赤い館の騎士(中)
アレクサンドル・デュマ/鈴木豊訳
目 次
十六 蕩児
十七 地下道を掘る男たち
十八 雲
十九 献心
二十 花売り娘
二十一 赤いカーネーション
二十二 裁判官シモン
二十三 理性の女神
二十四 母と娘
二十五 手紙
二十六 小犬ブラック
二十七 王党派《ル・ミュスカダン》
二十八 メーゾン・ルージュの騎士
二十九 パトロール隊
三十 カーネーションと地下道
三十一 家宅捜索
三十二 神にかけて誓った誓約
三十三 その翌日
三十四 ラ・コンシエルジュリー
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十六 蕩児
モオリスに翼が生えていたとしても、こうは速く走れなかっただろう。
街々には群衆が溢れていたが、モオリスは、自分の歩みがおくれたので、ようやくこの群衆に気がつく始末だった。噂によると、国民議会は群衆に包囲され、国民の尊厳もこの群衆の代表によってすっかり形なしになり、足どめされている、ということだったが、なるほど、警鐘が鳴り、大砲の音がいんいんと響いて急を告げているところを見ると、大いにありそうなことだ。
しかし、現在のモオリスにとって、急を告げる大砲も、警報もはたしてどうだというのだろう? 足どめされているといったところで、モオリスの身にまで及ばないのだから、議員が外へ出れようが出れまいが、彼にとってはべつになんでもない。彼は走り続けた、それだけのことである。
走りながら彼は思いうかべていた。どんなに遠くても、彼の姿が見えたら、この世のものでないようなチャーミングな微笑をうかべて、彼を迎えようと、庭に面した小窓のところで彼を待ちうけているジュヌヴィエーヴの姿を。
ディメールもまたきっと、彼が再びこの家を訪れるのを、しあわせな気持で予想していただろう。そうして彼の手を握ろうと、逞しい、じつに率直な、そして信義に厚い手をモオリスのほうへ伸ばそうとするだろう。
その日は、彼はディメールに好意を抱いていた。いやモランにまでも、彼の黒い髪や、緑のサン・グラスにまで好意をもっていた。あの眼鏡の下には、きっと物言わぬ眼差しが、キラキラと輝いているのが見えるにちがいない。
彼はこんなにしあわせな気分だったので、この世のものをすべて愛していた。ひとはすべて、自分のように幸福であれかしと、あらゆるひとびとの頭上に、喜んで花を投げかけたことだったろう。
ところが、モオリスは希望に燃えるあまりに、間違いをおかしていた、憐れなモオリスよ。自分の心でひとの気持をはかろうとする人間が、二十回のうち十九回までおかすような誤りをおかしていたのだ。
モオリスが期待していた、そして彼の姿が見える限り遠くから彼を迎えてくれるはずのあの優しい微笑の代りに、ジュヌヴィエーヴは、ごく儀礼的な冷淡な態度しかモオリスに示すまい、と心に誓っていたのである。これは、威丈高になって彼女の心に襲いかかる奔流に対する、か弱い防壁でしかなかった。
彼女は、二階の部屋に閉じこもっていた。そうして、自分の名が呼ばれてから、ようやく、一階の部屋へ降りて行くつもりだった。
気の毒なことだが、彼女も間違いをおかしていたのだ。
間違っていなかったのは、ディメールただひとりだった。彼は格子越しにモオリスの来るのを見張っていて、皮肉な笑みを浮かべていた。
市民モランは、冷静な態度で、|てん《ヽヽ》に似せるために、白い猫の皮につける尻っ尾を黒く染めていた。
モオリスは家族同様に出入りしようと、庭に通じる路の木戸を押した。木戸を開けたのはモオリスだ、ということを知らせるように、木戸の鈴がチリンチリンと鳴ったのは昔と変りなかった。
閉じた窓の前に立っていたジュヌヴィエーヴは身を震わせた。
彼女は半分開いたままにしてあったカーテンを下げた。
自分が訪ねた相手の家に入って、モオリスが最初に感じたことは、しかし失望だった。ジュヌヴィエーヴが一階の窓のところで自分を待っていてくれなかったから、というばかりでなく、いつか彼女と別れたあの客間へ入っていったとき、彼女の姿も見えず、足を遠ざけていたこの三週間のあいだに、まるで自分が未知の人間になってしまったように、自分の名前を名のらなければならなかったからである。
彼の心はしめつけられるような気がした。
モオリスが最初に会ったのは、ディメールだった。ディメールは駈け寄って、歓喜の叫び声をあげてモオリスを抱擁した。
その時ジュヌヴィエーヴが降りてきた。彼女は血色をよくするために、螺鈿《らでん》のナイフで頬をたたいておいたのだが、二十段も段を降りないうちに、このわざとらしい血色の良さも、心臓のほうへ逆流して、消え去ってしまった。
モオリスは、ドアのうす暗がりの中にジュヌヴィエーヴの姿が現れるのを見た。彼はほほ笑みを浮かべて彼女のほうへ進み、彼女の手に接吻した。その時になってようやく、彼は、彼女のひどい変りように気がついた。
彼女のほうでもモオリスの痩せた姿や、眼差しの熱っぽい輝きに気付いてびっくりしてしまった。
「ようやくお見えになりましたわね、ムッシュウ?」と彼女は言ったが、その声の調子はどうしても、感情を圧し殺すことはできなかった。
彼女は、うんと無関心な声で、『今日は、市民モオリス。どうしてこんなに永くお見えになりませんでしたの?』と言おうと、心に決めていたのだが。
言葉は違っても、モオリスには、まだまだ冷淡なような感じがした。それに、なんというニュアンスだろう!
ディメールは、二人がお互いにぐずぐずと探りを入れたり、批難し合ったりしているのを、サッパリ引き分けてしまった。時間はちょうど二時近かったので、彼は昼食に誘った。
食堂へ行ってみると、モオリスは自分の食器がきちんと用意してあるのに気がついた。
そこへ、いつもの栗色の服と、同じ色の上っぱりを羽織ったモランが来た。相変らず緑色の眼鏡をかけ、黒い髪の房をたらして、白い胸飾りをつけていた。モオリスは、自分の目の前に彼がいるときには、こうした相手の様子にできるだけ親しい態度をとり、この相手と離れている時よりも、ずっと妙な不安を抱かないでもすむような気がした。
事実、ジュヌヴィエーヴが、こんな小柄な化学者を愛するなんていうことが、はたしてありうるだろうか? モオリスはよほどぞっこん参っていたに違いない、だからこんなたわいないことを考えるほど、きちがいじみていたのだ。
もちろん、今は嫉妬にかられるような時ではない。なんといっても、モオリスはポケットにジュヌヴィエーヴの手紙を持っていたし、彼の心臓は歓喜にふくらみ、ドキドキと鼓動していたからである。
ジュヌヴィエーヴはふだんの平静さを取り戻した。女性というものの組織の中には、一種独特なものがある、というのは、ほとんど常に、目の前にある現在が、彼女らの心にある過去の痕跡や、未来への危惧《きぐ》を消し去ってしまうものなのだ。
ジュヌヴィエーヴはしあわせな気持になって、再び自分の感情を抑えることができた、つまり、愛矯は忘れずに、しかも平穏で冷たく構えていられた。しかも言葉のはしばしにもモオリスがはっきり判るような強い調子を出さなかった。相手がローランだったら、さぞかし、パルニイ(同時代の詩人で、主に愛を歌い上げた)や、ベルタン(同時代のジャーナリスト)や、ジャンテイ・ベルナール(同時代のサロン詩人)などを引き合いに出して長講一番説明したにちがいない。
話題が理性の女神のことになった。ジロンド党員の没落、神の後継者を女性にゆだねるというこの新しい信仰は、その日の二大事件だった。ディメールが口をきわめて主張するところでは、ジュヌヴィエーヴが女神に選ばれるような、この上もない名誉を与えられたとしても、べつにそう腹は立たなかったろう、ということだった。モオリスはこのはなしを一笑に付そうとしたが、ジュヌヴィエーヴまで夫の意見に賛成した。モオリスは、愛国心というものはディメールのような理性的な精神まで、ジュヌヴィエーヴのような詩的な気質の持ち主まで、こんなに血迷わせてしまうものかと、びっくりして二人を見つめた。
モランは、八月十日のヒロイン、テロワイニュ・ド・メリクール(コルドリエ党に属した女性で『自由のアマゾン』と呼ばれ、八月十日の虐殺には大いに活躍したが、のち狂死す)からジロンド党の魂とも言われるローラン夫人にまで遡って、政治的女性論を展開した。そのついでに、彼は「編物婦人連《トリコトゥーズ》」(革命議会や裁判に、編物をしながら出席した下層の女性)に対して寸評を述べたが、この評を聞いてモオリスは思わず微笑をした。ところがこの寸評たるや、後世ひとびとが「ギロチンをむさぼる醜女《しこめ》たち」の名で呼んだ女性愛国者たちに対する、すこぶる辛辣な嘲弄だった。
「まったくですな! 市民モラン」とディメールが言った。「少々血迷ったとしても、愛国心というものは尊敬しましょうよ」
「ぼくに言わせればですね」とモオリスが言った。「愛国心に関する限り、あんまり貴族的な女性はべつとして、女性は常にじゅうぶん愛国者ですよ」
「おっしゃる通りですな」とモランが言った。「わたしは、はっきり申し上げるが、女性がこれ見よがしに男のような真似をするのはみっともないように思えますね、それに男が、相手の女性を不倶戴天《ふぐたいてん》の敵と思っている場合にしろ、女性を侮辱するようなことがあったら、卑怯きわまりないと思いますな」
モランは、ごくさりげない態度で、モオリスをデリケートな問題に引っぱり込んでしまった。今度はモオリスが、たしかにその通りという合図をして返辞をする番だった。こうして論戦の闘技場の扉は開かれた。そこでディメールが、鈴を鳴らして回る先触れ役のように、こんなことをつけ加えた。
「ちょっと待って、しばらく待って下さい、市民モラン。つまりあたしの言いたいのはですね、あなたは国民の敵の女性どものことは例外としてお話しなんでしょうね」
モランがこんな答えをし、モオリスがうなずいて肯定したのに、ディメールのこんな反論が出たので、その後に何秒か沈黙が続いた。
この沈黙を破ったのは、ほかならぬモオリスだった。
「だれひとり例外はありませんよ」と彼は悲しそうに言った。「残念なことですが、ぼくの見たところ、国民の敵と言われる女性たちも、現在ではもうじゅうぶん罰を受けていますよ」
「つまり、ル・タンプルの女囚人、あのオーストリア女、カペーの娘や妹のことをお話しになってるんでしょうね」とディメールが、その言葉から感情をすっかり取り除いてしまうような、ペラペラした調子で叫んだ。
モランは、この若い隊員の返辞を待つうちに、蒼白の顔色になった。そして、もし彼の爪を見ることができたら、爪でもって胸の上に傷跡でもつけやしないかと思われるほど、深く爪を立てていたのに気付いたろう。
「もちろんです」とモオリスが言った。「ぼくが話しているのは、あの女性たちのことですよ」
「なんですって!」とモランが、|のど《ヽヽ》を絞めつけられたような声で言った。「じゃあ、ひとの噂は、あれはほんとうなんですね、市民モオリス?」
「どんな噂をしているんですか?」と青年が訊ねた。
「女囚人たちは実に目に余るようなひどい扱いを受けている、時には、囚人たちを保護する義務を持っている者にまでひどい扱いを受けている、というんですが」
「なるほど、人間という名前に値しない人間もいるものでしてね」とモオリスが言った。「戦わない男も卑怯ですが、自分が征服者ということをみずから認めたいばかりに、すでに征服されたひとたちを苦しめないではいられない卑怯者もおりましてね」
「アア! あなたはそんな方ではございませんわね、あなたは、モオリス。あたくしは信じておりましてよ」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。
「マダム」とモオリスが答えた。「いまあなたとお話ししているぼくは、故国王のお命をなきものにした処刑台の傍に、衛兵として控えておりました。サーベルを手に持って、国王を救おうとする者はだれでも、この手で殺してやろうと、そこに控えていたのです。ところが国王がぼくのそばまでお出になると、われにもあらず脱帽して、部下たちのほうを向いてこう申しました。『市民諸君、わたしはきみたちに予告しておくが、国王のご前で、王を辱めようとするものは、まず第一にわたしがこのサーベルで串差しにしてやるぞ』とね。そうですとも! ぼくの中隊から、ただの一声でも叫び声があがったなんていうやつがいたら、だれにでも挑戦してやりますよ。そればかりじゃあありません、王がヴァレンヌ(フランス北東部の小村、オーストリアヘ逃亡しようとしたルイ十六世が捕われた小村)からお帰りになったとき、パリに一万本の立札が立ち、こんな貼り紙が出ましたが、この文句をいちばん先に書いたのも、このぼくなんですよ。その文句というのはですね、
『国王に挨拶する者は、何人といえどもこれ打ち殺すものなり。また国王を侮辱せる者は、何人といえども絞首刑に処すものなり』
というやつですよ」
モオリスは、自分の言葉が一同に恐ろしい効果を与えたのにも気づかずに、言葉を続けた。
「ところが、ぼくは自分がりっぱな、明白な愛国者だということも、ぼくが国王とその支持者を嫌悪していることも証明できるんですよ。そうなんです、ぼくとしては、もう深い、確信になっているこんな意見を持っていながらも、あのオーストリア女は、フランスを悲しませた不幸の原因の大部分を占めている、という信念を抱きながらも、たとえどんな男でも、相手がサンテールであっても、ぼくの目の前では元の女王を侮辱するのは許さない、とはっきり宣言してやりますよ」
ディメールは、こんな大胆な言辞を弄する相手に、いかにも賛成しかねる、といった態度で頭を振りながら遮った。
「市民、ご存知でしょうな、あたしどもの前でそんなことをおっしゃるからには、よほどあたしどもを信用なさらなければいけませんよ」
「あなた方の前だって、みんなの前だって同じことですよ、ディメール。ただ、これだけはつけ加えておきますがね。おそらく彼女も、いずれはご主人と同じギロチンの露と消えるでしょうがね、でもぼくは、女性をこわがらせて悦に入るような男ではありません、ぼくは、自分より弱い者を、つねにすべて尊敬しているんですよ」
「それでは女王は、ムッシュウ・モオリス」とジュヌヴィエーヴがおずおずと言った。「時にはあなたに感謝をなさるんじゃあございません? だって女王は、そんな扱いには慣れていないので、優しい心遣いにはずいぶん感じ易くなっているでしょう」
「女囚人は、ぼくがそちらを見ると、何度も何度もぼくに感謝しましたよ、マダム」
「では、女王はあなたの警備の日が回ってくるのを、喜んでお待ちでしょうね?」
「ぼくはそう思っています」とモオリスが答えた。するとモランが、まるで木の葉のように震えながら訊ねた。
「あなたは、今ではだれひとり口にできないようなことをはっきりおっしゃいましたね。つまり実に寛大な心をもっていらっしゃるわけですから、子供たちを苛めるようなこともなさいませんでしょう?」
「ぼくが? あの恥知らずのシモンのやつに、この警察隊員の腕の力がどれほどあるか訊ねてみてください。あの男はなかなか度胸のあるやつで、ぼくの前でもカペーの子供を撲ったことがあるんですよ」
この返辞を聞いて、ディメールのテーブルの一同は自分からもぞもぞと動き出し、うやうやしく立ち上った。
モオリスはただひとり椅子に坐って、自分がこの一同の感動の原因になったなどとは思ってもみなかった。
「いったい、どうなさったんです?」と彼はびっくりして訊ねた。
「工場のほうで呼んでいるような気がしましたもんでね」とディメールが答えた。
「いいえ、ちがいますわ」とジュヌヴィエーヴが言った。「あたくしも最初は同じように思いましたの。でも、あたしたちの思い違いでしたわ」
そこでみなそれぞれの席へ着いた。
「なるほど、じゃああなただったんですね、市民モオリス」とモランが震え声で言った。「実にりっぱな態度で子供をかばっている衛兵がいると、もっぱらの評判でしたが、あなただったんですか?」
「もっぱらの評判ですって?」と、ほとんど崇高とも思えるような素朴な様子でモオリスが訊ねた。
「アア! まったく気高いお気持ですて」とディメールが言ったが、実は、胸がはりさけそうになるのを隠そうとして立ち上り、急な仕事でどうしても行かなければならないようなふりをして、工場へ引っ込もうとしたのである。
「そうですとも市民」とディメールが答えた。「そう、もっぱらの評判ですよ。それにこれもお伝えしておかなければなりませんが、りっぱな心を持った、勇気のあるひとびとは口をそろえて、あなたという人物を知らなくても、あなたのことを褒めちぎっておりますよ」
「そんなことはあまり知られないようにしたほうがようございますわ」とジュヌヴィエーヴが言った。「あたくしたちがこの方をりっぱな方と思って、名誉に思うのはけっこうなことですけれど、それはとても危険な名誉ですもの」
こうして、この奇妙な会話を続けるうちに、ひとりひとりが、自分ではそれと知らずに、ヒロイズムだとか、献身だとか、思いやりだとかいう言葉を口にしていた。
そこには、愛の叫びとも思える言葉まで語られたものだった。
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十七 地下道を掘る男たち
一同がテーブルを立った時、ディメールのところに、書斎で公証人が待っている、という知らせがあった。こんなふうにするのはいつものことだが、彼は弁解まじりにモオリスと別れて、公証人が待っている部屋へ出かけた。
ル・タンプルの庭の正面にある、ラ・コルドリー街の小さな家を買う契約のはなしだった。そればかりか、ディメールが買うのは、家というよりもむしろ家の跡といったほうがよいようなもので、つまり、今ではもう建物は廃屋のようになっていたからである。が、ともかく、彼はそれを改築するつもりでいた。
だから、取引は家の所有者を相手にしてではなく、その日の朝、公証人が持ち主に会い、一万九千リーヴルということで手を打ってきた。公証人がきたのは、契約書のサインと、この建物と引換えにその金額をもらいにきたのである。持ち主はその日のうちにこの家をすっかり引き渡すわけだったが、明日から職人が入るてはずになっていた。
契約書にサインがすんで、ディメールとモランは、すぐにこの新しく手に入れた物件を見に行こうと、ラ・コルドリー街へ公証人といっしょに出かけた。それというのも、家を見ないで買ってしまったからである。
家は、現在の二十番地あたりに建っていて、四階建てで、その上に屋根裏部屋までついていた。階下《した》はむかしは酒屋に貸してあったもので、すばらしい地下の酒蔵がついていた。
とくにこの酒蔵は持ち主の自慢の種だった。たしかに酒蔵は、この家としては驚くべきりっぱな部分だったが、ディメールもモランもこの地下蔵にはあんまり関心を寄せていないような様子だった。けれども二人とも、まるで気晴しぐらいの調子で、持ち主が地下室と呼んでいるものの中へ降りていった。
持ち物を大袈裟に吹聴するのは持ち主の癖だが、ともかくこの地下蔵は大袈裟ではなかった。なるほどこの酒蔵はりっぱなものだった。その一部はラ・コルドリー街の下のほうまで伸びていて、頭の上を馬車がガラガラと走る音が聞えてきた。
こんなすばらしいものを、ディメールもモランもあんまりりっぱだと認めていないような様子で、なるほど酒屋にとっては豪儀なものかもしれないが、家のすみずみまで利用しようと思う善良な市民にとっては、無用の長物になるにちがいないこの地下蔵を埋め立ててしまおう、などという相談までしていた。
地下蔵を見終ると、次には二階、それから三階、四階と見て回った。四階からはル・タンプルの庭の中まで完全に見渡すことができた。庭は慣例通りに国民兵が一杯いたが、女王に散歩禁止が言い渡されてから、兵隊たちは大いに楽しんでブラブラしていた。
ディメールとモランは、彼らの女友だち、相変らず威勢よく、あの名誉ある酒保の仕事に励んでいるプリュモオ寡婦《ごけ》さんの姿を認めた。ところが、二人のほうでは寡婦さんにあんまり姿を見られたくないらしく、この、気分もよければ変化にも富む眺望のすばらしさを強調している持ち主のうしろに隠れるようにしていた。
すると、買い手が屋根裏部屋を見たい、と言った。
鍵を持ってこなかったところをみると、持ち主は恐らく、そんなものが必要になるなどとは思ってもいなかったのだろう。けれども買い手に見せつけられた札束に気を良くして、彼はすぐ降りて鍵を探しにでかけた。
「どうだい、間違ってはいなかったろ」とモランが言った。「この家は、われわれの計画にとっちゃあ|思うつぼ《ヽヽヽヽ》だよ」
「で、あの地下室のことはどう思うね?」
「まさに天祐神助というところだ、おかげで二日ばかり仕事が節約できるよ」
「あの地下室は、例の酒保のほうへ向かっていると思うかね?」
「ちょっと左に片寄ってるが、べつにどうっていうことはない」
「でも、きみの地下道を、確実にきみの思い通りのところへ行き当らせるには、どうやればいいんだい?」
「安心したまえ、それはわたしの仕事だから」
「われわれが見張っている、ということを、ここからずっと合図を送ったらどんなものかね?」
「しかし、あの屋上からでは、女王はこちらの合図がごらんになれないだろうね。というのは、わたしの見たところ、あの屋上と同じ高さなのは、この屋根裏部屋だけだし、それさえあまり確信がないくらいだからね」
「かまわんでしょう、そんなことは、トゥーランやモオニイがどこかの穴から合図を見ることができますよ、そうすれば、連中が陛下にお伝えするでしょうからね」
こう言って、ディメールは、白いキャラコのカーテンの下のほうに結び目をつくり、風に押されて外へ出てしまったように、カーテンを窓の外へ出した。
それから二人とも、もう屋根裏を見て回るのは飽き飽きした、とでもいう様子で、階段のところへ行って持ち主を待っていたが、その前に、あのお人好しが、窓の外でヒラヒラしているカーテンを中へ戻そうなんていう気を起こさないように、四階のドアをきっちり閉めておいた。
モランの予測が的中して、屋根裏部屋はまだとうてい塔の頂上と同じ高さまでは届かなかった。このことは、同時に困難な点も、有利な面もあった。困難な点というのは、つまり女王とサインを交すことができない、ということである。有利な面というのは、サインを交すことができなければ、どんな嫌疑からも逃れられる、ということになる。
背の高い家というのは、もちろんいちばん人目につき、見張られ易いものである。ディメールがつぶやいた。
「女王にご用心あそばすように、モオニイかトゥーランか、チゾンの娘を通じてお伝えする方法を考えなければいけませんな」
「そのことはいずれ考えよう」とモランが答えた。
一同は階下《した》へ降りた。すべて準備のできた書類をもって、公証人が客間で待っていた。
「けっこうですな」とディメールが言った。「この家はあたしの気に入りましたよ。サア、お約束の一万九千五百フランを数えて、サインをいただきましょうかね」
持ち主は注意深く金額を数えて、サインした。
「ご承知かと思いますが、市民」とディメールが言った。「主要な条項は、家を今夜中に明け渡していただく、ということでして、と申しますのは、明日から職人を入れられるように、と思いましてね」
「そのことならお請合いしますよ市民。鍵はお持ちになってけっこうですから。今夜の八時には、すっかり明けておきますよ」
「アア! 申しわけありませんな」とディメールが言った。「公証人さん、まだ伺っておきませんでしたが、ポルト・フォワン街には出口がありましたかね?」
「ございますとも」と持ち主が言った。「ただ、閉めさせておいたんですよ、なにしろ世話係といってもひとりしかおりませんし、出入口を二か所も見張らなければならなくなると、ちょっと疲れすぎて気の毒になりましてね。いずれにしろこの出口は、二時間ばかり手を加えれば、すぐにまた使えるようになっていますよ。なんなら、確かめてごらんになりますか、市民?」
「ありがとう、でもけっこうですよ」とディメールが言った。「べつにその出入口が重要だなんて思ってはいませんからね」
二人は、もうこれで三度目になるが、夜の八時には家を明けておくように持ち主と改めて約束をしてから帰っていった。
九時になると、二人とも、距離をおいて五、六人の男を連れてもう一度やってきたが、ちょうどパリは混乱のさなかだったので、だれひとり彼らに注意を向ける者もいなかった。
まず最初に二人で中へ入った。持ち主は約束を守って、建物は完全に空屋になっていた。
みんな、細心の注意を払って、雨戸を閉めた。そして火打ち石をカチカチたたいて、モランがポケットヘ入れてもってきたローソクをつけた。
五、六人の男たちが、ひとりずつ、順番に家へ入った。この連中は、なめし革工場主の家の食事にいつも招待されている連中で、いつかの晩モオリスを殺そうとして、のちに彼の友だちになったあの密輸人と同じメンバーだった。
ドアを閉めて、地下倉庫へ降りていった。
昼間は、あんなにつまらなそうに見ていたこの地下倉庫が、夜になるとこの家でいちばん重要な部分になった。
まず、物見高い視線をもった連中に、中を見通されるような穴という穴は全部塞いでしまった。
それから、モランがすぐに空樽を立てて、鉛筆で紙の上に幾何学的な線を引きはじめた。
彼が線を引いているあいだに、一味の連中は、ディメールの案内で家を出て、ラ・コルドリー街を通って、ボース街の角までくると、幌馬車の前で立ち止まった。
この馬車の中にひとりの男がいて、だまってひとりひとりに工兵の道具を渡した。ある者にはシャベルを渡し、ほかのものには鶴嘴《つるはし》を渡した。こちらの男には鉄梃《かなてこ》を、あちらの男には鍬《くわ》を、といった具合である。それぞれ、渡された道具を、外套の下や、オーヴァーの中に隠した。地下道を掘る男たちは、あの小さな家への道を引きかえし、幌馬車は姿を消した。
モランのほうはもう仕事を終っていた。
彼は、まっすぐに地下倉庫の隅まで行った。
「ここだ、掘りたまえ」
こうして、女王を救うために働く男たちは、ただちに仕事を始めた。
ル・タンプルの囚人たちの立場は、だんだんに重大になり、とくにだんだん苦しいものになってきた。しばらくは、女王もマダム・エリザベートも王女も、ちょっと希望をとり戻したこともあった。女囚人たちの厳然とした態度にすっかり感心した警備隊員のトゥーランとルピートルが囚人たちに興味を示しはじめた。こんな同情を見せられることに、あまり慣れていなかった気の毒な女たちは、初めのうちは信用しなかった。人問というものは、なにか希望のある時には人を信用しないものである。もとより、牢獄につながれて息子と別れ別れになり、夫とは死に別れた女王にいったいなにが起こりえたろうか? 夫といっしょに処刑台へ登ることだろうか? これは、彼女が永いあいだ直面していた運命であり、ついには彼女もこの運命にすっかり慣れてしまった。
トゥーランとルピートルが初めて警備についたとき、女王は二人に、ほんとうに自分の運命に興味をもっているのかと訊ね、そして王の最期の模様を話してくれ、と頼んだ。彼らの同情に訴えるのは、女王にとってはまったく悲しい試練であった。ルピートルはちょうど、王の処刑に立ち合ったので、女王の頼みに従って話してやった。
女王は国王処刑の記事が載っている新聞を持ってきてくれと頼んだ。ルピートルは、次の警備の番がきたら持ってきましょう、と約束した。警備の順番は、三週間毎に回ってくる。
国王がここにいた頃は、ル・タンプルには四人の警備兵が詰めていた。王の死後は、もう三人しかいなかった。つまり昼間の警備に当る者が一人、夜の警戒用に二人である。トゥーランとルピートルは、いつも二人で組んで夜間の警備に当るように、計略を考え出した。
警備の担当時間は籤《くじ》で決める。投票用紙の一枚に昼間、他の二枚に夜間と書いておいて、それぞれ帽子の中の用紙を引くのだ。こうして、偶然が夜の警備兵の組み合わせを決めるわけである。
ルピートルとトゥーランが警備につくたびに、二人は投票用紙に三枚とも昼間、と書いておき、自分たちが追っ払いたいと思っている、相手の警備兵に帽子を差し出す。相手はこの即席の投票箱に手をつっ込み、当然のことながら、昼間という字を書いた投票用紙を引くことになる。トゥーランとルピートルは、オレたちには、いっもいちばん辛い夜の勤務が当るんでやりきれない、などと不運を呪う言葉をつぶやきながら、他の二枚の投票用紙を破り捨ててしまう。
女王がこの二人の衛兵には安心できる、と見極めをつけると、彼女は二人をメーゾン・ルージュの騎士との仲立ち役にした。こうして脱走計画が決まった。女王と、マダム・エリザベートは、身分証明書をいずれ手に入れて、警備兵の士官に変装して逃走する手はずになっていた。二人の子供、つまり王女と幼い王子についてはどうかと言えば、みんな気がついていたことがある。というのは、ル・タンプルの灯をつけて歩く男が、いつも王女と王妃と同じ年頃の子供を二人連れて歩いていることだった。チュルジイ――この男については次に紹介する――がこの点灯係の服装をして、王女と王子を連れ出せばいい、ということで計画は決った。
このチュルジイとは何者か、ここで二言三言補足しておこう。
チュルジイは、昔の国王の食膳係のボーイで、チュルリイの王家の一族といっしょにル・タンプルヘ連れてこられたのである。というのは、国王も最初のうちは、きちんとした食事を当てがわれていたからだが、こんな食事を出してみると最初の一カ月だけで、国民に三万フランから四万フランの負担がかかった。
ところが、いったんそんなに費用がかかることが判ると、こんな無駄づかいは、そう永続きしなかった。革命政府は命令を出して、コック長、コックたち、皿洗いたちを解雇してしまった。今では食事の世話をするボーイがただひとり残っただけで、このボーイがつまりチュルジイである。
チュルジイは外出を許されている。従って手紙を持ち出し、その返辞を持ち帰ることができるので、二人の女囚人とその一味の者との連絡役になるのは、しごく当然のはなしだ。
ふつう、この手紙は、女王とマダム・エリザベートに渡される、アーモンド・ミルクの瓶の蓋にして巻きつけてあった。手紙はレモン水で書いてあり、それを火に近づけるまでは、字が見えないような仕掛けだった。
脱走準備がすっかり整ったところで、ある日、チゾンがミルク瓶の蓋の紙でパイプの火をつけた。紙が燃えるに従って、だんだんに字が現われてきた。半分紙が燃えたところで、彼は火を消しで、そのきれ端をル・タンプルの司令部へ持っていった。司令部で、彼は紙を火に近づけてみたが、読めたのは、あとのほうのいくつかの言葉だけで、ほかの半分はすでに灰になっていた。
ただ、一同には女王の筆跡がよく判った。訊問を受けたチゾンは、ルピートルとトゥーランが、どうも女囚人どもに親切にしているような素振りが見える、と語った。そこで二人の警備兵は市役所に告発され、もうル・タンプルに入ることはできなくなってしまった。
今や残ったのは、チュルジイひとりである。
しかし疑惑の念がきざして、最高の状態にまでなって、女王たちのそばへは、チュルジイがひとりで近づくことはぜったいにできなくなった。こうなると外部との連絡は、まったく不可能になってしまった。
ところがある日のこと、マダム・エリザベートが、果物の皮をむくために使っている、黄金《きん》の刃のついたナイフを、磨いておいておくれと、チュルジイに差し出した。チュルジイは、これは何かあるな、と察したが、ナイフを拭いているうちに、柄が抜けて、柄の中に手紙が入っていた。
この手紙は、すべてアルファベツトの字を並べただけの暗号だった。
チエルジイは、ナイフをマダム・エリザベートに返した。しかし、そこに立ち合っていた一人の警備隊員がマダムの手からナイフをひったくり、ナイフを検べているうちに、彼もまた、柄から刃を抜いてしまった。ただ、しあわせなことに、もう手紙は影も形もなかったので、隊員はナイフを没収しただけだった。
その頃、疲れを知らないメーゾン・ルージュの騎士は、第二の計画を思いついていた。つまり、最近ディメールが買い取った家を利用して、この試みを実行に移そうとしたのだ。
いっぽう女囚人たちは、だんだんと、望みを失ってしまった。その日、女王は、女王の耳にまで届く、街からの叫び声にすっかり怖気《おじけ》づいて、この叫び声が穏健派の最後の支えであるジロンド党員たちを告発する声だということを知ると、死ぬほどの悲しみを味わったものだった。ジロンド党員が死んでしまえば、王室は、議会にただのひとりも保護者を持たないことになるわけだ。
七時に夕食が始まった。いつものように、警備隊員が、一皿ずつ検査をする。ナプキンはすべて一枚一枚拡げてみるし、パンはフォークで差してみたり、指でつまんだりして中を探り、砂糖菓子《マカロン》も|くるみ《ヽヽヽ》も砕いてみるし、これはすべて、手紙が女囚人たちの手に届きはしないか、と恐れてのことだった。つぎに、こうした用心深い検査が終ると、女王やプリンセスたちは、こんなごく簡単な言葉で、食卓へ呼ばれるのである。
「カペーの寡婦《ごけ》め、食ってもいいぞ」
女王は頭を振って、お腹が空いていない、という合図をした。
けれども、その時、王女がまるで母親を抱擁しようとでもするように、そばへ寄ってきて、低声《こごえ》でこう言った。
「食卓へお着きになって、お母さま、どうやらチュルジイが、なにか合図を送っているようですわ」
女王はブルッと体を震わせて、頭を上げて上を見た。チュルジイは女王の正面に立ち、左の腕にナプキンを掛けて、右の手でしきりに目をこすっていた。
彼女はなんの苦もない様子ですぐに立ち上り、食卓のいつもの席についた。
二人の警備隊員が食事に立ち合った。彼らは、ただの一瞬でも、チュルジイと女王たちだけにすることを禁じられていた。
女王とマダム・エリザベートの足が食卓の下でぶつかり、相方から押し合った。
女王は、ちょうどチュルジイの正面に坐っているので、ボーイが見せるどんなジェスチュアも見逃さなかった。もっとも、ジェスチュアといっても、すべてごく自然の動作だったので、警備隊員の心に疑いひとつ呼びおこすはずはなかったし、また事実呼びおこさなかった。
夕食が終ると、食事の準備のときと同じような用心深い検査をしてから食器が下げられた。パン屑のどんな小さなものひとつでも、集められて、検べられるのである。それがすむと、最初にチュルジイが部屋を出てゆき、つぎに警備隊員たちが出ていった。ところが、チゾンのかみさんだけがあとに残った。
このかみさんは、娘と別れ別れにされてからというもの、まったく残忍酷薄になってしまった。その娘の消息は今もってまったく判らなかった。女王が王女を抱擁するたびに、かみさんはまるで狂気にも似た激怒を見せるのだった。だから、同じ母心から、子を持つ母の苦痛がよく判る女王としては、自分に残された唯一の慰めである、王女を抱擁しようという時になって、しばしば王女を胸に抱きしめるのを思いとどまったりしたものだった。
チゾンが細君を呼びにきた。ところがかみさんのほうでは、カペーの寡婦《ごけ》が寝ないうちは、あたしもここから動かないよ、とまず宣言する始末だった。
そのときマダム・エリザベートが女王におやすみなさいを言って、自分の部屋へ行った。
女王もマダム・エリザベートと同様に、服を脱いで、床についた。そこでようやく、チゾンのおかみさんもローソクを持って、部屋を出ていった。
警備兵たちは、すでに廊下の自分たちの簡易ベッドに横になっていた。
女囚人たちの部屋を訪ねる蒼白い月の光が、|ひさし《ヽヽヽ》の穴ごしに、女王のベッドの足もとの窓から、対角線を描いて光を投げかけていた。
しばらくのあいだ、部屋の中は音もなくすっかり静まりかえった。
それからドアが静かに回って、光線の中にひとつの影が現われ、ベッドの枕のほうに近寄ってきた。マダム・エリザベートだった。
「ごらんになって?」と彼女が声を殺して言った。
「見ましたとも」と女王が答えた。
「で、意味はお判りになって?」
「よくわかりましたよ、思いがけないくらいでしたわ」
「じゃあ、サインを繰りかえしてみましょうよ」
「まず、彼は目をこすっていたでしょう、あれは、なにか新しいニュースがある、ということをあたくしたちに教えるためですよ」
「それから、ナプキンを左の腕から右の腕に掛けかえましたわね、あれは、あたくしたちを救う計画がいま進んでいる、という意味ですわ」
「それから手を額に当てたでしょう、あれはあたくしたちのための救援の手が、内部からではなく、よそからくる、というサインですよ」
「それに、お姉さまが、明日もアーモンド・ミルクを忘れないように、とお頼みになると、ハンカチに結び目を二つつくりましたわ」
「ですから、またメーゾン・ルージュの仕事なんですよ。まったくりっぱな騎士だわ!」
「そう、あの騎士ですわ」とマダム・エリザベートが言った。
「王女は、もう寝《やす》んでいるの?」と女王が訊ねた。
「いいえ、お母さま」と王女が答えた。
「では、あなたもご存知のあの騎士のために、お祈りをなさい」
マダム・エリザベートは音もなく部屋へ帰り、五分ばかり、夜のしじまの中を、神に語りかけているプリンセスの声が聞えていた。
モランの指示に従って、鶴嘴の最初の一打がコルドリー街の小さな家に打ちおろされたのは、ちょうどその時のことだった。
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十八 雲
初めて出会ったときの、あの酔ったような眼差しは別として、モオリスは、ジュヌヴィエーヴが自分を迎える態度が期待したものとは違う、と思った。そして自分がすでに見失ってしまった道、少なくとも彼女の愛情への街道で、はぐれたように見えた道をもう一度見つけるには、二人だけになれれば、と心当てにしていた。
ところがジュヌヴィエーヴは計画をすでに決めてしまっていたので、二人だけで差し向かいになる機会を作るのを避けるつもりだったし、またそれだけに、二人の優しい愛情を考えてみると、差し向かいになったら、どれほど危険かということを思い出していたわけだ。
モオリスはその翌日を当てにしていた。ところが前から判っていたことだろうが、親戚の女性が訪ねてきていて、ジュヌヴィエーヴは、その女性をしきりと引き止める始末だった。しかし、ジュヌヴィエーヴがべつに悪いことをしたというわけでもないので、今度はなにも言うことはできなかった。
帰りがけには、レ・フォッセ・サン・ヴィクトール街に住んでいる、その女性を送るように頼まれてしまった。
モオリスは、しかめっ面をして遠ざかっていった。しかしジュヌヴィエーヴが、彼にほほ笑みかけたので、モオリスはこれを約束の意味だ、と思った。
残念ながら、これはモオリスの思いちがいだった。その翌日は六月の二日で、例のジロンド党員たちが没落した恐るべき日だったが、モオリスは、彼をどうしても国民議会へ連れ出そうとした友だちのローランを追いかえし、ほかのあらゆることもうっちゃって、恋人に会いに出かけた。理性の女神にとって、ジュヌヴィエーヴは恐るべきライヴァルだった。
モオリスは小さな客間にいるジュヌヴィエーヴ、品位と、親切な態度にみちたジュヌヴィエーヴに会った。三色のリボンを花結びにしてつけた、若い小間使が彼女のそばにいて、窓の隅でハンカチに|しるし《ヽヽヽ》をつけていて、その場所から起たなかった。
モオリスは眉をひそめた。ジュヌヴィエーヴは、このオリンポス山の神(過激派の山岳党にかけた|しゃれ《ヽヽヽ》であろう)が不機嫌なのに気がついて、それまでの倍も親切な態度を見せようとした。ところが、彼女がうちとけて、若い小間使にさがるように言わなかったので、モオリスはすっかり癇癪をおこして、いつもよりも一時間も早く、帰ってしまった。
これもすべて、偶然そうなったのだ、と思って、モオリスは我慢した。ところがその晩の状況はひどい有様で、モオリスはここしばらく政治とは無関係な生活をしてきたのに、その噂が彼の耳にまで届くくらいだった。しかし、フランスに十カ月も君臨していた政党が没落したからといって、しばしでも彼の心をまぎらわせるたしにはならなかった。
その翌日も、ジュヌヴィエーヴは相変らずの応対ぶりだった。モオリスは、もうこんなふうにあしらわれることを予想していたから、すっかり計画を整えていた。モオリスが着いて十分ばかりたつと、一ダースほどのハンカチにすでに|しるし《ヽヽヽ》をつけてしまった小間使が、さらに六ダースものナプキンに手をつけようとしたので、モオリスは時計を引っぱり出して、立ち上り、ジュヌヴィエーヴに挨拶すると、一言も口を訊かずに帰ってしまった。
そればかりではない。帰りしなに、ただの一度も振りかえらなかった。
庭を横切ってゆく彼の姿を目で追おうとして立ち上ったジュヌヴィエーヴは、しばらく何も考えずに、蒼白な顔付きで、ヒステリックになり、自分がとった応対ぶりの結果にすっかり茫然として、椅子に崩れ落ちた。
その時、ディメールが部屋に入ってきた。
「モオリスはもう帰ったのかい?」と彼はびっくりして叫んだ。
「ええ」とジュヌヴィエーヴが口ごもった。
「でも、さっき来たばかりじゃあないか?」
「十五分ばかり前ですわ」
「それでもう帰るとはね」
「おかしいですわね」
「ちょっと二人だけにしておいてくれないか、ミュゲ」とディメールが言った。
小間使は、マリーという名前が嫌になって、花の名前を名乗っていた、つまりオーストリア女《マリー・アントワネット》と同じような名前だったので、げっそりしていたのだ。
主人の言いつけで、彼女は立ち上り出ていった。
「ところでジュヌヴィエーヴ」とディメールが訊ねた。「どうだね、モオリスとは仲直りができそうかね?」
「ぜんぜん反対ですわ、あなた、あたくしのみたところ、今ではあたしたち、前よりずっと冷たくなってしまいましたわ」
「で、今度は、どっちが悪いんだい?」
「もちろん、モオリスのほうですわ」
「よろしい、あたしが審判になってあげよう」
「なんとおっしゃったの!」とジュヌヴィエーヴが赤くなりながら言った。「あなたにはお判りにならないんじゃあないかしら?」
「どうして彼が腹を立てたかっていうことかい? 判らないね」
「どうやら、彼は、ミュゲットを好く思っていないらしいんですの」
「なあんだ! ほんとかね、それは? それならあの娘を馘《くび》にすればいいだろ。あたしはね、小間使ひとりのために、モオリスみたいな友だちをなくすのはごめんだよ」
「アラ! あたくしの考えでは、あの娘を家から追い出すなんて、そこまでの必要はないと思いますわ、ただ必要なのは……」
「ただ、何だね?」
「あたくしの部屋から出すだけでじゅうぶんなんです、あのひとには」
「だったらモオリスの言う通りだよ。モオリスが足を運んでくるのは、あなたのところで、ミュゲット目当てではないからね。彼がやってきたときに、ミュゲットがそこにデンと腰を据えていたって、|むだ《ヽヽ》なはなしじゃあないか」
ジュヌヴィエーヴは驚いて夫を見つめた。
「でも、あなた……」
「ジュヌヴィエーヴ、あたしはね、自分の責任になっているこの仕事を、あなたならごく簡単にやってくれると思って、あなたのことをいい仲間だと思っていたんだよ、ところがこの調子だ、思惑は反対で、あなたの気が小さいばかりに、困難な仕事をいっそう難しくしているんだよ。あたしたちは、もう四日も前に話し合いがついて仲直りできていたと思っていたのに、これで全部やり直さなければならないわけだ。ジュヌヴィエーヴ、あたしはあなたという女を、あなたの名誉を信頼している、とは言わなかったかね? 最後には、モオリスに、今までよりもっと仲の良い、これっぽっちもあたしたちを疑わない友だちになってもらわなければならん、あたしはあなたにそう話さなかったかね? ヤレヤレ! まったく! 女なんていうものは、われわれの計画にとっては、永久に邪魔になるばかりだな!」
「でもあなた、なにか別の方法はございませんの? 前にも申しましたけれど、あたくしたちみんなにとって、ムッシュウ・モオリスとは遠ざかったほうがいいと思いますわ」
「そう、あたしたち一同にとってはそうかもしれないね。ところがあたしたち一同よりずっと上にいらっしゃるお方、あたしたちが、今も、財産も、幸福までも犠牲にしよう、と誓ったお方にとっては、あの青年に戻ってきてもらわなければならないのさ。チュルジイに嫌疑をかけられているのを、女王さまがたに、べつのボーイをつけようという話しがあるのをご存知かね?」
「よろしゅうございますわ、ミュゲにやめてもらいましょう」
「ほんとうに! 判ってもらいたいな、ジュヌヴィエーヴ」と、ふだんの彼には珍しいようないらいらした身振りをしながら、ディメールが言った。「どうして、あたしにそんなことを言うんだね? なぜあなたは、自分の考えで、あたしの気持に水を差そうとしたりするんだね? すでに困難が目の前にあるっていうのに、さらにまた難しい問題を持ち出そうなんて、どうしたわけだね? ジュヌヴィエーヴ、りっぱな、忠実な女性として振舞っておくれよ、あなたがしなければならないことは、ホラ、あたしが言ったことがそうなんだよ。明日は、あたしは出かけるからね。明日は、例の仕事で、あたしはモランと交代するんだよ。あたしはあなたといっしょにお昼を食べられないけれど、モランがつき合ってくれるよ。モランはね、ちょっとモオリスに頼みたいことがあるんだ、それについては、モランから説明があるけれどね。考えてもおくれ、ジュヌヴィエーヴ、モランがモオリスに頼まなければならないことというのは、いちばん重要な問題なのさ。もちろん、あたしたちが向かっている目標ではないけれど、そのための手段なんだよ。あれほど善良で、高貴で、忠実な男にとって、今度が最後の望みなのさ。あの男は、あなたにとってもあたしにとっても恩人だし、あの男のためだったら、あたしたちは命までも差し出さなければならないわけだよ」
