ラジオナメンティ…女のおしゃべり
ピエトロ・アレティーノ/結城豊太訳
目 次
第一日 修道女の生活
第二日 人妻の生活
第三日 娼婦たちの生活
解説
[#改ページ]
第一日 修道女の生活
アレティーノの「きまぐれな|おしゃべり《ラジオナメンティ》」の第一日が始まる。ここでは、ローマのナンナが、修道女たちの暮らしぶりを、いちじくの木陰でアントニアに語って聞かせる。
アントニア――どうしたの、ナンナ? そんな物思いに沈んだ顔をして、世界を支配している人の気に入られると思うの?
ナンナ――世界をですって?
アントニア――そうよ、世界をよ。考えこんだりするのはあたしに委《まか》せとけばいいのよ。あたしはね、梅毒のほかにはなんにも困るものはないのよ。あたしは貧乏で高慢だし、よくないことも言うけれど、神様の悪口は言わないつもりよ。
ナンナ――アントニア、誰《だれ》にも困ったことがあるのね。あなたが楽しいことばっかりと思っているところにもたくさんあるわ。信じられないくらいたくさんあるわ。この世の中だっていやな世の中だわ。ほんとよ、これ、ほんとよ。
アントニア――ほんとね、あたしにとってはいやな世の中ね。だけど、卵入り牛乳まで飲んでいるあんたにはそうじゃないわ。広場でも、ホテルでも、どこへいっても、聞こえるのは、ナンナがあそこにいる、ナンナがここにいる、という声ばかりよ。そしてあんたの家はいつも卵みたいに人でいっぱいだし、そしてローマじゅうがあんたを囲んで、大赦《たいしゃ》祭のときにハンガリア人が踊るようなマウル踊りを踊ってるじゃないの。
ナンナ――そうなのよ。だけどあたしは嬉《うれ》しくはないのよ。なんだかあたしね、自分は食卓の真中に坐《すわ》っていて目の前にお料理がたくさん並び、おなかも空《す》いているのに、お行儀よくするために自分は食べないでいる花嫁のような気がするわ。ねえ、マ・スール、たしかに、心はあるべきところについていないのね。もうたくさんよ。
アントニア――あんた、嘆いてるの?
ナンナ――我慢してるのよ!
アントニア――あんた、その理由がないのに嘆いてるのよ。気をつけないと、神様にほんとに嘆かなければならないようにされるわよ。
ナンナ――どうしてあたしが嘆いてはいけないの? 実は、娘のピッパが十六になったので、身の振り方を決めてやらなきゃならないんだけど、ある人は、「修道女にするといい。持参金がほとんどいらなくてすむし、おまけにカレンダーに聖女を一人加えることにもなるし」と言うのよ。別の人は、「亭主を持たせるがいい。どっちみち、あんたは金持ちなんだから、それで財産がどうということもないし」と言うのよ。また別の人は、すぐにも娼婦《しょうふ》にするがいいとわたしに奨めてこう言うの。「世の中は腐敗している。たとえもっとましにしたって、娼婦にすれば、娘を一気に貴婦人に仕立てることができるよ。そして、あんたの持っているものと、娘が間もなく稼《かせ》ぐものとで、娘は女王様にだってなれるよ」こんなだから、あたしも迷ってしまうし、ピッパも困ってるのよ。
アントニア――あんたの悩みなんて悩みのうちに入らないわ。夜、暖炉の前で靴《くつ》を脱いで、かゆいところを早くかきたいなと思っている人の悩みより、もっと呑気《のんき》なものよ。
困るのは、小麦の値上がり。辛いのは、ぶどう酒が切れること。苦しいのは家賃。死ぬほど辛いのは、煎《せん》じ薬をしょっちゅう呑んでも膿瘍《のうよう》も腫《は》れ物も治せず、どんな病気もなくせないことよ。だもの、そんな小さなことで心配しているあんたにびっくりしてしまうわよ。
ナンナ――どうしてびっくりするの?
アントニア――だって、ローマで生まれ育ったのなら、ピッパのことで悩むことなんかないはずだと思うからよ。ねえ、あんたも昔は修道女だったんでしょ?
ナンナ――そうよ。
アントニア――亭主は持ったことないの?
ナンナ――持ったことがあるわ。
アントニア――娼婦はしたことないの?
ナンナ――あるわよ。
アントニア――じゃあ、その三つの中で、一番いいものをどれか選べる?
ナンナ――とてもだめよ。
アントニア――どうしてだめなの?
ナンナ――だって、修道女も、亭主持ちの女も、娼婦も、昔とは暮らし振りがまるで違うもの。
アントニア――はつ、はっ、はっ、はっ! 人間の暮らしはいつも同じよ。いつだって、人間は、食べ、飲み、眠り、そして年をとってゆくものよ。いつだって、歩いたり、立ち止ったりするものよ。そして、女はいつだってあの割れ目からおしっこをするものよ。そこでね、あんたのころの修道女や、女房や、娼婦たちの暮らし振りを少し話していただけたら嬉しいわね。そしたらあたしはね、今度の四旬節《しじゅんせつ》には肉断ちをし、あんたの娘を何にしたらよいかをほんの二言三言《ふたことみこと》で解決してみせる。これは七つの教会にかけて誓うわ。だけど、その前に、|わけしり《ヽヽヽヽ》で、そういう人柄のくせに、娘を修道女にすることをどうしてためらうのか、それを話してくれない?
ナンナ――いいわよ。
アントニア――じゃ、どうぞ、話してね。どっちみち、今日はあたしたちの守護神の聖マグダラのマリアの日だもの、仕事はしないのよ。たとえ仕事をするにしても、三日分のパンとぶどう酒と塩漬《しおづ》けの肉はあるわ。
ナンナ――ほんと?
アントニア――ほんとよ。
ナンナ――じゃあ、今日は修道女たちの暮らしのこと、明日は亭主持ちの女たちの暮らしのこと、あさっては娼婦たちのことを話すわ。あたしのそばへ、楽にして坐ってね。
アントニア――ええ、楽にしてるわ。じゃあ、話を始めて。
ナンナ――主の魂を冒涜《ぼうとく》する言葉を吐きたいわ、なんだか。でも、あたしの体からあの厄介をなくしてくれたのだもの、そんなこと言ってはいけないわね。
アントニア――興奮しちゃだめよ。
ナンナ――ねえ、アントニア、修道女も女房も娼婦も十字路みたいなものよ。人びとはそこへやって来ると、どの道へ足を踏み入れようかとちょっと考える。そして、悪魔に誘われて、一番陰気くさい通りに入ってしまうこともときどきあるわ。信心深い心をもった父が母の考えを無視してあたしを修道女にした日も、ちょうどそれと同じだった。あんた、あたしの母を識《し》ってたわね? そりゃ、立派な人だったわ。
アントニア――そう、夢の中で識ったようなものね。そういえばあの人が机の陰で奇跡を行なった(あの人がそう言うのを聞いたから)のも知っているわ。それから、あんたのお父さんが巡邏《じゅんら》隊の仲間で、あんたのお母さんに惚《ほ》れて結婚したことも知ってるわ。
ナンナ――悲しいことを思い出させないでよ。ローマは、母が似合いの夫を失くして後家でいた頃のローマではもうなかったのよ。ところで、五月の一日、モナ・マリエッタ(これが母の名前だったの。もっとも人びとは愛称でベラ・ティーナって呼んでいたけれど)とセール・バルビエラッチョ(これが父の名前だったの)は、叔父《おじ》、祖父、従兄弟《いとこ》、甥《おい》、兄弟といった親族一同と、そのほかに何人かの友だちを集めて、修道院の中の教会へあたしを連れていったのよ。あたしは絹ずくめの服を着せられ、竜涎香《りゅうぜんこう》を全身に振りかけられ、金色の冠《かむ》り物の上にはばらとすみれの花で編まれた処女冠がのせられ、香りをしみこませた手袋をはめ、ビロードのスリッパをはいていたのよ。そして、あたしの記憶に間違いがなければ、あたしが首に下げていたパールや身につけていた衣服は、その少し前に売春婦救済所へ入ったパニーナのものだったのよ。
アントニア――ほかの人のもののはずはないわね。
ナンナ――こうして、それこそ花嫁のように飾りたてて、あたしは教会へ入っていったのよ。そこには数えきれないほどたくさんの人がいて、あたしが入っていくといっせいにあたしのほうを振り向いたの。その中の一人は、「神様はなんというべっぴんさんを嫁さんにするんだろう」と言っていたし、別の一人は、「こんなにきれいな娘を尼さんにするなんて、もったいない話だな」と言ってたわ。さらに別の一人はあたしを祝福し、別の一人はあたしにうっとりと見とれていたの。また別の一人は、「誰《だれ》か修道士が彼女を頂くことになるさ」と言っていたわ。でもあたしはこういった言葉に悪意は感じなかったのよ。そのとき、ひどく動物的な溜息《ためいき》があたしの耳に聞こえたの。溜息の声から、それが、この儀式のあいだじゅう泣いていた、あたしの愛人の一人の胸から出ていることが分かったのよ。
アントニア――まあ、修道女になる前に何人も愛人がいたの?。
ナンナ――よっぽどの間抜けだけよ、愛人がいなかったのは。でも、きれいな関係よ。このときあたしは前列の、全部の女の人たちの前へ坐らされたの。するとすぐにミサが始まったわ。それからあたしは、母のティーナと叔母のチャンポリーナのあいだへひざまずかされたの。すると一人の坊さんがオルガンに合わせて短い賛美歌を歌ったわ。ミサのあと、祭壇に置かれていたあたしの修道女服が清められると、使徒書を読んだ司祭と、福音書を読んだ司祭があたしを立たせ、主祭壇の段の上にもう一度ひざまずかせたの。すると、ミサを唱えた司祭があたしに聖水をかけ、それからほかの坊さんたちといっしょに「テ・デウム・ラウダムス」をはじめたくさんの聖歌を歌ってから、あたしの俗服を脱がせ、それから聖服を着せたの。人びとはといえば、押し合いへし合いしながら大騒ぎしていたわ。それはもう、誰かが、気が狂ってか、絶望からか、それともいたずらからか、閉じこめられたとき――あたしも一度したことがあるけれど――に、聖ピエトロや聖ヨハネで聞かれるのとそっくりよ。
アントニア――なるほど、たくさんの人びとに囲まれたあんたの姿が目に見えるようだわ。
ナンナ――儀式が終わり、「ベネディカムス」や「オレムス」や「ハレルヤ」に合わせてあたしの前で香がたかれると、献金箱と同じようなきしりを響かせて一枚の扉が開いたの。すると人びとはあたしを立たせ、その戸口のほうへあたしを導いたの。そこには、尼僧院長をはじめ二十人ばかりの修道女が待ちうけていたわ。尼僧院長を見ると、あたしはすぐに深くお辞儀をしたわ。すると尼僧院長はあたしの顔に接吻をし、それからあたしの両親と、その場でさめざめと泣いている全部の親類の人たちに、あたしには分からないことを何か言ったのよ。そのときに、不意に扉が閉まり、ひどく悲しげな叫び声が聞こえ、その声に誰もが胸をつかれるような思いをしたほどよ。
アントニア――それ、誰の叫び声だったの?
ナンナ――あたしの哀れな愛人の叫びだったの。この人、その翌日すぐに、ゾッコリ派だかフランチェスコ派だかの――あたしの記憶違いでなければ――修道僧になったのよ。
アントニア――かわいそうに。
ナンナ――とにかく、扉がすぐに閉められてしまって、あたしは肉親の人たちに別れの挨拶をするひまもないほどだったわ。このときあたしは生きたまま墓の中へ入るような気持ちだったし、目の前の女たちは苦行と断食で死んだ人のように思えたわ。このときあたしは、自分の肉親を思ってではなく、自分がかわいそうで泣いたわ。そうして、目を床に落とし、これからどういうことになるのだろうという思いにびくびくしながら、食堂へ入って行くと、たくさんの修道女たちが駆けよって来てあたしを抱きしめ、あたしをスール(姉妹)と呼び、あたしの顔を少し上げさせたの。
色艶《いろつや》もよく明るくて元気そうないくつかの顔を見ると、あたしも元気を取り戻し、それまでよりもしっかりした気持ちで修道女たちを見ながら、胸の中で思ったの。「きっと悪魔たちだって世間で言われるほどには醜くないんだわ」とね。そうするうちに、何人かの俗信徒を従えた司祭と修道僧の一団がそこへ入って来たの。それは、あたしがそれまで見た中で一番美しくて一番品がよくて一番朗らかな人びとだったわ。その一人ひとりがそれぞれ親しい修道女の手を執った姿は、天上の舞いを舞う天使たちさながらだったわ。
アントニア――天国の話はやめて。
ナンナ――じゃあ、ニンフとたわむれる恋人たちと言おうかしら。
アントニア――ああ、そのほうがいい例えよ。じゃあ、先を続けて。
ナンナ――そして、修道女たちの手を執ると、男たちは彼女たちにこの上なく甘い接吻をし、できるだけ甘く優しく振る舞おうと努めていたわ。
アントニア――で、あんたの見たところ、誰の接吻が一番甘かったの?
ナンナ――それはもちろん修道僧たちよ。
アントニア――どんなわけで?
ナンナ――ヴェネツィアの放浪|娼婦《しょうふ》の伝説に述べられている理由からよ。
アントニア――それから?
ナンナ――それから、あたしがそれまで見たこともないような立派なテーブルに向かって、一同腰を下ろしたの。上席には尼僧院長が坐《すわ》り、その左には男の僧院長、うしろには会計係の尼僧、そのわきには入会候補の青年が控えていたし、この人たちの向かいには香部屋係の修道女、その隣には修練女たちの先生がいたわ。その次には修道女、修道士、俗信徒と並び、テーブルの下《しも》席にはたくさんの僧や修道士らが居並んでいたの。あたしは僧院の聴罪司祭と説教師のあいだに坐らされたわ。間もなく、料理が運ばれたのだけれど、これが法王様だって食べたことがないような上等なものなのよ。人びとはそれまでのおしゃべりをそっちのけにして、口も舌もなくしてしまったみたいに黙々と食べ始め、長い間絶食を強いられていた蚕《かいこ》が、バビロニアのあのピラムスとティスベがその木の下でいつも楽しんでいたあの葉を猛然と食べだしたときと同じような音を立てるばかりだったのよ。神様がこの世であの人たちに付き添って下さったように、あの世でも付き添って下さいますことを。
アントニア――あんたの言ってるのは桑の木の葉のことじゃないの?
ナンナ――ほっ、ほっ、ほっほっ!
アントニア――どうして笑うの?
ナンナ――意地|汚《きたな》い修道士のことを笑ってるのよ。この人は、ラッパを吹く人のようにほっぺたを膨らませながら石臼《いしうす》を挽《ひ》いているうちに、徳利に口をつけ、全部飲み干してしまったのよ。ああ神様、彼をお赦《ゆる》し下さいますように。
アントニア――主よ、その男を締め殺して下さい。
ナンナ――そして、おなかがいっぱいになってくると、人びとはおしゃべりを始めたのだけど、まだ食事は終わっていないのに、四方八方から騒々しい声や物音が聞こえてくるナヴォーナ広場の市に立っているような気がしたものよ。そして、ほんとうに満腹すると、鶏の羽根の先だの、鶏冠《とさか》だの、頭だのをつまみ取り、男と女がそれをやったりもらったりし始めたの。まるで、つばめが雛《ひな》に餌《えさ》をやっている姿にそっくりよ。誰かが鶏のお尻《しり》を差し出したときのどっという笑い声も、そのことで起こった言い争いの様子も、とてもあんたに伝えることはできないわ。
アントニア――なんて淫らなの!
ナンナ――一人の修道女が自分の口の中で噛《か》んだものを親しい修道僧に口移しにしたのを見たときには、あたし吐きそうになったわ。
アントニア――いやらしい女!
ナンナ――こんなことをする者も出て、食べる喜びが終わってしまうと、今度はドイツ人の乾杯の真似《まね》を始めたの。まず、総会長が大きいグラスを手に取り、尼僧院長に同じようにするようにと促しながら、嘘《うそ》の誓いをするときのように一気にそれを呑《の》み干したの。このころにはもう、飲みすぎた酒のために、めいめいの目は鏡の面のようにきらきら光り、間もなく、息で曇ったダイヤモンドのように酒でかすんだこの人たちの目は、今にも閉じてしまいそうであり、全員がそこへ横になり、テーブルをベッドに変えてしまいかねない雰囲気《ふんいき》だったわ。かわいらしい少年がそこへ現われなかったら、もっとそうなっていたと思う。少年は、あたしなどそれまで見たこともないほど真白で上等な布で覆われた籠《かご》を手に下げていたわ。雪のような、それとも霜のような、それとも牛乳のような白さといったらよいのかしら。とにかく、その布の白さは十五夜の月にも優《まさ》るものだったわ。
アントニア――その籠は何だったの? その中には何が入っていたの?
ナンナ――まあまあ、落ち着いて。少年はナポリ風になったスペイン式のお辞儀をしながらこう言ったの。「皆々様に幸いがございますように」そして、さらにつけ加えて、「このすばらしい皆様の従僕が地上の楽園の果物を皆様にお届けいたします」そう言いながら籠の覆いをとると、その贈り物をテーブルに置いたの。すると、雷のとどろきのような爆笑がそこに起こったの。しかもね、その爆笑ときたら父親が永遠に目を閉じるのを見た家族がわっと泣き出すのとそっくりだったのよ。
アントニア――まあ、ずいぶん見事な喩《たと》えだこと!
ナンナ――そして、楽園の果物を見たとたんに、その前に早くも腿《もも》や、乳房や、頬《ほお》や、ふくらはぎなどを、掏摸《すり》の手がぼんやり者のポケットから財布をすりとるあの巧みさでもって撫でたりさすったりし始めていたいくつもの手が、その果物の上にいっせいに伸びたのよ。それは、聖燭《せいしょく》節の日に回廊《ロッジア》から投げられる蝋燭《ろうそく》に群衆がわっと飛びつくのとそっくりだったわ。
アントニア――どんな果物だったの、それ?
ナンナ――ヴェネツィアのムラーノで作られるガラスの果物なの。|あれ《ヽヽ》に似ているけれど、タンバリンにつけたら立派に見えそうな鈴が二つついていたところが違うわね。
アントニア――は、は、は、は、は! あんたのくちばしをつかんだわよ。あんたをつかまえたわよ。
ナンナ――そして、いちばんたくさん、いちばんたんまりつかんだ者は、ただ喜んだだけでなく、それこそ有頂天だったわ。誰もが自分でつかんだ分に唇をつけ、「これで、肉の誘惑を押えられる」と言っていたのよ。
アントニア――そんな種は悪魔に踏み潰《つぶ》されればいいのに。
ナンナ――何もしらないおぼこ娘の振りをし、果物を横目で見ていたあたしは、目では女中をうかがい、前足で、女中がうっかりとり残した肉をつかもうとするずるい猫《ねこ》みたいだったわ。あたしの隣の席にいた修道女は二つかみつかんだものの、あんまり食いしん坊だと思われたくなかったのか、その一つかみをあたしにくれたからよかったけれど、そうじゃなかったら、あたしもきっと手を伸ばしたと思うわ。やがて、尼僧院長が何かしゃべりながら笑って立ち上がると、一同もそれに習って立ち上がったの。院長が食卓でこのとき唱えた祈りは、ラテン語ではなくて俗語だったわ。
アントニア――そんな祈りのことなんかどうでもいいわよ。立ち上がって、それでみんなどこへ行ったの?
ナンナ――同じ階の、大きな部屋へ行ったの。絵がたくさん飾られている部屋だったわ。
アントニア――どんな絵があった? 四旬節の悔悛《かいしゅん》、それとも別のもの?
ナンナ――そうそう、悔悛ものよ。信心深い人なら、動かないで見とれてしまうような絵ばっかりよ。部屋は四つの壁面から成っていて、最初の壁には、ローマの娼婦の守護神と見られている聖ナフィッサの生活が描かれていたわ。優しさが全身に溢《あふ》れた十二歳のナフィッサが、お巡り、掏摸《すり》、司祭、淫売屋、その他それにふさわしい全部の人たちに彼女の持参財産を配っているところだったわ。そして、施すものが無くなると、つつましく、信仰心のかたまりのようなナフィッサは、身にまとうものもろくろくない姿で、たとえばシスト橋の真中に坐っていたわ。持っているものといえば、腰掛と筵《むしろ》と小犬と、先を割ったよしたけにはさんだ紙片――これで風を送ったり蝿《はえ》を追ったりするらしい――だけだったわ。
アントニア――彼女、何のために腰掛に掛けていたの?
ナンナ――裸の人びとに着物をまとわせるという仕事をし遂げるためにそうしていたのよ。さっきも言ったように、まだ幼い彼女が顔を高く上げ、口をあけて坐っているのよ。これを見た人は、次のような歌でも歌っているのかと思ったに違いないわ。
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あたしの恋人は何をしているの?
どうしてあの人は帰って来ないの?
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また、恥ずかしくてある事を頼めないでいる人のほうへ向いて立っている彼女の姿もあったわ。陽気で優しい彼女は男の前へ行き、不幸な人びとを慰める納屋へ彼を案内すると、まず男の服を脱がせ、靴下も脱がせて、例のものを見出すと、彼に心から優しくしたので、男はなんだか得意になってしまい、手綱を切って牝馬にのしかかる種馬のあの激しさで彼女の両脚の中に入りこんだのよ。けれども彼女は、男を正面から見るのはよくないと思ったのか、あるいは、彼女の生涯を話してくれた説教師が言ったように、真赤で、湯気が立つほどいら立っているあれを見据《みす》える勇気がなかったためか、男に堂々とお尻を向けてたわよ。
アントニア――彼女はそれを承知してしてたのかしら?
ナンナ――彼女が聖女だから承知してなかったとでもいうの?
アントニア――それはそうね。
ナンナ――そこには、彼女が優しくもてなし、神への愛を満足させたイスラエルの民が描かれていたわ。それから、そこに何があるかを確かめておいて、彼女が他の男から強引に手に入れたお金を一つかみつかんで立ち去った男たちも描かれていたわ。彼女を利用しておいてこういうことをするのは、自分を迎え入れてくれ、食事をくれ、着るものをくれるだけでなく、残る旅路に必要な路銀までくれる気前のいい人の家に泊まった者の裏切りと同じで、ひどいやり口ね。
アントニア――ああ、心清らかにして高潔な聖ナフィッサ様、あなた様の聖なる足跡を辿《たど》る力をわたくしにお与え下さい!
ナンナ――とにかく、彼女が扉や戸の内と外でかつてしたこと、生きているあいだじゅうしたことが、そこにそっくり描かれてあるのよ。そして、この墓所には、彼女が別の世界でまた逢えるようにこの世に残したお客たちが全部描かれているのよ。そしてね、彼女の墓の中には、五月のサラダ料理の中の草の種類にも及ばないくらい、たくさんの鍵《かぎ》があるのよ。
アントニア――そのうち、なんとしてでもその絵を見に行きたいわ。
ナンナ――二番目のは、ランポレッキョ〔唖《おし》のふりをして尼僧院に園丁として入りこみ、全部の修道女を|もの《ヽヽ》にした男。『デカメロン』中の一話〕式のマゼットの話よ。これはあたしの魂にかけて誓うけれど、このろくでなしを小屋の中へ案内する二人の姉妹はまるで生きているみたいよ。しかも、このろくでなしは、眠ったふりをしながら、肉のアンテナを立てて、シャツの裾《すそ》のあたりを帆みたいに持ちあげていたのよ。
アントニア――は、は、は、は、は!
ナンナ――仲間たちの色事に気がついたこの姉妹が、このことを尼僧院長に話すのではなしに、仲間たちと|ぐる《ヽヽ》になる決心をしたのを見て、誰も笑わないではいられなかったわね。そして、身振りで話すマゼットが同意したがっていないことに、誰も驚いていたわ。最後に人びとが足を停《と》めたのは、聡明な尼僧院長の前だったわ。院長は事をよいほうにとり、このけなげな男に、いっしょに夕食をし、そのあと自分と寝ようと誘うのよ。ところが男は、精力を使い果たすまいとして、夜はおしゃべりばかりして過ごし、国中が奇跡だと騒ぎ、おかげで尼僧院は聖列の中に加えられたほどなのよ。
アントニア――は、は、は、は、は!
ナンナ――あたしの記憶に間違いがなければ、三番目のところには、この教団に所属していた全部の修道女が描かれていて、どの修道女もめいめいの愛人と、自分が産んだ子供をそばにはべらせていたのよ。そして、めいめいの名前も全部記されているの。
アントニア――すばらしい記憶だこと!
ナンナ――最後のところに描かれていたのは、男と女が交わるときの全部の姿勢と全部のやり方よ。修道女たちはね、愛人と関係をもつ前に、そこに描かれている光景を実地にやってみることも義務づけられているの。なぜかというと、ベッドに入ったときにぎごちない振る舞いをすることのないようにするためなのよ。味もそっ気もなく、自分でも、辛いばかりで、オイルも塩も入っていないスープをすするときのような喜びしか感じられない女たちがよくいるものね。
アントニア――それじゃあ、|おすもう《ヽヽヽヽ》を教える先生が彼女たちには必要なんじゃない?
ナンナ――その先生はちゃんといるのよ。この先生が、箱でも、階段でも、椅子《いす》でも、テーブルでも、舗石でも、とにかくどれこれかまわず馬乗りになりたい欲情に男が駆られたときに女はどうすればよいかを教えるのよ。犬や、おうむや、むくどりや、かささぎを仕込む人がもっている辛抱づよさ――おぼこ修道女たちを仕込む人もこれをもつことが必要なのよ。手品師の手管《てくだ》だって、小鳥がその気がないときでもその足で立ち上がらせる薬よりは身につけるのがやさしいのよ。
アントニア――ほんと?
ナンナ――もちろんよ。それで、絵を眺《なが》めたり、議論をしたり、ふざけたりすることに倦《あ》きると、馬場を駆けるバルベリア(北アフリカ)産の馬の前で道が消えるように、あるいは、配膳室で食べている人の前で牛肉が、あるいはまた、腹ペコのお百姓の前でいちじくが消えるように、修道女も、修道士も、司祭も、平信徒も消えてしまったの。合唱隊の子供も、小坊主も、ガラスの器を持っていた者までも、すっかり姿を消してしまったのよ。あとへ残ったのはこのあたしと侯補修道士だけなの。ひとりぼっちになった気持ちであたしが黙っていると、「クリスティーナ修道女」と彼が声をかけたの(ヴェールをかぶるとすぐあたしはこう呼ばれることになったの)。「わたしがあなたを修道者独房へ案内することになっています。ここでなら、魂が肉体に勝利して救われるのです」あたしはまず格好をつけなければと思い、神妙そうに黙っていたの。すると修道士は、ガラスのソーセージをもっていたあたしの手を取ったのよ。あたしは危くそれを床に落とすところだったわ。そして横目でこっそりと修道士を見ずにはいられなかったわ。すると修道士は大胆にもあたしを抱き寄せて接吻をしたの。あたしだって、木の股からではなく、情愛の深い母親から生まれた女だもの、じっとしたまま下から見つめていたわ。
アントニア――慎み深く。
ナンナ――こうしてあたしは、犬に引かれる盲のように、その修道士に導かれていったの。そのあと? 彼はあたしをとある小部屋に案内したわ。その左右に続くどの部屋も、簡単な仕切りで区切られているだけの作りだったわ。しかも、壁の隙間《すきま》はほとんど塞《ふさ》いでなくて、目をつければ隣の部屋で何をしているかがはっきり見えるのよ。そこへ入ると、修道士は口を開き、あたしの美しさは仙女の美しさにも勝るものだと言ったのよ。そしてさらに、わが魂よ、わが心よ、いとしい血よ、うるわしい生活よ、とつぶやき、何か長たらしいことをしゃべったわ。それから彼は、自分の好きなようにあたしの体をベッドに寝かそうとさえしたの。そのとき、急に、チック、トック、タックという音がして、これを耳にした修道士は、くるみの実の山に群がっていたねずみたちが穀物倉の扉をいきなり開けられたときのようにびっくりしたの。慌《あわ》てふためいたねずみたちは自分たちの穴がどこにあるのかも忘れてしまうわね。これと同じように、仲間の人たちも、隠れようとして互いにぶつかり合いながら、副司教に見られまいとして慌てふためいたの。というのは、チック、トック、タックという音であたしたち全部をびっくりさせたのは、僧院の保護者である副司教だったのよ。それはまるで、草の中に顔を高くして坐っていた蛙《かえる》たちが人声か投げられた小石に驚いていっせいに水の中へ飛びこむのとそっくりだったわ。大寝室を通った副司教は、総会長とお楽しみの最中だった尼僧院長の部屋へもう少しで入るところで、扉の取手に手を伸ばしかけていたのよ。ちょうどそのとき、武勲詩を巧みに唱える若い修道女がその前にひざまずいたので、副司教は伸ばした手を下ろしてしまったというわけよ。
アントニア――まあ、扉を開けて中へ入ったら、それこそ見物《みもの》だったのに!
ナンナ――でも、機会はすぐに来たのよ。だって、副司教が腰を下ろすか下ろさないかのうちに……
アントニア――話がだんだん巧くなってきたわよ。
ナンナ――一人の僧会員が、司教がもう近くまで来ておられるという報告を届けたの。すると副司教は立ち上がり、司教を迎えに行く準備をするために大急ぎで司教館へいったの。そしてあたしたちには、何よりもまず歓迎の意を表わすために鐘を鳴らせと命令したわ。副司教が出かけたとみると、人びとはたちまちそれぞれの用事に戻ったのよ。つまり、それぞれの愛人のところへ戻ったこの人たちは、オリーブの実をつついて百姓に追い払われたむくどりにそっくりだったわ。
アントニア――早く肝心なことを話しなさいよ。あたし、乳母が乳房を口に含ませてくれるのを待っている赤児みたいにそれを待っているのよ。そんなに待たされるのは、四旬節の肉断ちをしたあとで卵の皮をむく人の聖土曜日よりもっと残酷よ。
ナンナ――じゃ、話すわね。ひとり残されていたあたしはもう修道士が好きになっていたの。だって、僧院の慣習に反くのはいけないことだと思ったからよ。だからあたしは、そこへ入った五、六時間前から聞き、見ていたことを考えていたの。そして、ガラスの乳棒を手に握ったまま、これを目でじっと見つめ始めたの。そのときのあたしの目付は、ポポロ教会にぶら下がっているあの恐ろしいとかげをはじめて見る人の目付だったと思うわね。あたしは、コルネート海岸で見た干上がった魚の不気味な骨を見るよりももっと驚嘆していたわ。あたしは修道女たちがこれをどうしてあんなに大騒ぎするのか想像できなかったのよ。こうして、思い惑っているときに、死人をも陽気にするのではないかと思われるような、ひどく騒々しい笑い声があたりに響いたの。しかも、その笑い声がいよいよ大きくなってゆくの。あたしは、その笑い声がどこから来るのか見届けてやろうと思い、立ち上がると、壁の割れ目に目を近づけたの。暗がりの中では両目よりは片目のほうがよく見えるので、左の目をつぶり、二枚の煉瓦《れんが》のあいだの割れ目に右の目をくっつけて、そして見たのは……は、は、は、は、は!
アントニア――何が見えたの? さあ、早く話してよ!
ナンナ――隣の独房の中に見たのは、四人の修道女と、総会長と、この神父から祭服を剥《は》ぎとり、その代わりにビロードの胴衣を着せている三人の若僧だったの。彼らは神父の剃髪《ていはつ》部に金色の球帽をかぶせ、その上に、クリスタルの下げ飾りがたくさんついており、白い羽飾りもついたビロードの角帽を載せたわ。最後に、神父の腰に剣を下げたわ。そのあと、総会長はいかにも満足げに、有名な傭兵隊長だったバルトロメオ・コリオーニみたいな物腰で歩き回りはじめたの。そのあいだに、修道女たちも、修道士たちも僧服を脱いでしまって、修道女の中の三人は修道士の服をまとい、修道士たちは反対に修道女たちの服を着こみ、最後の修道女は総会長のトーガに身を包んで、各修道院に指示を与える僧院長を真似ながら重々しい身ごなしで坐ったの。
アントニア――おもしろい話ね!
ナンナ――ほんとにおもしろくなるのは、これからなのよ。だって、父なる尊師は三人の修練士を呼び、その中の、やせていて背が高く、年より早く老けた感じの一人によりかかり、じっと動かずにいる雀《すずめ》をほかの者たちの手で巣から引っぱり出させたのだもの。そして、その中でいちばん抜け目がなくいちばん愛らしい修練士が雀を手のひらにのせ、その背中を撫《な》でさすったの。ほら、猫の尻尾《しっぽ》を撫でてやると、喉《のど》を鳴らしながら息を切らしはじめ、しまいにはもういても立ってもいられないというふうになるでしょう。あれと同じよ。雀がとさかを持ち上げると、老師はいちばん若くていちばんきれいな修道女に爪《つめ》を向け、その裾《すそ》を大きくまくって頭にかぶせると、その額を寝台の上につけさせたの。そうして、ミサ典書を指で静かに押しのけると、いかにも考え深げな表情でそのお尻にじっと見入ったのよ。そのお尻はやせすぎて肉が足りないということもなく、また脂肪が付きすぎているということもなくて、丸くてぽってりした可愛いお尻だったのよ。真中の割け目は少し震えているようでもあり、その肌《はだ》は生命ある象牙《ぞうげ》のように白く輝いていたのね。そしてね、若い女の顎《あご》や頬《ほお》に見られるあのえくぼが、そのきれいなお尻に見えていたのよ。その肌も、小麦粉の中で生まれ育ち、太ったねずみも顔負けという白さだったわ。この修道女の腰から腿《もも》もすべすべしていて、そこに手を載せれば、氷の上に立ったときよりもっとつるりと滑《すべ》り落ちるでしょうね。そして、体じゅう一本の毛も生えていないの。まるで卵の白身そっくりよ。
アントニア――すると、総会長様はそのすてきなお尻を眺めて一日すごしてしまったの?
ナンナ――空《むな》しくすごしたりはしないわよ。あらかじめつばで濡《ぬ》らしたその筆を絵具|皿《ざら》の中につけてから、修道女を、女たちが出産で苦しむときのように身悶《みもだ》えさせたの。そして、釘《くぎ》が孔《あな》の中にしっかりと収まっているように、うしろの若い修練士に合図をしたのよ。修練士は総会長のズボンをかかとのあたりまで下ろし、他の者たちの上にじっと目を据えている尊師のお尻に浣腸《かんちょう》をしたのよ。一方、若い修練士たちは二人の修道女をちょうどいい具合に寝台に寝かしつけ、臼《うす》の中で盛んにお餅《もち》をついているところだったの。気の毒なのはもう一人の修道女で、彼女はちょっと藪睨《やぶにら》みで、おまけに肌が黒いので、相手が一人も見つからず、湧き出る水を湯のようにたぎらせながら、部屋の壁に足の裏をつけた格好で床に坐り、太い牧童杖を、まるで刀を鞘《さや》に入れるようにして、彼女自身をもてあそんでいたのよ。あたしもね、人びとの快楽の匂《にお》いに参ってしまい、着物が古くなったときよりもっとくたくたになりながら、猫が一月ごろ屋根の上でお尻をこするあの格好で、しきりにあそこを手で撫でていたのよ。
アントニア――まあ、まあ! それで、けっきょく、どうなったの?
ナンナ――三十分ほども大奮闘したあげく、総会長が叫んだの。「みんないっしょにやるとしよう。さあ、小さい睾丸《こうがん》、おまえはわたしにキスしてくれ。それから、わたしの可愛い小鳩、おまえもだ」そうして、天使の口《ヽ》の中へ片手を差し入れ、もう一方の手で天使の丸い|りんご《ヽヽヽ》を撫でさすりながら、左右の若者たちに代わるがわるキスをし、展望台のあの大理石の立像が自分を苦しめる蛇《へび》たちに見せるのと同じしかめ面をしていたわ。やがて、寝台の上の修道女たちも、修練士たちも、総会長も、その下になっている修道女も、総会長のうしろにはりついている修練士も、拍子をとりながらやろうということで意見がまとまったの。楽隊員やかじやさんが調子を合わせてやるのと同じことよ。こうして、めいめいが合図に合わせて始めたの。「あああ!」とか、「もっときつく!」とか、「こっちを向いて!」とか、「あんたの優しい舌を入れて!」とか、「もっと、もっと!」とか、「抱いて、もっと抱いて!」とかいう声やら呻《うめ》きやらがいっせいに湧《わ》き上がったの。ある者は低い声だったし、他の者は高い声であり、別の者は引き裂くような声だったけれど、とにかく異様な合唱だったわ。ある者は白目を出し、他の者は激しい吐息を洩《も》らし、それこそ地震のときの家のように、腰掛けも椅子も寝台もどんぶりもひっきりなしに揺れ続けたのよ!
アントニア――まあ、すごい!
ナンナ――それから、八人の溜息《ためいき》がつぎつぎに聞こえてきたの。総会長と修道女たちと修練士たちの肝臓、肺、心臓、魂からいっせいに吹き出た溜息なものだからとっても強いもので、八つの松明《たいまつ》だってたちまち吹き消されたに違いないわ。こうしてこの人たちは、酒に酔ったように、くたくたとそこへ崩れてしまったの。それをただ見ていなければならないくやしさに神経が粉々になってしまったあたしはうまくその場から引き退り、腰を下ろすと、ガラスの一物に目を向けたのよ。
アントニア――ちょっと待って。溜息が八人のものだってことがどうして分かるの?
ナンナ――うるさいのね。あんたって。まあ、お聞きなさいよ。
アントニア――じゃ、もっと話して。
ナンナ――ガラスの一物を見ているうちに自分が昂奮《こうふん》していることを感じたの。もっとも、あたしの見たものは、カマルドリ会の隠者だって昂奮してしまいそうなものだったけれど。じっと見ているうちに、なんでもしたいことはしてしまえという気持ちになってしまったのよ。体の奥から溢れ出る肉の思いを押えることができなくなり、クリスタルの果物をどう使うかを教えてくれた修道女が言ったように、身の置きどころもなくなってしまったあたしは、必要に迫られて、鋤《すき》の柄の中におしっこをしてしまったの。
アントニア――どうやって?
ナンナ――生温い水を中にためるために特別にあいている孔からよ。でも、思わせぶりな話し方をする必要はないわね。衣の裾をくるりとまくると、その握りのところを股に近づけ、そうっと差し込んだのよ。その刺激はとっても強くて、|ぼう《ヽヽ》の頭は大きかったから、痛みと喜びがいっしょにきたけれど、喜びが痛みに打ち克って、しだいに容器は活気づいていったわ。全身汗みどろになり、シャルルマーニュに仕えた勇士パラディンのように振る舞いながら、その柄をさらに深いところまで押し込んだので、もう少しで見失うところだったわ。それが納まったときには、仕合わせな生よりももっと甘い死にとらえられるのではないかと思ったほどよ。そうしているあいだ、体じゅうが石鹸《せっけん》だらけになるような気分だったわ。やがてそれを取り出すと、じっとしていたのだけれど、そのときの気持ちは、皮膚病患者が腿を掻《か》く手を離したときの気持ちにそっくりだった。ふとその柄に目を向けると、なんと血だらけじゃないの。あたしは悲鳴といっしょに告白をしそうになったわ。
アントニア――どうして、ナンナ?
ナンナ――どうしてですって? だってそうでしょ。死んでしまうかもしれないような怪我《けが》をしたと思ったのよ。あそこへ手をあて、それからその手を見ると、盛装した司祭の手袋みたいに真赤なのよ。あたしは心配のあまり泣きだしてしまい、切り残された髪の中に指を入れながら、ロードス島の悲嘆に暮れたのよ。
アントニア――ここはローマだから、ローマの悲嘆ね。
ナンナ――そういってもいいわ。そして、この血を見て死んでしまうかもしれないと不安になったほかに、尼僧院長のことも心配だったのよ。
アントニア――どういうことで?
ナンナ――あたしの血を見、その理由を知ったら、あたしをふしだら者として縛りあげ、牢《ろう》へ入れてしまうだろうと思ったからよ。それに、この血の理由をほかの人たちに話すだけで、そのほかの罰は加えられないとしても、あたしが泣いたのは当たり前だと思わない?
アントニア――思わない。どうして?
ナンナ――どうして思わないの?
アントニア――あんたが見た修道女の乱行のことをいえば、あんたは無罪放免じゃないの。
ナンナ――そうね。あの修道女もあたしと同じように血だらけだったんだものね。たしかなのは、あたしがとても困った場所にいたということね。そうこうするうちに、部屋の扉をノックする音が聞こえたの。あたしは目をよく拭《ふ》き、立ち上がって扉を開けたの。そうしたら、夕食の知らせだったの。あたしはその朝たくさん食べていたし、血への恐れで食欲をなくしていたので、夕食は欲しくないと答え、扉を元通りに閉めて鍵をかけると、自分のあそこへもう一度手をやってみて、血が止まっていることを知ると、少し元気になり、さっきの隙間《すきま》のところへ戻ったの。そのときはもう暗くなっていて、隣室の修道女たちが灯りをすでにつけていたので、その隙間からは光が洩れていたわ。もう一度目をつけて覗《のぞ》くと、誰もが裸になっていることが分かったわ。総会長、修道女たち、修練士たちが年寄りだったら、きっとあたしはこの人たちを冥界《めいかい》の貧しい魂たちといっしょのアダムとイヴのように見たでしょうね。でも、そんな比較は巫女《シビラ》に委せればいいわ。見ていると、総会長は、偽キリストの四人の修道者が食事をしている四角いテーブルの上に、ラッパの代わりに棒を手にもっているあの愛らしい若者を上らせたの。この若者はトランペット吹きがトランペットを口にもって行くように棒を口にもって行き、試合を告げたの。そしてタラタッタといってから、「バビロニアの大サルタンの布告により、すべての勇敢な競技者は槍《やり》を構えて直ちに競技場に登場せられたい。なお、槍をもっとも数多く折った競技者には無毛の皿が授与されるにつき、これを一晩中楽しんでよろしい。アーメン」って叫んだのよ。
アントニア――すばらしい布告じゃないの! その主人からきっと下書きを作ってもらったんだわね。さあ、先を話して、ナンナ。
ナンナ――こうして、試合を行なう順番に競技者たちが登場したわ。そして、さっきガラス片を食べていた、少し藪睨《やぶにら》みの黒んぼ女をお尻《しり》の槍的《やりまと》にして、彼らは籤《くじ》を引いたの。籤の結果、一番手はトランペット吹きということになり、彼は槍をりゅうりゅうとしごいたと見る間に、彼女の楯《たて》も砕けるばかりにそれを突きたてたのよ。その突きは三回分にも当たるものだったので、彼は大いに称賛を博したというわけ。
アントニア――ははははは!
