赤い館の騎士(上)
アレクサンドル・デュマ/鈴木豊訳
目 次
一 志願兵の群
二 正体不明の女性
三 レ・フォッセ・サン・ヴィクトール街
四 時代の風習
五 市民モオリス・ランデイとはいかなる人物か
六 ル・タンプル(塔の獄舎)
七 命を賭ける者の誓い
八 ジュヌヴィエーヴ
九 晩餐
十 靴直しのシモン
十一 手紙
十二 恋
十三 五月三十一日
十四 献心
十五 理性の女神
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一 志願兵の群
一七九三年三月十日の夜のことだった。
今しがた、ノートル・ダム寺院の鐘が十時を打ったところだった。時を告げる鐘のひと打ちひと打ちが、ブロンズの巣から放たれた夜の鳥のように、ひとつまたひとつと響きわたり、悲しそうに、単調に、そして震えながら飛び立っていった。
夜のとばりがパリの上にすっぽりと落ちかかった。ごろごろと音の聞える、雷雨模様の、ときどき稲妻が交叉するパリではなく、冷えびえした、霧の深いパリの夜だった。パリそのものが、あのわれわれが知っている、金色の沼に数えきれぬ燈火が反映する夜の、きらめくようなパリとは違っていた。忙しげにひとの行きかう、楽しそうな囁き声の聞える、場末に酒のみたちがたむろする、威勢のいい喧嘩沙汰や、思い切った犯罪の温床、無数のひとびとのうめき声の煮えたぎる大釜のようなあのパリではなかった。それは汚辱にまみれた、おずおずした、せわしない町で、ごくたまにひとが通りかかっても、こちらの街から向うの街へ横ぎるにも駆け抜けてゆき、まるで狩人に追われた野獣が自分の巣へ逃げ込むように、自分の家の私道や門の中へ脱兎のように走り去るのであった。
前にも言ったように、これが一七九三年三月十日のパリであった。
当時の首都の表情にこんな変化をもたらした極限状況について二言、三言説明をしてから、その後にこの物語の本筋にからまる諸事件に移ることにしよう。
ルイ十六世の死によって、フランスは全ヨーロッパと国交を絶ってしまった。はじめに干戈《かんか》を交えていた三敵国、すなわち、プロシア、神聖ローマ帝国(オーストリア)、ピエモンに加えて、さらにイギリス、オランダ、スペインが連合した。ただわずかに、スウェーデンとデンマークだけが昔ながらの中立を守ってはいたが、彼らはなおまた、当時ポーランドを撃破していたカテリーヌ二世(カザリン女皇)に目を奪われていた最中で、そちらのほうに忙殺されていたからであった。
情況はまさに恐るべきものだった。フランスは例の九月の虐殺(一七九二年九月二日、パリ市民が各所の監獄を襲撃、王党派を虐殺した事件)および一月二十一日(一七九三年、ルイ十六世の処刑を指す)の処刑事件以来、べつにその外面的なちからを高く評価されてもいなかった。しかし、さながら単なる一都市のように、全ヨーロッパに包囲されていたのである。イギリスは海をへだててひかえ、ピレネー側にはスペイン、アルプス側にはピエモンとオーストリア、ネーデルランドの北部にはオランダとプロシア、そしてただの一点、つまり高ライン地方、エスコーでは、二十五万人の兵隊たちが共和国目ざして進軍していた。
いたるところで、われらの将軍たちは撃破されていた。マツァンスキイは余儀なくエックス・ラ・シャペルを放棄し、リエージュまで後退しなければならなかった。ステンジェルとヌイイはランブールへ退却した。メストリヒトを包囲していたミランダは、トングルへ引き上げた。ヴァランスとダンピエールは撤退しながら敵に当たらなければならず、自分たちの物資の一部まで敵に奪われる有様だった。すでに一万人以上の脱走兵たちが隊から離脱して、国内に散らばっていた。ついに、国民議会としては、もう望みをかけるのはただデュムーリエ以外にはなくなり、彼に向けて矢継早やに急使を送って、ラ・ムーズ軍の指揮をとるためにビースボー海岸を出発するように命令しようとしていた。この海岸で、彼はオランダ上陸作戦の準備をととのえていたのである。
生身《なまみ》の体でも心臓がものに感じ易いと同じことで、フランスのパリ、つまりフランスの心臓には、いちばん遠い地点に起こったものでも、敵の侵入とか、反逆とかまた裏切りなどの事件がもたらす打撃のひとつひとつが強く響いてくるのである。ひとたび勝報に接すれば歓喜の喚声があがり、逆にまた敗戦の知らせを聞けば戦々兢々の気分が昴《たか》まった。そうしてみれば、いまわれわれが耳にしたばかりのあの連続的な悲報に接して、どんな混乱が渦巻いたかはしごく簡単に判断できるだろう。
その前日、すなわち三月九日には、国民議会の議場は今までにない荒れ模様だった。士官は全員、同時に所属の連隊に合流すべしとの命令をすでに受け取っていた。そしてダントンが、とうてい不可能な大胆な提案をして、しかもみごとにやってのけてしまう例のダントンが演壇に上り、こんな絶叫をしたものだった。
「兵隊が足りない、と諸君は言うのか? パリに、フランスを救うチャンスを与えようじゃあないか、三万人の男子を出すようにパリに要求しようじゃあないか、そしてその連中をデュムーリエのところへ送ろう、そうすれば、ただにフランスが救われるだけでなく、ベルギーまでも安泰になり、オランダも征服できるぞ」
この提案は熱狂的な叫び声とともに受け容れられた。戸籍簿があらゆる地区でページをめくられ、全地区のメンバーがその夜のうちに集合するように招集がかかった。娯楽禁止の布告のために劇場はすでに全部閉鎖されていたし、SOSを意味する弔旗が市庁の上にかかげられていた。
夜半十二時までに、三万五千の名前が徴兵簿に記入された。
ただ、前に例の九月虐殺の日々に起こったと同じようなことが、その晩もすでに起こっていた。各地区で、志願兵たちが名前を登録しながら、自分たちが戦場へ出陣する前に、反逆者どもを処罰すべきだ、という要求をしたのである。
反逆者どもというのは、実際には反革命主義者であり、隠れたる陰謀家で、彼らは国外からさんざんにやっつけられた大革命を、国内から脅かそうとしていた。しかし、どなたもご存知のように、言葉というものはまったく広い意味を持っていて、この時代にフランスを危機に陥れた極端派《エクストレーム》がその意味を濫用していたのである。つまり、反逆者すなわちもっとも弱い者なのだ。ところで、当時はジロンド党員たちがもっとも弱い者であって、山岳党員たちは、ジロンド党員こそ反逆者なり、ときめつけていた。
翌日――ここで翌日というのは三月十日のことである――山岳党の全委員が議会に出席した。武器を身につけたジャコバン党員たちが、女どもを追い払って傍聴席に鈴なりになったところへ、ちょうど市長が革命政府の参事を従えて出席し、市民たちの忠誠心についての委員会使者の報告を確認した。そして市長は、前日満場一致で議決した、反逆者裁判用の特別裁判所設置の希望を繰りかえし述べたてた。
と同時に、一同は大声をあげて、委員会の報告を要求した。すぐさま委員会が召集され、十分後にはロベール・ランデが現われてこう言った。すなわち、あらゆる法律上の手続きから独立した九人の裁判官から構成される裁判所がもうけられるように指定され、またこの裁判所は証拠を手に入れるためにはどんな方法をとることも許されるし、永続的な二つの部門に区分されて、国民議会の要請に従い、また直接にでも、民衆を惑わそうとする者は追訴できる、ということである。
お判りになると思うが、そうなると範囲はひろくなる。ジロンド党員たちは、これはとりもなおさず自分たちの逮捕を意味する、と考えて、一団となって起立した。
彼らは、そんなヴェネチア流の独断的な裁判所の設立に同意するくらいなら、むしろ死んだほうがましだと大声で叫んだ。
そうした罵声に対する返礼として、山岳党員たちは大声で、投票だ、投票だと要求した。「よろしい」とフェローが叫んだ。「よろしい投票しよう、そして、法の美名に隠れて無辜《むこ》のひとびとを惨殺しようとする男どもを、世間に知らせてやろう!」
結局は投票ということになったが、予想とはまったく反対に、大多数がこんなことを表明した。すなわち、
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(一)陪審団を設置すること。
(二)この陪審団は、各県から同じ人数だけ送り出されること。
(三)陪審団は国民議会により指名を受けること。
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この三箇条の提案が可決された折も折、ものすごい叫び声が外から聞こえてきた。国民議会は下層民たちが押しかけてくるのにもう慣れきっていた。議会は彼らが何を望んでいるのか訊ねさせると、彼等の返答は、自分たちは、志願兵たちの代表であるが、すでに小麦市場で夕食を終ったので、議会の前をデモらせてくれ、ということだった。
と、直ちにドアが開け放たれ、サーベルやピストルや、さては槍などを手にした六百人の男たちが半ば酔っ払って姿を現わし、観衆のどよめきの真中を、口々に、裏切り者を殺せ、と叫びながらデモりはじめた。
「いいとも」とコレ・デルボワが答えた。
「いいとも諸君、やつらがどんな陰謀を企もうが、われわれは諸君を救ってみせよう、諸君と自由をな!」
こんな言葉を言い終ると、続いて彼はジロンド党員たちに一瞥を投げかけたが、この一瞥を受けて、ジロンド党員たちには、まだ自分たちは危機を脱したわけではない、ということがはっきり理解できた。
ようやく議会が閉会になると、山岳党員たちは別のクラブへ散ってゆき、コンドリエ党やジャコバン党のメンバーのところへ駆けつけて、ジロンド党員を法の庇護から外そう、そしてその夜のうちに連中の首に縄をかけてやろう、と申し出た。
ルーヴェの妻は、ジャコバン・クラブに近い、サン・トノレ街に住んでいた。彼女は怒号を耳にすると部屋を下りてクラブへ入り、この提案を聞いて、息せき切って再び部屋へ上がり夫に知らせた。ルーヴェは武器を身につけ、玄関から玄関へと駆け回って友人たちに急を知らせたが、仲間がひとり残らず留守なのを知った。友人のひとりに仕えている召使いの口から、仲間がみなペチヨンの家に集まっていると聞いて、その足でそちらへ回り、一同が翌日提案するはずになっていて、運よく大多数の目をかすめて採択されるのではないか、という一抹の希望を抱いている法令について、しごく穏やかに討論している場面にぶつかった。彼は一同に最前の出来事を語り、自分の不安を打ち明け、連中はジャコバン党やコルドリエ党と款《よしみ》を通じて、自分たちに陰謀を抱いている、と話し、そして結論的に、こちらから先手を打って、何とかエネルギッシュな処置を講じたほうがいい、と言って一同を説き伏せた。
するとペチヨンが、いつに変らぬ落ちつき払った、悠揚迫らぬ態度で立ち上り、窓ぎわへ行って、窓を開け、空模様を眺めて、外に両腕を突き出し、雨に濡れた手を引っ込めながら、こう言った。
「雨だよ、今夜は何事も起こらんよ」
半ば開いたこの窓から、十時を告げる鐘の最後のひと打ちが、忍び込むように響いた。
さて、これがその前夜から当日にかけて、パリに起った事件である。これが三月十日の夜のうちに起った事件であった。この湿っぽい暗闇のなかで、ひとの心を脅かすような沈黙《しじま》のなかで、人声も絶えて暗くなった。これら生きたひとびとの避難所にあてられた家々の姿は、さながらただ死者のみが出入する墓場の姿を彷彿《ほうふつ》とさせるのだった。
実際、銃剣を突き出した斥候兵たちを先導にした、招集された国民軍たちの長蛇のようなパトロール隊、たがいに体を寄せてひしめき合い、思い思いの武器を手にした各地区の市民たちの群、門の隅という隅、路地という路地をひとつひとつ調べて歩く憲兵たち、街々を我もの顔に歩き回る町の住民たちといえば、こんな連中だけで、つまりひとびとは、なにかはかり知れない、恐るべき陰謀が企てられているということを、本能的に感じとっていたわけである。
凍りつくような|ぬか《ヽヽ》雨、さきほどペチヨンの気持を安心させたあの同じ雨が、こうした夜警の男たちの不機嫌さと、悪意をますますふくれあがらせていたのだ。彼らはだれかに出会うと、まるで喧嘩支度でもしているように、疑い深そうな様子で相手の身分を見極めてから、ゆっくりと、とりつくしまもないような調子で合言葉を交し合うのであった。それから、右と左に別れて、たがいにさっと振り向いて顔を見合わせるところなど、まるでうしろから不意打ちをくらわされるのをこわがってでもいるようだった。
ところで、こうしたパニックもあんまりたびたび繰りかえされたので、もうみな少々慣れてきたはずであったが、パリがこんなパニックのひとつに襲われていた夜のことであった。国王の死については、ほとんどが制限つきで認めて投票したものの、今日《こんにち》では、王子たちや義理の妹君とル・タンプル(十二世紀に建造された聖霊騎士会の僧院で、一七九二年八月以後、ルイ十六世はじめ、王妃、王妹、王子などの牢獄となる)に囮われの身となっている女王の死刑の前では尻込みをしている、微温的革命派の虐殺がひそかに囁かれていたその夜のことであった。黒い毛の、インディアン・リラのマントに包まれ、このマントのフードで頭をすっぽりと隠した、というよりむしろフードの中に頭を埋め込んだひとりの女性が、サン・トノレ街の家並に沿ってすべるように忍んでいった。門のなにかの凹みの中や、塀のちょっとした角に身を隠し、パトロール隊が姿を見せるたびに、まるで彫像のようにじっとして、パトロール隊が去ってしまうまで息を殺し、再び同じような危険が身に迫って、余儀なく物音を殺して、動かずにじっとしなければならなくなるまで、不安な足どりで、大急ぎで駆け出してゆくのだった。
慎重な用心のおかげで、すでにだれにも見とがめられずに、サン・トノレ街の一部を駈《はし》り抜けていたが、その時、グルネル街の角のところで、とつぜん、パトロール隊ではなく、例の勇敢な志願兵の小グループに出っくわしてしまった。すでに小麦市場で夕食をすませ、もう目前に手にした勝利を祝って、何度も何度も乾杯を重ねていたので、彼らの愛国心は軒昴としていた。
哀れな女性は叫び声をあげ、ル・コック街を通って逃げ出そうとした。
「やあ、オオイ、そこの女」と志願兵の隊長が大声で叫んだ。それというのも、当時はだれかに命令されることが人間の習い性となっていたので、これらの尊敬すべき愛国者たちも、お互いに隊長を指名していたからである。「ナア、オイオイ、お前はどこへ行くんだ?」
逃げてゆく女はなにも返事をしないで、相変わらず駈け続けた。
「射方《うちかた》用意!」と隊長が言った。「あいつは男が女装してるんだぞ、特権階級のやつが逃げようとしているんだ!」
そして二、三発の銃声が不規則に響いたものの、志願兵たちの手がちょっとばかり震えていて、狙いはあまり正確ではなかったが、これは哀れな女性には起こるべき運命の波乱の予告であった。
「イエ、ちがいます!」とその女性はピタリと足を止め、戻りながら叫んだ。「ちがいます、あなたは勘ちがいしていらっしゃいます。あたくしは男ではありません」
「それじゃあ、言う通りに前へ出ろ」と隊長が言った。「はっきり答えてもらおうじゃあねえか。そうやって、どこへ行こうっていうんだい、エ、可愛いい夜のおねえちゃんよ?」
「べつに、べつにどこへも……あたくし家へ戻るんです」
「なあるほど! 家へお帰りかい?」
「そうですわ」
「身持の正しいご婦人が、家へご帰館になるにゃあ、ちっとばかしおそすぎるぜ」
「病気で臥《ふせ》っている、親戚の女のひとのところからの帰りなんです」
「かわいそうな仔猫ちゃんだぜ」とちょっと身振りを交えながら隊長が言ったが、そのジェスチュアを見て、怖気《おじけ》づいた女性はサッとうしろへ飛びのいた。「ところで証明書はどこだね?」
「証明書ですって? それは何のことでしょう? いったいなんのことですの、あたしになにを見せろとおっしゃるんですの?」
「おめえは、革命政府のお布令《ふれ》を読んでねえのかい?」
「読んでおりません」
「じゃあ、お布令を大声でよんでるのを聞いたことがねえっていうんだな?」
「ありませんわ。そのお布令というのは、いったいなんでございますの? アア神様!」
「でえいち、アア神様なんて言葉は、もうご法度なんだぞ、至上者と言え」
「ごめんください。うっかり間違えましたわ。なにしろ昔からの習慣なもので」
「悪い習慣だぞ、そいつあ特権階級の習慣だ」
「これから直すように心掛けますわ。それで、おっしゃることは?……」
「つまりだ、革命政府のお布令では、夜の十時過ぎに、公民証なしに外出してはいけねえっていうわけなんだ。オメエは公民証を持ってるかい?」
「困りましたわ! 持っておりません」
「親戚の女とやらのところへ忘れてきたんじゃあねえのか?」
「外出のときに、その証明書を持っていなければいけないなんて、存じませんでした」
「それじゃあ、第一衛兵所へ行こうじゃあねえか。そこで、隊長におとなしく理由を説明するんだな、もし隊長がオメエのはなしに納得がいったら、部下を二人ばかりつけてオメエの家まで送らせてくれらあな、納得できねえとなったら、もっと詳しい報告が届くまで、オメエを足どめしておこうっていう寸法さ。左向け左ッ、急がねえで、前へ進め、だ!」
網にかかった女が恐ろし気な叫び声をあげたので、志願兵の隊長には、この哀れな女性がこの処置をとても恐れているのがよくわかった。
「ソーラ! どんなもんだ!」と彼が言った。「まちげえねえぞ、どうやらちょっとした目立った獲物をひっ捕らえたぜ。サア、サア、この|あま《ヽヽ》、前を歩くんだ」
隊長は容疑者の腕をつかまえて、自分の腕の下にかかえ込み、相手が涙を出して叫び声をあげても知らん顔で、パレ・エガリテ(平等宮)のほうへ彼女を引っぱっていった。
レ・セルジャンの門のあたりまできたとき、突然、マントに身を包んだ長身の青年がクロワ・デ・プティ・シャン街の角を曲がろうとした。それは、ちょうど、捕われた女性が釈放してもらおうとして、しきりに懇願している最中だった。ところが志願兵の隊長は、彼女の嘆願などには耳もかさず、乱暴に彼女を引っぱってゆこうとしたので、この若い女性は、半ば恐怖から、半ば苦痛から大声で叫んでいるところだった。
青年はこの争いを眺め、叫び声を聞くと、道の向う側からこちら側まで跳びこえて、この小グループと向かい合う姿勢になった。
「いったいなにごとだ、この女性をどうしようっていうんだ?」と彼は隊長とおぼしき人物に訊ねた。
「オレにそんなことを聞く代りに、自分の頭のハエでも追いやがれ」
「その若い女性はどういうひとだ、そのひとをどうしようっていうんだ?」と青年は、はじめよりもいっそう高飛車な口調で繰りかえした。
「ところで、オレたちにそんなことを訊く代りに、オメエのほうこそいってえだれだ?」
青年がマントをはね除けると、軍服の上に肩章がキラキラと輝くのが見えた。
「ぼくは士官だ」と彼が言った。「おわかりのようにな」
「士官だって……どこの隊のだ?」
「国民軍だ」
「なるほど! で、それがオレたちにどうだっていうんだい、このオレたちによ?」とグループの中の男が答えた。「オレたちがそんなことを知っているかい、ヘン、国民軍の将校だって?」
「なにを抜かすんだ?」
べつのひとりが民衆に特有な、というよりも、そろそろ癇癪を起こしかけているパリの下層民に特有な、言葉尻を長く引いた、皮肉なアクセントで訊ねた。と、青年が言い返した。
「つまりな、この肩章を見ても士官を尊敬する気にならないというんなら、このサーベルが肩章に敬意を捧げようという気にしてくれる、と言うんだ」
こう言うと同時に、うしろへ一歩退いて、この女性の正体不明の保護者は、マントのひだをさばいて、カンテラの明りに、歩兵用の幅の広い、がっしりしたサーベルの焼刃《やいば》をきらめかした。次に、武器を執っての闘いにいかにも慣れた様子の見える素早い動作で、志願兵の隊長の革服《カルマニョール》の襟をとらえ、相手の喉首にサーベルの先をつきつけた。
「さてと」と青年が相手に言った。「仲良しの友人として話し合おうか」
「でもあんた……」と志願兵の隊長が、身を逃れようとしながら言った。
「アア! いいか、断わっておくけれどな、貴様がちょっとでも動いたら、それに貴様の部下が少しでも動いたら、ぼくのサーベルが貴様の体を突き通してしまうからな」
その間にも、グループのうちの二人の男が相変わらず女の体をしっかり押さえていた。
「貴様はぼくがだれか訊ねたな」と青年が続けた。「貴様にはそんな権利はないんだぞ、何といっても、貴様は正規のパトロール隊を指揮しているわけではないからな。けれど、貴様にぼくの名前を言ってやろう。ぼくの名前はモオリス・ランデイというんだ。八月十日(パリの民衆が蜂起して、チュルリー宮を攻撃し、国王一家を幽閉した事件の日)には砲兵中隊の指揮をとっていたんだ。ぼくは国民軍の中尉で、『兄弟と友人』地区小隊の書記をしている。サア、これでじゅうぶんかな?」
「アア、中尉殿」と、相変わらず焼刃をつきつけられたまま隊長が答えた。彼には、サーベルの先《さき》がだんだん重苦しくのしかかってくる感じだった。「それならはなしはべつです。もし、おっしゃるとおり、ほんとうにあなたが、つまり、その、りっぱな愛国者なら……」
「そらみろ、ちょっと話し合えば、お互いに理解し合えることはよく判っていたんだ」と士官が言った。「今度は、答えるのは貴様の番だぞ。このご婦人はどうして大声で叫んでいたんだ、お前たちはこの女《ひと》に何をしたんだ?」
「あっしたちは、この女を衛兵所へ連行していたんで」
「なぜこの女《ひと》を衛兵所まで連れて行くんだ?」
「というのは、この女は公民証を持ってねえんですよ、それにね、このあいだ出た革命政府のお布令では、十時過ぎに公民証なしでパリの町をうろついているやつは、だれでもかまわねえからとっつかまえろ、ってことでしたんでね。あんたはお忘れですかい、祖国はいま危機に瀕しているんですぜ、市庁には弔旗が掲げられてるんですぜ」
すると士官が言葉を続けた。
「なるほど市庁の上には弔旗が掲げられて、フランスが危機に瀕していることは事実だ。しかしそれは、二十万人の奴隷たちがフランスに向かって進軍しているからで、十時すぎにひとりの女性がパリの町を走っているからではない。が、まあそれはどうでもいい、革命政府の布告が出ているんなら、それは貴様の権限内のことだからな、それにはじめにすぐにそう答えてくれれば、話し合いももっと短くてすんだし、あんな修羅場はなかったのにな。愛国者になるのはけっこうなことさ、だけど礼儀正しくしても悪くはないぞ、ぼくの考えでは、市民たちが尊敬すべき第一の将校といえば、彼らが自分で選び出した将校のはずじゃあないか。さて、こうなったら、お望みならその女性を連れてゆきたまえ、どうしようと勝手だよ」
「アア! お願いです」と今度は、こみ上げる不安におののきながらこの議論の一部始終を聞いていたその女性が、モオリスの胸にすがりながら叫んだ。「アア! お願いです! この半分酔っ払った、卑しいひとたちの思いのままにしないで、あたくしをお見捨てにならないでください」
「よろしい」とモオリスが言った。「ぼくの手をお執りなさい。ぼくが連中といっしょに、衛兵所までお送りしますよ」
「衛兵所へですって!」とその女性は恐怖に襲われて繰りかえした。「衛兵所へですって! どうしてあたくしを衛兵所へ連れてゆくんですの、だって、あたくしどなたにも悪いことをしておりませんでしょう?」
「あなたを衛兵所へお連れするのは」とモオリスが言った。「べつにあなたが悪いことをなさったというわけでもありませんし、また悪いことができそうだと思ったから、というわけでもないんです、ただ革命政府の布告では、証明書なしに出歩くことを禁じておりますし、あなたがそれをお持ちにならなかったからなんです」
「でもムッシュウ、あたくし存じませんでしたので」
「衛兵所までゆけば、あなたの申し開きを聞き分けてくれる親切なひともおりますよ、そうした相手なら、なんにもこわがることはありませんからね」
「ムッシュウ」とその女性は、士官の腕にぴったりと身を寄せながら言った。「あたしがこわがっているのは、恥辱ではないのです。恐ろしいのは死なのです。もし衛兵所へ連れてゆかれれば、あたくしの命はありませんわ」
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二 正体不明の女性
その声のなかには、恐怖と敬意の混じり合ったアクセントがあったので、モオリスはブルッと体を震わせた。まるで電気ショックのように、この震え声が彼の心に忍び入ったのである。
彼は、仲間同士でコソコソ相談している志願兵のほうをふり向いた。たったひとりの相手に手玉にとられたのが恥ずかしいので、仲間同士で失地回復の相談をしている意図は見えすいていた。なにしろ八人対一人であった。それに三人は銃をもち、ほかの連中はピストルや槍を手にしている。モオリスのほうはサーベル一本しかない。この闘いはどうみても対等とはいえなかった。
彼女が溜息をつきながら彼の胸に頭を預けているところをみると、その女性にしてもじゅうぶんそれを察していたのだろう。
モオリスといえば、眉をひそめ、相手を軽蔑したように唇をグッとつり上げて、サーベルを鞘から抜き取ったまま、この女性を守ってやれと命令する男としての気持と、彼女を相手に引渡したほうがいいと忠告する、市民としての義務感のあいだで心を決しかねていた。
とつぜん、レ・ボン・ザンファン街の角に、数発の銃火が光を発し、パトロール隊の規則正しい足音が聞えてきた。パトロール隊は、ひとがかたまっているのに気がつくと、そのグループからほぼ十歩ばかりのところで止り、伍長の叫び声が聞えた。
「だれか?」
「きみ!」とモオリスが叫んだ。「きみ! こっちへ来てくれ、ローラン」
この二つのパトロール隊を指揮していた男が歩きはじめ、八人の部下を従えて威勢よく近づいてきた。
「ヤア! きみか、モオリス」と伍長が言った。「ヤア、この不良め! こんな時間に街をうろついてなにをしていたんだい?」
「わかってるだろう、ぼくは『兄弟と友人』地区小隊からきたところだ」
「なるほど、そこでこれから『姉妹と女友達』地区小隊へお出ましになろうっていう寸法だな。そんなことはお見通しだよ。
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美わしき恋人よ、知りたまえ
夜半《よわ》の鐘、鳴り響くとき
誠心《まごころ》こもる男の手が
恋に泣く男の手が
ほの暗き影を伝いて
宵闇の迫りしのちに
汝《な》が上に落ちかかりし
かんぬきをあけんとて
しめやかに来たるらん
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どうだい! ざっとまあ、こんな具合じゃあないのかい?」
「ちがうよ、きみ、なにか勘違いしてるぜ。ぼくはまっすぐ家へ帰ろうとしていたんだ、するとその時、志願兵の手の中で身をもがいているこのご婦人を見つけたってわけさ。さっそくぼくは駆け寄って、どういうわけでその女性を逮捕したいのか訊ねてみたんだ」
すると、ローランが言った。
「そいつはいいや、お礼を言うぜ、『げにこれこそはフランスの|もののふ《ヽヽヽヽ》のこころばえ』っていうところだな」
そして、この詩人伍長は志願兵たちを振り返って訊ねた。
「で、どうしてこのご婦人を逮捕したんだね?」
「そのことは、先ほども中尉殿に言ったんですがね」と小グループの隊長が答えた。「なんたって、その|あま《ヽヽ》は身分証明書を持ってなかったんでさあ」
「ヤレ! ヤレ!」とローランが言った。「まったく大した罪を犯したもんだよ!」
「あんたは革命政府のお布令を知らねえんですかい?」と志願兵の隊長が訊ねた。
「先刻承知! 先刻承知だよ! だけれどな、そんなものを無効にする、べつの布告があるんだ」
「どんな布告です?」
「こいつがそうだ。
[#ここから1字下げ]
パンドとパルナッスの山々じゃ
『|愛の神《アムール》』さまがお布令をくだす
美貌と若さと優雅さならば
昼の日中《ひなか》の何時だろうが
許可証なしで歩くがいい
[#ここで字下げ終わり]
どうだい、きみ? このお布令をどう思うね。オレの見たところ、酸いも甘いもかみ分けたお布令だと思うがな」
「そりゃそうですがね。けどあっしにすりゃあ、反対する余地がないでもないような気もしますぜ。まず第一に公報にのっていませんぜ。それにあっしらは、パンドの山にもパルナッスの山の上にもいる訳でもなし。つぎにいまは昼|日中《ひなか》じゃあねえしね。とどめを差すようだが、この|あま《ヽヽ》は、きっと若くも、|べっぴん《ヽヽヽヽ》でも、粋《いき》でもありませんぜ」
「オレはその反対のほうに賭けるね」とローランが言った。「と、まあこんなわけですよお嬢さん、ひとつぼくの言う通りだということを証明してください、あなたの被《かぶ》りものを脱いで、みんなが、なるほどあなたはさっきの布告の条件ぴったりだ、と納得するようにしてみてくださいよ」
「アア! ムッシュウ」と若い女性はモオリスにぴったりと寄りそいながら言った。「先ほどはあなたの敵を相手にあたくしを守ってくださったんですから、今度はあなたのお友だちからあたくしをお守りください、お願いですわ」
「どうです、これでわかったでしょう」と志願兵の隊長が言った。「この|あま《ヽヽ》、隠れよう隠れようとしてますぜ。あっしの思ったとおり、こいつは特権階級どものスパイですぜ、とんだあばずれ女で、夜になってから手紙を届ける役目をしてるにちげえねえ」
「アア! ムッシュウ」と若い女性はモオリスのほうへ一歩踏み出しながら言った。そして、若さと、美貌と品位の匂ううっとりするような顔を見せたが、その顔をカンテラの明りが映し出した。「いかが! あたくしをごらんになって、あのひとたちが言うような様子をしておりまして?」
モオリスは恍惚境に浸っていた。今までかつて、いま目にした顔に似たような顔など、一度も夢にも見たことはなかった。ここでいう意味は、彼がほんのチラリと垣間見た、ということで、それというのもこの身許不明の女性は、顔を見せたときとほとんど同じくらい素早く、再び顔を隠してしまったからである。
「ローラン」とモオリスがうんと低声《こごえ》で言った。「逮捕したご婦人を、きみの衛兵所へ連れて行くと主張してくれ。きみならその権限がある、なにしろパトロール隊長だからな」
「よしきた!」と若い伍長が言った。「一を聞きゃあ十を知るだよ」
こう言うと、身許不明の女性のほうを向いて言葉を続けた。
「サア、行きましょう、お美しいかた、だってあなたは、布告の条件にかなっているという証拠を見せてくれないんですからね、どうしてもご同行願わなければ」
「なんだって、あんたがたに同行するんだって?」と志願兵の隊長が言った。
「おそらくそうなるな、われわれはこの女性を市庁の衛兵所へ連行するんだ、われわれはそこの警備をしているんだからな。そちらでこの女性を調査するからな」
「じょうだんじゃあねえぜ、とんでもねえはなしだ」と第一のグループの隊長が言った。
「この|あま《ヽヽ》はおいらのもんだ、見張りならおいらのほうですらあな」
「ヤア! まあきみ、きみ」とローランが言った。「そろそろこちらも癇癪をおこすぜ」
「ちきしょうめ、癇癪おこそうが、おこすめえが、おいらの知ったことじゃあねえや、おいらたちはな、共和国のまともな兵隊なんだ、おめえたちが、ウロウロと街をパトロールしているあいだに、おいらたちは国境まで押し出して、血を流そうっていうんだぜ」
「国境へ行く途中で血を流しちまわないように気をつけるんだな、エ、きみ、それにもしきみが今までより少しばかり礼儀正しくしてくれないと、そんなことも起こりそうな気がするぜ」
「礼儀だなんて、特権階級のお題目だよ、おいらたちは、半ズボンをはかねえ過激派《サン・キュロット》(革命時代、過激派は貴族の半ズボンをはかず、下層民の長ズボンを好んではいた)だい」と志願兵たちがわめいた。
「やめろ、ご婦人の前でそんな下品なことは言うな。もしかしたらこのご婦人はイギリス人かも知れないからな」とローランは言って、つぎに身許不明の女性のほうを粋な身ごなしで振りかえりながらつけ加えた。「美しき夜の鳥よ、こんな想像をしてもお腹立ちにならぬよう。
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ひとりの詩人が言いました、
オレたちゃしがないやまびこさ
低声《こごえ》でそのまま繰りかえそうよ
イギリスこそは大池の
なかに浮かんだ白鳥の巣」
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「アア! てめえは裏切ろうってんだな」と志願兵の隊長が言った。「自分で白状してるじゃあねえか、てめえはピット(小ピット、一七五九〜一八〇六。イギリスの宰相で、つねに諸国と同盟し、フランスの革命政府に対抗した)の手先で、イギリスに買収された野郎で、それに……」
「黙れッ!」とローランが言った。「どうやらきみには詩の意味が判らんらしいな。それならひとつ散文で話してやろう。よく聞けよ、オレたちは穏やかで辛抱強い国民軍だよ、だがな、みんなちゃきちゃきのパリッ子なんだ、というわけはだ、オレたちを怒らせたら、拳固が雨あられと飛ぶってことだ」
「マダム」とモオリスが言った。「あなたには事のなりゆきがお判りでしょう、それにいまどんなことが起こるかもおわかりと思います。つまり、五分後には、あなたの身代りに十人か十一人の男どもが殺し合おうっていうんです。あなたの身を守ろうとしたひとたちにとっては迷惑しごくなこの原因は、はたしてそのために血を流すだけの値打ちがあるんですか?」
「ムッシュウ」と未知の女性が両手を合わせて答えた。「あたくしこれだけしか申せませんの、たったひとつのことしか。つまり、もしいまあなたが手をこまぬいてあたくしが逮捕されるのをごらんになっていたら、あたくしにとっても、またほかのかたがたにとっても、むしろあたくしを見捨てる以上の、とりかえしもつかない大きな不幸の原因になるんです。お願いですから、あなたがその手に持っていらっしゃる剣で、あたしの心臓を突き刺してください、そしてあたくしの屍体をセーヌに投げ込んでくださいませ」
「よろしい、マダム」とモオリスが答えた。「すべてぼくが責任をとりましょう」
そして、自分の手の中ににぎりしめていたこの美しい未知の女性の手を振りほどいて、彼は国民軍の兵士に向かって言った。
「諸君、諸君の士官として、愛国者として、フランス人として、この女性を保護するように諸君に命令する。それにきみ、ローラン、もしこのならず者どもが一言でも文句を言ったら、その場で銃剣でやっつけろ!」
「射ちかた……用意ッ!」とローランが言った。
「アア! 神様! 神様!」とこの正体不明の女性はフードに頭をすっぽりと埋め、車除けの石に寄りかかりながら叫んだ。「アア! 神様! どうかあのかたをお守りください」
志願兵たちは守備体制を整えようとした。彼らのうちのひとりがピストルを一発ぶっ放し、その弾丸《たま》がモオリスの帽子を貫いた。
「構え銃《つつ》」とローランが言った。
闇の中でひとしきり、敵味方入り乱れての混乱が続き、そのあいだに一、二発の銃声がひびき、次いで呪いの言葉や絶叫やののしり声が続いた。が、だれひとり集まってくる者はいなかった、というのは、すでに説明したように、ひそかに進められていた虐殺の問題があったので、みな例の虐殺が始まったのだ、と信じきっていたからである。ただあちこちで、二、三の窓が開いたが、またすぐに閉ざされてしまった。
人数も少なく、また武器も劣っていたので、志願兵たちは間もなく戦力を失ってしまった。二人が重傷を負い、ほかの四人は胸に銃剣を突きつけられたまま、壁に沿って背中を押しつけられてしまった。