「だって、あたくしの命をどなたに差し出せとおっしゃるの?」とジュヌヴィエーヴが熱に浮かされたように叫んだ。
「そりゃあもちろんあの男、モランのためさ、ジュヌヴィエーヴ、ほんとうに、どうしてこんな始末になっちまったのかね、モランが、モオリスに好感を持たれるというのは、とりわけ重要なことなんだけれど、モオリスが彼に好意を持てるように、あなたには仕向けられないのかねえ。なにしろ、いまでは、あなたが彼の気分をずいぶん具合悪くしちまったもんだから、モランが頼んだことでも、モオリスは恐らくウンとは言うまいね。ところが、あたしたちとしては、どうあってもモオリスにウンと言ってもらわなければならないんだよ。ジュヌヴィエーヴ、こうなったらあなたにも話しておいたほうがいいかね、あなたがそのデリケートな気持をうまく現わしてくれたら、あんたのその感傷的な性格をうまく利用したら、モランの仕事がどれほどうまい具合にゆくか分るだろう?」
「アア! あなた」とジュヌヴィエーヴが蒼白になり、手を合わせながら叫んだ。「あなた、そんなことはお話しにならないで」
「それならいいけれども」とディメールは妻の額にそっと接吻しながら言った。「心を強く持ちなさい、そうしてよおく考えなさい」
と言うと、彼は部屋を出ていった。すっかり不安になったジュヌヴィエーヴがつぶやいた。
「アア! 神さま、どうしたらいいんでしょう! あのひとたちはあたくしを無理強いにして、あたくしの魂が惹きつけられているこの愛情を、どうしても受け入れろ、と言うんですもの!……」
その翌日は、すでに言ったように、十日目《デカデイ》の休日だった(革命時代には暦法まで改正し、週休制を廃して、十日目毎の休日にした)。
この時代のブルジョワ家庭ならどこにでもあったように、ディメール家には決まった習慣があった。というのは、休日にはふつうの日よりもずっと時間をかけて、格式ばった昼食をとるのである。この家の常連になってから、モオリスは、ただの一度も欠かさずにこの昼食に招かれたが、欠席したこともまた一度もなかった。その頃は、一同二時頃にならなければテーブルにつかなかったのに、モオリスは正午にはもう現われたものだった。
昨日モオリスが帰ったときの態度からみて、ジュヌヴィエーヴはもうほとんど彼には会えないのではないかと思って、望みは抱いていなかった。
事実、正午の鐘が鳴っても、モオリスは姿を現わさなかった。さらに十二時半になり、一時になった。
こうして彼を待っているあいだに、ジュヌヴィエーヴの心中に去来した思いを表現するのは、とてもできない相談である。
まず初めに、彼女はできるだけさり気ない服を着た。そして、彼がやってくるのがおそいとみるや、女性の心にはごく当然な、あの男の気持を唆りたいという感情から、胸の脇に一本、そして髪に一本花を差して、自分の心がだんだんしめつけられるような感じを味わいながら、なお待ち続けていた。ほとんど、一同がテーブルに着く時間になっても、モオリスはまだ姿を現わさなかった。
二時十分前になって、ジュヌヴィエーヴにモオリスの馬の足音が聞えた、彼女にとってはすでに知りつくしている足音である。
「アラ! あの方がお見えになったわ」と彼女が叫んだ。「あの方の自尊心も、愛情と戦うことはできなかったんだわ。あの方はあたくしを愛していらっしゃる、愛していらっしゃるんだわ!」
モオリスは馬から飛び降りて、馬を庭師の手に預けたが、そのままそこで待っているように命令した。ジュヌヴィエーヴは、彼が降りるところをじっと見ていたが、庭師が馬を厩舎《うまや》にひいて行かないのを見て、すっかり不安になってしまった。
モオリスが入ってきた。今日の彼はすばらしく美しかった。大きな折返しのある、黒く、ゆったりした、肩の張った服を着て、白いチョッキに、かもしか革のズボンは、まるでアポロンの足を型にして鋳型を流し込んだような線を描いていた。白のカラー、そして美しい髪の毛が、広い、艶のある額にたれ下り、エレガントで、しかも生まれつき逞しい男の姿をきわだたせていた。
彼が入ってきた。すでに語ったように、彼の姿が現われると、ジュヌヴィエーヴの心はふくらみ、輝くような態度で彼の来訪を迎えた。
「アラ! いらっしゃいませ」と彼女は、彼に手を差し出しながら言った。「ごいっしょに、お食事をなさってくださるわね、よろしいでしょ?」
「とんでもない、女市民」とモオリスは冷淡な調子で言った。「ぼくがお邪魔をしたのは、今日は席を外させていただく、そのお許しを受けに伺ったんです」
「席をお外しになるっていうのは?」
「そうなんです、小隊のほうに、どうしてもぼくが行かなければならない用事ができまして。ぼくとしては、みなさんがぼくをお待ちになり、ぼくのことを礼儀を知らないやつだ、などと悪く思われては、とそれが心配だったものですから。そんなわけで、伺ったんです」
ジュヌヴィエーヴは、しばしホッとしたような気がしたが、また自分の心が圧しつけられるような感じになった。
「アラ! 困りましたわ! ディメールはいっしょにお食事はできませんけれど、帰ったらぜひあなたにお会いするつもりで、それまであなたをお引き留めしておくように、あたくしによく言い含めておりましたのよ!」
「なるほど! それで、あなたがそんなに強情におっしゃる意味が判りましたよ。つまりご主人の言付け通り、というわけですな。ところが、ぼくにはそれが判らなかった、という始末なんだから! ほんとうのところ、ぼくという男はこの己惚れを直すことがなかなかできそうもありませんな」
「モオリス!」
「しかしマダム、ぼくとしてはですね、あなたのお言葉よりもあなたのなさることに気をつけなければならないんです。ぼくにはよく判るんですけれど、ディメールが食事に出ないんなら、なおさらぼくがここに腰をすえる理由はありませんからね。ご主人がいないとなれば、あなたにとってはいっそうご迷惑でしょう」
「どうして、そんなことをおっしゃいますの?」とジュヌヴィエーヴがおずおずと訊ねた。
「だって、ぼくが再びお宅をお訪ねするようになってから、あなたは一生懸命ぼくのことを避けよう避けよう、としていらっしゃるように見えますからね。ぼくはあなたをお訪ねしているんですよ、あなただけをお訪ねしているんですよ、あなただって、そんなことはよくご承知でしょう。それに、ぼくが再びお訪ねするようになってから、ぼくは、いつもあなた以外の方とばかりお会いしていますからね」
「アラ、あなたはまだ怒っていらっしゃるんですの、それならあたくし、できるだけの償いはいたしましてよ」
「けっこうです、ジュヌヴィエーヴ、あなたが、なお償いをなさるというんなら、以前と同じようにぼくを迎えてくださるか、そうでなければ、きれいさっぱり、追い払ってくださればいいんです」
「ネエ、モオリス」とジュヌヴィエーヴが優しく言った。「あたくしの立場も考えてください、そしてあたくしの不安もお察しになって、あたくしをそんなに苛《いじ》めないでください」
こう言って、ジュヌヴィエーヴは彼に近づき、悲しそうに彼を見つめた。
モオリスは口をつぐんでいた。
「じゃあ、どうすればお気に召しますの?」と彼女が続けた。
「ぼくはあなたを愛したい、ジュヌヴィエーヴ、だって、この愛がなければ、今ではぼくは、生きてゆけないような気持ですよ」
「モオリス、お願いですから!」
「それではマダム」とモオリスが叫んだ。「ぼくを黙って死なせてくれなければいけません」
「死ぬ、っておっしゃるの?」
「そう、死ぬか、忘れるかです」
「では、あなたは忘れることがおできになりましたの?」とジュヌヴィエーヴが叫んだが、心からほと走り出た涙が両眼に溢れていた。
「アア! いえ、だめです」とモオリスは膝まずきながら言った。「だめです、ジュヌヴィエーヴ、おそらく死ぬことならできるでしょうが、けっして、けっして忘れられません!」
「でも、忘れるのがいちばんいいことなのです、モオリス、だって、この愛は罪悪ですもの」
とジュヌヴィエーヴはきびしさをとり戻して言った。モオリスは、相手がにわかに冷淡になったので、気をとり直して言った。
「あなたは、ムッシュウ・モランにそんなことをおっしゃったことがありますか?」
「ムッシュウ・モランはあなたのように気が触れてはおりませんわ。あたくしは、あの方にはただの一度だって、友人として、この家でどんな態度をとったらよいか、などということをこちらから指図する必要はございませんでしたわ」
「どうです、賭けましょうか」とモオリスは皮肉な微笑を浮かべながら答えた。「賭けてもいいですよ、ディメールが外にいるんなら、あの男は、モランは席を外してはいなかったでしょうね。アア! ぼくに、あなたを愛するのがいけない、と言うんなら、ぼくはそれに文句をつけたいんですよ。だってね、あのモランが、一秒たりともあなたから離れず、あなたのそばにいる限りは、いや、だめです、ぼくはあなたを愛せないでしょう、いや、少なくとも、愛しているなんて告白をするつもりにはならんでしょうね」
こんな相も変らぬ疑い深さに、すっかり逆上して、ちょっとヒステリックな様子で青年の腕をしめつけながら、ジュヌヴィニーヴが叫んだ。
「あたくしね、あたくし、誓って申しますわ、よくお聞きになって、モオリス、ただ一度申すだけですが、それにもうけっしてこのことは申さないつもりですけれど、モランはただの一言だって、あたくしに愛を囁いたことなどありません、モランは一度だってあたくしを愛したことはありません、今後もけっしてあたくしを愛したりはなさらないでしょう。あたくしの名誉にかけて誓います、あたくしの母の魂にかけて誓いますわ」
「残念だ! ほんとうに残念ですよ!」とモオリスが叫んだ。「ぼくはあなたの言葉を信じたいんですが!」
「どうか、お信じになって! 哀れなオバカさんね!」と彼女はほほ笑みながら言ったが、この微笑は、嫉妬に狂った者以外の男ならば、愛矯のしたたるような告白のしるしと見えたにちがいない。「お信じになって。もちろん、あなたはもっと詳しくお知りになりたいんでしょうね? いいわ、モランはね、ある女性を愛しているんですの、まるで野花が空の星の前で影が薄くなるように、その女性の前へ出たら、地上のどんな花も、消えてしまうような女の方を」
「しかし、女性の中には、ジュヌヴィエーヴのようなひともいるというのに、どんな女の方が、そんなふうにほかの女性の影を薄くしてしまうっていうんですか?」
「愛している相手の女性というものはね」とジュヌヴィエーヴが笑いながらひきとった。「つねに造化の神の傑作に見えるのではありません?」
「じゃあ、もしあなたがぼくを愛してくれなければ、ジュヌヴィエーヴ……」
ジュヌヴィエーヴは、不安そうにその言葉の終りを待っていた。
「もしぼくを愛してくださらなければ、せめてほかの男もけっして愛さない、とぼくに誓うことができますか?」
「アア! モオリス、そういうことならば、あたくしも喜んで誓いますわ」とジュヌヴィエーヴは、彼のほうから彼女の良心に妥協する言葉を言い出してくれたのがすっかり嬉しくなって叫んだ。
モオリスは、ジュヌヴィエーヴが上にあげた両手を取り、その手に激しい接吻の雨を浴びせた。
「サア、こうなったら、ぼくも親切で、扱い易い、信じ易い男になりますよ。こうなれば、寛大になりましょう。ぼくはあなたにほほ笑みたい、ぼくはしあわせになりたいですよ」
「それで、もうそれ以上によけいなことは要求なさいません?」
「一生懸命そうしますよ」
「サア、あの馬を厩舎に入れたほうがいいんじゃあございません。隊のほうで待っていてくれますわよ」
「アア! ジュヌヴィエーヴ、世界中が待っていてくれれば、と思いますよ、それに、あなたのためなら、待たせることぐらいできますとも」
中庭に足音が聞えた。
「食事の用意ができたのを、知らせにきたんですわ」
二人はこっそりと手を握り合った。
食卓へ着くので、一同がモオリスとジュヌヴィエーヴを待っているから、と知らせにきたのはモランだった。
彼もまた、この休日の昼食のために、美しく着飾っていた。
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十九 献心
モランはこんなにめかし込んだ格好をしていたが、モオリスにとってはべつに物珍しいとも思えなかった。
モランのネクタイの結び具合といい、長靴の|ひだ《ヽヽ》といい、シャツの気のきいたことといい、いちばんの気取り屋をもって任ずる王党派《ミュスカダン》でも非難の余地を見出せなかっただろう。
ところで、ここでつけ加えておかねばならないのは、彼は相変らず同じ髪で、同じ眼鏡をかけていたことである。
ジュヌヴィエーヴがああ言って誓ってくれたのですっかり安心していたから、モオリスは、ほんとうの白日の下で彼の髪の毛と眼鏡をはじめて見たような気がした。彼を迎えに出ながら、モオリスはこんな独り言を洩らした。
「ちきしょう、もうけっして君を嫉妬したりはしないぞ、エ、ごりっぱな市民モランよ! お望みなら、きみの休日用の|つぐみ《ヽヽヽ》色の晴れ着を、毎日でもいいから着るがいいさ、金の刺繍をしたラシャの服を、休日用に仕立てさせるがいいさ。今日からは、ぼくはもう、きみの髪の毛と眼鏡しか見ない、と約束しよう、とりわけ、もう、きみがジュヌヴィエーヴを愛してるなんて非難は、ぜったいにしないと約束するよ」
こんな独り言に続いて市民モランに差し出された手が、今までいつも彼に差し出された手よりもずっとあけすけな友情がこもっている握手だったことは、一目瞭然である。
いつもとは反対に、食事のメンバーはとても少なかった。小さなテーブルに、三人分の食器が置いてあるだけだった。モオリスは、テーブルの下で、おそらくジュヌヴィエーヴの足とぶつかるだろう、と思った。はじめは手で、無言の愛の言葉が交され、その後に足の触れ合いが続くにちがいない。
一同席についた。モオリスは、斜めの位置からジュヌヴィエーヴを眺めていた。彼女は彼と太陽の光とのあいだにいた。黒髪が、|からす《ヽヽヽ》の翼のように蒼く反射していた。顔色はきらきらと輝やき、眼差しは愛に濡れていた。
モオリスはジュヌヴィエーヴの足をさがして、探り当てた。彼が彼女の足に触れた最初の感触で、彼女の顔色が反応を示し、同時に赤くなり、また蒼白になるのがわかった。しかし小さな足はテーブルの下でおとなしくしていて、彼の二本の足の間で眠っていた。
|つぐみ《ヽヽヽ》色の服を着込んだモランは、この共和暦の休日の精神を、そして、モオリスが、ときおり、この奇妙な男の唇からほとばしるのを見た、あのいきいきした精神を、身をもって示しているように見えた。もしこの緑の眼鏡がこの焔の色を染めて隠さなかったならば、おそらく彼の目は燃えるように輝いていたにちがいない。
彼はけっして笑わずに、盛んに冗談をとばした。モランの冗談になにか力強い感じを抱かせるもの、その辛辣な言葉に奇妙な魅力を与えるのは、彼の泰然自若といった感じのする真面目さであった。豹の毛皮から家兎の毛皮に到るまで、あらゆる種類の毛皮を売買するために、ずいぶんと旅行をして歩いたこの商人は、手を真赤に染めたこの化学者は、まるでヘロドトス(紀元前五世紀のギリシャの歴史家)のようにエジプトのことを知りつくし、ルヴァイヤン(十八〜十九世紀のフランスの博物学者で旅行家)さながらにアフリカ事情に通じ、軟派の王党派のように、オペラや婦人たちの閨房の内幕に詳しかった。
「まったく、あなたにはかないませんな! 市民モラン」とモオリスが言った。「あなたという方は、ただの物知りじゃあなくて、もうりっぱな学者ですよ」
「ええ! わたしはずいぶんいろいろ見てきましたし、とくにずいぶん本を読みましたからね。それにわたしは、財産でもできたらすぐに、少しばかり生活を楽しむつもりなんですが、その準備をしていけないという法はないでしょう? いまがしおどきですよ、市民モオリス、いまこそその準備期間ですよ!」
「イヤハヤ! なんだか老人みたいな口ぶりですな。いったいあなたはおいくつですか?」
この質問はごく当り前のものだったのに、これを聞くと、モランは身震いして顔をそむけた。
「三十八ですよ。いやね、おっしゃるとおりで、学者になるには、べつに年齢なんか問題ではありませんからな」
ジュヌヴィエーヴがふき出し、モオリスもいっしょに笑った。モランはチラッと微笑を浮かべただけだった。
「じゃあ、あなたはずいぶんご旅行をなさったんでしょうな?」
こう訊ねながらモオリスは、自分の足の問にジュヌヴィエーヴの片足をしめつけたが、彼女は、それと気付かぬくらい、逃れようとして、ピンと足を張った。モランが答えた。
「青年時代の一部を外国で過ごしましたのでね」
「ずいぶんいろいろ見聞なさったでしょう! いや失礼、観察なさった、と言うべきでしょうね。だってあなたのような方は、ただ見聞なさるだけで、観察なさらないはずはありませんからね」
「たしかにおっしゃるとおりで、いろいろ見聞しましたよ。ほとんどすべてのものを見た、と言ってもいいくらいでしょうね」
「すべてのものですって、市民、そいつはちょっと大袈裟でしょう」とモオリスが笑いながらつけ加えた。「たとえあなたが一生懸命に……」
「アア! たしかにあなたのおっしゃるとおりですよ。わたしもどうしても見ることができなかったものが二つあります。まったくのはなし、現代では、この二つのものはだんだんと稀になりましてね」
「というと、なんです、それは?」
「まず第一に」とモランが勿体ぶって言った。「神様ですよ」
「なるほど! 神様をごらんになっていないのなら、ぼくがあなたに女神を見せてあげられますよ」
「どうやってですの?」とジュヌヴィエーヴがさえぎった。
「そう、まったくモダンな造化の女神ですよ。つまり、|理性の女神《ヽヽヽヽヽ》です。あなたがたも、ときどきぼくの口から噂をお聞きになったと思うんですが、ぼくの友だちがですね、親友の、親切なローランという男ですが、黄金のようにりっぱな心の持ち主で、ただひとつだけ悪い癖があるんですよ、四行詩を作りたがり、しゃれや地口を連発するのが玉に|きず《ヽヽ》なんですが」
「それで?」
「それでですね、この男が、パリの町に理性の女神を捧げてやろうとしたんですよ、条件は申し分なしで、非の打ちどころのない女神ですがね。女市民アルテミーズがそのご本尊で、元オペラのダンサーで、今ではマルタン街の香水屋ですがね。彼女が完全に女神の位置におさまったら、彼女をみなさんに紹介しますよ」
モランは頭を下げて、重々しくモオリスに礼をして、続けた。
「もうひとつのものは、王さまですよ」
「アラ! それは、ほんとうにむずかしいはなしですわ」とジュヌヴィエーヴがむりに微笑を浮かべながら言った。「なにしろ、王さまはもういらっしゃらないんですものね」
「気をつけていれば、ごらんになれたはずなんですがね」とモオリスが言った。
「そんなわけですから、王冠をのせた顔がどんなものか、ということがまったく頭に浮かんでこないんですよ」とモランが言った。「おそらく、ずいぶん悲しそうなものでしょうな?」
「ほんとに、とても悲しそうですよ」とモオリスが言った。「こんなお答えをするのも、実はぼくはほとんど毎月のように見ているものですからね」
「王冠をのせた顔をですの?」とジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「というよりは」とモオリスが言った。「王冠のどっしり重い、苦しい重荷に圧しひしがれている方をですよ」
「なるほど! そうですな、女王のことですな」とモランが言った。「おっしゃる通りですな、市民モオリス、おそらく胸の痛くなるような光景でしょうな……」
「女王は、噂どおりに美しく、高慢なお方ですの?」とジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「あなたは、一度も女王をごらんになったことがないのですか、マダム?」と今度は、モオリスのほうがびっくりして訊ねた。
「あたくしが? 一度もございませんわ……」と彼女が答えた。
「まったく、奇妙なはなしですな!」
「どうして奇妙なんですの? あたくしたち、九一年までは地方に住んでおりましたでしょ。九一年以後は、あたくしサン・ジャック街に住んでおります、この界隈は地方にほんとうによく似ておりますし、お陽さまがささないのと、空気が少なく、花が少ないだけの違いだけですわ。あなたも、あたくしの生活ぶりはご存知でしょう、市民モオリス。生活はいつも変りございませんの。どうして、あたくしが女王を見たことがある、なんておっしゃるんですの? だって、そんなチャンスは、一度だってございませんでしたわ」
「あなたもきっと、最近きっとくるだろうチャンスを利用なさるようになるでしょうね、マダム」
「どういう意味ですの、それは?」
すると、モランがその言葉をひき取った。
「市民モオリスは、あのことをほのめかしておられるんですよ。もう秘密でも何でもないですからね、あれは」
「あのことっておっしゃるのは?」
「つまり、マリー・アントワネットがきっと死刑を宣告されるだろうということですよ、それに、ご主人が亡くなった同じギロチン台上で死ぬ、ということですよ。つまり市民モオリスがおっしゃるのは、彼女が革命広場まで引きまわされるのに、ル・タンプルを出る日を利用して、女王の姿を見ないのか、という意味ですよ」
「アラ! そんなこと、ごめんですわ」とジュヌヴィエーヴが、氷のような冷静さでモランの口から出たこの言葉を聞いて叫んだ。
「だったら、それは諦めるんですな」とこの無感動な化学者が続けた。「というのは、あのオーストリア女はがっちり見張りをつけられていますし、共和国はまるで仙女みたいなもので、自分のほうの都合次第で、なんでもエイッとばかりに姿を見えなくしちまうんですからね」
「はっきり申しますと、そりゃああたくしだって、そのお気の毒な女性を一目見たいとは思いましてよ」
「なるほどそうですか」とジュヌヴィエーヴの望みとあれば、どんなことでもかなえてやろうと一生懸命になって、モオリスが言った。「ほんとに、そんなに会ってみたいんですか。それならそうおっしゃればいいですよ。共和国は仙女みたいなものだ、なるほどこの点では、ぼくも市民モランのお説はごもっともだと思いますよ。しかしぼくだって、警備兵の資格で、ちょっと、魔法使いくらいの芸当はできますよ」
「あなたが、あたくしに女王を見せてくださるようにとりはからえるとおっしゃるんですの、ムッシュウ?」
「そのくらいのことは、きっとできますよ」
「で、それにはどうやるんです?」と、青年には気付かないような、素早い視線をジュヌヴィエーヴと交して、モランが訊ねた。
「しごく簡単なことですよ。そりゃあたしかに、中には嫌疑をかけられるような警備兵もおりますがね。でもぼくは、そんな連中とはちがうんですよ、なにしろ自由のために献身した証拠はじゅうぶんありますからね。もちろん、ル・タンプルヘ入るには、警備兵と、衛兵所の長との両方の意志次第ですけれどね。ところがです、その日は、衛兵所の長は、ちょうどぼくの友人のローランに当っているんですよ。ぼくの見たところ、彼はまちがいなくサンテール将軍の交代として指名を受けますね、なにしろ彼は、三カ月で伍長の階級から、副官に昇進したくらいですからね。いいでしょう、ぼくが衛兵勤務についている日に、ル・タンプルまでぼくに会いにきてください、つまり、今度の木曜日ですよ」
「いやほんとうに」とモランが言った。「あなたが願いをかなえてやってくだされば嬉しいですよ。どんなものか、まったく見ものですな!」
「アラ! そんなこといけませんわ、あたくしいやですわ」
「どうしてそんなことをおっしゃるんです?」とモオリスは叫んだが、彼にすれば恋人に会えるというしあわせが台無しになるつもりでいた日に、ジュヌヴィエーヴに会う方法としては、こうして彼女がル・タンプルを訪ねてくれるよりほかにない、と思っていたのだ。
「だって、ネエ、モオリス、そんなことをしたら、あなたになにか、不愉快な|いざこざ《ヽヽヽヽ》が起こるかもしれませんわ、それに、あたくしたちのお友だちのあなたにそんな気がかりなことが起こったら、あたくし生涯そのことを思い悩むようになりますわ、なんにしても、あたくしの気まぐれを満足させるために起こったことですもの」
「なるほど、あなたの言うことは賢明だね、ジュヌヴィエーヴ」とモランが言った。「いいかね、なにせ不信の念が大きくなっているからね、今日びでは、いちばんりっぱな愛国者だって、嫌疑をかけられるくらいだからね。まあ、そんな計画は諦めるにこしたことはないよ、あなたの言うように、あなたにとって、ごく単純な気紛れな物好きだからね」
「なんだか、あなたは気を悪くしているみたいですよ、モラン、あなたが王にも女王にも会ったことがないもんだから、ほかのひとにも会わせたくないんでしょう。さあ、もう議論は打ち切りですよ。ぼくらの仲間に入ってくださいよ」
「わたしがですか? いや、ごめんこうむりましょう」
「ル・タンプルヘ来たいといってるのは、いまやディメール夫人じゃあないんです、お願いしてるのはぼくのほうなんですよ、ひとりの哀れな囚人を慰めにきて欲しいと頼んでいるんですよ。それというのも、表門がひとたびぼくの背後でピタリと閉ざされてしまったら、ぼくまで、王や、王と血を分けた王子と同じように、二十四時間というもの囚人同然になるんですからね」
そして、ジュヌヴィエーヴの足を両足ではさみつけながら言った。
「だからお出ください、お願いです」
「ネエ、モラン」とジュヌヴィエーヴが言った。「あたくしといっしょに行ってくださらない」
「でも、一日つぶれてしまうのでね」とモランが言った。「一日商売をしなければ、それだけ仕事もおくれるのでね」
「じゃあ、あたくし出かけられませんわ」
「どういうわけです、それは?」とモランが訊ねた。
「だってそうじゃあありません! しごく簡単なことですわ。あたくしと一緒に行くといっても、主人はとても当てにはできませんし、あなたのような、三十八にもなる、分別のある方がご一緒してくださらなければ、あたくしにはとうてい、ひとりで、砲手や、歩兵や、軽歩兵なんていうひとたちのお相手する度胸はございませんわ、だって、あたくしより三つか四つ年下の警備兵の方にお話ししたいなんて頼むんでしょう」
「それなら、あなたは、わたしが行かなければ、行けないとおっしゃるんですね、女市民……」とモランが言った。
「サア、サア、学者先生、ここはひとつ、まるっきり当り前の男と同じつもりになって、ご婦人の言いなりになるんですな」とモオリスが言った。「あなたのお友だちの奥さんですよ、半日ぐらいは犠牲になさってもいいでしょう」
「じゃあ、そうしますか!」とモランが言った。
「さて、今度はひとつだけお願いがあるんですよ」とモオリスが言った。「というのは、とにかく慎重に願いたいんです。なにしろ、ル・タンプルを見物に出かけるだけでも、嫌疑の種ですからね。この見物に出かけたのちに事故でも起ころうものなら、ぼくらはみんなギロチン行きですよ。ジャコバン党という連中には、冗談が判りませんからね、まったく! 連中がジロント党員をどう扱ったかは、ごく最近その目でごらんになったでしょう」
「まったくですな!」とモランが言った。「市民モオリスがおっしゃったことは、よおく考えてみる必要がありますな。そんなことをしたら、わたしもこの商売から身を引かなければならないことになりそうだし、ぜんぜん手も足も出ないでしょうからね」
「お聞きにならなかったの?」とジュヌヴィエーヴが微笑しながら言った。「市民は、|みんな《ヽヽヽ》、とおっしゃったのよ」
「|みんな《ヽヽヽ》、というと?」
「みんな一蓮托生というわけですわ」
「そう、恐らくそうなるでしょうな」とモランが言った。「そうなれば、愉快な仲間になりますよ。でも、わたしとしては、一蓮托生であの世へ行くよりは、みんな仲良く生きてゆくほうがいいですな」
こんな問答を聞いて、モオリスはこんなことを考えていた。
「イヤハヤ、まったく! オレはなんてバカバカしいことを考えていたんだろう。こんなりっぱな男がジュヌヴィエーヴに首ったけだなんて!」
「じゃあ、きまりましたのね?」とジュヌヴィエーヴが言った。「モラン、あなたのことよ、あたくし、あなたに話しかけているんですのよ、あなたときたら、すぐにぼんやりして、考え込んでしまうんですもの。今度の木曜日ですわよ。水曜日の晩には、なにか化学の実験なんか始めないようになさってね、実験なんて始めたら、二十四時間ぐらい、夢中になってしまうんですもの、今まででも、ときどきそんなことがありましたでしょ」
「安心していいですよ」とモランが言った。「もちろん、今日からそれまでは、わたしに思い出させるようにしてくださいよ」
ジュヌヴィエーヴが食卓から立ち上り、モオリスも彼女のするとおりにした。モランも今にも立ち上って、二人のあとを追おうとしたらしいが、その時、職人のひとりが、なにか液体の入った小瓶をこの化学者のところへ持ってきたので、彼はそちらにすっかり注意を奪われてしまった。
「サア、急ぎましょう」とモオリスがジュヌヴィエーヴを引っ張りながら言った。
「アラ! 心配ご無用ですわ。彼は、少なくともたっぷり一時間ぐらいはあれにかかりきりですわよ」
こう言って、ジュヌヴィエーヴは彼に手を預け、モオリスはその手を優しく握りしめた。彼の気持を裏切っていることに後悔は感じていたが、彼にしあわせな気持を味わわせることで、この悔恨の埋め合わせをつけていたのだ。
庭を横切りながら、できるだけ勢いがよくなるようにと思って、マホガニーの箱に入れたまま戸外《そと》に出しておいたカーネーションをモオリスに指さして見せながら、彼女が言った。
「ごらんなさい、あの花は枯れてしまいましたわ」
「だれが枯らしてしまったんでしょうね? あなたが面倒を見なかったからですよ、かわいそうなカーネーション!」
「あたくしが面倒を見なかったせいじゃあありませんわ、あなたのほうでお見捨てになったのよ」
「といっても、あの花は面倒なんてほとんど要らないんですよ、ジュヌヴィエーヴ、水を少しやっておけばいいんです、それだけですむんですよ。それに、ぼくが来なくなったら、あなたにはじゅうぶん時間ができたでしょうにねえ」
「アラ! もしこの花に、水代りに涙をかけていたら、あなたのおっしゃった、この哀れなカーネーションも枯れはしなかったと思いますわ」
モオリスは腕の中に彼女を抱きしめ、自分のほうに激しく彼女を近寄せて、彼女が身を守ろうとするより早く、荒れたマホガニーの花の箱を眺めて、半ばほほ笑み、半ば悲しげな目の上に、唇を押し当てた。
ジュヌヴィエーヴは、彼をうんと攻めてやりたかったが、寛大な態度をとった。
ディメールが戻ったのはおそかったが、彼が戻ったときには、モラン、ジュヌヴィエーヴ、モオリスの三人が庭で植物についてお喋りをしていた。
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二十 花売り娘
ついに問題の木曜日、つまりモオリスの警備の日がやってきた。
もう六月に入っていた。空は抜けるような青さで、このインド藍のテーブルクロースの上に、新しい家々の鈍い白が|しみ《ヽヽ》をつけていた。みな、あの恐ろしい犬(暴動)の到来を予感しはじめていた。昔のひとびとは、この犬を、癒し難い飢《かわ》きにおそわれたものとして描いていたし、パリの下層流に言えば、敷石をきれいに|なめて《ヽヽヽ》しまう犬であった。パリはまるで絨毯《じゅうたん》のようにきれいで、木々から立ち登り、花々が発散する空気がふりまいた香りが、処刑広場の敷石からたえず立ちのぼる、血の匂いを、この首都の住民に少しばかり忘れさせてくれるとでもいうように、町にみなぎり、ひとびとを酔わせるのだった。
モオリスは、九時にル・タンプルヘ入らなければならなかった。彼の二人の仲間は、メルスヴォーとアグリコラだった。八時には、彼は、警備兵の第一装の制服を着て、つまりしなやかな、筋肉質の体を、三色の懸章でしめつけて、サン・ジャック街へ行った。彼はいつもと同じように、ジュヌヴィエーヴの家へ馬でやってきたが、来る途中、彼が通るのを見かけた愛国者たちは、少しも隠さず、賞讃と感嘆の眼差しで彼を迎えた。
ジュヌヴィエーヴは、すでに外出の支度ができていた。彼女はモスリンのなに気ない服を着て、軽いタフタの一種の外套のようなものをはおり、三色の徽章をつけた小さなボンネットをかぶっていた。こんな簡素な格好をしていても、彼女は目のさめるような美しさだった。
すでに説明したように、さかんにせがまれてようやく腰を上げたモランは、恐らく特権階級と間違えられるのが心配だったのだろう、いつもの洋服、つまり半分ブルジョワで、半分は職人のように見える服を着ていた。彼はたったいま帰ったところで、彼の顔には疲労の色が濃く現われていた。
彼が言うところでは、ぜひ必要な仕事を仕上げようとして、一晩中仕事にかかっていた、という。
ディメールは、友人のモランが家へ戻るとすぐに、外へ出かけて留守だった。
「いかがですの」とジュヌヴィエーヴが言った。「どんなふうにお決めになったの、モオリス、あたくしたち、どうやって女王のお姿を拝見できますの?」
「お聞きください」とモオリスが言った。「ぼくのほうの計画はできています。ぼくは、あなた方と一緒にル・タンプルヘ参ります。あなた方を、衛兵を指揮している、友人のローランに紹介いたします。ぼくは自分の部署につく、そして都合のいいときに、あなた方を呼びに参りますよ」
「でも」とモランが訊ねた。「わたしたちは、いったいどこで女囚人に会うんです、それに、どうやって見ればいいんです?」
「朝食のあいだか、昼食のあいだですよ、それはあなた方のご都合しだいですが、警備兵たちのガラス戸越しです」
「それでじゅうぶんです!」とモランが言った。
モオリスはその時、モランが食堂の奥にある食器箪笥のところへ行き、急いでぶどう酒を生のまま飲むのを見た。モオリスはそれを見てびっくりした。モランは実に節制家で、ふつうは、水で割った赤ぶどう酒しか口にしなかったからだ。
ジュヌヴィエーヴは、モランがこんな飲み方をするのを、びっくりして眺めているモオリスに気づいて言った。
「ほんとうに、彼は仕事のおかげで、体をこわしてしまいますわ、昨日の朝からなにひとつ口にできなかったんですもの」
「じゃあ、ここで夕食を食べなかったんですか?」
「食べていませんわ。彼はよそでなにか実験をしていたんですもの」
ジュヌヴィエーヴは、べつに用心する必要もなかった。モオリスは、今はほんとうに恋をしていた、いわば、エゴイストになっていたから、モランのそんな行動にも、ごく表面的な関心しか払わなかった。つまり恋をしている男にはありがちなことだが、自分の愛する女以外のものには、ごくうわべだけ、チラリと関心を払っただけだった。
ぶどう酒をこうして飲むと、モランはひと切れのパンを、大急ぎでガツガツと食べた。
「サア、これで準備オーケーですよ、市民モオリス。お望みの時に出かけても結構ですよ」
通りがかりに摘んだ、枯れたカーネーションのしおれた雌芯《めしべ》をむしっていたモオリスが、ジュヌヴィエーヴの腕をとって、こう言った。
「サア、出かけましょう」一同は家を出た。モオリスは、幸福感が心に溢れるほどしあわせだった。もし自制心がなかったら、喜んで大声で叫び出しただろう。実際、彼はこれ以上なにを望んだだろうか? ジュヌヴィエーヴがモランを愛していないのは、確かなはなしだが、それどころか、彼女は彼を、彼を愛していたのだ。まさに願ったり、かなったりだ。神は地上に、美しい太陽をサンサンと注いでいた。ジュヌヴイエーヴの腕は、彼の腕の下で小きざみに震えていた。町のひとびとは、声をはり上げて、ジャコバン党の勝利を、ブリッソとその一味の没落を祝い、祖国は救われた、と叫んでいた。生涯には、男の心が、いかに抑えに抑えても、喜びや苦しみを押し込めるに、あまりにも小さすぎる感じがする瞬間があるものだ。
「アア! なんてすばらしい日だろう!」とモランが叫んだ。
モオリスは驚いて振り返った。このいつも放心しているか、そうでなければ感情を抑えつけている男が、彼の前でこんな感激の言葉を口走ったのはたえてないことだった。
「アア、ほんとですわ、ほんとですとも、すばらしい日だわ」とジュヌヴィエーヴがモオリスの腕に重心を預けて言った。「今のように、晩まで、こんなに澄んで、雲ひとつないままでいてくれればいいんですけれどね!」
モオリスはこの言葉を自分流に解釈したので、しあわせは倍加した。
モランは、その意味が判った、という特別な表情で、緑のサングラス越しにジュヌヴィエーヴを眺めた。彼のほうでも、おそらく、この言葉を自分流に解釈していたのだろう。
三人は小橋《プティ・ポン》を渡り、ラ・ジュイヴリー街を通り、ノートル・ダム橋を渡った。それから、市庁前広場、パール・デュ・ベック街、サン・タヴォワ街を過ぎた。歩くに従って、モオリスの足はだんだん軽くなったが、反対に二人の|つれ《ヽヽ》の足は一歩一歩おそくなっていった。
こうして、レ・ヴィエイユ・ゾードリエット街の角へ着いたが、その時、とつぜん、ひとりの花売り娘が三人の前に立ちふさがって、花の入った平べったい籠をつき出した。
「ヤア! すばらしいカーネーションだね!」とモオリスが叫んだ。
「アラ! ほんとうに、きれいですわね」とジュヌヴィエーヴが言った。「この花、枯れていないところをみると、この花の世話をしたひとには、ほかの心配事がなかったんですのね」
この言葉は、青年の心に優しく鳴り響いた。
「アラ! ハンサムな警備兵さん」と花売り娘が言った。「お連れのご婦人に花束を買ってあげてください。白いお召し物ですから、ホラ、すばらしい赤いカーネーションはいかが。白と真赤というのは、とてもうつりがいいんですのよ。お連れの方が胸に花束をお持ちになるでしょ、で、その胸をあなたの青い制服のそばにぴったり寄せれば、ホラ、赤、白、青で国旗の色だわ」
花売り娘は若くてきれいだった。彼女は特別優しく、愛嬌をふりまいた。そのお愛想は、もちろんなかなか堂に入っていたし、あるいはちょっと大袈裟に聞えたかもしれないが、この場合、これ以上うまくチャンスをつかめなかったろう。そればかりか、この花がまだほとんど象徴的な意味を持っていた。この花は、マホガニーの箱の中で枯れてしまった花と同じ、カーネーションだったのだ。
「よし」とモオリスが言った。「買ってあげるよ、というのは、これがカーネーションだからだけれど、エ、意味が判るかい? ほかの花だったら、ごめんこうむるところなんだぜ」
「アラ! モオリス、要りませんわ」とジュヌヴィエーヴが言った。「お庭にたくさん咲いているんですもの!」
ところが口ではこんな反対を唱えながら、ジュヌヴイエーヴの目は、死ぬほどこの花束が欲しいんだ、と語っていた。
モオリスは、花束のうちで、いちばんきれいなのを手にとった。もとより、美人の花売り娘が彼に差し出したのも、これだった。
花束は、深紅の二十本ほどのカーネーションでできていて、鼻をくすぐる匂いと同時に、甘い香りがした。花の真中に、まるで王様のようにほかの花を圧して、大きなカーネーションが一本突き出していた。
「サア」とモオリスが、五リーヴルのアシニア紙幣(革命政府発行の紙幣で一七八九年より九七年まで通用した)を花寵の中に投げ出しながら、花売り娘に言った。「サア、釣りは要らないよ」
「ありがとう、ハンサムな警備兵さん、何度でもありがとうを言うわよ!」
こう言うと、彼女は、初めよければ終りよしという言葉通りに、今日一日がうまくゆくようにと望みを抱きながら、べつのカップルのほうへ行った。一見ごく単純で、わずか数秒しか続かなかったこの情景が展開するうちに、モランは足がよろめき、額ににじんだ汗を拭き、ジュヌヴィエーヴは蒼ざめて、震えていた。彼女は、その魅力に溢れる手を痙攣させながら、モオリスが差し出した花束を受け取り、それを顔に持っていったが、それは花の香りを楽しむというよりは、むしろ心の動揺を隠すためだった。
残りの道のりを、少なくともモオリスだけは、いかにも楽しげに歩いていった。ジュヌヴィエーヴにとっては、モオリスの楽しげな様子がかえって苦痛の種だった。モランの様子はといえば、いかにも奇妙な態度になって現われた、というのは、ホッと溜息をついたり、とつぜん笑い声をあげたり、とっぴょうしもない冗談をとばしたり、まるで火花が飛び散るように、通行人にぶつかっていったりした。
九時に、三人はル・タンプルに着いた。
サンテールは警備兵たちの点呼をしていた。
「わたしは参りました」とモオリスは、モランにジュヌヴィエーヴを預けて、言った。
「ヤア! よく来たな」とサンテールは、青年に手を差し出しながら言った。
モオリスは、差し出された手を拒まずに、慎重に握手した。サンテールに目をかけられるということは、当時はたしかにもっとも貴重なもののひとつであった。あの有名な日(七二年六月二十日、議会へのデモ。サンテールが指導した)に太鼓を打つのを指揮したこの男を一目見て、ジュヌヴィエーヴは怖気《おぞけ》をふるい、モランは蒼白になった。
「あの美人の女市民はだれかね?」とサンテールがモオリスに訊ねた。「ここへ何をしに来たんだい?」
「勇敢な市民、ディメールの奥さんです。将軍は、この勇敢な愛国者の名前をお聞きになったことはありませんか?」
「なるほど、なるほど」とサンテールが言った。「なめし革工場の主人だろ、ヴィクトール隊の歩兵大尉だったな」
「その通りです」
「よろしい! よろしい! それにしてもべっぴんだね。ところで彼女に腕をかしてる、あのぶおとこは?」
「市民モランで、彼女のご主人の協同経営者で、ディメール中隊の隊員です」
サンテールはジュヌヴィエーヴに近寄っていった。
「今日は、女市民《シトワイエンヌ》」
ジェヌヴィエーヴは一生懸命努力して、微笑しながら返辞をした。
「どうぞよろしく、将軍」
サンテールは、彼女の微笑を見て、また同時に肩書を呼ばれて気をよくした。
「あなたのような愛国者が、こんなところへ何をしにおいでです?」
すると、モオリスが言葉をひきとった。
「女市民は、今まで一度もカペー未亡人を見たことがないので、見たいんだそうです」
「なるほど、あの前にだね……」と言って、彼は残忍な身ぶりをしてみせてから言った。
「よろしい。ただし、塔へ入るのを見られないようにしたまえ。悪例を残すからな。もちろん、わしはきみを信頼しておるから」
サンテールはもう一度モオリスの手を握り、頭をちょっと振って、ジュヌヴィエーヴに親し気な、そして保護者然としたジェスチュアを見せてから、むこうへ行って、ほかの仕事にとりかかった。
選抜兵や歩兵が何度も何度も演習していた。轟音をひびかせて、あたり一帯に景気のいい威嚇射撃の音をふりまいているようにみえる砲撃が続いた。それが終ると、モオリスはモランを従え、ジュヌヴィエーヴの手をとって、ローランが大隊演習の指揮をとっている、門の衛兵所のほうへ進んだ。
「ヤア!」とローランが叫んだ。「モオリスかい。ちきしょう、うまくやってるな! ちょっとイカすご婦人をご同伴とはね。こいつ、油断ならんやつだな、オレさまの、理性の女神と張り合わせようっていうつもりかい? ほんとにそんなつもりなら、アルテミーズは気の毒なこった!」
「どうした副官?」と大尉が言った。
「アッ! そうだっけ。気をつけーッ!」とローランが叫んだ。「左向けえーっ左……今日は、モオリス。急がずに……前へー進め!」
太鼓が鳴った。隊員たちが部署に行き、それぞれ位置につくと、ローランが駈け寄ってきた。
初対面の挨拶が交された。
モオリスが、ジュヌヴィエーヴとモランに、ローランを紹介した。
それから、モオリスが説明をはじめた。
「オーケー、オーケー、わかったよ」とローランが言った。「つまりきみは、この市民と女市民が塔へ入れるように頼む、というんだろ。なあに、簡単なことさ。オレはね、歩哨を位置につかせておいてね、連中に、きみと、きみの連れを自由に通せ、と伝えておくよ」
十分後には、ジュヌヴィエーヴとモランは、三人の警備兵のあとに続いて、ガラス戸のうしろに立っていた。
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二十一 赤いカーネーション
女王は、まだ起きたばかりだった。二、三日前から病気で、いつもより永く床についていたのだ。ただ、妹から、お陽さまが上って、すばらしい日和だ、ということを聞いたので、努力して起き上り、王女に外のいい空気を吸わせようと、テラスを散歩したいと頼んだところ、難なく許可がおりたのである。
それに、女王がそんな決心をしたのには、べつの理由もあった。これは嘘いつわりのないところだが、一度、塔の上から庭にいる王子を見かけたのである。ところが、母と子が交した最初の身振りも、シモンに邪魔されて、子供は中へ入れられてしまった。
そんなことはどうでもいい、女王は王子を見たのだ、それでたくさんだ。小さな、哀れな囚人は、事実まっ蒼になって、すっかり変っていた。それに王子は、まるで庶民の子供のように、革命服に、ダブダブのズボン、という服装だった。ただ美しくカールした、ブロンドの髪の毛はそのままだったが、その髪の毛は、まるで、神がお望みになって、この殉教者のようにしいたげられた子供が神に召されるまでとっておいた後光のように見えた。
女王が、もしたった一目でもいいから王子を見ることができたならば、この母の心はどんなに歓喜に溢れることだろうか?
