、ヘレン・ホワイトから、彼の出した手紙の返事をうけとっていたのであった。
「今夜、おれは彼女に会えるのだったのに。こうなっちゃあ、それも中止しなきゃならないだろう」と彼はなかば腹立たしげに考えた。
エリザベスは金曜日の午後三時に死んだ。その日は午前中は、寒くて雨が降っていた。だが、お昼からは日が照り出した。死ぬ前の六日間というもの、彼女は麻痺したように、しゃべることも身動きすることもできなかった。そして生きているのはただ彼女の心と眼だけであるようにさえ見えた。
六日のうち三日間は、彼女は息子のことを考え、息子の将来のことについて、すこしでもいいから彼に語りたいと思って身もだえした。そして彼女の眼にはせつない哀願の表情がひしひしとせまっていて、それを見たすべての人の心のうちに、死にかかった女の記憶は数年間まざまざと忘れることのできないほどであった。つねに心のうちになかば妻を怨んでいたトム・ウィラードでさえも、怨みの心を忘れ、眼から涙がこぼれおち、そして彼のひげにとどまった。ひげは灰色に変りかかっていた。トムはそれを染料で染めあげていた。そしてトムのひげにたまって、手で拭いさられた涙は、美しい霧のような水滴となって飛び散った。悲しみのうちに、トム・ウィラードの顔は、たとえば永い間どしゃ降りの日に、家の外においてけぼりにされていた犬の顔のようにも思われた。
ジョージは母が死んだその日、あたりも暗くなったころ本町通りを通って帰ってきた。そして、部屋へ戻って髪や洋服にブラシを当て、廊下を通って死体の置かれた部屋へ入って行った。ドアの傍の衣装テーブルの上には蝋燭《ろうそく》がともり、ドクター・リーフィがベッドの傍の椅子にすわっていた。医者は立ちあがると出て行こうとした。彼は若者に挨拶しようとするかのように手を差しのべると、それからまた、おずおずと引っこめた。部屋の空気は二人の自己意識のつよい男の存在によっておもおもしくされた。そして医者は急ぎ足に出て行った。
死んだ女の息子は椅子に腰をおろすと、床をながめた。彼はふたたび自分のことを考えた。そして自分の生活に変化を作るためには、どうあってもこのワインズバーグを立ち去らなければなるまいと心に決めた。
「おれはどこか町へ行こう。たぶん、どっかの新聞社へ仕事を見つけることができるだろう」と彼は考えた。
それから彼の心は今夜いっしょに過ごすはずであった女のことに考えおよぶと、彼はふたたびこうした出来事で彼女に会うことをさまたげられたのをなかば怒るのだった。
ぼんやりと灯火がともった部屋の中で、死んだ女とともにすわった若者はかずかずの考えにふけりはじめた。彼の心は母の心が死の考えとたわむれていたと同じように、人生の考えにたわむれた。彼は眼を閉じると、赤いみずみずしいヘレン・ホワイトの唇が、彼の唇に触れあったことを想像した。彼の全身はおののき、手はわなわなと震えた。すると、そのときあることがおこった。
少年は立ちあがると、こわばって突っ立った。彼は布の下の死んだ母の姿をながめた。そして自分の考えていることを恥じて、しくしくとすすり泣きはじめた。新しい考えが心のうちに湧いてきて、彼はふりかえると、あたかもだれかがうかがい見ているのを恐れるかのように、おずおずとあたりを見まわした。
ジョージ・ウィラードは母の死体から蔽い布を取り除けて、母の死顔をながめたいと思う狂気じみた考えにとらわれた。彼の心のうちに訪れたその考えは、恐ろしく強く彼の全身を捕まえた。彼は自分の母ではなくて、だれか他の人が彼の前のベッドに横たわっているのだと思えてきた。その気持はまったくまざまざと真実のもののように思われてきて、彼はその想いにほとんどたえきれなくなった。蔽い布の下の死体は長くて、その死の姿は若く美わしいものに思われた。ある不思議な幻想に捕われた若者にとって、それはいい表わす言葉もないほどに懐かしいものであった。彼の目前には可愛い女がベッドから飛び出してきて、彼の前に立ち現われるのではないかという疑いの気持にまったく圧倒せられていた彼は、そうした疑いをはらしたいと思う気持にたえがたくおそわれるのであった。
何度も彼は手を差しのべた。一度など彼は母にかけてある蔽い布に手をかけて、それをなかばまくりあげたほどだった。だが彼の勇気はそこでくじけた。そして彼はドクター・リーフィと同じように、身をひるがえすと部屋から出て行った。ドアの外の廊下に立ちどまった彼は、手で壁にからだを支えなければならないほどふるえていた。
「あれはおれの母ではない。あそこにいたのは、あれはおれの母ではない」と彼は一人つぶやいた。そしてふたたび恐怖と不安の感情のうちに、からだをふるわせた。死体の見守りにやって来たエリザベス・スイフト伯母が次の部屋から現われてきたとき、彼はその手を彼女の手の中にさし入れて、頭を左右にゆり動かしながら悲しみに眼も見えなくなるほどすすり泣いた。
「ぼくのお母さんは死んでしまった」と彼はいった。それから伯母のことは忘れたように背を向けると彼は今出てきたドアを凝視した。
「おお、かわいい人。いとしい人。かわいいいとしい人よ」と少年は、彼の心の外からきたある衝動にかられて声高につぶやいた。