ナンナ――次の番は総会長だったの。総会長は槍を構えてひたひたと歩み寄り、修道女の丸い環をぐさりとばかり突き立てたのよ。そして、畑と畑の畔《あぜ》のように、そのままじっと動かずにいたの。三番目は修道女だったけれど、女だから槍がないので、ガラス棒をつかむと、総会長のうしろめがけていきなり攻め立てたの。
アントニア――まあ!
ナンナ――その次の番の二人目の修練士は、一発で標的に矢を射込んだわ。もう一人の修道女は、玉が二つついている槍を使って最初の修道女を真似、修練士のまたぐらに狙《ねら》いをつけたのよ。修練士は|もり《ヽヽ》で突かれたうなぎのようにのたうちまわったわ。そして、最後の修練士と修道女の番になるんだけど、これがおかしいのよ。だって、この修道女は、その朝身につけてきた陰茎を中に包み隠していたんだもの。それから修練士も、それまでみんなの陰にいたんだけど、前へ進み出ると彼女のうしろから竿《さお》を打ちこんだんだもの。だから、サタンが魔王の謝肉祭用に焼かせた、地獄に堕ちた魂の串《くし》ざしそっくりの格好になったのよ!
アントニア――ははははは! なんていうお祭りなの!
ナンナ――この藪睨《やぶにら》みの修道女はとても陽気な性格だったので、めいめいが押したり引いたりして大奮闘をしているあいだ、とっても甘くて滑稽な言葉を口走っていたのよ。あたしはそれを聞いて、思わず噴きだしてしまい、壁の向こうの人たちにその笑い声が聞こえたかもしれないほどだったのよ。それであたしは少しうしろへ下がったのだけれど、しばらくすると誰かが唸《うな》るような声を出したので、もう一度|覗《のぞ》き孔《あな》へ目をつけてみると、布か何かで塞《ふさ》がれてしまっていて、この槍試合の結末がどうなったかも、誰が一等賞をとったかもけっきょく分からずじまいだったの。
アントニア――いちばんおもしろいところをとばしてしまうの?
ナンナ――あたしも見られなかったのだもの、そうするほかないのよ。でも、空豆と栗《くり》の実を撒《ま》くところが見られなかったのは、あたしとしてもこの上なく残念なのよ。だけど、もっと話すとね、あんまりおかしいのであたしがその孔から身を離しているあいだに、また聞こえたのよ。
アントニア――何が聞こえたの? 早く話してよ!
ナンナ――あたしの部屋の隙間から三つの部屋が見とおせたのよ。
アントニア――それじゃ、壁は隙間だらけだったのね。孔だらけなんていやね。
ナンナ――孔を塞ごうとはあまり考えていなかったみたいね。それに、修道女たちはお互いにのぞき合えることを喜んでいたんじゃないかしら。とにかく、激しい息づかいと呻《うめ》き声と、十人分かと思えるくらいの鼻息とが聞こえてきたのよ。あたしは息を呑《の》んで耳をすましたわ(人びとが楽しんでいる部屋とあたしの部屋との仕切りにぴったり身を寄せてよ)。耳をすますと、ささやきが聞こえるのよ。もう一度隙間に目を押し当てると、ぽってり太ったかわいらしい二人の修道女が両の脚を宙に上げている姿が見えるのよ。水々しくて真白な四本の太腿はいかにも柔らかそうで、ヨーグルトか何かのようだったわ。二人ともそれぞれガラスの棒を手にもっていて、その中の一人がこう言いだしたの。「こんなものであたしたちの欲望を満足させられるなんて思ったら大間違いだわ。こんなものには接吻も舌も、あそこに載せる手もないじゃないの。それでも、このまがい物であたしたちが喜びを感じるなら、これもそうすてたものでもないことになるのかもしれないわね。でも、こんなガラスの棒なんかで自分の若さを消耗させてしまうなら、やっぱりあたしたちは哀れな娘ということになるわね」すると相手の修道女がこう言うのよ。「ねえ、マ・スール、あたしといっしょに来ない?」「え、どこへ行くの?」「夜になったら、ここを脱け出して若い男とナポリヘ行くの。彼には仲間が一人いるから、その人があんたのお相手をするわ。こんな洞穴《ほらあな》、こんなお墓を逃げだして、若い女らしく楽しみましょうよ」この場合たくさんの言葉は必要でなく、相手はすぐに同意したの。話が決まると、二人はガラスの棒を壁に投げつけ、寝台から降りると、いちばんましな物を手早くまとめて手荷物にし、それから部屋を出ていったの。あたしはその場にじっとしていたわ。そのとき、ひどく奇妙な物音、手のひらで何かをたたくような音、顔を引っかき、髪をむしり、衣服を引き裂くような物音が聞こえたの。あたしはてっきり鐘楼が火事になったのかと思ったわ。もう一度隙間に目を押し当てると、見えたのは使徒エレミアさながらに悲嘆に暮れている尼僧院長の姿だったのよ。
アントニア――なんですって? 尼僧院長?
ナンナ――修道女たちの敬虔《けいけん》な母、そして僧院の保護者よ。
アントニア――どうしたっていうわけ?
ナンナ――あたしの知るかぎりでは、尼僧院長は聴聞司祭にひどい目にあわされたのよ。
アントニア――どんなふうに?
ナンナ――楽しみの真最中に、司祭が壜《びん》から栓《せん》を抜いてしまって、えぞねぎの鉢《はち》の中へそれを入れようとしたのよ。気の毒に、すっかり気分を出し、びしょ濡れになって恍惚《こうこつ》としていた尼僧院長は、相手の足元にひざまずいて、聖痕、苦悶、聖母の七喜、聖ジュリアーノの主祷文、むかつくような聖歌、東方の三人の博士、星々、サンタ・サントルームによって彼に嘆願したの。けれども、ネロもカインもユダも彼女の畑にねぎ玉を植えてはくれなかったのよ。その代わりに、恐ろしい顔付を見せながら、身振りと声でもって彼に対して背を向けさせ、彼女の頭を煖炉の上に載せさせて、陰険なまむしのように喘《あえ》ぎ、鯱《しゃち》のように口から泡《あわ》をふきながら、彼女に向かって穴掘り棒を差し入れたのよ。
アントニア――まあ、悪党!
ナンナ――そして彼のほうは、穴掘り棒を出したり入れたりして、千の絞首台にふさわしいほどの快楽を味わい、その棒の出たり入ったりするときの音を聞きながら恍惚としていたのよ。その音は、巡礼たちが道を行くときに彼らを待っていて、ときどき彼らの靴を奪ったりする、ねばっこい粘土がたてるあのぺちゃぺちゃという音にも似ていたというわけね。
アントニア――まあ、そんな男は八つ裂きにすべきだわ!
ナンナ――慰められないまま煖炉に頭を載せている尼僧院長は、デーモンの口の中の男色家の霊みたいだったわ。やがて、その祈祷《きとう》に心を動かされた神父が彼女の頭を上げさせ、串は抜かないまま、彼女を腰掛けまで運び、ハープシコードの鍵盤に触れる人でもこうまではすまいと思われるほどの熱心さで指を動かしての奮闘を始めたの。彼女のほうは体がきかなくなってしまったかのように、上体をうしろへのけぞらせ、聴聞司祭の唇を呑み、舌を食べようとしながら、牛の舌とたいして変わらない彼女の舌をすっかり伸ばしていたのよ。そして、スーツケースの端によりかかりながら、|やっとこ《ヽヽヽヽ》でつかみでもしたみたいに体をよじらせていたわ。
アントニア――まあ、あきれたわ!
ナンナ――こうして、臼《うす》を回そうとするこの運動を続けたあと、この聖なる男はその欲求を遂げたわけよ。そして、香水をふりかけ、女中が甘い蜂蜜《はちみつ》を拭《ふ》いたハンカチであれを拭《ぬぐ》い終わると、二人はちょっと喘いでいたあと、しっかり抱き合い、それから神父は彼女にこう言ったのよ。「ああ、わたしの雉子《きじ》よ、わたしの孔雀《くじゃく》よ、わたしの鳩《はと》よ、魂の中の魂よ、心の中の心よ、命の中の命よ、お前のナルシス、お前のガニュメデス、お前の天使は一度だけなりともお前のうしろの部分を自由にすることはできなかったのか?」すると彼女のほうはこう答えたのよ。「わたしの鵞鳥《がちょう》よ、わたしの白鳥よ、わたしの鷹《たか》よ、慰めの中の慰めよ、快楽の中の快楽よ、希望の中の希望よ、あなたのニンフ、あなたの仕え女《め》、あなたの役者がその自然の中へあなたの自然を受け入れなければならなかったのは、あなたには正しいことに思えますか?」そして口を突き出すと相手の唇に歯を立て、そこに黒い歯のあとを残したのよ。相手はもちろん恐怖の悲鳴をあげたわ。
アントニア――なんという喜びかしら!
ナンナ――そのあと、用心深い尼僧院長は、相手の聖遺物を手ににぎると、自分の口をそれに近づけ、甘く優しくそれに口づけを始めたのよ。そしてしまいには夢中になってしまい、噛んだりかじったりし始めたの。小犬がたわむれにわたしたちの足や手を軽く噛み、わたしたちを泣き笑いさせるあのやり方とそっくり同じよ。こうして、この淫らな修道士はマドンナに大切なところをかじられて、喜びどころか、「あいた! あいた!」と悲鳴をあげていたのよ。
アントニア――じゃあ、その食いしんぼうは、修道士の肉を一かけらぐらい食いちぎってしまったんじゃないかしら?
ナンナ――尼僧院長が好意と思いやりをもってその偶像と楽しんでいるときに、部屋の戸口をそっとノックする音が聞こえたの。二人がそのときの姿勢のままで耳をすますと、かすれたような音の口笛が今度は聞こえたの。それで、それが聴聞司祭の息子だと分かり、すぐに戸が開けられて、彼は中へ入って来たの。自分たちの衣服の重いことが分かっていたので、二人は動こうともしなかったわ。しかも尼僧院長は、父親の|かわらひわ《ヽヽヽヽヽ》を手放し、息子の|ごしきひわ《ヽヽヽヽヽ》の翼をつかんで、自分の七絃琴を少年の弓でこすりたい思いに悶《もだ》えながらこう言ったのよ。「ねえ、あなた、お願いしたいことがあるのよ」すると、やくざ者の修道士が答えて、「わたしがしましょう。何をすればよいのですか?」「このチーズをわたしのおろし金でおろしたいのよ。ただしあなたが、あなたの賢い息子の太鼓の中にあなたの|ばち《ヽヽ》を入れるという条件つきよ。それから、あなたのお気に召すならば、馬たちに出走の合図をするわ。そうでなければ、いろいろな方法を試みてみて、どれか自分の好みに合うものを見つけるわ」その間に、ガラッソ修道士の手が男の子の小舟の帆をもってきていたの。尼僧院長はそれに気がつき、お尻を床につける格好に坐ると、鳥籠《とりかご》を大きく開き、その中にうぐいすを入れて、綱を引っぱったの。もちろん誰もが喜んだわ。やがて、尼僧院長は着物を下ろし、二人は弩《おおゆみ》を手放したの。そのあとに、この人たちが飲み干したお酒と、むさぼり食べたお菓子の量といったら、それはもう大へんなものよ。
アントニア――そんな凄《すご》いところを見ながら、男への欲望をどうして押えることができたの?
ナンナ――それはもう、この試合のあいだじゅう、よだれたらたらだったわよ。それに、あたしはガラスの短刀を振り続けていたし。
アントニア――きっと、カーネーションを嗅《か》ぐように、その匂《にお》いをときどき嗅《か》いでいたんでしょうね。
ナンナ――は、は、は、は、は! 凄いところを見せられてすっかり興奮していたので、便器の中のものを飲みほしてしまい、もう一度それを満たしてから、それに馬乗りになったのよ。どんなことでも経験したかったから。だって、そうでもしなければ、あたしたちには何も分からないのだもの。
アントニア――中々やるじゃない?
ナンナ――その背柱によりかかってそんなふうにしているうちに、自分の前の門がひどく陽気になって行くのを感じたわ。あたしの桶《おけ》を磨《みが》いてくれるタンポンのおかげね、きっと。そして、賛成と反対の両方を吟味しながらいろいろ考えたの。もし、あのときにその弟子やひどく満足気な尼僧院長と同じようにすでに着替えを終わらせていた聴聞司祭がいとま乞いをする声を聞いて、彼らが別れ際にするしぐさを見ようとあたしが走っていかなかったならば、あたしは犬を穴の中へ残しただろうと思うわ。尼僧院長は子供のように|だだ《ヽヽ》をこね、しなを作ってこう言ってたわ。「今度はいつ来て下さるの? ああ、神よ! わたしは誰に仕合わせを求めればよいのでしょうか? 誰をわたしは敬えばよいのでしょうか?」そして神父は、明日の夕方来るということを連祷と祷降節の説教で誓っていたわ。そして、まだ靴下をはいている若者は知る限りの言葉で彼女にさよならを言ったわ。そして、聴聞司祭が帰りがけに、普通は晩課に唱えられるあの「ぺーコラ・カンピ」を始めたのがあたしの耳に聞こえたわ。
アントニア――すけべ親爺、終課を唱える振りをしてたってわけね?
ナンナ――そのとおりなのよ! この人物が立ち去るとすぐ、外で騒がしい物音がしたわ。それをあたしは、ほかの連中も一日を終えて、勝ち誇った気分でそれぞれの家へ帰るところだと推測したわ。馬たちに小便をさせているその音は、八月の最初の雨のように思えたわ。
アントニア――血!
ナンナ――まあまあ、お聞きなさいよ。荷物をその前にまとめておいた二人が部屋に戻って来たのだけれど、彼女らがもぐもぐ言ったところによると、裏の戸口が尼僧院長の命令で閉められ鍵をかけられていたからだというの。この尼僧院長のことは、彼女たちは審判の日の司祭よりももっと憎んでいたのよ。でも、彼女たちは無駄に戻ってきたわけではなかったのね。だって、階段を降りるときに彼女たちは、僧院の仕事をするために二日前に雇われた騾馬《らば》引きがうたたねしているところを見ていたのね。そこで、この男をものにしようと狙いをつけて、一人がもう一人にこう言ったのよ。「あんた、あの男のそばへ行って台所へ薪《まき》を一抱え運んで欲しいって言いなさいよ。そしたらあんたを料理女と思ってすぐに来るから。そしたら、この部屋を指さして、薪をここへ入れてちょうだいって言うの。男が中へ入ったら、あとはわたしに委《まか》せといて」
この言葉を聞いたのはつんぼでもおしでもなかったから、すぐに実行されたのよ。こうしてあたしは新しい陰謀を発見したのよ。
アントニア――何を発見したの?
ナンナ――さっき言った部屋の脇《わき》に、とっても上品であでやかな作りの小部屋を発見したのよ。しかもそこには神々しいような修道女が二人いたの。彼女たちはすでに小さい食卓をとっても品よく用意していたわ。そして、麝香《じゃこう》鹿が麝香の匂《にお》いを発するよりももっとラヴェンデルの匂いを発散する白綾織《しろあやおり》らしい食卓布をそこに拡げると、その上に、三人分のナプキン、皿、ナイフ、フォークを並べたわ。それから、小さいかごからいろんな種類の花をとり、注意深く食卓を飾ったわ。真中には、月桂樹の大きい葉飾りが置かれ、そこには赤と白のバラの花がちりばめられていたの。そして、この葉飾りの中には、この日にやって来た司教代理の名前が、|るりじしゃ《ヽヽヽヽヽ》の花でかたどられていたわ。いくつもの鐘が力いっぱい打ち鳴らされ、そのドン、ディン、ドンという音でもって、話せばおもしろそうなことをあたしの耳から奪ってしまったのは、その司教冠のためよりはむしろこの人自身のためだったのよ。つまり、あたしの言うのは、結婚式は司教代理のために用意されていたということなのよ。だけど、このことはもっとあとになってから知ったのよ。その間、もう一人の修道女は食卓の四|隅《すみ》にそれぞれ美しい物を並べていたわ。一番目の隅には、すみれの花でソロモンの結び目が作られていたし、二番目の隅には|にわとこ《ヽヽヽヽ》の花で迷宮が、三番目の隅には赤いバラのハートが作られていて、このハートを、蕾《つぼみ》が穂の役をしているカーネーションの茎の形の槍が貫いていたわ。半ば開いたそのハートは血で彩られているみたいだった。その上には、紫草の花を用いて、泣いているために閉じられている目が描かれ、その目から流れる涙は、枝葉の先に出たばかりのオレンジの花の小さい蕾でできていたの。四番目の隅には、絡み合ったジャスミンの二本の手が描かれていたわ。そのあと、一方の修道女がコップをいちじくの葉で磨くと、クリスタルのコップはまるで銀のようになったわ。その間に、もう一人の修道女はリンネルのナプキンを敷き、その上にコップを背丈の順に並べたの。真中には、香料の混じった水がいっぱいの、梨《なし》形の水差しを置いたわ。手拭き用の寒冷紗《かんれいしゃ》のタオルが、司教のこめかみに垂れている布みたいに垂れていたわ。食器台のかたわらには、真鍮《しんちゅう》のバケツがあり、このバケツはそこへ自分の顔を映して眺《なが》められるほど、磨き砂や酢や手で磨かれていたのよ。縁まできれいな水がいっぱいのこのバケツの中には、二つの小壜《こびん》が入っていて、その中には白や赤のワインではなく、色の美しい黄玉とルビーが入っているように見えたわ。すべてをきちんと並べると、一方の修道女はパン(まるで、固めた綿のようだったわ)を取り出し、それを相手に渡したの。こうして二人はちょっと休息をしたのよ。
アントニア――本当は、二人の修道女が食卓を入念に飾りたてたのも、時間がたんまりある彼女たちのひま潰《つぶ》しだったのね。
ナンナ――腰を下ろしているうちに三時を告げる鐘が鳴ったのよ。すると機敏なほうがこう言ったの。「司教代理がいらっしゃるのはクリスマスのミサより後になるわよ」すると相手はそれに答えて、「お出での遅くなるのは当たり前よ。だって司教様は明日堅信の秘蹟《ひせき》をお授けなさるのだから、あの方を何かの用事にお使いになるもの」こうして二人は待つ身の退屈をまぎらすために、あれこれと取りとめのないことを話し始めたの。だけど、時間は刻々と過ぎて行き、二人は司教代理のことを取り沙汰《ざた》し始めたってわけ。そして、やくざとか豚とか腰抜けとかの祝祭日の名前が二人の話には混じったわ。そのうちに、一方がかまどに駆け寄ったのよ。そこには破裂しそうに太り返った二羽の鶏がぐつぐつと煮えていたのだけれど、その上へ、彼女らが育てた孔雀《くじゃく》の重みでたわんでいる焼き串《ぐし》が載せられていたのよ。その修道女は、もう一方の修道女が反対しなかったなら、それをそっくり窓から捨ててしまったところよ。二人が言い争っているあいだに、例の騾馬《らば》引きがやって来たのだけれど、首謀者の修道女からちゃんと指示を受けていた修道女の部屋へ薪《まき》をおろすはずのところを、薪を積むときにもその部屋をちゃんと教えられていたはずなのに、戸口を間違えてしまったのよ。そして、司教代理を待っている部屋へ入りこんだそのばか者は、かまわずそこへ薪をおろしてしまったわけね。
アントニア――その部屋の修道女たちはどうしたの?
ナンナ――あんたならどうする?
アントニア――あたしならいち早くチャンスをとらえたね。
ナンナ――彼女たちもそうしたのよ。思いがけない騾馬引きの闖入《ちんにゅう》を見て、鳩《はと》が豆をもらって喜ぶように大喜びした修道女二人は、王様を迎えるように彼を迎え入れ、折角の狐が罠《わな》から逃げないようにと扉に閂《かんぬき》をかけ、彼を自分ら二人のあいだに坐らせ、きれいなタオルで彼の顔や手足を拭《ふ》いてやったのよ。騾馬引きは、年は二十前後で、ひげがなく頬《ほお》がふくれていて、桝《ます》の底のような顔をし、腰は太く、体はがっちりとし、肌は真白で、要するに、自分の運命に対してあまりに無防備なあの失業者の一人だったのね。鶏や孔雀が並んでいる食卓につかされて、彼はこの上なく滑稽な振る舞いをして見せたのよ。大きな肉をたて続けに呑みこみ、酒は鯨《くじら》のようにがぶがぶと呑んだのよ。男をものにするときをそれこそ千秋の思いで待っていた修道女二人は、おなかの空《す》いていない人が料理を押しやるように、料理をかたわらへ押しやっていたわ。そして、隠遁生活をしている人が辛抱しきれなくなるように、もう我慢しきれなくなった、より欲情の深いほうの修道女が、子羊に襲いかかる禿鷹《はげたか》のように男に飛びかからなかったならば、彼はそのまま食事を続けていたわね、きっと。手を触れられるとすぐ、男は大ていの自慢の男でも恥じ入るような槍《やり》の一部をのぞかせたのよ。それは、城で吹き鳴らすラッパのような代物《しろもの》だったの。一人が棒を手に握っているあいだに、もう一人の修道女は食卓を脇へ押しのけたのよ。一人は腿《もも》のあいだに蟹《かに》をはさみながら、坐っている騾馬引きの笛の上にすっかりかぶさっていったの。そして、祝福を与えられてサン・タンジェロ城の橋の上でひしめき合う群衆のように彼女は押し進んだので、椅子を押しのける拍子に、騾馬引きと修道女は猿のようにひっくり返ってしまったのよ。閂も止め金から外《はず》れてしまったの。年とった騾馬のようにぶつぶつ言っていたもう一人の修道女は、頭に何も被っていない蟹が風邪を引きはすまいかと案じてそれを引きだして帽子を被せたのよ。釘《くぎ》を抜かれて怒ったもう一方の修道女は相手の喉《のど》をつかんで締め上げたので、彼女はその前に食べたわずかの物を吐いてしまったわ。だから、この修道女も腹を立て、もう事の結末などは考えずに、二人は物凄《ものすご》い取っ組み合いをしたというわけ。
アントニア――は、は、は、は、は!
ナンナ――このばか者が取っ組みあいを止めさせようとして立ち上がったちょうどそのときに、誰かの手がわたしの肩におかれ、「こんばんは、いとしい人よ」という押し殺した低い声がしたの。あたしはぞっとして思わず身震いしてしまったわ。闘いたけなわのそのけものたちの動きに夢中になって見とれていたところだもの、なおさらよ。ほかのことはまるで考えてなかったわ。誰かの手が肩に置かれたのを感じたあたしは、それでも振り返って、「どなたですか?」って言ったのよ。そして「助けて!」って叫ぼうとしたときに、そこに立っているのが、さっき司教を迎えにここを出ていった修練僧であることに気がついたの。ほっとしながらも、あたしはこう言ったの。「神父、わたしはあなたが考えているような女ではありません。どうか少し離れて下さい。すぐに離れて下さい。でないと、大声を出しますよ。いやです、わたしは。……すぐに離れて下さい。大声を出しますよ。いっそ死んだほうがましです。神様、お守り下さい。そんなこといやです、絶対いやです。ほんとにいやです。とんでもないわ。……すぐに知れてしまうことですよ」すると彼はこう言うのよ。「天使ケルビムの中に、玉座の中に、天使セラヒムの中にそんなに残酷なものが宿っているなどということがあるでしょうか? わたしはあなたの奴隷です。わたしはあなたを崇《あが》めているのです。あなたはわたしの祭壇であり、わたしの晩課であり、わたしの終課であり、わたしのミサなのですから。わたしに死ねというなら、ここに短刀があります。これでわたしの胸を抉《えぐ》って下さい。わたしのハートにあなたの優しい名前が金文字で書かれているのがきっと分かるでしょう」そう言いながら、わたしの手にその短刀を握らせようとするのよ。それは、刃の真中まで金銀を象嵌《ぞうがん》し、金の柄《つか》のついたとっても立派な短刀だったわ。あたしは絶対にそれを受け取らずに、返事もしないで顔をうつ向けていたの。すると彼は、受難曲を歌うときのような大声をあげるので、とうとうあたしのほうが負けてしまったのよ。
アントニア――人を殺したり毒を盛ったりするのはいちばんいけないわ。あんたの態度はとても立派よ。心のよい女はすべからくあんたを模範とすべきね。さあ、先を話して。
ナンナ――こわれた時計顔負けの、嘘《うそ》八百のこの前置きに負けてしまったあたしに、彼は枝の主日(復活祭直前の日曜日)を祝福するときのように「汝《なんじ》を讃えん」を唱えながら襲いかかったのよ。そして、その歌にあたしは参ってしまい、思わず夢中になってしまったのよ。だけど、このあとあたしにどうさせたいの、アントニア?
アントニア――きまってるじゃないのよ、ナンナ。
ナンナ――じゃあ、話すわね。だけど、これ本気にするかしら?
アントニア――どんなこと?
ナンナ――肉のあれのほうがガラスのよりもよかったということよ。
アントニア――大へんな秘密ね。
ナンナ――そうよ、この十字架にかけてよ。
アントニア――どうして誓わなきゃいけないの? あたしがあんたをこんなに信じているのに。
ナンナ――でも、あたしにひっかけたのよ、へんなもの……
アントニア――は、は、は、は、は!
ナンナ――なめくじのよだれみたいな、白いねばねばしたものよ。彼はあれをあたしに三度したのよ。二度は昔ふうに、一度は今ふうに。でも、こういうやり方、あたしは気に入らなかったわ。ほんとよ、まるで気に入らなかったわ。
アントニア――間違いよ、そんなの。
ナンナ――あたしが間違っているとすれば、それはあたしたちが新鮮だということよ。あれを考えだした人はすべてに倦《あ》きた人ね。もう何も欲望を感じないんだもの。例外は……まあ、あたしにそれを言わすつもり?
アントニア――いいじゃない、自分で言ったって。
ナンナ――とにかく、本題に戻りましょう。この修練僧はあたしの城塞《じょうさい》の中に二度、半月|堡《ほう》の中に一度その軍旗を突き立てたあと、夕食を食べたかとあたしに聞くのよ。あたしは彼の息づかいから、彼がユダヤ人の鵞鳥《がちょう》よりももっと満腹したらしいのが分かったので、はいと答えたの。すると彼はその膝《ひざ》の上にあたしの体をのせ、一方の腕をあたしの首に巻き、もう一方の手であたしの頬や乳房を愛撫し始めたのよ。しかも、この愛撫に合わせて、この上ないほど甘い接吻をしてくれるのよ。あたしは、修道院にこそほんとうの天国があるのだと考え、自分がこういう時に修道女になったことにひそかに感謝したほどよ。そのあと、彼は気紛れを起こし、修道院回りにあたしを連れ出す決心をして、そのあと二人で眠ろう、と言ったの。あたしは四つの部屋でたくさん奇跡を見たところだったから、ほかの部屋の別の奇跡も見たくてたまらなくなったわけ。そこで、彼は靴を脱ぎ、あたしはスリッパを脱いで、生卵の上を歩くときのようにぬき足さし足で、足音を忍ばせながら、手と手を取り合って歩いていったのよ。
アントニア――あと戻りなさい。
ナンナ――どうして?
アントニア――だって、騾馬引きの間違いのために待ちぼうけを食わされた二人の修道女のことを忘れてるじゃないの。
ナンナ――そのことなら心配ないのよ。ちゃんと別の仕方で楽しんだのだから。とにかく、あたしは波のように静かに、この素敵な愛人のあとをついて行ったのよ。すると、料理女の小部屋が不注意にも半開きになっているのが見えたの。中へちらりと目をやると、料理女が一人の巡礼と|うしろから《ヽヽヽヽヽ》楽しんでいるところが見えてしまったの。この巡礼はガリシアのサン・ヤコポ〔コンポステラ聖堂〕ヘ行くための施しを求めに来て、料理女に招き入れられたらしいの。男の長い上着は箱の上に畳んで載せられていて、巡礼|杖《づえ》は壁にたてかけられていたわ。そして、がらくたがいっぱい入っているポケットヘは猫《ねこ》が爪《つめ》をかけていたけれど、楽しみに夢中の二人はそんなことにはまるで頓着《とんちゃく》しなかったわ。水筒用のひょうたんもひっくり返って、中からぶどう酒が流れ出ていたわ。だけどあたしたちはこんなけだものじみた愛の前で時間を失ったりはしなかったけど、食料係の修道女の部屋の隙間の前では足をとめずにはいられなかったわ。この人は教区司祭が来ないことになってしまったのにひどく腹を立て、一本の紐《ひも》を梁《はり》にゆわえつけ、腰掛けに上ると、紐をずっこけ結びにして首に回し、足で腰掛けを蹴《け》とばすばかりに構え、「あんたを許すわ」と言おうとして口を開きかけたところへ、その司祭が戸口の前にやって来て、扉を内側へ押した途端に、愛人の異様な姿が目に入ったわけよ。司祭はそのそばへ走り寄り、彼女を両腕に抱きかかえながら言ったのよ。「これはどうしたということだね? じゃあ、わたしは、いとしいあなたに、二人の誓いの裏切者と見られているということかね? あなたの慎重さという徳はどこへいってしまったの?」この優しい言葉を聞くと、彼女は、気を失った人が顔に水をかけられると我に返るように、顔を上げ、寒さにかじかんだ手足が火の熱によみがえるように元気になったのよ。すると司祭は紐を外し腰掛けを押しのけ、彼女をベッドにそっと下ろしたの。すると彼女は長い接吻のあとにこう言ったわ。「わたしの願いはかなえられたのだわ。今度は、『彼女は訴え、解放された』という銘の入ったサン・ジミニャーノの聖像の前で、蝋《ろう》のようにとろかして欲しいわ」そして、そう言うと、自分の熊手の歯に情の深い司祭を引っかけたのよ。司祭は、山羊の最初の一口に飽きると、子山羊を注文したの。
アントニア――あんたに言おうと思ったことがあるのだけれど、思い出せないわ。まあ、自由に話しなさいよ。クはク、カはカ、ポはポ、フォはフォと言いなさいよ。そうじゃなしに、輪の中のひもとか、コロッセオの中の針とか、庭のにらとか、戸口の釘《くぎ》とか、錠前の中の鍵とか、臼《うす》の中の杵《きね》とか、巣の中のうぐいすとか、穴の中の木鍬《きぐわ》とか、弁の中の注射針とか、鞘《さや》の中の剣とか、そのほか杭《くい》とか、牧夫の杖《つえ》とか、|あかえい《ヽヽヽヽ》とか、あれとかこれとか、りんごとか、ミサ典書のページとか、あのこととか、この用事とか、あの話とか、槍《やり》とか、人参とか、大根とか……では誰にも分かってもらえないわよ。そうはそう、違うは違うとはっきり言いなさいよ。そうでないときは黙っていることね。
ナンナ――じゃああんた、恥じらいというものが悪所ではどんなに魅力のあるものか御存じないのね。
アントニア――まあ、あんたの好きなように話しなさいよ。怒らないで。
ナンナ――じゃあ話すけれど、子山羊を手に入れ、その肉を切るためにナイフを突き立てたあと、彼はその抜き差しを見て気違いのように楽しんだのね。突き差したり引き抜いたりしてのその喜びは、パン焼き職人がねり粉の中へ手を入れたり出したりするときの喜びと同じものだったのね。けっきょく、アルロット神父はその体重のありったけをかけて自分のひなげしの力を示したあと、今度はこの匂《にお》いのいい花をベッドに運び、その蝋の中に全力で印を押しながら、ベッドの頭から裾《すそ》へ、裾から頭へと、上になり下になりしながら転げ回ったのよ。あるときは修道女のほうがしているようでもあったし、またあるときは司祭のほうがしているようでもあったわ。「もっとして!」「もっともっと!」とくり返しながら二人は転げ回り、挙句《あげく》には、シーツの野原は湖に変わってしまったのよ。やがて二人はいっしょに倒れてしまい、壊れかけた|ふいご《ヽヽヽ》のように激しい息を吐《つ》きながら動かなくなってしまったのよ。そして神父が錠前から鍵を引き抜いたことをすさまじいおならで証明し、その音が修道院中に響くかと思われたときには、あたしたちも思わず噴き出しそうになり、慌《あわ》てて手を口へ持っていかなかったら、きっと気づかれてしまったところだったわね。
アントニア――は、は、は、は、は! それじゃあ誰だって顎《あご》がはずれるくらい笑わずにはいられないわよ。
ナンナ――あてもなく、手探《てさぐ》りでそこを離れたあたしたちは、修練女長がベッドの下から人足らしい男を引っ張り出そうとしているところを見てしまったの。人足はぼろの山よりもっと汚《きたな》い身なりだったわ。「ねえ、そこから出てよ、わたしのエットル・トロイアノ、わたしのオルランド。ほら、わたしはここよ。わたしはあんたの女中よ。そんなところへ押しこめて、ご免ね。でも、そうするほかなかったのよ」と彼女は人足に言っていたわ。すると人足はぼろ着を引っ張り上げながら身振りで何か答えたのね。だけど彼女にはその意味が呑みこめなかったので、勝手に解釈したわけ。すると人足は垣根《かきね》の中へ大鉈鎌《おおなたがま》を打ちこんで、彼女の目をくらませ、それから狼《おおかみ》の牙《きば》を彼女の唇につけたのだけど、それがとっても優しいものだから、大粒の涙が彼女の目から流れ落ちたのよ。熊の口の中にいちごを見ないために、あたしたちはそこを離れたの。
アントニア――それで、どこへいったの?
ナンナ――隙間らしいもののあるほうへ。その隙間からちょっと覗《のぞ》くと、規律の母、バイブルの伯母、旧約聖書の義母とも思える一人の修道女の姿が見えたの。彼女は、頭にはブラシのような、そして虱《しらみ》の卵がいっぱいの毛を二十本ほどはやし、額には無数のしわを刻み、濃い眉《まゆ》はまっしろで、目には何か黄色いものがこびりついていたわ。
アントニア――遠くから虱の卵まで見えたのなら、ずいぶん目がいいのね。
ナンナ――まあ、お聞きなさいよ。その修道女は、口からはよだれを、鼻からは鼻汁をたらし、顎《あご》は虱たかりの骨で作った櫛《くし》のようで、歯が二本にょっきりと生え、唇は薄くて、顎の先はジェノヴァ人の顎のようにとがっていて、おまけに、ライオンみたいにとげのような固そうな毛が生えているの。乳房は、玉のないペニスみたいで、まるで二本の紐《ひも》で胸元にくくりつけられているみたいだったわ。体はそれこそ骨と皮ばかりにやせこけ、お臍《へそ》だけが突き出ているの。あそこの周《まわ》りには、禿頭病《とくとうびょう》患者の頭のてっぺんに一か月も載っていたようなキャベツの葉っぱの飾りがついていたけれど。
アントニア――聖ノフリオだって、恥ずかしいところにはタベルナの環をつけていたものね。
ナンナ――そうよね。腿《もも》は羊皮紙でくるまれた糸巻きそっくりで、膝《ひざ》はがくがくで今にも転んでしまいそう。そして、あんたが彼女のふくらはぎ、腕、足などを想像しているあいだに、あたしは彼女の手の爪が鷲《わし》の爪のように長かったことを言っておくわ。だけど、その爪は汚物でひどく汚れていたのよ。その時刻に、この女は地面に上体を傾けて、星や、月や、四角や、丸や、文字や、その他わけのわからないものをあれこれと書いていたの。そして、そうしながら、悪魔本人さえも思い出せないくらいたくさんの名前で悪魔を呼んでいるの。それから、自分が描いたものの周りを三度回ってから、天に顔を向け、あいかわらず何かもぐもぐとつぶやき続けているのよ。そのあと、たくさんの針が中に刺されている蝋製の小像をとり(あんたが曼陀羅華《まんだらげ》を見たことがあるなら、それがどんなものかわかるんだけど)、それを火のすぐ近くにかざしたの。そして、|ほおじろ《ヽヽヽヽ》や雀《すずめ》を焼くときのようにそれをくるくる回しながら、次のようなことを口走るの。
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おお火よ、わたしの火よ、わたしのもとを逃げてゆく心ない男を焼き殺せ。
そして、それをいっそう激しく回しながら、さらにこう言うの。
わたしの激しい渇望が
愛の神の心に触れますように!
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そして、ますます昂奮《こうふん》してきた彼女は、目を床に据《す》えて、今度はこう口走るのよ。
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悪魔よ、わたしに歓喜を与えるか、
さもなければ、すぐに死を与えよ。
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そうするうちに、誰かが不意に戸口にノックしたのよ。それがね、台所で残飯あさりをしているところを見つかり、一目散に逃げて棒で殴られるのを免れた人のようなたたき方なの。彼女|呪文《じゅもん》をやめ、戸をあけたわ。
アントニア――そんな裸のままで?
ナンナ――そんな裸のままでよ。食べる物がないための飢えのように、魔法で強制されたこの気の毒な男は、相手がローザかアルコラーナででもあるかのように熱烈なしぐさで彼女の首に両腕を巻きつけ、宮庭の美女たちにソネットを献じる人びとと同じ言葉で彼女の美貌《びぼう》をたたえるのよ。するとこのお化け女はよろよろしながらも作り笑いを浮かべて、その男に言うのよ。「これがひとりで寝る肉なの?」って。
アントニア――まあ!
ナンナ――この年とった魔女の話であんたの胃をこれ以上むかつかせるのはやめるわ。彼女のことはこれ以上は知らないのよ。それ以上のことはもう何も見たくなかったから。魔法をかけられたこの平信徒、ひげが生え始めたばかりのその若者が、腰掛けの上で彼女に押しかぶさったとき、あたしはねずみを捕えまいとして目をつぶるマジノの猫の真似をしたのよ。
話を続けましょう。この老婆のあと、あたしたちは、先生格の仕立屋と取っ組み合っている女仕立屋のところへ行ったの。この女仕立屋は男をすっ裸にしてから、彼の口、乳、ばちと太鼓に接吻を始めたの。その接吻の仕方というのが、乳母が乳を呑ませる幼な子の顔や、小さい口や、小さいおててや、愛らしい小さい体や、おちんちんや、小さいお尻に接吻をするのと同じように、まるでそれらを吸い取ってしまおうとするみたいに夢中なの。
きっとあたしたちは、女仕立屋の服のひだが仕立屋の手で切り裂かれるところを見ようとして、隙間に目をつけたに違いないわ。だけどそのとき、叫び声が聞こえたの。そして、叫び声のあとに悲鳴が、悲鳴のあとに嘆息が、そして嘆息が終わると、ああ、神様という声が聞こえたのよ。これがあたしたちの気を顛倒《てんとう》させてしまったの。
アントニア――それっきりなの? つまらない。
ナンナ――まあ、そう言わないで、次の話を聞きなさいよ。あたしより六日前に、あたしと同じところへ、兄弟たちの手で送りこまれた人がいるんだけど、おぼこ娘とは言えないわ。なんというのかな、……神様からそっと聞いてよ。なんでも、人びとから聞いたところでは、この娘に夢中になっている土地の有力者の一人への警戒から、尼僧院長はこの修道女を一室に一人きりで入れておき、夜は中に閉じこめて、鍵は自分で持っていたのね。ところが、その若い彼氏は、その部屋の格子のはまった窓の一つが庭に面していることに気がつき、窓下の壁に爪を突き立てて這《は》いのぼり、格子にしがみついたまま、外から鵞鳥《がちょう》のようにつついていたのよ。そして、問題のちょうどその晩、彼はまた壁を這いのぼってきて、格子ごしに中から差しのべられた茶碗の中のものを飲んでいたの。もちろん、両腕を格子に巻きつけたままでよ。そして、まさに蜂蜜《はちみつ》がお菓子にかけられようとしたそのときに、彼の歓喜はたちまち薬よりも苦いものになってしまったのよ。
アントニア――どんなふうにして?
ナンナ――いよいよというその瞬間に彼は感極まってしまい、格子から手を放してしまったのよ。そして、バルコニーから屋根に落ち、屋根から鶏小屋の上に落ち、鶏小屋から地面に落ちたのよ。そして片方の腿を挫《くじ》いてしまったの。
アントニア――尼僧院長としたら、両方の腿を挫きたかったでしょうにね。その娘を売春宿に入れながら純潔を保たせようとしていたのだから。
ナンナ――尼僧院長は、どんな噂《うわさ》でも立てられるのを聞いたら僧院もろとも彼女を焼き殺すと脅したその兄弟たち怖さにそうしていたのだけれどもね。……本題に戻って、男が天から降ってきたのだから、僧院中が大騒ぎになったのはもちろんよ。誰もが窓際に駆けよって窓をあけ、月あかりに照らして、その気の毒な男がのびている姿を見つけたの。そこで、いつわりの妻たちのベッドから二人の平信徒を駆り出して庭へ出させ、怪我《けが》人を腕にかかえて外へ運び出させたのよ。この出来事がたちまちその地方一帯に噂になって広まったことは言うまでもないわ。この出来事のあと、やがて周囲が明るくなって人の挙動をうかがっているところを見つけられてはまずいと思い、自分の部屋へ帰りかけたあたしたちは、一人の僧の声を聞いたのよ。これが、全身|垢《あか》じみたすばらしい無頼の徒で、一晩中すごろくやトランプをして遊んだ修道女や修道士や平信徒たちに何かばか話を聞かせているのよ。人びとは飲み終わると、とびきりおもしろい話をしてくれとこの僧に頼んだわけ。ところでこの僧は、「では、笑いに始まって涙に終わる話をして進ぜよう。大きな犬の話です」と言い、一同がしーんと静かになると、話し始めたの。
「二日ほど前、広場を通りかかったわたしは、一匹の牝犬に目をとめて立ちどまったのです。牝犬はさかりがついているらしく、赤いさんごのように赤く膨れ上がったその陰部の匂《にお》いに引きよせられて、二ダースほどの牡犬どもがその尻にぞろぞろとつき従っていました。牡犬どもは代わるがわる牝犬の匂いをかぐのです。この光景に、子供たちが集まってきて、牡犬が牝犬のうしろにかぶさっては一、二度腰を動かし、別の犬がまた同じことをするのを見ておもしろがっていたのです。これを見てわたしがはなはだ坊主くさい思いに駆られたのは事実です。そのとき、一匹の野良犬が現われたのです。いかにもそのあたりのボスといった感じの犬でした。そいつがいきなり牡犬の一匹にがぶりと噛《か》みついたとみる間に地面に投げ倒し、また別の一匹に襲いかかったのです。襲われた犬は無事ではいられませんでした。残りの犬どもは右へ左へとばらばらに逃げ去りました。野良犬は背中を弓なりにそらせ、豚のように毛を逆立て、目をぎょろつかせ、歯を鳴らし、うなり声をあげ、口元に泡《あわ》を吹きだしながら、あまり見栄えのしない小さい牝犬を見つめていたのです。それから、牝犬の匂いをちょっとかいだあと、二突きほど彼女に加えたのです。すると牝犬は大きい犬のような声で吠《ほ》えました。それから彼女は野良犬の下をかいくぐって、走りだしたのです。それを遠くから見ていた牡犬たちは彼女のあとについて走りだしたのです。野良犬は怒って牝犬を追いかけました。牝犬は閉まっている門の下に穴を見つけ、うまくその中へもぐりこんだのです。ほかの牡犬たちもあとに続きました。野良犬は、体が大きくて他の犬たちのようにそこへもぐりこむことができないので、一匹だけ外へ残された格好になったのです。外に残された彼は、扉をかじり、地面を引っ掻《か》き、熱のあるライオンのように咆《ほ》えたてました。彼はしばらくそこにそうしていました。そうするうちに、さっきの牡犬の一匹が穴から這い出してきたのです。するとこの狂暴な野良犬はその犬に飛びかかり、片方の耳を食いちぎってしまったのです。その次に出てきた犬にはもっと手ひどい仕打ちを加えました。こうして一匹一匹出てくるところを噛みつき、投げ倒して、軍隊が近づくときに村人たちが村を空にするように、あたりに犬の姿を無くしてしまったのです。最後に牝犬が這い出てくると、彼はその喉《のど》もとにがぶりと噛みつき、牙を喉笛に突きさして息の根を止めてしまったのです。ただ、子供たちや、この修羅場《しゅらば》を見に駆けつけた近所の人びとには何もしなかったのです。そして、天にまで届くような遠咆えをしたのです」
ここまで聞くと、あたしたちはもう何ひとつ見ようとも聞こうともせずに、自分の部屋に戻り、ベッドの中で一マイルも走ったあとで、ぐっすりと眠りこんだのよ。
アントニア――ボッカッチョには悪いけれど、『デカメロン』の作者も顔負けってとこね。
ナンナ――そうは思わない。ただ、あたしの話は生きているのに、あの人の話は作りごとくさいということはあるわね。だけど、まだ話はあるのよ。
アントニア――どんな話?