そればかりか、ほかにもまだあった。
「お姉さま」とマダム・エリザベートが女王に言った。「ご存知でしょう、廊下の壁の隅に、麦わらが刺さっているのを見つけましたのよ。暗号では、あれは、あたくしたちの周囲をよく注意して見ろ、お友だちがそばにいる、という意味ですわ」
「おっしゃるとおりですわね」
女王は憐れむように妹と王女を見つめながら言ったが、女王自身、救援ももうだめではないかと絶望しそうで、一生懸命自分の心を勇気づけていたのだ。
必要な仕事が終った。モオリスは、警備兵のアグリコラとメルスヴォーに夜の警備が当り、偶然、自分が昼間の警備につくことになったので、それだけに、昼間のうちはル・タンプルの塔の中で自由に振舞えることになったわけである。
交代の衛兵が、ル・タンプルの司令室に調書を置いてから、出ていった。
「アラ、警備兵さん」とチゾンのおかみさんがきて、モオリスに挨拶した。「あたしたちの鳩ポッポを見物させるんで、お仲間を連れてきたんだね? まったく、貧乏籤を引いたのは、あたしだけだよ、だって、もうあたしの可哀そうなソフィーに会えないなんて、宣告されちまったんだものね」
「ぼくの友だちでね、このひとたちは、つまり、まだ一度もカペーの細君を見たことがないっていうんだよ」
「なるほどね、それならガラス戸のうしろから見るのがいちばんだよ」
「たしかにそうだろうな」
「ただねえ」とジュヌヴィエーヴが言った。「格子の向うがわから見るなんて、いかにも残酷なヤジ馬みたいですし、囚人の苦しみを楽しんでいるような感じですわ」
「だったらさ、あんたのお連れを、塔の通路のところまで案内してやったらどうなのサ、だってね、カペーのかみさんは、今日は妹と娘っ子を連れて、そこを散歩するんだよ。お偉方は、あの女には娘っ子をそのまま一緒にしておいたんだからね、ところがあたしときたら、罪もないのに自分の娘を取り上げられちまったんだからねえ。ちきしょうめ! 特権階級のやつらめ! どんなことをしたって、いつも、特権階級どもにはお目こぼしがあるんだからね、そうだろ、市民モオリス」
「でも、あの女は息子を取り上げられてるんだよ」
「アア! あたしに息子があったら」と牢番のかみさんがつぶやいた。「これほど娘のことを嘆くこともないんだけれどね」
そのあいだ、ジュヌヴィエーヴは、モランと何度か視線を交わした。
「ねえあなた」とジュヌヴィエーヴがモオリスに言った。「この女市民のおっしゃるとおりですわ。もしよければ、どんなかたちでも結構ですから、マリー・アントワネットの通り道へまいりましょうよ。こんなところでのぞくより、そのほうがずっと気がとがめませんわ。こんなやり方でひとをのぞくなんて、囚人たちも、あたくしたちも、同時に恥ずかしい思いをしてしまうわ」
「気の優しいジュヌヴィエーヴ」とモオリスが言った。「ほんとうにデリケートな気持をお持ちなんですね」
「とんでもないはなしですぜ、女市民」と、控えの間で、パンとソーセージで昼食を食べていた、モオリスの仲間の警備兵のひとりが言った。「もしあんたが囚人の立場になって、カペーの寡婦《ごけ》さんが、物見高く、ご見物としゃれ込んだとしたら、あのあばずれ女は、気紛れにも、そんな思いやりは見せませんぜ」
ジュヌヴィエーヴは、稲妻より素早くモランのほうへ目をやって、この悪罵に対して彼がどんな反応を現わすか見ようとした。事実、モランは身震いしていた。奇妙な光、いわば燐光のような光が彼のまぶたからほとばしり、両手の拳固《こぶし》は、一瞬痙攣した。けれども、こんな態度も、実に素早かったので、みんな気がつかぬまますんでしまった。
「この衛兵さんは、なんていうお名前ですの?」と彼女がモオリスに訊ねた。
「市民メルスヴォーです」と言ってから、彼の粗野な口のきき方を弁解するように、こうつけ加えた。
「なにしろ、石割り人夫ですから」
メルスヴォーは、この言葉が耳に入ると、モオリスのほうに視線を投げかけた。
「サア、サア」とチゾンのおかみさんが言った。「早くソーセージと、そのぶどう酒の瓶を平らげちゃっておくれよ。もう下げるんだからね」
「こんな時間に昼食なんか食らおうってのは、べつにあのオーストリアのあまのせいでもねえよ」とその衛兵がモグモグと言った。「八月十日に、もしあの|あま《ヽヽ》がオレ様を殺させることができたら、きっと殺させたんだろうがな。だからな、今度あのあまが首をチョン斬られて、袋の中でしゃっくりする日にゃあ、オレ様は、最前列に立って、しっかり配置についてやるぜ」
モランはまるで亡者のように蒼白だった。
「参りましょう、市民モオリス」とジュヌヴィエーヴが言った。「あなたが案内してくださると、約束してくださったところへ参りましょうよ。ここにいると、あたしまで囚人になったような気がして、息がつまってしまいますわ」
モオリスは、モランとジュヌヴィエーヴを連れて出た。ローランから通知を受けていた歩哨たちは、何の苦情も言わず三人を通してくれた。
彼は、二人を階上の小さな廊下の中へ立たせておいた。つまり、こうすれば女王と、マダム・エリザベートと、王女が大廊下へ上がる時に、この三人の女囚人がどうしても彼らの前を通らないわけにはいかないわけである。
散歩の時間は、十時と決められていたので一同は数分間待つだけでよかった。モオリスは、自分の連れのそばから離れなかった、そればかりか、このあまり合法的でない処置にどんな軽い嫌疑もかからないようにと用心して、市民アグリコラに出会うと彼を一緒に連れて行った。
十時の鐘が鳴った。
「開けろ!」
塔の下から声が聞えた。モオリスには、それがサンテール将軍の声だとわかった。
直ちに衛兵が武器をとり、柵を閉め、歩哨たちは発砲準備を終った。中庭中に、鉄や石のぶつかる音や、ひとびとの足音が聞えた。モオリスには、二人とも真蒼になるのがよく判った。してみると、モランもジュヌヴィエーヴも、はげしく、胸を躍らせていたにちがいない。
「たった三人の女性を警備するのに、なんてものものしい用心をするんでしょう!」とジュヌヴィエーヴがつぶやいた。
「そうだね」とモランがむりに笑おうとしながら言った。「囚人たちを逃がそうなんて思っている連中がわたしたちと同じようにこの場にいて、いま見ているようなことをその目で見たら、そんな計画は、きっといやになっちまうだろうね」
「ほんとうに、あたくしだって、囚人たちはとうてい逃げられないだろう、と思い知りましたわ」
「ぼくにしても、そうあって欲しいですよ」とモオリスが言った。
こう言いながら、階段の手摺のほうに身をかがめて、つけ加えた。
「サア、よく注意してください。女囚人たちがやってきましたよ」
「名前を教えてくださいません。だってあたくし、あの方たちを知らないものですから」
「今上ってくる前の二人が、カペーの妹と娘ですよ。小さい犬を前にして歩いているのがマリー・アントワネットです」
ジュヌヴィエーヴは一歩前へ出た。とこちが、モランは、あべこべに、囚人たちを見る代りに壁にはりついてしまった。
彼の唇は、塔の石の色よりずっと灰色になり、いっそう土に近い色になっていた。
白いドレスを身にまとい、美しく澄んだ眼差しを投げかけるジュヌヴィエーヴの姿は、彼らが辿っている辛い道に光を当てて、通りがかりに囚人の心に喜びを与えようとして待ちうけている天使のように見えた。
マダム・エリザベートと王女は、この見慣れぬひとびとに驚きの眼差しを投げかけて通り過ぎた。マダム・エリザベートが勢いよく王女のほうを振り向き、まるで女王に知らせでもするように、ハンカチを落としたまま、王女の手をギュッと握りしめたところをみると、どうやら、彼女の頭にひらめいた最初の考えは、この見慣れぬひとびとが、自分たちに合図を送ってくれた相手だろう、と思ったらしい。
「アラ、気をおつけになって、お姉様」と彼女が言った。「あたくし、ハンカチを落としてしまいましたわ」
こう言って彼女は、幼いプリンセスといっしょに階段を昇っていった。
女王は、息を切らせて、小さな乾いた咳をしているところをみると、まだ気分が悪いらしいが、足許に落ちたハンカチを拾おうとした。ところが彼女の手よりも素早く、小さな犬がハンカチを咥《くわ》え、走ってこれをマダム・エリザベートのところへ持っていった。そこで女王は、再び階段を上り続けたが、何段か上ると、今度は彼女がジュヌヴィエーヴと、モランと、若い警備兵の前へ来た。
「アラ! 花ですのね! 花なんて見なくなってから、もうずいぶんになりますわ。なんていい香りなんでしょう、それに花などお持ちになれるあなたも、ほんとうにしあわせですわね、マダム!」
こんな苦悩の言葉を口にしたのは、いわばとっさの考えからであったが、間髪を入れずジュヌヴィエーヴが手を差し出して、女王に自分の花束を渡そうとした。と、マリー・アントワネットは頭を上げて、彼女をじっと見つめたが、彼女の血の気のない額に、目に見えないほどの|もみじ《ヽヽヽ》が散った。
ところが、規則には盲目的に服従する習慣が身についていたので、ごく自然の動作で、モオリスが手を突き出して、ジュヌヴィエーヴの腕を抑えた。
女王は、そこでちょっと躊躇したが、モオリスを見て、いつも自分に向かって、断乎とした口を訊くけれども、また同時に尊敬も忘れない若い警備兵だということに気がついた。
「いけないとおっしゃるの、ムッシュウ?」
「いえ、いえ、そういうわけではありません、マダム。ジュヌヴィエーヴ、きみの花束を差し上げてもかまわんよ」
「アア! ありがとう、ありがとう、ムッシュウ!」と女王は激しい感謝の色をおもてに現わして叫んだ。
そして、ジュヌヴィエーヴに、物柔らかな、しかも優雅な態度で挨拶をすると、花束のなかから何気なく一本のカーネーションを抜き出した。
「全部お持ちください、マダム、全部お持ちくださいませ」とジュヌヴィエーヴがおずおずと言った。
「いいえ、けっこうですわ」と、チャーミングな微笑をたたえながら女王が言った。「この花束は、きっとあなたを愛している方からいただいたんでしょう、それをあなたの手から取り上げるなんて、あたくしにはできませんわ」
ジュヌヴィエーヴはパッと赤くなったが、そんなふうに顔を赤らめた彼女を見て、女王は微笑した。
「サア、サア、女市民カペー」とアグリコラが言った。「早く歩かなけりゃあいかんぞ」
女王は礼を言って、階段を上った。しかし、姿が見えなくなる前に、振り向いてこんなことをつぶやいた。
「このカーネーション、なんていい香りなんでしょう、それにあの女性《かた》は、なんておきれいなんでしょう!」
「女王はわたしをごらんにならなかった」と、廊下の隅の小暗いところに、ほとんど膝まずくような姿で、なるべく女王の目に触れないようにして控えていたモランが呟いた。
「でもあなた、あなたも女王のお姿をごらんになったでしょう、モラン? そうだね、ジュヌヴィエーヴ?」と、二重の幸福感を味わったモオリスが言った。つまり第一には、自分のおかげで、友人たちにあんな光景を見せることができたんだし、第二には、あれっぱかりのことで、不幸な女囚人を喜ばせてやった、という幸福感である。
「アア! そう、そうですわ」とジュヌヴィエーヴが言った。「あたくし、しっかりと女王を見ましたわ、こうなったら、百年生きたとしても、いつでもあのお姿を思い浮かべることができますわ」
「で、女王を見て、どうお思いになりました?」
「ほんとうにお美しい方ですわ」
「で、モラン、あなたは?」
モランはそれには答えず、手を合わせた。
モオリスがうんと低声《こごえ》で、笑いながらジュヌヴィエーヴに訊ねた。
「ねえ、もしかしたら、モランが恋をしている相手は女王じゃあありませんか?」
ジュヌヴィエーヴは身震いしたが、すぐに気をとり直して、今度は彼女が笑いながら返辞をした。
「あたくしの考えでは、どうやら的を射ているような気がしますわ」
「サア、モラン、女王をどう思ったか、言ってないじゃあないか」とモオリスが食い下った。
「わたしの見たところ、女王は蒼白だった」とモランが答えた。
モオリスは再びジュヌヴィエーヴの手をとり、中庭のほうへ連れて降りた。暗い階段で、彼は、ジュヌヴィエーヴが自分の手に接吻をしたような気がした。
「これはどういう意味ですか、ジュヌヴィエーヴ?」
「つまりね、モオリス、つまらないあたくしの気紛れのために、あなたがお命まで賭けてくださったことは、あたくしけっして忘れません、という意味ですわ」
「とんでもない! それははなしが大袈裟ですよ、ジュヌヴィエーヴ。ぼくがあなたからいただきたい、という大それた期待をかけている感情は、感謝の気持ではない、ということはご承知でしょう」
ジュヌヴィエーヴが優しく彼の腕を抑えた。
モランは、ふらふらした足どりで二人のあとについてきた。
三人は中庭に着いた。ローランがやってきて、二人の訪問者の顔を改めて、二人をル・タンプルの外へ送り出した。しかし、彼と別れる前に、ジュヌヴィエーヴは、明日はサン・ジャック街へ来て、ぜひ一緒に夕食をするようにモオリスに約束をさせておいた。
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二十二 裁判官シモン
モオリスは、ほとんど天国に入ったような喜びに胸をふくらませて部署に帰ってきた。彼は涙を流して泣いているチゾンのおかみさんに出会った。
「また、どうしたんだい、おばさん?」と彼が訊ねた。
「まったく腹が立ってたまらないんですよ」
「で、どういうわけだい?」
「だってねえ、この世じゃあ、貧乏人にはあらゆることが不公平なんでね」
「だから、どうしたっていうんだい?」
「あんたはお金持だよ。あんたはブルジョワだよ。だから、あんたときたら、ここへ来るのはたったの一日だけ、それにあのオーストリアの|あまっ子《ヽヽヽヽ》に花束をあげるような、べっぴんの女が訪ねてくるのも大目に見てもらえるんだけどね。それに比べてあたしのほうはどうだい、この鳩小舎《はとごや》みたいなところに一年中巣喰ってて、あの可哀そうなソフィーの顔を見るのもいけない、なんて始末なんだからね」
モオリスは彼女の手をとって、十リーヴルのアシニヤ紙幣をにぎらせてやった。
「サア、チゾンのおかみさん、これをとっておけよ、で、元気を出せよ。あのオーストリア女だって、そう長生きできそうもないから」
「十リーヴルのお札《さつ》だね、あんたって、ほんとうに親切なひとだよ。でもあたしにとっちゃあ、うちの可哀そうな娘の髪を巻いた紙をもらったほうが嬉しいよ」
彼女がこの言葉を口にしたとき、ちょうど階段を上ってきたシモンが、この言葉を聞きつけたので、この牢番のおかみさんは、モオリスにもらった紙幣をポケットヘ押し込んだ。
このときのシモンの精神状態がどんなものだったか、ここで一言説明しておこう。
シモンは中庭からやってきたところだったが、中庭で、彼はローランに出会った。この二人の男のあいだには、抜き差しならない反目があった。
この反目は、すでに読者の目の前に展開したような、あの激しい情景が原因になったというよりも、もっともっとべつのもの、つまり種属の相違、永遠の敵意、また不可解としか言いようのない、といって、またなるほどと納得のできる、気質の相違によるものである。
シモンは、醜男で、ローランはハンサムだ。シモンはうすぎたない服装《なり》をしているが、ローランは香水の匂いをプンプンさせている。シモンは大ぼら吹きの共和派だが、口ーランは、革命のためにはいくたの犠牲もあえて辞さない、熱烈な共和党員の一員である。その上、肉体的な問題を考えてみると、シモンは、このしゃれ者の王党派みたいな男の|げんこつ《ヽヽヽヽ》が、モオリスほど手ぎわよくはないにしろ、いつかは下層民の上に鉄槌を下すのではないか、ということを本能的に嗅ぎとっていたのだ。
シモンはローランに気づくと、ピタリと足を止めて、蒼白になった。
「じやあ、今日警備につくのは、またこの大隊なのかな?」と彼は口の中でモゴモゴと言った。
「だからどうだっていうんだ?」と、その言い方が気に入らなかったので、ひとりの選抜兵が返辞をした。「オレの聞いたところじゃあ、ほかの大隊のほうがいいらしいな」
シモンは革命服のポケットから鉛筆をとり出して、自分の手とほとんど同じくらい真黒な紙に、なにかメモをとるようなふりをした。するとローランが言った。
「ヘエーッ! お前さん字が書けるのかい、え、シモン、そいつはお前がカペーの家庭教師になってから覚えたんだな? オレの法廷での宣誓の言葉をノートしようっていうわけだな。つまり裁判官のシモンさまっていう図だな」
若い国民兵のあいだから爆笑があがった、ほとんどみな少年で、しかも字を書ける兵隊たちだったが、そんな連中に笑われて、つまり哀れなシモンの頭が朦朧《もうろう》としてしまった。
「いいとも、いいとも」と彼は歯をガチガチ鳴らせて、怒りに顔を蒼ざめて言った。「はなしによると、あんたは塔の中へ、訳のわからねえ人間を入れたってことだな、それに、革命政府の許可も受けてねえ、ってことじゃあねえか。いいとも、おいらはこれから報告書を書いてな、市役所へ提出してやるからそう思え」
「ところが少なくとも相手は字が書けるぜ。相手というのはモオリスだよ、ほら、お前も知ってるだろ、あの鉄拳モオリスなら?」
ちょうどそのとき、モランとジュヌヴィエーヴが出てきた。二人を見ると、シモンは塔の中へとび込んでいったが、すでに話したように、モオリスがチゾンのおかみさんを慰めようとして、十リーヴルの紙幣を与えたのは、ちょうどそのときのことだった。
モオリスは、このみっともない男が現われても気にかけなかった。ちょうど、毒をもった、ぞっとするような爬虫類を見ると思わず後じさりするように、道でこの男を見かけるたびに、彼は本能的に避けていた。
シモンが、エプロンで目を払っているチゾンのおかみさんに言った。
「ヤア! おめえはどうしてもギロチンにかかりてえらしいな、えっ、女市民?」
「あたしがギロチンにだって! どういうわけだい?」
「なんだって! おめえは、オーストリアのあまのところへ特権階級の野郎どもを通そうとして、警備兵から袖の下をもらったじゃあねえか!」
「あたしが? お黙りよ、この気違いめ」
「報告書にちゃんと書いてあるからな」とシモンは大袈裟な調子で言った。
「冗談じゃないよ、あれはね、モオリスさんのお友だちさ、モオリスさんといやあ、この世でいちばんの愛国者だよ」
「おいらに言わせりゃあ、謀反人だ。いずれ政府にも報告がいくから、裁判をしてくれらあな」
「それじゃあ、あたしのことも密告するつもりかい、このサツのイヌめ?」
「あたりめえだ、もっともおめえのほうで白状するんなら、はなしはべつだがな」
「だってなにを知らせりゃいいのさ? あたしになにを喋れっていうのさ?」
「つまり、どんなことがあったか、ってえことさ」
「だって、なんにもなかったよ」
「連中はどこに鎮座ましましたんだい、あの特権階級どもは?」
「あそこだよ、階段の上さ」
「カペーの寡婦《ごけ》が塔へ上ったときか?」
「そうだよ」
「連中は口を訊いたか?」
「ちょいとなにか喋ったよ」
「ちょいと、だってえのか。どうも、ここらあたりに、なんだか特権階級の匂いがするぜ」
「つまり、そりゃカーネーションの匂いだよ」
「カーネーションだって! なんでカーネーションなんかあるんだ?」
「だって、あの女市民が花束を持ってたからね、それがいい香りがしたんだよ」
「どんな女市民だ?」
「女王が通るのを眺めていた女《ひと》さ」
「ほーらみろ、おめえまで、女王なんて抜かしたぞ、チゾンのおかみさん。特権階級なんかと交際《つきあ》ってると、おめえまで足許をすくわれるぞ。ところで、何を踏んづけてるんだい?」と言いながら、シモンが体をかがめた。するとチゾンのおかみさんが言った。
「ホラ、ちょうどあったよ、その花だよ……カーネーションさ。マリー・アントワネットがね、ディメールの奥さんの花束から一本抜いたときに、あの女《ひと》の手から落ちたんだよ」
「カペーの女房が、ディメールの細君の花束から一本抜いたって?」
「そうとも、花束をやったのはこのオレだよ判ったか?」とモオリスが脅しつけるような声で言った。彼はしばらく前から二人のはなしを聞いていて、その対話を聞くうち我慢できなくなったのだ。
「いいとも、いいとも、判ることは判る、自分が喋っている意味ぐらい知ってらあな」とシモンは口の中でブツブツ言っていたが、手には相変らず、大きな足で踏みつぶされたカーネーションを持っていた。モオリスが再び口をきった。
「オレだって知ってるぞ、よく聞けよ、お前はな、塔の中ではなにひとつできないんだ、お前の持ち場は、ホラあそこだ、カペーの子供のそばにいればいいんだこの首斬り役人め、ところがな、オレがここにいて、お前の邪魔をしている限り、今日は撲ろうたって撲れないがな」
「ちきしょう! 脅かすつもりか、それにおいらのことを首斬り役人と抜かしゃがったな!」とシモンは、指で花をつぶしながら叫んだ。「ちきしょう! 貴族どもを中へ入れるところを、おいらが見ていたら……オヤ、ところでこいつは何だ?」
「なにがだ?」
「カーネーションの中になにか入ってるみたいだぞ! ヘエーッ!」
呆然としているモオリスの目の前で、シモンは花の|がく《ヽヽ》の中から、実に巧みに丸めた小さな紙を取り出したが、その紙は花の厚い縞の真中に、器用に忍ばせてあった。
今度はモオリスが叫び声をあげた。
「アレッ! いったいこれは何だ?」
「なあに、今に判らあ、今に判るぜ」と言いながら、シモンはその紙を明り窓のほうに近づけた。「へーンッ! おめえの友だちのローランのやつはな、おいらは字が読めねえなんて抜かしやがったぜ。どうだい、見ていろよ」
ローランはシモンのことを毒づいたが、シモンも活字で印刷した字や、相当大きい字ならば、手書きの字でも読めたのである。ところが手紙は実に細かい字で書いてあったから、シモンはどうしても眼鏡のたすけを借りなければならなかった。そこで彼は、手紙を明り窓の上に置いて、ポケットを探しはじめた。ところが彼がそんなことをしているとき、市民アグリコラが、小窓のちょうど正面にある控えの間のドアを開けたので、一陣の風がさっと吹き込み、羽根のように軽い紙を飛ばしてしまった。そんなわけで、シモンがしばらくポケットをモゾモゾやって眼鏡を見つけ、そして、眼鏡を鼻の上にかけて振り向いたときには、もう紙を探しても見つからなかった。紙はどこかへ消えてしまったのだ。シモンは大声で叫んだ。
「紙はあったんだぞ。紙はあったんだぞ。気をつけろよ、警備兵め、どうあってもあの紙を、もう一度見つけださなけりゃあ」
と言うと、彼はきもをつぶしたようなモオリスをそこに残したまま、大あわてで降りていった。
十分後には、革命政府のメンバーが三人、塔の中へ入ってきた。女王はまだテラスに出ていたが、命令では、いま起こった事件は、女王にはまったく知らせないように、ということだった。政府のメンバーが女王のほうへ歩いていった。
お歴々の目に映った最初のものといえば、まだ女王が手に持っていた一本の赤いカーネーションだった。みんなびっくりして顔を見合わせ、女王のそばへ近づいた。委員長が言った。
「その花をこちらへ渡したまえ」
こんなにどやどやとひとが闖入《ちんにゅう》してくることをまったく予期していなかった女王は、身震いして、とまどってしまった。
「その花をお返しください、マダム」とモオリスが恐ろしそうに叫んだ。「お願いですから」
女王はそう頼まれると、カーネーションを差し出した。
委員長は花を受けとると、花を調べて、報告書を作るために、仲間の委員を従えて、控えの間に引っ込んだ。
花を開いてみたが、中は空だった。モオリスは安堵の溜息をついた。
「ちょっと、ちょっと待ちたまえ」と委員のひとりが言った。「カーネーションの真ん中がむしりとられているよ。その穴の中はがらんどうになってる。なるほどね。きっと、この穴の中に手紙をしまい込んであったにちがいないよ」
「ぼくとしては、どんな説明でもできますから」とモオリスが言った。「しかし、とにかく、ぼくを先ず逮捕してからにしてください」
「きみの申し出は、なるほど法的には正しいけれどね」と委員長が言った。「けれどわたしたちには、その権利がないんだ。きみは、とにかくりっぱな愛国者だと、衆目の見るところなんでね、市民ランデイ」
「ぼくとしては、不注意でしたが、ぼくが連れてきた友人については、命を賭けても責任を負います」
「相手がだれでも、責任は負えるもんじゃあないよ」と検察官が言った。
中庭からは、上を下への大騒ぎの声が聞えてきた。
この騒ぎのもとはシモンである。彼は風にさらわれた手紙を探して見つからないと、サンテール将軍に会いにゆき、女王救出の計画があったことを報告し、こんな計画にはつきもののように思えるいろんな小事件までおまけに喋り、自分の想像力の豊かさにすっかり得意になっていたのだ。サンテールが駈けつけた。将軍は、ル・タンプルを捜索し、衛兵の交代を命じたが、ローランはこれには大いに不服で、自分の大隊がこんな面目ない目に会うのは心外だ、と言って抗議した。彼はサーベルでシモンを脅かしながら言った。
「ちきしょう! この腹黒い靴直しめ。こんなバカバカしい目に会うのも、みんな貴様のおかげだぞ。まあいいや、いまにこの恩返しはきっとしてやるからな」
靴直しは手をこすりながら言った。
「いやね、おいらの考えじゃあ、国民みんなに仇討ちをされるのは、むしろおめえのほうだぜ」
「市民モオリス」とサンテールが言った。「革命政府がいずれきみを訊問すると思うから、きみは肚《はら》をきめといたほうがいいな」
「閣下、ご命令通りにいたします。わたしはもう、逮捕してくれ、と申し出ましたが、もう一度それをお願いします」
「待てよ、待てってことよ」と低声でシモンが言った。「そんなに逮捕されたきゃあ、おいらたちで、おめえの望みをかなえてやるってことよ」
そして彼は、チゾンのおかみさんに会いに出かけた。
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二十三 理性の女神
みんな、一日じゅう中庭や、庭園や周辺一帯にわたって、この大騒動の原因になった小さな紙片を探し回った。この紙片に、なにかの陰謀が隠されているのは、もはや疑いもないところだった。
女王は、妹と王女と別々にされてから訊問を受けたが、階段の上で花束を手にした女性と出会ったこと、その花束から花を一本引き抜いた、ということ以外には、なにひとつ返辞ができなかった。
それに、その花を引き抜いたのも、警備兵のモオリスの承諾があったからやったまでのことだった。
どう見ても、これはごく単純なことで正直なものだったので、女王にはほかに何も言うことはなかった。
モオリスが訊問される番になって、この女王の返辞がモオリスに伝えられると、彼はしごくさっぱりと、正確に女王の証言を裏付けた。
「けれどねえ」と委員長が言った。「いずれにしろなにか陰謀はあったんだろう?」
「それは不可能です!」とモオリスが言った。「ディメール夫人のお宅で夕食をご馳走になり、女囚人を見てみないか、と言い出したのはぼくのほうですし、夫人は見たくない、と言っていたんですよ。しかもですね、何日に見に行こうとか、どうやってとかいうことは一切決めてなかったんですから」
「けれども花を持っていたじゃあないか。その花束は前もって用意してあったんだろう?」
「とんでもありません、その花を買ったのはぼく自身で、買った相手は、レ・ヴィエイユ・ゾオドリエット街の角でそばへ来て、花を差し出した花売り娘からなんです」
「しかし、少なくともその花売り娘は、きみに|その花束《ヽヽヽヽ》を差し出したんだろう?」
「ちがいます、市民、十か十二あった花束から、あれを選び出したのもぼくです。もちろん、いちばんきれいなやつを選びましたし」
「だが、来る途中に、例の手紙を隠すことはできたろう?」
「それもむりです、市民。ぼくはただの一分もディメール夫人から離れませんでしたし、それに、あなたのおっしゃるように、あの花のひとつひとつに細工をしたんじゃあないか、という問題ですが、考えてもみてください、シモンが言うように、花の一本一本に手紙を隠さなければならないとしたら、少なくとも半日仕事になりますよ」
「それにしても、花の中へ、前から用意しておいた手紙を二枚隠しておくことはできんもんかね?」
「女囚人が、|何気なしに《ヽヽヽヽヽ》花を一本抜きとったのは、ぼくの目の前でですよ、それに花束全部をどうぞと言われても、要らないと言っていたんですから」
「それでは市民ランデイ、きみの意見によると、陰謀などなかった、というわけかね?」
「いやいや、陰謀はありました。ぼくは真っ先に、それを信ずるばかりか、陰謀あり、と主張しますね。ただ、この陰謀はぼくの友人から出たものじゃあありません。それにしても、国民に些細な不安を与えてもいけませんから、ぼくがその保証人になり、逮捕していただくように申し出ます」
「とんでもないはなしだ」とサンテールが答えた。「きみのような男を、前科者扱いにできるかね? もしきみが、きみの友人の責任を感じて、みずから逮捕してくれと申し出るようなら、今度はわしが、きみの責任をとって逮捕してもらわねばならん道理だろうが。こうすれば、ことはしごく簡単だよ、つまり積極的に告発を受けているわけじゃあない、そうだろ、きみ? 事件が起こったことはだれにも判らんだろう。警備を倍にしようじゃあないか、とくにきみは気をつけてくれ、そうすれば、なにも事を公にしなくったって、徹底的に事件を糾明できるだろうじゃあないか」
「ありがとうございます、閣下。閣下がぼくの代りに返辞をなさるところを、ぼくが答えさせていただきますが、この問題はこのまま放置すべきではありません。われわれは例の花売り娘を探すべきです」
「花売り娘は三十六計逃げちまってるよ。が、まあ安心したまえ、そちらのほうはよく探してみるから。きみは、きみの友人たちを監視したまえ。ぼくは牢獄の出入りをよく見張ることにしよう」
だれもシモンのことは考えていなかったが、シモンには企みがあった。
いま語った会議の終りごろ、はなしがどうなったか訊ねにきたシモンが、政府の決定を知ると、こう言った。
「なるほど! こうなったら事件を表沙汰にするには正式に告発しなけりゃあいかんな。五分ばかり待ってくださいよ、おいらが告発書を持ってきまさあ」
「なんだって?」と委員長が訊ねた。
「つまりですぜ」と靴直しが答えた。「あの勇敢な女市民チゾンがね、特権階級とその一味の陰謀を告発しているんです、相手はね、モオリスと、モオリスの友だちの、偽の愛国者の手先で、ローランとかいう野郎でさ」
「気をつけたまえ、気をつけて口をきいてくれよ、シモン! 国家に対する忠誠心があんまり激しくなったんで、頭がいかれたんじゃあないか」と委員長が言った。「モオリス・ランデイとイヤサント・ローランは、みんな認めている愛国者だよ」
「いずれ、裁判所へ行きゃあ判ることでさ」とシモンが応酬した。
「ここのところを、よおく考えてくれよ、シモン、そんなことをしたら、りっぱな愛国者全体に、とんでもない恥ずかしい訴訟になるんだよ」
「恥ずかしかろうが、なかろうが、そんなことはあっしにゃあなにも関係のねえことでさあ。あっしが、スキャンダルをこわがるとでも思うんですかい、このあっしが? ま、少なくとも、謀反を企んだ野郎どもについて、真相が判りまさあ」
「じゃあお前は、チゾンのおかみさんの名前で、どうしても告発する、と強情をはるんだね?」
「なあに、今晩ね、あっしみずから、コルドリエ党へ恐れながらと訴え出てやりまさあ、それにね、委員長さん、あんたがもしこの裏切り者のモオリスの逮補を命令しねえっていうなら、あんたも、そのほかのお歴々もみんなひっくるめて告発してやりますぜ」
「なるほどな、それではやむをえん、彼を逮捕しよう」
委員長はこう言ったが、この不幸な時代の風習に従えば、とにかく大声でわめく者を相手にしては、委員長といえども身震いしたものだった。
モオリスに対してこんな決定がくだされているあいだに、彼はル・タンプルヘ戻って行ったが、そこにはこんな手紙が彼を待っていた。
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オレたちの勤務は強引に中止させられた。だからおそらく、明日の朝にならなければ、きみと会うことはできないだろう。明日は、いっしょに昼食をしよう。昼食を食べながら、シモンの大将が見つけたという、例の陰謀だの密計だのとかいうのを教えてくれたまえ。
シモンのやつの証言じゃあ
カーネーションこそ諸悪の根源
それならこっちはこの陰謀を
バラの女神に訊ねてみよう
明日は、アルテミーズがオレにどんな返辞をするか、オレのほうからのろけてやるよ。
きみの親友
ローラン
[#ここで字下げ終わり]
そこでモオリスはこんな返辞を書いた。
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べつに何も新しいことはない。今夜は安心してゆっくり寝みたまえ。明日は、ぼくはおそらく、今日の事件があるので、午前中は外出できないと思うから、ぼくが行かないでも勝手に昼食をしてくれたまえ。
きみの言う、バラの女神にキスを送ってもらえるように、そよ風の吹くように祈っているよ。
ぼくがきみの詩句に、口笛を吹いて難癖をつけるように、きみはぼくの散文に口笛を吹いてけなしてもかまわんからね。
きみの親友
モオリス
追伸――そればかりか、ぼくの考えるところでは、例の陰謀事件は、ただの誤報じゃあないか、と思っている。
[#ここで字下げ終わり]
結局、ローランは、靴直しがとほうもない動議を唱えたおかげで、彼の大隊の連中より前に、十一時頃に塔を出た。
彼は例の四行詩でこの恥辱を慰めたが、あの四行詩の中で歌ったとおりに、アルテミーズの家へ出かけた。
アルテミーズはローランが来たので大喜びだった。すでに言ったように、お天気は快晴だった。そこで彼女は、セーヌの河岸に沿って散歩をしないか、と言い出して誘ったので、ローランも承知した。
二人は政治のはなしに熱中しながら、石炭を積み降ろしする波止場のほうへ歩いてゆき、ローランは、どうしてあんな事件が起きたのか、しきりに考えながら、自分がル・タンプルから退去命令を受けたはなしをした。そのとき、ちょうど二人はレ・バール街の上のほうへさしかかったところだったが、自分たちと同じように、セーヌの右岸を歩いてくるひとりの花売り娘に気がついた。
「あら! ローラン」とアルテミーズが言った。「ネエ、あたしに花束を一束買ってくださらない」
「なにを言うんだ! お気に召したんなら、二束だってかまわないよ」
そして二人とも、花売り娘に追いつこうと、足を早めたが、相手の娘もとても素早い足どりで歩き続けた。
マリー橋までくると、花売り娘は立ち止まり、欄干から身をのり出して、籠の中味をセーヌ河の中に空《あ》けてしまった。
花はバラバラになって、しばし空中に舞っていたが、花束は重みがあるので、グイグイと勢いよく落ちていった。そして花束も花も、水面に浮かび、流れのまにまにただよっていった。
「あら」とアルテミーズが、この奇妙な商売をしている花売り娘を見ながら言った。「もしかしたらあの女《ひと》……たしかにそうだわ……いえちがう……やっぱりそうだわ……へんだわ! ほんとに奇妙だわね!」
花売り娘は、だれにも言わないでくれ、とでも言うように、唇に指を当てて、姿を消した。と、ローランが言った。
「なにごとだい? きみはあのご婦人を知ってるのかい、え、わが女神?」
「いいえ。はじめはね、そう思ったのよ……でも、きっと人違いだったんだわ」
「だって、なにかきみに合図をしたじゃあないか」とローランはなおも言いはった。
「でも、今朝に限って、どうして花売り娘になったりしたのかしら?」とアルテミーズが、自問自答するような口ぶりで言った。
「っていうと、きみはあの花売り娘を知ってるわけだね、アルテミーズ?」
「ええ知ってるわ、あたしがときどき買っている花売り娘なのよ」
「いずれにしろ、あの花売り娘は、妙なやり方で、商品を捌《さば》いたもんじゃあないか」
二人は、すでに木橋のところまで流され、アーチの下を通る河の支流のところで押し合いへし合いしている花に、最後の一瞥をくれてから、レストラン・ラ・ラペのほうへ歩いていった。二人のつもりでは、ラ・ラペで水入らずの夕食をするつもりだった。
この事件は、当座は大して意味もなかった。ただ、事件がいかにも奇怪だったし、なにか神秘的な様相を示していたので、ローランの詩的な想像力に深く灼きついたものだった。
一方、チゾンのおかみさんの告発、モオリスとローランに対する告発は、ジャコバン・クラブに大騒動をまきおこし、モオリスは、民衆の憤激がその極に達して、彼の自由も脅かされている、という政府の注意を、ル・タンプルにいるうちに受けた。これは、もしうしろ暗いところがあるなら、身を隠したほうがいいという青年警備隊員への親心だった。ところが、良心になにもやましいところのないモオリスは、ル・タンプルに留まり、逮捕の役人がやってきたとき、彼は自分の部署についていた。
その場で、モオリスは訊問を受けた。
自分が信用している友人たちを、少しでも巻添えにしまいという固い決心を抱いていたモオリスだが、やはり小説の主人公みたいにかたくなに口を閉じて、バカバカしい自己犠牲をするような男でもなかったので、あの花売り娘を訴えたい、と願い出た。
ローランが自宅へ戻ったのは、夕方の五時頃だった。彼はすぐにモオリスが逮捕されたことを聞き、またモオリスが願い出た内容を知った。
セーヌ河に花を投げ込んだ、マリー橋の花売り娘のことが、すぐに彼の頭にうかんだ。じつに素早いひらめきだった。あの奇妙な花売り娘といい、場所の符合といい、アルテミーズが半分打ち明けかけたことといい、すべて、モオリスがはっきりさせたいと願っているあのミステリイの説明はここにある、ということを、彼の心が本能的に叫んでいた。
彼は部屋をとび出し、まるで翼でも生えているように、階段を四段ずつ飛び降りて、理性の女神の家へ駆けつけた。彼女は、白いガーゼのドレスの上に黄金《きん》の星を刺繍していた。
これは女神の着るドレスだった。
「その星は一時中止だ」とローランが言った。「今朝、モオリスが逮捕されたよ、それに、今夜はおそらくオレも逮捕されるぜ」
「モオリスが逮捕されたっていうの?」
「まったく! たしかにその通りなんだ。今のご時勢じゃあ、このくらいの大事件も当り前のことなんだ。こんな事件は群《むれ》をなしてやってくるから、みんなあんまり注意していない、それだけのことだよ。ところで、こうした大事件もほとんど、ごくつまらんことから起こるんでね。つまらんことを見逃しにはできないんだよ。きみねえ、今朝オレたちが出会ったあの花売り娘はいったい何者だい?」
アルテミーズは身震いした。
「どんな花売り娘だったかしら?」
「イヤハヤ! なにを言ってるんだ! えらく気前よく、セーヌ河に花を投げ込んでしまったあの花売り娘さ」
「あら! 困ったわ! あんなことが、あなたがこんなにしつっこくほじくりかえすほど重大なことなの?」
「とても大事なんだよ、きみ、だから今すぐぼくが訊ねることに答えてもらいたいんだ」
「でもあなた、それはむりというものだわ」
「ねえ女神さん、女神のきみには、不可能なことはなにもないはずだよ」
「だってあたし、黙っているからって、名誉にかけて誓ったのよ」
「それならオレのほうは、名誉にかけて、きみに喋ってもらうよ」
「だけど、どうしてそんなに言いはるの?」
「つまり……くそっ! つまりだな、モオリスが首をはねられないためだよ」
「アア! 神さま! モオリスがギロチンにかかるっていうの!」とアルテミーズが恐ろしそうに叫んだ。
