鉄仮面(下)
アレクサンドル・デュマ作/石川登志夫訳
目 次
三四 フィリップの逮捕
三五 脱走者
三六 最後の告別
三七 ボーフォール公爵
三八 プランシェの商品目録
三九 公爵の財産目録
四〇 幽霊出現
四一 銀の皿
四二 きらめく鉄の仮面
四三 ツーロン出港
四四 宮女に囲まれて
四五 最後の晩餐
四六 二艘の伝馬船
四七 武士の情
四八 逮捕命令
四九 白馬と黒馬
五〇 リスは落ち、毒蛇は飛ぶ
五一 ベル・イル島
五二 アラミスの説明
五三 ダルタニャンの構想
五四 ポルトスの父祖
五五 ビスカラアの息子
五六 ロクマリヤの洞穴
五七 洞穴内の会見
五八 巨人の鉄棒
五九 巨人の最期
六〇 ポルトスの碑銘
六一 ジュスヴル公の巡察
六二 ルイ十四世
六三 アラミスの助命
六四 老アトス
六五 アトスの幻影
六六 死の天使
六七 戦死の公報
六八 悲しき挽歌
六九 四年後
七〇 ダルタニャンの死
解説
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三四 フィリップの逮捕
フィリップの手をとっていた大妃アンヌ・ドートリッシュは、秘密の階段の入り口に現われたルイ十四世の姿を認めると、幻《まぼろし》を見たもののように、あっと叫び声をあげた。
王弟のオルレアン公はめまいを感じて、正面の国王の姿から、自分のそばの国王にと、眼を転じた。
一足前に踏み出したアンリエット王女は、義兄の姿が鏡に映ったものとばかり思っていた。
事実、それは鏡に映った姿に相違なかった。
二人の国王はともに青ざめた顔をしていた。フィリップは恐ろしい悪寒《おかん》を感じて、身をふるわしていたのである。二人ともわなわなとふるえながら、手を痙攣《けいれん》的に握りしめながら、眼で互いの顔を探り合い、相手の心臓に匕首《あいくち》を刺しこむように、鋭い視線を投げ合っていた。二人は無言のままあえぎつつ、身を前に乗り出しながら、敵に飛びかかるもののように見えた。
かつて例《ため》しもない顔の似寄り、また身振りから、身丈《みたけ》、格好、さらに偶然とはいいながら、紫色のビロードの衣装までそっくりだった。というのはルイはルーヴルに行って着替えて来たのだった。だから、このまるで瓜二つの二人の王子の姿に、大妃アンヌ・ドートリッシュの心はすっかり転倒してしまったのであった。
しかも彼女は即座には、事実を推量することができなかった。世の中には、人がおいそれと信じ得ない、あまりにも恐ろしい不幸があるものだ。人は、それよりもむしろ超自然的な、また不可能なことを信じようとする。今の場合は正しくそれであった。
また、ルイはこうした障害に出合うことを予期していなかった。ただそこにはいれば、すぐ認められるものと信じていた。燦然《さんぜん》たる太陽である彼は、何者とも価値を比べられるのに耐えられなかった。彼の征服的な光の輝き出る瞬間に、あらゆるいっさいの松明《たいまつ》が消えてしまうことを欲していた。それゆえに、今フィリップの姿を眺めるや、ルイは周囲の誰彼よりも恐怖を感じたらしい。そして彼の沈黙と不動とは、忿怒《ふんぬ》の激しい爆発に先立つ集中と沈着とであった。
自分の主人の生ける絵姿をまのあたりに見て、身をふるわし、茫然《ぼうぜん》自失したフーケはどうだったろう? 彼はアラミスの眼に狂いのなかったこと、そして新来の人物が純真の国王として、他の一人に少しも遜色《そんしょく》のないこと、およびジェズイット教団の管長が、あれほど巧みに組み立てたクー・デターに荷担《かたん》しなかった自分は、まったく向こう見ずの熱狂家で、これでは二度と再び、政界に雄飛する資格はないことなどを考えてみた。
そして今、フーケがルイ十三世の血のために犠牲にしたものは、同じくルイ十三世の血であった。彼が利己的の野心に対して犠牲としたものは、気高い野心であった。持っていることの権利に対して、犠牲としたものは、新たに持つことの権利であった。彼はこの王位争奪者を一目見ただけで自分の失敗が、どれほど大きいものであるかを悟った。
フーケの心の中に過ぎたいっさいのものは、そこにいた人達には全然気がつかぬことであった。
彼はこうした瞑想《めいそう》にふけるのに五分を費した。しかもこの五分は、言い換えれば五世紀にも当たっていた。その間、二人の国王とその家族とは、あれほどの恐ろしい激動の後で、ほとんど息づまるような苦しさを感じていた。
フーケと向かい合って、壁にもたれていたダルタニャンは、額に拳《こぶし》をあて、一点を凝視しながら、こんな不思議がどうして持ち上がったのだろうかと、考えていた。なぜ自分は疑念をいだいたのか、その理由はすぐには言えなかったが、しかし確かに疑うだけの理由のあることを知っていた。そして二人のルイ十四世のこの対面は、この数日どうも胡散《うさん》臭いと見ていた、アラミスの行動が糸を引いていることを悟った。しかしこうした考えも、厚いヴェールに包まれていた。この場面の俳優たちは、いずれもはっきりしないねぼけ眼《まなこ》で、もうもうたる水蒸気の中を泳いでいるようであった。
突然、気短で、人に命令しつけているルイ十四世は鎧戸の一つに駆け寄った。そしてカーテンを引き裂くようにして、あけ放った。強烈な光線の波が部屋の中にさしこんで、フィリップは思わず凹間《アルコーブ》のほうに後ずさりした。
この機会を逃がさずに、ルイは大妃に呼びかけて、
「母上、あなたの生みの子をお認めにならぬのですか? ここにいる誰も彼もが、自分の国王を忘れているのです」と言った。
アンヌ・ドートリッシュはからだをふるわして、両手を高くあげたが、一言もしゃべれなかった。
「母上、あなたは現在のわが子をお認めにならぬのですか?」とフィリップは穏やかな声で言った。
すると今度は、ルイが後ずさりした。
大妃アンヌ・ドートリッシュは頭と心とを激しい悔恨《かいこん》に打たれて、よろよろと倒れた。しかし誰一人として助けようとする者もなかった。というのは、皆が皆、化石《かせき》したようになっていたからだ。彼女は弱々しい溜息《ためいき》をはきながら、その肱掛椅子に腰を下ろした。
ルイはこの場の光景と侮辱とにがまんができなくなった。めまいがして、扉によりかかっていたダルタニャンを見るなり、そこに飛んで行って、「おい、銃士長! 我々の顔を見て、どちらが青いか言ってくれい。あの男か、予か」と言った。
この声に、ダルタニャンははっと我に返った。そして胸に服従心がよみがえって来た。彼は頭を振るなり、もうためらわずに、つかつかとフィリップの方に歩み寄って、「あなたを逮捕します!」と言いながら、その肩に手をかけた。
フィリップは眼を天の方へもあげずに、床に釘《くぎ》づけのようになって、その場所から動こうとせずに、じっと兄弟である国王を見つめた。彼は崇高《すうこう》な沈黙で、過去のすべての不幸と、将来のすべての苦痛とに対して、王を非難していた。この魂からの言葉に打たれて王は、まったく自分の無力を感じた。彼は眼を伏せて、急いで弟と義妹とを連れて、部屋から出て行った。後には再び死ぬような思いをした大妃が、わが子から三歩のところに、身動きもせずに残されていた。フィリップはアンヌ・ドートリッシュのそばに行って、やさしい、しかも人を心から感動させるような声で、話しかけた。
「母上、もし私があなたの子でなければ、これほどまでに私を不幸におとしいれたあなたを呪《のろ》います」
ダルタニャンは骨の髄《ずい》を走る戦慄《せんりつ》を覚えた。彼はうやうやしくこの若い王子に一礼をして、頭をたれたまま言った。
「お許しくださいませ、殿下。私は一武弁にすぎませぬ。そしてただいまこのお部屋からお出になりました方にお仕え申している者でございます」
「ありがとう、ダルタニャン。しかしデルブレーはどうしましたか?」
「デルブレーは無事でございますぞ。殿下」と彼らの後ろで、こう一つの声が言った。「そして私が生きて自由でおります限り、何者にも彼の髪の毛一筋抜くことを許しません」
「フーケ!」と王子は寂《さび》しげにほほえみながら言った。
「ご免くださいませ、殿下」とフーケはひざまずきながら言った。「ただいまここを出て行かれました方が、私の正賓でございます」
「ここにいるのは義理堅い友人達と親切な人達だ」とフィリップは溜息をはきながらつぶやいた。「この世に出て来るのではなかった。ダルタニャン、案内してください」
銃士長がフィリップを連れて部屋を出ようとしたとき、コルベールが姿を現わして、王の命令書をダルタニャンに渡して、すぐと立ち去った。
ダルタニャンはそれを読むと、腹立たしげに皺《しわ》くちゃにした。
「何とあった?」と王子は聞いた。
「お読みくださいませ、殿下」と銃士長は答えた。
フィリップの眼に映ったのは次の言葉で、ルイ十四世の手で大急ぎにしたためられてあった。
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ダルタニャンは囚人をサント・マルグリット島に護送すべし。囚人には鉄仮面をかぶせ、生命を賭《と》せざればけっして脱し得ぬように取りはからうべし。
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「公平な処分だ」とフィリップはあきらめたように言った。「いつでもまいろう」
「アラミスは目が高かったな」とフーケは小声で銃士長に言った。「この方は国王として、少しも今一人の方に遜色はない」
「それ以上です! 閣下と私とさえお守りしましたならばな」とダルタニャンは答えた。
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三五 脱走者
アラミスとポルトスとはフーケがあたえてくれた時間を利用して、フランス騎兵の名誉ともいうべき快速力で疾駆《しっく》していた。
ポルトスはどういう使命のために、こんな速力で馬を走らせねばならぬのか、いっこうにわかっていなかった。しかしアラミスが激しく拍車を入れるのを見ると、自分も夢中になって、そうやった。
彼らはこうして、間もなくヴォーから十二リウも遠ざかっていた。それから馬を替えて、以後は継馬《つぎうま》の方法で旅を続けなければならなかった。そこでポルトスはこの駅継場のあいだで、思いきって、それでも慎重にアラミスに尋ねてみた。
「黙っていろよ」とアラミスが答えた。「おれたちの運が、この速力次第できまるということだけわかっていればいい」
ポルトスはびた一文も持たなかった、一六二六年ごろの銃士のように、前へ前へと突進した。運という不思議な言葉は、人間の耳にはいってもなんらかの意味がある。無一物の人には『足《た》る』ことであり、足りている人には『ありあまる』ことなのだ。
「おれは公爵にしてもらうのだ」とポルトスは高い声でつぶやいた。
彼は自分自身に話していたのである。
「なれるだろうさ」とアラミスがいつもの微笑で答えたときに、ポルトスの馬はすでにアラミスを追い越していた。
しかしアラミスの頭は火のように燃えていた。肉体の活動はまだ精神の活動を征服するまでに行っていなかった。この敗北した司教の胸には、ほえ猛《たけ》った忿怒の情とか、激しい歯痛とか、致命的な凶兆とか言ったようないっさいのものが、のたうち回り、噛《か》みつき、ぶつぶつ不平を言っていた。
彼の顔つきには、この苦闘の跡がありありと現われていた。アラミスは瞬間瞬間の印象に憤りをもらそうとして、広い街道を走りながら、馬の飛びはねるたびごとに、また道路の凹凸にも、いちいち口ぎたなくののしった。青ざめたその顔は、ときには煮えかえるように汗を流すかと思うと、また冷たく乾ききって、馬に始終|鞭《むち》を当てるので、その腹からはだらだらと血が流れ出ていた。
ポルトスの主な欠点は、物に動ぜぬことであったが、それでもこれを見て、うめき声をあげていた。こうして二人は八時間というものを疾駆して、オルレアンに到着した。
それは午後四時だった。アラミスは昔のことをいろいろと考えて、もう追っ手のかかる心配はないと判断した。
もしたとい彼とポルトスを捕縛しうる軍隊があるとしても、八時間に四十リウを伸ばすだけの継馬の用意がなければならなかった。またこんなふうに、追っ手がかかっているものとしても、彼らは五時間も先に来ていたのである。
アラミスは少しぐらいは休憩しても大丈夫とは思ったが、なお先へ伸ばすほうが確実だと思った。事実これからさらに二十リウを同じ速力で走り、またその上二十リウを強行すれば、ダルタニャンといえども、この国王の敵を捕縛することはむずかしかった。
それでアラミスはポルトスを気の毒とは思ったが、再び馬にまたがらせた。そして夕方の七時まで走って、ブロワまでわずか一駅をあますところまで来た。
しかしここで、アラミスを驚かすような大きな障害が起こった。この先を継ぐ馬が一頭もなかったのである。
アラミスは、何か恐ろしい計略で、すでに敵の手がここまで回っていて、彼らをこの先一歩も進ませぬことに成功したのかと思った。彼はどんなことが突発しても、神秘的には考えずに、それに適当した理由を発見する質《たち》だった。そこで駅長がこんな時間、こんな田舎《いなか》で、馬がないというのはきっと陰謀に失敗して脱走する逆賊の逃げ道を絶てという命令を受けてのことに相違ないと思わずにはいられなかった。
しかしアラミスが堪忍袋の緒を切って、弁明か、継馬が、いずれかを強要しようとした瞬間にふと彼はこの付近にラ・フェール伯爵が住んでいるのを思い出した。
「旅行はやめだ」と彼は言った。「ブロワまでの継馬はいらぬが、この先に住んでいる友達である領主のところまで行く馬を都合してくれ」
「何とおっしゃる殿様で!」と駅長が聞いた。
「ラ・フェール伯爵だ」
「ああ! ご立派な方でございますよ」と駅長は尊敬を面に現わしながら答えた。「しかし、折角のお望みですから、私もかなえてさし上げたいのはやまやまですが、やはり馬の都合がつきかねます。この宿場の馬は、今のところ全部ボーフォール公爵様にお約束になっていますので」
「なるほどな!」とアラミスは当てがはずれて、がっかりしながら言った。
「ただ、うちにあります馬車でよろしかったら」と駅長は言葉を続けた。「盲馬でございますが、脚だけは大丈夫なのを付けてさし上げましょう。あれでしたら、ラ・フェール伯爵様のところまでご案内いたしますでしょう」
「一ルイの駄賃《だちん》を出すよ」とアラミスが言った。
「どういたしまして、一エキュで結構でございます。伯爵様の家令のグリモーさんは、この馬車をお使いになるたんびに、それだけくださいます。欲張って、後で、友達にひどいことをしたなどとお小言をいただくのも困りますので」
「そんなことはどうでもいい」とアラミスが言った。「私としては、君に一ルイのお礼をするだけの権利があると思うのだ」
「大きにさようで」と駅長は喜んで答えた。
そして手ずから、老いぼれ馬を、がた馬車につないだ。
この間、ポルトスは怪訝《けげん》そうに眺めていたが、どうやら秘密の糸口が見つかったと思った。彼はアトスを訪問することがひどく嬉しかったし、これで寝床とうまい晩飯にありつける見こみがついた。
馬車の支度を終わって駅長は、下男の一人を呼んで、このお客をラ・フェール伯爵様のところにご案内してあげろと言いつけた。
ポルトスはアラミスと並んで馬車に乗りこむと、その耳許《みみもと》に口を寄せてささやいた。
「わかったぞ」
「えっ! 何がわかったのだ?」とアラミスが答えた。
「我々は国王のお味方として、アトスにある重大な提案を試みに行くのだろう」
「ばかな!」とアラミスが言った。
「君は何も言う必要はない」と人の好いポルトスは馬車の揺れを避けようとして、どっかとすわり直しながら言った。「何も言うな。おれが当ててみるから」
「よし、当ててみろ。当ててみるがいい」
彼らがアトスのもとに到着したのは、夜の九時ごろで、美しい月夜になっていた。この月明りをポルトスはたいへん喜んでいたが、これに反してアラミスは非常に苦にしていた。その顔色をポルトスは見抜いて、
「なるほど! わかったぞ。この役目は極秘なんじゃな」と言った。
これが馬車中の話の最後だった。
御者は彼らの話を中断して、
「旦那《だんな》がた、着きましたぞ」と言った。
ポルトスとアラミスとは、小さな城館《シャトー》の門前に下り立っていた。
ここには、読者諸君にもおなじみの老アトスと、許婚《いいなずけ》のラ・ヴァリエールにそむかれた、可哀そうなブラジュロンヌ子爵とが住んでいたのである。
もし真実に満ちた言葉があるならば、それは次のような言葉である。激しい苦痛というものはそれ自身の中に、慰謝《いしゃ》の種を含んでいるのである。
はたして、ラウール・ド・ブラジュロンヌが受けたこのいたいたしい痛手は、彼を父に近づけた。そしてその寛大な心と雄弁な口とから流れ出る慰謝が、どんなにやさしいものであったか、想像するにかたくない。
ところがなかなか癒着《ゆちゃく》しなかった。しかしアトスは、何度も何度も息子と話を交え、自分もこの青年といっしょに生活したおかげで、ラウールにこうしたラ・ヴァリエールの不貞から受けた痛手が、人間生活に必要なものであること、またそうした痛手なくしては、何人《なにびと》をも愛することができないということを、理解させることができた。
ラウールはしばしば父の話を聞いていたが、その実、少しも耳にはいっていないようだった。その燃えるような心には、恋の対象の思い出のほかははいりこむ余地がなかったのである。
こうして、こんな場面が毎日のように続いた。しかしアトスは、わが子と話しながらも、けっして彼が国王と衝突して、王を立腹させた模様を語らなかった。これを話せば、この青年は自分の競争者がやりこめられたようすに、大いに慰められたかもしれなかったのだ。しかしアトスはどこまでもわが子に、王に対する忠誠の念を忘れさせたくなかった。
この月夜にも、アトスとラウールはいつものように庭の菩提樹《ぼだいじゅ》の長い並木道を行ったり来たりしていた。すると突然、鐘の音が聞こえた。それは食事の知らせか、来客の知らせであった。アトスは機械的に、なんとなく息子といっしょに家の方に引き返した。すると二人は並木道のはずれに、ポルトスとアラミスが立っているのを見つけた。
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三六 最後の告別
ラウールは歓喜の叫び声をあげて、ポルトスをやさしく抱擁《ほうよう》した。アラミスとアトスも老人らしく抱き合ったが、それにはすでにアトスの疑問がこもっていたので、アラミスはすぐに言った。
「兄弟、ついこのあいだ別れたばかりだな」
「そうだったなあ!」とアトスが言った。
「そのあいだに運が向いて来たのじゃ」とポルトスが口を出した。
「おお、それは!」とラウールが叫んだ。
アトスは無言でアラミスを見た。その憂鬱《ゆううつ》なようすは、今ポルトスが話した吉報とは少し調和がとれないように思ったからである。
「一体どんな幸福がやって来たんですか?」とラウールが微笑しながら尋ねた。
「陛下がわしを公爵にしてくださったのじゃよ。特別のご沙汰《さた》でな!」とポルトスは若者の耳許に身をかがめながら、ひそひそとささやいた。
しかしポルトスの独白はいつも声が高くて、誰の耳にも聞こえた。そのささやく声は普通の人がどなるのと同じ調子だった。
アトスはそれを聞いて、アラミスがぎくっとしたくらいの叫び声をあげた。
アラミスはアトスの腕をとって、ポルトスヘは、ちょっと秘密の話があるからと断わった後、「アトス、君はおれが苦しんでいるのがわかっているな」と言った。
「苦しんでいるって?」とアトスは叫んだ。
「そうだ、二言で言える。おれは国王に対して陰謀を企てたのだ。ところが、その陰謀が失敗してな、今まさに追っ手をかけられているのだ」
「君が追っ手に!……陰謀で!……おい、兄弟、何を言うのか?」
「悲しいことだが、事実だ。おれはすっかり破滅したのだ」
「ふむ、しかしポルトスは……公爵の称号とは……一体何のことなのだ?」
「それがいちばん、おれのつらいところだ。それがいちばんの深手なのだ。おれは大丈夫成功と信じて、ポルトスを陰謀に引っ張りこんだのだ。あの男は、君も知っているとおり、自分が何をしているかもわからずに、全力をあげて飛びこんで来たのだ。そして今、おれと同じように危いめに遭っている、おれと同じように破滅してしまったのだ」
「なんとしたことじゃ!」
そしてアトスはポルトスのほうを振り返った。ポルトスは快活ににっこりと笑った。
「おれはぜひ君に一部始終聞いておいてもらいたい。こういうわけなのだ」とアラミスは言葉を続けた。
そして彼は今日までの顛末《てんまつ》を話した。
その話を聞きながら、アトスは幾度となくその額の汗をぬぐった。彼はこれを聞き終わると、「たいした思いつきだ。だが、たいした誤りだ」と言った。
「そのためにおれは罰せられている。アトス」
「それだから、おれは自分の考えを全部言わないのだ」
「いや、言うてくれ」
「それは犯罪だ」
「死罪だ。知っておるよ。大逆罪だ!」
「ポルトスが可哀そうだな!」
「君はおれにどうしろと言うのだ? 今言ったとおり、成功は確かだったのだ」
「フーケ閣下は清廉潔白な人物だ」
「そしておれはばか者だ。あの人のことを思い違いしていたのだから」とアラミスが言った。「ああ! 人間の知恵! ああ! 世界を砕く大きな挽臼《ひきうす》! しかしいつか、知らぬ間に車仕掛けに、砂一粒でもはさまれば、回転が止まるのだ!」
「ダイヤの粒と言え、アラミス。しかし、もはや、かえらぬ愚痴《ぐち》じゃ。で、君はこれからどうするつもりだ?」
「おれはポルトスを連れて行く。国王陛下はけっしてあの立派な男が、何も知らずに行動したとはお信じになるまい。あの男が始終国王にご奉公しているつもりで働いていたとは、けっしてお信じになるまい。あの男の首はおれの罪の代価になるのだ。そうはさせたくないよ」
「一体ポルトスをどこに連れて行くのだ?」
「まず、ベル・イルに。あすこは避難所としては究竟《くっきょう》の場所だ。それに海にのぞんでいて、英国に渡る船が手にはいる。おれは英国にはいろいろと関係があるからな」
「君がか? 英国に?」
「そうだ。さもなければスペインだ。あっちにはさらに関係が深い」
「しかし、亡命したポルトスはどうする? 君は彼を破滅させるのだ。国王陛下は彼の全財産を没収されるに相違ないからな」
「その準備はすっかりできているのだ。おれはスペインにはいりさえすれば、ルイ十四世と和睦《わぼく》して、ポルトスをこれまでの寵遇《ちょうぐう》に復帰させる手段がある」
「信用があるのだろ、アラミス!」とアトスは慎重なようすで言った。
「随分とある。それも友人のためにはな。アトス」
この言葉を聞くと、アトスはその手を握り締めて、「ありがとう」と言った。
「そして、我々の考えが一致している以上」とアラミスは言った。「君もやはり不満をいだいている者だ。君も、ラウールも、国王に対しては遺恨《いこん》がある。どうだ、我々と行動をともにして、ベル・イルに立てこもらないか。そうすれば、おれは自分の名誉を賭《か》けて誓う。ひと月経てば、フランスとスペインとのあいだに戦争が勃発《ぼっぱつ》する。理由はルイ十三世の一人が、王子たるに変わりはないのに、フランスが人道を無視して監禁したことだ。ところで、ルイ十四世は、こうした理由では戦争をする気はないのだから、おれは君に和解を保証する。その結果ポルトスとおれとはスペインの大公爵となり、君はすでにこの称号を持っているから、フランスの公爵になるのだ。どうだ、そうしては?」
「いや、おれとしては、何か国王を非難するだけの理由を持っているほうがいい。王族よりも優越感をいだいていることは、おれの一族にとって、自然の誇りだからな。君の申し出どおりすれば、おれは国王から恩をきることになる。なるほど、この土地においては、利益を得るだろうが、良心の方面では損をする。ありがたいが、お断わりしよう」
「ではアトス、二つのことを我々にしてくれ。まず君がおれの罪を許してくれることだ」
「おお! もし君がほんとうにしいたげられた者のために復讐しようとしたのなら、おれはその罪を許すよ」
「それで、おれには十分だ」とアラミスは答えて顔を赤らめたが、闇《やみ》にまぎれて気づかれなかった。
「それから次の宿駅まで、良い馬を二頭貸してくれ。このあたりでは、ボーフォール公爵の通過するのを口実に、一頭も用立ててくれないのだ」
「いちばん良い馬を二頭用立てて上げよう。だが、ポルトスのことはくれぐれも頼むよ」
「おお! そのことなら心配するな。ただもう一言聞くが、おれがポルトスにしてやっていることは、おれとして当然とるべき道だと思うか?」
「今となっては、そうだろうな。王は断じてポルトスを許されはすまい。そして、君はなんと言っても、いつも大臣の片腕だから、いかに大臣が英雄的に行動されたにせよ、君を見捨てることはあるまいよ」
「そのとおりだ。またそれだからこそ、おれはすぐと海上に出ずに、フランス国内にいるのだ。そうしないと、おれが臆病《おくびょう》な、罪を犯した人間になるからな。だが、ベル・イルはイギリスを後楯にしようが、スペイン、あるいはローマを後楯にしようが、旗上げをするに究竟な場所だ」
「それはどうしてだ?」
「ベル・イルを築城したのは、このおれだ。おれが守っている限り、誰もベル・イルを奪うことはできない。それに今君も言ったとおり、フーケ閣下がいる。閣下の署名が無くては、ベル・イルは攻撃できぬからな」
「それは事実だ。だが、用心にしくはない。国王は老獪《ろうかい》でもあり、強大だからな」
アラミスは微笑した。
「ではおれはもう一度ポルトスのことを頼んだぞ」とアトスは一種ひややかな執拗《しつよう》さで繰り返した。
「おれがどうなろうと、わが兄弟のポルトスは立派にしてみせるよ」とアラミスは同じ調子で答えた。
アトスはアラミスの手を握り締めながら、頭をたれた、それから真心をこめてポルトスを抱擁した。
「わしはしあわせな生まれだなあ」とポルトスはマントでからだを包みながら、感激してつぶやいた。
「行こう。兄弟」とアラミスが言った。
ラウールは二頭の馬に鞍《くら》を置くように命令ずるため、出て行っていた。
すでに送る人達と送られる人達と分かれて別々に立っていた。アトスは今しも出立しようとする二人の友人たちを見ると、霧のようなものが、眼の前を通り過ぎ、胸がいっぱいになってしまった。
「これは不思議だ。どうしてもう一度、ポルトスを抱きたい気になったのだろう?」とアトスは考えた。
そのときちょうど、ポルトスは振り向いて、両腕をひろげながら、老いた友のほうに戻って来た。
この最後の抱擁は、若かったときのように、また心が暖かく、人生が幸福だった者のように、やさしさをこめていた。
それからポルトスは馬にまたがった。アラミスも再び戻って来て、アトスの首に両腕を投げかけた。
アトスは二人が街道の上に、白いマントを着た、長い影法師を落として行くのを見送った。それはまるで二つの幽霊のようで、二人が地面から飛び上がると、大きくなった。そして姿の隠れたのは、霧のためではなく、土地が傾斜しているためだった。やがてこれで見えなくなるという所で、二人とも足で飛び上がって、雲間に溶けこんだように消えてしまった。 そこでアトスは非常に憂鬱《ゆううつ》な気持で、家のほうへ戻りながら、ラウールに言った。
「ラウール、どういうわけだか、これがもう二人の見納めだと思えてしかたがないが」
「そうお思いになっても、私は驚きません。父上」と若者は答えた。「私も今し方そうだったのです。私だって、もうこれかぎりヴァロンとデルブレーのお二人にはお目にかかれないと考えました」
「おお! おまえが」とアトスは言った。「おまえは他のことで憂鬱になっているのだ。おまえの眼には何もかも悲しげに見えるのだ。その若さで二度と再びあの二人に会う機会がなければ、おまえにはまだまだ先の長いこの世だが、あの二人はもうこの世にいないわけになるのだろう。今日で、この私は……」
ラウールは静かに首を振って、父の肩にもたれかかった。それっきり二人とも胸がいっぱいになって、何の言葉も出て来なかった。
突然ブロワ街道のはずれに当たり、人馬の音がして、彼らの注意をそのほうにひきつけた。
騎馬の松明《たいまつ》持ちの振り動かす松明の火が、赤々と街道の樹々の上に輝き、後ろから来る騎士達とあまり離れないように、ときどきその松明持ちは後ろを振り返っていた。
美々しく馬飾りを施した十二頭ほどの馬の蹄《ひづめ》の音とか、そのかき立てる埃《ほこり》とか、また騎士の持っている松明の火とかが、消え去ったポルトスやアラミスの、なんとなく不吉なものを思わせる二つの影法師と、この深夜に奇妙な対照をなしていた。
アトスは自宅に帰ったが、入り口の鉄門が赤々と照らされているのを見て、花壇のところまでは行かなかった。松明は全部一ところにとどまって、街道を焼くばかりに赤かった。一つの声が、「ボーフォール公爵!」とどなった。
そこでアトスは家の門口の方に進み出た。
するとすでに公爵は馬から下りて、自分の周囲を見回していた。
「殿下、私はここにおります」とアトスは言った。
「やあ! ご機嫌よう、伯爵」と公爵はあらゆる人の心をつかむような、飾り気ない親身な態度で答えた。「こんなにおそく上がっては迷惑かな!」
「ああ! 公爵、どうぞおはいりください」とアトスが言った。
するとボーフォール公爵はアトスの腕にからだをよせかけながら、二人は家の中にはいった。そしてその後から数人の友達も混じっている、公爵の幕僚《ばくりょう》といっしょに、ラウールがつつましく従って行った。
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三七 ボーフォール公爵
ボーフォール公爵は、ラウールが、公爵とアトスだけにするために、扉を締め、隣室に幕僚とともに引きさがろうとするとき、彼の方を振り向いて、「王弟殿下よりたびたびおほめの言葉を聞いている若者というのはあの人物かな?」とボーフォールは聞いた。
「さようです。殿下、あの男でございます」
「立派な武士だな! ここに残るように言いなさい、伯爵」
「ラウール残っていなさい。殿下のお許しが出たから」とアトスが言った。
「これはまた立派な偉丈夫だな!」と公爵は続けて言った。「もし私にくれと言ったら、君は私に彼をくれるかな?」
「どういうおつもりでございますか、殿下?」とアトスは言った。
「いや、私は君に暇請《いとまご》いをするために来たのだ」
「暇請いに見えられたとは?」
「そうだ。それに違いないのだ。私はこれからベドゥアンの蛮族《ばんぞく》の貴族、アフリカ公になろうとしているのだ。というのは、国王陛下がアラビヤ人征伐のために、私を派遣されたからだ」
「なんでございますって?」
「まったく奇妙なものではないかな? 生粋《きっすい》のパリっ子であり、場末町に君臨して、市場の王様と綽名《あだな》されていた、この私が、モーベル広場からギゲルリの回教寺院まで行くのだ」
「おお、殿下、そうと私に言ってくださったなら……」
「信じられぬことだろうな? しかし私の言うことを信じてくれ。私たちは君に暇請いを言いに来たのだ」
こう公爵は言うと、この二人の話の初めからその場にいて、深い瞑想《めいそう》にふけっていたラウールに向かって、「君、ここには確かにヴーヴレーのワインがあると思うが……」と話しかけた。
そう言われたラウールは公爵にそれを飲まそうとして、大急ぎで部屋を出て行った。そのあいだに、ボーフォールはアトスの手を取って、「君はこれからどうするつもりだ?」と尋ねた。
「今のところ、べつに」
「ああ! わかった。なるほど国王陛下がラ・ヴァリエールを御寵愛《ごちょうあい》になってからは……」
「さようでございます。殿下」
「それは皆ほんとうのことかな? ラ・ヴァリエールは私も知っているが、美しいとは思わん。私には……」
「はい、さようでございます」とアトスは言った。
「彼女が私にある人を思い出させるが、君にはわかるかね?」
「殿下に思い出させる者といいますと?」
「陽気な若い娘さ。その母親は市場に住んでいたがな」
「ああ! なるほど」とアトスは微笑しながら言った。
「あの時分はいい時代だったな!」とボーフォールは言い足した。「そうだ。ヴァリエールはあの娘を思い出させるよ」
「男の子が一人おりましたな?」
「そうだったと思うが」と公爵は無頓着《むとんじゃく》な調子で、何も知らぬげに答えた。「ところで、あの可哀《かわい》そうなラウールは君の息子さんかね?」
「はい、私の倅《せがれ》でございます、殿下」
「折角の願いを国王陛下より却下され、あの可哀そうな青年はさぞかし不満に思っているだろうな?」
「いや、殿下、それどころか、彼はじっとがまんしております」
「君はあの青年を腐らしてしまうのか? それはまちがいだぞ。どうだ、私にあれをくれては?」
「殿下、私は彼を手許《てもと》に置きたいのでございます。私にはこの世で、たった一人の倅《せがれ》でございますから。彼がここにいたいと申す限りは……」
「わかった、わかった」と公爵は答えた。「だが、あの体格なら、きっと将来、フランスの元帥になれると思うよ。私が保証するがね」
「あるいはそうかもしれませぬ、殿下。しかしフランスの元帥を任命いたしますのは、国王陛下でございます。ですからラウールはあまんじてその称号を受けることはありますまい」
ところが、ラウールが戻って来たので、話は中断された。彼の前には、執事《しつじ》のグリモーが、まだしっかりした両手に、公爵の大好物のワインのびんと、杯を一個、のせた盆を持って現われた。
この老人の姿を見た公爵は、歓喜の叫び声をあげた。そして、
「やあ! 今晩は、グリモー。どうだね?」と公爵は言った。
グリモーは公爵と同じくらい嬉《うれ》しく思って、うやうやしく頭を下げ挨拶をした。
「二人とも私の親友だ!」と公爵は律義《りちぎ》なグリモーの肩を、力強くゆすぶりながら言った。
ラウールはグリモーよりも丁寧に、しかも、もっと嬉しそうに挨拶した。
「これはどうしたのじゃ、伯爵? 杯が一つしかないぞ!」
「私は殿下からおさそいもないのに、ご一緒には飲めません」とアトスは遠慮深く言った。
「何をばかなことを! なるほどそれだから杯を一個しか持って来ないのだな。では、戦友のように二人して飲みかわそう。さあ、伯爵、まず君から」
「どうか殿下から」とアトスは言いながら、杯を静かに押し戻した。
「君は気持のよい人だね」とボーフォール公爵は答えた。そして黄金の杯を飲み干してしまうと、それをアトスに渡しながら、言葉を続けた。「私はまだ咽喉《のど》が乾いているから、今度はそこに立っている美丈夫に敬意を表したい。さあ、子爵、私は君に幸福を持って来たのだ」と公爵はラウールに話しかけた。「さあ、私の杯を飲みながら、希望があるなら、望んでくれ給え、何でもかなえて上げるからな」
こう言って、公爵はラウールに杯をさし出した。ラウールは忙しげにそれで唇をうるおすと、早速次のように言った。
「殿下、お願いがあるのでござりますが」
彼の眼はほの暗い灯で輝き、血は彼の両頬《りょうほお》に上って、顔を赤く染めていた。その微笑だけでも、アトスを恐れさせるくらいだった。
「君の願いとは何かな?」と公爵は肱掛椅子に腰を下ろしながら、片手でグリモーにびんと財布を渡しながら言った。
「殿下、私はギゲルリにお供したいのです」
これを聞いて、アトスはさっと顔を青くし、その心の混乱を隠すことができなかった。
公爵はこの思いがけぬ願いを聞いて、その驚きの色を隠そうとして、アトスを見た。そして少し低い声で、
「それはむずかしいことだ、子爵。たいへんむずかしいな」と言い足した。
「お許しください、殿下。私はあまり遠慮がなさすぎました」とラウールはきっとした声で言った。
「殿下の方から、何か希望があるかとおっしゃったものですから……」
「私の手許から離れて行きたいのか」とアトスが言った。
「ああ! あなたはお信じになれぬでしょう」
「なるほど! 子爵の言うのももっともだ。ここにいて何になる? 彼は悲しみのために、まいってしまうよ」と公爵は叫んだ。
ラウールは顔を赤くした。短気な公爵は続けて言った。
「戦争というものは、一つの破壊行為だ。戦争では、あらゆるものを獲得することができるのじゃ。失うものは唯一つしかない。生命さ。命《いのち》をなくしてはもうおしまいだ!」
「いや記憶を失うことができます」とラウールが口早に言った。「これはすばらしいことです!」
ラウールはこんなに早く話したことを後悔した。彼はアトスが立ち上がって、窓をあけるのを見たのだ。
もちろんこうした動作は、心の悲しみを隠してやったことに相違なかった。ラウールは大急ぎでアトスのそばに駆け寄った。しかしすでにアトスは胸の悲しみを消してしまっていた。というのは、彼が明るい方へ、再び穏やかな物に動じない顔つきを見せたからだった。
「では、ラウール君は出発するのか、それともしないのかね? 伯爵、もし彼がいっしょに行くなら、私の副官にするが」
「殿下!」とラウールはひざまずきながら叫んだ。
「殿下!」とアトスは公爵の手を取りながら叫んだ。「ラウールの希望どおりにしましょう」
「あっ! いけません。父上の希望どおりにします」とラウールはアトスの言葉をさえぎった。
「いや、伯爵の意志にも、また子爵の意志にもならない」と公爵は言った。「私の意志で決める。私はラウールを連れて行くよ。海軍なら立派な将来だぞ」
ラウールは悲しげに微笑した。これをアトスは胸をえぐられるような気持で、けわしい眼つきをして見ていた。
ラウールはすべてを了解した。彼は落ち着きを取り戻して、一言もしゃべらないほど、用心した。
公爵は時間が遅れたことに気づいて、立ち上がって、口早に言った。
「私は忙しいからだだ。しかし友人との話に花が咲き、時間をつぶしたと人から言われても、私はよい新兵を得たと考えることができるよ」
「勝手ですが、公爵」とラウールがその言葉をさえぎった。「このことは国王に申し上げないでくださいませ。私は国王陛下に仕えるのではないのですから」
「おや! では君は誰に仕えるのかね? 今ではもう『ボーフォール公に仕える』などと言っている時代ではないのだぞ。今日では大名も小名も、皆国王にお仕えしているのだ。だから、私の軍艦に乗りこめば、子爵、否応なしに君は国王陛下にお仕えすることになるのだ」
これを聞いて、アトスは国王の恋の競争者であり、その強敵であるラウールが、この公爵のめんどうな質問に対して、どんな返辞をするか、内心喜びに胸をふるわせながら、今か今かと待っていた。父親はこの異議が希望をくつがえしてしまうことを望んでいた。彼はボーフォール公爵に、彼の唯一の喜びである一人息子の出発を、公爵の軽率だか、雅量ある反省だか知らないが、再び疑わしくしてくれたことについて感謝していた。
しかしラウールは堅い決心をいだいて、静かにしていた。そして、「公爵殿下、あなたのおっしゃる異議は、私もよく承知しております。私は殿下が私を同行されるようにお許しになりましたからこそ、殿下の軍艦で軍務に服するのでございます。私は国王よりももっと強大な主人に仕えるのでございます。私は神に奉仕するのです」と答えた。
「神に奉仕するって! それはどういうことですか?」と、アトスと公爵とが同時に言った。
「私は軍人となって、マルト勲章《くんしょう》を着けたいのです」とラウールは言い足した。この言葉はま冬の嵐が過ぎた後、黒みを帯びた樹から落ちる滴よりも冷たかった。
この最後の衝撃の下に、アトスはよろめき、公爵までが動揺した。
執事のグリモーはかすかなうめき声をあげた。そしてワインのびんが盆から落ちて、敷物の上でこわれたのも気がつかなかった。
ボーフォール公爵は若者をま正面からじっと眺めた。そしてたとい若者が眼を伏せていたとしても、その顔の上に、何人《なにびと》にも譲らぬ堅い決意の熱い炎を読み取った。
アトスはこのしおらしい、しかも不撓不屈《ふとうふくつ》な気持を理解していた。そして今選んだばかりの宿命の道から、それをそらすことはできないと覚《さと》った。彼は公爵がさし出した手を握った。
「伯爵、私は二日後、ツーロンに向かって出発する」とボーフォールは言った。「君は君の覚悟を私に知らすために、またパリに来てくれますか?」
「私は殿下のご親切に対して、お礼を申し上げるためにうかがいたいと存じます」とアトスは答えた。
「ではラウール君が私に同行する、しないにかかわらず、いっしょに来てください」と公爵は言いたした。
「彼は私と約束をした。今度は君の同意を得ればいいのだから」
こうして父親の心の傷に少しばかりの慰安をあたえてから、公爵は老グリモーの耳を引っ張った。グリモーは不自然と思われるほど、ひどく瞬《またた》きをしていた。やがて公爵は花壇の中で、その供回りといっしょになった。
美しい月夜によって、元気を回復し、十分休養した馬は、ブロワの城館《シャトー》とその主人たちから早くも遠ざかってしまった。アトスとラウールだけが再び向かい合って、後に残った。
夜の十一時が鳴った。
父と息子とは互いに向かい合ったまま無言でいた。しかしこの無言の中には、叫び声と悲嘆とが満ち満ちていた。こうして二人は真夜中までの一時問を無言で、ほとんど溜息《ためいき》をつきながら過ごしたのだった。やがて時計は夜の十二時を報じた。二人の魂の苦しい旅路は、過去の思い出と未来の危惧《きぐ》との限りないものであった。
最初にアトスが立ち上がって、言った。
「もう夜もふけた……万事明日にしよう、ラウール!」
ラウールは続いて立ち上がると、父をやさしく抱いた。
アトスはラウールを胸にかきいだいたまま、おろおろした声で言った。
「あと二日だ。おまえは私から永久に離れてしまうのか?」
「父上、私はかつて自分の剣で心臓を突き刺し死のうとしました。しかし父上のことを思うと、私の心は鈍りました。そして自殺を思いとどまりました。ですから今度こそ、どうしても行かなければなりません」と若者は答えた。
「おまえは私から離れて、出発してしまうのか、ラウール?」
「もう少し私の言うことをお聞きください。父上、もし私がこのまま出発しないならば、私はここで恋の煩悶《はんもん》のために死んでしまうでしょう。どうか一刻も早く私にお暇《いとま》をください。そうでないと、私はこの邸で、父上の見てらっしゃる前で息を引きとってしまいます」
「では、おまえはアフリカで戦死するつもりで出掛けて行くのだな?」とアトスはひややかに言った。「そうと言いなさい……嘘《うそ》をついてはいかん」
ラウールはまっさおになって、二秒ばかりのあいだ黙っていた。この二秒は父親にとっては、全く断末魔の二時間であった。それからラウールは突然に、
「父上、私は自分を神に捧げると誓いました。私は自分の青春と自由とを犠牲にする代わりに、神に一つのことをお願いいたします。それというのは、私は父上のために身体を大切にすることです。それは父上が私をこの世に結び付けておく唯一つの絆《きずな》だからです。神だけが私に、何事をも父上のおかげであり、父上にお目にかかる前は私が無一物であったということを忘れないように、力をあたえてくださるのです」
アトスはやさしく息子を抱いて、言った。
「おまえはよく正直に答えてくれたな。二日たったら、我々はパリのボーフォール邸に行こう。そしてそのとき、これからのおまえの方針を定めるのはおまえがするのだ。おまえは自由だ、ラウール。さらばじゃ!」
こうアトスは言うと、静かに寝室にはいった。
ラウールは庭に降りると、その菩提樹《ぼだいじゅ》の並木道で、夜を明かした。
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三八 プランシェの商品目録
それから二日後、アトス父子はパリに出て来た。そしてまずアトスはダルタニャンに会おうとして、この銃士長の消息を知るために、元ダルタニャンの執事だったプランシュの店を尋ねた。これはダルタニャンがルーヴル宮殿に詰めていなかったからであった。
アトスはプランシェの店があるロムバール街に着いてみると、その店は非常に混雑している乾物屋だった。
プランシェはいつもするように、袋や樽《たる》の上にのっていなかった。いや、それどころか、耳にペンをはさんだ小僧や、手に帳面を持った小僧などが、ほかの者が数を勘定したり、目方を計ったりしているあいだ、数字を書き入れていた。
これは商品目録を作っているのだった。商売人でないアトスはこの商品の出と、こうやって帳面をつけている人達に少し狼狽《ろうばい》した。彼は幾人もの顧客が追い返されるのを見て、いっそのこと何も買わずに帰ったほうが、じゃまにならなくていいだろうと思った。
そこで彼はそこにいる小僧たちに、どうしたらプランシェに面会して話ができるかと、非常に丁寧に尋ねた。すると小僧はプランシェがもうトランクを詰め終わったころだ、とぞんざいに答えた。
この返辞にアトスは耳をそばだてた。
「何、トランクを? プランシェさんは旅行なさるのかね」と彼は言った。
「ええ、もうすぐですよ」
「では、君、ラ・フェール伯爵がちょっとお目にかかってお話ししたいからと取り次いでくださらんか」
ラ・フェール伯爵という名を聞いて、常々この名が尊敬の念をもって言われているのを聞いていると見え、小僧の一人は主人のプランシェに大急ぎで知らせに行った。
このときちょうどラウールは、一歩遅れて、この乾物屋の店先に到着した。
小僧の知らせを受けたプランシェは荷物造りを捨てて、駆けつけて来た。
「ああ! 伯爵様、お目にかかれて嬉《うれ》しゅう存じます。どういう風の吹き回しで、私どもにお越しになりましたので?」と言った。
「プランシェ君」とアトスは自分の息子の手を握りながら言った。「私たちは君に聞きたいことがあって来たのだ……ところがこの騒ぎなのさ! またなんだって君は粉屋のようにまっ白なんだ、どこに首を突っこんでいたのだね」
「なあに、鼠を取る砒素《ひそ》をかぶったのでございますよ。私にお近寄りになってはいけませんよ。毒でございますから」
「で、君は何をしてるのだ?」
「いや、ご覧のとおり、今、私の商品目録をこしらえさせていますので」
「では、君は商売をやめるのか?」
「はい、店を番頭に譲りましたので」
「おや、そうかい! では君も大分金をためたのだな?」
「旦那様、私はつくづく町住居がいやになりましてな。近ごろめっきり年をとったせいかどうかわかりませんが、いつかダルタニャン様もおっしゃいましたように、人間は年をとると、若いときのことばかり思い出すものでございます。私も少し前から田舎で、草花作りをしたくてたまらないのでございますよ。と申しますのも、私は以前は百姓でございますからな」
こうプランシェは言いながら、謹厳《きんげん》な人には少し小癪《こしゃく》にさわるような笑い声をあげた。
アトスは身振りでこれに同感の意を表わしてから、すぐと、
「では、地所を買ったのだね?」と言った。
「はい買いました」
「ああ! それはすばらしいことだね!」
「まわりに二十アルパンほど地所の付いた、小さい家をフォンテーヌブローに買いました」
「結構なことだ、プランシェ、おめでとう」
「ありがとうございます。しかし私どもには、ここはいけませんな、何しろこのいやな埃《ほこり》では、旦那様もお咳《せき》が出ましょう。これではまるで、フランス第一の立派な殿様を牢屋《ろうや》に入れたも同然で、私は気が気でございません」
しかしアトスはプランシェの言った冗談口を聞き流して、微笑もしなかった。
「そうだな。ではべつの所で話をしよう。君の住居のほうではどうだ?」とアトスは言った。
「結構でございます、伯爵様」
こうしてアトス父子はプランシェの住居に案内された。そこでアトスはすぐと用件に移って、
「ダルタニャンはどうしたのだ? ルーヴル宮に尋ねてみたが、いないようだったよ」と言った。
「ああ! 伯爵、ダルタニャン様は行方《ゆくえ》をくらまされましたよ」とプランシェは答えた。
「えっ! 行方をくらましたって?」とアトスはびっくりして言った。
「はい、ダルタニャン様が行方をくらまされたときには、きまって何かのご用か、重大事件が起こった場合でございます」
「そのことで何か言い残したことでもあるかね?」
「いいえ、何も伺っておりません」
「ふむ、君に聞いてもわからぬのではしかたがないな。帰るとしよう、ラウール」
「どうもお気の毒さまで」
「なあに、私は用心深い執事《しつじ》をとがめ立てするような人間ではない」
この執事という言葉に、小成金のプランシェはびくっとした。しかし習い性になっている腰の低さと愛想のよさとで、すぐと自尊心をおさえて、こう言った。
「これだけは申し上げてもさしつかえあるまいと存じます。ダルタニャン様は先日ここにお見えになりました」
「ほう!」
「そして幾時間も地図を眺めていらっしゃいました」
「なるほどな、あとはもう言わんでもいい」
「いえ、その証拠には地図はあそこにございます」と言って、プランシェは近くの壁に掛かっていた地図を持って来た。
アトスの慣れた眼は、すぐとそのフランスの地図面に、飛び飛びに刺してある小さなピンを発見した。ピンの抜け落ちた所には、穴が残っていた。それを指先でたどって行くと、ダルタニャンが南仏《ミディ》のツーロンの方へ、地中海の沿岸へまでも、出向いたらしいことがわかった。そしてピンの痕《あと》はカンヌの付近で終わっていた。
アトスはしばらくのあいだ、いろいろと頭をひねっていたが、何がダルタニャンを遠いカンヌまでも赴かせたか、どういう動機がこの銃士長にヴァール河の岸辺を捜索《そうさく》させることになったか、皆目《かいもく》見当もつかなかった。
アトスの洞察力も一向にききめがなかった。ラウールもやはり父以上のことは考えつかなかった。
「心配することはありませんよ」とラウールは無言のまま、指先でダルタニャンの通った跡をたどって見せているアトスに言った。「私たちとダルタニャン様とのあいだには、いつも神様が運命の糸を結んでいてくださるのです。銃士長様はカンヌの海岸においでになるし、父上は少なくともツーロンまで私を送ってくださるでしょう。そうすれば、きっと途中であの方に会いますよ。地図で捜しているよりもわけはないでしょう」
そこでアトス父子は、店の小僧に小言を言っているプランシェに暇《いとま》を告げて、ボーフォール公爵の本邸に向かったのであった。
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三九 公爵の財産目録
プランシェの店を辞去した、アトスとラウールとはボーフォール公爵の邸《やかた》を訪問したが、この邸もプランシェの店と同じように混雑をしていた。
公爵もちょうど財産目録を作っているところだった。すなわち公爵は友人たちや、大勢の債権者に家重代の莫大《ばくだい》な価値ある品物を分配しようとしていたのだった。
それで、公爵はアフリカの遠征に必要な、およそ二百万リーヴルの巨額な金を調達するために、年来の債権者たちに、秘蔵の皿小鉢、武器、宝石、家具の類《たぐい》を分配することにしたのだ。
ところで、このやり方は予想以上に成功した。というのは、一万リーヴルを貸していた人が、アンリ四世の後裔《こうえい》である名家の宝物で、時価六千リーヴルの品物を贈られれば、誰もありがたくいただいて行く。そしていただいた後では、この気前のいい公爵に改めて一万リーヴルをはなむけせぬわけにはいかなかったからである。
また、公爵にしてみれば、今後|提督《ていとく》の身として、軍艦を住居とするのだから、邸宅も、したがって家具もいらなかった。大砲のあいだで暮らす身には、伝来の武器も無用の長物だった。まして宝石などを身に着けていては、海上で略奪されまいものでもなかった。しかし金は必要だった。彼の金庫の中には、三十万エキュか、四十万エキュの金がはいっていた。
邸《やかた》の至る所に、公爵から略奪できると思いこんでいる人達が、うきうきとしながら右往左往していた。
公爵はどんなにうるさい債権者をも有頂天にするほどの勝《すぐ》れた芸術品を所有していたのだ。大勢の人達は忙しそうに、からになった財布を持ったまま、しんぼう強く邸の中で互いに会っていた。
一人の者はある者にこう言っていた。
「私はあなたの持っておいでになるものが欲しいのですが、その代わり私はこれをさし上げましょう」
また、他の者には、
「私は銀の水差しびんしか持っていないが、それは五百リーヴルの価値があります。取ってくださいよ」と言った。
こうして後から後から、入れ代わり、立ち代わり詰めかけて来る債権者に、公爵は現金払いで支払うので、一同はにこにこ顔をしていた。
公爵はもう儀式ばったりしてはいなかった。人々は略奪するようだと言っていた。公爵は全財産を投げ出したのだった。
また一方、公爵の邸を荒し回っていた人達は、こう解釈していた。今度、公爵がはるばるとアフリカのギゲルリくんだりまで派遣されるのは、だいぶ傾いた家産を回復するためで、ぶんどって来る蛮地の財宝は、フランス王室と公爵とのあいだに山分けさせることになっているそうだ。そういう財宝の中には、山のようなダイヤモンドや、お伽話《とぎばなし》にあるような宝石もたくさんにあるはずで、アトラス山の金銀などは言うも愚かなことだ。
また、ボーフォール公はレパントの戦争以来、海賊がキリスト教団から略奪して行った財宝も、一切合財《いっさいがっさい》軍艦に積んで帰って来るに相違ない。
だから、昔からの家伝の骨董品《こっとうひん》を惜し気もなく、友人知己に譲るのも無理ないことだ。とこう考えたのである。
アトスはその探るような眼つきで、一目でこうしたありさまを見てとった。
彼はこのフランスの提督《ていとく》が、少し疲れて茫然《ぼうぜん》としているのに気がついた。そしてその料理の残物を召使いたちがちょうだいして、宝になった皿小鉢が値踏みされているところだった。
ボーフォール公はこうして、身代《しんだい》全部を売り払ったことにも、またそれがすばらしい人気を博したことにも興奮していた。そして歓送告別の酒の酔いも回っていた。
それで、アトスとラウールとを見ると、
「やあ、私の副官が見えたぞ」と叫んだ。「さあこちらへ、伯爵、こちらへ子爵」
アトスは山のようになったナフキンや皿小鉢の中に通り路を捜した。すると、
「ああ? かまわん、またいだり、またいだり」と公爵は言った。
そして公爵はアトスになみなみと酒を注いだ杯をすすめた。ラウールもすすめられたが、これは唇をぬらしただけでやめた。
「さあ、これが君の辞令だ」と公爵はラウールに言った。「私は君のことを予定して、それをちゃんと用意しておいたよ。子爵、君はアンチーブまで先発してもらいたい」
「はい、かしこまりました、殿下」
「これが命令書だ」
こう言ってボーフォール公は、ブラジュロンヌに命令書を渡した。
「ところで君は航海をしたことがあるかね」
「はい、殿下、王弟殿下に供奉《ぐぶ》して航海に出たことがございます」
「よし。艀船《はしけぶね》や箱船などが、私を護送し、軍需品を運搬するために、私の到着するのを待っている。総員の乗船準備はおそくも、一週間で整えなくてはならん」
「早速、そう手配いたします、殿下」
「今の命令書は、あの海岸一帯の島々に渡り、調査する職権を君に付与する。だから君はそこで私のために、欲するだけの兵員を募集し、船舶を徴発するのじゃ」
「はい、公爵殿下」
「そして君は敏腕家だと思うから、思う存分働いてもらいたい。ついては、金もたくさんいることだろう」
「いえ、いらぬと思います」
「いや、遠慮は無用じゃ。主計官が南仏《ミディ》の町々に一千リーヴルの手形を用意しておるから、百リーヴルも受け取って行くがよい。では、子爵、行ってください」
するとアトスがそばから口を出した。
「殿下、その金は無用でございます。アラビア人と戦争をなさるには、鉛の玉と同様に、黄金も大切でございますぞ」
「いや、私はその反対をやってみたい」と公爵は即座に言った。「では、私の遠征の方針をお話ししておこうか。私は徹頭徹尾|喊《とき》の声と、銃火とでやるのだ。それでめんどうになったら、煙の中に消えてしまうまでのことさ。あっはっはっは」
とこう話すと、ボーフォール公は高笑いした。しかしアトスとラウールとがいっこうそれに釣りこまれぬのに気がつくと、彼は自分の身分と年齢にふさわしい愛想のいい利己主義から、「ああ! 君たちは、食後にはお目にかからぬほうがいい人達じゃな。私はよい気持に酔って頭が火のように燃えておるのに、君たちは冷たく、しゃちこ張って、浮かない顔をしておる。これでは、子爵、私はこれからいつも、君が断食《だんじき》して精進《しょうじん》しているのを見ていなければならんな。それから、伯爵、君がそんなしかめつらしい顔をしていられるのでは、私はもう二度と会えんではないかね」
こう言って、アトスの手を握った。そこでアトスも笑顔になって、
「殿下、あなたは今こそ莫大な金をお持ちでありましても、そんな大言をおはきにならぬものでございますぞ。私は予言いたします。殿下こそ、一か月もたたぬうちに金庫の前で、冷たく、しゃちこ張って、浮かない顔をしていられましょう。ところがその節は、おそばで精進していたこのラウールが、陽気で、活発で、雅量のあるのにびっくりなさいましょう。と申しますのは、そのときは殿下にさし上げる金を、これに用意させておくからでございます」
「こ、これは恐縮じゃ!」と公爵はひどく喜んで叫んだ。「伯爵、あなたはここに残ってください」
