赤い館の騎士(下)
アレクサンドル・デュマ/鈴木豊訳
目 次
三十五 裁判所の控え室
三十六 市民テオドール
三十七 市民グラッキュス
三十八 王子
三十九 すみれの花束
四十 ル・ピュイ・ド・ノエの居酒屋
四十一 陸軍省の書記
四十二 二通の手紙
四十三 ディメールの作戦準備
四十四 メーゾン・ルージュの騎士の作戦準備
四十五 恋人をたずねて
四十六 裁判
四十七 司祭と首斬り役人
四十八 荷馬車
四十九 断頭台
五十 家宅捜索
五十一 ローラン
五十二 ローラン(続)
五十三 決闘
五十四 死刑囚の部屋
五十五 ローランはなぜ牢を出たか
五十六 シモン・ばんざい
解説
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三十五 裁判所の控え室
読者が先程ごらんになった、警備隊員たちが、実に克明に、女王の牢獄を調べてまわった同じ日の夕方のことであった。灰色の革命服を着て、黒いたっぷりした髪で、その黒い髪の上に、この当時、一般の民衆のうちでも特に熱狂的な愛国者が好んでかぶるけば立ったボンネットをかぶった男が、「足音のしないホール」(裁判所の控え室)という、実に意味深長な名前でもって呼ばれていた大ホールの中をブラブラと歩いていた。
男は、このホールにはいつも群をなして集まるひとびとの行きかいを、すこぶる注意深く眺めていた。ここに集まる群衆は、この時期にはひじようにふくれ上がっていたが、ここでの裁判はとても有名になっていたし、ここではもはや弁護はするといっても、それはただほとんど、首斬り役人や、首斬り役人への疲れを知らぬ供給者である、市民フーキエ・タンヴィル(検事として、恐怖時代に活躍するも、自身も後に斬首刑を受く)に首を配給するため、といってよかった。
いま、肖像をザッと描いて見せた男がとっていた態度は、実に趣味の洗練されたものであった。この時代には、社会は二つの階層に区別されていた。すなわち、羊の群と、狼の群である。もちろん、一方の階層はべつの階層を恐怖に追い込んだ、というのは、社会の半分がべつの半分をむきぼり食ったからである。
われらが兇暴な散歩者は、小柄な男だった。彼は黒いきたない手に、「けんぽう」(憲法)と呼ばれていたあの棍棒を一本ブラ下げていた。この恐ろしい武器をブラブラさせている手は、見知らぬ人間に向かって、他人など眼中にない我物顔の、|せんさく《ヽヽヽヽ》好きな役割を演じている男としては、とても小っぽけなように見えたのは事実である。
実際、この棍棒をぶら下げた男は、こんな堂々とした態度で、社会問題について議論をしている、事務室勤めの書記のグループにとても重苦しい不安な気分を与えていたものである。社会問題といえば、この時代は日一日と険悪になり始めていたが、あるいは保守的とか、革命的とかいう見地からこの問題を検討してみれば、日ましに好転し始めていた。この親切な書記連中は、この男の黒く長い|ひげ《ヽヽ》、まるでブラシのように太い眉毛の中にはまり込んだような緑色の目つきなどを横目で見やり、この恐るべき愛国者がブラブラ歩き、控え室の奥行を隅から隅まで歩きはじめて、自分たちのそばへ近づくたびに、寒気がしたようにゾッとするのだった。
とりわけこんなに書記たちをこわがらせたのは、彼らが思いきってこの男に近づこうとしたり、あるいはあまりしげしげと男を見つめたりするたびに、この棍棒を持った男は、敷石をたたいて、彼の重い武器をガンガン鳴らし、敷石の石をひっぺがすと、その石の上へ武器を落としてみせたことだった。すると敷石は、時にはさえない、ズーンという音をたてたり、時にはまたかん高い、よく響く音をたてたりしたものだった。
しかし、こんなゾッとするような印象を抱いたのは、ただに、いま紹介した、そして、一般に裁判所の|ねずみ《ヽヽヽ》という異名で呼ばれていた、例の事務所勤めの書記連中ばかりではなかった。広い扉や、あちこちの狭い出入り口から控え室に入ってきて、棍棒を持ったこの男をチラリと見やりながら通り過ぎてゆく、いろいろな種類のひとびとまで、同じようにゾッとするのだった。この男は、相変らず執拗にホールの端から端まで歩き続け、そのたんびに、なにかの口実を見つけて、敷石の上を棍棒でたたいて音をたてていた。
もしこの書記連中がこれほど怖気《おじけ》づいていず、また中を歩いている者に目はしのきく男がいたらば、彼らはおそらく、われらの愛国者も、風変りな、あるいは極端な人間すべてに共通なように、好奇心の強い男で、中のいくつかの敷石に特に興味を持っているらしい、ということに気がついたに違いない。その敷石というのは、例えば、右側の壁からほんの少し離れたところにあるやつとか、ホールのほとんど中央にあって、いちばん澄んだ、しかもいちばんよく響く音で反響してきたやつである。
男はついに、ただ二つか三つの敷石にだけ自分の怒りを集中してしまったが、とりわけ中央のいくつかの敷石がそうだった。一瞬、男は我を忘れたようになって、足を停めて、なにか距離を目測していた。
こんな我を忘れたようた様子がそれほど永続きせず、男がすぐにもとの兇暴な感じのする眼付きにかえったことは事実だが、ただその前に、その眼付きが変って歓喜の光りが宿っていた。
ほとんどそれと同時に、もうひとりの愛国者――この時代には、みなそれぞれその額に、というよりはその服装の上に、自分の意見を表明していたものであるが――ほとんど同時にべつの愛国者が廊下のドアから入ってきて、最初からいた愛国者がみんなに与えた、あのゾッとするような感じなど、ぜんぜん感じないような様子で、はじめの男とほとんど同じような歩き方で、ホールの中を歩き始めた。従って、ホールの中程までくると、二人はバッタリ顔を合わせた。
新来の男も、もうひとりの男と同じようにけば立ったボンネットをかぶり、灰色の革命服を着、きたない手には棍棒をブラ下げていた。そればかりか、彼ははじめの男よりも一枚|上手《うわて》で、腿のところに、大きなサーべルをバタンバタンとブラ下げていた。はじめの男より、第二の男のほうがずっと恐ろしそうなのは、とりわけ、最初の男が恐ろしい様子をしていると同様、第二の男は、なにか偽者《にせもの》じみた、いやらし気な、下卑た態度をしていたことであった。
だから、この二人の男が同じ動機でやってきて、同じ意見を持っていたようには見えたものの、まわりにいた者は、これからどんな結果になるか見ようとして、チラリと眺めてみるだけの勇気もなかった。もっとも結果といっても、二人はちょうど同じ線の上を歩いていたわけでもないから、二人がバッタリぶつかることではなく、二人が近づいたとき、どんなことが起こるか、という意味である。ひと回りめのときには、一同の期待は裏目に出た。二人の愛国者は、視線を交しただけだったが、ただこの一瞥を受けただけでさえ、二人のうちの小柄なほうは、ちょっと顔色が蒼くなった。唇を、ただ無意識に動かしただけだったが、この蒼白な顔色は、恐怖感からではなく、嫌悪の気持が原因だったことは明白だった。
ところが、二回りめになると、はじめの愛国者は激しい努力でもしたように、それまでは、粗野でとっつきにくかった顔付きが明るくなった。なんとか優美に見せようと努力して、なにか微笑らしいものが唇に浮かび、歩くコースを軽く左に移したが、これは明らかに、自分のコースの上に第二の愛国者が止まるようにという意図と見えた。
ほとんどホールの中心で、二人はバッタリ出会った。
「ヤア! 市民シモンじゃあないか!」と最初の愛国者が言った。
「シモンはおいらだが! その市民シモンになんの用だ? だいいち、おめえはだれだ!」
「オレを知らねえふりをしようっていうのか?」
「どう考えても、オメエなんざあぜんぜん知らねえな、はっきり言やあ、オメエなんざあ一度も会ったこともねえや」
「とんでもねえ! じゃあなにか、ランバル(マリー・アントワネットの側近で、九月虐殺の折に殺さる)の|あま《ヽヽ》の首を取った男のことを知らねえとでも言うのか?」
ドスのきいた恐ろしい調子で口をついたこの言葉は、革命服を着た愛国者の口から、燃えるような勢いでとび出た。
「おめえがか?」と彼は言った。「おめえがだって?」
「そうとも、びっくりしたかい? アア! 市民、オレはお前がもっと友だち思いで、信用できるやつだと思っていたぜ!……がっかりさせるぜ」
「なるほどおめえの言ったとおりだ。でも、おめえのことは知らなかったぜ」
「なにしろカペーの小僧の監視をしてるんだから、お前のほうがワリがいいやな、いよいよお前は有名だからな。だからオレのほうじゃあお前をよく知ってるし、大したもんだと思ってるんだ」
「そりゃあ、ありがてえ!」
「なんかあるのか……それでこんなところを歩き回ってるんだろう?」
「そうとも、あるひとを待ってるんだけどな……で、おめえは?」
「オレだってそうだ」
「ところで、おめえはなんっていう名前だい? クラグヘ行ってオメエのことを話しといてやるからな」
「オレはテオドールっていうんだ」
「で姓のほうは?」
「姓って、それだけさ。なにか、それじゃあ不足だっていうのか?」
「とんでもねえ! じゅうぶんだよ……いったいだれを待ってるんだ、市民テオドール?」
「友だちだよ、その男に、ちょっとした、すばらしい密告をしてやろうと思ってな」
「ほんとかい! どうだ、おいらに話してみねえか」
「ひとにぎりばかり特権階級の野郎どもがいるんでな」
「なんていう名だ、その野郎どもは?」
「だめだ、そいつばかりは、その友だちにしか話せねえんだ」
「どうも筋が通らねえな。おあつらえ向きに、おいらの友だちがこっちへやってくらあ、あのひとときたら訴訟手続きならなんでもござれだから、おめえの事件だってアッという間に片付けてくれるだろうぜ、どうだい?」
「フーキエ・タンヴィルじゃあねえか」と第一の愛国者が叫んだ。
「それそれ、その通りよ、おめえ」
「よしきた、それならいいや」
「そうともよ、いいにきまってらあ……こんにちは、市民フーキエ」
フーキエ・タンヴィルは、蒼白い、穏やかな男で、いつもの癖で、濃い眉の下のくぼんだ黒い目を開いて、ホールの脇のドアから人をかき分けながらやってきた。手には帳簿を、腕には書類をたばさんでいた。
「やあ、今日はシモン。また何か新しいことでもあるのかね?」と彼が言った。
「どっさりありまさあ。でも、まず市民テオドールの密告を聞いてやっておくんなさい、こいつは例のランバルのあまっこの首をとったやつでさあ。こいつを紹介しますよ」
フーキエがこの愛国者に、理智的な眼差しをじっと据えて見たので、勇敢に、神経をはりつめていたけれども、こうしてじっと見つめられると、その男も体が震えてしまった。
「テオドールね、そのテオドールという男はだれだい?」
「わたしです」と革命服の男が言った。
「きみがランバルの首をとったのかね、きみがね?」とこの検事は、いかにも疑わしそうな調子で言った。
「わたしが、サン・タントワーヌでやったんです」
「しかし、わたしは、自分がやったと言って頑張っている男をひとり知っているがね」とフーキエが言った。
「それなら、わたしだって十人ばかり知っていますよ」と市民テオドールが恐れ気なく言い返した。「けれど、そういった連中はなにか欲しがってやってるんですが、わたしはなんにも欲しがりません、ただ選ばれた男になりたいんですよ」
こんな言い回しを聞いてシモンは笑い出し、フーキエも機嫌を直した。
「なるほどきみの言う通りだ。それにもしきみがやらなかったとしても、きみなら、かならずそのくらいのことはしただろうからな。失礼だが、わたしたちだけにしてくれないかね。シモンがなにか、わたしに言いたいことがあると言うんでね」
テオドールは、この検事の遠慮のなさにも、それほど気にするふうもなく、離れた。すると、シモンが叫んだ。
「ちょっと待ってくださいよ、そんなふうに、あいつを追い返さないでくださいよ。まず、あいつが話しにきた密告を聞いてやってください」
「なに! 密告があるというのかね?」とフーキエ・タンヴィルが上の空で言った。
「そうなんで、ひとにぎりのやつらですがね」とシモンが言った。
「なるほど、話したまえ。どんな事件だね?」
「なあに! べつに大したことじゃあありませんよ。メーゾン・ルージュとその一味のことなんですがね」
フーキエがうしろヘパッととび下がった。シモンは両腕を空へ上げた。
「そりゃほんとうか?」と二人が異口同音に言った。
「正真正銘、まちがいなしですよ。どうです、一味を捕えたいですかね?」
「すぐにでも。一味はどこだ」
「わたしは、ラ・グランド・トリュアンドリー街でメーゾン・ルージュのやつに会ったんですよ」
「そりゃ思い違いだな。あいつはパリにはいないよ」とフーキエが言った。
「言ったでしょう、わたしはあいつに会ったんですよ」
「とうていむりだよ。あいつを追跡して、百人もの男を動員したんだよ。街ヘブラブラ現われるなんて、どう考えてもあいつじゃあないよ」
「あいつだ、あいつだ、あいつですよ」と愛国者が言った。「背の高い茶色の髪の男で、いかにも強そうで、熊みたいに毛深いやつでしたよ」
フーキエはいかにも軽蔑したように、肩をそびやかして言った。
「またばかばかしい密告だ。メーゾン・ルージュは、小柄で、痩せて、ひげなんか生やしていないよ」
愛国者はいかにもがっかりした様子で、両腕をブランとたらした。
「まあよろしい、気持がりっぱなら、いいことをしたのと同じだよ。ところでシモン、われわれ二人のはなしだが。急いでくれんかね。書記課ではわたしを待ちかねて囚人護送車のくる時間なのでね」
「ようがす、べつにとりたてて何もありませんや。|がき《ヽヽ》はご機嫌でさあね」
例の愛国者は、あんまりずうずうしく見えないような格好で背中を向けていたが、聞き耳をたてている様子だった。
「邪魔なら、オレは行くぜ」と彼が言った。
「じゃあ、あばよ」とシモンが言った。
「ご機嫌よう」とフーキエが言った。
「ありゃあ、おめえの勘ちがいだったと、友だちに言っときなよ」とシモンがつけ加えた。
「いいとも、オレはやつを待ってるんだ」
と言うとテオドールはちょっと向こうへ行き、棍棒によりかかった。
「で、子供の体の具合は相変らずなんだな」とフーキエが言った。「しかし、精神のほうはどうかね?」
「なに、そのほうならこっちの心まかせにこねくってやりまさあ」
「じゃあ、彼は口を訊くかね?」
「あっしが訊かせたいと思うときはね」
「で、きみの考えでは、あの子供がアントワネットの裁判で証人になれる、と思うかね?」
「もちろん、まちがいなしでさあ」
テオドールは柱に背をもたせかけて、あちこちの扉に目をやった。ところが、この男の両耳は、むき出しになっていて、例のけば立ったボンネットの下でピンと聞き耳を立てているように見えるのに、その眼差しは空ろだった。おそらく、彼はなにひとつ目に入らないらしいが、なにかを聞いていることは、確実だった。
「いいかな、よおく考えてくれよ」とフーキエが言った。「よく言う、|未熟な失敗《ヽヽヽヽ・》というやつを委員会にさせないように頼むよ。カペーが喋るのはまちがいない、と言うんだね?」
「あっしの思う通り、なんでも喋りまさあね」
「子供はお前に喋ったかね、いずれわたしたちが子供に訊ねるようなことを?」
「喋りましたとも」
「これは大事なことだよ、市民シモン、いまお前が約束していることは。子供がそんなことを白状すれば、母親にとっては死の宣告になるんだからね」
「そこは抜け目はありませんやね!」
「ネロとナルシス(ネロの先帝クラウディウスの息子ブリタニキュスのお守役で、ネロと語って、ブリタニキュスを毒殺す)のあいだで打ち合わされた内緒ばなし以来、こんなことはだれもまだ見たこともないだろうな」とフーキエは、陰鬱な声で呟いた。「もう一度考えてくれないか、シモン」
「市民、まるで、あんたはあっしを脳タリンと思ってるみたいですぜ。いつでも、あんたは同じことを繰りかえしているんだから。いいですか、こんなたとえが分りますかい。あっしがね、革を水の中へ浸けたら、革は柔らかくなりますかね?」
「そうだな……わたしには分らんが」とフーキエが答えた。
「革は柔らかくなりまさあね。そこでだ、カペーの|ガキ《ヽヽ》は、あっしの手で、いちばん柔らかい革と同じくらいすなおになってるんですよ。これにゃあ、あっしのやり方がありましてね」
「いいだろう」とフーキエが口ごもった。「きみが言いたいのは、それだけかね?」
「それだけで……そうだ、忘れていた。告発することがあるんでさあ」
「相変らずか! お前ときたら、まったく、わたしにいやというほど仕事を押しつけるんだね?」
「祖国のお役に立たなきゃあね」
シモンは、先刻たとえばなしに出した革と同じくらい真黒な、しかしどう見てもずっと固そうな紙きれを差し出した。フーキエは紙きれをとって、読んだ。
「また、お前の例の市民ローランのことかい。お前はよっぽど、この男とソリが合わんらしいね?」
「あっしはね、いつもあいつが法に背中を向けているところを見ているんでさ。あの野郎ときたら、ゆうべ、窓のところであいつに挨拶している女に向かって、『さようなら、|マダム《ヽヽヽ》』なんて抜かしていましたよ……あしたは、もっとべつの嫌疑者のことで、あんたにちょっとはなしがあるんですよ。ほかでもねえ、赤いカーネーション事件のときの、ル・タンプルの警備兵だった、例のモオリスのことでさあ」
「まあまあ、確実なことをな! 確かなことを頼むよ!」とフーキエは笑いながら、シモンに言った。
彼はシモンに手を差し出して、忙しげに背を向けたが、その態度は、この靴直しに、あまり好感を持っていないようだった。
「確実なことがいいって言うんですかい? だって、もっとつまらねえことで、ギロチンにかかったやつらだっていますぜ」
「まあまあ! 我慢するんだな」とフーキエが穏やかに答えた。「いっぺんに全部やろうっていっても、できない相談だよ」
と言って、彼は急ぎ足で、木戸をくぐって中へ入った。シモンは、例の市民テオドールを相手に憂さ晴らしをしようと思って、目で彼を探したが、もうホールの中には、その姿は見えなかった。
彼が西側の柵を越えるやいなや、テオドールが書記室の隅のところに現われた。書記室に勤めている男が、彼と一緒だった。
「ここの柵は何時に閉めるんだい?」とテオドールがその男に訊ねた。
「五時です」
「で、その後は、ここはどうなるんだ?」
「どうっていうこともないです。翌日まで、ホールが空になるだけです」
「夜警とか、検査とかは?」
「ありません、ムッシュウ、部屋は全部鍵をかけてしまいます」
この|ムッシュウ《ヽヽヽヽ・》、という言葉を聞いて、テオドールは眉をひそめ、急いで疑い深そうにまわりを見渡した。
「ペンチとピストルは小屋の中にあるだろうな?」と彼が訊ねた。
「ええ、絨毯の下です」
「じゃあ、自分の席へ戻りたまえ……アア、そうそう、もう一度、窓に格子のはまっていない、この法廷の部屋を教えてくれ、ホラ、ドフィーヌ広場の近くの中庭に面している窓のことだよ」
「柱の間の左側です、シャンデリアの下のほうの」
「よしッ行きたまえ、例の指定したところで馬を頼むぞ!」
「いいですとも! うまくやってください、ムッシュウ、成功を祈りますよ!……わたしのほうはご心配なく!」
「いまちょうどチャンスだぞ……だれも見ていないし……部屋を開けろ」
「もう開いてます。あなたのために祈っていますよ!」
「祈らなけりゃあならんのは、わたしのためじゃあないよ! じゃあな」
こうして市民テオドールは、雄弁な眼差しを投げかけてから、まるで、ドアの中へ消えた書記の影のように巧みに、部屋の小さな屋根の下に消えてしまった。
このりっぱな書記は、鍵穴からキイを抜きとり、書類を腕にかかえて、五時の鐘とともに、ちょうど群からおくれた蜜蜂のしんがり蜂のように、書記課の部屋から出てきた、まばらな勤め人に混じって、広いホールを出ていった。
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三十六 市民テオドール
夜が、不幸な|こだま《ヽヽヽ》となって、弁護士たちの甲高い言葉や、訴訟人たちの哀訴の声を、仕事のように繰りかえしているこの広い法廷のホールを、灰色の大きなヴェールで、すっぽりと包み込んでいた。
時たま、うす暗がりの真中で、どっしりと、真直ぐに立った白い柱が、この神聖な場所のまぼろしの保護者然として、ホールの真中で夜警をしているように見えた。
このうす暗がりの中に聞えてくる唯一の物音といえば、はじめに木材を噛んでから、今度は書記たちの部屋に蔵い込まれた、意味のない書類をかじる、ねずみどものガリガリという歯の音と、四足で小走りに走る足音だけだった。
時にはまた、あるアカデミー会員の言葉のように、このテミス(神話で、正義の神)の神殿まで入り込んでくる馬車の響きや、地底から湧き上がってくるような、鍵のガチャガチャという漠とした物音が聞えてきた。しかしこうした物音もみな遠くのほうでかすかに聞えるだけで、ちょうど、遠くに見える明りはただのまぼろしに似て、このうす明りをくっきり描き出すものはなにひとつないのと同じように、遠くかすかに物音が聞えても、この沈黙の中のざわめきを、はっきりとさせる物音はコソとも聞えなかった。
たしかに、こんな時間に、この裁判所の広いホールヘうっかり足を踏み込んだ者は、目まいのするような恐怖に捉われたことだろう。裁判所の外側の壁は、まだあの九月の虐殺の犠牲者の血で真赤に染まっていたし、その階段は、同じ日に死刑を宣告された二十五人の姿を目撃していたし、またわずか厚さ何十センチしか離れていないところが、白い骸骨が山なす、ラ・コンシエルジュリーの牢房になっているのである。
ところが、このゾッとするような夜中に、このほとんど荘重とも言えるような沈黙の中で、かすかにギイーッときしむ音が聞えてきた。書記室のドアがきしみを立てて回り、夜の影よりもいっそう黒い影が、用心深く小部屋の外へすべり出した。
そのとき、低い声で|ムッシュウ《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれ、テオドールと自称していた例の熱狂的愛国者が、でこぼこな敷石の上を、すり足で軽く歩いてきた。
彼は右手には鉄の重いペンチを持ち、左手は、バンドに差した二連発のピストルを押えていた。
「あの小部屋のところから数えて、十二番目の敷石だったな」と彼が呟いた。「よし、ここが初めの境界だ」
数を数えながら、彼は足の先で、古くなったので、ひとつひとつの石のつなぎ目がはっきり見分けられるようになっている、透き間を探ってみた。足を止めて、また呟いた。
「よし、測り方に間違いはなかったかな? わたしのほうは大丈夫だが、あの方は、あの方はそれだけの勇気をお持ちかな? なに! 大丈夫だ、なんと言ってもあのお方が勇敢だということはわたしはじゅうぶん知っている。アア! 神よ! わたしがあのお方の手をとり、『マダム、助けに参りました……』と言ったら」
彼は、こんな希望の重みに圧しつぶされたように、足を止めた。彼は再び続けた。
「アア! 毛布に体を包んだり、下男に変装して、ラ・コンシエルジュリーのまわりをうろついている仲間の連中は、無謀で、意味のない計画だ、なんて言っているだろう。しかしまあ、連中がどう言おうとかまわない、わたしがあえてこんな危険を冒すのは、ただに、女王をお救いしたいだけじゃあないんだ、さらに、いや、とりわけひとりの女性を救うんだから」
「サア、仕事にかかろう、復習してみよう」
「まず敷石をはぐ、こんなことは何でもない。敷石をそのままにしておくと、夜警がやってくるから危険だな……いや、しかし夜警はけっしてこないんだ。わたしには共犯者がいないから、疑いはかからんだろう。それに、わたしみたいな意気込みがあれば、暗い廊下を通り抜けるのにどのくらいの時間が要るというんだ? あのお方の部屋の下へ行くまでに三分ほど。次の五分で、暖炉の炉の部分に敷いてある石をもち上げる。あのお方にはわたしが仕事をしている音が聞えるだろうな。でもあのお方はとてもしっかりしていらっしゃるから、こわがることもあるまい! それどころか、救援の手が伸びている、ということがお分りになるだろう。あのお方の警備は二人の男だ。ひょっとすると、この二人が殺到してきて……」
「かまわん、いずれにしろ二人じゃあないか」と言ってこの愛国者は、暗い微笑を浮かべて、バンドに差してあるピストルと、手に持っている武器をかわるがわるに見た。「二人なら、このピストルを二発ぶっぱなすか、この鉄のペンチを二度お見舞いすればいいわけだ。でも哀れな連中だ!……アア! ほかにもたくさん死ぬだろうな、大して罪もない連中が。サア、やろう!」
こう決心して、市民テオドールは、二枚の敷石の透き間にペンチを差し込んだ。
と同時に、鋭い光が、金の筋のように敷石に差し、騒音が、円天井に|こだま《ヽヽヽ》となって響いてきたので、この陰謀者は顔を振り向け、ひと跳びして、小部屋のうしろへきてうずくまった。
やがて、離れているのでかすかに聞える、そして、夜、広い建物の中にいるとだれでも経験するあの感じから、弱々しげに聞える声がテオドールの耳まで届いた。
彼は体を低くして、小部屋の口から、最初に、軍服を着ているひとりの男を認めた。敷石の上で大きな音をたてる、彼の長いサーベルが、先程彼の注意をひいた音をたてたのである。次に、手に定規を持ち、腕に巻いた紙を抱えたピスタチオの実のような緑の服を着た男。つぎに、ラチネ織のダブダブの上着を着て、毛皮のボンネットをかぶった男。そして四番目の男は、木靴に革命服といういでたちだった。
レ・メルシエ廊下に続くドアがきしみ声をあげながら開き、昼のうちドアを開けたままにしておけるようにした、鉄の鎖にぶつかって音をたてた。
四人の男たちが入ってきた。
「夜警だ」とテオドールが呟いた。「神よ、感謝いたします! もう十分おそかったら、だめになるところだった」
それから、細心の注意を払って、彼は夜警をしている男たちの顔を見覚えようとして一生懸命になった。
結局、そのうち三人はすでに知った顔だった。
将軍の服装をして、先頭に立っているのはサンテールだった。ラチネ織の服に、毛皮のボンネットをかぶっているのは牢番のリシャール。木靴に革命服の男は、おそらくくぐり戸の見張り番にちがいない。
けれども、手に定規を持ち、書類を腕にかかえている、緑色の服の男は一度も見たことがなかった。
この男はいったい何者か、そして、革命政府の将軍と、ラ・コンシエルジュリーの牢番と、見張り審とこの見覚えのない男は、夜の十時に、裁判所の控え室へ、なにをしにやってきたのだろうか?
市民テオドールは、片膝に重みをかけて、片手に弾丸をこめたピストルを持ったまま、もう一方の手で|かつら《ヽヽヽ》の上にのったボンネットを直した。というのは、先程あまり急いで体を動かしたので、頭の地《ヽ》からうんとずれてしまって、かつらが不自然に見えたからだ。
その時まで、四人の夜の訪問者は沈黙を守っていた、というより、少なくとも、彼らが口にする言葉は、意味のない音のようにしか、陰謀者の耳にまで届いてこなかったのである。
彼の隠れているところから十歩ほど離れたところで、サンテールが喋り、その声は市民テオドールのところまではっきり聞こえた。
「さあて」と将軍が言った。「建築家君、これから先はきみに案内を頼もう、特に気をつけて、きみの言う新事実が|たわごと《ヽヽヽヽ》じゃあないところを見せていただこうじゃあないか。われわれは、そんな地下道がどうのこうのということは、幽霊同様に信用できんからね。きみはどう思う、市民リシャール?」と、毛皮のボンネットにラチネ織の上着の男のほうを向いて、彼がつけ加えた。
「ラ・コンシエルジュリーの下に地下道がないとは、あたしは一度も言っていませんぜ」と牢番が答えた。「ここにいるグラッキュスですがね、この男は十年も前からくぐり戸の見張りをしていますし、ですから牢獄のことなら自分のポケットみたいに知り尽くしていますが、市民ジロオがおっしゃる地下道があったなんていうことは知らねえ始末ですよ。でも、市民ジロオは市の専属の建築家ですから、ご商売がらから考えても、あたしたちより、そちらのほうはよくご存知のはずでさあ」
テオドールは、こんな言葉を聞いて、頭から爪先までゾッと戦慄《せんりつ》が走った。
「まあさいわいに、ホールは広いからな」と彼は呟いた。「あの男が探し物を見付けるまでには、少なくとも二日はかかるだろう」
ところが建築家は、抱えていた大きな巻いた紙を拡げ、眼鏡をかけて、図面の前に膝まづき、グラッキュスが手にしているほのかなランタンの明りで、図面を検べはじめた。
サンテールがひやかし気味に言った。
「どうも、市民ジロオが夢を見ているんじゃあないかとおそれているんだがね」
「今に分りますよ、将軍」と建築家が言った。「ぼくが夢をみているかどうかね。まあお待ちなさい」
「ごらんの通り待ってるよ」とサンテールが言った。
「よろしい」と建築家が言った。
次に計算しながらこんなことを言った。
「十二プラス四で十六と、それに八で二十四、これを六で割ると四になる。その後で残りが二分の一と! よろしい、これで場所が定まった。三十センチでも間違っていたら、能なしとでも何とでも言ってください」
建築家が確信あり気にこんな言葉を口にしたので、市民テオドールは恐怖のために凍りついたような感じがした。
サンテールは、一種の尊敬をこめた眼差しで図面を見つめた。彼には、意味が解らないだけ、よけいに舌を巻いているように見えた。
「ぼくが言う通りについてきてください」
「どこへだね?」とサンテールが訊ねた。
「なあに、ぼくが引いた図面の上でですよ! よろしいですかな? 壁から五メートルばかりのところにグラグラしている敷石があります。これにAという印をつけますよ。それがわかりますか?」
「そのAなら、まちがいなく分るよ」とサンテールが言った。「きみは、わしには字が読めんとでも言うのかね?」
「この敷石の下に階段があります」と建築家が続けた。「いいですか、Bという印をつけましたよ」
「B」とサンテールが繰りかえした。「Bという字は見えるが、階段など見えんね」
と言って将軍は、この冗談に大仰《おおぎょう》に笑い出した。
「この敷石を持ち上げて、階段のいちばん下の段に足がかかったら大跨で五十歩数えて、上を見るんです、あなたの位置はちょうど書記室のところで、この地下道は、女王の牢獄を通ってここに通じているのです」
「きみの言うのは、カペーの寡婦のことだな、市民ジロオ」とサンテールが眉をひそめながら言いかえした。
「イヤ! そうでした、カペーの寡婦です」
「先程、きみは女王《ヽヽ》の、と言ったんだよ」
「つい昔の習慣が出て」
「で、書記室の下へ出られるとおっしゃるんですかい?」とリシャールが訊ねた。
「ただ書記室の下というだけでなく、書記室のどの部分に出るかも当てて見せるよ。ストーヴの下だよ」
「なるほど、奇妙なはなしでさあ」とグラッキュスが言った。「ほんとにね、あの場所で薪を落としたりすると、下の石が反響するんですよ」
「いや、事実、きみの言う通りだと分ったら、建築家君、幾何学というのは、大したしろものだ、と認めるよ」
「よろしい、では認めていただきますかな、将軍、というのは、ぼくがこれからAという字で印をつけた地点までご案内しますから」
市民テオドールは、爪が肉に喰い込むぐらい手を握りしめていた。サンテールが言った。
「この目で見たら、この目で見たら、わしは聖トマ(使徒トマ、キリストの復活を信じず、その姿を見てはじめて信じた)みたいなもんだ」
「オヤ! |聖トマ《ヽヽヽ》とおっしゃいましたな?」
「なるほど、その通りだ。なに、きみが女王《ヽヽ》と言ったのと同じで、つい習慣でね。まあ、たかが|聖トマ《ヽヽヽ》と言ったぐらいで、わしが陰謀を計画したと告訴されることもあるまいて」
「ぼくの女王《ヽヽ》だって同じことですよ」
こう答えると建築家は、そっと定規をとり上げ、一度足を停めて、すべての距離を入念に計算し終った様子で敷石の上をたたいた。
この敷石は、市民テオドールが昼間、激昂しながらたたいていたのとピッタリ同じ石だった。
「ここです、将軍」と建築家が言った。
「たしかかね、市民ジロオ?」
小部屋に隠れていた愛国者は、我を忘れて、低いうめき声を上げながら、拳固で激しく腿をたたいたほどだった。
「まちがいなしです」とジロオが言った。
「ぼくの報告書にあなたの鑑定の結果をつければ、ぼくの言うことに誤りのないことが、革命政府に証明できると思います。そうです、将軍」と建築家は大袈裟な調子で続けた。「この敷石はですな、カペーの寡婦の牢獄の下を通って、書記部屋まで続いている、地下道の口になっているのです。この敷石を上げてみましょう、ぼくと一緒に地下道を降りてください、そうすれば、男が二人かかれば、いやひとりでさえも、だれにも疑われることなく、一晩のうちにあの女を救い出せる、ということを証明してごらんに入れましょう」
建築家のこの言葉がまき起こした恐怖と賛嘆の呟きがグループの一同に伝わり、市民テオドールの耳まで届いて消えた。テオドールはまるで彫像に変ったように見えた。
「ごらんなさい、こんな危険が迫っていたんですよ」とジロオが言葉を続けた。「さて、ぼくならば、地下道の廊下にくぐり戸をひとつつけますな、そしてカペーの寡婦の牢へ行くまでに、道を半分に仕切ってしまうんですよ。これでぼくは祖国を救った、というわけですな」
「アア! 市民ジロオ」とサンテールが言った。「すばらしい考えじゃないか」
「地獄へ堕ちろ、ちくしょうめ!」と例の愛国者は、前よりも怒りを感じながら口ごもった。
「サア、敷石をあげてみたまえ」と建築家が、ランタンのほかに、さらにペンチまで持っていた市民グラッキュスに向かって言った。
市民グラッキュスが仕事にかかり、しばらくして、その敷石を持ち上げた。
すると階段のついた地下道がパックリと口を開けて現われた。その階段の底のほうは見えなかったが、蒸気のように厚い、カビ臭い空気が一吹きサッと流れ出た。
「また計画はお流れになったか!」と市民テオドールが呟いた。「アア! 神はあのお方がお逃げになるのをお望みではないのか、それにあのお方の裁判は呪われた裁判なんだ!」
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三十七 市民グラッキュス
しばらくの間、三人の男のグループは、地下道の口のところにじっとしていたが、そのあいだに、くぐり戸の見張り番が穴の中にランタンを差し込んでみた。このランタンでは、とうてい底まで照らすことはできなかった。
意気揚々とした建築家は、彼の卓抜した才能に得々として、ほかの三人を見下していた。
「いかがですかな」しばらくして建築家が言った。
「なるほど、その通りだ!」とサンテールが答えた。「まさに地下道だな、議論の余地もないよ。ただ、残ったのは、どこへ通じているかだ」
「そうですね」とリシャールが繰りかえした。「その問題が残っていますね」
「とにかく降りてみたまえ、市民リシャール、そうすれば、きみの目で、ぼくの言ってることが正しいかどうか分るというもんだ」
「なんだか、むこうの口から入ったほうがよさそうな気がするんですがね」と牢番が言った。「あんたと将軍と一緒にラ・コンシエルジュリーへ戻ってみようじゃあありませんか。あっちで、あんたが暖炉の敷石をあげてみれば、よく分るでしょう」
「それがいい! 出かけよう!」と将軍が言った。
「しかし、用心したほうがいいよ」と建築家が言った。「ここの敷石が開いたままになっていると、だれか悪事を企むやつもでるかもしれんからね」
「こんな時間に、だれがこんなところへ来るっていうんだ」とサンテールが言った。
「だいいちこのホールにゃあ人がいないんですから、グラッキュスを置いてきゃあ、それでじゅうぶんですよ」とリシャールが言った。「ここへ残っていてくれよ、市民グラッキュス、あたしたちは、地下道の向う側からきて、お前と落ち合うから」
「いいとも」とグラッキュスが言った。
「武器はあるか?」とサンテールが訊ねた。「サーベルとこのペンチがあります、将軍」「よかろう! せいぜい用心しろよ。十分もしたら、お前のところへ来るからな」
こうして三人は、入口を閉めて、レ・メルシエ廊下を通って、ラ・コンシエルジュリーの特別の通路を見つけに出かけた。
くぐり戸の番人は、三人が遠ざかってゆくのを眺めていた。彼は三人の姿が見える限り、ずっと彼らを目で追い、三人の話し声が聞える限り聞き耳を立てていた。そして、ついにまったくの静寂に戻ると、彼はランタンを床に置き、地下道の底へ足をブラ下げて坐り、物思いにふけり始めた。
見張り番といえども、ときには物思いにふける。ただ、ふつうは、見張り番などという連中がどんなことに思いを馳せているか考えつくのがむずかしい、というだけのことである。
とつぜん、しかもすっかり物思いに捉われていたとき、彼はだれかの手が、肩にグンと重みをかけた感じがした。
彼が振り向くと、見覚えのない顔が見えたので、大声をあげようとした。しかし、そのとたんに、彼の額に氷のように冷たく、ピストルが突きつけられていた。
声が|のど《ヽヽ》でつまって、腕は生気なくダラリと下がり、両眼は、考えられるかぎり哀願的な色を帯びた。
「喋るな、喋ったら命はないぞ」と新来の相手が言った。
「あなたはなんのご用で、ムッシュウ?」と見張り番が口ごもった。
九三年という時代でさえも、このように、ひとを|お前《ヽヽ》と呼ばずに|あなた《ヽヽヽ》というときが、市民《ヽヽ》と言わずに|ムッシュウ《ヽヽヽヽヽ》などと呼ぶときがあったのだ。
「黙ってオレを中へ入れてもらいたいんだ」と市民テオドールが答えた。
「なにをなさろうっていうんで?」
「お前に関係あるか?」
見張り番は、これ以上ないほどの驚きを表わして、こんなことを訊ねた男を見つめた。
しかし、相手は、この眼差しの奥に物解りのよさそうな光りが輝いているような気がした。彼は武器を下した。
「お前が一財産作れるのがいやだと言うのか?」
「分りませんや。だいいち、今まで一度だって、だれもあたしにそんなことを申し出たりはしませんでしたからね」
「よし、それじゃあオレがイの一番に申し出てやろう、このオレがな」
「あなたがあたしに一財産作ってくださるんで、このあたしに?」
「そうとも」
「その一財産というのは、どういう意味なんで?」
「例えば、金貨で五万リーヴルでどうだ。金っていうのはなかなか手に入らんからな、今どき金貨で五万リーヴルっていえば、百万ぐらいの値打はあるぞ。よし、お前に五万リーヴル提供しよう」
「あなたを、この中へ黙って入れればいいんですかい?」
「そうだ。ただ、お前もオレと一緒に中へ入って、オレがしたいことを手伝う、という条件がつくけれどもな」
「でも、中でなにをなさろうっていうんですかい? 五分もたったら、この地下道の中は、あなたを捉えようっていう兵隊でいっぱいになりますぜ」
市民テオドールは、この言葉の重大さに気がついて、心を打たれた。
「その兵隊どもが、中へ降りないように、なんとか止められないかな、お前に?」
「なんとも方法はありませんね。あたしには判りませんね。あたしが考えてもむだですよ」
見張り番が、彼の心の中のあらゆる洞察力を集中して、彼にとっては五万リーヴルの値打があるはずの、その方法を見つけ出そうとしている様子はよく分った。
「でも明日だったら、オレたちも中へ入れるんじゃあないか?」と市民テオドールが訊ねた。
「そうですね、おそらく入れるでしょうね。ただ、今から明日までに、この地下道の中に、道幅いっぱいの鉄の柵を作っちまいますぜ、この柵は道いっぱいで、がっしりして、しかも開き戸がついていないときてるんですから安全この上なしの、まったくもってこいのやつでさあ」
「じゃあ、ほかのことを見つけなけりゃあだめだな」と市民テオドールが言った。
「そうですよ、ほかのことを見つけなければね」と見張り番が言った。「考えてみましょうや」
市民グラッキュスにあらわれた態度を総合してみると、彼と市民テオドールのあいだには、すでに協定が成立していた。
「オレもそう思ってるんだが」とテオドールが言った。「ところで、ラ・コンシエルジュリーで、お前はなにをしているんだ?」
「あたしゃあ、くぐり戸の見張り番でさ」
「というと?」
「つまりその、扉を開けたり、閉めたりするんでさあ」
「そこで泊ってるのか?」
「その通りで、ムッシュウ」
「飯もそこで食うのか?」
「いつも、という訳でもありませんがね。あたしだって気晴しの時間が要りまさあね」
「それで?」
「まあ、その時間を楽しむ訳ですよ」
「気晴しにはなにをするんだ?」
「ル・ピュイ・ド・ノエの居酒屋のおかみさんにチョッカイを出してるんですよ、あの女はね、あたしが千二百フランばかり貯め込んだら結婚するって約束してくれましたんでね」
「そのル・ピュイ・ド・ノエの居酒屋ってえのは、どこにあるんだ?」
「ラ・ヴィエイユ・ドラプリ街のそばでさ」
「そりゃけっこうなはなしだ!」
「シーッ、黙って、ムッシュウ!」
愛国者は耳をそばだてた。
「アア! あれだな!」とテオドールが言った。
「聞えたでしょう?」
「うん、足音だ、足音だよ」
「連中が戻ってくるんですよ。お分りでしょう、あたしたちにゃあ、もう時間切れですぜ」
この|あたしたち《ヽヽヽヽヽ》という言葉ひとつで、だんだんはなしがまとまってきた。
「その通りだ。お前はいい男だよ、市民、オレにはどうやらお前の運勢が決まったような気がするぜ」
「どんな運勢で?」
「いつか金持になるっていう運勢さ」
「神よこの言葉をお聞きください!」
「お前は神を信じてるのかね?」
「時にはね、ま、その時次第ってところでさ。たとえば、今は……」
「どうなんだ?」
「大喜びで信じまさあね」
「それじゃあこれで信じておけよ」と言って、市民テオドールは見張り番の手に十ルイ握らせた。
「こりゃ豪儀だ!」と言って、見張り番はランタンの明りで金貨を見つめた。「じゃあ、まじめなはなしなんですね?」
「これ以上まじめなはなしはないくらいだ」
「で、いったい何をすりゃあいいんで?」
「あした、ル・ピュイ・ド・ノエへ来い。お前に頼みたいことを話すから。お前は何っていう名だ?」
「グラッキュスで」
「よし、市民グラッキュス、今から明日までのうちに、牢番のリシャールに頼んで、クビにしてもらうんだ」
「クビにしてもらうんですって! でもそうなったらあたしの商売は?」
