鉄仮面(上)
アレクサンドル・デュマ作/石川登志夫訳
目 次
一 国王と貴族
二 アトスの逮捕
三 三人の会食者
四 ルーヴル王宮にて
五 バスチーユ監獄
六 懺悔聴聞師
七 囚人第十二号
八 井戸に落ちた手紙
九 毒のささやき
一〇 国王の裁縫師
一一 切れ地の見本
一二 「にわか貴族」の着想
一三 長靴をはける修道院長
一四 釈放命令
一五 誘惑者
一六 未来の国王と法王
一七 ヴォー・ル・ヴィコント城
一八 ムランの祝酒
一九 美酒と嘉肴
二〇 ダルタニャンの苦言
二一 のぞき穴のからくり
二二 財務官コルベール
二三 王の嫉妬
二四 大逆罪
二五 一路牢獄へ
二六 獄房の夜
二七 大臣の述懐
二八 黎明
二九 謀臣アラミス
三〇 王の味方
三一 きびしい獄則
三二 王の感謝
三三 贋の国王
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一 国王と貴族
フランス国王ルイ十四世はラ・フェール伯爵が、王に拝謁《はいえつ》を願い出て、控えの間に待っているのを知って、伯爵に対して機嫌よくふるまいたいと思った。しかし、王は伯爵の突然の拝謁がけっして、たんなるご機嫌うかがいではなくて、何か他に重大な用件のために参内《さんだい》したのに相違ないと、心の中で漠然と感じていた。ましてアトス(ラ・フェール伯爵のこと)のような人物、すぐれた心の持ち主に対しては、けっして不快な、取り乱した印象をあたえてはならなかった。
かろうじて、うわべだけでも落ち着きを取り戻した国王は、伯爵を引見するから案内するようにと、廷臣に言いつけた。
数分たつと、フランス宮廷で、彼だけが佩用《はいよう》を許されていた幾多の勲章で胸間を飾った大礼服姿のアトスは、王が予感したとおりに、まじめな荘重なようすではいってきた。
ルイは伯爵の方へ一足踏み出して、顔に笑みをたたえながら、手をさし出した。アトスはこの手をいただいて、うやうやしく頭をたれた。
「ラ・フェール伯爵、だいぶ見えなかったがこうしてあなたに会えて、予も満足に思います」と王は言った。
アトスは一礼して、答えた。
「私もこうして陛下のおそば近くおりますことは、非常に喜ばしく存じます」
こうした丁重な返事も、実は次のような意味をはっきりと表わしているのだった。すなわち、
「私は陛下のおあやまちを取り除くために、おいさめにまいったのでございます」という意味である。
王はそれを察して、伯爵の前では、国王の威厳をもって、何を言われても、毅然《きぜん》とした態度を崩すまいと思った。そして、彼に向かって、
「予に何か話すことでもあるのか? あるなら、早く言ってください。納得がいくように返事をするから」
「なにとぞ、確かなお言葉を賜《たま》わりとう存じます」とアトスは感動に身をふるわせながら言った。
「陛下、今日私がこうして御前《ごぜん》にまかり出ましたのは、私の息子《むすこ》のブラジュロンヌ子爵と女官ラ・ヴァリエールとの結婚を許可あらせられるように、陛下に嘆願しにまいったのでございます。」
「やはりそうだ」と王は心の中で思った。そして声高《こわだか》に言った。「なるほど、この前もその話は聞いた」
「はい、その際、陛下はラ・ヴァリエールをブラジュロンヌ子爵に賜うことを、私に拒絶されました」
「いかにも」とルイはつっけんどんに答えた。
「その婚約は許せぬと仰せられました」と、アトスはせきこんで言った。
ルイはがまんして聞いているので、じりじりしていた。
「ラ・ヴァリエールは財産もなく、家柄もなく、それに……」とアトスは続けて言った。
王はしんぼうできずに、肱掛椅子《ひじかけいす》にどっかと腰をおろした。
「それに、器量も悪いという理由で、陛下はこの結婚に反対されました」とアトスは臆面《おくめん》もなくずけずけと言った。
この「器量も悪い」という言葉は、ラ・ヴァリエールの愛人であるルイ十四世の心臓にぐさっと刺さって王を憤慨させた。
「あなたは記憶がいいね」と王は言った。
「陛下、私が陛下のお言葉を覚えておりましたのは、そのお言葉がブラジュロンヌのために非常に名誉ある利益の証拠と信じたからでございます」と伯爵は躊躇《ちゅうちょ》せずに言った。
「では、そのとき、あなたがこの結婚をたいそう迷惑がっていたことを覚えているかね?」と王は言った。
「はい、覚えております」
「それならば、予もあなた以上に記憶がいいから、あなたが『ブラジュロンヌに対するラ・ヴァリエールの愛を私は信じない』と言った言葉をよく覚えているぞ」
アトスは一本やられたと思ったが、退《ひ》かなかった。
「陛下、そのことにつきましては、すでに私はお許しを請いました。しかし、この話は終わりまでお話ししなければおわかりにはなりません」
「終わりまで言ってみよ」
「それはこうでございます。陛下はブラジュロンヌのために、この結婚を延期したほうがよいと仰せられました」
王は黙ってしまった。
「ところが、今日では、不幸なブラジュロンヌがもうこれ以上は待てぬ、すみやかに陛下にご解決お願いすると申しております」
王はまっさおになってしまった。それをアトスはじっと見つめた。
「うむ、それで……ブラジュロンヌは……どうしてくれというのかな?」と王はためらいながら言った。
「この前、私が陛下に拝謁しました際、お願いいたしましたことでございます。この結婚に対する陛下のご同意をお願いいたします」
王は無言のままだった。
「それは障害になっている問題を取り除くことでございます」アトスは言葉を続けた。「財産もなく、家柄もよくない、またそれに器量も悪いラ・ヴァリエールは、けっしてブラジュロンヌのよい結婚相手ではございませんが、子爵がこの若い娘を非常に愛しているのでございます」
王は両手を組んだ。
「陛下はなんでご躊躇されますか?」とアトスはその堅き決意を鈍らせず、慇懃《いんぎん》に尋ねた。
「予は躊躇なぞはせぬ……拒絶する」と王は答えた。
アトスはしばらく考えていたが、やがて、
「陛下、いかなる障害も、ブラジュロンヌの愛情をせき止めることはできませぬ。また彼の決意はどんなことがありましても変わりませぬ」とアトスは穏やかな声で言った。
「予の意志、これが障害だと思うが」
「しかし、こうした問題は何事にもまして、最もまじめな問題でございます」とアトスは言い返した。「それでございますから、なにとぞ、陛下の拒絶される理由をお聞かせくださいませ」
「理由だと? それを予に尋ねるのか?」と王は叫んだ。
「ぜひともお願いいたしまする」
王は両手の拳《こぶし》でテーブルに身をささえながら、声を荒らげて言った。
「ラ・フェール伯爵、君は宮廷の慣例を破っておるぞ。宮廷では、国王に尋ねたりはせぬぞ。君は何か誤解していると思うが」
「それならば、私が陛下よりお答え願いたかったことを、他に求めるばかりでございます。陛下からお答をいただく代わりに、私は自分自身に答えるばかりでございます」
王はつと立ち上がって言った。
「伯爵、どうか退出してください」
「陛下、私は今日を逃がしては、陛下に申し上げる機会を失います。なかなか私には拝謁する機会がございませぬので」とアトスは言った。
「では、君は予を侮辱するつもりか?」
「おお! 陛下、私が陛下を侮辱する? めっそうな! そんなことがあってたまりますか!私は今まで国王が他の人の上に立つのは、ただその持つ階級や権利ばかりでなく、その気高きお心と不抜《ふばつ》なる精神によるものだと信じております。私は一時の言いのがれを言って、その言葉の後ろに底意を隠しておられるような国王を、信ずることはできませぬ」
「その底意とは何だ?」
「ご説明いたしましょう」とアトスはひややかに言った。「ブラジュロンヌ子爵とラ・ヴァリエールの結婚に反対なさるのは、陛下が子爵の幸福と財産の維持を望まれる以外に、何か他の目的を持っていらっしゃるからでございます」
「君は予を侮辱しておることを知っておるか?」
「子爵に猶予を要求されたのは、ただ単にラ・ヴァリエールとの婚約を延期させようとなさるお考えでしたか?」
「黙れ! 黙れ!」
「陛下、私は至る所で、こんなことを聞いております。陛下がラ・ヴァリエールを愛していらっしゃるという噂《うわさ》でございます」
これを聞いて、王は数分前から噛《か》んでいた手袋を、歯で引き裂いて、叫んだ。
「予の私事に口をはさむな! よし、予も決心したぞ。予はいっさいの障害を取り除こう」
王は轡《くつわ》が口の中で回って、上顎《うわあご》を傷つけたのを怒った馬のように、はたと立ち止まった。
「予はラ・ヴァリエールを愛しておる」
と、王は突然立腹しながらも、鷹揚《おうよう》に言った。
「しかし」とアトスは王の言葉に口をさしはさんだ。「たとえ陛下がラ・ヴァリエールを愛していらっしゃっても、彼女をブラジュロンヌにめあわすには、少しも障害になりませぬ。犠牲と申すものは、王者にふさわしいものでございます。これはいっそう、今まで陛下に精勤を励んでおりました子爵をして、これからも忠義の士とするに役立ちます。それゆえに、陛下がご自分の恋を思いあきらめられるということは、ご寛容のおぼしめしをお示しになりますと同時に、子爵の感謝の的となり、よいご政道を行なわせられることにもなるのでございます」
「だが、ラ・ヴァリエールはブラジュロンヌを愛してはおらぬ」と王はかすかにつぶやいた。
「陛下はそれをご存じでございますか?」
と、アトスは鋭い眼つきで、王を見つめながら言った。
「いかにも、知っておる」
「それはついこのごろのことでございましょう。さもなくば、私が最初お願いいたしましたときに、それをご存じなら、陛下は私にそう仰せられたはずでございますが」
「いや、それはこのごろのことだ」
アトスはしばらく無言でいたが、やがて口を開いて言った。
「しかし、それでは陛下がブラジュロンヌ子爵をロンドンにおつかわしになった意味がわかりませぬ。この追放のご処置は陛下のご名誉を傷つけぬように願っている者どもを驚かしました」
「予の名誉についてかれこれ申す者とは誰のことだ?」
「陛下、国王のご名誉は、取りも直さず全貴族の名誉でございます。国王がその貴族の一人を侮辱なさるとき、すなわち国王が貴族の名誉の一部をけがすとき、それは国王ご自身から、名誉の一部を奪い取ることでございます。陛下、子爵をロンドンにおつかわしになったのは、陛下がラ・ヴァリエールの愛人になられる前でございますか、それとも後でございますか?」
立腹した王は、ことに自分がおさえつけられたように感じたので、身振りで、アトスを退出させようとした。
「陛下、私はすべてを陛下に申し上げましょう」と伯爵は答えた。「私は陛下がご満足におぼしめすか、私自身が満足するか、どちらかが満足しないうちは、御前より退出いたしませぬ。満足と申しますのは、陛下のおっしゃることがもっともだという証拠を私に示されるか、陛下のお言葉がまちがっているという証拠を私がお見せするかでございます。陛下、なにとぞ私の申し上げることをお聞きくださいませ。私は年寄りでございますが、真に強大なものがフランス王国の中に存在することを熱望してやまぬ者でございます。私は御父君とあなた様に対し貴族の血を捧げてまいった一人でございますが、いまだかつて、御父君はもちろんのこと、あなた様に対しても、何一つお願いをしたことはございません。また世間の誰に対しても迷惑をかけるようなことはいたしませんし、国王に対しても無理なお願いはいたしませんでした! よく私の言葉をお聞きください! 私は陛下が虚偽と欠点とをもって、けがし、かつ裏切られた貴族の一人の名誉について、詳細なるご報告をうかがいにあがったのでございます。こうした言葉が陛下の逆鱗《げきりん》に触れることは、もとより覚悟しております。が、しかし、事実は私どもに黙しております。また、陛下が私の忠言に対し厳罰を下そうと、お考えになっていらっしゃることも承知しております。しかし私自信も、神に対し、国王の虚偽と、倅《せがれ》の不幸をあからさまに申し述べて、陛下を罰していただこうと考えております」
王は胸に片手を置き、頭をそらし、燃えるような眼つきをして、大股《おおまた》で歩いていた。が突然叫んだ。
「もし予が君のために国王だったら、君はすでに罰せられていたろう。だが予は一個の人間にすぎぬ。予には予を愛してくれる人たちを、愛する権利がある。幸福というものは得がたきものであるからな!」
「いや、陛下には、人としても、国王としても、もはやこの権利はありませぬ。もしそれを陛下が公明正大にお取りになりたくば、ブラジュロンヌを追放せずに、彼にその権利を譲られるのが至当でございます」
「確かに予の方に権利があると思う!」とルイ十四世は威厳に満ちた声で言った。
「私にご返辞を賜わるようにお願いいたします」と伯爵は言った。
「やがて予の返答が、君にもわかるだろう」
「私の考えは、陛下もすでにご存じでございますな」とラ・フェールは答えた。
「君は国王と対談していることを忘れておる。それは大罪になるぞ!」
「陛下、あなた様は二人の男子の一生を台無しにされたことをお忘れになっておられます。その罪は万死に値いしますぞ!」
「すぐに出て行け!」
「退出する前に、申し上げることがございます。ルイ十三世の王子! あなた様はご自分の治世を誘拐《ゆうかい》と不正とによって治められました。私の一門ならびに私は、かつてサン・ドニのご墓所で、尊き王祖王宗《おうそおうそう》の御遺骸《ごいがい》を前にして、倅を前にして、誓わしめたいっさいの忠誠を、あなた様に対して、ただいまこの場で、取り消すことにいたします。陛下、あなた様は私どもの敵となられました。今後は、我らの唯一の主人でおわす、神にお仕えするばかりでございます」
「君は脅迫する気か?」
「いいえ。さようではございません」とアトスは悲しげに答えた。「私は心中に、恐怖の念を抱いておりませんように、挑戦的な気持などは持っておりません、陛下、神は私の言葉を聞いてくださいます。フランスの王冠の安全と名誉のために、かつて二十年にわたって内外の戦役に流した聖なる血を、今なお私が流していることを、神もよく照覧しておられます。私は人民を威嚇《いかく》しませんように、国王を脅迫なぞはいたしませぬ。しかし私は次のことを陛下に申しあげます。陛下は父の心の中から信仰を奪い、息子の心の中から愛を奪われましたために、二人の奉仕者を失われました。一人の者は、もはや国王の言葉を信ぜず、もう一人の者は、もはや男子の誠実も婦人の純潔も信じません。一人は尊敬の念を失い、もう一人は服従の精神を失ったのでございます。ではこれでお暇《いとま》を申しあげます。|さらば《アディユー》!」
こう言い終わると、アトスはその長剣を、膝《ひざ》にあてて二つに折ると、静かにそれを床の上に置いた。そして忿怒《ふんぬ》と慙愧《ざんき》とで、息も止まってしまった王に一礼をして、王の部屋から退出した。
テーブルの前に打ちひしがれたようになったルイは、元気を回復するのに数分もかかった。やがてすっくと立ち上がった。彼は激しく叫び鈴を鳴らした。そして、
「誰かある、ダルタニャンを呼べ!」と王は驚いて駆けつけた廷臣に言いつけた。
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二 アトスの逮捕
まもなく自邸にダルタニャンを迎えて、アトスは言った。
「おお、何か私に知らせることでもあるのか?」
「おれがかい?」とダルタニャンは聞き返した。
「そうさ。何かわけがなければ、こうやって君が来るわけがない」と言って、アトスは微笑した。
「いや、それがね……」とダルタニャンは少しまごついて言った。
「君、私の方からはしいて聞かんがね。ときに、陛下はご立腹になってるだろうな?」
「うむ、たいへんご立腹のようすだったよ」
「それで、君は私を逮捕しに来たのだな」
「図星《ずぼし》だ」
「では、早く捕縛《ほばく》してくれ」
「まあ、まあ、そうせくなよ!」
「いや、遅れるといかんと思ってな」とアトスはにっこりと笑いながら言った。
「なあに、急ぎはせんよ。ところで、君は陛下とおれとの間に起きたことを知りたくはないかな」
「君が話してくれるというなら、喜んで聞こう」とアトスは言って、ダルタニャンに大きな肱掛《ひじかけ》椅子を指さした。ダルタニャンはどっかとそこに腰をおろすと、話を続けた。
「陛下と、おれとの話はなかなかおもしろいぞ」
「謹聴しておる」
「さて最初、陛下はおれをお召しになった」
「私が退出した後だな?」
「君が階段を降りきったとき、おれは駆けつけたのだ。君、陛下のお顔は赤くなくて、紫色だったぞ。ところが、おれは何が起きたのかを少しも知らん。ただ二つに折れた剣を見ただけだ。
『隊長ダルタニャン!』と陛下はおれの姿を見ると叫ばれた。
『はい、陛下』とおれは答えた。
『ラ・フェール伯爵は予に無礼を働いたぞ』
『無礼を!』と陛下がびっくりなさるほどの調子で、おれが叫んだ。
『隊長ダルタニャン、予の言を聞いて、必ず予の命令どおり行なうだろうな』と陛下は歯を食い締めながら仰せられた。
『はい、それが私の義務でございます』
『予はラ・フェールを許してやりたいのだ。あの男には予もよい思い出があるのでな。しかし侮辱が彼を許さないのだ』
『ごもっともでございます』とおれは静かに言った。
『だからな、おまえは馬車で彼のもとに行き、彼を逮捕しなさい』と陛下は続けて仰せられた。
そこでおれは御前を下がらず、ぐずぐずしていた。すると陛下はこう仰せられた。
『もしおまえ自身で彼を逮捕するのがいやならば、近衛《このえ》の隊長を予のもとへよこしてくれ』
『陛下』とおれは奉答した。『私がご用を務めますれば、近衛の隊長をお召しになる必要はございません』
『いや、ダルタニャン、予はおまえに無理は言わんつもりだ。いつも予によく仕えてくれるからな』
『ご遠慮はご無用でございます、ご用はいつでも務めます』とおれは答えた。
王はびっくりしておられたが、やがて、
『しかし、ラ・フェール伯爵はおまえの友人だったと思うが?』と仰せられた。
『陛下、彼は私の父と申したほうがよい人物でございます』
陛下はじっとおれを見つめられていたが、おれの顔が平然としているのをご覧になって、満足におぼしめしたようだった。そしておれに聞かれた。
『おまえはラ・フェール伯爵を逮捕するか?』
『ご命令くだされば、必ず』
『よし。ではおまえにそう命令するぞ』
そこで、おれは頭を下げて、伺《うかが》った。
『陛下、伯爵はどこにおりますか?』
『それは捜さなければならんな』
