王妃マルゴ(下)
アレクサンドル・デュマ/鹿島茂 編訳
目 次
第三十四章 神は命ずる
第三十五章 王たちの夜
第三十六章 アナグラム
第三十七章 ルーヴルへの帰還
第三十八章 カトリーヌ母后の飾り紐
第三十九章 復讐計画
第四十章 呪われた一族
第四十一章 占い
第四十二章 失踪の真相
第四十三章 外交使節団
第四十四章 オレステスとピュラデス
第四十五章 オルトン
第四十六章 『星空亭』
第四十七章 ド・ムイ・ド・サン=ファール
第四十八章 ひとつの王冠に二つの頭
第四十九章 狩猟の本
第五十章 鷹狩り
第五十一章 フランソワ一世の館
第五十二章 尋問
第五十三章 アクテオン
第五十四章 ヴァンセンヌの森
第五十五章 蝋人形
第五十六章 目に見えない盾
第五十七章 判事たち
第五十八章 足枷責め
第五十九章 礼拝堂
第六十章 サン=ジャン=アン=グレーヴ広場
第六十一章 晒しの塔
第六十二章 血の汗
第六十三章 ヴァンセンヌの主塔の展望台
第六十四章 摂政
第六十五章 国王崩御、国王万歳!
第六十六章 エピローグ
マルゴとアンリ・ド・ナヴァールのその後
訳者あとがき
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主な登場人物
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マルグリット・ド・ヴァロワ……ナヴァール王妃。アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女でシャルル九世の妹。愛称マルゴ。
カトリーヌ・ド・メディシス……マルゴの母。摂政政治をとる。フィレンツェのメディチ家からアンリ二世に嫁いだ。
アンリ・ド・ナヴァール……マルゴと政略結婚させられるナヴァール王。プロテスタント勢力の首領。後のアンリ四世。
シャルル九世……アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの次男。長兄フランソワ二世の死後、十歳で王位につく。
アンジュー公アンリ……同、三男。マルゴのすぐ上の兄。後のアンリ三世。
アランソン公フランソワ……同、四男。マルゴの弟。
アンリ・ド・ギーズ……カトリック陣営の頭目、ギーズ家の長男。マルゴの元恋人。
コリニー提督……プロテスタントの首領の一人。カトリーヌ・ド・メディシスの要請で、宮廷に出仕。シャルル九世に影響を及ぼす。
コンデ公アンリ……アンリ・ド・ナヴァールの従弟。プロテスタントの首領の一人。
ド・ムイ……プロテスタントの騎兵隊長。
ヌヴェール公爵夫人……マルゴの親友。アンリ・ド・ギーズの義姉。
ソーヴ男爵夫人……アンリ・ド・ナヴァールの愛人。
ラ・モール……プロテスタントの貴族。マルゴの愛人。
ココナス……カトリックの騎士。ラ・モールの親友となる。
ルネ……カトリーヌ・ド・メディシスお抱えの調香師兼占い師。
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第三十四章 神は命ずる
ルーヴル宮殿は深い沈黙につつまれていた。
アランソン公は母が予言した事件がいつ起きるのかと、不安な気持ちで耳をすませていた。
カトリーヌ・ド・メディシスはベッドに入り、枕元でソーヴ夫人にイタリアのコントを読ませていた。彼女はずっと上機嫌だった。娘のマルゴのところに使いをやり、今夜は母の部屋で過ごすように命じたが、マルゴの侍女のジロンヌが、ナヴァール王妃は今夜はヌヴェール公爵夫人の家へ遊びに出かけたと伝えた。
「すべては好都合のようね」とカトリーヌはつぶやき、侍女のソーヴ夫人に朗読を続けるよう命じた。十分後、カトリーヌは朗読を中断させ、廊下に立っている衛兵を下がらせるよう命じた。
それが、モールヴェルが待っていた合図だった。
朗読が三十分ほど続いたとき、長い、恐ろしい叫びが聞こえ、すぐに、ピストルの発射音がこだました。
「どうしたの?」とカトリーヌ・ド・メディシスはソーヴ夫人にいった。「なぜ朗読をやめるの、カルロッタ?」
「奥様」ソーヴ夫人は真っ青になっていった。「なにも聞こえませんでしたでしょうか?」
「なにが?」
「あの叫び声が?」
「それに、あのピストルの音が?」衛兵隊長のナンセーがいった。
カトリーヌ・ド・メディシスは、どうせ酔っ払った番兵が騒いでいるのだろうといって取り合おうとはしなかった。その落ち着きぶりは、まわりにいた侍女たちや衛兵たちと、あまりにも鮮やかな対照をなしていたので、ソーヴ夫人は疑問に満ちた一瞥をカトリーヌ・ド・メディシスの上に投げざるをえなかった。ソーヴ夫人は、カトリーヌの命令で朗読を続けたが、騒ぎはナヴァール王の居室のほうから聞こえてきたので、ついに葛藤に耐えきれず、手から本を落として気絶した。
とつぜん、そのとき、もっと大きな物音が廊下で聞こえ、続いて銃の発射音が聞こえた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、騒ぎが長引きすぎることに不安を抱きはじめていた。やがて身を起こすと、ベッドから降りた。そして、衛兵隊長が飛び出そうとしたのを制止して、こういった。
「みんなここにいなさい。わたしが見にいってきますから」
その日の朝、ド・ムイは、ナヴァール王の従者のオルトンから、王の部屋の鍵を受け取った。オルトンはド・ムイに、夜の十時に会いにくるようにというナヴァール王の言葉も伝えた。
夜の九時半、ド・ムイは完全武装に身を固めた上から、ラ・モールと同じサクランボ色のマントを羽織ってルーヴルに出かけた。そして、ラ・モールそっくりの仕草で難なく検問を通過した。
ナヴァール王の居室の控えの間にはオルトンがいて、ナヴァール王は現在外出中である旨を伝え、王の帰りが遅くなった場合は、王のベッドで休んでいるようにといった。
ド・ムイははじめ、部屋の中で待機していたが、そのうち眠気を催したので、王の許可を幸いに、ベッドに横たわって高いびきをかいて眠ってしまった。
そのころ、モールヴェルに率いられた六人の衛兵たちは、完全武装でルーヴルの廊下を歩いていた。
やがて、モールヴェルはナヴァール王の居室の前で立ちどまった。驚いた衛兵の一人がここはナヴァール王の居室だというと、モールヴェルは答えた。
「だれがちがうといった」
そして、モールヴェルはカトリーヌ・ド・メディシスに与えられた逮捕令状を示した。衛兵たちが納得すると、モールヴェルは六人を二人ずつ三班に分け、最初の二人を廊下のドアに、次の二人を控えの間のドアに配置し、残りの二人と自分がナヴァール王の逮捕に向かうことにした。カトリーヌ・ド・メディシスから受け取った鍵を錠前に差し込みながら、モールヴェルは、寝室の太いびきを耳にして、「探している相手はどうやらここにいそうだな」とつぶやいた。
オルトンは主人が帰ってきたのだと思って迎えに出た。すると、控えの間に武装した五人の男がいた。
「王の刺客」と呼ばれるモールヴェルの忌まわしい顔を見た瞬間、この忠実なしもべは後ずさり、第二のドアの前に断固としてたちふさがった。
「だれだ、おまえたちは?」オルトンは叫んだ。「なにしにきた?」
「王の名においてたずねる」モールヴェルが応じた。「おまえの主人はどこにいる?」
「主人?」
「そうだ、ナヴァール王だ」
「ナヴァール王はいまここにはいらっしゃらない」オルトンはドアを死守しながら答えた。「だから、中に入ることはできない」
「嘘をいうな。言い逃れだ、そんなのは」モールヴェルはいった。「そこをどけ」
ベアルヌ人というのは頑固者が多い。オルトンも、この例にもれず、山岳犬のように猛烈に吠え、一歩も譲らぬ構えを見せた。
「中には入らせない。王は不在だ」
そういって、オルトンはドアに背をぴったりと寄せた。
モールヴェルは合図した。四人の男が強情な男に飛びついて、オルトンをしがみついているドアから引きはがした。そして、オルトンが叫びをあげようと口を開いたとき、モールヴェルは彼の口に手をあてた。
オルトンはその手を思いきり噛んだ。モールヴェルは低いうめき声をたてて手を引っ込め、同時に、剣の握りでオルトンの頭を思いきりなぐりつけた。オルトンは大きくよろめき、崩れおちながら叫んだ。
「危ないぞ! 逃げろ!」
声はとぎれ、オルトンはそのまま気絶した。
刺客たちはオルトンの上を乗り越えて部屋に乱入した。二人の衛兵が、ドアを固めるために残り、他の二人がモールヴェルに率いられて寝室に入った。
ナイト・テーブルの上に灯っているランプの光でベッドが見えた。ベッドのカーテンは閉じられていた。
「おや」と副官は思った。「もういびきをかいていないぞ」
「いくぞ! かかれ!」モールヴェルが叫んだ。
その声と同時に、人間の声というよりもライオンの咆哮に近いしわがれた叫びがベッド・カーテンの中から聞こえたかと思うと、とつぜん、そのカーテンが乱暴にあけられ、完全武装の男が一人あらわれた。鎧を身にまとい、目まで隠した兜ですっぽりと額を覆い、手には二挺のピストルをもち、膝に剣をおいた男がベッドに腰かけていた。
モールヴェルはその顔を見た瞬間、すぐにド・ムイだと気づき、髪が逆立つのを感じた。顔は恐怖で真っ青になり、口の中は泡でいっぱいになった。そして、まるで幽霊を目の前にしたように、一歩後ろに引き下がった。
「この悪党め!」ド・ムイは低い声でいった。「父を殺したように、おれも殺しにきたのだな!」
モールヴェルと一緒に寝室に入った二人の衛兵にはこの恐ろしい言葉しか聞こえなかった。だが、実際は、言葉が口に出されると同時に、ピストルの照準がモールヴェルの額の位置にぴったりと合わされていたのである。モールヴェルはド・ムイが引金を引いた瞬間に、すばやく腰を落とした。同時に、銃弾が発射された。モールヴェルが避けたため無防備になった後ろの衛兵の一人が心臓を撃たれ、どうとばかりに倒れた。その瞬間に、モールヴェルもピストルを撃ったが、銃弾はド・ムイの鎧にあたって潰れた。
ド・ムイは、距離を測ってから、思いきりよくベッドから飛び降り、幅広の剣の背で二番目の衛兵の頭をたたき割った。そして、モールヴェルのほうに振り向くと、激しく剣を交えた。
戦いは激しかったがすぐ終わった。四度目に剣を交わしたとき、モールヴェルは、鋼の冷たい感触が喉をかすめるのを感じた。彼は扼殺《やくさつ》された人のような叫びを発して後ろに倒れた。同時に、ランプも倒れたので、部屋は真っ暗になった。
暗闇はド・ムイにとってもっけの幸いだった。彼はホメロスの英雄のように勇ましく敏捷に動き、頭を低くして控えの間に突入し、衛兵の一人を転がし、もう一人を突き飛ばした。ついで、廊下のドアを固めている二人の衛兵の間を稲妻のように擦り抜けた。ピストルが二発発射されたが、弾丸は廊下の壁をかすめた。ド・ムイは、危機を脱出したことを確信した。一挺のピストルにはまだ弾が込められていた。それに何人もの敵を薙ぎ倒した剣が手に握られている。
一瞬、ド・ムイは、アランソン公の部屋のドアがあいたように思ったので、そちらに逃げ込むべきか、それともそのままルーヴルから逃げ出すべきか迷ったが、結局、後者のほうを選ぶことに決めた。最初は落ち着いてゆっくりと歩き、ついで十段の階段を一気に飛び降りて入口の監視所に着くと、合言葉を発し、こう叫びながら外に飛び出した。
「上だ! 国王の名において、人が殺されたぞ!」
ピストルの音に加えてこのただならぬ言葉である。詰所は上を下への大騒ぎになった。ド・ムイはこの混乱を利用してまんまと脱出に成功した。そして、かすり傷ひとつ受けずに、コック街に消えた。
カトリーヌ・ド・メディシスが衛兵隊の隊長に「ここにいなさい。なにが起こったのか、わたしが見にいきます」といって部屋から出るのをとめたのは、まさにこの瞬間だった。
「ですが、奥様」衛兵隊の隊長は答えた。「危険ですので、わたくしがついてまいります」
「ここにいなさい」カトリーヌ・ド・メディシスは前よりもいっそう威圧的な口調で命じた。「王族のまわりには、人間の剣よりも強い護衛がついているのです」
隊長はその場に残った。
カトリーヌ・ド・メディシスはランプを手に取ると、ビロードの室内靴を履き、寝室を出て、硝煙の充満する廊下へと足を踏み出した。そして、ナヴァール王の居室のほうへ、まるで亡霊のように、ものに動じない冷静な足取りで進んでいった。
ルーヴル中がふたたび静まりかえっていた。
カトリーヌ・ド・メディシスはナヴァール王の居室の入口に着いた。敷居をまたぐと、まず控えの間で、オルトンが気絶しているのが目に入った。
「まあ、こんなときでも従僕が控えているわ。奥に行けばきっと主人がいるわね」
そういって、二番目のドアを通った。
足が死体のようなものにぶつかった。彼女はランプを下げた。それは、頭をたたき割られた衛兵の死体だった。即死の状態だった。
三歩離れたところには、ピストルで撃たれた副官が、最期の息を引き取ろうとしていた。
そしてベッドの前には、死人のように蒼ざめた顔の男が、首を貫いた二つの傷口から血をしたたらせて倒れていた。その男は硬直した手を握りしめて、なんとか上体を起こそうとしていた。
モールヴェルだった。
戦慄がカトリーヌ・ド・メディシスの体中をかけめぐった。ベッドを見た。もぬけの殻だった。部屋の中を見渡したが、床に血まみれになって倒れている三人の男の中には、求めている男の死体はなかった。
モールヴェルがカトリーヌに気づいた。彼は、すさまじい形相で目を見開き、彼女のほうにむかって絶望的な仕草をした。
「それで、どうしたの?」彼女は小声でたずねた。「どこにいるの? あの男はどうしたの?ろくでなし! 逃がしたんだね?」
モールヴェルはなにか言葉を発しようとしたが、傷口からは声にならないシューシューという音がもれただけだった。そして、唇の両脇から血の泡があふれだした。モールヴェルは、絶望と苦しみをあらわすように首を横にふった。
「いいから、話しなさい!」カトリーヌ・ド・メディシスは叫んだ。「どんなことでもいいから、話してごらん!」
モールヴェルは首の傷を示してから、もう一度、聞き取りにくい音をいくつか発したが、その音はしわがれた喘ぎにしか聞こえなかった。そして、彼は気を失った。
カトリーヌ・ド・メディシスはまた部屋の中をぐるりと見回した。まわりにいるのは死体と死にかけた男だけである。血が床一面にどくどくとながれだしていた。そして、死の沈黙があたりを領していた。
もう一度、カトリーヌはモールヴェルに声をかけてみたが、今度は、彼は反応しなかった。たんに黙っているばかりでなく、体も動かさなかった。一枚の紙が胴衣からはみ出ていた。王のサインした逮捕令状だった。カトリーヌはそれをつかむと、胸の中に隠した。
そのとき、彼女の背後で、床を踏みしめる足音が聞こえた。振り向くと、寝室の入口にアランソン公が立っていた。激しい物音がしたので、思わず下に降りてきたのである。そこに繰り広げられていた光景はアランソン公の興味をかきたてていた。
「おや、おまえかい」カトリーヌ・ド・メディシスはいった。
「ええ、いったいなにが起こったんですか、お母さん?」アランソン公はたずねた。
「部屋に戻っていなさい、フランソワ、いずれわかるから」
アランソン公はカトリーヌが仕組んだこの事件をまんざら知らないわけではなかった。廊下で人の足音が最初に聞こえたときから、彼は耳をすませていた。男たちがナヴァール王の居室に入ったとき、彼はそれをカトリーヌ・ド・メディシスの言葉と結びつけて、すぐに、これから起こることを察した。そして、あれほど危険な友が、自分よりもはるかに強い者の手によって殺されると思って快哉《かいさい》を叫んだ。
まもなく銃声が響き、速足で逃げ去る男の足音が聞こえたので、興味を押さえきれず、下に降りてきた。そのとき、階段の灯火で明るく照らされた空間を、赤いマントが通りすぎるのが見えた。その赤マントは常日頃から、よく親しんでいるので、見まちがうはずはなかった。
「ド・ムイだ!」彼は叫んだ。「ド・ムイがナヴァール王の部屋にいた! いや、そんなはずはない! じゃあ、あれはラ・モールか?」
不安が彼をとらえた。そういえば、あの若者は妹のマルゴから頼まれて部下にしたはずだ。アランソン公は、いま目撃したのがラ・モールかどうか確かめたくなって、階段をかけのぼり、二人の若者の部屋を見にいった。部屋はからっぽだった。だが、部屋の片隅に、例のサクランボ色のマントがぶらさがっているのが目に入った。疑惑は晴れた。あれはラ・モールではなく、ド・ムイだ!
とたんに、顔色が蒼ざめ、全身に震えがきた。もしあのユグノーが捕えられ、陰謀を白状してしまったら! アランソン公はあわてて、ルーヴルの入口の監視所に駆けつけた。そこで彼は、監視員から、サクランボ色のマントを着た男は、ルーヴルの中で王の名において人が殺されたと告げて、まんまと逃亡に成功したことを知らされた。
「王の名というのは、間違いだ」アランソン公はつぶやいた。「王の名ではなく、カトリーヌ・ド・メディシスの名においてだ」
戦いの劇場にとってかえすと、カトリーヌ・ド・メディシスが死体のあいだをハイエナのようにうろついていた。
アランソン公は、母に強く命じられて自室に戻った。冷静と柔順をよそおってはいたが、頭の中ではさまざまな思いが激流のように渦巻いていた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、この新たな試みもまた失敗したことを絶望をもって確認すると、衛兵隊長を呼び、死体を片づけさせ、重傷のモールヴェルを彼の自宅に運ばせた。そして、王を起こしてはならないと厳命した。
「ああ」とカトリーヌは、首をうなだれて、自室に戻りながらつぶやいた。「今度もまた、あの男は難を免れた。神の手があの男の上に差しのべられている。王になってしまう、あの男が!」
だが、寝室のドアをあけるときには、額に手をあててから、無理に笑みを浮かべた。
「なにがあったのでしょうか?」お付きの者たちが全員でたずねた。ただ、ソーヴ夫人だけは恐怖で口がきけなかったので、質問を発することもできなかった。
「なんでもありません」カトリーヌは答えた。「ただ、物音がしただけです」
「あっ!」ソーヴ夫人がとつぜん叫んだ。その指先はカトリーヌの通ったあとを示していた。「なにもなかったと仰せになられましたが、絨毯の上に血の足跡がついておられます」
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第三十五章 王たちの夜
いっぽう、シャルル九世は、四人の従者と二人の松明持ちを従え、アンリ・ド・ナヴァールと腕を組んで、パリの町を歩いていた。
「ルーヴルを出ると、森の中に入ったようなさわやかな気持ちになる」と王はつぶやいた。
「ベアルヌの山の中なら、きっと快適にお暮らしになれますよ」とアンリが応じた。
一行がサヴォヌリ街まできたとき、コンデ公の屋敷から、たっぷりとしたマントにくるまれた二人の男が出てきた。
「おお、これはおもしろくなりそうだぞ」と王はつぶやいた。そして、二人の人物にむかって「これ、そこのお方、とまりなさい」と怒鳴った。
「わたしたちのことか?」一人が答えた。
「どうだ、アンリオ、あの声がだれだかわかったか?」
「はい、アンジュー公がラ・ロシェルの包囲戦に参加されておられないといたしますなら、まさしくアンジュー公のお声でございます」
「そのとおり。弟はラ・ロシェルにはいないことがこれでわかった」
「もう一人のお方は?」
「あの背恰好でだれだかわからぬか?」
「ギーズ公!」
シャルル九世は、ギーズ公に近づくとアンリを紹介した。
ギーズ公は「王様!」と叫んだが、もう一人の人物は顔を隠したままだった。
「陛下、義姉のコンデ公夫人を訪問してきたところでございます」
「従者を連れてか?」
「初顔の部下でございます」
「では、紹介していただこう」そういうと、シャルル九世は松明係に命じて、その人物を照らさせた。
「お許しを、兄上!」アンジュー公はいかにも恨みがましい態度で顔をあらわにした。
「おや、おまえか、アンリ。いやこれはまちがえた。アンジュー公はいまラ・ロシェルに行っているはず」
「どうか、お許しを」
「ところで、なぜ、コンデ公の屋敷などから出てきたのだ?」
「さきほど陛下のおっしゃっていたとおりですな」とアンリ・ド・ナヴァールが意地悪そうにいった。
「なんと?」ギーズ公はこの貧弱なナヴァール王を馬鹿にしていたので、むっとして口を開いた。「義姉を訪問してどこがおかしいですかな? アランソン公も義姉に同じことをやられているというのに」
「義姉というのはだれのことかな?」シャルル九世が平然として答えた。「義姉といったら、わたしの妻のエリザベートしかいないが」
「失礼いたしました」ギーズ公は答えた。「義姉ではなく姉といおうとしたのでございます。そういえば、そのマルグリット様ですが、三十分ほど前に、駕籠でこのあたりを通るのをお見かけいたしましたが」
「それは本当か? どう答える、アンリ」とシャルル九世はアンリ・ド・ナヴァールのほうを見た。
「ナヴァール王妃はどこへでも自由に行けることになっていますが、今夜はルーヴルから出ていないと思います」アンリは答えた。
「いや、たしかに見ました」とギーズ公が答え、アンジュー公もそれに口を添えた。
こうして、しばらく押し問答が続いたが埒があかないので、四人の王族は、ギーズ公がマルゴの駕籠が消えたと主張するクロシュ=ペルセ街に出かけてみることにした。それらしき屋敷はすぐにわかったが、門を守っているドイツ人の門衛が、威しにもすかしにも応じない。
だが、ギーズ公としてはいいだした手前、引き下がるわけにはいかない。そこで一計を案じて、大きな石をとつぜん門にぶっつけ、門衛が門扉に挟まれたすきに屋敷の中に入り込んだ。
そのとき、屋敷の中では、ラ・モールとマルゴは一緒にテオクリトスの牧歌を翻訳していた。ココナスはソーヴ夫人とシラクサのブドウ酒を飲んでいた。
四人は物音に驚いて、蝋燭を消した。バルコニーに出てみると、暗闇の中に四人の男がうごめく姿が見えた。
ラ・モールとココナスは部屋にあるものを手当りしだいに下に投げた。女たちは彼らに次々に部屋の家具を手渡した。
銀の水差しがシャルル九世の頭に当たった。
「全員縛り首にしてくれる!」とシャルル九世が叫んだ。
「まあ、兄だわ!」マルゴが小声で叫んだ。
「王様?」ココナスはつぶやいた。「それなら、退却だ」
すでに、ラ・モールとマルゴは隣の建物に通じる秘密のドアから逃げ出していた。ココナスとヌヴェール夫人もあとにつづいた。
下にいる男たちは、攻撃がやんでも、罠かと思ってしばらく様子見をしていたが、やがて、意を決して建物の中に踏み込んだ。
どの部屋にも、居住者を特定できるような証拠は残されていなかった。
アンリ・ド・ナヴァールはほっと胸を撫で下ろした。
帰り道、ギーズ公とアンジュー公に別れを告げたシャルル九世とアンリ・ド・ナヴァールは、ルーヴルには帰らず、ジョフロワ=ラスニエ街に入っていった。
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第三十六章 アナグラム
ジョフロワ=ラスニエ街から迷路のような街路を通ってたどりついたのは、バール街だった。その通りに、まわりを高い塀で囲まれた一軒屋があった。シャルル九世は鍵を使ってその家に入っていった。
「あれを見てごらん」シャルル九世が指さした。
蝋燭のかすかな明かりに照らされて、聖母子像のような母子の姿が暗闇に浮かびあがっていた。十八、九歳かと思われる若い女が、ベッドで眠っている赤ん坊の小さな足を手でかかえたまま、自分もベッドに寄りかかって寝入っていた。
「わたしの天国の天使だよ。王ではないわたしを愛してくれたたった一人の女だ。王だと知る前から愛してくれたんだ」
シャルル九世は若い女の頬に軽くキスをした。
「シャルル」女は目をあけながらいった。
「ほらな、シャルルと呼んでくれるのさ、陛下ではなくな」
「あら、お客様ですか?」
「今日は、わたしよりも幸福な王をお連れした。王冠がないからな。だが、彼にはマリー・トゥシェがいないのだから、もしかするとわたしよりも不幸なのかもしれないな」
「まあ、ナヴァール王様で」
「わたしを救ってくれた彼のこの手がなかったら、今日、この子は父なし子になっていたかもしれない」
マリーは叫び声をあげ、ひざまずいて、アンリの手に接吻した。
「お礼はもう?」
「同じようなことをやって返したよ」
アンリは驚いてシャルル九世を見た。
「いずれ、わかるさ。それはそうと、こっちへきて、見てくれ」
「これがわたしの子供だ。もしこの息子がこの家でなく、ルーヴルで眠っていたら、フランスの歴史はいまも、そして、将来も変わってしまうだろうな」
実際、そのとおりだった。のちにアングレーム公となるこの私生児シャルルがもしシャルル九世の嫡男だったら、アンリ三世、アンリ四世、さらには、ルイ十三世も、ルイ十四世も歴史の年表から消えていただろう。
シャルル九世とアンリ・ド・ナヴァールは、寝た子を起こさないように、奥の食堂に移って、マリー・トゥシェの手料理を食べた。
シャルル九世は、このまま幸せでいられるには、マリーを政治にかかわらせてはならない、そして、とりわけ、カトリーヌ・ド・メディシスに彼女の存在を知られてはならないといった。それから、アンリのことをほめあげ、彼はアナグラム(語句のつづり換え)の名人だから、マリーもひとつやってもらうといいといった。
マリーは Marie Touchet などという貧乏な娘の名前から、どんな素晴らしい考えが飛び出てくるか楽しみだといって、紙に書いた名前を渡した。
アンリは「これは簡単だ」といって、胴衣のポケットから書字板を引き出すと、次のような言葉を書いた。
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Marie Touchet
Je charme tout(わたしはすべてを魅惑する)
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「よくやるように、Marie の i を j と取れば、一字の加減もなしに、こうなります」
「これは素晴らしい。マリー、これをおまえの銘にしなさい。まさにおまえにぴったりだ。ありがとうアンリ。マリー、これをダイヤで飾ってプレゼントしてやろう」
夜食が終わった。ノートル=ダム寺院の鐘が二時を打った。
シャルル九世はアンリを肱かけ椅子に眠らせた。ただ、アンリのいびきがひどいので、椅子を自分たちから遠くに離すことは忘れなかった。
翌朝、アンリはシャルル九世に六時に起こされた。
シャルル九世はかつてないほど幸せそうだった。寝室ではまだ母と子が寝ていた。シャルルは無限の慈しみをこめて彼らの寝姿を見つめていた。それから、アンリのほうに振り向くと、こういった。
「いずれ今夜、わたしがきみのためにやったことを知り、そして、わたしにもしものことがあったなら、この揺籠で眠っている子供のことを思い出してくれ」
それからシャルル九世は母と子の額にキスすると「さようなら、わたしの天使たち」といった。
二人は外に出た。アンリは物思いに耽りながら、王のあとについていった。
王とアンリは馬にまたがって、外郭大通りのほうに出た。
「さあ、これから、アンジュー公が、心の中に恋とおなじぐらい野心をもっていることを見届けに行こう」とシャルル九世がいったが、アンリにはなんのことかわからなかった。
フォブール=サン=ロランまでくると、シャルル九世はアンリに、朝霧の彼方に霞んでいる男たちの集団を指さした。
厚い灰色のマントにくるまり毛皮の帽子をかぶった男たちが重そうな馬車の前を馬に乗って走り、同じく馬に乗ったもう一人の茶色のマントを着た男と話をしていた。
「やっぱり、思っていたとおりだ」シャルル九世はいった。
「陛下、あの茶色のマントの男はアンジュー公のようですが」
「そのとおり」
「ではあの灰色のマントの男たちは?」
「あれは王冠を運んできたポーランドの大使たちだ。よし、これで、見たいと思っていたものは全部見たぞ」
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[マリー・トゥシェのその後]
シャルル九世の愛人マリー・トゥシェは、シャルル九世よりもひとつ年上で、一五四九年にオルレアンのプロテスタントの軍人の娘として生まれた。シャルル九世とは一五六六年に出会い、二人の男の子をもうけた。第一子は早死したが、第二子のシャルルは、長じてオーヴェルニュ伯爵、ついでアングレーム公爵となった。
マリー・トゥシェはシャルル九世の死後、フランソワ・ド・バルザック・ダントラーグと結婚し、今度は二女をもうけた。そのうちの一人、アンリエット・ダントラーグは、長ずるに及んでアンリ四世の愛人となった。
アンリエット・ダントラーグはなかなか野心的な女性で、アンリ四世がマルゴと離婚すると、その後釜にすわることを考えた。ところが、アンリ四世は借金苦からメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚し、王子(ルイ十三世)をもうけてしまったので、アンリエット・ダントラーグは激しく嫉妬して、父のフランソワ・ド・バルザック・ダントラーグおよび異父兄のオーヴェルニュ伯爵(シャルル九世の遺児のシャルル・ド・ヴァロワ)と組んで、アンリ四世との間に生まれたアンリを王位をつけようと陰謀を企てた。アンリ四世がラヴァヤックに暗殺された裏にも、彼女の嫉妬が働いていたとする説もある。
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第三十七章 ルーヴルへの帰還
カトリーヌ・ド・メディシスはまんじりともしないで夜を過ごした。夜が明けると、彼女はベッドから出て、一人でシャルル九世の部屋に向かった。
シャルル九世の部屋の衛兵たちは、カトリーヌが時ならぬ時間に王の部屋を訪れることに慣れていた。だが、この日シャルル九世の乳母は、王から八時前にはだれも部屋に入れるなといわれていたので、カトリーヌを寝室には入れようとしなかった。
カトリーヌ・ド・メディシスは強い口調で命じて、無理やり息子の部屋に入った。シャルル九世は外出していて、寝室にはいなかった。
二時間後、彼女が窓からルーヴルの入口を見つめていると、シャルルとアンリ・ド・ナヴァールが帰ってくるのが見えた。彼女はすべてを理解した。
二人の王が笑いながら王の居室に入り、ドア・カーテンをあけると、そこにカトリーヌ・ド・メディシスが立っていた。
「あなたに話したいことがあります」
アンリ・ド・ナヴァールは早々に辞去した。
カトリーヌ・ド・メディシスは、息子が自分の心づかいをなにひとつ理解していないといってなじった。
「ナヴァール王はたいへんな陰謀家よ。人が思っているよりもはるかに危険な人物なのがわからないの? 昨日の夜、部屋でなにが起こったかアンリに聞いてみなさい」
「女でもいたんですか?」
「衛兵を二人殺して、モールヴェルに重傷を負わせるような女がどこにいますか」
「これはたいへんだ。で、その犯人はどうなりましたか?」
「見事に逃げましたよ」
「なにか手がかりは?」
「サクランボ色のマントを羽織っていたということだけよ」
「おや、そんな派手な色のマントを着ているのは、この宮廷には一人しかいない」
「そのとおりよ」
「で、どうします」
「ここで待っていなさい。命令が実行されたか見てくるから」
いっぽう、アンリ・ド・ナヴァールは階段でソーヴ夫人とすれちがった。夫人は神への祈りが通じたと、神に感謝した。事情がまだ呑みこめないアンリがなにが起こったのかたずねると、彼女は部屋に行ってみればわかるといった。階段でもう一人の人物と出会った。アランソン公だった。アランソン公は、あとで自分の部屋に来るようにとだけいって姿を消した。
アンリは寝室に足を踏み入れたとたん、なにが起こったかを理解した。
「ああ、これで王がしてくれたことの意味がわかった。刺客がわたしを殺しにきたのだ。だが……そうだド・ムイだ。ド・ムイはどうした?」
アンリは急いでアランソン公の居室に駆けつけた。アランソン公はルーヴルの塔の中にある別室に彼を案内すると深刻な表情で事件のあらましを語りはじめた。
「ああ、義兄《にい》さん、怖かった、本当に恐ろしい夜だった!」
「いったい、なにが起こったんです?」
「義兄さんを逮捕しようとしたんです」
「わたしを?」
「ええ」
「なんの目的で?」
「それはわかりません。どこにいたんです?」
「昨日の晩、王がわたしを町に連れだしてくれたんです」
「じゃあ、王は知っていたんだ。でも、あなたがいなかったとすると、だれがあそこに?」
「だれかがわたしの部屋に?」アンリは知らぬふりをしてたずねた。
「ええ、男が一人。わたしが物音を聞いて助けに駆けつけたときには、もう遅かった」
「男はつかまったんですか?」アンリは不安そうにたずねた。
「いや、衛兵を二人殺し、モールヴェルに重傷を負わせてから逃げました」
「ド・ムイの奴、やったな!」アンリは思わず口を滑らした。
「じゃあ、ド・ムイだったんですか?」アランソン公が急きこむようにたずねた。
「いや、そうじゃないかと思っただけです」アンリは説明した。「というのも、昨日の夜、彼と相談することがあって、部屋に呼んでおいたんです。あなたの逃亡について相談し、ナヴァール王の王位についての権利を全部あなたに委譲するということを伝えるはずでした」
「じゃあ、もしことがバレたら」とアランソン公は蒼白になりながらいった。「わたしたちはおしまいだ」
「それはそうだ。いずれモールヴェルが話すから」
「モールヴェルなら、喉に剣の一撃を受けているからだいじょうぶ。モールヴェルを治療した外科医に問い合わせたら、しゃべれるようになるには一週間以上はかかるという話だから」
「一週間! それなら、ド・ムイは安全なところに逃げられる」
「それだけじゃなくて」とアランソン公はいった。「ド・ムイ以外の人間の可能性もあります」
「本当ですか?」アンリがたずねた。
「もちろんです。その男は逃げ足が速かったので、サクランボ色のマントしか目撃されていない」
「なるほど、サクランボ色のマントというのは、気障《きざ》な男には似合いだが、戦士には似合わない。サクランボ色のマントを着ているド・ムイというのはだれも思いつかぬはず」
「そのとおり。だれかに嫌疑をかけるとすれば、それはむしろ……」アランソン公は途中で言葉をとぎらせた。
「むしろ、ラ・モール!」アンリがいった。
「ご名答。げんに、その男が逃げるのを見たこのわたしでさえ、一瞬、彼をうたぐったぐらいですから」
「あなたご自身がうたぐったと! それなら、ラ・モールの可能性は十分ある」
「彼はなにも知らない?」アランソン公はたずねた。
「なにひとつ知らない。すくなくとも、重要なことは」
「義兄さん」アランソン公はいった。「こうなると、あれは本当に彼だったという気がしてきました」
「しかし困った!」アンリがいった。「もし、それが彼だとすると、ナヴァール王妃は彼に関心をもっているので、おおいに悲しむことになる」
「関心?」アランソン公は当惑してたずねた。
「おそらく。フランソワ、あなた、覚えていませんか? あなたに彼を紹介したのはあなたの姉さんだったということを?」
「そういえばそうだった」アランソン公は低い声で答えた。「それに、わたしも、彼にはよくしてやりたいとは思っていたんです。その証拠に、サクランボ色のマントで彼が窮地に陥るといけないからと思って、彼の部屋まで行って、そのマントをわたしの部屋にもってきたんです」
「おや、おや」とアンリはいった。「重ね重ね慎重だこと。もうこうなったら、彼だと賭けてもいいどころか、そう宣誓してもいい」
「出るところへ出ても?」アランソン公はたずねた。
「もちろん」アンリは答えた。「おそらく、マルグリットからのメッセージをわたしのところにもってきたのでしょう」
「もし、あなたに確実に証言してもらえるなら」アランソン公はいった。「すぐにでも告発してもいい」
「もし、あなたが告発したなら」アンリは答えた。「わたしは、それを否定したりはしない」
「でも、ナヴァール王妃は?」アランソン公はたずねた。
「そうだ、王妃がいる」
「姉さんがどう出るかを知っておかなくちゃならない」
「その仕事はわたしがやりましょう」
「いい気味だ! 姉さんが、われわれの証言を否定しても無駄なこと。なにしろ、あの若僧は勇敢だという評判がある。もっとも、その評判にそれほど高い金額を投資したわけじゃない。いってみれば、あいつは評判をつけで買ったようなもの。だから、利息と元金を一度に払うことになってもそれは当然だ」
「いや、まったく。ここは仕方のないところ」アンリはいった。「この世では、ただではなにも買えないのだから」
そして、アランソン公に手と微笑で挨拶すると、アンリはまず頭だけを用心深く廊下につきだし、だれも立ち聞きしていなかったのを確かめると、すばやく廊下を通って、マルゴの部屋へと通じる秘密の階段に姿を消した。
いっぽう、ナヴァール王妃のほうも、夫と同じように不安な気持ちで朝を迎えていた。昨夜、シャルル九世とアンジュー公、ギーズ公、それに夫のアンリによって企てられた彼女とヌヴェール公爵夫人に対するいやがらせは、彼女を非常に不安な気分に陥らせていた。おそらく、身を危うくするような証拠はなにひとつ見つからなかったにちがいない。それに、ラ・モールとココナスが門扉に挟まれていたところを助けてやったドイツ人の門番はなにひとつ白状しなかったと断言している。だが、ラ・モールやココナスなどと比べるとはるかに格式のあるあの四人の王族が、偶然に、しかも、だれのためにそんな面倒なことをしているかも知らずに、道草をくってあんないやがらせをしたとは思えない。そこで、マルゴはヌヴェール公爵夫人の家で夜の残りを過ごしたあとで、夜明けと同時にルーヴルへ戻ってきた。そして、すぐにベッドに入ったがなかなか寝つかれなかった。どんなかすかな物音にも体を震わせた。
秘密のドアをノックする音を聞いたのはこうした不安にさいなまれている最中だった。だから、ジロンヌに訪問者がだれか確認させたあとで、ようやく入室の許可を与えた。
アンリはドアのところで立ちどまった。裏切られた夫の怒りを示すような気配はまったく感じられなかった。いつもの微笑が形のいい唇のあたりに漂っていた。それに、顔のどの筋肉にも、彼がさきほどまで味わっていた恐ろしい感情をあらわすようなものはまったくなかった。
彼は、目で、彼女と差し向かいになれるかをたずねている様子だった。マルゴはすぐに夫の視線の意味を理解し、ジロンヌに下がるように合図した。
「マダム」とアンリはいった。「あなたが、お友達にどれほど友情が厚いかはわたしにもよくわかっています。ですから、この残念な知らせをあなたにもってくるのは、わたしとしてもじつにつらいものがありました」
「どんな知らせですか?」マルゴはたずねた。
「あなたのもっとも忠実なしもべがいま重大な陰謀に巻き込まれているのです」
「しもべって、だれのこと?」
「あのラ・モール伯爵」
「ラ・モール伯爵が陰謀に? いったい、どんな陰謀?」
「作夜の事件にからんだことです」
マルゴは自制心の強い女だったが、思わず顔を赤らめずにはいられなかった。
だが、懸命に冷静を装った。
「どんな事件なの?」
「おや!」アンリは驚いたようにいった。「昨日の夜、ルーヴル中に響いたあの物音が聞こえなかったのですか?」
「いいえ」
「ああ、それはご立派だ」アンリは無知を見事に装っていった。「よほどぐっすりと眠られていたようですな」
「で、いったい、なにが起こったの?」
「我らが母后様がモールヴェルと六人の衛兵にわたしを逮捕しろという命令を出したんです」
「まさか! うそでしょ!」
「いや、本当です」
「でも、どんな理由で?」
「それは、母后様のような深遠な思考をなされる方でないとわからない。わたしには、推測はできても、やはり本当のところはわからない」
「で、あなたは部屋にいたの?」
「いいえ、偶然に、いなかったのです。おわかりになるかとは思いますが、部屋にはいませんでした。昨日の夜は、王がわたしを町に連れだしてくれたんです。でも、わたしはいなくても、ほかの男がいたんです」
「それはだれなの?」
「それがどうやら、ラ・モール伯爵らしいのです」
「ラ・モール伯爵! まさか!」マルゴは驚いていった。
「まったく、人ってのはわからないもんですね」とアンリは先を続けた。「あの彼がモールヴェルに重傷を負わせたばかりか、衛兵を二人も殺したんですからね」
「モールヴェルに重傷? 衛兵を二人殺した?……そんなことありえないわ!」
「どうしてです? 彼の勇気をうたぐってるんですか?」
「いいえ、そうじゃなくて、彼はそんなところにいたはずがないということです」
「どうして、わたしの部屋にいたはずがないっていえるんですか?」
「それは……それは……」マルゴは当惑していった。「ほかの場所にいたからです」
「ああ、彼にアリバイがあるというなら、それはまた別の話です。彼がどこにいたかをいえば、それで終わりですからね」
「彼がどこにいた?」マルゴはぎょっとしてたずねた。
「たぶん、近いうちに、彼は逮捕されて、尋問されるでしょうからね。不運なことに、証拠があがっている」
「証拠って? どんな?」
「その必死の防戦をした男というのが、サクランボ色のマントを羽織っていた」
「でも、サクランボ色のマントを羽織っている男はラ・モール伯爵だけじゃないわ……わたしはもう一人、別な男を知っています」
「わたしだって知っています。でも、そうだとすると、どういうことになるか? わたしの部屋にいたのがラ・モール伯爵ではないとすると、彼と同じようにサクランボ色のマントを羽織った男がいたことになる。ところで、その別の男がだれか、あなたはいうことができますか?」
「なんてこと!」
「そう、まさにどんづまり。マダム、あなたは、わたしと同じようにたしかに彼を見ている。それはあなたの心の動きでわかります。では、いっそ、この世でいちばん強く人々が欲しがるもの、……つまり、王位というもの、それに、この世でいちばん貴重なもの、つまり人の命について語りあう二人の対話者として、話をしましょう。いいですか、ド・ムイが逮捕されたら、陰謀は発覚して、わたしたちは終わりです」
「ええ、よくわかります」
「これに対して、ラ・モール伯爵がつかまっても、だれも身を危うくするものはいない。もっとも、あの男が、なにかの話をでっちあげて、たとえば、どこかに貴婦人と一緒にいたとか考え出すほど頭の切れる奴だとあなたがお思いになるなら、話は別ですが」
「そのことでしたら」とマルゴはいった。「どうかご心配なく。彼はなにもしゃべらないでしょう」
「なんですって!」アンリは叫んだ。「しゃべらないですって! 沈黙の報酬が死刑だとしても?」
「しゃべりません」
「それはたしかですか?」
「保証します」
「それなら、すべてが完全だ」とアンリは立ち上がりながらいった。
「もうお帰りになりますの?」マルゴは我にかえっていった。
「ええ、いうべきことはみんないいました」
「で、これから先は?」
「そのいまいましいサクランボ色のマントの男のおかげで突き落とされたこの奈落から、わたしたちみんなを引き上げる努力をする予定です」
「ああ、なんてことかしら、かわいそうに、あの人」とマルゴは腕をよじらせながら苦しそうに叫んだ。
「本当のところ」アンリは身を引きながらいった。「あのラ・モール伯爵というのは、なかなか役に立つしもべですよ」
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第三十八章 カトリーヌ母后の飾り紐
シャルル九世はカトリーヌ・ド・メディシスと会話したあと、にわかに不機嫌になった。いっぽう、カトリーヌのほうはすっかり上機嫌になった。
「ラ・モール伯爵か。アンリとアランソン公を呼ばなくては。ラ・モールはユグノーでアランソン公の部下だからな」
「呼んでも、あの二人は口裏をあわせているから、なにひとつ白状しませんよ。むしろ泳がせておいて、警戒心が薄れて大胆になったときをねらわなくっちゃ」
「いや、待つわけにはいきません。それに、あの酒落者どもいささか増長しています。ラ・モールが無実というならそれはいい。しかし、昨夜、彼がどこにいたかは知っておかないと。クロシュ=ペルセ街にいたというなら、これはただではすまされない。まず、アランソン公、つぎにアンリの順で尋問します。お母さんは、そこにすわっていて、結構です」アランソン公はアンリと打ちあわせしておいたとおりのことをいった。つまり、サクランボ色のマントの男を見たが、たしかに、部下のラ・モールはその色のマントをもっていると証言したのである。
いっぽうアンリはこの機会を利用して、むしろカトリーヌ・ド・メディシスを窮地に追い込んでやろうと思った。
「なんの理由でモールヴェルはわたしを暗殺しようとしたのでしょうか?」
「暗殺ではありません」カトリーヌが答えた。「逮捕です」
「では逮捕されるようなどんな罪をわたしが犯したのでしょうか?」
「怪しげな人物と接触しているからです」
「その怪しげな人物というのはだれですか。名前をあげてください。わたしが、王に対して陰謀を企てたというなら、なぜ昨日、わたしは王の命を救ったりしたのですか?」
「では、だれがあなたの部屋にいたというの?あなたに関係した者が衛兵二人を殺し、モールヴェルに重傷を負わせたのは事実なのですから」
「わたしに関係した者? それはだれですか?」
「みんながラ・モール殿だといっています」
「ラ・モールはわたしの部下ではなく、アランソン公の部下で、ナヴァール王妃が推薦した男です。でもラ・モールがわたしの部屋にいたという証拠はあるのですか?」
「ラ・モールはサクランボ色のマントを着ていますからね」
「それに対してはなんともいいようがありませんが、ひとつだけ腑に落ちないことがあります。それは、もしわたしがそこにいたとしたら、逮捕状はわたしに向けられているのですから、わたしが抵抗したら、それは罰に値するでしょう。でも、そこにいたのはわたしではありません。ですからその逮捕状は関係ない人間に対して向けられています。つまり不当逮捕ということになります。これは違法です。陛下、わたしは陛下のお言葉ひとつで、どんな監獄へでもまいります。しかし、わたしが陰謀を企て、しかも、その部屋にいた男がわたしとともに陰謀に加わっていたと証明されないかぎり、その男は無実です」
アンリはいいおわると、威厳をもってシャルル九世に挨拶して出ていった。
「ブラヴォー、アンリ!」とシャルル九世は叫んだ。
「わたしたちをいい負かしたから、ブラヴォーなの?」カトリーヌがいった。「あの男があなたを助けたのは、天敵のアンジュー公がアンリ三世にならないためよ」
「動機はともあれ、アンリがわたしを助けたことに変わりありません。命の恩人に危害を加えるわけにはいきません。ラ・モールのことはアランソン公と相談します」
カトリーヌがシャルル九世のもとを辞去して自室に戻るとマルゴが待っていた。
「あら、あなた、昨日の夜、迎えにやったのに」
「昨夜は外出しておりました。お母さまがラ・モールを逮捕させるというのは本当でしょうか」
「それは間違いよ。逮捕させるのはわたしではなくて、王ですから。でも逮捕はありえます」
「ナヴァール王の部屋にいて、衛兵を二人殺し、モールヴェルに重傷を負わせた罪ででしょうか?」
「そのようね」
「それは冤罪《えんざい》です。ラ・モールは無実です」
「無実?」カトリーヌ・ド・メディシスは娘の口からなにか意外な光明が飛び出すのではないかという気がした。
「無実です。ナヴァール王の居室にはいませんでした」
「じゃあ、どこに?」
「わたしと一緒でした」
カトリーヌ・ド・メディシスはフランス王女のこの告白に雷に打たれたような顔をした。
「尋問されたら、彼は、どこにだれといたか答えるでしょう」マルゴは、ラ・モールがその反対のことを答えることを確信していたがあえてこういった。
「なるほど、それなら、あなたのいうとおりだわ。ラ・モールを逮捕してもしかたがない」