「いや、私はラウールと行かねばなりませぬ。ご命令になりましたことは、なかなかの大役で、倅《せがれ》一人ではつとまりかねると思われます。殿下は、今しがたにはじめてご命令をお下しになったことにお気がつかないのです」
「なるほど、そうかな!」
「しかも、海軍として勤務するのでございます!」
「それもそうだが、しかしこれだけの少壮有為の青年は、たいていのことは、してのけるものじゃ」
「さよう、殿下もラウールほど熱心な、聡明なまた勇敢な副官は、どこにも発見せられまいと信じます。ですから殿下の乗船がうまくまいらぬ場合、その責任は当然殿下に帰すべきものでございます」
「やれ、やれ、私はまるで君に叱られているようじゃな」
「殿下、船隊に糧食を供給したり、小船隊を集合させたり、殿下の海兵隊を徴募したりするためには、提督でも一年はかかります。ところがラウールは騎兵大尉なのでございます。どうか彼に一週間の余裕をおあたえください」
「いや、ラウール君はうまくやってのけるに違いないよ」
「私もそう考えますが、やはり手伝ってやりましょう」
「ふむ、私もあなたを非常に当てにしてます。また、ツーロンでお目にかかりましょう。どうかラウール君を一人で出発させないでください」
「ああ! そういたしましょう」とアトスは頭を振りながら言った。
「まあ、もう少しのしんぼうだからな」
「では、殿下、失礼させていただきます」
「では、ご機嫌よう」
「ご機嫌よろしゅう」
こうして公爵の邸を辞去してから、アトスは息子に向かって、
「珍らしい遠征が始まるわい。糧食もなく準備も整わず、運送船も集まっておらん。一体何ができるのだ?」と言った。
「いや、いいのですよ。私のようにして行く者には、何の準備もいらないのです」とつぶやいた。
「これ、」とアトスはきびしい調子で言った。「おまえは自己満足のために、あるいは自己の悲哀のために、正義の念を忘れてはいかん。もしおまえが単に死にたい一心で、この戦争に出掛けるのなら、おまえは誰のためにも必要のない人間だ。ボーフォール公に推挙申し上げる価値もない人間だ。しかし、いったん殿下に推挙申し上げ、殿下の軍隊に籍を置くだけの責任を帯びた以上、問題はもはやおまえ一個の上にはない。可哀《かわい》そうな兵士達の上にあるのだ。この点を忘れてはいかん。ラウール。将校というものは司祭と同様、この世に必要な、そしてさらに慈悲深くなければならぬ代理人だということを忘れてはいかん」
「父上、私もそれをよく承知しております。そしてそのとおり実行してまいりました。また今後も続けて行きます。がしかし……」
「いや、おまえは光栄ある軍隊を誇りとする国家に属していることを忘れておる。死にたければ、行って死ね。しかしフランスの名誉とならず、利益とならぬ死様《しにざま》をしてくれるな。さあ、ラウール、私の言葉で悲しくなってくれるな。私はおまえが可愛《かわ》いければこそ、おまえを満足に死なせたいのだ」
「よく叱ってくださいました」とラウールは言った。「叱ってくださるからこそ、私は慰められるのです。まだこの世に私を愛してくださる方があると思って」
「ではラウール、出発としよう。天気は良いし、空は澄みわたっている。このいつも我々の上にある空が、ギゲルリではさらに澄んでいることだろう。そしておまえに私のことを思い出させるだろう。私がここで神のことを考えているように」
こうしてアトス父子は、この不用意なアフリカ遠征が公爵の虚栄に原因するものであること、フランスは必ず損失を招くであろうことを語り合いながら、南仏《ミディ》に向かって出発した。それは運命というよりは、むしろ意志のままに動いたのだった。
こうして犠牲は完全に払われたのだった。
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四〇 幽霊出現
旅行は順調に進んだ。アトス父子は一日に十五リウの割合で、フランスを縦断したが、ラウールの悲哀の度によって、あるときはそれよりも多く、あるときは少なく進んだのだった。
彼らはツーロンに到着するのに二週間かかったが、アンチーブまで来ると、まったくダルタニャンの行方《ゆくえ》がわからなくなってしまった。
これでは銃士長が身分を秘して、旅行しているのだとしか思えなかった。というのは、アトスがいろいろと詮索《せんさく》した事実をまとめたところによると、ダルタニャンらしい騎士が、アヴィニョンで馬を降りて、厳重に窓を締めきった箱馬車に乗り換えたということがわかったからだ。
ラウールはダルタニャンに会えないことをたいへん悲しく思った。ひとめ会って、永遠の別れを告げて、その鋼鉄のようにたくましい胸から慰めを受けたかったのだ。
アトスはその長い経験から、ダルタニャンが重大な用件を持っているときには、それが自己のためでも、あるいは国王のためでも、非常に頑固になるのを知っていた。
だからアトスは銃士長を骨折って見つけ出したにしても、怒らせたり、またはあまり立ち入った詮索をして、つむじを曲げさせては困ると思った。しかしラウールが小船隊のために船の分類を始め、ツーロンに回送するように、艀船《はしけぶね》や箱船を徴発していると、漁師の一人が、自分の持ち船は、このあいだ非常にせっかちな貴族を乗せたばかりに破損して、修繕しなければお役に立ちますまいと言った。
アトスは、この男がもう少し自分の船を自由に使えるようにしておいて、仲間の船が徴発し尽くされた後、漁をしてもっと金を儲《もう》けようという肚《はら》に相違ないと信じて、くわしく事情を説明するように言った。
漁師の話によると、六日前の夜、自分の船を雇いに来た男があって、サン・トノラ島まで乗せて行けと言った。賃銀がやっときまると、この貴族は大きな荷物を運んで来た。それは箱車だったので、こんな物は船に重くて乗せられぬと言って断わった。これを聞くと、その貴族は非常に立腹して、持っていた杖で、漁師の肩をしたたかになぐった。そこで漁師もくやしがって、アンチーブから同業者の役員を呼んで来て、文句を言ってもらおうとしたところが、その貴族は何か書付けのようなものを見せた。それを一目見ただけで、役員は平身低頭して、今度は反対に漁師を吃りとばして、ぜひとも旦那《だんな》様を島に渡して上げろと言った。それで船を出すことになったのだという話だった。
これを聞いて、アトスは、
「しかし、今までの話だけでは、どうしておまえの船が破損したかわからんぞ」と言った。
「いえ、まだこれからの話でさあ。そこでおらが、その旦那の言い付けどおり、サン・トノラに向かって漕《こ》ぎ出したら、今度は旦那の考えが変わって、この船では島にある修道院の南へは抜けられぬと言いだしたんでがす」
「それはまた、なぜだな?」
「なぜってね、旦那、そのベネディクト派の修道院の四角い塔の前のところ、南の突先きに、モワーヌ暗礁《あんしょう》がありますだよ」
「暗礁だって?」とアトスが聞き返した。
「そうでがす。水の中、波の砕けるところにあるんでございますだ。あぶない場所でがすが、おらはもう何度も何度も通り抜けた場所でございますだ。けんど、その旦那はどうでも剣呑《けんのん》だからちうて、なんでもかんでも、サント・マルグリット島に上げろと、こう言いなさるのだよ」
「なるほどな」
「なるほどじゃありませんや、旦那!」と漁師は田舎《いなか》の訛《なまり》で叫んだ。「人間は船乗りか船乗りでないか、船の道を知っている人間か、全く知らねえ、陸のぼんくら野郎か、どっちかでがす。おらはむきになってなんでもかんでも向こうへ突き抜けてみせると言ってやりましただ。するとその旦那はおらの首根っこをつかめえて、言うとおりにしねえと絞め殺すぞと、こう言うた。そこで何をぬかすとおらの相棒も、おらも持っていた斧《おの》で打ってかかりましただ。ところがその旦那は剣を引っこ抜いてからに、そいつを風車のように振り回すので、おらたちはそばへも寄りつけやしねえ。だけんど、おらは隙《すき》をねらって、もう少しで斧を、そいつの頭にぶちおろそうとしやしたよ。ねえ、旦那、おらにもそのくれえの権利はあるでしょうがね? 漁師は船の上では、その主人でがす。旦那がたが部屋の中にいなさると同じだからねえ。だから、おらは自分の身を守ろうと、その貴族をまっ二つにぶち割ろうとしたでがすよ。ところが、おめえ様はほんとうにしなさるめえが、その箱車の蓋《ふた》が自然と持ち上がりましてね、幽霊みてえな者が出て来たんでがす。首から上に、こうまっ黒な兜《かぶと》と、まっ黒な面とをかぶって、なんともものすごい格好で、おらの方にぬうっと拳固《げんこ》を突き出したんでがすよ」
「ふむ、それは何だ?」とアトスは言った。
「それは化物《ばけもの》でがすよ。旦那! するとその貴族はその姿を見ると、馬鹿に喜んで、『ありがとうございます、殿下!』とこう言いましただ」
「奇妙なことだな!」とアトスはラウールの顔を見ながら、こうつぶやいた。
「それからどういたした?」とラウールは漁師に尋ねた。
「もうこうなっちゃあしようがありませんやあ。おらのような者が二人では、二人の貴族には歯が立ちませんでがす。おまけに、その一人のほうは化物で、ぬうっと出たんでがすから、もうだめでがす。これはたまらんと、おらも相棒も一どきに海に飛びこんでしまいましただ。ちょうどそこらは、岸から七、八百尺しかなかったからねえ」
「で、それから?」
「それから、旦那、西南の風がちいっと吹いていたので、船は自然とサント・マルグリット島の砂浜に流れ着きましただ」
「ほほう……して、その二人の客は?」
「なあに、心配はいらねえだ! 一人は化物で、もう一人はそれに守られていたんですから。なぜって船がまた流れ出したのを取り返していると、二人はむろんのこと、箱車まで消えてなくなっていましただよ」
「奇妙だ! 実に奇妙だな!」とアトスは繰り返して言った。「しかし、それからおまえたちはどうした?」
「おらはそこで、サント・マルグリット島の総督様のところに訴えて出ましたら、口のところに指を当てなすって、黙っていろさような戯言《たわごと》を申すと鞭《むち》を食らわすぞと言われましただよ」
「ふむ、総督がそう言ったか?」
「はい、旦那。それにおらの船はえらくこわれましただ。何しろ舳《へさき》がサント・マルグリット島の鼻にぶつかっただからねえ。船大工はそれを修繕するに、百二十リーヴル出せとおらに申しますんでがす」
「よし、では徴発を免じてやる。帰っていい」とラウールは言った。
こうして漁師が立ち去ると、アトスはラウールに言った。
「サント・マルグリット島に行ってみようではないか?」
「はい、島に渡りさえすれば、何かはっきりとつかめましょう。どうもあの男の話はほんとうだと思えません」
「私もそう思う。ラウール。その仮面をかぶった貴族と箱車が消えたという話は、あの乱暴者が無理に乗せて行かされた腹いせに、海の上でその客を殺したのを、隠すためのようにも思われるな」
「どうもその疑いが十分あります。箱車というのは、人間がはいっていたのではなくて、金ではありませんかしら」
「何はともあれ、調べてみよう、ラウール。その貴族というのは非常にダルタニャンに似ている。あの男のやり口に違いないて。ああ! 私達の昔の無敵だった時代は、もう過ぎ去ったのだ。あの吹けば飛ぶような漁師の斧か、棍棒《こんぼう》かが、四十年という長いあいだ、全ヨーロッパのどんな鋭い白刃も、また砲弾や鉄砲弾をも、どうともすることができなかった剛《ごう》の者をやっつけるところだったとはなあ」とアトスは嘆息しながら言った。
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四一 銀の皿
その日、アトス父子はツーロンから回送させた船で、サント・マルグリット島に向かって出発した。
島に上陸してみて、その印象は異常なほど平和なものがあった。島にはいろいろの花がまっ盛りで、またどこに行っても果物が豊かに実っていた。開墾してある土地は総督の庭園になっていて、オレンジや、柘榴《ざくろ》や、無花果《いちじく》、などの果樹が金色《こんじき》だの瑠璃《るり》色だのの果実の重さで、枝をしなわせていた。この庭園の周囲の、まだ開墾していない土地では、赤い色の鷓鴣《しゃこ》が、木苺《きいちご》の中や、伊吹《いぶき》の繁みの間を群れをなして走り回っていた。またアトス父子の足音に驚いては、臆病《おくびょう》な兎《うさぎ》がマヨナラとヒースの中から飛び出して、穴の中へ駆けこんだ。
事実こうしたこの美しい島には、住民がなかった。平坦《へいたん》な島で、碇泊《ていはく》には入り江が一つあるばかりで、そこが密輸入者の仮の倉庫になっていて、総督に割り前を出して、同時に島の鳥獣を狩らず、庭園に足を踏み入れぬという条件で、大目に見られていた。こうした話し合いから、総督はこの城砦《じょうさい》を守備するために、八人の番兵だけでがまんしていたし、その他には十二門の大砲が青|錆《さ》びて横たわっているだけだった。総督はいわば幸福な農夫で、ワインや、無花果や、油や、オレンジなどをつくったり、砂糖漬けにしたレモンや仏手柑《ぶしゅかん》などを|むろ《ヽヽ》の日向《ひなた》に貯えたりしていた。
島のただ一つの防備である城砦は、一筋の深い濠《ほり》をめぐらしてあるだけで、その上には三つの頭のように櫓《やぐら》がそびえていた。そしてその間を苔蒸《こけむ》した露台が結びつけていた。
アトスとラウールとはしばらくのあいだ、庭園の土塀に沿うて歩いてみたが、総督のもとに案内してくれる者に出会わないので、しまいには庭園の中にはいりこんだ。それはちょうど一日じゅうでも最も暑いころだった。
日盛りのこととて、生物は皆、草や石の陰に隠れていた。大空はいっさいの物音を消し、万物をおおうように、炎のヴェールをひろげていた。鷓鴣《しゃこ》は金雀児《エニシダ》の繁みの中に、蠅は木の葉の裏で、青空の下に波間に浮かぶがごとく眠っていた。
アトスは番兵がただ一人、第二と第三の中庭のあいだにある露台の上を、頭に料理の籠《かご》をのせていくのを見かけた。この男はすぐとまた空手で戻って来て、哨舎《しょうしゃ》の陰に隠れてしまった。
アトスはこの男が誰かに食事を運んで行き、自分の用事をすましてから、今度は自分の食事に戻って行ったのだと考えた。
すると突然、人の呼ぶ声が彼らの耳にはいった。頭をあげて見ると、ひとつの窓格子のはまった枠の中で、何やら白い物が見えた。どうも手を振っているようだった。そして何かがきらりと光った。一個の武器が日光に映えたようにも見えた。
二人がその物の正体を見きわめる暇もないうちに、一つのきらきら光った物が、しゅっと風を切る音とともに、櫓から大地へと飛んで来た。続いて鈍い物音が濠の中から聞こえた。ラウールは駆け寄って、乾いた砂の中までころげこもうとした銀の皿を拾い上げた。
すると、この皿を投げた手は、この二人の貴族に合図を送ってから、見えなくなった。
そこでアトスとラウールとは、互いに歩み寄って、この砂埃《すなぼこり》に塗《まみ》れた皿を注意深く調べにかかった。するとその底に、ナイフの先で、次のような文字が刻んであるのを発見した。
『予は現フランス国王の兄にして、今日はとらわれの身、明日は狂人なり、願わくばフランスの貴族にしてキリスト教徒の人々よ、先王の王子の霊魂と理性のために、神に祈り給え』
皿はアトスの手から落ちた。そのあいだに、ラウールはこの悲しい言葉の、神秘な意味を知ろうと心を砕いた。
その刹那《せつな》、櫓の頂から、一つの叫び声が聞こえて来た。ラウールは電光のような速さで、頭を下げて、父にも無理やりにそうさせた。マスケット銃の銃身が城壁の頂できらりと光って、その銃口から白い煙が羽根飾りのように湧き出た。そして弾丸は二人の貴族から六|吋《インチ》ほど離れた石にあたって音を立てた。またもう一つのマスケット銃があって、銃口を下に向けた。
「畜生! ここでは人をだまし討ちにするのか?」とアトスが叫んだ。「この卑怯者《ひきょうもの》、降りて来い!」
「そうだ、降りて来い」と腹を立てたラウールも、城のほうに拳骨《げんこつ》を振って見せながら叫んだ。
二人の叫び声を聞くと、銃の引き金を引こうとしていた一人が、あっと驚きの声をあげた。
そして再び弾ごめをして、続けて撃とうとしていた仲間の銃をつかんで上に持ち上げたので、その弾丸は空のほうに飛んで行った。
アトスとラウールとは人影が露台から消えたので、てっきりこっちに降りて来るものと思い、足をふん張って待ちかまえていた。
五分とたたぬうちに、太鼓が一つ鳴って、八人の番兵が手に手に銃を携え、濠の向かい側に現われた。ラウールにはその先頭に立っている士官が、先刻初めに射撃した男であるとわかった。
この士官は撃ち方用意の命令を兵士たちに下した。
「撃たれますよ!」とラウールは叫んだ。「しかし、せめて剣を抜いて、濠を渡りましょう。弾丸がからになったら、奴《やつ》らの二人やそこらは切り殺しましょう」
こう言うなり、ラウールがまっ先に飛び出したので、アトスはそれに続いた。するとそのとき、彼らの背後で、二人がよく知っている声が反響した。
「アトス! ラウール!」とその声は叫んでいた。
「ダルタニャンだ!」と二人の貴族は答えた。
「撃ち方やめえ!」と隊長は兵士たちに向かって叫んだ。「おれの思ったとおりだ!」
兵士たちはそのマスケット銃を立てた。
「これはどうしたというわけじゃ?」とアトスが聞いた。「我々は出し抜けに撃たれるはずだったのかな?」
「君を撃とうとしたのはおれだったよ」とダルタニャンは答えた。「もしも総督が撃ちそこなっても、おれなら撃ちそこねることはないからな。しかしおれは銃をあげると同時に撃たずに、長いあいだねらう習慣になっているのが幸いだったよ! どうも君らしいと思ったよ。やあ、危いところ、危いところ!」
こう言って、ダルタニャンは額の汗をふいた。早く駆けても来たし、興奮が静まっていなかったからである。
「ふむ! すると我々を狙撃《そげき》したのは、この城砦の総督か?」とアトスは言った。
「そうだ」
「して、またなんで我々を撃ったのだ? 我々になんの恨みがある?」
「わからんかな! 君たちは囚人の投げた物を拾ったろうが」
「それは事実じゃ!」
「あの皿には……囚人が何か書いていたろう、な?」
「そうじゃ」
「やれやれ、そうではないかと思っていたよ」
そしてダルタニャンは非常に心配そうな態度で、皿を取り上げると、その文字を読んだ。読み終わると、顔色がまっさおになってしまった。
「やれやれ、困ったな!」と彼は繰り返した。
「しっ! 総督がやって来た」
「では総督は我々をどうするのです? これが我々の罪になるのですか?」
「では、これは真実のことか?」とアトスは小声で言った。「真実なのかね?」
「しっ! もし君たちがこれを読んだと思われると、いやその意味がわかったようだと疑うと、おれは君たちの代わりに殺されてもかまわんが、しかし……」
「しかし……?」とアトスとラウールとが言った。
「しかし、君たちを殺させぬとしても、終身の禁固から救う道がないのだ。だから、無言でいろ! しっ!」
そこで総督が濠にかけた板橋を渡って、近づいて来た。
「一体、どういうわけで、射撃をやめたのですか?」と総督はダルタニャンに尋ねた。
「君たちはスペイン人になれ。フランス語は少しもわからないのだ、いいかね」と銃士長は低い声で、熱心にアトス父子に言ってから、代官に向かって、「いや、私の処置でよかった。この二人はスペインの士官で、先年イープルで会った人達です……だが二人ともフランス語は一言もわかりませんぞ」
「ふむ!」と総督は用心しながら言った。
そして皿の文字を一心に読もうとした。
ダルタニャンは総督の手からそれを引ったくって、剣の先で、その文字を消してしまった。
「な、何をなさる!」と総督は叫んだ。「もう読めなくなってしまったではないか?」
「これは国家の秘密ですぞ」とダルタニャンはきっぱりと答えた。「そしてあなたも国王のご命令で承知されているとおり、この秘密をうかがい知ろうとする者は、何人《なにびと》たりとも死刑に処するのだ。もしお読みになりたいなら、読まれてもよろしい、その代わり即座に銃殺させますぞ」
このなかばまじめで、なかば皮肉な言葉のあいだも、アトスとラウールとは冷静に沈黙していた。
「しかしこの人達は、少しでもフランス語がわかるようなことはありませんか?」と総督は言った。
「大丈夫ですよ! もしかりに人の話すのがわかったとしても、書いてあることがわかるという理屈にはなりませんぞ。この二人はスペイン語で書いたものも読めないのです。身分あるスペイン人という者は、文字が読めぬのが普通だからな」
総督はこの説明にしかたなく満足したが、それでもなお執拗《しつよう》に、
「この紳士方を城内にお招きしましょう」と言った。
「それは結構ですな、私からもおすすめしようとしていたところだ」とダルタニャンが答えた。
しかし、そうは言ったものの、その実、銃士長はこの二人を百リウも離しておきたかったのだ。だが、そんなことは毛ほども面に表わさなかった。
そしてダルタニャンはスペイン語で、この二人の貴族に招待することを話したので、アトス父子もこれを承諾した。
一同は城の入り口のほうに向かったので、この出来事も静まった。そしてこの不思議な事件で一時は大騒ぎだったが、今はまた、八人の兵士も暇になってしまった。
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四二 きらめく鉄の仮面
城砦にはいってから、総督が賓客を饗応《きょうおう》する用意をさせているあいだ、「さあ、我々だけのあいだに、説明を聞こうではないか」とアトスが言った。
「至極簡単な話だ」と銃士長は答えた。「おれは国王陛下のご命令で、人に見られてはならぬ囚人をこの島に連れて来ておるのだ。ところが君達がやって来たので、囚人が窓のくぐり戸から、君達に向かって何かを投げた。ちょうどそのとき、おれは総督と食事をしていて、囚人の投げた物も見たし、ラウールが拾うところも見た。だからすぐとおれの頭にぴんと来たことは、てっきりこれは君達が囚人と意思を通じ合っているのだと思ったのだ。そこで……」
「そこで、君は射撃を命令したのだな」
「それに相違ない。だが、銃をとったのはまっ先だったが、幸いにねらったのはいちばん後だったのだ」
「いや、ダルタニャン、もし君に殺されたのだったら、我々はフランス王室のために、死ぬ幸運に遭えたのだ。それに、君の手で死ぬということは名誉なことだ。君は最も気高い、最も忠義な国王のお味方だからな」
「何を言う、アトス、王室とは何のことだ? ばか者が書いた狂った文句を、君のような分別ある賢い男が信ずるつもりはなかろうが?」
「私は信ずるよ」
「ダルタニャン様、それを信ずる者は殺せというご命令が出ているのなら、なおさら信ずる理由がありましょう」とラウールが続けて言った。
「と申すのはほかでもない」と銃士長が答えた。「とかく讒言《ざんげん》とか中傷とかいうものは、どんな非常識なことでも、世間の噂《うわさ》になりがちなものだからな」
「いや、違う、ダルタニャン」とアトスは低い声で言った。「国王はそのご一族の秘密が天下にひろがって、ルイ十三世の王子を責めねたむ者が指弾されるのを恐れていられるからだ」
「さあ、そんな子供っぽいことを言うな、アトス。さもないと君も耄碌《もうろく》したと思うぞ。それに、どうしてルイ十三世の王子が、このサント・マルグリット島にいるというのか、説明してくれまいか?」
「君は王子に仮面をかぶせて、漁船でお連れ申したろう。不思議があるか?」とアトスは言った。
ダルタニャンはぎょっとして口をつぐんだが、「ど、どうしてその漁船のことを知っているのだ……」
「君は囚人を押しこめた箱車といっしょに、その船でサント・マルグリットに渡ったのだ。君はその囚人のことを、殿下と呼んだそうだ。だめだぞ? 種はあがっているからな」とアトスが言った。
ダルタニャンは口髭《くちひげ》を噛《か》んだ。
「それが事実としても、おれの連れて来た囚人が王子……フランス王室の王子だという証拠はないぞ」
「そのことはアラミスに聞くがいい」とアトスはひややかに言った。
「アラミスだと?」と肝《きも》をつぶした銃士長は叫んだ。「君はアラミスに会ったのか?」
「うむ、ヴォーで彼が失脚した後だった。脱走者となり、追っ手をかけられて、哀れなありさまだったぞ。だから彼の話を聞いては、あのご不幸な王子が銀の皿に刻まれた、哀願の言葉を信ぜずにはいられない」
ダルタニャンは当惑気に、頭を深くうなだれていたが、「アトス、こんな事件で、君とおれとが顔を突き合わせた偶然をのろってくれ。だが今……」
「待て」とアトスは穏やかな調子で言った。「君の秘密は、おれが知ったからといって、世間にもれるか? 今までの場合を思い出してみてくれ。兄弟、だが、おれは今までこんなに重大な秘密を知ったことはなかったな?」
「うむ、こんな恐ろしい秘密を知ったことはなかったよ」とダルタニャンは悲しそうに答えた。
「おれはこの秘密にかかり合った者は残らず死ぬ、不幸な死に方をするという、不吉な予感さえするのだ」
「何事も神のおぼしめしにまかせよう、ダルタニャン。ああ、総督がやって来たぞ」
ダルタニャンとその親友たちはすぐまた、自分たちの役割に戻った。
この総督は疑い深い、苛酷《かこく》な人物で、ダルタニャンにはほとんど追従に近いほど丁重にふるまうし、アトス父子にも敬意を示していたが、それでも少しの間も眼を放そうとはしなかった。
アトスとラウールとは、どうかして総督の注意をそらすような、急激な攻撃を試みて、狼狽《ろうばい》させてやろうと、いろいろくふうしてみたが、そのききめがなかった。ダルタニャンが言ったことはほんとうらしく見えたが、総督はまるで真実とは思っていなかったのだ。
やがて彼らは休息するために、食卓を離れた。
「あの男の名は何というのだ? どうも気に食わん顔つきだな」とアトスはダルタニャンにスペイン語で聞いた。
「サン・マール」と銃士長は答えた。
「では、あれが若い王子の牢番《ろうばん》なのだな?」
「そうばかりも言えぬ。おれも終身この島から出られぬかもしれぬよ」
「君がか? そんなことがあるものか!」
「兄弟、おれは砂漠のまん中で、宝物を発見した男の身の上に似ているよ。宝物は持って行きたいが、それができない。捨てて行こうとしても、さて、それもできぬ。国王陛下はおれをお呼び戻しにはなるまい。おれほど忠実に監視する人間はないからな。また、陛下はおれを離されたくはない。おれほどおそばでよく働く人間もないからな、まあ、神のおぼしめし次第だな」
「しかし、いずれ、ここでのおつとめは一時のものでしょうから、あなたもパリにお帰りになるでしょう」とラウールが言った。
そのとき、総督がそばから口を出して、「この紳士たちは何の目的で、サント・マルグリット島に来たのです?」と聞いた。
「この人達はサン・トノラ島のベネディクト派の修道院を見物に来たのです。そして、あすこで、この島がすばらしい狩猟場だと聞いて、来る気になったそうです」
「では、まあ、あなた同様ご自由に」
ダルタニャンはこれに感謝の意を表した。
「だが、いつ立つつもりですか?」と総督は言いたした。
「明日です」とダルタニャンは答えた。
そこでサン・マールは巡回に出掛けて、後にはダルタニャンと自称スペイン人だけが残った。
「やれ、やれ! この島の生活と交際にもうんざりしたよ」と銃士長は叫んだ。「おれはあの男に命令する、あの男はおれをじゃま物扱いにしているのだ!……さあ、兎《うさぎ》でも撃ってみるかね? ここは散歩にはもってこいだし、疲れなくていい。島は長さ一リウ半だし、幅は一リウしかない。まるで天然の公園さ。では、出掛けましょう」
「君の言葉どおりに、出掛けよう、ダルタニャン。私達はべつに行きたくはないが、しかし自由に話ができるからな」
そしてダルタニャンは一人の兵士に合図をして、アトス父子に猟銃を持って来さすと、また城砦《じょうさい》に帰した。
「ところで」と銃士長は言った。「あの腹黒いサン・マールが聞いた問いをおれに答えてくれ。君は何の目的で、この島のある、ルランス群島のあたりまで来たのだ?」
「君に暇請《いとまご》いをするためだ」
「おれに暇請いをするために? それはなんのことだ? ラウールがどこかへ行くのか?」
「うむ、そうだ」
「では、ボーフォール公に随行するのだな?」
「そうだ。ボーフォール公のお供をして行くのだ。君はいつも図星だな」
「習慣からな……」
二人の親友がこうして話を始めているあいだ、ラウールは押しつぶされた胸を抱き、頭を悩ませながら、銃を膝《ひざ》の上に置いたまま、苔蒸《こけむ》した岩に腰をおろしていた。そしてじっと海を見たり、空を仰いだりして、物思いにふけっていた。
ダルタニャンはラウールがそばにいないのに気がついて、「ラウールはまだ胸の痛手から回復せんのか?」とアトスに言った。
「死なねば治るまい!」
「これ、大げさなことを言うな。ラウールは鍛えられた男だぞ」
「いや、ラウールは死ぬよ」とアトスが答えた。
「ばかな!」憂鬱《ゆううつ》になったダルタニャンは言った。そしてそのまま無言でいたが、やがて、
「なぜ君はラウールを行かせるのだ?」
「行くと言ってきかぬからだ」
「なぜ君もいっしょに行かぬのだ?」
「ラウールの死ぬのを見るに耐えぬからだ」とアトスはダルタニャンの腕にもたれながら言った。
「おれは今まで長い人生を、ほとんど何物をも恐れずに来た。これは君もよく知っているだろう。しかし、いつかラウールの死骸《しがい》を抱くときが来ると思うと、その恐ろしさに胸が締めつけられそうだ……あれは死ぬ、それは確かだ。まちがいはない。しかし、おれはそれを見たくないのだ」
「ふむ!……」と言ってダルタニャンはこの激しい悲哀の嵐に少し狼狽した。
そこでダルタニャンは茨《いばら》を分けて、ラウールに近づき、ラウールの手を握り、しばらくのあいだ、慰めたり、励ましたりした。そのあいだ、アトスは唯一人散歩を続けていた。やがてダルタニャンとラウールとは、ゆっくりした歩調で戻って来るアトスの姿を見て、急いでそばまで駆けて行って、いっしょになった。
こうして三人が帰路についたころ、海が荒れ始めて、地中海の水面をたたきつけるような大粒の激しいにわか雨が降って来た。そして今にもこの悪天候は暴風雨となりそうだった。
彼らは城壁の上から、ダルタニャンが鍵を持っている廊下にとおろうとしていたとき、総督のサン・マールが、囚人のはいっている部屋のほうに行くのを見た。
彼らはダルタニャンの合図で、階段の角に隠れた。
「なんだ?」とアトスが言った。
「すぐわかる。そら、囚人が礼拝堂から帰って来るところだ」
吹く風に大空の上の方がぼけている紫色の霧の中に、ひらめいた赤い電光に、総督の後ろ六歩ほどのところを、一人の人物が蕭々《しょうしょう》と歩を運んでいるのが見えた。黒衣をまとうて、首から上には磨いた鋼鉄の仮面をつけ、それにぴったり付着した、鋼鉄の兜《かぶと》をいただいていた。そして大空の火がその磨き上げた表面に、灰褐色の反射を投げかけていて、そのきらきらときらめく反映は、さながらこの不幸な人物が呪《のろ》う代わりに、怒って人を射る視線のように見えた。
廊下のまん中で、このとらわれた人はちょっと足を止めて、はてなき水平線を眺め、嵐の硫黄《いおう》を含んだ匂《にお》いを嗅《か》ぎ、激しい雨をがつがつむさばり飲んで、うなり声のような溜息《ためいき》をはいた。
「来給え、君」とサン・マールは乱暴に言った。というのは、囚人が城壁から外をあまり長く眺めているのが、不安になったからである。「君、来給え!」
「殿下と言え」とアトスは隠れていた物陰からサン・マールに向かって叫んだ。その声があまりにおごそかな恐ろしい声だったので、総督は全身をわなわなとふるわせた。
アトスは相変わらず、いつまでも没落した王様に対して、尊敬をいだいていたかったのだ。
囚人は後ろを振り返った。
「誰か、口をきいたのは?」とサン・マールが尋ねた。
「私だよ」と言いながら、ダルタニャンがつかつかと現われた。「あんたはそれが命令であることを知っているはずだ」
「君とも、殿下とも呼んでもらうまい」と今度は囚人が叫んだ。その声はラウールの臓腑《ぞうふ》の中まで突きとおるような声だった。「私を『呪われた者』と呼んでくれ!」
こう言い捨てて、囚人は通り過ぎた。
鉄の扉がその背後で軋《きし》った。
「あれこそ不幸な人だ!」と銃士長はかすかな声でつぶやいて、ラウールに王子のはいった部屋を指さした。
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四三 ツーロン出港
ダルタニャンが友人たちと自分の部屋に帰るとすぐに、城砦の兵士の一人が来て、総督が待っていると伝えた。早速行ってみると一通の書面が届いていたので、封を開くと、国王ルイ十四世の手跡で次のようなことがしたためてあった。
『ダルタニャンよ。卿《けい》は予の命令を遺憾《いかん》なく遂行せりと信ず。よってただちにパリに帰還し、ルーヴル宮に出頭せらるべし』
そこでダルタニャンは自室に戻ると、嬉《うれ》しげに、
「これでおれの流罪《るざい》も終わりだ! 何事も神のお陰だ。おれはもう牢番《ろうばん》ではないぞ!」と叫んだ。そして国王の書面をアトスに見せた。
「では、もうお別れか?」とアトスは悲しそうに答えた。
「そうだ、しかしまた会えるぞ、兄弟。ラウールはもう立派な武士だから、一人でもボーフォール公に随行することができる。だからおれが父親と連れ立って帰るのを止めはしまい。ラ・フェールの村まで二百リウの道を一人旅をさすのは心配だからな、そうだろう、ラウール?」
「そうですとも」とラウールは名残り惜しそうに言った。
そこで三人は総督に別れを告げて、この小島を後にした。嵐の名残りの稲妻が、城砦の白壁をぱっと照らしたのが見納めだった。
その同じ夜、銃士長の注意で、総督のサン・マールの命令により、火を付けられた例の箱車の炎が、サント・マルグリット島の方に上がるのを見てから、ダルタニャンはアトス父子に別れを告げた。
馬に乗る前、アトスの腕から脱け出たダルタニャンは、
「おい、君たちはまるで持ち場を放棄した兵士のようだ。ラウールにはやはり後楯が必要だ。どうだ、おれが陛下にお願いして、百人の選りすぐった銃士を引き連れて、アフリカに渡ることにしては? 陛下はおれの願いは拒絶されないから。そうすれば、君といっしょにおれも行くことになる」
「ダルタニャン様」とラウールは感激のあまりに銃士長の手を握って、答えた。「それはありがたいお言葉です。しかし私は若いし、持ちこたえる力があります。父は非常に疲れております。あなた様のほかには親友はありません。どうか父のことをお頼み申します。父をいたわってくだされば、私たち父子の魂は、あなた様のお手に抱かれているようなものです」
「おれは出発しなければならん。馬がじれておるからな」とダルタニャンは言った。彼はいつも感情が迫って来ると、こういうふうに話題を変えてしまった。「ところで、アトス。あと何日ほど、ラウールはここにいるのだ?」
「せいぜい三日ぐらいだ」
「君が国に帰るには、どのくらいかかるのだ?」
「大分かかるな」とアトスが答えた。「こっちへ来るには宿駅の馬で来たが、帰りには良い馬を二頭買うつもりだ。すると、そのまま連れて帰るには、日に七、八リウよりは歩かせられまいよ」
「執事《しつじ》のグリモーはどうした?」
「あれはラウールに供させることになっておる。昨日の朝着いたばかりで、まだ眠っていたから、そっとしておいた」
「では、アトスしばらく会えないな」とダルタニャンは言いながら、ラウールがささえてくれた鐙《あぶみ》に足をかけた。
「ご機嫌よう!」と言いながら、ラウールはダルタニャンを抱擁《ほうよう》した。
「ご機嫌よう!」とダルタニャンも言って、ひらりと鞍《くら》にまたがった。
馬は歩きだした。だんだんと友達の騎士から遠ざかった。
こうした光景は、アトスによって選ばれた、アンチーブ港にある家の前で起こったことだった。ダルタニャンはそこで夕食をしたためた後、自分の乗り馬を引いて来るように命じたのだ。
街道はそこから始まって、夜の靄《もや》の中に、白く波打つように延びていた。馬は沼地の発散する塩分を含んだ激しい香りを、いっぱいに呼吸していた。
ダルタニャンは速歩《はやあし》で馬を進めた。アトスはラウールと悲しげに帰って行った。
しかし翌日は、すっかり元気を回復して、起きだして来た。ボーフォール公によって命ぜられた遠征の準備は幸いに全く完了した。ラウールの配慮によってツーロンに誘導せられていた船隊は、その後に多くの小艇を従えて出港した。この小艇には、艦隊の兵役に徴集された漁師や密輸入者の妻君や友達が乗っているのだった。
アトスとラウールとはツーロンに帰って来た。そこでは、輜重車《しちょうしゃ》の轍《わだち》の音、甲冑《かっちゅう》の響き、軍馬のいななきなどでいっぱいだった。ラッパの音はその行進を告げ、軍鼓の響きはその士気を鼓舞《こぶ》していた。町角には兵士や下僕や商人があふれていた。
ボーフォール公は至る所で、すぐれた将帥としての情熱と関心とをもって、積みこみを激励していた。彼は最も下級な船員までも目を掛けて可愛《かわい》がったが、一方また最も重んずべき副官でさえも叱りつけた。
大砲、糧食、軍用|行李《こうり》など、いっさいのものに公爵は自分自身で目を通したく考えた。そこで各兵士の武装を点検し、軍馬の健康状態もいちいち確かめて歩いた。自分の邸では、軽薄で、高慢ちきで、利己的なこの貴族も、いったん軍人となると、彼の双肩にかかっている責任に対して偉大なる将帥となったのである。
いっさいの準備は提督《ていとく》を満足させた。彼はラウールを称賛して、翌日の払暁《ふつぎょう》に決定した出港準備のために、最後の命令をあたえた。
翌日、町の曲り角で、アトスとラウールとはスペイン産の立派な白馬に乗っているボーフォール公を見た。公爵は町の婦人たちの歓呼《かんこ》に対して、愛想よく頭を下げていた。
それから公爵はラウールを呼び、アトスに手をさし出した。彼は長いあいだ、アトスとやさしい言葉遣いで話をしたが、そのために、この可哀そうな父親も少し元気を回復することができた。
しかしながら、アトス父子の足の運びは苦痛に向かって行くようだった。海岸の砂を離れるために、兵士や水夫たちは、その家族や友人たちと最後の接吻を交わしていた。このときこそ恐ろしいときなのだ。そしてまた、最後のときだった。それだのに、空は青く澄みわたって、太陽は熱かった。
また空気の匂いと、心地よい活気が血管の中にめぐっていた。しかし、いっさいのものが陰気で、物悲しく見えた。
提督はその随行者といっしょに最後に乗艦する慣例になっていた。大砲はその轟音《ごうおん》を響かせるために、司令長官がその旗艦の甲板に、足をかけるときを待っていた。
アトスは提督のことも、艦隊のことも、また彼自身の剛毅《ごうき》な武士の面目をも忘れてしまって、息子に向かって腕をひろげ、胸の上にしっかと抱き締めた。
「船までいっしょに来てはどうだな」と公爵はこの光景にいたく心を動かされてこう言った。
「いや、もう別れの言葉は申しました。私は二度と、それを言いたくありませぬ」とアトスは言った。
「では、子爵、乗りこもう、早く乗るのだ!」と公爵は悲嘆に暮れている父子に、これ以上泣かせまいとして、こう言いたした。
そして公爵は、ポルトスがしたように、慈悲深く、愛情をこめて、ラウールを両腕で抱きかかえて、ランチに乗せた。すると櫂《かい》を持った水夫はすぐと合図を受けて、漕《こ》ぎ始めた。
今まですっかり礼式を忘れていたラウールも、ランチの平たい舷《ふなばた》に飛び上がって、たくましい足で、ランチを海の方に押し出して、
「行ってまいります!」と叫んだ。
アトスはただ手を振り、合図を送って答えるばかりだった。すると手に熱いものを感じた。それは忠実な犬の最後の告別のような、執事のグリモーの尊敬をこめた接吻だった。グリモーは接吻し終わると、波止場から、二つの櫂を備えたボートの舳先《へさき》に飛び移った。
アトスは波止場に腰をおろして、茫然《ぼうぜん》自失したままであった。やがて彼は、ラウールが旗艦の舷梯《げんてい》をのぼって行く姿を見た。甲板の欄干に現われて、いつまでも父の眼から失われまいとしている姿を見た。しかし大砲が轟音を響かせ、船から告別のどよめきが聞こえ、岸からはどっと万歳の声が答えると、老人の耳はがあんと、何も聞こえなくなってしまった。船は見る見るうちに白い煙におおわれて、最後まで見えていたラウールの影も、黒から青ずみ、次いで白に変わり、しまいには無と化して、老人の眼にはもう何も見えなくなってしまった。間もなく、舳櫨《じくろ》相ふくんだ軍艦の列も、風をいっぱいにはらんだ白帆の影も、次第に沖へ薄れて行った。
真昼ごろ、太陽はすでに大空を焦《こ》がし、海が沸騰するような水平線には、帆柱の頭ばかりがわずかに残っているばかりだった。アトスが見ていると、そのあたりから、柔らかな、気体のような影が立ち上がって、すぐと空に溶けこんでしまった。これは、ボーフォール公爵が、祖国フランスの海岸へ最後の別れを告げた大砲の煙だった。
やがて点のように見えていた帆柱の頭も、大空の下に消え失せてしまった。そしてアトスは一人とぼとぼと旅館に帰って行った。
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四四 宮女に囲まれて
ダルタニャンはアトス父子に自分の心持ちを隠そうとしたが、それはできなかった。また、同じようにアトス父子の方でもその気持を隠そうとしていたのだった。いつもの物に動ぜぬ、感情を押し殺すに慣れた性質にも似ず、ダルタニャンは不安な心持とわびしい予感とにとらわれて、著しく元気がなかった。
しかし次第に心持ちも落ちつき、筋肉のふるえも静まってくると、いつものように黙々と彼の後から従って来る従卒の方を振り返って、「リボー、これから三十リウずつ走るのだ」と言った。
「よろしゅうございますとも、隊長殿」とリボーは答えた。
この瞬間から、ダルタニャンは身も心の動きをも愛馬の足並みに託して、まるで真の半人半馬《ケントール》のように疾駆した。
彼は、なぜ国王が自分を呼び戻したかを考えてみた。またなぜ、仮面の男がラウールの足もとに銀の皿を投げたかを考えてみた。
第一の問題については、答えははっきりしなかった。国王が彼を召還したことは、必要に迫られたからだと、わかりすぎるくらいわかっていた。それにルイ十四世は全国民を震骸《しんがい》さすに足るほどの、大秘密を葬らせた腹心の、その後のようすを聞きたいに違いなかった。しかし国王の本心がどこにあるかということになると、ダルタニャンにも全然見当がつかなかった。
次に、あの不運なフィリップが自分の身分と出生を他人に知らせようとした理由については、銃士長はなんら疑いをさしはさむ点を持たなかった。永久の鉄仮面に埋まったフィリップは人間が住処《すみか》の奴隷であるように孤島の流人だった。たまたま自分に尊敬を捧げてくれ、やさしい心遣いを見せてくれたダルタニャンに会えたが、それも身辺から離れてしまっては、残るのは、魂をむさぼり食う絶望ばかりだった。だから、せめてその苦悩をもらすために、あるいは万人に一人は、自分の代わりに復讐を志してくれる者でもあろうかと、はかない心頼みからもああしたふるまいに出たのに相違なかった。
また、銃士長は自分が、もう少しのところで、二人の親友を撃ち殺そうとした事情や、アトスが国家の重大な秘密を知るに至った不思議な運命や、ラウールの暇請《いとまご》いや、果ては悲愴《ひそう》な死に終わるらしい暗澹《あんたん》たる未来など、それからそれへと考えていくと、結局はみな憂鬱《ゆううつ》な予想ばかりで、疾駆する駿馬《しゅんめ》の速力も、かつてのようにそれを吹き飛ばしてはくれなかった。
こんなことを考えているうちに、やがてダルタニャンは追放されたポルトスとアラミスの身の上を思い出した。力を尽くして運命を開拓していたこの二人は、今は両方とも没落して、草木のそよぎにもおびえるみじめな境遇になった。そして国王が自分を召還した理由も、あるいはこの二人の処分に関したことではあるまいかと考えると、ダルタニャンは自分の心を血みどろにする日のことを思って、戦慄《せんりつ》せずにはいられなかった。
しかし賢明な人物は、いくら肉体が疲れ果ててもけっして倦怠《けんたい》を感ずるものではない。また頑健な人物は、何事かで心が憂愁に閉ざされているときでも、人生を楽しく考えるものである。こうしてダルタニャンは風を切って馬を走らせながら、いろいろのことを考えていたが、やがて昔のギリシアのレスラーが楓爽《さっそう》と競技場にのぞむように、元気でパリにおり立ったのである。
国王は彼を待ちきれずに、今しがたムードンの方へ猟をするために出発したばかりだった。そこで昔のように、すぐ国王の許《もと》に駆けつけずに、まず長靴を脱いで、悠々と風呂に浸って、国王が埃《ほこり》を浴びて、疲れ果てて還幸《かんこう》するのを待った。そして五時間もたたぬ間に、不在中のいろいろの消息を聞き知った。
彼は国王がこの二週間ほど非常にふさいでいられること、大妃陛下はご不例《ふれい》で、非常に健康が衰えられたこと、王弟殿下は信仰に心を向けられたこと、アンリエット王女は気鬱症《きうつ》になっていられることなどを知った。
また財務官コルベールは景気がよいこと、国王はフーケに非常に親切な態度を示されて、常に身辺を離そうとはされぬこと、しかしフーケは虫のついた樹木のように日に日にやつれて、国王の微笑という太陽も、頻繁《ひんぱん》に取り替える侍医も、いっこうに験《しるし》を見せぬことなどの噂《うわさ》を耳にした。
ダルタニャンはまた、ラ・ヴァリエールがいよいよ国王の寵愛《ちょうあい》をあつめて、狩競《かりくら》に出られている間も、手紙を送られるということを聞いた。そこでラ・ヴァリエールに会ってみようと考えた。
それは思ったより容易だった。ルイーズは国王が狩競に出られているあいだ、パレ・ロワイヤル宮の廊下を他の女官たちといっしょに逍遥《しょうよう》していた。その宮殿には護衛兵が詰めていて、ちょうど銃士長が検閲する必要があったのである。そこで彼はラ・ヴァリエールがいそうな場所に出掛けて行った。
ダルタニャンは大勢の女官に取り巻かれているラ・ヴァリエールを発見した。この国王の嬖妾《へいしょう》は、外観は孤独のようだが、王妃と同じぐらいの、いや王妃以上の敬意を受けていた。
ダルタニャンは貴婦人たちの愛撫《あいぶ》ばかりをうけているようなやさ男ではなかった。彼は勇士がいつもそうであるように慇懃《いんぎん》であったし、彼の雷のような名声は、男性のあいだに友情を呼ぶとともに、女性の間には賛美を集めていた。それで彼がはいって来る姿を見ると、宮女たちはすぐに周囲を取り巻いて、「どこに行っていらっしゃいましたの?」「どうあそばしておいででした?」というような質問を浴びせかけた。
ダルタニャンは、「オレンジの国から帰って来ましたよ」と微笑しながら答えた。
これには皆が笑った。百リウもある旅行は、しばしば死を思わせる時代だったからである。
「オレンジの国からですって?」と宮女のトンネー・シャラントが叫んだ。「ではスペインからでございますの?」
「いや、違います! 違います!」と銃士長が言った。
「マルタ島から?」とモンタネレーが聞いた。
「おや! 少し近くなりましたね」
「島からでございますの?」とラ・ヴァリエールも口を出した。
「ここらで申し上げますかな。実は、ボーフォール公爵がアルジェールに遠征をなさるため、ご乗艦になった港から帰ってまいりましたのです」
「では、軍隊もご覧になりましたのね?」と戦争好きの数人の女官が、こう尋ねた。
「こうしてあなた達にお目にかかるようにね」とダルタニャンは答えた。
「艦隊もでございましょう?」
「さよう、何でも見て来ました」
「そうしますと、私たちのお友達もいらしったでしょうね?」とトンネー・シャラントがひややかに、しかも注意をひくように、底意ありげに言った。
「むろんのことですよ。ラ・ギロチエールさんもいれば、ムーシイさんも、ブラジュロンヌさんもいましたよ」とダルタニャンは答えた。
これを聞いて、ラ・ヴァリエールはまっさおになった。
「ブラジュロンヌですって?」とアテナイという宮女がうかつにも叫んだ。「まあ! あの方が戦争に?……あの方が?」
モンタネレーが急いでその爪先《つまさき》を踏んだが、もう間に合わなかった。
「私の考えをご存じ?」と彼女は容赦なくダルタニャンに話しかけた。
「いや、知りません。どういうお考えなのですかな?」
「私の考えでは、今度の戦争に行ったお方達は、みな失恋で自暴自棄になった方達ばかりでございますわ。そして黒ん坊の女の中に、やさしい女はいないかと捜しに出掛けたに相違ございませんわ」
数人の女官たちは笑った。ラ・ヴァリエールはひどく狼狽《ろうばい》した。そしてモンタネレーは死人でもよみがえりそうな咳《せき》をした。
「いや、違いますよ」とダルタニャンがさえぎった。「ギゲルリの女は黒くはありません。もちろん白くはないが、黄色ですて」
「黄色!」
「黄色でもばかにできませんわい。私の見た中には、眼がまっ黒で、唇が珊瑚《さんご》のような美しいのもいましたからな」
「では、ブラジュロンヌ様もまんざらではありませんのね!」とトンネー・シャラントが執念深く言った。「やっとうめ合わせがつきますわ。お可哀《かわい》そうに!」
深い沈黙がこの言葉に続いた。
ダルタニャンはそのあいだに、どんなにこのおとなしい鳩のような女たちが、相互のあいだでは残忍なること虎や熊にも優っているかを、つくづくと観察した。
しかしアテナイは、ラ・ヴァリエールが青ざめただけでは満足しなかった。彼女は赤面させてみたいと思った。
それで、まともにラ・ヴァリエールに話しかけた。
「ルイーズ様、あなたはご自分の良心に大きな罪を犯していらっしゃるのをご存じですの?」
「どういう罪ですの?」とこの不幸な女は、しわぶきながら、自分の周囲にたよりになるものを捜したが、ついに発見することができなかった。
「まあ! おわかりになってらっしゃるくせに、あの方はあなたのお許婚《いいなずけ》だったのでしょう。あの方はあなたを愛していらしった。それをあなたはお捨てになったのですわ」とアテナイが追及した。
「お待ちあそばせ。それは正直な婦人なら誰でも持っている権利でございますわ。ある殿方を幸福にすることができないとわかれば、その方の愛を拒絶するほうが正しいと思いますわ」とモンタネレーがこれに応じた。
「愛を拒絶なさる! それは実に結構なことですわ」とアテナイがやり返した。「その点でラ・ヴァリエール様をとやかく申し上げるのではございません。罪と申しますのは、あのブラジュロンヌ様を可哀そうに戦争におやりになったことを指すのでございますわ。殺されにおやりになったことですわ」
ルイーズは手を凍ったように冷たくなった額にあてた。
「それに、もしあの方がお亡くなりになったら、ルイーズ様、あなたがあの方をお殺しになったのです。それが罪だと申し上げたのですわ」とアテナイは無慈悲にも、続けてこう言った。
ルイーズはなかば死んだようになって、銃士長の腕をつかんで、揺すぶった。そしてダルタニャンの顔はいつもと違う感情の色を浮かべていた。
「ダルタニャン様、あなたは私におっしゃることがございますでしょう。それを伺わせてくださいませ」と怒りと苦しみで、ルイーズはおろおろした声で言った。
ダルタニャンはそのままルイーズを片腕にかかえながら、廊下伝いに歩きだした。そして女官たちからずっと離れると、
「ラ・ヴァリエールさん、私の言いたいのは、トンネー・シャラントさんの言われたとおりのことですぞ。あの言葉は残酷だった。しかしあれに相違ないのじゃ」
ラ・ヴァリエールは小さい叫び声をあげた。そしてこの新しい痛手によって胸をえぐられて、重傷を負うた鳥が、死ぬために樹陰を求めるように、よろよろと走って行った。
彼女が扉の陰に見えなくなったと同時に、王が他の一方の扉から現われた。
王の視線はその愛する宮女はいないかと動いた。そしてラ・ヴァリエールが見えないので、彼は眉《まゆ》をひそめた。しかし頭を下げているダルタニャンを見るとすぐに、「おお帰ったか! よく勤めてくれたな、満足に思うぞ」と声をかけた。
これは国王の満足を表わすものとして、最上級の言葉だった。多くの人達は、この一言だけにでも喜んで生命を捨てたに相違ない。
女官や廷臣たちは、国王が出御なさったので、その周囲にうやうやしく輪を作っていたが、王が銃士長と内密に話をしたいようすを見て、すぐに引きさがった。
王はダルタニャンを客間の外に連れて行くと、もう一度ラ・ヴァリエールの姿を捜していたが、やがて誰にも聞かれないような所まで来ると、
「で、ダルタニャン、囚人は?」と言った。
「牢獄《ろうごく》におります、陛下」
「途中何か申したか?」
「一言も申しませぬ、陛下」
「何かいたしたか?」
「サント・マルグリット島に渡ります船の中で、漁師が反抗して、私を殺そうといたしました際、あ、あの囚人は逃げようともせずに、私を守ってくれました」
王の顔はさっと青ざめた。そして、「まあ、よいわ!」と言った。
ダルタニャンは一礼した。
ルイはその部屋の中を縦横に歩いていたが、
「おまえがアンチーブにいたときに、ボーフォール公は来ておったか?」と聞いた。
「いえ、陛下、公爵殿下が到着になった際、私は出発するところでございました」
「ふむ!」
そして王はしばらく無言でいたが、
「そこで誰に会った?」
「大勢の者に会いましてございます」とダルタニャンはひややかに答えた。
王は彼が答えたくないのを見てとって、話題を変えて、「銃士長、予はおまえがナントに行って、滞在の準備をしておいてもらいたいと思う」
「ナントヘ?」とダルタニャンは叫んだ。
「ブルターニュのな」
「はい、陛下、ブルターニュのあの、遠いナントまで行幸なさいますので?」
「あそこで議会を召集するのじゃ」と王は答えた。
「いつ、私は出発したらよろしゅうございますか?」
「今夜……明日……明晩かな。おまえも休養が必要じゃろう」
「いや、私はもう休養いたしました。陛下」
「それはよかった……では、今夜と明晩とのあいだで、都合のよいとき立て」
ダルタニャンは一礼して、退出しようとしたが、国王が非常に困ったようすをしているのを見て、「陛下は」と二、三歩前に出ながら言った。「全宮廷をお引き連れあそばされますか?」
「もちろん」
「ではむろん、銃士も供奉《ぐぶ》するのでございますか?」
王の眼はダルタニャンの鋭い眼つきに合って、うつむいた。
「一大隊も連れて行け」とルイは答えた。
「それだけでございますか?……他に承《うけたまわ》るご命令はございませぬか?」
「ない……いや、ある……」
「承りまする」
「ナントの城は、配備が不十分だと聞いている。それで、供奉の主だった高官の戸口には、いちいち銃士を配置するようにしてくれ」
「主だった者でございますか?」
「そうじゃ」
「たとえて申しますと、リヨンヌ閣下の戸口にも?」
「そうじゃ」
「ルテリエ閣下にも?」
「そうじゃ」
「プリエンヌ閣下にも?」
「そうじゃ」
「そうしてフーケ閣下の戸口にも?」
「申すまでもない」
「よろしゅうございます、陛下。私は明日出発いたします」
「よし! だが、もう一言、ダルタニャン。おまえはナントで、近衛隊長のジュスヴル公爵と落ち合うだろうが、銃士隊を近衛隊が到着する以前に、配備するようにせい。何事も早いほうが勝ちだからな」
「はい、陛下」
「そして、もしジュスヴル公が何かおまえに尋ねたら?」
「さあ、陛下! ジュスヴル公は私にお尋ねになるでしょうか?」
こう言うとダルタニャンは無作法《ぶさほう》に、そのままぐるりと後ろ向きになって、姿を消した。
「ナントヘか?」と彼は階段を降りながら独語した。「なぜ、引き続いてベル・イルヘとは仰せられないのだろう?」
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四五 最後の晩餐《ばんさん》
大蔵大臣フーケにも、ナントに向け出発すべしという命令が下った。そこで、その夜家族友人たちと別離の宴を張った。
邸《やかた》の中では、上を下への大騒ぎで、忙しそうに下男が台所から皿を運ぶかと思うと、帳簿を整理する者は、金庫から帳簿を引き出したりして、はや眼の前に追ったフーケの没落を如実に示していた。
かつてヴォーの園遊会に参加した快楽派《エピキュール》の人達も、その席にいて、フーケの邸のことや、彼の気質や、その貯蓄した金銀などについて、かれこれと噂《うわさ》をしていた。それに、大部分がやさしい、愉快な親友たちなので、自分たちの保護者が政界のあわただしい雲行きにおびやかされ、嵐の近づくのにおののいている今も、飛ぶ鳥も落とす勢いであった当時と同じく、不運な大臣を見捨てずに、愛想よく談笑していた。
フーケの左の席には、ベリエール夫人が、また右の席には、フーケ夫人がすわっていた。それはあたかも社交界の法則に挑戦するかのように、一般の礼儀作法を無視していた。そして大臣の守護天使ともいうべき二人の夫人は、こうした危機に際して、その組み合わした腕で大臣をささえようとしていたのだ。
「ああ! 快楽派《エピキュール》の諸君、私はここに、かつて神が『最後の晩餐』といわれる宴をその友と張られたように、今諸君とともに、別離の宴を催します」とフーケは言った。
すると苦しそうな否認の叫び声が食卓の処々方々からあがった。
「扉を締めるように」とフーケが言った。
そして召使いたちは姿を消した。