「お前の|ふところ《ヽヽヽヽ》へ五万リーヴル転がり込んできても、まだ見張り番なんぞ続けるつもりなのか?」
「そんなつもりはありませんがね。でも、見張り番なんかしてると、素寒貧だけれど、ギロチンで首をチョン切られる心配はねえからね」
「心配ないって?」
「まあまあほとんどね。ところが、気楽な身分で金持だって……」
「金が入ったら隠しておいて、ル・ピュイ・ド・ノエのおかみさんなんかご免こうむって、議会で編物してるかわいい子ちゃんにチョッカイ出したらいいだろう」
「なるほど、それもそうだね」
「あした、居酒屋でな」
「何時です?」
「夕方の六時だ」
「サ、早く飛んでいったほうがいいですぜ、連中がきましたよ……早く飛んでゆきなさいって言ってるんでさ、あたしの見るところ、円屋根から降りてきたんでしょう」
「それじゃあ、あしただぞ」とテオドールは逃げながら繰りかえした。
事実、まさに時間ピッタリだった。足音と人声が近づいてきた。すでに、ローソクの火が暗い地下道の中を照らし、こちらへ近づいてきた。
テオドールは、書記室に勤めている書記が、昼間指で指して教えてくれたドアのほうに駆け寄った。彼はペンチで錠をひっちぎると、教えられた窓にとびつき、開け、道へ忍び出て、共和国の、天下の大道の敷石の上に立っていた。
しかし、控え室のホールを出る前に、彼の耳には、市民グラッキュスがリシャールに訊ね、リシャールがこんなことを答えている問答が聞えてきた。
「まったく建築家の言うとおりだったよ。地下道はカペーの寡婦さんの部屋の下を通っていたよ。まったく危ねえはなしだよ」
「あたしもそう思っていたよ」とグラッキュスが言ったが、彼も大袈裟にほんとうのことを言うだけの良心は持ち合せていたのだ。
サンテールが階段の出口のところに再び姿を現わした。
「で、きみのほうの職人の手配は、建築家君?」とサンテールがジロオに訊ねた。
「夜が明けるまでに、彼らはここへ来るはずですから、その場で鉄格子をはめ込みますよ」と地底から響いてくるような声が答えた。
「これで、きみは祖国を救ったわけだ!」とサンテールは、半ばひやかし気味に、半ばまじめな口調で言った。
「その言葉どおりだとは思っていませんね、将軍」とグラッキュスが呟いた。
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三十八 王子
すでにご紹介したように、その間にも女王の裁判の準備は進められていた。
ひとびとは、この有名な首を犠牲にすることによって、永い前からだんだんにふくらんできた、民衆の憎悪がようやく、いくらか渇《かつ》を癒すだろうということを、うすうす感づいていた。
この首をはねる方法に不足はなかったが、死の告発者、フーキエ・タンヴィルは、シモンが万事手配してくれるから、と約束してくれた告発の手段をおろそかにすまい、とすでに心に決めていた。
シモンと彼が、法廷の控え室で出会った日の翌日、ル・タンプルに武器の音が再び鳴り響いて、相変らずここに住んでいた囚人たちを震え上がらせた。
この囚人というのは、マダム・エリザベートと、王女と、揺籃に入っていた頃は陛下と呼ばれていたが、今ではもうルイ・カペーのせがれという名前でしか呼ばれていない子供のことである。
アンリヨ将軍が、三色の羽根飾りをつけ、太った馬に跨がり、大きなサーベルをブラ下げて、数人の国民兵をうしろに従え、王子が呻吟《しんぎん》している塔の中へ入ってきた。
将軍のわきに、人相の悪い書記が歩いていて、インキ壷と、巻いた紙を抱え、ケタ外れに長いペンを持って悪戦苦闘していた。
書記のうしろから、例の死の告発者がやってきた。読者もすでにお会いになったこともあり、よくご存知の、さらにあとで再び顔を合わせるこの男は、ひからびた黄色い冷酷な顔付で、その血に飢えた眼差しは、甲冑《かっちゅう》に身を固めたあの獰猛《どうもう》なサンテールさえ戦慄させるほどだった。
数人の国民兵と中尉が彼のあとに従っていた。
シモンが、作り笑いを浮かべながら、片手に仔熊の毛皮のボンネットを持ち、もう一方の手には鞭を持って、一行の先頭に立って、委員会の道案内をつとめていた。
一行は、まっ暗で、ダダッ広い、家具もない部屋に着いた。部屋の奥の自分のベッドに、幼いルイがまったく身じろぎもせずに坐っていた。
シモンの兇暴な怒りにさらされて逃げまどっていた、この哀れな子供の姿を読者はすでにごらんになっているが、その頃は、このル・タンプルの靴直しの卑劣な取り扱いに対して、彼の中にはまだ反応を示すだけの、一種の生気というものがあった。彼は逃げまどい、泣き叫んでいた。つまり恐怖心を抱き、苦しむ、ということは反面希望を抱いていた訳でもある。
現在では、恐怖も希望も消え去ってしまった。しかし、たとえ希望があったところで、両親の過失を、こんな残酷なやり方で償わされたこの殉教の子供は、心のいちばん深いところへその希望を隠していた。上辺《うわべ》だけはまったく無感覚のように見えていたが、じつはその下には希望をひそめていた。委員の一行がそばまで歩いて行っても、子供は顔さえあげようとしなかった。
彼らは一言の前置きも言わずに席をしつらえ、どっかり腰をすえた。検事はベッドの枕許に、シモンは足のほうに、書記は窓のそば、国民兵と中尉はわきの、ちょっと影になったところに坐った。
ここにいる者のうち、いくらかの興味でも、あるいは好奇心でも交じえて、この小さな囚人を眺めた者は、子供の顔の蒼白さ、ただ、むくんでいるだけ、と思われる異常な肥り具合や、関節がふくれ始めている、曲った脚などに気付いた。
「この子供はたしかに病気ですな」と中尉が言ったが、その言葉にいかにも確信が溢れていたので、すでに腰をおろし、まさに訊問にとりかかろうとしていたフーキエ・タンヴィルが振り向いた。
カペーの子供は目を上げて、うす暗がりの中で、この言葉を口にした男の姿を探し、それが、前に一度、ル・タンプルの中庭で、シモンが自分を撲るのをとめてくれた青年だ、ということに気がついた。優しい、利口そうな輝きが、濃い青い眼差しの中を走ったが、ただそれだけのことだった。
「ヘッ! ヘッ! あんたかね、市民ローラン」とシモンが言った。この男が、例のモオリスの友だちだということを、こうしてフーキエ・タンヴィルに思い出させようとしたのである。
「そう、オレだよ、市民シモン」とローランが、沈着な落ちつきを見せて言い返した。
つねに危険に直面していても、ローランは、余計な努力などしない男だったので、この機会を利用してフーキエ・タンヴィルに挨拶をし、検事もまた彼に挨拶を返した。
「市民、きみはどうやら、この子供が病気だ、といって注意したらしいが」とそのとき検事が言った。「きみは医者なのかね?」
「わたしは医者ではありませんが、少なくともむかし医学の勉強をしたことはあります」
「よろしい、で、この子供をどう見るね?」
「病気の徴候として、ということですか?」
「そうだ」
「この子供は、頬も目もふくれておりますし、両手は蒼白く、痩せ、膝はむくんでおります。この子供の脈をとってみれば分りますが、確実に、一分間に八十五から九十の動悸《どうき》を打っていることは間違いないでしょう」
子供は、自分の苦痛をひとつひとつ数え立てられても、なにも感じない様子だった。
「で、学問的に、囚人の病状はなんのせいだと言えるかね?」と検事が訊ねた。
ローランは、こんな詩句を口誦みながら、鼻の先を掻いた。
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「フィリスがわたしにそれを喋らせたいとて、
そんな気持はさらさらござらぬ」
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と言ってから、今度は大声で答えた。
「正直なところ、わたしはこのカペーの子供をどんなふうに管理しているか、よく存じませんから、はっきりお答えしかねますが……とにかく……」
シモンは聞き耳を立てて、いままさにみずから危地に陥ろうとしている自分の敵を見て、腹の中であざ笑っていた。ローランがさらに続けた。
「とにかく、この子供は運動がじゅうぶんじゃあないと思います」
「そんなことは百も承知ですがね」とシモンが言った。「このろくでなしのガキめ! こいつが歩きたがらねえんでね」
子供は、靴直しが叱責《しっせき》しても、相変らず無感動な態度だった。
フーキエ・タンヴィルが立ち上がって、ローランのところへ行き、低い声で彼に話しかけた。
だれにも検事の言葉は聞きとれなかった。しかし、この言葉が、相手になにか訊ねているものだ、ということは明らかだった。
「とんでもない! そんなことを真に受けてるんですか、市民! 母親にとったら、一大事ですよ……」
「とにかく、いずれ分ることだ」とフーキエが言った。「シモンは、自分の耳でこの子がそう言うのを聞いた、と言い張っているし、この子に白状させてみせる、と約束しているんでね」
「まったくゾッとするようなはなしですね」とローランが言った。「が、ありそうなことですな。あのオーストリア女だって、過ちを犯さないとも限りませんからな。それに善悪はともかく、そんなことはわたしにはどうでもいい……つまりあの女をメッサリーナ(ローマ皇帝クラウディウスの後妻で、ブリタニキュスの母。淫乱で有名。のちに息子のお守役ナルシスに殺さる)に仕たてたわけですな。しかし、それだけではあき足らずに、今度はアグリッピーヌ(同しくブリタニキュスの後妻で、ネロの母。ネロを帝位につけようとして夫を殺し、のちにネロに殺さる)に仕たてるとは、どうもわたしには、正直のところひどすぎるような気がするんですよ」
「実はこれはシモンが報告してきたんだがね」とフーキエが冷静に言った。
「シモンが言ったということは疑いませんよ……どんな告発をしてもこわがらずに、ありそうもないことでも平気で告発する人間もいますからね……でもねえ、あなたはそう思いませんか、知的で公平な人間で、また強い人間であるあなたがですよ。造化の法が、自然の最も神聖な法が尊敬すべしと命令した母親について、そんな細かいことまでこんな頑是ない子供に訊ねるのは、これは、この子供の人格の中のヒューマニティそのものを侮辱することだとは思いませんか?」
検事は眉ひとつ動かさず、ポケットから記録をとり出して、ローランに見せた。
「国民議会は、わたしに報告せよと命令してきておる。それ以外のことはわたしには関係ない。だからわたしは報告するんだ」
「その通りです。でも正直に言って、たとえこの子供が白状したところで……」
と言うとローランは、いかにも不愉快な態度で頭を振った。するとフーキエが続けた。
「もとより、われわれが調査にとりかかったのは、ただシモンの告発だけに基づいているわけではないんだ。ホラ、告発は一般に知れわたっているんだよ」
フーキエは、ポケットから二枚目の紙片をとり出した。
これは、「デュシェースおやじ」という名前の新聞の一部で、ご存知のようにエベール(一七九〇年『デュシェーヌおやじ』を創刊、超過激派山岳党の党首となるも、のち死刑になる)の手によって編集されたものである。
この告発は、事実なにひとつ隠さず綴ってあった。
「なるほど、書いてありますな、いや、印刷までしてありますな」とローランが言った。「しかし、わたしとしては、こうした告発が、この子供の口から出たのを、この耳で聞くまでは何とも思いませんよ。子供の意志で自発的に、自由に、脅迫されずに言い出したんならはなしはべつですがね……それに……」
「それに?……」
「それに、シモンやエベールが何と言おうと、あなたが疑っていると同様に、わたしも疑惑をもつでしょうな」
シモンはこの話し合いの成り行きいかんと辛抱強く見守っていた。こうした哀れな男には、群衆の中でもきわ立っているこの眼差しが、知的な人間にどんな力を及ぼすか、ということが分らなかったのだ。こうした眼差しは、本能的にひとを惹きつける力となるか、でなければ素早い憎悪の印象を与える。時にはひとを押しやる力となり、また時にはひとを惹きつけ、ひとを考えさせる力となる。そして人間の人格そのものを、群衆の中で出会った、自分と同等の力を持った人間、または自分より力の勝ったべつの人間と手を組ませるような力となるのだ。
しかしフーキエは、ローランの眼差しの重みを感じとり、この傍観者にも理解してもらいたい、と思った。
「訊問を始めよう」と検事が言った。「書記、ペンを執りたまえ」
書記はすでに調書の前書きを書き終っていて、シモン向様、アンリヨ同様、そしてその他のひとびとと同様にフーキエ・タンヴィルとローランの対話が終るのを待っていた。
ただ子供だけが、自分が主役になっているこのシーンに全くわれ関せず、という様子をしていたが、一瞬、この上ない知性の閃めきを見せたこの眼差しも、またもとのどんよりした目付にもどっていた。
「静かに!」とアンリヨが言った。「市民フーキエ・タンヴィルが子供に訊問を始めるぞ」
「カぺー」と検事が言った。「きみは、きみのお母さんがどうなっているか知っているかね?」
ルイの子供の大理石のような蒼白な顔色が、燃えるような真赤に染まった。
しかし彼は返辞をしなかった。
「わたしの言うことが聞えたのかね、カペー?」と検事が言葉をついだ。
相変らず沈黙が続く。
「とんでもねえ、よく聞えているんでさあ」とシモンが言った。「こいつは猿みてえなガキでね、自分が人間だと思われるのが、働かされるのがこわいもんで返辞をしたくねえんでさあ」「答えろ、カペー」とアンリヨが言った。「お前を訊問しているのは、政府の委員会なんだ、お前は法に従わなければならんぞ」
子供は蒼白になったが、しかし返辞をしなかった。
シモンは激昂したジェスチュアを見せた。こうした兇悪で、愚鈍な人間にとっては、怒りとは一種の陶酔のようなもので、酒に酔ったときと同じようないやらしい徴候を伴うものである。
「返辞をしねえか、このガキ狼め!」と言って彼は拳固をつき出した。
「黙りなさい、シモン」とフーキエ・タンヴィルが言った。きみには発言権はない」革命議会で彼の口ぐせになっているこの言葉が口をついた。
「わかったか、シモン」とローランが言った。「お前には発言権はないんだぞ。オレの前で、お前がそう言われたのは、これで二度目だぞ。はじめは、お前がチゾンのおかみさんの娘を告発したときだ、あの娘の首をギロチンにかけさせて、お前は喜んでいたっけな」
シモンは黙ってしまった。
「きみのお母さんはきみを可愛がっていたかね?」とフーキエが訊ねた。
同じように沈黙が続く。
「可愛がっていなかった、というはなしなんだが」と検事が続けた。
なにか、蒼白い微笑のようなものが、子供の唇に浮かんだ。
「ちがいますよ」とシモンがわめいた。「おふくろがこのガキをあんまり可愛がりすぎた、とこのガキが抜かした、とあんたに言ったんですよ」
「見ろよ、シモン。お前と差し向かいのときにはそんなによく喋ったカペーの子供が、みんなの前で唖のようになるとは、まったく奇態なはなしじゃないか」とローランが言った。
「ちきしょう! オレたちが、二人だけだったらなあ!」とシモンが言った。
「そうとも、二人だけならよかったんだが、あいにくだったな。そうとも! エ、勇敢なシモンよ、りっぱな愛国者よ、二人だけだったら、さぞかし、この哀れな子供を撲ったことだろうな、そうだろう? ところが今は二人だけじゃない、オレたちの前じゃあ、オレたちが模範としている古代人は、か弱い者を暖かい目で見た、ということを知ってるりっぱな人間の前じゃあ、そうする勇気もないだろう、ケチな野郎め! そんな勇気はあるもんか、なにしろ二人だけじゃあないしな、それに、戦う相手に一メートル七〇もあろうかという子供が何人かいるときては、ごりっぱなお前さんも、勇敢にはなれないんだろう」
「ちきしょうめ!」とシモンは歯がみをした。
「カペー」とフーキエがまた訊ねた。「きみはシモンに、なにか打ち明けばなしをしたかね?」
子供は目もそむけずにいたが、その眼差しには言葉では尽くし難いような皮肉な思いが込められていた。
「きみのお母さんのことでだがね?」と検事が続けた。
軽侮の輝きがその視線をよぎった。
「イエスかノーか返辞をしろ」とアンリヨがどなった。
「そうです、と答えろ!」とシモンが、子供の上に鞭を振り上げながらわめいた。
子供はブルッと身震いしたが、鞭を避けるような動作はまったくしなかった。
そこにいた一行は、一種の嫌悪に近い叫び声をあげた。
ローランはそれだけでなく、とび出していって、シモンの腕が振り下される前に彼の手首をつかんだ。
「手を離さねえのか?」とシモンは激昂してどなり散らした。
「いいかね」とフーキエが言った。「母親が自分の子供を可愛がるのはべつに悪いことじゃあない。ただね、きみのお母さんが、どんなふうにきみを可愛がったか話してもらいたいんだよ、カペー。お母さんのためになることなんだから」
幼い囚人は、自分が母の役に立つかもしれない、と考えて体を震わせた。
「母上は、母親が息子を愛するように、ぼくを可愛がってくれました。母親が子供を可愛がるのにも、また子供が自分の母親を慕うにも、やり方は二つはありません」
「ところがおいらがな、この小さな蛇め、おいらが言ってるのは、お前がおいらに前に話したように、お前のおふくろは……」
「お前は夢でも見たんだろう」とローランが穏やかに遮《さえぎ》った。「きっとお前は、よく悪夢にうなされるんじゃあないか、シモン」
「ローランめ! ちきしょう、ローランめ!」とシモンが歯ぎしりした。
「そうとも、相手はローランだぞ。で、そのあとはどうなる! ローランを撲る方法はないぜ。なにしろ、悪いやつらを撲るのは、このローランのほうだからな。ローランを告発しようっていっても、そりゃあむりだ、お前の腕をつかんで、ローランがしたことは、アンリヨ将軍と市民フーキエ・タンヴィルの目の前でしたんだし、お二人が証明してくれるからな、それにまた、このお二人は穏健派じゃあないからな! ローランをエロイーズ・チゾンみたいに、ギロチンにかけさせようったって、できない相談だ。さぞかし腹も立つだろう、煮えくりかえるようだろうが、まずはそんなところだ、エッ、哀れなシモンよ、どうだい!」
「今に見ていやがれ! 今に見てろよ!」と靴直しは、ハイエナのような嘲笑を浮かべながら答えた。
「そうとも、わが親愛なる女よ」とローランが言った。「『至上のもの』の加護によりオレは! オット! オレが『神』の加護により、と言うだろうと思って期待していたんだろう? どっこい、そうはいかないぞ、オレはな『至上のもの』とオレのサーベルの加護により、その前にお前のドテッ腹をえぐってやりたいもんだよ。とにかくそこをどけよ、シモン、お前のおかげでオレには見えないじゃあないか」
「このならず者め!」
「黙れ! はなしが聞えないぞ」
と言ってローランは、シモンを尻込みさせるような視線を注いだ。
シモンは拳固をブルブルと震わせたが、その黒いまだらな色が、彼のご自慢なのである。しかし、ローランがこう言う前に、シモンもそこでは腹の虫を抑えざるをえなかった。
「ようやく喋りはじめたな」とアンリヨが言った。「きっとあとを続けてくれるだろう。サア、続けてくれ、市民フーキエ」
「今度は返辞をしてくれるね?」とフーキエが訊ねた。
子供はまたもとの沈黙に閉じこもってしまった。
「どうです、市民、どうです!」とシモンが言った。
「この子供の頑固さときたら、並大抵じゃあないな」と、いかにも王者の貫禄を備えた確信あり気な様子を見て、われにもあらず困惑してアンリヨが言った。
「この子供はろくでもないことを吹き込まれているんですよ」とローランが言った。
「だれにだね?」とアンリヨが訊ねた。
「もちろん、彼の監督にですよ」
「おめえはおいらを悪く言うのか?」とシモンがどなった。「おいらを告発するのか?……ヘヘッ! 奇妙なはなしだぜ……」
「とにかく、穏やかに話してみよう」とフーキエが言った。
そして、まるで、まったく無感覚のように見える子供のほうを振り向いて言った。
「サァ、きみ、国家の委員会に答えてくれないかね。必要な説明をしないで、自分の立場を悪くしないようにするんだね。きみはいつか、市民シモンに、きみのお母さんがきみをどんなふうに可愛がったか、きみをどんなふうにして愛撫したか、それにきみをどうやって愛したか、などを話したね」
ルイは一同を見回し、その視線がシモンの上に止まると憎しみに変ったが、しかし返辞をしなかった。
「きみは自分が不幸だと思わないかね?」と検事が訊ねた。「住居も悪ければ、食事もまずく、取り扱いはひどいと思わないかね? もっと自由な身になり、べつの当り前の生活をして、べつの牢へ入れられて、べつの監督をつけてもらいたいと思わないかね? きみと同じ年頃の友だちと交際させてほしいと思わないかね?」
ルイは、再び、母親の身を守るためでなければ、テコでも口を訊かないという、深い沈黙を守っていた。
委員会は、驚きのあまりすっかり狼狽《ろうばい》してしまった。これほど毅然《きぜん》とした、これほど理性的な態度が子供にあろうとは、信じられなかった。アンリヨが小声で言った。
「まったく! こういう王族というやつは、なんていう種属なんだ! まるで虎みたいだよ、こんな子供のくせにして、腹黒いんだから」
「調書のほうは、どう書いたらよろしいでしょうか?」と困りきった書記が訊ねた。
「シモンに委せるより仕方がないだろう」とローランが言った。「なにしろ、なんにも書くことがないんだから、彼の仕事にゃあもってこいだよ」
シモンは、この不倶戴天の敵に向かって拳固を振り上げた。
ローランは笑い出した。
「おめえの首が、袋の中でくしゃみをする日にゃあ、そんな具合にゃあ笑えねえからそう思え」とシモンは、怒りに酔ったようになって言った。
「お前が脅迫するそのちょっとした儀式に、オレのほうがお前より先になるか、お前の後になるかは判らんね」とローランが言った。「ただ判ってることはな、お前の番が回ってくる日には、腹をかかえて笑う者が、ずいぶん多勢いるってことだよ。神々よ!……オット、神々《ヽヽ》よ、って複数で言ったんだぜ(単数の神はキリスト教の神で禁止されていたが、複数の神は異教の神)……神々よ、その日には、シモンのやつめ、さぞ見っともない面《つら》になるだろうな! まったく目も当てられないだろうぜ」
こう言って、ローランは堂々と大声で笑いながら、委員たちのうしろへ引っ込んだ。
結局、委員会はなにひとつなすところもなく、部屋を出ていった。
子供はといえば、訊問者から解放されて自由になるや、ベッドの上で、父が好きだった歌の|繰り返し《ルフラン》を小声で口誦みはじめた。
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三十九 すみれの花束
前から予測していたはずだったが、ジュヌヴィエーヴとモオリスが引き籠っていたこの幸福な住居にも、平和はそう永くは続かなかった。
風と雷鳴が荒れるにまかせた嵐のなかで、鳩の巣は、二羽の鳩が身を隠している木と共に揺れ動いた。
ジュヌヴィエーヴは、ひとつの恐怖を逃れて、べつの恐怖へ移ったのである。今はもうメーゾン・ルージュのために不安にさいなまれることはなかったが、モオリスの身を思っておののいていた。
彼女は自分の夫の人柄をよく知っていたから、ディメールが姿を消しても、命は助かったにちがいない、ということはよく判った。夫の命が助かったことが確実だと思うと、彼女は今度は自分のために恐れおののくのだった。
彼女は、だれひとり恐怖を感じない者とてないこの時代の、いちばん勇敢な男にも、自分の苦悩をあえて打ち明けようとしなかった。けれども、彼女の赤い目や血の気のない唇を見れば、その苦悩ははっきりとあらわれていた。
ある日、モオリスは、そうっと部屋に入ってきた。ジュヌヴィエーヴは、深い物思いに沈んでいたので、彼が入ってくる音にも気がつかなかった。モオリスは敷居の上に止まり、坐ったまま、じっと動かず、目を据えて、腕を力なく膝の上に置き、頭を物思わしげに胸の上にたれているジュヌヴィエーヴの姿を見た。
彼は、一瞬深い悲しみの目で彼女を見つめた。というのは、彼は、この女性の心に去来することはすべて、その考えの奥底まで読みとれると、確信していたからである。
それから、彼女のほうへ一歩踏み出しながら、彼が言った。
「きみはもうフランスを愛していないんだね、ジュヌヴィエーヴ。はっきり言っておくれ。きみは、自由に呼吸《いき》のできる大空まで逃げているようだし、窓のそばへ寄っているのも、嫌々ながらしているとも思えないものね」
「アラ!」とジュヌヴィエーヴが言った。「あなたには、あたくしの考えを隠しておけないのは、分っておりますわ。あなたが考えていらっしゃる通りよ、モオリス」
「それにしても、ここはすばらしい国だよ! ここでは今は生活そのものが重要で、充実しているんだ。なるほど、議会だの、クラブだの、陰謀だのって、やかましく騒いではいるが、家庭で過ごす時間はまったく平穏だよ。みんな自分の家へ帰ると、夢中になって愛する、つまりみんな明日の命がないんじゃあないかと思って、明日はもう愛せなくなりゃしないかと不安でしかたがないからなんだね」
ジュヌヴィエーヴは頭を振って言った。
「いくらこちらで奉仕しても、それに報いてくれない国なんですわ!」
「どうしてそんなことを言うの?」
「そうよ、だって、フランスの自由のためにあれほどの働きをなさったあなたが、今では半ば嫌疑を受けている身の上じゃあなくて?」
「けれどもきみはどうだい、ジュヌヴィエーヴ」とモオリスが、愛に酔った眼差しを投げかけながら言った。「きみはその自由からみたら、不倶戴天の仇だよ、自由に反対してあれほどのことをやってのけたきみが、今では共和党員の家の屋根の下で、のうのうとして、なにひとつ害を受けずに眠っているじゃあないか。これでわかるだろ、これで帳消しだよ」
「そうね、その通りですわ。でも、不正なことは永続きするはずがありませんもの、こんな生活もそう永く続かないわ」
「というと、つまり何が言いたいの?」
「いわば、あたくしは特権階級ですわ、あたくしは、あなたの祖国の崩れるのを、あなたがたの理想が壊れるのをひそかに夢みている女なのよ、あなたの家にまできて、|革命前の制度《アンシャン・レジーム》がもう一度返ってくるように陰謀を企てているのよ、あなたに感謝を捧げながらも、あなたに死刑を宣告し、少なくともあなたがたの意見に照らせば、あなたに恥辱にまみれるようなことをさせている女なのよ。モオリス、あたくしもう、この家に厄病神として腰をすえているのはごめんですわ。いずれ、あたくしは、あなたを処刑台に引きずってゆくようなことになりますわ」
「でも、どこへ行こうというんだい、ジュヌヴィエーヴ?」
「どこへ行くか、っておっしゃるの? いつかあなたが外出なさった日に、モオリス、どこから来たかは言わないで、自首して出ますわ」
「とんでもない!」とモオリスは、心の底まで感激して叫んだ。「それこそ、恩知らずだ!」
「そんなことはありません」と彼女は、モオリスの首に両手をかけて言った。「いいえ、あなた、愛ですわ、誓って申しますが、この世にないほど献身的な愛ですわ。あたくしは、自分の兄とも思う騎士が反逆者として逮捕され、殺されるのはいやなんです。それに自分の恋人が裏切り者として補えられ、殺されるのもごめんです」
「ほんとにそんなことをするつもりなの、ジュヌヴィエーヴ?」とモオリスが叫んだ。
「神様が天にましますと同じくらいほんとうのことですわ!」と彼女が答えた。「もとより、恐ろしい、なんていうことは問題じゃあありません、あたくし良心の苛責を感じているのです」
と言うと彼女は、余りに重い良心の苛責に耐えられないというように、首をうな垂れた。
「アア! ジュヌヴィエーヴ!」
「あたくしが言うことは分ってくださるわね、とくに、あたくしが何を感じているかは」とジュヌヴィエーヴが続けた。「だって、この良心の苛責は、あなただって感じていらっしゃるんでしょう……ご存知でしょ、モオリス、あたくし、自分のものでないものを、あなたに捧げてしまったのよ。あたくしには、自分を捧げる権利もないのに、あなたはあたくしをご自分のものになさってしまったわ」
「もうたくさんだ! もうたくさんだよ!」
彼の額には皺が刻まれ、その澄みきった眼差しの中には、暗い決意が輝いていた。
「ぼくは、ただひたすらにきみを愛している、ということをお目にかけよう、ジュヌヴィエーヴ。どんな犠牲も、ぼくの愛情には及ばない、という証拠を見せてあげよう。きみはフランスがいやになった、それもよし、それならいっそ、二人してフランスを出て行こうじゃあないか」
ジュヌヴィエーヴは両手を組み、熱狂的な賛嘆をこめて恋人を見つめた。
「あたくしを欺したりはなさらないわね、モオリス?」と彼女が口ごもった。
「いつきみを欺したことがある? きみを手に入れようとして、自分の名誉を汚した、あの日のことかい?」
ジュヌヴィエーヴは、唇をモオリスの唇に重ね、いわば恋人の首にぶら下がるような格好になった。
「そうね、おっしゃる通りね、モオリス。自分を欺いたのは、あたくしのほうでしたわ。いまあたくしが感じているのは、もう、良心の苛責などではありません。ひょっとしたら、自分の魂の堕落かもしれませんわ。でも、せめてあなただけは、あなたは分ってくださるわね、あたくし、今では、あなたを失いやしないか、という心配以外の感情はなにも感じていないんです、だって、あたくし、あまりにあなたを愛し過ぎているんですもの。ネエ、あなた、うんと遠くへ参りましょう。だれも、追手の手が届かないところまで参りましょう」
「アア! ありがとう!」とモオリスが有頂天になって言った。
「でも、どうやって逃げましょう?」とジュヌヴィエーヴは、恐ろしいことを考えてゾッと身を震わせた。「今では、あの九月二日の人殺しの短刀から、そしてあの一月二十一日の首斬り役人の手斧から逃れるのは容易ではありませんわ」
「ジュヌヴィエーヴ! 神さまがぼくたちを守ってくださるよ。まあ聞きたまえ、きみがいま話した九月二日のことだが、ぼくはひとに親切なことをしてやったんだよ。その報いが今日になって現われそうなんだ。ぼくはね、あのとき、むかし机を並べて勉強した哀れな神父を助けてやりたいと思ってね。ダントンのところまで会いに行ったんだが、彼が頼んでくれたおかげで、公安委員会は、この不幸な男とその妹のために、パスポートにサインしてくれたんだよ。このパスポートを、ダントンがぼくに預けた、という訳だ。ところがこの不運な神父は、ぼくがよく言っておいたのに、ぼくのところヘパスポートを取りに来る代りに、レ・カルムの僧院へ行って隠れたんだよ。結局彼はそこで死んだんだがね」
「で、そのパスポートは?」
「相変らず、ぼくのところにあるよ。今日びじゃあ、百万フランの値打ものだぜ。それ以上の値打だな。ジュヌヴィエーヴ、命と同じくらいの、幸福と同じくらいの値打があるよ!」
「アア! 神様! 神様! なんて嬉しいんでしょう!」
「今では、ぼくの財産といえば、家つきの年とった召使いの管理している地所だけなんだけれどね、この召使いは純粋な愛国者で、忠実な男だから、この男なら頼っていっても心配ないよ。彼なら、どこへ行っても、収入《あがり》を、ぼくのところへ送ってくれるからね。ブーローニュ(ノルマンディ海岸の港町で、英国に近いブーローニュ・シュル・メール)まで行ってから、彼の家へ寄ればいいよ」
「で、その方どちらにお住まいなの?」
「アップヴィルのそばだよ」
「いつ出発しましょう、モオリス?」
「一時間後だ」
「あたくしたちが出かけることを、ひとに知られては困りますわね」
「だれにも分るもんか。ぼくはローランの家へ駆けつけるよ。彼はね、馬がないのに、四輪馬車をもってるんだ! ぼくは馬車がなくて馬をもってる。だから、帰ってきたら、すぐに出発だよ。きみはここへ残っていてくれ、ジュヌヴィエーヴ。そして、出発のいろいろな用意をしておくんだ。荷物なんかほとんど要らないよ。なにか足りないものがあったら、イギリスで買い直せばいい。これから、セヴォーラに用事を言いつけて、遠くへ出すからね。今晩、ローランがきて、ぼくらが出かけたことを彼に知らせてくれるだろう。そこでぼくらは、今夜はもうすでに、遠くへ行っている、とこういう訳だ」
「でも、途中で捕ったらどうしましょう?」
「ぼくらにはパスポートがあるじゃないか? まずユベールの家へ行く、これはその執事の名前さ。ユベールはアップヴィルの町でなにか役についているんでね。アップヴィルからブーローニュまでは、彼がぼくらと一緒にきてくれるから、ぼくらは安全だよ。ブーローニュヘ着いたら船を一艘買うか借りるかすればいい。もちろん、ぼくは委員会へ寄って、なにかアッブヴィルヘ行く任務をつけてもらうことができるよ。でもね、計略を用いてもだめだ、そうだろ、ジュヌヴィエーヴ? 命を賭けて幸福を掴みとろうじゃあないか」
「そうよ、そうよ、あなた、きっとうまくゆきますわ。でも、今朝は、あなたはなんていい匂いがするんでしょう!」と彼女は、モオリスの胸に顔を埋めながら言った。
「ほんとだ。ぼくはきみのために、すみれの花束を買ったんだっけ、今朝ね、平等宮殿《パレ・エガリテ》の前を通ったときに。ところがここへ入ってきて、悲しそうなきみを見ると、ただもう、どうしてそんなに悲しいのか、きみに訊ねること以外は考えてもみなかったよ」
「アラ! あたくしに貸してくださらない、お返ししますから」
ジュヌヴィエーヴは花束の匂いを嗅いだが、その態度を見ると、彼女の神経組織がかぐわしい香りに対して、一種の熱狂のようなものをいつも抱いているような感じだった。
とつぜん、彼女の両眼が涙にぬれた。
「どうしたんだい?」とモオリスが訊ねた。
「可哀そうなエロイーズ」とジュヌヴィエーヴが呟いた。
「ウン、ほんとうにね!」とモオリスが溜息をつきながら言った。「でも、ぼくらのことを考えようじゃあないか、死んだものは放っておけばいい、たとえどの党派に属しているにしろ、忠義のためにみずから掘った墓穴に眠らしておこうよ。それじゃあ! ぼくは出かけるからね」
「なるべく早くお帰りになってね」
「半時間以内にここへ帰ってくるよ」
「でも、ローランがお留守だったら?」
「かまうもんか! 彼の召使いはぼくをよく知ってるもの。たとえ彼が留守だからって、ぼくの好きなものはなんでも、彼の家から持ってきていけないっていう法があるかい? 彼だってこの家で同じようなことをしているんだから」
「わかりましたわ! わかったわ!」
「きみはね、ジュヌヴィエーヴ、すっかり用意しておいてくれたまえ、ただね、さっき言ったように、ほんとうに必要なものだけに押えておくんだよ。ぼくらが出かけるのが、引っ越しみたいに見えちゃあまずいからね」
「安心なさって」
青年はドアのほうへ一歩踏み出した。
「モオリス!」とジュヌヴィエーヴが言った。
彼はふり返って、自分のほうへ両手を差し出しているジュヌヴィエーヴを眺めた。
「じゃあまた! あとでね! 元気を出すんだよ! なに、三十分もしたらここへ帰ってくるからね」
ジュヌヴィエーヴは独りになると、すぐに出発の支度をはじめたが、その内容はすでに読者もご存知の通りである。
この出発の支度を、彼女は一種熱にうかされたようないきおいでやってのけた。彼女は、パリに足をとめている限りは、それだけ、自分が二重に罪を犯しているような気分になっていた。ところがひとたびフランスの外へ出て、外国へ行ってしまえば、彼女の罪にしろ、もともと自分で犯したものでなく、むしろ宿命のなせるものだ、と彼女には思えるし、罪の重荷もずっと軽くなるような気がしたのである。
独り、孤独の中にいると、モオリス以外の人間が存在するなんていうことも、忘れられそうな気にまでなった。
二人はイギリスヘ逃げる手はずになっていた。これはもう話し合いができていた。二人は向うへ行ったら、一軒だけポツリと建ち、人里離れて、だれの目にもつかない小さな家か、瀟洒《しょうしゃ》な小別荘でも買い入れるだろう。二人は名前を変え、二人の名前をひとつにするだろう。
向こうへ行ったら、自分たちの過去のことはぜんぜん知らない召使いを二人雇おう。モオリスもジュヌヴィエーヴも、二人とも英語を話せたのは、まさに偶然がさいわいしてくれた。
つねに慕い、祖国と呼んでいるものが実の母親でなく、もし継母《ままはは》だったら、二人にとって、フランスにはもうなにも名残りを惜しむものはないわけだ。
そこでジュヌヴィエーヴは、二人の旅行、というよりは逃亡にとって、必要不可欠ないろいろなものを整理しはじめた。
彼女は、ほかのさまざまな品物のうちから、モオリスがとくに大事にしていたものを見分ける仕事に、言うに言われぬ喜びを感じた。彼の体にいちばんピッタリした服、彼の顔色にいちばん|うつり《ヽヽヽ》のいいネクタイ、彼がもっとも頻繁にべージをめくっていた本。
彼女はすでに選ぶものは選んでしまった。すでに、服や、下着や、本など、トランクに詰めるばかりになって、椅子や長椅子やピアノをいっぱいに覆っていた。
とつぜん、鍵穴の中でキイの回る音がした。
「アラ! セヴォーラが帰ってきたんだわ。モオリスは途中で出会わなかったのかしら?」
彼女はそのまま仕事を続けた。
客間のドアは開けっ放しになっていて、次の間で世話係が動き回る音が聞えてきた。
彼女はちょうど楽譜入れを手にしていて、それを押し込む場所を探していたところだった。
「セヴォーラ!」と彼女は呼んだ。
こちらへ近づく足音が、となりの部屋で響いた。
「セヴォーラ、お願いだから、ちょっときてちょうだい」
「参りましたよ」という声が聞えた。
この声の調子に、ジュヌヴィエーヴはにわかに、クルリと振り向いて、恐怖の叫び声をあげた。
「あなたでしたの!」と彼女が叫んだ。
「そう、あたしだよ」とディメールが穏やかに言った。
ジュヌヴィエーヴは椅子の上に上がって、何か結わえるものはないかと、腕を伸ばして箪笥の中を探していたところだった。彼女は、頭の中がグルグル回り始め、両手を突きだしたまま、あおむけに倒れ、足許に深淵がパックリと口を開いて、自分の体がその底へ落ちこんでくれれば、と思った。
ディメールが両手で彼女を抱きとめて、長椅子へ連れていって、自分も坐った。
「サア、どうしたんだい? なにをしているんだい?」とディメールが訊ねた。「あたしが姿を現わしたのが、あんたにはそんな不愉快に思えるのかね?」
「あたくし、死にそうですわ!」
こう口ごもると、ジュヌヴィエーヴはあおむけに倒れて、この恐ろしいまぼろしが見えないように、両手で目を覆った。
「なるほど!」とディメールが言った。「あたしが、もう死んだものと思っていたんだね? あたしを見て、幽霊が出たとでも思ったのかね?」
ジュヌヴィエーヴは、うつろな目で自分の周囲を見回し、モオリスの肖像が目にとまると、すべるように長椅子から下りて膝まずいた。それはまるで、いつも変らぬ微笑をたたえている、この無力で無感覚な肖像に、そばについていてくれとでも頼んでいるような様子だった。
この哀れな女は、穏やかさをよそおってはいるが、その下に隠されたディメールの脅迫がすべてはっきりと読み取れたのだ。
「そうなんだよ、あんた、まさしくあたしさ。あんたはきっと、あたしはもうパリからずっと遠くへ行ったと思っていただろうが、どっこい、ところが、パリにいたのさ。家を出たあの翌日、わたしはパリヘ戻って、あそこへ帰り、あの灰のすばらしい山を見物してきたよ。あんたのことを訊いて回ったけれど、だれもあんたの姿を見たものがなくてね。そこであんたを探して歩いたんだが、見つけ出すまでには、ずいぶん骨を折ったもんだよ。正直のところ、まさかあんたがここにいるとは思わなかったよ。でも、うすうす怪しいな、と狙いはつけていたんでね、そこでいまここへ現われた、とまあこんなわけだよ。ま、とにかく大事なことは、あたしがここにいて、あんたがそこにいるっていうことさ。モオリスのご機嫌はどうだね? あんただって、きっとずいぶんと辛かったろうね、なんたって根っからの王党派のあんたが、あれほど熱狂的な共和党員と同じ屋根の下で生活しなければならなかったんだからね」
「神様! 神様!」とジュヌヴィエーヴが呟いた。「どうぞあたくしをお憐みください!」
「さて、それでと」とディメールは、自分の周りを見回しながら言った。「ただね、あんたがここでりっぱに暮らし、追放の憂き目をみてもそれほど苦にしていないように見えるのが、まあ、あたしにとっては気が楽になるよ。あたしの方ときたら、家が焼けて、財産も一文なしになってしまってからというもの、ずいぶんと思いがけない目に会ってきたよ。地下室の奥や、船の船倉や、ときには、セーヌ河に続いている下水の中にさえ身を潜めたもんだよ」
「ムッシュウ!」
「オヤ、なかなかおいしそうなフルーツがあるじゃあないか。あたしはしょっちゅう、デザートなしですまさなければならなかったもんでね。もっとも、その日の夕飯にもこと欠く始末じゃあ仕方がないけれどね」
ジュヌヴィエーヴはすすり泣きながら、両手で顔を隠した。
「なあにね、べつにお金がないわけでもなかったんだよ。ま、さいわい、金貨で三万フランばかり身につけていたんでね、こいつは、今日びじゃあ五万フランからの値打ものだよ。ひとっかけのチーズやソーセージを買うのに、石炭運びの人夫だの、漁師だの、屑屋だのっていう連中相手は、まさかポケットから何ルイも引っぱり出すほどのこともないからね! イヤハヤ! まったくのはなし、マダム。あたしはね、ずっとこの三つの衣裳を身につけていたんだよ。この節は、愛国者の服、過激派の服、それにマルセイユ人の衣裳を着ていれば、変装にはもってこいだからね。Rの音を巻舌で発音したり(下層民の発音)ことあるごとに誓って見せたりするんだよ。なにしろ、追放者になっちゃあ、若くてきれいなご婦人なみに、そう易々とパリの町中《まちなか》を歩き回るわけにもいかないし、それに、あたしには、あいにくと、みんなの目からこの身をかくまってくれる熱狂的な共和党の情婦《いろおんな》もいないんでね」
「ムッシュウ、ムッシュウ、あたくしを憐んでください! お分りでしょう、あたくし死にそうですわ……」
「心配でかい、分るとも分るとも。あんたはあたしのことを、とても心配してくれたんだね。でもまあ、気を楽にしなさい、あたしはここにいるんだから。あたしは戻ってきたんだよ、もう、あんたと別れたりするもんかね、マダム」
「アア! あたくしを殺すおつもりですのね!」