マルゴは身震いした。カトリーヌ・ド・メディシスの口のききかたのなかに、なにかしら謎めいた恐ろしいものがあるような気がしたからである。だが、彼女はなにもいわなかった。というのも、得たいと思っていた答は与えられたのだから。
「でも、部屋にいたのがラ・モールでないとするとだれがいたのかしら? あなた、その男がだれだか知っているんじゃない?」
「存じません」マルゴの声はいまひとつ確信に欠けていた。
「まあ、いいでしょう。いずれわかることだから。安心してていいわよ、お母さんはあなたの名誉は守るから」
マルゴは頬笑んだ。
いっぽう、カトリーヌ・ド・メディシスは心の中でこうつぶやいた。
「アンリとマルグリットは共謀しているんだわ。おまえたちは強いと思っているかもしれないが、そんな力は共謀からしか出てこないもの。わたしは、おまえたちをばらばらにしてやるからね。いずれ、モールヴェルが話せるか筆談できるようになったら、そのときは覚悟しておいで。それまでのあいだ、犯人は羽根をのばしていられる。だけれど、そのほうが、二人の間に楔《くさび》を打ち込むのに都合がいい」そう考えながら、カトリーヌはシャルル九世の部屋に引き返した。そこには、アランソン公もいた。
「なんです、お母さん」
「シャルル、おまえのいうとおりでした。アランソン、おまえはまちがっていましたよ」
「えっ、どうしてです?」二人の息子が同時に叫んだ。
「ナヴァール王の部屋にいたのはラ・モールではありません」
アランソン公は真っ青になった。シャルル九世は驚いてたずねた。
「じゃあ、だれだったんです?」
「それはまだわかりません。でも、モールヴェルが元気になれば、なにもかもわかります。このことはもう放っておきましょう。それより、問題はラ・モールのことです」
「でも、ラ・モールはナヴァール王の部屋にはいなかったんでしょ」
「たしかに、ナヴァール王のところにはいませんでした。いたのは、ナヴァール王妃のところです」
「ナヴァール王妃のところ!」シャルル九世はそう叫んでヒステリックに笑いだした。
「ナヴァール王妃のところ!」アランソン公は死人のように真っ青になった。
「でも、ギーズ公が昨夜、町でマルゴの駕籠を見かけたといってましたよ」
「ああ、それね。あの子は町に隠れ家をもっているのよ」
「クロシュ=ペルセ街だ! どうせ、そんなことだと思っていた。じゃあ、昨日、わたしの頭の上に銀の水差しを投げてきたのはあの悪党だったんだ」
「姉さんも姉さんだ。あんな奴をわたしの部下に推薦するなんて!」
「あなたたちのいうとおりですよ。一人の男の気まぐれで、恐ろしいスキャンダルが起こってしまうのだから」とカトリーヌ・ド・メディシスは、息子たちの怒りの本当の理由には気づかないふりをしていった。
「でも、こうなったら、この事件を司直の手にゆだねることはできない。アンリが訴え出ないかぎりは」シャルル九世がつぶやいた。
「わたしのいうことをよく聞いて」とカトリーヌはシャルル九世の肩に手にかけていった。「たしかに、犯罪とスキャンダルがあります。でもこうした王室の不祥事をさばくのは裁判官や首切り役人ではありません。あなたたちはみな王子なのですから、復讐するなら王子らしくやりなさい」
「お母さん、あなたのいうとおりです。考えてみましょう」シャルル九世が答えた。「わたしも兄さんを助けます」アランソン公がいった。
「それでは、わたしは、これを渡しましょう。わたしのかわりにこれをここに置いていきます」カトリーヌはそういうと、腰に三重に巻いていた腰紐をはずした。それは両方の端に丸いふさがついていた。彼女はそれを二人の王子の足元に投げた。「ああ、わかった」とシャルルは叫んだ。
「この腰紐は……」アランソン公はそれを拾いながらいった。
「それは罰と沈黙です」カトリーヌは誇らしげに答えた。「アンリを仲間に加える必要はありません」
カトリーヌは出ていった。
「話はこれで簡単になった。女房に裏切られているって知ったら、アンリのやつ……」アランソン公はそういって、兄のほうを見た。「兄さん、お母さんのいうとおりにするんですか?」
「なにからなにまでな」シャルルはアランソン公の心臓に自分が剣を突き立てているとも知らずにいった。「でも、マルグリットは泣くだろうが、アンリは喜ふぞ」
それから、アンリを呼ぼうとしたが、考えなおし、自分でアンリの部屋に行くことにした。
「おい、アランソン、アンジューとギーズに連絡しろ」
そして、アンリの部屋に通じる小さな階段をのぼっていった。
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第三十九章 復讐計画
アンリはシャルル九世たちが話し合っているすきに、ソーヴ夫人の部屋に走っていった。従者のオルトンは正気にもどっていたが、モールヴェルに殴られたあとのことはなにひとつ覚えていなかった。カトリーヌ・ド・メディシスはオルトンが気絶しているのを見ていたから、彼を問いつめようとは思わなかったのである。
アンリは、ド・ムイから連絡が入るまで、オルトンをソーヴ夫人に匿ってもらうことにした。彼を連絡係にするつもりだったからである。
当面の方針が決まったので、彼は自室に戻った。そこにシャルル九世が入ってきた。シャルル九世はさかんにアンリを誉めあげたあと、ひとつだけ欠点があるといい、それはマルゴに裏切られていることに気づいていないことだと断言した。
「さっきから、おまえは近視以上だ、盲目《もうもく》だといっているのに、まだわたしのことを信じようとしないのか、この頑固者め」シャルル九世はいった。「それでははっきりといってやろう。マルゴはおまえを欺いている、だから、今夜、わたしたちは、妹の愛の対象であるそいつを絞め殺してやるのだとな」
アンリは飛び上がるほど驚いた。そして、義兄を呆然として見つめた。
「アンリ、おまえ、本当はそのことで怒ったりしないだろう。正直にいえ。マルゴは十万匹のカラスみたいに泣きわめくだろうが、しかたがない。わたしとしては、おまえを不幸にしたくはない。コンデ公はアンジュー公に女房を寝取られているが、わたしはいい気味だと思っている。コンデ公はわたしの敵だからだ。だが、おまえは違う。おまえは兄弟以上の存在だ。おまえはわたしの親友だ」
「ですが、陛下……」
「わたしとしては、おまえが人から苦しめられたり、笑いものにされたりするのは見るに忍びない。この宮廷の禄《ろく》を食《は》み、女たちに言い寄るために田舎からやってくるすけこましどもがおおぜいいるが、おまえは、ずっとまえから、そいつらの標的にされているんだぞ。やつらは、味をしめて、何度もやってくるほどだ。アンリオ、おまえは寝取られた。もちろん、こんなことはだれにでも起こることかもしれん。だが、今夜、おまえは女房に強烈なしっぺがえしをくらわしてやることができるんだぞ。だから、明日になればみんながいうだろう。『こりゃすごい! シャルル九世はよっぽど義弟のアンリが好きなんだな。だって、昨日の夜、王は、ラ・モールって奴の舌をおもしろい具合にひっぱり出してやったそうだからな』」
「ひとつ、おうかがいいたしますが」とアンリはいった。「それは本当に決定されてしまったことなんですか?」
「決定も決定、すべて決まりだ。色男に文句はいわせない。実行は、わたし、アンジュー、アランソン、ギーズの四人でやる。王が一人、王子が二人、王族が一人、おまえを勘定にいれないでもな」
「それはどういうことでしょう、わたしを勘定にいれないというのは?」
「やりたければ、一緒にやってもいい」
「わたしが?」
「そうだ、おまえがだ。わたしたちが奴の首を絞めているあいだに、おまえが短剣で刺し殺せ」
「陛下、陛下の好意はまことにありがたいのですが、でも、どうして妻がわたしを裏切ったことがわかるのです」
「まったくどこまで人のいい男なんだ、おまえは。奴はきっと大笑いしているぞ。いいか、奴はルーヴルのマルゴの部屋やクロシュ=ペルセ街の隠れ家に出かけて、一緒に詩をつくっているんだぞ。奴がつくったその牧歌風の詩というものを見てみたいもんだ。奴らは二人で、ビオンやモスカスの話をしたり、ダフニスとクロエーの詩を交替で読んでいるんだろう。まあ、せいぜいのところグサッと一突き、お見舞いしてやるんだな」
「陛下!」とアンリはなにか考えながらいった。
「なんだ?」
「陛下には、わたしが、そのような処刑の現場に立ち会えないことはおわかりいただけるかと思います。現場にいるということは、いかにもよろしくありません。なぜなら、わたしは、ことの当事者ですから、わたしが加わるのは、残忍な気持ちからだといわれてしまうでしょう。わたしの妻を誹謗《ひぼう》して喜んでいる悪党を懲らして、陛下が姉君の名誉を守るとしたら、これほどわかりやすいことはありません。マルグリットのことはいまでも無実と信じていますが、そのマルグリットもそれによって、名誉を汚されるということはありますまい。ですが、もしわたしが実行に加わったとしたら、それは意味が変わってきます。わたしが協力することで、正義の行為が復讐の行為に変わってしまいます。それはもう処刑ではなく、暗殺です。わたしの妻は誹謗されたことにならなくて、罪あることにされてしまいます」
「まったく、おまえというやつは、なんて弁舌さわやかなやつだ。さっきも母にいったんだが、おまえは、本当に悪魔のように頭がいいな」
シャルル九世は、誉め言葉に対してお礼の意味で頭を下げた義弟を満足げに見つめた。
「といっても」シャルルはつけ加えた。「おまえだって、あの色男を厄介払いしてもらったらうれしいだろうに」
「陛下のなさることはすべてよいことでございます」とナヴァール王は答えた。
「わかった、わかった、まあ、おまえのことはこっちに任せておけ。安心している。悪いようにはせん」
「すべてお任せいたします、陛下」アンリはいった。
「ところで、奴はいつも、何時におまえの女房のところへ行くんだ?」
「そうですね……夜の九時ごろでしょうか」
「で、そこから出るのは?」
「わたしが行く前ということになりますね。一度も、出くわしたことはありませんから」
「だいたい……」
「十一時ごろでしょうか」
「よし、今夜、真夜中に決行だ。きっとうまくいく」
そういって、シャルル九世はアンリの手をしっかりと握りしめ、友情の誓いを繰り返してから、大好きな狩りの歌を口笛で吹きながら帰っていった。
「まったく、困ったもんだ!」とアンリはシャルルを目で追いながらいった。「あの悪だくみは、今度もまた母后から出ているにちがいあるまい。本当のところは、母后は妻とわたしを仲たがいさせるために、どんな手をうったらいいかわかっていないんだ。なにしろ、わたしたちは見事な夫婦だからな!」
そして、アンリは、だれも見たり聞いたりするものがいないときによくやるように、カラカラと笑いはじめた。
その夜の九時ごろ、入浴を終えたばかりの若者が一人、ルーヴルの一室の鏡の前で、鼻歌を歌いながら身繕いをしていた。いっぽう、彼のわきでは、もう一人の若者がベッドで横になっていた。
ご存じのように、前者はラ・モールで、後者はココナスである。二人とも、その日に起こった事件をまったく知らなかった。いつもと変わらぬ一日を過ごし、そのときも、他愛のない会話を交わしていた。いつもと違ったのは、ラ・モールがサクランボ色のマントを着て出ようとしたときに、それが見つからなかったことである。ラ・モールがこれは泥棒に入られたかと思って廊下に出たとき、アランソン公の従僕がそのマントをもってあらわれた。従僕は、アランソン公がそのマントの色のことで賭をしたので、ラ・モールの部屋に行って、それを取ってくるように命じたといった。だが、もう色の確認は終わったので返しにきたといった。ラ・モールはそのマントを羽織ると、マルゴの部屋に出かけた。途中で、アランソン公に会った。アランソン公は行き先をたずねた。ラ・モールがマルゴの部屋だと答えると、アランソン公は退出の時間をたずね、自分も今夜、マルゴに用があるからと言った。
マルゴは、ラ・モールがいっさい尋問を受けていないばかりか、事件のことをなにひとつ知らないことに驚いた。そこで、事件の経過をひととおり説明してやったが、ラ・モールがことの重大さにいつまでたっても気づかないので、ついにこういった。
「あなたがナヴァール王の部屋にいなかったことを証明する方法はひとつしかありませんでした」
「なんでしょうか、それは?」
「あなたがどこにいたか証言することです」
「それで?」
「それで、わたしはいいました」
「だれに?」
「母に」
「で、カトリーヌ母后は?」
「あなたがわたしの愛人だということを知りました」
ラ・モールはようやく、マルゴの払った犠牲の大きさに気づいた。
そのとき、すさまじい音がした。窓ガラスから卵大の石が投げ込まれたのだ。その石にはなにかくくりつけてあった。紙切れだった。マルゴは紙を広げて読んだ。
「なんという悪党たち!」彼女は叫んで、紙をラ・モールに渡した。
紙にはこんな文字が書かれていた。
「アランソン公の部屋に通ずる廊下で、長い剣をもった者がラ・モール殿を待っています。ラ・モール殿はこの窓から脱出し、マントウの町でド・ムイ殿と落ち合ったほうがいいでしょう」
ナヴァール王の筆跡だった。マルゴは危険の大きさを悟って、すぐ逃げるようラ・モールに命じた。もう一度、投げ込まれた石を調べると、紐がついている。その紐を手繰りよせると、縄ばしごがあらわれた。
「ああ、天の奇跡だ!」ラ・モールがいった。
「なにいってるの。ナヴァール王の助けよ」
だが、そのはしごが罠だったら、どうする? マルゴは自分が廊下に出て、通報が本当かどうか確かめてくるといった。ラ・モールが危ないからととめるとマルゴはこういいはなった。
「フランス王女に対して、なにをするというのですか。わたしは、王女であり、王妃ですから、二重の意味で神聖にして犯すべからざる存在です」
その言葉は非常な威厳をもって発せられたので、ラ・モールは言いつけに従うほかなかった。
マルゴは廊下に出た。廊下は真っ暗闇だったが、彼女は蝋燭ももたず手探りで歩いていった。
マルゴが廊下の分かれるところまできたとき、とつぜん男が二歩前へ進み出て、手にもっていた真っ赤な燭台を突き出して叫んだ。
「きたぞ! 奴が!」
マルゴは兄のシャルル九世と対峙《たいじ》した。
彼の後ろには、絹の腰紐を手にもったアランソン公が控えていた。奥の暗闇には、二つの影が並んで立っていた。二人とも、手に抜き身の剣をもっていたが、その顔は、刃に反射する光でわずかに照らされていた。
マルゴはそのすべてを一瞥のもとに見てとった。そして、最後の力をふりしぼると、シャルル九世にむかって頬笑みながら答えた。
「『きたぞ! あの娘《こ》が!』というべきところじゃない?」
シャルル九世は一歩後ろへ下がった。ほかの男たちは動かなかった。
「おまえか、マルゴ!」シャルルは口を開いた。「こんな時間にどこへ行く」
「こんな時間に?」マルゴはいった。「そんなに遅い時刻?」
「どこに行くと聞いているんだ」
「キケロの演説集を探しによ、お母さんの部屋においてきたと思ったから」
「松明ももたずにか?」
「廊下に明かりがついていると思ったのよ」
「おまえの部屋からきたのか?」
「そうよ」
「今夜、なにしている?」
「ポーランドの使節団のための歓迎演説の下書きを書いているの。あした会議があるんでしょ。それぞれが陛下に演説の下書きを見せることになっていたんじゃない?」
「だれかに助けてもらっているのか?」
マルゴはありったけの力をかき集めていった。
「ええ、兄さん。ラ・モールに手伝ってもらっているわ。とても、物知りだから」
「そんなに物知りなら」とアランソン公がいった。「姉さんの手伝いが終わったら、ぼくのところに来るようにいっといてよ。ぼくは姉さんほどうまくないから」
「彼を待っているの?」マルゴはできるだけ自然な口調でいった。
「ああ」とアランソン公はいらいらしながら答えた。
「それならば」マルゴは答えた。「すぐ、そちらにやるわ。もうわたしたち終わったから」
「本はどうしたんだ?」シャルル九世がたずねた。
「あとで、ジロンヌにとりにやらせるわ」
二人の兄弟は目配せした。
「それなら、もう行け」シャルルはいった。「わたしたちは、これから巡回を続けるから」
「巡回!」マルゴがいった。「いったいなにを探しているの?」
「サクランボ色のマントの男さ」シャルルが答えた。「サクランボ色のマントの男がルーヴルにあらわれるって話は聞いているだろう? アランソンが見たといっているからな。いまその男を探しているところだ」
「じゃあ、がんばってね」マルゴはいった。
それから、最後の一瞥を背後に投げながら、その場を離れた。廊下の壁に四つの影が映っていた。その影は寄り集まってなにか協議をしているように見えた。
マルゴはすぐに自室のドアに戻った。
「あけて、ジロンヌ、わたしよ、あけて」
ジロンヌは言いつけに従った。
マルゴは控えの間に飛び込んだ。ラ・モールが彼女を待っていた。冷静になり、決心を固めていた。だが、手には剣が握られていた。
「逃げて!」彼女はいった。「一刻も早く、逃げて! あなたを殺そうと廊下で待ち伏せしているわ」
「ご命令でしょうか?」ラ・モールはたずねた。
「そうよ。また会えるために、別れなくちゃならないの」
マルゴが出かけているあいだに、ラ・モールは窓の手摺りに縄ばしごをくくりつけていた。彼は、手摺りをまたぎ越した。だが、はしごに足をかける前に、王妃の手に愛情をこめて接吻した。
「もし、はしごが罠で、命をおとすようなことがあったら、マルグリット、どうか、約束を思い出してください」
「あれは約束ではありません、ラ・モール。誓いです。なにも恐れることはありません。|さようなら《アディユー》」勇気を得たラ・モールは、はしごを降りるというよりも、するすると滑っていった。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
マルゴはラ・モールがこの危険な作業に取り組むのを目で懸命に追っていた。そして、彼の足が大地に着地するのを確認するまで振り向かなかった。
「奥様」ジロンヌがいった。「奥様!」
「なに?」マルゴはたずねた。
「王様がドアをノックしておられます」
「あけて」
ジロンヌはドアをあけた。
四人のプリンスが待ちかねたように、敷居に立っていた。
シャルルが中に入ってきた。
マルゴは唇に微笑を浮かべて彼の前に進み出た。
王はすばやくまわりに一瞥を投げた。
「なにをお探しで、お兄さん?」マルゴはたずねた。
「そう……」シャルルはいいよどんだ。「クソッ、ラ・モールはどこだ?」
「ラ・モール伯爵!」
「そうだ、奴はどこだ?」
マルゴは兄の手を取ると、窓際へと導いた。
二人の男が馬にまたがり、速足で遠ざかっていくのが見えた。トゥール・ド・ポワまで行くと、そのうちの一人がネッカチーフをはずして、別れのしるしに、夜の闇の中で白いサテンを激しく振っていた。二人の男はラ・モールとオルトンだった。
マルゴはシャルル九世にむかって、指で二人の男を指し示した。
「それで、なにがいいたいのだ?」
「もうこれで」マルゴは答えた。「ラ・モール伯爵は廊下を通りません。アランソン公に腰紐をポケットにしまっていいとお伝えください。アンジュー公とギーズ公は剣を鞘におさめてもけっこうです」
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[アンジュー公、ポーランド王となる]
デュマの『王妃マルゴ』が史実ともっとも異なる点は、王弟アンジュー公アンリの扱いである。すなわち、『王妃マルゴ』では、アンジュー公は聖バルテルミーの虐殺の前日にはすでに不在だったため虐殺には関与していなかったことになっているが、これはすでに指摘したように、デュマのフィクションである。アンジュー公は、聖バルテルミーの虐殺の引金となったコリニー暗殺を母后カトリーヌ・ド・メディシスとともに立案・指揮した張本人であり、また聖バルテルミーの虐殺を母を介して兄に教唆した主犯である。
アンジュー公が、こうした振る舞いに出た最大の原因は、ポーランド王選出問題にある。ポーランド王国は王家が断絶し、新しい王を外国から迎えねばならない事態になっていた。王は国民の選挙で決められることになった。まず最初に名乗りをあげたのは、モスクワ大公、イワン雷帝だが、反ロシア感情の強いポーランドでは、この選択だけは避けたいという気持ちが強かった。次にあらわれたのは、神聖ローマ帝国皇帝の息子、エルンスト太公子である。これには、ローマ教皇からの支持があったが、ポーランド国内のプロテスタントと穏健派カトリックに危惧を抱かせた。そこで出てきたのが、アンジュー公の名前である。神聖ローマ帝国に併合されるよりは、フランスと結んで、神聖ローマ帝国を挟撃したほうが得策であるという考えが打ち出されたのである。これは、最愛の息子であるアンジュー公に王冠をさずけてやりたいと祈願していたカトリーヌ・ド・メディシスの思惑とぴたり一致した。
この考えに喜んだのは、カトリーヌだけではなかった。母の愛を一人占めにしているばかりか、ジャルナックとモンコントゥールの戦いで英雄となった弟に激しい憎しみを抱いていたシャルル九世も、弟をフランスから遠ざけることができると考えて、これに飛びついたのである。
ところが、肝心のアンジュー公はポーランドなどに行くのは絶対にいやだと言い張った。もちろん、氷で閉ざされた、未開の国というイメージがあったためもあるが、それ以外にもうひとつ、アンジュー公がポーランド行きを渋る理由があった。それは、愛人のマリー・ド・クレーヴと別れたくなかったからである。
マリー・ド・クレーヴは、プロテスタントの首領コンデ公アンリの妻だった。逸話によれば、アンジュー公はあるとき、着替えのために更衣室に入り、そこにあった布で顔をぬぐったが、じつは、それは汗をかいたマリー・ド・クレーヴが脱ぎ捨てていったスリップだった。それ以来、たちまちアンジュー公は、マリー・ド・クレーヴに激しい恋を感じるようになったというのである。
この逸話の真偽のほどは別にしても、アンジュー公が、十九歳の清純な若妻マリー・ド・クレーヴに熱烈に恋していたことはまぎれもない事実である。そのため、彼がマリーの夫のコンデ公の死を願ったとしても、それは無理からぬことだろう。いっぽう、コンデ公にしてみれば、アンジュー公は、ジャルナックの戦いで戦死した父コンデ公の仇にほかならない。かくして、ここに、美貌の人妻を挟んで、たがいに相容れぬ二人の男が対峙することになったのである。
甘ったれのアンジュー公は、自分の恋が成就できぬと知ると、その仲立ちをなんと母親のカトリーヌに頼んだ。だが、こればかりはカトリーヌも息子の願いをかなえてやるわけにはいかなかった。それどころか、息子の愛を一人占めしているとばかり思っていたこの母親は、強力なライヴァルの出現を恐れた。そのため、息子がポーランド王に立候補することに積極的に賛成した。
シャルル九世も激しい口調で弟の翻意をうながした。二人の兄弟が言い争っているとき、コリニー提督が中に割って入った。提督は、アンジュー公にむかって、イギリス女王との結婚を断ったばかりか、今度はポーランドの王座も拒絶するとは何ごとかときつい口調で詰問した。フランスにとどまっているかぎり、アンジュー公は兄が亡くなるのを待ち望んでいると噂されてもしかたがない。そう思われたくなかったら、いさぎよくポーランドに旅立つしかないではないか。
シャルル九世は、コリニー提督の説教が終わると、弟にむかって呪いの言葉を吐きながらこういった。
「フランスには二人の王は存在できない! おまえはフランスを去って、他の国の王となれ!」
アンジュー公は、三人に言い負かされて、ポーランド王に立候補することを承知した。しかし、このときから、コリニー提督に激しい恨みを抱くようになった。
この恨みと、マリー・ド・クレーヴを手に入れたいという欲望が、聖バルテルミーの虐殺の大きな原因のひとつとなったとする歴史家もいる。
だが、コリニー提督の暗殺は聖バルテルミーの虐殺で成功したが、コンデ公を亡きものにするというアンジュー公の計画は、ブルボン王家を根絶やしにしてしまったらギーズ家の力が強くなりすぎると考えたカトリーヌ・ド・メディシスの取りなしで失敗に終わる。おそらく、カトリーヌは、息子の恋が成就することに嫉妬を感じたのだろう。
いっぽう、その間にポーランド王の選挙がおこなわれ、アンジュー公が当選した。こうしてアンジュー公は、いやいやながらポーランドに旅立つほかはなくなったのである。
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第四十章 呪われた一族
アンジュー公はパリに戻ってきてから、まだカトリーヌ・ド・メディシスに会ってはいなかった。アンジュー公が母を本当に愛していたかどうかは別にして、彼が母の最愛の子であったことは確かだ。カトリーヌ・ド・メディシスがアンジュー公を愛したのはこの息子が美貌で勇敢だったこともあるが、もうひとつ、彼女が若き日に愛した愛人の子供だったからだと噂するものもいた。アンジュー公が、予定よりも一日早く、ラ・ロシェルから戻ったことはすでにカトリーヌの耳に入っていた。いっぽう、アンジュー公は、マリー・ド・クレーヴの屋敷から出てきたところを見られてしまったので、その点について釈明をしておかねばならないと考え、母の部屋を訪れた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、ふだんの彼女の態度からは想像もできないような愛情あふれる仕草で息子を迎えた。アンジュー公は、ポーランドの使節団が到着したが、ポーランドには行きたくないと強く訴えた。
「いやです。ぼくは絶対にあんな国に行きたくはありません。あんな粗野な人間のなかにいたら、ぼくは退屈で死んでしまいます」
「理由はそれだけなの? もっとほかの理由があるんじゃないの?」
「こんなことを考えるのはバチ当たりなのかもしれません。でもお母さん、シャルル兄さんは、占いでは若死にすると出ているってぼくにおっしゃいませんでしたか?」
「占いは嘘をつくこともあります。それに占いでは『二十五年で死ぬ』と出ているけれど、それが生まれてからのことか、王座についてからのことかはわからないわ」
「どちらにしろ、ぼくをポーランドに行かせないでください。いずれにしろあと一年で、結論が出るんですから」
カトリーヌはしばらくじっと考えてからいった。
「わかったわ。できるならそうしてみましょう」
「お母さん。ぼくは偉大な王になるかもしれないのに、ポーランドで朽ち果てるなんていやです!」
「あなたのほうでもなにか方法を考えてみたの?」
「それはもちろん。予定よりも前に帰ってきて、使節のラスコーに嫌われるようにしたんです」
「それはいけないわ、フランスの国益を優先させなければ」
「シャルル兄さんにもしものことが起こったとき、アランソン公かナヴァール王が王位につくのがフランスの国益になるんですかね」
「ナヴァール王なんてとんでもないわ」
「アランソン公も似たようなものですよ。ぼくのかわりに、弟のアランソンをポーランド王にすることはできませんか?」
「それはだめ! 絶対にだめ」
「かまいません。やってみてください。ぼくがコンデ公夫人に恋をして気が狂っているって王にいってみてください。兄さんは、ちょうどぼくが彼女の家から出てくるところを見ていたから、そう信じるでしょう」
「じゃあ、シャルルはあなたが使節のラスコーを訪ねたことを知らないの?」
「知りません」
「いいわ、シャルルに話してみましょう。でもあの人になにをいってもむだなのは、あなただってわかっているわね?」
「ああ、ありがとう、お母さん。感謝します」
「でも、戦場に送られて、死ぬことになるかもしれないわよ」
「そのほうがどれだけいいかわかりません。でも、シャルル兄さんは、ここにいることを許してはくれないでしょう。ぼくを嫌っていますから」
「あの子はあなたに嫉妬してるだけよ。これから、公開式典で読みあげる演説の手直しをするためにみんなここに集まることになっているから、そのときはポーランド王になったふりをしていなさい。わたしがなんとかしてやるから。ところで、昨日の待ち伏せはどうなったの?」
「失敗です。色男の奴、知らせを受けていたらしく、逃げだしてしまいました」
「いずれ、裏でだれが糸を引いているかわかるでしょう。まあ、だいたい、察しはついているけど。あなたのことは任せておきなさい」
カトリーヌ・ド・メディシスはそういうとアンジュー公にキスをして、いったん退出させた。
しばらくして、シャルル九世、アランソン公、マルゴ、それにアンジュー公が入ってきた。シャルル九世は上機嫌だった。マルゴが冷静に振る舞って恋人を逃がしたのが、逆に気にいったのだ。彼はラ・モールのことなど、もう気にしていなかった。待ち伏せは彼にとって狩りのようなものだったのだ。
いっぽう、アランソン公は不機嫌だった。ラ・モールがマルゴの恋人だとわかったときから、彼に強い憎悪を感じていたのだ。
マルゴはといえば、心では夢見ながら、目では警戒怠りなくあたりをうかがっていた。だれも昨日のことなどなかったような顔をしていた。
ポーランドの使節団は読み上げる予定の演説をあらかじめ送ってきていた。マルゴの演説草稿に対してシャルルはなにも文句はつけなかった。アランソン公については、語句の差しかえを命じた。アンジュー公の草稿に対しては、あらゆる箇所に文句をつけ書きかえを要求した。
全面的な書き直しを命じられたアンジュー公は憤然として部屋を出ていった。マルゴは、昨日からナヴァール王の顔を見ていなかったので、部屋に戻れば彼に会えるのではないかと期待して、同じく部屋を立ち去った。
アランソン公は、アンジュー公と母が目配せをしたのに気づき、その陰謀の意味について考えようと自室に戻った。
最後にシャルルが部屋を出ようとしたとき、カトリーヌ・ド・メディシスが彼を呼びとめた。
「なんですか? お母さん」
「公開式典はいつにします?」
「そうでしたね。いつがよろしいんですか?」
「ポーランドの人たちは国家の威信というものを外観で判断すると聞きましたから、軍隊のパレードが立派にできるように、ちゃんと人を集めてからでないと」
「そのことでしたら、もう準備できています。ノルマンディーから二連隊、ギィエンヌから一連隊、ブルターニュからは弓手部隊、トゥーレーヌ軽装騎兵も集められていますから、二千人はもう揃っています」
「まあ! でも、肝心のものが」
「肝心のものとは?」
「お金ですよ」
「その点ならご心配なく。四十万エキュがバスチーユにありますし、ルーヴルの地下には私のへそくりが八十万エキュありますから」
カトリーヌは身震いした。シャルルをただ乱暴で気の変な男だとばかり思っていたが、これほど目先の利く男だとは気づかなかったからだ。
「じゃあ、あとは、儀式に使う服とか宝石が揃えば、六週間もあれば、いいのね」
「とんでもない。そんなものは、もうアンジュー公が王に選ばれた日に準備を命じています。極端なことをいえば、今日だってかまわないんですが、まあそれじゃなんですから、三、四日後ということにしておきましょう」
「まあ、ずいぶん急いでいるのね」
「礼を失するわけにはいきませんからね」
「あなたは、ポーランド王の王座にフランス王子がすわるのを早く見たいわけね。なら、どの王子がすわってもいいの?」
「とんでもない。ポーランド人は勇敢な国民ですから、ジャルナックの英雄を選んだのは賢明な選択でした。お母さんは、だれをお望みなのですか? まさかアランソンを送れというんじゃないでしょうね。あの臆病者を! あんな奴、耳元で銃弾が唸るのを聞いただけで逃げ出してしまいますよ」
カトリーヌは身震いした。と同時に彼女の瞳に閃光が走った。
「いっそ、はっきりいったらどうなの」彼女は叫んだ。「アンジュー公アンリを遠ざけたいんだと! 弟が嫌いだと口に出していってみなさい!」
「ハッハッハ!」シャルル九世は狂ったように笑った。「いや、お母さんは勘がいい。弟を遠ざけたい? そのとおりですよ。弟が嫌いだって? いや、まさにご名答。どうして、わたしが弟を愛さなくちゃいけないんです? ハッハッハ、お母さんは、おかしくありませんか?(話すにつれて、彼の血の気のない頬に、熱でもあるように朱がさしてきた)あいつがわたしのことを愛していますか? それどころか、お母さん、あなたはわたしのことを愛しているんですか? わたしのことを愛してくれているのは、犬とマリー・トゥシェと乳母だけですよ。そう、いかにも、弟を愛してなんかいません。わたしはわたししか愛していない。聞いていますか? あいつだって同じようにすればいいんだ」
「陛下」今度は、カトリーヌが興奮しながら叫んだ。「陛下がお心をお明かしになった以上、わたしも考えていることを率直に申しましょう。あなたは弱い王です。だれの意見も聞き入れない専制君主です。王権の支えであり、もしものことがあったときに、どこからみても王位を継ぐにふさわしい弟を遠ざけるとは、王冠を捨てたも同然です。なぜといって、アランソンはたしかにあなたのいうとおり、若くて無能で弱い男、いや弱いどころか卑怯者です。そして、その後ろにはあのベアルヌ男がいる! それがあなたにはわからないの!」
「なんですって! とんでもない!」シャルル九世は大声を張り上げた。「わたしが死んでしまったら、あとはどうなろうと関係ない。ベアルヌ男がアランソンの後ろに控えているっていうんですか? けっこうなことじゃないですか。さっき、わたしはだれも愛していないっていいましたけれど、あれは間違いです。わたしはアンリオを愛しています。ああ、あのアンリオはいい男です。きさくで、手のひらだってあったかい! それにひきかえ、わたしのまわりにいるのは、虚ろな目つきの、冷たい手の連中ばかりじゃないですか。アンリオはわたしのことを裏切ったりはしない。それは誓ってもいい。それにアンリオには借りがある。彼の母上は、わたしの家族の者に毒殺されたって話じゃないですか。わたしはいまは元気です。でも、もしも病気になったら、アンリオを枕元に呼びます。彼にそばにいてもらいたい。彼に手を握ってもらう。そして……わたしが死んだら、彼に、フランスとナヴァールの王になってもらう。……弟たちは、わたしが死んだら、愉快そうに笑うだけでしょう。でも、アンリオは泣いてくれるでしょう。すくなくとも、泣くまねぐらいはしてくれるはずです」
たとえ雷がカトリーヌの足元に落ちたとしても、この言葉ほど彼女を驚かせはしなかっただろう。カトリーヌは呆然と立ち尽くしたまま、すさまじい目つきでシャルルを見つめていた。しばらくたってから、ようやく口を開いた。
「アンリ・ド・ナヴァール!」彼女は叫んだ。「アンリ・ド・ナヴァールが、わたしの子供たちを押しのけてフランス王に! おまえはなんということを! いまに見ていらっしゃい! わかったわ、わたしの息子を遠ざけるのはそのためなのね」
「あなたの息子……それじゃあ、いったいわたしはなんなんです? ローマ神話のロムルスみたいに狼の子供なんですか?」シャルルは怒りに体を震わせながらいった。目はまるで火がついたようにギラギラと光っていた。「あなたの息子! たしかにそのとおりでしょう。フランス王はあなたの息子じゃあない。フランス王には兄弟もいなければ、母もいない。フランス王には臣下しかいない。フランス王は感情をもつ必要がない。フランス王には意志があるだけだ。愛される必要はなく、従わせるだけだから」
「陛下。陛下はわたしの言葉を誤解しておられます。わたしは、わたしのもとを去っていく子供を息子と呼んだだけです。でも、いまは、前よりも、あの子を愛しています。あの子を亡くすのがいちばんこわいから。母親が子供に離れてもらいたくないと思うのが、罪なのでしょうか?」
「とにかく、わたしはアンジューがあなたのもとを離れることを命じます。フランスを去り、ポーランドに向かうよう命令します。しかも、それは二日以内です。あなたがもう一言なにかいったら、明日出発させます。あなたが頭を下げず、目から脅しの光を消さないのなら、今夜、わたしのこの手で弟を絞め殺してみせます。あなたが昨日、娘の愛人を絞め殺せと命じたように。昨日はしそんじましたが、今夜はやりそこないません」
この最初の脅しだけで、カトリーヌは頭を下げた。だがすぐに、ふたたび頭《こうべ》をもたげた。
「ああ、かわいそうなあの子! おまえの兄がおまえを殺そうとしているよ。でも、こわがらなくていい。お母さんが守ってやるから」
「なんと、わたしに逆らう気か!」シャルルは叫んだ。「ええい、こうなったら、今夜などとはいわない。後でなどともいわない。いますぐにだ。クソッ! 武器をもってこい、短剣かなにか……」
そういうと、シャルルはあたりを必死の形相で見回して、剣を探した。やがて、母親が腰に差している小さなナイフに目をとめると、飛びついて、銀を嵌め込んだヤギ革の鞘から一気にそれを抜き取った。そして、母親の寝室から飛び出すと、アンジュー公がいそうな小部屋を片端から激しくノックした。だが、控えの間まできたとき、あまりに興奮しすぎて、もともと結核で衰えていた体力が限界を超えてしまったのか、急に動きをとめた。伸びきった腕の先から、尖ったナイフがポトリと落ちた。ナイフは木の羽目板に突き刺さった。シャルルは悲痛な叫びを発すると、その場に崩れおち、床に横たわった。
同時に、おびただしい量の血が口と鼻からふきだした。
「助けてくれ! 殺される! 助けてくれ!」
シャルルを目で追っていたカトリーヌは、息子が床に崩れおちるのを見たが、しばらくは、無表情のまま、身動きもしなかった。やがて、母親の愛情からではなく、状況に困惑したため、ドアをあけて、廊下に叫んだ。
「王がご病気ですよ! 早く、助けを!」
この叫び声に、召使や、衛兵や、宮仕えたちが若い王のまわりに駆けつけた。だが、だれよりも早く一人の女が飛んできて、見物人をかきわけ、死体のように蒼ざめたシャルルを助け起こした。
「殺される! お乳母《かあ》さん、殺されるよ!」王は血と汗にまみれながらつぶやいた。
「殺されるって、だれに? シャルル!」乳母はまわりに並んだ一人一人の顔をじっと見つめた。その視線は、カトリーヌ・ド・メディシスでさえ、たじたじとなるほど鋭かった。「だれがいったい、あなたを殺すっていうの?」
シャルルは弱々しい吐息をもらすと、それきり気を失った。
さきほどから医者を呼びにやっていたが、ようやくアンブロワーズ・パレが到着した。
「ああ、これは重病だ」と、アンブロワーズ・パレがいった。
「こうなったら、いやが応でも」カトリーヌ・ド・メディシスは動揺ひとつ見せずに、つぶやいた。「公開式典は延期するしかないわね」
そして、王のもとを離れると、祈祷室で、この重要な会談の結果を心配しながら待っているアンジュー公のところに出かけた。
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第四十一章 占い
カトリーヌ・ド・メディシスが、アンジュー公に事件の顛末を知らせてから自室に戻ると、調香師のルネがきていた。
ルネはカトリーヌから呼び出されてやってきたのだった。
「モールヴェルに会ってきた? 話せるようになった?」
「いいえ、喉を掻き切られていますから」
「宇は書かせてみた?」
「やってみましたが、二字だけ書いて力つきました。これがその字です」
「MとOね。やっぱりラ・モールだわ。じゃあ、マルグリットのあの恋愛沙汰はカムフラージュだったのね?」
「お言葉ですが、ラ・モールの恋は真剣で、政治がらみのものではございません」
「そう思う?」
「はい。しかもその相手がナヴァール王妃でございますから、同時にナヴァール王に献身的に仕えるということはできぬはず。嫉妬のない愛はございませんから」
「あの男、おまえのところに出かけたの? 媚薬をもらいに?」
「媚薬ではなくて、蝋人形でございます」
「で、マルグリットはあらわれたの? カバラの呪文が効くとは不思議ね」
「その点は、陛下のほうがよくご存じのはず」
「マルグリットは本当にラ・モールを愛しているの?」
「それはもう、ご自分の名誉と命をかけてラ・モールをお救いになられたのですから。それはそうと、陛下はまだ、お疑いになられていらっしゃるようでございますが」
「なにを?」
「科学をでございます」
「それは科学に裏切られたからよ。わたしのいうことがわかるでしょう」
「わかりかねますが」
「あなたの香水は匂いが消えることがあるの?」
「いいえ、わたくしが調合した場合にはそのようなことはございません。ですが、他人の手が加わっております場合には、話は別でございます」
カトリーヌは微笑を浮かべた。
「あなたのリップ・クリームは素晴らしいわね。ソーヴ夫人の唇はあいかわらずみずみずしいもの」
「あれはわたくしのリップ・クリームではございません。奥様のご命令で、あれは六壜ともまだ店にございます。ただ、何者かが、一壜だけ盗んだようではございますが」
「わかったわ、ルネ。そのことはいずれまた話しましょう。ところで、ひとつ訊きたいのだけれど、人の寿命を計るにはどうすればいいの?」
「誕生日と、年齢と、生まれたときの星座、それにその人の血と髪の毛が必要でございます」
「それが全部そろえば、いつ死ぬかわかるのね?」
「数日の誤差は出ますが。生まれたのが昼か夜かはおわかりになりますね」
「晩の五時二十三分よ」
「それでは、あす、その時間に占いをいたしましょう」
「いいわ。じゃあ、わたしたち、その時間に行くから」
ルネはお辞儀して退出した。「わたしたち」というからには、カトリーヌ・ド・メディシス一人ではないらしい。
翌日、朝早く、彼女はシャルル九世の見舞いにでかけた。真夜中に、アンブロワーズ・パレが瀉血《しゃけつ》したという話だったが、そのせいか、シャルル九世は真っ青な顔を乳母の肩に埋めて眠っていた。
シャルルの唇の端から血にまみれた唾が泡になってあふれ出るたびに、乳母はハンカチでそれをぬぐってやっていた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、一瞬、枕元に置かれたその汚れたハンカチを持ち去ろうとしたが、唾液がまじっているのはよくないと思って考えなおした。そこで、乳母に瀉血した血はどこにあるかたずねた。カトリーヌ・ド・メディシスは、血で病状を判断することにかけては、当時の王族のすべてと同じように相当の知識をもっていたので、乳母はなんの疑いももたずに、場所を教えた。
カトリーヌは洗面器に溜まった血を小壜に掬《すく》いとると、ポケットにいれて持ち帰ろうとしたが、部屋を出ようとしたとき、急にシャルル九世が目をあけて、こう叫んだ。
「お母さん。あなたの最愛の息子、アンジュー公アンリに出発は明日だと伝えてください」
「いつでも、あなたのいいときにしますから、落ち着いて眠りなさい」カトリーヌは答えた。
シャルル九世はその言葉で納得したように目をとじたが、ドアのしまる音を聞くと、とつぜん、身を起こして叫んだ。
「おい、大法官、印璽をもってこい。宮廷全員を集めろ」
乳母は、子供でもあやすようにふたたび寝かしつけようとしたが、シャルル九世はまた叫んだ。
「寝ているわけにはいかないんだ。大法官を呼んでくれ。今朝は仕事をするから」
こうなっては、乳母も従うほかなかった。人が呼ばれ、公開式典は、さすがに翌日は無理ということで、五日後に決まった。
いっぽう、カトリーヌ・ド・メディシスとアンジュー公は時間どおりにルネの店にあらわれた。
右手の部屋には、熱したコンロの上で鋼鉄の刀が白熱していた。この上に血を注いで生じたアラベスク模様で運命を調べるのである。
アンジュー公が先に入ってきた。アンジュー公はかつらをかぶり仮面をつけ、大きなマントを羽織って変装していた。カトリーヌがあとからあらわれた。彼女は仮面をはずしたが、アンジュー公はそのままだった。
「昨日の晩、星の動きを調べたの?」
「はい、答はもう出ております。蟹座のもとに生まれた人の例にもれず、熱い心と比類なき誇りをもち、強い権力をもっています。四半世紀生きてきて、天から栄光と富をさずけられています。これでよろしゅうございますか」
「そんなところね」
「血と髪の毛はおもちで?」
「はい、これ」
そういうと、カトリーヌは魔術師に、薄いブロンドの髪の束と小壜に入った血を渡した。
ルネは壜をよく振ってから、白熱した刀の上に血をたらした。血液はしばらく沸騰していたが、やがて、幻想的な模様を描き出した。
「なんと、もがき苦しんでいるのが見えます。呻《うめ》いて、助けをもとめています。死の床のまわりでは、激しい戦いが演じられています」
「で、まだ長く生きるの?」カトリーヌは、好奇心から模様をのぞきこもうとしたアンジュー公を制していった。
ルネは用意した祭壇に近づき、カバラの呪文を唱えた。ついで立ち上がると、片手に四分の三ほど血の残った小壜を、もう一方の手に髪の束をつかんだ。そして、カトリーヌに本を渡し、実験が終わったら、どこでもいいから本を開いて、目にとまった最初の一節を読むように命じた。そして、刀の上に残りの血を垂らし、髪の毛を炭火の中に投げこんで、カバラの呪文を唱えた。
たちまち、刀の上に白衣に包まれた死者のような横顔があらわれた。もうひとつ、女のような顔が死者の上に身をかがめているのが見えた。
同時に、髪の毛が燃え上がり、焔を吹き上げた。それは赤い舌のように尖っていた。
「一年です」ルネは叫んだ。「一年足らずで、この男は死にます。女が一人、ベッドで泣いている。いや、刀の端に、子供を抱いたもう一人の女が見える」
カトリーヌはアンジュー公と顔を見合わせ、母親の本能からか、それがどんな女かをたずねた。
だが、すぐに、刀はまた銀色にもどり、すべての模様は消えていた。
そこでカトリーヌは、本を適当に開き、目の留まった箇所を読んだが、さすがの彼女も震えを隠すことはできなかった。
[#ここから1字下げ]
かくて、恐れられし男、みまかれり。
早く、あまりに早く。気遣いも空しく。
[#ここで字下げ終わり]
しばし、炭火のまわりを深い沈黙が覆った。
「それはそうと、例の男の今月の運勢はどうなの?」
「あいかわらず、素晴らしいものでございます。神が別の神と戦って運命を変えないかぎり、まちがいなく、未来は彼のものです。ただ……」
「ただ?」
「彼の七つ星のひとつが、黒い雲に覆われています」
「黒い雲? じゃあ、希望がもてるのね」
「だれの話をしているんです?」とアンジュー公がたずねた。
カトリーヌは息子を離れたところに連れていって小声で話をした。
いっぽう、ルネは、小壜の底に残った最後の血液を掌に垂らして、それを炭火の焔に照らして、眺めた。
「不思議なものだ。俗人の医者がこの血液を調べたら、長い命が保証されるほど健康だというだろう。だがこの活力が一年後にはすべて消え去ってしまうのだ!」
いつのまにやら、カトリーヌとアンジュー公が戻っていて、ルネの言葉を聞いていた。
アンジュー公の目が輝くのが、仮面越しに見えた。
「じゃあ、まちがいなく、一年以内に死ぬのね?」とカトリーヌはまた口を開いた。
「それはもう、ここにわたくしたち三人がいるのと同じぐらい確かでございます」
「でも、血は健康で、長い寿命を約束しているっていったでしょう?」
「はい、自然にことが運ぶなら。でもなにか事故が起こらないともかぎりません」
「まあ、いまのを聞いた?」とカトリーヌはアンジュー公にむかっていった。「事故ですって!」
「それじゃあ、よけいフランスに残ったほうがいい」
「だめよ、そのことはもう考えないで。それは不可能だから」
アンジュー公はルネのほうに振り向くと、財布を差し出した。
「ありがとう。これを取っておいてくれ」
二人は外に出た。
「ああ、お母さん。その事故が起きるとき、ぼくは四百リュー離れたところに行ってしまっているんですよ」
「四百リューなら一週間で帰ってこれるわ」
「でも、ポーランドの人たちがぼくを帰してくれるかどうか」
「そんなことだれにわかるの。いいから、わたしのいうことを聞きなさい。わたしは、これから、オーギュスタンの修道院に行かなくちゃいけないの。お付きのものが待っているから。あなたはすぐに戻りなさい。お兄さんを怒らせちゃだめよ」