ナンナ――ある日、あたしは午後の三時に起きたの。教区の雄鶏は、わけは知らないけれど、とっくに出かけていたわ。食事のときには、昨晩カファルナウム(混乱の地)へ出かけた修道女たちの顔を見て、あたしもにやりとしないではいられなかったの。ほんの僅《わず》かのあいだに彼女ら全部と親しくなっていたあたしは、あたしが他の人たちを見ていたのと同じように、他の人たちもあたしが若い修道士と楽しんでいるところをちゃんと見ていたのだということをはっきり知ったの。食事が終わると、一人の修道士が説教壇に上がったの。それは、ルッターのような顔立ちで、カンピドリオ丘からテスタッチョまでも届くくらいよく響くしっかりした声の持主だったの。その彼が修道女たちに、ダイアナの星をさえ改宗させるような説教をしたのよ。
アントニア――いったい、どんなことを言ったの?
ナンナ――彼が語ったのは、時間を無駄にすることほど自然にとってうとましいことはないという話なのよ。なぜなら――と彼は言うの――自然はわたしたちが自分の満足のために使うように時間を与えてくれているのだし、被造物が成長し殖えるのを見て喜んでいるのだから。とりわけ、老境に達した女が「世界よ、さようなら……」と言えるのを見るほど自然にとって嬉《うれ》しいことはないのですって。何よりも、自然はキューピッドの神に甘いお菓子を作って進ぜる若い修道女たちを、もっとも高貴な宝物として愛しているのですって。だからこそ、自然が彼女らに与える快楽は俗界の女たちのそれよりも千倍も大きいのですって。そしてさらに、修道士と修道女のあいだに生まれる子供は神の子であるって、声を大にして断言するのよ。愛の問題に移ると、彼はそれを蝿《はえ》か蟻《あり》のように扱い、そして自分の口から出たことは真理の口から出たことだと言おうとしてひどく興奮していたわ。六十センチほどの長さのガラスの器のひとつで(あんた、ちゃんと聞いてるの?)祝福を与えられると、彼は壇を降りたわ。そして体を冷やそうとして、馬が水を飲むようにぶどう酒を飲み、ぶどうの若枝を食うろばのようにがつがつとパイを食べていたわ。人びとは彼に、ある家族がその最初のミサを唱える人に贈るよりも、あるいは母親が結婚する娘に贈るよりももっとたくさんの贈り物をしたわ。彼が出て行くと、一同はそれぞれの仕方で遊び始めたの。あたしは自分の部屋へ入ったのだけど、ほどなく誰かが扉をノックしたの。扉をあけると、例の修道士の使いの男の子が立っていて、うやうやしいお辞儀をしてから、包みを一つと、三隅に羽根をつけられた矢の形に、もっとわかりよくいうなら、矢の先の矢じりの形に畳まれた手紙とを差し出すのよ。手紙の文面は――ちゃんと思い出せるかしら――待って、そう、こう書いてあったのよ――
[#ここから1字下げ]
わたしの涙で書かれ、わたしの吐息で乾いたこのわずかの言葉が、太陽の手の中に優しく握られんことを!
[#ここで字下げ終わり]
アントニア――すてきじゃない!
ナンナ――中には、長い言葉が書き連ねてあったわ。まず、聖堂で切られたあたしの髪のことからはじまり、彼はこれをもらい受けて首飾りを作ったと言い、それからあたしの顔は空よりも清らかだとたたえ、あたしの眉《まゆ》を櫛《くし》を作る黒檀《こくたん》のようだと言うの。そして、あたしの頬《ほお》は牛乳やクリームをも恥じ入らすのですって。さらに、あたしの歯は真珠の行列さながらであり、唇は柘榴《ざくろ》の花をもあざむくのですって。それから、あたしの手を長々とたたえてから、爪のことまでほめそやすのよ。そして、声は天来の妙音そのものであり、胸はあくまで白くあくまで豊かで、はっきり分かれた二つのりんごを抱いているのですって。そして最後には、あたしの泉にまで言い及んで、その水を無法にも飲んだと言い、この泉からはうるわしい水が豊かに湧《わ》き出で、そこを覆うしとねは絹さながらなのですって。メダルの裏側については一言も語らないで、それをたたえるにはかつての大詩人を生き返らせなければならないってことわっているのよ。そして最後に、あたしが自分の宝をあっさりと彼に与えた気立てのよさをほめそやして文を結び、かならずまた会いに行くって誓っているの。「さようなら、わたしのハートよ!」って書いたあと、あらまし次のようなことを書き添えていたわ――
[#ここから1字下げ]
あなたのうるわしい胸の中に生きる男は、あまりの愛にせきたてられてこの手紙を認《したた》めたのです。
[#ここで字下げ終わり]
アントニア――そんなすてきな文句を聞かされて、どこの女がスカートをまくらないでいられるかしら?
ナンナ――手紙を読むと、それを畳み、ふところにしまう前に、それに接吻をしたわ。それから、彼が届けてくれた包みを開いてみると、それがすてきなミサ典書なの。というより、ミサ典書だとあたしは思ったの。外は、愛を意味する緑色のビロードに包まれ、絹の紐《ひも》がかけてあるの。あたしはうっとりしながらそれを手に取り、目で愛撫をし、いたるところに接吻をし、これまでに見た何よりも立派だとほめそやし、あたしに代わってその主人を抱擁してくれるようにと言って使いの子を帰したの。ひとりになったあたしはすぐにその本を開いて『聖母マリアの賛歌』を読もうとしたの。すると目に映ったのは、学識ある修道女たちがいろいろな姿勢で楽しんでいるたくさんの絵だったのよ。その中の一つは、一人の修道女が底のない|ざる《ヽヽ》ごしに自分の「お店」を見せながら、一本の綱をつたって、並外れて大きい空豆の上に下りて行く絵で、あたしは思わず噴き出してしまい、その声があんまり大きかったので、一番親しくしている修道女の一人が駆けつけてきて「今の大笑いは何なの?」と聞くの。それで、わけを話し、その本を見せて二人でページをめくるうちに、二人ともわくわくしてしまい、ガラスの棒を使ってそういう姿勢の真似をしてみずにはいられなくなってしまったのよ。そこで、相手の修道女はこれから事を行なおうとしてあれを直立させた男とそっくりに、その棒を腿の付け根にあてがったの。あたしはサンタ・マリア橋の女たちがするようにあお向けになり、彼女の肩に両脚をかけたの。すると彼女はその棒をときには上手に、ときには下手にあたしに突き立て、あたしが求めていた喜びをすぐに味わわせてくれたの。そのあと今度はあたしが彼女の役をし、彼女があたしの役をしたわけ。
アントニア――ねえ、ナンナ、あんたの話を聞きながら、あたしにどんなことが起こると思う?
ナンナ――わからない。
アントニア――きまっているじゃない。あんたの話があんまり露骨なものだから、あたしは松露もあざみも食べていないのに漏らしちまったじゃないのよ。
ナンナ――遠回しな話し方をしたらやっぱりとがめるくせに。それにあんただって何よ。あんたのは、子供たちにお話をしていて、「わたしは鵞鳥《がちょう》のように白いものをもっています。でも、それは鵞鳥ではありません。それは何ですか?」というような話し方よ。
アントニア――あんたを面白がらせるためにそんなふうに話すのよ。曖昧《あいまい》な話し方をするのもそのためよ。
ナンナ――ありがとう。さて、話を続けましょう。二人であの遊びをしたあと、あたしたちは応接室で自分たちを人に見せたいという気持ちを起こしたの。だけど、そこへは入れないのよ。何しろ、全部の修道女が、日向《ひなた》へ来るとかげみたいに、そこへ駆けつけたんですものね。そして教会堂は、特別説教の日のサン・ピエトロ寺院が僧侶や兵士や普通の市民でいっぱいになるみたいにいっぱいだったんですもの。そして、信じたかったら信じていいけれど、あたしそこでヤコブ・エブレオを見かけたのよ。この男が尼僧院長ともっともらしい顔をしながら話し合っていたのよ。
アントニア――世界は腐敗しているわね。
ナンナ――あたしもそう思う。いやになったら、さっさと見限ることね。それから、ハンガリアで罠《わな》にかかったあの不様なトルコ人の一人も見かけたわ。
アントニア――その男、キリスト教徒になったのだろうね。
ナンナ――それは見ただけでわかったけれど、洗礼を受けたのかどうかはなんとも言えないわ。だけど、修道女たちの暮らしぶりをたった一日で話してきかせるなんて約束をしたあたしはばかだったわ。だって彼女たちは一時間のあいだにも、一年かけても話しきれないほどのことをするんですもの。お日様がもう少しで沈みそうだわ。急がなくっちゃ。だから、はしょって話すわね。おなかはうんと空いてるけれど、わずか四口で我慢し、水も一口だけ呑んで、馬に乗り、さあ出発といかなくてはね。
アントニア――ちょっとしゃべらせて。はじめにあんたは、今の世の中はあんたの時代とはもう違うって言ったわね。だからあたしは、あんたがかつての修道女のことや、聖人たちの本の中に書いてあることなどを話してくれるのだと思っていたのよ。
ナンナ――そんなこと言ったなら、それはあたしの間違いだわ。あたしは多分、修道女たちがもう昔のようではなくなったと言おうとしたのよ。
アントニア――じゃあ、間違ったのは心ではなくて、舌のほうなのね。
ナンナ――どちらでもお好きなように。あたしはもう憶《おぼ》えていないわ。もっと肝心な話をしましょうよ。まず言っておかなきゃならないのは、サタンにそそのかされたのか、あたしは勉強を終えたばかりの若い修道士に荷鞍《にぐら》を載せさせてしまっていたということよ。だけど、それまでの修道士には気をつけていたのよ、もちろん。そうするうちに、ある晩、この新しい愛人が天使祝詞《アヴェ・マリア》のあとに突然やって来てこういうの。「わたしのかわいい人よ。お願いだから、すぐにいっしょに来てくれないか。うんと楽しいところへ案内したいんだ。そこでは、天国のような音楽が聞けるだけではなしに、とっても素敵な芝居も見られるんだ」あたしは彼の手をかりながらすぐに修道服を脱ぎすて、全体に香水の匂《にお》いのしみこんだ別の服をまとったの。これは前の愛人が作ってくれた、男の子の服なのよ。そして、頭には緑色をし、ばら色の羽根と金の留金のついた絹の縁なし帽をかぶり、外套《がいとう》をはおると、彼といっしょに出かけたの。いくらも行かないうちに、彼は人一人がやっと通れるぐらいの幅で、出口のない、細長い路地に入りこんだの。そして彼が軽く口笛を鳴らすと、すぐに階段を降りるらしい足音がし、続いて戸が開かれて、あたしたちが一歩中へ入ると同時に、火のともった白いろうそくを手にもった少年が現われたの。ろうそくの明かりを頼りに階段を昇ると、豪華に飾りたてられた大きい部屋に出たわ。彼はあたしの手をとり、少年はろうそくをかざして、部屋のカーテンを上げると、「どうぞ、お入り下され」という声がし、あたしたちは中へ入ったの。すると、説教師が祝福を与えるときにその場の一同がそうするように、居合わせた人たち全部が帽子を手にして立ち上がったのよ。そこは、賭博宿《とばくやど》の定連のような、好色漢たちのたまり場だったのよ。だから、ここにはあらゆる種類の修道士、修道女が顔を揃《そろ》えていたわけよ。こうして一同はまた腰を下ろすと、あたしの面相のことをひそひそと話し始めたの。自分の口から言うのはなんだけど、アントニア、あたしきれいだったのよ。
アントニア――今だってとっても色っぽいんだもの、さぞかしきれいな娘だったでしょうよ、そのころは。
ナンナ――そしてね、そのあとすぐにすばらしい音楽が始まって、みんな興奮してしまったの。あたしなんか、魂の奥底まで震えてしまったわ。四人が一冊の本の上にかがみこんでいて、その中の一人は銀のリュートに合わせて歌っていたの。
うるわしく明るい目よ……
そのあと、フェラーラの女が来てとっても上手に踊ってみせ、みんなを感動させたわ。踊りながら、子山羊だってできないような見事な跳躍をするのよ。それが、とっても軽々と、とっても優雅なのよ。アントニア、これを見たら、ほかのものなんかもう何も見たくなくなるほどよ。|つぐみ《ヽヽヽ》みたいに左足をあげ、右足に全部の体重をかけながら、|こま《ヽヽ》みたいにくるくる回るのよ。回るのが速いものだから、スカートは風をはらんで傘のように丸く広がり、屋根の風見のように、あるいは子供たちが棒の先につけて走る紙の風車のように回るのよ。あれはほんとに素敵だった。
アントニア――ほんとに素敵ね。
ナンナ――は、は、は、は、は! あたしが笑うのはチャンポロのせがれと呼ばれていた別の男のことなのよ。これはヴェネチアの男で、戸の陰に隠れていて、たくさんの人の声を真似《まね》していたのよ。この男は人夫をしていたので、ベルガモの人たちは誰もが彼に一目置いていたの。この人夫があるとき一人の老女にマドンナのことを尋ねたの。すると老女は、「マドンナに何の用なの」と聞き返すので、「ちょっと話したいことがある」と彼は答え、それから悲しげな口調で、「マドンナ、マドンナ、わたしは死にそうです。臓物を煮る鍋《なべ》のように、下腹が沸《わ》きたっているのです」と言ったの。それから、人足はおよそ奇妙な嘆きを口にしたのよ。そうして、老女にさわったりしながら、彼女に肉断ちを中止させ、断食をやめさせるのにうってつけの言葉を、笑いながら口走るのよ。こうしてふざけている最中に、老女の夫が突然現われたの。これがもうろくしたじいさんなんだけど、人足に気がつくと、大騒ぎを始めたのよ。まるで、自分の庭のさくらんぼの木が荒らされるのに気がついた百姓のような騒ぎぶりだったわ。すると人足はいかにも愚か者らしい笑いとしぐさを見せながら、「おお、旦那《だんな》、おお、旦那、はっ、はっ、はっ、はっ!」と大声を出し、老人は、「出ていけ、さあ、酔っぱらい、ばか者!」と叫ぶのよ。そして、女中に靴を脱がしてもらいながら、女房に何やら話すのだけれど、それを聞いた人たちはおかしさのあまり小便をもらしてしまったほどなの。そのとき老人は腰に巻いていた革ひもをはずし、これからはガスのたまる食物はけっしてとらないという誓いをたてたの。それからベッドに寝かされ、いびきをかいて眠ってしまったのよ。すると、さっきの男が人夫の姿をしてまた現われ、マドンナとふざけたり笑ったりしたあと、彼女の毛皮の外套をとうとう脱がせてしまったというわけ。
アントニア――はっ、はっ、はっ、はっ!
ナンナ――あのときの騒ぎと、それに混じる人足の卑猥《ひわい》な言葉、そしてそれにぴったりのマドンナの、もっとして、という叫びを聞いたら、あんたもきっと大笑いしたはずよ。
晩課が終わると、あたしたちはホールヘ戻ったの。そこには、芝居をする人たちのための舞台ができていたの。幕が上がろうというときに、誰かが激しく扉をノックしたの。人声が騒がしかったから、ノックの仕方が弱かったら、聞こえないところだったわ。人びとが幕を上げるのをそのままにして、扉を開けてみると、そこに立っているのはあたしの前の愛人の修練僧だったの。偶然にそこを通りかかり、あたしの裏切りのことなど何も知らずに、扉をノックしたわけなの。そして中へ入ってきて、学生といちゃついているあたしを見てしまったのよ。すると、人を盲にしてしまうあの恐ろしい狂乱と、牝犬を殺したときと同じあの怒りに駆られて、彼は髪の毛をつかんであたしを部屋から引きずり出し、人びとが口ぐちに止めようとするのもきかずに(もっとも、学生だけは例外で、彼は修練僧の姿を見たとたんにねずみのように逃げ去ってしまったの)、あたしを階段からつき落としたの。そして、あたしに拳《こぶし》の雨を浴せながら、修道院へ連れ帰ると、全部の修道女たちの前で、あたしの尻に鞭《むち》を加えたの。もっともそれは、目下の者が教会に唾《つば》を吐きかけるようなことをしたときに修道士たちが示す、手心を加えた鞭だったけれども。お尻に受ける鞭も痛かったけれど、もっと辛かったのは尼僧院長が修練僧の肩をもったことだったわ。
傷に油を塗ったり包帯をするなどしながら一週間を過ごしたあと、あたしは、生きているあたしに会いたかったらすぐに来て欲しいと母に知らせたの。すぐにやって来た母は、あたしが別人のようになってしまっているのを見て、度を越した勤めや食断ちのためにあたしが病気になってしまったのだと考え、どんなことがあろうとすぐに家に引き取りたいと申し出たの。修道士も修道女もあれこれと取りなしたけれど、効き目はなかったわ。家に帰ると、あたしが誰を恐れるよりも母を恐れている父は、すぐに医者のところへ駆けつけようとするの。だけどあたしにはちゃんとしたわけがあって、父にそうはさせなかったのよ。あたしとしてはお尻に鞭のあとがはっきり残っているのを見られるわけにはゆかなかったもの。そこで、自分の肉体を苦しめるために、麻を梳《す》く櫛《くし》の上に坐《すわ》り、そのときにお尻に傷ができたのだと説明をしたの。このいんちきくさい説明を聞いて、母はあたしに目配せをしたわ。つまり、梳き櫛だったら、お尻を傷つけるだけではすまなかったはずだからよ。でも母は、黙っていたほうがよいと思ったらしく、何も言わなかったわ。
アントニア――ピッパを修道女にすることにあんたがあまり賛成しなかったわけがどうやら呑みこめたわ。それでいま思い出すけれど、あたしの母親は、ある修道院の修道女が三日にあげず嘘《うそ》の病気を唱えては医者の手で下袴《したばかま》の下へ溲瓶《しびん》を置いてもらっていたと言いふらしていたわ。
ナンナ――それが誰かも知ってるわよ。だけど、話が長くなるからそれは話さなかったのよ。さあ、今日はおしゃべりで終わってしまったわ。今晩、うちへ来てくれない?
アントニア――それでもいいわよ。
ナンナ――何か簡単なものを作るのを手伝って欲しいの。そして明日は、昼食のあと、またあたしのこのぶどう園の、この同じいちじくの木の下で、今度は人妻たちの暮らしぶりの話をしましょうよ。
アントニア――喜んで。
そう言うと、二人はスクローファ通りにあるナンナの家のほうへ歩きだした。ちょうど日の暮れるころにそこへ着くと、待っていたピッパはアントニアを激しく抱きしめた。
やがて、夕食の時間になり、彼女らは夕食をすませ、しばらくおしゃべりをしたあと、寝に帰った。
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第二日 人妻の生活
「ラジオナメンティ」の第二日が始まり、ナンナがアントニアに「人妻たちの生活」を語る。
あくる日、アントニアとナンナは、またぶどう園へ行き、昨日と同じいちじくの木の下に腰を下ろした。おしゃべりの扇で昼間の暑さを追い払う時刻だった。アントニアは膝《ひざ》の上に両手を拡げ、ナンナの方へ顔を向けながら言った。
アントニア――修道女たちのことではほんとによくわかったわ。だけど、昨夜ははじめにちょっと一眠りしたあと、それっきりもう眠れなくなって困ったわ。娘を修道女にしてしまえば、結婚させた娘たちと同じようにもう噛《か》むための歯なんてなくなるものと信じこんでいる愚かな母親や単純な父親たちのことが頭に浮かんでね。気の毒にね。だけど、彼女らも生身の体だってことを知ってなければいけないのよ。不自由ほど欲望を募らせるものはないということもね。あたしにしてからが、家にぶどう酒がないと、渇《かわ》きで死にそうな気分になるわ。そもそも、諺《ことわざ》をばかにしてはいけないのよね。修道女は修道士の、それどころか住民全部の女房だという諺もあるけれど、これだってほんとなのよね。あたしは昨日この諺を考えていなかったのよ。考えていたなら、修道女たちの不身持ちのことであんたにわざわざ話してもらわなくてもよかったのですものね。
ナンナ――でもいいじゃないの。
アントニア――目がさめてしまうと、夜が明けるのを待ちながら、ベッドの中でそわそわしてたのよ。すごろくやトランプをする人たちが、さいころかトランプが下へ落ちてしまったり、ろうそくが消えてしまったりして、落ちたものが見つかるか、新しいろうそくがともされるかするまでいろいろしているあれと同じ状態ね。でも、あんたのぶどう園へ来てよかったわ。その入口はいつもあたしに開かれているのね。ありがとう。あんたの考えを率直に聞いてみて、ほんとによかったわ。あんたの親切な答えを聞くことができたのですものね。ほんとに嬉《うれ》しいわ。
ところで、修道院でそんな目にあったことがわかったあと、あんたのことでお母さんはどうしたの?
ナンナ――母はね、行く先々であたしを結婚させたいのだと言い、あたしがどうして還俗《げんぞく》したかを説明するためにいろんなことをしゃべって歩いたのよ。そして、たくさんの人たちに、修道院には精霊が何百も付きまとっている、その数はシエナのケーキ・パンと同じくらいだというようなことを言うのよ。そうするうちに、この話がある男の耳に入って、この男がどんなことがあってもあたしを女房にしたいと言いだしたのよ。この男の暮らしが楽なものだから、あたしの父を尻に敷いていた母はこの結婚に賛成してしまったの。ここで話をはしょって、あたしがその男のお相手をしなければならない夜になった話をしましょうね。男は、お百姓が刈り入れを待つような気持ちでその晩を待っていたのよ。それにしても、母の悪賢いことったら! あたしがもう処女ではないことを知っていた母は、婚礼用の鶏の首を切り、その血を卵の殻に取り、どういうふうに振る舞えばよいかをあたしに教え、あたしをベッドに寝かすと、娘のピッパが出てきた口にそれを塗ったのよ。あたしが横になるとすぐ、彼もあたしのわきに横になり、あたしの体を抱き寄せると、あたしの竪琴《リラ》にさわろうとして手を伸ばしたの。そのときあたしはわざとベッドから下へ落ちたの。すると彼もベッドから落ち、あたしの体を抱き起こそうとするのよ。あたしは、「汚いことはしたくないんです。そっとしておいてください」って、涙声で言ったの。あたしのこの声を耳にして、母が手に明かりをもって部屋に入ってきたわ。そして、あたしを抱きしめて優しく愛撫するので、あたしも彼を迎える気になったの。その彼はあたしの腿をあけようとして、畑を耕すお百姓よりも汗をかいていたのよ。彼はあたしの下着を引き裂くと、無数の罵《ののし》りの言葉をあたしに投げつけたわ。やがてあたしは、懇願に負けたようにして、泣いたり怒ったりしながらとうとうバイオリンの箱を開いたの。すると彼は、あたしの肉への激しい欲望に身を震わせながら、あたしの上にかぶさってきたわ。そしてあたしの割れ目にゾンデを入れようとするの。だけど、あたしが乱暴に腰をゆすったので、彼はあたしの上から転がり落ちたの。だけど彼は我慢づよくもう一度あたしの上におおいかぶさり、あらためてゾンデをかざすと、強引に押しまくってとうとう果たしてしまったの。あたしのほうも、バターを塗られたパンを味わうと、もう我慢できなくなってしまい、愛撫された牝豚のように夢中になってしまったのよ。だけどあたしは、けものがあたしの宿所から出るまでは声をあげないでいたの。そして、さあというときに大声をだしたの。それを聞いて、近所の人びとが窓際に走りより、顔をのぞかせたほどよ。母もふたたび部屋に入って来て、シーツや彼のシャツを赤く染めた鶏の血を見て、あたしがはじめてことを行なったのだということを否応なしに彼に認めさせてしまったの。あくる朝は、近所中の人びとが集まって、あたしの美徳を讃えてくれたの。界隈《かいわい》中がその話でもちきりだったのよ。婚礼がすむと、あたしは教会やお祭りなどに顔を出しはじめ、いろんな人と親しくなり、あれこれの人たちの打明け話の聞き役になったのよ。
アントニア――あんたの話を聞いていると、なんだか混乱してしまうわ。
ナンナ――そうこうするうちに、お金持ちで美人の女性と親しくなったのよ。この人の旦那《だんな》は若くて気だてがよくて男っぷりのいい大商人で、しかも彼女に首ったけで、夜になると明日は女房が何を欲しがるだろうかと思いめぐらすほどなのよ。ある日あたしが彼女の部屋に彼女と二人でいたときに、何気なく顔を上げると、鍵孔《かぎあな》の向こうを、何かが稲妻のように素早く通るのを見たの。
アントニア――何だったの、それ?
ナンナ――瞬間のことだったけれど、誰か人の影らしいことはあたし見てとったの。
アントニア――いいじゃない!
ナンナ――あたしの目の動きに彼女も気がついたの。あたしが何を見ているかに彼女が気がつき、彼女が気がついたことにあたしも気がついたの。あたしは彼女を見つめ、彼女もあたしを見つめているの。それであたしが、「ご主人はいつお帰りになるの? 田舎のほうへ行かれたということだけれど」と尋ねると、「神様のご意志のあるときに帰るでしょ。でも、あたしが望むときというのなら、いつまでも帰らないでいいわ」と答えるの。「どうして?」とあたしが聞き返すと、「そのことを洩《も》らした者に神様がお与えになる悪い年と悪い復活祭のためなの。あの人は世間が思っているような人じゃないのよ。この十字架にかけて誓うけれど、ほんとにそうじゃないの」「どうして? だって、世間の誰もがあなたを羨《うらや》んでいるわ。どうしてそんな不満をお持ちなの? 差し支えなかったら、聞かせて欲しいわ」「長々とくどく話してもいいの? あの人は外見だけ立派なのよ。そして、わたしを養ってくれるという意味でだけいい人なのよ。でもわたしには別のものが必要なの。福音書もいうように、人はパンのみによって生くるに非ず、ですものね」彼女には裏切るだけの理由がありそうに思えたので、「あなた、考えてるのね。そして、人生は一日だけじゃないことも知ってるのね」とあたしは言ったの。すると彼女は、「わたしがそんな頓馬じゃないことを見せてあげるわね」と言い、いきなり小部屋の戸を開けると、誰か人間の体にあたしの手を触れさせたの。それが逞《たくま》しい男の体であることはすぐに分かったわ。そして彼女は、あたしの目の前で男の上に横になり、男に熱い火で釘《くぎ》を二本作らせ、吐息でせんべいを二枚焼かせながらこう言うの。「あたしが悲しくて優しい女であり、善良で絶望した女であることを知って欲しいの」
アントニア――金文字で書いてもいい言葉ね!
ナンナ――そして、腹心の小間使を呼んだの。それから男を、さっき入ってきたところから出ていかせたわ。その前に、自分が首につけていた鎖を男の首に掛けてやったわ。あたしのほうは、彼女の額と口と両の頬《ほお》に接吻をし、急いで自分の家へ帰ったの。夫が帰宅する前に、下男がきれいな下着類をちゃんと入手しているかどうかを知りたかったからなのよ。戸口は開いていたわ。その先にある寝室用便器へおしっこをしに行くふりをしながら、そうっと歩いていったの。すると、低く、ごく低く話している声がするの。耳をすますと、母があたしのことより先にちゃんとぬかりなく自分のことの手配もしていたことがわかったの。あたしは秘かに母に祝福を送り、そのままそうっと引き返したの。そして、階段のところへくると、ちょうどあたしのろくでなしが帰ってきたの。仕方がないから、彼を相手に思いをはらしたの。自分の望みどおりにいかなかったけれど、まあ仕方がなかったわ。
アントニア――どうして望みどおりじゃないの?
ナンナ――だって、どんなものだって夫よりはましだからよ。例えば、ほら、外で食事をすればわかるじゃないの。
アントニア――肉が変われば、味も変わるということよね。あたしもそう思うわ。でも、こうも言うじゃない、亭主にとってはどんな女も女房よりはましだ、って。
ナンナ――あたしときどき田舎の別荘へいってたことがあるんだけど、そこにとっても立派なご婦人が住んでいたの。ほんとに立派な人よ。この人がいつも田舎にいたがって、その旦那をひどく困らせていたの。旦那が、都会の華やかさ、田舎暮らしの不便さなどをいくら話してきかせても、彼女は、「わたしはそんな華やかさには興味がありません。欲望で人を罪に誘うようなこともしたくありません。パーティも社交界もわたしにはどうでもよいことです。いやな目に会いたくありませんからね。わたしには日曜日のミサだけで十分です。ここにこうしていることでどんなに節約になるか、あなたのお好きな都会に暮らすことでどんなに無駄使いをしなければならないか、わたしにはよく分かっているのです。都会へ行きたいのでしたら、いらっしゃいな。そうじゃなかったら、ここにいて下さい」と答えるの。けっきょく旦那は、いやいやながらもそこに住んでいるほかなかったのだけれど、その代わりにときどき奥さんを一人きりにして出かけ、それがまるまる半月にもなることがあったのよ。
アントニア――ご婦人のつもりが何だったのか、分かるような気がするわ。
ナンナ――彼女の目的は、ある僧侶、土地の司祭にあったのよ。この坊さんが、この上品な奥さんの畑に聖水をたっぷりふりかけた灌水器(彼女はそれでびしょ濡れになったのよ)ぐらいたっぷり収入があったら、それこそ枢機卿と同じくらい気楽にしていられたでしょうにね。この坊さん、逞しくて、けもののような取っ手を腹の下にもっていたのよ!
アントニア――まあ!
ナンナ――自分の別荘にいたこのご婦人は、ある日、その家の窓下で、この司祭がゆうゆうと小便をしているところを見かけたのよ。彼女自身があたしに話したことなのよ。この人何から何まであたしに打ち明けてしまうんだもの。目を凝《こ》らしてみると、それがすりこぎのように長くて、真赤な頭は見事に割れていて、莢《さや》から出た空豆のような感じなの。そして、背筋に沿《そ》ってつやっぽい血管が走っているの。それが立ってもいず、垂れてもいず、その根本には金色に近いブロンドの縮れたものが生えていて、その下には形のよい団子のような丸い鈴が二つついているの。これを見た瞬間に、彼女はその印のついた子供が生れては大へんと思い、急いで床に手をついたの。
アントニア――あれを見ただけで妊娠して、顔にきんたまの印のついた子供を生んだら素敵じゃないのよ!
ナンナ――はっ、はっ、はっ、はっ! 四つん這《ば》いになったこのご婦人は、そのすりこぎがどうにも欲しくてたまらなくなり、夢中になった挙句《あげく》に失神してしまったのよ。そこでベッドに運ばれたのだけど、奇妙な出来事にびっくり仰天した旦那は、大急ぎで町から医者を呼んだわけ。医者は彼女の脈をとってから、体の具合を聞いたのよ。
アントニア――きっと人びとは、病人が下の蒸溜器で動かされているとわかると、もう何を言ってよいやら分からなかったのね。
ナンナ――そのとおりよ。彼女が具合はよくないと答えると、その藪《やぶ》医者は妙な診断を下《くだ》したのよ。それを聞いて、善良な旦那は目に涙を浮かべたわ。そのとき、彼女が司祭を呼んで欲しいと言いだしたの。「告白をしたいのです。わたしが死ぬことは神のご意志ですから、これを運命として甘受しなければならないのです。でも、あなた、あなたのおそばを去るのはわたしにはとっても辛いことなのです!」この言葉を聞くと、気の毒なその旦那は奥さんの首にしがみつき、ひどく殴《なぐ》られでもした人のようにおいおいと泣くのよ。奥さんは旦那に接吻をしながら「辛抱して!」と言い、それから、息が絶えるのかと思われるような大きな叫び声をあげ、司祭を呼んで欲しいともう一度言うの。それで下男がすぐに司祭を呼びに行ったの。司祭はあたふたとやって来たわ。ちょうどそのとき、どのように振る舞ってよいのか分からず、婦人の手首をつかんで脈を測っていた医者は、司祭の姿を見た途端に病人の脈が蘇《よみがえ》ったことに気がついてびっくりしたのよ。司祭は前へ進み出て、「神が命を取り戻し給うた!」と叫んだの。
彼女は、司祭がまとっている衣の短い裾《すそ》の端からのぞいている棒にじっと目を向けたかと思うと、またしても気を失ってしまったの。人びとがばらの匂い入りの酢で彼女のこめかみを濡《ぬ》らすと、彼女はだんだんに意識を取り戻したわ。一方、文字どおりばか者の亭主は、告白が誰からも聞かれてはならないからと、人びとを全部部屋から出し、自分も最後に部屋を出たの。そして医者を相手に今度の出来事をいろいろ話し合いながら、頓馬な言葉をたくさん口にしたのよ。外で間抜けと藪医者がしゃべっているときに、司祭は落ち着き払ってベッドの裾に腰を下ろし、病人を疲れさせないために自身の手で病人に向かって十字を切り、いつから懺悔《ざんげ》をしていないかと尋ねようとしたときに、病人がいきなり手を伸ばして太紐《ふとひも》に爪《つめ》を立て――紐はたちまちぴんと張ったことはもちろんだけど――それを自分の下腹のほうへ引き寄せたのよ。
アントニア――やるじゃない!
ナンナ――腰を数回振っただけでこの婦人の病気をたちまち治してしまった司祭を、あんたどう思う?
アントニア――神の使徒としても男としても最高の称賛に値するわね。
ナンナ――告白が終わると、司祭は元のように腰を下ろし、病人の頭に手を載せたの。そのとき亭主が部屋に顔をのぞかせ、罪障消滅の宣告が行なわれているのを見ると、妻のそばへ近寄ったの。そして、妻の顔がさっきとはうって変わって晴れ晴れしているのを見ると、「神様にまさる医者はないと言うけれど、まったくだね! まるで生き返ったみたいだよ。ついさっきは、今にも死んでしまうかと思ったのに!」と大きな声で言ったのよ。婦人はその夫のほうへ顔を向け、「すっかり気分がよくなったわ」と深い息を吐《つ》きながら言ったの。
そのあと、告白の祈りを口の中で唱え、両手を組みながら、悔悛を唱えるふりをしたの。やがて司祭が帰ろうとして立ち上がると、彼女は司祭の手にドゥカート金貨一枚とジュリオ銀貨二枚を握らせ、「ジュリオ銀貨は告白の喜捨《きしゃ》、ドゥカート金貨は聖グレゴリオのミサをわたしのために唱えて頂くためです」と言ったのですって。
アントニア――ああ、とてもかなわない。
ナンナ――でもね、今の司祭の話の上をいく話があるのよ。お聞きなさいな。年のころ四十ばかりの婦人の話なんだけれど、とっても立派な家族の出で、ひじょうに値打ちのある領地も持っており、その夫という人はむずかしい本をたくさん読み、深い知識もあることで尊敬されていた博士だったの。ところがこの婦人はいつも黒っぽい服を着て歩いていて、朝五度か六度ミサを聞かないと一日中落ち着かない気分になってしまうという人だったの。まさに信心の鑑《かがみ》といった人ね。毎週金曜日には断食をし、三月だけではなしに、コーラスの一員としてミサへの応誦をし、僧侶《そうりょ》のような口調で晩課を唱えるというふうだったの。彼女は肉の上に鉄のバンドをつけているのだろうとさえ人びとは言っていたのよ。
アントニア――聖女ヴェルディアナ以上だったというわけね。
ナンナ――そうね。彼女の禁欲節制はその聖女よりもはるかに徹底していたわね。履《は》きものといえば木沓《きぐつ》だけだったし、ヴェルニアやアッシジのサン・フランチェスコ祭の前日には、手のひらの中に入るくらいのパンしか食べず、ただの水をしかも一度しか飲まず、そうして、深夜までお祈りを唱えていたの。しかも、ほんの少し眠るのは、蕁麻《いらくさ》の上というふうだったの。
アントニア――シャツも着ないで?
ナンナ――それまでは知らないわ。さて、町から一キロか二キロぐらい離れた小さい庵《いおり》に一人の隠者が住んでいて、食べ物を求めにわたしたちのところへほとんど毎日のように姿を現わしていたの。この隠者、その庵へ素手で帰るということはけっしてなかったのね。それというのが、彼が背にした袋、そのやせて長い顔、腹まで届きそうなひげ、もじゃもじゃの髪、そして、聖ジロラモのように手に持った得体の知れない石――こういったものが人びとのみんなの同情心をかきたてたからなのよ。
博士の奥方はこの尊敬すべき隠者に目をつけたの。博士はそのとき町へ行っていて、たくさんの訴訟事件で忙しかったのよ。彼女は隠者に施し物をあれこれと与え、ときどきはその庵まで出かけていったの。もちろんそこは敬虔《けいけん》な雰囲気の、快いところだったのだけど、苦いサラダを持ち帰ったりもしたらしいわ。なぜなら、そこでおいしいものを味わうことにはためらいがあったからなの。
アントニア――隠者の庵とやらはどんなふうだったの?
ナンナ――この庵は、カルヴァリオという名前をつけられた、かなり険しい丘の頂上にあったの。その中央には、三本の木の太い釘《くぎ》のついた大きいキリスト十字像が立っていて、これが善良な女たちを怯《おび》えさせていたの。その十字架の頭には、とげのついた冠《かんむり》がついていたわ。二本の腕からは、結び目のついた綱の二本の鞭《むち》が垂れていたわ。足元には死人の首があったわ。その片側には、棒の先につけられた海綿が地面に横たわっており、反対側には、古い|ほこ《ヽヽ》の柄の先の、真赤に錆《さ》びた|ほこ《ヽヽ》先が転がっていたの。丘の裾《すそ》には、菜園が拡がっていて、その周囲はばら垣でかこわれ、その木戸は、木の挿し錠のついた、絡み合った柳の幹でできていたわ。一日中探し回ってもたった一つの小石も見つからなかったろうと思われるくらいに、隠者は菜園への手入れは怠らなかったらしいわ。
菜園は細い小道でいくつかに分かれていて、あらゆる種類の野菜が植えられていたの。例えば、縮れレタスあるいは球状レタス、新鮮で軟《やわ》らかい|るりはこべ《ヽヽヽヽヽ》などがあり、別の区画には、容易には引き抜くことも持ち上げることもできないほどに密生したにんにく、あるいはどこにも見られないほどみごとなキャベツなどが植えられていたの。そのほかに、いぶきじゃこうそう、薄荷《はっか》、アニス、マヨラナ、パセリなども葉を茂らせていて、菜園の中ほどに一本の巴旦杏《はたんきょう》――皮がすべすべしているあの大きい巴旦杏が一本立っていて、周囲にいくらかの陰を作っていたの。そして、丘のふもとの、岩場の泉からはきれいな水が流れ出ていて、何条もの小さい流れになって菜園の中をくねっていたの。隠者はお祈りの時間を割いては、せっせと菜園の手入れをしていたというわけよ。
そこからあまり遠くないところに、小さい鐘が二つついている小鐘楼のある礼拝堂があり、その壁に寄り添うようにして、隠者の休む小屋が立っていたの。さっきも言ったように、この小さな楽園へ博士夫人はやってきたのだけれど、自分らの肉体が魂をねたむことがないようにと、日の光を避けて小屋の中へ二人で入りこんだある日、この夫人と隠者は、どんなふうにしてかは知らないけれど、とうとうしてはいけないことをしてしまったのよ。ちょうどそのとき、母|驢馬《ろば》を失った子驢馬を探しにやって来た百姓が、偶然に小屋の近くを通りかかり、牡犬と牝犬のようにつるんでいる二人の聖者を見てしまったの。百姓は村へ駆け戻り、教区の人びとを集めようと鐘を鳴らしたの。鐘の音を聞いて、男も女も仕事をそのままにして教会へ駆けつけると、例の男が司祭に向かって、隠者がどんなふうに奇跡を行なっていたかを詳しく話しているところだったの。司祭は白衣をまとい、袈裟《けさ》を首に掛け、十字架を手に持ち、コーラスの子供を先に立て、五十人以上もの村びとたちをうしろに従えて出発したの。
すぐに小屋に着いた一行の目に映ったのは、疲れた農夫のように眠りこけている神の僕《しもべ》の男女の姿だったわけ。しかも、隠者は鼾《いびき》をかいて眠りながらも、縄帯の信心家夫人の腹の下に例のものをあてがったままなのよ。それを一目見て、一同は思わず息を呑んでしまったの。牡馬が牝馬にのしかかるところを見た善良な女のようにね。やがて、女たちが顔をそむけるのを見て、男たちは冬眠ねずみさえも目を覚ますような大声で笑ったの。その声で、眠っていた二人は目を覚ましたの。すると、司祭は二人が見事に結びついているのを見届けて、コーラスのときの美しい声で、「肉化はなされたり」って叫んだの。
アントニア――あたし、淫乱さで修道女の右に出る者はないと思っていたけど、思い違いだったわけね。だけど、その隠者と信心家の女は殺されはしなかったの?