「さあて」とローランが言った。「これで、お前たちも仔羊のごとくおとなしくなってくれればいいんだがな。ところできみのほうだが、モオリス、この女性を市庁の衛兵所まで連行してほしいんだが、頼んだぜ。きみの責任だよ、わかるだろうな」
「いいとも」とモオリスが言った。それから、ぐっと声を落として彼はつけ加えた。
「で、合言葉はなんだい?」
「アア、こいつめ!」とローランが耳をかきながら言った。「合言葉か……つまり、それはだな……」
「ぼくが悪用するのが心配なんじゃあないのかい?」
「アア! どういたしましてだ」とローランが言った。「きみの好きなように使ってくれ。それはきみ次第だよ」
「で、どうなんだ?」とモオリスが続けた。
「いま教えてやるって言ってるんだよ。でも、まずこの手におえないやつらを厄介払いさせてくれ。それからきみと別れる前に、もう一言だけきみに忠告しても、腹を立てないでくれよな」
「いいとも、ぼくのほうは待ってるからな」
そしてローランは、相変らず志願兵たちを威圧している部下の国民軍の兵士たちのほうへ戻っていった。
「どうだい、もうこのくらいで|くすり《ヽヽヽ》はじゅうぶんきいただろう?」と彼は言った。
「ほんとに、もうたっぶりきいたぜ、このジロンド野郎め」と隊長が答えた。
「きみ、勘違いしちゃあ困るぜ」とローランが穏やかな口調で答えた。「オレたちは、きみよりももっと過激派《サン・キュロット》さ、なんったって、オレたちはテルモピイル・クラブのメンバーだからな、このクラブの会員についてなら、だれもその愛国心がどうのこうのと異議は唱えないと思うぜ。サア、通してやれ」とローランが続けた。「もう連中もとやかく言わんだろうからな」
「だけどこの|あま《ヽヽ》が怪しいってことは、まちげえねえ……」
「もしこの女性が怪しい女なら、喧嘩をしているうちに、ぼんやり待ってるどころか逃げ出してるぜ、おわかりのように、もう喧嘩は終ったんだ」
「ちげえねえ!」と志願兵のひとりが言った。「このテルモピイル党の仲間が言うことは、筋が通ってらあね」
「もちろん、オレの友だちがこの女性を衛兵所へ連行するんだから、いずれわかることだよ、ところでそのあいだ、オレたちのほうは、祖国の健康を祝して一杯やりに行こうじゃないか」
「一杯やりに行くんですって」と隊長が言った。
「もちろんだ、オレは|のど《ヽヽ》がからからでね、それにトマ・デュ・ルーヴルの角にちょいといかす飲屋があるのを知ってるんだ」
「ようがす! でもどうしてさっきそいつを言わなかったんですかい? あんたの愛国心を疑ったりして申しわけねえ。そこで、その証拠に国家と法の名において、抱擁といきましょうや」
「よし抱擁だ」とローランが言った。
こうして、志願兵と国民軍の兵士たちは夢中になって抱き合った。この時代には、みんな、ひとの首を打ち落とすのと同じように喜んで抱擁するのが流行ったものだった。
「行こうぜ、兄弟、トマ・デュ・ルーヴル街の角までだ」と二つのグループがいっしょになって叫んだ。
「おいらをどうしてくれるんだ!」と負傷者たちが情ない声で言った。「おいらはここへ置いてきぼりかい?」
「なるほどそうか、きみたちは置いてきぼりか」とローランが言った。「祖国のために、『愛国者を相手にして闘って』倒れたきみたちを置いてきぼりか、なるほどほんとだ。うっかりしてたんだよ、それもほんとだ。いまきみたちに担架を持ってこさせるからな。それがくるまでラ・マルセイエーズでも歌うとするか、きみたちもいくらか気が紛れるだろう。
行け、祖国の子よ
栄光の日は来れり」
それから、国民軍と志願兵たちが、腕を組みながらパレ・エガリテ広場のほうへ行くあいだ、ル・コック街の角で未知の女性とともに立ちつくしていたモオリスのほうへ近寄って、ローランが言った。
「ネエ、モオリス、ぼくはさっき、きみに忠告することがあると言ったが、いまこそ言おう。このご婦人を保護するなんて危険を冒すより、いっそオレたちといっしょにきたらどうだい。なるほどたしかにこのご婦人はチャーミングだよ、だけどそれ以上に怪しいところがあるぜ。だいいち、夜の夜中にパリの街を駈け回ってるチャーミングなご婦人なんて、まったく……」
「ムッシュウ」とその女性が言った。「お願いですから、見かけだけで判断なさらないでください」
「まず第一に、あなたはムッシュウとおっしゃいましたな。これはとんでもない誤りですよ。おわかりでしょう、お嬢さん? あれあれ、オレのほうがあなたなんて言っちまったぞ、このオレが」(革命時代は|あなた《ヴー》という呼び方は貴族的として排斥され、みな|きみ《テユ》、|あんた《ヽヽヽ》と呼んだ。また呼びかけには市民《シトワイヤン》、女市民《シトワイエンヌ》と呼び、ムッシュウやマダムの呼称も禁じられた)
「ほんとうに! そうですわ、市民《シトワイヤン》、あなたのお友だちがひとに親切にするのを、どうぞ見逃してあげてください」
「と言いますと?」
「つまり、あたくしを家まで送り、みちみちあたくしを守ってくださることですわ」
「モオリス! モオリス!」とローランが言った。「自分がなにをしようとしているか、よく考えてみろよ。きみは恐ろしい罪を犯しているんだぞ」
「ぼくだってそんなことは百も承知だよ」と青年が答えた。「でも、じゃあどうしろと言うんだい! もしぼくがこの哀れなご婦人を見放してみろよ、きっと一歩歩くたんびにパトロール隊に捕っちまうぜ」
「アア! そう、その通りですわ、|あなた《ヽヽヽ》といっしょにいる限りは……いえ、|あんた《ヽヽヽ》といっしょにいれば、市民、というつもりだったんですけれど、とにかくあたくしは助かりますわ」
「聞いたかい、この女《ひと》の言うことを、助かるってさ!」とローランが言った。「じゃあ、このひとはとんだ危険を冒してるんだな?」
「いいかい、ローラン」とモオリスが言った。「正しくものを見ようじゃあないか。つまりはこの女《ひと》だって、りっばな愛国者か貴族かのどちらかなのさ。もしこの女が貴族だったら、ぼくらがこの女を守ってやるのはとんだ間違いだし、りっぱな愛国者だったら、この女を保護するのはぼくらの義務になるわけじゃあないか」
「もういい、ごめんだぜ、エ、きみ、そんなことを聞いてると、アリストテレスにかけてはなはだ遺憾に思いそうろうだ。だってきみの論理はなってないよ。きみときたら、まさにこんな歌の文句そのままだよ。
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イリス(ギリシャ神話で神々の使い姫、虹のシンボル)のきみはわが理性を奪い
かつまたわが叡智をのぞむ」
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「お願いだ、ローラン」とモオリスが言った。「ドラだの、パルニイだの、ジャンチ・ベルナール(いずれもフランスの古詩人)などもう願い下げにしてくれ、お願いだから。ひとつまじめに話そうや。合言葉は、いったい教えるのか、教えないのか?」
「つまりはモオリス、きみはぼくを、友だちのために自分の義務を犠牲にするか、義務のために友だちを見殺しにするか、その別れ道に立たせているわけだぜ。ところでモオリス、ぼくは、自分が義務をおろそかにしてるんじゃあないか、心配なんだ」
「それなら、どちらかに決めるんだな。でも、神のみ名にかけて、すぐに決めてくれよ」
「濫用はしないだろうな?」
「きみに約束するよ」
「それじゃあじゅうぶんじゃあない。誓ってくれ」
「何にかけて誓うんだい?」
「祖国の祭壇にかけて誓うんだ」
ローランは帽子を脱いで、徽章のほうをモオリスに向けて差し出したが、モオリスのほうではこれをしごく簡単なことだと思って、この即席の祭壇に、笑顔も見せずに、言われたとおりの誓いをたてた。ローランが言った。
「さあてと、それじゃあ、これが合言葉だ。『ゴールとリュテース』(フランスとパリの古名)。もしかしたら、オレに言うつもりで、ふざけて、『ゴールとリュクレース』(リュクレースはローマの貞婦)と言うのがいるかも知れないが、平っちゃらだ、かまわんから通ってもいいぜ、いずれにしてもローマ名だからな」
「さて女市民《シトワイエンヌ》」とモーリスが言った。「これで、あなたのお指図のままにしますよ。ありがとう、ローラン」
「気をつけて行けよ」とローランが|祖国の祭壇《ヽヽヽヽヽ》をかぶりながら言った。
そして例のアナクレオン趣味(ローマの抒情詩人)に忠実なところをみせて、こんな詩句を口誦みながら遠ざかっていった。
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「さあれ、わが美わしのエレオノールよ
汝《なれ》知るや、かくたぐいなきこの罪を
その罰を欲しつつ、汝は恐る。
その罰の快楽《けらく》に酔いつ、なお恐る
いざわれに語れかし、げに汝《なれ》はなにを恐るるかを?……」[#ここで字下げ終わり]
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三 レ・フォッセ・サン・ヴィクトール街
モオリスは若い女性と二人っきりになって、しばらくはとまどってしまった。欺《だま》されているのではないかというおそれ、このとてつもない美貌から発散する魅力、熱狂的共和主義者の純粋な良心を傷つけるような淡い後悔の念が、この若い女性に手を貸そうとした瞬間に彼の心を引きもどした。「さて女市民《シトワイエンヌ》、どちらまで?」と彼が言った。
「困りましたわ! ムッシュウ、ほんとうに遠いんですもの」と彼女が答えた。
「でも……」
「植物園の脇ですの」
「よろしい。では参りましょう」
「アラ! 困りましたわ! ムッシュウ、あなたにはご迷惑ですのね、よくわかりますわ。でも、あたくしの身に起こった不幸がなかったら、通りいっぺんの危い目に会っただけだと思ったら、あたくしだって、こんな風にあなたの寛大なお気持におすがりすることはありませんでしたわ、お信じになって」
「それにしても、マダム」と、モオリスは共和政府の強制用語を忘れてしまって、当り前の人間の言葉に戻って言った。「こんな時間にパリの街をうろつくなんて、うしろ暗いところがなくてなにができるっておっしゃるんです。ごらんなさい、ぼくらを別にすれば、街にはひとっ子ひとりいないじゃありませんか?」
「ムッシュウ、そのことはもう申し上げましたでしょ。あたくし郊外の、ルールのほうのかたを訪ねてきたんですの。なにが起こったかもぜんぜん知らずに、正午に向うを出ましたの、帰り道にもまだそんなことはぜんぜん存じませんでしたわ。なにしろあたくし、一日中、ちょっと引っ込んだ家で過ごしたものですから」
「なるほど、上流のお方の邸か、貴族の隠れ家で過ごしたってわけですな」とモオリスが口ごもった。「白状してしまいなさい、女市民《シトワイエンヌ》、どうせ大きな声でぼくの保護を頼みながら、ぼくがあなたに保護の手を差しのべると、低声《こごえ》でそれを笑っているんでしょう」
「あたくしが!」と彼女が叫んだ。「どうしてそんなことをするとおっしゃるの?」
「おそらくね。ごらんなさい、ひとりの共和党員があなたのボディ・ガードをつとめてるんですよ。つまりは、その共和党員は、自分の主義を裏切っている、ざっとこんなわけですよ」
「でも市民」と未知の女性が生き生きと口をきった。「あなたは思い違いをしていらっしゃいますわ、あたくしだって、あなたと同じくらい共和国を愛しておりましてよ」
「なるほど女市民、もしあなたがりっぱな愛国者ならば、なにひとつ隠すことはないわけですよ。あなたはどこからいらしったのですか?」
「アア! ムッシュウ、お願いですから!」と未知の女が言った。
この|ムッシュウ《ヽヽヽヽヽ》という言葉のなかには、しみじみした、そして優しい恥じらいの調子がこもっていたので、モオリスはこの言葉に秘められていた感情の意味がわかるような気がした。
「きっとこの女性は、ランデヴーからの帰り道なんだ」と彼は思った。
そして理由は判らなかったが、こんなことを考えると、心臓がしめつけられるような気になるのだった。
その時から、彼は沈黙を守った。
その間に、二人の夜の散歩者は、ラ・ヴァリエール街まで辿り着いたが、その前に三組か四組のパトロール隊に出合い、それでも、いずれもあの合言葉のおかげで大手を振って通行を許された。ただ最後の一隊に会った時には、士官がちょっと難色を示した。
そこでモオリスは、合言葉のほかに、自分の名前と住所をつけ加えなければなるまいと思った。
「よろしい」と相手の士官が言った。「きみのほうはけっこう。けれどこの女市民は……」
「今度はこの女性ですか?」
「この女《ひと》はだれかね?」
「つまり……ぼくの家内の妹ですよ」
士官は二人の通行を許してくれた。
「じゃあ、あなたは結婚なさっているのですね、ムッシュウ!」と身許不明の女性が呟いた。
「していませんよ、マダム。どうしてそんなことをおっしゃるんです?」
「だってあの時に」と彼女が笑いながら言った。「あたくしがあなたの妻だとおっしゃったほうが、ずっとてっとり早かったわけではございません?」
「マダム、だいたい妻という名は、神聖な肩書ですよ、それにそう軽々しくつけていいものじゃありませんからね。なにしろ、ぼくはあなたという方を知らない始末ですから」
今度は、未知の女のほうが心臓をしめつけられる感じを味わう番で、彼女は口をつぐんだ。
今や、二人はマリー橋を渡るところだった。
若い女性はこの道行の目的地が近づくに従って足を速めていった。
ラ・トゥルネル橋を渡った。
「さて、そろそろあなたの町内へ着いたんじゃあないかと思いますがね」とサン・ベルナール河岸に足を踏み入れたときにモオリスが言った。
「そうですわ、市民。でも、ちょうどこの辺《あたり》が、ぜひともあなたに手を貸していただきたいところなんですの」
「マダム、ほんとうにあなたときたら、ぼくにずうずうしい態度をとってはいけないと言って禁じておきながら、同時にぼくの好奇心を刺戟しようと、どんなことでも平気でなさる。あまり寛大な態度とは申せませんよ。どうです、少しは信用なさったら。ぼくならその信用にはりっぱにお答えできますよ、きっとね。ぼくがいま話している相手の方がどなたか、おっしゃっていただけませんか?」
すると未知の女がほほ笑みながら言葉をついだ。
「ムッシュウ、あなたは、生涯でいちばん危い目に合っていたところを救っていただいた、そして一生あなたに感謝を捧げてやまない女を相手に喋っているんですのよ」
「ぼくはなにもそんなに感謝してほしい、なんて思っちゃあいませんよ。べつにそれほど感謝していただかなくてもいいから、そのかわりに、あなたの名前をおっしゃってください」
「とても無理ですわ」
「ところがもしさっき衛兵所へ連行されたら、最初にお会いになった隊員に、いやでも白状なさったところでしょうな」
「ところが、ぜったいに白状しませんでしたわ」
「それじゃあ、あなたは牢獄行きだ」
「どんなことでも、覚悟はできておりましたわ」
「ところがこの場合、牢獄というのは、つまり……」
「存じております、死刑台のことですわ」
「じゃあ、あなたはむしろ死刑台を選んだとおっしゃるんですか?」
「裏切りよりはね……あたくしの名前を明かすのは、とりもなおさずあるお方を裏切ることになるんですの!」
「ぼくは先ほど言ったでしょう、あなたはひとりの共和党員に、奇妙な役割をさせたんですよ!」
「あなたは、清濁あわせ飲む男のかたの役割を演じていらっしゃるんですのよ。あなたは辱めを受けている哀れな女にお会いになる、そして相手が身分の低い女なのにべつだん軽蔑もなさらずに、もう一度辱めを受けそうになると、危機一髪のところを救い上げてくださり、その女が住んでいるみすぼらしい町まで送り届けてくださる。これですべてでございましょう」
「そう、おっしゃる通りですな。見かけだけはまさにおっしゃるとおりですよ。もしぼくがあなたのお姿を見なければ、あなたがぼくにはなしをなさらなければ、たしかにその通りになったろうと思いますよ。ところがあなたの美しさは、あなたのお話しになる言葉は、身分ある女性のものですよ。ところがまさに、そのご身分が、あなたの服装や、このみすぼらしい町といかにも|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》で、こんな時間にあなたが町をうろついていらっしゃるのが、いかにもなにかミステリイを秘めているしるしのように思えるんですよ。ところがあなたは口をつぐんで喋らない……まあ、もうそのはなしはやめましょう。まだあなたのお宅からは遠いんですか、マダム?」
ちょうどその時、二人はレ・フォッセ・サン・ヴィクトール街に足を踏み入れていた。
「あの黒い小さな家をごらんください」と未知の女が、植物園の壁の向うにある一軒の家のほうに手を伸ばしながらモオリスに言った。「あそこまで参りましたら、お別れですわ」
「よろしゅうございます、マダム。なんでもご用命ください、おっしゃる通りにいたしますから」
「お怒りになって?」
「ぼくが? とんでもない。だいいち、そんなことは、あなたには何の痛痒《つうよう》も感じないでしょう?」
「それどころか、大きい問題がございますの、と申しますのは、もうひとつぜひお願いしたいことがございますので」
「というと?」
「真心をこめて、うんと卒直にお別れを申し上げたいんですの……つまり、お友だちとしてのお別れですわね!」
「友だちとしてのお別れですって? アア! 身に余る光栄ですよ、マダム。自分の相手の友だちの名前も知らず、その友だちが、恐らくまた会うのが迷惑になるんじゃないかと気懸りで、自分の住居さえ隠している男なんて、まったく奇妙キテレツな友だちですな」
若い女性は頭を垂れて、返辞をしなかった。
「そればかりか、たとえぼくが秘密を嗅ぎつけても、怨まないでくださいよ。べつにあだ心があってするわけじゃあないんですから」
「さて、着きましたわ、ムッシュウ」と正体不明の女性が言った。
二人は、高い暗い家が並び、闇に包まれた私道や、そのちょっと先にピエーヴル川の小さなせせらぎが流れているので、工場や革|なめし《ヽヽヽ》屋が軒を並べている、サン・ジャックの昔ながらの街の正面にきていた。
「ここですか?」とモオリスが言った。「やれやれ! あなたが住んでいるのがここだとおっしゃるんですか?」
「その通りですわ」
「とうてい考えられない!」
「ところがそうなんですの。ではさようなら、さようなら、あたくしの勇敢な騎士。さようなら、心の寛《ひろ》い守り神様!」
「さようなら」とモオリスは、軽い皮肉をこめて答えた。「でも、ぼくを安心させると思って、おっしゃってください、もう危ないまねはしないと」
「ぜったいいたしませんわ」
「それなら、ぼくも退散しましょう」
そしてモオリスは、二歩ばかりうしろへ退りながら冷淡な挨拶をした。
未知の女性は、しばらく同じ場所にじっと立っていた。
「こんなふうにして、あなたとお別れしたくありませんわ、サア、ムッシュウ・モオリス、お手をどうぞ」
モオリスは未知の女性に近づき、彼女に手を差し出した。
その時、彼は若い女性が彼の指に指環をはめたような感じがした。
「いけない! いけませんよ! 女市民、いったいなにをなさるんです? あなたはご自分の指環を失くしたのに、お気づきにならないんですか?」
「アラ! ムッシュウ、ずいぶん意地悪なことをおっしゃいますのね」
「ぼくは恩知らずじゃありませんからね、そうでしょう、マダム?」
「お願いですから、ムッシュウ! いえ、あなた。そんな別れかたをなさらないで。サア、なにがお望みですの? どうなさりたいんですの?」
「つまり、代価を支払うってわけですな?」と青年は苦汁にみちた表情で答えた。
「いいえ」と未知の女が、男心を唆るような口調で言った。「あたくしがあなたに無理にお願いして守っていただいているこの秘密を見逃していただくためですのよ」
モオリスは、夜の闇の中で、彼女の美しい眼差しが涙に濡れて輝いているのを見ると、そして自分の両手で握りしめている生暖い手が震えるのを感じ、ほとんど祈るようなアクセントで響いてくるこの声を耳にすると、突然に怒りが、堰をきったような昂奮の情に変わり、大声で叫んだ。
「ぼくがどうしたいか、ですって? ぼくはもう一度あなたにお目にかかりたいんだ」
「それは無理でございますわ」
「ただの一度だけ、一時間、一分、いや一秒だけでもかまいませんから」
「無理です、と申し上げたでしょう」
「なんですって! もう、ぼくとはぜったい会わないって、あなたはまじめにおっしゃるんですか?」
「ぜったいに!」と未知の女性は、悩ましげな|こだま《ヽヽヽ》のように返辞をした。
「アア! マダム。結局あなたはぼくを手玉にとっていたわけですな」
そして彼は、自分の気持を無視して、締めつけられる|ちから《ヽヽヽ》から逃れようとでもするように、長い髪をふり乱しながら、その品のいい頭をもち上げた。
正体不明の女性は、つかまえどころのない表情で彼を見つめていた。その様子を見ると彼女が、心の奥に秘めた感情を全く捨ててしまったわけでないのが、よく判った。
しばらくの沈黙ののちに彼女は口をきったが、その沈黙もようやく溜息で破られた。もっとも溜息をついて、モオリスを鎮めようとしたところで、無駄な努力にすぎなかった。
「聞いて、聞いてください! 名誉にかけて誓ってくださらない、あたくしがあなたに、六十秒数え終ったと言うまで、目をつぶっていてくださると……名誉にかけて誓ってくださる?」
「で、ぼくがそう誓ったら、いったいなにが起こるんですか?」
「あたくしの感謝の気持をあなたにお見せしますわ。ただ、お約束しますけれど、今までどなたにもこんなことはしたことはございませんので、あたくしにとっては、あなたが考えていらっしゃるよりもっともっと大変なことなんですのよ。そればかりか、きっとむずかしゅうございますわ」
「ではつまり、ぼくに教えてくださる……?」
「いいえ、とにかくあたくしを信用なさって。そうすればわかりますわ」
「マダム、ほんとに、ぼくにはあなたが天使だか悪魔だかわからなくなりましたよ」
「誓ってくださる?」
「よろしい、いいですとも、誓いましょう!」
「なにかが起こるんです、目をお開けにならないわね?……なにかが起こるんです、お判りになるわね、あなたは短刀でグサッとひと突きやられるかも知れませんのよ?」
「あなたはぼくを惑わせるんですね、この命にかけて、名誉にかけて約束をしろなんて」
「サア! お誓いになって、ムッシュウ。べつに大して危ないことじゃあございませんわ」
「よろしい! なにが起こってもかまわん、誓いましょう」と言ってモオリスは目を閉じた。
ところが彼はまた目を閉じかけたのをやめて言った。
「もう一度だけお顔を見せてください。お願いです、もう一度だけ」
若い女は微笑をうかべてフードをおろしたが、その微笑にはコケットリーが感じられないでもなかった。と同時に二つの雲の間にすべり出た月の光に、カールしたまま垂れた長い、黒檀のような髪が、墨で書いたかと思える、完璧なアーチ型をした左右の眉毛が、ビロードのような、愁《うれ》いをたたえた、アーモンドのように大きく見開かれた両眼が、こよなく優雅な形をした鼻が、サンゴのように新鮮で、艶のある唇がのぞいた。これが二度目であった。「アア! あなたは美しい、すばらしく美しい、あまり美しすぎる!」とモオリスが叫んだ。
「目を閉じていただきますわ」
モオリスは女の言う通りになった。
その女性は彼の両手をとり、彼の体を思い通りの方向に向けた。とつぜん、香水のかおる熱気が彼の顔に近づいたと思うと、ひとつの唇が彼の唇に軽く触れ、二つの唇のあいだに、さっき彼が断わって返した指環がはさまれていた。
頭にひらめく考えのように素早く、そして焔《ほのお》のように燃え上る感覚だった。モオリスは、ほとんど苦痛に似たショックを感じた。それほど、それは予期しない、おく深い感覚であり心の底まで浸みとおり、心の奥に秘めていた琴線を震わせたのである。
彼は腕を彼女のほうへ突き出して、激しく体を動かした。
「お誓いになっていますわ!」とすでに遠く離れた声が響いた。
モオリスは痙攣《けいれん》する手を目の上に当てて、誓いに背きたい誘惑に抵抗した。もう数など数えていなかった。もう考えてもいなかった。黙って、立ちつくし、体をぐらぐらと揺っていた。
しばらくすると、彼のいるところから五、六十歩ばかり向うで、ドアが閉ざされるような音が響いてきた。そして、間もなく、すべて再び深い沈黙の世界に沈んだ。
そこで彼は指を離し、目を開き、自分の周囲を見回した。その様子は眠りからさめた男のようだった。そしてまた、もし、この信じかねるような事件が否定できない現実のものだと証明してくれるあの指環が、唇のあいだにはさまれていなかったならば、ほんとに夢からさめたのではないかと思い込んでいる男の姿だった。そしてまた今しがた自分の身に起こったことはすべて、一場の夢に過ぎない、と思い込んでいる男の姿だった。
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四 時代の風習
モオリス・ランデイがわれにかえり、自分の周囲を眺めたとき、彼にはもう、右に左に長く伸びている暗い小路しか見えなかった。彼はあたりを探し、自分の立場を知ろうとしてみた。しかし、彼の心は乱れに乱れていたし、しかも夜は闇に包まれていた。しばらく顔をのぞかせて、あの未知の女性のチャーミングな顔を照らしてくれた月も、再び雲の中に隠れていた。青年はしばらく恐ろしい不安にさいなまれていたが、ようやくルール街にある家への帰路についた。
サン・タヴォワ街までくると、ル・タンプル地区を右往左往しているたくさんのパトロール隊に会って、モオリスはびっくりしてしまった。
「いったいなにごとだ、軍曹?」と彼は、今しがたレ・フォンテーヌ街を捜索してきて、いかにも忙し気なパトロール隊の隊長に訊ねた。
「なにごとか、ですって?」と軍曹が言った。「今夜、カペーのあまっ子(カペー王朝の女の意味で、マリー・アントワネットを指す。またルイ十六世は市民カペと呼ばれた)とその一党《ヽヽ》をそっくり連れ出そうとしたやつがいたんですよ」
「で、どうなったんだ?」
「どうなったか知りませんが、とにかく合言葉を知っている貴族の斥候がひとりいましてね、そいつが、国民軍の歩兵の制服を着てル・タンプル地区に忍び込んだんですがね、きっとあの|あま《ヽヽ》どもを連れ出そうとしたにちがいないんです。まあこっちにゃあついていたんですね、伍長に化けていたその野郎が、当直将校に話しかけましてね、|ムッシュウ《ヽヽヽヽヽ》なんて呼んだんで、自分のほうから尻っ尾を出したってわけですよ、ちきしょう、貴族の野郎め!」
「いまいましいな! で、その隠謀家どもを逮捕したか?」
「いえだめです。やつらはうまくずらかっちまって、散り散りばらばらになって姿を隠しちまったんですよ」
「で、そいつらを捕えることはできそうか?」
「いえね! 捕えるったって、問題になるのはひとりしかいねえんですよ、これが親分株ですが、背の高い、痩せがたの……警備についていた守備隊のひとりが手引きして、番兵の中にまぎれ込んでいたんですよ。悪党め、さんざんオレたちをあちこち駈け回らせやがって! でもね、裏側の門を見つけたんなら、レ・マドローネット(娼婦を収容していた感化院)を通って逃げたにちがいないですよ」
これがべつの場合だったら、モオリスは共和国を救うために警戒に当っている愛国者たちといっしょに、一晩中とどまっていたにちがいない。ところが、一時間前から、祖国への愛情はもう彼の唯一の観念ではなくなってしまった。そこで彼は帰路を辿り続けたが、いま聞いたニュースも彼の心の中でだんだんと融けはじめ、さきほど彼の身に起きた事件の前ではすっかり影が薄くなってしまった。もとより、こうした、いわゆる女王救出計画というやつは、愛国者たちのあいだですら、ある場合にはひとつの政策として利用されているということを知っているくらいで、ひじょうに頻発していたくらいだから、このニュースは若い共和主義者の心に大きな不安をかき立てるほどではなかった。
家に帰ると、モオリスは自分の世話係《ヽヽヽ》がいるのに気づいた。この時代にはもう召使を傭っているものはいなかった。つまり、モオリスは、自分の帰りを待っている世話係に気づいたのだが、その世話係は彼を待ちくたびれて眠り込み、ぐっすり眠りながら、もぞもぞと体を動かして|いびき《ヽヽヽ》をかいていた。
彼は世話係に、自分と同じ身分の者を相手にするような思いやりを見せて起こし、長靴をひっぱって脱がせてもらい、自分のもの思いの邪魔をされないように彼を帰し、ベッドに入った。もう時間もおそかったし、また彼も若かったから、心の中はいろいろな考えでいっぱいだったが、今度は彼まで寝入ってしまった。
その翌日、彼はナイトテーブルの上に、一通の手紙を見つけた。この手紙は、細い、エレガントな、しかし見たこともない筆跡だった。彼は封印を見た。封印には、箴言《しんげん》としてこんな英語が一語だけ書いてあった。
Nothing――無。
手紙を開くと、こんな言葉がしたためられていた。
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メルシイ!
永遠の忘却の代わりに、永遠の感謝を捧げます!
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モオリスは召使を呼んだ。真の愛国者たちは呼鈴で召使を呼んだりしない。呼鈴というやつは、下男根性の思い出を喚び起こすものだ。もちろん多くの世話係《ヽヽヽ》が、傭われて主人の家へ来ると、主人の世話をしてやるのにこんな条件をつけたものだった。
モオリスの世話係は、三十年ばかり前に洗礼盤の上で、ジャンという名前をつけてもらったが、ジャンなどという名前はいかにも貴族臭と理神論《ディスム》の臭いがふんぷんとするので、彼個人の権利を行使して、九二年(仮革命政府が成立し、カトリックが無力になった年)以来改名して、セヴォーラと名のっていた。
「セヴォーラ」とモオリスが訊ねた。「この手紙は何だい、知ってるかね?」
「いいえ、市民」
「きみにこれを渡したのはだれだい?」
「管理人です」
「管理人にこれを渡したのはだれかね?」
「おそらく、使いの者かと思いますが、政府の消印が押してありませんから」
「下へ行って、管理人に来てくれと伝えてくれないか」
頼んだ相手がモオリスだったので管理人のほうから上ってきた。モオリスは使っている世話係みんなに、とても好感を抱かれていたからで、これがもしほかの間借人が相手だったら、管理人は、そちらから降りて来てくれ、と言ったにちがいない。
管理人はアリスチッドという名前だった。
モオリスは管理人に訊ねてみた。朝の八時頃、この手紙を持ってきたのは顔も知らない男だったという。青年はこんな質問を山ほど浴びせかけ、あらゆる面から質問を繰りかえしてみたがぜんぜん|らち《ヽヽ》があかず、管理人にはそれ以外のことは答えられなかった。モオリスは管理人に十フランはずんで、もしまたその男が姿を現わしたら、知らん顔して男のあとを尾《つ》け、どこへ行ったかつきとめて、知らせて欲しいと頼んだ。
そんな男のあとを尾けてくれなどと頼まれて、ちょっと恥ずかしい気がしたものの、アリスチッドはやはり大いに気をよくした。ところが結局は、その男は再び姿を現わさなかった、ということを急いでつけ加えておこう。
独りになると、モオリスは腹がむしゃくしゃして、手紙を丸め、指から例の指環を抜いて丸めた手紙といっしょにナイトテーブルの上に置き、もう一度眠ってやろうというバカバカしい気を起こして壁のほうを向いた。ところが一時間ばかりたつと、モオリスはこんな心にもない強がりなど忘れて、指環にキスをして、手紙をもう一度読みかえしてみた。指環はすばらしく美しいサファイアだった。
すでにお話ししたように、手紙は一里先からでも特権階級の匂いが漂うような、かぐわしい魅力に溢れるものだった。
モオリスがこんなふうに、夢中になって調べているとき、ドアが開いた。モオリスは指環を指にはめ直し、手紙を枕の下に隠した。恋知り染めた男の羞らいだろうか? それとも、こんな手紙を書くほど不用意な連中と交渉を持っているのを知られたくないという、愛国者の羞恥心だろうか? なにしろ、この手紙ときたら、たきこめられた香水のかおりだけでも、この手紙を書いた者も、そしてその封を開いた者も危機にさらすていのものだった。
部屋に入ってきたのは、愛国者の服装をした青年だった。もっとも愛国者とは言っても、この上なく優雅な衣裳で着飾った愛国者である。革命服《カルマニヨール》はすばらしいラシャ地で、長ズボンはカシミヤ織、まだらな靴下は細い絹だった。赤い縁なし帽はといえば、そのエレガントな形といい、真紅に燃える色といい、本職のパリス(ギリシア神話、トロイアのプリアモスの息子の美男の羊飼い)の服装も顔負けのていであった。
その上、バンドには、ヴェルサイユの元王室武器製造所製のピストル一対を差し込み、無反《むぞり》の短いサーベルは士官学校《シヤン・ド・マルス》の学生のサーベルそっくりだった。
「ヤア! 寝ているのかい、ブルータス(熱烈な共和主義者ブルータスは、独裁者シーザーを倒す第一人者と目されていたが、シーザーの恩義を感じて逡巡していたので、同志たちは、『ブルータス、きみは眠っている』と言って非難したという故事による)」とこの新来の男が言った。「祖国は累卵《るいらん》の危機にありだぜ。それをなにごとだい!」
「ちがうよ、ローラン」とモオリスが笑いながら言った。「寝てはいないよ、考えごとをしていたのさ」
「なるほど、判った、君のウーカリス(テレマック物語の登場人物。男を誘惑するニンフ)のことだな」
「ところが、ぼくにはなんだかチンプンカンプンだ」
「へ、まさかね!」
「だれのはなしをしてるんだい? そのウーカリスてえのは何者だい?」
「つまり、あのご婦人は……」
「どんなご婦人だ?」
「サン・トノレ街のご婦人さ、例のパトロールのご婦人、オレたちが、昨夜、君とオレが、この首を賭けて戦ったご婦人のはなしさ」
「アア! なるほど」とモオリスが言った。彼には友人の言うことがすっかりわかってたのだが、ただまったくのみ込めないふりをしていたのだ。「あの身許不明の女性か!」
「で、だれだい、あのひとは?」
「ぜんぜん知らないんだ」
「シャンだったかい?」
「フン!」といかにも軽蔑したように唇を突き出してモオリスが言った。
「きっとランデヴーへ出かけて、男にすっぽかされた可哀そうな女だぜ。
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しかり、われらこそ弱きもの
世の男の苦しみの種は、つねにこの恋なれや
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ってわけだよ」
「ありそうなことだな」とモオリスが呟いた。彼もはじめのうちはそう考えていたのだが、今ではそんな考えには眉をひそめ、あの正体不明の女性が恋する女性であるよりは、むしろ陰謀に加担していてくれたほうがいい、と思うくらいだった。
「で、かの君はいずくにお住まいなりや?」
「まったく知らないんだよ」
「なんだって! きみがぜんぜん知らないなんて! 冗談じゃあないぜ!」
「どうして冗談じゃあないんだ?」
「きみがあのご婦人を送っていったんだろ?」
「マリー橋のところで見失っちまったんだよ……」
「見失ったって、きみがかい?」とローランがものすごく|はで《ヽヽ》な笑い声をあげながら叫んだ。「ご婦人がひとり、きみの手から逃れたってわけか、やれやれ!
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空の暴君、禿鷹のつめから
かの鳩は、首尾よく逃れ去りたるや?