『伯爵がどこにおりましても、かまわず逮捕してよろしゅうございますか?』
『うむ、かまわん。しかし、なるべくなら、自邸にいるときをねらえ。もし領地にでも帰るようなときは、彼をパリから出して、街道で捕えろ』
そこで、おれは一礼したが、相変わらずそこに残っていたのだ。これをご覧になった陛下は尋ねられた。
『まだ、何かあるか?』
『はい、私はお待ちしておるものがございます』
『何を待っているのだな』
『ご署名つきの命令書でございます』
陛下は少しお困りのようすだった。実際に、これは必要欠くべからざる処置だからな。もし陛下のご行為の中に専横的なものがあるなら、これを是正申し上げねばならぬからな。
それでも、陛下は静かにペンをとられると、しぶしぶと、次のようにしたためられた。
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銃士長騎士ダルタニャンへの命令書
ラ・フェール伯爵を発見次第すみやかに捕縛すべし
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そして陛下はおれの方を振り向かれた。
おれは眉《まゆ》一つ動かさず待っていたのだ。そこで、陛下はおれの泰然自若《たいぜんじじゃく》たる態度を不快におぼしめしたらしい。大急ぎで署名をなさると、それをおれに渡されて、
『行け!』とどなられた。
そこでおれはこのご命令に従い、ここに来たというわけさ」
アトスは友の手を握って、言った。
「では、出掛けよう」
「おい! 家を出る前に、いろいろと整理することがあるだろう?」とダルタニャンは言った。
「私か? 何もないよ」
「どうして!」
「ダルタニャン、君も知っているとおり、私はたんなる地上の旅行者にすぎんのだ。国王の命令とあらば地の果てまで行き、神のお言付けとあればこの世を去って、あの世に行く旅行者なのだ。告発された男には、入用なものなんかあるかね? 入用といえば、外套《がいとう》掛けか棺桶《かんおけ》ぐらいなものさ。私はいつでも覚悟ができている。さあ、連れて行ってくれ」
「では、出掛けよう」とダルタニャンは静かに言った。
「私は君の前を歩くのか、それとも後ろを歩こうか?」と伯爵が聞いた。
「おれと腕を組んで歩けばいいのだ」とダルタニャンは答えて、ラ・フェール伯爵の腕をとって、いっしょに階段を降りた。
こうして彼らは踊り場まで来た。
控え室で彼らに出会った伯爵家の家扶《かふ》グリモーは、心配そうに、二人を眺めていた。彼はアトスの日常生活をよく知っていたので、これには何かあるなと不審に思った。
「ああグリモーか?」とアトスが言った。「私たちは出かけるからな」
「おれの馬車を回してくれ」とダルタニャンはなれなれしく頭で合図しながら言った。
グリモーは明らかに笑い顔を見せようとして、かえってしかめっつらをして、ダルタニャンに感謝してみせた。そして二人の友を馬車の扉のところまで送って行った。最初にアトスが乗り、そのあとからダルタニャンが、御者に行き先を告げずに乗りこんだ。出発は至極簡単で、ふだん出掛けるときと少しも変わらなかったから、近所の人たちもそれと気がつかないほどであった。
「私の考えでは、私をバスチーユへ連れて行くのだろうな?」とアトスは言った。
「おれがか?」とダルタニャンは言った。
「おれは君が行きたいと思う所に、君を連れて行くよ」
「それはどういうわけだ?」とアトスは驚いて聞き返した。
「いや、伯爵、おれは君が思うままに行動してほしいのだ。おれはなんでもかんでも、無理やりに、君を牢獄《ろうごく》にぶちこもうなどとは考えていない。そのつもりなら、初めから近衛の隊長の手を借りるよ。だから、どこへでも君の行きたい所に行こう」
「いや、かたじけない、君だからこそ、そう言ってくれるのだ」とアトスはダルタニャンを抱擁《ほうよう》して礼を言った。
「なあに! 至極簡単なことだ。御者は君をクール・ラ・レーヌの城門まで案内する。そこには、かねておれが手配しておいた馬があるから、君はそれに乗って逃げればいいのだ。一息に三つの宿場を越すぐらいは平気だからな。ところで、おれは宮廷に帰って、国王にアトスはもう出発してしまった後で、間に合わなかったと報告すればいいのだ。その間に、君はル・アーブルに着くだろう。そしてル・アーブルからイギリスに渡るのだ。イギリスにはおれの友人のモンクが提供してくれた立派な家があるから、君がそこに落ち着けば、イギリス国王チャールズは十分君を歓待してくれるよ。どうだ。おれの計画は?」
「いや、私をバスチーユに連れて行ってくれ」とアトスはほほえみながら言った。
「頑固な頭だな! よく考えたほうがいいぞ」とダルタニャンが言った。
「何を?」
「君はおれよりも二十も年上だ。だから、おれの言うことを信じてくれ。我々のような年配の者が牢獄にはいってみろ、ただ死ににはいるようなものだ。君が獄中で呻吟《しんぎん》するのを、おれは黙って見ちゃいられん。何も考えるな。おれの言うとおりにしろ!」
「いや、ダルタニャン、幸いに、神は私に対して、健康な精神を授け給うたと同じように、頑健な身体を授け給うた。だから、私は最後の息をひきとるまで、達者でおられるだろうよ」とアトスは答えた。
「そんなものは頑健でもなんでもない。それはまったく狂気の沙汰《さた》というものだ」
「いや、そうでない。ダルタニャン、これは最高の分別というものだ。君が私を救えば、反対に今度君が破滅する。これは私にもよくわかっている。私だって、もし脱走したほうが万事まるく収まるものならば、君のいうとおりに脱走でもなんでもしよう。しかし、私は君のことをあまりによく知りすぎているので、この計画には賛成できないのだよ」
「君がおれの言うとおりに脱走すれば、君のあとは、陛下が追われるだろうよ」
「しかし、国王がそんなことはなさるまい」
「なあに、おれにとっては、国王だろうが、誰だろうが、同じことだ。おれはきっぱりと返事をしてやる。『陛下、フランス全国はもちろん、ヨーロッパのどこででも、陛下の欲せらるる人物を投獄し、追放し、殺害いたします。たといその人物が陛下のご兄弟であっても、ご命令とあれば、私は捕縛《ほばく》はおろか、匕首《あいくち》で刺し殺しても進ぜます。しかしながら、四銃士の一人であるアトスには指一本触れてはなりませぬ!』とな」
「ダルタニャン」とアトスは静かに答えた。「どうか私を直ちに捕縛してもらいたい。君は私がそれを望んでいるということを了解してくれ」
ダルタニャンは肩をそびやかした。
「どうしたのだ!」とアトスは続けて言った。「よしんば君が私を無理に立たしても、私は自首しに、また戻ってくるばかりだ。私は若き国王に、フランスの王冠の影が薄くなったことを、また彼が英邁《えいまい》にして雅量《がりょう》がある、大人物の資格がないことを知らしてやりたいのだ。国王は私を罰し、投獄し、苦しめる。それでいいではないか! 私は神が天罰というものをかれに知らしめ給うのを待ちつつ、彼に良心の呵責《かしゃく》というものを教えてやりたいのだ」
「おれは君がこうと言ったら、誰の言うことも聞かないことを知っている。もう何も言わん。君はバスチーユ行きを欲するのか?」とダルタニャンは言った。
「そうだ。そうしてほしいのだ」
「よし……バスチーユへ行け!」とダルタニャンは御者に向かって言った。
こうして沈黙の二人を乗せた馬車は、速くもなくおそくもなく走り続けた。
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三 三人の会食者
馬車がバスチーユ監獄《かんごく》の第一の城門まで来ると、番兵がそれを停止させた。ダルタニャンは命令を伝えるために一言口をきいただけだった。馬車は城門をくぐった。
馬車が構内に通ずる、石畳《いしだたみ》を敷いた広い道路をたどって行く間、ダルタニャンは城壁でも貫き通してしまうような鋭い眼つきで、そこにあるいっさいのものを見ていたが、突然大声で叫んだ。
「あっ! あそこにあるのはなんだ?」
「なんだな? 君がみつけたものは?」とアトスはもの静かに言った。
「あそこを見てみろ!」
「中庭の中かな?」
「そうだ。早く早く」
「なるほど一台の馬車が止まっている」
「そうだ!」
「おおかた、私のような、哀れな囚人が連れて来られたのだろう」
「それにしては、ちと変だ!」
「私は君の言うことがわからぬな」
「あの馬車から降りる者が誰か、もういっぺんよく見てくれ」
ちょうどそのとき第二の番兵が、ダルタニャンの馬車を止めて、手続きをした。アトスは彼の友人が注意を促した人物の姿を、百歩ばかり先に見ることができた。
なるほど、その人物は馬車から降りると、監獄の事務所の玄関に歩いて行った。
「どうだみたか?」とダルタニャンは聞いた。
「うむ、見た。鼠《ねずみ》色の服を着た男だ」
「なんだって?」
「いや、私にもよくわからんが、ただ馬から降りた男は鼠色の服を着ていると言っただけた」
「アトス、おれは確かに彼だと思う」
「彼とは、誰だ?」
「アラミス」
「アラミスが逮捕される。そんなばかなことが!」
「いや、彼が逮捕されたとは言わん。というのは、馬車には彼一人しか乗っていなかったからな」
「では、ここに何しに来たのかな?」
「なあに、あの男は典獄のベーズモーと懇意《こんい》だ」と銃士長は意地の悪い調子で答えた。
「これはよかった! 我々は間に合ったぞ!」
「何をするために?」
「会うためにだ」
「私は非常にまずい所で出会ったものだと思う。アラミスは私の姿を見て、第一に私に会ったこと、次には自分の姿を見られたことから、不快に感ずるだろう」
「まことにもっともだな」
「あいにくと、バスチーユの中では、誰かに出会っても、逃げ場がないからな。アラミスを避けるために退きたくとも、それはできない相談だ」
「アトス、おれには、今君が言った不快な気持をアラミスにあたえないようにする、うまい考えがあるのだ」
「どうするのだね?」
「それはいま説明する。また、自分にもよく納得がいくように、おれに話させてくれ。おれは君に嘘《うそ》をつけとは命令せんよ。それは君にできんことだからな」
「うむ、それで?」
「だから我々二人のためにおれが嘘をつこう。ガスコーニュ人の気質と、習慣からいっても、これは容易な問題だからな!」
アトスは微笑した。馬車は事務所の入り口の前に止まった。そこにはすでにアラミスの乗って来た馬車が止まっていた。
「わかったね?」とダルタニャンは友人の腕をとりながら言った。
アトスは身振りで同意の旨を伝えた。彼らは階段をのぼった。ダルタニャンはいちばん杓子《しゃくし》定規で、うるさい番兵に、おれは国事犯を連行して来たのだと言って、驚くばかりやすやすと、バスチーユの中にはいったのである。
これに反して、第三の入り口は至極はいりやすく、ただ役人に、
「典獄ベーズモー氏の所に通る」とダルタニャンが言っただけで、二人を通してくれた。
やがて彼らは典獄の食堂にはいった。ダルタニャンはそこで、ヴァンヌの司教で、デルブレー修道院長のアラミスとばったりと顔を合わせた。アラミスは典獄のそばに坐《すわ》ってすばらしい食事の出て来るのを待っていたのだった。そして部屋の中には至る所、そのうまそうな匂《にお》いが立ちこめていた。
ダルタニャンはびっくりした振りをして見せたが、アラミスはそうはできなかった。彼はこの二人の友人たちを見ると、身をふるわせた。そしてその感情をありありとさらけ出した。
しかしアトスとダルタニャンは彼に丁寧《ていねい》に挨拶をした。典獄のベーズモーはこうして三人の賓客《ひんかく》が集ったのを見て、すっかり肝《きも》をつぶして茫然《ぼうぜん》としてしまい、ただ、うろうろとするばかりだった。
「これはどうしたことだ! どういう風の吹き回しで?……」とアラミスが口をきった。
「それは我々のほうも聞きたいことだ」とダルタニャンは言い返した。
「それでは、三人とも自首しにまいったのかな?」とアラミスは腹をかかえて笑いながら叫んだ。
「あははは! そうかも知れんて」とダルタニャンは言った。「ときに、ベーズモーさん、いつか君は私を食事に招くと言ったことを覚えているかね」
「私が?」とベーズモーはびっくりして叫んだ。
「ああ! そんなことでは、君は天から降って来た人間だと言われるぞ。思い出さぬかな?」
ベーズモーは青くなったり赤くなったりして、彼をじっと見つめているアラミスのほうを眺めたが、ついにへどもどしながらしゃべり出した。
「確かに……まことに嬉《うれ》しう存じ……しかし……誓って……そうでないと……ああ! なんと情ない記憶力だろう! まったく覚えがない!」
「え! ではおれのほうがまちがっていると言うのか」とダルタニャンは声を荒らげて、立腹したように言った。
「何が、まちがっているので?」
「いや、それでは、おれの記憶がまちがっているように聞こえるが」
ベーズモーはダルタニャンの方に飛んで行って、言った。
「まあまあ、そうお腹立ちになっては困ります。私の頭はフランス第一の哀れな頭でございます。入隊してから六週間しかならない一兵卒にもかなわないのでございますから」
「いや、君は確かに覚えているぞ」とダルタニャンは強引に言った。
「は、はい、確かに覚えております」と典獄は躊躇《ちゅうちょ》しながら言った。
「陛下の御前だったぞ。君はおれに何の話だか知らんが、ルーヴィエールとトランブレー両君といっしょに、君の報告について話したではないかね」
「ああ! そうでございましたな。確かに!」
「その報告は君に対するアラミスの好意のことだったな」
「では、ベーズモー君、君は忘れてしまったのだね!」とアラミスは哀れな典獄が眼を白黒させるのを見ながら叫んだ。
「いや、まったくそうでございましたな」と典獄は言った。「ダルタニャン様、あなたのおっしゃるとおりでございます。私もそんな気がします。幾重にもお詫《わ》びいたします。私がご招待いたそうが、いたすまいが、そんなことはおかまいなく、ダルタニャン様も、デルブレー様も、またこちらのご友人の方もごゆっくりなさいませ」と言いたすと、典獄はアトスに挨拶した。
「では、ひとつゆっくりさせてもらうかな」とダルタニャンが答えた。「それに、こうやって私がやって来たわけは、今晩は王宮にもご用はないし、あなたの所で食事でもちょうだいしようとあがったわけだ。そしてここにまいる途中で伯爵に会ったのだ」
アトスは一礼した。ダルタニャンは言葉を続けた。
「すると、陛下の御前から退出された伯爵は、私にただちに執行すべき命令書を渡されたのだ。会った場所もここに近かったし、いつか御前で、私のために、あなたが言葉をそえてくださった御礼に、こうして伺ったというわけだ」
「なるほど、ラ・フェール伯爵様、それは都合がよかったですな?」
「まったく」
「伯爵様、よくおいでくださいました」
「伯爵はあなた方お二人と晩餐《ばんさん》をとられる。そのあいだ、哀れな私は、自分の役目のことで、ちょっとひと走りしてまいる。あなた方はうまくやってるな!」とダルタニャンはポルトスがするような溜息《ためいき》をしながら、言いたした。
「おや、出掛けるのですか?」とアラミスとベーズモーはいっしょに、喜びのあまり、驚きの声をあげた。
こうした空気をダルタニャンはすぐ察して言った。
「おれの代わりに、上品な立派なお客を残していくよ」
それからダルタニャンはアトスの肩を静かにたたいた。アトスは内心驚いて、その驚愕《きょうがく》の情をわずかながら表わさずにはいられなかった。
「もうお見えにならないので?」と人のよい典獄は言った。
「いや、一時間か、一時間半ばかりお暇《ひま》をいただくが、デザートが出るころには帰って来るよ」
「それなら、お待ちしましょう」とベーズモーが言った。
「いや、それにはおよばない」
「また戻って来るのか?」とアトスは不審そうに言った。
「もちろん」とダルタニャンはアトスの手をこっそりと握って言った。それから、声をひそめて、
「アトス、おれの帰るのを待っていてくれ。元気でな、それから、あのことはけっして話してはいかんよ。神が君をお守りくださるように!」と言った。
この握手は伯爵をして、心の中を見透かされないように、しっかりと自分を持《じ》していなければならぬと覚悟させた。
ベーズモーは再びダルタニャンを戸口まで送って行った。
アラミスはアトスの口を割ろうとして、彼をやさしく抱擁《ほうよう》したが、アトスは何事にも非常に辛抱強かった。彼は必要とあれば、このうえもない第一級の雄弁家だった。がまた場合によっては、一言一句を口にするにも、よく考えてけっして軽率にしゃべるようなことはしなかった。
こうしてあとに残った三人は、ダルタニャンが出かけてから十分ほどたつと、山海の珍味を盛った食卓についた。大きな肉片や漬物、またいろいろの種類の酒がつぎつぎにこの食卓を賑わした。
ベーズモーはひとりで、むしゃむしゃと食べ、がぶがぶと飲んだ。アラミスもけっして遠慮せず、出されるものにはことごとく手をつけた。しかしアトスだけはスープと、三皿のオル・ドヴルを取っただけで、あとは何も食べなかった。
気分も目的もまったく違った、この三人のあいだでは、話もあまりはずまなかった。
アラミスは、ダルタニャンがアトスだけ残して出かけて行ってから、どういうわけで、ベーズモーの所にアトスが来たのだろうか、おかしなことだと考えていた。一方アトスのほうでは、言抜けと陰謀《いんぼう》とで日を送っているアラミスのこうした心を奥底まで掘り下げてみた。そしてこの男が何か重大な企み事に夢中になっていることを嗅《か》ぎつけた。それから、彼もまた、ダルタニャンがなぜバスチーユの中に、引っ張って来た囚人をほうり出したまま、あんなにそわそわと急いで、ここから出て行ったのか不審に思いながら、自分の身の上をいろいろと考えていた。
さて、三人の人物の話はこのくらいに止めずばなるまい。我々はベーズモーの包丁によって料理された若鶏や鷓鴣《しゃこ》や魚の残骸《ざんがい》の前に、三人を残しておこう。
そして話はダルタニャンに移る。彼は乗って来た馬車に再び乗りこむと、御者の耳元で、
「王宮へ、大急ぎだ!」とどなった。
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四 ルーヴル王宮にて
国王はさきほどから、ルーヴル宮殿の善美を尽くした部屋で、ダルタニャンが帰って来るのを待っていた。はたしてラ・フェール伯爵をバスチーユに収容することができたろうか?