「罪もない女を殺すんだって! じょうだんじゃあない! マダム、いったいどういうつもりなんだね? あたしがいなくて苦しんだあげくに、頭がどうかなったにちがいないな」
「ムッシュウ、手を合わせてお願いしますから、どうか、そんな残酷なことをおっしゃってからかうくらいなら、いっそひと思いにあたくしを殺してください。いいえ、あたくしは、罪もない女ではございません。そうなんです、あたくしは罪を犯しました。そう、死んでもいい女ですわ。殺して、ムッシュウ、あたくしを殺して!……」
「それじゃあ、自分は死んでもいい女だと白状するのかね?」
「そう、そうですわ」
「それにしても、あんたが自分で盛んに自分を非難しても、あたしの方では何だか分らない罪を清めるのに、文句も言わずに、甘んじて死のう、というのかね?」
「打《ぶ》ってください、ムッシュウ、あたくし泣きはいたしません。そしてあなたの手を呪う代りに、あたくしを打ったその手を祝福いたしますわ」
「いけないよ、マダム、あんたを打とうなんていうつもりはないね。ところで、あんたには死んでもらうかもしれないよ。ただね、あんたが死んでも、あんたが心配しているように、女の体面を汚すどころか、この世でもっとも見事な死に方として名誉になりそうだね。あたしに感謝するんだな、マダム、あんたに罰を与えるけれど、代りに永遠不滅の名前を残してあげるわけだからね」
「ムッシュウ、では、どうなさろうとおっしゃるの?」
「中途半端で打ち切ってしまった、あたしたちが目ざしていたあの目的ね、あんたにはあの目的を続けてもらうのさ。あんたにとってもあたしにとっても、なるほどあんたは罪を背負って死ぬわけだが、一味のものにとっては、あんたはまさに殉教者として死ぬのさ」
「アア! 神様! あなたがそんな話し方をなさると、あたくし気が違ってしまいますわ。あたくしをどこへ連れていらっしゃるの? どこまで引っ張っていらっしゃるんですの?」
「おそらく死の庭までだね」
「では、ちょっとお祈りをさせてください」
「お祈りだって?」
「そうですわ」
「だれに祈るんだね?」
「あなたにはどうでもいいことですわ! あなたがあたくしを殺す時こそ、あたくしはあなたに借りを返すわけです。そして借りを返してしまえば、もうなんの負い目もありませんもの」
「おおせの通りだ」とディメールが向こうの部屋へ引っ込みながら言った。「じゃあ、待ってるからね」
彼は客間を出ていった。
ジュヌヴィエーヴは、今にもはり裂けそうな胸に手を押し当てて、肖像の前へ行って膝まずき、低い声で言った。
「モオリス、あたくしを許して。あたくしはしあわせになるなんて、期待しておりませんでしたわ、でも、あなたを幸福にすることはできるつもりでおりました。モオリス、あたくしは、あなたが命とも思うしあわせを、あなたの手から奪ってしまうのです。いとしい方、あなたを殺すようなことをした、あたくしを許してください」
こう言って、長く巻いた髪を二房切りとって、すみれの花束のまわりにくくりつけ、花束を肖像の下に置いた。この肖像は物言わぬキャンヴァスでできていて、まったく無感覚だったが、彼女が立ち去る姿を見て、なにか苦渋にみちた表情を浮かべたように見えた。
少なくとも、ジュヌヴィエーヴには、涙ごしにそう見えたのである。
「どうだい、用意はできたかね、マダム」とディメールが言った。
「もうですの!」とジュヌヴィエーヴが呟いた。
「なるほど! まあ、たっぷり時間をかけるがいいよ、マダム!……あたしのほうは、べつに急いではいないからね! もちろん、おそらくもうすぐに帰るだろうが、あたしとしちゃあ、あんたをご親切に歓待したお礼を、彼に言えるのは願ってもないことだからね」
ジュヌヴィエーヴは、自分の恋人と夫がもし出会ったら、と思うと恐ろしくてゾッとする思いだった。
彼女はバネにはじかれたように立ち上がった。
「終りましたわ、ムッシュウ、用意はできました!」
ディメールが先に立った。目を半ば閉じ、首をうしろへ垂れて、ジュヌヴィエーヴは震えながら夫のあとに続いた。二人は、門のところで待っていた辻馬車に乗った。馬車が動き出した。
ジュヌヴィエーヴが言ったように、これですべてが終りだった。
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四十 ル・ピュイ・ド・ノエの居酒屋
裁判所の控え室を、大股で縦横に歩き回っていた、例の革命服を着た男の姿は、すでに読者もごらんになっている。また、建築家のジロオ、サンテール将軍、リシャールおやじが、地下道の出口のところの張り番をして頑張っていた見張り役と交わしていた言葉も、すでに読者はお聞きになっている。シモンに向かって、ランバル姫の首級をあげたのはオレだ、と自称していた、熊の毛皮のボンネットをかぶり、厚い口ひげを生やしていた例の熱狂的な愛国者が、あの波瀾万丈の夜の翌晩、七時頃に、あの居酒屋「ル・ピュイ・ド・ノエ」に姿を見せていた。この居酒屋は、すでに紹介したように、ラ・ヴィエイユ・ドラップリー街の角にあった。
彼はこの店、というより居酒屋の、タバコとローソクで黒く|すす《ヽヽ》けてもやもやと煙のたちこめているホールで、黒バターでいためた魚料理をガツガツ食べるふりをしていた。
彼が夕食をしているホールには、ほとんど人気がなかった。ただ三、四人の常連が、毎日この店へ通い詰めているという特権を振り回して、大きな顔をしているべつの客のそばにいるだけだった。
テーブルの大部分は空いていた。しかし、居酒屋「ル・ピュイ・ド・ノエ」の名誉のためにこれだけは断わっておかなければいけないが、赤い、というよりは紫色に変色したテーブルクロースを見れば、たら腹つめ込んで満足した客が、ずいぶんたくさん立ったり坐ったりしたことがはっきり判ろうというものである。
最後に残った三人の客が、つぎつぎに姿を消した。そして、八時十五分前頃には、とうとう例の愛国者ひとりになってしまった。
すると彼は、そのちょっと前までは、無上の楽しみとも思えるようにパクついていた味気ない料理の皿を、いかにも貴族的な、ゲッソリした様子を見せて押しやり、ポケットからスペイン渡りの板チョコを一枚とり出して、それを食べはじめた。その表情は、先ほど来、彼の顔付に見えた野卑な表情とは、まったく感じが違っていた。
ときどき、スペイン・チョコレートと黒パンを噛りながら、白と赤の格子模様のカーテンを垂れたガラス戸のほうへ、なにかイライラした不安そうな眼差しを投げかけていた。
ときには、耳をそばだてて、放心した様子で粗末な食事を途中でやめた。そんな様子に気がつくと、彼がじっと見据えているドアのすぐそばのカウンターに陣取っているこの店のおかみさんは、すっかり考え込んでしまって、どうやら、己惚れでなく、あたしがあの男の関心の的になっているんじゃあないかしら、などと思い込みかねない始末だった。
ようやく、入口のドアにつけたベルが鳴り響くと、例の男がびくりとした。男は魚を手にとると、この店のおかみさんに気付かれないように、さっきからひもじそうに見つめていた犬に半分ちぎって投げてやり、残りの半分は、犬にとびかかって、その爪で見事な、しかし致命的な一掻きをお見舞いした猫に食べさせてやった。
赤と白のカーテンを引いたドアが開いた。ひとりの男が入ってきたが、これも、例の愛国者とほとんど同じ服装で、ただボンネットだけが、毛皮ではなく、代りに赤いボンネットをかぶっていた。
この男のバンドには、大きな鍵束がブラ下がり、また銅のツバをはめた、歩兵用の幅の広いサーベルを吊っていた。
「いつものスープに、小瓶を一本だ!」
ホールヘ入りざま、この男が叫んだが、赤いボンネットには手も触れないで、ただ店のおかみにちょっと首を振って合図しただけだった。
それから、いかにも大儀そうに溜息をつくと、例の愛国者が食事をしているテーブルのとなりに腰をすえた。
居酒屋のおかみは、新しく入ってきた客にいつも見せる、あのいかにも無関心な態度で立ち上がり、自分で注文の料理を頼みに行った。
二人の男は互いに背を向け合っていた。
ひとりは道のほうを見ていたし、もうひとりはホールの奥をにらんでいた。居酒屋のおかみの姿が完全に見えなくなるまでは、二人の男はただの一言も言葉を交わさなかった。
おかみさんの背中でドアが閉り、二人の客に、明りが等分に届くように、実にうまい具合に、針金の先に一本のローソクがぶら下がっていたので、毛皮のボンネットの男は、彼の前にあった鏡に写して、このホールにひとっ子ひとりいなくなったのがわかると、ようやく、振り向きもしないで仲間に声をかけた。
「やあ、どうだ」
「今晩は、ムッシュウ」とあとから来た男が言った。
「それで、具合はどうだい?」と同じように無関心をよそおって愛国者が訊ねた。
「上々ですぜ、具合は」
「上々っていうのは、どういうふうに上々なんだ?」
「打ち合わせた通りでさあ。あたしはね、仕事のことでリシャールおやじと話し合いをつけましたよ。耳が遠くなって、目まいがするっていう口実をつけましてね、ご景物に、書記部屋のド真中で失神するってさわぎでさあ」
「なるほどうまいぞ。それで?」
「それでリシャールおやじがね、細君を呼んでくれましてね、細君がわたしの|こめかみ《ヽヽヽヽ》にお酢《す》を塗り込んで、まあようやく意識をとりもどした、っていう一幕でさ」
「なかなかいいぞ! それでどうした?」
「それからは、打ち合わせの通りでね。つまりでさあ、あたしは血の気の多いほうなのに、こんなふうに失神したりするのも、空気が足りないせいなんだ、この節はラ・コンシエルジュリーには四百人から囚人がいるんで、こんなところに勤めていたんじゃあ、あたしの命がなくなっちまうって言ってやったんですよ」
「で、連中はなんて言った?」
「リシャールの細君はあたしのことを同情してくれましてね」
「で、リシャールおやじのほうは?」
「あたしを門番にするっていうんでさ」
「だけど、お前が門番になっただけじゃあ、じゅうぶんとは言えないぜ」
「まあまあお待ちなさいよ。そこでリシャールの細君が、あれはひとのいい女でしてね、このあたしは、かりにも一家のあるじだっていうのに、思いやりがねえっていうんで、亭主を非難しましてね」
「で、亭主のほうはどう言った?」
「やっこさんは、細君の言うことは、一にも二にももっともだけれど、自分の持ち場の牢屋のところに頑張ってるのが、見張り番という役目の本来の、第一の条件だ、っていうわけですよ。それに、共和国はあんまりご機嫌じゃあねえだろう、自分の勤務についてる最中に失神してひっくりかえるようなやつは、首を斬られちまう、って言うんですよ」
「ちきしょうめ!」
「でも、やっこさんの言うことも道理ですぜ、リシャールおやじのはなしも。あのオーストリア女がやってきてからというもの、まったく地獄みたいに監視がきびしくなりましてね。今じゃあ、自分のおやじの顔まで首実験しかねませんや」
愛国者は、猫に噛みつかれた犬に、自分の料理をやって皿をなめさせてやった。
「終りまで話せよ」と振り向きもせずに彼が言った。
「そこでね、ムッシュウ、わたしゃあね、ウンウン言ってうめき始めたんですよ、つまりもう痛くてたまらねえ、っていうわけでさあ。救急室へ連れてってくれと頼みましてね、それにね、給料がなくなったら、うちの|ガキ《ヽヽ》どもは飢え死にだ、って言ってやったんですよ」
「で、リシャールおやじはどうしたい?」
「リシャールおやじの返辞ときたら、くぐり戸の番人なんぞしていて、ガキなんか作るのはもってのほかだ、と吐《ぬ》かすんですよ」
「でも、オレの見たところ、どうやらリシャールの細君は、お前の味方らしかったが?」
「ありがてえことにその通りで! 細君が亭主に喰ってかかりましてね、あんたは人が悪いって言って非難したもんでね、亭主のほうもとうとうこんなことを言い出しましたよ。『まあいいや、市民グラッキュス、だれかお前さんの友だちをひとり探してきて話し合いをつけとけよ、その男がお前さんの給金のうちのいくらかをお前さんに払やあいいやね。オレのほうじゃあ、その男がお前さんの代理ということにしておけば、まあ、その男を使うって約束しようじゃあないか』とね。そんなわけで、あたしゃあ、帰りがけに、『いいぜ、リシャールとっつあん、これからその男を呼んでくるからな』と言っておいたんですよ」
「ところでお前さん、相手は見つかったかい?」
そのとき、店のおかみさんが戻ってきて、市民グラッキュスのところへ、スープとぶどう酒の小瓶を持ってきた。
おそらく、グラッキュスにとっても、愛国者にとっても、問題はお互いに情報を交換するだけのことではなかったのだろう。
「おかみさん」と見張り番が言った。「今日はね、リシャールとっつあんからちょっとしたボーナスをもらったんだよ、それでね、ふんぱつして、きゅうりを添えた豚のバラ肉と、ブルゴーニュのぶどう酒の瓶でも開けようと思ってね。女中さんに食糧品屋まで肉を買いにひとっ走り行ってもらえねえかね、それに、酒倉から一|瓶《びん》見つけてきてもらいてえんだけれどね」
おかみさんは、さっそく注文に行った。女中が道に面したドアから出てゆき、おかみさんは、酒倉のドアから出ていった。
「なるほど、お前さんなかなか頭がいいぜ」と愛国者が言った。
「あんまり利口なもんで、あんたがいくら豪儀な約束をしてくれたところで、あたしたち二人の身に、どんなことが起こるか隠しきれねえんでさあ。あんたは、どんなことになるか思ってもみねえんですかい?」
「分るとも、すっかりな」
「いわば、あたしたちは二人とも、この首を賭けてるわけですぜ」
「オレの首のことなんか心配するな」
「はっきり言って、あたしが心配で心配でたまらねえのはね、ムッシュウ、あんたの首の問題じゃあありませんや」
「お前の首のことか?」
「そうですとも」
「だがな、オレがお前の首の値打の二倍に踏んだら……」
「だけどね、ムッシュウ、なんたって、首ってやつは貴重なもんですからね」
「お前の首なんかそうでもないな」
「なんですって! あたしの首は問題じゃあねえんですかい?」
「少なくとも、今のところはな」
「そりゃいったいどういう訳で?」
「つまりだ、お前の首なんか、一文の値打もないということさ。たとえばのはなしだが、もしオレが公安委員会の者だったら、お前は明日はギロチン行きだろうな」
見張り役が激しい勢いでうしろを振り向いたので、犬が彼に向かってさかんに吼えたてた。
彼の顔は、亡者のように真蒼だった。
「うしろを振り向かなくったって大丈夫だ、まあそう真蒼になるなよ」と愛国者が言った。「それどころか、おとなしく、スープを食っちまえよ。オレは|サツ《ヽヽ》のイヌじゃあないよ。オレをラ・コンシエルジュリーに入れて、お前の部署へつけてくれて、鍵を渡してくれりゃあ、明日は金貨で大枚五万リーヴルを数えて渡してやる、というわけだよ」
「ほかのことはともかく、それはほんとうでしょうね」
「そうとも! お前にはりっぱな担保があるんだ、オレの首はお前の出方次第だからな」
見張り人はしばらく考え込んだ。すると鏡に写る相手の姿を見ていた愛国者が言った。
「サア、サア、つまらん考えはやめたほうがいいぞ。たとえオレを密告したところで、お前は当り前のことをしただけだから、共和国はビタ一文お前にゃくれないぜ。もしオレに手を貸してくれたら、つまりあべこべに、お前が当り前のことをしなかったご褒美に、それにこの世間じゃあ、無料で何かしてもらうのも気の毒だから、五万リーヴルを差し上げようって言ってるんだ」
「よござんす! よく判りましたよ」と見張り人が言った。「あんたが頼んでいる通りにすれば、あたしはガッポリ儲かるわけだ。でもねえ、心配なのはその後のことで……」
「その後のことだって!……なにを心配してるんだ? 考えてもみろよ、オレがお前を密告するだなんて、とんでもない見当違いだ」
「そりゃおそらくそうでしょうね」
「オレの仕事が落ち付いた日の翌日、お前がラ・コンシエルジュリーへ見回りにくる。そこでオレは、一本二千フランずつ入った金貨の棒袋を二十五本お前に渡してやるよ。この二十五本の袋を、お前は勝手にポケットヘ入れればいいんだ。金といっしょに、フランスから出る地図を渡してやるからな。そこでお前は出発する。金さえたっぷりあれば、どこへ行ったって、少なくともひとに気兼ねなく独立できるからな」
「よござんす、ムッシュウ、できたことは仕方がない。あたしゃあ、ただのケチな野郎でしてね。政治に首を突っ込むのはごめんでさあ。あたしなんかいなくったって、フランスは相変らずりっぱに歩いて行けますし、あっしみてえな男がいようがいまいが、べつに国が滅びるっていうもんでもねえしね。たとえあんたが何か悪いことをしたところで、気の毒な目をみるのはあんただからね」
「いずれにしろ、当節みんながやってるほど、ひどいことはできないとオレは思うね」
「だんな、国民議会のご政道をどうこう言うのは願い下げですぜ」
「お前はなかなか大した男だぜ、考え深い上に、無関心でいるのはな。さあて、ところでリシャールおやじにオレを紹介してくれるのは、いつだい?」
「お望みならば、今夜でもよござんすよ」
「よし、それで決まった。でオレはだれになればいいんだ?」
「あたしの従兄《いとこ》のマルドーシュってことで」
「マルドーシュか、いいとも、その名前は気に入ったぜ。で、商売は何だい?」
「ズボン作りの職人で」
「ズボン作りから皮なめし、職人同士なら証文は無用っていうわけかい」(「商人同士の取り引きには証文無用、握手だけでじゅうぶん」という諺のもじり)
「あなたは皮なめしの職人なんですかい?」
「そうかも知れねえな」
「なるほどね」
「で、何時に紹介してくれるんだい?」
「三十分後ということじゃあいかがで」
「すると、九時っていうことになるな」
「あたしのほうは、|おたから《ヽヽヽヽ》はいつ手に入るんで?」
「明日だ」
「あんたは、たいへんな金持なんですね?」
「まあ暮らし向きは楽なほうだ」
「ひょっとしたら、貴族じゃあ?」
「そんなことは、どうでもいいだろう!」
「金がどっさりあって、ギロチンにかかる危険を冒すのに金を費うとはねえ! まったくのはなし、貴族なんてアホウにちげえねえ!」
「それがどうした! 過激派《サン・キュロット》の連中を見てみろ、今じゃあほかの者には機智のかけらも残っていねえっていうのに、連中ばかりはりっぱに持ってるぞ」
「シーッ! あたしのぶどう酒が来ましたよ」
「じゃあ今夜、ラ・コンシエルジュリーの前でな」
「よござんす」
愛国者は代金を支払って出ていった。
ドアのところから、|われがね《ヽヽヽヽ》のような声でどなるのが聞えてきた。
「早くしろよ! おかみさん、キュウリを添えたあばら肉だぜ! オレの従弟《いとこ》のグラッキュスが、腹を空かして死にそうになってらあ」
「ヘヘッ、お人好しのマルドーシュめ!」
色っぽい流し目をくれながら、おかみさんが注いでくれたブルゴーニュのコップを味わいながら、このくぐり戸の見張り人が言った。
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四十一 陸軍省の書記
その愛国者は外へ出たが、そう遠くまで行かなかった。曇りガラスを通して、彼は見張り人の動静をうかがっていた。相手が、共和国警察の巡査、この世で最も腕ききの巡査のひとりに通報しやあしないか見極めようとしたわけだが、この当時では社会の半分が残りの半分のスパイをしていたからで、それも政府に偉大な貢献をしようなどという殊勝な心からではなく、自分の首をいちばん安全なものにしておきたいからであった。
しかし、愛国者が恐れているようなことは、なにひとつ起こらなかった。九時ちょっと前になると、見張り人が立ち上がり、おかみさんの|あご《ヽヽ》をちょいとつついて出ていった。
愛国者は、ラ・コンシエルジュリー河岸で彼と落ち合うと、二人一緒に牢獄へ入っていった。
その夜のうちに話し合いはついた。リシャールおやじは、市民グラッキュスの代りに、くぐり戸の見張り番マルドーシュを雇うことにした。
牢獄のほうでこんな問題が進行している二時間ほど前に、牢獄のべつの場所で、ひとつの情景が展開していた。見た目にはたいして興味のないような一シーンだったが、実は、この物語の主要人物にとっては、少なからぬ重大性を持っていたのである。
一日の仕事に疲れきったラ・コンシエルジュリーの書記が、帳簿をたたんで、帰ろうとすると、ひとりの男が、リシャールの細君に案内されて彼の事務所の前へやってきた。
「ねえ、書記さん」と細君が言った。「この方はあなたのお仲間で、陸軍省の書記さんなんですよ。大臣に頼まれて、軍人収監者の名簿の間違いを直しにみえたんだそうですよ」
「イヤハヤ! 市民」とその書記が言った。「ちょっとお出になるのがおそすぎましたな、書類はすっかり片付けちまったんで」
「いやどうも、申し訳ありませんな」と新来の男が答えた。「でも、あたしたちも仕事が山のようにありましてね、あちこち走り回って、自分の時間がほとんどできない有様なんですよ、自分の時間といえば、ふつうのひとが寝ている時か、食事している時ぐらいのものでしてね」
「まあ、そんな調子じゃあ、仕方がありませんな。でも、お急ぎ願いますよ、あなたのおっしゃったように、ちょうど夕食どきですし、ぼくも腹ペコでしてね。ところで、委任状はお持ちで?」
「ここにありますよ」と言って、陸軍省の書記が書類入れを見せると、仲間の書記は、できるだけ急ぎながらも、細心の注意を払ってそれを検べた。
「なるほど! 全部規定通りになっていますよ」とリシャールの細君が言った。「うちの主人がもうよく検べましたからね」
「マア、マア、いいよ」と言いながら、書記が検査を続けた。
陸軍省の書記のほうは、辛抱づよく待っていたが、その様子は、いかにも、こうした手続きをきちんとやるのが当然と思って、期待してきたように見えた。
「言うところなしですな」とラ・コンシエルジュリーの書記が言った。「では、いつでもお望みの時に始めてください。ところで、その間違いを直す名簿はたくさんあるんですかな?」
「百人ばかりで」
「なるほど、そうなると、数日はかかりますな」
「ですからね、あなた、もしお許しいただけたら、あなたのところに、ちょっとした部屋みたいなものでも造りたいんですが、いかがなものでしょうな」
「それはいったいどういう意味ですか?」とラ・コンシエルジュリーの書記が訊ねた。
「そのことなら、今夜、あなたを食事にご招待して、その間にご説明するつもりなんですがね。お話のように、ご空腹のようですから」
「それはべつに否定はしませんが」
「よろしい、ではうちの家内に会ってやってください。なかなか腕のいい料理人でしてね。それにあなたともお近づきになりたいし。これでも、あたしはつき合いの好いほうでしてね」
「ほんとにそうですな、ぼくもそんな感じがしますよ。ところで……」
「イヤ、どうかご遠慮なさらないで、これから、シャトレ広場を通りがかりに買って帰る|かき《ヽヽ》と、行きつけの鳥料理屋の鶏と、マダム・デュランが腕によりをかけて料理した、三皿か四皿のご馳走をあがってくださいよ」
「いやあなたに、そんなことを聞くと、ぼくはすっかり嬉しくなりますよ」とラ・コンシエルジュリーの書記は、このメニューを聞いてすっかりうっとりして言った。アシニヤ紙幣で二リーヴル程度、これは実際には二フラン足らずの価値しかなかったので、この程度の給料しか革命政府からもらっていない書記にとっては、こんな豪勢なご馳走は食べ慣れないものだったのである。
「じゃあ、招待を受けていただけますね?」
「お受けしますよ」
「ということなら、仕事は明日から、ということにして。今夜のところは、帰るといたしますか」
「帰りましょう」
「では、どうぞ」
「ちょっとお待ちください。ただ、オーストリア女の警備をしている憲兵たちに知らせてくるだけですから」
「そんなことをなぜ連中に知らせるんで?」
「つまり、ぼくが帰ることを知らせておけばですね、当然、書記局にはだれもいないことが判りますし、どんな音が聞えてきても、これは怪しい、と思いますからね」
「なあるほど! りっぱなもんですな。まさに石橋をたたいて渡る、というわけですな」
「お判りになりましたか?」
「すっかりね。さあ、どうぞいらっしゃい」
ラ・コンシエルジュリーの書記は、事実、くぐり戸のところへ行ってノックすると、憲兵のひとりがくぐり戸を開けて言った。
「だれだ?」
「ぼくです! 書記ですよ。帰りますからね。おやすみ、市民ジルベール」
「おやすみ書記さん」
と言って、くぐり戸が閉った。
陸軍省の書記は、細心の注意を払ってこの情景を余すところなく見つめていたが、女王の牢獄の戸が開くと、彼の視線は、はじめの部屋の隅から隅まで素早く見透した。彼はテーブルについている憲兵のデュシェーヌを見たし、従って、女王の警備には二人の衛兵しかついていないことを確かめた。
ラ・コンシエルジュリーの書記がこちらを向いたときには、彼の表情は、前と同じ、まったく無関心な様子を取り戻していたことは、断わるまでもあるまい。
二人がラ・コンシエルジュリーを出たとき、べつの二人の男が入ってくるところだった。
入ってきた二人の男は、市民グラッキュスとその従兄のマルドーシュだった。
従兄のマルドーシュと陸軍省の書記とは、いずれも同じ感情に動かされたらしく、相手の姿を認めると、ひとりはその毛皮のボンネットを、かたやもうひとりは|つば《ヽヽ》の広い帽子を目深にかぶって顔を隠してしまった。
「あの連中はどういうひとたちです?」と陸軍省の書記が訊ねた。
「ひとりしか知りませんね。あれはくぐり戸の見張り人のグラッキュスという男ですよ」
「ヘエーッ!」と相手は無関心をよそおって言った。「このラ・コンシエルジュリーじゃあ、見張り人が外出してもいいんですかね?」
「連中だって暇をとらなきゃあね」
質問はそうしつっこく続けられなかった。二人の新しい友だちは両替橋へさしかかった。シャトレ広場の角のところで、さっき話した計画通りに、陸軍省の書記は十二ダース入りの|かき《ヽヽ》の箱を買った。それからグレーヴ河岸を歩き続けた。
陸軍省の書記の住居は、すこぶる質素なものだった。市民デュランは、グレーヴ広場に面した、管理人のいない家の小さな部屋三部屋を借りて住んでいた。間借人はそれぞれ私道に続く門の鍵を持っていた。鍵を身につけていない場合には、自分が住んでいる階に従って、その階の数だけ、ノッカーを一回か、二、三回たたいて知らせるようになっていた。そうすると、中で待っている、この合図を知っている人問が降りてきて、門を開くのである。
市民デュランはポケットに鍵を持っていたので、ノッカーを鳴らす必要はなかった。
裁判所の書記は陸軍省の書記の細君が大いに気に入った。
事実、じつにチャーミングな女性で、その顔にただよう、深い憂愁の表情が、ひと目見ただけで、強烈な関心を惹くのであった。ご承知のように、憂愁の表情というものは、美しい女性の魅力のうちにあって、いちばん確実なもののひとつである。憂愁の表情は、男という男を恋の|とりこ《ヽヽヽ》にするものだが、書記風情だからと言って、例外ではない。というのは、たとえ何と言おうが、書記だって男には違いないから、苦悩に打ちしおれる美しい女性を慰め、市民ドラ(同時代の詩人で劇作家)流に言えば、蒼白な顔の血の気のない頬の色を、もっとにこやかなバラ色に変えてやりたいという、残酷な自尊心、ないしは感じ易い心を持たない者はないわけである。
二人の書記はすばらしい食欲で夕食を食べた。食べないのは、マダム・デュランひとりだった。
その間に、話題はあちらこちらへとんだ。
陸軍省の書記は、毎日悲劇が続くこうした時代には目立ち過ぎるくらいの好奇心を見せて、裁判所の習慣やら、裁判の日や、警備の方法がどんなものかをその仲間に訊ねた。
裁判所の書記のほうは、相手が実に注意深く傾聴してくれるのですっかり気を好くして、大喜びでこれに返辞をして、獄卒たちの、フーキエ・タンヴィルの、さらにはシモンの習慣などを喋った。彼らはいわば、夜毎に、革命広場で上演されているあの悲劇の立役者になっていたわけである。
それから、仲間であり、今日の亭主役に向かって、今度は彼のほうから、相手の役所の様子を話してくれと頼んだ。するとデュランが言った。
「イヤ、とんでもありませんよ! あたしにはとうてい、あなたみたいに詳しくはご説明できませんよ、なんと申しても、あたしなんか、どちらかと言えば正式の書記の、そのまた秘書みたいなものでしてね、あなたのような方よりもずっと下っ端の人間ですからねえ。あたしは書記長の仕事の手伝いをしていますが、これがまた曖昧な身分でしてね、あたしのほうじゃあさんざん苦労して、手柄のほうはお偉方に持っていかれちまうんでね。まあ、どんなお役所仕事でもありがちのことで、革命政府ですら同じことですわ。いつかはきっと、天と地が入れ代ることがあるかも知れませんが、お役所というのは、まあ変らないでしょうな」
「ところで、なにかお手伝いでもいたしましょうか」と裁判所の書記が言った。彼は、ご馳走になった美酒にすっかりいい気持になり、とくにまた、マダム・デュランの美しい双眸《そうぼう》にぞっこん参ってしまったのである。
「ヤア! それはありがたいですな」とこの親切な申し出を受けた男が言った。「習慣や土地を変えるというのは、哀れな勤め人にとっては楽しみのひとつでしてね、それにあたしとしては、ラ・コンシエルジュリーの仕事が永続きすればいいんですが、お手伝いしていただいたら、早く終るんじゃあないかと心配なんですよ。ここで退屈している家内のところへ、毎晩あなたをお誘いできれば……」
「ぼくのほうには否やはありませんがね」と、仲間が約束してくれた、この願ってもない楽しみにうっとりした裁判所の書記が言った。すると、市民デュランがあとを続けた。
「家内がね、名簿を読み上げてくれるんですよ。それでですね、もし今夜の食事がそうまずくないと思し召したら、いかがです、ときどきまたこの程度のものですが、食《あが》りにいらっしゃいませんか」
「そうですな、といって、そう三日にあげずでも困りますがね」と裁判所の書記が、己惚れまじりに言った。「というのはね、はっきり申しますと、ル・プチ・ミュスク街に、ちょいとした家がありましてね、ふだんよりあまりおそく帰ったりすると、やかましく苛《いじ》められそうでしてね」
「よろしいですな、これでりっぱに話し合いは成立というわけですな。お前はどうだい?」
マダム・デュランは相変らず蒼白で、憂いをたたえていたが、夫のほうに目をあげて、こう返辞をした。
「あなたのよろしいように」
十一時の鐘が鳴った。そろそろ退散の時刻である。裁判所の書記が立ち上がり、彼ら夫婦の近づきになれた喜びと、今夜のご馳走のお礼を言いながら、新しい友人夫妻に別れを告げた。
市民デュランは踊り場まで客を送り、それから部屋へ戻って言った。
「サア、ジュヌヴィエーヴ、寝《やす》みなさい」
女はこれには返辞をせずに、立ち上がって、ローソクを取り、右側の部屋へ入った。
デュラン、というより、もうディメールと呼んだほうがいいが、ディメールは彼女が出て行くのを眺めて、彼女が部屋に入ってしまうと、一瞬考え込むような様子で、額を曇らせた。それから、今度は、反対側の部屋に入っていった。
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四十二 二通の手紙
その時から、陸軍省の書記は、毎晩裁判所の仲間の書記のところへやってきて、一生懸命仕事をしていた。前もって用意した帳簿の中の名簿を、マダム・デュランが訂正し、デュランは熱心にこれを写していた。
デュランは何にも注意を払っていないようなふりをしながら、余すところなく調べていた。彼は、毎晩、九時の鐘に、リシャールか、彼の細君が持ってきた食料品の籠が、扉のところへ置いてあるのに気付いた。
書記が憲兵に、「じゃあ帰るよ、市民」と言う時に、憲兵が、つまりジルベールかデュシェーヌのどちらかが出てきて、籠をとり、マリー・アントワネットのところへ持って行くのだった。
デュランが続けて三晩も、おそくまで仕事を続けていたあいだに、寵もまた彼と同じくらいおそくまでそこにあった。というのは、憲兵が食料品をとりにくるのは、書記に別れの挨拶をするために、ドアを開けにくるときしかなかったからである。
いっぱい詰まった籠を中へ持っていってから十五分もたつと、二人の憲兵のうちのひとりが、前の日の空になった寵を扉のところへ持ってきて、べつの籠があったのと同じ場所にそれを置く。
四晩目の夜というと、十月の初めに当っていたが、いつもの時間が過ぎて、裁判所の書記が帰り、デュラン、というよりディメールが妻と二人だけ残ったときに、ディメールがペンを落として、まるで自分の命がそれにかかっているかのように、慎重きわまる態度で聞き耳を立て、足音を殺してくぐり戸のほうへ駆け寄り、籠を覆っているナプキンを持ち上げて、囚人用の柔らかいパンの中へ、小さな銀の箱を突っ込んだ。
それから、昂奮のために蒼白になって、震えていた。たとえどんなに強靱な神経を持っていても、そのために永い時間をかけて準備し、ひたすら期待されていた行為をいまやりとげた男ならば、つい震えてしまうのが当然というものである。彼はもとの位置へ戻ってきたが、額に片手を当て、もう一方の手は心臓に当てていた。
ジュヌヴィエーヴは、夫がすることを眺めていても、夫に言葉をかけなかった。夫が彼女をモオリスの家から連れてきて以来、いつも、夫が先に自分に声をかけるのを待つのが当り前になっていた。
ところが、今度は、彼女のほうから沈黙を破った。
「今夜ですの?」と彼女が訊ねた。
「いや、明日だ」とディメールが答えた。
そしてもう一度あたりを見回して、聞き耳を立て、帳簿を閉じて、看守のほうへ近寄り、扉をノックした。
「なんだい?」とジルベールが言った。
「市民、帰りますよ」
「よし」と部屋の奥の方で憲兵が言った。
「おやすみよ」
「おやすみなさい、市民ジルベール」
デュランの耳に掛け金のきしむ音が聞えたので、彼には憲兵が扉を開けにきたのが分った。彼は外へ出た。
リシャールおやじの住居から中庭へ続く廊下の中で、毛皮のボンネットをかぶり、大きな鍵の束をブラ下げているくぐり戸の番人とぶつかってしまった。
恐怖がディメールをとらえた。この男は、こんな身分の人間らしくいかにも兇暴で、自分を誰何《すいか》し、自分を見て、身許をあばいてしまうかもしれない。彼は帽子を目深にかぶり、そのあいだに、黒いマントのフードを目の上まで引き下げた。
「ヤア! 失礼!」
番人のほうは、自分のほうがぶつかられたのに、ただこう言っただけだった。
ディメールは、優しく礼儀正しいその声音に、ゾッと寒気がした。けれども番人のほうは、きっと急いでいたに違いない、廊下の中にすべり込むように入り、リシャールおやじの住居のドアを開けて、中へ消えた。ディメールはジュヌヴィエーヴを引きずるようにして、道を続けた。
門が背中越しに閉り、自分の燃えるような額が外の空気に触れて冷たくなったような気がすると、ようやく彼は言った。
「なんだか奇妙だな」
「アラ! ほんとに奇妙ですわ」とジュヌヴィエーヴが呟いた。
以前の二人の仲がうまくいっていた時代なら、夫婦は、自分たちが驚いた理由をお互いにいろいろと語り合ったにちがいない。ところがディメールは、心の中に湧いた考えと闘いながら、幻覚としてこれをむりに抑えつけていたし、一方ジュヌヴィエーヴのほうは、両替橋の角を曲りながら、暗い裁判所のほうに、最後の一瞥を投げかけただけだった。この裁判所で、失った友人のまぼろしに似たなにかが姿を現わして、彼女の心の中に、甘く、同時にほろ苦いさまざまな思い出を呼び起こしたのであった。
二人とも、ただ一言も言葉を交わさずに、グレーヴ広場へ着いた。
そのあいだに、憲兵のジルベールが出てきて、女王用の食料の入った寵を持っていった。寵には、フルーツ、コールド・チキン、白ぶどう酒、水の入った瓶とそれに二斥のパンの半分ばかりが入っていた。
ジルベールはナプキンを持ち上げて、市民リシャールが寵の中へ入れた品物がいつもと同じ位置にあるのがわかった。そこで、衝立を押して、大きな声で言った。
「女市民、夕食が参りましたよ」
マリー・アントワネットはパンを割った。ところが、指が銀の冷たい感触にふれたような気がするとすぐに、このパンの中にはなにかふつうのものとは違ったものが入っているのがわかった。そこで彼女はあたりを見回したが、憲兵はすでに顔を引っ込めていた。
女王はしばらくじっとしていた。だんだんに遠ざかる足音を数えた。
憲兵はたしかに同僚のそばへ行って坐った、と思うと、彼女はパンの中から小箱をとり出した。小箱の中には手紙が入っていた。彼女は手紙を拡げ、次のような文章を読んだ。
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マダム、明日、陛下が今日この手紙をお受け取りになった同じ時間に、ご用意ください。と申すのは、明日、この時刻に、ひとりの女性が陛下のお部屋に入って参ります。この女性が陛下のご衣裳を着け、代りに陛下に彼女の服をお召しになっていただきます。その後は、陛下はラ・コンシエルジュリーを出られて、陛下のもっとも忠実な下僕《しもべ》の腕にお帰りになれるでしよう。
隣りの部屋でどんな音が聞えましても、ご心配なさいますな。叫び声やうめき声が聞えましても、足をお止めにならぬように。ただただ、陛下のお身代りになるべきこの女性の衣裳とマントを、大急ぎでご着用になることにのみみこころをお砕きください。
[#ここで字下げ終わり]
女王はもう一度手紙を読み返した。すると、第二節目の文章が彼女の心を打った。
「『叫び声やらうめき声が聞えましても、足をお止めにならぬように』ですって。アア! これは、あたくしの二人の衛兵がやられる、という意味だわ、可哀そうなひとたち! あのひとたちは、あたくしにずいぶん優しくしてくれたんですもの。いけない、いけないわ」
彼女はさらに、余白になっていた手紙の半分のほうを裂いたが、自分の救出に一生懸命になっている、この未知の友人に返辞を書こうと思っても、鉛筆もなければ、ペンもなかった。そこで女王は、ネッカチーフのピンをとり、紙に穴を開けて字を書き、つぎのような文章を綴った。
[#ここから1字下げ]
あたくしは、自分の命のひき換えに、どなたの命を犠牲にすることもできませんし、また承知いたしません
M・A
[#ここで字下げ終わり]
それから紙を小箱の中に入れ、その箱を、二つに割ったパンのべつの部分に突っ込んだ。
この仕事が終るとすぐに十時の鐘が鳴った。女王はパンのかけらを手にしたまま、間をおいて、ゆっくりと響いてくる鐘の音を悲し気に数えていたが、そのとき、女囚の庭と呼ばれている中庭に面した窓のひとつから、キイキイときしるような音が聞えてきた。その音はガラスの上をきしる、ダイヤモンドが出す音に似ていた。この音に続いて窓ガラスに軽くカチカチという音がしたが、その音は何度か繰りかえされ、しかも男のわざとらしい咳の声でかき消された。それから窓ガラスの隅に、小さく巻いた紙が見えて、ゆっくりと中へ差し込まれて、壁の下へ落ちた。そして女王の耳に、鍵がいくつもいくつもぶつかり合って、ガチャガチャ響く鍵束の音と、敷石に響きながら遠ざかってゆく足音が聞えた。
ガラスの隅のほうに、今しがた穴があけられて、その穴から、遠ざかってゆく男が紙を差し込んだのだと、女王にも分ったが、その紙はおそらく手紙にちがいない。その手紙は床の上に落ちていた。女王は衛兵のひとりが、自分のほうへ近寄って来ないかと、耳をすましながら手紙をしげしげと見つめていた。ところが、二人の衛兵は、いつものように、女王にうるさくないように気を使って、一種の暗黙の契約で小声で喋っている声が聞えてきた。そこで女王は息を殺して静かに立ち上がり紙を拾いに行った。
細く固いものが、まるで鞘から落ちるようにすべり落ちて、煉瓦の上に落ちて、金属的な音を立てた。それは、いちばん目の細かい|やすり《ヽヽヽ》で、道具というよりはむしろ貴金属に近い、はがねのバネの一種で、これを使えば、女王の手がいかに弱々しげで、不器用でも、十五分以内にもっとも堅固な鉄格子でも切れそうだった。
紙にはこんなことが書いてあった。
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マダム、明晩九時半に、ひとりの男がやってきて、女囚の庭に面した窓のところで、あなたを警備している衛兵たちとお喋りを始めるでしょう。その間に、陛下は窓の左から右へいって三番目の格子をお切りください……ななめにお切りになれば、ものの十五分もあれば陛下でもじゅうぶんのことと思います。その後に、どうぞ窓を乗り越えるご用意をあそばすように……このお知らせをいたしましたのは、陛下のもっとも献身的な、もっとも忠実な家来で、陛下のおためとあらば命を捧げる覚悟でおりますし、また陛下のおために命を犠牲にするのをしあわせと心得ているものでございます。
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「アア!」と女王が呟いた。「これは罠でしょうか? ちがいます、あたくしはこの筆跡を知っております。例のル・タンプルのときのものと同じものです。そう、メーゾン・ルージュの騎士の筆跡です。アア! 神はあたくしが逃げるのをお望みなのかもしれない」
そして女王は膝まずいて、囚人にとっては至高の慰めである、祈りの中に保護を求めるのだった。
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四十三 ディメールの作戦準備
眠れない夜に続いて、ついに恐ろしい翌日がやってきた。それは、血の色に染まった日、と言っても大袈裟ではなかった。この時期、とくにこの年には、事実、もっとも晴れ上がった日でも、太陽は鉛色の光を投げかけていたものだった。
女王はほとんど眠っていなかった。休む暇もなくうとうととして過ごした。眼をつぶるとすぐに、女王の目には血のしたたりが見えたような気がし、叫び声があがったように思えるのだった。
彼女は、手に例のやすりを持ったまま、まどろんで夜を過ごした。
その日のうちの何時間かを、お祈りに没頭した。衛兵たちは、こんなにしばしばお祈りに打ち込んでいる女王の姿を見て、これほど信心に固まっているからには、なんの心配も要らない、と思ったくらいだった。