「オレのことは言わなくてもいいが、オレだって、ほんとうのところ、この肩の上に首がのっかっているかどうか保証の限りにあらずっていうところだ」
「アア! だめよ、だめよ、きっと命が危いわよ」
ちょうどそのとき、ローランの世話係がアルテミーズの部屋へ駆け込んできた。
「アア! 市民」と世話係が叫んだ。「逃げてください、逃げてください!」
「どういうわけだい、そりゃあ?」
「だってね、憲兵が何人かあなたのお宅へ現われたんですよ、それでね、やつらがドアを壊しているあいだに、あたしは屋根伝いに隣りの家へ逃げましてね、報告しようとここへ駆けつけたってわけですよ」
アルテミーズが恐ろしい叫び声をあげた。彼女はほんとうにローランを愛していた。
「ねえ、アルテミーズ」とローランは腰を下しながら言った。「いいかい、ひとりの花売り娘の命を、モオリスの命と、きみの恋人の命に較べられるかね? もしそうだとしたら、この際はっきり言っておくが、オレはきみが理性の女神だなんて思うのはごめんこうむるね、きみは|狂気の女神《ヽヽヽヽヽ》だと宣言してやるよ」
「気の毒なエロイーズ!」と元オペラ座の踊り子が言った。「あたしがあなたを裏切っても、あたしのせいじゃあないわよ」
「その調子だ! その調子だ! きみ」とローランはアルテミーズに紙片を差し出しながら言った。「きみはすでに、オレに相手の洗礼名を教えてくれたね。さあ、今度は姓のほうと住所を言ってくれ」
「あら! 書くの、だめ、ぜったいだめよ! あなたが、口で伝えればいいじゃないの」
「じゃあ言ってくれよ。安心しろよ、忘れっこないから」
アルテミーズははきはきした声で、ローランに、あの偽の花売り娘の名前と住所を教えた。
花売り娘はエロイーズ・チゾンという名前で、レ・ノナンディエール街の二十四番地に住んでいた。この名前を聞くと、ローランは大声をあげて、一目散に駆け出していった。
一通の手紙がアルテミーズのところへ届いた時には、彼はまだ街のはずれまで行っていなかった。
この手紙には、次のような三行の文章が書いてあった。
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親しいお友だちよ、わたしのことを一口も喋ってはいけません。あたしの名前が知れたら、きっとあたしにとっては身の破滅になるでしょう。……あたしの名前を口にするなら、明日まで待ってください。あたしは今夜、パリをあとにするでしょうから。
あなたのエロイーズ
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「アア! 神さま!」と未来の女神が叫んだ。「もしあたしにこんなことが判っていたら、あたしだって明日まで待ったでしょうに」
そして彼女は窓のほうに身を投げ出して、まだ時間が間に合ったら、ローランを呼び戻そうとした。しかし、すでに彼の影は見えなかった。
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二十四 母と娘
この事件のニュースが、数時間のうちにパリ中に知れ渡った、ということはすでに話したとおりである。結局、この不謹慎きわまる時代には、政府の政治そのものが、街路上で離合集散していたくらいだから、政治の裏表についても容易に理解できたものである。
この恐ろしい、脅迫的な噂は、だからサン・ジャック街にも届き、モオリスが逮捕された二時間後には、この逮捕ニュースも知ることができた。
シモンが派手に動いたおかげで、この陰謀の細かい部分まで、すぐにル・タンプルの外へ洩れてしまった。ただ、めいめい虚実とりまぜてはなしを伝えるので、なめし革工場主の家まで噂が届いたときには、真相はちょっと歪められていた。噂によると、女王に渡される手はずになっていた花には毒薬が仕込んであって、それを使ってオーストリア女は衛兵を眠らせ、そのすきにル・タンプルを脱出しようとした、ということになっていた。そればかりか、この噂には|おまけ《ヽヽヽ》がついていて、サンテールがその前日解雇した大隊の忠誠心に嫌疑がかかっている、ということだった。そんなわけで、民衆の怨嗟の的になっている犠牲者まで、すでに何人か出ている始末だった。
しかしサン・ジャック街では、この事件の性質をよく心得ていたので、べつに誤解することもなかった。そして、モランとディメールはべつべつに、激しい絶望にとらわれて打ちひしがれているジュヌヴィエーヴをあとに残して、すぐに家を出ていった。
事実、モオリスが不運な事件に巻き込まれたとしたら、この不幸の原因はジュヌヴィエーヴにあった。恋に目のくらんだ青年の手をひいて、牢獄まで案内したのは彼女だった、彼はすでにこの牢獄に幽閉の身となり、おそらく、処刑台に向かうときでなければそこを出られないだろう。
しかし、いずれにしろ、モオリスは、ジュヌヴィエーヴの気紛れに体を張って、命まで投げ出すことはないだろう。もしモオリスが死刑の宣告を受けるようなことになったら、ジュヌヴィエーヴは裁判所に自首して、一切合切白状したにちがいない。彼女はみずから責任をとって、もちろん、自分の命を投げ出してもモオリスを救ったにちがいない。
ジュヌヴィエーヴは、モオリスのために死ななければならない、と思っても、恐ろしくて震えるどころか、逆に、ほろにがい幸福を味わっていた。
彼女は青年を愛していた。彼女は、すでに人妻となった女性にはふさわしからぬほど、彼を愛していた。彼女にとって、死ぬことは、神のみ許へ、純な、神から頂いた時のままに、|しみ《ヽヽ》ひとつない魂を返す方法だったのだ。
家を出ると、モランとディメールは別れ別れになった。ディメールはル・コルドリー街への道を辿り、モランはレ・ノナンディエール街へ駆けつけた。マリー橋の|たもと《ヽヽヽ》へ着くと、手もちぶさたな、ヤジ馬の群を見かけた。まるで、戦場に群がる|からす《ヽヽヽ》さながら、こうした事件の起こった場所に、事件の最中やその後に|たむろ《ヽヽヽ》しているヤジ馬の群である。
この光景を見て、モランはピタリと足を止めた。まるで足がなくなったような感じで、橋の欄干にもたれて、やっと立っている始末だった。
とうとう数秒後には、こんな大事件を前にしても、彼の体の中にひそんでいる驚くべきちからをとり戻して、彼はひとの群の中へもぐり込み、あちこち訊き回って、こんなことを知った。すなわち、十分ほど前に、レ・ノナンディエール街二十四番地で、ひとりの若い女が逮捕されたところだが、ちょうど荷造りをしている最中に不意打ちを食ったところを見ると、この女は、告訴されている罪を犯しているのは間違いない、という。
モランは、その若い女が訊問されるはずのクラブの名前を訊いた。彼女が連行されたのは本部だ、と聞くと、彼は直ちに本部へ出かけた。
クラブにはひとが溢れるほど詰まっていた。しかし、肱で押したり、拳固で撲ったりして、モランはようやく傍聴席へたどり着いた。最初に彼の目に映ったのは、被告席のベンチに立って、クドクドとお喋りを続けているシモンをにらみつけているモオリスの、背の高い体、品のいい顔、いかにも軽蔑しきった表情だった。
「そうなんで、皆さん」とシモンが叫んだ。「そうなんで、女市民チゾンが市民ランデイと市民ローランのやつを告訴した、ってわけでさあ。市民ランデイは、花売り娘がどうのこうのと寝言を言って、その娘に自分の罪をなすりつけようって肚《はら》ですがね、あなた、あっしのほうで一足お先に皆さんに話しておきまさあ。だいいち、そんな花売り娘なんて、いやあしねえでしょうな。なんのこたあねえやね、おたがいにあっちこっち球を投げっこしている特権階級の一味が考え出した陰謀でさあね。なんたって、野郎どもときたら卑怯だからね。ネエ皆さん、見たってわかるでしょうが、その証拠に市民ローランのやつは、家へ行ってみたら、早えとこ|トンズラ《ヽヽヽヽ》をきめ込んじまってるんだからね。どうです、ローランだって同じ穴の|むじな《ヽヽヽ》でさあ、花売り娘と五十歩百歩、どこにも姿は見当りませんぜ」
「きさまはなんて嘘つきだ」と恐ろしい声がした。「ローランは姿を現わすぞ、ホオラ、ここにいるぞ」
こうして、ローランはホールへ入ってきた。
「席をよこせ! オレを席につかせろ!」と見物人を押しのけながら、ローランが叫んだ。彼はモオリスのそばへ行き、彼と肩を並べた。
こんなローランの登場は、ごく自然で、なんの気取りも、また大袈裟なところもなく、しかも、さっぱりしていて、この青年の気性に持ち前の激しさが感じられたので、傍聴人たちにこれ以上ないほどの効果を与え、彼らは賛嘆の声をあげ、「ブラボー!」の喚声をあげはじめた。
モオリスは、ただちょっとほほ笑み、友人に手を差し出しただけだったが、その態度は、われとわが身に、「ぼくには自信があるぞ、こんな被告席にひとりで永く坐ってなんかいるもんか」と言っているようだった。
見物人たちは、興味をむき出しにして、若さと美しさを妬む悪魔さながらの、ル・タンプルの鬼の靴直しが告訴した、二人の美貌の青年を見つめていた。
シモンは、だんだんと自分の身にのしかかってくる悪い印象に気がついて、ここで最後の一撃を食わせてやろう、と決心して、大声でわめき立てた。
「皆さん、あっしはここでひとつ頼みてえんだが、ぜひここであの心の広いチゾンのおかみさんのはなしを聞いてやっておくんなさい、おかみさんに話させてもらいてえな、おかみさんの訴えが聞きてえな」
「市民諸君」とローランが言った。「わたしは、その前に、今しがた逮捕された、そして、おそらくやがてわれわれの前へ連行されてくる花売り娘の陳述を聞いていただきたい、とお願いします」
「とんでもねえはなしだ」とシモンが言った。「いずれまた、どっかの偽の証人を連れてきたんですぜ、特権階級どもの味方でもね。ところで女市民チゾンのほうじゃあ、正義を明らかにしてえっていうんで、ウズウズしてるんでさあ」
その間、ローランはモオリスとなにか喋っていた。
「よろしい」と傍聴人たちが叫んだ。「よろしい、チゾンの細君の証言を聞こう。そうだ、そうだ、証言したまえ!」
「女市民チゾンは法廷にいるかね?」と裁判長が言った。
「そりゃもう、きっといまさあ」とシモンが叫んだ。「女市民チゾン、どこにいるんだい?」
「ここにおります、裁判長」と牢番の細君が言った。「だけどね、あたしが証言したら、娘は返してもらえますかね?」
「お前の娘は、現在係争中の事件とは何の関係もない」と裁判長が言った。「まず、とにかく証言したまえ。その後に、娘を返してもらうよう、政府に申し立てるがよい」
するとシモンがどなった。
「わかったかい? 裁判長さまは、おめえに証言しろと命令してるんだ。さっそく証言するがいいぜ」
裁判長は、ふだんはとても短気なこの男が、あんまり落ち着き払っているのでびっくりして、モオリスのほうを向いて言った。
「ちょっと、ちょっと待ちたまえ! 市民、まず最初に申し立てることはないかな?」
「ありません、裁判長閣下。ただ、わたしのような男を卑怯者だの、謀反人だのと呼ぶ前に、シモンがもう少し口のきき方を覚えるまで、待たせたらいかがですか」
「ぬけぬけと、よくも抜かしたな!」
パリの下層民独特の、下司《げす》な嘲弄を含んだ調子でシモンが繰りかえした。
モオリスは、怒りというよりも、悲しみのこもった調子で答えた。
「言うとも、シモン、これから何が起こるか判ったら、すぐにきさまはひどい罰をくらうことになるんだぞ」
「ところで、何が起ころうっていうんですかい?」
「裁判長閣下」と、この厭らしい告発者には答えずに、モオリスが言った。「友人のローランと一緒にお願いしたいことがあります。というのは、おそらく証言しろ、とそそのかされたこの哀れな女性にはなしをさせる前に、先ほど逮捕された娘の陳述を聞いていただきたいのです」
「聞いたかい、女市民?」とシモンがどなった。「えっ、聞いたかい? 連中はあそこで、お前さんはでっち上げの証人だと言ってるぜ!」
「あたしが、でっちあげの証人だって!」とチゾンのおかみさんが言った。「アア! 見ているがいい。お待ちよ。お待ちよ」
「オイきみ」とモオリスが言った。「この気の毒な女を黙らせろ」
「なあるほど! おっかねえんだな、おめえは」とシモンが叫んだ。「おっかねえのか! 裁判長、もう一度おねげえしますぜ、女市民チゾンに証言させてやっておくんなさい」
「そうだ、そうだ、証言しろ!」と傍聴人たちが叫んだ。
「静かに! 政府の方々がお帰りだぞ」と裁判長が叫んだ。そのとき、武器の響きや、人声に混じって、外で馬車のガラガラという音が聞えてきた。
シモンが不安げな様子でドアのほうを振り返った。
「席を離れろ」と裁判長が言った。「お前はもう喋らんでもよろしい」
シモンは席を降りた。
と、そのとき、憲兵がドッとなだれ込むヤジ馬と一緒に入ってきたが、ヤジ馬はすぐに押しかえされ、ひとりの女性が法廷へ押しやられて入ってきた。
「どうだい、あの娘《こ》かい?」とローランがモオリスに訊ねた。
「そうだ、そう、たしかにあの娘だ。アア! ほんとうに気の毒な娘だ、あの娘はもう命はないぜ!」
「花売り娘だ! 例の花売り娘だぞ!」と傍聴席でささやく声が聞えた。「さて、面白くなったぞ。あれが例の花売り娘だぞ」
「とにかくあっしゃあ、なによりも先ず、チゾンのおかみさんの証言をしてもらいてえな」と靴直しがわめいた。「裁判長、あんたはあいつに、証言しろと命令したでしょうが。ところが、ごらんの通り、証言していませんぜ」
チゾンのおかみさんが呼ばれて、恐ろしい、しかもなかなか情況にかなった告発を始めた。おかみさんの言葉によると、花売り娘には罪があるのは当然として、モオリスもローランもその共犯だ、というのだ。
この告発は、聴衆にはっきり判るほどの効果を与えた。
シモンは勝利の喚声をあげた。
「憲兵、花売り娘を連行しろ」と裁判長が言った。
「アア! なんと恐ろしいことだ!」とモランは、両手で頭をかかえてつぶやいた。
花売り娘が呼び出されて、傍聴席の下のほうに、チゾンのおかみさんと向かい合って立った。おかみさんの証言は、今や、花売り娘を告発した罪のいちばんの問題点にたったところだった。
そのとき、娘はヴェールを脱いだ。
「エロイーズ!」とチゾンのおかみさんが叫んだ。「娘や……お前が、ここに?……」
「ええ、お母さん」と娘が静かに答えた。
「で、どうして憲兵二人にはさまれてなんかいるんだい?」
「だって、あたし訴えられてるんですもの、お母さん」
すると、チゾンのおかみさんは、不安そうな様子で叫んだ。
「お前が……訴えられてるんだって? で、いったいだれにだい?」
「あなたからよ、お母さん」
ゾッとするような沈黙、死のような沈黙が、ガヤガヤ騒いでいた群衆の上におそいかかり、この恐ろしい情景に、苦悩の感情がひとびとの心を締めつけた。
「おかみさんの娘だってよ!」と遠くから聞えるような、低い声がささやいた。「おかみさんの娘だってよ、気の毒なはなしだな!」
モオリスとローランは、深い憐欄《れんびん》と、尊敬を交えた苦痛の感情で、訴えた者と訴えられた相手を見つめていた。
シモンは、この光景の成り行きを見たいと思いながら、モオリスとローランがその巻き添えになればいいと思っていたが、視点の定まらぬ目で自分の周囲を見回しているチゾンのおかみさんの視線からは逃れるようにしていた。
「名前はなんというのかね、女市民?」と、裁判長は、この穏やかで、しかもじっと苦痛に耐えている娘に感動して、訊ねた。
「エロイーズ・チゾンと申します」
「何歳になるね?」
「十九歳です」
「現住所は?」
「レ・ノナンディエール街、二十四番地」
「いま、このベンチに坐っている、警備隊員の市民ランデイに、今朝カーネーションの花束を売ったのはきみかね?」
チゾンの娘はモオリスのほうを向き、じっと顔を見つめてから言った。
「そうです。あたしです」
チゾンのおかみさんもまた娘を見つめていたが、その両眼は恐怖のために大きく見開いていた。
「カーネーションの一本一本に、カペー未亡人に当てた手紙が入っていたのを、きみは承知しているかね?」
「よく存じております」と被告が答えた。
恐怖と賛嘆の入り混った反応が、ホールいっぱいに拡がった。
「そのカーネーションを、市民モオリスに渡したのはどういうわけだね?」
「この方が警備兵の懸章をつけているのを見ましたので、きっとル・タンプルヘ行くところだ、と思ったからです」
「お前の共犯者は何者だ?」
「共犯者などおりません」
「なんだって! お前ひとりでこの陰謀を企んだ、と言うのか?」
「これを陰謀とおっしゃるんなら、たしかにあたしがひとりでやりました」
「ところで、市民モオリスは知っていたのかね?……」
「花の中に手紙が入っていることをですか?」
「その通り」
「市民モオリスは警備隊員です。市民モオリスは、昼間でも夜でも、いつでも女王と二人だけで会うこともできます。市民モオリスは、女王とはなしができるんですから、もしなにか女王に言いたいことがあれば、べつに手紙を書く必要はないわけでしょう」
「で、お前は市民モオリスを知らなかったのか?」
「あたしは、ル・タンプルでお母さんといっしょにいた頃は、ル・タンプルであの方が来るのを見たことがあります。けれども、ただ見たことがあるだけで、それ以外にはあの方を存じません!」
「判ったか、ひどい野郎だ! きさまがどんなひどいことをしたか、判ったか?」
ローランは、事件の成り行きにすっかり打ちのめされて、頭を垂れて、人目につかないようにその場を逃げ出そうとしていたシモンに、脅かすように拳固を振り上げながら叫んだ。
嫌悪をはっきりと顔に現わした、ホールの視線が、いっせいにシモンのほうを向いた。
裁判長が続けた。
「花束を渡したのもお前なら、一本一本の花の中に紙を隠してあるのを知っていたくらいだから、その紙片になにが書いてあったか、ということもお前は知っていたはずだな!」
「もちろん、存じておりました」
「よろしい、ではその紙片になにが書いてあったか、われわれに言ってくれるな?」
「裁判長」と娘はしっかりした口調で言った。「あたしは、申し上げられることは全部、とくに、こちらで申し上げたいことはすでに全部申しました」
「では、お前は答弁を拒否するんだな?」
「はい」
「お前は、いま自分がどんな立場にいるか知っているかな?」
「はい」
「お前は、自分の若さや、美貌に期待をかけているんではないかな?」
「あたしが期待しているのは、神だけです」
「市民モオリス・ランデイ」と裁判長が言った。「それに市民イヤサント・ローラン、諸君の身は青天白日です、革命政府は諸君の無罪を認め、諸君の愛国心を多といたします。選抜兵は、女市民エロイーズを隊の牢獄へ連行したまえ」
この言葉を聞くと、チゾンのおかみさんは目が覚めたような様子で、恐ろしい叫び声をあげると、娘のほうへ駈け寄り、最後にもう一度抱きしめようとした。しかし憲兵がそれをさえぎった。
「お母さん、あたしは許してあげるわ、お母さんを」と連行されるうちに、娘が叫んだ。
チゾンのおかみさんは、野獣のようなうめき声をあげて、死んだように倒れてしまった。
「気高い娘だ!」
モランは悲痛な調子でつぶやいていた。
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二十五 手紙
いま語った事件の続きが、この悲劇の補足的なものとして、最後の情景をつなぎ合わせるのだが、この悲劇は、今や暗い結末に向かって展開しはじめていたのだ。
いま、目の前に起こった事件で、まるで雷に打たれたようになったチゾンのおかみさんは、連れだってきたひとびとにも見捨てられてしまった。それというのも、たとえ無意識に犯した罪であっても、なにかおぞましい感じがしたし、たとえまた、国を愛する情熱が過激すぎたとはいえ、わが子を死に追いやった母親の罪は、まさに大罪だったからである。しばらくのあいだ、まったく身動きもしなかったチゾンのおかみさんが、頭をもたげて、うつろな目で周囲を見回し、自分がひとりだと知ると、大声でわめきながら、ドアのほうに駈け出していった。
ドアのところには、ほかの連中よりちょっとしつっこい何人かのヤジ馬が、まだたむろしていた。彼らは、おかみさんの姿を見ると、彼女を指さして、お互いにこんなことを言いながら道をあけるのだった。
「あの女を見たかい? あいつだぜ、自分の娘を密告した女は」
チゾンのおかみさんは、絶望的な叫び声をあげて、ル・タンプルの方向へ向かって駈けていった。
ところが、ミッシェル・ル・コント街を三分の一もきたところで、ひとりの男がおかみさんの前へ立ちふさがり、マントで顔を隠したまま、行手をふさいだ。
「どうだい、お前さん満足かな」とその男が言った。「自分の娘を殺したんだからな」
「あたしの娘を殺したって? あたしの娘を殺したって言うのかい?」と哀れな母親が叫んだ。「うそだ、うそだ、そんなこと、あるもんか」
「ところがその通りだ。だって、現にお前の娘は逮捕されたぞ」
「娘をどこへ連れていったんだろう?」
「ラ・コンシエルジュリー(裁判所付属牢獄)へさ。そこから、革命裁判所へ行くのさ。そこへ行ったものがどうなるか、それはお前さんだってご存知だろう」
「どいておくれよ」とチゾンのおかみさんが言った。「あたしを通しておくれ」
「どこへ行くんだね?」
「ラ・コンシエルジュリーさ」
「そこへ行って、なにをしようっていうんだい?」
「もう一度娘に会うのさ」
「お前を中へ入れてくれるもんかね」
「衛兵所の前で寝たって、どうこう言やあしないだろ、あそこに住んで、あそこで寝起きしてやるんだ。とにかく娘が門を出てくるまで衛兵所の前にいて、せめて、もう一目でも娘に会ってやるんだよ」
「どうだね、もしだれかが、お前に娘さんを取り戻してやると言って約束したら?」
「あんたは何を言うんだい?」
「わたしはお前にこう訊いているんだ。もし、ある男がいて、お前が言うとおりにしたら、お前さんの娘をとり戻してやると言って約束したらば、どうするかってね」
「娘のためなら、どんなことでもするさ! あたしのエロイーズのためなら、何でもしてやるとも!」とおかみさんは、絶望のはてに腕をよじりながら叫んだ。「どんなことだって、何だって、どんなことでもするよ!」
「よく聞きなさい」とその正体不明の人物が言った。「お前に罰を与えたのは神だよ」
「だけど、何の罰だい?」
「お前が、お前と同じ立場にいる哀れな母親に加えた拷問のさ」
「いったいだれのことを話しているんだい? なにが言いたいんだい?」
「お前はね、自分で余計なことを暴露し、さんざん乱暴なことをしたあげく、自分から足を踏み込んだような、絶望の淵へ、しばしば女囚人を追い込んだじゃあないか。そこで神は、お前に罰を与えようと、お前があんなに可愛がっていた娘さんを死へ追いやったんだよ」
「あんたは、娘を助けられる男がいる、とお言いだったね。その男はどこにいるのさ? なにが欲しいんだい、その男は? その男の願いっていうのはなんだろうね?」
「その男の望みというのはこうなんだ。お前がうるさく女王を苦しめるのをやめる、お前がいままで女王を辱めていたことの許しを乞う、そして、もしお前が、女王もまた同じように、苦しみ、泣き、絶望している母親だということに気付いたら、今では状況はにっちもさっちもゆかないが、神の奇跡があり、お前が女王の逃亡の邪魔をする代りに、できるだけ手を貸してくれれば、女王は今にも脱走できる手はずになっている、とまあこんなところだ」
「ちょっと聞いてくださいよ、市民。ひょっとしたら、その男というのは、あんたのことじゃあないのかね?」
「だったらどうする?」
「あんたが、娘の命を救ってくれると、約束するんだね?」
正体不明の男は黙っていた。
「あんたは約束してくれるかい、あたしに? あんたが責任を負ってくれるんだね? 誓ってくれるんだね? エッ、返辞をおしよ!」
「よく聞きなさい。男が女を救うためにできる限りのことを、お前の娘さんを助けるためにやってみよう」
「娘を助けるのはできないんだ!」とチゾンのおかみさんは、大声でわめいた。「娘を救うことはできないんだ。娘の命を助けるなんて約束したけど、うそっぱちだったんだね」
「お前はね、女王にできるだけのことをしなさい、わたしはわたしで、お前の娘さんにできるだけのことはするから」
「女王だなんて、あたしにとってなんの関係があるんだい? 娘をもっている母親、ただそれだけのことじゃあないか。もし、だれかが首をチョン斬られるとしても、斬られるのはうちの娘じゃあない、女王のほうだよ。たとえあたしの首はチョン斬られたって、娘の命は助かるとも。たとえあたしがギロチンヘ連れてゆかれたって、娘の頭の髪の毛がただの一本でも切られなければ、あたしは平気でギロチン詣りをしてやらあね、こんなご詠歌でも歌いながらね。
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ホーラ、そら行け、そら行け、そおら行け
貴族を街燈につるしに行こう……」
(革命時代、町の街灯で貴族を絞首した)
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そしてチゾンのおかみさんは、ゾッとするような声で歌いはじめた。それから、とつぜん歌をやめると、はじかれたように笑い声をあげた。
マントの男は、こんな狂気の徴候にぎょっとしたように見えたが、一歩うしろへ下がった。
「へーん! なにもそんなに逃げなくってもいいやね」と絶望したチゾンのおかみさんは、彼のマントを引っぱりながら叫んだ。「おっかさんに向かって、『こうしなさいよ、お前の娘さんの命は助かるよ』と言うだけならはなしもわかるけれど、そのあとに、『もしかしたらね』なんて言うひとがあるもんかね。あんたはほんとに、娘の命を助けてくれるのかね?」
「助けよう」
「そりゃあ、いつのことだね?」
「娘さんがラ・コンシエルジュリーから処刑台へ連行されるときだ」
「どうしてそれまで待つんだね? なぜ今夜じゃあいけないんだい、今日の夕方じゃあ、今すぐじゃあ?」
「できないからだ」
「アア! あんたにゃあわかってるんだね、わかってるんだね。できないのがわかってるんだね。だけどね、あたしならできるんだ」
「お前になにができるんだ?」
「あんたの呼び方で言えばね、あたしは女囚人だって苦しめることができるんだ。あんたが言ったみたいに、女王を見張ることもできらあね、あんたは、特権階級だね! あたしゃあね、夜だって昼だって、牢屋へ入れるんだから、そのくらいのことは朝飯前だよ。アア! うちの娘を助けたくないんなら、女囚人がどうなるはずだか判るだろ。頭には頭を、ってやつだよ、どうだいあんたのほうは? そりゃあマダム・ヴェトは女王だったよ、そんなことは百も承知さ。エロイーズ・チゾンは、ただの気の毒な娘さ。そいつも合点だ。だけれどね、ギロチンヘ上がったら、だれだってみんな同じさ」
「それならよろしい!」とマントの男が言った。「お前の娘を助けてやろう、命を救ってやるよ」
「誓っておくれ」
「誓おう」
「何にかけて誓うのかね?」
「お前の望むものに」
「あんたには娘があるかね?」
「ない」
「じゃあいいよ」とチゾンのおかみさんは、両腕を力なく垂らして言った。「それじゃあ、何にかけて誓うんだい?」
「聞きなさい、神にかけてお前に誓おう」
「だめだよ! あんたは、やつらがむかしの神さまをぶっ壊しちまったのを知らないのかい、それにね、また新顔の神さまを造ろうっていうんだ」
「わたしは、わたしの父親の墓にかけて誓うよ」
「墓にかけて誓うなんてご免こうむらあね。だいいち不幸を呼びそうだよ……アア! 困ったよ、ほんとに困ったよ! 考えてみりゃあ、三日たったら、あたしのほうまで、どうやら娘の墓に誓いを立てることになりそうだよ。あたしの娘! かわいそうなエロイーズ!」とチゾンのおかみさんはよく透る声でわめいたが、すでにその声はあちこちに響いて、二、三軒の家では窓を開けてこちらを眺める始末だった。
窓が開くのを見て、もうひとりの男が壁から離れて姿を現わし、第一の男のほうに近づいた。最初の男が、二番目の男に言った。
「この女にゃあ、なんにもできんね、こいつは気違いだよ」
「そうじゃないよ、この女もひとの親なんだ」と、もうひとりの男が言った。
彼は仲間を引っぱっていった。
二人の男が遠ざかるのを見て、チゾンのおかみさんは気をとり直したようにみえた。
「どこへ行くんだい、あんたたちは?」と彼女が叫んだ。「エロイーズを助けに行くのかい? それなら、待っておくれ、あたしもあんたたちと一緒に行くよ。待っておくれ。だから待っておくれと言うんだよ!」
そしてこの哀れな母親は、わめきながら二人のあとを追ったが、いちばん近い街のはずれまでくると、二人の姿を見失ってしまった。そして、もうどちらへ曲ったらいいのか判らなくなって、あちこち見回しながら、しばらく心を決めかねていた。自分が、暗闇と沈黙《しじま》という、死の二つのシンボルの中にただひとり残されたと知ると、張り裂けるような叫び声をあげて、敷石の上に意識を失って倒れてしまった。
十時が鳴った。
こんな事件のあいだに、この時の鐘は、ル・タンプルの時計台から響いてきたので、女王は、読者もご存知の部屋で、煙のいぶるランプのそばに、妹と娘のあいだに身をひそめていた。王女の影で、警備兵たちの目を逃れるようにして、王女を抱擁しているふりをしながら、この世でいちばん薄い紙に書かれた手紙を読み直していた。手紙の字は実に細かかったので、女王はほとんど両眼を焦がすくらいランプに近づけていたが、その字を判読するだけの力はまだ残っていた。
手紙はつぎのような文面だった。
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明日、火曜日、庭園に降りたいと願い出てください。陛下の願いはすでに聞き入れられるように命令が出ておりますから、何の支障もなく申し出は許可されるでしょう。三、四回庭をお回りになったら、お疲れになったふりをなさって、酒保のほうへ行かれて、プリュモオのおかみさんに、彼女の家で休ませてほしい、とお願いなさるのです。そこで、しばらくしたら、気分が悪くなって、気絶した真似をなさってください。そうすれば、陛下の看護をするために、酒保の扉は閉められますし、陛下とマダム・エリザベートと王女のお三方だけになります。と、すぐに地下室の揚げ蓋が開くでしょう。大急ぎで姉君と王女をお連れになって、この逃げ口へお入りください、こうしてお三方とも無事救出できると思います。
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「アア!」と王女が言った。「あたくしたちのふしあわせな運命も、これでようやく終りになるのかしら?」
「それとも、この手紙は、ただの罠ではないかしら?」とマダム・エリザベートが言った。
「いいえ、違います」と女王が言った。「この筆跡を見ると、あたくしはいつもある友人の姿が見えるのです、神秘な、しかしほんとうに勇敢な、そしてまたほんとうに忠実な友人の姿が」
「つまり、あの騎士のことでしょう?」と王女が言った。
「そう、彼のことよ」と女王が答えた。
マダム・エリザベートは両手を合わせた。と、女王が言葉を続けた。
「今度は、ひとりひとり低い声で手紙を読むことにしましょう。もしだれかがなにか忘れても、ほかの者が思い出せるようにね」
そして三人とも、再び手紙を目読した。しかし、ちょうど三人が手紙を読み終ったとき、部屋のドアがギイーッと開く音が聞えた。二人のプリンセスが振り向き、女王だけそのままの姿でいた。ただ、ほとんど目に見えないくらいの動作で、女王は手紙を髪にもってゆき、髪の中へ隠してしまった。
ドアを開いたのは警備兵のひとりだった。
「なにかご用ですか、ムッシュウ?」とマダム・エリザベートと王女がいっしょに訊ねた。
「なあに! お前たちは、どうも寝るのがちっと遅すぎるように思えるな、今夜は」と警備兵が言った。
女王がいつに変らぬ荘重な様子でうしろを振り向きながら言った。
「あたくしが何時にベッドに入らなければいけないと決めた、政府の新しい法令でもございまして?」
「いや、そんなことはないがね、女市民。でも必要とあれば出るかもしれんよ」
「それでしたら」とマリー・アントワネットが言った。「女王の部屋とは申しませんが、女性の寝室はご遠慮くださいませんか」
「なるほどな」と警備兵はブツブツ言った。「どうも貴族というやつは、いつでも自分たちが、ひとかどの大物だと抜かすもんだな」
しかし、三年間の苦悩の連続で、今やすっかり穏やかになったとはいえ、王室が盛んだった頃の、威厳のあるどっしりした態度に圧倒されて、警備兵は引っ込んでしまった。
しばらくすると、ランプが消えて、いつものように三人の女性は闇の中で着換えをすました。暗闇を、羞恥を隠すヴェール代りに使ったのである。
翌朝の九時、女王はベッドのカーテンの中に閉じこもったまま、昨夜の手紙をもう一度読み直した。手紙にあったいろいろな指示をひとつも落とすことのないように、という配慮からだったが、手紙をほとんど原型を止めぬ紙片になるまで引き裂き、カーテンの中で服を着て、妹を起こし、王女の部屋へ出かけた。
しばらくのちに、女王は外へ出て、衛兵を呼んだ。
「なにか用かね、女市民?」と彼らのひとりがドアのところに現われて訊ねた。その間に、ほかの衛兵は、王家のひとびとに呼ばれても、食事をやめようとさえしなかった。
「ムッシュウ」とマリー・アントワネットが言った。「あたくしは、娘の部屋から出て参りましたが、可哀そうな娘は、ほんとうに、病気なんです。両足がすっかりむくんで、痛みを訴えておりますが、運動不足のためですわ。ところが、皆さんもよくご承知のことと思いますが、娘をこんな運動不足にしたのも、実はあたくしのせいなんです。あたくしは庭へ降りて、散歩をしてもよい、という許しをえておりました。ところがそれには、生前主人が住んでいた部屋のドアの前を通らなければなりませんので、このドアの前を通るときにすっかり気持がくじけてしまって、その気力もなくなって、テラスを散歩するだけでまた上に上がってしまいました。」
今となっては、テラスを散歩するだけでは、娘の健康にはとうてい足りません。ですから、衛兵さん、お願いですから、サンテール将軍に、あたくしの名で、以前許されていた自由を認めていただくように頼んでいただけませんか。そうしていただけたら、ほんとうに感謝いたしますわ」
女王はこの言葉を、穏やかで、しかも同時に威厳にみちた口調で言ったし、聞き手の共和党員の誇りを傷つけるような言葉は一言も口にしないように気を使ったので、初めは女王の前に帽子をかぶったまま現われた衛兵も、こうした男たちの大部分の連中の習慣通りに、頭の上にのった赤いボンネットをだんだんと脱ぎ、女王が話し終えたときには、こんなことを言いながらお辞儀をしたほどだった。
「ご安心ください、マダム。あなたのお望みどおり、将軍に許可を求めておきますから」
それから、引っ込むと、自分はべつに気が弱いわけではなく、礼儀に従ったまでだ、と自分自身に言い聞かせるように、こんなことを繰りかえした。
「これで正しいのさ。要するに、これでいいんだよ」
「正しいってのは、なんのはなしだ?」とべつの衛兵が訊ねた。
「つまり、あの女が、娘を散歩させるっていうことがさ」
「それで?……いったいどうして欲しいって言うんだい、あの女は?」
「下へ降りてえっていうんだ、それでな、一時間ばかり、庭を散歩してえって言うのさ」
「なあんだ! ル・タンプルから革命広場まで、|テク《ヽヽ》で行きてえって頼みゃあいいんだ。そうすりゃあ、りっぱに散歩できらあな」
女王はこの言葉を聞き、サッと蒼ざめた。しかしこの言葉を聞くと、かえってその後に準備される大事件に対して、新しい勇気を奪いおこした。
さっきの衛兵は食事を終って、降りていった。今度は、女王が娘の部屋で食事をしたいから、と言って、その願いは許可された。
王女は、病気になったという噂をほんとうらしく見せようと、寝たままで、マダム・エリザベートと女王が王女のベッドの傍に付き添っていた。
十一時に、サンテールが到着した。いつもと同じように、将軍の到着は、敬意を表する太鼓の音と、警備の終った衛兵と交代にきた大隊と、新しい警備兵の入門でわかった。
サンテールが、交代で出入りする大隊を閲兵し、脚の短い鈍重な馬に跨ってル・タンプルの中庭を行進した時、彼はちょっと立ち停った。これは、彼になにか苦情を申し立てたり、密告したり、許可を願い出る者がある時なのである。例の衛兵が、この立ち停ったときを利用して、将軍に近寄った。
「なにか用か?」とサンテールが荒々しい声で言った。
「将軍」とその衛兵が言った。「女王からの伝言があるんですが……」
「なんだって、女王だって?」とサンテールが訊ねた。
「はいっ! その通りです」と衛兵は言ったが、自分が女王の言いなりになってしまったので、われながらすっかり驚いていた。「オレは何を言ってるんだ? オレは気が狂ったのかな? つまり、マダム・ヴェトの伝言を申し上げたいので……」
「よろしい」とサンテールが言った。「それならわしにも判るぞ。で、わしにはなしというのは何だ? サア、言いたまえ」
「つまり、ヴェトの娘が、見たところ病気らしくて、つまり、その、空気と運動が足りない、ということをお伝えしたいんで」
「なるほど、それもまた、国家の責任にしなければならんのか? 国家は、あの女に庭を散歩するのを許可したのだ。ところが、あの女のほうでいやだと言ったんだ。じゃあ失敬!」
「それはたしかにその通りですが、今ではあの女も後悔しております、で、将軍が下に降りるのを許してくださるかどうか、訊ねておりますんで」
「そりゃあ、べつに問題はないぞ。諸君も聞いたな」とサンテールは、大隊の一同に声をかけた。「カペー未亡人は庭に降りて、散歩をするからな。これは、国家からあの女に許可が出とる。しかし、あの女が塀の上から逃げないように厳重に警戒しろよ。もしそんな事が起これば、わしはお前たちをひとり残らず、首をチョン斬ってやるからな」
大らかな哄笑《こうしょう》が将軍の冗談を迎えた。
「さて、それだけ判ったら、さらばだ。わしはこれから役所まで行ってくる。どうやら、さきほどローランとバルバルーがお縄頂戴ということになったらしいな。用件も、二人のあの世行きのパスポートを発行する、ということらしい」
将軍を、こんな冗談を言わせるような上機嫌にしたのは、このニュースらしい。
サンテールは速歩《はやあし》で出かけた。
警備を終った大隊が彼のうしろに続いた。
ようやく、警備兵は、サンテールから、女王に関する指示を受けた新しい兵士たちに部署を譲った。
警備兵のひとりが、マリー・アントワネットの傍に上がり、将軍が女王の願いを許してくれたと、女王に伝えた。
女王は窓越しに空を仰ぎながら考えた。
『アア! 神様、これであなたのお怒りも鎮まるのでしょうか、あなたももうお疲れになって、恐ろしい罰が、あたくしたちの上に重くのしかかるのも、これで終りになるのでしょうか?』
彼女はバルナーヴ(ミラボオに対抗した政治家。ヴァレンヌで捕われた王室の一家をパリに連行する任務中、女王に誘惑されてシンパとなり、後に処刑さる)を失脚させ、その他のたくさんのつまらぬ男たちにふりまいたチャーミングな微笑を浮かべながら、衛兵に言った。
「ありがとう、ムッシュウ、ありがとう!」
それから、うしろ足で立って、女王のそばでチンチンをしている小さな犬のほうを振り向いた。というのは、この犬は、女主人の眼差しを見ただけで、なにかふつうでないことが起こっている、と覚ったからである。
「サア、行きましょう、バック、散歩に行きましょう」
