王妃マルゴ(上)
アレクサンドル・デュマ/鹿島茂 編訳
目 次
序
第一章 ギーズ公のラテン語
第二章 ナヴァール王妃の部屋
第三章 王様詩人
第四章 一五七二年八月二十四日の晩
第五章 ルーヴル、および美徳一般について
第六章 返されたギーズ公の借り
第七章 一五七二年八月二十四日の夜
第八章 虐殺された人々
第九章 虐殺者
第十章 死か、ミサか、それともバスチーユか
第十一章 イノサン墓地のサンザシ
第十二章 打ち明け話
第十三章 すべての部屋の錠前をあける鍵
第十四章 第二の初夜
第十五章 女が望むことは神も望む
第十六章 死んだ敵の死体はいつでもいい匂いがする
第十七章 アンブロワーズ・パレの同業者
第十八章 死んだはずの男たち
第十九章 カトリーヌ母后御用達の調香師のルネの居室
第二十章 黒い雌鶏
第二十一章 ソーヴ夫人の居室
第二十二章 陛下、陛下は王になられます
第二十三章 新たな改宗者
第二十四章 ティゾン街とクロシュ=ペルセ街
第二十五章 サクランボ色のマント
第二十六章 マルガリータ
第二十七章 神の手
第二十八章 ローマからの書簡
第二十九章 出発
第三十章 モールヴェル
第三十一章 猟犬狩猟
第三十二章 友情
第三十三章 シャルル九世の感謝
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主な登場人物
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マルグリット・ド・ヴァロワ……ナヴァール王妃。アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女でシャルル九世の妹。愛称マルゴ。
カトリーヌ・ド・メディシス……マルゴの母。摂政政治をとる。フィレンツェのメディチ家からアンリ二世に嫁いだ。
アンリ・ド・ナヴァール……マルゴと政略結婚させられるナヴァール王。プロテスタント勢力の首領。後のアンリ四世。
シャルル九世……アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの次男。長兄フランソワ二世の死後、十歳で王位につく。
アンジュー公アンリ……同、三男。マルゴのすぐ上の兄。後のアンリ三世。
アランソン公フランソワ……同、四男。マルゴの弟。
アンリ・ド・ギーズ……カトリック陣営の頭目、ギーズ家の長男。マルゴの元恋人。
コリニー提督……プロテスタントの首領の一人。カトリーヌ・ド・メディシスの要請で、宮廷に出仕。シャルル九世に影響を及ぼす。
コンデ公アンリ……アンリ・ド・ナヴァールの従弟。プロテスタントの首領の一人。
ド・ムイ……プロテスタントの騎兵隊長。
ヌヴェール公爵夫人……マルゴの親友。アンリ・ド・ギーズの義姉。
ソーヴ男爵夫人……アンリ・ド・ナヴァールの愛人。
ラ・モール……プロテスタントの貴族。マルゴの愛人。
ココナス……カトリックの騎士。ラ・モールの親友となる。
ルネ……カトリーヌ・ド・メディシスお抱えの調香師兼占い師。[#ここで字下げ終わり]
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序
王妃マルゴ。
シャルル九世が妹に与えたこのマルゴという愛称からフランス人が連想するイメージは二つある。
ひとつは「ヴァロワの真珠」と謳《うた》われたほどの類《たぐ》いまれな美貌に恵まれながら、政略結婚と宗教戦争という歴史の渦に翻弄されて悲劇的な生涯を送った「ヴァロワ王朝最後の王女」という薄幸《はっこう》な姫君のイメージである。
もうひとつは、シャルル九世をはじめとする三兄弟と近親相姦の関係にあったと噂されたばかりか、結婚後もあまたの恋人をつくってその多くを破滅に追いやった「史上もっとも淫蕩《いんとう》な王妃」というスキャンダラスなイメージである。
この二つのかけ離れたイメージは、その対照の妙が、作家のロマネスクな想像力をいちじるしく刺激したらしく、これまで多くの文学作品の題材となってきた。
なかでも、『三銃士』『モンテ・クリスト伯』で知られるアレクサンドル・デュマ(一八〇二─一八七〇)が一八四五年に発表した小説『王妃マルゴ』は、このマルゴとナヴァール王アンリの結婚式の一週間後(一五七二年八月二十四日)に起こった聖バルテルミーの虐殺を劈頭《へきとう》に置いて宗教戦争の時代背景を一気に浮きあがらせるいっぽうで、ルーヴル宮殿に張りめぐらされた数多くの陰謀を波瀾万丈のストーリーで語り、同時にマルゴと美男の騎士ラ・モールの悲恋を織り込んで読者の感涙を絞るという、巧みな構成をもつ絢爛《けんらん》たる宮廷歴史絵巻で、今日の読者が読んでも文句なしにおもしろい。読みはじめたら最後、後は巻をおくあたわずで、一気に結末までいってしまうこと請け合いである。
とはいえ、『王妃マルゴ』は、けっして単純な恋物語でも通俗ドラマでもなく、いくつかの重層的な読みを可能にする複合的な小説であり、また、ある程度フランスの王朝の歴史的背景が頭に入っていないと、交わされている会話の意味などがわかりにくいかもしれない。そこで、歴史的背景と、複数の層の読み方を以下に手短に解説しておこう。
第一層にあらわれているのは、当然、マルゴ王妃と騎士ラ・モールの恋を中心とする恋愛ドラマである。
マルゴは、その美貌と早熟な肉体のせいか、まず、兄シャルル九世とアンジュー公アンリ(後のアンリ三世)の欲望の対象となり、やがて弟のアランソン公フランソワとも親密な仲になった。その結果、三人の兄弟は王位と同時にマルゴの愛をめぐって、激しい敵愾心《てきがいしん》を抱くようになり、これに母親のカトリーヌ・ド・メディシスの思惑が絡んで、ルーヴル宮殿は、王子の三兄弟がたがいに相手を牽制しあう陰謀の舞台となったのである。
ところが、マルゴは、こうした三兄弟の思いをよそに、旧教徒陣営の頭目ギーズ公アンリと恋仲になった。
ギーズ家はもともと独仏国境にあったロレーヌ公国の王族で、フランスに帰化してからギーズ公国を与えられ、この姓を名乗るようになったが、代々、武勇、知力、美貌ともに優れた当主を輩出し、いずれもカトリック勢力の総帥《そうすい》として並びない地位を築いたので、その勢いは、王家をも脅かすほどになっていた。二代目当主フランソワ・ド・ギーズは、オルレアンの包囲戦で新教徒軍の刺客ポルトロ・ド・メレの手によって暗殺されたが、当時、十三歳だったアンリ・ド・ギーズは父の口から暗殺の指令がコリニー提督から出されたと聞き、提督に深い恨みを抱くようになった。本書のクライマックスである聖バルテルミーの虐殺は、この遺恨《いこん》を遠因としている。
それはさておき、マルゴが一目惚れしたアンリ・ド・ギーズは、強靱な意志と優れた統率力をあらわす男らしい顔、エレガントな身のこなしなど、一点非の打ち所のない貴公子で、パリの民衆のあいだでの人気も高く、ドイツ騎士の精鋭を揃えた軍事力とカトリック教会をバックにしたその勢力も強大なものがあったから、まさに「カトリックの王」と呼ばれるにふさわしい存在だった。
そのため、兄のシャルル九世と母のカトリーヌ・ド・メディシスは、マルゴの選んだこの恋人を、政治バランスを大きくギーズ家のほうに傾けてしまう最悪の選択であると考え、絶対に結婚を認めようとはしなかった。
なかでも母のカトリーヌ・ド・メディシスは、娘の結婚を重要な政策の道具とみなしていたので、マルゴは、むしろ、王家最大の敵であったプロテスタント勢力の首領、ナヴァール王アンリと政略結婚させて、政治勢力のバランスを調節する重りにしようと考えた。こうして、マルゴは、理想の恋人ギーズ公とは思想信条も、また容姿態度もまったく対照的な相手と結婚させられることとなったのである。
金色のロープと引き裾が五メートルにも及ぶマントを身につけて結婚式にのぞんだマルゴは、ブルボン枢機卿が秘蹟による同意を求めたとき、口をとじたまま同意の言葉を発しなかった。これを見ていたシャルル九世は、後ろからマルゴに近づくと、妹の首を思いきり強く押した。枢機卿はこれを同意のしるしと見て、結婚を宣言した。
小説『王妃マルゴ』は、ヴァロワ王朝末期のこうした乱れた男女関係を背負ったマルゴがナヴァール王アンリと結婚し、婚礼の宴にのぞむところから始まっている。
マルゴは、肉体的には夫のナヴァール王に惹かれるものをまったく感じなかったが、のちにみずから回想録『思い出の記』をものするほどのインテリジェンスに恵まれていた女性だったので、夫が、知性と統治能力の面ではシャルル九世やアンジュー公よりも優れた人間であることをただちに見抜いた。そして、政治的に同盟を結ぼうという夫の申し出を受け入れ、夫との同盟のうちに、戦国の世を生き抜くためのもっとも効果的な方策をもとめるようになる。デュマも、王妃マルゴを、精神面では意外に男性的な野心家の側面をもっていた女性として設定している。とはいえ、ラ・モールという騎士と激しい恋に落ち、ついには、斬首《ざんしゅ》された恋人の首をもらいうけて埋葬するというエピソードからもあきらかなように、マルゴが恋のためにはすべてを犠牲にするという情熱恋愛のヒロインとして描き出されていることはまちがいない。このラ・モールの首を抱くマルゴの情熱的イメージは、スタンダールの『赤と黒』でも取り上げられ、ラ・モール家の末裔《まつえい》という設定になっている令嬢マチルド=|マルグリット《ヽヽヽヽヽヽ》・ド・ラ・モールが恋人ジュリアン・ソレルの首を埋葬するという結末に生かされている。
ところで、このマルゴとラ・モールの恋は、マルゴの親友のヌヴェール公爵夫人とココナスとの恋と並行して語られるが、これら二つの恋は、その出会いが劇的に演出されている点を除くと、おおむね史実に即している。つまり、マルゴの恋人ラ・モールとヌヴェール公爵夫人の恋人ココナスは、保身を図るアランソン公のせいで、政治的な犠牲となり、公開の処刑という悲劇的な結末を迎えるが、蝋人形のエピソードも拷問の挿話も、デュマはすべて現実を踏襲している。いいかえれば、デュマがもっとも想像力を働かせフィクションに仕立てたかに見える部分が、じつは、虚構の度合がもっとも低いのである。
逆に、デュマが力を込めて描いた宮廷のさまざまな陰謀は、史実に即したものもあるにはあるが、ほとんどは、デュマの空想の産物である。もっとも、カトリーヌ・ド・メディシスがノストラダムス(一説にお抱え占い師のリュグジエリ)から「三人の息子が王位につくが、三人とも王子を残さずに死に、そのあとで王朝の交替がおこって、アンリ・ド・ナヴァールが王位に就くであろう」という内容の予言を受けたために、なんとかこれを回避しようと努力したことは事実らしい。
デュマは、これをヒントにして、カトリーヌ・ド・メディシスが、王位継承の資格者であるナヴァール王アンリを亡きものにしようとして、次々に陰謀を生み出すという主筋を考えだしたが、ここにこの小説のもっとも興味深い側面、すなわちナヴァール王(アンリ四世)を中心にしたもうひとつの宮廷政治ドラマの核が形成される。すなわち、小説は『王妃マルゴ』と題されてはいるが、それは同時に、王となる宿命を与えられたがゆえに、たえず命をつけ狙われ、困難なうちにみずからの運命を切り開いていかざるをえないアンリの冒険物語としても読むことができるのである。慧眼《けいがん》なる読者は、アンリ四世となるまでのこのナヴァール王アンリのうちに、パリに上京して古典派のさまざまないやがらせや妨害にあいながら、ついにこれを打ち破ってパリ演劇界と文壇の王様となったデュマ自身の投影を見いだすかもしれない。
マルゴの夫となったナヴァール王アンリ(アンリ・ド・ナヴァール。ナヴァール王となる前はアンリ・ド・ブルボン、あるいはベアルヌ公と呼ばれた)は、マルゴの祖父フランソワ一世の姉であるマルグリット・ド・ヴァロワ(『エプタメロン(七日物語)』の作者。マルゴと同名のためよく混同される)が、フランスとスペイン国境にあった小さな独立国ナヴァール王国のアンリ・ダルブレに嫁いでもうけた娘ジャンヌ・ダルブレの長男である。つまり、マルゴとナヴァール王アンリは、「またいとこ」の関係にあたる親戚なのである。
なおアンリ・ド・ナヴァールの父親は、名門の王族ブルボン家のアントワーヌ・ド・ブルボンだが、この父親は、最初プロテスタントだったにもかかわらずカトリーヌ・ド・メディシスによってルーヴルに軟禁されているうちに、色仕掛けでカトリックに改宗させられ、カトリック軍の大将として戦いに参加したときに戦死するというぶざまな最期をとげている。ナヴァール王アンリもやがてカトリーヌ・ド・メディシスに同じような目にあわされるのだから親子の血は争えない。
これに対して母のジャンヌ・ダルブレは、信仰厚いカルヴァン派のプロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれる)で、新教徒軍の精神的支柱となって、フランス中のプロテスタント勢力を支えていた。
その息子であるアンリは、プロテスタント勢力の輝ける星として期待されていたが、第三次宗教戦争後、ジャンヌ・ダルブレが、新旧両派の融和策に転じたカトリーヌ・ド・メディシスの提案に応じて王女マルゴとの結婚を決めたため、一五七二年の初夏、急遽ナヴァール王国を出発してパリに上った。当時、ナヴァール王国からパリまでは、馬の並足で数カ月を要したが、その旅の途中で、アンリは母のジャンヌ・ダルブレの死を知らされた。その死の原因については、作品中でデュマが取り上げているように、カトリーヌ・ド・メディシス専属の調香師のルネが贈り物の手袋に仕込んだ毒薬のせいだと取り沙汰された。
もっとも、現実には、ジャンヌ・ダルブレの死因は、長いあいだ患っていた結核が過労のために悪化したことにあるようだが、そこは大衆的ロマン派劇の名手デュマのこと、このエピソードをうまく活用して、おどろおどろしい雰囲気を盛り上げるのに成功している。デュマは、このルネに、毒薬の調合係のほか、占い師の役割も演じさせて一種の狂言回しに仕立てているが、このルネの登場のおかげで、小説にゴシック・ロマン風の不気味な味わいのほかに、運命の神が主人公を翻弄するギリシャ神話風の興味がつけ加わったことは確かだろう。
ところで、この小説は、マルゴの悲恋物語、アンリの冒険活劇というメイン・ストーリーのほか、もうひとつ大きな悲劇をそのうちに内包している。それは、滅亡しようとするヴァロワ王朝を支えるためには手段を選ばない母后《ぼこう》カトリーヌ・ド・メディシスと、生き残った三人の息子との親子の葛藤のドラマである。
イタリアのメディチ家から輿《こし》入れしたカトリーヌ・ド・メディシスは、夫アンリ二世を悲劇的な事故でなくしたあと、長男のフランソワ二世にも先立たれ、十歳で即位した次男のシャルル九世の摂政《せっしょう》となって政治の実権を握ったが、やがてシャルル九世が成長して親政を執るころになると、あらゆる面でこの息子と対立し齟齬《そご》をきたすようになった。
というのも、カトリーヌ・ド・メディシスの愛情は、シャルナックとモンコントゥールの戦いで英雄となった美男で健康的な三男のアンジュー公アンリ(後のアンリ三世)にだけ向けられていたので、躁鬱《そううつ》質の内向的青年だったシャルル九世は自分のことを母の愛情に恵まれない不幸な子供と感ずるようになっていたからである。
シャルル九世はカトリーヌ・ド・メディシスの意見の逆をいくことに、むしろみずからの独立のしるしを見るようになった。聖バルテルミーの虐殺の原因のひとつとなった新教徒軍の総帥コリニー提督への接近の背景にこの母子対立があったことはあきらかである。
この点では、王位からもっとも遠いばかりか、身体的にも精神的にももっとも虚弱なダメ息子として疎《うと》んじられていたアランソン公も同様で、その疎外感からやがてプロテスタントの勢力と結んで「不満派の陰謀」と呼ばれる事件を引き起こすことになる。デュマがこの小説の後半で描いているのは、この事件である。
こうして、母の愛情の過不足から、シャルル九世、アンジュー公、アランソン公という三人の王子が激しく憎しみあい、それぞれ相手の死を願うという未曾有《みぞう》の事態が生まれ、これにアンリ・ド・ナヴァールとマルゴという同盟を結んだ夫婦が加わって、複雑怪奇な人間模様が生み出されることになったのである。
デュマは、この親子関係のうちから、シャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスの対立を物語の大きな軸に据え、これに、アンリとシャルル九世の友情を絡ませて、特異な親子の愛憎劇をつくりだしている。これは、いかなる歴史家の手をもっても描き出すことのできない歴史の真実を、デュマの天才が照らし出した部分で、まさに歴史小説の醍醐味《だいごみ》ここにありといった感がする。
このように『王妃マルゴ』は、マルゴとラ・モールの悲恋という第一層、カトリーヌ・ド・メディシスとナヴァール王との虚々実々の駆引きという第二の層、そしてヴァロワ王家の家庭の悲劇という第三の層からなる多層的構造の小説だが、このほか、副筋としてラ・モールとココナスの友情、ゴシック・ロマン風の宮廷の謎を秘めた雰囲気、また、当時のイノシシ狩りや鷹狩りといったピトレスクな歴史事象などが加えられて、壮麗な歴史絵巻に仕上がっていて、どの面からみても興味はつきない。
とはいえ、『王妃マルゴ』の最大の魅力は、やはり、最初のぺージから最後のページに向かって、ひたすら読者の興味を引っ張っていくそのストーリー・テリングの巧みさにある。ここには、たしかに、今日の小説では失われてしまった物語本来の力というものがある。映画で王妃マルゴの生涯に興味をもたれた読者が、映画にはない、物語を読むという快感を味わっていただければ幸いである。
なお、はじめにお断りしておかなければならないが、本書は、『王妃マルゴ』の全訳ではなく、重要な箇所のみを訳出して半分強にまとめた抄訳である。全体では原稿用紙にして二千枚をこえる大長編なので、一冊のコンパクトな本に収めるという趣旨から抄訳はしかたなかったが、訳者としては、なによりもデュマの小説の波瀾万丈のストーリー展開を読者に味わっていただきたいと思う気持ちが強かったので、一計を案じ、抄訳のそれぞれの部分を訳者によるリライトでつなぐことにした。といっても、このリライトの箇所はたんなる要約ではなく、セリフなどはそのまま生かしたうえで各章を三分の一から五分の一程度に圧縮したエッセンスなので、ストーリーの連続という点ではあまり違和感が生じないように工夫されているはずである。
また、『王妃マルゴ』は、なんといっても、日本人にはまったくなじみのないルネッサンス時代の宮廷を舞台にした小説であるから、歴史的な予備知識がないと理解できない部分がある。そうした部分があらわれたときには、ところどころ、訳者による解説というかたちで時代背景や風俗を説明した文章を添えておいた。煩わしいと思われる読者は、もちろん飛ばして読まれてもかまわないが、読んでいただければ、多少のお役には立てるものと考えている。
さて、前置きが長くなった。
まずは、デュマが繰り出す波瀾万丈のストーリー展開の快い波に身をゆだねながら、歴史物語の大海へと船出することにしよう。
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第一章 ギーズ公のラテン語
一五七二年八月十八日月曜、ルーヴル宮殿では、壮麗な宴が開かれていた。
いつもはあれほどに暗い王宮の窓々にも、今夜だけは、こうこうと灯りがともり、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘が九時を鳴らすと同時にほとんど人通りが引いてしまう近くの通りや広場にも、真夜中だというのに、群衆がひしめいていた。
暗闇のなかで押し合いへしあいしているこの騒々しく不気味な雑踏は、それぞれの波が集まってひとつの大きなうねりとなり、唸りをあげて押し寄せる暗い荒海に似ていた。セーヌの河岸にまで広がったこの海は、フォセ=サン=ジェルマン街とラストリュス街を通って、いまやルーヴル宮殿の壁の足元に波を打ちつけ、寄せて返す波で反対側のブルボン館の基部を洗っていた。
だが、王家の婚礼の宴であるにもかかわらず、いやそれだからこそ、この人の波には、なにかしら人を不安にさせるものが漂っていた。というのも、群衆が観客として見守っているこの盛大な儀式は、一週間後に執り行なわれることになるあの儀式、民衆自身が参加し、心の底から打ち興じることになるもうひとつの儀式の序章にすぎなかったからだ。
宮廷が祝っていたのは、前王アンリ二世の娘で、現王シャルル九世の妹マルグリット・ド・ヴァロワと、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンの華燭《かしょく》の宴だった。その日の朝、ブルボン枢機卿が、ノートル=ダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりに則《のっと》って、花婿花嫁を結びつけたのである。
だれもがこの結婚には驚いた。そして、洞察力のある人々は背後に何があるのかと考えた。あれほどまでに憎みあっていたプロテスタント陣営とカトリック陣営という二つの党派がなぜ急に接近したのか、理解できる人はほとんどいなかった。たとえば、ジャルナックの町でモンテスキューによって暗殺されたプロテスタントの頭目、父コンデ公のことで、コンデ家の若殿アンリ・ド・コンデが、黒幕の王弟アンジュー公を許しているとは思えなかったし、また、カトリックの総大将、ギーズ家の若殿が、オルレアンでポルトロ・ド・メレの手にかかって殺された父ギーズ公の恨みを忘れて、事件の背後にいたコリニー提督と和解したとも思えなかった。それだけではない。意志薄弱なアントワーヌ・ド・ブルボンの妻である気丈なナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレが、息子アンリをフランス王女マルグリット・ド・ヴァロワと婚約させる相談にブロワに赴いたあと、結婚式の二カ月前に急死したことについて、奇妙な噂《うわさ》が飛び交っていた。恐るべき秘密をジャンヌ・ダルブレに見破られたカトリーヌ・ド・メディシスが、秘密が公《おおやけ》になることを恐れ、手袋に染み込ませた毒薬で彼女を毒殺したというのである。毒薬は、この種の薬品の扱いに慣れているフィレンツェ人のルネという男が調合したらしい。人々は、いたるところで小声でささやきあい、またある場所では大声で噂しあった。この偉大なナヴァール女王の死後、息子のアンリの要請で、あの有名なアンブロワーズ・パレを含む二名の医者が解剖をおこなったが、切開は内臓だけにとどまり、脳にまでは及ばなかった。そのため、噂はよけいに広まり、確信をもって語られるようになった。というのも、ジャンヌ・ダルブレが匂いをかいだために毒殺されたとするなら、犯罪の痕跡は、解剖を免れた唯一の場所であるその脳に残っているにちがいないとだれもが考えたからである。犯罪、そう、たしかに、だれ一人それが犯罪であることを疑うものはなかった。
それがすべてではなかった。この結婚はたんに王国に平和をもたらすばかりか、国中のおもだったユグノーをすべてパリに引き寄せることとなったが、シャルル九世はこの結婚の成立に、頑固といえるほどの異常な執着を示していた。二人の婚約者はかたやカトリック、かたやプロテスタントと異なった宗派に属していたため、当時ローマ教皇であったグレゴリウス十三世に結婚の許可をもとめなければならなかったが、この許可状の到着が大幅に遅れていたので、ナヴァール女王は非常に心配していた。そこで、ナヴァール女王がある日、シャルル九世に、許可状は結局着かないのではないかと不安を申し述べたところ、シャルル九世はこう答えた。
「伯母上、心配なされることはございません。わたしはローマ教皇よりもあなたを尊重し、妹をだれよりも愛しております。わたしはユグノーではありませんが、馬鹿でもありません。ですから、ローマ教皇があまりに愚かな考えに固執するなら、わたしみずからがマルゴの手を取って、新教の説教の声が響くなかであなたの息子さんと結婚させることにいたしましょう」
この言葉は、ルーヴルからパリ中に広まった。そして、ユグノーたちを狂喜させるいっぽうでカトリックをおおいに当惑させる結果になった。なぜなら、カトリックたちは、国王は本当に自分たちを裏切ってしまうのだろうか、それとも、王は、ある朝あるいはある晩、とつぜん思ってもみなかったようなどんでん返しのやってくる喜劇を演じているにすぎないのだろうかと小声でささやきあったからである。
とりわけ不可解だったのは、五、六年も前から旧教徒軍に対して呵責《かしゃく》なき戦いを挑んできた新教徒軍の頭目コリニー提督に対するシャルル九世の態度だった。一度などコリニー提督の首に十五万エキュ(一エキュは三フラン)の賞金をかけたこともある王が、サン=ジェルマンの和議以来、宮廷に出仕するようになった提督の威厳に魅せられて、今ではコリニー提督でなければ夜も日もあけず、彼を父上と呼び、今後、全軍の指揮は彼にゆだねると高らかに宣言する始末だった。その結果、それまで、息子シャルル九世の行動も意志もさらには欲望までを支配してきたカトリーヌ・ド・メディシスが、息子の態度に強い不安を感じるようになっていた。そして、それはけっして根拠のないことではなかった。というのも、シャルル九世はコリニー提督と心を割って親しく話しあったとき、フランドルでの戦争についてこんなことを漏らしていたからである。
「父上、もうひとつ十分に注意しておかなければならないことがございます。それは、ご存じのようにどんなことにも鼻をつっこみたがる母后に、この企てを知られてはならないことです。母后がなにひとつ気づかないように隠密裏にことを運ばなくてはなりません。なぜならば、母后はなにかとけちをつけたがる性格ですから、彼女が加わったらすべてがご破算になってしまうからです」
ところで、コリニー提督は賢く経験も豊かだったが、シャルル九世のこの真摯《しんし》な告白を完全に秘密にしておくことはできなかった。彼がパリに到着したときには、あらゆることに警戒心を抱き、また、シャティヨンから出発するにさいしては、一人の農婦が彼の足元に身をなげだし、
「旦那様、お願いでございますからパリには行かないでください。もしパリに行かれたら、旦那様ばかりか一緒に行かれる方々もみな殺されてしまうでしょう」と訴えたことがあったにもかかわらず、その警戒心は提督の心の中でも、また娘婿のテリニーの心の中でも、しだいに薄らいでいった。テリニーに対しては、シャルル九世も全幅《ぜんぷく》の信頼を寄せ、提督を「父上」と呼んだように彼を「兄」と呼んで、王がもっとも親しい友と認めたものに対してやるように、「きみ」という二人称を使っていた。
その結果、ユグノーたちも、悲観的で容易に人を信用しない一部の人たち以外は全面的に王を信頼するようになっていた。ナヴァール女王の死は肋膜炎が原因ということで一応の結着を見るに至り、ルーヴルの大広間は、結婚式のためにパリにやってきた気まじめなユグノーたち全員の宿舎となった。プロテスタントたちは、彼らの若大将アンリ・ド・ナヴァールの結婚で、思いもかけなかった財産の返還にあずかれるのではないかと期待していた。コリニー提督、ラ・ロッシュフーコー、コンデ公アンリ、テリニー、要するにプロテスタントの党派のおもだったメンバーが勢揃いし、ルーヴルの王族たちと誇らしげに対面していた。三カ月前までシャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスは、彼らを縛り首の晒《さら》し台に極悪人の死体よりも高く晒してやりたいと願っていたはずだったが、その彼らがいまやパリで大歓迎を受けているのである。これらプロテスタントの同志のなかに姿が見あたらないのはモンモランシー元帥だけだった。というのも、モンモランシー元帥はいかなる甘言にも誘惑されず、いかなる見せかけにも欺かれることなく、リラダンの城に引きこもってしまったからである。元帥は隠退の理由をたずねられると、サン=ドゥニの戦いでイギリス人ロバート・スチュアートのピストルの一撃で殺された父のアンヌ・ド・モンモランシー大元帥の死によって引き起こされた悲しみをあげた。しかし、この事件はすでに三年も前のことであり、また感じやすい心というのは当時はまだ流行にはなっていなかったので、この長すぎる喪を信ずる者はすくなく、皆、もっとほかに本当の理由を見ようとしていた。
とはいえ、ルーヴルの宮廷はどちらを向いても、モンモランシー元帥の恐れは杞憂《きゆう》にすぎないことを証明しているように思われた。シャルル九世も、カトリーヌ・ド・メディシス母后も、アンジュー公も、アランソン公も、だれもが、この王家の婚礼の宴をもりたてようと努めていた。
アンジュー公は、ユグノーたちから、十八歳にも達しないうちにジャルナックとモンコントゥールの戦いで勝利をおさめたのはシーザーやアレタサンダー大王に勝る早熟の天才だと、さかんに持ち上げられていた。イッソスの戦いの勝者アレクサンダー大王よりも、ファルサロスの戦いの勝者シーザーよりも、アンジュー公のほうが偉大だとユグノーたちはいっているのである。アランソン公は優しげな、だが虚ろなまなざしでその光景を見つめていた。カトリーヌ・ド・メディシス母后は満面に笑みを浮かべ、愛想をふりまきながら、最近マリー・ド・クレーヴと結婚したばかりのコンデ公アンリに祝辞を述べていた。ギーズ家の人々さえも、彼ら一門の恐るべき敵たちと談笑していた。さらには、ギーズ家の次男のマイエンヌ公が、コリニー提督やシャルル九世の侍従のタヴァンヌ伯と、スペインのフィリペ二世に対して宣戦布告することになるはずのフランドルの戦争のことで議論していた。
こうした人だかりのなかを、どんな一言半句も聞き漏らすまいと耳をそばだて、頭を軽くかしげた十九歳の若者が一人、あちこちと動きまわっていた。眼光あくまで鋭く、黒髪は短く刈りあげ、眉は太く、鼻は鷲の嘴《くちばし》のように曲がり、生えかけたばかりの口ひげと顎ひげからは皮肉っぽい微笑をのぞかせていた。コリニー将軍の秘蔵っ子として初出陣のアルネー=ル=デュックの戦いでみずから先頭に立って勇敢に戦い抜き、嵐のような喝采を浴びたこの若武者こそは、母后ジャンヌ・ダルブレがまだ生きていた三カ月前にはベアルヌ公、今はナヴァール王と呼ばれ、そして、やがてはアンリ四世と呼ばれることになる今日の婚礼の主役であった。
ときとして、その額の上に、かすかに暗い雲がよぎることがあった。おそらく、ほんの二カ月前に亡くなった母のことを思い出しているのだろう。母が毒殺されたことについてはだれより固い確信をもっていたからだ。だが、その雲は、漂う影のように、射したと思うとたちまちのうちに消え去った。なぜなら、彼に話しかけ、祝いの言葉を述べに身をすりよせてくるのは、勇気ある彼の母ジャンヌ・ダルブレを暗殺した当人たちだったからである。
つとめて陽気に明るく振る舞おうとしているナヴァール王からすこし離れたところで、思案げで気がかりな表情を浮かべていたのは、ギーズ家の若殿アンリ・ド・ギーズで、宿敵テリニーとなにやら話しこんでいた。ナヴァール王よりも天に恵まれたこのアンリ・ド・ギーズは、早くも二十二歳で、偉大なる父フランソワ・ド・ギーズの名声を凌《しの》ごうとしていた。それは誇り高く、驕慢《きょうまん》な目をした、背の高い、眉目秀麗《びもくしゅうれい》な貴公子だった。彼がわきを通ると、ほかの王子たちがみな庶民に見えてしまうといわれたほど、生まれついての威厳をそなえていた。カトリックの人々は、まだ若いこのギーズ公のうちに自分たちの首領を見ようとしていた。それは、アンリ・ド・ナヴァールのうちにユグノーたちがみずからの指導者を見いだしているのと同じだった。アンリ・ド・ギーズは幼いころジョワンヴィル公を名乗り、早くもオルレアンの戦いで父の指揮のもとに初陣を飾ったが、父は、暗殺の下手人はコリニー提督だという言葉を残して息子の腕の中で息絶えた。このとき、若いギーズ公は、ハンニバルのように重々しくこう神に誓った。コリニー提督とその一家に復讐して、父の死を贖《あがな》い、最後の異端が地上から根絶やしにされるその日まで、殺戮の天使となって新教徒を情け容赦なく追いつめようと。したがって、ふだんはあれほどまでに父の遺言に忠実だったこの若きプリンスが、永遠の敵と誓った連中に手を差しのべ、瀕死の父に仇討ちを約した男の婿と親しげに話しこんでいるのを見ては、だれもが大いなる驚きを感じずにはいられなかった。
だが、すでに述べたように、この宵は、まさに驚きの連続であった。
事実、もしこの宴に出席を許された特権的な観察者が、未来を見通すという、凡人には幸いなことにも欠けている力を与えられ、人の心の中を読み取るという、不幸にも神にのみ属する能力を賦与されていたとするならば、おそらくは、悲しい人間喜劇の年代記のうちでももっとも奇妙な光景を眺めて楽しむことができたにちがいない。
だが、ルーヴル宮殿内の廊下にはついに姿を見せなかったこの観察者は、付近の通りでは、あいかわらず、その燃えるような瞳で宮殿を見つめ、不気味な声で捻りを発しつづけていた。観察者、それは民衆だった。民衆は、憎悪によって研ぎ澄まされた本能に突きうごかされて、みずからの不倶戴天《ふぐたいてん》の敵の影を遠くから目で追い、その印象をみずからの脳裏にくっきりと焼きつけようとしていた。それは、ぴったりと閉ざされた舞踏会の会場の窓の前で、好奇心に燃えた野次馬がすることに似ていた。つまり、舞踏会の踊り手が音楽に酔い、音楽に身をゆだねているのに対して、野次馬は、いっさい音楽が聞こえないので、ただ動きだけを眺め、訳もなく手足を動かしている操り人形を嘲り笑っているのである。
ユグノーたちを酔わせている音楽、それは彼らの自惚《うぬぼ》れの声であった。
真夜中にパリジャンたちの目に浮かんだその光とは、未来を照らす彼らの憎悪の閃光であった。
だが、ルーヴル宮殿の中では、あいかわらず、すべてが笑いに包まれていた。そして、かつてないほどに甘美で称賛に満ちたささやきがルーヴル全体に伝わっていた。それというのも、婚礼衣装と裾を引きずるマントと長いヴェールを脱ぐために化粧直しに中座していた若い花嫁が、たったいま、親友の美しいヌヴェール公爵夫人に付き添われ、兄のシャルル九世に先導されて舞踏会のホールに戻ってきたところだったからだ。シャルル九世は、花嫁をおもだった客人に次々に紹介していた。
この花嫁こそ、アンリ二世の娘で、フランス王国の真珠と謳われたマルグリット・ド・ヴァロワであった。シャルル九世は、彼女のことを、親愛の情をこめて、「私の妹マルゴ」としか呼ばなかった。
いまこの瞬間、新しいナヴァール王妃を迎えた人々の熱烈な歓迎ぶりは、おもねりに満ちていたとはいえ、まさにその内実にふさわしいと呼ぶほかないものだった。このとき、マルゴはまだ二十歳に達していなかったが、すでにあらゆる詩人の称賛の的となり、「曙光」や「愛の女神アフロディテ」にたとえられていた。事実、彼女は、カトリーヌ・ド・メディシスが、殿方を誘惑する魔女軍団をつくるため国中からよりすぐりの美女を集めたこの宮廷においてさえも、並ぶものない美人だった。漆黒の髪、輝くように白い肌、長いまつげで覆われた官能的な瞳、形の良い真紅の唇、エレガントな首、豊かでしなやかな躯、そして、サテンの靴にくるまれた子供のような足、この美しい姫を戴いたフランス国民は、かくほどに素晴らしい花が自分たちの大地に花開いたことに、強い誇りを感じずにはいられなかった。フランスを訪れた外国人で、一目でも彼女を見た者は、その美しさに目を奪われ、会話を交わした者はその学識に驚かされた。というのも、マルゴはたんに国一番の美女であるばかりか、当代一の文人でもあったからである。彼女に紹介されたあるイタリアの学者は、一時間、イタリア語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語で会話したあと、すっかり興奮して、こう言って辞去したという。「マルグリット・ド・ヴァロワに会わずしてフランス宮廷を去ることは、フランスも宮廷も見なかったに等しい」。そのためか、シャルル九世とナヴァール王妃に対して浴びせられる祝辞はひきもきらなかった。ご存じのように、ユグノーというのは一席ぶたないと気のすまない人たちなのである。過去に対する多くの言及や将来に対するあまたの要求が、これらの祝辞のなかで巧みに国王にむかって発せられた。だが、シャルル九世はどんなほのめかしに対しても、血の気のうせた唇にずるそうな微笑を浮かべてこう答えるだけだった。
「わたしは、妹マルゴをアンリ・ド・ナヴァールに与えることによって、わたしの真心を王国のすべてのプロテスタントに与えるのだ」
この言葉は、ある者に安心を与え、ある者に微苦笑を引き起こした。なぜなら、本当は、この言葉には二つの意味があったからだ。ひとつの解釈は、いかにも兄らしい慈愛のこもったもので、シャルル九世は良心に恥じることなく、ただ考えたとおりを述べたにすぎないというものである。もうひとつの解釈は、花嫁はもちろん、花婿にとっても、そしてそれを述べたシャルル九世にとっても、はなはだ侮辱的なものである。というのも、それは、宮廷のゴシップ雀がマルグリット・ド・ヴァロワの花嫁衣装を汚そうとして流していたひそかなスキャンダルを思い起こさせるものだったからである。
そうしているあいだも、ギーズ公は、あいかわらずテリニーと会話を交わしていたが、実際は、ほとんど話の内容に注意を払ってはいなかった。彼の視線はときどき、貴婦人たちの一団のほうに向けられていたが、その真ん中には、マルグリット王妃の輝くような姿が見えていた。王妃のまなざしが若いギーズ公の視線と出会うと、彼女のかわいらしい額に一片の雲が浮かび、星状のダイヤモンドがゆらめく光輪のようにまわりを囲んでいるその美顔に一瞬、かげりがあらわれた。そして、いらだって落ち着きのないその態度から、彼女がなにやら漠とした思いに取りつかれていることがうかがえた。
マルゴの姉で、何年か前にロレーヌ公に嫁いでいたクロード王女は妹の不安げな様子に気づいた。だが、クロード王女が訳をたずねるために近くに寄ろうとしたとき、若いコンデ公に腕をあずけたカトリーヌ・ド・メディシスが前に進み出たので、みな脇によって道をあけた。そのため、クロード王女は押し戻されて、妹から離れてしまった。そのときだった、この全体の動きを巧みに使い、ギーズ公が義姉のヌヴェール夫人に近づくふりをして、すばやくマルゴのほうに歩み寄ったのは。ロレーヌ夫人は若い王妃から目を離さずにいたので、さきほどから妹の額の上にかげっていた雲がすっと消え、一瞬、情熱の焔が頬に燃えあがるのを見ることができた。いっぽうギーズ公は、その間にどんどん近づいてマルゴのすぐそばまでやってきていた。マルゴはギーズ公の姿を見たというよりもそれを感じとったかのように、ふっと振り向いた。彼女が冷静で無頓着な表情を装おうと悲痛な努力をしている様子は傍目《はため》にも見てとれた。ギーズ公は恭《うやうや》しく挨拶をして身をかがめたが、その瞬間小声でこうつぶやいた。
「|Ipse attuli《イプセ・アットゥーリー》」
これは「わたしはあれをもってきました」あるいは「わたし自身をもってきました」という意味のラテン語である。
マルゴはギーズ公にお辞儀を返したが、頭をあげるとき、こんな答を落とした。「|Noctu《ノクトウー》 |pro more《プロ・モーレ》」
「今夜、いつものように」という意味である。
この甘い言葉は、王女の丸|襞《ひだ》のついた大きな襟の中に、まるで丸めたメガホンに吸い込まれるようにして消え去って、話しかけた相手にしか聞き取れなかった。だがその会話はごく短かったにもかかわらず、二人の若い男女がたがいに伝えようとしていたことのすべてを含んでいた。この二言三言が交わされたあと、すぐに二人は別れたからだ。出会う前よりもマルゴは夢見がちになり、ギーズ公は晴れ晴れとした顔をしていた。この小さな光景は、たとえ、これにもっとも大きなかかわりをもつはずの男が目をとめたとしても、ほとんどなにも気づかなかったほど一瞬のうちに起こった。で、その当事者のナヴァール王の視線はといえば、ちょうどそのとき、マルグリット・ド・ヴァロワと同じように多くの人々をまわりに集めていた一人の女に注がれていた。その女性は、麗《うるわ》しのソーヴ夫人であった。
シャルロット・ボーヌ=サンブランセーは、あの不運なサンブランセーの孫娘でソーヴ男爵シモン・ド・フィーズの妻ということになってはいたが、じつは、カトリーヌ・ド・メディシスのまわりを囲む例の貴婦人たちの一員、つまり、カトリーヌ・ド・メディシスが敵にフィレンツェ製の毒薬を盛る決心がつきかねたときに、その代わりとして愛の媚薬を注ぎこむための女王親衛隊のもっとも恐るべき隊員の一人だったのである。小柄なブロンドの美女で、はじけるほどに溌剌としているかと思えば、急に陰鬱なメランコリーに沈み、ただ愛と陰謀にだけ生きがいを見いだしていた。げんに、五十年間、三代続いたこの王たちの宮廷では、愛と陰謀こそがもっとも大きな二つの関心事だった。ソーヴ夫人は語のすべての意味で「女」であり、あるときは物憂げに、またあるときはキラキラと輝くそのブルーの瞳からサテンの靴の中の甲高《こうだか》のかわいらしい足にいたるまで、ありとあらゆる女の魅力をそなえていたので、政治の世界と同時に愛の世界でもデビューを飾ったナヴアール王は、すでに何カ月も前から彼女の虜《とりこ》になっていた。そのために、マルグリット・ド・ナヴアールが、いかに照り輝くような美しさを放っていても、夫の心の底からの称賛を勝ちえることはできなかった。さらに、なんとも不可解なのは、カトリーヌ・ド・メディシスが娘とナヴァール王との結婚の計画を推し進めながら、いっぽうでは、ナヴァール王とソーヴ夫人との愛をいわば公然と手助けしていたことである。これには、だれもが驚き、謎と神秘に満ちた魂の持主ですら、理解に苦しんだ。だが、こうしたカトリーヌ・ド・メディシスの強力な後押しと、時代の軽佻《けいちょう》な風俗にもかかわらず、美しいシャルロット・ド・ソーヴはこれまでよくナヴァール王の攻撃に耐えていた。そして、ナヴァール王の目に、こうして誘惑に耐える女は美しく、才気があると映ったが、それ以上に、この前代未聞の信じがたい抵抗は王の心にひとつの大きな情熱の焔を燃やしてしまった。己《おのれ》を満たすすべを知らぬその情熱は、深くみずからのうちに沈潜し、若き王の心の中で、内気さや自尊心、さらには、あの無頓着さまでをもむさぼり食っていた。哲学と怠惰の入りまじったこの無頓着さこそが彼の性格の根底をなしていたのに。
ソーヴ夫人は、ほんの数分前に舞踏会の会場に入ってきたばかりだった。彼女は最初、なかば悔しさから、なかば苦しみから、自分のライヴァルであるマルグリット・ド・ヴァロワの勝利の宴には出席すまいと心に決め、気分がすぐれないという口実をもうけて、五年前から閣外相をつとめている夫だけをルーヴルに行かせていた。だが、カトリーヌ・ド・メディシスは、妻を同行せずにあらわれたソーヴ男爵を見かけると、ご贔屓《ひいき》のシャルロットが来られない理由をたずねた。そして、ただ気分がすぐれないだけだと知ると、すぐ来るようにと一筆したためたので、若妻はあわてて駆けつけてきた。ソーヴ夫人の姿を見かけないので最初がっかりしていたアンリ・ド・ナヴァールは、やがてソーヴ氏が一人で来ているのに気づいて、なぜかほっと一安心したような気分になっていた。そのため、よもやソーヴ夫人があらわれようとは夢にも思わなかったので、ひとつ、自分が今日から、愛するとはいわずとも妻として遇しなければならない女性のほうへ、恋する男を装って近づいてみようかと思いたったところだった。そのとき、回廊のむこうにソーヴ夫人の姿が見えたのである。彼は、目をこの魔女《キルケ》に向けたまま、まるで魔法の糸でがんじがらめになったかのように、その場に釘づけになった。そして、恐れというよりも驚きに近い迷いの仕草を見せたあとで、妻のほうではなく、ソーヴ夫人にむかって進んでいった。
いっぽう、その場に集まっていた宮廷人はというと、ナヴァール王が美しいシャルロットにご執心だということは先刻承知していたので、王が彼女に近づこうとしているのを見ても、だれ一人として邪魔だてをしてやろうという気にはならなかった。彼らは皆、気をきかせてその場から遠ざかった。そのため、マルグリット・ド・ヴァロワとギーズ公がさきほどのラテン語の言葉をかわしたまさにそのときに、アンリはソーヴ夫人のそばに寄り、いたってわかりやすいフランス語で会話を始めた。それはガスコーニュ訛りがひどかったとはいえ、マルゴとギーズ公の会話のようなミステリアスな部分はほとんどない会話だった。
「ああ、よかった。病気のために出席なされないというお話でしたので、お会いできないものとあきらめかけていました。そんなところへ、戻っていらっしゃったからすこし驚きました」
「陛下」とソーヴ夫人は答えた。「陛下は、わたくしがいないために落胆なされたと、こう仰せになられるのでございましょうか」
「まったく、そのとおりです」とアンリは答えた。「あなたは、昼のあいだはわたしの太陽で、夜はわたしの星だということをご存じないのですか? 実際のところ、さきほどまでは、わたしは真っ暗闇の中にいるような気がしていました。ところが、あなたがあらわれたとたん、なにもかもがパッと明るくなって」
「それでは、わたくしは、陛下に、とんだ意地悪をしていることになりますわね」
「それはどういう意味でしょうか」とアンリはたずねた。
「フランスで一番の美女を妻にしているとき、足りないものは、光が消えて闇にかわること、なぜなら、陛下の幸福が約束されているのはその闇の中だから、というような意味でございますけれど」
「その、意地悪な幸福、それはたった一人の人の手に握られていて、その人は、哀れなアンリのことを嘲って馬鹿にしている、それはあなたもご存じのはず」