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第四十二章 失踪の真相
アンジュー公がルーヴルに帰って最初に知らされたのは、ポーランド外交使節団の公開式典が五日後に決定したことだった。仕立て屋や宝石屋が、シャルル九世の注文した豪華な衣装をもってアンジュー公を待っていた。
アンジュー公は怒りで目に涙を浮かべながら、その式服を試着していたが、いっぽうアンリ・ド・ナヴァールは、その朝、シャルル九世から届けられたエメラルドの首飾りと金の柄の剣、それに高価な指輪を受け取って大喜びしていた。
アランソン公は手紙を受け取って、部屋に閉じこもって読んでいた。
ココナスは友の消息をたずねて、ルーヴル中を歩きまわっていた。『星空亭』やクロシュ=ペルセ街の隠れ家やサン=ミッシェル橋をたずねたあとルーヴルに戻ったが、ココナスのもののたずねかたは非常に風変わりだったので、すぐに決闘沙汰となり、相手の男の一人を切り殺し、二人に重傷を負わせていた。
だが、最後にようやく、ラ・モールが廊下で待ち伏せされた事実を突きとめた。ココナスはラ・モールが王と王子によって切り刻まれ、どこかの井戸にでも投げ込まれたものと思いこんだ。そして、それにアランソン公も加わっていたことを知ると、まるで相手がたんなる下級貴族ででもあるかのように説明を求めに公の居室にあらわれた。
アランソン公ははじめ、この無礼な部下を追い払ってしまおうと思ったが、ココナスの目の焔があまりに激しく燃えていたので、にこやかに笑って答えることにした。
「ココナス君、たしかに、王とアンジュー公とギーズ公がラ・モールを殺そうと待ち伏せしたのは事実だが、きみのその友人の友人の機転で、待ち伏せは失敗したよ」
「やった! よかった! で、その友人の友人というのはどなたです? 会って感謝の言葉をお伝えしたい」
アランソン公は答えず、その友人の友人は自分であるように思わせた。
「なるほど」とココナスは言葉を続けた。「殺されなかったことはわかりましたが、では、どこか、牢獄にでも放り込まれているってことでしょうか」
「困ったのは、きみの友人が逃げだして行方知れずだということさ。ナヴァール王妃に訊いてみたらいい、どこにいるか知っているかもしれない。わたしも知りたいから」
「それは、わたしも考えてみたのですが、もしラ・モールが死んでいたら、ナヴァール王妃がお悲しみになると思いまして。でも、ラ・モールが生きているとわかった以上、うかがいにいってまいります」
「では、わかったら教えてくれ、ただ、わたしから聞いたということは他言無用だぞ」
「わかりました、口がさけてもいいません」
マルゴはココナスを待っていた。ココナスの悲しみを伝え聞いていたからだ。ココナスはラ・モールがいなくなってから、ヌヴェール公爵夫人と喧嘩をして、ひどい言葉を浴びせたことがあったが、マルゴはそれも許す気になっていた。だから、頬笑みながら出迎え、ラ・モール脱出の様子を語って聞かせた。だが、ココナスに再三たずねられても、ラ・モールの居場所は教えなかった。マルゴはすぐに、ココナスがこれだけ居場所を知りたがるのはアランソン公の入れ知恵だと気づいたのだ。
「どうしても居場所を知りたいとおっしゃるのでしたら、ナヴァール王におたずねになってください。あの方だけが話す権利をもっています」
「わかりました。奥様の目に涙が流れていないことだけはよくわかりました」
ココナスは、ヌヴェール公爵夫人と仲直りするにはどうしたらいいか考えながら、部屋を辞去した。公爵夫人からなにか聞き出せるかと思ったからだ。
いっぽう、ラ・モールはといえば、脱出に同意したのは自分の命を救うよりも、マルゴの名誉を救うためだったから、次の日になると、すぐにパリに舞い戻り、バルコニーにあらわれるマルゴの姿を見ようとした。
マルゴのほうも、ある筋からひそかにこのことを知らされていたので、一晩中、窓から外を眺めていた。その結果、二人の恋人は、あの禁じられた恋のもたらすいわく言いがたい幸福感に浸りながらおたがいを見つめあった。しかし、ラ・モールにとっては、いかにその逢瀬《おうせ》が甘美でも、会えないときの辛さはまたひとしおだった。そこで、なんとかふたたびマルゴに会うために、ナヴァール王の脱出計画を進めようと考えた。
マルゴのほうもまた、これほど純粋な献身をもって愛されていることに深い満足を感じていた。夜九時になると、白いナイト・ガウンを着てバルコニーにあらわれ、河岸の暗闇の中に騎士の姿を見いだすと、恋人に、自分の声を思い出させるために、ひとつ大きく咳をしてみせるのだった。ときには、身につけた宝石を手紙にくるむと、思いきって騎士の足元に投げた。ラ・モールはそれを鷹のような素早さで拾うと、胸に抱きしめてから返事の手紙でくるんで投げ返した。マルゴは夜の闇の中に馬のひづめの音が消えてなくなるまで、バルコニーを離れなかった。
そんなわけで、マルゴはラ・モールのことはまったく心配していなかった。ただ、監視されている恐れがあったので、このスペイン風の逢いびき以外は、どうしても承知しようとしなかった。
ポーランドの外交使節団の歓迎式典の前日、マルゴがいつものように九時ごろバルコニーに立つと、マルゴの手紙を待つこともなく、ラ・モールのほうが先に手紙を投げてよこした。手紙の一枚目にはこう書いてあった。
「奥様、ナヴァール王に至急お伝えしなければならないことがございます。お待ちしております」
そして、二枚目にはこうあった。
「奥様、どうか、わたくしがお送り申しあげるこの接吻を本当の接吻に変えてくださいますようご返事、お待ちしております」
マルゴが二枚目の手紙を読みおえたとき、ナヴァール王の足音が聞こえた。彼女は、手紙を切り離し、一枚をコルセットの中に、もう一枚をポケットに入れ、急いで窓を閉めると、ドアのところに走っていった。
「どうぞ、お入りください」
マルゴが静かに窓をしめたにもかかわらず、アンリはそれを見逃さなかった。だが、彼は、妻が夕涼みをするのを禁じるほどの野暮ではなかった。
「宮廷の人たちが晴着の試着をしているあいだに、すこし、お話をしたいと思いまして。じつは、ここのところ、アランソン公がわたしを避けている様子なのです。一昨日は、サン=ジェルマンに一人で引きこもっていました。一人で脱出するつもりなのでしょうか」
「わたしも一日中それを考えていました。状況が変わったので、弟の考えも変わったのでしょう」
「わたしにとって、アランソン公が一緒にいてくれることがなによりも必要です。わたし一人で脱出するとなったら、三倍大変です。アランソン公の名前はわたしの企ての救いになります。ところで、奇妙なのは、ド・ムイ殿の動向がわからないことです。なにか、知らせでも?」
「なんで、わたしがそんなことを!」
「ラ・モールはマントゥに行ったはず、ならば、もう戻ってきてもいいころ」
「ああ、それで謎がとけました。さきほど、窓をあけていましたら、絨毯の上にこんな手紙が。最初は、なんのことかわからなかったんです」
「見せてください!」
「もちろんです」
「これはラ・モール殿の筆跡でしょうか?」
「わかりません、まねて書いたのかもしれません」
「とにかく、読んでみましょう。なるほど、『お待ちしております』と書いてある」
「どういうことですの?」
「彼をすぐによこしてください」
「こさせるですって? こんなに警戒が厳重なのに?」
「窓から逃げたなら、そこから戻ってくるほかはない」
「そんなことができるんでしょうか」マルゴはラ・モールに会えると思うと顔が赤らんだ。
「もちろんできます。わたしが送った縄ばしごをまだ取ってあるでしょう?」
「はい」
「それなら、完璧だ。はしごをバルコニーに結びつければいい。待っているのが、ラ・モールでも、ド・ムイでも、はしごをのぼってくるでしょう」
そういうと、アンリは、マルゴがはしごを探す手元を蝋燭で照らしてやった。はしごは例の小部屋にしまってあった。
「よし、これだ。では、これをバルコニーにくくりつけてください。わたしがやると怪しまれる」
マルゴは頬笑んで、はしごをバルコニーに結びつけた。
「今度はバルコニーに出て、はしごを見せるようにしてください。きっと、ド・ムイが上がってきますよ」
実際、十分後に、喜びに酔いしれた男がはしごをのぼってきた。だが、迎えに出たのはマルゴではなく、アンリだった。
「おや、ド・ムイではなく、ラ・モール殿だな。こんばんは、ラ・モール殿。どうぞお入りください」
ラ・モールはしばし呆然としたままだった。はしごにまだしがみついていたなら、後ろむきに落ちていたことだろう。
「ナヴァール王に緊急の用事ということなので」とマルゴは言った。「王を呼んできました」
アンリが窓をしめにいったすきに、マルゴはラ・モールの手を握り、「愛しているわ」とささやいた。
「さて、話を聞かせてください」とアンリはラ・モールに椅子を勧めながらいった。
「ド・ムイ殿は、モールヴェルが話したかどうかを知りたがっておられます」
「まだだが、もうじきでしょう。だから、急がねばなりません」
「ド・ムイ殿もそうお考えです。ですから、明日の晩、アランソン公が脱出に成功したら、サン=マルセル門で百五十人の兵士と合流します。陛下は、五百人の兵士とフォンテーヌブローで合流です。そうすれば、ブロワ、アングレーム、ボルドーはすぐに陥落です」
「いまの言葉、聞かれましたか? わたしの脱出は明日です。あなたも行かれますか」
ラ・モールの視線は不安げにマルゴの上にそそがれた。
「お約束どおり、あなたの行かれるところなら、どこにでもついていきます。でも、アランソンがわたしたちと一緒に脱出するようにしなければいけません。あの子には、裏切りか奉仕か、その中間がありません。だから、彼がためらったら、動いてはだめです」
「アランソン公はこの計画を知っているんですか?」とアンリはラ・モールにたずねた。
「ご存じのはずです。ド・ムイ殿から手紙が送られていますから」
「ああ、そうか、でもなにも話してはくれなかったな」
「気をつけてください」マルゴはいった。「心をゆるさないように」
「ご心配なく。ド・ムイにはどうやって返事をすればいいのでしょうか?」
「配慮は万全です」ラ・モールは答えた。「明日、公開式典のとき、たとえ姿は見えなくとも、彼はそこにいます。ですから、ナヴァール王妃の歓迎演説の中に、ド・ムイにわかるように、一言、計画は実行か中止か、彼は逃げるべきか待つべきか、それを教える言葉を挟んでください。もし、アランソン公が拒否されたら、陛下の名において、二週間ですべてを立て直します」
「歓迎演説に、そんな言葉を入れることができますか?」
「簡単ですわ」マルゴが答えた。
「それなら、明日、アランソン公に会ってきましょう。ド・ムイはたしかに、そこにいて、合図すればわかるんですね」
「たしかに、そこにいます」
「それでは、ド・ムイに返事をもっていってください。どこかに、馬と従僕を待たせているんでしょう」
「オルトンが河岸で待っています」
「では行きなさい。いや、窓からじゃありません。もし見られたら、だれも、わたしのためだなどとは思いません。王妃の身を危うくしますよ」
「でも、どこから」
「一人で入ってくることはできなくとも、出ていくことはできます、わたしと一緒なら。それに、オルトンにわたしから言いたいこともあります。すこし、ここで待っていてください。廊下に人がいないか見てきますから」
ラ・モールはマルゴと二人残された。
「いつまた、お会いできるんです?」
「脱出できたら、明日の晩、脱出しなかったら、そのうち、クロシュ=ペルセ街の家で」
「ラ・モール殿、早くいらっしゃい」アンリが戻ってきていった。「今ならだれもいないから」
ラ・モールはナヴァール王妃の前で深々とお辞儀をした。
「お手にキスさせてやってください」アンリはいった。「ラ・モール殿は普通の部下ではありませんから」
マルゴはいうとおりにした。
「ところで」とアンリはいった。「縄ばしごを丁寧にたたんでおいてください。これは、陰謀を企てる人間には貴重な道具です。ぜったい使うことがないと思っているときにかぎって使うものですから。さあ、ラ・モール殿、行きましょう」
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第四十三章 外交使節団
翌日、パリの民衆は、フォーブール・サン=タントワーヌ門へ見物に押し寄せた。その城門からポーランドの外交使節団が入場してくることになっているのだ。
スイス人傭兵が群衆の垣根となり、騎兵たちが、出迎えの宮廷の王族・貴族たちを保護していた。
まもなく、アベイ=サン=タントワーヌのあたりから、赤と黄色の軍服に毛皮のマントを羽織り、帽子をかぶった騎兵の一団があらわれた。
その後ろには、オリエント風の贅沢な衣装の一団が続いている。つぎに、四人からなる外交使節団があらわれた。彼らは十六世紀の騎馬民族でもいちばん神話的な王国を代表していた。
外交使節団の一人は、クラコーヴィ司教だった。彼は、なかば祭司職、なかば軍人というような恰好をしていたが、いたるところに金と宝石をちりばめていた。
司教の隣にいるのが、ラスコー選挙侯だった。彼は王冠にもっとも近い領主で、王に負けない財産と誇りをもっていた。
その後ろには、二人の外交使節とポーランド貴族が控えていたが、彼らの馬はどれも、絹や金や宝石をちりばめた馬具をつけ、民衆の喝采を浴びていた。これに比べると、彼らを野蛮人と軽蔑していたフランスの騎兵たちの恰好は、贅をつくしたつもりでも、はるかに見劣りした。
カトリーヌ・ド・メディシスは、最後の瞬間まで、式典が延期されることを願っていたが、予定の日がきて、幽霊のように蒼ざめたシャルル九世が王のマントに身をくるむのを見て、息子の鉄の意志に従うほかないことを知った。
シャルル九世はあの日の出来事以来、カトリーヌとほとんど口をきいてはいなかった。宮廷の人々は、原因はわからぬながら、二人の間になにかあったらしいと気づいていた。
そのため、式典の準備は祭のためというよりも、葬式のためのようで、みな、押し黙って仕事を続けていた。
宮殿の大広間はすっかり飾り付けがすんでいた。この種の式典は公開が原則なので、門衛たちは、外交団と一緒に民衆の入場も許していた。
パリの町はといえば、こうした式典のおこなわれる日の常として物見高い群衆であふれていたが、よく目を凝らしてみるならば、そのなかに、たっぷりとしたマントを着込んだ一団がいて、目で合図したり、小声でささやきかわしているのに気づいたはずである。彼らは、一人の立派な老人の指揮を受けている様子だったが、その老人の目は、白い顎ひげとごま塩まじりの眉の間で、年に似合わぬほど活発に動いていた。その老人はいつのまにかルーヴルの中に入り込み、偽装改宗したユグノーのスイス人番兵の手引によって、外交使節団の後ろの席に腰を下ろした。そこはマルゴとナヴァール王の真正面の席だった。
アンリはラ・モールから、ド・ムイが変装してあらわれると聞かされていたので、あちらこちらに目を走らせていたが、ようやく白ひげの老人と目が合った。だが、ド・ムイの変装があまりに巧みだったので、それがあの勇猛果敢なユグノーの大将だとはにわかに信じられなかった。
アンリがなにごとかマルゴの耳元でささやくと、マルゴの目はド・ムイの上にそそがれた。彼女はラ・モールを探したが、大広間には彼の姿は見えなかった。
式典が始まった。フランス王にあてた最初の演説はラスコーが読みあげた。ラスコーは、ポーランド議会の名において、ポーランドの王冠をフランス王室の王子に授けることへの同意を求めた。
シャルル九世は、これに短い簡潔な謝辞で答え、弟のアンジュー公を紹介した。ついで、彼の勇気をポーランドの使節団にむけて褒めたたえた。彼はフランス語で演説し、通訳が段落ごとにポーランド語に置き換えたが、通訳が話しているあいだ、シャルル九世はハンカチで口をぬぐっていた。そのたびにハンカチは血にそまっていた。
シャルル九世の答辞が終わると、ラスコーはアンジュー公に一礼し、ポーランド国民の名において彼に王冠を授ける旨をラテン語で演説した。
アンジュー公は同じくラテン語で、この名誉をありがたく頂戴すると答えたが、抑えようとしても声の震えがとまらなかった。アンジュー公が演説しているあいだ、シャルル九世は立ったまま唇をへの字に結んで、鷹のような目つきで、威すように、じっと弟を見つめていた。
アンジュー公の演説が終わると、ラスコーは赤いビロードのクッションの上に置いてあったヤゲロ王家の王冠を手に取った。その間に、二人の貴族がアンジュー公に王のマントを着せた。ラスコーは王冠をシャルル九世に渡した。
シャルル九世が合図すると、アンジュー公は彼の前にひざまずいた。シャルル九世はみずからの手で弟の頭に王冠を載せた。それから、二人の王は、かつて兄弟が交わしたうちでも、もっとも憎しみに満ちた接吻を交わした。
それと同時に、王の伝令使が叫んだ。
「アンジュー公、アレクサンドル=エドゥアール=アンリ・ド・フランスはたったいまポーランド王の王冠を授けられました。ポーランド王万歳!」
大広間に集まった全員が唱和した。
「ポーランド王万歳!」
つぎに、ラスコーはマルグリットのほうに振り向いた。美しい王妃の演説は最後に取っておかれていたのだ。マルゴがラテン語の演説を自分で書いたことはすでに見たとおりである。
ラスコーの演説は、演説というよりもマルゴに対する賛辞だった。彼は、まず、暗いうちにワルシャワを出たポーランドの使節団が、道に迷いそうになったが、夜空に輝く二つの星に導かれてフランスまでたどりつくことができたことを語り、最後に、いまや、その二つの星は、ナヴァール王妃の瞳であることに気づいたと結んだ。
この演説はラテン語を解する人たちの喝采を浴びた。
マルゴはまず、ラスコーの粋《いき》な演説に丁重な感謝の言葉を述べたあと、この外交官に答えるふりをしながら、ド・ムイの目を見つめて、こんなふうにラテン語で演説を始めた。
「この宮廷に思いがけず、あなたをお迎えできたことで、わたくしたち夫妻は喜びでいっぱいです。しかし、その結果、ひとつだけ大きな不幸がもたらされようとしています。それは一人の兄を失うばかりか、一人の友を失うことになるからです」
この言葉は二重の意味をもっていた。それはド・ムイにむかっていわれたものでありながら、アンジュー公に対する言葉と解することができた。だから、アンジュー公はマルゴにむかって感謝のしるしを見せるために会釈した。
シャルル九世は数日前に演説をチェックしたときにはこんな文句はなかったような気がしたが、たんなる儀礼の演説だと思って、たいして気にもとめなかった。それに、彼はあまりよくラテン語を知らなかった。
マルゴは先を続けた。
「わたくしたちは、あなたとお別れすることを非常に悲しんでおります。できるなら、あなたと一緒に旅立ちたいところです。しかし、あなたがすぐにパリを立ち去ることを望んだその同じ運命が、わたしたちをこの都につなぎとめるのです。かくなるうえは、いたしかたございません、親愛なる兄さん、どうか、お発ちください。親愛なる友よ、どうぞわたしたちなしでお発ちになってけっこうです。わたしたちの希望と願いはあなたのあとを追っていきますから」
容易に推測がつくように、ド・ムイは細心の注意をもってこれらの言葉を聞いていた。それは、外交使節団に向けられたものでありながら、ド・ムイ一人に発せられていたのである。アンリはアランソン公が脱出を拒否したことをこの若いユグノーに知らせるために、二、三度首を肩の上に傾けたが、この仕草は偶然にやったものとも取れたので、もしマルゴの言葉でそれを確認できなかったら、ド・ムイはおおいに迷っていたことだろう。ところで、ド・ムイは全身全霊をこめてマルゴを見つめ、話に耳を傾けていたので、そのごま塩まじりの眉の下の黒い目から放たれた光が、ふとした拍子にカトリーヌ・ド・メディシスの目をとらえてしまった。カトリーヌは、なにか電気ショックでも受けたかのようにゾクッと身震いした。そして、その老人から目が離せなくなった。
「変な顔の男がいるわ」とカトリーヌは、儀式の典令どおりの無表情な顔を装いながら、心の中でつぶやいた。「あんなに注意ぶかくマルグリットを見つめているあの男は、いったいだれなのかしら? マルグリットとアンリも男のほうを見ているわ」
そうしているあいだもナヴァール王妃は演説を続けていた。演説は、そのときからはポーランドの外交使節団の儀礼に答えるものになっていた。いっぽう、カトリーヌは必死になってその老人の名前を思い出そうとしていた。そのとき、式典長が後ろからカトリーヌに近づいて、香水を含ませたサテンの袋を手渡した。その袋の中には四つに折った紙が入っていた。カトリーヌは袋をあけ、紙を引き出して、ルネの筆跡になるつぎの言葉を読んだ。
「モールヴェルは、わたくしの与えた気つけ薬でようやく少し元気を取り戻しました。そして、ナヴァール王の部屋にいた男の名前を書きました。男の名前はド・ムイです」
「ド・ムイ! どうもそんな感じがしていたわ。でも、あの老人は……そうだ、あれは……」
カトリーヌは口をあけたまま、じっと目を凝らした。 それから、脇に控えていた衛兵隊長にそっと耳うちした。
「ナンセー、いいですか、気づかれないように、いま演説をしているラスコー殿を見なさい。その後ろに、ほらいるでしょう、白い顎ひげをはやして、黒いビロードの服を着た老人が……」
「はい、たしかに」隊長は答えた。
「じゃあ、あの男から目を離さないように」
「ナヴァール王が合図を送ったあの男ですね」
「そのとおり。ルーヴルの出口で十人の部下と見張っていなさい。男が出ようとしたら、王から夕食の招待があるといいなさい。もしついてきたなら、部屋につれこんで逮捕するように。抵抗したら、生死の別は問わないから、取り押さえなさい。さあ、すぐに行きなさい」
幸いなことに、アンリはマルゴの演説をほとんど聞いていなかったので、カトリーヌをずっと監視することができた。おかげで彼女の顔の表情をなにひとつ見逃さずにすんだ。彼はカトリーヌの視線がド・ムイの上に向けられているのに気づいて不安になった。やがて、彼女が衛兵隊長に指示を与えるのを見て、すべてを理解した。
アンリはすぐに「見つかったぞ。すぐに逃げろ」ということをジェスチャーで教えたが、そのジェスチャーをナンセーに見られてしまったのである。
ド・ムイはただちにそのジェスチャーの意味を理解した。それは、彼に向けて述べられたマルゴの演説の仕上げをするものだった。たちまちド・ムイは群衆にまぎれて姿を消した。
だが、アンリはナンセーがカトリーヌのところに戻ってくるまで安心できなかった。ナンセーが取り逃がしたと報告すると、カトリーヌは顔をしかめた。演説は終わっていた。マルゴはなお、二言三言、ラスコーと非公式の言葉を交わしていた。
シャルル九世はよろめきながら立ち上がると、一礼してから、アンブロワーズ・パレの肩に支えられて大広間から出ていった。アンブロワーズ・パレは事件以降、かたときも王のそばを離れなかった。
カトリーヌは怒りで蒼ざめていた、いっぽうアンジュー公は苦しさのあまり寡黙になって王のあとに続いた。
アランソン公はといえば、セレモニーのあいだ、彼の存在は完全にかすんでいた。アンジュー公からかたときも目を離さなかったシャルル九世も、アランソン公には一度たりとも目を向けなかった。
新しいポーランド王は迷子になったような気持ちだった。北国の野蛮人たちによって、母のもとから遠く引き離され、まるで、ヘラクレスの腕に抱えられて力を失ったガイアの息子アンタイオスのようだと感じていた。いったん国境を出てしまったら、フランスの王座からは永遠に排除されるだろう。
だから、王の後についていくかわりに、ポーランド王は母の部屋にひきこもった。
カトリーヌもまた息子と同じように暗い表情で、なにか考えに心を奪われていた。彼女はセレモニーのあいだじゅう、あのアンリの皮肉っぽい細面の顔からかたときも目を離さなかった。というのもカトリーヌは、運命が彼のまわりで、王も王子も暗殺者も敵も選択もなにもかも一掃してしまうように思われるあのナヴァール王のことを考えて、暗い物思いにふけっていたからだ。
カトリーヌは、最愛の息子が王冠の下で蒼ざめ、王のマントをかぶって打ちひしがれ、一言も口をきかずに、哀願するように母親譲りの美しい両手を合わせているのを見ると、立ち上がって、話しかけた。
「ああ、お母さん」ポーランド王は叫んだ。「とうとうぼくは、流刑先で死ぬことになってしまいました」
「ルネの予言をそんなに早く忘れてはいけません。落ち着きなさい。それほど長くいることはないと思いますよ」
「お母さん、フランスの王座が空席になりそうな気配が出てきたら、どんな噂でも、どんな流言でもいいから教えてください」
「落ち着きなさい」カトリーヌはいった。「わたしの厩《うまや》には鞍をつけた馬がいるし、次の間には飛脚がいつでもポーランドに向けて旅立てるように控えています。だから、その日まで二人で待ちましょう」
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第四十四章 オレステスとピュラデス
アンジュー公が出発して以来、ルーヴルには平和が戻ってきたようだった。
シャルル九世は憂鬱を忘れ、健康を取り戻した。毎日のようにナヴァール王と狩りに出かけ、狩りのできない日は、狩りの話にうち興じた。
カトリーヌ・ド・メディシスも優しい母に変身し、ヌヴェール夫人やソーヴ夫人にも愛想よく振る舞った。
マルゴはあいかわらず、バルコニーから投げキスをおくるスペイン風の恋愛を続けていた。
ただ一人、このルーヴルで鬱々として楽しまないでいる男がいた。ココナスだった。
ラ・モールが生きていることはわかったし、ヌヴェール夫人とマルゴがいろいろと気をつかってくれてはいたが、友と『星空亭』でワインを飲みながら語りあかしたり、パリの歓楽街を一緒に歩き回った日々の楽しさを忘れることはできなかった。
ヌヴェール夫人は、ラ・モールに対するココナスのこの友情の発露をつらい思いで耐えていた。といっても、ヌヴェール夫人がラ・モールを嫌っていたわけではない。むしろその反対である。コケットな女性の常としてヌヴェール夫人は、友達の恋人に強い関心をもち、ラ・モールの瞳の輝きに惹かれるものを感じたが、ココナスは、いくら彼女がラ・モールと親しくしていても、いささかの嫉妬心も覚えなかった。それどころか、ヌヴェール夫人がラ・モールに気のあるようなそぶりを見せると、友を赤面させるような申し出をしたほどだった。
ラ・モールがいないために、本来ならココナスと一緒にいることで味わえる楽しさを奪われたと感じたヌヴェール夫人は、ある日マルゴを訪れ、なんとか、ラ・モールを呼び寄せることはできないかとたずねた。
マルゴのほうでも、ラ・モールから逢いびきをせがまれ、また自分でも心の疼《うず》きを感じていたところだったので、例の出口の二つある隠れ家で次の日に会うことを約束した。
ココナスは、ティゾン街の家に九時半に来るようにという書きつけを受け取ったが、あまり気乗りがしなかった。約束の場所に行くともうヌヴェール夫人が待っていた。ヌヴェール夫人が遅れてきたことを責めるので、ココナスはルーヴルを九時には出たが、途中で悶着があって遅れたと言い訳をした。じつは、ココナスはグルネル街の角でラ・モールによく似た男を見かけ、声をかけたのだが、それが別人とわかって「なんだ、ラ・モールかと思ったら、ただのごろつきか」と思わず口走ったことから、とんだ刃傷沙汰となり、約束の時間に遅れたのだった。
ヌヴェール夫人は例によって、ココナスがラ・モールのことばかり考えていることをなじり、「わたしより、ラ・モールのほうがいいとはっきりいいなさい」と迫った。
これに対してココナスが、きみのことはどんな女よりも愛している。ラ・モールはどんな男よりも好きだ」と答えたとき、とつぜん、「うまく答えたな」という声がして、ドア・カーテンの下からラ・モールがあらわれた。
「ラ・モール!」ココナスはそう叫ぶとラ・モールにとびつき、友をひしと抱きしめた。
ココナスがいっこうにラ・モールを離そうとしないので、ヌヴェール夫人とマルゴは、しばらく二人の友を放っておいて、夕食の準備のできている隣の部屋で待つことにした。
ココナスはまず、あの待ち伏せの夜のことを知りたがった。だが、ラ・モールを救ったものとばかり思っていたアランソン公が、じつは腰紐を握ってラ・モールの首を絞める役を演じていたと教えられると、にわかに逆上して、もうあんな奴に仕えることはできないと言い放った。ラ・モールがいくら翻意をうながしても無駄だった。ラ・モールが、それならせめて辞職を願い出ろといったが、手紙ですませると言い張って、こんな傑作な辞職の手紙を書いた。
[#ここから1字下げ]
拝啓 陛下は、古典作家についてはお詳しいことと存じますので、よもや、オレステスとピュラデスの感動的な話をご存じないはずはございますまい。不幸と友情で有名なあの二人の主人公の物語のことです。わたしの友人のラ・モールはオレステスに負けぬぐらい不幸で、わたしはピュラデスと同じぐらい友情に篤《あつ》い男です。ラ・モールは現在、わたしの助けを借りねばならない重大な仕事に取り組んでいます。ですから、わたしが彼と離れることは不可能です。したがいまして、わたしは、陛下の同意を得ることなく、暇《いとま》を取らせていただくことにいたしました。わたしは彼と一心同体ですので、彼の運命が命じるところなら、どんなところにでも行く決心をしております。陛下には、陛下への勤めからわたしを引き離した激しさがいかばかりのものであったかを、一言申しあげておきたいと思います。この激しさゆえに、わたしは陛下のお許しを得なかったことをいささかも後悔はしておりません。以上、謹《つつし》んで、陛下に申しあげます。 敬具
卑賎にして柔順なるココナス伯爵
アニバル
ラ・モールの刎頸の友
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を書きあげると、ココナスはラ・モールに読んで聞かせた。ラ・モールはいった。
「アランソン公はぼくらを嘲り笑うよ」
「それでも、別々に首を絞められるよりはましだ」
「きっと、その両方だ」ラ・モールは笑いながら答えた。
二人は、『星空亭』に宿をとることにした。
そのとき、ドア・カーテンがあいて、二人の奥方が同時にたずねた。
「オレステスとピュラデスはどこにいるの?」
「オレステスとピュラデスは、空腹と愛で死にそうだ」とココナスが答えた。
翌朝、九時に『星空亭』のラ・ユリエールおやじがココナスの手紙をルーヴルに届けた。
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第四十五章 オルトン
アランソン公が脱出計画を取りやめたあとも、アンリは以前と同じように彼の友であるふりをしつづけた。
カトリーヌはこの二人の王子の友情に陰謀の匂いを嗅ぎつけた。そこでマルゴを問いつめたが、マルゴはどの質問にも巧みに答えたので、カトリーヌは結局なにひとつ手がかりを得ることができなかった。
ただ、ナヴァール王の党派の一部がアランソン公と同盟を結ぼうとしていることだけはわかったので、カトリーヌはこの同盟を断ち切ってやろうと思った。そこで魚が餌にかかるのを待つ漁師の忍耐づよさでこの末息子を取りこむことにした。
アランソン公はこの変化に気づいて、母親のほうに一歩歩みよった。
いっぽう、アンリはなにひとつ気づかぬそぶりを見せながら、この同盟者をいっそう注意ぶかく観察した。
だれもが、なにか事件が起きるのを待っていた。
そんなある日の、よく晴れた朝、兵器庫《アルスナル》の後ろの小さな家から出てきた青白い顔の男が、杖をつきながら、苦しげに歩いていた。男はバスチーユ牢獄の堀を迂回《うかい》してアルバレット公園に入っていった。もし公園に散歩者がいたとしたら、かなりの興味をもってこの男を観察できたことだろう。というのも、その歩き方は、苦痛によって緩やかになってはいるが、あきらかに軍人のそれで、男がごく最近の戦いで負傷したことを物語っていたからである。
だが、驚いたことに、この予後の病人らしい男がマントをめくると、腰のベルトには、二挺のピストルのほかに長短の二本の剣が下がっていた。男は公園の中でも一歩歩くごとに、探るような視線を四方に投げかけていた。
男は公園の中のあずまやのベンチに腰を下ろすと、給仕にリキュールを注文し、グラスが運ばれてくると中に入った液体をちびりちびりと口に運びながら、バスチーユ牢獄のほうに目をやっていた。読者もすでにお気づきのように、この青白い顔の男はモールヴェルだった。
と、そのとき男の顔つきが急に変わり、なにやら恐ろしげな表情が浮かんだ。クロワ=フォバンの方角から、大きなマントに身をくるんだ男が馬に乗ってこちらにくるのが目に入ったからだ。
馬に乗った男は、堡塁《ほうるい》の近くでとまり、だれかを待っている様子だった。すると小姓のような若い男が、いまではフォセ=サン=ニコラ街になっている通りからあらわれた。
モールヴェルはあずまやの樹木のかげに隠れていたので二人の会話を盗み聞きすることができた。二人の男はド・ムイとオルトンだった。
「いいか」とド・ムイがいうのが聞こえた。「ソーヴ夫人の部屋に行って、夫人がいたら、この手紙を直接渡せ。いなかったら、鏡の後ろに置いて帰れ。王はいつもそこに手紙を置くことになっている。それから、ルーヴルの中で待機していろ。返事を受け取ったときには、いつもの場所にもってこい。返事がなかったら、今晩、指示した場所にこい」
「わかりました」オルトンが答えた。
「いいか、急ぐなよ、殿がルーヴルに戻る前に行く必要はないぞ。今朝は、鷹狩りをなさっているはずだからな。それからソーヴ夫人にはお礼を申しあげておけ、看病していただいたんだからな。さあ、行ってこい」
モールヴェルは髪を逆立て、額に汗を浮かべながら聞いていた。最初、モールヴェルはピストルでド・ムイに狙いをつけたが、ド・ムイが体を動かしたとき、鎖かたびらを着ているのが見えたのでピストルをもとに戻した。それに、いまの彼とド・ムイでは勝負にならないことはあきらかだった。モールヴェルは絶好の機会を見逃したことに地団駄踏んだ。だが、そのときふと、さっき話に出ていた手紙はド・ムイの命よりも大切なものにちがいないと思い直した。
「よし、今朝は逃がしてやろう。だが、明日は、おまえを地獄の果てまで追っていくぞ」
そうモールヴェルがつぶやいたとき、ド・ムイは彼の目の前でマントの襟をあわせてから、マレ・デュ・タンプルの方角に消えていった。いっぽうオルトンはセーヌに通ずる堀を戻っていった。
モールヴェルはスリゼー街の自宅に取って返すと、馬に鞍をつけ、すぐにルーヴルに駆けつけた。
モールヴェルがルーヴルの入口に入ったその五分後には、カトリーヌ・ド・メディシスはすべてを掌握していた。モールヴェルはナヴァール王の逮捕のときにもらいそこねた千エキュを母后から受け取った。
「ああ、やっぱり」とカトリーヌはつぶやいた。「思ったとおりだったわ。あの忌まわしいベアルヌ男の占いの中にルネが見つけた黒い雲はド・ムイのことだったんだ」
モールヴェルから十五分後、今度はオルトンが、ド・ムイの忠告どおりわざと人の目につくようにして、ルーヴルに入った。オルトンは宮殿の同僚に何度か話しかけたあと、ソーヴ夫人の部屋に入った。
部屋にはダリオールしかいなかった。ソーヴ夫人は、カトリーヌに重要な手紙の複写を頼まれたとかで、五分ほど前からカトリーヌの部屋に行っていた。
「わかりました。お待ちします」とオルトンはいった。
そして、若者は、その居室のことはよく知っていたので、ソーヴ夫人の寝室に入り、だれもいないのを確かめると、鏡の後ろに手紙を隠した。
彼が鏡から手を離そうとしていたとき、カトリーヌ・ド・メディシスが部屋に入ってきた。
オルトンは蒼白になった。というのも、カトリーヌは鋭い視線をすばやく鏡の上に投げたからである。
「そこでなにをしているの?」カトリーヌはたずねた。「ソーヴ夫人を探しているんじゃないの?」
「はい、奥様。ここのところしばらくお目にかかっておりませんので、お礼が遅れたら、恩知らずと思われるといけませんので」
「じゃあ、あのシャルロットが好きなのね?」
「はい、それは。心の底からお慕い申しております」
「それに、噂だと、彼女のいうことはなんでも聞くそうね」
「ソーヴ夫人には、わたしのような一介の召使には身分不相応と思われるほど手厚い看護をしていただきましたものですから、それも当然でございます」
「その看護というのはなんのことなの?」カトリーヌはこの若者に起こった事件のことなど知らぬふりをしてたずねた。
「わたしが負傷したときのことでございます」
「あら、かわいそうに、あなた怪我をしたの?」
「はい、奥様」
「それはいつのこと?」
「ナヴァール王が逮捕されそうになった晩のことでございます。兵士を見て、こわくなったので助けをもとめましたところ、そのうちの一人がわたしの頭をなぐりつけましたので、気絶してしまったのです」
「かわいそうに! で、いまはもう元気になったの?」
「はい、おかげさまで」
「なら、ナヴァール王のところに行って、もう一度雇ってもらうようにいったらいいじゃないの?」
「とんでもございません。ナヴァール王は、わたしが母后陛下のご命令に従わなかったのを知ると、薄情にもわたしを首になされたのでございます」
「本当?」カトリーヌはいかにも興味を引かれたというような抑揚をつけて叫んだ。「じゃ、その件は、わたしに任せておきなさい。でも、ソーヴ夫人を待っているなら、無駄ですよ。ソーヴ夫人は、この部屋の真上のわたしの小部屋で仕事をしていますから」
そういうと、カトリーヌは、オルトンがまだ手紙を鏡の後ろに置くだけの時間がなかったのではないかと思ったので、ソーヴ夫人の小部屋に入るふりをして、若者が自由に振る舞えるようにしてやった。
オルトンはといえば、カトリーヌ・ド・メディシスがさきほど思いもかけぬときに入ってきたので、きっと裏に、なにか陰謀が隠されているにちがいないと感づいていた。ちょうどそのとき、天井を三度軽くたたく音が聞こえた。それはナヴァール王がソーヴ夫人の部屋にいて、オルトンが見張りにたっているとき危険を知らせるために用いる合図だった。
この合図でオルトンは震えあがった。なにかよくわからぬが、ひらめくものがあった。警告は自分に向けて発せられているのだ。彼は鏡のところへ走っていって、隠した手紙を取り戻した。
カトリーヌはつづれ織りのドア・カーテンの隙間から、若者の動作をすべて監視していた。ただ彼が鏡のところに飛んでいったまではわかったが、そこに手紙を隠したのか、引き抜いたのかはわからなかった。
「よし、それなら、あの子供をすぐにでも部屋から出してしまおう」と一刻も早くそれを知りたくなったカトリーヌはつぶやいた。
そこで、彼女はにこにこしながら部屋に戻るといった。
「あら、まだいたの? なにかほかに用事でもあるの? さっき、ソーヴ夫人に仕事を手伝ってもらっているっていったでしょ。わたしの言葉に嘘はないわよ」
「まことに失礼いたしました」オルトンは答えた。
そして、オルトンはカトリーヌに近づくと、ひざまずいてドレスの裾にキスをし、急ぎ足で出ていった。
退出するとき、控えの間で衛兵隊長のナンセーがカトリーヌを待っているのが目に入った。ナンセーの存在は彼の疑惑を強めこそすれ、消すことはなかった。
いっぽう、カトリーヌ・ド・メディシスはつづれ織りのドア・カーテンが降りるやいなや、鏡のところに走っていった。だが、彼女が震える手を鏡の後ろに差し込んでも、そこには、手紙などなにもなかった。
だが、あの小姓が鏡に近づくところは確かに見たのだ。とするなら、手紙を置いたのではなく、取り戻したのだ。運命が、彼女の敵たちに、自分に負けない力を与えている。あんな子供が、自分を敵にしたとたん、立派な男になっている。
カトリーヌは部屋の中を動きまわり、あたりを見回し、いたるところ捜しまわった。
「ああ、なんという悪党!」彼女は叫んだ。「わたしは、あの子になにひとつ悪いことをしていないのに。手紙を取り戻して、運命の先を越そうとしている。ナンセー! 早く!」
カトリーヌの震えた声は居間を通り越して、衛兵隊長のいる控えの間まで届いた。
ナンセーがすぐ駆けつけた。
「お呼びでございましょうか」
「控えの間にいたの?」
「さようでございます」
「じゃあ、若い男が、じゃなくて子供が出てゆくのを見たでしょう?」
「たった今でございます」
「まだ遠くに行っていないわね」
「階段の途中だと思います」
「じゃあ、呼びもどして」
「なんという名でございましょう?」
「オルトンよ。もし拒んだら、力ずくでも連れもどしなさい。ただ、おとなしくしているなら、こわがらせてはだめよ。いますぐ話をしたいから」
衛兵隊長は飛び出していった。
思ったとおり、オルトンは階段のなかばまでしか行っていなかった。というのも、階段か廊下でナヴァール王かソーヴ夫人に会えるのではないかと思ってゆっくり歩いていたからだ。
ナンセーが呼ぶのを聞いて、オルトンは身震いした。
一瞬、彼は逃げようと思った。だが、年齢に似合わぬ判断力で、逃げたらすべておしまいだということに気づいた。
そこで、彼は立ちどまることにした。
「どなたですか?」
「わたしだ、ナンセーだ」衛兵隊長が階段を駆けおりながらいった。
「急ぎの用事があるんですけど」オルトンは答えた。
「カトリーヌ母后がお呼びだ」ナンセーはオルトンのそばにきていった。
少年は額の汗を拭いながら、もう一度階段をのぼった。
最初、カトリーヌ・ド・メディシスの頭に浮かんだのは、その若者を逮捕し、身体検査をして手紙を取り上げることだった。そのために泥棒の罪を着せることを考え、着ていたドレスからダイヤのブローチをはずし、それを少年が掠め取ったことにしようと思っていた。だが、もう一度考えてみて、この方法は少年の警戒心を呼び起こし、その結果、ナヴァール王に警告を発することになりはしないかと恐れた。というのも、そうなったらナヴァール王はボロを出したりしなくなるにちがいないからだ。
あるいは、若者をどこかの地下牢に閉じ込めてしまうこともできなくはない。だが、逮捕はどう秘密裡に運んでも、その噂はたちまちルーヴル中に広まるだろう。オルトンが逮捕されたというだけでアンリがガードを固めるのは目に見えている。
とはいえ、カトリーヌはどうしても手紙を手に入れたかった。というのも、ド・ムイからナヴァール王にあてたあの手紙は、あれだけの警戒を重ねたうえで託されたのだから、きっと陰謀の全貌について教えてくれるにちがいないと思ったからだ。
カトリーヌはブローチをまた付けなおした。
「だめだめ、こんな考えは乱暴すぎる」カトリーヌはつぶやいた。「でも、あの手紙のためなら……どんな手段をとってもかまいはしない」彼女は眉をひそめ、自分でも自分の声が聞き取れないほどの低い声で続けた。「そうだ、これはわたしの責任じゃない。あの子が悪いんだ。どうして、あの子供は、置くべきところに手紙を置かなかったんだ。わたしに必要なあの手紙を」
そのときオルトンが入ってきた。
おそらく、カトリーヌ・ド・メディシスの顔はすさまじい形相を呈していたのだろう。というのも、若者はドアのところで蒼白になって立ちどまったからだ。彼はまだ、自分の感情をコントロールできるほど年を取ってはいなかったのだ。
「奥様、お呼びでしょうか?」オルトンはいった。「なにか、わたしにお役にたてることでも?」
カトリーヌの顔は、太陽に照らし出されたかのように急に輝いた。
「あなたを呼んだのは、あなたの顔が気にいったからなの。さっき、あなたの仕事のことを考えておくっていったから、さっそく、その約束を実行してやろうと思ってね。みんなが、わたしたち女王のことを忘れっぽいって責めるけど、忘れっぽいのは、わたしたちの心じゃなくて頭なのよ。頭が事件でいっぱいになっているうちに忘れてしまうの。ところで、わたしはいま、臣下の出世は王様しだいだってことを思い出したから、あなたを呼びもどしたの。いらっしゃい、わたしについていらっしゃい」
ナンセーは二人のやりとりを額面どおりに受け取ってしまったので、カトリーヌの優しさを見て驚いた。
「あなた、馬に乗れるの?」カトリーヌはたずねた。
「はい、もちろん」
「なら、わたしの仕事部屋にきてちょうだい。サン=ジェルマンまで届けてもらいたい手紙があるから」
「かしこまりました」
「ナンセー、馬の用意をしてやって」
ナンセーは出ていった。「さあ、行きましょう」カトリーヌはいった。
そして、先に立って歩いていった。オルトンはそれに従った。
カトリーヌは一階下に降りた。それから、シャルル九世とアランソン公の居室に通じる廊下に足を踏みいれた。つぎに回り階段を降りて、もう一階下に降りた。ドアをあけると回廊があらわれた。そこの鍵をもっているのは王とカトリーヌだけだった。カトリーヌはオルトンを最初に入らせ、つづいて自分も入ってドアをしめた。この回廊は王の部屋と母后の居室の一部分を城壁のように囲んでいた。それは、ローマのサンタンジェロ城の回廊やフィレンツェのピッティ宮殿のそれに似て、もしものときの避難所になるようになっていた。
ドアをしめると、薄暗い回廊の中で、若者とカトリーヌは二人きりになった。二人の距離は二十歩ほどだった。カトリーヌが先に立って歩き、オルトンはそのあとに続いていた。
とつぜん、カトリーヌは振り向いた。オルトンは十分前に見たあの陰険な表情がカトリーヌの顔に浮かんでいるのに気づいた。猫か豹のような丸い目から、焔が暗闇に放たれているようだった。
「止まりなさい!」彼女はいった。
オルトンは肩に震えが走るのを感じた。まるで、氷のマントのような死の冷たさが丸天井から降りてきていた。羽目板の床も、墓の蓋のように陰気だった。カトリーヌの視線はするどく、若者の胸にぐさりと突き刺さった。
オルトンは震えながら、後ずさりして壁に身を寄せた。
「ナヴァール王に渡すようにいわれた手紙はどこにあるの?」
「手紙?」オルトンはどもりながらいった。
「そうよ、留守だったので、鏡の後ろに入れようとしたでしょう」
「わたしがですか?」オルトンはしらばっくれた。「お言葉の意味がわかりませんが」
「ド・ムイが、一時間前にアルバレット公園であなたに渡したあの手紙よ」
「手紙などもってはおりません。なにか、お間違えではございませんか」
「嘘よ。さあ、手紙を渡しなさい。約束は果たしてやるから」
「どんな約束でございましょうか」
「お金持ちにしてやるわ」
「そうおっしゃられても、手紙などもってはおりません」
カトリーヌはギシギシと歯ぎしりをはじめ、やがてそれは微笑となった。
「さあ、いい子だから、渡してちょうだい。千エキュあげるから」
「無理です。もっていないものは、お渡しできません」
「千エキュよ、オルトン」
オルトンは、カトリーヌの額に、怒りがまるで上げ潮のようにのぼってくるのを見て、ナヴァール王を救う方法は、手紙を飲み込んでしまうほかないと思った。そして、ポケットに手を伸ばしたが、カトリーヌはすぐに彼の意図を見抜いて、手をつかんだ。
「おや、まあ、ずいぶんと忠義者なのね」カトリーヌは笑いながらいった。「王が家来の心をつなぎとめようと思ったなら、その家来が忠義者かどうか確かめるのに苦労はいらないわ。これで、あなたをどうすればいいか、わかったわ。さあ、この財布を最初の報酬として受け取りなさい。それから、この手紙をナヴァール王のところにもっていって、今日から自分は、わたしに仕えることになったといいなさい。さあ、さあ、わたしたちが入ってきたドアから一人で出ていきなさい。ドアは内側に開くから」
カトリーヌは、呆然としている若者の手に財布を握らせ、何歩か前に進ませ、自分は壁に手を置いた。
とつぜん、若者は立ちどまり、ためらいを見せた。ついいましがたまで頭上に覆いかぶさっていた危険が急に遠ざかったとは信じられなかったのだ。
「さあさあ、震えていないで、さっきからいっているでしょう、いつでも自由に出ていっていいんだって。もし戻ってきたら、お金持ちにしてあげるから」
「ありがとうございます」オルトンはいった。「許していただけるんでしょうか?」