ナンナ――殺される? いいえ。やすりを切り口からはずすと、隠者はすっと立ち上がり、腰帯代わりに巻いていた、よじったぶどうの枝で自分を二度|鞭《むち》打ったあと、「皆さん、聖人たちの生涯を読んで下さい。そのあとでわたしを火刑にするなり、なんなりして下さい。罪を犯したのはわたしの体ではなく、わたしに代わってわたしの顔をした悪魔なのです」と言ったのよ。そして、もっと詳しいことをあたしから言うとね、はじめは兵隊で、人殺しもし、放蕩《ほうとう》もし、絶望から隠者になっていたこの男はとっても口上がうまかったので、悪魔がどこに尻尾《しっぽ》をもっているかを知っていたあたしと、この婦人の告白で事情に通じていた司祭を除いて、ほかの人たちはその言葉を信じたのね。なにしろ、彼は帯代わりに巻いているぶどうの枝で誓ったのですものね。隠者がおしゃべりをしているあいだに、悪意について考えていたこの半修道女は、たちまち身をよじり、息を止めて喉《のど》をふくらませ、目をぎょろつかせ、わめき、身もだえし始めたの。それは見るも恐ろしいほどだったわ。
「ああ、悪魔が彼女の体にとりついたのです」と、それを見て隠者が叫んだの。彼女を連れ出そうとして近寄ると、彼女は噛みつき、恐ろしい叫び声をあげる始末なの。けっきょく、彼女は十人ばかりの人たちの手でしっかりと縛られ、教会へ連れて行かれて、聖者のものといわれる小骨に触らされたの。三度目に触ったときに彼女は正気に返ったの。その話は夫の博士の耳にも入って、彼女は町へ連れ戻されてしまったのよ。
アントニア――ああ、そんな凄《すご》い話聞いたことがないわ。
ナンナ――ほかにはこういう話がないと思うの?
アントニア――もっとあるの?
ナンナ――ありますともさ、奥さま。町に住んでいたときに、すぐ近所に一人の女性がいたんだけれど、その人は鳥籠《とりかご》の中のカナリヤのようで、いつもたくさんの男たちがうっとりと見とれていたの。彼女の窓下では、一晩中セレナードが聞こえ、昼間は昼間で、若い男たちが悩ましげに、いらだたしげにその近くを歩き回る始末なの。彼女がミサに行くときも、表の通りをとおるわけにはゆかないの。なにしろ、そのあとに長い行列ができてしまうんですもの。ある人は、「ああ、あんな天使を自分のものにできたらしあわせだろうな!」と嘆息し、別の人は、「ああ神様、あの女性の胸に接吻ができるのなら、そのあとで死んでも悔いません!」と口走り、また別の一人は、彼女の足がたてる埃《ほこり》をかき集め、匂《にお》い白粉《おしろい》のようにそれを自分の帽子に振りかける始末。そして誰もが物も言わずに溜息《ためいき》をつきながら彼女を見つめるの。人びとの憧《あこが》れの的で、誰一人どんな小魚も釣りあげることのできなかったこの美しい湖が、そうするうちに、家々に勉強を教えに行くあの薄汚い教師たちの一人にぞっこん惚《ほ》れこんでしまうということが起こったのよ。
その相手というのが、それまで誰も見たことがないほど汚なくて、醜くて、不潔な男なのよ。はおっている外套ときたら、虱《しらみ》もたかれないほど毛が擦《す》りきれ、修道院の鍋《なべ》のように汚れものがこびりついている紫色の代物《しろもの》で、その下の上着は元の色がどんなだったのか想像もつかないほどに色|褪《あ》せたおんぼろ服なの。腰帯はより合わされた古絹の二本の紐で、上着には袖《そで》がないので、ブリュージのサテン製の胴衣の袖を代わりにつけているのだけれど、これがまた穴だらけ、ほころびだらけで、襟《えり》には黒い縁がついているのかと思うほど垢《あか》が厚くこびりついているの。股引《ももひき》は、なるほど、外套よりはましで、もとは薄いばら色だったらしいのだけれど、今はすっかり色褪せてしまい、金具のとれてしまった二本の紐《ひも》で胴衣につながれており、徒刑囚のズボンのような具合にその脚を包んでいるのよ。そして、一歩一歩あるくごとに足の指に力を入れて努力をするのだけれども、かかとが代わるがわる靴から浮き上るのは見ものだったわ。スリッパは、親の古靴を使って自分で作ったものらしかったわ。靴は粗末で、いかにも足の指を見せたげだったわ。頭には、タフタの裏地のついた、折り目一つのふちなし帽をかぶっているのだけれど、これがまた三か所も破れていて、頭の垢でてかてか光っているのよ。この人の中でいちばんましなのは、週に二回だけ剃《そ》る顔の優しさだったのよ。
アントニア――もう、それ以上詳しく話してくれなくても結構よ。その人間離れはここにいても想像できるわよ。
ナンナ――人間離れ、まったくそうね。だけど、この人間離れにその美女が首ったけになってしまったのよ。ほんとのところ、あたしたちって、いつもいちばん悪いものを選ぶようにできてるみたいね。その恋しい男にどうやって話しかけたらよいのか分からず、彼女はその夫とともに、千度という長い連祷を始めたのよ。「ありがたいことに、わたしたちはお金持ちだわ」と夫に彼女は言ったの。「だけど、子供がないし、それがもてる望みもないわ。それでわたし、よい方法を考えたのだけど」「どんなことを考えたんだい。お前や」と善良な夫が聞き返したの。「あなたの妹のことよ。彼女は男の子と女の子が何人もいるから、わたしたちでいちばん下の子を育てたらと思うのよ。わたしたちの心が満足できるほかに、自分たちの肉親に喜ばれることをするんですもの、これは何よりね」夫は肯《うなず》き、妻に感謝してこう言ったの。「実は、ずっと前からそのことを言おうと思っていたのだよ。きみが喜ばないんじゃないかと気になって、いつもためらっていたんだよ。きみのほうでそのつもりなら、明朝すぐに妹のところへ行ってこのいい話を伝え、小さい子をきみの家に連れて来るよ。だって、すべてはきみのもの、きみの持参金だからね」「あたしのもので、あなたのものよ」と妻のほうは答えたの。
あくる朝、夫は起きだして妹のところへ行き、小さい甥《おい》を連れて大喜びで帰ってきたの。妻もそれを嬉《うれ》しそうに迎えたの。それから二日後、食事のあと夫と話していたこの美人はこう言いだしたの。「わたしたちのルイジェット(子供はそういう名前だったの)に何かを仕込んであげなくてはね」「誰が教えてくれるだろうね?」と夫は聞き返したの。「ほら、あの先生がいいわ。町中を歩き回っている様子からみて、きっと仕事を探《さが》しているんだわ」「どの先生?」「ほら、体に合わないおんぼろの服を着ている先生よ」「ああ、ミサに来るあの人か」(彼はその教会の名前を言おうとしたの)「そうよそうよ。あの方よ。なんでも、百科事典みたいに物識りだという話よ」「それはいい」と夫は言ってその先生のところに出かけて行き、その日の夕方、鶏小舎の中へ牡鶏を連れて来たの。あくる日、先生は、シャツが二枚、ハンカチが四枚、本が三冊と、食器が入っている荷物を取って来て、美人が用意した部屋に入りこんだというわけ。
アントニア――それからどんな策謀が飛び出すの?
ナンナ――まあ、落ち着いてお聞きなさいよ。その晩、この婦人は甥――この子は詩篇集を学ぶことを口実に、実は叔母さんのちょうちん持ちをさせられることになっていたのだけれど――の手を取り、それから先生を呼んだの。この晩はあたしは彼女のところで夕食を取ったので、彼女が先生にこう言っているのを聞いたの。「先生、この子はわたしにとりましては子供以上のものですので(そう言いながら、その子の頬《ほお》に二度キスをしたの)、どうかみっちり仕込んで下さるようにお願いいたします。それから、謝礼のことにつきましては、どうか手前どもの自由にさせて下さいませ」先生はいい加減な返事をし、指を折り曲げて勘定をしたりあれこれ述べたりし、でたらめをあれこれとしゃべったわ。婦人はあたしのほうへ顔を向けて、「ねえ、これこそ本当のキケロ(雄弁家)ね!」と叫ぶの。二人はこんなふうにしてさらにお金のことなどを話し合っていたけれど、やがて婦人は急に話題を変えてこう言ったの。
「ねえ、先生、先生は恋をなさったことがおありですか?」孔雀よりも上等とはいわないまでも、少なくとももっとよい尻尾をもっているこの男はそれを聞いてこう叫んだの。「奥さん、わたくしをして勉強させたのは実にこの恋なのですよ!」そして時代おくれの知識などを並べたて、彼のために首を吊《つ》った女や、毒を呑《の》んだ女や、塔から飛び降りた女のことなどを得々と、しかし選びぬいた、慎重な言葉でしゃべったの。彼がしゃべっているあいだ、婦人は肱《ひじ》であたしの脇腹《わきばら》をつついていたけれど、やがて小さい声であたしにこう聞くのよ。「この先生のこと、どう思う?」あたしは彼女の胸の中だけでなしに下腹のことまで分かっていたのでこう返事をしたの。「桃の木も梨《なし》の木も思いきり揺さぶってみたほうがいいわね」
すると彼女は、ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、と笑いながらあたしの首に両腕を回し、先生に向かって、「それでは先生、授業を始めて下さい」と言ってから、あたしを彼女の部屋へ連れこんだの。間もなく、彼女の主人から今夜は夕食にも帰らず帰宅もしない、という連絡が入ったの。それはよくあることだったの。彼女はすっかり喜んで、「あんたの旦那には我慢してもらって、あんた今夜はここへ泊まってね」と言うの。そして、あたしの母のところへ使いをやって、許可をとってしまったの。こうして、二人で夕食をしたのだけれど、これがたいへんなご馳走《ちそう》なの。レバー、鳥の胃袋、鶏の首と足、そしてパセリにサラダ菜、フライド・チキン、オリーブ、小りんご、山羊のチーズ、マルメロの実のペースト、これらは腹ごしらえをするためのもの。そして、息をいい匂いにするためのボンボンという具合。そうしておいて、先生の部屋へは生卵とゆで卵だけを運ばせたの。だけど、どうして、ゆで卵を出したと思う?
アントニア――分かったわ、あたし。
ナンナ――夕食がすみ、食器が下げられ、夫の甥《おい》も含めて家族がそれぞれ寝に行くと、彼女はこう言いだしたの。「ねえ、あなた、亭主たちが一年中いろんな肉を味わっているのですもの、わたしたちだって、せめて今晩だけでも、あの先生の肉を味わってもいいんじゃない? わたしをその鼻先につきつけたら、間違いなく夢中になるわよ。大丈夫、けっして人に知られることはないわよ。第一、あの人とっても醜いし頓馬《とんま》ですもの、誰もそんなことを気にしないわよ。たとえあの人が言いふらしたとしても」こう言われて、あたしはびくっとし、すぐには返事もできないでいたけれど、やがて、「それはとっても危険よ。ご主人が帰ってらしたら、あたしたちはどういうことになるの?」と言ったの。すると彼女は、「ばかね。たとえそうなっても、わたしが主人に全部を呑みこませてしまうことができないほど間抜けだと思っているの?」と言うのよ。「ほんとに大丈夫なら、そうしてみなさいよ」とあたしは答えたの。
一方、けっして頓馬などではなく、ここの女主人が夫が今夜は帰宅しないと知って、彼に恋の話などを持ちだしたときに彼女にその気が起きていることにすぐに気がついていたこの家庭教師は、そうっと戸口に忍び寄って聞き耳を立て、彼が話して聞かせた哀れな女たちのように首を吊ったり首を締められたりしないですむようにうまくやってのけようというわたしたちの話をすっかり聞いてしまったのよ。それにしても、あたしたちが相手にしようという男は、彼のかびの生えた皮の袋が脇にぶら下がっているのを見ただけで、はらわたまでも吐き出してしまいたくなるような御仁だったのよ。
この男は話をすっかり聞いてしまうと、教育者特有の図々しさで、呼ばれもしないのに扉を開けて入って来たの。女中までも退らせていたこの家の女主人はそれを見ると叫んだの。「まあ、手綱がぴんと張っていますこと! ちょうどいいわ、今夜はあなたの灌水器だけ使って下さいな」ばらの花のめしべの匂いをかぐような鼻ももたず、フリュートの孔を塞《ふさ》ぐような指ももたないこのけだものは、接吻をしたり指で撫《な》でたりといったことはいっさいお構いなしで、いきなりそのものを抜き放ったの。見ると、真赤な頭からは湯気がたち、いぼいぼがたくさんついているの。それを指ではじいて彼は叫んだのよ。「どんなご用でも承ります!」って。すると彼女はそれを掌《てのひら》に載せてこう言うの。「わたしのかわいい雀、わたしの小鳩、わたしのいとしいかわらひわ、お前の鳥籠へ、お前のお宿へ、お前の巣にお入りなさい」そうして、それを自分のほうに引きよせて、壁に寄りかかると、片足を宙にあげて、お行儀悪くソーセージを立ったままで食べようとしたのよ。乞食教師のほうは誇らしげな一突きを彼女にくれたわ。その間、あたしはご馳走を口にする前に生唾《なまつば》を呑みこんでいる牝猿のような顔をしていたわけね。このときあたしは傍らの箱の上にあった鉄の杵《きね》を見つけ、これが肉桂《シナモン》を砕くものだということは匂いですぐに分かったのだけれど、これで少し自分を慰めたの。そうじゃなかったら、目の前の二人の楽しみを見せつけられて、羨《うらや》ましさのあまり死にそうになったかもしれないわ。
やがて、馬の頭がその勤めを果たし終えると、彼女はぐったりはしたけれど満足し切ってはいない様子でベッドの端に腰を下ろし、犬の尻尾をもう一度つかむとそれをぐるぐる何度も回すと、尻尾はまたしゃんとしたのよ。すると彼女は、乞食教師の顔は見ないようにして、彼にくるりと背を向け、「幸福の槍」をしっかりとつかむと、それを自分のゼロの中に差し込み、引き抜くと今度は自分の角の中に、ついで丸の中に差し込み、こうして二度目のいたずらをくりかえすと、彼女はあたしに、「あなたの分はまだたっぷりあるわよ」と言ったのよ。古狐に元気を取り戻させようとしてあたしが指を出しかけたとき(これは例の修練僧に教わった秘密だったのだけど、忘れていたのであんたには話してなかったわね)、ちょうどそのとき、入口の扉を誰かが乱暴にノックしたの。それがいかにも自信ありげで「家の人じゃないのなら、あんたは気違いよ!」と言ってやりたくなるようなたたき方なの。
この音に、大頭はたちまち首を引っこめたの。まるで、信心深いという評判だった人が聖器室を打ち壊している現場を見られたときのような慌《あわ》てかただったわ。あたしたちも青くなってじっとしていたの。二度目のノックが聞こえると、それが夫であることが彼女に分かったの。すると彼女は声をたてて笑いだし、夫に聞こえるようにといっそう大声で笑い続けたの。そうして、夫の耳に聞こえたことが確かになったとき、「どなたですか?」と彼女は尋ねたの。「わたしだよ」と外の声は答えたわ。「まあ、あなたなの! すぐ降りて行きますわ。ちょっと待ってね。でも、誰も帰らないでね」とあたしたちに向かって言い添えたの。そして、下へ降りて扉を開けたの。そして、夫の顔を見ると、「神様が知らせて下さったのよ。寝てしまってはいけない。お前の夫は今夜外へ泊まらずにきっと帰って来る、って。それで、眠気に負けるのが心配だったので、お友だちにこうしていて頂いたのよ。この方から修道院での生活のことをお聞きして、あたしとってもびっくりしてしまったの。それに、先生が面白い方だということを思いだして、おいで願って宵を楽しくして頂いたからよかったけれど、そうじゃなかったら寂しくてたまらなかったわ、きっと」彼女はそれ以上は言わずに、この信じやすい人の先に立って二階に上がり、家庭教師を見ると、声をたてて笑いだしたの。夫の突然の帰宅にうろたえて、この男が中断された夢のような様子をしていたからなの。ところが、この夫は、あたしを一目見るなり、あたしの畑をわが物にしようという思いを胸の中であたため始めたのよ。そこで、あたしと親しくなるきっかけを作ろうとして、家庭教師に話しかけ、彼の話を面白がる振りをしながら、彼にABCを逆さまに唱えさせたりするの。この変わり者の男は求められるままにそれを逆さまに唱えてみせるので、相手はひどくおかしがり、しまいには仰向けにひっくり返って大笑いする始末。そうするあいだにも、あたしはこの家の主人が送る目配せや、あたしに身を寄せながらする合図に気がついていたの。「女中さんたちもみんな寝たようですから、あたしもいっしょに休みます」とあたしは言ってみたの。
「いやいや、それはいけません」と彼は言い、妻の方を振り向いて、「小室へ案内しなさい。あそこへ寝て頂こう」こうして、小室へ通されたあたしが寝たと思うとすぐ、彼がその妻に、あたしにもはっきり聞こえるように大きい声でこう言うのが聞こえたの。「わたしはこれからすぐ、今までいたところへまた戻らなければならない。この眠り薬をベッドヘ持っていきなさい。そして、あんたも休みなさい」彼の妻はいかにもこまめな女らしく、戸棚の中のものを片づけ始めたの。朝まで主人を待つつもりだということを見せるためね。彼のほうはばたばたと足音をたてて階段を降り、扉を開けると、そのまま出かけたと見せかけるためにばたんと扉を閉め、しばらく戸口に立っていてから、そうっと中に入り、抜き足差し足で階段を昇り、あたしが眠らずにいる部屋へ忍びこむと、すーっとあたしの脇へ滑《すべ》りこんで来たの。あたしは自分の胸に手が載せられたのを感じると、錯乱状態になってしまったの。ほら、上に何か重たいものがのしかかって胸を押しつけ、しゃべることも身動きすることもできないときのあの状態よ。
アントニア――そう、悪夢ね。
ナンナ――そうそう、その悪夢よ。彼はこうささやくのよ。「声を出さずにいたら、いいことがあるよ」そして、いかにもいとおしげにあたしの頬を手で優しく撫でるのよ。「どなたですの?」ってあたしが聞くと、「わたしです」って見えない聖霊は答えるの。そして、けちんぼがお金を握りしめている手よりももっと固く締めているあたしの腿を彼が無理矢理開こうとするので、あたしは小さい声のつもりで、「奥さん、ああ、奥さん!」とかなり大きい声で叫んだのね。すると、あたしにのしかかっていたこの男は慌《あわ》ててベッドから滑り降り、隣の部屋へ走りこんだの。それとほとんど同時に、彼の奥さんが手にろうそくを持って、何事かという顔付きで入って来たの。一方、女房がそこから出ていったばかりの部屋へ亭主が入っていくと、家庭教師が彼が寝るはずの場所に寝ていて、ひばりを歌わせようと、|取っ手《ヽヽヽ》をしきりにこすっているところだったの。女房があたしに「どうしたの?」と言ったちょうどそのとき、人間の声よりは驢馬の鳴き声に似た「ああ!」という叫びが、喉《のど》まで出かかったあたしの返事をさえぎってしまったの。そう叫ぶと同時に、亭主はかたわらのスコップをもって間男に殴《なぐ》りかかったのね。女房が加勢に駆けつけて亭主の足をうしろから引っぱらなかったら、間男はきっとのされてしまっていたわね。
アントニア――亭主がかんかんになるのは当たり前ね。
ナンナ――当たり前であり、また当たり前じゃないわね。
アントニア――当たり前じゃないというのは、どうして?
ナンナ――そのことではややこしい事情があるのよ。女房は、ばかな間男の鼻から血が流れているのを見ると、両の拳《こぶし》を腰に当て、亭主――亭主のほうも自分の寝床によその男が寝ているのを見て我慢できなくなっていたのだけれど――のほうへ顔を向け、大きくうなずきながらこう叫んだのよ。「あたしをいったい誰だと思っているの? ね、あたしは誰なの? 乳母が言ってたとおりだわ。乳母はね、あの男が狙《ねら》っているのは財産だけなのだ、あんな男を選んではいけない、選んではいけない、あとできっとひどい目にあわされるっていつも言ってたのよ。乳母の言ったとおりだわ。わたしのような女が、目玉が二つついているこんな肉のかけらを欲しがるほどに身を落とすなんてことがあると思うの? ねえ、どうしてこの人をぶったの? どうして? この人が何をしたというの? わたしたちのベッドは、人が目を向けてもいけない神聖な祭壇だというの? こういう人たちが、本を取りあげられたらどうやって生きていってよいのかわからない人たちだということを、知らないわけではないくせに! でもいいわ。あなたがそうなら、こちらにも考えがあるわ。明日すぐにでも公証人に話して、わたしの財産を勝手にすることができないようにしてもらいますからね。自分の妻を、わけも知らずに娼婦《しょうふ》扱いするような男は敵ですとも」ここまで言うと、いっそう声を大きくして、「ああ、わたしはなんて不幸な女なの! これでもまっとうな女なの?」とすすり泣きながら叫ぶのよ。そして、目の前で父親が殺されでもしたかのように、髪をかきむしるのよ。あたしは急いで着物をはおると、たまらなくなって二人のそばへ駆けよって言ったの。「もう、やめて! お願いですから、叫ぶのはやめて! 近所中の噂《うわさ》の的になってもいいのですか? 奥さん、もう泣かないで!」
アントニア――それで、空《から》威張りの旦那《だんな》はどうしたの?
ナンナ――財産のことを持ち出されると、旦那は口をつぐんでしまったわ。今は何も持たない者は信用も寵愛《ちょうあい》も年金ももたない廷臣よりもみじめだということを知ってたのね。
アントニア――それは深刻よね。
ナンナ――だけど、シャツ一枚で隅《すみ》っこにうずくまり、震えている男を見ては、笑わないではいられなかったわ。
アントニア――その格好は、罠《わな》にかかって、棒で思いきり殴られる狐《きつね》にそっくりだったでしょうね。
ナンナ――はっ、はっ、はっ、はっ! まったくそうだわね。けっきょく、亭主は、驢馬めに一口盗まれた寝わらも、彼のために一年中青々としている牧場も失いたくなかったので、女房の足元にひざまずき、身振りと言葉とで懸命に謝ったので、女房もやっと許したのよ。だけどあたしは、いやだといった罪で、乾いたパンを食べなければならなかったわ。こうして、夫婦はすっかり仲直りしてベッドに入り、あたしも元の小室へ戻ったの。夜が明けて、目を覚ますと、母がやって来て家に連れ帰られたの。こうして朝の身じまいはしたものの、前の晩をそんなふうにして過ごしたので、頭が重く、一日中ぼんやりしていたわ。
アントニア――家庭教師は追い出されたわけね?
ナンナ――追い出された? とんでもない。一週間後に、彼がりゅうとした身なりで歩いているところを見たわ。
アントニア――下男や家令や従者などが身分不相応の服を着たり、金を使ったり、遊びをしたりするときには、女主人に貢《みつ》いでもらっていると思って間違いないわね。
ナンナ――それは確かね。さあ、今度は、牛か驢馬のものに負けないくらいの楔《くさび》をもっていると噂されている百姓に頼んで、紡錘竿《つむざお》の中に|つむ《ヽヽ》を入れてもらおうと企て、もう待ちきれなくてうずうずしていた女のことを話すわね。この女は、法皇ヨハネスによって設けられた「金の拍車」騎士団の初老の騎士の女房だったのだけれど、この騎士団というのがマントヴァの騎士団マイノルド以上に騎士という身分を鼻にかける人たちだったのね。だから彼女の夫も、道を歩くときは、出合った人がつい噴きだしてしまうほど肩を振り振り大気取りで歩き、事あるごとに「われわれ騎士は……」と切り出すというふうだったの。例大祭の日など、着飾ったこの騎士が悠然《ゆうぜん》たる足どりで歩くだけで、教会が埋まってしまうような感じだったのね。ほとんど口をきかず、口にするとすればトルコ皇帝かサルタンのことだけ。しかも、世界中の情報に通じているの。
さて、このいやらしい男の女房は自分たちの所領から何が届けられてもかならずぶつぶつ言う女だったの。雛《ひな》が届くと「それだけなの? 盗まれたんじゃないの?」と言うし、果物が届けられると「いい種類の、よく熟れたのは勝手に食べてしまって、まだ青いのをよこすのよ」とぼやくのよ。サラダ菜、一腹の小鳥、いちご、お菓子などが届けられると「何よ、こんなもの。欲しくないわ。どうせ買うんなら、穀物やワインや油が欲しいのに」とぶつぶつ言うというふうなの。彼女があんまりこぼすので、夫もしまいにはおかしいと思いはじめ、小作人を替えることに決めて、妻の奨《すす》めにしたがって、一番高い煙突を掃除するのに必要なものを持っている男を選んだの。こうして、両者のあいだで賃貸借の契約が結ばれ、新しい小作人が農場へ入ったのよ。それから数日して、小作人は町にやって来て、驢馬《ろば》のように天秤《てんびん》に荷物を担《かつ》いで主人の家の前に現われ、足でノックして扉を開けてもらい、階段を昇ったの。天秤の前の端には三つがいの鵞鳥《がちょう》、後の端には三つがいの鶏を下げ、右手にはそれぞれ百ばかりの卵とチーズの入っている籠《かご》を下げていたの。それは、両端に桶《おけ》が下がっている|ビゴロ《ヽヽヽ》――彼女らはそう呼んでいるの――を両手に下げているヴェネチアの女たちのようだったわ。靴の先をパタパタさせながら、お辞儀をし、挨拶をして、彼は新しい女主人に贈物を差し出したの。万聖節よりも暦が気になる女主人は、夫の騎士に対してでも度がすぎるくらいのもてなしをしたの。女中に命じて、おやつ(それは夕食と夜食をいっしょにしたほどのものだったの)を台所のテーブルに持ってこさせ、大きなコップに甘いぶどう酒を注《つ》いで飲ませ、予期したように彼の顔が赤くなるのを見ると「わたしの家のおいしいものを味わうたびに、あんたは生きていてよかったと思うはずよ」と言ったの。夫は留守なので、女中を呼んで籠を空けさせたの。女中はそれを小作人に返すと、鵞鳥と他の鵞鳥をいっしょにし、鶏をつかまえて他の鶏といっしょにしたの。そのとき、女主人が「あんたはここにいなさい」と女中に言い、小作人に言って鶏をつかまえさせたの。それから女主人は自分といっしょに小作人を屋根裏部屋に上がらせたの。そこへ上がると、彼女は鶏たちの脚をほどいてやったけれど、脚がすっかりしびれてしまった鶏たちは一時間以上ものあいだ歩くのも動くのもできなかったのね。女主人は屋根の天窓を閉め、小作人がどんなシャベルでその畑を耕すか、そして事実が評判を裏切らないかどうかを見定めようとしたの。下にいてその振動を聞いていた女中があたしに話したところでは、今にも床が抜けるかと思われたということよ。二度続けての接ぎ木をし終えると、前の小作人がオリーブの木や桃の木をどんなに駄目にしたかを小作人に話す振りをしながら、彼女は下へ降りたの。町の門がそろそろ閉まる時刻なので、小作人は騎士をそれ以上待つことができず、奥さんにいとまごいをして、心浮き浮き村へ帰っていったのだけど、騎士の奥さんとの濡れ事をもう少しで人に話をしてしまいそうになったのね。一方、この奥さんのほうは、自分の税関倉庫を溢《あふ》れんばかりに充たしたあの並外れてすばらしい商品のことを思い浮かべてはうっとりしていたのだけれど、そのうちに町中で何か騒ぎが持ち上がったらしい気配なの。人びとが右や左へ走り、「中へ入っていろ、中へ入っていろ!」と叫ぶ声も聞こえるの。彼女がバルコニーへ出てみると、身内の人びとが、剣を抜き放ち、袖《そで》なしマントを腕にかけ、別の人びとは帽子もかぶらずに古い槍《やり》や戟槍《げきそう》や棒などを握って興奮して走り回っているのよ。彼女は真青になり、失神しそうになったの。そのとき、自分の夫が血まみれの姿で二人の男に腕をとられ、たくさんの人びとに取り囲まれながら歩いてくるのが目に入ったの。彼女は半分死んだようになって下へ落っこちてしまったの。哀れな男を家に入れ、ベッドヘ寝かすと、人びとは大急ぎで医者を呼びに走っていったの。彼女は意識を取り戻すと、夫のそばへ駆けよったのだけれど、夫は一言も口にせずに彼女を見つめているだけなの。彼女は夫が死にかかっているのを知り、大きいろうそくを手に持って夫に向かって十字を切り、「許して下さい。そして神に御加護を祈って下さい」と言ったのね。夫は、許して神に加護を祈るというしぐさをし、そして息を引きとったの。医者と司祭がやって来たのはもうすべてが終わったあとだったわ。
アントニア――どういうわけで騎士は命を落としたの?
ナンナ――この不実な女がある男を喜ばせてやったことがきっかけで、男が騎士の腹を三か所刺してあの世行きにしてしまったのよ。この事件で町中が大騒ぎだったのよ。だから彼女は二度も窓から身を投げる振りをしたの。二度ともうまく引き止められたけれど。そんなこともあって、今では誰も見たことも聞いたこともないような盛大な葬式をすることに彼女は決めたのね。まず、教会の壁に騎士の紋章を描かせ、金銀の錦の棺衣に覆われた夫の亡骸《なきがら》を六人の男に担がせて教会へ運ばせ、そのあとには町中の人びとほとんど全部がつき従ったの。彼女は黒い喪服をまとい、うしろの二百人の女たちがすすり泣く中で、ひときわ悲しげな呻《うめ》き声をあげ、聞く者誰もが涙を誘われたほどだったの。説教壇から述べられた弔辞は列席者一同に亡き騎士の高徳と立派な所業を語り、色とりどりの僧服をまとった千人余の司祭、僧侶、修道士らがレクイエムを歌う中で、死者は華麗な柩《ひつぎ》の中に横たえられ、人びとはその墓碑銘を読みにそこへつめかけ、柩の上には団旗が立てられ、金銀をちりばめられた赤いビロードの鞘《さや》に入った剣と、やはり赤いビロードの飾りを施こされた兜《かぶと》と楯《たて》とがその上に置かれたの。言い忘れたけれど、領地のお百姓たちも列席したのよ。お百姓たちはめいめいが頭に黒い縁なし帽をかぶり(こちらで支給したのね)、亡骸の周《まわ》りに並んだの。その中には、鵞鳥と鶏と卵の男、あの濡れ事の男もいたわ。だけど、どうしてこんなにくどくど話す必要があるの? 要するに、彼女はこの男を相手にして涙を乾《かわ》かす方法を見つけ、夫の遺産も全部相続して、奥様、女主人として通すこともできたのよ。というのは、死んだ夫は、彼女に惚《ほ》れて結婚したあと、自分と妻のあいだには男の子も女の子も生まれないと確信していたので、その両親の反対を押し切って、自分の財産をそっくり妻に贈与していたからなのよ。
アントニア――それは適切な贈与だわ。
ナンナ――今や、家の者は家に残して、誰一人案じることもなく自由に振る舞えるようになった彼女は、騎士の後継ぎを自分のそばから離そうとせず、彼の慰めが何にも代えられないものだったので、両親から新しい亭主を押しつけられない前に、恥じらいやためらいをいっさいかなぐり捨てて、そろそろこの男と結婚することに決めたのよ。けれど彼女は、呑気《のんき》に構えていられるように、修道院に入ろうとしているという噂《うわさ》をわざと流したの。そのために全部の修道会が彼女を自分のところへ入れようとして争ったりしたのよ。そうしておいて、この百姓男に自分を与える決心をし、世間が何と言うだろうとか、家族はどうなるだろうとかいうことはもう考えずに、そういう逡巡《しゅんじゅん》こそ喜びを損《そこな》うものであり、遅れれば何事も腐ってしまい、後悔は死にも等しいと思い定めて、早速に公証人を呼びにやり、その願いを充たしたのよ。
アントニア――だけど、後家さんのままでいて、同じように鐘突き棒を堪能することもできたでしょうに。
ナンナ――彼女がどうして後家さんでいなかったかは、また別に話すわね。それはそれで一章設けて話さなければならないことなのよ。今はただ、後家さんたちというのは、修道女より、亭主持ちの女たちより、娼婦《しょうふ》よりもずっと淫らだということだけ言っておくわ。
アントニア――どんなふうに?
ナンナ――修道女や、亭主持ちの女や、娼婦は牡犬や牡豚に磨《みが》いてもらうわね。ところが、後家さんの磨き手は、お祈りや、規律や、信心や、説教や、ミサや、晩課や、礼拝や、喜捨や、七つの慈善ですものね。
アントニア――立派な修道女や、人妻、後家、娼婦というのはいないものなの?
ナンナ――そりゃ、いるわよ、慎重と信頼という格言を画にかいたような女たちが。
アントニア――そう、わかったわ。さあ、それじゃあ、その騎士未亡人の再婚の話に移りましょうよ。
ナンナ――こうして彼女はその百姓を亭主にしたのよ。だけど、そのことがひとたび知れると、彼女は一族からだけでなしに町中から嘲《あざ》けられたの。しかも彼女はこの男に夢中で、畑へでも、ぶどう園へでも、その他どこへでも食事を運ぶほどだったのよ。でもこの百姓のほうはしっかり者で、彼女を閉じこめるといって脅したその兄を短刀でやっつけたものだから、それからは町の誰一人とやかく言わなくなってしまったのよ。
アントニア――そんな人たちとはかかり合いにならないほうがいいのにね。
ナンナ――そう、人びともそう言うわ。まあ、あたしはそういう人たちとはかかり合いにならないですんだわ。それはともかく、もっとおかしい話をしましょうよ。その話で、この気の毒な騎士の死をいくらかでも明るいものにしましょうよ。それはね、十七の娘を嫁さんにした年とった金持ち、いやらしい守銭奴、大ばか者の話なの。その嫁さんというのが、これまで見たこともないほど美しい、引きしまった体をし、そのなすこと言うこと全部が人をうっとりさせるほどの魅力の持主だったの。彼女には、いかにも貴婦人らしい身のこなしと、人を気絶させるくらいに尊大な様子と、上品な物腰とがあったわ。彼女の手にリュートを握らせれば、彼女はたちまち音楽の巨匠として振る舞うし、その手に本を与えればたちまち詩人となり、その手に剣をつかませればたちまち名将となったでしょう。彼女の踊る姿は牝鹿さながらだったし、歌う声は天使もかくやと思われたわ。また、何かを演じるときには、えもいわれぬものを内に湛《たた》えた、きらきら光る目の秋波は見る者を文字どおり悩殺するほどだったのよ。彼女が食べれば、皿が金のように輝くかと思えたし、彼女が飲めば、酒の味わいは一きわ引き立ったの。応答は機智に富んで品位があり、重々しいその話し方は公爵夫人をさえ小娘と見せるほどだったの。そして、装身具を身につけるにも、自分で工夫を凝《こ》らし、人が見返らずにはいられないような方法でつけるというふうだったの。今日は冠《かむり》物を頭に載せて外出するかと思えば、明日は髪を項《うなじ》のあたりで半ばたばね、半ばを編下げにし、一房の巻き毛を額に垂らして目を僅《わず》かにしばたたきながら歩く姿を見れば、男は愛の思いに駆られ、女は妬《ねた》ましい思いに胸を焼かれて死んでしまうかと思うほどだったのよ! また、賢いこの女性は、生まれつきのその美しさを利用して、深紅のばらの露のような涙の落ちるその胸のかすかなおののきを見ては度を失ってしまう男たちを、やすやすと奴隷にしてしまうことも心得ていたの。彼女はまた、ときどき何かをそこに見出そうとするかのように手を伸ばし、いくつもの指環の輝きと目の輝きとを闘わせながら、彼女がわざとその手を目で愛撫すればするほどいっそうまじまじとその手を見つめる者たちの目を眩《くら》ませてしまったの。歩くときには、視線を蝶《ちょう》のようにそこここへと踊らせながら、足を地に着け、あるいは聖水で顔を濡《ぬ》らしたときに、彼女は、「天国ではこんなふうにするのよ」とでも言うかのように身をかがめておじぎをしたの。
ところが、こんなに美しく、こんなに賢く、こんなに優雅なのに、この女性は愚かな父親によって六十のおじいさんと結婚させられてしまったというわけなのよ。六十というのも当人の口を信じればのことで、しかもこの人は自分が老人扱いされるのをいやがったの。この老人は、装飾のある壁と塔が二つ付いている城をもっているとかで伯爵と名乗っていたわ。そして、これまた彼の言うところによれば、皇帝から下付されたという、鉛で封印された、何枚かの羊皮紙の免状によって、彼は、肌《はだ》に孔をあけられるのを喜びとするような武者たちに馬上槍試合を申し入れることができたので、ほとんど毎月のようにこの試合をしていたの。そして、この試合を見に集まってくる弥次馬たちが彼に対して脱帽するのを見ては、モデナの長官になったような気持ちでいたのね。槍試合の日には、彼はぎょうぎょうしい服装で現われるの。まず上衣は、毛足を切らない長短の毛のついた紫色のビロード地の、金片をちりばめたものを着こみ、椀《わん》状の縁なし帽をがぶり、裏毛が銀ねずみ色の、赤ラシャの昔子供たちがマントにつけたような銀錦の頭巾《ずきん》のついたマントをはおり、古風な鞘《さや》に包まれた真鍮《しんちゅう》の柄頭《つかがしら》の、とがった剣を腰に下げているといったふうなの。そして、弩《おおゆみ》と戟《ほこ》を持った二十人ばかりの徒歩の従卒――それは半分は従僕とあと半分は領地内の百姓たちとから成っていたのだけれど――を従えて矢来の周囲を二度回ったあと、彼は腹が糠《ぬか》でふくれている老馬にまたがって進み出るのだけれど、この馬というのが十万対の拍車をかけられても走り出そうとはせず、闘いの開始の音を聞くと怯《おび》えて体を縮めてしまうような代物《しろもの》だったの。こういうときには、この伯爵は妻のことは家に閉じこめ、鍵をかけておいたのよ。それ以外のときには、庭番の飼っている犬が、教会へも、祭りにも、その他どこへ行くときでも彼女のあとをつけて歩いたのよ。夜、ベッドヘ入ると、彼はその若い妻に、自分が兵士だったときにたてた手柄のことを自慢げに話して聞かせ、自分が捕虜になった戦闘のときのことを語るときには、石弓のどすん、どすんという音を口で真似ながら、気違いのようにベッドの中で体を動かすんですって。気の毒に、そんなことよりは、夜の槍と腕くらべをしたくてたまらない若妻はすっかり絶望していたのね。こうして、ときどきは、腹立ち半分で、彼女は夫を四つん這いにならせて、手綱代わりに革の紐《ひも》をその口にくわえさせ、自分はその背にまたがって、彼自身が馬を走らせるときのように、彼の腹に拍車をかけながら彼を這い回らせたの。こんな物悲しい日々を送るうちに、彼女は素敵なことを思いついたのよ。
アントニア――どんなこと? それを教えて。
ナンナ――彼女は夜になると、いつも夢を見て、脈絡のない、それぞれ何の関係もないいろんな言葉を口走り始めたの。それを聞いて年とった夫はげらげら笑っていたけれど、そのうち、彼女が手を振り回し始め、夫の目の上にげん骨を一発ごつんと見舞うと、彼は色をなしてこっぴどく妻を吃りつけたの。けれども、若い妻のほうは自分のしていることも言っていることも何も分からない振りをしながら同じしぐさをくり返し、ベッドの上ではね回り、窓や戸棚を開け放ったりするのよ。ときどきは、彼女は服を着て走り出し、愚かな夫はそのあとを追いかけて、その肩を揺すったり、大声で呼んだりする始末。ある晩などは、妻を追いかけて扉の外に走り出た老人は、階段に足をかけたつもりで虚空を踏んでしまい、もんどり打って階段の下へ落っこちるということもあったのよ。そして、全身を打っただけでなしに、片脚を骨折してしまったの。老人の叫び声、界隈《かいわい》全部の人をびっくりさせるような悲鳴に、建物中の人が駆けつけたわ。そして老人を助け起こしたのね。誰がみても、老人はじっと寝ていたほうがよかったのね。若い妻は夫の呻《うめ》き声にはじめて目を覚ました振りをし、事の次第を知って泣きだし、夢にうなされるという自分の癖を呪《のろ》ったりしてみせたの。けれども、すぐに医者を呼びにやり、やって来た医者は然《しか》るべき処置をしたわけね。
アントニア――だけど、その若妻はどうして寝ぼける振りをしたの?
ナンナ――それは、老いぼれ亭主が実際に階段から落っこちたように、階段から落っこちてくれればいいと期待していたからよ。腰を砕くか脚を折るかすれば、彼女をつけ回すことはできなくなるものね。同じころ、この愚かな亭主はどうしていいのかわからないほどに嫉妬《しっと》に苦しめられていたの。だけど、根が見栄っぱりなものだから、そんなときでも十人ばかりの郎党を下の部屋へ泊めておいたのよ。その中の一番年かさの者でも二十四は出ていなかったの。その中のある者は立派な帽子をかぶりながら股引《ももひき》がなく、ある者は立派な股引をはきながら見すぼらしい胴衣をつけ、他の者は上等の胴衣をつけながらぼろぼろの袖《そで》なしマントをはおり、また他の者は上等の袖なしマントを着ながらおんぼろのシャツを着ているといった具合。しかも、多くの場合、ああ、多くの場合、彼らはパンと残りかすだけを食べていたのよ!
アントニア――その無頼漢たち、どうしてそこを出て行かないの?
ナンナ――自由にさせてもらっていたからよ。そこで、ねえ、アントニア、彼女はこの一味に目をつけたのよ。そして、二枚の副木で腿《もも》を挾《はさ》まれた老いぼれ亭主をベッドに寝かすと、彼女は夢想に耽《ふけ》りはじめたの。やがて、両腕を伸ばし、亭主が「おい、おい!」と呼ぶのもかまわずにベッドから滑《すべ》り降りたの。亭主のことは勝手に喚《わめ》くに委《まか》せて、寝室の外に出ると、そのならず者たちのところへ顔を出したの。ならず者たちは、消えかかったろうそくのそばで、旦那の用で何かの買物にいったときにちょろまかした銅貨を使って何かの遊びをしているところだったわ。彼女は一同に「こんばんは!」と声をかけておいて、ろうそくを足でひっくり返し、最初に手に触れた男を自分の腹に引きよせ、その男と楽しみ始めたのよ。こうして、彼らに混じって過ごした三時間のあいだに、十人全部を、しかもそれぞれ二度ずつ相手にしたのよ。やがて、彼女を有頂天にした液体を拭《ぬぐ》いとって寝室へ上ると、「ねえ、あなた、まるで魔女みたいに夜になると家を出て行くあたしがいやになりません?」と亭主に言ったのよ。
アントニア――いったい誰がそんなに詳しく話してくれたの?