「あら、とんでもございませんわ。ナヴァール王のおもちゃにされて、笑いものにされているのは、反対に、その女の人のような気がいたしますけれど」
アンリは、このよそよそしい態度に恐れをなした。だが、すこし考えて、もしかすると、この態度の裏には恨みが隠されていて、その恨みは愛の仮面にすぎないのではないかと思いなおした。
「シャルロット、本当のところ、あなたの非難は的はずれです。そんなきれいな口からそんな残酷な言葉が出てくるなんて、どうも理解できません。それでは、あなたは、結婚したのはこのわたしだとお思いなのですか。いや、とんでもない。わたしではないんです!」
「いえいえ、『わたし』でございますとも!」と男爵夫人はとげとげしい口調で答えた。それは男を愛しているのに、男からは愛されていないと責めたてる女のこのうえなく辛辣な声だった。
「そんなお美しい目をしていらっしゃるのに、もっと遠くを見ることがおできにならないのですか? そう、いかにも、マルグリット・ド・ヴァロワと結婚するのはアンリ・ド・ナヴァールではありません」
「それならだれですの?」
「それは、もちろん、新教がローマ教皇と結婚するんです。それだけです」
「あらあら、お上手ですこと。でも、わたくし、陛下の才気の遊びにはだまされませんわ。陛下はマルグリット様を愛していらっしゃる。それについては、わたくしが、とやかくいう筋合のものではございません。なぜって、マルグリット様は、愛されるに十分なほどお美しい方でございますもの」
アンリは一瞬、考えをめぐらした。そして、考えているうちに口元に微笑が浮かんで唇のはしをかるくめくらせた。
「男爵夫人、あなたは、どうもわたしに喧嘩を売りたがっていらっしゃるご様子ですね。でも、本当は、あなたにその権利はないんです。よろしいですか、わたしがマルグリットと結婚したとおっしゃるなら、あなたはそれを妨げるためになにをなさいましたか? なにもなさってはいない。それどころか、あなたは、いつもわたしを絶望させてきた」
「でも、それで、ようございましたでしょ、陛下」ソーヴ夫人は答えた。
「なぜ、そんなことを?」
「そうでございますわ。おかげで今日、陛下は、わたくしではない別の方とご結婚なさるんですから」
「ああ、わたしは、あなたに愛してもらえないからこそ、あの人と結婚するんです」
「もし、陛下を愛していましたなら、わたくし、一時間後には、死ななくてはならない運命だったでございましよう」
「一時間たったら? それはどういう意味でしょう? それに、どうして、あなたが死ななくてはならないのですか」
「嫉妬で……。一時間後に、ナヴァール王妃はお付きの女たちを、そして、陛下は従者たちをお下がりにならせるでしょうから」
「本当にそんなことを気にしていらっしゃるのですか?」
「そうではございません。わたくしが申しあげたいのは、もしわたくしが陛下を愛するようなことがございましたら、わたくしはマルグリット様のことが気になってしかたがないだろうということでございます」
「よく、わかりました」と、ようやくのことでこの告白を聞き出したアンリは喜びを隠しきれないように叫んだ。「もし、今夜、ナヴァール王が従者を下がらせないとしたら?」
「陛下」ソーヴ夫人は驚いたようにナヴァール王を見つめた。その驚きは、今度は、演技ではなかった。「陛下は、ありえないこと、信じられないことをおっしゃっておられます」
「では、あなたに信じていただくには、いったいなにをすればいいのでしょう?」
「わたくしに、証拠をお与えくださらなくては。でも、その証拠、陛下がわたくしにお与えになるのは、とても無理なものでございますわ」
「いやいや、無理なものですか、男爵夫人。我が守護聖人、聖アンリの名にかけて、その証拠をお与えいたしましょう」とナヴァール王は叫んで、愛に熱く燃えたまなざしでソーヴ夫人をむさぼるように見つめた。
「ああ、陛下」と、美しいシャルロットは声と視線を落としてつぶやいた。「信じられませんわ、陛下が、約束されたあの幸福から逃げ出していらっしゃるなんて、不可能ですもの」
「よろしいですか、この部屋には四人のアンリがいる。フランス王室のアンジュー公アンリ、アンリ・ド・コンデ、アンリ・ド・ギーズ。でも、アンリ・ド・ナヴァールは一人しかいない」
「それで?」
「それで、もし、今夜アンリ・ド・ナヴァールがあなたのそばにいたら」
「ひと晩じゅう?」
「もちろん。そうしたら、彼がほかの女のそばにはいなかったと確信できますか?」
「まあ、本当にそんなことをなすったら!」と、今度はソーヴ夫人が叫んだ。
「王に二言はありません」
ソーヴ夫人は、約束された快楽ですでに濡れている大きな瞳で王を見つめ、頬笑んだ。王の心はとろけるような喜びで一杯になった。
「さあ、どうですか、それならば」とアンリは迫った。
「ああ、それならば」とシャルロットは答えた。「それならば、本当に陛下に愛されていると申しあげるほかございません」
「やった! とうとう、そうおっしゃってくれましたか。だって、本当にそうなんだから、しかたないでしょう、男爵夫人」
「でも、どうすればよろしいのでしょう?」とソーヴ夫人はつぶやいた。
「なに、たいしたことはありません。まさか、あなたに、信頼のおける女侍従か侍女がいないわけはないでしょう?」
「ダリオールがおりますわ。この娘なら、わたくしに心から仕えてくれていますので、わたくしのためとあらば細切れにだってなってみせるでしょう。本当に、宝物のように得がたい娘ですから」
「すごい! その娘に、もし、わたしが占星術師の予言どおりにフランスの王になったなら、大きな褒美をつかわすと伝えておいてください」
シャルロットは微笑した。というのも、そのときにはすでに、このナヴァール王の大ぼらに関する、いかにもガスコーニュ風の評判ができあがっていたからだ。
「それはそうと、ダリオールをどうなさるおつもりで?」
「いや、その娘にたいした仕事を頼むつもりはないんです。すべては、わたしにかかっている」
「と、おっしゃいますと?」
「あなたのお部屋は、わたしの部屋の真上ですね?」
「ええ」
「それでは、その娘を扉の後ろに待たせておいてください。私が扉を軽く三度たたきます。その娘が扉をあければ、あなたは、わたしがお約束した証拠をお受けとりになれます」
ソーヴ夫人は、しばらく、口をつぐんでいたが、やがて、だれかに聞かれていないかとあたりを見回したあと、カトリーヌ・ド・メディシスを囲む女たちのグループのほうへ、一瞬、ちらりと目をやった。それは、たしかにほんの一瞬にすぎなかったが、カトリーヌ・ド・メディシスがこの衣装係の女から目配せを受けとるのには十分だった。
「ああ、いっそ」とソーヴ夫人は、ユリシーズが惑わされぬように耳の穴に詰めた蝋をも溶かすサイレーンの魔女のような口調でいった。「いっそ、嘘をついていただいたほうが」
「嘘かどうか、試してみてください」
「わたくし、どうしたらいいんでございましょう。わたくし、誘惑に負けぬよう一生懸命戦っているんでございますわ」
「早いところ負けてください。負けたあとの女性ほど強くなるものはありませんよ」
「陛下、陛下がフランス国王になられた暁には、ダリオールヘの約束を守ってくださいましね」
アンリは、歓喜の叫びをあげた。
この叫びがナヴァール王の口から漏れたのは、王妃マルグリットがギーズ公にこう答えたのと同じ瞬間だった。
「|Noctu pro more《ノクトゥー・プロ・モーレ》、今夜、いつものように」
かくしてアンリ・ド・ナヴァールは、アンリ・ド・ギーズがマルグリット・ド・ヴァロワから離れていったときに感じたのと同じ幸せ一杯の気持ちで、ソーヴ夫人のそばを離れた。
われわれがいまここに語った二重の情景が目撃されてから一時間後、シャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスはそれぞれ退出し、自室に戻った。すると、それを追うように、宮殿のどの部屋からも人が引きはじめた。歩廊では、大理石の列柱の基部が見えるようになった。コリニー提督とコンデ公は四百人のユグノーの貴族に付き添われて帰っていった。そのまわりを、群衆が、唸り声をあげながら遠巻きにしていた。ついで、アンリ・ド・ギーズが、ロレーヌの貴族とカトリックを引きつれて、宮殿から出た。すると今度は、民衆のあいだから、歓喜の叫びと喝采が巻き起こった。
マルグリット・ド・ヴァロワと、アンリ・ド・ナヴァールとソーヴ夫人は、ご存じのように、ルーヴル宮殿にそのまま残っていた。
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[美女スパイの使命]
カトリーヌ・ド・メディシスは、宮廷のとびきりの美女たちを自分のまわりに集めて、これをあたかも007の女スパイのように使って、色仕掛けで情報を集めさせていたとデュマは書いているが、これは、にわかには信じられないが紛れもない事実である。この美女のスパイ軍団は、「特別遊撃隊《エスカドロン・ヴォラン》」と呼ばれ、敵を籠絡《ろうらく》するのに絶大な威力を発揮した。
アンリ・ド・ナヴァールの父親アントワーヌ・ド・ブルボンが、妻とともにプロテスタントに改宗しながら、ルーヴル宮殿に軟禁されるや、たちまち再改宗してしまったのは、この「特別遊撃隊」の隊員ルイーズ・ド・ラ・ベロディエールのせいだったといわれる。
また捕虜になった新教徒軍の総大将コンデ公(アントワーヌ・ド・ブルボンの弟)が、カトリーヌ・ド・メディシスの言いなりになって、コリニー提督の意向を無視してアンボワーズの和議に調印してしまったのも、この「特別遊撃隊」の隊員の活躍によるものである。
ところで、カトリーヌ・ド・メディシスの命を受けて、新婚のアンリ・ド・ナヴァールの誘惑にとりかかったソーヴ男爵夫人は、この「特別遊撃隊」のなかでも最優秀の隊員だったが、彼女の使命は、二つあった。
ひとつは、ナヴァール王とマルゴとの結婚をマリアージュ・ブランシュ(白い結婚)つまり、性交渉のない結婚に終わらせることだった。これは、一説によると、聖バルテルミーの虐殺が終わってナヴァール王の利用価値がなくなったときに、マルゴと離婚させるためだったといわれる。
もうひとつは、ナヴァール王が語る寝物語から陰謀を嗅ぎつけることで、こちらのほうも、ソーヴ夫人は見事に任務をやりおおせた。デュマの物語ではソーヴ夫人はナヴァール王に純情を捧げることになっているが、実際は、カトリーヌ・ド・メディシスに忠実だったようである。
なお、余談になるが、フランスの王族や貴族は、平民の姓にあたるものをもたず、かわりに、領地の名前、たとえば、ヴァロワやブルボン、あるいはナヴァールなどの地名を後ろにつけて「……家の(…・ド・)」アンリとかマルグリットといって区別する。したがって、ヴァロワ王家のマルグリット、つまりマルグリット・ド・ヴァロワがナヴァール家のアンリ(アンリ・ド・ナヴァール)に嫁げば、彼女は、マルグリット・ド・ナヴァール、すなわち、ナヴァール王妃マルグリットとなる。
同じように、ナヴァール王アンリは、最初、父親の系統にしたがってアンリ・ド・ブルボンと名乗っていたが、両親の死でナヴァール王となったので、アンリ・ド・ナヴァールとなったのである。また、彼は、ナヴァール王国がフランスの側から見れば王国といえるほどのものではなく、ベアルヌという一地方にすぎないということで、アンリ・ド・ベアルヌとも呼ばれた。ときには、ただベアルヌ公とか、あるいはベアルヌ男などとも蔑《さげす》まれた。
いっぽう、王家の息子たちの呼び名はどうなっているかいえば、これは、生まれるとすぐ、王家の所有する公ン領や伯爵領の地名をとって、アンジュー公とか、シャンボール伯、ボルドー公などと呼ばれるならいになっている。
ところで、アンリ・ド・ナヴァールは、やがて、ノストラダムスの予言どおりフランス王位についてアンリ四世となるが、この国王の呼び名は、アンリという洗礼名をもつ男子が、四人目として王位に就くということを意味している。すなわち、アンリ・ド・ナヴァールは、マルゴの父のアンリ二世、その三男のアンジュー公アンリ(アンリ三世)に続いて王位にのぼったわけである。そして、これにより、フランスの王朝は、アンリ三世まで続いたヴァロワ家から、ブルボン家へと代わることになる。
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第二章 ナヴァール王妃の部屋
ギーズ公は、義姉のヌヴェール公爵夫人を、ブラック街の向かいのショーム街にある彼女の邸宅に送っていった。そして、彼女を侍女たちに引き渡すと、自室に入って衣装を着替え、夜用のマントを羽織り、鋭利な短剣で武装しようとした。その短剣は、貴族の名誉と呼ばれるもので、剣を佩《は》かぬときに持ち歩くものである。だが、その短剣を手に取ろうとして、置いてあるテーブルに目をやったとき、彼は刃と鞘《さや》の間に小さな紙切れがはさんであることに気づいた。
ギーズ公は紙切れを開いて、目を通した。
「ギーズ公閣下、今夜はルーヴルにはお戻りになりませぬよう。万一、お戻りになられる場合は、鎖かたびらをお着用の上、太刀をお佩きになられますように」
「おやおや」とギーズ公は家令のほうに振り向いてたずねた。「ここに変な警告がはさんであるぞ、ロバン。私の留守中にこの部屋にだれが入ったんだ?」
「一人だけでございます。殿」
「だれだ、それは?」
「デュ・ガスト様でございます」
「そうか、なるほど。そういえば、あの男の筆跡のようだな。たしかに、あの男がここにきたのか? 姿を見たのか?」
「それ以上でございます、殿。話をいたしましたから」
「そうか、それでは忠告に従うことにしよう。胴衣と太刀をもってきてくれ」
家令は、こうした服装の変更には慣れていたので、すぐに命じられたものをもってきた。ギーズ公は着替えを始めた。胴衣は、非常にしなやかな鎖かたびらでできていたので、鋼鉄の網目はビロードほどの厚さしかなかった。それから、胴衣の上に、タイツと、プルポワンと呼ばれる首から腰までの上着を着た。そのプルポワンはグレーと銀色で、彼の好みの色だった。それが終わると、今度は、もものところまである長いブーツを履き、羽毛も宝石もついていない黒ビロードの小さいトック帽をかぶった。そして、黒ずんだ色のマントを羽織り、ベルトに短剣を差し、太刀をもたせた従僕を一人だけ従えて、ルーヴルのほうへ出発した。
彼が館を出ようとして戸口に立ったとき、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の夜番の鐘つきが、午前一時の鐘を鳴らした。
夜は更け、また当時のパリの夜道はたいへん物騒だったが、この大胆不敵なプリンスは、途中なにひとつ災難に出会うことなく、無事、ルーヴル宮殿の巨大な建物の前に到着した。ルーヴル宮殿は、さきほどまで壁面をかざっていた松明《たいまつ》も次々に消され、ものいわぬ威圧的な塊のように黒々と聳《そび》え立っていた。
王宮の前には深い堀がほられていた。宮殿に住んでいるプリンスやプリンセスたちの部屋は大部分がこの堀に面していた。マルグリット・ド・ヴァロワの部屋は二階にあった。
だが、普通ならよじ登ることのできるこの二階も、防御用にえぐられた深い堀のため、底からは三十ピエ(約十メートル)もの距離があり、恋人や泥棒には手の届かない高さだった。だが、ギーズ公は委細かまわず、どんどん堀を降りていった。
と同時に、一階の窓が開く音が聞こえた。この窓には鉄柵がはまっていたが、中から手があらわれ、前もってはずしてあった鉄棒を一本抜き取って、そこから絹の紐を降ろした。
「おまえか、ジロンヌ」とギーズ公は小声でたずねた。
「はい、さようでございます」とさらに小さな声で女が答えた。
「マルグリット様は?」
「お待ちでございます」
「よかろう」
こういうと、ギーズ公はついてきた従僕に合図した。従僕は、マントを開いて縄ばしごを取り出した。縄ばしごの一方の端を、垂れ下がっている絹紐に結びつけた。ジロンヌは縄ばしごをたぐり寄せ、しっかりと固定した。ギーズ公は、太刀をベルトに結びつけたあと、縄ばしごを登って、なんなく部屋にたどりついた。彼が部屋の中に姿を消すと、鉄棒がもとのとおりにはめられて、窓が閉じられた。いっぽう従僕は主人が無事ルーヴルの中に入ったのを見届けると、マントにくるまり、壁の陰になっている堀の草の上に身を横たえた。彼は、もう二十回も同じことをやっているので手順はすっかりのみこめていたのだ。
それは真っ暗な夜だった。硫黄分と電気をたっぷり含んだ分厚く生暖かい雲からは、水滴がいまにもしたたり落ちてきそうだった。
ギーズ公は、案内の女についていったが、それはジャック・ド・マティニョン元帥の娘で、マルゴがいちばん信頼している腹心の女だった。マルゴはこの娘にはなにひとつとして隠し立てをしていなかった。ジロンヌは、けっして秘密を漏らすことのない忠実な侍女だった。その秘密のなかにはとてつもなく恐ろしいものも含まれていたので、ジロンヌは必然的に、ほかのことにも口が固くならざるをえないのだと人は噂していた。
ルーヴルの中は、天井の低い部屋にも歩廊にも、明かりはまったく灯っていなかった。ときどき、鉛色の稲光が暗い部屋を蒼白い光で照らしてはいたが、それも一瞬後には、すぐに消えてしまった。
ギーズ公はあいかわらず、案内のジロンヌに手を取られて先導されていたが、ようやく外壁の厚みの中に作った螺旋《らせん》階段の下にやってきた。その階段はマルゴの部屋の控えの間にむかって開く、秘密の扉へと通じていた。
控えの間は、下の階の部屋と同じように、真っ暗闇だった。
控えの間に着くと、ジロンヌは立ちどまった。
「王妃様がご所望のお品をおもちくださいましたか?」と彼女は小声でたずねた。
「もってきた」ギーズ公は答えた。「自分で王妃様にお渡しする」
「お入りになって。時間がありませんから」と、暗闇の中で声がして、ギーズ公は一瞬ドキッとした。マルゴの声だったからである。
同時に、王家のユリの花の紋章のついた薄紫色のビロードのドア・カーテンが上がって、影の中にナヴァール王妃の姿があらわれた。王妃は我慢できずに、自分から出迎えにきたのだ。
「わたしはここです」とギーズ公はいった。
そして、すばやくドア・カーテンをくぐりぬけた。
今度はマルグリット・ド・ヴァロワがギーズ公を部屋に案内した。といっても、その部屋はギーズ公にはおなじみのものだった。いっぽうジロンヌは扉のところに立ちどまって、口に指を当て王妃に安心するよう合図した。
マルゴは、ギーズ公の嫉妬心を見抜いたように、彼をまっすぐに寝室へ連れていき、そこで立ちどまった。
「さあ、どう? これで満足した?」
「満足? いったい何に?」ギーズ公はたずねた。
「いまこうして見せている証拠によ」と、マルゴはすこし恨みがましくいった。「わたしはもう一人の男の妻よ。それなのに、その夫は、結婚式の夜に、夫婦の初夜だというのに、わたしをほったらかしにして、感謝の気持ちをあらわしにやってこようともしない。もっとも、わたしが自分で夫に選んだわけじゃなくて、受け入れただけだけれど」
「なに、心配はいらないよ」とギーズ公は寂しげにいった。「いまに来るから。きみがお望みならね」
「まあ、あなたが、そんなことをいうなんて!アンリ」とマルゴは叫んだ。「だれよりもわたしの気持ちを知ってるはずなのに! もし、本当に、あなたがいうようなことをわたしが考えているとするなら、なんでルーヴルに来てくれって頼んだりするのよ」
「ルーヴルに来るようにきみがいったのは、ぼくらの過去を清算したいからだろう。その過去は、ぼくの心に生きているだけじゃなくて、ここにもってきた銀の小箱の中でも生きているから」
「アンリ、あなた、わたしに一言いわせなきゃ気がすまないの?」とマルゴはギーズ公の目をじっと見据えていった。「あなたの態度は、プリンスじゃなくてまるで小学生よ。このわたしが、あなたを愛したことを否定したり、愛の焔を消そうとするわけがないじゃない。もちろん、いつか焔は消えるでしょう、でもその輝きは消えないわ。なぜって、いつだって我が家の家系の女の愛は、代々、その人の生きた時代全体を彩って、焼きつくすんですから。あなたのマルグリットの手紙などそのままもっていらしてもかまいません。小箱はあなたにあげたものです。小箱に入っている手紙のなかで、返してほしいのは一通だけ。それは、わたしだけじゃなくて、あなたにとっても危ないものだから」
「全部返すから、燃やしてしまいたいものを自分で選べばいい」
マルゴは蓋をあけた小箱の中を探り、震える手で、一通、また一通と十二通ばかりの手紙を選び出した。まるで、宛名を見ただけで中身を思い出しでもしたように、あえて、中身を確かめようとはしなかった。だが、全部調べ終わると、真っ青になり、ギーズ公を見つめていった。
「ねえ、探している手紙がないわ。まさか、なくしたんじゃないでしょうね? 渡したときに……」
「どの手紙をお探しで、奥様?」
「すぐにあなたと結婚したいって書いた手紙よ」
「浮気の釈明をするために?」
マルゴは肩をそびやかした。
「いいえ、あなたの命を救うため。わたしたちの関係ばかりか、あなたをポルトガルの王女との縁談を壊そうとわたしが画策したことが兄のシャルル九世にばれてしまったとき、兄は異母兄のアングレーム公を呼んで、刀を二本見せながら、こういったわ。『この刀で今夜ギーズ公を殺せ。失敗したら、明日、もうひとつの刀でおまえを殺す』とね。そのことが、手紙には書いてあるのよ。どこにやったの、その手紙?」
「はい、どうぞ」とギーズ公は、その手紙を胸から引き出していった。
マルゴはほとんど両手で飛びつくように手紙を奪いとると、熱っぽい手でそれを開いた。そして、たしかに探していた手紙だとわかると、大きな安堵の溜息をもらし、すぐに、蝋燭の焔に手紙を近づけた。焔はすぐに灯心から紙に燃え移り、あっという間に手紙を燃やしつくした。だが、まるで、マルゴはだれかが灰の中にまで軽率な言葉を探すのではないかと恐れたかのように、灰を足で踏みしだいた。
ギーズ公は、恋人がこの狂おしい振る舞いに及んでいるあいだ、じっと相手を見つめていた。
「いかがでしょうか」と、ギーズ公は、彼女が灰を踏み終わるのを見届けるといった。「それで満足いただけましたかな」
「ええ。あなたはもうポルシアン公のお嬢さんと結婚しているのですから、あなたがわたしを愛していても、兄はそれは大目に見るはずよ。でも、この手紙みたいに、あなたへの愛を隠していることができなかったことが兄にわかったりしたら、絶対許してはくれないわ」
「それはたしかにそうだ」とギーズ公はいった。「あのころ、きみはぼくを愛してた」
「いまだって愛してるわ、アンリ。いままで以上に」
「きみが?」
「本当よ。だって、今日ほど、真心のある献身的な恋人が必要なときはないのだから。わたしは、王冠のない王妃、夫のない妻よ」
若いプリンスは悲しげに首を横に振った。
「ねえ、アンリ、さっきから何度もいっているでしょう。わたしの夫は、わたしを愛していないだけじゃなくて、わたしを憎んで、軽蔑しているのよ。第一、彼がいなきゃいけない場所にあなたがいるってこと自体が、その憎しみと軽蔑の証拠でしょう」
「夜はまだ更けていませんよ、奥様。きっとナヴァール王はお付きの者を下がらせるのに手間取っているだけでしょう。いずれやってきますよ」
「奥様!」とジロンヌが扉をあけ、ドア・カーテンを持ち上げて叫んだ。「ナヴァール王がいま部屋をお出になりました」
「ああ、やっぱり、思っていたとおりだ」とギーズ公は叫んだ。
「アンリ、お願い」とマルゴは、ギーズ公の腕をつかんで、乾いた声でいった。「しっかりと見ていってちょうだい。わたしが、いったとおりの女だということを。一度約束したら、かならずそれを守るってことを。お願い、わきの小部屋に入って」
「奥様、まだ間にあうのでしたら、帰らせてください。彼があなたに最初の愛のしるしを与えるのを見届けてから、小部屋から出ていくなんて、いくらなんでもつらすぎます。そんなことをしたら、ご亭主を呪いたくなりますから」
「気でもちがったの? さあ、早く入って、お願い。わたしに任せておいて」
そういって、彼女はギーズ公を小部屋に押し込んだ。
ちょうどそのときだった。ギーズ公が扉のむこうに隠れると同時に、二本の燭台に八本の黄色い蝋燭をさした明かりを従僕二人にもたせたナヴァール王が頬笑みながら、部屋の入口に姿をあらわしたのは。
マルゴは動揺を隠すために、深々とお辞儀をした。
「まだお休みになっていらっしゃらなかったのですか」とナヴァール王は、いかにも陽気そうな顔つきでたずねた。「もしや、わたしが来るのを待っていらしたのでは」
「いいえ、そんなことはございません」マルゴは答えた。「昨日も、あなたがおっしゃっていたように、わたしたちの結婚は政治的な同盟ですから、あなたはわたしになにも強いることはできません」
「お見事。でも、すこしお話しするぐらいならかまわないのではないでしょうか? ジロンヌ、扉を閉めて、わたしたちだけにしておくれ」
マルゴは、それまですわっていたのだが、急に立ち上がると、従僕たちにそこに残るよう命ずるために、手を挙げた。
「あなたの侍女をお呼びしましょうか?」と王がたずねた。「もし、そのほうがお望みなら。でも、すこし、あなたに申しあげなくてはならないこともあるので、できれば差し向かいのほうが」
そういうと、ナヴァール王は小部屋のほうへ進んでいった。
「やめて!」そう叫ぶと、マルゴは猛烈な勢いで、彼の前に立ち塞がった。「いけません、その必要はありません。お話をうかがいます」
ナヴァール王は、自分がなにを知りたいのか先刻承知だった。彼は、小部屋のほうにすばやい、だが、すべてを見通すような視線をなげかけた。まるで、視界をふさいでいる扉のむこうの、もっとも暗い片隅にまで入り込もうとするかのように。それから、おもむろに、恐怖で蒼ざめている美しい妻に視線を戻した。
「それならば、すこし話をしましょう」彼は落ち着きはらった声でいった。
「陛下のお好きなように」若妻は、夫の差し出した椅子に、すわるというよりも崩れおちるように身を投げ出して、答えた。
ナヴァール王は彼女のわきにすわった。
「いいですか、世間がなんといおうと、私たちの結婚は良い結婚です。わたしはそう思っています。わたしはあなたのものですし、あなたはわたしのものです」
「ちょっと、待って……」マルゴは慌てて叫んだ。
「ですから、わたしたちは」とナヴァール王はマルゴのためらいに気づかぬふりをして、先を続けた。「たがいに、良い同盟者として振る舞わなければならないのです。なぜって、きょう、二人は神の前で同盟を誓ったんですから。そうお考えになりません?」
「だと、思います」
「わかっているんです、わたしには。どれほどあなたが洞察力の鋭い方か。それに、この宮廷にはどんな危険な陥穽《かんせい》があるかということも。ところで、わたしはまだ若僧ですが、だれに悪さをしたわけでもないのに、やたらに敵が多い。第一、祭壇の下で私に愛を誓ったことでわたしと同じ名前をもつようになった女性が、はたして、どちらの陣営に属するのかもわからない」
「どうお考えになられても」
「いや、わたしはなにも考えてなんかいません。希望に根拠があればいいと望んでいる、いやそう確信したいんです。なるほど、私たちの結婚は口実か、さもなければ罠でしかないかもしれませんが」
マルゴは身震いした。というのも、彼女の心にも、その考えが浮かんでいたからだ。
「さしあたり、このうちのどちらかでしょう」アンリ・ド・ナヴァールは続けた。「シャルル九世は私を憎んで「る。アンジュー公も、アランソン公も同じだ。カトリーヌ・ド・メディシス母后はわたしの母をひどく憎んでいたので、わたしを憎まないわけがない」
「まあ、なんてことを!」
「それが真実です」と王は言葉を続けた。「わたしとしては、王の刺客モールヴェルによる騎兵隊長ド・ムイ殿の暗殺とわたしの母の毒殺のことを、わたしがちゃんと知っていると教えるために、いっそ、ここにだれかいて、話を聞いていてくれればいいとさえ思いますよ」
「まあ、そんな!」とマルゴは急きこんで、だが、できるかぎり平静を装い、愛想よくいった。「ここには、あなたとわたししかいないことはご存じのはず」
「いや、だからこそ、こうして、なにもかも打ち明けて話しているんです。フランス王家やロレーヌ家がどんな懐柔策に出ようと、わたしはだまされたりはしないってね」
「お願い、やめて!」マルゴは叫んだ。
「おや、どうしました?」とアンリは、頬笑みながらたずねた。
「そんなことをいうのは、とても危険ですから」
「いいえ、内輪の話ですから、危険なことはなにも」と王はまた口を開いた。「申しあげたでしょう……」
マルゴは、あきらかに、これ以上は耐えられないという表情だった。できるなら、アンリの発する言葉をひとつずつ、口のところでとめてしまいたいとでもいうかのようだった。だが、アンリは、なにも気づかぬふうを装って、先を続けた。
「さきほどから申しておりますように、わたしは、ありとあらゆる人から脅迫を受けています。国王も、アランソン公も、アンジュー公も、カトリーヌ・ド・メディシス母后も、ギーズ公も、その弟のマイエンヌ公も、その叔父のロレーヌ枢機卿も、要するに全員が私の命を狙っているんです。ほとんど本能的にそう感じるのです。ところで、いずれ、攻撃に転じることが目に見えているこうした脅迫に対して、わたしが身を守ることができるとすれば、それは、あなたのお力にすがるほかない。というのも、あなたは、わたしを憎んでいる人たち全員から愛されているのですから」
「わたしが?」マルゴはいった。
「ええ、あなたが、です」アンリ・ド・ナヴァールは、また完全な無知を装って続けた。「そう、あなたはシャルル九世から愛されている。アランソン公から愛されている」と、とくに、『愛されている』の語を強く発音していった。「カトリーヌ・ド・メディシス母后から愛されている。そして、ギーズ公から愛されている」
「お願いです、やめてください……」マルゴはつぶやいた。
「どうしてでしょうか? みながあなたを愛していることが、そんなに驚くべきことなんでしょうか? だって、いまわたしが名前をだした人たちは、あなたの兄弟や親、親戚ばかりでしょう? 親や兄弟や親戚を愛するのは、神の御心に従って生きていくことではありませんか?」
「わかりました。でも結局のところ」とマルゴはうちひしがれていった。「なにをおっしゃりたいのですか?」
「なに、いまいったことだけですよ。つまり、もしあなたが、わたしの友とまではいかなくとも、すくなくとも同盟者となっていただけたら、わたしはどんな困難にも立ち向かっていけます。逆に、もし、あなたが敵になったりしたら、わたしはおしまいです」
「まあ、敵にですって! とんでもない!」マルゴは叫んだ。
「でも、友にもなれない?」
「たぶん」
「では同盟者なら?」
「それなら、もちろん」そういうと、マルゴは振り向いて、ナヴァール王に手を差しのべた。
アンリはその手を取り、恭《うやうや》しく接吻した。そして、そのまま両手で包みこんだ。愛情からというよりも、なにか、探りを入れようとでもするかのように。
「では、いいんですね、お言葉を信じて、同盟者として考えても。わたしたちはおたがい相手を知りもしないし、愛しあってもいないのに、結婚させられた。わたしたちの考えを聞くこともなしに結びつけられた。だから、わたしたちは、夫と妻としての義務をなにも負ってはいないのです。おわかりのように、わたしは、あなたのお気持ちをお察しして、昨日申したことを、今夜こうして確認しているんです。でも、わたしたちは、まったく自由に、だれからも強制されることなく、こうして同盟を結んだのです。おたがいに保護しあい、同盟しあう誠実な二つの心としてやっていこうじゃありませんか。あなたも、このようにお考えになりませんか」
「けっこうですわ」とマルゴは手を引っ込めようとしながら答えた。
「ところで」とアンリは、あいかわらず小部屋の扉をじっと見つめながら言葉を続けた。「心をゆるした同盟の最初のしるしは、相手に対する絶対的な信頼なのですから、これから、わたしがこうした敵意の真っ只中で勇敢に戦ってゆくために立てた計画の細部について、お話ししましょう」
「それは……」とマルゴは、今度は自分が思わず知らず小部屋のほうに目をやりながら、つぶやいた。いっぽうナヴアール王はたくらみがまんまと成功したのを見ると、口ひげの中でほくそ笑んだ。
「それでは、お話しいたします」アンリは若妻の当惑に気づかぬふりをして続けた。「じつは……」
「待ってください!」マルゴはとつぜん、勢いよく立ち上がると、ナヴァール王の腕をつかんだ。「ちよっと、息がつまるんです。熱くて、苦しい……」
実際、マルゴは絨毯の上に倒れこんでしまいそうなほど、蒼白になり、震えていた。
アンリは、十分離れた場所にある窓のところまで真っすぐに歩いてゆくと、ガラス戸をあけた。窓はセーヌ川に面していた。
マルゴは彼のあとに続いた。
「静かに! 静かにしてください。お願いですから」彼女はつぶやいた。
「おや、どうしたんです」とアンリは例のごとくに笑いながらいった。「わたしたちしかいないっておっしゃいませんでしたか?」
「それは、申しましたけれど、壁や天井に通してある管を使ってなにもかも聞き取ることができるって話をお聞きになりませんでした?」
「なるほど、わかりました」とアンリは大きな声でいい、急に声をひそめて続けた。「あなたはわたしを愛してはいない。それはたしかです。でも、あなたは義に篤《あつ》い女性だ」
「それはどういうことですの?」
「こういうことです。あなたがわたしを裏切るおつもりなら、だまってしゃべらせておいたでしょう。なぜなら、ほうっておけば、わたしはなにもかもしゃべってしまったでしょうから。それなのに、あなたはわたしをさえぎった。おかげで、ここにだれか隠れていることを知ることができました。あなたは、不実な妻かもしれないが、忠実な同盟者ではある。そして、この場合、正直なところを申して」とナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
「そんな……」マルゴは当惑してつぶやいた。
「いや、そのことはまたあとで話しましょう」アンリは続けた。「わたしたちがもっと親しくなってから」
そして、彼は大きな声でいった。
「さあ、いかがでしょうか。すこしは息が楽になりましたか?」
「ええ、おかげさまで」マルゴは答えた。
「それでは、これで、おいとまいたすことにいたしましょう。どうか、わたしの心の底からの敬意と友情をお受け取りくださいませ。ごゆっくりとお休みください」
マルゴは感謝に満ちたまなざしを夫のほうに向け、手を差しのべた。
「承知いたしましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴが答えた。
それを聞くと、ナヴァール王は呆然としたままのマルゴに目でついてくるよう合図しながら扉のほうへ歩きはじめた。そして、二人がドア・カーテンをくぐり抜け、寝室を離れると、小声で早口にこう言った。
「ありがとう、マルグリット。あなたこそは真のフランス王女だ。これで、安心して、あなたのもとを離れることができます。あなたの愛を手に入れるのは無理でも、友情は欠けてはいない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしてください。さようなら」
そういうと、アンリ・ド・ナヴァールは妻の手を取って軽く接吻した。そして、軽やかな足取りで自室に戻っていった。廊下で、こう小声でつぶやきながら。
「いったい、あそこにはだれがいたんだ? 王か? アンジュー公か? それともアランソン公か? もしかするとギーズ公かもしれないな。兄弟か? それとも愛人か? いや、兄弟で愛人か? こうなると、ソーヴ男爵夫人に会うことにしたのはまずかったかもしれないな。だが、行くと約束してしまったし、それに侍女のダリオールも扉のところで待っているからな……まあいいか。妻の寝室に寄ってしまったために、ソーヴ夫人が見劣りしないといいが。なにしろ、義兄のシャルル九世がマルゴと呼んでいるあのマルグリットは、ほんとに、いい女だからなあ」
そして、いささか躇《ためら》いのそぶりの見える足取りで、アンリ・ド・ナヴァールは、ソーヴ夫人の部屋に通ずる階段をのぼっていった。
マルゴはアンリの後ろ姿をじっと目で追っていたが、姿が見えなくなったのを確認すると、寝室に戻った。ギーズ公が小部屋の扉のところに立っていた。それを見て、マルゴはほとんど後悔に近いものを感じた。
ギーズ公は深刻な表情をしていた。眉をひそめているところを見ると、なにか苦い思いをめぐらしているのかもしれない。
「マルグリット、きみは、今日は中立だが、一週間後には、敵にまわるだろう」
「あら、聞いていらしたの?」マルゴはたずねた。
「あんな小部屋の中で、どうしていろとおっしゃるのかな?」
「まあ、わたしが、ナヴァール王妃にふさわしくない振る舞いをしたとでもおっしゃるの?」
「そんなことはない。だが、ギーズ公の愛人としてふさわしい振る舞いだったかどうか」
「いいこと」とマルゴは答えた。「たしかに、わたしが夫を愛することはありえないわ。でも、夫を裏切るようにわたしに要求する権利はだれにもありません。それとも、あなたは、奥さんの秘密を人に教えたりなさるの?」
「おや、おや。これは、これは」とギーズ公は首を横に振って答えた。「どうやら、きみはもう、王がわたしとギーズ一門に対してたくらんでいることを教えてくれたときのようには、愛してくれてはいないのだな」
「それは王が強くて、あなたたちが弱かったからよ。いまは、アンリが弱くて、あなたたちは強いわ。わたしはいつだって弱いものの味方。おわかりでしょ」
「陣地を変えただけじゃないか」
「あなたたちの命を救ったんですから、その権利はあるわ」
「なるほど。恋人たちが別れるときには、おたがい与えあったものを返すのが礼儀。ならば、もしその機会がきたときには、今度は、わたしがきみの命を救ってしんぜよう。それで、貸し借りなしということになる」
こういうとギーズ公は一礼して出ていった。マルゴは引き留めようとする仕草ひとつしなかった。玄関には、ジロンヌがギーズ公を待っていて、一階の窓のところまで彼を案内していった。堀では従僕が待機していた。ギーズ公はこの従僕と一緒に館に戻った。
いっぽうマルゴは、夢でも見ているように、窓辺に腰を下ろした。
「なんという初夜だろう。夫は逃げ去り、愛人はわたしを捨てた!」
ちょうどそのとき、堀の向う側を、トゥール・デュ・ボワのほうからラ・モネの水車へと、一人の小学生が、腰に手をあてて、歌を歌いながら歩いていった。
マルゴは寂しげに頬笑みながら、その歌を聞いていた。やがて、小学生の歌声が遠くのほうに消え去ると、窓を閉め、ジロンヌを呼びつけて、寝る支度をさせた。
[#改ページ]
[聖バルテルミーの虐殺の原因]
聖バルテルミーの虐殺はなぜ起こったか? その背景を調べていく過程で、かならず浮き彫りにされてくるのは、皮肉なことに、母后カトリーヌ・ド・メディシスの「平和への意志」である。彼女にとって、どんな犠牲を払っても守り抜かなければならなかったのは、フランソワ一世から引きついだヴァロワ=アングレーム王朝、つまり、自分の息子たちによる王家であり、またそれによって象徴されたフランス王国であった。ところで、息子たちのフランス王家は、ギーズ家によって代表されるカトリック過激派と、ナヴァール王とコリニー提督がその頭目であるプロテスタント軍の挟撃にあって存亡の危機にさらされていたが、じつは、国際的にもフランスはこれと近似した状態にあったのである。
すなわち、スペインのフィリペ二世をその領主と仰ぐローマ教皇・ヴェネチア・スペインのキリスト教同盟と、イギリスのエリザベス女王によって代表されるプロテスタント勢力の間に挟まれて、フランス王国の独立は危うい均衡の上にのっていた。どちらかの勢力が強くなりすぎると、フランスはその属国に堕する危険性があったので、カトリーヌ・ド・メディシスは、つねに、バランス・オブ・パワーに則った国際政治を心がけていた。一五七一年の十月に、スペインとヴェネチアの連合する教皇艦隊がトルコの艦隊をレパントの海戦で破ってフィリペ二世が地中海の支配者となったときには、カトリーヌはイギリスのエリザベス女王と手をくんで英仏同盟を結ぶことさえ辞さなかったし、アランソン公をエリザベス女王の花婿候補にしたてようとさえした。このときに、イギリスに渡って二人の結婚交渉の準備役をつとめたのが、じつは、『王妃マルゴ』の主役をつとめているラ・モール伯爵である。小説では、ラ・モールは途中からアランソン公の部下になったことになっているが、これはデュマの創作である。
それはさておき、本来、スペインの影響力によるギーズ家などのカトリック過激派の勢力増大を押さえるためにおこなわれたはずのこの英仏同盟の締結は、国内政治のバランスの針を大きくプロテスタントのほうに傾ける結果になった。
というのも、プロテスタント勢力、とりわけコリニー提督は、このイギリスとの防衛条約の締結を、当時スペインの領土だったフランドル(今日のベルギーとオランダの一部)をフランスが勢力下におくことへの、エリザベス女王の黙認と解釈したからである。実際には、ことはそれほど単純ではなく、エリザベス女王は、フランスとの同盟関係樹立と同時にもういっぽうでスペインとも同盟関係を模索し、フランス軍のフランドル進駐は絶対に認められないという態度を表明していた。女王は「もし、フランス人がフランドルの一部でも奪ったら、イギリスは取るべき手段をすべて使ってスペイン王を援助する」とスペインのフランドル司令官アルバ公に通知さえしていた。
しかし、コリニー提督はそんなことは知るよしもなかったので、カトリーヌ・ド・メディシスの要請で宮廷に出仕するようになると、かねてからの持論であるフランドルへの派兵を熱心に主張しはじめた。
当時、フランドルでは、オランダのオラニエ公の弟ルドヴィク・ファン・ナッサウ率いるプロテスタント軍がヴァランシエンヌとモンスを占領し、スペイン支配からの独立を図ろうとしていた。
コリニー提督は、これをフランドルからスペインのカトリック勢力を駆逐し、プロテスタントの覇権を確立する絶好の機会ととらえ、自分を「父上」と呼ぶほどに慕っているシャルル九世に影響力を行使して、フランドルでの対スペイン戦争に踏み切らせようと考えた。
シャルル九世は、なにごとにも熱中しやすい性格に加えて、弟アンジュー公ばかりをかわいがるカトリーヌ・ド・メディシスへの強い反発があったので、フランドル解放のための戦争を、まるでイノシシ狩りと同じような次元で考えて、コリニー提督の提案に大いに乗り気になった。この戦争の勝利者となったときの栄光ばかりが彼の心の中で輝いていた。それは、軍事的な天才と称賛されるアンジュー公への強烈な復讐となるだろう。一五七二年の五月の末には、シャルル九世は完全にフランドル派兵の路線に傾いていた。
だが、このとき、カトリーヌ・ド・メディシスが猛烈な巻き返しに出た。鹿狩りにモンポピーに出かけていたシャルル九世のもとに駆けつけたカトリーヌは全力で翻意をうながした。
まずカトリーヌは激しく泣きくずれ、この忘恩の息子の前で自分の疲労、苦痛、犠牲を訴える。
「あなたは母親である私に隠れ、敵の意見を取リ入れています!」
彼女はユグノーの陰謀、王国の弱さ、スペイン領に対する戦争の無謀さを想起させた。「敗れればフェリペに絶対的な覇権を与え、ギーズを宮廷の支配者にしてしまう。勝てば勝ったでプロテスタントに権力を譲り、カトリックの反乱を招くことになる」(フィリップ・エルラシジェ、磯見辰典編訳『聖バルテルミーの大虐殺』)カトリーヌ・ド・メディシスの議論は実に正論であった。彼女は、宗教戦争で国論が分裂し、国力も疲弊しているフランスに対外戦争の力がないことをよく承知していたので、シャルル九世に対して執拗に非戦論を説いた。シャルル九世は、なかば根負けしてフランドル派兵の中止を母親に約束した。しかし、こうなると、もう一方の「父」、コリニー提督が黙ってはいない。ナヴァール王とマルグリット・ド・ヴァロワの結婚式に出席するため、再度パリに乗り込んできた提督は、フランドル戦争はスペインの不正をただし、虐げられた民衆を解放する正義の戦争であり、そうした大義のある対外戦争は国内の戦争を終わらせると主張して、シャルル九世を説得し、六月十九日の国務会議で派兵の問題を検討して決定をだすことを約束させた。
二十六日に延期された国務会議では、戦争は八年かかり、国庫には戦争を賄《まかな》う金がないというアンジュー公の主張が通り、フランドル派兵は否決された。カトリーヌ・ド・メディシスの国内外における和平政策が勝利したのである。
だが、コリニー提督は納得しなかった。シャルル九世もコリニー提督以上に会議の決定に不満だった。彼は、カトリーヌ・ド・メディシスとアンジュー公に侮辱されたと感じていた。母后の軛《くびき》から脱する道はフランドル戦争以外にはないような気持ちになっていた。七月十七日にジャンリス率いる五千人のプロテスタント軍がキエヴレンでスペイン軍の待ち伏せに会って全減するという事件も、コリニー提督とシャルル九世のスペインに対する激怒をかきたてたにすぎなかった。
シャルル九世はナヴァール王とマルグリットの結婚式がすんでから、再度、フランドル派兵を検討しようということで同意した。結婚式のためにパリにやってきたプロテスタントの戦士たちはみな、近いうちに開始される戦争のための準備をしていた。
シャルル九世の開戦の決意が固いとみたカトリーヌ・ド・メディシスは重大な決心をした。
「自分は、自らの王家を卑しいメディチ家に解放してくれた偉大な王フランソワ一世の子孫のために、その伝統の土地を守ってやらねばならないのだ。彼女に迷いはなかった。私を王から引き離すことでコリニーは王国の滅亡を準備している。彼女はそう確信した」(エルランジェ、前掲書)