小犬は、警備兵をじっと見つめてから、キャンキャン鳴き、跳びはじめたが、おそらく自分の女主人を快活にするような知らせをもたらしたのはこの男だ、ということが判ったのだろう、長い、光沢《つや》のある尻っ尾をピクピク振って、這ったまま警備兵に近寄り、愛撫してもらった。
女王の哀願には、あまり気持を動かさなかったこの男も、この犬を撫でてみると、すっかり感激して言った。
「女市民カペー、この小犬のことを考えただけでも、あんたももっとたびたび散歩しなきゃあいけませんよ。人間の気持としては、この世に生きているものは、なんでも面倒をみてやるのが当然ですからな」
「何時になったら、あたしたち外へ出られるでしょう、ムッシュウ?」と女王が訊ねた。「おてんとうさまが照っていたほうが、あたくしたちの体のためになるとはお思いになりません?」
「いつでも、あんたの好きなときに出られるよ」と衛兵が言った。「その問題については特別な注意はないんだ。ただね、正午に外へ出たいというんなら、ちょうど歩哨の交代時間に当るから、塔の中はだいぶ騒ぎはおさまっているよ」
「よろしいわ、それならお午《ひる》にしますわ」と、女王は心臓の鼓動を抑えるように、胸に手を置いて言った。
女王はこの男を見て、仲間の連中より大分きびしくないような気がした。そしてこの男も、女囚人の願いにあまり寛大な扱いをしたおかげで、陰謀者たちが考えている乱闘のうちに、命を落とすのではないかと思った。
ところが今では、ある共感が生まれて優しい女心に包まれようとしていたのに、昔ながらの女王の魂が目覚めて、かたくなな心にかえってしまった。彼女は八月十日の惨事を、そして宮殿の絨毯のここかしこに横たわった死体を思い描いていた。九月二日の虐殺を、そして、窓の前で、槍の先に刺されて動いていたランバル公妃(ランバル公未亡人で、女王の友人、九二年七月二日に、その首は、ル・タンプルの女王の牢獄の前に投げ出された)の生首のことを思い描いていた。一月二十一日の、処刑台で死んだ夫、その夫の声をかき消すような太鼓のひびきを思い浮かべていた。ついには、救いの手を差し伸ばすこともできずに、自分の部屋で苦痛に泣く声を聞かなければならなかった哀れな王子、自分の息子のことを考えて、女王の心はかたくなになるのだった。
「アア!」と女王は口の中でつぶやいた。「不幸というものは、まるで神話のヒドラ(九頭蛇。一頭を切れば、さらに数頭が生ずる、といわれる)みたいなものだわ。次から次へ新しい不幸が生まれてくるんですもの!」
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二十六 小犬ブラック
衛兵が出て行った。仲間を呼ぶためであり、また交代した衛兵が置いていった報告書を読むためである。
女王は、妹と娘と三人だけで残された。
三人とも、お互いに顔を見合わせた。
王女は女王の腕に身を投げ出して、女王の胸にしっかりと抱かれた。
マダム・エリザベートは姉のそばに寄り、手を差し出した。
「サア、神さまにお祈りしましょう」と女王が言った。「でも低い声でお祈りしましょうね、あたしたちのお祈りを、だれかに疑われないようにね」
この時代は、神が人間の心の奥底に秘めた祈り、このごく自然な讃歌も、ひとびとの目には嫌疑になるような、不吉な時代であった。というのは、祈りは、希望と感謝の行為だからである。ところが警備の兵士たちの目には、希望や感謝は、彼らの不安の原因であった。つまり、女王はただひとつのこと、脱走しか望んでいなかったからであり、また、女王が神に感謝を捧げるといえば、ただひとつのことしかない、すなわち、自分に脱走の方法を与えてもらうことであった。
この黙祷が終っても、三人ともひとことも口を訊かなかった。
十一時が鳴り、続いて正午の鐘が鳴った。
最後の一打ちが青銅の鐘から響き渡ったとたんに、武器の響きが|らせん《ヽヽヽ》階段いっぱいにざわめき始め、女王の耳にまで聞えてきた。
「歩哨の交代が始まったんだわ」と女王が言った。「やがて、あたくしたちを呼びにくるでしょう」
女王は、妹と娘の顔色が蒼白になるのを見ていた。
「元気を出すのよ!」と女王まで蒼ざめた顔色で言った。
「昼だぞ」と下でだれかがどなった。「囚人どもを下へ降ろせ」
「あたくしたちはここにおります」と女王は、なにか心残りの入り混じった気持で、最後の一暼を投げかけ、幽閉中の友であった、黒い壁や、粗末ではないまでも、できるだけ簡素に作った家具類をチラリと見て、挨拶を送った。
最初の格子戸が開いた。この格子戸は廊下に面している。廊下はうす暗く、三人の囚われの女は、この闇の中に激情を隠すことができた。前のほうに、小さなブラックが駈けてゆく。ところが、第二番目の格子戸へ――その戸のところへきて、マリー・アントワネットは目をそらしたのだが――忠実な小犬は、大きな頭の釘の上に鼻づらを押しつけて、何回か小さくクンクンと鳴き、それに続いて、苦しげな、永い唸り声が聞えた。女王は犬を呼び戻すだけの気力もなく、倚《よ》りかかる壁を探しながら、大急ぎで通り過ぎていった。
何歩か歩いてから、女王は足がもつれて、しかたなく立ち停った。妹と娘が女王のほうへ近寄り、一瞬、三人の女は、王女の額に手をやっている母親を囲んで、悩ましげに一団となって、じっと動かなくなった。
小犬のブラックが女王に追いついた。
「どうしたんだ、降りるのか、降りねえのか?」と大きな声が聞えた。
「ここにいるんだ」と突っ立っていた警備兵が、あまり苦しそうな様子を見て、素朴な気持で三人の邪魔をしないようにと気遣いながら言った。
「サア、参りましょう!」と女王が言った。
そして女王は階段をようやく降りきった。
囚人たちは、曲りくねった階段の下に着き、最後の格子戸の正面に立った。この格子戸の下から、幅の広い、金色の光線が差し込んでいた。そのとき、太鼓がとどろき渡って衛兵たちを召集した。何事だろう、という好奇心に刺戟されて、あたりに深い沈黙が支配し、その中を重い扉が、蝶番《ちょうつがい》をキイーッときしませて、ゆっくりと開いた。
ひとりの女が地べたに坐っていた、というよりはこの扉の隣にある境界の隅に横になっていた。チゾンのおかみさんだった。この二十四時間来、女王はその姿を見ず、昨夜も、今朝も見かけなかったので、女王は不思議に思っていたところだった。
女王はすでに、陽光を、木々を、庭を見ていた。そして庭を囲んでいる柵の向う側に、おそらく友人たちが自分を待っているにちがいない、酒保の小屋を、むさぼるような視線で探していた。そのとき、女王の足音を聞きつけて、チゾンのおかみさんが両手を拡げた、女王は、蒼ざめた、白髪まじりの髪の毛の下の傷だらけの顔を見た。
そこで、理性をなくした人間がよくやるような、ゆっくりした動作で、おかみさんは扉の前へきて膝まずき、マリー・アントワネットの行手に立ちふさがった。
「なんのご用なの、あなた?」と女王が訊ねた。
「あのひとはね、あんたはわたしを許さなければいけねえって言ったよ?」
「あのひとってだあれ?」
「マントを着た男さ」とチゾンのおかみさんが答えた。
女王はびっくりしてマダム・エリザベートと娘を見た。と、警備兵が言った。
「サア、サア、カペーの寡婦《ごけ》さんを通してやれよ。庭を散歩する許可が出ているんだからな」
「そんなこたあ、よく知ってらあ」と老婆が言った。「あたしがここへ来て待っていたのも、そのためなのさ。だってね、あたしを上へ上がらせてくれねえんだものね。あたしゃあこの女にあやまらなけりゃあならねえんだから、ここで待つよりほかはねえよ」
「どうして、あなたを上へ上がらしてくれないんです?」と女王が訊ねた。
チゾンのおかみさんが笑い出した。
「だってね、みんなあたしのことを、気違いだ、って言うんだよ!」
女王は彼女をじっと見つめた。そして、事実、この不幸な女の焦点の定まらぬ両眼に、奇妙な反映、思考を失ったことを示す空ろな光を読みとることができた。
「アア! なんっていうことでしょう!」と女王が言った。「気の毒な女《ひと》! いったい、あなたの身に何が起こったの?」
「あたしに起こったのは……じゃあ、あんたは知らないんだね? でも、そうさ、あんたは、知ってるはずだよ、なんったって、彼女《あれ》が刑を宣告されたのは、あんたのおかげなんだからね、……」
「彼女《あれ》ってだれのこと?」
「エロイーズだよ」
「あなたの娘さんのこと?」
「そう、あの女《こ》だよ……あたしの可哀そうな娘だよ!」
「刑を宣告されたっていうの……でも、だれに? どうして? なぜなの?」
「だって、あの花束を売ったのが、うちの娘だったからさ……」
「どんな花束?」
「カーネーションの花束さ……だけどね、娘はべつに花売り娘なんかじゃあないんだよ」とチゾンのおかみさんは、まるで遠い思い出を一生懸命思い起こすようにして言った。「そういやあどうしてまた、あの娘《こ》は花束なんか売ったんだろうね?」
女王は身震いした。いまの自分の立場とこの情景は、目に見えない紐で結びつけられているのだ。女王には、無用な話をして時間をつぶしてはならないのが判っていた。
「ねえおかみさん、お願いですから、あたしを通してください。いずれ後になったら、どんなおはなしをしてもけっこうですから」
「いけないよ、いますぐだよ。あんたはあたしを許してくれなければいけないんだ。あたしの娘の命を救うためには、あたしがあんたの脱走の手伝いをしなければいけないのさ」
女王はまるで死人のように蒼白になった。
「アア、神さま!」と女王は目を空に向けながらつぶやいた。
それから、警備兵のほうを向いて、女王は言った。
「ムッシュウ、お願いですから、この女のひとをどけていただけません。よくお判りでしょう、このひとは気がふれておりますわ」
「サア、サア、おかみさん、|おみこし《ヽヽヽヽ》をあげようじゃあねえか」と警備兵が言った。
ところがチゾンのおかみさんは、塀にかじりついた。
「いやだよ。うちの娘の命を助けるには、この女に許してもらわなけりゃあいけないんだよ」
「でもだれがそんなことを言ったの?」
「マントを着た男さ」
「お姉さま」とマダム・エリザベートが言った。「この女《ひと》に、なにか慰めの言葉をかけておやりになったらいかが」
「アラ! 喜んで言ってあげるわ」と女王が言った。「ほんとうに、それがいちばん近道だと思うわ」
それから、気違い女のほうをふり向いた。
「おかみさん、なにがお望みなの? 言ってごらんなさい」
「あたしの望みっていうのはね、あたしがあんたにさんざん悪口を浴びせたり、あんたを密告したりしていじめたのを、あんたにみんな水に流してもらいたいんだよ、それにね、あんたがあのマントを着た男に会ったら、あたしの娘を助けるようにあのひとに頼んでもらいたいのさ、なんったって、あのひとは、こうと思ったことはなんでもやっちまうんだからね」
「あなたが、そのマントの男のひとからなにをお聞きになったかは知りませんけれど、もし、あなたがあたくしに加えたと思っている侮辱をあたくしに許してもらいたいということなら、もちろん、喜んで許しますわ。アア、ほんとうにかわいそうな女《ひと》! それに、あたくしが傷つけたひとたちも、同じようにあたくしを許してくださるように!」
「アア!」とチゾンのおかみさんは、なんとも意味の判らない喜びの言葉をわめいた。「じゃあ、あたしの娘の命は助かるんだね、だって、あんたがあたしを許してくれたんだものね。手を貸して、マダム、手を貸してちょうだいよ」
女王は驚いて、意味も判らぬままに、手を差し出した。チゾンのおかみさんは、夢中になってその手をとり、唇を押し当てた。
ちょうどそのとき、新聞の呼び子のしわがれた声が、ル・タンプル街まで聞えてきた。
「ホーラ、裁判で判決がきまったよ、エロイーズ・チゾンって娘に、陰謀の罪で死刑の宣告がおりたよ!」
この言葉がチゾンのおかみさんの耳を打つやいなや、彼女の顔は形相が変り、膝まずいて立ち上がると、女王の行手をふさごうとして両腕を拡げた。
「アア! 神さま!」と、この恐ろしい呼び声を一語も洩らさず聞きとった女王がつぶやいた。
「死刑を宣告されたんだって?」とその母親が叫んだ。「あたしの娘が死刑の宣告だって? あたしのエロイーズが死んじまうのかい? それじゃあ、あのひとは娘を助けてくれなかったんだね、娘の命を救えないんだね? じゃあ、手おくれだったのかねえ?……ア!」
「気の毒なおかみさん」と女王が言った。「信じてください、あたくし心から気の毒に思っているんですよ」
「あんたが?」とおかみさんが言ったが、その両眼は血走っていた。「あんたが、気の毒に思うって? じょうだんじゃない! とんでもねえはなしだ!」
「そんなことはありませんわ、ほんとうに心からご同情しておりますわ。でも、とにかくあたくしを通して」
「あんたを通してやるっていうのかい」
チゾンのおかみさんは大声で笑い出した。
「だめだよ、いやだよ。あたしゃあね、あの男が、あんたがあたしを許してくれたら、あんたを逃がしてやったら、あたしの娘の命も助かるだろうっていうから、あんたを逃がしてやるつもりになったのさ。ところがね、あたしの娘がいずれ死ぬとなりゃあ、あんたも逃げられやあしないよ」
「助けて、皆さん! こちらへきて、あたくしを助けてください」と女王が叫んだ。「神さま! 神さま! 皆さんもお判りでしょう、この女《ひと》は気が狂っているんです」
「狂ってないよ、あたしゃあ気違いじゃない、ちがうよ。あたしゃあね、自分が言ってることの意味は判るんだよ。いいかい、ほんとうのはなし、陰謀があったのさ。陰謀を見破ったのはシモンで、花束を売ったのは、あたしの娘、かわいそうなあたしの娘だよ。娘はね、革命裁判所で、すっかり白状したんだもんね……カーネーションの花束さ……その中にね、紙っきれが隠してあったのさ」
「マダム、神の名にかけて、お願いですから!」と女王が言った。
するとまた、こんなことを繰りかえす呼び子の声が聞えてきた。
「ホーラ、裁判だよ、判決があったよ、エロイーズ・チゾンってえ娘っ子が、陰謀を企てた罰で、死刑の宣告を受けたよ!」
「あれを聞いたかい?」と気違い女がわめいた。おかみさんのまわりに国民兵たちが一団となった。「あれを聞いたかい、死刑の宣告だとさ? お前のせいだよ、うちの娘が殺されるのは、お前のせいだよ、判ったかい、お前のせいだよ、このオーストリア女め!」
「みなさん、神のみ名にかけて助けてください! この気の毒な気の狂った女《ひと》を追い払えなければ、せめて、塔の上へ上らせてください。この女《ひと》の非難を聞いているのは、耐えられませんわ。みんな不当な言いがかりです、この非難を聞いていると、気がくじけてしまいますわ!」
そして女王は、顔をそむけて悲しそうなすすり泣きをはじめた。
「いいとも、いいとも、泣くがいい、偽善者め!」と気違い女が叫んだ。「お前の花束は、うちの娘にとっちゃあ、ずいぶん高価《たか》いものについたよ……もちろん、娘だって、変に思ったにちがいないよ。お前を助けようとする者は、みんなこんな調子で命を落とすのさ。お前っていうやつはね、不幸を運ぶ女だよ、オーストリア女め。友だちを殺し、亭主を殺し、守ってくれる者を殺す。とうとううちの娘まで殺しちまうんだ。もう、お前のために殺されるのはごめんだが、今度は、お前はいつ死んでくれるんだい?」
そしてこの不幸なおかみさんは、脅かすようなジェスチュアをしながら、この最後の言葉をわめいた。
「気の毒な女《ひと》!」とマダム・エリザベートが口をきった。「ねえ、あなたが話しかけている女《ひと》は、女王だということをお忘れなの?」
「女王だって? この女が?……女王ねえ?」とチゾンのおかみさんが繰りかえした。彼女の狂気は一刻一刻激しくなってゆくようにみえた。「もしこの女が女王なら、うちの娘を殺そうとする首斬り役人から守ってくれらあね……あたしのかわいそうなエロイーズにお情けをかけて釈放してくれらあね……王様がたは釈放できるんだよ……そのときまでは、お前はただの女だよ、不幸を運んでくる女、ひと殺しの女さ……」
「アア! お願いだから、マダム、あたくしの苦しみを見て、あたくしの涙を見てください!」
と叫んで、マリー・アントワネットは通り過ぎようとした。もはや脱走しようなどという希望はなく、ただ機械的に、このうるさくつきまとう恐ろしい女から逃げようとするだけだった。
「アア! 通してやるもんか!」と老婆が叫んだ。「お前は脱走したいんだろう、エッ、マダム・ヴェト……あたしゃあ、よく知ってるよ。マントの男がそう言ったからね。プロシャ人どものところへ逃げていきたいんだろう……ところがどっこい、逃げられるもんかね」と彼女は女王のドレスにすがりつきながら続けた。「邪魔をしてやるからね、あたしが! 街燈ヘブラ下げろ、マダム・ヴェトを! 立て、くにたみ、いざほことれ! 進め進め、あだなす敵を……(のちフランス国歌となる、ラ・マルセイエーズの一節)」
そして両腕をよじり、灰色の髪を乱して、顔を紅潮させ、両眼は血に飢えたようになって、不幸な女は、すがりついていた女王のドレスをずたずたに引き裂いてぶっ倒れてしまった。
すっかりとり乱した女王は、ようやくこの正気を失った女から逃がれて、庭の隅のほうに逃げ出した。その時、とつぜんに、犬の吼える声に混じって、奇妙なざわめきといっしょに恐ろしい叫び声が聞えてきたので、この清景にマリー・アントワネットをとりまいていた国民兵を、呆然自失の状態から気をとり直させた。
「武器をとれ! 武器をとれ! 陰謀だぞ!」とひとりの男がどなっていたが、女王にはその声が靴直しシモンの声だと判った。
サーベルを手に持って、酒保の小屋の入口を警備していたこの男のそばで、小犬のブラックが猛り狂って吼えたてていた。
「武器をとれ! みんな部署につけ!」とシモンが叫んだ。「裏切りだぞ。オーストリア女を塔へ入れろ。武器だ! 武器をとれ!」
ひとりの士官が駈けつけた。シモンは、燃えるような目で小屋の内部を指さしながら、士官になにごとか話した。今度は士官が大声でどなった。
「武器をとれ!」
「ブラック! ブラック!」と女王が二、三歩前へ出ながら呼んだ。
しかし犬はそれには答えず、相変らず怒り狂って吼え続けた。
国民兵たちは武器をとりに駈け出し、小屋のほうへ殺到した。そのあいだに、警備兵たちは、女王と王妹と王女をしっかりと捉えて、力づくで囚人たちを格子戸の中へ連れ戻すと、戸は彼女らの背後で再び閉《しま》った。
「打ち方用意ッ!」と警備兵たちが歩哨に叫んだ。
撃鉄を引く銃の音が聞えた。
「そこだぞ、その揚げ蓋の下だぞ」とシモンが叫んだ。「オレには、揚げ蓋の動くのが見えたんだよ、まちげえねえぞ。もちろん、このオーストリア女の犬がな、こいつは可愛いいやつで、陰謀にゃあ関係ねえよ、こいつが陰謀を企てた野郎どもに向かって吼えたんだからな、やつらはきっと、地下庫の中にいるにちげえねえ。どうだい! 聞けよ、犬のやつはまだ吼えてらあな」
ほんとうに、シモンの叫び声に力をえて、ブラックは前に倍して吼えはじめた。
士官が揚げ蓋の手になっている環を掴んだ。士官が力いっぱい持ち上げても上がらないと見ると、いちばん逞しそうな二人の選抜兵が、士官に手を貸したが、とても持ち上がらなかった。
「わかったでしょう、やつらが中から揚げ蓋を引っ張ってるんでさあ」とシモンが言った。「撃て! エッみんな、この揚げ蓋ごしに撃っちまえ!」
「アラ、大変だよ!」とプリュモオのおかみさんがどなった。「あんたがた、あたしのぶどう酒の瓶をぶっ壊すつもりかい」
「撃て! 撃て!」とシモンは繰りかえした。
「黙れ、うるさいやつだ!」と士官が言った。「オイきみたち、斧を持ってきて、板を打ち壊せ。サア、中隊は射撃準備だ。気をつけろ! 揚げ蓋が開いたら、すぐに中へ射ち込むんだぞ」
板がきしむ音と、急いでひとが跳ぶ音が聞えたので、国民兵たちは、地下庫の中でなにかがいま動いたところだ、ということが判った。しばらく後に、鉄の|はね格子《ヽヽヽヽ》が閉るのに似た音が、地下から響いてきた。
「しっかりやれ!」と士官が、駈けつけてきた工兵に言った。
斧が床板を壊した。その穴に向かって、二十発ばかりの銃弾が打ち込まれて、穴は一秒一秒拡がっていった。しかし開いた口からは、ひとっ子ひとり見えなかった。士官が松明《たいまつ》をともし、地下庫へ投げ込んだ。地下庫は空だった。
揚げ蓋を持ち上げると、今度はなんの抵抗もなく開いた。
「オレについて来い」と士官が、勇敢に階段にとびついてどなった。
「進め! 進むんだ!」と警備兵たちが、自分たちの上官に続いて殺到しながら叫んだ。
「ヤア! プリュモオのおかみさん」とシモンが言った。「おめえは、特権階級どもに地下庫を貸しゃあがったな!」
壁が破られていた。湿った地面の上を、たくさんの足跡が踏み荒していた、そして、塹壕の中の交通壕に似た、幅一メートル、深さ一メートル半ばかりの地下道が、ラ・コルドリー街の方角に掘ってあった。
士官は地面の底までも貴族たちを追跡してやろうと決心して、危険を冒して穴の中に入り込んだ。ところが、三歩か四歩歩いただけで、彼はすぐに鉄格子に行き当ってしまった。
「止まれ!」と彼は、自分のうしろから押し合いへしあいやって来る部下たちに言った。
「もうこれ以上遠くへは行けないな、体が邪魔になるんだ」
すると、囚人たちを再び幽閉して、どうなったか状況を知ろうと駆けつけてきた警備兵たちが言った。
「どうした、どうしたんだい? 見てみろ!」
「ちきしょう」と士官が再び姿を現わして言った。「貴族どもがな、女王が散歩しているあいだに奪いかえそうとしたんだ、おそらく女王だって|グル《ヽヽ》だよ」
「癪だな」と警備兵が叫んだ。「サンテール将軍を呼んでこい、それに政府に報告するんだ」
「そこの兵隊たち」と士官が言った。「この地下庫に残ってな、出てきたやつはかたっぱしから殺《や》っつけろ」
この命令を下してから、士官は階段を上って報告に出かけた。
「へーン! どうだい!」とシモンが両手をこすりながら叫んだ。「どうだい! へーンだ! これでもおいらのことを、気違いだなんて抜かすのか? ブラックやったぞ! ブラックはたいした愛国者だよ、ブラックは共和国を救ってくれたんだからな。ここへ来い、ブラック、来いよ!」
こう言ってこのならず者は、小犬に優しそうな目付をして見せたが、犬がそばへ寄ると、足をとばして、小犬を二十歩も向うへ蹴とばした。
「オイ! おめえは可愛いいやつだよ、ブラックよ! おめえのおかげでおめえのご主人さまの首が飛ばあな。ここへ来い、ブラック、来いってえんだ!」
ところが、ブラックも今度は言うことをきくどころか、ワンワン鳴きながら、塔のほうへ引き返していった。
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二十七 王党派《ル・ミュスカダン》
われわれがいま語った事件の結末がつくまでに、ほとんど二時間ばかりかかった。
ローランは、モオリスの部屋をあちこち歩き回っていたが、その間にアジェジラスは、応接室で主人の長靴を磨いていた。ただ、できるだけはなしがしいいように、ドアが開けっ放しになっていて、歩き回っているうちに、ローランはこのドアの前に止まり、世話係にいろいろ質問をしていた。
「じゃあ、アジェジラス、きみのはなしでは、ご主人は今朝家を出た、というんだな?」
「ヘエ、たしかにその通りで」
「いつも出かける時間だったのか?」
「十分早かったか、十分おそかったか、そこまではっきりは申せませんが」
「で、それから会っていないんだな?」
「そうなんで、市民」
ローランは再び歩きはじめ、黙ったま三、四回部屋を回り、また足をとめた。
「サーベルは持っていたか?」
「エエ、隊へお出かけのときは、いつでもお持ちです」
「出かけた先が隊だというのは、まちがいないか?」
「少なくとも、あたしにはそう申しました」
「だったら、オレはこれから彼に落ち合えるよ。もし、どこかですれ違ったら、オレが来たって、それにいずれ来るからって伝えておいてくれよ」
「お待ちください」とアジェジラスが言った。
「なんだい?」
「階段にあの方の足音が聞えます」
「ほんとかい?」
「たしかに間違いありませんよ」
事実、ほとんど同時に、階段の上のドアが開いて、モオリスが入ってきた。
ローランは彼の上に素早い一瞥を投げかけて、彼に変ったところが全くないように見えたので、こう言った。
「ヤア! ようやくご登場だ! オレは二時間も前からお待ちかねだったんだぜ」
「そりゃあ結構だね」とモオリスが微笑しながら言った。「二行詩だの、四行詩だの考える暇がじゅうぶんあったろう」
「アア! モオリス」とこの即興詩人が言った。「とうてい詩だの歌だのってゆとりはないやね」
「二行詩も四行詩もかい!」
「だめなんだよ」
「なるほど! で、この世の終りでも来そうなのかい?」
「なあきみ、モオリス、オレは悲しいんだ」
「きみが、悲しいんだって?」
「オレは不幸なんだ」
「きみが、不幸だって?」
「そうなんだ、どうすりゃあいいんだ! オレは後悔してるんだよ」
「後悔だって?」
「アア! 残念ながら、その通りなんだ。なあきみ、きみはよく判るだろうが、ぼくは躊躇しなかった。ところがだ、判るかい、アルテミーズはすっかり絶望してるんだよ、彼女の友だちなんだよ、あれは」
「そりゃあ気の毒に!」
「それに、あの娘のアドレスをオレに教えた張本人が彼女ときてるんだ……」
「きみにとっては、事件を自然の成り行きに任せるのがいちばんだよ」
「そりゃあそうだ、だけどもし成り行きに任せていたら、彼女の代りに今ごろは、きみが死刑の宣告を受けただろうからな。きみの言うことは万々もっともしごくだ。で、オレはね、きみに相談したくてきたんだ。きみはもっと強い男だとオレは思ってるんだ」
「まあ、そんなことはいいから、とにかく言ってみろよ」
「よし、きみには判るかい? あの娘は気の毒だよ、でオレは、あの娘の命を救うためになんとか手を尽くしてみたいんだ。たとえ彼女の代りにオレが横ビンタを張ろうが、張られようが、それも当然の報いみたいな気がするんだ」
「気でも狂ったのか、ローラン」とモオリスが肩をそびやかしながら言った。
「どうだろう、もしオレが革命裁判所へ手を回したらどうだろう?」
「あとの祭りだな、もう彼女は刑を宣告されたんだからな」
「実際、あんな若い娘が命を落とすのを見てるなんて、恐ろしいことだぜ」
「あの娘が死ぬようなことになったのも、もとはといえばぼくを救うためだと思うと、なおさら恐ろしくなるね。だけどねえ、ローラン、いずれにしろ、あの娘が陰謀を企てたと思えば、諦めなければならないよ」
「へん! それじゃあ、今のようなご時勢で、みんなが多かれ少なかれ陰謀を企てていないとでもいうのかい? あの娘だって、ひとなみのことをしただけさ。かわいそうな娘だよ!」
「まあ、あんまり嘆くなよ、きみ、ことに、そんな大きな声で嘆くことはないじゃあないか。だって、ぼくらだって被害をこうむったんだからな。考えてもみろよ、ぼくらだって、彼女のおかげで押された、共犯者という汚名をそそいだわけでもないんだぜ。今日はな、ぼくが隊へ行くと、サン・ルーの歩兵大尉のやつに、ジロンド党だなんて言われたよ。その場を去らずに、やつにサーベルの一撃を与えて、考えちがいをしていた、という証拠を見せなきゃあならなかったような始末だからな」
「じゃあなにかい、帰りがおくれたのもそのせいなのか?」
「仰せのとおりだ」
「どうしてオレに知らせてくれなかったんだい?」
「だってね、問題がこういうことになると、きみって男は我慢できない性分だからな。はなしが表沙汰にならないようにするには、すぐに結着をつけなければならなかったしね。そこでわれわれは、それぞれ自分の手近にある武器を執った、とまあこんな次第さ」
「で、その野郎は、きみのことをジロンド党員と呼んだのかい、モオリス、正真正銘のジロンド党だと?……」
「エイ! ちきしょう! たしかにその通りなんだ。きみね、きみによく言っておくがね、こんな事件がもう一度起こってみろ、ぼくらの評判は地に落ちるぜ。だって、きみだって判るだろう、ローラン、いまみたいなご時勢では、評判の悪い男の同義語《シノニーム》とは何か、つまり容疑者《ヽヽヽ》、という意味だからな」
「よく判るよ。その言葉を聞いたら、どんな勇敢な男でも震えあがるぜ。そんなことはどうでもいいや……オレはね、あの気の毒なエロイーズに、ひと言も謝らないで、そのままギロチンヘ行かせると思うとゾッとするんだよ」
「で、きみはどうしようっていうんだ?」
「モオリス、オレに言わせりゃあ、きみはここに残っていたほうがいいな、きみの場合は非難される落度はなにもないんだからな。ところがオレのほうはだ、判るだろう、こいつははなしがべつなんだ。オレだって、あの娘になにもそれ以上のことはできないから、せめてものことに、ギロチンヘ行く途中に会いに行って、あの娘に握手でもしてもらいたいんだよ、モオリス、きみならこの気持は判ってくれるだろう!」
「じゃあ、ぼくもきみと一緒に行くよ」
「そりゃあだめだ、きみ、ここのところをよおく考えてもみろよ。きみは警察隊員だし、隊の書記じゃあないか。それにきみは告訴された身だし、そこへゆくとオレのほうは、ただきみを弁護しただけのはなしさ。だから、そんなことをすれば、きみにも罪があるなんて思われるかもしれないからな、だから残っていろよ。ところがオレはべつだ、なんにも危険なこともないから、ちょっと行ってくるよ」
ローランの言うことは、すべてまったく筋道が通っていたので、反駁する余地はなにひとつなかった。モオリスにすれば、処刑台へひかれてゆくチゾンの娘とちょっと合図を交しただけでも、自分で、自分が共犯者だと告発するようなものだった。
「それなら行けよ、しかし気をつけてな」
ローランは微笑して、モオリスの手を握ってから出ていった。
モオリスは窓を開いて、淋しそうにローランに別れの挨拶をした。しかし、ローランが街角を曲るまでに、もう一度彼の姿を見ようと、一度ならず窓のところへ戻り、そしてローランのほうではそのたびに、なにか気持を惹きつけられるような共感に襲われて、微笑しながら振り返ってモオリスを眺めた。
ようやく、彼の姿が河岸の角に隠れると、モオリスはすぐに窓を閉め、肱掛椅子に体を投げ出して、一種の夢現《ゆめうつつ》の状態に入った。こうした状態は強い性格の人間にとって、また神経質な男にとっては、大きな不幸の前兆であった、というのは、これは嵐の前の静けさにも似たものであったから。
彼がこんな夢にひたっていた、というよりは、伸び伸びした気持から引きもどされたのは、外へ用事に出ていた世話係が、いま聞き集めてきたばかりのニュースを主人に話したくてうずうずしている、召使によくあるあの昂奮した様子で帰ってきたときだった。
しかし、モオリスが物思いにふけっていると見ると、あえて主人の気を散らそうとせず、意味もなく、しかし執拗に主人の前を、行ったり来たりするだけで満足していた。
「いったいなにごとだ?」とモオリスが投げやりな調子で訊ねた。「なにかぼくに言うことがあるんなら、話せよ」
「イヤハヤ! 市民、えらいことですよ、またまた大変な陰謀ですぜ、どうです!」
モオリスは肩をビクリと動かした。
「まったく、頭の毛が逆立つような陰謀ですよ」とアジェジラスが続けた。
「そりゃあほんとかい!」とモオリスは、こうした時代で、一日に陰謀が三十回もあってもすっかり慣れてしまったような返辞をした。
「そうなんで、市民」とアジェジラスが続けた。「まったく身震いするようでさあ、まあ聞いてくださいよ! とうてい考えられねえはなしでね、りっぱな愛国者をゾッとさせるようなはなしでさあ」
「その陰謀というやつを言ってみろ!」
「あのオーストリア女めがね、もう少しで逃げそこねたんでさあ」
「なんだって!」とモオリスは、今までよりいっそう真剣に聞き耳をたてはじめた。
「カペーの寡婦はね、どうやら、今日ギロチンにかけられることになっている、チゾンの娘と気脈を通じていたらしいですね。気の毒な娘だが、因果応報っていうところだよ!」
「でも、女王はどうやってあの娘と文通してたんだろう?」とモオリスは、額に玉の汗が流れるのを感じながら言った。
「カーネーションですよ。どうです、考えてもごらんなさい、カーネーションの中に、一件の計画を隠しておいたってわけですよ」
「カーネーションの中だって! で、だれがそんなことをしたんだ?」
「エート、騎士……待ってください……ホラ、いやっていうほど有名な名前ですがね……でも、あたしゃあどうも、ひとの名前を忘れる|たち《ヽヽ》でね……|お城《シャトー》の騎士かな……ちきしょう、なんて頭が悪いんだ! お城なんかじゃなかったぞ、メーゾンの騎士だったかな……」
「メーゾン・ルージュ(赤い家)か?……」
「それだっ」
「そんなはずはない」
「どうしてそんなはずがないんで? あたしが聞いたところじゃあ、揚げ蓋も、地下庫も、馬車まで見つかったっていうことですぜ」
「オイまだだ、それどころか、お前は全部どころか、なんにも喋ってはいないぞ」
「よござんす! これからそれを喋ろうとしたところで」
「なあ! もしそれが作りばなしなら、少なくとも、なかなか面白いはなしだよ」
「冗談じゃあありませんよ、作りばなしどころじゃあないんで、それどころか、門番から聞いてきた証拠までおまけについてまさあ。貴族どもはね、地下道を掘っていたんですよ。この地下道はね、ラ・コルドリー街に出口があってね、プリュモオのおかみさんの酒保の穴庫まで抜けていたんでさ、おかげでおかみさんまで危うく巻き添えをくって、共犯になるところでしたよ。あのプリュモオのおかみさんがですぜ。たしかご存知でしたね?」
「知ってるとも、それでどうした?」
「そうそう、カペーの寡婦さんときたら、この地下道から脱走する手はずになっていたんですよ。あの女ときたら、もうその第一段まで足をかけていたんです、まったく、何ってえことだい! ところがね、あの女のドレスを引っ捉えたのは市民シモンなんでさ。そこで、町中しらみつぶしに将軍を探して歩き、各隊員を招集する太鼓を鳴らしたってわけで。お聞きになったでしょう、あの太鼓の音を? なんでもね、噂によると、プロシャ人どもはダマルタン(パリの北東約三十キロの町)にいて、国境のあたりまで偵察隊を出してるってことですぜ」
このとめどないお喋りのあいだに、真実にしろ虚報にしろ、ありそうなことにしろ、荒唐無稽のことにしろ、モオリスはうしろで操っている糸をほとんど掴んでいた。彼の目の前で女王に渡し、彼があの不幸な花売り娘から買ったカーネーションからすべて出発しているのだ。あのカーネーションが陰謀計画を隠していたのだし、その陰謀は暴露されたところだが、詳細は、多かれ少なかれ、アジェジラスの報告のとおりだろう。
ちょうど折りも折、太鼓の響きが近づいてきて、モオリスには町でひとのわめく声が聞えてきた。
「大陰謀が、市民シモンのおかげで、ル・タンプルで発覚したぞ。ル・タンプルで発覚した、カペーの寡婦救出の大陰謀だ!」
「なるほどそうか」とモオリスが言った。「ぼくが思ったとおりだ。真相はすべてあそこにあるんだ。ところでローランは、こうやって大衆が昂奮しているさなかを、きっとあの娘に手を差し出すだろうが、そんなことをしたら八つ裂きにされちまうぞ……」
モオリスは帽子をかぶり、サーベルのバンドのボタンをかけ、二跳びで街路へ出た。
「さて、彼はどこかな? きっと、ラ・コンシエルジュリーへ行く途中だろう」
と言うと、彼は河岸に向かって駆け出した。
ラ・メジッスリー河岸のはずれまでくると、群衆の中で揺れ動いている槍や銃剣がモオリスの視線に入った。彼の目には、一団のひとびとの真中に、国民軍の制服が見え、群衆の中で、流れに逆らって動いているように見えた。彼は、胸がしめつけられるような思いで、河岸にあふれている群衆のほうへ駆けつけた。
一団のマルセイユ人たちに押しのけられていた、この国民軍兵士は、ローランだった。ローランは顔面が蒼白になり、唇をギュッと結んで、威嚇するような眼付で、サーベルの束に手をかけて、今にも一撃を加えんばかりの体勢をとっていた。
ローランから二歩ばかり離れたところに、シモンの姿があった。シモンは、残忍な笑いを浮かべながら、マルセイユ人たちや下層民たちにローランを指さして、こんなことをわめいていた。
「どうだい、どうだい! この男を見ろよ、こいつはな、昨日おいらが貴族だときめつけて、ル・タンプルから追放した男だぜ。例のカーネーションを使っての文通に手を貸した男のひとりでな。そろそろここを通りかかる、チゾンの娘の共犯者さ。どうだい、よおくごろうじろってんだ、こちらはしずしずと河岸の散歩としゃれ込んでいるけれどな、片やあわれや共犯者は、ギロチンに向かって行進だあね。いや、もしかしたら、あの娘はこいつの共犯者以上かもしれねえよ、きっと色女だぜ、ここへお出ましになったのは、いとしい彼女にお別れを言うためか、そうでなけりゃあ助け出すためだぜ」
ローランはこれ以上黙って聞いているような男ではなかった。彼はサーベルを、スラリと鞘から抜き放った。
と同時に、ヤジ馬は、群衆へ頭を低くして突っ込んできた男の前に道をあけた。その男の幅の広い肩が、今やローランに向かってゆこうとしていた三、四人の見物人を突き倒した。
「よかったな、シモン」とモオリスが言った。「お前にしたら、友だちといっしょにオレがここにいなかったのが残念だったろう、偉大な密告者の仕事をやりとげるためにもな。シモン、さあ告発してみろ、オレはここにいるぞ」
「その通り、まったくだあね」とシモンは、嫌らしい嘲笑を浮かべながら言った。「ドンピシャリだぜ、ちょうどいいところへおいでなすったね。この男は、美男モオリス・ランデイでござい、チゾンの娘といっしょに告訴されたが、金持だったんで、告訴をとり下げられたんだよ」
「街燈へ吊せ! 街燈へ吊せ!」とマルセイユ人たちがわめいた。
「なるほどよかろう。それならひとつ試してみろ」とモオリスが言った。
そして、ちょっと試すように、屠殺者の中でもいちばん熱心そうな男の額の真中をちょいと突いたので、相手はすぐに、血で目が見えなくなり、大声で叫んだ。
「人殺し!」
マルセイユ人たちは槍の穂先を下げ、斧を振り上げて、銃を装填した。群衆が恐れをなしてうしろへ退いたので、二人の友人は、あたかも一斉射撃の二つの標的のように、とり残されて身を曝《さら》す|はめ《ヽヽ》になった。
二人は、最後の、崇高とも見える微笑を交しながら顔を見合わせた。というのは、二人は二人を威嚇している、剣と焔の渦の中で命を捨てるつもりだった。と、その時とつぜんに二人が寄りかかっていた家の扉が開き、王党派と呼ばれるひとびとが着る服を着た、青年たちの一団が、みなサーベルを手にして、バンドにはそれぞれ一対のピストルをたばさんで、マルセイユ人たちに襲いかかり、恐ろしい死闘に加わった。
「ウオーッ!」
この援軍に勢いを得たローランとモオリスは、一緒に叫び声をあげ、自分では新手に伍して戦っているとは、深くも考えないで、つまり、こんなことをすればシモンの告発にりっぱな証拠を与えることになってしまう、とも考えずに雄たけびをあげながら暴れ回った。
二人は自分たちを救ってもらえるなどとは考えてもみなかったが、べつのある男が、二人に代ってそれを考えていたのだ。二十五、六の背の低い男が実に巧みな、また力の入った太刀さばきで、女のようなその手では、とうてい持ち上げるのもむりだと思われるような工兵用のサーベルを操り、モオリスとローランが、そのつもりでわざわざ開いておいたように見える扉から逃げ出すどころか、かえって、それぞれ戦っているのに気付くと、二人のほうを向きながら、低い声でこう言った。
「この扉からお逃げなさい。われわれがここへきたのは、あなた方を助けるためではない、だから、いたずらに巻き添えにならんほうがいいですよ」