八百ドルの金については、死んだ女が永いことしまって置いて、ジョージ・ウィラードが都会に出て生活をはじめるときに与えるはずであったその金は、彼のベッドの足もとの漆喰《しっくい》の壁の後ろに錫箱に入れてかくしてあった。エリザベスは彼女の結婚後一週間すると、棒切れで漆喰を打破ってそこへ隠しておいたのであった。それから彼女は、ちょうどその時分、夫がホテルの仕事で雇ってあった左官にそこを上塗りさせた。
「わたしベッドの端でそこを打破ったの」と、そのころまだ自己解放の夢を棄てさることができなかった彼女は夫に説明するのだった。しかしその解放はつまるところ、彼女を二回だけ訪れたのである。というのは彼女の愛人たち、死とそしてドクター・リーフィとが彼女を彼らの腕に抱擁したときがすなわちそれであった。
[#改ページ]
世を知るころ
それは晩秋のある黄昏《たそがれ》どきであった。人びとは、ワインズバーグの定期|市《いち》に誘われて田舎から町へと群れ集ってきた。空はカラリと晴れ渡って、夜も暖く爽《さわ》やかだった。今やひからびて褐色の葉にいちめんおおわれた苺畑の間をつきぬけて、町から遠くのびている道路つづきにあたるトランニョン道路の上では、町へと急ぐ馬車のあげる砂塵《すなぼこり》が、雲となって立ち昇っていた。馬車の中にまきちらした藁《わら》くずの上には、子供たちがまりのように丸くなって眠っていた。髪はほこりにまみれ、指は黒く汚れてねちゃついた。砂塵は田畑の上にまい上って、沈み行く太陽はそれを炎のように彩っていた。
ワインズバーグの大通りは、店も歩道も群集でいっぱいだった。夜が訪れ、馬がいななき、店の店員たちは狂気のようにあたりをかけずりまわり、迷子は元気に泣きわめいた。アメリカの町はこうして自己の歓楽のために恐ろしい勢いで活動をつづけてゆくのである。
本町通りの群集をかき分けてやって来た若者ジョージ・ウィラードは、ドクター・リーフィの医務室へ通ずる階段に自分の身をひそめて、人々をながめて立った。熱をおびたまなざしで、店の灯火の下に流れるように往き交う種々さまざまな顔を彼はながめていた。いろいろな思いが絶えず彼の頭の中を往来した。だが彼は考えごとなどしたいとは思わなかった。いらだたしげに階段を踏み鳴らしながら、彼はあたりを鋭くねめまわした。「まてよ。あの女は、ずっとあいつといっしょにいるつもりかな? そうすると、おれがこれまで待ちつづけていたのも水の泡だ」と彼はつぶやいた。
オハイオ州の村の若者ジョージ・ウィラードは、ほとんど大人に生長しようとしていた。そして新しい種々さまざまな考えが心にわきおこっていた。その日は一日じゅう、市場の雑踏の人々の中に立ちまじわりながら、彼は孤独を感じていた。彼はワインズバーグを立ち去って、どこか他の都会へ行って新聞社に職を見いだしたいと考えていた。そして彼は大人になったように感じた。彼の心を訪れたこうした気持というものは、大人になった人々には知られてはいるが、少年たちには知りえないものである。
彼は年をとったように、そしていささか疲れたように思った。いろいろの記憶がよみがえってきた。彼の心の中では、彼の新しく大人になったという気持は彼をただ一人孤独の中に隔離しておくように思えたし、また彼の姿をなかば悲劇的な姿へかえた。彼は母親の死後彼の心の中に眼覚めてきた気持を、だれかに理解してもらいたいと思っていたのだ。
すべての若者たちの生活のうちには、はじめて人生をふりかえって見るというときがあるものだ。おそらくそのときこそ彼が大人への線をふみ越えた瞬間を示すものであろう。若者は自分の生れた町の大通りを行く。彼は未来を考え、そして彼が世に出たときに描くであろう姿を想像する。種々の野心や悔恨が彼の心のうちにめばえてくる。突如として、あることがもちあがる。彼はとある樹の下に足を止め、そして彼の名を呼んでくれる声をまつかのように待ちかまる。過去の種々な事物の精霊が彼の意識の中に忍び込んでくる。外界の声は限りある人間の一生を彼にささやく。己を知り、己の未来に信頼をおいていたことから、逆に彼はまったく己にたいする信念を失う。
もしも、彼が想像力をもった若者であるなら人生の扉は裂け開かれて、彼はそこから初めて世界をながめる。そして無数の人々の行列をながめるかのように彼の前の時代の人々が無の中からこの世へと生れ出て、そして彼らの生活を生きてふたたび無の中へと消えて行くのを、その無数の人々の姿をうちながめる。世を知った悲しみが少年の心を打つ。かすかな喘《あえ》ぎをもって、彼は街々を風のまにまに吹かれ飛ぶ、ただ一枚の木の葉にすぎない自らの身をかえりみる。
少年はどのように、仲間のものたちが豪語していようとも、己は不安の中に生き、不安の中に死なねばならない身であることを、風に舞う一枚の木の葉のように、真昼の太陽に萎れる穀物のように、運命づけられたものであることを思う。彼はおののき怖れ、絶望的な鋭いまなざしをもって万象をながめまわす。彼の生活した十八年の年月も人生の長い長い進行の中にあってはほんの一息の時間、ほんの一瞬にすぎないものであることを見る。すでに彼は死の呼び声を聞く。心の底から彼は友を求める。彼の手を何人《なんぴと》かに触れ、また何人かの手によって触れられんことを切望する。もしもその何人かが女性であることがいっそう望ましいと思うとするならば、それは女性がしとやかで理解力に富むであろうということを信ずるがゆえである。彼は何にもまして理解されることを望んでいるのである。