ただ、コリニー提督を暗殺するにしても、自分が直接手を下したのでは、あるいは、得るものよりも失うもののほうが多くなる恐れがある。このとき、メディチ家の娘であるカトリーヌの頭に素晴らしい妙案がひらめいた。コリニー提督に一門の主フランソワ・ド・ギーズを暗殺されたと思い込み、長年復讐の機会を狙っていたギーズ家に、コリニー提督を暗殺させるのである。そうすれば、それを恨みに思ったコリニー提督の部下が、今度はギーズ公の暗殺を謀るだろう。こうして、新旧両派の過激派が相打ち、王家は漁夫の利を得て、お家安泰、国家安康となるにちがいない。
そう考えたカトリーヌ・ド・メディシスは、ポーランド王選出問題で、コリニー提督に恨みを抱くアンジュー公と図って、ギーズ家にコリニー提督暗殺をもちかけることにした。フランソワ・ド・ギーズの未亡人でいまはヌムール公と結婚しているアンヌ・デストとアンリ・ド・ギーズは、カトリーヌとアンジュー公と協議のうえ、すでに一五六九年に一回コリニー提督の暗殺に失敗している「王の刺客」モールヴェルに名誉回復の機会を与えることに決定した。暗殺の日時は、結婚式から四日後の八月二十二日と決まった。この日が、シャルル九世のフランドル戦争開戦の決定を阻止するタイム・リミットと踏んだからである。
だが、アレクサンドル・デュマは、こうしたカトリーヌ・ド・メディシスの陰謀説を採用せず、独自の見解を用意しているようである。
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第三章 王様詩人
結婚式の翌日とそれに続く日々は、明けても暮れても饗宴と踊りと遊戯の連続だった。カトリックもユグノーも同じように胸襟《きょうきん》を開いて語りあい、祭りを楽しんだ。それは、謹厳なユグノー過激派さえ気を許してしまうほどに楽しく心なごむものだった。コトン親方がクルトメール男爵と夕食をともにし馬鹿騒ぎしているかと思えば、ギーズ公がコンデ公と仲よくセーヌで船遊びを楽しむ光景が見られた。
シャルル九世は常日頃の陰鬱な態度をきれいさっぱり捨て去ったようで、新しく義弟となったアンリ・ド・ナヴァールをかたときもそばから離そうとしなかった。さらには、カトリーヌ・ド・メディシス母后もひどく楽しげに振る舞い、夫アンリ二世の死以来身につけていた喪服を脱ぎ捨て、刺繍や宝石や羽根飾りをあしらった服を着て、寝るのも忘れるほどだった。
ユグノーたちも、ハンニバルの軍勢がイタリアのカプアで饗宴責めにあって戦意を失ったのと同じように、いささか謹厳さを失って、まるでカトリックになったかのように、絹の胴衣を身にまとい、紋章をこれみよがしに縫いつけ、家々のバルコニーの前を気取って歩きまわった。宮廷全体がプロテスタントに改宗するのではないかと思われるほど、どこもかしこも、新教に対する好意に満ちあふれていた。これまで多くの経験を積んでいるはずのコリニー提督でさえも、ほかのプロテスタントの貴族たちと同じように、雰囲気に呑まれていた。ある晩など、あまりに気分が高揚していたので、楊枝で歯をそそぐのを二時間も忘れてしまったほどだった。いつもは、昼食が終わる午後の二時から夕食のテーブルにつく晩の八時まで、ずっとこの作業に余念がないのに、である。
提督がいつものこの習慣を忘れるという信じがたい事件が起こったその晩、シャルル九世は、アンリ・ド・ナヴアールとギーズ公を招いて夕食をともにしていた。そして、夕食が終わると、王は彼らとともに自室に移り、そこで、みずからの発明になるという狼用の罠の仕組みを説明していたが、とつぜん、こう言った。
「今晩は、提督は来ないのかな? だれか提督を見かけたものはいないのか? 提督はどうしたか知らないか?」
「わたしが存じております」とナヴァール王が答えた。「提督の健康のことでございましたら、ご心配には及びません。今朝六時と、晩の七時に見かけましたので」
「おや」と、一瞬前まではぼんやりした目つきをしていた王は急に好奇心をかきたてられたかのように義弟のほうに目をやり、親しげに愛称で呼びかけた。「アンリオ、ずいぶんきみは早起きなんだな。新婚ホヤホヤにしては」
「はい、陛下」とナヴァール王は答えた。「提督はなんでもご存じですので、わたしが目下到着を待っている部下たちがこちらに向かっているのかどうかをお訊きしようと思いまして」
「また部下か! 結婚式の当日には八百人いた。そのあとも毎日のように続々と到着している。もしかして、パリを侵略でもする気なのか」シャルル九世は笑いながらいった。
ギーズ公は眉をひそめた。
「陛下」とナヴァール王は答えた。「フランドル派兵が取り沙汰されておりますので、陛下のお役に立てればと思いましてナヴァール王国と周辺の地方の兵士をわたしのまわりに集めてみただけのことでございます」
ギーズ公はナヴァール王が結婚式の夜にマルゴに語った計画を思い出し、注意深く耳を傾けた。
「よし、よし、わかった」と王は獣じみた笑いを浮かべて答えた。「兵士の数が増えれば、それだけ我が軍は強くなる。どんどん、いくらでも連れてくるがよい。ところで、貴公のその部下というのはどんな連中なんだ? 屈強な兵士なのかな?」
「わたしの部下がアンジュー公やギーズ公の戦士たちに匹敵するか否かは存じません。ですが、わたしは、彼らのことはなにからなにまで存じております。もちろん、彼らが全力をつくして戦うだろうということも」
「貴公が到着を待っている兵士はたくさんいるのか?」
「十人、ないしは十二人でございます」
「なんという名前だ?」
「名前は失念いたしました。ただテリニーが勇敢な戦士として推薦してくれた一人だけは名前を覚えております。その戦士はド・ラ・モールでございます」
「なにド・ラ・モールだと? それはルラック・ド・ラ・モールのことか?」と系譜学に強い王はたずねた。「プロヴァンス地方の?」
「そのとおりでございます、陛下。ご覧のように、プロヴァンスにまで兵を募っております」
「その点は、わたくしもご同様」とギーズ公が嘲るような笑いを浮かべて言葉をさえぎった。「いや、わたくしの場合は、ナヴァール王よりももっと遠く、ピエモンテにまで忠実なカトリックを求めております」
「カトリックだろうとプロテスタントだろうと、同じこと」と王がさえぎった。「勇士でさえあれば」
シャルル九世は、こうして、ユグノーとカトリックを完全に心の中で融和させているかのような言葉を吐いたが、その表情にはまったく動揺があらわれていなかったので、逆にギーズ公は驚いた。
「陛下はフランドル派兵のことをお考えになっておられるのですかな?」とつぜん、コリニー提督の声がした。提督は、数日前、シャルル九世から、自由に王の居室に出入りする許可をもらっていたのだ。このときは、部屋に入りかけたとき、王の最後の言葉を耳にしたのだった。
「やっといらしたか、父上」とシャルル九世は両手を開いて提督を迎えた。「いまちょうど戦争と将兵のことを話していたところです。まるで磁石に鉄が引きつけられるようだ。義弟のナヴァール王も従弟のギーズ公も、閣下の軍隊に参加させる増援部隊の到着を待っているのだそうです。話題はそのことです」
「その増援部隊はいま到着しつつある」
「なにか、ご存じなのでしょうか、提督?」とナヴァール王はたずねた。
「いかにも」提督は答えた。「とりわけ、ラ・モール殿につきましてはな。昨日はオルレアンですから、明日か明後日には、パリに着くはず」
「これは驚いた」ギーズ公が口をはさんだ。「三、四十リュー(百二十から百六十キロ)も離れたところで起こっていることをご存じとは。さては提督は魔術師のように未来を予言できる方なのですかな。このわたくしに、それと同じ力がありましたのなら、オルレアンの手前で起こること、いや起こったことを予知できたでしょうに」
コリニー提督は、ギーズ公のこの痛烈な皮肉を馬耳東風と聞きながした。ギーズ公は、オルレアンの手前で刺客ポルトロ・ド・メレによって暗殺された父君フランソワ・ド・ギーズの死のことをほのめかしたのである。この暗殺には、提督の教唆《きょうさ》があったと噂されていた。
「たしかに」と提督は冷静に威厳をもって答えた。「わたしは魔術師かもしれん。わたし自身と王に関する重大事について知りたいと思うときにはいつでも予知能力が働きますからな。いや、これは冗談。なに、わたしの飛脚が一時間前にオルレアンから到着したまでのこと。飛脚は宿場馬を乗りついだおかげで、一日に三十二リューも進むことができるというわけですわ。ラ・モール殿はご自分の馬で旅を続けておられるようだから、せいぜい一日に十リューがいいところ。だから、到着は二十四日にはなるはず。魔術の種明しをすれば、まあこんなところですわい」
「ブラヴォー、父上。お見事なご返答」とシャルル九世がいった。「どうか、この若殿たちに、閣下のひげと髪が白いのは、年のせいばかりではなく、賢さのせいでもあることを、ひとつお見せいただきたい。それはさておき、若殿たちには、むこうで騎馬試合と恋のことでも語りあっていただくとして、わたしと閣下は戦争の話でもいたしましょうか。良い王をつくるには、よい騎士と申しますからな、父上。さあ、殿方、お引き取りを。提督と折りいって話がありますので」
二人の若者は退出した。まずナヴァール王が、続いてギーズ公も。だが、一歩扉の外にでると、おたがいよそよそしく礼をして、両者は別方向へと別れた。
コリニー提督はいささか不安げに二人を目で追っていた。というのも、彼は、この二つの憎しみが近づけば、そこから新たな稲妻がほとばしらずにはいないことを熟知していたからだ。シャルル九世は、コリニー提督の心の中を見透かしたように、彼の腕に手をかけた。
「落ち着いてください、父上。わたしの役目は双方を服従させ、たがいに相手を尊重させること。わたしは、カトリーヌ母后が女王でなくなってから、真に王となりました。そして、母后は、コリニー殿がわたしの父となってからというもの、もはや女王ではないのです」
「おお、陛下」と提督はいった。「カトリーヌ母后は……」
「なにもかもぶち壊す女です。母がいるかぎり、真の平和はありえません。あのイタリアのカトリックたちは過激派で、考えることといったら皆殺ししかない。わたしはちがいます。わたしはたんに平和を望むばかりではなく、新教の人々に力を与えたいと思っているのです。旧教の人間たちはあまりに堕落しています。彼らが恋や放蕩にうつつを抜かしているところを見ていると、顰蹙《ひんしゅく》せざるをえません。いや、もっと率直に申しましょうか、父上?」とシャルル九世はなにもかもさらけだすような口調でいった。「わたしは、取り巻きの連中は一人として信用しておりません。新しく友人になった新教徒を除いて! タヴァンヌは野心家でなにをするかわからない。ヴィエーユヴィルは呑んべえだから、マルヴォワジー・ワインを一樽ももらったら王だって裏切りかねない。モンモランシーは狩りのことしか頭になく、犬と鷹の間で時間をすごしています。レス伯爵はスペイン人で、ギーズ一門はロレーヌ人だ。フランスには本当のフランス人は一人もいない。神がお救いたもうのは、このわたしと義弟のナヴァール王と閣下だけです。だが、残念ながら、わたしは王冠に縛りつけられ、軍隊をみずから指揮することができない。わたしに許されることといったら、せいぜいサン=ジェルマンかランブイエで狩りに熱中することぐらいだ。義弟のナヴァール王は若すぎるし、経験がすくなすぎる。それに、ナヴァール王は女で身を滅ぼした父君のアントワーヌ・ド・ブルボンとどこを取ってもよく似ている。となると、残るは、父君あなたしかいない。ジュリアス・シーザーのように勇敢でプラトンのように聡明な人物は。ただ、本当のことを申しあげると、わたしはどうしたらいいかわからないで困っているのです。あなたを相談役として宮廷にとどめておけばいいのか、サれとも将軍としてフランドルに派遣すればいいのか。相談役になったら、指揮はだれが執る? 指揮を執ったら、だれに相談すればいいのか?」
「陛下」とコリニー提督は答えた、「まずは戦いに勝つことです。相談は勝利のあとでもできましょう」
「それがあなたの意見なのですな、父君? いいでしょう、あなたのいうとおりにいたしましょう。月曜日に、あなたはフランドルに出発する。そして、わたしはアンボワーズに出かける」
「陛下はパリを離れるのでございますか?」
「ああ、この喧燥と饗宴にいささか疲れました。わたしは行動の人ではなく、夢想家です。わたしは王になるために生まれたのではなく、詩人になるために生まれたのです。あなたから、今後の政治をどう動かせばいいかご意見をうかがっておきたい。あなたが戦場にいるかぎりだれもその意見には従うでしょう。わたしの母が口を出さぬかぎり、すべてはうまくいくはずです。わたしはといえば、すでに詩人のロンサールにアンボワーズにくるようにいいつけてある。そこで、世の喧燥から遠く離れ、宮廷や悪人たちから隔離された場所で、ロンサールとわたしの二人きり、大木の下で、川のほとりで、せせらぎのつぶやきに耳を傾けながら神の造りたもうたことごとについて語りあうのです。これこそ、この世で人間に与えられた最高の幸せ。ロンサールに聞かせるために、今朝つくった詩があります。ひとつ、聞いていただきましょうか」
コリニー提督は頬笑んだ。シャルル九世は、黄色い滑らかな額に手を当てると、まるで節をつけて歌うように次の詩を口ずさんだ。
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ロンサール、きみはわたしに、会わないと、すぐに忘れる、
偉大なる、王の御声を
だが王は、きみにならいて、詩を学び、研鑽を忘れない
だからこそ、きみに贈ろう、
手すさびの、この詩歌を
きみの夢見る、精神に、喜び与える、そのために
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「ブラヴォー、素晴らしい!」コリニー提督は叫んだ。「わたしは詩のことは戦争ほどには存じあげませんが、それでも、陛下の詩がロンサールやドラや大法官ミシェル・ド・ロピタルのつくる最上の詩と同じくらいに素晴らしいような気がします」
「ああ、父上よ」とシャルル九世は叫んだ。「そんなことを口にしてはなりません。なぜならば、詩人という称号こそは、このわたしがなににもまして望んでいるもの。何日か前にも、わたしは詩の先生にこういいました」
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詩をつくる、その方法は、統治の技術、などよりも、
はるかに価値が、たかいもの、
詩人と王は、二人して、頭上に、王冠を、いただくが
王は人かち、授けられ、詩人はそれを、授けるもの
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「陛下」コリニー提督はいった。「わたしは陛下が詩神ミューズと会話されていられるとは存じておりましたが、ミューズを最高の相談役にしておられるとは存じあげませんでした」
「いや、最高の相談役は、あなたですぞ、父上。あなたに政治のすべてをお任せするのは、わたしがだれにも邪魔されずミューズと水いらずでいたいため。ですから、ここはひとつお聞きおきを。わたしは目下、偉大なるわたしの詩人ロンサールが送ってよこした新しいマドリガルに返歌を書くことに没頭しております。ですから、いまは、スペイン王フィリペ二世とわたしの間で意見が分かれている重大な問題についてあなたにお教えしたくとも、必要な書類をお渡しすることはできません。それに、大臣たちがつくったフランドル遠征計画もありますので、明日までに探して、朝、お渡しすることにいたしましょう」
「何時にでしょうか? 閣下」
「十時ちょうどに。もし、わたしが詩作に没頭し、書斎にこもっていたら、そのときは、勝手にお入りになって、テーブルの上にある書類をもっていっていただきたい。書類はすべてあの赤い書類ばさみに入っています。あの真っ赤な色だから、間違えることはありますまい。さて、わたしはこれから、ロンサールに返歌を書きますから……」
「それでは、陛下、これにて」
「さようなら、父上」
「お手を?」
「どうして、わたしの手など? わたしの腕も、心も、すべてみな父上のもの。いいでしょう。では、近う寄れ、老いたる戦士よ」
そういうと、シャルル九世は自分のほうにコリニー提督を近づけて、提督が身をかがめるとその白髪の上に接吻した。
提督は感動し涙を拭いながら出ていった。
シャルル九世は、目で追えるかぎり、耳で聞けるかぎり、いつまでも提督が遠ざかるのを見送って、足音に耳をすませていたが、もはや、なにも見えず、なにも聞こえないのを確認すると、いつものように、蒼ざめた顔をがっくりとうなだれて、居間から武器室のほうにゆっくりと歩いていった。
この武器室はシャルル九世のお気にいりの部屋だった。この部屋で、王はポンペから剣術の稽古を受け、ロンサールから詩の教授を受けるのだ。そこには、この世でもっとも美しい攻撃用と防御用の武器の大コレクションがあった。壁という壁は、斧、楯、槍、戟槍《ほこやり》、ピストル、騎兵銃などがかかっていた。そして、その日もまた有名な武器製造業者が素晴らしい火縄銃をもってきたところだった。その火縄銃は、砲身の部分に、詩人国王自身がつくった四行の詩が銀文字で刻んであった。
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誓いをたもつ、ためになら
わたしは忠義で、美しい
反対に、王の敵には
残忍非道で、美しい
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シャルル九世は武器室に入ると、通ってきた扉を閉め、もうひとつの部屋に通じる入口にかかっていたつづれ織りを持ち上げた。その部屋の中では女が一人、祈祷台の前にひざまずいて、お祈りを唱えていた。
王の動作が緩慢だったうえ、足音が絨毯でかき消されて幽霊のようにほとんど床に響かなかったので、ひざまずいていた女は、なにも聞こえなかったらしく、振り向きもせず祈りつづけた。シャルル九世は一瞬立ちどまって、なにか考えをめぐらしながら、その女を見つめた。
それは三十四、五歳ぐらいの女だったが、コー地方の農民の衣装のせいで、その妙にたくましい美貌がひときわ目立っていた。頭に載せている高い被りものは、イザボー・ド・バヴィエールの時代のフランスの宮廷で大流行したもので、金の刺繍のしてある赤いコルサージュは、今日、ニットゥーノ地方やソーラ地方の村民が着ているようなものだった。二十年前から彼女が居室にしている部屋は王の寝室と隣合わせになっていたが、その内部は優美さと田舎っぽさが奇妙な具合にまじりあったものだった。それは、田舎家の上に宮殿の色彩が移ったというべきか、それとも宮殿の上に田舎家の色が滲んでしまったのか、ほとんど区別がつかない感じだった。その結果、その部屋は村の女の素朴さと貴婦人の贅沢さの中間のような位置を占めていた。たとえば、彼女がひざまずいている樫の木の祈祷台は、見事な彫刻がほどこしてあり、ビロードの布で覆われ、へりに金のふさ飾りがついていたが、いっぽう、彼女が祈りを唱えていた聖書(この女は新教徒だった)は、もっとも貧しい家庭にでもあるような、表紙がほとんど破れかけた古い本だった。
要するに、すべてがこの祈祷台と聖書によって象徴されていたのである。
「マドロン、ちょっといいか」王はいった。
ひざまずいていた女はこの聞き慣れた声を耳にすると、にっこりと頬笑んで頭を上げ、やがて身を起こした。
「まあ、ぼうや、あなたでしたの」
「そう、お乳母《かあ》さん、ちょっと、こっちの部屋へ」
シャルル九世はつづれ織りのドア・カーテンを下ろすと、自室に戻り、肱かけ椅子の腕のところに腰を下ろした。乳母がやってきた。
「なんのご用なの、シャルロ」と彼女はたずねた。
「こっちへ来て、小さい声で答えて」
乳母は親しげに近寄った。その親密さは、乳をふくませた子供に対する母親の愛情からきているといえたが、同時代の風刺文書はこれよりもはるかに不純なところに、その源があるとしていた。
「さあ、来ましたよ。話してちょうだい」
「来るようにいっておいた男は来てますか」
「半時間前からいらしてますよ」
シャルル九世は立ち上がると窓辺に寄り、だれか中をうかがっている者はいないか確かめ、次に部屋の扉に近づいて、だれも立ち聞きしているものはいないかどうか耳をすませた。そのあとで、武器架のほこりを払い、彼のあとにずっと従っている大きな猟犬の頭をなでた。猟犬は主人がとまると自分も立ちどまり、主人が歩くと自分もまた歩きだすのだった。シャルル九世は、乳母のところに戻ってきて、いった。
「いいですよ、お乳母《かあ》さん、奴を中に入れてください」
乳母はさきほど入ってきたときと同じコースで出ていった。そのあいだ、王はあらゆる種類の武器を乗せたテーブルに身をもたせかけて待った。
すぐにまたドア・カーテンが上がり、王の待っていた男があらわれた。
それは、いかにも食わせ者風の灰色の目の四十男で、鼻はフクロウの嘴《くちばし》のように折れ曲がり、顔面は尖った頬骨で突っ張ったようになっていた。その顔は懸命に敬意を示そうと試みていたが、恐怖で蒼ざめた唇の上には、偽善者じみた薄笑いしか浮かんでいなかった。
シャルル九世はゆっくりと後ろのほうに手を伸ばし、新発明のピストルの床尾をつかんだ。このピストルは火縄を使うのではなく、鋼鉄の歯車と石がかみ合ったときに発火する仕組みになっていた。シャルル九世はどんよりと濁った目で、いまわれわれが描いて見せた人物のほうを眺めながら、お気にいりの狩りの歌の一節を正確にしかも上手なメロディーで口ずさんだ。
それはほんの数秒のあいだだったが、相手の男の顔はたちまち色を失った。
「フランソワ・ド・ルーヴィエ=モールヴェルと呼ばれているのはおまえかな?」
「さようでございます、閣下」
「城門爆破隊の隊長だな?」
「仰せのとおりでございます、閣下」
「おまえに会いたかったよ」
モールヴェルは深々とお辞儀した。
「おまえも知っているかとは思うが」とシャルル九世は一語一語に力をこめながら続けた。「同じように、臣下のだれにも会ってみたいと思っているのだ」
「陛下が国民の父であらせられますことはよく存じております」モールヴェルは口ごもりながら答えた。
「そればかりか、ユグノーもカトリックも同じようにわたしの子供だ」
モールヴェルは黙っていた。体がかすかに震えているのを、王の鋭い視線は見のがさなかった。声をかけている相手の体はほとんど暗闇の中に隠れているのにもかかわらず、王には、それがわかった。
「こんな言葉は、ユグノーと激しく戦ってきたおまえにとっては耐えがたかろう?」
モールヴェルはがっくりと膝をついた。
「閣下、どうか、このわたくしを……」モールヴェルは口ごもった。
「いま、ここからコリニー提督が出ていったが」シャルル九世は、モールヴェルをじっと見つめながらいった。その目は、最初、ガラスのようにどんよりとしていたが、やがて燃えるようにギラギラと輝きはじめた。「おまえはモンコントゥールでコリニー提督を暗殺しようとしたはずだな。だが、弾をはずしたので、アンジュー公の軍隊に潜りこんだ。それから、もう一度、ギーズ公族の軍隊に移り、次はド・ムイ・ド・サン=ファールの一門にもぐりこんだ。これで間違いないな?」
「間違いございません、閣下」
「それはピカルディーの勇敢な貴族だな」
「さようでございます、閣下」モールヴェルは叫んだ。「どうかお許しを!」
「あれは立派な騎士だった」シャルル九世は続けた。話すにしたがって、その顔には残忍とさえいえそうな表情が浮かんできた。「おまえを息子のように迎え入れ、宿をとらせ、衣服と食べ物を与えた」
モールヴェルは絶望の溜息をもらした。
「おまえはあの男を父と呼んでいた」シャルル九世は情け容赦なく続けた。「彼の息子のド・ムイの若殿とおまえは麗しい友情で結ばれていたはずだな?」
モールヴェルはあいかわらずひざまずいたまま、ますます背を丸め、シャルル九世の言葉に打ちひしがれたようになっていた。シャルル九世は、立ったまま、銅像のように無感動で、ただ唇だけが生きているように動いていた。
「ところで」と王は続けた。「おまえがコリニー提督を仕留めたときにギーズ公からもらえるはずだった賞金は、一万エキュだったな?」
暗殺者は、さらに平伏して、額で床をたたいていた。
「まあ、それはいいとして、ド・ムイ殿のことに話を戻そう。おまえはある日、ド・ムイ殿が企てたシュヴルー方面への偵察行に従っていった。ド・ムイ殿は鞭をおとしたので拾おうと馬から降りた。おまえとド・ムイ殿のほかにはだれもいなかった。そのとき、おまえは自分で作ったピストルを取り出し、ド・ムイ殿が身をかがめた瞬間、背中にむけて銃弾を放った。それから、ド・ムイ殿が、一撃で落命したのを確かめると、ド・ムイ殿からもらった馬を奪って逃げた。これで、間違いはないか?」
モールヴェルはこの論告を黙って聞いていた。どの細部もそのとおりだった。シャルル九世はその姿を横目で見ながら、さきほどと同じ狩りの歌を同じメロディーと同じ正確さで口ずさんだ。
「ところでだ、刺客の旦那」と、シャルル九世は一瞬間をおいていった。「おまえは知っているのかな、わたしがおまえを縛り首にしようと思っていたことを?」
「お許しを!」モールヴェルは叫んだ。
「ド・ムイの伜《せがれ》は、昨日もまた請願にやってきた。本当のところ、わたしもどう処置していいかわからんのだ。ド・ムイの伜の言うことはしごくもっともだからな」
モールヴェルは手を合わせた。
「おまえが言っていたように、わたしは国民の父だ。おまけに、さっき答えたように、いまやユグノーとも和解した以上、ユグノーたちもカトリックと同じようにわたしの息子だ。だからこそ、ド・ムイの伜の言い分は正しいわけだ」
「陛下!」モールヴェルはすっかり意気阻喪していった。「わたくしの命は陛下の御心しだい。どうぞ、ご随意に」
「おまえのいうとおりだ。だが、おまえの命をもらったからといって、一銭たりとも得になるわけではない」
「ごもっともでございます。ですが、もしや」と刺客はたずねた。「わたくしの罪を贖《あがな》う方法がございましたならば?」
「わたしは知らん。だが、もしわたしがおまえの立場だったなら……とんでもない、たとえにしろ、そんなことを」
「お願いでございます、陛下。もし陛下がわたくしの立場でございましたなら……?」モールヴェルはシャルル九世の唇に目をそそぎながらつぶやいた。
「なんとか方法はあるはずだ」王は答えた。
モールヴェルは膝と手をついて身を起こし、王が自分をからかっているのかどうか確かめようとシャルル九世をじっと見つめた。
「わたしはド・ムイの若君をたいそう愛している。これは間違いない」王は続けた。「だが、わたしは、従弟のギーズ公も同じように愛している。だから、ド・ムイの若君が死を要求している男の命を救うようにギーズ公がわたしに頼んでくるとなると、正直なところ、ひどく困ったことになる。だが、政治も宗教と同じで、強者の理屈が正しい理屈、わたしとしては従弟のギーズ公の要求を優先せざるをえない。というのも、ド・ムイはたしかに勇敢な隊長だが、ロレーヌのプリンスに比べれば、まだほんの小姓」
その言葉を聞きながら、モールヴェルは、まるで生き返った人のように、ゆっくりと立ち上がった。
「ところで、おまえの立場なら、従弟ギーズ公の歓心をどうやって買うか、それが問題だ。ところで、この点に関して、ギーズ公は昨日、わたしにこんな話をした」
モールヴェルは一歩、王に近づいた。
「『陛下』とギーズ公はわたしにいった。『毎朝、十時に、ルーヴル宮殿のほうから、サン・ジェルマン=ロクセロワ街を、わたしの不倶戴天の敵が通ります。わたしは奴が通るのを一階の格子窓から眺めております。それはわたしの以前の家庭教師で、司教座聖堂参事会員のピエール・ピールの家の窓でございます。要するに、わたしは毎日、わたしの敵が通るのを眺めながら、悪魔が地獄の奥深く奴を引きずりこんでくれないかと願っているというわけでございます』と、まあ、こういうわけだ、モールヴェルの旦那」とシャルル九世は話を続けた。「ところで、もし、おまえが悪魔なら、あるいはすくなくとも、ギーズ公の立場に立つのなら、この仕事をしてやれば、ギーズ公が喜ぶことは間違いない」
モールヴェルは例の地獄の薄笑いを取り戻した。そして、まだ恐怖で蒼ざめているその唇からはこんな言葉が漏れた。
「お言葉ですが、陛下。わたくしには、地獄の蓋を開く力はございません」
「いや、わたしの記憶が正しければ、おまえはすでに、あの勇敢なド・ムイの地獄の蓋を開いたことがある。ピストルを使ってな。例のピストルはもうもっていないのか?」
「陛下、お言葉を返すようでございますが」と悪党はすこし落ち着きを取り戻していった。「わたくしの場合ピストルよりも火縄銃のほうが確実に射撃できますが」
「なに」とシャルル九世はいった。「ピストルだろうと火縄銃だろうと、どちらでもかまわない。ギーズ公はどちらを選ぼうと文句はいうまい」
「ですが、陛下」モールヴェルはいった。「わたくしには正確に狙いをつけられる武器が必要だと存じます。なにせ、遠くから撃つのでございますから」
「この部屋には火縄銃なら十挺もある」シャルル九世は言葉を続けた。「どれを使っても、わたしなら、百五十歩のところから、エキュ金貨を撃ち抜くことができる。どれか一挺試してみるか?」
「ああ、陛下」とモールヴェルは歓喜の叫びをあげ、部屋の隅に置いてあった火縄銃のほうへ進んでいった。それは、ちょうどその日に業者がシャルル九世のところにもってきたあの火縄銃だった。
「いや、これはだめだ」と王はいった。「これはいかん。わたし用に取ってあるものだ。近いうちに大掛かりな狩りがあるから、そのときに使おうと思っておるのだ。これ以外なら、どれでも好きなものをもっていけ」
モールヴェルは一挺の火縄銃を武器架からおろした。
「ところで陛下、その不倶戴天の敵とやらは、どんな奴なのでございましょう」刺客はたずねた。
「それをこのわたしが知っているとでも申すつもりか?」と、シャルル九世はその悪党を軽蔑に満ちたまなざしで見下しながら答えた。
「それではギーズ公におたずねいたすことにいたしましょう」モールヴェルは口ごもった。
王は肩をそびやかした。
「なにもたずねてはいかん。ギーズ公は答えんだろう。第一、そのようなことに答える馬鹿がいるものか。首をくくられたくないなら、自分で当ててみろ」
「ですが、どうやって、その男を見分ければよろしいのでしょうか」
「さきほど申したであろう、毎朝十時に、司教座聖堂参事会員の窓の前を通ると」
「とは申せ、その窓の前を通るものはたくさんおります。せめて、なにかしらの特徴でもお教えいただけませんでしょうか」
「なに、それは簡単だ。明日は、その男、赤いモロッコ革の書類ばさみを小わきに抱えておるはず」
「承知いたしました、陛下。それで十分でございます」
「ド・ムイ殿からせしめた馬にあいかわらず乗っておるのか? その馬は速く走るか?」
「さようでございます、陛下。最高のバーバリー馬でございます」
「わたしはおまえのことを心配しておるわけではないが、それでも、厩舎は後ろに扉があることを知っておくのもよかろう」
「かたじけのう存じます。どうか、成功を神にお祈りくださいまし」
「なんと、めっそうもない。むしろ、悪魔にでも折れ。おまえが、絞首刑を免れるとしたら、悪魔にでも加護してもらう以外にはないのだからな」
「それでは、おいとまいたします。陛下」
「さらばじゃ。おっと、忘れるところだったわい。よいか、モールヴェル殿、もし、明日の朝六時前におまえのことが話題にのぼろうとも、そして、そのあとでもはや、おまえのことが話題にのぽらなくなろうとも、いずれにしても、ここルーヴルには終身牢があることを忘れるな!」
そういうと、シャルル九世は、お気にいりのメロディーをかつてないほど正確に口笛で吹きはじめた。
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第四章 一五七二年八月二十四日の晩
読者は、前章で、ラ・モールという名の貴族の到着をアンリ・ド・ナヴァールが一日千秋の思いで待っていたことを覚えていられるにちがいない。ところで、この若い貴族は、コリニー提督が予告したとおり、一五七二年の八月二十四日[デュマの記憶ちがいで、本当なら八月二十三日]の夕方、サン=マルセル門を通ってパリに入った。彼は、人目を引く看板を道路の両側に掲げて軒をつらねる宿屋に軽蔑に満ちたまなざしを投げながら、市の中心部へと、汗で湯気を立てている馬を進ませていった。そして、モベール広場、プチ=ポン、ノートル・ダム橋を次々に横切ってから、セーヌの河岸に沿って進み、ブルセック街の入口のところでとまった。この通りは現在はアルブル=セック街という名前に変わっている通りである。本書では読者の便を考えて、現在使われているアルブル=セック街の名でこの通りを呼ぶことにしよう。
さて、どうやら、通りの名はこの若者の気にいったらしい。それというのも、若者は通りに足を踏みいれたからである。すると、左手のほうに、素晴らしいブリキの看板が見えた。この看板は、角棒にぶらさがって、揺れるたびに鈴が鳴るので、彼の注意を引きつけたのだろう。彼は、もう一度立ちどまって、看板の文字を読んだ。『星空亭』。この文字が、腹をへらした旅行者にとってはなんともたまらない食べ物の絵の下に刻まれていた。それは暗い空の真ん中にロースト・チキンが星のようにぽっかりと浮かび、この新しいタイプの星にむかって赤いマントの男が両手と財布と祈願を捧げているという絵柄である。
「よし、これは期待できそうな宿屋だぞ」と若者はつぶやいた。「この宿屋の主人はなかなかの知恵者にちがいない。それに、アルブル・セック街はルーヴルの街区にあると聞いているから、看板にそれほど偽りがなければ、ここに宿をとるのは悪くはないぞ」
この新参者がぶつぶつと独り言をつぶやいていたちょうどそのとき、この通りの反対側の入口、つまりサン・トノレ街のほうから、馬に乗ったもう一人の男が入ってきた。男は『星空亭』の看板の前で立ちどまり、同じようにすっかり感じいって看板を眺めていた。
この二人の男のうち、すくなくともわれわれが名前を知っているほうの男は、スペイン産の白馬にまたがり、黒玉をあしらった黒の胴衣を着ていた。そのマントは濃い紫のビロードで、ブーツは黒の革、腰には剣と短剣を佩《は》いていたが、それらの鉄のつかには見事な彫刻がほどこしてあった。二十四、五歳ぐらいのこの若者の顔立ちはといえば、肌は小麦色に輝き、目は透きとおるように青く、細い口ひげのあいだから真っ白な歯がのぞき、唇はこれ以上はないというような素晴らしい形をしていた。そこに甘くメランコリックな微笑が浮かび、真っ白な歯が光ると、顔全体がパッと明るくなったように輝くのだった。
いっぽう、第二の旅行者はといえば、なにからなにまで最初の若者とは好対照をなしていた。へりのめくれあがった帽子の下からは、ブロンドというよりは赤褐色に近い縮れた豊かな髪がのぞき、その髪の下には灰色の瞳が光っていたが、その瞳は、ちょっとでも腹の立つことがあると、かっと火が燃えたように輝くので、そのときには黒い瞳のように見えた。
顔の残りの部分はといえば、まず肌はバラ色で、薄い唇の上には黄褐色の口ひげがのり、その下から素晴らしい歯並びがのぞいていた。要するに、色白で背が高く肩幅の広いこの若者は、語の通常の意味において、とびきりの美男の騎士だった。そして、この若者もまた一時間ほど前から、宿屋の看板を眺めるという口実をもうけて家々の窓のほうに顔をもたげていたが、そのたびに女たちの熱い視線を浴びていた。反対に、この若者の姿を見た男たちは吹き出さずにはいられなかった。というのも、胴の締まったマント、ぴったりとしたタイツ、昔風の形のブーツなど、一目見ただけで笑わずにはいられぬような珍奇な格好をしていたからである。若者は一分間に十度も表情を変えたが、どんな表情をしても、戸惑い気味の田舎者の特徴である愛想のいい顔つきだけは同じだった。
『星空亭』の看板に見入っているもう一人の若者に最初に声をかけたのはこの若者だった。
「あいや、失礼」若者は外国人が百人いても、すぐにその言葉だけでピエモンテ人だとわかるほどのきつい山岳地方のアクセントでたずねた。「ルーヴルはこの近くではござらぬか? お見うけしたところ、どうやら同じことをお考えのご様子。どうかな、この看板はなかなかいけそうではござらぬか?」
「なるほど」と、もう一人の若者は、ピエモンテ人のアクセントにいささかも劣らないほどきついプロヴァンスのアクセントで答えた。「たしかに、この宿屋はルーヴルの近くにはあるようだ。ただ、看板がおっしゃるとおりのものかどうかは存じませぬ。いま考えているところです」
「おや、まだ決めてはおられぬか。結構いけそうな宿屋ではござらぬか。それに、こうしてご一緒できたということで、拙者、すでにここに決めたくなっております。なに、なかなか、きれいな看板ではござらぬか」
「いかにも。しかし、だからこそ、現実はこれとちがうのではありませんか。パリは右を向いても左を見てもペテン師ばかり。このきれいな看板もペテンのひとつかもしれませんぞ」
「そうですかな」とピエモンテ人は答えた。「ペテンは恐るるに足りませんぞ。もし、主人がこの看板どおりのロースト・チキンを出さなかったならば、そのときは、主人の奴をローストしてしんぜよう。十分、火がまわるまでは串から離しはしませんぞ。さあ、ご一緒に入ろうではござらぬか」
「おかげで、決心がつきました」とプロヴァンス人は笑いながら答えた。「では、お先にどうぞ」
「あいや、そちらこそ。わたくしめはアニバル・ド・ココナス伯というつまらぬものでござる」
「ジョゼフ=イヤサント=ボニファス・ド・ルラック・ド・ラ・モール伯と申すものでございます」
「かくなるうえは、腕を組み、ご一緒に参ることにいたしましょう」
この提案は、ただちに受け入れられた。二人の若者は、馬から降り、手綱を馬丁に預けると、たがいに腕を組み、剣がぶつからぬように加減して、宿屋の玄関のほうに向かっていった。その戸口には、宿屋の主人が立っていた。だが、普通なら揉み手して客を迎えるはずの主人が、この宿屋では、やけに尊大に構え、入ってくる彼らになんの注意も払わず、背の高い痩せた黄色い顔色の男となにやら熱心に話しこんでいた。その相手の男は、まるで翼を縮めたフクロウのように火口《ほくち》色のマントに身をくるんでいた。
二人の若者は、主人と火口色のマントの男のそばに寄ったが、自分たちのほうに彼らがいっこうに気づく気配を見せないので、最後にココナスがじれて、主人の袖を引っ張った。すると、主人はとつぜん、ハッと我にかえったように、相手の男にこういって別れをつげた。「では、またあとで。時間を知らせるのを忘れるなよ」
「ほれ、ご主人、いくら、あんたが変わり者だろうと」ココナスはいった。「こうして、客がきているのが見えないわけはあるまい」
「これはこれは失礼いたしました、旦那」主人が答えた。「うっかりしておりまして」
「クソ! とっくにわかっていたはずだろうに。それはそうと、この二本差しが目に入った以上、『旦那』ではなく、『伯爵様』と呼んでもらわんことにはな」
ラ・モールは、ココナスの後ろに控え、ココナスにしゃべらせておいた。ココナスがここは任せておいてくれといっているようだったからである。
だが、ラ・モールが眉を険しく寄せているところを見れば、いったんことが起これば、すぐにでも助太刀をする心づもりをしていることが容易に見てとれた。
「わかりました。ところで、なんのご用件でございましょうか、伯爵様?」と主人は落ち着きはらってたずねた。
「うん、それでよし」そういうと、ココナスは、ラ・モールのほうに振り向いて、同意をうながすように首を縦に振った。「じつはな、伯爵殿と拙者は、看板を見て、ぜひとも貴公のところで食事と部屋の世話に預かろうと、こう決めたわけだ」
「まことに、残念ではございますが」と主人は答えた。「空室はひとつしかございません。それがお気に召さぬようでございましたら」
「それでは、しかたない」とラ・モールはいった。「ほかを当たることにしましょう」
「いや、いや、いかん」とココナスはいった。「拙者はここにする。もう馬は疲れ果てている。貴公がいらぬなら、拙者がその部屋をいただくことにいたそう」
「あっ、そういうことでございましたら、話はまた別でございます」と主人はあいかわらず、慇懃無礼《いんぎんぶれい》な冷静な態度で答えた。「お一人様でございましたら、お泊めできます部屋はひとつもございません」
「なんだと!」ココナスは叫んだ。「おぬし、なかなか面白いことを申すではないか。さっきは、二人では多すぎると申したな。それがなんだ、今度は、一人では足りないと申すのか! 要するに、拙者たちを泊めたくないとぬかすのだな?」
「いたしかたございません。殿方が、そのような物言いをなさるのでしたら、わたくしも、率直に申しあげるほかはございません」
「上等だ。さあ、早く、答えてみろ」
「よろしゅうございます。はっきり申しあげましょう。手前ども、殿方をお泊めしとうございません」
「な、なぜだ?」怒りで蒼白になりながらココナスがたずねた。
「なぜと申しまして、殿方は従僕をお連れになってはいらっしゃらないからでございます。殿方用の部屋がひとつふさがると、従僕用の部屋が二つ空いてしまうことになります。ですから、あなた様に殿方用の部屋をお渡ししてしまいますと、従僕用の部屋は空室のままになってしまう恐れがございます」
「ラ・モール殿」ココナスは振り向いていった。「貴公も拙者と同じように、こやつを真っ二つにすべきとお考えか?」
「うん、それも悪くない」ラ・モールはそういいながら、仲間とともに宿屋の主人を鞭で打ちすえる構えを見せた。
だが、この二重の威《おど》しにもかかわらず、しかも、二人の若者はすっかり本気になっていたので安全を保証するものはどこにもなかったにもかかわらず、主人は、いっこうに動じる気配すら見せず、ただ一歩退いて、身構える余地を残そうとしただけだった。
「どうやらこの殿方は」と、主人はからかうようにいった。「地方のお方らしい。パリでは、宿を断ったからといって宿屋の亭主をたたっ切るなんてのはもうはやっていないんだぜ。殺されるのは、平民じゃなくて、殿様のほうなんだよ。あんたがたが大きな声を出すと、隣の連中を呼ぶぜ。そうしたら、弾をくらっておだぶつになるのはあんたたちのほうだぜ。まあ、この殿方にはそれがお似合いか」
「この野郎、馬鹿にしやがって」ココナスは激高して叫んだ。「クソッ!」
「おい、グレゴワール、おれの火縄銃をもってこい!」主人は下男にむかっていった。その口調は、まるで「このお方たちに椅子をもってこい」というのとまったく同じ調子だった。
「八つ裂きにしてくれる!」ココナスは剣を引き抜いて叫んだ。「ラ・モール殿、貴公もひとつ頼むぞ」
「いや、やめておきましょう」ラ・モールはいった。「こっちがカッとしているあいだに、スープはどんどん冷めていく」
「なんだと! どういうことだ、それは?」
「『星空亭』の主人のいうとおり。なに、ここの主人は、客をわざと怒らせるのが好きなだけだ。とりわけ客が貴族のときにはな。なにも『手前どもは、殿方をお泊めしとうございません』などという必要はないんだ。そのかわりに『どうぞ、お入りください』と丁寧にいっておいて、台帳には『殿方の部屋、いくらいくら。従僕の部屋、いくらいくら』と書き込んでおけばいいことではないか。従僕がいないということなら、そのぶん余計に払う用意はあるのだから」
そして、こういいながら、ラ・モールはすでに火縄銃の方に手を伸ばしかけていた主人を軽く押しのけ、ココナスを入らせてから自分も宿に入った。
「いや、承知できん」ココナスはいった。「いったん、剣を抜いたからには、あやつの金串と、どっちがよく肉に刺さるのか、それを確かめてからでないと、鞘におさめるわけにはいかん」
「ここはひとつ、こらえてくれ」ラ・モールはいった。「我慢するんだ。どの宿屋も、結婚式かフランドル遠征のためにパリに出てきた貴族でいっぱいだ。もうほかに宿屋は見つかるまい。それにおそらく、やってきた外国人をこうして迎えるのは、パリの習慣なんだろうよ」
「まったく、貴公は我慢づよいのう」ココナスは、怒りに燃えた目つきで主人を睨みつけ、忿懣《ふんまん》やるかたないというふうに赤い口ひげをしきりにひねりながらいった。「だがな、奴め、調子に乗るでないぞ。もし、料理がまずかったり、ベッドが固かったり、ワインが三年ものでなかったなら、そのときは……」
「いや、いや、ご心配なく」と主人は、ベルトに差していた短刀を研ぎ革にあてながら答えた。「ご安心ください。ここは桃源境でございますから」
それから、小声で、頭を振りながらつぶやいた。
「ありゃ、ユグノーだな、きっと。異端者どもめ、やつらのベアルヌ男がマルグリット姫と結婚してからというもの、やたらに態度がでかいからな」
そして、もし、二人の客が見たらぞっとしたにちがいない薄笑いを浮かべて、こうつけ加えた。
「ヘッヘッヘ、ユグノーどもめ、ここにやってきたのが運のつき……」
「おい、飯は用意できるのか?」ココナスが、主人の脇ぜりふをさえぎるように、きつい口調でいった。
「そりゃ、もちろん」と主人は、頭に浮かんだ考えで気分がよくなったらしく、調子よくいった。
「それじゃあ、頼むぞ、すぐにな」ココナスは答えた。
それから、ラ・モールのほうに振り向いて言葉を続けた。
「ところで、伯爵殿、部屋の準備ができるまでに、ひとつおたずねしたいのだが、よもや、貴公、このパリが楽しい町だなどとお考えではありますまいな」
「めっそうもない」ラ・モールは答えた。「ここで出会う顔といったら、怯えた顔か、さもなければ、しかめっ面ばかり。もしや、パリの人間たちは嵐を怖がっているのでは? ご覧のように、空は暗く、空気は重い」
「それはそうと、貴公、ルーヴル宮殿をお探しではなかったか?」
「そういう、貴公こそ、ココナス殿」
「ならば、一緒に探しに出かけてはいかがかな?」