それから、二人の友人が逡巡しているのを見ると、とつぜんモオリスに向かつてこう叫んだ。
「退れ! 愛国者はわれわれと一緒にいてはいけない。警備兵ランデイ、われわれは貴族の一味だから」
この時代には、死刑の宣告にも値するこんな名乗りをあげて、みずから罪を認めたこの男の勇気に、群衆はワッと喚声をあげた。
ブロンドの青年と、三、四人の仲間は、この喚声を聞いても恐れる様子もなく、モオリスとローランを家の私道のほうへ押しやり、二人の背後で扉をピシャリと閉めてしまった。そして、囚人馬車が近づくにつれて、だんだん、ふくれ上がった群衆の乱闘のほうへ戻り、とび込んでいった。
こうして奇跡的に命を拾ったモオリスとローランは、驚きかつ呆れて、二人で顔を見合わせた。
この逃げ口はわざわざこしらえたものらしかった。二人が中庭へ入ってゆくと、この中庭の奥のほうに、サン・ジェルマン・ローセロワ街に面している隠し戸があった。
そのとき、両替橋のほうから、憲兵の分遣隊がやってきた。いま二人の立っている道を横断すれば、執拗な死闘の音が聞えてくるというのに、憲兵たちはまもなく、河岸のヤジ馬を蹴散らしてゆくにちがいない。
憲兵たちは、哀れなエロイーズをギロチンのところまで乗せてゆく、馬車を先導していたのだ。
「速歩《はやあし》で!」とどこかで大声がした。「速歩で行けよ!」
囚人馬軍は速歩で駆け出した。ローランの目に、突っ立ったまま、唇には微笑をたたえ、誇らしげに視線を輝かしている不幸な娘の姿が映った。しかし、ローランは、彼女とチラッと身振りを交すことをさえできなかった。彼女は渦のような群衆の中を、彼の姿を見ようともせず通り過ぎていった。群衆は大声でわめいていた。
「死刑にしろ! 貴族の一味だ! 死刑にしろ!」
その騒ぎはだんだん静かになりながら遠のいてゆき、チュルリイ宮殿にさしかかった。
それと同時に、モオリスとローランが出てきた扉が再び開き、三、四人の王党派の連中が、血まみれになり、切れぎれになった服を着たまま出てきた。おそらくあの一団の生き残りだろう。
ブロンドの青年が最後に出てきて、こう言った。
「残念だ! この事件は呪われているんだ!」
そして、刃こぼれして、血まみれになったサーベルを投げ出すと、レ・ラヴァンディエール街のほうに駆け出していった。
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二十八 メーゾン・ルージュの騎士
モオリスは、シモンを相手どって告訴をしてやろうと思って、急いで隊へ帰った。
ほんとうのところは、モオリスと別れる前に、ローランがずっと手っ取り早い方法を考え出していたのだ。というのは、数人のテルモピイル党員を動員して、ル・タンプルから最初にシモンが出てくるところを待ち伏せして、正々堂々とシモンを殺してやろう、というのだった。
ところがモオリスは、この計画には絶対に反対だった。
「きみが暴力に訴えようとしたりしたら、きみの命のほうがおぼつかないよ。シモンをやっつけるのは大いに結構、しかしね、法にのっとってあいつをやっつけてやろうじゃあないか。なあに、法律家にとっちゃあ、そんなことは朝飯前さ」
こんなわけで、翌日の朝、モオリスは隊へ出かけて、告訴状を作っていた。
ところが、隊へ着いてみると、隊長が、だれにも聞えないように、こんなことを言って異議を唱えたときには、モオリスもびっくりしてしまった。すなわち、モオリスとシモンのうち、どちらが祖国愛に燃えているりっぱな市民か、甲乙をつけかねる、と言うのだ。
「いいですとも!」とモオリスが言った。「ようやくぼくにも、りっぱな市民だ、という評判に値するには、どういうことをすればいいか、よく判りましたよ。ハハン! なるほど! あなたの気に入らぬ男を殺そうとして、ヤジ馬どもを集めればいいんですな、あなたが、祖国愛に燃える、って言うのは、つまりそういうことなんでしょう? それならぼくも、ローランの意見に賛成しますよ、ぼくは、戦うのはいかん、と言ったんですがね。今日からは、ぼくもあなたのおっしゃるような愛国心を養成しましょう、そこでひとつ、シモンのやつを実験台にしてみますかな」
「市民モオリス」と隊長が言った。「ひょっとすると、今度の事件では、シモンはきみより正しかったのかも知れんよ。彼は、べつに自分の役目でもないのに、陰謀を発見した、ところがきみはどうだ、きみはなにひとつ気がつかなかったじゃないか。本来ならこの陰謀を発見する義務のあるきみがだ。そればかりか、偶然か、それとも底意があってのことか知らんが、きみは気脈を通じておった――相手の連中はだれだって言うのかね? わたしはそのことはまったく知らん――ただ、国家の敵と手を組んでいたんだよ、きみは」
「ぼくが! イヤハヤ! またまた新事実ですな。ところで隊長、その国家の敵というのはだれですか?」
「市民メーゾン・ルージュだよ」
「ぼくが?」とモオリスは呆然として言った。「このぼくが、メーゾン・ルージュの騎士と気脈を通じているって言うんですか? ぼくは彼なんか知りませんよ、彼なんか一度も……」
「きみが彼と喋ってるのを見た者がいるんだがね」
「ぼくがですか?」
「彼と握手していた、とも言ってる」
「ぼくが?」
「そうだ」
「どこでです? いつのことです、それは?……隊長」と、自分が無罪だという信念にすっかり昂奮したモオリスが言った。「あなたの言うことは嘘だ」
「きみはね、祖国に対する熱愛から行きすぎているんだよ、市民モオリス。わたしが言ってるのは、すべて真実だけだ、という証拠をきみにお目にかけたら、きみはいま言ったことに、われながら嫌気がさすだろうな。きみの罪をあばく報告が、ここに三つも届いているんだ」
「それなら、どうぞ言ってください! あなたのおっしゃる、メーゾン・ルージュの騎士がほんとうに存在するなんていうことを、真に受けるほどぼくが間抜けだと思っているんですか?」
「じゃあ、きみはどうして騎士が存在するのを信じないのかね?」
「それというのも、陰謀なんて実はありゃあしない、まぼろしみたいなもんですよ、それをあなたときたら、このまぼろしを、いつでもほんとうに陰謀が今にも起こるなんて思い込んでる、つまりは敵と見ればなんでも十把ひとからげにしたいからですよ」
「とにかくこの告発書を読んでみたまえ」
「いえ、何にも読みません。とにかくぼくはあくまで主張しますよ、メーゾン・ルージュの騎士になど今までに会ったことはない、一度も口を訊いたことはない、とね。とにかく、ぼくが名誉にかけて言ったことを信じないやつがいて、ぼくのところへきてそんなことを言ったら、ぼくはどうすべきかということは心得ておりますからね」
隊長は肩をそびやかした。だれにもおくれをとりたくない気性のモオリスは、もっと大袈裟に肩をそびやかしてみせた。
その後の話し合いのうちには、なにか陰のある、奥歯にもののはさまったような感じがした。
この隊長は、市民同士の投票で、地区第一等の律気な愛国者として認められたほどの男だったので、モオリスに近寄って、こう言った。
「きたまえモオリス、わたしはきみにはなしがあるんだ」
モオリスは隊長のあとについて、会議室の隣りの小さな部屋に案内された。
小部屋へ着くと、正面から彼を見つめて、隊長はモオリスの肩に手を置いた。
「モオリス、わたしはね、きみの父上を知っていたし、尊敬もしておった。だからきみにも敬意を払い、また可愛がっている。モオリス、いまきみは、信義まで失いそうな、大変危険な瀬戸際に立っているんだよ、これはつまり、真に革命精神の堕落の第一歩とも言える。わたしの友のモオリス、きみにして信義を失わんか、これはとりもなおさず忠誠を失うわけだ。きみは、国家の敵の存在を信じていない。きみがそれと判らず彼らのそばを通り、まったく疑いも抱かず彼らの陰謀の道具になっているのも、みなそれが原因なんだよ」
「冗談じゃあありません、市民! ぼくは自分のことは良く心得ております、ぼくは信義にあつい男で、熱烈な愛国者です。ただぼくの愛国心は狂信的でないだけなんです。共和国がすべて同じ名前でサインした陰謀とやらは、数えてみれば二十もあります。ぼくはそのうちのひとつでもいいから、サインの責任者に会ってみたいと思います」
「きみは陰謀など信じない、というんだね、モオリス、よろしいそれなら話してくれ、昨日、そのためにチゾンの娘がギロチンにかけられたが、あの赤いカーネーションのことは信じるだろうね?」
モオリスは身震いした。
「ル・タンプルの庭に掘った地下道のことは信じるかね、プリュモオのおかみさんの地下庫から、ラ・コルドリー街のある家まで通じていたんだが?」
「いいえ」とモオリスが言った。
「それなら使徒トマ(十二使徒のひとりで、キリストの復活のはなしを信ぜず、その姿を見てはじめて信じた)と同じように、行って見てきたまえ」
「ぼくはル・タンプルの衛兵ではありませんから、中へ入れてくれないでしょう」
「今ならば、だれでもみんな、ル・タンプルヘ入ることができるよ」
「それはどういう訳です?」
「この報告書を読んでみたまえ。きみはひとのはなしを信じないんだから、もう公文書でも見せるよりほかにしようがないからな」
「なんですって!」と報告書を読みながらモオリスが叫んだ。「とうとうここまできたんですか?」
「まああとを続けたまえ」
「女王をラ・コンシエルジュリーへ連れて行くんですね?」
「それでどうだい?」と隊長が返辞をした。
「ヤア! これは!」
「どうだい、公安委員会がこれほど重大な処置を講じたのも、夢かね、きみのいわゆる妄想かね、たわいないことだと思うのかね?」
「なるほどこうした処置を講じたとしても、ぼくが今まで、山ほど見てきたやり方と同じで、いずれ実行はされませんよ、ただそれだけのことで……」
「とにかく最後まで読みたまえ」
と言って、隊長はモオリスに、最後の書類を見せた。
「ラ・コンシエルジュリーの典獄、リシャールの受領書ですね」とモオリスが叫んだ。
「女王は十時に身柄を収容されたよ」
今度は、モオリスが沈思黙考する番だった。
「きみも知ってるように、革命政府はこの問題は根が深いものだと考えている。政府は広い、真直ぐな溝を掘ろうというんだ、つまりだな、辛抱づよく、大きく根回しをしておこうというんだよ。政府がとった処置は、子供だましのものじゃあない。いわば、クロムウエルのこんな主義を、実行したわけだな。『王をたたくには、頭だけたたくべし』というやつだよ。
警視総監からのこの秘密文書を読んでみたまえ」
モオリスが読み上げた。
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かのメーゾン・ルージュの騎士がパリに潜伏し、数個所にその姿を現わし、幸いに挫折せるも、数回におよぶ陰謀を企てし形跡ある確証をつかみしため、総監は各隊の隊長に旧に倍して警戒を厳重にせんことを請う。
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「どうだい?」と隊長が訊ねた。
「隊長、ぼくもあなたのお言葉を信じざるをえません」とモオリスが叫んだ。
そしてさらに先を続けた。
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メーゾン・ルージュの騎士の人相。身長約一メートル六〇、頭髪ブロンド、眼は蒼、鼻筋通り、栗色のひげ、声は優しく、女性的な手をしている。
年齢三十五、六歳
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この人相書を読んで、モオリスの心に、ふしぎな光明が横切った。彼は前の日、ローランと彼を助けてくれた王党派の一団を指揮し、工兵のサーベルを手にして、断乎としてマルセイユ人に打ちかかった、あの青年のことを考えていたのだ。
「なるほど!」とモオリスは呟いた。「じゃあ彼がそうだろうか。そうだとすれば、オレが騎士と口を訊いたという告発は嘘ではないわけだ。ただ、彼と握手したなんて、どうしても思い出せないな」
「どうだい、モオリス」と隊長が訊ねた。「こうなったら、それについてどう言うね、きみ?」
「ぼくは、隊長のおっしゃったことを信じる、と申しましょう」とモオリスは、悲しそうな様子で、物思いにふけりながら答えた。というのは、しばらく前から、何か判らないが、なにか悪い影響があって自分の生活を陰気なものにして、自分の周囲のものがみんな、暗い影に覆われるような気がしたからである。
「きみの評判がいいからって、それをあまりいい気になってはいけないよ、モオリス。評判というのは、今では命だよ。評判を落としたら、気をつけることだ、それは裏切り者の嫌疑を受けることだからね。それに市民ランデイが裏切り者の嫌疑など受けたら、それこそとんでもないはなしだよ」
モオリスは、その理論には自分も賛成である、ということをはっきり感じていたが、なにも返辞をしなかった。彼は古い友人に礼を言って、隊を出た。
「アア!」と彼は呟いた。「ちょっと息抜きをしよう。嫌疑だの闘争だのは、もうたくさんだ。これからまっすぐに、休息を味わいに、無邪気な喜びを味わいに行こう。ジュヌヴィエーヴのところへ行こう」
こうしてモオリスは、古びたサン・ジャック街への道をたどった。
彼がなめし革工場主の家に着いたとき、ディメールとモランが激しい神経の発作に襲われているジュヌヴィエーヴを抱きかかえていた。
だから、いつものように自由に通ることができずに、召使いが彼の行手をふさいだ。
「とにかく、ぼくがきたことを知らせてくれたまえ」とモオリスは不安になって言った。「もし、ディメールがいまぼくに会うことができなければ、退散するがね」
召使いは小さな離れに入ってゆき、そのあいだモオリスは庭にとどまっていた。
彼には、この家の中に、なにか奇妙なことが起こっているような感じがした。皮なめしの職工は仕事をしておらず、落ち付かない様子で、庭を横切っていった。
ディメールが自分から玄関まで出てきた。
「お入りください」と彼は言った。「モオリスさん、お入りください。あなたは、門前払いくわせるような相手とは違いますからね」
「それにしても、何が起こったんですか?」と青年が訊ねた。
「ジュヌヴィエーヴが苦しんでいるんですよ。いや、ただの苦しみなんていうもんじゃあありませんな、なんたって、うわ言を言うくらいですからね」
「アア! どうすればいいんだ!」と青年は、ここまできて、再び困惑と苦悩に出合って動揺して叫んだ。「で、奥さんはどんな具合ですか?」
「女の病気のことはご存知でしょう、あなた、だれにもその正体は判りませんよ、とくに亭主には判らんですな」
ジュヌヴィエーヴは、長椅子のようなものの上に横たえられていた。彼女のそばにモランがいて、彼女に気付け薬を嗅がしていた。
「どうですね?」とディメールが訊ねた。
「相変らずだね」とモランが応じた。
「エロイーズ! エロイーズ!」と彼女は、まっ白な唇と、きっちり結んだ歯を通してこう呟いていた。
「エロイーズだって!」とモオリスが驚いて繰りかえした。
「そうなんですよ! 困ったことで、そうなんです」とディメールが激しい調子で言った。「ジュヌヴィエーヴは、昨日、不運なことに外出しなければならない用事があって、エロイーズとかいう名前の気の毒な娘が乗せられていた、あの不幸な馬車が通るところを見てしまったんですな、ギロチンヘ連れてゆくところだったんですな。その時から、彼女《あれ》は五回か六回神経の発作を起こしましてね、もうその名前を繰りかえすだけなんですよ」
「とりわけ彼女の心を打ったのはですね、その娘が、あなたもご承知の、あのカーネーションを売った、例の花売り娘だということが判ったからなんです」
「もちろんぼくは知っていますとも。だって、あの花のおかげで、ぼくは危うく首を斬られるところだったんですからね」
「そうですね、あたしどもも、そのことはすっかり存じておりますよ、モオリスさん、あたしどもは、これ以上ないというくらい心配いたしましてね。しかしちょうどモランが法廷に行っておりましてね、あなたが青天白日の身になって出てくるところを見ておりましたのでね」
「ちょっと静かに!」とモランが言った。「奥さんはどうやら、また何か喋っているらしいよ」
「アア! 切れ切れで、なにも意味の判らない言葉だ」とディメールが言った。
「モオリス」とジュヌヴィエーヴが呟いた。「あのひとたちモオリスを殺してしまうわ。彼を助けて! 騎士、彼を助けてちょうだい!」
この言葉が終ると、深い沈黙が続いた。
「メーゾン・ルージュ」とまたジュヌヴィエーヴが呟いた。「メーゾン・ルージュ!」
モオリスは心中の疑いに光明がさしたような気がしたが、しかしそれはただの光明にすぎなかった。彼はジュヌヴィエーヴの苦しみにあまりに深く気をとられていたので、このいくつかの文句に説明をつけることはできなかった。
「医者はお呼びになりましたか?」
「イエ! べつに大したことではありますまい」とディメールがひきとった。「ちょっと逆上しただけのことでしてね、なあに、それだけのことですよ」
そして彼は妻の手を激しく握りしめたので、ジュヌヴィエーヴは意識をとり戻して、軽い叫び声をあげながら、今までずっとつぶっていた目を開いた。
「アラ! みなさんいらしったのね、モオリスもいっしょに。アア! あなたにお会いできてほんとうに嬉しいわ、あなた。あなたがお判りになったら、あたくしがどれほど……」
彼女が言葉をついだ。
「この二日というもの、あたくしたちはどれほど苦しんだでしょう!」
「そう」とモオリスが言った。「ぼくらはみんなおりますよ。ですからご安心なさい、それにもうそんな恐ろしいことは言わないことですね。とくに、口にしないように気をつけなければいけないのは名前ですよ、あれは、お判りでしょう、今ではあの名前は、もう全く評判が悪いですからね」
「どんな名前ですの?」と激しい口調でジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「つまり、メーゾン・ルージュの騎士、という名ですよ」
「あたくし、メーゾン・ルージュの騎士なんて呼んだりしまして?」とジュヌヴィエーヴが恐ろしそうに言った。
「きっとこういう訳ですよ」と作り笑いを浮かべながら、ディメールが答えた。「あなたにもお判りでしょう、モオリス、べつにびっくりすることはないんですよ、なにしろ、あいつはチゾンの娘の共犯者で、ま、さいわいに昨日は失敗したものの、女王を救出する計画を主謀したのはあいつだというのは、どこへ行っても大変な噂ですからね」
「ぼくは、べつにびっくりした、などとは申しておりませんがね、ただあとはうまく姿を隠すことだ、と申しただけですよ」
「だれがですか」とディメールが訊ねた。
「メーゾン・ルージュの騎士のことですとも。政府は彼を探しておりますし、スパイだってなかなか鼻が鋭いですからね」
するとモランが言った。
「また何か計画でもやる前に補まればいいんですがね、今度はこの前より手際よくやるでしょうしね」
「ま、いずれにしろ」とモオリスが言った。「女王を助ける役にはたたんでしょうがね」
「というと、なぜですか?」とモランが訊ねた。
「というのはですね、女王はもう彼の力の及ばないところへ行ったからですよ」
「じゃあ、今はどこにいるんです?」とディメールが訊ねた。
「ラ・コソシエルジュリーですよ」とモオリスが答えた。「昨夜のうち、女王はそちらへ移されましてね」
ディメール、モラン、それにジュヌヴィエーヴが叫び声をあげたが、モオリスはそれがただの驚きの声だと思った。
「そんな訳ですから、お判りでしょう」と彼は続けた。「女王の騎士の計画もオジャンです! ラ・コンシエルジュリーは、ル・タンプルよりもずっと堅固ですからね」
モランとディメールは、お互いに目くばせを交したが、モオリスにはそれが見えなかった。
「アア! 大変だ!」と彼が叫んだ。「ホラ、またマダム・ディメールがまっ蒼になりましたよ」
「ジュヌヴィエーヴ」とディメールが妻に言った。「お前はベッドヘ行って休まなければいけないよ。苦しいんだね、お前は」
モオリスは、自分に帰ってもらいたがっている、ということが判った。彼はジュヌヴィエーヴの手に接吻し、そして家を出た。
モランも彼といっしょに家を出て、サン・ジャック街まで彼についてきた。
そこまで来ると、彼はモオリスと別れて、すでに鞍を置いた馬を押えていた召使いのところへ行ってなにか二言三言喋った。
モオリスは物思いにふけっていたので、モランになにひとつ訊ねることもせず、二人いっしょに家を出てから、もちろん、モランに話しかけようともしなかった。モランとはそういう男だったし、そこに馬の用意がしてあったからである。
彼はレ・フォッセ・サン・ヴィクトール街に入り、河岸にさしかかった。
「おかしなはなしだな」と歩きながら彼は考えた。「ぼくの気が弱くなっているのかな? それとも事件が重大になってきているのかな? いずれにしろ、まるで顕微鏡を通して見るみたいに、すべてが大きく見えてくるんだな」
そして、ちょっと気分を落ち付かせようと思って、モオリスは夜の微風に額を当てて、橋の欄干に寄りかかった。
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二十九 パトロール隊
きっすいのパリジャンによくある徴候だが、モオリスも憂鬱な気分で、水の流れを眺めながら、心の中でこんな考えを追っていた。そのとき、橋の欄干に寄りかかっていた彼の耳に、規則正しい足音を立ててやってくる小グループの声が聞えた。どうやらそれは、パトロール隊の足音らしかった。
彼はうしろを振り向いた。橋の向うの端からやってきたのは、国民軍の中隊だった。うす暗い中に、モオリスはローランの姿が見えたような気がした。
ほんとうに彼だった。ローランはモオリスに気が付くと両手を開いて彼のほうへ駆け寄ってきた。
「やっぱりきみだったな」とローランが叫んだ。「ヤレヤレ! きみに追いつくのにさんざん苦労しだせ。
されどかくも忠実な友に再会せるうえは
わが運命にも新局面ぞ展開せん
今度は不平を言ってくれるなよ。ローランの詩句を捧げる代りに、ラシーヌの一説をきみに捧げてるんだからな」
「パトロール隊なんか組んで、ここへいったい何をしにきたんだい」と、あらゆることが心配の種だったのでモオリスが訊ねた。
「きみねえ、オレは遠征隊の隊長になったんだよ。もとはといえば、オレたちの評判が危うくなったんで、そのいちばんの大本《おおもと》を建て直そうというつもりなんだがね」
と言うと、中隊のほうを向いて言った。
「武器を執れ! 武器を見せろ! 武器を上げろ! 諸君、夜はまだそれほど暗くない。用事があったら喋ってもいいぞ、オレたちのほうでも喋ることがあるんでな」
それからローランは続けた。
「今日ね、隊へ行って、すごいニュースを二つばかり聞いたんだ」
「どんなニュースだい?」
「まず第一はだ、オレたち、つまりきみとオレが嫌疑の的になりはじめている、ってことだよ」
「それなら知ってる。で、もうひとつは?」
「ヘッ! 知ってたのか、きみは?」
「うん」
「二番目はだな、例のカーネーションの陰謀事件は、すべてメーゾン・ルージュの騎士が主謀していた、というんだ」
「それも知ってるよ」
「ところがきみも知らんことがある、つまりだ、カーネーション陰謀事件と、例の地下道事件は、同じひとつの陰謀から出ているんだ」
「それも知ってるよ」
「よし、それじゃあ三番目のニュースヘ行くぞ。こいつはきみだってご存知ないだろう、まちがいないよ。今夜な、オレたちはメーゾン・ルージュの騎士を逮捕に出かけるんだよ」
「メーゾン・ルージュの騎士を逮捕するって?」
「そうとも」
「それできみまで憲兵になったってわけか?」
「それは違うぜ。オレは愛国者なんだ。愛国者はな、祖国に尽くさなければならん。ところがだ、オレの祖国は陰謀につぐ陰謀を企む、メーゾン・ルージュの騎士に、目も当てられないくらいひっかき回されている。そこで祖国がオレに命令を下す、愛国者のオレにだぜ、祖国を荒らし悩ますかのメーゾン・ルージュの騎士を除くべしとね、そこでオレは祖国の命令に従う、まあこんなところだ」
「それはいいとしてだね、きみがそんな役目を買って出るなんて、奇妙じゃあないか」
「なあに、オレはその役目をこっちから買って出たわけじゃあない、向うから受け持たされたんだよ。しかしね、実を言えば、この役目は、オレのほうから熱心に頼んで、買って出たんだ。オレたちの名誉を回復するには、ひとつうんと派手なことをやらかさなきゃあな、なんたって、オレたちの名誉挽回は、ただに命の安全のためばかりじゃあない、あの気に食わねえシモンのやつのドテッ腹に、抜けば玉散る氷の刃を一メートルばかりたたき込む、最初のチャンスもつかめるっていうもんだからな」
「それにしても、メーゾン・ルージュの騎士が地下道の陰謀の主謀者だっていうのは、どうして判ったんだろう?」
「まだはっきりはしていないがね、当りはついてるんだよ」
「なるほど、きみたちは仮定だけで手をつけようっていうのかい?」
「確信があるから手をつけるのさ」
「じゃあ、そういう確信を、どういうふうに組み立てたんだい? いいかい、だってね……」
「まあ聞けよ」
「聞くとも」
「オレはだな『市民シモンが発見した大陰謀……』という新聞売子の声を聞くやいなや――シモンの野郎め! どこへでも首をつっ込んできやがる、ちきしょうめ!――すぐに自分の目で見て真相を確かめてやろうと思ったんだ。ところが、そこへ地下道の噂だろ」
「ほんとにあったのかい、地下道は?」
「アア! あったよ、オレは見たぜ。
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見たりや見たり、この二つの目で見たり、見るというのはこのことなり。
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どうしたい、口笛を吹いてからかわないのかい?」
「だってモリエールの詩句だもの、それにはっきり言って、もちろん、そんな冗談どころじゃあないぜ、情勢はもっと深刻そうに思えるからな」
「だけどね、重大なことに冗談をとばさないで、なにを冗談の種にすればいいんだい?」
「ところで、きみは見た、と言ったな……」
「地下道だろ……何度でも、繰りかえすが、その地下道を見たのさ、地下道を歩いてみたよ、プリュモオのおかみさんの地下庫から、ラ・コルドリー街の十二番地だったか、十四番地だったか、もうよく思い出せないが、とにかく、そこの家まで通じていたんだ」
「ほんとか! ローラン、きみは歩いてみたんだな?」
「端から端までな、ほんとうとも! これは保証してもいいが、実にきれいに掘ったトンネルだったよ。そればかりじゃあない、三カ所が鉄格子で区切られていてね、格子のところへぶつかるたびに、靴を脱がなければならんのさ。ところが、陰謀を企んだやつがもし成功した場合には、仲間の三人か四人の命を犠牲にすれば、カペー未亡人を安全な場所へ連れ出すだけの、じゅうぶん時間を稼げるようになっていたんだよ。ま、さいわいそうは問屋がおろさずに、あのクソ面白くもないシモンが見つけたってわけさ」
「とにかく、ぼくが思うには、先ず最初に逮捕しなきゃあならん相手は、そのラ・コルドリー街の家の住人だね」
「たしかにそうすればいいわけだが、あいにくと、見つかったのは、借家人の影も形も見えません、っていう空屋だったんだ」
「だって、その家はだれかの持ち物だったんだろう?」
「そうとも、新しい家主のな。ところがだれひとり、その家主を知らない、ときてるんだよ。二週間か三週間前に、家の持ち主が変ったことは判っている、それだけのことさ。隣りの住人はね、物音がさかんに聞こえた、と言うんだ。でも、なにしろその家は古かったから、修理の工事をしてるに違いない、と考えていたんだな。元の持ち主はといえば、とっくにパリを出てるんだ。まあ、そんなところヘオレが行った、というわけだよ。オレはね、サンテールを脇へ呼んでこう言ってやったんだ。
『みなさん進退きわまれりっていうところですな』
彼の返辞はこうだ。
『まったくだよ。われわれ一同大いに困っとる』
『この家は売り払われていたんでしょう?』
『その通りだ』
『二週間前に?』
『二週間か三週間前だ』
『売買契約は公証人の前でやったわけですな?』
『そうだろうな』
『だったら、パリ中の公証人を全部探さなければだめですよ、つまりこの家を売ったものを知り、この取り引きの関係をはっきりさせなければだめです。そうすれば、買い手の名前も、住所も判るでしょう』
というと、サンテールののたまわくだ。
『なるほど! そりゃあいい分別だぞ。これが愛国者じゃない、と非難されている男だからな。ローラン! ローラン! わしはきみを見直したぞ、そうでなければ、わしは悪魔の餌食になるわい』
まま、てっとり早く言えば」とローランが続けた。「はなした通りにやったんだ。公証人を探し、売買の証書を見つけ、それでその証書に犯人の名前と住所があったというわけだよ。そこでサンテールが約束どおり彼を逮捕する役にオレを任命したんだ」
「で、その男がメーゾン・ルージュの騎士なのか?」
「ちがうよ、ただの共犯者だ、まあ、いわば、おそらく、というところだが」
「それじゃあ、どうしてきみは、メーゾン・ルージュの騎士を逮捕に出かける、なんて言うんだい?」
「なに、二人とも一網打尽に逮捕しに行くんだ」
「だいいち、きみはメーゾン・ルージュの騎士を知ってるのか?」
「よおく知ってらあね」
「じゃあ彼の人相書を持ってるんだな?」
「言うにゃあ及ぶだ! サンテールがオレにくれたんでね。一メートル六〇前後、髪はブロンド、目は蒼く、鼻筋は通り、栗色の|ひげ《ヽヽ》、だいいち、オレはあいつに会ってるからな」
「いつだい?」
「今日だよ」
「あいつに会ったって?」
「きみだって会ってるぜ」
モオリスは身震いした。
「今朝な、オレたちを逃がしてくれたブロンドのあの若い男、王党派の一団を指揮していた、えらく威勢よく戦っていた男だよ」
「じゃああれが?」とモオリスが訊ねた。
「あの男さ。あいつのあとを尾行してみたんだよ、ラ・コルドリー街の家の持ち主の住所のあたりで姿を見失ったがね。ま、そんなわけで、連中はいっしょに住んでいる、と思われるんだ」
「なるほど、ありそうなことだな」
「まちがいないよ」
「でも、ぼくが思うには」とモオリスがつけ加えた。「今朝われわれを助けてくれた男を、今晩逮捕するなんて、きみはちょっと恩を仇で返すみたいだな」
「どういたしまして、だ! きみはだいいち、あいつがオレたちを助けるつもりで助勢したんだと思うのかい?」
「じゃあ、なんのためだい?」
「とんでもない話だ。連中はな、あの気の毒なエロイーズがあそこを通りかかるときにあの娘を救い出そうとしてあそこで待ち伏せしていたのさ。ところが、オレたちに向かってきた人殺しどもが連中の邪魔になった。そこであの人殺しどもに向かっていったんだよ。オレたちは、連中にすれば、心ならずも命を助けられた、っていうところだな。ところで、あれがすべて、連中の計画だったにしろ、思惑以外のことだったにしろ、オレは恩知らずだなんて非難されるいわれはこれっぽっちもないね。モオリス、もちろんきみだって判るだろ、こっちの命にかかわる問題なんだよ、やむにやまれず必要に迫られているんだ。つまり、なにか派手なことをやらかして、オレたちの名誉回復をする必要に迫られてるんだ。オレはね、きみの分まで責任を負ってきたぜ」
「だれに責任を負ってきたんだい?」
「サンテールにさ。きみが遠征軍の指揮をとっていることは、将軍もご存知だよ」
「そりゃ、どういうことだ?」
「将軍のいわくだ。
『犯人どもを逮捕する自信はあるんだね?』
そこでオレはこう返辞をした。
『はい、モオリスがいっしょならできます』
『しかし、モオリスは確かかな? しばらく前から、彼はどうやら穏健派になったようだが』
『そんなことを言うやつらは間違っております。モオリスは穏健派ではありません。わたしより以上の愛国者です』
『じゃあ、きみが責任を負うかね?』
『わたし自身と同じように、責任を負います』
そこで、オレはきみの家へ出かけたんだが、きみには会えなかった。というわけでオレはこっちへ向かったんだが、その理由は、まず、オレの行く方向がこちらだし、第二には、きみがいつも通ってるのもこの道だったからなんだ。ようやくきみに出会えて、きみがここにいた、とまあこんな具合でね。前へー進め!
勝利の歌を歌いつつ
門を開きていざゆかん……」
「ねえ、ローラン、ぼくはげっそりしてきたな、この遠征はまったく気が進まないんだ。ぼくと出会わなかったと言っておいてくれよ」
「とんでもないはなしだ! オレの部下は全部きみと会ってるんだぜ」
「よろしい、それなら、ぼくと出会ったけれど、ぼくがきみと行動を共にする気がなかった、と言っておけばいい」
「それこそ、なおさらできない相談だ」
「そりゃあどうしてだい?」
「だってね、そうなったら、きみはもう穏健派どころじゃあない、容疑者になっちまうぜ……そのくらいのことは承知の上だろうが、容疑者はどうなると思う。革命広場へ連行されて、自由の像に挨拶をさせられるんだ。ただ、帽子を脱いでお辞儀をするだけじゃあなく、首を献上して挨拶するんだぜ」
「しかたないよ、ローラン、なるようになるさ。だけど、ほんとうのところ、ぼくがこんなことを言ったら、きみは奇妙だと思うかい?」
ローランは大きく目を見開いて、モオリスを見つめた。モオリスが言葉をついだ。
「いいんだ、ぼくは人生が嫌になったんだよ……」
ローランが大声で笑い出した。
「なあるほど! オレたちは二人とも、好きな女とちょいと仲たがいをした、ってわけだな。そこでオレたちは、憂鬱な気分になってるんだよ。さあて、美しきアマディス殿!(十六世紀スペインの騎士小説の主人公)もう一度男になろうぜ、そうすれば、りっぱな市民になれるよ。ところがオレのほうはアベコベでね、アルテミーズと喧嘩をするときのほうがりっぱな愛国者になれるのさ。そう言えば、女神の君が、きみによろしくと、何度も言っていたぜ」
「ぼくのほうでも感謝してるって、きみから伝えてくれよ。じゃあ、ローラン、さようなら」
「さようなら、とはどうしたわけだい?」
「そうだよ、ぼくは行くよ」
「どこへ行くんだ?」
「もちろん、ぼくの家さ!」
「モオリス、きみは命が危いぜ」
「かまうもんか」
「モオリス、よく考えろよ、きみ、よおく考えてくれよ」
「もう決めたんだ」
「そう言えば、まだすっかりきみに伝えてなかったっけ……」
「すっかりって、なにを?」
「サンテールがオレに言ったことをすっかり伝えるのをさ」
「将軍はなんと言ったんだい?」
「きみを遠征隊の隊長にしてくれと頼んだとき、将軍はオレにこう言ったんだ。
『用心したまえよ!』
『だれにです?』
『モオリスにだ』」
「ぼくに用心しろだって?」
「そうなんだ、将軍はこう言い足したよ。
『モオリスはな、あの界隈へは、しばしば足を運んどるんだよ』ってね」
「あの界隈っていうのはどこだ?」
「メーゾン・ルージュの住んでるところさ」
「なんだって! 彼はこの辺に隠れているのかい?」
「そう思われるんだな、少なくとも。だってね、共犯と思われる容疑者、ラ・コルドリー街の家の買い主がここに住んでるんだからな」
「フォーブール・ヴィクトールかい?」
「そう、フォーブール・ヴィクトールだ」
「フォーブールの何街だい?」
「サン・ジャック街さ」
「アア! 何ってえことだ!」
モオリスは、稲妻に打たれたように、目がくらんで呟き、手を目に当てた。
それから、一瞬後には、このわずか一瞬のうちに、自分の体中の勇気をふるい起こしたように、言った。
「で、彼の身分は?」
「なめし革の工場主だ」
「で、名前は?」
「ディメール」
「なるほど、きみの言う通りだ、ローラン」とモオリスは、意志の力をふりしぼって感情を外に表わさないように抑えて言った。「きみといっしょに行こう」
「それでいいんだ。で、武器は?」
「いつもと同しように、サーベルがある」
「それに、このピストルを二挺とれ」
「でもきみはどうする?」
「オレには騎兵銃があるよ。武器をとれ! 捉えっ銃《つつ》! 前へっ進め!」
パトロール隊は、モオリスを仲間に入れて歩き出した。モオリスはローランのそばを歩き、隊の道案内をしている、灰色の服を着た男の先に立った。これは警察の男だった。
ときどき、街角や、家の門のところから影のようなものが現われて、灰色の服を着た男となにか言葉を交していたが、この連中は斥候である。
一同は例の路地に着いた。男は一瞬も躊躇しなかった。すでに報告を受けていたからだが、すぐに彼は路地へ入った。
モオリスが、いつか手足を縛られたまま連れ込まれた、庭の扉の前で、男が足を止めた。
「ここです」と彼が言った。
「ここ、なにがだ?」とローランが訊ねた。
「われわれが二人の首謀者を見つけたのはここです」
モオリスは塀に寄りかかっていた。彼は自分が今にも倒れそうな気がした。灰色の男が言った。
「さて、出入口は三か所あります。表門と、ここと、離れに面している出入り口です。わたしは六人か八人の部下を連れて、表門から入ります。ここの入口を、四、五人の部下で固めてください。離れのほうの出入り口には、しっかりした部下を三人ほどつけてください」
「ぼくは」とモオリスが言った。「塀を乗り越えて中へ入り、庭を見張ろう」
「それで上々だ」とローランが言った。「そうすれば、扉を内部《なか》から開いてもらえるからな」
「よしきた。ただ、ぼくが呼ぶまでは、道をあけたり、飛び込んできたりするなよ。内部《なか》で起こることは、すべて、庭からぼくが見張っているから」
「ところで、この家の様子を知ってるのか?」というローランの問いにモオリスが答えた。
「むかし、この家を買おうと思ったことがあるんだ」
ローランは、垣根の隅や、門のくぼみに部下たちを待機させ、その間に警官は、八人か十人ばかりの国民兵を連れて先程言ったとおり、表門から押し入ろうとして出かけた。
しばらくすると、彼らの足音が消えたが、その音は、この人気のないところでも、まったくひとに気付かれないくらいだった。
モオリスの部下はそれぞれ配置につき、できるだけうまく身を隠した。まったく穏やかで、サン・ジャック街には何事も起こっていない、と誓ってもいいくらいだった。
モオリスは塀に足をかけ始めた。と、ローランが言った。
「待てよ」
「なんだい?」
「合言葉はどうした」
「なるほどその通りだ」
「カーネーションと地下道。この二つの言葉を言わんやつは全部捕えろ。言えたやつは通してもいいぜ。これが合言葉だよ」
「ありがとう」
そして、彼は塀の上から庭の中へ跳び降りた。
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三十 カーネーションと地下道
最初のショックはひどかった。モオリスは、体中を揺さぶった狼狽をローランに隠そうとして、精いっぱい自分を抑えなければならなかった。ところが、ひとたび庭に降りて、ひとりになり、夜の沈黙《しじま》の中に身を置いてしまうと、気持ちがずっと落ち付いてきた。そしていろいろな考えが、脈絡もなく脳髄の中を駆けめぐる代りに、いつもの沈着な自分にもどり、理性でものを判断できるようになった。
ああ! もっとも純粋な喜びを胸に抱いて、あれほど足繁く訪れたこの家、彼が地上の楽園と思っていたこの家は、あの血なまぐさい陰謀の、ただの隠れ家でしかなかったのだ! 彼の熱烈な友情に応えてくれた、あの心暖まるもてなしも、ただの偽善だったのだ! ジュヌヴィエーヴのあの愛情も、不安から生まれたものだったのだ!