ジョージ・ウィラードが、こうした人生の転換期に達したとき、彼の心はワインズバーグの銀行家の娘ヘレン・ホワイトへと向った。彼は自分が大人に成長して行くと同時に、彼女もまた女らしくなって行くことを絶えず意識していた。彼の十八の年のある夏のこと、彼はヘレンとともに田舎道を歩いた。そして彼女の面前で彼は自らを彼女の目に偉大な重要なものに映じさせて誇ってやりたいと思う衝動に駆られた。だが今、彼の彼女に会いたいと思うのは別の気持に発っしているのであった。彼はヘレンに、自分の中にわきおこった新しい衝動について語りたいと思った。彼は大人というものをいっこうに知らなかったころにもあたかも自分が大人でいるかのように彼女に思い込ませようとしていたが、今や彼は自分の心の中におこったと思われる変化を彼女に感じさせてやりたいと思った。
一方ヘレン・ホワイトは、彼女もまた転換の時期に達していた。ジョージの感じたことは彼女もまた若い女らしさで感じていた。彼女ももはや少女ではなかった。そして飢えたもののように女性としてのしとやかさと美しさとに向って進んでいった。彼女は大学《カレッジ》のあるクリーヴランドから、故郷の定期|市《いち》に一日を過ごすために帰省した。彼女もまた追憶にふけることをはじめていた。その日一日、彼女は正面の見晴し台に若い男といっしょにすわっていた。その若者は教授の一人で、彼女の母親の招待客であった。彼は一種の衒学的《ペタンチック》な性質の男で、彼女はただちに自分の気持にはふさわしくない男だと感じた。市にいる間は男が身なりも垢ぬけしていたし、この地にはじめての者でもあったので、彼女は自分の連れと見られることを喜んだ。彼女は自分の横にその男のいることは、人々に新たな印象を植えつけるであろうことを知っていた。
昼の間は彼女は幸福だった。だが、夜が訪れると彼女は心のおちつきを失ってきた。彼女はこの先生を追いはらって彼の側をはなれたいと思った。二人がいっしょに正面の見晴し台に腰かけて、昔の学友《クラスメート》たちに見上げられている間は彼女は彼女のお伴の男に大変気をくばっていた。それで、彼は少々いい気になりはじめていた。
「学者というものは金がいる。で、おれは金持の女と結婚しなければなるまい」と彼は考えた。
ヘレン・ホワイトはジョージ・ウィラードのことを考えていた。ちょうどそのころウィラードは陰鬱な心で、群衆の中をさまよいながら彼女のことを考えていた。彼女は彼といっしょに歩いた夏の夜のことを思い出した。そしてもう一度二人で歩いてみたいと思った。この幾月かを都会で暮して、目もくらむような大通りの雑踏を見たり、芝居を見に行ったりして、彼女は自分が大分変ってきているだろうと思った。彼女はウィラードに自分の気持の変化を意識させ、また知ってもらいたいと思った。
若い男女の記憶中で消しがたいものとして残っていた二人ですごした夏の夕べも、仔細《しさい》にながめた場合には、むしろつまらなく送られた夕べにすぎなかった。二人は町を離れると田舎道へと歩いて行った。やがて二人は青々とした若いトウモロコシの畑の近くの、とある棚の傍に立ちどまった。そしてジョージは彼の上衣を脱いで腕にかけた。
「そう、ぼくはずっとワインズバーグにいた――ぼくはよそに出たことはない。だがぼくはもはや大人になりかけているのだ」と彼はいった。
「ぼくはいろんな本を読んできた。考えてもきた。今にきっと、ぼくは何か人生に意義のあることをやるつもりさ」
「だがね」と彼はいった。
「こんなことは大したことじゃない。ぼくはむしろおしゃべりなんかやめた方がいいのだ」
困惑した少年は少女の腕に自分の手を置いた。彼の声はふるえていた。二人はもときた道を町の方へとひき返して行った。絶望の気持の中で、ジョージは自らを誇りはじめた。「ぼくは立派な人間になるよ。今までこのワインズバーグにはいなかったようなすてきな大人物になるんだ」と彼はいいはなった。
「何ともはっきりはいえないけど、あんたも何かするといいなあ。そりゃもちろん、ぼくとはかかわりのないことだろうよ。だがぼくはあんたが、世間の女とはどこかちがった女になってほしいと思うのだ。あんたにはぼくのいうことがよくわかるだろうね。これはけっしてぼくの問題じゃないんだよ。ぼくは、あんたが美わしい女になってくれればいいと思うのだ。ね、ぼくの気持、わかるだろう」
少年の声はとぎれとぎれになって沈黙のうちに二人は町へと帰ってくると、ヘレン・ホワイトの家の方へ街を歩いて行った。門のところまで来ると、彼は何か彼女の心に残るようなことをいいたいと思った。頭のうちにはどうやら言葉は考え出されたものの、それはまったく要領をえない言葉のように思われた。
「ぼくは考えたんだ――いつも思ってるんだが――あんたはきっとセス・リッチモンドと結婚するのじゃないだろうかと、いつもぼくは思ってたんだ。だがぼくは、やっとあんたがそうでないとわかったよ」とこれだけやっといえたかと思ったときには、彼女は門の中にかけこんで、戸口の方へ姿を消してしまった。