「うーん。外出するには、ちと遅すぎはしないかな?」
「遅かろうと早かろうと、とにかく、出かけなくてはなりますまい。命令は絶対ですからな。できるかぎり早くパリに着き、到着しだいギーズ公と連絡をとること」
ギーズ公の名を耳にしたとたん、宿屋の主人はおおいに興味をそそられたらしく、ココナスのそばに寄ってきた。
「おや、あやつめ、聞き耳を立てているらしいぞ」とココナスはいった。ココナスはピエモンテ人の特性そのままに、一度、侮辱を受けると根にもつ男だったので、宿屋の主人が客をあしらった無礼な態度の仕返しをしなければ、気がすまなかったのである。
「いかにも、お話をうかがっております」と主人は布帽子に手をやりながら答えた。「ですが、それは、お役に立ちたいがため。ギーズの殿様のことを小耳にはさんだのでは、駆けつけぬわけにはまいりませぬ。なにか、このわたくしめに、お役に立てますことでも」
「おや、おや、どうやら、ギーズ公というのは魔法の言葉のようだな。いままで無礼だった奴が、急に揉み手を始めたぞ。で、主人、なんという名前だ」
「ラ・ユリエールと申します」主人はお辞儀しながら答えた。
「なるほど、ラ・ユリエールか。ギーズ公というだけで、それほどへりくだるとはな。ところで、貴様、おれの腕は、ギーズ公の腕よりも細いと思うか?」
「とんでもございません、伯爵殿。ですが、ギーズの殿様のおみ腕は、伯爵殿の腕よりも、ずっと長うございます」と、ラ・ユリエールはやり返した。「それに、これはぜひ申しあげておかねばなりませんが、アンリ様は手前どものようなパリっ子の偶像でございます」
「アンリって、どのアンリだ?」ラ・モールがたずねた。
「アンリ様は一人しかいらっしゃらないと思いますが」宿屋の主人は答えた。
「とんでもない。もう一人、だれかが悪口をいったらこのわたしが許してはおかぬアンリ様がおられるはずだ。もちろん、アンリ・ド・ナヴァールの殿様だ。ほかにも、アンリ・ド・コンデ様もいらっしゃる。こちらも立派なお方だ」
「そのようなお方、手前どもは存じあげてはおりません」主人は答えた。
「そうかもしれん。だが、このわたしは、しかと存じあげておる。そして、わたしがお慕い申している以上、アンリ・ド・ナヴァール王の悪口をわたしの前でいうことは許さんぞ」
主人は、ラ・モールには答えず、ただ布帽に軽く触れるだけで満足し、ココナスに秋波を送り続けた。
「それでは、殿は、ギーズの殿様にお話があっていらしたわけですな。いや、うらやましいかぎりですな。たぶん、パリにいらしたのは……」
「なんのためだ?」ココナスはたずねた。
「例の祝典のためでしょう」と主人は意味ありげな微笑を浮かべた。
「例の祝典? 祝典といってもパリは祝典だらけだぞ。みんな、よるとさわると舞踏会、饗宴、騎馬パレードの話ばかりだ。それともなにか、まだ楽しみかたが足らんとでもいうのか?」
「ええ、すくなくとも、いままでのところは、たいしたことはございません。お楽しみはこれからでございます」
「そんなことをいうが、ナヴァール王陛下の結婚式にたくさんの人がこの町に集まってきているぞ」ラ・モールはいった。
「たくさんのユグノーが、でございますな」とつぜん、ラ・ユリエールが言葉をさえぎった。そして、また言葉を続けた。
「おっと失礼をいたしました。旦那様方はもしやあの方の宗派の方で?」
「なにを! おれはカトリックだぞ!」ココナスは叫んだ。「それがどうした。おれはローマ教皇と同じようにカトリックだぞ」
ラ・ユリエールは、まるで問いただすように、ラ・モールのほうへ向き直った。だが、ラ・モールはその視線の意味するところを理解しなかったのか、それとも、その質問に答えるのはまずいと思ったのか、別の質問をぶつけてはぐらかした。
「ラ・ユリエールのおやじさん、ナヴァール王閣下を知らないというんなら、コリニー提督はどうだ? 提督は宮廷での覚えもめでたいという話じゃないか。じつは、わたしは提督に推薦されているので、提督がどこに住んでいらっしゃるか、もし、提督の住所を口にするのがいやじゃなかったら、ひとつ教えてもらえないか?」
「提督はベティジ街に住んで|いました《ヽヽヽヽ》。ここを出て、右に曲がったところです」と主人は、いたって満足気に答えた。それは内心の満足が外面にあらわれずにはいないといった体のものだった。
「なんだと? 住んで|いました《ヽヽヽヽ》、だと?」ラ・モールは驚いてたずねた。「じゃあ、引っ越されたのか?」
「ええ、おそらく、この世から」
「それはどういうことだ?」二人の若者が同時に叫んだ。「提督がこの世から引っ越したというのは?」
「おや、まあ、ココナス様」主人はずる賢そうな笑いを浮かべて言葉を続けた。「あなた様はギーズ一門でいらっしゃいましょう。それなのに、あのことをご存じない?」
「あのことってなんだ?」
「一昨日、サン=ジェルマン=ロクセロワ広場で司教座聖堂参事会員ピエール・ピールの家の前を通りかかったとき、提督は火縄銃で撃たれたんですよ」
「で、殺されたのか?」ラ・モールは叫んだ。
「いいえ、弾は腕を撃ち抜いて、指を二本吹き飛ばしただけでした。でも、みんな弾丸に毒が塗ってあればと願っていますよ」
「なんということを、この悪党め!」ラ・モールは怒鳴った。「願っているだと」
「いやなに、手前は『と思っている』と申すつもりだっただけでございます」主人は答えた。「ささいな言葉のことで腹を立てるのはやめにしましょうや。なに、ほんの言い間違いですよ」
そういうと、ラ・ユリエールはラ・モールに背を向け、ココナスのほうに意味ありげに目配せしながら、アカンベーと嘲るように舌を出して見せた。
「それが本当なら!」とココナスは内心でほくそ笑みながらいった。
「それが本当なら!」とラ・モールは苦々しげにつぶやいた。
「まちがいなく、本当でございます」と主人は答えた。
「ならば」ラ・モールがいった。「一刻も早くルーヴルに出かけなければ。ルーヴルならアンリ王にお目にかかれるのか?」
「かもしれません。お住まいでございますから」
「いや、拙者もルーヴルに行かねばならん」とココナスがいった。「ルーヴルでギーズ公にお目にかかれるか?」
「おそらく。ほんの少し前、二百人の部下を引き連れてルーヴルに向かわれるのをお見かけいたしましたから」
「では、まいろうか、ココナス殿」ラ・モールはいった。
「そういたそう」ココナスが答えた。
「でも、お食事はどうなさいます?」ラ・ユリエールおやじがたずねた。
「食事なら、ナヴァール王のところでいただくことになるだろう」ラ・モールが答えた。
「拙者は、ギーズ公のところで」ココナスが答えた。
「ならば、手前は」と主人は、二人の若者がルーヴルのほうへ向かっていくのを目で追いながらつぶやいた。「兜を磨き、火縄銃の縄を替え、戟《ほこ》を尖らせておくことにしよう。なにが起こるかわからんからな」
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[ベッドはひとつ]
ラ・モールとココナスが宿をとった『星空亭』でのやりとりは、十六世紀当時の宿屋の実像を垣間《かいま》見せてくれる。というのも、この頃には、宿屋でも、一人の泊まり客に対してひとつの部屋が用意されていないばかりか、ひとつのベッドもあてがわれないのが普通だったからである。
デュマはそこまで露骨に表現するのを避けているが、『星空亭』の主人ラ・ユリエールが、二人の客に、部屋はひとつしかないというとき、それは、同じベッドで寝るように要請しているのである。
というのも、宿屋や旅先では、よほど高貴な王族でもないかぎり、庶民も貴族も、何人もの客がひとつのベッドで雑魚寝《ざこね》をするのはごく当たり前だったからである。おそらく、ルーヴル宮殿の大部屋に宿泊していたユグノーの貴族たちは、何人かでひとつのベッドを共有していたにちがいない。
いや、王族ですら、旅先では、他の人と寝室を共にした。
後の章で描かれているように、アンジュー公アンリは、シャルル九世崩御のために、アンリ三世となるべくポーランドを抜け出し、わざわざイタリアを迂回《うかい》してパリに舞い戻ったが、その途中トリノに投宿したとき、ラングドック地方の総督ダンヴィルの訪問を受けた。ダンヴィルはプロテスタントに同情的な態度をとっていたので、アンリ三世とは敵対的な関係にあったはずだが、二人は、それでも寝室をともにしている。ジャン=クロード・ボローニュは「寝室を共にするというのは一つの制度であった。それを拒否することは重大な侮辱となったであろう」(『差恥の歴史』大矢タカヤス訳)と述べている。
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第五章 ルーヴル、および美徳一般について
ラ・モールとココナスはルーヴルに到着した。ココナスは、ギーズ公につかえるロレーヌ人の隊長ベームのおかげでルーヴルの中に入ることができたが、ラ・モールは一人ルーヴルの外に残された。そのとき、ルーヴルの中から、おりよく百人ほどの騎士を引き連れたド・ムイがあらわれたので、ナヴァール王に取り次ぎを頼んだ。ド・ムイは、ナヴァール王の部屋に通じる廊下までラ・モールを連れていってから、あとは中の人間に聞いてくれといって立ち去った。
とつぜん、ラ・モールが入ってきたのとは反対側のドアが開き、二人の小姓があらわれた。小姓たちは松明を掲げ、一人の女を照らしていた。豊満な肉体に豪華な衣装を纏《まと》ったその女は、目が覚めるほど美しかった。
松明の光がラ・モールを正面から照らした。ラ・モールは身動きひとつできなかった。
女のほうもラ・モールと同じようにぴたりと足をとめた。
「なんのご用でしょうか?」と、女は若者にたずねた。その声は彼の耳に妙なる音楽のように響いた。
「あっ、奥様、失礼いたしました」ラ・モールは目を伏せて答えた。「ナヴァール王にお目通り願いたく、ド・ムイ殿にここまで連れてきていただいたところでございます」
「ナヴァール王はこちらにはいらっしゃいません。たぶん、義兄のシャルル九世のところにうかがっていらっしゃるのだと思います。留守中は、ナヴァール王妃が用件をうかがっておくことに……」
「はい、それで、結構かと存じます」ラ・モールは答えた。「では、どなたか、王妃様のところまでわたしを連れていっていただける方がいらっしゃいませんでしょうか」
「目の前におりますわ」
「はっ?」ラ・モールは声をあげた。
「わたしがナヴァール王妃です」マルゴは答えた。
ラ・モールは、驚きと恐れのあまり、とつぜん後ろに飛びのいたので、王妃は思わず笑みをもらした。
「すぐにお話しください」彼女はいった。「母后がわたしをお待ちですから」
「奥様、お急ぎでいらっしゃいましたら、またの機会にさせていただくことにいたします。と申しますのは、いまここで、奥様にお話しすることは不可能なような気がいたしますので。お姿があまりにまぶしすぎて、考えがまとまりません。こうして、お姿を崇《あが》めさせていただいておりますと、なにも考えることができなくなってまいります」
マルゴは、優雅さと美しさに満ちた姿で若者のほうに進み出た。若者は、自分でそうと気づかぬうちに、洗練された宮廷人として振る舞ったのだった。
「さあ、しっかりなさって」マルゴはうながした。「手短にお願いいたしますわ。人を待たせておりますから」
「どうか、お許しください。王妃様とは存じませんで、とんだ失礼をいたしました」
「まあ、では、あなた」マルゴは言葉を続けた。「わたしを侍女とお間違えになったの?」
「めっそうもございません。間違えたといたしますなら、麗しのディアーヌ・ド・ポワティエの幻影とでございます。ディアーヌ・ド・ポワティエの霊がルーヴルにあらわれるという噂を耳にいたしましたので」
「まあ、お上手だこと」マルゴはいった。「あなたもう大丈夫。この宮廷でも、きっと成功なさるわ。ところで、さきほど、ナヴァール王へのお手紙をおもちだとおっしゃっていらしたわね。で、そのお手紙はどこにあるの? 私が王様にお渡ししておきましょう。ただ、急いでくださいね、お願いいたしますわ」
ラ・モールは、着ていた胴衣のつなぎ紐を一瞬のうちにほどいて、胸から絹の封筒に入った手紙を引き出した。
マルゴは手紙を手に取ると、筆跡を見た。
「あなた、ラ・モールさん?」
「はい、さようでございます。ですが、わたくしめのような下賤の者の名をどうしてご存じで?」
「夫のナヴァール王や弟のアランソン公があなたのお名前を口に出しているのを耳にしたことがございますから。みんな、あなたをお待ちしていましたのよ」
彼女は、刺繍とダイヤモンドがちりばめてあるため固くなっているコルサージュの中に、若者の胴衣から抜き出したばかりの手紙をすべりこませた。手紙は若者の胸の熱でまだ暖かかった。ラ・モールは燃えるような目で、マルゴの動作をいちいち追っていた。
「それでは、帰りかたをお教えいたしますわ」マルゴはいった。「下の歩廊にお降りになって、そこで、ナヴァール王かアランソン公からの使者がくるまでお待ちください。そこまで、わたしの小姓に案内させますから」
こういうと、マルゴは暇《いとま》を告げて、また歩きはじめた。ラ・モールは道をあけようと、壁に身を寄せたが、廊下はとても狭く、ナヴァール王妃の腰当ては幅が広かったので、彼女の絹のドレスが若者の上着をかすめた。それと同時に、彼女が通りすぎたあとに、馨《かぐわ》しい香水の匂いがひろがった。
ラ・モールは体全体で身震いした。そして、自分が倒れそうなのがわかったので、壁に手をついて身を支えた。
マルゴは幻影のように消え去った。
「よろしいでしょうか? こちらです」ラ・モールを下の歩廊に案内するよう命じられた小姓が声をかけた。
「あっ、もちろん」酔ったようになっていたラ・モールは叫んだ。というのも、小姓が指し示したのは、いましがたマルグリット王妃が姿を消した方向だったからである。急げば、もう一度、彼女の姿が見られるかもしれない。
事実、階段の上まで来たとき、ラ・モールは、下の階にいる彼女の姿を見ることができた。そして偶然か、あるいは彼の足音が彼女の耳にまで届いたためか、マルゴは一瞬、頭を上げ、上の階のほうを見た。ラ・モールはもう一度マルゴの顔を見ることができた。
「ああ」と、彼は小姓のあとに従いながら溜息をもらした。「あれは人間の女じゃない。女神だ!」
歩廊に案内されたラ・モールは、そこで、同じように待たされている男と出会った。それはココナスだった。しばらくしてベームに呼び出されたココナスは、今夜、白い十字架をつけてルーヴルに戻ってくるように命じられた。合言葉は「ギーズ」だという。いっぽうラ・モールは、ナヴァール王の従僕から、王は今は不在で面会できないから、今夜、『星空亭』に使いを出す。もし、何の連絡もなかったら、明日の朝、ルーヴルに来るようにといわれた。合言葉は「ナヴァール」だという。『星空亭』に戻ったラ・モールは、ふたたびココナスと顔を合わせた。二人はラ・ユリエールおやじの作った大きなオムレツを分けて食べながら、分与の美徳について論じあった。
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[聖バルテルミーの虐殺の前夜]
アレクサンドル・デュマは不注意からか意図的にか、聖バルテルミーの虐殺のあった日を一日ずらして一五七二年八月二十五日にしている。同じように、聖バルテルミーの虐殺をシャルル九世に教唆したのはカトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公だったとしているが、これは作劇上からの配慮であり、史実とは一致していない。シャルル九世をヒステリー状態に追い込んでプロテスタントの虐殺へと向かわせたのは、実際は、カトリーヌ・ド・メディシスと、ここには登場していないアンジュー公である。八月二十二日、モールヴェルの放った二発の銃弾は、コリニー提督を負傷させただけで、暗殺は失敗に終わる。
知らせを受けたシャルル九世は激怒し、事件の調査を命じると同時に、パリ市民に対して武装を禁じ、提督の館の警備を指示した。シャルル九世はコリニー提督に犯人を捜し出すことを約束し、復讐を口にした。
いっぽう、カトリーヌ・ド・メディシスは目算が完全に狂ったことに動転していた。
たしかに、プロテスタントは、カトリーヌの予測どおり犯行がギーズ公の指示に基づいていると確信し、戦闘準備を始め、ギーズ館に押しかけて投石をおこなっていたが、いっぽうでは、パリ市民のなかのカトリック過激派は恐怖に駆られて、プロテスタントへの先制攻撃を口に出していた。真夏の暑さが、新旧両派の熱狂に拍車をかけ、一触即発の不穏な空気が漂っていた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、ひとつのことだけを恐れていた。それは、真相が露見したとき、シャルル九世とプロテスタントの憎悪が、アンジュー公に向かうことだった。アンジュー公を嫌うシャルル九世が、これを弟排除のきっかけにすることは目に見えていた。それに、プロテスタントたちは、公正な裁きが得られない場合は、武装蜂起も辞さずという姿勢を露骨に示している。そのため、たとえシャルル九世の追及は免れたとしても、プロテスタントたちの怒りをそらすことはできない。
カトリーヌ・ド・メディシスは二十三日の夜八時に、アンジュー公をつれてシャルル九世の居室に押しかけた。そしてそこで、いきなり、コリニー提督暗殺計画に自分もアンジュー公も加わっていたことを告白し、プロテスタントの武装蜂起で王族が皆殺しになると言い張って王の危機感を煽ろうとした。プロテスタントの首領十二人を殺害すれば、それでフランス王家の危機は回避されると主張した。
それでもだめだとわかると、泣き落としに出たり、隠退をほのめかして同情を引こうとした。そして、シャルル九世の元家庭教師であるレス伯爵に説得にあたらせた。シャルル九世の理性はぐらついた。こうして、コリニー提督一人の暗殺が、一万人以上といわれる大虐殺へと発展していったのである。
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第六章 返されたギーズ公の借り
カトリーヌ・ド・メディシスは、一人でテーブルのわきにすわり、開いた時祷書《じとうしょ》の上に肱をのせ、頭を手で支えていた。その手はフィレンツェ人ルネの調合する化粧品のおかげで、まだ、いささかも美しさを失っていなかった。ルネは、カトリーヌ母后の調香師と毒薬製造係の二役を兼ねている男だった。
このアンリ二世の未亡人は、喪服を着ていた。彼女は夫の死後、一度として喪服を脱いだことはなかった。すでに五十二歳か五十三歳にはなっていたが、みずみずしい肥満の仕方だったので、若い頃の美しさを保っていた。住んでいた部屋は、その衣装と同じく、いかにも未亡人然としていた。布地も、壁紙も、家具も、すべてが地味な色彩に覆われていた。先王アンリ二世の王座を覆っている一種の天蓋の上には、母后の愛する小さな猟犬が寝ていた。その猟犬は娘婿のアンリ・ド・ナヴァールからもらったもので、ギリシャ神話の女神の名にちなんでフェベと名づけられていた。天蓋の上にはリアルなタッチで虹が描かれ、そのまわりをフランソワ一世がカトリーヌ・ド・メディシスに与えたギリシャ語の銘句が囲んでおり、それはフランス語に訳せば、「彼は光と静謐をもたらした」というものだった。
母后はなにか深い思いに浸っているように見えた。口紅を塗ったその唇に戸惑いに満ちた緩やかな微笑が浮かんでいた。そのとき、とつぜん一人の男が扉をあけ、タペストリーのドア・カーテンを持ち上げて、蒼ざめた顔をのぞかせ、こういった。
「なにもかも悪いほうに向かっています」
カトリーヌ・ド・メディシスは顔をあげた。ギーズ公がそこにいた。
「なんですって? なにもかも悪いほうに向かっているって、どういうこと?」彼女はたずねた。
「王が悪辣なユグノーどもにすっかり丸めこまれてしまっているという意味です。大計画をやり遂げるために、王の許しを待っていたのでは、まだこれから長いあいだ、おそらく、永遠に待たなければならないでしょう」
「いったい、なにが起こったの?」カトリーヌ・ド・メディシスはいつもながらの冷静な表情をくずさずにたずねた。彼女は、場合によっては、この同じ顔に正反対の感情豊かな表情をもたせることもできるのである。
「さきほど、陛下と例の件について話しあってまいりました。もうこれで、二十回目です。コリニー提督が狙撃されてからこのかた、新教徒がおこなっている挑発をこのまま耐え忍ぶべきかという問題です」
「で、あの子はなんて答えました?」
「王はこうお答えになりました。『ギーズ公、あなたは、わたしの第二の父である提督が狙撃された事件の首謀者と疑われているはずだ。身を守りたかったら、好きなようにすればいい。わたしはといえば、わたしはわたしで身を守るつもりだ』こうおっしゃると、王はもうわたしに背を向け、犬に餌をやりにいかれました」
「それで、あなたは、王をひきとめようとはしなかったの?」
「いや、もちろん、いたしました。でも、王はご存じのお声でお答えになり、あの独特の目つきでわたしをご覧になって、こういわれました。『ギーズ公、犬たちは腹をへらしているんだ。人間ではないから、待たせてはおけないよ』そこで、しかたなく、あなた様のところに参ったという次第です」
「あなた、なかなかうまくやったわよ」母后はいった。
「でも、どう解決すればよろしいんです?」
「最後の努力をしてみることね」
「しかし、だれがそれを?」
「わたしがやりましょう。王様は一人きり?」
「いいえ、タヴァンヌ殿とご一緒でございます」
「ここで待っていなさい。それじゃなかったら、離れてついてきなさい」
そういうと、カトリーヌはすぐに立ち上がり、王の部屋に向かった。その王の部屋のトルコ絨毯とビロードのクッションの上には、王のお気にいりの猟犬たちが身を横たえていた。壁に埋めこまれた止まり木には、二、三羽の鷹と一羽のモズがとまっていた。シャルル九世は、ときどき、ルーヴルの庭園や、建築が始まっていたチュイルリの庭園で、このモズと一緒に小さな鳥を飛ばせて楽しんでいた。
王の部屋へ向かう途中で、母后はいつのまにやら、苦汁に満ちた真っ青な顔つきを装っていた。そして、その顔の上には、最後の、というよりも、最初の涙が一滴流れていた。
彼女は、音もなくシャルル九世に近づいた。シャルル九世は同じ大きさに切った餌を犬にやっていた。
「シャルル!」カトリーヌが巧みに声を震わせて呼びかけたので、王は思わず身震いした。
「どうしたんです、母上?」王は勢いよく振り向いていった。
「わたしは」とカトリーヌは答えた。「あなたのお城のどこかに隠退したくなったので、その許可をいただきにきました。パリから離れていれば、どこのお城でもいいのです」
「どうして、急に、そんなことを、母上?」シャルル九世はガラスのような目で母を見つめた。その目は、ときとして、非常に洞察力の深いものになることもあるのだ。
「なぜって、わたしは、新教徒たちから毎日のように侮辱を受けているからです。今日もまた、このルーヴルでも、あなたがプロテスタントから威されている声が聞こえました。わたしは、こうした光景には耐えられません」
「でも、母上、結局のところ」とシャルル九世は確信に満ちた表情でいった。「コリニー提督を暗殺しようとした人間がいたからじゃありませんか。恥ずべき暗殺者は、プロテスタントの人々の隊長だった勇敢なド・ムイ殿をすでに暗殺しています。わたしは死をかけても、王国に正義をもたらさなくてはならないのです」
「シャルル、お願いだから、落ち着いて」カトリーヌはいった。「プロテスタントには正義は欠けてはいない。なぜなら、もしあなたが彼らに正義を拒否したりすれば、彼らは彼らなりのやり方で正義の刃をふりかざすでしょうから。今日はギーズ公、明日はわたし、そして、そのあとで、あなたの上にもね」
「母上!」シャルル九世の声に、初めて疑惑の影があらわれた。「本当にそうお考えで?」
「そうですよ、シャルル」カトリーヌは激情にそのまま身をゆだねながら言葉をついだ。「もうこうなったら、フランソワ・ド・ギーズ公が暗殺されたとか、コリニー提督が狙撃されたとか、カトリックかプロテスタントかといった問題ではないのです。問題は、アンリ二世の息子であるあなたに、アントワーヌ・ド・ブルボンの息子であるアンリ・ド・ナヴァールが取ってかわるかどうかということになっているんです」
「おやおや、母上、また、あなたの誇張癖が始まった」
「では、シャルル、あなたはどう考えているの?」
「待つことですよ、母上。待つことです。すべての人間の英知はこの一言にあります。もっとも偉大で、もっとも強く、もっとも巧みな人とは、待つことを知っている人です」
「それでは、いくらでも待ちなさい。でも、わたしは待ちはしませんよ」
そして、こういうと、カトリーヌ・ド・メディシスは王に一礼してドアに近づき、自分の部屋に通ずる通路を引き返そうとした。
シャルル九世は彼女を引き留めた。
「結局のところ、母上はどうしろとおっしゃるのですか?」シャルル九世はたずねた。「わたしは、なによりもまず、公正でありたいと思っています。だれもがわたしに満足してくれることを願っているのです」
カトリーヌは戻ってきた。
「タヴァンヌ伯爵、こちらにいらっしゃい」とカトリーヌは王のモズをなでていたタヴァンヌに声をかけた。「あなたはどうすればいいとお考えか、王様に申しあげなさい」
「わたくしが申しあげてよろしいのでしょうか」伯爵はたずねた。
「いいから、早く」
「陛下は、狩りのとき、イノシシが逆上して襲ってきたらどうなさいます?」
「いうまでもあるまい。足をしっかりと踏ん張ってから」シャルル九世は答えた。「喉元に槍を突きたてるさ」
「それも、イノシシがあなたを傷つけるのを防ぐためにだけ」カトリーヌがいった。
「楽しむためでもある」王は溜息まじりにこういった。それは勇気というよりも、残忍さをのぞかせるような口調だった。「だが、わたしは、臣民を殺して楽しんだりはしない。なぜなら、ユグノーもカトリックと同じようにわたしの臣民だからだ」
「陛下それでは、いずれ」とカトリーヌはいった。「ユグノーは、槍を突き刺さない人にむかってイノシシがするのと同じことをするでしょう。あなたの王冠を引き裂きますよ」
「はっ、そうお考えですか、母上」と、王は母の予言にはたいした信をおいていないことを示すような態度で答えた。
「でも、今日、あなたは、ド・ムイ殿と仲間の様子をご覧にならなかったの?」
「もちろん、見ましたよ。なにしろ、会ったのですから。でも、ド・ムイ殿はだれに対して正義の裁きを要求したと思います? ただ、彼の父親を暗殺し、コリニー提督を狙撃した犯人に対してだけですよ。わたしの父であり、あなたの夫であったアンリ二世が馬上槍試合で亡くなったとき、その死はたんなる事故だったはずなのに、わたしたちは対戦相手のモンゴメリー殿の処罰を要求しませんでしたか?」
「そのことは、まあ」とカトリーヌは、気を悪くしたようにいった。「話すのはもうやめましょう。陛下は神の御加護の下にいて、力と英知と信頼を与えられていらっしゃいますが、この哀れな女は、罪ゆえに神からも見捨てられています。わたしは神を恐れ、神に従います」こういうと、ふたたびカトリーヌはお辞儀をして部屋から出ていった。だが、そのとき、いつのまにやら部屋に入ってきていたギーズ公に目配せして、この場にとどまり、最後の努力を試みよという合図をおくった。
シャルル九世は目で母を追っていたが、今度は引き留めようとはしなかった。それから、狩りの歌を口笛で吹きながら、犬たちを愛撫しはじめた。
とつぜん、彼は口笛をやめた。
「母上は、まことに王族ノふさわしい精神の持主だ。まったく、なんてがむしゃらなんだ。ユグノーが正義を要求しにきたからという理由でユグノーを何十人か殺せと言い張るんだから!結局のところ、正義を要求するのは彼らの権利ではないのか?」
「何十人か」とギーズ公がつぶやいた。
「ああ、そこにいたのか」と、シャルル九世は、初めてギーズ公に気づいたふりをしてこういった。「そうだ、何十人かだ。これはなかなか見事なゴミだぞ! ああ、もしだれかが、『陛下、一挙にすべての敵を厄介払いできますぞ。明日になれば、ほかの奴が死んだことに文句をいう奴は一人もいなくなります』といってきたら、ああ、そのときは、否とはいうまい……」
「なるほど、陛下」
「おい、タヴァンヌ」と王は話を中断して、タヴァンヌに注意をうながした。「そんなことをしていたんじゃ、マルゴを疲れさせてしまうぞ。止まり木に戻してやれ。いや、それでは理屈にあわないか。みんなが撫でられるように妹のナヴァール王妃の名前をつけたんだからな」
タヴァンヌはモズを止まり木に戻し、一頭の猟犬の耳を丸めたり広げたりしておもしろがった。
「さっきの話の続きでございますが」とギーズ公はまた口を開いた。「もし、陛下にだれかが、『陛下、明日までに敵はきれいさっぱり厄介払いします』と申したとしたら」
「そんな奇跡を起こすことのできる聖人がいったいどこにいる?」
「陛下、今日は八月の二十四日でございます。ですから、聖バルテルミーの力添えがあるはずです」
「なかなかいい聖人だ」王がいった。「生きたまま皮剥ぎにされた殉教者だからな」
「それはおあつらえ向きではございませんか。苦しめば苦しむほど、死刑執行人を恨むことでしよう」
「やるのは、ギーズ公、おまえだ、従弟のおまえだ」王はいった。「おまえが、金の柄の小さな剣を使って、今から明日までに、一万人のユグノーを殺すんだ。アッハッハ、まったくもって、おまえは愉快な奴だよ、ギーズ公殿は」
そういうと、シャルル九世は弾けたように笑いはじめた。だが、その笑いはいかにも取ってつけたような偽りの笑いだったので、部屋にこだまして、不気味に鳴りひびいた。
「陛下、一言でかまいません、たった一言でけっこうでございますから」とギーズ公はなおも食いさがった。とはいえ、彼も、人間的なところがまったくない王の笑いに我にもあらず戦慄を感じていた。「合図をひとついただきさえすれば。なにもかも準備はできておりますから。わたしの配下には、スイス人|傭兵《ようへい》と一万一千人の部下がおります。軽騎兵もおります。パリのブルジョワたちもおります。陛下も、近衛兵をおもちです。友人とカトリックの貴族もおります。両方あわせれば、彼らの二十倍の軍勢になります」
「いやいや、おまえは強いのだから、なぜ、わざわざ、同じことを何度もわたしに繰り返すのだ? やるなら、わたしなしでやりたまえ」
そして、王は犬のいるほうへ戻っていった。
すると、ドア・カーテンが開いて、カトリーヌ・ド・メディシスがふたたびあらわれた。
「その調子よ」彼女はギーズ公にいった。「もっとがんばって。最後にはいうことをきくから」
カトリーヌ・ド・メディシスはすばやく身を隠し、ドア・カーテンの後ろに消えた。シャルル九世は彼女の姿に気づかなかった。あるいは、すくなくとも、気づかぬふりをした。
「しかし、陛下」ギーズ公は口を開いた。「わたしの好きなように勝手に行動した場合、はたして陛下のお気に召すかどうか、それをうかがいたいと思いまして」
「じつのところ、アンリ、おまえはわたしの喉元に短刀を突きつけている。だが、わたしはなんとか抵抗しているのだ。いったい、わたしは王ではないのか?」
「ええ、まだまことの王ではあらせられません。陛下。ですが、お望みなら、明日には王になられます」
「そうか」とシャルル九世は続けた。「ではナヴァール王も、コンデ公も、……わたしのこのルーヴルの中で殺すのだな! ああ!」
それから、王はほとんど聞き取れない声でつけ加えた。
「外でなら、話は別だが」
「承知いたしました、陛下」ギーズ公は叫んだ。「奴らは今晩、陛下の弟君のアランソン公と遊びにでかけます」
「おい、タヴァンヌ!」と王は、もう我慢がしきれないというふうを装って呼びかけた。「おまえ、犬をからかうのはやめろ。さあ、こい、アクテオン、こっちにこい」
そういうと、シャルル九世は、それ以上ギーズ公のいうことを聞こうともせずに、犬と一緒に外に散歩に出ていった。戻ってきたとき、タヴァンヌとギーズ公は、前と同じような、不確かな気持ちのままでいた。
いっぽう、その間に、カトリーヌ・ド・メディシスの部屋ではもうひとつの別の光景が展開していた。カトリーヌ・ド・メディシスはギーズ公にもうひとがんばりしろと命じたあと、自室に戻ってきたが、そこには、いつも彼女が就寝するときに控えている女たちがそろっていた。
戻ってきたときカトリーヌは、出かける前に暗い顔をしていたのとは裏腹に、晴れ晴れとした笑顔を見せていた。侍女たちや取り巻きの女たちを次々に、愛想よく下がらせたので、残っているのは、末娘のマルグリット・ド・ナヴァールしかいなかった。マルゴは開け放った窓の近くの長持の上にすわって、なにやらもの思いにふけりながら、空を眺めていた。
娘と二人きりでいることに気づいたカトリーヌは、二、三度、話しかけようとして口を開いたが、そのたびに、ある暗い考えが、口から出かかった言葉をまた胸の奥深く押し戻してしまうのだった。
そのとき、ドア・カーテンが持ち上げられ、アンリ・ド・ナヴァールが姿をあらわした。
王座の上でまどろんでいた小さな猟犬は、飛び上がって彼のところに走ってきた。
「おや、あなただったの」とカトリーヌは身震いしながら声をかけた。「今夜はルーヴルで食事をおとりになるの?」
「いいえ、母上」とアンリは答えた。「今夜は、アランソン公とコンデ公と一緒に町へ遊びにでかけます。二人とも、あなたのご機嫌伺いにここに来ていると思ったんですが」
カトリーヌ・ド・メディシスは頬笑んだ。
「行って遊んでいらっしゃい。男たちはそんなふうに外を走りまわれて幸せですよ。……そうじゃない、マルゴ?」
「ええ、そのとおりですわ」マルゴは答えた。「自由っていうのは、美しくて素晴らしいものですから」
「それは、わたしがあなたの自由を縛りつけているってことですか、奥さん?」と、アンリは妻の前で頭を下げながらたずねた。
「いいえ、そんなことはありませんわ。嘆いているのはわたしのことではなく、女たち一般の運命のことですから」
「あなた、これからコリニー提督に会いにいらっしゃる?」とカトリーヌはたずねた。
「はい、たぶん」
「行ってあげなさい。よい見本になるでしょう。そして、明日、容体を教えてください」
「それでは、見舞いに行かせていただくことにいたします。ご承諾をいただいたのですから」
「わたしが? 承諾を与えることなどなにもありませんよ。……おや、だれがきたの?……追い返してちょうだい」
アンリがカトリーヌにいいつけられたとおりにしようと扉のほうに一歩踏み出したとき、つづれ織りのドア・カーテンが上がって、ソーヴ夫人のブロンドの髪があらわれた。
「奥様。さきほどお呼びになられた調香師のルネ様がいらっしゃいました」
カトリーヌはアンリ・ド・ナヴァールに、稲妻のようにすばやい一瞥を投げた。
ナヴァール王はかすかに顔を紅潮させた。だが、すぐに、その顔は恐ろしいほどに蒼白になった。というのも、母ジャンヌ・ダルブレを暗殺した犯人の名前を聞いたからである。彼は顔に動揺があらわれているのを感じたので、窓辺によって、手摺りにもたれかかった。
小さな猟犬がうめき声を発した。
それと同時に、二人の人物が入ってきた。一人は、いま名が告げられた人物だったが、もう一人は、ここに来る必要のない人間だった。
最初の人物は、調香師のルネだった。ルネはフィレンツェの商人がよくやる媚びへつらった挨拶のあとカトリーヌ・ド・メディシスに近づき、抱えてきた箱を開いた。その箱の小さな仕切りには、粉白粉と香水壜がぎっしりつまっていた。
第二の人物は、ロレーヌ公爵夫人、マルゴの姉クロードだった。彼女は王の小部屋に通じる隠し扉から入ってきたが、顔は真っ青で体中が震えていた。ルネがもってきた箱の中身をソーヴ夫人と調べているカトリーヌ・ド・メディシスに気づかれぬように、妹のマルゴのそばにすわった。マルゴのそばには、ナヴァール王が、めまいから立ちなおろうとしている男のように、額に手を置いて立っていた。
そのとき、カトリーヌ・ド・メディシスが振り向いた。
「マルグリット、あなたもうお部屋に下がりなさい。アンリ、あなたはそろそろ町に遊びにでかけたら」
マルゴは立ち上がった。同時に、アンリがすこし体の向きを変えた。
ロレーヌ夫人がマルゴの手を取った。
「マルグリット」とロレーヌ夫人は小声で早口にいった。「あなたがギーズ公の命を救ったようにギーズ公はあなたの命を救います。ギーズ公の名において命じます、ここから出てはなりません。自分の部屋には戻らないように!」
「クロード、あなた、なんの話をしているの?」カトリーヌ・ド・メディシスは振り向いてたずねた。
「別に、なにも」
「いま、なにか、小さい声でマルグリットに話したでしょう」
「おやすみといっただけです。それに、ヌヴェール夫人からの言伝てもあるし」
「いまどこに住んでいるの? あのきれいな公爵夫人は?」
「義弟のギーズ公の家の近く」
カトリーヌ・ド・メディシスは二人の娘を疑ぐりぶかそうな目で見つめ、眉をひそめた。
「こっちへいらっしゃい、クロード」母后は命じた。
クロードはいいつけに従った。カトリーヌ・ド・メディシスは彼女の手を握った。
「マルグリットになんといったの? あなたはなんて軽率なの!」カトリーヌは、娘が悲鳴をあげるぐらい強く手首を握った。
「マダム」と、アンリ・ド・ナヴァールはマルゴにむかっていった。彼は、会話が聞こえたわけではなかったが、カトリーヌ・ド・メディシスと二人の娘の演じた無言劇の意味をなにひとつ見逃してはいなかった。「お手に、キスさせていただけますか」
マルゴは震える手を夫のほうに差し出した。
「お姉さんはなんといったんですか?」アンリは、唇を手に近づけながら、身をかがめてつぶやいた。
「外出しないように。天の名において、外出してはなりません」
それは、稲妻のような閃きだった。だが、わずか一瞬のその閃光で、アンリは陰謀の全貌を見抜いた。
「それだけではありません」マルゴはいった。「プロヴァンスの若者からこの手紙をあずかっています」
「ラ・モールだな」
「ええ」
「ありがとう」そういうと、アンリは手紙をつかんで、胴衣の中に入れた。
そして、呆然としている妻の前を通って、フィレンツェ人ルネのそばに行き、肩に手を置いた。
「どうですか、調子は、ルネさん。商売はうまくいっていますか?」
「まあまあです。ぼちぼちってところです」毒殺者は、陰険な微笑を浮かべて答えた。
「繁盛してるでしょう」アンリはいった。「あなたのように、フランスや外国の王族御用達の香水商なら」
「ナヴァール王陛下にだけはまだご用命をいただいておりませんが」フィレンツェ人は厚顔にもこう答えた。
「ごもっとも」アンリはいった。「おっしゃるとおりです。ただ、わたしの母はあなたの店を贔屓にしていましたがね。臨終のとき、あなたのお店を推薦していましたよ、ルネさん。明日か明後日、わたしのところに、あなたのいちばんいい香水をもってきてください」
「いいところに目をつけたわね」とカトリーヌ・ド・メディシスは微笑を浮かべながらいった。「だって、あなたは……」
「軽い腋臭《わきが》だってことですね」アンリは笑いながら答えた。「だれがそんなこと、いったのですか? マルグリットですか?」
「いいえ、ソーヴ夫人よ」
そのとき、懸命に感情をこらえていたロレーヌ公爵夫人が、ついに抑えきれなくなって、わっと泣きだした。アンリは振り向こうともしなかった。
「お姉さん、どうしたの?」マルゴはクロードのほうへ飛んでいった。
「なんでもありませんよ」カトリーヌ・ド・メディシスは二人の娘の間に割って入りながら、いった。「どうってことありません。この子はすこし神経がたかぶって熱が出ているんです。マジーユがアローマで治療するよういってましたよ」
そして、カトリーヌ・ド・メディシスはもう一度、最初のときよりももっと力を込めて次女の腕を握った。それから、今度は三女のほうに向き直っていった。
「さあ、マルグリット。お部屋に帰りなさいっていったのが聞こえなかったの。まだわからないのだったら、命令しますよ」
「お許しください、お母様」マルゴは震えながら、蒼ざめた顔で答えた。「おやすみなさいまし」
「おやすみなさい」
マルゴはよろめきながら引き下がった。夫の視線に出会わないかと目でさがしたが無駄だった。夫は妻のほうを向こうともしなかった。
アンリ・ド・ナヴァールは、カトリーヌ・ド・メディシスがロレーヌ公爵夫人をじっと見つめているあいだ、黙っていた。ロレーヌ夫人のほうも口をきかず、手を合わせたまま、母親を見つめていた。
アンリは背中を向けたままだったが、ルネにもらったばかりのポマードで口ひげをしごいているふりをして、その光景を鏡の中で見ていた。
「ところで、アンリ」とカトリーヌ・ド・メディシスがたずねた。「あなたまだ、外出しないの?」
「あっ、そうでした」と、ナヴァール王は叫んだ。「そうでした。アランソン公とコンデ公がわたしを待っていることを忘れていました。香水が素晴らしいので、つい酔ってしまって、記憶をなくしてしまいました。それでは、さようなら」
「さようなら。明日、忘れずにコリニー提督の容体を教えてくださいね」
「まちがいなく。おい、どうした、フェベ」
「フェベ!」母后はいらだたしげにいった。
「もう一度、呼んでください。わたしを離そうとしないんです」
母后は立ち上がって、小さな犬の首輪をつかんで押さえた。いっぽう、アンリはできるかぎり冷静に、笑顔を忘れずに、その場を離れた。まるで、自分が死の危険を冒していることを心の底で感じてなどいないかのように。
彼の後ろから、カトリーヌ・ド・メディシスが離した小さな犬が元の主人に追いすがろうと飛びかかってきた。だが、一瞬早くドア・カーテンが閉じられ、犬はつづれ織りの下に、伸ばした鼻を擦りつけるしかなかった。犬は、不吉な叫びを長々と発した。
「さあ、シャルロット」とカトリーヌ・ド・メディシスはソーヴ夫人にむかっていった。「ギーズ公とタヴァンヌを呼びにいきなさい。わたしは礼拝堂にいますから。それから、二人を連れてもどっていらっしゃい。そのあとで、ロレーヌ公爵夫人を送っていってね。気ふさぎのようだから」
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第七章 一五七二年八月二十四日の夜
ラ・モールとココナスは、『星空亭』で夕食を終えたあと、賭けトランプを始めた。宿屋の主人は訪ねてきた謎の男から指令を受け取ったらしく、ココナスを呼び、すぐにトランプを止めるように命じた。ココナスは負けがこんでいたところだったので、すぐに承知した。ラ・モールが部屋に消えると、謎の男は身分を明かした。それは、コリニー提督を狙撃して失敗したモールヴェルだった。モールヴェルは、ココナスに、ユグノーを皆殺しにせよという指令が王から出されたことを語り、襲撃の手配が完了していることを教えた。ココナスが窓からのぞくと、ルーヴル宮殿前の広場に、ギーズ公と配下のスイス人傭兵の姿が見えた。パリ市長や旧教徒の市民も武装して集まってきている。皆、帽子に布の白い十字架をつけている。やがて、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘が夜の十二時を告げた。虐殺開始の合図だった。最初の銃声が響いた。宿屋の主人のラ・ユリエールは、まず手初めに自分の宿に泊まっているラ・モールから血祭りにあげようと階段をのぼりはじめた。ココナスは驚いたが、放っておけば、ラ・ユリエールがラ・モールを殺したあと金を盗むだろうと考え、ラ・ユリエールの後を追った。ラ・ユリエールは、ココナスを後ろに従え、火縄銃の銃床で扉をぶちやぶってラ・モールの部屋に乱入した。
ラ・モールは、帽子こそかぶっていなかったが、すでに衣服は完全に身につけ、口に剣をくわえ、ピストルを両手に握って、ベッドの後ろに隠れていた。
「おう、これはおもしろくなりそうだ」ココナスは血の匂いを嗅ぎつけた野獣のように鼻孔を広げて叫んだ。「さあ、ラ・ユリエールおやじ、やってみな」
「どうやら、おれを殺しにきたようだな」と、ラ・モールは目をらんらんと輝かして叫んだ。
「おまえか? この悪党め」
ラ・ユリエールは呼びかけには答えず、火縄銃を構えると、ラ・モールに狙いを定めた。だが、ラ・モールはすでにその動作を見ていたので、銃弾が発射された瞬間に、すばやく身をかがめた。弾は頭の上を通りすぎていった。
「ココナス殿!」ラ・モールは叫んだ。「なにをしている? 助けてくれないのか」
「おーい、助けにきてくれ、モールヴェル殿!」ラ・ユリエールは大声で助けを求めた。
「ラ・モール殿!」ココナスがいった。「この期に及んで、拙者にできるのは、貴公と剣を合わせないことのみ。今夜、王の名でユグノーを皆殺しにする命令が出ている。なんとか、ここから逃げてくれ!」
「ああ、なんという裏切り者! 人殺し! そういうことだったのか。よし、わかったぞ。さあ、これでもくらえ!」
そういうと、ラ・モールはピストルを構え、引金を引いた。ラ・ユリエールは、その様子を目で追っていたので、横飛びに身をよける暇はあったが、ココナスはこうした反撃を予期していなかったので、その場を一歩も動かなかった。弾丸は彼の肩をかすめた。
「クソッ」ココナスは歯を食いしばって叫んだ。「ようし、こうなりゃ、差しの勝負だ! お望みとあらば、しかたない」
いうがはやいか、ココナスは細身の長剣を引き抜き、ラ・モールに切りかかった。
もし相手がココナスだけなら、ラ・モールもこの勝負を受けて立ったことだろう。だが、ココナスの後ろには、火縄銃の弾をこめなおしたラ・ユリエールが控えていたし、刺客のモールヴェルもラ・ユリエールの呼びかけに応えて階段を四段ずつ駆けあがってきていたので、ラ・モールは勝負を避け、隣の小部屋に飛び込んでドアに鍵をかけた。