ナンナ――本人よ。体面などというものは靴で踏みにじってしまったあとは、彼女はその一味全員の女になったのね。その優しさが評判になると、彼女は聞きたがらない人にまでそのことを話したの。その上、この十人の強者《つわもの》の一人で、彼女が他の男にも身を委せ、他の男にもっと優しくしたといってひどく腹を立てた男が、広場といわず、食堂といわず、床屋といわず、とにかく行く先々でその一件をしゃべったのよ。
アントニア――彼女のしたことは、結構なことよ。老いぼれ亭主には気の毒だけど、だいたいがこのじいさんは、百回も自分の娘になれそうな若い女ではなく、自分の年相応の女をもらうべきだったのよ。
ナンナ――とにかく、まあ、こんな具合だったの。そしてね、数えきれないほどの間男をしても満足できないで、彼女は今度は一人の旅回りの歌うたいに惚《ほ》れてしまったの。そこで、スープに思いっきり胡椒《こしょう》を入れて老いぼれ亭主を厄介払いしてしまったのよ。なんでも、死にかけている亭主の鼻の先で男に身を委せ、まじわったという話よ。これは町の人たちの言うこと。でも、あたしはとやかく言わないわ。あたしはほんとうのところは知らないわ。
アントニア――それはきっと、ほんとうすぎるほどほんとうでしょうよ。
ナンナ――別の話をするわね。町に立派な婦人がいたのだけれど、この人の亭主は女房よりは遊びごとのほうが好きという人だったの。遊びごとの中でも一番好きなのはトランプで、いろんな仲間を集めては家でトランプをしていたのね。ところで、この男は町の郊外に農園を持っていて、そこの農婦の一人で未亡人の女が半月に一度ぐらいの割合でここの奥さんを訪ねて来ては、農園でとれるいちじく、くるみ、オリーブ、ぶどうといったものを届けていたのね。この農婦はいっときここで時間を過ごすと、また農園へ帰って行ったの。あるとき、この日は半分お祭りのような日だったのだけれど、この農婦が手籠《てかご》の中に薄荷《ハッカ》を敷き、その上に一列に並べたかたつむりと二十五、六個の茸《きのこ》を持っていつものように奥さんを訪ねて来たわけよ。ところが、急に空模様が変わり、風雨ともに激しくなって、農婦はその晩はそこへ泊まってゆかなければならないということになったの。ところが、大へんな酒飲みで、いつも淫らな冗談ばかり口にしているのらくら者のこの亭主が彼女に目をつけ、三十一《ヽヽヽ》(三十一人の男が一人の女を慰みものにすること)をしようと一同に持ちかけることで自分の親友ぶりを示せると思い、集まっていたならず者たちにそのことを話したのよ。男たちはもちろん聞き耳を立て、にやにや、げらげらと笑いだしたのよ。そして、誰もが夕食後にまた来ると約束して帰っていったの。そして、われらがろくでなしがその女房に、「彼女は屋根裏部屋に泊めなさい」と言うと、「わかりました」と女房は答え、亭主といっしょに食卓に着き、ばらの蕾《つぼみ》のようにみずみずしい農婦は下の席に着いて食事をしたの。夕食がすんで、しばらくすると、トランプをする男たちがまたやって来て、亭主は皆といっしょに奥へ引っこむときに、女房に、もう寝てもよい、と言い、未亡人の農婦にも同じことを言ったのね。けれども、この女房はろくでなしの亭主が何を企んでいるか分かっていたので、ひそかにこう考えたの。「一度楽しんだものは我慢しない、とかあの連中が言っていたわ。うちの亭主は名誉もへちまもない人だから、うちの農婦の倉庫と衣装戸棚を荒らそうとしているんだわ。ようし、あの連中がうちの農婦にやろうとしている三十一《ヽヽヽ》とやらがどんなものか見てやろう」
こうして、女房は自分のベッドに農婦を寝かせ、農婦のために用意したベッドに自分がもぐりこんだの。間もなく、亭主が盗み足でやって来たわ。そして、息を押し殺そうとしながら、奇妙な口笛を鳴らしたわ。するとそのうしろに続いているらしい一味は、笑いを押し殺しきれずにくすくすと笑ったのよ。そのくすくす笑いもすぐに手で押し殺されたらしかったわ。すぐに、槍試合の一番手が進み出て、そんな激しい欲望を抱いている男など予想したこともない女にいきなり近づき、「逃げられっこはないぞ」とでも言うようにその上にぐいと押しかぶさったの。彼女のほうは目を覚ました振りをし、怯《おび》えたように起き上がろうとしたわけ。けれども、その亭主はありったけの力で彼女を押えつけ、自分の膝《ひざ》で相手の腿《もも》を押し開くと、強引に手紙に封印をしてしまったの。そのとき彼は、押えこんでいる女が自分の女房であることに気がついたのよ。わたしたちに影を投げてくれるいちじくの木の枝葉が茂ったことにわたしたちが気がつくようにして。自分のすももの木を、亭主としてではなく愛人として揺すられた女房はこう言わずにはいられなかったの。「ろくでなしは、自分の家のパンには見向きもしないで、よそのパンにはぱくつくものよ」亭主は女房を終わりまで満足させるためにさらに二度ほど小さい突きをくれて、それからにやにやしながら仲間のところへ戻ってこう言ったの。「いや、すごいひろい物だぞ! 貴婦人のような、しまってしかも柔い肉だよ。あれはいい」でも、要するに女房のお尻には薄荷とじゃこうそうが塗ってあったのよ。そう言うと、亭主は二番目の男を前へ押し出したの。この男はスープをすすりに行く修道士のような無頓着《むとんちゃく》さで、肉を食べに走って行き、すぐに三番目の男に合図をすると、この三番目の男は蛆《うじ》に飛びかかるはぜのように彼女に躍りかかったの。みんなを笑わせたのは、この男が池の中にかますを放しながら、稲妻のない雷鳴を三度轟かせたことね。彼女のほうもこめかみに汗をかき、とうとうこう叫んだの。「この三十一《ヽヽヽ》は控え目なところがぜんぜんないのね!」一人一人のことをいちいち話していたら夜までかかってしまうけれど、彼らはあらゆるやり方、あらゆる方法、あらゆる技法、あらゆる思いつきで彼女に挑《いど》んだのよ。二十人目になると、彼女は牝猫と同じように、楽しみながら同時に悲鳴をあげるようになってしまったの。そうするうちに、ある一人は彼女の呼子と風笛にさわり、貝殻のないかたつむりのようにきちんとそれぞれの位置にあることを確かめると、一瞬ためらうように見えたけれども、やがて彼女の後ろから挑んだのよ。しかしどちらから押しても縁に触れないので、「奥さん、はなをかんで下さい。そしてわたしの風鳥草の匂いをかいで下さい」って叫んだの。そのあいだに、他の者たちは、木曜日、金曜日、土曜日に告解を終えた者が司祭から罪障消滅の宣告をしてもらって立ち去るのを待っている職人や百姓や少年たちのように、その仲間がその場から退き、自分が代わってその婦人に挑む番がくるのをじっと待ち受けていたの。そうして待っている者たちの中には、自分の犬を上下に動かしていて、大切なものを出させてしまうものもいたわ。しまいには、あとに廻された者たちの中のどちらかといえば無分別な四人が、もうどうにもこうにも我慢しきれなくなってしまい、松明《たいまつ》に火をつけると、三十一《ヽヽヽ》の主催者の思惑も考えないで、彼の女房が腿から膝まで獣脂に濡れた姿で横になっている部屋へ入りこんだのよ。……亭主は必要に迫られていやなことまであえてしてしまったのだけれども、女房にこう尋ねたのよ。「ところで、どんなだったい、わが女房よ」すると彼女は、「とっても素敵でしたよ」と答えはしたものの、これほどのご馳走のあとではもうそれ以上は堪えられずに、トイレヘ入り、手綱を緩めると、食べすぎた神父がそれを吐き出すように、まだ生をうけていない二十七の小さな命をこの世の冥界《めいかい》へ吐き出したの。ところが、未亡人の農婦のほうは、自分のために用意されたはずのご馳走がほかの女に食べられてしまったと知ると、農園へ帰ってもお尻をえんどう豆で煮られたように口惜しくてたまらず、一年間はその女主人に口をきかなかったそうよ。
アントニア――男たちの欲望をいやしてやった者に幸いあれ、ね。
ナンナ――あたしもそう思うわ。でも、あの三十一《ヽヽヽ》というやり方で欲望をいやしてやった人のことは、あたし羨《うらや》ましくないわ。あたしも同じようなことがあったのよ(それを与えてくれた人たちに感謝しなくては!)。でもそれが一般に想像されるほど素敵なものだとはあたし思わないわ。それは長く続きすぎるのよ。白状するけど、せめてあの半分だったら、素敵だし、完璧ね。
今度は、別の婦人のことを話すわね。名前は伏せるけど、この人、執政官が絞首台に喜びを与えるのがいやで絞首刑の執行をいつまでも引き延ばしていた一人の囚人に気紛れな思いを寄せてしまったのよ。このやくざ者の父親は死ぬときに、二十か二十一になったこの息子に一万四千ドゥカートほどの遺産――半分は現金、残りの半分は領地と家、というより館《やかた》ね――を残していったのね。だけど、このやくざ者は三年間に、飲み食いと、賭《か》け事と、女遊びにこの現金をすっかり使い果たしてしまったの。すると今度は土地に手をつけ、これまた三年で使い果たしてしまったのよ。残るは建物しかないのだけれど、これの売却は遺言で禁止されているので、これを打ち壊して石にして売り、そのあとでは家具を売り払ったの。今日はシーツを売り、明日は食卓布を売り、ついでベッドを売り、また今日はあれ、明日はこれというふうに売り払って、とうとう手元には何ひとつ無くなってしまい、着の身着のままの自分だけがあとに残ったわけよ。すると、人間が思いつく限りのありとあらゆる悪辣《あくらつ》な行為を始めたのよ。嘘《うそ》の誓い、人殺し、泥棒、ぺてん、トランプ札のごまかし、裏切り、詐欺、かたり、暗殺――数えたてたらきりがないわ。もちろん、刑務所へは四年、五年と何度も入ったわ。そして、このときには、誰か偉い人――その人の名前をあげる必要はないわね――の顔に唾《つば》を吐きかけたとかで、そこに入れられていたのよ。
アントニア――ずいぶん悪い奴なのね!
ナンナ――自分の母親とも寝たというとてつもない悪党よ。でも、そんなのは彼の悪業の中でも一番軽いほうよ。ほかのことでは乞食同然に成り下がったくせに、ことフランス病(梅毒)に関してはすごいもので、千人もの仲間に分けてやってもなお自分の分はたっぷり残っているほどだったのよ。このろくでなしが刑務所に入っているときに、貧しい囚人の治療をするために市から雇われていた医者が、脚を腫瘍《しゅよう》に侵されてはいまいかと不安がっていた一人の病人の手当てをしていたの。その医者は、「なんだって! あの悪党のけたはずれの大物《ヽヽ》を治したわたしがおまえの脚を治せないというのかい?」とあるとき叫んだの。このけたはずれの大物《ヽヽ》という言葉が、これから話すその婦人の耳に入ったの。そして、刑務所に入っているこの悪党の途方もない大物《ヽヽ》のことが彼女の胸の中に深く入りこんでしまい、彼女はギリシャ神話の王妃パシファエが雄牛に恋したよりももっと激しい恋をこの悪党に抱いて胸を焦がすようになってしまったのよ。そして、自分のこの情熱をどう処理してよいかも分からないままに、彼女はこの大悪党が入れられているその同じ牢獄に自分も入れられるようにするために、ちょっとした罪を犯そうと心を決めたのよ。復活祭がくると、彼女は告解もせずに聖体を拝受し、それを咎《とが》められると、自分は間違っていないとやり返したの。この話が世間に広まり、そのことが執政官のもとへ訴えられて、執政官は彼女を逮捕し、投獄したわけよ。そのときになって彼女は、自分がこの罪を犯したのは評判のあの男のねぎ坊主が欲しくて欲しくてどうにもたまらなかったからだと白状したのよ。目はこれで見えるのかと思われるほど小さく、くぼんでいて、鼻は顔の真中にべったりとあぐらをかいていて、大きな傷跡が顔を斜めに走り、騾馬《らば》の二つの鈴のような梅毒のあとが二つ頬《ほお》を占領し、ぼろをまとい、吐き気を催すほど臭くて、体中が蚤《のみ》と虱《しらみ》だらけというこの男のよ。これを聞いて、気のいい執政官は彼女をその悪党と同じ房に入れてやり、「これをもって、これまでの数々の悪業の償いとするがよい」と言ったのですって。一生涯そこへ閉じこめられるということは、普通の人ならそこから出してもらうのと同じくらいに嬉しいことだったのね。この途方もなく大きいねぎ坊主を味わってからというもの、彼女は、「ここをわたしたちの祭壇にしましょうよ」って言っていたということよ。
アントニア――そのねぎ坊主は、驢馬《ろば》のものぐらい大きかったの?
ナンナ――もっとよ。
アントニア――騾馬《らば》のぐらい?
ナンナ――もっと、もっと。
アントニア――雄牛のぐらい?。
ナンナ――もっと大きいのよ。
アントニア――じゃあ、馬のぐらい?
ナンナ――それより三倍も大きいのよ!
アントニア――それじゃあ、遺体安置台の柱ぐらい太いのね。
ナンナ――そのとおり。
アントニア――それで、どうなったの?
ナンナ――彼女がその喜びに首まで浸《つ》かっているあいだに、執政官は業務怠慢のかどで市から非難を受けたの。そこで、正義の要求を充たすために、十日間の猶予つきでこの重罪犯を絞首刑にすることに決めたのよ。……あたし、言い落としていたことがあるわ。この悪党のことに戻りましょう。この食いしん坊さんが仮面を投げ捨てて刑務所へ入るとすぐに、その噂《うわさ》は町中に広がり、弥次馬、職人、とくに女たちのおしゃべりの種になったのね。往来でも、窓辺でも、市場でも、人びとは軽蔑と嫌悪を露骨に示しながら、この話でもちきりだったのね。数人の女たちが教会の聖水の柱の際《きわ》でいっしょになると、二時間でも三時間でもそのことを噂し合っていたのですって。こうして、いくつかの集まりの中の一つがあたしの近所にもできて、貞淑を売り物の一人の夫人がそこに集まって聞き入る女たちを前にしてこう叫んだの。「わたしたち全部の女性はあのあばずれ女のために名誉を傷つけられたのです。ですから、これからすぐに刑務所へ押しかけ、建物に火をつけてでもその女を獄房から引きだし、荷車の上にほうり投げて、打ちのめし、わたしたちの歯で引き裂いてやるべきです。石を投げつけ、生皮を剥《は》ぎ、磔《はりつけ》にすべきです!」そう言い終わると、この夫人は、まるで世界中の女の名誉が自分の肩にかかっているかのように、がま蛙《がえる》みたいに胸と腹をふくらませながら帰っていったのよ。
アントニア――いやらしい!
ナンナ――ところで、このならず者に死刑執行前に十日間の猶予が与えられていることを、今お話しした貞淑女史、刑務所へ押しかけ、建物に火を放ってでも例の女を引きずり出そうと呼びかけたこの女史は間もなく知ったの。この女史は、例の最大の大砲、つまりほかにこれといった物がなくその点での名声だけが恵まれていない女たちを惹《ひ》きつけている――磁石が針や釘《くぎ》を吸いよせるように――この巨砲を失うことで市が蒙ることになる損害に思いを寄せ、このならず者にも深い同情を抱いていたのよ。そうするうちに、もう一人の|すべた《ヽヽヽ》(失礼ながら)を駆りたてたのと同じ、あの男を楽しみたいという欲求が、彼女の胸の中でもふくらんでしまったの。こうして彼女は、これまで聞いたこともないような、とってもずるくて、この上なく悪魔的なことを考えついたの。
アントニア――何を考えたっていうの? ああ神様、そんな欲望からわたしたちをお守り下さい!
ナンナ――この女の亭主というのがとっても体が弱くて、二時間起きているとそのあとの二日は床に就いたきりという具合で、ときどきは心臓の鼓動が激しくなって、そのまま窒息するか死んでしまうかとさえ思われるほどだったのよ。さて、彼女は、娼婦《しょうふ》の一人から、絞首台へ送られる例の男を救おうと思えば、「この人はわたしの夫です!」と叫んでその前へ身を投げ出せばよいと教えられて……〔一五○○年ごろには、娼婦から夫として求められた死刑囚は赦免されるという習慣があった〕
アントニア――どういうこと?
ナンナ――そう教えられて、彼女は自分の亭主を始末してしまい、娼婦だけの権利を行使してあのやくざ者を亭主に迎えようと決心したのよ。彼女がそんなことを考えていると、「ああ! ああ!」という呻《うめ》き声とともに哀れな亭主が目を引きつらせ、拳《こぶし》を痙攣《けいれん》させ、足をばたつかせながら気絶してしまったの。縦よりも横に大きくて、塩漬《しおづ》けまぐろの樽《たる》に似ている彼女は、亭主の口の上に枕を載せ、その上に腰を下ろして、女中の手など借りずに亭主を昇天させてしまったの。可哀相に亭主の口からはどろどろのパンが出てきたわ。
アントニア――ああ、ああ、ああ!
ナンナ――この女は、そうしておいて、大騒ぎをし、自分の髪を掻きむしりながら近所中の人びとを呼び集めたの。集まった人びとは、この哀れな亭主が日頃ひどく体の弱いことを知っていたので、いつもの発作を起こして窒息死したのだと信じて疑わなかったわけよ。この亭主はかなりのお金持ちだったので、この悪女も一応は丁重に葬ったらしい。こうして、後家さんになるとすぐ、文字どおりさかりのついた牝犬のこの女は、それこそまっすぐ売春宿へ駆けつけたのよ。彼女のほうにも亭主の側にも、これといったほどの親類はなかったので、彼女は誰からも異存を唱えられることなくそこにいられたの。世間の人たちは、亭主に死なれて悲しみのあまり気が狂ったのだと思っていたらしいのね。
あのならず者が明朝は処刑されるというその前の晩が来ると、町はほとんどからっぽになってしまったの。全部の男とほとんど全部の女が、千の刑罰にも値するならず者に刑が宣告されるのを見ようと、執政官の館の前に集まったからなのよ。奉行が「神の意志と偉大なる執政官の意志はおまえの死を求めておられる」と述べるのを聞くと、ならず者は笑いだしたの。そして、獄房から引き出され、足には足枷《あしかせ》、手には手錠をはめられて人びとの前に引き出され、ほんの一つかみの藁《わら》の上に坐らされたの。そして二人の僧が左右から彼を囲んで慰めようとし、聖像を見せてそれに接吻するようにと言っても、それほど切ない顔はしなかったのね。まるで人ごとのような顔付で、あれこれでたらめを言ったり、そこへ来ている人びとの名前を呼んだりもしたの。朝から、市庁舎の大きい鐘が、これから処刑が行なわれることを告げるために、ゆっくりゆっくり鳴っていたわ。旗が掲げられ、ついで、重罪裁判所の、声のよくとおる職員によって処刑の宣告が行なわれると、金色の太い綱が死刑囚の首にかけられ、彼がならず者の王であったことを示すための金色の紙の冠《かんむり》がその頭に載せられたの。総《ふさ》のないラッパの音が響くと、死刑囚は警官隊に囲まれて歩きだし、そのあとに弥次馬がぞろぞろと続いたの。彼が歩いて行く道筋では、バルコニーも窓も屋根もすべて女や子供でいっぱいだったわ。熱に苦しむ病人が冷たい水桶《みずおけ》に体を浸《ひた》すときのあの思いで、胸をどきどきさせながら、ならず者の首に飛びつく瞬間を待ち受けていた例の娼婦は、その憧《あこが》れの男が目の前を通りかかると、矢のように前へ躍りだし、大声をあげて人波を掻《か》き分け、髪を振り乱し、両手をたたきながら、ありったけの力で男を抱き締め、「あたしはあんたの女房よ!」と叫んだの。刑の執行は中断され、すべての人が押し合ったりぶつかり合ったりし、大騒ぎになったの。まるで世界中の鐘が、火事と、戦闘と、祈祷《きとう》と、祭りとを告げて一斉に鳴りだしたみたいだったわ。その知らせを受けた執政官は、法律の定めるところにしたがって死刑囚を釈放したの。晴れて自由の身となったこの男が、悪党だけれども情の深いこの女の熊手に引っかけられたことはもちろんよ。
アントニア――ああ、末世ね!
ナンナ――は、は、は、は、は!
アントニア――何を笑うの?、
ナンナ――あの男といっしょにいたいばっかりに獄房に入り、短刀を三度胸に刺した女のことよ。最初の一突きは愛《いと》しい男が獄房から出て行くのを見たからであり、二度目のは男が吊《つ》り首にされようとしていたからであり、三度目のは彼女の城、彼女の町、彼女の国がほかの女に取られてしまったと知ったからよ。
アントニア――神よ、短刀の三突きでもってその女を罰し給うた主に祝福をたれ給え!
ナンナ――もう一つ別の話を聞いてよ。
アントニア――喜んで。
ナンナ――とっても尊大な女がいたの。美しいけれど魅力はなくて、いや、美しくはなくて見た目にきれいなだけで、何を聞いても唇を曲げ、眉《まゆ》をしかめるというふうだったの。人のあら探しをしたり、揚げ足をとったりすることの好きな、それまで見るも聞くもしたことのないほどいやな女だったわ。どんな目、どんな顔、どんな眉、どんな鼻、どんな口、どんな顔を見かけても、かならず口実を見つけて難癖《なんくせ》をつけるの。彼女の目にはどんな歯も長くて欠けていて真黒に見えるし、彼女の考えでは、話のできる女も歩みぶりを心得ている女も一人もいないし、どの女も体つきが不格好で、まとった服が可哀相みたいというわけだったの。誰か男がどこかの女を見つめているのに気がつくと、彼女はこんなふうに言ったの。「神様のおぼし召しどおりのような人ね。どんどん自信つけてるじゃない? あんなになるとは思わなかったわね。まるで、司祭か何かみたいじゃないの!」彼女は窓際に顔を出さない女たちのことも、そこへ顔を出す女たちのことも咎《とが》めだてするの。つまり、全部の女性に対する検閲係ってとこね。だから、どの女も凶兆として彼女を避けるようになっていたの。教会ヘミサにいけばいったで、香までが彼女には臭くてたまらないの。だから、唇をとがらせてこう叫ぶの。「なんとまあ、よく掃除が行き届いている教会だろう! なんとまあ、よく整頓《せいとん》されている教会だろう!」そして、祈祷の言葉をもぐもぐ言いながらそれぞれの祭壇を嗅《か》いで回り、「なんという祭壇布でしょう! なんという燭台でしょう! なんとまあ汚い棚でしょう!」という調子なの。司祭が福音書を読んでいるあいだ、他の人たちといっしょにじっとしていないで、まるでそこに司祭などいないかのようにしきりにうなずいたり首を動かしたりするし、聖体奉挙のときには、その聖体のパンは本物の小麦ではないなどと言いだしたりするの。また、聖水の中に指の先をつけ、不承不承に額の上で十字を切って、「水を換えないなんて、なんてまあ恥ずかしいことでしょう!」とつぶやくの。男たちに出逢えば、かならず渋面を作って、「何よあの男、鶏みたいじゃない! なんという長い脚なの! なんてまあ大きい足! なんとまあ不格好な体つき! 何よあのやせっぽち、まるで骸骨じゃないの! あの顔は、まるで狐つきね! さもなきゃ、まるで犬の鼻面ね!」ほかの女にはなくて自分にだけあるつもりのものを誉められたくてうずうずしているこの女が、孔だらけのずだ袋を肩に担ぎ、ノック杖《づえ》を手にして戸口にパンを乞いにきた雑役僧に目をつけたのよ。若くて、気楽そうで、体はすらりとし、逞《たくま》しいこの僧に彼女はたちまち夢中になっちまったのさ。こうして、施しは女中の手からではなく主婦の手からじかに渡さなくてはならないということも口実にして、彼女はこの雑役僧が現われたとしるといつも自分で戸口へ出ていったの。亭主が、「女中に渡させりゃいいじゃないか」などと言おうものなら、彼女は施しの意味や、自分でそれをじかに渡すことと他の者に渡させることの違いについて一時間も亭主とやりとりをするという具合だったのさ。けっきょく、小羊の蝋像やキリストの名前をサフラン色にかたどった布切れなどをときどき持ってきたこの坊主とこの女はよしみを通じるようになり、二人は話し合いをつけたのよ。
アントニア――どんな話し合い?
ナンナ――修道院へ逃げようというのよ。
アントニア――どうやって?
ナンナ――修道女に変装してさ。亭主に対しては家を出る口実として、八月に祝われる聖母祭がちょうど十六日に当たると言おうと考えたのよ。ところが亭主はこれを聞くとかんかんに腹を立て、女房の首に両手をかけて、母親が駆けつけなかったら、鶏のように締め殺してしまうところだったのさ。
アントニア――どっちもどっちだねえ。
ナンナ――ところが、亭主の手が離れるとすぐ、女は喚《わめ》き始めたのよ。「あんたがどうしたいのか分かったよ。いいよ、いいよ! だけど、このままじゃすまないからね! このことはあたしの兄弟の耳に入るからね。そうよ、あたしの兄弟の耳に入るわよ! あんたは弱い女をこんな目にあわせたんだからね。女じゃなしに男に挑《いど》んでみたらどう? そのあとであたしに話をつけに来なさいよ。もうこれ以上我慢できないわ。そうよ、これ以上はもう我慢できないわよ。あたしは修道院へ行きますからね。あそこへ入りますからね。あんたに一日中たたかれているよりそのほうがよっぽどましですよ。あたしが便所へ飛びこまないようにせいぜい気をつけることね。あんたといっしょにいるくらいなら、そうやって死んだほうがどれだけましかしれやしない」そして、溜息《ためいき》をつき、すすり泣きながら、それ以上はもう何も食べようとせずに、両膝の間に顔を埋めてうずくまってしまったの。母親が促して寝室へ連れこまなかったら、彼女はそのまま朝まででもいたことでしょう。母親は、彼女をめちゃめちゃに打ちすえようとする亭主から彼女を二度も引き離さなければならなかったのよ。
ところで、雑役僧のほうだけれど、年の頃は三十ばかり、体はがっちりして大柄で逞しく、活気に溢《あふ》れ、肌は浅黒く、いつも上機嫌で、誰とでも友だちになれるという男だったのね。さて、その翌日、彼は亭主の留守のときを見計らって施しを求めに現われたわけよ。そして扉をノックし、「修道僧にパンのお恵みを!」と叫ぶと、女がいつものように走り出て来て、あくる朝早く家を抜け出ることが二人の間で決められたのよ。こうして、ファティオ修道士は帰ってゆき、あくる朝、日が昇る一時間ほど前、まだパン屋もやって来ないうちに、彼は修道女の服を腕にかかえて彼女の家の戸口に現われたの。そして、そっとノックをし、ノックをしながら、「早くしてくれ!」と声をかけたの。恥しらず女はすぐに起き上がり、「自分で事を行なうのなら、手を汚《よご》す心配はないんだわ」とつぶやき、女中の部屋の扉を足で蹴《け》って、「さあ、さっさと起きて、早くしな!」と怒鳴ったの。それから、転がるようにして階段を駆け降りると、表の扉を開け、逞しい大男を中に入れたってわけ。そうしておいて、さっき大急ぎではおったきたない服を脱ぎ、内井戸の縁にスリッパといっしょにそれを置くと、修道女の服を着込み、そうっと扉を開け、人に見られないようにしながら修道院へ向かったのよ。雑役僧は小礼拝堂の中へ女を連れこむとすぐ、まず女に食べ物を与えたの。それから、藁《わら》ぶとんの上に大きな僧服を広げ、その上に幅の狭いごわごわしたシーツを敷いてその上に女を寝かせたのだけれど、僧服が汗と垢《あか》の匂いをぷんぷん発散したとすれば、藁ぶとんのほうは南京虫《ナンキンむし》の匂いがしたのよ。坊主はといえば、ハアハアとせわしく息をしながら長衣の裾《すそ》を臍《へそ》の上までもまくり上げた姿は、夏の終わりに一雨来そうなときの天候にそっくりだったわ。俄《にわ》かに吹きだす激しい風がオリーブや桜や月桂樹の枝葉を揺するのと同じように、坊主はピストンのような猛烈な腰の運動で小部屋全体をぐらぐらと揺るがせたのよ。しかも、勢いあまって、ベッドの上の棚に載っていたマドンナの小さい像を落っことしてしまい、その脇《わき》の小さいろうそくをひっくり返してしまったの。一方、女のほうは撫《な》でられた猫のように嬉しそうな声をあげ、尻を振り続けたというわけよ。やがて、さしもの逞しい坊主も力が尽き、水車に水を注《つ》ぐのをやめたという次第よ。
アントニア――むしろ、油をとめたというべきね。|いやいや《ヽヽヽヽ》夫人の母上と話していたときに、例えば、歓声をあげるとか、射出するとか、小躍りするなどという言葉を使って叱《しか》られたのよ。
ナンナ――まあ、どうして?
アントニア――新しい言葉が発見されたからですって。しかも、彼女の娘がそれをとっても得意としているんですってさ。
ナンナ――新しい言葉って、どんな言葉なの? 誰がそれを教えるの?
アントニア――あの|いやいや《ヽヽヽヽ》マドレーナよ、あたしがさっき言った。しかも彼女はこの言葉を上手《じょうず》に話せないと、誰でもばかにするのよ。彼女によれば、手すりといわずにバルコニー、戸と言わずに扉、早くと言わずに急速に、顔と言わずに面相、心と言わずに精神などと言わなければならないし、扉はたたくのではなくてノックし、ばかにするのではなしにからかうのですって。あたしたちが何回となく使ってきた言い回しを、彼女は自分の右の目のように大事にするんですって。
ナンナ――そうしたい人はそうするがいいわ。あたしは、あたしをひねりだした割れ目が教えてくれたとおりにするわよ。雑談するなんて言わずに、おしゃべりするって言いたいし、愚か者なんて言わずにばか者って言いたいわ。別に理屈なんてないけど、つまりはあたしの土地では人びとがそう話しているからよ。だけど、あの坊主の話に戻りましょうよ。この乞食坊主ったら、くちばしを壷の中へ入れたっきりで、咎《とが》め屋の女に二回もしたのよ。
アントニア――まあ!
ナンナ――事がすむと、坊主は、何か起こるかもしれないと案じて、女をベッドの下へ隠れさせたのよ。聖体パン用の小麦粉を買う必要があったので、彼はあちこち街を歩き回り、ついでに、女の家がどうなっているかをそっと見ようとしてそのほうへ足を向けたのさ。女の家の前に着いた途端に、家の中で大騒ぎをしている声が聞こえたの。女中と母親が、「鉤《かぎ》を! 鉤を!」と叫び、さらに「綱を! 綱を!」と怒鳴っている声が窓ごしに聞こえてくるのよ。
アントニア――どうして、鉤と綱なの
ナンナ――それはね、色気違い女が家にいないことに気がついて、はじめてそうっと、それから大声で、上から、下から、表から、裏から、ここから、かしこから、いたるところからこの女を呼んだあとで、女二人は内井戸の縁にスリッパと服が脱ぎすてられているのに気がつき、てっきり井戸に身を投げたものと思いこんだからなのよ。母親は、「助けて下さい! 助けて下さい!」と今度は泣き叫んだの。それで、近所中の人たちが駆けつけてきて、井戸に身を投げた女を引き上げようと騒いでいたのよ。綱の先に結んだ鉤を井戸底に下ろしながら泣き叫ぶ老母の姿は見るも哀れなものだったわ。「これにつかまるんだよ、わたしの娘や! わたしのかわいい娘や! わたしのいとしい娘や! わたしはお前の優しい母さんだよ! 誰よりも優しい母さんだよ! ああ、ごろつきめ! 泥棒め! イスカリオテのユダめ!」けれども、鉤にはなんにも引っかかってはこなかったのよ。
アントニア――今ふうに言いたかったら、何ひとつと言うべきね。
ナンナ――じゃあいいわ。何ひとつ引っかかってこなかったのよ。そこで、絶望しきった母親は鉤を投げだし、両手を組み合わせ、目を天に向けて叫んだのよ。「あんなによく躾《しつ》け、あんなに愛想がよく、この世の悪徳ひとつ知らない娘がこんな最期を遂げるということがあってよいものでしょうか! わたくしのお祈りと施しはずいぶんと役に立ちましたね! もう一本ろうそくを献じましたら、わたくしは死なせて頂けましょうか?」やがて、人ごみに混じっている例の乞食坊主に気がつき、彼女の嘆きを聞いて笑いだしそうな顔付をしているのを見ると、老女は、姿を消した娘と坊主のかかわりなど露疑わず、坊主がてっきり小麦粉の喜捨を乞いに来たのだと思いこんで、坊主の肩衣をつかんで人混みの外に連れだし、彼女の娘を井戸に身投げさせた神に復讐でもするかのように、ありとあらゆる悪口雑言や汚い言葉を喚《わめ》き散らしたのよ。「汚《よご》れ皿《ざら》をなめな! スープの残りかすをしゃぶりな! ラザーニヤをすすりな! ぶどう汁を飲みな! すかしっ屈《ぺ》をひりな! 豚の腹でもかいてやりな! こびりついたポタージュをなめな! 肉断ちの禁を破りな!」けれども、雑役坊主にとっては、近所中の連中が話し合っている言葉を耳にするのはとても愉快なことだったのよ。老女の娘はてっきり井戸の底に沈んでいると誰もが信じていたのだもの。年とった女たちはこの井戸が掘られた当時のことを覚えていると言い、右左に横穴がいくつも伸びていたから、きっときっと、かわいそうにあの娘はその横穴のどこかの中へ入ってしまったのだ、と述べたのよ。老母は横穴のことを聞くと、別の祈りを始めたの。「ああ、わたしの娘よ」と彼女は叫んだの。「お前はその穴の中で飢え死にしようとしているんだね! お前があの美しさとあの優しさとあの徳とでもって世間を喜ばせるのを見ることはもうできないんだね!」そして老母は、娘を見つけだしに井戸の底へ降りてくれる人には何でも差し上げようと言ってみたのだけれど、老女たちの話を聞いた人びとは誰もが横穴を怖《こわ》いと思い、そこから出られなくなることを恐れて、名乗り出る者は一人もなく、誰もがくるりと向きを変え、神様といっしょに立ち去ってしまったのよ」
アントニア――ところで、亭主のほうはどうしたの?
ナンナ――亭主ときたら、尻尾を焼かれた野良猫みたいだったのよ。人びとの前に顔を見せる勇気さえないんだから。それっていうのも、女房が井戸へ身を投げるからには亭主の仕打ちがよほどひどかったのだろうなどと人びとが声高に話しているのを聞いていたし、老母に飛びかかられ、爪で目の玉を抉《えぐ》りとられてしまうのではないかと怯《おび》えていたからなのよ。けれども、この男も隠れてばかりはいられず、老母につかまってこう浴びせられたのよ。「裏切者! お前は嬉しくてしようがないんだろう? お前の酒喰らい、トランプ狂い、女遊びがわたしの娘を、わたしの慰めを死なせたんだよ! 十字架を胸に下げて歩くがいい、いいかい十字架をだよ。わたしはね、お前をずたずたに切り裂いてやりたいんだからね、粉々に刻んでしまいたいんだからね! 覚悟してなよ、覚悟してなよ! どこへなりと好きなところへ行くがよい。好きな仕事を見つけるがよい。分相応に扱ってもらえるだろうよ。たわけ! 人殺し! 善良なものの不倶戴天《ふぐたいてん》の敵め!」この哀れな男は、銃火器の一斉射撃に怯え、その恐ろしい音を聞くまいとして指で耳を塞《ふさ》いでいる女のようだったのね。彼は老女が声を振りしぼって罵《ののし》るのを黙って聞いたあと、自分の部屋にこもり、姿を消した女房のことも考え始めたのだけれど、どうも納得がいかなかったの。不埒《ふらち》な女の老母のほうは娘はもう死んだものと諦《あきら》め、井戸の縁を祭壇のように飾り、家にあるもので思いつく限りのものをそこに供え、古いろうそくをそこにともし、毎朝その前に立っては、娘の魂の平安を願ってお祈りをしていたのよ。
アントニア――ところで、乞食坊主は肩衣を引っ張られたあとどうしたの?
ナンナ――自分の独房へ帰り、ベッドの下の悪女《わる》を引っ張り出し、見てきたことをあらいざらい話して聞かせたのよ。そして、二人して大笑いしたのよ。あたしたちが優れた作家たちの滑稽なお芝居を見て大笑いするのと同じようにさ。神よ、あの作家たちの魂に平安を与え給え!
アントニア――たしかに、あの作家たちが死によって奪われたのはローマにとっては大きい損失よ。あれ以来ローマは謝肉祭も楽しい集いもぶどう酒祭も、その他のどんな楽しみもなくなってしまったわ。
ナンナ――それはともかく、その乞食坊主のことに戻りましょう。彼は昼夜を問わず奮戦し、水が多く、茂みが濃くて、いつも楽しいジョザファットの谷を七キロも八キロも九キロも十キロも突き進んで、一か月も頑張ったのですものね。
アントニア――食べ物はどうしてたのかしら?
ナンナ――彼の思い通りよ。修道院の賄方《まかないかた》なんだから、市民の納屋へも台所へも家の中へも入りこめたし、週に三度は驢馬《ろば》の背に荷物を山と積んで帰ってきたのよ。燃料の薪《まき》、修道士たちのためのパン、ランプ用の油、彼は何でも手に入れられたのよ。まあ、彼にできないことはなかったわけね。そのうえ、この男は旋盤を回すのが好きだったので、子供用の独楽《こま》、杵《きね》、亜麻用の格好の|つむ《ヽヽ》などを作って売ってはかなりのお金も貯めてたのね。そのほかにこの男は墓地に立てられるろうそくと、死者の弔鐘《ちょうしょう》の十分の一税の権利ももっていたのよ。おまけに、調理人たちが鶏の頭や脚や内臓などを彼にくれたのね。ところが、その肉体を昼も夜も天国に漂わせ、魂のことなどちっとも気にしなかったこの貞節な女の熱愛するこの男が、修道僧たちは手をつけないサラダ菜を少しばかり盗み摘んで、菜園管理人に疑われてしまったのよ。菜園管理人は注意深く雑役僧の振る舞いと行動を看視し始めたわけ。そして、彼がめっきりやせ、目は落ちくぼみ、足はよろよろし、そのくせ手にはいつも卵を持っているのを見て、「裏に何かある」と考えたのよ。そしてそのことを鐘つき男に話したの。鐘つき男はこれを調理夫に、調理夫は香部屋係に、香部屋係は院長に、院長は地方監督に、そして地方監督は総長に話してしまったというわけよ。一人が、彼が町へ出かけるときを待つために彼の戸口近くに見張りに立ち、彼が出かけた隙《すき》に合鍵で戸を開け、中に、てっきり死んだものと思って老母が泣き悲しんでいた女を見つけだしてしまったのよ。「外へ出ろ!」といきなり言われて、女はひどくうろたえ、外へよろめき出たときの顔は、薪の山の上に自分がしばりつけられてそこに火がつけられるのを見る魔女の顔にそっくりだったそうよ。修道士たちは少しも慌《あわ》てることなく、そのときちょうど外から帰ってきた雑役僧を呼び、いきなり紐《ひも》で縛りあげると、そのまま、光もささず、水がたまっている牢《ろう》の中へほうりこんでしまったの。そして食べ物といっては、朝と晩に糠《ぬか》のパンが一かけらと、酢をとかしたコップ一杯の水と、ねぎの切れ端が投げこまれるだけだったの。そのあと、修道僧たちは女のほうはどうするかと相談し合ったのよ。「生き埋めにしてしまおう」と一人が言うと、別の一人が、「男といっしょに牢内で死なせよう」と言ったのよ。「家族のもとへ帰してやろう」と優しい心の何人かは言ったのね。いちばん抜け目のない男が叫んだ。「あの女をみんなで一、二日は楽しもう。あとどうするかは神様が教えてくれるさ」
この提案を聞いて、若い僧たちはもちろん、中年の僧たちもにやりとしたわ。老人たちはいわくありげな目配せをしたけれども。最後に彼らは、一羽の牝鶏が何羽の牡鶏に立ち向かえるかを決めることにしたの。この取り決めを聞くと、この|あかえい《ヽヽヽヽ》が大好きな女は、自分がたくさんの牡鶏を相手にできるのだと知ってにんまりしたのよ。沈黙のときがくると、まず総長が両手で彼女に触り、そのあと地方監督、ついで院長が手を触れ、次々に順番が回って鐘つき男から園丁までもくるみの木に登り、竿《さお》でくるみの実を激しくつついたので、女もしまいにはたまらなくなってしまったのよ。まる二日間ぶっ続けで、雀や燕が屋根裏部屋に上ったり下りたりのしどおしだったわけよ。しばらくすると、例の雑役僧も地獄のような牢から出してもらい、自分の財産をみんなと共有にして、自分も他の修道僧といっしょにその楽しい行為に加えてもらったのよ。でも、あなた、この女がまるまる一年間もたくさんの杵《きね》の攻撃に耐えぬいたなんて信じられる?
アントニア――どうして信じられないと思うの?
ナンナ――しかも彼女は間もなく妊娠して、犬の頭をした怪物を生み落とし、修道士たちの顰蹙《ひんしゅく》を買わなかったならば、ずっとそこにいるはずだったのよ。
アントニア――どうして顰蹙を?
ナンナ――――見るも恐ろしいほどの大きな犬の頭をした子供を産んだときに狭間《はざま》があんまり大きくなりすぎたからよ。修道僧たちは魔術を使って計算をし、菜園の番犬が彼女と関係をもったことを見抜いたのよ。
アントニア――そんなことってありうる?
ナンナ――当人たちからじかに聞いたんだもの、間違いないわよ。
アントニア――それで、そのお化けを産んだあと、その女はどうなったの?
ナンナ――女は、この上なく巧みな計画を使って、亭主のもとに、というよりむしろ母親のもとに帰ったわよ。
アントニア――そこのところも話してくれない?