暖かい秋の夕べ、階段に立って大通りを流れて行く群集をながめながら、ジョージはあの青々とした、トウモロコシ畑の傍で語った言葉を思い出した。そして自分の描き出した姿について面はゆい気がした。通りでは檻の中の家畜のように人波がごった返している。四輪馬車や二輪車が狭い本通りをほとんどいっぱいにしている。楽隊はさかんに音楽を鳴らし立て、小さい子供たちは大人の足の間をすり抜けながら歩道をかけまわっている。赤く顔をほてらしながら若者たちは、少女を腕に抱えて不恰好に歩いている。ある店の二階では、ダンスがはじまろうとして、ヴィオリン弾きが楽器の調子をととのえていた。きれぎれな楽音があけ放たれた窓から流れ出し、通りの群集のどよめきと、高い楽隊のらっぱの音の中にひろがっていった。騒々しい雑音は若いウィラードの神経をいらだたせた。いたるところ、どこにもかしこにも、人の群れと、どよめく生命とが彼のまわりにおしよせている。彼はその場を逃げ出して、静かにもの思いにふけりたいと思った。
「たとえヘレンが、あの男といっしょにいるつもりだからって、それがどうしたというんだ。おれに何の関係があるというんだ」と彼はうめくようにつぶやくと、大通りを通ってハーン雑貨店から横丁へと抜けた。
ジョージはまったく淋しさに堪えられなかった。泣けるものなら思いきり泣いてみたかった。だが彼の誇りは、足早に、大手をふりながら彼を歩かせた。彼はウエストリー・モイヤーの貸馬車小屋までくると、物陰に立ちどまった。すぐ傍では大勢が、今日の市の競馬でウエストリーの種馬「トニイ・チップ」が、午後の勝負に勝ったことを語っていた。馬小屋の前には人だかりがしていた。そこをウエストリーが意気揚々と、地面を鞭で叩きながら歩いていた。そのたびにかすかな埃の立ち昇るのが、ランプの光に透いて見えた。
「ちぇッ、おしゃべりなんかやめたがいいぜ」とウエストリーは叫んだ。「わたしゃ平気でしたよ。わたしゃ、いつでも勝てるってことがわかってましたからな。わたしゃびくともしませんでした」
ふだんのジョージならば、馬車屋のモイヤーの自慢話はとても面白がって聞くのであったが、今はかえって腹を立ててしまった。彼はぐるりときびすをかえすと、足早に通りを立ち去った。
「老いぼれの口先野郎め」彼は唾を吐いた。「何だってペチャクチャ自慢ばかりしてやがるんだ。何だっておしゃべりをやめないんだ」
ジョージは空地へと歩いて行った。そして急いで行くうちに、がらくたの積み上げた上に倒れた。空樽から突きでた釘がズボンを引き裂いた。彼は地面にすわりこんで口きたなくののしった。ピンでズボンのほころびをつくろうと、立ちあがって歩き出した。
「おれはヘレン・ホワイトの家へ行こう。きっと行くのだ。おれはまっすぐに入って行こう。おれは彼女に会いたいというのだ。まっすぐ家へ入って行ってすわりこむのだ。きっとやるんだ」と彼は叫んだ、そして柵を乗り越えると、かけ出した。
銀行家ホワイトの家のベランダで、ヘレンは、おちつかない心乱れた気持でいた。教授は娘と母親との間に腰を下していた。教授の話は娘を疲れさせた。彼もまたオハイオ州の町で育った男だったが、都会人らしいふうをよそおうとしていた。彼は自分をコスモポリタンに見せかけようとした。
「あなた方にこういうじみな町へ案内していただいたことを感謝いたしますよ。まったく、私の学校の生徒たちは大半こういう所から来ているんですからなあ」と彼はいった。
「こういう所で一日を過ごせたのも、まったく奥さん、あなたの御好意ですよ」彼はヘレンの方を向いて笑った。
「あなたの生活というものは、まだこの町の生活と密着に結ばれあっているのですね?」と彼はたずねた。「あなたの興味をひくような方が、この町にはたくさんおられるでしょうね?」少女にとっては彼の声はもったいぶって、重々しいものに思われた。
ヘレンは立ちあがって、家の中へ入って行った。裏庭に通ずる戸口の所で、彼女はふと立ちどまると耳を傾けた。彼女の母が語りはじめた。
「この土地には、ヘレンのような育ちの娘とお交際《つきあい》させていいような人はだれもございませんでしてね」と彼女はいった。
ヘレンは家の裏手の階段をかけおりると裏庭に出た。彼女は闇の中につっ立ってからだを震わせた。彼女にとっては世の中はくだらないぺちゃくちゃとしゃべりあう人々にみちみちているように思われた。たまらなくなった彼女は、逆上したように庭の木戸をかけ抜けて、家の納屋の角を曲ると一条の小路へ走り出た。
「ジョージ! ジョージ! どこにいるの?」
いらだたしい興奮にみちて彼女は叫んだ。彼女は急にぴたりと足を止めると、一本の樹の幹にもたれかかって、ヒステリックに笑った。その闇の細道をジョージ・ウィラードがやって来たのだ。彼はまだぶつぶつとつぶやいていた。
「おれはまっすぐにヘレンの家へ入ってゆくのだ。おれはまっすぐに入ってすわりこむのだ」と彼はつぶやきながら、彼女の方に向ってやって来た。彼もまた急に立ちどまると、放心したように凝視した。
「さあ、おいで」と彼はいってヘレンの手をとった。二人は頭を垂れたまま、樹々の立ちならんだ街を歩いて行った。枯葉が、かさかさと足もとで鳴った。今や彼女を見いだした彼であったが、ジョージは何をしてよいのか、何をいっていいのか、少しも見当がつかずに迷っていた。