「それだけじゃあないわ。褒美もあげるから。あなたは、ラブ・レターの優しいポーターで、愛のメッセンジャー・ボーイね。ただ、あなたはご主人が待っているのを忘れているわ」
「あっ、そうでした」若者はドアのほうへ駆け出した。
だが、三歩も進まぬうちに足の下で床が抜けた。オルトンはよろめき、手をばたばたさせ、恐ろしい叫び声をあげながら、ルーヴルの地下牢の中へと落ちていった。カトリーヌがいまその落とし穴のボタンを押したのだ。
「まったく、なんて頑固な子供なんだろう」カトリーヌはつぶやいた。「おかげで、百五十段も階段を降りていかなきゃならない」
カトリーヌは自室に戻り、ランタンに灯をともすと、ふたたび廊下に出て、落とし穴をもとに戻し大地の奥底にまで通じているような螺旋《らせん》階段のドアをあけた。そして、彼女の憎しみの手先である癒しがたい好奇心につき動かされるように、地下牢に通じる鉄の扉に走っていった。
地下牢には、百ピエの距離から落下して圧し潰され、こなごなに骨を砕かれて、血まみれになった哀れなオルトンが、それでもまだかすかに呼吸しながら横たわっていた。
厚い壁の後ろでは、セーヌの水が流れる音が聞こえている。地下水脈が階段の下まで通じているのだ。
カトリーヌは湿って悪臭の漂う地下牢に足を踏みいれた。この地下牢は、それが作られてからこれまで、いま見たのと同じような数多くの落下に立ち会ってきたにちがいない。カトリーヌはオルトンの体をまさぐり、手紙をつかむと、それがまさに手に入れようとしていた手紙であることを確認してから、足で死体を押し、もう一度、落とし穴のボタンに親指をのせた。すると床が大きく揺らぎ、死体はみずからの重さに運ばれるように斜面を滑りおちて、川のほうへと姿を消した。
カトリーヌ・ド・メディシスはふたたび扉をしめ、階段をのぼると仕事部屋にとじこもり、手紙を読んだ。その文面は次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
今夜十時、アルブル=セック街の『星空亭』にてお待ちしております。来られる場合、返事は無用。来られぬときは、伝令にその旨お伝えください。
ド・ムイ・ド・サン=ファール
[#ここで字下げ終わり]
手紙を読みながら、カトリーヌは唇に微笑を浮かべた。彼女はやがて手に入れる勝利のことだけを考えていたが、その代償として支払ったもののことは完全に忘れていた。
だが、オルトンとはいったいなんなのか? 忠実な心、献身的な魂、若く美しい少年、ただそれだけではないか。そんなものは、王国や帝国の運命を司《つかさど》るこの冷たい量りの台皿を一瞬たりとも傾けることはなかった。
手紙を読み終えると、カトリーヌはすぐにソーヴ夫人の居室にいってそれを鏡の後ろに隠した。
「陛下のご命令どおり、馬の支度ができました」ナンセーがいった。
「ありがとう。でも、もう馬は必要なくなったわ。あの子とすこし話をしてみたら、あんまり馬鹿なので、仕事を頼むわけにはいかないって気づいたの。従僕ぐらいにはなると思ったけれど、せいぜい馬丁ぐらいにしかならないわ。だから、お金をやって、通用門から返したのよ」
「ですが、伝令は?」ナンセーがたずねた。
「伝令?」
「はい、あの子供をサン=ジェルマンまでつかわすはずでしたが。わたしがまいるか、部下の者をつかわせましょうか?」
「いいえ、その必要はないわ。あなたたちには今夜やってもらう別の仕事があるから」
そういうと、カトリーヌは自室に戻った。今夜こそ、あの忌まわしいナヴァール王の運命をこの手でしっかりとつかまえてやる。
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第四十六章 『星空亭』
事件のあった二時間後、ソーヴ夫人は仕事を終え自室に戻った。すぐに、アンリがやってきた。ダリオールからオルトンがきていたことを知らされると、アンリはまっすぐ鏡のところに行って、手紙をとった。
手紙の文面は同じだったが、なぜか署名はなかった。
カトリーヌ・ド・メディシスは考えていた。「アンリはまちがいなく、待ち合わせの場所に行くだろう。たとえ、行く気がなくとも、行かれないことを伝える伝令がいないのだから」
この点では、カトリーヌは間違っていなかった。アンリがオルトンのことをたずねると、ダリオールがカトリーヌ・ド・メディシスと一緒に出ていったことを教えたが、手紙は所定の場所にあったし、オルトンは裏切るような人間ではないので、アンリはとくに不安は抱かなかった。
食事をシャルル九世と一緒にすませたあと、アンリは二人の部下を連れて、サン=トノレ門から出て、大きくトゥール・デュ・ボワを迂回した。セーヌをネールの渡しでわたって、サン=ジャック街まできたところで、女のところに行くようなそぶりで、部下を帰らせた。マチュラン街の角で、マントを着て馬に乗った男と出会った。
「マントゥ」と男はいった。
「ポー」とナヴァール王は答えた。
男は馬を降りた。ナヴァール王は、男のマントを羽織り、男の馬に乗ってラ・アルプ街から、サン=ミッシェル橋、バルテルミー街ときてムニエ橋を渡って河岸を下りアルブル=セック街の『星空亭』に入った。
そのころ、ラ・モールはちょうど『星空亭』の食堂で長いラブ・レターをしたためていた。
ココナスは台所で、ラ・ユリエールがやまうずらの串焼きを作っているのを見ていた。
そこへ、アンリがやってきたのである。「お客さんだよ」とラ・モールはラ・ユリエールを呼んだ。
ラ・ユリエールはアンリを頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺めてから、例によって従僕がいないなら泊められないといった。
アンリは、前金で払うことで部屋を確保し、じきに友達がくることになっているから食事の支度をしてくれとラ・ユリエールに頼んだ。事実、もう一人、彼よりも若い男があらわれた。
ラ・ユリエールが食事は食堂で食べるのか、部屋でとるのかとたずねる。どちらでもいいとアンリは答えた。
それを見ていたラ・モールはラ・ユリエールを呼び、あんなユグノーの顔を見ながら食事するのはいやだから、追っ払ってくれと頼んだ。ラ・ユリエールは四階の二号室に食事を運ぶよう命じた。
ラ・モールは二人が姿を消すとココナスを呼び、二人づれの一人がナヴァール王だったことを教えた。ラ・モールは陰謀の匂いを感じたが、ココナスはもうアランソン公に仕える身ではなくなったので、俺には無関係だととりあわなかった。
いっぽう、アンリとド・ムイは給仕が部屋から出ていくと、すぐに話を始めた。
「ところで、オルトンにお会いになりましたか?」ド・ムイがたずねた。
「いいや、手紙はたしかに受け取ったが。ダリオールの話だと、カトリーヌがきて、オルトンと長いあいだ話をしていたというから、すこし、心配だ」
「なに、あいつは抜け目ない奴ですから心配いりませんよ」
「でも、あの子に会っていないのだろう」
「ええ、でも今夜、会うことになっています」
「ところで、マチュラン街のところにいたあのマントを着た男はだれだ」
「あれは、わたしの忠実な仲間です。あなたの顔は知りませんからご安心を」
「では本題に入ろうか。アランソン公は脱出を取りやめた。アンジュー公がポーランド王になったのと、シャルル九世の具合が悪いのが、彼が計画を変更した理由だ」
「じゃあ、奴はわれわれを裏切るんですか?」
「まだだが、裏切るのはまちがいない」
「卑怯者めが! それにしても、なんで奴はわたしが出した手紙に返事をよこさないんでしょう?」
「証拠を握って、相手には渡さないためだ。さしあたって、こちらの負けだな、ド・ムイ?」
「その反対です。ご存じのように、コンデ公の一派を除くと、プロテスタントは陛下に一本化されています。アランソン公のことは、関係を保っているように見せかけているだけで、安全弁としか考えていません。それよりも、式典のあった日からわたしはすべてを立て直しました。アランソン公と一緒に逃げるには百人で足りましたが、今では部隊を増やして千五百人にしてあります。こうなったら、脱出ではなく、退却です。これだけの人数がいれば陛下もご安心できるでしよう」
「ナヴァール王は人が思っているほど臆病ではない。それはきみも知っているな。だが、陰謀を企てるときには、決断が必要だ、そして、決断をすみやかに下すには、成功を確信してからでなければならない」
「それはそうと、宮廷の狩りは何曜日におこなわれているんでしょうか?」
「一週間ごとに猟犬を使った騎馬狩り、十日ごとに鷹狩りだ。今日もそうだ」
「では、今日から一週間か十日後にはまた?」
「たぶんな。もっと早いかもしれない」
「よろしいでしょうか。現在、情勢は落ち着いています。アランソン公には、一緒にでなければ脱出しないと信じさせておいてください」
「安心しろ。信じるよ。わたしのことはまだ信頼していないが、母親のいったことは信じているようだ。あの女はナヴァール王の王冠を息子にやるつもりだ」
「では、狩りが決まりましたら、三日前に場所はどこか連絡してください。ラ・モールに誘導させますから彼の後についていってください。森を抜けたらもうこっちのものです。われわれのバーバリー馬とスペイン小馬には勝てはしませんから」
「よし、わかった」
「陛下、金は大丈夫ですか?」
「あまりない。だが、マルゴがもっている」
「それなら、けっこうです。できるだけもってきてください」
「で、ド・ムイ、さしあたって、おまえはなにかすることがあるのか」
「じつは、オルトンが昨日、モールヴェルの姿を見かけたといっておりましたから、今度こそ、けりをつけようかと思いまして」
「好きなようにしろ。ところで、ラ・モールはちゃんと働いているか?」
「はい、身も心も陛下に捧げているようです」
「それに口が固い。ナヴァールに帰ったら、あの男に褒美をとらせなくてはな」
ナヴァール王が、皮肉っぽい笑いを浮かべながらこういったとき、扉が乱暴にあいて、たったいま誉めたばかりの男が真っ青な顔で飛び込んできた。
「たいへんです! 陛下。家が包囲されています!」
「包囲されてる! だれに?」
「王の衛兵にです!」
「なんてことだ!」ド・ムイはそういいながら、ピストルを腰から引き抜いた。「戦いだ!」
「戦いどころじゃありません。敵は五十人もいるんですよ」ラ・モールは叫んだ。
「そのとおりだ。なにか逃げる方法はあるか?」ナヴァール王がたずねた。
「ひとつだけあります。急いでください」
廊下に足音が聞こえた。
「遅かったか」アンリはいった。
「ああ、だれか、敵を五分だけでもくいとめてくれたらな」ラ・モールはいった。「王だけならなんとかなるんだが」
「じゃあ、王を頼みます」とド・ムイがいった。「わたしがくいとめますから。わたしのことは心配なさらないで行ってください」ド・ムイは部屋に自分しかいなかったように見せるためナヴァール王の食器を片づけた。
「さあ、早く」ラ・モールはナヴァール王の手を取ると廊下に引っ張りだした。
「ド・ムイ、おまえは勇敢だ」アンリは若者に手をさしのべた。
ド・ムイはその手にキスすると、王を廊下に押し出し、扉に中から鍵をかけた。
「奴は、われわれが逃げる間に、ここでつかまる気だ。それにしても、だれが裏切ったんだ」
「早く、のぼってきます」ラ・モールは叫んだ。
ラ・モールは暗闇の中をさらに二階のぼって屋根裏の小部屋に入り、その部屋の窓をあけた。
「陛下、屋根伝いに逃げますが、だいじょうぶでしょうか?」
「わたしはシャモ狩りの名人だ」
ラ・モールは先に足を踏み出した。雨樋伝いに行くと、その端の屋根の谷間にむかって、人の住んでいない屋根裏部屋の窓が開いていた。
「うまくいきました」ラ・モールはいった。「この屋根裏部屋は階段に通じていて、そこから小道に出られます。小道は通りにつながっています」
二人が屋根裏部屋から階段をおりようとしたとき、アンリは窓の前で立ちどまって、『星空亭』の中庭をのぞいた。衛兵の一団の真ん中にド・ムイがいるのが見えた。ド・ムイは武器を渡し、落ち着いて歩いていた。
「かわいそうに。勇敢な男だ、あいつは」
「笑っていますよ。なにか、考えているんですよ、きっと。めったに笑わない男ですから」
「ところで、きみといっしょにいた男は?」
「ココナスですか。あの男なら心配いりません」
「ではルーヴルにもどろうか」
「マントにくるまっていきましょう。野次馬くらいにしか思われないでしょう」
サン・ジェルマン=ロクセロワ広場まできたとき、ド・ムイを引き立てているナンセーの姿が目に入った。
「これはまずい。彼らのあとから戻ったら、一緒にいたと思われる」アンリがいった。
「では、別のところから帰りましょう」ラ・モールがいった。
「いったい、どうやるんだ?」
「ナヴァール王妃の部屋の窓はいかがです」
「なるほど、だが、どうやって知らせる」
「陛下は、石投げはお上手のはず」と、ラ・モールは恭しく頭をさげた。
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第四十七章 ド・ムイ・ド・サン=ファール
カトリーヌ・ド・メディシスは、こんどこそ成功したと確信していた。だから、十時ごろ、シャルル九世の居室に出向いて就眠を遅らせるよう頼んだ。シャルル九世はカトリーヌがあまりに晴れやかな顔をしているので怪訝《けげん》に思ってたずねた。カトリーヌはただこう答えただけだった。
「今夜、陛下は、もっとも手ごわい敵から解放されますよ」
それから数分して、ルーヴルの中庭でピストルの弾《はじ》ける音がした。
「なんですか、あの音は」シャルル九世がたずねた。
「ただの合図よ」
「だれか殺したんですか?」
「いいえ、二人逮捕しただけ」
「また陰謀ですか。わたしはもう大人なんだから、ほっといてください。統治したかったら、弟と一緒にポーランドに行けばいいでしょう。ここでは、こんなまねはもうやめてください」
「これが最後よ。こんどこそ、わたしが正しかったことがわかるはず」
そのとき、控えの間に何人かの男が入ってきた音がした。同時に、入室を求めるナンセーの声がした。シャルル九世が許可するとナンセーはカトリーヌにむかっていった。
「ご命令を遂行してまいりました。一名、逮捕いたしました」
「一名?」カトリーヌは叫んだ。
「はい、一人だけでしたので」
「抵抗しなかったの?」
「いいえ、部屋で悠然と食事をとっておりました。武器もすぐに引き渡しました」
「だれなんだ、それは?」シャルル九世がたずねた。
「いまわかります。逮捕者をいれなさい」カトリーヌがいった。
五分後、ド・ムイが連れてこられた。
「ド・ムイ!」王は叫んだ。「いったい、なんなんだ、これは?」
「それはこちらがおたずねしたいことでございます」ド・ムイが答えた。
「そんなことより」カトリーヌがいった。「あの晩、ナヴァール王の部屋にいて、衛兵を二人殺して、モールヴェルを傷つけたのがだれなのか、いってみなさい」
「ド・ムイ・ド・サン=ファールでございます」
「じゃあ、なんで、王の逮捕状に逆らったんだ?」
「まず、第一に、わたしは逮捕状が出ていることを存じませんでした。第二に、わたしには、父の仇であるモールヴェルの姿しか見えませんでした。そういえば、一年半前の八月二十四日、いまわたしたちのおりますこの部屋で、陛下が正義の裁きをお約束なさったことを思い出します。それから、いろいろなことがございましたが、ちょうどナヴァール王の部屋におりましたとき、なんたる天の配剤か、モールヴェルがわたしの前にあらわれたのでございます。そのあとのことはご存じのはず」
「ではなんで、そんな時間にナヴァール王の部屋にいたんです?」カトリーヌがたずねた。
「それは話せば長くなりますが、お聞きいただけますでしょうか?」
「話してみろ」シャルルが答えた。
「それではお話しいたします。じつはあのときわたしは、我らが同志たちの代表としてナヴァール王のところにまいったのであります」
シャルル九世はカトリーヌを制して、ド・ムイに先を続けるようにいった。
「ナヴァール王の改宗で、ユグノーの党派の信頼が失われたことを伝え、ナヴァール王の王冠を放棄するよう忠告するためでございます」
「で、アンリはなんといったの?」カトリーヌはこの思いがけぬ答に動揺して、叫んだ。
「おやおや」シャルル九世はいった。「そんなふうに、みんなでナヴァール王の王冠を勝手に扱っているが、王冠の一部はわたしのものだと思うが」
「陛下のお考えは、まさにわたしたちユグノーの考えと同じであります。ですから、その王冠を、陛下にとってもっともお親しい方の頭にお載せしていただきたいと思うのであります」
「だれだ、それは? よくわからんが」
「アランソン公であります」
カトリーヌは死人のように蒼白になった。
「アランソンはそのことを知っているのか?」シャルル九世はたずねた。
「はい。陛下のご承認があれば、ということでございます」
「ほう、たしかに、ナヴァール王の王冠ならアランソンによく似合うだろう。そのことは思いつかなかった。そんなことだったら、このルーヴルで歓迎したであろうに」
「でも、アンリは同意したの?」カトリーヌはたずねた。
「もう、退位に同意しております。幸い、ここに、署名と日付の入った承諾書をもっております」
「日付はあの事件よりも前のもの?」
「はい、前日のものであります」
「なるほど、これは本物だ」シャルルはいった。
「アンリはその見返りになにを要求したの?」カトリーヌがたずねた。
「なにも。ただ、シャルル九世の友情だけであります」
カトリーヌは怒りで唇をかみしめた。
「それじゃあ、今夜、なんのためにナヴァール王と会っていたの?」カトリーヌがたずねた。
「わたしがナヴァール王と? わたしは一人きりでございました。逮捕したナンセーにおたずねくださいませ」
ナンセーが呼ばれた。
「ド・ムイ殿は『星空亭』で本当に一人きりだったの?」
「部屋では一人だけでしたが、宿には仲間がおりました」
「だれなの、それは?」カトリーヌは叫んだ。
「ド・ムイ殿の仲間かどうかはわかりませんが、部下を二人切り倒して、逃げていきました。アニバル・ド・ココナス伯爵だったと部下は申しております」
「アニバル・ド・ココナスだと」シャルル九世はいった。「聖バルテルミーの夜に、ユグノーをさんざんに殺しまくった男だな」
「アランソン公の部下であります」ナンセーが答えた。
「わかった。下がってよろしい」シャルル九世はいった。「それから、これはよく覚えておけ。以後、わたしの命令だけを聞くように」
ド・ムイは皮肉な微笑を浮かべてカトリーヌを眺めた。
しばし、沈黙が訪れた。
「よし、よくわかったぞ。アランソンは、わたしたちの王冠が羨ましくて、前から王冠を欲しがっていたのだから、この申し出は渡りに船だ。ただ、問題はアンリの権利だ。アンリは本当に自分から放棄したのか?」
「さようでございます」
「うん、これはどうやら、神のご意志のようだな。ド・ムイ殿、そなたは自由に、ユグノーの同志のところに帰ってよろしい。そして、王はアランソン公をナヴァール王にすることに同意したと伝えろ。これからは、ナヴァール王国の国王はフランソワという名前だ。アランソンがパリを離れるときには盛大に祝ってやろう。さあ、行くがよい、ナンセー、ド・ムイ殿を通してやれ、ド・ムイ殿は自由だ」
ド・ムイはひざまずいて、シャルル九世の裾にキスした。
「ところで」とシャルル九世はいった。「さっき、モールヴェルに正義の裁きをといっていたな」
「さようでございます」
「奴がどこにいるか知らんが、どこかで出会ったら、そなたが自分で正義の裁きを加えるとよい。わたしが許可を与える」
「かたじけなき幸せ。かならずや、お言葉にそうてごらんにいれます」
ド・ムイは恭しくシャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスに一礼したあと、部屋を出た。それから三時間後、彼はマントゥの町の城壁の後ろで、悠然と羽根をのばしていた。
カトリーヌは自室に戻り、そこからマルグリットの部屋に行った。アンリが部屋着に着替えて寝る支度をしていた。
「サタンよ」カトリーヌはつぶやいた。「神が見捨てたもうた哀れな女王をどうかお助けください!」
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第四十八章 ひとつの王冠に二つの頭
シャルル九世は母を下がらせると、ナンセーにアランソン公を呼びにいかせた。
アランソン公は震えがとまらなくなった。それでなくとも、彼はシャルル九世の前に出ると体が震えるのだが、今回は、しかるべき理由があるのでなおさらだった。
シャルル九世は立ったまま口笛を吹いていた。
「お呼びでしょうか?」
「いや、おまえがいろいろとわたしのために尽くしてくれるので、今日は、褒美として、おまえがいちばん欲しがっているものをつかわそうと思ってな。なにか、考えてみろ」
「わたしの願いは、陛下のご健康だけです」
「ありがたいことに、わたしは十分健康だ。それ以外にはないのか?」
「なにもございません」
「そんなことはあるまい。おまえが欲しいのはナヴァール王国の王冠だろうが。おまえは、アンリオとド・ムイとつきあっているな。アンリオとつきあうのは、王冠を諦めさせるため。ド・ムイとは、その王冠を手に入れるためだろう。アンリオは王冠を放棄した。そしてド・ムイはおまえの願いをわたしに伝えた」
「それで……」アランソン公は震える声でたずねた。
「決まっているじゃないか。王冠はおまえのものだ」
アランソン公は真っ青になった。それから血が逆流して、頬が真っ赤になった。
「しかし、陛下、わたしはなにも欲しくはありません。とりわけ、そのようなものは」
「なるほど、おまえは控えめな男だからな。しかし、みながおまえを望んでいるんだから」
「陛下は、わたしを流刑になさるおつもりでしょうか?」
「おまえは、これを流刑と呼ぶのか? むずかしい男だな。じつは、わたしは、もっとおまえは不人気な男だと思っていた。とりわけ、ユグノーの間ではな。だが、彼らは、おまえを望んでいる。これはわたしの予想外のことだった。しかし考えてみれば、わたしを絶対に裏切らない弟が、この三十年間戦いを続けている相手の党派の首領となるのだから、こんないいことはないわけだ。これで、国も我が家もすべてうまくいくだろう。三人兄弟がみな王になったのだからな。アンリはわたしの友である以外には、なにもなくなるが、あの男はだれも欲しがらないこの資格だけで満足するだろう」
「ああ、わたしが欲しいのはその資格だけです。わたしを陛下のそばにおいてください」
「いや、それはいかん」
「どうしてでございましょう」
「いろいろわけがあってな。ところで、ナヴァール王国へ行けば素晴らしい熊狩りができるぞ。熊は危険だが、絶対おもしろいはずだ」
「陛下と一緒に狩りができないのは悲しゅうございます」
「おや、本当か。わたしと狩りをすると、おまえは緊張しすぎてしまうのではなかったかな。なにしろ火縄銃の名手のはずのおまえが、至近距離で、イノシシではなくてわたしの馬の脚を撃ってしまったのだからな」
「あのときは緊張してしまったのです。どうかお許しください」
「よしよし、わかった。緊張していたのだな。だが、わたしと一緒に狩りをするたびに、緊張されても困る。また狩りをやったら、今度も緊張して、獲物の代わりに王を撃つかもしれないからな。撃った弾丸がすこし高くても低くても、王国の顔がかわってしまうわけだからな。我が家には、父のアンリ二世がモンゴメリーに目を射ぬかれた前例があるからな」
アランソン公は額に汗が流れるのを感じた。シャルル九世は冗談めかして怒りをぶちまけているのだ。兄は、恨みと復讐が正比例している人間だった。アランソン公は、成功の見込みのない陰謀に加担したことをふかく後悔した。アランソン公はよく抵抗したが、この最後の一撃で頭《こうべ》を垂れた。
シャルル九世は鷹のような目でアランソン公を見つめていた。シャルルは家族の心理を長いあいだ研究してきているので、アランソン公の心の動きなど、本を開いているようによくわかった。
「弟よ、いま伝えているのは、決定したことだ。決定は覆せない。出発しろ。ナヴァール王国は、おまえを誇りに思うだろう。むこうに行ったら、わたしのことを祈ってくれ。祈りに距離はない」
「陛下……」
「そのうち、フランス王家にふさわしい嫁を見つけてやるからな。その嫁がきっと、もうひとつの王冠をもってきてくれるだろう」
「しかし、陛下はアンリのことをお忘れになっていらっしゃいます」
「アンリは、王冠を自分から放棄したといったではないか。あいつは笑って、楽しんでいれば、それでいいのだ。わたしたちヴァロワ家の王はといえば、王冠の下で、ただ干からびるのを待つだけだ」
アランソン公は溜息をもらした。
「では準備はわたしが……」
「いや、なにも心配せんでよい。盛大に出発を祝ってやろう」
もうこれ以上、答えようはなかった。アランソン公は一礼すると怒りを胸に部屋を辞去した。
アランソン公はアンリと会っていま起こったことを話したいと思ったが、アンリが見つからず、代わりにカトリーヌ・ド・メディシスに出会った。というのも、アンリは彼を避けていたが、カトリーヌは逆に彼を探していたからだ。
アランソン公はカトリーヌを見て、すぐに苦しみを圧し殺して、笑顔を見せようとつとめた。アンジュー公よりも母に愛されていなかった彼は、カトリーヌのなかに母ではなく、同盟者を求めていた。しかし、それには、まずたがいに相手を偽らなければならない。
「お母さん、聞きましたか。大変な知らせですよ」
「あなたをナヴァール王にするってことね」
「なにもかも兄さんのおかげです」
「あら、そう」
「お母さんにもありがとうをいいたかったんです。だって、お母さんが薦めてくれたから、こうなったんでしょう。でも、そのためにアンリが」
「あなた、ずいぶんアンリオが好きなのね」
「それはもう、ぼくらはただの友達じゃなくて、兄弟ですから」
カトリーヌは奇妙な笑みを浮かべた。
「あら、王様同士で、兄弟なんてあるのかしら? だって、あなたたち、二人とも王になるかもわからないでしょう」
アランソン公はぶるぶると体を震わせ、頬を真っ赤にした。カトリーヌは投げた槍が息子の心臓を射ぬいたことを理解した。
「えっ、アンリオが王に? どの王国のです?」
「キリスト教国の中でも最高の国のよ」
「なんてことをいうんです、お母さん」
「良き母が息子にいうべきことをいったまでです。あなたが兄弟って呼んでいるアンリは、あなたなんかよりもよっぽどしたたかで抜け目のない男です。たとえば、ド・ムイが彼の腹心だってこと、あなたは知らないでしょう?」
「ド・ムイ!」アランソン公はこの名前を初めて聞いたふりをした。
といっても、カトリーヌはまさか息子が、自分の想像している以上に深入りしているとは思わなかったので、そういうと、部屋を出ていこうとした。アランソン公は母をひきとめた。
「お母さん、ぼくに政治を手ほどきしてくださるなら、ついでに、あんなになにももたないアンリが、ぼくたち王家を脅かすような戦争をどうやって仕掛けるのか、それを教えてください」
「ぼうや、よく聞きなさい。アンリが一言命令したら、まるで大地から湧いて出たように、三万人のユグノーが、この世で最強の兵士たちが、一斉に決起するのよ。それに、アンリにはシャルル王という味方がいるわ。王はポーランド王に嫉妬して、あなたのことも嫌っているから、跡継ぎをほかの人間にしようとしているのよ」
「本当ですか?」
「アンリのことをちやほやしているの知らないの?」
「そういえば、アンリの奴、なんでもかんでも王のご機嫌を取っているな。ただ、鷹狩りのことだけはよく知らないで馬鹿にされているから、昨日、なにか参考になる本はないかって訊いていたっけ」
「ちょっと待って」カトリーヌの目が異様に輝いた。「あなた、それでなんて答えたの?」
「ぼくの書庫を探しておくって」
「よし、それだわ。その本ならわたしがもっているから、あなたからといって、アンリに渡しなさい」
「それでどうなるんです」
「あなたの嫌いなアンリのことで、あなた、わたしに絶対的に服従できる?」
「いいですよ」
「なら、明日、本を受け取りにきなさい」
「それで?」
「あとは神様にお任せするのよ」
アランソン公は自室に戻りながらつぶやいた。「あれはなんの意味なんだろう。でもまあいいか。共通の敵を相手にしているんだから。やらしておこう」
いっぽう、そのころ、マルゴはラ・モールを介してド・ムイからの手紙を受け取った。政治に関しては、マルゴとナヴァール王にはなんの秘密もなかったので、マルゴは手紙を開けて読んだ。そして、すぐにナヴァール王の居室に駆けつけた。
ナヴァール王の居室では、オルトンがいなくなって以来、アンリが一人で暮らしていた。
「すぐに、これを読んで!」マルゴはいった。
手紙にはこんなことが書かれていた。
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陛下、いよいよ脱走計画を実行に移すときがまいりました。明後日、サン=ジェルマンからメゾンにかけての、つまりセーヌ川に沿った森の全域で鷹狩りがおこなわれます。
これは陛下の苦手な鷹狩りですが、ぜひ参加していただきたいと存じます。服の下に丈夫な鎖かたびらをつけ、最高の刀を差し、厩《うまや》でいちばん速い馬にお乗りください。
正午ごろ、狩りが盛りになり、王が鷹を追っているとき、脱走してください。お一人でも、王妃をおつれになられてもかまいません。
われわれの部下が五十人、フランソワ一世の館に隠れております。鍵はわれわれがもっております。彼らがそこにいることはだれも知りません。夜陰に乗じて忍び込み、鎧戸を下ろしておりますから。
ヴィオレットの小道をお通りください。その端にわたくしが隠れ、右側の木立にラ・モールとココナスが二頭の駿馬《しゅんめ》とともに隠れております。この馬は、陛下と王妃様の馬が疲れたときに、乗り換えていただくためのものです。
それでは、陛下、ご準備を。われわれも準備怠りなくお待ちいたしております。
[#ここで字下げ終わり]
「いよいよね」マルゴはいった。
「いよいよだ」アンリが答えた。
「さあ、英雄になるのよ。むずかしいことじゃないわ。真っすぐ行くだけ。わたしに素晴らしい王冠をさずけてね」
かすかな微笑がナヴァール王の唇に浮かんだ。彼はマルゴの手にキスすると、廊下に人がいないかを確かめるために、古いシャンソンのルフランを口ずさみながら先にたって部屋を出た。
[#ここから1字下げ]
城壁破壊のうまい者ならば
城の中には入らない
[#ここで字下げ終わり]
やはり用心に越したことはなかった。ちょうどアランソン公が控えの間に入ってきたところだった。
「ああ、あなたでしたか、いらっしゃい」
マルゴはすばやく小部屋に隠れた。
アランソン公は不安そうにあたりを見回した。
「だれもいないね?」
「わたしたちだけです。どうしました?」
「発覚しましたよ。ド・ムイがつかまってなにもかも王にしゃべったんです」
「まさか! でも、それならなぜ逮捕されないんです?」
「わかりません。王はわたしをナヴァール王にするといってからかっていたけれど、たぶん、鎌をかけるつもりなんでしょう。だからなにもいわなかった」
「それはよかった」
「逃げるべきか、残るべきか、それをあなたに聞きにきたんです」
「陛下とお話しになったんでしよう? それなら考えが読めたはず、直感に従ってください」
「残ったほうがいいと思う」
ほんのわずかだが、アンリはうれしそうな表情を見せてしまった。アランソン公はそれを見逃さなかった。
「それなら、お残りください。わたしが脱出するとしても、それはあなたに従うだけです」アンリはいった。
「そうですか、じゃあ、この話はやめにしましょう。決心がついたら教えてください」
アランソン公が出ていくと、マルゴがあらわれた。
「アランソン公がきたのは、なにかがあったからなのかな?」
「なにか新しくて重大なことね」
「なんだろう?」
「まだわからないわ。とりあえず、明日、かならず、わたしの部屋にきて」
「まちがいなく」そういうとアンリは妻の手にキスをした。
マルゴは細心の注意を払って部屋に戻った。
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第四十九章 狩猟の本
『星空亭』の事件から三十六時間が経過していた。まだ陽が昇りはじめたばかりだったが、ルーヴルではすでに全員が目覚めていた。狩りの日はいつもこうだったのである。アランソン公は、カトリーヌ・ド・メディシスに呼ばれて彼女の居室に出かけた。
カトリーヌは寝室にはいなかった。アランソン公がきたら待たせておくように、言い置いていた。
しばらくして、カトリーヌは秘密の小部屋から出てきた。そこは彼女以外のだれも足を踏み入れることができない聖域だった。薬剤の調合をするときにはいつもここに引きこもるのである。
カトリーヌが小部屋から出てくると同時に、半開きになった扉からもれたのか、それとも彼女の服に付着していたのか、鼻をつく酸性の匂いが漂った。アランソン公は扉の隙間から、芳香剤を燻蒸《くんじょう》させたときのような濃い煙が実験室の中に白い雲となって浮かんでいるのを見た。
アランソン公は好奇心を抑えることができなかった。
「ええ、そうよ」カトリーヌ・ド・メディシスはいった。「古い羊皮紙を燃やしたの。その匂いが臭《くさ》いので、炭火で杜松《ねず》の実を燃やしたの。この匂いはそのせいよ」
アランソン公は身を乗り出した。
「それでと」カトリーヌは、赤っぽい黄色の薄いしみでまだらに染まった手を室内着のゆったりとした袖の中に隠しながらいった。「昨日から変わったことはない?」
「なにもありません」
「アンリと会った?」
「はい」
「あいかわらず、脱出は拒んでいるの?」
「もちろん」
「ずるい奴!」
「どういうことですか、それは?」
「出発するってことよ」
「本当ですか?」
「確かね」
「じゃあ、逃げるんですね?」
「そうよ」
「で、逃がしておくんですか?」
「逃がすだけじゃなくて、逃がさなくちゃいけないってこと」
「わからないな、お母さんのいってることが」
「これからいうことをよく聞きなさい、フランソワ。とっても腕のいい医者がいるの。じつは、あなたにもっていってもらうこの本はその医者からもらったものですけれど、その医者がね、ナヴァール王は消耗性の病気に冒されているっていってるの。それは死病で、どんな薬も効かないらしいわ。だから、どうせこんな残酷な病気で死ぬなら、わたしたちの目の前で死なれるより、遠く離れたところで死んでもらったほうがいいでしょ。わかるわね」
「なるほど」アランソン公は答えた。「それはつらすぎますものね」
「とくに、あなたの兄さんのシャルルにとってはね。アンリが裏切ったあとで死んだというなら、シャルルも天罰が下ったと思うでしょう」
「それはそうですね、お母さん」アランソン公は感心しながらいった。「アンリを逃がさなきゃいけないわけですね。でも逃げるって確かなんですか?」
「準備は万全のようよ。落ち合う場所は、サン=ジェルマンの森。五十人のユグノーがフォンテーヌブローまで付き従うと、そこで、五百人の兵士が待っているという手筈らしいわ」
「それで」とアランソン公はすこしためらいながら、蒼ざめた顔をしてたずねた。「マルゴ姉さんも一緒に行くんですか?」
「それはそうよ。約束ができているんですから。でもアンリが死ねば、マルゴは、未亡人になっていつでも戻ってこれるわ」
「でも、アンリが死ぬって、本当なんですか?」
「すくなくとも、本をくれた医者は確実だっていっていたわ」
「で、その本はどこにあるんです?」
カトリーヌはゆっくりとした足どりで、謎の実験室のほうに戻っていき、扉をあけて中に入ったかと思うと、すぐに本を手にして出てきた。
「はい、これよ」
アランソン公は母が差し出した本をこわそうに眺めた。
「これは何の本なんです?」アランソン公は身震いしながらたずねた。
「もう教えたでしょう。鷹、隼《はやぶさ》、白隼を育て調教する技術についての本で、ルッカの暴君カストルチオ・カストラカーニのために、偉い学者が書いたものなのよ」
「で、ぼくはこれをどうすればいいんです」
「なに、あなたの親友のアンリのところにもっていくだけよ。鷹狩りの知識を得たいから、なにか本がないかってアンリから頼まれたって、あなたがそういっていたでしょ。今日、王と一緒に鷹狩りに行くから、まちがいなく何ぺージか読むはずよ。王に、忠告に従って上達したところを見せるためにね。要は、これを直接本人に手渡すこと」
「ああ、ぼくにはできそうもない」アランソン公は身震いしながらいった。
「どうしてなの? これはただの本じゃない。ただ、長いあいだ閉じられていたんで、ぺージがくっついてしまっているだけよ。あなたは読んではだめ、フランソワ。読むには、指に唾をつけて、一ページ一ぺージ剥がしていかなくちゃならないから、時間も手間もかかるからね」
「それだけの時間と手間をかけてでも勉強しようと思うのは、一人しかいないんじゃないですか?」
「そのとおり、わかったわね」
「ああ、もうアンリオが中庭に出ている。早く、お母さん、早く渡してください。部屋にいないときにこの本を置いてきますから。帰ってきたら、見つけるでしょうから」
「直接手渡してきたほうがいいわ、フランソワ。そのほうが確実よ」
「それはできないっていったでしょ」
「じゃあ、行きなさい。でも、よく目につく場所に置いてくるのよ」
「開いて? 開いておくのはまずいですか?」
「だめ」
「じゃあ、早くください」
アランソン公は、カトリーヌがしっかりとした手で差し出した本を震える手で受け取った。
「さあ、しっかりもって。危険はないわ。わたしがこうして触っているんだから。それに、あなた手袋をしているじゃない」
手袋をしていてもまだアランソン公には足りないらしく、本をマントでくるんだ。
「急ぎなさい」カトリーヌはいった。「急いで、アンリがもうじきのぼってくるわ」
「わかりました。じゃあ、行ってきます」
そういうと、アランソン公は緊張のあまりよろめきながら部屋を出ていった。
われわれはすでに何度か読者をナヴァール王の居室に案内している。そして、そこで起こった愉快な、あるいは恐ろしい場面(それは未来のフランス王の守護神が頬笑んだか、しかめ面をしたかによって異なる)に読者を立ち会わせている。
だが、殺人の血で汚れ、饗宴のブドウ酒を浴びせられ、恋の香水でかぐわしい匂いをたきこめられたこの部屋の壁、要するにこのルーヴルの一角も、本を手にしてナヴァール王の寝室の扉をあけたときのアランソン公ほど蒼ざめた顔を、見たことはなかったにちがいない。
とはいえ、アランソン公が思ったとおり、その部屋にはだれ一人としていたわけではないから、アランソン公がこれからおこなおうとしている行為を、好奇心に満ちた、あるいは不安な目つきでとがめるような人間がいたわけではない。朝の初光が、ガランとした居室をただ明るく照らしていた。
壁には、ド・ムイがもっていくようアンリに勧めたあの刀が手入れのととのった状態で吊り下げられていた。鎖かたびらのベルトの環がいくつか床にころがっていた。まずまずの膨らみをもった財布と短剣が家具の上に置かれていた。そして、暖炉の中にまだ漂っているかすかな灰は、他の証拠と突き合わせてみると、ナヴァール王が鎖かたびらを身にまとい、財政係から金を受け取り、危ない書類を燃やしていたことを物語っていた。
「お母さんのいったとおりだ」アランソン公はつぶやいた。「あの嘘つきめ、ぼくを裏切るつもりなんだ」
おそらく、この確信が若者に新しい力を与えたにちがいない。アランソン公は、まず、目で部屋のあらゆる隅を探り、ドア・カーテンのつづれ織りをすべて持ち上げてだれかいないか調べた。さらに、中庭には人々のざわめきが聞こえ、居室の中に沈黙が支配しているのを確認し、だれも探っているものがいないことを確かめると、ようやく、マントの下から本を取り出し、それを財布が置かれているテーブルの上にすばやく載せた。それから、彫刻のほどこしてあるオークの書き物机に背中をもたせかけたかと思うと、すぐに身を離し、テーブルのほうに腕を伸ばして、恐る恐る、ためらいながら、手袋をした手で本を開き、狩りの挿絵のページを見た。
と、とつぜんアランソン公は、本を開いたまま、三歩あとずさりすると、手袋を引き抜いて、それを、まだ手紙を燃やしたばかりで焔をあげている暖炉の炭火の上に投げつけた。しなやかな革の手袋は炭の上で叫びをあげて燃え上がり、身をよじらせてから、大きなトカゲの死体のようにだらりと伸びた。そして、たちまち黒くて縮れた燃えかすになった。
アランソン公は、焔が完全に手袋をくいつくすまで部屋にとどまっていた。それから、本をつつんできたマントを丸めると、それを小わきにかかえ、いそいで自室に戻った。心臓をドキドキさせて部屋にはいったとき、回り階段に足音が聞こえた。アンリが帰ってきたものと疑わず、彼は勢いよくドアをしめた。
部屋に入ると、窓のところに飛んでいったが、窓からはルーヴルの中庭の一部が見えただけだった。アンリはそこにはいなかったので、帰ってきたのは彼にちがいないと確信した。
アランソン公は本を出してきて読もうとした。それはフランク族の伝説の王ファラモンからアンリ二世にいたるまでのフランス史だった。ナヴァール王の王冠の話があってから数日間、彼は好んでこの本を読んでいたのだ。
だが、アランソン公の心はそこにはなかった。待機のために生まれた熱が背骨を熱くしていた。こめかみの血管があまりに激しく動悸を打つので脳の奥までガンガンと響いた。まるで夢を見ているか催眠術にでもかかったように、壁をとおして向う側が見えるような気がした。彼の視線は、三重の障害をやすやすと突破してアンリの部屋をのぞきこんでいた。
心の目が見てしまう恐ろしい事物を遠ざけようとするかのように、アランソン公は、オークの書き物机の上に挿絵のページを開いて置いてあるあの恐ろしい本以外のものに視線を向けようとしたが、無駄だった。部屋に飾ってある武器や宝石を次々に手にとったり、床の羽目板の同じ溝の上を百回歩いても、ほんのすこしだけしか見なかったはずの挿絵の細部が心に焼きついて離れなかった。それは、馬にまたがった領主の絵だった。領主はみずから、鷹狩りの従僕の役割を演じ、鷹を呼んで餌を投げたり、沼地の雑草の中に馬を速足で走らせたりしていた。アランソン公がイメージを追い払おうと努力しても、本の記憶のほうが強かった。
つぎに心に浮かんだのは、本ではなく、本に近づいて挿絵に見入っているナヴァール王のイメージだった。ナヴァール王はページをめくろうとしたが、ページがくっついているので、親指を唾で濡らし、ついにページをひきはがすことに成功していた。
このイメージは空想が生み出したものにすぎなかったが、アランソン公はそれが目に浮かぶと思わずよろめいて、片手で家具を支え、もう片方の手で目を覆った。まるで、目を閉じていても、逃れようとしている幻がまだ追いかけてくるかのようだった。
その幻は彼の考えそのものだった。
とつぜん、アランソン公はアンリが中庭を横切る姿を見た。アンリは二頭のロバに狩りのための備品を積み上げている男たちの前にしばらく立ちどまった。その備品はじつは、旅の身の回り品と路銀だった。それから、指示を与え終わると中庭を対角線状に横切り、あきらかに、建物の入り口のほうへ進んでいった。
アランソンはその場に釘づけになった。さきほど秘密の階段をのぼってきたのはアンリではないのだ。とすると、十五分ものあいだ感じていたあの苦しみは無駄だったのか。終わった、あるいは終わろうとしていると思ったものが、これから始まるのだ。
アランソン公は寝室の扉をあけ、外からしっかりとしめてから、今度は、廊下に通じる控えの間の扉に耳をくっつけた。今度こそは間違いなかった。アンリだった。アランソン公は、彼の足音、それに彼の拍車の歯車の特殊な音まで聞き分けられた。
アンリの居室のドアがあき、それからしまった。
アランソンは控えの間から居間に戻り、肱かけ椅子に崩れおちた。
「よし、いま起こっていることをいってみよう」彼は自分にむかっていった。「アンリは控えの間を通って、最初の部屋を横切り、最後に寝室に到着する。そこまでくると、目で刀を探し、ついで財布、短剣を見つけ、最後にテーブルの上に広げられている本に目をやる。
『おや、この本はなんだ?』奴は自問するだろう。『だれがこの本をもってきたのだろう?』
それから奴は本に近づいて、鷹を呼んでいる騎士の挿絵に目をとめるだろう。本を取り、読むうとしてぺージをめくろうとするだろう」
冷たい汗がアランソン公の額の上に流れた。
「奴は人を呼ぶだろうか。毒は急に効いてくるのだろうか? いやいや、たぶん、そんなことはない。母が奴は消耗性の病気でゆっくり死ぬといっていたからな」
この考えはすこし彼を安心させた。
こうして十分が経過した。それは一世紀にも匹敵する長さだった。一秒一秒、彼は苦悶でへとへとになった。そして、一秒ごとに、空想が生み出す支離滅裂な恐怖、幻覚の世界が彼の目の前にあらわれた。
アランリン公はもうこれ以上我慢することができなくなった。そこで、椅子から立ち上がり、部下たちが集まりはじめていた控えの間を横切った。
「お先に。わたしは王の部屋に行く」
激しい不安を隠すため、あるいはアリバイをつくろうとしたのか、アランソン公は実際に兄の部屋へと階段を降りていった。なぜ、降りていくのか? 彼にもわからなかった。なにが彼にそうさせたのか?……とくに理由はない。シャルル九世に会いたかったわけではなく、ただアンリから逃れたかったのだ。
アランソン公が小さな螺旋階段を降りていくと、王の部屋の扉が半開きになっていた。
衛兵たちは、なにも咎めることなくアランソン公を通した。狩りの日には、礼儀を守ったり案内を乞う必要もないのだ。
アランソン公は、控えの間、居間、寝室、とだれに会うこともなく通りすぎた。シャルル九世はきっと武器室にいるのだろうと思って、その小部屋の扉を押した。
シャルル九世はテーブルの前の肱かけ椅子にすわっていた。肱かけ椅子は、尖った背もたれのついた、彫刻をほどこしたものだった。王はアランソン公の入ってきた扉に背を向けていた。
シャルル九世はなにかに熱中しているようだった。
アランソン公は忍び足で近づいた。シャルルは本を読んでいた。
「こりゃ、すごい」とつぜん、彼は叫んだ。「すごい本だ。話には聞いていたが、こんなものがフランスにあるとは思わなかったな」
アランソン公は耳をそばだて、もう一歩前に出た。
「クソッ、ページが」そういうと、王は親指を唇にもっていった。読み終わったぺージと次のページがくっついてしまっているので、なんとかぺージを剥がそうとしているのだ。まるで、本が含んでいる素晴らしい内容を人の目に触れさせまいとして、ページを糊でくっつけたかのようだった。
アランソン公は、大きく、前に一歩踏み出した。
シャルル九世が身をかがめて読んでいる本は、彼がアンリの部屋に置いてきたあの本だった。
思わず、叫び声が口をついて出た。
「ああ、おまえか、アランソン」シャルルはいった。「よくきたな。この本をちょっと見てみろ。かつて人間が書いたなかでもっとも素晴らしい狩りの本だ」
アランソン公は、一瞬、本を兄の手からもぎとろうと思った。だが、忌まわしい考えが彼をその場に釘づけにした。真っ青になった唇に恐ろしい微笑が浮かんだ。目の眩んだ人のように手で光をさえぎった。 それから、すこし気を取り直すと、前にも後にも動かずに、その場に立ったまま、口を開いた。
「陛下、どうやって、そんな本を手に入れられたんですか?」
「いや、じつに簡単なことさ。今朝、アンリオの部屋に支度ができたか見にいったら、アンリオは犬小屋と厩に出かけていったらしくて、部屋にはいなかった。ところが、そのかわり、この宝物が置いてあったから、ここにもってきて、こうして読んでいるのさ」
そういうと、王はもう一度、親指を唇に運んで、なかなか開こうとしないぺージを無理やりめくった。
「陛下」アランソン公は口ごもった。髪の毛は逆立ち、全身が恐るべき恐怖でひきつっていた。「陛下、じつは、申しあげたいことが……」
「ちょっと待て、この章を読んでしまうから」とシャルルはいった。「それから、おまえの話を聞こう。もう五十ページも読んでしまった。貪《むさぼ》り読んだといったほうがいいか」