そのとき、入り口の帳《とばり》が揚がった。
王は急いで振り向いた。敷居|際《ぎわ》に、ダルタニャンが無言で棒立ちに立っていた。
「おお! ダルタニャンか。無事にすんだか?」と王は声をかけた。
「はい、陛下、すみましてございます」と銃士長はおもおもしい声で答えた。
王はそれから言葉を続けることができなかった。しかし国王である威厳の手前、このまま中止しておくわけにはいかなかった。国王たるものが断固とした処置をとったときは、たといそれが正しいものでなくとも、自分の行動がどこまでも厳正であったことを、周囲の者に、またとくに自分に説明して聞かす必要があった。それには一つの方法があった。すなわち犠牲者に過失を押しつけてしまうことだった。
宰相《さいしょう》マザランと大妃アンヌ・ドートリッシュに教育されたルイは、こうした王者たる高い見識をもっていた。それがこんな場合によく表われるのだった。王はしばらくのあいだ無言でいたが、まったく反省もしてみないようだった。そこで、
「ラ・フェール伯爵は何か文句を言ったか?」と王は事もなげに言った。
「いいえ、何も申しません」
「しかし伯爵も黙って、おとなしく逮捕される男ではあるまいが?」
「いや、逮捕されるのは覚悟のうえだと申しました」
王は頭を傲然《ごうぜん》と起こして言った。
「もはや伯爵もああした反逆的なふるまいはいたさなかったであろうな」
「その反逆的という言葉はどういう意味でございますか? まずそれをお聞かせください」と銃士長は静かに言った。「反逆者とは自分から進んでバスチーユの牢獄《ろうごく》に幽閉《ゆうへい》されるばかりでなく、己れを牢獄に連れて行くまいとする者に抵抗する人間をさすのでございますか?」
「誰が牢獄へ連れて行くまいとするのか?」と王は叫んだ。「妙なことを申すな、銃士長、おまえは気でも違ったか?」
「違ってはおらぬつもりでございますが」
「いまおまえはラ・フェール伯爵の逮捕を欲していない人間があると申したではないか。それはいったい誰だ?」
「それは陛下がこの役目を仰せつけられた人間でございます」
「だが、それはおまえのはずだったが」と王は叫んだ。
「はい、私でございました」
「ふん、それは妙だ。おまえが予に無礼を働いた男を逮捕したくないとは!」
「はい、それが私の意向でございました。そのうえ、私は前もってラ・コンフェランスの城門に用意させておきました逸物を伯爵にすすめてみました」
「なんでまた馬なんか用意させたのだ?」
「ラ・フェール伯爵をル・アーブルまで逃がして、それから英国へ落ちのびさせるためでございます」
「さては、お前は予を裏切ったのだな?」と王はいたけだかになって叫んだ。
「まさにそのとおりでございます」
ダルタニャンにこういう調子に出られては、王は応酬する言葉も出ず、かえって銃士長の強硬な抵抗に合って、あぜんとしてしまった。
「ダルタニャン、おまえがそうした以上は、何か理由があろう! 言ってみい」と王はおごそかに問いただした。
「もちろん陛下、私としましても、それだけの理由をもっております」
「だが、おまえは伯爵に対する友誼《ゆうぎ》を、今その理由としてもちだしてはいかんぞ。さっき予は、まずおまえにラ・フェール伯爵を逮捕するか、せぬのか十分選択させたからな」
「はい、しかしながら……」
「しかしながら、何じゃ?」と王は待ちきれず、短兵急《たんぺいきゅう》に尋ねた。
「しかしながら陛下はさきほど断言なさいました。もし私が彼を逮捕しませぬ場合には、近衛《このえ》隊長に逮捕させると」
「いかにも、予はおまえのためと思って考えてやったのだ」
「なるほど私のためにはそうでございましたが、しかし私の友人のためにはそうではございませんでした。それにしても伯爵は、私の手にせよ、また近衛隊長の手にせよ、いずれは逮捕されることになっていたのでございますから」
「では、それがおまえの忠義なのか? 議論と理屈で固めた忠義なのか? おまえは一兵卒ではないぞ! だがおまえは予に何を言いに来たのだ?」
「陛下、私はラ・フェール伯爵がバスチーユ監獄にはいっておりますと申し上げにまいったのでございます」
「それではおまえの失策にはならないようだな」
「仰せのとおりで。ともかくも伯爵はあそこにはいっております。伯爵が入牢《にゅうろう》しておりますからには、陛下がそれをご承知になるということは大事なことでございます」
「ダルタニャン、おまえは、おまえの国王を侮辱する気か!」
「陛下……」
「ダルタニャン、おまえは予ががまんしているのをいいことにして勝手な熱を吹いておるぞ」
「どういたしまして、陛下」
「どういたしましてとはなんじゃ?」
「私は私も同様に逮捕していただきに上がりました」
「おまえも逮捕してくれと言うのか、おまえが?」
「むろんでございます。友人ひとりきりでは、牢の中では無聊《ぶりょう》でございます。ですから私もいっしょに行くことをお許し願いたいのでございます。陛下が一言おっしゃれば、私は自分を逮捕いたします。近衛隊長の手などはわずらわす必要はござりません」
王はテーブルの方へ飛んで行って、ダルタニャンの逮捕命令を書くためにペンをとり上げた。
「覚悟しておれ、終身刑だぞ」とおどすような口調で叫んだ。
「覚悟しております」と銃士長は答えた。
「ああした行動をなさいました以上、もう二度と私の顔をご覧になれますまいから」
王は荒々しくペンを投げ出した。
「出て行け!」王は言った。
「いや、せっかく私をバスチーユに送るために、ペンをおとりになったのでございます。今になってなぜおやめあそばします?」
「このガスコンの頑固頭め! いったい誰が国王なのだ、おまえなのか、予なのか!」
「陛下でございます。あいにくと」
「どうしたのだ、あいにくとは?」
「はい、陛下、もし私が国王でしたら……」
「国王だったら、ダルタニャンの謀反《むほん》のふるまいを黙認するというのであろうな」
「まさにそのとおりでございます」
「ほんとうかな?」
そう言って、王は肩をそびやかした。
「私なら銃士長に向かってこう申します。しかも炎を出している炭火のような眼でなく、人間らしい眼で見ながら、『ダルタニャン、予は自分が国王であることを忘れていた。貴族を侮辱するのに王座を降りてしまった』と申します」
「これ、おまえはこの予に対して友人以上の無礼を働いたら、友人の罪が許されるとでも思っているのか?」と王は叫んだ。
「いや、陛下! あんな生やさしいことではすみません」とダルタニャンは言った、「これは陛下のご失策でございましょう。あの男は何事にも慎重な態度をとりますが、もしこの私でしたら、そんなことはいたしません。万事ずけずけと素直に申し上げたでございましょう。すなわちこうでございます。『陛下、あなたはあの男の息子を犠牲になさいました。そして今度はあの男が息子をかばおうといたしましたら、陛下はあの男までも犠牲になさいました。あの男はそこで陛下に、名誉と宗教と美徳との名において懇願《こんがん》したわけでございます。ところがあなた様はその切なる願いをしりぞけ、あまつさえあの男を追い立て、獄に投ぜられました』と。いやいや、もっとむごいことを申し上げずにはいられません。すなわちこうでございます。『陛下、ご選択あそばせ! 陛下がご所望になりますのは、朋友《ほうゆう》でございますか、下僕でございますか? 武士でございますか、おじぎばかりしている踊り子でございますか。はたまた偉大なる人物でございますか、道家《どうけ》役者でございますか? 君にご奉公の誠を尽くす人物をお望みになりますか、それとも御前にぺこぺことひれ伏す人間をお望みになりますか。陛下を敬愛する者と、恐れはばかる者、いったいどちらをお選びになりますか? もし卑劣と陰謀と臆病《おくびょう》とがお気にめすならば、ただ今にもそう仰せあそばしませ。陛下、私どもはすぐにお暇をいただきましょう。私ども古武士の鑑《かがみ》としての最後の者ども――忠勤を励み、勇気においても、また武勲においても、おそらく先人をしのいで来たはずの私どもが、即刻お暇をちょうだいいたします。さあ、どちらかをお選びあそばしませ。何を躊躇《ちゅうちょ》していらっしゃいます。お膝下《ひざもと》には諸侯が残っております。大勢の大宮人も宮殿にあふれております。さあ、ご躊躇はご無用です。どうぞ友人といっしょに私をバスチーユにお送りあそばせ。面目を重んずるラ・フェール伯爵の、最も美しい、最も気高い声に、耳をおかしになれないお方――歯に衣《きぬ》きせぬ、この正直一途なダルタニャンの誠実をこめた声をも聞くことがおできになれないお方であるあなた様は、悪い国王じゃ。明日にも哀れな目もあてられぬ国王になってしまわれましょう。悪い国王はその国民から憎まれ、哀れな国王はその国民から追い出されるのでございます』とこう私は申し上げずにはいられません。これもひとえに陛下のお心柄からのことでございます」
王は青白く死んだように、肱掛椅子《ひじかけいす》の上に腰を落としていた。足もとに落雷した人間でも、これほどには驚かなかっただろう。まるで息が絶えて、今にも死んで行く人間のようだった。ダルタニャンが言った誠実をこめた言葉が、剣の刃のように王の心臓を貫いたのである。
ダルタニャンは言うだけのことを残らず言ってしまった。そして王の激怒をおもんぱかって、剣を抜き、うやうやしくルイ十四世の前に進み、それをテーブルの上に置いた。
ところが王は剣を荒々しくはねのけたので、剣は床に落ちて、ダルタニャンの足もとにころげていった。
銃士長はこれまでじっとがまんしていたが、これで顔をまっさおに変えて、忿怒《ふんぬ》でわなわなと身をふるわせながら言った。
「国王は武士を疎《うと》んじてもよろしい。追放してもよろしい。否、死を賜わってもよろしい。しかし国王が何百倍国王であっても、武士たる者の剣をけがして、侮辱するという権利はありませぬ。陛下、フランス国王はいまだかつて一度たりとも、私のごとき人物の剣を、軽蔑《けいべつ》をもって拒まれたことはございませぬぞ。陛下、こうしていったんけがされた剣は、この後、陛下の心臓か、私の心臓よりほかに収まるべき鞘《さや》はございません。陛下、私は自分の心臓のほうを選びます。そして陛下はこのことを、神と私の堪忍袋とに感謝あそばしませ!」
こう言うなり、ダルタニャンは剣をつかみとると、
「わが血が陛下のお頭にかかりますように!」と言うや否や、剣の柄を床に押し当てて、切っ先をわが胸に向けた。
しかし王はそれよりもすばやい動作で、ダルタニャンに跳びかかり、右腕を銃士長の首に巻きつけ、左手で剣のまん中を握ると、それを静かに鞘に収めてしまった。
ダルタニャンはまっさおに硬ばったまま、まだ身をふるわせながら、しまいまで王のするままにまかせていた。
ルイは心を動かされた。そしてテーブルまで戻ると、ペンを取り上げて、数行の文句をしたため、署名した後、ダルタニャンの方に突き出した。
「このご書面は何でござりますか?」と銃士長は尋ねた。
「ダルタニャンへの命令だ。ラ・フェール伯爵をただちに釈放してまいれ」
ダルタニャンは王の手をとって接吻《せっぷん》した。それから命令書をたたみ、皮帯の間にはさんで、部屋から出て行った。
王も銃士長も、その間ひとことも発しなかった。
「人の心というものは、王にとっては羅針盤のようなものだな!」とひとり残されたルイはつぶやいた。「予は書物の上で読むように、人心の機微を読みとることができるだろうか? いや、予は断然悪い国王ではない。哀れな国王でもない。しかしまだ予は幼い子供にすぎないのだ」
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五 バスチーユ監獄
ダルタニャンはバスチーユ監獄の典獄ベーズモーにちょっと席をはずすが、必ず食後のデザートの出るころには戻って来ると言って中座したが、彼は約束を守って帰って来た。
ダルタニャンが自分の来意を典獄に説明しないで出て行った留守の間、前三銃士の一人アトス――ラ・フェール伯爵と、その晩偶然来合わしたアラミス――現在はデルブレー修道院長で、ヴァンヌの司教――とは、典獄が地下室の葡萄《ワイン》酒棚から出してきた、自慢のすばらしい葡萄酒とリキュールの杯を干しながら話をしている最中、廊下に銃士長の拍車の響きが聞こえて、ダルタニャンが敷居のところに姿を現わした。
アトスとアラミスは互いに何か打ち解けないようすだった。だから二人とも相手に自分の腹を探られないように注意して、食事のあいだはこのバスチーユ監獄の話、フォンテーヌブローに最近旅行したときの話、また大蔵大臣フーケが近くヴォーで、国王のために催すという大園遊会の話などを交していた。そして打ち興じている話はまったく世間一般の噂《うわさ》ばかりで、ベーズモーを除いては、少しも特殊な話に触れなかった。
こうした話の最中に、ダルタニャンが王に拝謁《はいえつ》して来たままの、まっさおな顔で、非常に興奮した面持《おももち》ではいって来た。すぐと典獄のベーズモーは急いで椅子をすすめた。ダルタニャンはなみなみと注がれた葡萄酒《ワイン》の杯を手にするなり、一息に飲み干した。アトスとアラミスとは、すぐと彼の顔色を読んだ。しかしベーズモーはダルタニャンを急いでもてなすばかりで、何も気づかなかった。ベーズモーの考えでは、国王の御前に出るということは、あらゆる権力を握ることだった。しかしアラミスはダルタニャンの興奮の面持には気づいたが、その理由まで察することはできなかった。アトスはこの日ごろ自若《じじゃく》としている銃士長が、これほど興奮して戻って来たのは、必ずや自分と関係があり、「王に強訴《ごうそ》して信念を貫徹してきた」のだと判断した。そこでまちがいないと思ったアトスは微笑しながら、テーブルから立ち上がった。そして食事をともにするよりも、もっと大切なことがあるのだということを思い出せるように、ダルタニャンに合図をした。
ダルタニャンはすぐその意味をさとって、合図を返した。アラミスとベーズモーはこの無言の対話を見て、不審そうな眼を向けた。アトスはこのことを説明するのは自分よりほかにないと思った。
「今こそほんとうのことを打ち明けますが」とアトスは顔をほころばせながら言いだした。
「アラミス、君は国事犯人と、そして典獄、あなたはご自分の囚人と、晩餐《ばんさん》をともにしていたのですよ」
ベーズモーは驚きの声、いや、ほとんど喜びの声といってよいような声をあげた。というのは、牢獄に地位の高い囚人がはいっているほど、彼の自慢でもあり、また秘密の収入になるからでもあった。
アラミスははじめて合点のいった顔をして言った。
「おお! アトス、かんべんしてくれ。だがおれもそんなことではないかと思っていたのだ。ラウール(ブラジュロンヌ子爵の名)か、ラ・ヴァリエールかに関することだね? そして貴族として地位も高い君が、廷臣たちの居ならぶ前で国王に謁《えつ》し、国王のなされたことを思う存分おいさめ申し上げたのでないのか?」
「ご推察のとおりだ」
典獄のベーズモーは国王の不興をこうむった人物と、あれほど打ち解けて晩餐をともにしたことが、急に不安になって、
「では、伯爵は……」とおろおろ声で言った。
「あいや、典獄」とアトスは言った。「わが友ダルタニャンが、あの皮帯にはさんである書類をあなたにお渡しするでしょう。むろんそれは私の身柄収容の令状に違いない」
ベーズモーは習い性になっている敏捷《びんしょう》さで手をさし出した。
ダルタニャンは胸から二通の書類を出してその一通を典獄に渡した。ベーズモーはそれを聞いて、紙越しに上目でアトスを見ながら、低い声で読んでいたが、急に読むのを中止して言った。
「バスチーユ監獄に、ラ・フェール伯爵を監禁すべし。おや、伯爵様、あなたをここに収容するとはまったく困ったことになりましたなあ!」
「しんぼう強い囚人ですよ」とアトスは温厚な穏やかな声で言った。
「それに一か月とはご厄介をかけぬ囚人ですぞ」とアラミスは、典獄が命令書を手にしたまま、それを帳簿に写しとっている間に、こう言った。
「一日どころか、一晩だって」とダルタニャンは王の第二命令書を示しながら言った。「さあ、典獄、あんたは伯爵を即時釈放する命令のほうも写さなければいけないよ」
「やれやれ、君に先手を打たれたな、ダルタニャン」とアラミスは言いながら、銃士長の手を意味深長そうに握った。と同時にアトスの手をも握った。
「なんだって! 王が私を釈放されたと?」アトスは驚いて言った。
「読んでみなさい」とダルタニャンは言った。
アトスは命令書を取り上げて、目を通した。
「ふむ、なるほどな」
「気に入らんかな?」とダルタニャンは尋ねた。
「いや、どうして! おれに国王をお苦しめ申す気はもうとうない。国王の身に最大のあやまちを招くものは、国王が正しからぬことをなさるからじゃ。しかし君もずいぶん迷惑だったろうな? そうだろう、ダルタニャン」
「おれか? うんにゃ」と銃士長は笑った。「陛下はおれの申し上げることを、なんでもお聞きあそばすのでな」
アラミスはじっとダルタニャンを見つめて銃士長がうそをついているのを見破ってしまった。しかしベーズモーは王を自分の思うとおりに動かすこの人物を、ひどく賛嘆しながら、ぽかんと目をみはったままでいた。
「して、陛下はアトスを追放なさるのか?」とアラミスは尋ねた。
「いや、なんともおおせられぬ」とダルタニャンは答えた。「だが、とりあえず伯爵は自分の領地に隠退するのが無難だと思う。しかしアトス、何かほかに望みでもあれば、おれは喜んで力をかすよ」
「いや、かたじけない。私にはロワール河のほとりの、大きな木立の下の屋敷に引っこむほど愉快なことはないて。神が魂のけがれをいやしてくださる名医ならば、自然はその無上の名薬だからな」とアトスは言ってから、ベーズモーの方を振り向いて、「では私は釈放されますかな?」と聞いた。
「さよう、そうだと思いますが、伯爵。少なくともそうありたいもので」と典獄は二通の命令書をひっ繰り返しながら言った。「ダルタニャン様が第三の命令書をお持ちになっておらぬ限りではな」
「いや、ベーズモーさん」と銃士長は言った。「第二のでやめておきましょう」
「ああ、伯爵!」とベーズモーはアトスに言った。「あなたは損をなさったことをご存じありませんな! ここにはいっておいでになれば、将軍|待遇《たいぐう》で、三十リーヴルの組ですよ。いや、王族待遇で、五十リーヴル組のほうでした。だから今晩めし上がったような料理を、毎晩上がれるわけでした」
「いや、せっかくですが、私は食べつけの粗末な食事でけっこうですよ」とアトスは言った。
それから、ダルタニャンの方を向いて、
「出かけるとしようか」と言った。
「出かけよう」とダルタニャンが言った。
「ところで、おれといっしょに行ってくれるか?」とアトスが聞いた。
「いや、市の門のところまでしか行かれないが」とダルタニャンが答えた。「あとで君にも話すが、おれは任務を持っているのだ」
「では、アラミス、君は行ってくれるか? ラ・フェールはヴァンヌに行く道だからな」とアトスは微笑しながら言った。
「いや、私は今晩パリで人に会う用事があって、私がいないとめんどうなことが持ち上がるのだ」と修道院長は言った。
「では、しかたがない。ここでお別れしよう」とアトスは言った。「ベーズモーさん、あなたのご厚意を、とくにバスチーユのすばらしい献立の見本を、御馳走《ごちそう》してくださったことを感謝します」
そしてアトスはアラミスを抱きしめ、ベーズモーと握手してから、両人から無事の帰国を祈るという言葉を受けて、ダルタニャンとともにバスチーユを出た。
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六 懺悔聴聞師《ざんげちょうもんし》