ワインズバーグの市場用地を登りつめたところに、なかば朽ちた古い見晴し台があった。それは一度も塗りかえられたこともなく、板もみんな形をくずして反りかえっていた。市場用地は、ワイン・クリークの流れの谷つづきの低い丘の頂きにあった。そして見晴し台から夜になると、穀物畑を越して町の光が空に映りはえているのがながめられた。
ジョージとヘレンは、水道用貯水池のそばを通った小道から、丘を登って市場用地へやって来た。あの町の雑踏の中で、若い男の心に訪れていた孤独の気持がふたたび湧きおこってきて、さらにヘレンの存在によってその気持をつよめられていった。そして彼の気持はまたそのまま彼女の気持ともなった。
青春の心はつねに二つの力が相闘っている。熱情的な周囲を顧慮しない心の小動物は、周囲を顧み過去をふりかえる心と相争っている。そして、ジョージ・ウィラードをとらえたのはより年をとった、より世なれた心であった。彼の心を感じながらヘレンは感激の気持に満ちて彼のそばを歩いて行った。見晴し台までくると、二人は屋根の下までよじのぼって長いベンチ風の腰掛けに腰をおろした。
その年の定期市が終ってしまった一夜、中西部地方の町はずれに立った市場用地に入って行った人々は、必ずやいろいろな長く記憶にとどまるような経験を得たことであろう。その感動はけっして永く忘れ去ることのできないものであろう。いたるところ、そこにもここにも幽霊がいる、死人ではなく生きた人々の幽霊が、過ぎ去ったその日一日じゅう、ここには町から、田舎から人々がなだれこんできたのだ。女房子供をつれた農夫たち、何百軒というささやかな木造小屋の住人たちが残らず見晴し台の板がこいの中に集ってきたのだ。娘たちは笑いさんざめき、ひげの生えた親爺連中は暮し向きの話に花を咲かせた。ここには生命が満ちあふれるばかりに満たされていたのだ。それは生命によってうずき、のたくっていたのだ。
だが、今や夜が訪れてそれらの生命はすべて消え去って行った。沈黙はほとんど恐怖をいざなうばかりである。あるものはわれしらず木の幹のかげに黙々と身をかくし、その心にひそむ回顧的な精神が強くあらわれる。ある者は生命の無意味なことを思って身震いし、また一方では同時に、この町の人々が自分に親しい人々であるならば、彼は生命にたいする愛着にヒシヒシと心を打たれ、涙を流すのである。
見晴し台の屋根の下の暗闇のなか、ジョージ・ウィラードはヘレンのそばに腰をおろした。そして、人間の実存という大きな規模の中にあっての彼自らの生命の意味なきことを強く強くその胸に感じた。いま彼は、生活の計に追いまわされて、ごった返している、無数の数かぎりない人々の存在に焦慮を感じさせられていた町から離れてきたときに、彼の心のうちの焦燥はすっかり忘れさせられた。ヘレンのそばにいることは、彼の気持を更新し新鮮に生れ変らせた。優しい女の手が彼の生命の機械作用に微妙な調整を行なうことを助けてくれるかのように思われた。
彼は今日まで、たえず幾分の尊敬の念をもっていっしょに暮してきた町の人々のことを考えはじめた。彼はまたヘレンをも尊敬していた。彼は彼女を愛し彼女から愛されたいと思った。けれどもこのとき彼は彼女の女らしさから、自分の思いを乱されることは欲しなかった。闇の中で彼は静かに女の手を握りしめた。そして自分の方に身をもたせかけてくるヘレンの肩に手をおいた。風が吹き出した。そして彼は身をふるわせた。全力をつくして彼は、彼に訪れた気持を理解し、またその気持を持ちつづけてゆきたいと試みた。闇の中のその高台の上で、二つの奇異に感じやすい青春の原子《アトム》が、互いにしっかりと抱きあって、そして何ものかを待ちかまえていた。二つの心には同じ考えがあった。
「わたしは、この寂しいところにやってきて、そしてここに、わたしの相手がいる」これが二人の感情の本質であった。
ワインズバーグのにぎやかな一日は、いつか晩秋の長い夜となって更《ふ》けて行った。馬車は疲れた人々を乗せて、田舎道をことことと帰って行った。店員たちは歩道に並べた品物を運び入れ、店のドアに鍵をかけた。オペラ館には大勢の人々が見物にたかっていた。はるか本町通りの下手の方では、ヴィオリン弾きがその楽器の調子を合わせ、汗を流して一生懸命に床に踊り狂う若者のステップに合わせようと楽器をこすりたてていた。
見晴し台の闇の中でヘレン・ホワイトとジョージ・ウィラードは沈黙のうちに抱きあった。時おり、二人を結びつけていた魔術は破れて、二人は向いあってかすかな光の中でお互いの眼を見つめようと試みた。二人は接吻を交わした。だが、その感激は長く続かなかった。市場用地の上手のはずれで、数人の男が、その日の午後の競馬に出た馬の手あてをやっていた。男たちは火を焚き、釜《かま》の水を沸かしていた。彼らが火のそばを通るごとに、脚だけが赤く照らし出されて見えた。風の吹くたびに、小さな炎は狂ったように揺れ踊るのであった。
ジョージとヘレンは立ちあがって、闇の中を歩いて行った。二人は小径《こみち》をすぎ、まだ刈り込みもすまないトウモロコシ畑をすぎて行った。風はささやくように乾いたトウモロコシの葉を鳴らした。町へ帰る道すがら、しばし二人を捕えていた魔術はとけた。水道用貯水池の丘の頂まで来ると、二人はとある樹蔭《こかげ》に立ちどまった。そして、ジョージはふたたび手をヘレンの肩にまわした。彼女は彼を強く抱きしめた。それからまた二人はその衝動からすばやく身をひいた。二人は立ちどまって接吻を交わし、それから少し身を離して立った。