「もう二十五回も毒を飲んだんだ」アランソン公は心の中でつぶやいた。「兄貴は死ぬ!」
そして、彼は、天にはいささかも「偶然」ではない神がいると思った。
アランソン公は震える手で、額に滴る冷たい汗をぬぐった。そして、兄に命じられたように、その章が終わるまでおとなしく待った。
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第五十章 鷹狩り
シャルル九世はあいかわらず熱中して本を読んでいた。そして、そのたびに、親指に唾をつけてぺージをめくっていた。
アランソン公は自分だけが結末を知っているこの恐ろしい情景をおびえた目つきで眺めていた。
「ああ、これから、なにが起きるんだろう? ぼくは無理やり出発させられて、ありもしない王冠をかぶせられる。いっぽう、脱出したアンリはシャルルの病気を知ると、ひとつひとつ町を征服してパリに迫ってくる。そして、ポーランド王が兄の死を知る前にパリに入り、兄が戻ったときには、もう王朝はかわっているにちがいない」
アランソン公は最初の恐怖からさめるとこんな冷静な予想をした。運命はアンリに味方し、ヴァロワ王朝を迫害しているとしか思えなかった。
これでは、アンリに対する態度を変えなくてはならない。アンリを逃がすのは死を運命づけられていたからだが、死ぬ役割がシャルル九世にかわった以上、アンリをこのまま自由の身にしてしまうわけにはいかない。
そこで、アランソン公は、シャルル九世が頭を上げた一瞬をとらえて話しかけた。
「陛下、とても重大なお話がありまして」
「なんだ、おまえの出発はもう決まっているんだぞ。ポーランド王と同じようにな」
「そのことじゃないんです。じつは陰謀が……」
「なんだ、また陰謀か。いいかげんにしろ」
「これは本当なんです。陛下がヴェジネの平原で鷹狩りをしておられるあいだに、ナヴァール王はサン=ジェルマンの森で仲間と落ち合って一緒に脱出する手筈になっているんです」
「そんなことならこっちは先刻ご存じだ。またアンリへの中傷か。いいかげんにしろ。よし、今度だけは、おまえたちのことを信じてやる。ナヴァール王を呼べ」
「それはいけません」アランソン公はいった。「アンリは嘘だというに決まっています。そして、同時に、陰謀の仲間は決行を見合わせるでしょう。そうしたら、お母さんとわたしはでっちあげをしたことにされます」
「じゃあ、どうするんだ」
「わたしでしたら、サン=ジェルマンの森を包囲して、鷹を追っているふりをしながら、アンリのあとをつけさせ、仲間と一緒になったところを襲います」
「それはいい考えだ。衛兵隊長を呼べ」
シャルル九世はナンセーに小声で指示をさずけた。
そのあいだに、シャルル九世の猟犬のアクテオンが、例の狩りの本をくわえて、ページを歯で喰いちぎりはじめた。 シャルル九世は振り向くと大声で犬を罵《ののし》り、草の鞭でたっぷりとおしおきをくわえた。
幸い、喰いちぎられたぺージは挿絵のページだったので、文章を読むにはさしさわりなかった。シャルルはアクテオンの脚のとどかない棚に本をしまった。
六時の鐘が鳴った。シャルル九世が皆の待つ中庭におりていく時間だった。
階段の途中で、王は立ちどまって、額に手をおいた。アランソン公はひざががくがくと震えるのを感じた。
「なにか、嵐にでもなりそうですね」アランソン公は口ごもりながら言った。
「なに、一月に嵐? 馬鹿な。でも、今日はめまいがするな。肌がかさかさだ。風邪でもひいたかな」
しかし、中庭に足を踏みいれ、朝の空気を吸って狩人たちの声を耳にすると、シャルル九世は急に元気を取り戻した。
シャルルが最初に目をやったのは、アンリだった。アンリはマルゴと一緒にいた。
「おや、アンリ、今日は鷹狩りなのに鹿狩り用の馬に乗っているのか」とシャルルはいった。それから、アンリの返事もきかず出発の合図を命じた。
一行はサン=ジェルマンの森に出発した。
「なんていったの?」マルゴが夫にたずねた。
「馬のことをいっただけだよ」
「なにか知っているわね」
「どうもそうらしい」
「用心しましょう」
カトリーヌ・ド・メディシスは、ルーヴルの窓から一行の出発を見守っていた。彼女はアンリの顔色が悪いのに気づいていた。もちろん、アンリの顔色の悪さは、シャルル九世の態度におかしなものを感じたからだったが、カトリーヌ・ド・メディシスはこれを自分流に解釈していた。
「こんどこそ、あのアンリオの奴を仕留めてやったわ」
そうつぶやくと、成果を確かめるためにアンリの部屋に降りて本を探したが、見つからないので、アランソン公が持ち帰ったものと判断した。
そのころ、一行はサン=ジェルマンの森への道を進んでいた。森へは、一時間半で着いた。色とりどりの衣装に身をくるんだ狩人たちが、緑の森の中に散らばった光景は、緑のつづれ織りを広げたような美しさだった。
シャルル九世は白い馬に乗り、お気にいりの鷹を掌に握って先頭を走っていたが、そのまわりには、緑のタイツに大きなブーツを履いた鷹係の従僕が犬を連れて歩いていた。
ちょうどそのとき、雲の後ろから太陽が顔をだした。すると、まるでそれを待っていたかのように、アオサギが葦の中から、長い叫びを発しながらとびだしてきた。
「ホウ! ホウ!」シャルル九世はそう叫ぶと鷹の目隠しをはずし、大空にときはなった。
「ホウ! ホウ!」皆が、鷹を励ますように一斉に叫んだ。
鷹は一瞬、太陽の光で目がくらんだように旋回していたが、とつぜん、アオサギを見つけると、一気に飛翔を始めた。
いっぽう、アオサギは用心深い鳥だったので、鷹が追撃を始めたときには、すでに地上五百ピエほどの高さに舞い上がっていた。
「ホウ! ホウ! 『鉄の嘴《くちばし》』、ほら、おまえの力を見せてやれ!」シャルル九世は鷹を励ますように大声を張り上げた。
鷹はまるでそれが聞こえたかのようにアオサギめざして、対角線を描くような急角度で上昇を開始した。
二羽の鳥はたちまち接近したが、アオサギは、自分のほうが上にいる利点を活用して、下からせまってきた鷹に、長い嘴で思いきり攻撃を加えた。鷹は一撃をくらって旋回しながら落下しはじめたが、やがて猛禽の本能を発揮して反撃に転じた。
アオサギは今度は高さではなく、距離を引き離して逃げきろうと考えたらしく方向を変えて森のほうへ逃げ去ろうとした。鷹はそれを追いかけて、やがて二羽ともまめつぶのように小さくなった。
シャルル九世はその戦いをじっと目で追っていたが、やがて、近くにいたアンリにむかって叫んだ。
「ブラヴォー! 『鉄の嘴』が上になった、ほら聞こえるだろう。アオサギが助けを呼んでいる。ほら戻ってきた」
実際、ふたたびあらわれたとき、鷹のほうが上になっていた。アオサギはもう観念したのか、叫びをあげるだけで逆らおうとはせず、そのまま落下していた。地面に落ちたとき、鷹はアオサギに覆いかぶさると、一声勝利の叫びを発した。
シャルル九世は二羽の落ちた地点まで馬を飛ばして駆けつけようとしたが、そのときとつぜん馬のたづなを引き、片方の手で胃をおさえて呻き声をあげた。みなが一斉に駆け寄ったが、シャルル九世は顔を歪めながら、胃がすこし痛んだだけでもうだいじょうぶだといった。
アランソン公は蒼白になった。
「どうしたんだ、またなにかあったのか?」アンリはマルゴにたずねた。
「わからないわ、でも弟の顔が真っ青よ」
「彼らしくもない」
落下地点までたどりつくと、シャルルは馬を降りたが、急に激しい吐き気に襲われたらしく、鞍につかまって必死に身を支えていた。
「どうしたの兄さん」マルゴが叫んだ。
「熱い。息が焔のようだ。たぶん、太陽で頭が熱くなったせいだろう。さあ、狩りを続けよう。さあ行くぞ! 目隠しを外せ!」
従僕たちが、一斉に四、五羽の鷹を大空に放った。
「どうだ、やるか?」アンリはマルゴにたずねた。
「絶好のチャンスだわ。王が振り向かなければ、ここから簡単に森に入れるわ」
アンリは、仕留められたアオサギをもった従僕を呼びとめた。そして、獲物を検分するふりをして後に残った。
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第五十一章 フランソワ一世の館
ヴィオレット渓谷の右手に、かなり奥に引っ込んだ林間の空地があった。その空地の草の上に、二人の男がマントを敷いて横になっていた。そのわきには長い刀と騎兵銃が置かれていた。
そのうちの一人は片ひざをつき、近くにいる野ウサギや鹿のように聞き耳を立てていた。
「さっきは、狩りがこのすぐ近くまで近づいていたような気がしたが」
「いまはなにも聞こえない。遠くにいってしまったんだろう。ここは、観察の場所としてはよくない。見られないかわりに見ることもできないんだから」
「そんなことはないさ、ココナス」と最初の男がいった。「われわれの馬二頭に、ナヴァール王夫妻の替え馬二頭、それにロバ二頭を隠しておかなくちゃならないんだから、これだけの場所はない。ド・ムイ殿はやっぱり本物の陰謀家だ」
「ほらみろ、ついにいったじゃないか」ココナスはいった。「おれたちは陰謀を企てているんだ」
「陰謀じゃない。おれたちはナヴァール王と王妃に仕えているんだ」
「そのナヴァール王と王妃が陰謀を企てているんだから同じことだ」
「おいココナス、おれはおまえについてきてくれって頼んだ覚えは一度もないぞ。いやなら帰っていい」
「だれが、頼まれたなんていった。おれはただ、おまえが危ない橋を渡るとこを見てられないだけだ」
「おい、ココナス、いまナヴァール王妃の白馬が見えたような気がしたが」
「ちがうな。まだ時間はありそうだから、おれはひと眠りする」
だが、大地に耳を押しつけた瞬間、ココナスは指を一本立て、ラ・モールに合図した。
「今度はなにかくる。あそこにいる鹿を見てみろ」
ラ・モールは鹿を見た。鹿は音のする方へ耳を立てていたが、突然、雷光のように走り去った。
実際、はるか遠くのほうから何頭もの馬の走る地響きが聞こえた。
ラ・モールは色めきたったがココナスは落ち着いていた。
まもなく、一頭の馬のいななきが聞こえ、そばの小道を一人の女が影のように走りすぎるのが見えた。女は振り向きざまに、不思議な身振りをして消えた。
「ナヴァール王妃だ!」二人は一斉に叫んだ。
「あれはなんの合図だ」ココナスがたずねた。
「こんなふうにしただろう、あれは『すぐに』ということだ」
「こんなふうにもしただろう。あれは『逃げて』ということだ」ココナスがいった。
「いや、『わたしを待っていて』ということだ」
「そうじゃない。『逃げて』だ」
「わかった。こうなったら信念にしたがって行動しよう。おまえは逃げろ。おれは残る」
ココナスは肩をすくめ、また横になった。
そのとき、同じ道を反対方向に向かって、プロテスタントの騎兵の一団がすごい勢いで通りすぎていった。
「こりゃ、大変だ」ココナスがいった。「フランソワ一世の館に行こう」
「それはだめだ。ぼくらが見つかったら、ナヴァール王がそこをめざしていたことがバレる」
「たしかにそのとおりだ」
ココナスがその言葉をいいおわらないうちに、馬に乗った一人の男が、溝や薮を飛び越え閃光のようにあらわれた。その男は両手にピストルをもち、ひざだけで馬を操っていた。
「ド・ムイ殿だ! ド・ムイ殿が逃げている!じゃあ、引き上げか?」
「いそげ!」ド・ムイは叫んだ。「見破られたぞ! 知らせにきたんだ! 逃げろ!」
だが、ド・ムイは走りながら叫んだので、二人は意味がよくつかめなかった。
「王妃は?」ラ・モールは大声でたずねたが、そのときにはド・ムイの姿は消えていた。
ココナスはすでに出発の決心を固めた。だが、ラ・モールは動かずに、ド・ムイの消えた方角をじっと見つめていた。
「さあ、行くぞ! ド・ムイがいってたんだから本当だ」
「ちょっと待て」ラ・モールが答えた。「おれたちはここへなにしにきたんだ」
「それはいいが、おれたちの首がなくなるぞ。ド・ムイが逃げたら、みんな逃げていいんだ」
「ド・ムイはマルグリット王妃を連れ帰る役目じゃない。それに愛してもいない」
「いいかげんにしろ。恋のおかげで勇敢な二人の男の首がなくなるんなら、恋なんか悪魔に喰われろだ。さあ、行くぞ、ラ・モール」
「勝手に逃げてくれ」
「どうせいうなら、『ココナス、おれと一緒に死んでくれ』といってくれ! どうやらおれの予感は正しかったらしいな、首切り役人と友達になっておいてよかったよ」
「縁起でもないことをいうな。おれたち二人で五十人の人間ができなかったことをやってみせるんだ。王と王妃を見つけにいくんだ」
だが、ラ・モールが鞍に手をかけたとき、命令する声が聞こえた。
「止まれ! 手を挙げろ!」三十人ほどの軽騎兵が藪の陰からあらわれた。
「いわんこっちゃない」ココナスがつぶやいた。
ラ・モールはうめきともつかない溜息をもらした。
「おい、ラ・モール、いまなら、まだ逃げられる。馬に飛び乗って逃げよう」
「だめだ。おれたちはマルグリット王妃の馬とロバを連れている。見つかったら王妃が危ない。おれがなんとか言い逃れをする」ラ・モールがいった。
「おーい、降参するけど、なんの理由で降参するんだ」
「アランソン公に聞け」
二人は抵抗せずに逮捕された。一行はフランソワ一世の館へと向かった。館の隣には、小さな田舎家があったが、その田舎家にはプロテスタントの捕虜たちが押し込められていた。
プロテスタントの兵士たちは、森のところどころに歩哨を立てていたが、衛兵隊長ナンセーの機転で服装を替えていた軽騎兵にたやすく逮捕されてしまった。軽騎兵たちはフランソワ一世の館を包囲した。
しかし、ナヴァール王を誘導するため、ヴィオレット渓谷の端で待っていたとき、ド・ムイは軽騎兵たちに気づいた。やがて、ナヴァール王の姿が見えたので、帽子で十字を切り、計画が失敗したことを知らせ、待機していたラ・モールとココナスに逃げるよう指示して、からくも逃亡に成功した。
いっぽうシャルル九世は、ナヴァール王と王妃が姿を消したことを知り、アランソン公に付き添われて、フランソワ一世の館に到着した。そこに全員を押し込めてあると聞かされていたので、ナヴァール王夫妻がその小屋から引き出されるところを見てやろうと思ったのである。
だが、捕虜のなかに、ナヴァール王夫妻とド・ムイの姿はなかった。
ナヴァール王夫妻の姿は見かけなかったと衛兵隊長のナンセーが答えたとき、狩りの一行に加わっていたヌヴェール夫人が叫んだ。
「あそこにいるわ!」
実際、川に面した小道のはずれにアンリとマルゴがなにごともなかったように姿をあらわした。二人とも、手に鷹を握り、仲むつまじそうに寄り添いながら馬をすすめていた。
アランソン公が怒り狂ったようにあたりの地面を蹴っているとき、ラ・モールとココナスが連行されてきた。ラ・モールは真っ青で、ココナスは真っ赤な顔をしていた。
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第五十二章 尋問
シャルル九世はナヴァール王夫妻が小道の端にあらわれたとき、ほっと胸を撫でおろした。アランソン公の言葉が偽りであればと願っていたからだ。だが、内臓の痛みはますます激しくなった。
アンリは王に駆け寄ったが、シャルル九世は冷たく言い放った。
「どこに行っていたんだ?」
「鷹狩りですが……」
「鷹狩りは、森の中ではやらんぞ」
「わたしの鷹がキジに襲いかかったもので」
「キジはどこなんだ?」
「ここです」
アンリはまったく罪のないふうを装って、キジをシャルル九世に示した。
「では、キジをつかまえたあと、なんでわたしたちのところに戻らなかったんだ」
「鷹が公園のほうへ飛んでいってしまったからです。追いつこうとしたのですが、遠くはなれてしまったんです」
「じゃあ、この兵士たちはなんだ? 彼らも招待したのか?」
「どの兵士ですか?」
「おまえの仲間のユグノーだ。招待したのは、すくなくともわたしではない」
「たぶん、それはアランソン公でしょう」
「アランソン! なんだそれは?」
「ぼくが?」アランソン公が口を挟んだ。
「だって、昨日ナヴァール王になったっていってたじゃありませんか?」アンリが答えた。「ユグノーたちは、王になってもらったお礼をいいにきたんでしょう。そうだろう、きみたち?」
「そのとおり! アランソン公万歳! シャルル九世万歳!」兵士たちが一斉に叫んだ。
「ぼくはユグノーの王なんかじゃない!」アランソン公は怒りで蒼ざめながら、吐きすてるようにいった。「ド・ムイをつれてこい!」
「ド・ムイは捕虜のなかにはいません」ナンセーが答えた。
アランソン公は罵りの言葉を吐いた。
「それよりも」と、とつぜん、マルゴがラ・モールとココナスを示しながらいった。「陛下、この人たちはアランソン公の部下です。尋問してみてください」
「ぼくの部下じゃないことを証明するために逮捕したんです」アランソン公が答えた。
シャルル九世は二人の男を見て、ぎくりとした。
「またこのプロヴァンス男か。おまえたちは逮捕されたとき、なにをしていたんだ」
「木陰の下で寝ていました」ココナスが答えた。「逃げようと思えば、逃げられたのですが、逃げませんでした」
「そのとおりであります」軽騎兵の一人が答えた。
「じゃあ、替え馬やロバはなんなんだ?」アランソン公がたずねた。
「わたしたちは馬丁ではありませんから、彼らにおたずねください」
「もう、いいかげんにしろ。尋問はそれぐらいでいい」シャルル九世がいった。「寒気がする。もうパリに帰るぞ」
やがてシャルル九世は馬に乗っていることができなくなって、担架で運ばれた。
マルゴは体も心も自由を失っていなかったので、ラ・モールのそばを通ったとき、ギリシャ語でささやいた。「|Me deide《メー・デイデ》(心配しないで)」
シャルル九世はルーヴルに戻ると、アンブロワーズ・パレ以外はだれも部屋に通さないように命じて寝室にとじこもった。陰謀のことなどどうでもよかった。だが、ふと思い返して、アンブロワーズ・パレがくるまでの時間を利用して、アンリと話をしておこうと思いたった。
アンリはナンセーに付き添われてやってきた。
「アランソンのいってることはどこまで本当だ?」シャルル九世はたずねた。
「半分だけです」アンリは答えた。「逃げることになっていたのはアランソン公で、わたしは、それについていくことになっていました」
「どうしてついていくことになっていたんだ。わたしに不満があったのか?」
「とんでもありません。それは神もご存じのはずです」
「好きな人間から逃げるというのは道理に合わないのではないか?」
「わたしが逃げようとしたのは、わたしを憎んでいる人たちからです」
「だれだ、それは。いってみろ」
「アランソン公とカトリーヌ母后です」
「アランソンはわかるが、母后はおまえのことをかわいがっているじゃないか」
「だからこそ信用できないんです。陛下がもしわたしを愛していてくださるのなら、わたしに生きていてほしいとお思いになりますね?」
「それはそうだ。おまえになにか不幸があったら、わたしは絶望するだろう」
「それでしたら、陛下はあやうく二度絶望なさるところでした」
「なんだ、それは?」
「二度、摂理がわたしの命を救ってくれました。二度目のとき、摂理は陛下のお姿をとってあらわれました」
「一度目というのはなんだ?」
「調香師のルネでございます」
「ルネ?」
「ルネがわたしを毒殺から救ってくれました。二度、奇跡が起こったのですが、正直申して、わたしは天が奇跡を起こすのに飽きてしまわないかと恐れているんです。そこで、わたしは『天はみずからを助くる者を助く』を実行したのです」
「それなら、なぜもっと前にいわない?」
「それでは、わたしは讒言《ざんげん》者になってしまいます」
「ではなぜ今いったのだ?」
「告発され、自分を守らなければならないからです」
「これからも、まだ暗殺が企てられると思うのか?」
「毎晩、自分が生きているのが不思議なくらいです」
「それは、おまえがわたしに愛されているからだ。とりあえず、おまえを自由にしてやろう」
「パリを離れてもよろしいのでしょうか」
「それはだめだ。わたしは、自分を愛してくれる人間にそばにいてもらいたい」
「それでしたら、ひとつお願いがございます」
「なんだ」
「友達としてではなく、囚人としておそばにおいてくださいませ」
「おまえは、わたしの愛より憎しみのほうがいいのか」
「陛下に憎まれていると思われているかぎり、命を狙われることはありませんから」
「おまえの考えていることはよくわからんが、そうしてほしいというなら、そうしよう。おい、ナンセー、この極悪人を護送しろ」
アンリはうちひしがれたふうを装って、ナンセーの後に続いて部屋を出た。
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第五十三章 アクテオン
一人になると、シャルル九世は、乳母のマドレーヌと猟犬のアクテオンという二人の忠義者が両方とも姿を見せないことに驚いた。
「お乳母《かあ》さんは、どこか知り合いのユグノーのところにでも行って詩篇の歌でも歌っているんだろう。それにアクテオンの奴は、今朝、鞭をくれてやったんでまだふくれているにちがいない」
事実、シャルルが蝋燭を手に取って乳母の部屋に行ってみると、乳母はいなかった。乳母の部屋のドアは、先述のように、武器室にむかって開いていた。シャルルはそのドアに近づいた。
だが、そこに行く前に、何度か襲ってきた発作がまたとつぜん彼をとらえた。王は、内臓を灼熱の鉄棒で掻き回されたように七転八倒した。激しい渇きが彼をさいなんだ。テーブルの上に牛乳を入れたカップがあるのに気づいて、一息に飲み干した。少し落ち着いたように感じた。
そこで、家具の上に置いた蝋燭をふたたび手に取って、武器室に入っていった。
驚いたことに、アクテオンは迎えに出てこなかった。だれかが、どこかに閉じこめてしまったのか? だが、そうだとしても、主人が狩りから帰ってきたことに気づいて、吠えたてるはずだ。
シャルルは名前を呼び、口笛を吹いたが、なんの気配もしなかった。
彼は四歩前に進みでた。すると、蝋燭の光で武器室の隅が照らされたので、タイルの上になにか動かぬ塊が横たわっているのが見えた。
「おい、アクテオン!」シャルルは声をかけた。
それから、もう一度、口笛を吹いた。
犬は微動だにしなかった。
シャルルは駆け寄って、犬にさわった。哀れな動物は冷たくなって硬直していた。苦痛に歪んだ口からは、胆汁が数滴こぼれおち、血の混じった泡だらけの唾といっしょくたになっていた。犬は武器室で主人の三角帽を見つけて、これを友の代わりにしてその上に頭をもたせかけて死のうとしたのだった。
この光景は彼に自分の苦痛を忘れさせ、急に力を回復させた。怒りが血管の中に渦巻き、大声で叫びたくなった。だが、王というものは、偉大さを義務づけられているので、普通の人間なら情熱や防御本能に駆られて起こすこの最初の仕草が許されていない。シャルルは、この事件のなかにだれかの裏切りがあるのではないかと思って、口をつぐんだ。
そこでシャルルは愛犬の前にひざまずいて、死体を犬の専門家の目で調べてみた。目は濁り、舌は赤く膿疱《のうほう》が浮き出ている。それは奇妙な病気だった。シャルルは全身が総毛立つのを感じた。
王は、腰のベルトに挟んでいた手袋をもう一度はめなおして、犬の鉛色の唇をめくり、歯を調べてみた。歯溝に白っぽい切れ端が狭まり、尖った犬歯の先にひっかかっていた。
彼はその断片を抜き取った。紙切れだった。
その紙切れのそばの腫れかたは一段とひどく、歯茎にはむくみがきていた。そして、皮膚はまるで硫酸をかけたようにぼろぼろになっていた。
シャルルは注意深くまわりを見回した。絨毯の上に犬の口の中に見つけたのと同じ紙切れが二、三片散らばっていた。その紙切れの中の、ほかのものより大きい一片には、木版画の挿絵が描かれていた。
シャルルの髪の毛が逆立った。挿絵は鷹狩りをしている領主を描いたあの絵だった。アクテオンが狩りの本から喰いちぎってしまったあのぺージの絵に間違いない。
「ああ」と彼は真っ青になっていった。「本には毒が染み込ませてあったんだ」
と、とつぜん記憶が蘇ってきた。
「なんてこった! おれは全ページ指で触り、そのたびに指を口で濡らしたぞ。あの失神も、あの激痛も、あの吐き気も……ああ、おれは死ぬんだ!」
しばらく、シャルルはこの恐ろしい考えの重みで、動くことができなかった。それから、圧し殺した呻き声をあげて立ち上がると武器室の扉のほうに飛んでいった。
「ルネ親方を呼べ!」彼は叫んだ。「フィレンツェ人のルネ親方だ! だれか、サン=ミッシェル橋まで走っていってルネ親方を連れてこい。十分以内にここに来させろ。馬に乗って、替え馬も連れていけ。帰りは、すこしでも速いように替え馬に乗って戻ってくるんだ。アンブロワーズ・パレがきたら、待たせておけ」
衛兵の一人が命令に従うため走っていった。
「ああ」とシャルルはつぶやいた。「全員を拷問してでも、この本をアンリオに渡した奴がだれかあばいてやるぞ」
そして、額に汗を浮かべ、両手を握りしめ、胸で大きく呼吸しながら、シャルルは愛犬の死体をじっと見つめていた。
十分後、フィレンツェ人ルネが、おずおずと、そして、いささか不安気に、シャルル九世の居室のドアをたたいた。彼は、心の空がけっして晴れわたることのないある種の魂に属していた。
「入れ!」シャルル九世はいった。
調香師のルネが姿をあらわした。シャルルは、威厳を保ちながら、だが唇を引きつらせ、彼のほうに歩いていった。
「陛下、わたくしをお呼びだそうですが」
「化学に巧みときいたが」
「それは……」
「最高の医者も及ばぬほどの知識があると」
「陛下は誇張しておられます」
「いや、母からそう聞いた。それに、わたしはおまえを信頼しておる。ほかのだれよりもおまえに見てもらいたい。これだ」そういいながら、彼は、犬の死体の覆いをとった。「見てくれ。この動物の歯の間にあるものを。そして、死因はなにか教えてくれ」
ルネは蝋燭を手にして床にしゃがみこんだ。それは王の命令に従うというよりも、自分の動揺を隠すためだった。いっぽう、シャルル九世は立ったまま、ルネをじっと見つめ、ルネの口から出るはずの、死刑の宣告あるいは治癒の保証を、いらいらしながら待った。この気持ちはだれにでも容易に理解できるだろう。
ルネはポケットからメスのようなものを取り出すと、犬の口を開け、歯茎にこびりついていた紙切れをメスの先で取り除き、それぞれの傷口からこぼれでている胆汁と血液を、長いあいだ注意深く見ていた。
「陛下」と、ルネは震えながらいった。「まことに悲しい症状が出ております」
シャルルは冷たい戦慄《せんりつ》が血管を走り、心臓にまで入りこむのを感じた。
「やはりそうか、この犬は毒殺されたのだな?」
「そのようでございます」
「で、どんな毒だ?」
「おそらくは、鉱物系の毒かと思われます」
「とにかく、毒殺されたことだけは確かなのだな?」
「はい、解剖して、胃を調べれば確実にわかります」
「では解剖しろ。疑いを残したくない」
「それでしたら、だれか、助手を呼んでいただかないと」
「わたしが、助手をやる」
「陛下が!」
「そうだ、わたしがやる。毒殺されたとしたら、なにか症状のようなものを見つけることができるのか?」
「胃の内部に赤い斑点と樹枝状分化が見られるはずです」
「よし、それでは始めてくれ」
ルネはメスを一振りして猟犬の胸を切り裂き、傷口を両手で力いっぱい広げた。その間、シャルルは床にひざをつき、震える硬直した手で蝋燭を支えていた。
「ご覧ください、陛下」ルネはいった。「ここに、はっきりとした跡がございます。赤い斑点はさきほど申しあげたとおりです。植物の根に似た血の脈は、わたくしが樹枝状分化と呼んだものでございます。いたるところに、これが発見できます」
「では、犬は毒殺されたのだな」
「さようでございます」
「鉱物性の毒で?」
「まずそれに間違いはありません」
「もし、人間が不注意で、これと同じ毒を飲んでしまったら、どんな症状が出るのだ?」
「ひどい頭痛、燃えた炭を飲み込んだかのような内臓の灼熱感、内臓の激痛、それに吐き気でございます」
「ほかに、喉の渇きは?」
「癒しがたい渇きがございます」
「そうか、やはりそうか」と王はつぶやいた。
「陛下、おたずねの意図を解しかねますが」
「そんなことはどうでもいい。知る必要もない。ただこちらの質問にこたえてくれればそれでいい」
「それでは、どうぞ、ご質問ください」
「この犬と同じ毒を飲み込んでしまった人間に解毒剤を処方するとしたら、それはなんだ?」
ルネはしばらく考えこんだ。
「鉱物性の毒にも何種類がございます。お答えする前に、服毒のしかたがわかりましたなら。陛下は、この犬がどのようなかたちで毒殺されたとお考えでしょうか?」
「それはだな。本のページを噛み切ったのだ」
「本のページ?」
「そうだ」
「陛下はその本をおもちで?」
「これだ」シャルル九世は、置いてあった棚から本を取り、ルネに見せた。
ルネはハッと驚いたが、その動きをシャルルは見逃さなかった。
「この本のページを噛み切ったとおっしゃるのでございますか?」ルネは口ごもった。
「そうだ、このページだ」
そういうと、破かれたぺージを見せた。
「もう一枚破いてもよろしゅうございますか?」
「かまわん」
ルネはページを破くと、それを蝋燭に近づけた。紙に火がつき、なにやらいくつかの物質が合わさったような強い匂いが武器室の中に広がった。
「犬は砒素の化合物で毒殺されたようです」
「それは確かか?」
「はい、わたくし自身で調合したようにわかります」
「で、解毒剤は?」
ルネは首を横に振った。
「なんだと?」シャルル九世はしわがれた声でいった。「解毒剤はないのか?」
「もっとも効き目があるのは、牛乳に卵の白身を混ぜたものでございますが、しかし……」
「しかし、なんなんだ?」
「しかし、それもすぐに服用いたしませんことには、もし遅れたら……」
「もし遅れたら?」
「陛下、これは恐ろしい毒でございます」もう一度、ルネは説明を始めた。
「だが、すぐには、人を殺さない」シャルルがいった。
「さようでございます。しかし、殺すのは確実でございます。死ぬまでの時間は問題になりません。ときには、ちゃんと計算できることもございます」
シャルル九世は大理石のテーブルに手をついた。
「ところで」とシャルルはルネの肩に手を置いて口を開いた。「おまえは、この本を知っているのか?」
「わたくしが、でございますか?」ルネは真っ青になって答えた。
「そうだ、この本を見たとき、ハッとしたではないか」
「陛下、誓って申しあげますが……」
「ルネ、いいか。これからいうことをよく聞け。おまえはナヴァール女王を手袋で毒殺した。ポルシアン殿下をランプの煙で殺した。さらに、コンデ公を練り香で毒殺しようとした。ルネ、いいか、もし、この本がだれのものかいわなかったら、焼いたやっとこで、おまえの肉を一片ずつ切り取ってやるぞ」
ルネはすぐに、王の怒りは冗談ではないことを理解した。そして、ここは思いきっていうほかないと決心した。
「では、もし、わたくしが本当のことを申しあげましたら、申しあげない場合よりもひどい罰は受けないと、どなたかに保証していただけますでしょうか?」
「このわたしが保証する」
「王としてお約束していただけますのでしょうか?」
「まちがいなく、命を保証する」
「それでは申しあげます。この本はわたくしのものでございます」
「なに、おまえの本!」シャルル九世は、思わずたじろいで、途方にくれたような目で毒殺者を見つめた。
「いかにも、わたくしの本でございます」
「では、どうして、おまえの手を離れたのだ?」
「カトリーヌ母后さまがわたくしのところからもっていかれたからでございます」
「母后が!」シャルル九世は叫んだ。
「さようでございます」
「だが、なんの目的で?」
「おそらく、ナヴァール王にお見せするおつもりで。ナヴァール王は鷹狩りのことを勉強したいからなにか本はないかと、アランソン公におたずねになられたようでございます」
「ああ、それだ」シャルルは叫んだ。「なにもかもわかったぞ。じつは、その本はアンリの部屋にあったのだ。これも運命だ。わたしはそれに従うほかない」
そのとき、とつぜん、シャルル九世は乾いた咳の激しい発作に襲われた。それに続いて、内臓の激痛が彼を襲った。シャルルは二、三度、圧し殺したような叫びを発し、椅子の上で身をのけぞらせた。
「どうなされました、陛下?」ルネはおびえたような声でたずねた。
「なんでもない」シャルル九世は答えた。「ただ、ひどく喉が渇く。なにか飲物をくれ」
ルネはコップに水を注ぎ、それを震える手で王に差し出した。王は水を一気に飲み干した。
「さあ」とシャルル九世は、ペンを取り、それをインク壼の中に浸してからいった。「この本の上に書け」
「なにを書くのでございましょうか?」
「これからわたしがいうことだ。『この鷹狩りの本は、わたしからカトリーヌ・ド・メディシス母后に渡されたものである』」
ルネはペンを取って、そのとおりに書いた。
「そして、署名しろ」
ルネは署名した。
「わたくしの命を保証していただけるとおっしゃいましたが」ルネはいった。
「だから、わたしは約束を守るのだ」
「しかし、母后さまからは?」
「ああ、母は、わたしには関係ない。もし、殺されそうになったら、自分で身を守れ」
「陛下、命を脅かされたら、フランスを離れてもよろしゅうございますか?」
「二週間たったら、返事をしてやる」
「しかし、さしあたっては……」
シャルル九世は眉をひそめ、鉛色の唇に指を当てて、人がきたと合図した。
「ああ、ご安心くださいませ、陛下」
ルネは無事に解放されたことを喜びながら、お辞儀をして、部屋をあとにした。
入れ代わりに、寝室のドアに乳母があらわれた。
「どうしたんですか、シャルロ?」
「お乳母《かあ》さん、霧の中を歩いたので、風邪をひいてしまいました」
「本当に、顔色が悪いわ、シャルロ」
「気分が悪いからです。ちょっと、手を貸してください、お乳母《かあ》さん、ベッドに行きますから」
乳母はあわてて近寄った。シャルルは肩をあずけて、寝室にたどりついた。
「もういいです。一人で寝ますから」
「アンブロワーズ・パレがきたら?」
「よくなったから、治療は必要ないと伝えてください」
「でも、とりあえず、なにか薬は?」
「ああ、簡単なものでいいんです。牛乳に卵の白身を入れて掻きまぜたものをください。それから、お乳母《かあ》さん、アクテオンが死んでしまいました。明日の朝、ルーヴルの庭園に埋めてやらなければなりません。あいつは、ぼくのいちばん仲のいい友達でしたから、お墓を作ってやらなくちゃ……その時間があったら」
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第五十四章 ヴァンセンヌの森
アンリは、希望どおり、ヴァンセンヌの城に幽閉された。
護送は、衛兵隊長ナンセーが先導して、駕籠によっておこなわれた。ヴァンセンヌに着いて、扉がしまるたび、アンリは自分とカトリーヌ・ド・メディシスの間に扉がおりるのを感じた。
跳ね橋を渡って、ヴァンセンヌの城に入り、一階のぼってさらに上に行こうとしたとき、ナンセーに引き留められた。
「では、名誉なことに」アンリはいった。「二階の居室をいただけるのかな?」
「さようでございます」ナンセーは答えた。「王侯待遇でございます」
「これはこれは、あと二、三階上の階でもよかったのに」
「それでは、陛下、あとについてきていただけませんでしょうか」
廊下を行くと、その突き当たりに広くて暗い陰気な部屋があった。アンリはいささか、不安気な面持ちで部屋を見回した。
「ここは拷問部屋でございます」ナンセーがいった。
部屋の中にあるのは水責め用の水差しと拷問台、足枷拷問用の楔《くさび》と槌《つち》、それに、拷問の順番を待つ囚人のための石の椅子、そして、壁から下がった鉄の環ぐらいだった。
アンリは一言も発せずにその部屋を通りすぎたが、苦悶の歴史を刻んだこれらの器具のどんな細部も見逃すことはなかった。
おかげで、うっかりして床に穿《うが》たれた溝につまずいてしまった。
「これはなにかな?」
「排水溝です」
「雨が降るのか?」
「ええ、血の雨が」
「ああ、なるほど。わたしの部屋はまだか?」
「こちらです」暗闇の中から声が響いた。
アンリはその声に聞き覚えがあった。
「ああ、きみか、ボーリュー。こんなところでなにをしている」
「陛下、ヴァンセンヌ牢獄長を仰せつかりました」
「ああ、それは幸先がいい。最初の囚人が王なのだから」
「お言葉ですが、すでに二名の貴族を迎えております」
「だれかな、それは?」
「ラ・モール殿とココナス殿です」
「なるほど。で、二人の様子は?」
「一人は歌い、一人は呻いております」
「呻いているのはどっちだ?」
「ラ・モールでございます」
「で、二人は何階にいるんだ?」
「五階でございます」
アンリは溜息をもらした。彼が入りたかったのはそこだったのだ。
「わたしの部屋は二号室? どうして一号室ではないんだ?」
「ふさがっております」
「ああ。わたし以上に高貴な身分の人を待っているんだな? だれなんだ、それは?」
「お答えできません」
アンリはこの「一号室」にいささか面食らったが、それ以外の待遇は悪くなかった。
牢獄長は、アンリのもとを辞去して、牢番とともに五階にのぼった。三番目の扉から、元気な声が聞こえていた。ココナスだった。ボーリューはたずねた。
「金銭はもっていますか?」
「一銭もない」
「では、宝石類は?」
「指輪がひとつ」
「没収します」
ココナスは怒り狂ったが、牢獄長は王の命令だといって聞き入れなかった。
「もう一人のところへ行こう」牢獄長が牢番にいった。
ラ・モールの入れられている独房は、ココナスのところよりも、はるかに陰気な部屋だった。明かりとりといったら、鉄格子のはまった長く細い銃眼が四つついているだけだった。
ラ・モールは部屋の隅にすわっていた。
「所持品没収のために身体検査をします」
「その必要はありません。全部お渡しします。三百エキュと宝石と指輪です」
「首から吊しているその絹紐は?」
「これは宝石ではなく、形見です」
「没収します。衣服以外は没収です」
「わかりました。いまお渡しします」ラ・モールはそういうと、絹紐の先のメダイヨンから小さな肖像画をはずすと、何度かキスしたあと、それを床に落とし、足で踏みつけて、こなごなに砕いてしまった。
「王が必要なのはこのメダイヨンで、肖像画ではありませんね。はい、メダイヨンです」
牢獄長は王に訴えるといって怒って出ていった。すると、あとに残った牢番がこういった。
「百エキュいただいておりますから、お友達とお話ししてもかまいませんよ」
ラ・モールは部屋を出て、真ん中の部屋でココナスと会った。二人は固く抱きあった。牢番は気をきかせて部屋から出ていった。二人で話をしてみると、牢番は両方から金を取っていることがわかった。
しかし、そんなことよりも、二人が恐れていたのはやはり拷問だった。
「ぼくは、口を割らないぞ」ラ・モールは顔を紅潮させていった。
「おれは、しゃべるぞ」ココナスがいった。
「なにを?」驚いてラ・モールがたずねた。
「安心しろ。アランソンの奴を眠らせないようにするだけだ」
ラ・モールがこれに反論しようとしたとき、牢番が入ってきて、二人をそれぞれの房に戻した。
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第五十五章 蝋人形
一週間ほど前から、シャルル九世は、消耗性の熱で病の床に臥《ふ》せっていた。ときどき激烈な発作が起こり、恐ろしい叫び声がルーヴルに響いた。発作がおさまると、シャルル九世は乳母の腕に抱かれてつかの間の眠りに落ちた。
カトリーヌ・ド・メディシスとアランソン公は心の底で、それぞれ、よこしまな考えを育《はぐく》んでいたが、それを言葉にするとしたら、蝮《まむし》の巣の中の醜いからみあいを描くしかないだろう。
いっぽう、アンリは部屋にとじこめられ、マルゴですら面会をゆるされなかった。だれの目にも、アンリは完全に失寵《しっちょう》したと映った。カトリーヌ・ド・メディシスもアランソン公も、それを信じていたが、アンリはようやく落ち着いて食事をとり、眠ることができるようになったのを喜んでいた。
宮廷で、シャルル九世の本当の病因に気づいているものはいなかった。アンブロワーズ・パレは原因と結果を取り違えたが、結局、ルネの与えたのと同じような療法を処方した。
マルゴとヌヴェール公爵夫人は、ラ・モールとココナスの様子を探ろうと何度も試みたが、一度も成功しなかった。
ある朝、シャルル九世は、すこし気分がよくなったように感じたので、宮廷中のものに面会を許可した。面会者たちは憔悴しきった王の顔を見て、この未知の病のすさまじさをあらためて認識した。
カトリーヌ・ド・メディシスとアランソン公とマルゴはあまり間隔をおかず、病室に入ってきた。
カトリーヌは枕元にすわったが、息子が彼女を見つめている視線には気づかなかった。
アランソン公はベッドの足元に突っ立ったままだった。
マルゴは変わり果てたシャルルの顔を見て溜息と涙を抑えることができなかった。
シャルル九世は、その溜息と涙を見逃さず、かすかな会釈をおくった。その会釈はほとんど目に見えないようなものだったが、それを見てマルゴの顔は急に明るくなった。彼女は夫からなにひとつ聞かされていなかったからだ。彼女は、夫のために恐れ、ラ・モールのために震えていた。
「具合はどう? お医者さんはなんとおっしゃっているの?」カトリーヌがたずねた。
「ああ、医者ね」とシャルルはけたたましく笑った。「いや、彼らが話しあっているのを聞くのは実に愉快ですよ」
「兄さんに必要なのは太陽の光ですよ」アランソン公がいった。「狩りに行けば病気もよくなる」
「そうかもしれんが、このあいだはそれで具合が悪くなったからな」シャルル九世のいいかたがなんとも奇妙なものだったので、会話はそれから先には進まなかった。それをしおに、宮廷人はみな退出した。
カトリーヌ・ド・メディシスだけが残った。シャルル九世は、母の冷たい手が自分のほうに伸びたとき、思わず身震いした。
「なにか……」シャルルはたずねた。
「ええ、ちょっと重大な話があってね。あなたのお医者たち、原因と結果を取り違えているんじゃないの?」
「そうかもしれません」シャルルは母の発言の真意がのみこめぬまま答えた。
「わたしは、体と心の両方を治療するお医者さんたちに相談してみたの。それで、あなたの体と心をいっぺんに直す療法を教えてもらったわ」
「なんですか、それは?」
「あなた、カバラとか魔法を信じる?」
シャルル九世はいかにも馬鹿にしたような微笑を浮かべた。
「そりゃ、まあね」
「じつは、あなたの病気はそこからきているのよ。あなたを直接攻撃できないから、陰でいろいろ悪だくみを働いている人がいて、その人が魔法を使ってあなたを亡きものにしようとしているの」
「ナヴァール王だっていいたいんですか?」
カトリーヌは猫かぶりして、目を伏せた。
「ナヴァール王なら脱走を図ったかどでヴァンセンヌにとじこめましたが、彼の罪はもっと重いっていうんですか?」
「あなた、ひどい熱が出て、内臓が焼けるように熱くて、目から脳に抜けるような頭痛がするんでしょ」
「よくご存じですね。そのとおりですよ」
「その原因は、これなのよ」
そういうと、彼女はマントの下からなにやら奇妙なものを取り出した。黄色い蝋でできた蝋人形だった。それは金をちりばめたドレスを着て、上から王のマントを羽織っていた。
「頭の上になにが載っているか見てごらんなさい」カトリーヌがいった。
「王冠ですが」
「じゃあ、心臓の上には?」
「針が刺さっていますね」
「なら、わかるでしょう?」
「わたしですか?」
「そうよ」
「だれが、こんなものを作ったんです?」この茶番にうんざりしたシャルル九世はたずねた。「ナヴァール王でしょう?」
「いいえ」
「ちがうんですか? じゃあ、もうなんのことかわからないな」
「そのものずばりなので、ちがうと答えましたけれど、もっと別のいいかたでたずねられたら、そう、と答えたでしょうね」
シャルル九世は、この不可解な魂の考えを探ろうと試みたが、それは肝心のところで姿をくらましてしまうのである。
「この蝋人形は、鷹狩りの日にナヴァール王の替え馬を用意していた男の部屋から発見されました」
「ラ・モールですか?」
「心臓に刺さっているこの針を見てちようだい。張ってある紙になにか書いてあるでしょう?」
「Mと読めますね」
「死(Mort)のまじないよ」
「じゃあ、ラ・モールがわたしの命を狙っているってことですか」
「そう、心臓を狙う短剣のようにね。でも、その短剣の後ろには、それを押している手があるけれど」
「それじゃあ、この魔法がとけたときに病気も治る、とこういうわけですね。でもどうやれば、魔法がとけるんです」
「魔法をかけた当人が死ねばいいのよ」
「本当ですか?」
「なんですって? 知らなかったの?」
「魔術師じゃないですからね」
「で、本当に、信じるの?」
「もちろん。心の底から」
カトリーヌは満面に笑みを浮かべた。
「それじゃあ、そのラ・モールを罰しましょう」
「その男は手先でしかないと、さっきいったでしょう」
「まずそいつからということにしときましょう。共犯者がいれば、いずれ話すでしょう」
「そうね。話さなければ、話させればいいし。確実な方法があるから。じゃあ、命令が出たものと考えていいのね」
「早ければ早いほどいいでしょう」
カトリーヌは息子の手を握ると、うれしそうに頬笑んだが、シャルル九世の皮肉な笑いには気づきもしなかった。
カトリーヌがドア・カーテンから出ていくと、シャルル九世の背後で衣ずれの音が聞こえた。振り向くと、マルゴがいた。乳母の部屋のほうから入ってきたのだ。
マルゴは蒼ざめた顔をして、もの凄い形相をしていた。なにか強い感情の発作に駆られていることはあきらかだった。
「ああ、陛下。あの人が嘘をついていることはご存じのはず」
「あの人って?」
「わたしだって、実の母を非難するのがおぞましいことだとは存じております。でも、お母さんが、あの人たちを迫害するためにお兄さんに取り入るのを見過ごすことはできません。わたしの命にかけて、お兄さんの命にかけて、わたしは断言します、お母さんは嘘をついているって」
「あの人たちを迫害するって……」
「まずアンリです。アンリはお兄さんのことをだれよりも愛しているのに」
「そう思うかい?」
「ええ。でもなんで逮捕したんですか?」
「それは彼から頼まれたからだよ。わたしに嫌われていると思わせたほうが安心できるというのさ」
「ああ、それはそのとおりです。でも、もう一人迫害されている人がいます」
「だれだ?」
「わたしの口からはいえません」
「ラ・モールだな?」
「あの人は無実です」
「でも、お母さんのいうことを聞いただろう。蝋人形が発見されたってことは聞いたな?」
「その人形のことなら知っています。あれは、男ではなく、女です。胸に針が刺してあるのは、その女から愛されるようにするためで、男を呪い殺す魔術なんかじゃありません」
「ではMという文字はなんだ」
「それは、ラ・モールが愛している女の頭文字」
「なんという名前なんだ、その女は?」
「マルグリット」そういうと、マルゴは兄の手の中に顔を埋めて、ベッドの前に崩れおちた。
「静かに! 人に聞かれる」
「かまいません! たとえ世界を前にしてもわたしははっきりといいます。殺人の汚名を着せるために男の恋を利用するなんて汚らわしいと!」
「マルゴ、わたしは、おまえ以上にだれが真犯人なのか知っているんだ」
「兄さん! 真犯人って、犯罪? 被害者は?」
「わたしだ」
「嘘!」
「嘘? なら、わたしを見てみろ」
マルゴは兄を見つめ、身震いした。
「わたしは、あと三カ月も生きられない。毒を盛られたんだ」
マルゴは叫び声をあげた。
「静かにしなさい。だから、わたしは魔術で死んだと信じさせなくちゃいけないんだ」
「で、兄さんは、真犯人を知っているの? ラ・モールではないわね?」
「ちがう。彼じゃない」
「もちろん、アンリでもない。だとすると……アランソン公」
「そんなところだ」
「それとも、それとも……お母さん?」シャルル九世は黙った。
マルゴはシャルルを見つめ、目の中に答を探した。そして崩れるようにひざをついた。
「なんてこと! ああ神さま! 信じられない!」