ナンナ――悪霊を祓《はら》うのを専門にしている修道士がいて、この男が例の極道女の家の粗末な垣根にのり、そこから屋根の上に登ったのよ。そして、その家の者が寝静まるのを待って、老母が寝ている部屋の戸口にそうっと近づいたの。老母はあいかわらず嘆き、いとしい娘を呼んでいたのよ。「今ごろお前はどこにいるんだい?」という嘆きの声を修道士は聞きつけ、声色を使って、「救済の地にいるのよ。お母さんが井戸の縁に捧《ささ》げて下さった花環のおかげで、あたしはちゃんと生きているのよ。あたしの母さんのお祈りのおかげで死に打ち克《か》ったわ。二日後には、前よりも元気になって帰ってゆきますからね」とささやいたのよ。彼は驚きいぶかる老女をそこに残してその場を立ち去り、修道院に戻ると、そのでたらめな話を仲間たちに語って聞かせたの。そこへは彼らの共有の例の女も呼ばれたわ。
院長は修道院全体の名において、彼女にその献身的奉仕に礼を言い、その義務をよりよく果たせなかったことを詫《わ》び、彼女を励ますためならなんでもしようと申し出たのよ。白いシュミーズを背にはおり、オリーブの冠《かんむり》を頭にかぶり、棕櫚《しゅろ》の枝を手に持った彼女は、夜の明ける二時間ほど前に、彼女が帰宅することを老母に予告した修道士に付き添われて自分の家へ帰っていったの。偽りの予告にすっかり元気を取り戻した老女は、骨のない肉が大好きで、井戸の縁に身の回り品を残しながら裏戸の鍵はぬかりなく持ち去った娘の帰りを、胸をときめかせながら待っていたのよ。娘は、鍵を使って戸口から入り、魔術使いの修道士には帰ってもらったのだけれど、修道士はその前にちょっと一突きつついていったのよ。
彼女は井戸の縁に腰をかけて夜明けを待ったの。夜が明けると、女中がまず起き出て、朝食の仕度をしようと井戸に水を汲《く》みに現われたの。そして、画に描かれている聖女ウルスラのような姿をした若奥さんをそこに見つけて叫んだわけよ。「奇跡です! 奇跡です!」この奇跡が起こることをあらかじめ知っていた老母は、女中の叫びを聞くや否や階段を転がるようにして駆け降り、娘の姿を見ると気違いのように飛びついたので、二人は今度こそ本当に井戸の中へ落ちてしまいそうになったのよ。近所中大騒ぎになり、奇跡を一目見ようとあちこちから人びとが駆けつけたわ。巧みな僧侶が十字架や聖母に涙を流させて人びとを驚かせるときとまったく同じだったのよ。亭主はといえば、老母からこっぴどくどやしつけられたけれども、やはりその場へやってきたのよ。そして妻の足元に身を投げ、頬《ほお》を伝って流れる涙のために『ミゼレーレ(主よ、憐《あわ》れみたまえ)』を唱えることができないので、両腕を前へ伸ばして十字に組み、伏し拝む格好をしたのよ。彼女は亭主に接吻をしてやり、その顔を上げさせ、井戸の中のことを話すと言って、そこにはノルチアのシビラ(巫女《みこ》)の姉妹とモルガヌ妖精(ケルト伝説中の人物)の叔母が住んでいたと語ったの。そこに居合わせた人びとはこれを聞いて、みんな井戸の中へ飛びこみたくてたまらなくなってしまったのよ。でも、このことをこれ以上話す必要はないわね。
とにかくこの井戸は大へんな評判になり、一種の聖地になってしまって、その上に鉄の網がかぶせられたのよ。亭主にぶたれる女たちはみんなこの井戸にお参りをしてその水を飲むと、とっても効き目があるという噂《うわさ》にもなったのよ。やがて、これから結婚しようとする女たちもこの井戸にお参りをするようになり、自分の結婚生活の将来が安泰でありますようにと井戸の妖精に祈ったのよ。わずか一年のあいだに、この井戸には、ボローニャのオリオの聖女レーナの墓よりもたくさんのろうそくや、衣類や、小卓などが供えられたのよ。
アントニア――これまたあきれた気違い沙汰《ざた》ね。
ナンナ――悪口言っちゃいけないわ。破門されるわよ。どんな枢機卿が彼女を聖列に加えるためにお金を集めているのか分からないからね。確かなことは、至福のヴァスターラで民衆を清めた修道士と彼女が組になっていたということよ。
アントニア――彼女がいつまでも聖女でいられますように!
ナンナ――あんまり長々としゃべってあんたを退屈させないように、亭主持ちの女たちの章はいい加減でしめくくるわね。
でもこの話だけはしておきたいの。それはね、この世で一番といえるくらいに優しい亭主を持ちながら、行商人に惚れてしまった人妻の話よ。首から吊《つる》した紐《ひも》に箱をぶら下げ、その中に細かな商品を詰めこんで、「ええ、立派な金具、針、ピン、きれいなさいころ、手鏡、櫛《くし》、鋏《はさみ》などの御用はありませんか!」と叫んで歩くあの行商人よ。いつも市場に現われて、油、石鹸《せっけん》、偽物《にせもの》のナツメグと、パンのかけらやぼろ布や古沓《ふるぐつ》と交換したりもしてね。でもそういうときは客がいくらかつけ足さなきゃいけないのよ。ところで、その亭主持ちの女だけど、このやくざな男にすっかり血道をあげてしまい、体面も外聞も捨て去って、持っている物全部を男に与えちまったのよ。するとこのろくでなし男はそれまでのぼろ服を脱ぎ捨て、見事な服を着こんですっかり紳士になりすまし、上流の人びとと遊びはじめ、一週間も経ったころにはシニョールと呼ばれるようになり、ある冠まで贈られたのよ。
アントニア――また、どうして?
ナンナ――というのは、この男は自分に財産をくれた女をそこいらのあばずれ女のように扱い、しかもしょっちゅう彼女を棒で愛撫しただけでなしに、そのことを街中でふれて回ったからなのよ。
アントニア――なるほど。
ナンナ――でもね、あたしが話したのはまるでとるに足りない、ほんの序の口なのよ。いちばん驚くべきことは上流の夫人たち、上流の旦那方のところで起こっているのよ。毒舌家と見られるのを覚悟で、この話をしようかな。家令、従僕、うまや番、料理人、皿洗いに次々に身を委せた夫人の話よ。
アントニア――おもしろそう! おもしろそう!
ナンナ――じゃ話すけど、本気で聞いてね。
アントニア――語して、早く話して!
ナンナ――じゃあ、いいわね。あたしの言ったこと、ちゃんと聞いたわね。
アントニア――でも、そのあと何も話してくれないじゃないの。
ナンナ――でもね、いいわね。あたしがあんたに話したのは、たった一つの修道院でわずかの期間にあたしがこの目で見た修道女たちのことだけなのよ。また、亭主持ちの女たちについても、たった一つの町で、やはりわずかの期間にあたしが見たり聞いたりしたことのほんの一部ですからね。キリスト教の全部の修道女たちの振る舞いと、世界の全部の町の亭主持ちの女たちの身持ちを話すとしたらどんなことになると思う?
でもね、サン・フランチェスコ会の修道女たちは立派よ。彼女らが身持ちの悪い修道女たちのために唱えるお祈りがあるからこそ、悪魔は、沓《くつ》をはききれいな服を着た悪しき修道女たちを亡ぼさずにいるのよ。彼女らの貞潔は、もう一方の修道女たちの不貞がおぞましい匂《にお》いを発するのと同じように、かぐわしい香りを発するのよ。神様は昼も夜も彼女らと共にいますのよ。悪魔が彼女らが起きているときも眠っているときもいっしょにいるようにね。わたしたちに災いあれ! わたしたちに災いあれ! あたしこの言葉を三度言うわ。たくさんの修道院にいる何人かの善良な修道女たちは一点の非の打ちどころもないほど立派な人たちよ。
アントニア――あんたは公正だし、偏見なしに話すのね。
ナンナ――亭主持ちの女たちにも貞節な人びとがいるのよ。この人たちは、指で触らせるくらいなら生皮を剥《は》がれることを望むでしょうよ、きっと。
アントニア――それも嬉しい話ね。それによってあたしたちが生まれることになる欲望というものをよく考えてみると、ほかの人たちが望むあれをあたしたちは我慢しなければならなくなるわね。その代わり、あたしたちは一般に思われているほどには退廃していないことになるのね。
ナンナ――あんたは何も分かっちゃいないのよ。あたしたちは肉で生まれ、肉で死ぬのよ。お尻があたしたちを作りだし、あたしたちを亡ぼすのよ。あんたが間違っていることは、二つの例で示してみせるわ。一つは、真珠、金の鎖、指環などを往来に捨てるほど持っているお金持ちの夫人たち、もう一つは、何ひとつ持たない乞食女の例よ。この両方とも切り子のダイヤモンドより|ラヴェンナヘの途中でマリアに会うこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(セックスをすること)のほうを好むものなのよ。夫に満足している一人に対して、夫を拒んでいる女は千人もいるし、自分の家でパンを焼く女二人に対して、パン屋のパンのほうが好きな女――それは、そのほうが白いからよ――は七百人もいることは確かなのよ。
アントニア――あんたのいうとおりね。
ナンナ――そうでしょう? 要約して言えば、女の純潔なんてクリスタルの水差しのようなものなのよ。あたしたちがそれをどんなに注意して握っていても、いつかうっかりしたときに、それは手から滑《すべ》り落ちて粉々に砕けてしまうものなのよ。戸棚の中にしまいこんで鍵でもかけておかない限り、それを無傷のままにしておくことは不可能なのよ。純潔のまま身を保つ女なんて、落ちても割れないコップと同じで、奇跡としか言いようがないのよ。
アントニア――適切な比喩だわ。
ナンナ――結論を急ぎましょう。亭主持ちの女たちの身持ちがよく分かったので、あたしは今度は関心を人足から立派な旦那衆にまで移してみたの。この人たち全部、とりわけ坊さん、僧侶を試してやろうと思ったのよ。あたしがとっても嬉しかったのは、あたしの旦那殿がそれを知っていただけでなしに、それを理解していたことなの。どうやらあちこちであたしのことを、「ああいう女はいいことをする。ああいう女は亭主をそれ相応に扱うものだ」と言っていたらしいのよ。でも、あるとき亭主があたしを叱りつけたので、あたしは彼に躍りかかり、思いっきりむしってやったの。そして、「いったい誰と話してるつもりなの? この空《から》威張りめ! 酔っぱらいめ!」とののしってやり、追いかけ回して攻めたてたので、亭主もいつものトロットをやめて早駆けに変わったのよ」
アントニア――ナンナ、あんた知らないの、男を勇み立たせるためには、ばかげたことをしてみせるのが一番だということを。
ナンナ――あたしだって、今話した方法で亭主を勇み立たせたのよ。だけど、そのあと、見られてはまずいところを何度も彼の目で見られてしまったのよ。それでも、人がまずくて熱いものを我慢して呑みこむように、じっと我慢していたらしいんだけど、あるとき、あたしが物乞いみたいな男をおなかの上に乗せているところを見られてしまったのよ。すると、こればかりは我慢して呑みこむことができなかったらしく、拳《こぶし》を固めてあたしに殴《なぐ》りかかってきたのよ。あたしは圧縮器(上に乗っていた男)をはねのけて体をかわし、持っていたナイフの鞘《さや》を払うと、自分が呑んでいる最中だった水を乱された怒りに狂いたって、亭主の左胸にそれを突き刺したのよ。彼の脈搏は間もなく止まってしまったわ。
アントニア――神よ、彼にお赦《ゆる》しを!
ナンナ――あたしの母が一部始終を聞いていて、あたしをその場から逃がし、ここローマヘ連れて来たのよ。あたしをここへ連れて来てどうなったかは明日話すわ。今日はもうこれ以上話したくないわ。椅子を立ってここを出ましょう。あまりしゃべったので、喉《のど》が乾いただけじゃなしに、ひどくおなかもすいたわ。
アントニア――さあ、あたしは立ったわよ。あいたっ! 右足がつっちゃったわ!
ナンナ――そこへ唾《つば》をつけて、十字を切りなさい。それで治るわ。
アントニア――そのとおりにしたわよ。
ナンナ――よくなったでしょう?
アントニア――ほんと、よくなったわ。あら、治っちゃったわ。
ナンナ――それなら、ゆっくり帰りましょう。家路をさしてゆっくり歩いてゆきましょう。今晩と、明晩と、あんた、あたしといっしょに過ごすのよ。
アントニア――ほかにもすることあるんでしょう。喜んで泊めて戴くわ。
こうして、ナンナはぶどう園の柵を閉め、二人はそれっきり黙ったままで家路をさして帰っていった。二人が家に帰り着いたのは、ちょうど真赤な太陽が遥《はる》か彼方の山の端に沈みかけているときだった。蝉《せみ》たちは、太陽が山の向こうに沈むと、歌い手の役割をこおろぎに譲って沈黙した。すでに梟《ふくろう》や蝙蝠《こうもり》が黄昏《たそがれ》の中を舞っていた。目を塞《ふさ》がれ、重々しく悲しげな沈黙と夢想の中に沈みこんだ夜は、黒い喪服に全身を包み、一か月ほど前に死んだ夫を思って吐息を洩らす未亡人のように見えた。占星術師たちに寝言を口にさせる夜は、屍衣《しい》の切れ端を顔の周りにつけただけで、仮面を剥《は》いで進み出てきた。金銀細工の巨匠アポロンの手ですべてが火色に染め上げられた星々は、好もしい、あるいは好もしくない道連れと共に、その位置にとどまり、あるいはゆっくりと移動しながら、一つ、二つ、三つ、四つ、いや、五十、百、千にもなって窓に顔をのぞかせていた。それはあたかも、夜の明け方に一つ一つと蕾《つぼみ》を開き、やがて日の光が輝き渡ると全部がいっせいに美しく咲き揃《そろ》うばらの花のようであった。筆者のわたしとしてはむしろ、宿営所を定める、作戦中の軍隊に比したい思いであった。兵士たちが十人、二十人と固まって集まってくる。かと思うと、この群衆がたちまちにすべての家々に散って行く。しかし、このような比較は読者の喜ぶところとはならないだろう。今日では、ばらの花、すみれの花、優しい草花なしにはいかなる珍味、珍品も佳《よ》しとはされないのであるから。ともあれ、今のこの時刻には、ナンナとアントニアは目指すところに着き、なすべきことをしたあとに床に就き、あくる朝まで眠り続けることだろう。
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第三日 娼婦たちの生活
アレティーノの「きまぐれなラジオナメンティの第三日」が始まり、ここではナンナがアントニアに娼婦の暮らしについて語る。
夜が明けると同時に、彼女ら二人はベッドから起き出て、昨夜のうちに用意しておいたさまざまのご馳走を、蓋《ふた》のついた大きい籠の中に入れ、女中の頭に載せた。女中は頭に籠を載せ、手にはフィアスコ壜《びん》を下げて先を歩いていった。アントニアがぶどう園で弁当を食べるための食卓布とナプキン三枚を小脇にかかえてそのあとに続いた。ぶどう園に着くと、ぶどう棚の下にある平たい石をテーブル代わりにした。傍らには井戸があった。女中は籠の蓋をあけ、まず塩を取り出して食卓に置き、それからナプキンを拡げ、ナイフを出した。日の光がいっぱいに差し始めたので、日が当たらないうちにと彼女は急いで食事をすませた。デザートには大きな生チーズを半分平らげ、ぶどう酒をたっぷり飲んだ。女中がチーズやぶどう酒の残りまで全部平らげるにまかせながら、ナンナは、「あとをちゃんと片づけてね」と女中に言い、ぶどう園の中をぶらぶらと二回り歩いてから、昨日と一昨日も坐った場所に来て、アントニアと並んで腰を下ろした。一息入れてから、まずアントニアが口を開いた。
アントニア――着替えながら考えたんだけど、あんたの話を誰かが文章に書いて、司祭や修道士や平信徒の行状を語って聞かせたらおもしろいわね。これを聞いたら、女たちがうれしがること受け合いよ。だけど、男たちの方も、抜け目のないところを見せようとしていろんな武器を渡してしまうあたしたちをやっぱり同じように笑うわね。なんだか、笑っているのが聞こえるようだわ。耳鳴りがするもの、きっと本当よ。
ナンナ――構わないわよ、そんなこと。それより、ローマでのあたしと母との話に入りましょうよ。
アントニア――そうね。そうしましょう。
ナンナ――あたしの記憶に間違いがないならば、母とあたしはサン・ピエトロの祭日の前日に着いたのよ。幸運なことに、空にはのろしが打ち上げられ、サン・タンジェロ城は無数のあかりで美しく輝き、銃砲の音が恐ろしいほどに轟き、そのあとに笛の音が流れ、町中の人びとが橋の上や街中に溢《あふ》れていたのよ。
アントニア――最初のときはどこへ宿を取ったの?
ナンナ――トルレ・ディ・ノーナ街の家具付き部屋よ。壁紙もちゃんと張ってあったけど。そこで一週間ほどすごしたとき、あたしに夢中の宿のおかみ――彼女はあたしを大へんな美人と思ってたのよ――が、ある宮廷人にあたしのことをちょっと話したのよ。するともうその次の日から、たくさんの人びとがあたしたちの住居の周《まわ》りをくたびれた馬のようにうろつき回り、あたしが彼らの望むように十分に姿を見せないものだからいらいらしたりし始めたのよ。あたしは鎧戸《よろいど》の陰に立っていて、ときどき鎧戸をちょっと上げては自分の顔を半分ばかりのぞかせてまたすぐに隠れてしまうの。あたしは元来美しかったつもりだけど、ちらりと一瞬間だけのぞかせるといっそう美しく見えるものなのよ。この手管《てくだ》が、あたしを見たい、知りたいという人びとの願望をいっそうあおりたてたのよ。
こうして、ローマ中の人びとが、新しくよそからやって来た女の噂《うわさ》でもちきりだったというわけ。あんたも知ってるとおり、人間って新しいもの好きだものね。人びとはあたしを一目見ようとして行列を作り、おかげで、宿のおかみはいっときもじっとしていられないのよ。なにしろ、人びとが次つぎと戸口をノックするものだから。おかみがあたしを彼らに委《ゆだ》ねたときに、彼らがおかみにした大言や約束は信用できるものだったのよ。あたしの母は用心深くして、あたしのしたこと、あたしがしていたこと、これからしなければならないことを全部あたしに教えてくれた人だったけど、そういう話を聞くのは喜ばないで、こういうふうに言ってたの。「いったい、わたしがそういう女の一人に見えますか? わたしの娘が誤った道に踏みだすことは神もお喜びになりません。わたしは貴族の女です。不幸がわたしたちに起こっても、ありがたいことに、つましく暮らしていけるだけのものはまだ残っているのですから」
こういう言葉に援けられて、あたしの美貌の評判はいよいよ高くなっていったのよ。穀物倉の天窓に止まった雀をあなた見たことある? はじめ、十粒かいくらかの小麦をつつき、それから飛び立ち、少し離れたところに止まり、それからまた別の二羽といっしょにやってきて小麦の粒をつつき、また飛び去り、今度は四羽、十羽、三十羽、ついには雲のような大群といっしょにやってくるのよ。それよ、それと同じように、あたしに憧《あこが》れる男たちの群があたしの穀物倉をつつきたくてあたしの家の周りをうずうずしながらうろつき回るのよ。あたしのほうも、宮廷人たちをただ見ているだけでは満足できず、鎧戸の隙間に目を押しつけて外をうかがい、この殿方の優雅な物腰、ビロードとサテンの袖《そで》なしマント、縁なし帽につけたメダル、首から下げた金ぐさりなどにじっと見入り、鏡のように艶《つや》のある馬に打ちまたがり、鐙《あぶみ》には靴の底の先をちょっと掛けただけで、手にはペトラルカの本を持ち、ゆっくりと馬を歩かせながら、品のよい声で小歌を口ずさむ姿に見惚れていたのよ。
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これが恋でないならば、わが胸に疼《うず》くはいったい何ならん?
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男たちは、あたしが隠れている窓の下に一人また一人と足を止め、「シニョーラ、あなた人殺しになってもよろしいのですか、あなたのたくさんの僕《しもべ》たちを死なせてもかまわないのですか?」などと口走るのよ。するとあたしは鎧戸をちょっと持ち上げ、にっこりした顔をのぞかせると同時にまた鎧戸を下ろして部屋の中へ逃げこむの。男たちのある人は、「あなたの美しい手に接吻します」とか、「神かけて誓いますが、あなたは残酷です」などと言って立ち去って行くの。
アントニア――今日はお話がいちばん素敵だわ。
ナンナ――こんな状態のときに、あいかわらずお上品な母が、ちょうど頃合《ころあい》よしと思ったらしく、あたしをちょっとだけ人前に出す気になったの。母はあたしに袖のない、とてもシンプルな紫色のサテンのドレスを着せ、髪は額を上から包むようにまとめたの。髪ではなくて、金糸の混じった絹の糸|かせ《ヽヽ》みたいだったわ。
アントニア――どうして袖なしのドレスを着せられたの?
ナンナ――雪のように白いあたしの腕をよっく見せるためよ。それから母は、ぴりっとした感じの特別の水であたしに顔を洗わせ、それ以上は特に白粉などは塗らずに、宮廷人たちの往き来がいちばん賑《にぎ》やかな頃合を見計らってあたしを窓際に立たせたのよ。あたしがそこに立った途端に、魔術で星がそこに現われでもしたかのように、人びとは馬の手綱を放してしまい、日向《ひなた》ぼっこをする乞食のように、うっとりとしてあたしに見入っているのよ。しかもその格好が、世界の果てから来て空気を栄養にするとかいう生き物みたいに、顔をきっと上げ、目を据《す》えてじっとあたしを見つめるのよ。
アントニア――あんたがいうの、カメレオンのことじゃない?
ナンナ――そうそう、それよ。|はいたか《ヽヽヽヽ》に似ていてそうではないあの鳥が羽根で雲をはらませるように、人びとは眼差《まなざ》しであたしをはらませたの。
アントニア――|よたか《ヽヽヽ》のこと?
ナンナ――そうそう、|よたか《ヽヽヽ》。
アントニア――それで、人びとにじっと見つめられているあいだ、あんたはどうしていたの?
ナンナ――あたしは修道女のようにしとやかな振りをしていたけれど、同時に結婚した女の確信をもって男たちをじっと見返し、娼婦のような身振りもしてみせたわ。
アントニア――それはご立派。
ナンナ――あたしがこうして二十分も立っていて、人びとの興奮のささやきも頂点に達したころ、母も窓際に現われ、「これはわたしの娘です」と言うかのようにあたしと並んで立ったの。あたしのファンたちは網にかかった魚のように口をぱくぱくさせていたけれど、やがて水の外に出された鯉《こい》や鮒《ふな》のようにぴょんぴょん体を躍らせながら去っていったわ。夜になると、戸口をコツコツとノックする音がしたの。宿のおかみが戸を開けに出て行くと、あたしの母は、ノックをしに来た男が何と言うのだろうと聞き耳をたてたわ。マントを頭からすっぽりと被《かぶ》っているらしい男が、「昼間、窓際に出ていたあの娘さんはいったい誰なのですか?」と尋ねているのが母の耳に入ったのね。すると、おかみは答えて、「あの方は外国のさる高貴な御夫人の姫君です。わたしが聞いたところでは、お父上は内乱で殺されたのだそうです。哀れな姫君はわずかな衣類だけをかかえてここまで落ちのびてこられたのです」これらの作り話は、母があらかじめおかみに言い含めておいたことだったのよ。
アントニア――抜かりがないのね!
ナンナ――するとそのばかな男はすぐさま叫んだの、「どうしたら、その高貴な御夫人にお話しすることができましょうかね?」するとおかみは、「どんな方法もありません。あの方がどなたとも話したがっておられないのですから」と答えたの。すると男があたしが生娘かと聞くので、おかみは、「生娘も生娘、なにしろアヴェ・マリアばかり唱えているほどですからね」「アヴェ・マリアをよく唱える者はパテール・ノステル(主祷文)を嫌《きら》うんでね」と男は言うらしかったわ。そして、男は階段を昇りかけたのだけど、おかみがそうはさせなかったの。「お願いだ、せめて彼女にこう言ってくれ。もしも彼女がこのわたしの話に耳をかしてくれるなら、一生涯感謝したくなるようなすばらしい贈り物をするとな」とその男は言ったの。おかみはそうすると約束し、男をいったん帰して自分は上へ上がって来たの。そして、「たしかに、よい酒の在りかは酒のみが一番よく知っています。お嬢さんはもう嗅《か》ぎつけられてしまいました。あの人たちは猟犬と同じで、鶉《うずら》の居場所をいっぺんで見つけてしまったのですよ。こう言いますのも、あの人たちの一人が自身で今やって来まして、奥さまにお目にかかれるように計らって欲しいとわたしに申しますからなのです」「だめよ、だめよ。だめだめ」と母は答えたの。すると、口の達者なおかみはさらにこう言ったわ。「女が示すことのできる賢さの一番のしるしは、神がその機会を与えて下さったときにそれを逃がさないことですね。今話した人は、あなた方を金ずくめにでもすることのできるお人ですよ。よくお考えになったほうがお得ですよ」そう言っておかみはあたしたちの部屋を出ていったの。
あくる日、おかみは食卓に山盛りのご馳走で母を丸めこみにかかったの。もともと頭のめぐりが速く、利にさとい主婦である母は、おかみの言うことを聞き入れて、その男の言うことに耳をかすことを約束したのよ。その男はあたしと寝ることによってフランス製のウール地の荷をほどくつもりでいたの。男は呼ばれてやって来て、何度となく誓いと呪《のろ》いのあと、あたしの処女を買うための手付金を払い、途方もない約束までしたのよ。
アントニア――お見事!
ナンナ――とにかく、問題のその夜になったのよ。まず豪勢な夕食が始まったのだけど、あたしは口をすぼめたままほんの十口ぐらいしか食べず、ぶどう酒も水で薄めたのをコップに半分ほど注《つ》いでもらい、それを小鳥のように少しずつ飲み、その間ひと言も口にしなかったの。この夕食がすむと、あたしは宿のおかみがデュカート金貨と引き換えにこの晩だけ貸してくれたというおかみの寝室に導かれたの。あたしが入ると同時に男は扉を閉めてしまい、誰の手も借りずにあっという間に着ているものを脱ぎ捨てると、さっとベッドにもぐりこみ、これ以上はないと思われるほどの甘い言葉であたしを手なずけようとし始めたの。「きみにはこれこれのことをしてあげよう。そして、ローマ第一の遊女にもひけをとらないような素晴らしい物を買ってやろう」
けれども、あたしがぐずぐずして中々そばへ寄り添わないのにしびれを切らし、ベッドから起き上がると、あたしのパンティを引っぱり下ろしてしまったの。あたしは懸命に抵抗したけれど駄目だったわ。そして彼はまたベッドに入り、あたしもベッドに入ろうとしたときに、そんなところを見られるのをあたしがひどく恥ずかしがるだろうと思ったのか、壁のほうへ顔を向けたのよ。だけど、「消しちゃいけない! 消しちゃいけない!」と彼が言うのも構わずに、あたしは明かりを消してしまったの。
あたしがベッドに入るとすぐ、彼はあたしの上にかぶさってきたわ。それは、死んだ息子の上に覆いかぶさる母親のような激しさだったわ。そして、他の男たちがするのとそっくり同じようにして、あたしに接吻し、両腕であたしを抱きしめたわ。あたしはぴったり締め合わした自分のハープの上に両手を載せていたけれど、身をよじりながらも、いやいやながらにせよ行為に応じる振りはしていたの。けれども、あたしのハープの中へ彼がつむ糸棒をつき立てようとしたときに、あたしは断乎《だんこ》として拒んだの。「わたしの魂よ、わたしの希望よ。頼むからじっとしてくれ。きみに痛い思いなどさせたら、殺してくれてもいい」と彼は言ったわ。あたしは断乎たる態度を変えなかったけれど、彼は哀願めいた言葉をくり返し、そうしながらもつむ糸棒の先であたしのハープを突くのだけどうまく命中しないので、苛立《いらだ》ちのあまり彼はだんだん疲れてきたの。
「それなら、これをきみが手で握って中へ挿入してくれ、わたしはじっとしているから」と彼が言いだしたの。「まあ!」とあたしは答えて言ったのよ。「この大きなものはいったい何ですの? どの男の人もこんなすごいものを持っていらっしゃるの? いったい、あたしの体を二つに裂いてしまうつもりですの?」
こう言いながらも、あたしはしばらくじっとしていたんだけど、例の物を手放してしまったのよ。すると彼は怒りだし、それまでの哀願から脅迫の口調に変わったの。「体に傷ができても、血が流れてもしらんぞ! 首を締めて、息の根を止めてやってもいいんだぞ!」と言って、そして実際にあたしの首に手をかけ、締めつけたの。でも、そっとだったけど。それからまた哀願が始まったの。それでけっきょくあたしは彼の望むとおりの姿勢にまたなったのよ。だけど、彼がそのシャベルを炉の中へ入れようとした瞬間に、あたしはまたしても炉を閉じてしまったのよ。すると彼は起き上がり、シャツを手につかんではおりかけ、出て行きそうにしたの。それであたしは彼の手をつかんで言ったのよ。「ご免なさい。もう一度ベッドに入って下さいな。おっしゃるとおりにしますから」
男の腹立ちはたちまちおさまり、嬉しそうにあたしに接吻をしながら言ったわ。「痛いことなんかないんだよ。蝿《はえ》が止まったぐらいだよ。ほんとうだよ。そうっとやるから」あたしは空豆を三分の一ほど入りこませ、それからそれをいきなり吐きだしてしまったの。すると彼は今度は本当に激昂《げっこう》し、ベッドの端に身をずらしたかと思うと、両膝をつき、頭を前につき出し、お尻を宙に浮かした格好で、あたしの中で充たすつもりだった欲望を自分の手を使って処理してしまったのよ。こうして、自分一人で事をすますと、立ち上がって服をまとい、ちょっとのあいだ部屋の中を歩き回っていたわ。あたしが彼に|はいたか《ヽヽヽヽ》のように過ごさせた夜は間もなく明けて、彼の顔には博打《ばくち》でお金も眠気もすっかり無くしてしまった人のような苦い表情だけが残っていたわ。やがて彼は、愛人に戸の外へ追い出された男のような罵《ののし》りの言葉を口にしながら窓を開け、そこに頬杖《ほおづえ》をつくと、テーベレ河にじっと見入り始めたの。河は彼の不様さを笑っているようだったわ。彼が考えこんでいたあいだじゅう眠っていたあたしは、やがて目を開くと起き上がろうとしたの。とそのとき、彼がまたいきなりあたしの上に押しかぶさってきたの。けれども、彼があたしに対して口にしたのと同じくらいの言葉でもって魔術師が悪魔を退けてくれたのかどうか知らないけれど、彼の企ては亡命者の願いと同じように空しく終わったの。最後に彼は接吻だけで我慢しようとしたけれど、あたしはその接吻さえも拒んだの。ちょうど、母が宿のおかみと話している声が聞こえたので、あたしは母を呼んだの。
「なんともひどい罠《わな》じゃないか、これは!」と、戸があくと彼は声を荒げて叫んだわ。「淫売宿だってこんなひどいことはしないさ!」
「処女を相手にするのは厄介なものですよ」とおかみが男を慰めるように答えていたわ。こうしておかみと男が話しているのをそのままにして、あたしは自分の部屋に引きあげたの。すった金を取り戻そうとする賭博師のように執拗《しつよう》なこの男はやがて家を出ていったけれど、たぶん一時間ほどたったあと、緑色の絹の布地をかかえた仕立屋をよこし、あたしのドレスを仕立てさせるための寸法をとらせたの。その晩こそはきっと思いを遂げられると思いこんでいたのね、きっと。あたしは贈り物はありがたく頂戴することにしたけれど、そのあとどうするかについては母の意見にしか耳を藉《か》さなかったの。贈り物を見て母は言ったものよ、「万事うまくいくよ。しっかりしなさいよ。あの男、お前に家も借りてくれようし、家具も揃《そろ》えてくれるだろうよ。さもなきゃ、破産するだろうさ」
あたしとしても、母の言葉を俟《ま》つまでもなく、自分がこのあとどうすればよいのかは承知していたわ。窓際に寄って外を見ると、ちょうど例の男の姿が見えたので、「彼が来たわ!」とあたしは胸の中で叫び、階段まで彼を迎えに出て、「さようならもおっしゃらずに行ってしまわれたので、あたしがどんなに悲しんだかご存じないでしょう」と言ったの。「でも、こうしてまた来て下さったのだからもういいわ。それに、たとえそのために死んでしまうとしても、今晩はお望みどおりのことをいたしますわ」
あたしのこんな言葉を聞いて、一瞬彼は呆気《あっけ》にとられていたけれど、すぐにあたしに駆けより、あたしに接吻したわ。そして、彼が食事を取り寄せに人を使いに出したあと、二人は甘い甘い仲直りをしたの。夜になると(この夜が彼には、十年も前から逢引きのときを待ち侘《わ》びていた人にとってのように待ち遠しかったとあたしは思うわ)、彼は夕食の代金を払い、頃合よしとみると、昨夜と同じベッドに入ったのよ。ところが、彼の要求に対するあたしの態度が、質物《しちもの》をもたない客から金を借りたいといわれたユダヤ人の高利貸しのように煮えきらないのを知ると、彼はもう我慢ができなくなり、あたしに拳骨《げんこつ》の雨を降らせたのよ。あたしは殴られながらも、「このままじゃすまないからね! 覚えておいで!」と叫んでいたのよ。そして、前の晩と同じ儀式をくり返したあと、彼はまたもや尻尾《しっぽ》を巻く破目になったのよ。彼は起き上がると、あたしの母が宿のおかみと寝ている部屋へ走りこみ、あたしを非難する言葉を四時間も喚《わめ》き続けたのよ。
「親愛なる若旦那」と母は男に言ったの。「ご心配なさいますな。今晩こそ、あの子が死ぬか、それともあなた様を仕合わせにして差しあげるか、どちらかにいたさせますゆえ」そしてベッドから身を起こすと、二重合わせになった、とっても長いタフタのベルトを男に手渡して言ったの。「これをお取り下さい。これであの子の両手を縛って下さい」
愚か者はベルトを受け取り、夕食と夜食の代金をまたしても払ったあと、今度こそはとあたしとの三度目の同衾《どうきん》を試みたのよ。ところが、あたしがまたもや言うことをきかず、触らせもしないと分かると、彼は短刀ででも刺し殺しかねないような怒りに駆られたのね。白状するけど、ほんとに怖かったわ。だから、彼にくるりと背中を向け、お尻を彼のおなかに預けるような格好になってしまったの。この格好が彼をいっそう煽《あお》りたてる結果になったらしく、彼はさらに熱心にあたしの体を攻め始めたのよ。でも、あたしが断乎その気にならなかったので、どうしてもうまくゆかなかったの。でも、この男が必死に努力するのを見て、「もう、その気になってもいいわね」とあたしは言い、お尻を彼のおなかから外して彼に顔を向けたの。彼はあたしの体を、天井の梁《はり》が数えられるような具合に仰向けにし、あたしにかぶさって、やっとのことで半分足らず挿入したのね。そのあいだあたしは「ええ! ええ!」って叫んでいたわ。彼はその姿勢のまま手を伸ばし、枕の下に入れておいた財布を取り出すと、その中からデュカート金貨十枚とそのほか何枚かのデューリオ銀貨をつかみだし、あたしの手に握らせながら、「取っておきな」と言ったの。あたしは、「いらないわよ」と言ったけれど、そのときはもう手に握りしめていたの。そして、彼には半分ほどまで進入させたわ。これ以上は深く入れないところまで行くと、ほどなく彼は精魂を放出してしまったわ。
アントニア――その人、どうしてあんたをベルトで縛らなかったの?
ナンナ――彼自身縛られているのにどうしてあたしを縛ることができるの?
アントニア――あんた、福音書みたいなこと言うわね。
ナンナ――われらが起き上がるより先にさらに四たび、彼の馬はわれらの生の道の半ばまで進みぬ。
アントニア――そう、ペトラルカの言葉ね。
ナンナ――というより、ダンテね。
アントニア――あら、ペトラルカじゃない?
ナンナ――ダンテ、ダンテよ。とにかく、その結果にしごく満足して彼は機嫌《きげん》よく起き上がったの。あたしも同じようにしたわ。けれども二人いっしょにいたのでは夕食にありつけないので、彼はあたしに夕食を作るように言いつけ、自分は夜になって夕食をしにまたやって来たの。払いは全部彼よ。
アントニア――ちょっと待って。その人、あんたが出血しなかったことに気づかなかったの?
ナンナ――それだけどね、あの宮廷人たちときたら、処女や殉教者にはとってもご精通なのよ! まああたしは、おしっこに血が混じったってほのめかしておいたけどね。だいたいあの人たちにとっては、あれを入れるところに入れれば、あとのことはどうでもいいのよ。四日目の夜には、彼に完全に入れさせてやったの。ところが、この律儀《りちぎ》な男はそのことに気がついただけでもう少しで気絶しそうになったのよ。あくる朝、心の中で笑っていたあたしの母は、ベッドの中のあたしたちを見てあたしに祝福を授け、貴族殿に挨拶をし、あたしが習い覚えたいちばん甘い愛撫を彼に与えているときに、彼にこう言ったの。「明日、わたくしはローマを発《た》ちます。郷里から手紙を受け取りましたのです。わたくしは郷里に帰り、一族に囲まれて死にたいと思います。だいたいが、ローマは幸運な人びとのための町で、不運な人びとの町ではありません。もちろん、わたくしも、自分の財産を始末し、せめてここに家を一軒買うことができますならば、この町を立ち去りは致しません。実は、借家が一軒見つかるつもりでおりましたのです。ところが肝心のお金が届かないのです。なにしろわたくしは他人様の家の間借りをしたままでいられる人間ではありませんし」
ここであたしは母の言葉を遮《さえぎ》って叫ぶようにして言ったの。「お母様、あたしの心ともしていたお方と別れなければならないのでしたら、あたしは二日とまたずに死んでしまいます」そして母に接吻をし、涙を二筋、頬から流れ落ちさせたの。
すると彼が急に立ち上がり、またベッドの端に腰を下ろしてこう言ったの。「わたしはあなた方のために家を一軒入手し、上の部屋から下の部屋まで必要品を備えさせることのできない男でしょうか? そんなことってあるものですか!」そして彼は急いで服をまとい、急用を思い出した人のように立ち上がると、そのまま家を走り出ていったのよ。そして夕方になると、手に鍵を下げて帰ってきたの。しかもその後には、マットレス、毛布、枕を担《かつ》いだ人足二人と、ベッドの床架、何脚かのテーブルを担いだ別の人足二人、さらにその後には、つづれ織、シーツ、食器類、手桶《ておけ》やバケツ、炊事道具を担いだ何人ともしれないユダヤ人が続いていたのよ。まるで一軒の家の引っ越しみたいだったわ。彼はまず母を連れていって、河向こうの小ぎれいな、調度品のちゃんと整った家に案内し、また引き返してきて、それまであたしたちを泊めてくれていたおかみに部屋代を払い、荷馬車にあたしたちの荷物を積ませ、日が暮れたころ、あたしを新しい住居に連れていったのよ。あたしたちといっしょにいた限りでは、彼は惜しまずお金を使ったわ。そう、それは確かよ。あたしが元の住居の窓際に姿を見せなくなったので、やがて人びとはあたしの新しい居どころを知ってしまい、やがてまた無数の男たちが、大鍋《おおなべ》の周《まわ》りの雀蜂《すずめばち》のように、あるいは花の周囲の蜜蜂のように群がりひしめき合うようになってしまったのよ。
やがてあたしは、そういう男たちの一人に心を寄せるようになり、その男の愛を目で受け入れ、仲介業の女の世話でこの男と会うようにもなったのよ。そしてこれが自分の持っている物をなんでもくれるような男だったので、あたしはそれまでのパトロンに背を向けてしまったの。かわいそうにこの男は、あたしに贈った無数の品物をあちこちの店から掛けで買っていたので、借金に首が回らなくなり、ローマの習慣に従って公示され、悪魔といっしょに放逐《ほうちく》されてしまったのよ。あたしときたら根っからの娼婦だったから、はじめは彼の財産をむしって減らしたように、今度は彼への愛を減らし始めたのよ。訪ねてくると扉が閉まっていて開かないので、彼はあたしのためにどんなにお金を使ったかをぶつくさ言いながら、ぷりぷりして帰っていったわ。
二番目の男を吸いつくすと、今度は三番目の男に狙《ねら》いをつけたのよ。要するにあたしは、誰だかの物語の主人公のゴンネッラとかなんとかが言ってるように、|ぜに《ヽヽ》を持って現われる男なら誰にでも体を与えたのよ。あたしは大きい家を借りて住み、そこに女執事を二人置いて、それこそお妃さまのように暮らしていたんだもの。だけど、娼婦道を勉強したことによって、あたしが、若殿然として大学にやってきて、七年後には哀れな男として帰ってゆくあの学生たちの一人みたいだったとは思わないでね。あたしはね、男たちの気をもませ、彼らとねんごろになり、男たちに財布の紐《ひも》をとかせ、彼らを袖《そで》にし、笑いながら泣き、泣きながら笑う――さっき話したようにね――術の全部を、三か月、いいや二か月、いやいや一か月で覚えちまったのよ。ばかな司祭たちが各地の町のあちこちの教会に掲示を張り出して最初のミサを唱えることを知らせるけれど、あたしは自分の処女を何度となく売り物にしたわけよ。あたしが男たちを相手にやってのけた悪どい手口(ほんとにそうなのよ)のことも話すけれど、これは全部あたしが、あたし一人で考えたことなのよ。あんた数学に弱いなら、大体が分かればいいわ。
アントニア――あたし数学なんか分からないし、分かりたくもないわ。でも、四季斎日を信じるようにあんたを信じるわ。
ナンナ――あたしが、他の男たちによりも特別に恩義を受けていた男が一人いたの。でも、お金にしか心が動かない娼婦にとっては恩義も不義理もないのよ。娼婦の愛なんて、フナクイムシのそれと同じで、吸いとるものがもうないとなると、いっそう吸いつくものなのよ。あたしもこの男には、これ以上ないくらいひどいことをしたのよ。しかも、彼があたしにもうたんまりはくれなくなると、いっそうひどいことをしたの。でも、彼はいつも少しはくれていたの。彼は金曜日ごとにあたしと寝にやってきたのだけれど、夕食がすむとあたしはきまって叫び声をあげたの。
アントニア――どうして、また?
ナンナ――彼の消化が悪いようによ。
アントニア――なんてたちの悪い!