ダルタニャンとアトスが立ち去ったので、バスチーユ監獄では、アラミスが典獄のベーズモーと向かい合っていた。ほとんど自分ひとりで飲んでしまった、上等な葡萄酒の酔いが発して、ベーズモーはすっかり上機嫌になって、口が軽くなっていた。そして相手のアラミスに向かって、今晩の奇妙な事件をくどくどと繰り返し話していた。
ベーズモーの話があまりうるさくなったのか、突然アラミスはその話の腰を折って、口を開いた。
「ベーズモーさん、ひとつ話してくださらんか。このバスチーユには、私が両三度おじゃまをしているあいだに、あなたのお仲間に入れていただいた娯楽以外に、何かお楽しみがありますかな」
この言葉があまりに出し抜けだったので、典獄はまるで突然逆風をくった風見《かざみ》のように、はたと身動きもしなくなってしまった。
「楽しみですって?」と典獄はやおら言った。「そんなものなら絶えずございますよ」
「ふむ、そりゃいいですな! でもその楽しみというのはなんです?」
「あらゆる種類の人間でございますよ」
「なるほど、では訪問客ですな、それは?」
「訪問客なら、あまりございませんね。このバスチーユには」
「あなたの団体の人もですか?」
「私の団体の、とおっしゃると、猊下《げいか》、囚人のことで?」
「いや、囚人はあなたのほうから尋ねてやるほうでしょう。あなたの団体というのは、あなたが現に加わってらっしゃる団体のことです」
ベーズモーはアラミスをじっと見つめていたが、よもやと思うような顔をしながら、
「私は現在あまり交際しておりません。一般にバスチーユに住んでいるということは、社交界の人たちからは、何か交際嫌いな、無味な乾燥した人間のように見られるのでございます。ことにご婦人たちはここを無意味な恐ろしい所だと思いこんでおられますからね。実際、この陰気な尖塔《せんとう》を見たり、その下にうごめいている悲惨な囚人のことを考えたりすると、身ぶるいせずにはいられぬようですな、それに……」
典獄はこう言いかけたが、アラミスの顔を見ると、舌がだんだんとこわばってしまった。
「ベーズモーさん、あなたは何か考え違いをしていられる」とアラミスは言った。「私の言おうとしたことは、そんなことではない。私の言わんとするのは一般的なことでなくて、ある特別の団体、手っとり早く言えば、あなたが加盟しておられる団体のことでしてな」
ベーズモーは唇に持って行った葡萄酒《ワイン》の杯をもう少しで落とすところだった。
「加盟していると申しますと?」
「さよう、加盟ですな、確かに」とアラミスは落ちつき払って言った。「ベーズモーさん、あなたはある秘密な団体の会員でいられますな?」
「秘密な?」
「秘密な、あるいは神秘な」
「な、なんと言われる!」
「さあ、そうに違いないでしょうが」
「いや、私は断じて……」
「私は断じてそうだと信ずる」
「誓ってそんなことはございません!」
「まあ、お聞きなされ。ベーズモーさん。私はそうだと言う。あなたはそうでないと言われる。これはどちらかが嘘《うそ》をついていることになりますな。さあ、落ち着いて、その杯をお干しなさい。おや、あなたは顔色が悪い」
「いや、そんなことはありません」
「まあ、それをお干しなさい」
ベーズモーはやっとのことで飲み干した。
「もしあなたがある秘密な神秘な団体に加盟しておられぬとすれば、私がこれから申し上げる話はむだだ。いくら私が話しても、あなたにはなんのことだかひとこともおわかりにはなるまいて」
「頭から私にはわからないとおっしゃるが、ひとつきりだしてみてください」
「私の言わんとしていることはこうです。もし、かりにあなたがこの団体の一員であるならば、すぐと私に一員であるとか、ないとか、返辞していただきたいのだ」
「では、なんでも聞いてみてください」とベーズモーは声をふるわせながら言った。
「というのは、あなたにもおわかりでしょうが」とアラミスはやはり平然としながら、言葉を続けた。「人がある団体に加盟していて、その恩恵を受けているとすれば、また一方では多少の束縛も免れえないということです」
「つまり、猊下、それは……」と典獄はへどもどして言った。
「つまり、ここに今私がお話ししたある団体があるのです。あなたは加盟しておられぬという……」とアラミスは言った。
「いや、そうはきっぱりとは申しませぬが……」
「ところで、その団体に加盟している、すべての城主や代官は、ある規約を持っているのです」
ベーズモーはまっさおになってしまった。
「この規約というのは」とアラミスは断固たる口調で言い続けた。「ここにある」
こう言われると、ベーズモーは顔に複雑な表情を浮かべて、立ち上がって言った。
「では、うかがいましょう」
そこでアラミスはまるで書物を読むように、声高らかに次の一節を朗読した。
「一、城主または代官は、必要に応じ、あるいはその監禁する囚人の請願を受けたるときには、教団の懺悔聴聞師を自由に出入せしむること」
アラミスはここで言葉を切った。ベーズモーはまっさおになり、身をふるわせ、やっと顔を上げていた。
「この規約によって、私は来たわけです。もしこうはっきり言っても、まだ私の言葉がおわかりにならないようなら、きっとあなたはこの教団に加盟しておられぬのでしょう。私はこれからすぐ立ち戻って、私を派遣した人たちに、このまちがいを報告しましょう」
「猊下、では、あなたはあの教団の?……」とベーズモーはあたかもこわい物でも見たように叫んだ。
「さよう、ジェズイット教団の懺悔聴聞師です」とアラミスは声の調子も変えずに言った。
ところがこうした穏やかな言葉も、哀れな典獄にとっては青天の霹靂《へきれき》であった。ベーズモーの顔からは血の気がなくなってしまった。アラミスの美しく輝いている眼は、二つの炎の刃のように見え、典獄は自分の心臓をぐさっと刺されたかと思った。
「では、あなた様が教団の懺悔聴聞師でいらっしゃる?」と典獄はつぶやいた。
「いかにも、そうです。あなたが教団に加盟していられぬため、おわかりにならぬのも無理ないことです」
「ああ、私は……」
「いや、あなたは教団の方ではないのですから、命令を拒まれてもしかたがありませんな」
「どういたしまして、猊下、どうか私にその命令をお伝えください」とベーズモーは言った。
「それは、またなぜです?」
「いや、私は教団に属していないと、申し上げたわけではありませぬ」
「では否定はなさらんのだな?」
「否定どころか……万事ご命令に従います」
「では、またなんで、あなたは教団から、いつなんどき、聴聞師が派遣されるかも知れぬということを、予期しておられなかったのじゃ?」
「そ、それはただいまこのバスチーユには、病気の囚人がおらぬためでございます」
「ふむ、しかとそう言われるのだな?」
「はい」
「おや、ベーズモーさん。あそこにあなたの下僕が来ましたわい」とアラミスは肱掛椅子《ひじかけいす》にそっくり返って言った。
なるほど、そのとき、ベーズモーの下僕が敷居のところに現われた。
「なんだ?」と典獄は荒々しく聞いた。
「典獄様」と下僕は言った。「使いが監獄医の報告を持参いたしました」
アラミスは典獄の顔を落ち着いた眼つきで見て、
「使いをここに通しなさい」と言った。
使者は部屋にはいると、丁寧《ていねい》に挨拶してから、典獄にその報告書を渡した。
ベーズモーはそれに目を走らせていたが、顔を上げて、
「ベルトディエールの第十二号が病気だ!」と驚きの叫び声をあげた。
「すると、ベーズモーさん、さきほどあなたはこのホテルのお客はひとり残らず健康だと言われたが、あれはどうなりますかな?」とアラミスはどうでもいいような調子で言った。
そして、アラミスは典獄から目を離さず、ゆっくりと葡萄酒の杯を飲み干した。典獄は頭を振って使者をさがらせた。
すると、やがて副典獄が入り口から首を出した。
「また、何かあったか? 少しのあいだおれを落ち着かせてくれたらいいのに」とベーズモーはとうとう悲鳴をあげてしまった。
すると、副典獄は、
「典獄様、十二号の病囚が懺悔聴聞師を呼んでほしいと、牢番《ろうばん》まで申し出ましたが、どういたしたものでございましょう?」と言いだした。
典獄は危うく床に倒れそうになった。
アラミスはこれをあざけり笑うように、眺めていた。
「なんと申しつけたらよろしゅうございましょう」とベーズモーは聞いた。
「好きなようになさい。それはあなたの仕事だ。私はバスチーユの典獄ではない」とアラミスは唇を一文字に引き締めて言った。
「囚人に言うがいい、囚人に……願いどおりにしてやるとな」と典獄は口早に叫んだ。
副典獄は出て行った。
「猊下、猊下! まったく不思議なことでございます。こんなことが起こるなんて、私には思いもよらぬことでございます」と典獄はつぶやいた。
「あなたは不思議だと言われる。思いもよらぬと言われる。だが、教団は不思議とは思わぬ。すでに知っておりましたぞ。かくあらんと推察しておりましたぞ」とアラミスは、鼻の先であざけり笑いながら答えた。
「ではいかがつかまつりましょう?」と典獄は聞いた。
「どうと言って、私は教団より派遣されただけの懺悔聴聞師にすぎません。しかしあなたのご命令とあらば、当人に会いにまいってもかまわぬが」
「どうつかまつりまして、猊下、私は命令などはいたしませぬ。あなた様にお願い申すのでございます」
「承知した。ではご案内ください」
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七 囚人第十二号
アラミスがこうして急に懺悔聴聞師の役に変わってからは、ベーズモーのようすはまるで人が違ったようだった。
それまでは、このいかめしい典獄にとって、アラミスはたんなる尊敬すべき修道院長であり、友情厚き友人にすぎなかったのである。しかしさっき秘密を打ち明かした今では、彼のほうがへりくだらなければならなかった。アラミスは首領だったのである。
そこで典獄は自ら角灯に火をともし、鍵番《かぎばん》を呼んで、アラミスの方を振り向いて、
「では、猊下《げいか》、ご案内つかまつります」と言った。
アラミスは頭をうなずかせただけで、手で先へと合図し、「よろしいかな」と言った。ベーズモーは歩きだした。アラミスはその後から続いた。
美しい星月夜《ほしづくよ》だった。三人の足音は露台に反響した。そして獄卒の帯につるしてある鍵束の音は、幾層もある塔の上までも聞こえて、囚人たちに現世の自由は及びもしない贅沢《ぜいたく》だとあきらめさせるもののようだった。
やがて三人はベルトディエールの下に到着した。そしてそこからは、しんと物音もしない、ゆるやかな階段を三階まで、のぼって行くのだった。ベーズモーは案内はしているものの、いっこう気は乗らぬようすで、足もとかくしぶりがちだった。
戸口まで来ると、獄卒は鍵を捜すまでもなかった。用意の鍵で扉は開かれた。
ベーズモーはそのまま獄房にはいる気配を見せた。がアラミスはそれを敷居ぎわでさえぎって、
「典獄は囚人の懺悔《ざんげ》を聞いてはならぬことになっていますぞ」と言った。
ベーズモーは頭を下げて、アラミスに道を譲った。アラミスは獄卒の手から角灯を受け取って、獄房にはいると、後ろの扉を締めるように、手まねで命じた。それから少しのあいだたたずんで、典獄と鍵番の足音が遠ざかって行くのを聞き澄ましていた。そして足音がだんだん聞こえなくなり、彼らが塔から出て行ったことを確かめてから、角灯をテーブルの上に置き、まわりを見まわした。
新しいというだけ、バスチーユのどの室とも変わりのない、緑色のサージ製寝台の上に、半ば大きな帳《とばり》を引いて、若い男がひとり寝ていた。監獄のしきたりとして、囚人には灯火を禁じていた。消燈の時刻になると、蝋燭《ろうそく》を消さなければならなかった。しかしこの時刻まで灯火をつけておいてもよいという寛大な特権があることだけでも、この囚人がどんなに優遇されていたかわかる。寝台の近くに、ねじれた脚のついた、皮の大きな肱掛椅子があって、それにこざっぱりした着物が掛けてあった。ペンも、本も、紙も、インクも備えつけてない、小さなテーブルが、窓べにぽつんと置き忘れたようにすえてあった。料理の皿がどれも空になってないのは、ろくろく夕食に手を出さなかったに違いなかった。
アラミスが見ると、若者は寝台の上に横になって、顔を半ば両腕で隠していた。人がはいって来ても、そのままの格好で、予期して待っていたのか、それとも眠っていたものらしい。アラミスは蝋燭に角灯の火を移してから、肱掛椅子をそっと後ろへ押しやると、好奇心と尊敬とを混同したような面持で、寝台に近づいた。
若者は頭を下げ、
「なんですか?」と尋ねた。
「あなたは懺悔聴聞師をお呼びでございましたな?」
「そうです」
「病気でいらっしゃるからですな?」
「そうです」
「よほどお悪いのですか?」
若者はここでアラミスの上に食い入るような眼差《まなざし》を向けて、
「ありがとう」と言った。
アラミスは無言で頭を下げた。しかしこのヴァンヌの司教の容貌《ようぼう》に刻まれている、ひややかな、底知れぬ、そして覇気《はき》満々たる性格を見てとると、若者は容易に気を許そうとしなかった。そして、
「私は前よりよくなっています」と言った。「そうとすれば、懺悔聴聞師に来ていただく必要はないように思いますが」
「では、大切な秘密をお伝えしようとする聖職者をもお退《しりぞ》けになろうとするのでございますか?」とアラミスは言った。
「それなれば別問題です。承《うけたまわ》りましょう」と若者は答えて、再び枕《まくら》に頬《ほお》をのせた。
その顔には、神がその血に、あるいは心に植えつけたのでなければ、けっしてそなわるはずのない、高貴な相が浮かんでいた。アラミスはそれをじっと見て、強く心を動かされたようすだった。
「お掛けください」と囚人は言った。
アラミスは頭を下げて、その言葉に従ってから、尋ねた。
「バスチーユはいかがでございますか?」
「たいへんに結構です」
「ごしんぼうになれますか?」
「ええ」
「後悔になるようなものはございませんか?」
「何一つありません」
「自由の身になることもお望みではないのですか?」
「自由とはどんなものを言うのですか?」と囚人はあらかじめ煩悶《はんもん》を覚悟している者の声で言った。
「自由とは花や空気を言います。光や星を言います。満二十歳になられる、元気なあなたの足が好き勝手な場所へ歩き回れる幸福のことを言いますのじゃ」
若者はあきらめとも、軽蔑《けいべつ》ともつかぬ笑顔を見せた。
「ご覧ください。私はその日本の花瓶に、昨日の夕方典獄の庭から、美しい蕾《つぼみ》の薔薇《ばら》を二つ摘んで来てさしました。それが今朝私の見ているところでまっかな花を開いて、いい香りで私の部屋を薫《かお》らせてくれました。ご覧ください。薔薇の花は花の中で最も美しいものです。この中には美があるのです。私はいちばん美しい花を持っているのです。だからほかの花なんか入用はないのです」
アラミスは驚いて、若者を見つめた。
「もし花が自由だとすると、私は自由をもっていますよ。こうして花を持っている以上」と若者はもの寂しげに言った。
「しかし空気は! 空気は生命に欠くことのできないものでございますが?」とアラミスは叫んだ。
「では、窓のそばに寄ってご覧なさい」と若者は続けて言った。「あいていますよ。大空と地とのあいだに、風は霰《あられ》や稲妻を運んで渦巻くし、霧も立ちこめれば、そよ風も吹く、空気は私の頬をなでてもくれます。この肱掛椅子に乗り、その背に腰をかけ、腰をあの窓格子にかければ、私は広い宇宙を泳いでいるような気がするのです」
若者の話にアラミスが渋面を作るのを見て、また言葉を続けた。
「私には光もあります。光ぐらいよいものはありません。太陽は私の友人です。典獄の許可がなくとも、獄卒がついて来なくとも、毎日私を訪問してくれます。窓からはいって来る太陽は、四角い窓の形のままに、部屋の中を照らし回って、私の夜具の縁まで残らず暖めてくれる。この光の四角形は午前十時から正午まで、その形が大きくなり、午後一時から三時までに、だんだんとその形が小さくなります。それはちょうど私との別れを惜しむようですよ。これで十分ではないでしょうか? 人の話ですと、石を切っている者や、鉱山に働いている者には、まるで日の目を見ない不幸な人間がいると言うではありませんか」
アラミスは額の汗を押しぬぐった。
「それから星、それなら私は恵まれています」と若者はなおも続けて言った。「あなたの来る前に、私が寝ていて眺めたような美しい星、私の眼を愛撫《あいぶ》してくれるような、銀の光を眺めるには、蝋燭をつけていてはだめです」
アラミスは頭をたれた。この囚人の宗教となっている、絶望的な真理の奔流に圧倒された心地がしたからである。
「こういうわけで花も、空気も、日光も、星もたくさんあるのです」と若者は相変わらず静かに言った。「あと残っているのは運動でしたね。晴れた日には、典獄の庭を終日散歩するのです。また雨ならここを。暑いときには涼風の吹くところを。寒ければ暖かいところを。冬のあいだはストーヴを焚《た》いてくれますから、とても助かります。これだけ人からやってもらって、まだ文句がありますか」
しかしこうは言ったものの、その言葉の中にはどこか悲痛な響きがあった。
アラミスはこの殉教者の謙譲と禁欲者の微笑とを合わせ持つ、奇妙な若者をじっと見つめたが、やがて非難するようにつぶやいた。
「人は人としても、あなたは神をお忘れです」とアラミスは頭を再び上げながら言った。
「なるほど、私は神を忘れていました」と若者は少しも心を動かされたようすもなく答えた。「しかし私のような囚人に神のことを言ったとて、何の益になりましょう? 神はあらゆる物の中におわすはずです。あらゆる物の端に」と若者はきっぱり答えた。
「まあ、それはそれとして本筋に戻りましょう」とアラミスは言った。
「私はもうこれ以上よくしてもらおうなどとは思っていません」と若者は言った。
「いや、私はあなたの懺悔聴聞師でございます」
「そうです」
「それなら、あなたは悔悛者《かいしゅんしゃ》として、真実をおっしゃらなければなりません」
「もちろん、何事でも申し上げたいと思っています」
「どんな囚人でも入監したからには、何かの罪を犯しております。で、あなたはどんな罪を犯したのですか? 私は本日とくに懺悔聴聞師としてまいった者ですから、それをうかがいましょう」
「それをお聞きになるなら、まず罪というものがどうして成り立つか、説明してください。私はかえりみて、少しもやましいところなどはないのです。私はまったく罪人ではないのですから」
「しかし我々は、この世の権力者の目には、自分で罪を犯した場合ばかりでなく、他から罪を犯されたことを知っているために、罪人であることがたびたびあるのでございます」
これを聞いて、若者は深く関心を寄せたようだった。そしてちょっと無言でいたが、
「なるほどわかりました。そのとおりです。そういう考え方からすれば、私はこの世の権力者の目には、罪人として映るのも不思議ではありません」
「ああ、ではあなたは何かご存じでいらっしゃいますな?」とアラミスは鎧《よろい》の合わせ目ほどの隙間《すきま》もないくらい、二人の心が密接になったと思って、ずばり言いきった。
「いや、私は何も知らない」と若者は答えた。「知らないが、しかしときどき考えて、自分に言ってみることがあります」
「何とおっしゃいますか?」
「もう少し深く考えると、気が違うか、非常に先が見えてくるか、どちらかだと」
「そして、それから、どうなさいます?」とアラミスはせきこんで聞いた。
「それから、考えるのをやめてしまいます」