「クソッ、卑怯者!」ココナスは怒りくるって、ドアを長剣の柄頭《えがしら》でたたき、叫んだ。「待て!待たんか! この野郎! おまえの体に、この剣で、今夜おまえがおれから巻き上げた五十エキュの数だけ穴をあけてくれるわ! おれは、おまえが苦しまないように、他人がおまえの金を盗まないように、わざわざこうしてきてやったのに、それを、おまえは肩に弾を食らわせやがって、とんだ恩返しだ! こら、待たんか!」
ココナスが叫んでいるあいだに、ラ・ユリエールはドアに近づき、火縄銃の床尾でドアを粉々にくだいた。
ココナスは真っ先に小部屋に飛び込んだが、あやうく壁に鼻をぶつけそうになった。小部屋は空っぽで、窓があいていた。
「ここから飛び降りたんだ」ラ・ユリエールがいった。「ここは五階だから、まちがいなく死んでいる」
「いや、隣の家の屋根の上に逃げたかもしれん」ココナスはそういうと、窓の手摺りをまたぎ、急斜面で滑りやすい屋根に飛び移って、ラ・モールの後を追おうとした。だがその瞬間、モールヴェルとラ・ユリエールがあわててココナスに飛びつき、間一髪で彼を部屋の中に引き戻した。
「気でもくるったのか?」モールヴェルとラ・ユリエールは同時に叫んだ。「もうすこしで死ぬところだったぞ」
「とんでもない、おれは山男なんだ」ココナスは答えた。「氷河を登るのは慣れている。それに、おれは、一度、人から侮辱を受けたなら、天国だろうと地獄だろうと、そいつが逃げるところならどこにでも追っていくんだ。さあ、手をはなせ!」
「いいかげんにしろ!」モールヴェルがいった。「奴はもう死んでるか、さもなきゃ、もう遠くに逃げている。さあ、おれたちと一緒にこい。あいつが逃げても、代わりに殺す相手はいくらでも見つかるさ」
「そのとおりだ」とココナスは叫んだ、「ユグノーを殺せ! よし、猛烈に復讐したくなってきたぞ。それもできるだけ早くな」
三人は雪崩《なだれ》のような勢いで階段を駆け降りた。
「提督の家に!」モールヴェルが叫んだ。
「提督の家に!」ラ・ユリエールが続いた。
「よし、おまえらがいうのなら、おれも。提督の家に!」ココナスがいった。
コリニー提督の家に向かう途中、三人は逃げ出してきた一人のユグノーをつかまえ、なぶり殺しにした。相手の胸に剣を突き刺したココナスは、血の匂いに酔い、殺戮の喜びに目覚めた。
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第八章 虐殺された人々
コリニー提督の家は、ベティジ街にあった。三人が到着したときには、家はスイス人傭兵や武装したパリ市民に囲まれていた。まわりの家々ではすでに殺戮が始まっていた。銃声が響き、殺される人の叫び声が通りにこだました。窓からは、血まみれになった裸の男や女が飛び降り、舗道の上で息絶えた。
三人が提督の家の広い中庭に入ると、そこに、一人の男が向かいの建物の窓を見上げながら立っていた。
その男はいらだたしそうに、地面を足で蹴り、ときどき後ろを振り向いて、近くにいる男たちに問いかけていた。
「まだなにも起こらんか? だれも出てこないな……。奴め、だれかに教えられて逃げ出したかもわからんな。おまえ、どう思う、デュ・ガスト?」
「それは不可能でございます、殿」
「いや、わからんぞ。おまえ、さっき、いってたじゃないか、おれたちが到着する少し前に、手に抜き身の剣を握った男が、帽子もかぶらず、まるで追われたようにここに駆けこんできて、戸をたたいて中に入ったと?」
「いかにも、そう申しあげました。ですが、すぐその後に、べーム殿がやってきて、ドアをこじ開け、建物を包囲しました。男はたしかに中に入りましたが、外には出られないはずです」
「おい、あれは」とココナスがラ・ユリエールにささやいた。「おれの見間違いでなかったら、ギーズ公ではないか?」
「いかにも。あれが、我らが大将、ギーズ公様だ。たぶん、提督が出てくるのを待っておられるのだろう。提督がギーズ公の父君にしたのと同じことをするためにな。だれにも、自分の順番というものがある。今日こそは、おれたちの番だ」
「おーい、ベーム! まだか?」ギーズ公は大きな声で怒鳴った。「まだ仕留めてないのか?」そして、いかにもいらだたしげに、剣の先で舗石をたたき、火花を飛ばした。
と、そのとき、建物の中から叫び声が聞こえた。ついで、銃声が響き、ドカドカと人の動きまわる足音と、剣がぶつかりあう音がした。そのあとで、また沈黙が訪れた。
ギーズ公は一瞬、建物のほうに駆け出そうとするように、体を動かした。
「殿! お静かに!」デュ・ガストはギーズ公に飛びついて制止した。「威厳をお忘れなく!この場でお待ちを」
「おまえのいうとおりだ、デュ・ガスト。ありがとう。ここで待とう。だが、本当のところ、おれは、焦りと心配で死にそうだ。もし、奴が逃げたりしたら!」
とつぜん、建物の中の足音がこちらに近づき、二階の窓が、まるで火事になったかのように、焔に照らしだされた。
ギーズ公が何度も見上げていたあの窓が開いた。というよりも、破裂するように開け放たれた。そして、首に血をしたたらせた顔面蒼白の男がバルコニーに姿を現した。
「べーム!」とギーズ公は叫んだ。「おまえか! で、どうした? どうしたんだ?」
「どの、ごだんくだされ!」べームはドイツ訛りで冷静に答え、いったん身をかがめると、なにか重いものを持ち上げるようにして、身を起こした。
「ほかのものはどうした?」ギーズ公は待ちきれぬようにたずねた。「ほかの連中はどうしたんだ?」
「ほがのものは、ほがのやづをしどめでますよ」
「で、おまえはなにをしたんだ?」
「いま、おめにかけます。すごじ、さがっでぐださい」
ギーズ公は一歩後ろに下がった。
そのとき、べームが力をふりしぼって持ち上げようとしているものがなにかわかった。
それは老人の死体だった。
べームはそれをバルコニーの上に持ち上げると、しばらく宙に浮かせてから、主人の足元に投げ降ろした。
どさりと鈍い音がして、血のしぶきがあたり一面に飛び散った。遠くの舗石までが血に染まり、ギーズ公も戦慄を感じた。だが、その恐怖は長くは続かなかった。あたりにいたものはみな、好奇心に駆られて、何歩か前に進み出た。松明の明かりが犠牲者を照らし出した。
真っ白な顎ひげと立派な顔、それに死後硬直した手が見えた。
「提督だ!」いっせいに二十人の声がしたが、すぐにみな押し黙った。
「そうだ! たしかに提督だ!」ギーズ公は死体に近寄ると、喜びを抑えきれないような表情で提督をじっと見つめた。
「提督だ! 提督だ!」この恐るべき場面に立ち会っていた男たちはみな、小声でそう繰り返し、たがいに体を寄せあいながら、打ち倒されたこの老いたる偉人のまわりに近寄ってきた。
「ああ、ついにおまえを仕留めたぞ! ガスパール・ド・コリニー!」ギーズ公は勝ち誇ったようにいった。「おまえは、父を殺した。おれは、父の仇《かたき》をうったんだ!」
そして、ギーズ公は大胆にも、プロテスタントの英雄の胸に足を置いた。
だが、そのとき、死にかけていた提督の目がゆっくりと開かれ、傷ついた血だらけの手が空をつかんだ。そして提督は動かぬまま、死体を汚そうとする者にむかって墓から聞こえてくるような声で呼びかけた。
「アンリ・ド・ギーズよ、いずれ、貴様も、暗殺者に胸を足で踏まれることになろう。おれは貴様の父を殺してはいない。呪いあれ!」
ギーズ公は、我にもあらず顔面蒼白になり、氷のように冷たい戦慄が体中を駆けめぐるのを感じた。不吉な幻影を追い払おうとでもするように、額を手でぬぐった。ついで手を下ろすと、あえてもう一度、提督の体の上に視線を投げた。提督の目はふたたび閉じられ、手はまた動かなくなっていた。さきほどあの恐るべき言葉を発した口からは、一筋の黒い血が流れ出し、白い顎ひげを汚していた。
ギーズ公は、一か八かの決心を固めたように、剣を高く振り上げた。
「どうです、どの!」ベームがいった。「ごまんぞぐいだだげましだが?」
「もちろんだ。よくやったぞ」ギーズ公が答えた。「復讐したぞ……」
「ぢぢうえのですね」
「宗教のだ!」ギーズ公はくぐもった声でいい、中庭や近くの通りにつめかけていたスイス人傭兵や兵士や市民のほうを振り向くと、言葉を続けた。「さあ、みんな、仕事にかかれ!」
ココナスがべームから提督を仕留めたときの様子を聞いているとき、両翼の建物の中からまた叫び声が聞こえ、男が二人、追っ手に追われているのが見えた。一人の男は火縄銃の銃弾に倒れたが、もう一人の男は、勇敢にも高い窓から中庭に飛び降りた。男は立ち上がると、剣を手に、並み居る敵を薙ぎ倒し、活路を開こうとした。門のところで構えていたココナスは男に太刀を浴びせたが、そのとき男は「卑怯者!」と叫んで、ココナスの顔を剣の先でえぐった。ラ・モールだった。提督に危険を知らせにきた男というのはラ・モールだったのだ。
ココナスとラ・ユリエールは、十人ほどの兵士とともにラ・モールのあとを追った。ラ・モールは息絶え絶えになりながら、剣を捨て、必死にパリの町を逃げた。やがて、左手にセーヌ川が見えた。一瞬、川に飛び込もうかと思ったが、かろうじて理性が彼を引きとめた。右手に、黒々としたルーヴル宮殿が影を落としていた。そのとき、ラ・モールは、主君のナヴァール王のことを思い出した。跳ね橋の上には敵の兵士がひしめいていたが、かまわず橋を突破し、ルーヴルの階段を駆け上がった。二階までのぼったとき、見覚えのあるドアが目に入ったので、手と足で思いきり戸をたたいた。中から「どなた?」と女の声がたずねた。
ラ・モールはそのとき合言葉を思い出した。
「ナヴァール! ナヴァール!」彼は叫んだ。
すぐに扉は開いた。ラ・モールは、開けてくれたジロンヌに礼も述べずに、わき目もふらず控えの間に飛び込み、廊下と二、三の居室を横切った。そして、ようやく、目的の部屋に達した。その部屋は天井から吊り下げたランプで明るく照らされていた。
金色の百合の花の飾りのついたビロードのカーテンの下で、彫刻のほどこされた樫のベッドに半裸の女が寝ていた。女は、片肘をついて身を起こし、恐怖に満ちたまなざしで彼を見つめた。
ラ・モールはかまわず彼女のもとへ走りよった。
「たいへんです、奥様!」彼は叫んだ。「兄弟たちが皆殺しにされています。わたしも、殺されそうです。追っ手がきます。ナヴァール王の妃《きさき》なら、どうか、わたしをお救いください」
そういうと、ラ・モールは、絨毯の上に血のあとをのこしながら、彼女の足元にひれ伏した。
血だらけになった蒼白の男が自分の前にひざまずくのを見て、恐怖に凍りついたナヴァール王妃は、顔を手で覆ったまま立ち上がり、大声で助けを求めた。
「奥様!」ラ・モールは渾身の力をふりしぼって立ち上がると、懇願するようにいった。「どうか、お願いでございますから、人を呼ばないでください。もしだれかに聞かれたら、わたしは終わりです。人殺しどもがわたしを追ってきます。階段をのぼってきます。ほら、聞こえる。やつらです!」
「助けて!」ナヴァール王妃は我を忘れて叫んだ。「だれか助けて!」
「ああ、奥様、よもや、あなたに殺されようとは!」ラ・モールは絶望して叫んだ。「そのような美しい声と手で、殺されようとは! そんなことがあっていいものでしょうか!」
そのとき、同時に扉が開いて、息せき切らした男の一団が飛び込んできた。みな、顔面を血と火薬で汚し、手に手に、火縄銃や戟《ほこ》や剣を握った男たちが興奮しながら部屋の中に踏み込んできた。
先頭にいたのはココナスだった。ココナスは赤褐色の髪を逆立て、薄いブルーの瞳を大きく見開いていた。頬にはさきほどラ・モールの剣の先でつけられた傷がパックリと口を開いて、中の肉をのぞかせていた。そのピエモンテ男の顔は、見るだに恐ろしいものだった。
「こやつめ。とうとう見つけたぞ!」ココナスは叫んだ。「今度こそ逃がしはせんぞ!」
ラ・モールはあたりを見渡して、武器になるようなものがないか探したが、なにも見つからなかった。ナヴァール王妃に一瞥を投げたとき、王妃の顔に深い憐れみが浮かんでいるのが見えた。自分を救えるのは彼女だけだということを理解したラ・モールは彼女のほうに突進して、体を両腕の中に抱きしめた。
ココナスは三歩前に出て、長剣の先で、もう一撃、ラ・モールの肩を突き刺した。生温かい深紅の血が何滴か、滴《しずく》となって、マルグリットの香水を含ませた真っ白な寝具にしたたり落ちた。
マルゴは血が流れるのを見た。抱きついている男の体が小刻みに震えているのが感じられた。彼女はラ・モールを抱いたまま、ベッドと壁の間の隙間に飛び込んだ。ラ・モールはもはや限界に達していた。すでに力つき、逃げることも戦うこともかなわなかった。鉛色に変わった顔を若い女の肩に乗せ、マルゴの体を覆っている薄手のリネンの夜着にしがみついていたが、紗《しゃ》に包まれた刺繍入りのその夜着は、握り方のあまりの激しさに、ところどころ破れていた。
「ああ、奥様、わたしをお救いください!」ラ・モールは息も絶え絶えにいった。
それは彼のできるすべてだった。目はこの殺戮の夜にも似たどんよりとした雲に覆われ、意識を失った頭は後ろに崩れおちていた。腕はだらりとたれさがり、腰は二つに折れ曲がっていた。ラ・モールは床に流した自分の血で足を取られ、王妃もろとも床に転がった。
そのとき、ココナスがまたあらわれた。ココナスは叫び声に興奮し、血の匂いに酔いしれ、激しい追跡劇に夢中になっていたので、そこが王妃の閨房《けいぼう》であることなど委細かまわず、剣をもった腕を大きく突き出した。剣はすんでのところで、ラ・モールの心臓を突き刺すところだった。マルゴの心臓もあわや同時に突き刺されそうになった。
このむきだしの剣を見て、いや、おそらくはこの乱暴な振る舞いを目の当たりにしたためだろう、王の娘はなにやら感じたらしく、突如すっくと立ち上がった。そして、恐怖と義憤と激怒の入りまじったとてつもない叫び声を発した。ピエモンテの男は、未知の感情に襲われたようにその場に釘づけになった。とはいえ、もしこの場面が同じ配役で演じられたままだったとしたら、この感情も朝の雪が四月の太陽に当たって溶けるのと同じように、やがては溶解してしまったことだろう。
だが、そのときとつぜん壁の隠し扉が開いて、十六、七の若い男が飛び出してきた。若者は黒い服に身をつつみ、髪を振り乱して、蒼白な顔をしていた。
「待て! 姉さん! ぼくだ! ぼくがきたよ!」
「フランソワ! 助けて! フランソワ!」マルゴは叫んだ。
「アランソン公だ!」ラ・ユリエールが火縄銃をおろしながらいった。
「クソッ! 王弟か!」ココナスは不服そうにぶつぶつとつぶやきながら、一歩後ろに下がった。
アランソン公はすばやくあたりを一瞥した。髪を振り乱し、壁に身を寄せたマルゴは、弟の目にいつも以上に美しく映った。マルゴは男たちに取り囲まれながら、目には怒りを、額には汗を、そして、唇には泡を浮かべていた。
「悪党どもめ!」アランソン公は叫んだ。
「助けて、フランソワ!」と憔悴《しょうすい》しきったマルゴは叫んだ。「この人たち、わたしを殺そうとしているの」
アランソン公の青白い顔に怒りの焔が走った。
彼はなんの武器も帯びてはいなかったにもかかわらず、みずからの名に対する意識に支えられたのだろう、こぶしをココナスと仲間にむかって振りかざしながら勇敢に前に進み出た。ココナスたちは、アランソン公の目からほとばしる稲妻に圧倒されたかのように一歩ずつ後ずさった。
「おまえたちは、フランス王の息子を殺す気か? やるならやってみろ!」
そして、アランソン公は彼らが後退しつづけるのを見ると、かさにかかったように、大声で叫んだ。
「おい、衛兵隊長! ここにきて、この悪党どもを全員縛り首にしろ!」
ココナスは、ドイツ騎兵やドイツ傭兵の一団を前にしたよりも、この丸腰の若者の姿にはるかに大きな恐怖を感じたらしく、すでにドアのところまで退却していた。ラ・ユリエールはそれよりも一足早く、鹿のような足どりで階段を駆けおりていた。兵士たちは控えの間ですこしでも早く逃げ出そうと、たがいにぶつかりあい、押しあっていたが、外に出ようという欲望に対してドアはあまりに狭かった。
その間に、マルゴは気絶して床に横たわっている若者の上に本能的にダマスク織りのベッド・カバーをかぶせ、すばやく身を離した。
最後の追っ手が立ち去ると、アランソン公はマルゴのほうに振り返った。
「姉さん、怪我をしたんですか?」アランソン公はマルゴが血だらけなのを見て叫んだ。
そして、心配そうに姉のほうに走り寄った。その、心配そうな態度はアランソン公の優しさの証拠ではあったが、世間では弟にふさわしい愛情の域を越えていると非難されていたことも事実である。
「いいえ、怪我はしてないと思うわ」マルゴは答えた。「怪我があっても、軽いはずよ」
「でも、血が」アランソン公はそういうと、震える手でマルゴの体をまさぐった。「その血はどこから」
「わからないわ」とマルゴはいった。「あのなかの一人がわたしに触ったからだわ、きっと、怪我していたんでしょう」
「姉さんの体に触っただって!」アランソン公は大声を張り上げた。「クソッ! どいつだか教えてくれればよかったのに! 一言いってくれたら、草の根をかきわけてもそいつを探しだしてやったのに!」
「静かに!」マルゴはいった。
「どうして?」フランソワが聞いた。
「こんな時間に、わたしの部屋であなたの姿を見られたら……」
「弟が姉の部屋をたずねていけない法があるの?」
マルゴはアランソン公をじっと見つめた。そのまなざしには、人をひどく脅かすものがあったので、アランソン公は思わず後ずさりした。
「わかったよ、姉さん、わかったよ。部屋に帰るよ。でも、こんな恐ろしい夜に一人きりではいられないだろう。ジロンヌを呼んでやろうか?」
「いいえ、だれも呼ばないで。それより、早く出ていって、フランソワ、お願い。隠し扉から早く出ていってちょうだい」
若い王子は姉の命令に従った。弟が出ていくと、マルゴはベッドの下からもれてくる呻きを耳にしながら、まず秘密の通路に通じるドアのところに飛んでいって錠前を下ろし、ついで、もうひとつのドアに走って、こちらにもしっかりと鍵をかけた。ちょうどそのとき、ルーヴルにいるほかのユグノーたちを追いかけまわしている弓兵と歩兵の一団が、嵐のように、廊下の反対側へ走っていった。
やがて、マルゴは、部屋に自分以外の者がいないか注意深くまわりを見渡してから、ベッドと壁の隙間に戻って、アランソン公の視線からラ・モールの体を隠すためにかぶせておいたダマスク織りのベッド・カバーを取り除き、渾身の力をふりしぼって、その動かぬ肉塊を部屋の真ん中に運んだ。そして、不幸な若者がまだ呼吸しているのを見ると、その場に腰を下ろし、若者の頭を膝に乗せ、水を顔の上にたらして、意識を取り戻させようとした。
そのとき、顔を覆っていた埃と火薬と血のベールが水で取り除かれ、傷ついた若者の素顔があらわれた。マルゴは、そこに、ほんの三、四時間前にナヴァール王への仲立ちを頼みにあらわれたあの美男の貴族の面影を認めた。彼と別れたあと、マルゴはその美貌に陶然となり、しばし夢見心地になっていたのだ。
だから若者の顔を見た瞬間、マルゴは思わず叫び声をたてた。というのも、そのときから、彼女が負傷者に感じた感情は、憐れみというよりも強い興味に変わっていたからだ。若者はもはやたんなる見知らぬ男ではなく、知人に等しい存在になっていた。マルゴの手で拭われて、ラ・モールの美しい顔が完全にあらわれた。だが、それは苦しみでやつれた青白い顔だった。彼女は、恐怖におののきながら、同じように蒼白になって、手を男の心臓の上に置いた。心臓はまだ動悸を打っていた。彼女は、隣のテーブルの上に置いてある気つけ薬の小壜に手を伸ばし、彼に嗅がせた。
ラ・モールは目をあけた。
「ああ、神よ。ここはどこなんです?」
「助かったのよ! 安心なさい。もう平気!」マルゴはいった。
ラ・モールは必死の思いでナヴァール王妃のほうに視線を向けた。そして、一瞬のうちに目で彼女をむさぼりつくし、口ごもりながらいった。
「ああ、なんて美しいんだ、あなたは!」
そして、まるで目が眩んだかのように、ふたたび瞼を閉じて、溜息をもらした。
マルゴは軽い悲鳴をあげた。若者は、前よりもいっそう蒼ざめたように見えた。彼女は、一瞬、その溜息が最後の吐息だったのではないかと思った。
「ああ、神様、どうかこの若者に憐れみを!」
そのとき、だれかが廊下のドアを激しくノックした。
マルゴはラ・モールを腕に抱いたまま、上半身をもたげた。
「だれなの!」彼女は叫んだ。
「マダム、わたしです、わたしです!」女の叫ぶ声がした。「ヌヴェール公爵夫人です」
「アンリエット!」マルゴは叫び、ラ・モールにむかっていった。「危険はないわ。友達よ。聞こえたでしょ」
ラ・モールは全身の力をふりしぼって身を起こし、なんとか膝をついて立ち上がろうとした。
「これからドアをあけるから、なんとか、起き上がるようにして」
ラ・モールは床に手をついて、体のバランスを保とうとした。
マルゴはドアのほうへ一歩進み出たが、突然、恐怖におののいたように、立ちどまった。
「まあ、あなた一人じゃないの?」マルゴの耳に武器の触れ合う音が聞こえたのだ。
「一人じゃないの。義弟のギーズ公がつけてくれた十二人の護衛が一緒よ」
「ギーズ公!」ラ・モールはつぶやいた。「人殺しめ!」
「静かに!」とマルゴはいった。「一言もしゃべらないで」
そういいながら、彼女はあたりを見回して、若者を隠しておけるような場所がないか目で探した。
「剣は? 短剣は?」ラ・モールがささやくようにたずねた。
「身を守るため? そんなの無駄よ。いま聞かなかった? 相手は十二人、あなたは一人よ」
「いや、身を守るためではありません。生きて虜囚《りょしゅう》の辱《はずかし》めを受けないためにです」
「だめ、だめ」」マルゴは強くいった。「なんとか助けてあげるから。そうだわ、あの小部屋だわ、さあ、こっちへきて」
ラ・モールは元気をふるい起こし、マルゴに支えられながら小部屋まで歩いていった。マルゴはドアを閉めると、鍵をポケットの中にいれた。
「いいこと、一言も声をたてないでね。叫んでも、呻いても、溜息をついてもだめよ」と彼女は羽目板越しにいった。「ぜったい、助かるから」
それから、ナイト・ガウンを肩に羽織ると、廊下のドアをあけた。ヌヴェール夫人はマルゴの腕の中に飛び込んできた。
「平気? なにもなかった?」公爵夫人はたずねた。
「だいじょうぶ。なにも起こってないわ」マルゴは、部屋着についた血の跡が見えないようにナイト・ガウンの襟を合わせながら答えた。
「それはよかったわ。ギーズ公がわたしのために護衛を十二人もつけてくれたけど、ギーズ館に帰るだけだったら、こんなものものしい行列は必要ないから、あなたのために六人は残しておくわ。ギーズ公の護衛の六人なら、王の近衛兵の一連隊よりもたのもしいからね」
マルゴは拒む勇気が出なかった。そのため、六人の護衛が廊下で見張りをすることになった。ヌヴェール公爵夫人は、マルゴと別れのキスを交わすと、夫が留守のあいだ住んでいるギーズ館に、六人の護衛とともに戻っていった。
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第九章 虐殺者
ユグノーの虐殺はなおも続いた。マルゴとアランソン公に追いたてられてルーヴルから抜け出したココナスとラ・ユリエールはまた合流して、ユグノーの騎兵隊長ド・ムイの襲撃に向かうモールヴェルの一行に加わった。
ギーズ館の近くにある愛人の家に泊まっていたド・ムイは、ユグノーを装ったラ・ユリエールにおびきだされそうになったが、愛人の機転で危うく難を免れ、脱出に成功した。
ココナスは、ド・ムイの家を包囲しているとき、襲撃を受けたド・ムイが、ギーズ館の向かいの建物から顔を出したメルカンドンという男に助けをもとめる声を聞き、そのメルカンドンが、父親から六十エキュの返済を託されていた人物であることに気がついた。メルカンドン一家はユグノーだったのだ。
メルカンドンは、ド・ムイが愛人を抱きかかえて脱出しようとしたとき、ラ・ユリエールの頭に白十字がついているのを見て、ラ・ユリエールを狙撃した。ラ・ユリエールは叫びをあげて、その場に倒れた。
やがてその建物から、メルカンドン親子と甥たちが逃げ出してきた。血に飢えていたココナスは、メルカンドンの甥の一人を切り倒した。そのとき、ギーズ館の窓からココナスにむかって花束が投げられた。見上げると、若い女が彼に声援を送っていた。気をよくしたココナスは続いてもう一人の甥を血祭りにあげた。
残るは、メルカンドンと一人息子だけになった。ココナスが息子を捕まえると、メルカンドンと建物に残っていたその妻は必死に命乞いをした。ココナスは、使徒信経《クレド》を暗唱し、改宗を約束するなら命を助けてやるといった。息子は、改宗に同意してひざまずいたが、そのとき、手元に剣がころがっているのを見て、思わず手を伸ばしてしまった。それを見たココナスは「この裏切り者!」と叫んで、短剣を喉に突き刺した。次の瞬間、建物の上から巨大な塊が落下してきてココナスの頭を打ち砕いた。メルカンドンの妻が息子の復讐に上の窓から重い物を投げたのだった。メルカンドンが倒れたココナスにとどめを刺そうとしたとき、向かいのギーズ館から、護衛の兵士が飛び出してきてメルカンドンを追い払った。それと同時に、ギーズ館の窓からさきほどの若い女が身を乗り出し、「そう、赤い胴衣をきたその男よ! 早く連れてきて」と叫んだ。ヌヴェール公爵夫人だった。
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第十章 死か、ミサか、それともバスチーユか
マルゴはジロンヌと協力してラ・モールの傷の治療にあたった。カトリーヌ・ド・メディシスの娘であるマルゴは、薬物の取り扱いには慣れていたので、適切な治療薬を処方することができた。二人がラ・モールを大きなソファーに寝かせ終わったとき、だれかがドアをノックした。ソーヴ夫人だった。ソーヴ夫人は、カトリーヌ・ド・メディシスのところで別れたきり、ナヴァール王の姿を見かけないので心配になったといってきたのだ。マルゴが聞きただすと、ソーヴ夫人はカトリーヌ・ド・メディシスがナヴァール王の命を狙っていることを打ち明けた。マルゴは姉のロレーヌ公爵夫人が発した警告の意味をようやく理解した。
マルゴは、夫を探しもとめてルーヴル中を走りまわったが、カトリーヌ・ド・メディシスの部屋もシャルル九世の部屋も厳重な警戒が敷かれていて、王妹といえども中には入れてもらえなかった。マルゴはなにか方法はないかと廊下を狂ったように歩いていたとき、女の歌う単調な歌声を耳にした。それはシャルル九世の乳母のマドロンの声だった。マルゴはなにか思いついたようにマドロンの部屋のドアをたたいた。
いっぽう、アンリ・ド・ナヴァールは、カトリーヌ・ド・メディシスと別れた後、自室に戻ったが、そこには不吉な予感に駆られた二十人ほどのユグノーが集まっていた。サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘の音が鳴ったとき、タヴァンヌがあらわれ、シャルル九世がナヴァール王を呼んでいると告げた。ナヴァール王も仲間のユグノーもこれを拒むことはできなかった。
ナヴァール王はシャルル九世の部屋に続く廊下にたった一人で二時間も待たされた。ルーヴルの廊下や歩廊を兵士たちが駆けめぐる足音が聞こえ、火縄銃の音が響く。だが、ナヴァール王には、なにが起こっているのか正確にはわからなかった。そこで過ごした二時間は、彼の人生でもっとも長く残酷な二時間だった。ようやく、事態の深刻さがのみこめてきたとき、衛兵隊の隊長があらわれ、彼をシャルル九世の武器室に案内した。
ナヴァール王と隊長が入っていったとき、シャルル九世は大きな肱かけ椅子にすわっていた。両手を椅子の肱の上に置き、頭をガックリと胸の上に垂れていた。人が入ってきた足音で、シャルル九世は額をあげた。アンリ・ド・ナヴァールは、その上に玉のような汗が光っているのを見た。
「こんばんは、アンリオ」と若い王はいきなり愛称でアンリ・ド・ナヴァールを呼んだ。「ラ・シャス、おまえはもう下がっていい」
隊長はいいつけに従った。
一瞬、陰鬱な沈黙が訪れた。
その間に、アンリは不安に満ちたまなざしで部屋を見回した。どうやら、シャルル九世と彼の二人きりのようだ。
シャルル九世は突如立ち上がった。
「クソッ!」そういいながら、シャルル九世はすばやい動作で金髪をかきあげ、同時に額の汗を拭った。「どうだ、わたしのそばにこうしていることができてうれしいか? アンリオ?」
「それはもちろんです、陛下」ナヴァール王は答えた。「陛下のおそばにいるときはいつでも幸せです」
「あの世にいるよりはうれしいということか、それは?」シャルル九世はアンリのお世辞に答えるというよりも、自分の考えを追っているかのようにたずねた。
「陛下、お言葉の意味がよくわかりませんが」
「これを見ろ、そうすれば、わかるだろう」
そういうと、シャルル九世は、まるで飛びはねるように窓のところに歩いていった。そして、ますます強い恐怖を感じはじめている義弟を引き寄せると、殺人者たちの恐るべきシルエットを見せた。殺人者たちは、セーヌに浮かぶ船の上で、次々に運ばれてくる犠牲者たちの喉を切り裂くと、川の中にたたきこんでいた。
「なんということを!」アンリ・ド・ナヴァールは蒼白になって叫んだ。「いったい、今夜なにが起こっているのですか?」
「今夜中にな」とシャルル九世はいった。「みなが、わたしのために、ユグノーたちを一人残らず厄介払いしてくれるというのさ。ほら、あそこ、ブルボン館の上を見ろ。煙と焔があがっているだろう。あれは、炎上している提督の家の煙と焔だ。それに、あそこには、あの破れたマットに乗せて、善良なるカトリックたちが引きずっている死体が見えるだろう。あれは、提督の娘婿のテリニー、おまえの友人のテリニーの死体だ」
「ああ、これはどういう意味でございましようか」ナヴァール王は、脇腹に差してあるはずの短剣のつかをむなしく探しながら、同時に、屈辱と怒りを感じていた。というのも自分が愚弄され、脅しをかけられているのを感じたからだ。
「それはこういう意味だ」シャルル九世は怒りくるい、なんの前ぶれもなく、恐ろしいほどに蒼ざめながら叫んだ。「わたしのまわりにユグノーを置きたくなくなったということだ。わかったのか、アンリ? わたしは王なのか? わたしは主人なのか?」
「ですが、陛下……」
「その陛下は今、カトリックでない者たちを皆殺しにしているんだ。それが陛下の楽しみだ。おまえはカトリックか?」シャルル九世は大声で叫んだ。その怒りは、まるで恐るべき上げ潮のようにどんどん大きくなった。
「陛下、どうか、ご自分のお言葉を思い出してください」アンリはいった。「『わたしに立派に仕える者なら、宗教は問わない』という、お言葉を!」
「ハッ! ハッ! ハッ!」王は不気味な笑い声をたてた。「わたしの言葉を思い出せだと?アンリよ、妹のマルグリットがいったように、『|Verba Volant《ウェルバ・ウォラント》 言葉には羽根がある』のさ!あれを見ろ」そういうと、シャルル九世はパリの町を指さしながらつけ加えた。「あの者たちはわたしに立派に仕えたではあるまいか? 彼らは勇敢に戦い、賢明な忠告を与え、つねに忠実ではなかったか? だれもみな有益な臣民だった! だが、彼らはユグノーだった。わたしが欲しいのはカトリックだけだ!」
アンリは口をつぐんだ。
「いいか、アンリ、わたしのいうことをしっかり理解しておけよ!」シャルル九世は叫んだ。
「わかりました、陛下」
「それで?」
「陛下、わたしは、多くの部下や哀れな人々が拒んだことをナヴァール王がしなければならない理由がわかりません。それと申しますのも、彼らが全員死んだのは、彼らが、陛下がわたしに仰せのことを、わたしとおなじように拒否したからにほかなりません」
シャルル九世は若い王子の腕を取ると、彼をじっと見つめた。その目の虚ろな光が、やがて残忍な輝きに変わった。
「おや、おまえは、あそこで喉を掻き切られた人たちに、わたしがわざわざミサを与えたとでも思っているのか?」
「陛下」とアンリは、腕をふりほどきながらいった。「陛下は、最期は先祖の宗教のなかで迎えたいとはお思いにならないのでしょうか?」
「そんなことは当たり前だ。おまえはどうなんだ?」
「当然、わたしも同じでございます」アンリは答えた。
シャルル九世は怒りの発作にかられ、呻き声をもらした。そして、震える手で、テーブルの上に置いてある火縄銃を握った。アンリは額に恐怖の汗をしたたらせたまま、壁のつづれ織りにぴったりと身を寄せていた。だが、彼は、つねに自制心を失わなかったので、見かけは冷静に、この恐るべき君主の一挙手一投足を、まるで蛇に魅入られた小鳥のような好奇心に満ちた驚きで見守っていた。
シャルル九世は火縄銃に弾を込め、盲目的な怒りに駆り立てられながら足で床を蹴った。
「おまえ、ミサを受けたいのか?」彼は、その殺人道具のきらめきでアンリを目くらませながらいった。
アンリ・ド・ナヴァールは黙ったままだった。
シャルル九世は、かつて人の口から出たもっとも恐るべき冒涜の言葉をルーヴルの丸天井に轟かせながらわめきちらした。顔色は蒼白から鉛色に変わっていた。
「死か、ミサか、それともバスチーユか?」シャルル九世はナヴァール王を火縄銃で狙いながら叫んだ。
「陛下!」アンリは叫んだ。「陛下は、兄弟であるわたしの命をお奪いになるのですか?」
アンリ・ド・ナヴァールは、彼のもっとも強力な能力のひとつである類いまれな状況判断力によって、シャルル九世が要求している答がどれであるかを見抜いていた。というのも、その答が否定的なものであったなら、アンリはまちがいなく死んでいたはずだからである。
激怒の最後の発作がおさまったあとのように、すぐに、反動の最初の兆候があらわれた。シャルル九世はナヴァール王にむかって発した問いかけを繰り返すことはなかった。そして、しばらく、なにやら低い声で呻きながら躊躇したあと、開け放った窓のほうに向き直ると、セーヌの向こう岸の上を走っている一人の男に火縄銃の狙いをつけた。
「こうなれば、だれか殺さなければ気がすまない」そう叫んだシャルル九世の顔は死体のように鉛色で、その目は充血して真っ赤になっていた。
そして、次の瞬間、弾丸が発射され、走っている男は撃ち倒された。
アンリ・ド・ナヴァールは呻き声をあげた。
すると、シャルル九世は殺人の情熱にかきたてられたかのように、ふたたび弾をこめると、火縄銃を続けざまに発射した。そして、そのたびに喜びの叫びを発した。
「おれはもうだめだ」ナヴァール王はつぶやいた。「殺す相手が見つからなくなったら、おれを殺すだろう」
「どう、終わった?」とつぜん、背後で人の声がした。
それはカトリーヌ・ド・メディシスだった。彼女は、最後の銃声が響いているあいだに、足音もたてずに部屋の中に入ってきたのだった。
「いいえ、まだです」シャルル九世は火縄銃を部屋の中に放り投げて叫んだ。「こん畜生は!この強情者は、まだ承知しません……」
カトリーヌ・ド・メディシスはなにも答えず、ゆっくりと視線をアンリのいるほうへとめぐらした。アンリは、身を寄せているつづれ織りの中の人物のように微動だにしなかった。カトリーヌは、次に、シャルル九世に視線を返したが、その目は「どうしたのです? なぜ、この男が生きているのです?」と問うているようだった。
「なぜって……」シャルル九世は母の視線の問いを完全に理解したかのように口を開いた。そして、ためらいなく答えた。「わたしの親類だからです」
カトリーヌ・ド・メディシスは頬笑んだ。
アンリ・ド・ナヴァールはその微笑を見て、戦うべきはカトリーヌ・ド・メディシスだということを理解した。
「マダム」とアンリはカトリーヌ・ド・メディシスにむかっていった。「なにもかもわかりました。すべては、義兄のシャルル王ではなく、あなたからきているのですね。わたしを罠にはめることを思いついたのはあなただ。自分の娘を囮《おとり》にしてわたしたちを皆殺しにしようとしたのもあなただ。わたしと妻を離れさせておいて、わたしが彼女の目の前で殺されないようにしたのもあなただ」
「そのとおりよ。でもそうはさせないわ」とつぜん、別の女の声がした。息を切らしたその情熱的な声がだれのものかアンリにはすぐにわかった。だが、その声を聞くと、シャルル九世は驚きで、そしてカトリーヌ・ド・メディシスは怒りで体を震わせた。
「マルグリット!」アンリは叫んだ。
「マルゴ!」とシャルル九世はいった。
「おまえ!」とカトリーヌ・ド・メディシスはつぶやいた。
「ナヴァール王」とマルゴはアンリにむかっていった。「あなたはいま、最後に、わたしを非難されました。その非難は、ある意味では正しく、ある意味ではまちがっています。たしかに、わたしは、あなたたちを皆殺しにするための道具として使われました。でも、わたしは、まさかあなたが破滅へとそのまま進んでいくとは思っていませんでした。わたし自身は、あなたがご理解なさっているように、命はすべて運まかせで、母からは完全に忘れられた子供です。でも、わたしは、あなたの危険を知るやいなや、自分の義務を思い出しました。女の義務といったら、それは夫と運命をともにすることです。あなたが追放されるのでしたら、追放されたところへ、このわたしもついていきます。あなたが牢にいれられたら、わたしも囚われの身になります。あなたが殺されたなら、わたしも死を選びます」
そして、彼女は夫に手を差しのべた。アンリ・ド・ナヴァールは、その手を取った。愛からとはいわぬまでも、すくなくとも、深い感謝の気持ちをこめながら。
「ああ、かわいそうなマルゴ」シャルル九世はいった。「いっそ、おまえの口から、アンリにカトリックに改宗するようにいってくれないか」
「陛下」とマルゴは、誇り高い口調で、ごく自然にいった。「ご自身のためにも、王家の王子に、そのような卑怯な態度を要求なさるものではございません」
カトリーヌ・ド・メディシスはシャルル九世に意味ありげな一瞥を送った。
「お兄さん!」シャルル九世と同じようにカトリーヌ・ド・メディシスの恐るべき一瞥の意味を理解したマルゴは叫んだ。「お兄さん、思い出してください、この人をわたしの夫にしたのはあなたなのですよ」
シャルル九世は、カトリーヌ・ド・メディシスの命令的な視線とマルゴの哀願する視線との間で、まるで二つの対立する原理の間で板挟みになったように、しばし決断を下せぬままでいた。だが、最後に、善と光の神、アフラ・マツダが勝った。
「そうです、母上」とシャルル九世はカトリーヌ・ド・メディシスの耳元に身を傾けていった。「マルゴのいうとおりです。アンリオはわたしの義弟です」
「ええ、そのとおりね」と、今度はカトリーヌ・ド・メディシスが息子の耳に身を近づけて答えた。「たしかにそうだけれど、もし、そうでなくなったら……」
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第十一章 イノサン墓地のサンザシ
ナヴァール王はルーヴルに軟禁されたままだった。ユグノーの殺戮は続いた。サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘はデ・デウム(感謝の曲)を鳴らしつづけていた。
奇妙な現象が起こった。春にしか花を咲かせない西洋サンザシが、夜のあいだに一斉に開花していたのである。カトリックは、この現象を神の奇跡と見なして、西洋サンザシの花が咲き誇っているイノサン墓地にお参りに出かけた。殺人者たちは、天が虐殺に同意を与えたと思い、さらに殺戮を続けた。パリの通りや広場で殺されたプロテスタントたちの死骸は、ルーヴルの中庭に集められ埋葬された。ルーヴルの中で生き残っているプロテスタントは、ナヴァール王、コンデ公、それにラ・モールの三人だけだった。
ラ・モールの傷はもう心配なくなったので、マルゴの心にかかっていたのは、夫の命をどうやって救うかという問題だけだった。夫を失えば、自分もナヴァール王妃でなくなる恐れがあったからだ。彼女がこうして、もの思いにふけっているとき、だれかが秘密のドアをノックした。弟のアランソン公だった。
アランソン公は、姉に対する強い執着があったので、ナヴァール王との結婚をこころよく思っていなかった。だから、この事件をきっかけに、姉がナヴァール王と別れるものと思って、その後の身のふり方を訊きにきたのである。だが、アランソン公は、マルゴに夫と別れる意思がないことを知ると、にわかに嫉妬心を燃やして、ナヴァール王との結婚に執着することの愚をいいたてた。すなわち、ナヴァール王はどっちにしろ、明日、暗殺されることになっているのだから、夫に操を立てていてもしかたがない。いっぽう、自分はいずれ、空位になっているポーランド王に選ばれ、やがて兄たちが死ねば、フランス王になるだろう。マルゴはといえば、ナヴァール王の死後、カトリックの王であるギーズ公と再婚し、カトリックの女王となるのがいちばんいいというのだ。マルゴは、この予想に憤然としてこう答えた。
「それは素晴らしい計画だけど、ひとつだけうまくない点があるわ」
「なんです、それは?」
「それは、わたしがギーズ公をもう愛してはいないこと」
「じゃあ、姉さんはだれを愛しているんですか」
「だれも」
アランソン公は驚いたように姉を見つめると、溜息をもらして部屋から出ていった。
マルゴは部屋に一人残って、弟の残した言葉から、今後起こるはずの状況を推測してみた。カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公は王をけしかけて、今回の虐殺を引き起こすことに成功した。これまで、兄たちへの反発からプロテスタントと手を結ぶことを考えていたアランソン公は、勝者のギーズ公と手を結ぶ道を選ぶだろう。そうなると、ナヴァール王は暗殺されて、王国はフランス王国に組み入れられてしまうことになる。自分は寡婦となり、王国も王冠もなく、修道院で、愛してもいなかった夫に操を立てるほかはない。この事態は、夫への同盟の約束のためばかりでなく、自分のためにもなんとしても阻止しなければならない。
そう考えているとき、カトリーヌ・ド・メディシスから、イノサン墓地の西洋サンザシに宮廷全員でお参りにいくから、一緒に来るかと訊いてきた。はじめ、マルゴは拒否しようと思ったが、夫についての情報が手に入るかもしれないと思いかえして、同行を承諾した。
イノサン墓地で、カトリーヌ・ド・メディシスが司祭の説教を聞いているあいだに、ナヴァール王の愛人で、カトリーヌ・ド・メディシスの女官であるソーヴ夫人がマルゴに近づき、手に接吻するふりをして、小さく丸めた紙切れを手渡した。その瞬間、カトリーヌ・ド・メディシスが後ろを振り向いたが、手紙を手渡したところは見られずにすんだ。
帰り道、マルゴは親友のヌヴェール公爵夫人の駕籠《かご》に乗せてもらい、そこで、ソーヴ夫人から受け取った手紙を開いた。手紙にはこう書かれていた。
「今夜、ナヴァール王に二つの鍵を渡すようにと、母后から命令されました。ひとつの鍵はナヴァール王が軟禁されている部屋の鍵、もうひとつはわたしの部屋の鍵です。ナヴァール王はいったんわたしの部屋に入ったら、朝の六時までいるはずです」
手紙を読んだマルゴは、カトリーヌ・ド・メディシスによってまた陰謀が準備されていることに気づいた。マルゴは心の中でつぶやいた。「このマルグリット姫様がそう簡単に修道女にされてたまるものか、まあみているがいい」
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第十二章 打ち明け話
マルゴとヌヴェール公爵夫人は、隠し事なしになにもかも語り合える親しい仲だったので、たがいに唇を重ねてキスをすると、若い女同士の明けすけな会話を始めた。二人の合言葉は、愛とセックスを司るギリシャ神話の三人の神を意味する「エロス・クピド・アモール」だった。
マルゴがヌヴェール公爵夫人と話をしたかったのは、ラ・モールを隠しておける場所を貸してもらおうと思ったからだった。というのも、ヌヴェール公爵夫人はギーズ館に住んでいたが、夫は長いあいだ留守でギーズ公も館にはいなかったので、マルゴはヌヴェール公爵夫人の部屋に接続している小部屋が使えると踏んだのである。
だが、ヌヴェール夫人の答は意外なものだった。小部屋はもうふさがっているというのだ。聖バルテルミーの虐殺の夜、ヌヴェール夫人は、頭を石で割られたカトリックの戦士、アニバル・ド・ココナスという男を館に収容し、介抱しているというのだ。
仮面をつけて、男のいる小部屋の鍵穴から中をのぞいてみたマルゴは驚いた。それは、あの夜、ラ・モールを追って、自分の部屋まできた例の男だったのだ。
二人の友は思わぬ結果に笑いだした。そして、ふたたび、「エロス・クピド・アモール」という合言葉をいい、接吻を交わして別れた。
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[ルーヴル宮殿の中は……]
ルーヴル宮殿は一二〇〇年頃、フィリップ・オーギュストによって城砦《じょうさい》として造営されたが、十四世紀にシャルル五世によって宮殿につくりかえられた。しかし、シャルル五世のあと、百五十年間は使用されることがなかった。ルーヴルを王の居城にしたのは、カトリーヌ・ド・メディシスである。カトリーヌ・ド・メディシスは、夫のアンリ二世が馬上槍試合で横死をとげた思い出の残るトゥルネル館(現在のヴォージュ広場)を去って、ルーヴルに居を移した。
カトリーヌ・ド・メディシスが造営したのは、セーヌの河岸に面した「水辺のギャラリー」で、『王妃マルゴ』で展開するドラマもすべてここを舞台にしている。ただ、この頃のルーヴルは、現在の十分の一程度の広さしかなかった。
シャルル九世の居室《アパルトマン》は、セーヌ寄りの二階にあった。シャルル九世がアンリ・ド・ナヴァールに、セーヌに浮かぶ船の上でおこなわれていた虐殺を見せることができたのは、アパルトマンがこの位置にあったからである。ここで描かれているシャルル九世のエピソードは史実にほぼ即している。