「諸君」とフーケは声を低めて言い続けた。「昔の私はどうでしたろう? それが今はこんなありさまです。どうか諸君のご意見を聞かしてください。私は二度と起き上がれない、落ちめとなった人間です。私にはもう金がない。もう信用もない。あるものはただ力強い敵と、力のない友人諸君ばかりなのです」
「それは気が早い!」とペリソンは立ち上がって叫んだ。「閣下が何もかも率直に打ち明けられた以上、こっちもそうしなければなりません。さよう、閣下は没落されたが、何もそう破滅に向かってお急ぎにならなくともよいと思う。どうか踏みとどまってください。まずうかがいたいことは、|金子《きんす》はどのくらい残っておりますか?」
「七十万リーヴル」と大臣が答えた。
「ではパンを持って」とフーケ夫人がつぶやいた。
「そして駅馬でお逃げなさい」とペリソンが言った。
「どこへ?」
「スイスヘ、サヴォワに、とにかくお逃げなさい」
「でもお逃げになったらば、大臣は罪を犯したと言われはしませんでしょうか」とベリエール夫人が言った。
「それどころではない。私は二千リーヴルも拐帯《かいたい》したように噂されるだろう」
「そのことなら、我々が正しい記録を書いておきます。お逃げなさい」と詩人のラ・フォンテーヌが言った。
「いや私は逃げまい。しかし、ベル・イル島にこもる。あすこへはナントから自然に行けるからな」
「それなら、私にうまい思案が浮かびました」とペリソンが叫んだ。「閣下は早速ナントヘ出発なさいませ」
フーケは驚いて、その顔を見た。
「しかし、我々も同行するのです。まずオルレアンまでは、ご自分の馬車で急行して、それからナントまでは伝馬船にのられる。その間も追っ手に襲われぬ用心が肝要です。それから不時の用意に金子を持参されることです。こうしてお逃げになれば、国王陛下のご命令にもそむかないですみます。それから海岸までおいでになれば、どこからでもベル・イルヘお逃げになればよろしい。そしてもしあのベル・イルの城から追い立てられたときは、鷲《わし》のように、自由に大空に向かって飛び立てばいいのです」
このペリソンの提案には、一同が賛成の意を表した。
「そうですわ。そうなさったら」とフーケ夫人は夫に向かってこうすすめた。
「そういたしましょう」とベリエール夫人も言った。
「それがいい! それがいい!」と友人たちはいっせいに叫んだ。
「では、そうしょう」フーケは答えた。
「今晩から」
「一時間のうちに」
「すぐと」
「七十万リーヴルもあれば、もう一度運命を開くことができますよ」と一人の者は言った。
「そうとも、必要なら、新世界を発見するさ」とラ・フォンテーヌも興奮して、熱心に言った。ところが扉をたたく音が、この歓喜と希望の結合をさまたげた。
「王の御使者!」とどなる声が叫ぶのが聞こえた。
一同ははっとして静まり返った。フーケは玉の汗を額に浮かべながら、王の使者を迎えるために、書斎の方に出て行った。不安に顔を見合わせながら聞き耳を立てている人達は、間もなくフーケが次のように返事をしている声を聞いた。
「かしこまりました」
しかしその声は疲れて感情にふるえている声だった。
やがてフーケは一般の待合室の中央にある廊下を通っていた、執事《しつじ》のグールヴィルを呼んだ。それから、再び戻って来た大臣の顔色は、出て行った時の青さではなくて、ものすごい鉛色だった。そのようすは、ちょうど生きている幽霊のようで、両腕を伸ばし、ふらふらとはいって来たが、舌が乾いて、すぐには口もきかれなかった。
一同はこれを見て、立ち上がったり、叫び声をあげたりして、フーケを取り巻いた。
フーケはペリソンの顔を見ながら、夫人の腕にかかえられた。そして手はベリエール侯爵夫人の凍ったような冷たい手を、しっかと握った。
「どうなさったのですか?」と誰かが言った。
この言葉で、フーケは汗に塗《まみ》れ、痙攣《けいれん》している右手をひろげた。するとその中に一通の書面があった。ペリソンは一目見て青くなった。
そこには王の手跡で、次のような文句が書かれてあった。
[#ここから1字下げ]
フーケ殿、卿《けい》の手許《てもと》に保管してある七十万リーヴルを渡されたし。上はナントヘ出発の準備金として至急入用なり。卿の健康すぐれざる趣、せつに神の加護を祈る。
なお、この書面をもって領収書に代当するものなり。
ルイ
[#ここで字下げ終わり]
恐怖のつぶやきが部屋の中にみなぎった。
「では、閣下はこの手紙をお受け取りになりましたのですか?」とペリソンが叫んだ。
「さよう、受け取った」
「それで、どうなさいました?」
「何もせん、受け取ったからには、ペリソン、私は支払ったよ」とフーケは並居る人達の心を奪うような素朴さで言った。
「お払いになったのですって?」と絶望したフーケ夫人は叫んだ。「ではもう破滅ですわ!」
「さあ、むだなことを言っているときではない」とペリソンが口を出した。「金の次は命です。閣下、馬へ、馬へ!」
「私たちも逃げましょう」と二人の女性は苦しみに打ちふるえながら、同時に叫んだ。
「閣下、閣下ご自身が助かることが、結局、我々を助けることにもなるのです。馬にお乗りください!」
「ここにおとどまりになることはできませんぞ」
「よくお考えくだされば……」と不敵なペリソンが言った。
「もっともなことだ」とフーケがつぶやいた。
「閣下、閣下!」とグールヴィルは階段を一度に四段もまたぎ、のぼって来ながら叫んだ。「閣下!」
「何事だ?」
「御言い付けどおり、金子を持って、王のご使者にお供して行ってまいりました」
「そうか」
「そして、パレ・ロワイヤル宮に着きますと、私は……」
「少し息をついて休みなさい。おまえは息を詰まらしている」
「何を見たんです」と待ちきれなくなったフーケの友人たちが叫んだ。
「銃士たちが馬に乗って勢揃《せいぞろ》いをしておりました」とグールヴィルが言った。
「では、こっちに来るのだ! もう猶予はならない!」と人々は口々に叫んで騒ぎ始めた。
フーケ夫人は馬を命ずるために階段を駆け降りて行こうとした。
ベリエール夫人はフーケ夫人のそばに寄って、腕の中に彼女を抱き止めて、
「奥様、ご主人の名誉のために、心配のあまり、取り乱されてはいけません」
ペリソンはフーケの馬車に馬を繋《つな》ぐように走って行った。
このあいだに、執事のグールヴィルは帽子を持って回った。泣いたり、驚いたりしている友人達はその中にばらばらと金貨や銀貨を投げ入れた。
やがてフーケは手を引かれ腰を押されて、馬車に連れこまれた。扉が閉ざされた。グールヴィルは御者台に乗って、手綱を取った。ペリソンは失神したフーケ夫人をささえていた。
ベリエール夫人はフーケ夫人よりは、しっかりしていて、フーケと最後の接吻を交わした。
ペリソンはこの旅行はいくら急いでも怪しまれることはない、王がナントに大臣を召されたのだからとそばから説明していた。
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四六 二|艘《そう》の伝馬船《てんません》
ダルタニャンも出発したし、フーケも同じように出発した。この旅行の、いや、もっとよく表現するならば、この逃亡の最初の間は、馬が絶えずおびえたり、後から来る馬車が追っ手ではないかと心配したりして、非常に難儀《なんぎ》を重ねた。
実際に、ルイ十四世がこの餌食《えじき》をむさぼりたいならば、こうして逃がしてしまうはずはなかった。この若い獅子《しし》は猟のことをよく心得ていたし、十分に信頼できる元気な猟犬を持っていた。
しかし次第に、こうしたいろいろな恐怖も消えてしまった。無茶苦茶に走っていたフーケは、自分と追っ手の間を相当離して、もうこれなら追い付かれる心配もなくなっていた。顔色も友人たちの見たところ、大分落ち着きの色が見えた。彼は疲れ果ててはいたが、しかし安心してオルレアンに到着した。そこには、あらかじめ前もって知らせておいたので、八人の漕手《こぎて》が乗っている、立派な伝馬船が用意されていた。
この伝馬船はゴンドラのような形をした船で、ゴンドラより幅が少し広く、少し重く、船橋の形に屋根のある小さな部屋と、船尾に天幕で作られた部屋とがあった。当時はこうした伝馬船がロワール河を通って、オルレアンとナントを結びつけていたのだった。フーケがこの伝馬船に乗りこむとすぐに、船は動き出した。船頭たちは、自分たちの船が大蔵大臣を乗せたのだと、大いに張り切って、全力を出して漕いでいた。彼らは何しろ国家の財政をあずかっている人物を乗せたのだから、たんまりと心づけをもらえると思ったのだ。
伝馬船はロワール河の波の上を飛ぶように滑って行った。天気は上々で、すっかり晴れ渡っていて、折からのぼった朝日は、あたりの景色を赤く染めて、河の上を明るく照らしていた。こうしてフーケは空を飛ぶ鳥のように、つつがなくボージャンシーに到着した。
フーケは誰よりも先んじて、ナントに到着したかった。そうすれば、そこの議会の貴族や高官の中に同情を得ることができると思った。また自分の文官武官としての雄弁と才能とが、彼らを信服させずにはおかぬ自信もあった。そして自分の没落を少しでも延ばすことができると考えていた。
それにナントに着けば、「敵方の意図もはっきりとわかりましょう」と執事のグールヴィルが言った。「そしてポワトゥまで行く馬を手に入れ、海上に出る船を捜すことができましょう。いったん海上に乗り出せば、ベル・イルまでは造作はございません。しかもあそこは難攻不落《なんこうふらく》でございますから、誰一人として、あなた様をうかがったり、追いついたりすることはできません」
こう言い終わるか終わらないうちに、河の曲がった箇所の遥か後ろの方に、やはり下って来る大きな伝馬船の船檣《せんしょう》が見えた。
フーケの船の船頭はこの伝馬船を見て、驚きの叫び声をあげた。
「あれは何だ?」とフーケが聞いた。
「閣下、不思議ことがあるものでございます。あの伝馬船はまるで旋風《せんぷう》のようにこっちにやってまいります」と船長が答えた。
グールヴィルはわなわなと身ぶるいしていたが、もっとよく確かめようと船橋に上がって行った。
フーケ自身は上がって行かなかったが、しかし何気ないふうにグールヴィルに言った。
「何だか、よく見てくれ」
その伝馬船は河の屈曲した箇所を通過するところだった。それはよほど早く走っているようだった。その証拠には、その船跡が白く尾を引いていて、日の光に輝いているのが見えた。
「あれは十二|挺《てい》の艪《ろ》で漕いでますぜ。この船は八挺艪だが」と船頭の一人が叫んだ。
十二挺の艪は伝馬船にとっては、たとえ国王の船にしても多過ぎる数だった。
「十二挺だなんて、そんなことがあってたまるかい!」と言いながら、グールヴィルは天幕の下に行って、どんな客が乗っているかよく見ようとしていた。「それはどういうわけなんだ?」
「ばかに急いでますぜ! だが、あれは王様の船ではありませんよ」と船長が言った。
フーケはさっと身ぶるいを感じた。
「どうして王様の船ではないのかね?」とグールヴィルが言った。
「第一に、白地に百合《ゆり》の花の旗が見えませんもの。王様のお船にはいつも、この旗がちゃんと掲げてあるんですが」
「それに、国王陛下のお船にしては、不可能なことだ。陛下はまだ昨日はパリにいらしったのだからな」とフーケが言った。
「あの船は大分あとから出たようですが、この分ではまもなく我々に追いつきますよ」と船長が言った。
フーケとグールヴィルは互いに顔を見合わした。船長はすぐとこの気配に気がついた。
「きっと後に残ったご友人の方達が追いかけて来たのでしょう」とグールヴィルが言った。フーケも高い声で、「我々に追いつこうとする人達があるなら待とう」と言った。
しかし追っ手を恐れた船長は、「とにかく、このままで行きましょう。さあ、みんな、元気いっぱい、漕いだり! 漕いだり!」と言った。
「いや、違う。すぐに止めろ」とフーケが言った。
「閣下、それは狂気の沙汰《さた》です!」とグールヴィルはフーケの耳許《みみもと》に身をかがめながら言った。
「すぐに止めろ!」とフーケが繰り返して言った。八艇の艪がぴたりと止まった。すると伝馬船はちょうど逆船しているようになって、停船した。
後ろから来る伝馬船は軽やかに突き進んで、もう火縄銃の射程距離の中にはいった。フーケの視力は弱くグールヴィルもきらきらするまばゆい日の光でじゃまされて、よく見ることができなかった。唯一人船長だけが、そばに来た伝馬船の乗客をはっきりと見分けることができた。
「お客さんは二人ですぜ」と船長は叫んだ。
「おれには何も見えない」とグールヴィルが言った。
「なあに、すぐ見えるようになりますよ、もうちょっと漕げば、この船から二十歩ぐらいのところに来ますから」
しかし船長の言葉はあたらなかった。その伝馬船はフーケの命令したような運動をまねした。そしていわゆる友人たちの船といっしょにならないで、河の中央にぴたりと止まった。
「私にはもう何だかわけがわかりません」と船長が言った。
「おれにもわからん」とグールヴィルが答えた。
「おい船長」とフーケが言った。「どんな客が乗っているのか、我々に説明してくれ」
「私には二人だけ見えます。天幕の下には一人だけしか見えませんが」と船長が答えた。
「それはどんな客だ?」
「褐色の髪の毛で、肩幅の広い、首の短い男ですよ」
小さな雲が紺碧《こんぺき》の空を横切って、太陽を隠した。小手《こて》をかざしてじっと見続けていたグールヴィルは、見ようとしていたものを見ることができた。そして、突然、船橋からフーケが待っていた船室の中に飛び降りると、激しい感情のためにおろおろした声で、「コルベールです!」と言った。
「コルベールだって?」とフーケが聞き返した。「それは奇体だ。そんなことがあるはずはない!」
「いいえ、確かに彼でございます。船尾の部屋の中を通っておりました。おそらく陛下が我々を呼び戻すために、彼を遣わされたのだろうと思います」
「それならば、ああしてとどまらずに、我々といっしょになるだろう。一体、あすこで何をしているのかな?」
「きっと監視しておるのです。閣下」
「あやふやでは困る」とフーケは叫んだ。「あの船へまっすぐに進もう」
「ああ! 閣下、そんなことをなさってはいけません! あの船は、武装した人達でいっぱいです」
「では私を捕縛しに来たのだろう、どうだ、グールヴィル?」
「閣下はこうしてとどまっていらしってはいけません。国王陛下のご命令につつしんで従うためにも、早く先をお急ぎなさらなければいけません。速力を増さなければなりません」
「なるほど、もっともだ、さあ、皆のもの、進め、進め!」とフーケはどなった。
そこで船長は合図をした。フーケの船頭たちは再び力いっぱい漕ぎだした。そしてやっと幾尋《いくひろ》か走ったかと思うと、相手の船も同じように前進を開始した。こうして二艘の伝馬船は、終日競争し続けた。そして両者のあいだの距離は大きくも小さくもならず、一艘は他の一艘を監視しながら、やがてナントに到着した。フーケが着いたとき、グールヴィルはそのまますぐ脱走できるように、駅馬を用意しておきたかった。
しかし上陸するや否や、第二の伝馬船がぴったり横づけになって、コルベールが飛び出して来て、河岸の上にいるフーケに近づきながら、うやうやしく挨拶《あいさつ》をした。
そこでフーケも悠々とコルベールの方に進みながら、見おろすような眼つきで、ぐっとにらんで、「おや! 君はコルベール君ではないかね?」と言った。
「ご機嫌よろしゅうございます、閣下」とコルベールが言った。
「君はあの船に乗っていたのかい?」と十二挺艪の船を指さした。
「さようでございます、閣下」
「十二挺艪とはずいぶん贅沢《ぜいたく》だな、コルベール君! 私は大妃陛下か、国王陛下かと思ったよ」とフーケが言った。
「とんでもないことで……」とコルベールは赤面しながら言った。
「君はたくさんと心づけをやらずばなるまいな、財務官殿。しかし、十二挺艪の君の船よりも、結局私のほうが先に着いたな」とフーケは言いながら、コルベールの方に背を向けた。
しかしコルベールは平然として答えた。
「はい、私は急ぎませんでしたので、閣下。私は閣下のお船が止まるたびに、船を止めさせました」
「それはどういうわけだな、コルベール君?」と財務官の傍若無人に腹を立てたフーケはこう叫んだ。「なぜ私の船より大勢の船頭がいるのに私の船にも着けず、また追い越しもしないのか?」
「失礼に当たるかと存じまして」とコルベールは地面に額が着くほど、頭を下げた。
フーケはナントの町が迎えに出した馬車に乗って、市役所に向かった。そこは大勢の人達で数日前から護衛され、議会の召集を待ちかまえて、混雑をきわめていた。
執事《しつじ》のグールヴィルは宿がきまるとすぐに、ポワチェとヴァンヌとの街道を走らす馬と、パムブーフまで行く船とを都合するために、そこを飛び出した。
すると今夜、国王が駅馬を急がせて、十時間か、十二時間の後に、ナントに到着するという噂《うわさ》が町中にひろがった。
国王の到着を待っていた市民たちは隊長ダルタニャンに引率されて入城して来た銃士隊を見て歓呼の声をあげた。そして銃士隊は入城するとすぐに護衛隊として、あらゆる持ち場の配備についた。
礼儀正しいダルタニャンは、その敬意を表するため、十時ごろフーケのもとに挨拶に来た。折から少し熱を出していたフーケも、銃士長を迎えて挨拶を交わして、次章に記すように互いに打ち解けて話し合った。
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四七 武士の情
フーケは生命を大事にして、できるだけその体を用心して使おうとしていたので、寝台の上に横になって休んでいた。
すると銃士長のダルタニャンが寝室の敷居のところに姿を現わした。そこでフーケは慇懃《いんぎん》に挨拶を送った。
「閣下、お早うございます。今度のお旅行はいかがでしたか?」と銃士長は尋ねた。
「ありがとう。まあまあ結構だったな」
「お熱のほうは?」
「あまりよくないのだ。ご覧のとおり煎《せん》じ薬を飲んでいる始末だ」
「第一に睡眠をよくお取りにならなければいけませんな。閣下」
「まったくそうだ! ダルタニャン君、私はよく眠れる質《たち》なのだが……」
「何かお気にさわるものでも?」
「そうだ。第一に君だ」
「私ですって? 閣下、お冗談を……」
「いや、それに違いない。パリにおけると同時に、このナントまで、陛下のご命令で君は来たのだろう?」
「はい、いかにも、陛下が私にナントヘ行けとご命令になったのは事実でございます。しかし近衛《このえ》隊長のジュスヴル公爵には何のご命令もありませんでした」
「なるほど」
「しかしなお、陛下は私に一大隊の銃士隊を引率するようにご命令あそばされました」と銃士長は続けて言った。「この銃士隊も国内が平穏の折りから、表向きは必要なことでございます」
「何、一大隊だと?」とフーケは肱《ひじ》で上体を起こしながら言った。
「はい。九十六名の騎士から成っております、閣下。かってシャレー、サン・マール、モンモランシーの諸卿《しょきょう》を捕縛したときと同じ数でございます」
フーケはこの表面は何の意味もなく言われた言葉に耳をそばだてた。
「そのほかには?」
「ほかには、これというご命令はありません。城を守備せよとか、各自の宿舎を見張れとかいうご命令です」
「で、この私にはどんなことをご命令になった?」とフーケは叫んだ。
「閣下、閣下に対しては、べつにご命令もありませんでした」
「ダルタニャン君、これは私の名誉と生命を救うにかかわりがあることだ。まさか、君は私を欺きはしまいな?」
「私が……何の目的で? 閣下は私を脅迫《きょうはく》なさるのですか? ご命令は単に馬車とか船舶に関することだけです。唯一つだけ……」
「唯一つだけ?……」
「はい、閣下に関係があるのは唯一つだけです。単に取り締まりの方面のことで」
「どんな取り締まりだ。隊長、それはどんなことか?」
「それはいかなる馬車、または船舶といえども、国王のご署名になった通過許可証を持参せざるにあらざれば、通行を禁止するというご命令です」
「しまった! そして……」
ダルタニャンは笑いながら、
「しかしこのご命令は、国王陛下ナントご到着後でなければ、実施されませぬ。ですから、閣下、このご命令が閣下に関係がないことはよくおわかりでしょう」
フーケは深い瞑想《めいそう》にふけった。そしてダルタニャンはそのようすに気づかぬ振りをした。
「私がご命令の内容を、閣下に打ち明けましたのは、私が閣下を尊敬し、あなた様に対して、何一つ取り締まろうとしない証拠です」
「なるほど、それに相違ない」とフーケは上《うわ》の空で言った。
「かいつまんで申し上げましょう」と銃士長は懇願するような眼つきで言った。「閣下のお泊りになっているナントの城中には、やがて軍律きびしき特別警備隊が駐屯いたします。ところで、閣下はこの城をご存じですか?……これはまったく真の牢獄《ろうごく》ですぞ! それから、閣下の親友である近衛隊長ジュスヴル公はまだ到着しておられませぬ。また、市の関門や川口は閉鎖《へいさ》されて、国王陛下のご到着のときしか開きませぬ。閣下、こういう次第で、ここから脱走したい者にとりましては、今がまたとない絶好な機会です! 守備兵もおらず、国王のご命令もまだ出ず、河の上も、街道筋も全く自由に通行ができるのです。フーケ閣下、どうか閣下のお気に入ったことをお言《こと》づけください。私は閣下の処置をお待ちしております。ただ閣下がここより脱出あそばすならば、どうかアラミスとポルトスによろしく伝言ください。それはいずれ閣下もベル・イルに向かって船出をなさることになりましょうから。どうか部屋着をお脱ぎにならず、そのまますぐと出発ください」
こう言い終わると、銃士長はうやうやしく一礼をして、部屋から出て行った。
フーケはすぐさま呼び鈴の紐《ひも》にぶら下がって、どなった。
「馬を引け! 船の支度をせい!」
しかし誰も答えなかった。
フーケはやむなく眼の前にあったものを着た。
「グールヴィル!……グールヴィル!……」とポケットに時計をすべりこませながら、フーケは叫んだ。
そして呼び鈴が鳴っているあいだも、彼は繰り返して呼んでいた。
「グールヴィル!……グールヴィル!……」
執事のグールヴィルは息を切らし、まっさおな顔をして現われた。
「出発だ! 出発だ!」とフーケはグールヴィルの姿を見るなり、大声で言った。
「おそ過ぎました!」と執事が言った。
「おそ過ぎた! それはなぜだ?」
「あれをお聞きください!」
城の前方に当たって、たからかな喇叭《らっぱ》の響きと、太鼓の音が聞こえた。
「あれは何だ、グールヴィル?」
「国王陛下のご到着でございます、閣下」
「陛下が?」
「国王陛下は宿駅から宿駅へと急ぎに急がれ、たくさんの乗馬を乗りつぶされて、閣下がお考えになっていらっしゃった時刻よりも、八時間も早く到着になったのでございます」
「破滅だ! ダルタニャン、君の話がおそ過ぎた!」
事実国王はナントの町に到着していた。やがて城壁の大砲が礼砲を撃ちだした。するとロワール河に停泊している軍艦からも、これに呼応して砲声がとどろいた。
フーケは眉《まゆ》をひそめて、召使いを呼び、礼服を着る手伝いをさせた。
カーテンの後ろの窓からは、市民の熱中振りと、大部隊の入城のありさまが見られた。
王は壮麗な儀式のうちに城中に迎えられた。フーケは王が釣格子の下で馬から降り、鐙《あぶみ》を押さえているダルタニャンに何やら耳うちをしているのを見た。
ダルタニャンは王が円天井《まるてんじょう》の下を通り過ぎると、フーケの邸に向かった。しかしその進み方は非常にゆっくりしたものだった。彼はたびたびその銃士たちに命令するために立ち止まったり、隊形を梯形《ていけい》に配置したりして時間をつぶした。
フーケは中庭にいるダルタニャンに話しかけようとして窓を開いた。
「ああ! 閣下はまだおられたのですか?」とフーケの姿を認めたダルタニャンは叫んだ。
フーケは溜息《ためいき》をもらした。
「さよう、国王の到着は、私のいだいていた計画を反故《ほご》にしてしまったのだ」とフーケは答えた。
「ふむ! 国王陛下の到着をご存じでしたか?」
「私はここで拝観していたのだ。ところで、君は陛下のご命令で来たのかな?……」
「あなたのご機嫌をうかがいにまいりました、閣下。おからださえよろしければ、城中においでを願おうと考えまして」
「よし、このまますぐ行こう。ダルタニャン君、このまますぐ行こう」
「ああ! 国王が到着になった今では、もう誰も自由にふるまえませんな。外出禁止が今では、私と同じように閣下をしばりつけました」と銃士長が言った。
フーケは最後の嘆息をもらし、すっかり弱り果てて、馬車に乗った。こうして彼はダルタニャンの護衛の下に城中に向かった。銃士長の慇懃な態度は、この前、人を慰めるような、陽気なものを持っていたが、今度はそれと同じくらいに気味の悪いものであった。
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四八 逮捕命令
フーケがナントの城中にはいろうとして馬車から降りると、いやしい服装の男がそばに走り寄って、うやうやしく一通の手紙を彼に渡そうとした。
ダルタニャンはこの男が大臣と口をきこうとするのを、きかせまいとして、追い払ったが、手紙はもうフーケの手に渡っていた。フーケは手紙を開封して読んでいたが、その顔にはさっと恐怖の色が表われた。そしてダルタニャンはそれを見のがさなかった。
フーケは読み終わると、それを腕の下に持っていた紙入れの中にしまい、再び王の居間の方に歩きだした。
フーケの後ろから階段をのぼっていたダルタニャンは、天守閣の各階に穿《うが》たれている小窓から外を見おろすと、今し方フーケに手紙を渡した男が前後をうかがってから、幾人かの男に合図をし、その仲間も同じように合図を繰り返してから、付近の通りに姿を消したのを目にした。
ダルタニャンはひとまずフーケを王の居間の近くの小さな渡殿《わたどの》だけで通じている露台に控えさせてから、自分ひとり王の居間にはいって行った。
ルイ十四世は銃士長を見ると、書類がいっぱいのっている、緑色の布でおおわれたテーブルの方へ向きを変えると、「どうした?」と聞いた。
「ご命令どおりいたしました。陛下」
「して、フーケは?」
「大臣閣下は私といっしょにまいられました」とダルタニャンは答えた。
「十分ほど、待たしておけ」と王は言うと、手を振ってダルタニャンを退出させた。
しかし銃士長がまだフーケの待っている渡殿の端まで行かぬうちに、王は呼び鈴を鳴らしてダルタニャンを呼び戻して、
「彼はあやしんでいるようすはなかったか?」と尋ねた。
「誰でございますか、陛下?」
「フーケのことだ」
「いえ、格別に」
「ではよろしい」
ルイは再びダルタニャンをさがらせた。
そのあいだフーケは露台を渡れなかったが、再び先刻の手紙を出して読んでみた。それには次のようなことが書いてあった。
[#ここから1字下げ]
閣下に対し、何か陰謀が企てられております。しかし城中では、何事も起こらないでございましょう。閣下のお宿のほうはすでに銃土隊によって包囲されております。そこにおはいりになってはいけません。広場の後ろの方に白馬を用意して、閣下をお待ちしております。
[#ここで字下げ終わり]
フーケはこの手紙が執事《しつじ》のグールヴィルによって書かれたものだとわかると、この手紙が忠実な召使いの身を危くし、不幸な事態が起こるのを防ごうとした。そこでそれを細かくちぎって、露台の手摺《てすり》のところから、風に吹き飛ばした。
するとそこへぬっとダルタニャンが姿を現わしたが、彼は空間に最後の紙片がひらひらするのを見てしまった。
「閣下、陛下がお待ちになっていられます」と彼はフーケに言った。
フーケは小さな渡殿を落ち着き払った足どりで進んで行った。その渡殿ではブリエンヌやローズなどの大臣たちが仕事をしていた。また、サン・テニャン公爵も同じようにこの渡殿の小椅子に腰を掛けて、王の命令を待っているようだったが、待ちきれないで、長剣を脚の間にはさんだまま、大きなあくびをしていた。
フーケにはいつも丁重で、へつらってばかりいるブリエンヌや、ローズや、サン・テニャンなどという連中が、そばを通るとき、わずか身体の位置を動かしただけなのは、奇妙に感ぜられた。
フーケは顔をきっと起こして、何者をも恐れない勇往邁進《ゆうおうまいしん》の気概をもって、呼び鈴を鳴らし、王の居間にはいっていった。
王は腰をおろしたまま、頭をうなずかせて、同情するように、「おお! フーケ、加減はどうだ?」と言った。
「大分熱がございます。しかし陛下のご用にはさしつかえございません」とフーケは答えた。
「それは重畳《ちょうじょう》。議会は明日開かれる。そちは演説が用意してあるか?」
フーケはびっくりして王の顔を見て、「用意してはおりません、陛下」と言った。「しかし即席にいたしましょう。まごつかぬように、私は奥の奥まで政務のことは心得ておりますから。ただ一言うかがいたいことがございますが、申し上げてよろしゅうございますか?」
「言ってみなさい」
「陛下はなぜに、パリにおいであそばすうちに、このことを首相たる私に仰せられませんでしたか?」
「そちは病気だった。そちを疲れさすに忍びなかったからだ」
「その遠慮にはおよばぬことでございました。それにぜひとも、陛下の説明をうかがいたい事情がございますが……」
「何だと、フーケ! 説明? それは何の説明だ?」
「陛下が私に対していだいていらっしゃるご意向でございます」
王はさっと顔を赤らめた。
「私は中傷を受けております」とフーケは熱心に言った。「それでぜひとも陛下にお願い申し上げて、吟味を仰ぐ必要があるのでございます」
「フーケ、それは無用なことだ。予は万事心得ておる」
「陛下のご承知になっておりますことは、お耳にはいりましたことだけでございます。私としましては、何も申し上げたことはございません。しかるに他人は、様々と度々……」
「一体、そちは予に何を申したいのだ?」と王はめんどうになってきた問答をやめようとあせった。
「私は率直に事実を申し上げます。ある者が私を中傷しておりますことをお訴え申し上げます」
「誰もそちを中傷してはおらん」
「そうしたご返辞では、陛下、私が身の証《あかし》を立てる余地がございません」
「フーケ、予は弾劾《だんがい》は好まぬ」
「いつ私が弾劾いたしましたか?」
「もうこの問題については、我々は何度も話し合っているではないか」
「陛下は、私が自分の無罪を証拠立てるのをこばまれるのですか?」
「重ねて言う、予はそちをとがめはせぬぞ」
フーケはなかば頭を下げながら、一足退いた。そして次のように考えた。
「王が何か決心していることは確かだ。なんと言っても自説をひるがえさない王は、片意地なところがあるからだ。こうした場合、王を危険視してはまちがいだ。彼は物事に盲目になっているらしい。また、王を避けることはない。彼は少しぼんやりしているらしいから」
そこでフーケは声高《こわだか》に言った。
「陛下がお召しになりましたご用は?」
「いや、フーケ、格別のことはない。ただ忠告したいことがあってな」
「ありがたいしあわせでございます」
「フーケ、そちは休養したほうがいい。むりに働くのはやめなさい。この議会は会期も短いし、それが終了したら、二週間ほどは政務に関した話を聞きたくないと思うのでな」
「それでは陛下は今議会の問題に関しましては、私に何も仰せられることはないのでございますか?」
「そうだ」
「大蔵大臣たる私に?」
「休養しなさい。それだけが予の言いたいことだ」
フーケは唇を噛《か》んで、頭を下げた。彼は明らかに何か胸中に不安を感じているようだった。
そしてこうした不安が王の胸にも響いた。
「フーケ、そちは休養するのが気に入らないのか?」
「はい、陛下、私は休養するのに慣れておりませんので」
「しかし、そちは病気じゃ。自分を大切にせにゃならん」
「陛下はついさっき、明日演説せいと仰せられました」
王は言葉に詰まった。この突然な質問が彼を狼狽《ろうばい》させた。
フーケはこの躊躇《ちゅうちょ》に無気味なものを覚えた。彼は若い国王の眼の中に、自分の不安をかき立てる危険なものを読み取った。
「おれがもし、ここでおじけづいたら、もう負けだ」とフーケは考えた。
また、王のほうでもこのフーケの疑惑に不安を覚えた。
「一体、こいつは何を嗅《か》ぎつけたのだろう?」と王はひそかにつぶやいた。
「もし王が無慈悲なことでも言いだしたら」とフーケはなおも考えていた。「てれ隠しに王が立腹をした場合には、どうやってこの場をうまく切り抜けることができようか? 穏やかに出るよりほかにしようがない。グールヴィルの言ったことはほんとうだった」
そこでフーケは不意に口を開いた。
「陛下、私の健康を懸念くださいますおぼしめしに従いまして、明日の会議に欠席いたすことをお許し願えぬでございましょうか? また、終日寝床にこもりまして、この熱病を治療いたしたく、もし侍医の方に診《み》ていただけましたら、ありがたきしあわせと存じます」
「よかろうフーケ。望みどおりにするがよい。明日は欠席して、侍医の診察を請うて、早く回復されるがよい」
「ありがとう存じます」とフーケは頭を下げながら言った。
それから、すぐ言葉を次いで、
「いかがでございましょう、陛下、この際ベル・イルの私の邸に行幸を仰ぎえませぬでございましょうか?」
こう言って、こうした提案がどう相手に響くかと、じっとルイの顔を見つめた。
王はまた、顔を赤らめたが、むりに笑って見せて、
「今、そちは『ベル・イルの私の邸』と言ったようだな?」と聞き返した。
「仰せのとおりで」
「だが、そちは忘れたかな、ベル・イルを予にくれたことを?」と王は相変わらず陽気な調子で続けて言った。
「それも仰せのとおりでございます、陛下。ただ、まだそのままになっておりますので、この際私とおいであそばして、ご自分の物になさるわけでございます」
「予もそのつもりでおる」
「それに陛下はそのために、パリから王室の部隊をお連れあそばしたのでございますから、私の光栄はこのうえもないことでございます」
王は銃士隊を連れて来たのは、そのためばかりではないと言った。
「さようでございましょうとも、ベル・イルの城砦《じょうさい》などは、陛下のお手にしておられる細枝で、突き崩すこともできるのをご存じでいらっしゃいますから」とフーケは強く言った。
「ばかなことを!」と王は叫んだ。「あれほど巨額な金を費やして築いた立派な城砦を取りこわすなどとはとんでもないことだ。いや! あれはどこまでもオランダとイギリスヘの防備のために置いておきたい。そちは予がベル・イルを見たいわけがわからんのだな、フーケ。あの畑や浜辺には、美しい百姓の娘や妻君がいて、上手に踊ったり、真紅《しんく》のスカートをひるがえして誘惑するそうじゃないか! たいへんな評判らしいぞ。予にそれを見せてもらいたいな」
「いつなりと御意のままに」
「島に渡る設備でもあるかな? もしそちの都合さえよければ明日にしよう」
フーケはあまりの急に驚いて、答えた。
「いえ、陛下。そう早急なおぼしめしとは存じませんので、いっこう何の設備も整えてございません」
「しかし、自家用のボートがあるだろう?」
「五隻持っております。しかしみな出ておりますので、ポールにしろ、パムブーフにしろ、呼び戻して着けさせるためには、二十四時間の猶予が願わしゅう存じます。呼び寄せますのでございますか? たってと仰せられますので?」
「まあ、待て、それより熱のほうを治せ。明日まで待ったほうがいい」
「なるほど……明日になりましたら、いろいろと名案も浮かぶでございましょう」とフーケは答えて、いよいよ危険が迫ったと、顔をまっさおにした。
王はつと呼び鈴の方に手を伸ばしたが、早くもフーケはそれと知って、「陛下、私は熱のために、寒気がいたします。このまま御前におりますと、気を失うかもわかりませぬ。どうか引きさがって、床に臥《ふ》せることをお許しください」と言った。
「なるほど、そちは寒気がしてふるえているようだ。見ていてもいたましいくらいだ。さあ、さがってよろしい。あとから見舞いに人をやろう」
「恐れ入ります。一時問もいたしますれば、ずっとよくなるかと存じます」
「誰かに送らせよう」と王が言った。
「お許しを願えれば、誰かの腕にすがってまいりたいと存じます」
「ダルタニャン!」と王は呼び鈴を鳴らしながら叫んだ。
「おお! 陛下」とフーケは王にはひややかに見えるようなようすで、笑いながら言った。「宿まで私を送らすのに銃士長をお呼びになるのですか陛下、こうした名誉は疑惑を招くようなものでございます。たんなる従僕を付けてくだされば十分でございます」
「それはなぜだな、フーケ? 予はよくダルタニャンに送ってもらうが」
「さよう、銃士長が陛下をお送り申しあげるときは、陛下のご命令に従っておりますが、しかし私のときには……」
「どうしたか?」
「私が仮にも銃士長に送ってもらいますれば、至る所で、私が逮捕されたと噂《うわさ》されます」
「逮捕だって?」と王はフーケよりもいっそう顔を青くしながら、繰り返して言った。「逮捕だなんて?……」
「おや? では何と噂されましょうか!」とフーケは終始顔に笑みをたたえながら言った。「あざけり笑う意地の悪い連中が大勢出て来るのは、目に見えております」
この言葉は王を狼狽《ろうばい》させた。こんなふうにフーケは巧妙にふるまったので、ルイ十四世は考えていた計画を放棄しようとした。
ダルタニャンが王の前に出ると、フーケを送るために銃士を一人指名するようにと命令された。
しかしフーケはこれを断わって、「ご辞退いたします。私には下で待っておりますグールヴィルで結構でございます。しかしダルタニャン君が来られるのはいっこうかまいませぬ。いつでも自由にベル・イルを見物してください。彼はよくあの城砦を知っておりますから」
ダルタニャンは、この場でどんなことが演ぜられたのかわからないが、フーケの言葉を聞いて、頭を下げた。
フーケはまた、一礼すると、ちょうど散歩でもする人のように、ゆっくりと、王の居室より出て行った。
それから城の外に出ると、「助かった!」と言った。「嘘《うそ》つきの王め! 貴様がベル・イルに着く時分には、おれはもう島にはおらんぞ」
フーケが退出すると、あとにはダルタニャンと王だけが残った。
「銃士長」と王は言った。「フーケの後から百歩の間隔でついて行け」
「かしこまりました、陛下」
「彼はまた宿に帰って行ったのだ。彼の宿まで行け」
「かしこまりました」
「彼を予の名において逮捕し、馬車の中に監禁せい」
「馬車の中に? はい」
「往来で、行ききの人間と口をきかせぬように、また書いた紙などを投げさせぬようにせい」
「それは少しむずかしゅうございます、陛下」
「むずかしくない」
「失礼ながら、陛下、私は大臣を窒息《ちっそく》させることはできませぬ。風を入れてくれと言われれば、窓ガラスも日おおいも閉めきるというわけにはまいりません。それで定めし道々どなったり、何か書いた物を投げることでございましょう」
「いや、ダルタニャン、そういう場合を予期して、おまえの言う二つの不都合な点を防ぐ鉄格子を馬車にはめようというのだ」
「鉄格子をはめた馬車?」とダルタニャンは叫んだ。「三十分ぐらいでは鉄格子は取りつけることはできません」
「いや、問題の馬車はすでにできておるのだ」
「ほう、それなら別問題でございます。では早速馬を繋《つな》がせましょう」
「いや、馬もつけてある」
「ほう、それは、それは!」
「そして御者も、馬丁もつけて、下の中庭に待たせてある」
ダルタニャンは一揖《いちゆう》して、「では、フーケ殿を連れてまいる場所の指図だけが残っております」とつけたした。
「まず、アンジェールの城に連れてまいれ」
「かしこまりました」
「後は追って考えよう」
「はい、陛下」
「ダルタニャン、最後に一言申しておく。予はフーケの逮捕を近衛隊に命じなかった。それは隊長のジュスヴルが立腹するからだということはわかっているだろうな」
「近衛隊にお命じにならぬのは、陛下がジュスヴル公を信用あそばさぬからでございます」と銃士長は謙遜《けんそん》しながら言った。
「というのは、つまり、おまえを多く信用しているからだ」
「よく承知しております、陛下! しかし私は信用の価値がございません」
「それは、なぜだ?」
「私はフーケ殿を助けるつもりでおりました」
王は飛び上がった。
「と申しますのは、陛下のおぼしめしがそうであると推察申し上げておりました。またそれに、私は大臣が好きでございますので、むりからぬことでございます。そして、あの人物に対して、私の同情を表わすのは、私の自由でございますから」
「すると、おまえにはこの仕事をまかされないな!」
「私はこれまでに彼を助けましても、全然おとがめを受けたことはございません。それにひと肌脱いだこともございます。と申しますのも、フーケ殿は悪人ではございませぬから。しかし彼はそれを希望しておりませんでした、運が尽きたのでございます。逃げられるときを逃がしてしまったのでございます。今となっては、もうしかたがございません。私はただいまご命令が出ました以上、ご命令を遵奉《じゅんぽう》いたします。フーケ殿を逮捕さるべき罪人と認めます。彼フーケ殿は今、アンジェールの城におります」
「何を言う! まだ逮捕もせぬうちに!」
「これは私だけの考えでございます。各自は自分の務めを尽くすだけでございます。しかし、もう一度お考えくださいまし。陛下はまじめにフーケ殿を逮捕せよと、私にご命令あそばすのでございますか?」
「うむ、千度でもそうじゃ!」
「ではご命令をお書きください」
「これが命令書じゃ」
ダルタニャンはこれを読むと、王に一礼して部屋から退出した。
が、露台を通ったとき、彼はグールヴィルが何か嬉《うれ》しそうなようすで通るのを認めた。グールヴィルはフーケの宿の方に向かって行ったのだった。
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四九 白馬と黒馬
「はて、思いがけぬ男がいるぞ」と銃士長は言った。「フーケ殿の身が危いというのに、グールヴィルの奴《やつ》め、まるで嬉しそうに町の方に駆けて行きおる。さては先刻フーケ殿に紙片に何か書いて、知らせたのはグールヴィルに相違ない。あの紙片は露台の上で、大臣殿が細かにちぎって、風に飛ばしてしまったがな。グールヴィルの奴《やつ》、手をもんでおるぞ、何かうまいことをやったのだな。はて、あいつの来た方角は、エルブ街か? あの通りはどこに通じているのかな?」
そしてダルタニャンは、城を仰いでいるナントの家々の棟が、画然と描いている、まるで地図の上で見るような、町々の線を見渡した。ただこの生きた地図は紙上の死んだ地図が、空虚で人影もないのに比べて、人や物の叫び声や陰が、生き生きと動いて、見る者の眼に迫って来た。
ナントの町のかこいの遥かかなたにひろびろとした緑野がロワール河に沿うてひろがっていて、水の瑠璃《るり》色と沼沢地の黒ずんだ緑とが交錯している、茜《あかね》色の地平線に向かって走っているように見えた。ナントの城門にすぐ続いて、二条の白い街道が巨人の指を張ったように、ふたまたに伸びていた。
ダルタニャンは露台を横切りながら、このパノラマを見渡していたが、やがて、エルブ街の延長に当たる道路が、このナントの城門を起点としている二つの街道に結びついているのを発見した。
それからダルタニャンは、例の鉄格子をはめた馬車に乗って、フーケの宿におもむくために、天守閣に戻ろうとして、露台の階段を降りようとした。そのときふと、この街道の上に動いているものに注意をひかれた。
「あれは何だろう?」と銃士長は心の中でつぶやいた。「馬が走っておる。まるで逃げてでも行くようだな!」
この動く物陰は街道からのがれて、|うまごやし《ヽヽヽヽヽ》の畑の中にはいって行った。
「白馬だ。暗い背景に輝いて白く目立っておる。馬が咽喉《のど》がかわいたので、子供が斜めに水飼い場の方に連れて行ったのだな」と銃士長は続けてつぶやいた。
こうした考えは物を見ると同時に稲妻のように頭の中に、すばやくひらめいたのだった。しかしもう階段を降り始めると、ダルタニャンはそんなことはすっかり忘れていた。
階段には、二つ三つの紙片が落ちていて、階段の黒っぽい石の上で白く光って見えた。
「やれ! やれ! フーケ殿が引きちぎった手紙の端切れがここにあるぞ。哀れな人だ! 風に秘密をまかせれば、国王のところへ運んで行くだろう。フーケ殿は、どうも運の悪い人だ。あの人の星はルイ十四世の星に隠されている。毒蛇はリスより強いか、ずるいかどちらかだ」
ダルタニャンは降りながら、その紙片の一つを拾いあげた。
「これはグールヴィルの手跡らしい」と紙片を調べていた彼は叫んだ。「おれが思っていたとおりだ」
そして彼は「馬」という字を読んだ。
「やっ!」と言うと、もう一つの紙片を調べたが、これには何も書いていなかった。そこで三つ目を見ると、「白」という文字があった。
「白馬」と彼は子供がたどたどしく読むように繰り返して言った。「おや! たいへんだぞ!白馬だと!」疑惑をいだいたダルタニャンは叫んだ。
まるで火のついた火薬の粒が破裂したように感じたダルタニャンは、へんに思ってすぐさまと、再び露台に大急ぎで上がった。
白馬はロワール河の方向へ必死に走って行くところだった。そして河の遥かかなた、靄《もや》の中に溶けるあたりには、小さな帆影がほんのりと浮かんでいた。
「や! や!」と銃士長は叫んだ。「ああして畑の中を急いで馬を走らせる奴は逃げて行く奴に相違ない。そしてまっ昼間、白馬を走らせるのは大臣のフーケ殿のほかにはない。フーケ殿は海を渡ってベル・イルに逃げこもうとしているのだ……三十分も前に出発して、一時間以内に船に乗りこもうとしているフーケ殿を逮捕するのは、天下広しといえども、このダルタニャンをおいてはほかにいないぞ」
こう叫ぶと、銃士長は鉄格子をはめた馬車を、野はずれにある森の中に運んでおくように命令すると、自分は厩《うまや》中でも逸物《いちもつ》を選び出して、その背にひらりとまたがり、エルブ街を飛ぶように走った。そしてフーケが通った同じ街道を追おうとはせず、じかにロワール河の堤防へ抜ける道へと馬を飛ばした。これなら全距離で十分は得だったし、二つの道路が交差する点で、追われているとは知らない逃走者と必ずぶつかるに相違なかった。
しばらくのあいだ、ダルタニャンは白馬の影も見ずに疾駆した。あれほどフーケにやさしく親切な感情をいだいている自分が、残忍な、ほとんど殺伐な気持にさえなっているのに驚いた。そのうちには、フーケがどこか地下道へでも消えてしまったのではないかと疑ったり、途中でその白馬を、風のように早いという黒馬――サン・マンデのフーケの厩《うまや》で、ダルタニャンをたびたび驚嘆させ羨望《せんぼう》させた名馬の一つ――と取り替えてしまったのではないかと考えたりしていた。
ときおり、風が強く眼にぶつかって涙を流させたり、鞍《くら》が熱して火のようになったり、馬が拍車に腹を傷つけられて、砂埃《すなぼこり》や小石を彼の背に蹴《け》り上げたりすると、ダルタニャンは鐙《あぶみ》をふん張って、あたりの沼の中をのぞいたり、樹陰をうかがったり、果ては狂人のように空を見上げたりした。それからしゃがれた嘆息をその唇からもらしながら、他人から嘲笑《ちょうしょう》されるのを恐れて、彼は繰り返して言った。
「おれが、グールヴィルにだまされたのか、おれが! 世間の奴らは言うだろう、ダルタニャンも年を取ったと。そして百万リーヴルももらって、フーケを逃がしたのだと!」
そう思うと彼は腹が立って、馬の腹に二つの拍車で孔《あな》をあけた。彼は二分間に一リウを疾駆したのだった。突然、牧場の果ての垣根の陰に、白馬の姿が見えた。そしてすぐ見えなくなったが、次には街道が上りとなった所にはっきりと現われた。
ダルタニャンの胸は喜びに躍った。気分もすっかり晴れやかになった。額に流れる汗をぬぐい、締めつけていた両膝《りょうひざ》をゆるめて、馬を楽にしてやり、馬は大きく息をついた。それから轡《くつわ》を引いて馬の首を起こし、歩度をかげんした。こうして彼は街道の地形や、自分とフーケとの位置関係を考えてみた。
フーケは柔らかい地面を突っ切ったので、すっかり馬に息をきらさせていた。で、もっと堅い地面に出るために、近道をして街道の方へ向かっていた。
ダルタニャンは断崖《だんがい》の斜面に隠れて、馬を進ませればよかった。そうすれば、いずれ一筋道になる。それから本当の火花を散らす競争となるのだ。
ダルタニャンは馬に一息つかすことができた。また注意してみると、フーケも馬を速歩《はやあし》にして、息を入れさせているようだった。
しかしこうした歩度を長くとらせるには、あまりにフーケは先を急いでいた。そこでやがて、白馬の足が堅い地面に触れるや、矢のような勢いで走りだした。
ダルタニャンも手綱をゆるめると、黒馬も駆歩《かけあし》となった。今は両馬とも同じ街道を戛々《かつかつ》と高く蹄《ひづめ》を鳴らして飛んだ。フーケはまだダルタニャンの姿を認めていなかった。
しかし斜面の出口にさしかかったときには、ダルタニャンの馬蹄《ばてい》の音ばかりが雷のように反響した。
フーケは、はっと振り向いた。彼の背後、百歩ほどの距離に、彼の敵が馬の背に俯伏《ふふく》して走っていた。一目でわかった。|燦然《さんぜん》たる肩帯、真紅《しんく》の外套《がいとう》、それは銃士でなくて何だろう! フーケも手綱をゆるめた。すると白馬は彼と競争者の間をさらに二十歩離した。
「おや! フーケが乗っている馬は、なみの馬ではないぞ。しっかりしろ!」と不安になったダルタニャンはこう考えた。
そこで彼は眼を据え、注意して、この逸物の歩度や能力を調べてみた。
円い臀部《でんぶ》、わずかに伸びた尻尾《しっぽ》、鉄線のように細い痩《や》せた脚、大理石よりも堅い蹄。
ダルタニャンはさらに拍車を加えてみたが、間隔は少しも減じなかった。馬上で耳をすましても、白馬の鼻息は聞こえず、かえって風を切って飛んで行くのだった。
ところが、これに反して、黒馬の鼻息は鍛冶《かじ》屋の鞴《ふいご》のように、ふうふういいだした。
「おれは馬を乗り潰《つぶ》しても追いつくのだ」と銃士長は考えた。
そして可哀《かわい》そうな動物の口をひき割り始めると、一方拍車を血だらけの腹に突きこんだ。狂気のようになった馬は、みるみる間隔をちぢめて、フーケに拳銃《けんじゅう》を撃てば、弾丸の届くぐらいにまでなった。
「がんばれ! がんばれ! 白馬もそのうちに弱る。馬が倒れなくとも、乗り手がまいるぞ」と銃士長はこう考えた。
しかし、白馬も乗り手も弱る気色もなく、人馬一体となってますます疾駆し続けた。
ダルタニャンはついに荒々しい叫び声をあげた。これを聞いてフーケは振り返った。しかしその白馬はまだ弱っていなかった。
「あっぱれ、名馬! あっぱれ名騎士だ!」と銃士長はどなった。「おうい! 畜生、フーケ殿、おうい! 止まれえ! 陛下のご命令だ!」
フーケは答えもしなかった。
「聞こえんのか?」とダルタニャンはわめいた。
とたんに馬がよろよろした。
「何を!」とフーケは簡単に答えた。そしてまた走った。
ダルタニャンは気が狂いそうだった。汗がこめかみや、両眼に渦を巻いて流れこんだ。
「陛下のご命令だ!」と彼はなおも叫んだ。「止まれ! 止まらぬと撃つぞ」
「撃て!」とフーケは速度をゆるめずに答えた。
ダルタニャンは拳銃の一つを握ると、撃鉄を起こした。彼はこの音で敵を止まらせようとしたのだ。そして、「あなたも拳銃を持っているはずだ。振り向いて相手になりなさい」と言った。
フーケははたして、撃鉄の音で振り返って、真正面からじっとダルタニャンの顔を見ながら、右手で衣服をはだけた。しかし拳銃を入れておく鞍嚢《あんのう》には触れようともしなかった。
二人のあいだはもう二十歩となかった。
「おうい! 私はあなたを暗殺しませんぞ。もし私をお撃ちにならんのなら、降参しなさい」とダルタニャンが言った。
「いや、私は死んだほうがいい! そのほうが楽だ」とフーケが答えた。
ダルタニャンは絶望して、拳銃を大地に投げつけて、「私はあなたを引致します」と言った。
そしてこの比類なき騎士だけができうる奇跡によって、ダルタニャンは馬を躍らせて、白馬の十歩のところまで迫った。もう猿臂《えんぴ》は餌食《えじき》をつかもうとして伸びていた。
「殺せ! 殺してくれ! そのほうが情だ」とフーケが言った。
「いや! 生きていられい、生きて!」と銃士長がつぶやいた。
その刹那《せつな》に彼の馬は再びよろめいて、フーケの馬が先に出た。
そこでまた前代未聞の光景が展開して、両馬の間に競争が始まった。双方の馬とも、ただその騎士の意志だけが生きていると言ってよかった。怒り狂った駆歩は大速歩となり、次いでたんなる速歩となってしまった。
この競争はまるで疲れ果てた二人の競技者が、激しく争っているようだった。腹を立てたダルタニャンはまた拳銃を握って、白馬をねらった。
「馬ですぞ! あなたではなく!」と彼はフーケに向かってこう叫んだ。
ダルタニャンは引き金を引いた。白馬は臀部を撃たれて、怒り狂って飛び上がり、後足で立った。
途端に、ダルタニャンの馬は屏風《びょうぶ》倒しに倒れた。
「しまった! おれはもうだめだ! お願いだ、フーケ殿、あなたの拳銃でこの頭を撃ち抜いてください」
しかしフーケは走り続けた。
「お願いだ! お願いだ!」とダルタニャンが叫んだ。「私はこのまま、ここで勇敢に死ぬのだ、名誉のために死ぬのだ。フーケ殿、どうか私の願いを聞いてください」
フーケは返辞もせずに、速歩で走り続けた。
ダルタニャンは敵の後を追い始めた。そうしながら、彼はじゃまになる帽子や上衣を脱ぎ捨てた。
脚にもつれる剣鞘《けんざや》までも捨てた。手に持っていた剣も重くなったので、鞘と同じように、捨ててしまった。
白馬は苦しそうに息をきった。ダルタニャンはやっと追いついた。
力尽きて速歩で走っていた白馬は、頭を振りながらめまいを起こして、小股《こまた》に歩き始めた。そして口から血泡を噴き出した。
ダルタニャンは死に物狂いの努力をして、フーケに飛びかかり、その片足をつかんだ。そしてあえぎながらとぎれとぎれの声で言った。
「国王の御名においてあなたを捕縛しましたぞ。さあ、私の頭を撃ち抜け。これで二人とも義務を果たしたのだ」
フーケは二|挺《ちょう》の拳銃をダルタニャンに奪われぬように、川にほうりこんで、馬から降りた。そして、「私はあなたの捕虜だ。腕をとってくださらんか、気が遠くなりそうだから」と言った。
「ありがたい」とダルタニャンはつぶやいた。そのとたんに、大地が足の下で崩れ、天が頭上に落ちたように感じた。そして息も力も絶え絶えに、砂の上にころがった。
フーケはすぐと川の斜面を降りると、帽子に水を汲んで来た。そして銃士長のこめかみをぬらしたり、また唇の中に数滴の冷水をたらしてやった。
ダルタニャンは再びからだを起こして、ぼんやりと自分の周囲を見回した。その目は、ひざまずいたまま、手にぬれた帽子を持ちながら、穏やかな微笑を浮かべているフーケの顔に止まった。
「では、あなたはお逃げにならぬので?」と銃士長は叫んだ。「おお! 心も魂も真実の王というのは、ルーヴルのルイでもない。サント・マルグリット島のフィリップでもない。それはあなただ。放逐され、有罪と宣告されたあなただ!」
「私はたった一つの失策のために、今日で破滅したよ、ダルタニャン君」
「どういう失策で?」
「私はあなたを友人に持っていなければならなかった。しかしどうしてナントに帰りますか?もうずいぶん遠くまで来ているが」
「仰せのとおりです」とダルタニャンは憂鬱《ゆううつ》そうに答えた。
「多分あの白馬が元気を回復するよ。良い馬だからな! ダルタニャン君、あれにお乗りなさい。私はあなたの疲れが直るまで歩いて行こう」
「可哀そうに! 怪我《けが》をさせた!」と銃士長が言った。
「いや、あれなら歩ける。私は知っている。そうだ二人して乗って行こう」
「では試してみましょう」と銃士長は言った。
そこで二人は白馬に乗ったが、幾らも行かぬうちに、馬はよろよろ始めた。そして数分間無理して歩いてから、またよろめいて、ばったりと黒馬のそばに倒れて死んでしまった。
「徒歩で行こう。それが運命だ。ぶらぶら歩くのもいいものだ」とフーケは言うと、ダルタニャンと腕を組んだ。
「畜生! 何といやな日だろう!」とダルタニャンは目をすえ、額に八の字を寄せ、胸で大きく息をつきながら叫んだ。
彼らはゆっくりと四リウほど歩いて、森の中にはいった。すると森の向こうに一台の馬車が護衛をつけたまま止まっていた。
フーケはその鉄格子のはまった窓を見ると、ルイ十四世のためにはじるように、伏せ目になっているダルタニャンに言った。
「ダルタニャン君、これは義理堅い人が考えたものではない。むろんあなたではないよ。あの格子は何のためです?」と言った。
「あなたが手紙なぞを外に投げぬためです」
「うまいくふうだ!」
「手紙を書けなくとも、お話ぐらいはできます」とダルタニャンが言った。
「あなたと話ができる!」
「もちろん……お望みならば」
フーケはちょっと思案していたが、銃士長の顔をじっと見ながら、「ただ一言、あなたは覚えていてくれますか?……」と言った。
「覚えておりますとも」
「私の望む人に伝えてくれますか?」
「お伝えします」
「サン・マンデの!」とフーケは低い声で言った。
「よろしい。で、誰にです?」
「ベリエール夫人か、ペリソンに」
「承知しました」
馬車はナントの町を横切って、アンジェール街道へと進んだ。