お互いの間の尊敬の念は二人の心のうちに大きく高まっていった。二人はともに当惑を感じていた。そしてその当惑の念から抜けだそうとするように二人は青春の野生へ身を落していった。二人は笑いを交わしながら互いに強く身を引きあった。純潔と純真な熱情によって結ばれた二人の世界は、男と女のそれでも、また少年と少女のそれでもなく、ただ感激に満たされた小さな動物のそれであった。
こうして二人は丘を下って行った。闇の中の二人は青春の世界のすばらしい二人の若者のようにたわむれた。ヘレンは素早く丘をかけおりて、ジョージの足をすくった。そしてジョージは倒れた。彼はころげまわり大声に叫んだ。笑いにからだをゆるがせながら彼は丘をまろびおりた。ヘレンも彼の後を追って走った。一瞬間、ヘレンは闇の中にじっと立ちどまった。
どんな成熟した女としての考えが彼女の心のうちにわきおこったのかは知る由もないが、丘の麓《ふもと》に着いた時、彼女はジョージの傍へきて、黙って彼の腕を抱えると、威厳のこもった沈黙のうちに彼に寄りそって歩いた。どういうわけだか説明もできないような理由で、二人の沈黙した夕べからいっしょに必要なものを捕えたのだ。大人にしろ少年にしろ、婦人にしろ少女にしろ、彼らは近代世界の成熟した男女の間の生活を可能ならしめるあのあるものを、しばしのあいだ捕えたのである。
[#改ページ]
出発
若者ジョージ・ウィラードは、朝の四時に寝床を離れた。四月であった。そして樹々の若葉が今やその固いつぼみから現われようとしているときだった。ワインズバーグの住宅街には、通りに沿って紅葉が植えてあった。そしてその種には翼があった。風が吹くたびにその種は狂わしげに渦《うず》まいて、空いちめんに舞い上り、そして通りに絨毯《じゅうたん》のように散りしいてゆくのであった。
ジョージは茶色の革鞄を持ってホテルの事務室へと階段を下りた。トランクの中にはすでに入用な品々が詰めこまれてあった。二時から彼は目をさましていた。そしてこれから出発する旅のことを、またその旅の終りにどんなものを見いだすであろうかを考えた。
ホテルの事務室にねることになっていたボーイはドアのそばの小さい吊床に横たわっていた。少年は口を開いて、元気にいびきを立てていた。
ジョージは吊床のそばをしのびやかに通りすぎると静かな人通りもない大通りへ歩み出た。東の空は暁の薄紅色にそまって、まばらな、星の輝いた空には、長い光の縞《しま》が立ちのぼっていた。
ワインズバーグのトランニョン街のはずれの最端の家を越えると、そこにはひろびろと畑がひろがっている。農夫たちは町に住んでいて、夕べになると、軽やかな馬車をきしらせながら町の家へと帰ってくる。畑には苺や小型の果物類が栽培されているのだ。
真夏の午後おそく、路上も畑も砂ぼこりにおおわれてしまったころには、煙のような夕霞が大きな水盤のような平地にいちめんにたちこめる。それを見渡すのはちょうど大海をながめ渡すようである。春になって大地が緑におおわれると、あたりのながめはまた変ってくる。平地は、ひろびろとした緑の玉突台となり、その上で小さな虫けらのような人間があちこちと働いている。
少年のころにもまた青年になってからも、ジョージ・ウィラードは、トランニョン街を歩きまわるのがつねだった。冬の夜、雪がいちめんに降りしいて、ただ月のみが彼を見おろしているとき、ジョージはよく野のひろがりのまっただ中につっ立っていたものであった。またさびしい風の吹く秋の日にも、虫の音に空気のふるう夏の夜も、彼はよくそこにいたものであった。その四月の朝には彼はもう一度そこへ行って、昔のように一人静かに、歩きまわりたいと思った。町から二マイルほど行くと、小さなせせらぎによって道は掘り下げられたように坂になっていた。彼はそこまでくると黙々として、もときた道を引きかえした。町の大通りへと戻ってきた時、店員たちは店の前の歩道を掃いていた。
「よう、ジョージさん。旅立ちの気持はいかが」と彼らはたずねた。
西行きの列車は、朝の七時四十五分にワインズバーグを出発するのだ。トム・リツルがその車掌だ。列車はクリーヴランドから、シカゴとニューヨークにその終点をもった幹線鉄道に連絡する。トムは鉄道仲間でいわれている「閑線」が持ち場だった。毎晩彼は家族のもとへ帰ってきた。春と秋には、日曜ごとに、エーリ湖で釣をして暮した。彼は丸い赤ら顔の男で、小さい青い眼をもっていた。彼は受持沿線の町の人たちを、ちょうど都会の人が自分のアパートの人たちを知っているよりも、もっとよく知っていた。
ジョージは七時にニュー・ウィラード・ハウスの前の小さな坂を下っていった。トム・ウィラードがジョージの鞄を運んでいた。息子はすでに父親よりも背が高かった。
停車場のプラットホームでは、みんなが、若者ジョージの手を握った。十人以上もの人たちが、彼をまちかまえていた。そして彼らは自分勝手な話に花をさかせていた。怠け者でときによると九時ごろまでも寝ているはずのウィル・ヘンダースンまでも、今日は床をぬけ出ていた。ジョージは当惑した。