ナンナ――なんとでもおっしゃい。とにかく、全部の料理を平らげると、あたしはすぐにはベッドに入らずに七時か八時ごろまでぐずぐずしているのよ。それからやっとこさベッドに入ると、不承不承に彼に体を預け、ときには彼の洗礼も拒み、そのほか何一つさせなかったりするものだから、彼ががっかりしてあたしの上から下りてしまったりしたほどなのよ。けれども欲情に駆られて彼はまたその気を起こすのだけれど、彼が期待している愛撫をあたしが与えないものだから、彼はあたしの脇へ横になるのよ。でもあたしはじっとしたきりなのよ。すると彼はあたしの体を揺すぶり、目に涙を浮かべながら恨みつらみを言うのよ。そしてけっきょく、あたしに同意させ、あたしの上に乗るためには、彼は持っているお金を全部あたしに渡してしまわなければならなかったのよ。
アントニア――ひどい女ネロね。
ナンナ――一週間か十日ローマに滞在してまたすぐに去ってしまうような他所者《よそもの》に対しては、ずいぶん手ひどいことをしたわ。ちょうどあたしには、あたしのいうことならなんでも無償できいてくれ、これから話すようなやり方で脅しもしてくれるような、与太者たちが何人かいたのよ。他所からローマにやってくる人たちというのは、古い物などを見たあとで、新しい物、つまり女もなにしていきたい、大尽風も吹かせていきたいものなのよ。こういう人たちはいつも真先にあたしのところへやって来たわ。だけど、あたしと夜を過ごした男たちはきまって衣類をそこへ残していったのよ。
アントニア――なんですって? 衣類ですって?
ナンナ――そう、衣類よ。今に分かるわよ。朝になると、女中があたしの部屋に入ってきて、ブラシをかけるとかなんとか言ってお客の衣類を持っていき、どこかへ隠してしまってから、お客さんの服が盗まれたって大声で叫ぶのよ。善良なその客は下着姿のままベッドから這《は》い出てきて、衣類を返してくれと要求し、返さないなら家具を壊すなどと言って怒るわよ。するとあたしは客よりも大きい声で怒鳴るのよ。「うちの家具を壊すですって? あんた。ここで乱暴を働くつもり? あたしを泥棒扱いするつもりなの?」この言葉を待っていたように、下に隠れていた用心棒たちが剣をかざして駆け上がってきて、「何かあったんですか、奥様?」ってあたしに声をかけるのよ。そして、下着一枚で、誓願でもかけに行きそうな格好をしている客の衿首《えりくび》をつかむのよ。客はたちまちペコペコとあやまり、なんか知人のところへ靴、帽子、外套《がいとう》、胴衣、縁なし帽などを借りるために使いをやることができるのを特別の恩恵のように思い、それから、このごろつきたちとかかりあいにならないですんだことに感謝しながら、あたしのところから出て行くというわけよ。
アントニア――それで、あんたはどんな気持ちだったの?
ナンナ――この上なしよ。だって娼婦のことでよくある乱暴も裏切りもぺてんも行なわれていないんだもの。だけど、あたしのこのやり口はだんだん噂《うわさ》になって広まったらしく、こういうよそから来た人たちもこの噂を耳にして、あたしのところへは寄りつかなくなったわ。たまに来る者があっても、そういう客は衣類を脱ぐとそれを下男に預けて宿へ持って帰らせ、翌朝また持ってこさせるようになったのよ。でも、そんなにまでしても、手袋もズボン吊りもナイトキャップも置いていかないほどうまく切り抜けた客は一人もいなかったわよ。なにしろ娼婦ってものは、針一本、爪楊枝《つまようじ》一本、はしばみの実一つ、さくらんぼ一つからでも、梨の実からさえ何かの利益を引き出すものなんだもの。
アントニア――そういう手管《てくだ》をいろいろ用いて、それでいて、ろうそくのかけらを売り歩くというようなことになるのを避けるのがやっとなのね。ところで、そういう目に合わされたお客たちは、たいていの場合、仕返しに梅毒を置土産に置いてったでしょう。でも、ほんとに妙だと思うのは、紅白粉《べにおしろい》や香水やきれいなドレスや立派な扇などでも寄る年波を隠せなくなった女たちが、冠り物その他あらゆる装飾品をお金に代えて、司祭になろうとしている若者たちみたいに四つの位階につくことね。
ナンナ――どんなふうに?
アントニア――まず、装身具類をベッドに変えてから、世間の男たちを家に泊め、それから、家具付き部屋をかかえて破産してしまって使徒書に載る、つまり売春宿の女主人になるのね。そのあと今度は、下着を洗うことに専念して福音書に移るのよ。そして最後に、サン・ロッコやポポロ広場や、サン・ピエトロ寺院の入口やパーチェ神殿や聖ヨハネ教会などでミサを唱える(つまり、施しを求める)んだけど、その顔には、彼女らの悪どい手口に怒った客たちからつけられた傷跡が残っているのよ。おまけに、彼女らのやり口に呆《あき》れはてて、牝猿、おうむ、それに彼女らが女王風を吹かす手先だった小人女たちまでそむいて去ってしまっているのよ。
ナンナ――あたしをそんな女たちといっしょにしないでよ。頭のない者はお気の毒としかいいようがないわ。この世間を渡るには身の処し方を心得ていなくちゃだめよ。殿様や殿下といった人たちにしか門を開かないというようなことはしないことね。少しずつ少しずつ、そしてゆっくりと積もって出来る山より高い山はないのよ。牛一頭は蝿《はえ》千匹と同じくらいの糞《ふん》をするなんて考える女はばかよ。蝿は牛よりずっとずっと多いんだから。金持ちとかなんとかいったって、中に一人ぐらいはすばらしい贈り物をしてくれるけれど、あとの二十人は約束だけでごまかしてしまうものよ。ところが、金持ちなんぞではない人たちでも、千人となればあたしたちの懐《ふところ》をいっぱいにしてくれるものなのよ。ビロードの服を着ていないからといってお客を追い返すような女は大ばかよ。ラシャ地の服の下にだって、デュカート金貨はたくさん隠れているのよ。下宿屋の親爺、焼肉屋、水運び人足、配達人夫、それにユダヤ人といった人たちは、多くはないけどきちんと贈り物をくれるものなのよ。だから、立派な胴衣などを着た人物よりも他の人物に目をつけるべきね。
アントニア――どういうわけで?
ナンナ――それは、そういう連中が借金をたくさん背負《しょ》いこんでいるからよ。宮廷人の大半は、家を背中に背負って、はあはあ息を切らしているかたつむりにそっくりよ。彼らが持っている僅《わず》かばかりの金は、油代となり、彼らのひげを光らせたり、洗顔したりすることに使われてしまうのよ。靴にしたって、新しいのは一足だけで、残りは全部|履《は》き古しのおんぼろばかりなのよ。あの人たちの着ているラシャ服が奇跡をおこしてビロードの服になるのを見て、あたし、笑わずにはいられないのよ。
アントニア――あんたは今の|しみったれ《ヽヽヽヽヽ》たちをちゃんと見抜いてるわね。あたしの時代には、男というものは別の種類だったのよ。奉公人の盗みは主人の悪事に由来してたのよ。でも、あんたの話に戻りましょうよ。
ナンナ――あたしの知り合いのある男は、あたしがどんな女かを知っていたので、「一リラも払わずに彼女と寝てみたい」とかねがね口にしていたの。その男があたしを訪ねてきては、あんたなんぞ聞いたこともないような優しさと丁重さであたしの話しの相手をし、あたしを賞《ほ》めそやし、あたしに親切にするの。あたしの手から何かが落ちでもすると、彼は急いでそれを拾い、それに接吻をしてから、それこそかぐわしいと言いたいくらいの恭々《うやうや》しさでもってそれをあたしに渡すのよ。
ある日、いつものようにあたしにおもねていた彼が、「奥さん、わたしはそのためなら死んでもよいとさえ思っているのに、どうしてあなたの御愛顧が預けないのでしょうね」と言いだしたの。「わたしのほうにはその用意がございますよ。要求してごらんなさいな」とあたしは答えたの。
「では、今晩わたしのところへいらしていっしょに寝て下さい。こうお願いするのも、きっとお気に召して頂ける小さな部屋をお目にかけたいからで」と彼は言ったわ。あたしは、別の男と夕食を共にすることになっていたので、夕食のあとでならと、承知したの。すると彼はいかにも満足そうな顔をしたわ。それは何よりもまず、夕食代も使わずにあたしをものにしたとあとで自慢できるからなのよ。時間になると、あたしは彼の家に出かけて行き、そして寝たわ。明け方近くなると彼が眠りこむのをあたしは待ったわ。彼が鼾《いびき》をかきはじめたのを確かめると、あたしはそうっと起き出て彼の衣服を着こみ、自分の女物の衣服をそこへ置いてきたの。そして、一か月前から目をつけていた彼の金の装身具もいっしょに頂戴したわ。あたしの女中がやって来たので、あたしはその部屋を出たわ。そのとき、片隅に、汚れた衣類がいっぱい詰めこまれた籠があたしの目に入ったので、それを女中の頭に載せて家に帰ったの。目を覚ましたその男がなんて言ったと思う?
アントニア――さあ、なんて言ったかしら?
ナンナ――彼は目を覚ますと、あたしの衣服が目に入ったので、最初はあたしがうっかりして間違えて着ていったものと思ったのだけれど、自分の物がいろいろ失くなっていることに気がつき、あたしを裁判所へ呼び出させたのだけれど、結果は彼が笑いものになっただけよ。こうしてあたしは、あたしをばかにしようとした男をばかにしてやったのよ。
アントニア――してやったりね。
ナンナ――こういう話もあるのよ。商人を愛人にしてたことがあるんだけど、これがとっても好人物で、あたしを愛していたというより、崇拝してたのよ。彼はあたしを囲っていたわけだから、当然だけどあたしは一生懸命サービスしたわ。だけど、彼に惚れちゃいなかったわ。「これこれの娼婦がしかじかの男に夢中になっている」なんていう人がいたら、そんなことありっこないって答えてやるべきよ。そんなの、とんま男を二、三度味見をしたときの気まぐれにすぎないものよ。冬の日ざし、あるいは夏の雨のような束《つか》の間の気まぐれよ。世間に苦しめられている者が誰かを心から愛するなんてできないことよ。
アントニア――それはあたしも自分の体験で知ってるわ。
ナンナ――ところで、この商人だけど、あたしと思いのままに寝ていたのよ。だけどあたしとしては自分の評判を高めるためと、彼の気持ちをさらに煽《あお》ってやろうとして、とっても巧みな手口で彼に焼もちを焼かせたのよ。
アントニア――どういうふうにやったの?
ナンナ――まず、山|鶉《うずら》二つがいと雉子《きじ》を一羽買ってこさせ、それから、家の者には知られていない与太者に事の次第を言い含め、商人があたしと食卓に着いている夕食の時間にやって来て戸口をノックするように言いつけたの。与太者がやって来て、言われたとおりにノックをすると、女中が出て戸を開けたわ。するとくだんの男が入って来て、「こんにちは、奥様!」と挨拶したあと、「スペインの大使殿がこの獲物をお召し上がり下さるよう奥方様にお願いしたいとのことでございます。そして、これがお気に召して頂けましたときには、少しくお話ししたいことがありますとのことでございます」
あたしは手ひどくはねつける態度で叫んだの。「大使だって? どこの大使か小石か知らないけれど、そんなもの持って帰っておくれ。あたしはね、あたしには勿体《もったい》ないほどよくして下さるこの大使様以外には興味がないのよ」こう言ってあたしはばか者の商人に大きな接吻をしてやり、与太者のほうをもう一度振り向いて早く出て行け、と脅したの。すると商人が言うの。「おばかさんだね、あんた。もらっておきなさい。もらって損をする物はないんだから」それから、与太者に顔を向け、「奥様は喜んでご馳走になるそうだよ」と言い、そして口の端でちょっと笑ってから、考えこんでしまったの。
「何を考えてらっしゃるの?」とあたしは彼の体をゆすって言ったわ。「大使どころか、皇帝だってあたしの接吻を手に入れることはできないのよ。あたしにとっては、山ほどのデュカート金貨よりもあなたの二足の靴のほうが大切なんですもの」彼は嬉しそうにあたしに礼を言い、それから仕事に出かけていったわ。
そのあとすぐ、あたしは例のごろつきたちが四時頃に来てくれるように連絡をしたの。四時はあたしたちが二人でいつも夕食をとる時間だったの。ごろつきたちはもうひとり別のやくざ者をひろって来て、この男にその役割を教えこみ、その手に松明《たいまつ》のかけらを握らせると、顔を知られている自分らはうしろのほうへ隠れて、その男に戸をノックさせたの。男はあたしの前に立つと、スペイン風に挨拶をしてからこう言ったの。「奥方様、わが大使殿が奥様に挨拶に来られました」あたしはそれに答えて、「大使様には申し訳ございませんが、あたくしはここにおいでのこの大使殿に先約がございまして」と言ったのよ。そして、こう言いながら、あたしの男の肩に手を置いたの。ろくでなしはいったん出て行き、しばらくしてからまた戸をたたいたの。あたしは今度は戸を開けなかったの。すると彼は外でこう叫んだわ。「戸をお開けにならないなら、わが閣下はこの戸を打ち壊しなされますぞ!」あたしは窓から顔を出して男に言ったの。「あんたの旦那があたしを殺そうと、この家に火をつけようと、打ち壊そうと、どうぞお好きなように! あたしがお慕いするのは、その優しさであたしを今のようにして下さった方だけですよ。あの方のためにそうする必要があるなら、あたしには死ぬ覚悟だってできているんですからね!」
このとき、あたしのパリサイ人たちが戸口にやって来たの。その数はたった五、六人だったのだけれど、千人ほどにも思える勢いだったわ。その中の一人がひどく勿体《もったい》ぶった口調で、半分スペイン語を混ぜてこう言ったの。「まあ、ばあさん、あとで後悔しないようにすることですな。神かけて申しておきますが、お前さんとちちくり合っている男の背骨をへし折るぐらい、われわれにはわけないことですからな」「どうぞ、お好きなようになさいよ。だけど、罪咎《つみとが》のない人に暴力を振るうなんて、まっとうな人間のすることじゃないわね」とあたしはやり返し、もっと言おうとすると、あたしの間抜けな情人があたしの袖《そで》を引っぱってささやくの。「もう、それ以上は言わないでくれ。さもないと、このわたしがあのスペイン人たちに殴り殺されちまうよ」
そして彼はあたしを無理に引っこませ、あたしが彼に示した好意がよほど嬉しかったと見え、八月半ばの祭り(聖母昇天祭)に特赦で釈放してもらった囚人たちがする以上の感謝とお礼をしてくれたのよ。次の日の朝には、すばらしいオレンジ色のサテンのドレスを買ってくれ、彼はといえば、御告げの鐘の時刻がすぎると、王国をくれてやると言われてももう決して街へは出ようとしなかったの。それほどこの間抜けはスペイン人たちを怖《こわ》がっていたし、大使に顔へ×をつけられることを恐れていたの。だから、おりあるごとに彼は言ったものよ。「たのむから、大使たちといざこざは起こさないでくれよな」って。
アントニア――どうして彼はそう言ったの?
ナンナ――それは、一月の最中《さなか》に、階段の下に大使たちを九人も立ちんぼさせたまま行列させて明け方まで待たせたって、彼に信じこませておいたからよ。こんなふうに話しておいたのよ。「あんたがあたしと寝ていた晩に、ある一人は地下室でガタガタ震えながら待っていたのよ。次の晩にはまた別の大使が中庭の井戸際で甘い言葉を考えながら待っていたのよ」って。すると、とっても嬉しそうな顔をするのよ。そして、あたしが大使夫人になろうなんていう気を起こさないようにと、贈り物やお土産も倍になり、おりあるごとに、「わたしのほうがありがたいと思っているんだ。いや、本当に」って言うのよ。
アントニア――なんと達者な策略だこと!
ナンナ――次の話はもっとすごいわよ。あたし、ある時期、とっても気取り屋の男とときどき寝ていたんだけど、この男、「しかじかの女には気をつけなよ」などと人から言われると、「はっはっはっ、誰に向かって説教してるつもりだい? いや、シエナ、ジェノヴァ、ピアチェンツァなどの部隊にいたときにけっこう楽しんだよ。だけど、わたしは娼婦なんぞには金を使わないよ、いやまったく」などと答える人間だったのよ。ところで、このうぬぼれ屋が財布に金貨を十枚持っていることにあたし気がついたのよ。あたしとすれば、夜こっそり取っちまうこともできたけれど、別の方法でやってのけたの。それはこういうやり口なのよ。あるときこの男、あたしんとこへ来ていたんだけど、あたしが他の男に夢中になっている振りをしてたもんだから、ひどく緊張し、警戒していたのよ。彼がこんな状態なのを見てとると、あたしは彼のそばに寄り、そのあごひげの中へ指を入れ、毛を一、二本そっと抜いて彼に言ったの。「ねえ、誰があんたの一番かわいい子なの?」こんなふうに話しかけながら、彼の膝の上に腰を下ろし、彼の首に腕を巻くと、自分の膝で彼の腿《もも》を左右に押し開き、彼をすっかりその気にならしてしまったの。あたしが彼の顔に接吻すると、彼のほうも同じようにし始めたわ。それから彼は急に黙りこみ、あたしの顔に息がかかるほどの激しい吐息を洩《も》らしたの。彼の|もの《ヽヽ》はすっかり大きくなっていたわ。あたしがそれを愛撫してやり、接吻もしてやると、もういっときも待てないという具合。さあ、いよいよ寝ようというちょうどそのときに、あらかじめ言い含めておいた男が扉をたたいたの。女中が窓に駆けより、それからあたしのところへ来て、「奥様、壁張り職人です」と言ったの。「上がるように言いなさい」ってあたしは女中に命じたわ。職人は入って来て未払いのベッド修理代として金貨十枚を請求したの。そして彼は、他にも用事があるので早くして頂きたいと言ったわ。あたしは女中に向かって、「この鍵で小箱を開け、中にあるお金のうちから金貨十枚を渡しなさい」と命じたの。
女中は小箱を開けに出て行き、残ったあたしは、やり手の男として策略にかけられる心配なぞは絶対ないと自信たっぷりの雄猫のキュー(玉突棒)を撫でてやっていたの。あたしの努力の甲斐あって、彼はもう破裂してしまいそうなほどに魔術にかかっていたの。だけど職人がしきりと催促するので、あたしはもう一度ならず、「早くしなさい、ばかねあんたは!」と女中に向かって怒鳴ったの。そのとき、女中が何かぶつぶつ言うのが聞こえたの。あたしは起き上がり、どうしたのかと女中のところへ見にいったのよ。女中はどうしても小箱の蓋《ふた》が開けられず、もたもたしていたわ。それも道理で、この壁張り職人というのが偽物《にせもの》であったと同様に、鍵もその小箱用のものではなかったのよ。あたしは女中が無理にこじ開けようとして鍵をこわしてしまったのだと言い、女中に躍りかかって拳《こぶし》で殴ったり怒鳴ったりしたのよ。そうしておいて、小箱を壊そうということになったのだけれど、今度は金槌《かなづち》が見つからないのよ。ここであたしはしたたか者に向かい、「お願いですから、もし金貨を十枚お持ちなら、ちょっと立て替えて預けないかしら。小箱を壊すか、うまく開くかしたら、すぐにもお返ししますから」って頼んだの。
アントニア――大事な取引きだから、男に敬語を使ってしゃべったわけね。はっはっはっはっ!
ナンナ――するとこのくわせ者の男がすぐに財布に手を伸ばし、必要な金額を無造作に職人のほうへ投げてやりながら、「さあ、親方、これを取ってさっさと出てってくれ」って言ったのよ。あたしのほうは、粉々に砕こうとするかのように、小箱を足で踏みつけたの。すると男は、「錠前屋を呼んで開けさせたほうがいいよ。何もそんなに急ぐ必要はないのだから」と言ったわ。あたしにお金を貸したので、あたしを急に配下にでもしたつもりになったらしく、男はそんな口調で言ったのよ。
アントニア――けちんぼ野郎のくせに!
ナンナ――箱を踏みつけるのをやめると、あたしは思うところがあって急いでベッドに戻ったの。男はすかさずあたしを両の腕に抱きしめにかかったわ。と、ちょうどそのとき、誰かが強く戸をノックしたの。それはあたしが男をおっぽらかすために待っていたものだったのよ。男があたしをつかむ手に力を入れ、誰が来ようと構うことなくこのままでいてくれと懇願するのも振り切って起き上がり、鎧戸に顔をつけたあたしは、頭に帽子をかぶり、外套を身にまとい、騾馬《らば》にまたがった、身分ありげな若い男の姿を見たの。その人は下からあたしを呼び、けものの尻をあたしに指し示したの。あたしは頷《うなず》き、下僕の外套をはおり(あたしはたいてい男の子の服装をしていたの)、その人といっしょに出かけてしまったのよ。抜け目がないはずのわが愛人殿は、置き去りにされた腹いせに、寝室の壁に掛かっていたあたしの肖像を壊してから、賭博師がいかさま扱いされた賭博宿を出ていくようにしてあたしの家を出ていったの。そうそう、言い忘れたけれど、彼は瞞《だま》し取られたお金を取り戻す代わりに家具を壊そうとかかったのよ。だけど女中が窓際へ駆けよって大声をあげたので、近所の人びとが駆けつけたものだから、彼はやむをえず、肩をがっくり落として去っていったのですって。しかもその前に彼は私の小箱をやっとのことでこじあけたのだけれど、中には怪我をした場合などのための軟膏やクリームしか入っていなかったのよ。だけど、自分のやってきたアヴァンチュールを一つ一つあんたに話そうと思っても、罪深い女が総告解をしようとして自分のしたことを全部打ち明けようと決心しても、いざ司祭の前に出ると、事の半分も思い出せないのと同じ具合だわ。
アントニア――そのほか、思い出せることを話して。それによって、あんたが忘れたことも推しはかるわ。
ナンナ――じゃ、そうしましょう。ある気のよいばか者が、自分の所有のちょっとしたぶどう園で百枚ばかりの金貨を稼ぎ、どこかの銀行にそれを預けて、あたしを女房にしようと考えていたらしいのね。で、その男はあたしのかかりつけの理髪師にそのことを話し、理髪師がまたあたしにそのことを伝えたってわけ。そこであたしは、その話を伝えた男を使って別の人物がどのくらいの現金を持っているかを調べ、わたしはきっと|もの《ヽヽ》にできるからと確信させてあたしの家へ来る気になるように仕向けたのよ。こうして、一か月間ひたすら愛撫に努めた結果、この男に、全部のベッド、台所、家全体を修理させるところまでこぎつけたのよ。一度か二度――それ以上じゃなかったわ――彼に味を見せてやったあと、パセリか何かのことで言いがかりをつけ、彼のことを、石頭、薄のろ、ばか、頓馬《とんま》、間抜け呼ばわりし、けっきょくそれを限りに袖《そで》にしてしまったのよ。自分の失敗に気づくと、かわいそうにこの男は首のねじれた坊主になったのよ。そしてあたしは笑ったの。
アントニア――どうして?
ナンナ――だって娼婦は、誰か男を絶望させ、破産させ、気違いにしてやったことを自慢できるときにこそ大きな名声をかちとることができるものだもの。
アントニア――そういうものかしら。
ナンナ――あの男、この男と瞞《だま》くらかしてどれだけのお金を稼いだかしら! あたしの家ではしょっちゅうたくさんの人びとが夕食を食べたわ。そして、夕食がすむと、テーブルにトランプを持ちだしたものよ。そして、「あれをしましょうよ、これをしましょうよ」とたいていあたしが叫んだの。こうしてカードが配られ、自分のカードを手にすると、人びとは、娼婦がセックスを我慢するのがむずかしいのと同じように、事態を紛糾させるのを押えるのがやっとだったわ。お金がポケットからどんどん出てゆき、人びとはいよいよ真剣になっていくのよ。そんな頃合を見計らって、見たところ薄ばかみたいないかさま師が二人現われるの。この二人ははじめは加わるのを渋ってみせたあと、ひどいいかさまのカードを使って、会食者の持ち金をかき集めてしまうのがつねだったのよ。というのは、いかさまカードでもあまりあてにはならないので、他の人びとが持っているカードが何かが一目で分かるようにあたしが細工をしておいたからなのよ。
アントニア――ひどい悪ふざけね、そのトランプ。
ナンナ――また、あたしは、金貨二枚で、ある男に、彼のライバルが夜の明ける二時間前に、しかも絶対に一人で来ると教えてやったわ。するとかわいそうなそのライバルは敵に待ち伏せされて、体じゅうを孔だらけにされてしまったのよ。
アントニア――雀蜂に刺されたみたいに! だけど、その男はどうして夜明けの二時間前にやって来たの?
ナンナ――それは、別の客がそれ以上はいられないで、あたしのところから帰ってゆく時間だったからよ。まさか、あんた、あたしが一人の男と好んで寝ていたからといって、その男だけがあたしを楽しませていたのだろうなんて思わないでしょうね。あたしはね、おなかが痛いとか胃が痛いとかの口実を設けては、例の商人のベッドから百度も千度も起きだし、家の中のあちこちに潜んでいる男たちを満足させてやっていたのよ。夏などは、暑さに我慢できなくなって、彼が寝ているベッドをシュミーズのままで起きだし、広間へ行って窓際に肱《ひじ》をつき、月や星や空と話をしていたのよ。でもそうしているあいだにも、あたしのお尻には男がたちまち、しかもときには二人もはりつく有様だったのよ。
アントニア――試合から離れる者は負けってわけね。
ナンナ――それは確かね。今度のはこういう話よ。男たちを十人か十二人、もう何ひとつないというほどに――あたしはそれほど貢《みつ》がせたってことだけど――すっからかんにしたあとで、この連中をそっくりお払い箱にしようって決めるのよ。
アントニア――そういうときは、どんな策略を考えるの?
ナンナ――信用できる薬剤師と医師にりんごをいくつかと茴香《ういきょう》を手渡して、「色男たちからしばらく解放されるために、病気の振りをしたいのです。ですからお医者さん、あなたは、あたしが寝込むなり、すぐにあたしが重態だと宣告し、うんと高い薬を処方して下さい。そして薬剤師さん、あなたは台帳にそれを記入し、その薬ではなしに、なんでもいいから好きな物を届けて下さいな」って言うのよ。
アントニア――分かったわ。そうやって、男たちに医者と薬剤師に代金を払わせ、そのお金をあんたのほうへ回させるってわけね。
ナンナ――中々分かりがいいわ。男たちといっしょに食事をしているときに、急に気分が悪くなった振りをし、食卓につっ伏すときなんぞは、顎《あご》が外《はず》れそうになるほどおかしかったわ。母は急病の正体をちゃんと知っていて、慌《あわ》てた振りをしながらあたしの服の紐《ひも》を解き、男たちに手伝わせてあたしをベッドに寝かしつけると、「ああ、神様!」とかなんとか言ってわあっと泣きだすのよ。すると男たちは、「なんでもありませんよ。ちょっとしたのぼせですよ」なんて言うわけよ。あたしはそれを聞いて、「そう、死にそうなほど気分がいいわよ!」と叫んで、そのまま失神してしまうの。すると男たちは慌てて医者を呼びに行く。医者はやって来ると、リュートの棹《さお》の絃に触れるときのような手付で二本の指であたしの脈をとり、ばら酢を用いてあたしの意識を回復させると、「脈が消えかけています!」と言い、部屋を出て行くの。疑うことをしらないこの善良な男たちの半分は、窓から身を投げんばかりに嘆き悲しんでいる母を慰めようとし、他の男たちは、薬剤師のところへ回す処方箋を書いている医者を取り巻いているという次第よ。
処方箋が書かれるとすぐ、男たちの一人が薬局へ駆けつけ、紙袋と薬壜《くすりびん》を両手いっぱいにかかえて戻って来るの。医者があれこれ指示をしたあと帰って行くと、あたしの母は、徹夜で付き添っていようとする男たちにやっとのことで帰ってもらったの。だけど、朝になると全員がまたやって来たの。医者ももちろん来たわ。医者は、あたしが夜の間に危く死ぬところだったことを知ると、何やら蒸溜《じょうりゅう》を行なうのに必要だからと言って、ヴェネツィア金貨二十枚都合してほしいと男たちに言ったのよ。するとすぐに、善良な男たちの一人が、それが蒸溜器の中でどうなるかもしらずに、言われたとおりの金貨をあたしの母に渡し、母はそれをもう二度と戻って来ない場所へしまいこんでしまったのよ。その愚か者こそいい面の皮で、彼のもとへはそのお金は二度と帰らなかったのよ。けっきょく、大黄、シロップ、気付薬、浣腸《かんちょう》、水薬、軟膏、医者の処方箋、燃料、ろうそくなどの代金の中から、財布がいっぱいになるほどの金貨があたしの手元に残ったのよ。
アントニア――ピンピンしているのにそうやって寝ているの、辛くなかった?
ナンナ――一人きりでじっとしていたのだったら辛かったろうと思うわ。だけど、ある晩は医者が肩を大いに揉《も》んでくれるかと思えば、次の晩は薬剤師が力を入れて腰をさすってくれるという具合で、ちっとも辛くはなかったのよ。あたしの病気が治ったとなると、丸焼きの、こんがり焦《こ》げた鶏と、上等のぶどう酒がわんさと届いたわ。あたしのために荒らされなかった酒蔵は一つもなかったんじゃないかしら。
アントニア――はっはっはっはっ!
ナンナ――さっきも話したあの商人は、それをあたしにじかには言わないで、子供が欲しくてたまらないということをそれとなく示していたの。あたしは機会をとらえ、ひどくひどく気分が悪くなった振りをしたの。朝から晩まで身をよじり、もがいたの。ほんの三口ばかり食べてはぺっと吐きだしてしまい、「なんて苦いの!」と叫ぶの。そのあと今度は本当に吐きそうな風をするの。人のいいこの男はあたしを励まし、「どうかそうなりますように!」ってつぶやくの。この男がいない隙《すき》に労務者のようにたくさん食べるあたしが、彼の前ではすっかり食欲を無くしてしまい、一口も喉《のど》を通らないという様子を見せたわけ。こうして、目まい、吐き気、つわり、腹痛、腰痛などをよそおったあと、最後に、それが時ならぬ時期に起こったことを嘆きながら、母の口を通じて、妊娠したことを彼に打ち明け、あたしの相談役である医者もそれを確認したのよ。するとこの頓馬な男はすっかり有頂天になり、代父と代母をさがし始め、鶏を買って来て伏籠《ふせかご》に入れ、産衣《うぶぎ》やおむつ、それに乳母をさがし始めたのよ。そして、小鳥を見ればそれを買い、はしりの果物、新鮮な花を見かければすぐに求めてくるという具合なの。彼はまた、あたしが自分で口へ手を持っていくのが見ていられず、一口一口あたしに食べさせてくれ、あたしが起きるにも坐るにも手をかしてくれるのよ。「あたしが出産で死んだら、子供だけはくれぐれもお願いしますよ」なんて言うと、彼は泣きだしてしまうんだけど、それは見ていて滑稽だったわ。あたしはまた遺書を書き、自分が死んだときのあたしの全財産の相続人に彼を指定したの。すると彼はそれをどこでも誰でも構わずに見せ、「これを読んで下さい。ここを見て下さい。これでわたしが彼女を熱愛しなかったらどうかしてるでしょう!」という具合に話して回ったの。
この作り話をしばらく彼に信じさせておいてから、ある日わたしはついうっかりと見せかけてばったりと地面に転んだの。そして打ちどころが悪かったせいだといって、ぬるま湯をはった金だらいの中へ羊の死産児を入れて彼のもとへ届けさせたの。それは普通の人の目には人間の胎児とも見えるものだったわ。それを一目見るなり、彼の目からは涙が溢れ落ち、口からは悲痛な呻《うめ》き声が洩れ、しかもあたしの母が、子供は男の子で、彼によく似ていると叫んだとき、彼の涙と鳴咽《おえつ》はいっそう激しくなったのよ。この死んで生まれた子を葬るために、彼は大へんなお金を使ったわ。あたしたち、彼には喪服を着させたのだけれど、彼が何よりも悲しんだのは赤子に洗礼を授けてやれなかったということだったの。
アントニア――あんたのピッパの父親は誰だったの?
ナンナ――それは神のような目をし、世界のような口をした侯爵だったけど、その人の名は言えないわ。ほかの話に移りましょうよ。
アントニア――それでもいいわよ。
ナンナ――あたし、ギターを習いたいと思ったことがあるの。楽しみのためというより、芸術的なことに趣味をもっているように見せかけるためよ。娼婦が身につけるそういう技芸が野次馬を集めるための格好の罠《わな》であることは確かね。それは人びとにとっては、茴香《ういきょう》やオリーヴや、食堂で出す煮こごりなどよりも貴重なものだものね。まともな歌がうたえ、いきなりでも楽譜が読める娼婦なんて、ちょっとしたもんよね。
アントニア――この世では何もかもが計略ってわけね!
ナンナ――あたしには、何よりも、どんなつまらないことからでも利益を引き出す才能があったのよ。そのつもりになったら、教会だってあたしの網の中にからめとることができたろうと思うわよ。あたしと寝て、あとへその毛を残さなかった男は一人もいないのよ。シャツでもナイトキャップでも上靴でも帽子でもサーベルでも、その他あたしの家に忘れていったものはすべて元の持主には戻らなかったのよ。どれもこれも役に立ったし、結構な儲《もう》けの元にもなったんだもの。それから、人運び人足、材木商、油行商人、手鏡行商人、遺失物商、石鹸・牛乳・チーズ商人、焼き栗・ゆで栗の行商人、さらには靴みがきからマッチ売りにいたるまで、全部があたしの親しい友だちで、あたしがたくさんの色男たちといっしょのところを見ようと、この人たちは競い合うようにして待ち受けていたのよ。
アントニア――どうして、その人たち、あんたを待ち受けていたの?
ナンナ――あたしが窓際に出て、あれこれの商人に目を向け、あれこれの品を買い、あたしの男たちにその代金を払わせるようにしたいからよ。あたしを口説こうとする男が現われれば、彼はジュリオ銀貨、グロッソ銀貨、バイヨコ銅貨などを使わなければならなかったわけよ。あたしの女中が現われて、「枕カバーの紐《ひも》の長さが足りません。しかじかのお金が必要です」と言ったとすると、あたしは誰でも構わない、とにかく一番先に現われた男に接吻をしてやり、「ジュリオ銀貨を一枚女中にやって下さいな」って言うのよ。あたしが頼んだとおりにしない男は、それっきりしみったれということになってしまうわけ。女中のあとに、今度はあたしの母が両腕に亜麻糸をいっぱいかかえて現われ、「これを見逃がしたら、こんな品には二度とお目にかかれないよ」って叫ぶの。あたしは別の男の頬《ほお》に接吻を二つしてやり、亜麻糸の代金を払わせるのよ。その男が立ち去ると、また別の男たちが現われるのよ。そこであたしは、今連れがあると言わせて、一人だけ入るという条件で一人にだけ戸を開けさせるの。その男はあたしの接吻の火であれを熱くしながら蒸煮を作り――あたしはそんなに可愛がってやるわけよ――、そのあと、その日のうちに、合わせ縫いした絹のベッドカバー、つづれ織の壁掛、額入りの絵、その他似たような値打ちの品を届けてよこしたわよ。これだけの贈り物をもらえば、あたしも、彼のほうから要求される前に、今晩寝に来て下さいって言ってやるのよ。すると彼は極上の夕食を届けさせ、いっしょに食べようと彼がやって来ると、あたしは彼に、ほんのちょっとぶらついて、それからもう一度来て下さいって女中に言わせるの。付近の散歩を終えて彼がまたやって来ると、女中が言うの。「あとほんの少しお待ち下さい」ってね。二分ほど待って彼がふたたび扉をノックすると、もう誰も戸口に出ないのよ。すると当然だけど彼は怒って叫びだすの。「売春婦《ばいた》め! この仕返しはきっとしてやるからな!」って。あたしのほうは、彼が届けさせた夕食を他の男といっしょに食べながらくすくす笑っているのよ。そして笑いながら、こう叫ぶの。「すきなだけ咆《ほ》えるがいいわ! 近所の人が笑ってくれるよ!」って。
アントニア――多少とも勢力のあった人だったんでしょうに、あとでどうして許してくれたのかしらね?
ナンナ――そりゃあ、はじめの二日間ばかりはかんかんになって怒っていたのよ。だけどそのうちに、若駒の手綱が捌《さば》ききれなくなって、ひとこと話したいとあたしのほうへ伝えてきたのよ。「ひと言なんて言わずに千言でもどうぞ」ってあたしは答えてやったわ。彼はすぐにやって来て、怒りに顔を真青にしながら叫んだわ。「とても信じられない思いだった!」って。それに対してあたしはこう答えたの。「ねえ、あなた、あたしを信じて下さる気持ちがおありなら、信じて下さい。あたしが愛し、尊敬し、心の中に抱いているのはあなたただ一人なのですよ。あの晩はどうにも仕様のない大事な用事で出かけるほかなかったことを知って下さったら、きっとあなたはあたしをほめて下さるでしょうに。あなたに甘えることができないのなら、誰に甘えればよいのでしょう」
とにかく、のっぴきならない裁判のことで、弁護士とか代理人とか法務官とかのところへいったということにしてしまったのよ。そうしておいて、彼の首に両腕を捲《ま》いてしなだれかかったの。そして彼があたしの畑に百合を植えているあいだに、あたしは彼の胸からハートを盗みとってしまい、彼の腹立ちはきれいさっぱり消えてしまったのよ。おかげで彼はすっかりご機嫌になってしまい、やっとのことであたしから離れ、帰っていったのよ。
アントニア――あんたは学校の先生になるべきだったわね。
ナンナ――それはどうも。
アントニア――だって、それだけの値打ちがあるんだもの。
ナンナ――ま、それはともかく、あたしがあるとき、ちょっとした大金を手に入れた、新しいやり口を聞いて。ある貴族なんだけど、この人があたしに思い焦がれて、その所領の一つに二月ばかりあたしを連れて行くと言いだしたのよ。それであたしは、誰ともさようなら、と言いたがっているという噂を流そうと思いついたの。そこで早速一人のユダヤ人商人を呼んで、家具を全部売り払ったの。もちろん、あたしを取り巻く男たちは大騒ぎだったわ。こうして、人びとには知られないようにして、この金をある銀行に預けてから、この貴族といっしょに姿をくらましたのよ。
アントニア――どうして家具を売り払ったの?
ナンナ――もう全部が古くなっていたから、新しくするためよ。あたしが戻ったらすぐ、あたしに惚れている男たちが、こぼれた砂糖に集まる蟻《あり》の群のように、たちまち駆けよって来て新しい家具を買ってくれるだろうと、これだけは確かだったのよ。
アントニア――あんたたちが可哀相な男たちに仕掛けるそのまじないで、彼らは何でも信じるようになってしまうのね。
ナンナ――男たちを盲にするためにはどんな手でも使うってことは否定しないわ。必要とあれば、あたしたち、自分の汚物でもなんでも食べさせちまうものね。名前はあえてあかさないけれど、あたしが知っているある女は、自分の体いっぱいについているフランス病(梅毒)のかさを一つかみ食わせたのよ。その男に自分の尻を追っかけさせるために。
アントニア――うふっ!
ナンナ――そうよ、生きたまま焼き殺された人間の脂で作ったろうそくのおかげで、取引きを何度か手っとり早く片づけることができたということもあるのよ。だけど、けっきょくのところ、月の光で乾かした草とか絞首綱とか死者の爪とか悪魔の言葉とかのそういう魔力は、もしお許しがえられるならこれからお話しする大魔力に比べたら庇《へ》みたいなものね。
アントニア――あんたの精神はチャペレット〔ボッカッチョの「デカメロン」の中の一挿話の主人公で、悪のヒーロー。のちに自分を聖者に仕立てあげる〕の精神そのものね。
ナンナ――偽善者と思われないために、立派なお尻は哲学者、天文学者、錬金術師、降神術師のどれよりも大きい力をもっていることをお話しするわ。あたしは、二つの草原にあるほどたくさんの草、十の市場で交わされるほどたくさんの言葉を用いてみたのだけれど、悲しみに塞《ふさ》がれた胸を動かすには、その名前は言えないけれどある人の指の力にはとてもかなわなかったわ。それはそれとして、あたしも、お尻を一振りなまめかしくくねらせただけで、全部の売春宿の連中がびっくりしたほどある男をあたしに夢中にさせたことがあるわ。普通には、人びとは毎日新しいことを見るのに慣れていて、ちょっとぐらいのことでは驚かないんだけれどね。
アントニア――ねえ、そういう魔力の秘密はどこにあるの?
ナンナ――それは割れ目にあるのよ。この割れ目は股引《ももひき》からお金を引きだすすごい力をもっていて、その点ではお金自身が修道院に割れ目を作る力をもっているのとおんなじね。
アントニア――お尻がお金と同じくらいの力をもっているのなら、シャルルマーニュ帝の部下たちを皆殺しにしたロンスヴォー〔ピレネー山中の村。七七八年、シャルルマーニュ帝|麾下《きか》の将ローラン等がここで戦死〕の勇士たちより強いのね。
ナンナ――もちろん、ずっと強いわよ。でも、さっきの話を続けましょうよ。この策略、よく聞いてね。傑作なんだから。あるときつき合っていた男は、使うお金のない放蕩《ほうとう》者みたいに怒りっぽかったの。蝿《はえ》が鼻にとまってもすぐに怒るし、ちょっとでも不愉快なことがあるとあたしに当たり散らすといった具合よ。でも、怒りが過ぎ去ると、彼はあたしの前にひざまずき、手を十字に組んで許しを求めるのよ。そしてあたしの優しさが、財布を犠牲にしての悔恨を彼に強いることになったのよ。あるとき、彼がひどく無礼な態度をとったので、あたしは彼の腕からすり抜けて、彼のライバルに身を委せてしまったの。すると彼は絶望のあまり気違いのようになり、あたしをひどく打ちすえたの。やがてわれに返った彼は、あたしが彼の言葉にはもう絶対に耳を藉《か》さない振りをしたので、普通の手段ではあたしをなだめることはできないと考え、財産を半分あたしにくれたのよ。それでやっと彼はあたしと仲直りできたってわけ。
アントニア――あんたのやり方は、殴られないように保証をさせておきながら、相手を挑発して手を出させ、相手に刑を食わせるようにする臆病者と同じね。
ナンナ――そうね、そのとおりね、たぶん。はっはっはっはっ! でも、それはいいとして、あたしね、全世界の人びとの分として七つの大罪しか設けなかった説教者のことを考えるとおかしくなっちまうのよ。だって、どんなみすぼらしい娼婦だって彼女一人で百もの大罪をもっているのよ。こういう女たちが自分の祭壇《ヽヽ》を覆うためによその教会の無数の祭壇をどんなに荒らしているかを考えてごらんよ。大食、怒り、傲慢《ごうまん》、妬《ねた》み、怠惰、吝嗇《りんしょく》は、売春が生まれたその日に生まれたのよ、アントニア。娼婦がどんなやり方で食い荒らすかを知りたければ、彼女を招く男たちに聞いてみるがいいわ。また、娼婦がどんなふうにして怒りに身を委《まか》せるかを知りたければ、暦に載っている全部の聖人の父親と母親に尋ねてみることね。娼婦たちがそういうことをやれるのは、彼女らが、神様がそうなさったよりももっと早く世界をその奈落《ならく》の中へ呑《の》みこめるからなのよ。
アントニア――大へんな所業ね!