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五〇 リスは落ち、毒蛇は飛ぶ
午後二時、国王はダルタニャンの帰りが待ちきれず、居室から露台へと出て行った。そしてときおり、侍従たちのしていることを見るために、廊下の扉をあけたりした。
サン・テニャンが朝から長いあいだすわっていた同じ場所に、コルベールは腰をおろして、ブリエンヌと低い声で話をしていた。
すると王は扉を荒々しくあけて、二人に向かって、「君たちは何の話をしているのだ?」と尋ねた。
「私どもは議会の初会議について話をしているのでございます」とブリエンヌはつと立ち上がると答えた。
「よろしい!」と王は言うと、また部屋の中にはいった。
五分もすると、呼び鈴が鳴ってローズを呼んだ。
「君は写しを終えたか?」と王は聞いた。
「まだでございます、陛下」
「ダルタニャンは戻ったかな?」
「まだでございます、陛下」
「それは奇体だな!」と王はつぶやいた。「コルベールを呼べ」
コルベールは王の居室にはいった。彼はこのときを朝から待ちかまえていたのだった。
「コルベール」王の声は鋭かった。「君はダルタニャンがいかがいたしたか存じているはずだ」
コルベールは静かな声で、「彼を捜しに、どこにまいったらよろしいのでございますか?」と言った。
「何を言う! 君は、予が彼を遣わした場所を知らぬのか?」とルイは荒々しく聞き返した。
「陛下は何とも仰せられませんでした」
「これ、世の中には推量しなければならんことがある。ことに君はそれを推量しうるはずだ」
「私は想像することができます、陛下。しかし確かにそうであるとは申し上げかねます」
コルベールがこの言葉を言い終わるや否や、荒々しい声が聞こえてきて、二人の話をやめさせた。
「ダルタニャンだ!」と王は喜んで叫んだ。
ダルタニャンは青い顔で、非常に不機嫌なようすで、王に言った。
「陛下、私の銃士たちにご命令あそばされたのは陛下でございますか?」
「何の命令だ?」と王は言った。
「フーケ殿の宿のことでございますが?」
「何も申しつけんぞ!」と王は答えた。
「ほう!」と言って、ダルタニャンは口髭《くちひげ》を噛《か》んだ。「では思ったとおりでございます。ここにいるこの方が命令したのでございます」
こう言って、コルベールを指さした。
「何の命令だ? 申せ」と王が言った。
「あの家を上を下へとかき回して、召使いたちを打擲《ちょうちゃく》して、引き出しという引き出しをこじあけて、平和な家で略奪を行なえ、という命令でございます」
「もし!」とコルベールはまっさおになって言った。
「いや」とダルタニャンはさえぎった。「おわかりくださるのは陛下ばかりですぞ。国王陛下ばかりが、私の銃士隊を命令される権利を持っていらっしゃるのだ。しかし、あなたには、私がそれを禁ずる。陛下の御前で、そうあなたに申し上げておく。剣を帯びている貴族は、耳にペンをはさんでいるような下民とはわけが違いますぞ」
「これ、これ! ダルタニャン! ダルタニャン!」と王はつぶやいた。
「これは不面目もはなはだしい」と銃士長は続けて言った。「私の兵士たちは侮辱《ぶじょく》を受けたのです。私はドイツ騎兵や、経理部の書記などに命令した覚えはありませんぞ。畜生!」
「どうしたというのじゃ? さあ、申してみい!」と王は職権をもって言った。
「陛下、陛下のご命令をも判断できず、したがって、私がフーケ殿を捕縛したことも知らず、昨日の恩人のために鉄の囲いを作らせる人物がおります。この人物はフーケ殿の宿に人を派遣し、大臣の書類を奪い、家具全部を持ち去りました。私の銃士隊は早朝より宿の周囲を固めておりました。それが私の命令だからであります。しかるに彼らをして家の中にはいらしめ、かくのごとき略奪に参加せしめて、共に罪を犯したのはなぜでございましょうか? 我々は陛下にはお仕え申しておりますが、コルベール氏には仕えておりませぬ!」
「ダルタニャン、気をつけい」と王はきびしく言った。「予の前をはばからず、なんという言い方じゃ?」
「私は国王陛下のおためよかれといたしたことでございます」とコルベールはふるえ声で言った。
「陛下から信任をこうむっておりますために、陛下の軍人から、こういう扱いを受けますことは、まことに心外でございます」
それを聞いて、ダルタニャンは眼をぎらぎらと光らせながら叫んだ。「陛下の信任を受ける人物は、他人から尊敬されるだけの貫禄《かんろく》もあり、人間としても敬慕される人であるべきです。とかく権力の行使者は無制限に権力をふるまって、人民がそれを恨むと、神のおとがめは国王の方に向きます。おわかりか? 四十年も傷と血とでこわばっている軍人が、あなたにこんなことをお教えせねばならんのか? 私のほうが慈悲を知り、あなたのほうが残忍を働くとは、なんという矛盾です? あなたは無辜《むこ》の人を捕縛させ、牢《ろう》に投げこましたのです!」
「多分フーケ殿の陰謀でしょうな」とコルベールは言った。
「誰があなたに、大臣が陰謀をいだいていると教えましたか? いや、罪があるということだけでも。それをご承知なのは陛下おひとりだけですぞ。陛下の御眼鏡には狂いはありませぬ。陛下が『こういう人物を、捕縛し収監せよ』と仰せ出されれば、それは遵奉《じゅんぽう》されるのです。あなたは二度と再び、陛下の信任をこうむるなどと口にせられてはいけませぬ。そして言葉遣いにも注意なさらんと、人を威嚇《いかく》していると思われますぞ。陛下は、粉骨砕身ひとえにご奉公の誠を尽くしている人物を、しからざる人物が威嚇することを許しておかれませぬ。また万一そうした恩知らずの国王ならば、私は必ず尊敬するように、おさせ申します」
こう言って、ダルタニャンはけわしく眼を輝かせ、剣に手を掛け、唇をふるわせながら、王の居間に傲然《ごうぜん》と突っ立った。
コルベールはこの侮辱に腹を立てて、退出の許しを仰ぐように、頭を下げた。
王もダルタニャンの見幕には当惑していたが、ともかく一刻も早く大蔵大臣逮捕のようすを聞きたかったので、コルベールのほうはそのままにしておいて、「ダルタニャン、まずおまえの任務の報告を聞くとしよう。それから休息したらよかろう」と言った。
ダルタニャンはこの王の言葉を聞いて、今にも王の居室から出て行こうとしていたが、立ち止まると、引き返して来た。そこでコルベールが退出を余儀なくされた。彼は顔をまっかにして、濃い眉《まゆ》の下の意地悪い黒眼に暗い火を輝かせながら、大股で王の前に行って一礼すると、ダルタニャンの方をちらっと見ながら、その前を通って退出して行った。
王と二人だけになると、ダルタニャンは顔色を和らげて言った。
「陛下、あなた様は若年の国王でいらせられる。しかしその日その日の天気は、夜明けに判断いたします。もし陛下がご自分と国民とのあいだに、腹立ちやすい、乱暴な大臣をおはさみになるなら、人民は今後のご政道を何とおうわさ申すことでございましょうか? いやこんなつまらぬ、また迷惑らしい議論はやめにいたしまして、私のことを申し上げます。私はフーケ殿を逮捕いたしました」
「ひどく手間取ったな」と王は鋭く言った。
ダルタニャンは王をじっと見ていたが、「どうも申し上げ方が悪かったようでございます。私はフーケを逮捕したと陛下に申し上げました」と言った。
「そうじゃ、それがなんとかしたか?」
「いや、私は、フーケ殿が私を逮捕したと申し上げるべきでございました。そのほうが正しゅうございます。それでもう一度事実を申し上げます。私はフーケ殿に逮捕されました」
ルイ十四世はあっけに取られてしまった。ダルタニャンは目ざとく王の表情を見て取って、何の問いも出ぬ先に、フーケの逃亡から、追跡、激烈な競争、最後に大臣が自分から踏みとどまって、いさぎよく逮捕された度量の広さ、何度も逃亡する機会があり、追って来たダルタニャンを殺す機会があったにもかかわらず、彼のほうから進んで監禁されたこと、したがって自分の面目はまるつぶれだったことなどを、独特の詩味と描写とで弁じ立てた。
銃士長の話すにつれて、王はだんだんといらいらしてきた。そして爪《つめ》の先で他の爪をたたいていた。
「陛下、こういう次第で、少なくも私の目に見ましたところでは、これほどの侠気《きょうき》のある人物が、国王の敵になるはずはないと判断したのでございます。これは私の意見でございまして、くれぐれも繰り返して申し上げます。それから陛下が仰せあそばすこと、『国家的の理由』と申すことは、私もよく存じております。それは実にうやうやしく私の耳にも響きます。しかし私は軍人でございます。そしてご命令を受けましたゆえに、それを遂行いたしました。実にいやいやながら遂行いたしました。これで終わりでございます」
「今、フーケはどこにおるか?」と王はちょっと無言でいてから尋ねた。
「フーケ殿はコルベール殿が用意されました鉄の檻《おり》にはいられました。そしてアンジェール街道を、四頭のたくましい馬が全速力で運んでおります」
「なぜおまえは途中から戻って来たのか?」
「陛下がアンジェールまでまいれとは仰せられませんでしたから。その証拠には、たった今も、私を捜しておいででした……それからもう一つは、私に理由がござります」
「それは何だ?」
「私がついておりましたあいだ、フーケ殿はけっして逃げようとはされませんでした」
「そうかな?」と王は驚いて叫んだ。
「陛下はご了解のはずであり、確かに了解あそばしておられます。と申しますのは、私の最も熱心な願いは、フーケ殿が自由の身となったとわかることでございます。私の隊の兵士を一人付けておきましたが、この男は銃士隊の中でも最も|へまな《ヽヽヽ》奴で、あれなら囚人が逃走する機会も生ずるかと思いまして」
「おまえは気でも狂ったか、ダルタニャン?」と王は両腕をしっかりと胸に組んで叫んだ。「どんな自暴自棄な男でも、そんな大罪は犯さないだろうな?」
「おお! 陛下、フーケ殿が陛下にも私にも示してくれました度量に対して、私はどうもあの人の敵にはなれないのではないでしょうか? いや、もし陛下があの人をいつまでも錠と閂《かんぬき》の中に幽閉あそばしたいのでございましたら、けっして私にそれをお命じくださいますな。どれほど寵《かご》を厳重にしましても鳥はしまいには逃げてしまいます」
「おまえはなぜ、フーケが予の王座にすえようとした人物と行動をともにしなかったのだ?」と王は信頼しきれぬ声で言った。「おまえの望むものは残らず、あの人物が持っていたのだ、愛情も感謝も、おまえはただ予を、名のみの主人として仕えているのだ」
するとダルタニャンは強く胸にこたえるような声で言った。
「そのフーケ殿が、バスチーユ牢獄《ろうごく》へ陛下をお救いにまいりませんでしたら、ほかにもう一人の男だけがまいったはずでございます。その男は必ず私でございました。陛下はそれをよくご存じでおられます」
王は口を閉ざしてしまった。銃士長のこの率直な真実な言葉には一矢も報いることはできなかった。ダルタニャンの声を聞いている王は、その昔、パレ・ロワイヤルでは王の寝室の帳《とばり》の陰に隠れた彼、レッス枢機官《すうきかん》の先導で、パリ市民の前に王が立ったときには、王の臨場をただすために姿を現わした彼、パリ還御に際して、ノートルダム聖堂参拝の節、御召馬車の戸口で手で会釈をしてやった彼、ブロワにおいて王のもとより去った兵士だった彼、マザランの死去により王権を回復したときの、手許《てもと》に呼び戻したときの中尉姿の彼、絶えず誠実で、勇敢で、骨身を惜しまぬ男であった彼――ダルタニャンを懐かしくも思い出さずにはいられなかった。
ルイは戸口の方に行って、コルベールを呼んだ。
コルベールはまだ侍従たちが事務をとっている渡殿《わたどの》にいた。そこでコルベールはすぐと姿を現わした。
「コルベール、そちがフーケの宿の家宅捜索を命令したのか?」
「はい、さようでございます、陛下」
「どんな収穫があったか?」
「陛下の銃士隊とともに派遣されましたロンシュラは、私に押収した重要書類を手渡しました」
「それを見よう……予の手許に出しなさい」
「陛下の御手許に?」
「そうじゃ、予からダルタニャンに渡してやりたいから」
こう王は言うと傲然とした態度で、この書記を見おろしていた銃士長の方を振り向いて、微笑しながら、「ダルタニャン、おまえはここにいる人物をよく知らん。知り合いになってくれい」と言いたした。
そして王はダルタニャンに彼を指さしながら言った。
「今までは属官の位置にいる平凡な役人にすぎなかったが、これから予が大臣に昇格させたら、偉い人物になると思う」
「陛下!」とコルベールは嬉《うれ》しさと不安とでわくわくしながら言った。
「なぜか私にもわかりました」とダルタニャンは王の耳許でささやいた。「この男は嫉妬《しっと》深いですかな?」
「そのとおり、嫉妬心が彼に翼を結びつけたのだな」
「では、これからは翼の生えた蛇でしょうな」と銃士長は憎悪しながらぶつぶつと不平を言った。
しかしコルベールが進み出た顔を見たとき、骨相学《こっそうがく》に興味をもっていたダルタニャンは、これは見そこなっていたわいと思った。コルベールの容貌《ようぼう》は善良で、温順で、親しみやすかった。それに眼つきも気高い聡明さを表わしていた。
コルベールはダルタニャンと握手してから言った。
「陛下がただいまあなたに仰せられましたことは、いかに陛下がよく人物を知っておいでになるかという、いい証拠で、ございます。もし私が礼儀正しい人達の友情を獲得する確信と幸運とを持っておりませんでしたら、こうした人達から尊敬されるかどうかすこぶる疑わしいと思います。そしてこうした人達の賞賛に報いるためには、私は一命をもなげうつ覚悟でおります」
こうした変化とか、突然の気高い態度とか、王の無言の称揚とかが、銃士長を非常に考えさせた。そこでダルタニャンは自分から目を離さずにいるコルベールに慇懃《いんぎん》に会釈をした。
王は二人の仲直りを見て、はじめて満足して、退出を命じた。
王の居室から外に出ると、この新大臣は銃士長をとどめて、言った。
「ダルタニャン殿、あなたのようにちょっと見ただけで、私が何者であるかということがわかりますかな?」
「コルベール殿、人間の眼の中にある太陽の光はまっかな炭火を見るのにじゃまになります。ご承知のように、権力のある人物は光り輝いているものです。あなたもやはり光り輝いていますからな。しかし、何の必要があって、あなたはあの高位高官から不名誉のどん底に落ちた人を、この上ともしいたげようとするのですか?」と銃士長が言った。
「この私がですか?」とコルベールは言った。「いや、私はあの方をけっしてしいたげようとはしません。私はひとりでフランスの財政を収めてみたい野心はあります。しかしこれは強い自信もあってのことです。そしてもう三十年も生きたら、この国の金貨で穀物倉庫を、建物を、都市を建て、港湾を築こう。大海軍を編成して、フランスの名を極地までとどろかせよう。大学も図書館も創設しよう。そしてフランスを世界一の富強国にしようと、こういう遠大なる抱負をいだいております。これが動機で、私のじゃまをしようとするフーケ殿とは、折合いがつかぬことになったのです。私はフランスが強大になり、それにつれて自分も強大になりましたら、はじめて『慈悲をたれよ』と叫ぶでしょう」
「『慈悲』と言われる! それなら、あの人の自由を国王に願ってください。陛下はあなた一個のために、あの人を圧迫しておいでになるのですからな」
コルベールは頭を上げて言った。
「それは違いましょう。陛下はご自身の理由から、フーケ殿を憎んでいられるのです。これは改めて、私の口から申さずとも明白なことです」
「しかし陛下は疲れていらっしゃる。やがて、お忘れになるでしょう」
「いや、けっしてお忘れにはなりますまい。ダルタニャン殿……ほら、陛下がお呼びです。ご命令が出ますよ。私は陛下にかれこれと申しあげませんでした。おわかりですか? ではご命令を伺っておいでなさい」
なるほど、王は侍従たちをそばに呼んでいた。
「ダルタニャンか」と王は言った。
「はい、私でございます、陛下」
「サン・テニャン伯爵に、二十名の銃士をつけてください。フーケを監視させるために」
ダルタニャンとコルベールとは顔を見合わせた。
「そして囚人をアンジェールから、パリのバスチーユ牢獄に護送することにする」と王は続けて言った。
「あなたの言われたとおりだった」と銃士長はコルベールに言った。
「それから、サン・テニャン」と王は言葉を続けた。「そちは途中で、フーケに小声で話しかける者は誰でも、銃を向けて追っ払ってしまえ」
「しかし私は?」と伯爵が言いかけた。
「いや、そちは銃士たちの面前でばかり話をするのだ」
伯爵は一礼すると、命令を実行するために退出した。
そこでダルタニャンも同じく退出しようとすると、王は彼をとどめた。
「おまえはすぐベル・イル島とその領地とを占領しに行け」と王は言った。
「はい、私だけでございますか?」
「城砦《じょうさい》が頑強に抵抗するならば、占領できぬといかんから、十分に軍隊を連れてまいるがいい」
「かしこまりました」とダルタニャンが答えた。
「予は子供のときにあの島を見た」と王は再び言った。「もう二度と見たくはない。わかったろうな? あそこの鍵を持たずには帰って来まいぞ」
コルベールはダルタニャンのそばに来て、「この大任を果たされれば、元帥杖《げんすいじょう》を授けられますぞ」と言った。
「なぜまた、『大任』と言われる?」
「やりにくい仕事ですからな」
「ほう! どういう点で?」
「あなたの親友がベル・イルにおります。ダルタニャン殿、その死骸《しがい》を乗り越えて進むということは、あなたのような人には容易なことではありませぬ」
ダルタニャンは頭を下げて、じっと考えている間にコルベールは立ち去った。
それから十五分たつと、ダルタニャンは王から、ベル・イルの城砦を必要があれば、全島民も亡命者も、一塊りに吹き飛ばせ、一人たりとも島外に逃がしてはならぬという命令書を受け取った。
「コルベールの言ったとおりだ」とダルタニャンは考えた。「フランスの元帥杖は二人の友人の生命と引き替えなのだ。しかしおれの親友たちは鳥よりも利口《りこう》だろう。鳥さしの手がそばに来るまで、ただ便々と、羽根をたたんで待ってはおるまい。おれはあの二人に、この手をよく見せて、逃げる暇《いとま》をつくってやろう。可哀《かわい》そうなポルトス! 可哀そうなアラミス! そうだ、おれの元帥杖は、おまえたちの羽根を一本も傷つけずにもらってみせるぞ」
こう決心すると、ダルタニャンは王国の軍隊を集合させ、パムブーフ港より乗船し、時を移さずにベル・イル島へと出帆《しゅっぱん》した。
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五一 ベル・イル島
夕暮れの満潮時、荒れ狂った海が打ち寄せている防波堤の突端の遊歩道に、二人の男が腕を組み合ったまま、興奮した調子で何か語り合っていた。その言葉は折からの海風に吹き飛ばされて、波頭に立つ白い泡とともに、遥か向こうへ行ってしまうので、端に人がいても、全く聞き取ることができなかった。
太陽はあたかも巨大な坩堝《るつぼ》のようにまっかになった大西洋の渺茫《びょうぼう》たる水面に沈んだばかりだった。
二人の男の中の一人は、ときおり東の方を向いて、心配そうに探るような眼を海上に放っていた。
また他の一人は、仲間の顔をちらりちらりとのぞいて、その表情から何事かを読もうとしているようだった。それから二人とも、無言のまま、ふさぎこみながら、そこらを歩き回っていた。
この二人の男が、デルブレーの遠大なる計画に失敗し、前途の希望を失って、ベル・イルに亡命したポルトスとアラミスであることは、読者にもすでにおわかりであろう。
ポルトスはそのたくましい胸に塩気を含んだ空気をいっぱいに吸いこむと、「アラミス、君が何と言ったってだめだ。幾ら隠したってむだだよ。この二日前から、漁船という漁船は全部出払ってしまった。こんなふうに雲隠れするのは、あたりまえなことではなかろうが。沖は荒れてもいず、天気もずうっと穏やかなんだ。小さな嵐も来そうはない。おれはこう何べんも繰り返して言うようだが、こんなふうに漁船が行方《ゆくえ》不明になるのは、ちと変だぜ」と言った。
「なるほど」とアラミスはつぶやいた。「君の言うとおりだ。ポルトス。何かこれは変わったことが起こったのだ」
「それにまた」とポルトスが言いたした。「この島にただ二隻残っていた船も、他の船を捜しに出掛けてしまったからな」
これを聞くと、アラミスは、ポルトスがびっくりするほどの叫び声をあげながら、激しい身振りでポルトスの言葉に口をはさんだ。
「なんだって、ポルトス! 二隻の船が出掛けたって……」
「そうだ、他の船の捜索におれが出したのだよ」とポルトスは至極無邪気に答えた。
「しまった! 君はなんということをしてくれたのだ、もう我々は破滅だ!」とアラミスが叫んだ。
「破滅だって!……もう一ぺん言ってくれ」とポルトスは肝をつぶして言った。「なぜ、破滅なんだ、アラミス? どういうわけでおれたちが破滅なんだ」
アラミスは唇を噛《か》んだ。
「いや、なんでもない。許してくれ。ただおれは……」
「なんだ?」
「いや、ただ、おれたちが船遊びしようと思っても、もうできないからさ」
「なあんだ! 君が悩んでいるのは、そんなことか? 結構なご身分だな! おれはそんなことをくよくよしているのではない。おれが心残りなのは、このベル・イルで得られるような楽しみではないんだ。おれが残念でたまらないのは、アラミス、おれがピエールフォンを失ったことだ。ブラシウーを失ったことだ、ル・ヴァロンを失ったことだ。すなわち、言い換えれば、わが美しいフランスを失ったことだ。おい、アラミス、今おれたちのいる所はフランスではないからな。率直におれの腹の中を打ち明ければ、おれはこのベル・イルにいることが不愉快でたまらないのだ。いや、実際に不愉快なことだよ、おれには!」
アラミスは低い溜息《ためいき》をつきながら言った。
「他の船の捜索に二隻の船を出したのは、情なかったな。もしその船がありさえすれば、我々はここから離れることができたのだ」
「離れる! それが命令か、アラミス?」
「なんだ、命令とは?」
「これは驚いた! 君がいつもくり返している命令だよ。僭奪者《せんだつしゃ》に対してベル・イルを死守するという命令さ」
「うむ、それに相違ないが」とアラミスはつぶやいた。
「だから兄弟、おれたちがこの島を離れられないことはわかりきったことだよ」
とアラミスは無言のまま、鴎《かもめ》のように、その光った漠然とした視線を海上に長いあいだ向けながら、水平線のあたりを見渡していた。
「君はそうした不幸な漁船について、何一つ、おれに説明してくれんではないか。おれが通る至る所で、おれは悪口や不平を聞かされた。子供たちは悲嘆に暮れている母親の膝《ひざ》にすがって泣いているのだ。そしてまるでおれがいなくなった父親や、夫たちを呼び戻せるとでも思っているのだ。アラミス、君にはわかるかい、一体おれは奴らになんと返辞をしてやればいいのか?」とポルトスは言い続けた。
「わかるよ、なんでもわかっているよ、ポルトス。しかし何も言えないのだよ」
この返辞に、ポルトスは非常に不満足だった。それでぶつぶつと不平を言いながら、引き返そうとした。
アラミスはこのりりしい武士を引きとどめた。そして、この巨人の両手を真心をこめて握りながら、悲しそうに言った。
「兄弟、君はおれたちの楽しかった若いころを覚えているかい? あの時分は、二人とも力があり、勇敢だったなあ。ポルトス、もしおれたちがフランスに帰りたいなら、何もこんな海に辟易《へきえき》することはあるまい?」
「ふむ! しかし六リウもあるぞ!」とポルトスが言った。
「だが板が一枚あれば、地上にいるのも同然だろう、ポルトス?」
「いや、どうして、どうして、アラミス! それは昔のことだ。君はともかく、おれをうまく浮かばせてくれるような板があるかい!」
こう言うとポルトスは、得意げに笑いながら、大兵肥満な、自分のからだに一瞥《いちべつ》を投げた。そして熱に浮かされたように歩き回っている親友について歩いたので、疲れたポルトスは立ち止まると、アラミスに言った。
「この岩で休もうではないか、アラミス。ここへ、おれのそばに腰をおろせよ。そして説明してくれ。おれの合点がいくように。おれたちはここで何をしているのだ? さあ、説明してくれ。これを最後として、おれがお願いする」
「ポルトス」とアラミスは非常に当惑して言った。
「おれは贋《にせ》の国王が真の国王を廃そうとしたことを知っている。それは聞いた。わかっている。それで?……」
「うむ、そうだ」とアラミスは言った。
「贋の国王がこのベル・イルを英国に売ろうと計画したことも知っている。それも分かっている」
「うむ、そうだ」
「おれたちが他の技師や士官と、この島にやって来て、工事を監督したり、またフーケ殿が募集した十個中隊を指揮したりしていることも知っている。これもわかりきったことだ」
アラミスはしんぼうできずに立ち上がった。それはちょうど羽虫をわずらわしがっている獅子《しし》のようだった。
ポルトスはその腕をとらえて、「が、おれにどうしてもわからんのは、幾ら頭をひねっても、なんとしてもわからんのは、向こうから兵隊も弾薬も食糧も何も送ってよこさんことだ。それにボートを当てがってもくれん。通信一つよこしてくれん。向こうとこっちとは交通が全く絶えている。これがおれにはわからんのだよ。アラミス、その訳を聞かせてくれ。いやそれよりも、君が返辞をする前に、おれに話させてくれるか、おれの考えたことを? おれの企てた計画を聞いてくれるか?」
アラミスが頭をあげた。
「なあ、アラミス」とポルトスはなおも言葉を続けた。「おれは夢を見たよ、フランスに何か事件が起こったのだと、おれは思っている。おれは一晩中、フーケ殿の夢を見た。死んだ魚や、こわれた卵や、きたない貧乏じみた部屋の夢をみた。いかにも不吉な夢だな。ああいう夢を見ると、いいことはないて!」
「おい、ポルトス、向こうに見えるのは何だ?」とアラミスはポルトスの言葉をさえぎりながら、急に立ち上がって、茜色《あかねいろ》に染まった水平線の上に見える黒い一点を指さした。
「船だ!」とポルトスが言った。「そうだ、船が一|艘《そう》見える。ああ! とうとう便りが聞けるぞ」
「おや、二つだ!」とほかにもう一つの帆柱を発見したアラミスが叫んだ。「二つ! 三つ!四つ!」
「五つ!」とポルトスがその後を続けた。「六つ! 七つ! 驚いたな! これは船隊だぞ!」
「多分、島の船が帰って来るのだろう」とアラミスは平気を装っているが、不安は隠すことができずに言った。
「漁船にしてはばかに大きいな」としばらく見ていたポルトスが言った。「それに、あれはロワール河の方から来たらしいな。兄弟、君にはそう思われないか?」
「そうだ、ロワール河の方から来たらしい」
「おい、おれのように、島の連中が皆見ているぞ。女子供まで波止場に出て来たぞ」
そこへ一人の年寄りの漁師が通りかかったので、アラミスが声をかけた。
「あれは島の漁船かね?」
老爺《ろうや》はじっと水平線を眺めていたが、「そうでねえ、旦那《だんな》様、あれは王様の軍用船でございますだ」と答えた。
「何、国王の軍用船だと!」アラミスはさっと顔色を変えて言った。「どうして、それがわかるか?」
「旗が見えますだよ」
「だが、船だって、やっと見えるくらいなのに、どうして旗が見えるのだ」とポルトスが言った。
「旗が一つ見えますだ」と老爺が答えた。「わしらの船や、商売の船には旗は揚げませんよ。ああいうふうな船は、たいていは兵隊を運ぶのに使いますだ」
「うむ、そうか!」とアラミスはうなるように言った。
「占めたぞ!」とポルトスが叫んだ。「増援隊が来たのだ。アラミス、君はそう思わんかね?」
「そうかも知れんな」
「イギリス兵でなければ、それに相違ないて」
「ロワール河の方からかね? ポルトス?」
「なるほど、君の言うとおりだ。確かに、あれは増援隊だ。さもなければ食糧を持って来たのだ」
アラミスは両手で頭をかかえて、なんとも答えなかった。それから突然に、
「ポルトス、警報を鳴らさせろ」と言った。
「警報?……またなんで、君はそんなことを考えたんだ?」
「そうだ、砲手に砲台に上がるようにさせろ。そして部屋から出て、とくに海岸砲台を監視しろ」
ポルトスは眼を大きく見開いて、じっと友の顔をみつめた。正気で言っているのか、どうか確かめようとしたのだ。
「私が行こう、ポルトス」とアラミスは穏やかな声で言った。「君が行ってくれないなら、私が、この命令を実行させよう」
「うむ、おれが行く、すぐ行くよ!」とポルトスは言った。そして、もしもアラミスが、まちがって命令を発したのではないか、またもっと正しい意見を出しはしないかと、振り返り振り返り、命令を実行させるために出掛けて行った。しかしアラミスはポルトスを呼び返しはしなかった。
やがて警報が鳴り、喇叭《ラッパ》が吹き鳴らされ、太鼓がとどろいた。そして鐘楼《しょうろう》の大きな鐘が鳴った。
するとすぐに堤防も、波止場も物見高い連中や、兵士たちでいっぱいになった。石の砲架にすえた大砲の後方には、砲手が立って、その手に火縄が光った。各自はその持ち場につき、防御の準備がすっかり整った。
これを見て、ポルトスはアラミスの耳許《みみもと》におずおずと口を寄せて、「アラミス、わけを聞かしてくれないか」とささやいた。
「今すぐにわかるよ」とアラミスは彼の副官の質問に、こうつぶやくように言った。
「帆をいっぱいに張り、あの岬《みさき》のところにやって来るのは、国王陛下の艦隊だろうな?」
「だが、ポルトス、フランスには国王が二人いる。あの艦隊は、どちらの王に属しているのかな?」
「ああ! 君はおれの眼を開いてくれたよ」とポルトスはアラミスのこの言葉に驚いて、こう言った。
全くこの親友の返辞は、ポルトスの眼を開いたのだった。いやかえって、彼の眼をおおうていた眼帯を厚くしたといったほうがいいかも知れなかった。そこで大急ぎで一同を監督し、各自の義務を果たすように勧告するために、砲台の方におもむいた。
しかしアラミスの方は、一時も水平線から眼を離さずに、艦隊の近づいて来るのを見守っていた。大木の梢《こずえ》や、岩の角などに登った群集や兵士たちの眼には、帆柱がはっきりと見えた。それから低い帆が見えた。やがてついに帆柱のてっぺんにフランス王室の旗をひるがえしている艦隊がはっきりと見えた。
ベル・イルの島民のあいだに、大騒ぎを惹起《じゃっき》したこれらの船の一隻が、砲台から弾丸のとどくあたりに碇《いかり》をおろしたころは、もう日はとっぷりと暮れていた。
やがて、その船の甲板の上で、ざわざわと人が騒いでいるようすが闇《やみ》の中にうかがわれた。すると船側からボートがおろされて、三人の漕手《こぎて》が港をさして漕ぎ始めた。そしてほどなく、ボートは堡塁《ほうるい》の下のところに乗り上げた。
このボートの艇長はただちに波止場に飛び上がると、手にしていた書状を打ち振っていた。彼は誰かと連絡をとりたいようすだった。
やがてこの人物がベル・イルの水先案内の一人であることが、幾人かの兵士たちによって確かめられた。そして彼は二日前、行方不明になった漁船を捜しに出掛けた、二艘の船のうちの一艘の船長だった。
彼はどうかアラミスのところに案内してくれるようにと言った。
そこで軍曹の合図で、二名の兵士が左右から付き添って、彼を案内することになった。
アラミスは波止場にいた。この使いの男はアラミスの前に出頭した。四辺《あたり》あたりはほとんどまっ暗であった。若干の距離を保って、松明《たいまつ》を持った兵士たちがアラミスを円形に取り囲んでいた。
「おい! ジョナタス、おまえは誰のところから来たのだ?」
「私を捕えた人のところからまいりました」
「おまえを捕虜にした?」
「ご存じのとおり、私たちは仲間の船を捜しに出掛けました」
「うむ、それで?」
「一リウも沖に出ますと、私たちは王様の軍用船につかまりましたので」
「どっちの王様だ?」とポルトスが横合いから言った。
水先案内のジョナタスは眼を大きくあいたまま、びっくりしていた。
「それから、どうした?」とアラミスが言葉を続けた。
「昨日の朝、捕虜にした者を集めました」
「おまえたちを全部捕虜にするとはずいぶん狂気の沙汰《さた》だが、それは何のためだ?」とポルトスが口をはさんだ。
「はい、あなた様たちにことがもれませんように」とジョナタスが答えた。
ポルトスは何のことかわからなかった。
「で、今日はどうして釈放されたのだ?」とポルトスは聞いた。
「私たちが捕虜になったことをご報告するために」
「いよいよもってわからなくなったぞ」と正直者のポルトスが頭をひねった。
アラミスは、この暇に思案にふけっていた。
「うむ、すると国王の艦隊は海岸を封鎖しようというのだな」
「はい、さようでございます」
「誰が指揮しているか?」
「親衛銃士隊の隊長様でございます」
「ダルタニャンか?」
「ダルタニャンだって!」とポルトスが言った。
「そういう名前だと思います」
「そしてその隊長がこの書状をよこしたのだな?」
「はい、さようで」
「松明《たいまつ》を、もっと近くに持って来い」
「あの男の手跡だぞ」とポルトスが言った。
アラミスは熱心に、左の文言を読んだ。
[#ここから1字下げ]
ベル・イル占領に関する国王の命令
守備兵をことごとく捕虜とすべし。
万一手向かうにおいては、一人残らず切って捨つべきこと。
フーケ殿をバスチーユに護送するため、一昨日逮捕したる。
ダルタニャン(自署)
[#ここで字下げ終わり]
アラミスは顔色を変えて、書状を掌中にもみまるめた。
「なんだ?」とポルトスが尋ねた。
「いや、なんでもないよ。なんでもない!」
「話してみろ、ジョナタス?」
「はい」
「ダルタニャン殿は何かおまえに言われたか?」
「はい、さようで」
「なんと言った?」
「あなた様にお目にかかって、くわしい事情を話したいと仰せられました」
「どこで会うのだ?」
「隊長様のお船で」
「あいつの船で?」とポルトスは言った。「すぐ出掛けよう、懐しいダルタニャンだ!」
しかしアラミスは友を制して、「君は気でも狂ったのか?」と叫んだ。「これが罠《わな》でないと確かに言いきれるか」
「もう一人の国王のか?」とポルトスは不思議そうに言った。
「確かに罠だ!」
「そうかもしれんな。では、どうするのだ? ダルタニャンがおれたちを呼んでいるのに……」
「誰がダルタニャンと言ったのだ?」
「いや……しかし彼の手跡の手紙がある……」
「偽手紙かもしれんぞ」
「それもそうだ。こうなると、なんだかわからんな」
アラミスは黙っていた。
すると水先案内のジョナタスが口を出して言った。
「私はどういたしますので?」
「おまえは隊長の船に帰るのか?」
「はい」
「それでは、島に自分自身で来るように言ってくれ」
「はい、しかし、もし隊長様が来ないと言われましたら?……」
「来ないというなら、我々には大砲がある。それで容赦《ようしゃ》なく砲撃してやる」
「な、なんだと? ダルタニャンをか?」
「もしダルタニャンなら、ポルトス、きっと来るよ。さあ、ジョナタス、おまえは帰れ」
「やれやれ、おれにはなにがなんだかわからなくなったぞ」とポルトスがつぶやいた。
「何もかもわかるようにしてやる。兄弟、いよいよそのときが来たのだ。さあ、この台に腰を掛けて、耳の穴をほじって、おれのいうことをよく聞くのだ」
「よし! 聞こう!」
「では、私は出掛けてよろしゅうございますか?」とジョナタスが叫んだ。
「うむ、行け! そして返辞を聞いて来てくれ。おおい! 皆の者、ボートを出してやれ!」
ボートは沖の船に戻るために、出発した。
すると、アラミスはポルトスの手を取って、説明を始めた。
[#改ページ]
五二 アラミスの説明
「私の話を聞いたら、ポルトス、さだめし君も驚くだろうが、しかし眼も開くだろう」
「驚くのは、おれも好きだ」とポルトスがやさしく言った。「どうか、遠慮は抜きにしてくれ。おれはたいていのことには驚かんよ。心配は無用だ、話してくれ」
「どうも話しにくいよ。ポルトス……話しにくいな。実際、あまり意外なことだからな」
「君は話上手ではないかな、幾日聞いていても飽きはせん。さあ、どうか話してくれ。しかし話しやすいように、おれのほうから尋ねることにしては」
「そうしてもらえば、ありがたいな」
「一体、おれたちは何のために戦争するのじゃ、アラミス?」
「そういう質問を盛んに浴びせかけられては、何とも返辞のしようがなくなるが、しかしポルトス、君のように善良で寛大な、献身的な人には、大胆率直に告白しなければならん。兄弟、実は私は君をだましていたのだ」
「おれをだましていたと?」
「そうだ」
「おれのためを思ってか、アラミス?」
「そのつもりだった。ポルトス。私はまじめにそう思っていたのだ」
「それなら、おれのためにしてくれたことだ。おれは礼を言わにゃならん」と正直なポルトスは言った。「君がおれをだまさずとも、おれが自分をだましたかもしれぬでな。ところで、どうおれをだましたのだな、聞こう」
「私が仕えていたのは、ルイ十四世には敵に当たる王位|簒奪者《さんだつしゃ》だったのだ」
「王位纂奪者!」とポルトスは額をかきながら言った。「それで……おれには、はっきりとのみこめたぞ」
「つまりフランスの王冠を争っている二人の王の一人なのだ」
「わかった……すると、君はルイ十四世でない方の王に味方していたわけじゃな?」
「全くそのとおりだ。図星だ」
「すると、その結果は?」
「その結果は、君には気の毒だが、我々は謀反人になってしまったのだ」
「やれやれ!……」と落胆したポルトスが叫んだ。
「しかし、まあ、そうがっかりするな。まだ策の施しようはあるのだから、おれにまかしてもらいたい」
「それはどうでもいい」とポルトスは答えた。「ただ困るのは、謀反人という汚名だて」
「そうだ!」
「おれには公爵を授けてくれるという話だったが……」
「公爵をくれるのは、その王位簒奪者だ」
「全く話が違うではないか。アラミス」とポルトスはおごそかに言った。
「兄弟、おれのほうがうまくいきさえすれば君は公爵になれたのだよ」
ポルトスは憂鬱《ゆううつ》そうに爪《つめ》を噛《か》み始めた。そして、
「おれをだましたのは、けしからんぞ」と言葉を続けた。「おれは公爵にしてやるという話だったから、そのつもりでいた。いや、まじめに、君の言葉を信じていたのだよ。アラミス」
「ポルトス、許してくれ、お願いだ」
「すると、おれはルイ十四世とは全く敵同士になっていたわけだな?」とポルトスはアラミスの願いに答えもせずに言った。
「いや、その点は私が始末をつけるよ、兄弟。私ひとりで責任を引き受けるからな」
「何を言う、アラミス!」
「いや、いや、ポルトス、お願いだ、私の思うとおりにやらせてもらおう。見当違いの親切や義理立てはやめてくれ! 君は私の計画を何も知らなかったのだ。君は自分だけで、何もやってはいない。私一人がしたことだ。私は片腕になる人間が欲しかったので、君に相談したのだ。すると、君は昔のよしみを重んじて、私に手を貸してくれた。私の罪は、私が利己的であったことだ」
「うむ、その言葉が気に入った。君が全く自身のためにやったことだとわかってみれば、おれは君をとがめるわけにはいかん。それは人情の当然だよ!」
こういうふうに見上げた言葉を言うと、ポルトスは親友の手を心から握り締めた。
この天真爛漫《てんしんらんまん》な、大きな人格を目前にして、アラミスはしみじみと自分の器の小さいことを感じた。彼は沈黙のまま、親友の寛大な握手に対して、力をこめて答えた。
「さあ、それで現在のおれたちの立場がわかった」とポルトスが言った。「ルイ十四世に対する我々の立場がよくわかったから、次には、おれたちが犠牲にされている政治上の陰謀を説明してくれ。こんなことになったのも結局は政治上の陰謀が原因だということは、おれにもよくわかるからな」
「ダルタニャンが来るよ、ポルトス。ダルタニャンがその間の事情を話してくれるだろう。堪忍《かんにん》してくれ、私は腸《はらわた》をかきむしられるようだ。私は心を落ち着けて、考えねばならんのだから。私は考えもなしに、君をまちがった立場に引っ張りこんだ。今、その立場から君を引き出そうと苦心しているところなのだ。しかし、君の今後の立場は簡単|明瞭《めいりょう》だよ。ルイ十四世には、もう一人しか敵がないのだ。その一人の敵こそ、この私なのだ。私は今まで君を捕虜にしていた。だが今日、君を自由にしてあげる。君は君の主人の許《もと》に帰ってくれ。なあ、ポルトス。それには何もしちめんどうなことはあるまいが」
「君はそう思うか?」とポルトスが言った。
「うむ、確かにそう思う」
「もしおれたちがそんな容易な立場にあるなら、なぜ大砲だの、小銃だの、また、あらゆる種類の武器だのを用意するのだ?」とポルトスはすばらしい良識をもって言った。「ダルタニャンに会って、『おれたちはまちがったことをしでかした。今後これを改めるから、戸をあけて、おれたちを通してくれ、やあ、ご機嫌よう! と挨拶《あいさつ》させてくれ』とこう言ったほうが、ずっと簡単で、よさそうなものだがな」
「しかし、それは!」とアラミスが頭を振った。
「どうして、それはというのだ? おれの案には賛成せぬのか、兄弟?」
「それには一つむずかしいことがあるのだ」
「何が?」
「ダルタニャンが持って来る命令次第では、防戦の必要が起こるかもしれんのだ」
「なんだと! ダルタニャンを相手にか? ばかな! あの好漢ダルタニャンを敵にして!」
アラミスはまた頭を振った。そして、
「ポルトス、私が火縄に火をつけさせ、大砲の照準を定めさせたり、また警報を鳴らさせたり、全員を部署につけさせたりして、このベル・イル城砦《じょうさい》をこの上にも堅固なものにしたのは、それだけのわけがなければやりはせんよ。待っていろ、わかるから。いや、それよりも、そうだ、待たずに……」
「どうすればいいのだ?」
「それがわかっていれば、言うよ」
「しかし防戦するよりも、もっと簡単なことがある。ボートを一隻手に入れて、フランスに出掛けるのさ……そうして……」
「おい兄弟」とアラミスは寂しげに微笑しながら言った。「子供のような考え方はよそうではないか。お互いに熟慮断行でいこうではないか。だが、あれを聞け、船着き場に人を呼ぶ声が聞こえるぞ。ポルトス、気をつけてみろ!」
「きっと、ダルタニャンだ」とポルトスは胸壁に近づきながら、雷のような声で言った。
「そうだ、おれだよ」とダルタニャンは波止場の石段を身軽に飛び上がりながら、答えた。そして二人の親友が待っている、城砦前の小さな広場まで、すばやくのぼって来た。
ところが、ポルトスとアラミスが見ると、ダルタニャンの後ろからもう一人の士官がついて来た。ダルタニャンが波止場の石段の途中で止まると、この士官も立ち止まった。
「君たちの兵士を向こうにやってくれ」とダルタニャンはポルトスとアラミスの二人に向かって声をかけた。「話の聞こえないところに退けてもらいたい」
ポルトスがその命令を伝えると、兵士たちはすぐ引きさがって行った。
するとダルタニャンは自分について来た士官の方を向いて、「さあ、ここは国王陛下の艦隊ではない。君はいま、命令を楯《たて》にとって、私に横柄《おうへい》に口をきいたな」と言った。
「隊長、自分は横柄に口をきいたのではありません。ただ訓令どおりに行なっているのであります。自分は貴官を尾行するように命ぜられました。ですから、自分は尾行するのであります」
ダルタニャンは忿怒《ふんぬ》の情で身をわなわなとふるわせた。ポルトスとアラミスもこの二人の会話を聞いてやはり身をふるわせた。しかしそれは忿怒のためではなく、不安と恐怖のためであった。
ダルタニャンは、いつもの癖で、せかせかと口髭《くちひげ》を噛みながら、その士官のそばに寄って行った。
「君は」と非常に低いしかも鋭い声で言った。「君はさっき、私がこの島へ船を出そうとしたとき、私がベル・イルを防備する人達に、何と書いてやるか、それを知りたいと言った。そして、命令書を出して私に見せた。そこで私は自分の書いた書状をすぐ君に見せた。また、それから、船が帰って来ると、君は、この……」とアラミス、ポルトスの二人を指さして「二人の人達の返辞をことごとく聞いた。つまり、君の命令書に指定してあることは、十分に執行されたわけだね?」
「はい、確かに、さようであります。しかし……」と士官はどもった。
「君は」とダルタニャンは激昂《げっこう》しながら、言い続けた。「君は私がベル・イルに渡ろうと言ったとき、同行を要求した。私はためらわずに、こうして君をいっしょに連れて来た。君は今、ベル・イルに来ているな?」
「はい、さようであります。しかし……」
「しかし……もはや君にこうした命令をあたえたコルベール殿との問題ではない。今では、ダルタニャンの行動を妨げる君と、三十尺下を海水が洗っている石段の上に立っておるダルタニャン個人との問題だ。君の立場はたいへんまずい立場だよ!」
「しかし、隊長」と士官はほとんど恐れるように、びくびくしながら言った。「もし自分が隊長の行動を妨げるならば、それは自分の任務であります」
「君が私に侮辱を加えたのは、君の運が悪いのだ。私は君を命令する人達から、この償いを求めることはできない。私はその人達を知らんし、また知っていても、今は遥か遠くに離れている。ところが、君は私の掌中にある、よく言っておくが、私があすこにいる人達のそばへ行こうとして足を踏み出す場合、一歩でも私の後ろからついて来たら、この剣で君の頭をまっ二つに割って、海の中へ投げこむから、そう思い給え。うむ! 必ずやる! 必ずやるぞ! 私は生まれてから、怒ったのはこれでわずか六回だ。そして今までの五回は、五回とも、相手を殺しているのだ」
士官は身動きもせず、この恐ろしい威嚇《いかく》にまっさおになった。そして簡単に、「自分の命令の執行を妨げられるのは、貴官がまちがっております」と答えた。
ポルトスとアラミスは胸壁の上から、無言のまま身をふるわせながら見ていたが、銃士長に叫んだ。
「ダルタニャン、気をつけろ!」
ダルタニャンは無言でいろと合図して、石段を一段のぼるために、静かに片足を上げた。そして剣を握ったまま、士官が後ろからついてくるかどうか見ようとして、振り返った。
士官は十字を切ると、進んで来た。
ポルトスとアラミスはダルタニャンの早業を知っているので、思わずあっと叫んで、その一撃をとどめようとして、駆け降りた。
しかしダルタニャンは剣を左手に持ち替えて、「君」と感動した声で、士官に向かって言った。
「君は勇敢な男だ。それだけに、今私が言おうとすることがよくわかるだろう」
「うかがいます、ダルタニャン殿」とこの勇敢な士官が答えた。
「君が命令により会談を妨げようとする人達は私の親友だ」
「知っております」
「私が君の受けている命令どおりにこういう友人を扱ってよいものか、どうか。それは君にもわかるだろうな」
「貴官の不自由なことは、よくわかります」
「それなら立会人なしで、話をすることを許してくれんか」
「ダルタニャン殿、自分は貴官の要求に応じれば、自分の誓約を破ることになります。けれども、それに応じなければ、貴官に迷惑を掛けるわけであります。自分は進退きわまりました。しかし、どちらかと言えば、貴官に迷惑を掛けたくはありません。さあ、どうか親友とお話しください。自分は尊敬する貴官のために、あえて恥ずべき行動をとります。どうぞ、この自分を軽蔑《けいべつ》なさらんでください」
ダルタニャンは非常に感動して、この若い士官を抱擁し、それから親友のいるところに登って行った。
士官はからだにマントをまとったまま、湿った海の藻がいっぱい散らばっている、石段の上に腰を下ろした。
「ねえ、おれの立場は、ああいう次第だ。察してくれ」とダルタニャンは友人たちに言った。
彼らは抱擁し合った。三人はかつて血気盛んだったころにやったように、互いに抱き合ったのだ。
「なんだって、そんなにいろいろの手数をかけるのだ?」とポルトスが聞いた。
「それは、君にもうすうすわかっているはずだが」とダルタニャンが答えた。
「さっぱりわからん。なぜかと言って、おれは何もしはせぬ。また、アラミスにしても、そうだ」
とポルトスはせかせかしながら、こう言いだした。
ダルタニャンはうらめしそうな眼つきで、ちらりとアラミスを眺めた。これには、さすが冷酷なアラミスもまいって、「ポルトス、君は!」と叫んだ。
「君たちに対して、どんな方法が講ぜられておるか、もうわかっているだろう」とダルタニャンは言った。「ベル・イルの方面から来たいっさいのものは抑留されるのだ。また、ベル・イルに向かうものもことごとくさしおさえられる。島の船は一艘《いっそう》残らず拿捕《だほ》されている。もし君たちが逃亡を企てたら、早速巡洋艦に捕えられるのだ。巡洋艦は海上を四方八方に走り回って、君たちを監視している。陛下は君たちを捕縛しようとされている。どうでもつかまるぞ」
ダルタニャンは白髪まじりの口髭をむしるように引っ張った。
これを聞いて、アラミスはすっかり憂鬱《ゆううつ》になった。そしてポルトスは大いに憤慨した。
「おれの考えはこうだった」とダルタニャンが続けた。「君たち二人を船に呼んで、おれのそばに置いて、折りを見て自由にしてやろう、とこう考えたのだ。が、もう今では、おれよりも上の人間が任命されていぬとは断言できん。おれの指揮権を取り上げる秘密命令が出ていぬと、誰が保証できよう。ほかの人間が指揮することになれば、おれも君たちも、もう見こみはないのだ」
「我々はベル・イルに踏みとどまらなければならん」とアラミスは断固として言い放った。「私は容易なことでは降参せぬと答えるばかりだ」
しかしポルトスは何も言わなかった。ダルタニャンはこの友人の沈黙に気がついた。
「おれについて来た、あの士官を試してみよう。あの男の勇敢に抵抗した態度が、おれは実に嬉《うれ》しい。人間が正直な証拠だからな。敵とは言いながら、意気地のない味方よりも、何百倍も優っているかわからんからな。あの男がどういう命令を受けているか、一つ試してみよう」
「うむ、試してみたほうがいい」とアラミスが答えた。
そこでダルタニャンは胸壁のところに行って、波止場の石段の方にからだを乗り出して、士官を呼んだ。士官はすぐのぼって来た。
「君に尋ねるが、私がこの二人をここから連れ出そうとしたら、君はどうするか?」と互いに心からの挨拶《あいさつ》を交換してから、ダルタニャンはこう聞いた。
「自分は反対しませんが、しかしお二人を厳重に監視せよという命令でありますから、自分はお二人を監視します」
「うむ、そうか!」とダルタニャンは言った。
「万事休すだ!」とアラミスが低くつぶやいた。
ポルトスは身動きもしなかった。
「だが、ポルトスは連れて行ってくれ」とアラミスが言った。「この男は今度の事件には何の関係もないということを国王に証明することができる。私も口添えをする。ダルタニャン、君も口添えしてくれるだろう」
「そうか!」とダルタニャンが言った。「ポルトス、君は来たいか? おれといっしょに来るか? 陛下はお慈悲深いぞ」
「しばらく考えさせてくれ」とポルトスは鷹揚《おうよう》に答えた。
「では、君たちはここにとどまるのだな?」
「新しい命令が来るまでは」とアラミスは元気に叫んだ。
「名案の浮かぶまでか」とダルタニャンは言った。「それも長くはかからん。おれにはすでに一案が浮かんでいるからな」
「それでは別れるとしよう」とアラミスが言った。「ポルトス、君は行くのがほんとうだぞ」
「いや、行かん」とポルトスは無愛想に答えた。
「それは君の勝手だ」とアラミスは少し腹を立てて言った。「ただ、私はダルタニャンがああ言ってくれるから安心だ。私には、その案がわかったような気がする」
すると、ダルタニャンはアラミスの口許《くちもと》に耳を持っていって、「何だ、言ってみい!」と言った。
そしてアラミスが何か早口に言うのを聞いていたが、
「そうだ、そのとおりだ」と答えた。
「確かだ」とアラミスは嬉しそうに叫んだ。
「そうと決心した以上は、十分覚悟しておけよ、アラミス」
「心配させるな!」
「では、君」ダルタニャンは士官に向かって言った。「ありがとう! 深く感謝する! 君は生涯の友を三人こしらえたわけだ」
「そうだ」とアラミスが言った。
ポルトスは何も言わずに、ただ頭を下げた。
こうして、ダルタニャンはやさしく二人の年とった友を抱き締めてから、コルベールの旨を受けた、この切っても切れぬ親しい同僚と連れ立って、ベル・イルを去った。
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五三 ダルタニャンの構想
ポルトスが納得した説明を除いては、彼我の運命には何一つ変化がなかった。
「ただダルタニャンの考えだけだ」とアラミスは言った。
ダルタニャンは自分の胸に浮かんだ構想を深く研究しながら、帰船していった。ダルタニャンの習慣として、物事を研究するときは、徹底的に明瞭《めいりょう》になるまで考えるのが常であった。
かの士官は、再び沈黙を守って、ダルタニャンに瞑想《めいそう》する時間をあたえた。
ダルタニャンはベル・イルの大砲の着弾距離内に停泊している彼の船に帰ると、攻防両方面のあらゆる手段を講じたうえ、ただちに会議を召集した。
この会議は彼の指揮下にある将校たちによって構成されていた。この将校は次の八名であった。すなわち、海軍力長官、砲兵指揮の陸軍少佐、工兵の将校、すでに我々が知っている例の士官、それに四名の副官より成っていた。
会議は船尾の一室で開かれた。ダルタニャンは立ち上がって、帽子をとると、すぐに次のように言った。
「諸君、本官はただいま、ベル・イルを視察して来たが、あそこには非常に強力なる屯営部隊がおり、そのうえ防戦準備もすでに完了しておる。そこで本官は要塞《ようさい》の主だった二名の将校をこちらに呼ぼうと考える。彼らをその軍隊と大砲より遠ざければ、談判もずっと有利に、やりやすくなるであろう。ところで、諸君、諸君の考えはどうであるか?」
砲兵指揮の陸軍少佐が立ち上がった。
「隊長殿」と彼は尊敬の念をもって、しかも断乎《だんこ》たる決心をもって言った。「私はただいま、隊長殿より、要塞が攻撃軍を悩ますほどの防戦準備を整えていることをうかがいました。しかし、隊長殿もご承知のとおり、この要塞は反乱軍に属しているのではありませぬか?」
ダルタニャンはこの返辞には、ひどく機嫌を損じられたが、こんなことぐらいで落胆するような人物ではなかった。彼は再び次のように言った。
「少佐、君の今の答えは正しい。しかし、貴官はベル・イルがフーケ殿の領地であり、昔から、ここの領主は、国王より、要塞を設けてよいという許しを得ているのだ」
少佐は口をさしはさもうとした。
「いや、口を出さないでくれ」とダルタニャンは続けた。「貴官はこの武装の許しが英国に対してであって、国王に対してではないと言うのだろう。しかし現在ベル・イルを守備しているのはフーケ殿ではない。というのは、フーケ殿は一昨日、本官が逮捕したからだ。ところが、島の住民や防備軍は、閣下が逮捕されたことを知らん。だが、たとえ貴官がこの事実を島に知らせても、むだであろうと思う。なぜならば、それはあまりに思い掛けぬ、言語道断なことであり、異例に属することで、貴官の言うことなぞは全然信用されないからだ。ブルターニュの男は、その主人だけに仕えて、大勢の主人には仕えない。だからフーケ殿の遺骸《いがい》を見ていないブルターニュ人は、フーケ殿の命令を受けていないことに対して、ことごとく抵抗するのは驚くにあたらぬことだ」
少佐はもっともだというしるしに、頭を下げた。
「こういう次第だから」とダルタニャンは続けて言った。「本官はこの船に守備軍の主だった将校二名を連れて来るように提議したい。諸君、そうすれば、彼らはわが兵力をまのあたりに見て、反抗した場合、彼らの運命がどんなものだか、とくと認識することだろう。こうしておいて、我々は彼らに、フーケ殿がとらわれていること、並びにあらゆる抵抗が不利であることを教えるのだ、もし一発でも砲門を開けば、国王陛下のご慈悲は期待できないと宣告するのだ。こうすれば、必ずや彼らは抵抗しないだろう。そして戦わずして、彼らは開城し、むだな犠牲を払わずに、要塞を取ることができるのだ」
すると、ベル・イルまでダルタニャンに同行した、例の士官はダルタニャンの言葉をさえぎろうとした。しかしダルタニャンはこの士官をおさえて言った。
「うむ、私は君が言おうとしていることを知っている。陛下がベル・イルの防備揮と秘密に通信することをことごとく禁じられたことは、私もよく承知しておる。だから、私は幕僚《ばくりょう》諸君の面前で、通行するように提議しているのだ」
そしてダルタニャンはこの寛大な処置を有利にしようとして、頭で合図をしながら、将校たちに同意を求めた。
将校たちは互いにその眼の中に、意見を読みとろうとして顔を見合わせた。そして一同は明らかにダルタニャンの希望どおりに、満場一致で可決しようとしていた。また、ダルタニャンはそのようすを見て、賛成の結果は、ポルトスとアラミスに対して船が迎えに行くことになろうと、喜んでいた。ところがそのとき、例の士官が一通の封印した書面を懐中から引き出すと、それをダルタニャンに手渡した。
この書面の上書には、第一号と記してあった。
「これは何だ?」と驚いた銃士長はつぶやいた。
「お読みください」と士宮は悲しそうに、しかも丁寧な調子で言った。
ダルタニャンは半信半疑で、手紙を開封すると、次のような文言を読んだ。