|かもしか《ヽヽヽヽ》は、すでにその脚にしかれし
沙漠の虎より逃れ出でしか?」
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「ローラン、いったいきみは、当り前の人間みたいな口がきけないのかい? きみのその恐るべき詩を聞いてると、ぼくはまったくいらいらするんだ」
「なんだって! 当り前の人間みたいな口をきくんだって! だけどな、オレのほうが当り前の人間より喋り方がうまいと思うんだがな。なんたって、オレは散文にしろ韻文にしろ、市民ドゥムースチエ(作家、詩人)ばりに喋ってるんだからな。オレの詩はね、きみ、実はエミリーって女性と知り合いなんだが、彼女のご意見によればなかなかどうして、悪くないってはなしだぜ。まあいいや、きみのことにはなしを戻そう」
「ぼくの詩に?」
「ちがうよ、きみのエミリーのはなしさ」
「ぼくにエミリーなんて知り合いがいたかねえ?」
「ヤレ! ヤレ! きみの|かもしか《ヽヽヽヽ》が牝虎に豹変し、きみに向かって|きば《ヽヽ》をむいて見せたので、そこできみは小腹《こばら》をたてて、ところがどっこい、その実|ホの字《ヽヽヽ》になりにけり、ってとこだろう」
「ぼくが、ホの字になったって!」とモオリスが頭を振りながら言った。
「そう、きみはホの字になりにけり、だ。
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こそこそ隠すはもうごめん
|愛の島《シテール》から放たれた矢は
雷さまのジュピターの
矢よりもたしかに心にグサリ」
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「ローラン」とモオリスが、ナイトテーブルの上から穴のあいた鍵を手にとりながら言った。「言っとくけれどね、もうそんな詩は一行だってごめんだぜ、これからはぼくが口笛を吹いてひやかさないでもいられるような詩句以外は、ただの一行もごめんこうむるぜ」
「じゃあ、政治のはなしでもするか。もともと、オレが来たのはそのためなんだけれどね。例のニュースを知ってるかい?」
「カペーの後家さんが逃げようとしたのは聞いてるよ」
「オヤオヤ! ほかのことは、なにも知らんのかい?」
「じゃあ、なにかほかにもあったのかい?」
「例の名にし負うメーゾン・ルージュの騎士がパリにご登場というわけさ」
「ほんとうかい?」とモオリスは席を立ち上りながら叫んだ。
「おんみずからのご登場さ」
「でも、いつやってきたんだい?」
「昨夜だよ」
「どうやって?」
「国民軍歩兵に変装してね。ひとりの女がね、どうやらこの女は、平民の女に化けた貴族らしいんだが、城門のところでやつに衣裳を渡したんだよ。そのすぐあとで、お二人さん、手に手を組んで仲よくご来場の図だよ。歩哨がね、なんか嗅いな、と気がついたのは、お二人さんが通っちゃった後で、まったく後の祭りだ。その前に包みをかかえた女が通るのを見ていたんだな。そのあとで、その女が軍人らしい男と手を組んでもう一度通るのを見たというんだが、そこのところがちょっと曖昧なんだな。警報が出て、みんな二人のあとを追っかけたが、二人ともサン・トノレ街の一軒の邸へ消えちまったんだ、それに、まるで魔法のようにその邸のドアが開いた、というんだがね。この邸はシャンゼリゼ側にもうひとつの出口があるんだ。おやすみなさい! ってところだな。メーゾン・ルージュの騎士と仲間の女は影もかたちもなくなっちまったんだ。いずれこの邸はぶっ壊して、持ち主はあわれギロチンの露と消えるだろうな。だからといって、騎士が失敗した計画を、もう一度やり直す妨げにはならないしね。最初は四か月前で、昨日は二回目だったんだ」
「で、捕らないのかい?」とモオリスが訊ねた。
「アア! その通りなんだ。プローテ(ギリシア神話、海の神で、予言と、種々姿を変えられるところから、変幻自在のひとの意味)を補えろ、プローテを補えろってわけさ。ご存知のようにアリスチッド(紀元前六〜五世紀のアテネの将軍)が目的に達するまでには粒々辛苦を味わったわけだよ。
牧人アリステウスはペネウス河の流れる渓谷から逃れつつ……」
「オット、気をつけてくれたまえ」とモオリスが口に鍵を当てて言った。
「冗談じゃない、気をつけるのはきみのほうだぜ! だって今度はね、きみが口笛でやじろうったって、相手はウェルギリウス(『アエネアス』の作者でローマの国民詩人)だぜ」
「なるほどそうか、きみが訳してくれなければ、ぼくには何とも言えないんでね。ところでメーゾン・ルージュの騎士のはなしだが」
「そう、あいつがなかなか誇り高い男だというのは認めよう」
「事実、あれほどの大事を計画しようっていうんだから、大へんな勇気が要るね」
「でなければ大へんな愛情かだ」
「あの騎士が女王に愛情を抱いている、という噂をきみも信じてるのかい?」
「信じてはいないがね、みんなが話している通り言ってるだけだよ。もともと女王は、ほかにも多ぜいの男を迷わせているからね、女王が騎士の心を捉えたとしたって、べつに驚くにゃあ当らないだろ? こいつは受け売りだが、なんでも女王はパルナーヴ(立憲議会議員、のちにギロチンにかかる)さえ誘惑したってはなしだぜ」
「そんなことはいいが、騎士はきっとル・タンプルの中に情報源をもってるにちがいないね」
「ありそうなはなしだよ。
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愛は格子をこわします
かけがねなんか笑います
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ってやつだな」
「ローラン!」
「アッ! いけねえ」
「ところで、きみも世間のひとのように、あんなことを真に受けるかね?」
「どうして真に受けちゃあいけねえんだ?」
「だって、きみの計算によれば、女王は二百人も恋人を持つことになりそうだぜ」
「二百人、三百人、四百人だっていいぜ。あれだけ美しければ、何百人いたって不思議はないよ。オレはね、べつだん女王のほうで男たちを愛してる、なんて言っちゃあいないぜ。ところが、相手の男どもが、女王にイカれてるんだよ、女王にね。みんな太陽を仰いではいるが、太陽はみんなを見てるわけじゃあないからな」
「じゃあ、きみのはなしでは、メーゾン・ルージュの騎士は……?」
「オレが言いたいのはね、やっこさんこのところ、ちょっとばかり追いつめられているからね、もし共和国の猟犬の追跡を逃れられたら、やっこさんはそれこそ抜け目のない狐だぜ、っていうことさ」
「で、その方面のことは、革命政府はなにか手を打ったのかい?」
「政府はこんな判決を下したのさ、つまりそれによると、家は一軒ごとに、戸籍簿を開いたみたいに、窓のところに、その家に住んでる男女の名前を書いておいて、中をお見通しにしようというのさ。古代人の夢がまさに実現したわけだぜ。ひとの心の中で何事が起こっているか見通せるように、人間の心臓に窓でもあったらなあ、っていう夢だよ!」
「なるほど! すばらしい思いつきだ!」
「人間の心臓に窓を開けるのがかい?」
「ちがうよ、家のドアにリストをはりつけるというやつさ」
事実、モオリスは、こうすればあの正体不明の女性を見つけ出す一手段もできる、それでなくてもせめて、彼女の足跡を追う手懸りぐらいにはなる、と考えていたのだ。
「どうだい?」とローランが言った。「オレはもう賭けをしてきたんだがね、今度の処置で五百人ばかりの特権階級が十把ひとからげで捕えられるだろうってね。ところで、今朝ね、例の志願兵たちの代表がクラブヘ訪ねてきたぜ。昨夜の敵が案内してきたんだが、実はオレはね、連中がべロンベロンになるまで放免してやらなかったんだよ。連中は花環だの、造花でできた王冠だのをご持参でご到来さ」
「そりゃほんとかい!」とモオリスが笑いながら訊ねた。「で、人数は何人ぐらいだった?」
「しめて三十人というところさ。|ひげ《ヽヽ》もきれいに当り、ボタン穴には花を飾ってね。口上役がのたもうていわくだ。『テルモピイル・クラブの市民諸君、真の愛国者として望むところは、フランス人の団結が誤解によって|ヒビ《ヽヽ》が入ることのないように、そしてここに新たに友愛の絆《きずな》を固めん』だとさ」
「それで、どうしたい?……」
「それで、もう一度友愛の絆を固めたよ、まるでディアホワリュス(モリエール『気で病む男』の医者)みたいに何度もブツブツお題目を繰りかえしながらね。書記のテーブルで、中へ花束を投げ入れた徳利二本で、祖国への祭壇を造ったんだ。なにしろこの祝典のヒーローはきみだから、きみの頭に王冠をかぶせようとして、きみの名前を三唱したんだけれどね。肝腎かなめのきみがいないんだから、呼べど答えずだ、それでもとにかく何でもいいから王冠をかぶせなければってわけで、とりあえずワシントンの胸像に向かって戴冠式としゃれ込んだんだ。式典挙行、進行の次第は、ざっとこんなところさ」
ローランはこんなはなしを語り終えたが、このはなしは作り事ではなく、この時代はどんなことでも滑稽には思えなかったのだ。その時、街から太鼓の響きが聞えてきた。まずはじめは遠くでドロドロと鳴り続いてずっと近くまで響き渡った。これは当時ではごく当り前になっていた非常通達を知らせる音だった。
「あれはなんだろう?」とモオリスが訊ねた。
「革命政府の条令の布告さ」
「ぼくは地区までひとっ走り行ってくるよ」とモオリスがベッドからとび降りて、着換えを手伝ってもらうために世話係を呼びながら言った。
「じゃあオレは家へ帰ってお寝みだ。なにしろ昨夜は、きみの例の癇癪もちの志願兵どものおかげで、二時間ばかりしか寝ていないんだよ。騒ぎがたいしたことがなかったら、オレをそのまま寝かせといてくれ。えらい騒ぎだったら呼びにきてくれよ」
「ところで、きみはどうしてそんなにおめかししてるんだい?」とモオリスは、家へ帰ろうとして立ち上ったローランをチラリと見やりながら言った。
「そのわけはだ、オレは家へ帰るには、どうしてもベティジ街を通らなければならないんだ、そこでこのベティジ街の三番地にだね、ぼくが通りかかるといつもきまって開く窓があると思ってくれよ」
「でも、そんな格好をして、王政主義者《ミユスカダン》(元来は|しゃれ者《ヽヽヽヽ》の意味。共和主義者に対抗してわざと優雅な衣裳をつけていた)と間違えられやしないか、心配にならないのかい?」
「王政主義者だって、オレが? どっこいオイラはだ、反対に旗幟《きし》鮮明な過激派《サン・キュロット》だってことは、みんな先刻ご承知なんでね。ともかく、こと女性に対しては、少しぐらい犠牲を払っても当然のはなしだからね。祖国を崇拝することと女性崇拝は両立しない訳じゃあないものね。それどころか、両々相呼び相慕うってやつさ。
[#ここから1字下げ]
共和政府のお布令にいわく
ギリシアの美風を真似るがよい
自由の女神の祭壇ならば
|愛の女神《グラース》と好一対
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口笛でやじるんならやじってもけっこうだぜ。きみを貴族だと言って密告して、もうぜったいに|かつら《ヽヽヽ》も破れないように、クリクリ坊主に首をそってもらうからな。じゃあ、グッドバイだ、わが友よ」
ローランはモオリスに心やすげに手を差し出した。青年書記は友情をこめてその手をにぎりしめた。そしてローランは、クローリスに花束をという言葉を心に繰りかえしながら出ていった。
[#改ページ]
五 市民モオリス・ランデイとはいかなる人物か
モオリス・ランデイが大急ぎで着換えをすまして、すでにご承知のように、彼が書記として働いているルペルチエ街の地区小隊にかけつけるあいだに、この人物のこれまでの経歴を読者諸君に描いて見せよう。なんといっても彼は、力強い、寛大な生まれつきの者によく見かけるように、心中の情熱が爆発したおかげで、一躍舞台前面に躍り出たわけだから。
前の晩、正体不明の女性の身許を保証して、彼が自分はル・ルール街に住む、モオリス・ランデイだ、と名乗ったときに、この青年は正真正銘のほんとうのところを口にしたわけであった。べつに、つけ加えるとすれば、彼は法曹家と結婚した半ば貴族に属する家の子供だ、ということだろう。彼の先祖は、二百年前から永久に議会の反対党として知られ、モレ家とモオプー家の名前を後世に残した。彼の父親で好人物のランデイは、生涯を独裁主義に反対して咆哮《ほうこう》を続け、八九年の七月十四日にバスチイユが民衆の手に落ちたときには、独裁主義が好戦的な自由にとって代られたのを目のあたりにして驚愕し、そのショックで死んだが、そのときにひとり息子を後に残した。この息子はその財産をもってすればじゅうぶん独立できたが、感情的には共和派だった。
この大事件のすぐあとに続いた大革命は、その逞しさといい、男性的な円熟の境地といい、まさに論戦を展開しようとする闘士にふさわしいあらゆる条件をモオリスに用意してくれた。クラブでのたゆまぬ努力や、当時のあらゆるパンフレットを読み漁っていよいよ強固になった共和的な教育がそれであった。そうしたパンフレットを、どれほどモオリスが読まねばならなかったか、まさに神のみぞ知る、というところだ。階級制度に対する深い、しかも筋の通った軽蔑、ひとの集まりを作るいろいろな要素についての哲学的で穏健な態度、あらゆる貴族に対する絶対的な、といって個人的な感情を交えない否定的思想、過去に対する公平無私な評価、新思想に対する熱意、いろいろな組織のうちもっとも貴族的なものに対しても均等な、民衆に対する同情、そうしたものがその精神に通っていた。といっても、こうした精神は作者が選び創造したものではなく、この問題に関して作者が漁った新聞が、この物語のヒーローのために提供してくれたものである。
肉体的に言えば、モオリス・ランデイは上背は一メートル八○をこえる偉丈夫で、年格好は二十五歳か二十六歳、ヘラクレスのように筋骨逞しく、フランク族の中にあって特殊な種属として非難を浴びたフランス的美貌の持ち主だった。つまり、秀でた額、青い眼差し、栗色のカールした髪、バラ色の頬、そして象牙のように白い歯がのぞいていた。
この人物の肖像を描いたのだから、今度は市民としての位置を説明しよう。
モオリスは金持とは言えないまでも、少なくとも独立して生活できたし、モオリスの名前は尊敬を受け、どこへ行ってもすこぶるポピュラーだった。モオリスはその自由主義的な教育によって知られ、その教育よりいっそう自由な主義主張で知られていた。いわば、モオリスは、すべての若い市民層の愛国者から成る一党の首領と仰がれていたのである。おそらく、過激派《サン・キュロット》側から見れば少々生ぬるいと思われていたかも知れないし、地区小隊の国民軍兵士からすれば、若干優雅にすぎると思われていただろう。けれども、過激派とすれば、脆《もろ》い葦をもってしても、もっとも|ごつい《ヽヽヽ》棍棒をへし折ることができる、と考えて彼の生ぬるさを大目に見ていた。また、国民軍兵士たちにすれば、もし下手に彼の気にくわないような目つきでモオリスを眺めたりしようものなら、その両眼のあいだに拳固の雨を浴びせられて、|ぶっとばされて《ヽヽヽヽヽヽヽ》しまうと思ったので、彼の優雅なところにも目をつぶっていた。
さて今や、こうした肉体の、こうした精神の、そしてこれらが結びついた愛国心をもって、モオリスはバスチイユ奪取にも加担していた。ヴェルサイユ遠征にも同行した。八月十日にはさながら獅子のごとくに戦ったし、この記念すべき日々に、彼がスイス傭兵を殺したと同じほどの愛国者たちを殺したことは、彼の面目を躍如とするに足るものだった。というのは、彼は、赤い制服を着た共和国の敵(スイス傭兵)以上に、革命服を身につけたこの殺人者の暴虐を耐えるに忍びなかったからである。
域を死守する兵士たちに降伏し、無用の血を流すのを避けるよう勧告するために、パリ砲兵が今にも点火しようとした砲口に身を投げ出したのも彼であった。五十人のスイス傭兵、それよりなお多数の待ち伏せしていた貴族たちの一斉射撃をものともせず、窓から飛び込んでルーヴル宮殿に一番乗りをしたのも彼であった。そして、彼が降伏の合図に気がついたときには、すでに彼の恐るべきサーベルはゆうに十に余る制服を切り裂いていた。さらに、武器を投げ出し、哀願の手を差しのべて、命だけは助けてくれと頼む捕虜たちを、ゆっくりと虐殺する味方を見ると、彼は恐ろしい勢いでその味方の連中に切りかかった。この一事が、ローマやギリシアの古きよき時代の美挙にもふさわしいものとして、彼の評判を高めたのである。宣戦布告されると、モオリスは兵役を志願し、中尉の資格で、第一回の志願兵四千名とともに国境へ出発したが、この志願兵はパリ市が侵略者に対抗して送ったもので、その後も続いて、毎日四千人ずつ送らなければならなかった。
彼が参加した最初の戦闘、すなわちジュマップの戦いで、彼は一発の弾丸を受けた。弾丸は彼の肩の鋼鉄のような筋肉を両断し、骨に当ってつぶれた。市民の代表がモオリスを知っていたので、その代表が彼をパリヘ送還してくれて、治療することになった。まるまる一カ月、モオリスは高熱に悩まされ、苦痛のためにベッドの上を転々とした。ところが一月になると立てるようになり、名目はともかく、事実上はテルモピイル・クラブの指揮者となった。このクラブというのは、つまり暴君カペに対するあらゆる陰謀に対抗するために、武器を執ったバリの市民階級の百人ばかりの青年の集まりであった。まだある。モオリスは陰鬱な怒りのために眉をひそめ、目をカッと見開いて、額は蒼ざめ、精神的憎悪と肉体的同情との混じり合った奇妙な感情で胸をしめつけられて、拳でしっかりとサーベルを握りしめながら、国王(ルイ十六世)の処刑に立ち会ったが、おそらくこの群衆の中で、このサン・ルイ(ルイ九世、カペー王朝の名君)の後裔の首が落ち、その魂が昇天したときにじっと口をつぐんでいたのは、ただ彼ひとりだったにちがいない。首が落ちたとき、彼はその恐るべきサーベルを宙に高々と差し上げて、すべての同胞といっしょに、ただ、「自由ばんざい!」と叫んだだけだったが、今度も、例外的に、自分の声だけが同胞の声とはしっくり唱和していなかったのには気がついていなかった。
三月十日の朝、ルペルチエ街にむけて道を辿っていたのは、こんな男であり、またこの物語が、この時代にみんなが過ごしていたと同じ狂乱の日々のあいだの、彼についての姿をなおいろいろと浮彫りにしてみせてくれるだろう。
十時頃、モオリスは自分が書記をしている地区へ着いた。
蜂の巣をつついたような騒ぎだった。問題は、ジロンド党の陰謀を抑えるために、議会に請願を提出するか否か、ということだった。みなイライラしながらモオリスが来るのを待っていた。
メーゾン・ルージュの騎士の出現、自分の首に懸賞金がかけられているのを万々承知の上で、二度までもパリに姿を現わしたこの不撓不屈《ふとうふくつ》の陰謀家の度胸の噂でもちきりだった。みな、彼が再び姿を現わしたのは、前夜のル・タンプルでの計画に関係があるに違いないと思っていたし、だれも、この騎士に対する憎悪と、裏切り者や貴族ともに対する憤懣《ふんまん》をぶちまけていた。
ところが、一同の予期に反して、モオリスは気の抜けた様子で、沈黙を守り、巧みな文章で宣言書をまとめると、三時間ばかりで必要な仕事はすっかり片づけ、会議が終ったかどうか訊ねて、終ったという返辞を聞くと、帽子をとって外へ出て、サン・トノレ街のほうへ足を向けた。
そこまで行くと、彼の目にはパリがまったく新しいもののように見えた。彼はル・コック街の角を見やった。そこで昨夜、あの正体不明の美女が、兵隊たちに補えられて身をもがいている姿を彼は見たのだ。つぎに彼は、ル・コック街からマリー橋まで、つまり前夜彼女と連れ立って歩いた道を辿ってみた。いろいろなパトロール隊に止められた場所で足を停め、彼が彼女の意のままになったあの場所へきた時には、まるで二人の言葉のやりとりを心にそっと蔵《しま》っていたように、二人が交した対話を繰りかえしてみたりした。ただ時間が午後一時だったので、このそぞろ歩きのあいだじゅう太陽が輝いていて、一歩ごとに昨夜の思い出をはっきりとよみがえらせてくれた。
モオリスはいくつかの橋を渡り、間もなく、当時の名前のヴィクトール街へ着いた。
「あの女性も哀れなものさ!」と、モオリスがつぶやいた。「一晩は十二時間しかないものだとか、彼女の秘密だって、おそらく昨夜一晩しか守れない、なんて昨日は考えてもみなかったんだろうな。おてんとう様が照っているところなら、彼女が逃げ込んだ門だって難なく見つけられるだろうし、どこかの窓のところで彼女の姿を見つけないとも限らんじゃあないか?」
そこで彼は、サン・ジャックの昔ながらの町並へ入り、昨夜あの正体不明の女性に立たされたようにして、立ち停った。しばらく目を閉じていたが、あるいは、昨夜の接吻《くちづけ》がもう一度彼の唇に焼きつくだろう、などと考えていたのかもしれない。哀れな恋に狂った男よ! ところがよみがえったのは接吻の思い出だけだった。その結果、思い出だけがいっそう激しく燃え上ったのは事実だ。
モオリスは再び目を開き、二つの小路を見やった。一本は右側に、もう一本は左側に走っている。路はぬかるみになり、舗装もでこぼこで、ところどころに柵があり、せせらぎの上にかけられたいくつかの橋が横切っていた。梁《はり》のようになったアーケードや、|くぼみ《ヽヽヽ》や、あまり頑丈でない、腐った門が見えていた。まったく惨めなほど不器用な工事で、またぞっとするほど貧相な姿だった。あちこちに、生垣や、支柱を立てた板囲いをめぐらした庭があったが、また土壁で囲われたものもいくつかあった。倉庫の下に乾いた皮が下げてあり、なめし革の例のいやな、胸がムカムカするような匂いをふりまいていた。モオリスは二時間も探し回り、思案してみたが、結局なにも見つけることも、正体を見きわめることもできなかった。方向を定めようとして、十回ももとの場所へ戻ってみたが、あらゆる試みも無為に終り、探索もすべてなんの甲斐もなかった。若い女性の足跡は、霧と雨によってもうすっかり跡方もなくなってしまったらしい。
「サア行こう」とモオリスは独り言を言った。「ぼくは夢を見ていたんだ。ただのいっときだって、こんな|はきだめ《ヽヽヽヽ》が、昨夜のあの美しい仙女の隠れ家になるなんてとても考えられないからな」
あの身許不明の女性の頭上に輝いていた後光を曇らせまいとして、こう思い直したところなどをみると、この内気な共和主義者の心中には、アナクレオン風の四行詩が好きな友だち、ローランとは違った、現実的な詩があったのである。とはいえ、帰り途についた彼が絶望していたのもまた事実であった。
「さらば! 神秘な美女よ!」と彼は言った。「きみはぼくをバカか子供のようにおもちゃにしたんだ。もしほんとうに彼女がここに住んでいたら、ぼくといっしょにこんなところへきただろうか? イヤ! 腐った沼の上を飛ぶ白鳥のように、ただここを通り過ぎただけなんだ。そして空を飛び去る鳥のように、彼女の足跡も目には見えないんだ」
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六 ル・タンプル(塔の獄舎)
モオリスがげっそり失望して、ラ・トゥルネル橋を再び渡っていた、同じ日の同じ時間に、パリ国民軍の司令官の指揮する数人の警察隊員たちが、一七九二年八月十三日以来牢獄に改築されたル・タンプルの塔の中を厳重に捜索していた。
この捜索は、控えの間ひとつと、三つの部屋から成る四階の住居を特に念入りに行なっていた。
これらの部屋のひとつは、二人の女性と、ひとりの娘と、九歳の子供に当てられていたが、四人ともみな喪服に身を包んでいた。
二人の女性のうち年上のほうは、おそらく三十七、八歳になるだろう、テーブルのそばに腰かけて読書をしていた。
二人目は腰をおろし、刺繍に余念がなかったが、年頃は二十八か九というところか。
娘は十四歳で、子供のそばにいたが、子供はといえば、病の床に臥して、警察隊員たちがたてるやかましい物音で、どうみても眠れそうもないのに、まるで眠ったように目をつぶっていた。
隊員のある者はベッドを揺り、べつの者はかためてある肌着を拡げたりしていた。そして、すでに捜索を終ったべつの隊員はこの不幸な囚われの女たちに無遠慮な眼差しを注いでいた。女たちのうち、ひとりは本の上に、もうひとりは刺繍仕事の上に、そして三人目は弟に、それぞれかたくなな様子で目を落としていた。
三人のうちいちばん年上の女性は、上背があって、蒼ざめ、美貌だった。読書をしているこの女性は、ことさら自分の本に注意力を集中しているふりをしていたが、ところが、どう考えても精神を集中しているわけではなく、ただ目だけで読んでいたのだ。
そのとき、隊員のひとりが彼女に近寄り、彼女がもっていた本を乱暴にひったくり、部屋の真中へ投げ出した。
囚われの女は、テーブルのほうに手を伸ばすと、二冊目の本をとって、また読書を続けた。
山岳党員は、はじめの本をとり上げたように、二冊目の本をひったくろうとして乱暴なジェスチュアをした。ところがこのジェスチュアを見ると、窓のそばで刺繍をしていた囚われの女は体を震わせ、娘のほうは身を投げかけて、本を読んでいた女性の頭に両腕をまきつけて、泣きながら小声で言った。
「アア! かわいそうなお母さま!」
それから彼女は母を抱擁した。
そこで今度は、囚われの女が、同じように娘を抱擁するような様子で、娘の耳に口を寄せて言った。
「マリー、ストーブの口のところに手紙を隠してあるのよ、あれを取って」
「サア、サア!」と娘を乱暴にひっぱって、母親から引き離しながら隊員が言った。「いいかげんに、抱擁も終りになるかい?」
「ムッシュウ」と娘が言った。「議会は、子供たちが今後自分の母親を抱擁すべからず、という布告でも出したんですの?」
「そんなものは出さん。しかし議会は、裏切者や、貴族や、上流階級を罰すべしというお布令を出したんだ。オレたちがここへ訊問にきてるのも、そのためだ。いいか、アントワネット、答えるんだ」
こんな粗野な調子で訊問を受けた相手の女性は訊問している男を見ようともしなかった。彼女は首を反対側に向けたが、苦悩に蒼ざめ、涙が一筋伝った頼にほんのり赤味がさした。相手の男が続けた。
「今夜の計画をきさまが知らないなんて、とんでもないはなしだ。計画の張本人はどこの野郎だ?」
囚われの女のほうは、相かわらず沈黙を守っていた。
「答えたまえ、アントワネット」と、この男の姿を一目見て、少女が恐怖のために身をわななかせたのにも気づかず、サンテールが女王に近づきながら言った。この男は例の一月二十一日の朝、処刑台へ連行するために、ル・タンプルまでルイ十六世を呼びにきた人物なのだ。「答えたまえ。昨夜共和国に対して陰謀を企てたやつがおる、そしてお前たちを檻禁から救出しようとしたのだ。この檻禁はな、お前たちの罪にたいして懲罰の下るのを待って国民の意志によりお前たちに課されたものなのだ。どうだ、言いたまえ、そんな陰謀をたくらんだやつを知っておるな?」
マリー・アントワネットはこの声を耳にして体を震わせ、椅子の上でできるだけ身を引いて、避けているようにみえた。しかし、前の二人の隊員に対するより以上に頑固に、この質問に答えようとせず、隊員に対する以上に、サンテールに対して沈黙を守った。サンテールは足を荒々しくパタパタ音をたてながら言った。
「じゃあ、答えるのはごめんだと言うのか?」
囚われの女性はテーブルに三冊目の本を拡げた。
サンテールはくるりと振り返った。八万人の部下を指揮し、頻死のルイ十六世の声を押し殺すにも、ちょっと身振りひとつ見せただけでこと足りたこの男の猛烈なちからも、このあわれな囚われの女性に対してはひとたまりもなく崩れ、今度はこの女性の首を落とすこともできたが、いまは彼女の膝を曲げさせるとはできなかった。
「できみはどうだ、エリザベート」と彼は、この男たちにではなく、神に願おうとして両手を合わせて、しばらく刺繍する手を休めていた、もうひとりの女性に向かって言った。「きみは答えてくれるだろうな?」
「あなたがお訊ねになっていることは存じません。ですからお答えできませんわ」
「エエ! しぶといやつだ! 女市民カペーめ」とサンテールはいらだたしげに言った。「ところがな、わしが言ったことは明白なんだ。昨日、お前たちを逃がそうとして陰謀を企んだやつがいる、その犯人を、お前たちは知っているはずだ、わしが言いたいのはそこのところだ」
「あたくしたちは、外部のひととまったく往来《ゆきき》がございませんのよ、ムッシュウ。ですから、あたくしたちに味方してなにをしているか、またあたくしたちを目の仇にしてなにをしているかも、知ることができないんですの」
「なるほどな」と隊員が言った。「じゃあひとつ、きさまの甥のやつがなんと言うか、お伺いを立ててやろうじゃないか」
そして彼は、王子のベッドに近寄った。
この脅迫の言葉を聞いて、マリー・アントワネットがすっくと立ち上った。
「ムッシュウ、王子は病気で、病んでおります……この子を起こさないでいただきます」
「それなら返辞をしてもらおうかい」
「なにも存じません」
隊員は、すでに先程話したように、眠ったふりをしている小さな囚人のベッドにつかつかと近づいた。
「サア、サア、起きるんだ、カペーめ」と彼は荒っぽく王子を揺りなから言った。
王子は目を開いて、微笑した。
そこで隊員たちはベッドをとり囲んだ。
苦悩と恐怖のために落ち着きのなかった女王が王女にサインを送った。すると少女はこのすきを利用して、隣室へそっと入り、ストーブの口を開いて、そこから手紙をとり出し、それを燃してしまってから、急いで部屋へ戻ると、目くばせをして母親を安心させた。
「どうなさるんです?」と王子が訊ねた。
「昨夜きさまがなんにも聞かなかったか知りたいんだ」
「聞きません。ぐっすり寝ていましたから」
「どうやら、きさまはよっぽど|おねんね《ヽヽヽヽ》が好きらしいな?」
「そうなんです、だって眠っていると、夢を見れますから」
「フーン、どんな夢を見るんだ?」
「あなたがたが殺した、お父上に会う夢です」
「とにかく、なんにも聞えなかったんだな?」とサンテールが威勢よく言った。
「何にも」
「まったく、このガキ狼も、メス狼と口裏を合わしていやがる」と隊員がたけりたって言った。
「でも、陰謀があったのはまちがいないんだ」
女王がほほ笑んだ。
「このあま、オレたちを鼻先であしらってやがるぜ、このオーストリア女め!」と隊員が叫んだ。「そっちがそんな出方をするんなら、かまうもんか、革命政府の布告どおりに厳重に捜索してやろうじゃないか。立つんだ、カペーめ」
「なにをなさるんです?」と女王は我を忘れて叫んだ。「王子は病気です、熱があるんです、お判りにならないんですか? そんなことをなさるのはこの子を殺すつもりなんですね?」
「きさまの倅《せがれ》がな、ル・タンプル評議会にとっちゃあ、いつも騒動の種になるんだ。陰謀はみんな、この倅が目標になってるんだ。もっとも、お前たちみんないっしょに救け出そうと望んではいるがな。よし、よこしてくれ。――チゾン!……チゾンを呼べ」
チゾンは牢内のいろいろな力仕事を引き受けている一種の日傭いだった。彼がやってきた。四十歳ばかりの、赤銅色の、粗野で獰猛《どうもう》な顔付をした男で、黒く短く縮れた髪の毛が額のところまでたれ下っていた。
「チゾン」とサンテールが言った。「昨日、囚人たちの食糧を運んできたのはだれだ?」
チゾンはひとりの男の名前を言った。
「で、この連中の洗濯物はどうだ、だれが運んできたんだ?」
「あっしの娘でさ」
「じゃあ、お前の娘は洗濯女だな?」
「そのとおりで」
「じゃあ、お前が囚人たちのお顧客《とくい》を娘に紹介してやったわけだな?」
「どうしていけねえんですかい? ほかの連中と同じように、娘も稼いでるんでさ。もう暴君どもの銭《ぜに》じゃあねえ、囚人どもに銭《ぜに》を払っているのはお国ですからね、言ってみりゃあお国の銭《ぜに》でさあ」
「洗濯物はしっかり注意して検べる、という命令はよく知ってるな?」
「じゃあ、あっしがつとめをりっぱにやってねえって言うんですかい? りっぱに果している証拠にゃあ、昨日はね、結び目が二つついたハンカチを見つけましてね、こいつを評議員のところへ持っていったんでさ、すると大将はね、うちの女房に、結び目をほどいて、アイロンをかけて、何も言わずにマダム・カペーのところに渡してやれっていうお達しだったんでね」
ハンカチに結び目が二つついていた、とはっきり言うのを聞くと、女王は思わずゾッとして、|ひとみ《ヽヽヽ》を大きく見開いて、マダム・エリザベートと二人で視線を交わした。
「チゾン」とサンテールが言った。「お前の娘はりっぱな女市民で、だれも愛国心がどうのこうのと疑ってはいない。だがな、今日からのちは、もうル・タンプルヘ入ることはならんぞ」
「アア! 神様!」と|きも《ヽヽ》をつぶしてチゾンが言った。「あんたがたは、いってえなんてえことを言うんで? なんってえことを! あっしゃあ、もう外へ出たときしか娘の顔を見られねえわけですかい?」
チゾンは、その獰猛な眼差しをなんに向けるでもなく、自分のまわりをぐるりと眺めた。「オイラはもう出れねえんだって!」と彼は叫んだ。「なんてえことだい? いいとも! この場で出てゆきてえんだ、辞職させてもらいまさあ。あっしゃあね、裏切者でもなければ、特権階級でもねえ、牢屋へ入れとくことはできねえからね。言っときますぜ、あっしは外へ出てゆきてえんだ」
「市民」とサンテールが言った。「政府の命令に従うんだ、黙るんだ、でないと、困ったことになるぞ、お前の相手をしてるのは、このわしだからな。ここにとどまって、なにが起こるか見張ってろ。はっきり言っとくが、お前も監視されているんだぞ」
その間に、自分のことは忘れられたと思った女王は、だんだんと安心して、王子をベッドに寝かせた。
「お前の女房を呼ぶんだ」と隊員がチゾンに言った。
チゾンはひと言も口答えしないで言われたとおりにした。サンテールが脅しつけたので、彼は仔羊のようにおとなしくなってしまったのだ。
チゾンの女房が上ってくると、サンテールが言った。
「ここへ来たまえ、女市民。わしらはむこうの控えの間へ行くからな、その間に、お前は囚人の女どもの身体検査をしてくれんか」
「どうだい、お前」とチゾンが言った。「このひとたちが言うにゃあ、もう娘をル・タンプルヘ寄こしてはくれねえんだとよ」
「なんだって! 娘を寄こしてくれねえって? じゃあ、あたいたちは、もうあの娘に会えないっていうのかい?」
チゾンは頭を振った。
「で、あんたはどう言ったのさ、あのことを?」
「おいらはな、ル・タンプルの評議員に報告してな、評議会で決めたっていったんだよ。それまでにな……」
「それまでに」と女房が言った。「娘にあたしゃあ会いたいのさ」
「黙れ」とサンテールが言った。「お前にここへ来てもらったのは、女どもの身体検査をしてもらうためだ、身体検査をしろ、で、それからもう一度会って……」
「でも……それにしても!」
「なるほど! そうか!」と眉をひそめながらサンテールが言った。「どうやら面白くないらしいな」
「将軍のおっしゃるようにしろ! 言うとおりにしろよ。あとでもう一度会うっておっしゃってるのがわからねえのか」
こう言うとチゾンは、おべっかまじりの微笑をうかべながら、サンテールを見やった。
「いいわよ」と女房が言った。「サア、やっつけようよ、身体検査だなんて、いつでもオーケーさね」
男たちは出ていった。
「チゾンの奥さん」と女王が言った。「あたくしを信じて……」
「冗談じゃないよ、ぜんぜん信用なんかできるもんかね、女市民カペー」とこのものすごい女房は、歯をガチガチいわせながら言った。「国民の不幸という不幸は、もとはといえばその起こりはみんなお前が|もと《ヽヽ》なのさ。だからね、お前の体からなんか怪しいものでも見つけたら、どうなるか見てるがいいや」
四人の男たちがドアのところに控えて、もし女王が抵抗でもしたら、チゾンの女房に手を貸そうとしていた。
まず最初に女王から始まった。
女王の体から、結び目を三つつくったハンカチと、鉛筆と、肩かけと、封印用の蝋を見つけた。このハンカチは、不運にも、ちょうど、チゾンが先程語ったあのハンカチの返辞にと思って用意しておいたものだった。
「ホーラ! あたいにゃあよく判っていたのさ」とチゾンの女房が言った。「あたしゃね、警察隊員に話しといたんだよ、この女が手紙を書いていたとね、このオーストリア女め、いつだったか、あたしゃあね、シャンデリアの蝋受け皿の上で融けた蝋のしずくを見つけたのさ」
「アア、奥さん」と女王は哀願的な調子で言った。「お願いだから、向うへ見せるのは肩かけだけにしてください」
「なるほど、そうかい」と女房が言った。「お前を憐れめっていうのかい。ところでね、あたいにゃあ、憐れんでくれるものがいるかね?……あたいから、娘をとり上げようっていうんだよ」
マダム・エリザベートと王女は、なにも身につけていなかった。
チゾンの女房が警察隊員たちを呼んだので、彼らはサンテールを先頭に戻ってきた。女房は、女王の体から見つけた品物を彼らに渡すと、一同はそれを手から手へ渡し、はてもなく推測をたくましくするのだった。とりわけ、三つ結び目をつけたハンカチは、この国王一族の迫害者たちを、永いあいだ物思いにふけらせたものだった。そこでサンテールが言った。
「さて、これから議会の判決文を読んで聞かせようか」
「どんな判決文です?」と女王が訊ねた。
「お前を倅とべつべつにすべしという判決さ」
「でも、ほんとうにそんな判決があるんですか?」
「もちろんだ。国民議会はな、国家から警備すべく預けられた子供に重大な関心を払っているのでな、お前みたいに堕落ぶりの目に余る母親といっしょにしておけないと思ったわけだ……」
女王の両眼に稲妻のような光が走った。
「でも、せめて罪状ぐらい読み上げてください、ほんとうに、あなた方は虎みたいな情け知らずですわ!」
「そんなことはべつに難かしくはないぞ」と隊員のひとりが言った。「ホラ、この通りだ……」
そして彼は、ちょうどスエトニウス(ローマの史家)がアグリッピイナ(伯父に当るローマ皇帝クラウディウスと結婚してネロを生み、のちクラウディウスを毒殺してネロを帝位に就けるも、ネロに殺さる。ネロとの近親相姦で告発さる)に投げつけたような不名誉な罪状を読み上げた。
「アア!」と女王は立ち上り、蒼白になってこの上ない怒りに駆られて叫んだ。「あたくしは、これについては、世界中の母親の心に訴えます」
「サア! サア!」と隊員が言った。「こいつはもう完全に決まったことだ。ところで、オレたちはもうここに二時間も前からおみこしを据えてるんだ、一日中暇つぶしをするわけにもいかねえからな。サア立て、カペーめ、オレたちについてくるんだ」
「いけません! いけません!」と隊員とルイ王子のあいだに身を投げかけて女王が叫んだ。それはさながらメスの虎が洞穴で見せるような様子で、王子のベッドに近づくのを邪魔をしようと身構えていた。「この子をぜったいに連れてゆかせません!」
「アア、みなさん!」とマダム・エリザベートが、祈るような格好で、両手を合わせながら言った。「みなさん、神のみ名にかけて、二人の母親にご同情ください!」
「それなら話せ」とサンテールが言った。「名前を言え、お前たちの共犯者の計画を白状してしまえ、チゾンの娘が洗濯物といっしょに持ってきたハンカチの結び目と、それにお前のポケットから見つかったハンカチの結び目は、どんな意味だか説明するんだ。そうすれば、息子はべつべつにしないでおいてやろう」
マダム・エリザベートの視線は、この恐ろしい犠牲を忍んでくれ、と女王に訴えているようにみえた。
しかし女王は、眼瞼《まぶた》の隅に光る、ダイヤモンドのような涙を誇らかに拭いなから言った。
「さようなら、王子よ。天国にいらっしゃるお父上を、そしてお父上とやがて落ち合う母のことをけっして忘れてはいけませんよ。あたくしが教えたお祈りを、毎朝毎晩、かならず唱えるのですよ。さようなら、王子」
彼女は王子に最後のキスを送り、冷静な、きびしい態度で立ち上りながら言った。
「あたくしはなにも存じません。みなさん。どうぞお望みどおりになさいませ」
けれどもこの女王には、ふつうの女性の心に、とりわけふつうの母親の心にある以上の力が必要だったにちがいない。彼女は椅子の上に無気力にくずれ折れ、そのあいだに王子は連れ去られた。王子は涙を流していたが、叫び声ひとつあげず、女王に向かって腕を伸ばしていた。
王子を連れ去った三人の警察隊員の背中ごしに、ドアが再び閉ざされて、女三人だけが残った。一瞬絶望的な沈黙が続いたが、ただすすり泣きの声だけがこの沈黙を中断するのだった。
女王がまず最初に沈黙を破った。
「マリー」と女王が言った。「あの手紙はどうしました?」
「おっしゃったように、燃してしまいましたわ、お母さま」
「なかは読まずにかい?」
「読まずにです」
「それでは、最後の光明、いちばん頼りになる望みともお別れだわ!」とエリザベートがつぶやいた。
「アア! あなたの言うとおり、言うとおりです、妹よ。もう辛抱するにも疲れてしまいました!」
そして王女のほうに向き直って、「でも、せめて筆跡ぐらいは見たでしょうね、マリー?」
「はいお母さま、ちらりと」
女王は立ち上り、ドアのところへ行って、自分が監視されてはいないか見ようと、外を見回し、髪からピンを一本抜きとり、壁に近寄り、壁の割れ目から手紙の形に折った小さな紙片をとり出して、この手紙を王女に見せた。
「よおく思い出してから、あたくしに答えてくださいね。筆跡はこれと同じものじゃありませんでしたか?」
「そうです、そうですわ、お母さま」と王女が叫んだ。「そうですわ、あたくし見覚えがありますわ!」
「神様のおかげです!」と女王は夢中で膝まずきながら叫んだ。「今朝より後に、あの方がお手紙を書けたんなら、それじゃああの方は助かったんだわ、神様! 感謝いたします! あれほど心優れた友は、神の奇跡を受けるだけの値打ちはじゅうぶんございますもの」
「お母さま、どなたのことをお話しになってるんですの?」と王女が訊ねた。「そのお友だちってどんな方ですの? その方の名前をおっしゃって、あたくし神様にお祈りして、ご加護をお願いしますわ」
「そうね、あなたの言うとおりね。その方の名前はけっして忘れてはいけませんよ。というのは、栄誉と勇気にみちた貴族のお名前ですからね。そのお方は、野心のために一命を捧げようとしているのではありません、なにしろ、不幸の日々にしかお姿を見せないんですものね。その方は、いままでフランスの女王に会ったことはありません、というよりも、フランスの女王がそのお方に会わなかった、と言うべきでしょうね、それなのに、そのお方は女王を守るために一命を投げ打っていられるのです。もしかしたら、今日ではどんなりっぱな行ないも恐ろしい死で償われるように、その酬いに死ななければならなくなるかもしれません……でも……もしそのお方がなくなったら……アア! 神よ! 神よ、お恵みを! あたくしは感謝を捧げます……そのお方の名前はね……」
女王は不安な様子でまわりを見回し、声をひそめた。
「そのお方は、メーゾン・ルージュの騎士というお名前です……あのお方のために、お祈りをしてちょうだい」
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七 命を賭ける者の誓い
この女王の救出計画は、まだ実行の緒についていなかったから、やや疑わしいものではあったけれど、ある連中には怒りを、また他の連中の興味には油を注いだようなものだった。もともと、ほとんど物的な証拠をつかんで、この事件を確認したのは、公安委員会がこんな事実を突きとめたのが初めであった。すなわち、三週間ないしは一カ月前から、亡命者の一群が国境のさまざまな地点からフランスに帰った、ということである。こんなふうに、自分の首を賭けるひとたちが、なんの意図もなく命を投げ出すはずがないし、あらゆる可能性から考えてみても、この意図というのは、国王ご一家の救出に協力する、ということは明白だった。
すでに、国民議会議員オッスランの提案によって、次のような者には死刑を宣告するという、恐ろしい布告が発令されていた。
[#ここから1字下げ]
フランスに戻るべく足を踏み入れたと認められた亡命貴族すべて。
亡命の計画を抱いたと認められたフランス国民すべて。
亡命貴族ないしは亡命者の逃亡および帰還を援助したと認められた個人すべて。
亡命貴族に避難所を提供せりと認められた市民すべて。
[#ここで字下げ終わり]
この恐るべき法律が、のちの「恐怖政治」の基礎となるものであろうが、もはや足りないものといえば、嫌疑者に対する法律だけであった。
メーゾン・ルージュの騎士は、あまりに行動的かつ大胆な敵だったから、彼のパリヘの帰還、ル・タンプルヘの出現という事件は、どうしてももっとも重大な処置を誘う結果になった。かつて例を見なかったほど厳重をきわめた家宅捜索が、怪しいと思われる一団の家々に実施された。しかし、何人かの亡命貴族の婦人たちや、首斬役人と争ったところで、残されたわずかな余生を守る心配もないような数人の老人が発見され、逮捕されたほかは、この捜索にも、とりたてて成果らしい成果もなかった。
ご想像のように、この事件にひきつづいて、各地区小隊は数日間多忙をきわめた。従って、パリで最有力な地区のひとつ、ルペルチエ地区小隊の書記は、例の身許不明の女性のことなど考える暇はほとんどなかった。
サン・ジャックの古い家並を立ち去るときに決心したように、彼もまず最初は忘れようと努力した。ところが結果は、友人のローランの言う通りで、
忘れにゃならぬと思いつつ
そなたの顔が目にうかぶ
という具合であった。
ところがモオリスはなにひとつ口にせず、なにひとつ語らなかった。彼は友だちが根ほり葉ほり訊ねるのにもシラを切りとおして、例の事件の細かい顛末を心の中にそっと秘めていた。ところがローランのほうは、天真爛漫で明けっぴろげなかつてのモオリスをよく知っていたのに、今日このごろの、たえず物思いにふけり、孤独を求めている彼の姿を見ていると、彼の言葉に従えば、おそらくいたずら者のキューピッドが心をかすめたにちがいないと思っていた。
ここで銘記すべきは、その十九世紀のあいだの君主政体の歴史のうち、フランスには、キリスト紀元一七九三年と同じくらい神話的な時代はほとんど見当らない、ということである。
ところで、騎士は捕らなかった。もう彼の噂も耳にしなくなった。夫君に先立たれ、王子を引き離された女王は、王女と妹君のあいだで泣くのが唯一の慰めだった。
幼い王子は、靴直しシモンの手で世話を受けはじめた。この殉教者は、二年たたぬうちに父君や母君とあの世で落ち合うことになるはずだが、しばし平穏な日々が続いた。
火山のような山岳党も、ジロンド党を掃滅する前に一服、といった形勢だった。
モオリスは、ひとびとが疾風|怒濤《どとう》の時代の重い空気を味わっているように、この平穏の重みを噛みしめていた。そして、暇をもてあまして、その暇が、たとえ愛情とはいえないにしても、愛情にそっくりなこの感情に、夢中になって全身を預けてしまったのだ。彼は例の手紙を読み直し、美しいサファイアの指環に接吻《くちづけ》し、すでに一度誓いを立てたのに、今度こそ最後だから、と心に約束しながら、もう一度最後の試みをしてみよう、と決心した。
青年はあるひとつの事柄を考えていた。つまり、植物園地区へ出かけて、そこで仲間の国民軍兵士に情報を流してくれるように頼むことである。ところがこの最初の考えは、いわば彼が考えていた、あの未知の美女がなにかの政治的な陰謀に加担している、という考えを公表するのと同じようなものなので、彼は気持を抑えた。彼のほうでなにか不用意な動きをして、そのためにあのチャーミングな女性が革命広場へ連行され、処刑台の上であの天使のような首を落とされるようなはめになったら、と考えただけでも、モオリスの血管の中に恐ろしい戦慄《せんりつ》が走るのだった。
そこで彼は、なんの情報源もなく、たったひとりで冒険をしてみよう、と決心した。もとより、彼のプランはしごく単純である。一軒一軒の門にはられた標札が、彼に第一の指針を与えてくれるはずだ。次に、管理人に訊ねればこの神秘の謎も解けるはずだ。ルペルチエ小隊の書記という彼の資格をもってすれば、訊問する権限はじゅうぶんすぎるほどある。
もちろん、モオリスはあの未知の女性の名前を知らなかったが、推理を駆使すればたどりつけるはずである。あんなにチャーミングな女性が、その姿かたちとつり合いのとれた名前をつけていないとはとうてい考えられなかった。水の精とか、仙女とか、天使とか、なにかそんな名前だろう。なぜならば、彼女が下界に降り立ったときに、秀でた、超自然な女性の到来を迎えるように、敬意をもって迎えられたにちがいないからである。
だから、まちがいなく名前が彼の案内役に立ってくれるだろう。
モオリスは厚手の茶色いラシャの革命服を着て、礼装用の赤いボンネットをかぶり、だれにも告げずに探険に出かけた。
彼は手に、当時「憲法棒《コンスチチューション》」と呼ばれていた節くれ立った棍棒を一本たずさえていたが、彼のたくましい手にまるで柄がついたようで、この武器はヘラクレスの棍棒に匹敵するものだった。彼はポケットにルペルチエ小隊の書記の委任状を携《たずさ》えていた。これは、肉体的安全にも役立つと同時に、心理的な保証にもなった。
そこで彼は衰えはじめた陽の光にすかして、家々の門口にそれぞれなかなか達筆な筆跡で書かれた名前をかたっぱしから読みながら、再びサン・ヴィクトール街を、サン・ジャック街の古い家並を歩きはじめた。
モオリスは百軒目の家まできた、ということは、つまり百枚目の表札を見たわけである。あの正体不明の女性の足跡はまだ全くつかめないのに、彼が今まで思い描いていた種類の名前が目の前に開かれない限りは、彼としては、どうしてもあの女性だと認め、これを信じようという気にはなれなかったのである。その時、この表札を見て回る男の顔にひろがる苛立たしい表情を見て、親切そうな靴職人がドアを開け、革ひもと千枚通しを手にして表へ出てきて、眼鏡ごしにモオリスの顔を見ながら言った。
「この家の借家人のことで、なんか知りてえことでもあるんですかい? それならひとつ話してごらんなせえ。できりゃあお答えしますぜ」
「ありがとう、市民」とモオリスが口ごもった。「ぼくは友人の名前を探してるんだがね」
「その名前を言ってごらんなさい、市民。あたしゃね、この界隈の者ならみんな知ってまさあーね。そのお友だちってえのは、どこにお住まいで?」
「たしか、サン・ジャック街に住んでいたと思うんだが。でも心配なのは、もう引っ越したんじゃないかと思うんでね」
「で、名前はなんていうんです? なにしろ名前がわからなけりゃあね」
不意をつかれてモオリスは、しばらくためらっていた。それから、記憶にうかんだ最初の名前を口に出した。
「ルネっていうんだが」
「で、ご身分は?」
モオリスは革なめしの職人たちに取り巻かれていた。
「革なめし工だよ」
「それならね」と、今しがたそこへ立ち停り、いかにも好人物らしい物腰でモオリスを眺め、全然ひとを疑うことを知らないような町人が言った。「親方に訊ねなきゃあいけませんぜ」
「その通りでさ」と門番が言った。「たしかにその通りですぜ。なるほど、親方連中なら職工の名前はご存知なわけだね、ヤア、ちょうど市民ディメールがみえましたぜ、なめし工場のご主人でね、あの方の工場にゃあ五十人から職工がいますよ、あの方ならあんたに教えてくれますぜ、あの方ならね」
モオリスは振り向いた。すると上背のある、穏やかな顔付をした、いかにも富裕な工場主を思わせるような気のきいた服装をしたひとりの町人が目に入った。その町人があとをひきとって言った。
「ただですね、この門番が言ったように、姓のほうを知らないとどうもね」
「だから言ってるでしょ、ルネですよ」
「ルネはただの洗礼名でしょう。あたしがお訊ねしてるのは姓のほうなんですよ。あたしの工場に登録してる職工は、みんな自分の姓のほうを書いていますんでね」
「つまりですな」と、こんなやりとりにじりじりしてきたモオリスが言った。「姓のほうは知らないんですよ」
「なんですって!」と町人はうすら笑いをうかべながら言った。モオリスは、このうすら笑いのなかに見たくもない皮肉が浮かんでいるのに気がついた。「なんですって、市民、お友だちの姓をご存知ないんですか?」
「知らんのです」
「それじゃあ、おそらく見つかりませんよ」
こう言うと、町人はモオリスにいんぎんに挨拶して二、三歩歩き、サン・ジャック街の一軒の家に入った。
「実際、もしあんたがお友だちの姓をご存知ないんなら……」と門番が言った。
「そうなんだ、知らないんだ、姓は知らないんだ。だからどうだと言うんだ」とモオリスが言った。彼にすれば、だれかに喧嘩を売りつけられても、べつにそれを機会に自分の不機嫌をたたきつけようと思うほど、腹をたてていたわけではなかったろう。ただ、場合によってはこちらからわざわざ喧嘩を売ってやろうという気構えにもなっていた、と言うべきだろう。
「べつにどうってこたあねえけれどね、市民。ただね、あんたのお友だちの姓を知らねえんじゃあ、市民ディメールのおっしゃる通りで、おそらくその方は見つかりませんぜ」
こうして門番は、肩をそびやかして自分の住居へ戻っていった。
モオリスはこの門番を撲りつけてやりたいと思ったが、なにしろ相手は老人だった。その弱々しい姿のおかげで、老人は救われたわけである。
もしもう二十歳若かったら、モオリスは、法の前では平等でも、力の前では平等ではないという、恥さらしな光景を見せたことだったろう。
ようやく夜のとばりがあたりを包みはじめていた。そしてたそがれどきのうす明りはもう何分も残っていなかった。
彼はそのうす明りを利用して、まず第一の路地に入り、続いて二番目の路地に入った。路地の中の家のドアをひとつひとつ検べ、隅々まで探り、板塀の上をひとつひとつ眺め、ひとつひとつ土塀によじ登り、鍵穴という鍵穴から、柵の内側に一瞥を投げかけて、人気のない倉庫をノックしてみたが、なんの返辞もないので、とうとうこの無益な探検に二時間近くを費してしまった。
夜の九時の鐘が鳴りひびいた。夜はとっぷりと暮れた。もはや物音ひとつ聞えず、この人気のない界隈にはなにも動く気配もなく、昼の明りとともに生気が姿を消してしまったような感じだった。
モオリスはすっかり絶望して、うしろへ戻ろうとした。と突然、狭い私道の曲り角のところに一筋の光がさすのが見えた。彼は暗い道に入っていった。彼がここへ足を踏み込んだとたんに、十五分ばかり前から木の茂みの下の土塀につっ立っていた物見高そうな顔が、彼の一挙一動を目で追い、土塀のうしろ側へ実に正確な身ごなしで消えて行ったのには気がつかなかった。
その顔が消えて数秒後に、三人の男が同じ土塀に開いた狭いドアから出てきて、モオリスがいま姿を消した私道におどり込んだ。そのあいだに四人目の男が現われて、すこぶる慎重にこの私道の木戸を閉めた。
モオリスが私道のはずれまでゆくと、中庭にぶつかった。明りが洩れてくるのはこの中庭の向う側からだった。貧相な、ひっそりした家のドアをノックした。しかし、最初のノックの音で、明りが消えた。
モオリスはもう一度ノックをしたが、だれも彼のノックに答えてこなかった。彼には、相手がけっして返辞はしないぞ、と心に決めている気配を感じた。ノックをしたところで時間を無駄につぶすだけだ、とわかったので、彼は中庭を横切り、私道に戻った。
それと同時に、この家のドアがゆっくりと開いた。家から三人の男が出てきて、口笛が一声鳴りひびいた。
モオリスが振りかえると、ちょうど彼の持っていた棍棒二本分のところに、三つの影が見えた。
永いあいだ暗がりに慣れた目に、闇のなかに光りがさっと流れて、三本の|やいば《ヽヽ・》が褐色に輝いた。
自分がすっかり取り囲まれているのがモオリスには判った。棍棒を風車のように回したいと思うのだが、私道の幅が狭すぎて、棍棒が塀の両側にぶっついてしまう。そのとたんに、猛烈な一撃が彼の頭にふり降ろされて、彼は気を失ってしまった。土塀から出てきた四人の男の、思いがけない攻撃だった。七人の男がいちどきにモオリスの上に殺倒して、絶望的な抵抗の甲斐もなく、彼は地べたに打ち倒され、両手を縛られ、目隠しをされてしまった。
モオリスは一声も叫び声をあげなかった。救いを求めようともしなかった。ちからと勇気に溢れた男は、つねに自分自身で物事を片づけようとするものだし、他人の救いを求めるのは恥にも思えるものだ。
もっとも、モオリスが救いを求めたところで、この人気のない界隈では人っ子ひとりやってこなかったにちがいない。
そこでモオリスは結《ゆわ》かれ、前にも言ったように、悲鳴ひとつあげずに縛りつけられてしまった。
そればかりか、彼は、目かくしをしたくらいだから、相手はすぐに自分を殺すつもりはないな、と考えていた。モオリスの年配では、少しでも時間に余裕があれば、それが希望につながるものだった。
そんな訳で、彼は全精神力を傾注して、待ちうけていた。最前の戦いでまだ息づかいの荒い声が彼に訊ねた。
「きさまは何者だ?」
「お前たちが殺そうとしている男さ」とモオリスが答えた。
「そればかりじゃあない。大きな声で喋ったり、ひとを呼んだり、叫び声を上げたら死んでいただくぞ」
「もし叫ぼうと思ったら、なにも今まで待ってやしないさ」
「オレたちの訊ねることに答えてくれるだろうな?」
「まあ、まず訊いてみろ、そうすりゃあ、答えていいかどうか判るからな」
「きさまをここへ寄こしたのはだれだ?」
「そんな者はいない」
「きさま自身になにか動機があってきた、というんだな?」
「その通りだ」
「嘘をついてるな」
モオリスはいましめをほどこうとして、ものすごくあばれたが、とうていできる相談ではなかった。
「嘘なんか言うもんか!」
「きさまに何か動機があってきたにしろ、だれかが寄こしたにしろ、いずれにしろきさまはスパイだ」
「で、お前たちは臆病者というわけだ!」
「臆病者だと、オレたちが?」
「そうとも、お前たちは、縛りつけられた男ひとりに、七人か八人で相手をしている。そうして男ひとりをはずかしめようっていうんだ。臆病者め! 卑怯だぞ! 臆病者め!」
モオリスのこんな激しい言葉は、敵を気むづかしくさせる代りに、かえって落ち着かせるようにみえた。こんな激しい言葉は、むしろ、この青年が、みんなが嫌疑をかけているような人間ではないという証明になった。もしほんもののスパイだったら、震えあがって、相手のお情けにすがったにちがいない。
「べつにはずかしめようなんて思ってはいないよ」と、ずっと穏やだが、同時にまた今まで話しかけたどの声よりもずっと高圧的な声が言った。「われわれが生きているこんな時代では、悪党でなくてもスパイになれるからな。ただ、それには命を賭けねばならん」
「お前たちが、よくいらっしゃいましたぐらいの挨拶をしたら、ぼくだって正直に答えてやるさ」
「この界隈へ何しにお見えですかな?」
「女性を探しにきたんだ」
この弁解の言葉は、信用できんな、というささやきで迎えられた。このささやきが大声になり、ついにはあらしのような騒々しさに変った。
「嘘だ!」と同じ声の主が続けた。「ここには女などおらんよ。女という意味は、わしらもよくわかるが、この界隈には尻を追うような女などいないな。サア、きみの計画を白状したまえ、でなければ命はないよ」
「じやあ勝手にしろ。お前たちが正真正銘のならず者なら知らないこと、べつだんぼくを殺すのが楽しみで殺そうというわけでもあるまい」
モオリスはもう一度、彼を結えつけている縄をふりほどこうと初めの時よりいっそう激しく努力をしてみたが、前よりも期待していたわけではなかった。ところが、にわかに鋭く、痛い冷たい感触がして、胸を裂かれた。
モオリスはわれにもあらず、うしろへのけぞった。
「どうだい! 感じたろうが」と男たちのひとりが言った。「サァ、いいか、いまきさまが感じたのはチョイと締めつけてみただけだが、まだいまと同じようなやつが、八人分お見舞いするっていう勘定だぜ」
「それならやってくれ」とモオリスは、運を天に任して言った。「せめて、すぐに終らせてくれよ」
「きみは何者かね? サア!」と穏やかで同時にまた高圧的な声が言った。
「お前たちが知りたいのは、ぼくの名前か?」
「そうだ、きみの名前だ?」
「ぼくはモオリス・ランデイだ」
「なんだって!」とだれかの声が叫んだ。
「モオリス・ランデイ、革命家……愛国者の? モオリス・ランデイ、ルペルチエ小隊の書記の?」
この言葉があまり熱をこめて口をついて出たので、モオリスには、この言葉が決定的な宣告のように思えた。これに答えることは、いずれにしろ、確実に彼の運命につながることだ。
モオリスには卑怯な態度はとれなかった。彼はほんとうのスパルタ人式に、剛毅に立ち直って、しっかりした声で言った。
「そうだ、モオリス・ランデイだ。そう、モオリス・ランデイ、愛国者で、革命家で、ジャコバン党員だ。モオリス・ランディだ、ぼくのもっとも素晴しい日は、自由のために死ぬ日なんだ」
死のような沈黙がこの返辞を包んだ。
モオリス・ランデイは腕を突き出して、さきほどは切先を感じただけだったやいばが、今度こそ胸にぐさりと突き通るのをしばらく待っていた。
「ほんとうか?」と、数秒後に感動を押し殺した声が聞いた。「え、お若いかた、嘘じゃあないだろうな」
「ポケットをさぐってみろ。ぼくの委任状がある。ぼくの胸を見ろ、血で字が消えていなければ、シャツの上に、ぼくの頭文字のMとLが見えるだろう」
と、すぐにモオリスは逞しい腕で体を持ち上げられたような感じがした。持ち運ばれたのは、ごくちょっとの距離だった。彼には最初のドアが開くのが聞え、続いて二番目のドアが開く音が聞えた。ただ二番目のドアは初めのドアよりもずっと狭く、彼を担いでいる男たちが、彼といっしょに通り抜けるのに骨を折るほどだった。ささやきと耳打ちの声が続いた。
「オレももうお終いか」とモオリスは腹の中で考えた。「連中はオレの首に石を結わえつけて、ラ・ビエーヴル河のどこかの穴へほうり込むんだろう」
ところがしばらくたつと、彼を担いでいる男たちが階段を何段か上っているような感じがした。ずっと生暖い空気が彼の顔に触れて、彼は台の上に降された。ドアの鍵を念入りに二回まわす音が聞えて、足音が遠ざかっていった。彼は、ただのひと言で生命《いのち》を左右される男にとって、できるだけの注意を傾注して耳をそばだてた。そして確信と穏やかさの入りまじった調子で、彼の耳を打ったあの同じ声が聞えたような気がした。
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八 ジュヌヴィエーヴ
十五分ばかりの時間が流れたが、モオリスにはそれがまるで一世紀のように思えた。もっともそれもごく当り前なことだろう。若く、美貌で、逞しく、献身的な百人もの友人によってその力を支えられている彼は、時には、友人たちと語ってなにか大事業を成し遂げようという夢を抱いていたのだ。その彼が、まったく訳のわからぬ待ち伏せにあって、何の用意もないままに、とつぜん生命の危機にさらされたのである。
彼は、自分がなにかの部屋へ幽閉されたのがわかった。しかし、彼には見張りがつけられているだろうか?