「やめておしまいになる?」
「そうです。頭が重くなって、考えが憂鬱《ゆううつ》になってくるのです。倦怠《けんたい》が襲ってくるのです。どうにかなってしまいたい……」
「どうにでございますか?」
「それが自分にもわからない。ただ自分の持ってもいないものにあこがれたくないと思います。こうして何不自由もないのですから」
「あなたは死を恐れておいででございますな」とアラミスは軽い不安を覚えながら言った。
「そのとおりです」と若者は微笑しながら答えた。
アラミスはこの笑顔にぞっとさせるものを感じた。
「おお、死を恐れていらっしゃる以上、あなたは口に出しておっしゃる以上のことをいろいろと知っておいでになります」
「そしてあなたは、私にわざわざ自分を呼び寄せさせて、自分は黙っていて、私の話ばかりを引き出そうとなさいますね? こうして、双方とも仮面《マスク》をかぶっている以上、このままで通すか、二人とも脱いでしまうか、二つに一つよりほかはないではありませんか?」と囚人は答えた。
この言葉の正しい理屈に、アラミスはたじたじとなったが、急に大きな声で言った。
「私は普通その辺にいるような平凡な男には用はありませぬ。さあ、あなたは何か望みをいだいていらっしゃいましょう?」
「望みというと?」と若者は聞いた。
「望みというのは、人にそのもっている以上の物を要求させる感情でございます」とアラミスは答えた。
「私は満足していると言いましたね。しかしあるいは自分を偽っているかもしれません。私は望みということがどんなものか知らない。しかし何か要求するということは、ないとも限りませんからね。ひとつ、あなたの心の中を話してみてください」
「大望をいだいている人物は、自分の身分以上のものを渇望《かつぼう》します」とアラミスは言った。
「私は、自分の身分以上の何物をも渇望していません」と若者はヴァンヌの司教を辟易《へきえき》させるほどの信念をもってきっぱりと言い放った。
その後は無言が続いた。しかしその燃えるような眼や、皺《しわ》をよせた額や、じっと思案に沈む態度は、明らかに無言以上のものを物語っていた。
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八 井戸に落ちた手紙
やがてアラミスは沈黙を破って、丁寧《ていねい》に頭を下げながら言った。
「今日はあなたのお心の中をうかがいにまいったのでございます。どうぞお答えください」
こうした言葉は囚人の心に軽い動揺を起こさせたが、若者は何事もなかったように取り繕って、
「そうおっしゃるが、私はあなたが誰だかしりません」と言った。
「おお、もし私に勇気がありますれば、お手をとって接吻《せっぷん》させていただくところでございます」
若者はアラミスに握手をあたえるように、手を伸ばしかけ、その眼は輝いたが、すぐとその手はひややかに容易に人をいれないように引っこんでしまった。
「囚人の手に接吻する! それは何のためです?」と若者は頭を振りながら言った。
「お忘れでございますか? ご幼少のころあの村でお目にかかりましたことを?」とアラミスは言った。
「その村の名は?」と囚人が聞いた。
「それはノワジ・ル・セック村でございます」とアラミスははっきりと言った。
「それで」と若者は顔色をも動かさずに言った。
「ご記憶でございますか、十五年か十八年前、ノワジ・ル・セック村へ、黒絹の着物に緋色《ひいろ》のリボンを髪につけた婦人に同行してまいった騎士がございましたことを?」
「覚えています」と若者は言った。「私は騎士の名を尋ねたところ、デルブレー修道院長だという話だった。しかしそのようすがあまり修道士らしくなく、軍人のようだと怪しく思った。ところがルイ十三世の銃士の一人であるから、それも不思議はない、という答えだったのです」
「そのとおり、以前は銃士で、そのころは修道院長でございました。後にヴァンヌの司教となり、ただいまはあなたの懺悔聴聞師《ざんげちょうもんし》でございます」
「知っています。実は私はあなたを知っていたのです」
「そうとご存じでしたら、私はあなたのご存じない一事実を付け加えなければなりません。もし国王が今夜、この前銃士で、修道院長で、司教で、懺悔聴聞師である人物が、ここを訪れたことをお聞きになりましたならば、大胆にもあなたをお訪れしました私という人間は、明日あなたの監獄よりもさらに暗い、さらに人知れない監獄の奥で、死刑執行吏の斧《おの》のひらめくのを見ることになるのでございます」
この力のこもった言葉を聞いて、若者は寝台からからだを起こして、アラミスの眼をだんだん、たのもしげに眺めた。そしていくらかアラミスを信用する気になったようだった。
「そうだ」と若者はつぶやいた。「私ははっきりと覚えています。そう言えば、あなたといっしょに来た婦人は、その後二度もほかの婦人と来たことがあります」
「そのほかの婦人とおっしゃるのは、毎月あなたをお尋ねした婦人でしょう」
「そのとおりです」
「その婦人が誰であったかご存じでございますか?」
囚人の眼からきらりと光がほとばしり出たようだった。そして言った。
「宮中の女官だったのを知っています」
「その婦人をよく覚えていらっしゃいましょうね」
「ええ、今でもはっきりと思い出すことができます」と若い囚人は言った。「あの婦人は一度は四十五歳くらいの男と見えた。もう一度はあなたと、黒衣で髪に緋色のリボンをつけた婦人といっしょだった。それから二度同じ人たちといるのを見た。この四人の人たちと、私の養育掛りと、乳母《うば》のペロンネットと、典獄と、これだけが私が口をきいたことのある人間で、また実際私が会った人間だったのです」
「では、あなたは監禁されていらっしゃったのですか?」
「しかし、たとい私の自由は束縛されていても、ここに比べれば全く自由でした。私は家から出られなかったが、垣をめぐらした庭がありました。これが私の住居だったのです。つまり私はこうして垣と家との中に住み慣れてきたので、けっしてそこから一度も出たいとは思わなかったのです。ところで私の養育掛りだった人物はどんな男ですか?」と若者は言った。
「立派な、とくに誠実な貴族でございました。あなたの肉体のためにも、精神のためにも、またと得がたい教師でございました。今まで何かご不満なところでもございましたか?」
「いや、不満どころか……だがあの男は何べんも私に、父も母も亡くなったことを聞かせてくれたが、あれは嘘《うそ》ですか? ほんとうのことですか?」
「やむなき命令で、そう申すよりほかにはしかたがなかったのでございます」
「では偽りを言っていたのですか?」
「一方の点ではそうでございます。しかしお父様はお隠れになっておりました」
「母は?」
「お母上様は、あなたお一人には、お亡くなりあそばしたことになっております」
「では、母はほかの人たちのためには生きておられたのですね」
「はい」
「そして私は」と若者はアラミスをじっと見つめて言った。「そして私は監獄の暗闇《くらやみ》の中で暮らすように命ぜられたわけですね?」
「ああ、そう思われます」
「そして、それは私の存在が何か重大な秘密を暴露するからですか?」
「いかにも、重大な秘密でございます」
「私のようながんぜ無い子供をバスチーユに監禁するのだから、私の敵はきっと非常に権力のある人物に相違ない」
「さようでございます」
「では、私の母よりも権力があるのですか?」
「それは、またなぜでございます?」
「いや、母なら私を護ってくれるでしょうから」
アラミスは躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて言った。
「はい、お母上よりも権力のある方でございます」
「すると、乳母と養育掛りを連れ去り、私との間を裂いたのも、私の敵にとって、二人が非常に危険だったためですね?」
「はい、その危険を避けるために、あなたの敵は養育掛りと乳母とを抹殺してしまったのでございます」とアラミスは静かに答えた。
「抹殺したって?」と囚人は答えた。「しかしどういう方法で、抹殺してしまったのですか?」
「最も確実な方法で」とアラミスは答えた。「つまり二人は死んだのでございます」
若者はさっと顔色を青くし、わなわなふるえる片手を顔に持っていった。
「毒殺したのですか?」と若者は聞いた。
「さよう、毒殺いたしたのでございます」
若者はちらっと考えていたが、
「同じ日に、私の杖柱《つえはしら》ともたのむ無辜《むこ》な二人の人たちが殺されたのは、私の敵というのが、非常に残酷な人物か、それともひどく必要に迫られた結果に相違ない。なぜならあの二人はけっして人に害を加えるような人物ではなかったからな」
「あなたのご一家では、必要のためには手段を選びません。遺憾《いかん》ながら、あの貴族と乳母が暗殺されたのも、全く必要からきたことでございます」
「ああ、あなたの話にはどれ一つとして、私にわかっていなかったものはない」と囚人は額に皺を寄せながら言った。
「それはまたどうしてでございます?」
「そうではないかと疑っていたのです」
「なぜでございますか?」
「今それをお話しましょう」
そう言ったときに、若者は両|肱《ひじ》をついて、顔をアラミスの方に近づけた。その威厳のある、自分をも犠牲にして顧みない、軽蔑《けいべつ》をさえ交えた表情は、アラミスの衰えた心臓から鉄石のごとき頭蓋骨《ずがいこつ》にまで焼き尽くすばかりの稲妻のような、感激の電流をびりびりと伝えた。
「お話しください。私はすでに申し上げましたとおり、こうしてお話ししているだけでも、命を賭《か》けているのでございます。取るに足らぬ命ですが、それをあなたの命の賠償として受け取っていただきたいのでございます」
アラミスの言葉に若者はうなずいてから、言葉を続けた。
「確かに私は、終身幽閉させられる運命ではなかった。そう今でも信じている理由は、あのころ私は立派な騎士となるべき教育を施されていた。養育掛りは私に自分の知っている限りのこと、算術、初歩の幾何、天文学、剣術、馬術などを教えてくれた。毎朝、広間では教練を受けたり、また庭では馬を乗り回した。ところがある朝、夏のことで、あまり暑かったので、私はその広間で眠ってしまった。そのときまでは、疑問を解いたり、疑問をあたえたりしてくれる養育掛りの敬意を別として、何一つ疑ったことはなかった。私は子供のように、鳥のように、植物のように、空気のように、また太陽のように暮らして来た。そして十五の年となった」
「すると八年前でございますね?」
「そうです。およそそんなものでしょう。私は年を数えたことはないから」
「それで養育掛りはあなたの勉強を励ますためになんと申したのでございますか?」
「養育掛りはいつも、私に人間というものは持って生まれた運命をたどるよりほかにしかたがない。あなたは哀れな日陰の孤児なのだから、誰も振り返ってくれず、相手にされないのだから、力にするのはご自分ばかりですよと言っていた。ところで、剣術の稽古《けいこ》で疲れて、広間に眠っていると、私のま上にある二階の部屋にいた養育掛りは、突然『ペロンネット! ペロンネット!』と私の乳母の名を呼んだ。これは乳母の名前です」
「はい、私も知っております。さあ、あとをお話しください」
「きっと乳母はそのとき、庭にいたのでしょう。養育掛りは急いで階段を降りて来ました。私は何事かと心配になり起き上がって、見るとはなしに見ました。すると養育掛りは玄関の戸をあけて、庭に飛び出し、相変わらず『ペロンネット! ペロンネット!』と呼んでいるのです。広間の窓は中庭を向いていましたが、その鎧戸《よろいど》はしまったままでした。しかし私が鎧戸の隙間《すきま》からのぞいてみますと、養育掛りは自分の書斎の窓のほとんどま下にあった、大きな井戸の側に行って、井戸側に寄りかかって、中を見下ろし、何かたいへん興奮しているようすで、また『ペロンネット』と叫んでいるのでした。私のいた所からはのぞくことも、聞くこともできたのです」
「それから、どういたしました?」とアラミスは言った。
「叫び声を聞いて駆けつけたのは乳母のペロンネットでした。すると養育掛りは側に寄り、その腕をとると、急いで井戸の方へ引っぱって行き、二人|揃《そろ》って、井戸の中をのぞきながら、養育掛りは言いました。
『ご覧、たいへんなことになってしまった!』
『まあ、まあ、落ち着いて、いったいなんですの?』とペロンネットは言いました。
『お手紙だよ。あなたにはあのお手紙が見えないのかい?』と養育掛りは叫びながら、井戸の底の方へ手を伸ばしました。
『どのお手紙ですの?』と乳母が聞きました。
『ほれ、あの下の方に浮かんで見えるのが、最近王妃様よりいただいたお手紙だよ』
これを聞いたとき、私はふるえた。私に絶えず謙譲と卑下とを教えていた養育掛りが人もあろうに王妃と手紙をやりとりしていたのですから!
『最近王妃様よりいただいたお手紙ですって?』とペロンネットは井戸の底にある手紙を見ながら叫んだのでした。『どうして落ちたのでしょう?』
『偶然のなせるいたずらなのさ! 私が部屋にはいって、戸をあけると、窓があいていたので、急に風がさっと吹きこんで来て、王妃様のお手紙をさらっていってしまったのだ。あっと声をあげて、窓のところまで駆けて行ったのだが、捕らえようとするまぎわ、風がまたひと吹き吹いて、井戸の中に手紙を落としてしまった』のだと養育掛りは言ってました。
『井戸に落としたのなら、焼いたのも同じですよ。王妃様はいつもここにお見えになるたびに、お手紙を全部お焼きになるのだから……』と乳母のペロンネットは言いました。
いったい、毎月来る婦人は王妃なのでしょうか」と若者は言葉を切った。
アラミスはうなずいた。若者は話を続けた。
「すると養育掛りは、『ご指図が書いてあるお手紙なのに、これからどうしたらいいだろう?』
『王妃様に事情を申し上げて、もういっぺん書いていただいたらいいでしょう』
『いや、王妃様はそんなことをお信じになる方ではない。あの方は、私がそれを保存しておいて、何かに使うつもりなのだとお考えになるに相違ない。あの方は疑い深い方だ。それに首相のマザラン様もそうだ……あのイタリア人の悪魔は疑い始めたら、すぐ我々を毒殺してしまうよ!』と養育掛りは頭を振って言いました」
アラミスはわずかにうなずきながら、微笑した。
「養育掛りは重ねて言いました、『ペロンネットさん、あなたも知ってのとおり、王妃様も首相もフィリップのことだというと、とても邪推《じゃすい》深いからな!』
フィリップというのは私につけられた名前です。
『それなら、ぐずぐずしてはいけませんよ。誰か人を頼んで、井戸にはいってもらわなければ……』とペロンネットは言いました。
『いや、そんなことをすれば、上がって来るまでに手紙を読んでしまうよ』
『あら、それなら、村から誰か字の読めない男を連れて来ればいいでしょう。そうすれば、あなたもご安心ですわ』
『なるほど、それもいいが、いっそのこと私がはいろう』と養育掛りは言いました。
これを聞いて、乳母《うば》のペロンネットは泣いて止めようとしました。しかし養育掛りは自分ではいるのだと言って、乳母の言葉なんか耳に入れず、大きな梯子《はしご》をとって来ました。この間に、乳母は村の者を呼んで来て、井戸の中に宝石を落としたから取ってくれと頼み、村の者が上がって来たところで、紙が自然と開いて、宝石は井戸の中に落ちてしまったのだと言えば、疑われないから、そうしたほうがいいと言いだしました。そこで養育掛りもその気になって、そういうことにきまったのでした。
そうきまると、二人は左右に別れました。養育掛りが家にはいって来るのを見て、私は鎧戸を締め、急いでざぶとんの上で狸《たぬき》寝入りをしていました。しかし私の頭は今聞いたことでがんがんしていました。
養育掛りは扉を開いて、しばらく私のようすをうかがっていましたが、大丈夫眠っていると思うと、また扉を静かに締めました。
私は扉が締まるとすぐに、起き上がって、耳をそばだて、足音が遠ざかるのを確かめました。そして、また鎧戸まで行ってのぞくと、二人が揃って出て行くところでした。
家の中には、私がひとり残ることになったのです。門が締まる音を聞くと、それを待ちかねて、私は玄関から出るのもめんどうと、窓から飛び降りて、井戸に駆けつけました。それから、井戸側にかがんで、のぞきこみました。
青くふるえて、渦を巻いている水の中に、白く光ったものがきらきらしているのが見えました。この光った渦巻が私を魅惑し、引きつけました。私の眼はその一点から離れず、呼吸は息苦しくなってきました。井戸がその大きな水と、氷のような息で、私を引っ張りこむように思われました。それは私にとって王妃の書かれた手紙の、火のような文字を、井戸の奥底で読むような気がしました。
私はなかば夢中で、恐ろしい本能に駆られた人間のように、つるべの綱を極度まで伸ばして、つるべを水中に三尺ほど突きこみました。そして青い井戸水で、この大事な手紙の白い色がよごれないように、つるべを落とすとすぐに、私はぬれた綱の端をつかんで、奈落《ならく》めがけて、身を滑りこませました。
暗い井戸の中にぶら下がって、上を見ると、空はだんだんと狭くなるし、寒気がぞっと背筋を走り、くらくらっとめまいがして、髪の毛が逆立ちました。しかし私の強い意志は、あらゆるものに、恐怖や困難に打ち勝ちました。水面に達すると、私は片手でぶら下がり、片手を伸ばして、とうとう二つに切れていた大事な手紙をつかむことができたのです。
そこで、私は手紙を上衣にしまうと、両足を井戸の壁に突っ張り、両手で懸命に綱をたぐって、ようやくの思いで、井戸の縁《ふち》に届きました。そして井戸から上がるなり、庭の端にあった薮《やぶ》に飛びこんで、小さくなって隠れました。とほとんど同時に、門の鈴が鳴り、養育掛りが帰って来ました。
しかし、たとい養育掛りが私の隠れているのに気づいて、その場所までやって来るにしても、大丈夫十分はかかると思ったので、私は急いで手紙を読もうとして、つぎ合わせてみました。すると手紙の文字はもうインキが消えかかっていました。しかし、どうにかこうにか読むことができました」
「それでどんなことが書いてございました。お聞かせください」とアラミスは深い興味をもって言った。
「なんでもないことです。それによると、私の養育係りは貴族だったし、ペロンネットはそれほど高い身分ではないが、乳母としてはすぎた婦人だった。それに、私の母が先王ルイの妃アンヌ・ドーリッシュで、宰相《さいしょう》の大司教マザランとともに、私のことをくれぐれも、二人に依頼している文面から、私が高貴の生まれであったことも合点《がてん》がいったのです」と若者は言って、ひどく心を動かされたようだった。
「そして、その後はいかがいたしましたか?」
「その後は二人が職工を井戸にはいらせて、いろいろ手を尽くして捜させましたが、元より手紙があるはずはありません。そして井戸の縁がまだ水だらけだったし、私の服も陽に当てたくらいでは乾ききっていませんでしたので、とうとう乳母に嗅《か》ぎつかれてしまいました。そればかりか、私は急に大熱にとりつかれて、うとうとと眠っている間に、譫《うわごと》を言って、何もかもしゃべったので、内懐にあった手紙も見つけ出されてしまいました」
「ああ! それで合点がいきました」とアラミスは言った。
「それからのことは、みな想像だが、可哀そうに乳母と養育掛りとは、秘密を包みきれずに、いっさいを王妃に報告し、裂けた手紙を送り返したに相違ないと思います」
「では、その後、あなたは逮捕されて、このバスチーユに護送されなすったのですか?」
「そのとおりです」
「二人はゆくえ知れずになりましたので?」