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ダルタニャンに対する禁止命令
貴下は、ベル・イルが開城し、禁固されたる者が武器を手渡さざる限りは、いかなる会議も召集すべからず、またいかなる態度も決定すべからざること
ルイ(自署)
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ダルタニャンはぐっと全身の勇を奮《ふる》って、癇癪《かんしゃく》をおさえ、愛想よくほほえみながら、「よろしい、陛下のご命令に従いましょう」と言った。
この打撃は苛酷《かこく》な、致命的なものだった。ダルタニャンは王の考えに先を越されて、非常に腹を立てたが、しかし絶望したわけではなかった。彼はベル・イルから持って帰った構想を、今一度練りながら、二人の親友を援助する新しい方法を考えた。
「諸君」と彼は急に口をきった。「陛下が本官以外の者にこうした命令を伝えられましたからには、私に対する陛下の信頼は、すでにないものと拝察します。そして実際、本官がともすれば侮辱《ぶじょく》的な疑いをかけられる指揮官の地位にこのままとどまることは、本官としても耐えられぬことである。よって、本官はただちに陛下に対し、辞職を願い出るつもりであります。本官は諸君に対して、陛下が本官に委託せられたる兵力を危くせざるために、本官とともにただちに、フランス海岸まで引き上げるように厳命する。こういう次第であるから、諸君は自分の部屋に戻り、帰還命令の遂行に努力されたい。今より一時間は満潮である。諸君、部署につきたまえ!」と言った。そして監視の士官を除き、全員がこれに従ったのを見て、彼は士官に向かってこうつけ加えた。「貴官の手許に、何かこれに反対するような命令を持っているかね?」
こう言いながら、ダルタニャンはほとんど勝ち誇ったような気持でいた。この計画は親友に対する救助だった。封鎖は解かれ、ポルトスとアラミスは何の不安もなく船に乗り、イギリスかスペインに向かって航海することができるからだ。そして彼らが逃亡しているあいだに、ダルタニャンは国王の許におもむき、コルベールの疑心が彼に対して惹起《じゃっき》した憤激によって、自分の帰還が正しいことを表わそうとした。そのうえ、再び王からベル・イル派遣の命令を受け、飛び立った鳥を捕えずに、空《から》の籠《かご》である同島を占領しようというのだった。
しかしこの計画に対して、例の士官は国王の第二の命令書を出して反対した。それには次のように認《したた》めてあった。
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ダルタニャンが辞職を申し出た場合には、彼はもはや派遣軍の指揮官ではなく、彼の指揮下にある全将校はその命令に従う必要なし。なおまた、ベル・イル攻撃軍の司令官の職を剥奪《はくだつ》されるダルタニャンはただちにフランス本国に向け出発すべし。しかしてこの使命を命ぜられた士官は彼に同行し、彼を監視すべきこと
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ダルタニャンはまっさおになったが、こんなことぐらいは意に介しなかった。彼は肱杖《ひじづえ》をつきながら、思案にふけって、ほっと吐息をついた。
「この命令書を懐中にしまっておきさえすれば、誰もその内容を知らぬし、おれの行動を妨げる者はなかろう」と彼は考えた。「国王にこれが報告される前に、おれはあの二人の可哀《かわい》そうな男達を救うことができるだろう。そうだ、大胆に実行するのだ! 王の命令に従わないからといっておれの首が、そうむざむざ首切り役人に落とされることもあるまいて。なにしろ、この命令には従わないことにしよう!」
しかし、彼がこう決心を固めたとき、彼は周囲の幕僚たちが、コルベールの旨を受けたこの陰険な代表者によって配布された、同じ命令書を読んでいるのに気がついた。
命令書に従わないことも、他の場合と同じように、あらかじめ考慮されていたのだった。
「ダルタニャン殿、本官は貴官が帰還になるかどうか、貴官のお考えをうかがいたいのであります」と例の士官がダルタニャンに言った。
「いつでも帰還するつもりだ」と銃士長は歯ぎしりをしながら答えた。
士官はすぐボートを呼んだ。やがてボートはダルタニャンを収容するために到着した。
「一体これから、この多くの軍隊を指揮するのはどういうふうにするのだ?」とダルタニャンはどもりながら言った。
「貴官はお帰りください」と海軍指揮官は答えた。「陛下より艦隊をお預かりしたのは私でございますから」
「では」とコルベールの旨を受けた士官は、この新しい司令官に向かって言った。「自分に託されました最後の命令書をお渡しするのは貴官ですな。貴官の委任状を見せてください」
「これです」と司令官は国王の署名を示した。
「これがあなたへの訓令であります」と士官は書状を手渡しながら言った。それからダルタニャンの方を向くと、「さあ、ダルタニャン殿」とこの鉄のような精神を持った人物が失望落胆しているのを見て、士官は哀れを覚えた声で言った。「どうか、私に出発の許可をお出しください」
「よし、ただちに出発」とダルタニャンは執念深い、なんともできぬ事態に遭遇して、非常に落胆しながら、低い声ながらもはっきりと言った。
そして彼は小さな船に乗りこんだ。船は上げ潮を利用し、順風に送られてフランスに向かった。王の護衛兵が彼と同船していた。
しかしまだダルタニャンは、早くナントに到着すれば、王の同情をひくように、親友たちの立場を滔々《とうとう》と弁護することができるだろうと思っていた。
船は燕《つばめ》が飛ぶように、速く走っていた。ダルタニャンは夜の白い雲の上に、フランスの陸地がはっきりと描き出されているのを見ていた。
「おい君!」と、もう一時間も話をしなかった士官に向かって、ダルタニャンは低い声で言った。
「新しい指揮官にあたえた訓令の内容を教えてもらうには、君に幾らあげたらいいのだ! それは友好的なものだろうな?……」
彼がこう言い終わらないうちに、遥かかなたで、大砲の音が一発、海上に響き渡った。続いて、もう一発、いっそう激しく二発、三発と。
「ベル・イルに対して砲火を開きました」と士官は答えた。
ボートはフランスの海岸に着いたばかりだった。
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五四 ポルトスの父祖
ダルタニャンが島から去ると、アラミスとポルトスの二人は心おきなく話をするために、主要|堡塁《ほうるい》へ戻って来た。アラミスはどうやら肩の重荷をおろしたような気持であったが、それでもポルトスが相変わらず心配そうにしているのが、気にかかった。
「ポルトス」彼は突然に言った。「ダルタニャンの考えを説明して聞かせよう」
「どんな考えなのだ、アラミス?」
「十二時間以内に、我々を自由のからだにしてくれるというのだ」
「ほんとうか!」とびっくりしたポルトスが言った。「さあ、聞かしてくれ!」
「君も気がついたろうが、あの士官の監視つきだったダルタニャンは、ある命令にしばられて、我々のことが思うようにならん」
「うむ、それは、おれも気がついた」
「そうか。それでダルタニャンは国王に辞職を願い出ようというのだ。彼がいなくなると、部下の連中が狼狽《ろうばい》する。その騒ぎにつけこんで、我々は逃げようというのだ。というよりも、君が逃げるのだ」
するとポルトスは頭を振って答えた。
「おれたちはいっしょに逃げよう、アラミス。さもなければ、いっしょにとどまろう」
「君の心持はありがたい。ただ、そう心配そうにふさいでいられると、私はつらいのだ」とアラミスが一言った。
「おれは何も心配してはいないぞ」とポルトスが答えた。
「それでは、私のことをうらんでいるのか?」
「いや、うらんでなんかいないぞ」
「では、どうして、そんな悲しそうな顔をしているのだ」
「言って聞かそうか。おれは遺言を考えているのだ」
こう言うと、ポルトスは寂しげに友の顔を眺めた。
「遺言?」とアラミスは叫んだ。「では、君はもうだめだと思っているのか?」
「おれは疲れを感じている。こんなことははじめてじゃ。おれの家には、代々習わしがあってな」
「どういう習わしだ、兄弟!」
「おれの祖父は、おれよりも二倍も強い男じゃった」
「ほほう!」とアラミスが驚いて言った。「では、君の祖父さんはサムソンだね?。」
「いや、アントワンヌという名だ。祖父がおれぐらいの年齢のときだて。ある日、狩りに出ようとすると、脚がだるい、生まれてからくたびれたなどということは、全くなかったのじゃが」
「それで、どうした?」
「よいことはなかったのさ。脚がだるいと言いながら、狩りに行ったのだ。すると野猪《いのしし》が祖父を目がけて飛んで来た。祖父は一発放したが、弾ははずれて、野猪の牙《きば》にかかって、間もなく死んでしもうたのだ」
「何も、ポルトス、それで君が心配することもなかろうが」
「いや、まあ聞いてくれ。おれの親父も、おれの二倍も強い男だった。アンリ三世と四世の二代に仕えた剛勇の聞こえの高い武士だった。彼の名はガスパールといった。いつも馬に乗っていて、ついぞからだがだるいなどと言ったことはなかった。ところが、ある日の夕方、食事をすませて立とうとすると、脚がどうも変だ」
「晩飯をあまり食べ過ぎたのだろう?」とアラミスは言った。「それでよろよろしたのだよ」
「いや、違うよ、親父はこのだるさに驚いたが、それでも寝床にはいるかわりに庭に降りようとしたのだ。すると階段が急だったので、脚をすべらして、ころがり落ちてしまったのだ。そして鉄の蝶番《ちょうつがい》に頭をひどくぶっつけて、そのまま死んでしもうたのじゃ」
アラミスは眼をあげて、ポルトスを見ながら、「それは二つとも特別の事情だ」と言った。「二度あったから、三度あるなどと思うのは、剛気《ごうき》な君にも似合わぬことだて。それに、君はいつ脚が弱った? 君はそれ、盤石のように立っているではないか。その勢いでは、まだ一軒の家ぐらいは背負って立てるぞ」
「今は幾らか元気だが、ときどき妙なんだ。近ごろこんなことが四度もあったよ。しかし、おれは何も恐れはせん。だが愉快でもないわい。生きているほうが気持がよいからな。おれには金もあるし、立派な領地もあるし、可愛《かわい》がっている馬もおるでな。それに仲のよい友達もおるて。ダルタニャン、アトス、ラウール、それに君だ」と言った。
アラミスは友の手を堅く握って、「我々は、まだ何年も何年も生きながらえて、立派な武人の型を世に残すのだ」と言った。「君のからだは私にまかせろ。ダルタニャンから何の便りもないのは、ことがうまく運んでいる証拠だ。軍艦を集めて、引き上げるように、命令を下したに相違ない。私は私で、もうさっき、ロクマリヤの洞穴《ほらあな》の口まで、小船を一|艘《そう》、転子《ころ》でころがしていくように命じておいた。君も知ってるだろう、たびたび狐狩りに行って待ち伏せをした場所を」
「うむ、知っている。いつぞやすばらしい狐を逃がしたときに、見つけた抜け穴だろう」
「そうだ、万一不幸な事態が起こった場合にと思って、あの洞穴に小船を一艘隠しておくのだ。舟さえあそこにあれば、都合のよいとき、夜陰に乗じて、海上に逃げることができるからな!」
「それは、うまい考えだ。しかし、どういうわけだね?」
「それはこういうわけだ。あの洞穴の入り口は、この島の二、三の猟師と我々を除いては、誰も知ってはいないから、もし島が占領された場合、偵察に来た敵兵は浜辺に船の影がないのを見て、よもや我々が逃げ出したとは思うまい。そして監視の眼をゆるめるに相違ない」
「なるほど、わかった」
「それで、君の脚は?」
「うむ、今はなんでもないぞ!」
「どうだ、このとおり、いっさいが我々に休息と希望をあたえる。ダルタニャンは軍艦をすっかり引き揚げてくれるしな。我々を自由のからだにしてくれるのだ。もう国王の艦隊の来襲を恐れることはない。ポルトス、我々は、これからまだ五十年も生きて、すばらしい冒険をやるのだ。もし私がスペインに上陸さえすれば」とアラミスは力強い調子で言いだした。「君が公爵の位をもらうことも、そうむずかしいことではないよ」
「希望を持とう」とこの友人の新しい情熱によって、再び快活になったポルトスが言った。
そのとき、突然に、「戦闘準備!」という叫び声が彼らの耳に響いた。と、続いて幾十人の咽喉《のど》からも、同じ叫び声が起こった。
アラミスが部屋の窓をあけてみると、大勢の者が松明《たいまつ》を持って走って行く。女子供は右往左往に逃げ回って、避難場所を捜している。武装した男たちは、各自の持ち場へと急いで駆けつけていた。
「艦隊であります! 艦隊であります!」と一人の兵士がアラミスを見つけて叫んだ。
「艦隊だって?」とアラミスが繰り返して言った。
「着弾距離の半分以内に来ております」と兵士は続けて言った。
「戦闘準備!」とアラミスがどなった。
「戦闘準備!」とポルトスが恐ろしい大声で繰り返してどなった。
二人は砲台の背後にある掩護物《えんごぶつ》の下に、身を避けるために波止場の方へ駆け出した。
海には敵兵を満載した幾隻かのボートが近づいて来るのが見えた。
「どういう処置をとりましょうか?」と守備隊の一士官が聞いた。
「上陸を制止せい! もし肯《き》かなければ、砲撃しろ!」とアラミスが言った。
五分の後には、砲撃が開始された。
ダルタニャンがフランスの海岸近くで聞いた轟音《ごうおん》こそ、この砲撃の響きだった。
敵軍のボートがあまりに波止場に接近していたので、砲の照準が正確に行かなかった。逆に敵が上陸して来て、白兵戦が開始された。
「ポルトス、どうかしたか?」とアラミスが親友に聞いた。
「何でもない……ただおれの脚が……どうもへんだ……なあに、突貫すればよくなる」
ポルトスとアラミスの二人は非常な勢いで、敵の中へ突進した。これがために味方の兵士の士気が大いに鼓舞された。国王の軍隊は何の得るところもなく、狼狽《ろうばい》して再び海上へ引き揚げて行った。
「おい、ポルトス!」とアラミスが叫んだ。「捕虜の一人を捕えにゃいかん。早く、早く」
ポルトスは波止場の石段の上に身をかがめて、乗船の番を待っていた一士官の襟首を引っつかんだかと思うと、軽々とこの犠牲をつり上げて、弾除けの代わりにしながら、さっさと引き返して来た。
「さあ、捕虜を連れて来たぞ」とポルトスはアラミスに言った。
「よし」とアラミスは笑いながら叫んだ。「君は自分の脚の悪口を言っていたではないか!」
「なあに、脚で捕えたのじゃない」とポルトスが悲しげに答えた。「腕で捕えたのさ」
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五五 ビスカラアの息子
島のブルターニュ人たちはこの勝利で、すっかり鼻を高くした。しかしアラミスはこうした彼らの気分を奨励しなかった。
彼はポルトスに向かって言った。
「王軍が引き揚げて、この島の抵抗ぶりを国王に言上すれば、国王は非常に立腹するぞ。今度占領されてみろ、勇敢な島民たちはみなごろしにされるか、焼き殺されてしまうかだ」
「それでは、おれたちは無益なことをしただけか?」とポルトスが言った。
「だから、そのために捕虜を捕えたのではないか。あの男から敵がどんなことをたくらんでいるかわかるだろう」とアラミスが答えた。
「そうだ、あの捕虜に聞けばいいのじゃな」とポルトスが言った。「あの男の口を割るによい方法があるて。おれたちがあの男を晩餐《ばんさん》に招待するのじゃ。一杯やれば、自然口も軽くなって話すじゃろう」
そこでその方法がすぐ実行に移された。若い士官は初めのうちこそ不安なようすであったが、相手の人物がわかって来ると、すっかり安心してしまった。彼は厳罰に処せられることも意に介せずに、ダルタニャンが指揮官を辞職して、フランスに送還されてしまった経緯、またその後、新しい司令官によってベル・イル攻撃の命令が下されたことなどを逐一《ちくいち》物語ったのだった。
アラミスとポルトスは絶望の色を浮かべて、互いに顔を見交わした。もはやダルタニャンの知謀にたよることができなくなったのである。
それからなおも尋問《じんもん》を続けながら、アラミスはこの捕虜に、ベル・イル攻撃の指揮官はどんな命令を受けているか聞きただした。
「戦闘中はもちろん、占領後は絞首刑にせよという命令でした」と士官は答えた。
アラミスとポルトスは再び顔を見合わした。
「絞首刑にするには、私は軽過ぎるよ」とアラミスが答えた。「だから私みたいな男は首をくくれない」
「ところがおれのほうは重過ぎるのだ」とポルトスが言った。「おれのような男にかかっちゃ、綱が切れちゃうじゃろう」
「いや、死に方はあなた方の選択にまかせましょう」と捕虜は優雅に答えた。
「厚意はかたじけなく存ずる」とアラミスがまじめくさって言った。
ポルトスはうやうやしく頭を下げると、「貴官の健康を祝して、もう一杯飲みましょう」と自分から杯を干しながら言った。
談話はそれからそれへと続き、晩餐は長引いた。士官は機知に富んだ貴族だったから、だんだんとアラミスの才知と、ポルトスの隔てない温厚な人柄に魅せられて行った。
「失礼ですが」と彼は言った。「私は一つお尋ねすることがあります。もう六本めをやっているのですから、少しはぶしつけになってもよろしいでしょうな」
「言ってみ給え」とポルトスが言った。
「話してみ給え」とアラミスも言った。
「あなた方お二人は、先王陛下の銃士をおつとめになった方ではありませんか?」
「そうじゃ、銃士中では錚々《そうそう》たる者だったよ」とポルトスが答えた。
「実際です。私はあなた方を武士の鑑《かがみ》と言いたいですよ。こんなことを口にしたら、父の霊を怒らせるかもしれないですが」
「お父上の?」とアラミスが叫んだ。
「私の名をご存じですか?」
「いや、知らん、しかし言ってみなさい」
「私はジョルジュ・ド・ビスカラアと申します」
「あっ!」とポルトスが叫んだ。「ビスカラア! 君はこの名前を覚えているかい、アラミス?」
「ビスカラアと?……そう言えば……」とアラミスは考えた。
「思い出してみてください」と士官が言った。
「うむ、おれはすぐ思い出せるぞ」とポルトスは言った。「ビスカラアは確か枢機官付の護衛士だったなあ……おれたちがダルタニャンと近づきになった日に、おれたちと勝負した四人の中の一人だよ」
「そのとおりです」
「おれたちがかすり傷も負わすことができなかった唯一の強《ごう》の者だったな」とアラミスが言った。
「すると、立派な剣の使い手でしたね」と捕虜が言った。
「いや、ビスカラア君、あのような勇士の令息と近づきになれたのは、まことに愉快だ」と二人の友は異口同音に言った。
ビスカラアは二人の前銃士のさし伸べる手を堅く握り締めた。
「この男は我々を助けてくれるぞ」と言わぬばかりに、アラミスはポルトスの顔を眺めてから、機を逸せず士官に、「君、人間は一度は善行を施すものだということを認めてください」と言った。
「父も常にそう申しておりました」
「銃殺か絞首刑にきまった人間に、偶然落ち合ってみると、それが因縁の深い知人だった。こういうことは人生の悲惨事だということをなお認めてください」
「いや、あなた方はそんな恐ろしい運命とはきまっていません」と若い士官は熱心に言った。
「だが、君はさっきそう言ったが?」
「それは、あなた方を知らなかったときのことです。が、今はあなた方を存じているので、私は申します。希望さえあれば、この悲惨な運命を避けられるのです」
「何、希望さえあれば?」とアラミスは眼を輝かして、士官とポルトスの顔を等分に見比べた。
するとポルトスが凛《りん》とした態度で、「だが、ビスカラア君とアラミス、我々は体面をよごすようなことを要求されるのでは困る」と続けて言った。
「何もあなた方に要求しません」と王軍の貴族は言った。「彼らはあなた方を見つければ、殺すにきまっています。だから、見つけられぬようにしたら、いかがです?」
「おれの言うことはまちがっていないと思う」とポルトスが威厳をもって言った。「見つけたいと思うなら、向こうから出て来て、おれたちを捜すのが当たり前だ」
「それは君の言葉が正しい」とアラミスは答えて、ビスカラアの顔色をうかがった。若い士官は沈黙した。そして何かに束縛されているようだった。「ビスカラア君、君は我々に何か提案しようと思うていなさるが、それが思い切ってできないのでしょうな?」
「ああ! それを言うと、合言葉をもらすことになるのです。しかし、あれをお聞きなさい。あの声は僕の声を圧倒します。僕はもうそれを言わないですみます」
「大砲だ!」とポルトスが言った。
「大砲だ! それに小銃も!」とアラミスが叫んだ。
遥か遠くの岩石に、大砲がとどろくのが聞こえた。それはすんだと思った戦闘のいまわしい音だった。
「あれは何だ?」とポルトスが聞いた。
「畜生!」とアラミスが叫んだ。「私はへんに思っていたんだ」
「何を?」
「さっきの君たちの攻撃は、我々を牽制《けんせい》する手段にすぎなかった。そうでしょうな? この方面では、わざと撃退されて、反対側の一地点から上陸する作戦だったのだ」
「いや、数か所からです」
「それでは、私たちはもうだめだ」とアラミスは穏やかに言った。
「だめかも知れん。しかし、おれたちは捕虜になっておらん。また首もくくられておらんのだ」
ポルトスはこう言うとテーブルを離れ、壁のところに行き、落ち着き払った態度で、剣と拳銃をはずすと戦闘におもむこうとする老練な武士として、念入りにそれを点検した。
砲声を聞くと、王軍によって島が占領されるかもしれないという、恐怖にかられた島民たちが、あわてて堡塁《ほうるい》に押しかけて来た。彼らは司令官に対して救護を求めに来たのだった。
アラミスは松明《たいまつ》の火に青ざめた、憔悴《しょうすい》した顔を照らされて、構内に面した窓のところに姿を現わした。そこは命令を待つ兵士と、救助を懇願する、狼狽した島民とでいっばいになっていた。
「諸君」とアラミスはおごそかな、よく響く声で言った。「諸君の保護者であり、諸君の友人であり、また、諸君の父でもあるフーケ閣下は、国王の命によって逮捕せられ、バスチーユの牢獄に投ぜられたのである」
激昂《げっこう》した群集の叫び声は、アラミスのいる窓のところまで届いた。
「フーケ様の仇《かたき》を打て! 王党の奴《やつ》らを生かしておくな!」と興奮した人々は口々に叫んだ。
「いや、諸君、抵抗してはいかん」とアラミスは荘重に答えた。「国王は王国の支配者だ。国王は神の委任を受けている方だ。国王と神とがフーケ閣下を打ったのだ。諸君は神の御手の前に頭を下げなければならない。復讐などということを考えてはいけない。諸君自身を、妻子を、財産を、また諸君の自由をむなしく犠牲にしてしまってはならない。諸君、武器を捨てなさい! 国王はそれを諸君に命じていられる。そして穏やかに諸君の家にお帰りなさい。私がお願いする。大臣閣下に代わってお願いする」
群集は忿怒《ふんぬ》と恐怖の叫び声をあげて、窓の下に殺到して来た。
「ルイ十四世の軍隊は、この島に上陸している」とアラミスは続けて言った。「今からは、もう彼らと諸君との戦いではない。諸君が抵抗すれば、大虐殺が行なわれるだろう、退却だ、退却だ。そして何事も忘れることだ。今度は、私は神の名によって諸君に命令する」
反抗していた者もしかたなしに沈黙して、そろそろと引き上げて行った。
「おお! おまえは今何を言っていたのかい?」とポルトスが言った。
ビスカラアはアラミスに向かって、「あなたは島の人々を救うことができたかもしれませんが、これではご自分も友人も救えません」と言った。
「ビスカラア君」とアラミスは荘重で慇懃《いんぎん》な調子で言った。「どうか再び自由のからだになってください」
「私もそう願っているのですが、しかし……」
「そうしてくだされば、我々は好都合だ。なぜなら、君は国王の代理者のところに戻られて、島民が帰順した旨を報告されたうえ、我々に何か恩典があるように斡旋《あっせん》してくださるだろうから」
「恩典!」とポルトスは眼を光らせて言った。「恩典! それはどういう意味だ?」
アラミスは荒々しく友の肱《ひじ》をつかんだ。それは彼らが血気のころ、ポルトスが何か失策をしようとすると、アラミスはいつもこうして警戒をあたえたものであった。ポルトスはこのとき、友の意を察して、すぐ黙ってしまった。
「行きましょう」とビスカラアは、この気位の高い前銃士の口から、「恩典」という言葉を聞いて、少し意外に思ったが、から返辞をした。
「では、君、行ってください」とアラミスは会釈《えしゃく》をしながら言った。「ここを立ち去られるに際して、我々の感謝の意を受けてください」
「しかし、私の親友となっていただいたあなた方は、そのあいだどうなさるのですか?」と父親のかつての敵であった二人に暇《いとま》を告げながら、士官は感慨無量の態《てい》で言った。
「我々はここで待っています」
「しかし……命令は明瞭《めいりょう》です!」
「私はヴァンヌの司教だ、ビスカラア君。まさか司教を殺すこともありますまい」
「なるほど、そうですな。あなたにはまだ、それだけの見こみがある。それでは司令官のところへ引き揚げます。さようなら、またお目にかかるでしょう!」とビスカラアは言った。
若い士官はアラミスがあたえた馬に飛び乗って、大砲の音のする方角へ立ち去った。
その後姿を見送って、アラミスは言った。
「どうだ、わかったかね?」
「いいや、わからん、何が?」
「あの男がじゃまではなかったかな?」
「いいや、勇しい男だ」
「うむ、しかし、ロクマリヤの洞穴《ほらあな》をさ、あれを世間中に知らせる必要があるかな?」
「ああ! そうか、わかった。そうだ、これから洞穴を抜けて逃げるのだな」
「君さえ承知なら」とアラミスが元気に答えた。「さあ、行こう。ポルトス。舟が待っている。我々はまだまだ国王にはつかまらんよ」
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五六 ロクマリヤの洞穴
ロクマリヤの洞穴というのは、波止場からかなり遠いところにあったので、二人はそこまで行き着くには、なかなか骨が折れた。それに夜もふけていた。出発前に十二時を堡塁の時計が報じた。ポルトスとアラミスは金と武器とを身に着けた。
彼らはわずかな物音にも気を配り、落とし穴をよけて通りながら、この洞穴と波止場のあいだにある草原の中を進んで行った。ときどき彼らは道路の左手にじっと隠れた。それはこの道路を王軍上陸の報を聞いて、奥地から出て来た人達が通るからだった。
アラミスとポルトスとは、岩陰に身をひそめて、気の毒な避難民の口からもれる言葉を立ち聞きしては、それによって何か自分らのためになることを知ろうとつとめた。
こうして途中何度か用心深く止まったが、とにかく急げるだけ急いで、彼らはついに目指す奥深い洞穴に着いた。その中には、アラミスがあらかじめおもんぱかっておいたとおりに、転子《ころ》の上にちゃんと小舟が用意されてあって、いつでも海まで運び出せるようになっていた。
「おい、まず着いたようだな」とポルトスは荒い息をはき出した後で言った。「だが、君の言った三人の供の男が見えんようだが、どこにいるのだ?」
「ここにはいるものか、ポルトス」とアラミスは答えた。「奴《やつ》らは洞穴の中で我々を待っているのだ。それに骨の折れる荒仕事をした後だから、一息ついているに違いない」
ポルトスが洞穴にはいろうとすると、それをアラミスが押し止めて、「兄弟、私を先にはいらせてくれ。私は合図を知っているからな。合図が聞こえないと、銃砲で撃つか、闇《やみ》の中で短剣を振り回さないとも限らないからな」
「それでは、行け、アラミス。君が先へ行け。君は知恵と用心の権化《ごんげ》だからな。ああ、また疲れが出て来た。前に君に言った奴が、また始まったぞ」
アラミスは洞穴の入り口にポルトスを残し、首をかがめて、梟《ふくろう》の鳴き声をまねながら、洞穴の中にはいって行った。
すると、物悲しそうな小さな鳴き声、ぼんやりと聞こえるくらいの叫び声が洞穴の奥から答えた。
アラミスはなおも一歩一歩用心深く進んで行くと、ほどなく初めに聞いたと同じような叫び声が聞こえたので、彼はぴたりと立ち止まった。すなわち、叫び声は彼の十歩前ほどから聞こえて来るのだった。
「イーヴか?」とアラミスが聞いた。
「はい、旦那《だんな》、ゴアンネックもここにおります。あれの倅《せがれ》もいっしょでございます」
「よし、用意はできているか?」
「はい、できております」
「イーヴ、おまえ、洞穴の入り口に行ってくれんか。ピエールフォンの御前が駆けて来たので、疲れて休んでいなさるから。そしてな、もし御前が歩けないようだったら、おまえがかついで、ここにお連れして来い」
三人のブルターニュ人はこの命令に従った。しかしアラミスが召使いたちにあたえた注意は不必要だった。元気を回復したポルトスはもう洞穴の中に降り始めていた。彼の重々しい足音は珪石《けいせき》や花崗岩《かこうがん》の柱にささえられた洞穴のあいだに、反響して聞こえてきた。
やがてポルトスがアラミスのそばまでやって来ると、ブルターニュ人達はかねて用意していた角灯に火をともした。ポルトスは、すっかり元気になったと言って、友を安心させた。
「さあ、小船の検査をしよう」とアラミスが言った。「第一に積んであるものを確かめなければならない」
「明かりをあんまり近づけてはいけませんよ」と船頭のイーヴが言った。「艫《とも》寄りの腰掛けの下に旦那様の指図どおり火薬の樽《たる》と小銃の弾薬を堡塁から運び出し、箱に詰めておいときましたで」
「よし、よし」とアラミスは言った。
そして自分から角灯をさげて、子細に船の各部を調べてみた。
船は長めの軽い船で、吃水《きっすい》が浅く、龍骨も細かった。船端は少し高くなっていて、水に対して堅固にできていた。舳《へさき》と艫《とも》の腰掛けの下に置いてある、密閉した二つの箱の中には、パン、ビスケット、乾燥果実、豚の膩肉《あぶらみ》、皮嚢《ひのう》に入れた飲料水など、航海にぜひとも必要ないっさいの食糧が詰めてあった。また、武器としては、八|挺《ちょう》の火縄銃と、同数の拳銃《けんじゅう》とが、全部|装填《そうてん》したまま、掃除も行き届いて用意されていた。それに万一の場合に備えて、櫂《かい》だの、三角帆《トランケット》と呼ばれる小さな帆だのが整備されていた。
アラミスはこうしたすべての品物を確かめ、検査の結果に満足しながら、
「さて、ポルトス、この船を出すのだが、これをずうっと降りて行って、まだ我々の知らない洞穴の向こうの端から出したものか、それとも外に出て転子《ころ》で海岸の道路の上をすべらせて行ったものだろうかな」
「それはどっちでもよろしゅうございますよ」と船頭のイーヴが答えた。「洞穴の勾配《こうばい》が勾配ですし、それに暗い所で船を扱わにゃなりませんで、それよりやっぱり外の方が、便利じゃないかと存じますよ。浜は私もよく存じておりますからね。あそこは庭の芝生のように平らでございますよ。ところが、洞穴の中にくると、凸凹がひどうございましてな。それに旦那、先へ行くと海に出る溝に出ますで、無事には通り抜けられまいと思われます」
「私はちゃんと見積りをしているんだ」とアラミスが答えた。「大丈夫、通れるよ」
「通れれば結構でございますがね」船頭は繰り返し主張した。「だが、旦那、溝のはずれに出るには大きな石をよけにゃなりませんぜ。あの下をいつも狐が通るのです。あの石が扉みたいに溝の口をふさいでおりますでな」
「そんなものを持ち上げるのは、何の造作もないことだ」とポルトスが言った。
「それはもう、旦那が百人力でおいでになることはよく存じております」とイーヴは答えた。「だが、そんなことをなさるのは、よけいなお骨折りでございましょう」
「なるほど、船頭の言うほうが正しいようだ」とアラミスが言った。「では、外の道を行くことにしよう」
「それに、旦那」と漁師はなおも続けた。「何しろ、やる仕事がたくさんありますから、夜明け前には船に乗りこむことはむずかしかろうと思います。日が出たらすぐに、洞穴の上の方に見張りを置いて、私たちをねらっている運送船や巡洋船の動きを監視しなければなりませんから」
「そうだ、イーヴ、おまえの言うとおりだ。崖《がけ》の上を通って行こう」
そこで、三人のたくましいブルターニュ人は船のそばに行って、その下に転子《ころ》を支《か》い始めた。そのとき、遠くの方から犬のほえる声が聞こえてきた。アラミスは洞穴の外に飛び出した。ポルトスもこれに続いた。
ちょうど黎明《れいめい》が波や野原を、ほのぼのと真紅《しんく》や螺鈿《らでん》の色に染めているところだった。薄明りの中に、寂しげな樅《もみ》の木が、小石の上にゆらゆらと揺れているのが見え、からすの群れがいくつか荒れた蕎麦《そば》畑の上を、その黒い翼でかすめるように飛んでいた。あと十五分もすれば、夜は全く明け放たれるのだった。目覚めた鳥がその歌によって生きとし生けるものに、それを嬉々《きき》として告げ知らせていた。
さきほど聞こえた犬のほえ声は、今度は洞穴から一リウほど離れた深い隘路《あいろ》から、響いてくるようだった。
「猟犬の群れだ」とポルトスが言った。「何か嗅《か》ぎつけたのだ」
「いま時分、誰が猟などをやっているのだろう?」とアラミスは不審《ふしん》に思った。
「ことにこんな方面でな」とポルトスが続けた。「王軍がいつ押しかけて来るかもしれんのに!」
「鳴き声がだんだん近くなる。ポルトス、君がいうとおり、犬は匂《にお》いを慕って来るのだ。しかし、イーヴ、ここに来て見ろ!」とアラミスが叫んだ。
イーヴは船の下に支《か》おうとしていた転子《ころ》をほうり出して、駆けつけた。
「今ごろ、猟をするのはどういうわけだ?」とポルトスが聞いた。
「どうもわかりませんな」とブルターニュ人は答えた。「ロクマリヤの殿様が今時分、猟をなさるわけはなし、だが、あの猟犬は……」
「犬小屋から逃げ出して来たのではないかな」
「いや、そうじゃありません」とゴアンネックが言った。「ロクマリヤの殿様の犬は、あすこにはいませんよ」
「いずれにしても用心にこしたことはない」とアラミスが言った。「洞穴に戻ろう。人の声も近くなったようだから、まもなくようすがわかるだろう」
彼らは再び洞穴の中にはいったが、暗がりを百歩も進まないうちに、動物のうなり声のような音が聞こえたかと思うと、一匹の狐が電光のように、彼らの前を走り抜けて、船の上を飛び越えて、洞穴の円天井《まるてんじょう》の下に、数秒も残るほどの激しい匂いを放って、姿を消してまった。
「狐だ!」とブルターこユの人達は猟師特有の驚喜の叫びを発した。
「運が悪いぞ!」とアラミスは叫んだ。「我々が隠れているのが見つかるわい」
「何だ?」とポルトスが言った。「狐をこわがっているのか?」
「いや、狐のことを心配しているのではない。ポルトス、君にはわからないか? 狐の後には犬が来るし、犬の後には人が来るんだっていうことを」
ポルトスは頭をたれた。
アラミスの言葉を証明するように、狐の後から恐ろしい速さでやって来る、猟犬のほえ声が聞こえた。
六匹の犬がそのとき、この小さな草原を勝利の喇叭《らっぱ》の音に似た鳴き声をあげながら走って来た。
「たくさんの犬だ」と二つの岩のあいだにある明かりのところで、ようすをうかがっていたアラミスが言った。
「今時分、猟をしているのは誰かな?」
「ロクマリヤの殿様ではございませんよ」と船頭が答えた。「あのお方なら、洞穴の中のことはよくご存じで、中におはいりになるようなことはございません。向こうの出口に回って、狐の出て来るのを待っていなさりますから」
「猟をしているのは、ロクマリヤの領主ではないとすれば」とアラミスはさっと顔色を変えて言った。
「それなら誰だ?」とポルトスが言った。
「のぞいてみろ」
ポルトスは明かり取りのところに眼を押し当てた。見ると、小さな丘の上に十二、三人の騎兵がいた。彼らは「うし! うし!」と叫びながら、猟犬の跡を追って進んでくるのだった。
「親衛隊だ!」とポルトスは言った。
「そうだ、兄弟、親衛隊だ」
「親衛隊でございますって?」と今度はブルターニュ人達がまっさおになりながら叫んだ。「ビスカラアが先頭に立っている、私の灰色の馬に乗って」とアラミスが続けた。
その時、猟犬は雪崩《なだれ》のように洞穴の中に殺到してきた。そしてあたり一面、かまびすしい犬の鳴き声でいっぱいになった。
「ああ、畜生!」とアラミスは叫んだが、この危険を見て、再び沈着を取り戻して言った。「もうこうなれば我々は破滅だが、しかし、唯一つのチャンスが残されている。それは親衛隊を洞穴に入れないことだ。もし入れたら、船も見つかるし、我々がここにいることも発見されてしまう。犬を外に出してはいかん。あの連中を中に入れてはいかんぞ」
「そうだ」とポルトスが言った。
「犬は六匹だが、多分、狐が通り抜けた大石のところで止まってしまうだろう。なにしろあの隙間《すきま》はあまりにせま過ぎるからな。だから、あそこで止まったときに殺してしまえ」とアラミスは正確に命令を下した。
ブルターニュ人達は手に手に短刀をかざして、飛びかかって行った。
二、三分すると、激しいほえ声と恐ろしいうなり声が一時に起こった。それから、すべてが沈黙に帰した。
「これでよし」とアラミスがひややかに言った。「今度は犬の主人達だ!」
「どういうふうにするか?」とポルトスが尋ねた。
「あいつらの来るのを待って、待ち伏せして殺《や》ってしまえ」
「殺ってしまうのか?」とポルトスが聞き返した。
「十六人いる。少なくとも、今のところでは」とアラミスが言った。
「そして、なかなかよく武装しておるぞ」とポルトスは慰めるように微笑しながら言った。
「十分ぐらいはかかるだろう。さあ、始めろ!」とアラミスが言った。
彼は決然としたようすで、小銃を手に取り、猟刀を口にくわえた。
「イーヴとゴアンネックと、ゴアンネックの倅《せがれ》は我々に銃を渡す役目だ」とアラミスは続けて言った。「ポルトス、君は敵がそばまで来たら撃て、少なくみつもっても、他の奴らが気づかないうちに、八人は殺せる。そうしたら我々五人で短刀をふるって、あと八人を片付けてしまおう」
「ビスカラアは? 可哀《かわい》そうだな」とポルトスが言った。
アラミスはちょっと考えていたが、「ビスカラアをまっさきにやるのだ」とひややかに答えた。「我々の顔を知っているから」
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五七 洞穴内の会見
占術《うらない》は、アラミスの得意とすべき方面であったが、しかし事件は思いがけなく起こった種々の事柄のために、アラミスの予想どおりには発展しなかった。
仲間よりもよい馬に乗っていたビスカラアは、いちばん先に洞穴の入り口に着いた。彼には、狐や犬がこの中にはいりこんだということはわかっていた。しかしまっ暗な穴の中に降りて行くのは、誰しも気味がよくない。そこで彼は洞穴へははいらずに、仲間の集まって来るのを待っていた。
「どうした?」と息せききってやって来た青年たちは、ビスカラアがぼんやり立っているのを見て尋ねた。
「うむ、犬の声がしない。あの狐も犬も、この洞穴の中で、どうかなったに違いない」
「あんなにうまく走って来たんだから、急に道に迷うようなことはあるまい」と親衛隊の一人が言った。「それに今まで鳴き声が聞こえていたのだから、やはりビスカラアの言うように、この洞穴の中にはいったに相違ない」
「しかし、それにしても、犬がほえないのは、どういうわけだ?」と青年の一人が言った。
「奇妙だな」とべつの一人が言った。
「とにかく、洞穴の中にはいろう」と四人めの男が言った。「だが、はいってはいけないのかい?」
「いやそうじゃないんだ」とビスカラアが答えた。「ただ竈《かまど》の中のようにまっ暗だから、首をへし折る心配がある」
「犬が証拠だ」と親衛隊の一人が言った。「奴らは首をへし折ったぞ」
「一体どうしたわけかな?」と青年たちは異口同音に言った。
そして各自、犬の名を呼んだり、口笛を吹いたりしたが、何の答えもなかった。
「この洞穴は魔の洞穴かもしれないぜ」とビスカラアが言った。
そして馬から飛び降りると、洞穴の中に一歩踏みこんだ。
「待て、待て、いっしょに行くから」と薄暗がりの中に姿を消そうとしているビスカラアを見ながら、一人の隊員が声を掛けた。
「いや、何か異変があるに相違ない」とビスカラアが答えた。「皆で一時に危険を冒すのは、よくない。十分たって僕の消息がなかったら、皆してはいって来てくれ」
「よし、では我々は待っていよう」とたいした危険もあるまいと思った青年達は言った。そこで、一同は馬に乗ったまま、洞穴の外側に円陣をつくった。
ビスカラアは単身洞穴の中に降り、暗闇《くらやみ》の中を進んで行った。そしてついにポルトスの銃の先にぶつかった。こんなぐあいに矢庭に胸をつかれたので、思わず手をあげて、ひやりとする銃身をつかんだ。その瞬間、イーヴが短刀を振り上げた。あわや、ビスカラアの上にその一突きが落ちようとした刹那《せつな》、ポルトスの鉄腕がぴたりとそれを止めた。
「おれはこの男を殺すに忍びん」
低い雷鳴のように、暗闇の中で、彼の声が鳴り響いた。
ビスカラアは保護と脅迫との間に板ばさみとなった。双方とも恐ろしさにおいては、ほとんど選ぶところがなかった。さすがに勇敢な青年も、叫び声をあげずにはいられなかった。がアラミスがすぐその口をハンカチでおさえた。
「ビスカラア君」とアラミスは低い声で言った。「我々は君に害意を持つものではない。我々だとわかったら、君はきっとこのことを信じるだろう。が、ちょっとでも口をきくと、またちょっとでもうなり声を出すと、我々は君達の犬を殺したように、君を殺さなければならない」
「うむ、あなた方だということはわかった」と低い声で青年は言った。「しかし、こんな所で何をしているんです? あなた方は堡塁《ほうるい》にいられるのかと思ってました」
「君は我々のために、斡旋《あっせん》してくれるはずだったが?」
「いろいろとやってみましたが、しかし……」
「しかし、どうしました?……」
「何ともできぬ命令が出ていますので」
「我々を殺せという?」
ビスカラアはなんとも答えなかった。がしかしアラミスはその意味を察した。
「ビスカラア君」とアラミスは言った。「さっき我々は君を逃がしてあげたが、今度も、この場で見たことを仲間に話さぬと誓うならば、逃がしてあげよう」
「私はそれを話さないと誓うばかりではありません」とビスカラアは言った。「できるだけのことをして、仲間はここにはいらせないようにしましょう」
「ビスカラア! ビスカラア!」と外から五、六人の呼ぶ声が洞穴の中に、旋風のように吹きこんで来た。
「返辞をしてやり給え」とアラミスが言った。
「ここにいるよ!」とビスカラアがどなった。
「さあ、行き給え、我々は君の誠意に信頼している」
こう言うと、アラミスはおさえていた手を離した。ビスカラアは急いで明るい外の方へのぼって行った。
「ビスカラア! ビスカラア!」と叫ぶ声がだんだんと近づいて来た。
ビスカラアは洞穴の中にはいろうとしている数個の人影を認めた。彼はこの連中を阻止しようと大急ぎで、その前に飛び出して行った。
アラミスとポルトスは自分たちの生命に関することなので、吹きこむ風に注意深く耳をそばだてた。
ビスカラアは仲間が集まっている洞穴の入り口に戻った。
「おや! 貴様はまっさおだぞ!」と仲間の一人が言った。
「おれがか? そんなことがあるものか?」とビスカラアは自分に元気をつけながら言った。
「何か、あつたな!」と一同が異口同音に言った。
「貴様の血管には、一滴の血もないようだぞ」とべつの一人が笑いながら言った。
「諸君、これはゆゆしきことだ」ともう一人が言った。「彼は気分が悪いのだ。塩を持っているかね?」
そして皆がどっと笑った。
いろいろの質問や、種々雑多な冗談がビスカラアの四方八方から、浴びせ掛けられた。
ビスカラアはこの質問の洪水の下で、元気を回復した。
「おれはどうもしないんだ。ただ洞穴にはいったときはとても暑かったが、さて中にはいると寒気がしたのさ。それだけのことだ」と言った。
「だが、犬はどうしたのだ? 犬は見つかったか? どうしたのか、わからんのか?」
「ほかの道を行ったらしいよ」とビスカラアは答えた。
「諸君」と青年の一人が言った。「ビスカラアがあんな青い顔をして、黙っているには、何か秘密があるに違いない。とにかく、彼が洞穴の中で何か見たことだけは確かだ。悪魔かどうか、それをおれも見たい。諸君! 洞穴の中にはいろう!」
「そうだ、はいろう!」と一同は繰り返して叫んだ。
そして洞穴の木霊《こだま》が、威嚇《いかく》するように、この言葉を、ポルトスとアラミスの所に運んで行った。
そこで、ビスカラアは仲間の前に立ちはだかった。
「諸君! 諸君! 頼むから、はいるのはよしてくれ!」と彼はどなった。
「洞穴の中に、そんな恐ろしいものがいるのか?」と数人の者が聞いた。
「さあ、言ってみろ、ビスカラア」
「きっと、悪魔でも見たのだろうて」と前にこうした仮説をあたえた者が繰り返して言った。
「それなら、我々にも見せてくれるがいいではないか」とべつの一人が叫んだ。
「諸君! 諸君! 頼むんだから!」とビスカラアが言い張った。
「ばかなことを言うな!さあ、そこを退《ど》くんだ」
「諸君、お願いだ、はいらないでくれ!」
「だって、貴様ははいったじゃないか?」
ビスカラアは仲間を阻止しようとして、最後の努力を試みたが、むだであった。彼はいちばん無鉄砲な男の前に立ちはだかったり、通路をふさぐために岩にしがみついたりしたが、むだであった。若い連中たちは洞穴の中に突進して行った。仲間から押しよけられたビスカラアは、ポルトスとアラミスの眼から裏切り者と見られるので、皆と同行もできず、銃士たちの銃火に晒《さら》されていると思われる、ざらざらした岩壁に寄りかかりながら、耳をそばだて、哀願するように両手を組んでいた。
一方、親衛隊の連中は洞穴を奥へ奥へとはいって行った。そして、はいるにつれて、その叫び声はだんだんとかすかになって行った。
突然、小銃のいっせい射撃の音が、雷鳴のように、掩蓋《えんがい》の下でとどろいた。二、三発の弾丸がビスカラアのもたれている岩にぶつりぶつりと当たった。
同時に、うめき声や叫喚《きょうかん》や呪《のろ》いの声が起こった。そして士官たちが、ある者は顔をまっさおにし、ある者は血まみれになりながら、煙の雲に包まれながら出て来た。そしてその雲は洞穴の奥から、外気が吸い出しているようだった。
「ビスカラア! ビスカラア!」と逃げ出して来た者は叫んだ。「貴様は洞穴の中に伏兵がいるのを知っていて、我々に警告しなかったな!」
「ビスカラア! 貴様のおかげで、四人も殺されたぞ。不届きな奴《やつ》だ!」
「貴様のためにおれはこんな重傷を受けたぞ」と一人の若者はまっかな血反吐《ちへど》を掌にはいて、それをビスカラアの顔にはね飛ばしながら、「おれの血を浴びろ!」と言った。
そして彼はビスカラアの足もとで、のたうち回った。
「おい、あすこにいる者は誰だ?」と数人の怒った声が叫んだ。
ビスカラアは黙っていた。
「それを言わなければ、死んでしまえ!」と負傷者は片膝《かたひざ》で再び立ち上がり、役に立たない鉄で武装した一本の腕を、ビスカラアの上にあげながら叫んだ。
ビスカラアは負傷者の方に飛んで行き、すぐと胸を開いた。しかし負傷者はうめき声を発したまま、再び起き上がらずに倒れてしまった。これが最後だった。
ビスカラアは髪の毛を逆立て、眼を異様に光らせ、頭が狂ったように、洞穴の中に進んで行った。
「貴様の言うとおりだ。おれは生きてはいられない。同僚を殺したのはおれだ。おれは虫けらにも劣った人間だ!」と言いながら。そして剣を捨ててしまった。彼は防がずに死のうと思ったからだった。彼は頭を下げると、洞穴の中におどりこんで行った。
他の士官たちも、これにならった。洞穴の中に、ビスカラアといっしょにはいった者は、十六人のうちの残った十一人だった。
しかし彼らは最初の連中より先へは進めなかった。というのは、二度めのいっせい射撃がたちまちに五人を凍った砂の上に倒した。残った連中は、恐るべき銃声がどこから来るのか、見きわめがつかないので、狼狽《ろうばい》して引き返した。
しかしビスカラアは他の連中のように逃げ戻らずに、かすり傷一つも負わず、岩に腰かけて待っていた。
生き残った者は、もう六人だけだった。
「一体、あれは悪魔か?」と生き残りの一人が言った。
「悪魔よりももっと悪い相手だ」と他の者が言った。
「ビスカラアに聞いてみろ。あいつが知っている」
「ビスカラアはどこにいる?」
彼らは口々にビスカラアの名を呼んだ。しかし何の返辞もなかった。
「あいつは死んだのだ!」と二、三の声が言った。
「いや、死なない」とべつの一人が答えた。「おれは煙の中に、泰然《たいぜん》と岩の上にすわっているあいつの姿を見たよ。洞穴の中にいて、我々の行くのを待っているのだ」
「あいつは、あそこにいる者を知っているに相違ない」
「どうして知っているのだろう?」
「あいつは反軍に捕虜になっていたからな」
「それに違いない。それなら、あいつを呼ぼう。あいつの口から聞こう」
そして、一同は叫んだ。
「ビスカラア! ビスカラア!」
しかしビスカラアは何とも答えなかった。
「よし!」とこの事件にあって非常に沈着であった士官が言った。「我々はもうあいつには用はない。増援隊が到着するのだから」
はたして、そこに隊長と先任副官とに引率された親衛隊の一隊が到着した。人数は七、八十人もいたが、これは若い士官たちが狐狩に夢中になって、後方に置き去りにして来た兵士達だった。生き残った五人の士官は、すぐに兵士たちの前に駆けつけ、一部始終を物語って、その救援を求めた。
すると隊長はこれをさえぎって、「君らの同僚はどこにいるのだ?」と尋ねた。
「殺されました!」
「だが、君らは十六人いたんだぞ!」
「十人殺されました。ビスカラアは洞穴の中にいますし、我々五人だけここにいます」
「ビスカラアは捕虜になったのか?」
「たぶん、そうでありましょう」
「いや、僕はここにいるよ」
実際に、ビスカラアは洞穴の入り口に姿を現わした。
「彼は来るように合図をしている。行こう」と士官たちが言った。
「そうだ、行こう!」と全員が繰り返した。
一同はビスカラアの方へ前進した。
「君」と隊長はビスカラアに向かって言った。「君は洞穴の中で、望みのない抵抗をしている者を知っているはずだ。国王陛下の御名において、命令する。知っていることを言い給え」
「隊長」とビスカラアが言った。「ご命令がなくとも、申します。私はそれらの人物を代表して、出て来たのであります」
「何をばかなことを言うか?」
「満足な条件を彼らにお許しにならなければ、彼らは最後まで防戦する覚悟でおります」
「敵は幾人か?」
「二人であります」とビスカラアが言った。
「二人? それで我々に講和条件を強制しようとするのか?」
「はい、二人で、すでにわが方の十人は殺されました」とビスカラアが言った。
「それは何者だ? その巨人は?」
「もっと詳しく申し上げましょう。隊長はサン・ジェルヴェ城の戦いをご存じでありますか?」
「うむ、国王の四人の銃士が、大軍をささえたのは有名な話だ」
「その四人の中の二人が、ここにいるのであります」
「名前は?……」
「その当時はポルトス、アラミスと申しました。今日ではデルブレーとド・ヴァロンと言っております」
ポルトスとアラミスの二人の名を聞くと、兵士たちは口々に、「銃士だ! 銃士だ!」と繰り返し叫んだ。
彼らはフランス陸軍の最大の誉れをうたわれるこの二人の勇士を相手に戦わなければならないと考えて、いずれも興奮と恐怖とで身をふるわした。
「二人の男!」と隊長が叫んだ。「彼らが二度射撃すれば、十人の士官が殺される。そんなことがあってたまるか、ビスカラア君」
「いいえ、隊長、私は彼らに会いました。彼らの捕虜となりました。ですから、彼らをよく知っております。彼らは二人だけでも、立派に大軍を打ち破ることができるのであります」
「それは今にわかる」と隊長は言った。「今すぐわかる。全員、気をつけえ!」
士官も兵士も、隊長の号令に従おうとした。ただビスカラアだけ最後にもう一度反対を唱えてみた。
「隊長、私の言うことをお聞きください」と彼は低い声で言った。「貴官が攻撃しようとしている相手は、死ぬまで防戦します。彼らはすでに十人の味方を殺しましたが、このうえにもさらに、味方を殺すでしょう。そして結局は、降参するよりもむしろ、自分で死を選ぶでありましょう。彼らと戦って、我々は何の利益がありますか?」
「我々は、二人の謀反人を恐れて、陛下の八十人の親衛隊を退却させたという恥辱を免れることができるのだ。もし君の忠告に耳を傾ければ、本官は自分の名誉を傷つけ、ひいては全陸軍の名誉をも傷つけることになるのだ。前進!」
そして隊長は先頭に立って、洞穴の入り口の所まで進んだ。そこまで行くと、彼は全員を停止させた。
これはビスカラアとその同僚に、洞穴の内部のようすを説明させる暇をあたえるためだった。それから地形の十分な知識を得たと思ったので、隊長は全中隊を三個の部隊に分けて、あらゆる方向に銃を向けつつ、順々に洞穴の中へはいらせることにした。こうした攻撃法なら、たとい味方は五人か、十人かは殺されるかもしれないが、もし洞穴に出口がないなら、しまいには必ず謀反人を捕えることができるだろう。幾ら二人の男が豪傑であっても、八十人の親衛隊を殺すことはできないだろうから。
「隊長」とビスカラアが言った。「どうか私に、第一部隊の先頭に立つことをお許しください」
「よろしい!」と隊長は言った。「君の勇気に敬意を表して、先頭を許す」
「ありがとうございます!」と若い士官はしっかりした口調で答えた。
「では、剣を持て」
「私はこのままで乗りこみます」とビスカラアは言った。「私は敵を殺しに行くのではありません。殺されに行くのですから」
こう言うと、彼は頭には何もかぶらず、腕を組んだまま、第一部隊の先頭に立った。そして、「進め!」と言った。
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五八 巨人の鉄棒
さてここで、他の陣地に起こったこと、また同時に戦闘員や戦場について物語るために、話題を転ずることにしよう。
アラミスとポルトスが船を繋《つな》いでおいたロクマリヤの洞穴は長さが、およそ百メートル以上もある洞穴で、入り江にのぞんだちょっとした斜面のところまで続いていた。かつては偶像信者の寺院であったもので、その神秘な奥まった所には、大勢の犠牲が葬られたのである。
この洞穴の漏斗《じょうご》状をした最初の窪地《くぼち》にはいるには、ゆるやかな斜面を通らなければならない。そしてこの斜面の上には、積み重なった岩石が低い拱廊《アルカード》をつくっていた。地盤によく密着していない内部は、天丼の小石の多い凹凸で危険きわまりなく、またそれは幾つかの石室《いしむろ》に分かれていた。そしてこの石室は自然の巨大な柱の中にあって、左右が付着している、崩れた数個の階段のお陰で互いにどうやらその形を保っていた。
第三の石室では、天井も非常に低く、通路も非常にせまかったので、船を通すには、二つの壁をこすって通らなければならなかった。しかしながら万一の場合には、人間の意志の霊気を感じて、木石といえどもなびくものである。
ところで、戦闘が開始されると、アラミスは断固として、危険きわまりない脱走を試みることに決心した。すなわち敵をまだ全部殺してはいないが生き残った敵もわずかであるからまさか追跡しても来まい。だから今のうちに夜の明けるまでに海上に出してしまうことができるだろう。これに限る。とこうアラミスは考えたのだった。
二回の射撃で十人の敵を倒したとき、洞穴の曲がった道に慣れているアラミスは死者をいちいち数えて歩いてから、幸いに煙で外から見えないので、すぐに船をもう一方の出口の囲いとなっている、大きな石のところまで運んで行くように命じた。
ポルトスが渾身《こんしん》の力を出して、かかえるようにして船を持ち上げると、ブルターニュ人達が転子《ころ》を使って、それをずんずんすべらせて行った。こうして彼らは第三の石室に降り、出口をふさいでいる大石のところに着いた。そこでポルトスはその石の根方をかかえて、頑丈な肩を当てがうと、ぐいと起こしかけた。するとその壁にひびがはいって、天井から埃《ほこり》のようなものがもうもうと落ちてきた。何千年も前から洞穴に巣くって来た代々の海鳥の遺骨が、セメントのように岩にこびりついていたのが落ちてきたのだった。
とうとう三度めに石は壁から離れて、ちょっとのあいだぐらぐらと揺れた。ポルトスはそばの岩に背を当てて、足を突っ張ってこの大石を突き落とした。とたんに出口が開いて、外からぱっと明るいまぶしいような日光が射しこんで、眼前に紺碧《こんぺき》の海が見えた。
一同は船を持ち上げて、ころげた石の向こうへ持って行く仕事にとりかかった。あと二十メートルばかりで、船は大西洋にすべりこむのである。
ところが、これをやっている最中に、かの親衛隊の一隊が洞穴の入り口に到着した。
アラミスは味方の仕事を容易ならしめるために、油断なく見張っていたが、すぐと、この増援隊に気がついた。彼はその人数を数えてみて、今度新たに戦闘を交えることは、非常な危険だと一目見て悟った。
洞穴に侵入された今となっては、海上に逃げることは不可能である!