結ばれた縄をとこうとして、もう一度努力をしてみた。彼の鋼鉄のよう筋肉がふくれ上り、固くなり、縄が肉の中にくい込んだけれども、縄はとけなかった。
もっとも恐ろしいことは、彼の両手が背中のうしろで結わえられ、目かくしを外せないことである。せめて目でも見えたら、逃げ出すこともできただろうが。
ところがさまざまなことをやってみたが、だれも邪魔するものもなかったし、また自分の周囲で身動きする気配もなかった。そこで彼は、ひとりなんだ、という観測を下した。
彼の両足は、なにか柔らかい、音のしない、砂のような、おそらくネバ土かと思われるものを踏んだ。ヒリヒリする、刺すような臭いが彼の嗅覚を刺戦し、なにか野菜のようなものがあることが判った。モオリスは、温室か、なにかそれに近いものの中にいるんだな、と思った。彼は何歩か歩いた、そして壁に突き当り、向きを変えて、両手で触ってみると、農器具に触っているような感じがしたので、歓喜の叫び声をあげた。
驚くべき努力の甲斐あって、彼は農器具をひとつひとつ、全部調べてみることに成功した。こうなると、彼の逃亡はもう時間の問題だった。偶然にしろ、天の配剤にしろ、彼に五分の猶予があれば、この道具類のなかになにか刃物でも見つけられれば、彼は救われたのだ。
彼はシャベルを見つけた。
シャベルを逆さにして、鉄の部分を上にするのにも全身の力を使って、悪戦苦闘しなければならないような巧妙な縛り方だった。尻を使ってこの鉄の部分を壁に押えつけて、両手首を縛っている縄を切った、というよりも、むしろ磨りつぶしたというほうが当っているだろう。この作業は時間をくった。シャベルで切るにはずいぶん時間がかかった。汗が彼の額から流れ落ちた。彼に、こちらへ近づいてくる足音が聞えた。最後の、ものすごい、異状な、ちからいっぱいの努力をふり絞った。縄が半分切れて、ほどけた。
今度こそ、彼は歓喜の叫び声をあげた。これで、少なくとも同じ死ぬにしても身を守ることはできる。
モオリスは目にかぶさった目かくしをむしりとった。
彼の思惑は外れていなかった。彼は、温室ではなかったが、気候の悪い時に戸外に放ってはおけない、葉の厚い植物を何種類かしまってある小屋の中にいたのだ。隅のほうに園芸用品があったが、これがじつに彼の役にたったのである。彼が立っている正面に窓があった。窓のほうに走り寄った。窓には格子がはまり、騎兵銃を手にした男が、前に歩哨として控えていた。
庭の向う側、約三十歩ばかり離れたところに、モオリスがいる小屋と対《つい》になった小さな|あずま《ヽヽヽ》屋が立っていた。鎧戸が下りていたが、この鎧戸をすかして、一条の明りが洩れていた。
彼はドアに近づいて耳をすました。もうひとりの歩哨がドアの前を行ったりきたりしていた。彼がさっき聞いた足音はこれだ。
しかし、廊下の奥のほうから、ボソボソいう声が拡がってきた。議論は明らかに口喧嘩に変っていた。それに続いた言葉は、何を話しているのか、モオリスにはよく聞きとれなかった。ところが彼のところまでいくつかの言葉が聞えてきたが、まるでこの言葉だけは、ずっと近いところから聞えるかのように思えた。その言葉のうちから、スパイだとか、短刀だとか、死だとかいう文句が耳に入るのだった。
モオリスはさらに注意をこらした。ドアが開いたので、ずっとはっきり聞えるようになった。
「そうとも」とある声が言った。「そうだ、あいつはスパイだ。なにかを見つけ出したぞ。まちがいなく、われわれの秘密を嗅ぎつけるためにだれかが寄こしたんだ。あいつを逃がしてやったら、密告されるぐらいの危険を犯すのは覚悟しなければ」
「でも、やつに約束させたらどうだ?」とべつの声が言った。
「約束ねえ、なるほど約束ぐらいはするだろうよ、でもな、そんなものは裏切るぜ。あいつは約束を信用できるほど紳士だっていうのかい?」
モオリスは、紳士ならば、一度立てた誓いを守らなければならない、などといまだに主張する男たちがいる、などと思うと、歯ぎしりをする思いだった。
「でも、われわれのことを密告するといったって、やつはそれほど知ってるかな?」
「たしかに大したことは知らん。われわれがなにをしているかやつは知らんよ。でも住居を知られたからには、今度はお供を多勢連れて引っかえしてくるぜ」
文句ない議論のようにみえた。
「よろしい」と、首領株の声として、すでに何度かモオリスの耳を打った声が言った。
「じゃあそれで決まったのかな?」
「その通りです、まちがいなくイエスです。あなたがそんな寛大になさるお気持がわからんのですよ。もし公安委員会がわれわれを逮捕したら、連中はどんな方法もあえて辞さないぐらいのことは、あなただってお判りでしょうが」
「じやあ、きみたちはきみたちの決議をどうしても変えない、というわけだね、諸君?」
「おそらくその通りですな、それに、願わくば、あなたも反対なさらないように、と思うんですがね」
「だって諸君、わたしにはわずか一票しかないんだ。ぼくの票は彼を自由放免にするほうに入れた。きみたちには六票ある、六票が六票とも死のほうに入れた。だから死ということは決まったわけだろう」
モオリスの額に流れた汗が、とつぜん氷のように冷たくなった。
「叫んだり、わめいたりするだろうね、きっと、せめてマダム・ディメールからは離れたところでやってくれるだろうね?」とその声が言った。
「あれはなにも知らん。向いの離れにいるからな」
「マダム・ディメールだって」とモオリスがつぶやいた。「なるほどわかりはじめたぞ。オレはあの|なめし《ヽヽヽ》革工場の主人の家にいるのか、サン・ジャック街でオレに話しかけ、オレが友だちの名前を言えなかったら、オレのことをせせら笑って行っちまったあの男の家に、だけど、|なめし《ヽヽヽ》革工場の主人がオレを殺したところで、何の利益になるというんだ?」
「ま、いずれにしろ」と彼は言った。「連中に殺される前に、一人以上は殺《や》っつけてやるぞ」
そして彼は無害な道具にとびついたが、この道具も、彼の手にかかると、いずれ恐るべき武器に早変りするだろう。
それから、もう一度ドアのうしろへ戻り、グッとドアを押し拡げたら、ちょうどそのうしろに隠れられるような位置に立った。
彼の心臓はドキドキ鼓動して、胸が破裂しそうだった。そして、沈黙の中で彼の心臓の鼓動の音が聞えた。
突然、モオリスは頭の先から爪先までブルブルッと震えた。こんな声が聞えたからだ。
「こう思うんだがどうだろう、ガラスをたっぷり壊しておいてね、格子越しに騎兵銃でやつを射ち殺したら」
「イヤ! とんでもない、だめだよ、銃声はいかん」とべつの声が言った。「銃声がしたらわれわれの立場がまずくなる。アア! あなたですか、ディメール、で奥さんは?」
「鎧戸越しに覗いてきたところだが、大丈夫、あれはぜんぜん変に思っておらんよ、本を読んでいるよ」
「ディメール、あなたが決めてください。どうです、騎兵銃で一発やりますか? それとも短刀でブスリと?」
「よし、短刀だ。サア、やろう!」
「サア、やるぞ!」五人か六人かの声が異口同音に繰りかえした。
モオリスは革命の落し子で、青銅のような心を持ち、この時代の多くのひとびとと同じく無神論者の魂を持っていた。ところが、このドアのうしろで唱えられた、「サア、やるぞ!」というかけ声が、彼を死から引き離してくれたにちがいない。彼は、まだほんとうに小さな子供の頃、彼を膝まずかせてお祈りをさせる時、母親が教えてくれた十字の切り方を思い出した。
足音が近づいたが、止り、それから鍵穴で鍵のきしる音がして、ドアがゆっくりと開いた。この短い時間が流れるあいだに、モオリスは心の中で言った。
「もしこちらで相手をやっつけるスキを逃したら、オレのほうが殺されちまうだろう。人殺しどもに飛びかかって、相手に不意打ちをかけてやるんだ。庭から路地に出れれば、助かるかもしれない」
アッという間に、相手に恐怖を与えるというより、脅かすような獰猛な叫び声をあげながら、ライオンのように飛びかかった。相手はモオリスが手を結わえられ、目かくしされていると信じきっていて、こんな攻撃を受けるなどとは夢にも思っていなかったので、最初の二人はぶちのめされ、ほかの連中はうしろへ退いた。鋼鉄のような|ひかがみ《ヽヽヽヽ》のおかげで、わずか一秒のうちに二十メートルほど走り抜け、廊下の先の、庭に面して大きく開かれたドアを見つけて、十歩ばかり飛ぶように駈け、庭へ入るとできるだけ正確に方向を定めて門のほうへ走った。
門は二重の|かんぬき《ヽヽヽヽ》と錠前をつけて閉ざされていた。モオリスは二本のかんぬきを外して、錠前を開けようとしたが、鍵がなかった。
その間に、彼を追跡してきた男たちが、玄関の階段のところまで着き、彼の姿に気づいた。
「あそこだぞ」と彼らは叫んだ。「狙え、ディメール、狙え。殺せ! 殺っつけろ!」
モオリスはうめき声をあげた。庭に閉じこめられたのだ。目測で土塀の高さをはかった。高さは三メートルばかりあった。
すべてが素早く、一瞬のうちに過ぎた。
殺人者たちは、彼を追って殺倒してきた。
モオリスは、彼らの約三十歩ほど前にいた。彼はこのチャンスを確実にものにしようと、どんな影でもいいから命拾いのチャンスを求めようとする死刑囚のような目付で、あたりをぐるりと見渡した。
離れの家と、鎧戸が目に入った。鎧戸の向う側に明りがさしている。
ひと飛びでじゅうぶんだった、ひととびで三メートルほど飛び、鎧戸をつかみ、ひきちぎって、窓をぶちこわしながら、窓をのりこえて、明りのついた部屋へ転り込んだ。部屋の中で、ひとりの女性が炉ばたに坐って本を読んでいた。
その女性はゾッとしたように立ち上り、救いを求めようとした。
「どいていろ、ジュヌヴィエーヴ、どいていろ」とディメールの声が叫んだ。「どいていろ、わしがその男を殺すから!」
モオリスには、自分の十歩ばかり先で、騎兵銃の銃身が下がるのが見えた。
ところがその女性が彼を見るやいなや、夫に命令されたとおりに身をよける代りに、恐ろしい叫び声をあげて、モオリスと騎兵銃の銃身とのあいだに割り込んだ。
この動作がこの寛大な女性にモオリスの注意を惹きつけた。この女性の見せた最初の動作は彼を守ることだったのである。
今度は彼が叫び声をあげる番だった。
これこそ、あれほど探し回った女性だったのだ。「あなたは!……あなたは!……」と彼は叫んだ。
「お黙りになって!」と彼女が言った。
それから手に手にさまざまな武器を持った殺人者のほうを向くと、窓のほうへ近寄った。
「アア! このかたを殺してはいけませんわ!」と彼女は叫んだ。
「こいつはスパイだ」とディメールが言った。その柔和で穏やかな顔付は、執念深い決心をたたえた表情に変っていた。「こいつはスパイだ。死んでもらわなければならん」
「スパイですって、このかたが?」とジュヌヴィエーヴが言った。「このかたがスパイだとおっしゃるの? こちらへいらしって、ディメール。ひと言だけ申し上げたいことがありますの、それを聞けば、あなたがとんでもない思い違いをしていらっしゃるのが、よくおわかりになりますわ」
ディメールは窓に近寄った。ジュヌヴィエーヴは彼に近づき、耳のほうに身をかがめてごく低い声で二言三言話した。
なめし革の工場主が頭を上げた。
「このおかたが?」
「このかたなんです」とジュヌヴィエーヴが言った。
「まちがいないな?」
その女性は今度はべつに返辞をしなかった。しかし、モオリスのほうを向いて、ほほ笑みながら彼に手を差し出した。
ディメールの顔付は、そこで寛容と冷淡さの入り混じった奇妙な表情をとり戻した。彼は騎兵銃の床尾を地面につけて言った。
「それなら、はなしはべつだ」
それから彼のうしろに控えている仲間に合図をすると、彼らといっしょに離れたところへ行き、なにかちょっと話しをすると、男たちは遠ざかっていった。
「指環をかくしておいて」とそのあいだにジュヌヴィエーヴが言った。「ここでは、みんなその指環を知っておりますの」
モオリスは急いで指から指環を抜きとり、チョッキのポケットにすべり込ませた。
しばらくすると離れのドアが開き、ディメールが武器を持たずに、モオリスのほうへ歩み寄った。
「失礼しました、市民。あなたには感謝しなければならんと、もっと早く気がつけばよかったんですが! わたしの家内は、三月十日の夜あなたのお世話になったことをよく覚えていながら、お名前をすっかり忘れておりまして。ですからあたしたちは、相手がだれかということは、まったく判らなかったという始末なんですよ。そうでなければ、あたしたちは、一瞬だってあなたのご名誉を疑ったり、あなたのお気持を変に思ったりすることもなかったんですが。ま、そんなわけですから、もう一度失礼をお詫びします!」
モオリスは茫然としていた。彼がフラフラしないで立っていられたのは奇跡だった。頭がグラグラするような気がして、今にも倒れてしまいそうだった
彼は煖炉によりかかった。
「でもそれだったら」と彼は言った。「どうしてぼくを殺そうなんて思ったんです?」
「実はね、市民、秘密がありましてね、あなたの律気なところを見込んで打ち明けましょう。ご存知のように、わたしは革なめし工の親方で、この製革工場の主人なんですよ。革をなめすのにあたしどもで使っている酸類はね、ほとんどが禁制品になっておりましてね。ところがですよ、うちで使っていた密輸入をやっているいく人かの連中が、市庁へ密告しようなんていうつもりになりましてね。どうもあなたが探りを入れているらしい様子なので、心配したってわけですよ。うちにいる密輸入をやってる男たちがあなたの赤いボンネットや、いかにも確信あり気な様子を見て、わたしよりもっと心配しちまいましてね、いえ、あんたを殺そうと決めたっていうことを、べつに隠すつもりはありませんよ」
「それはぼくもよく知ってますよ」とモオリスが叫んだ。「あなたは新しいことをなにも話してはおりませんよ。ぼくはあなた方のやり取りも聞いたし、騎兵銃もこの目で見ましたからね」
「もう失礼はお詫びしたじゃあありませんか」とディメールがいかにも優しい好人物のような様子でつけ加えた。「そこでひとつこのことを考えてみてください、あたしたち、というのはつまりですな、あたしと共同経営者のムッシュウ・モランのことですが、当節のこのごたごたを利用して|ひとやま《ヽヽヽヽ》当ててやろうという気になりましてね。あたしたちはね、軍隊の背嚢《はいのう》の注文を受けて納入しているんですよ。毎日、これを千五百個から二千個作っているんですがね。今日このごろのごたごた続きのご時世のおかげで、市庁のほうも仕事が手いっぱいですからね、あたしたちのほうの計算を正確に監査するだけの暇はとうていありませんのでね、そんなわけで、まあはっきり申し上げて、ごたごたをいいことにしてガッポリ儲けさせていただこう、というところなんですよ。それにもうひとつおまけがあるんですが、お話ししたように、密輸入をやって手に入れている材料のほうでね、二百パーセントから稼がせてもらえるんですよ」
「いやおどろきましたね! それだけでもたいへんな利益だと思いますよ。今になってようやく、ぼくが密告したらその儲けもオジャンになりゃしないか、という心配にも納得がゆきましたよ。でももう、あなたもぼくの身分が判ったんだし、安心なさったんじゃありませんか?」
「そりゃもう、今じゃああなたに約束してもらおうなんて申しませんよ」とディメールが言った。それからモオリスの肩に手をかけて、微笑を浮かべながら彼を見つめた。
「どうです、今ではあたしたちは内輪同士、心やすだてに申し上げるんですが、あなたはここへ何をしにいらしったんです? これはもちろんのことですが」と皮なめし業者がつけ加えた。「もしおっしゃりたくなければ、おっしゃらなくても一向かまいませんがね」
「でも、そのことはもうお話ししたと思いますが」とモオリスが口ごもった。
「さよう、女性のはなしでしたね」と町人が言った。「女性のことだということは存じておりますよ」
「いやはや! お許しください、市民」とモオリスが言った。「あなたに説明しなきゃならないことはじゅうぶん判っているんですがね。そうなんです、このあいだの晩、マスクをつけてぼくにこの界隈に住んでいると言った女性を探していたんですよ。相手の名前も、身分も、住居も知らないんですよ。ただね、ぼくはその女性を夢中になって愛しちまったんです、そのひとは小柄で……」
ジュヌヴィエーヴは大柄だった。
「ブロンドで、とても活発な様子で……」
ジュヌヴィエーヴは褐色の髪で、物思わし気な大きな目だった。
「つまり尻軽な女工さんでしようね……」とモオリスが続けた。「だからぼくのほうでも、相手のお気に召すようにと思って、こんな俗っぽい服を着てきたんですよ」
「なるほど、これですっかり説明がつきましたな」と控えめだが、陰険な目つきをしてもそぐわないような、天使のようにおおらかな様子でディメールは言った。
ジュヌヴイエーヴの顔にもみじが散った、そして顔が赤くなったと感じると、くるりと向きをかえた。
「哀れな市民ランデイという図でしたな」と笑いだからディメールが言った。「まったく不愉快な時間を過ごさせてしまいましたが、あたしがひとに意地悪なことをするなんて、あなたが最後の方ですよ。まったくこんなりっぱな愛国者を、同胞をねえ!……しかし、正直なはなし、あたしとすれば、なにか悪意を持った男があなたの名前を|かたって《ヽヽヽヽ》……」
「もうそのはなしはやめましようよ」ともうそろそろ引き上げるしお時だと思ったモオリスは言った。「帰り途まで連れていっていただけますか、それにもう忘れて……」
「帰り途までですと?」とディメールが言った。「お帰りになるんですか? アア! まだいけません! まだ困りますよ、あたしは、と申すよりあたしとあたしの共同経営者ですが、とにかくあたしたちは、今夜、さきほどあなたの首を絞めようとした勇敢な連中を、夕食に招待してあるんですよ。あなたにも連中といっしょに晩餐をあがっていただけるってあてにしているんですが。あの連中も見かけほど悪い人間でないのがお判りになりますよ」
「でも」とジュヌヴィエーヴのそばで数時間過ごせると思うと、歓喜の絶頂でモオリスが言った。「ほんとうに、お受けしていいかどうか」
「なんですって! お受けくださいますか。お受けくださると思っておりましたよ。みんな、あなたと同じように正真正銘の愛国者ですよ。もちろん、あたしは、われわれみんないっしよに食事ができなければ、あなたがあたしをほんとうに許してくださったとは思いませんがね」
ジュヌヴィエーヴはひと言も口をきかなかった。モオリスの心は傷んだ。
「実は」と青年が口ごもった。「ご迷惑じゃないか心配なんですが、市民、なにしろこんな服で……それに顔のほうも汚れていて……」
ジュヌヴィエーヴがおずおずと彼を見た。
「喜んでおもてなしをいたしますわ」と彼女が言った。
「お受けしましょう、女市民」とモオリスがお辞儀しながら答えた。
「よろしい、ではとにかく、仲間たちを安心させてきますよ」と製革業者が言った。「そのあいだ、どうぞ体を暖めていてください」
彼が出てゆくと、モオリスとジュヌヴイエーヴは差し向かいになった。
「アア! ムッシュウ」と彼女が言った。彼女はそのアクセントのなかに、非難の思いをこめようと思ったのだが無駄だった。「あなたは約束をお破りになりましたのね、不用意でしたわ」
「なんですって、マダム! ぼくがなにかあなたにご迷惑になるようなことでも? アア、それなら、どうかお許しください。ぼくはもう引き上げますし、以後ぜったいに……」
「神様!」と彼女が立ち上りながら叫んだ。「あなたは胸にお怪我をしていらっしゃいますわ! シャツが血で真赤に染って!」
たしかに、モオリスの薄い真白なシャツ、厚ぼったい衣裳と奇妙なコントラストをなしたシャツの上に、大きな赤い|まだら《ヽヽヽ》が拡がり、乾いていた。
「アア! なんにもご心配なさる必要はありませんよ、マダム。密輸入者のひとりが、短刀で突っついたんですよ」
ジュヌヴィエーヴは蒼白になって、彼のほうに手をのばした。
「お許しください」と彼女がつぶやいた。「みんな、あなたにひどいことをしましたのね。あなたはあたくしの命の恩人なのに、あたくしはもう少しであなたのお命を縮める原因になるところでしたわ」
「あなたを見つけ出せたんですもの、じゅうぶん報いは受けていると言えますよ。いかがですか、ぼくが探していたのは、あなた以外のかただなどと、少しでもお信じになりませんでしたか?」
「あたくしといっしょにいらして」とジュヌヴィエーヴがさえぎった。「下着をさし上げますわ……ほかのお客さまが、そんななりをなさっているあなたにお会いするなんていけませんものね。そんなことをしたら、あの人たちにあんまりひどい非難を投げつけるようなものですもの」
「ぼくはご迷惑じゃあないんですね?」と嘆息をつきながらモオリスが言った。
「ちっとも。あたくし、なすべきことをしているだけですわ」
そして彼女はつけ加えた。
「むしろ大喜びでしておりますのよ」
そこでジュヌヴィエーヴは、モオリスを、優雅で品のいい、大きな化粧室へ案内した。彼には、皮なめしの親方の家にこんな部屋があるなど思ってもみなかった。たしかにこの皮なめしの親方は、百万長者のように思えた。
それから彼女は、箪笥を全部開けて言った。
「どうぞ、ご自由にお取りになって」
そして彼女は出ていった。
モオリスが部屋から出ると、すでに戻っていたディメールに会った。「サア、サア」と彼は言った。「テーブルヘどうぞ! みんなあなたをお待ちしていますよ」
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九 晩餐
ディメールとジュヌヴィエーヴのあとについて、最初に案内された建物の真中にある食堂ヘモオリスが入ると、晩餐の仕度はもうすっかりできていたが、食堂はまだ空だった。
続いて六人の客が、つぎつぎに入ってきた。
みな見たところいかにも気分の良さそうな、そして大部分がまだ若い男で、当時流行の服装をしていた。二、三人の男は革命服に赤いボンネットといういでたちだった。
ディメールは、モオリスを、肩書や身分まで数え上げて男たちに紹介した。
それから、モオリスのほうに向き直って言った。
「お判りでしょう、市民ランデイ、みんなあたしの商売を手伝ってくれているひとたちですよ。今日のこのご時勢のおかげで、革命の主義主張のおかげで、人間のあいだの距離がなくなりましたんでね、われわれはみんな、りっぱな平等を踏まえて生活できる訳ですな。毎日、日に二回は、あたしたちは同じテーブルで顔を合わせるんですよ。あたしたちのアット・ホームな食事をあなたと共にできるのは、まったくあたしどもとしてはしあわせの限りです。サア、テーブルヘどうぞ、サア、市民、テーブルヘおつきください!」
「でも……ムッシュウ・モランは」とジュヌヴィエーヴがおずおずと言った。「あの方をお待ちしませんの?」
「アア……なるほどその通り」とディメールが返辞をした。「市民モラン、ほら、前にもうお話ししましたね、市民ランデイ、つまりあたしの共同経営者なんですよ。つまり、会社の内部面はいっさい彼に任せてあるんですがね。帳簿をつけたり、会計やら、書類の整理、金の出し入れ、あたしどものうちで、いちばん仕事が多いのが彼でしょうな。そんな訳もあって、時には遅れることがありますんでね。彼を呼びにいってきましょう」
ちょうどその時、ドアが開いて、市民モランが入ってきた。
背の小さな男で、髪は茶色、眉毛は大かった。仕事で目が疲れた男がかけるような、緑色の色眼鏡が黒目を隠していたが、目からキラリと輝く光はごま化しきれなかった。彼がはじめて口を開いただけで、モオリスは穏やかで、同時にまた高圧的なこの声に聞き覚えがあった。この声は彼が|まないた《ヽヽヽヽ》にのせられていた、あの恐ろしい議論のあいだ、いつも変らず、穏敏にすまそうと主張を続けていた声だった。彼は大きなボタンのついた茶色い服を着て、白い絹のチョッキにとても薄い襟飾りをつけていたが、食事中ひっきりなしにこれをいじっていた。モオリスは恐らく皮革商人の手とはこんなものか、と思い、その白いデリケートな手に見とれていた。
一同席についた。市民モランはジュヌヴィエーヴの右に、モオリスは左に席をとった。ディメールは自分の妻の正面に坐り、他の会食者は長方型のテーブルの周りに、思い思いに席を占めた。晩餐はすこぶる吟味されたものだった。ディメールはいかにも実業家らしい旺盛な食欲で、とても愛想よく振舞って晩餐の主人役をつとめていた。労働者かそれとも、労働者らしく見える男たちは、善良であけすけな仲間らしく彼に対して振舞っていた。市民モランはあまり口をきかす、食事はさらに少なく、ぶどう酒にもほとんど口をつけず、笑うことも稀だった。モオリスは、おそらく彼の声から呼び起された記憶のせいだろうが、まもなく、彼にとても親しみを感じるようになった。ただ、モオリスには相手の年配が判らず、それが彼の気持を落ち着かせなかった。時には四十か四十五歳ぐらいに見えたし、時にはずっと若いように見えた。
ディメールは、席につくと、彼らの小さなサークルに未知の客を誘った理由を、なにか会食者たちに説明しなければなるまい、と思った。
彼は素朴で、嘘になれていない人間らしく振舞った。しかし会食者一同は、いろいろ並べた理由に難色も示さず、皮革製造業者が青年を紹介するやり方がいかにも不器用だったにもかかわらず、彼のこの紹介演説は一同を満足させたようにみえた。
モオリスはびっくりして彼を見た。そして腹の中で言った。
「名誉にかけて思うんだが、オレの勘ちがいじゃあないだろうな。これがあの、わずか十五分ばかり前にギラギラした目つきで、脅迫的な声で、騎兵銃を手にしてオレを追いかけ、何が何でもオレを殺そうとした男と同人だろうか? あの時には、オレはこの男をヒーローか、でなければ人殺しだと思っていたのに。なるほどね! 毛皮への愛情が、なんと見事に、きみをひとりの男に変えてしまったんだろう!」
こんな観察を下しているあいだに、モオリスの心の底には、深い苦悩と歓喜が交錯していて、青年は、自分の心理状態がどんなものか口に出せないくらいだった。彼は自分が血まなこになって探し回った、この身許不明の美女のそばまで、とうとうきたのだ。ずっと夢見ていたとおりに、彼女は優しい名前だった。自分のかたわらに彼女がいると感じただけで、彼はその幸福に酔い痴れるのだった。彼女のほんのちょっとした言葉も聞き逃さなかった。そしてその言葉が聞えるたびに、その声音が、彼の心のもっともひそやかな琴線まで震わせるのだった。しかし、その心も彼が目のあたりにした光景で打ち砕かれてしまった。
ジュヌヴィエーヴは、たしかに前に垣間見たとおりの女性だった。あらしのような一夜のあの夢を、現実は打ち壊さなかった。彼女はまったく、エレガントな、悲しげな眼差しをした、心の気高い女性だった。現在彼らが生きている、かの有名な九三年に先立つ最後の数年間に、しばしば起こったことだが、貴族階級がつぎつぎに転落したいっそう惨めな没落のおかげで、身分ある令嬢たちは有産市民や商人に嫁がなければならなかった。ディメールは親切な男らしかった。金持であることには異論の余地がない。ジュヌヴィエーヴに対するマナーにしても、いかにもひとりの女性をしあわせにしようと努力している男のマナーらしい。しかしこんな人柄にしても、こんな富裕さにしても、こういったりっぱな気持にしても、妻と夫のあいだに、詩的な、品のいい、チャーミングな若い女性と、商売をしている、俗っぽい容貌をした男とのあいだに横たわる大きな距離を埋めることができるだろうか? この深淵を、ジュヌヴィエーヴはどんな感情で埋めようというのだろうか?……偶然の出来事が、いまじゅうぶんモオリスにその答を語ってくれる。すなわち、愛情で埋めるのだ。そして、彼が前にこの女性について抱いていた最初の意見に帰らなければいけないのか、つまり、彼が彼女に出会った夜、彼女はラソデヴーからの帰り途だった、というあの意見に。
ジュヌヴィエーヴがある男を愛しているという、こんな考えがモオリスの心を拷問にかけるのだ。
彼は溜息をついた、そこで彼は、こんなところへやって来て、恋と呼ばれるこの毒薬の、なおいっそう効目のある量を飲んでしまったことを後悔するのだった。
そして次には、この甘い、澄んだ、妙なる声に耳をすましながら、そうして彼に魂の奥底までも読み取られることも恐れないようにみえる、澄みきった眼差しを見つめながら、モオリスは、こんな女性に人を欺くなんてとうていできるものか、と信じたい気持になるのだった。そして、この美しい肉体も魂も、この優し気な微笑を浮かべて、月並な冗談を並べて喜んでいる人のいい町人のもので、これから以後もけっしてこの男以外の人間のものにはなるまいと考えると、ほろ苦い喜びを感じるのだった。
一同は政治のはなしをしていた、それ以外ほとんどなにも話題になりえなかった。政治がなんにでも首をつっ込み、皿の底にまで描かれ、壁いっぱいに覆われ、街々で一時間毎に布告が出されようという時代に、ほかになにを喋ったらいいというのか?