なお、当時は、宮殿の中に一般民衆が入ることは、今日、われわれが想像するよりもはるかに容易だったらしい。とりわけ、王と王族に請願するために、庶民が面会を求める機会はかなり多かったようである。しかも、王族は、目下の者に対しては、ほとんど差恥心というものをもっていなかったので、かなりラフな姿で面会した。というよりも、王族は、目下の者は動物と同じと考えていたので、いささかの差恥心も感じてはいなかった。
その証拠に、アンリ三世(アンジュー公)は、一五八九年、面会を求めてきた未知のイエズス会修道士を居室に迎えいれたが、そのイエズス会修道士は王に暗殺されたギーズ公の復讐にやってきたジャック・クレマンだったので、王はその場で暗殺された。アンリ三世は、そのとき、「穴あき椅子」と呼ばれた便器にすわって用を足している最中だった。ヴァロワ王朝の最後の王は、下半身裸のまま息絶えたのである。
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第十三章 すべての部屋の錠前をあける鍵
ナヴァール王妃がルーヴルの自室に戻ると、留守中にソーヴ夫人からナヴァール王の部屋の鍵が届けられていた。マルゴは鍵をもてあそびながら、カトリーヌ・ド・メディシスが何をたくらんでいるのか必死に考えてみた。そして、ひとつの結論に達した。彼女はナヴァール王に手紙をしたためた。
「今夜は、ソーヴ夫人の部屋にいらっしゃるかわりに、ナヴァール王妃の部屋にお越しください」
手紙を鍵に添えて、ナヴァール王に届けるようジロンヌに命じたマルゴは、今度は、ラ・モールのことが心配になってきた。
小部屋のドアをあけると、ラ・モールはすでに服を着て長椅子にすわっていた。マルゴの顔を見たラ・モールは立ち上がって、ルーヴルを出る決心であることを伝えた。マルゴが理由をただすと、ラ・モールは、小部屋にいると、マルゴが兄弟や夫と交わす会話がおのずと聞こえてきてしまうので、それが耐えがたいといった。マルゴにもその気持ちはよくわかったが、ここはとりあえず、小部屋にもう一度戻ってもらうほかなかった。ナヴァール王がやってきたからである。
マルゴの手紙の真意が見抜けぬまま部屋を訪れたナヴァール王ば、「どうせ死ぬ身なら、妻に裏切られて死ぬという、歴史に残るような華々しい死に方をするのもいい」と思ってやってきたといった。これに対してマルゴは、こう答えた。
「陛下、今夜のことは、あなたを愛し、あなたもその人を愛している女の考え出したことですわ」
ナヴァール王は、マルゴの瞳をのぞいて、言葉の意味をさぐろうとした。だが、すぐにマルゴは、その女とはもちろん自分ではなく、ソーヴ夫人だと明かしたうえで、今日、ナヴァール王がプロテスタントの信仰を捨て、カトリックに改宗したという噂を聞いたが、それは本当かとたずねた。
「その噂はまちがっています」ナヴァール王は答えた。「わたしはまだ改宗したわけではありません」
「でも、その決心はついたんでしょう」
「というよりも、いま考えているところといったほうがいいですね。だって、しかたないじゃありませんか。まだ二十歳で、王になったばかりなのですから、ミサを一回するだけで、救えるものがたくさんあるのなら、そうしてみようかなと思うのは道理でしょう」
「とりわけ、命を、でしょう?」
アンリは苦笑を隠すことができなかった。
「陛下」とマルゴはいった「あなたは、考えていることをなにもかもお話しにはなってらっしゃいませんわね?」
「同盟者とは、腹を割っては話せないものです。というのも、ご存じのように、わたしたちはまだ同盟者でしかないからです。でも、あなたが、わたしの同盟者であると同時に……」
「妻であったら、とおっしゃりたいのですね」
「はっきりいって、そのとおりです。わたしの妻であったら」
「どうだというんです?」
「そうならば、なにもかもちがってくるでしょう。たぶん、わたしは、彼らの言い方を借りるなら、ユグノーの王にとどまろうと執着するかもしれません……。でも、さしあたっては、生きていられるという、そのことだけで満足しなければ」
マルゴはアンリをまじまじと見つめた。その視線は、まるで、ナヴァール王は自分が思っていたほど鋭い男ではなかったのかもしれないという疑念が、心に兆したことを示しているようだった。
「でも、あなたは、すくなくとも、その結果に到達できると確信はしているんでしょう?」
「ある程度は、ということです」アンリは答えた。「ご存じのように、この世では、なにひとつ確かなものはありませんからね」
「なるほど、陛下は、あまりに何度も宗旨変えをなさって、いろいろなものに興味を失われてしまわれたので、王冠と宗教を断念されたあとは、フランス王の娘との同盟関係を清算するもよし、すくなくともそうしたいとお考えになっているのではありません?」
この言葉は、二人にとって、非常に重い意味をもっていたので、アンリは思わず体が身震いするのを感じた。だが、一瞬のうちに、彼はこの感情を抑えた。
「お願いです。いまのわたしは自由意志というものをまったくもちえない状況にあることを思い出してください。つまり、わたしはフランス王が命じることをそのまま実行するしかないのです。わたしは、自分の王冠や幸福、いや命についてさえも、なにひとつ決めることはできないのですから、この強いられた結婚で得た権利に基づいて将来をどのように設計すべきかなどという問題に対して、答があるわけがありません。いっそ、どこか田舎の城に引きこもって狩人として一生を終えるか、どこかの修道院で苦行僧として埋れたほうがいいような気がします」
ナヴァール王が自分の置かれた状況をすっかり諦め、世事に対して執着を示していないので、マルゴはかえって恐ろしくなった。あるいは、シャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスとナヴァール王の間で、この結婚破棄の問題に同意がなされたのではないかと思った。彼らが、彼女を囮《おとり》とか犠牲として簡単に片づけてしまわないと、どうしていえるだろうか。シャルル九世の妹であり、カトリーヌ・ド・メディシスの娘だからといって、それが自分の安全を保証してくれる理由にならないことは、これまでの経験で十分にわかっていた。要するに、この若い妻、というよりも若い王妃は、大きな野心に心をさいなまれていたので、ありきたりの女の弱さというものに安住したまま自尊心のいらだちに身をゆだねるということはできなかったのである。どんな女でも、そして、どれほどつまらない女であろうとも、愛しているときには、愛にはこうした悲惨はない。なぜなら、本当の愛とは、これもまたひとつの野心だからである。
「陛下は」とマルゴは、嘲るような声でたずねた。「王それぞれの額の上に輝いている導きの星というものをあまり信じてはいらっしゃらないのですか?」
「ああ、それは」とアンリは答えた。「いまは、自分の星を求めても無駄だからです。いまのところ、頭上を荒れ狂っている嵐の中にその星は隠れて見えないのです」
「では、もし、女の息吹がその嵐を吹き飛ばして、その星をこれまでになく輝かせたとしたら?」
「それはむずかしい」アンリは答えた。
「そうした女の存在を否定なさるの?」
「否定はしませんが、そうした女性にも力はないと思います」
「それは、女には意志がないということ?」
「ただ力といっているだけです。もう一度、繰り返しましょうか。つまり、女は、実際には、愛と打算が等しい分量で一緒になっているときにしか力を発揮できないということです。そして、その二つの感情のどれかひとつしか心にないときには、アキレスと同じように、傷つきやすい存在なのです。ところで、もしわたしの間違いでなければ、そうした女というものは、その愛情を当てにすることはできないものです」
マルゴは黙ってしまった。
「いいですか」とアンリは続けた。「サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の最後の鐘の音が鳴ったとき、あなたは、わたしの宗派の人間を皆殺しにするための賭金として預けられていたご自分の自由を、取り戻せるとお考えになったにちがいありません。わたしはといえば、考えたのは自分の命を救うということだけでした。それが一番、急を要する問題だったからです。わたしたちは、そのことでナヴァール王国を失うことになります。でもナヴァール王国などは、あなたが、ご自分の部屋で大声で話せる自由を取り戻すことにくらべたらなにほどのものでもありません。もっとも、あなたはその自由をあえて行使なさらなかった。その小部屋の中で話を聞いている人間がいるために」
マルゴは、考えごとにすっかり気をとられていたが、それでも、頬笑まずにはいられなかった。ナヴァール王は、自分の部屋に戻ろうと、すでに立ち上がっていた。というのも、しばらく前に十一時の鐘が鳴り、ルーヴルではだれもが眠りに入っていた、あるいはすくなくとも、その様子だったからである。
アンリはドアのほうへ三歩歩きかけたが、とつぜん立ちどまった。こんな時間に、ナヴァール王妃のところまで出かけてくることになった、その元の状況を思い出したからである。
「ところで」と、彼はいった。「なにか、わたしに伝えたいことがあったんじゃありませんか? それとも、昨日、王の武器室であなたが勇敢に仲裁にはいってくれたおかげで、わたしの命が延びたことを感謝する機会を与えるためにお呼びになったのですか? 本当のところ、間一髪のところで助かりました。そのことは否定しません。あなたはまるで、舞台に舞い降りてくる古代の女神のように、どんぴしゃりのタイミングであらわれて、命を救ってくれたんですから」
「なんてダメな人なの!」マルゴはこもった声で叫び、夫の腕をつかんだ。「なんであなたはわからないの? なにひとつ救われてなんかいないじゃないの、あなたの自由も、王冠も、命さえも! なにも見えていないんだから! まったく、どうかしてるわ、馬鹿もいいかげんにして! わたしの手紙の中に、逢い引きの誘い以外のことを読み取れなかったの? このマルグリットが、あなたの冷たさに腹を立てて、よりを戻そうと願っているとでも思ったの?」
「いや、それは……」アンリは驚いていった。
マルゴはいわくいいがたい表情で、肩をすくめた。
まさに、その瞬間、もののこすれるような鋭く慌ただしい奇妙な音が、秘密のドアのほうで聞こえた。
マルゴはナヴァール王をその秘密のドアの近くに連れていって、口を開いた。
「いい、聞いて」
「カトリーヌ母后がいま部屋を出られました」恐怖でひきつった声がささやいた。アンリはすぐに、それがソーヴ夫人の声だとわかった。
「行き先は?」マルゴがたずねた。
「王妃様のところです」
衣擦れの音が遠ざかった。ソーヴ夫人が逃げていったのだ。
「おお」とアンリは叫んだ。
「思っていたとおりだわ」マルゴがいった。
「恐れていたとおりだ。これを見てください」
アンリはそういうと、黒ビロードの胴衣を開いた。胸の上に、細かい鋼の鎖かたびらとミラノ製の短剣が見えた。彼が抜いて見せると、それは太陽に鎌首をもたげたマムシのように光った。
「ここでも、刀と鎧!」マルゴは叫んだ。「刀は隠しておいてください。たしかに母后がきますが、母后だけですから」
「でも……」
「きたわ、聞こえる、静かに!」
そして、マルゴはアンリの耳のほうに身を傾けて、小声で二言三言ささやいた。ナヴァール王は驚きをまじえながら注意ぶかくそれを聞いた。
アンリはすばやくベッドのカーテンの後ろに身を隠した。
いっぽう、マルゴは豹のような敏捷な身のこなしでラ・モールが震えながら隠れている小部屋のほうに飛んでゆき、ドアを開くと、暗闇の中で若者の手を取った。
「黙って!」マルゴがあまり近くに寄ったので、ラ・モールは彼女のかぐわしい温かい吐息が湿った蒸気のように顔の上を走るのを感じた。
それから、寝室に戻ってドアを閉めると、マルゴは髪をほどき、ドレスの紐をすべてナイフで切って、それをベッドの上に投げ出した。
そのときちょうど、鍵が鍵穴で回った。
カトリーヌ・ド・メディシスはルーヴルのすべてのドアの合鍵をもっているのだ。「どなた?」と、マルゴは叫んだ。カトリーヌ・ド・メディシスはついてきた四人の護衛のうち一人をドアのところに残した。
マルゴは母のこの突然の来訪に驚いたように、白い夜着を羽織ってベッド・カーテンの下から抜け出して、ベッドの下に降りた。そして、カトリーヌ・ド・メディシスだとわかると、手を取って接吻した。その驚き方があまりに巧みだったので、さすがのフィレンツェ女もだまされぬわけにはいかなかった。
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第十四章 第二の初夜
カトリーヌ・ド・メディシスは驚くべき素早さで視線をめぐらせた。ベッドの下のビロードのスリッパ、椅子の上に投げ出してあるマルゴの服、眠気を追い払うためにこすったマルゴの目などから、カトリーヌ・ド・メディシスは娘が目をさましたばかりだと判断した。そこで、カトリーヌは、目論見《もくろみ》に成功した女のように微笑を浮かべながら、肱かけ椅子を引いた。
「あなたもおすわりなさい。すこし、話をしましょう」
「うかがいます」
「もうそろそろいいころだと思うのだけれど」と、カトリーヌ・ド・メディシスは、考えごとをしているか、あるいはなにかを隠したがっている人に特有のゆっくりとした仕草で目をとじると口を開いた。「あなたの兄さんとわたしが、あなたの幸せをどれほど願っているか、そのことをあなたにもちゃんとわかってもらわないと」
カトリーヌ・ド・メディシスを知る人間にとって、この出だしだけで十分に恐ろしかった。
母はなにをいおうとしているのだろうか、とマルゴは考えた。
「あなたを結婚させたことで、わたしたちは、たしかに、統治する者にとってどうしても欠かすことのできない政治行動を果たすことができたわ。でも、これは正直に告白するほかないのだけれど、ひとつ大きな計算ちがいをしたの。それは、ナヴァール王があれほどまでにあなたを嫌っているとは思わなかったことね。あなたはこんなに若くて、きれいで、魅力的なのに」
マルゴは立ち上がって、夜着の襟をなおしながら、母親に恭しくお辞儀をした。
「でも、ようやく、今夜になってそのことがわかったのだから、うかつなものね。そうじゃなかったら、もっと早く、あなたに話しにきていたでしょうに。それはそうと、あなたの夫は、美しい若妻に対する礼儀を失していますよ。おまけに、ただの若妻じゃなくて、フランス王女なんですから、失礼にもほどがあるわ」
マルゴは溜息をもらした。カトリーヌ・ド・メディシスはこの無言の同意で勇気づけられたように先を続けた。
「というのもね、ナヴァール王はわたしの侍女の一人と公然と関係をもっているんですから。侍女のほうでもナヴァール王にのぼせあがっていますよ。おかげで、ナヴァール王は、ひとが祝福して与えた妻をすっかりないがしろにして顧みない。これはわたしたちがいくら全能でも、どうにもしようのない不幸です。どんな貧しい家庭の舅《しゅうと》でも、もしこんなことになれば、婿殿を直接呼びつけて叱責するか、さもなければ、息子に命じて意見させると思いますよ」
マルゴは首をうなだれた。
「もう、だいぶ前から察しはついていたんですよ。あなたの目が赤くはれていたし、ソーヴ夫人にとげとげしい言葉をぶつけていたでしょう。あなたはそれでも、ずいぶん我慢していたようだけれど、心の傷からは、血が流れていたんでしょうね」
マルゴは身を震わせた。ベッド・カーテンがかすかに揺れたからである。だが、さいわいなことに、カトリーヌ・ド・メディシスはそれに気づかなかった。
「そうした心の傷をなおしてやれるのはね」とカトリーヌはたっぷりと愛情を染み込ませた言葉でいった。「母親の手しかないんですよ。わたしたちは、あなたを幸福にするつもりで結婚を決めました。でも、あなたのことが心配で気にかけているうちに、アンリ・ド・ナヴァールが毎晩、行く部屋を間違えていることに気づきました。あの男のような小国の王が、あなたのように美しく地位も高く、価値もある妻をいつもないがしろにしているのを黙って見ているわけにはいきません。あなたの体に指一本触れなければ、子孫だってできないのですからね。ああいう頭のおかしい横柄な男は、なにかちょっとしたきっかけがあれば、わたしたち家族に刃向かって、あなたを家から追い出そうとするにちがいありません。だから、わたしたちは、あの男と別れさせて、あなたの将来を、もっとふさわしいやりかたで確かなものにしてやろうと考えているのですよ」
「でも、お母様」とマルゴは答えた。「お母様のお考えは、どれも母性愛にあふれたお優しいものばかりで、娘としてはかぎりない喜びと誇りを感じますけれど、ナヴァール王はそれでもわたしの夫だとはっきりと申しあげておかねばなりません」
カトリーヌ・ド・メディシスは怒りで体を震わせ、マルゴににじり寄った。
「あの男が? あなたの夫? それなら、夫婦になるには教会の祝福を受けるだけでいいというの? 結婚の秘蹟は司祭の言葉の中にだけあるというの? もしあなたがソーヴ夫人だったら、そういう答もできるでしょう。でも、あなたがアンリ・ド・ナヴァールに、あなたを妻と呼ぶ名誉を与えて以来、あの男は、わたしたちの期待を裏切って、別の女にその権利を与えているんですよ。それに、いま、この瞬間だって」とカトリーヌ・ド・メディシスは声を張り上げていった。
「いいわ、きてみなさい、わたしと一緒にきてみなさい。この鍵で、ソーヴ夫人の部屋をあけてみれば、あなたにもわかるから」
「お母様、お願いです、もっと小さい声で話してください」マルゴはいった。「お母様は考えちがいをなさっていらっしゃいます。それに……」
「それに?」
「夫を起こしてしまいます」
こういうと同時に、マルゴはいとも艶《あで》やかにすっくと立ち上がり、ナイト・ガウンの裾をひきずりながら、ベッドのほうへ歩みよった。半ば開いたナイト・ガウンからは、ふっくらとした理想的な肉づきの腕と、王妃にこそふさわしい手がのぞいていた。そして、ピンク色の蝋燭をベッドに近づけると、ベッド・カーテンを持ち上げて、母親のほうに頬笑みながら、ナヴァール王の、口を半ばあけた、黒髪の、誇りたかい横顔を指で示した。その横顔は、寝乱れたベッドの上で、このうえなく安らかな深い眠りに沈んでいるようだった。
カトリーヌ・ド・メディシスは、突如、足元に深淵が広がったかのように、すさまじい形相をして体を後ろにのけぞらせ、叫び声ならぬ、くぐもった呻きを発した。
「これでおわかりいただけましたか、お母様」とマルゴはいった。「本当のことが」
カトリーヌ・ド・メディシスはマルゴに一瞥を投げ、ついでアンリを見つめた。彼女は、その活発な思考の中で、ナヴァール王の蒼ざめて湿った額と軽い暈《くま》どりのできた目とマルゴの微笑を必死に結びつけ、そして、沈黙の怒りの中で、薄い唇をかみしめた。
マルゴはしばらくのあいだ、母親にこの情景をながめさせておいた。案の定、母親は、メデゥーサのように目を見開いて、髪を逆立てた。ついでマルゴはベッド・カーテンを降ろすと、つま先立ちで母親のそばにもどり、もとの椅子に腰かけた。
「なにか、お言葉は、お母様?」
フィレンツェ女はしばらくのあいだ、この若妻の率直さの真意を推し量るようにしていたが、やがて、マルゴの落ち着きに、彼女の突き刺すようなまなざしも威力を失ったようだった。
「なにもありません」カトリーヌ・ド・メディシスはいった。
そして、大股でマルゴの部屋から出ていった。
カトリーヌ・ド・メディシスの足音が聞こえなくなると、アンリ・ド・ナヴァールは、震える手でマルゴの腕を取り、接吻を浴びせながら、心からの感謝の意をあらわした。
だが、マルゴは、その手をあっさりふりほどくと、感謝すべきはむしろソーヴ夫人にであると述べ、同時に、もうすこし小声で話すように命じた。そして、やおら立ち上がると、小部屋のドアを開け、身を潜めていたラ・モールをナヴァール王に紹介した。
ナヴァール王は一瞬、皮肉っぽい目でマルゴを見つめたが、ラ・モールが例の手紙をもってきた使者であるとわかると、すぐに事情を了解し、ラ・モールにむかって、もう一通、ラングドックの知事からの手紙をもってきてないかとたずねた。
もちろんラ・モールはその手紙をもっていた。だが、ナヴァール王に直接手渡すようにと厳命を受けてきたので、聖バルテルミーの虐殺の前日には渡せなかったのである。
その手紙には、ただちに宮廷を離れるようにという緊急の警告が書かれていた。ナヴァール王は、これを三日前に受け取っていたら聖バルテルミーの虐殺も起こらなかっただろうと悔やんだ。
マルゴはナヴァール王に、過ぎてしまったことを悔やむよりも、未来に目を向けるように諭《さと》し、ラ・モールをどこに匿《かくま》ったらいいかを相談した。
ナヴァール王は自身が囚われの身でもあるので、ラ・モールを引き取ることはできなかった。それに、もうひとつ問題があった。それは、ラ・モールが負傷しているあいだに、ひそかにカトリックに改宗する決心を固めてしまったことだった。彼は、夢の中に亡き母があらわれて自分を導いてくれたので、傷が癒えたら、母の宗教であるカトリックに改宗することにしたというのだ。
マルゴとナヴァール王はともに、ラ・モールの処置に困ったが、そうしているあいだに、まだ傷が完全に癒えていなかったラ・モールはふたたび気を失って倒れた。そこで、しかたなく、マルゴはナヴァール王にこんな提案をした。
「陛下は、今夜、この小部屋の長椅子でお休みください。ラ・モール殿は、陛下の足元にマットを敷いて寝かせることにいたしましょう。わたしは、自室で休ませていただくことにいたします」
そういうと、マルゴは自室に戻り、鍵をしっかりとかけて、ベッドに入った。そのとき、ふと、弟のアランソン公のことが頭に浮かんだ。ラ・モールは、アランソン公の従者にしてもらったらどうだろう。そこで、侍女のジロンヌに、明日の朝、アランソン公を部屋にこさせるように言いつけた。
そして、最後にもういちど、ラ・モールの姿を心に描いて、例の「エロス・クピド・アモール」という合言葉をつぶやきながら目をとじた。
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[結婚の「成立」]
カトリーヌ・ド・メディシスが、マルゴとアンリ・ド・ナヴァールを結婚させておきながら、ソーヴ夫人を使ってアンリをマルゴの寝室から遠ざけたことはすでに述べた。ところで、ここで少し不思議な気がするのは、マルゴとアンリとの結婚は、第三者の立ち会いによって、その「成立」が確認されなかったのだろうかということである。というのも、この時代には、王族の結婚はすべて政略結婚だったので、敵対する二つの国が王子と王女の結婚によって友好的な関係に入るためには、初夜に「実際に」床入りがおこなわれ、新郎新婦が結び付いたことを「証明」する証人が必要とされていたからである。つまり、新婚夫婦の初夜のベッドには、多くの場合、複数の医者からなる証人が立ち会い、「結合」を確認した。たとえば、「一六一五年にスペインの宮廷は王女アンヌと若き国王ルイ十三世との床入りが無事に済んだということを複数の証人が証明することを要求した」(ボローニュ 前掲書)。
こうしたことがおこなわれた背景には、実際の夫婦関係がない場合に限って離婚が認められたという事情があった。あるいは、カトリーヌ・ド・メディシスは、ここでデュマが描いているように、聖バルテルミーの虐殺のあとアンリを娘と離婚させる心づもりでいたため、ソーヴ夫人を婿にあてがったのかもしれない。事実、マルゴが残した回想録『思い出の記』には、「あなたの夫のナヴァール王は、本当に男なのかどうかと母からたずねられました。母はもしそうでなかったら、離婚する方法もあるといいました」とある。
もっとも、マルゴとアンリの結婚が当初うまくいかなかったのは、アンリではなく、マルゴが拒否したためだと思われる。
その最大の原因は、ベアルヌ地方の田舎者アンリ・ド・ナヴァールの体臭にあったといわれる。
まずアンリは、デュマも書いているように、強烈な腋臭《わきが》だったうえに、風呂に入ったり、体を拭う習慣をまったくもっていない野育ちの男だったので、足が異常に臭かった。さらに、南フランス独特のニンニクをふんだんに使った料理を好んで食べたので、口臭も猛烈だった。ひとことでいえば、アンリ・ド・ナヴァールは悪臭の三冠王だったのである。
いっぽうマルゴは、ジャスミン香の匂いを絶やさぬ清潔好きの女性だったので、いかに頭ではアンリの長所を理解したとしても「鼻」のほうがベッドをともにすることを許さなかったにちがいない。実際、マルゴは『思い出の記』で、アンリの口臭がひどかったことをそれとなく語っている。
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第十五章 女が望むことは神も望む
娘にまんまといっぱい食わされたカトリーヌ・ド・メディシスの怒りは、侍女のソーヴ夫人に向けられた。
カトリーヌは、マルゴの部屋を去ったその足でソーヴ夫人の部屋を訪れると、鳩に襲いかかるヘビのような視線で彼女を見すえ、ナヴァール王がこないことを知っていたのではないかと激しく問いつめた。
だが、ソーヴ夫人はよく耐えた。カトリーヌ・ド・メディシスは最後に、ナヴァール王を愛しているなら、イタリア女のように嫉妬深くなければならないという謎の言葉を残して立ち去った。
いっぽう、翌朝、目をさましたマルゴは、ナヴァール王の従者たちを呼びいれ、王の上着が自分のベッドの上に残っているところをわざと見せつけるようにした。カトリーヌ・ド・メディシスを騙すには、まず、自分たちの従者から騙さなければならないと思ったからである。
やがて、アランソン公が部屋に入ってきた。マルゴはアンリ・ド・ナヴァールを見て驚いているアランソン公にはおかまいなく、前の晩に考えた、ラ・モールを弟の従者にするという件を切り出した。アランソン公は、ラ・モールが美男なのを見て激しい嫉妬を感じたが、姉の頼みとあらば、聞き入れないわけにはいかない。こうしてラ・モールはアランソン公の従者となった。
聖バルテルミーの日に始まったユグノーの虐殺はようやく下火になっていた。というよりも、虐殺すべき新教徒がいなくなってしまったといったほうがよかった。パリの大部分のプロテスタントは殺されたが、パリを逃げ出すことに成功した者もすくなくなかった。
それでも、ときどき、パリに身を隠していたプロテスタントが発見されて処刑されることもあった。シャルル九世は、こうしたユグノー狩りには、イノシシ狩り以上に熱狂した。自分で処刑の現場に立ち会えなくなると、たんに他人のユグノー狩りの話だけでもおおいに喜んだ。
ある日、シャルル九世は母親の部屋に入ってくると、満面に笑みをたたえながら、ガスパール・ド・コリニー提督の首なし死体がモンフォーコンの刑場に晒されているというニュースを伝え、天気もいいことだから、ひとつみんなでピクニックを兼ねて死体見物に出かけないかと提案した。カトリーヌ・ド・メディシスは、息子の健康が心配だったが、あまりに息子がはしゃいでいるので同意を与えた。シャルル九世は喜びいさんで部屋を出ていった。入れちがいに、一人の男が入ってきた。それは、あのフィレンツェ人の調香師ルネだった。
ルネはお辞儀をした。
「昨日、あなたに手紙を送ったけれど受け取った?」
「たしかに」
「では、頼んでおいたあの占いをやり直してくれたのね? たしかに、ノストラダムスは、わたしの三人の息子が王位につくが、やがてアンリ・ド・ナヴァールがフランスに君臨するだろうと予言したし、リュグジエリのやったあの占いもぴったり同じだったわ。でも、ここ数日で、事態は大きく変わったから、運命もすこしは不吉なものでなくなったかもしれないと思って」
「奥様」と、ルネは首を横に振りながら答えた。「ご存じのように、事件は運命を変えることはありません。逆に、運命が事件を支配しているのです」
「それでも、占いをやり直してみてはくれたんでしょ?」
「はい、奥様。ご命令に従うのが、わたくしの第一の義務でございますから」
「で、どんな結果が出たの?」
「同じでございます、奥様」
「なんですって! 黒い子羊はまた三回鳴いたの?」
「さようでございます」
「我が家の三人が残酷な死に方をするという前兆ね!」カトリーヌ・ド・メディシスはつぶやいた。
「残念ですが!」
「でも、そのあとは?」
「そのあとは、すでに前の二回の占いのときに気づいたとおり、子羊の内臓にあの、奇妙な肝臓の転位が見られます。肝臓は反対方向に垂れているのです」
「王朝の交替ね。いつも、いつも、いつも同じなのね」カトリーヌは唸った。「それでも、その運命と戦わなくちゃならないわ」
ルネは首を横に振った。
「申しあげましたとおり、すべては運命が支配しております」
「それがあなたの考えね?」
「さようでございます、奥様」
「じゃあ、ジャンヌ・ダルブレについての占いのことは覚えている?」
「はい、奥様」
「もう一度いってみてくれない? わたし忘れてしまったから」
「| Vives honorata《ウィーウェース・ホノラータ》,| morieris reformidata《モリエリス・レフォルミダータ》,| regina《レーギーナ・》 |amplificabere《アンプリフィカベレ》でございます」
「それはたしか『尊ばれて生き、恐れられて死に、女王としてあったときよりも偉大になるであろう』という意味ね。まず、『尊ばれて生きるであろう』だけど、あの人は、かわいそうに、尊ばれるところか、必要なものにも事欠くありさまだったわね。『恐れられて死ぬであろう』だけれど、わたしたちは、まったくあの人のことなんか気にしていないもの。最後の『女王としてあったときよりも偉大になるだろう』についていえば、たしかに、あの人の偉大さは墓石の中にはあるでしょう。でもその墓石に名前を刻むことさえ忘れているわ」
「失礼ではごさいますが、奥様は|Vives honorata《ウィーウェース・ホノラータ》を誤訳なさっておられます。ナヴァール女王は、実際に尊ばれておられました。と申しますのは、生前、子供たちからは愛され、宗派の者たちからは尊敬されておられたからです。そして、ナヴァール女王が貧しくあればあるほど、その愛と尊敬は真剣なものでありました」
「それはそうかもしれないわ」カトリーヌ・ド・メディシスは答えた。「じゃあ、|morieris《モリエリス・》 |reformidata《レフォルミダータ》 はどう訳すの、やってみて」
「説明するまでもございません。『恐れられて死ぬであろう』でございます」
「でも、どうなの? 恐れられて死んだかしら?」
「はい、非常に恐れられていらっしゃいました。もし奥様があれほどにお恐れになりませんでしたら、女王も亡くなられることもございませんでしたでしょう。最後は、より正確には、『女王としてあったときよりも、女王としてより偉大になるだろう』でございます。これもまた、真実以外のなにものでもございません。と申しますのは、はかない王冠のかわりに、おそらく、いまごろは殉教の女王として天の王冠を授けられていることでございましょう。そればかりか、この地上においても、未来がナヴァール女王の子孫に約束されているかもしれません」
カトリーヌ・ド・メディシスは極端なほどに迷信深かった。だから、予言が変わらないことよりも、ルネの冷静さのほうが恐ろしかった。そして、彼女にとって窮地というのは、大胆に状況を乗り越えるためのひとつの機会にすぎなかったので、とつぜん、ルネにむかってなんの前触れもなく、自分の考えていることをいきなり口に出していった。
「イタリアから香水は届いたの?」
「はい、奥様」
「じゃあ、一壜送ってちょうだい」
「どちらのものでございましょう?」
「このあいだの……」
カトリーヌ・ド・メディシスは言葉をとぎらせた。
「ナヴァール王妃がことのほかお気にいりだったものでございましょうか?」
「そう、それよ」
「それでしたら、わざわざ調合するまでもございません。奥様は、手前どもと同じくらいお詳しいはず」
「そう思う? 要は、うまくいけばいいのよ」
「ほかに、ご用はございませんでしょうか」調香師がたずねた。
「ないわ、いまのところ」とカトリーヌ・ド・メディシスは、なにか考えながらいった。「ないと思うわ。ただ、もし占いでなにか新しいものが出たら知らせてちょうだい。それはそうと、今度は、子羊はやめて、鶏でやってみて」
「お言葉ではございますが、奥様。牲《いけにえ》の動物を変えてみても、予言に変化は起こらないと思いますが」
「いいから、やってみて」
ルネは一礼して、その場を辞去した。
カトリーヌ・ド・メディシスはしばらく椅子にすわって考えごとをしていたが、やおら立ち上がると、寝室に戻った。そこには、侍女たちが主人を待っていた。カトリーヌ・ド・メディシスは明日、モンフォーコンに行幸することを告げた。
モンフォーコンヘの行幸の知らせで、宮廷は上へ下への大騒ぎとなった。男も女も、宮廷人はみなめかしこんで行幸に参加した。
ラ・モールはアランソン公の部下となったが、アランソン公からはあまり好ましく思われていなかったので、包帯を代えにくる名医のアンブロワーズ・パレ以外に訪れる者とてなく、終日、寝たきりで放っておかれた。だから、行幸の知らせを聞いたとき、ラ・モールは久しぶりにマルゴに会えると考えて、おおいに胸をときめかした。アランソン公は、ラ・モールの健康のことなど気づかっていなかったので、簡単に参加の許可を与えた。ラ・モールは家からもってきた金で衣装を整え、見事な若武者に変身した。思いきってサクランボ色に染めたマントはことに彼に似あっていた。
これと同じようなことがギーズ館でも起こっていた。すなわち、傷の癒えたココナスが、行幸に参加するため、顔の傷を目立たぬものにしようと苦心していた。ココナスは中庭で太陽の光を浴びることによって、傷を日焼けで目立たなくすることに成功した。
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第十六章 死んだ敵の死体はいつでもいい匂いがする
ルーヴルの中庭に集まった行幸の一行は、みな贅《ぜい》の限りを尽くして着飾っていた。アンリ・ド・ナヴァールも一行に加わっていた。参加するかどうかたずねられたとき、彼は、カトリックになった以上、行幸に加わるのは当然だと答えた。
王を先頭にした騎馬行列がルーヴルを出発した。パリの通りでは、民衆が王の行列に喝采を送った。
もちろん、マルゴとヌヴェール公爵夫人も馬に乗って、行幸の中にいた。二人は、それぞれ保護している若者のことを語り合った。ラ・モールとココナスが出会ったらまた殺し合いを始めるのではないかと心配だった。行幸中にその心配はあやうく的中しそうになったが、ラ・モールもココナスも、さすがに場所柄を弁《わきま》えていたので、にらみあいだけで我慢した。
モンフォーコンの刑場のいちばん大きな十字架に、ガスパール・ド・コリニー提督の首なし死体が逆さづりにされていた。首のかわりに、だれかが藁で作った頭を置き、提督のふだんのクセをまねて、そこにつま楊枝をさしていた。
この陰惨な光景を前に、着飾った宮廷人たちが笑いさんざめきながら行列しているのは奇妙な眺めだった。とりわけ、アンリ・ド・ナヴァールにとって、無残な提督の姿を見ていることはつらかった。そこで、彼は、死体の臭いがひどいのでシャルル九世に現場を離れさせてくれるように懇願した。するとシャルル九世はこう答えた。
「わたしはそうは思わない。死んだ敵の死体はきまっていい匂いがするものだ」
シャルル九世はそこで、得意の詩を即席につくって披露した。
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ここに提督、眠れりと、いうのはあまりに、誉めすぎだ
どうせなら、ここに提督、逆さづり、頭なくして
とでもいうのが、正解か
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「ブラヴォー」という歓声が一斉にあがった。だが、さすがに死臭は一同の鼻についた。そこで、カトリーヌ・ド・メディシスは行列の先頭に立って、帰りの合図をした。
太陽は、地平線に沈もうとしていた。
全員がモンフォーコンを立ち去ったあとで、たった一人提督の死骸の前に残ってそれを眺めている者があった。ココナスだった。だが、すぐにココナスの後ろに、もう一人の騎士があらわれた。ラ・モールだった。二人は最初、憎悪を抑えて皮肉な会話をかわしていたが、やがて、案の定、口喧嘩は、本格的な決闘に変わった。そのとき、丘の上に、マルゴとヌヴェール公爵夫人があらわれ、二人に声援を送った。しかし、ラ・モールとココナスが本気で殺し合っていることに気づいた二人の貴婦人は、すぐに真っ青になった。彼女たちが仲裁に崖をかけ降りたときには、時すでに遅かった。ラ・モールもココナスも深い傷を負いほとんど虫の息だった。マルゴもヌヴェール夫人も泣き叫んだが、もはや手遅れのようだった。
そんなとき、どこからともなく、ユグノーたちの死体を積んだ荷馬車があらわれた。車を引いていたのは、パリ市の首切り役人、カボッシュ親方だった。マルゴはそれを見ると、積んでいる死体をすぐに捨てて、この二人の若者をルーヴルまで運ぶよう命じた。
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第十七章 アンブロワーズ・パレの同業者
ラ・モールとココナスは、ともにルーヴルのアランソン公の居室で治療を受けることになった。ヌヴェール公爵夫人の夫が戻ってきていたので、ココナスをギーズ館に置いておくことはできなかったのである。
二人はさっそくアンブロワーズ・パレの診察を受けた。パレは、ココナスは肺まで傷が届いていたので、回復を保証しなかった。
いっぽう、内臓に損傷を受けていなかったラ・モールは順調な回復を見せ、しばらくすると、病室の中を歩けるようになった。
意識が混濁して、現実と幻覚を混同していたココナスは、殺したはずのラ・モールが生き返ってまた自分を殺しにきているのだと思いこんだ。そこで、ベッドのわきにあった短剣をひそかに枕の下に置いて、襲われたらいつでも逆襲してやろうと考えた。
ある日、ココナスは、ラ・モールの幻影が服を身につけ部屋を出ていくのを見て、ようやく幻覚から解放されたと思ったが、ラ・モールの幻影は二時間後に、もうひとつの幻影を連れてもどってきた。その新しい幻影はココナスを診断して、アンブロワーズ・パレの処方を断罪し、ラ・モールに新しい薬を自分のところまで取りにくるよう命じた。
真夜中に、ラ・モールがココナスに薬を飲ませようとしたとき、ココナスはついに相手が襲ってきたと思いこんで、枕の下から短剣を引き出し、ラ・モールに切りかかろうとしたが、すんでのところで力つきた。
ラ・モールはココナスの上体を腕の中に抱え、処方された薬を口に含ませた。そのとたん、ココナスの肺は生気を取り戻した。ココナスは呼吸が楽になったのを感じ、目を開いた。ラ・モールの頬笑んでいる顔が見えた。
翌日、ココナスを診察したアンブロワーズ・パレは驚異の回復に驚き、「わたしが処方したなかでももっとも成功した部類に入る」と語った。
以来、ラ・モールとココナスは刎頸《ふんけい》の友となった。
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第十八章 死んだはずの男たち
健康を取り戻すにしたがって、ラ・モールとココナスの心に、ふたたびマルゴとヌヴェール公爵夫人の面影が蘇ってきた。病床にあるあいだ、つねに篤い看護の手が差しのべられていたが、それは、アランソン公の手ではありえなかったので、二人は、その匿名の保護者はマルゴとヌヴェール夫人にちがいないと思った。だが、彼女たちに連絡をとりたくても、二人にはその方法がまったく見つからなかった。第一、まだ、外出の許可がアンブロワーズ・パレから出ていなかった。
その許可が出たとき、二人は、まず三人の人物を訪れることにした。
最初は、ココナスの命を救ってくれた謎の人物である。
二番目は、ド・ムイの隠れ家を襲撃したときに、火縄銃の弾丸を受けて死亡した『星空亭』の主人ラ・ユリエールの未亡人である。二人は『星空亭』に馬とトランクを預けっぱなしにしていたので、これを取りにいく必要があったのだ。
三番目は、調香師のルネである。ルネは香水や毒薬のほか媚薬も作り、恋占いもしてくれるという噂なので、二人はぜひとも、自分たちの恋を占ってもらおうと思った。
ココナスの命の恩人の家は、レ・アール(中央市場)近くの広場にあった。それは八角形の奇妙な建物で、八つの面に大きな窓が開いていて、中が四方八方からのぞけるようになっていた。真ん中には、回転する晒し台があって、首と手を穴から突き出した極悪人が何人か晒し者にされていた。
ココナスはもともと残酷なことが好きな人間なので、晒し者にされている罪人の死体をおもしろがってながめていたが、ラ・モールから恩人はこの家に住んでいると教えられてびっくりした。
ココナスが感謝の気持ちをあらわすために手を差しのべると、恩人の男は、わたしがだれか知っているなら、握手はできないだろうと答えた。ココナスが、相手がたとえ悪魔だろうと自分は握手すると述べると、男はこういった。
「わたしは、パリ市の首切り役人のカボッシュ親方です」
ココナスは思わず手を引っ込めたが、すぐに思いかえしてしっかりと相手の手を握った。カボッシュ親方は感激して、いろいろと興味深い話を聞かせてくれた。ココナスの質問に答えて、身分の低い罪人の処刑は見習いに任せているが、身分の高い罪人を処刑するときは自分できっちりと最後まで面倒をみるという話もした。それを聞いたココナスは、背筋に冷たいものが走るのを感じたが、同時にそれを恥じる気持ちもあったので、最後に冗談でこういった。
「もし、わたしが処刑台にのぼるようなことがあったら、ぜひあなたにお頼みしたい」
「もちろん、お約束します」カボッシュ親方は請けあった。
ココナスもラ・モールも気分が悪くなったので、早々に親方の家を辞去した。だが、そのときは、二人とも、まさか親方が本当に約束を守ろうとは思いもかけなかった。
アルブル=セック街の『星空亭』は、主人のラ・ユリエールが亡くなったはずなのに、あいかわらず、同じ看板を掲げて繁盛していた。ラ・モールとココナスが馬と荷物を取りにきたと伝えると、おかみさんは自分ではわからないからと亭主を呼んだ。出てきたのは、死んだはずのラ・ユリエールだった。彼はびっくりして、もっていた鍋を落としてしまった。ラ・ユリエールのほうでも二人は死んでしまったと思っていたのだ。ラ・ユリエールは鉄兜をかぶっていたおかげで、命拾いしたのだった。
ココナスが馬と荷物はどうしたとたずねると、ラ・ユリエールは、二人の客は死んだものと思って、馬も荷物も処分してしまったと答えた。一瞬、両者の間に険悪な空気が流れたが、ラ・モールのとりなしで、この界隈に二人がきたときはいつでも、ラ・ユリエールが無料で食事を提供するという条件で折り合いがついた。
二人は、聖バルテルミーの虐殺の夜と同じテーブルについて、ラ・ユリエールの作ったオムレツを食べた。
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第十九章 カトリーヌ母后御用達の調香師のルネの居室
この物語が展開する時代には、パリにかかる橋はまだ五つしかなかった、ムニエ橋、ポント=シャンジュ、ノートル=ダム橋、プチ=ポン、サン=ミッシェル橋である。そしていずれの橋も、今日のフィレンツェのポンテ=ヴェッキオのように、両側にずらりと建物がたちならんでいた。
このうちのひとつ、サン=ミッシェル橋の真ん中に、一軒、目立たぬ商店があった。その青い正面には小さな文字でこう書かれていた。
『フィレンツェ人の調香師のルネの店、母后陛下御用達』
この店の不吉な評判のおかげで、両脇の店には借り手がつかず、空き家になっていた。店の前を通る通行人は、中で調合されている毒薬を吸い込むのではないかと恐れて、そこだけ大きく弧を描いて歩いていった。
香水や化粧品を販売する店舗は一階にあり、店員が二人店番をしていたが、ふだんはこの薄暗く陰気な店を訪れる客はほとんどいなかった。
二階は一階の店舗と同じ大きさだったが、真ん中のドア・カーテンで二つの部屋に分かれていた。最初の部屋には外階段が通じ、もうひとつの部屋には秘密の階段が通じていた。この秘密の階段はカトリーヌ・ド・メディシスにしか知られていなかった。
二階の部屋は、エジプトの鳥の剥製、ミイラ、ワニ、骸骨などの装飾とともに、香水壜や化粧品の小箱が壁全体を覆っていた。
夜の九時だった。ルネは一人で腕組みをしながら、大股で二番目の部屋の中を歩き回っていた。だれかを待っている様子だった。橋の上に足音が聞こえた。ルネは店の外に通じる長い管のようなものに耳を当てた。歩き方からすると男に間違いなかった。客の声がした。
「どなた?」ルネがたずねた。
「アニバル・ド・ココナスだ」「ルラック・ド・ラ・モールだ」
二人は、ルネが小さな蝋人形を使って顧客の恋を成就させるという評判を聞いて、この店にやってきたのだった。ルネはラ・モールに、愛する人の名を唱えるように言いつけて、隣の部屋に消えた。
戻ってきたとき、ルネは小さな蝋人形を手に握っていた。その人形には王冠がかぶせられ、マントを羽織っていた。ルネは水差しの中に指先を突っ込むと、呪文を唱えながら、水滴を人形の頭にたらした。
神を冒涜しているような気がして恐ろしくなったラ・モールが、それは何の意味かとたずねると、ルネは答えた。
「この人形にマルグリットという名をつけたのです」
「なんのために?」
「共感を与えるために」
ルネは、小さな赤い紙帯の上にカバラの呪文を書き込み、それを針の先につけると、その針で人形の心臓の上をつついた。すると、驚いたことに、傷口から血が一滴流れだし、赤い紙帯に火がついた。その熱で暖められた針は傷口のまわりの蝋を溶かした。ルネが口を開いた。
「ご覧のように、共感の力であなたの愛は愛する女性の心臓を射ぬいて火をつけたのです。さあ、今度は、人形の唇にあなたの唇を圧し当てて、『マルグリット、愛している』と唱えなさい」