実際に、最後の二つの石室を照らしている日の光は、海に向かって船をころがしている助っ人たちや小銃を持った二人の謀反人をはっきりと示していた。一度いっせいに射撃を浴びれば、五人の人間が死ななくとも、船は穴だらけになってしまうだろう。
それにまた、たとい船に乗って逃げ出したところで、敵が警報を発するのを、どうしたら防ぐことができるだろう? それが王軍の軍用船に伝わるのを、どうしたらいいだろう? 海上ではかり立てられ、陸上では待ち伏せされていて、哀れな小船で、日暮れまで戦い続けるには、どうしたらいいだろうか? アラミスは半白の頭髪をかきむしりながら、神に呼びかけ、悪魔に呼びかけて、急場の救いを求めた。
そして一生懸命に船を押しころがしているポルトスに呼びかけて、「兄弟、敵は今、援兵を受けたぞ」と低い声で言った。
「おお、そうか! では、どうするかな?」
「再び戦闘をするのは危険だ」とアラミスが言った。
「うむ、おれたちはどっちかがやられないとも限らん。そして一人がやられれぱ、残った一人は生きてはおられんからな」とポルトスが言った。
これを聞いて、アラミスは自分の心を拍車で締めつけられたような気がした。
「ポルトス、君が私の言うとおりにすれば、我々はどっちも殺されないですむぞ」
「どうするのか言ってくれ」
「やがてあの連中は洞穴の中に降りて来るだろう」
「うむ」
「我々は敵を十五人ぐらいは殺せるだろうが、それ以上はだめだ」
「何人いるのだ?」とポルトスが聞いた。
「援兵の数は七十五人だ」
「七十五人に五人、合計八十人だな……」とポルトスが言った。
「奴らが一度に射撃を行なえば、我々のからだは蜂《はち》の巣のように穴があいてしまう」
「確かにそうだ」
「では、早急に我々はなんらかの手段をとらなければならん。ブルターニュの連中には引き続き船を海の方へ運ばせよう」
「よろしい」
「我々二人は、ここで火薬と弾丸と小銃とで防ごう」
「しかしアラミス、二人で一時に三発撃つわけにはいかんぞ」とポルトスが正直に言った。「小銃では防ぎきれんぞ」
「それでは、もっとよい方法を考えろ」
「名案がある」と突然ポルトスが言った。「おれはこの鉄の棒を持って、この岩の陰に待ち伏せしている。そして奴らが来たら、脳天を打ち砕いてやる。一分間に三十回は打ちおろせるぞ。どうだ、この方法は?」
「すばらしいぞ、兄弟、非の打ちどころなしだ! ただ、そんなことをすると敵は驚いて、全部ははいって来まい、我々は敵を全滅させなければならんのだ。一人でも生存者があっては、我々の破滅の基だからな」
「それはそうだ、だがどうして敵をおびき寄せるのだ?」
「じっとしていろ、ポルトス」
「じっとしておるよ。しかし敵は全部集合してしまうぞ……」
「私にまかしておけ。いい方法を考えついたから」
「君の考えはたいがいうまくいくから……安心じゃて」
「ポルトス、君は待ち伏せをして、敵が何人はいって来るか数えてくれ」
「しかし、君はどうするのじゃ」
「私のことは心配するな。私は一仕事やらねばならんから」
「がやがや騒ぐ声がするぞ」
「敵が来たのだ。君の持ち場につけ!……私の声の聞こえる所にいろよ。いつでも私が加勢できる所にいろよ」
そこでポルトスは第二の石室の中に逃げこんだ。そこはまっ暗だった。
アラミスは第三の石室にはいって行った。ポルトスは手に目方五十ポンドもあろうという鉄の棒を持った。彼は先刻船をころがして行くために、この鉄の挺子《てこ》を楽々と使いこなしたのだ。
この間にブルターニュ人達は、船を海岸の崖《がけ》のところまで押し出してしまった。明るくなった石室の中では、アラミスがからだをかがめ、忙しそうに何かやっていた。
すると高らかに号令の声が聞こえた。これは隊長が指揮する最後の命令だった。二十五人の兵士が第一の石室に飛び降りて来て、足場が定まると、射撃を始めた。
たちまち銃声が鳴り響き、弾丸は乱れ飛んだ。乳光色の煙が石室の中にいっぱいに満ちてきた。
「左へ! 左へ!」とビスカラアが号令をかけた。第二の石室への通路を知っている彼は、自ら先頭に立っていた。彼は焔硝《えんしょう》の匂《にお》いに勇気百倍、兵士たちを左の方に前進させようとした。
部隊は左の方に殺到した。通路はだんだんと狭くなっていた。ビスカラアは手をひろげ、決死の覚悟で兵士たちの前に立って進んだ。
「こっちへ来い! こっちへ来い!」と彼は叫んだ。「明かりが見えるぞ!」
「ぶちのめせ、ポルトス!」とアラミスの墓の底から響いて来るような声が叫んだ。
ポルトスは溜息《ためいき》をついた。しかし彼は従った。
鉄の棒は垂直にビスカラアの脳天に打ちおろされて、哀れな士官は悲鳴なかばに絶命してしまった。それからこの恐るべき挺子は、十秒間に十回も打ちおろされて、十個の死体をつくった。
兵士たちには何も見えなかった。聞こえるのは、ただ悲鳴とうめき声ばかりだった。彼らは味方の死骸《しがい》につまずいたが、どうして死んだかわからぬので、互いにもみ合いながら進んで行った。
執念深い鉄棒はなおも間断なく働いて、兵士を倒し、瞬《またた》くまに第一部隊を殲滅《せんめつ》した。そうとは知らぬ第二部隊は、ついで音も立てずに粛々と進んで来た。
ただ今度の第二部隊は、隊長の命令で、兵士たちが断崖に出ている細い樅《もみ》の木を折ってそれを束ねて松明《たいまつ》を作り、それを隊長が振りかざしていた。
そして触れる者は皆打ち殺してしまった、撲滅の天使ともいうべきポルトスの待ちかまえた石室に来ると、先頭の兵士達は、すっかりおびえて後ずさりした。幾ら親衛隊の方から射撃しても、向こうからは射撃して来なかった。ところが兵士たちは死骸の山にぶつかり、血の海の中を文字どおりに歩いていたのだった。
ポルトスは相変わらず、柱の陰に待ち伏せしていた。
隊長は、炎となった樅のゆらゆら動く明かりに照らし出された、この凄惨《せいさん》な光景を見て、思わずポルトスの隠れている柱の方へ後ずさりした。
そのとき、暗闇《くらやみ》から大きな手がにゅっと出て、隊長の咽喉《のど》をおさえたと思うと、彼は一声にぶいうめき声をあげ、両腕を伸ばして虚空をつかんだ。松明がばたっと落ちて、血の溜《たま》りの中で消えた。
次の瞬間には、隊長のからだが消えた松明のそばに倒れて、通路をふさいでいる死骸の山に、また一個の死骸を付け加えた。
すべてのことが、まるで魔術か何かのように、いかにも不思議に行なわれたのだった。隊長のうめき声に、いっしょに来た兵士たちは、その方を振り向いた。とたんに、隊長の腕が虚空をつかみ、眼が眼窩《がんか》から飛び出したのが見えた。それから松明が落ちて、一同は暗闇の中に取り残されてしまったのだった。
副官は何の考えもなく、機械的に叫んだ。
「撃て!」
小銃のいっせい射撃はばちばちと音を立て、鳴り響きながら、洞穴にぶつかり、天井《てんじょう》から大きな破片をえぐり取った。
洞穴の中は一瞬間、この銃火のために明るくなったが、すぐとまた、煙のためになおいっそう濃い暗闇に返った。
深い沈黙がこれに続いた。そして洞穴の中にはいって来た、第三部隊の足音のみが聞こえてくるばかりだった。
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五九 巨人の最期
暗闇に慣れたポルトスは、もう何かアラミスから合図がありはせぬかと思って、しきりとあたりを見回していた。すると彼の腕にそっとさわった者があった。そして吐息のように低い声が彼の耳許《みみもと》でささやいた。
「来てくれ」
「おお!」とポルトスが言った。
「しっ!」と一段低い声で制したのはアラミスだった。
第三部隊が続いて前進して来る音と、突っ立ったまま暗がりに残された兵士たちや、最後のうめき声をもらしている、瀕死《ひんし》の重傷者の呪《のろ》いの叫びのうちに、アラミスとポルトスとは洞穴の花崗岩《かこうがん》の壁に沿うて、こっそりとすべるように歩いた。
アラミスは奥から二番目の石室にポルトスを連れこんで、岩壁のくぼみにのせてある火薬の樽《たる》を彼に見せた。その樽には火薬が七、八十ポンドつめてあった。アラミスは今しがた、これに導火線を取りつけたばかりだったのだ。
「兄弟」と彼はポルトスに言った。「私がいま導火線に火をつけるから、この樽を君は敵のまん中に投げこむのだ。やれるか?」
「やれなくてさ!」とポルトスは答えた。
そしてこの小さな樽を片手で持ち上げた。
「火をつけろ!」
「待て」とアラミスが言った。「彼らが全部集まるのを待って、それから投げこめ」
「火をつけろ!」とポルトスが繰り返した。
「私はブルターニュ人達に手伝って、船を海に出す。そして海岸で待っている。しっかり投げつけて、急いで出て来いよ」
「火をつけろ!」とポルトスが三たび言った。
「私の言うことがわかったな?」とアラミスが聞いた。
「わかったよ」とポルトスは笑いながら言った。「おれはなんでも説明を聞けばわかる。君は向こうに行っていろ。火を渡せ」
アラミスは燃えている火縄をポルトスに渡した。ポルトスは手がふさがっているので、腕をアラミスにさしだした。アラミスはその腕を両手で握り締めると、洞穴の出口まで引き揚げて行った。そこには三人の船頭が彼を待っていた。
ひとり残されたポルトスは導火線の火口《ほぐち》に勇敢にも近づいて行った。
大きな火の元である、この火口はかすかに火花を散らして、まるで飛び交う蛍のように暗がりの中で光った。やがて導火線に火が移った。ポルトスはふうふうと吹きながら炎を起こした。
煙が少し消えて、ぱちぱち音を立てて燃える、この導火線がかすかな光を放ち始めると、ほんのわずかのあいだ、暗闇の中の物象がはっきりと見えた。
それはごく短い、すばらしい光景だった。まっさおになった、血にまみれた巨人が、暗闇の中で火をつけた導火線の炎で、顔を照らされて、突っ立っている光景だった。
兵士たちはポルトスの姿を見た。彼の手にしている樽を見た。そして何事が起ころうとしているかをただちに理解した。
彼らは今までに行なわれたことを見、また、これから起ころうという事態を考えて恐怖にかられて、異口同音に苦悶《くもん》の叫びを上げた。
中には逃げようとした者もあったが、後から来た第三部隊のために通路をはばまれた。また中には弾丸を撃ち尽くした銃を取り上げて、無意味にねらいを定める者もあった。あるいは、恐怖のあまりに、腰を抜かした者もあった。
二、三の士官はポルトスに声をかけて、自分たちの命を助けてくれれば、自由をあたえようとも言った。
第三部隊を率いた副官は、部下に射撃を命じたが、彼らの前に仲間が立ちふさがっていて、ポルトスの胸壁の役目をしているのでは、なんともしようがなかった。
前にも述べたように、この光景はわずかのあいだしか見えなかった。この短い時間に、第三部隊の一士官は、八人の兵士に小銃の引き金を起こさせ、隙間から、ポルトスを撃つように命じた。そしてどうやら撃ったものの、その三発は味方を倒し、後の五発は洞穴の天井にそれたり、地面にくぐったり、壁に穴をあけたりした。
高らかな笑いが、このいっせい射撃に答えたかと思うと、巨人の腕が振り回されて、流星のように、一条の火が宙を切って飛ぶのが見えた。
三十歩ほどのところから投げ出された火薬の樽は、死骸の山を越えて、腹ばいになって、わめき叫ぶ兵士の群れのまん中に落ちて行った。
士官は空中の一条の光を追った。そしてこの樽に飛び付いて、中にはいっている火薬に火がつかないように、導火線を引き抜こうとした。
しかし、この献身的行為もむだだった。風をきって投げられたため、導火線の炎はいっそうあおられた。静止の状態にあっては、燃え尽くすまでに五分間もかかったかもしれぬ火縄が、わずか三十秒で燃えきって、突如、恐るべき兇器《きょうき》が爆発した。
硫黄《いおう》と硝石の猛烈な渦、あらゆるものを滅ぼそうとする火炎、百雷一時に落ちかかる爆裂の音、これが次の一瞬間に、この悪魔の恐るべき洞穴に起こった現象だった。
岩石は鉞《まさかり》に割られた樅の枝のように裂けた。火と煙と破片の噴出物が一網になって、洞穴のまん中から立ちのぼり、上に行くにしたがって幅広くひろがった。大きな岩石がゆらゆら揺れて、砂の上に崩れ落ちた。数限りない、たくさんのとがった砂粒が散弾のように飛び散って、人の面を打った。
叫喚《きょうかん》も、呪詛《じゅそ》も、人命も、死骸も、すべてが一大爆発のうちに巻きこまれてしまった。初めの三つの石室は一つの深淵《しんえん》と化した。そしてその中に、その目方にしたがって、次から次へと、植物性のものや、また鉱物性のものの破片が再び落下してきた。そしてその中には人問の手足、肉片もいっしょに落ちてきたのだった。それから、今度は砂とか灰とか、もっといっそう軽いものが落ちてきてちょうど灰色がかった経帷子《きょうかたびら》のようにひろがり、このいたましい葬式の上に煙った。こうして三つの石室の中には、もはや何も残っていなかった。
ポルトスはどうしたか? 火薬の樽を敵のまん中に投げつけるが早いか、アラミスの指図どおりに、最後の石室へ逃げこんでいた。そこは外の口があいているので、空気と日光とがはいっていた。第三の石室から第四へ行く角を曲がった瞬間、彼は百歩ほど向こうに救いの船が波間に浮かんでいるのを見たのだ。そこには彼の味方がいた。そこには自由と生と勝利とが待っていたのだ。
彼のすばらしい大股《おおまた》でもう六歩進めば、彼は洞穴の外へ出られるのだ。洞穴を抜け出て、二、三度跳躍を試みれば、船に達するのだ。
が突然、ポルトスは両膝《りょうひざ》が曲がるように、またその力が抜けたように感じた。両脚がくじけたように感じた。
「ああ! また例の疲れが出た。もう歩けん。どうしたのかな?」と彼はつぶやいた。
アラミスは出口のあいだから、このようすを見ていたが、立ち止まったわけがわからないので、「早く来いよ、ポルトス! 早く来いよ!」とどなった。
「うむ!」とポルトスは全身の筋肉をねじ曲げるほど、力を入れながら答えた。「おれは歩けん」
この一言を口にしつつ、彼は地面に膝を突いてしまった。が、大きな岩角に、そのたくましい両手でつかまって、また立ち上がった。
「早くしろ! 早く!」とアラミスはちょうど両腕でポルトスをひっ張るように、砂浜の方にかがみながら、繰り返して言った。
「おれはここだ」とポルトスはどもりながら言うと、懸命にもう一歩踏み出そうとした。
「頼む! ポルトス、早くしろ! 火薬が破裂するぞ!」
「旦那《だんな》、早くなさいませ!」とブルターニュ人達も、ポルトスのあがいているのを見て、叫んだ。
が、その余裕はなかった。爆発の轟音《ごうおん》が鳴り響いて、大地は裂け、岩の裂けめをもれ出る煙がもうもうと空をおおうた。洞穴から湧き出る炎の毒風にさながらあおられでもしたように、海水が退いて、その引き潮が船を二十間ほども沖の方にさらって行った。大きな岩が幾つとなく根まで裂け、洞穴の穹窿《きゅうりゅう》の一部は空に舞い上がり、ガスの淡紅色や緑の炎が、一瞬間雄大な煙の円天井《まるてんじょう》の下で、黒い溶岩の流れとぶつかり合った。それから岩石の長い稜角《りょうかく》が、最初振動し、次いで傾斜し、果ては続々と落下していった。しかしこの激しい爆発も、幾百年もたった台石を根こぎにすることはできなかった。そしてこの埃《ほこり》っぽい墓の中に永遠に横たわったままだった。
この恐しい光景の刺激が、ポルトスの失われた気力を回復させたようだった。彼は巨人の中の巨人のように、花崗岩の群れを抜いて、すっくと立ち上がった。しかし彼がその間を駆け抜けようとした刹那《せつな》、魔のような巨岩がぐらぐらと揺れて、彼の周囲にころげ始めた。彼は脚下の大地が、この長い爆発で、ゆらゆらとふるえるのを感じた。倒れかかる岩を押しのけようとして、両腕を伸ばした。そして左右に一つずつ大石塊をささえて、首を引っこめたとたん、また一つの大石が、彼の肩の上に落ちた。
一瞬間、ポルトスの腕は曲がった。が、巨人は全身の力をふるい起こした。見れば、彼をとらえた牢獄《ろうごく》の壁がゆるやかに離れて、彼は自分の場所をささえることができた。しかし、この両側の岩をさらに向こうに押そうとしたとき、肩が盤石に押しつけられているため、彼はからだのささえを失って、急に膝を折った。いったん突きのけた岩が再び左右から迫って来た。すでに十人を押しつぶすべき盤石の重みを受けているところへ、また新しい圧力を加えられたのだった。
巨人は何一つ助けを呼ばずに倒れた。彼は激励と希望の言葉で、アラミスに答えながら倒れた。というのは、まだ最後の腕の力で、この三重の重荷を十分にふるい落とせることを信じたからであった。しかし、アラミスは大石塊が少しずつくぼんでいくのを見た。さしもに強かった手が、最後の努力のために突っ張っていた腕がとうとうくじけてしまった。怒らせていた肩が、傷つき破れて、たちまちがっくりとなった。そして岩はだんだんと落ちこんでいった。
「ポルトス! ポルトス!」とアラミスは髪の毛を引きむしりながら叫んだ。「どこにいるのだ? 口をきいてくれ!」
「そら! そら! がまんだ! がまんだ!」とポルトスの声は次第に弱まって行った。
この最後の言葉が終わるか終わらないうちに、落下の勢いはその重みを一段と増した。巨大なる岩は両側から倒れた大石に押されて沈み、ポルトスを砕けた岩石の墓穴にのみこんでしまった。
友の最後の声を聞くと、アラミスはいきなり陸に飛び上がった。ブルターニュ人の二人が、てんでに挺子《てこ》を持って、その後に続いた。船の番は一人だけで十分だったからだ。ポルトスの最後のうめき声に導かれて、彼らは廃墟《はいきょ》の中にはいって行った。
興奮したアラミスは、二十代の青年のような若々しい元気で、三重にも重なり合った大石を目がけて飛んで行った。そして女の手のような華奢《きゃしゃ》な手で、不思議な大力をもって、その花崗岩の墓石を持ち上げた。そのとき、アラミスはちょっと息を吹き返したポルトスの、まだ光の失せない眼をちらりと見た。二人の船頭は駆けつけるとすぐに、鉄梃子で大石を起こし、アラミスと三人で、力を合わせて、それをささえた。しかし、何の効もなかった。彼らはついに力が尽きて、悲痛な叫び声をあげた。この無益な仕事を見ていたポルトスは、冗談を言うような調子でつぶやいた。
「重過ぎるな!」
それから眼は曇って閉じ、顔は青ざめ、手は白ちゃけて、ついにこの巨人も最後のうめき声をもらしながら、息を引き取った。
臨終の苦悶まで、ポルトスがささえていた岩が、それとともに沈んだ。
三人は鉄梃子をぱたりと落とした。そして鉄梃子はこの墓石の上をころげていった。
アラミスはあえぎながら、顔色をさっと変え、額に玉の汗を浮かべ、胸もつぶれる思いをしつつ、一心に耳を澄ました。
しかし何も聞こえなかった! こうして巨人は、神が彼のからだに合わしてつくり給うた墓場の中で、永遠の眠りについたのだった。
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六〇 ポルトスの碑銘
アラミスは臆病《おくびょう》な子供のようにふるえながら、口もきかず、茫然《ぼうぜん》としたままこの大石のそばから立ち上がった。
キリスト教信者である彼は、墓石の上を歩かなかった。
しかもどうやら立ってはいられたが、歩くことはできなかった。ブルターニュ人達は彼を取り巻いて、抱きかかえるようにして、アラミスを船に連れていった。そして舵《かじ》のそばにある腰掛けにすわらせると、彼らは艪《ろ》で漕《こ》ぎ始めた。
ロクマリヤの洞穴はすでに崩れて、その後にただ一つ小さな丘ができているのが彼らの目をひいた。アラミスは一刻もそれから眼を放さなかった。だんだんと沖に漕ぎ出て、陸が遠ざかって行くにつれ、一種の威厳を持ったこの岩山は、ポルトスがいつもやっていたように、きっと身を引きしめて、微笑しつつ、誇らかに頭を空にあげている姿のように見えた。
アラミスはまっさおな茫然《ぼうぜん》自失した顔つきで、陸の影が、日の最後の光線とともに消えるまで、じっと地平線上を見つめていた。彼の口からは一つの言葉ももれず、彼の胸からは、吐息一つ出なかった。
迷信深いブルターニュ人達はふるえながら、彼のようすを眺めていた。彼らには、アラミスの沈黙が人間のそれではなく、石像の沈黙とも思われたのだった。
しかし空が鼠色に暮れそめるころ、船は小さな帆を揚げ、微風にそれをふくらますと、すばやく海岸を遠ざかって、この嵐の多い、恐るべきガスコーニュ湾を横切って、スペインの方へ勢いよく走り始めた。
ところが、帆を揚げて三十分とたつかたたないうちに、漕手は艪の手を止めて、替わる替わる小手をかざして、波間に浮かぶ海鴎《かもめ》のように見える、水平線上の白点を指さし合っていた。
それは素人の眼には静止しているものと思われたかもしれぬが、経験を積んだ船乗りの眼には早い速力で走っていた。
ただ彼らは、しばらくのあいだ、アラミスが深い昏迷《こんめい》の状態に沈んでいるのを見ると、呼び覚ますのを遠慮して、心配そうに小声でいろいろ臆測《おくそく》をささやき合うだけにやめていた。実際に、アラミスは夜となく昼となく絶えず山猫のように、用心深く、まめに見張っていたのに、今ポルトスを亡くして絶望のあまり、うつらうつら昏睡《こんすい》の状態にあったのだった。
こうして一時間が過ぎ、日輪はだんだんと没して行ったが、さっき見えだした白い帆影は飛ぶように、彼らの船を追って迫って来た。そこで三人の水夫の一人ゴアンネックが思い切って、声高に呼びかけた。
「旦那、わしらは追いかけられてますぜ!」
アラミスはなんとも答えなかった。船はなおも近づいて来た。
そこで二人の水夫は船長のイーヴの指図で、帆をおろした。これは敵に目標をあたえまいとの配慮だった。
ところが先方では檣頭《しょうとう》高く、帆を揚げた。
不幸なことには、それは一年中でいちばん日の長い時だった。あまつさえ、いまわしい日光が消えると、続いて月が皎々《こうこう》と中天に輝きだした。追い風を受けて、アラミスの船を追いかけている大型の船はまだこれから黄昏《たそがれ》の半時間と、ほとんど真昼のように明るいまる一夜を、利用することができるのだった。
「旦那! 旦那! もうだめですよ!」と船長が言った。「こちらで帆をおろしても、先方じゃあ、こっちがはっきり見えますものなあ」
「それは当たり前だ!」と水夫の一人が言った。「なんでも町のやつらは、悪魔の力を借りて、恐ろしい機械をこしらえたというからな。夜でも昼間のように、遠くても近いもののように見えるということだて」
アラミスは船の底に隠してあった遠眼鏡《とおめがね》を取り出し、度を合わせて、水夫に渡しなから、「そら、のぞいて見ろ!」と言った。
水夫はためらった。
「こわがることはない」とアラミスは言った。「これをのぞいたところで、罪にはならん。罪になったとて、私が引き受けてやるよ」
水夫は遠眼鏡をのぞいて、あっと叫んだ。
やっと大砲の弾丸が届くか届かないぐらいのところにあった船が、急に一飛びして間近な距離にあったからだ。それから今度は遠眼鏡を眼から離すと、依然として追手の船は前と同じ距離にあった。
「すると、先方でもこっちと同じように見えるわけだね」と水夫はつぶやいた。
「そうだ」とアラミスが答えた。
そしてまた、無言になった。
「向こうから、わしらが見える? そんなことがあるかい!」と船長のイーヴが言った。
「さあ、船長、見てみなされ」と水夫が言った。
そして遠眼鏡をその手に渡してやった。
「悪魔の機械ではないと、確かに旦那《だんな》が言わしったな?」と船長は尋ねた。
アラミスは肩をそびやかした。
船長は眼鏡を自分の眼に当てながら、「うあ! 旦那、これは不思議だ」と言った。「あそこに人がいる。手が届きそうだぞ。内輪に見ても、二十五人はいるぞ! ああ! 船長が出て来やがった。やっぱり同じように眼鏡を持って、こっちを見ておるぞ……ああ! 後方を向いた、号令をかけたぞ。大砲をこっちに向けた。弾丸をこめたぞ……わあ、助けてくれ! 撃ち始めた!」
船はまだおよそ一リウほどかなたにあった。しかし船長が知らせた射撃はまだ実施されなかった。
やがて帆の上の方に、帆よりも青い軽やかな硝煙の雲が、花の開いたように浮かんだ。それから、アラミスの乗っている船から約千歩ほどのところの波頭を砲弾がかすめ、海中にまっ白な跡をうがった。
これは威嚇《いかく》射撃であり、同時に勧告でもあった。
「どうしたものだろう?」と船長が言った。
「沈没だ! 旦那、お助けくださいまし」とゴアンネックが言った。
そして水夫たちはアラミスの前にひざまずいた。
「おまえたちは、先方から見られていることを忘れたな」とアラミスが言った。
「ほんとうだ」と水夫たちは弱味を見せたことを恥ずかしく思った。「そうだ。旦那、お指図を願います。わしらは旦那のためなら、いつでも命を捨てますで」
「少し待て」とアラミスが言った。
「どうして、待ちますので?」
「おまえが言ったとおり、こっちが逃げようとすれば、敵は我々を撃ち沈めるではないか?」
「それでも夜のうちなら、逃げられないこともございません」と船長は思いきって言ってみた。
「いや! 敵にはギリシア弾があろう。それを撃たれれば、この船の進んで行く道は真昼のように明るく見えるからな」とアラミスが言った。
すると、これと同時に、アラミスの答えるがごとくに、再び硝煙の雲がゆるやかに空にのぼった。すると、その雲の懐からきらめき出た火炎の矢が、虹のような大きな弓形を描いて海に落ち、一リウ四方の海の面を明るく照らして、しばらく燃え続けていた。
ブルターニュ人達はちぢみ上がって、互いに顔を見合わした。
「ほら、待ったほうがよかったではないかね」とアラミスが言った。
水夫たちは艪を手から離したので、船は進行を止めて、波のまにまに揺られていた。
夜になったが敵の船は相変わらず前進を続けていた。
それは暗くなるとともに速度を増したようだった。ときおり、禿鷹《はげたか》がその血まみれな頭を巣から突き出すように、その舷側《げんそく》から恐ろしいギリシア弾が飛び出して、白熱せる雪のような炎を大西洋のまん中に落とした。
そのうちに、先方の船はとうとう小銃弾の届く距離にはいった。
甲板には兵士たちが銃を手にして身がまえていた。砲手は持ち場について、火縄には火がついていた。
そのありさまは、四人の敵が乗っている小舟を拿捕《だほ》するのではなくて、さながら多数の優勢な乗組員と戦い、帆走戦艦にでも衝突するような、ものものしさである。
「降服せい!」と敵艦の指揮官が伝声管を用いて叫んだ。
水夫たちはアラミスの顔を眺めた。アラミスが首で合図をしたので、船長のイーヴは爪竿《つめざお》の先に白布をひるがえした。
これは降服する合図だった。
敵の船は駿馬のように迫って来た。そしてまた新しいギリシア弾を発射した。これはアラミスの船から二十歩ほどのところに落下し、白日よりもいっそう明るい光線を放った。
「少しでも抵抗のようすが見えたら、撃ってしまえ!」と指揮官が叫んだ。
兵士たちは銃を射撃のかまえにしていた。
「降参すると言ってますがな」と船長のイーヴが叫んだ。
「生捕《いけど》りだ! 生捕りだ! 船長、生捕りにしなければなりません」と数人の兵士たちは興奮して叫んだ。
「そうだ、生捕りだ」と船長が叫んだ。
それからブルターニュ人達の方を向いて、「おまえ達の命は安全だ」と叫んだ。「デルブレー以外の者は助けてやる」
アラミスは心持ちぎくりとした。
一瞬間、彼の眼は深い大西洋の海上を見つめた。そこはギリシア弾の最後の光で、海面が明るく照らされていたが、その下は深淵《しんえん》よりさらに暗い、神秘な恐ろしいものなのだ。
「旦那、お聞きでございますか?」と水夫達は言った。
「うむ」
「どういたしますので?」
「先方の言うことを承知しろ」
「それでも、旦那は?」
アラミスはさらにからだをかがめ、親しい友にでも対するように微笑を浮かべて、海に向かい、その碧《あお》の水に、白い指先を浸して、「承知しろ!」と繰り返して言った。
「承知いたします」と水夫たちが繰り返した。「しかし、確かでございましょうね?」
「紳士の約束だ」と士官が言った。「自分の地位と名によって誓う。デルブレー殿以外の者は、命を助ける。自分は国王陛下の戦艦『ラ・ポモーヌ号』の副長、ルイ・コンスタン・ド・プレシニーだ」
すると、すでに海の方に身をかがめ、船の外にからだを乗り出していたアラミスは、急に頭を起こし、いずまいを正し、眼を輝かして、口許《くちもと》に微笑を浮かべた。そしてさながら部下に命ずるような態度で、「梯子《はしご》を投げなさい。諸君」と言った。
人々はその言葉に従った。
アラミスは縄梯子につかまり、いちばん最初にのぼった。アラミスの顔に恐怖の色が浮かぶ代わりに、敵艦の水夫たちのほうが大いにびっくりした。アラミスはしっかりした足取りで、指揮官の前に歩いて行って、じっとその顔を眺め、片手で不思議な合図をした。すると、指揮官は青くなって、わなわなふるえながら、頭を下げた。
するとまた、アラミスは一言も口をきかずに、指揮官の眼の前に左手をあげて、その薬指にはめた指環《ゆびわ》の宝石を彼に見せた。
この合図をしている間アラミスはひややかな尊大な威厳を帯びていて、臣下に手をあたえ、接吻の礼を許す帝王のような態度を示した。
指揮官はちょっと頭をあげてから、またうやうやしく低頭した。それから船尾の方、すなわち自分の船室の方へ手をさし伸べながら、自分は後へさがって、アラミスを先へ通らせた。
三人のブルターニュ人達は、司教の背後にいたが、これには肝《きも》をつぶしてしまった。
また、軍艦の乗組員もことごとく押し黙ってしまった。
五分の後、指揮官は第二副長を呼んで、船首をコローニュの方角へ向けるように命じた。
この命令が実施されているあいだに、アラミスは再び甲板に現われ、胸壁のところに行ってすわった。
まったく夜となった。月はまだ出ていなかった。しかしアラミスはベル・イルの方をいつまでもじっと眺めていた。イーヴは、船尾の持ち場に戻って来た指揮官に近づいて、低い声で、丁寧に、「この船はどの航路を取って進むのでございますか?」と尋ねた。
「我々は猊下《げいか》のおぼしめしのとおりに、針路を取るのだ」と士官が答えた。
アラミスは胸壁によりかかって一夜を明かした。
翌朝、そこに近づいたイーヴは、司教の頭をもたせかけていた箇所がぬれているのを見て、昨夜はよほど露が多かったのだと気づいた。
ああ! しかし、その露はアラミスの眼から流れた涙ではなかったとは、誰が言えよう!
好漢ポルトスよ、彼のためにどんな|碑銘《ひめい》が書かれたところでこれに優るものがあるだろうか?
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六一 ジュスヴル公の巡察
ダルタニャンは先ごろ経験したような妨害に慣れていなかったので、非常に憤慨しながら、ナントに戻って来た。
そして忿怒《ふんぬ》にわなわなとふるえながら、まっすぐに王城におもむいて、国王に拝謁《はいえつ》を願った。それは朝の七時のことであった。ナントに来てからというもの、王は朝起きになっていた。
ところが、ダルタニャンが例の小さな渡殿《わたどの》まで行くと、近衛隊長のジュスヴル公が丁重に彼を呼び止めて、陛下はまだ御寝中であるから、高声で話をしてはいけないと告げた。
「御寝中ですか?」とダルタニャンが言った。「ずうっとおやすみだろうが、いつごろ、ご起床になると思う?」
「さあ、二時間もたちましたなら。陛下は昨夜、夜通し起きていられたようです」
ダルタニャンは帽子を脱いでジュスヴル公に挨拶をして、いったん自宅に引き取った。
そして九時半に再び行ってみると、王は朝のお食事中とのことだった。
「ちょうどよい。お食事中にお話をしよう」と彼は言った。
すると侍従のブリエンヌが、陛下はお食事時は、何者にも拝謁を許されないと注意した。
「しかし、あなたはご存じなかろうが、私はいかなる場所、いかなる時刻でも拝謁する特権があるのだ」とダルタニャンはブリエンヌを尻目にかけて言った。
するとブリエンヌは銃士長の手を静かに取って、「ナントでは、そうはまいりませぬ。ダルタニャン殿、陛下はここにいらしってから、今までの習慣をすべてお変えになったのです」と言った。
ダルタニャンは穏やかに、国王の食事はいつごろ終わるかと侍従に尋ねた。
「それは存じません」とブリエンヌが答えた。
「何? 知らん? どういうわけです? あなたは陛下がお食事にどのくらいの時間を費されるか知らんのか? お食事はたいがい一時間ですむ。ロワール河の空気がいいから、お食事が進むとして、一時間半と見たらよかろう。私はここでお待ちしている」
「いや、ダルタニャン殿、陛下のご命令は、誰もこの渡殿にいてはならぬということで、私はとくにそのために、こうして警護の役を仰せつかっているのです」
ダルタニャンは、またかっと立腹したが、思い直して、急いで城を出た。癇癪《かんしゃく》を起こしては、かえって事をめんどうにすると思ったからである。
彼は外に出ると、思案を始めた。
「陛下は自分に拝謁をお許しにならないお考えだ。それはわかっている。怒っていられるのだな。私が何を言い出すかご存じだから、それを恐れていられるのだ。しかし、こうしているあいだに、かわいベル・イルは包囲され、おれの親友たちは捕虜にされるか、殺されてしまう……ポルトスは可哀《かわい》そうだ! アラミスの方は、いろいろ策もあるだろうから、安心だが……いや、しかし、ポルトスも手弱でもあるまいし、アラミスとても間抜けた老爺《ろうや》でもあるまい。あの腕力と知恵とを働かせば、必ずや王軍に一泡吹かせるだろう。おれはまだ望みを捨てないぞ。あいつらの手には大砲もあれば、屯営部隊もある」
「しかし、おれには戦闘を中止させたほうがいいように思われる」とダルタニャンは頭を振りながら、続けて考えた。「おれだけのことなら、王の傲慢《ごうまん》な態度や、裏切りをがまんしてはおられんが、さて、虐待され、はずかしめられているわが親友たちのことを思えば、何事もしんぼうせにゃあならんな。だが、コルベールのもとに出かけて見たら、どうかな? あの男も、少しおどかしかけておく必要がある。そうだ、コルベールのところへ行ってみよう」
そこでダルタニャンはコルベールのもとに行ってみた。ところがこの新大臣はナントの城中で、王に拝謁中であることがわかった。
「よし!」彼は叫んだ。「それではまた、城中に行こう!」
彼は城に引き返した。折から廷臣リヨンヌが退出するところだった。この人物は両手をさし伸べて、ダルタニャンを迎えたが、やはり陛下は今夕も今晩も、ずうっとご多忙中であるから、何人にも拝謁をお許しにならぬと言った。
ダルタニャンは思わず、声をあげて、「陛下の御|下知《げち》を|承《うけたまわ》る銃士長にもか? それは少しひどくはないか!」と叫んだ。
「たとえ銃士長でもだめじゃ」とリヨンヌが言った。
「そういうわけなら」とダルタニャンはひどく感情を害して答えた。「いつも王の御寝所にも参入する銃士長が、居間にも、食堂にもはいれない。これは国王が崩御《ほうぎょ》されたのか、銃士長が勘気《かんき》をこうむったか、どちらかだ。いずれにしても陛下はもはや私にご用がないのだ。それでは陛下のお気に入りのリヨンヌ殿にお願いする。御前に行って、ダルタニャンは辞職すると申し上げてくれ」
「ダルタニャン、気をつけて物を言い給えよ!」とリヨンヌが叫んだ。
「友達がいに行ってくれ」
こうダルタニャンは言うと、リヨンヌを王の居間の方に静かに押した。
「それなら、行こう」とリヨンヌは言った。
ダルタニャンはいらいらしながら渡殿で待っていた。リヨンヌが戻って来た。
「陛下は何と言われた?」とダルタニャンが聞いた。
「ただ『よろしい』とお答えになったよ」とリヨンヌが答えた。
「よろしいと!」と銃士長は怒りを爆発させながら言った。「それでは、辞職を許すという意味だな? よし! おれは自由の身だ。リヨンヌ殿、私はただ一個の市民だ。あなたにもさようならと言おう! 王城にも、渡殿にも、控えの間にも! 自由な一市民はお別れを告げるよ」
そして、もう何も待たずに、銃士長は露台の階段を駆け降りた。五分の後には、市中の宿に着いていた。彼はそこでは、佩剣《はいけん》も外套《がいとう》も取らずに、拳銃を懐中にし、金を大きな皮の財布に入れ、城の厩舎《きゅうしゃ》から馬を引き出させて、夜のうちにヴァンヌヘ着けるように万端の指図をした。
いっさいの準備が、次々と希望どおりになった。やがて夕方の八時になったので、出発しようとして鐙《あぶみ》に片足を掛けると、ちょうどそのとき、ジュスヴル公が十二人の近衛兵を引き連れて、宿の前に姿を現わした。
ダルタニャンはちらっと横目でこれを見たが、気づかぬ振りをして、そのまま馬にまたがって、出掛けようとした。するとジュスヴル公は彼のそばまで乗りつけて来て、「ダルタニャン殿!」と声高に呼ばわった。
「やあ! ジュスヴル公爵閣下か、今晩は!」
「いいところでお目にかかった」
「それでは、私を捜しておられたか?」
「いかにも」
「王のご命令かな?」
「さようで」
「二、三日前に、私がフーケ閣下に面会に行ったからだろうな?」
「さあ!」
「隠さんでもいい。私を捕えに来たのなら逮捕《たいほ》に来たと言い給え」
「あなたを逮捕に? そんなことがあるものですか!」
「だが、あんたはこうして十二人の騎兵で、私を取り巻いているではないか?」
「いや、私は巡察をしているのだ」
「なるほど! その巡察で私を捕えるというわけですかな?」
「いや、あなたを捕えるようなことはしません。ただ、私はあなたを捜しに来たのだ。とにかく、私といっしょに来てください」
「どこへ?」
「陛下の御前へ」
「よし!」とダルタニャンはからかうように言った。「では、陛下はご用事がおすみになったのですな?」
「頼むから、身をつつしんでください」とジュスヴル公が銃士長に小声で言った。「こうして兵士たちが聞いていますから」
ダルタニャンは呵々《かか》と大笑して、
「進め! 逮捕される人間は、前と後に六人ずつ護衛兵がつくのだ」
「しかし、私は何もあなたを逮捕するのではないから」とジュスヴル公が言った。「どうか、私の後から歩いて来てください」
ジュスヴルはダルタニャンをまっすぐに、王の待ち受けている謁見所にと連れて行き、控えの間にはいって、この同僚の後ろに席をとった。謁見所ではコルベールを相手に、王が傍若無人に話をしていた。数日前には、王がダルタニャンと声高に話しをするのを、同じ場所でコルベールが聞いていたのである。
正面入り口の前には、騎馬の護衛兵が陣取っていた。銃士隊長が、国王の命によって逮捕されたという風評はまたたくまに市中にひろまっていった。
ルイ十三世時代のように、また、トレヴィル公の指揮を受けていたころのように、一同はざわざわと騒ぎ始め、三々五々寄り集まっては、王城の階段につめかけていた。中庭で話される、漠然としたささやきが、にぶい波の音のように、階上まで伝わってきた。
ジュスヴル公は不安になった。彼は近衛隊が銃士隊のために訊問《じんもん》されて、やはり気味悪く思ったか、銃土隊から遠ざかって行くのを眺めた。
しかしダルタニャンは近衛隊長のジュスヴルほどは気をもむようすもなかった。彼は控えの間にはいると、窓際に腰をおろして、鷲《わし》のような眼で、事態をことごとく見ていたが、眉《まゆ》一つ動かさなかった。
しかし、事態が危険になる間際で、親衛隊も、士官も兵士も、話し声も不安も、ことごとく消えてなくなった。
王の鶴の一声が動揺を静めたのだった。ブリエンヌが王の指図を受けて、「みんな静粛にせぬか、陛下のお耳ざわりだ」と叫んだからだった。
ダルタニャンは嘆息をもらした。
「何もかもおしまいだ。当節の銃士隊はルイ十三世陛下の治世の銃士とは違う。何もかもおしまいだ」と言った。
そのとき、廷丁が、
「ダルタニャン殿、陛下がお召しであります」と叫んだ。
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六二 ルイ十四世
王は入り口の扉を背にして、居室に腰をおろしていた。その正面は鏡となっていたので、書類を調べながらも、一目で部屋にはいって来る者の姿を見ることができた。
王はダルタニャンの来たことに気もかけず、書状や書面の上に、絹地の大きな緑色の布をかぶせた。彼はうるさい連中に秘密書類を見せまいとするときは、いつもこうしていたのだ。
ダルタニャンはこうしたやり方の意味を察したので、後ろの方に控えていた。王は何の音も聞かなかったし、横目でちらりと見ただけなので、「ダルタニャンはまいらぬのか?」と叫ばなければならなかった。
「はい、ここにまいっております」と銃士長は答えた。
「ところで、そちは」と王はぎょろりとした眼でダルタニャンを見ながら、「予に何か話でもあるのか?」
「私が?」とダルタニャンは巧みに口答えをしてやろうと隙をうかがいながら答えた。「この私がでございますか? 私は陛下に何も申し上げることはございません。陛下が私を逮捕するようにお命じになったので、罷《まか》り出たのでございます。はい」
王はダルタニャンを逮捕させたわけではないと答えようとしたが、言いわけするようになるので、黙っていた。
またダルタニャンのほうも、意地を張って沈黙を続けた。
「これ」と王がとうとう口を開いた。「予はそちにベル・イルヘ行って何をせよと命じたか?それを聞かせてもらおう」
王はこう言いながら、銃士長の顔をじっとみつめた。王がこうきりだしたのは、ダルタニャンにとって好都合だった!