とつぜん、そのときまで沈黙を守っていた会食者のひとりが、ル・タンプルの囚人についてのニュースを訊ねた。
モオリスは、その声の響きに、われにもなく体が震えた。彼にはこの男がわかっていた、いつも極端なやり方を主張し、最初に短刀の先で彼を傷つけ、次には彼の死に一票を投じた男である。
ところがこの男は、りっぱな皮なめし工で、工場長だ、少なくともディメールはそうはっきり言ったが、まもなく、彼ももっとも愛国的な思想と、この上なく革命的な主張を口にしたので、モオリスは再び機嫌を直した。青年というものは、ある場合には、この時代に大流行した苛酷な処置にそう敵意を持つものではない。こうした酷《きび》しい処置の使徒でありかつヒーローはダントンだった。あの男、モオリスにはその武器の切れ味も声も経験ずみだったし、さらにまた、あの刺すような感覚も先刻実験ずみだったが、あの男の立場にいたら、彼はスパイとして捕えた男を殺したりはしなかったろう。相手を庭に放してやり、同じ武器を使って、敵と同じようにサーベルを手にして、情け容赦なく相手と闘っただろう。おそらくモオリスならそうしただろうが。けれども彼も、自分ならこうしたにちがいないからといって、同じようなことを、皮なめしの職人に要求するのはちょっと無理なはなしだと気がついた。
この極端な処置が好きな男、政治上の思想でも、個人的な振舞と同じように乱暴なやり方が好きそうにみえるこの男がル・タンプルを話題にして、囚人たちの警備を、あっけなく買収されてしまう常任委員会や、今まですでに一再ならずその忠誠心を疑われている警察隊などに任しておくのは全くオドロキだと言った。
「なるほどね」と市民モランが言った。「けれども、今まで、どんな場合でも彼ら警察隊の態度は、国家が彼らにかけている信頼を少しも裏切っていないことは認めなければなるまいね。それに、『買収されざる者』という異名に価いする者は、なにも独り市民ロベスピエールだけではないことは、いずれ歴史が語ってくれるよ」
「おそらく、おそらくその通りでしょう」と相手が言った。「しかし、今までは何事も起こらなかったからと言って、今後もけっして何も起こるまいと結論を下すのは|ばかげた《ヽヽヽヽ》はなしですよ。国民軍についてはまさにその通りですがね」と工場長があとを続けた。「ともかくいろんな小隊の兵隊たちが順番にル・タンプルの警備に招集されているんですよ、しかもみんな無差別にですよ。いいですか、二十人か二十五人の集まりの中に、決死の覚悟をした八人か十人の細胞がいたとしましょう、ある晩、歩哨を襲って締め上げ、囚人を連れ出すことができるとは思いませんか?」
「オヤオヤ!」とモオリスが言った。「お判りでしょう、市民、そいつは下手な手ですよ、だってね、三週間か一カ月前でしたかな、その手を使おうと思って、成功しなかった例があるんですからね」
「そうですな」とモランが言葉をひきとった。「でもそれは、パトロールの中にまぎれ込んでいた貴族のひとりが不用意な|へま《ヽヽ》をやって、だれかに話しかけたときに、|ムッシュウ《ヽヽヽヽヽ》なんていう言葉を口走ったからでしょう」
「それにですね」と、共和国の警察組織はりっぱなものだと証明しようとして夢中になったモオリスが言った。「なんと言っても、その時はもう、メーゾン・ルージュの騎士がパリに潜入したということが判っていたからですよ」
「なるほどそうか!」とディメールが言った。
「メーゾン・ルージュのパリ潜入が知られていたとおっしゃるんですな?」とモランが冷静な調子で訊ねた。「で、どうやって潜入したかも知られているんですか?」
「完全にね」
「アア、やれやれ」と、体を前に傾けて、モオリスを見つめながらモランが言った。「どうしてそれが判ったか不思議ですな。今までは、この問題について、はっきりしたことはみんなつんぼさじきにおかれておりましたのでね。けれどもあなたは、パリの主要な小隊の書記をしていらっしゃる、あなたなら、ずっとよくご存知のはずでしょう?」
「おそらくそうでしょうな。ですから、ぼくが申し上げることは、正確な事実ですよ」
会食者たち一同、ジュヌヴィエーヴまでが、青年がこれから話そうとしていることに最大の注意を傾けているように見えた。モオリスが言った。
「つまりですな、メーゾン・ルージュの騎士は、どうやらヴァンデから来たらしいんです。運よくやつはフランス中を横断しましてね、昼のうちにル・ルール門に着き、夜の九時まで待機していた訳ですな。夜の九時になると、庶民のおかみさんに変装したひとりの女性が、国民軍歩兵の制服を騎士のところへ持っていこうと、この門から出ていったんですよ。十分後に、この女性が騎士といっしょに戻ってきました。先刻女がひとりで出て行くのを見ていた歩哨が、女が男連れで戻ってきたのを見て、これは|くさい《ヽヽヽ》とにらみ、衛兵所へ息を告げたんですよ。衛兵所の連中が出てみますと、不届きなこの二人は、自分たちが追われているのが判って、一軒の邸へとび込んだんですよ。この邸はシャンゼリゼ側にもうひとつの出入口がありましてね。どうやら、暴君どもに忠義だてしている斥候がいて、バール・デュ・ベック街の角で騎士を待っていたらしいですな。その後はご存知の通りですよ」
「なるほど! なるほど!」とモランが言った。「まったく不思議なはなしですな、あなたのおはなしによると……」
「それに、実にはっきりしていますよ」とモオリスが言った。
「なるほど、たしかに一見そう思えますな。しかし、女のほうは、女がどうなったかは判りましたか?……」
「判りません、姿を消してしまったんですよ。それに、女がだれか、何者か、まったく正体が掴めないのです」
市民ディメールの共同経営者と市民ディメールは、ホッと一息ついたように見えた。
ジュヌヴィエーヴは、蒼白な顔で、身じろぎもせず、黙ってこのはなしに耳を傾けていた。
「しかしですな」と市民モランが、いつに変らぬ冷静な調子で言った。「メーゾン・ルージュの騎士が、ル・タンプルに警報を出した例のパトロールにまぎれ込んでいたなんてほんとうでしょうかね?」
「ぼくの友人に警察隊員がおりましてね、ちょうどあの日ル・タンプルの警備についていて、騎士を見たんですよ」
「じゃあその方は騎士の人相書を見たことがあるんですな?」
「前に見たことがあるんです」
「メーゾン・ルージュの騎士というのは、いったい体つきはどんな男です?」とモランが訊ねた。
「二十五か六で、背は小さく、髪はブロンド、人好きのする顔付で、いわゆる明眸皓歯《めいほうこうし》というやつですよ」
深い沈黙が一座を支配した。
「それでですな」とモランが言った。「せっかくあなたのお友だちの警察隊員が、メーゾン・ルージュの騎士とおぼしい男を見つけながら、どうして逮捕しなかったんですかね?」
「まず第一に、パリに潜入しているなんて知らなかったもんですから、顔付が似ているからといって、人違いではないかと心配したからですよ。次にはですね、ぼくの友人はちょっと手ぬるい男でしてね、利口な男や手ぬるい男がやりがちのことをやったわけですな。不安だったので、手控えたんですよ」
「あなたもそんなふうになさいますかな」と大声で笑いながらディメールが言った。
「とんでもない、はっきり申しますがね、ぼくだったら、メーゾン・ルージュみたいな危険きわまりない男をみすみす逃すよりは、人違いをしたほうがよっぽどましだと思いますな」
「じゃあ、あなたでしたら、どうなさいまして、ムッシュウ?……」とジュヌヴィェーヴが訊ねた。
「ぼくならどうした、とおっしゃるんですね、女市民? アア! 手間はかけなかったでしょうね。ル・タンプル中の門という門を全部閉めさせますよ、さっと。その足でパトロールのところへ駈けつけて、騎士の襟がみをつかんで、こう言ってやりますよ。『メーゾン・ルージュの騎士め、きさまを国家の反逆者として逮捕する!』とね。ひとたび相手の襟がみをつかんだら、もうぜったいに離さないでしょうな」
「でも、そうしたらどうなるでしょう?」とジュヌヴィユーヴが訊ねた。
「おそらく裁判にかけられるでしょうね、騎士も、共犯者も。そして今頃は、ギロチンの露と消えているでしょうな、それで全巻の終り、という訳です」
ジュヌヴィエーヴは身をわななかせて、隣の男に恐怖の一瞥を投げかけた。
ところが市民モランは、この一瞥にも気づかない様子で淡々とグラスを空けた。
「市民ランデイのおっしゃるとおりですな。そうするよりほかはありますまい。ところが不運にも、みなそうしなかった、というところです」
「で、メーゾン・ルージュの騎士がどうなったかご存知ですの?」とジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「そりゃね!」とディメールが言った。「なんにもせずに、さっさと尻に帆をかけて逃げ出したにちがいないよ、それに計画がお流れになったと判ると、その足でパリを出たろうね」
「もしかしたらフランスを出たかもしれませんな」とモランがつけ加えた。
「ところがところが、逃げ出すどころか」とモオリスが言った。
「なんとおつしゃいました! パリに留っているなんて、そんな不用心な」ジュヌヴィエーヴが叫んだ。
「パリから動いていませんな」
これほど確信あり気にモオリスが口にした意見を、一同一様に驚いて聞き入った。
「あなたが口になさったのは、仮定ですよ、市民」とモランが言った。「仮にというはなしで、ただそれだけのことですよ」
「そうじゃありません。事実です。ぼくは断言しますよ」
「アラ! あたくしの考えでは」とジュヌヴィエーヴが言った。「あなたのおっしゃることは、とうてい信じられませんわ、市民。だってそんな不用意なこと、考えられませんもの」
「あなたは女性です、女市民。ですから、メーゾン・ルージュみたいな性質の男にとっては、個人的な身の安全がどんなに重要にしろ、それよりも大切なことがある、ということもお判りになると思いますが」
「そんな恐ろしいやり方で、生命を落とす不安より、もっと強いものがなにかございまして?」
「アア! もちろんですよ! 女市民」とモオリスが言った。「愛情ですよ」
「愛情ですって?」ジュヌヴィエーヴが|おうむ《ヽヽヽ》返しに言った。
「おそらくね。それじゃあ、みなさんは、メーゾン・ルージュの騎士が、アントワネットを愛しているのをご存知ないんですね?」
あまり信用できないような笑い声が二声三声、おずおずと、とってつけたように響いた。ディメールは、彼の魂の奥底でも読みとろうとするかのように、モオリスを見つめた。ジュヌヴィエーヴは、両眼が涙にぬれるのを感じ、戦慄が体中を駆けめぐったが、モオリスは目ざとくその様子に気付いた。市民モランは、その時ちょうど唇へもってゆこうとしていたグラスの中のぶどう酒をこぼしたが、その真蒼な色は、もしその時青年が、ジュヌヴィエーヴに注意をこらしていなかったならば、モオリスを|どきっ《ヽヽヽ》とさせたことだろう。
「興奮なさったんですね、女市民」とモオリスがささやいた。
「さきほど、あたくしが女だからわかるだろう、とおっしゃいませんでしたかしら? そうですわ、あたくしども女性は、たとえ自分の主義主張とは反対でも、献身的な行為にはつねに心を打たれるものですわ」
「なにしろあの男は、今までに一度も女王と話したことはないことは確実でしてね」とモオリスが言った。「それだけに、メーゾン・ルージュの騎士の愛情は大きいわけですよ」
「いや、どうもね!」と例の極端なことの好きな男が言った。「こんなことを申しては失礼ですが、あなたはどうもこの騎士に対して、たいへん寛大なようにお見受けしますね……」
「|ムッシュウ《ヽヽヽヽヽ》」モオリスの、この最近あまり使われない言葉は、おそらく故意に用いたのだろう。「ぼくはですね、誇り高く、勇敢な人間ならだれでも好きなんですよ。もっとも、だからと言って、敵陣でそんな相手に出会ったときに、闘う妨げにはなりませんがね。ぼくは、いつかメーゾン・ルージュの騎士に会うなんてことはあるまい、と思っているんですよ」
「で?……」とジュヌヴィエーヴが言った。
「で、ぼくがやっと出会ったら、というんですか……いいですとも、やつを相手に闘いますよ」
晩餐が終った。ジュヌヴィエーヴが立ち上って、はじめに引っこもうとした。
ちょうどその時、柱時計が鳴った。
「十二時ですな」とモランが冷たく言った。
「十二時ですって!」とモオリスが叫んだ。「もう十二時ですか!」
「そうやって驚いて声をあげられるのを聞いて、あたしはたいへん嬉しいですな」とディメールが言った。「ということは、そのお声は、つまりあなたが退屈なさらなかった証拠ですからな、それに、あたしたちがまたお会いできる、という望みを与えてくれますしね。あなたに扉を開けているのは、りっぱな愛国者の家なのです。いずれあなたもお気が付かれることと思いますが、市民、友だちの家なんですよ」
モオリスは挨拶をして、ジュヌヴィエーヴのほうを向いた。
「女市民も、同じようにぼくがまた参上するのをお許しくださいますか?」と彼は訊ねた。
「許すの許さないのどころではございません、こちらからお願いいたしますわ」とジュヌヴィエーヴが元気よく言った。「さようなら、市民」
そして彼女は自分の部屋へ戻った。モオリスは会食者一同に別れを告げ、彼がひじょうに好感を抱いたモランには特別丁重な挨拶をし、ディメールの手を握り、茫然とした気分で家を出た。といっても、今までの波乱に富んだ夜とはまったくおもむきの違った事件によって、滅入った気分になったのではなく、むしろ楽しい気分だったのである。
「思いがけない、まったく思いがけない邂逅《かいこう》だわ!」とモオリスが帰ってから、自分の部屋まで連れてきてくれた夫のいる前で、ジュヌヴィエーヴが涙にくれながら言った。
「いやまったく! 相手は有名な愛国者で、純粋で、人望もあり、知らぬもののない、小隊書記の市民モオリス・ランデイだからね、自分の家に密輸入の商品を隠匿している、哀れな皮なめし屋にとっては、まったく貴重な獲物じゃないか」と微笑を浮かべながらディメールが言った。
「あなたは、そうお思いなの?……」とジュヌヴィエーヴが訊ねた。
「あたしは思うんだがね、彼という男はまさに愛国主義の証明書みたいなものだよ、わしらの家に無罪宣告の封印が飛び込んできたみたいなものさ。今夜からは、メーゾン・ルージュの騎士の身柄は、自分の家でも安全で、のうのうとしていられると思うよ」
そしてディメールは、夫というよりは、むしろ父親のような愛情をこめて妻の額にキスをして、特に妻のために建てたこの小さな離れに彼女を残し、自分は、先ほどテーブルの周囲に坐っていた会食者たちといっしょに、彼の住んでいる建物の別間へ帰っていった。
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十 靴直しのシモン
五月の初めになった。澄みわたった日が、冬の凍りつくような霧ばかり吸っていたひとびとの胸をふくらませ、生暖い、活気のある陽光がル・タンプルの黒い土塀の上に差していた。
庭のやぐらと離れている、内側の木戸のところで、衛兵たちが笑い声をあげたり、タバコをふかしたりしていた。
しかし、こんなすばらしい日だというのに、そして女囚人たちに庭まで降りて散歩してもいいという許可が出ているのに、三人の女性はこれを拒否していた。夫君の国王が処刑されて以来、女王は頑固に部屋に閉じこもっていたが、これはかつて王がお住まいになっていた、三階の住居のドアの前を通りたくなかったからである。
一月二十一日(九三年、国王処刑の日)のあの運命の日から、思い出したように女王が散歩なさっても、散歩の場所は、銃眼を鎧戸でふさいだ、やぐらの上であった。
警備についていた国民軍は、三人の女性が散歩の許可を得ていると聞いていたので、彼女たちがこの許可を利用して外へ出てくるだろうと思って一日中待ちうけていたのだが、結局無為に終った。
五時頃になって、ひとりの男が降りてきて、衛兵の指揮をとっていた軍曹に近寄った。
「ヤア! ヤア! お前かい、チゾンおやじ!」と軍曹が言ったが、彼はいかにも気さくな性質の国民軍らしかった。
「そうです。あっしですよ。市民。上にいる、お友だちのモオリス・ランデイからのお言伝てなんですがね。ル・タンプルの委員会から許可が出ましてね、あっしの娘がね、今夜ちょっとおふくろに会いにきてもいいっていうんでね」
「でお前は、娘がせっかく来ようというのに、出かけるのかい、この人でなしおやじめ!」と軍曹が言った。
「まったくね! こちとらだってしぶしぶ出かけるんでさあね、軍曹さん。あっしだってね、娘にゃあ会いてえ、なにしろもう二カ月も会ってねえんでね、キスのひとつもしてやりてえ……はっきり言って、おやじらしいキスをしてやりてえんですよ。そこへ『よろしい! 出かけてこい』ってところですよ。商売、商売、まったくいまいましい商売だあね、おかげであっしゃあ出かけなけりゃあなんねえ。市庁までね、報告に出かけなけりゃあいけねえんですよ。門のところにゃあ、憲兵さんが二人付添いで、辻馬車のお出迎え、よりによってそんなときに、かわいそうな娘のソフィがやってくるっていうんですからね」
「あわれなるかなこの父親よ!」と軍曹が言った。
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かくして祖国愛に目ざめ
血を分けし肉親の声を押し殺す
かたやはうめき、かたやは願う
義務に捧げし……
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どうもうまくないな、チゾンおやじ、|ころす《ヽヽヽ》という言葉と韻の合う字が見つかったら、ひとつオレに教えてくれよ。いまのところ、どうも考えつかないんでな」
「で、あんたのほうは軍曹さん、娘がおふくろに会いにきたら、やつはもう娘に会えねえもんで死にそうですが、娘を通してやってくださいよ」
「命令はちゃんと出てるんだ」と軍曹が答えた。読者はもうすでに、この軍曹がわれらの友人ローランだということはおそらくお判りのことだろう。「だから、こちらは何も言うことはないよ。お前の娘がきたら、ご自由にお通りくださいだ」
「ありがとう、親切なテルモピイル党員さん」とチゾンが言った。
そして彼は、こんなことをつぶやきながら、市庁へ報告に出かけた。
「ヤレヤレ! 哀れな女房も、これで大喜びだろう!」
「お判りですか」と、チゾンの姿が遠ざかるのを見て、そして遠ざかりながら、ブツブツ言う言葉を聞いて、一人の国民兵が言った。
「お判りですか、あんなことで、腹の底まで震え上ってるんですよ?」
「なんのことだい、市民ドゥヴォー?」とローランが訊ねた。
「だってね!」と思いやりのある国民兵が言った。「あのごつい顔付をした男を見てごらんなさいよ、ブロンズみたいな心臓をもった男、あの血も涙もない女王の番人が、半分喜び、半分悩んで、片っ方の目に涙を浮かべて出かけるんですよ、女房は娘に会えるけど、自分は娘に会えないと思いながらね! あんまり、そんなことを考えちゃいけませんな、軍曹、だって、ほんとに悲しい話ですから……」
「おそらくな、でも、そんなわけならきみの言うように、あの片っ方の目に涙を浮かべているあの男は、べつに考えることもないやね」
「じゃあ、なにを考えればいいんです、あの男は?」
「そうさな、三カ月ばかり前に、あいつが同じように、情け容赦もなく扱ったあの女も、自分の子供に会っていないことでも考えるがいいんだ。やつはね、その女の不幸のことには思いもつかない。自分の不幸のことばかり考えていやがる。これで判ったろ。なるほど、あの女はたしかに女王だよ」と軍曹は、その意味を解釈するのも難しいような嘲弄的な口調で続けた。「それに、女王だって、日傭いの女房だって、平等に扱わなきゃならん、ということも事実だな」
「そりゃどうでもいいけれど、まったく悲しいはなしでさあ」とドゥヴォーが言った。
「悲しいことだが、これも必要なのさ」とローランが言った。「いちばんいいのはだな、きみが言ったように、考えないことさ……」
そして彼は低声《こごえ》で歌いはじめた。
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昨日のことだがニセットが
うす暗がりのひんやりした
木立の茂みのそのしたを
たったひとりで歩いてた
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ローランが牧歌調の歌をここまで歌ったとき、とつぜんに、大きなもの音が衛兵所の左側から聞えてきた。それはののしり声と、脅しつけるような声と、泣き声のまじり合ったものだった。
「いったいなんだろう?」とドゥヴォーが訊ねた。
「どうやら子供の声らしいな」と耳をすましながらローランが答えた。
「ほんとうですよ」と国民兵が言った。「だれかが子供を撲っているんですね。まったく、こんなところへは、子供のない者しかくるべきじゃあないな」
「歌いたくねえっていうのか?」としわがれた、酔っ払いの声が聞えた。
そして、手本でも示すように、その声が歌い出した。
「マダム・ヴェト(マリ・アントワネットを指す)のお約束、
パリ市民をみなごろし……」
「いやです」と子供が言った。「ぼくは歌いません」
「歌いたくねえんだと?」
そしてその声が再び歌い始めた。
「マダム・ヴェトのお約束……」
「いやです」と子供が言った。「いや、いや、いやです」
「ちきしょう! このガキめ!」としわがれた声が言った。
そして革帯の音がヒューッと鳴って空気をつんざいた。子供が苦痛のうめき声をあげた。
「アア! ひどいやつだ!」とローランが言った。「あの恥知らずのシモンのやつが、カペーの子供を撲ってるんだ」
何人かの国民兵が肩をそびやかし、二、三人の兵士は微笑をうかべようとした。ドゥヴォーが立ち上って、遠ざかりながら眩いた。
「言っただろう、ここは子持ちの親父のくるところじゃあないよ」
とつぜん、背の低いドアが開いて、番人の鞭で追われた王子が、逃げながら、中庭へ何歩か踏み込んできた。ところが、子供のうしろの敷石の上に、何か重そうな音が響いて、子供の足にからみついた。
「アア!」と子供が叫んだ。
子供はよろよろとよろけて、膝まずいてしまった。
「オレの靴型を持ってきやがれ、小僧め、でないと……」
子供は立ち上ったが、イヤイヤをするように頭を振った。
「アア! そうかい?」と同じ声が叫んだ。「待て、待てよ、見てやがれ」
そして靴直しのシモンは、洞穴から出てくる野獣のように、自分の部屋からとび出してきた。
「オイ、オイ!」とローランが眉をひそめながら言った。「そんなことをして、どうしようっていうんだい、シモン親方?」
「このガキ狼を懲らしめてやるんでさ」
「どういうわけで懲らしめるんだい?」
「どういうわけですって?」
「そうさ」
「だってね、このガキときたら、りっぱな愛国者みたいに歌おうともしねえし、りっぱな市民のように働こうともしねえんですよ」
「で、それがお前にどうだっていうんだ?」とローランが答えた。「国家は、この子に歌を教えろっていうんで、カペーをお前に預けたのかい?」
「なんですって!」とシモンがびっくりして言った。「あんなにどんな関係があるんです、え、軍曹? あっしゃあそれを訊きてえもんだ」
「どんな関係があるって? 心ある者に関心があることなら、関係あるにきまってらあ、ところがな、子供を撲るのを手をこまねいて眺めているのは心ある者とは言えないし、子供が撲られてるのを黙って見るにはしのびないんだ」
「へん! 相手は暴君の倅だあね」
「でも子供はな、子供は父親の罪に手を貸しちゃあいないんだ、子供はな、罪がない、だからな、子供を罰するなんてもっての外だ」
「あっしも言わせてもらいますぜ、あっしはね、あいつをあっしの好きなようにしろっていうんで、あいつを預かったんですぜ。あっしが、マダム・ヴェトの歌を歌わせたいと思ったら、あのガキは歌わなきゃいけねんでさ」
「まったく、わからんやつだ。マダム・ヴェトはな、この子供にとっちゃあ母親だぜ。お前だったらどうする、歌ってもらいたいか、だれかが、お前の息子に、お前はごろつきだって歌わせたら?」
「あっしが?」とシモンがどなった。「この軍曹ときたら、ひでえ貴族野郎だ!」
「アア! 悪口はごめんだぜ」とローランが言った。「オレはカペーじゃないからな、オレは……それに、オレにはだれだって、力ずくで歌わせられやしないぞ」
「オメエを逮捕させてやる、この悪党の上流野郎メ」
「お前が、お前がオレを逮捕させるって? そんなら少しでもやってみたらどうだ、テルモピイル党員を逮捕させてみたら……」
「いいとも! いいとも! 最後に笑う者がいちばんよく笑う、と言わあね。そのあいだに、オイ、カペー、オイラの靴型を拾ってこい、それからお前の靴も作ってこい、言うことをきかねえと、ものすげえ|かみなり《ヽヽヽヽ》が……」
「で、オレは」と、顔が恐ろしいほど蒼白になって、拳固をかたく握りしめ、歯をギュッと噛みしめて、前に一歩踏み出しながら、ローランが言った。「オレは、お前の靴型を持ってくるな、とあの子に言ってやる。なにも靴なんか作らないでもいい、と言ってやるよ、オレはな、わかったか、悪党め! アア! そうだ、そこに大きなサーベルがある、もうお前だってオレを恐れなくてもいいぞ。ただ、サーベルを抜けばいいんだ!」
「ヤア! 人殺しだ!」とシモンが怒りのために蒼白になって大声をあげた。
その時、二人の女が中庭に入ってきた。二人のうちの一人が手に証明書を持っていて、歩哨に差し出した。
「軍曹どの!」と歩哨が叫んだ。「チゾンの娘がおふくろに会いたいそうです」
「通していいぞ、ル・タンプル委員会から許可が出ているからな」とローランが言ったが、そちらへ気をとられている間を利用して、シモンが子供を撲りはしないかと心配だったので、一瞬も振り向いて見ようともしなかった。
歩哨は二人の女を通した。ところが、二人がうす暗い階段を四段ほど登るとすぐに、ちょうど中庭まで降りようとしていたモオリス・ランデイにばったりと出会ってしまった。
夜の気配があたりを包みはじめていたので、二人の女の顔の表情は見分けることができなかった。
モオリスが二人を止めた。
「どなたですか、女市民」と彼が訊ねた。「なんのご用ですか?」
「あたし、ソフィー・チゾンです」と二人の女のひとりが言った。「母に面会する許可を受けております、で、面会にきましたの」
「なるほど。でも、許可はあなたひとりだけに限られているんですよ、女市民」
「兵隊さんたちの中を通るには、こちらは女ですのでせめて二人はいないといけないと思って、お友だちを連れてきたんです」
「なるほどそうですか。でも、お友だちの方は上へは上れませんからね」
「お望みどおりにしますわ、市民」とソフィー・チゾンは、壁にぴったりと身を寄せて、驚きと恐怖に襲われたように見える連れの手をにぎりながら言った。
「歩哨諸君」とモオリスは、上を向いて、各階に配置されている歩哨に大声で呼びかけた。「女市民チゾンを通してやってくれたまえ。ただ、友だちのほうは通してはいかんよ。彼女は階段で待っているが、よく気をつけて、失礼なことのないようにしたまえ」
「はい、市民」と歩哨たちが答えた。
「どうぞお上りなさい」とモオリスが言った。
二人の女は通っていった。
モオリスはといえば、残っていた階段を四、五段いっぺんに跳び降りて、大急ぎで中庭のほうへ進んだ。
「なにごとだ」と彼は国民兵に言った。「あのさわぎはどうしたんだ? 女囚人の控えの間まで子供の泣き声が聞えるぞ」
警察隊流のやり方に慣れていたので、モオリスを見て、援軍がきたと思ったシモンが言った。
「この裏切り野郎が、この貴族、この上流野郎がね、あっしがカペーの小僧を撲るのにイチャモンをつけるんでさ」
そして彼は、拳固でローランを指した。
「そうとも、ちきしょうめ! イチャモンだってつけてやらあ」とローランがサーベルをスラリと抜きながら言った。「もう一度オレのことを、上流野郎だの、貴族だの、裏切者だのと抜かしたら、オレのサーベルがきさまの体を串差しにするぞ」
「人殺しだ!」とシモンが叫んだ。「衛兵さん! 衛兵さん!」
「衛兵はオレじゃないか」とローランが言った。「オレを呼んだりするなよ、オレがお前のそばへいったら、お前は|おだぶつ《ヽヽヽヽ》だぞ」
「助けてくれ、隊員さん、助けてくれ」と、今度こそまじめにローランに脅かされたシモンが叫んだ。
「軍曹が言うとおりだ」とシモンが援助を求めた警察隊員が冷淡に言った。「お前はな国家の尊厳を傷つけたんだ。子供を打《ぶ》つなんて、卑怯者め!」
「で、どういうわけで、こいつが子供を打ったか、きみに判るかい、モオリス? この子供がマダム・ヴェトの歌を歌いたくないって言ったからなんだよ、息子がね、母親をはずかしめるのをいやだ、と言ったからなんだ」
「ひどい男だ!」とモオリスが言った。
「お前さんまで同じかい? それじゃあ、おいらのまわりじゅう裏切者だらけっていうわけだね?」とシモンが言った。
「こいつめ! このならず者め!」とその警察隊員は、シモンの喉首をとらえ、彼の手から革ひもをひったくりながら言った。「モオリス・ランデイが裏切り者かどうか、ちよっと証しを見せてやろう」
彼は靴直しの肩へ、荒々しく革帯をたたきつけた。
「ありがとう、ムッシュウ」と、このシーンを我慢強く眺めていた子供が言った。「でも、あのひとは、今度はぼくに仕返しをしますよ」
「きなさい、カペー」とローランが言った。「きなさい、坊や。こいつがまたきみを撲るようなことがあったら、助けを呼ぶんだよ。この牢番を懲らしめにきてやるからね。サア、サア、カペーちゃん、きみの塔へ戻りなさい」
「どうしてぼくのことをカペーなんて呼ぶんです、ぼくを守ってくれたあなたまでが?」とその子供が言った。「ぼくの名前はカペーではないことは、よくご存知なはずです」
「なんだって、きみの名前じゃないというのかい? じゃあきみは何ていう名前だい?」
「ぼくの名前はルイ・シャルル・ド・ブルボンです。カペーはぼくの先祖のひとりの名前です。ぼくだってフランスの歴史を知っています。お父さまがぼくに教えてくれました」
「きさまは古靴直しを教えようっていうのか、エ、一国の王様がフランスの歴史を教えたその子供に?」とローランが叫んだ。「サア、行こう!」
「大丈夫だよ! 安心しなさい」とモオリスが子供に言った。「ぼくが委細を報告しておくからね」
「それならあっしゃあね」とシモンが言った。「あっしのほうもよく話しておきますよ、とくにね、塔へ入る許しをえたのは女ひとりだったのに、二人も平気で通していたとね」
そのとき、事実、二人の女が|やぐら《ヽヽヽ》から出てきた。モオリスは二人のほうに駈け寄って、彼のそばにいた女性に話しかけた。
「どうでした、女市民、お母さんに会ったのかね?」
その瞬間、ソフィー・チゾンは警察隊員と自分の連れの間に割り込んだ。「ハイ、市民、どうもありがとう」
モオリスは、娘の友だちの顔を見たいと思ったし、せめて、声だけでも聞きたいと思った。ところが彼女は袖なしのマントですっぽりと身をくるみ、ただの一言も口にすまいと決心しているように見えた。彼の目には、この女性が震えているようにさえ見えた。
そんなおずおずした様子が彼の心に疑惑の念を呼んだ。
彼は大急ぎでとってかえすと、とっつきの部屋へ入り、ガラス戸越しに、女王がポケットになにかを隠すのを見た、どうやらそれは一通の手紙らしい。
「なるほど! どうやら、一杯くったらしいな?」と彼は言い、仲間を呼んだ。
「市民アグリコラ、マリー・アントワネットの部屋へ入り、目を離さないようにしてくれたまえ」
「よしきた!」とその隊員が言った。「なにごとだい?……」
「入れ、と言ってるんだ、ちょっとの間も、一分も、一秒もむだにできないぞ」
その隊員は女王の部屋へ入った。
「チゾンのかみさんを呼んでくれ」と彼は国民兵に言った。
五分後には、ヂゾンのかみさんが喜色満面の様子でかけつけた。
「娘に面会しましたよ」と彼女が言った。
「どこで会ったんだね」とモオリスが訊ねた。
「ちょうど、ここですよ、この控えの間ですよ」
「よろしい。で、娘さんはあのオーストリア女に会いたいとは言わなかったかね?」
「言うもんですかね」
「娘さんはオーストリア女の部屋には入らなかったんだね」
「入りませんよ」
「で、お前が娘さんと喋っているあいだ、だれも女囚人の部屋から出てこなかったかね?」
「そんなこと、どうしてあたしが知ってるんですか? あたしは娘を見つめていたんですよ、なにしろ三カ月も前から会ってないんですからね」
「よおく思い出してくれないかね」
「アッ! そうだ、思い出しましたよ」
「なにをだい?」
「娘っ子が出てきましたよ」
「マリー・テレーズだな?」
「そうですよ」
「で、お前の娘さんに話しかけたかね?」
「いいえ」
「お前の娘はマリー・テレーズになにか渡さなかったかい」
「渡しませんね」
「で、床からなにか拾わなかったかな?」
「うちの娘がですかね?」
「そうじゃないよ、マリー・アントワネットの娘がさ」
「そう、ハンカチを拾いましたっけ」
「そりゃ大変だ!」とモオリスが叫んだ。
そして彼は、鐘を鳴らす綱のほうへ駈け寄って、勢いよくそれを引っぱった。
警鐘が鳴りひびいた。
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十一 手紙
警備についていた、べつの二人の警察隊員が、大急ぎで上ってきた。衛兵所の分遺隊が二人といっしょにやってきた。門が閉ざされ、歩哨が二人ずつ立って、各部屋の出口を遮断した。
「どうなさいました。ムッシュウ?」モオリスが部屋に入ってゆくと、女王が彼に言った。「あたくしは床につこうと思っておりました。ところが五分ほど前に、隊員の方が――と言って女王はアグリコラを指した――とつぜんこの部屋へとび込んで参りました、それになんのご用かも話してくれないんですよ」
「マダム」と敬礼しながらモオリスが言った。「あなたにお願いしたいことのあるのは、わたくしの同僚ではございません、わたくしなのです」
「あなたが、ムッシュウ?」とマリー・アントワネットはモオリスを見つめながら訊ねたが、彼の礼儀正しい態度は、女王の心中にある種の感謝の念を喚び起こしていた。「で、なんのご用でしょうか?」
「用と申しますのは、最前、わたくしが入って参りましたときにお隠しになった、あの手紙をこちらへお渡しいただきたいのですが」
王女とマダム・エリザベートはぶるぶると震えた。女王の顔色は蒼白だった。
「なにかのお間違いではありませんか、ムッシュウ」と女王が言った。「あたくしなにも隠してなんかおりませんわ」
「嘘をつけ、オーストリア女め!」とアグリコラが叫んだ。
モオリスが激しく同僚の腕を手で押えた。
「まあ待て、きみ、女市民《シトワイエンヌ》にはぼくから話させてくれ、ぼくはちょっとした検事みたいなもんだからな」
「じゃあやれよ、でも、こんな女に手心を加えるこたあねえぜ」
「あなたは手紙を隠しました、女市民」とモオリスは厳格な調子で言った。「その手紙をわたくしどもにお渡しくださらなければいけません」
「でも、どんな手紙でしょう?」
「チゾンの娘が持ってきたもので、お嬢さまが――モオリスは王女を指さした――ハンカチといっしょにお拾いになった手紙です」
三人の女たちは、ぎょっとしたように顔を見合わせた。
「でもムッシュウ、そんな横暴な」と女王が言った。「女性に向かって! 女性に対して!」
「混同なさってはいけません」とモオリスがきっぱりと言った。「わたくしたちは、裁判官でも、冷血漢でもありません。わたくしたちは見張人なんです、いわば、あなたがたの番をする任務を受けている、あなたがたと同じ市民なんです。わたくしたちには命令があります。この命令を踏みにじることは、つまり裏切ることになるのです。女市民、お願いです、あなたが隠されたあの手紙をわたくしにお渡しください」
「みなさん」と女王は横柄な調子で言った。「みなさんは見張人でいらっしゃる、それならどうぞお探しください、いつもと同じように、今夜も一晩、あたくしたちを眠らせないでもけっこうですから」
「わたくしたちが女性に手をかけるのもどうかと思われます。政府に使いを出して報告し、命令を待つことにいたしましょう。ただ、ベッドにはお入りにならないように、どうか肱掛椅子でお寝みください、わたくしどもがお守りいたしますから……もし必要の場合には、捜索が始まるでしよう」
「いったいなにごとだね?」とチゾンのかみさんが、うろたえて、ドアのところに頭をのぞかせて訊ねた。
「反逆に手を貸したかどでな、女市民、あんたは永久に娘さんと面会禁止になるところだよ」
「娘と会えねえんですって!……なんの意味だね。そりゃあ、市民《シトワイヤン》?」とチゾンのかみさんが訊ねた。彼女にしてみれば、自分がどうして、もう娘と会えなくなるのか、まだ納得がゆかないのだ。
「つまりな、お前の娘さんは、お前に会うためにここへ来たわけじゃあないんだ、女市民カペーに手紙を届けるためにきたのさ、だからもうここへは来れないだろう、というわけだよ」
「でも、あの娘《こ》が来れなくなったら、あたしたちは外出禁止になってるから、あの娘には会えねえわけじゃあないかね?……」
「今度のことは、だれのせいにもできないよ、だって非はお前にあるんだからな」とモオリスが言った。
「アア!」とこの哀れな母親は大声で叫んだ。「あたしの間違いだって! 非はあたしにあるっていうのかい? 責任もっていうけれどね、なんにも起こりゃあしなかったんだよ。なにか起こったとしたら、ちきしょう、アントワネット、お前のせいだよ。このお礼はたっぷりしてやるから、みておいでよ!」
この女はすっかり頭へきて、女王に拳固をつきつけた。
「脅したりするな」とモオリスが言った。「それよりも、もっと優しくして、われわれが頼んだ通りにするようにし向けるだな。お前だって女だし、女市民アントワネットも母親だ、きっと相手が母親なら同情もするだろうからな。明日になれば、お前の娘は逮捕されるだろう。明日になれば、牢屋にぶち込まれるんだ……それから、なにか見つけ出したら、いいか、知っての通り、見つけ出そうと思えば、たいてい何か見つかるんだし、そうなれば、お前の娘も、連れの女ももう身の破滅だぞ」
チゾンのかみさんはモオリスの言葉を聞いて、だんだん恐怖心がふくらみ、取り乱したような視線を女王のほうに向けた。
「聞いたかい、アントワネット?……あたしの娘が!……お前なんだよ、あたしの娘の足を引っぱったのは!」
今度は女王のほうがギョッとしたように見えたが、これは牢番のかみさんの両眼から輝く脅しのためでなく、そこに読み取れる絶望の色におののいたのである。
「いらっしゃい、マダム・チゾン」と女王が言った。「あなたにお話しすることがあるの」
「こらっ! おべっかはごめんだぞ」とモオリスの仲間がわめいた。「オレたちを邪魔にする気か、このアマめ! いいか役人の前ではつねに役人の前らしく振舞え!」
「好きなようにさせとけよ、市民アグリコラ」とモオリスが同僚の耳にささやいた。「真相がこちらに判れば、やり方なんかどうだってかまわんだろう」
「なるほどその通りだ、市民モオリス。でも……」
「ガラス戸の向うへ行こう、市民アグリコラ、ぼくの言うことを信用するんなら、背中を向けていよう。ぼくらのほうでこうやって肚《はら》の大きいところを見せれば、相手だってぼくらを後悔させるようなことはしないと思うな」
女王はわざと自分に聞えるように言われたこの言葉を聞いて、青年のほうに感謝の眼差しを投げかけた。モオリスはそしらぬ振りをして向うを向き、ガラス戸のうしろへ行った。アグリコラが彼に続いて出ていった。
「あの女性をよく見たまえ」と彼がアグリコラに言った。「なるほど、女王としては大罪人だよ。しかし一個の女性として見れば、りっぱな、偉大な人物じゃあないか。頭に戴いていた王冠をこわして、むしろよかったな、不幸のおかげで、罪を清めたというわけだよ」
「なあるほどねえ! きみはうまいことを言うじゃあないか、市民モオリス! オレはきみだとか、きみの友だちのローランのはなしを聞いてると愉快になるよ。きみがいま喋ったのは、そいつも詩なのかい?」
モオリスは微笑した。
こんなことを喋っているあいだに、モオリスが予測したとおりのシーンが、ガラス戸の向う側で展開していた。
チゾンのかみさんが女王に近づいた。
「マダム」と女王が言った。「あなたが気を落とされたので、あたくしまで心を傷めております。あたくしは、あなたの手からお子さんを取り上げようなんていうつもりはありませんよ。そんなことはあたしにはとても我慢できませんわ。でもね、よおくお考えになってください、あのひとたちの要求どおりにしたら、おそらくあなたの娘さんも同じように命はありませんよ」
「あのひとたちの言うとおりにするんだよ!」とチゾンのかみさんが叫んだ。「言うとおりにしておくれ!」
「でも、その前に、これがどういうことだかよく納得してからのほうが」
「これがどういうことだって?」と牢番のかみさんが、ほとんど野性のままむき出しの好奇心を見せながら訊ねた。
「あなたの娘さんはお友だちを連れてみえましたね」
「そうともさ、娘と同じ女工をね。なんたって兵隊ばかりだものね、ひとりで来るのはどうかと思ってね」
「そのお友だちが、あなたの娘さんに手紙を一通渡したんですよ。娘さんは、それをわざと落としたんです。ちょうど通りかかったマリーが、手紙を拾いましてね。きっと、何の意味もない手紙だと思いますけれど、なんでも悪いほうにものを見るひとたちには、きっと意味のあるもののように見えるでしょうね。あの警察隊員は、何かを見つけたいと思ったら、いつでも見つけ出せた、と申しませんでしたかしら?」
「で、どうなのさ、どうなんだい?」
「それだけのはなしです。それでもあなたは、あたくしにその手紙を返せと言い張るんですか。つまり、あたくしがひとりのお友だちを犠牲にするのがお望みなんですか? そうなったら、あなたの娘さんは、おそらくあなたの手には戻らないでしょうね」
「あのひとたちの言うとおりにするんだよ!」とかみさんが叫んだ。「言うとおりにするんだ」
「でも、この紙片があなたの娘さんを巻添えにするかも知れませんよ」と女王が言った。「判って下さい!」
「うちの娘はね、あたしと同じで、りっぱな愛国者なのさ」とこのじゃじゃ馬女が叫んだ。「ありがたいことにね、チゾン一家は有名なのさ! あのひとたちが言ったとおりにするんだよ!」
「ほんとうに」と女王が言った。「なんとかあなたを説得させることができないかしら!」
「うちの娘を! うちの娘を返しておくれ!」とチゾンのかみさんは、足をバタバタやりながら言った。「その手紙をよこしよ、アントワネット、サ、よこすんだよ」
「ここにあります、マダム」
こう言って、女王が一枚の紙をこの哀れな女に差し出すと、かみさんは大喜びで、こんなことを叫びながら、その紙を頭の上にかざした。
「きてください、きてくださいよ、兵隊さん。手紙はここですよ。さあ、これを持っていって、うちの子供を返しておくれよ」
「とうとうあたしたちの味方を犠牲になさったのね、お姉さま」とマダム・エリザベートが言った。
「いいえ、ちがいます」と女王が悲しそうに答えた。「あたくしが犠牲にしたのは、あたくしたちだけです。あの手紙は、だれひとり巻添えにすることはできません」
チゾンのかみさんの叫び声を聞いて、モオリスと彼の仲間は、かみさんの前へかけつけた。すぐにかみさんは、二人のほうに手紙を差し出した。二人はこれを開いて、読んだ。
|東のかたに《ア・ロリアン》、女ひとりありてなお見守る。
モオリスはこの紙片をチラリと見るやいなや、ぶるぶるっと身を震わせた。この筆跡は彼にとって未知のものではなかった。
「アア! なんっていうことだ!」と彼は叫んだ。「これはジュヌヴィエーヴの筆跡じゃあないかな? いやちがう、そんなことは考えられん、オレはばかだよ。なるほど、彼女の筆跡に似ているかもしれない。でも、ジュヌヴィエーヴが、女王となんのつながりがあるっていうんだ?」
彼が振り向くと、マリー・アントワネットが彼をじっと眺めているのに気がついた。チゾンのおかみさんはといえば、自分の運命を待ちながら、むさぼるようにモオリスに視線を注いでいた。
「よくやってくれたね」と彼はチゾンのおかみさんに言い、つぎに女王に言った。「そしてあなたも、女市民、あなたのなさったことはりっぱですよ」
「それではムッシュウ」とマリー・アントワネットが答えた。「あたくしの例にならって、あなたも決断していただけませんか。この手紙を焼いて下さい、それがお慈悲と申すものです」
「ふざけたことを抜かすな、オーストリア女め」とアグリコラが言った。「手紙を燃やせっていうのか? これがあれば、オレたちはひとかたまりの特権階級どもを、|つまみ出す《ヽヽヽヽヽ》こともできるかもしれんというのに。じょうだんじゃない、そんなバカなことができるか」
「ほんとに、そんなものは燃やしちまいなさいよ」とチゾンのおかみさんが言った。「そんなものがあると、うちの娘まで巻き添えになりそうだものね」
「オレもそう思うな、お前の娘も、ほかのやつらも逃《のが》れられんな」とモオリスの手から紙片をとりながら、アグリコラが言った。もしモオリスがひとりだったら、きっとこんな紙片は燃やしてしまったにちがいない。
十分後には、その手紙は委員会のメンバーの控え室に移され、ただちに開かれて、あらゆる角度から検討された。
「|東のかたに《ア・ロリヤン》、友ありて見守る、とね」とある声が言った。「まったく何の意味ですかな?」
「なあに、大したことじゃない!」と地理学者が答えた。「|東のかた《ロリヤン》で、このほうははっきりしておりますよ。ロリヤンというのは、ヴァンヌとカンペールとの間にある、ブルターニュ地方の小さな町の名前ですわい。不届きなはなしだ! もしほんとに、この町に、まだあのオーストリア女に気を配っておる特権階級のやつらがたてこもっておったら、町は焼き払わなければならんでしょうな」
「もっと危険なことがありませんかな?」とほかの声が言った。「ロリヤンは港町ですからな、イギリス人どもと内通することもできますぞ」
「こんな対策はいかがですかな」と三人目の声が聞えた。「ロリヤンに使者を派遣して、町を調査したら」
モオリスはこの討議の内容を聞かされていた。彼は肚《はら》の中でこんなことを言った。
「問題は|東のかた《ロリヤン》の意味だと思うな。とにかく、ブルターニュ地方でないことは、まちがいないはなしだ」
その翌日、女王は、すでに述べたように、夫君の国王が幽閉された部屋の前を通るのがいやだったので、もう庭に降りようとはしなかったが、王女やマダム・エリザベートといっしょに、ちょっと散歩をしたいからといって、塔の上に登る許可を願い出た。
その願いはすぐその場で、聞き届けられた。ところがモオリスも上へ登り、階段の上に隠れて見えないようになっている、小さな一種の物見やぐらのところに控えて、身を隠し、前夜の手紙の結果を待ちうけていた。
女王はまず、何くわぬ顔で、マダム・エリザベートと王女とともにそぞろ歩きをしていた。ついで女王が立ち止り、そのあいだに二人のプリンセスは相変らずそぞろ歩きを続けていたが、女王が東のほうを振り返り、注意深く、一軒の家を見つめた。その家の窓には、数人のひとびとの顔がのぞいていた。そのひとびとのうちのひとりが、手に白いハンカチをもっていた。
モオリスのほうも、ポケットから望遠鏡を引っぱり出したが、ピントを合わせているあいだに、女王は、窓からのぞいているひとびとに、早く離れなさいとでも教えるように、大きな動作をしてみせた。しかしモオリスは、いち早くブロンドの髪の、蒼白な男の顔に気がついたが、彼の挨拶のしかたは、ほとんど卑下とも見えるほどへり下ったものだった。
この青年のうしろに――青年というのは、彼がせいぜい二十五か六程度に見えたからだが――半分体を隠してひとりの女性がいた。モオリスは望遠鏡を彼女のほうへ向けた、そして相手がジュヌヴィエーヴではないかと思ったので、そちらを見ようとして体を動かした。とすぐに、向うでも同じように手に望遠鏡をもっていた女性は、青年を引っぱって、うしろへ跳びのいてしまった。ほんとうに、あれはジュヌヴィエーヴだろうか? 向うでも、モオリスが判ったのだろうか? あの物見高いカップルは、ただ女王がそんな身振りをしたから引っ込んだだけのことだろうか?