ときどき、女囚人は、救い主のひとりが置いていってくれた|やすり《ヽヽヽ》を胸からとりだしてみたが、鉄格子の堅牢さを思うと、この道具はいかにも弱いものだ、という気がした。
ただ運のいいことには、この鉄格子は片側、つまり下のほうだけしか接着されていなかった。
上の部分は、横に一本渡した格子にはめ込んであった。だからこの上の部分に|やすり《ヽヽヽ》の目を入れれば、格子を引っぱるだけで格子は外れた。
しかし、女王の気持を抑えるのは、こうした物理的困難ではなかった。それはできる、と女王にはじゅうぶん分っていたが、その可能性そのものが、希望を、女王の目をくらませるような血なまぐさい焔に変えるのであった。
彼女は、自分の友人がここへやってきたら、どうしても自分の警備をしている男たちを殺さなければならないだろう、と思ったが、どんなことをしても、彼らを殺すことは承諾できなかったにちがいない。この男たちは、ずい分以前から、女王にいくらかでも同情を示してくれた唯一の男たちだったから。
いっぽう、彼女に|やすり《ヽヽヽ》の目を入れろ、と言ってきた鉄格子の向う側には、自分のもとへやってくる救い主の邪魔をして斃《たお》れるはずのこの二人の男たちの屍骸の向う側には、生命と、自由と、それにひょっとしたら復讐まであるかもしれない。この三つのものは、とくにひとりの女性にとっては、神に許しを願ってまで、熱心にそれを追い求めたいと思うほど甘美なものなのである。
そればかりか、二人の衛兵は疑惑など抱いていないで、まったく心を動かしてはいないし、陰謀というものをひとつの罠と仮定するならば、自分たちの女囚人を落とし込もうとしている罠があるなんていう意識すら、ぜんぜん持っていない、ということを女王は信じていた。
この二人の単純な男の目は、ずいぶん経験に富んでいたのだが、おそらく、その目の中には、本心を洩らしていたに違いない。ここにいるひとりの女性もまた、さんざん不幸を味わったあげくに、ついには不幸を見分けるのに慣れてしまって、同じように経験を積んだ目をもつようになっていたのだ。
女王にははじめはこの申し入れが罠のように思えたのだが、この二つの申し入れをひとつひとつ検討してみようという考えを、とうとう諦めてしまった。けれども、自分がこの罠に落ち込むのが恥辱である、という気持を捨てるに従って、自分の目の前で、自分の身代りに流される血を見るのではないか、という懸念が、さらにいっそう大きくなってゆくのだった。
「奇妙な運命だわ、それになんという崇高な光景でしょう!」と女王は呟いた。「ひとりの哀れな女王、というより、哀れな女囚人を救うために、二つの陰謀が同時に計画されているんだわ。その女囚人はなにひとつしないのに、その陰謀者たちを誘い寄せたり、勇気づけたりして、二つの陰謀が、時を同じくして起ころうとしているんですもの」
「どうしたらいいんでしょう! おそらく、二つの陰謀といっても元はひとつなんだわ。きっと、表面二つに見えるだけで、ゆきつく点はひとつになるに違いないんだわ」
「だから、あたくしが望めば、あたくしの命は助かるにちがいない!」
「でも、あたくしの身代りになって、ひとりの女性が命を犠牲にするんだわ!」
「それに、この女性があたくしのところへ来るまでには、二人の男が殺されてしまう!」
「神も、未来もあたくしを許してはくださらないだろう」
「できない! そんなことはできないわ!……」
ところがそのとき、女主人に対する下僕たちの献身、という大理念が女王の心の中を行きつ戻りつした。すなわち、下僕に対する主たる者の権利、という昔ながらの伝統である。今や息も絶え絶えな王者の血統からほとんど消えかかっていたまばろしである。そこで彼女は心のうちで言うのだった。
「アンヌ・ドートリッシュ(ルイ十三世妃。ルイ十四世摂政として王権の強大をはかる)はきっと許してくださるにちがいない。アンヌ・ドートリッシュは、王族の救済という大原則を、あらゆるものに優先なさったにちがいないわ」
「アンヌ・ドートリッシュは、あたくしと同じ血筋を承け継いだお方だったし、ほとんどあたくしと同じような立場にあったんだもの」
「フランスに、アンヌ・ドートリッシュと同じような王家の権威を求めにやってくるなんて、狂気の沙汰だわ!」
「だから、フランスヘ来たのはあたくしの意志ではないわ。二人の国王がこんなことをおっしゃっていたわ。
『今まで会ったこともない、愛し合ったこともない、おそらく永久に愛し合うこともない二人の王子王女が、同じ処刑台上で死ぬために、同じ祭壇で華燭の典を挙げるのは、重大なことだ』と」
「それに、あたくしが死ねば、あたくしの数少ない友だちの目には、まだフランスの王として映っている、哀れな二人の子供の死を招くのではないかしら?」
「そしてあたくしの王子が、主人と同じような死に方をしたら、ありふれた庶民の数滴の血を惜しんで、サン・ルイ王の王座の名残りを自分の血で汚したあたくしを見て、憐憫の微笑を洩らすのではないかしら?」
女王が夜を迎えた頃には、こうした不安はだんだんと昂《たか》まり、疑念の熱にうかされ、その動悸は絶えず倍加して、ついには懸念が恐怖に変っていた。
女王は、何度か二人の衛兵の様子をしらべた。こうして見ると、この男たちにしてもそれほど穏やかな態度とも思えなかった。
この粗野だが、善良な男たちの細かい心遣いにしても、もうそれ以上女王の心を打たなかった。
宵闇がこの部屋にたち込めた頃、夜警の足音が響きはじめた頃、武器の響きや犬の吼える声が、暗い円天井の|こだま《ヽヽヽ》を呼び起こした頃、そしてついに、牢獄中が恐ろしい、そして希望のない姿を現わした頃、女性の天性に持ち前の弱さに征服されたマリー・アントワネットは、ゾッとして立ち上がった。
「アア! あたくしは逃げるんだわ!」と彼女は言った。「そうだわ、逃げるんだわ。あのひとがきて、話しを始めたら、鉄格子に|やすり《ヽヽヽ》の目を入れて、あとは神とあたくしの救い主があたくしに命令した通りに待てばいいんだわ。あたくしには、子供たちに対する義務がある、子供たちは殺されやしないわ。でも、もし子供たちが殺されて、あたくしひとり自由の身になったら、アア! そのときは、せめて……」
彼女は言い終らなかった。両眼を閉じて、口は声を押し殺した。鎧戸と鉄格子で閉ざされた部屋に閉じ込められている、この哀れな女王が描く夢は、ゾッとするような夢だった。夢の中ではいつも、やがて鉄格子も鎧戸も倒れた。女王は、陰惨な、情け知らずの軍隊の真中にいた。兵隊が、焔に向かって燃えろと命じ、剣に、鞘を離れろ、という命令を下した。女王は、結局は自分のものでなくなった国民の復讐を受ける身になったのだ。
そのあいだに、ジルベールとデュシェーヌは静かに話し合い、自分たちの夕食の準備をしていた。
いっぽう同じ頃、ディメールとジュヌヴィエーヴもラ・コンシエルジュリーに入り、いつものように書記室に腰をすえた。ここに落ち着いてから一時間ほどたつと、これもまたいつもと同じように、裁判所の書記が自分の仕事を終って、二人を残して出ていった。
仲間の肩ごしにドアが閉ると、ディメールは、今夜の籠ととり替えるように、扉のところに置いてある空の籠のほうへ走り寄った。
彼はパンのかけらをとり、それを割って、小箱を再び見つけ出した。
箱には女王の手紙が入っていた。彼は蒼白になりながら、それを読んだ。
そして、ジュヌヴィエーヴが見つめていたので、紙をちぎれちぎれに引っ裂いて、ストーヴの焔をあげて燃えている口の中に投げ込んだ。
「これでよし、万事オーケーだ」と彼が言った。
そして、ジュヌヴィエーヴのほうを振り返りながら言った。
「きなさい、マダム」
「あたくしですの?」
「そうだ。小声で喋らなければいけないぞ」
ジュヌヴィエーヴは、大理石のようにじっと動かず、冷淡な様子でいたが、すっかり諦めたようなジェスチュアをして、近寄った。
「さて、時間がきたよ、マダム。あたしの言うことを聞くんだ」とディメールが言った。
「はい、ムッシュウ」
「本来なら恥辱にまみれた死に方をして、復讐を受けるところだが、あんたは自分の目的に役立つような死に方、同志の者からは祝福され、全国民から悲嘆の涙を浴びるような死に方を選んだのだ、そうだね?」
「はい、ムッシュウ」
「あんたの恋人の家で会った時にあんたを殺すこともできたわけだがね。しかし、あたしのように、名誉ある、聖なる使命に命を捧げている人間にとっては、不幸な事件もその目的のために犠牲にして、自分の不幸も利用できるようにならなければいけないのさ。するだけのことはした、というより、するつもりでいることはしたんだ。あんたにも分るように、あたしは自決する喜びはご免こうむったんだ。だから、あんたの恋人も見逃しておいたのさ」
束の間の、しかし恐ろしい微笑のようなものが、ジュヌヴィエーヴの色褪せた唇に浮かんだ。
「しかし、あんたの恋人のほうは、あたしという人間を知っているあんたにはよく理解できるはずだが、いずれもっといいチャンスもあろうかと思って待っているだけなのさ」
「ムッシュウ、あたくしの準備はできております。それなのに、なぜそんな前置きをなさるのです?」
「用意はいいんだな?」
「ええ、あなたはあたくしを殺すんですね。ごもっともですわ。あたくし、待っております」
ディメールはジュヌヴィエーヴを眺めて、われにもあらずゾッとした。いまの彼女の姿は崇高だった。後光が、どんな後光よりももっとも輝かしい、恋から生まれた後光が彼女の姿を照らし出していた。
「あとを続けよう。あたしは女王には前もってお知らせしてある。女王はお待ちになっていらっしゃるだろう。ところが、おそらくそうなることと思うが、女王はなにか反対なされるだろうが、あんたは無理にも陛下にお願いするんだ」
「よろしゅうございます、ムッシュウ。どうぞ命令なさってください、おっしゃる通りにいたしますから」
「もうすぐに、あたしは扉をたたく。ジルベールが来て開ける。そうしたらこの短剣で」と言って、ディメールは服を開いて、鞘から半分抜き出した、両刃《もろば》の短剣を見せた。「この短剣で、あたしは彼を殺す」
ジュヌヴィエーヴは思わず身内が震えた。
ディメールは手で合図して、彼女の注意をうながした。
「あたしがあいつをやっつけたら、あんたは二番目の部屋へ跳び込むんだ、そこが女王の部屋だよ。あんたも知っているように、ドアはなく、ただ衝立しかないからな。そしてあんたは陛下と衣裳を代える、そのうちにあたしは二番目の兵隊を殺すから。そこであたしは女王のお手をとって、陛下とごいっしょにくぐり戸を越えるんだ」
「よくわかりました」とジュヌヴィエーヴが冷たく言った。
「分ったかな? 毎晩、黒いタフタのマントを着て、顔を隠してゆくあんたの姿は見られている。陛下にあんたのマントをお着せしたら、いつもあんたがそのマントにくるまっているように、陛下をスッポリ包むようにしてくれ」
「おっしゃるようにいたします、ムッシュウ」
「さて、あと残っていることは、あんたを許してやり、あんたに礼を言うだけだよ、マダム」とディメールが言った。
ジュヌヴィエーヴは冷たいほほ笑みを浮かべながら首を振った。
「あたくしには、あなたに許していただいたり、感謝していただく必要などございませんわ」と手を差し出しながら彼女が言った。「あたくしがする、と申すよりこれからすることが、あたくしの罪を償ってくれるでしょう。あたくしは、罪を犯したからといって、ただ自分が弱かっただけなのです。でも、あたくしが弱かったとは言っても、あなたのおとりになった態度も思い出してください、あなたは、そうしたこころ弱い罪を犯すように、ほとんどあたくしに無理強いなさったのですわ。あたくしは彼から遠ざかりました、ところがあなたは、またあたくしを彼の腕の中へ押し戻してしまいました。ですから、あなたは扇動者であり、裁判官であり、そしてまた復讐者なのです。ですから、あたくしの死については、あなたのほうからあたくしに謝らなければならないのです、そして、あたくしはあなたを許してあげましょう。あたくしの命を奪うことは、あたくしのほうであなたに感謝しなければなりませんわ、だって、ひたすらに愛していた方と引き離されてしまったあたくしにとって、人生なんておそらくもう耐えられないでしょう。ことに、あなたの残酷な復讐のおかげで、あたくしとあの方を結びつけているすべての絆を絶ち切られてしまった、あの時からは」
ディメールは胸に爪を食い込ませた。返辞をしようとしたが、声が出なかった。
彼は書記室の中を二、三歩歩いた。そして、ようやくこう言った。
「時間はどんどん過ぎてゆく。一秒一秒が有用なんだ。サア、マダム、用意はいいね?」
「先程も申しましたでしょう。あたくしは待っておりますのよ!」とジュヌヴィエーヴは殉教者のように落ちつき払って答えた。
ディメールは書類をすっかり集め、ドアが全部閉っているかどうか、だれも書記室に入れる者はいないかどうかを見にいった。それから、妻に向かってもう一度指図を繰りかえそうとした。
「必要ございません、ムッシュウ」とジュヌヴィエーヴが言った。「あたくしがするべきことは、すっかり存じております」
「じゃあ、さようなら!」
ディメールは彼女に手を差し出した。あたかも、この崇高な瞬間に、この偉大な情況と、高貴な犠牲を前にしては、自分が受ける非難はすっかり消えるはずだ、とでもいうように。
ジュヌヴィエーヴは、悪感を感じながら、指の先で夫の手に触れた。
「あたしのそばに控えているんだ、マダム」とディメールが言った。「ジルベールを斃したらすぐに、中へ通るんだ」
「いいですわ」
そこで、ディメールは右手に大きな短剣を握りしめ、左手で扉をたたいた。
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四十四 メーゾン・ルージュの騎士の作戦準備
前章で述べた情景が、女王の牢獄、というよりは二人の憲兵が頑張っている第一の部屋に面した書記室のドアのところで進行しているあいだに、もうひとつの作戦準備が反対側、すなわち女囚の庭で進められていた。
ひとりの男が、まるで壁から抜け出した石像のように、とつぜんに姿を現わした。この男は二匹の犬を連れて、当時大流行していたシャンソン「サ・イラ」を小声で歌いながら、手に持っていた鍵束をひとうちして、女王の部屋の窓にはまっている五本の鉄格子をガリガリと鳴らした。
女王ははじめは身震いしたが、それが合図だと分ると、すぐに静かに窓を開いて、信じられないほど経験をつんだ手で、仕事にとりかかった。これはかつて、夫君の王が、一日の数時問を過ごして楽しんだ錠前の仕事場で、女王は一再ならず、そのデリケートな指でこれに似た道具に触れたことがあったためである。今や、この道具の上に、彼女の救出のすべてのチャンスがかかっているのだ。
鍵束を下げた男は、女王の部屋の窓が開く音が聞えるとすぐに、憲兵の部屋の窓のほうへ行って、コツコツとたたいた。
「ヤア! お前かい!」とガラス戸越しに見ながらジルベールが言った。「市民マルドーシュじゃないか」
「あっしですよ」とくぐり戸の番人が言った。「どうです、でもとにかく見張りはじゅうぶんみたいですね?」
「いつに変らずさ、鍵守りの大将。お前さん、なんだかオレたちがしょっちゅうドジ踏んでると思ってるような調子だぜ」
「とんでもない! 今夜はね、今までより厳重に見張る必要がある、って思っただけでね」
「まさかね?」とそばへ寄ってきたデュシェーヌが言った。
「たしかなはなしでさあ」
「じゃあ、なにがあったんだい?」
「窓を開けてくれませんか、いま話してあげますから」
「開けろよ」とデュシェーヌが言った。
ジルベールが窓を開け、二人の憲兵とすでに友だちになっていた鍵守りと握手を交わした。
「ところで、なにがあったんだい?」とジルベールが繰りかえした。
「国民議会の会議がちょっとお熱くなりましたぜ。あれを読みましたかね?」
「いや、なにか起こったんかい?」
「そうなんで! まずね、市民エベールがあることを見つけ出しましてね」
「そりゃあなんだい?」
「死んだと思った例の陰謀の一味が生きていて、ピンピンしてるっていうんでさあ」
「アア! なるほど」とジルベールが言った。「ドレッサールとチエリイのやつだな。そのことなら聞いたことがあるぜ。連中はイギリスにいるんだ、あのならず者たちは」
「で、メーゾン・ルージュの騎士のことは?」と鍵番が、女王にまで聞えるような大声で言った。
「なんだって! あいつもイギリスにいるのか、あいつも?」
「どういたしまして、やつはフランスにいるんでさあ」とマルドーシュは、同じような調子で声を高くして言った。
「じゃあ、やつは帰ってきたのかい?」
「もともとフランスを出なかったんでさ」
「まったく面の皮の厚いやつじゃあないか!」とデュシェーヌが言った。
「まったくその通りでさ」
「とにかく、いずれは捉えるつもりだよ」
「たしかに、いずれは捉えるでしょうがね、それにしても、見たところ、そうやすやすとはいきませんぜ」
そのとき、女王の|やすり《ヽヽヽ》が格子の上で大きな音できしみ、鍵番がこの音をごま化そうとしても、聞かれはしないかと不安になったので、彼は連れていた犬の一匹の足を|かかと《ヽヽヽ》で踏みつけ、犬はキャンキャンと痛そうな泣き声をあげた。
「ヤア! かわいそうに!」とジルベールが言った。
「ヤレヤレ!」鍵番が言った。「こいつも木靴《サボ》をはかなきゃあいけねえ。黙れよ、ジロンド党め、黙るんだ」
「こいつはジロンド党っていう名前かい、この犬は、市民マルドーシュ?」
「そうなんで、そういう名前をつけてやったんでさ」
「ところでさっきのはなしだが、どうなったんだい?」とデュシェーヌが言った。彼自身囚人のような生活をしていたから、囚人が抱くと同じような関心を、外のニュースに抱いていたのである。
「アア! たしかなはなしなんですが、あっしが言ったのは、市民エベール、あのひとはまったくほんとうの愛国者でさあ! その市民エベールが、オーストリア女をもう一度ル・タンプルへ連れてゆこうっていう動議を出したっていうことですぜ」
「そりゃまたどうしてだい?」
「まったくね、あのひとが言うところじゃあ、あの女をル・タンプルから連れだしたのは、ただパリ市庁の調査の都合があったから、この地下牢へ移しただけだ、と言うんでさ」
「ヘエーッ! それに、あのメーゾン・ルージュの野郎の計画のこともあったしな!」とジルベールが言った。「オレの見たところ、やっぱり地下道はあったらしいからな」
「そのことについても、市民サンテールが答弁をしたんですよ。ところがね、エベールの言うには、事前に地下道があるのが判ったから、危険がなくなったんだ、と言うんでさ。そこへいっちゃあ、ル・タンプルなら、マリー・アントワネットを警備するったって、ここで必要な半分も注意すれば守れるっていうんですがね、まったくのはなし、ル・タンプルときたら、ラ・コンシエルジュリーなんかと違って、堅固な建物だからね」
「オレとしたら、あの女をもう一度ル・タンプルヘ戻したほうがいいと思うな」とジルベールが言った。
「その気持、よく分りますよ、あの女の警備も並大抵じゃあねえものね」
「そうじゃあないんだ、この警備をしていると、オレは気が滅入っちまうんだ」
メーゾン・ルージュは威勢よく咳をした。やすりが鉄格子に深く喰い込むにつれて、だんだん大きな音を立ててきたからである。
「で、はなしはどう決まったんだ?」と、鍵番の咳き込みがとまると、デュシェーヌが訊ねた。
「つまりね、あの女はしばらくここへ置いとく、けれど、裁判のほうは早速始めよう、ってわけですよ」
「まったくね! 可哀そうな女だよ!」とジルベールが言った。
デュシェーヌの耳は、同僚の耳よりずっとよく聞えたのか、それともマルドーシュのはなしに、それほど気をとられていなかったせいか、なにかに聞き耳をたてて、左側の部屋のほうへ体をかがめた。
鍵番が体を動かして、いきおいよく言った。
「そんなわけでね、市民デュシェーヌ、陰謀者どもの計画は、連中がそれを実行するとしても、ますます時間が少なくなると知れば知るほど、だんだん絶望的になってきまさあね、そりゃあ、わかりますよね。そこで牢屋の警備の人数を倍にしてやろうっていうんでさ、ラ・コンシエルジュリーにどっさり兵隊が入り込んで、溢れたからって、べつになんの問題になるわけでもねえからね。謀反人のやつらは、女王のところへ辿りつくまでに、手当りしだい皆殺しにしちまいますぜ、オット、あっしの言うのはカペーの寡婦さんのことですがね」
「じょうだん言うな! お前の言うその謀反人っていうのは、どうやって中へ入ろうっていうんだい?」
「愛国者に変装してね、九月二日の二の舞をやらかすつもりに違いありませんや、あのならず者どもめ、それにね、一度でも門が開いてごらんなさい、それこそ、ハイさようなら、でさあね!」
憲兵たちが呆然としたので、しばらく沈黙が支配した。
鍵番は、相変らずやすりがきしる音が聞えてきたので、半分恐怖の混じった歓喜を味わっていた。九時の鐘が鳴った。
と同時に、書記室のドアをだれかがノックした。しかし気をとられていた二人の憲兵は返辞をしなかった。
「さあて、警備だ、警備だ」とジルベールが言った。
「それに、必要とあれば、オレたちは、真の共和主義者として、自分の部署で死ぬんだ」とデュシェーヌがつけ加えた。
『あのお方は、まもなく仕事を終えるはずだ』と、鍵番は、汗で湿った額を拭いながら肚《はら》の中で言った。
「さあて、お前さんのほうも見回りを始めろよ、そのほうがいいぜ。だってな、いまお前さんが話したような事件がもし起こったとしたら、お前だってオレたちと同じ目に会うぜ、お目こぼしにあずかるわけはないからな」
「その通りでさあ。あっしのほうは毎晩夜回りをしてるんでね。だからもうくたくたでさあ。それにひきかえあんた方は、少なくとも二人で交代できるでしょう、二晩に一晩は眠れるんですからね」
そのとき、二度目にだれかが書記室のドアをノックした。マルドーシュはブルッと震えた。たとえどんな小さなことでも、事件が起これば、彼の計画の成功には妨害になるはずだ。
「なんですかね?」と彼はわれにもあらず訊ねてしまった。
「なんでもない、なんでもないよ」とジルベールが言った。「陸軍省の書記が帰るところさ、オレに知らせてるんだよ」
「なあるほど! そうですかい」と鍵番が言った。
ところが、書記は執拗にノックを続けていた。
「わかった、わかったよ!」とジルベールが窓のところから離れずにどなった。「おやすみ!……さよなら!……」
「なにか、お前にはなしがあるみたいだぜ」とドアのほうを振り向きながらデュシェーヌが言った。「返辞をしてやれよ……」
そのとき、書記の声が聞えた。
「ちょっときてくれませんか、憲兵さん。ちょっとはなしたいことがあるんですが」
この声には、なにか気持が昂ぶっているような感じで、いつものアクセントとは違っていたが、その声に聞き覚えのあった鍵守りは、聞き耳を立てた。
「なんの用だい、市民デュラン?」とジルベールが訊ねた。
「ちょっとお話ししたいことがあるんですよ」
「それなら明日話せばいいじゃあないか」
「今夜じゃなきゃあいけません。どうしても、今夜お耳に入れたいんですよ」と同じ声が答えた。
「アア! いったいどうなるんだろう? あれはディメールの声だぞ」と鍵番が言った。
不吉に尾を引くこの声は、暗い廊下の遠くから聞える|こだま《ヽヽヽ》に、なにか陰惨なものを借りてきたように響いた。
デュシェーヌが振り向いた。
「ヤレヤレ、どうしてもというんなら、オレが行くよ」とジルベールが言った。
そして彼はドアのほうへ向かった。
鍵番は二人の憲兵の注意が、この思いがけない状況に気を奪われたこの瞬間を利用して、女王の窓のところへ走り寄った。
「おできになりましたか?」と彼は言った。
「半分以上はゆきました」と女王が答えた。
「アア! 神様! 神様!」と彼が呟いた。「お急ぎください! お急ぎください!」
「どうしたい、市民マルドーシュ、どうかしたのかい?」とデュシェーヌが言った。
「ここにいますよ」と鍵守りは、第一の部屋の窓のところへ大急ぎで戻って答えた。
それと同時に、彼がもとのところへ戻ると、とっつきの部屋のほうで恐ろしい叫び声が響き、呪いの声に続いて、金属の鞘から鞘走るサーベルの音が聞えた。
「アア! 人殺しめ! アア! このならず者め!」とジルベールがわめいた。
そして格闘の音が廊下にひびき渡った。
それと同時に扉が開き、二つの人影がくぐり戸にはりつくようにして、ひとりの女に道をあけてやるのが、見張り人の目に入った。女は、デュシェーヌを押しのけると、女王の部屋へ飛び込んでいった。
デュシェーヌは、この女にはかまわずに、仲間のところへ救援に駆けつけた。
くぐり戸の見張り人はもうひとつの窓のほうへ走り寄った。女王の前に膝まずいている女が見えた。女は、自分の着物と代えてくれと、囚人に頼み、懇願していた。
彼は燃えるような眼つきで体を傾け、この女を見極めようとしていた。彼は、この女が自分がすでに、余りにもよく知っている女ではないかと懸念していたのだ。とつぜん、彼は苦悩の叫び声をあげた。
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」
女王はやすりを床に落としたまま、放心しているように見えた。またまた計画はみごとに流れてしまったのだ。
くぐり戸の見張り番は、やすりで傷つけられた鉄格子を両手で握り、精いっぱいの努力をふり絞って揺った。
ところが鋼鉄のやすりの目はあまり深くなかったので、格子はもちこたえていた。
その間に、ディメールはジルベールを牢の中へ撃退することに成功し、ジルベールといっしょに中へ入ろうとしたが、その時デュシェーヌがドアにのしかかって、うまい具合にドアを押しのけた。
しかし、ドアを閉めることはできなかった。すでに捨身になったディメールは、ドアと壁のあいだに両腕を差し込んでしまった。
その腕の先には短剣を掴んでいた。バンドの革のバックルに当って刃はなまっていたとはいえ、短剣は憲兵の胸に沿って、服の前を切り、肉まで裂いていた。
二人の憲兵は全身の力をふり絞って果敢に戦ったが、同時に大声で救いを求めた。
ディメールは、まるで腕が折れるような感じがした。彼は肩でドアを押して、激しく揺ったので、ようやく萎えた腕を引き出すことができた。
ドアが音をたてて閉った。デュシェーヌは掛金を下ろし、その間にジルベールが鍵を一回り回した。
足音がひとつ廊下に響き渡り、こうしてすべてが終った。二人の憲兵は顔を見合わせて、あらためてまわりを見回した。
二人の耳に、偽のくぐり戸の番人が、鉄格子を壊そうとしている音が聞えてきた。
ジルベールが女王の部屋へとび込んだ。女王の膝にすがりついて、自分と衣裳を代えてくれと言って哀願しているジュヌヴィエーヴの姿が目に入った。
デュシェーヌが騎兵銃を執り、窓のところへ駈け寄った。鉄格子にブラ下がり、夢中になって揺り、格子を乗り超えようとして空しくあがいている男が見えた。
彼はその男に狙いを定めた。
相手の青年は騎兵銃の銃口を見ると、彼のほうへ体をかがめて言った。
「アア、いいとも! 殺してくれ。殺すんだ!」
そしてすっかり絶望した様子で、弾丸に向かって挑戦するように胸を広く拡げた。すると女王が叫んだ。
「騎士、お願いです。生きて、生きていてください!」
マリー・アントワネットの声を聞くと、メーゾン・ルージュは膝をついた。
銃を撃った。ところが撃つと同時に彼が跳び下りたので、弾丸《たま》は、頭の上のほうを通った。
ジュヌヴィエーヴは、自分の友だちが射殺されたと思って、意識を失って敷石の上に倒れてしまった。
硝煙が消えると、もはや女囚の庭にはひとっ子ひとり見えなかった。
十分後には、二人の委員の案内で三十人の兵隊が、まったく寄りつけないような隠れ場所まで、ラ・コンシエルジュリーのすみからすみまで捜索をした。
だれひとり見当らなかった。例の書記はといえば、肱掛椅子に頑張っていたリシャールおやじの前を、落ち着いて、微笑まで浮かべながら通っていった。
くぐり戸の見張り人はどうかといえば、大声で、
「たいへんだ! 用心しろ!」
と叫びながら出ていってしまった。
歩哨は彼に銃剣を突きつけようとしたが、相手が連れていた犬が歩哨の首にとびかかった。
逮捕され、訊問を受け、投獄されたのはわずかにジュヌヴィエーヴひとりだった。
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四十五 恋人をたずねて
さて、この物語の主要人物のひとりを、そう長いあいだ忘却のうちに置き去るわけにもゆかない。前章でつぎつぎと起こった事件の幕が降りるあいだに、すべての登場人物のうちでもっとも苦しみ悩んだのは彼であり、彼の苦悩は、もっとも読者の共感を呼ぶものといっていいだろう。
ラ・モネー街には太陽がさんさんと輝いていた、そして、あちこちの門前では、六カ月前からこの都会の上に、血なまぐさい雲が覆っているなどと思えないように、おかみさん連中が楽しげにお喋りの花を咲かせていた。そのとき、モオリスが、約束した例の二輪馬車を引いて帰ってきた。
彼はサン・トゥースターシュ教会の境内の靴みがきの手に馬の手綱を預けて、喜びに胸をふくらませて階段を上がってきた。
愛情というものは、まことに活き活きした感情である。愛情は死んだような人間に、どんな感覚でも吹き込むことができる。人影の絶えた土地をひとで埋めることも、愛するもののまぼろしを目に浮かべさせることもできる。恋する男の魂のなかで歌う声が、彼にとっては、希望と幸福に輝く光をいっぱいに浴びた姿となって現われるのだ。そして、愛情はひとにまで分け前を与えるほど、溢れるような感情であるが、同時にまた、しごく利己的な感情で、愛に走る人間を盲目にし、その代わりに愛の対象にならぬものにはすべて目をつぶらせてしまうものである。
モオリスはこのおかみさんたちには目もくれなかった。おかみさんたちのお喋りなどは耳に入らなかった。彼の頭には、これから末長いしあわせを二人にお膳立てをしてくれる、出発準備をしているジュヌヴィエーヴの姿しかなかった。彼の耳には、彼女が好きでいつも歌っているシャンソンを上の空で口誦《くちずさ》むジュヌヴィエーヴの声しか耳に入らなかった。このシャンソンは彼の耳に実に優しく響いていたので、ドアを閉め、鍵をかける音に入り混じって、その声まで違った調子に聞えてくるような気がするのだった。
踊り場のところで、モオリスは足を停めた。ドアが半開きになっていた。彼女はいつもドアをピタリと閉める習慣だったから、こんな状態になっているのが、モオリスには意外に思えた。彼は廊下にジュヌヴィエーヴの姿があるのではないかと、自分のまわりを見回してみた。ジュヌヴィエーヴはそこにはいない。彼は家の中へ入り、応接室と、食堂と、客間を横切った。それから寝室も調べてみた。応接室も、食堂も、客間も、寝室も人気がなかった。彼は声を出して呼んでみたが、だれも返辞をしなかった。
世話係は、すでに話したように、外出していた。モオリスは、トランクに紐をかけるのに、なにか縄のようなものとか、あるいは馬車の中で使うものがなにか必要になって、そんなものを買いに降りていったんだろうと思った。彼の目からすれば、これはまったく不注意きわまることだった。しかし、そんな不安が彼の心を占めていたにもかかわらず、そう思うともう彼はなにひとつ疑おうとしなかった。
モオリスは部屋をブラブラ歩きながら、そして、雨を含んだ外気が吹き込んでくる、半開きの窓からときどき身を乗り出したりしながら待っていた。
まもなく、モオリスは階段に足音が聞えたような気がした。彼は耳をすました。ジュヌヴィエーヴの足音ではない。それでも彼は踊り場のところまで走り寄って、手摺から身を乗り出して見ると、いかにも召使いにありがちな無頓着な様子で階段を昇ってくる世話係の姿を認めた。
「セヴォーラかい?」と彼がどなった。
「アア! あなたでしたか、市民!」
「そう、ぼくだよ。ところで女市民はどこへ行ったい?」
「女市民ですって?」とセヴォーラは相変らず階段を昇り続けながらびっくりして訊ねた。
「もちろんそうだ。階下《した》で見かけなかったかい?」
「いいえ」
「じゃあ、ちょっと階下まで降りて、管理人に訊ねるか、隣近所のひとに聞いてみてくれないかね」
「すぐ参りましょう」
セヴォーラは降りていった。
「なるべく早くしてくれよ! 早くするんだぞ!」とモオリスが叫んだ。「ぼくがやきもきしてるのが分らんかい?」
モオリスは、階段の上で五、六分待った。それでもセヴォーラがなかなか現われないので、部屋の中へ入り、もう一度窓の外へ身を乗り出した。セヴォーラが二、三軒の店へ入り、なにも耳新しいことを聞けない様子で出てくるのが目に入った。
我慢しきれなくなって、彼は大声で呼んだ。セヴォーラが頭を上げて、主人が窓のところでいらいらしているのを見た。
モオリスは、階上《うえ》へ戻って来い、という合図をした。
「彼女が外出したなんてありえないな」とモオリスは独り言を言った。
そして彼はもう一度呼んでみた。
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」
家中が死んだように静かだった。人気のない部屋では、こだまさえ返ってこないように思えた。
セヴォーラが再び現われた。
「あの方の姿を見かけたのは、管理人だけでしたよ」
「管理人が見かけたって?」
「そうなんで。ご近所のひとからは、あの方のことは聞けませんでしたよ」
「管理人が見かけたって言ったな? それはどういう訳だ?」
「出て行かれるところを見かけたんだそうで」
「じゃあ、外へ出ていったのか?」
「そうらしいですね」
「ひとりでかい? ジュヌヴィエーヴがひとりで出て行くなんて考えられないな」
「おひとりではなかったんですよ、市民、どなたか男の方がごいっしょだったそうで」
「なんだって、男といっしょだって?」
「少なくとも、管理人のはなしではそういうことになりますね」
「その男を探そう。とに角、その男が何者だか知らなければならん」
セヴォーラがドアのほうへ二歩ばかり歩きかけ、それから振り返って、なにか考えているような様子で言った。
「ちょっとお待ちください」
「なんだい? 何かあるのか? 早く話してくれ、ぼくは死にそうなんだ」
「ひょっとしたら、あたしのあとを追ってきた、あの男とごいっしょかもしれませんぜ」
「お前のあとを追ってきた男だって?」
「そうなんで」
「そりゃあ、なんの用があってだ?」
「あなたに頼まれたんで鍵がほしいっていうんで」
「えらいことだぞ、何の鍵のことだ? とにかく話してくれ、話すんだ!」
「部屋の鍵なんで」
「お前は、知らない人間に部屋の鍵を渡したのか?」とモオリスは、両手で世話係の襟首を捉えながら叫んだ。
「でも、まんざら知らない男じゃあないんですよ、ムッシュウ、だって、あなたのお友だちのひとりですから」
「エッ! なんだって、ぼくの友だちだっていうのか? 分った、きっとローランだろう。そうだ、彼女はローランといっしょに出ていったんだな」
モオリスは蒼ざめた顔に微笑を浮かべて、汗に濡れた額をハンカチで拭った。
「ちがう、ちがう、ちがいますよ、ムッシュウ、あの方じゃあありません。いやんなっちゃうな! ムッシュウ・ローランなら、あたしだってよく存じていまさあ」
「じゃあ、だれだっていうんだ?」
「お分りでしょうが、市民、ほら、いつかおみえになったあのお方で……」
「いつのことだい?」
「ホラ、だんながとても沈み込んじまったときですよ、だんなをお連れになって、それから、だんながとても愉快そうなご様子でお帰りになって……」
セヴォーラはあらゆることに、すでに気づいていたのだ。モオリスは、呆然とした様子で顔を見つめた。戦慄が体中を走った。そして、その後に長い沈黙が落ちた。
「ディメールだな?」と彼が叫んだ。
「そんな名前だったと思います、そう、たしかそうでしたよ」
モオリスはふらふらとよろめき、後じさりして、肱掛椅子の中へ崩れ込み、両眼をつぶった。
「アア! 神よ!」と彼は呟いた。
そして、再び目を開くと、彼の眼差しは、ジュヌヴィエーヴが忘れていった、と言うよりわざと置いていった|すみれ《ヽヽヽ》の花束の上に落ちた。
彼は急いで駈け寄ると、花束をとり、接吻し、そして、花束が置いてあった場所に気がつくと、こう言った。
「まちがいない。この花束は……彼女の最後の別れのしるしだ!……」
そこでモオリスは振り向いてみた。彼は今になってようやく、トランクは半分詰めたままで、残りの下着は、床や、半開きの箪笥の中に散らばっているのに気がついた。
おそらく、床に散らばっているこの下着は、ディメールが姿を現わしたおりに、ジュヌヴィエーヴの手から落ちたものにちがいない。
その時、すべての説明がついた。かつて、あれほどのしあわせな生活の証人となったこの四方の壁のあいだに、彼の眼前に、その情景が生き生きと、そして恐ろしい様相で再現された。
そのときまで、モオリスはすっかり打ち萎れ、意気|銷沈《しょうちん》していた。ひとたび目覚めるや、この恐ろしい青年の心は、すさまじい憤怒でいっぱいになった。
立ち上がり、半開きになったままの窓を閉め、旅行用に弾丸を込めてあった二挺のピストルを書き物机の上の壁からとって、雷管を調べ、雷管の調子がいいことが分ると、ピストルをポケットに突っ込んだ。
それから、ルイ金貨の棒を二本財布へ蔵った。これは、愛国心は旺盛だったけれども、まさかの時にと思って慎重に、抽出しの奥へ蔵っておいたものである。そして、鞘に入ったままサーベルをつかんで言った。
「セヴォーラ。きみはぼくに忠実に仕えてくれた。父につかえ、十五年前からぼくの身の回りの世話をしてくれた」
男の中でももっとも大胆不敵で、もっとも逞しい、と言っても当然と思われるような主人の、いままで見たこともないこんな、大理石のように蒼白な顔色や、神経質にブルブル震えている態度にすっかりおじ気づいた世話係が口をきった。
「はい、市民。はい、ご命令は?」
「よく聞いてくれ! もしあのご婦人がずっとここにいたら……」
と言って彼は言葉を切った。この言葉を口にしながら、彼の声はあまり震えていたので、あとを続けることができなかったのだ。彼はしばらくして再び口をきった。
「もし彼女が戻ってきたら、彼女を迎え入れてやってくれ。入ったらすぐにドアを閉めるんだ。この騎兵銃を持って、階段の上に立つんた。そしてお前の首にかけて、命にかけて、お前の魂にかけて、だれも中へ入れてはいけないぞ。もし、だれか無理にドアをこじ開けようとしたら、防ぐんだ。やっつけるんだ! 殺せ! 殺すんだ! なにも恐れるには当らない、セヴォーラ、ぼくのほうは自分で面倒を見るから」
青年の口調、そして激しい信頼感がセヴォーラの心を強く打った。
「相手を殺《や》っつけるだけではありませんよ、ジュヌヴィエーヴさんの代りにあたしが殺されてもかまいませんよ」
「ありがとう……そこで、聞いて欲しいんだ。この住居は、ぼくには耐えられない。ぼくは、彼女を見つけ出してからでなければ、もうここへは戻って来ないよ。もし彼女があいつの手を逃れて、戻ってきたら、窓のところへ、彼女があんなに大事にしていた、エゾ菊の模様の、大きな日本の花瓶を置いておいてくれ。これは日中のことだ。夜になったら、ランタンをつけて置いてくれ。この街のはずれを通るたびに、そうすればぼくにも分るからな。ランタンも花瓶も見えない限りは、ぼくは彼女を探し続けるからな」
「アア! ムッシュウ、気をつけてください! 気をつけるんですよ!」とセヴォーラが叫んだ。
モオリスは返辞さえしなかった。彼は部屋の外へ駈け出すと、まるで翼が生えているように階段を降りて、ローランの家へ行った。
このニュースを耳にしたときの、このすばらしい詩人の呆然自失ぶり、怒り、激昂はとうてい言葉では表現できないだろう。オレストがピラードの心に感興を植えつけたはずの、あの感動的なエレジーを繰りかえすにこしたことはあるまい。
「で、彼女はどこにいるのか知らないのか?」と彼はたえず繰りかえして訊ねるのだった。
「分らん、姿を消したんだ!」と絶望の極に達したモオリスがわめきたてた。
「あいつは彼女を殺したんだ、ローラン、殺したんだよ!」
「イヤ! ちがうよ、きみ。ちがうよ、モオリス、あいつは殺したりするもんか。いいや、ジュヌヴィエーヴのような女性を殺すのは、何日も何日も、さんざん考えたすえでなければ殺せやしないよ。いや、もしあいつが殺したとしたら、その場を去らず殺したはずだ、そして、復讐のしるしに、きみの家に屍体を置いていったにちがいないな。ちがう、きみにも分るだろう、あいつは彼女といっしょに逃げたんだぜ、自分の宝を再び見つけ出して、すっかりしあわせな気持になったんだよ」
「きみはあいつって男を知らないんだ、ローラン、きみは知らないんだよ。あの男ときたら、あの目付の中に、なにか不吉なものがあるんだ」
「だがちがう、きみの勘違いだよ。オレの見たところじゃあ、あの男はいつも、りっぱな人物のような気がしたぜ。あいつはね、彼女を生贄《いけにえ》に捧げようとして連れていったんだよ。あいつは彼女といっしょに逮捕され、二人いっしょに殺されるよ。たいへんだ! 危いぞ!」
この言葉を聞くと、モオリスの錯乱は激しさが倍加した。
「彼女を見つけ出すぞ! 見つけてやるぞ、見つからなければ死んでやる!」
「ナーニ! そのことなら、オレたちはまちがいなく彼女を見つけることができるさ。ただ、ちょっと心を落ち着けろよ。いいかいモオリス、オレの言うことを信じてくれ、よく考えなきゃあ、うまく探し出すことはできないよ。きみみたいにガタガタしたんじゃあ、よく考えるわけにはいかんだろう」
「さようなら、ローラン、さようなら!」
「どうしようっていうんだい?」
「出かけるのさ」
「オレと別れてか? なぜだい?」
「だって、これはぼくひとりの問題だからな、それに、ジュヌヴィエーヴの命を救うためには、ぼくだけが命をかければいいんだ」
「きみは死にたいのか?」
「何だって相手にしてやるぞ。警備委員会の委員長に会いに行くんだ、エベールに、ダントンに、ロベスピエールに話しに行くんだ。ぼくは洗いざらい話してやる、けれども、どうしても彼女だけは返してもらうんだ」
「いいだろう」
とローランは言うと、あとはひとこともつけ加えずに、立ち上がり、バンドを締め、制帽をかぶり、モオリスがやったと同じように、弾丸を込めた二挺のピストルをポケットに捻じ込んだ。
「出かけよう」とだけ彼は言った。
「でも、きみの身も危険になるぞ」とモオリスが叫んだ。
「で、それがどうした?