ナンナ――娼婦の傲慢は着飾った下司《げす》のそれ以上よ。娼婦の妬みは、梅毒がそれにかかった者の体をむしばむように、彼女をむしばむものなのよ。
アントニア――お願い、あたしにそれを思い出させないで。あたしもそれに苦しめられて、自分でもわけが分からなかったのよ。
ナンナ――ごめんなさい。あんたがそれに苦しめられたなんて忘れていたわ。娼婦の怠惰は、一文の給金もなくなって事務所にくすぶっている勤め人のそれよりなお悪いわ。娼婦の吝薔は、けちん坊の高利貸が空腹を我慢して戸棚の中にわずか一口の食べ物をしまいこむあれに似ているわ。
アントニア――じゃあ、娼婦の淫乱についてはどう考えるの?
ナンナ――アントニア、いつも飲んでいる者はひどい喉《のど》の渇きを知らないし、いつも食卓に着いている者は空腹を感じることはまれだわね。娼婦たちがときどき大きいキイを味わいたがるとすれば、それは、妊婦がにんにくや青いすももを食べたがるような、特殊な欲求だわ。このことは、あたしが娘のピッパのために仕合わせな縁組を探していることでも分かるでしょう。淫乱な欲望というのは、娼婦たちが抱く、何かしたくてたまらないという欲求の中で一番小さいものよ。だって、彼女らは他人の心も肝《きも》も抜きとるにはどう振る舞わなければならないかとしょっちゅう考えていなければならないんだもの。
アントニア――それはあたしもそう思うわね。
ナンナ――そう、分かってくれるのね。だけど今度はいくつもの優しい行為のことを聞いて。一息に話すから。
アントニア――そう、聞かせて。
ナンナ――他にもたくさんいたけれど、特に三人があたしにご執心だったの。一人は画家で他の二人は宮仕えの役人ね。そして、犬と猫のあいだにある平和が、彼らのあいだにある平和だったの。三人のそれぞれが、他の二人のどっちもいないときにあたしのところへやって来ようといつもチャンスをうかがっていたわけね。だから、例えば画家が夜の時ならぬ時刻にやって来て戸口をノックする。家の者が戸を開けに出る。画家は階段を昇り、あたしの脇に腰を下ろそうとする。と、ちょうどその時、誰かが戸をたたく。そのたたき方で、それが役人の一人だということがあたしには分かる。それで、画家を家の中に隠れさせ、役人のほうを迎えに出る。彼は階段を昇りながら、「くそっ! あの囚人帽みたいな帽子をかぶりやがった腰抜けのへっぽこ画家をここでつかまえさせてくれ!」なんて叫ぶのよ。画家にはそれが聞こえないの。この役人が悪口雑言を放っているときに、三番目の愛人がやって来て、咳《せき》払いをしてその到来をあたしに告げるの。そこであたしは、画家の悪態をついている役人を急いで隠れさせ、三人目の男を招じ入れるわけよ。この男は唾《つば》を吐きながら入って来て、まずこう言うのよ。「わたしはあの二人のろくでなしのどっちかがあんたといっしょだろうと思ってやって来たんだよ。ここで鉢合《はちあ》わせしたら、ただじゃおかないんだがな!」でもね、この男がこんな口をきいたからって、その言葉どおりに勇敢だったなんて思っちゃだめよ。だって、自分のそばに仇敵の一人がやはり潜んでいようとは露知らない画家と、画家がすぐ近くに同じように隠れているなどとはなおさら知らない役人とは、この言葉を聞くなり、隠れ場から躍りだし、空威張り屋に今の言葉を取り消せと迫ったのよ。空威張り屋は二人を見るとあとずさりし、階段の上から下へ転がるように駆け降りたの。腹立ちに目がくらんだ他の二人はその上にかぶさるように駆け降りたわ。こうして、お互いに死ねばいいと思うほど憎み合っている三人が一塊《ひとかたま》りになって物凄《ものすご》い殴り合いを始めたの。この騒ぎに近所の人びとが駆けつけたのだけれど、仲裁に中へ入ることができないのよ。なにしろ、三人は自分らの背中で内側から戸を押えて開けさせないんだもの。騒ぎはさらに大きくなり、野次馬の数も増えたわ。このとき偶然に総督が通りかかり、戸を打ち壊させ、傷だらけ、血だらけの三人を逮捕し、同じ牢の中へ投げこんでしまったの。そして、仲直りするまでは釈放しないと宣告したの。これがこの話の結末よ。
アントニア――なるほど、傑作だわね。
ナンナ――あんまり傑作だから、よそから来る人には誰にでも話したし、ユダヤ人のジャンマリアにこれにちなんだ歌を作らせようと思ったくらいよ。でも、自慢屋だなんて言われてはと考えて、やめにしたけれど。
アントニア――神様がその代わりに何か報いて下さるわよ、きっと。
ナンナ――ほんとにそう願いたいわよ。だけど、今の話を聞いては誰も笑ったけれど、これからする話には誰もがびっくりしたものよ。男たちがあたしに一番好意を寄せてくれたころに(あたしが男好きのする顔だったおかげで)あたし、カンポ・サントに閉じこもろうと考えたことがあるのよ。
アントニア――どうして、サン・ピエトロ寺院やサン・ジョヴァンニ寺院を考えなかったの?
ナンナ――無数の死者の骨の中に身を埋めることによって同情をいっそうかきたてようと思ったからよ。
アントニア――いい狙《ねら》いね。
ナンナ――この噂を世間に流すと、あたしは清らかな生活を送り始めたの。
アントニア――それを詳しく話す前に、お寺に閉じこもるなどという気違いじみた考えがどうして浮かんだのかを話して。
ナンナ――男たちから逃げたかったのよ。しかも彼らの費用でね。
アントニア――ああ、なるほど。
ナンナ――そういうわけで、あたしは暮らしぶりを変えたの。まず、寝室の壁掛けを外したわ。それから、ベッド、食卓も質素にしたわ。服も灰色の粗末なものに変え、金鎖、指環、帽子、その他軽薄なものは全部やめ、毎日断食をしたの(そして、こっそり食べていたのだけれど)。話を交わすのをまったく拒んだわけではないけれど、男たちの求めにはほとんど何ひとつ同意せず、男たちをあたしなしの生活に少しずつ慣れさせようとしたのだけれど、その結果、彼らはすっかり絶望してしまったのよ。あたしが隠遁しようとしているという噂が広まったことを確かめたとき、あたしは家にあった多少とも値打ちのある品物は安全な場所に隠し、そこここで古着などを無償で配ったりしたの。
そしてそのときが到来したと見ると、あたしがいなくなることで男やもめになるようなつもりでいる男たちを集め、彼らに椅子を配り、しばらく無言でいてその間に胸の中で言葉を考え、十粒ほどの涙を目から溢れさせたあと、どうしてか流れる涙を上手《じょうず》に頬《ほお》に止めて彼らに言ったの。「いとしい兄弟たち、なつかしい父たち、かわいい子供たち、心に思いを向けない人は心をもたない人か、あるいはそれに愛着をもたない人です。でもあたしは自分の心に愛着を抱いています。そのあたしの心は、さる説教師とさる聖女の伝説によって悔い改め、それと同時に絵で見た地獄に脅えもしたのです。このことから、あたしは火熱の家から逃がれ去る決心をしたのです。あたしの数々の罪は神の慈悲の大きさに劣らないほどに深いのです。それゆえに、わが兄弟たちよ、わたしの息子たちよ、自分のこの惨めな肉を、この惨めな体を、この惨めな生命を四壁の中に閉じこめようと思うのです」
この言葉を聞くと、善良な男たちの喉《のど》からむせび泣く声が洩れ始めたのよ。ちょうど、司祭の説話が受難のところに及んだときに善良な信徒の喉から嗚咽《おえつ》の声が洩れるのと同じように。あたしはさらに続けたの。「もはや装飾品も化粧品も要りません。何も不要です。これまでの家具の揃《そろ》った部屋に代わって、何もかもむきだしの狭い独房に住むことになります。ベッドに代わって、床に敷いた一かかえのわらの上に寝、食べる物は神の恵み、飲む物は天の水、金糸を織り込んだドレスに代わるのは……これです」と言って、下に敷いていた、これ以上はないほどの粗い布地を手にとり、彼らに見せたの。
コロッセオで十字架を示されたときに善良な信徒たちが呻《うめ》きといっしょに発するあの嘆きの叫びをあんたが憶《おぼ》えているならば、アントニア、あんたは今ここからでも、押し殺した悲しみのために涙でしか語れなかったあたしの崇拝者たちの嘆きを見、聞くことができるはずよ。あたしがさらに、「兄弟たちよ、あたしを許して下さい!」ってつけ足すと、ローマがふたたび水不足で干上がったときに起こるような騒ぎになったのよ。その中の一人はあたしの足元にひざまずき、いろいろかき口説いたけれど、それがすべて効き目がないとみると、立ち上がって壁際へ行き、壁に頭を二十度もぶっつけたのよ。
アントニア――なんて痛ましい!
ナンナ――こうして、とうとう、あたしが四壁の中に閉じこもらなければならない日の朝が来たの。まるで、ローマ中の人びとがカンポ・サントの教会にやって来たかと思われるほどで、ユダヤ人に洗礼を施すとしたらたくさんの人が見に来るだろうけれど、その人びと全部を集めてもこのときの群衆の四分の一にも足りなかっただろうと思うわ。翌日首をくくられるという人でも、これから戦闘に出発するという人でも、このときのあたしの愛人たちが抱いたほどの辛い気持ちは抱かないと思うわ。ま、それはともかく、人びとの大騒ぎする中であたしは四壁の中へ閉じこもったの。
ある人は、「神が彼女の心に触れられたのだ」と言い、別の人は、「彼女は同類の女たちに身の処し方の模範を示したのだ」と話し、他の人びとは、「誰がこんなことを想像したろうか!」と話し合ったのよ。また、自分の目を信じまいとする人びともいたし、ただただ茫然《ぼうぜん》としたままの人びともいたし、笑いながら、「あれで月の末まで頑張れたら、わたしが磔《はりつけ》にされてもいいよ」と言う人もいたわ。競うようにあたしのことを話し合いながら押し合いへし合いしているこの人びとを見るのは、気の毒でもありおかしくもあったわ。やがて、数日経つと、あたしは人びとの哀願の声に耳を傾けはじめたの。人びとは、どうか外へ出る決心をしてほしいとあたしに訴えながら、「彼女の魂はどこでだって救うことができるんだから」とくり返していたわ。
結論を急いで話すとね、彼らはあたしのために真新しい家を借り、家具・調度を整えたの。こうして、人びとが独房の壁を打ち壊してしまい、それをよいことにして外に出たあたしは、それまでよりももっと厚かましくなったのよ。これにはローマ中がびっくりしたらしかったわ。そして、あたしがすぐに出てくるだろうと見とおしていた人びとは、「どうだい、言わないこっちゃないじゃないか」と声高に話し合ったわ。
アントニア――あんたのように一人の女がどうしてそんなにいろんなことを考えつくことができるのか、あたしには分からないわ。
ナンナ――娼婦は女じゃないのよ。娼婦は娼婦なのよ。だから彼女らは、あたしが思いついたようなことを思いつき、あたしがしたようなことをするのよ。でも、あたしたちの用心深さという長所、冬に備えて夏に蓄える蟻《あり》の長所のことも忘れてはいけないわね。あたしの親しい妹のアントニアよ、娼婦というものは彼女を不安にするとげをいつも胸にもっていることもあんたは知るべきよ。それは、あんたが賢明にも口にしたろうそくと、教会の階段への恐れなのよ。
打ち明けて言うけれど、太陽の光の下でこうして仕合わせにしていられるナンナのような娼婦一人に対して、千人の娼婦は施療院で死んでいくのよ。それに、彼女らが心の中というより魂の中に抱いているとげが彼女らにどういう作用をすると思う? このとげは彼女らに老いを考えさせるのよ。そこで彼女らは施療院へ行き、そこで一番愛らしいと思う女の子を選び、自分の娘のように育てるのよ。それもね、彼女らは自分の色香が失せるころにちょうど花開く年ごろの女の子を選び、思いつく限りの一番きれいな名前をつけ、他人には本名をけっして知られないようにその名前をしょっちゅう変えるのよ。今日ジュリアかと思えば、明日はラウラになり、さらにルクレツィア、カッサンドラ、ポルツィア、ヴィルジニア、パンタシレア、プルーデンツィア、コルネリアというふうに変わっていくの。
まあ、こんな具合で、あたしがピッパの母親であるように本当の母親をもつ一人の女の子には、施療院でかかわりをもったたくさんの母親がいることになるのよ。あたしたちが作る子供の父親が誰かを知ろうなんて、だいたいが無理な相談よ。あたしたちはどこそこの旦那の子とか閣下の子とか言いますけどね。男たちがあたしたちの畑に播《ま》く種は多種多様だから、芽を出したのがどの種かなんて言い当てることなんかできないのよ。いく種類もの種が播かれて、まさかそれに区分札をつけることはできないのに、畑に芽を出したのはどの種だなんて言う娼婦がいたら、それこそ気違いよ。
アントニア――それは確かにそうね。
ナンナ――それにね、母親がついている娼婦の手中に落ちないように気をつけることね。そういう娼婦とかかり合いになった男は御難というほかないわ。母親というのは年はとっていても、自分の分の香油はちゃんと求めるものだもの。この老女たちは娘の策略にも加わるし、自分自身が性悪な手管《てくだ》の主役にもなるのよ。そうすることで、彼女を満足させてくれる男に必要な金を作りだそうとするからなのよ。老女たちってのは若い男にいつだって夢中なんだから。これはもう老女たち一般の習性ね。
アントニア――それはまさに生きている真実ね。
ナンナ――母親と娘が部屋にこもって口論し合っている、その口論の対象にされている軽率な男はどんな危険に身を曝《さら》していると思う? どれほどに貪欲《どんよく》な口添え、どれほどに残酷な勧告がそこで行なわれ、どれほどたちの悪い計画がその男の財布に向けて仕組まれていることか! あたしの家の隣にいた剣術の先生だって、母親たちがその娘にあれこれの手口を教えるほどには、その弟子たちに攻撃の手口を教えていなかったと思うわ。母親たちはその娘にこんなふうに仕込むんですものね。「男が来たら、こういうふうに言いなさい。こういうことを尋ねなさい。こんなふうに接吻しなさい。こんなふうに愛撫しなさい。こんな具合に怒りなさい。何かもらったら機嫌をなおしなさい。あんまりすげなくしてはいけないし、愛撫しすぎてもだめなのよ。別の部屋に行くときに、男と笑いながらも何か気がかりそうな様子を見せなさい。約束を守るも破るも儲《もう》け次第ですよ。腕環か、指環か、首飾りか、数珠か、とにかくいつでも何か手に入れるようにしなさい。一番いけないのは、それらの品物を返したりすることよ」ま、こんな具合に仕込むのよ。
アントニア――ほとんど全部信じられそうな気がするわ。
ナンナ――ほとんどじゃなしに、全部信じて頂戴よ。
アントニア――じゃ、あんた、そんなに悪《わる》だったの?
ナンナ――ほかの者たちと同じようにおしっこする者はほかの者たちと同じなのよ。娼婦でいたあいだじゅう、あたしは娼婦として振る舞ったし、娼婦としてしなければならないことはなんだってしたわ。あたしに娼婦に向いた性分がなかったら、娼婦にはならなかったと思うわ。娼婦の免状をもらう資格が誰にあるかということになれば、いつも二十五歳でいる技術に長《た》けていたこのナンナ先生ということになるわね。娼婦の年齢を見抜くことに比べたら、十度の夏の|ほたる《ヽヽヽ》の数を算えるほうが簡単なくらいだものね。ある娼婦は今はあんたに、「あたしは二十です」って言うとするわね。ところが六年後にその娼婦が「あたしは十九です」って言いかねないのよ。でも、まじめな話に移りましょう。あたしの若かった頃には、ばかな男たちをずいぶんとひどい目にあわせ、泣かせたものだわ!
アントニア――あの世へ行ってからのあんたをこそ知りたいものだわ。
ナンナ――あの世でも、大赦や寛容や巡礼などのおかげで、あたしの魂はどんじりになる心配はないのよ。この世であたしの肉体がどんじりにならなかったのと同じように。そうよ、とんでもないわ、あたしのことで男たちに話し合いをさせることさえ楽しみとしたあたしだけど、けっしてどんじりなんかになるものですか! あたしは万事を高貴な誇りを持って行なっていたんですからね。あたしのために昼となく夜となく剣が打ち合わされる音を聞くのは、あたしの美しさへの賛美を聞く思いがしたものよ。でも、悪意の目で睨《にら》むような男には気をつけたわ。こういう男に復讐するためなら、あたしは首切人にだって身をまかせたかもしれないわ。
アントニア――悪いことは悪いこと、善いことは善いことよ。
ナンナ――なんとでもどうぞ。あたしは好きなようにしてきて、後悔してしかも後悔していないのですからね。でもね、あたしがもっていた、男たちを夢中にする技巧を誰があんたに話して聞かすことができて? あたしはね、家に十人もの男たちを同時に迎えることがときどきあって、しかも彼らに、接吻も愛撫も、甘い言葉も抱擁も平等に分け与えて、彼ら全部を天国にいるような気分にさせることができたのよ。しまいには、略綬や肩紐などをマントヴァ風あるいはフェルラーラ風に飾った新入りまで現われる始末だったのよ。あたしは、手土産を持ってやって来た客を人が迎えるようにこの男を迎えたわ。そして、他の愛人たちをそこへ置き去りにして、その人を寝室に案内したの。居間に残された男たちは、はしばみの実が寒さの到来と共に落ち、花が風に吹かれて散るように、くしゃんとしてしまったわ。彼らのあいだに聞かれるのは吐息ばかりで、誰一人一言も洩らさないのよ。この人たちは、無理やりに引っぱって行かれ、ほかに仕様がないので肩をすくめる人びとのようだったわ。吐息のあとには、今度はぶつぶつ言いはじめ、指や拳《こぶし》でテーブルをたたいたり、頭を掻《か》きむしったり、黙って部屋の中を歩き回ったり、鬱憤《うっぷん》を晴らすために詩句の断片を口ずさんだりしていたわ。あたしが中々戻らないので、彼らはしまいにはしびれを切らし、階段の昇り口まで出て来て、あたしに彼らのことを思い出させようとして、女中や他の者にわざと大声で話しかけたりしはじめたの。それでもだめと見て、彼らは外に出て往来を一回りして戻って来てみると、戸口が閉まっていて開かないので、これ以上ないほどに哀れな絶望におちいってしまったのよ。
アントニア――そんな残酷な仕打ちって聞いたことがないわ。
ナンナ――あんた、同情心を動かされたのね。
アントニア――そうよ、あたしはその人たちに同情してるし、いつも同情深くありたいわ。
ナンナ――まあ、それでもいいわよ。とにかくあたしの話さえ聞いてくれるなら。
アントニア――聞いてるわよ。その点なら心配ないわ。
ナンナ――男たちがあたしから快楽を汲《く》みとっている最中に、なんの理由もないのに急に泣きだし、びっくりした男が、「どうしたの? どうして泣くの?」って聞くんだけど、あれもいい気晴らしだったわ。すすり泣きと溜息《ためいき》とで言葉をとぎらせながらあたしは答えたものよ。「あたしはあなたにばかにされているんだわ。あなたはあたしの願いを聞こうとしてくれないんだもの。でも仕方がないわ。これがあたしの惨めな運命なのだから」というふうに。あるときは、男たちの一人が二時間ばかりあたしのもとを離れるために出かけようとしている間際に、「どこへいらっしゃるの? きっとあなたをもっと優しく扱ってくれる女の人のところへいらっしゃるのね?」と泣きながらあたしは言ったの。するとこのばかな男は、ある女が自分に惚れこんでいるのだと言って威張ってみせたわ。また、二、三日姿を見せなかった男が来たのを見てすすり泣くということも何度かしたわ。こうして、その男が来てくれたのであたしが嬉し泣きをしているのだとその男に思いこませたというわけよ。
アントニア――思いのままに涙を流せたのね。
ナンナ――あたしが手を触れられるとすぐに水が湧き出る土地だったことを忘れないでね。というより、手を触れられなくてもいつでも水が湧いている土地だったのね。だけどあたしはいつも片目でしか泣かなかったのよ。
アントニア――まあ、片目だけで泣けるものなの?
ナンナ――そうよ、娼婦は片目で泣き、亭主持ちの女は二つの目で泣き、修道女は四つの目で泣くのよ。
アントニア――まあ、おもしろいことを知ったわ。
ナンナ――娼婦は片目で泣き、もう一方の目で笑う、と言ったらもっとおもしろいんじゃない?
アントニア――そう、そのほうがおもしろいわ。だけど、どうやって?
ナンナ――あたしたち娼婦(この呼び名があたしは気に入ってるの)はね、片方にはいつも笑みを、他方にはいつも涙を用意してることを、あんた知らないの? ささいなことであたしたちが泣き、ささいなことであたしたちが笑うのがその証拠よ。目というのは雲間の太陽みたいなもので、あるときは光を送り、あるときは隠れてしまう。大笑いの最中に、娼婦たちは不意に泣き声を洩らすのよ。この笑いにしろ、涙にしろ、あたしはよそのどんな娼婦よりも――たとえそれがイスパニアからきた娼婦でも――うまくやってのけることができたのよ。これを使って、あたしは、尊敬すべき王宮のためにわらの上で死ぬ男たちよりもたくさんの男たちを殺したのよ。あたしのいうこの笑いと涙以上に必要なものはないと思うわ。でもこれは上手に使うことができなければだめね。だって、こぼれ落とす機会を逸してしまえば、もう何の値打ちもなくなってしまうんだもの。夜明け前に摘《つ》まなければ香りが失せてしまうダマスクスのばらと同じね。
アントニア――毎日新しいことを何か学ぶのね。
ナンナ――偽りの笑いと涙のあとには、今度はその姉妹の嘘《うそ》がぞろぞろと現われるのよ。あたしはこれを、村人がバタ揚げを食べて楽しむよりももっと楽しんだわ。そして、福音書が真理について語るよりももっとたくさん語ったわ。あたしは、隣人に信頼されながら、誓約の漆喰《しっくい》でそれらの嘘を作りあげたのよ。あんたが見たら、「お前は最初の福音主義者である」って言ってくれたと思うわ。あたしはね、自分の両親や土地にからんだ、これ以上ないくらいのすごい話や気まぐれな話を考えついたのよ。途方もない話をでっちあげてはそれをあたしの流儀で話し、これはみんな夢に見たことですなんて言ったのよ。あたしに憧《あこが》れる男たちの名前を黒板に書き並べ、毎週の夜を彼らに分け与え、あたしと寝る番の男の名前は欄外に書いておいたの。聖具室の黒板に書かれた、ミサを唱える司祭たちの名簿を見たら、あんたもあたしを理解するでしょうにね。
アントニア――司祭たちの名簿も見たし、あんたのことも分かってるつもりよ。
ナンナ――それなら結構。
アントニア――だけど、黒板の名簿と、あんたの作り話とにどんな関係があるの?
ナンナ――それはね、黒板に自分の名前が書かれており、自分の夜が指定されているので自信をもった若造をしょっちゅう瞞《だま》してやったからよ。そう、ほんとにしょっちゅう。選手が交代することもあったわ。教会でもミサのときに同じことがあるわね。
アントニア――なるほど、それであんたの作り話と黒板の関係も分かったわ。
ナンナ――今度はこういう話聞いて。でも、あんたの名誉のために、人には話さないでおくことね。あたしに夢中になっている男の一人からとっても高価な鎖を借りていたことがあるんだけど、この男がまたこの鎖をある貴族から借りたもので、この貴族はそれを奥方から取り上げて自分で使っていたらしいのね。この男がこの鎖をあたしの首に掛けてくれた日は、ちょうど法王が多数の貧しい娘たちに、ミネルヴァ教会で持参金を授ける日だったの。
アントニア――お告げの祝日?
ナンナ――そうそう、お告げの祝日。その日、あたしは鎖を首に掛けたけれど、長いことはそうしていなかったの。
アントニア――それはどうして?
ナンナ――それがね、教会へ行き、そこで人込みを見た途端に、この鎖を横領してやろうと考えたのよ。それで、どうしたと思う? あたしは鎖を首から外し、聴罪司祭よりももっと秘密を守ってくれるある人にそれを渡したのよ。そうしておいて、すでに人込みの中にいたのだけれどさらにその真中へ入って行き、突然に大声を上げたの。それは、カンポ・ディ・フィオーリ広場で大道医者に歯を抜かれたときに上げるような声だったの。全員があたしのほうを振り向いたわ。するとこの善良なナンナが叫んでるじゃないの。「あたしの鎖が! あたしの鎖が! 泥棒です! 掏摸《すり》です! かっぱらいです!」あたしはしゃべりがら泣き、泣きながら髪をかきむしったわ。あたしの周《まわ》りに人垣ができ、教会の中は大騒ぎになり、この噂は鎖の持主のバルジェッロのもとまでたちまち届いたのよ。彼は、顔付から察して鎖を盗んだに違いないと思えるどこかのやくざ男を捕え、すぐにトルレ・ディ・ノーナへ引っ張って行き、もう少しで、生きたまま縛り首にしてしまうところだったの。
アントニア――あたし、その先は聞きたくないわ!
ナンナ――だめよ、聞かなきゃ。
アントニア――それよりあたし、鎖を貸した男があんたになんて言ったかを知りたいわ。
ナンナ――教会を出ると、涙に暮れ、手をよじりながらあたしは家に帰り、自分の部屋に閉じこもると、「誰が来ても入れないようにね」って女中に言ったの。そうするうちに、別の男がやって来て、あたしと話したいと外から言うの。もちろん断わったの。すると、戸をたたく手には力が入り、はじめは静かだった声も大きくなって叫ぶのよ。「ナンナ、ナンナ! 開けてくれ、わたしだよ、開けてくれ! こんなささいなことでそんなに絶望しているのかい?」ってね。あたしは聞こえない振りをしながら、適当な大きさの声でつぶやいたの。「あたしはなんて不運なんだろう。なんて惨めなんだろう、なんて不幸なんだろう! あたしは更生院へ入りたい! いっそ溺れ死んでしまいたい! いっそ、隠者になってしまいたい!」それから、寝ていたベッドから起き上がり、扉は開けないままで女中にこう言ったの。「すまないが、ユダヤ人を呼んできておくれ。持っている物を全部売って、そのお金で鎖の代金を払いたいのよ」って。女中はユダヤ人のところへ行きそうにしたわ。すると、頓馬な愛人が叫ぶの。「あけてくれ! わたしだよ」って。戸を開けたあたしは彼の姿を見るなり声を大きくして叫んだの。「ああ、どうしよう! あたしはもうおしまいだわ!」ってね。すると男は、「何も心配することはないよ。たとえわたしは下着一枚で暮らさなければならなくなっても、あんたにこれ以上辛い思いをさせたくはないよ」って言うの。「いえいえ、そうはいきません。せめて二か月だけ待って下さい」「やめなさい、そんなことを言うのはよしなさい、おばかさん」とまあ、こんなやりとりのあと、彼はあたしと夜を過ごし、あたしはできる限りの愛撫を彼にしたので、鎖のことはもうそれっきりになってしまったという次第。
アントニア――あんたのお店はよっぽど素敵だったのね!
ナンナ――皺《しわ》だらけで、肌《はだ》が黄ばんでいて、やせてひょろひょろの爺さんがあたしの魅力のとりこになり、あたしは爺さんの財布のとりこになったことがあるの。この爺さんは、歯のない人がパンをしゃぶるような具合になら愛の喜びを味わうことができたので、あたしを撫《な》でたり、さすったり、おっぱいを吸ったりしてみたいという気まぐれをおこしたのね。松露を食べても、朝鮮あざみを食べても、練り薬を塗ってみても、効き目のほうはさっぱりで、倒れた杭《くい》を起こすことはどうしてもできなかったらしいわ。油の切れたランプの芯《しん》がいっとき燃え上がるかと思うとたちまち消えてしまうように、ちょっと起き上がったと思うとたちまちうなだれてしまうのね。撫でてもさすっても、呼子の裏や鈴の下側をこすっても、全然効き目はないのよ。あたし、この爺さんを、ありとあらゆる方法を使ってかついだのよ。あるときなんかとくにひどいんだけど、あたしが何人ともしれないほどの客を招いて夕食を振舞ったのだけれど、その費用の負担を全部爺さんにかぶせたのはもちろん、その財布の中から金貨を何枚かこっそりと抜きとったのよ。爺さんはそれに気がつくと怒って大騒ぎをはじめるんだけど、あたしはその胸に身に投げて言うのよ。「パパ、パパ、そんな大声を出さないで! 胃に悪いから。なんなら、あたしのドレス、あたしの物全部とって、それを代わりにして頂戴!」すると爺さんは口をつぐんでしまい、あたしのほうはその顔に向けてパパ、パパを連発するので、爺さんもしまいには、子供にパパ、パパと甘えられた父親がそうなるようにほろりとしてしまい、残りの費用も自分の財布から払い、これからはどんなことであれ、誰のためであれ、けっして費用の負担などはしないというだけで収まったの。
アントニア――あんたは本当に抜け目がなかったのね。
ナンナ――関係ができた最初のうちは、あたしはとっても優しくしたから、あたしに接した男は誰でもあたしのことを称《ほ》めそやして歩いたのよ。だけど、自分を一度味わわせると、あたしは本領を発揮したのよ。はじめにあたしが悪い行為をひどく嫌《きら》ったと同じように、途中でも、終わりでもあたしは善い行為も劣らずつよく嫌ったの。それというのも、本物の娼婦がそうしなければならないように、あたしは、不和の種を撒《ま》き、仲たがいを引き起こし、平和な友情をかき乱し、憎しみをかきたて、人びとを罵《ののし》り合わせ、殴り合いをさせることが一番の楽しみだったからなのよ。あたしはいつも太公たちのことばかり口にし、トルコのこと、皇帝のこと、王様のこと、ミラノ太公の財産のこと、次期の法王のことなどについて決定的なことを言ったりしたわ。あたしはまた、空の星はサン・ピエトロ寺院の松ぼっくりぐらいの大きさで、それ以上はないなどと言い張ったり、月は太陽の種違いの妹だなどとも言ったわ。公爵や公爵夫人についても、まるで自分がこの人たちを踏みつけたかのような話し方をしたわ。この大そうな態度は娼婦に似つかわしいものではないけれど、あたしはこの態度をとったの。だって、女帝の態度なんてどうせばかげたものだもの。だからあたしも、足元に絹のクッションを広げさせ、伺候する者を誰彼かまわずそこにひざまずかせた女帝の例に従ったのよ。
ところで、いろいろお話ししたけれど、あなたの意見を聞かせて欲しいわ。
アントニア――あたしの意見としては、ピッパは娼婦にすべきだと思うわ。だって、修道女は誓いを裏切るし、人妻は婚姻の秘跡を破るけれど、少なくとも娼婦は修道院も夫をも辱《はずか》しめたりはしないもの。娼婦はすべてを破壊することで給与をもらっている兵隊のようなものね。彼女は悪事を行ない、それを抑えようとはしないわ。彼女の店は、彼女が備えている必要のある品物を補給されなければならないのよ。宿屋の主人が食堂を店開きする日、彼はその貼《は》り紙《がみ》を出す必要はないのよ。そこで人々が飲み、人びとが食べ、人びとが遊び、人びとが神を否認し、人びとが盗みをすることを誰もが前もって知っているからよ。お祈りをするために、あるいは断食をするためにそこへ入る人は、そこに祭壇も説教集も見出すことはできないわ。野菜作りは野菜を売り、食料品屋は食料品を売るわね。売春宿では、冒涜《ぼうとく》、かたり、争い、醜聞、不名誉、詐欺、不潔、憎しみ、残酷、殺人、梅毒、裏切り、悪評、貧困等々が売られるのよね。だけど、聴罪司祭は、患者が隠そうとする病いよりも掌《てのひら》にのせて示す病いをむしろ治す医者のようなものだから、ピッパを連れてまっすぐにそこへ行きなさい。ちょっとした悔悛と一、二滴の聖水でもって、娼婦根性は魂からきれいに拭《ぬぐ》い去られるのよ。それにね、あたしがあんたの話を正しく理解していればのことだけれど、娼婦の悪徳は同時に美徳でもあるのよね。なおまた、旦那衆から奥方として扱われ、いつも奥方として食べ、奥方らしく着飾り、たえず結婚と祝宴をくり返す生活なんて素敵じゃないの。そういう生活についてはあんたがたくさん話してくれたのだから、あんたのほうがずっとよく知っているわけだけれどね。あらゆる欲望を自分に許し、すべての人たちを喜ばせてやれるなんて素晴らしいことよ。ローマはいつもローマだったし、これからもローマよ。でも、自分のことを告白しなければならなくなっては困るから、この町を娼婦の町だなんて言わないわ。
ナンナ――ずいぶんといいことを言うわね、アントニア。
ナンナはしゃがれた声でそう言うと、二人が話し合っていた間じゅう眠りこけていた女中を起こし、その頭に籠《かご》を載せ、その手には空になったフィアスコ壜《びん》を握らせて、アントニアには朝彼女がかかえてきたナプキンを渡した。そして彼女らは帰途についた。道々、咳《せき》が出るために酢を控えているナンナのために甘草《かんぞう》を探して、夜はパンがゆを作って食べた。しかしナンナはアントニアには別の物を食べさせた。アントニアはその夜が明けると、辛うじて生計を立てる手段にしている小商売をしに朝早く出かけていった。彼女は貧しさに苦しんでいた。しかし彼女はナンナの話に力づけられていた。そして、二十年間の夏の蟻《あり》よりも、蝿《はえ》よりも、蚊《か》よりももっと数の多い世界の全部の娼婦たちが行なっている悪を思って驚いていた。ナンナはそれについて長々と話してくれたが、その話はまだ全部の半分にも達しないのだった。 (完)
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解説
本書『ラジオナメンティ――女のおしゃべり』(ピエトロ・アレティーノ著『気まぐれなおしゃべり』Pietro Aretino; I capricciosi ragionament )とその著者とについては、イタリア・ルネサンスに関して語っているほとんどの著作の中で触れられている。
ルネサンス期の社会と人間をリアルにそして辛辣に描いている点からも、また、このことと表裏の関係にある人間のエロチシズムを赤裸々に、あけすけに描写している点からも、本書はボッカッチョの『デカメロン』と双璧をなすものといえるだろう。それにもかかわらず、人間についてのあまりのリアリティのゆえに、さらに、世間的規範を何ひとつ顧慮しようとしないかに見えるその姿勢のゆえもあってか、本書は上述のように多くの歴史書、文学史書の中ではつねに引き合いに出されながらも、訳者の知る限りではわが国ではかつて一度も翻訳出版されたということはなかった。
欧米諸国でもこの本の翻訳が出始めたのは、性の描写やエロチシズムについての社会の通念が徐々に変り、官憲としてもそれに順応することを余儀なくされるにいたった、比較的最近のことであるらしい。こうした意味で、本訳書は、歴史的にあまりに名高く、しかもわれわれがじかに接することのできなかった文字どおりの「幻の書」の、わが国最初の翻訳という「栄誉」に値するのかもしれないが、誠実を期して読者にお断りしておきたいのは、本書が|一五〇〇年代《チンクエチェント》前半期の著作であり、したがってその言語・文体は今日のイタリア語からは大きく距《へだた》っており、しかも訳者の利用しうる範囲での外国語訳にもさほど信頼するに足るものが見当らなかったこともあり、さらにまた、あまりに直截《ちょくせつ》な描写・表現のゆえにある程度筆を加減しなければならなかったこともあって、間然するところがない完璧な翻訳であると僣称《せんしょう》することはできないし、訳者にそのつもりもないということである。今は、訳者としては、とにもかくにもイタリア・ルネサンス期の代表的な著作の一つを、いくぶん不十分な形ながらも、心ある読者にお目にかけられるということで満足しなければならない。
イタリア・ルネサンスについての代表的名著として知られるブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中でも、ピエトロ・アレティーノについては五ページにわたって言及されている。アレティーノは一四九二年にトスカーナ地方のアレッツォに生まれ、その後半生を過ごした土地ヴェネツィアで一五五六年に没しているが、彼の生涯の詳細については不明の部分も多く、例えばブルクハルトによればアレティーノは、彼を殺害しようとさえしていた多数の敵がいたにもかかわらず「自分の家の中で卒中で倒れた」ことになっているが、他の本によれば、アレティーノは自分の策略のあまりの成功に有頂天になり、あまりに喜びすぎて椅子ごとうしろへひっくり返り、頭を打って「笑い死に」したと書かれていて、ささいなこととはいえ、訳者には目下のところそのいずれが事実かについて確定することは困難である。
ブルクハルトのアレティーノ観はかなり客観的で、一面で悪辣《あくらつ》な|ペンのゆすり屋《ヽヽヽヽヽヽヽ》とされたこの人物についてかなり手厳しく述べ、|一四〇〇年代《クワトロチェント》のウマニズモ(人文主義)の理想はどこへ失せてしまったのかと嘆きながらも、この時代にアレティーノが文人として果たした役割についても公正に評価している。賛否はともあれ、ブルクハルトがアレティーノをこの時代の重要な人物と見なしていることは、「この人物をいちおう見てみると、われわれは、同じ種類に属する群小毒舌家をいちいちとりあげる必要がなくなる」と書いていることからも知れよう。そして、ルネサンス期という、イタリア社会の激動の時代に生きた知識人たちのほとんどすべてが権力者、財力家への依存と寄生を余儀なくされたように、アレティーノも例外ではなく、「権力者に対する彼の関係は純然たる物乞いと卑しいゆすりである」とも述べている。
しかし、訳者としてアレティーノのために一言弁明するならば、この時代とは、彫刻家チェリーニも文字どおりの天才ミケランジェロやダヴィンチすらも仕官・糊口《ここう》の道を得るために自分でせっせと自己推薦状を書いてパトロン探しに血道をあげなければならなかったような時代なのである。芸術家・文筆家の立場はまだまだ弱かったのである。アレティーノが半ば恐喝的な告発・攻撃の文章に辣腕を振るって権力者たちに恐れられたのは有名であるが、しかし彼はどんな攻撃の手紙であってもかならずそれに署名をし、卑劣な匿名攻撃をけっしてしなかったことはブルクハルトも認めていて、彼を「ある意味ではジャーナリズムの元祖の一人である」と称《たた》えている。そして「この人には、たとえばヴォルテールのように自作『処女』を否認したり、その他の作品を生涯隠匿しなければならないような偽りの姿勢は存在しなかった。アレティーノは自分の書いたものにはすべて署名し、後年になっても、悪名高い『ラジオナメンティ』を公然と自慢している」とさらに書いている。
自我解放の時代であるルネサンス期の人びとは自我《エゴ》の強烈さ、自己主張の強引さにかけては驚くべきものがあり、この点にかけてはチェリーニもミケランジェロもけっして人後に落ちないが、アレティーノも無論そうした一人であった。このアレティーノを支えていたのは強烈無類の自我《エゴ》、自己の能力への過剰ともいうべき自信であった。「おれはカエサルのように皇帝でもなければ、ホメロスのように詩人でもない。だがおれは有名だ。そしておれ自身の文体をもち、おれだけの国をもっている。なぜなら、おれは真実らしく装ったりはしない、ありのままを描くからだ」という彼の言葉からは、その鼻柱の強さもさることながら、絶大な自信のほどもうかがうことができよう。
こうしたアレティーノの才能に触れてブルクハルトは、「その文筆上の才能、その明るくかつ辛辣な散文、その人間および事物の豊富な観察は、この人をどんな事情のもとにおいても注目すべき人物にするであろう。……それに加えて、この上なくいんぎん無礼な意地悪さのほかになお、けた外れの機知を駆使する輝かしい才能があり、その点では時として、ラブレーにもひけをとらないくらいである」とも書いている。
とにかく、アレティーノはその生涯を徹底したエゴイスト、リアリストとして生きた。そこに訳者としてはルネサンス人アレティーノの真面目を見ずにはいられない。『デカメロン』で有名なあのボッカッチョでさえも、その快楽主義、エロチシズムを攻撃されてすっかり怯え、悔悛してしまったことを思えばなおさらその感を深くせずにはいられない。
このアレティーノの代表作とされる『ラジオナメンティ』が初めて出版された時期については諸説があって断定は困難であるが、|一五〇〇年代《チンクエチェント》の半ばごろであることは確かと言えるだろう。
この作品の形式は、ナンナとアントニアという二人の中年女の対話の形式をとっており、ナンナが語り手で、アントニアが聞き役である。ボッカッチョの『デカメロン』が題名どおり十日間の物語集であるのに対して、『ラジオナメンティ』の方は三日間の対話であり、第一日は「修道女の生活」、第二日は「人妻の生活」、第三日は「娼婦の生活」となっていて、アレティーノとしては、これら三種類の女たちについて語ることで当時の女たち全体の生態について語っているつもりなのだろう。ナンナは、十六歳になった自分の娘の身の振り方を決めてやるのに際して、迷った挙句に友人のアントニアに相談し、それをきっかけにして自分がこれまでに見聞してきた上記三種の女たちの生態を物語るという仕組である。ナンナの語るところはすなわちアレティーノが体験しあるいは見聞したところであって、その内容は機知と諷刺《ふうし》に溢れ、当時の男女のかかわりのけた外れの淫乱ぶりの暴露話になっていて、そのためにポルノグラフィーの元祖のようにも見られ、事実その一面のあることは否定できないが、同時に『デカメロン』と同じく当時の社会に対する痛烈な批判を含んでいることは、アレティーノに文筆の攻撃を受けた連中の大半が今日風に言うならば汚職政治家や不正の徒輩であったということと共に、見落してはなるまい。
なお、この小文を記すに際しては、ブルクハルト著『イタリア・ルネサンスの文化』(柴田治三郎氏訳)、清水純一氏著『ルネサンスの偉大と頽廃』、ローマのエディトーリ・アッソシアーティ社版『ラジオナメンティ』所収アメリーゴ・トット氏の解説その他を適宜参照させて頂いたことをお断りしておきたい。
一九七九年四月 訳者