モオリスは、あの青年と女性が再び顔をのぞかせるかどうか見ようとして、しばらく待ちうけでいた。ところが、例の窓に人がいないのを見ると、仲間のアグリコラに細心の注意を払って見張りをするように命令し、大急ぎで階段を降りて、例の家から二人の男女が出てくるかどうか見ようと、ポルト・フォワン街の角まで出かけて待ち伏せた。それも徒労に終った。だれひとりその家から出てこなかった。
そこで、チゾンの娘の連れが、かたくなに身を隠し、口を噤んでいたときから、彼の心をさいなんでいたあの疑いに抗《あらが》いきれなくなって、モオリスはサン・ジャック街のほうへ歩きはじめたが、そこへ着いたときには、この世ならぬ不思議な疑いのために、彼の心は千々に乱れていた。
彼が入ってゆくと、白い化粧着をまとったジュヌヴィエーヴは、いつも、習慣のように食事をしているジャスミンの花のトンネルの下に坐っていた。彼女はごく当り前の様子で、モオリスに愛情溢れる挨拶をし、いっしょにココアを一杯いかがでしょうかと彼を誘った。
ディメールはディメールで、そのあいだに、真っ昼間のこんな思いがけない時間にモオリスに会えた喜びを、大袈裟に表現して、モオリスがご馳走になりましょう、と言ったココアを飲み終らないうちに、相変らず商売に夢中になって、友だちの、ルペルチエ小隊の書記を、ぜひとも工場の中を一まわり案内しよう、と言うのだった。モオリスはこの申し出を承知した。
「お聞きください、モオリスさん」とディメールは、青年の手を執り、彼を案内しながら言うのだった。「じつに重大なニュースがあるんですよ」
「政治問題ですか?」と、相変らず例の疑惑で頭がいっぱいになっていたモオリスが訊ねた。
「いやどうも、あなた」とディメールが微笑しながら答えた。「あたしたちが、政治に関心があるっておっしゃるんですか、あたしたちが? いえ、とんでもありません、まったく商売上のニュースでしてね。ありがたいことで! あたしの尊敬すべき友人のモラン、ほら、ご承知のように、あの男はずばぬけた化学者ですがね、あの男がちょうど赤い|なめし《ヽヽヽ》革の秘密を見つけたところなんですよ、こいつは今までだれも見たこともないものなんですがね、つまり、変質しないものなんです。これからお目にかけるのは染めた革ですよ。もちろん、研究中のモランにもお会いできますがね! あの男ときたら、ほんとうの芸術家だ!」
モオリスには、赤いなめし革作りがどうして芸術家になるのか、その意味が判らなかった。けれども、べつに異を唱えようとも思わず、ディメールの後についてゆき、工場を横切り、一種の特殊な研究室らしいものの中で、さかんに仕事に打ち込んでいるモランの姿を見た。彼は緑の色眼鏡をかけ、仕事着を着て、ほんとうに、羊の皮のきたない白を真紅に変える仕事に熱中している様子だった。両手も、たくし上げた袖の下に見える両腕も、肱まで真っ赤に染っていた。ディメールが言うように、彼は喜んで、この洋紅《ようべに》の仕事に打ち込んでいた。
彼は頭でちょっとモオリスに挨拶したが、仕事にまったく気を奪われていた。
「どうです、市民モオリス、いかがですな?」とディメールが訊ねた。
「この方法を採用するだけで、年に一万リーヴルは儲るでしょうな」とモランが言った。「でもねえ、これでもう一週間も寝ていないんですよ。酸類で目をやられましてね」
モオリスはディメールとモランを残して、低い声でこんなことをつぶやきながら、ジュヌヴィエーヴのところへ戻った。
「まったく、警察隊員なんていう仕事をしていると、英雄までバカになっちまうな。ル・タンプルにたっぷり一週間もいたら、自分まで、特権階級だと思っちまうし、自分自身を密告しかねないぞ。ディメールも善人だ! 親切なモランよ! 優しいジュヌヴィエーヴよ! それなのに、このオレときたら、たとえ一瞬でもあのひとたちに嫌疑をかけたんだからな!」
ジュヌヴィエーヴは例の優しいほほ笑みをうかべてモオリスを待っていた。一目見ただけでも、いままでまじめになって抱いていた疑惑などあとかたなく忘れさせてしまった。彼女はいつもの彼女と変りない。甘く、優しく、チャーミングだった。
モオリスがジュヌヴィエーヴといっしょにいる時間こそ、ほんとうに生きている時間だった。そのほかの時間はみんな、後世のひとびとが九三年熱と呼ぶ、あの熱にうかされていて、この熱がパリを二陣営に引き離し、一時間ごとにひとびとを闘わせたのである。
正午頃、彼はジュヌヴィエーヴに別れを告げ、ル・タンプルヘ戻らなければならなかった。
サン・タヴォワ街の外れで、彼は歩哨の任務を終えたローランに出会った。彼はしんがりにいたので、隊伍を離れて、モオリスのところへやってきた。ジュヌヴィユーヴに会って、甘い歓喜に浸っていた彼の心が、まだモオリスの顔に輝いていた。「ヤア!」とローランは友だちの手を、親し気に執りながら言った。
[#ここから1字下げ]
「ものうさを隠そうったってむだなこと
お前の望みは先刻承知
お前は何にも言わないけれど
吐息がすべてを語ってる
お前の目にゃ愛がある、お前の心にゃ恋がある」
[#ここで字下げ終わり]
モオリスは鍵を探そうとして、ポケットに手を入れた。友だちの溢れるような詩句をせきとめるために今までよく用いていた方法である。ローランはそのジェスチュアを見て、笑いながら逃げ出した。
「ところでな」と何歩か歩いてから、ローランが振り向きながら言った。「きみはまだ、ル・タンプルに三日ばかりいるはずだな。モオリス、例のカペーの子供をよろしくたのむぜ」
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十二 恋
たしかに、ここしばらくモオリスは、ひじょうにしあわせで、同時にまたひじようにふしあわせな日々を送っていた。ともかく彼は、今やこうして、大きな情熱の虜《とりこ》となりかかっていたのである。
昼はルペルチエ小隊へ詰め、夜になると古いサン・ジャック街を訪れ、ここかしこと顔を出し、またテルモピイル・クラブへも出かけ、こうして彼の一日の日程はいっぱいだった。
夜ごと夜ごとにジュヌヴィエーヴに会うのは、あたかも末に望みない恋の美酒《うまざけ》を、ゆっくり時間をかけて味わうようなものだ、とは彼も認めていた。
ジュヌヴィエーヴという女性は、臆病そうに見えながら、それでいて一見いかにもなびき易く、男友だちにフランクに手を差し伸べ、まるで尼さんのように相手を信頼しきって、また処女のように無邪気に、なんの気もなく、男の唇に額を差し出すように見えたが、ところが彼女の前で恋だの愛だのという言葉を口にするのは、冒涜的に思えて、その清純さをけがす肉体的な欲望をむき出しにしているような気がする、いわばそんな種類の女性のひとりだった。
もし、唇にほほ笑みをたたえ、清らかな眼差しを送り、神聖な表情に輝くマドンナが、ラファエロが最高の手法を用いてキャンヴァスに移したもっとも純粋な夢から生まれたものとすれば、ジュヌヴィエーヴの肖像を描くには、このペルージア生まれの巨匠の手を借りなくてはなるまい。
さわやかな空気と、かぐわしい香りを満喫できる花園のまん中で、夫の仕事とも、夫そのひととも離れて坐っているジュヌヴィエーヴの姿は、モオリスの目からすると、彼女に会うたびに、まるでその意味を解《げ》しかね、そのくせあえてただひと言も訊ねることもできない、生きた謎のように見えるのだった。
ある夕べ、いつものように、彼が彼女と二人だけ差し向かいで、いつかの晩、彼が騒がしく、また急いで飛び込んできた例の格子窓のところに坐っていた。輝くような夕焼けに続いて、甘いそよ風に誘われた、花盛りのリラの香りがただよう夜のことだった。モオリスは永いあいだ口をつぐんでいた。そしてこの沈黙のあいだに、青い空に、銀色の星がひとつ、ポツンとまたたくのを眺めていたジュヌヴィエーヴの理智的な、そしてまた宗教的な眼差しにじっと目を注いでから、思い切って、彼女の夫はすでに中年を過ぎているのに、どうして彼女がそんなに若いのか、と訊ねてみた。夫のほうは、どこをどうとってみても、教育といい、生まれといい下卑な感じなのに、彼女にとても品があるのはどうしてか。夫のほうは、自分の工場の皮革の重さを秤ったり、伸ばしたり、染めたりすることしか念頭にないのに、彼女がとても詩的なのはどうしたわけか、と訊ねてみた。
「つまりですね、皮なめしの親方の家に」とモオリスが訊ねた。「こんなハープだとか、ピアノだとか、いつかあなたが話してくださったように、あなたの作品だというこんなパステル画があるなんて、どうしたわけです? つまり、よその家だったら大嫌いになるんですが、お宅にあるんでぼくまで感嘆してしまう、この貴族趣味は、いったいどういうわけなんでしょう?」
ジュヌヴィエーヴは、まったくあどけない眼差しをモオリスに注いだ。
「そんな質問をしてくださって、ありがたいと思いますわ。そんなことをお訊ねになるのは、あなたがデリケートなお方で、しかもあたくしのことを、どなたにも話していらっしゃらない、という証明でございますもの」
「喋るもんですか、マダム。ぼくには、ぼくのためなら死も厭わない親友がひとりおります、ぼくが先に立ってゆけば、どこでもいっでも進軍してやろう、という仲間が百人もおります。しかしこうした連中の心にしても、こと女性の問題、ことさらジュヌヴィエーヴのような女性についての問題では、ぼくが信用できる心を持った男はたったひとりしかおりません、つまり、ぼくの心だけなんです」
「ありがとう、モオリス。これからは、あなたがお訊きになりたいことは、なんでも進んでお話しいたしますわ」
「まず最初に、あなたの結婚前のお名前は? ぼくは、あなたの結婚後のお名前しか知りませんから」
ジュヌヴィエーヴはこの質問を聞いて、恋人の利己主義《エゴイズム》を理解して、ほほ笑んだ。
「ジュヌヴィエーヴ・デュ・トレリイですわ」
モオリスがおうむ返しに言った。
「ジュヌヴィエーヴ・デュ・トレリイですって!」
「あたくしの家族は」とジュヌヴィエーヴが後を続けた。「アメリカ独立戦争の時から没落してしまいましたのよ。あの戦争に、父も兄も参加したのです」
「お二人とも貴族でしょうね?」
「いいえ、ちがいますわ」とジュヌヴィエーヴが顔を赤らめながら言った。
「だってあなたは、嫁入前のお名前はジュヌヴィエーヴ・デュ・トレリイだとおっしゃいましたよ」
「デュというのは貴族につくデュではありませんわ、ムッシュウ・モオリス。たしかにあたくしの家はお金持でしたけれど、貴族なんてとんでもないはなしですわ」
「あなたはまだぼくを信用なさっていないのですね」と青年が微笑しながら言った。
「アラ! いいえ、ちがいますわ。アメリカで、あたくしの父はムッシュウ・モランのお父さまと親しかったんですの。ムッシュウ・ディメールはムッシュウ・モランの代理人でした。あたくしたち一家が没落したのを見て、ムッシュウ・ディメールにちゃんとした財産があると判ると、ムッシュウ・モランはディメールを父に紹介し、今度は父があたくしに彼を紹介したというわけですわ。あたくしには、前から、もうこの結婚は決まったことが判りましたし、それがあたくしども一家の希望だということも判りました。あたくしにはその頃、だれひとり愛する方もなく、また愛してくださる方もございませんでした。で、あたくし、結婚を承諾いたしました。三年前から、あたくしはディメールの妻になりました。そして、このことははっきり申し上げますけれど、三年前から、夫はあたくしにとって、とても優しくすばらしい夫で、あなたがご指摘なさったように趣味や年齢の違いがあっても、あたくしは、ただのいっときも後悔など感じたことはございませんわ」
「では、あなたがムッシュウ・ディメールと結婚なさったときには、まだ彼はこの工場の主人ではなかったんですね?」
「そう、持ち主ではありませんでした。あたくしたち、当時はブロワに住んでおりました。例の八月十日(一七九二年、パリ民衆蜂起の日)ののちに、ムッシュウ・ディメールはこの家と、家に付属した工場を買い取ったんですの。あたくしが職人たちとつき合わなくてもいいように、モオリス、あなたが先程おっしゃった少しばかり貴族的なあたくしの習慣を傷つけるようなものが目に入らなくてすむように、夫はあたくしにこの離れをくれ、あたくしは独りでここで、自分の趣味のままに、気ままにひきこもって済んでおります。モオリス、たとえばあなたのような友だちがいらしって慰さめてくださったり、あたくしといっしょにいろいろ夢を語ったりしてくださると、ほんとうにしあわせですわ」こう言ってジュヌヴィエーヴはモオリスに片手を差し出し、彼は熱を込めてその手に接吻した。
ジュヌヴィエーヴは軽く顔を染めて、手を引っ込めながら言った。
「さあ、もうこれで、どうしてあたくしがディメールの妻になったかお判りになったでしょう」
「わかりましたとも」とモオリスは、ジュヌヴィエーヴをじっと見つめながら言った。「でも、ムッシュウ・モランがどうしてムッシュウ・ディメールの協同経営者になったか、まだお話しになっておりませんよ」
「アラ! そんなことはなんでもございませんわ。先程も申し上げたように、ディメールにはいくらか財産がございましたけれど、これだけ大規模な工場を独りでかかえてゆくほどじゅうぶんではなかったんですの。ホラ、申し上げたでしょう。彼の後援者のムッシュウ・モラン、その方はあたくしの父のお友だちだったんですが、その息子さんが資本の半分を受け持ってくださったんですの。それに、あの方は化学のほうの知識がおありだったものですから、あなたもお気づきになったほど熱心に開発のほうに打ち込まれて、そのおかげで実務のほうを全部受け持っていた、ディメールの商売のほうもどんどん伸びていった、というわけですわ」
「で、ムッシュウ・モランもあなたの仲の良いお友だちのひとりでしょうな、マダム?」
「ムッシュウ・モランは、それは気高い性質の方で、この世でもっともりっぱなお気持の方ですわ」とジュヌヴィエーヴは荘重な調子で言った。
モオリスは、相手の女性が自分の夫の協同経営者をこんなに重視しているのを見て、ちょっと気を悪くしながら言った。
「ムッシュウ・ディメールと工場の費用を分担したり、またモロッコ革の新しい染料を発明したりしたことは判りますが、ほかにもまだ何か彼がりっぱだ、という証拠があるなら、あなたのそんな大袈裟な讃め言葉も、なるほどもっともだ、というところを何か話していただけませんか」
「証拠ならほかにもいろいろございますわ、ムッシュウ」
「それにしても、緑色の眼鏡なんかかけているんで、年格好は判りにくいですが、まだ彼は若いんでしょう」
「三十五歳ですわ」
「ずいぶん古いお知り合いで?」
「子供の頃からですわ」
モオリスは唇を噛んだ。彼はずっと、モランはジュヌヴィエーヴを愛しているのではないかと疑っていたのだ。
「なるほど! それで彼があなたと親しそうな訳がわかりましたよ」
「あなたもいつもごらんになっているように、ちゃんと境界をもうけて、そこから出ないように気を配っておりますわ、ムッシュウ」とジュヌヴィエーヴが微笑しながら答えた。「親しい、とは言っても、この場合はほとんどお友だちとしての親しさですから、なにも説明する必要もない、と思いますわ」
「ヤア! 失礼しました、マダム。お判りかと思いますが、愛情も激しくなるとつい嫉妬《やきもち》をやきたくなるもんでしてね。ぼくの愛情もご他聞に洩れず、あなたがムッシュウ・モランに愛情を抱いているような気がして、妬《や》いていたのですよ」
彼は口をつぐんだ。ジュヌヴィエーヴのほうでも、沈黙を守っていた。その日は、もうモランについてはべつに問題も出なかったが、今回は、今までよりいっそうジュヌヴィエーブに対する愛情を深めて、モオリスは帰った。それというのも、彼の心は嫉妬にさいなまれていたからである。
それに青年はすっかり盲目になっていて、両眼には目隠しをされ、情熱の燃えたぎる心の中はすっかり混乱していたから、ジュヌヴィエーヴのこのはなしの中に、ずいぶんとわざと言い落としたり、何となく躊躇したり、言い渋ったりしたところがあったが、その時にはべつだん注意を払わなかった。ところが、彼の心にそんなことが思い出される頃になると、ようやくこうしたいろいろな事がらが異様なまでに彼を苦しめるのである。そればかりか、自分が何度も何度も、自分の好きなだけたっぷりと、ジュヌヴィエーヴと語り合っても、毎晩二人だけ差し向かいで、だれにもわずらわされない時間を過ごしているのをディメールが黙って放っておいてくれても、こんな寛大きわまる態度もそうした事がらについて彼の心を安心させてはくれなかった。まだほかにもある。モオリスはこの家の晩餐の常連の客になり、ジュヌヴィエーヴの相手をしていても、彼女が天使のような無邪気さで青年の欲望に対して安心しきったような様子を見せてくれるばかりか、彼女がなにかときどき街まで用事で出かけなければならないような折にも、ディメールは彼にいっしょに行ってやってくれと頼んだのである。
この家でこれほど親しい立場になりながら、あるひとつのことが彼を驚かせた。というのは、恐らくこれは正しい見方だろうが、モランがジュヌヴィエーヴに対して抱いている感情をよく見極めようとすればするほど、つまりモランと知り合いになろうとすればするほど――彼の先入観にもかかわらず、モランの精神は彼の心を惹きつけ、モランの品位ある立居振舞は日一日と彼の心をとりこにするのだが――この奇妙な男はモオリスから遠ざかろう、というそぶりを見せるように思えることだった。モオリスは、面白くない気持で、このことをジュヌヴィエーヴにこぼした。というのは、モオリスにすればモランは間違いなく自分をライヴァルと思っていて、モランのほうでも嫉妬心があるので、そのために自分から彼を敬遠している、と思っていたからである。
「市民モランはぼくが嫌いなんですよ」とある日、彼はジュヌヴィエーヴに言った。
「あなたを?」とジュヌヴィエーヴは、びっくりしたような、しかも美しい眼差しで彼を見つめながら言った。「あなたを、ムッシュウ・モランがあなたを嫌いだ、とおっしゃるの?」
「そうです、たしかですよ」
「だって、どういうわけであの方があなたをお嫌いになるの?」
「それをぼくの口から言わせたいんですか?」とモオリスが叫んだ。
「ええ、恐らくね」
「よろしい、その理由は、ぼくが……」モオリスは口をつぐんだ。彼は、『その理由は、ぼくがあなたを愛しているからです』と言おうとしたのだ。
「あなたには、その理由は言えません」とモオリスが顔を赤らめながら言った。
この猛烈な共和主義者も、ジュヌヴィエーヴの傍では、まるで小娘みたいに臆病なはにかみ屋だった。
ジュヌヴィエーヴが微笑をたたえた。
「どうぞおっしゃって、あなた方のあいだには似たところはありませんわ、あたくし、あなただって恐らくそうだと思いますのよ。あなたっていう方は、生まれつき活発で、才気の輝やくような、ひとにもてはやされるような男性です。ところがモランのほうは、化学の上に商人を接木したようなひとでしょう。臆病で、謙譲で……そんな臆病で謙譲な気持のおかげで、ついあなたの前に第一歩を踏み出しそびれてしまうんじゃあないかしら」
「ぼくのほうに第一歩を踏み出してくれなんて、彼にだれが頼めばいいんですか? ぼくのほうでは、もう彼の前に五十歩も踏み出しているんですよ。それなのに、彼は一度も答えてくれなかったんです。いや」とモオリスは頭を振りながらつけ加えた。「ちがう、それも確実ではない」
「で、それでどうなんですの?」
モオリスはみずから口を閉ざしてしまった。
ジュヌヴィエーヴとこんなことを話し合った日の翌日、彼は午後の二時頃に彼女の家へ着いた。すると、彼女は外出用のお化粧をしていた。
「アラ! いらっしゃい」とジュヌヴィエーヴが言った。「あたくしの騎士になってくださいます?」
「で、どちらへお出かけですか?」とモオリスが訊ねた。
「オートゥイユまで参りますの。今日はすばらしいお天気でしょう。ですから、ちょっと歩いてみたいと思いまして。あたくしたち、馬車で城門の向うまで参りましょう。そこへ馬車を置いておいて、あとは散歩がてらオートゥイユまで参りましょう。そして、オートゥイユですることが終ったら、また馬車に乗るようにいたしません?」
「アア!」とすっかり嬉しくなってモオリスが叫んだ。「まったく、あなたはほんとうにすばらしい日を選んでくれましたね!」
二人の若者は出発した。パッシイを過ぎると、馬車は二人を道路に降ろした。二人は軽い身ごなしで道の端に飛び降り、ぶらぶらと歩き始めた。
オートゥイユヘ着くと、ジュヌヴイエーヴは足を停めた。
「公園の端《はた》で待っていていただけません、用事が終りしだい、あなたのところへ参りますから」
「どなたのお宅へお出ですか?」
「お友だちの家ですわ」
「そこまで、ぼくがご一緒してはいけないのですか?」
ジュヌヴィエーヴは微笑しながら頭を横に振った。
「それは、とてもむりですわ」
モオリスは唇を噛みしめて言った。
「よろしい、お待ちしましょう」
「アラ! どうなさったの?」とジュヌヴイェーヴが訊《たず》ねた。
「べつに何でもありません。永くかかりますか?」
「もしあなたにご迷惑だと思ったら、モオリス、あなたの今日のご予定をつぶしてしまうことがわかっていたら、あたくしと一緒にいらしって、なんていうお願いはしませんでしたわ。ご一緒をお願いするにしても、お相手には……」
「ムッシュウ・モランを頼んだ、というんですね?」と勢い込んでモオリスが訊ねた。
「おあいにくさま。あなたもご存知でしょう、ムッシュウ・モランはランブイエの工場におりますのよ、夜にならなければ帰りませんわ」
「なるほど、おかげでぼくが選ばれる光栄にあずかったわけですね?」
「モオリス」とジュヌヴィエーヴが穏やかに言った。「お約束の方を待たせるわけには参りません。あたくしといっしょにお帰りになるのがご迷惑なら、どうぞパリヘお帰りください。ただ、馬車だけはあたくしのところへ来るようにしておいてくださいね」
「いや、とんでもない、マダム」とモオリスがあわてて言った。「あなたのご命令どおりにいたしますよ」
そしてジュヌヴィエーヴに一礼したが、彼女は弱々しげに溜息を吐き、オートゥイユの村の中に入っていった。
モオリスは指定の待ち合わせの場所へ出かけ、タルキニア王(古代ローマの伝説上の王)もどきに、路傍に生えた草や、野花や、|あざみ《ヽヽヽ》の頭をステッキで打ち払いながら、あちこちを歩き回った。その上に、この路は両脇がとても狭く、モオリスは、ちょっと歩くと、すぐに|きびす《ヽヽヽ》を返して戻ってきた。その行きつ戻りつの運動は、先入観に激しく悩まされているすべての人々の例に洩れなかった。
モオリスの心を占領しているのは、つまり、ジュヌヴィエーヴが自分を愛しているのか、愛していないのか知りたい、ということだった。青年に対する彼女の態度は、すべて妹か、でなければ女友だちのとる態度だった。ところが、彼にすれば、それではじゅうぶんではない気がする。彼のほうでは、愛情をこめて、ひたすらに彼女を愛していた。彼女はひねもす彼の心を占める女性となっていたし、夜ごと夜ごと、絶えず繰りかえされる夢であった。かつては、彼はただひとつのことしか望んでいなかった。つまり、ジュヌヴィエーヴに会うことである。ところが今になると、もうそれではとても我慢できない。ジュヌヴィエーヴが自分を愛してくれなくてはいけないのだ。
ジュヌヴィエーヴは一時間ほど姿を現わさなかったが、その一時間が、彼にはまるで一世紀のように思えた。それから、ジュヌヴィエーヴが口許に微笑をたたえて彼のほうへやってくる姿が見えると、モオリスは、反対に、眉をつり上げて彼女のほうへ歩いていった。彼は幸福のどまん中にありながら、進んで苦しみを求めているのだが、われわれ人間の哀れな心は、すべてこんな具合にできているものだろう。
ジュヌヴィエーヴはほほ笑みながら、モオリスの腕を執った。
「サア、参りましてよ。ごめんなさい、お待たせして……」モオリスは、頭をちょっと振ってこれに応え、二人とも地肌の柔らかい、木陰になった、下草の茂った美しい小径を歩いていったが、この小径は、曲り角から、大きな道に通じていた。
春の、心を酔わせるような夕べであった。木々は空までかぐわしい香りを放ち、小鳥は枝にじっととまったり、灌木の茂みの中をピョンピョン跳ね回ったりして、神に彼らの愛の讃歌を捧げている。つまりは、思い出の中に深く灼きつくように見える春の夕ベだった。
モオリスは口をきかなかった。ジュヌヴィエーヴは物思いにふけっていた。彼女は片方の手をモオリスの腕にかけ、べつの手で花束の花をむしっていた。
「どうなさったんです?」とモオリスが突然訊ねた。「それに、今日という日にそんな悲しそうな様子をなさっているのは、だれのせいなんです?」
ジュヌヴィエーヴは、恐らく「あたくしのしあわせのために」と答えることもできたであろう。彼女は、優しい、そして詩的な眼差しで彼を見つめた。
「で、あなたはどうなんですの? いつもより悲しそうなご様子ではございません?」
「ぼくは、当然悲しんでもしかるべきですよ。ぼくは不幸なんです。でも、あなたはどうなさったんです?」
「あなたが、不幸だとおっしゃるの?」
「おそらくね。あなたは、時に、ぼくが口にする声の震えに気がおつきになりませんでしたか? あなたやあなたのご主人とお喋りをしている時に、急に立ち上って、外で息抜きをしに行かなければならなかったのに、お気付きになりませんでしたか? ぼくは、まるで自分の胸がはり裂けるような気持だったんですよ」
「でも」とジュヌヴィエーヴはとまどったように訊ねた。「そんなにお苦しみになるのは、なんのせいだとおっしゃるんですの?」
「もしぼくがキザな男なら」とモオリスが苦笑いをうかべながら言った「神経衰弱だ、とでも言うところでしょうがね」
「で、今もお苦しみになっていらっしゃるの?」
「ええ、とても」
「では、もう帰りましょう」
「もう帰るんですか、マダム?」
「ええ」
「アア! なるほどそうだった」と青年がつぶやいた。「ぼくは忘れていましたよ、ムッシュウ・モランは日が暮れたら、ランブイエから帰るはずでしたね、それに、もう日暮れだ」
ジュヌヴィエーヴは非難の思いをこめて彼を見つめた。
「アラ! まだそんなことをおっしゃるの?」
「どうして、いつかあなたは、ぼくに向かってムッシュウ・モランのことをあんなに大袈裟に讃めたりなさったんです? あれは手ぬかりでしたね」
「自分が尊敬しているひとの前で、べつの男性がりっぱだと思うと言ってはいけないなんて、いつからそんなことになりましたの?」
「いまあなたがなさっているように、たとえ何分かでも遅れてはいけない、と心配して、足を早めるというのは、たしかにりっぱな尊敬と言えましょうね」
「今日は、あなたはほんとうにどうかなさっていますわ、モオリス。あたくし、今日、あなたとずいぶんご一緒したのではなくて?」
「おっしゃる通りです、ぼくはあまり気むずかしすぎますね、まったく」とモオリスは、持って生まれた性質を隠さず、憤然として言った。「サア、帰ってムッシュウ・モランに会いましょう。サア、帰りましょう!」
ジュヌヴィエーヴは、心中チラリと口惜しさがこみ上げるのを感じた。
「そうね、帰ってムッシュウ・モランに会いましょう。あの方もお友だちですけれど、少なくとも今まであたくしを苦しめたことはございませんわ」
「たしかに、そうした友だちは貴重な友人ですよ」とモオリスは嫉妬のために胸もふたぐ思いで言った。「ぼくにしても、そんな友人と知り合いになれたら、と思うんですがねえ」
そのとき、二人はちょうど街道へさしかかったところで、地平線は赤く染っていた。太陽は姿を没しはじめ、廃兵院《デ・ザンヴァリッド》のドームの金色の刳形《くりがた》に残光を投げかけて輝かせていた。いつかの晩、ジュヌヴィエーヴの目を惹いた、あの一番星が、大空の流れるような紺青の中にきらめいていた。
ジュヌヴィエーヴは、悲しい諦めの気持を抱いて、モオリスの腕を離した。
「どうして、あなたはあたくしを苦しめようとなさるの?」
「アア! ぼくはね、ぼくの知り合いよりも不器用なんですよ。どうやってひとに愛してもらえばいいのかわからないんですよ」
「モオリス」
「アア! マダム、彼がいつもりっぱで、いつも同じようにしていられるというのは、つまり、彼には悩みがないせいなんですよ」
ジュヌヴィエーヴは、もう一度、その白い手をモオリスの力強い手の上に置き、心の乱れを抑えきれぬ声で言った。
「お願いです。もうそれ以上おっしゃらないで、それ以上はおっしゃらないで!」
「それはどうしてですか?」
「あなたのお声を聞いていると、あたくしとてもつらくなるものですから」
「ということは、ぼくのことはなんでも、あなたのお気に召さないというわけですね、ぼくの声までも?」
「おやめになって、心からお願いしますわ」
「おっしゃる通りにいたしましょう、マダム」
そして、この癇癪もちの青年は、汗でじっとり濡れた額に手をやった。
ジュヌヴィエーヴには、彼が真実悩んでいるのが判った。モオリスのような性格の男は、正体の解らない悩みを持っているのだろう。
「あなたはあたくしのお友だちですわ、モオリス」とジュヌヴィエーヴは、天使のような表情をうかべて彼を見つめながら言った。「あたくしにとっては、かけがえのないお友だちですわ。モオリス、あたくしが、そんなお友だちを失うことのないようになさってください」
「アア! あなたは、失ったところで、べつにそう永く後悔なさることはありませんよ、きっと!」とモオリスが叫んだ。
「あなたは間違っていらっしゃるわ。もしそんなことになったら、あたくしいつも、永く永く後悔するにちがいありませんわ」
「ジュヌヴィエーヴ! ジュヌヴィエーヴ!」とモオリスが叫んだ。「ぼくを可哀そうだと思ってください!」
ジュヌヴィエーヴは身を震わせた。
モオリスが、こんなに深い感情をこめて彼女の名前を口にしたのは、これが初めてだった。
「よろしい」とモオリスが言葉を続けた。「あなたにはもうお判りになっているようですから、どうかすっかり喋らせてください、ジュヌヴィエーヴ。だって、もう少しでもおくれたら、あなたに思い焦れて、ぼくは死んでしまうかもしれない……ぼくはもう、あんまり永いあいだ口をつぐんでいました。ジュヌヴィエーヴ、ぼくは話してしまいますよ」
「ムッシュウ、あたくしたちの友情の名にかけても、あなたにお黙りになるようにお願いいたします。あなたのためでなければ、あたくしのために、と申してもかまいませんわ。神かけて、それ以上は何もおっしゃらないで、もうそれ以上は!」
「友情か、友情ですって。やれやれ! あなたがぼくにかけてくださる友情と、ムッシュウ・モランに注ぐのと、同じような友情ならば、もう友情なんてご免こうむりますよ、ジュヌヴィエーヴ。ぼくにはね、ほかのひとにかけるよりよけい親しみをかけてほしいんです」
「もうたくさん」とマダム・ディメールは女王のようなジェスチュアを混じえて言った。「もうたくさんですわ、ムッシュウ・モオリス・ランデイ。あたくしたちの馬車が参りましたわ。主人の家までお送りいただけます?」
モオリスは熱と感動のために身をわななかせていた。ちょうど、五、六歩ばかりのところへ来た馬車に乗ろうとしてジュヌヴィエーヴがモオリスの腕に手を置いたとき、青年にはこの手がまるで焔のような感じがした。二人とも馬車に乗った。ジュヌヴィエーヴは奥に腰を下ろしモオリスは前の座席に坐った。馬車はパリを隅から隅まで通り抜けたが、どちらもただ一言も口を訊かなかった。
ただ、この帰り道のあいだ中ずっと、ジュヌヴィエーヴは目にハンカチを当てていた。
二人が工場に戻ったときディメールは書斎で仕事に夢中になっていた。モランはちょうどランブイエから帰ったところで、服を着換えている最中だった。ジュヌヴィエーヴは部屋に入りながら、モオリスに手を差し出して言った。
「ではお別れね、モオリス、あなたのほうでそれをお望みになったのよ」
モオリスはなにも答えなかった。ジュヌヴィエーヴを描いたミニアチュールが掛かっている煖炉のところまでまっすぐに行った。その絵に激しく接吻すると、自分の胸にその絵を押し当てて、再びもとのところへ返してから出ていった。
モオリスは、どうやって帰ったかも判らないまま、家に辿りついていた。何ひとつ見えず、何ひとつ聞えないで、パリを横切っていた。先程自分の身に起こったことがらが、まるで夢の中に浮かぶように、目の前を流れていったが、彼には自分がしたことも、言ったことも、自分の心にわき上った感情も判らなかった。もっとも清らかな、もっとも優れた魂でも、ごく平凡な想像力のちからに支配された激情によって前後の見境いもなくしてしまう時もあるものだ。
すでに話したように、モオリスの歩きは、ただ帰るというよりは、走るような調子だった。世話係の手も借りずに服を脱ぎ、夕食はすっかり用意できていますと手真似で知らせる料理人にも返辞をしなかった。次に、テーブルにのっている、昼のうちに届いた手紙に、ひとつひとつ全部目を通したものの、ただの一言も意味が判らなかった。嫉妬の霧が、理性の陶酔がまだ消え去ってはいなかったのだ。
十時になると、モオリスは機械的に床に就いていたが、ジュヌヴィエーヴのところを出て以来、すべてが同じように機械的だった。
もし冷静なときのモオリスに、彼がとったあの奇妙な態度を、だれか他人のこととして喋ったならば、彼にはその男のことがとうてい理解できなかったろうし、また、ジュヌヴィエーヴがあれほど慎しみ深く、あれほど深い親しみを抱いているのに、とうとう許しきれなかったような、あんな絶望的なことをやってのけた男を、気違いときめつけたにちがいない。ただひとつ、彼が感じたことといえば、今まで一度もはっきりと判らなかった、さまざまな希望を抱いていた、という恐ろしい衝撃だった。その希望の上には、まだごく漠然とした形だったが、手に掴むことのできない蒸気のように、地平線に形も成さずたゆとう幸福のあらゆる夢が託されていたのだ。
こうして、こんな場合にほとんど常に起こるべきことが、モオリスの身にも起こったのだ。身に受けた打撃に茫然として、彼はベッドに就いたと思うとすぐに寝入ってしまった、というよりは、むしろ翌日まですっかり感情を失ってしまった、と言ったほうがよい。
ところが、何かの物音で彼は目を覚ました。ドアを開いた彼の世話係がたてた物音だった。いつもの習慣通りに、大きな庭に面しているモオリスの寝室の窓を開きにきて、花を持ってきたのだ。
九三年という年は、みな争ってたくさんの花を咲かせたものだが、モオリスは花が大好きだった。ところが彼は自分の花の上に一瞥すら与えずに、重い頭を半分もたげて、頬杖をつき、昨日起こったことをつとめて思い出そうとした。
モオリスは、どうしてこんなに気が滅入るのかその原因も判らずに、心の中で問答をしていた。原因といえば、ただひとつ、モランに対する嫉妬だった。ところが選んだ時期がまずかった。相手の男がランブイエくんだりにいて、こちらは愛する女性と差し向かいで、早春の美しい日に目覚めた自然に取り囲まれて、甘い気分でこの差し向かいを楽しんでいる時に、その男に嫉妬《やきもち》をやくなんて、まったく正気の沙汰とは思えない。
といって、これは、彼がジュヌヴィエーヴと連れ立って出かけ、彼女が一時間以上もとどまっていた例のオートゥイユの家では、何事があったのか、という不信の念ではなかった。いや、ぜったいにやむことのない苦しみは、モランがジュヌヴィエーヴを愛しているのではないか、という考えだった。脳髄の奇妙な幻想、奇妙な気まぐれの策略である。ディメールの協同経営者の身ぶりひとつにも、眼差しひとつにも、喋る一言にも、現実にはそんな推測を加えてしかるべき気配はまったくなかったからである。
世話係の声で彼は夢想から覚めた。
「市民《シトワイヤン》」と世話係は、テーブルの上の開いた手紙を示しながら言った。「お手許にとっておかれる手紙はお選びになりましたか、それとも全部燃やしてしまいましょうか?」
「なにを燃すんだい?」
「市民が昨日、お寝みになる前にお読みになった手紙のことです」
モオリスは、そのうちただの一通も読んだ記憶がなかった。
「全部燃してくれたまえ」
「今日の手紙はここにございます、市民」と世話係が言った。
彼は手紙の包みをモオリスに差し出し、べつの手紙を煖炉に投げ込みに行った。
モオリスは差し出された包みを取り、その封印の厚さを指で感じ、なんとなく、好ましい香りを嗅いだような気がした。
彼は手紙類の中を探し、その一通の封印と書体を見ただけで総身がわななく思いだった。
あらゆる危難に立ち向かっても、あれほど強靱なこの男が、一通の手紙の匂いを嗅いだだけで蒼白になった。
世話係が彼に近寄って、どうしたのか訊ねようとしたが、モオリスは、手で出てゆくように合図した。
モオリスはその手紙を裏にしたり表にしたりした。その手紙の中に彼にとってなにか不幸を秘めているような予感がして、まるで未知のものの前で怯《おび》えるように身震いをした。
そのうちに、彼は全身の勇気を振るい起こして手紙を開き、次のような文面を読んだ。
[#ここから1字下げ]
市民モオリス
あなたさまのほうから、友情の掟を超えるようにお求めになったので、あたくしたちはご交際を断たなければなりません。あなたさまはご名誉を重んずる方でいらっしゃいます。昨夜あたくしたちのあいだに、あのようなことが起こりましてから、一夜が過ぎましたが、あなたさまがこの家の敷居をお跨ぎになるのは、もうとてもむりだということは、お判りのはずと思います。あたくしの主人については、何かあなたさまのお気に召すような口実を見つけてくださるよう、あなたさまのご好意を期待しております。今日にも、ムッシュウ・ディメール宛のあなたさまのお手紙の届くよう願いつつ、あたくしは、不幸にも心乱れたお友だちを失ったことを後悔しなければならない、それにしても、この世の中の約束ごとすべてが、あなたと再びお目にかかってはいけないと禁じている、とわれとわが心に言い聞かせております。
永遠のお別れを申し上げます
ジュヌヴィエーヴ
追伸
使いの者がご返辞をお待ちいたします。
[#ここで字下げ終わり]
モオリスが呼ぶと、世話係が再び姿を現わした。
「この手紙を持ってきたのはだれかね?」
「代理の方ですが」
「まだその男はいるかね?」
「はい、おります」
モオリスは溜息もつかず、ためらいもしなかった。ベッドから飛び下りると、ズボンをはいて、書物机の前に坐り、手当りしだいに紙をとって、次のような返辞を書いた(そこにあったのは、上のほうに小隊の名前を印刷した紙だった)
[#ここから1字下げ]
市民ディメール
小生はあなたを敬愛しておりましたし、今なお敬愛の情を忘れたわけではありませんが、もうあなたにお会いすることはできません。
[#ここで字下げ終わり]