「ベル・イルヘ何をするために出かけたかとのご下問でございますか?」と彼は言った。
「そうだ」
「陛下、その点は私、いっこうにわかりかねます。それは私にご下問あそばされずに、種々雑多のご命令を受けました、種々雑多の士官たちにご下問あってしかるべきかと存じます。遠征軍の指揮官でありました私へは、何一つ、はっきりとしたご命令が無かったのでございます」
王は機嫌を悪くしたか、それが自然と言葉に出てきた。
「忠誠と認めた者だけに指図をあたえたのだ」と答えた。
「陛下」と銃士長は反駁《はんばく》した。「私は、元帥と同等の待遇を受ける銃士長が、五、六人の中尉や、少佐の命令に従うことになりましたので、驚いておる次第でございます。また、あの士官たちは間諜《かんちょう》には持ってこいの人間でございますが、遠征軍を指揮するのは不適当でございますな。私はこのことに関して、陛下のご説明をうかがいに罷《まか》り出ました。ところが、私に対しては扉が堅く閉ざされております。私はこれを勇士への最後の侮辱と考えまして、御衛の職を拝辞したのでございます」
「そちは国王が臣下の指図を受けた時代が今もなお続いているとでも思っているのか」と王は言った。「国王はその行為について、神以外の何者にも説明する義務は持たん。そちはそれを忘れておるぞ」
「陛下、私は仕事をも忘れてはおりませぬ」と銃士長は王の言葉にむっとして言った。「それにまた正しい人間が陛下に向かって、どうしてご奉公の道を誤ったか、お尋ねいたすのが、何で陛下のお気にさわりますのか、私には理解ができませぬ」
「そちは、予の敵にくみしたではないか?」
「陛下の敵とは誰でございますか?」
「予がそちを派遣して、討伐させようとした者どもだ」
「あの二人の男が、陛下の全軍と対抗する敵だと仰せられるのでございますか! さようなことは信じられませぬ」
「そちは予の心の中を察しなければならぬ」
「しかし、私は友達との友誼《ゆうぎ》をおもんぱからねばなりませぬ」
「友人に忠たる者は、君主に忠ではない」
「陛下、私はそれをよく心得ておりますので、現職を拝辞したのでございます」
「そちもわかってもらったはずだ」と王は言った。「そちが辞職する前に、予が約束を守ったことをそちに示してやりたい」
「陛下はご自分だけで約束を守っておられます。何しろ私をこうして逮捕するように御命じになったのですからな」とダルタニャンは冗談半分にひややかな態度で言った。「陛下は私に逮捕するとは仰せられませんでした」
王はこの冗談口を無視して、まじめに言った。
「そちは不従順であるために、予がいかに重大な処置を取らねばならぬことになるかわかっておろう」
「私の不従順?」とダルタニャンは怒気《どき》を満面に現わして叫んだ。
「これが予の見出しうる最も穏やかな言葉だ」と王は続けて言った。「予の考えは謀反人を捕えて、罰しようというのであった。その謀反人が、そちの友人であるかどうかを、予は詮議《せんぎ》しなければならなかったのか?」
「しかし、私はそれを考えてみなければなりませぬ」とダルタニャンは答えた。「友人を捕えて陛下の絞首台へ連れてまいることを、私にお命じになりましたのは、残酷なお仕打ちと申すものでございます」
「予は、予に仕える者の真価を試すために、やってみたことなのだ。ダルタニャン、そちは予の試験に落第したのだ」
「陛下は悪い臣下を一人失われたのでありますが、またこの日、同様の苦しい試練を受けるものが十人もございます」と銃士長は悲痛な気持で言った。「陛下、私の申し上げることをよくお聞きくださいませ。陛下は私にまちがったことをせよとお命じになるのでございます。陛下をお救い申し上げたフーケ閣下が、その助命を嘆願《たんがん》した、あの二人を捕えに私をお遣わしになるというのは、まちがったことでございます。なおそのうえに、あの二人は親友でございます。彼らは陛下を攻撃したことはありませぬ。彼らは盲目的な怒りの威力に屈服したにすぎませぬ。なぜ彼らを逃がしておやりあそばさないのでございますか? 彼らは何の罪を犯しましたか?もっとも、この点では、陛下は彼らの行為を判断する権利があると仰せられるのでありましょう。しかし、事前に私をお疑いになるのでございますか? なぜに私の周囲に間諜《かんちょう》を付けられるのでございますか? なぜに全軍の前で、私の面目をおつぶしになるのでございますか! 三十年も陛下に仕え、数限りなく忠節の証拠をお見せ申したこの私が、あの二人を討伐する三千の王軍を眼前に見ながら、なぜに帰還しなければならなくなったか、私の罪がいかなるものであるか、それを今日はぜひとも陛下に伺わなければなりませぬ」
「そちは、あの二人が予に対して、どんなふるまいをしたか忘れておるようだな」と王は低い声で言った。「いや、もうたくさんだ。たくさんだ。そちは自分の好悪や友人関係を主にして、自分勝手に予の計画をめちゃくちゃにし、予の敵を助けたいというのか? いや、それはむずかしいぞ。もっと素直な言いなり次第になる君主を捜したらよかろう。他の王なら、予のするようなことはしないだろう。他の王なら、いつかそちがフーケ一味に荷担するようになるおそれがあっても、そちの自由になるだろう。しかし予は記憶がいい。予の感謝を受けようというには、また予の赦免を受けようというには、それに値するだけの忠勤がなければならんぞ。予はそちの命令違背の罰として、これだけを言っておく、このことを忘れぬようにな。予は機嫌がよいときでも、先王のまねをせぬから、たとえ怒っている場合でも、先王のなされたとおりにはしないからな。それに、予がそちに対して寛大にふるまう理由は、ほかにもある。第一にそちは非常に物事のよくわかる人物だから、自分を征服した者に対しては、よく仕えるだろう。第二に、そちが予の命令に違背する動機は、これからはもう無いからだ。そちの友達は、今時分はもう予の軍の者に逮捕されたか、殺害されておる」
ダルタニャンはさっと顔色を変えた。
「逮捕されたか、殺されたかと仰せられる!」と彼は叫んだ。「おお! 陛下、それがもし確かに仰せのとおりならば、私は今の寛大なお言葉を忘れて、陛下を暴君とお呼び申します。人情のない人間とお呼び申します。しかし、私は陛下がさようなことを口にせられても、お許し申し上げます」と彼は誇らしげに微笑しながら、続けて言った。「デルブレーやデュ・ヴァロンや、私がどういう人物であるかご存じのない、お若い陛下のことでございます。勘弁いたしましょう。逮捕されたか、殺害された! ああ!ああ! 陛下、もしそれが真実なことでございますれば、幾人の生命と、幾何《いくばく》の金銭がいりましたか、お聞かせください。それを伺ってから、この勝負事は割がよかったか、悪かったかを、計算いたしましょう」
こうダルタニャンが言ったので、王は非常に立腹して、つかつかと彼のそばに寄って言った。
「ダルタニャン、そちの返答は謀反人の返答だぞ。フランスの国王は誰か、聞かせてもらいたい。他に国王があるか?」
「陛下」と銃士長はひややかに答えた。「私はまだ忘れておりません。ある朝のこと、陛下はヴォーの城館《シャトー》で、大勢の人々にこの御問を発せられましたな。あのとき、誰も返事いたしませんでしたが、ひとり私だけがお答え申し上げました。事態安らかならざる節に、私は陛下をお認め申し上げたのでありますから、陛下と私とのほかに誰もおりませぬ今日、それをお尋ねになる必要はございますまい」
これを聞くと、ルイ十四世は眼を伏せた。あの不仕合わせなフィリップの幽霊が、ダルタニャンと自分とのあいだに行ったり来たりして、あの恐ろしい冒険の記憶を呼び起こすのではないかとさえ、王には思えてしかたがなかった。
ちょうどそのとき、一人の士官がはいって来て、王に一通の書面を手渡した。王はそれを読んでいくうちに、さっと顔色を変えた。
ダルタニャンもそれに気づいた。王は身動きもせず、無言のままでいたが、やがて再び書面に眼を通すと、急に心を決したように、「いずれ後になればわかることだが、今、予の口から話しておくほうがいいと思う。ベル・イルで戦闘が行なわれたのだ」と言った。
「さようでございましたか!」とダルタニャンは平然と口ではそう言ったが、しかし胸の動悸《どうき》は早鐘を打ったようだった。「それで、陛下、いかが相なりました?」
「予は百十人の兵士を失った」
喜びと誇らしげな光がダルタニャンの眼中に輝いた。
「そして謀反人は?」と訊《き》いた。
「謀反人は逃げてしまった」と王が言った。
ダルタニャンは勝利の叫びを発した。
「しかし船隊はベル・イルを厳重に封鎖しておるから、小舟一|艘《そう》も逃げられるはずはない」と王は言いたした。
「それでもしか二人が逮捕されましたなら……」と銃士長は再び憂鬱《ゆううつ》な気持になって言った。
「絞首刑だ」と王は静かに言った。
「二人はそれを存じておりますか?」とダルタニャンはわなわなとからだがふるえるのをおさえながら聞いた。
「知っておる。そちもそれを言い聞かせたはずだな」
「それでは陛下、彼らは生きては捕えられませぬ。私が保証いたします」
「いやそれはどちらでも同じことだ」と王は書状を取り上げ、事もなげに言った。「捕えられれば絞首刑だからな」
ダルタニャンは額の汗をぬぐった。
「そちにも話したとおり」とルイ十四世は言葉を続けた。「予は寛大な、情に厚い君主になるつもりだ。今では先王の遺臣で、予の立腹または友情に値するのは、そち一人になった。予はそちのふるまいのいかんによって、そちには、どちらの感情をも惜しむまい。封建制度の残骸《ざんがい》は、すでにフロンド党の手で一掃された。予は今や、フランスの君主だ。また、そうでなければ、自分の考えている大事業は完遂できない。今後、予はそちだけの才能はなくとも、あくまで忠誠を尽くす人物を、自分の臣下とするつもりだ。そちに尋ねるが、神が腕や脚に意識をあたえ給わぬのは、どういうわけだな? 神が知力をあたえ給うたのは頭だ。そして腕や脚は頭に従うのだ。予こそ、その頭なのである!」
ダルタニャンはぎくりとした。ルイはそのようすに気がついたが、何も知らぬ振りをして語り続けた。
「さあ、いつぞやブロワで約束をしておいたとおり、我々二人のあいだの取り引きをすませよう。まわりを見回すがいい。高い頭がみな下がっている。そちも頭を下げるか、さもなくば、そちに似合いの亡命の生涯を選ぶがよい。よく考えたら、そちにも、予が寛大な心を持っていることがわかろう。王室の重大な秘密を握っているそちに暇をやるのだからな。そちは義理堅い人物だ。予はそれをよく知っている。しかるにそちは、どうして予というものを早まって判断したのか? 今日以後の予を判断してくれい。いくらでも手きびしくやってくれい」
ダルタニャンは度胆を抜かれて、しばらくは言葉もなかった。生まれてはじめて決断がにぶった。彼はとうとう相手にとって不足のない人物を見出したのである。
「さあ、なんでためらっておるのだ」と王はやさしく言った。「そちは辞職を申し出たが、許さぬことにいたそうかな?そちのような古強者《ふるつわもの》が、いったん損じた機嫌を直すのは、なかなかむずかしかろうから」
「いや、それはたいして苦にはなりませぬ」とダルタニャンはもの悲しげに答えた。「私が辞意をひるがえすのを躊躇《ちゅうちょ》いたしますのは、陛下よりも年を取っておりまして、矯《た》めにくい癖がいろいろとあるからでございます。陛下は今後ご機嫌取りのてらい者か、陛下のいわゆる大事業のために命を捨てる狂人を、ぜひとも臣下に持とうと考えておられます。事実、そうした人達が偉いのでございましょうが、もし私が偉いと思いませぬなら、いかがでございますか? 銃士長の指揮権は、昔はたいしたものでございました。それは、この指揮権を持っている者は、国王陛下に向かって、いかなることでも直言することができたからでござります。ところが、これからの陛下の銃士隊長は、王城の御門の番を受け持つ一将校にすぎぬのでございましょう。陛下、それが今後の私の役目でございますならば、これを機会に役目を取り上げていただきましょう。私が遺恨《いこん》をいだくなどとお考えなさいますな。いや、仰せのとおり、陛下は私を手なずけておしまいになりました。しかし正直に申せば、陛下は私を手なずけて、私を弱くしておしまいになったのでございます。私が陛下の絨氈《じゅうたん》の埃《ほこり》を嗅《か》ぐようすは、なんとみじめな格好でございましょう! ああ! 陛下、私は昔が懐かしゅうございます。あのころは、フランスの国王がどの入り口をご覧になっても、みな一癖ありげな剛の者ばかり、一朝、事が起これば、敵を倒さねば承知せぬ、闘犬を見るような連中ばかりでございました。彼らは自分を養ってくれる者には、まことに柔順でございましたが、彼らを打とうとする者がありますと、そのかみつき方の猛烈さと申したら、まことにいやはや驚くべきものでございました。ああ! 今を昔に復《ふく》すことのできぬのが、私は残念でございます。陛下は君主であらせられる。君主は私に詩を作らせようとおぼしめす。繻子《しゅす》の沓《くつ》をこすって、控えの間の寄せ木の床を歩ませようとおぼしめす。いやはや! 難儀なことで、ございますわい。しかし私はもそっと大きな難儀に打ち克《か》っておりまする。おぼしめしどおりにいたしましょう。がしかし、またなぜそういたすのでございましょうか? 黄金を愛するがために?いや、金は十分に持っております。では、功名を願うがために? 私の出世もほとんど終わりでございます。宮廷を愛するために? いや、さようではございません。私は三十年の間、陛下の御前に伺候して、ご命令を承りつけております。『お早う、ダルタニャン』といつも陛下から微笑とともにお言葉を賜わっております。その微笑を、私は拝見したいのでございます。そのために、私はとどまりとう存じます。陛下、これでお気に召しましたか?」
こう言うと、ダルタニャンはその銀色の髪を頂いた頭を下げた。王はその上に、微笑しながら、誇らしげに、白い手をのせた。
「ありがとう。そちは予の老臣、予の忠実な友人じゃ」と言った。「もはや今日ではフランスに一人の敵もおらぬから、これからは元帥の指揮杖《しきじょう》を授けるために、そちを外国の戦場に派遣するばかりだ。予は必ずその機会をそちに作ってやろう。それまでは、予のいちばん上等のパンを食べて、十分安らかに眠ったほうがいいぞ」
「お言葉ありがたく存じます」とダルタニャンは深く感動して言った。「しかしベル・イルにおります不憫《ふびん》な者どもはいかが相なりましょうか? ことに一人は、あのような善良な、あのように勇敢な男は?」
「そちは、彼らの赦免《しゃめん》を請うのか?」
「ひざまずいて、寛大なるご処置を!」
「うむ、それなら、行って赦免の旨を伝えてやれ。間に合うならばな。しかし、そちは彼らのことを請け合うのかな?」
「はい、一命をかけて、お請け合いいたします」
「では行け! 予は明日パリヘ立つ、そのときまでに帰って来るように。予は今後おまえを自分の手許《てもと》から離したくはないのだ」
「ご安心くださいませ、陛下」とダルタニャンは王の手に接吻をしながら言った。
そして喜びに胸をいっぱいにして、王城を退去すると、急ぎベル・イルヘ向かった。
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六三 アラミスの助命
国王はパリに還幸《かんこう》になった。そしてダルタニャンも供奉《ぐぶ》して帰還した。彼は二十四時間を費して、ベル・イルであらゆる情報をできる限り集めたが、ロクマリヤの洞穴に二人の友達が隠れ、そこでポルトスが雄々しい最期《さいご》を遂げた秘密を少しも知ることができなかった。
ただ彼は、けなげに島に立てこもった友人である、この二人の勇士が、三人の忠実なブルターニュ人の力を借りて、大いに王軍を悩ましたということはわかった。そして彼は、付近の草原にはね飛ばされた血まみれな兵士の遺骸を見た。その火縄銃もヒースの中に埋もれていた。
それからまた、一艘の小舟が遥か沖合いに漕《こ》ぎ出したが、それを追跡して来た王軍の軍艦のために、餌食《えじき》となった小鳥のように、この哀れな羽ばたきをして飛び立った小鳥が捕えられてしまったこともわかった。
ダルタニャンが確実に知り得たことは、これだけだった。推量しうる範囲は、たったこれだけの範囲だった。さて、これからは、どういうふうに考えを進めていったものだろうか? 王軍の軍艦は戻って来なかった。三日前から、疾風が吹き回っているのは事実だった。しかし軍艦の肋材《ろくざい》は堅牢《けんろう》で、遠距離の航海に十分耐えることができているはずだった。だからダルタニャンの考えでは、アラミスを乗せた軍艦は疾風などは物ともせずに、ブレストに帰港するか、ロワール河の河口にはいって来なければならなかった。
こんなぐあいに消息はすこぶる疑わしきものだったが、それでも幾分彼を安心させた。そこで彼はルイ十四世のもとへこの報告をもたらした。王はこれを聞いてから、廷臣一同を引き連れてパリに帰った。この上首尾に満悦したルイは、自分を強き者と自負してからはじめて、やさしく愛想よくふるまって、ラ・ヴァリエールの馬車のそばを一刻も離れずに、馬をうたせて行くのだった。
これを見た者は誰も彼も、なんとかして大妃と王妃を慰めて、このそっけない王の仕打ちを忘れさせようとした。人々は皆、未来を呼吸した。過去は誰にとっても無であった。ただ一部のやさしい忠義な人々の心には、この過去が出血の止まらない重傷のようなものだった。王はパリに還幸するが早いか、このことについて、痛ましい証拠を見せつけられたのである。
王は起床して、いま朝食をすましたばかりだった。そこへダルタニャンが、青い顔をして、いかにも物悲しそうに、御前に伺候した。王は一目で、この変わったようすを見て取った。
「どうしたか、ダルタニャン?」と彼は聞いた。
「陛下、私は非常な不幸に出会いました」
「それは、それは! 不幸とは何か?」
「陛下、ベル・イルの戦闘で、私は親友のヴァロン男爵を失いました」
こう言いながら、ダルタニャンは鷹《たか》のような眼つきで、じっとルイ十四世を見つめた。彼は王の内心を看破しようとしたのだった。
「予はそれを知っておった」と王は答えた。
「陛下はご存じでありながら、私にお話しくださらないのでございますか?」と銃士長は叫んだ。
「何のたしになるか? そちの悲しみは十分に察してやらねばならない。それを心して取り扱うことが、予の義務だった。この不幸が、そちに大きな苦痛をあたえることはわかっていた。それをそちに話せば、予が勝ち誇るように思われるではないか。予は、デュ・ヴァロンがロクマリヤの大岩につぶされたことも、デルブレーが予の軍艦を乗っ取って、バイヨンヌヘ逃げたことも承知していた。しかし予はそちが直接にその消息を耳にすることを望んだ。国王というものは、威厳と権力のために、臣民を犠牲にすることが往々あるものだが、予はそうしない。予は自己を犠牲にしても臣下を重んずる。この予の心持ちをそちによくわからせるように、予はわざと黙っていたのだ」
「しかし、陛下はどうしてご承知になりましたか?」
「ダルタニャン、そちはどうして知った?」
「この書面によりまして。これは危険から脱出して、自由の身になったアラミスがバイヨンヌからよこしたものでございます」
「これをご覧」と王は、ダルタニャンが寄り掛かっていた座席のそばにあった机の上の手箱から、一通の書面を取り出して、「これがデルブレーの手紙の写しだ。そちがこの手紙を受け取る八時間前に、コルベールが予に手渡したのだ……皆がよく仕えてくれる。わかったろうな」
「なるほど」と銃士長はつぶやいた。「陛下でございますればこそ、私の二人の友の運命と力とに打ち克《か》たれたのでございます。陛下は王者の権力をお用いになりました。が今後、それを濫用あそばすようなことはございますまいな」
「ダルタニャン」と王は好意に満ちた微笑を浮かべながら言った。「予はデルブレーをスペイン王の領土から奪い返して、刑罰を加えようと思えば、それもできたのだ。が、安心せい。そうしたいところだが、予は自分の感情には左右されたくないのだ。デルブレーは自由のからだだ。いつまでもそうさせておこう」
「ああ! 陛下、陛下は今、私や、デルブレーに、寛大で、気高く、見上げたおぼしめしをお示しくださいましたが、いつもそのような気持でいられてはいけませぬ。陛下の側近には、こうした陛下の弱点をお直し申し上げようとしている忠義の士がたくさんいることはお気づきでございましよう」
「いいや、ダルタニャン、予の考えがそちの非難によって緩和されたと思ったら、それはまちがっておるぞ。デルブレーを助命せんとする意見は、コルベールが考えたことなのだ」
「ほほう!」とダルタニャンは肝《きも》をつぶして、こう叫んだ。
「また、そちの一身上の話だが」と王は常になく親切に、言葉を続けた。「これには、いろいろと耳よりの知らせがあるのだ。がしかし、銃士長、これは予が自分の総勘定をすませた上で、話して聞かせようと思っている。予はそちに、出世をさせるつもりだと言っておいたが、この約束も遠からず実現するだろう」
「かたじけなく御礼申し上げます、陛下、ご沙汰をお待ちいたしましょう」
「では、そちに休暇をあたえよう。そちの友人であるデュ・ヴァロンの死後の始末をするのに、時日がいるだろうからな」
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六四 老アトス
かつては形影《けいえい》相添うて、互いに離れることができないと思われた四人の銃士も、前に述べたとおりのいろいろの出来事のために、今は散り散りになってしまった。なかんずく、アトスは息子のラウールの出発後、唯一人寂しい日を送っていた。
アトスはブロワの自宅に帰ったが、花壇を過ぎても、あの微笑をもって迎えてくれる執事《しつじ》のグリモーさえ、今はいないのだった。彼は昔日の元気が日に日に衰えてきたことを感じていた。
六十二歳の高齢になっても、なお矍鑠《かくしゃく》たる彼、どんなに疲労しても、元気をそこなわず、どんな不幸に会っても、精神の溌剌《はつらつ》さを保ち、ミラディーやマザランやラ・ヴァリエールに会っても心身の平静を失わなかった彼、その彼がこの一週間に、めっきりと老いこんでしまった。
腰が曲がっていても、また白髪をいただき、物寂しそうに足がよろめいていても、今なお端麗な彼の姿は、自分ひとりとなってからは、いつも太陽が葉陰からもれている林の中の小径を当てもなくさまよっていた。
彼は長年行なってきた激しい運動をぷっつりやめてしまった。春夏秋冬の別なく、夜が明けるとともに起き出た彼が、七時になっても床を離れないので、召使いたちは驚いた。
また、床にはいるときには、枕許《まくらもと》に一冊の本を置いて寝たが、さて眠るのでもなく、読むのでもなかった。持てあましたからだを床に横たえて、からだから抜け出た霊魂が、わが子のもとへと、または神のもとへと帰って行くがままにまかせていたのだった。
ときおり、数時間もアトスが無言で、知覚を失うような夢想にふけっているのを見て、人々は非常に驚いた。もはや彼には、主人が眼覚めているかどうかのぞこうとして、寝室の敷居のところまで来る、心配そうな下僕の足音さえ聞こえないようだった。一日の半分は過ぎ去って、朝も昼も、食事の時間がとうにたってしまうこともあった。こんなときには、人々は彼を起こしに行った。彼は起き出すと、例の小暗い小径におり立って、あたかも家にいない息子と太陽のわずかな熱を分かち合うように、日向ぼっこをするのだった。それから疲れ果てるまで、単調な寂しそうな散歩を続け、やがて再び、寝室に帰って、床にはいるのが常だった。
数日の間、アトスは一言も口をきかなかった。人が尋ねて来ても、面会を拒んだ。そして夜は灯火の下で、手紙を書いたり、羊皮紙の古文書を調べたりして、いつまでもいつまでも起きていた。
アトスはこういう手紙を、あるいはヴァンヌに、あるいはフォンテーヌブローへ出した。が一つも返事が来なかった。来ないのも道理、アラミスはフランスを離れてしまったし、ダルタニャンはナントからパリヘ、パリからピエールフォンへと旅を続けていたのである。彼の下僕は、主人の散歩が日々に、幾回りかずつ短くなるのに気がついた。かっては、菩提樹《ぼだいじゅ》の並木道を一日に百回も往復したのに、最近では大儀そうに中途まで歩いては、横道に置いてある苔蒸《こけむ》した腰掛けに休んで、一息入れるというようになってきた。そして彼はこうして体力が回復するのを待つというよりも、むしろ夜の帳《とばり》のおりるのを待っていたのだった。
それからまもなく、彼は百歩も歩くと疲れるようになり、ついに床を離れるのも億劫《おっくう》になった。そして栄養をとることも拒んだ。そこで、驚いた家人は、たといアトスが苦痛を訴えなくとも、また、口許にいつも微笑をたたえ、やさしい声音で話をしているにしても、何はともあれ、ブロワの町に出掛けて行って、懇意《こんい》の医者を呼んで来た。が彼らは主人の機嫌をそこねてはいけないと思って、医者を病人の部屋には通さずに、隣りの居間へ案内した。そしてそこに隠れたままで、主人の容態を診《み》てくれと頼んだ。
医師はこれに従った。アトスは典型的な地方貴族だった。ブロワの人達は、古きフランスの光栄を担った、この遺物のごとき人物を持つことを郷土の誇りとしていた。人々はアトスを尊敬もしていたし、また愛してもいた。だから医師は密室の奥に隠れて、慎重にアトスの不思議な病気の性質も診察した。彼はこの貴族の頬《ほお》に病的な赤らみを発見した。こうした徴候は患者の体内にひそむ消耗性の熱から来ているもので、それが苦痛を生じ、その苦痛からさらに熱が高くなっていくのだった。
アトスは誰とも話をしなかった。独語すら言わなかった。彼の瞑想《めいそう》は音響を恐れた。それはほとんど法悦に近い過度の興奮状態となっていた。こういうふうに恍惚《こうこつ》となった人間は、まだ神には属していないが、もはや現世の地上のものではないのである。
医師は、人間の意志とある優越した力とのこうした痛ましい争闘を、数時間じっと見守っていた。彼は患者の眼が、いつまでも眼に見えない何物かにすえられているのを見て、これは容易ならぬことだと考えた。そこで医師は、ついに意をけっして、突然その部屋から飛び出すと、つかつかとアトスのそばに行った。しかしアトスはこの医者が突然現われてもべつに驚いたようすも見えなかった。
「伯爵閣下」と医師は腕をひろげたまま患者のそばに近づきながら言った。「私はあなたに小言を言わなければなりません」
こういうと、彼はアトスの枕許に腰をおろした。すると、アトスはようやくのことで、恍惚の状態から覚めた。アトスは、ちょっと無言でいたが、「先生、なんですかな?」と聞いた。
「あなたはご病気ですよ。それなのに、医者にもお診せにならない」
「私が病気!」とアトスはほほえみながら言った。
「お熱があります。それに肺結核のようですし、おからだも衰弱しておられます」
「衰弱! そんなことがあるかな?」とアトスは答えた。
「まあ、まあ、伯爵閣下、そんなことを仰せられてはいけません。あなたは立派なキリスト教信者でいられましょうな?」
「そうですとも、先生」
「でも、ご自分をお殺しになりたいのですか?」
「いや、けっして」
「では、そうしていられるのは、自殺も同然でございますぞ。早くおなおりにならなければいけません。伯爵閣下、おなおりにならなければいけません」
「何をなおすのですか? まず第一に、病気を見つけなさい。私はこんなにからだのぐあいがよかったことはない。こんなに部屋が美しく見えたことはない。こんなによく草花の世話をしたことはない」
「あなたには人に隠している心配事がございましょう」
「いや、何も隠してはおらん。ただ倅《せがれ》がいないこと、それが、私の病気です。他に何も隠してはいません」
「閣下、令息はご壮健です。これからどれほどでも出世をあそばすお方です。令息のために、お元気になって……」
「しかし、私は元気ですよ、先生。安心してください」とアトスは寂しい微笑を浮かべながら言いだした。「ラウールの生きているあいだは、私も元気でいなくちゃならん」
「なんとおっしゃいます?」
「事柄は至極簡単です。先生、私は現在のところ、生命を宙ぶらりんにして、ほったらかしておきます。あるいはしばしば兵士が港に集まって、乗船の時を待っているのを見たことがありますが、彼らは、海上に出ているでもなし、また、陸上に踏みとどまるというでもなし、ただどっちつかずの心持ちで、行李《こうり》のそばにころがって、覚悟をきめ、眼をすえて、時を待っています。私の現在の生活を形容すれば、つまりあれです。兵士のように横になって、命令を待っているのだ。その命令は生か死か、誰が伝えてくれるだろう? 神か、ラウールか? 私の行李はもうできている。私の魂は支度ができている。ただ今は合図を待っているだけなのだ……先生。私は待っているのだ! 私は待っているのだ!」
医者はこの精神の素質がどんなものかわかった。これで、よくからだが続くと思って感心した。彼はこれ以上言い聞かせてもむだだと考えたので、アトスの召使い達に、一時《いっとき》も病人のそばを離れないように注意して、邸を辞去した。
医師が行ってしまうと、アトスはじゃまされたことを怒りもせず、迷惑がるようすもなかった。彼は手紙が来たら、すぐ自分のところに持って来るように命ずることさえしなかった。しかし彼は手紙を読めば、気がまぎれ、心が落ち着くことを知っていた。
睡眠もだんだんと稀《まれ》になった。アトスは熱心に想念を凝らして、数時間のあいだ、深い、漠とした黙想に我を忘れるのだった。この忘却は肉体に一時的の休息をあたえたけれども、精神はこれがために、一段と疲労を増した。ある夜、彼はラウールがボーフォール公の指揮する遠征軍に参加するため、テントの中で支度をしているところを夢に見た。ラウールは物悲しそうなようすで、ゆっくり鎧《よろい》を着、長剣をつっていた。
「どうしたのだ?」と父親がやさしく尋ねた。するとラウールは、「ポルトス様が亡くなられて、私は悲しゅうございます。私がここで悲しんでいると同じように、父上もまもなく、お家で悲しい思いをなさるでしょう」と答えた。
そしてアトスが眠りに落ちると同時に、この幻影は消えた。
夜の明け方、下僕の一人が彼の部屋にはいって来て、スペインから届いた一通の書面を彼に渡した。
「アラミスの手跡だな!」とアトスは考えた。
そして開封して、最初の数行を読んでいたが、「ポルトスが死んだ!」と叫んだ。「おお! ラウール、ラウール、ありがとう! おまえは約束を守ってくれた! おまえは私に知らせてくれた!」
こう叫ぶと、アトスはこの致命的な心痛のために、床の中で気絶してしまった。
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六五 アトスの幻影
しばらくして正気にかえると、アトスはこの超自然な出来事を聞いて、気絶してしまった自分を、ほとんど恥ずかしいぐらいに思った。そして早速に身支度を整えて、馬の用意を命じた。ブロワの町まで行って、アフリカにいるラウールか、ダルタニャンか、それともアラミスに、もっと確かなことを問い合わせようと決心したのだった。
事実、このアラミスからの手紙は、ベル・イル討伐隊の失敗を報じ、ポルトスの最期《さいご》の有様を詳細に書き、友誼《ゆうぎ》に厚いアトスの心を非常に感動させたのだった。
アトスは親友ポルトスに最後の別れを告げに行きたかった。そしてこの古き戦友に敬意を表するために、ダルタニャンを呼び寄せて、ベル・イル行をすすめ、そして二人そろって、彼があれほど愛していた巨人への悲しい墓参をすまし、それから邸に帰って、永世への旅に出たいと思った。
主人に身支度をさせた下僕たちは、旅行が主人の憂鬱《ゆううつ》を追っ払ってくれるだろうと、大喜びで、厩《うまや》の中でもいちばんおとなしい馬に鞍《くら》を置いて、玄関先に引いて来た。するとアトスは急に頭がふらふらして、立っていられなくなった。これではもう一歩も歩けないと、アトスは考えた。
そこで下僕たちに命じて、日当たりのよい場所に運んでもらった。彼は苔蒸《こけむ》した腰掛けの上で一時間ばかり横になっていたが、どうやら元気も回復してきた。
こうした衰弱は普通とは思われなかった。アトスは元気を回復しようとして、ワインのびんをとった。杯に大好きなワインをなみなみと注いで、彼は乾ききった唇を湿した。このワインはアンジューの古酒で、ポルトスから贈られたものだった。
やっと爽快《そうかい》な気分になったので、また馬を引いて来させた。そして下僕に助けられて、かろうじて馬にまたがることができた。
しかし百歩も行かぬうちに、悪寒《おかん》がしてきた。
「これはへんだわい」とアトスは供をしていた下僕に言った。
「旦那《だんな》様、もうおやめになりましては? お顔の色がお悪いようでございます」と忠実な召使いが答えた。
「出掛けたからにはこれしきのことで、引き返すものか」と伯爵は言った。
そして馬の手綱をゆるめた。
しかし馬は主人の思いどおりにならずに、急に止まった。アトスの無意識の挙動が、轡《くつわ》を引き締めたのだった。
「速くに行ってはならんという、何かのお告げだろう」とアトスは言った。それから両腕をさし伸べながら、「私のからだをささえてくれ。早く、そばに寄って! からだの筋がゆるんだようだ。落馬しそうだ」と言った。
下僕は大急ぎで主人のそばに寄って、そのからだを両腕でかかえた。そしてまだそう遠くない玄関で主人の危ない歩き振りを心配しながら、見送っていた他の召使いたちを身振りと声で呼んだので、一同が急いで駆けつけて来た。
アトスが邸に戻ろうとして五、六歩、歩きだすと、すぐに気分がよくなった。彼は気力を回復したので、どうしてもブロワに行きたかった。そこで馬に輪乗をさせようとしたが、すぐとまた苦しくなった。
「はて、これは確かに家にじっとしておれというお告げらしいな」と彼はつぶやいた。
召使いたちは彼に近寄って、馬からアトスを降ろすと、家の中に運び入れた。やがて寝室の準備ができたので、人々は彼を寝床に寝かした。
「今日はアフリカから手紙が来る日だが、忘れはしまいな」とアトスは眠ろうとつとめながら、召使い達にこう声をかけた。
「ブレソワの息子が馬で出掛けました。飛脚よりも一時間は早うございましょう」と下僕が答えた。
「そうか、ありがとう!」とアトスは穏やかな微笑をもって答えた。
そしてアトスは眠りについた。しかしその眠りは安息というよりも、むしろ懊悩《おうのう》に近いものだった。枕辺《まくらべ》で看護していた下僕は、主人の顔に、心の中の苦痛が浮かび出てくるのを幾度か見た。多分、アトスは恐ろしい夢を見ていたのだろう。
時刻はだんだんとたった。ブレソワの息子が帰って来た。飛脚は何の便りももたらさなかったのだった。アトスは絶望しながら一分二分と数えた。そして分が一時問になったときには身ぶるいをした。一度は、自分が忘れられているのではないかと、急に思ったりして、非常に胸の痛みを覚えた。
家人は、もはや飛脚はもう来まいと思っていた。飛脚の到着する時刻は、とうの昔に過ぎていたからである。ブロワの町へは、四度も急使が飛んで行ったが、アトスに宛てた手紙は一つも来ていなかった。
アトスは飛脚が週に一回しか来ないことを知っていた。だから、彼はもう一週間待たなければならなかった。
彼がこうした痛ましいあきらめをいだいて寝ているうちに、日は暮れて夜となった。
こういう状態にある病人の常として、宵のうちから、いろいろと暗い想像をめぐらして、心配の上に次々と不吉なことを積み重ねて行った。そのためか、急に熱が高くなって、胸部を侵《おか》した。やがて胸は火のように熱くなったので、ブロワの町に最後の使いを出すとき、医者を呼び迎えた。
まもなく熱は頭部を侵し始めた。医者は続けざまに、二回病人の血液を取った。そのために頭は一時|爽快《そうかい》になったが、病人のからだは非常に衰弱した。
しかし熱は上がらなくなった。しびれるくらいにひどく脈拍《みゃくはく》が打っていたが、真夜中ごろにはもうなおった。
確実に容態がよくなったのを見て、医者はこの分なら大丈夫だと言って、家人に二、三の注意をして、ブロワの町に帰って行った。
すると、アトスにとって、奇妙な、なんとも言えない状態が始まった。自由に頭が働くようになると、彼の心は最愛の息子ラウールに向かった。彼の想像はボーフォール公爵が、遠征軍を率いて上陸した、アフリカのギゲルリ付近の戦場を描き出した。
そこは、嵐のときに、海岸に打ち寄せる海水のために、緑色になった灰色の岩がごろごろしている場所だった。墓石のように点々としている、この岩のある海岸の向こうには、乳香樹《ランチスク》や仙人掌《シャボテン》の木のあいだに、円形劇場のように、一種の小さな町が、煙と雑音と大騒動のまっただ中に立っていた。
すると、急にその煙の中から炎が立ちのぽり、それが家々を伝わって、みるみるうちに、町全体をおおってしまった。涙も叫喚《きょうかん》の声も、天へさし伸べた大勢の祈願の手も、ことごとく紅蓮《ぐれん》の渦巻きに捲《ま》き込まれて、火の勢いはだんだんと増すばかりだった。その中に厚板のものすごいばかりの塊が崩れ落ち、ねじれた金属板や、焼石や、黒焦げになった樹なぞが木端微塵《こっぱみじん》となった。
不思議なことに、アトスには、高くあげた腕がたくさん見えるのに、また泣き声やうめき声が盛んに聞こえるのに、人間の姿は一つも見えなかった。
砲声が遥か遠くにとどろき、小銃の音が物狂おしく鳴り続いた。海は咆哮《ほうこう》していた。たくさんの羊の群れが緑の丘を飛び越えて逃げて行った。しかし、砲台のそばにある火縄に近づく兵士もなく、艦隊の機動を助ける水夫も見えず、また羊の群れを守る牧人もいなかった。
ただ、そこには、村落の廃墟《はいきょ》と堡塁《ほうるい》の潰滅《かいめつ》した姿だけが残った。炎は消え、静かに立ちのぼっていた煙も、やがて薄らぎ、果ては消えてしまった。それから、夜の帳《とばり》が降りて、曇った夜が地上をおおい、青空が明るくなり始めた。そして火のように赤いたくさんの星が、アフリカの空にきらきらと輝いていた。
長い沈黙が続いた。そのために、アトスの混乱した頭が、少しのあいだ休まった。彼はまだ見残しがあると思ったので、自分の想像が描き出した奇妙な光景の中へ、一心に意識の眼を向けた。
するとまもなく、その光景の続きが見えた。
青白い月が海岸の斜面のかなたにのぼった。この岸辺に波形の紋を刻んでいる海は、激しい咆哮の後で、静まったようだった。先刻のぼった月は、丘の草むらや森林に、そのダイヤモンドやオパールのような光を投げかけていた。
あの幽霊のように立っている灰色の岩々は月の光で明るくなった戦場を眺めようとして、頭をもたげたかと思われるように、あちこちにそびえていた。するとアトスは今まで空虚だった戦場の至る所に、兵士の倒れているのを見た。
彼はピカルディ兵の白と青の軍服や、その青柄の長槍《ながやり》や、床尾《しょうび》に百合《ゆり》の花をつけた小銃などを見たとき、恐怖と危懼《きぐ》とで、言うに言われぬ戦慄《せんりつ》を感じた。
彼はボーフォール公爵が乗っていた白馬が、累々たる死体がある戦場の最前列に、頭を砕かれて倒れているのを見た。アトスは冷たくなった手を額にあてた。しかし額は少しも熱くなっていなかったので、彼はかえってびっくりしたほどだった。
もしやラウールがその中におりはしないかと、死骸《しがい》を一つ一つ調べて歩いた。アトスの魂はどんな苦悩を覚えただろう? そしてその中に自分の捜した者が見つからなかったとき、彼はどんな喜びをもって、神のみ前に感謝を捧げただろう?
アトスはこうした死骸を見て行くあいだに、一人も生存者に会わないので、非常に驚いた。
彼は海上といい、陸上といい、至る所駆けずり回ったので疲れ果ててしまった。そこで一つの岩の後ろに見える、テントヘはいって休息しようと思った。そのテントの頂には、百合の花のついた三角旗がひるがえっていた。アトスはボーフォール公爵のテントの方へ案内を頼もうとして、兵士の姿を捜した。
彼は広い野原を、あちこちと見回した。すると、白い姿をしたものが、脂《あぶら》の多い桃金嬢《てんにんか》の繁みの後ろから現われた。
それは将校の服装をして、手には折れた剣を持って、静かにアトスの方へ進んで来た。急に立ち止まって、その姿をじっとみつめたアトスは、一言も口をきかなかったし、身動きもしなかった。そして両腕をひろげようとした。なぜならば、この無言の青白い将校が、ラウールだとわかったからだった。
アトスは何か叫ぼうとしたが、声が咽喉《のど》に詰まって出て来なかった。ラウールは唇に指を当て、口をきくなという合図をして見せて、だんだんと後へさがって行った。しかし、アトスにはラウールの足の動くのが少しも見えなかった。
アトスはラウールよりもまっさおな顔をして、打ちふるえつつ、わが子の跡を追いながら、茨《いばら》の藪《やぶ》をくぐったり、岩や溝を越えたりして、骨を折って、どこまでも歩いていった。ラウールの足は大地に着いていないようで、どんな障害物も身軽に越えて行ってしまった。
アトスは地上の障害物のために疲れ果て、やがてぐったりと倒れてしまった。しかしラウールは続けてついてくるように合図をした。そこでやさしい父親は、再び元気を振い起こして、最後の努力を試みた。彼は息子の合図と微笑にひかれて、その跡を追いながら、山をのぼったのだった。
そのうちに、彼はこの丘の頂にたどり着いた。すると、月光に白く照らされた地平線に、幽霊のようなラウールの姿が黒く浮き出ているのが見えた。アトスは丘の上にいる最愛のわが子に少しでも接近しようと思って、手をさし伸べた。また、ラウールのほうでも手をさし出した。が、そのとき、若者はさながら何物かに引きずられたように、突然後ろにさがって、大地を離れてしまった。そしてアトスはわが子の足と丘の地面とのあいだに、空が明るく輝いているのを見た。
ラウールはほほえみながら、相変わらず父を手招きしながら、いつのまにか虚空の中へのぼって、天国の方へ遠ざかってしまった。
アトスは恐れおののいた慈愛の叫びをあげた。彼は再び下の方を見た。崩れ落ちた陣営が一つ、それから王軍の土卒の白い屍《しかばね》が点々として見えた。
それから、再び頭をあげてみると、ラウールがなおも、いっしょに天国にのぼるように、彼を手招きしている姿が見えた。
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六六 死の天使
アトスの不思議な幻影は、ここまで来て、突然|邸《やかた》の表門の方に起こった、大きな音響のために破られた。
並木道の硬い砂利の上を、馬が駆けて来る響きが聞こえ、騒々しい、活気のある話し声が、アトスの寝ている部屋まで聞こえてきた。
アトスは寝ている場所から身動きもできなかった。彼はその音響をよく確かめようとしても、表門の方にはほとんど頭を振り向けられなかった。
すると、重い足音が石段をのぼって来た。疾駆して来た馬は、厩《うまや》の方にそろそろと行ったらしい。アトスの部屋に近づいて来た足音には、おずおずとしているようすがうかがわれた。
扉があいた。アトスは音のする方へ少し向き直って、弱い声で叫んだ。
「アフリカからの飛脚かな?」
「いいえ、伯爵様」と答えた声は、アトスをふるえさせた。
「グリモーか!」とアトスはつぶやいた。
脂汗がたらたらとやせた頬《ほお》に流れた。
グリモーは敷居のところに姿を現わした。それは、ラウール・ド・ブラジュロンヌに供をして王軍の艦隊に第一番に飛び乗った、若くて、勇敢な、忠実な昔のグリモーではなかった。埃《ほこり》にまみれた服を着け、髪の毛が白くなった、青い顔をした老人だった。彼は戸口の框《かまち》によりかかって、からだをふるわしていた。そして灯火に照らされた主人の顔を遠くから見ると、今にも倒れそうになった。
主従は互いに顔を見合わして、しばらくのあいだは口もきかずにいた。そして眼と眼が合ったばかりで、もう互いに心の奥底まで読んだのだった。
グリモーの顔には、すでに悲しい毎日を送った結果、苦悩の痕跡《こんせき》が現われていた。かつては口をきかないようにしていたと同じく、彼には、もはや笑う習慣もなくなっていた。
アトスはこの忠実な召使いの顔に現われている暗い影を一目で読み取ってしまった。そして夢の中で、ラウールに話しかけたときと同じ調子で、「グリモー、ラウールは死んだのだね?」と言った。
グリモーの後ろには、他の召使い達が息を殺して聞いていた。そしてその視線はじっとアトスの寝床の上に注がれていた。彼らはこの恐ろしい質問を聞いていた。その後には、痛ましい沈黙が続いたのだった。
「はい」と老人はしゃがれた溜息《ためいき》とともに、胸の中からこの一語をはき出した。
アトスは悲しげな眼をあげて、部屋に飾ってあったわが子の肖像画を捜した。彼には、このときが現実から夢に移って行く境目だった。
叫び声一つ出さず涙一つ流さずに、彼は殉教者のような眼を、天の方に向けた。ギゲルリの山の虚空にのぼって行く、わが子の魂の姿を、グリモーが帰って来たため、中断されたので、今再び、そこに見ようとするのだった。
こうして天の方を眺めながら、不思議な夢を再び見つつ、アトスはさっきの恐ろしくも、また甘美な幻影によって導かれたときと同じ道を、再び通って行ったことは確かだった。彼は静かにつぶっていた眼を、また開いて、微笑し始めた。これは父に微笑を送るラウールを見たために相違なかった。
両手は胸の上に組み合わされ、顔は窓の方を向いていた。そしてその顔は、草花と樹々の香りを枕辺《まくらべ》に運ぶ、すがすがしい夜風に吹かれていた。こうしてアトスは生きている者が見ることのできぬ、天国の夢想の中にはいっていったのだった。
彼はラウールの清く穏やかな魂に導かれていた。天上の楽園に行く魂がたどる、けわしい道の中にあるいっさいのものが、この正義の士には、かぐわしく、妙なる音楽であった。
法悦の一時間がたってから、アトスは蝋《ろう》のような白い両手を静かにあげた。微笑はまだ口許《くちもと》に残っていた。そしてほとんど聞きとれぬくらいな低い声で、神か、ラウールかに言った、次のような言葉をつぶやいた。
「私はここにいる!」
それから彼の両手はゆるやかに下がった。まるで自分から、それを寝床の上に置くように。
死はこの気高い人に対して、やさしくふるまった。そしてこの尊ぶべき偉大な魂に、永世への門を開いてやったのだった。アトスは永遠の眠りの中に、穏やかな笑いを浮かべていた。この微笑こそは、彼が墓石の下まで持って行く飾りだった。召使い達は、主人があまり穏やかな顔をしているのを見て、ほんとに息が絶えたのかどうか、しばらく疑っていたくらいだった。
家人は、グリモーが遠くから、主人の青い顔をじっと見つめているので、寝床のそばに連れて行こうとした。しかしグリモーは死の吐息《といき》がもたらす敬虔《けいけん》な畏怖《いふ》を感じて、けっしてそばに寄らなかった。それに、グリモーは疲れてもいたので、そこを離れて他に行こうともしなかった。彼は入り口の敷居にすわって、今にも主人が最後の息を引きとるかと、番兵のように油断なく、ようすを見守っていた。
邸内には一つの物音さえしなかった。家人はそれぞれ、主人の休息をそっとしておきたかったのだ。しかし、グリモーは、一心に耳を澄ましていたので、もう主人の息が絶えていることがわかった。
グリモーは床に手を突いて、身体をささえていた。そしてその位置から、主人のからだが動かないか、じっと見つめていた。
少しも動かなかった! 彼は急に恐怖を感じた。そして、すっくと立ち上がった。そのときだった。誰か階段を昇って来る足音が聞こえた。アトスの寝床の方へ行きかけて、グリモーが立ち止まったのは彼の耳に懐しい尚武《しょうぶ》の音である拍車と剣とがぶつかる音がしたからだった。そして、彼から三歩ほど離れたところで、拍車と剣の音よりも、もっとよく響く声が聞こえた。
「アトス! アトス! おい!」とその声は叫んでいた。
「ダルタニャンの殿様だ!」とグリモーがつぶやいた。
「どこにいる?」と銃士長は続けて叫んだ。
グリモーはやせた指をダルタニャンの腕にかけて、主人の寝床を指さした。その敷布の上には、すでに遺骸《いがい》が鉛色になって横たわっていた。
ダルタニャンは咽喉が詰まって、叫び声も出なかった。足を爪立《つまだ》てて、ぶるぶるとふるえながら歩み寄った。彼の胸は苦悩のために張り裂けるばかりだった。そしてアトスの胸に耳を当て、その口へ顔を押しつけた。何の音も聞こえなかった。息吹《いぶき》一つしなかった。ダルタニャンはたじたじと後ずさりをした。
ダルタニャンのすることを眼で追っていたグリモーは、おずおずと寝床の足許に来てすわった。そして主人の硬くなった足がささえている夜具の上に唇を押しつけた。
銃士長は、この微笑している亡き人の前に立ったまま、瞑想《めいそう》にふけっていた。こうして、アトスの顔を見つめていると、この世を去ってまでも、親友を心から歓迎しようと、臨終の間際までも考えていたように思われるのだった。ダルタニャンは、その深い友情への返礼に、アトスの額に熱い接吻をした。そしてふるえる指で、その眼を瞑《つぶ》らせた。それから彼は枕辺にすわって、さまざまの追憶に時を過ごした。すると突然、悲しい思いで次第次第に胸がいっぱいになって、どうにもできなくなったので、彼はつと立ち上がると、ふっとその部屋を飛び出してしまった。
夜の明け方、ダルタニャンは鳴咽《おえつ》の声を消そうとして、掌を噛《か》みながら、階下の部屋を歩き回っていたが、再び階上にのぼって行った。そしてちょうど彼の方を盗み見たグリモーを招いた。
彼はグリモーを連れて、再び階下に降りると、玄関のところで、この老人の両手を取りながら言った。
「グリモー、おれはああして、父親の方を見送ったが、今度は一つ、倅《せがれ》のことを聞かしてくれんか」
グリモーは懐中から、一通の手紙を取り出した。その封筒の上には、ボーフォール公爵の手跡で、アトスの住所がしたためてあった。彼はこれを見るとすぐに封を切った。そしてアトスの足跡がまだ残っている鬱蒼《うっそう》たる菩提樹《ぼだいじゅ》の並木道を行きつ戻りつしながら、折りからの青みを帯びた黎明《れいめい》の光で、この報告書を読み始めた。
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六七 戦死の公報
ボーフォール公爵はアトス宛《あ》てに手紙を書いたのだったが、それが届いたときには、アトスは死んでいた。神が宛名を変え給うたのである。
公爵は学生のようなへたな大きな字で次のように書いてきた。
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伯爵閣下、大勝利の最中に、大きな不幸が我々を見舞いました。国王は最も勇敢なる兵士の一人を失い、私は一人の友人を亡くし、あなたはブラジュロンヌ殿に先立たれたのです。
彼は華々しく戦死しました。私は思うように泣く力もないくらいです。
伯爵閣下、どうか私の追悼《ついとう》の言葉をお受けください。神は我々の心の偉大さに従って、試練を下し給いました。その試練は大きなものでありますが、あなたのご勇気より、大きなものではないと思います。
あなたの親友たる
ボーフォール公爵
[#ここで字下げ終わり]
この手紙には公爵の秘書の一人によって書かれた一通の報告書が同封してあった。それは二つの生命を絶った、最もいたましい挿話だった。そして最も人を感動させる物語だった。
ダルタニャンは戦争美談には慣れっこであり、彼の心は少しぐらいのことには感動しなくなっていたが、その父親のように幽霊になった、親しいラウールの名を読んだときには、わなわなと泣けてしかたがなかった。
公爵の秘書は次のように書いていた。
[#ここから1字下げ]
朝方、公爵は攻撃命令を発した。わがノルマンディ及びピカルディの両連隊は、ギゲルリの稜堡《りょうほう》がそびえ立つ山の斜面の真下にある、灰色の岩石のあいだに陣地を敷いた。砲撃はすでに開始せられ、連隊は断固として前進した。槍兵《そうへい》は大槍《おおやり》を持ち小銃を持った兵は武器を小脇にかかえていた。
公爵は慎重に進んだ。そしてその周囲には先任の副官たちや、幕僚《ばくりょう》が従っていた。
ブラジュロンヌ子爵は公爵から離れてはならぬという命令を受けていた。
最初は無差別に味方の上に落下した敵の砲弾も、次第に照準を調整したとみえ、やがて公爵の立っている場所に近く落下し、数名の者を殺した。縦隊で、敵の城砦《じょうさい》に突進していたわが連隊は、これがため少しく損害を受けた。それは前日構築した味方の砲兵陣地の位置が悪く、火力が弱く、不正確なことにも原因があった。
公爵はこの砲兵陣地の効果があがらないのを見て、小さな入り江に投錨《とうびょう》していた艦隊に対して、城砦を規則的に砲撃するように命令した。
この命令を伝達する任務を自分に託してくれるようにブラジュロンヌ子爵は申し出たが、公爵はこれをしりぞけた。
一方、二個連隊の擲弾兵《てきだんへい》が、塹壕《ざんごう》と設堡のかなり近くまで行って、擲弾を投げこんだが一向に効果があがらなかった。
艦隊の司令長官デストレ提督《ていとく》は、命令伝達の任務を担った軍曹が、敵弾に倒れたのを見て、公爵の命令を察して、砲撃を開始した。
敵のアラビア軍は艦隊の砲弾と、自分らの城壁の崩壊や破片とのために、下敷きとなって、恐怖の叫びをあげた。
すると、敵の騎兵は、鞍《くら》の上にぴったりからだを伏せ、駆歩《かけあし》で山上から降り、味方の歩兵縦隊へ全速力で突進して来た。そこで、わが歩兵は槍をもって、この猛烈な躍進を阻止《そし》した。わが歩兵大隊の頑強なる態勢によって撃退されたアラビア軍は、このときちょうど、なんら守備がなかったわが司令部に向かって、怒濤《どとう》のごとく再び殺到した。
危険は増大した。公爵は剣を抜いた。秘書や、その場にいた人達は、ことごとくこれにならった。そして、幕僚たちはこの猛烈なアラビア軍を迎えて、戦闘を交えた。
ブラジュロンヌ子爵は、ボーフォール公爵のそばに在って、剛勇なるローマ人のごとく、たちまちにして、その短剣をもって三人の敵兵を倒した。しかし明らかに、彼の勇猛果敢には誇ろうとする気持が微塵《みじん》もなく、まったくやむを得ず剽悍《ひょうかん》になったのだった。彼は敵を殺戮《さつりく》しようと努めていたのだ。彼があまりに猛り狂っているので、公爵はやめさせようとして叫んだくらいだった。しかし子爵はこの制止の言葉にも耳をかさずに、敵陣に向かってなおも突進して行った。これを見て、ボーフォール公爵は力いっぱい叫んだ。
「ブラジュロンヌ、止まれ! どこに行くのだ? 止まれ! おい、命令だぞ」
一同もまた、公爵にならって、手をあげて彼を呼び戻そうとした。そして子爵が馬首を返すことを今か今かと待っていたが、彼は依然として柵《さく》の方へ疾駆し続けた。そこでもはや、彼は自分の馬を制御することができないのだと、一同は考えた。
公爵も同じように考えたので、子爵が先頭の擲弾兵を追い越したのを見て、「銃士隊、彼の馬を射殺せい! あの馬を倒した者には金貨百枚をあたえるぞ!」と叫んだ。
しかし乗り手を傷つけずに、馬だけを射殺するのはなかなかむずかしいことだった。誰一人として、あえて実行しようとする者はいなかった。しかしついに、ピカルディ連隊の名射手とうたわれた、リュゼルヌという者が、馬の臀部《でんぶ》をねらって、引き金を引いた。すると、馬の白い毛が血でまっかに染まったが、このスペイン種の馬は倒れずにかえって、前よりもいっそう猛り狂った。
この死に向かって突進して行く不幸な若者を見たピカルディ連隊の者は、いっせいに、「飛び降りろ! 子爵、飛び降りろ!」と叫んだ。
それほどに、ブラジュロンヌ子爵は全軍から愛されていた将校だった。
すでに子爵は敵の城砦から、拳銃を撃てば、弾が届く距離まで前進していた。いっせい射撃が起こって銃火と硝煙とが彼を包んでしまった。一同は彼を見失ったが、さて硝煙が晴れると、再び彼が徒歩のまま、立っているのを発見した。すなわち馬が死んだのだった。アラビア軍は子爵に降服するように促した。しかし彼はかぶりを振って、なおも柵の方に進んで行った。
やがて二回目のいっせい射撃が起こった。ブラジュロンヌ子爵は再び、この硝煙の渦巻きの中に姿を消してしまった。しかし今度は硝煙が晴れても、彼は立っていなかった。彼は倒れて、頭は脚よりも低く、ヒースの繁みの中にあった。アラビア人は城砦から出て、子爵の首を切ろうとした。
さっきから、このいたましい光景を眺めていたボーフォール公爵は、アラビア人が乳香樹《ランチスク》のあいだを、白い幽霊のように駆けて行くのを見た。
「擲弾兵《てきだんへい》と槍兵《そうへい》の諸君、あの勇士のからだを敵に取られていいのか?」
こう公爵は叫ぶと、剣を打ち振り、敵陣めがけて駆け出した。そこで連隊全部がその後ろから喊声《かんせい》をあげて突進した。その声は獰猛《どうもう》なアラビア軍にも匹敵するほど、恐ろしいものだった。戦闘はブラジュロンヌ子爵のからだのそばで行なわれ、敵は百六十人の死者を出し、味方も少なくとも五十人は戦死したほど激烈なものだった。
ノルマンディ連隊の一中尉が、子爵を肩に背負って、わが陣地まで運んで来た。
三時には、アラビア軍の銃火はやみ、二時間のあいだ、銃剣での戦闘が続いたが、これは全く一つの殺戮だった。五時になると、味方はあらゆる地点において、大勝利を博し、敵軍はその陣地を放棄した。そこでボーフォール公爵は早速、丘の頂上に白旗を掲揚させた。
ブラジュロンヌ子爵はからだに八つの貫通銃傷を受け、血液のほとんど全部を失っていた。しかし子爵がまだ息をしているのを見て、公爵は非常に喜び、そして傷の手当てと、外科医の診察のときに、彼は立ち会ったのだった。
診察した外科医は、軍医中でも最も学識の高いシルヴァン・ド・サンコスム師で、彼は傷に消息子を入れて診察したが、何とも言わなかった。
ブラジュロンヌ子爵は眼を見開いたまま、外科医の動きや考えに対して、何か尋ねているようだった。
医者が公爵に答えたところによれば、八つの傷の中、三つは致命傷だった。しかし傷の組織は強いし、まだ子爵は若いし、神のご慈悲もあることだから、このまま絶対安静にして、少しでも動かないようにしていれば、なおるかもしれないということだった。
それからさらに、シルヴァン師は、看護の人達に向かって言った。「指一本も動かさせてはならん。そうしないと子爵は死んでしまいますぞ」
そこで、皆は一縷《いちる》の望みをいだきながら、テントから出た。この秘書は外に出るとき、公爵が子爵に向かって、「子爵、我々は必ず君の命を救ってみせるぞ!」とやさしい声で慰めたのに対して、子爵の口許《くちもと》に、叙しげな微笑が浮かぶのを見たように思った。
夕刻、患者は静かに休んでいるはずだと一同が思っていたころ、看護人の一人が負傷者のテントにはいると、大声をあげながら飛び出して来た。
何事だろうと、公爵初め一同が駆けつけて見ると、ブラジュロンヌ子爵は血にまみれて、寝台の下に倒れていた。
シルヴァン師の診断によれば、痙攣《けいれん》または精神|恍惚《こうこつ》のため、子爵は寝台よりころげ落ちたらしく、それが原因で、その最期を早めたということだった。一同が子爵を抱き起こすと、すでに冷たく、こと切れていた。そして一房の金髪を握った右手は、胸の上で痙攣していた。
[#ここで字下げ終わり]
遠征軍の行動と、アラビア軍に対する勝利は大体以上のようなものだった。