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わが女よ、芝居がハネたそのときは
肩を並べて帰らにゃあならぬ
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という図だな」
「まず、どこを探しに行こうか?」
「最初にまず、古い地区を探そうぜ、わかるだろ? ホラ、あの昔ながらのサン・ジャック街さ。それから、メーゾン・ルージュのやつを見張るんだよ。彼のあるところ、おそらくディメールの姿あり、という訳だ。それがすんだら、ラ・ヴィエイユ・コルドリーの家のほうへ行ってみよう。きみも知ってるだろ、アントワネットはル・タンプルヘ移されるっていうはなしだぜ。ああいった種類の男というのは、最後のギリギリの瞬間まで、女王を救う希望を失わないもんだよ」
「そうだな、たしかにきみの言う通りだ……メーゾン・ルージュか、ところで、きみはやつがパリにいると思うかい?」
「ディメールはパリにいるじゃないか」
「なるほど、なるほどそうだ。二人はいっしょにいるにちがいないな」とモオリスが言った。彼の顔にうっすらと光明がさして、理智の光をとりもどした。
この時から、二人の友は探索を始めた。しかし、それも徒労だった。パリは広い、そしてその影の部分は濃い。罪悪と不幸がこの町に委せた秘密を、これ以上暗く隠してくれる深淵はない。
ローランとモオリスは、今度はグレーヴ広場を通った。二人は、むかしの司祭たちが、祭壇に捧げる生贄を監視するように、瞬時も目を離さずディメールの見張りを受けているジュヌヴィエーヴが住んでいた小さなあの家のそばを、百回も行き来したものだった。
ジュヌヴィエーヴのほうでは、もう命がない運命だと判ると、寛大な魂を持ったすべての人の例に洩れずに、生贄となる運命を甘んじて受け入れて、ひそかに死んでゆこうと望んでいた。もとより彼女が恐れていたのはディメールのためではなく、女王の裁判のためで、これが公開されれば、モオリスは必ずこの機会に復讐をするに違いない、と思っていたからである。
そこで彼女は、まるでもうすでに息絶え、口を閉じてしまったように、かたくなに沈黙を守っていた。
ところが、ローランには一言もつげずに、モオリスは、あの恐るべき公安委員会のメンバーたちのところへ懇願に出かけた。そしてローランはローランで、モオリスには話さずに、一身を投げうって同じ処置をとっていた。
だから、同じ日に、フーキエ・タンヴィルの手によって、二人の名前のそばに赤い十字のしるしが記され、そして「容疑者《ヽヽヽ》」という文字が加えられ、血に飢えた大がっこ{ }で二人の名前がくくられた。
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四十六 裁判
フランス革命暦の二十三日、すなわち、昔流の言い方に従えば、一七九三年十月十四日に当る日だが、物見高いひとの群が、朝から、この日革命裁判の開かれる法廷につめかけていた。
法廷の廊下といわず、ラ・コンシエルジュリーに続く並木道といわず、飢えてイライラした見物人たちでいっぱいに占領され、まるで海の波が潮騒《しおざい》や泡を伝えるように、ざわめきと感動とを次から次へと伝えてゆくのだった。
見物のひとりひとりが好奇心にざわめき、あるいは、好奇心そのものによって起こるざわめきといえるかもしれないが、この海の波のひとつひとつに動き、二つの柵の中に押し込まれてゆく。この波を押しつけるのは、外側の柵であり、またこれを押し返し、大きなうねりの中に巻き込むのは内側の柵である。そしてこのうねりはまた、起こったのとほとんど同じ位置に止まる。けれども、絶好の場所を占めた連中は、自分の幸運を大目に見てもらわなければならないことも、よく解っていて、自分たちより悪い席をとった隣りの見物とぶつかり合いながら、この目標を目ざしてゆく。うしろの者はまた、自分たちが見聞したことを、素朴な言葉でべつの見物に伝えていった。
しかし、法廷のドアのあたりに折り重なった男たちのグループが、横に十列、高低十段ほどになって、とりわけ激しくもみ合っていた。というのは、横の十列ばかりの者は、前の二人の肩越しに法廷の隅から、裁判官の顔付までじゅうぶん見ることができたし、また、高低十段ほどは、頭ごしに、法廷の全景と被告の表情まで見ることができたからである。
具合の悪いことには、廊下から法廷に続く通路、このごく狭い隘路《あいろ》に、ひとりの男が、その幅の広い肩ほとんどいっぱいに頑張っていて、壁を支える支柱のように両腕をつっ張っていた。もし、ひとびとの肉の壁が彼をはねのけるようなことにでもなれば、群衆はみんな足をとられて、ドッと法廷の中へなだれ込みそうなあんばいだった。
法廷の入口にどっしりと腰をすえたこの男は、若くて、ハンサムで、群衆がいっそう激しく彼のほうへ押し寄せようとすると、そのたびに、|たてがみ《ヽヽヽヽ》のような長い髪の毛をみだし、髪の下の、暗い、ひとを射るような眼差しを輝かすのだった。そして、睨みつけ、体をグッと動かして群衆を押し返すと、しなやかな、生き生きした動作で、しつっこい群衆の攻撃を支え、再び注意深く不動の態勢を整えるのだった。
すると今度は、びっしり人の詰った一塊りが、この男をひっくり返そうとした。というのはこの男は上背があるので、この男の後にいては眺望がまったくきかなくなるからである。しかし、すでに述べたように、岩といえども、彼以上にどっしりと腰を据えてはいられなかったろう。
ところがこの人の海の向こう側に、押し合いへし合いしている群衆の真中に、もうひとりの男が、獰猛《どうもう》さを発揮して、辛抱強く道を開いていった。この男の疲れを知らない歩みを止められるものはなにもなかった。彼のうしろにとり残された連中が打とうが、通りすがりに首を絞められた連中が悪罵を放とうが、女たちが悲鳴をあげようがだめだった。ちなみに、この群衆の中には、たくさんの女たちが混じっていたのである。
だれかが打てば、この男は打ち返したし、悪罵を浴びせれば、いちばん勇猛な男でも恐れをなして引っ込むような目付で答え、悲鳴に対しては、軽蔑とも思える無感動な態度で黙殺した。
とうとう彼は、いわば、法廷の入口を塞いでいる、逞しい青年のうしろまで来た。みなそれぞれ、この二人の荒くれた好敵手のあいだの成りゆきいかん、と見ようと思っていたから、一同は期待していた。つまり、こうした一同の期待の真只中で、この男は、二人の見物人のあいだに|くさび《ヽヽヽ》を打ち込むように肱をすべり込ませ、体と体をぴったりと溶接した中へ割り込むようなやり方で近づいていった。
ところが、このあとから現われた男は背が低く、その蒼白い顔色といい、きゃしゃな手足といいいかにもひよわな体格に見えたが、ただ燃えるような両眼には強靱な意志を秘めていた。
彼の肱が、彼の前に突っ立った青年の胴に触れるや、この攻撃に驚いた青年は、後ろを振り向いて、同じような動作で、体をかがめながら、この無鉄砲な相手を脅かそうと拳固を振り上げた。
二人の好敵手が互いに正面から向かい合い、それと同時に小さな叫び声が二人の口から洩れた。
二人は相手の正体を見届けたところだった。
「アア! 市民モオリス」とひ弱そうな青年が、説明のつきかねる苦悩をこめた口調で言った。「わたしを通してくれ。見せてくれ。お願いだ! そのあとなら、わたしを殺してもかまわん!」
それはまちがいなくモオリスだった。彼の心に、この永久に変らぬ献心に対する、この不滅の意志に対する憐憫と賛嘆の念が忍び込むような気がした。
「きみだったのか!」と彼が呟いた。「ここへきみが現われるなんて、無用心すぎるぞ!」
「そうだ、わたしがここへ現われたんだ! けれどもわたしは疲れきってしまった……アア! 神よ! 陛下が口をお訊きになる。わたしに陛下を見せてくれ! 陛下のお声を聞かせてくれ!」
モオリスは道をゆずり、青年は彼の前を通った。そしてモオリスが群衆の上に頭を出したときには、そこへ来るまでさんざん撲られたり、邪魔されたりした青年の、目をさえぎるものはなにもなかった。
この情景と、この情景を見て群衆が騒いだざわめきが、裁判官たちの好奇心の的となった。
被告もまたそちらを見た。そして女王は、第一列目に騎士の姿に気づき、彼だと分った。
その瞬間、なにか戦慄のようなものが、鉄の椅子に坐っていた女王の身内を走った。
裁判長エルマンの司会で訊問が始まり、フーキエ・タンヴィルがこれを解釈し、女王の弁護人ショオヴォ・ラギャルドが反論したが、これは、裁判官と被告の体力が許す限り続いた。
そのあいだずっと、モオリスは自分の位置を動かずにいたが、一方法廷や廊下にいた傍聴人たちは、すでに何度も入れ替わっていた。
騎士はさっきから柱に寄りかかっていたが、彼の顔色は、背をもたせかけている漆喰《しっくい》よりもいっそう白かった。
日が暮れて、あとには暗い夜が訪れた。陪審員のテーブルの上で燃えるローソク、法廷の壁で煙をあげるいくつかのランプが、かつては、ヴェルサイユの祝宴の豪華な灯りを浴びて、あれほど美しく見えたこの女性の、ノーブルな顔に、赤く、不吉に反映していた。
そこでは彼女はたった独りだった。裁判長の訊問に、ごく短い、軽蔑的な言葉を返し、ときに、自分に小声で囁きかける弁護士に耳を寄せていた。
白く、なめらかな彼女の額は、つねに変らぬ誇りを少しも失わなかった。彼女は、王の逝去後は絶えて離さなかった黒い縞のドレスを着ていた。
陪審員が起立して、意見をまとめに行った。公判は終ったのだ。
「あたくし、あまり軽蔑したような態度をとりすぎたでしょうか?」と彼女はショオヴォ・ラギャルドに訊ねた。すると弁護士が答えた。
「アア! マダム。あれでけっこうです、あなたのありのままのお姿ですから」
「どうだいごらんよ、あの女の高慢ちきなこと!」傍聴席のひとりの女が叫んだが、その声は、まるでこの不幸な女王が弁護士にした質問に対する返辞のように聞えた。
女王がその女のほうへ顔を向けた。
「そうとも」とその女が繰りかえした。「あたしゃあね、お前さんが高慢ちきだ、と言ったのさ、それで、お前は高慢ちきなおかげで、自分を破滅させたんだよ」
女王は顔を赤らめた。
騎士はこんな言葉を口にした女のほうを振り向いて、穏やかに、言い返した。
「この方は女王だったんだよ」
モオリスが彼の手首を捉えた。そしてうんと小声で言った。
「サア、勇気を出すんだ、きみが危険に身をさらさないように」
「アア! ムッシュウ・モオリス」と騎士が言い返した。「きみは男だ、そして男に話す言葉を知っている。そうだ! 話してくれ、陪審の連中は、女王を罪におとすことができると思うかい?」
「そうは思えないね、きっと大丈夫だ」
「アア! 相手は女性なんだよ!」とメーゾン・ルージュはすすり上げながら叫んだ。
「いや、女王なんだ。さっき、きみがそう言ったじゃあないか」
今度は、騎士がモオリスの手首をつかんだ。そして、とても不可能とも思われる力で、モオリスの体を、強引に自分のほうへかがめさせた。
朝の三時半頃だった。傍聴人のなかに、大きな|すきま《ヽヽヽ》がポッカリと見えるようになった。いくつかの明りが消えて、あちらこちら、法廷内に暗い部分ができた。
騎士とモオリスがいたのは、その中でもいちばん暗い部分で、モオリスは騎士がこんなことを言うのに耳を傾けていた。
「どうしてあなたはここへ来たんです、なにしに来たんです、ムッシュウ、まるで、虎のように激しい心を持ったあなたが?」
「悲しいことだ!」とモオリスが言った。「ぼくは、ぼくは、ひとりの不幸な女性がどうなったか知りたくてやってきたのさ」
「そうだ、そうだ、自分の夫の手で、女王の牢へ押し込められた女性のことだろう? わたしの目の前で逮捕された女性のことだろう?」
「ジュヌヴィエーヴが?」
「そう、ジュヌヴィエーヴだ」
「じゃあ、ジュヌヴィエーヴは捕われの身なのか、自分の夫に生贄にされ、ディメールに殺されるのか?……アア! すべてがはっきりしたぞ、それですっかり分ったぞ。騎士、いったい何が起こったのか、話してくれ、彼女がどこにいるのか、どこへ行ったら彼女に会えるのかぼくに話してくれ。騎士……あの女性は、ぼくの命なんだ、わかってくれるかい?」
「よろしい、わたしは彼女を見たんだ。彼女が補えられたとき、わたしはその場にいたんだ。わたしも、女王を逃がそうと思ってやってきたんだ! ところが、わたしたちの二つの計画は、お互いに情報を交換してなかったので、相互に救け合うどころか、逆に両方だめにしてしまったんだよ」
「で、きみは、せめて彼女を助けるぐらいのことはできなかったのかい、彼女を、きみの妹のジュヌヴィエーヴを?」
「わたしにそんなことができたっていうのかい? 鉄格子が彼女とぼくをへだてていた。アア! あんたがあそこにいてくれたら、あんたがわたしに力を貸してくれたら、あの呪われた格子も曲って、わたしたちは彼女らを二人とも助けられたろうになあ」
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」とモオリスが呟いた。
それから不可解な憤怒の表情を浮かべて、メーゾン・ルージュを見つめながら彼が訊ねた。
「で、ディメールはどうなったね?」
「知らないんだ。彼は彼で逃げたし、ぼくもぼくなりに逃げ出したんでね」
モオリスは、歯を食いしばって言った。
「アア! いつかあいつを見つけたら……」
「そう、わたしにもその気持は分るよ。でも、ジュヌヴィエーヴについては、なにもそう絶望することはないよ。ところが今は、女王については……アア! なあ、モオリス、きみは勇気のある男だ、力のある男だ。きみには友だちもいる……アア! 神に願いをかけるように、わたしはきみに頼むよ……モオリス、女王を救うのを手伝ってくれよ」
「きみはそんなことを考えてるのか?」
「モオリス、ジュヌヴィエーヴが、わたしの声を借りてきみに頼んでいるんだ」
「よせっ! その名前は口にしてくれるな、ムッシュウ。ディメールと同じように、きみだってあの哀れな女性を生贄に捧げないなんて言えるかい?」
「ムッシュウ」と騎士が誇らかに答えた。「わたしは自分でよく分っている、ある目的に没頭したら、わたしは、自分の命を犠牲にするだけだ」
その時、評議室のドアが再び開いた。モオリスが返辞をしようとすると、騎土が言った。
「シーッ、黙って! 裁判官が戻ってきたぞ」
そしてモオリスは、メーゾン・ルージュが蒼白になり、よろめいて、自分の腕の上に置いた彼の手がブルブルと震えているのを感じた。騎士が呟いた。
「アア! アア! 心臓が止まりそうな気がする」
「元気を出せ、それに自制したまえ、でないときみの命が危いぞ!」とモオリスが言った。
事実裁判が再開され、再開の知らせが回廊から廊下へと伝わった。
群衆が再びホールにひしめき、明りは、この決定的な、崇高な瞬間のためになんとなく生気を帯びたように見えた。
女王が引き出された。女王は真直ぐに体を起こし、身動きもせず、気位の高い態度で、目を据えて、唇をキッと結んでいた。
女王に、死刑を宣告するという判決が読み上げられた。女王は耳を傾けていたが、顔色も変えず、眉ひとつ動かさず、顔の筋肉は感動の気配も見せなかった。
それから彼女は騎士のほうを振り返り、彼のほうを、雄弁な眼差しで、長いあいだじっと見つめた。それは、女王がそれまで、ただの生きた献身の彫像としてしか眺めていなかったこの男に感謝を捧げているように見えた。
そして兵隊を指揮している憲兵士官の腕に体を預け、穏やかに、堂々とした様子で法廷を出ていった。
モオリスは長い溜息を吐いて、言った。
「ありがたい! いまの陳述では、ジュヌヴィエーヴに危険が及ぶようなことは、なにもなかったから、まだまだ望みはあるぞ」
「ヤレヤレ!」とメーゾン・ルージュの騎士が今度は呟いた。「これで全巻の終りだ。戦いも終った。もうこれ以上戦う気力もない」
「元気を出したまえ、ムッシュウ!」とモオリスがうんと小声で言った。
「まだまだ大丈夫だ、ムッシュウ」と騎士が答えた。
そして二人とも、互いにしっかりと握手して、二つのべつの出口から遠ざかっていった。
女王は再びラ・コンシエルジュリーへ連行された。女王が戻りついたときに、大時計が朝の四時を告げた。
新橋《ポン・ヌフ》へさしかかるところで、モオリスはローランの両腕で抑えられた。
「ストップだ。ここは通れないぜ!」
「どうしてだい?」
「まず、どこへ行こうというんだ?」
「自分の家へ帰るのさ。彼女がどうなったか分ったので、もう帰ってもかまわんからね」
「ちょうどよかった。家へは帰れないぜ」
「理由は?」
「理由はこんなわけだ。二時間ほど前に、憲兵どもがきみを逮捕にきたっていうわけさ」
「なんだって!」とモオリスが叫んだ。「よし、それならなおさらのはなしだ」
「きみは気違いか? ジュヌヴィエーヴをどうするつもりだ?」
「なるほど、それもそうだな。じゃあ、ぼくらはどこへ行こう?」
「オレの家にきまってらあ!」
「でも、それじゃあ、ぼくのためにきみが危険になるからな」
「それならなおさらのはなしだよ。さあ行こうぜ」
と言うと、彼はモオリスを引っ張っていった。
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四十七 司祭と首斬り役人
法廷を出てから、女王は再びラ・コンシエルジュリーに連れ戻された。
自分の部屋に着くと、はさみを取り上げ、一年前から髪に粉をふりかけるのをやめていたので、いちだんと美しさをました、長いりっぱな髪をプツリと切ってしまった。この髪を一枚の紙で包み、その紙の上に、「わが息子と娘への片身」と書いた。
そこで彼女は椅子に坐った。というよりむしろ、疲労のためにつかれきって、椅子にくずれ落ちた、と言うほうが当っているだろう――なにしろ、訊問は十七時間も続いたのである――彼女はまどろみ始めた。
七時になると、だれかが衝立を開く音が聞えて、女王はとび起きた。振り向いてみると、まったく見知らぬ男の姿が見えた。
「なんのご用ですの?」と彼女が訊ねた。
その男は女王に近づくと、まるで彼女が女王であった当時と同じように礼儀正しく挨拶してから言った。「わたくしはサンソンと申します」
女王は軽い戦慄を覚えて立ち上がった。この名前を聞いただけで、長い説明以上のことをじゅうぶん物語っていた。
「ずいぶん早くにおみえになりましたのね、ムッシュウ。もう少しゆっくりしてもよろしいでしょうか?」
「いえ、マダム」とその男が言いかえした。「わたくしはこちらへ伺うよう命令を受けましたので」
この男のうちには、そしてこの瞬間には、あらゆるものが雄弁な、そして恐ろしい表現をもっていた。
「アラ! わかりましたわ。あたくしの髪の毛を切りたくてみえたのね」
「必要な手続きでございまして、マダム」とこの執行人が答えた。
「存じておりましたわ、ムッシュウ。あたくし、わざわざそんなご苦労をかけないようにと思っておりましたの。髪の毛はそこにございますわ、そのテーブルの上に」
サンソンは女王の手の方向へ歩いた。
「ただ」と女王が言葉を続けた。「今夜この髪の毛を、あたくしの子供たちの手に渡していただけたら、と思っておりますけれど」
「マダム、そうしたお世話をするのは、わたくしの仕事ではございませんので」
「でも、あたくしの考えでは……」
「わたくしの仕事と申せば」と執行人が言った。「みなさんの身につけているものをとるだけで……衣裳や、宝石や、それに、それが正規の手続きでわたくしの手に入ることもございますが、そうでなければ、これらはみな婦人養老院《ラ・サルペトリエール》行きになり、施療院の貧しい女たちの手に入ります。公安委員会の布告で、すべてそのように定められておりますので」
「でも、ムッシュウ」とマリー・アントワネットは意見をまげずに訊ねた。「あたくしの髪の毛は、子供たちの手に渡ると考えてよろしゅうございますね?」
サンソンは黙ったままだった。
「わたしが、そのように努力するよう、お引き受けしますよ」とジルベールが言った。
女囚人は、拭いがたい感謝の視線を憲兵に投げかけた。と、サンソンが言った。
「さて、わたくしはあなたの髪を切りに参ったのですが、用件はもうすみましたので、お望みならば、あなたをしばらくお独りにして差し上げます」
「そのようにお願いしますわ、ムッシュウ」と女王が言った。「と申しますのは、自分の考えをまとめたり、お祈りをしなければなりませんので」
サンソンはお辞儀をして、出ていった。
そこで、女王はただひとりになった。ジルベールはただ首を突っ込んで、さっきの言葉を言っただけだったから。
女囚人が、いつも祈祷台につかっていた、ほかの椅子より低い椅子に膝まずいているあいだに、いま紹介した情景と同じように恐ろしいシーンが、|中の島《シテ》のサン・ランドリイ小教会の司祭館の中で展開していた。
この教区の司祭は、ようやく起きたばかりのところだった。年とった家政婦がつつましい朝食の支度をしているとき、とつぜん、司祭館のドアを、だれかが激しくノックした。
現代の坊主の家と同じことで、思いがけぬ訪れはつねに何かの事件の知らせである。洗礼だとか、いまわの際に結婚式をあげようとか、最後の告白などがこれである。ところが、この時代には、未知の人間が訪れるのは、きっと、なにかもっとはるかに重大な事件の知らせだった。事実この時代には、坊主はもはや神の代理人ではなかったし、ひとびとに借りをかえさなければならない立場にいたのである。
ところが、ジラール神父はもっとも物おじしない人物のひとりに数えられていた。それというのも、彼は革命政府に忠誠を誓っていたからである。この神父の心中では、良心とか誠実とかいうものが、自尊心や宗教心より声高に物を言っていたのである。おそらく、ジラール神父は、政府に進歩の可能性を認め、神の力という名によって犯した、かずかずの行き過ぎを後悔していたに違いない。彼は、自分の神を守りながらも、共和政体の友愛の精神を受け容れていたのだろう。
「見ておいで、ジャサントや」と彼が言った。「こんな早朝から、この家のドアをノックするなんて、だれだか見ておいで。それにもし、わたしに頼みにきたのが、急ぎの用件でなかったら、こう言っておいておくれ。今朝は、ラ・コンシエルジュリーの仕事を頼まれていて、どうしても、すぐにもそちらへ行かなければならないんだ、とね」
家政婦のジャサントは、むかしはマドレーヌという名前だった。ところが彼女は、ジラール神父が、司祭の代りに「市民」というタイトルを受けたように、マドレーヌという名前の代りに花(ジャサントは水仙《ヽヽ》の意味)をつけていたのである。
主人の言いつけで、ジャサントは、門に続いている小さな庭の階段を急いで降りた。彼女は掛け金を外した。すると、まっ蒼で、とても落ち着きのない様子だが、顔付はいかにも穏やかで、おとなしそうな青年が立っていた。
「ジラール神父さんは?」と彼は言った。
ジャサントは、この新来の男の、しわくちゃになった服や、長いひげや、神経質そうに体を震わせている様子をジロジロ眺めた。彼女の目からすると、こうしたことがすべてなにか不幸の前兆のように見えた。そこで彼女が言った。
「市民、宅にはね、ムッシュウも、神父もおりませんよ」
「失礼しました、マダム」と青年が言葉を続けた。「わたしは、サン・ランドリイの臨時主任司祭と言おうと思ったんですが」
ジャサントは、その愛国心のほうはさておいて、今どきでは女王に向かってもおそらくかけられない、この|マダム《ヽヽヽ》という言葉にすっかり心を打たれて気を良くした。しかし彼女はこんな返辞をした。
「あの方にはお会いできません、市民。いま聖務日課の最中ですから」
「それならば、待たしていただきましょう」と青年が答えた。
ジャサントにすれば、こんなにしつっこく言うのは、彼女がはじめから予感していた悪だくみのせいだ、と恐れていたので、こう続けた。
「でもお待ちになってもむだですよ、市民。というのは、あの方は、ラ・コンシエルジュリーの呼出しで、すぐにも出かけるところですから」
青年は恐ろしいほど蒼白になった、と言うより、もともと蒼白だった顔が、鉛色に変った。
「それはほんとうですか!」と彼は呟いた。
それから大声でこう言った。
「わたしが市民ジラールのところへやってきたのは、ちょうどその問題があったからなんですよ」
こう話しながら、彼は中へ入り、穏やかではあるが、また確信あり気に門のかけ金をかけ、ジャサントが懇願したり、脅迫したりしてもかまわず家の中へ入り、神父の部屋まで通ってしまった。
神父は、青年を見ると、びっくりして叫び声をあげた。と、すぐに青年が言った。
「失礼します、神父さん。わたしは、ひじょうに重大な問題で、あなたにお話ししたいことがあるのですが。申し訳ありませんが二人だけにしていただけませんか」
老人の僧は、大きな苦悩を秘めているものは、どのような表情をしているかということを、経験からわきまえていた。僧は、青年の顔色《がんしょく》もない顔付の上に身も心も捧げつくした情熱を、その神経質な声音に崇高な感動を読み取った。
「ジャサント、二人だけにしておくれ」と神父が言った。
青年はイライラして、目で家政婦を追っていた。家政婦としては、いつも主人の秘密を分ち合うのが習慣になっているので、引っ込むのをためらっていた。それから、ようやく彼女がドアを閉めると、この未知の男が言った。
「神父さん、あなたとしては、まずわたしがだれかお訊ねになりたいところでしょう。わたしは追放された男なのです。死刑の宣告を受けている男です。いまはもう、図太いおかげでようやく生きている身なのです。わたしはメーゾン・ルージュの騎士です」
神父は恐怖のあまり、大きな肱掛椅子の上でとび上がった。すると騎士が続けた。
「イヤ! なにもご心配なさる必要はありません。わたしがここへ入るのを見た者はひとりもおりませんし、たとえだれかわたしを見た者があったとしても、わたしの正体は分りますまい。この二カ月で、わたしはずいぶん変ってしまいましたから」
「それにしても、何のご用ですかな、市民?」と、神父が訊ねた。
「あなたは今朝、ラ・コンシエルジュリーへいらっしゃる、そうですね?」
「さよう、門番から知らせがありましたのでな」
「なぜか、理由をご存知ですか?」
「なにか病人か、瀕死の者か、死刑囚かがある、おそらくそんなことでしょうな」
「おっしゃる通りです。そうなんです、死刑の宣告を受けた者があなたをお待ちしているのです」
老僧はびっくりして騎士を見つめた。メーゾン・ルージュが続けた。
「では、その方がどういう方か、あなたはご存知なんですね?」
「いや……わしは知らんが……」
「よろしい、そのお方とは、女王です」
神父が苦しそうな叫び声をあげた。
「女王ですと? オオー! 神よ!」
「そうです、ムッシュウ、女王ですぞ! わたしは、女王の立ち会いになるはずの司祭はだれかということを調べたのです。あなただということが分ったので、さっそく駆けつけた、という次第です」
「わしにどうしろというのかな?」騎土の熱に浮かされたようなアクセントに、神父はすっかりおじ気づいて訊ねた。
「わたしの望みは……いや、望みではありません、ムッシュウ。わたしはあなたに、懇願にきたのです、お願いに、哀願にきたのです」
「で、なにをですかな?」
「あなたのお供をして、陛下のおそばまで連れていっていただくように」
すると神父は叫んだ。
「なんですと! あなたは気違いだ! あなたはわしの命を奪うつもりだな、いや、あなたの命だってありませんぞ!」
「心配なさらなくても大丈夫」
「あの哀れな女性は死刑の宣告を受けた、あの方はもうおしまいですな」
「分っております。わたしが女王にお目見得したいのは、なにも女王をお救いしようなどという大それたつもりではないのです。つまり……とにかく、お聞き届けくださいますか、神父さま? それとも聞いてはいただけませんか」
「あなたはとうてい不可能なことをわしに頼んでおる、聞けるもんですか。なにせ、あなたときたら、気違いのようなことをなさるんだから、とても耳など貸せませんわい。あなたのはなしを聞いてると、わしはゾッとする、なんでそんなはなしが聞けますかい」
すると青年は、自分自身の気持を落ち着けるように言った。「神父さま、ご安心ください。神父さま、わたしを信じてください。わたしの理性はちゃんとしておりますよ。女王のお命はない、それはわたしもよく存じております。しかし、もしわたしが女王の膝のもとにひれ伏すことができたら、ただの一秒でもいいんです、わたしの命はそれで救われるのです。もしわたしが女王にお会いできなければ、わたしは自殺します。そしてわたしの絶望は、あなたが原因になるわけですから、あなたは、わたしの肉体と同時に、魂までも殺すことになるでしょうな」
「わが子よ、わが子よ」と神父が言った。「あなたはわしの命を犠牲にしろ、と頼んでいるんじゃよ、よく考えてもみるがいい。なるほどこんなに年をとってはいるが、わしという存在は、まだまだたくさんの不幸なひとたちに必要なのでな。こんなに老いぼれてはいても、みずから死の前へ進むのは、つまり自殺の罪を犯すことになるのでな」
「イヤとは言わせませんよ、神父さん」と騎士が言い返した。「いいですか、よくお聞きなさい。あなたには臨時司祭か侍者が必要です。わたしを使いなさい、あなたといっしょに、わたしを連れてゆくのです」
司祭は、だんだん相手に同情を感じはじめたが、堅固な気持をもう一度たて直そうとした。
「いけない、いけませんぞ、わしの義務に反することになりますわい。わしは革命政府に忠誠を誓った、衷心から、わしの魂と良心にかけて誓ったんですぞ。死刑の宣告を受けた女性は女王じゃが、罪ある女王じゃ。わしは、もしわしが死んで、それが隣人の役にたつというんなら、喜んで死を受け容れよう。しかし、自分の義務に背くつもりは毛頭ありませんわい」
「しかし」と騎士が叫んだ。「わたしがあなたにこう言ったら、女王を救おうとは思わない、と誓ったらいかがです。サア、この福音書にかけて、この十字架にかけて、わたしがラ・コンシエルジュリーへ行くのは、女王の死を妨げるためではないと誓いを立てましょう」
「では、いったいなにがお望みなのかな?」と、真似ることもできない絶望の口調にすっかり感動した老人が訊ねた。
すると、その魂が、舌の上にその通路を探しているような調子で、騎士が言った。
「お聞きください。女王はわたしの恩人なのです。女王はわたしに対して、何か愛着のようなものをお持ちなのです。その生涯の最後の時間にわたくしにお会いになれば、女王のためにはこよない慰めになることは間違いありません」
「あなたのお望みというのは、それだけなんですな?」と老人は、相手の抗《あらが》いがたい口調に動揺して言った。
「ほんとうにこれだけです」
「囚人を助け出そうなどという、大それた陰謀は、よもや抱いてはおらんでしょうな?」
「ぜんぜんありません。わたしはキリスト教徒です、神父さま。もしわたしの心中に、虚偽の影でもさしたら、女王のお命を救おうなどとしたら、たとえどんなことにしろ、わたしがそんなことに手を出そうとしたら、神の永劫《えいごう》の罰をわたしは受けるでしょう」
「いや! いかんいかん! わしはそんな約束はできんぞ」こんな不注意なことが、どれほど重大な、どれほど数多くの危険な結果を招くか、ということを思いうかべて司祭が言った。騎士は、深い苦悩をたたえた口調で言った。
「お聞きください、神父さま。わたしは従順な息子としてあなたにお話ししました、キリスト教徒の、慈悲にみちた気持を抱いて、あなたのお言葉に耳を傾けていただけです。わたしは、苦い言葉は一言も、脅迫は一言も口にいたしませんでした。そのあいだにわたしの頭はわき立ち、熱がわたしの血を燃やし、絶望がわたしの心臓をむしばみ、そのあいだにわたしは武装するのです。ごらんください。わたしは短剣を持っております」
と言うと、青年は胸を開いて、震える手の上で、鈍く反映する、キラキラした、薄い刃《やいば》をとり出した。
司祭は勢いよくとびのいた。騎士が淋しげな微笑を浮かべて言った。
「ご心配は要りません。ほかの者ならば、あなたというお方が、ご自分の言葉を忠実に守る方だと知っていれば、あなたがおじ気づかれたのをいいことに約束させるでしょうが。いいえ、わたしはあなたに哀願したのです、さらに両手を合わせて、床に額をすりつけてあなたに哀願いたします。ほんの一瞬でけっこうですから、女王に会わせてください。サア、ここにあなたの安全の保証書があります」
こう言ってポケットから一通の書付けをとり出し、それをジラール神父に見せた。神父はそれを拡げて、次のような言葉を読んだ。
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予、メーゾン・ルージュの騎士、ルネは、ここに神と子の名誉にかけて宣言するものなり。予は、サン・ランドリイの善良なる司祭を、その拒絶と激しき反抗を圧して、生命を脅迫し、予をラ・コンシエルジュリーへ案内するよう強要せしものなり。
右の証拠として、予ここに署名す。
メーゾン・ルージュ
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「よろしい」と司祭が言った。「もうひとつ誓ってもらいたいのじゃが、不用意なことはなさるなよ。それはわたしの命を救うだけではなく、またわしはあなたの命にも責任があるのでな」
「アア! そんなことは忘れましょう。では、ご承知くださるんですね?」
「あんたのほうで、どうしてもと言うんじゃから、承知せんわけにもゆくまいて。階下《した》でわしを待っていなさい。女王が書記室を通るときに、女王にお会い……」
騎士は老人の手を取り、十字架に接吻すると同じくらい、尊敬と熱意をこめて、その手に接吻した。
「アア!」と彼は小声で呟いた。「あのお方も、これでせめて女王としての最後をとげられる。首斬り役人の手は、女王には触れることはあるまい!」
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四十八 荷馬車
サン・ランドリイの司祭の許可を得るや、メーゾン・ルージュは直ちに最前から神父の化粧室と思っていた、半分ドアの開いた小部屋にとび込んだ。
そこで、一瞬のうちにあごひげと鼻下ひげを剃り落としてしまったが、この時になってようやく、自分の顔色が、ゾッとするほど蒼白なのが分った。
表面はいかにも平静な様子で、彼は戻ってきた。あごひげや鼻下ひげはなくなったとはいえ、ラ・コンシエルジュリーで正体を見破られるかも知れない、ということは、もちろんすっかり忘れたようなふりをしていた。
しばらく小部屋に引っ込んでいるあいだに、二人の役人が神父を呼びにきたので、騎士は神父の後に従った。そしてまったく疑いをかけられないほどの豪胆さと、熱のために顔がすっかり腫れて、顔付が変っていたので、この時代には裁判所の中庭に通じていた柵門から難なく入っていった。
当時は聖職者の衣裳は廃止されていたので、彼もジラール神父と同じく、黒い服を着ていた。
書記室には、牢獄の職員や、代議士や、委員など、五十人以上の群衆がつめかけていて、職掌にしろ、ただの見物にしろ、女王が通るのをひと目見ようと待ちうけていた。
くぐり戸の前を通るときには、彼の心臓は、神父が憲兵や番人と話し合っている声も聞えないほど激しく動悸を打つのだった。
ただ、はさみと、切ったばかりの一きれの布地を手にしたひとりの男が、敷居のところでメーゾン・ルージュにぶつかった。
メーゾン・ルージュは振り向いて、相手が死刑執行人だということが分った。
「お前は何の用だ、市民?」とサンソンが訊ねた。騎士は、思わず、体中の血管に戦慄が駈け回るのを抑えようとした。
「わたしですか? お分りでしょう、市民サンソン、わたしはサン・ランドリイの司祭といっしょなんですよ」
「アア、なるほど!」と執行人が答えた。
そしてサンソンは、助手に命令を下して、自分の仕事に戻った。
そのあいだに、メーゾン・ルージュは書記室のなかへ入った。それから、書記室から二人の憲兵が控えている部屋へ通った。
この二人の親切な男は、呆然自失の状態だった。ほかの者に向かっては、あんなに勿体ぶって、権柄ずくだったこの囚人が、自分たちにはほんとうに善良で、優しかったのだ。二人は、衛兵というよりは、どちらかといえば、召使いのようにみえた。
ところが、騎士のいる場所からは、女王の姿は見えなかった。衝立が閉っていたからである。
司祭に道をあけるために、衝立が開かれたが、すぐ司祭の背中ごしに再び閉ざされてしまった。
騎士が入っていったときには、すでに会話が始まっていた。
女王が甲高い、高圧的な声で言った。
「ムッシュウ、あなたは共和国に忠誠をお誓いになり、共和国の名によってあたくしに死を宣告なさるのですから、あたくしはあなたに懺悔《ざんげ》することはできません。あたくしたちは、もう同じ神さまを信仰しているわけではありませんもの」
ジラールは、信仰に対してこれほどはっきりと軽蔑されて、心の動揺を抑えきれずに返辞をした。
「これから死のうとするキリスト教徒は、心に憎悪を抱いて死んではなりません、それに、神がどんな形で自分の前に現われようと、神を押しのけるなどとはもってのほかです」
メーゾン・ルージュは、衝立を少し開けようとして一歩踏み出した。女王が彼に気付き、自分がやってきた理由を知ったときには、女王も司祭に対して意見を変えてくれるだろう、と望んでいたのだ。ところが、二人の憲兵が体を動かした。
「しかし、わたしは司祭の侍者ですから……」とメーゾン・ルージュが言った。
「あの方は司祭も拒否していらっしゃるくらいだから、侍者なんか要らないよ」とデュシェーヌが言った。
「けれど、あの方もおそらくお受けになりますよ」と騎士が声を高くして言った。「お受けにならないなんていうことは、とうていできませんよ」
ところがマリー・アントワネットは、自分の心の中に渦巻いている感情に、気をとられすぎていたので、騎士の声などとうてい耳にも入らず、聞きわけることもできなかった。
女王は相変らず、ジラール神父に向かって話し続けていた。
「どうぞ、ムッシュウ。どうぞ、あたくしを放っておいてください。あなたは、いまの、フランスの自由な制度のもとで生きていらっしゃるのですから、あたくしは、自分の意のままに死ぬ自由を要求いたします」
ジラールはこれに反駁しようとした。
「放っておいてください、ムッシュウ。あたくしにかまわないで、と申しておりますのよ」
ジラールはもう一言つけ加えようとした。すると女王はマリー・テレーズ(神聖ローマ帝国皇位。マリー・アントワネットの母)のようなジェスチュアをして言った。
「あたくしが望むのです」
ジラールは部屋を出た。
メーゾン・ルージュは衝立のすき間からのぞき込もうとしたが、囚人は背を向けていた。
死刑執行人の手伝いの人夫が司祭とすれちがった。彼は手に縄を持って部屋に入った。
二人の憲兵が、騎士をドアのところまで押しつけた。その前に、彼は自分の計画をやり遂げようと思っていたのだが、目がくらみ、絶望し、呆然としてしまったので叫び声ひとつたてられず、体ひとつ動かすこともできなかった。
そこで、彼はくぐり戸の回廊のところで、ジラールといっしょになった。二人は、回廊から書記室まで押し戻されてしまった。書記室では、すでに、女王が懺悔を拒絶した、というニュースが伝わっていて、ある種の連中にとっては、マリー・アントワネットのこのいかにもオーストリア人らしい権高《けんだか》さが、野卑な悪口を浴びせる絶好の口実になり、またほかのひとびとにとっては、ひそかな賛嘆の対象となっていた。
「サア」とリシャールが神父に言った。「家へお帰りなさいよ、なんたって、あの女《ひと》はあんたを追っ払ったんだし、望み通りの死に方をするんだからね」
「どういたしまして」とリシャールのおかみさんが言った。「あの方の言う通りさ、あたしだって、あの方と同じようにするだろうね」
「そんなことをしたら、あんたの間違いになりますぞ、女市民」と神父が言った。
「黙ってろ」と番人は、目をむきながら呟いた。「そんなことを言ったら、お前はどうなると思う? サア、神父さん、お通りください」
「いや」と神父が繰りかえして言った。「いや、あの方がどう言おうと、わたしはあの方とごいっしょしよう。一言、たった一言だけでもあの方が聞いてくだされば、それであの方はご自分のつとめを思い出されるにちがいない。もちろん、政府がわしにその使命を与えたのじゃが……わしは政府の命令に従わなければならぬのじゃ」
「いいだろう、ただお前の香持ちのお供は帰せよ」とそのとき、軍隊を指揮していた副官が乱暴な調子で言った。
この男は、グラモンという名前の、元コメディー・フランセーズの俳優だった。
騎士の両眼が二重の輝きを放ち、機械的に手を胸の中に忍ばせた。
ジラールは、騎士がチョッキの下に短剣を持っていることを知っていた。神父は彼に、哀願するような眼差しを投げかけた。
「わしの命を大事にしておくれよ」と彼はうんと低い声で言った。「あんたには、あんたにとってはすべて水の泡となったことは分っているだろうが、なにもあの方といっしょに命を捨てることはない。途中で、わしがあんたのことをあの方に話すよ、な、誓うよ。あんたが、最後にあの方にひと目お目にかかりたいばかりに、命まで賭けたとあの方に伝えてあげよう」
こんな言葉が青年の興奮を鎮めてくれた。もちろん、これは当然起こるべき反応だったが、彼の体中の組織は奇妙なほど衰弱してしまった。このヒロイックな意志をもった、すばらしい力を備えた男も、もう彼の力と意志の限界へきてしまったのだ。彼は優柔不断にただよっていた、と言うよりは、死の先触れとも思えるような夢遊状態の中で、疲労しきって、打ちのめされていたのだ。
「そうです」と彼は言った。「これも、なるべくしてなったんですよ。キリストには十字架。女王には処刑台。神々も、王さまたちも、人間どもが差し出す盃で、酒の滓《おり》まで飲むような、苦痛を味わわなければならないのです」
青年が心ならずうめき声をあげたほかはべつに身を守ろうともせず、オフェリヤがせせらぎに身を運ばれたときに、その身を死に捧げた人と同じように、べつに反抗もせずに、外側の門のところまで押されてきたのは、こうしたまったく気力を失った、忍従の結果からだった。
柵の下や、ラ・コンシエルジュリーの門のところには、恐ろしい群衆がひしめいていたが、それは、少なくとも一度はその目で見たものでなければ、考えつかないような情景だった。
もう待ちきれない、という気持があらゆる情熱を征服し、あらゆる情熱がまた、その言葉より声高に叫びをあげ、たがいに融け合いながら、広く長い喧騒となって伝わっていった。それはあたかも、パリ中の喧騒と住民が、この裁判所界隈に凝縮されたような感じだった。
この群衆の前のほうには、完全武装をした軍隊が、このお祭り騒ぎを保護し、このお祭りを楽しむために集まってきたひとびとの安全を守るために装備された大砲を据えつけて陣を敷いていた。
女王の死刑宣告の報がパリの外、郊外の愛国者たちにまで知れ渡り、刻々と大きくなってゆくこの厚い人垣をつき破ろうとしても、とうていむだなはなしと言うべきだろう。
ラ、コンシエルジュリーの外まで押し出されたメーゾン・ルージュは、当然兵士たちの最前列へ出ることになった。
兵士たちが彼に、「何者か?」と誰何した。
彼は、自分はジラール神父の助祭である、ただ司祭としての宣誓を済ませていたので、師の神父同様に女王に拒否された者だ、と返辞をした。
今度は、兵士たちが彼を見物人の最前列まで押し戻した。
見物人のところへくると、彼はいま兵士に言ったことを、再び繰りかえさざるをえなかった。
すると、こんな叫び声があがった。
「このひとは、あの女のところから来たんだぞ……あの女に会ったんだとよお……あの女は何て言った?……あの女は何をした?……相変らず高慢ちきだったか?……しおれていたかい?……泣いてたかい?……」
騎士はこんな質問のすべてに、いちいち、弱々しげな、同時に穏やかで情のこもった声で返辞をしてやった。その声は、まるで、彼の唇に支えられている生命の、最後の意志表示のように響いた。
彼の返答は、純粋でしかも単純な真理を含んでいた。ただ、この真理は、マリー・アントワネットの堅固な意志への讃辞であり、福音書を奉ずる者の単純さと、信念をもって彼が語った言葉は、すくなからぬひとびとの心に動揺と後悔の念を投げかけた。
騎士が、幼い王子の、王妹の、王座を失った女王の、夫をなくした妻の、子供を奪われたこの母親の、そして最後に、ただひとり、友人とてなく、首斬り役人の真中に見棄てられたこの女性の消息を語ったときには、あちこちで、いくつかの額が悲しみに覆われ、かつては憎悪に輝いていた目に、人目を忍んで、燃えるような熱い涙が流されていた。
裁判所の大時計が十一時を打った。その瞬間、あらゆるざわめきがピタリとやんだ。十万人の人間が時を刻む鐘の音を数え、彼らの心臓の鼓動がその鐘の音に答えた。
それから、鐘の音の最後の響きが空に消えると、門のうしろから大きな喚声があがり、それと同時にレ・フルール河岸のほうから荷馬軍がやってきて、民衆の群を、さらに衛兵たちの間を割って階段の下まできて止まった。