すでに何度となく読者が、若い二人のやりとりを眺めていた、この庭の配置はよく心得ている。モオリスは、茂みから茂みへと伝って身をすべらせ、月あかりを逃れて、あの温室の陰まで辿りついて、身を隠すことができた。この温室は、彼がはじめてこの家に忍びこんだ日に、閉じこめられたところである。
この温室は、ジュヌヴィエーヴが寝起きしている、離れの真正面にあった。
ところが、ふだんなら、ジュヌヴィエーヴの部屋にだけ、ポツンと明りがついて、ひっそりしているのに、今夜は、窓から窓へ明りが動き回っていた。モオリスには、偶然半分ほど|すそ《ヽヽ》が上がったカーテンを透して、ジュヌヴィエーヴの姿がほの見えた。彼女は大急ぎで洋服箪笥の中へ服を重ねていたが、モオリスは、彼女の手の中で武器がキラキラ光っているのを見てびっくりしてしまった。
彼は、部屋の中まで、もっと目が届くようにと、車除けの石の上に上がった。暖炉の中で激しく火が燃えていて、彼の注意をひいた。ジュヌヴィエーヴが燃している書類だった。
そのとき、ドアが開いて、若い男がジュヌヴィエーヴの部屋へ入ってきた。
はじめ、モオリスにひらめいた考えでは、この男はディメールにちがいない、と思った。
女は、彼のほうへ駆け寄り、彼の手をとって、しばらく二人とも向き合ったままでいたが、なにか激しい感動に捉えられているように見えた。この感動の正体は何だろうか? モオリスには判じかねたし、二人の話し声は彼のところまでは聞えてこなかった。
と、とつぜん、モオリスは、相手の男の上背を目測して、小声で呟いた。
「ディメールじゃあないぞ、あれは」
事実、いま入ってきた男は、痩型で、小造りだった。ディメールは上背もあり、逞しかった。
嫉妬というのは、効果のある刺戟剤になる。一分もしないうちに、モオリスは大体の輪郭から、その正体の判らぬ男の背丈を算定して、ジュヌヴイエーヴの夫のシルエットを分析してみた。
「あれはディメールじゃあないぞ」と彼は呟いた。あたかも、ジュヌヴィエーヴの不実を信じ込ませるには、この言葉を自分に繰りかえして言わなくてはならない、と思っているような調子だった。
彼は窓のほうに近づいた。ところが、近づけば近づくほど、見にくくなった。彼の額は火のように熱くなってきた。
足が梯子《はしご》にぶつかった。窓の高さは二メートル三、四〇だった。彼は梯子を持って、壁に立てかけた。
彼は梯子に昇り、カーテンを下げた窓に目をくっつけて見た。
ジュヌヴィエーヴの部屋にいる正体不明の人物は、二十七、八歳の、目の蒼い、優雅な体つきをした男だった。彼は女の両手をとり、ジュヌヴィエーヴのチャーミングな眼差しを覆っている涙を拭いながら、彼女に話しかけていた。
モオリスが軽い音をたてたので、若い男は窓のほうに頭を向けた。
モオリスは危うく驚きの叫びをあげるところを押し殺した。その男が、シャトレ広場で、自分の命を救ってくれたあのふしぎな男だと判ったからである。
そのとき、ジュヌヴィエーヴは、その正体不明の人物の手から自分の手をふり離して、暖炉のほうへ歩み寄り、書類が全部燃え尽きたかどうかを確かめた。
モオリスは、もうそれ以上自分を抑えていることができなかった。この男を苦しめてきたあらゆる恐ろしい感情、愛情や、復讐の気持、嫉妬などが、焔の歯となって彼の心を噛みさいなむのであった。
彼は時機をうかがい、よく閉っていなかったガラス窓を激しく押して、部屋の中へとび込んだ。
と同時に、彼の胸に二挺のピストルが突きつけられた。
ジュヌヴィエーヴは物音を聞いて振り向いた。モオリスに気付いても、口を訊かなかった。
「ムッシュウ」と若い共和党員は、この二つの武器で二度までも彼の命の綱を自由にできる相手に向かって、冷静に話しかけた。「ムッシュウ、あなたはメーゾン・ルージュの騎士ですな?」
「もしそうだったら、どうなるんですかな?」と騎士が言った。
「もしそうだったら、あなたは勇敢な男で、従って沈着な方なはずです、そこで、あなたに二言三言お話ししたいのだが」
「どうぞ話していただきましょう」と騎士はピストルの銃口を向けたまま言った。
「あなたはぼくを殺すことができる。しかし、ぼくが叫び声をあげないように、ぼくを殺すことはできますまい、と言うよりは、ぼくは大声で叫ばないで黙って死ぬわけはありませんからな。もしぼくが叫び声をあげたら、この家をとり巻いている男たちが、十分もたたないうちにこの家を灰儘《かいじん》に帰してしまうでしょうな。ですから、あなたのピストルを下げたほうがいい、そしてぼくがこれからマダムに言うことを聞いたほうがいいですよ」
「ジュヌヴィエーヴに?」
「あたくしに、ですの?」とジュヌヴィエーヴが口ごもった。
「そう、あなたにです」
ジュヌヴィエーヴは彫像よりも蒼白になり、モオリスの腕をとったが、青年はその手を押しやった。
「マダム、あなたはご自分で、ぼくにはっきりおっしゃったことをよくご存知でしょう」とモオリスが深い軽蔑をこめて言った。「ようやく、ぼくにも、あなたがおっしゃった通りだということが判りましたよ。ほんとうに、あなたはムッシュウ・モランを愛してはいらっしゃらない」
「モオリス、あたくしのはなしをお聞きになって!」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。
「あなたのはなしを聞く耳は持ちません、マダム。あなたはぼくを欺しましたね。あなたはいっぺんで、あなたの心にぼくの心をしっかりと結えていた絆をすべてぶち壊してしまいました。あなたはぼくにこうおっしゃった、ムッシュウ・モランを愛してはいない、そればかりか、ほかの男も愛していない、とね!」
「ムッシュウ」と騎士が言った。「そのモランとやらのはなしは何のことですか、というより、どのモランのことを話していらっしゃるんですか?」
「化学者のモランのことですよ」
「化学者のモランは、あなたの前におりますよ。化学者モランと、メーゾン・ルージュの騎士というのは、同じ人物にすぎないんですよ」
こう言って、となりのテーブルのほうへ手を伸ばすと、一瞬のうちに、若い共和党員の目をくらます例のかつらをかぶった。
「ハハン! なるほど」とモオリスは、前にもまして軽蔑をこめた口調で言った。「なるほど、それで判りましたよ。モランなんて男はこの世に存在しなかったくらいだから、あなたはモランを愛していなかった。しかしそれをもっと巧妙に理屈をつけようとして、言い逃れをするなんて、いっそう軽蔑すべきことですな」
騎士はちょっと相手を脅すような動作を見せたが、モオリスはさらに続けた。
「ムッシュウ、しばらく、マダムと二人だけで喋らせていただけませんか。お望みなら、そこにいらしってもかまいませんよ。べつにはなしといっても、そうながくはありません、そのほうはこちらで責任を負います」
ジュヌヴィエーヴは、メーゾン・ルージュに、我慢するようにという合図をした。モオリスが続けた。
「こうして、あなたは、ジュヌヴィエーヴ、あなたはぼくを、友だちのあいだで笑い者にしたんですよ! ぼくの友だちのあいだで、憎悪の的にしたんですよ! ぼくが恋に目がくらんでいるのをいいことにして、あなたがたの陰謀にぼくを利用したんです! ぼくを道具にして、ぼくから役に立つ情報を引き出していたんだ! お聞きなさい。まったく卑劣な行為ですよ! しかし、マダム、あなたはその罰を受けるんです! というのは、ごらんなさい、このムッシュウはこれからあなたの目の前でぼくを殺そう、というんですよ! ところが、五分もたたないうちに、この男も同じ運命です、そこに、あなたの足許に横たわるか、たとえ生きていたとしても、その首を斬られるために処刑台へ連れて行かれるだけですよ」
「彼が死ぬんですの!」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。「彼の首を斬るために、処刑台へ連れてゆかれるんですって! でも、あなたはご存知ないのよ、モオリス、彼はあたくしのうしろ楯なんです、あたくしの家族のうしろ楯なんです、彼の代りにあたくしの命を捨ててもかまわないくらいです。もし彼が死んだら、あたくしも死にます、そして、あなたがあたくしの愛情だとすれば、彼はあたくしにとっては信仰なんです」
「アア! あなたはきっと、まだ、あなたはぼくを愛してるなんて言い続けるんでしょう。まったく女というのは、弱すぎる、それにあまりにも卑劣なもんですな」
そして、体の向きを変えて若い王党派に言った。
「サア、ムッシュウ、ぼくを殺さなければいけません、そうでなければ死んでもらいましょう」
「どうして、そうしなけりゃあならんのかね?」
「というのは、あなたがぼくを殺さなければ、ぼくがあなたを逮捕するからですよ」
モオリスは、相手の|えりがみ《ヽヽヽヽ》を掴もうとして手を伸ばした。
「ぼくはきみと命のやりとりなどしないよ」とメーゾン・ルージュの騎士が言った。「ホラ、この通りだ!」
と言って、彼はピストルを肱掛椅子の上に投げ出した。
「で、なぜぼくと命のやりとりをしないんです?」
「というのは、信義を重んじる男を殺して、あとで感じる後悔よりも、ぼくの命のほうが軽いからね、それにこれは大事なことだが、ジュヌヴィエーヴがきみを愛しているからだよ」
「アア!」とジュヌヴィエーヴが両手を合わせながら言った。「アア! あなたは、いつもほんとうに親切で、りっぱで、忠実で、寛大なかたね、アルマン!」
モオリスは、ほとんど呆然といった様子で、びっくりして二人を見つめていた。騎士が言った。
「サア、わたしは自分の部屋へ戻ろう。きみには、わたしの名誉にかけても誓っておくが、逃げるためじゃあない、ただ、肖像画を隠しておきたいんでね」
モオリスは急いで、ジュヌヴィエーヴの肖像のほうに目をやった。肖像はちゃんといつものところにあった。
メーゾン・ルージュがモオリスの考えを推測したのか、あるいはできるだけ寛大な態度を見せようとしたのか知らないが、彼はこう言った。
「サア、わたしは、きみが共和派だということは心得ている。けれども、同時にまた、純粋で、信義に篤い心の持ち主だということも心得ている。わたしは、きみという人間をトコトンまで信頼するだろう。サア、見たまえ!」
彼は胸からミニアチュールをとり出して、それをモオリスに見せた。女王の肖像だった。
モオリスはうなだれて、額に手をやった。メーゾン・ルージュが言った。
「わたしはきみの命令を待とう、ムッシュウ。もしきみがわたしを逮捕したくなったら、このドアをノックしてくれたまえ、そのときこそ、自分の身柄をきみに引き渡そう。いまはもう、わたしは命に未練なんかないよ、わたしの命は、女王を助け出せるという希望があったからこそ支えられていたんだからね」
騎士は部屋を出ていったが、モオリスは彼を引きとめる身振りは少しも見せなかった。
騎士が部屋から出てゆくやいなや、ジュヌヴィエーヴは青年の足許に身を投げかけた。
「許してください、許して、モオリス。あたくしがあなたにかけた迷惑をすべて許してください。あたくしの嘘を許して、あたくしの苦しみとあたくしの涙の名にかけて、許してください。誓って申しますわ、あたくしさんざん泣き、さんざん苦しみ抜きましたわ。アア! 主人は今朝出ていってしまいました。どこへ出かけたか、あたくしは知らないのです。もしかしたら、あたくしもう主人には会えないんじゃあないかと思います。ですから今では、あたくしにはたったひとりのお友だちしか残っておりません、いえお友だちではありません、兄ですわ。その兄をあなたはいま殺そうとなさっている。許してモオリス! 許してください!」
モオリスはジュヌヴィエーヴを引き起こした。
「どうすればいいんです? これは宿命ですよ。いまの時代は、みんな自分の命を賭けているんです。メーゾン・ルージュの騎士も、ほかの者と同じように賭けて、そして負けたんです。今では、彼はそれを償わなければいけないんです」
「つまり死ぬということですのね、そうですわね」
「その通りです」
「彼は死ななければいけない、あなたがそんなことをおっしゃるんですの?」
「ぼくが言ってるんじゃあありません、運命が言ってるんですよ」
「こうした問題では、運命というものは、最後の言葉までは申しませんわ、だって、あなたは彼を助けることがおできになるんですもの、あなたがですわよ」
「ぼくの誓いの言葉を無視して、つまり、ぼくの幸福を犠牲にして、ということですね。わかりましたよ、ジュヌヴィエーヴ」
「目をつぶってください、モオリス、これがあたくしのお願いなんです、そうしたら、ひとりの女として、どこまでも感謝の気持を捧げますわ、その気持をお見せしますわ、お約束しますから」
「ぼくが目をつぶったところでむだですよ、マダム。合言葉ができているんです、合言葉ですよ、これを言わなければ、だれひとり外へ出られないんですから、繰りかえして言いますが、この家はすっかり包囲されているんですよ」
「で、合言葉をご存知ですの?」
「もちろん、ぼくは知っています」
「モオリス!」
「どうしました?」
「ねえ、愛するモオリス、その合言葉をあたくしに教えて、あたくしにはどうしても要るんです」
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ! ぼくにそんなことを言うあなたは、いったいだれなんですか?『モオリスよ、あたしがあなたに抱いている愛情の名にかけて、誓いなど踏みにじろうとも、幸福など台無しにしようと、あなたの気持なんか裏切りなさい、あなたの意見なんか否定しなさい』などと言うあなたは? あなたはぼくにそんな危い橋を渡らせて、こうしたすべてのことと引きかえに、ぼくになにを提供しようというんですか、ジュヌヴィエーヴ?」
「アア! モオリス、彼を助けて、まず彼の命を救ってください、それから、あたくしの命を要求してください」
モオリスは暗い声で答えた。
「ジュヌヴィエーヴ、よく聞いてください。ぼくは汚辱の道へ一歩踏み込んでいるんですよ。この道へすっかり足を踏み込むには、せめてぼく自身じゅうぶん納得のいくちゃんとした理由が欲しいんですよ。ジュヌヴィエーヴ、ぼくに誓ってくれたまえ、あなたはメーゾン・ルージュの騎士を愛していない、と……」
「あたくしは、メーゾン・ルージュの騎士を愛しております、ひとりの妹として、お友だちとして、それ以外の意味はございません、それは誓ってもようございますわ」
「ジュヌヴィエーヴ、ぼくを愛してくれますか?」
「モオリス、あなたを愛しておりますわ、神があたくしの言葉をお聞きくださるのと、同じようにほんとうのはなしですわ」
「もしぼくが、あなたのお頼みになる通りにしたら、あなたはご両親も、友人も、祖国も捨てて、この裏切り者といっしょに逃げてくれますか?」
「モオリス! モオリス!」
「躊躇している……アア! 彼女は躊躇しているんだ!」
モオリスは激しい軽蔑を込めて、うしろへとびのいた。
体を彼に預けていたジュヌヴィエーヴは、とつぜん体を支えるものがなくなったので、前のめりになって両膝をついてしまった。
「モオリス」と体をあおむけに倒したまま、結んだ両手をよじらせながら彼女が言った。「なんでもお望み通りにしますわ。誓いますから。どうぞ命令して、命令どおりにしますわ」
「ぼくのものになってくれますか、ジュヌヴィエーヴ?」
「あなたがそうおっしゃれば」
「キリストにかけて誓ってくれ!」
ジュヌヴィエーヴは腕を差し出した。
「神よ、あなたは姦淫の罪を犯した女をお許しになりました(マグダラのマリアを指す)、どうかあたくしもお許しください」
大粒の涙が頬の上を伝い、胸に波打つ、長い、乱れた髪の上に落ちた。
「アア! そんなふうに、そんなふうに誓えと言ったんじゃあないんだ、そんな誓い方をするなら、ぼくは頼まない」
すると、彼女は言葉を変えて言った。
「彼のために必要なら、また、彼が、あたくしの友、あたくしの保護者、あたくしの兄のメーゾン・ルージュの騎士の命を救ってくれるならば、神よ、あたくしはモオリスに命を捧げる、と誓います、彼と共に死ぬ、と誓います」
「よろしい、彼の命を助けてあげよう」とモオリスが言った。
彼はとなりの部屋のほうへ歩み寄って、言った。
「ムッシュウ、もう一度、皮なめしの職人、モランの服装にかえりなさい。さっきの約束はやめにしましょう、あなたは自由の身ですよ」
そして、ジュヌヴィエーヴに向かって言った。
「それからマダム、合言葉はこの二つです。『カーネーションと地下道』ですよ」
そして、自分を裏切り者にしてしまったこの二つの言葉を口にした、この部屋にとどまっているのが恐ろしいかのように、彼は窓を開けて、部屋から庭の中へ跳び降りた。
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三十一 家宅捜索
モオリスは庭へ出ると、ジュヌヴィエーヴの部屋の窓の正面の自分の部署にかえった。ただこの窓は、今ではジュヌヴィエーヴがメーゾン・ルージュの騎士の部屋へ入ってしまったので、明りが消えていた。
モオリスが部屋を出たのは時宜をえていた。というのは、彼が温室の角のところへ着くか着かないうちに、庭の扉が開いて、灰色の服の男が、ローランと五、六人の選抜兵を従えて姿を現わしたからである。
「どうだい、様子は?」とローランが訊ねた。
「ごらんの通りだ、ぼくは部署についているよ」とモオリスが言った。
「歩哨線を突破しようとした者は、だれもいなかったかい?」
「だれもいなかった。だからだれかに質問されて、いい加減にごま化しておく必要もなかったのがさいわいだよ。ところで、きみたちのほうは何かあったかい?」
「われわれのほうでは、一時間ほど前に、メーゾン・ルージュの騎士がこの家へ入り、以後家から出ていない、という確証をつかみました」と警官が答えた。
「で、あいつの部屋を知ってるかい?」とローランが言った。
「彼の部屋は、廊下をはさんで、ディメールの細君の部屋と離れているんです」
「なるほど! そうかい!」とローランが言った。
「まったく、そうなにからなにまで離しておく必要はなかったんですがね。なにしろあのメーゾン・ルージュの騎士ときたら、食えない男なんでね」
モオリスは血が頭に上るような感じがした。眼をつぶると、心の中を数千の稲妻が駆けめぐるような気がした。
「なるほど! だけどな……ディメールのやつは、そんなことをして何と言ってるんだろう?」とローランが訊ねた。
「ディメールにすれば、大いに自分の名誉になる、と思ってるんですな」
「そんなもんかな?」とモオリスが、のどがつまったような声で言った。「ところで、どういう計画に決まったんだね?」
「計画はですね」と警官が言った。「あいつの部屋で捉えてやろうと思っているんです、おそらくまだベッドにいるでしょうから」
「で、あいつはぜんぜん疑っている様子はないんだね?」
「ぜったいありません」
「地所の配置はどうなんだ?」とローランが訊ねた。
「われわれの手には、完全に正確な図面があるんです」と灰色の服の男が言った。「庭の隅のほうに離れがあります。あそこに見えているあれです。階段を四段上がるようになっています、ここから階段も見えますね? 上のポーチのところで、右側にディメールの住居のドアがあります。きっと、今窓が見えている、あれがその部屋でしょう。奥のほうには廊下に面したドアがあって、その廊下に例の謀反人の部屋のドアがあります」
「よろしい、なかなか行きとどいた地形図じゃあないか。これだけの図面があれば、目かくしをされたって歩いて行けらあ、ましていわんや、両方の目がきくんだからな。それじゃあ、出発だ」とローランが言った。
「街のほうの警戒はちゃんとできてるだろうね?」とモオリスが特別な関心を持っているように訊ねた。そばにいた者はみなもちろん、この関心は、騎士が逃げやあしないか、それが不安でこんなことを訊ねたのだと思った。
「街も、通路も、角も、すっかり固めてあります」と灰色の服の男が言った。「なあに、合言葉を言わなきゃあ、ねずみ一匹だってとうてい通れませんよ」
モオリスは身震いした。これだけ万全の配慮がしてあったのでは、自分の幸福のためにと思ってした裏切り行為も、むだになりはしないか、不安になったからである。
「さて」と灰色の服の男が言った。「騎士を逮捕するのに、何人ぐらい部下が入用ですかな?」
「部下が何人だって?」とローランが言った。「モオリスとオレだけでじゅうぶんだと思うよ。そうだろ、モオリス?」
「そうだな」とモオリスが口ごもった。「二人だけで、たしかにじゅうぶんだ」
「まあお聞きください」と警官が言った。「大きな口をたたいてもむだですよ。ほんとうに、お二人だけでやつを捉えたいんですか?」
「ほんとうとも! ほんとにそう思ってるんだ。そうだな、モオリス。ぜひともあいつを捉えなきゃあだめだよな?」
ローランはこの言葉にこだわった。彼は前から言っていた、みんなが疑惑を抱きはじめて、その嫌疑が自分たち二人の上に覆いかぶさろうとしている。永い間この嫌疑をそのままにしておいてはいけない、こうした時代には疑いは実にはやく、のっぴきならない確信に変ってしまうからだ。ところが、ローランの考えでは、メーゾン・ルージュの騎士をうまく逮捕した二人の男に、あえて疑いを抱く人間などひとりもいないだろう、というわけである。
「いいですよ!」と警官が言った。「もしお二人がほんとうにそう思われるなら、ここはむしろ、二人よりは三人、三人よりは四人で逮捕にゆく、ということにしましょう。騎士はいつも枕の下に剣を、ナイト・テーブルの上にピストルを二挺置いて寝ているということですから」
「エイ! めんどうだ!」とローランの中隊の選抜兵が言った。「だれがいい、かれがいいなんて、もうごめんだ、いっそのことみんなで乗り込みましょう。もしあいつが降伏してきたら、ギロチン用につかまえりゃあいいし、反抗したら八つ裂きにしてやりましょう」
「よしきた」とローランが言った。「前ヘッ! ところでドアから入るか、窓から入ろうか?」
「ドアからですな」と警官が言った。「ひょっとすると、運よく鍵が差さってるかも知れませんよ。ところが、もし窓から入るとすると、どうしてもガラスを壊《こわ》さなきゃあならないから、音がしますしね」
「ドアから行こう」とローランが言った。「中へ入りさえすりゃあ、どこから入ろうがかまわんからな。サア、サーベルを持て、モオリス」
モオリスは機械的に、サーベルを鞘から払った。
この小人数のグループは離れのほうへ歩み寄った。灰色の男が言った通りに、一同は玄関前の階段に突き当り、さらにポーチヘ上がり、次に玄関のところへきた。
「うまいぞ!」とローランが嬉しそうに叫んだ。「鍵はドアにそのまま差さっているぞ」
実際、彼は闇の中で手を伸ばしてみたのだが、彼の言葉通り、指の先に鍵の冷たい感触があった。
「サア、じゃあ開けてください、中尉」と灰色の服の男が言った。
ローランは、慎重に鍵を鍵穴の中で回した。ドアが開いた。
モオリスは、汗で湿った額を、手で拭った。
「ここがそうだぞ」とローランが言った。
「まだまだ」と灰色の服の男が言った。「この地形図が報告通り正確ならば、われわれはいま、ディメールの細君の部屋にいるわけですよ」
「確かめてみよう」とローランが言った。「ローソクに火をつけろ、暖炉に火が残っているから」
「松明《たいまつ》に火をつけましょう」と灰色の服の男が言った。「松明なら、ローソクみたいにすぐには消えませんからね」
と言って男は、選抜兵から松明を受け取り、消えかかっている暖炉の火でつけた。彼はそのひとつをモオリスの手に、もう一本をローランの手に持たせてから言った。
「ごらんなさい。わたしの言う通りですよ。ここにドアがあるでしょう、これはディメールの細君の寝室に続いているんです。こちらのドアは廊下に通じています」
「前ヘッ! 廊下へ行こう」とローランが言った。
奥のドアを開けた、これも初めのと同じように鍵がかかっていなかった。こうして一同は騎士の住居のドアの真前に立ったわけだ。モオリスは今までに二十回以上もこのドアを見ていたが、ただの一度も、このドアがどこに通じているか、などと訊ねたこともなかった。いま、自分の代りに、多勢のひとびとがジュヌヴィエーヴが彼を迎えてくれたあの部屋に集まっているのだ。
「ヤレ、ヤレ!」とローランが低い声で言った。「ここまできて、今度は意見を変えなきゃあならんよ。もう鍵はついてないし、ドアは閉ってらあ」
「でも」とモオリスが訊ねた。やっと口がきけるという状態だった。「ここだということは確実だろうな?」
「もし図面が正確なら、まちがいなくここですよ」と警官が言った。「もちろん、いずれ分ることですがね。選抜兵、きみはドアをぶっこわせ。あなた方お二人は、用意していてください、ドアが壊れたら、すぐに部屋の中へ飛び込めるように」
警察から派遣された男に指示を受けた四人の部下が、銃床をあげて、この計画の先に立って案内している男の合図と同時に、ひと打ちした。ドアが音を立ててとんだ。
「降伏しろ、でなければ殺すぞ!」と部屋にとび込みざまローランが叫んだ。
だれも答えなかった。ベッドのカーテンが閉ざされていた。
「私道だ! 私道に気をつけろ!」と警官が言った。「狙え、カーテンがちょっとでも動いたら、射て」
「待ちたまえ」とモオリスが言った。「ぼくがカーテンを開けてみよう」
おそらく、メーゾン・ルージュがカーテンのうしろに身を潜めて、短剣かピストルの一撃が自分に目がけて襲いかかってくるものと期待していたのだろう、モオリスは、カーテンにとびかかり、叫び声をあげながら、カーテン・レールに沿ってカーテンを開いた。
ベッドは空だった。
「ちきしょう! もぬけの空だ!」とローランが言った。
「逃げたんだ」とモオリスが口ごもった。
「とんでもない、市民! 不可能です!」と灰色の服を着た男が叫んだ。「わたしが言ったでしょう、一時間前に彼が帰ってきているところを見ているんですよ、彼が出てゆくところはだれも見ていないし、出口という出口は全部固められているんですからね」
ローランは用箪笥や洋服箪笥の戸を開け、あちこち見回り、物理的にも、とうてい男ひとりが隠れるのは無理と思われるような場所まで見てみた。
「やっぱり、だれもいない! 見ても分るだろう、もぬけの空だよ!」
「だれもいない!」とモオリスが、だれにでも分るような感動を交えて言った。「ほんとうに、見たまえ、ひとっ子ひとりいないよ」
「ディメールの細君の部屋だ」と警官が言った。「ひょっとしたら、あそこにいるんじゃあないかな?」
「いや!」とモオリスが言った。「女性の部屋には敬意を払わなければ」
「どうしたわけだい」とローランが言った。「もちろん、女性の部屋には敬意を表するよ、それに、ディメールの細君にもな。しかしとにかく検べてみるんだ」
「ディメールの細君の身体検査もしますかね?」と選抜兵のひとりが、野卑な冗談をとばしていい気になって言った。
「いや、部屋だけだ」とローランが言った。
「じゃあ、ぼくをいちばん先に入らせてくれ」とモオリスが言った。
「入れよ」とローランが言った。「きみは隊長だからな。どなたにも、しかるべき名誉はござるて」
いま出てきたばかりの部屋の警備に二人の部下を残し、一同は松明があかあかと燃えている部屋へ戻ってきた。
モオリスは、ジュヌヴィエーヴの寝室に通じるドアのほうへ近寄った。
彼がこの部屋へ入るのは初めてのことだった。
彼の心は激しく高鳴った。
鍵はドアに差さっていた。
モオリスは鍵を手にして、躊躇していた。
「サア」とローランが言った。「開けろよ」
「でもな」とモオリスが言った。「もし、ディメールの奥さんが寝《やす》んでいたら?」
「彼女のベッドの中を見て、ベッドの下を、暖炉の中を、箪笥の中を見てみるのさ」とローランが言った。「それでも、彼女のほかにだれもいなければ、奥さまお寝みなさい、を言えばいいんだ」
「いえ、いけません」と警官が言った。「われわれは女を逮捕します。女市民ジュヌヴィエーヴ・ディメールが、チゾンの娘やメーゾン・ルージュの騎士の共犯者だということは判っているんです。」
「じゃあ、きみが開けたまえ」とモオリスが、鍵を渡しながら言った。「ぼくには女は逮捕できない」
警官は横目づかいにモオリスを眺め、選抜兵たちは彼ら同士でなにかヒソヒソささやいた。
「オイ、オイ!」とローランが言った。「ぶつぶつ言うのか? ま、そこで、二人のことを文句を言っていろ、オレはモオリスの意見に賛成するぜ」
と言うと、彼は一歩うしろへ退《さが》った。
灰色の服の男が、グッと鍵を回すと、ドアが開いた。兵隊たちが部屋の中へなだれ込んだ。
二本のローソクが小さなテーブルの上で燃えていたが、ジュヌヴィエーヴの部屋は、騎士の部屋と同様に、もぬけの空だった。
「からだぞ!」と警官がどなった。
「からだ!」とモオリスが蒼白になりながら繰りかえした。「じゃあ、彼女はどこへ行ったんだ?」
ローランはびっくりしてモオリスを見つめた。
「探すんだ」と警官が言った。「国民兵はオレのあとをついてこい」
彼は家中をかき回し、地下室から工場まで捜索を始めた。
彼らが去ってしまうとすぐに、目でいらいらと彼らを追っていたモオリスは、部屋にとび込んで、すでに開けた箪笥を開き、不安にみちた声で呼んだ。
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」
ところがジュヌヴィエーヴの答えはなく、部屋はほんとうに空っぽだった。
そこで今度は、モオリスも、狂気のようになって家中を捜索しはじめた。温室、納屋、倉庫など、すみずみまで見つけてみたが、徒労に終った。
とつぜん、騒がしい物音が聞えた。武装した一団の男たちが門のところへ現われて、歩哨と合言葉を交し、庭にどやどやと入ってきて、家の中に散っていった。この増援部隊の先頭には、黒くすすけたサンテールの羽飾りが輝いていた。
「よろしい!」とサンテールがローランに言った。「陰謀の張本人はどこだ?」
「なんですって! 張本人はどこだ、ですって?」
「そうだ、やつらをどうしたか、ときみに訊ねているんだ?」
「こちらで訊きたいところですよ。あなたのほうの分遣隊が、もし出入り口を全部固めていれば、きっと|やつ《ヽヽ》を逮捕できたにちがいありません、だって、われわれが踏み込んだときには、やつはもう家にはいなかったんですから」
「何だって?」と将軍は猛り狂ってどなった。「じゃあ、きみたちは、みすみすやつを逃がしちまったのか?」
「はじめからぜんぜんやつを捉えなかったんですから、逃げられるはずはありませんよ」
「それじゃあ、わしには皆目意味がわからんぞ」とサンテールが言った。
「なにがです?」
「きみがわしのところへ寄越した伝令のことがだよ」
「だれかをやったって言うんですか、われわれが?」
「もちろんだ。その男は、青い服を着て、黒い髪で、緑色の眼鏡をかけておったが、きみからの伝令できたと言って、きみたちは今にもメーゾン・ルージュのやつを捉えるところだが、相手もライオンのように防戦している、と言うんだ。そこでわしが駆けつけてきたんだ」
「青い服を着て、黒い髪で、緑の眼鏡をかけていたんですね?」とローランが繰りかえした。
「その通り、ご婦人をひとり腕にかかえておったよ」
「若くて美人でしたか?」とモオリスが将軍のほうに駆け寄りながら叫んだ。
「そう、若い美人だったな」
「あいつに、ディメールの奥さんだ」
「その|あいつ《ヽヽヽ》というのはだれのことだ?」
「メーゾン・ルージュです……アア! 二人を殺さなかったのが間違いだった!」
「なあに、市民ランデイ、いずれは二人ともお縄につくわい」とサンテールが言った。
「それにしても、どうして二人をそのまま通してしまったんです?」とローランが訊ねた。
「当然だろうが!」とサンテールが言った。二人とも合言葉を知っていたから通してやったんだ」
「連中が合言葉を知っていたんですって?」とローランが叫んだ。「というと、われわれの中に裏切り着がいるんですかね?」
ローランは自分のまわりをぐるっと見回したが、まるで、いま公表した裏切り者を探しているような様子だった。
彼はモオリスの暗い表情と、キョロキョロと落ち着きのない目に気付いた。
「アア!」とモオリスが小声で言った。「きみは何を言いたいんだい?」
「その男はそう遠くまで行ってはいないはずだ」とサンテールが言った。「この近所を捜索しよう。おそらく、やつはどこかのパトロールの網に引っかかっているだろう、なにしろ、パトロールの連中はわれわれよりそういうことは要領を心得ているし、そうそう相手の思うつぼにはまるわけもないだろうからな」
「そうです、そうしましょう、とにかく探しましょう」とローランが言った。
彼はモオリスの腕を掴んだ。そして捜索に行くからと口実を作って庭の外へ彼を連れ出した。
「そうしましょう、探しましょう」と兵隊たちが言った。「しかし、探索にかかる前に……」
と言うと、彼らのひとりが薪や枯れた木がいっぱいにつまっている納屋の下へ、持っていた松明を投げ出した。
「来いよ」とローランが言った。「来るんだ」
モオリスはまったく逆らわなかった。まるで子供のように、ローランの後についていった。二人とも、それ以上口を訊かずに、橋のところまで駈けていった。そこで二人は止り、モオリスがうしろを振り向いた。
町はずれの地平線の上で、空が真赤に燃えあがり、家々の上には数知れぬ火の粉が舞っていた。
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三十二 神にかけて誓った誓約
モオリスは悪寒に襲われて、サン・ジャック街のほうに手を伸ばした。
「火事だ! 火事だよ!」
「なるほど! そうだな」とローランが言った。「火事だな、で、どうしたっていうんだい?」
「アア! どうしよう! どうしよう! もし彼女が帰ってきたら?」
「だれのことだい?」
「ジュヌヴィエーヴだ」
「ジュヌヴィエーヴね、つまりマダム・ディメールのことだろ?」
「そうだ、彼女だよ」
「彼女なら帰ってくる気遣いはないよ、だいいち、帰るつもりで逃げ出したわけじゃあないからな」
「ローラン、どうしても彼女をもう一度見つけ出さなきゃあいけないんだ、ぼくは必ず復讐してやるぞ」
「なるほど、なるほどね!
恋よ、神々に、ひとびとに君臨する暴君よ
もはや汝《なれ》には、香を捧げる必要はなし
といったわけだな」
「彼女を見つけ出す手伝いをしてくれるだろ、ローラン?」
「いいとも、そんなことは難しくはないぜ」
「どうすりゃあいいんだい?」
「どうやら、きみはオレの思っている以上に、ディメールの妻君に関心があるとみえるな。きみは彼女を知ってるはずだ、彼女を知ってるくらいだから、彼女の友だちのうちで、だれがいちばん仲が良いかも知ってるはずだな。彼女はパリを出ちゃあいない、連中は夢中になってパリに留ろうとしているからな。きっとどこか頼りになる友だちのところへ隠れたんだよ、明日の朝、きみはローズ夫人とかマルトン夫人とかいう名前で、ま、ざっとこんなことを書いた手紙を受け取ることになるよ。
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マルスのきみにして、
もしシテレを迎えたければ
夜の幕《とばり》の落ちるとき、
青きケープを借りるべし
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この手紙には、なんとか街の何番地かの管理人のところを訪ねて、マダムなんとかにお会いしたい、と言ってくれと書いてあるというわけだ。これでオーケーさ」
モオリスは眉をそびやかした。彼は、ジュヌヴィエーヴには、身を隠してもらえるようなものはだれひとりいない、ということをよく心得ていたからである。
「とうてい彼女を見つけ出せそうもないな」と彼は呟いた。
「オレにひとこと言わせてくれないか、モオリス」とローランが言った。
「どんなことだい?」
「つまりね、オレたちが彼女を見つけ出せなくても、そう大した不幸にゃあ、おそらくならないだろう、っていうことだよ」
「もしぼくらが彼女を見つけ出せなければ、ぼくは死んじまうよ」
「なあるほど! いつぞや、きみが危なく命を落としそうになったのは、じゃあこの恋だったというわけかい?」
「そうなんだ」とモオリスが答えた。
ローランはしばらく考えてから言った。
「モオリス、どうやら、十一時頃になったらしいぜ、街にも人気はないし、二人の友だちをお迎えして、あそこにおあつらえ向きの石のベンチが置いてあるよ。ところで、大時代な言い方をすれば、特別なご配慮をもって、立ち入ったはなしをさせていただきたいんだがね。誓って言うが、はなしは散文でしかしないよ」
モオリスはあたりを見回してから、友だちのそばへ坐った。
「話してくれよ」とモオリスは、重い頭に手をやりながら言った。
「前置きも、回りくどいはなしも、説明も抜きで聞いてくれ、ひとつ言いたいことがあるんだ、つまり、オレたちは危い立場だぜ、というより、きみのおかげでオレたちの立場が危くなったんだな」
「どういうわけだい、そりゃあ?」
「きみねえ、祖国の敵と内通した者は、たとえいかなる者だろうと祖国への反逆者として告発される、という公安委員会の法令があるんだよ。ええ! きみだって、その法令は知ってるだろう?」
「もちろんだよ」
「知ってるんだな?」
「知ってる」
「よろしい! オレの見たところ、どうやらきみは、祖国を裏切っていないわけでもないらしいな。なにか言うことがあるかい?」とローランは、マンリウス(古代ローマの政治家)のような口調で言った。
「ローラン!」
「きっとそうだろう。一方では祖国を偶像のように愛しながら、またメーゾン・ルージュの騎士に、住居や食糧やベッドを提供している連中と関係している限りはな。推測するところ、騎士というのは熱心な共和派でもなし、差し当っては九月の陰謀に加担した、といって告発を受けている人物じゃあないか」
「アア! ローラン!」とモオリスは溜息を吐きながら言った。|お説教屋《モラリスト》が言葉を続けた。
「つまるところは、オレの目には、きみは祖国の敵と、あまりにも仲良くしすぎていたか、あるいは今だになお仲良くしているように見えるんだよ。まあ、まあ、腹を立てるなよ、きみ。きみはアンスラード(神話中の巨人で、オリンポスの山を襲い、アテーナのためにエトナ火山の下に埋められた)のようなもんだよ、きみが体を動かせば、山のひとつぐらいグラグラするだろうからな。もう一度繰りかえすけれど、腹を立てるなよ、どうだいこの際はっきりと、きみはもう熱心な愛国者じゃあなくなった、と白状しちゃあ」
ローランは、まったくキケロ流な巧妙な話術で、できるだけ物柔らかに、大事な点はぼかしてこうした言葉を口にした。
モオリスは、ただちょっとジェスチュアを見せて反論しただけだった。
しかしそのジェスチュアはかえって自白をしているようだったので、ローランが続けた。
「アア! もしオレたちが暖かい温室の温度、つまり植物学の法則に従えば、これは快適な温度で、常時十六度を指しているんだが、こんな温度の中に住んでいるんなら、なるほどそれも優雅で非の打ちどころもないよ、なあモオリス。ときどき、ちょっと特権階級になろうじゃあないか、なかなか悪くないし、いい香りも匂ってくるよ。ところがだ、今の世の中じゃあ、オレたちは三十五度から四十度ぐらいの暑さの中で煮えかえってるんだ。テーブル・クロースが燃えてるくらいだから、人間どうしても熱くなっちまうわけだ。こんな暑さの中にいると、冷えたような気分になる。ところが、ほんとうにひとたび冷たくなると、さっそく疑いをかけられる。そんなことは先刻ご承知だろ、モオリス。きみぐらい頭がよければ、モオリス、疑いをかけられたら、いずれどんなことになるか、というより、もうこの世のものではなくなることぐらい分らないはずはないだろう」
「分ったよ! だから、ぼくはもう殺してもらいたいんだ、一巻の終りにしてもらいたいんだよ」とモオリスが叫んだ。「ぼくはそれほど人生に疲れてしまったんだよ」
「まだ十五分ぐらいしかたってないぜ。実際のはなし、この問題について、きみの言いなり放題に任せておくにしても、まだちょっと時間が短すぎるよ。それに、きみだって分ってるだろうが、今の世の中では、死ぬんなら共和主義者として死ぬべきだよ。ところがきみは、特権階級として往生しようとしてるんだぜ」
「アア! もうたくさんだ!」とモオリスは、自分の罪に対して、良心の苦痛に耐えられずに叫んだ。「アア! もうたくさんだよ! きみはちょっと言いすぎるぜ」
「まだまだオレは言いすぎてはいないよ。いいかい、言っておくが、もしきみが特権階級になるとでも言うんなら……」
「ぼくを密告するのかい?」
「とんでもない! オレはね、きみを地下室に閉じ込めてね、行方不明になったみたいにして太鼓を鳴らして探してもらうさ。それからだな、特権階級のやつらが、きみが連中に秘密を明かさなかったことを知ったので、きみを不法監禁し、殉教者なみに、飢えさせている、と言って公表してやるんだよ。エリ・ド・ポーモン裁判長(パリの弁護士で、反逆者として投獄された友人の家族を身をもって弁護し、一七六五年その無実を明らかにす)や、ムッシュウ・ラシチュード(王政末期、陰謀の罪で三度投獄され、三度逃亡す)やそのほかの連中じゃあないが、きみがそうやって発見されたら、中央市場のご婦人方やら、ヴィクトール地区の|くず屋《ヽヽヽ》たち(いずれもパリの下層民で、当時の過激な民衆の代表者)から、大っぴらに花束の贈呈を受けることになるだろうな。さあ、急いでもとのアリスチッド(紀元前五世紀、アテネの将軍、政治家。正義漢の異名あり)みたいなきみにかえれよ、そうすれば、きみの問題もすっきりするよ」
「ローラン、ローラン、きみの言うことはもっともだとぼくは思うよ、でもぼくは引っ張られているんだ、坂をすべり降りているんだよ。運命がぼくを引きずり込んでしまうからって、きみはぼくを怨むかい?」
「きみを怨んだりするもんか、でもな、きみと議論してやるよ。ちょっと、ピラードが毎日オレスト(神話中の人物でアガメムノンの子供。ピラードとの厚い友情物語は諺にまでなる)と交したあのシーン、友情というものは、ただの逆説に過ぎないんだ、ということを堂々と証明したシーンを思い出してみろよ。だってこの二人の親友のモデルは朝から晩まで議論をしていたんだぜ」
「ぼくのことは見捨てるんだな、ローラン、それがいちばんいいんだよ」
「ぜったいそんなことはできんよ!」
「それなら、ぼくがあのひとを愛するのを黙って見ていてくれ、好きなようにのぼせ上がらせておいてくれ、あるいは罪を犯すかもしれないがね、というのは、もしぼくが彼女をもう一度見つけたら、殺してしまうだろう」
「というより、彼女の前に膝まずくだろうな。アア! モオリス! モオリスが特権階級の女に恋するなんて、ぼくにはとうてい信じられなかったよ。きみはまるで、シャルニイ侯夫人にくっついていたあの哀れなオスランみたいなもんだな」
「もうたくさんだ、ローラン、お願いだからやめてくれ!」
「モオリス、オレはきみを癒してやるぜ、癒せなければくそ食らえだ。オレはね、レ・ロンバール街の食糧品屋の言いぐさじゃないが、きみがギロチン聖人さまの宝籤で大当りをとるなんてごめんだね。用心してくれよ、モオリス、きみはオレに癇癪を起こさせそうだぜ。モオリス、きみはオレを殺人鬼にしそうだぜ。モオリス、オレはサン・ルイ島(セーヌ河中の島)に火をつけたくなった。松明だ、火よ燃えろ!
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されど、わが悩みも無為に終らん
松明を、|かがり火《ヽヽヽヽ》を欲せどいかんせん?