「可哀そうに!」
「いや、死んだ者のことをかれこれ考えている場合ではございませぬ、生きている者のほうが大切でございます。あなたは何もおあきらめになったとおっしゃいましたね?」
「繰り返しても同じことです」
「自由になりたくはございませんか?」
「それはさきほどお話しました」
「何一つ欲望も、後悔も、また考えもないとおっしゃるのでございますか?」
若者は何も答えなかった。
「では、どうなさいますので?」とアラミスは尋ねた。
「私は話し飽きた。今度はあなたの話を聞く番だ。私は疲れた」
「ではお話申し上げましょう」とアラミスは言った。
アラミスは気を引き締めた。深いおごそかな表情がその顔に現われた。今こそ自分がこの監獄にはいってきた理由を打ち明ける、重大な時が来たのだと感じた。
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九 毒のささやき
「まずうかがいたいことがございます」とアラミスは言った。
「なんです。お話しください」
「あなたのおいでになった家に、姿見《すがたみ》か鏡はございませんでしたか?」
「その二つはどんな物でしょうか? 私にはその意味がわかりませんが……どんな物だか全然知らないのです」と若者は尋ねた。
「姿見も鏡も、物の姿を映す家具でございます。ですからあなたはご自分のお顔を、私が拝見していると同じように、そのままガラスの上にご覧になれるのでございます」
「なるほど、それなら姿見というものも、また鏡というものも、あの家にはありませんでした」と若者は答えた。
アラミスは自分の周囲を見回して、
「ここにもございませんな。やはり用心しているものとも思われます」と言った。
「何の目的で?」
「まもなくおわかりになります。さて、あなたはさきほど、数字や天文学や、剣術、乗馬をお習いになったとおっしゃいましたが、歴史のことはお話になりませんでした」
「いや、養育掛りはときおり、サン・ルイ、フランソワ一世、アンリ四世などの事跡を話してくれました」
「それだけでございますか?」
「まあ、そんなものでした」
「では、それも考えがあってのことでございます。現在を映す鏡をあなたから取り上げたのと同じ理由で、過去を映す歴史をもあなたにお教えしなかったのでございます。あなたはご入獄以来、読書を厳禁されていらっしゃるため、いろいろの事実をご存じないのです。ですから過去の思い出や、利害関係の破片を組み立ててご覧になる手段がないのでございます」
「おっしゃるとおりです」と若者は言った。
「では、お聞きください。私はわずかの言葉で、過去二十三年あるいは二十四年間に、フランスに起こりました事柄をお話しいたしましょう。すなわちこれはあなたがお生まれになってからの、あなたもお聞きになりたいとおぼしめす、当日からの物語でございます」
「では、承りましょう」
若者は真剣になって、一言も聞きもらすまいと、居ずまいを正した。
「あなたはアンリ四世の王子をどなただとお思いになりますか?」
「少なくとも誰が継承者であったかということは知っています」
「どうしてご存じでございますか?」
「一六一〇年の刻印のある貨幣に、アンリ四世の肖像があります。そして一六一二年の貨幣には、ルイ十三世の肖像がある。この隔りが二年しかないので、ルイ十三世がアンリ四世の継承者であると考えたのです」
「では先王がルイ十三世であらせられたことはご存じでございますな?」
「そうです」と若者が答えたとき、その頬《ほお》に血の気がさした。
「ところで先王は気高いおぼしめしと、偉大な抱負とを十分備えておいででしたが、多難なる時代と、宰相リシュリウとフランス貴族達との確執《かくしつ》などで、そのご抱負も実現できず、それに王の弱いご気性のため、まだお若いのに、悲しくも崩御《ほうぎょ》になったのでございます」
「それは知っています」
「国王は長いことご自分の世継《よつぎ》をほしがっていらっしゃいました。これは君主にとってつねに心を煩わす労苦でございます。自分の抱負と経綸《けいりん》とを続けて行ない、名君の名を長く史上にとどめるには、どうしても後継の男子が必要でございます」
「では、ルイ十三世は子供がなくて、そのまま崩御されたのですか?」と囚人は微笑しながら言った。
「はい、長いあいだ子宝を得られぬご不運が続きました。そのため、ご自分の血統は絶えてしまうものとお考えになって、深い絶望に沈んでいらっしゃいましたとき、急に王妃のアンヌ・ドートリッシュ様が……」
囚人は身をふるわした。
「突然王妃におめでたい兆《きざし》が現われました。この知らせに国王は申すにおよばず、国をあげて喜びに湧《わ》き返りまして、ひたすらご慶事の日をお待ちしておりました。やがて月満ちて、一六三八年九月五日、王男子がご誕生になりました」
ここでアラミスは相手を見て、その顔の青ざめたのを見のがさなかった。
「これから申し上げますのは、今では全く証人の残っておらぬ話でございます」とアラミスは言った。「と申しますのは、当事者たちは、もう死人といっしょに、墓の中に葬り去られたことと思っている秘密でございますから」
「その秘密をあなたが話してくれるのですね?」と若者は言った。
「ああ、私はこの秘密を、バスチーユを出る考えのもうとうない方に打ち明けて、はたして悔《く》いないかどうかわかりませぬ」とアラミスは語を強めて言った。
「いや、私は聞きます」
「王妃は男子をお生みになりました。しかしこの知らせに全王宮は歓喜の叫び声をあげ、国王はこの王子を人民や貴族にお見せになり、ご誕生を祝う盛大な饗宴《きょうえん》が張られておりましたあいだに、まだ産室にとじこもっていらっしゃいました王妃が再び産気づかれて、第二の王子をお生みになりました」
「ああ! 私はただ……」と言って、囚人は事のあまりに重大な話に身をふるわせた。
アラミスは指を上げて、
「どうぞ、先をお聞きください」と言った。
そこで囚人は吐息をついて、アラミスの話を待った。
「さよう、王妃は第二王子をお生みになって、それを産婆のペロンネット夫人がお抱き取り申しました」
「ああ! ペロンネット夫人!」と若者はつぶやいた。
「人々はさっそく饗宴の間に駆けつけ、国王にひそかに言上しました。国王はお立ちになり、産室に駆けつけられましたが、そのお顔にはもう喜びの色はなく、むしろ恐怖に近い表情をなさっていらっしゃいました。双生児の誕生ということは、一人の男子がお生まれになった歓喜を悲嘆に変えることでございます。と申しますのはあなたは、(ご承知ないに違いありませぬが)フランスにおいては、長男が継承者となる掟《おきて》でございますから」
「私も存じている」
「それに医師と法律学者は、双生児のうち、最初に生まれる子がはたして神と自然との掟によって、年上であるかどうか、多分に疑い得る理由を認めているのでございます」
囚人は押しつぶされたような叫び声をあげた。そしてまっ白な敷布の色よりも青ざめて、それに顔を埋めた。
「それで、世嗣がおひとりのときには、あれほどお喜びになった国王が、お二人となると全く絶望に陥られた理由が、あなたにもおわかりでしょう。つまり第二の王子が、わずか二時間前に認められた王子に対して、自分こそ嫡男子《ちゃくなんし》であると主張される危険があるのでございます。またそれに政党の利害関係や陰謀が加わりますと、やがてはフランス全国に内乱を起こし、最後には王室そのものまでも潰滅《かいめつ》に陥る危険がないとも限りませぬ」
「わかった! わかった!」と囚人はつぶやいた。
「こういうように一同は主張しますし、また断言もするのでございます。そういうわけで、王妃アンヌ・ドートリッシュの二人の王子のうち、お一方はあさましくもご兄弟から引き離され、絶縁されて、全く日陰者の境涯に埋もれておしまいになったのでございます。こういうわけで、第二王子は全く姿を消され、その方の存在を知る人は、フランスではお母上と……」
「そうだ、第二王子のわが子を捨て去った母だ!」と囚人は絶望の表情で叫んだ。
「黒服を着て、髪に緋色《ひいろ》のリボンをつけた婦人と、ほかに一人……」
「そうおっしゃるあなたでしょう? ここにいっさいのことを話しに来てくれたあなただ。私の心の中に、好奇心と憎悪と野心と、おそらく激しい復讐《ふくしゅう》の念までもよび起こしてくれたあなただ。あなたが私の期待した人、神が私にさし向けられた人なら、きっとあなたは……」
「なんでございますか?」
「今、フランスの王位にある、ルイ十四世の肖像を持っているはずだ」
「これがご肖像でございます」とアラミスは言いながら、優雅な七宝焼《しっぽうやき》を囚人に渡した。それにはルイ十四世が気高く堂々とした風貌《ふうぼう》で、生けるがごとく表わしてあった。
囚人はこの肖像をしっかとつかんで、むさぼるように見つめた。
「それから、ここに鏡がございます」とアラミスは言った。そして囚人がその考えをまとめるのを待った。
「およばぬことだ! およばぬことだ!」と若者はルイ十四世の肖像と、鏡の中の自分の顔とを見比べながら、つぶやいた。
「どうお考えでございますか?」とやがてアラミスは言った。
「私はかなわぬと思います。王はけっして私を自由にしてくれないだろう」と囚人は答えた。
「この私は……私は知りたいのでございます。このお二人のどちらが国王であられるか、この肖像の方と、鏡に映っていらっしゃる方と」アラミスは言って、意味深い、輝くような眼で囚人を見つめた。
「国王とは王位にある者で、牢獄《ろうごく》にいる者ではありません。いや、かえって他人を獄に投ずる者です。王位は権力です。ところが私はこのとおり無力です」と若者は悲しげに答えた。
「しかし、あなたさえ、牢を脱け出て、王位はわが物だと主張されるならば、国王とおなりになることは容易なことでございます。また味方になる人もたくさんおることでございます」とアラミスは丁重に言った。
「誘惑してはいけない!」と囚人は強くさえぎった。
「お弱くてはいけません。あなたのご誕生について、いっさいの証拠を持参しております。ただご自分が立派な王子であらせられることを確信なさればよろしいのでございます。それからのご行動は私たちの仕事でございます」
「いや、それは不可能なことです」と若者は言ったが、突然荒々しく叫び始めた。
「私には味方があるというが、どうして味方ができよう。誰一人知っていない私だ。自由も、金も、また勢力もない人間に、味方する者があるか?」
「はばかりながら、私が殿下のお味方にしていただけるものと考えております」
「殿下と呼ぶのはやめてください。嘲弄《ちょうろう》もあり、残酷でもある。どうか私にこの牢獄の壁の外のことは考えさせないでください。少なくともこの奴隷の境遇を、日陰者の生活を甘んずるままに捨てておいてください」
「殿下、あなたがまだそんな意気地がないお言葉をおっしゃるのでしたら……現在ご自分の高貴なお生まれを実証されても、まだ情ないお心持をお持ちになり、元気を欠いていらっしゃるのでしたら、お望みどおり私はお暇を請うて、あなたに仕えることを断念することにいたします。せっかく一命をも捧げて、お味方をするために駆けつけたのでございますが」
「君はそう言う前に、私の心を鈍らしてしまったことを考えてみましたか?」と王子は叫んだ。
「どうして私がそんなことをいたしましょう!」
「だが、しかし君は私に栄華や、権力や、王位について話して聞かすが、その場所としてどうして牢獄を選んだのか? 君は私に光明を信じさせようとするが、その我々はまっ暗な夜の中にいるのだ。君はしきりに光栄を約束するが、その我々の言葉は寝台の帳《とばり》の中に籠《こも》っているのだ。君は最高の権力をほのめかしてくれるが、そうしている間にも私は廊下に獄卒の足音が聞こえるのだ。いや、戦々恐々としているのは、かえって君のほうだ。私に自信を持たせるように、私をバスチーユから外に出してください。新鮮な空気を吸わせてください。私の足に拍車を、そして私の腰に剣をあたえてください。それでこそはじめてお互いに理解し合えるのだ」
「ぜひそういうご境遇に、いや、それ以上にあなたを引き上げ申そうというのが私の腹なのでございます。ただそれをお望みになるかどうかをお聞かせください」
「しかし君は、母と兄弟が私から奪った地位と権力とを回復してくれることができるのか? そのためには、私は戦わなければならない。どうして君は私のために、敵に当たるだけの勢力の、軍隊を集めてくれるのか? ああ! ここをよく考えてください。明日にも私をこの牢獄から山奥の、暗い洞窟《どうくつ》に連れて行ってください。川のせせらぎや、野末の面の音を思うままに聞いたり、紺碧《こんぺき》の空に輝く太陽や、嵐の吹きすさぶ大空を思う存分眺めたりする喜びを私にあたえてください。それだけで私は満足です。それ以上のことを私に約束しないでください。ほんとうにこれ以上のものを私に約束できないのなら、君は私の味方なのだから、私を欺くのは罪悪です」
アラミスは無言でこれを聞いて、しばらく考えていたが、
「殿下、あなたのお言葉の中の、正しい強いお考えを私は賛美いたします。私は、私の国王のご本心を発見したことを喜ばしく思います」と言った。
「また、それを言う! やめてください」と王子は叫んで、冷たい手で汗ばんだ額をおさえた。「私にたよっては困る。私は何も国王となるのを、最大の幸福とは思っておらぬ」
「しかし、人類の幸福のために、国王とおなりあそばしてください。もし私をご指導役にお用いくださいまして、キリスト教国の最強の権力ある国王となることをご承諾くださいましたら、勇んでお味方に馳《は》せ参ずる者は大勢おりましょう」
「そんなに大勢いますか?」
「しかも力強い人たちでございましょう」
「話してみてください」
「それは申し上げられません! しかし私はやがて、殿下がフランス国王の王位につかれる日を、神かけてお誓い申し上げます」
「しかし、私の兄弟は?」
「殿下のおぼしめし一つでございます。ご憐憫《れんびん》をかけられますか?」
「私を牢獄に投じて、死なせようとした男にか? いや、断じて憐憫はかけぬ!」
「結構なおぼしめしでございます」
「すぐにもこの牢獄に投ずるのだ。――ああ、私の眼には、君が助けの神のように見える。君を師のごとく尊敬しよう。君は神ですらあたえ給わなかったものを、私にあたえてくれたのだ。君のお陰で、自由になるのだ。君のお陰で、この世の愛し愛される権利を得るのだ。ところで、君は私が現国王に似ていると申したが?」
「はい、生き写しでいらせられます。これは天の配剤でございましょう。神が瓜《うり》二つに創造し給うたものを、全然反対の運命に引き離してしまわれたことは、御母君様の罪でございます。それゆえその罰の目的は、ひとえに釣り合いを回復することでございます」
「それはどういう意味か?……」
「もし殿下があの方の王位にお登りになりましたら、あの方はただいまの殿下の境遇にお落ちになるのでございます」
「ああ、さぞかし牢獄で苦しむだろうな! ところで、も一つ聞いておきたいことがある。君は私がバスチーユから出るまでは、もう来てくれぬつもりだろうか?」
「いえ、殿下、もう一度お目にかかるつもりでございます」
「それは、いつか?」
「この陰惨な獄房をお出ましになる当日でございます」
「なるほど、だが、どうしてそれを打ち合わせるつもりか?」
「私自身で打ち合わせにまいります」
「自分で?」
「殿下、あなたは私といっしょでなくては、この部屋をお出になってはいけません。また、私がおりませぬ際に、殿下をそそのかす者がありましても、それは私の断じてあずかり知らぬこととご記憶ください」
「それでは、君のほかには誰にも、いっさいこれに触れた話をせぬことにするのだな?」
「はい、ただ私にだけでございます」とアラミスは言って、うやうやしく頭をたれた。王子は手を出して、しみじみとした調子で言った。
「君、私は最後にこう言いたい。たとい君が私の破滅をたくらんでいるにもせよ、あるいは君が私の敵の道具に使われているにすぎぬにせよ、そして私の本心を探ってみた結果、たとい監禁よりも悪い運命、言い換えれば私を殺害しようとするにもせよ、私の祝福を受けてください。なぜなら、君は八年間も私の胸に食い入っていた焼くような苦悩を癒《いや》してくれた人なのだから」
「殿下、私を判断なさいますために、しばらく時期をお待ちください」
「私は今、君を祝福し、許すように言った。もし真実に、私が神から授けられている幸福と栄華との地位に、私をつけてくれるなら、またあなたのお陰で、私が人々の記憶の中に立派に生きることができたり、フランス国民に対して、わが王統の名誉をなにがしかの光輝ある事跡によって保つことができたりするなら、そのときは、私の権力と光栄との半ばはあなたのものだ! いやそれでも私の感謝は尽きたとは言えない。あなたが私にあたえられたこのすべての喜びをあなたと十分に分かち得たとは言えないからだ」
アラミスは王子の青ざめた顔と、その激情に感激して答えた。
「殿下、その気高いおぼしめしを承りまして、私の心は歓喜と賛美とでいっぱいでございます。私に感謝するものは殿下でなくて、それは殿下により幸福にされた国民であり、また殿下により各家の誇りを輝かすご子孫でございます。私は殿下の御前には、かりそめの命はおろか、不滅の命までもさし上げます」
若者はアラミスに手をさし出し、アラミスはひざまずいてそれに接吻《せっぷん》して言った。
「これが私共の未来の国王に捧げ奉る最初の敬礼でございます。次にお目通りいたしますときには、『ご機嫌にて大慶に存じます。陛下』と申し上げることでございましょう」
「そのときまでは」と言いかけて、白い指を胸に押し当てた。「そのときまでは、いっさいをしんぼうしなければならぬ。ああ! 胸が張り裂けそうだ! 君、なんと獄房は小さく、この窓は低いし、この扉は狭いことだろう! しかしこれほどの誇り、光明、幸福を胸にいだいて、ここにとどまっていられるとは、不思議なことだ!」
「殿下、それをもたらした者が、私であることをお認めくださるので、実に私は光栄でございます」とアラミスは言った。それからすぐ扉をたたいた。
牢番《ろうばん》は扉をあけると、典獄ベーズモーとはいって来た。典獄はちょうど、不安と恐怖を覚えて扉に耳を当てたところだった。
しかし幸いに、部屋の中の二人は、どんなに興奮したときでも、声を忍ばせていたので、何ももれなかった。
「たいへんな懺悔《ざんげ》ですね!」と典獄は作り笑いをして言った。「こんな囚人が、言わばもう死んだような者が、これほどたくさんの長い懺悔を聞いてもらう罪があるとは信じられませんね」
アラミスは無言でいた。彼は恐ろしい秘密のために、牢獄の壁の重さが倍になって、彼の上にのしかかって来るような気がして、急いでバスチーユを出てしまいたかったのである。
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一〇 国王の裁縫師
王室ご用の裁縫師ジャン・ペルスランの店はアルブル・セック街にほど近い、サン・トノレ街にあって、かなり大きな構えだった。世襲的に父から息子、息子から孫というように、代々フランス国王の裁縫師を勤めているので、贅沢《ぜいたく》な布地や、刺繍《ししゅう》や、ビロードなどには、卓越した鑑識眼をもっていた。この店が、こんな格式となったのは、遠い昔シャルル九世時代にまでさかのぼるのであって、現当主のジャン・ペルスランはもうかれこれ八十歳ぐらいの老人だったが、しかしまだ矍鑠《かくしゃく》たるところがあった。彼はまた同時にたいへん無愛想な男であって、廷臣の間では頑固老爺《がんこじじい》と呼ばれていた。