やがて、幅の広い段の上に女王が姿を現わした。すべての情熱が目の中に凝集され、あるいは息を荒く吐く者もあり、また息をとめる者もあった。
女王は髪を短く切っていたが、髪の大部分は牢獄生活のうちに白くなり、このしろがねに輝く色合いが、真珠のように蒼白な顔色をいっそうデリケートに見せていた。その蒼白の顔色は、この最後の瞬間にほとんど崇高に見え、神聖ローマ皇帝の皇女としての美しさとなっていた。
女王は白いドレスを着、両手を背中で結わえられていた。
女王が、彼女の意志に逆らって同行してきたジラール神父を右側に、死刑執行人を左側に従えて階段の上に昇ったとき、群衆の中にざわめきが起こった。このざわめきは、ただ、人の心の底まで読みとれる神のみが理解でき、ひとつの真理のうちに要約できるものである。
そのとき、ひとりの男が死刑執行人とマリー・アントワネットのあいだを通った。
これが例のグラモンだった。彼はこうして二人のあいだに入って、女王にきたならしい荷馬車を指さして見せた。
女王は思わず、一歩うしろへ退いた。
「上がりなさい」とグラモンが言った。
みんなの耳にこの言葉が聞えた。というのは、見物人はみな感動したので、小声で喋っていたのが、ピタッと、唇のところで止まってしまったからである。
そのとき、女王の頬にサッと血の気がさし、髪のつけ根まで赤くなった。と、ほとんどすぐに、女王の顔色はもとの死者のような蒼白に戻った。
女王の蒼ざめた唇が半ば開いて言った。
「王のときには、馬車で処刑台へ参りましたのに、あたくしはなぜ荷馬車で参りますの?」
するとジラール神父が、低い声で二言三言何か言った。おそらく、囚人の、いかにも王族らしい最後の言葉をたしなめたにちがいない。
女王は口をつぐみ、ちょっとよろめいた。
サンソンが女王の体を支えようとして両腕を突き出したが、女王に手を触れる前に、彼女はシャンと立ち直った。
女王は階段を降りた。その間に、執行人の助手が荷馬車のうしろの木の踏台をしっかりと押えつけた。
女王が馬車に上がり、続いて神父が上がった。
サンソンが二人を坐らせた。
荷馬車が動き始めると、民衆の中に激しい動揺が起こった。こうした動揺がどんな訳で起こったかを、兵隊たちは知らなかったので、同時にみんな力を合わせて群衆を押し戻した。その結果、荷馬車と群衆の最前列とのあいだに広い空間が生まれた。
この空間の中から、悲しげな鳴き声が響いてきた。
女王は身震いして、スックと立ち上がり、まわりをぐるっと見回した。
女王には、二カ月前から行方の知れなかった自分の犬が見えた。鳴いても、ぶつかっても、咬みついても、女王といっしょにラ・コンシエルジュリーに忍び込むことのできなかったこの犬は、今や荷馬車に向かって驀進《ばくしん》してきた。ところが、ほとんどすぐに、痩せおとろえて、くたくたになった哀れなブラックは、馬の足の下に姿を消してしまった。
女王は愛犬の姿を目で追っていた。女王が声をたてたところで、喧騒にかき消されてしまったので、女王は口をきくこともできなかった。両手を縛られていたので、愛犬を指で指すこともできなかった。だいいち、女王が指で犬を指すことができたとしても、だれかが女王の言葉を聞いたところで、おそらく彼女の願いも徒労に終ったことだろう。
ところが、ちょっと見失ってから目を離しているうちに、女王は再び愛犬の姿を見出したのである。
犬は、大砲の上にスックと立って、群衆の中にひときわ目立っている、蒼白な青年の腕に抱かれていた。彼は言語に絶する興奮にすっかり大きく見え、天を指さしながら、女王に挨拶をしていた。
マリー・アントワネットも天を仰ぎ、優しく微笑を返した。
メーゾン・ルージュの騎士は、まるで女王の微笑によって心臓に傷を受けたようにうめき声をあげて、荷馬車が両替橋のほうへ曲ったときに、群衆の中へまぎれ込んで、姿を消した。
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四十九 断頭台
革命広場の街灯に寄りかかって、二人の男が待ちうけていた。
群衆に混じって、二人が待っていたのは、処刑台まで到着する女王だった。群衆のうちの一部は裁判所広場へ行き、べつの一部は革命広場へ行き、残りは喧騒と共に押しあいへしあいして、両方の広場のあいだの道に散らばっていった。
この処刑道具は、太陽や雨にさらされ、処刑人の手ですりへり、犠牲者たちによって――アア、なんと恐ろしいものだろうか!――さんざん触れたためにすりへっていたが、まるで女王が民衆の上に君臨するように、下に群がる首、首、首の上を睥睨《へいげい》していた。
腕を組み合い、蒼白い唇で、眉をひそめて、ときどき思い出したように低い声で喋っているこの二人の男は、ローランとモオリスだった。
見物人の中に姿を埋めていたが、みんなに羨望の念を起こさせるように仲良く、二人は小声で会話を続けていた。この会話は、両替橋から革命橋まで、電線に似て、人の海の中をうごめく、あちこちの一団から聞えてくるどんな会話よりも興味をそそるものだった。
人の波を睥睨している処刑台について、先ほど説明した観念が、彼ら二人の心を打っていたのである。
「見たまえ」とモオリスが言った。「まるで醜悪な怪物が、赤い両手を差し上げているみたいだぜ。まるでぼくらを呼んでいるみたいじゃあないか、恐ろしい口を開けたように、刃をパックリ開いて微笑しているみたいに見えないかい?」
「とんでもない!」とローランが言った。「白状するが、オレはなんでも真っ赤に見える詩人の一派じゃあないよ。オレにはあの手が桃色に見えるよ、それでね、あの嫌らしい器械の下で『|わが生ある限り希望あり《ドウムス・ピロ・スペロ》』を歌ってやらあね、まだオレには希望があるからな」
「女性までが殺されるっていうのに、きみには希望があるのかい?」
「なあ! モオリス、革命の息子は、母親を認めてやらなくちゃあ。なあ、モオリス、りっぱな、堂々とした愛国者でなけりゃあいけないよ。これから死ぬ女性は、ほかのすべての女と女が違うんだ。これから死ぬ女はね、ありゃあフランスの悪霊なんだぜ」
「イヤちがうんだ! ぼくが惜しんでいるのはあの女性のことじゃない。ぼくが泣いてるのは、あの女じゃあないんだ!」
「うん、わかるとも、ジュヌヴィエーヴのことだろう」
「アア! 分ってくれるな。ぼくを気違いのようにする考えは、ジュヌヴィエーヴを、エべールとか、フーキエ・タンヴイルとかいうギロチンの供給者の手に委ねる、ということなんだよ。あの哀れなエロイーズをここへ送り込んだ男たち、誇り高いマリー・アントワネットをここへ送った連中の手にね」
「そうとも、ぼくが望んでいるのは、まさにそのことなのさ。民衆の怒りが二人の暴君にどっさりご馳走を作ってくれたら、せめてしばらくのあいだは、満腹してくれるからね。ちょうど、一度飲み込んだものが消化するまでに三カ月もかかる、大蛇みたいなものさ。そうなれば、もうだれも呑み込まなくなるし、郊外の予言者たちがのたもうごとくに、ちょっとした食い物のかけらを見ただけで、げっそりすらあね」
「ローラン、ローラン、ぼくのほうが、きみよりも実際家だよ。いいかい、小さい声できみに言うからね、うんと大きい声でそれを繰りかえして言ってくれよ。ローラン、ぼくは新しい女王はご免こうむるね、これからやっつけようとしている、オーストリア女の跡を継いで女王の座に就くような気がするんだ。この悲しい女王というのはね、その緋の衣裳を、血で真紅に染めようという女王さ、そしてその女王の総理大臣はサンソンがなるんだ」
「とんでもない! そうなったら尻に帆をかけようぜ!」
「逃げられるとは思えないな」とモオリスが頭を振りながら言った。「いいかい、ぼくたちが自分の家で捕まらないようにするには、道をぶらつく以外には方法がないぜ」
「どういたしましてだ! オレたちはパリを逃げられるさ、なんにも邪魔できるもんか。そう嘆くことはないよ。オレの伯父がね、サン・トメールでオレたちを待っていてくれるんだ。金も、パスポートも、足りないものはなにもない。それに、オレたちをひきとめてるのは、憲兵じゃあないのさ。きみはどう思う? つまり、逃げる意志がないから、ここに残っている、っていうわけだよ」
「いや、きみの言ってることは正確じゃあないな。きみはまったくすばらしい友人だよ、献身的な気持を持っているよ……きみは、ぼくが残りたがっているので残ってるんだ」
「で、きみのほうは、ジュヌヴィエーヴを見つけたいから残っている、という訳だ。どうだい、これ以上簡単な、これ以上正確な、これ以上当然なはなしはないだろ? きみの考えによると、彼女は牢にいる、大いにありそうなことだ。きみは彼女から目を離したくない、そのために、パリを離れられない、とまあこんなところだろう」
モオリスが溜息を吐《つ》いた。彼の考えがバラバラに散っているのは明らかだった。彼が言った。
「きみはルイ十六世の処刑を思い出さないかい? ぼくはあの時の感激と誇らかな気持にまだ顔が蒼ざめる思いがするよ。ぼくは、この群衆の統領株のひとりだった、そしていまは、その群衆の|ひだ《ヽヽ》の中に身をひそめているんだぜ。ぼくはこの処刑台の足許にいて、上に昇っている王がかつて偉大であったより、さらにそれ以上偉大な姿をしているのをこの目で見たのだ。ローラン! たった九カ月でこんな恐ろしい反動がくると思うと、まったくなんという変りようだろう!」
「九カ月の恋だよ、モオリス!……恋なんだ、恋のおかげで、きみはトロイを失ったんだ!(パリスがヘレーネに恋をしてトロイア戦争が起こり、滅亡した故事をさす)」
モオリスは溜息を吐いた。彼の波のようにたゆたう考えは方向を変えて、べつの地平線を目ざしていた。
「あのメーゾン・ルージュも哀れな男だよ」と彼は呟いた。「彼にとっては、今日はきっと悲しい日だよ」
「悲しいことさ! この革命中でもっと悲しいと思ったことがあるんだが、モオリス、言ってもかまわないかい?」
「いいとも」
「しばしば、友人に欲しいと思うひとを敵として相手にせねばならず、反対に敵として……」
「ちょうど、いまあることを考えていたんだが」とモオリスがさえぎった。
「どんなことだい?」
「騎士は、無意味だと分っていても、女王を救おうとして、なにか計画を実行するんじゃあないかな」
「ひとりの男が十万の人間よりも強いとでも言うのかい?」
「だから言ったじゃあないか。たとえ無意味だと分っていても、と……ぼくも、ぼくだって分ってるんだ、ジェヌヴィエーヴを救おうとしたって……」
ローランは眉をひそめた。
「もう一度言うぜ、モオリス。きみは気持が混乱してるんだよ。いや、たとえジュヌヴィエーヴを救わなければならないとしても、きみは悪い市民になってはいけないんだ。だけど、もうそのはなしはじゅうぶんだ、みんなオレたちのはなしを聞いてるぜ。ほら、群衆の首が波のように。揺れてるぜ。ホラ、囚人馬車の上にサンソンの助手が突っ立ってるぜ、遠くから見えるよ。オーストリア女がやってきたぞ」
なるほど、ローランが言った、あの人波といっしょにきたように、ざわめきが徐々に拡がり、交錯して群衆のあいだに伝わっていった。それはまるで|はやて《ヽヽヽ》のように、はじめはヒュウヒュウという口笛に始まり、あとはどよめきに変った。
モオリスは、背が高いのに、街灯の柱にしがみついていっそう背を伸ばし、サン・トノレ街のほうを眺めた。
「そうだ」と彼は身震いしながら言った。
「あの方がきたぞ」
ほんとうに、ギロチンとほとんど同じくらい醜悪な器械が現われるのが見えはじめた。それは荷馬車であった。
衛兵たちの武器が左右に輝き、女王の前では、数人の狂信者の発する叫び声に、グラモンが、サーベルの焔をあげて答えていた。
しかし、荷馬車が進むにつれて、死刑囚の暗い冷たい視線に会って、この叫び声もにわかに消えていった。
これほど精力的に、尊敬を要求した表情は、いままでかつてなかっただろう。マリー・アントワネットが、これ以上偉大で、これ以上女王然としていたことはかつてなかったろう。
彼女は雄々しい誇りをいっそうあらわに見せて、なみいるひとびとに恐怖の念を喚び起こした。
女王の言葉を聞かずいっしょについて来たジラール神父の勧告も無視して、彼女の額は右にも左にも揺れなかった。彼女の脳髄の奥底で生きていた思いは、彼女の眼差しと同様に確固不動のように見えた。ガタガタな敷石の上を走る荷馬車の不規則な動きは、とても激しかったが、かえって彼女の厳しさをきわだたせていた。まるで、手押し車にのせられて運ばれる大理石の彫像のように見えた。ただこの女王の彫像は目がらんらんと輝き、髪が風になびいていた。
沙漠の沈黙にも似た沈黙が、とつぜんこの光景を目撃している三十万人の見物の上におそいかかり、空にははじめて太陽が輝き、この光景を照らし出した。
まもなく、モオリスとローランが立っている場所でも、荷馬車の車軸のきしる音と、衛兵が乗る馬のはく息の音が聞えてきた。
荷馬車が処刑台の下に停った。
その時まで、おそらく何も考えていなかった女王が、われに返り、理解した。女王は誇らかな視線を群衆の上に拡げ、さきほど大砲の上に突っ立っていたのと同じ青年が、再び車止めの石の上に突っ立っている姿に気がついた。
この車止めの石の上から、彼は、すでに、女王がラ・コンシエルジュリーを出るときに捧げたと同じように、敬意をこめた挨拶を女王に送った。と、すぐに、彼は車止めの石から跳び降りた。
いくにんかの人間が彼を見ていたが、その男が黒い服を着ていたので、女王が処刑台へ昇るときに、最後の罪の許しを与えるために、ひとりの僧がマリー・アントワネットを待っているのだ、という噂がそのあたりから流れた。そればかりではない、だれひとりとして騎士の出現を心配している者はなかった。最後の瞬間に、あるものに対するある敬意が残っていたのである。
女王は三段の踏台を注意深く下りた。女王はサンソンに体を支えられていた。サンソンにしてみれば、彼自身が死刑を宣告したように思える女王へのつとめを果そうとして、最後の瞬間まで女王に最高の尊敬をこめていた。
女王が、処刑台へ上がる階段を歩むあいだに、何頭かの馬が後肢で立ち上がり、徒歩の衛兵や兵隊たちが動揺し、体の平衝を失ったようにみえた。つぎに、なにか影のようなものが処刑台の下に滑り込むのが見えた。しかし、それと同時に平穏な気配があたりに伝わった。この崇高な瞬間に、だれひとりその場所を離れようとしなかった、だれひとり、これから幕が切って落とされる大悲劇のほんの些細な部分まで見落とすまいと思った。すべての目が死刑囚の上に集まっていた。
女王はすでに、処刑台の上の板の上に立っていた。相変らず、神父が女王に話しかけていた。死刑執行人の助手が、女王をうしろからソッと押した。女王の肩を覆っていたスカーフの結び目をほどいた。
マリー・アントワネットはこのうすぎたない手が首に触れるのを感じて、急に動いたので、女王に気づかれぬように、一生懸命女王をこの運命の板に結びつけていたサンソンの足を踏んだ。
サンソンは足を引っ込めた。
「許してください、ムッシュウ」と女王が言った。「わざとやったわけではありませんから」
神聖ローマ皇帝たちの後裔《こうえい》、フランスの女王、ルイ十六世の未亡人が口にした、最後の言葉がこれだった。
チュルリイ宮の大時計が十二時十五分を打った。その鐘の音と共に、マリー・アントワネットは永劫の闇の中へ落ちていった。
恐ろしい叫喚、あらゆる忍耐を凝縮した叫喚がわき起こった。喜び、恐怖、哀悼、希望、勝利、贖罪の叫びが嵐のようにまきおこり、同時に、断頭台の下から響いた弱々しい、悲しげなべつの叫び声を覆ってしまった。
その叫び声はいかにも弱々しいものだったが、憲兵たちはその声を耳にした。彼らは前に二、三歩踏み出した。ところがやっと体が楽になった群衆が、ちょうどだんだんと堤防の幅が広くなった河のように散らばり、垣根を倒し、衛兵たちを追い散らして、潮のように殺倒して、断頭台の足をたたいたので、断頭台はグラグラと揺れた。
ひとりひとりが、フランスでは以後永久に影を消したと思った、王家の残骸を、もっと近くで見ようとした。
ところが、憲兵たちはほかのものを探していたのだ。彼らは、自分たちの陣列を突破して、断頭台の下へもぐり込んだあの影を探していた。
憲兵たちの二人が、ひとりの青年の襟髪をつかんで引っぱってきた。彼の手は血に染ったハンカチで心臓を抑えていた。
彼の後から、小さなスパニエル種の犬が、悲しそうに吼えながらついてきた。
「特権階級は殺っちまえ! 上流階級は殺っちまえ!」と民衆のうちのいくにんかが、その青年を指さしながら叫んだ。「あの男は、オーストリア女の血にハンカチを浸したんだぞ。殺しちまえ!」
「神よ!」とモオリスがローランに言った。「きみはあの男を知ってるかい? あの男がだれだか分るかい?」
「王党派は殺っつけろ!」と血に飢えたひとびとが繰りかえした。「あいつからハンカチを取りあげちまえ、あいつはあのハンカチを片身にして拝むつもりだぞ。とり上げろ、とり上げちまえ!」
青年の唇に、誇らかな微笑が浮かんだ。彼はシャツを引き裂き、胸をあらわにして、ハンカチを落とした。
「諸君」と彼が言った。「この血は女王の血ではない、わたしの血だ。わたしを静かに死なせてくれ」
深い、キラキラ輝く傷口が、左の乳房の上にパックリと口を開けていた。
群衆が叫び声をあげて、うしろへ退った。
すると青年はゆっくりとのめり、まるで殉教者が祭壇を見るように断頭台を見つめながら、膝まずいた。
「メーゾン・ルージュだ!」とローランがモオリスの耳もとで囁いた。
すると騎士が、清らかなほほ笑みをたたえた顔をガックリと垂れながら低い声で言った。
「さようなら! さようなら、いや、むしろまたお会いしましょうだ!」
そして彼は、呆然としている衛兵たちの真只中で息を引き取った。すると、モオリスが言った。
「ローラン、悪い市民になるまえに、まだしなければならんことがあるんだ」
小さな犬はおびえて、キャンキャン吼えながら、屍体のまわりを回っていた。
「ヤア! ブラックだな」と手に太いステッキを持った男が言った。「ヤア、ブラック、こっちへ来いよ、かわいいの」
犬は自分を呼んだ男のほうへ行った。しかし、手の届くところへ来ると、その男はステッキを振り上げて、大声で笑いながら、犬の頭を撲りくだいてしまった。
「アア! なんてひどいやつだ!」とモオリスが叫んだ。
「シーッ!」とローランが彼を止めながら囁いた。「静かにしろよ、でないと、オレたちの命が危いぜ……あいつはシモンだよ」
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五十 家宅捜索
ローランとモオリスはローランの家へ帰ってきた。モオリスとしては、自分の親友を、あまり大っぴらに危険にさらすまいと思っていたので、朝家を出て、夜はおそくならなければ帰らないような習慣をつけていた。
いろんな事件に頭を突っ込み、あちこちの牢獄からラ・コンシエルジュリーに囚人が移されるのを見物して、モオリスは毎日、ジュヌヴィエーヴの足跡を見張っていたが、彼女がどこの牢獄に幽閉されているか知ることはできなかった。
フーキエ・タンヴィルのところを訪ねてから、ローランはモオリスを口説いて、はじめにあんまり目立った運動をするとモオリス自身の命が危険になるし、彼の身を犠牲にしながら、しかもジュヌヴィエーヴを救うこともできなくなる、ということを納得させた。モオリスは、内心、自分の恋人といっしょになれるなら、すぐに自分が投獄されることもあえて辞さない、と思ってはいたが、永久に彼女と別れ別れになるんじゃないかという不安もあるので慎重な態度をとるようになっていた。
そこで彼は、毎朝、レ・カルムからポール・リーヴルヘ、レ・マドロネットからサン・ラザールヘ、ラ・フオルスからリュクサンブール監獄へと歩き回り、牢獄の前で、被告たちを革命裁判へ送る護送馬車の出入りを見張っていた。そして犠牲者たちの顔をちらりと見ると、すぐまた別の牢獄へ駆けつけるのだった。
ところがまもなく、十人の男を動かしたところで、この当時パリにあった三十三の牢獄をじゅうぶん監視することはできないと気づき、裁判所の前へ行って、ジュヌヴィエーヴが召喚されるのを待ち受けることにした。
これがすでに、絶望のはじまりだった。実際のはなし、宣告を受けてしまった死刑囚に、いったいどんな手段が残されているというのだろう。
時には、十時に開廷した裁判所が、四時には二十人か三十人に死刑の宣告を下したこともある。最初に死刑の宣告を下されたものは、六時間の生命が残っている。ところが四時十五分前に刑の宣告を受けた最後の死刑囚は、四時半にギロチンの下で命を終るのである。
ジュヌヴィエーヴに、こんな機会を忍べと諦めてしまうのは、とりもなおさず運命との戦いを放棄したことになる。
アア! ジュヌヴィエーヴの投獄が、前もって彼に分っていたら……モオリスは、この時代の盲目になった人間どもの正義観を愚弄してやっただろうに! しごく容易に、敏速に、ジュヌヴィエーヴを牢獄から救出しただろうに! 今となっては、逃亡はもはや簡単にはゆかなかった。逃避はもはやそれほど稀なことでない、と言えないわけでもない。ひとたび投獄された貴族は、みな城に落ち着いたように腰を据えてしまうし、勝手気儘に死ぬこともできる。しかし、逃げることは、重大な決闘から逃げ出すことである。女性でさえ、こんな犠牲を払って自由を手に入れたらば、恥辱のために赤面するくらいだ。
しかしモオリスは、そんな小心翼々とした気持はもっていなかった。番犬を殺したり、牢番を買収したりするのは、しごく簡単なことではないか! ジュヌヴィエーヴは、世間の注目を集めるほど、豪儀な家名の持ち主ではない……もちろん、彼女が逃亡したところで、体面を汚すわけでもなかろう……だいいち、その時もう彼女の体面は地におちていたではないか!
アア! モオリスは苦悩にみちた表情で、しごく容易によじ登れそうなポール・リーヴルの庭園の前に立っていた。道路に面した、ごく簡単にこわれそうなマドロネットの部屋、リュクサンブールの背の低い塀、そして決意を持った男ならば、窓を外して、ごくたやすく中へ侵入できそうなレ・カルムの暗い回廊を眺めていた。
しかし、いったいジュヌヴィエーヴはこれらの牢獄のうちのどこに幽閉されているのだろう?
疑惑にさいなまれて、不安に打ち萎れ、はてはモオリスはディメールに呪咀《じゅそ》を浴びせかけた。彼はディメールに脅迫の言葉を浴びせ、この男に対する憎悪でふくれ上がっていた。王室に献身するという美名に陰れて卑劣な復讐を秘めていたこの男に対して。
モオリスはこう考えていた。
『それでもオレはあいつを見つけ出してやる。もしあいつが、あの不幸な女性を助けるつもりならば、姿を現わすだろうから。また、もしあいつが、彼女の命が危険にさらされるのを望むなり、いずれはなにか攻撃を加えてくるだろうから。オレはあいつを、あの卑劣な男を見つけ出してやるぞ、その日こそ、あの男にとって不運な日になるぞ!』
これから物語ろうとする日の朝のこと、モオリスは、革命裁判所のいつもの席へ腰を据えるつもりで家を出た。ローランはまだ眠っていた。
ローランはうるさい物音で目を覚した。物音は女のガヤガヤいう声や、銃の床尾のカチカチいう音だった。
彼は、目の届くところに、何も危険なものはないと確信しているつもりでも、不意を襲われて呆然としたように、周囲をチラッと見やった。
四人の国民軍兵士と、二人の憲兵と一人の委員が、同時に彼の家へ闖入《ちんにゅう》してきた。
この訪間はいかにも意味あり気だったので、ローランは急いで服を着た。
「きみたちはオレを逮捕するのかね?」と彼は言った。
「そうだ、市民ローラン」
「どうしてだ?」
「お前が容疑者だからだ」
「なるほど、おおせの通りだ」
委員は、逮捕令状の下のほうに、数語の言葉をなぐり書きして、続いて訊ねた。
「お前の友だちはどこにいる?」
「どんな友だちのことだね?」
「市民モオリス・ランデイだ」
「きっと自分の家だろう」
「ちがう、あの男はここに住んでいる」
「彼が? それならどうぞ! お探しくださいだ、もしあの男を見つけたら……」
「ここに密告状がある。これを読めば明白だぞ」と委員が言った。
彼は、見っともない筆跡で、綴りも怪しい字で書いた紙をローランに見せた。この密告状には、市民ローランの家から、容疑者で、逮捕状の出ている市民モオリスが毎朝出かけてゆくのを目撃した、と書いてあった。
密告状にはシモンのサインがあった。
「なるほどそうか!」とローランが言った。「でもな、一度に二つの商売をかけ持ちしたりすると、この靴直しもお客が離れて、商売は上がったりになるぜ。なるほどねえ! スパイ兼長靴回収業とおいでなすったか! まったくこのシモンさまは皇帝はだしだ……」
と言って彼は大声で笑い出した。すると委員が言った。
「市民モオリス! 市民モオリスはどこだ? いいか、われわれはきみに、彼を引き渡すように勧告するぞ」
「彼はここにはいない、と言ってるだろ!」
委員はとなりの部屋へ入り、それからローランの世話係が住んでいる屋根裏部屋へ上がった。最後に階下の部屋まで見たが、モオリスの足跡は全く見当らなかった。
ところが、食堂のテーブルの上にあった、ごく最近書いた一通の手紙が委員の注意を惹きつけた。これはモオリスの手紙で、二人はいっしょの部屋に寝ていたのだが、友だちを起こさないように気をつかって、朝出がけに置いて行ったのだ。手紙には、こんな文句が書いてあった。
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ぼくは法廷へ出かける。昼食はひとりでしてくれたまえ。ぼくは夜にならなければ帰宅しないつもりだ。
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「市民」とローランが言った。「ぼくがいくら急いであんたの命令に従うにしても、まさかシャツ姿では出かけられないことぐらいお分りいただけるでしょうな……ぼくの世話係に手伝ってもらって服を着るぐらいは、大目に見ていただけませんかな」
「特権階級め!」とだれかが言った。「半ズボンひとつはくのに、手伝いが要るなんて……」
「いやはや! まったくおおせのとおりで。ぼくはね、市民ダゴベールみたいなもんでさあ、(七世紀メロヴィンガ王朝の名君。フランスの有名な童謡『ダゴベール王』の中に、『ダゴベール善王様がズボンを裏におはきになった』という一節があり、これをもじったもの)だけど気をつけてくださいよ、ぼくは、王と呼ばずに市民《ヽヽ》と呼びましたからな」
「よろしい、そうしたまえ。だけど急いでもらうぞ」と委員が言った。
世話係が屋根裏部屋から降りて、主人の着付けを手伝いにきた。
ローランの真意は、正確には世話係に手伝いを頼みたい、ということではなかった。世話係から、どんなことが起こったかモオリスに伝えてもらうために、この場の情景を最大洩らさず、世話係に見ていてもらいたかったのである。
「さて、紳士諸君……いや失礼市民と申すべきでしたな……さて市民、用意はよろしい、お供しますぞ。ただ、お願いがござるて、ドゥムースチエ氏(同時代の作家。ラシーヌ、ラ・フォンテーヌの後裔で、多くの詩、オペラ、喜劇を書く)の『エミルトヘの書翰』の最終巻を持ってゆくのをお許しいただきたい。なにしろ出版されたばかりで、まだ目を通しておりませんのでな。牢獄生活の憂さ晴らしにはもってこいですて」
と突然、今度は彼のほうが警備隊員になり、四人の小隊員を連れたシモンが現われて言った。
「牢獄生活だって? なあに、牢屋暮しも、そう長くはねえよ。オメエはな、オーストリア女めの逃亡を手伝った女の裁判に出るはずになってるんだ。その女は、今日が裁判よ……今日オメエの証言がすんだら、明日はオメエが裁判にかけられる番だ」
「靴直しめ」とローランが重々しく言った。「靴の底を縫うにしては、手回しが良すぎるぞ」
「そうともよ。だけどな、この包丁は実に切れ味がいいからな」とシモンが嫌らしい微笑を浮かべながら言った。「今に判らあ、今に判らあな、エッ、ハンサムな兵隊さんよ」
ローランは肩をそびやかして言った。
「どうです、出かけますかな? こちらはお待ち申しているんですよ」
そして、それぞれ階段を降りようとしてうしろを振り向いたとき、ローランが警備隊員シモンを、ものすごい勢いで蹴とばしたので、シモンはピカピカに磨き上げた、固い階段の上から下まで、わめき声を上げながら転がり落ちた。
小隊員たちは、こらえきれずに大声で笑い出し、ローランはポケットヘ手を突っ込んだ。
「ちきしょう、こっちはお役目で仕事をしているところだぞ!」とシモンが怒りのために顔色を真蒼にして言った。
「ヘン、お気の毒さまだ!」とローランが答えた。「オレたちはみんな、お役目がらでやってきてるんじゃあないのかい?」
ローランは辻馬車へ乗せられて、委員は彼を裁判所へ連行した。
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五十一 ローラン
読者をこの革命法廷へ二度目にご案内すれば、すでに前にいたと同じ場所に頑張っているモオリスの姿に、再びお目にかかることができるだろう。ただ彼の顔色はいっそう蒼ざめ、その物腰はいっそう落ち着きがなかった。
われわれの好みとはほど遠い、さまざまな事件の展開する、この悲しい舞台の幕が再び上がったとき、陪審はすでに票決を決めていた、というのは、すでに訴訟の審議は終っていたからである。すでに、この時代にもさかんに嘲弄されたものだが、裁判長はじつに横柄なくせに、小心翼翼とした言辞を弄して、二人の被告に、あわれ断頭台のために粧いをさせてしまった。弁護人が弁護をしていたものの、この弁護たるや、患者を絶望させる医者の診断にも似た、意味のない言葉にすぎなかった。
当時の法廷の傍聴人ときたら、実に獰猛きわまる性格の持ち主ばかりで、こうした性格が、また、陪審員たちの峻厳な態度をいっそう刺戟するのである。編物をしながら傍聴する下町の女たちや、郊外の愛国者たちが直接目を光らせているので、陪審員たちはますます苛酷な態度をとる。それはまるで、悪意を抱いた見物の前では、倍も意欲を燃やして演技する俳優のようなものである。
こんな訳で、実に扱いにくくなった同じ陪審員のおかげで、朝の十時から、五人の容疑者がすでに同数の死刑囚に変っていた。
そのとき、被告席に坐っていた二人は、彼らに人生を返してくれるか、あるいは死の淵に投げ込むかするはずのイエスかノオの言葉を今や待ち受けているところだった。
毎日見慣れた悲劇が、お気に入りの見世物になっていたために、傍聴人たちは兇暴になっていた。この傍聴人たちは、言わば、この恐るべき瞬間に、囚人たちのためのうまい掛け声を準備していたのである。
「ホラ、ホラ、ホラ! ごらんよ、あのノッポを!」と編物をしていたひとりの女が言った。この女は帽子もかぶらず、髪の上に手のひらほどもある、大きな三色の飾りをつけていた。「ホラ、なんて真蒼なんだい! まるでもう亡者になったみたいだよ!」
囚人は自分を罵る女を、軽蔑したような微笑を浮かべながら眺めた。
「あんたは何か言ったのかね? ホラごらんなさい、あの男は笑ってますぜ」と隣りにいた男が訊ねた。
「なあに、ただのにが笑いさ」
郊外からきた男が時計を見ながら仲間に訊ねた。
「いま何時だね?」
「一時が十分前だよ。もう四十五分もこんなことを続けてるんだからね」
「まるで災厄の町ドンフロンみたいだよ。正午に着いて、一時には首を吊られるんだからね」
「今度はチビだよ、チビがきたぜ!」とほかの傍聴人が叫んだ。「見てみろ、あの野郎を、袋に入ってくしゃみのひとつもしてから、ようやくてめえがブスだって判ろうって寸法だぜ!」
「まったくだ! チビは手間がかからねえから、そんなことを気がつく暇もねえぜ」
「そうだ、サンソンに首が欲しいと頼んでごらんよ。もう一度あの首を拝めらあね」
「見てごらんよ、なんてきれいな、青い服を着てるんだろう。あんないい服を着た野郎の首をチョン切ってやったら、貧乏人はさぞいい気持がすらあね」
前に死刑執行人が女王に話したように、事実、貧乏人たちは犠牲者の屍体からはいだ服をちょうだいしたし、この着物は死刑執行の直後に、貧乏な連中に配給するために、ラ・サルペトリーまで持ち運ばれたものだった。処刑された女王の衣裳もここへ送られていた。
モオリスは、こんな言葉が渦巻くのを聞いていたものの、べつに何の注意も払わなかった。この時代にはだれでも、特別強力な観念に気をとられて、心ここにあらずといった態度であった。数日前から、モオリスの心臓は、ごくたまに、激しく動悸を打つだけだった。ときどき、不安と希望が彼の生命の歩みを止めてしまうようにみえたし、このたゆみない動揺は、心の弛緩と入れ代って、彼の心に、そよかぜのような感覚を吹き込むのだった。
陪審員たちが法廷に入ってきて、傍聴人たちは待ちかねていたので、二人の容疑者に刑を宣告した。
二人は連れ去られたが、しっかりした足どりで退廷していった。この時代には、みなじつに見事な死に方をしたものだった。
法廷のドア番の声が、悲しげに、不吉に響いた。
「女市民、ジュヌヴィエーヴ・ディメールに対する公判」
モオリスの体中に戦慄が駆けめぐった。額から汗が玉をなして流れ出た。
被告が出入りする小さなドアが開かれて、ジュヌヴィエーヴが姿を現わした。
彼女は白い服を着ていた。髪はきれいに手入れをして、人目を惹かずにはおかない魅力を放っていた。というのは、当時は多くの女性たちが髪を短くカットしていたのに、彼女は髪をたくみに結い上げて、カールしていたからである。
おそらく、哀れなジュヌヴィエーヴとしては、自分の姿を見にくるにちがいない恋人の目に、最後の瞬間まで美しい姿を見せたかったのだろう。
モオリスはジュヌヴィエーヴを眺めた。そしてこんな場合に備えてとっておいた力が、いっぺんに全身から抜けてゆくような感じがした。ところが、彼は実はこの瞬間を待っていたのだ。十二日前から、彼はどんな法廷にも欠かさず顔を出したし、今まですでに三回も、検事の口から洩れるジュヌヴィエーヴという名前を耳にしていた。ところが、そのたびに彼が感じた絶望は、深く、広く、だれもその深淵をのぞくことはできないほどだった。
これほど美しく、これほどナイーヴで、またこんなに蒼白な女性が現われるのを眺めた一同は、いっせいに叫び声をあげた。ある者は憤怒の叫び声をあげた。当時は、きわ立ったものには何にでも、財力でも、才能でも、血統でも同じだが、美しさがきわだっていても、憎悪を抱くひとびとがいたものである。他の者は賛嘆の叫びを、そしてまたいく人かは、憐憫の叫びをあげた。
ジュヌヴィエーヴはおそらく、こうした叫び声の中にただひとつの叫びを、たくさんの声の中からただひとつの声を聞きとったにちがいない。というのは、裁判長がときどき上から彼女をじろじろと眺めながら、被告の調書のページをめくるあいだに、モオリスのほうを振り向いていたからである。
モオリスが、幅広の帽子の縁《ふち》を目深に降ろして顔を陰していたのに、一目でモオリスに気付いた。すると、彼女は優しい微笑をたたえて、体をすっかり彼のほうに向け、さらに優しい身ごなしで、ピンクの、震える両手を唇にもっていった。そして溜息とともに、自分の魂をすっかり托して、彼にキスを投げたが、この意味の判るものは、この群衆のうちに、モオリスひとりしかいなかった。
興味あり気な囁き声が法廷いっぱいにざわめいた。訊問を受けたので、ジュヌヴィエーヴは裁判官たちのほうに向き直った。ところが、向き直る動作を途中でやめた彼女は、言うに言われぬ恐ろしそうな表情で、大きく見開いた両眼を、ホールの一点にじっとすえた。
モオリスは爪先立って見ようとしたが徒労だった。彼にはなにも見えなかった、というよりは、もっと重大なあるものが、彼の注意をその情景のほうに惹きつけたと言うべきだろう。つまり裁判官の姿である。
フーキエ・タンヴィルが起訴状の朗読を始めた。
起訴状の言うところでは、ジュヌヴィエーヴ・ディメールは不届なる陰謀者の妻であり、女王を救出すべく一連の計画を実行した、元メーゾン・ルージュの騎士に助力をせる嫌疑あり、ということだった。
そればかりか、彼女は女王の膝にすがり、女王と衣裳を変えることを懇願し、女王に代って死するべく身を挺したものであるという。起訴状はさらに続けて、このバカバカしい狂信は、おそらく反革命への讃美と言うに値するものであろう。さらに、現在では、フランス市民たるものすべて、国家にのみ命を捧げるべきの時で、フランスの敵のために一命を犠牲にするなど、まさに二重の反逆行為と言うべきだろう、と言うことだった。
ジュヌヴィエーヴは、憲兵デュシェーヌ、ジルベール両名の申し立て通りに、女王の膝にすがり、女王と衣裳を代えようと哀願したのを認めるか、と訊ねられて、ただ、「はい!」と答えただけだった。すると裁判長が言った。
「では、お前の計画及び希望を申し立てよ」
ジュヌヴィエーヴは微笑して言った。
「女性でも、希望を抱くことはできます。ただ、あたくし自身を犠牲にするような種類の計画はとても考えつくことはできません」
「それなら、なぜお前はあんな場所にいたというのか?」
「それは、あたくしの体は自分のものではございませんでした。あたくしは無理に押し込まれたからです」
「だれがお前を無理に押し込んだのか?」と検事が訊ねた。
「もしあたくしが言うことをきかなければ、殺すといって脅かした男です」
ジュヌヴィエーヴの怒りにみちた眼差しが、再びモオリスのところからは見えないホールの一点を見つめた。
「しかし、お前を殺してやるという脅かしから逃れたところで、結局はお前が死刑になる危険を冒すことになるわけだろう」
「そのときは、ギロチンの刃は、まだまだあたくしの首から遠くにございましたが、あたくしが向うの言う通りになりましたときは、あたくしの胸に短剣が突きつけられていたのです。あたくしは眼の前の暴力に屈したのです」
「どうしてお前は助けを呼ばなかったのか? りっぱな市民ならだれでも、お前を守ってくれたにちがいないと思うが」
ジュヌヴィエーヴの返辞は、じつに悲しそうな、同時にまた優しい口調だったので、モオリスの心臓はふくれ上がり、今にも爆発しそうな感じだった。
「悲しいことですわ! ムッシュウ。悲しいことに、あたくしのそばには、だれひとりおりませんでしたので」
好奇心のあとに興味が続いて起こるように、憐憫の情が興味にとって代った。たくさんのひとびとが首を垂れた。ある者は涙を隠し、他の者は涙が流れるに委せていた。
そのとき、モオリスは、左手のほうに、首をキリッと立てた、相変らず一徹なあの顔を見つけた。
ディメールだった。彼は立ったまま、陰鬱な、情け容赦のない態度で、ジュヌヴィエーヴからも裁判官からも日を離さなかった。
青年の|こめかみ《ヽヽヽヽ》まで血が昇ってきた。怒りが心臓から額まで込み上げてきて、復讐してやろうという途徹もない望みが彼の全身にみちみちてきた。彼が、ディメールのほうに、電光のような、力強い憎悪のこもった眼差しを送ったので、ディメールも燃えるような電流に惹きつけられて、仇敵のほうへ顔を向けた。
二人の視線が二条の焔となって交錯した。
「その、お前を扇動した男はだれとだれか、名前を言ってごらんなさい」
「相手はたったひとりでございます、ムッシュウ」
「それはだれかね?」
「あたくしの主人です」
「どこにいるか知っているかね?」
「はい」
「その隠れ家を言いなさい」
「主人は卑劣な男かもしれませんが、卑怯ではないと思います。あたくしは主人の隠れ家を申すつもりはございません、どうぞあなた方で見つけてくださいませ」
モオリスはディメールを見つめた。ディメールは微動だにしなかった。青年の頭に、ある考えがひらめいた。みずから名乗り出て、相手も告発しようという考えである。しかし彼は、そんな気持も押し殺した。彼は肚《はら》の中でこんなことを言った。
『いや、いけない。オレはそんなふうにして死ぬべきではないんだ』
「つまり、お前はわれわれの捜索の案内に立つのを断わるわけだな?」と裁判長が言った。
「あたくしには、とうていお役に立つことはできないと思います、ムッシュウ」とジュヌヴィエーヴが答えた。「あたくしの目からすれば、主人は憐れなひとだと思いますが、それと同じように、他のひとたちからあたくしが憐れな女と思われたくはございませんので」
「証人はいるかね?」と裁判長が訊ねた。
「ひとりおりますが」とドア番が答えた。
「証人を召喚したまえ」
「マクシミリヤン・ジャン・ローラン!」とドア番が金切り声を出した。
「ローラン!」とモオリスが叫んだ。「アア! 神よ! いったい何事が起こったんだ?」
この情景はローランが逮捕されたのと同じ日に起こったことで、モオリスはまだこの逮捕のことを知らなかったのだ。
「ローラン!」とジュヌヴィエーヴは、苦悩と不安の混じった表情であたりを見回しながら呟いた。
「証人はなぜ召喚に応じないのかね?」と裁判長が訊ねた。
「裁判長」とフーキエ・タンヴィルが言った。「証人はごく最近告発を受けて、住居で逮捕されました。すぐに連行されてくると思います」
モオリスは身を震わせた。フーキエがさらに続けた。
「実はもっと重要な証人がもうひとりおりますが、このほうはまだ見つかっておりませんので」
ディメールがうす笑いを浮かべながら、モオリスのほうを向いた。恋人の頭にひらめいた考えと同じ考えが、この夫の頭にも浮かんだのだろう。
ジュヌヴィエーヴはすっかり蒼ざめて、苦しそうな声をあげながら崩折れた。
そのとき、ローランが二人の憲兵のあとについて入廷してきた。
同じドアから、ローランに続いてシモンが姿を現わし、法廷のいつも坐り慣れた席に腰を下した。
「きみの姓名は?」と裁判長が訊ねた。
「マクシミリヤン・ジャン・ローラン」
「職業は?」
「自由業」
「オメエは長い間そういう訳にはゆきそうもねえぜ」とシモンが彼のほうに拳を突きつけながら言った。
「きみは被告の親戚かね?」
「いいえ。しかし、光栄の至りですが、友人のはしくれです」
「被告が女王救出の陰謀を抱いていたことを知っていたかね?」
「どうしてぼくにそんなことが分ると言うんです?」
「被告がきみに打ち明けたかも知れんよ」
「ぼくに、テルモピイル小隊のメンバーのこのぼくにですか? サア、先へ進みましょう!」
「きみが被告といっしょにいるのを、ときおり見かけた者があるというが」
「ときおりどころか、しょっちゅうのはずですよ」
「きみは、被告が特権階級だということを知っていたかね?」
「ぼくは、彼女が皮なめし工場主の奥さんだと思っていました」
「被告の夫は、そうやって身分を隠していただけで、実際にそんな仕事はしていなかったんだよ」
「なるほど! それはぼくは知りませんでしたな。ご主人のほうは、友人ではありませんでしたしね」
「被告の夫のことを話してくれんかね」
「いいですとも! 喜んで話しますよ! なにしろ下劣な男でして……」
「ムッシュウ・ローラン、お願いですから……」ジュヌヴィエーヴが言った。
ローランは情け容赦なく先を続けた。
「あなたの目の前であなたの慰みものになっているこの哀れな女性を、べつに政治的意見のためではなく、個人的な憎悪のために平気で生贄にするような男ですからね。まったく! ぼくは、ほとんどシモンと同じくらい下司な男だと思いますな」
ディメールは真蒼になった。シモンもなにか言おうとしたが、裁判長が身振りで彼の口を封じた。フーキエが言った。
「市民ローラン、どうやらきみは、このいきさつをすっかり知っているらしいね。先を続けてくれないかな」
「失礼ですが、市民フーキエ」とローランが腰を浮かせながら言った。「ぼくは知っていることはすっかり話してしまいましたが」
と言ってお辞儀をして、再び腰を下した。
「市民ローラン」と検事が続けた。「裁判官に事実を明らかにするのは、きみの義務だよ」
「ぼくが今お話ししたことで、はっきりしたわけですがね。ところでこの哀れな女性のことですが、繰りかえして申しますが、彼女はただ暴力に屈しただけのことですよ……どうです! ひとつよくごらんになってください、この女《ひと》が陰謀に手を貸すように見えますか? この女のしたことは、脅かされて強引にやらされたんですよ。それだけです」
「きみはそう思うんだね?」
「確信しております」
「法の名によって」とフーキエが言った。「証人ローランは、裁判官の前において、この女性と共犯の容疑ありと認められるよう要請いたします」
モオリスはうめき声をあげた。
ジュヌヴィエーヴは両手で顔を覆った。
シモンは大喜びで叫び声をあげた。
「検事、あなたは祖国を救いましたよ!」
ローランはといえば、なにも答えずに、柵を乗り越えてジュヌヴィエーヴのそばへ行って坐った。そして彼女の手を執り、敬意をこめてその手に接吻した。そして法廷中を感動させるほどの冷静な態度で、
「今日は女市民。ごきげんはいかがですか?」と言うと、被告席に腰を下した。
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五十二 ローラン(続)