ダルタニャンは哀れなラウール戦死の報を読み終わると、
「ああ! 気の毒な男だ、あの男は自殺したのだ!」とつぶやいた。
そしてアトスが永遠の眠りについている城館《シャトー》の部屋の方へと眼を向けて、
「あの親子は互いに約束を守ったのだ」と低い声で言った。「二人は幸福だろう。きっと天国でいっしょになるに違いない」
それから花壇の中の道を、ゆっくりした歩調で引き返した。
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六八 悲しき挽歌《ばんか》
翌日から、付近の貴族やその地方の貴族が弔問《ちょうもん》につめかけた。
ダルタニャンは一室に閉じこもって、何人《なにびと》とも口をきくことを望まなかった。ポルトスの訃《ふ》に接してから間もなく、またこの二人に先立たれたので、鉄石の心を誇る彼も、すっかり気を落としてしまったのである。彼はグリモー以外には、客にも顔を見せなかった。邸《やかた》の中が騒々しいのと、間断なく人が出入りするのとで、葬儀の準備が行なわれていることを想像するばかりだった。彼は国王に書面を書いて、賜暇《しか》日数の追加を願い出た。
グリモーがダルタニャンの部屋にはいって来て、いっしょに来てくれるように合図をしたので、銃士長は無言のまま、後に続いた。グリモーはアトスの寝室まで降りて行くと、銃士長に空の寝台を指さして、眼を天の方へ向けた。
「そうだ、グリモー、アトスはあれほど可愛《かわい》がっていた息子のそばにいるのだ」とダルタニャンは言った。
やがてグリモーは寝室を出ると、客間に行った。そこには土地の風習に従って、埋葬するまでの故人の亡躯《なきがら》を安置することになっていた。
ダルタニャンはこの客間に安置した、蓋《ふた》を閉じない二つの柩《ひつぎ》を見て、はっと心をうたれた。
グリモーが無言のまま招くので、近寄ってみると、一つの柩には、死んだ後でも端麗なアトスが眠っており、もう一つの柩には、眼を閉じ、頬《ほお》を螺鈿《らでん》のような色にしたラウールが、その紫色の唇に微笑を浮かべて横たわっていた。
「ラウールがここに! おお! グリモー、おまえはどうして、これを私に話さなかったのだ?」とダルタニャンがつぶやいた。
グリモーは頭を振るだけで、何にも答えなかったが、ダルタニャンの手を取って、柩の前に連れて行き、薄い屍衣《しい》に包まれた亡骸《なきがら》の黒い傷口を見せた。
銃士長は顔をそむけて、何も答えないグリモーに尋ねてもむだだと思った。そして、彼はボーフォール公爵の秘書から書いてよこした報告を読む勇気がなくて、まだ読み残しておいたことを思いだした。そこで、再びそれを取り出して見ると、最後にこんな文句があった。
[#ここから1字下げ]
公爵のご命令により、子爵のご遺骸《いがい》はアラビア人の慣用する方法によって、木乃伊《ミイラ》として保存いたすことにし、子爵の御守役であった、貴家の執事《しつじ》付添いの上、継立馬《つぎたてうま》にて霊柩《れいきゅう》はご帰邸になります。
[#ここで字下げ終わり]
「なるほどな」とダルタニャンは考えた。「ラウール、おれはおまえの葬式の供をして行って、土を振りかけてやろう。わずか二か月前に接吻してやった額の上にな。老いさらぼうた、このおれがな。この地上には何の値打ちもないこのおれが! しかし、これも神のおぼしめしだろう。おまえもそうしてもらいたいのだろうな。おれはもう泣いてはおられん。おまえは死を選んだのだ。生よりも死のほうが、おまえにはいいのだろう」
ついに、この二人の貴族の冷たくなった遺骸が土に返る時が来た。
アトスは自分の領地の境に近く、礼拝堂を建て、この小さな囲いの中を、永眠の場所と定めていた。また、彼はそこに、青年時代を過ごしたル・ベリの古いゴチック式の邸から、一五五〇年に刻んだ石材を運ばせたのだった。こうして移築された礼拝堂は、ポプラと楓《かえで》の繁みの下に建っていた。そして隣村の司祭が毎日曜日やって来て、ミサをあげていたが、およそ四十人ほどの百姓や、その家族たちが、これを聞きに集まって来るのだった。
この礼拝堂の後ろは、榛《はん》や接骨木《にわとこ》や山査子《さんざし》の大きな二つの垣根と、深い塀に囲まれた、小さな荒れた菜園があった。しかし、そこは苔蒸していて、野生のヘリオトロープがよい香を放っており、栗の木の陰にある、大きな泉からは水がこんこんと湧き出して大理石の用水|溜《だめ》に注いでいた。また、立麝香草《たちじゃこうそう》のまわりには近辺の野原から飛んで来たたくさんの蜜蜂《みつばち》が羽ばたきをしているし、一方では、河原鶸《かわらひわ》や駒鳥《こまどり》が垣根の花の上で、やかましく鳴いていた。だから、そこは全く楽園だった。
二つの柩は無言の会葬者に送られて、この礼拝堂に運ばれた。葬儀がすみ、故人の霊に最後の別辞を告げると、会衆は散じて、口々に故伯爵の徳をたたえ、あるいはラウールのアフリカにおける悲しい戦死を語り合いながら、帰って行った。
質素な脇間にともされた灯火が消えて行くように、すべての物音も少しずつ消えた。やがて仮司祭は祭壇と新墓に、最後の礼拝を行なってから、かすかに鐘を鳴らしている助祭を連れて、静かに主任司祭の許に引き揚げた。
ダルタニャンはひとりになると、はじめて夜になったことに気がついた。故人のことばかり考えて、時刻の過ぎるのを忘れていたのだった。彼は礼拝堂の樫《かし》材の腰掛けから立ち上がり、司祭のしたように亡き友が葬ってある、二つの墓に最後の別れを告げに行った。
ふと見ると、一人の若い女性が湿った土にひざまずいて、祈りを捧げていた。ダルタニャンはじゃましては悪いと思った。それに、こうも熱心に、心から故人への神聖な義務を尽くすこの敬虔《けいけん》な女性は誰か、それも知りたかったので、戸口のところで立ち止まった。
この未知の女性は石膏《せっこう》のような真白い手で顔をおおうていた。服装があっさりとして品の良いところからみると、身分のある婦人に相違なかった。外には、五、六頭の馬に供の者がまたがり、べつに一台の旅行馬車が待っているようすだった。ダルタニャンは誰だろうと考えてみたがどうしてもわからなかった。
彼女は祈り続けていた。そしてしばしばハンカチを顔に押し当てた。彼女は泣いているのだった。ダルタニャンは彼女が幾度か、「許してください! 許してください!」と言うのを聞いた。そのうちに、気が遠くでもなったように、その場に倒れてしまった。ダルタニャンは深く心を動かされて、この故人との会見を打ち切ろうとして、墓の方に二、三歩近づいた。
その足音が砂利に響いたので、未知の女性は頭をあけて、涙にぬれた顔をダルタニャンに見せた。
それはラウールの許婚《いいなずけ》で、ルイ十四世の愛人であるルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールだった。
「ダルタニャン様!」と彼女はつぶやいた。
「あなたでしたか!」と銃士長は沈んだ声で答えた。「ああ! 私は、あなたがラ・フェール伯爵の邸にいて、きれいな花に飾られているのを見たかった。そうしたら、あなたもこんなに泣かずに済んだのだ。あの親子も、それから、この私も!」
「ああ!」と彼女はむせび泣いた。
「というのは、この二人を墓場へ急がせたのは、あなたですからな」と故人の親友は容赦なくずけずけと言った。
「ああ! お許しくださいませ!」
「いや、私は婦人の感情をそこねたくはない。婦人をいたずらに泣かせたくはない。が、一言申し上げておかねばならん。人を殺した者が、その犠牲者の墓参りをするのはまちがっていますぞ」
彼女は何か答えようとしたが、ダルタニャンはひややかに言いたした。
「私は今、あなたに言ったことを、もう陛下に申し上げたのじゃ」
彼女は手を握り合わせた。
「私のために、ブラジュロンヌ子爵様がお亡くなりになったことは、私も存じております」と彼女は言った。
「ほう! それをあなたは知っていた?」
「はい、お亡くなりになった知らせが、昨日宮中に届きました。私は伯爵様がまだ存命のことと思いまして、お許しを請いたく、それにラウール様のお墓の前で、神様にお祈りしたいと存じまして、昨夜から二時までの間に四十リウの旅を続けて、ここにまいったのでございます。来てみますと、ラウール様がお亡くなりになったために、伯爵様もお隠れあそばしたことがわかりました。私は二つの罪を重ねました。ですから私は、天の罰を二つ受けるものと覚悟いたしております」
「私は、ラウールがすでに死を覚悟してから、私と別れる際にアンチーブで言った言葉を、今あなたにお聞かせしよう」とダルタニャンは言った。
『もし虚栄と浮気とがルイーズを誤らせたのなら、私は軽蔑しながらも、彼女を許します。また真実の愛が彼女を誤らせたとしても、私は、何びとも私のように彼女を愛することができるものではないということを誓い、彼女を許してやりましょう』
すると、ルイーズはその言葉をさえぎって言った。
「あなたもご存じのとおり、私は自分の愛のために、自分の身を犠牲にするところでございました。いつぞやあなたにお目にかかりました節、見捨てられて、今にも死にそうになっておりました私が、どんなに苦しみ悩んだかは、あなたがよくご存じでございます。でも、私はただいまのように苦しみ悩んだことはございません。あのときは、まだ望みがございました。心の願いがございました。しかし、今では、もう何も望むものがございません。この方の死が私のあらゆる楽しみを墓の中へ引いてまいりますから。私はもう悔恨なしには愛することができませぬもの。それに私の愛する方にそむかれて、こうまで他人を苦しめた報いを受ける身でございますもの」
ダルタニャンはルイーズのこの言葉が真実であることを知って、何とも返辞をしなかった。
「ですからダルタニャン様」と彼女は言葉を続けた。「お頼みでございます。今日のところは、どうぞお許しくださいませ。私は幹から引き裂かれた枝でございます。もうこの世に何も取りすがるものがございません。私はあの方を狂人のように愛しております。お墓の前をはばからず申すくらいでございます。また、それを恥ずかしいとは思いません。このことでは、少しも悪いことをしているとは思いません。この愛は宗教でございます。ただ、長い眼でご覧くださいませ。私はこれから忘れられ、さげすまれ、ひとりぼっちになるのでございます。罰を受ける運命でございます。それゆえ、どうぞはかない幸福を、ほんの五、六日、いえ、五、六分のあいだ、私にお許しくださいませ。こうやってお話ししております今でさえ、幸福はもう消えているかもしれません。ああ、神様! 私がお二人を殺した罪は、もうあがなわれておりましょう」
ルイーズがこう言っているあいだに、近くで人声と馬蹄《ばてい》の音がダルタニャンの注意をひいた。
サン・テニャン伯爵がラ・ヴァリエールを捜しに来たのだった。
「陛下が非常に嫉妬《しっと》と不安に駆られていられます」と伯爵は告げた。
ダルタニャンは二人の墓のそばの栗の繁みに、半分身を隠していたので、サン・テニャンには見られなかった。
ルイーズは伯爵に礼を述べて、もうしばらく向こうに行っていてほしいと身振りで示した。そこでサン・テニャンは囲いの外に引き返して行った。
「それご覧なさい」と銃士長は悲しそうに言った。「あなたの幸福はまだ続きますよ」
すると若い女はきっと頭をあげて言った。
「そうおっしゃいましたのを後悔あそばす日がじきにまいりますわ。その時には、私があなたのために神様のお許しをお願い致しましょう。それに、私のひどい苦しみを不憫《ふびん》とおぼしめしてくださるのも、あなたがいちばん先でございましょう」
こう言って、彼女はまた、墓の前に静かに、心からぬかずいた。
「ラウール様、これがおわびのしおさめでございます。二人の愛を断ち切ったのは私でございました。私達は二人とも悲しみ抜いて、死ぬ運命でございましたのね。あなたの方が先に行っておしまいになりましたが、ご心配なさらないでくださいませ。私もお後からまいりますわ。ただ、私が卑劣ではなかったこと、またこうして最後のお別れを申し上げにまいりましたことも、わかってくださるでしようね。ラウール様、神様が証人です、私が命を捨ててあなたのお命をお助けすることができましたなら、いつでも、ためらわずにそういたしたでございましょう。ただ愛はさし上げることができませんでした。もう一度、どうぞお許しくださいませ!」
ルイーズは小枝を折ると、それを地面に挿して、それから涙にぬれた眼をぬぐうと、ダルタニャンに会釈をして、姿を消した。
ダルタニャンは騎馬と馬車とが出発するのを見送っていたが、悲しみでいっぱいになった胸の上に腕を組んで、「さて、このおれがおさらばとする番はいつ来るのかな?」と感動でふるえた声で言った。「青春も、恋も、栄華も、友情も、権力も、富も消えれば、人間に何が残るのだ?……あの大岩の下に、そうしたいっさいのものを持っていたポルトスが眠っている。また、この苔《こけ》の下にポルトスよりも遥かに多くのものを持っていたアトスとラウールとが、安らかに眠っているのだ!」
彼はさえない眼つきで、しばらくそこにたたずんでいたが、やがて、きっと身を引きしめて「相変わらず、前進しよう。そのときが来れば、神がおれに知らせてくださるだろう。この連中に知らせてくださったようにな」と言った。
彼は夜露にぬれた土に、指の先を触れて、聖堂の祝水器でするように、十字を切った。そして、ただひとりで、パリヘの道を引き返した。
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六九 四年後
前の物語からは四年後のことである。逸物《いちもつ》に打ちまたがった二人の騎士が、朝早くブロワの町を通った。彼らはロワール河が貫流する大平野、すなわちマンとアンボワーズのあいだで、鷹狩《たかがり》の催しがあるというので、その下準備に来たのだった。
それは主猟頭と鷹匠頭だった。しかしルイ十三世のときには非常に重んぜられたが、その後継者にはあまり大事にされない人達だった。
この二人の騎士は現場の検分を終えて、帰途についたが、そのとき、兵士の小部隊が、軍曹に率いられて、ある間隔を置いて立っているのを認めた。これは親衛銃士隊の兵士達だった。
彼らの後ろから駿馬にまたがって来るのは、金糸の刺繍《ししゅう》をした制服で、それと知られる銃士隊長だった。髪にはすでに霜を置き、髭《ひげ》もだいぶ白くなりかけていた。腰は幾らか曲がったように見えるが、それでも馬上ゆたかに手綱をとって、あたりに目を配っていた。
「ダルタニャン殿は、一向に年をとられんな」と主猟頭は鷹匠頭に向かって言った。「我々よりも十も年上だが、ああして馬に乗った姿勢は、どう見ても若者じゃ」
「なるほどな」と鷹匠頭が答えた。「この二十年というもの、あの方は少しもお変わりにならんな」
しかし、彼の言葉はまちがっていた。ダルタニャンはこの四年間に、十二も年をとったようだった。その眼尻には深い皺《しわ》がよっていたし、額ははげ上がっていた。以前には、赤く筋を見せていた手が、まるで血の気がなくなったように、青白くなっていた。
ダルタニャンは、いかにも上官らしく、幾分の愛嬌《あいきょう》を見せてこの二人の士官たちに会釈をした。そして彼らのうやうやしい敬礼を受けていた。
「やあ! ダルタニャン殿、ここでお目にかかるとは、なんという好運の回り合わせでしょう!」と鷹匠頭が声をかけた。
「いやあ、お二人か、それは私から申すことだ。近ごろは鷹よりも銃土のほうにしばしば陛下のご用がありますからな」と銃士長が答えた。
「まことに、当節は昔とは違いますな」と言って鷹匠頭は嘆息した。「ダルタニャン殿、ご記憶ですかな。先王陛下がボージャンジーの向こうの葡萄《ぶどう》畑で鵲《かささぎ》をお飛ばしになったときのことを。いや、あなたはあのころ、まだ銃士隊長にはなっておられませんでしたな」
「あなたも鷹匠見習か何かでしたな」とダルタニャンは快活に言った。「それはどうでもよい。しかしあのころはおもしろかったな。人間、若いときはいつもおもしろい、……主猟頭、ご機嫌よう!」
「これは伯爵、ご挨拶で痛み入ります」と主猟頭が言った。
ダルタニャンは伯爵と呼ばれても、別段異様に思わなかったのである。彼が伯爵を授けられてから、もう四年になっていた。
「隊長殿、長いご旅行でお疲れではありませんかな?」と鷹匠頭が続けて言った。「ここからピニュロルまで、二百リウはありましょうから」
「往きが二百六十リウ、帰りもやはりそれだけありますて」とダルタニャンは静かに答えた。
「そして、あの方はお達者で?」と鷹匠頭が小声で言った。
「どの方が?」
「お気の毒なフーケ閣下のことでございます」と鷹匠頭はなおも低い声で言った。
主猟頭はすでに、遠慮して後にさがっていた。
「いや、あの気の毒な方は非常に悩んでいられる」とダルタニャンが答えた。「禁固が恩典だということが、あの方にはおわかりにならんのだ。国会は追放を決議して、自分を赦免《しゃめん》したはずだ、追放は赦免であるべきだなぞと、言っておられる。死刑を宣告されたということも、一命が助かったのが冥加《みょうが》にあまるということも、想像できぬらしいのだよ」
「さよう、あの方は、もう少しで絞首台に上るところでしたな」と鷹匠頭は言った。「噂《うわさ》では、コルベール殿がバスチーユの典獄に死刑執行を命じたという話でしたから」
「もうたくさんじゃ!」とダルタニャンは話を打ち切るつもりで、物悲しげにこう言った。
彼は大蔵大臣のフーケが全盛であった時代のことや、その巨万の富が散ってしまったこと、果ては、やがて来る悲しい最後のことなどを、ちょっと心中に思い浮かべつつ、平野の中へ馬を進めて行った。
彼らはもう、森の出口に控えた猟人の姿を認めた。それから騎馬武者の羽根飾りが流星のように、林の中の空地を突っ切るのや、白馬の行列が輪伐樹林の薄暗い繁みを、眼が覚めるように美しく分けて行くのも見た。
「しかし」とダルタニャンが話を続けた。「この狩競《かりくら》は長く続きますかな? 私ははやい鳥をお願いしたいな。私はひどく疲れているのでな。鷺《さぎ》かな、それとも白鳥かな?」
「両方とも用意してございます。ダルタニャン殿」と鷹匠頭が言った。「それはご心配にはおよびません。陛下はあまり熱心ではいられませぬから。陛下はご自分のためにお催しになるのではありません。ただ貴婦人方のお慰みにあそばされるのですから」
この「貴婦人方」という言葉は、ダルタニャンの耳に非常に強く響いたので、彼は驚いたようすで、鷹匠頭を眺めながら、「ほほう!」と叫んだ。
主猟頭は銃士長と調子を合わせようとするつもりか、顔に微笑を浮かべた。
「笑い給え」とダルタニャンは言った。「私は最近の宮中の模様には暗いのだ。この一か月留守にして、昨日ここに着いたばかりなのだ。私は大妃殿下がお隠れになってまもない、喪中の宮中ではご用がないのだ。大妃アンヌ・ドートリッシュ様がお亡くなりになったので、国王陛下はお慰みごとどころではなかったのだ。世の中のことは、すべて終わりがある。うむ、陛下はもうお悲しみにはなっておられんのか、それは結構なことだ!」
「世の中のことには終わりもありますが、始まりもありますよ」と言って、主猟頭は呵々《かか》と大笑した。
「ふむ、さようか。では何か始まったらしいな」とダルタニャンは言った。しかしこの男からそれを聞こうとは思わなかったので、「陛下はお早くお見えになろうかな?」と鷹匠頭に尋ねた。
「七時に、鳥を飛ばすことになっております」
「陛下とご一緒にどなたが見えられるのだ? 王妃様はどうあそばされた?」
「だいぶおよろしいほうで」
「ほう、するとご病気だったのかね?」
「はい、この間ご心痛から、ずうっと加減がお悪くいらせられます」
「ご心痛とは? あなたには旧聞でも、私は帰って来たばかりだからな」
「陛下は、大妃様のお隠れ以来、王妃様につらくおあたりになっておられます」
「ああ! お気の毒なお方だ!」とダルタニャンは言った。「さぞラ・ヴァリエールを憎んでいられるだろうな」
「いや、違います! ラ・ヴァリエール様ではございません」と鷹匠頭が答えた。
「すると、誰なのだ?」
突然、角笛の音が鳴って、二人の談話をさえぎった。それは猟犬と鷹を呼び集める合図だった。鷹匠頭は言葉なかばにダルタニャンを残して、主猟頭と走り去った。
王が貴婦人達や騎士達に取り囲まれて姿を現わした。
この人達は、いずれも常歩の歩調で、秩序整然と進み、猟犬や馬は角笛やラッパの音に勇み立っていた。
ダルタニャンは幾分眼がかすみ気味だったが、隊の後ろに三台の馬車を認めた。最初のは王妃の馬車で、これはからだった。
ダルタニャンは王のそばにラ・ヴァリエールが見えないので、それを捜すと、二番目の馬車の中にその姿を認めた。
彼女は二人の侍女と同乗していたが、主従とも元気がないように思われた。
王の左手には、手綱さばきも鮮やかに、駻馬《かんば》に打ちまたがった美しい婦人が、まばゆいばかりに輝いていた。
王はその婦人を見てはほほえみ、彼女も王の方に、にっこりと微笑を返していた。
彼女が口をきくと、一同はおもしろそうに笑い興じた。
「おれはあの婦人に見覚えがあるが、はて誰だろう?」と銃士長は考えた。
彼はこう尋ねようと鷹匠頭の方に身体を曲げた。
鷹匠頭がこれに答えようとしたとき、国王はダルタニャンの姿を認めた。
「おお! 伯爵、帰ってまいったな。どうして目通りをしなかったのだ?」と王は言った。
「陛下」と銃士長は答えた。「私が戻りましたときは、陛下はまだ御寝中であらせられました。それに今朝、久方振りで職務につきましたときには、陛下はまだお目覚めになっていられませんでした」
「相変わらずだな」とルイは満足そうに大声で言った。「伯爵、少し休息しなさい。予が命令する。今日はいっしょに晩餐《ばんさん》をやろう」
すると賛嘆のつぶやき声が、まるで大きな愛撫《あいぶ》のようにダルタニャンを取り巻いた。誰も彼も争って、彼に挨拶《あいさつ》をした。アンリ四世とは違って、ルイがこうして臣下に陪食を申しつけることはごく稀《まれ》だったからである。やがて王が五、六歩先へ進んだので、ダルタニャンは新しい廷臣の連中に取り囲まれることになった。その中では、コルベールがとくに目立っていた。
「ご機嫌よう、ダルタニャン殿」この大臣は愛想よく呼びかけた。「ご旅行中は別状もなく?」
「何事もございません」と答えて、ダルタニャンは馬の平首まで頭を下げた。
「陛下は今晩のご会食にあなたを召されたそうですが、その席で昔の友人にお会いになりますぞ」と大臣は続けて言った。
「昔の友人に?」ダルタニャンは悲しい過去を思い出して、胸を痛めながら尋ねた。
「今朝スペインから到着されたダラメダ公爵に」とコルベールは答えた。
「ダラメダ公爵というと?」とダルタニャンは捜すように言った。
「私のことだ!」と、そのとき一台の馬車の中に身をかがめた、雪のような白髪の老人が叫んだ。そして銃士長の前に行こうとして馬車の扉をあけさせた。
「アラミス!」とダルタニャンはびっくり仰天《ぎょうてん》して叫んだ。
その間も待たず、老貴族のやせた腕が、ダルタニャンの頭にふるえながら巻きついた。
コルベールはしばらく無言で、このようすを見ていたが、旧友たちをそこに残したまま、馬を進めて、行った。
「こうして追放人で、謀反人のおまえが、またフランスに戻って来たのだな?」とダルタニャンはアラミスの腕をとって言った。
「そうだ、私は、陛下のテーブルでおまえと会食をするのだ」とアラミスは微笑しながら言った。「そうだ。おまえは忠義のなんのと、この世の中で何の役に立つかと考えるだろうな? まあ、待て、気の毒なラ・ヴァリエールの馬車を通らせてやろう。見ろ、心配そうな顔をしている! 涙で曇った眼が、馬上の国王の後を追っているぞ!」
「王とご一緒の婦人は誰だ?」
「前のトンネー・シャラント嬢、今ではド・モンテスパン夫人だ」とアラミスが答えた。
「ルイーズはねたんでいるのだ。さては陛下は彼女をだましたわけだな」
「まだ、そこまでは行っていない。ダルタニャン、しかしおそかれ早かれ、そうなるだろうよ」
彼らは鷹狩《たかがり》の人々の後から、話し合いながら行った。それにアラミスの御者が巧みに馬車を走らせて、鷹が獲物に飛びかかり、それを打ち落として、襲って行くところに間に合った。
王が馬から降りると、モンテスパン夫人もこれにならった。そこは、初秋の風にすでに葉を落とした大きな樹々に隠された、寂しい礼拝堂の前で、その後ろには格子戸が締まっている空地があった。
鷹は獲物をこの礼拝堂に近い空地の中に落とした。そこで、王は鷹狩の習慣に従って、初羽根を取りに、そこにはいろうとした。
随行の人々は、中にはいりきれないので、その建物の垣根の周囲に輪を作った。
ダルタニャンは、他の連中にならって、馬車から出ようとしたアラミスを引き止めて、ぶっきら棒な声で、「おい、アラミス、おれたちが偶然やって来たところを、どこだか知っておるか?」と言った。
「知らん」とアラミスが答えた。
「おれたちの知っていた人々が、ここに永眠しているのだ」とダルタニャンは悲しい思い出に感謝して言った。
何のことかわからなかったアラミスは、ふるえる足どりで、ダルタニャンが開けた小さな戸口から礼拝堂の中にはいり、「どこに葬ってあるのだ?」と尋ねた。
「この囲いの中だ。あの小さな糸杉の下に、十字架が見えるだろう。糸杉は墓のそばに植えてあるのだ。待っていろ。陛下が今歩いて行かれたから。鷺《さぎ》がちょうどあそこに落ちたのだ」
アラミスは立ち止まって、木陰に隠れた。彼らは向こうからは見られずに、ラ・ヴァリエールの青白い顔を見ることができた。彼女は馬車の中に取り残されて、初めはしょんぼりと窓から外を眺めていたが、やがて嫉妬《しっと》にかられて、つかつかと礼拝堂の方へ進み寄った。そして柱につかまって、中のようすをうかがっていた。何もはばかるものがないと見た王は、笑顔でモンテスパン夫人に近く寄れと合図をした。
夫人は、そのとおりにそばに寄って、王のさし出す手を取った。王は鷹匠頭が絞めたばかりの鷺から初羽根を引き抜いて、その美しい連れの帽子に挿してやった。
すると夫人は、にっこりと笑って、この贈物をしてくれた手に、やさしく接吻した。
王は嬉《うれ》しさに顔を赤らめて、焼きつくような愛欲の眼で、モンテスパン夫人の顔をみつめながら、「あなたは、その代わりに何をくれます?」と言った。
夫人は糸杉の小枝を折って、希望で酔っているような王に、それを捧げた。
「だが、悲しい贈物だな。あの糸杉は墓の陰なのだからな」とアラミスはダルタニャンに小声でささやいた。
「うむ、そして、あれはラウール・ド・ブラジュロンヌの墓だ」とダルタニャンは高い声で言った。「ラウールは父親のアトスといっしょにあの十字架の下に眠っているのだ」
すると、彼らの後ろでうめき声がした。ラ・ヴァリエールが気を失って、地面に倒れていた。彼女は何もかも見たのである。何もかも聞いてしまったのである。
「可哀《かわい》そうな女だ!」とダルタニャンはつぶやいた。そして侍女に手伝って、ルイーズを馬車の中に運びこんでやった。
その夜、ダルタニャンは、コルベールとダラメダ公爵と並んで、国王のテーブルについていた。
王は上機嫌だった。自分の左手の席に、ひどくふさぎこんでいる王妃と、義妹アンリエットに、何くれとなく細々《こまごま》と気を配っていた。また、王はアラミスを「大使閣下」と呼んで、二、三度言葉を掛けた。ダルタニャンは謀反人のアラミスが宮廷で厚遇されているのを見て、さっきから驚いていたが、それには、また舌を巻いた。
王はテーブルから離れると、王妃に手を貸した。そして王の眼をうかがっていたコルベールに合図をした。
コルベールはダルタニャンとアラミスをべつの方に連れて行って、三人で雑談にふけった。これまでの宰相の話が出ると、コルベールはマザランの隠れた一面を話して、今度はリシュリウの逸話を聞かせてほしいなどと言った。
やがて、コルベールはアラミスのダラメダ公爵に向かって言った。
「私はあなたと国王陛下とを仲直りさせてあげた。もし私に友情を示してくださるならば、今こそ、その証拠を見せてくださるに、いい機会です。それに、あなたはスペイン人であるよりも、フランス人なんだから、どうか、率直に答えてほしいのです。もしわが国がオランダに侵入した場合、スペインは中立を守ってくれますかな?」
「大臣閣下、スペインの利害関係は明瞭《めいりょう》です」とアラミスは答えた。「自由を奪ったことについて、旧怨《きゅうえん》を持ち続けているヨーロッパとオランダとのあいだに悶着《もんちゃく》を起こさせるのが、わがスペインの政策です。その結果が海戦になることは、あなたもご承知でしょうが、私の考えるところでは、海戦ではフランスは勝ちめがありますまい」
「ダラメダ公爵の意見は、オランダとの紛争は海戦が必至だというのですが」とコルベールはダルタニャンを顧みて言った。
「正にそのとおりです」と銃士長は答えた。
「そこで、ダルタニャン殿、あなたのご意見をうかがいたいな」
「この海戦をするには、私の考えでは、大陸軍が入用でしょうな」
「なんですって?」とコルベールは聞き違えたと思って、こう言った。
「なぜ、陸軍がいるのかね?」とアラミスが聞いた。
「なぜというに、英軍が加勢してくれなければ、フランスは海戦では勝つ見こみがない。海戦で負ければ、オランダ軍が港にあるにせよ、またスペイン軍が陸上にあるにせよ、フランスはすみやかに敵の侵入を受けることになるでしょう」
「スペインが中立を守るだろうか?」とアラミスが言った。
「フランスが最強国であるうちは、スペインは中立を守るだろうな」とダルタニャンは答えた。コルベールはこの明察に驚嘆した。アラミスはほほえんでいた。
「大使閣下」とコルベールはアラミスに向かって言った。「もし、スペインが中立を守ってくれれば、イギリスはわがフランスを援助してくれるのだが……」
「なるほど、イギリスが貴国を援助するならば、私はスペインの中立のために奔走いたしましょう」とアラミスが答えた。
「ダラメダ公爵」とコルベールが言った。「あなたが今後、スペイン問題で尽力くだされば、ルイ国王陛下はあなたにサン・ミシェル大|綬章《じゅしょう》を贈られるでしょう」
アラミスはうやうやしく一礼した。
「ところで、ダルタニャン殿」とコルベールは今度は銃士長に向かって言った。「私は親衛銃士隊長をオランダ派遣軍の司令官としてさし向けたいのだが、あなたは泳げますかな?」
こう言うと、コルベールは機嫌よさそうに笑いだした。
「鰻《うなぎ》のように泳ぎますよ」とダルタニャンは答えた。
「もし溺死《できし》するなら、それは船とか、板とか、棒とかがないせいですな」とコルベールが言った。
「いや、まったく、短い棒さえあれば、溺死することはありません」とダルタニャンが言った。
「いかにもそのとおりです」とコルベールが合槌《あいづち》をうった。「だから私は、まだ元帥杖《げんすいじょう》を持っている、フランスの元帥が溺《おぼ》れたという例を聞きませんな」
ダルタニャンは喜びで顔色を変えた。そしてふるえた声で、「もし私がフランスの元帥になれば、いよいよ世人は私を誇りとするでしよう」と言った。「しかし、元帥杖を頂戴《ちょうだい》するには、遠征軍の司令官に任命されねばなりません」
「ダルタニャン殿」とコルベールが言った。「この手帳の中に、来春、陛下があなたの指揮下に置かれる軍に、行なわしめる作戦計画があります」
ダルタニャンはふるえながら、この手帳を取った。すると、彼の指がコルベールの指とぶつかった。大臣は真心から、堅く銃士長の手を握って、「我々は二人とも、互いになすべき報いを持っていました。私は今、それをあなたにしたのです。今度はあなたの番です」と言った。
「私はあなたに謝罪します」とダルタニャンが答えた。「どうかあなたから次のように陛下に申し上げてください。この最初の機会において、勝って帰還するか、それでなければ戦死いたしますと」
「では、私は今から、あなたの元帥杖のために黄金の百合《ゆり》の花を刺繍《ししゅう》させます」とコルベールが答えた。
その翌日、アラミスは、スペインが中立を守るように交渉するため、マドリッドに立とうとして、ダルタニャンに別れを告げに、その宿を尋ねた。
「さあ、これからは四人分のつもりで、愛し合おうではないか」とダルタニャンが言った。「今では、おれたちは二人っきりだからな」
「だが、ダルタニャン」とアラミスが言った。「私はもう二度と、おまえには会えまいと思う。私はどんなにおまえを愛して来たか! しかし、私も年をとった。もう箍《たが》がゆるんだ、もう死んでいるのだ」
「アラミス」とダルタニャンが言った。「おまえはおれよりも長生きをするぞ。国家の外交はおまえに生きることを命ずる。しかし、おれのほうは、名誉がおれに死を宣告している」
「何を言うか! 元帥閣下」とアラミスは言った。「我々のような人間は、喜びか、栄誉か、どちらかに満腹してはじめて死ぬのだ」
「うむ! だが断わっておく、おれはそのどっちにも欲がないよ。公爵」と答えて、ダルタニャンは寂しく微笑した。
二人は互いに、また抱擁し合った。それから二時間の後、別れてしまった。
[#改ページ]
七〇 ダルタニャンの死
いつもとは違って、それが政治上のことにせよ、また道徳上のことにせよ、とにかく、各自はその約束を守り契約を尊重した。
ルイ十四世の義妹であるアンリエットはロンドンに向け出発し、兄であるイギリス皇帝チャールズ二世にぜひとも英仏同盟に署名するように慫慂《しょうよう》した。その結果、英仏間に連携ができて、イギリス艦隊はオランダ連邦艦隊に脅威をあたえることになった。
こうしてコルベールはルイ十四世に対して、艦船や軍需品を供給することになり、フランスを勝利に導くことができることになった。すなわち、人も知るごとく、コルベールはその約束を守ったのである。
また、アラミスは期待していたように、約束どおりに、彼のマドリッドにおける任務である、スペインに中立を守らせるという交渉に関して、次のように書面をコルベールに寄せて来た。
[#ここから1字下げ]
コルベール殿
小師は臨時の後任者にして、ジェズイット教団の管長代理たるドリヴァ神父を貴国に派遣致す光栄を有する者に御座候《ござそうろう》。同神父は貴殿に対し、小師が仏西両国間の教団事務のことごとくを監督|仕《つかまつ》ることを説明申し上ぐべく候。
なおまた、同神父は、仏蘭両国間に戦端が開かれたる場合、スペイン王は同王国の中立維持に関する条約に署名することを承諾あそばされたる次第を貴殿にご報告申し上ぐべく候。
本承諾は英国が積極的行動に出ずして、中立維持にて満足する場合にも有効にご座候。また、ポルトガルは過日貴殿と御話し申せしごとく、本戦役においては、あらゆる資源を貴国国王救援のため、寄与いたすべく確約|致居候《いたしおりそうろう》。
コルベール殿、何卒《なにとぞ》小師の深き愛着を信ぜられるごとく、小師に貴殿の友誼《ゆうぎ》を保持せられんことを。また、貴国国王の足下に小師の恭敬をおかれんことを。
ダラメダ公爵(署名)
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アラミスは彼が約束した以上のことをしたのだった。さて、これからは王やコルベールやダルタニャンが、どんなに互いに忠実に約束を守ったかということを知るとしよう。
コルベールの言葉のごとく、春になると、陸軍は戦端を開いた。
ダルタニャンは、ラ・フリーズと称せられる戦略的地帯の諸要点たる多くの要塞《ようさい》を奪取《だっしゅ》することを命ぜられて、歩騎一万二千の軍を率いて出発した。
およそこの軍勢ほど勇みに勇んで遠征に出かけたものはないと言ってもさしつかえない。それは残らずの将卒が、ダルタニャンの武勇と知謀とに全く信頼していたからである。
こうしてダルタニャンの率いる遠征軍は、破竹の勢いで、一か月たらずの間に、敵の十二の都市を占領し、進んで十三番目の都市の包囲攻撃に取りかかった。しかしここは五日間持ち耐えた。ダルタニャンは持久戦をするつもりとみえて、塹壕《ざんごう》の開鑿《かいさく》を命じた。
この名将の配下にあっては、工兵や労働者は励みを持って熱心に働いた。それは、彼がこういう雑卒の者までも、兵士なみに待遇して、どうすれば、この作業を働きがいのあるものにしてやれるかということを知っており、万一やむをえない場合でなければたとい一人たりとも、命を捨てさせぬように心を用いたからだった。
ゆえにオランダの地面が彼らの手でいかに熱心に掘り返されたかは、読者にもおわかりだろう。実に、泥炭層や、陶土の丘陵が、兵士の指図のままに、崩れてゆくありさまは、さながら主婦たちの大きな揚げ鍋の中で、バターの塊が溶けてゆくのを見るようだった。
ダルタニャンは国王のもとに、早飛脚を立てて、今までの勝利を委細報告におよんだ。それで、王はますます機嫌がよく、暇さえあれば、まわりの貴婦人たちを嬉《うれし》がらせていた。
王の寵愛《ちょうあい》を独占するのに肝胆《かんたん》を砕いていたモンテスパン夫人は、この機会を逃さず、王を「無敵のルイ」という称号以外では呼ばないことにした。
それがため、王を単に「戦勝王」と呼んでいたラ・ヴァリエールは、この場合にも負けてしまった。それに彼女はしばしば眼を赤く、泣きはらしていた。無敵王から見れば、何が不愉快だと言って、まわりでほほえんでいる中で、ただ一人めそめそしている女ぐらい、不愉快な存在はなかった。そういうわけで、ラ・ヴァリエールの星は、愁いの雲と涙の雨に沈められていた。
それに引き替え、モンテスパン夫人の陽気さは王が勝利を重ねるにつれて増して行った。これは、他にどんな不愉快な事情が起こっても、王を慰めてくれた。王はこれもひとえにダルタニャンの力によるものと考えた。
そこで、王はこの際、彼の功労を大いに表彰しようと考えた。そしてコルベールに宛《あ》てて、次のごとき書面を書いた。
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コルベール殿、予はダルタニャンとかねて約せしことあり。今、予は右の約を履行する時機の至れることを卿《けい》に告げんとす。しかるべき時にいっさいの手筈《てはず》を整えらるべし。
ルイ
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そこで、コルベールはダルダニャンヘの使者として一士官を派遣し、彼に、一通の書面を添えて、金象眼を施した黒檀《こくたん》の小箱を託した。この箱は見たところあまり嵩《かさ》はなかったが、その運搬の手伝いをさせるために、五人の護衛兵を付けたのを見ると、よほど重いものに相違なかった。
これらの人達は夜の明け方に、ダルタニャンが包囲攻撃をしている要塞の前方に着いて、司令官の宿舎を尋ねた。
ところが、ダルタニャンは前夜、城内から逆襲を受けて、味方の工事が破壊され、七十人の死者を出し、突破口を修復されたので、十個中隊の兵を率いて、再建作業に出かけていったところだった。
コルベールの使者は、時刻と場所のいかんにかかわらず、ダルタニャンの居所を捜して、使命を果たすように訓令されていたので、すぐと護衛兵とともに、騎馬で塹壕の方におもむいた。
すると、広い平野のまん中に、ダルタニャンが金モールの帽子をかぶり、長い杖《つえ》を持ち、黄金の大きな折り返しをつけた軍服を着て立っているのが見られた。彼は白い口髭《くちひげ》を噛《か》みながら、流弾が地面から投げ上げる砂埃《すなぼこり》が顔にかかるのを、しきりと手でぬぐっていた。
それゆえにひゅうひゅうと音を立てて、空中を飛ぶ砲火を物ともせず、将校はシャベルを使い、兵士は手押し車を押していた。大きな束にした柴が二十人ばかりの男に運ばれて来て、塹壕の前面に積み重ねられた。こうして、一同は兵を可愛《かわい》がる将軍の熱心なる指揮に、全く鼓舞されているのだった。
三時間もすると、塹壕はことごとく修理された。ダルタニャンも大分落ち着いて、穏やかに口をきくようになった。軍帽を手にした工兵隊長が、彼に近づいて、塹壕の修理ができた旨を報告した。
ところがこの報告が終わるか終わらないうちに、砲弾が飛んできて、隊長の片脚を奪った。と見ると、ダルタニャンは倒れかかる隊長をしっかりと抱きかかえた。
そして隊長を起こしてやり、元気をつけてやりながら、塹壕の中に運びこんだ。これを見て、連隊からは、どっと喝采《かっさい》の声があがった。
その時分から、攻撃軍は勇気の有無を通り越して、熱狂してしまった。まず二個中隊がひそかに敵の前衛に迫って、たちまちにそれを撃ち破った。それを見るより、今までダルタニャンに引き止められて、稜堡《りょうほう》を守っていた他の中隊も、ついにがまんができなくなって、どっと突進した。まもなく猛烈な襲撃が要塞の外壁に向かって行なわれた。
こうなってはダルタニャンも、軍を要塞に乗りこませるよりほかにしかたがないと見た。それで敵が修理に全力を注いでいた二か所の突破口に全兵力を集中した。それは十八個中隊だったが、ダルタニャンも自ら後続部隊を指揮し、梯陣《ていじん》によってこの突撃をささえるために、敵砲の着弾距離内へと進んだ。
やがてダルタニャンの擲弾兵《てきだんへい》によって、砲列を襲撃されて、あわてふためくオランダ軍の叫喚《きょうかん》の声が、はっきりと聞こえてきた。戦闘はますます激烈になってきた。
ダルタニャンは敵の砲を沈黙させるために、新たに一縦隊の兵を送った。この新手はあたかも螺錐《ねじぎり》のように、まだ堅固な城門を突破し、間もなく城壁の上には、煙焔《えんえん》たる火の中に、攻撃軍によって追撃され、潰走《かいそう》する敵兵の姿が見受けられた。
喜びに満ちて、ほっと安堵《あんど》の息をついたダルタニャンは、そのとき側から呼びかける声を聞いた。
「閣下、コルベール様からまいった者でございます」
彼は振り返って、この使者から書状を受け取った。その文面は次のようだった。
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ダルタニャン殿、陛下には貴殿の忠節と武勲を嘉《よみ》し給い、今般貴殿をフランスの元帥に任命あそばされ候。
貴殿が各地を占領せられたる旨一々上聞に達し、ご感斜めならず。新たに開始せられたる包囲戦は、ぜひとも好結果をもって終了せらるべく、此段《このだん》勅令により伝達|仕《つかまつ》り候。
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ダルタニャンは上気した顔に、眼を輝かせながら立っていた。彼は眼をあげて、部下の将兵が今なお赤黒い硝煙に包まれて、城壁の上を進んでゆくのを、じっと見守っていた。
「これで終わりじゃ」と彼は使者に答えた。「もう十五分もすれば、この都市は陥落するだろう」それから再び書面を読み続けた。
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この箱は小生より貴殿への贈物に御座候《ござそうろう》。貴殿は武人にして、剣をもって国王を護《まも》らるるも、小生は文官に有之《これあり》、即《すなわ》ち和平的の技術をかりて、今般貴殿が得られたる褒章《ほうしょう》を飾らんとの微意、ご賢察下され度願上候《たくねがいあげそうろう》。
元帥閣下、この機会において、将来の御高誼《ごこうぎ》を祈りあげ候。
コルベール
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ダルタニャンは喜びに酔ったようになって、使者に合図をした。そこで使者は、その小箱を捧げて進み出た。が、元帥がそれを眺めようとした瞬間、要塞《ようさい》の上にものすごい爆音が起こったので、彼の注意はその方へ向けられた。
「へんだぞ」とダルタニャンは言った。「城壁にまだ陛下の御旗が揚がらん。降服の合図である太鼓の音も聞こえんが」
そして大胆な一士官に三百人の精鋭を授けて、今一方の突破口から攻撃するように命令した。
それから、ダルタニャンは幾らか落ち着いて、コルベールの使者の捧げていた箱の方に向き直った。これこそ彼が武勲によって贏《か》ち得た宝だった。
ダルタニャンは箱をあけようとして、片方の手を伸ばした。すると、そのとき、市の方から砲弾が飛んで来て、士官の腕の中にある箱に命中して、砕いてしまった。ダルタニャンは胸を打たれて、土の山の上に仰向けに倒れた。一方、百合《ゆり》の花で飾った元帥杖《げんすいじょう》は、こわれた箱の中から飛び出して、ころげて行き、もう力の無いダルタニャンの手の下で止まった。
彼は起き上がろうとして、身をもがいた。人々は最初彼が倒れただけで、負傷したとは思わなかったが、そうとわかると、驚いた将校の一団から、恐怖の叫び声が揚がった。元帥はもう全身血にまみれていた。死の青白い色が次第にその上品な顔に浮かんできた。
彼をささえようとしてさし出された皆の腕に抱きかかえられながら、ダルタニャンは今一度要塞の方へ眼を向けた。そして城頭にひるがえる白旗を認めることができた。すでに、この世の物音が聞こえなくなった彼の耳に、勝利を告げる太鼓の響きだけが微《かす》かにはいって来た。 そのとき、痙攣《けいれん》する片手に、黄金の百合の花で飾った元帥杖を握り締めた彼は、もう天の方を眺める力のなくなった眼を、この元帥杖の方に向けると、不思議な言葉をつぶやきながら、倒れた。その言葉は全く不可解で、将卒を驚かしたようだった。それはかつて地上のいっさいのものを表わした言葉ではなく、この死にかけている人以外には、誰にもわからない言葉だった。すなわち、「アトスよ、ポルトスよ、天国でまた会おう。アラミスよ、永遠にさらば!」
こうして、この物語の四勇士は、今はただ一人を残すのみとなった。すなわち、神は三人の魂をその御許《みもと》に召されたのである。 (完)
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解説
アレクサンドル・デュマ――人と作品
生いたち
アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)は、一八〇二年七月二十四日すなわち革命暦十年|熱《テルミドル》月五日、北フランスのエーヌ県ヴィレル=コトレという小さな町で生まれた。この町はパリの北東約一〇〇キロのところにあって、西は有名な大聖堂のあるランスの町まで七〇キロほどである。
父のデュマはハイチにあるサン=ドマングのジェレミー島出身の陸軍中将で、ナポレオンと肩をならべるほどの戦《いくさ》上手の将軍であったが、ナポレオンが天下をとり、帝位にのぼってからは、デュマ将軍が共和党員であったという理由から、二年間の俸給は未払いのままになっていた。将軍は身の丈《たけ》も高く、力も抜群で、「黒い悪魔」と呼ばれていた。父方の祖父アントワーン=アレクサンドル=ダヴィッド・ド・ラ・パイユトリーは陸軍砲兵官であったが、その妻マリ=セセット・デュマが黒人の娘であったからであろう。また、作者デュマの母はマリ=ルイーズ・ラブレといって、その父親は前記ヴィレル=コトレの町で旅館を経営していたのである。
生まれたとき背丈一八インチ、体重九ポンドもあった大きな赤ん坊のデュマは、長い療養生活を送る父のそばで、すこやかに元気に成長したのであった。ところが、父の俸給はなく、わずかばかりの貯えも底をついた一八〇六年二月二十六日、父デュマは四十歳を一期として死んでしまった。あとに残された母は、パリの寄宿舎に入れてある姉娘エーメと、妹娘のルイーズ、それに四歳になったばかりのアレクサンドルとをかかえて、窮乏のうちに生活を立てていかなければならなかった。
少年時代
少年デュマは、母方の親類になる林務官のジャン=ミシェル・ドヴィオレーヌの保護のもとに、こうした苦しい生活にもかかわらず、ヴィレル=コトレを中心に自由にのびのびした日々を送った。この町一帯の大きな森林の中を駆け巡り、|とりもち《ヽヽヽヽ》で小鳥を捕えたり、仕込銃で密猟をしたりして、身体を鍛えることができた。また母や姉から読み書きを習い、数学も教えられた。十歳になると母は彼を、グレゴワール神父の学校に通学させて、音楽やラテン語を習わせた。しかしデュマはこうした神父の授業よりも、林務官たちの口から語られる大ナポレオンの戦《いくさ》物語の方に興味を示して、しじゅう、林務官の話に耳をかたむけるのだった。また読書も「千一夜物語」から「ロビンソン・クルーソー」、聖書、神話など、次から次へと読みふけった。
十六歳のころ、人の好い老農夫の娘アデール・ダルヴァンとの牧歌的な初恋の時期が来る。若い二人は庭の小さな離れで、一夜をすごすのである。この金髪の娘が、デュマの最初の恋人であった。彼の「回想録」の初版で「アグラエ」と呼ばれているのは、この娘である。
文学への開眼
そのころデュマの読書に大きな影響を与えた二人の男が現われる。その一人は元来スウェーデン貴族の出であるが、祖国を追われてフランスに来ていたアドルフ・リビング・ド・ルーヴァン子爵であり、もう一人は軽騎兵士官のアメデ・ド・ラ・ポンスである。ド・ルーヴァン子爵は、皆から「美男の弑逆《しいぎゃく》者」と呼ばれていて、コラール男爵家所有のヴィレル=エロン館に宿泊していた。この館はヴィレル=コトレの町からも近いので、デュマはそこに出入りし、子爵の詩を見せてもらったり、互いに文学について語りあった。またド・ラ・ポンスはヴィレル=コトレで結婚していたので、デュマはその家庭をもたびたび訪問し、「恋愛や狩猟ばかりで日を送らないで勉強に精を出せよ!」と忠告された。この軽騎兵はドイツ語やイタリア語にも堪能《たんのう》だったので、デュマにこれらの外国語を教え、二人でイタリアの詩人ウゴ・フォスコロの美しい小説を翻訳したり、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」や、ドイツの詩人のビュルガーの「レオノーレ」などを読んだのであった。
またデュマが十八歳のころ、はからずもシェークスピアの作品に触れたのであった。それはある日、パリの劇団が、近くのソワソンの町に来て、「ハムレット」を上演したからだった。台本はフランスのシェークスピア劇の訳者ジャン=フランソワ・デュシスの脚色によったもので、デュマの心は少なからず動かされた。
パリへ上京
毎年夏になると、ド・ルーヴァンはヴィレル=エロンの館に来て、パリの演劇についてデュマにその評判を語ってくれた。一八二○年から二一年にわたって、デュマはド・ルーヴァンと幾つかの戯曲を試作している。
一八二三年デュマはある公証人役場の書記をつとめていたが、パリの劇壇のことを思うとむしょうに都に出かけて行きたくなり、また結婚したアデールから遠ざかる必要もあったので、思いきってパイエという友人といっしょに、車にも乗らずに徒歩でパリまで出かけた。道々二人は、持参の鉄砲で狩りをし、その獲物を売って、旅費に当てて、やっとパリに着いた。
パリにおけるド・ルーヴァンの館を訪ねたデュマは、その紹介で当時絶賛を博していた悲劇俳優のタルマに、フランス劇場の楽屋で引きあわされた。ちょうどタルマは悲劇「シルラ」に重要な役で出演中であったが、この田舎《いなか》出の劇作家志願の青年に向かって、「父と子とシェークスピアの名において申しますが、あなたは偉大なる劇作家です。しかし田舎にお帰りなさい。そしてもっと勉強しなさい」と言った。この言葉にデュマは腹を立てて、そのままパリを引きあげてしまった。
しかし何が何でも劇作家になりたいと思うデュマの堅い決心は、いつまでも故郷にとどまることを許さなかった。父の旧友であるフォワ将軍の尽力で、ついにオルレアン侯の秘書課に書記として勤務することができた。ところが秘書課の窓がフランス劇場の方に向かって開いていたので、演劇に対して熱情をいだいていたデュマには、まことによい刺激になったことは言うまでもあるまい。彼は自分の学ぶべき点に気づき、仕事の合間に古今東西の名作巨篇を読みふけった。
文壇への登場
デュマは友人のド・ルーヴァンにもう一人ルッソーという男を交えて、三人の合作になる通俗喜劇「猟と愛」を、一八二五年はじめてアンビギュ=コミック劇場で上演するに至った。また翌一八二六年には彼とラサンニーニとヴュルピアンの合作になる「婚礼と埋葬」が、ポルト=サン=マルタン劇場で上演された。この二作は彼ひとりの作ではないが、これらの上演によって、デュマは劇壇と交渉を持つことができるようになったのである。またデュマは、これより先一八二三年には、ノルマンディ出身の未亡人カトリーヌ・ラベーと同棲し、翌一八二四年七月には、のちに「椿姫」の作者となる息子アレクサンドルをもうけている。
さて一八二七年には、英国の俳優一座がパリに乗り込んで来て、オデオン劇場で華々しくシェークスピア劇を上演した。のちに作曲家ベルリオーズの夫人になる花形ハリエット・スミスソンもこの一座の中にあって、その名演技がデュマの心をとらえて離さなかった。
「アンリ三世」の成功
やがて一八二九年二月十一日ついに彼の第一作「アンリ三世とその宮廷」五幕がフランス劇場で上演され、われるような喝采《かっさい》によって、パリの人たちから迎えられた。デュマの仕えていたオルレアン侯は平素はいたって家臣たちに冷たかったが、この上演には少なからず心を動かされ、みずから観劇して喝采を惜しまなかった。その上この成功を喜び、デュマを抜擢《ばってき》して図書寮助手に任命し、年額千五百フランを給与した。
「アンリ三世」の上演に先だって、既に劇場に渡されていた戯曲「クリスティーヌ」五幕も、翌一八三〇年オデオン劇場の舞台にのぼった。しかもこの上演は「アンリ三世」の上演にまさるとも劣らない評判であった。これによってデュマの劇壇における地位は不動のものになったのである。彼の名声はパリを征服したのだった。
一八三〇年、パリに暴動がおこり、フランス国王シャルル十世は国外亡命のやむなきに至った。いわゆる七月革命である。しかしデュマは既にオルレアン侯のもとを辞して、文筆活動に専念していた。すなわち七月革命のおこる前五月には「アントニー」がポルト=サン=マルタン劇場で上演されて成功をおさめ、翌一八三一年には「ナポレオン・ボナパルト」、一八三二年には「ネールの塔」、一八三六年には「キーン」と続けざまに発表された。そのほか数十篇に達する戯曲も、ことごとく上演されて、当時のパリ劇壇を征服することになった。
不朽の小説
デュマの抜群の精力は、単に戯曲を書いて劇壇をわがものにするだけでは満足できなかった。一八二六年「現代小説」一巻を書いてから、一時小説の筆をたっていた彼は、小説「三銃士」八巻を一八四四年に著わし、さらに引き続き、翌年「モンテ=クリスト伯」を発表し、それからは毎年のように「王妃マルゴー」六巻、「二十年後」十巻、「メゾン=ルージュの騎士」六巻、「モンソローの奥方」八巻、「ブラジュロンヌ子爵」二十六巻とやつぎばやに巨篇大作を生み出したのである。
かくのごとく全くスーパー・マンのような精力で書き続ける一方で、デュマは莫大《ばくだい》な金をつかって、サン=ジェルマンの丘の上に宏壮《こうそう》なる「モンテ=クリストの別荘」を造ったり、スペイン、アルジェリアなどに旅行して、金を湯水のようにつかった。また民衆に国の歴史の一ページを知らせようとして、歴史劇場なるものを建設しようと多額の負債を引き受けた。それがためデュマの運命もついに一八四八年の二月革命の勃発《ぼっぱつ》を境として下り坂をたどることになった。こうした負債のため一時はパリを離れてベルギーに隠れていなければならなかった。
晩年
デュマの晩年は寂しかった。娘のオランド・ペテール夫人と息子のアレクサンドルの優しい配慮のうちに静かな生活を送った。一八七〇年十二月五日午後十時、普仏戦争の混乱の時期に、風邪がもとで、ピュイの別荘で、なんらの苦痛もなく眠るように大往生をとげた。息子のアレクサンドルは翌日すぐに、当時プロシア軍によって連絡を絶たれていたが、ノアンにいる女流作家ジョルジュ・サンドにあてて、父の死を知らせている。そして十二月八日、エディップに近いヌーヴィルの小さな聖堂で、葬儀が行なわれた。普仏戦争終了後、遺骸《いがい》は故郷のヴィレル=コトレに移され、両親の墓のわきに埋葬された。
「鉄仮面」について
デュマは、ミシェル・レヴィ版の全集によると三百一巻となっている。こうした膨大な作品の中で、いわゆる「ダルタニャン物語」ともいうべき騎士ダルタニャンを主人公とした小説は、「三銃土」八巻(一八四四年パリ、ボードリー社発行)、「二十年後」十巻(一八四五年パリ、ボードリー社発行)、「ブラジュロンヌ子爵」二十六巻(一八四八年―一八五〇年パリ、ミシエル・レヴィ発行)の三部よりなっていて、本篇の「鉄仮面」は第三部に当たる「ブラジュロンヌ子爵」の後半に属する部分である。第二部の「二十年後」がフランス国王ルイ十四世の宰相マザランの統治下における「ラ・フロンド」(一六四八年)という反乱を舞台にしているのに対して、第三部の「ブラジュロンヌ子爵」は太陽王ルイ十四世のもとに、フランスがヨーロッパの最強国となって、スペイン、フランドル、オランダ、ドイツと戦い、その領土が最も大きくなる時代の物語である。この「鉄仮面」は、あの名高いフランス王室秘史を中心に、雄大な構想と千変万化するプロットをもって、東西文芸史上にも無類と称されている名作で、しばしば独立した一篇として、読者に深い感興をわきおこす歴史小説である。
次に本篇に登場する主要人物について述べると、ルイ十四世は、いわゆる「太陽王」と呼ばれたフランスの絶対君主で、母である正大后アンヌ・ドートリッシュの庇護《ひご》から脱出し、まさに大空に雄飛せんとする青年国王である。若者らしい情熱のとりことなって、女官のルイーズ・ヴァリエールとの恋の炎に身をこがし、王妃マリー・テレーズや、義妹のアンリエットの嫉妬《しっと》をも意にかいしないのである。政治向きに関しては、財務官コルベールを登用し、自分の腹心となし、宰相フーケの没落を計画する。
さてこの宰相フーケは、誠実で忠臣ではあるが、虚飾を好み、国費を濫用する。ベル・イル島の領地に堅固な城塞《じょうさい》をきずいたことから、ついにルイ十四世の逆鱗《げきりん》に触れ、急転直下、没落の道をたどることになる。
「三銃士」の中の青年剣士ダルタニャンは、すでに鬢《びん》に霜をおいた武人として、本篇に登場。しかし相変わらず一本気で、短気だが、また友誼《ゆうぎ》に厚く、いたるところにその友情が満ちあふれる場面を展開する。そして最後に元帥杖《げんすいじょう》をにぎったまま、オランダの野辺で戦死するくだりは、まことに読む者をして、ため息をつかさずにはおかない。
アラミスは智略縦横、宰相フーケの懐刀《ふところがたな》をつとめる。宰相の失脚を救うために、ひそかにスペイン国王の懺悔聴聞師《ざんげちょうもんし》およびジェズイット教団の管長となり、フランス国内でも飛ぶ鳥を落すほどの勢力をふるっている。すなわちルイ十四世の双生児フィリップ王子を救出し、国王の替え玉とするが、陰謀は発覚し、ベル・イル島に逃亡する。
一方、アトスは三銃士の中で、最年長者で、その息子ブラジュロンヌ子爵が、|許婚《いいなずけ》の美女ラ・ヴァリエールを国王に奪われたのを恨んで、アフリカ遠征軍に従って蛮地で戦死する凶報を、病床で聞いて、悲嘆《ひたん》のうちに死んでしまうのである。
また剛毅《ごうき》朴直な巨人ポルトスは、アラミスの陰謀に加担し、その一味として参画する。ところがアラミスを救わんとして、ロクマリヤの洞穴の中、大岩に埋まって落命することとなる。
こうして三銃士の死をそれぞれ劇的に描いて、本篇は大団円となるのである。(訳者)