「信じられないか」シャルル九世はひきつったように笑った。「ルネがここにいないのは残念だ。いたならば、ある女がルネから狩りの本を借り、それに毒を染み込ませて、狙った相手の部屋に置いておいた、それが運命のいたずらで、別の人間の手に渡ってしまったという話をしてくれただろうに」
「静かに! お願い!」
「というわけで、わたしは魔術で死んだと思わせなけりゃいけない」
「でも、そんなことはおかしいわ。ラ・モールが無実なのは知っているのに」
「わたしだって知っている。でもしかたがないのだ。おまえは恋人の死に耐えろ。フランス王家の名誉を救うためだったら、そんなことは取るにたりないことだ。わたしも、秘密がわたしとともに葬られるために、自分の死に耐えるのだから」
マルゴは、兄に頼んでもこれ以上は無駄だと知って、がっくりと首をうなだれた。そして、泣きながら部屋を立ち去った。
いっぽう、カトリーヌ・ド・メディシスは、大急ぎで、検事総長ラゲールあての手紙をしたためていた。
[#ここから1字下げ]
検事総長殿、今夜、ラ・モールが不敬罪を働いたことがあきらかになりました。彼の自宅を家宅捜索したところ、本および書類等の証拠物件を発見しました。裁判長を呼び、できるかぎり迅速に、蝋人形の審査に入るよう要請いたします。彼ら一味は、心臓に、しかも国王の心臓めがけて一撃を加えたのです。
カトリーヌ
[#ここで字下げ終わり]
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第五十六章 目に見えない盾
カトリーヌ・ド・メディシスがこの手紙を書いた翌日、牢獄長が二人の鉾槍《ほこやり》兵と四人の司法官を従えて入ってきた。
ココナスは検事総長のラゲールと二人の裁判官の待つ部屋に連れていかれた。彼らはカトリーヌ・ド・メディシスの指示にもとづき、ココナスを尋問することにしたのである。
投獄されてから一週間のあいだ、ココナスはさまざまに思いをめぐらしていた。また牢番のおかげでラ・モールとは毎日会うことができたので、完全黙秘を貫くことをたがいに確認しあっていた。ココナスは、牢番の好意がどこからくるのか知らなかったが、とりあえず自分たちを守ってくれるその保護を「目に見えない盾」と呼んでいた。
尋問は、これまで、ナヴァール王の脱出計画に関するものだった。ココナスは、どの質問にも、これ以上はないというぐらい巧みに答えていた。
ところが、とつぜん尋問の内容が変わった。調香師ルネの店を訪れ、蝋人形を作ったことを聞かれはじめたのである。
ココナスは、自分も友も久しく人形遊びなどしたことがないと答えて判事を笑わせたので、してやったりと思って自室に戻った。
つぎにラ・モールが尋問を受けた。ラ・モールはルネの店を訪れたことは認めた。人形は男ではなく女を模したものであり、その目的も、女の愛を勝ち得るためのものだと答えた。その答があまりに首尾一貫していたので、裁判官たちは攻めあぐんでいた。そこに、検事総長あての書きつけが届けられた。
[#ここから1字下げ]
被告が否認した場合は、拷問にかけなさい。……C
[#ここで字下げ終わり]
書きつけを読むと検事総長は微笑して、ラ・モールに退席するようにいった。ラ・モールはすっかり安心して房に戻った。
一時間後、扉の下から紙が差し込まれた。それにはこう書かれていた。
「勇気を出して。わたしが見守っています」
ラ・モールはマルゴの筆跡を認めて歓喜にむせんだ。
そのころマルゴは、愛の思い出に満ちたクロシュ=ペルセ街の家で苦しみにうちひしがれていた。
「王妃で、強く、若く、裕福で、美しく、同時に、わたしが耐えていることを耐えるなんて、そんなことは不可能だわ!」マルゴは叫んだ。
そのとき、とつぜんドア・カーテンがあいて、ヌヴェール公爵夫人があらわれた。
「なにもかも悪いほうに向かっているわ。カトリーヌ母后が尋問の強化を命じたみたい。ルネも逮捕されたわ」
「あの人たちはどうしているの?」
「黙秘を続けているわ。それより、わたしたちの計画のことだけど、わたし、牢獄長のボーリューと取引したのよ。なんてあいつがめつい男なの! 三十万エキュと身代わりの男を一人要求したのよ」
「でも、そんなのなんでもないじゃない」
「なんでもない! 三十万エキュが? そんなこというけど、わたしの全財産売っても足りなかったのよ!」
「ナヴァール王があとから払ってくれたでしょうに」
「まあいいわ、とにかく手にいれたから」
「どうやったのか教えて」
「だれにもしゃべっちゃだめよ」
「盗んだの?」
「これから話すから、自分で考えて。あなた、ナントゥイエって男、知ってるでしょ」
「大金持ちで、高利貸しの?」
「そう、その男がね、ある日、金髪で、三つのルビーを額とこめかみにつけた緑色の目の女が家の前を通るのを見て、こういったの、『ああ、あのルビーのついた三つの場所にわたしがキスしたら、十万エキュのダイヤが三つ生えてくるのに!』」
「それで?」
「それで、ダイヤが三つ生えてきたので、売ったわけ」
「まあ、アンリエット、あなたって!」
「というわけで、三十万エキュと男が一人用意できたの」
「男って、どんな男?」
「身代わりになって殺される男よ」
「その男を見つけたの?」
「もちろん。こっちの値段は、五百エキュで済んだわ」
「五百エキュで、殺されてもいいって男が見つかったの!」
「いろいろ生活がかかっているんでしょ。まあ、それはいいとして、話をよく聞いて。ラ・モールとココナスの世話をしてる牢番は、二人を逃がしてやりたいんだけど、いまの仕事を失いたくないわけ。ところで、牢番は退役軍人だから、傷や怪我のことはよく知っているの。だから、ナイフで致命傷にならないところをココナスが刺してやれば、あの人、国からの補償とわたしたちからの報酬五百エキュを同時に手にいれられるってことよ」
「でも、そのあとどうやって、二人を救い出すの?」
「ヴァンセンヌの城の中で、女の入りこめる場所は礼拝堂だけだから、わたしたちはそこの祭壇の下に隠れて待つの。二人がやってきて、ココナスが祭壇の下に見つけたナイフで牢番を刺すと、牢番は死んだふりをするから、そうしたら、わたしたちがラ・モールとココナスにマントをかぶせて、聖具納室の扉から逃げ出すって手筈になっているの。外に出たら、馬が待たせてあるから、これでロレーヌに逃げればいいわ」
「いつやるの?」
「ボーリューが連絡してきたら」
「ナヴァール王のことなにか聞いた?」
「いままでにないほど元気で陽気だって」
「で母后は?」
「さっき、いったでしょ、尋問を強化しろって命令したって」
「じゃあ、急ぎましょう」
マルゴとヌヴェール夫人は、翌日から毎日同じ場所、同じ時間に会うことを約束してから、固い抱擁を交わして別れた。ココナスが「目に見えない盾」と呼んだのは、この美しく献身的な二人の女だったのである。
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第五十七章 判事たち
ラ・モールとココナスは、蝋人形について尋問されたあと、ふたたび顔をあわせた。ココナスはボーリューから脱走の手筈を教えられたので、それをラ・モールに伝えた。
ラ・モールは、もうすっかり脱出に成功した気分になり、マルゴと抱擁しながら野原を馬で駆け抜けていく自分の姿を想像してうっとりとしていた。だが、そのとき、ふと重大なことに気づいた。
「なんで、ぼくたちは礼拝堂に連れていかれるんだ? 礼拝堂に連れていかれるのは死刑囚しかいないぞ」
「そういえばそうだ」ココナスは蒼ざめながら答えた。「牢番に聞いてみよう」
牢番が呼ばれた。
「約束の場所は、礼拝堂ということになっているが、なんで、礼拝堂に連れていかれるのだ?」
「そういう規則ですから。死刑囚は処刑の前夜は礼拝堂で過ごす決まりになっています」
ココナスとラ・モールは身震いして顔を見合わせた。
「おれたちは死刑囚になると思うのか?」
「それはもう……そう思っていなかったんですか?」
「なんだって!」
「だって、そうじゃなかったら、なんで脱獄の準備をするんですか?」
「たしかにそのとおりだ」ココナスが答えた。
「死刑なんて、そんな馬鹿な!」ラ・モールが呻いた。
そのとき、下の階の扉があく音がしたので、二人はそれぞれの房に戻った。ココナスが食事を済ませて眠ろうとしたとき、錠前の音がして牢番が入ってきた。後ろに何人かの人影が見えた。
連れていかれたのは法廷だった。ラ・モールはすでに入廷していた。今度も、蝋人形について尋問がおこなわれた。
「被告は、この蝋人形に見覚えがあるか?」
「いかにも、ルネのところで見た」
「ルネの店で! それはいつだ?」
「ラ・モールと一緒にルネの店に行ったときだ」
「書記、『被告はルネの店で陰謀の相談をおこなった』と書きなさい」
「おいおい、陰謀の相談をしたなんていってないぞ」
「では、なにをしていたのだ?」
「まじないみたいなものだ」
「書記、『被告はルネの店で王の命を狙ったまじないをした』と書きなさい」
「嘘だ! 第一、あの人形は、女の人形だ」
「では、なぜ、王冠をつけ、王のマントを着ていたのだ?」
「それは簡単だ」
そのとき、ラ・モールがとつぜん立ち上がって、唇に指を当ててココナスを制し、叫んだ。
「それは、ぼくが愛し、愛された女性だ」
「ラ・モール殿、そなたに聞いているのではない。発言をやめなさい。やめないと、槍でつくぞ」裁判長がいった。
「槍でつくだと!」ココナスが叫んだ。「やるならやってみろ」
「ルネを入廷させろ」検事総長が発言した。
「おう、そうだ。ルネに訊くといい」ココナスがいった。
ルネが入ってきた。ルネは見分けがつかないほど憔悴し、年老いてしまったように見えた。
「ルネ親方、この二人に見覚えがあるか?」
「はい、たしかに」
「どこで、見たのだ」
「わたしの店にきました」
ルネが話すうちに、ココナスは晴れ晴れとした顔になり、ラ・モールの顔は厳しくなった。
「なんの目的だ」
「蝋人形を注文しにきました」
「その蝋人形は男だったのか女だったのか?」
「男でした」
ココナスは電気ショックを受けたように椅子から飛び上がった。
「男だと?」ココナスは叫んだ。
「たしかに男でした」ルネは繰り返した。
「どうして、その人形は王冠をかぶり王のマントを羽織っていたのだ?」
「王をあらわしているからです」
「この大ウソつき!」ココナスが叫んだ。
「人形の心臓に刺さっている針にMの字が書かれているがこれはなんだ?」
「針は剣で、Mは『死(Mort)』です」
ココナスはルネを絞め殺そうとして飛び上がったが、廷吏に取り押さえられた。
「尋問はこれにて終了。被告人は退廷」検事総長が宣言した。
ラ・モールとココナスは別々の扉から出ていった。
それを確認すると、検事総長は暗闇の中に控えていた男にむかって声をかけた。
「今夜、あなたの出番ですよ」
「どっちから始めますか」
「こっちから」検事総長はラ・モールの消えたドアのほうをさしていった。それから、ルネに近づいて話しかけた。
「安心してください。母后と王は、真実はあなたが握っているのをご存じですから」
だが、この励ましを聞いたルネはうちのめされて、深い溜息をもらした。
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第五十八章 足枷責め
ココナスが新しい独房に入れられてしばらくすると、人間の叫びとは思えないような、風の唸り声に似た悲痛な声が聞こえた。どうやら、ラ・モールの声のようだった。
「クソッ! 奴らはラ・モールを殺そうとしている!」
ココナスがなにか武器になるようなものはないかと部屋の中をさがしていると、いつもとは違う獄吏が入ってきて、彼についてくるように命じた。
ドア・カーテンが開いて拷問部屋のすさまじい光景が目に入った。ココナスは脚をもがれたような恐怖を感じた。
手前には、綱や滑車のついた拷問台があった。その向こうには炭火が赤い光をあたりに投げかけていた。丸天井を支える柱に、男が一人、綱を手にしてもたれていた。
「この拷問部屋はいったいどういう意味だ?」とココナスが叫んだとき、「マルク・アニバル・ド・ココナス、判決を言い渡すのでひざまずけ」という判事の声が響いた。
二人の男が両側からココナスを押さえつけた。まず罪状が読みあげられ、ついで判決が宣告された。
「以上の罪状により、マルク=アニバル・ド・ココナスはサン=ジャン=アン=グレーヴ広場の監獄に移送され、そこで斬首刑に処せられる。財産はすべて没収される。なお、上記ココナスは、刑の執行に先立ち、十楔《じゅっけつ》の拷問を受ける」
ココナスは飛び上がり、判事をすさまじい形相で睨みつけた。
「なんのためにそんなことをするんだ!」
実際、この拷問で人は死ぬこともあったから、礼拝堂で救出されてもしかたがないわけだ。ココナスは罵り、わめいたが、こうしたことに慣れている判事は取り合わず、仕事にかかるように命じた。ココナスは拷問台に縛りつけられた。
「さあ、白状するかな」判事が落ち着いた声でいった。
「するもんか」ココナスが答えた。
「では、準備しているあいだによく考えるように。それでは、足枷をはかせろ」
この言葉が発せられると同時に、暗闇で柱にもたれかかっていた男が姿をあらわした。
苦悶にみちた驚きがココナスの顔の上に広がった。彼はこの忘れられた旧友から目を離すことができなかった。
拷問係カボッシュは、ココナスと以前に会ったそぶりなど露ほども見せず、彼の両足の間に二枚の板切れを置いた。さらに、外側にも二枚の板切れを置き、それぞれの脚を板切れで挟みこんで、両足ごと紐で固く結びつけた。これが、足枷と呼ばれる拷問器具である。
通常の拷問の場合には、両脚の間に置いた二枚の板切れのすき間に六本の楔を打ち込み、板切れの間隔を広げる。これで肉がつぶれる。特別の拷問のときには、楔が十本になり、骨もくだける。
カボッシュは楔の先を板の間に挟み、槌を手にもって、ひざをついてかがみこんだ。
「一本目の楔を打て!」判事が叫んだ。
たいていの者はこれだけで降参してしまうのだが、ココナスは最初の楔では悲鳴もあげなかった。
「その楔にもう一撃加えろ」
だが、今度も、ココナスはなんともなかった。裁判長は不審に思って、楔が奥まで入っているか調べさせた。カボッシュはかがみこんで調べるふりをしていたが、そのとき小声でココナスに「叫べ、この馬鹿!」とささやいた。カボッシュは友人にせめてもの友情を示していたのだ。
「次の楔、行け!」裁判長が叫んだ。カボッシュは二本目の楔を打ち込んだ。ココナスはとつぜん叫びだした。
「よし効いてきたな!」裁判長はうれしそうにいった。「森の中でなにをしていた」
「もういったぞ。涼んでいたんだ」ココナスはわめいた。
そのときカボッシュが耳元でささやいた。
「自白してください、なんでもいいからしゃべって」
「森へはアランソン公の指示で出かけたんだ」ココナスはいった。それから、アランソン公がナヴァール王を訪れたことや、ド・ムイと会見し、サクランボ色のマントを着せたことなど、楔が打ち込まれるたびに、大きな悲鳴をあげながら、なにもかもしゃべった。
判事はこまかい供述にすっかり満足して、拷問を中止し、医者を呼ぶように命じて立ち去った。
ココナスはカボッシュに心からの感謝を述べた。カボッシュは拷問が痛くないように工夫してくれていたのだ。
「ココナスさん、あなたはわたしの手を握ってくれたただ一人の貴族だ。首切り役人にも情がある。明日は、ちゃんと仕事をするから見ててくださいよ」
「明日? どんな仕事?」
「判決をお忘れか?」
ココナスは判決を忘れてはいなかったが、礼拝堂のことを考えていたのだ。
「さあ」とカボッシュがいった。「拷問台から担架に移るとき、あなたは脚を砕かれていることをお忘れなく。動くたびに叫んでください」
カボッシュはココナスの手を取って担架に乗せた。だが、いくら静かに動かしても、ココナスはすさまじい悲鳴をあげた。
例の牢番があらわれて「礼拝堂へ」と指示した。ココナスは、カボッシュの手を、二度目の今度も、しっかりと握った。
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第五十九章 礼拝堂
ココナスを運ぶ陰気な行列は、押し黙ったまま、ヴァンセンヌの主塔の二つの跳ね橋を渡り、礼拝堂へと通じる城の中庭を横切っていった。礼拝堂のステンドグラスに、赤い服を着た使徒たちの鉛色の顔が薄明かりをうけて浮かびあがっている。
ココナスは、雨の湿り気をたっぷり含んだ夜の空気をむさぼるように吸い込んだ。彼は暗闇の中に目を凝らし、あらゆる状況が自分と友の脱走に味方していることに快哉《かいさい》をあげていた。
ココナスは担架で礼拝堂に運ばれたとき、担架から威勢よく飛び降りないようにするため、懸命に自制心を働かせ、意志の力を総動員しなければならなかった。というのも、礼拝堂の祭壇からすこし手前に、大きな白いマントにくるまれた塊が横たわっているのが目に入ったからだ。
ラ・モールだった。担架に付き添ってきた二人の兵士は礼拝堂の入口でとまった。
「親切なことにおれたちをもう一度一緒にしてくれたんなら、ついでだから、おれを友達の近くまで運んでくれ」ココナスは憔悴したような声でいった。
兵士たちは、そうしてはいけないという命令を受けていたわけではなかったので、なんの不都合もなく、ココナスの頼みをかなえてやった。
ラ・モールは暗い、蒼白な顔をしていた。頭は壁の大理石の上にもたせかけてあった。恐ろしいほどの汗でびっしょりと濡れた髪は、彼の顔に大理石のようなくすんだ白さを与えていたが、髪は恐怖で逆立ったときの固さをそのまま残しているようだった。
牢番の命令で、二人の下僕は、ココナスが頼んだ司祭を呼びに出かけた。
それが打ち合わせしてあった合図だった。
ココナスは、彼らが遠ざかるのを不安そうに目で追っていた。だが、熱っぽい視線を彼らに向けているのはココナスだけではなかった。兵士が姿を消すと、二人の女たちが祭壇の後ろから飛び出して、喜びに震えながら内陣に足を踏みいれたからだ。その喜びは、嵐に先立つ暑くけたたましい風のように、内陣の空気を掻き乱していた。
マルゴは真っ先にラ・モールのほうに駆け寄り、腕をつかんだ。
だが、ラ・モールは恐ろしい叫び声をあげた。それはさきほどココナスが独房の中で聞いて気が狂いそうになったあの叫びだった。
「まあ、ラ・モール。あなた、いったいどうしたの?」マルゴは恐怖でたじろぎながらいった。
ラ・モールは深い呻き声を発し、マルゴの姿を見まいとするかのように、目を手で覆った。
マルゴはラ・モールがあげた苦痛の叫びよりも、この沈黙と仕草に恐怖を感じた。
「ああ、なにがあったの? あなた血だらけじゃない」
ココナスは祭壇のほうに走り寄ってナイフをつかみ、同時にヌヴェール夫人をかき抱いていたが、そのときようやく振り向いた。
「起きて! お願い!」マルゴは叫んだ。「起き上がって! 逃げ出すときがきたのはわかっているでしょう」
ラ・モールの真っ青な唇に、おそるべき悲しみの微笑が浮かんだ。それは自分には頬笑む資格がないと感じている人の微笑のようだった。
「王妃様」ラ・モールはいった。「あなたの計算には、カトリーヌ母后が入っていませんでした。犯罪を勘定に入れていなかったのです。わたしは拷問を受けました。骨はこなごなにくだけ、体全体が傷口のようです。いま、あなたの額に唇をあてようとしただけで、死ぬよりもひどい苦しみが襲ってきます」
そして、実際、ラ・モールは王妃の額に唇をつけたが、それも渾身の力を振りしぼり、顔を真っ青にしたあげくに、ようやくできたにすぎなかった。
「拷問か!」ココナスが叫んだ。「おれも拷問されたが、なんとか耐えた。とすると、あの首切り役人のやつ、おまえには、おれにしてくれたような手加減は加えてくれなかったのだな?」
「ああそうか」ラ・モールはいった。「それでわかった。きみはあの男の家に行ったときあの男と握手したが、ぼくは、人類は皆兄弟ということを忘れていたからな。ぼくは横柄すぎた。神は、ぼくの傲慢を罰したのだろう。これも神のおぼしめしだ」
ラ・モールは手を合わせた。
ココナスと二人の女は筆舌につくしがたい恐怖を感じて目を合わせた。
「さあ、早くしてくれ」牢番がいった。牢番は礼拝堂の入口まで様子を探りにいって、戻ってきていたのだ。「さあ、早く。もう一刻の猶予もできない。ココナス殿、早く、わたしにナイフで切りかかってください。さあ、騎士らしく、ひと思いに。やつらが戻ってきますよ」
マルゴはラ・モールのそばにひざまずいていた。その姿は、死者に似せて作った墓の上にかがみこんだ大理石の像のようだった。
「さあ、ラ・モール、元気を出せ!」ココナスがいった。「おれは力があるからおまえを運んでいこう。おまえの馬に乗せてやる。おまえが鞍の上で体を支えきれないっていうんなら、おまえの後ろに乗って抱いてやろう。とにかく、出発しよう。出発だ。あの牢番がいったことの意味がわかったか? おまえの命がかかっているんだぞ」
ラ・モールは超人的な努力、崇高な努力をした。
「そうだ、おまえの命もかかっているんだな」
そして、立ち上がろうとした。
ココナスはラ・モールの腕の下に手をいれて抱え、立ち上がらせた。ラ・モールはしばらくのあいだ、なにやら低い呻き声のようなものをたてていたが、ココナスが牢番のところに行くために手を放し、支えるのが二人の女だけになったとき、足が二つに折れ、マルゴが涙を浮かべて頑張ったにもかかわらず、一つの塊のように崩れおちた。彼が耐えきれずに発した絹を引き裂くような悲鳴は、礼拝堂の中に不気味なこだまとなって響きわたり、しばらくのあいだ、丸天井の下の空気を振動させた。
「これで、おわかりでしょう」ラ・モールは悲痛な口調でいった。「王妃様、おわかりいただけましたね。どうか、わたしを置いていってください。あなたから最後の『さようなら』をいただければ、ここに、わたしを捨てていってくださってもかまいません。わたしはなにひとつ話しませんでした。マルグリット、あなたの秘密はわたしの愛にくるまれて、わたしと一緒に死んでいきます。さようなら、王妃様、さようなら」
マルゴはほとんどその場を動かず、愛する恋人の頭を抱え、ほとんど宗教的ともいえるような口づけをした。
「アニバル」とラ・モールは呼びかけた。「きみは苦痛にもあわずにすんだし、まだ若くてたくさん生きられるんだから、どうか逃げてくれ、そして、きみが自由になったことを知るという最高の慰めを与えてくれ」
「時間がありません」と牢番が叫んだ。「早く、急いで!」
ヌヴェール公爵夫人はそっとココナスの腕を引いた。いっぽうマルゴは、ラ・モールの前にひざまずき、髪を振り乱し、目からはさめざめと涙を流し、さながら、マグダラのマリアのようであった。
「逃げてくれ、アニバル」ラ・モールがもう一度いった。「敵に二人の無実の男が死んだ姿をさらして、喜ばせることはない」
ココナスはドアのほうにひっぱっていこうとしたヌヴェール夫人をやさしく、ほとんど神々しいほど荘重な仕草で押しのけると、口を開いた。
「奥様、まず、この牢番に約束した五百エキュをお与えください」
「これを」ヌヴェール夫人がいった。
すると、ココナスは今度はラ・モールのほうに振り向いて、悲しげに首を振っていった。
「おい、ラ・モール。おまえは、おれがおまえを見捨てていくとおれを罵っているが、おれは、生きるも死ぬも一緒と誓ったんじゃなかったか? でも、おまえが苦しそうだから、今日のところは許しといてやる」
そういうと、ココナスは断固たる決意のもとに友のわきにふたたび身を横たえると、彼のほうに頭を傾け、唇で額に軽く接吻した。
それから、ココナスは、まるで母親が子供にしてやるように、壁のほうに転がっていた友の頭をやさしくやさしく引き寄せると、自分の胸の上に乗せてやった。
マルゴはうちひしがれていた。彼女はココナスが床に落としたナイフを拾いあげた。
「ああ、王妃様」ラ・モールは彼女の考えていることがわかったかのように、彼女のほうに手を伸ばしながらいった。「ぼくが死ぬのは、ぼくらの愛をだれにも気づかれないようにするためだということを忘れないでください」
「でも、あなたと一緒に死ねないのなら」とマルゴは絶望していった。「わたしはあなたのためになにをすればいいの?」
「きみにはできる」ラ・モールは初めてマルゴに親しげに「きみ」と呼びかけていった。「死がぼくに甘く美しいものになるようにできるはずだ。だから、笑顔でぼくのほうにきておくれ」
マルゴは、まるでラ・モールにもっと話してほしいというように手を合わせて彼に近づいた。
「マルグリット、あの晩のことを思い出してほしい。ぼくが命を差しだす代わりに、きみがぼくに神聖な約束をしてくれたあの晩のことを。ぼくは今日、こうして本当にきみに命を与えているのだから」
マルゴは身震いした。
「ああ、思い出してくれたんだね」とラ・モールはいった。「だって、きみは震えたから」
「ええ、ちゃんと覚えているわ」マルゴはいった。「わたしの魂に誓って。イヤサント、その約束はちゃんと守るから」
マルゴはまるで、もう一度、神を証人にしようとするかのように、その場所から祭壇のほうに手を差しのべた。
ラ・モールの顔は、さながら、礼拝堂の丸天井が大きく開き、天井の光線が彼のところまで射しこんだかのように急に明るくなった。
「人がきます、人がきます」牢番が叫んだ。
マルゴは叫びをあげて、ラ・モールのほうに駆けよろうとしたが、ラ・モールの悲しみを倍にすると思って、震えながら、彼の前に立ち尽くした。
ヌヴェール夫人はココナスの額に唇をあてるといった。
「わたしのアニバル、あなたの気持ち、わかるつもりよ。わたしはあなたに従うわ。あなたがヒロイズムで死ぬことは知っています。でもわたしは、ヒロイズムがあるからこそあなたを愛しているんです。わたしは、あなたを、どんなものよりもあなたを愛することを誓います。そして、マルグリットがラ・モールのためにすると誓ったことを、それがなにかは知らなくても、あなたのために同じようにすると誓います」
そういうと、彼女はマルゴに手を差しのべた。
「そういってくれてうれしいよ」ココナスがいった。
「別れる前に、最後のお願いがあります」ラ・モールがいった。「わたしになにか、あなたの形見の品をください。わたしが死刑台に上がる前に口づけできるようなものを」
「ああ、それならこれを」
マルゴは、金の鎖のついた小さな金の聖遺物箱を首からはずした。
「これは、わたしが子供のときからもっている聖遺物の小箱です。わたしがまだ小さくて母から愛されていたころに、母が首に下げてくれたものです。叔父のクレメンス教皇からの形見で、わたしは肌身離さずもっていました。これを取っておいてください」
ラ・モールはそれを受けとると、狂おしく口づけした。
「扉があきます」牢番がいった。「早く、逃げてください。逃げて」
二人の女は祭壇の後ろに飛び込み、姿を消した。
それと同時に、司祭があらわれた。
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第六十章 サン=ジャン=アン=グレーヴ広場
朝の七時だというのに、パリの町には、広場にも通りにも河岸にも物見高い群衆がごったがえしていた。
朝十時、ラ・モールとココナスを乗せた荷馬車はヴァンセンヌを出発し、サン=タントワーヌ街を横切って、ゆっくりと進んでいた。通り道には群衆が押すな押すなの人垣を作っていた。
じっさい、これは、カトリーヌ・ド・メディシスがパリの民衆のために提供した悲痛な見世物だった。
荷馬車には、黒い服を着せられたココナスとラ・モールがたがいに肩を寄せあうようにしてすわっていた。ココナスはひざの上にラ・モールを乗せ、ラ・モールは馬車の横板越しにぼんやりとした視線をあちこちさまよわせていた。
いっぽう、群衆は、車よけ石の上に乗ったり、壁のくぼみによじのぼったりして、馬車の中の囚人のどんな細部も見逃すまいとしていた。
ラ・モールのほうは完全黙秘を通したのに対し、ココナスは拷問に耐えきれず全部白状したと噂していた。
馬車の中の二人には群衆の話はよく聞こえていた。ココナスは馬車の中から愚かな群衆を、凱旋将軍のように見つめていた。
「まだ着かないのか。ぼくは気絶しそうだ」ラ・モールがいった。
「待て、もうすこしだ。いまティゾン街とクロシュ=ペルセ街の家の前を通るぞ」ココナスが答えた。
「ああ、体を持ち上げてくれ。もういちど、あの幸せな家を見てみたい」ラ・モールがいった。
ココナスはカボッシュに頼んでティゾン街で馬車をとめてもらった。
ラ・モールは涙にぬれた目でこの懐かしい家を見つめた。
「さらば、青春と愛と人生」そういうとラ・モールはがっくりと首を落とした。
「おい、元気をだせ。野次馬がおれたちを笑っているぞ」
カボッシュは馬に鞭をあてた。そしてもう一方の手で、気つけ薬の染み込んだスポンジを渡した。ココナスがそれをかがせてやるとラ・モールは意識を取り戻した。
「ああ、生まれかわったみたいだ」ラ・モールがいった。
彼は首から下げた聖遺物箱にキスした。やがて、河岸の角まできたとき、むきだしの処刑台が見えた。
「お願いがある」とラ・モールがいった「ぼくを先に死なせてくれ」
ココナスはカボッシュの肩をたたいていった。
「おれの友達はおれよりたくさん苦しんでいるから、力も弱っている。だから、おれが先に死んだら、処刑台の上で支えてやるものがいないんだ」
「わかりました。おっしゃるとおりにいたしましょう」カボッシュが答えた。
「それと、おれは、一撃で頼むぞ」
荷馬車がとまった。いよいよ広場に着いたのだ。ココナスは帽子をかぶった。
海鳴りにも似たざわめきがラ・モールの耳に届いた。立ち上がろうとしたが、その力は彼にはなく、カボッシュとココナスに両側を支えてもらわなくてはならなかった。
広場は群衆で埋まっていた。市庁舎の階段がちょうど良い観客席になっていた。建物の窓という窓には人の顔が見えた。どの顔も好奇心に満ちた目を光らせていた。
足をくだかれて自分で立ち上がることもできない美しい若者が死刑台まで行こうとして渾身の力をふりしぼる姿を見たとき、悲嘆の叫びにも似た巨大などよめきがいたるところから発せられた。男たちは顔を紅潮させ、女たちは嘆きの呻きをもらした。
「あれは宮廷一のしゃれ者だ」と男たちがいった。「あれはサン=ジャン=アン=グレーヴ広場で斬首されるたぐいの男じゃない」
「なんていい男なの! 顔が真っ青だわ!」女たちがいった。「ほら、あの口をきかないほうの男」
「アニバル」とラ・モールが呼びかけた。「だめだ、体を支えきれない。手伝ってくれ!」
「待て!」ココナスがいった。
ココナスは首切り役人に合図して、わきによらせた。それから、子供を抱くようにしてラ・モールを抱きかかえると、よろめくこともなく、重荷を抱いたまま死刑台の階段をのぼり、群衆の熱狂的な叫びと喝采のこだまするなかで、ラ・モールを下におろした。
ココナスは帽子を頭の上に持ち上げて、歓呼に答えた。
それから、帽子を死刑台の上に投げ捨てた。
「頼む」ラ・モールがいった。「まわりを見てくれ。どこかに、あの人たちの姿が見えないか?」
ココナスは広場をぐるりと見回した。そして、ある一点まできたとき、動きをとめ、そこから視線をそらすことなく、片手を伸ばして友の肩に触れた。
「見てみろ」ココナスはいった。「あの小さな塔の窓だ」
そして、もう一方の手で、今日もなおヴァヌリ街とムトン街のあいだに過去の世紀の遺物として存在している小さな記念建造物を指さした。黒衣を着た二人の女がたがいに体を支えあうようにして、窓際ではなく、もう少し奥に引っ込んだところにいるのが見えた。
「ああ」ラ・モールはいった。「ぼくが恐れていたのはひとつだけ、あの人をもう一度見ることなく死んでいくことだった。でも、これで見ることができたから、心おきなく死んでいける」
そして小さな窓に目を釘づけにしたまま、聖遺物箱を口に運び、接吻で覆った。
ココナスは貴婦人たちのサロンにいるときのような優雅な身のこなしで、二人の女に挨拶した。この挨拶に答えるように、女たちは涙に濡れたハンカチを激しく振った。
そのとき、カボッシュがココナスの肩を指でさわり、目で、意味ありげに合図を送った。
「わかった、わかった」ココナスは答えた。
そして、ラ・モールのほうに振り向くと、いった。
「おれにキスしてくれ。さあ、立派に死ねよ。けっしてむずかしいことじゃない、友よ、おまえは勇敢だ」
「ああ」とラ・モールはいった。「立派に死んでもしかたがない。おれはもう、こんなに苦しんでいるんだから」
司祭が近づき、十字架をラ・モールに差し出したが、ラ・モールは頬笑みながら、手にかかえた聖遺物箱を示した。
「それでもかまいません」司祭は答えた。「苦しまれたお方に、あなたがこれから苦しむだけの力を与えてくれるようお頼みしなさい」
ラ・モールはキリストの足にキスした。
「寛大なる聖母マリア会の修道女たちの祈りにわたしをお加えください」
「急げ、ラ・モール」ココナスがいった。「おまえを見ているとつらすぎて、おれのほうが参ってしまいそうだ」
「さあ、けっこうです」とラ・モールがいった。
「それでは頭をまっすぐにしていただけますか?」とカボッシュはいうと、ひざまずいたラ・モールの後ろに刀を構えた。
「お願いします」ラ・モールがいった。
「それでは、よろしいですね」
「ちょっと待ってください」とラ・モールはいった。「あなたに頼んだことを忘れないでください。この聖遺物箱をあの人の家に届けてください」
「ご心配なく。それはそうと、もうすこし首をまっすぐ持ち上げていただけませんでしょうか?」
ラ・モールは首を持ち上げ、小さな塔のほうに目をやった。
「さようなら、マルグリット、神様の……」
彼が最後までいい終わらないうちに、カボッシュの刀が閃光のように一瞬きらめくと、ひと振りでラ・モールの首を切り落とした。首はココナスの足元に転がった。
ラ・モールの体は、まるで眠りにつくときのようにゆっくりと崩れおちた。
無数の叫びがひとつの巨大な叫びとなってあたりにこだました。そして、女たちのあげた叫びのなかに、ココナスはほかの声よりもいっそう悲痛なひとつの声を聞いたように思った。
「ありがとう、友よ、よくやってくれた」とココナスは首切り役人のほうに三度目の握手を求めた。
「わが息子よ」と司祭がココナスにいった。「神に託することはなにもありませんか?」
「まったくありません」ココナスは答えた。「神にお願いすべきことは、昨日、あなたにすべていってあります」
それからカボッシュのほうを振り向いていった。
「じゃあ、頼む。最後の友よ、もう一回、いい仕事をしてくれ」
そして、ひざまずく前に、彼は群衆の上に、落ち着いた静かな視線を投げた。賛嘆のささやきが彼の耳を撫で、彼の自尊心を頬笑ませた。それから、ラ・モールの首を手に取ると、紫色の唇にキスをしてから、塔のほうに最後の一瞥を投げ、友の首を腕に抱いたまま、ひざまずいた。
「やってくれ」
ココナスが言葉をいい終わらないうちに、カボッシュは首を切り落とした。
それが終わると、痙攣のような震えがこの立派な首切り役人を襲った。
「さあ、これですんだ」カボッシュはつぶやいた。「かわいそうに」
それから、彼は、ラ・モールの硬直した手から金の聖遺物箱を抜き取ると、荷馬車で彼の家まで運ぶことになっているこの悲しいむくろの上に、自分のマントをかけてやった。
こうして見世物が終わり、群衆は散っていった。
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第六十一章 晒しの塔
処刑の興奮さめやらぬパリの町に夜の帳《とばり》がおりていった。処刑の模様は口から口へと伝えられ、楽しかるべき家族の食卓を暗くしていた。
いっぽう、ルーヴルは騒々しく、光り輝いていた。宮廷で大宴会が開かれるのだ。それは、早朝の処刑と同じく、シャルル九世の命令によるものだった。
ナヴァール王妃は、前の晩、ラ・モールとココナスを救出できるものと確信していたので、宴会に出席すると兄に返事してあった。
だが、彼女は、これまでの人生でもっとも深く愛した恋人の処刑に立ち会ったそのときから、どんな威しを受けても、この大宴会には出席するまいと決意していた。
シャルル九世はこの日もまた何人《なんぴと》もかなわぬ強靭な意志の力を見せつけていた。というのも、二週間前から病の床に臥《ふ》せっていたにもかかわらず、五時になると立ち上がって、いちばん美しい衣装を身につけたからである。
八時ごろ、シャルル九世はマルゴがどうしているかをまわりの者にたずねたが、マルゴは朝戻ってきてから部屋にとじこもっていたので、だれも彼女のことは知らなかった。
そこで、シャルル九世はナンセーの力を借りて、秘密の扉からナヴァール王妃の部屋に入っていった。あらかじめ予想はしていたものの、彼がそこで見たものは、思っていたよりもはるかにいたましいものだった。
マルゴは長椅子にもたれたまま、クッションに頭を埋め、泣きもせず、ただ呻いていた。
部屋のもういっぽうの端では、あの勇敢なヌヴェール公爵夫人が、意識をなくして絨毯の上に横たわっていた。
大きな災難のあとでは、人は苦痛だけを求めるものである。慰めをいう人はみんな敵になる。
シャルル九世が入っていっても二人は気づかなかった。
「マルゴ」シャルル九世はいった。
マルゴは身震いして、身を起こした。
「今日、舞踏会に出るって約束したね。だから、みんな待っている。来ないと心配するよ」
「お許しください。ご覧のように気分がすぐれませんので」
「マルゴ、おまえは友人を亡くした。それは知っている。だが、おまえは好きなように泣くことができる。ところが、わたしは、すべての友ばかりか、母までを失いながら、笑っているほかはない。おまえは苦しんでいる。だが、わたしは死のうとしているのだ。さあ、マルゴ、元気を出せ。わたしたちは一家の名声というものを、主が十字架をゴルゴタの丘まで運んだように、苦悶の十字架として運ばなければならないのだ。さあ、服を着て、化粧を直せ。おまえの美しさを引き立てるような新しい宝石をつけろ」
「今さらダイヤやドレスがなんになるの!」マルゴが答えた。
「人生は長いんだ、マルグリット」シャルル九世は頬笑みながらいった。「すくなくともおまえにはな」
「いやです、ぜったいに行きません」
「妹よ、このことだけは覚えておきなさい。ときに、苦しさを圧し殺し、隠したほうが、死者たちの弔いになるということを」
「承知いたしました、陛下」マルゴはいった。「まいります」
一粒の涙がシャルル九世の目に光った。彼は妹のほうにかがみこむと、額に口づけをした。それから、まだ彼のことに気づいてもいないヌヴェール夫人の前に立ちどまると、ひとこと「かわいそうに」といって出ていった。
王のあとから小姓たちが宝石箱をもってきたが、マルゴは、そのまま床においておくようにいいつけ、ジロンヌにむかって、着るものだけを用意するよういいつけた。
「さあ、急いで、これから舞踏会に行くから、着替えをするのよ。朝はグレーヴ広場でお祭り、夜はルーヴルでのお祭りよ」
「でもヌヴェール公爵夫人は?」
「彼女は、王女でも王妃でもないから、ここに残って泣いていられるわ。さあ、ジロンヌ、着替えを手伝って」
装身具もドレスも素晴らしかった。マルゴはいままで見たこともないほどに美しかった。彼女は鏡をのぞいた。
「ああ、兄のいうとおりだわ。人間て惨めなものなのね」
そのとき、ジロンヌが来客を告げた。「だれ? わたしに?」
「これをお渡しするようにと」
彼女がラ・モールに与えた聖遺物箱だった。
「ああ、お通しして」マルゴはいった。
重たい足音が床をきしませた。
「あなたは?」
「いつぞや、モンフォーコンでお目にかかりました。傷ついた若者を荷馬車でルーヴルまで運びました」
「ああ、わかりました。カボッシュさんね」
「パリ市長直属の斬首人でございます。あなた様が、あの若者になさった約束のことでございます」
「ああ、わかりました。で、どこにあるんです?」
「体と一緒にうちにおいてございます」
「どうして、もってきてくださらなかったの?」
「あれをもって、ルーヴルの門は通れません」
「わかりました。明日、とりにまいります」
「明日では遅すぎます。と申しますのは、母后様がカバラの占いに使うため、斬首した死刑囚の首を欲しがっていらっしゃるからでございます」
「まあ、なんてことを!」マルゴは叫んだ。「アンリエット! この人のいったこと聞いた?」
「ええ、でもどうするの?」
「一緒にこれから行くのよ」
晒しの塔は、二人の女の前に、黒っぽい服を着た不恰好な巨人のように聳《そび》え立っていた。二つの銃眼から、頂上に吊したランプの赤っぽい光がもれていた。
従僕が扉のところにあらわれた。
「どうぞお入りください」とカボッシュがいった。「塔の中ではみんな寝ております」
その瞬間、二つの銃眼のあかりが消えた。
二人の女は身を寄せあい、小さな尖頭アーチの入口を通って、真っ暗闇の中の、湿ってざらざらしたタイルの床を歩いていった。曲がった廊下の突き当たりに光が見えた。彼女たちは、この住まいの恐ろしいあるじに導かれて、そちらのほうへ進んでいった。扉は背後で閉められた。カボッシュは、蝋を染み込ませた松明を手に、天井の低い煙の立ち込めた部屋に案内した。その部屋の真ん中には夕食の残りと三人分の食器が用意されていた。その食器は、首切り役人と妻と助手のためのものなのだろう。
壁のもっとも目につくところに、王璽《おうじ》を押印した羊皮紙が釘でとめてあった。それは、斬首人の免状だった。
部屋の隅には、長い柄の大きな刀が置いてあった。それが、正義の閃光を発するあの刀だった。
ところどころに、ありとあらゆる刑罰で殉教した聖人たちを描いた粗野な版画がかざってあった。
そこまでくると、カボッシュは深々とお辞儀をした。
「不謹慎にも、ルーヴルまでうかがって、こんな場所にお連れしましたことをどうかお許しください。じつは、これはあのお方が強くお望みになられたことでございまして……」
「ありがとう、よくやってくれました」マルゴはいった。「これが、お力添えいただいたお礼です」
カボッシュは、マルゴがテーブルの上に置いた金貨のつまった財布を悲しげに見た。
「金貨! いつも金貨です!」彼はつぶやいた。「奥様、わたしだって、きょう自分の流したあの血を金貨で贖《あがな》うことができたならと思います!」
「失礼ですけれど」と、マルゴは、いかにも苦しげにまわりを見回して、おずおずといった。「まだこれから先、どこかほかの場所に行かなくてはいけないんでしょうか」
「いいえ、奥様、この家に安置してございます。でも、あまりに悲しい眺めでございますから、このまま、お目にかけずに、マントの下に隠して、わたくしがお求めのものをおもちいたしてもよろしゅうございますが」
マルゴとヌヴェール夫人はたがいに顔を見合わせた。「かまいません」とマルゴはヌヴェール夫人の瞳の中に自分と同じ決心を読み取ると、答えた。「かまいません。道を教えてください。ついていきますから」
すると、カボッシュは松明を手に取り、階段に通じる樫の扉をあけ、地下室に降りていった。その瞬間に、どこからともなく風が吹き込み、松明から火花を散らせ、二人の奥方の顔にカビと血のいりまじった胸のむかつくような臭いをなげかけた。
ヌヴェール公爵夫人は、石膏の彫像よりももっと蒼白になり、自分よりしっかりとした足取りのマルゴの腕に体をもたせかけた。だが、最初の階段で、彼女はよろめいた。
「ああ、わたしにはできない」
「本当に愛しているなら」と王妃はきっぱりといった。「相手が死んでも愛さなくてはだめ」
若さと、美しさと、宝石に輝く二人の女が、汚らしくざらざらした丸天井の下で、弱いほうが強いほうに支えられ、さらに強いほうが首切り役人の腕にすがって階段を降りていくというその光景は、恐ろしくも感動的な光景だった。
ようやく、最後の階段に到着した。
地下室の奥には、黒い大きなサージの布に覆われた、人間の形をしたなにかが横たわっていた。
カボッシュは布の片端を持ち上げると、松明を近づけ、マルゴにむかっていった。
「ご覧ください、王妃様」
黒衣を着た二人の若者は、並びあって、死の恐るべき対称性のうちに寝かされていた。すこし傾きかげんに胴につなげられた彼らの首は、まるで首の真ん中で真っ赤な首輪によって隔てられているとしか見えなかった。死は、彼らの手を切り離しはしなかった。というのも、偶然からか、あるいは首切り役人の敬虔な配慮からか、ラ・モールの右手はココナスの左手の中にしっかりと握られていたからだ。
ラ・モールのまぶたの下には愛の視線があった。ココナスのまぶたの下には軽蔑の微笑があった。
マルゴは恋人のそばにひざまずき、宝石類がまばゆく光るその手で、あれほどに愛したその顔をそっと持ち上げた。
ヌヴェール公爵夫人はといえば、壁にもたれかかったまま、恋人の蒼白の顔から視線を離すことができないでいた。この顔の上に、彼女は何度、愛と喜びを求めたことだろう。
「ラ・モール! わたしのラ・モール!」マルゴがつぶやいた。
「アニバル! アニバル!」ヌヴェール夫人が叫んだ。「あんなに誇りたかくて、勇敢だったあなたなのに、もう答えてくれないの!……」
そして、滝のような涙がヌヴェール夫人の目から流れおちた。
幸せのなかにあっては、あれほどに傲慢で、あれほどに大胆で、あれほどに横柄だったこの女が、懐疑主義を最高の疑いにまで高め、情熱を残忍さまでもっていったこの女が、これまでついに一度も死というものを考えたことはなかったのだ。
マルゴがまず模範を示した。
彼女は、真珠で刺繍した、最高の香りを含ませた布袋にラ・モールの頭を入れた。その顔は生前よりもなおいっそう美しくなった。というのも、王室の防腐処理で使われていた特別の処置法を用いてカボッシュがその美しさを保ってやったため、顔の皮膚はビロードや金の感じに近づいていたからである。
今度はヌヴェール公爵夫人が近づいて、ココナスの頭をマントの裾にくるんだ。
そして、二人は、その重さよりも悲しみにうちひしがれて、階段をのぼった。途中で、カボッシュにあとの始末を任せて残していく恋人の遺体に最後の一瞥を投げた。遺体は、下賤な犯罪者たちの死体が置かれている同じ闇の中に沈んでいた。
「ご心配はいりません、奥様」とマルゴの視線の意味を理解したカボッシュがいった。「殿方は、しかるべき墓地でキリスト教徒にふさわしい埋葬をしてさしあげます」
「では、これでミサを上げてもらってください」とヌヴェール公爵夫人は首から素晴らしいルビーの首飾りをはずし、それを首切り役人に渡した。
ルーヴルに、二人は、出ていったときと同じように戻ってきた。入口で、マルゴは身分を明かした。秘密の階段の下で駕籠をおり、部屋に戻るとこの悲しい遺物を寝室のわきの小部屋においた。このときから、この小部屋は彼女の祈祷室になった。そして、ヌヴェール公爵夫人を部屋番としてあとに残し、これまでよりも、はるかに青白く、はるかに美しくなって、十時ごろ、舞踏会の開かれている大広間に降りていった。その大広間は、二年半前、この本の最初の章の冒頭で描いたのと同じ大広間であった。
すべての視線が一斉にマルゴのほうに集まった。彼女はこの視線を、誇りたかい、ほとんど歓喜に満ちた様子で受けとめた。
そこには、恋人の最後の願いを宗教的にかなえたという思いがこめられていた。
シャルル九世はマルゴを見て、押し寄せる金色の波をかきわけて、よろめきながら近づいた。
「妹よ」彼は大きな声でいった。「ありがとう」
それから小声でつけ加えた。
「気をつけろ! 腕に血の染みがついている」
「そんなことは気にしません、陛下、唇に微笑があればいいのです」
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第六十二章 血の汗
この恐るべき場面から数日後、すなわち一五七四年五月三十日、宮廷はヴァンセンヌの城塞に移動していた。舞踏会の最中にまた発作の起きた王は医者の勧めもあって、より空気の澄んだヴァンセンヌにきていたのである。
朝の八時だった。宮廷人たちが王の控えの間で談笑しているとき、とつぜん王の乳母が大きな叫び声をあげて、助けを求めた。驚いた衛兵隊長のナンセーが駆けつけると、乳母は答えた。
「ああ、なんというたくさんの血! 早くお医者様を呼んで!」