この大芸術裁縫師の店に、すっかり悲観しているヴァロン・ド・ブラシュー・ド・ピエールフォン男爵――すなわちポルトスを案内して来たのは、誰あろう、かのダルタニャンだった。
ポルトスは三日後に迫ったヴォーにおける大|饗宴会《きょうえんかい》に着て行く晴着の仕立てを、パリ中の裁縫師から、仕立てる時日がないといって断られたのだった。それをちょうど公務の余暇にポルトスを訪ねたダルタニャンが同情して、今、王室ご用の裁縫師ジャン・ペルスランの店で、晴着を仕立てさせるために、その店にいっしょにやって来たのだった。
「おい、ポルトス、馬車を止めろ。ここだ、ここだ」とダルタニャンは言った。
「ここでいいのか?」
「そうだ」
「おや、またなんだって、こんなに大勢の人がいるのだ!」
「何、簡単さ、こいつらは自分の番が来るのを待っているのさ」
「へえー、ブールゴーニュ座の役者たちが引っ越しでもするのかな?」
「なあに、ぺルスランの店にはいるために番を待ってるのさ」
「じゃ、我々もこうやって待つのか?」
「我々はこいつらよりもう少し利口だよ。さあ、馬車から降りるのだ、そしてこの小姓や従僕のあいだを抜けて、店の中にはいろう」
二人は、そこで馬車から降りると、店の方にずかずかと歩を運んだ。
こんなに混雑しているのは、ペルスランの店の大戸が締まっていたからだった。そしてその前に一人の下僕が立っていて、ひっきりなしに訪れて来る貴族や、高官の顧客《こかく》に、「主人はどなたにもお目にかかれませぬ」といちいち断わっているのだった。またその理由を強いて聞き返す者があると、「国王陛下の五着のお召物を、昼夜兼行で調製して、きたるヴォーの大園遊会にお間に合わせ申し上げねばなりませぬから」と慇懃《いんぎん》に説明した。
それを聞いてあきらめて帰る人々もあるが、中にはまだぐずぐず言って、どうしても店の中に入れろといきまいている人たちもあった。ダルタニャンとポルトスもこうした連中の中にまじっていた。
ダルタニャンは自分の前にいるポルトスをぐいぐい押す。ポルトスはそれをいいことにして、群集を左右に押し分け、ついに帳場台まで達することができた。すると、ダルタニャンは「陛下のご命令だ!」とただひとこと言って、ポルトスを店の中に案内した。
大勢の貴族たちが、帳場台の前で押し合いへし合いしていて、そこにいる下職の男が、一生懸命で面会謝絶の言いわけを言っていた。しかし顧客のほうの言い分が激しくなってくると、その男はこそこそと帳場台の陰にもぐりこんでしまった。
隼《はやぶさ》のごとく、眼光烱々《がんこうけいけい》としたダルタニャンは、人々の頭の向こうにいる男を見た。その男は床几《しょうぎ》に腰をかけ帳場台の後ろに隠れているとみえて、首からわずかに出ていた。四十格好で、青白い憂鬱《ゆううつ》な顔つきをしていて、優しい輝いた眼を持っていた。彼は頬杖《ほおづえ》をついたまま、もの珍しそうに落ち着いたようすで、ダルタニャンや、ほかの人たちの姿を眺め渡していた。しかしダルタニャンの顔を認めると、帽子をま深かに引き下げた。
この動作がかえって、ダルタニャンの目を引いた。この男の服装はかなり粗末で、頭髪もろくろく手入れもしないようだった。知らぬ目には多分、帳場台の後ろにすわっている仕立て屋の一|徒弟《とてい》としか見えなかったかもしれぬ。しかし熱心に刺繍をしているにしては、あまりにしばしば頭を上にもたげていた。
ダルタニャンだけはだまされなかった。この男の仕事は布地の上になくて、ほかにあるのだと見破った。そこでその男に向かって、ダルタニャンは言った。
「よう、モリエールさん、いつから仕立て屋の徒弟となった?」
「しっ? ダルタニャン様」とその男は静かに答えた。「しっ! みんなが感づきますよ」
「ふむ、そうすると困るのですかな?」
「いや、私はぜひ見ておきたい大物があるのですよ」
「わかりました。わかりました。モリエールさん。さあ、どうぞ。私はあなたの研究の邪魔はしません」
「ありがとうございます」
「だが一つ条件があります。今、ペルスランのいるところを教えてください」
「喜んでお教えしますよ。自分の部屋にいます。ただ……」
「ただ、誰も入れないと言うのだろう?」
「絶対に寄せつけませんよ!」
「誰をもか?」
「ええ、誰をも、ペルスランは自由に私が観察できるようにここに入れると、さっさと引きこんでしまうのですから」
「なるほど、しかしダルタニャンが来ていると知らせてください。モリエールさん、どうですかな?」
「私が?」とモリエールは口から骨を引ったくられた犬のように叫んだ。「私が自分の仕事を放って! ダルタニャン様、それはあまりにひどいよ!」
「ペルスランに、私がここにいるとすぐ言わないと、モリエールさん、あなたはご損ですよ。私が連れて来た友人を見せてあげませんから」とダルタニャンは低い声で言った。
モリエールはそっとポルトスを指さして、言った。
「あの方ですね?」
「そうだ」
モリエールは心の奥底までも見透かすような眼差で、ポルトスをじっと見つめていたが、その眼は見る見る輝いた。それで、すぐさま立ち上がると、隣の部屋にはいって行った。
この間に、顧客の群れは、引き潮が大洋の浅瀬に、水泡や砕けた藻を残していくように、帳場台のあちらこちらに、愚痴や悪口を残しながら、おいおいと出て行った。
ものの十分もたつと、モリエールの顔が壁掛の下から出て、ダルタニャンに手まねをした。そこで、ダルタニャンはポルトスを引っ張って、迷宮のような廊下を通ったあげく、ペルスランの部屋に来た。この老人は、シャツの袖《そで》をまくり上げて、大きな金色の花模様のある、錦襴《きんらん》に美しい艶《つや》を出そうとして、布地を引っくり返しているところだった。ダルタニャンを見ると、切れ地を置いて出て来たが、快い顔もしなかった。その挨拶もとおりいっぺんだった。
「銃士長様、今日は失礼をいたします。何しろ忙しいものですから」とペルスランは言った。
「ああ! そうですか。国王陛下のご衣裳のためでしょう? 知ってますよ。ペルスランさん、三着だって話だが?」
「五着でございますよ、五着!」
「三着でも五着でも、私には同じことだが。しかしペルスランさん、さぞかし一世一代の腕をふるって、世界最美のものができ上がりましょうな」
「さようでございます。まずでき上がりますれば、世界きっての立派なものとなりましょう。しかし、立派なものを仕上げるには、銃士長様、第一に時日が必要でしてな」
「なあに、まだ二日もある。ありあまるくらいだ」とダルタニャンは冷淡に言い放った。
ペルスランは逆らわれることに慣れていないので、ぐっと頭を起こした。しかしダルタニャンはこの有名な裁縫師のようすに、注意も払わずに言った。
「ペルスランさん、お客を一人連れて来てあげた」
「そ、それは!」
「ヴァロン・ド・ブラシュー・ド・ピエールフォン男爵だ」とダルタニャンは続けて言った。
裁縫師は頭を下げながら、ポルトスの眼つきにぎくりとした。その眼は部屋にはいって来たときから、ペルスランをじろじろ見ていたのだ。
「私の親友の一人だ」とダルタニャンは言った。
「ぜひご用を勤めさせていただきます。が改めまして」とペルスランは答えた。
「改めて? それはいつのことだ?」
「いずれ暇ができましたら。どうも、仕事に追いかけられておりまして」
「君、人間というやつは、暇をこしらえようと思えば、いつでもできるものじゃよ」とポルトスは追いかぶせるように言った。
ペルスランは年のせいか老人らしい白っぽい顔を赤くして、怒った。
「どうか、ほかにご注文願います!」
「まあ、まあ、ペルスランさん」とダルタニャンが口を出した。「今日はご機嫌が悪いね。私がもうひとこと言えば、君は膝《ひざ》を折るに違いない。この人は私の親友ばかりでなく、フーケ閣下に心やすい人なのだ!」
「まあ! それは、それは! それなら話が違います」と裁縫師は叫んで、ポルトスのほうを振り向きながら、「では男爵様は、大臣閣下の腹心の方で?」と聞いた。
「私は私の腹心じゃ」とポルトスはどなった。
ちょうどそのとき、モリエールが帳《とばり》を上げてはいって来て、熱心にポルトスを観察し始めた。ダルタニャンは腹をかかえて笑うし、ポルトスはぶつぶつと当たり散らした。
「ペルスランさん、この男爵に一着作って上げてくれ給え。私からもお願いする」とダルタニャンは言った。
「ほかならぬあなたのことですから、いやとは申しませんが、八日のあいだはできません」
「それでは断るのも同然だよ。やはりヴォーの大園遊会にいる衣装なのだから」
「いや、なんとおっしゃってもできないものはできませんよ」と老人はがんばった。
「私が頼んでもだめかな? ペルスランさん」とこのとき戸の外から、金鈴を振ったような、涼しいきれいな声が聞こえてきた。ダルタニャンはこの声に耳をそばだてた。それはアラミスの声だった。
「デルブレー様だ!」
「アラミスだな!」とダルタニャンはつぶやいた。
「ああ! 司教だ」とポルトスは言った。
「おはよう、ダルタニャン! おはよう、ポルトス! おはよう、諸君! さあ、さあ、ペルスラン君、この男爵の服を作ってあげてください。そうすれば、フーケ閣下のお覚えもめでたくなるのは受け合いだよ」
アラミスはこう言いながら、ペルスランに「早く承知して、送り返してしまえ」というような手まねをして見せた。アラミスがペルスランに対して持っている勢力は、ダルタニャンのものよりまさっているらしく、裁縫師はすぐと承知の合図に頭を下げて、ポルトスの方を振り向くと、
「では、あちらで寸法を」と無愛想に言った。
寸法と聞くと、ポルトスは恐ろしい見幕《けんまく》で顔を赤くした。
ダルタニャンはその険悪な雲行きを見てとると、そっとモリエールに言った。
「モリエールさん、あなたの前にいる人物は、神から授かった肉と骨とを、人に測量さすことを大の恥辱と考えているのです。あなたもこういう型の人間を研究して、ひとつ利用してはどうです」
モリエールはこういうふうに言わなくとも、初めからそのつもりでいたので、ポルトスをじろじろっと観察しながら、言った。
「よろしければ、私とご一緒においでください。あなたに指一本さわらずに、寸法を取らせていただきましょう」
「えっ、それはどんなふうに?」とポルトスは聞き返した。
「大丈夫、物さし一本触れさせません。これは身分のある方で、卑しい者に寸法を測らせるのを嫌う方たちのために近ごろ案出されたやり方です。どうも在来の方法は、人の持って生まれた威厳を傷つけるしかただと、私は思っております。もしあなたもそうお考えになっておられるお方でしたら……」
「ありがたい! わしもまさにその一人なんじゃ」
「では、願ったり、かなったりですな。我々の発明の恩恵をこうむられるわけです」
「しかし、それはどういうやり方ですかな?」とポルトスはにこにこしながら言った。
「まあ、ついていらっしゃれば、おわかりになりますよ」とモリエールは頭を下げながら言った。
アラミスはこの場景をじっと眺めていた。彼はダルタニャンの奔走《ほんそう》振りから、こうしてポルトスを連れ出して、自分がはじめた芝居の結末をつけるつもりだろうと考えていた。ところが、これは誤りだった。ポルトスとモリエールだけが出て行った。ダルタニャンは裁縫師のペルスランとそこに残っていた。なぜダルタニャンは残ったのだろう? おそらく好奇心からだろうが、親友アラミスと今しばらくここに残っていたかったからである。
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一一 切れ地の見本
モリエールとポルトスが隣の部屋に姿を消すと、ダルタニャンはヴァンヌの司教アラミスの側に近寄り、その迷惑さにも気づかぬようすで、話しかけた。
「君も服をこしらえるのだろうな?」
「いや、そうじゃないのだ」とアラミスは微笑しながら言った。
「しかし、ヴォーヘは行くのだろう?」
「もちろん、行くさ。だが新調の服ではないよ。忘れては困る。ヴァンヌの司教は大園遊会のたびごとに、衣装を新調するほどの金持ちではないよ」
「なるほどな」と銃士長は笑って言った。「ところで詩はもう作らないのか?」
「いや、ダルタニャン、私はもう長いこと、いっさいつまらない遊びはやめてしまったのだ」とアラミスは言った。
「そうかな!」とダルタニャンは腑《ふ》に落ちないように言った。
この間に、ペルスランは再び錦襴のことで夢中になっていた。アラミスはそれに目をやって、
「ダルタニャン、この先生にとっては我々はまったく邪魔者だな。そう思わないかね?」と微笑しながら言った。
「ああ、それではおれがいてはお邪魔だね」と銃士長は低くつぶやいたが、すぐと大声で、
「さあ、出かけよう。おれの用事はすんだ。君も用がないのなら、アラミス、いっしょにどうだ……」と言った。
「いや、その、私はちょっと……」
「ははあ、何かペルスランに特別の用件でもあるのだな? 早くそう言えばいいのに!」
「特別の用件だ」とアラミスは繰り返した。「まさにそうだ。しかしダルタニャン、けっして親友に聞かれて困るような用件ではないよ」
「いや、いや、おれは帰るよ」とダルタニャンは言った。が、その声には好奇心に満ちた調子がこもっていた。というのは、アラミスがうわべは平気のように見せていても、内心ダルタニャンに一刻も早く帰ってもらいたいようだったからである。それにダルタニャンのほうでは、この親友の行動がごく些細《ささい》なことであるにしても、ある一定の目的に向かっていることを感づいていた。その目的はなんだかさっぱりわからぬが、アラミスの性格から推して、必ずや重大な性質のものに違いないと、銃士長は思っていたのである。
アラミスのほうでも、ダルタニャンが疑惑をすっかり晴らしていないのを見て、強いて言った。
「ぜひとも、ここに残っていてくれ」
それから裁縫師のほうを振り向いて、
「ペルスランさん、ダルタニャン君がここにいたほうが好都合だね」と言った。
「それはほんとうかね?」とダルタニャンは半信半疑で言った。
ペルスランは少しも感じないようだった。そこで、アラミスはペルスランがくふうをこらしている切れ地を、いきなりその手から引ったくって、言った。
「ペルスラン君、私はフーケ閣下のご用画家のル・ブラン君を連れて来ているのだ」
「ははあ、なるほど、しかしなんだってル・ブランを連れて来たのだろう?」とダルタニャンは考えた。
アラミスは、マル・カントワンヌの絵を眺めているふりをしていた、ダルタニャンをじろりと見た。
「そして、この方にも例の快楽派《エピキュール》の方たちのような衣装を作れとおっしゃるので?」とペルスランは答えた。
こううわのそらで言いながらも、ペルスランは錦襴《きんらん》の切れ地を奪い返そうと騒ぎたてた。
「快楽派《エピキュール》の連中の衣装だって?」とダルタニャンは尋ねた。
「そうだ。まさにそうなんだ。君もフーケ閣下の取り巻きである詩人たちの噂《うわさ》を聞いているだろう?」とアラミスは満面に笑みをたたえて言った。
「もちろん、聞いているよ。ラ・フォンテーヌとか、ロレエとか、ペリソンとか、モリエールとかいう詩人たちの仲間だろう?」
「そのとおりさ、そこでこの詩人たちに揃《そろ》いの衣装を作らせて、いっしょに国王陛下のご用を承らせるのだ」
「ふむ、それはいい考えだ! フーケ閣下はそうやって陛下をお喜ばせ申そうというのだろう。おい安心しろ。ル・ブラン君の秘密がそこにあるというなら、おれはけっして口外しないから」
「いや、ル・ブラン君の今日の役目はまた違うのだ。もっと遥《はる》かに重要な用件なのだ」
「そんな重要な用件なら、おれは知らないほうがいい」と言って、ダルタニャンは出て行きそうにした。
「ル・ブラン君、はいってください」とアラミスは右手で横の扉をあけながら、左手でダルタニャンを引き戻した。
「私にも、いっこう合点《がてん》がまいりませんな」とペルスランは言った。
アラミスは、その言葉を芝居のきっかけのようにつかまえた。
「ペルスラン君、君は陛下のご衣装《いしょう》を五着仕立てているね。そうだろう? 錦襴のを一着、猟服の羅紗《ラシャ》地のが一着、ビロードのが一着、繻子《しゅす》のが一着、それからフロランス絹のが一着だったね?」
「はい。ですが、ど、どうして、またそれをみなご存じで?」と肝をつぶしたペルスランは聞き返した。
「至極簡単な話だ。猟がある、饗宴《きょうえん》がある、音楽会がある、散策がある、接待がある。とすれば五種類の衣装は礼式として当然準備せらるべきものだからね」
「何もかもご存じでござりますな!」
「まだ、何かほかにあるが」とダルタニャンはつぶやいた。
「しかしご存じのないことがございますよ」とペルスランは勝ち誇ったように叫んだ。「あなた様は教会のほうでは、立派なご身分でいらしゃいますが、こればかりは、国王陛下とラ・ヴァリエール様と、この私のほかはどなたもご存じないこと、つまり切れ地の色合い、飾りの種類、裁ち方、調和、そして全体の体裁をでございます」
「それだ、それを君に教わりに来たのだ。ペルスラン君」とアラミスは言った。
「ご冗談を!」と裁縫師は叫んだ。
ペルスランにとって、アラミスの申し出はあまりに大げさで、滑稽《こっけい》で、奇怪過ぎてもいたので、裁縫師は初めは笑いをこらえていたが、しまいには腹をかかえて笑いだした。ダルタニャンもいっしょに笑ったが、彼は別におかしかったわけではなく、アラミスにその後を言わす熱をさまさせないためだった。二人の笑いがやっとしずまると、アラミスは言った。
「私の言葉はあまりにとっぴすぎたかもしれぬ。しかし、この智恵袋《ちえぶくろ》と言われるダルタニャンにしても、その子細を聞けば、無理もないと言うに相違ないが」
「聞こうじゃないか」と銃士長は、そのすばらしい嗅覚《きゅうかく》で、戦機熟せりと思いながら言った。
「うかがいましょう」とペルスランも信じられぬように言った。
「では言うが、なぜ、フーケ閣下がこのたび国王陛下のために大園遊会を張られるのか? これは一つに陛下をお喜ばせ申すためではないか?」とアラミスは言った。
「おっしゃるまでもないことで」とペルスランは言った。
ダルタニャンもうなずいてみせた。
「その手だてには、いろいろあるが、懇切《こんせつ》きわめるもてなし、何かおもしろい趣向、続けさまに国王陛下をあっと驚かし申すような計画もよかろう。それにはわが快楽派《エピキュール》たちも参加するだろう」
「すばらしいことで!」
「それで、これから話そうということも、その驚かせ申す計画なのだ。ここに見えたル・ブランさんは技量神のごとき画家である」
「それはもう。私もル・ブランさんのお作をよく拝見しておりますし、ご衣裳の好みにもお目が高いのに感服しております。それで、私もさっそくご注文に応ずる気になりました」とペルスランは言った。
「それはありがたいな。ぜひそうお願いしたいな。だが、今、ル・ブランさんの希望されているのは、自分の服ではない。君が陛下のためにご新調申し上げている服のほうだよ」
ペルスランは一足飛びさがって、叫んだ。
「陛下のご衣裳ですと! それを仮にもほかの人間の物にする! そんなばかなことを! 司祭様、あなたは少しどうかしていらっしゃいますな」
「ダルタニャン、さあ、加勢してくれ。いっしょにこの人を説き伏せてくれ。君にはよく合点がいったはずだからな」とアラミスはいよいよ落ち着き払って、にやにやしながら言った。
「えっ! なんだって! おれにはよく飲みこめないぞ」
「何、飲みこめないと! フーケ閣下が、国王陛下のヴォーご到着と同時に、ご肖像をご覧に供して、あっと言わせ申そうという趣向がか?それも当日お召しになるご衣裳と、そっくりそのままでなくてはおもしろくないのだよ」