モオリスは、自分が今後市民ディメールに会えない理由というのを考えたが、彼の心に浮かんだのはたったひとつの理由しかなかった。しかしこうした理由なら、またこの時代には、だれの心にも一応は浮かんだにちがいない。そこで彼は筆を続けた。
[#ここから1字下げ]
社会的なことで、あなたの穏健さについていろいろな噂が流れております。小生はべつだんあなたを非難するつもりは毛頭ありませんが、またあなたを弁護する役目でもありません。小生が心から残念に思うこの気持をお汲み取りくださると同時に、あなたの秘密は小生の胸ひとつに収めておきますので、この点はお信じくださってけっこうです。
[#ここで字下げ終わり]
モオリスは、この手紙を読みかえそうとすらしなかった。すでに話したように、彼は自分の心に浮かんだ最初の考えを、そのまま筆に移しただけだった。この手紙がどんな結果をもたらすか、などということは少しも疑ってもみなかった。モオリスの見た限りでは、少なくともそのお説を聞いた限りでは、ディメールはりっぱな愛国者だったから、この手紙を受けとったら、ディメールはきっと腹を立てるにちがいない。彼の妻と市民モランは、恐らくまあ辛抱しなさい、といって彼を口説き落とすだろうから、彼は返辞すらよこさず、楽しかった過去の上に黒いヴェールが拡がってゆくのと同じように、忘却がやってきて、それを痛ましい未来に変えてしまうにちがいない。モオリスは手紙にサインをし、封印して、世話係に渡し、そして使いの男は帰っていった。
この時になって、軽い溜息がこの共和主義者の心から洩れた。彼は手袋と帽子をとり、小隊へ出かけた。
この哀れなブルータス(熱烈な共和主義者)は、公務に専念して、自分の堅固《ストイシズム》な気持を取り戻そうと思った。
公務とは恐ろしいものだった。五月三十一日の手はずは着々と準備が進められていた。奔流にも似た恐怖政治は山(山岳党)の上から殺到して、防波堤を流し去ろうとした。ここで防波堤というのは、雄々しくも九月の虐殺の復讐を叫び、いっときでも王の生命を救おうとして戦った、例の勇敢な穏健派、ジロンド党員たちが、この奔流に逆らって造ろうとしたものだった。
モオリスが夢中になって執務をしているあいだに、そしてしきりに追い払おうとした熱が、心の代りに頭の中を蝕《むしば》みはじめているあいだに、使いの者はサン・ジャック街に戻り、この住居の中を驚愕と恐怖でいっぱいに満たしてしまった。
この手紙は、一応ジュヌヴィエーヴに目を通されてから、ディメールに手渡された。
ディメールは手紙を開き、まずはじめは、何の意味かまったくわからないまま目を通し、それから、手紙を市民モランに回した。モランは、象牙のような白い額を、ちからなく手で抑えた。
ディメール、モラン及びその一党の現在の立場、モオリスには全然不案内であったが、読者はその事情に通じているこの立場では、この手紙はまさに晴天の霹靂《へきれき》のようなものだった。
「あの男は紳士だろうか?」とディメールが不安そうに訊ねた。
「そう、紳士だよ」とモランが躊躇なく答えた。「そんなことはどうでもいい!」といつかの夜も、何でも過激な手段を主張していた男が言った。「お判りでしょう、やっぱりあのとき、あいつを消しといたほうが良かったんですよ」
「ネエきみ」とモランが言った。「われわれは暴力に対して戦っているんだよ。われわれは、暴力に罰の名の烙印《らくいん》を押しているんだよ。たとえどんな結果を生もうと、人間は殺さないにこしたことはない。それに、繰りかえして言うが、わたしは、モオリスは気高い、りっぱな心の持ち主だと思うね」
「それはその通りです。けれども、その気高い、りっぱな心が、過激な共和主義者の心だとしたらどうです、もし何かを不意に見つけたら、彼らの言う、いわゆる祖国の祭壇に自分の名誉を犠牲に捧げないことを、みずから罪と見なすのではないでしょうか」
「しかしねえ」とモランが言った。「きみは、彼がなにか知っていると思うのかね」
「なんですって! あなたには判らんのですか? 彼は、自分の心に秘密をほうむっておくから、と言っているじゃあありませんか」
「その秘密というのはね、明らかにわたしが彼に打ち明けた秘密のことだよ。つまりね、われわれの密輸に関係したことでね、彼はそのほかのことは何にも知りゃしないよ」
「ところで」とモランが言った。「例のオートゥイユの会見のことだが、あのことを彼は何にも疑っていなかったかね? あなたはご存知でしょう、彼はあなたの奥さんと一緒に出かけたんでしょう?」
「あれは、あたしのほうからジュヌヴィエーヴに言ってやったんですよ、途中身を守ってもらうのに都合がいいから、モオリスを連れてゆくようにね」
「まあ聞きたまえ」とモランが言った。「その疑いがほんとうかどうかはいずれ判るよ。われわれの大隊のル・タンプルの警備の順番は六月の二日、つまり一週間後だよ。ディメール、きみは大尉だし、ぼくのほうは中尉だ。もしわれわれの大隊が、いやわれわれの中隊にしてもかまわん、もしこの前のときのように取消し命令でも受けたら、すべてオジャンで、発見されたことになる。あの時は、ラ・ビュット・デ・ムーランの大隊がサンテールの命令で、グラヴィエ大隊と交代命令を受けたんだっけね。そうなったら、われわれはもう、パリを脱走するか、戦いだから死ぬより方法はないわけだ。けれども、もしすべて順調にゆけば……」
「どっちみち、われわれはもうだめですな」とディメールが口をはさんだ。
「それはどういうわけです?」
「そうじゃあありませんか! すべて、あの警察隊員の協力があればこそうまくいっていたんでしょう? それとも知らずに、われわれに女王への手蔓《てづる》を作ってくれたのは、あの男ではなかったんですか?」
「たしかに仰せの通りだよ」とモランは打ちしおれて言った。
「そこでお判りですかな」とディメールが眉をしかめながら言った。「どんなことをしても、われわれはあの青年と交誼《こうぎ》を新たにしなければいけないんですよ」
「でも、彼が嫌だと言ったら、危い橋を渡るのを心配したら?」
「まあお聞きなさい」とディメールが言った。「これからジュヌヴィエーヴに訊ねてみましょう。最後に彼と別れたのは彼女《あれ》ですしね、きっとなにか知っていると思いますよ」
「ネエ、ディメール」とモランが言った。「わたしとしてはね、きみがわれわれのこの秘密の計画に、ジュヌヴィエーヴを一枚加えるのを見て、心苦しいんでね。いやとんでもない、彼女が口が軽い、とかいう心配なんかさらさらないんだよ! ただね、いまわれわれが打っているのは恐ろしい大|ばくち《ヽヽヽ》だからね、われわれの賭に、女のいのちを賭けるのは、わたしとしては恥ずかしくもあり、また燐れにも思うんでね」
「女の命だってね」とディメールが言った。「男の命と同じくらい重いものですよ、それにね、計略だとか、率直さだとか、それに美貌というやつは、なかなかどうして大したことをやってのけますし、時には、腕力や勢力や、勇気さえとうてい及ばないくらいですよ。ジュヌヴィエーヴはわれわれの使命を分ち合っておりますし、共感もしています。ジュヌヴィエーヴは、われわれと運命を共にしているんですよ」
「じゃあ、いいようにしたまえ」とモランが答えた。「わたしとしては、言うべきことを言ったまでだよ。ジュヌヴィエーヴは、たしかにあらゆる点で、あなたが彼女に任している仕事に、彼女がいっしょうけんめいに尽くしている仕事にじゅうぶん値いする女性ですよ、まさに聖女を殉教者に仕立てるようなものですな」
そして彼はディメールのほうに、白い、女性的な手を差し出し、ディメールはその手を彼のたくましい手で握りしめた。
次に、ディメールはモランと一党に、今までよりいっそう、警戒を厳重にするように頼んでから、ジェヌヴィエーヴのところへ出かけた。
彼女は額を下げて、刺繍にじっと目を注ぎながらテーブルの前に坐っていた。彼女はドアが開く音に振り返り、ディメールの姿を認めた。
「アラ! あなたでしたの?」
「そうだよ」とディメールは、微笑をたたえた、穏やかな表情で答えた。「じつはね、あなたのお友だちのモオリスから手紙を受けとったんだがね、とんとその意味が判らんのだよ。サア、まあ読んでごらん、それから、あなたの思ったとおりにわたしに話してくれないか」
ジュヌヴィエーヴは、片手でその手紙を取った。自分ではいっしょうけんめいに抑えているのだが、手が震えるのをどうしても隠すことができなかった。彼女は手紙を読んだ。
ディメールは目で彼女の視線を追い、彼女の視線は一行一行と読み進んでいった。彼女が全部読み終ると、ディメールが言った。
「どうだい?」
「そうですわね、あたくしの考えでは、ムッシュウ・モオリス・ランデイはりっぱな紳士です」とジュヌヴィエーヴは、しごく落ち付いた態度で答えた。「そのほうのことなら、なにも心配なさる必要はないと思いますわ」
「どうだね、あなたの考えでは、あの男は、あなたがオートゥイユヘどんな人物を訪問したか、知らないと思うかね?」
「それは確かですわ」
「それじゃあ、突然こんな決心をしたのは、またどういうわけだね? あなたの見たところでは、昨日は彼は、いつもより冷静だったかね、それともなにか落ち付かなかったかね?」
「いいえ。あたくし、いつもと変りなかったように思いますわ」
「いいかね、ジュヌヴィエーヴ、あなたが答えていることをよおく考えてくださいよ。お判りになるはずだが、あなたの返辞は、われわれの計画すべてに、実に大きな影響をもっているんでね」
「それじゃあ、ちょっとお待ちになって」とジュヌヴィエーヴが感動をこめて言った。彼女としては、冷静に冷静に、といっしょうけんめいに努力しているのだが、どうしてもこの感動を抑えきれなかったのだ。「お待ちになって」
「いいとも!」とディメールが、顔の筋肉をちょっとひきつらせて言った。「いいとも、どんなことでも思い出しておくれ、ジュヌヴィエーヴ」
「そうですわ、そう、思い出しました。昨日は、あの方ふさいでいらっしゃいました。ムッシュウ・モオリスは、ことお友だちのことになると、ちょっと押しつけがましいところがありますの……先週は、ときどき、あたくしたち、すねたりしておりましたわ」
「じゃあ、単にすねただけのことなんだね?」とディメールが訊ねた。
「おそらくそうだと思いますわ」
「ジュヌヴィエーヴ、あなたにもお判りのことと思うが、われわれに必要なのは、そうだと思う、なんてことじゃあないんだ、そうに違いない、という確実な事実なんだよ」
「よろしゅうございます……では、まちがいなくそうですわ」
「じゃあ、この手紙は、もうこの家の敷居を跨がないという、単なる口実にすぎないんだね?」
「あなた、どうして、そんなことまであたくしの口から言わせたいんですの?」
「とにかく言っておくれ、ジュヌヴィエーヴ、あなた以外の女性には、あたしだってこんなことは頼みはしないよ」
「たしかに、あれは口実ですわ」とジュヌヴィエーヴは目を伏せながら言った。
「アア! なるほど」とディメールが言った。
それから、しばらく口をつぐみ、今まで心臓の鼓動を押えていた手をチョッキから離して、妻の坐っている椅子の背に置きながら、ディメールが言った。「ネエ、ちょっとあたしに手を貸してもらえないかね」
「どんなことですの?」とジュヌヴィエーヴはびっくりして、振り返りながら訊ねた。
「とにかく、チラリと危険の影がさしただけでも先手を打っておこうよ。もしかしたら、モオリスは、われわれが疑っているより、もっともっとわれわれの秘密に深入りしているかも知れんからね。ちょっと一言、あの男に手紙を書いてやってくれんかね」
「あたくしが?」とジュヌヴィエーヴが身震いしながら言った。
「そう、あなたがです。手紙はあなたが開いてみた、そこで、その理由を説明してほしい、と言ってやるんです! あの男はきっとやってきますよ、そこであなたがあの男を問いつめてみる、そうすれば、いったい問題はなんだか、しごく簡単に判るというわけです」
「アア! いけません、だめですわ」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。「あなたのおっしゃったようなこと、とうていできませんわ。あたくしにはできませんわ」
「いいかね、ジュヌヴィエーヴ、この問題はあたしたち次第でどうにでもなるんだよ、それほど重大な利害がいままさに危機に瀕している時に、自尊心などというつまらぬ考えの前で、どうして後へ退こうというんだね?」
「ムッシュウ、あたくしはもう、モオリスについてのあたくしの意見を申し上げましたわ。あの方はりっぱな方で、騎士的な精神をお持ちです、ただ気紛れなところがございます。あたくしは、自分の夫以外の方に屈従的な扱いを受けたいとは思いませんわ」
この返辞は、同時に悠揚迫らぬ落ち着きと、確固とした決心を示して口にされたので、ディメールも、少なくとも今は、強引に主張してもとうてい無理だ、と悟った。彼はただの一言もつけ加えず、見ていないような振りをしながらジュヌヴィエーヴを見つめ、じっとりと汗ばんだ額に手をやって、部屋から出ていった。
モランは落ち着かない様子で彼を待っていた。ディメールは今しがた起こったことを、一言一言彼に言って聞かせた。
「いいでしょう」とモランが答えた。「ではそちらのほうはそのままにして、もうそのことは考えますまい。あなたの奥さんに、チラリとでも不安の種になるくらいなら、ジュヌヴィエーヴの自尊心を傷つけるくらいなら、わたしだったらいっそ諦めますね、きっと」
ディメールは彼の肩に手を置き、相手をじっと見つめながら言った。
「あんたは気が狂ってますよ、ムッシュウ。でなければ、自分で言った言葉の意味を考えていないんですな」
「何だって、ディメール、ほんとうにそう思うのかね?」
「どうやらあたしの考えでは、騎士、あなたはあたしより、心の衝動のままに動き、自分の感情を制御できない方のようですな。ネエ、モラン、あなたにしろ、ジュヌヴィエーヴにしろ、自分の体であってじつは自分のものではないんですよ。あたしたちはね、ある主義を守り通すように運命を定められた|もの《ヽヽ》で、その主義はその|もの《ヽヽ》を圧しつぶしてはしまいますが、しかしその|もの《ヽヽ》を拠りどころとして成り立っているんですよ」
モランはブルッと身震いして、沈黙を守ったが、それは物思わしげな、悩ましそうな沈黙だった。
二人はもう一言も言葉を交わさずに、こうして庭の中を何回か回った。
とうとうディメールはモランと別れた。
「ちょっと命令しておかなければならないことがいくつかあるので」と彼はまったく穏やかな声で言った。「じゃあ失礼します、ムッシュウ・モラン」
モランはディメールに手を差し出して、彼が遠ざかってゆくのを見送っていた。
「可哀そうなディメール」と彼は言った。「こんなことをしていて、いちばん危険を冒しているのはあの男じゃないか、それが心配なんだ」
ディメールはほんとうに工場へ帰り、二、三命令を下してから、新聞に目を通し、地区内の貧民たちにパンとバターを配給するように言いつけてから、住居へ戻ると、仕事着を脱いで、外出着に着換えた。
一時間ほど後に、モオリスは兵士たちへの訓辞を読み上げている最中に、世話係の声で、はなしをさえぎられた。世話係は、彼の耳に口を寄せ、低声《こごえ》でこう言った。
「市民ランデイ、どなたか、少なくとも向うの言い分ではぜひお話ししたい重要な用件がある、という男が参りまして、お宅であなたを待っておりますが」
モオリスが家に戻ると、自分の家に腰をすえて、新聞をめくっているディメールの姿を見てびっくりしてしまった。帰りがてら、道々ずっと彼は世話係に訊ねてみたのだが、なにしろ世話係はこの皮なめしの工場主をしらなかったので、なにひとつ満足な返辞をすることもできなかった。
ディメールの姿を見て、モオリスは入口の敷居上で足をとめ、われにもあらず赤面した。
ディメールは立ち上って、微笑を浮かべながら彼のほうに手を差し出し、青年に向かって訊ねた。
「何がお気に召さないで、お腹立ちになったんです、どうしてまたあんな手紙をお書きになったんです? まったくのはなし、モオリスさん、あたしはげっそりしましたよ、いや痛切に感じましたね。このあたしが、生ぬるい、偽愛国者だ、とあなたはお書きになっていましたね? サア、それではいかがです、あたしの目の前で、同じ様な非難をなさることができますか。どうです、はっきり白状なさったら、あたしにつまらん言いがかりをつけようとなさったんでしょう」
「ディメールさん、あなたはぼくに対して、いつも紳士的な態度をとってくださったので、あなたがお望みになるんなら、何でも申し上げましょう。それにしても、ぼくはもう決心をしてしまったんです。この決心は取消しがきかないんですよ」
「それはどういうわけです? つまり、あなたご自身の意見としては、べつにあたしを非難しているわけではない、それなのに、あたしと絶交なさる、というんですね?」
「ディメールさん、考えてもみてください、ぼくがしたようなことをするには、あなたのような友人と絶交するからには、ぼくにとってやはりそれなり、じゅうぶんな理由があるからなんですよ」
「なるほどね。とにかく、いずれにしてもですな」とディメールは作り笑いをうかべながら言った。「その理由とおっしゃるのは、あなたがお手紙に書いていたことではないんですね? あなたがあたしに書いてきたあの理由は、ただの口実に過ぎないわけですね」
モオリスはちょっと考えてから言った。
「聞いてください、ディメール。今は特別の時代なんですよ、こんな時代には、手紙の中にちょっと疑いを匂わせただけでも、あなたがお悩みになっても当然なはなしで、それはぼくにもじゅうぶん判りますよ。あなたのような方にこんな不安を味わわせて、苦しませるなんて、たしかに名誉を重んずる男のするべきことではないでしょうな。そうです、ディメール、ぼくがとりあげた理由なんて、ただの口実だけだったんですよ」
この告白を聞いて、当然この商人の顔ははればれしてもいいわけだったが、反対に彼は顔を曇らせたように見えた。
「で、それじゃあ、ほんとうの原因はなんですか」とディメールが言った。
「それは申し上げられません。いずれにしろ、もしあなたがその原因を知ったら、あなただって、きっと、なるほどと思いますよ、まちがいありません」
ディメールは、しきりに話してくれとモオリスにせがんだ。
「どうしてもお知りになりたいんですか?」
「どうしてもです」
「よろしい」とモオリスは、はなしが真相に近づいたので、ある気持ちの安らぎを覚えながら答えた。「つまりですね、あなたの奥さまが、若くておきれいだからです。なるほど、奥さまが貞節な方だとはみなさんご存知かも知れませんが、ぼくがあんまり足繁くお宅へ伺ったりしたら、若く美しい女性の貞操について、妙な誤解でも招きはしないか、それが心配だったものですから」
ディメールの顔色がちょっと蒼ざめた。
「ほんとうですか? そうとすれば、モオリスさん、あなたが友人を悩ませたと言っても、夫としてはむしろあなたにお礼を申さなければなりませんね」
「お判りのことと思いますが、ぼくがお宅へお邪魔したからといって、あなたや、あなたの奥さまの平和を乱すかもしれない、なんて思うほど己惚れてはおりません、しかし、ぼくがあんまりお宅に出入りすれば恐らく世間の悪口の種になりますし、ご存知のように、悪口というやつは、バカバカしければバカバカしいほど、みんなコロリと信じ込んでしまうものですからね」
「あなたもお若いですな!」とディメールが肩をそびやかしながら言った。
「お望みなら、若いと思ってくださってもけっこうです。でも、遠く離れていても、よいお友だちでいられることは変りありませんよ、それなら、だれにも悪く言われる気づかいはありませんからね。ところが、あんまり近すぎると、反対に……」
「近すぎると、どうなります?」
「結局はお互いに悪意を抱くようになるんじゃあないですかねえ」
「モオリス、あなたは、あたしがそんなこと信じると思うんですか?……」
「そうですとも! もちろんです!」と青年が言った。
「で、どうしてあたしに話さないで、わざわざお手紙などくださったんですか、モオリス?」
「つまりですね、ちょうどいま、ぼくらのあいだで起こっているようなことがないように、と思ったからですよ」
「それじゃあ、モオリス、あたしはあなたが大好きだったので、わざわざ説明を求めにきたのを、腹を立てていらっしゃるんですか?」
「とんでもない! まったく反対ですよ」とモオリスが叫んだ。「誓って申しますが、もうお目にかかるまいと思っていたのに、その前にもう一度お会いできて喜んでいるんですよ」
「もう会わない、ですって、市民! だってあたしたちはとても|うま《ヽヽ》が合っているじゃありませんか」とディメールは、青年の手を固く握りしめながら言い返した。
モオリスは身震いした。ディメールにこの身震いが伝わらないはずはなかったが、彼はそのことは何も言わずに続けた。
「モランはですね、今朝でもまだあたしに口を酸っぱくしてこんなことを言うんですよ。『できるだけのことをして、あのモオリスさんを家へお連れしたまえ』とね」
「アア! ムッシュウ」と青年は眉をひそめ、手を引っ込めながら言った。「市民モランの友情がそんなに深いなんて、ぼくにはまったく思いがけないことです」
「本気になさいませんか?」
「ぼくはですね、べつに信じようとも、疑おうとも思いませんよ。だいいち、この問題について、とやこう考える筋合いはまったくありませんのでね。ぼくがお宅へ伺うのはですね、ディメール、あなたやあなたの奥さまにお会いしたいからで、べつに市民モランに会いたくて出かけるわけではありませんからね」
「あなたはご存知ないんですよ、モオリス。モランはりっぱな魂の持ち主ですよ」
「その点は、おっしゃる通りだと思いますよ」とモオリスは苦笑しながら言った。
「サア、それではあたしがお宅へ伺ったことへ、はなしを戻しましょう」
モオリスは、もう一言も言うことはない、あとは相手の出方を待つ、という男のような態度を示して一礼した。
「もう話し合いは終った、とおっしゃるんですか?」
「そうですよ、市民」とモオリスが言った。
「よろしい、ではフランクに話そうじゃあありませんか。あなたはどうして口さがない隣人の、つまらないお喋りを気になさるんです? あなたは良心をお持ちでないんですか、モオリス、それにジュヌヴィエーヴには名誉なんかどうでもいいとおっしゃるんですか?」
「ぼくはあなたより若いんです」とモオリスは言ったが、彼は相手がこんなに喰い下がるのが次第に不思議になってきた。「あるいは、ぼくはちょっと敏感すぎる目で、ものを見ていたかも知れませんね。ぼくが申し上げたのはこういうわけからなのです、つまり、ジュヌヴィエーヴのようなご婦人は、たとえ口さがない隣人の無意味なお喋りであれ、評判になることすらよくない、ということなんです。ディメールさん、ごかんべんください、ぼくは初めの意見を主張しつづけますからね」
「よろしい、もう今やお互いに本音を吐いているんですから、ここでもうひとつべつのことでも嘘のないところを話しましょう」
「なんのことです、それは?」とモオリスは顔を赤らめながら訊ねた……「ぼくは、何を申し上げればいいんですか?」
「政治のはなしでもなければ、あなたがひんぱんにあたしの家を訪ねてみえて、人の口がうるさいからもう足踏みをしないと決心なさった、などというはなしでもありません」
「それじゃあ、何のことです、いったい?」
「あなたがご存知の秘密のはなしですよ」
「どんな秘密ですか、いったい?」と訊ねて、モオリスは、素朴な好奇心にみちた表情をうかべたが、それを見て、このなめし革工場の主人は安心した。
「ホラ、いつかの晩、例のあたしたちが奇妙なやり方で知り合いになったときに、あなたに打ち明けた例の密輸の問題ですよ。あんな不正なことをあなたはぜったい許してはくださらないんでしょう、なにしろ、あたしの工場ではイギリス製品を使っているんですから、不届きな共和国民だといって、あたしを非難なさるんでしょう」
「ディメールさん、誓って申しますが、ぼくはですね、自分がお宅を訪ねていても、密輸業者の家にいるなんていうことは、すっかり忘れておりましたよ」
「ほんとうですか?」
「ほんとうですとも」
「では、あたしの家へ足踏みなさらない、というのは、あたしにお話しくださったほかには、べつの理由はなかったわけですね?」
「名誉にかけて誓いましょう」
「よろしい、モオリス」とディメールは立ち上り、青年の手を握りしめながら言った。「お願いですから、よおくお考えになって、あたしたちみんなにこれほど心配をかける、そんな決心はご翻意なさってください」
モオリスは一礼したが、返辞をしなかった。つまりこれは、最後の拒否と同じことだった。
ディメールは、この男との関係を保つことができなかったので、がっかりして帰っていった。この男は、ある場合には、彼にとって役に立つばかりでなく、それ以上に、必要不可欠な人物なのだ。
まさに時がきた。モオリスは口とはうらはらな、いろいろな欲望に悩まされていた。ディメールはもう一度きてくれ、といって彼に頼んでいる。そんなくらいだから、ジュヌヴィエーヴだって彼のことを許してくれるにちがいない。それなのに、なぜ彼は絶望するのだろうか? もし、ローランが彼の立場にいたならば、きっと、好きな作家の警句を山ほど引用したことだろう。けれども、例のジュヌヴィエーヴの手紙があった。このキッパリした別れの手紙を、彼は、あの彼女が男たちの手で辱めを受けていたところを救い出した日の翌日、彼女から受け取った短い手紙といっしょに、肌身離さずつけて、小隊まで持って行った。とにかく、ジュヌヴィエーヴと絶交するようになった第一の原因は、なによりも、あの気に食わないモランに対する青年の頑固な嫉妬だったのだ。
モオリスは自分の決心を頑として枉《ま》げなかった。
ところが、これだけはつけ加えなければならないが、毎日、あの古びたサン・ジャック街へ訪ねることができなくなったのは、彼にとっては何といっても淋しい限りだった。今まで、習慣のように、サン・ヴィクトール界隈への道を辿っていた時間、彼は深いメランコリーにおちいり、そしてこの時から、彼の気持は期待してみたり、残念がってみたり、いろいろな姿に変わるのだった。
毎朝、目を覚ますと、ディメールの手紙が届いていないか、と期待し、前には声を荒げて執拗な頼みに反対したが、今度は、手紙で言ってきたら、譲歩してもいいんだが、などと思うのだった。毎日、どこかでジュヌヴィエーヴにバッタリ出会えるのではないかという望みを抱いて外出したが、もし出会ったら、こうも言おうああも言おうと、前もっていろいろな言葉を考えていた。毎晩、使いの者でもきてはいないか、という一抹の希望を抱いて家へ帰ったが、それとはわからなかったが、実はこの使いの者がいつかの朝、今では四六時中彼の心を離れなくなってしまった苦悩を彼にもたらしたのである。
こんな絶望の淵に浸りながらも、この豪快な気性の男は、自分がこんな苦悩にさいなまれながら、相手に同じような苦しみをもって報いられないと思うと、うなり出したくなるようなことも、一再ならずあった。ところが彼のあらゆる苦悩の|もと《ヽヽ》はといえば、モランである。そこで、モランを相手に喧嘩のひとつも売ってやろうか、という気にもなったが、このディメールの協同経営者ときたら、まったく弱々しげで、悪いところはなし、こんな相手を辱めたり、挑発したりするのは、モオリスのような逞しい男からみれば、卑怯なような気がするのだった。
ローランはたびたびやってきてなんとかして彼の苦しみをまぎらわそうとした。彼の友人は、頑固にこの苦しみについて口を閉ざしていたが、それに悩まされていることは否定もしなかった。モオリスは女性への愛によって痛めつけられた心を祖国に向け、行動面でも、理論面でも、できることはなんでもやってみた。しかし、たとえ四囲の状況が重大を極めていても、またこんな精神状態の中で、モオリスが全身を政治の渦中に投げ込んでみたところで、この若い共和主義者に、七月十四日や、八月十日に見せた、あの初期の行動力をとり戻すことはできなかったにちがいない。
事実、この十カ月、二つの派閥が対抗し合っていた。その頃までは、ごく軽い|いざこざ《ヽヽヽヽ》という外観を呈していただけで、まだ単なる前哨戦の予告といったかたちに過ぎなかったのが、次第に白兵戦の様相を帯びてきて、戦闘がひとたび火蓋をきるや、相方血みどろになりそうな雲行は明白だった。この二つの派閥とは、もともと革命の中心から生まれてきたもので、一つはジロンド党によって代表される穏健派であり、すなわち、ブリッソ、ペチヨン、ヴェルニョウ、ヴァラゼ、ランジュイネ、バルバルー、などなどといった面々である。もう一方は恐怖政治家、ないしは山岳党であり、ダントン、ロベスピエール、シェニエ、ファーヴル、マラー、コロ・デルボワ、エベールなどのひとびによって代表される。
こうした事件のあとではいつもそうだが、八月十日の虐殺の後に、穏健派にも影響が及んだようにみえた。閣僚は、むかしの閣僚の残党と、新規に加えられた顔ぶれで構成された。ロラン、セルヴィヤン、クラヴィエールなどの旧閣僚が再選され、ダントン、モンジュ及びル・ブランが新たに任命された。彼らの仲間の中で、エネルギッシュな分子を代表するただひとり(ダントン)だけは例外だったが、他のすべての閣僚は穏健派に属していた。
もっとも穏健派と言ったところで、ごく相対的な意味で言っているものと理解していただきたい。
しかし、八月十日の事件は外国に影響を与えた。大急ぎで同盟が結ばれたが、これはルイ十六世に個人的な救援の手を伸ばす、というわけではなく、根底から揺さぶりをかけられた、王国主義を救うためであった。そこでブランシュヴィック伯の脅迫的言辞がひびき渡り、その恐るべき実現として、ロンヴィとヴェルダンが敵の勢力圏に落ちた。そこでテロの反動が起こった。そうなると、ダントンは、あの九月の虐殺の日々を夢に描き、政敵に示したこの血に飢えた夢を実現したのであった。フランス全体が、果てしない虐殺の共犯者となり、絶望的なエネルギーを結集して、危険にさらされた相手に対して、戦闘準備をはじめたのだ。あの九月事件はフランスを救った。しかし、救ったとはいいながら、法を無視して救ったのである。
ひとたびフランスが救われるや、エネルギーはもはや無用のものとなり、穏健派は再びやや勢力をとり戻した。そこで穏健派は、あの恐怖の日々についてもう一度非難をむしかえしてやろうとした。殺人者とか人殺しとかいう言葉がひとびとの口にのぼった。新語が国民たちの言葉にまでつけ加えられた。すなわち、九月大虐殺者《セプタンビルズール》という新語である。
ダントンは敢然として、この言葉を甘受した。クローヴィス(メロヴィンガ王朝、五代目の名君)のように、血の洗礼を受けてちょっと頭を下げたものの、これは、その後にいっそう脅迫的に、頭を高々と上げるために下げただけだった。過去の恐怖が再び繰りかえされ、姿を現わす機会がきた。つまり国王の裁判がそれだった。過激派と穏健派が再び闘争を始めたが、まだまったく個人的な争いではなく、主義上の争いだった。国王一家が相対的なちから関係の実験台にされた。穏健派は圧倒されて、ついにルイ十六世の首は処刑台上の露と消えた。
八月十日の時と同じように、一月二十一日の時にも、ダントンは全エネルギーを投じて同盟に尽くした。今度もまた彼に真向から反対したのは同じ人物だったが、辿った運命はちがっていた、デュムーリエは全官僚たちの不和に乗じて、裁判中に逮捕されてしまった。彼のところまで差し伸べられた金品やひとびとの援助の手も、この不和のおかげで妨害された。そこでデュムーリエは、無秩序きわまる、という非難を浴びせて、ジャコバン党員に対して反対宣言をして、ジロンド党に加担したが、友人が反対してジロンド党の支持も失うことになる。
そこでヴァンデ県(王党)が立ち上り、ほうぼうの県も立ち上って脅しをかける。敗北は裏切りを生み、裏切りはまた敗北を生む。ジャコバン党員は穏健派を弾劾し、三月十日に穏健派をたたこうとする、これがつまり、この物語の巻頭の夜のあいだの出来事である。ところが、敵に対してあまりにも功を焦ったために、却って穏健派を助けるような結果になるが、あるいはまた、あのとき、パリっ子気質の深い心理洞察者ペティヨンにこんなことを言わせた、あの雨のおかげかもしれない。
「雨が降ってるよ、今夜はなにも起こらんだろうな」
ところが、三月十日以来、ジロンド党員にとっては、すべてが破滅の前兆だった。つまり、マラーは告発されたものの、無罪の宣告を受けた。ロベスピエールとダントンは、今や手を組んだが、これは少なくとも、これからむさぼり食わねばならない牡牛を倒すために、虎と獅子が手を組んだようなものだった。九月大虐殺者のアンリヨは、国民軍の総司令宮に任命された。すべてが、大革命が恐怖政治に反対するために築いた堤防を、あらしの中に流し去るべき、恐怖時代の前兆であった。
これが、どんな場合にも、モオリスがみずから進んで飛び込んでいった、大事件のかずかずであったが、もちろん、これが彼に、あの力強い性格と、過激なまでの愛国心を養ってくれたのである。ところがモオリスにとって幸か不幸か、ローランのいろいろなお説教も、道で出会う恐ろしい気苦労も、彼につきまとって離れない唯一の観念を、彼の心から追い払うことはできなかった。そして五月三十一日がきても、バスチイユ牢獄やチュルリイ宮殿の、あの恐るべき襲撃者は、もっとも強靱な男たちの命までも奪うような、あの熱に冒されて、ベッドに横たわっていた。しかしこの熱を散らすには、たった一目会うだけで、この病を癒すためには、たった一日言葉をかけてもらうだけでよいのだ。
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十三 五月三十一日
あの有名な五月三十一日は一日中、夜明け方から警鐘や非常警報が鳴り響いていた。サン・ヴィクトール地区の大隊がル・タンプルに入ってきた。
必要な手続きは全部終り、歩哨が配置につくと、警備兵と、増援の大砲が四門やってきて、ル・タンプルの門のところで、すでに砲撃体制をととのえていた砲と並んだ。
大砲といっしょに、黄色いラシャの肩章をつけた、軍服姿のサンテールが姿を現わしたが、軍服についた大きな油の|しみ《ヽヽ》が彼の愛国心を如実に現わしていた。
彼は大隊の閲兵をして、規定通りになっていることを認め、警察隊員の員数を数えてみたところ、わずかに三人しかいなかった。
「隊員はどうして三人なんだね?」と彼が訊ねた。「欠席するような不届きな市民は、いったい何者だ?」
「ところが将軍、欠席している隊員は、穏健派ではありません」とすでにわれわれにはおなじみのアグリコラが答えた。「ルペルチエ小隊の書記、勇敢なテルモピイル党の党首の市民モオリス・ランデイです」
「わかった、わかった」とサンテールが言った。「わしだって、きみと同じように市民モオリス・ランデイの愛国心はじゅうぶん認めておる。ただいずれにしろ、十分たっても彼が現われなければ、やはり欠席者名簿に記載しなければならんな」
こう言って、サンテールはべつの細かい指示を与えに行った。
彼がこんなことを喋っているあいだに、将軍から数歩離れたところに、歩兵大尉と兵隊が控えていた。ひとりは銃によりかかり、もうひとりは大砲の砲身に坐っていた。
「聞いたかい?」と大尉が兵隊に低い声で言った。「モオリスはまだ着いてないぞ」
「そうですね、でもいずれやってきますよ、気でもおかしくならない限りはね、まあご安心なさい」
「もし彼がやってこないようなことになったら」と大尉が言った。「わたしはきみを階段の歩哨につけるぞ、|あのお方《ヽヽヽヽ》は、きっと塔へ登っていらっしゃるから、そうしたら一言お話し申し上げるんだ」
その時、三色の肩章で一目で警察隊員とわかる男が入ってきた。ただ、この男は大尉にも歩兵にも見覚えのない男だったので、二人はこの男をじっと見すえた。
「将軍」とこの新来の男がサンテールに話しかけた。「お願いいたします、自分を、病気の市民モオリス・ランデイの代わりに勤務につけていただけませんか。ここに医者の証明書がございます。自分の警備の順番は一遇間後に回ってきますが、自分が彼と交代いたします。一週間後に、自分が今日彼と交代したように、自分の勤務を彼が代わりますから」
「ところが、カペーの息子や女どもは、一週間後にはまだ生きているかどうかだ」と隊員のひとりが言った。
サンテールは、この熱心な愛国者の冗談にちょっと微笑して答えた。それからモオリスの代理一人のほうを向いて言った。
「よろしい、モオリス・ランデイの代わりに名簿にサインしてこい。それから、この交代の理由を、注意欄にちゃんと記入しておけよ」
ところが、大尉も歩兵も、思いがけなく、大喜びの様子で顔を見合わせた。
「二通間後だってよ」と二人はお互いに言い合った。
「ディメール大尉」とサンテールが叫んだ。「きみの中隊を引率して、庭園の位置につけ」
「きたまえ、モラン」と大尉は、仲間の歩兵に言った。
太鼓の音が響き渡った。中隊はなめし革工場の主人に引率されて、命令された方向へ遠ざかっていった。
兵士たちは銃を叉銃《さじゅう》し、中隊は各分隊ごとに別れて、思い思いにあっちこっちと歩きはじめた。彼らが歩き回っている場所は、ルイ十六世の時代には、国王一族のひとびとが、ときどき、散歩にやってきたのと同じ場所だった。この庭はむき出しで、ジメジメして、人気もなく、花も木も、青いものはまったくなかった。
ポルト・ホワン街に面している塀の木戸から、約二十五歩ばかりのところに、小屋のようなものが建っていた。これは市役所が将来に備えて、ル・タンプルの警備に当り、動乱のあった日にはここに詰め、外出を禁じられた国民軍たちが、飲み食いするのに都合がいいようにと、設置許可を与えたものだった。この小さな酒保の管理人になりたい者はずいぶん大ぜいいたが、結局は、八月十日に戦死した下町っ子の寡婦《ごけ》さんで、りっぱな愛国者で、プリュモオ(羽ぶとん)おばさん、という名前にぴったりの女にその権利が譲渡されていた。
板と荒壁でできた、この小さな小屋は花壇の真中にあったが、この花壇には|つげ《ヽヽ》の背の低い囲いが残っていて、今でもまだ見分けることができた。この小屋は約四メートル四方ばかりの、たったひとつの部屋があるだけで、部屋の下は地下倉庫になっており、この地下へは、地面を不器用に刻んだ階段を通って降りてゆくようになっていた。プリュモオ寡婦さんが飲物や食糧品を蔵っておくのはこの地下倉庫で、上の部屋では寡婦さんと娘の十二か十五ぐらいの女の子が交代で店番をしていた。