シャルル九世の病床にはマジーユとアンブロワーズ・パレという二人の医者が交代で詰めていたのだが、このときは、王が深く眠っていたので、寝ずの番をしていたパレも、仮眠をとるため枕元をすこし離れていたのである。
シャルル九世の体は、まるで毛細血管に弛緩がきたかのように、皮膚から多量の血の汗が噴き出していた。ユグノーだった乳母は、聖バルテルミーの虐殺の日に流された血のせいだと思いこんだ。
宮廷人は、みな先を争って医者をさがしにいった。だから、控えの間にはだれもいなかった。
そのとき、扉があいて、カトリーヌ・ド・メディシスが入ってきた。彼女は控えの間を横切ると、まっすぐに息子の居室に入っていった。
シャルル九世はベッドに仰向けになり、目をとじたまま、胸を激しく波打たせ、全身から血の汗を噴き出させていた。腕はベッドの下へだらりと垂れていた。指の先からは、液体のルビーが滴り落ちていた。
それは恐るべき光景だった。
だが、母の足音を耳にして、それがだれのものかわかったように、シャルルは上体を起こした。
「マダム、ちょっと、遠慮してくれませんか」と彼は母を見ながらいった。「わたしは、心静かに死にたいんです」
「死ぬなんて! ちょっと発作が起こっただけでしょう」カトリーヌがいった。「あなたは、そんなふうにわたしたちを絶望させるのがうれしいの?」
「マダム、わたしははっきりいっているでしょう。わたしの魂が飛び去るのを感じるって。死がきているんです。いまいましい死がね。わたしは自分がなにを感じているのかはっきりわかります。自分がなにをいっているかも知っています」
「陛下、あなたのいちばん重い病気は、あなたの空想です。あの二人の魔術師、ラ・モールとココナスという名の暗殺者が当然の報いを受けてから、あなたの病気は消えたはずです。残っているのは、心の病だけ。もし、わたしが十分だけでもあなたと話すことができたなら、あなたにちゃんと証明……」
「お乳母《かあ》さん」とシャルルはいった。「扉を見張って、だれも入れないようにしてください。カトリーヌ・ド・メディシス母后が最愛の息子のシャルル九世とじきじきに話があるそうですから」
乳母はいうとおりにした。
「ところで」とシャルルは続けた。「いずれこうして話をしなければいけないんですから、明日よりも今日のほうがいいでしよう。明日では遅すぎるかもしれませんから。ただ第三者に立ち会ってもらったほうがいいですね」
「それはどうして?」
「それは何度も繰り返しますが、死がもうそこまできているからです」シャルル九世は恐ろしい威厳をもっていった。「死はもう、あなたと同じように、蒼白な顔をして黙ったままこの部屋に入ってきています。だから、話すとしたら今なんです。昨夜、わたしは身辺の整理をしました。今朝は王国の整理を命じる番です」
「で、あなたが会いたいというその第三者はだれなの?」
「弟です。弟を呼んでください」
「陛下、あなたにも、このあいだのアランソン公への密告は、憎悪から生まれて苦痛からでっちあげられたものだということが、わかったのね。こうした過去へのこだわりがあなたの頭から消え、じきに、心からも消えていくのは、とてもうれしいことですよ。乳母《ばあや》!」カトリーヌは叫んだ。「乳母《ばあや》!」
外で見張っていた乳母が扉をあけた。
「乳母《ばあや》」カトリーヌがいった。「ナンセーがきたら、息子の命令で、アランソン公を解放するように伝えなさい」
シャルル九世は、命令を伝えようとしていた乳母に「待て」のサインを送った。
「わたしは、『弟』といったんですよ」シャルル九世は注意した。
カトリーヌの目が、激怒に駆られたトラのように大きく見開かれた。だが、シャルル九世は尊大な態度で手を挙げた。
「わたしは、弟のアンリと話したいといっているんです。アンリだけがわたしの兄弟です。遠いところにいる奴も、この城で囚人になっている奴も兄弟じゃない。アンリだけがわたしの最後の願いをわかってくれるはずです」
「そんな、馬鹿な!」とフィレンツェ女は、息子の恐るべき意志を前にしていつになく大胆になって叫んだ。ナヴァール王に対して抱いていた憎悪があまりに大きかったので、思わず、いつものように感情を抑えることができなくなってしまったのである。「もし、あなたがいうように墓にそれほど近づいているとしても、どうしてわたしが、あなたの最期に立ち会う権利、女王としての、母としての権利を、どこの馬の骨とも知れないような他人に譲らなくちゃならないの?」
「マダム」とシャルル九世はいった。「わたしはまだ王です。まだ命令する権利があります。わたしはあなたに、弟のアンリと話したいといったのです。それに、あなたは、わたしの衛兵隊長を呼びつけませんでしたか? いいですか、警告しておきますが、わたしはまだ自分でアンリを呼びにいくぐらいの力は残っています」
シャルル九世はベッドから飛び降りようとして、鞭打たれたあとのキリストのような体を白日のもとにさらしてしまった。
「陛下」とカトリーヌはシャルルを抑えて叫んだ。「あなたは、わたしたち全員を侮辱しています。わたしたち家族に加えられた屈辱をお忘れになっています。あなたはわたしたちの血を否定しています。フランス王の臨終の床に立ち会えるのはフランス王子だけです。わたしについていえば、自然法と礼儀作法によって、この場所に席を確保されています。だから、わたしは残ります」
「でも、どんな資格で、お残りになられるのですか、マダム?」
「母としての資格でですよ」
「あなたはもうわたしの母ではありません。アランソン公がわたしの弟でないのと同じように」
「気でも狂ったの?」カトリーヌはいった。「あなたに生を授けた女が、その生を受け取った男の母親でなくなるなんて、いつからそんなことになったの?」
「その自然に反した母が、子供に与えた生をもぎとった瞬間からです」シャルルは唇の端にあふれてきた血の泡を拭いながら答えた。
「それはどういうことなの、シャルル? よくわからないわ」とカトリーヌは驚きのあまり大きく見開いた目で息子を見つめながらいった。
「これから、わからせてさしあげますよ」
シャルル九世は枕の下から小さな銀の鍵をとりだした。
「この鍵で、わたしの旅行用金庫をあけてください。ある紙類が入っていますから、それをご覧になれば、わたしのいうことがおわかりになるはずですよ」
そういうと、シャルルは、素晴らしい彫刻をほどこした金庫のほうに手を伸ばした。その金庫は、鍵と同じように銀でできた錠前でしまり、その部屋のもっとも目立つ場所を占めていた。
カトリーヌは、シャルル九世が急に上手《うわて》に出たのでその勢いに呑まれ、ゆっくりとその金庫のほうに進み、錠前をあけて、中をのぞきこんだ。そして、そのとたん、まるで家具の中に眠っている爬虫類でも見つけたように、ハッとして後ずさりした。
「どうですか?」とシャルルは母から視線を離さずにいった。「ではその金庫の中に、あなたを怯えさせるようなものが入っていたんですか?」
「べつに」カトリーヌは答えた。
「それでは、中に手をつっこんで本を一冊取ってください。中にあるはずですから」とシャルル九世は、蒼ざめた微笑を浮かべてつけ加えた。その笑いは、他人のどんな威しよりも恐ろしいものだった。
「ええ」カトリーヌは口ごもった。
「狩りの本でしょう」
「ええ」
「それをこっちにもってきてください」
カトリーヌは、自分で危険はないといったくせに、蒼白になり、手足をぶるぶると震わせながら、金庫の中に手を伸ばした。
「運命!」彼女は本を手に取ってつぶやいた。
「そう、これです」シャルルはいった。「この狩りの本……わたしは気が狂うほど、どんなことよりも狩りが好きだった。……だから、この本を貪り読んでしまいました。わかりますか、マダム」
カトリーヌは圧し殺したような呻き声を発した。
「それはわたしの弱点です」とシャルルは続けた。「燃やしてください。王の弱点を人に知られてはなりません」
カトリーヌは赤く燃えている暖炉に近づき、本を暖炉の真ん中に落とした。そしてそこに立ったまま、動きもせず、口もきかずに、生気のない目で、青白い焔が、毒を含んだぺージを焼き尽くすのを見つめていた。
本が燃えるにしたがって、ニンニクのような強い臭いが部屋の中に広がった。
まもなく、その本は完全に燃え尽きた。
「さて、それでは、マダム、わたしの弟を呼んでください」とシャルル九世は有無をいわせぬ威厳でいった。
カトリーヌは、彼女の賢明さをもってしても分析できないような、そして、ほとんど超人的な彼女の力でも打ち勝てないような複雑な感情にうちのめされて、呆然自失のていで、一歩前に進み出て、シャルルに語りかけようとした。
彼女のなかの母親は後悔していた。女王は恐れていた。毒殺犯は怒りを新たにしていた。この最後の感情が、他の二つを押しのけた。
「呪われろ!」カトリーヌは叫びながら、部屋から飛び出した。「あいつの勝ちだ。あいつは目的を達した。そうだ、あいつは呪われた男なんだ」
「わかりましたか、わたしの弟、わたしの弟のアンリを呼んでくるんですよ」シャルル九世はカトリーヌの背中に追いかぶせるように叫んだ。「フランス王国の摂政のことについて、いまここでわたしの弟のアンリに話があるというんですよ」
それと、ほとんど時を同じくして、カトリーヌが立ち去ったのと反対側の扉からアンブロワーズ・パレが入ってきた。そして、入口で立ちどまり、部屋の中のまじりあった臭いをかいで、いった。
「ここで、だれが砒素を燃やしたんですか?」
「わたしだ」シャルル九世は答えた。
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第六十三章 ヴァンセンヌの主塔の展望台
いっぽう、そのころ、アンリ・ド・ナヴァールは主塔の展望台の上を、一人、夢想しながら歩き回っていた。彼は、宮廷が、自分のいるところから百歩も離れていないヴァンセンヌの城に移動してきていることを知っていた。そして、すべてを見通してしまう彼の目は、壁越しに、シャルル九世が瀕死の病床にあることを見抜いていた。
空は晴れわたり、黄金色に輝いていた。太陽が、幅広い光線で遠くの平原を明るく照らしだし、手前では森の樹木の梢《こずえ》を金色の液体で湯浴《ゆあ》みさせていた。森の樹木はみな、誇らしげに新緑の葉をいっぱいに繁らせていた。主塔の灰色の石ですらが、空の甘くて暖かい空気に浸っているように見えた。そして、東風によって壁の隙間に運ばれていたニオイアラセイトウが、この生暖かいそよ風の口づけで、その赤と黄色のビロードのような花をところどころに咲かせていた。
だが、アンリの目は、こうした緑なす平原にも、黄金色に輝く樹木の梢にも向けられてはいなかった。彼が、野心に満ちた視線を投げかけていたのは、こうした景色の彼方、あのフランスの首都、やがて世界の首都になる運命を定められていたパリだった。
「パリ!」ナヴァール王はつぶやいた。「パリだ! 喜びであり、勝利であり、栄光であり、幸福であるパリだ! ルーヴルのあるパリ、そして王冠のあるルーヴル。これほどまでに恋い焦がれているパリをわたしから隔てているものはたったひとつ、それはわたしの足元にはいつくばり、わたしと一緒に敵をとじこめているこの石だ」
そう思って、視線をパリからヴァンセンヌに戻したとき、アメンドウの樹木に覆われた左手の谷の中に、一人の男がいるのに気づいた。男が身につけた甲冑《かっちゅう》にしつこく太陽があたり、光の点となって、その男が動くたびに緑の空間の中を移動していたからだ。
男は、精気みなぎる駿馬にまたがり、同じく血気にはやるもう一頭の馬を手で引いていた。
ナヴァール王の視線はこの騎士に釘づけになった。すると、騎士は鞘から剣を抜いてその剣先にハンカチを刺すと、そのハンカチを振って合図を送った。
と同時に、正面の丘の上でも、同じようにハンカチが振られ、ついで、城のまわりでもハンカチが輪をまくように次々に振られた。
それはド・ムイと仲間のユグノーだった。彼らはシャルル九世が瀕死の床にあることを知り、アンリ・ド・ナヴァールに対して陰謀が企てられているのではないかと案じて、城のまわりに集結し、ことあればいつでも、城を攻撃し、ナヴァール王の救助に駆けつけようと待機していたのである。
アンリは、最初に目をとめた騎士の上にもう一度視線を戻し、テラスの手摺りの外に身を乗り出して、その若いユグノーがだれかを見わけようと、手で目を覆って太陽光線を遮るようにした。
「ド・ムイ!」ナヴァール王は、まるでド・ムイに話しかけるように叫んだ。
そして、こうして味方に囲まれているのを知った喜びをあらわすように、彼もまた帽子を脱いで、巻き布を激しく振った。
すると、それに答えるかのように、あらゆる方向から、槍旗が、喜びもあらわにもう一度、激しく打ち振られた。
「ああ、彼らはわたしを待っている。なのに、わたしは彼らに加わることができない。やればできたかもしれないのに、なぜしなかったのだろう。もう、こうなったら、遅すぎる」
そう考えて、ナヴァール王は絶望の仕草をした。ド・ムイは「わたしは待っています」という合図で答えた。
と、そのとき、アンリの耳は、石の廊下に鳴り響く足音を聞きつけた。彼は急いで身を引いた。ユグノーたちは王が引っ込んだ理由を理解したらしく、ハンカチをおろして、剣を鞘に収めた。
アンリは、階段から一人の女があらわれるのを見た。その激しい息づかいは女が急いでやってきたことをはっきりと物語っていた。女はカトリーヌ・ド・メディシスだった。アンリはカトリーヌを見たときにいつも感ずるあのひそかな恐怖を、今度もまた感じないわけにはいかなかった。
彼女の後ろには二人の衛兵が従っていたが、彼らは階段をのぼりきったところでとまった。
「おやおや」とアンリはつぶやいた。「またなにか新しい重大なことが起こったらしいぞ。それでなければ、母后みずから、ヴァンセンヌの主塔の展望台にわたしを探しにやってくることはないからな」
カトリーヌは鋸壁《のこぎりかべ》にしつらえてある石のベンチに腰をおろし、苦しげに息をしている。
アンリは彼女のそばによると、優雅な微笑を浮かべて話しかけた。
「わたしをお探しでしょうかね、お義母《かあ》さん?」
「ええ、そうですよ」とカトリーヌは答えた。「あなたに、わたしの最後の愛情のしるしをお見せしようと思って。いよいよ、最期の時が近づいています。シャルル九世が瀕死の床で、あなたに会いたいとおっしゃっています」
「わたしに?」アンリは喜びに身を震わせた。
「ええ、あなたによ。人が、王に、あなたはナヴァール王の王冠を懐かしんでいるばかりか、フランス王の王冠にも色気を見せているっていったらしいの」
「まさか!」
「そんなことがあるはずないのはわたしも知っています。でも、王はそう信じてしまったの。だから、王がこれからあなたと会見を望んでいるその目的は、あなたに鎌をかけることにあるのは間違いないわ」
「わたしにですか?」
「ええ。シャルルは死ぬ前に、あなたになにが期待できるのか、それともなにを恐れるべきなのかを知りたいと思っているの。だから、あなたが、王の申し出になんと答えるか、それによって、王がどんな命令を出すかが、つまり、あなたが生きるか死ぬかが決まるわけよ。だから十分気をつけなさい」
「でも、王は、いったいどんな申し出をするんでしょうか?」
「そんなこと、このわたしにわかるわけないでしょ。たぶん、思いもかけないようなことでしょう」
「でも、お義母《かあ》さんなら、どんなものか想像つきませんか?」
「いいえ、わからないわ。でも、あえて、想像すると、たとえば……」
カトリーヌは途中で言葉を呑み込んだ。
「たとえば、なんです?」
「これはわたしの想像だけど、みんなが噂しているあなたの野心ね。それをシャルル九世は真に受けて、その野心の証拠を直接あなたの口から聞き出そうとしているのかもしれないわ。昔、拷問なしで、自白を引き出すのに犯人たちに罠をしかけたように、シャルルもあなたを試そうとしているかもしれないでしょ。たとえば」と、カトリーヌはアンリの目をじっとのぞきこんだ。「あなたに、政府を引き受けてくれ、つまり、摂政になってくれというかもしれないわ」
「わたしに?」アンリは叫んだ。「罠にしても、それはあまりに露骨すぎますね。わたしに摂政になれと? あなたやアランソン公がいるのに?」
カトリーヌは満足を隠すために唇をかんだ。
「それなら」と、カトリーヌは急ぎこんでいった。「あなたは、摂政を辞退するというの?」
「これはどうやら」とアンリは考えた。「王はすでに亡くなって、カトリーヌが罠をしかけているんだな」
それから声に出していった。「とりあえず、フランス王の話を聞いてみなければ」と彼は答えた。「だって、いまあなたがおっしゃったことも、なにもかも仮定の上でのことにすぎないでしょう」
「それはそうね」カトリーヌが答えた。「でも、あなたには、あなたなりの心づもりがあるのだから、答は出せるでしょう」
「とんでもない」とアンリは無邪気にいった。「わたしには野心というものがありませんから、心づもりなんてものもありません」
「それじゃあ、答になっていないわ」カトリーヌは時間が迫ってきたのを感じて、怒りに身を任せて叫んだ。「どっちにしろ、いっそ、はっきりいったらどうなの?」
「仮定の問いには答えられません。本当の決心というものは、とてもむずかしく、重大な結果を招きますから、現実を待ってみなくてはなりません」
「いいこと、よく聞いて」カトリーヌはいった。「もう時間がないの。こうして、むだなおしゃべりや、気のきいた受け答えをしている間にも時間はどんどんなくなっていくのよ。だから、ここは、おたがい、王と女王としてゲームをしましょう。もし、あなたが摂政を引き受けたら、あなたの命はないわ」
シャルル九世はまだ生きている、とアンリは思った。
それから、声に出してこういった。
「よろしいですか」アンリはきっぱりといった。「人の命も王の命もみな神がにぎっています。ですから、わたしは、神の命ずるところに従います。陛下に、これからすぐ出頭すると伝えてください」
「よく考えなさいよ」
「二年前から、わたしは軟禁され、一カ月前から、囚人となっています」アンリは重々しい口調でいった。「ですから考える時間は十分にあり、げんに十分考えました。ですから、どうかお先に、王のところに降りていかれて、王にわたしがあとからくるとお伝えください。ここに二人の勇敢な若者がいますから」とアンリは二人の兵士を示した。「わたしが逃げないように見張っていてくれます。それに、わたしは、逃げることなど全然考えてはおりません」
アンリの言葉には断固とした調子があったので、カトリーヌは、彼女のさまざまな試みが、たとえどんなかたちをとっていようとも、この若者にはなんの効果も及ぼさないということを悟るほかなかった。彼女は急ぎ足で階段を降りていった。カトリーヌが姿を消すとすぐ、アンリは欄干に駆けよって、ド・ムイに合図を送った。それはこんな意味だった。「城に近づいて、どんなことが起こってもいいように準備しておけ」
馬から降りていたド・ムイは鞍に飛びのると、替え馬を手に引いて、主塔から、マスケット銃の射程の二倍の距離まで速足で駆けつけた。
アンリは身振りで感謝を示してから、階段を降りていった。
最初の踊り場のところで、二人の兵士がアンリを待っていた。
城の入口はスイス人傭兵と軽騎兵の部隊が二列の隊列を作って防御を固めていた。だから、城に出入りするには、この二重の戟《ほこ》の垣根を横切らなければならなかった。
入口の門を抜けると、カトリーヌがそこでアンリを待っていた。
彼女は、従ってきた二人の兵士にわきにどくように合図した。そして、アンリの腕に手をかけてこういった。
「この城には、二つ入口があるのよ。王の居室の後ろに見えるあの入口には、よい馬が待たせてあるから、もし摂政を辞退すれば、あなたは自由を得られるわ。でも、いまあなたがくぐってきた入口には、ご覧のとおり……だから、あなたが自分の野心にしたがえば、……さあ、どうするの?」
「王がわたしを摂政にしたならば、兵士に命令を与えるのは、あなたではなくて、このわたしです。夜、この城から出るときには、槍も、戟も、マスケット銃も、すべてわたしの前に平伏するでしょう」
「気でもちがったの?」カトリーヌは激高してつぶやいた。「わたしのいうとおりにおし。生と死をかけたこの恐怖のゲームをカトリーヌ様とするんじゃないよ」
「いや、むしろ、ぜひともお手合わせ願いたいですね」アンリはカトリーヌをじっと見つめていった。「わたしは、これまで、ずっとこのゲームに勝ってきたんですから、ほかの人と同じようにあなたとも対戦できると思いますが」
「それなら、王の部屋にのぼっていきなさい。なにひとつ信じようとも聞こうともしないのだから、しかたないわね」カトリーヌはそういって片手で階段を示したが、もう一方の手は、のちに有名になったあの黒い山羊革の鞘に入れた、毒のついた二本の短剣のうちの一本を握っていた。
「どうぞ、お先に」とアンリはいった。「わたしはまだ、摂政になったわけではありませんから、あなたに先を譲るのが礼儀です」
あらゆる意図を見抜かれたと悟ったカトリーヌは、逆らおうともせず、先に立って歩きはじめた。
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第六十四章 摂政
シャルル九世はいらだちはじめていた。彼はナンセーを部屋に呼びつけ、アンリを迎えにいくよう命じたが、ちょうどそのとき、アンリが姿をあらわした。
義弟がドアのところに姿をあらわしたのを見たシャルル九世は、歓喜の叫びをあげた。いっぽう、アンリはまるで、死体を前にしたときのように恐怖で立ちすくんだ。
王の両脇にいた二人の医者は引きさがった。この不幸な王にキリスト教徒にふさわしい最期を迎えるように説きにきていた司祭も同じように身を引いた。
シャルル九世は愛されていたわけではなかった。だが、控えの間ではみんなが泣いていた。王の死にあたっては、それがどんな王であっても、かならずなにかを失うものがいるものである。そうした人たちは、次の王のうちに、そのなにかを見いだせないのではないかと恐れるのである。
こうした悲しみ、こうした鳴咽《おえつ》、それにカトリーヌの言葉、さらには、王の最期に欠かせない不吉で荘厳なお付きの者たち、そしてあれ以来何度も発作が起き、医術も前例がなくてさじを投げた奇妙な病気にとりつかれたシャルル九世自身の姿、こうしたものすべてが、アンリの精神に大きな影響を及ぼした。というのも、アンリはまだ若く、したがって外からの印象を強く受けやすかったからである。その結果、シャルル九世に新たな心配を与えまいと決心していたにもかかわらず、アンリは恐怖の感情を押さえきることはできなかった。その感情は、全身から血を滴らせたこの瀕死の病人を見た瞬間に、顔に露骨にあらわれてしまった。
シャルル九世は悲しげに微笑した。自分のまわりの人間たちの心の動きを彼はなにひとつ見逃さなかったのである。
「こっちにきなさい、アンリオ」シャルルは、これまでアンリが一度も耳にしたことのないようなやさしい声で義弟に呼びかけ、手をさしのべた。「おまえにもう会えないのかと心配していたよ。これまで、おまえを、ずいぶんひどい目にあわせてきたな。いまではすっかり後悔しているが、何度か、おまえを苦しめる人間たちに手を貸したこともある。だが、王だからといって、なんでも事件を思いのままに操れるわけではない。それにわたしは、一生のあいだ、母のカトリーヌや、弟のアンジュー公やアランソン公のほかに、わたしのはるか上にあるとてつもなく厄介なものにかかずらわってきた。それはわたしが死ぬと同時に消えるもの、つまり、国家的理由《レーゾン・デタ》だ」
「陛下」とアンリは口ごもりながらいった。「わたしが思い出すのは、兄上に対していつも感じていた愛と尊敬の気持ちだけです」
「わかった。わかった。おまえのいうとおりだ。そんなふうにいってくれてうれしいよ。なにしろ、わたしの治世下では、おまえにはずいぶんとつらい思いをさせたからな。それに、おまえのお母さんが亡くなったのも、わたしが王になってからだからな。だが、おまえもわかっているとは思うが、わたしはいろいろと下から突き上げを受けていたのだ。ときにはわたしも抵抗したが、疲れてなすがままにまかせてしまったこともある。だが、おまえもいっていたように、過去のことをいうのはやめよう。いま、わたしは現在のことを決めて、未来のことを心配しなきゃいけないのだからな」
そして、この言葉をいい終わると、哀れな王は鉛色の顔を痩せこけた手の中に隠した。
それから、しばらく沈黙したあと、暗い想念を追い払おうとするかのように額を激しく振り、まわりに血の滴をまき散らした。
「国家を救わなくちゃならない」シャルル九世は声を低くして、アンリのほうに身を傾けるようにして言葉を続けた。「国家が狂信者と女の手に渡らないようにしなければならない」
シャルル九世は、いまいったように、これらの言葉を小声でいったが、アンリは、ベッド・カーテンの後ろで、圧し殺した怒りの叫びのようなものを聞いたような気がした。おそらく、シャルル九世自身の気づかぬうちに、壁の中に抜け道が作られていて、カトリーヌがこの臨終の会話を聞けるようになっていたのだ。
「女たち?」ナヴァール王はわざと説明をうながすようにいってみた。
「そうだ、アンリ」とシャルル九世はいった。「母はポーランド王が戻ってくるまでのあいだ、摂政政治をするつもりだ。だが、わたしのいうことをよく聞け、ポーランド王は戻ってこない」
「なんですって! ポーランド王は戻ってこない?」アンリは叫んだ。心臓は喜びで低く動悸を打った。
「そうだ、帰ってこない」シャルル九世は続けた。「臣下が彼を出発させないだろう」
「しかし、兄上、ひとつお訊きしたいのですけど」とアンリはたずねた。「母后は前もって手紙を書いているんじゃないですか?」
「そのとおりだ。だがナンセーがシャトー・ティエリで飛脚をつかまえて、その手紙を取り上げ、わたしのところにもってきてくれた。この手紙の中で、母はわたしがもうじき死にそうだと書いている。だが、こっちも負けてはいない。わたしもワルシャワに手紙を書いた。だから、わたしの手紙が着いたら、弟は監視されるだろう。というわけで、まず、まちがいなく、玉座は空位になるはずだ」
壁のくぼみの中で、最初のものよりももっとはっきりとした身震いの音が聞こえた。
「まちがいなく、カトリーヌはあそこにいる」とアンリは思った。「彼女は聞いて、待っているのだ」
しかし、シャルル九世にはなにも聞こえてはいなかった。
「ところで、わたしはといえば、男の世継ぎなしに死んでいく」
それから、彼は急に口をつぐんだ。なにかうれしい考えが心に浮かんで顔を輝かせているようだった。シャルルはナヴァール王の肩に手を乗せた。
「そうだ! 覚えているか、アンリオ。わたしがあの晩おまえに見せてやったあのかわいそうな赤ん坊のことを。ほら、天使に見守られて、絹の揺籠の中で眠っていただろう。ああ、なんてことだ! アンリオ、奴らはあの子も殺してしまうだろう」
「ああ、陛下」とアンリは叫んだ。その目は涙に濡れていた。「わたしは神かけてあなたに誓います。わたしは、夜も昼も関係なく、あの子の命を守ります。どうか、お命じください、王様」
「ありがとう! アンリオ、ありがとう」シャルル九世は思わずほろりとしていった。こうしたことは、彼の性格からはありえないことだった。もっとも、それも、彼の立場上いたしかたのないことではあった。
「よし、おまえの言葉を信じたぞ。あの子を王にはするな。幸い、王冠をいただくようには生まれついてはいない。幸せになるだろう。あの子には、別に財産を残すようにしてある。それに、母親のほうから、貴族の血を受け継ぐだろう。もちろん、心の貴族の血をな。たぶん、あの子は僧職に入ったほうがいいだろう。そのほうが、人に脅威を与えないですむ。ああ、もし、ここにあの子の愛撫と母親のやさしい笑顔があって、わたしを慰めてくれたなら、幸せにとはいわなくとも、すくなくとも、心安らかに死ねることだろう」
「陛下、あの子と母親をここに連れてくることはできないのでしょうか?」
「そんなことをしたら、ここから出ることはできないだろう。これが王の宿命なのだ。アンリオ、あの子と母親は、自分の思いどおりには生きることも死ぬこともできないだろう。だが、おまえが約束してくれたおかげで、わたしはずっと気が楽になった」
アンリは一瞬考えた。
「はい、たしかにお約束はいたしました。でも、はたして、わたしは約束を守れるでしょうか?」
「それはどういう意味だ?」
「わたし自身もあの子と同じように自由を奪われ、命を脅かされるのではないでしょうか。いや、もしかすると、あの子どころの騒ぎではないかもしれません。というのも、あの子は、まだ子供ですが、わたしは一人前の男ですから」
「そんなことはない」とシャルル九世は答えた。「なぜなら、わたしが死んだら、おまえは力と権力を手にするからだ。ほらこれが、その力と権力のしるしだ」
そういうと、瀕死の王は、枕元から、一枚の羊皮紙を取り出した。
「ほら、これだ」
アンリは王璽の押印してあるその紙に目を走らせた。
「わたしに、摂政を? 陛下!」アンリは喜びで蒼白になりながら叫んだ。
「そうだ、アンジュー公が帰ってくるまで、おまえを摂政にする。そして、まずまちがいなく、アンジュー公は帰ってこない。だから、この紙がおまえに与えるのは摂政の位ではなく王座だ」
「王座を! わたしに!」アンリはつぶやいた。
「そうだ、おまえにだ」シャルル九世はいった。「血と涙を糧にして暮らしているこんな放蕩者と堕落した女たちを統治する能力があり、その資格もあるのはおまえだけしかいない。弟のアランソン公は裏切り者だ。ああいう奴は、だれにでも裏切りを働くだろう。あいつは、わたしが放り込んだここの主塔の中にいつまでもおいておくといい。母はおまえを暗殺しようとするだろう。そうしたら、どこか遠くに流刑にしてしまえ。弟のアンジュー公は、三カ月、あるいは四カ月、もしかすると一年後にワルシャワを離れて、おまえから王座を取り返しに戻ってくるだろう。そうしたら、ローマ教皇の書簡で答えてやれ。この件に関しては教皇庁大使のヌヴェール公爵に交渉させているから、いずれ教皇書簡を受け取れるだろう」
「ああ、王様!」
「心配なのは、ただひとつ、それは内戦だ。だが、おまえが改宗したままでいるならば、それも回避できる。というのも、ユグノーたちは、おまえが首領にならないかぎり、団結は保てないからだ。コンデ公なんかには、おまえと戦う力はない。フランスは平原の国だぞ、アンリ、だから、カトリックの国なんだ。フランス王はユグノーの王ではなくて、カトリックの王でなければいけない。というのも、フランス王は多数派の王でなければならないからだ。みんなは、わたしが聖バルテルミーの虐殺を指示したことを後悔しているという。それは、たしかに、疑問を感ずることはある。だが、後悔はしていない。わたしがいま毛穴から噴き出している血はユグノーたちの血だと噂されている。だが、わたしはいま、毛穴から出ているものがなんなのか、よく知っている。砒素だ。血ではない」
「ああ、陛下。それはなんの意味なんです?」
「なんでもない。もしわたしの死がだれかの復讐ならば、それは、神によるものでしかない。だが、そんなことを話すのはやめよう。これから起こることを防ぐ方法だけを考えよう。わたしは、おまえに、よい議会と、鍛えられた軍隊を遺してやる。ただ、おまえの敵を相手にするときだけ、この二つを使え。つまり、母とアランソン公だ」
このとき、控えの間に武器の触れ合う鈍い音と号令を発する声が聞こえた。
「これで、一巻の終わりだ」アンリはつぶやいた。
「おまえは恐れて、迷っているな」シャルル九世が不安そうにいった。
「陛下!」アンリは答えた。「わたしは怖がっても、迷ってもいません。お引き受けいたします」
シャルルはアンリの手を固く握った。ちょうど、そのとき、隣の部屋で、シャルル九世の薬を作っていた乳母が器を抱えて王に近づいた。フランスの運命が三歩離れたところで決定されようとしているとは、ゆめにも思わずに。
「お乳母《かあ》さん、母を呼んでください。それに、アランソン公もここに」
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第六十五章 国王崩御、国王万歳!
数分後、カトリーヌ・ド・メディシスとアランソン公は、恐怖で蒼ざめた顔をして、怒りで全身をわななかせながら部屋に入ってきた。アンリが思ったとおり、カトリーヌはすべてを立ち聞きして、なにもかもアランソン公に伝えていたのだ。彼らは部屋に数歩踏み込んでから、立ちどまって、待った。
アンリはシャルル九世の枕元に立っていた。
王は、カトリーヌとアランソン公に遺言を伝えた。
「マダム」とシャルル九世は母にむかっていった。「もしわたしに男の子があったなら、あなたが摂政になるはずです。あるいは、あなたになにかあった場合、摂政はポーランド王か、アランソン公になるところでしょう。でも、わたしには、男子の世継ぎがいません。ですから、わたしのあと、王位はアンジュー公にいくことになりますが、アンジュー公はいまフランスにはいません。いずれ、彼はこの王座を要求しに戻ってくるでしょうが、わたしとしては、その王座に、アンジュー公とほとんど同じ権利をもつ人間をおいておきたくはないのです。なぜならば、その人物が自分の権利を振りかざしてアンジュー公と権利を争ったら、王国は当然のように、王位継承者同士の内戦の危機にさらされることになります。そんなわけで、わたしは、マダム、あなたを摂政にはしないことにしました。なぜというに、あなたは、二人の息子のなかから、どちらか一人を選ばなければならなくなるでしようが、これは、母親にとってはなんともつらいことにちがいありません。そして、同じような理由で、わたしは弟のフランソワも選ばないことにします。というのも、フランソワはアンジュー公のアンリに、『兄さんはポーランド王の王冠を戴いていたのに、なんでそれを捨ててきたんだ』というにきまっているからです。だから、わたしは摂政として王冠を一時的に預かることのできる人物、つまり、王冠を、頭の上ではなく、手の下にもっている人物を選ぶことにしたんです。摂政となるその人物、それは、……マダムとフランソワ、祝福の準備はいいですか、それはナヴァール王です!」
そしてシャルル九世は、最終命令を下すときの仕草で、アンリを祝福した。
カトリーヌとアランソン公も、ある種の動きを示したが、それは神経の発作と祝福との中間のような動作だった。
「さあ、摂政殿」とシャルル九世はナヴァール王にむかっていった。「この羊皮紙を受け取りなさい。これは、ポーランド王が帰国するまでのあいだ、軍隊の統帥権と国庫の鍵、それに国王の権利と権力を授けるものです」
カトリーヌは、アンリを、喰らいつくように睨みつけた。フランソワは足元がふらついて、立っていられなくなった。母親の固い決意、弟の弱さはアンリを安心させるどころか、彼に、危険が差し迫って、すぐそこまできていることを教えた。
だが、アンリは、強固な意志を働かせて、あらゆる恐怖を押さえ込み、シャルル九世の手から巻紙を受け取った。そして、すっくと背を伸ばすと、カトリーヌとアランソン公に一瞥を投げたが、それは、「気をつけなさいよ。わたしが支配者だから」と語っていた。
カトリーヌ・ド・メディシスはこの視線の意味を理解した。
「だめです。絶対に、そんなこと」カトリーヌは叫んだ。「フランス民族がほかの民族に頭を下げるなんてことは許しません。ヴァロワ家のものが一人でも残っている限り、ブルボン家のものを王にはさせません」
「お母さん! お母さん!」とシャルル九世は真っ赤になったシーツの上に身を起こした。その姿は前よりも一段と恐ろしいものになっていた。「気をつけなさい。わたしはまだ王ですよ。長いことはありません。それはわかっています。でも、命令を与えるにはそれほど長い時間は必要ありません。殺人者と毒殺者を罰する時間ぐらいはまだ残されています」
「あらそう。それなら、その命令とやらを与えてごらんなさい。わたしは、わたしの命令を与えますから。いらっしゃい、フランソワ。もう用はないわ」
「ナンセー!」シャルル九世は叫んだ。「ナンセー、こっちへこい! 早く! 命令を出すぞ。ナンセー。母と弟を逮捕しろ。逮…」
血が喉に逆流し、衛兵隊長が駆けつけて扉をあけたときには、シャルル九世は喉をつまらせていた。そして、窒息した王はどうとばかりにベッドの上に崩れおちた。
ナンセーは自分の名前が呼ばれたのしか耳にしなかった。それに続く命令は、はっきりしない声で叫ばれただけだったので、空間に消えてしまっていた。
「扉をしめろ」とアンリはいった。「だれも中に入れるな」
ナンセーは一礼して出ていった。アンリは視線を、動かなくなった王の体に戻した。唇の端に湧きでている血の泡が、呼吸のかすかな動きで揺れているのが見えなかったら、それは死体に思えたことだろう。
アンリは長いあいだシャルル九世を見つめていた。それから、自分に語りかけるようにいった。
「いよいよ、最期の時がきた。統治すべきか、それとも生きるべきか?」
と、そのとき、壁のくぼみのつづれ織りが持ち上げられ、真っ青な顔がその後ろにあらわれた。そして、王の寝室を支配している死の沈黙のまっただなかで、ひとつの声がこだました。
「生きなさい」とその声はいった。
「ルネ!」アンリが叫んだ。
「そうです、陛下」
「では、おまえの予言はいつわりだったのか。わたしはフランス王にはならないんだな」とアンリは叫んだ。
「いいえ、陛下、あなたはまちがいなくフランス王になります。まだその時がきていないだけです」
「どうしてそんなことがわかるんだ? おまえを信じていいのか、それを教えてくれ」
「それではお聞きください」
「聞こう」
「体を低くしてください」
アンリはシャルルの体の上で身をかがめた。ルネも反対側で上体を折った。二人を隔てているのはベッドの幅だけだった。それに、そのわずかな距離も、両側からの動きでさらに縮まった。二人の間には、あいかわらず声も動きもなく横たわる瀕死の王の体があるだけだった。
「よろしいですか」ルネは口を開いた。「じつは、わたしは、あなたを亡きものにするために、母后にここにつれてこられたのですが、わたしは、むしろあなたに仕えたいと思っているのです。なぜなら、わたしは、あなたの運勢を信じているからなのです。あなたに仕えれば、わたしは自分のすることのうちで、みずからの肉体と魂の利害を一致させることができるからです」
「まさか、そんなことをわたしにいうように命じたのも母后自身じゃないだろうね」とアンリは疑いと不安の入りまじった気持ちでたずねた。
「ちがいます」ルネは答えた。「それより、重大な秘密をお話ししますから聞いてください」そういって、彼はいっそう体を傾けた。アンリもそれをまねた。その結果、二つの頭はほとんどくっついた。
瀕死の王の体の上に体をかがめた二人の男の会見にはなにか非常に陰気なものがあったので、迷信深いフィレンツェ人の髪の毛はすっかり逆立って、顔じゅうを玉の汗が覆った。
「よろしいですか」とルネは続けた。「わたしだけが知っている秘密があります。あなたがこの瀕死の病人にかけて、あなたの母上の死についてわたしを許すと誓っていただけたら、この秘密をあなたにお知らせします」
「すでに一度、それは約束したではないか」とアンリは暗い顔つきになっていった。
「約束はなさいましたが、まだ誓ってはいただいておりません」とルネは後ろに身をそらしながらいった。
「では誓おう」とアンリはシャルル九世の頭の上に右手を差しのべていった。
「それでは申しましょう」とルネは早口にいった。「ポーランド王がもうじき帰国なさいます」
「そんな馬鹿な!」アンリは叫んだ。「飛脚は王命で逮捕されたはずだ」
「シャルル九世がとらえたのはシャトー・ティエリ街道の一人だけです。母后は、そうしたことを見越して、三人の飛脚を三つの街道に放っていたのです」
「ああ、わたしはもうだめだ」アンリはいった。
「今朝、ワルシャワから先発の伝書使が到着しました。ポーランド王は、だれも反対することを思いつかないうちに、伝書使のあとを追ってワルシャワを出発したのです。というのも、ワルシャワではまだシャルル九世の病気のことを知らないからです」
「ああ、わたしにあと一週間の余裕があったら」
「たしかに。でも、現実に、一週間の余裕はありません。控えの間で聞こえる衛兵の武器の音にお気づきになられましたか」
「もちろん」
「あの武器は、あなたのために用意されているのですよ。彼らはまもなく、ここに、王の寝室まで、あなたを殺しにやってくるでしょう」
「王はまだ亡くなってはいない」
ルネはまじまじとシャルル九世を見つめた。
「でも、十分後には、お亡くなりになるでしょう。ということは、あなたには、あと十分しか生きる時間がない。もしかすると、もっと短いかもしれません」
「では、どうすればいいんだ?」
「一刻も早く逃げることです。一秒も無駄にしてはいけません」
「でも、どこから? 奴らが、控えの間で待っているとしたら、わたしが出ていこうとすれば、殺されてしまうだろう」
「いいですか、よく聞いて。わたしはあなたのためなら、どんな危険もあえてします。その点をお忘れなく」
「落ち着け」
「では、この秘密の通路を使いますから、わたしの後ろについてきてください。裏門まで案内します。つぎに、時間を稼ぐために、わたしは母后のところにいって、あなたが逃げたことを伝えます。ですから、この秘密の抜け道を自分で見つけ、それを使って逃げたということになります。さあ、早く、こちらに」
アンリはシャルル九世に深々とお辞儀をして、額にキスをした。
「さようなら、お兄さん」アンリはいった。「あなたの最後の願いが、あなたのあとをわたしに継がせることだったのを、けっして忘れません。あなたの最後の意志がわたしをフランス王にすることだったのもぜったい忘れはしません。どうか、安らかにお亡くなりください。われわれの同志の名において、わたしは、流された血のことであなたを許します」
「早く、早く!」とルネがいった。「王が目をあけます。王が目をあけるまえに、逃げなくては」
「お乳母《かあ》さん!」シャルル九世がつぶやいた。「お乳母《かあ》さん!」
アンリはシャルルの枕元から、死にいく王には無用の大きな剣を手に取ってから、彼を摂政に指名した羊皮紙を胸の中にしまい、もう一度、最後にシャルルの額にキスすると、ぐるりとベッドをまわりこみ、秘密の通路に飛び込んで、後ろ手にドアをしめた。
「お乳母《かあ》さん!」シャルル九世は前よりも大きな声で叫んだ。「お乳母《かあ》さん!」
乳母が駆けつけた。「どうしたの、シャルロ?」と彼女はたずねた。
「お乳母《かあ》さん」シャルル九世はいった。まぶたは開いていたが、瞳は死のもたらす恐るべき視線の固着によって拡大したままになっていた。「わたしが眠っていたあいだに、なにか起こったらしい。大きな光が見える。神が見える。主イエスが見える。聖母マリアが見える。わたしのために祈ってくださっている。全能の主がわたしを許してくださる……ああわたしを呼んでいらっしゃる……ああ、神様、神様! どうかわたしをあなたの慈悲のうちにお認めください。神様、どうかわたしが王であったことをお忘れください。わたしは、王杖もなく王冠もなく、あなたのもとに参るのですから……神様、どうか王の犯罪をお忘れになり、人としての苦しみだけを思い出してください……神様、わたしは参ります」
そして、シャルル九世は、こうした言葉を発音するにつれて、まるで彼を呼ぶ声の前に参上するかのように、しだいに上体を起こし、最後の言葉を発すると同時に、最後の溜息をもらして、乳母の腕の中に崩れおちるとそのまま凍りついたように動かなくなった。
その間にも、カトリーヌ・ド・メディシスの命令を受けた兵士たちが、アンリが通るはずの通路をふさいでいた。だが、アンリはルネに導かれて、秘密の廊下を通り、裏口に出ると、そこで、彼を待っていた馬に飛び乗り、ド・ムイのいるはずの場所にまっしぐらに逃げ出した。
とつぜん、敷石を蹴るひづめの音に気づいた何人かの歩哨が振り向いて叫んだ。
「逃げたぞ! 逃げたぞ!」
「だれが逃げたの?」カトリーヌは窓に近寄ると叫んだ。
「アンリ・ド・ナヴァール、ナヴァール王です!」歩哨たちが叫んだ。
「鉄砲を!」カトリーヌが叫んだ。「早く、撃ちなさい!」
歩哨たちは狙いを定めた。だが、アンリはすでに遠くへ去っていた。
「あいつは逃げたわ」母后は大声でいった。「あいつの負けね」
「あいつは逃げた」アランソン公はつぶやいた。「だから、わたしが王だ」
だが、その瞬間、フランソワと母がまだ窓のところにいるあいだに、跳ね橋の上に馬のひづめの音がした。そして、武器の触れ合う音と大きなどよめきに迎えられるように、一人の若い男があらわれた。手に帽子をもって、速足で馬を進めている。男は中庭に入ると、「フランス!」と一声叫んだ。男の後ろには、男と同じように汗と埃にまみれた四人の部下が続いている。
「ああ、わが息子よ」とカトリーヌ・ド・メディシスは叫んで、両方の手を窓から広げた。
「お母さん!」と、その若い男は馬から飛びおりると叫んだ。
「兄だ、アンジュー公だ!」とアランソン公は恐怖のあまり、後ろに飛びのいて叫んだ。
「遅かった?」とアンジュー公は母にたずねた。
「いいえ、とんでもない。ちょうどよかったわ。神の手がこれ以上はないというほどのタイミングであなたをつれてきてくれたのよ。よく見て、聞きなさい」
実際、そのとき、衛兵隊長のナンセーが、王の寝室からバルコニーに進み出た。
みんなの目がいっせいに彼のほうに集まった。
ナンセーは一本の細い棒を二つに折り、折れた棒をそれぞれの手にもったまま三度叫んだ。
「シャルル九世が崩御された! シャルル九世が崩御された! シャルル九世が崩御された!」
そして、その二つに折れた棒をそのまま下に落とした。
「アンリ三世万歳!」カトリーヌ・ド・メディシスが敬虔な感謝をささげながら、十字を切って叫んだ。「アンリ三世万歳!」アランソン公を除いて全員がこの叫びに唱和した。
「ああ、ぼくは母にもてあそばれたんだ」とアランソン公は自分の爪で胸をかきむしりながらいった。
「わたしは勝った!」カトリーヌが叫んだ。「絶対に、あのいまいましいベアルヌ男など、王にはしない!」
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第六十六章 エピローグ
シャルル九世が崩御し、後継者が即位してから一年がたっていた。
アンリ三世は、神の御加護と母后カトリーヌ・ド・メディシスの後見よろしきを得て、立派に統治することができたので、あるとき、クレリーの聖母教会に感謝の意を表するために、行幸を思い立った。
アンリ三世は、王妃と宮廷の全員を引き連れて、徒歩で旅立った。
いずれにしろ、アンリ三世には、こうしたちょっとした気晴らしを自分に許すだけの余裕があったわけだが、それは、さしあたって、彼を都にひきとめておくような深刻な問題がなにひとつなかったためにほかならない。ナヴァール王はナヴァール王国にいた。そこは、彼が戻ることをあれほどに希求していたところだった。そして、ナヴァール王は、モンモランシー家の血を引く、フォスーズと呼ばれる美少女にぞっこんだという噂だった。マルゴは王のそばにいるが、鬱々として楽しまず、ただ、ピレネーの美しい山々を見にいくのだけを楽しみにしていた。といっても、なんらかの気晴らしを求めるわけではなく、人生の二つの大きな悲しみ、すなわち、愛する人の不在と死に対する慰謝をそこに見いだそうとしていたのである。
パリはいたって平穏だった。そして、最愛の息子アンリがアンリ三世となって以来名実ともに摂政となったカトリーヌ・ド・メディシス母后は、ときとしてルーヴルに、またあるときはソワッソン館に滞在していた。ソワッソン館というのは、現在、小麦市場が立っている場所にあったが、いまでは優美な円柱しか残っていない。これは今日もなお見ることができる。
カトリーヌはある晩、ルネと一緒になって、星々の運行を研究することに没頭していた。ルネの小さな裏切りのことは、カトリーヌはあいかわらずなにも知らなかった。ルネはココナスとラ・モールの事件でタイミングよく偽証をおこなった功によって、ふたたび母后の寵を取り戻すことができたのである。そんなとき、カトリーヌのもとに召使があらわれて、面会を求めにやってきた男が一人待っていると取り次いだ。男は、ぜひ母后に伝えなければならない緊急の用件があるといい、彼女の礼拝室で待っていた。