モオリスよ、汝《な》が情火は余りにも美しく
汝が魂を、この地上を、この町を焼き尽くさん」
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モオリスはわれにもあらず微笑して言った。
「ぼくらのはなしは、散文だけだ、と決まっていたのを知ってるだろう?」
「でも、きみがあんまりばかばかしいんで、オレはすっかり憤慨しちまったからだよ。それに……まあいいや、飲みに行こう、モオリス。酔っ払おうじゃあないか、動議を出そうじゃあないか、政治経済の勉強をしようじゃあないか。ジュピターの恋だなんて、あきらめちまえ、愛するのは自由だけにしようぜ」
「でも、理性の女神はどうする?」
「アア! なるほど、女神がきみにいろんなことを言ってたよ、きみはチャーミングな男だとさ」
「きみは、嫉妬《やきもち》をやかないのかい?」
「モオリス、ひとりの友を救うためなら、オレはすべての犠牲を払うことだってできるような気がするな」
「ありがとう、気の毒なローラン、ぼくにはきみの献身的な気持がよく分るんだ。だけどね、ぼくの気持を慰める最良の方法は、分ってくれるだろ、ぼくにたっぷりこの苦しみを味わわせておくことなんだ。さようなら、ローラン。きみはアルテミーズに会いにゆけよ」
「で、きみは、どこへ行くんだ?」
「家へ帰るのさ」
と言って、モオリスは橋のほうへ何歩か歩いた。
「ところで、きみはいま、サン・ジャック街のそばに住んでるのかい?」
「ちがうよ、でも、こっちを通って行きたいんだ」
「きみの不滅の女性の住んでいた場所を、もう一度見ておこうという了見だね?」
「彼女は、ぼくがあそこで彼女を待っているのを知っているはずだから、戻ってきてはいないか見にゆくんだ。アア、ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ! ぼくには、きみにあんな裏切りができるとは思えないんだ!」
「モオリス、女性をあんまり愛しすぎて死んだ、女性の表裏を知り尽くしているある暴君(フランソワ一世を指す)は、こんなことを言ってるぜ。
女心はしばしば変る
それを信じる大たわけ」
モオリスは溜息をついた。そして二人の友は、サン・ジャック街への道をとって返した。
二人の友が近づくに従って、彼らの耳には騒々しい物音が聞き分けられ、火の明りがだんだん大きく見えてきて、愛国調の軍歌が聞えてきた。まっ昼間の、陽の光りのもとで、戦闘中のような雰囲気の中ならば、この歌もヒロイックな讃歌のように響いたが、夜の、火事の明りに照らされた中では、酔いどれた食人種が歌うような陰惨な調子を帯びていた。
「アア! 神よ! 神よ!」と、すでに神は廃止されたことも忘れて、モオリスが言った。
そして彼は、相変らず額に汗を流しながら歩き続けた。
ローランは彼が歩く姿を眺め、口の中でこんなことを呟いていた。
「愛よ、愛よ、なんじがわれらにとりつくとき
ひとみな、慎重な用心を忘れる」
パリ中の人間が、いま読者に紹介したこの事件の舞台に駆けつけているように見えた。
モオリスは、選抜兵の垣根を、国民軍兵士の行列を、さらには、この時代には、こうした見世物から見世物へと、おめき声をあげながら駆けつける、つねに猛り立ち、つねに眼ざめた下層民が押し合いへし合いする群を通り抜けて行かなければならなかった。
近づくに従って、モオリスはもう激情に耐えきれなくなって足を速めた。ローランは、やっとのことで彼のあとに続いていたが、しかし、こんな時にモオリスを独りで放り出すには、彼はあまりにもモオリスを愛していた。
すべてが、ほとんど終っていた。火は、兵隊が火のついた松明を投げつけた納屋に燃え移り、空気の流通をよくするために、大きな明りとりの窓をつけたようにして、板きれを集めて造った工場に燃え拡がっていた。商品はすでに燃えてしまって、母屋が燃えはじめたところだった。
「アア! 神よ!」とモオリスが言った。「もし彼女が戻ってきていて、ぼくを待ちながら、ぼくの名前を呼びながら、あの焔の環に包まれて、どこかの部屋にいたら……」
そしてもう、モオリスは苦悩のために分別をなくしてしまった。彼女が裏切ったと思うよりも、自分の愛する女が気が狂った、と信じたかった。モオリスは、頭を低くして、煙の中にほの見えているドアの真中に突進した。
ローランも相変らずモオリスの後を追った。おそらく、彼は地獄の果てまででも友のあとを追ってゆくだろう。
屋根が燃えはじめ、火は階段に燃え移りはじめた。
モオリスは息を切らせて、二階中を見て回った。客間、ジュヌヴィエーヴの居間、メーゾン・ルージュの騎士の部屋、さらには廊下などを、「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」としわがれた声で呼びながら見て回った。
だれひとり答える者はいなかった。
初めの部屋へ戻ると、二人の友の目に、火がドアからも入り始めて、メラメラと燃え上がるのが見えた。しきりに窓を指して叫ぶローランの声も聞かずに、モオリスは焔の真只中にとび込んでいった。
それから彼は、壊れた家具があちこちに散らばっている中庭には一歩も止まらず、母屋に走り寄り、食堂や、ディメールの客間や、化学者モランの部屋へ行ってみた。煙がいっぱいで、残骸や、砕けたガラスだらけだった。火は、母屋のこの方面に燃え移ったところで、今にも母屋をなめつくそうとしていた。
モオリスは離れでしたと同じように、見て回った。見回らぬ部屋は一部屋もなく、駆け回らなかった廊下はひとつもなかった。地下室まで降りてみた。もしかしたら、ジュヌヴィエーヴは、火を逃れて、ここに隠れているかもしれない。
だれもいなかった。
「困ったやつだな!」とローランが言った。「ここには、|火とかげ《ヽヽヽヽ》(伝説で、火の中に住むといわれる)以外、ひとっ子ひとりいないことは分ったろ、だいいち、きみが探しているのは、そんな伝説上の動物じゃあないだろう。サア、来いよ。ひとに聞いてみようじゃあないか、見物人にでも訊ねてみようぜ。ひょっとしたら、だれか彼女を見かけた者がいるかもしれんぜ」
モオリスを、家の外へ引っぱり出すには、おそらく全力をふり絞らなければならなかったにちがいない。「望《のぞみ》」(愛と信と共に、キリスト教の三徳といわれる)の力が彼の髪を掴んで引っ張っていたのだ。
そこで、二人は捜索をはじめた。付近一帯を探し回り、通りがかりの女を呼びとめ、路地まで入り込んで探したが、なんの結果もえられなかった。もう朝の一時だった。競技者のように逞しかったモオリスも、すっかり疲れ果てていた。ついに、彼もこの競技を、この登山を、群衆との絶え間のない衝突を諦めて、投げてしまった。
一台の辻馬車が通りかかった。ローランがそれを停めて、モオリスに言った。
「なあきみ、オレたちは、きみのジュヌヴィエーヴを探すために、人間としてできることはすべてやり尽くしたんだよ。オレたちはもう疲れきったよ。オレたちは赤黒く焦げちまったぜ。オレたちは彼女のために撲り合いまでした。キューピッドが、たとえどんなに欲が深くても、もうこれ以上、恋をしている男が欲しいとは言えないよ、ましてや恋をしていない男なんてな。どうだい、辻馬車に乗って、それぞれご帰館するとしようじゃあないか」
モオリスは返辞をしないで、相手のするままに任せた。二人の友は、ただの一言も言葉を交さぬまま、モオリスの家の門に着いた。
モオリスが馬車から降りたとき、モオリスの住居の窓が閉る音が聞えた。
「これでよし!」ローランが言った。「みんなきみを待っていたんだぜ、これでオレもずっと落ち着いたよ。サア、ノックしろよ」
モオリスがノックすると、ドアが開いた。
「おやすみ!」とローランが言った。「じゃあ、明日の朝な、オレを待っててくれ、出かけるから」
「おやすみ」とモオリスが機械的に言った。
そして彼が入ると、ドアが閉った。
階段の下のほうで、彼は自分の世話係に出会った。
「アア! 市民ランデイ」と世話係が叫んだ。「あなたはまあ、なんてあたしたちを心配させるんです!」
あたしたちという言葉がモオリスの心にひびいた。
「きみたちに?」
「そうですよ、あたしと、あなたをお待ちになっている可愛いいご婦人にですよ」
「可愛いいご婦人だって!」とモオリスは繰り返した。おそらく、昔なじみのガール・フレンドのだれかが、彼のことを思い出して訪ねてきたのだろうが、まずい時にきたものだ、と思っていた。「話してくれてよかったよ、ぼくはこれからローランのところへ行って泊まってくるから」
「イヤ! とんでもない! その方は窓のところで、あなたが馬車からお降りになるのを見ていて、『アラ、お帰りになったわ』と大声でおっしゃいましたからね」
「なあに! ぼくだって分ったところで大したことはないよ。ぼくは今、惚れたのはれたのっていう気分じゃあないんだ。戻って、そのご婦人に、ひとちがいでした、と言ってやってくれよ」
世話係は言われた通りに、戻りかけたが、足を止めて言った。
「アア! 市民、あなたはかん違いしていらっしゃいますよ。その可愛いいご婦人は、もうとても悲しそうなご様子ですから、そんなご返辞をしたら、あの方はほんとうにがっかりなさいますよ」
「そうとすると、そのご婦人はどんなひとだい?」
「それが、お顔を見ていないんで。マントに体をくるんで、泣いてらっしゃるんですよ。あたしの知ってるのは、それだけですがね」
「泣いているって!」
「そうなんで、ただ、すすり泣きを押し殺して、ごく静かにですがね」
「泣いているのか。この世に、ぼくを愛してくれて、ぼくが留守だからといって、それほどまで心配してくれるひとがいたかな?」
と言うと、彼は世話係に続いて、ゆっくりと階段を上った。
「だんな様がお帰りですよ、女市民、お帰りになりましたよ!」と世話係は部屋の中に駆け込みながら叫んだ。
モオリスは彼の後から部屋に入った。
その時、彼には客間の片隅に、クッションに顔を埋めて、ヒクヒク動いているものが見えた。それはひとりの女性だったが、身を震わせて、ときどき痙攣的に低く声をあげていなければ、まるで死者と見まがうほどだった。彼は世話係にこの場を外すように合図した。
彼は言われた通りにして、ドアを閉めた。
そこでモオリスは女のほうへ走り寄ると、彼女は顔を上げた。
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴがぼくの家に来るなんて! ああ神よ、ぼくは気が違ったのだろうか?」
「いいえ、あなたはちゃんとしていらっしゃいますわ」と女が答えた。「あたくし、あなたにお約束いたしましたでしょう、もしメーゾン・ルージュの騎士の命を救ってくだされば、あなたのものになります、って。あなたは彼を助けてくださいましたわ、ですから、あたくしここへ参りましたの! あなたをお待ちしておりましたわ」
モオリスはこの言葉の意味をとり違えた。彼は一歩後ろへ退き、悲しそうにジュヌヴィエーヴを見つめて、静かに言った。
「ジュヌヴィエーヴ、それじゃあ、きみはぼくを愛していないんだね?」
ジュヌヴィエーヴの眼差しは、涙でいっぱいで見えなかった。彼女は顔をそむけて、ソファの背に体を預けて、大きくすすり上げた。
「悲しいはなしだ!」とモオリスが言った。「あなたには、あなたがぼくを愛していない、いや、ただ愛していないばかりか、ジュヌヴィエーヴ、そんなふうに絶望しているところを見ると、ぼくに対して、憎しみのようなものを感じているのがよく分っているんですね」
モオリスが、激しく興奮して、苦悩をこめてこの最後の言葉を口にしたので、ジュヌヴィエーヴは立ち上がり、彼の手をとった。
「神さま、りっぱだとひとに思われている方って、いつもエゴイストですのね!」
「エゴイストだって、ジュヌヴィエーヴ、それはどういう意味だい?」
「だって、あなたには、あたくしがどれほど苦しんだかお分りにならないんですの? あたくしの主人は姿を消し、兄は追放され、あたくしの家は焔に包まれました。これがすべて、一夜のうちに起こったんですのよ、その上あなたと騎士のあいだには、あんな恐ろしい場面がありましたし!」
モオリスはうっとりとして彼女の言葉に聞き惚れていた。というのは、数々の不幸に打ちのめされ、その感動のおかげで、ジュヌヴィエーヴが今のような悩ましい状態になったということは、どんなに狂おしい情熱に駆られている者にさえも、一目《いちもく》で認めることができたからである。
「それであなたは来たんですね、ここにいるんですね、ぼくはあなたをしっかり捉えている、もう離すもんか!」
ジュヌヴィエーヴは身を震わせた。
「あたくしが、どこへ行けばいいとおっしゃるんですの?」と苦痛をこめて彼女が答えた。「どんな犠牲を払ってでも守ってくださるという方のところ以外に、あたくしに隠れる場所が、逃げ場がございまして? アア! あたくし、興奮して、気違いのようになって新橋《ポン・ヌフ》を渡りましたわ、モオリス。渡りながら、あたくし、橋のアーチの隅にざわめいている、暗い水の流れを眺めましたの。それはあたくしの心を惹きつけましたわ、あたくしの気持をボッとさせましたわ。あたくしこんな独り言を申しました。哀れな女よ、あそこは、お前にとっては格好な逃げ場ではないか。だれにも乱されない休息がある。あそこには忘却がある、と」
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」とモオリスが叫んだ。「あなたはそんなことを、言ったんですか?……では、あなたはぼくを愛していないんですか?」
「それはもう申しましたでしょ」とジュヌヴィエーヴが小声で言った。「もうそれは申しましたわ、そして、あたくしここへ参ったのです」
モオリスは深い溜息をついて、彼女の足許に身を投げかけて、呟いた。
「ジュヌヴィエーヴ、もう泣かないで。あなたの不幸については、もう諦めなさい。だってあなたはぼくを愛しているんだから。ジュヌヴィエーヴ、神のみ名にかけて言っておくれ、あなたがここヘみえたのは、ぼくが激しくきみを脅したからではない、と。たとえ今晩きみがぼくに会わなくても、きみがひとりで、相手もなく、隠れ家もなかったら、きっとここへ来ただろう、と言っておくれ。もう、前にぼくがきみに無理強いに誓わせた言葉などは忘れて、ぼくがきみにかける誓いを受け入れておくれ」
ジュヌヴィエーヴは、言葉に尽くしがたいような感謝をこめた眼差しを青年の上に落とした。
「心の寛《ひろ》いかた! アア! 神さま、感謝いたします、このかたは寛大なかたです!」
「聞いてくれ、ジュヌヴィエーヴ。ひとびとは神を神殿から追放したけれども、われわれの心から追放することはできない。神はわれわれの心の中に愛を植えつけてくれた。神は、一見悲しそうに見える今夜を、実は喜びと祝福にきらめく夜にしてくれたのだ。ジュヌヴィエーヴ、神がね、きみをぼくのところへ案内してくれたんだよ。ぼくの腕の中に抱かせてくれて、ぼくの口から吐く息を通してきみに語りかけてくれたんだ。とうとう、神様は、こんなに永く続いた苦しみに、そしてこの愛情と闘いながら、二人で一生懸命もちこたえていた美徳に酬いてくれたんだよ。あまり永く純粋で、しかも深い愛情というものは、一見罪深いもののように見えるから、この愛情もちょっと法にかなっていないように見えたんだよ。だから、もう泣かないで、ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ、きみの手をかしたまえ。兄さんの家へ行きたいかい、その兄さんが、いかにも敬意をこめたようにきみのドレスに接吻し、手を握ったまま離れて行き、首も振り向かずに敷居をまたいで行くのがお望みかね? どうだい! 一言言っておくれ、ちょっと合図をしておくれ、そうすればぼくはきみを離れ、きみを独りに、自由にして、しかも教会にいる処女マリアのように安全に守ってあげるよ。しかし、ぼくの愛するジュヌヴィエーヴ、反対に、ぼくは、あぶなく死んでしまうほどきみを愛していたことを思い出しておくれ、きみのおかげで宿命のようになったが、しかしぼくをしあわせにしてくれたこの愛のために、ぼくは仲間を裏切ってしまったことを、ぼくが醜悪な、下劣な人間になってしまったことを思い出しておくれ。未来が、ぼくたちをしあわせに守ってくれるということを考えておくれ。ぼくらの若さには、ぼくらの愛情には、すでに芽生えはじめたこの愛情を、それをおびやかす者はどんな相手にでも守るだけの力もあり、熱もあるんだ、ということを考えておくれ! アア! ジュヌヴィエーヴ、きみこそ善意の天使だ、そうだろ? きみは男をこの上なくしあわせにしてくれる、だから相手は、もう人生が嫌になった、などと嘆くこともないし、もう永久の幸福なんて欲しがらなくなるんじゃあないかな? だから、ぼくを押しのける代りに、ぼくにほほ笑んでおくれ、ぼくのジュヌヴィエーヴ、きみの手をぼくの腕に当てておくれ、全身全霊、望みをこめてきみを望んでいる男に寄りかかっておくれ。ジュヌヴィエーヴ、ぼくの恋人、ぼくの命、ジュヌヴィエーヴ、もうきみの誓いなんか繰りかえさないでおくれ!」
この甘い言葉で、女の心はふくらんだ。恋のものうさによって、今までの苦しみの疲れが重なり合って、彼女の力が抜けていった。もはや目に涙も湧いてこなかったが、再び燃えるような胸に、すすり泣きがこみ上げてきた。
モオリスには、彼女にはもう抵抗するだけの勇気がないのが分ったので、彼女を両腕に抱きしめた。すると彼女は、彼の肩に頭をもたせかけて、彼女の長い髪が、恋人の燃えるような頬の上でハラリと解けた。
同時に、モオリスは、嵐の後の波のようにジュヌヴィエーヴの胸がまだ激しく躍り、高鳴っているのを感じた。
「アア! きみは泣いているんだね、ジェヌヴィエーヴ」と彼は深い悲哀を感じながら言った。「きみは泣いているんだね。アア! 安心するんだ。いや、いや、けっしてぼくは、苦しみの上に愛情を押しつけようなんて思わないよ。けっして、後悔の涙のために苦い後味のする接吻でぼくの唇を、汚そうなんて思わないよ」
そして彼は、環のように自分の腕に巻きついた恋人の腕を外し、ジュヌヴィエーヴの額から自分の額を離して、ゆっくりと振り向いた。
と直ちに、自分の身を守る女性に、そして身を守りながらも欲望を捨てない女性にごくありがちな反応から、ジュヌヴィエーヴはモオリスの首に震える腕を差し出し、激しく締めつけて、凍りついた、そしてまだ涙で湿っている頬を押しつけた。その涙は、青年の燃えるような頬の上で、今ようやく乾いたところだった。
「アア! あたくしを捨てないで、モオリス」と彼女はささやいた。「だって、あたくしにはもう、この世にあなたしかいないんですもの!」
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三十三 その翌日
美しい陽光が緑色の鎧戸《よろいど》越しに差し込み、モオリスの部屋の窓の上の、木箱に植えられた三本のバラの木の葉を金色に染めていた。
この花は、シーズンが終りにかかった今ではとても貴重な眺めになって、清潔に磨き上げたタイル張りの小さな食堂に香りをふりまいていた。この食堂の中で、豊富とはいえないが、優雅に食事を並べたテーブルの前に、ジュヌヴィエーヴとモオリスがいま腰を下したところだった。
食事をする者に必要なものはすべてテーブルの上に揃っていたので、ドアは閉っていた。二人は前もって、「自分たちで給仕をするから」と断わっておいたのである。
隣りの部屋では、フェードル(神話。ミモス王の娘で、テゼの妻。ラシーヌの悲劇で有名)に出てくるおせっかいな下男もどきに、忙しげに動き回るのが聞えた。最後の晴れ上がった日々の暑さと生気が、ブラインドの細目に開いた板を透してしのび込み、陽の光りを受けたバラの葉を、黄金かエメラルドのように輝かしていた。
ジュヌヴィエーヴは、手にしていた金色の果物を、指から皿の上に落とし、物思いにふける様子で、ただ唇に微笑を浮かべているだけだった。一方彼女の両眼は、憂わしげなやつれを見せ、口も訊かず、生気もなく、萎縮していた。それは、空からの陽の光を受けた美しい花のように、愛の陽光を受けて生々とした、しあわせそうな様子とはうらはらな姿だった。
やがて彼女の眼差しがモオリスの視線を探し、二人の眼差しがバッタリと出会って、彼女の上に落ちた。彼もまた、彼女を見つめて、夢見心地だった。
すると、彼女は優しい、白い手を青年の肩にかけた。と、彼はブルッと震えた。そして、恋などははるかに超えた、あの信頼と打ち解けた態度を見せて、頭を彼の肩にもたせかけた。
ジュヌヴィエーヴは彼に話しかけずに、彼を見つめ、そして見つめながら顔を赤らめた。
モオリスは、軽く頭をかしげただけで恋人の半ば開いた唇に、自分の唇を重ねた。
彼は頭を傾けた。ジュヌヴィエーヴは真蒼になり、彼女の双眸《そうぼう》は、あたかも、陽の光りに萼《がく》を隠す花びらのように閉じられた。
二人は、こうして、今までにない歓喜の中でまどろんだようになっていたが、そのとき、呼鈴の鋭い音がして、二人はビクッとしてわれに返った。
二人はお互いに身をひいた。
世話係が入ってきて、重々しくドアを閉めて言った。
「市民ローランがいらっしゃいました」
「アア! ローランのやつか」とモオリスが言った。「行って迫い帰してこよう。ジュヌヴィエーヴ、失礼するよ」
ジュヌヴィエーヴが彼を止めて言った。
「あなたのお友だちを追い帰すんですって。お友だちを、あなたを慰めてくれ、救いの手を差しのべてくれ、後楯になってくださるお友だちでしょう? いけませんわ、あたくし、そんなお友だちを、あなたの心から追い出すのも、あなたのお宅から追い帰すのもいやですわ。その方に入っていただいて、モオリス、入っていただいて」
「なんだって、きみはいいのかい?……」
「あたくしはそうしていただきたいんです」
「アア! じゃあ、ぼくの愛し方がじゅうぶんじゃあない、と思うんだね、きみは」とモオリスは、この繊細な心遣いに有頂天になって言った。「じゃあ、きみに必要なのは、ただの人形じゃあないんだね?」
ジュヌヴィエーヴは、青年に赤くなった額を差し出した。モオリスがドアを開くと、ローランが、半分しゃれ者の王党のようなみなりで、実に堂々とした様子で入ってきた。ジュヌヴィェーヴに気がつくと、彼はちょっと不意をつかれたようだったが、すぐに丁重な挨拶をした。
「きたまえ、ローラン、こっちへ来たまえ」とモオリスが言った。「マダムを見てくれ。どうやらきみは地位を奪われたらしいぜ、ローラン、今では、ぼくにはきみより好きなひとがあるんだよ。なるほど、きみのためなら、ぼくは命だってくれてやるだろう。ところがだ、もう何も改まって言わなくても分るだろう、ローラン、彼女のために、ぼくは自分の幸福を捧げてしまったのさ」
ローランは真面目な調子で言ったが、その調子には深い感動がこもっていた。
「マダム、いよいよぼくは、あなたよりいっそうよけいにモオリスを好きになるように努力しますよ、なにしろ彼のほうで、ぼくをまったく好きでなくなったら大変ですからね」
「どうぞお掛けになって」とジュヌヴィエーヴが微笑を浮かべながら言った。
「そうだ、まあ坐れよ」と、右手に友人の手を、左手に恋人の手を持ちながらモオリスが言った。彼は、ひとりの男がこの地上で持ちうる、あらゆる幸福で心がいっぱいにふくらんでいたのだ。
「じゃあ、きみはもう死にたくないんだな? 殺されるのは、もうごめんだと言うのかい?」
「どういうことですの、それは?」とジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「イヤハヤ!」とローランが言った。「人間というものは、まったくなんとも気の変り易い動物ですな、哲学者たちが、人間の軽薄さを軽蔑するのもまったく当然のはなしですよ。ここにその見本がいますよ。どうです、信じられますか、マダム? この男ときたら、昨日の夜は、河へ身を投げたがり、この世ではぼくにとってはもうどんなしあわせもありえない、などと口走っていたんですよ。ところがごらんなさい、今朝になったら、快活で、楽しそうなこの男にお目にかかった、というわけです。唇には微笑を浮かべ、額は幸福に輝き、心は生気に溢れて、ご馳走の並んだテーブルの前に坐っているんですからね。どうやら、ほんとうに彼は食事はしていないらしいが、だからといって、そのおかげで不幸だという様子もありませんからな」
「なんですって、彼はそんなことをしようとしたんですの?」とジュヌヴィエーヴが言った。
「その通りですよ、それにそのほかいろいろとね。まあ、そのことはあとで話すとして、さし当りぼくは腹ペコなんですよ。それもこれもモオリスのせいだ、昨日の晩、サン・ジャック街中を駆けずり回らせたんですからね。失礼して、最初に朝食に手をつけさせていただきますかな、お二人とも、まだ手をつけていないようだが」
「そうだ、きみの言う通りだよ!」とモオリスが子供のように喜んで叫んだ。「朝食にしよう。ぼくは食べていなかった、それに、きみも食べてなかったね、ジュヌヴィエーヴ」
この名前を呼んでから、彼はローランの眼差しをうかがった。しかし、ローランは眉をひそめなかった。
「アア! そうだ! でも、彼女がだれだか、きみにはもう見当がついてるね?」とモオリスが彼に訊ねた。
「当り前さ!」とローランは、白と桃色のハムの大きな塊を切りながら答えた。
「あたくしもお腹がすきましたわ」と、ジュヌヴィエーヴが自分の皿を差し出しながら言った。
「ローラン」とモオリスが言った。「ぼくはゆうべは病気だったんだよ」
「きみは病気どころじゃあない、気違いだったよ」
「そうかもしれん! 今朝は、きみのほうがなにか苦しんでいるように思えるけれど」
「どうして、そう思えるんだい?」
「だって、きみはまだ詩を作らんからな」
すると、ローランが言った。
「ちょうどいま、そのことを考えていたんだ。
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美の神々に囲まれて、腰を下すとき
フェビュス(太陽神、アポロンの別名)はその手に竪琴《リラ》をとる
されどヴィーナスの後を追えば
フェビュスは竪琴を道で失う」
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「いいぞ、いいぞ! いつもの四行詩が出てきたじゃあないか」とモオリスが笑いながら言った。
「まあ、それで満足してもらわなきゃあならないだろうな、なにしろ、これからあんまり愉快でないお喋りをするんだから」
「また何のはなしだい?」とモオリスは心配そうに訊ねた。
「つまり、最近にオレはラ・コンシエルジュリーの衛兵になる、ということなんだ」
「ラ・コンシエルジュリーですって!」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。「女王のお傍にですの?」
「女王のお傍に……きっとそうだろうと思いますよ、マダム」
ジュヌヴィエーヴは蒼白になった。モオリスは眉をひそめ、ローランに合図をした。
ローランは新しいハムの塊を切り、はじめのと重ねた。
事実、女王はすでにラ・コンシュエルジュリーに連れていかれていたが、さてわれわれはこれから、この牢獄に目を転じるとしよう。
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三十四 ラ・コンシエルジュリー
両替橋とレ・フルール河岸の角に、サン・ルイ(ルイ九世の異名。カペー王朝きっての名君)の昔の宮殿がそのままそそり立っていて、都と呼べばローマを指すように、とくに宮殿《パレ》と呼ばれていた。この最高の名称は、ここに住む唯一の主人たちが、書記どもや、裁判官、弁護士などになってのちも、相変らず変っていない。
裁判所の建物は、大きく陰鬱な建物で、この目ざわりな女神を好きになるという気持より、こわがらせるものだった。ここへ来ると、小さな場所に集められた、人間の復讐心のあらゆる付属品を見ることができる。ここには被疑者を収容するホールがある。もっと向うへ行くと、彼らを裁く法廷がある。地下には、彼らに刑が宣告された場合に、彼らを幽閉する牢獄がある。門のところには、ちょっとした広場があり、ここは彼らに、真赤に焼けた、不名誉きわまる鉄の焼印を押す場所になっている。この広場から百五十歩ばかりのところに、もう少し大きい、べつの広場があり、ここは彼らを殺す場所、つまり処刑場《グレーヴ》で、ここでは宮殿《パレ》で下書きしたものの仕上げをするわけだ。
これでお分りのように、裁判所は、一切合財をその手のうちに揃えている。
互いに軒を接した、陰惨な、灰色の、格子のはまった、そのパックリと口を開いたような円屋根は、レ・リュネット河岸に沿った、小さな窓のついた建物のこの部分、鉄格子で囲まれた洞窟に似ていたが、これがラ・コンシエルジュリーだった。
この牢獄には穴倉があったが、その中の黒土は、セーヌの水がにじんできて湿っている。ここには、不思議な出口があって、そのむかしは姿を消してもらいたいと思う犠牲者を、セーヌ河まで流し出したものだった。
一七五三年という時代から見ると、ラ・コンシエルジュリーは、処刑台の疲れを知らぬ補給者の役をつとめ、ラ・コンシエルジュリーは、いわば、一時間以内に死刑囚となる囚人たちではちきれんばかりだった。この時代には、サン・ルイの昔の牢獄はまさに死のホテルとでも呼ぶべきものだった。
あちこちの門の円いアーチの下には、夜になると赤い灯のともったランタンが揺れて、この苦悩の家の不吉な看板となっていた。
モオリス、ローラン、ジュヌヴィエーヴの三人が一緒に朝食をとった日の前日、車の走る重苦しい音が河岸の敷石と、牢獄の窓ガラスを震わせた。そして、車の音はゴシック式の門の正面で止まった。数人の憲兵がサーベルの柄《つか》でこの門をノックすると、門が開かれて馬車は中庭に入った。そして馬車のうしろで門がギイーッと閉り、|かんぬき《ヽヽヽヽ》がきしんでおりると、馬車の中からひとりの女性が降り立った。
とすぐに、彼女の前に口を開いたくぐり戸がその女性の姿を呑み込んだ。三人か四人の物見高い顔が、松明の光りで、女囚人をじっくり眺めようとして首をつき出したが、女囚人はうす暗がりの中に姿を現わし、闇の中に消えた。すると、ドッという卑しげな笑い声や、男たちのあいだで交される下卑た別れの言葉が聞えたが、やがてその声も遠ざかっていった。男たちの姿は見えず、ただ声だけが聞えてきた。
こうして連行された女性は、憲兵たちと共に、最初のくぐり戸の中にとり残されてしまった。彼女には、第二のくぐり戸を越えなければならないことも分っていたが、くぐり戸を越えるには、足を高くあげると同時に、頭を低くしなければいけないのを忘れていた。というのは、足許には昇りの階段があり、頭上には降りてくる階段があったからである。
この女囚人は、すでにもうずいぶん永いあいだ牢獄で過ごしてきたのに、おそらくまだ、牢獄の建築構造に慣れていなかったにちがいない、額を低くするのを忘れて、鉄の棒にイヤというほど頭をぶつけてしまった。
「痛くはありませんでしたか、女市民?」と憲兵のひとりが訊ねた。
「今ではもう、あたしにはなにも痛くはありません」と彼女が穏やかに答えた。
鉄の棒にぶつかって、眉の上にほとんど血がにじみ出すくらいの跡ができたが、彼女は愚痴めいたことは一言も言わなかった。
間もなく、牢番の肱掛椅子が見えた。宮廷に出仕する貴族たちの目には、玉座が至尊のものに見えるが、この肱掛椅子は、囚人たちの目にはいっそう尊いものに見える。それというのも、牢獄の牢番といえば、いろいろな恩典を分ち与えてくれる相手だし、囚人にとっては、どんな恩典でも貴重なものだったからだ。しばしば、ごくちょっとした恩顧を与えられただけで、暗い空を輝くような大空に変えてくれるのである。
牢番のリシャールは自分の肱掛椅子にどっしりと腰を据えていた。自分が重要な人間だということに自信をもっていた彼は、新しいお客さんがやってきたことを告げるくぐり戸の音や、馬車の走る響きが聞えても腰を上げてはいなかった。牢番のリシャールはタバコをとり、女囚人を眺め、ぶ厚い帳簿を開き、木でできた小さなインキ壷にペンを浸した。ちょうど火山の火口の中には、いつでもなにかどろどろしたものが残っているように、湿った土の中では、インキ壷の|ヘリ《ヽヽ》に、石のように固まったインキがこびりついていた。
「牢番、大急ぎで囚人名簿を書いてくれ」と女王を連行した憲兵の首株が言った。「政府はイライラしながらわれわれを待っているんでな」
「なるほど! たいして手間はとりませんや」と牢番は、コップの底に残っていたぶどう酒を数滴、インキ壼の中に注いだ。「いますぐにとりかかりまさあ、ヤレヤレ! お前の姓名は、女市民?」
即席のインキの中にペンを浸しながら、彼はページの下のほうに書く準備をしたが、新来の女囚人の名前を書き込む名簿は、すでにほぼ九分目ほどいっぱいになっていた。一方、亭主の椅子のうしろに立っていたリシャールの細君は、好意にみちた目で、ほとんど尊敬に近い驚きをこめて、一見して、いかにも悲しそうで、同時にまたノーブルな、誇り高い、いま亭主が質問している相手のこの女囚人をしげしげと見つめていた。
「マリー・アントワネット・ジャンヌ・ジョゼーフ・ド・ロレーヌ、オーストリア大公妃、フランス女王」と女囚人が答えた。
「フランス女王だって?」と牢番は、びっくりして、肱掛椅子の腕木に手をかけて、腰を浮かしながら繰りかえした。
「フランス女王ですって?」と牢番の細君のほうも、同じ調子で繰りかえした。
「べつの言い方をすれば、カペーの寡婦《ごけ》さんだ」と憲兵の首株が言った。
「その二つの名前のうち、どちらの名前で登録すればいいんですか?」と牢番が訊ねた。
「二つのうちのどっちでもいいや、好きなほうにしろよ、とにかく早く記入できればいいんだから」と憲兵の首株が言った。
牢番は、再び肱掛椅子に腰を下し、軽く震えながら、名簿に女囚人が言った姓名と肩書を書いた。インキの色がなお赤く見えるこの書き込みは、この名簿の上に現在なお残っているが、ただ革命時代のラ・コンシエルジュリーのねずみどもが、このページのもっとも貴重な部分を食い荒してしまった。
リシャールの細君は、相変らず亭主の肱掛椅子のうしろに立っていたが、ただ宗教的な同情の念から、両手を組まずにはいられなかった。
「年齢は?」と牢番が訊ねた。
「三十七歳九カ月です」
リシャールは記入を始め、それから一字一字サインをし、形式的な書式と、特別な注意書を書くと、これで終った。
「ヨシッと! これでいい」
「女囚人はどこへ連れて行けばいいんだ?」
リシャールはもう一度タバコをつけて、細君を見たが、すると細君が言った。
「困ったわ! 前もって知らせがなかったもんだから、分りませんわ……」
「探してくれ!」と憲兵の班長が言った。
「会議室があいていますけれど」と細君がひきとった。
「なるほど! ただちょっと大きいな」とリシャールが口ごもった。
「けっこうじゃあないか! 大きいくらいなら、衛兵の配置も楽にできるしな」
「会議室へ行ってもらおう」とリシャールが言った。「ただ、差し当って、住むのはむりだな、なんったって、ベッドがないんだから」
「ほんとうですね」と細君が言った。「そのことには気がつきませんでしたよ」
「かまわんさ!」と憲兵のひとりが言った。「明日になったら、ベッドを入れればいいさ、もうすぐ明日になるぜ」
「だったら、この方は今夜はあたしたちの部屋でお寝みになったらどうかしら、どう、あなた?」とリシャールの細君が言った。
「それで、オレたちはどうするんだ?」
「あたしたちは寝《やす》まなくてもいいわよ。こちらの憲兵さんがおっしゃったように、もうすぐ夜が明けますもの」
「それじゃあ、女市民をオレたちの部屋へ案内してください」
「そのあいだに、あんたは囚人受領書を書いておいてくれよ」
「ここへ戻ってくる頃にはできていますよ」
ルシャールの細君が、テーブルの上に灯っていたローソクを持ち、先に立って歩いた。
マリー・アントワネットはなにも言わずに彼女のうしろに続いた。相変らず、穏やかで、蒼白な顔色だった。二つのくぐり戸のところへくると、リシャールの細君が合図をして、階段を閉めた。女王にひとつのベッドを指して見せてから、リシャールの細君が急いで白いシーツをつけた。入口にはくぐり戸の番人が頑張っていた。そして、鍵を二重に回して、厳重にドアが閉ざされると、マリー・アントワネットはたったひとりになった。
女王は神と差し向かいでこの夜を明かしたので、どうやってこの夜を過ごしたか、知る者はひとりもいない。
女王が会議室に案内されたのは、その翌日になってからだった。会議室は、牢獄の廊下に面したくぐり戸がある長方形の部屋で、部屋の横を、天井まで届かない間仕切りで二つに仕切られていた。
仕切りの片側は衛兵たちの部屋だった。
もう一方が女王の部屋だった。
頑丈な鉄格子をはめた窓が、二つの仕切りのそれぞれの明りとりになっていた。
ドア代りの衝立が、衛兵たちから女王を引き離して、真中に開いた口をふさいでいた。
この部屋の床いっぱいに、煉瓦が敷きつめられていた。
壁には、昔の名残りに、金箔を塗った木の枠の飾りがついていて、この枠からは、まだ、ゆりの花(フランス王家の紋章)の模様のついた紙がボロボロになってぶら下っていた。
ベッドは窓に面して置いてあり、窓あかりに近いところに、椅子が一脚置いてあった。これが女王の牢獄の室内の模様であった。
この部屋へ入ると、女王は、読みかけの本と刺繍しごとを持ってきてくれるように頼んだ。
女王のところへ、ル・タンプルで読みかけていた「イギリス革命」と、「若きアナルカルシスの旅」と、刺繍道具が届けられた。
見張り役は見張り役で、隣りの仕切り部屋にどっかり腰をすえていた。歴史は彼らの名前を止めておいてくれた。歴史は、運命のいたずらから、この二人を、あの大カタストローフに結びつく、もっとも不名誉な人間にしてしまう。そしてまた、玉座にしろ、王そのひとにしろ、落雷が打ち砕きながら投げかけた光の断片が、このカタストローフの上に反映する姿を、この二人の男のおかげで見ることができるのだ。
彼らの名前はデュシェーヌとジルベールである。
政府は、政府みずから、りっぱな愛国者として認めていたこの二人の男を指名した。二人は、マリー・アントワネットの裁判の日まで、彼らの仕切り部屋の定められた部署にとどまっていなければならなかった。つまり、一日に何度も勤務を交代するときに起こる、ほとんど避くべからざる煩雑さを、こんな方法で避けようとしたのである。そうなれば二人の衛兵には、恐るべき責任が負わされるにちがいない。
女王はその日から、どんな理由があっても、声をひそめようとしないので、彼女のところまで洗いざらい聞えてくる、二人の男の会話から、政府のこうした処置を知った。これを聞いて、女王は喜びを感じると同時に、不安もおぼえるのだった。というのは、一方では女王は、二人はあんなにたくさんの男たちの中から選ばれたくらいだから、あの二人はきっととてもしっかりしたひとたちに違いない、と自分に言い聞かせていたし、もう一方では、こんなことを考えたからである。つまり、女王に救援の手を伸ばす友人たちも、ただ何となく指名され、一日限りで、場当りに自分のそばについている正体も知れぬ男が百人もいるよりも、定まった配置について、人柄の判った二人の男をやっつけるほうが、チャンスを見つけやすいだろう、と。
最初の晩、寝る前に、二人の衛兵のうちのひとりがいつもの習慣通りにタバコを吸った。タバコの煙が間仕切りに開いた出入口から入ってきて、不幸な女王のまわりに漂ってきた。不幸なことに、女王の繊細な感覚は、そのために落ち付くどころか、逆にイライラと苛立ってきた。
間もなく彼女は、煙に酔って、胸がムカムカしてきた。頭は、窒息したような、重い感覚に悩まされた。しかし、自分でも制御できないほど誇らかな態度を忠実に守って、彼女は一言も愚痴をこぼさなかった。
女王がこの苦しい徹夜の行を続けているあいだ、夜の沈黙を破るような事件はなにも起こらなかったが、外から唸り声のようなものが聞えてくるのに気がついた。この唸り声は、悲し気で、長く尾をひいて聞えた。嵐が、森羅万象《しんらばんしょう》の熱狂に生命を与え、人間の声のような音を聞かせるときの、人気のない廊下に響く風の音のように、なにか不吉な、心をえぐるような感じがした。
やがて女王は、まず最初に自分に悪寒を覚《おぼ》えさせるこの声、悩ましげで、執拗《しつよう》なこの叫び声が、河岸で鳴いている犬の遠吼《とおぼえ》だということが判った。すぐに女王は、ル・タンプルから移されたときには頭にも浮かばなかった、あの哀れなブラックのことを考え、まちがいなくブラックの声だと気付いた。事実、あまりに警戒心が強すぎたために、自分の主人の足をすくったこの哀れな畜生は、人目につかぬように女王のあとを慕い、ラ・コンシエルジュリーの門柵のところまで馬車を追ってきたが、馬車が通ると、そのうしろでピタリと閉ざされた、左右の鉄の門扉で、あぶなく真二つにされそうになったので、ようやく馬車から離れていったのである。
しかしほどなくこの哀れなけものは戻ってきて、自分の主人がこの巨大な石の墓場に幽閉されたと判ると、遠吼をあげて主人を呼び、歩哨から十歩ばかりのところで、返礼の愛撫がかえってくるのを待っていた。
女王が大きな溜息をついてこれに答えたので、衛兵はピクリと耳をそばだてた。
ところがこの溜息ひとつだけで、マリー・アントワネットの部屋からは、その後何の物音も聞えないと、やがて衛兵たちも安心して、再びまどろみ始めた。
翌朝、女王は夜明けに起きて、身じまいをした。格子のはまった窓の傍に坐ると、鉄格子を透して洩れてくる陽の光が、女王の痩せた両手の上に蒼白く落ちかかった。見たところは読書をしているようだったが、彼女の考えは本からずっと遠いところにあった。
衛兵のジルベールが衝立を半分開き、黙って女王を見つめた。マリー・アントワネットは、裏側を軽くこすりながら折れる、衝立の|きしみ《ヽヽヽ》を耳にしたが、顔を上げなかった。
女王は、朝の光にすっかり浸った顔が、二人の衛兵によく見えるような位置に坐っていた。
衛兵のジルベールが、入口から一緒に見にこい、という合図を相棒にした。
デュシェーヌが近寄ってきた。
「見ろよ」とジルベールが小声で言った。「なんて真蒼なんだろう。恐ろしいことだぜ! 目のふちを真赤にしているのは、よほど悩んでいる証拠だぜ。まるで泣いたみたいだ」
「お前だって知ってるだろう」とデュシェーヌが言った。「カペーの寡婦さんはぜったいに泣かねえんだ。なにしろお高くとまってるから、とうてい泣けねえんだよ」
「それじゃあ、きっと病気だぜ」
と言ってから、ジルベールが声を大きくして訊ねた。
「女市民カペー、あんたは病気ですか?」
女王はゆっくりと目を上げた。その輝くような、物問いたげな眼差しが、二人の男の上に落ちた。
「あたくしにお話しになったんですの、皆さん?」と彼女は優しさのこもった声で訊ねた。というのは、自分に話しかけた男の口調に、いかにも好意のあるニュアンスを読みとったからである。
「そうですよ、女市民、あんたに言ったんです」とジルベールが答えた。「つまり、あんたが病気じゃあないか、と伺ったんですがね」
「どうしてそんなことを?」
「目が真赤だからですよ」
「それに、顔色は真蒼ですしね」とデュシェーヌがつけ加えた。
「ありがとう、皆さん。いいえ、病気ではございません。ただ、ゆうべはずいぶん苦しみましたので」
「なるほど! いろいろ悲しいでしょうな」
「ちがうんです。あたくしの悲しみなんて、いつも変りございません、それに宗教が、悲しみは十字架の下へ捨てろ、と教えておりますので、悲しみというものは、あたくしにはいつでも悩みの種にはならないのです。いいえ、病気といえば、ゆうべあまり眠れなかったからでしょう」
「なるほどね! 住居が移って、ベッドが新しいからですな」とデュシェーヌが言った。
「そればっかりか、住居のほうもあんまり上等じゃあありませんしね」とジルベールがつけ加えた。
「そのためでもございませんわ」と女王が首を振りながら言った。「きたなくっても、綺麗でも、あたくしは住居なんかには頓着いたしません」
「じゃあ、どういうわけです?」
「どうしてか、っておっしゃるんですか?」
「そうですよ」
「こんなことを申しては、ほんとうに申し訳ないんですけれど、あたくし、いまもこちらのムッシュウがプンプン匂わせている、タバコの臭みがやりきれませんの」
ジルベールは、ほんとうにタバコを吸っていたし、そればかりか、タバコを吸うのは、彼にとってはいちばん手慣れた暇つぶしであった。
「アア! これはこれは!」と、女王が自分に話しかけた優しい調子にすっかりドギマギして、彼は叫んだ。「なるほどその通りで! でも、なぜそうおっしゃらなかったんで、女市民?」
「あなたの習慣ですから、あたくしがとやこう申す権利はないと思ったものですから、ムッシュウ」
「よござんす、少なくとも、もうあたしのために気分を悪くなさることはありませんよ。あたしはもうタバコは吸いませんから」
こう言うとジルベールはパイプを投げ出し、パイプは床に当って砕けた。
そして、彼は背を向け、相棒を連れて、衝立を閉めた。
「きっと、あのひとは首を切られるんだろうな、なにしろ、こいつは国民の問題だからな。だけど、あの女を苦しめたところで、何になるっていうんだい? オレたちは兵隊で、シモンみてえな首斬り役とは訳が違うからな」
「でもなあお前、お前のしたことは、ちょっとばかり特権階級じみちゃあいねえかな」とデュシェーヌが首を振りながら言った。
「特権階級たあ、なんのことだい? えっ、ちょっと説明してもらいたいな」
「オレはな、国民の癇にさわることをしたり、国民の敵を喜ばしたりすることは、みんな特権階級じみてる、と言ってるのだよ」
「って言うと、お前流に言えばだな」とジルベールが言った。「つまり、オレがカペーの寡婦さんをタバコの煙でいぶし攻めにするのをやめたから、国民の癇にさわる、とこういうわけかい? サア、いいか! 分るかい」とこの親切な男が続けた。「オレはな、祖国に対する自分の誓いと、憲兵班長の規則ぐらいは思い出せるぜ、それだけでじゅうぶんだろう。ところが、オレが守る規則は、そらでも言えるぜ。『女囚人の逃亡を防ぐこと、なんぴとも女囚人のそばに寄せつけぬこと、女囚人がひとと交し、やりとりするあらゆる交通を断つこと、自分の部署を守って死ぬこと』オレが約束したのはこれだよ、それに、オレはそれを守っているぜ。国民バンザーイだ!」
「オレがああ言ったからって」とデュシェーヌが答えた。「べつにお前を悪く思ってる訳じゃあねえぜ、それどころか、反対だよ。ただな、お前がなにか間違いでもしでかしゃしないか、心配しただけのことだよ」
「シッ! だれか来たぜ」
二人は低い声で喋っていたのだが、女王はこの|やりとり《ヽヽヽヽ》を一語も聞き洩らさなかった。幽閉された身には、感覚の鋭さが二倍になるものである。
二人の衛兵の注意を惹いた物音は、ドアに近づいてくる数人の足音だった。
ドアが開いた。
二人の警備隊員が、牢獄と、数人のくぐり戸の番人を連れて入ってきた。
「どうだな、女囚人の様子は?」と彼らが訊ねた。
「あちらにおります」と二人の衛兵が答えた。
「住み心地はどんな具合だね?」
「とにかくごらんください」
と言って、ジルベールが衝立をたたいた。
「なんのご用ですか?」と女王が訊ねた。
「政府の委員の方が訪ねてみえました、女市民カペー」
マリー・アントワネットはこんなことを考えていた。
『このひとは気立てのいいひとだわ。でも、あたくしを助けてくれるお友だちが、もしこのひとを……』
「いいよ、いいよ、そのまま、そのまま」と警備隊員たちは、ジルベールを向うへ追いやって、女王の部屋に入りながら言った。「なに、そんなにかしこまらなくてもいいよ」
女王は顔を上げなかった。女王の無感動な態度を見ていると、いまなにが起こったのか、見もしなければ聞いてもいない、相変らずひとりで部屋にいる、と思っているのではないか、と思えるほどだった。
政府の委員たちは、部屋のこまごましたものをすべて、好奇のまなこで眺めまわし、木彫り模様や、ベッドや、女囚の運動場を見晴らす窓の鉄格子を手で触ったりした。そして衛兵たちにしごく細かい警備上の注意をしてから、委員たちのいるのにもぜんぜん気の付かない様子をしていたマリー・アントワネットには言葉をかけずに、部屋を出ていった。(つづく)