国民軍たちは、彼らの露営地に腰をすえるとすぐに、すでに紹介したように、ある連中は庭をあちこち歩き回ったり、また他の連中は門番相手にだべったりしていた。また他の連中は、すべてなかなか愛国的な画になっている、壁に落書きされた画を眺めたりしていたが、例えば、「日光浴をしているムッシュウ・ヴェト」などという説明までつけて、首を吊られた国王の面とか、「袋の中で唾を吐いてるムッシュウ・ヴェト」という但し書をつけて、ギロチンにかかった国王の姿を描いたものがこれである。また別の連中は、多少とも彼らの食欲を唆るようなごちそうの問題について、マダム・プリュモオを相手に交渉を始めていた。
この最後の連中の中に、われわれが先ほど紹介した大尉と歩兵がいた。
「アア! ディメール大尉」と酒保のおかみさんが言った。「ソーミュールのすばらしいぶどう酒がありますよ、サア、いらっしゃい!」
「けっこうだね、女市民プリュモオ。けれどもね、わたしに言わせれば、ソーミュールのぶどう酒も、ブリーのチーズがなかったら台無しだね」と大尉は言ったが、こんなお談義をする前に、自分のまわりをぐるりと見回して、さまざまな食糧品の中に、彼がすばらしいと言ったあのチーズがないのを見届けておいたのである。
「アア! 大尉さん、まったくの間の悪いはなしだよね、ちょうど最後のやつが売れちまったところでね」
「それじゃあ、ブリーのチーズがなければ、ソーミュールのぶどう酒も要らんよ。いいかね、おかみさん、実はね、払いはいくらかかってもかまわんから、中隊の連中みんなにごちそうしてやるつもりだったんだよ」
「ネエ、大尉さん、五分ばかり待っていただけませんかね、ひとっ走り門番のところまでいってきますよ、門番のやつはね、あたしの商売仇なんですけれど、チーズならいつでも持っているんですよ。あたしゃあ、ずいぶんいい値で買わなけりゃならないんだけれど、あんたはりっぱな愛国者だから、そんなことであたしに損をさせやあしませんよね」
「いいとも、いいとも、行ってくれよ。そのあいだに、われわれは地下へ降りて、自分でぶどう酒を見つけておくからね」
「ご遠慮なくどうぞ、大尉、遠慮なくね」
こう言うとプリュモオ寡婦さんは大急ぎで門番の住居のほうへ駆け出していったが、そのあいだに、大尉と歩兵は、手にローソクを持ち、揚げ蓋をはね上げて、地下倉庫へ降りていった。
「こいつはうまいぞ!」としばらく検べてみてからモランが言った。「地下倉庫はポルト・フォワン街のほうへ向かっているよ。深さは三メートルよりちょっと深いか浅いか、といった程度だし、石工の工事はぜんぜんやってないな」
「地質はなんですかね?」とディメールが訊ねた。
「白亜質の凝灰岩だな。どこかから運んできた土ですよ、これは。この庭は、庭中何度も何度も堀り返されているからね、岩らしいものはまったくないんだな」
「サア、早く」とディメールが言った。「酒保のおかみさんの木靴《サボ》の音が聞えますよ。ぶどう酒の瓶を二本とってください、で、上へ上りましょう」
プリュモオのおかみさんが、しきりにねだってようやく手に入れた、有名なブリーのチーズを持って帰ってきたときには、二人とも揚げ蓋の口のところに姿を現わしていた。
おかみさんのうしろから、例のチーズのいかにもおいしそうな形に惹き寄せられて、数人の歩兵たちがついてきた。
ディメールは約束を守った。彼は中隊の兵隊たちに二十本ばかりのぶどう酒を振舞ってやり、そのあいだに、市民モランはクルチウスの献身的行為だの、ファブリチウスの公平無私な態度や、ブルータスやカシウスの愛国心(いずれも古代ローマの愛国者)だの、そのほかいろいろな物語を披露したが、言うまでもないことだが、こうしたはなしは、ディメールの|おごり《ヽヽヽ》のブリーのチーズや、アンジューのぶどう酒と同じように、一同のあいだで好評だった。
十一時の鐘が鳴った。歩哨の交代時間は十一時半だった。
「あのオーストリア女めが散歩に出るのは、ふつうは正午から一時までだったな?」とディメールが、ちょうど小屋の前を通りかかったチゾンに訊ねた。
「ちょうどひるから一時まででさあ」と言って、彼はこんな歌を歌いはじめた。
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マダムが塔へお登りだ……
ミロントン、トントン、ミロンテーヌ。
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こんな新しい冗談は国民軍たち一同の笑声で迎えられた。
すぐにディメールは、十一時半から一時半まで塔に行くはずになっている中隊の部下を呼び、急いで昼食をとってしまうように命令を下し、彼を配置につけるために、モランにも武装させて、かねての手はずどおりに、塔の階段のいちばん上の、物見櫓の中へ行くように言った。この櫓は、例の日にモオリスがうしろに隠れていたところで、ポルト・フォワン街の窓から、女王が受けていたサインを彼が邪魔をした場所である。
このごく簡単で、判りきった指示を受けたとき、もしモランを注視している者がいたら、黒い髪を長く束ねた髪の下で、彼の顔が蒼ざめるのに気付いたにちがいない。
とつぜん、低い物音がル・タンプルの中庭をゆさぶり、遠くのほうからまるであらしのような叫びや唸り声が聞えてきた。
「ありゃ、いったいなんだい?」とディメールがチゾンに訊ねた。
「アア! なーにね」と牢番が答えた。「べつになんでもありませんや。ブリッソ党の野郎ともがね、ギロチンヘ連れてゆかれる前に、オイラにひと騒動おこさせようっていうんで、わめいているんでさ」
その物音がだんだん険悪になってきた。大砲をころがす音が聞え、一団の人間が大声をあげながら、ル・タンプルのほうへ行ったが、口々にこんなことを叫んでいた。
「小隊ばんざい! アンリヨばんざい! ブリッソ党をやっつけろ! ローラン党をやっちまえ! マダム・ヴェトをやっつけろ!」
「いいぞ! いいぞ!」とチゾンは両手をこすりながら言った。「マダム・ヴェトのドアを開けて、あいつの下の国民がどんなにあいつを敬愛しているかたっぷり聞かせてやろうじゃあないか」
そして彼は櫓の覗き窓のほうへ近寄った。
「オーイ! チゾン!」とものすごい声が聞えた。
「なんです将軍?」とチゾンは足をピッタリと止めて返辞をした。
「今日は外出禁止だ」とサンテールが言った。「囚人どもが部屋を出ないようにしろ」
この命令にだれも声援を申し出るものはいなかった。
「ようがす! こちとらあ、手間がはぶけまさあ」
ディメールとモランは悲しげな視線を交わした。それから、今ではもう無駄になった警備の鐘が鳴るのを待つあいだに、二人とも、酒保とポルト・フォワン街に面した塀のあいだをブラブラ歩き出した。ここでモランは、幾何学的な歩どり、つまり一メートルばかりの歩幅で距離をはかり始めた。
「どのくらいだね、距離は?」
「一九メートルか二〇メートルっていうところかな」とモランが答えた。
「いく日ぐらいかかるかね?」
モランはじっと考えて、砂の上に棒でなにか幾何の図形を書いて、すぐに消してしまった。
「少なくとも七日はかかるな」
「モオリスは一週間後には警備につく」とディメールがつぶやいた。「これから一週間以内に、われわれはどうしてもモオリスと仲直りしなければいかんな」
半を告げる鐘が鳴った。モランは溜息をついて銃をとり、伍長の指揮で、塔の屋上を歩き回っている歩哨と交代にでかけた。
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十四 献心
前章で語った情景が起こった翌日のこと、すなわち六月一日の午前十時頃、ジュヌヴィエーヴは窓のそばのいつもの場所に腰をおろしていた。三週間前からの日々が自分にとってどうしてこんなに悲しく明け暮れるのだろうか、一日一日の過ぎてゆくのが、どうしてこんなに遅々としているのだろうか、前には夜のくるのを一生懸命に待っていたのに、今では恐怖を感じるのはいったいどうしてだろうか、と考えていた。
ことさら、夜が悲しかった。以前は一夜一夜がじつに美しく、夜がくれば、こしかたのことや、来るべき明日のことを夢見て時を過ごしていたのだが。
いま、彼女の目は縞の入ったカーネーションや赤いカーネーションの美しい箱に注がれていた。冬になってから、彼女は、その花を部屋の中で咲かせようと思って、かつてモオリスが捕えられて閉じこめられた、あの小さな温室から出してきたのだ。
モオリスが、アカジューの花壇にこのカーネーションを植え、その作り方を彼女に教えてくれたのだ。彼女はモオリスがそこにいるうち、自分で花に水をやったり、枝を剪定《せんてい》したり、支柱に幹をとめたりしたものだった。というのは、夜になって彼がやってくると、二人の、父親のような愛情のおかげで、夜のうちに美しい花がつき、成長していく姿をモオリスに見せるのが楽しみだったからであった。ところがモオリスが姿を見せなくなってから、哀れなカーネーションはすっかり見棄てられてしまって、今では面倒をみてもらうどころか思い出してもらうこともなく、この哀れな蕾はすっかり元気がなくなって、ちからなく、首をたれ、黄色く変色して、半分萎れたようになって手摺《てすり》の外へ倒れていた。
花のこんな格好を見ただけで、ジュヌヴィエーヴには自分の悲しみの理由がわかった。彼女は、花だって愛情と同じようなものだ、と思った。つまり心の中で愛情を育て、熱心に面倒を見てこそ、心を晴々とさせてくれるのだ、と。ところがある朝、気紛れか、不幸かが、愛情を根こそぎにしてしまった。そこでせっかく愛情のおかげで生き生きしていた心が縮こまって、しおれて、ついにはしなびてしまった。
そこでジュヌヴィエーヴの心は恐ろしい不安を感じた。いままで彼女が心の中で争い、ねじ伏せようと努力していた感情が、かつてなかったほど心の底で暴れまわり、心が死なない限りこの感情も消えないぞ、といってわめきたてるのだ。こうして、彼女は、こうした争いがだんだんと不可能なものになってゆくということに気がつき、しばし絶望にとらわれるのだった。彼女は軽く頭を下げ、今はもうしぼんでしまった蕾に接吻すると、涙を流すのだった。
ちょうど彼女が涙を拭ったとき、夫が部屋へ入ってきた。ところが、ディメールはディメールで、自分の考えで頭がいっぱいだったので、今しがたまで妻をおそっていた苦悩のこんな危険な状態に気がつかないほどで、彼女の|まぶた《ヽヽヽ》が隠しきれないほど赤くなっているのにも注意を払わなかった。
夫に気がつくと、ジュヌヴィェーヴは急いで立ち上り、窓に背を向けるようにして夫のほうに駈けより、軽く頬を染めながら言った。
「どうなさったの?」
「いや、べつにとりたててなにもないがね。あの|お方《ヽヽ》に近づくことはできなかった、あのお方になんにもお渡しできなかった。お会いすることすらできなかったのさ」
「どうしてでしょう!」とジュヌヴィエーヴが叫んだ。「パリがあんなに騒がしかったのに?」
「そうなんだ! ちょうどあんな騒ぎが起こっちまったんで、衛兵がいつもの倍も疑ぐり深くなったんだね。みんなが動揺しているところを利用して、ル・タンプルで何か事件を起こすんじゃあないかと心配したんだね、だから、女王陛下がちょうど屋上へお上りになる時になって、サンテールの命令があって、女王も、マダム・エリザベートも、王女殿下も外へ出てはいかん、ということになってしまったんでね」
「騎士がかわいそうだわ、あの方ずいぶんくやしかったでしょうね?」
「このチャンスがわれわれの手からすり抜けたとわかると、彼は絶望してしまったよ。顔が真蒼になってしまってね、あたしが彼を連れてきたんだが、だれかに変に思われやあしないかと心配になるほどだったよ」
「でも」とジュヌヴィエーヴがおずおずと訊ねた。「ル・タンプルには、どなたかお知り合いの警察隊員はおりませんでしたの?」
「ほんとうはひとりいるはずだったんだが、来なかったんだよ」
「どなたですの?」
「市民モオリス・ランデイさ」とディメールは、つとめて無関心をよそおった調子で言った。
「あの方、どうしてお見えにならなかったのかしら?」とジュヌヴィエーヴは、彼女のほうでも同じように無関心をよそおおうと努力しながら言った。
「病気だったのさ」
「ご病気ですって、あの方が?」
「そう、それもなかなか重態らしいよ。あなたも知っているようにあんな愛国者だが、その彼が自分の警備の順番をひとに譲らなければならなかったくらいでね」
「イヤハヤ! なんってことだ! ジュヌヴィエーヴ、あなただってわかるでしよう、今じゃもう彼がいようがいないが同じことさ」とディメールが続けた。「あたしたちはあんなふうにして喧嘩別れしたんだもの、彼だってあたしを避けて、口もきかないよ、きっと」
「ネエ、あなた、あたくしの考えでは、今度のことでは、どちらもお互いの立場を大袈裟に考えすぎているんじゃあないかしら。ムッシュウ・モオリスがもうこの家の敷居を跨がない、とおっしゃるんだって、きっと気紛れからですし、もうあたくしたちにお会いにならないといっても、つまらない理屈をつけていらっしゃるのよ、きっと。でも、だからといって、あの方があたくしたちの敵に回ったわけでもありませんわ。冷淡さと礼儀は両立しないものではありませんから、あなたのほうであの方のところへお出になれば、あの方だって歩み寄ってこられると思いますわ、きっと」
「ジュヌヴィエーヴ、あたしたちがモオリスに期待しているのはね、礼儀以上のものじゃあないのかね、実際の深い友情だけではとてもじゅうぶんと言えるものじゃあないんだよ。ところがその友情もダメになってしまった。だから、このほうはもう見込みはないよ」
こう言って、ディメールは深い溜息をついたが、いっぽういつもは穏やかに見える彼の額には、悲しそうなしわが寄っていた。
「でも」とジュヌヴィエーヴがおずおずと言った。「ムッシュウ・モオリスが、あなた方の計画にとって、それほど必要だ、とおっしゃるんでしたら……」
「つまりだね、彼がいなければ、この計画の成功はとてもおぼつかない、というわけさ」
「では、あなたはなぜ、もう一度市民ランデイになにか手を打とうとなさらないんですの?」
あの若者の名前を姓のほうで呼んでみると、洗礼名で呼んでいるときよりも、自分の声の耳あたりがいかついように彼女には思えた。
「いいや、だめだね」とディメールが頭を振りながら言った。「あたしはね、できるだけのことはやってみたんだよ。ここで新しく手を打ったりしたら、きっとかえって奇妙に思われるだけだし、必ず相手の疑いを招くだけだろうね。だめだよ、それにジュヌヴィエーヴ、あなただって知ってるだろうが、この問題については、あなたよりあたしのほうがずっと先まで読めるんだよ。つまりモオリスの心にはなにか傷があるんだね」
「傷ですって?」とジュヌヴィェーヴは心を躍らせて訊ねた。「アラ! どうしたことですの? なにをおっしゃりたいんですの? 話していただけません、あなた」
「あたしが言いたいのはね、ジュヌヴィエーヴ、あなただって、あたしと同じように信じていると思うんだが、あたしたちが市民ランデイと仲違いしたのはただの気紛れだけではないんだよ」
「じゃあ、あなたはこの仲違いの原因がなんだと思っていらっしゃるの?」
「おそらく、誇りだろうね」とディメールが激しい口調で言った。
「誇りですって?……」
「そうなんだ、少なくともあたしの見たところ、あのパリのブルジョワで、愛国心の名のもとに激しい気性を隠している、半分法曹貴族の青年はね、あたしたちに恩を着せていたのさ。小隊へ行っても、クラブヘ行っても、市役所へ行っても勢力赫々たるあの共和党員はね、毛皮商人ふぜいを相手に友情を示して、あたしたちに恩を着せていたわけさ。おそらく、あたしたちはいい気になり過ぎていたんだろうね、おそらく、自分の身分も忘れていたんだよ」
「でも、たとえあたくしたちがいい気になり過ぎていたにしろ、自分の身分を忘れていたにしろ、あなたがお取りになった処置をみれば、そんなことはみんな帳消しになったような気がするんですけれど」
「そうだね、あたしのほうに非があったとすればそれでもいいよ。でもね、もし反対に非があなたにあるとしたらどうだね?」
「あたくしがですって! でも、あたしがムッシュウ・モオリスに失礼をしたなんて、どうしてそんなことおっしゃるの?」とジュヌヴィエーヴがびっくりして言った。
「ふーん! とにかく、ああいった気性の相手だから、判るもんかね。だいいち、最初に気紛れのせいでこうなった、と言ったのはあなたじゃあなかったかね? ともかく、あたしのはじめの考えに戻るとして、ジュヌヴィエーヴ、あなたがモオリスに手紙を出さなかったのがそもそも間違いのもとさ」
「あたくしが! そんなことを考えていらっしゃるの?」
「いま考えているだけじゃあないよ、このいざこざが始まってからずっと、三週間というもの、あたしはイヤというほど考えてみたんだよ」
「で、いかがでした」とジュヌヴィエーヴが恐る恐る訊ねた。
「とにかく、あたしとすれば、どうしてもここで手を打っておく必要がある、と思うんだよ」
「アラ!」とジュヌヴィェーヴが叫んだ。「いいえ、いけませんわ、ディメール、あたくしにそんなことを無理|強《じ》いなさらないで」
「あなただって承知しているはずだよ、あたしは今まで何ひとつあんたに無理強いしたことはないよ。ただ、あなたに頼んでいるだけさ。どうだい、判ったかね? お願いだから市民モオリスに手紙を出してくれないか」
「でも……」
「まあお聞きなさい」とディメールが相手の言葉を遮って言った。「あなたとモオリスとのあいだに、なにか重大ないざこざの種があったかもしれない、でもあたしにすれば、あたしがとった態度については彼から文句は出ないはずだよ、それにあなたが彼と仲違いしたにしろ、何か子供っぽいことが原因になっているんだろ」
ジュヌヴィエーヴは一言も答えなかった。
「もしこの仲違いがそんな子供っぽいことが原因だったとしたら、あなたがいつまでダラダラそれにこだわってるのは狂気の沙汰じゃあないかね。それに、原因がもしまじめな問題だったら、あなたにもそんなことはよく判ると思うけれど、もうそうなったら、われわれの品位だの、自尊心だのなんて言っちゃあいられないんだよ。あなただってそう思うだろうが、若いひとたちのいざこざと、この重大な利害を天秤にかけるわけにはいかないよ。だから、あなたもあなたなりに努力してほしいんだ、そこで市民モオリス・ランデイに手紙を書いてくれないか、そうすれば彼だって戻ってくるさ」
ジュヌヴィエーヴはしばらく考えてからこう言った。
「でも、あなたとムッシュウ・モオリスの|より《ヽヽ》をもどすといっても、もっとなんか危険の少ない方法があるんじゃあないかしら?」
「危険の少ない、と言うんだね。ところが反対さ、あたしの見たところ、これがいちばん自然なやり方だよ」
「でもあなた、あたくしにとってはそうでもありませんわ」
「あなたもまったく強情だね、ジュヌヴィエーヴ」
「でも、それは判ってくださると思いますけれど、こんなことは初めてですわ」
ディメールはハンカチを手の中でもみつぶし、しばらくして、汗でビッショリ濡れた額をぬぐった。
「たしかにそうだね、だからあたしは、ますますびっくりしているのさ」
「困ったわ! とても無理なはなしですわ、ディメール、あなたにはあたくしがこんなに反対している理由がおわかりにならないんですわ、それを、あたくしに無理に喋らせようとなさるの?」
彼女は弱りきった様子で、もう精も根も尽きはてたように、頭をガックリとたれ、手を両脇にダラリとたらした。
ディメールも一生懸命に努力して、ジュヌヴィエーヴの手をとり、むりに彼女の頭を上に向かせて、まっ直ぐに彼女を見つめて、大声で笑い出した。もしこの時、彼女の心がこんなに転倒していなかったなら、ジュヌヴィェーヴにも、それが作り笑いだということがよく判っただろう。
「なるほど判ったよ」と彼が言った。「あなたの言う通りだ。あたしは盲目だったね。あなたほど才女でも、あなたほどりっぱな女でも、月並なことが気になるんだね。あなたは、モオリスがあなたを好きになったんじゃあないか心配になったわけだね」
ジュヌヴィエーヴは心の中まで、死のような冷たいものが突き刺さったような感じがした。モオリスが彼に抱いていた愛情、あの青年の気性を知って以来、激しい思いをこめて胸に秘めていた愛情、そしてみずから認めるにしても、口にも出せぬ悔恨を感じつつようやく認め、心の底でお互いに分ち合っているこの愛情についての夫のこの皮肉が、彼女の心に突き刺さったのだ。彼女には夫を正視する力がなかった。彼女は、自分には、とうてい返辞ができないと思った。
「わかったよ、どうだい? なあに、安心しなさいよ、あたしはモオリスはよく知っている。あの男は勇敢な共和党員だからね、彼の心の中には、祖国への愛情以外に、愛なんてありゃあしないよ」
「あなた、あなたはご自分で口になさっていることを、信じていらっしゃるの?」
「そうとも! おそらくね。もしモオリスがあなたを愛していたらばだね、あなたといざこざを起こすどころか、前の倍ぐらいも親切にしたり、鄭重な態度をとるよ、なにしろ相手は欺してやりたい相手だからね。もしモオリスがあなたを愛していたらば、そう簡単に、この家の友人という資格を捨てたりするもんかね、その資格があれば、ふつうはこうした背信行為もカヴァーできるものだからね」
「名誉をお考えになって。お願いですから、そんなふうなことで冗談をおっしゃるのはおやめになって!」
「冗談を言っているわけではありませんよ、マダム。あたしが言いたいのはね、モオリスはあなたを愛していない、ということなんですよ、それだけのことだよ」
「あたくし、あたくし」とジュヌヴィエーヴが顔を赤らめながら叫んだ。「あたくしが申したいのは、あなたは間違っていらっしゃる、ということですわ」
「いずれにしてもだね、モオリスという男は、自分を迎えてくれる相手の信頼を裏切るくらいなら、自分から遠ざかるくらいの自制心はあるよ、りっぱな男だからね。ところがだね、ジュヌヴィエーヴ、名誉を重んずる人間というのは数が少ないもんでね。そういう男が自分から足を遠のけようとしたら、その相手を引き戻すには、できるだけの手を打たなけりゃあね。ジュヌヴィエーヴ、モオリスに手紙を書いてくれるね?」
「アア! どうしたらいいのでしょう!」とジュヌヴィエーヴが言った。
そして彼女は、両手で頭をかかえ込んでしまった。というのは、自分の身が危うくなったら身を寄せようとしていた男が、とつぜん彼女の手から離れ、彼女を引きもどすどころか、かえって彼女を危険のほうへ駆りたてているのだった。
ディメールはしばらく彼女を見つめ、次にむりに微笑を浮かべながら言った。
「サア、もう女の自尊心なんていうものは捨てなければ、もしモオリスのほうで、あなたに何か優しい言葉でもかけてくれようとしたら、はじめにしたと同じように、もう一度笑いかけてやっておくれ。あたしはあなたという女はよく判っている、ジュヌヴィエーヴ、あなたは、りっぱな気高い心の持ち主だよ。あたしはあなたならば大丈夫と思っているよ」
「アア!」とジュヌヴィェーヴは、片膝が床につくほど身をすべらせて叫んだ。「アア! どうしたらいいんですの! だれだって自分の気持すら信じられないのに、他人の心が大丈夫だなどと言えるでしょうか?」
ディメールは、まるで全身の血が心臓に吸い取られたように、蒼白になった。
「ジュヌヴィエーヴ、いましがたあなたが味わったような、こんな苦悩にあなたを追い込むなんて、あたしが間違っていたよ。でもね、あたしはすぐにあなたに言うべきことがあったんだよ。ジュヌヴィニーヴ、われわれは、今こそ大きな献身の実を見せなければならない時なんだ。ジュヌヴィエーヴ、あたしはね、われわれの恩人の女王に、ただ自分の腕一本捧げただけじゃあないんだ、命まで、いや自分のしあわせまでも献げてしまったんだ。ほかの者も、命を捧げているだろうがね、あたしは女王のために、命以上のものを差し出し、自分のしあわせまで危険にさらすのも厭わないんだよ。たとえ踏みつけにされたところで、今のようなフランスが苦悩の海に呑み込まれようとしているときには、あたしの名誉なんていうものは、ただ|なみだ《ヽヽヽ》が一滴したたり落ちただけなんだよ。でもね、ジュヌヴィエーヴのような女性に守られている限りは、あたしの名誉が危険にさらされることなんか、まずあるまいね」
いまはじめて、ディメールは事件の真相をすべて打ち明けたところだった。
ジュヌヴィエーヴは再び頭を上げ、賛嘆にみちた眼差しで夫を見つめ、夫に額を差し出して、接物してもらった。「じゃあ、そうしろとおっしゃるのね?」と彼女が言った。
ディメールは、そうだ、という合図をした。「では、読み上げていただけません」と言って彼女はペンを執った。
「いや、そりゃまずいよ。それじゃあ向うの気持を踏みにじることになるんでね、おそらく、あのりっぱな青年の心につけ込むことになるんじゃあないかな。彼とすれば、ジュヌヴィエーヴの手紙を受けとったから、われわれと仲直りしようという気になるわけで、つまり、この手紙はジュヌヴィエーヴのものでなければいけないんだよ、ムッシュウ・ディメールのものではだめなのさ」
ディメールはもう一度妻の額に接吻し、彼女に礼を言って出ていった。
そこで、ジュヌヴィエーヴは、震えながら次のような手紙を書いた。
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市民モオリス
主人がどれほどあなたに好意を抱いているか、あなたもご存知のことと思います。お別れしていたこの三週間が、あたくしどもにはまるで一世紀もたったように思えるのですが、こうしてお別れしているうちに、あなたさまは主人のことをお忘れになってしまったのでしょうか? 一同|鶴首《かくしゅ》してお待ちしておりますので、ぜひお越しくださいませ。再びあなたがお見えになる日は、あたくしどもには、ほんとうにお祝いのように喜びに溢れることでございましょう。
ジュヌヴィエーヴ
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十五 理性の女神
きのう、サンテール将軍が報告を受けたように、モオリスは重い病気だった。
彼が部屋で安静にするようになってから、ローランは規則的に彼に会いにきて、彼の気分をひきたたせようとして、できるだけのことはやってみた。ところがモオリスは頑として耳を藉さなかった。病人のほうで、癒りたがらない病気もあるものだ。
六月一日の一時頃、ローランがやってきた。
「今日は何か特別のことでもあるのかい?」とモオリスが訊ねた。「えらく派手な格好をしてるじゃあないか」
事実、ローランは正装をしていた。赤いボンネットに、革命服、それに二挺の武器を吊った三色のバンド。この武器は当時はモオリ坊主の酒瓶と呼ばれていたが、以前にも、こののちにももっとはっきりと、ピストルという名で呼ばれた|しろもの《ヽヽヽ・》である。
「まず第一にだね」とローランが言った。「ごく当り前のはなしからすればだ、ジロンド党が壊滅して、いま処刑されている最中だよ。ただし相も変らず太鼓を鳴らしているけれどね。例えば、いまみんなカルーセル広場をさかんに攻撃しているところさ。次に、これは特別の話題だけれどね、盛大なお祭りがあるんでね、明後日きみを誘ってひっぱり出そうというのさ」
「でも、今日はいったい何があるんだい? ぼくを呼びにきたんだろう、きみは?」
「そうとも、今日は予行演習さ」
「なんの予行演習だい?」
「つまり、そのお祭りの予行演習さ」
「だってきみ、きみだって知ってるだろう、ここ一週間というもの、ぼくは外へ出ていないんだぜ。だからね、ぼくはぜんぜんご時勢に暗いわけだよ。できるだけいろいろなこと教えてくれなければだめだよ」
「なんだって! オレはきみに話さなかったかねえ?」
「なんにも言わなかったよ」
「まずだね、きみも知っているように、オレたちはしばらく前から神さまとは縁を切った。その代りに『至上のもの』というやつを崇めることにしただろう」
「うん、そのことなら知ってるよ」
「ところでみんなあることに気づいたらしいんだ、というのはだね、あの『至上のもの』というやつは、穏健派で、ローラン派で、ジロンド党だとね」
「ローラン、神聖なものを冗談にしちゃあいけないよ。きみも知ってるように、ぼくはそういうことはごめんだぜ」
「なにを言うんだ、きみは、これが時世時節というものだよ。オレだってね、昔の神様は好きだよ、第一、昔なじみだからな。『至上のもの』なんていうのは、ほんとうにとんだ間違いだし、あんなものを上に戴いて崇め奉ってからというもの、万事がどうも脇へそれちまうみたいな気がするんでね。ところで、われわれの立法界のお歴々が『至上のもの』にご遠慮願おう、という法令を出したというわけだよ……」
モオリスが肩をそびやかした。
「肩をそびやかすなら、好きなだけやるがいいさ」とローランが言った。
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「哲学的に申そうならば
オイラはモムス(嘲弄の神)の手先でござる
不信の国の神様ならば
狂気がよいとのご託宣
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と、まあこんなわけでね、これからはちょっとばかり『理性の女神』を信心しよう、というあんばいなんだよ」
「で、きみもそんな偽善者連中に首をつっ込もうというのかい?」
「アア! きみだってね、オレみたいに理性の女神を知っていたら、きっと熱心な支持者になること請合いだよ。いいかいよく聞けよ、オレはね、きみに彼女を知ってもらいたいのさ、きみを紹介するつもりなんだ、彼女に」
「そんな気違い沙汰は願い下げだよ。きみも承知のようにね、ぼくはいま寂しいんだよ」
「だったらなおさらだろう! まったくのはなし、きみだって彼女を見たら大喜びだぜ。なにしろ|いかす《ヽヽヽ》女の子なんだ……そうだ! きみも知ってるぜ、あのりっぱな女神を、パリジャンが集まって月桂冠をかぶせ、金箔の車で町を練り歩かせようっていう女神を! つまり……判るだろう……」
「ぼくに判るっていうのは、なんのことだい?」
「ホラ、アルテミーズだよ」
「アルテミーズだって?」とモオリスは記憶の糸をたぐっている様子だったが、この名前はどうしても思い出せなかった。
「そうだよ、ホラ、赤い毛髪の大柄な女さ、去年オレが知り合った……オペラ座のダンス・パーティでさ、ほらその証拠に、きみのところヘオレと一緒に夕食にきて、きみはすっかり彼女に有頂天になったじゃないか」
「アア! そうだ、たしかにその通りだよ。ようやく思い出したよ、あの女のことかい?」
「そう、彼女は実に幸運な女でね。ぼくがあの女を紹介してコンテストに出してやったのさ。テルモピイル党の連中が、みんな彼女に投票するって約束してくれたんだよ。三日たったら選考があるんだけれど、今日はその下準備の夕食会でね、一同シャンパンを抜こうってわけだよ。明後日あたりになったら、オレたちは血のご馳走を振舞うようになるかもしれんけれどね。まあ、なんでも好きなものを振舞うがいいが、アルテミーズが女神に当選するのは決まりきってるよ、矢でも鉄砲でももって来いだ! サア、きたまえ。これから彼女に、女神の上着を着せようっていう寸法なんだ」
「気持はありがたいんだが、ぼくは元来、そういったお祭り騒ぎは得意じゃないんでね」
「女神に服を着せるのがかい? チェッ! きみも気むずかしい男だな。よしきた、それできみの気が晴れるというんなら、ぼくが彼女に上着を着せるから、きみは脱がしたらどうだい」
「ローラン、ぼくは病気なんだよ、自分が楽しくないばかりじゃあなく、他人《ひと》が楽しんでいたりすると、ぼくには苦痛なんだよ」
「オヤオヤ! まったくねえ! きみと話していると恐ろしくなるよ、モオリス。きみときたら、もう喧嘩もごめんなら、笑うのもごめんだと言うのかい。なんだな、もしかしたら、きみはなにか企んでることでもあるんじゃあないかい?」
「ぼくが! じょうだんじゃないよ! 神よ照覧あれ、だ!」
「きみはこう言いたいんじゃないかい。理性の女神よ照覧あれ、とね」
「放っといてくれ、ローラン。ぼくは外へ出れないんだ、出たくないんだよ。ベッドに寝ころんで、じっとしてるよ」
ローランは耳をガリガリ掻いた。
「なるほど! わかったよ」
「なにがわかったんだい?」
「つまり、きみも理性の女神を待ってるんだな」
「とんでもない! 才気煥発の友だちなんていうのは、まったく厄介ものだな。もう行ってくれよ、行かないと、きみときみの理性の女神に呪いをかけてやるぞ」
「いいとも、かけてみろ、かけてみろ……」
モオリスは手を上げて呪いの言葉を浴びせようとしたが、ちょうどその時入ってきた世話係にさえぎられてしまった。世話係は、主人宛の手紙を一通手にしていた。
「市民アジェジラス」とローランが言った。「きみは間の悪い時に入ってきたな。いまきみのご主人は、えらい派手な騒ぎをやらかそうとしていたところだよ」
モオリスは振り上げた手をダラリと下げて、その手を何気なく手紙のほうへ差し出した。ところが手紙にちょっと触れるやいなや彼は体を震わせて、むさぼるように手紙を目に近づけ、筆跡と封印にじっと目を凝らしていたが、まるで気分でも悪くなったように真蒼になり、封印を切った。
「なるほど! なるほどねえ!」とローランがつぶやいた。「見たところ、どうやら物事に興味が湧いてきたらしいね」
モオリスは何も聞かずに、全霊を打ち込んでジュヌヴィエーヴの数行の手紙を読んでいた。中味を読み終っても、二度、三度、四度までも読みかえした。それから、まるで正気を失った男のように、ローランを見つめて、両手を額へやった。
「ちきしょうめ!」とローランが言った。「どうやら手紙が新しい熱病を送ってきたらしいぞ」
モオリスはもう一度手紙を読み直した。これで五回目だったが、また彼の顔が朱色に染った。彼の乾いた両眼が濡れ、深い溜息を心臓《ヽヽ》いっぱいに吸い込んだ。それからとつぜん、彼は病気も、病気のおかげで体が弱っていることも忘れて、ベッドからとび降りた。
「服だ!」と彼はびっくりしている世話係に向かって叫んだ。「服だ、アジェジラス君! アア! 気の毒なローラン、親切なローラン、ぼくは毎日この手紙を待っていたんだよ、けれど、ほんとうはもう、ぼくは望みを抱いていなかったんだ。ホラ、白いズボン、飾りのついたシャツだ。髪の手入れをしてくれ、急いで|ひげ《ヽヽ》を当ってくれよ」
世話係は大急ぎでモオリスの命令通りにして、髪を手入れをし、器用な手つきで|ひげ《ヽヽ》を剃った。
「アア! 彼女に会えるぞ! 彼女に会えるんだ!」と青年は叫んだ。「ローラン、ぼくはね、今まで、ほんとうに、幸福がどんなものだか知らなかったんだよ」
「気の毒なモオリス。やっぱりオレの思った通り、きみはあのひとを訪問するべきだったんだな、だからぼくが忠告したじゃないか」
「マアマア! きみ、かんべんしろよ。でもね、ほんとうのところ、ぼくには理性なんてもうなくなっちまったんだよ」
「それならオレのを進呈するぜ」とローランが、この辛辣な冗談に笑い出しながら言った。
といって、べつに驚くほどのことでもないのに、モオリスまでいっしょに笑い出した。
しあわせというのは、人間の気分までも扱い易くしてしまうものだ。もうこれで終り、というわけではなかった。
「サア、きみ」と花がいっぱいついたオレンジの木の枝を折ってモオリスが言った。「モオゾール王(紀元前四世紀、小アジアのカリアの王、その妻がアルテミーズ二世で、夫のために世界七大墓地の一つといわれる墓を作ったので有名)のりっぱな未亡人に、ぼくからだといってこの花束を渡してくれよ」
「けっこうだな! なかなか粋なはからいだよ! だから、きみを大目に見てやろう。それに、オレの見たところ、きみはきっと恋をしてるらしいが、恋の苦しみに泣く不幸な男には、ぼくはいつでも最大の尊敬を払っているんだよ」
「そうとも、ぼくは恋をしていたんだ」と喜びに心をいっぱいにふくらませてモオリスが叫んだ。「ぼくは恋をしている、それでね、今だからこそはっきり言えるんだが、彼女もぼくを愛してくれているんでね。だって、向うでぼくを呼んでくれるくらいだから、彼女はぼくを愛しているわけだろ、そうだろ、ローラン?」
「きっとそうだぜ」とこの理性の女神の崇拝者は悦に入った様子で答えた。「でもなあモオリス、用心してくれよ。どうもきみのそのやり方が心配で……
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エジェリー(神話のニンフで、人に耳を藉してもらえない忠告者の意)の愛はしばしば
キューピッドという名の暴君の
裏切りにはほど遠くなり
智勇の士のもとでは効果《ちから》なし
げにわれは、理性を愛し
きみはまた狂気より逃る」
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「いいぞ! いいぞ!」とモオリスは手をたたきながら叫んだ。
そして階段を四段もいっぺんに飛びおりて一目散に駆けおり、河岸へさしかかると、もうじゅうぶん勝手を知ったサン・ジャック街の方向へ飛んでいった。
「どうやらやっこさんも、オレの言うことがもっともだと思ったらしいね、アジェジラス?」とローランが訊ねた。
「たしかにおっしゃる通りですよ、市民、でも何も驚くには当りませんよ、あなたがおっしゃったことは、筋が通っているんですから」
「じゃあ、やっこさんも、思ったほどの病気じゃあないな」
こう言って、今度はローランが階段をおりたが、彼は落ち付いた足取りだった。アルテミーズはジュヌヴィエーヴではないからだ。
ローランがサン・トノレ街へ出るやいなや、花の咲いたオレンジの枝を手にした彼のあとを、若い市民たちの群が追ってきた。この連中は、ローランがその日の気分次第で、小銭を恵んでやったり、革命服の上から、足を一発蹴とばしてやったりした相手だが、連中はローランの姿を見ると、サン・ジュスト(過激派の政治家)が、白い衣裳とオレンジの花束を女神に捧げるように頼んだ、りっぱな人物のひとりにちがいないと思いこんでしまったのである。
行列はたえず人数を増した。それというのも、この時代にはりっぱな人物というのが、はなはだ稀だったせいもあるが、花束がアルテミーズに捧げられた頃になると、数千人の若い市民がひしめく、といった有様だった。コンテストの候補に上ったほかの数人の女神たちは、この華々しい様子にすっかり頭が痛くなってしまった。
パリにこんな歌謡が拡がったのはその晩のことだった。
理性の女神にさちあれかし!
焔は清く、やさしく輝く
革命時代の事蹟を検べている学者たちが衆智を集めても、この歌謡は現在まで「読人しらず」のままになっているが、われわれとしては、これこそわれらの友人イヤサント・ローランが美しきアルテミーズに捧げて歌ったものと、勇敢に断定しよう。(つづく)