カトリーヌは急いで階段を降りた。いたのはモールヴェルだった。
「あいつがパリに来ています」と、元城門爆破隊長は、カトリーヌが声をかけるのを待って発言するという宮廷の礼儀を忘れて叫んだ。
「あいつって、だれのこと?」
「ナヴァール王以外にだれがおりますでしょうか、奥様?」
「パリに!」カトリーヌはいった。「パリに……あいつが……アンリが……。ずうずうしい男だね、でも、またなにしに来ているんだい?」
「見た目から判断いたしますかぎりでは、奴め、ソーヴ夫人に会いにきたようであります。理由はそれだけのようでございます。しかし、いろいろな可能性を考えてみますと、王に対する陰謀を企てにきたということもありえます」
「でも、どうして、あいつがあらわれたことを知ったのかい?」
「それが、昨日、一軒の家に奴が入っていくところをこのわたくしが偶然目撃したのであります。しかも、それからすぐあとに、ソーヴ夫人が、同じ家に入っていったのであります」
「ほんとうに、あいつなのかい?」
「わたくしは、奴が家から出てくるまで待っておりました。つまり、一晩中ということでございます。そういたしましたところ、三時になりまして、二人の恋人が外に出てきたのであります。王はルーヴルの入口までソーヴ夫人を送っていきました。すると、おそらくは、門番が奴の党派に一枚かんでいるのでしょう、彼女はなんの咎めをうけることもなくルーヴルに戻っていきました。王は帰りみち気楽に、ちょっとしたはやり歌など歌いながら、まるで領地の山岳地方にでもいるような、かなり軽い足取りで戻ってまいりました」
「それで、あいつはどこに向かったの?」
「アルブル=セック街の『星空亭』であります。陛下が昨年処刑させました二人の魔術師が泊まっていたのと同じ宿屋でございます」
「なぜ、もっと早くわたしにいいにこなかったんだい?」
「まだ、確証が得られなかったからでございます」
「で、いまは確かなの?」
「はい、確実でございます」
「見たのかい?」
「まちがいなく。正面の居酒屋に張り込んでおりましたところ、前夜と同じく奴が同じ家に入っていくのが見えました。ソーヴ夫人が遅れたらしく、奴め二階の窓からずうずうしくも顔を出しました。今度は、わたしも疑いを捨てました。それに、しばらくすると、ソーヴ夫人がやってきて、奴と落ち合ったのであります」
「じゃあ、今夜もまた、昨日の夜と同じく、朝の三時までその家にいるというのね」
「おそらく」
「その家はどこにあるの?」
「クロワ=デ=プチ=シャンの近くで、サン=トノレ側のところであります」
「わかりました」とカトリーヌ・ド・メディシスはいった。「ソーヴ男爵はおまえの筆跡を知らないね?」
「知りません」
「じゃあ、ここにすわって、お書き」
モールヴェルは言いつけに従い、ペンを取った。
「お願いいたします」モールヴェルはいった。
カトリーヌはこんな文章を書き取らせた。
[#ここから1字下げ]
ソーヴ男爵がルーヴルで執務中、男爵夫人はクロワ・デ=プチ=シャンの近くで、サン=トノレ側のさる家にて、伊達《だて》男と逢いびき中。男爵は、その家を壁に描かれた赤い十字にて識別されたし。
[#ここで字下げ終わり]
「で、これをどうなさるおつもりで?」モールヴェルはたずねた。
「この手紙の写しを取っておきなさい」カトリーヌはいった。
モールヴェルはいわれるとおりにした。
「それでは」とカトリーヌはいった。「この手紙を一通、信頼できる部下にもたせてソーヴ男爵に届けさせる。そして、もう一通を同じ男を使ってルーヴルの廊下に落とさせるようにするんだよ」
「よくわかりませんが」モールヴェルがいった。
カトリーヌは肩を聳《そび》やかした。
「おや、こんな手紙を受け取ったら、亭主なら怒るのは当たり前じゃないのかい?」
「しかし、ナヴァール王がルーヴルにいたときには、男爵は怒りませんでしたけれど?」
「相手が王なら平気なことも、ただの伊達男なら平気ではないということよ。それに、亭主が怒らないなら、おまえが代わりに怒ってやればいい」
「わたしが?」
「もちろん。衛兵を四人、足りなければ六人つけてやろう。おまえは仮面をつけてお行き。男爵の使いの者を装って扉を押しやぶって、密会の現場を襲うんだよ。扉をたたくときには、王の名前でおやり。次の日になれば、ルーヴルの廊下に落ちていた手紙をどこかのおせっかいが拾ってほかの連中に見せてまわるから、復讐したのは亭主ということになるさ。ただ、襲われた伊達男が偶然ナヴァール王だったというだけの話さ。第一、だれでもナヴァール王はポーにいると思っているんだから、こんなからくりを見抜けるやつはいないさ」
モールヴェルは賛嘆した目つきでカトリーヌ・ド・メディシスを見つめ、お辞儀をすると、出ていった。
モールヴェルがソワッソン館を出ていこうとしたちょうどそのころ、ソーヴ夫人がクロワ=デ=プチ=シャンの小さな家に入っていった。
アンリは扉をあけて彼女を待っていた。
ソーヴ夫人の姿を階段に見かけると、アンリはいった。
「つけられていませんか?」
「いいえ」シャルロットは答えた。「と思いますけれど」
「いや、つけられていると思うのでね」アンリはいった。「それも、今ばかりじゃなくて、さっきもだ」
「まあ、なんてことでしょう」シャルロットはいった。「陛下、わたし恐ろしいですわ。こうして、せっかく陛下にお会いできて、楽しい思い出になると思いましたのに、それが、陛下にとって災難になるなんて。これでは、気持ちが収まりません」
「落ち着いてください」アンリはいった。「暗闇で、三本の剣が見張っていますから」
「三本? それではすくなすぎます、陛下」
「いや、それで十分。その三本の剣は、ド・ムイ、ソクール、バルテルミーと呼ばれるのですから」
「では、ド・ムイ殿がパリに?」
「もちろん」
「あえてパリに戻られるということは、陛下と同じようにどこかにかわいい人でもいらっしゃるのでしょうか」
「いや、あの男には、どうしても死んでもらわなければならない敵がいるのです。こんな愚かなことを男にさせるのは、恋でなければ、憎しみだけです」
「かたじけないお言葉」
「おっとごめんなさい。誤解しないでください」アンリはいった。「べつに、わたしたちの恋を愚かだといっているわけじゃないんです。過去や未来の愚行のことについていったつもりなんです。でも、そんなことをいうのはもうやめましょう。時間がありません」
「では、もう永遠にお別れですの?」
「今夜、発ちます」
「それでは陛下がパリにいらしたご用件は全部おすみになりましたの?」
「戻ってきたのは、あなたのためだけです」
「まあ、お上手ですこと」
「とんでもない。わたしは本当のことをいったまでです。でも、とりあえず思い出はわきにどけておきましょう。あと二、三時間は幸せでいられる。それから、永遠のお別れです」
「ああ、陛下」ソーヴ夫人はいった。「永遠なのはわたしの愛だけ」アンリは話をしている時間はないといったが、事実、ほとんど話はしなかった。彼は恋を信じていた。あるいは、懐疑的な彼のことだから、信じるふりをしていた。
いっぽう、そのあいだ、ナヴァール王がいったように、ド・ムイと二人の仲間は、家の近くで張り番をしていた。
アンリは今夜は、夜中の三時ではなく、一時に家を出ることになっていた。それから、前夜と同じく、ソーヴ夫人をルーヴルまで送っていき、そこから、モールヴェルの住むスリゼー街まで出かける手筈になっていた。
ド・ムイは、この宿敵の住所を、その日の昼間になってようやく突き止めることができたのである。
彼らがそこで、見張りに立ってから一時間ほどたったとき、一人の男が五人の男たちを引き連れて、例の小さな家の入口に近づいてきた。彼らは、次々と鍵を取り出し、それで入口の扉をあけようとしていた。
ド・ムイは隣の家の入口に身を隠していたが、これを見るとやにわに隠れ場所から飛び出し、いきなりその男の腕をつかんだ。
「失礼、ここからは入れません」
男は驚いて後ろへ飛びのいたが、その拍子に、相手の帽子が落ちた。
「ド・ムイ・ド・サン=ファール!」男は叫んだ。
「モールヴェル!」ド・ムイは剣を振り上げながら大声でいった。「ちょうどおまえを探していたところだ。飛んで火にいる夏の虫! 覚悟しろ!」
だが、怒りに燃えていたとはいえ、ド・ムイは主君のアンリのことを忘れていたわけではなかった。窓のほうに振り向くと、ベアルヌ地方の牧人がやるように、指笛を鳴らした。
「おれ一人で十分だ」とド・ムイはソクールにいった。「さあ、おれが相手だぞ。人殺しめ。いくぞ」
その声とともに、ド・ムイはモールヴェルに切りかかった。
だが、モールヴェルはその間に、腰のベルトからピストルを取り出していた。
「よし、今度こそ」と王の刺客はド・ムイに狙いを合わせながらいった。「おまえの命はもらったぞ」
モールヴェルはピストルを発射したが、ド・ムイはすばやく右に飛びのいたので、弾は命中しなかった。
「さあ、今度はおれの番だ!」ド・ムイは叫んだ。
そして、彼は強烈な剣の一撃をお見舞いしたので、剣先は革ベルトに当たったにもかかわらず、そんな障害をものともせず、モールヴェルの内臓に達した。
王の刺客は、すさまじい悲鳴をあげた。それは、苦痛の激しさを物語っていた。そのため、モールヴェルに従ってきた衛兵たちは彼が死んだものと思いこんで、サン=トノレ街のほうに一目散に逃げていった。
モールヴェルはけっして豪胆な男ではなかった。だから、部下に見捨てられ、しかも、目の前にはド・ムイのような強敵しかいないとなっては、ここは三十六計逃げるに如《し》かずと判断した。そこで、さきほどきた道を引き返しながら、「助けてくれ!」と叫んだ。
ド・ムイとソクールとバルテルミーは、血気に駆られて、モールヴェルを追撃した。
彼らが、モールヴェルたちの退路を断とうと、グルネル街に足を踏みいれたとき、例の小さな家の窓があいて、一人の男が、雨に濡れた地面に二階から飛び降りた。
アンリだった。
ド・ムイの指笛で危険を教えられ、さらにピストルの音で危険が差し迫っていることを知らされたアンリは、ド・ムイたちの救助に駆けつけようとしたのだ。
叫び声が居場所を知らせてくれた。セルジャン市門の方からそれは聞こえてきた。叫んでいるのはモールヴェルだった。彼は、ド・ムイに追いつめられたと感じたので、恐怖で逃げだした部下たちに助けを求めたのである。
逃げる途中、モールヴェルは何度も後ろを振り返らざるをえなかった。さもないと、後ろから切りかかられるかもしれないからである。
今度もまた後ろを振り返った。すると、仇敵の白刃が見えたので、モールヴェルは、思いきって切りかかった。敵の巻き布が真っ二つに切れた。だがド・ムイはすぐさま反撃にでた。
ド・ムイの浴びせた一撃は、さきほどと同じところの肉に突き刺さった。二つの傷口から二本の血しぶきが同時にほとばしった。
「よし、やったぞ!」ようやく追いついたアンリが叫んだ。「とどめをさせ! ド・ムイ!」
ド・ムイとしては、いわれるまでもなかった。
もう一度、大きく振りかぶると、きつい一撃を加えたがモールヴェルは突かれるまで待ってはいなかった。
左手で傷口を押さえながら、死にものぐるいで逃げだした。
「殺せ、早く! 殺せ!」ナヴァール王は叫んだ。「兵士たちは釘づけだぞ。勇者にとって、卑怯者の絶望などいかほどのものでもない」
モールヴェルの肺は爆発寸前になっていた。喉はヒューヒューとなり、呼吸のたびに、血のまじった汗が飛び出した。ついに、彼は、精根つきはてて崩れおちたが、すぐに身を起こすと、ひざをついて振り向き、剣の切っ先をド・ムイに向けた。
「おーい! 同志! こっちだぞ。やつらは二人だけだ。銃だ! 銃で撃て!」
実際、ソクールとバルテルミーは、プリ街に逃げ込んだ二人の衛兵を追っているあいだに、道に迷っていた。だから、四人の敵を前にしたナヴァール王とド・ムイは孤立していた。
「撃て!」モールヴェルは絶叫した。そうしているあいだに、一人の兵士が騎兵銃に弾を込め狙いをつけた。
「なるほど、だが、その前におまえは終わりだ」とド・ムイはいった。「死ね、この裏切り者、くたばれ、この卑怯者、刺客らしく呪われて死ね!」
そういうと、ド・ムイはモールヴェルの鋭い剣をむんずと片手でつかみ、もう一方の手で、仇敵の胸に上から下までズブリと剣を突き刺した。その力があまりに激しかったので、剣はモールヴェルの体を突き抜けて大地に突き刺さった。
「危ない! 気をつけろ!」アンリが叫んだ。
ド・ムイは剣をモールヴェルに突き刺したまま、後ろに飛びのいた。というのも、兵士が騎兵銃を構えて、至近距離で弾丸を発射しようとしていたからだ。
アンリは叫ぶと同時に、剣をその兵士の体に突き刺した。兵士は叫び声をあげながら、モールヴェルのそばに崩れおちた。
他の二人の兵士は一目散に逃げだした。
「よし、やったぞ! ド・ムイ、よくやった!」アンリは叫んだ。「一刻の猶予もならん。もし、わたしたちだと知られたら、一巻の終わりだ」
「お待ちください、陛下。わたしの剣が残っております。あんな悪党の体に剣を突き刺したままにしておくわけにはまいりません」
そういうと、ド・ムイは横たわっているモールヴェルに近づいた。だが、モールヴェルは身動きしていないかには見えたがまだ死んではいなかった。だから、ド・ムイが、モールヴェルの体を貫いている剣の柄に手を置いたとき、死んだ兵士が手放した騎兵銃を握りしめて突如立ち上がり、至近距離から、ド・ムイの胸めがけて銃弾を放った。
ド・ムイは叫び声も発せずにその場に倒れた。即死だった。
アンリはモールヴェルに切りかかったが、そのときには、モールヴェルはすでに大地に倒れていた。アンリの剣は死体を突き刺したにすぎなかった。
アンリはすぐにその場から逃げださなければならなかった。物音を聞きつけて、たくさんの野次馬が集まり、夜警も駆けつけてきたからだ。アンリは、騒ぎで集まってきた野次馬のなかにだれか、知り合いがいないかと目でさがした。そして、とつぜん、喜びの叫びをあげた。
ラ・ユリエールおやじの姿を認めたからだ。
この事件はクロワ・デュ・トラオワールの近く、つまりアルブル=セック街を抜けたところで起こったので、我らが旧知のこの宿屋の主人はなにごとかと思って駆けつけてきたのである。ラ・ユリエールはもともと陰気なたちの人間だったが、ラ・モールとココナスという最愛の常連を失って以来、一段と沈みがちになっていた。そんな彼だったが、この晩は、たまたまナヴァール王の夕食の支度をしていたとき、銃声を耳にしたので、竈《かまど》と鍋を放りだして、ここまで見物にきたのである。
「親愛なるラ・ユリエール君、きみにド・ムイ殿を紹介しようと思ったのだが、もはや手遅れかもしれない。そこで、たってのお願いだが、このド・ムイをきみの宿に運んでくれないか。まだ息があるなら、看護は惜しまないでくれ。この財布を渡しておくから。もう一人のほうについては、そのままドブに捨てておけ。犬のように、腐っていくだろう」
「でも、あなたは?」ラ・ユリエールが聞いた。
「わたしか? わたしはあと一カ所、別れの挨拶をしておかなければならないとこがある。これからひと走り行ってくるから、十分たったら、きみの宿に戻る。それまでに、馬を用意しておいてくれ」
そういうと、アンリは本当にクロワ=デ=プチ=シャンの小さな家のほうに駆けだした。だが、グルネル街を抜けたところまできたとき、恐怖でその場に立ちすくんだ。
入口の前に、たいへんな数の人だかりがしていた。
「この家でなにがあったんです?」とアンリはなにげないふうを装ってたずねた。「なにが起こったんですか?」
「いや、たいへんなことですよ」とアンリが声をかけた男が答えた。「美しい人妻が亭主に刺されたんですよ。どうやら、だれかが亭主に、女房が男と逢いびきしているって手紙で教えたらしいですね」
「で、亭主はどうなったんですか?」
「逃げましたよ」
「じゃあ、女房のほうは?」
「あそこにいます」
「死んだんですか?」
「まだらしいけれど、助からないみたいですよ」
「ああ」とアンリは天を仰いだ。「おれは呪われている」
そういうと、彼は家の中に飛び込んでいった。
部屋にはたくさんの人がつめかけていた。そして、みんな、ベッドのまわりに集まっていた。ベッドには、あわれなシャルロットが、短剣を二カ所刺されて横たわっていた。
彼女の夫は、二年間、アンリに対する嫉妬を隠していたが、ついにこの機会をとらえて、恨みを晴らしたのである。
「シャルロット! シャルロット!」アンリは人ごみをかきわけ、ベッドの前にひざまずくと、叫んだ。
シャルロットは美しい目をあけたが、すでにその瞳には、死のヴェールが覆いかぶさっていた。彼女は一声叫んだが、その拍子に二カ所の傷口から血が噴きだした。だが、かまわず、彼女は身を起こそうと懸命の努力をした。
「わ、わ、わたしにはわかっていたんです」彼女はいった。「死ぬ前に、もう一度、お会いできるって」
そして彼女は、まるで、アンリをあれほどまでに愛した自分の魂を返すためにだけこの瞬間を待っていたかのように、ナヴァール王の額に唇を押しあて、最後にもう一度「愛しています」とつぶやいて、こと切れた。
アンリはこれ以上とどまって、身を危うくすることはできなかった。短剣を取り出すとシャルロットの髪を一房切り取った。それは、彼が、逢いびきのたびにほどいては、あきもせず、その長さを称賛していたあの美しいブロンドの髪だった。アンリは鳴咽しながら部屋をあとにした。ベッドを囲んだ人々もみな鳴咽していたが、彼らは、自分たちが、これほど高貴な人たちの不幸を前にして涙しているとは思いもしなかった。
「友も、恋人もだれもがわたしを見捨てていく」アンリは呆然として叫んだ。「なにもかもわたしのもとを離れ、もうなにもなくなった」
「陛下、そのとおりでございます」と小さな家の前に集まっていた野次馬のなかから一人離れた男が、アンリのそばによってきてつぶやいた。「しかし、陛下にはまだ王冠がございます」
「ルネ!」アンリは大きな声をあげた。
「さようでございます、陛下。いつも、陛下を見守っているあのルネでございます。モールヴェルは、息絶える間際に、あなたの名前をだしました。ですから、あなたがいまパリにおられることは知れわたっております。弓兵が捜索を始めました。早く、逃げてください! 早く!」
「それでも、おまえは、わたしが王になると言い張るのか? ルネ! この逃亡者をつかまえて!」
「ご覧ください、陛下」フィレンツェ人は夜空のひとつの星を指さしていった。その星は、黒い雲の隙間から顔をだし、燦然と輝いていた。「王になると予言しているのはわたくしではございません。あの星でございます」
アンリは溜息をひとつもらすと、暗闇の中に消えた。(完)
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マルゴとアンリ・ド・ナヴァールのその後
デュマの小説『王妃マルゴ』は、一五七四年の春に起こった『不満派《マルコンタン》の陰謀』と呼ばれる事件でラ・モールとココナスが処刑され、そのすぐあとで、アンリ・ド・ナヴァールが、シャルル九世の崩御と同時にヴァンセンヌの城から脱出に成功するところで終幕を迎えているが、現実のマルゴとアンリ・ド・ナヴァールの人生はもちろんここで終わったわけではなく、さらなる運命の有為転変《ういてんぺん》にさらされることになる。
歴史を題材にした架空の物語とはいえ、読者としては、当然、マルゴとアンリ・ド・ナヴァールの「その後」を知りたいと思うにちがいない。以下、簡単に、二人の「小説以後」の人生の軌跡をしるしておこう。
*
まず、アンリ・ド・ナヴァールのほうから始めると、彼は、小説にあるように、一五七四年の五月三十日にシャルル九世が崩御したあと、すぐにパリを脱出したわけではない。またポーランド王(アンジュー公)が、シャルル九世崩御と同時に到着したというのもデュマの創作である。
ただ、ポーランド王が、カトリーヌ・ド・メディシスからの手紙を受け取ってひそかにポーランドを抜け出してフランスに戻ったというのは本当だし、アンリ・ド・ナヴァールがポーランド王の帰国直前に脱出を図って失敗したのも事実である。デュマはこれらの事実を生かしてあの劇的な結末を用意したのだろう。
実際には、ポーランド王がイタリアを経由してリヨンの移動宮廷に姿をあらわしたとき、カトリーヌ・ド・メディシスの命令でこの新王を迎えに行ったのは、ほかならぬこのアンリ・ド・ナヴァールとアランソン公だった。
アンリ三世となったアンジュー公は、二人とボーヴォワザンの橋の上で出会い、過去はすべて水に流そうといった。またマルゴにも再会できてうれしいと語ったが、二人の『不満派』の頭目とそれに加担した王妃にしてみれば、アンリ三世が自分たちを許してくれているとはとうてい思えなかったので、つねに脱出の機会を狙っていた。
だが、カトリーヌ・ド・メディシスは、そんなことは先刻承知していたので、アンリ・ド・ナヴァールとアランソン公をルーヴル宮殿に軟禁したうえ、ソーヴ夫人を使って両人を骨抜きにして、たがいにいがみ合わせようとした。カトリーヌのこの作戦はまんまと成功し、二人は嫉妬に狂い、ルーヴルに釘づけになったかのように思われた。
しかし、アランソン公は、なかなか食えない男だった。彼の人生はほとんど人の裏をかくことにだけ費やされたといっても過言ではない。だから、このときも、ソーヴ夫人に夢中になっているふりを装って、一五七五年の九月、ルーヴルの壁を滑り降りて脱出、所領地のデュリューで党派の貴族たちと合流して、兄のアンリ三世の手ごわい敵となった。
アンリ・ド・ナヴァールのほうはといえば、女にはからきし弱い男なので、カトリーヌ・ド・メディシスもこちらはまだ大丈夫とたかをくくっていた。だがこのアンリも、翌一五七六年にはサンリスの森に狩りに行くという口実をもうけてそのまま逃走し、ロワール川を渡ってヴァンドームに着くと、さっそくカトリックの信仰を捨てて、ふたたびプロテスタントの首領となった。
アンリ・ド・ナヴァールは、パリに残してきたもののなかで本当に心残りなのは女房だけだといったが、それは「妻」としてのマルゴではなく、「同盟者」としてのマルゴ、マルゴの頭脳に対する未練だった。
その点は、マルゴのほうでも同じだった。マルゴは、「夫」としての、「男」としてのアンリにはなんの思い入れもなかった。回想録の『思い出の記』でマルゴは、アンリがソーヴ夫人との関係を妹にでも語るようにあけすけに自分に話したと書き、わたしが夫に対して嫉妬を感じていると思われるのは心外だと何度も記している。そして、マルゴのほうでも、同じように、ラ・モールの次にできた新しい愛人たちの存在を夫に隠そうともしていなかった。
新しい愛人とは、ラ・モールが死んでから数週間もたたぬうちに、マルゴがほれこんだサン=リュックという小姓だった。この小姓はまだ少年だったが、精力絶倫で知られていた。しかし、マルゴはすぐに飽きてこの小姓を捨て、次には、アランソン公の部下のビュシー・ダンボワーズに夢中になった。
このニュースは、アンリ三世の腹心で、マルゴとは犬猿の仲のデュ・ガストの口からアンリ三世の耳に入った。アンリ三世は、かつて愛した妹をアランソン公の部下に取られたことに腹を立て、夫のナヴァール王を呼びつけ(このときにはまだ脱出していなかった)妻の浮気を教えたが、アンリが煮え切らない態度しかとらないので、カトリーヌ・ド・メディシスに妹の不品行を訴えた。だが、カトリーヌもまた、その程度のことでいちいち騒ぐなと諭した。
しかし、どうしても腹の虫のおさまらないアンリ三世はデュ・ガストに命じて、騎兵十二人にセーヌの河岸でビュシー・ダンボワーズを襲わせた。ビュシー・ダンボワーズは辛くも一命をとりとめたが、危険が身に迫っていることを察したので、百七十名の部下とともに、一五七五年の五月にアランソン公よりも一足お先にルーヴルを脱出してしまった。
マルゴはこの事件でデュ・ガストに深い恨みを抱き、同年十月、殺し屋を雇ってデュ・ガストを暗殺させた。マルゴも、母親譲りの怖い女の一面があったのである。
こんな事情も働いていたためか、アンリ三世は、アンリ・ド・ナヴァールが一五七六年の二月に脱出すると、夫のもとに行かせてくれというマルゴの願いを拒絶し、妹をルーヴルに軟禁した。新しく愛人をつくることもかなわなくなったマルゴはヒステリー状態になり、健康も害したので、アランソン公にひそかに手紙を送り、自分を解放してくれるようアンリ三世に圧力をかけてくれと頼んだ。アランソン公は、その頃、ドイツ騎兵六千人からなる大軍団を率いて、シャンパーニュ地方を荒らし回っていたのである。
アランソン公はただちにマルゴの解放を要求してきたが、アンリ三世がこれを拒んだので、カトリーヌ・ド・メディシスが二人の息子の間にたって仲介役をつとめることになった。母后は、マルゴの軟禁を解くと同時に、アンリ三世から譲歩を引き出して一五七六年の五月に兄弟を和睦《わぼく》させた。これが俗に『ムッシュー(アランソン公の愛称)の和議』と呼ばれるものである。これによって、聖バルテルミーの虐殺の犠牲者は名誉を回復され、プロテスタントは安全を保障された。アランソン公はアンジュー、トゥレーヌ、メーヌ、ベリーなどの領地を割譲され、アンジュー公と名乗る許可を得た。新しいアンジュー公はルーヴルに戻った。
弟のおかげで自由を獲得したマルゴは、弟のために何かしてやらなければと思っていた。そんなとき、フランドルの王になるようにモンドゥーセからたきつけられたアンジュー公(以下アランソン公をこの名称で呼ぶ)が、フランドルの人々の人気を獲得するため代理で遊説に出かけてはもらえないかといってきた。マルゴはすぐにこの話に乗った。いったんパリを離れてしまえば、夫のいるナヴァールに行くことも不可能ではない。マルゴは、フランドルのスパの温泉に湯治に行くという口実をつくって、一五七七年に遊説の旅に出た。アンリ三世も王位を狙う弟がフランドル王になってくれれば厄介払いできると思ったので、あえて、マルゴをフランドルに発たせた。
人生において初めて、政治的な役割を果たせることになったマルゴはうれしくてたまらなかった。デュマも小説の中で描いているように、マルゴは母親譲りなのか、相当に政治が好きだったのである。
実際、マルゴは立派にこの大任を果たした。各地でラテン語、スペイン語、イタリア語などを自由に操って巧みな演説をおこない、弟がいかに素晴らしい人物であるかを力説し、スペインへの抵抗を説いた。マルゴの学識はフランドルの町々のお偉方を驚かした。しかし、なによりも強力な武器となったのは、なんといってもマルゴの容姿と肉体だった。カンブレジの司令官ダンシーはたちまちマルゴの虜になった。ナミュールでは、ネーデルランドの司令官ジャン・ドートリッシュを挑発的な衣装で悩殺した。ジャン・ドートリッシュはこういった。「あれは、男を救うというよりは、破滅させるたぐいの美しさだ」
フランドル遊説は大成功だったが、あまりの成功が逆にアンリ三世の恐れを引き起こした。アンリ三世がスペイン側に手を回して、逮捕令状を用意させているという知らせを受けたマルゴは大急ぎでフランドルをあとにして、ほうほうのていでアンジュー公の所領に逃げ帰った。
やがて、アンリ三世とアンジュー公の仲がふたたび険悪になった。陰謀の疑いをかけられ、兄から侮辱をうけたアンジュー公はまたもやルーヴルを脱出し、もう一度、アンリ三世に対して叛旗を翻した。
マルゴは、弟がいなくなったことで、以前のような軟禁状態にもどってしまうのではないかと恐れた。そこで、アンリ三世に、夫のいるネラックに行かせてくれるよう頼んだが、アンリ三世はなかなか首をたてにふらない。そのとき、カトリーヌ・ド・メディシスが助け船を出した。母后は、わたしが一緒にキュイエンヌまで行ってやるといったのだ。
じつは、カトリーヌ・ド・メディシスには、大きなたくらみがあった。ラングドック地方でユグノーの動きが活発になり、本格的な宗教戦争が勃発する恐れが出てきたので、なんとかこれを防ごうと思ったのである。カトリーヌ・ド・メディシスが考えたのは、女好きのナヴァール王にもう一度新しい女をあてがって、戦意をそぐという例の色仕掛け戦法である。そのため、カトリーヌ・ド・メディシスは「特別遊撃隊」を新しく編成して、とびきりの美女ばかりを集め、万全の態勢で「戦い」に望むことにした。もちろん、隊員のなかには、いまではギーズ公の愛人になっているあのソーヴ夫人も含まれていた。一行は、一五七八年の七月にパリを出発して、南フランスに向かった。
ナヴァール王は、一行をラ・レオールで出迎えた。
カトリーヌ・ド・メディシスの目論見どおり、「特別遊撃隊」を見たとたん、ナヴァール王の目はらんらんと輝いていた。ただし、ナヴァール王のご指名にあずかったのは、ソーヴ夫人ではなく、デイエルというスペイン娘だった。二年の間に、ナヴァール王の趣味は変化していたのだ。
「夫のナヴァール王はデイエルに夢中になり、チュレンヌ氏は、ラヴェルニュにほれこみました。ただし、そのことはわたしがナヴァール王からたくさんの尊敬と愛情を受け取る妨げにはなりませんでした」
『思い出の記』にはこう書かれているが、マルゴはやはり、夫の体臭にはどうしても耐えられなかった。二人がベッドをともにしたのは次の晩だった。
ナヴァール王国の首都ネラックの宮廷は、ルーヴルと違っていたって地味な空気が支配していたので、カトリーヌ・ド・メディシスとマルゴは、派手な舞踏会を開いて雰囲気を一変させようと考えた。「特別遊撃隊」がその威力を発揮した。たしかに、性風俗の面では、カトリーヌ・ド・メディシスの思いどおりに「改宗」が進んだわけである。
だが、一五七九年の二月から開かれた肝心の講和会議では、ルーヴルから同行した大法官ピブラクがマルゴの色香に惑わされてナヴァール王の肩をもったため、プロテスタントに有利な条件で講和条件が決定された。カトリーヌ・ド・メディシスはとりあえず、平和が勝ち取れたことに満足してパリに戻った。
マルゴは夫とともにポーに移った。しかし、ポーはプロテスタントの勢力が強いところで、ミサを続けようとするマルゴに対する風当たりが強かったので、夫婦はふたたびネラックに居を移した。この年から一五八二年まで、ネラックで過ごした日々は、マルゴの波乱の多い人生でも比較的、平穏な時期にあたる。
といっても、それは二人の「夫婦関係」が良好だったという意味ではない。ナヴァール王の新しい相手は、カトリーヌ・ド・メディシスが連れてきた十六歳の侍女フランソワーズ・ド・モンモランシー、通称フォスーズだった。ナヴァール王が見境いのない好色漢であることはマルゴにもわかっていたが、今度はすこし状況が違った。フォスーズが妊娠してしまったからである。困り果てたナヴァール王はマルゴにフォスーズを温泉に連れていってそこで秘密裡にことを処理してくれと頼んだ。マルゴは、子供ができては王妃の地位が危うくなるので、この仕事を引き受けようとしたが、そのうちにフォスーズが流産したので、あえて手を汚さずにすんだ。この侍女の妊娠で危機感をもったマルゴは、不妊症を直そうと、子宝を授けるバニョール温泉に出かけたが、温泉の効能はついにあらわれなかった。
お盛んだったのはナヴァール王だけではない。
マルゴは宮廷の風俗習慣をルーヴルに負けないように洗練させようと努めたが、そのかいあってか、宮廷の男たちのなかから、彼女のお眼鏡にかなうような伊達者があらわれた。その一人はナヴァール王の忠実な部下チュレンヌ子爵だったが、マルゴはすぐにチュレンヌに飽きて、ネラックを訪れた弟アンジュー公の部下シャンヴァロンに乗り換えた。シャンヴァロンに対するほれこみかたはかなりなものがあったが、破局は意外なかたちで訪れた。アンジュー公がナヴァール王の愛妾フォスーズに手を出したので、ナヴァール王に頼まれて弟に手を引くようにいったところ、アンジュー公は、部下のシャンヴァロンをつれてネラックを去ってしまったのである。
そんなとき、もうひとつのアクシデントがマルゴを襲った。マルゴに恋しながらいつも煮え湯をのまされ続けていた大法官のピブラクが、怒り心頭に発してパリに帰り、マルゴのご乱行をアンリ三世にご注進に及んだのである。
アンリ三世は、妹やフォスーズを売春婦呼ばわりした手紙をナヴァール王に送った。その手紙は、ネラックの宮廷の女たちを憤慨させた。宮廷の女たちは、それぞれの愛人に侮辱を漱《すす》ぐよう要求した。かくして、ナヴァール王の軍隊はカオールを奪取した。こうして、『愛人たちの戦争』と呼ばれる理由なき戦争が始まった。戦争は、たいして拡大しないうちに、アンジュー公の仲介で一五八○年に休戦となり、フレックスの和議が結ばれた。
この和議をきっかけとして、アンリ三世とカトリーヌ・ド・メディシスは、マルゴとナヴァール王に、ふたたびルーヴルに出仕するよう命じた。カトリーヌ・ド・メディシスは、ナヴァール王が夢中になっているフォスーズをルーヴルにつれもどせば、ナヴァール王もついてくると思ったが、ナヴァール王はその手には乗らず、モントルーユ=ボナンまでマルゴを送ってきたところで、ネラックに引き返してしまった。
いっぽう、マルゴはそのまま旅を続けた。というのも、彼女はネラックで別れたシャンヴァロンに、どうしてももう一度会いたかったからである。だが、結局、アンジュー公の部下に対するこの恋は、マルゴにとって命取りとなった。
というのも、一五八二年にルーヴルに戻ったマルゴは、アンリ三世がギーズ一門の中傷から身を守るため、道徳的に非常に厳しくなり、妹が不始末をしでかしたら、今度こそ厳罰を加えてやろうと待ち構えていたのを知らなかったからである。あるいは、アンリ三世はホモセクシュアルな傾向があったので、女性の乱行というものを毛嫌いしていたのかもしれない。いずれにしても、マルゴは、そんなこととはつゆ知らず、シャンヴァロンと隠れ家でひそかに逢いびきを続けていた。やがてその噂はアンリ三世の耳に届いた。アンリ三世はついに決意を固めた。
一五八三年の八月七日、アンリ三世はルーヴル宮殿の大広間で大がかりな舞踏会を開いた。マルゴは、アンリ三世の王妃ルイーズが不在だったので、その日のホステス役をつとめていた。宴もたけなわになったとき、突然、アンリ三世はマルゴに近づくと、オーケストラを制止し、マルゴに向かって強い口調で「マダム!」と呼びかけた。そして、宮廷中がなにごとかと見つめるなか、マルゴの数々の乱行を数え上げ、愛人の名前を列挙してから、最後に、マルゴはシャンヴァロンの子供を宿したと断言して、即刻追放を宣言した。
マルゴは一言も発することなく、目に涙を浮かべて立ち上がると、人込みをかきわけて自室に戻った。そして、荷物をまとめさせるとパリを立ち去った。
マルゴはアジャンにしばらく滞在したのち、ポール=サン=マリーで夫に再会した。ナヴァール王は一言も口をきかずに王妃に接吻した。マルゴはネラックで何カ月か暮らしたが、ナヴァール王には、グラモン伯爵夫人、通称コリザンドという新しい愛人がいたので居心地がいいはずはなかった。マルゴはグラモン夫人によって毒殺されるのではないかという恐怖を感じるようになった。そんなところに、一五八四年の六月、ショッキングなニュースが届いた。アンジュー公が胸を病んで亡くなったのである。マルゴは、これで、頼れる人間が一人もいなくなった。
アンリ三世とカトリーヌ・ド・メディシスにとってもこれは大ショックだった。アンリ三世には、ついに子供が生まれなかった。その結果、王位継承権は、女性の王位継承権を否定したゲルマン諸部族の法典であるサリカ法によって、ナヴァール王に与えられることになったからである。アンリ三世はこの時点で、はっきりと、アンリ・ド・ナヴァールを王位継承者と認めた。ただ、それには、ナヴァール王がカトリックに改宗しなければならないという条件がついていた。
アンジュー公の死は、ギーズ公を中心とするカトリック過激派の旧教同盟《リーグ》を活気づかせた。というのも、プロテスタントがフランス王になるということはありえない以上、サリカ法によればギーズ公にも資格は出てくるからである。
じつは、マルゴ自身も、アンジュー公の死で大きな野心を燃やしていた。サリカ法を廃棄すれば、自分にも、イギリスのエリザベス女王と同じように、王位継承権が生まれるからである。そんなとき、ギーズ公から秘密の使者がやってきた。
このころフランスは、アンリ三世、アンリ・ド・ナヴァール、それにアンリ・ド・ギーズの『三人のアンリの戦い』に突入しつつあった。なかでも優勢だったのは、ギーズ公率いる旧教同盟軍で、パリを含む北部と東部フランスの大部分が彼らの手に落ちていた。いっぽう、南部フランスはアンリ・ド・ナヴァール率いるプロテスタントの軍勢がほぼ全域を掌握していた。いちばん劣勢なのがアンリ三世の王軍で、これは、必然的にナヴァール王のプロテスタント軍と同盟を組まざるをえなかった。
アンリ三世とアンリ・ド・ナヴァールから冷たい仕打ちを受けたマルゴにとって、残された「アンリ」は、元の恋人であるアンリ・ド・ギーズしかなかった。マルゴは、ネラックを去って、カトリックの町であるアジャンに身を落ち着けると、みずからナヴァール王妃という名前をかなぐり捨て、アジャン伯爵夫人マルグリット・ド・フランスと名乗り、アジャンを旧教同盟の一員の都市と宣言した。そして、オーベルニュ山岳地帯の代官リニュラックに千二百人からなる騎兵隊の指揮をゆだね、ナヴァール王の軍隊の駐屯しているトナンとヴィルヌーヴの町を攻撃させた。かつては同盟を誓ったことのある夫婦が、ついに、それぞれ軍隊を率いて戦火をまじえることになったのである。
だが、やはり、そこは素人の悲しさ、マルゴは戦争にはなによりもまず金がいるということを知らなかった。ギーズ公に軍資金を送るよう頼んだが、金はなかなか届かない。そこで、マルゴ将軍は、アジャンの町で大増税を断行したばかりか、近隣の村のユグノーの家庭から強制的に金品食糧を徴発するという暴挙に出た。それでも傭兵の給料が払えず、ついに脱走者が出はじめた。軍紀も乱れ、傭兵による強姦事件も起きたので、マルゴは彼らを打ち首に処するほかなかった。
しかし、こんなことではマルゴは屈しなかった。アジャンの町を要塞化するため民家を取り壊し、徹底抗戦の準備に入った。アジャンの住民の我慢も限界に達した。彼らは、ナヴァール王の軍隊と気脈を通じて、一五八五年の十月、アジャン伯爵夫人マルグリット・ド・フランスに対して一斉に武装蜂起した。マルゴは命からがらアジャンを逃げ出した。
厳寒の山岳地帯の逃避行はお姫さま育ちのマルゴには厳しいものがあったが、兄と夫からうけた屈辱を思い出せば、おいそれと降伏するわけにはいかなかった。マルゴは、馬丁頭《ばていがしら》のオーヴィニャックを愛人にして、オーベルニュの山岳地帯を転々とし、ようやくカルラに落ち着いたが、一年後の一五八六年の十月にカルラを出てイボワの城に着いたとき、アンリ三世の命を受けたユソンの司令官カニャックに逮捕され、険しい山の頂上にあるユソンの城に幽閉された。オーヴィニャックも逮捕され、彼もまた多くのマルゴの愛人と同じように斬首された。
ユソンは標高六三九メートルの切り立った山頂に十二世紀に建てられたとんでもない城塞だった。マルゴはここで十九年間幽閉されて暮らすことになる。三十三歳だったマルゴは幽閉を解かれたとき、五十二歳になっていた。
といっても、ユソンの幽閉生活が悲惨そのものの牢獄暮らしだったわけではない。彼女は幽閉されるやいなや、城の司令官のカニャック侯爵を誘惑し、この男を愛人兼下男として使用するようになった。支配権を確立すると、マルゴはカニャックに指示を与えて、城の保護者をアンリ三世からギーズ公に乗り換えさせた。というのも、マルゴは、アンリ三世とナヴァール王の両方から毒殺されるのではないかと恐れていたからである。ギーズ公は年間四十万エキュの献金と五十人の守備隊を送ってよこした。かくして、マルゴは、もっとも難攻不落の要塞ユソン城の女城主となった。この女城主を慕って、ブラントームやオノレ・デュルフェなどの当代一の文人たちがユソンにやってきた。ユソンの城は、フランス一の文学サロンとなった。マルゴは回想録『思い出の記』をしたため、思い出を整理するいっぽう、自分用の礼拝堂を作って聖歌隊を組織した。そして、そのなかの鍋屋の息子のクロード・フランソワを愛人にした。
いっぽう、マルゴがこうしてユソンで気楽な幽閉生活を送っているあいだに、フランスの政治情勢は、かつてないほど激烈に変化していた。
『三人のアンリの戦い』は、当初、アンリ・ド・ギーズの勝利で終わるかに見えた。ところが、一五八八年、ブロワの城におびき寄せられたギーズ公がアンリ三世に暗殺されて形勢は混沌としてきた。さらに、翌一五八九年、ノストラダムスの予言どおり、カトリーヌ・ド・メディシスが没し、アンリ三世もギーズ一門の刺客ジャック・クレマンの凶刃にかかって崩御した。
ついに、残るはアンリ・ド・ナヴァールだけになった。しかし、パリおよび五十余州がまだ旧教同盟の支配下にあり、情勢はどちらに転ぶかわからなかった。一五九三年、旧教同盟の諸州はパリに全国三部会を召集して、新しいフランス王を選出する動きを見せたので、アンリにとって決断のときは迫っていた。同志を裏切らず、プロテスタントにとどまったまま、武力でパリとフランス全土を制圧するか、それともあえてカトリックに改宗して、国民の同意のもとにフランス王になるか。アンリ・ド・ナヴァールは後者の道を選んだ。「パリは一回のミサに値する」というのがナヴァール王の残した有名なセリフである。こうして、アンリ・ド・ナヴァールは、サン=ドゥニ聖堂で改宗の儀式をおこない、シャルトルで祝聖されてから、一五九四年三月二二日、ついにパリに無血入城した。
一五九八年、ナントの勅令が発布されて、信仰の完全な自由が認められ、宗教戦争は終わりを告げた。
だが、まだアンリ四世にはやらなければならない仕事が残っていた。愛妾ガブリエル・デストレと結婚するため、マルゴと離婚することである。マルゴは離婚に同意していた。だが、ローマ教皇の許可状がなかなかおりなかった。一五九九年の十二月ついに、ローマ教皇は勅書で、アンリ・ド・ナヴァールとマルグリット・ド・ヴァロワの結婚を無効とすることを宣言した。しかし、アンリ四世があれほど結婚を望んでいた世紀の美女ガブリエル・デストレはそれよりも八カ月前にこの世を去っていた。
翌一六○○年、アンリ四世はマリー・ド・メディシスと結婚した。メディチ家からの持参金でフランスの国庫を立て直すためだった。
一六〇五年、離婚でただマルグリット女王とだけ呼ばれるようになっていたマルゴは、十九年ぶりにパリに戻り、マレ地区のサンス館に落ち着いた。しかし、「恋多き女」、「男を破滅させる魔性の女」の評判は、五十三歳の年になってもマルゴを去らなかった。ユソン城にいたときから愛人にしていたサン=ジュリアンという青年が、マルゴに恋するヴェルモンという青年に、一六〇六年にサンス館の前でピストルで撃たれて死亡するというスキャンダラスな事件が起きたのである。ヴェルモンはサンス館の前で首をはねられた。
マルゴは忌まわしい思い出の残るサンス館を去り、セーヌを挟んでルーヴルの真ん前にあるサン=ジェルマン=デ=プレ教会の近くに家に移った。この頃には、マルゴはアンリ四世とも完全に和解していた。アンリ四世はマルゴを「我が妹」と呼び、ときどき訪問しては、思い出話にふけった。アンリ四世の息子の王太子ルイをマルゴは溺愛し、全財産をこの未来のルイ十三世に遺贈した。
アンリ四世は一六一〇年に暗殺されたが、マルゴはさらに五年生きた。パジョーモンという愛人が「精気を吸い取られ尽くしたかの如くにして」(渡辺一夫『世間噺・マルゴ公妃』)一六〇九年に他界すると、最後の愛人ヴィラールを熱愛して、彼の腕に抱かれて一六一五年に世を去った。享年六十二歳。同時に二人の愛人をつくったことがないというのが彼女の唯一の誇りだった。マルゴはマルゴなりに、愛のモラルには忠実だったのである。
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訳者あとがき
アレクサンドル・デュマは、一八〇二年、パリ北方のヴィレル=コトレという小さな町で、ナポレオン軍の将軍を父として生まれた。この父は、フランス貴族だった祖父がサント=ドミンゴで黒人奴隷の祖母との間にもうけた混血児で、その勇猛果敢さによって「黒い悪魔」として敵に恐れられたほどだが、ナポレオンに疎まれ、失意のうちに没した。デュマはタバコ屋を営む母の手で育てられたが、やがて演劇に熱中し、パリにのぼって『アンリ三世とその宮廷』(一八二九年)の成功で、ロマン派劇の代表的劇作家となった。
ロマン演劇が廃《すた》れてからは、一八三六年に新聞王エミール・ド・ジラルダンがつくりだした新聞小説というジャンルで『三銃士』(一八四四年)、『モンテ・クリスト伯』(一八四五年)などの傑作を次々に発表して、一躍人気作家となった。
デュマは演劇でも小説でも歴史物を得意としたが、つねづね「歴史とは物語を引っかける釘にすぎない」とうそぶいていたように、厳密な歴史よりも、歴史を題材にして人間のパッション(激情)を表現することを第一のモットーとしていた。したがって、『王妃マルゴ』も、ルネッサンスの時代(十六世紀)のフランスに関する歴史的な知識のほとんどない読者でも、ただ小説的興味だけで読み進めることができる。しかし、だからといって、デュマの小説が歴史と無関係な読物かといえば、むしろその逆で、どんな歴史書よりも、描かれた時代のスピリッツを感じさせてくれることは、本書を一読された方なら容易に首肯していただけることと思う。デュマの小説は、歴史とは違うが、歴史以上に歴史の真実を教えてくれるのである。生島遼一氏は、『三銃士』の解説で、旧制高校のときに愛読したケーベル先生の次のような言葉を引用しているが、これは、そのまま『王妃マルゴ』についてもあてはまるにちがいない。
「彼のリシュリュー(『三銃士』)もしくはルイ十八世(『モンテ・クリスト伯』)など――これらの人物を彼以上に真実にまたいきいきと描きだしてくれるような専門的『学究的』史家が果たしてあるだろうか!」
これは、おそらく、デュマが歴史上の人物の内面に入り込み、ゆたかな想像力によって、その人物になりきることができたからこそ可能になったことだろう。それはアンドレ・モーロワが『アレクサンドル・デュマ』(菊池映二訳 筑摩書房)で伝えるこんなエピソードによくあらわれている。
「大デュマが実際の戦場で戦った将軍たちの前で、ワーテルローの話をしたことがあった。かれはしゃべりにしゃべって、いろいろと部隊を配置したり、勇ましい言葉を引用したりした。将軍の一人がやっと彼の言葉を遮って言った。
『いや、そうじゃありませんよ。われわれは、そこにいたんですよ。われわれは……』『すると、閣下、あなたは何も見ておられなかったことになりますよ』」
『王妃マルゴ』においても、デュマはたしかに、歴史家の「見なかった」真実を「見ている」のである。
『王妃マルゴ』は、デュマ自身の手で戯曲にも脚色され、一八四七年の二月にデュマが「歴史劇場」という自分の劇場を作ったとき、こけら落としに上演され、史上空前のヒットを飛ばした。もともと、デュマの小説は会話中心でテンポがいいので、戯曲にもすぐに脚色できたのである。
翻訳の底本には、Alexandre Dumas illustre: La Reine Margot, Paris, A. Le Vasseurを使用した。
一九九四年九月二十四日 (訳者)
参考文献
渡辺一夫『渡辺一夫著作集13』(筑摩書房)
渡辺一夫『フランス・ルネッサンスの人々』(岩波文庫)
渡辺一夫『渡辺一夫評論選 狂気について他二十二篇』(同)
ギー・ブルトン 田代葆訳『フランスの歴史をつくった女たち第3巻』(中央公論社)
フィリップ・エルラシジェ 磯見辰典編訳『聖バルテルミーの大虐殺』(白水社)
ジャン=クロード・ボローニュ 大矢タカヤス訳『差恥の歴史 人はなぜ性器を隠すか』(筑摩書房)
アンドレ・モーロワ 菊地映二訳『アレクサンドル・デュマ』(筑摩書房)
アレクサンドル・デュマ『三銃士』(岩波文庫)