ワインズバーグの郵便局に勤めているガートルード・イルモットという背の高い痩身《そうしん》の五十歳の老婆が、停車場のプラットホームの上をやって来た。彼女は今までジョージにはいっこう頓着しないふうだった。だが今、彼女は足を止めると手を差し出した。たった一言、彼女はだれもが感じていた言葉をいった。
「ご機嫌よう」彼女ははっきりそういうと、きびすを返してすたすたと立ち去った。
汽車が駅に入ってきたとき、ジョージは何だか救われたように感じた。彼は逃れるようにあわてて車内の人となった。ヘレン・ホワイトは別れの言葉を交わそうと、大通りをかけてきた。だが、車内で座席についていたジョージはそれに気づかなかった。汽車が動き出すと、トム・リツルはジョージの切符に鋏《はさみ》を入れて、にやりと笑った。
トムはむろんジョージをよく知っていた。そしてこの男がどういう冒険に出て行きつつあるのかもよく知っていた。だが、何も批評はのべたてなかった。トムは町から都会へと出て行く何千人ものジョージ・ウィラードを目にしていた。それは彼にとって日常の平凡な出来事にすぎなかった。喫煙車にはサンダスキー湾へ釣旅行に出かけようと、今しがた、トムを誘った男が乗っていた。彼はその招待をうけいれて、さらにその旅の詳しいことを語りたいと思っていた。
ジョージはぐるりと車内を見まわしてだれも見ていないのをたしかめると、ポケットから紙入れをとり出して、持ち金を勘定し始めた。彼の内心は新米者に見えないようにと思う心でいっぱいだった。別れ際の父親の言葉は、ほとんど大部分、彼の都会に着いてからの身の振り方についてであった。
「しっかりするんだぞ」トム・ウィラードはいった。
「いつも持ち金には気をつけろよ。要心しろよ。大事なことだ。だれにだって≪山出し≫だなぞと思われないようにしなよ」ジョージは金をかぞえ終ると、窓の外をながめた。そして汽車はまだワインズバーグの町を走っているのに驚かされた。
町を立って新しい人生の冒険へと旅立って行く若者は、いろいろのことを考えはじめた。だが、その考えは少しも大仰《おおぎょう》なものでも、ドラマチックなものでもなかった。母の死に関すること、ワインズバーグの出発、未来の都会生活の不安、等々、彼の生涯についての重大な、そして大きな展望はいまだ彼の心に訪れてはいなかった。
彼は小さな、かずかずの出来事を考えた――朝きまって、町の大通りを板の荷をはこんで行くターク・スモーレット、父のホテルに一晩泊った美しいガウンを着た背の高い婦人のこと、夏の夕べ手に松明《たいまつ》を持って通りをかけ歩き、ワインズバーグの街々のランプに灯をともして行くバッチ・ホイーラー、ワインズバーグ郵便局の窓口に立って封筒に切手を貼っていたヘレン・ホワイトのことなど。
若者の心は夢を求めて高まる情熱で、うっとりとなっていた。彼を見た者は、彼をべつにすばしこい男だとは思わなかったにちがいない。小さな、かずかずの思い出に心をうばわれて彼は眼を閉じ、そして座席に背をもたせかけた。永い間じっと彼はそうしていた。ふと気がついて身をおこした彼は、ふたたび窓の外へと眼をやった。そのときには、すでにワインズバーグの町は姿を消していた。そしてそこでの生活は彼の未来の大人の夢をいろどって行くための背景にすぎないものとなっていた。(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
シャーウッド・アンダスンは一八七六年九月十三日アメリカ中西部オハイオ州南西部の小都市カムデンで生まれた。父はもともと南部の出身であったが、南北戦争(一八六一〜六五)には北軍に加わって戦い、戦後は中西部へ出てきて、はじめは馬具製造販売の商売をやっていたが、生来のいわゆる怠け者で、商売よりむしろ人を集めてはおもしろおかしい話をする、いわゆる「ストーリー・テラー」の才を発揮して人々に愛好された。そんなふうなので、商売の方はうまくゆかず、のちには家のペンキぬりや看板書きとなって、各地を転々とすることになった。
この間の事情については、アンダスンの「回想録」(一九四二)や少年時代の自伝「ター」などにくわしいが、父のそうした「ストーリー・テラー」の才はアンダスンへも直接受けつがれて、これが彼自身の一種のトレード・マークともなった。この「ストーリー・テラー」の伝統は、アメリカの笑い話やばか話の伝統と同じように、アメリカ中西部や南部で十九世紀になると急速に各地にひろがって、新しい陽気なアメリカ人の一種の特質となった。彼の前にはマーク・トウェィンも、この伝統のなかから生まれた典型的にアメリカ的な作家であって、アンダスン自身も、マーク・トウェィンを彼の師とあおいでいたことは否定できない事実である。(このアンダスンのマーク・トウェィン、ことに彼の『ハックルベリー・フィン』崇拝は直接ヘミングウェイに受けつがれて、かの有名な「アメリカ近代文学は『ハック・フィン』からはじまる」のことばが生まれたのである)
もう一つこの問題について注意しておきたいことは、「ストーリー・テラー」の伝統は、もともと口づてのものであるから、文章がきわめて単純で、会話体であることが一つの大きな特徴である。またそれとともに、人生のよろこびや悲しみや、激情や愛情や怒りやしっとなどが、その単純なことばの間から、あるいは激しく、あるいはおだやかに、一種のリズムとなって流れ出ることも注意しなければならない。要するにマーク・トウェィンからアンダスンをへてヘミングウェイに至る「ストーリー・テラー」の伝統は、以上のような意味から今後ももっとくわしく調べなければならない問題を数多くふくんでいる。