こうした光景はすべて、いつも手許から離さぬサーベルの束に寄りかかっていたモオリスには、まるで変幻きわまりないまぼろしのように過ぎていった。彼は、自分の友人がひとりまたひとりと深淵に落ち込むのを目のあたりにしたが、彼自身はその犠牲になっていないのだ。しかも、この死の幻影は激しく彼の心を打ち、彼は、この不幸なひとびとの仲間の自分が、なぜなおこの断崖の縁《ふち》にしがみついて、友人たちといっしょに眩暈《げんうん》に身を委せようとしないのかと、自問自答するのだった。
柵を乗り越えたときに、ローランは、ディメールの陰鬱な、嘲弄的な顔を見た。
すでに述べたように、ジュヌヴィエーヴのそばに坐ると、彼女はローランの耳に口を寄せて言った。
「アラ! モオリスがあそこにいるのをご存知ですの?」
「どこにいるんです?」
「すぐにごらんになってはいけませんわ。あなたがごらんになったりすると、あの方の命が危なくなりますわ」
「安心なさい」
「あたくしたちのうしろの、ドアのそばですわ。あたくしたちが死刑の宣告を受けたりしたら、あの方はどんなに苦しまれるでしょう!」
ローランは優しく同情の念をこめてこの女性を見つめた。
「ぼくらは、死刑でしょうね」と彼が言った。「誓ってもいいが、それはもう疑う余地はありませんよ。もしあなたが、不用意に希望でも抱いたら、落胆しますよ、それはあまり残酷ですからね」
「アア! 神さま! この地上にひとりお残りになるなんて、お気の毒な方!」
ローランはモオリスのほうを見た。ジュヌヴィエーヴはもう逆らいもせず、自分もチラリと青年のほうを眺めた。モオリスは二人をじっと見つめて、片手を胸に押し当てていた。
「あなたを救う方法があるんですがね」とローランが言った。
「確実に?」と喜びに目を輝かせてジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「もちろん! それはぼくが責任を負いますよ」
「もしあたくしを救ってくださったら、どんなにあなたに感謝するでしょう、ローラン!」
「ところが、その方法は……」と青年が言葉をついだ。
ジュヌヴィエーヴは、ローランの目の中にためらいを読み取って言った。
「じやあ、主人をごらんになったのね、あなたも?」
「そうです、彼を見ましたよ。あなたは、助かりたいと思いますか? もし、彼がこの鉄の椅子へ坐るようなことになれば、あなたの命は助かりますよ」
ディメールの顔が、最初、サッと蒼ざめたところを見ると、おそらく彼は、ローランの眼差しの中に、彼が口にした言葉の意味を覚ったのだろう。しかし間もなく、彼は再び、あの暗い落ちつきと、地獄のような微笑をとり戻した。ジュヌヴィエーヴが言った。
「それはできませんわ。おそらくあたくし、もうあのひとを憎むことはできないと思いますの」
「いいですか、彼のほうでは、あなたのそういう寛大な気持を知っているんですか? 彼はあなたのことなど、何とも思ってはいないですよ」
「おそらくそうですわね、だって主人は、自分にも、あたくしにも、あたくしたちみんな大丈夫だと自信満々なんですもの」
「ジュヌヴィエーヴ、ジュヌヴィエーヴ、ぼくはあなたみたいに完全無欠な人間じゃあないんです。彼も道連れにしてやりましょう、彼だって命はありませんよ」
「いけませんわ、ローラン、お願いですわ、どんなことでも主人と同じになるのはいやですの、たとえ、死でもごめんですわ。もし、ディメールといっしょに死ぬようなことになれば、あたくし、モオリスに不貞を働いたような気になるんですもの」
「でも、あなたは死なないでもすむんですよ、あなたはね」
「主人が死んで、あたくしだけ生きる法がございまして?」
「なるほどねえ!」とローランが言った。「モオリスがあなたに首ったけになったのも当然だ。あなたという方は、まったく天使ですよ、天使の住むところは天国しかない。モオリスも哀れな男だ!」
この間、シモンには、二人が喋っている内容は聞えなかったが、二人の話の中味など問題にせず、顔付だけジロジロと見つめていた。
「憲兵」と彼は言った。「あの陰謀をやめさせてくださいよ、やつらは、この革命裁判所の中でまで、共和国に対する陰謀を続けていますぜ」
「バカバカしい!」と憲兵が口をきった。「きみも知っての通り、市民シモン、こんなところで陰謀を企んだりできるものかね、それとも、たとえば計画したとしても永続きはしないよ。二人ともお喋りをしている、つまり、法律では、護送馬車の中でお喋りをしてはいけないと、禁じてはいないんだから、どうして法廷で喋ってはいけないんだ?」
この憲兵というのは、例のジルベールだった。彼は女王の牢獄で自分の手で補えた女囚人をよく知っていたし、彼の生まれつきの誠実さから、同情を寄せていたのである。彼とすれば、彼女の勇気から見ても、献身的な態度から見ても、りっぱだと認めないではいられなかったのだ。
裁判長は判事たちの意見を求め、フーキエ・タンヴィルの要請を認めたので、検事は訊問を始めた。
「被告ローラン、女市民ディメールときみとの関係はどういう性質のものかね?」
「どんな関係かと言うんですか、裁判長?」
「そうだ」
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「もっとも純なる友清が
二人の心をむすび|たり《ヽヽ》
彼女は兄と慕い、
われは彼女を妹として愛《いと》しみ|たりき《ヽヽヽ》」
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「市民ローラン」とフーキエ・タンヴィルが言った。「韻のふみ方がまずいね」
「どういうわけですか?」
「どうやら、|き《ヽ》という字がひとつ余計じゃないかな」
「切ってくださいよ、検事、どうぞ切ってください、切るのはあなたの商売ですからな」
フーキエ・タンヴィルの無感動な顔が、この刺《とげ》を含んだしゃれにチョッと蒼くなった。裁判長が訊ねた。
「市民ディメールだが、共和党員を標榜する男と自分の妻とのそんな関係を、どういう目で見ていたかね?」
「イヤどうも! それについちゃあ、ぼくには何とも言えませんな。前にもはっきり申しましたように、なにしろ市民ディメールはぜんぜん知りませんでしたし、ぼくのほうはそれですっかり満足していたんですからね」
「しかし」とフーキエ・タンヴィルがあとをひきとった。「市民モオリス・ランデイが、きみと被告の女との、そのいわゆる純粋な愛情とやらを結ぶ|ひも《ヽヽ》になっていたとは言えないかね?」
「ぼくがそれに返辞をしないのも、そんな卑劣なことを口にするのは、あまりりっぱだとは思えないからなんですよ。ぼくの見たところ、みなさんも、ぼくを見習ったほうがよろしいような気がしますな」
「陪審員諸君」とフーキエ・タンヴィルが言った。「ここに特権階級の女性がいる、この女性と二人の共和党員の奇妙な関係を考えてみましょう。しかも、その特権階級の女性が、国家に対して企てられた、もっとも陰険な陰謀に加担するよう説得された、その時点においてのはなしなんですから」
「検事、あなたがおっしゃるその陰謀うんぬんを、どうしてぼくが知っていたと言うんですか?」
ローランがこんなことを訊ねたのは、この乱暴な論告を恐れたというより、むしろ反抗してやろうという気持からだった。すると今度は裁判長が訊ねた。
「きみはこの女性を知っている。きみは彼女の友人であり、彼女を妹と呼び、彼女はきみを兄と呼んでおる、ところがきみは彼女の計画を知らなかったと言うのかね? きみが自分の口から言ったように、彼女が罪をなすりつけられたような陰謀を、彼女が独力で遂行するなど果してありうることと思うかね?」
「彼女は独力で計画遂行を図ったわけではありません」とローランは、裁判長が使った法律用語を使ってやりかえした。「彼女があなたに言ったように、ぼくも言い、そして再三繰りかえしたように、彼女は夫に強制されたんですよ」
「だったら、きみが相手の主人を知らんのはおかしいじゃないか」とフーキエ・タンヴィルが言った。「だって、夫というものは妻と一身同体じゃあないかね?」
こうなってはもう、ローランには、ディメールの最初の失踪の事情を語るより策《て》はなかった。ローランはジュヌヴィエーヴとモオリスの恋を打ち明けるよりほかはなかった。ローランは、夫が妻を連れ去り、とうてい踏み込めない隠れ家へ妻を隠してしまったことを知らせるよりほかはなかった。事件の瞬味な点を一掃して、共犯関係を釈明するためには、そうするよりほかに策《て》はなかったのだ。
「どうだね」と裁判長が訊ねた。「検事になんと答えるかね?」
「つまり、検事の論理は強引すぎますな。なんだかぼくは、自分でも考えてもみなかったことを認めてしまいそうな気がしますよ」
「というのは、どういうことかね?」
「それは、ぼくが今までに例のない、もっとも恐るべき陰謀家のひとりじゃあないか、ということです」
こんなことを宣言したので、法廷中はドッと笑い出した。この青年は、陪審員たちにも、いかにもなるほどと納得させるような調子でこの言葉を口にしたので、陪審員たちも我慢できずに笑い出した。
フーキエはこうした嘲弄をすっかり感じとった。しかし、彼の持ち前の疲れを知らぬ執拗さで、ようやく、二人の被告自身と同じほど、被告の秘密を知りつくすことができた。そうしてみると、検事にしてもローランという男に対して、同情を交じえた感嘆の情を禁じえない気持になり、こんなことを言った。
「サア、市民ローラン、話したまえ、みずから弁護をしたまえ。裁判官は耳を藉《か》してくれるよ。なんといっても、みなきみの過去はよく知っているし、きみの過去は勇敢な共和党員だったんだからね」
シモンがなにか言おうした。裁判長は彼に黙るように合図をして言った。
「話したまえ、市民ローラン。わたしたちはきみの言葉を聞いてあげるよ」
ローランが再び頭を振った。
「そうやって口を訊かないのは、自白のしるしと思ってもいいのかね」と裁判長が重ねて言った。
「ちがいます。この沈黙はただの沈黙です。それだけのことですよ」
「もう一度聞くが」とフーキエ・タンヴィルが言った。「話したくないのかね?」
ローランは、眼で、どうすべきかモオリスに訊ねようとして、傍聴席のほうを向いた。
モオリスが、ローランに、話せという合図をしなかったので、ローランは口を閉ざした。
これは、みずから死刑の宣告をしたことを意味する。
そしてその後に、矢継早やに死刑執行の宣告が下った。
フーキエが起訴状を要約した。裁判長が論点を要約した。陪審員たちが票決に行き、ローランとジュヌヴィエーヴの罪状に対して判決を下した。
裁判長は二人に死刑を宣告した。
裁判所の大時計が二時を打った。
裁判長は、時計が鳴るのとちょうど同じ時間をかけて、死刑宣告書を読み上げた。
時計の音と宣告書を読み上げるのと、二つの音が入り混じるのをモオリスは聞いていた。人声と鐘の音と、二重の響きが消えたときには、彼はまったく力つきていた。
憲兵たちが、ジュヌヴィエーヴと、彼女に腕を貸すローランを連れ去った。
二人とも、それぞれ違うやり方でモオリスに挨拶した。ローランは微笑した。ジュヌヴィエーヴは顔色を蒼ざめて打ち萎れ、涙に濡れた指で彼にキスを投げた。
彼女は最後の瞬間まで、生きる希望を抱いていた。彼女は涙を流したが、命を惜しむためではなく、命と共に消え果ててゆく愛を惜しむためだった。
半分狂気のようになったモオリスは、この友人たちの訣別にも答えなかった。彼は蒼白になって、呆然として、今までぐったり崩れ落ちていた椅子から立ち上がった。友人たちの姿はすでに見えなかった。
彼は、自分の中にただひとつのものが生きているのを感じた。それは彼の心をさいなむ憎悪の念であった。
彼は自分のまわりに最後の一瞥を投げ、ほかの傍聴人に混じって帰りかけ、廊下へ出るアーチ形のドアをくぐろうとして、体をかがめているディメールの姿を認めた。
はねかえるパネのような敏捷さで、モオリスは腰掛から腰掛を跳び越え、同じドアのところまでたどりついた。
ディメールは、すでにドアを越えていた。彼は回廊のうす暗がりの中へ降りていった。
モオリスも彼のあとから降りていった。
ディメールの足が、大ホールの敷石の上にかかったとき、モオリスの手がディメールの肩に触れた。
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五十三 決闘
この時代には、ひとに肩を触られるということは、つねに重大な意味をもっていた。
ディメールが振りかえると、そこにモオリスがいるのを認めた。
「ヤア! 今日は、共和党員君」とディメールは言ったが、その言葉には目に見えない恐怖以外の感情はなにも感じられなかった。もっとも、彼はすぐにその恐怖を押し殺してしまった。
「今日は、卑怯者め」とモオリスが答えた。「ぼくを待っていたんだろうな?」
「それどころか、もうあんたなんか待っているもんかね」
「それはどういう訳だ?」
「あんたを待っていたのは、ずっと前のはなしだ、っていうことさ」
「きさまにとっては、ぼくが来るのが早すぎたんだろう、人殺しめ!」とモオリスがつけ加えた。それは声というよりは、むしろひとを威圧する押し殺した囁きといったほうがいい。彼の眼差しが稲妻とすれば、それは彼の心に鬱積した|あらし《ヽヽヽ》の唸り声だった。
「あんたはあたしを、まるで火のような眼付で見つめているぜ、市民。あたしたちの正体がバレそうだし、後を尾行《つけ》られるぜ」
「そうだろうとも、きさまは逮捕されるのがこわいんだろうな? きさまが送り込んだ仲間みたいに、あの断頭台にしょっぴかれるのが恐ろしいんだな? ここで、オレたちも逮捕してもらえば、けっこうなはなしだ、今日の国民裁判には、罪人がひとり足りなかったように見えるからな」
「あんたの名前が消えて以来、勲功者名簿に名前がひとつ欠けてるのと同じようなもんだろう、どうだい?」
「まあいい! そのことはいずれあとで話そう。ところで、きさまはみごとに復讐をしたな、ひとりの女に、ずいぶんてひどい復讐をしたじゃあないか。どこかでオレを待っていたというくらいなら、オレの手からジュヌヴィエーヴを盗み出したあの日に、どうしてオレの家で待っていなかったんだ?」
「あたしの考えでは、最初にかっぱらったのはあんたのほうだったと思うんだがね」
「判ったようなことを言うな、きさまがそんな物判りのいい男だなんて一度も思ったことはないぞ。余計な口は訊かんほうがいいぞ、なにしろきさまは、口より手のほうが強い男だっていうことは、承知の上だ。きさまたちがオレを殺そうとしたあの日を見れば判るからな。あの日は、生まれつきの性格がそのままものを言ったわけだな」
「あの日、あんたを殺せと言ったのを聞いておけばよかったんだと、あたしは一度ならず非難されたものだよ」とディメールは静かに答えた。
「よし」とモオリスがサーベルをたたきながら言った。「今度はオレのほうが復讐する番だぞ」
「お願いだから、明日にしていただけないかね、今日はごめんこうむりたいね」
「どうして明日に伸ばすんだ?」
「でなければ今夜かだが」
「どうして今すぐではいけないんだ?」
「五時まで仕事があるんでね」
「またいやらしい計画を考えてるんだな。またなにか罠でもかけようっていうんだろう」
「イヤハヤ! まったく! ムッシュウ・モオリス。まったくのはなし、あんたというひとは、感謝するということを知らんのかね。どういうことだね! あたしはね、あんたとうちの女房に、六カ月ものあいだ、この上ない甘い恋の生活を味わわせておいてあげたんだよ。六カ月ものあいだ、あんた方のデイトを大目にみてやり、ほほ笑みの絶えないようにしてあげたんだよ。あんただって納得してくれるだろうが、あたしほど心優しい男なんてまたとあるもんじゃあないよ」
「きさまにとっては、オレが役に立ち、オレをうしろから操れる、と思ったからじゃあないか」
「おそらくおっしゃる通りですな!」とディメールが穏やかに言った。モオリスが激昂すればするほど、彼は落ち着いているように見えた。「おそらくその通りですな! 一方そのあいだに、あなたは共和国を裏切り、あたしの家内の眼差しひとつで、共和国を売ったというわけですよ。あんたが、あんたの裏切りから、家内は家内で姦通によって、自分の顔に泥を塗っているあいだに、あたしのほうは、賢明に身を処して、ヒーローになった、というところですかな。あたしはじっと待ち、そして勝利をわが手に収めたんですよ」
「なんて恐ろしいやつだ!」
「さよう! いかがですかな? ひとつあんたの行状も考えてみては、ムッシュウ。あんたのやり方も恐ろしいもんですぜ! 卑怯なもんですぜ!」
「きさまは間違っている。オレが恐ろしいと言い、卑怯だと呼んだのは、ひとりの女性の名誉について責任を負い、その名誉をりっぱに傷つかぬようにと誓っておきながら、その誓いを守る代りに、その女性の美しさを、恥ずかしい餌にして、弱い心をひっかけようとした男のやり方のことを言っているんだ。きさまというやつはな、なによりも先ず、この女性を守ってやる神聖な義務を忘れて、この女性を売ったんじゃあないか」
「あたしがしなければならなかったのはね、ムッシュウ、これからとっくりと聞かせてあげよう。あたしはね、あたしといっしょに神聖な主義に打ち込んでいる友人を援助してやらなければならなかったのさ。あたしはね、この主義に、自分の財産も、自分の名誉さえも犠牲にしてしまったんだよ。あたしはといえば、まったく忘れられてしまったし、まったく影がうすかったんだよ。これが最後というときになって、ようやく自分のことを考えたのさ。今では、もう友人もいない。友人は短剣で死んでしまった。今では、もう女王もいない。あたしの女王はギロチンの上で亡くなられた。で、今こそ、今こそ復響のことを考えているんだ」
「いや、人殺しと言え」
「姦婦を撲って殺すことはない、罰を下してやるんだ」
「その姦通にしたところが、きさまが彼女に強制したんじゃあないか、それならりっぱに合法的だぞ」
「そう思うかね?」とディメールが陰惨な微笑を浮かべながら言った。「彼女《あれ》が合法的な生活をしたかどうか、彼女《あれ》の良心に訊ねてみるんだな」
「ひとを罰する者は、白昼公然と打つ、というじゃあないか。ところがきさまは、ひとを罰するんじゃあない。彼女の首をギロチンに投げつけておきながら、自分はコソコソ隠れていようというんだからな」
「あたしが、あたしが逃げるっていうのか! コソコソ隠れるというのか! あんたみたいな貧弱な頭では、その意味は分らんだろうな? 家内の死刑の宣告に立ち合うのを、コソコソ隠れるっていうつもりか? 死刑囚の部屋まで、最後の別れを言いにゆくのを、逃げると言うのかい?」
「もう一度彼女に会いにゆくのか? 彼女に別れを言いに行くのか?」
「なるほどね」とディメールが肩をそびやかしながら言った。「まったく、あんたは復讐ということにかけては、まるっきり|とうしろ《ヽヽヽヽ》だね、市民モオリス。そうしてみると、あんたがぼくだったら、事件は向うさまの力に委せ、なりゆきをただ指をくわえて見ているだけで満足するだろうがね。そうとすれば、例えばだ、その罪万死に値する姦婦が、あたしが死をもって罰してやるとき、あたしは彼女から離れる、というよりは女のほうであたしから離れてゆけば、それで万事オーケーになるわけかね。ところが違うんだ、市民モオリス、あたしはね、もっとうまいことを考えたのさ。あたしはね、あの女があたしに味わわせた苦痛を、そっくりそのまま返す方法を思いついたんだよ。彼女《あれ》はあんたに首ったけだ、ところがあんたと離れ離れで死ななければならん。彼女《あれ》はあたしを大嫌いだ、ところがあたしの顔をもう一度拝むという寸法さ」
ディメールはポケットから紙入れを出しながら、さらにつけ加えた。
「サア、この紙入れがわかるかね? この紙入れには裁判所の書記がサインした証明書が入っているんだよ。この証明書があれば、あたしは死刑囚のそばまで入れるんでね。どうだい、あたしはね、ジュヌヴィエーヴのそばまで行って、あいつのことを姦婦呼ばわりしてやれるのさ。首斬り役人の手で髪を切られるところも見物できるし、髪の毛を切られているあいだにも、あいつは『姦婦め!』と繰り返す言葉を耳にするのさ。あたしはね、護送馬車にもいっしょに乗って行ってやるつもりさ、あいつがギロチンに足をかけたときに、最後に耳にする言葉は、『姦婦め!』という言葉になるってな具合だよ」
「慎重にやるがいい! 彼女は、そんな卑劣なやり方を我慢しきれなくなって、きっときさまを告発するようになるぞ」
「いやいや! あいつはあたしが芯から嫌いだから、そんなことはできんね。もしあたしを告発するんなら、あのローランが小声であいつと相談していたあの時に告発しているはずだよ。自分の命が助かる瀬戸際にもあたしを告発しなかったくらいだから、告発してこのあたしといっしょに死のうなんて思うもんかね。なんといっても、あいつはよくご存知だからね、というのは、もしあたしを告発なんぞしようもんなら、あいつの処刑は一日日延べになるということをね。もし告発なんぞしようもんなら、あたしはあいつといっしょに、裁判所の階段の下までどころか、ギロチンまでも道行きをしなけりゃあならんってことをね。護送馬車の踏台の下でお別れする代りに、馬車の中までご同伴で、道行きのあいだ中、あたしがあのおそろしい言葉、『姦婦め! 姦婦め!』と繰り返すだろうってね。ギロチンの上まで上がっても相変らずこの言葉を繰り返し、あいつが未来永劫の淵に落ちるまで、あいつの上にこの非難の言葉を浴びせられることぐらい、百も承知しているからね」
ディメールは怒りと憎悪のために、ゾッとするような顔付になった。先刻から彼の手はモオリスの手を握りしめ、青年には思いがけないほどの力でふり回したので、おかげで結果はまったく逆になってしまった。ディメールが昂奮すればするほど、モオリスのほうは冷静になってきた。モオリスが言った。
「よく聞けよ、そうやって仇を討とうといっても、足りないものがひとつあるぞ」
「なにが足りないんだ?」
「きさまがな、彼女にこう言ってやれないことだ。『裁判所を出会いがしらに、あたしはお前の恋人に出会ってな、あいつを殺《ば》らしてやったよ』とな」
「お生憎さまだが、反対でね、あたしはね、あんたがまだ生きている、と言うほうがいいんだよ、そうしてね、あんたの生涯の残りを、あいつがギロチンにかかる見世物を見て苦しみ悩んで過ごすだろう、と言ってやったほうがね」
「ところがきさまはオレを殺すことになりそうだぞ」
こう言って、モオリスは周囲を見回して、自分のほうがほとんど優勢な立場にいることを見極めてから、さらにつけ加えた。
「そうでなければ、オレがきさまを殺すからな」
そして感動のために蒼白になり、憤怒に昂奮して、ディメールが恐ろしい計画を最後まで喋りつくすのを聞くために、自分の気持を抑えていたので、力が倍加するのを感じていた。モオリスは相手の|のど《ヽヽ》を掴み、セーヌの土手に通じている階段のほうへ後退しながら、グイグイと彼を引っぱっていった。
モオリスの手で掴まれると、今度はディメールも、体の中に憎悪が溶岩のように湧き上がってくるのを感じた。
「よし」と彼が言った。「そんなに力を入れて引っぱらなくてもいいぞ、こちらから行くからな」
「きさまも武器を持ってるんだから、来い」
「お前のうしろから行こう」
「だめだ、オレの前を歩け。ただよく言っておくがな、ちょっとでも変な合図をしたり、妙な身振りでもしたら、サーベルをお見舞いして、きさまの首をふっとばしてやるぞ」
「なにを言うんだ! こちらがこわがっていないのはお前だって知ってるだろう」とディメールが微笑しながら言った。その唇の白さは、身の毛もよだつように見えた。
「なるほど、オレのサーベルはこわくはないだろう」とモオリスが呟いた。「ただ、きさまの復讐の計画が|おじゃん《ヽヽヽヽ》になるのがこわいんだろう。ところが今日、オレたちは一対一だ、あの計画にも別れを告げたほうがいいな」
とうとう、二人は水辺《みずべ》まで着いた。たとえ、まだだれかが、二人がどこへ行くか目で追っていたところで、だれも、これから幕が切って落とされる決闘を妨害するだけの時間はなかったにちがいない。
もちろん、二人の男は同じような憤怒に襲われていた。
こんなやりとりをしながら、二人は裁判所広場に通じている低い階段を降りていた。二人はほとんど人気のない河岸にさしかかった。もうほとんど二時だというのに、相変らず裁判は続けられていたので、裁判所の構内にも、回廊にも、中庭にもまだ群衆が溢れていた。モオリスがディメールの血に飢えていたと同様に、ディメールもまたモオリスの血に飢えているように見えた。
そのとき、二人は、ラ・コンシエルジュリーの監房からセーヌ河まで続いている円天井の下へ入り込んだ。ここは現在でこそ悪臭の漂う下水道だが、その昔は血腥いところで、一度ならず地下牢から遠いところまで、屍体を押し流したものである。
モオリスは水の流れとディメールのあいだで身構えた。ディメールが言った。
「どうやら、お前をやっつけるのはこのあたりらしいな。お前みたいに震えていたんじゃあろくなことはできないぜ」
モオリスはサーベルに手をかけて、用心深く相手の退路を断ちながら言った。
「ところがオレの考えではその逆だな、ディメール。きさまをやっつけるのはオレのほうで、殺したら、きさまの紙入れの中から裁判所の書記室の通行証をいただくことにするからな。イヤイヤ! 今ごろ服のボタンをかけてもむだというもんだ。いいか、オレは保証するが、たとえその服が、古代の鎧みたいに頑丈にできていたとしても、オレのサーベルが切り開いてみせるからな」
「この証明書を、お前はこれをとろうというのか?」とディメールがわめいた。
「そうとも、この証明書を使うのは、このオレなんだ。この証明書でジュヌヴィエーヴのそばまで入るのはオレなんだ。護送馬車の上で彼女のそばに坐るのはオレのほうだ。彼女が生きている限り、彼女の耳もとで、『|ぼくはきみが好きだ《ジュ・テーム》』と呟くのはオレなんだ。そして彼女の首が落ちるときには、『|きみを愛していた《ジュ・テーメ》』と囁いてやるんだ」
ディメールは、証明書を掴んで、紙入れといっしょに川へ投げ込もうとして左手をちょっと動かした。しかし稲妻のように素早い、そして斧のように磨きすましたモオリスのサーベルが彼の手の上におそいかかり、ほとんど手首から切り落としてしまった。
傷を受けたディメールは、切り放された手をブラブラさせながら大声で叫び声をあげ、守備の体勢をととのえた。
こうして、人目につかぬ、暗黒の円天井の下で恐るべき死闘が始まった。二人の男はごく狭い空間に閉じ込められていたので、二人の体は、いわば攻撃体勢の距離をとることもできず、湿った敷石の上で足を滑らせ、下水道の壁にやっと身をささえるという状態だった。二人の闘士の気持は逸《はや》りに逸っていたので、攻撃は多彩をきわめた。
ディメールは血が流れ去るのを感じ、血が流れるとともに全身の力が萎えてゆくのが分った。彼はものすごい勢いでモオリスに突進したので、さすがのモオリスも一歩後退しなければならなかった。うしろへ退りながら、左足が滑り、そのひょうしに敵のディメールのサーベルの先がモオリスの胸を傷つけた。ひらめくような素早い動作だった。モオリスが膝をつきながら左手で刃を突き上げたので、怒りにまかせて跳びかかり、傾斜した地面の上をはずみをつけてとんできたディメールの胸を突き刺し、ディメールはサーベルの上へ倒れるようにして、みずから敵の刃に刺されるかたちになった。
恐ろしい呪いの声が聞え、それから二つの体が円天井の外まで転がり出た。
ただひとつの影が立ち上がった。モオリスだった。血にまみれた、敵の血にまみれたモオリスだった。
彼は相手の体からサーベルを抜いた。そして、サーベルを抜くに従って、まだディメールの四肢をピクピク痙攣させていた彼の残りの生命が、最後の息を焼刃《やいば》に伝えてくるような気がした。
それから、相手が死んだことを確かめてから、屍体の上にかがみ込み、死者の服を広げて例の紙入れを取り上げると、大急ぎで立ち去った。
自分の体を眺めてみて、このままでは街を四歩も歩かないうちに逮捕されてしまいそうだと思った。彼の体は血まみれだったのだ。
彼は水辺に近寄ると、川のほうに身をかがめて、手と服を洗った。それが終ると、あの円天井のほうに最後の一瞥を投げかけてから、急いで階段を昇っていった。
赤い煙のような血が糸のように円天井から流れ出て、小川をなして川のほうへ動いていた。裁判所の傍まで来て紙入れを開いてみると、裁判所の書記の署名のある通行証が見つかった。
「ありがたい、天の助けだ!」と彼は呟いた。
彼は大急ぎで、死刑囚の部屋に通じている階段を昇っていった。
三時の鐘が鳴っていた。
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五十四 死刑囚の部屋
さて読者は、裁判所の書記が囚人名簿をディメールに公開し、ディメールの細君まで交じえてずいぶん気分よく交際を続けていたことを思い出されるだろう。
読者もお考えになるように、ディメールの陰謀が暴露されたとなると、この男は大恐慌におち入った。
事実、彼にとっては、この偽の書記仲間と共犯と思われるのは、当然問題にならないはずはないし、ジュヌヴィエーヴといっしょに死刑を宣告されかねまじきところだった。
フーキエ・タンヴィルがこの男を自分のところへ召喚した。
この哀れな男が、この検事の目の前で無罪の証しを立てるのに、どんなに大骨を折ったかは諸君にもお察しがつくだろう。自分の夫の陰謀とは、彼は無関係だということを立証してくれたジュヌヴィエーヴのおかげで、とにかくそれは成功した。ディメールが逃亡したおかげもあった。そしてとりわけ、自分の職務管理について一点の汚点もつけたくないという、フーキエ・タンヴィルの利害が大きくものを言った。書記は検事の膝に身を投げかけて言った。
「市民、わたしをお許しください、わたしは欺されていたんです」
「市民」と検事が答えた。「国家の官吏たる者は、こうした時代に、ひとに欺されるだけでも、ギロチンにかけられる値打じゅうぶんだよ」
「でも、人間も畜生のようにバカになることもございます、市民」と書記は言ったが、彼にすれば、フーキエ・タンヴィルのことをお殿様と呼びたいほどだった。
厳格な検事があとを引きとった。
「畜生だろうが何だろうが、いかなる者も共和国に対する愛情を眠らせるなどとはもってのほかだよ。カピトールの神殿の鵞鳥も畜生にはちがいない、ところが祖国ローマを救うためには目をさましたではないか」(古代ローマでは鵞鳥はユーノーに捧げられ、カピトール神殿に閉じこめられていた。あるとき、ゴール人の夜襲があるとこの鵞鳥どもが騒々しい鳴き声をあげてローマの危機を救った故事を言う)
こうした議論に対して、書記は一言も反駁することができなかった。彼は苦痛のうめき声をあげて結果を待った。
「きみを許してあげよう」とフーキエが言った。「そればかりかきみを守ってやるよ、自分の部下が嫌疑を受けるなんて、ごめんこうむりたいからね。ただよく思い出してもらいたいのは、わたしの耳にどんな小さな噂が入っても、この事件についてどんな問題がぶり返しても、きみはただではすまないからね」
この書記がどれほど熱心にどれほど気を遣って、知っていることを、ときには知らないことまで、大急ぎで新聞に知らせにいったかは、改めて断るまでもあるまい。たとえそのために十人の首がギロチン台上で落ちようが彼は気にかけなかっただろう。
彼はあちらこちらディメールの姿を探し回って、口止めをしておこうとした。ところが当然のはなしだが、ディメールはとっくに住所を変えていたので見つけ出すことはできなかった。
ジュヌヴィエーヴが被告席に引き出された。しかし、彼女は予審ですでに、自分も夫も、この書記とはまったく共犯関係にない、と表明していた。
だから、再び法廷へ連れ戻されて、ジュヌヴィエーヴが彼の前を通ったときには、彼はこの哀れな女性にどれほど感謝の眼差しを送ったことだったろう!
ただ彼女が前を通り過ぎ、フーキエ・タンヴィルが要請した調書をとりに、ちょっと書記室へ戻ったときに、とつぜんディメールの姿が現われ、落ち着いた、静かな足どりで自分のほうへ歩いてくるのを見たのである。
この光景に、彼は化石のようになった。
「アア!」と、まるで幽霊でも見たのじゃないか、と思われるような調子で、彼が叫んだ。
「あんたにはあたしが判らないのかね?」と新来の相手が訊ねた。
「判りますとも。市民デュラン、いやいや、市民ディメールですね」
「その通りさ」
「でも、あなたは死んだんでしょう、市民?」
「ごらんの通り、まだまだピンピンしてるよ」
「そんなことをしてると逮捕される、と言ってるんですよ」
「いったいだれが逮捕するんだい? だれひとりあたしを知らないんだよ」
「でも、わたしが知ってますよ、わたしが一言言っただけで、あんたはギロチン行きですぜ」
「なるほど、だがあたしだって、二言三言言っただけで、あたしといっしょにあんたをギロチンヘ引っぱってゆけるんだよ」
「あんたってひとは、なんて嫌味なことを言うんだ!」
「いやいや、これはすこぶる論理的だよ」
「でもいったい何の用事なんです? サア、話してくださいよ! 二人のはなしを切り上げるのが早ければ、二人とも危い目をみなくてもすむんですから、とにかく急いでくださいよ」
「こういうはなしさ。あたしの家内は死刑の宣告を受けたね?」
「まったくゾッとしますね! 気の毒な女《ひと》だ!」
「それはいいが、あたしは最後にもう一度|彼女《あれ》に会ってやりたいんだよ、お別れを言おうと思ってね」
「どこでです?」
「死刑囚の部屋でさ!」
「わざわざあそこまで入ろうっていうんですかい!」
「どうしていけないんだね?」
「なんてことを!」と書記が言った。もともとそんなことを考えただけで、ゾッとするような男なのである。
「なんとか中へ入る方法はあると思うがね?」とディメールが続けた。
「死刑囚の部屋へ入る方法ですか? おそらくなんとかなるでしょうね」
「どうやればいいんだね?」
「証明書を手に入れることでさあ」
「その証明書とやらは、どこへ行ったら手に入るのかね?」
書記が恐ろしいほど蒼白になって、モグモグと口ごもった。
「その証明書を、どこで手に入れたらいいか、とお訊ねなんですか?」
「どこで手に入れられるのか訊いてるのさ。質問はしごくはっきりしてると思うがね」
「手に入れられるのは……ここなんですよ」
「ははん! なるほどね。ところで、ふつう証明書にはだれがサインするのかね?」
「書記ですよ」
「でも、書記といったら、きみだろう」
「たしかにわたしですがね」
「まったく、お誂えむきのはなしじゃあないか!」とディメールが腰を下しながら言った。「証明書一枚、サインしてくれるね」
書記がとび上がった。
「あんたは、わたしの首が欲しいと言ってるんですよ」
「ところが、ちがうんだよ! 証明書が一枚欲しい、それだけのことさ」
「ちきしょう、あんたを逮捕させてやるぞ!」と書記は、体中のエネルギーをふるい起こして言った。
「やってみろよ。だけどね、そのとたんに、あたしもあんたを共犯者として告発してやるよ、そうすれば、例の名高い部屋へあたしひとりで行くかわりに、あんたも道連れということになるね」
書記の顔色は蒼白だった。
「アア! 悪党め!」
「なあに、あの部屋の中にゃあ、悪党はいないよ。あたしは家内に話さなければならんことがあってね、家内のところまで行きたいんで、証明書を一枚欲しいと言ってるのさ」
「それじゃあ、どうしてもあんたは、奥さんにはなしがあるっていうんですか?」
「どうやらそうらしいな、なにしろあそこへ行くまでに、あたしはこの首を賭けてるくらいだからね」
理由を聞いてみると、書記には、いかにももっともらしく思えた。ディメールは相手の心が動揺しているのを見抜いた。
「マアマア、安心したまえ、だれにも判るもんかね。どうってことはないよ。あたしのような男にゃあ、こんなケースもままあることでね」
「そう度々はありませんよ。こんなえらいことがそうあってたまるかね」
「それじゃあ、気の毒なことになるぜ! あたしたちは、二人ともお縄をちょうだいってわけになるがね」
「いいですよ、どうです、べつのやり方で手を打ちませんか」
「ほかのやり方でもできるというんならね、こっちはそれ以上要求はしていないんだ」
「べつにできないわけでもないんですよ。死刑を宣告された連中が入るドアから入るんですよ。このドアからなら、べつに証明書も要らないわけですからね。で、あんたが奥さんとのはなしがすんだら、わたしを呼んでくれれば、わたしがあんたを出してあげるっていう寸法ですよ」
「なるほど悪くない。ただ具合の悪いことには、こんな噂が町に流れているんだけれどね」
「どんな噂です?」
「哀れな哀れな|せむし《ヽヽヽ》男の物語さ。この男、ドアを間違えて、自分じゃあ古文書館へ入るつもりだったところ、いまあたしたちが話題にしている部屋へ入っちまったという始末さ。ただ、表門から入る代りに、死刑囚用のドアから入っただけのはなしなんだがね。なにしろ自分の身分を証明する証明書がなかったのが運のツキでね、一度入っちまったらなんと言っても出してくれないというわけだ。ほかの死刑囚と同じ門から入ったんだからっていう調子で、ほかのやつらと同じ死刑囚にちがいない、というわけさ。男は反対したり、誓ったり、ひとを呼んだりしたが、それも何の役に立たず、ひとりとして信じてくれるものもなく、助けに来るものも、この男を外へ出してくれるものもない始末だよ。ま、そんなあんばいで、いくら反対しても、誓っても、叫んでもどうにもならず、死刑執行人が先ず彼の髪の毛を切りにきて、その次は本番で首を切っちまったんだ。このはなしはほんとのことかね、え、書記先生? あんたならだれよりもよくご存知のはずだけれど」
「残念なことだけれど、たしかに本当のことですよ!」と書記はすっかり震え上がって言った。
「どうだい、こんな先例があるくらいだから、そんな危い橋を渡るなんて気が触れてると思わないかね」
「でも言ったでしょう、わたしがそこに控えてるんですぜ!」
「で、もしあんたがどこかへ呼ばれていたら、よそに仕事でもできたら、もしあんたが忘れたらどうなるね?」
ディメールは情け容赦のない調子で、最後の言葉を強く発音した。
「もし、あんたがそこに控えているのを忘れたらどうなるね?」
「だってわたしは約束してるから……」
「だめだ。だいいち、あんただって巻き添えをくうかも知れないよ。なにしろ、みんなあんたがあたしと喋ってる現場を見てるんだからね。そうしてみると、あたしにゃあ都合がよくないね。だから、証明書一枚もらったほうがいいね」
「そんなことはできませんよ」
「それなら、ねえ親友、あたしはひとつ吹聴して歩きますかな、そこであんたもあたしも、伸良く革命広場をひと回りしてさらし者になるわけだ」
書記は酔ったようになり、呆然として、半死半生のていで、とうとう「市民《ヽヽ》」の通行証にサインしたわけである。
ディメールはその上にとびかかり、急いで部屋を出ると、裁判所構内の、すでに読者がごらんになったあの場所へ出かけた。
その後のことはご存じの通りである。
この事件があってからというもの、共犯の非難など|つゆ《ヽヽ》ほども受けないようにと、書記は、自分の第一の部下に書記室の管理を委せて、フーキエ・タンヴィルのそばに控えていた。
三時十分に、通行証を手に入れたモオリスは、覗き戸の番人や憲兵たちがひしめく人垣を通り抜けて、つつがなく|運命の門《ヽヽヽヽ》にたどりついた。
門といっても実は、二つあったのだから、運命の、という言葉を使ったのは大袈裟かもしれない。ひとつは正門で、ここからは通行証を持った者が出入りする。もうひとつは死刑囚用の専用門で、ここから入った者は、断頭台へ足を運ぶときしか出られない。
いまモオリスが入った部屋は、二つの小部屋に別れていた。
この小部屋の片方には、到着者の氏名を記入する役人が控えていて、もう一方の、ただ数脚の木のベンチだけが置いてある小部屋には、逮捕されたばかりの者と、いま死刑を宣告されてきた者がいっしょに入れられていた。もっともそうはいっても、どちらもほとんど同じようなものであったが。
部屋は薄暗かった。ただひとつ、書記室に接した壁に空けたガラス窓から明りが差し込んでくるだけだった。
白い服を着たひとりの女が、半分失神状態で、隅のほうの壁にもたれて横になっていた。
ひとりの男が彼女の前につっ立っていた。両腕を組み、ときどき頭を振って、彼女に話しかけようとしては躊躇していたが、その様子は、彼女がすでに失ったようにみえる感情を呼び戻すのを恐れてでもいるようだった。
この二人の人物のまわりに、すすり泣きをしたり、愛国的な歌を歌っている囚人たちがぼんやりと見えた。
ほかの連中は、まるで自分たちの心を悩ませている考えから逃げ出すかのように、大股で歩き回っていた。
これこそまさに死の控え室であり、その部屋の飾りつけが、その名前にふさわしいものにしていた。
まるで、生きている者を呼び寄せるかのように、半ば蓋を開いた、藁のつまった棺桶が見えた。これこそ休息のベッドであり、仮の宿りの墓場であった。
大きな箪笥が、ガラス窓と向かい合った壁にとりつけられていた。
物珍しさにつられて中を開いた囚人は、恐ろしさに思わず後退りしたものだった。
この箪笥には前日の処刑者の血まみれの服が蔵ってあり、長い髪の毛の束があちこちにブラ下がっていた。政府が、この貴重な遺物を燃やすように厳命しない限りは、これを処刑囚の親戚たちに売り渡すのが、首斬り役人の内職になっていた。
モオリスはわれを忘れて、心をときめかし、ドアを開けるか開けないうちに、部屋の全景を一瞥した。
彼は部屋の中を三歩ほど歩き、ジュヌヴィエーヴの足許に身を投げかけた。
この哀れな女性が叫び声をあげたので、モオリスが相手の唇をふさいだ。
ローランが泣きながら、友人を腕に抱きしめた。この男が涙を流したのは、おそらくこれが始めてのことだったにちがいない。
まったく奇妙なはなしだ! いっしょに死んでゆくはずのこれらの不幸なひとびとはみんな、自分たちに似た、この不幸な三人が見せてくれた、心を打つような光景をほとんど眺めようともしなかった。
ひとりひとり、自分の胸にあまりに大きな感動を抱いていたので、他人の感動を分ち合おうという気にならないのである。
三人の友は、黙って、激しく、ほとんど歓喜にみちた様子で、しばらく固く抱き合っていた。
悩ましげなグループから、最初に身をひいたのはローランだった。
「きみも死刑を宣告されたのかい?」とモオリスが言った。
「そうなんだ」
「アア! なんていうしあわせでしょう」とジュヌヴィエーヴが呟いた。
一時間しか生きられないひとの喜びが、彼らの生命と同じくらい続くはずがない。
モオリスは、心に抱いている激しい、そして深い愛情をこめてジュヌヴィエーヴを見つめてから、いま彼女の口から洩れた、じつに利己的な、同時にまたじつに優しいこの言葉に感謝して、ローランのほうを向いた。
ジュヌヴィエーヴの両手を手に握ったまま彼が言った。
「さあて、これからはなしがあるんだ」
「なるほど! いいとも、聞こうじゃあないか」とローランが言った。「ただその時間があったとしても、きっとギリギリだぜ。ところで、何を話したいんだい?」
「きみはね、なにひとつ法を犯さなかったのに、オレのおかげで逮捕され、この女《ひと》のおかげで死刑の宣告を受けたわけだ。なるほど、ジュヌヴィエーヴとぼくは、自分の借りを払うのは当然だが、ぼくらといっしょに、きみにまで払わせるのは不都合きわまりないよ」
「オレには意味が分らんな」
「ローラン、きみは自由の身なんだよ」
「自由だって、オレが? きみは気が狂ったのか!」
「いや、気なんか違っちゃあいないよ。繰りかえしていうが、きみは自由なんだよ。サア、ここに通行許可証がある。きみは何者だって訊ねられるにちがいないが、きみはレ・カルムの書記室に勤務していることになってる。きみは裁判所の書記にはなしがあってきたんだ。ところが好奇心から、死刑囚を見物したくなって、通行許可証を頼んだんだ。そこできみは死刑囚を見物し、すっかりいい気持になって帰るっていう寸法だよ」
「冗談だろう!」
「冗談じゃあないんだよきみ、さあ、ここに証明書がある。これをうまく利用したまえ、きみはべつにこの女《ひと》に恋をしてはいない。なにも死ぬ必要はないんだよ。きみの心の恋人といっしょに、一分でも余計に生きるんだ、きみの未来を一秒たりとも無駄にしてはいけないよ」
「なるほど! だけどな、モオリス、オレはふしぎに思うんだが、ここから出られるんなら、どうして先ずマダムを救ってやろうとしないんだい? きみのために言ってるんだぜ」
「それはできない」とモオリスは言ったが、心をギュッと締めつけられる思いがした。「見てみろよ、証明書には『市民』と書いてあるが、『女市民』とは書いてないんだ。もちろん、ジュヌヴィエーヴにしたって、きっとぼくをここへ残して出てゆこうとは思わないだろうし、ぼくが死ぬのを知りながら、自分だけ生きようとも思わないよ」
「で、この女《ひと》がそう思わないというのはいいとして、どうしてオレが望むと思うんだね? じゃあきみは、オレが女よりも意気地なしだと思ってるのか?」