ラ・モールはいわれたとおりにした。
そのとき、もうひとつの部屋でドアの開く音がして、床を踏む足音が聞こえた。ドア・カーテンの隙間からのぞいたココナスはその場に立ちすくんだ。ヌヴェール公爵夫人とマルグリット・ド・ナヴァールがそこにいたのだ。
ラ・モールはルネの魔法でマルゴの幻影があらわれたと思ったが、より散文的なココナスはただちにそれが現実だということを悟り、いまこそ、恋の告白をするチャンスが到来したと判断した。
だが、さすがの彼も、ヌヴェール公爵夫人に直接告白するのは気がひけたので、友の代理としてマルゴに恋の告白をしてやるという形をとることにした。つづいて、ラ・モールがヌヴェール公爵夫人に同じことをした。結果は大成功だった。
しかし、二組の恋人たちが抱き合おうとしたまさにそのとき、ルネがあらわれて「静かに!」と叫んだ。マルゴは「こんなときにここに入ってくる権利のある人間はだれもいないはず」と言い返したが、ルネは逆にこうたずねた。
「母后様でもですか?」
恋人たちはあっというまに姿を消した。
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第二十章 黒い雌鶏
二組の恋人たちは危ういところで姿を消すことができた。カトリーヌ・ド・メディシスが秘密のドアの鍵穴に鍵を差し込むのと、ココナスとヌヴェール公爵夫人が奥のドアから出ていくのとはほとんど同時だった。カトリーヌ・ド・メディシスは部屋に入ったとき、彼らが階段を軋ませていく音を耳にした。
彼女は探るような目つきで部屋を眺めまわし、最後に、ルネの上に疑りぶかい一瞥を投げた。ルネは深々とお辞儀をした。
「だれがいたの?」
「恋人たちでございます。愛しあっていることがわかって、満足して帰っていきました」
「なら、いいわ」カトリーヌ・ド・メディシスは肩をすくめていった。「もうだれもいないでしょうね?」
「陛下とわたくしだけでございます」
「頼んでおいたことをやってくれた?」
「黒い雌鶏のことでございますか?」
「そうよ」
「準備はできております」
「ああ、あなたがユダヤ人だったらね!」カトリーヌはつぶやいた。
「わたくしが、ユダヤ人? なぜでございましょうか?」
「たぶん、あなたも、牲《いけにえ》についてヘブライ人が書いた稀覯本《きこうぼん》のことは知っているわね。わたし、その一冊を翻訳させたの。そうしたら、ヘブライ人たちが前兆を読み取るのは、ローマ人のように心臓や肝臓の中じゃなくて、脳の中なのね。運命の全能の手によって書き込まれる文字は脳の中にあらわれるのよ」
「はい、そのことは、わたくしも、友人の老いたラビから聞いたことがございます」
「こうやって描かれる文字だけが予言的な道を開くという話ね。ただカルデアの学者たちは、占いは……」
「占いは? どのような動物でおこなえと?」母后が言葉を続けるのをためらっているのを見たルネはたずねた。
「占いは人間の脳でやるべきだといっているわ。人間の脳は、いちばん発達しているので、占いを頼む人の意志にそれだけ共感するのだそうよ」
「なんということを!」ルネはいった。「陛下も、それが不可能なことはご存じのはず!」
「不可能じゃなくて、むずかしいだけね」カトリーヌ・ド・メディシスは答えた。「だって、聖バルテルミーの日だったら、それも可能だったはずだから。さぞや、いっぱい収穫があったことでしょう。今度、死刑囚が出たら、そのときは試してみましょう。でも、さしあたっては、可能な範囲でやるしかないわね。牲《いけにえ》の部屋は用意できているの?」
「もちろんでございます、奥様」
「じゃあ、始めましょう」
ルネは奇妙な物質から作られた蝋燭に火をつけた。きつくてツンと鼻をさすような匂いが漂った。胸がむかつくような、いがらっぽい匂いでもあった。数種類の物質が材料に使われているのは明らかだった。ルネは、カトリーヌ・ド・メディシスの足元を照らしながら、先に立って、屋根裏の小部屋へと案内した。
カトリーヌ・ド・メディシスは牲をさばくための器具の中から、青く光る鋼鉄のランセットを自分で選び出した。いっぽう、ルネは部屋の隅で目をまるくしている二羽の雌鶏のうち一羽をつかまえた。
「どうやってやればいいの?」
「一羽のほうで肝臓を、もう一羽のほうで脳を調べます。もし両方の占いで同じ結果が出れば、それを信じなくてはなりません。とりわけ、その結果が前の占いと同じ結果のときには。どちらから始めましょう?」
「肝臓のほうからいってみるわ」
「承知いたしました」
そういうと、ルネは雌鶏を小さな牲《いけにえ》台のようなものの上に置いた。その台の両端にはそれぞれ環のようなものがついていて、仰向けに寝かされた動物はいくらもがいても動けないようになっていた。
カトリーヌ・ド・メディシスはランセットを一振りして雌鶏の胸を裂いた。雌鶏は三度鳴いて、かなり長いあいだもがき苦しんで息絶えた。
「また三回鳴いたわ」カトリーヌはつぶやいた。「三人死ぬという予兆ね」
ついで、彼女は雌鶏の体を開いた。
「肝臓が左に垂れている。また左ね。三人の死のあとに、王朝が滅びるということだわ。恐ろしいわ」
「第二の牲の占いが最初の牲のそれと一致するかを調べなくてはなりません、奥様」
ルネは雌鶏の死体を片づけると、それを部屋の隅に放った。次に、二羽目の雌鶏をつかまえようとしたが、雌鶏は仲間の死を見ていてみずからの運命を悟ったのだろうか、小部屋の中を走り回って、追っ手から逃げようとした。そして、隅に追い詰められると、突然ルネの頭の上に飛び上がった。その拍子に、カトリーヌ・ド・メディシスが手にもっていた謎の蝋燭の火が消えた。
「いまの見た? ルネ」と母后はいった。「こうやってわたしたち一族の血が途絶えるのね。死がわたしたちの上に吹いて、一族はこの地上から姿を消すんだわ。三人の息子が!」と悲しげに彼女はつぶやいた。
ルネはカトリーヌの手から火の消えた蝋燭を受け取ると、脇の部屋に行ってふたたび火を灯した。
戻ってきたとき、雌鶏は漏斗《ろうと》の中に首を突っ込んでいた。
「今度は、鳴き声がしないようにやってみるわ」とカトリーヌ・ド・メディシスはいった。「一息に首を掻き切るから」
そして、実際、雌鶏が牲台にくくりつけられると、彼女は言葉どおり、一撃のもとに雌鶏の首を掻き切った。だが、断末魔の痙攣のなかで、雌鶏の嘴は三度開いて、その後は二度と開かなかった。
「見た?」と、カトリーヌは恐怖に満ちた声で叫んだ。「三度鳴くかわりに、三回吐息を吐いたわ。三回、また三回よ。息子たちは三人とも死ぬのね。どんな牲を選んでも、死ぬ前に、三度、数えたり呼んだりするわ。さあ、今度は、頭の中の予兆を見てみましょう」
そういうと、カトリーヌ・ド・メディシスは血の気の失せた雌鶏の頭をつかむと、注意深く頭蓋骨を開き、脳の胚葉が見えるようにそれを二つに割った。そして、脳髄が分かれる部分にあらわれる血のうねりの上になんらかの文字の形を読み取ろうとした。
「また同じ」と、彼女は両手をたたきながら叫んだ。「今度は、予兆は前よりもずっとはっきりしているみたい。ちょっと見て」
ルネは顔を近づけた。
「この文字はいったいなに?」カトリーヌはひとつのしるしを指さしながらたずねた。
「Hですね」ルネは答えた。
「何回繰り返されているの?」
「四回です」
「あっ、そう。あれね? わかったわ、アンリ(Henri)四世ね。ああ、なんてことかしら!」彼女はランセットを放り投げながら唸り声をあげた。「わたしは後世までも呪われている」
死体のように蒼ざめた女が蝋燭の不気味な光に照らされて、血まみれの手を握りしめている姿はおどろおどろしいものがあった。
「あの男は王位につくわ」彼女は絶望の吐息を漏らしながらいった。「王位につくんだわ」
「たしかに、彼は王位につきます」深い夢想に沈みこんでいたルネが繰り返した。
だが、まもなく、カトリーヌ・ド・メディシスの顔からその暗い表情が消えた。どうやら、彼女の脳の奥になにか素晴らしい思いつきが浮かんだようである。
「ルネ」そういうと、カトリーヌはうなだれた首を回すことなく、ルネのほうに手を差しのべた。「ルネ、あなた知ってるでしょ。軟膏を使って、娘と娘の愛人を同時に毒殺したペルジアの医者の話を」
「はい、奥様」
「その愛人っていうのは?」カトリーヌはあいかわらず、なにか考えながら言葉を続けた。
「ラディスラス王でございます、奥様」
「あっ、そう、そうだったわね」彼女はつぶやいた。「あなた、その話について、なにか詳しいこと知っている?」
「その事件を論じた古い本をもっております」ルネは答えた。
「あら、そう。じゃあ、別の部屋に移りましょう。その本、わたしに貸してちょうだいね」
二人は小部屋をあとにした。ルネはドアに鍵をかけた。
「なにか、ほかに、牲で占いをすることはございませんか?」ルネはたずねた。
「ないわ、なにもないわ、ルネ。いまのところ、もう十分にわかったわ。あとは、死刑囚の頭が手にはいるのを待つだけね。処刑の日に、あなたそれを首切り役人から手にいれてちょうだいね」
ルネは同意のしるしに頭を下げた。それから、手に蝋燭をもって、本が並べてある棚に近づくと、椅子に乗って一冊の本を取り出し、それを母后に差し出した。
カトリーヌ・ド・メディシスはその本を開いた。「これはなに?」彼女はいった。「『隼《はやぶさ》、鷹、白隼が勇敢で戦闘的になり、いつでも飛び立つように、育て、餌付けする方法について』」
「あっ、失礼いたしました、奥様。まちがえました。それは、かの有名なカストルチオ・カストラカーニのために、ルロワという学者が著した狩猟の概論でございます。同じ装丁の本が二冊並んでおりましたものでまちがえてしまいました。それもとても貴重な本でございます。この世に三部しか存在しておりません。一冊はヴェネチア図書館に、もう一冊は陛下のご先祖のロレンツォ様がお買いになられました。その本はシャルル八世がフィレンツェにお寄りになられたとき、ピエトロ・ディ・メディチによって王に献呈されました。三冊目が、これでございます」
「なるほど、立派な本ね」カトリーヌ・ド・メディシスはいった。「稀覯本ね。でも、いまは必要ないから、お返しするわ」
そして、彼女は左手で最初の本を返し、右手をルネのほうに差し出して、もう一冊の本を受け取ろうとした。
今度は、ルネもまちがえてはいなかった。それは、まさに彼女が求めていた本だった。ルネは椅子から降りると、本をしばらくめくってから、開いたまま彼女に渡した。
カトリーヌ・ド・メディシスはテーブルのところに行ってすわった。ルネは彼女の近くに謎の蝋燭を置いた。その青い光で、カトリーヌは何行かを小声で読んだ。
「もういいわ」本を閉じながら、彼女はいった。「知りたかったことは全部読んだから」
カトリーヌ・ド・メディシスは本をテーブルの上に残すと、まるで本から学んだ思いつきだけを心の底にしまいこんで持ち帰ろうとするかのように立ち上がった。いずれ、その考えは熟成していくにちがいない。
ルネは蝋燭を手にしたまま待機していた。帰りじたくを始めた母后が彼に新しい命令を出したり、別の質問をするのを待っているのである。
カトリーヌは、頭を垂れ、唇に指を当て、沈黙を守ったまま、数歩進んだ。
ついで、ルネの前でとつぜん立ちどまると、顔を上げ、猛禽のような丸く鋭い目でルネを見つめた。
「正直にいいなさい、あの女のためになにか媚薬を作ってやったんでしょう?」
「だれのためにでございましょう?」
「ソーヴ夫人よ」
「このわたくしがでございますか?」ルネはいった。「めっそうもない」
「一度も?」
「魂にかけて誓います」
「でも、なにかまじないぐらいはかけてやったのでしょう? だって、あの男、彼女を気が狂ったように愛しているんだから。浮気っぽくて有名なあの男がね」
「それはだれのことでございましょう?」
「彼よ、あの呪われたアンリ、わたしの三人の息子たちのあとを襲って王位に就き、アンリ四世と呼ばれることになるあの男よ。でも、あれは、ジャンヌ・ダルブレの息子だからね」
カトリーヌ・ド・メディシスはこの最後の言葉をいうと、大きく溜息を吐いた。その吐息はルネを震えさせた。というのも、それは、カトリーヌ・ド・メディシスの命令でナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレのために作ったあの有名な手袋を思い出させたからだ。
「では、ナヴァール王は彼女のところにあいかわらず通っていらっしゃるのですか」とルネはたずねた。
「そう、いつでも」カトリーヌは答えた。
「しかし、聞いた話ではございますが、ナヴァール王は奥様のところにお戻りになられたとか?」
「とんだ茶番よ、ルネ、茶番なの。なんの目的だかはよく知らないけれど、あれはわたしの目を欺くために仕組まれた芝居なのよ。娘のマルグリットまでがわたしに逆らっているんだから。たぶん、あの子は兄たちが死んで、フランス王妃になるのを夢見ているのよ」
「あるいは、そうかもしれません」もの思いに耽っていたルネはカトリーヌ・ド・メディシスの恐るべき疑念に無意識に同意してしまった。
「まあいいでしょう。いずれわかることだから」
そういうと、彼女は、わざわざ秘密の階段を使うまでもないと判断したのか、部屋の奥のドアのほうに歩いていった。自分一人しかいないと確信していたからだ。
ルネは彼女の前に立って歩いた。ややあって、二人は、階下の香水店の中にいた。
「あなた、わたしの手と唇のために新しい化粧品を調合してくれるって約束してたわね、ルネ」と彼女はいった。「もうじき、冬がくるわ。わたしの肌が寒さに弱いことは知ってるでしょう?」
「もう調合に取りかかっております、奥様。明日、まちがいなくお届けいたします」
「明日の晩は、九時か十時過ぎでないといないわ。日中はお祈りがあるから」
「承知いたしました、奥様。ルーヴルには九時にまいります」
「ソーヴ夫人は手も唇もきれいだけど」とカトリーヌはなにげないふうを装ってたずねた。「どんな化粧品を使っているの?」
「手にでございますか?」
「ええ、最初は、手の化粧品のことを聞きたいわね」
「ヘリオトロープのクリームです」
「じゃあ、唇は?」
「唇には、わたくしが調合いたしました新しいクリームをお使いのご予定です。明日、お伺いいたしますときに、母后さまにも、同じものをおもちいたすつもりでございました」
カトリーヌ・ド・メディシスは一瞬、なにか考えているようだった。
「いずれにしろ、ソーヴ夫人はきれいだから」と、彼女は、あいかわらず、心に秘めた考えに答えるようにいった。「ベアルヌ公が夢中になるのも驚くことはないわね」
「それに、母后様にも忠実でございます」ルネはいった。「すくなくとも、わたくしはそう感じております」
カトリーヌは微笑を浮かべて、肩をすくめた。
「女が恋をしているとき、恋人と同じように別の人間にも忠実であるなんてはずがないわ! あなた、やっぱり、媚薬を作ってやったんでしょう、ルネ」
「断じて、そんなことはございません、奥様」
「わかったわ、もうその話はやめましょう。じゃあ、あなたが話していた新しいクリームっていうのをいま見せてちょうだい。あの女の唇をもっとみずみずしくバラ色にするっていうリップ・クリームを!」
ルネは棚のところに行って、カトリーヌに、同じ形の六つの銀の小箱を見せた。それはどれも円くて、きっちりと並んでいた。
「媚薬とおっしゃるなら、これはソーヴ夫人がわたくしに注文したただひとつの媚薬でしょう」ルネはいった。「たしかに、母后様がおっしゃるとおり、わたくしはソーヴ夫人のためにわざわざこれを調合いたしましたから。と申しますのは、ソーヴ夫人の唇はとても繊細で柔らかですから、太陽や風にあたるとひび割れしてしまうのです」
カトリーヌ・ド・メディシスはその小箱のひとつの蓋を取った。なかには、なんとも悩ましげな洋紅色のクリームが入っていた。
「ルネ、わたしの手に塗るクリームをちょうだい。持って帰るから」ルネは蝋燭をもって奥に引っ込み、カトリーヌ・ド・メディシスが要求した品物を別室に取りにいった。とはいえ、彼はすぐには戻ってこなかった。カトリーヌが急に手を伸ばして小箱をひとつつかんで、それをマントの下に隠すのを見たように思ったからである。ルネは、カトリーヌ・ド・メディシスのこうした万引には慣れっこになっていたので、それに気づいたそぶりを見せるほど間抜けではなかったのである。
だから、頼まれたハンド・クリームを白百合の花の模様のついた紙袋にいれると、「こちらでございます、奥様」といって、手渡した。
「ありがとう、ルネ」カトリーヌは答えた。
それから、一瞬、沈黙したあとで口を開いた。
「このリップ・クリームをソーヴ夫人のところにもっていくのは一週間後か、十日後にしてね。わたしが最初に使ってみたいから」
そして、おもむろに出口のほうに向かった。
「お送りいたしましょうか?」ルネはたずねた。
「橋のたもとまででいいわ」カトリーヌが答えた。「護衛たちが駕籠をもって待っているから」
二人は外に出て、バリユリ街の角まで行った。そこには馬に乗った四人の護衛と紋章の入っていない一台の駕籠がカトリーヌを待っていた。
店に戻ると、ルネはすぐにリップ・クリームの小箱を数えた。
ひとつ数が減っていた。
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[調香師と占い]
フランスのルネッサンスは、シャルル九世の祖父フランソワ一世が、イタリア遠征をおこなった際にイタリアの先進的な文化を持ち帰ったことに始まるが、医学、薬学、科学、天文学などは、カトリーヌ・ド・メディシスがフィレンツェのメディチ家から輿入れしたときに、彼女が一緒に連れてきた職人や学者たちによってもたらされた。
カトリーヌ・ド・メディシスお抱えの調香師のルネはその典型である。
現在でこそ、フランスは香水文化の先進国だが、十六世紀以前には、つまり、カトリーヌ・ド・メディシス以前には、およそ、その名に値する香水や香料は、フランスにはまったくなかったといっていい。いいかえれば、化学的・薬学的知識をもっている人間がほとんどいなかったということである。そのため、こうした知識をもつイタリア人は、フランス人から、毒薬使いとして恐れられた。調香師のルネは、小説の中では、カトリーヌ・ド・メディシスお抱えの占星術師リュグジエリの役も一人二役で演じ、占星術や牲を使った占いもおこなっている。
なお、ノストラダムスは、たんにカトリーヌ・ド・メディシスに対して三人の息子の運命とそれに続く出来事を占ったばかりか、アンリ・ド・ナヴァールにむかっても、彼が王になることを直接予言したといわれる。
それはアンリが十歳のときに、ノストラダムスのいるサロン=デュ=クローに旅行したときのことである。ノストラダムスはアンリ少年のいる部屋にあらわれ、彼が下着を着る前にじっくりと裸を観察し、養育官にむかって、この子供はまちがいなくフランス王になると断言したのである。アンリはこのとき、鞭でぶたれるのではないかと震えていたという。
ついでにいえば、ノストラダムスはカトリーヌ・ド・メディシスにも彼女の運命を予言した。それは、彼女はサン=ジェルマンの近くで死ぬだろうという予言だった。この予言を恐れたカトリーヌ・ド・メディシスは、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会とサン=ジェルマン=デ=プレ教会が近くにあるルーヴル宮殿を離れ、ブロワの離宮に避難した。ところが、この離宮でカトリーヌ・ド・メディシスは病に倒れ、ついに臨終の秘蹟を受けることになった。呼ばれてきた司祭の名をたずねたカトリーヌは「もう、だめ」といって息を引き取った。司祭は、ジュリアン・ド・|サン《ヽヽ》=|ジェルマン《ヽヽヽヽヽ》という名前だったのである。
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第二十一章 ソーヴ夫人の居室
カトリーヌ・ド・メディシスの想像はあたっていた。ナヴァール王がマルゴのところに泊まったのはあの夜だけで、それ以後はまたほとんど毎日、ソーヴ夫人通いが続いていた。カトリーヌ・ド・メディシスがルネの店を訪れた翌日も、アンリはソーヴ夫人と語らっていた。はじめはカトリーヌ・ド・メディシスの命令でアンリを誘惑したにすぎなかったソーヴ夫人も、いまではすっかりアンリに恋していた。
アンリはふと、ソーヴ夫人が化粧をする姿を見たくなって、美しくなっていく過程を見せてくれと彼女に頼んだ。ソーヴ夫人がルネに作ってもらったリップ・クリームに手を伸ばそうとしたとき、侍女のダリオールが、調香師のルネの来訪を告げた。ソーヴ夫人は面会を拒否するかどうかアンリにたずねたが、アンリは「わざわざくるからには、それなりの理由があるのだろう」と答え、身を隠すことさえもしなかった。
ルネは約束のリップ・クリームが期日までに完成しなかった詫びをいいにきたといった。ソーヴ夫人がリップ・クリームは今日ちゃんと届けられたと答えると、ルネは「やはり思っていたとおりだ」とつぶやいた。
ソーヴ夫人がリップ・クリームを指につけ、唇に運ぼうとしたとき、ルネは真っ青になって立ち上がり、夫人の手を押さえ、このクリームは特別の使用法があるからといい、もってきたナポリの石鹸ですぐに手を洗うように命じた。夫人が、その使用法を教えるようにいうと、それは、アンリとの話が済んでからだと答えた。
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第二十二章 陛下、陛下は王になられます
ルネの来訪の本当の目的は、ソーヴ夫人にリップ・クリームを使わせないようにすることではなかった。彼は、アンリに占いの結果を知らせ、もし、占いどおりにアンリがフランス国王となったら、蒙った苦しみや残虐に対して復讐をするのではなく、寛容を旨とする政治をおこなうかどうかを知りたいと思ったのである。そして、さまざまな例をもちだして彼の答をうかがい、もしアンリが寛容の政治をおこなうと誓ったら、カトリーヌ・ド・メディシスの陰謀を阻止してリップ・クリームを取り上げ、もし、逆にアンリが寛容は無理だと答えたら、カトリーヌの思惑どおりにさせてしまおうと心に決めていたのだ。
「陛下、ご自分の経験に照らされてお考えになられてもかまいません」フィレンツェ人ルネは落ち着いていった。「陛下のこれまでの人生において、慈悲に対する厳しい試練となったようないまわしい事件はございませんでしょうか?寛容に対する試金石となったような悲痛な出来事は?」
これらの言葉はきわめて強い口調で発音されたので、シャルロットまでが震え上がった。それはあまりに直接的で、感情をもろに刺激するものだったので、ソーヴ夫人は顔をそむけた。自分の顔が赤くなっているのを見られるのがいやだったし、アンリと目が合うのが怖かったからである。
アンリは自分自身に全神経を集中した。ルネの言葉を聞いているあいだに、これまでに受けた数々の敵の脅迫が蘇ってきていたが、これらをすべて頭から拭い去った。そして、親を殺された息子として味わった心を締めつけるような苦しみを漠とした夢想に変えた。
「私の人生における、いまわしい事件」アンリは口を開いた。「いや、だめだ、ルネ。青春時代で思い出すのは、自然の要求と神の試練が人間たち全員に与えるあの残酷な欲望から生まれる狂気と無頓着だけだ」
今度は、ルネがみずからを緊張させて質問を用意した。それと同時に、彼は注意をアンリからシャルロットに移し、アンリを興奮させるいっぽうでシャルロットの気持ちを抑えようとした。というのも、シャルロットは、こうした会話からくる気詰まりを紛らそうと、化粧をまた始め、ふたたびリップ・クリームの小箱に手を差しのべようとしていたからである。
「さあ、いいでしょうか、陛下。もし陛下がポルシアン公の弟で、兄を毒殺されたとしたら、あるいはコンデ公の息子で、父を暗殺されたとしたら……」
シャルロットは軽い叫び声をたて、またリップ・クリームを唇にもっていった。ルネはその動きを見ていた。だが、今度は、言葉でも動作でも彼女をとめようとせず、ただ大きく叫んだ。
「天の名にかけて、どうかお答えください、陛下。もし、陛下が彼らの立場にあったなら、どうなさるでありましょうか?」
アンリは思念を凝らしていた。震える手で、額にたまった冷たい汗を拭った。そして、すっくと立ち上がると、ルネとシャルロットが固唾を飲んで見守るなかで答えた。
「もしわたしが彼らの立場にあり、そして、国王となるならば、すなわち、この地上において神の代理となるならば、わたしは神と同じことをするだろう。すべてを許すだろう」
「奥様」とルネは叫びながら、ソーヴ夫人の手からリップ・クリームをもぎ取った。「奥様、この箱は返していただきます。どうやら、うちの店員がまちがえてお届けしたようでございます。明日、別のをお送りいたします」
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第二十三章 新たな改宗者
翌日、アンリ・ド・ナヴァールは、サン=ジェルマンの森でシャルル九世主催の騎馬猟がおこなわれる予定だったので、ソーヴ夫人にプレゼントするつもりの小さなベアルヌ馬の試し乗りをしようと思いたち、厩舎のほうへ歩いていった。スイス人傭兵の歩哨の前を通りかかったとき、その歩哨が突如、「ナヴァール王陛下に神の御加護を!」と叫んだ。見ると、それは新教徒軍の隊長ド・ムイだった。ド・ムイは危険を冒して、アンリ・ド・ナヴァールの改宗の真意を確かめにきたのだった。
驚いたアンリが、だれかに見られてはいないかとあたりを見回すと、果たせるかな、ルーヴルの窓からアランソン公がのぞいていた。アンリはド・ムイに警告を与えて、そのまま通りすぎた。
だが、アランソン公はすでになにか気づいているようで、アンリに馬のことを訊きながら、さぐりをいれてきた。だが幸いなことに、ポーランド王選出の問題に関してシャルル九世からの呼び出しがあり、二人は別れた。
アンリが自室に戻ると、ド・ムイがやってきた。ド・ムイは、アンリが、改宗は命を脅かされたための偽装改宗だったと一言、断言してくれれば、新教徒軍はふたたび勇気を取り戻して各地で蜂起するだろうといって、アンリに確約を与えるように迫ったが、アンリは、「わたしはカトリックだ。マルグリットの夫だ。シャルル九世の義弟で、カトリーヌ・ド・メディシスの娘婿だ」とだけいって、なかなか言質《げんち》を与えようとせず、ド・ムイを廊下に追い出した。
アンリの態度を裏切りと感じたド・ムイが、廊下で「裏切り者め!」と叫び、悔しまぎれに帽子を床にたたきつけた瞬間、「静かに!」という声が聞こえた。振り向くと、アランソン公が部屋の中から廊下に顔を突き出して、こちらを見ていた。ド・ムイは、もはやこれまでと観念した。ところが、あにはからんや、アランソン公はド・ムイを手招きして、部下のラ・モールの部屋に入るよう命じた。
驚いて声も出ないド・ムイを前にして、アランソン公は、自分はプロテスタントの友人であるから、ナヴァール王と話した内容について教えるようにと命じた。ド・ムイが誘導尋問に引っかかって、ナヴァール王はもはやプロテスタントの王ではないと白状すると、アランソン公は驚くべきことを口にした。
「さて、よろしいかな、ド・ムイ殿。アンリ二世の三番目の息子にしてフランス王国の王子であるこのわたしは、果たして、きみたちプロテスタントの軍隊を指揮するに十分な勇者であるか否か、その点をおたずねしたい。どうかな?ド・ムイ殿。ひとつ、きみたちがわたしの言葉を信じることができるかどうか、判断していただきたい」
「あ、あなたが! ユグノーの大将に!」
「どうしていけないのかな? いまや、改宗の時代だ。きみも見たとおり、アンリは見事にカトリックになってしまった。わたしだって、プロテスタントになれるはずだが」
「ええ、それはまあ。殿下、お願いでございますから、すこし説明していただけませんでしょうか」
「じつに簡単なことだ。政治のため、ただそれだけだ。長兄のシャルル九世は、より楽に統治するためにユグノーを皆殺しにした。また次兄のアンジュー公は殺戮を放置した。シャルルのあとをついで王になるためだ。なにしろ、きみも知ってのとおり、シャルルは病気がちだからな。では、わたしはといえば、わたしはまったくちがう。わたしは、二人の兄がいるのだからすくなくともフランスの王になることはない。それに、わたしは、母からも兄たちからも嫌われているので、自然の法で定められているよりもはるかに王座からは遠い。家族のいかなる愛情も、いかなる栄光も、いかなる王国も期待することはできない。だが、わたしは兄たちに負けない高貴な心をもっている。だから、ド・ムイ殿よ! わたしは、兄たちが血で汚したこのフランスに、我が剣で王国を築き上げようと思っているのだ。これが、わたしが望んでいることだ。ド・ムイ殿よ、よく聞くがいい。
わたしはナヴァール王になりたいのだ。もちろん、生まれによってではなく、選挙によって。きみたちのほうでも、これに対してはいささかの反対もないはずだ。なぜというに、義兄のアンリはきみたちの申し出を断り、無気力におちいって、ナヴァール王国というのはたんなる絵空事にすぎないと認めてしまっている。だから、わたしは断じて王位|簒奪《さんだつ》者ではない。アンリ・ド・ベアルヌといるかぎり、きみたちにはなにもない。だが、わたしとともにあれば、きみたちには剣と名前ができる。フランス王国の王子、アランソン公フランソワは、みずからの仲間、あるいは同志を救うだろう。さあどうだ、この提案についてきみはどう思う、ド・ムイ殿?」
ド・ムイは当惑し、これほど重大な問題は同志と相談しなければ決められないと即答を避けた。アランソン公が返事はいつになるとせかせたので、ド・ムイは今夜、ルーヴルに回答をもって戻ってくると答えた。
だが、戻ってくるにしても、アランソン公でさえ正体を簡単に見破ったド・ムイが、どうしてもう一度ルーヴルに安全に潜りこめるだろうかという問題がもちあがった。
思案にくれて部屋を眺めまわしていたアランソン公は、ベッドの上に、その部屋の居住者であるラ・モールのサクランボ色のマントが置いてあるのに気づいた。そのマントはひどく派手なので、それを着て歩いていれば、だれもがラ・モールだと思うにちがいない。こう考えたアランソン公は、ド・ムイに、そのマントを作った仕立屋の住所を教え、まったく同じものを作らせるように命じた。
そうしたところへ、ちょうどラ・モールが外出から帰ってきた。アランソン公は、ド・ムイとラ・モールがたがいに面識がないことを確認してから、ラ・モールには、来客があったので、ちょっと部屋を借りたといった。こうしたことはよくあったので、ラ・モールはとくに気にせず、服を着替えるとまた出ていった。姿が見えなくなったのを確かめると、アランソン公はド・ムイに、ラ・モールの仕草をまねて行動するよういいきかせた。
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[アランソン公の結婚話]
アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスとの間に生まれた、四番目の男子アランソン公は、生き残った三人の王子のなかでは、顔にあばたが残り、体も貧弱で、また性格も歪んでいたので、カトリーヌ・ド・メディシスはこの末っ子の王子に対しては、まったく愛情をそそがなかった。
その結果、アランソン公は、上の二人の兄に対するコンプレックスと、カトリーヌ・ド・メディシスへの恨みから、聖バルテルミーの虐殺のあと、この小説にあるように、さまざまな陰謀に加担することになるが、このアランソン公で興味深いのは、彼がすんでのところで、イギリスの処女女王エリザベス一世の夫君となるところだったというエピソードである。
マルゴとアンリ・ド・ナヴァールの結婚の交渉がジャンヌ・ダルブレとカトリーヌ・ド・メディシスの問でおこなわれていたのとほぼ同じころ、イギリスではアランソン公とエリザベス女王の結婚話が進められていた。
カトリーヌ・ド・メディシスは最初、アンジュー公を女王の花婿にしようとしたが、アンジュー公がいやがったので、お鉢はアランソン公に回ってきた。エリザベス女王は、「わたしはもう年寄ですから」とか「わたしはイギリス王国と結婚したんですから」などとさまざまな理由をつけて、もったいぶっていたが、じつは、この話にかなり乗り気だった。交渉にあたっていたのは、アランソン公の部下で、小説の主人公のラ・モールである。現実のラ・モールは、聖バルテルミーの虐殺のときにはイギリスに渡っていてパリにはいなかった。虐殺の朝、マルゴの寝室に飛び込んできたのは、ルランというユグノーの男だったと彼女自身が『思い出の記』に書いている。マルゴの部屋に飛び込んで追っ手を追い払ったのも、アランソン公ではなく、衛兵隊長ナンセーである。
話をもとに戻すと、この縁談は、結局、エリザベス女王が結婚の条件として、ドーヴァー海峡の港カレーの割譲を要求してきたことが結婚交渉のネックになり、また国際情勢の変化で、イギリスがスペインに対して中立を約束したこともあって、いったんは破談になった。しかし、のちにアランソン公がプロテスタントと同盟を結んだとき、公は援助要請のためにイギリスに渡ったが、このさいには、エリザベス女王とかなりいい線までこぎつけた。しかし、やはり両者の思惑になお隔たりがあり、処女女王は、処女のままでいることを決意してしまった。もしこの結婚が実現していたら、あるいは、ヨーロッパの歴史は多少変わっていたかもしれない。
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第二十四章 ティゾン街とクロシュ=ペルセ街
ラ・モールはココナスの行方を捜していた。まず『星空亭』にまわって、ココナスを見かけなかったかたずねてみたが、昨日から来ていないということなので、食事だけを済ませてそこを出た。町中を歩いていると、貴婦人を乗せた駕籠がむこうからやってきた。マルゴの駕籠だった。
マルゴは、昨日は外泊して、アノンシアード修道院で一夜を過ごしたので心身ともにすこぶる調子がいいという話をした。
ラ・モールは、自分も昨夜は、その近くで外泊したといった。そして、朝の五時にその外泊先を出て町を歩いていると、四人の暴漢に襲われ、危うく殺されそうになったと告白した。というのも、外泊したその家に剣を忘れてきたからだ。すべてが夢ではないかと思ったので、もう一度暴漢に襲われた場所に戻ってみると、自分の帽子についていた羽根が落ちていたので、夢でないことがわかった。
その話を聞くとマルゴは、ではこれからその家に戻るところなのかとたずねた。ラ・モールが、戻りたくともその家がどこにあるのかがわからないのだと答えると、マルゴは、まるで小説のようにおもしろそうな話なので、ぜひくわしいことを聞かしてくれと頼んだが、その口調には、どことなく、すでに結末を知っている話を、興味をもったふりをしてたずねているようなところがあった。ラ・モールは、かまわず語りはじめた。
前日の晩、サン=ミッシェル橋のルネの店を出たラ・モールとココナスは、二人のやんごとなき貴婦人と別れを告げたあと、ラ・ユリエールの店で食事をとっていた。すると、そこへ、一人の男が入ってきて、ラ・モールとココナスの両人に、同じ手紙を渡した。それには、署名はなく、ただ「ジュイ街を抜けて、サン=タントワーヌ街を渡った場所にこられたし。エロス、クピド、アモール」とだけ書かれていた。
「なるほど、三つとも、すてきな言葉ね。それで、本当に、その言葉どおりのことが起こったの?」
「ああ、それどころではありません。百倍も素晴らしかったんです!」とラ・モールは熱に浮かされたように答えた。「先を続けてちょうだい。ジュイ街を抜けて、サン=タントワーヌ街を渡った場所であなたたちを待っていたのがなんなのか知りたくなってきたから」
「手にハンカチをもった二人の老女が待っていました。そのハンカチでわたしたちに目隠しをしたんです。お察しのように、それはいとも簡単にすみました。わたしたちは首を大きく伸ばして、仕事のしやすいようにしてやりました。すると、二人の老女は、それぞれ、わたしを左向きに、ココナスを右に回しました。それから、わたしたちは別々の方向に別れました」
「それから、どうしたの?」マルゴは、こうなった以上、最後まで聞き届けてやろうと決心したように、先をうながした。
「それが、どこに連れていかれたかわからないんです。たぶん、地獄だったのでしょう。でも、わたしに関していえば、わたしが連れていかれたのはまちがいなく天国だったと思います」
「でも、あなた、そこがどこか、好奇心をもたなかったの?」
「いや、好奇心の塊でした。よくおわかりですね。実際、わたしは、自分がどこにいるのか知りたくて、夜が明けるのが待ち遠しくてたまりませんでした。ところが、四時半になると、同じ老女がまたやってきて、もう一度目隠しをしました。そして、目隠しを外さないよう約束させてから、外にわたしを連れ出し、百歩ほど歩いてから、今度はそこで五十まで数を数えたのちに目隠しをはずすようにいいました。わたしはいわれたとおり五十まで数えました。目隠しを取ると、また元の、ジュイ街の正面の、サン=タントワーヌ街を渡ったところにいました」
ラ・モールはマルゴに別れを告げたのち、もう一度、老女に出会ったジュイ街の正面のサン=タントワーヌ街にきて、昨夜の手順を反対にやり直してみた。すると、昨日、彼が天国の一夜を過ごしたのは、ティゾン街とクロシュ=ペルセ街の両方に入口をもつ建物だということがわかった。だが、その建物の番兵は、ドイツ語しか言葉を解さなかったので埒《らち》があかなかった。そこでしかたなく、ルーヴルの自室に戻ったが、驚いたことに、ベッドの上に、彼がクロシュ=ペルセ街の建物に忘れてきた剣が置いてあった。
ラ・モールが謎の建物のまわりを探っていたときから二、三時間後、今度は、ココナスがまったく同じ手順で解放された。ココナスはラ・モールのことが心配になったので、急いでルーヴルに駆けつけた。ルーヴルのラ・モールの部屋には、彼の胴衣があるだけだった。
ココナスはふたたび街に出て、ラ・モールを探した。『星空亭』に行くと、昼ごろラ・モールがきたということだったので、ココナスはようやく安心することができた。とたんに腹がへってきたので、そこで夕食を済ませてから、ルーヴルに戻ることにした。
サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の広場まできたとき、ルーヴルの跳ね橋を、サクランボ色の派手なマントを羽織った男が渡っているのが見えた。そんなマントを着ているのは、ラ・モール以外にはいなかった。ココナスはラ・モールの名を叫びながらあとを追ったが、そのマントの男は声が聞こえないらしく、どんどん歩いていく。男が三階まで階段をのぼったとき、とつぜん、マルゴの部屋が開いて女があらわれ、男を中に引き入れた。
ココナスは事情を察したつもりになって部屋に戻ることに決めた。そのとき、上のほうから、歌を歌いながら一人の男が階段を降りてきた。ラ・モールだった。驚いたココナスが問いただすと、ラ・モールは突如、真っ青な顔になり、嫉妬に取りつかれた恐ろしい表情で、マルゴの部屋を激しくノックしはじめた。
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第二十五章 サクランボ色のマント
ココナスの見たとおり、サクランボ色のマントの男を部屋に入れた女はマルゴだった。マルゴはラテン語で「|Solasum《ソーラ・スム》; |introito《イントロイト》, |carissime《カリッシメ》.(お入りになって、わたし一人だから)」とささやいた。
男のほうは、アランソン公の指示に従ってマントを誂《あつら》えたド・ムイだった。ド・ムイは、マルゴが人ちがいをしていることに気づいたが、廊下で声をたてられるのを恐れて、そのままにしておいた。控えの間に入ったとき、マルゴはド・ムイとわかって声をたてた。
「わたくしでございます、奥様。ナヴァール王とお間違えになったのでございますね。背恰好が同じですから」
マルゴはまじまじとド・ムイを見つめていった。
「あなたラテン語はおわかりになるの?」
「昔は知っておりましたが、いまは忘れました」
マルゴは頬笑んだ。
「だれにも話しませんから、安心なさって。あなたがお探しのお方のところにお連れいたしますわ」
ド・ムイは、マルゴの誤解を正し、自分が話しにやってきたのはナヴァール王ではないことを伝えたが、その当の相手がだれなのかについては言葉を濁した。
そのとき、ドアをノックするものがあった。ジロンヌがナヴァール王の来訪を告げた。マルゴはド・ムイの手を取ると、例の小部屋の中に匿《かくま》った。
ナヴァール王はマルゴに、自分は星の導きに従ってひとつの計画を遂行しようとしているが、その計画が、アランソン公がド・ムイに接触したことで、いま挫折の危機に瀕していると打ち明けた。マルゴが声をひそめるようにいうと、ナヴァール王は、小部屋にラ・モールがいるのかとたずねたので、マルゴは思いきってド・ムイの名前を出した。するとナヴァール王は、驚きと喜びの入りまじった顔になり、すぐにド・ムイを呼んでほしいといった。
小部屋からあらわれたド・ムイに対し、ナヴァール王は、自分の部屋は盗聴されていたので、さきほどは、あのようにいうほかなかったことを強調したうえで、アランソン公にどのような提案をおこなったのかをたずねた。それに対し、ド・ムイは絶望的な表情でこう答えた。「残念ですが、陛下。すでにアランソン公とは同盟を結んでしまいました」
そこに、マルゴが入ってきて、無念そうに手を打っていった。
「じゃあ、遅かったの?」
「そんなことはない、むしろ逆だ」アンリはつぶやいた。「ここでもまた、あきらかに神の加護が働いている。ド・ムイ、同盟は結んだままでいいぞ。アランソン公はわれわれ全員の救い主になるからだ。考えてもみろ、ナヴァール王がおまえの首を保証できると思うか? 残念ながら、その反対だ。わたしがいるおかげで、おまえたちは最後の一人にいたるまで皆殺しだ。しかも、それは、ほんのちょっとした疑いだけで十分だ。だが、フランス王国の王子なら、事態は変わってくる。ド・ムイ、いいか、たしかな証拠を握って、命の保証を求めろ。だが、おまえは愚かなやつだから、心まで同盟を結んでしまいかねないな。いいか、言葉だけで十分なのだぞ」
「ああ、陛下、わたしがアランソン公の腕に飛び込んでしまいましたのは、陛下に見捨てられたと思い絶望したからなのです。それに、裏切られるのではないかという恐れもありました。アランソン公はわたしたちの秘密を握っているからです」
「それなら、今度はおまえが彼の秘密を握ってやればいい。ド・ムイ、それはおまえの腕しだいだ。アランソン公の望みはなんだ? ナヴァール王になることか? それなら、王冠を約束してやれ。なにをしたがっている? 宮廷を去ることか? なら、逃亡の機会を与えてやれ。わたしのために働いたように、彼のために働くんだ。襲いかかってくる弾をよけられるように彼に盾を作ってやれ。逃げ出さなければならなくなったら、わたしたちは二人で逃げる。戦って、王位を奪いとらねばならないときがきたら、そのときは、わたし一人が王位に就く」
「アランソン公には気をつけて」とマルゴがいった。
「陰気で鋭い男よ。憎しみがないかわりに、友情もないわ。友人を敵として扱い、敵を友人として扱うことなど朝飯前だから」
「ところで、ド・ムイ、アランソン公は、おまえを待っているのか?」
「さようでございます、陛下」
「どこで?」
「二人の部下の部屋でございます」
「何時に?」
「真夜中までに来るようにということです」
「まだ、十一時だ」とアンリはいった。「時間を無駄にしている暇はない。よし、行け、ド・ムイ」
「待って、ド・ムイさん、あなたを信じていいの?」マルゴがいった。
「その点なら心配はいりませんよ、マダム」とアンリは、ある種の状況においてある種の人と話をするときにだけ口に出す、うちとけた口調でいった。「ド・ムイについては、そうしたことは聞く必要はないんです」
「仰せのとおりです、陛下」と若者は答えた。「ですが、わたしとしては、陛下の誓いのお言葉をぜひいただきたい。同志たちに、しかとお言葉をいただいたと伝えるためです。陛下、陛下はカトリックではない、こう思ってよろしいでしょうか?」
アンリは肩をすくめた。
「よもや、陛下はナヴァール王国をお見捨てではありますまいな」
「わたしは、いかなる王国もあきらめはしない。ただ、よりよい王国を選ぶ権利を自分に取っておくだけだ。つまり、わたしにとっても、おまえにとっても好都合なほうの王国を」
「では、もし、陛下が逮捕され、拷問を受けられたとしても、なにひとつ白状しないとお約束になれますでしょうか?」
「それは神かけて誓う」
「陛下、あとひとつ、どうやれば、陛下にお目にかかれるでしょうか?」
「明日、わたしの部屋の鍵を渡す。必要ならば、いつそこに入ってもよい。ルーヴルにおまえがいることに関しては、アランソン公が責任をもってくれるだろう。とりあえず、いまは、この小階段をのぼっていけ。わたしが案内する。その間に、ナヴァール王妃はこの部屋に、さきほど控えの間に入ってくるのが見えた、おまえとおなじ赤いマントをお入れになる。二つのマントが別のものでおまえのが複製であることを知られてはならない。そうだな、ド・ムイ? そうでしょう、マダム?」
アンリはこの最後の言葉を発するとき、笑いながら、マルゴのほうを見た。
ナヴァール王の皮肉は、さきほど嫉妬に駆られたラ・モールが激しくドアをノックしたため、マルゴが席をはずして控えの間でラ・モールと話をしていたことへの当てこすりだった。マルゴはラ・モールの誤解を解くために、ドア・カーテンの隙間から、ド・ムイとナヴァール王が話をしているところをラ・モールとココナスにのぞかせて納得させ、廊下に戻したのだった。
廊下に出るとラ・モールはつぶやいた。「これは恋の問題ではない。陰謀がからんでいる!」