話を前にもどせば、以上のような「怠け者」の父のもとで、各地をてんてんしながら、正規な教育も十分には受けられなかった彼は、また少年のころから新聞を売ったり、キャベツ畑で働いたり、競馬場で馬のせわをしたり、工場で働いたりした。そして一八九八年の米西戦争には、志願してアメリカ軍に加わり、キューバへ遠征したりしたし、また除隊後はオハイオ州のウィテンバーグ大学にしばらく籍をおいたこともあった。
その間すでにアンダスンは作家になろうというこころざしをかためて、シカゴの広告社につとめながら、勉強をつづけたが、また一方では、当時の中西部の大きな風潮に影響されて、実業家としてて身をたてたいという気持もあった。そして結婚した彼はオハイオ州北東部クリーヴランドに近い町エライリアで塗料製造工場を経営したこともある。だが、彼の文学に対する熱情は、事業に専念するにはあまりにも強いものがあった。一九一二年のある日、彼は塗料工場の事務室から漂然と出てゆくと、そのままシカゴへ出かけて、ふたたび工場へ帰ってくることはなかったと彼自身のべている。シカゴへ出た彼は、ふたたび広告社につとめながら、文学に専心しはじめた。
このころのシカゴは、新興の産業都市として急速に発展していたばかりではなく、また文学上でも、過去の硬化した殻をやぶって新しい文学を生み出そうとする努力がしんけんにつづけられていた。この新しいシカゴを中心とする文学運動を「小さな文芸復興」とよぶことがあるが、この運動の中心的な人物は、すでに『シスター・キャリー』(一九○○)や『ジェニー・ガーハート』(一九一一)を発表して大きく全米的に注目されていたセオドア・ドライサーをはじめ、弁護士から詩人になって、のちに『スプーン・リヴァ詩華集』(一九一五)で世界的に有名になったエドガー・リー・マスターズや、また文学雑誌『リトル・レヴュー』の編集者マーガレット・アンダスンや、作家フロイド・デルや詩人カール・サンドバーグなどがおり、これらの作家たちの刺激によって、アンダスンは詩や短編やエッセイを書きつづけ、一九一六年には処女作『ウィンディ・マクファーソンの息子』を、一九一七年には第二の長篇『行進する人々』を、また一九一八年には詩集『中部アメリカの歌』を出版した。だが、これらはいずれも文学作品としてはまだ習作の域を出ず、たいして大きな反響もよばなかった。
ところが一九一九年には、ここに訳出された『ワインズバーグ・オハイオ』が出版され、新しいアメリカ文学として全米的に当時大きな注目をあびた。そればかりではなく、この作はアンダスンの最大傑作として、また二十世紀アメリカの代表的な文学作品の一つとして、その後もひきつづいて世界的に愛読されている。
では、その理由は何かといえば、これについては数多くのことが言えると思われるが、なんといっても最も重要なことは、作品が全体として統一された形式と内容をもっていることであろう。すなわち、作品全体が一つの町(ワインズバーグ)に住む人々の生態であって、それが若いジャーナリストのジョージ・ウィラードによって統一的に眺められていること、つまり一種の俯瞰図として全体がみごとにまとめられていることが第一にあげられる。それとともに、ジョージは一種の形式上の統一をはかるための存在であって、ジョージの背後には作者アンダスン自身がひそかにかくれていて、登場人物一人一人のかくされた、秘密の世界をあばきだしてゆく(たとえば、「神の御力」や「先生」などがその好例である)。またある場合には、たとえば「手」のように登場人物自身がジョージに向かって、過去の秘密を打ちあけるという形で、人間の秘密の世界が顕示される場合もある。いずれにしろ、アンダスンの文学の最もいちじるしい特性(であって、同時に読者をもっともひきつける要素)は、表面上からは容易に察知されがたい人間生活の秘密の部分が、一つ一つの短編で強く読者の心を打つように顕示されてゆくことである。別のことばでいえば、人間の内的現実《インナー・リアリティ》――人間の心中にひそむよろこびや悲しみ、怒りや憤りやしっと、その他の感情や信仰や観念など――が、すらすらと読める会話体の文章の間から、いつか一種のグロテスクな姿をさえとってあらわれてくる。これは、いうまでもなくポーやメルヴィルやホーソンの文学の特質と共通するものであって、アンダスンはこの十九世紀アメリカ・ロマンチシズムの文学の最も特性的なものをいちはやく二十世紀に生かして、それを新しい文学手法(ストーリー・テラーの手法)と結びつけることによって、この傑作を生みだした。そればかりでなく彼は、その後の代表的なアメリカ作家ヘミングウェイやフォークナーやトマス・ウルフなどにも、そうした顕示の文学によって大きな影響力となったことは否定できない。
なお拙訳について一言すれば、これは最初昭和八年に出版され、長い間絶版となっていたが、昭和三十二年荒地出版から出た「現代アメリカ文学全集」の一冊として、改訂を加えて再出版された。それが今度また角川文庫に入れていただくことになったものである。