「とんでもないよ、きみ、それどころか、きみは男のなかでもいちばん勇敢だ、ということはよく知ってるよ。とにかくこんな場合だから、きみがいかに昂奮したところで当り前のことだがね。さあ、ローラン、時間をむだにしないで、きみが自由で、しあわせになれた姿を見せて、ぼくたちを大いに喜ばせてくれよ」
「しあわせだって! 冗談を言ってるのか? きみがいないで、しあわせになれるかい、ちきしょう、きみのいないパリで、つきあう相手もなく、この世でいったい、オレはどうすればいいんだ? もうきみに会えなくなったら、オレの韻を踏んだ詩でゲッソリさせる相手のきみがいなくなったら、オレはどうすりゃあいいんだ? とんでもない、だめだよ、このはなしは!」
「なあ、きみ、ローラン!……」
「オレがこう主張して譲らないのは、オレがきみの友だちだからだよ。きみたち二人に再会できる見込みがあってこそ、たとえ今のように囚われの身になっても、城壁ぐらいはぶっ倒してやろうという気にもなるんだ。ところが、ひとりでここから逃げ出したり、絶えず、なにか後悔のようなものが、耳許で、『モオリス! ジュヌヴィエーヴ!』と叫んでいて、首を垂れて街中をほっつき歩いたり、どこかの界隈を歩きながら、きみに似ているが、もうただのきみの影でしかないような人物に会うような家の前を通ったり、オレがこんなに愛しているパリまで、とうとう憎悪するようになったりするのはごめんだね。そうなったら、オレもみんなが王様どもを追放したのももっともだと思うよ、それも、ダゴベール王のおかげでしかないかも知れんがね」
「ぼくらのあいだの事件とダゴベール王とのあいだに、いったいどんな関係があるんだい?」
「どんな関係があるって? あの恐ろしい王様は、大エロワ(ダゴベール王の忠臣。童謡「グゴベール王」に登場す)にこんなことを言わなかったかね?『あいつはりっぱな仲間じゃわい、どうして離れられようぞ?』とね。ところがオレは共和党員だ! だからオレならこう言うね。『オレたちゃ仲間だ、なにがあろうと別にゃあなれぬ、たとえ相手がギロチンでも』とね。とにかくオレはここが居心地がいいのさ、だからここへ残るよ」
「気の毒な男だ! 気の毒な男だ!」とモオリスが言った。
ジュヌヴィエーヴは一言も口を訊かなかったが、涙にぬれた眼差しでローランを見つめていた。
「きみは命が惜しいんだな、きみは!」とローランが言った。
「そう、彼女のためにな!」
「ところがオレには、命を惜しいと思う相手が何にもないのさ。理性の女神のためにさえ、惜しいとは思わんよ――そう言えば、きみに事情を話すのを忘れていたな――あの女はね、最後にオレにずいぶんひどい仕打ちをしたんだよ、そんなくらいだから、古代のもうひとりのアルテミーズ(前四世紀の小アジア王アリカルナッスの妃。夫君の死後悲嘆のあまり、有名な墓を造る)のように、気を落とす心配すらないくらいだよ。だからオレはね、しごく平静な、ふざけた気分で死ねるんだよ。護送馬車を追っかけてくるならず者どもをしゃれのめしてやるぜ、あのムッシュウ・サンソンにもみごとな四行詩を作ってやるし、中隊の連中におやすみなさい、と挨拶してやらあね……つまりだ……いや、ちょっと待てよ」
ローランが言葉を切った。
「アア! そうだ、そうだ、そうだった、オレは外へ出たいな。オレはだれも愛していないことは百も承知だったが、ある野郎が憎らしくてしかたがなかったのを忘れていたよ。時計は、モオリス、時計は!」
「三時半だよ」
「まだ時間はあるぞ、ありがたい! まだ時間はあるな」
「もちろんだよ」とモオリスが叫んだ。「今日はまだ九人も被告が残っているんだよ、九時までには終りそうにもないぜ。まだぼくたちには二時間ばかり暇があるよ」
「それだけあればじゅうぶんだ。きみの証明書をくれ、それに二十スウばかり貸してくれないか」
「アア! なにしにいらっしゃるんですの?」とジュヌヴイエーヴが呟いた。
モオリスは彼の手を握りしめた。彼にとって今重大なことは、ローランが外へ出てくれることだったのだ。
「オレには考えがあるんだ」とローランが言った。
モオリスはポケットから財布を出して、友人の手に渡した。
「今度は証明書だ。神の愛にかけて、と言いたいところだが、|永遠の存在《ヽヽヽヽヽ》への愛にかけてと言っておこう」
モオリスは彼に証明書を渡した。
ローランがジュヌヴィエーヴの手に接吻した。そして、ちょうど書記室に、一団の死刑囚たちが連行されてきた機会を利用して、木の椅子を跨いで、正門へ出た。と、ひとりの憲兵が叫んだ。
「ヤア! なんだか、脱走したやつがひとりいたようだったぞ」
ローランが昂然と頭を上げて、証明書を見せた。
「見ろよ、憲兵さん、もっとよく人間を見分ける方法を勉強しなきゃあいかんね」
憲兵には、それが例の書記のサインだと判ったが、あいにく、彼は、一般に何も信用しない、役人によくあるタイプの人間だったし、また、ちょうどそこへ、例の書記が法廷から降りてきた。この書記は、あんな不用意に自分のサインをしてしまってから、たえずビクビクしていたのである。そこで憲兵が言った。
「書記さん、ここにある証明書ですがね、これを持ってる人間が、死刑囚の部屋から出たいと言ってるんですが、こいつは間違いありませんか、この証明書は?」
書記は恐怖のために蒼白になり、ディメールの恐ろしい顔に会い、これからあの顔を見るんじゃあないかと思ったので、証明書を引ったくりながら、大急ぎで、答えた。
「そう、そうですよ、それはわたしのサインですよ、わたしに返してください」
「それなら」とローランが言った。「あんたのサインと分ったら、こっちへ返せよ」
「だめだよ」と書記が証明書をこなごなにちぎりながら言った。「だめだね! この種の証明書は一度しか使えないんだよ」
ローランはしばらく心を決めかねていたが、とうとうこう言った。
「エエイ、ちきしょう。とにかくどうしてもあいつを殺っつけちまわなけりゃあ」
そして彼は書記室をとび出していった。
モオリスはローランの動きをじっと見つめていたが、彼にはローランの感動がよく判った。
「彼は助かった!」と彼は歓喜にも似た熱狂をおもてに現わしてジュヌヴィエーヴに言った。「証明書はちぎられてしまったから、彼はもう戻って来れないよ。それに、もちろん、たとえ戻ってきたところで、法廷もそろそろ閉廷になるだろう。五時になって、彼が戻ってきたところで、ぼくらはもう死んでいるからね」
ジュヌヴィエーヴが溜息をつき、身をわななかせた。
「アア! あたくしを腕に抱いてちょうだい」と彼女が言った。「もうあたくしを離さないで……神様、どうして、あたくしたちはいっしょに殺されて、いっしょに最後の息を引きとることができないのでしょう」
そのとき、二人は暗い部屋のいちばん奥にいた。ジュヌヴィエーヴはモオリスのすぐ脇に坐り、彼の首に両腕をかけてすがりついた。こうして首に腕を回して、同じ呼吸をしながら、すでに二人の頭の中には物音が消えて、刻々と死に近づきながら、愛の力にしびれていた。こうして三十分が過ぎた。
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五十五 ローランはなぜ牢を出たか
とつぜん大きな物音が聞えてきて、背の低いドアから憲兵たちが入ってきた。彼らのうしろには、サンソンと縄の束をかかえた彼の助手たちが続いていた。
「アア、あなた、あなた! 最後のときが参りましたわ。あたくし、気が遠くなりそうですわ」とジュヌヴィエーヴが言った。
と、ローランのはち切れそうな声が聞えた。
「いやいやそれは違いますよ。
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まことおんみは誤てり
死こそ、とことわの自由なれば!」
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「ローラン!」とモオリスがすっかり気落ちして言った。
「警備の連中も役にたたんな。きみの意見の通りだよ。どうも、昨日から、警備のやつらが哀れになってきたよ……」
「そうか! そのことか。気の毒なやつだ、で、きみは戻ってきたのか!……きみも戻ってきたのか!……」
「でも、初めからそういう約束だったろ? いいかい、よく聞いてくれよ、これから話すことは、きみにもマダムにもなかなか興味のあるはなしだぜ」
「ヤレヤレ!」
「とにかく喋らせてくれ、いろいろ話している暇がないんでね。オレはね、短刀を一本買いたくて、ラ・バリユリー街へ出かけたんだよ」
「短刀なんかどうしようっていうんだ?」
「例のディメール大将を殺っつけようと思ってね」
ジュヌヴィエーヴの体がブルッと震えた。
「なるほど! 判るよ」とモオリスが言った。
「で、短刀を買ったんだ。オレが言いたいところはこうだよ、きみだって、オレがどれほど論理的精神の持ち主か分ってくれると思うがね。どうやらオレはこんなことを信じ始めたんだ、詩なんか作るより、数学者になるべきじゃあなかったかってね。ま、不運なことに、時期を失した憾《うらみ》はあるがね。ところでオレの言いたいのはこうさ。オレの推理を聞いてくれよ。『ディメールは自分の妻を巻き添えにした。ディメールは彼女が裁判にかけられるのを見物にきた。ディメールは彼女が護送馬車に乗せられてゆくのを眺める楽しみを諦めはしないだろう、とくに、オレたちまでいっしょなんだから。そこで、やつはヤジ馬の最前列にいるだろう。オレは彼のそばまで忍び寄って、こう言ってやるんだ。やあ今日は、ムッシュウ・ディメール、とね』。そこでやつのどてっ腹に短刀をグサリと打ち込む、とまあこういったあんばいさ」
「ローラン!」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。
「ま、ご安心ください、マダム。すでに神の摂理がりっぱに片をつけてくれましたよ。考えてもごらんなさい、ヤジ馬どもがね、いつものように裁判所の正面にいないで、右のほうにグルッとUターンして、河岸をとり巻いているんですよ。ヤア、きっと犬でも水に溺れてるんだろう、ディメールはあそこにいるんじゃないかな、と思ったんですよ。犬が溺れてるのを高見の見物なんていうのは、いつだって、暇つぶしにゃあもってこいですからね。そこで欄干に近寄ってみると、一団のヤジ馬が土手に沿って、両手をかざして、下を向き、『ヤレヤレ可哀そうに!』とか言いながらセーヌ河から地面の上になにかが上がったのを見てるんですな。そばへ寄ってみると……その何かというのが……さて何だったかお判りかな……」
「ディメールだったんだろう」とモオリスが暗い声で言った。
「そうなんだ。どうして判ったんだい? そうだよ、きみ、ディメールなんだ、みんごとわれとわが腹をカッさばいてるんだな。おそらく、気の毒だが、われとわが罪のつぐないをして自殺したのさ」
「なるほどね! きみはそう思ってるのかい?」とモオリスが陰気な微笑を浮かべながら言った。
ジュヌヴィエーヴは両手で頭をかかえていた。つぎつぎとおそわれる昂奮には、とうてい耐えられないほど彼女の身は弱っていたのだ。
「そうとも、あいつの近くに、血のりのついたサーベルが見つかるまでは、オレもそう思っていたんだ……きっとだれかに出会って……」
そのとき、ジュヌヴィエーヴが打ちひしがれて、彼のほうを見ることもできなかったそのすきを見て、モオリスは何も言わずに、服を開いて、血にまみれたチョッキとシャツをローランに見せた。
「こりゃあ、だいぶはなしが違ったな」とローランが言ってから、モオリスに手を差し出した。そしてモオリスの耳もとに体を寄せて言った。
「オレはね、サンソンの連れだといってここへ入り込んだんでね、身体検査をされなかったんだよ、さてそこでだ、もしきみがギロチンでバッサリやられるのがお気に召さなければ、今でもここに短刀があるぜ」
モオリスは嬉しそうに、短刀を受けとったが、
「やめよう。どうも彼女が苦しみそうだからな」と言った。
彼は短刀をローランに返した。と、ローランが言った。
「きみの言う通りだ。ムッシュウ・ギョタン(同時代の医学者で、パリ大学の解剖学教授。革命政府の議員となり、ギロチンを発明す。なおギロチンはギョタンの女性形ギョチーヌの英語読み)の器械バンザーイだ! ムッシュウ・ギョタンの器械とは何ぞや? ダントンの言葉を借りれば、頭部への刺戟なり、ときた。刺戟とは何ぞや?」
こう言って彼は、一団の死刑囚の真中へ短刀を放り出した。
死刑囚のひとりが短刀をとるや、みずから胸に突き刺して、見る見るうちに死んでしまった。
その瞬間、ジュヌヴィエーヴがビクッと動いて、叫び声をあげた。ちょうどサンソンが、彼女の肩に手を置いたところだった。
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五十六 シモン・ばんざい
ジュヌヴィエーヴが叫び声をあげたのを聞いて、モオリスは、いよいよこれから死との闘いが始まるのだ、ということが判った。
愛情というものは、人間の魂を、ヒロイズムにまで昂揚させるものだ。愛情というものは、自然の本能に対抗して、人間が平然と死を欲するまでにたかめることができる。しかも心のうちには、苦痛への危惧が湧かない。モオリスが自分といっしょに死ぬ、と知ったときから、ジュヌヴィエーヴは、より我慢強く、より宗教的に、死を受け容れることができた。しかし、忍従といっても、べつに苦しみを味わわなくてもすむものではないし、この世界に訣別することは、ただに、未知の彼岸と呼ばれている深淵に落ち込むだけでなく、落ちながら、苦悩を味わうことである。
モオリスは、目の前に展開する光景をチラリと見やって、次に続く光景を頭に思い浮かべた。
部屋の真中には胸を突き刺した屍体が転がっている。ひとりの憲兵がとびかかって、ほかの者まであとを追っては、と心配して、短刀をとり上げた。
その憲兵のまわりでは、数人の男たちが、絶望のあまり黙り込んで、憲兵にはほとんど注意を払わずに、手帳に、もうこの後は続けることもできない言葉を、なにか書き込んだり、おたがいに手を握り合ったりしていた。ある者は、休みなく、気違いがよくやるように、好きな相手の名前をブツブツ繰りかえしたり、肖像画や、指環や、髪の束を涙で濡らしていた。またある者は、暴政者に向かって、恐ろしい呪咀の言葉をわめき散らしていた。いままでここへ入れられた者がみんな順々に洩らした、時にはまた、かつての暴君の口からも洩れた、口ぎたない呪いの言葉である。
こうした不幸なひとびとの中心に、サンソンのだるそうな体が見えていた。もっとも、だるいといっても、それは彼の悲しい仕事の重荷からきたものばかりではなく、五十四歳という年齢の重みからきたものでもあった。サンソンは、役目上許される限り、優しく、慰め顔に、ある者には相談に乗ってやり、またべつの相手には、優しく力づけてやり、また、虚勢を張っている者にも、絶望しているものにも、なにかキリスト教的な文句を考えながら返辞をしてやるのだった。
「女市民」と彼がジュヌヴィエーヴに言った。「ネッカチーフをとっていただけませんかな、髪をかき上げるか、切るかしなければなりませんので」
ジュヌヴィエーヴは身をわななかせた。
「サア、マダム、勇気を出すんです!」とローランが優しく言った。
「ぼくの手でマダムの髪をかきあげてもいいかね?」とモオリスが訊ねた。
「アア、そうですわ! ムッシュウ・サンソン、お願いですから、このひとにさせてあげてください!」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。
「いいですとも」と老人が顔をそむけて言った。
モオリスが、首のぬくみが伝っている、生暖かいネッカチーフの結び目を解くと、ジュヌヴィエーヴがそれを下へさげ、青年の前に膝まずいて、チャーミングな首を見せた。それは、歓喜を味わっているときにもかつて見られなかったほど、この苦悩の瞬間に美しさを増していた。
モオリスがこの悲しい仕事を終えたとき、彼の手は震えていた。彼の表情があまりに悩ましげに見えたので、ジュヌヴィエーヴが叫んだ。
「アラ! モオリス、元気を出して!」
サンソンがこちらを向くと、彼女が言った。
「いかが、ムッシュウ、あたくしって勇気がありますでしょう?」
「ほんとですな、女市民。それが真の勇気というもんですよ」と死刑執行人が感動した声で言った。
そのあいだに、第一の助手がフーキエ・タンヴィルがよこした訴訟記録に目を通していた。
「十四人だな」と彼が言った。サンソンが死刑囚の人数を数えた。「さっき死んだ男も入れて、十五人だぞ。いったいどうなってるんだ?」
ローランとジュヌヴィエーヴが、同じことを考えて、サンソンのあとから数えてみた。
「あなたは、死刑囚は十四人しかいないっておっしゃいましたけれど、あたくしたち、十五人おりますわね?」と彼女が言った。
「そうですね。きっと、市民フーキエ・タンヴィルが間違ったんですよ」
「アア、あなたは嘘をおっしゃったのね、モオリス、あなたは死刑の宣告を受けたりしたわけではないんだわ」とジュヌヴィエーヴがモオリスに言った。
「今日あなたが死ぬというのに、どうして明日まで待つことがあるんです?」とモオリスが返辞をした。
「あなた、あなたのおかげで、あたくし安心いたしましたわ」と彼女がほほ笑みながら言った。「こうなったら、死ぬのはごくやさしい、ということが判りましてよ」
「ローラン」とモオリスが言った。「ローラン、これが最後だ……ここでは、だれもきみの正体を知りゃあしない……きみは、ぼくらにお別れを言いにきただけだ、と言いたまえ……間違って監禁されたんだ、と言うんだ。きみが出てゆくのを見ていた、あの憲兵を呼びたまえ……ぼくはね、ぼくこそほんとうの死刑囚なんだよ、死ななくてはならないんだ。ところがきみは、ネエ、頼むから生きていて、ぼくらのことを思い出してくれたまえ。時間はまだある。ローラン、お願いだから!」
ジュヌヴィエーヴは拝むように両手を合わせた。
ローランは彼女の両手をとって、その手に接吻した。
「ごめんこうむる、と言わせてもらおう、だめなんだ」とローランは断乎とした声で答えた。「もうそのはなしはやめようじゃあないか、そうでなければ、ほんとうに、オレはいじめられてるみたいな気になっちまうぜ」
「十四人だが、やっぱり十五人いるな!」とサンソンが繰りかえした。
それからいちだんと声を大きくして言った。「どうだ、だれか名乗り出る者はいないか? 間違ってここへ来たと証明できる者はいないか?」
あるいは、何人かがこの問いに対して口を開くこともできたかもしれない。しかし、結局、一言も言わずに口を閉じてしまった。もし嘘を言って名乗り出た者がいたとしても、死ぬのが恥ずかしかったのだろう。嘘をつかなかった者は、口を訊く気がしなかったのだろう。
助手たちが、陰惨な仕事を続けるうちに、しばらく沈黙が流れた。
「準備ができましたが……」とサンソンの、低いがおごそかな声が響いた。
あちらこちらですすり泣きや、低い唸り声が起こってこれに答えた。ローランが言った。
「いいとも、こういうのはどうだ!
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祖国のためにいざ死なん
たとえなく、美しきいのちなれ!……
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そう、祖国のために死ぬのはいいやね。ところが、このところこんなことを考え始めたんだがね、どう考えてみても、オレたちが死ぬのを見にくる、ご見物衆のお楽しみに死ぬようなもんだ、とね。どうやら、モオリス、オレもきみの意見に賛成だよ、共和国と聞くとゲッソリし始めるぜ」
「点呼だ!」と、ドアのところで委員が言った。
数人の憲兵が部屋へ入ってきて、出口を閉ざし、まるで囚人たちがここへ戻ってくるのを拒むように、生命と死刑囚たちとのあいだに立ちはだかった。
点呼が始まった。
モオリスは、ローランが放り出した短刀で自殺した死刑囚の裁判を見ていたので、その男の名前が呼ばれたときに返辞をした。結局、余計なのは、死人ひとりということになった。
死体が部屋の外へ運び出された。たとえ彼の姓名がはっきりしたところで、彼が何者か身許が判ったとしても、もう幽冥《ゆうめい》境を異にしてしまったいまとなっては、ほかのものといっしょに、この男をギロチンにかけるわけにもゆかなかったろう。
生き残った囚人たちは出口のほうへ押しやられた。
ひとりずつ、くぐり戸を通るときに、それぞれ両手を背中で結わかれた。
十分ほどのあいだ、この不幸なひとびとのあいだで、一言も言葉が交わされなかった。
ただ死刑執行人たちだけが口を訊き、あちこち歩き回っていた。
モオリスとジュヌヴィエーヴとローランは、もうそのままの姿勢でいることができなかったので、お互いに体を寄せ合って、離れ離れにならないようにしていた。つぎに死刑囚たちは、ラ・コンシエルジュリーから中庭のほうへ押し出された。
そこに展開された光景は、見るも恐ろしいものだった。
何人かのひとたちが、護送馬車を見て気を失ってしまった。看守たちが彼らに手を貸して馬車にかかえ上げた。
まだ閉ざされたままの門の向こう側から、群衆がガヤガヤいう声が聞えたが、その騒がしい声を聞いただけでも、群衆がワンサと詰めかけている様子が判った。
ジュヌヴィエーヴがしっかりした足どりで馬車へ乗ったが、もちろんモオリスが彼女の腕を支えていた。モオリスは大急ぎで彼女のそばへ飛び乗った。
ローランは急がなかった。場所を選んだすえに、モオリスの左側に坐った。
門が開かれた。群衆の最前列にシモンの姿が見えた。
二人の友はシモンに気がついた。シモンのほうでも二人を見つけた。
彼は、護送馬車がその前を通るはずになっている、車除けの石の上に昇っていた。馬車は全部で三台だった。
「最初の馬車がガタンと動き出した。三人の友が乗っている馬車だった。
「ヤア! 色男の兵隊さん、今日は!」とシモンがローランに言った。「あんたに、おいらの庖丁の斬れ味を試してもらえそうだね?」
「いいとも」とローランが言った。「庖丁が刃こぼれしないように、じゅうぶん気をつけらあね、今度お前がソッ首を斬られる番になったら困るからな」
べつの二台の馬車も、最初の馬車に続いて動き出した。
叫び声、ブラヴォという歓声、唸り声、呪いの言葉が恐るべき嵐となって、死刑囚たちのまわりで爆発した。
「しっかりして、元気を出して、ジュヌヴィエーヴ!」とモオリスが囁いた。
「エエ、あなたがいっしょに死んでくださるんですもの、あたしは命が惜しいなんて思いませんわ。ただ、せめて死ぬ前に、腕の中にあなたをギュッと抱きしめたいんですけれど、両手が自由にならないのが口惜しいのよ」
「ローラン、ぼくのチョッキのポケットを探してみてくれないか、ナイフがあると思うんだが」
「ヤア! そいつはけっこうだ! ナイフがあればごきげんだよ。仔牛みたいに縛られたまま死ぬなんて、みっともない目を見ないでもすむからな」
モオリスは友人の手と同じ高さまでポケットを下げ、ローランがポケットからナイフをとり出した。それから二人がかりでナイフを開き、モオリスが歯でくわえて、ローランの両手を結わえている縄を切った。
ローランは縄が外れて自由になると、モオリスの縄も同じように切りはじめた。
「急いでくれよ」とモオリスが言った。「ジュヌヴィエーヴが気を失っているぜ」
なるほど、二人が縄を切り終えるまで、モオリスはしばらくジュヌヴィエーヴから目を離していたが、まるでモオリスのおかげで体力を保っていたかのように、彼女はすっかり目をつぶって、彼の胸に頭を預けていた。
「ジュヌヴィエーヴ、ジュヌヴィエーヴ、目を開くんだ、ぼくらがこの世で会っていられるのは、もう数分しかないんだよ」
「この縄で、傷がついてとても痛いのよ」とジュヌヴィエーヴが呟いた。
モオリスが縄をといてやった。
すぐに彼女は目を開き、一種の昂奮に捉えられて立ち上がったが、その様子が、うっとりとさせるほど彼女を美しく見せた。
彼女は片腕をモオリスの首に巻きつけ、もう一方の手でローランの手をとり、三人とも、迫り来る死におびえて、途方にくれている他の二人の犠牲者を足許に置いたまま、馬車の上でスックと立ち上がった。彼らは、縄をといて自由に互いに体を寄せ合えるようにしてくれた神に、感謝の身振りと眼差しを投げかけた。
三人が腰を下していたときには、さんざん悪口を浴びせかけていた群衆も、三人が立ち上がったのを見ると口を閉ざした。
断頭台が見えてきた。
モオリスとローランには見えたが、今はただひたすらに恋人だけに見入っているジュヌヴィエーヴには見えなかった。
護送馬車が止まった。
「愛しているわ」とジュヌヴィエーヴがモオリスに言った。「愛しているわ!」
「女が先だ、はじめに女を殺れ!」とごうごうたる叫び声が起こった。
「見物の諸君、ありがとう」とモオリスが言った。「きみたちが残酷だなんて、だれが言ったんだい?」
彼は腕にジュヌヴィエーヴを抱き上げ、唇と唇をピッタリ合わせたまま、彼女をサンソンの腕に渡した。
「元気を出して! 元気を出すんだ!」とローランが言った。
「大丈夫ですわ、大丈夫よ!」とジュヌヴィエーヴが答えた。
「好きだよ! 愛してるよ!」とモオリスが言った。
二人はもはや、首をはねられる死刑囚ではなかった、死の饗宴を祝う二人の恋人同士だった。
「さようなら!」ジュヌヴィエーヴがローランに叫んだ。
ジュヌヴィエーヴの姿が運命の刃の下に消えた。
「サア、きみだぞ!」とローランが言った。
「きみの番だよ!」とモオリスが言った。
「まあ聞けよ! 彼女がきみを呼んでるぜ」
たしかに、モオリスの耳にジュヌヴィエーヴの最後の叫び声が聞えた。
「いらしってね!」
ドッというざわめきが群衆の中からあがった。美しい、そして優雅な首が落ちたのだ。
モオリスがとび出した。
「それが順番だよ」とローランが言った。「論理的にゆこうぜ、わかったかい、モオリス?」
「わかったよ」
「彼女はきみを愛していた、そして彼女が最初に殺された。きみはべつに死刑の宣告を受けてはいないが、二番目に死ぬ。ところでオレだが、オレはなんにもしていないけれど、三人のうちでいちばん罪が深いから、最後にゆこう。
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論理の法に従えば
かくてすべてが納得ずく
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> どうだい、市民サンソン、前にあんたに四行詩を献呈するって約束したっけな。でも、あんたには二行詩のほうがお似合いのようだな」
「ぼくはきみが好きだったよ」とモオリスが、運命の板に結わえつけられたまま、友人の顔にほほ笑みかけながら言った。「きみが好き……」
鉄の刃が落ちてきて、その言葉を半分呟くうちに首を落としてしまった。
「さてオレの番だぜ!」とローランが断頭台にとび上がりながら叫んだ。「早くしてくれよ! だって、まったくのはなし、頭がどうかなっちまったよ……市民サンソン、あんたに詩を二行献じようと思ってたが、オレはすっかり破産しちまったんでね、代りにちょいとした|しゃれ《ヽヽヽ》でごかんべん願うぜ」
サンソンは、今度は彼を縛りつけた。
「ソーラよく聞け」とローランが言った。「死ぬ前に、なにやら辞世を叫ぶやり方だぜ。そのかみは、『王様ばんざい!』と叫んだもんだが、当節は王様はないときた。以来、『自由ばんざい!』と呼ぶのがしきたりだったが、今やその自由も地を払ったというわけだよ。そこでオレの思いつきで、オレたち三人をまとめてくれた、『シモンばんざい!』」
こう叫ぶうちに、この寛大な青年の首は、モオリスとジュヌヴィエーヴの首のそばに落ちた。(完)
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解説
一
「彼に会ったかい?」
「誰にさ?」
「彼だよ?」
「彼って?」
「デュマさ」
「親父のかい?」
「そうだ」
「なんて凄い男だ!」
「本当だ」
「なんという精力だ!」
「まったくだ」
「なんて多作なんだ!」
「その通り!……」
この対話は、アンドレ・モロワが、その「三人のデュマ」の中に引用している、ヴェルメルシュの戯文の引用である。さらにモロワは、「デュマの全作品を読みきった者は誰もいないが(これはその全作品を書き上げるのと同じくらい不可能なことだろう)、全世界のひとがデュマの作品を読んだ」という一文も引用している。
これはデュマの多作に対する当時のひとびとの率直な驚きを表わすために引用したものだろうが、この「モンテクリスト伯」の作者が、一八二九年二十七歳にして戯曲「アンリ三世とその宮廷」によってデビュー(もっともこれより前に、数篇の戯曲、小説もあるが、これはあくまで習作の域を出ない)して以来、一八七〇年六十八歳で没するまでに、実に三百巻以上の小説、戯曲、旅行記などを書き上げたといえば、その雄渾な創造力にあらためて驚嘆しないものはいないだろう。
アレクサンドル・デュマの一生といえば、旺盛な創作、スキャンダルめいた決闘や訴訟事件、はでな女でいり、さらに世人をアッと言わせるような浪費――宮殿のようなモンテクリスト荘を造り、その玄関を入ると皿にいっぱいの金貨が積み上げてあって、だれでもこれをポケットヘ入れることができた、などという神話めいたエピソードにみちみちていて、生涯そのものが彼自身の小説のように波瀾にみちていたことは、これまたすでに衆知の事実である。しかし、こうした生涯のうちでも、とくに華々しかったのは、一八四四年「三銃士」を発表して以来、歴史劇場の開設、モンテクリスト荘の完成まで数年間のことで、創作活動においても、四十五年より六年にかけては、「王妃マルゴ」「モンテクリスト伯」「メーゾン・ルージュの騎士」「モンソロオの奥方」など、デュマの代表作がつぎつぎに発表されている。
一八四三年から、ヴィクトル・コンシデランなる男の手で、「ラ・デモクラシー・パシフィック」という新聞が発刊された。このコンシデランという新聞人は、元来、空想的社会主義者としてエンゲルスなどにも認められている、シャルル・フーリエの思想に共鳴し、その農村的協同社会「ラ・ファランジュ」の傘下に集まったほどの人物なので、その新聞も、「政府と民衆の利益のために」と銘打った一種の共和主義者の機関紙的性格を帯びていたものだった。しかし、新聞にとっては主義はべつとして発行部数を伸ばす、ということがいまも昔も変らぬ大問題で、部数拡大のためには当代の人気作家の小説を、ということで、デュマに白羽の矢が立てられた。こうして一八四五年より六年にかけて、同紙の紙面に発表されたのが、本篇、「メーゾン・ルージュの騎士」であった。
この作品は、予告から発表までに、三回も題名を変更している。第一回の予告では、「ジュヌヴィエーヴ――一七九三年のエピソード」という題名で、これを見ると、作者はこの作品で、楚々とした美貌の女主人公が、恐怖時代の怒濤《どとう》のような世相に押し流されながらも、恋人モオリス・ランデイとの恋に生命を賭ける、といった女主人公の情熱にウエイトを置いたものと思われる。
二回目の予告では、この題名が「ルージュヴィルの騎士」(Le Chevalier de Rougeville)と変更された。rouge は赤い、ville は町の意味だから、強いて訳せば、「赤い町の騎士」と訳せるものだろうが、この場合、騎士が生地あるいは封土の名を名乗ったもの、言いかえればこの「ルージュヴィル」は固有名詞と思えるので、むしろそのまま「ルージュヴィルの騎士」と訳したほうが適当だろう。
さて、デュマ自身はこの題名で小説を発表しようと思っていたおりもおり、ある日一通の手紙を受けとった。この手紙の差し出し人はルージュヴィル侯爵で、自分はあなたの小説の主人公になろうとしているルージュヴィルの子供であるが、父親のことをどのような人間にお書きになるのか、というのはこの新聞は共和党的色彩が強いが、父はむしろ過激なくらいの王党だったから、父を共和的人間として描かれてもはなはだ迷惑なので、できればその内容一端についてご説明いただきたい、という文面だった。これを読んだデュマは驚いて、さっそく、自分はルージュヴィルの騎士という人物が実在することは知らなかった。自分は主人公については、むしろヒロイックな義人として描いてはいるものの、あなたの父上がモデルと思われるのも不本意であるから、この小説は題名を変えることにしよう、と返辞をした。ルージュヴィル侯爵はこれに対して、おりかえし家名などに拘泥《こうでい》した自分が間違っていた。どうか題名には遠慮なく筆を執ってくれ、という返事を送っているが、デュマはあえて題名を変更して、ここに新しい「メーゾン・ルージュの騎士」が誕生することとなった。つまり、ville 町が maison 家に入れ代ったわけであるが、これを見てもわかるように、そうしてみると、この「メーゾン・ルージュ」も恐らく元来は地名で、これが呼び名に変った固有名詞と考えられる。この小説の日本名は「赤い館の騎士」「紅家の騎士」「紅楼の騎士」などいろいろと呼ばれているが、訳者が題名を「赤い館の騎士」としたのは在来の習慣に従ったもので、また作中では「メーゾン・ルージュの騎士」を用いたのは、固有名詞をそのまま用いようと、特に配慮したためである。
二
ロマン派の擡頭以来、歴史小説の価値が再認された。これは、ヴィニイ「サン・マール」(一八二六)、メリメ「シャルル九世年代記」(一八二九)、ユーゴー「ノートルダム・ド・パリ」(一八三一)などの重厚な傑作がきびすを接して発表されたためであるが、彼らはいずれも歴史に深い造詣をもち、一流の学者にも匹敵する正確な考証を背景にしてこうした作品を書き上げている。この点デュマについては若干事情が違う。学問といえば、故郷のソワッソンに近いヴィレル・コトレの村の司祭に受けた変則的な教育しかなく、あとの取柄といえば能筆しかないデュマであった。出世作の、「アンリ三世とその時代」の執筆に当っても、アンクルチという三流学者の「フランス史」と、ピエール・ド・レトワールの「日記」の一節に想を得て、あとは奔放な想像力と豊かな詩才で補った、という逸話が残っているくらいの、貧弱な学問しかなかった。努力家の彼が精力的に記録や資料を漁ったとは言っても、ヴィニイやメリメの系統的な学問に較べれば、ものの数ではない。だからデュマは、歴史小説家であって歴史家ではない。歴史のなかにある小説的興味を掘り出すためには、歴史的な事実を捨て去ることも、適当に修正することも平気でやってのける。彼の歴史小説の中の主要人物が、文字通り活殺自在にデュマの筆で死んだり生きたりした個所を指摘すれば枚挙にいとまがないだろう。このような作家の筆に成る「メーゾン・ルージュの騎士」がまったく想像の産物で、歴史的にはぜんぜん存在しなかったろう、という非難が当時からささやかれていたのもけっしてふしぎなはなしではない。
G・ルノートルというフランス革命史家がいた。はじめは新聞記者として出発したが、のちに革命時代の裏面史に興味を持ち、当時の細かい事件や風俗の専門家として知られたが、特に「革命時代のパリの町々」「マリー・アントワネットの牢獄生活と死」などは名著として知られている。このルノートルも、「メーゾン・ルージュの騎士」の物語はフィクションなりと断言したが、念のためにルージュヴィル侯爵家の教会、サン・シュルピス教会の記録を調査するうち、「ルージュヴィル侯、シャルル・アレクサンドル、享年三十四歳」という埋葬証書を発見した。これに力を得てなお調査を続けるうちに、さきにデュマに手紙をよこしたルージュヴィルの父親とおぼしき人物の事跡がつぎつぎに明らかになった。
ルージュヴィルの騎士、アレクサンドル・ゴンスまたはゴンズが本名である。一七六〇年アラスで生まれ、プロヴァンス伯の親衛隊員となり、一七九二年六月二十日の暴動のおりには、チュルリー宮殿で女王を守り、翌年九月には女王の脱走計画を企てたが失敗、その後ベルギーに逃れて、九七年まで、革命政府に対して数回の陰謀を企てたものの、いずれも失敗してついに逮捕された。その後、帝政時代にはランスで監視下に置かれていたが、一八一四年三月、ロシアの士官と通謀したかどでパリで刑死した(この記録によると、彼は五十四歳で死亡したことになるので、前の教会の死亡記録は誤記ということになる)。
もちろんルノートルがこれだけの事実を掴むまでには、各所の古文書館、図書館、役所などの記録を漁り、ずいぶん手間をかけて苦労したにちがいないが、この探索を続けるうちに、この小説の主人公と同じような、ルージュヴィルの騎士のかずかずの超人的な脱走計画の記録や、またそれらの資料には書かれていないにしろ、ルージュヴィルの騎士のロマンチックな感情生活、つまりマリー・アントワネットに対する恋情ないしは情交もあったらしい形跡を発見した。ルノートルはこのいきさつを、のちに「真説、メーゾン・ルージュの騎士、A・D・J・ゴンズ・ド・ルージュヴィル」(一八九四)という研究にまとめて発表したが、この地味な学者の努力は、世間から荒唐無稽というレッテルを貼られたデュマの小説が、あんがい史実にのっとった正確なものであることを立証し、デュマの偉大さを改めて読者に認識させる絶好の資料になったわけである。
三
デュマのあまりに派手な創作活動については、虚実とりまぜて、さまざまなエピソードが流れている。例えば盗作問題もそのひとつであるが、ガイ・エンドアによれば、デュマ自身堂々と盗作を認めて、「盗む盗むとひとはいうが、アレクサンドル大帝がギリシアを盗んだとか、イタリアを盗んだとか誰も言わないじゃないか。ぼくが他人から取ってくるのは、盗むのじゃない。征服したんだ。併合したんだ」
と公言したために、中傷者もあっけにとられて中傷は立ち消えになり、この征服とか、併合とかいう言葉が、当時のパリの流行語になったという。
彼の生涯でいちばん執拗に浴びせられた非難は代作問題で、このため訴訟、決闘などの事件も何回かあったが、そのもっともはでな、しかも「メーゾン・ルージュの騎士」に直接関係のある一八四五年二月の「小説工場、アレクサンドル・デュマ会社」という弾劾文書の発刊事件について触れておこう。
この文書の筆者はウージェーヌ・ド・ミルクールというゴシップ作家であった。ミルクールははじめ、自分もデュマの代作者になってひと稼ぎしようと思い、ある小説の筋を持ってデュマのところへ売り込みに行ったが採用されなかった。すると次には「プレス紙」の編集長に書面を送って、デュマの小説ばかり掲載するのはけしからん、よろしく才能ある若い作家のために、紙面を開放すべきだという意見を述べた。ここで|才能ある若い作家《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのは、ほかならぬミルクール自身のつもりであるから、何のことはない、いわゆる自薦の売り込みである。ところが、これも、この雑誌の読者たちは、デュマの小説を読みたがっているので、今後もデュマの作品を掲載する方針は変らない、という編集長の断乎とした態度で失敗に終った。そこで公刊したのが「小説工場」のパンフレットであるから、この素破抜きは、公憤というよりは、私怨に過ぎない。この文書の中で、ミルクールは、デュマの小説、戯曲の題名をいちいち挙げて、これはだれの代作、これはだれの代筆、と作者の名前をすべて暴露して、
「彼(デュマ)は知性を裏切った者たちや、金で身を売る翻訳者たちを雇い入れているが、彼らは一人の黒い混血児(デュマ)に鞭で打たれる黒人労働者(下請)のような卑しい身分になり下がっているのだ!」
と、デュマを痛罵した。ここに名を挙げられた代作者はアドルフ・ド・ルーヴァン、アンセ、ブールジョワ、ガイヤルデ、ジェラール・ド・ネルヴァル、テオフィル・ゴーチエ、ポール・ムーリッス、オーギュスト・マケなどであるが、これらの下請のうちでも、もっともデュマのために働いたのは最後のマケで、この事件のおりにマケからデュマ宛に書いた手紙が残っているが、この手紙によると、マケが代作した作品は次の八つである。
「ダルマンタルの騎士」「シルヴァニール」「三銃士」「二十年後」「モンテクリスト伯」「女の戦争」「王妃マルゴ」「メーゾン・ルージュの騎士」
この代作についてはデュマ自身も認めているので、じゅうぶん信用に足るものであるが、こうしてみるとデュマの名作といわれる作品は、ほとんどマケによるもので、この内幕を知ってはだれでも唖然とせずにはいられないだろう。マケは元来シャルルマーニュ高校の教師から作家に転身した男で、彼自身も数冊の戯曲やオペラを発表しており、しかも歴史に詳しい学者だったので、歴史小説の代作者としては、うってつけの人材であった。しかし、これらの傑作がマケの代作だったからといって、デュマが大作家ではない、ときめつけるのは速断である。あるデュマ研究家が、マケの書いた下書きと、のちにデュマが手を入れて発表した作品とを詳細に比較検討して発表しているが、これを見るとマケの下書きではしごく凡庸な小説が、デュマが手を加えたことによって実に生き生きとした、魅力に富んだ作品に変貌している。「メーゾン・ルージュの騎士」の翻訳中にも、数か所不明晰な、説明的な、味もそっけもないデュマらしからぬ文章に行き当ったが、その部分などマケの書いたままあまり手を加えなかった文章ではないか、と思われる。
これはモロワも指摘していることであるが、例えば画家の世界では、大作に弟子の手を借りることは常識で、ラファエロ、ヴェロネーゼ、ダヴィド、アングルなどの驚くほどの多作ぶりにも、弟子たちの筆がずいぶん入っているし、またバルザックやスタンダールの傑作もその題材を他の作家に借りている例が多い。画竜点睛という言葉があるが、天才とはまさに、画竜に目を入れてただの画を生きた竜にする者の謂《いい》であって、こうしてみればデュマも、代作者の下絵を生かした天才としての名誉は少しも傷つくことはないであろう。
この「小説工場」のパンフレットは当時争って読まれたが、デュマはこれに対して訴訟を起こし、結局ミルクールが訴訟に負けて、禁錮十五日の刑を宣告された。しかも、ミルクール自身がのちに代作、盗作の事実を摘発されて、結局は文壇を追われて落泊の生涯を送った、というから、この事件もデュマの名声をますます高める結果に終った。
四
デュマの作品には、膨大な連作小説が多いこともひとつの特徴である。例えば、「三銃士」は、「二十年後」「ブラジュロンヌ子爵」と続く三部作で完結し、ルイ十四世治下の王朝時代の絵巻物を繰り展げ、さらに十六世紀後半の宗教戦争時代を背景にした「王妃マルゴ」「モンソロオの奥方」「四十五人の親衛隊」などは、いわゆる連作大長篇としてもっとも代表的なものである。本篇「メーゾン・ルージュの騎士」もまた一種の連作の小説で、「女王の首飾り」「メーゾン・ルージュの騎士」「ジョゼフ・バルサモ」「アンジュ・ピトゥー」「シャルニイ伯夫人」の五篇で、ブルボン王朝末期から、大革命、恐怖時代に到る大革命裏面史的な大河小説をなしている。
この小説について、さらに付記したいのは、一八四七年二月、デュマが開設した歴史劇場である。デュマは、ここで自分の評判のよかった小説を劇化して上演しているが、そのこけら落としには、「王妃マルゴ」を、そして第二番目の作品に「メーゾン・ルージュの騎士」を選んで劇化上演している。この芝居は、「祖国のためにいざ死なん」という歌で幕になるが、一八四八年の二月革命のおりには、民衆がこの歌を高唱しながら武器を執った、というエピソードが残っている。
「メーゾン・ルージュの騎士」は、デュマの傑作のひとつに数えられる小説だから、何度か映画化されている。角川文庫の編集長毛利定晴氏のはなしでは、むかしダニエル・フェアバンクスの主演でこの映画をごらんになったことがあるという。訳者はこの映画を見ていないが、フェアバンクスあたりなら、まさに絶好のはまり役だろう。また数年前、フランスの国営テレビでこれをテレビ・ドラマ化して、これが日本にも輸入され、某テレビ会社で数回に分けて放映されたから、これをごらんになった読者も多いだろう。
邦訳については、筆者の知る限り、英訳からの抄訳を除いては、まだ完訳は出ていない。従って、フランス語からの完訳という意味では、恐らく本書が初訳であろう。
翻訳には、主として、"Le Chevalier de Maison-Rouge" Editions Beaudelaire, Livre Club des Champs-Elysees, 1968 を用いたが、ほかに Les Collections Marabout その他二、三の版も参照した。
また解説の執筆に当っては、フランスの研究書のほかに、ガイ・エンドア著「パリの王様」河盛好蔵氏訳、アンドレ・モロワ著「アレクサンドル・デュマ」菊池映二氏訳などを参照し、両書からの引用には両氏の訳文を拝借させていただいたことをお断わりすると同時に、改めて深甚な謝意を表する。
また本書の刊行に当っていろいろご尽力をいただいた、角川書店の毛利定晴氏、市田富喜子氏にもこのぺージを借りて感謝の意を表するしだいである。
一九七二年春(訳者)