いっぽう、ナヴァール王はド・ムイをこういって送りだしていた。
「アランソン公のところへ戻れ、そしてやつを罠にかけろ!」
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第二十六章 マルガリータ
廊下に出されたラ・モールは沈んでいた。いっぽう、ココナスはすこし不安そうだった。ココナスは友にこう忠告した。
「恋で命を失うのならそれはいい。だが、政治で命を捨てるのはやめろ」
この忠告はラ・モールにはこたえた。だが、彼はこういった。
「ぼくは彼女を心の底から愛している。それはきみのいうように狂気だ。ぼくは恋に狂っている。だが、きみは正常だ。きみはぼくのことで身を危うくしてはいけない。だから、自分の部屋に戻っていてくれ」
ココナスは友と握手し、最後の微笑を交わすとその場をあとにした。
やがて、ドアが開いてマルゴがあらわれた。マルゴはラ・モールの手を取るとすばやく部屋の中に導き入れた。
マルゴは二人きりになると、ラ・モールの嫉妬を解くために、ド・ムイとアランソン公とナヴァール王の複雑な関係について説明した。
「どんなことでもありえるわ、この時代とこの宮廷なら」マルゴはいった。「でも、いまのことなら、ひとことであなたの疑問は消えるはず。つまりね、ド・ムイが、あなたのマントを着て、あなたの帽子で顔を隠してルーヴルにあらわれたのは、わたしのためじゃあないの。それは弟のアランソン公のためよ。わたしがド・ムイをここに入れてしまったのは、てっきりあなただと思ったからなの。でも、ド・ムイはわたしたちの秘密は黙っていてくれるはず。だから、彼のことは大目にみてやってね」
「わたしは、いっそ、殺してやりたい。そのほうが、簡単で確実だ」
「ねえ、よく聞いて、ラ・モール。わたしは彼に生きていてもらったほうがいいの。その点については、あなたにも理解してもらわないとね。だって、彼が生きてるってことは、わたしたちにとって有益なばかりじゃなくて、絶対に必要だから。いい、わたしのいうことをよく聞いて、自分の言葉の重みをしっかり量ってから答えてね。ラ・モール、あなたは、わたしが本当に王妃になったなら、つまり、本当の王国の王妃になったなら、それを自分のことのように喜ぶほどにわたしを愛してくれているかしら?」
「ああ、なんということを。わたしはあなたを愛しています。だから、あなたが望むことが、たとえわたしの人生を不幸にすることであろうと、あなたが望むことをわたしも望みます」
「なら、その望みを実現するために、わたしを助けてくれるかしら? その望みは、あなたをもっと幸福にすると思うけれど」
「ああ、そうなったら、あなたを失うことになる」とラ・モールは、両手に顔を埋めた。
「そんなことはないわ。その反対よ。あなたは、私の第一の従僕ではなく、第一の臣下になる、それだけよ」
「ああ、利害とか、野心とかはたくさんです。お願いですから、わたしがあなたに抱いている感情を汚さないでください。献身、わたしがあなたに抱いているのは、これだけです!」
「気高い感情ね! いいわ、その献身をいただいておくわ。いずれ、報いることができると思うけれど」
そういって、マルゴは両手をラ・モールのほうに差し出した。ラ・モールはそれを接吻で覆った。
「それで、あなたはどうすればいいと思うの?」
「ようやく、わたしにもわかりかけてきました」ラ・モールは答えた。「聖バルテルミーの虐殺が起こる前に、わたしたちユグノーの間ですでに語られていたあの漠然とした計画のことが。この計画を実行するため、わたしも、それにもっと価値のある人たちも、パリに集められてきたんです。つまり、実体のない王国にかわる本当のナヴァール王国、これをあなたはお望みなのですね。アンリ・ド・ナヴァール王があなたをそこに引き入れてしまったんだ。ド・ムイはあなたたちのために陰謀をたくらんでいるんですね? でも、アランソン公は? あの人は、この件で、なんの役割を果たしているんですか? いったい、あの人のための王冠はどこにあるんですか? わたしにはわかりません。それとも、アランソン公は、あなたの……友なので、あなたを助けながら、その危険の見返りを要求しないのでしょうか?」
「あの人は勝手に、陰謀をたくらんでいるだけ。好きなように、やらせておけばいいわ。ただ、彼が命を張ってくれるおかげで、わたしたちの命が助かるのでありがたいけれど」
「でも、わたしは、わたしはあの人の部下ですから、裏切ってもいいのでしょうか?」
「裏切る! でも、なんであなたが彼を裏切ることになるの? 彼があなたになにをしてくれたというの? むしろ、裏切ったのは彼のほうじゃなくて? だって、ド・ムイに、あなたのマントと帽子を変装用に渡したんだから。あなたは彼の部下だと、いまいったわね? でもその前に、あなたはわたしのものじゃなかったの? それとも弟が、わたしがあなたに捧げた愛のしるし以上の友情を与えたとでもいうの?」
ラ・モールはまるで雷にでも打たれたように、真っ青になって立ち上がった。
「ああ、なんということだ!」と彼はつぶやいた。「ココナスのいうとおりだ。陰謀がわたしをすっぽりと包みこんでいる。窒息しそうだ」
「それで?」と、マルゴはたずねた。
「それでは」とラ・モールは答えた。「わたしの答を申しあげます。わたしの生まれて育ったフランスのもう一方の端では、あなたはたいへん有名で、あなたの美しさはだれにも知られています。そうした評判は、まるで未知のものに対する漠然とした欲望のようにわたしのところにやってきて、わたしの心をかすめていきました。そんな国で、人々が噂していたのは、あなたが何人もの男を愛したこと、そして、あなたの愛は、その対象になった男たちにとって命取りになったことです。たぶん、死があなたに嫉妬して、ほとんどいつも、あなたから恋人を奪ってしまったのだといっていました」
「ラ・モール……」
「話を最後まで聞いてください。ああ、愛するマルガリータ。あなたの噂はそれだけではないのです。あなたは忠実な恋人たちの心臓を金の箱に入れてとっておいて、ときどき、その悲しい形見に敬虔な一瞥を与えては、メランコリックな思い出にひたるといわれています。あなたは溜息をおもらしになった。あなたの目にはヴェールがかかっている。それは本当です。ならば、いっそ、あなたの愛した恋人たちのなかでも、わたしを、いちばん愛された男、いちばん幸せな男にしてください。ほかの男たちが心臓を捧げたというなら、わたしは首を捧げます。マルグリット、まさにこの場所でわたしの命を救ってくれたこの神の御前でわたしに誓ってください、もしわたしがあなたのために死んだら、どうもそうなるような暗い予感がしてならないのですが、首切り役人が胴体から切り離したわたしの首をあなたの手元に置いて、ときどき、あなたの唇をあててくださると誓ってください。マルグリット、どうかそれだけは誓ってください。王妃様がこの報酬を与えると約束してくださるならば、わたしは無名のまま埋もれても、そして必要とあらば、裏切り者や卑怯者扱いされてもかまいません。つまり、あなたの恋人であり共犯者である男の理想の姿、すべてをあなたに捧げる男になってみせます」
「まあ、あなたは、なんという不吉な狂気にとりつかれ、なんという、宿命的な考えにさいなまれているの!」
「誓ってください……」
「誓うって、なにを?」
「ええ、十字架が乗っているその銀の箱にかけて、誓ってください……」
「いいわ、わかりました」とマルゴはいった。「もしそれが神のおぼしめしで、あなたの暗い予感が本当になってしまうようなことがあったとしたら、この十字架にかけて、誓います。あなたの生死にかかわらず、わたしが生きているかぎり、あなたをわたしの近くに置くと。そして、あなたがわたしのために、わたし一人だけのために身を投じた危険からあなたを救いだすことができないとしたら、わたしは、あなたの哀れな魂に、あなたが欲していた慰めを与えましょう。あなたはまさに、それに値するのですから」
「あと一言、誓ってください。マルグリット。わたしはいまでも死ぬことはできます。その覚悟はできています。でも、同じように、生きることもできるし、成功することも可能です。ナヴァール王はフランス国王になられるし、あなたもフランス王妃になられるでしょう。でも、そうなると、国王はあなたを連れていってしまうかもしれない。あなたと王との別居の誓いもいつの日か破られることになり、そのかわりに、わたしたちが別れなくてはならなくなるかもしれない。だから、マルグリット、ああ、愛するマルグリット、わたしが死んだときのことを誓ってくれたように、わたしが生きていた場合のことも、一言、誓ってください」
「ああ、なにも恐れることはないわ。わたしは身も心もあなたのもの」とマルゴは叫んで、小箱の十字架の上に手を置いた。「もし、わたしがどこかに出発することがあったら、あなたをかならず一緒につれていきます。もし、王がそれを拒んだら、わたしは出発しません」
「では、あなたは、わたしを連れていくと言い張らないんですか!」
「イヤサント、あなたはアンリのことを知らないのよ。アンリはいまはひとつのことしか考えていないの。それは国王になること。そして、この望みのためならば、もっているものはすべて犠牲にするつもりでいるわ。だから、もっていないものを犠牲にすることなど簡単なこと。さあ、今日はこれでお別れよ」
「マルグリット」とラ・モールも微笑を浮かべながらいった。「あなたは、わたしを追い返すのですか?」
「もう、遅いから」
「それはそうかもしれない。でも、どこに行けばいいというのですか? わたしの部屋にはド・ムイ殿がアランソン公と一緒にいるはず」
「ああ、そういえばそうね」とマルゴは素晴らしい笑みをたたえて答えた。「それに、まだ、この陰謀のことであなたに話しておかなくちゃいけないことがたくさんあるし」
この夜から、ラ・モールはたんなるマルゴのお気にいりではなくなった。彼は、頭《こうべ》を高くもたげて歩くことができるようになった。というのも、その頭には、生死の別なく、甘美な未来が約束されていたからである。
とはいえ、その重い額は、大地のほうへ大きく傾くこともあったし、その頬からは血の気が引いていた。そして、かつてはあれほどに陽気で、いまもなおこれほどに幸福なこの若者の眉の間には、厳しい瞑想から生まれる深い皺が刻まれることになるのである。
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[マルゴのスキャンダル]
ここで、ラ・モールが故郷で聞いた噂として語っているマルゴの醜聞は、実際、ルーヴルのゴシップ雀の間でささやかれていたスキャンダルのほんの一部である。全般に、デュマはマルゴをロマン派ドラマのヒロインにしたてるため、淫婦《いんぷ》としての側面は、非常に控えめに書いている。
しかし、マルゴの回想録『思い出の記』の編者リュドヴィク・ララーヌは、さまざまな噂を総合してマルゴの愛人となった男たちのリストを作成し、驚くことに、シャルル九世、アンジュー公、アランソン公の三兄弟とギーズ公、ラ・モールを含む二十五人の名前をあげている。その中には、大貴族もいれば、料理人や鍋屋の息子などもいる。つまり、マルゴは、階級に対するいっさいの差別意識なく、社会の各階層から満遍なく愛人を選んでいるのである。しかも、最初の恋人をつくったのが十一歳のとき、最後の恋人は六十歳をこえてからのものだから、生涯現役を貫いたわけである。
ただ、それだけならまだ「恋多き女」で済まされるかもしれない。問題は、マルゴの愛人となった男のうちなんと十四人もが、非業の死をとげていることである(一説に十人)。ラ・モールが「恋人たちの心臓を金の箱に入れてとっておいて、ときどき、その悲しい形見に敬虔な一瞥を与えては、メランコリックな思い出にひたる」という噂を話題にしているが、じつは、これはラ・モールが死んだ「あとに」生まれた伝説にほかならない。すなわち、晩年のマルゴは大きな鯨骨張りのスカートの周囲に十四のポケットをつけて、そのひとつひとつに、亡くなった愛人の心臓を収めた小箱をいれておいたと、タルマン・デ・レオーという年代記作者は語っているのである。
なお、フランス語に多少知識のある人は、ラ・モールという愛人の名前も、「La mort(死)」と関係あるのではないかと思うかもしれないが、ラ・モールの綴りは La Molle(小説では多少綴りを変えて La Mole)なので「死」とは関係がない。日本人にとって、lとrはまったく同じで区別できないが、フランス人にとっては何の関係もない文字と発音だから、こうした連想は起こるはずはないのである。
それと、もうひとつ、誤解を避けるためにいっておくと、マルグリットという名前の淫乱な王妃がフランスの歴史にはもう一人いて、しばしば混同されるが、こちらは同じデュマが『ネールの塔』で描いた、ルイ十世の妻マルグリット・ド・ブルゴーニュで、十四世紀の人物である。マルグリット・ド・ブルゴーニュのほうはマルゴよりももっと悪質で、通りがかりの男にネールの塔から声をかけ、性の快楽を貧《むさぽ》ると、用済みになった愛人を次々に殺してセーヌに投げ込んでいたが、最後に犯罪が露見して、ついに王の命で殺された。
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第二十七章 神の手
アンリは、ルネが訪れた次の日から、ソーヴ夫人には、病気のふりをして一日中部屋に閉じこもり、だれにも会わずにいるように命じた。
ソーヴ夫人はその理由がよくわからなかったが、アンリが心に大きな計画を秘めているようなので、いいつけには率直にしたがった。
やがて、ソーヴ夫人が体調をくずしているという知らせがカトリーヌ・ド・メディシスの耳に届いた。カトリーヌは、娘のロレーヌ夫人から聞いたソーヴ夫人の容体を、本に書かれている兆候といちいち照合して、一人ほくそ笑んだ。
王族が一堂に会する昼食のとき、彼女はアンリがあらわれるのを楽しみに待っていた。アンリは頭痛がするといって、食事に手をつけずに退席した。カトリーヌ・ド・メディシスは侍女に命じてアンリのあとをつけさせ、ソーヴ夫人の部屋に消えたのを確認すると、ますます上機嫌になった。翌日、アンリは食事にあらわれなかった。
カトリーヌ・ド・メディシスは、従僕がドアをあけて、「たいへんです、ソーヴ夫人が亡くなりました。ナヴァール王も危篤です」といってくる瞬間を心待ちにしていた。カトリーヌは、いつものように押し黙った陰気な顔つきをしていたが、心臓は、廊下にかすかな音が響いても早鐘のように鼓動した。
とつぜん、ドアがあいて、衛兵隊の隊長が入ってきた。「ナヴァール王が……」
「病気なの?」
「いいえ、そこに見えておられます」
「なんの用?」
「陛下に珍しいサルをおもちでいらっしゃいます」
カトリーヌ・ド・メディシスは、婿の顔色がつやつやしているのを見て蒼白になったが、感情を抑えてこういった。
「病気だという話でしたので安心しました」
「いや、実際、病気でした」アンリは答えた。「でも母からもらった薬で全快しました」
「あら、その薬の調合の仕方を教えてくださる?」と口ではいいながら、カトリーヌ・ド・メディシスは心の中で、こうつぶやいていた。「きっと、解毒剤を飲んだのだわ。どうやら、この男には神の手が伸びているらしい」
夜になり、ルーヴル全体が寝静まるころ、カトリーヌ・ド・メディシスはひそかに起きだして、服を着替えた。そして、ランプを手に取ると、合鍵の中からソーヴ夫人の部屋の鍵を選びだした。
ソーヴ夫人の侍女のダリオールは、夫人のベッドのわきの長椅子で寝ていた。ソーヴ夫人のベッドはカーテンで覆われていた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、毒薬の効き目を確かめるため、カーテンをそっとめくった。ところが、ベッドの上に横たわっていたのは、期待したような熱で憔悴した死相ではなく、バラ色の頬をした若い女のみずみずしく健やかな寝顔だった。
カトリーヌは、思わず驚きの叫びをもらした。その声で、ダリオールが一瞬、目をさました。カトリーヌはあわてて、カーテンの陰に身を隠した。だが、ダリオールはまたまぶたを閉じると、ふたたび眠りにもどった。
カトリーヌ・ド・メディシスはそっと化粧室のほうに歩いていって、ルネからといってソーヴ夫人に渡した銀の小箱をあけた。箱の中のクリームは半分ほどなくなっていた。カトリーヌは、金の針の先でそのクリームを少しすくうと、ソーヴ夫人の部屋をあとにした。そして、そのクリームを、さきほどアンリからプレゼントされたサルに食べさせてみた。サルはおいしそうにクリームをなめると、籠に入って、やすらかな寝息をたてながら眠った。銀の小箱をソーヴ夫人に渡す前に、小さな猟犬で試してみたときには、一分もしないうちに息絶えたのだから、どこかで、だれかが、すり替えたのだ。ルネだろうか? それはありえない。なら、アンリか? そうにちがいない。運命が、彼に国王になることを命じているので、死ぬことはありえないのだ。かくなるうえは、強硬手段に訴えるほかはない。
翌日、カトリーヌ・ド・メディシスは、衛兵隊長に手紙を手渡した。その手紙は城門爆破隊長ルーヴィエ・ド・モールヴェルにあてられていた。
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第二十八章 ローマからの書簡
こうした事件のあった数日後、マルゴはヌヴェール公爵夫人の訪問を受けた。マルゴは侍女のジロンヌに、ヌヴェール夫人と大切な話があるので、だれも部屋に入れないようにといいつけた。そして、二人きりになると、さっそく、たがいの恋人ののろけ話を始めた。だが、ヌヴェール公爵夫人がマルゴを訪れたのは、そうした恋の話に興ずるためだけではなかった。彼女は夫が大使として赴任しているローマから、教皇が王弟アンジュー公のポーランド王選出を承認したという知らせが早馬で届いたことを知らせにきたのである。ヌヴェール公爵夫人はそれと同時に、自分のところに手紙を届けた伝令のほかに、もう一人ローマから早馬で駆けつけた伝令がいて、その男はルーヴルの中に消えたという話をした。
マルゴはさっそくアンリを呼び、手紙を見せ、もう一人の早馬の男の話をした。アンリは、その男は、カトリーヌ・ド・メディシスのところではなく、アランソン公のところに直行したのだろうと推測した。
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第二十九章 出発
翌日は、冬にしてはめずらしく晴れわたった絶好の狩猟日よりだった。なによりも狩りの好きなシャルル九世は、ルーヴルの中庭で待ち受けるイノシシ狩りの一団のところに一刻も早く駆けつけたい気持ちを抑えながら、カトリーヌ・ド・メディシスの話を聞いていた。
カトリーヌ・ド・メディシスは、ルーヴルの廊下でシャルル九世をつかまえ、ナヴァール王がポーランド王選出問題にからんで裏で策動しているという噂が耳に入ったので、警戒態勢を敷かなければならないと訴えていた。
いっぽう、シャルル九世は、母親と話しているあいだに狩りをする時間がどんどんなくなっていくような気がして焦っていたので、ろくに話を聞こうともせず、一刻も早く会話を切り上げようとしていた。狩りに出発するためだったら、どんなことでもしかねない様子だった。
じつは、それこそがカトリーヌ・ド・メディシスの狙いだった。カトリーヌは息子のいらだちが頂点に達したのを見計らって、要件を切り出した。ポーランド問題が片づくまでナヴァール王をバスチーユ牢獄に一時的に投獄しておこうというのだ。シャルル九世はこれに強く反対した。その理由というのがふるっていた。
「だめです、絶対にいけません」シャルル九世は叫んだ。「これからイノシシ狩りです。アンリオは、わたしのいちばん良い助手です。彼がいなかったら、狩りはおしまいになってしまう。まったく、お母さんは、ぼくに反対することしか考えていないんだから」
「なにも、今朝とはいいません。ポーランドの使節団が到着するのは明日か明後日です。だから、狩りが終わってから、今晩、逮捕すればいい……」
「それなら、話は別です。わかりました、あとでもう一度話をしてから決めましょう。狩りのあとなら、わたしもだめとはいいません。では、さようなら」そういうと、シャルル九世は猟犬を呼んだ。「さあいくぞ、リスクトゥー、おや、今度はおまえが膨れ面か?」
「シャルル、ちょっと待って!」カトリーヌ・ド・メディシスは息子の腕をつかまえて止めた。また遅れることでシャルル九世の怒りが爆発するのを見越しての発言だった。「逮捕は今晩するにしても、逮捕状には、いまサインしていったほうがいいわ」
「みんな、狩りにいくのでわたしを待っているんですよ。それなのに、羊皮紙を探しにいって、命令を書いて、サインして、王の印璽《いんじ》を押すなんて暇があるわけないでしょう。これ以上は待たせられっこないんだから。まったく、いいかげんにしてください!」
「そんな手間はいらないわ。これ以上待たせたりはしません。全部、前もって準備してあるから、さあ、わたしの部屋に入って! ほら!」
そういうと、カトリーヌ・ド・メディシスは二十歳の娘のような敏捷な身のこなしで、自分の書斎に通ずるドアを押し、王に、インク壼と、ペンと、羊皮紙と王の印璽と、火のともった蝋燭を指し示した。
王は羊皮紙を手に取ると、一気に命令を書きなぐった。
『逮捕命令。義弟アンリ・ド・ナヴァールを逮捕し、バスチーユ牢獄に護送せよ』
「さあ、これでいいでしょう」そういうと、今度は、一筆書きで逮捕状にサインした。「じゃあこれで。さようなら、お母さん」
そして、犬を従えて書斎を飛び出すと、こんなに簡単に母親から逃れることができたことがうれしくてたまらぬというように、軽快な足取りで、中庭に向かった。
イノシシ狩りに参加する宮廷人たちは、狩りには絶対に遅れることのないシャルル九世がなかなかやってこないのに驚いていた。だから、ようやく彼が姿をあらわしたときには、思わず歓声があがった。
シャルル九世は、アランソン公に会釈し、マルゴとは握手したのに、アンリ・ド・ナヴァールの前は素知らぬ顔で通りすぎた。
マルゴは何か変だと感じとって、夫にいった。
「シャルルが変な目つきであなたを見ているわ」
「わたしも気づいている。だから、スペイン製の素晴らしい狩猟用の短剣をもってきた」
「じゃあ、十分、気をつけてね」
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第三十章 モールヴェル
カトリーヌ・ド・メディシスはシャルル九世にサインさせた羊皮紙を丸めると、待たせていた男を書斎に呼び入れた。王の刺客モールヴェルだった。カトリーヌは、聖バルテルミーの虐殺での活躍をねぎらったあと、すぐに、羊皮紙を手渡した。モールヴェルは一読して、真っ青な顔になった。
「ナヴァール王の逮捕令状ですか!」
「別に驚くことはないわ。やってくれる?」
「ご命令とあらば」
「命令です」
「逮捕はどこで?」
「どこでも。逮捕しやすいところで。ルーヴルの彼の部屋はどう?」
「いつがよろしいでしょう?」
「今晩。今夜のほうがいいわ」
「ひとつうかがってよろしいでしょうか?」
「なに?」
「抵抗したら、どうすればよろしいのでしょうか?」
「王の命令を受けているとき、相手が抵抗したら、あなたはどうするの?」
「たんなる貴族なら、即座に殺します」
「フランス国王だけがただ一人の王で、あとは、どれほど身分が高くとも、みんな、ただの貴族よ」
「ナヴァール王を殺すのでしょうか?」
「だれが殺せといいましたか? 王が命じているのは、逮捕してバスチーユヘ連行することだけ、逮捕できれば、それでよし。抵抗したときには、それは仕方ないわね。じゃあ、こうしましょう。『逮捕命令』のあとに、わたしの字で、『生死を問わず』という言葉をいれておきましょう」
「そうしていただければ、心配はありません」
カトリーヌ・ド・メディシスはモールヴェルに十二人の部下を連れていくよう命じたが、モールヴェルは六人だけでいいと答えた。
シャルル九世が帰ってくるまで、モールヴェルは王の武器室で待機し、そのあとは、カトリーヌ・ド・メディシスの祈祷室に隠れていることになった。
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第三十一章 猟犬狩猟
勢子《せこ》たちがうまく狩り出したおかげで、イノシシはシャルル九世が馬を進めていたすぐ近くの道を横切った。王はすっかり興奮してあとを追った。アランソン公とアンリ・ド・ナヴァールがそれに続いた。マルグリットは目でアンリに合図して、シャルル九世から離れないように指示した。
だが、十六世紀には、国王領の森はまったく人の手の入っていない原始林だったので、狩りの一行は先頭集団と後方集団に分かれてしまい、たがいに相手を見失った。
アンリ・ド・ナヴァールとアランソン公は、シャルル九世と勢子たちともはぐれて、二人だけで、森の中に取り残された。遠くにギーズ公のグループが見えたが、気がつくと、最近宮廷につかえるようになった偽装改宗者の一団が、彼らとギーズ公たちの間に割り込むように馬を進めていた。もし、アンリとアランソン公がこの機会を利用して脱走しようと思えば、偽装改宗者の一団はギーズ公たちを阻止することができる配置だった。とつぜん、木立の間に一人の男があらわれた。アンリが目を凝らすと、それはポワトゥーでプロテスタントの党派を指揮しているチュレンヌ子爵だった。子爵はアンリにむかって、逃げてこいという合図を送ってきた。アンリはアランソン公の顔色をうかがったがなんの反応もないので、脱走は見送るという合図を送り返した。
そのとき、とつぜん、猟犬の吠声が聞こえ、イノシシが飛び出してきた。そして、それを追うように、シャルル九世たちが姿をあらわした。
イノシシはまわりを猟犬に囲まれ、完全に退路を断たれていた。捨身の反撃にでようとしたが、二匹のモロソイ犬に両脇から襲いかかられ、怒りと苦しみで歯をきしませていた。いよいよ、仕留める瞬間が近づいていた。シャルル九世は、猪槍を手渡すように叫んだ。その後ろでは、アランソン公が火縄銃に火をつけていつでも撃てる態勢に入っていた。アンリは狩猟用の短剣に手をかけた。
「火縄銃を渡そうか?」アランソン公がたずねた。
「いや、いらない」シャルル九世が答えた。「弾丸だとめりこむ感じがしないから楽しくない。猪槍なら突き刺す感触が楽しめる。猪槍だ! 猪槍をもってこい!」
火で堅くした尖った鉄の猪槍が王に渡された。
「兄さん、気をつけて!」マルゴが叫んだ。
「さあ、さあ、頑張って!」ヌヴェール夫人が呼びかけた。「はずしちゃだめよ! 陛下、この新教徒をちゃんと仕留めなさい!」
「静かに! 公爵夫人!」シャルル九世がいった。
シャルル九世は猪槍を構えると、イノシシ目がけて思いきり突き刺した。イノシシは二匹の犬に押さえられているので、よけることができなかった。だが、光る猪槍をみた瞬間、わずかにわきによったので、猪槍はイノシシの胸に突き刺さるかわりに肩の上をすべって、イノシシが背にしていた岩にあたって先が砕けた。
「クソッ!」王は叫んだ「しそんじた……猪槍をよこせ、もう一本!」
シャルル九世は、騎兵がよくやるように距離をとるためにいったん馬を後ろに退かせると、使いものにならなくなった猪槍をすこし離れたところに投げ捨てた。
勢子の一人が進みでて王に猪槍をさしだした。
だが、その瞬間、あたかも自分を待ち受けている運命を予感したかのように、イノシシは猛烈な勢いで暴れて、耳にかみついているモロソイ犬をふりはらった。そして、目を血走らせ、全身の毛を総立ちにして、ふいごのように荒い息をしながら、歯をきしませて、頭を低くしたままシャルル九世の乗っている馬のほうへ突進した。
シャルル九世はすぐれた狩人だったので、この反撃を十分予知していた。そこで、馬のたづなをぐいと引いて、馬を後ろ脚で立たせた。だが、たづなの引き方が強すぎた。そのため馬はくつわを引き締められて、そしておそらくは恐怖に負けたためだろう、どどっとばかりに後ろに大きく転倒した。
見物していた者たちから大きな悲鳴があがった。王は転倒した馬の下にももを挟まれた。
「手を! 陛下、手をお離しください!」アンリが叫んだ。
シャルル九世は馬のたづなを離し、左手で鞍をつかみ、右手で猟刀を抜こうとしたが、刀は彼自身の体の重さで圧しつぶされて、鞘からなかなか抜けなかった。
「イノシシが! イノシシが!」と王は叫んだ。「助けてくれ! アランソン! 助けてくれ!」
そうしているあいだに、たづなをとかれた馬は主人のさらされている危険を察知したかのように、筋肉を引き締めて、三本の足でなんとか立ち上がった。そのとき、兄に助けを求められたアランソン公が、真っ青な顔をして、肩にあてた火縄銃を発射した。だが、弾丸は、シャルル九世からあと二歩のところに迫っているイノシシにはあたらずに、馬の膝にあたった。馬は頭を下にして倒れた。その瞬間、イノシシは牙でシャルル九世の長靴を引き裂いた。
「なんてことだ」アランソン公は蒼ざめた唇をわななかせながら、つぶやいた。「この調子だと、アンジュー公がフランス王になり、おれがポーランド王になりそうだな」
実際、イノシシはシャルル九世のももに牙を突き刺していた。そのとき、シャルルは何者かが、腕をつかんで体を引き上げてくれるのを感じた。と同時に、尖って鋭利な短剣が一閃したかと見るや、イノシシの肩の付け根にぐさりと突き刺さった。そして、鉄の手袋をはめた手が、すでにシャルルの上着の下まで届いていた血だらけのイノシシの頭を押しのけた。
シャルル九世は、さきほど馬が立ち上がったとき脚を抜き出すことができていたので、ゆっくりと立ち上がった。そして、自分の全身から血が滴っているのを見て、死体のように真っ青になった。
「陛下」アンリは、ひざまずいて、イノシシの心臓にナイフを突き刺したまま口を開いた。「陛下、だいじょうぶでございます。イノシシの牙は避けたので、お怪我はないはずでございます」
それから、立ち上がって、ナイフから手を離した。イノシシは傷口よりも口から多量の血を吐きながら、そのまま崩れおちた。
一同が息を切らせて見守り、どんな冷静な精神の持主でも気が遠くなりそうな恐怖の叫びを口々に発している真っただ中で、シャルル九世は、一瞬、死んだイノシシのわきに自分も倒れかかりそうになったが、よくもちこたえて、ナヴァール王のほうに振り向き、堅い握手をかわした。その目には、生まれてから二十四年間で初めて心臓をときめかせた感動の焔がきらめいていた。
「ありがとう、アンリオ」シャルルはアンリにいった。
「だいじょうぶか、兄さん!」アランソン公はシャルル九世に近づいて声をかけた。
「ああ、おまえか、アランソン!」王はいった。「どうした、射撃の名手が! 弾はどこにいったんだ!」
「イノシシをかすめたんだろう」
「いや、そうじゃないみたいですよ」アンリはさも驚いたようにいった。「ここを見てください、フランソワ、弾は陛下の馬の脚を砕いている。変だな!」
「えっ、本当か、それは?」シャルル九世がいった。
「そうかもしれない」アランソン公はうなだれていった。「手がひどく震えていたからな」
「どうやら、射撃の名手にしては、変なところを撃ったようだな、フランソワ」とシャルル九世は眉をひそめながらいった。「もう一度、礼をいおう、アンリ! ありがとう! みんな、そろそろパリに帰ろう。今日はここまでだ」
マルゴはアンリに祝福を述べるために近寄った。
「ああ、マルグリットか」シャルル九世はいった。「おまえからも礼をいっておいてくれ、たっぷりとな。なにしろ、アンリがいなかったら、フランス国王はアンリ三世と呼ばれていたところだからな」
「いや、よかった」とナヴァール王はマルゴにむかっていった。「アンジュー公はこれまでもわたしの敵だったから、これからはもっと恨まれるだろう。でも、それはしかたがない。人はできることしかしないから。うそだと思うならアランソン公にたずねてみるといい」
そして、身をかがめると、イノシシの体から狩猟用ナイフを引き抜き、血をぬぐうため、二度三度と地面に突き刺した。
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第三十二章 友情
アンリ・ド・ナヴァールは、シャルル九世の命を救うことによって、三つの王国の君主が代わることを防いだのである。すなわち、シャルル九世が死んでいたら、アンジュー公がフランス王になり、アランソン公がアンジュー公のあとを襲ってポーランド王になるだろう。そして、アンジュー公は、コンデ公の妻を愛人にしているので、コンデ公に対する弱みからコンデ公をナヴァール王にするだろう。
だが、この王位の移動によってアンリ・ド・ナヴァールが得るものはなにもなかった。アンジュー公はカトリーヌ・ド・メディシスの寵愛を一身に集めるお気にいりの息子だから、アンリの命を狙うカトリーヌの主張を全面的に認めるだろう。それぐらいだったら、アンリを生かしておいてくれるシャルル九世のほうがどれだけましかわからない。
おそらく、イノシシがシャルル九世に襲いかかるのを見た瞬間に、アンリの頭の中では、これだけの計算がめまぐるしく働いたにちがいない。
シャルル九世はそんな打算に気づきもしなかったが、マルゴはすぐにすべてを理解した。そして、嵐がおそってくるような困難な状況でよけい輝く、アンリのこうした不思議な勇気に感心した。
しかし、アンリには、まだしなければならない仕事が残されていた。それは、アランソン公をけしかけて、プロテスタント陣営に走らせることである。アンリはルーヴルにつくと、長靴の泥を落とす間もなく、アランソン公の居室を訪れ、この間の情勢について語った。それはこんな内容だった。
ド・ムイがルーヴルに忍び込んで、新教徒軍再建のために首領となるよう要請してきたが、自分はきっぱりと拒絶した。その結果、ド・ムイはどうやら、ほかの人物に接触したようだが、いっぽうではド・ムイとはちがうプロテスタントの一派がまだ自分を担ぎ出そうと画策している。その頭目がチュレンヌ子爵で、今日の狩りのとき、合図を送っていたのはアランソン公も気づいたはずである。この二派が分裂していたのでは戦いに勝ち目はないので、いずれ両派を統合しなければならない。だが、自分は野心のない臆病な男なので、とうていこの任にはたえない。だから、もし、ド・ムイが担ぎ出そうとしている人物にその気があるなら、自分を支持する党派の指揮権をそっくり譲り渡してもかまわないと思っている。もし、それがだめなら、シャルル九世にすべてを話して、進行中の陰謀を挫折させたほうがいいとさえ考えている。
ここまでいうとアランソン公が激しい反応を示した。
「な、なんということをいうんです! コリニー提督亡きあと新教徒軍の唯一の希望であるあなたがいったいなんということを! あなたは改宗したけれど、偽装改宗だとみんなは思っている。そのあなたが兄弟たちに剣をふりあげるなんて! アンリ、もしあなたがそんなことをしようものなら、王国中のカルヴァン主義者を第二の聖バルテルミーの虐殺にさらすことになるのを知っているんですか? 母のカトリーヌは、生き残ったユグノーを皆殺しにするために、そうしたきっかけを待っていることを知らないんですか?」
アンリは大げさに驚いて見せてから、もし、自分がアランソン公の立場にあるなら、まず新教徒軍を統一して、その先頭に立ち、ナヴァール王国の再建につとめるだろうと語った。アランソン公がユグノーに同情的で、聖バルテルミーの虐殺に手をかさなかったこともプラス材料だし、国王の弟という地位も、統一には欠かせない看板になる。新教徒軍の分裂という事態は、自分がこの党派の幹部たちを説得することで解決するだろう。もし、説得に応じない場合は、党派の幹部の名前を明かすと威してやればいい。その名前は自分がアランソン公に教えてやる。
それに、ナヴァール王になっていれば、もしシャルル九世が崩御した場合、ポーランド王のアンジュー公よりも早く知らせを受けることができるので、王位継承に一足早く名乗りをあげることだってできなくはない。
いっぽう、もし、行動を起こさずに、現状のままでいたなら、第三の王子として、二人の長兄の気まぐれで、いつバスチーユ送りともなりかねない不安定な身分にとどまるほかはない。
つまり、決意を固めさえすれば大きく道はひらけ、フランス王位にのぼりつめることも可能だが、もし、なにもしなければ、ゼロのままでいることは確実である。
アンリは、自分には野心がないことを証明するために、党派の幹部のリストを今夜九時に渡そうといった。
アランソン公はアンリの手を取り、固く握りしめた。
そこへ、とつぜん、なんの前触れもなしに、カトリーヌ・ド・メディシスが入ってきた。
「まあ、仲がいいのね。本当の兄弟みたいじゃない」
アランソン公は顔面蒼白になったが、アンリは冷静に挨拶し、カトリーヌ・ド・メディシスが自由に息子と話ができるように、わきにどいてやった。
カトリーヌ・ド・メディシスはフィレンツェから宝石が届いたので剣帯にでも飾るといいとアランソン公にいってから、小声でこうつけ加えた。
「今夜、アンリの部屋で物音が聞こえても、動いてはだめ」
アランソン公は母の手を握り、同じ宝石をアンリにもあげられないかとたずねた。すると、カトリーヌ・ド・メディシスはもうひとつフィレンツェから届く予定だから、それをアンリにあげてよいといった。
宝石を受け取ったアンリは大げさに感激してみせた。
カトリーヌ・ド・メディシスはシャルル九世の命を救ってくれた礼はいずれ別の形でするから期待していてくれと述べた。
アンリは深くお辞儀すると、こう考えながらアランソン公の部屋を出た。
「これで、体しかなかった陰謀も頭と心臓を得たことになる。ただ、カトリーヌ・ド・メディシスには注意したほうがいい。報酬を約束していたが、どんな恐ろしい報酬かわからない。今夜は、ひとつ、マルグリットと相談してみるか」
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第三十三章 シャルル九世の感謝
自室に戻ったシャルル九世は、乳母から、武器室にモールヴェルが潜んでいたことを教えられ、朝、カトリーヌ・ド・メディシスにせがまれてアンリ・ド・ナヴァールの逮捕状を書いてしまったことを思い出した。
「命を救ってもらったその日に逮捕するなんて、タイミングが悪すぎる」
そこで、母と相談しようと部屋に行きかけたが、ふと考えなおした。
「いくら話をしても終わらないぞ、これは。それより自分で行動したほうがいい」
そこで、彼はマントと帽子を手に取ると、板壁の中に作らせた秘密のドアから外に出た。このドアのことはカトリーヌ・ド・メディシスも知らなかった。
シャルル九世はまっすぐアンリの部屋に行った。アンリは、アランソン公の部屋から帰ったあと、服を着替えただけですぐにまた出てしまったので、そこにはいなかった。
「きっと、マルゴのところへ夜食でも食べに出かけたのだろう」とシャルルは思った。「あの二人、きょうは妙に仲がよかったからな。すくなくともそう見えたな」
そこで、シャルル九世はマルゴの部屋に向かった。
マルゴは狩りのあと、ヌヴェール公爵夫人とココナスとラ・モールを自分の部屋に招いて、ジャムとクッキーでおやつを食べていた。
シャルルは入口のドアをたたいた。ジロンヌがあけにいったが、王の姿を見て、お辞儀をすることもできないほど仰天してしまったので、王の到着をマルゴに知らせる暇もなく、ただ叫び声をあげただけで、シャルル九世をそのまま通してしまった。
王は控えの間を横切ると、笑い声が聞こえる食堂のほうへそのまま進んでいった。
「かわいそうに、アンリオのやつ、降りかかる災難のことも知らずに楽しんでいるな」
「わたしだ」彼はつづれ織りのドア・カーテンをあけながら、そういい、笑顔を突き出した。
マルゴは恐ろしい悲鳴をあげた。シャルル九世が満面に笑みをたたえていたので、メデゥーサのように見えたのである。ただ、ドア・カーテンの正面にすわっていたので、シャルルだということはわかった。
二人の男は王に背をむけていたので人が入ってきたことに気づかなかった。
「陛下!」マルゴは恐怖の叫びをあげると同時に立ち上がった。
ココナスは、他の三人がパニックに陥っていたのに対し、ただ一人だけ冷静さを失っていなかったので、直立不動の姿勢をとろうとした。ただ、彼はそれを非常に不器用にやったので、立ち上がる瞬間にテーブルをひっくりかえしてしまった。おかげで、クリスタルのグラスも、皿も、蝋燭も床に落ちた。
一瞬のうちに、あたりは真っ暗闇になり、死の沈黙が訪れた。
「ずらかれ!」ココナスはラ・モールにいった「早く!」
ラ・モールはすぐにいいつけに従った。壁際によって、手で方向を探りながら、まず寝室に入り、ついで、よく知っている小部屋に隠れようと思った。
だが、寝室に足を踏み入れたとたん、秘密のドアから入ってきたばかりの男にぶつかった。
「いったいこれはどういうことだ?」シャルル九世は真っ暗闇の中で、しだいにいらだちながら叫んだ。「わたしを見たとたんに、こんな大騒ぎを始めるとは、お楽しみ中を邪魔してしまったのか? おい、アンリオ! アンリオ! どこにいる? 返事をしろ」
「救われたわ!」マルゴはラ・モールだと思ってつかんだ手にささやいた。「王は夫がここにいると思っているんだわ」
「そう思わせることにしよう。落ち着いて」とアンリは同じような小声でささやいた。
「まあ!」と叫ぶとマルゴはつかんでいた手をすばやく離した。それはナヴァール王の手だった。
「静かに!」とアンリがいった。
「なんで、みんな、そんなふうにささやきかわしているんだ?」とシャルルは叫んだ。「アンリ、返事をしろ、どこにいる?」
「ここにおります、陛下」とナヴァール王の声が答えた。
「こりゃ、たいへんだ!」と、部屋の隅でヌヴェール公爵夫人の肩を抱いていたココナスがいった。「面倒なことになるぞ」
「なおさら、困ったことになったわ」とヌヴェール夫人がいった。
ココナスは、向こう見ずなほどに勇敢な男なので、ここは、なんとしても蝋燭に火をつけなければならない、しかも、それは早ければ早いほどいいと考えた。そして、ヌヴェール夫人の手を離し、床に散らかっている食器類の中から燭台を探し、それを三脚火鉢に近づけ、石炭のひとつに息を吹きかけた。石炭から焔があがり蝋燭の芯にすぐに火がついた。
部屋はぱっと明るくなった。
シャルル九世はぐるりと部屋中を眺めわたした。アンリは妻のそばにいた。ヌヴェール公爵夫人は一人で部屋の隅にいた。そして、部屋の真ん中に一人ココナスが燭台を手にしてあたりを照らしていた。
「許してください、お兄さん」マルゴはいいわけした。「まさか、お兄さんが入ってくるとは思ってもみなかったので」
「それに、陛下もおわかりになられたように、本当に驚いてしまったものですから」とヌヴェール夫人がつけ加えた。
「妻の驚き方がひどかったので」と、すばやくすべてを察したアンリがいった。「立ち上がったときに、わたしがテーブルをひっくりかえしてしまったんです」
ココナスはナヴァール王に一瞥を投げたが、その目はこう語っていた。「まったくうまいときに、ものわかりのいい亭主があらわれたものだ」
「なんてひどいありさまだ!」とシャルル九世は何度もいった。「アンリオ、どうやら、きみの夜食もひっくりかえってしまったようだな。こうなったら、わたしと一緒にきなさい。ほかで食事をしよう。今夜はおごるから」
「なんですって! 陛下!」とアンリはいった。「陛下がおごってくださるんですか?」
「もちろんだとも。今夜は、余が貴君をルーヴルの外にお連れする。マルゴ、今夜はご亭主を貸してくれ。明日の朝、お返し申すから」
「まあ。お兄さん」マルゴは答えた。「わたしの許可など必要ありませんわ。お兄さんは、みんなの主人なんですから」
「陛下」アンリはいった「別のマントを取りに部屋にいってきます。すぐ戻りますので」
「そんなものは必要ない。いま着ているので十分だ」
「でも、陛下……」とアンリはもう一度いおうとした。
「絶対に、部屋に戻ってはいかん。わたしのいっている意味がわかるか? よし、それでは出かけよう」
「そうそう、このままお出かけください」と、マルゴがとつぜん、夫の腕をとりながらいった。彼女はシャルル九世の異様な目つきを見て、今夜なにか起こりそうだと感じたのである。
「では、まいります、陛下」アンリは答えた。
だが、シャルルは、ほかの蝋燭にも火をともしながら、蝋燭番の役割を演じていたココナスに視線を戻した。
「あの若者はだれだ?」と彼は、ピエモンテ人を指さしながら、アンリにたずねた。「もしかすると、ラ・モールという者か?」
ラ・モールのことをだれが彼に話したのだろう、マルゴはひそかに自問した。
「いいえ、陛下」アンリが答えた。「ラ・モール殿はここにはおりません。おりましたら、あのココナス殿と一緒に陛下に紹介させていただくところでしたのに、残念です。と申しますのは、二人は刎頸《ふんけい》の友で、二人ともアランソン公の部下でございますから」
「あ、そうか、あの偉大な射手のな」とシャルルはいった。「いいだろう!」
それから、眉をひそめていった。
「そのラ・モールとかいう若者はユグノーではなかったか?」
「すでに改宗しております、陛下」とアンリは答えた。「彼については、わたくし自身と同じように責任をもちます」
「アンリオ、今日のようなことがあったあとでは、きみが保証するといった以上は、わたしに彼を疑う権利はない。だが、それは別として、そのラ・モールという若者には会ってみたいものだ。いずれの機会でいいからな」
そして、その大きな目で部屋の中に最後の一瞥を投げると、シャルル九世はマルゴにキスをして、ナヴァール王と連れ立って部屋を出た。
ルーヴル宮殿を出たシャルル九世とアンリは宮廷の噂話をしながら、和気あいあいとボーヴェ街のさる建物に入っていった。
いっぽう、ラ・モールとココナス、マルゴとヌヴェール夫人は、またいつ人が入ってくるかもしれないので、水入らずで楽しめるティゾン街の例の隠れ家で落ち合うことにした。(下巻へ)