「な、なあるほど!」いまでは、銃士長も、すっかりアラミスの言うなりになってしまった。
「なるほど、アラミス、君の言うとおりだ。おもしろい趣向だな。これは君の思いつきだね?」
「いや、私の思いつきか、フーケ閣下の思いつきか、そんなことは知らんよ」とアラミスは乱暴に答えた。それからダルタニャンの心持ちを見てとって、ペルスランの顔を見ながら、
「どうだな? ペルスラン君、君は?」と言った。
「私は、その……」
「どっちでもよいと言うのだろう。わかっている。私もたってとは言わぬよ。私は君がフーケ閣下の思いつきに加わるについて、躊躇《ちゅうちょ》している微妙な気持はよくわかっている。つまり陛下にへつらうように思われるのがいやなのだ。見上げた精神だよ。ペルスラン君、見上げたものだとも!」
裁縫師は何か口の中でもぐもぐと言った。
「実際、お若い国王陛下に対し奉るものとしては、立派な礼儀だ。がしかし大蔵大臣閣下はこう私に言われた、もし、『ペルスランが私の言を聞き入れなくとも、あの男のことをうらむようなことはしないつもりだ。私はいつもどおり敬意を表していよう。が、ただ……』」
「ただ……」とペルスランは心配そうに聞き返した。
「『ただ、陛下にこう申し上げなければなるまい』と、(いいか、ペルスラン君、これはフーケ閣下のお言葉だよ)『陛下、私は陛下にご肖像を献上したく考えておりましたが、微妙な感情からではございましょうが、おそらく事を誇大に考えましたためか、裁縫師ペルスランがこの計画に反対いたしまして……』」
「反対!」と裁縫師は自分にかぶせられる責任の重大さにびっくりして叫んだ。「この私が、フーケ様が国王陛下をお喜ばせ申そうとなさることに反対する? まあ、司祭様、なんというひどい言葉をおっしゃります! 私が反対する! そんな言葉はけっして使いません。銃士長様に証人になっていただきます。ダルタニャン様、私が何かに反対いたしましたろうか? どうでございます」
ダルタニャンは自分をよけておいてくれと合図して、自分は局外中位でいたいという意味を示した。彼は喜劇だか悲劇だか知らないが、この中には何か陰謀があると感づいた。そしてそれがどんなものだか判断できなかったが、しばらくはようすを見ようと考えたのである。
しかし、国王を喜ばせ申そうという計画に、自分が反対したと、国王に告げ口されるかもしれぬと、すっかりふるえ上がってしまったペルスランは椅子をすすめて、衣装箪笥《いしょうだんす》から燦然《さんぜん》たる衣装を四着持ち出して来た。しかし一着はまだ職人の手に掛かっていた。そして、それをペルガームのモデル人形に着せて見た。
画家はすぐとその衣装を写し始め、やがて衣装の色を塗りだした。
アラミスは熱心にそのそばを離れず、仕事振りを見守っていたが、突然それを押しとどめて言った。
「ル・ブラン君、どうもうまくいかないようだね。君の色は違うようだな。カンヴァスの上では、ぜひとも必要な、あの精巧なところがよく写せないな。もっと細かく色合いを観察するには、第一時間がたらんね」
「そのとおりで。時間が不足でございますよ。司祭様、あなたのお考えのとおりでございます。これだけは私もなんともできませぬでな」とペルスランは言った。
「いや、何かひとつ欠けても、真の色合いは出ないぞ」とアラミスは静かに言った。
しかしル・ブランは非常に忠実に、切れ地と飾りの模様を写していた。それをアラミスは待ち遠しそうにじりじりしながら見ていた。
「さて、さて、いったいどんな芝居が、ここで繰りひろげられているのだろう?」と銃士長は考え続けた。
「これは全然うまくいかぬ。ル・ブラン君、絵具箱を締め、カンヴァスを巻いてしまい給え」とアラミスは言った。
「そういたしましょうか。何分ここの光線はてんでだめですから」とル・ブランは迷惑そうに言った。
「いい考えがある、ル・ブラン君、いい考えが! もし切れ地の見本があって、その上時間があって、もっと光線が明るかったら……」とアラミスは言った。
「ああ! それなら十分効果が出ます」とル・ブランは叫んだ。
「これだな! これがこの山なのだ。こいつらは衣装の切れの見本を、五枚ともほしいのだ。ところで、ペルスラン先生が言うことを聞くかな?」とダルタニャンは口の中で言った。
初めは、かれこれ言いのがれをしていたペルスランも、アラミスのうまい口車に乗せられて、五枚の見本を切り取って、ヴァンヌの司教アラミスに手渡した。
「このほうが好都合だ。君もそう思うだろうね?」とアラミスはダルタニャンに言った。
「アラミス、おれは相変わらずの君だわい、と思ったよ」
「では、つまり相変わらず君の友人だということだね」とアラミスは美しい声音で言った。
「そのとおり、そのとおり」と言ってから、ダルタニャンは心の中で、
「このジェズイット派の古狐め、おまえの片棒をかつぐのはまっぴらだ。そうさせられぬうちにおさらばしよう」と考えて、大声で、
「お別れだ。アラミス、おれはポルトスの方に行くから」と言った。
「では、待っていてくれ。私も用がすんだら、旧友に別れを告げるとしよう」とアラミスは切れ地の見本をポケットにしまいながら言った。
ル・ブランは荷物を包み、ペルスランは衣裳を箪笥にしまい、アラミスは切れ地の見本がちゃんとあるかどうか確かめるために、手をポケットに当ててみた。そして一同はその部屋から出たのである。
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一二 「にわか貴族」の着想
ダルタニャンは隣の部屋にポルトスを見つけた。しかしさきほどの腹を立てたポルトス、あるいは失望落胆したポルトスではなくて、陽気な、はればれした、愉快なポルトスになって、彼のことを偶像か何かのように眺めているモリエールと、しきりに話しこんでいた。モリエールはあたかも、今までこんなすばらしい男を見たこともないし、またこれからもとうてい見られまいといったようすだった。
アラミスはポルトスの前につかつかと進んで行って、華奢《きゃしゃ》な白い手をさし出した。これをポルトスの恐ろしく大きな手がむずと握った。アラミスも、手をこわごわさし出したのだったが、ポルトスが友人らしく加減したので、痛いほどではなかった。アラミスはモリエールの方を振り向いて、
「どうだな、サン・マンデへいっしょに行かないか?」と言った。
「猊下《げいか》、どちらへでもお供《とも》いたします」とモリエールは答えた。
「サン・マンデへ! アラミス! 君はこの男をサン・マンデへ連れて行くのか?」とポルトスは叫んだ。アラミスがこの裁縫師の下職と親しいのにびっくりしたのである。
「そうだ、急ぎの仕立物があってね」とアラミスはにこにこしながら言った。
「それにポルトス、このモリエール君はペルスランの店でも一番弟子でね。フーケ閣下のご注文の園遊会の衣裳を、快楽派《エピキュール》の詩人たちに着せてみるために、サン・マンデに行くのだよ」とダルタニャンは言った。
「さようでござります」とモリエールは言った。
「モリエール君、ポルトスさんのほうがすんだなら、いっしょに来てください」とアラミスは言った。
「おれのほうはもうすんだぞ」とポルトスは言った。
「気に入ったか?」とダルタニャンは聞いた。
「気に入ったとも」とポルトスは答えた。
モリエールはポルトスに慇懃《いんぎん》に暇を告げてから、銃士長が横からそっと出した手と握手した。
「では頼んだぞ。きちんとからだに合うようにな」とポルトスは愛想よく言った。
「明後日までは、まちがいなくお間に合わせいたします。男爵様」とモリエールは答えた。そしてアラミスといっしょに出て行った。
ダルタニャンはポルトスの腕をとって、
「ポルトス、あの仕立屋がひどくお気に召したようだな?」と言った。
「うむ、あの男は偉い奴《やつ》じゃ。ほかの仕立屋がまねのできんことをやりおったからな。あいつはおれにさわらずに寸法をとったのじゃ」とポルトスは熱心に言った。
「ほう、どんなことをやったのだ?」
「まずおれをたくさん人形が並べてある部屋に連れて行きおった。そこでおれと同じ寸法の人形を捜すつもりらしかったが、いちばん大きいスイスの連隊鼓手長の人形も、おれより二インチも低く、胴回りも半フィートも短いのじゃ」
「ほう! ほんとうかな?」
「ところが、ダルタニャン、あの偉い男は、いや少なくともあの偉い仕立屋は、ちっとも困った顔をせんのじゃ」
「どうしたのか?」
「いや、実に簡単な方法じゃ。しかも前代未聞《ぜんだいみもん》のことじゃ! だがこれほどの方法を気づかぬとは、どだい仕立屋などというやからは、いずれも無作法な人間ばかりと見えるな。そしておれに迷惑をかけ、侮辱をあたえるのじゃ!」
「なるほど、でポルトス、そのモリエールのやり方というのを聞かしてくれ」
「モリエールというのか? おれにはその名が思い出せぬのでな」
「そうだ。本名はポックランというのだ。どっちでもいいよ」
「いや、モリエールのほうがいい。おれがピエールフォンに持っているような、ヴォリエール(大きな鳥籠《とりかご》の意)と覚えていればいいからな」
「それはすばらしい思いつきだ。ところでそのやり方は?」
「こうなんじゃ、あの男は、ほかのばか者どもがするように、腰を曲げさせたり、関節を折らしたりして、おれにいろいろと恥をかかせる代わりに……」
ダルタニャンはうなずいて、もっともだと同意の意を表した。
「あの男はな、こう言うんじゃ。『殿方はご自身で寸法をお取りになるべきです。鏡の前においでください』とな。そこでおれは鏡の前に行った。おれはヴォリエール君のやり方がわからんので、まごついたよ」
「モリエールだ」
「ああ! そうだ、モリエール、モリエール。さて、おれはどうしてよいかわからないので、モリエールにこう言ってやった。『これからどうするのか教えてくれ。おれは気が短いのでな』と。すると彼はやさしい声で『ご衣裳がぴったり合うためには、お姿に応じて伴わなければなりません。ところで、お姿はこのとおり、はっきり鏡に映っておりますから、これで寸法を取りましょう』と言うのじゃ」
「なるほど、君は鏡に姿を映したのだな。だが、君の姿が全部、一枚の鏡の中にどうして映るのだ?」とダルタニャンは言った。
「それは、君、国王陛下がいつもお使いになる鏡なんじゃ」
「しかし陛下は君よりも一フィート半も小さいぞ」
「いや、おれはそれがどうなっているかわからんが、陛下のお姿を美しく映してお見せしたことはまちがいはないぞ。第一に鏡はおれよりずっと大きい。なにしろ三枚のヴェネチアガラスを重ねたのが、その高さだし、また幅も同じガラスを並べたものだからな。さて、ヴォリエールは……」
「モリエールだ」
「そうだ、モリエールだ。今度は覚えたぞ。さて、そのモリエールは鏡の上に、おれの腕や、肩の型を、スペインの白墨で描いたのだ。それから彼は『剣をお抜きになるとき、服がご窮屈《きゅうくつ》ではいけませぬ。その姿勢をなさいませ』と言うのじゃ。そこでおれは心得たと受太刀《うけだち》の構えをしたが、そのはずみに窓ガラスを二枚も割ってしまったのじゃ。ところが彼は一向気にかけぬようすで、『かまいませぬ、かまいませぬ。そのままでおいでください』と言いおった。おれは左腕を空中に上げ、前腕を優雅に折り、袖口《そでぐち》を平らにして、手首を曲げた。また右腕は半分伸ばして、肱《ひじ》で腰を防ぎ、手首で腕を庇《かば》った」
「うむ、それが本格の受太刀の構えだ」とダルタニャンは言った。
「そうじゃ。そのとおりだ。そして、このあいだに、ヴォリエールが……」
「モリエール!」
「待て、待て、おれはもう一つの名のほうが好きだ。何と言ったかな?」
「ポックラン」
「うむ、おれはポックランのほうが好きだな」
「どうしてポックランのほうが、君には覚えやすいのか?」
「知り合いのコックナール夫人を思い出すからな」
「なるほど」
「『コック』(Coque 卵の殻の意)と『ポック』(Poque トランプ遊びの一種)、『ナール』(nard やまじおうぎく)と『ラン』(lin 亜麻)を取り替えればいいのじゃ。コックナールの代わりに、ポックランと言えばいいのじゃろう」
「それは妙案だな!」と目を白黒したダルタニャンは叫んだ。「おれは感嘆して拝聴しているよ」
「その|コック《ヽヽヽ》ランが鏡の面におれの腕を描いたのじゃ」
「|ポック《ヽヽヽ》ランだろう」
「おれは今なんと言った?」
「|コック《ヽヽヽ》ランと言ったよ」
「ああ! そうか。では、そのポックランが鏡の面に、おれの腕を描いたのじゃ。しかし今度は時間がかかる。それにたびたびおれを眺めている。つまりおれがあまり立派なのでな。すると彼は『お疲れになりませぬか?』と聞いたよ。そこで、少しは疲れたが、まだ一刻ぐらいは平気だと答えてやると、『いや、それはいけませぬ。それなら店の若い者にお腕をささえさせましょう。昔、神様のご加護を祈るとき、預言者の足をささえていた人たちのように』と言うのじゃ。よし、よしと承知すると、『それでは失礼になりませぬか?』と聞き返すから、『腕をささえてもらうのと、寸法を取られるのでは、そのあいだに雲泥《うんでい》の相違があるぞ』と言ってやった」
「見上げた分別だ!」とダルタニャンは口を出した。
「そこで、彼が合図をすると二人の若者がまいって、一人はおれの左腕をとるし、一人は器用におれの右腕をささえた。『もう一人来い!』と叫ぶと、また一人出て来おった。『旦那《だんな》様のお腰をおかかえ申せ』と言われて、そのとおりにするというわけだ」
「それなら、楽だったろう?」とダルタニャンは聞いた。
「いたってな。そこでポック|ナール《ヽヽヽ》がおれを描いた」
「ポックランだよ」
「なるほど、ポックランだ」
「いっそのこと|ヴォ《ヽヽ》リエールと言ったほうがいいな」
「そうだな。そのヴォリエールが鏡におれを描いた。だから、おれは誰にもさわられずに寸法をとってもらったのじゃ」
「腕や、腰をささえていた小僧たちはべつとしてだな」
「うむ、だが、ささえているのと、寸法をとるのとでは、雲泥の差だと先刻説明したはずだ」
「そうとも、それに違いない」とダルタニャンも答えたが、心の中で、あのモリエール先生も、思いがけない喜劇の種を拾って、さぞかし、ほくほくしているだろうと思った。他事にわたるが、この着想こそ、やがてモリエールの名作『にわか貴族』の粉本《ふんぽん》となったものである。
かくて、ダルタニャンとポルトスの二人はペルスランの店を出て、馬車に乗って帰って行った。
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一三 長靴をはける修道院長
名高いバスチーユの大時計が、夕暮れの七時の鐘を鳴らした。この国立監獄のすべての施設がそうであるように、時計の鳴ることそれ自体が責苦で、囚人たちの胸に、刑罰の刻々の目的をはっきりと思い出させた。バスチーユの大時計は、この時代の大部分の時計のように、縄めを受けたサン・パウロの彫像で飾ってあった。
この時刻は哀れな囚人たちの夕食の時間だった。
監房の扉という扉が、大きな蝶番《ちょうつがい》をきしませて開き、囚人の身分身分に応じた、食物の籠《かご》や皿が運びこまれた。これが典獄ベーズモーの自慢であるのは、申すまでもない。
無上の美食のため、金銭を湯水のように使う、この国立監獄の料理長であるベーズモーの抱負のとおり、急な階段を昇って行くあふれるばかりの品物を入れた籠の中には、囚人を慰めるための、かなりいっぱい詰めた葡萄酒《ワイン》のびんまではいっていた。
またこの同じ時刻が、典獄の食事の時刻であった。今夜は客が一人であった。肉をあぶる鉄串《てつぐし》が重そうに回っていた。
鶉《うずら》と、ラード塗りの小兎《こうさぎ》を添えた、あぶった鷓鴣《しゃこ》、ボイルした牝鶏《めんどり》、白葡萄酒をかけたハムのフライ、ジュイピュズコアの朝鮮薊《リルドン》に、|ざり《ヽヽ》|がに《ヽヽ》の濃い煮詰汁、それにいろいろのスープとオル・ドヴル、これが典獄の献立だった。
客というのは、ヴァンヌの司教アラミスだった。典獄のベーズモーはテーブルにつきながら、アラミスを見てもみ手をしていた。アラミスの今夜の服装は、騎士のように長靴をはき、鼠《ねずみ》色の服をきちんと着て、腰には長剣を帯びていた。そしてしきりに空腹だと言って、皿が運ばれるのを待ちかねていた。
ベーズモーはヴァンヌの司教のなれなれしさに、すっかりまごついてしまった。今夜のアラミスは珍しく陽気で、打明け話に興じ、どこか前身の銃士の気分を漂わせていたし、またしきりに冗談口をきいた。下品な人間によくあるように、ベーズモーは客の打ち解けた態度に、まったく気を許してしまった。典獄は、
「今夜は猊下《げいか》と申し上げずに、あなたと申したいですな」などと言った。
「うむ、どうかあなたと呼んでください。こうして長靴をはいていますからな」とアラミスは言った。
「ところで、今夜、あなたは私に誰かを思い出させましたが、おわかりですか?」
「いや、わかりません。しかし私はあなたに一人のお客さんを思い出してほしいですな」とアラミスは杯を取り上げた。
「いや思い出す方は二人ありますが、おい、フランソワ君、窓を締めてくれ、風が猊下に当たるから」
「それに、フランソワ君にも席をはずしていただきたいな!」とアラミスがつけ加えて言った。
「御馳走《ごちそう》は出揃《でそろ》ったし、これからは給仕抜きでちょうだいしたいのだが。私は友人といっしょのときには、水入らずで話したいのです」
ベーズモーはうやうやしく頭を下げた。
「私は自分で給仕するのが好きでな」とアラミスは続けて言った。
「フランソワ、席をはずしなさい!」典獄は叫んだ。「猊下にお目にかかって、私は二人の人物を思い出しました。その一人と申しますのは、有名な、亡くなられましたラ・ロシェルの大司教様でやはり長靴をはいておられましたよ」
「なるほど。で、もう一人は?」とアラミスは言った。
「もう一人は、さる銃士でしてな、非常に眉目《びもく》美しく、勇敢で、冒険好きな、幸運の方でして、修道院長が銃士となり、またその後修道院長に戻りました」
アラミスは微笑しているばかりだった。
「その修道院長から司教に、司教から……」とベーズモーはアラミスの微笑に力づいて、続けて言った。
「ああ! どうかやめてください!」とアラミスは言った。
「私は司教から大司教にと、申し上げるつもりでした」
「ベーズモーさん、もうよしましょう。今夜、私は騎士の長靴をはいているのだ。教会の仕事の方まで口をはさみたくないな」
「しかし、猊下はいろいろと陰謀を企んでいられます」
「いかにも、そこらの俗人のようにな」
「それに仮面《マスク》をかぶって、市中や路次を徘徊《はいかい》していられるでしょう?」
「お言葉のように、私は仮面《かめん》をつけている」
「それに剣もお抜きになられるとか?」
「時と場合によってはな。ところで、ひとつフランソワを呼んでください」
「葡萄酒《ワイン》なら、そこにございますが」
「いや、葡萄酒ではない。ここが蒸し暑いので、窓をあけてもらおうと思ってな」
「私は、また使者などがやってくる物音が聞こえないように、食事の間は窓を締めます」
「ははあ! すると窓をあけておくと、物音がよく聞こえるのですか?」
「非常によく聞こえるのです。それが耳につきましていやなものでございますよ。おわかりでございましょう」
「いや、しかしこれでは息苦しくてたまらん。フランソワ、来てくれ」
フランソワがはいって来た。
「どうか、フランソワ君、窓をあけてください。ベーズモーさん、かまわんでしょうな?」とアラミスは言った。
「猊下、お宅にいらっしゃると同じようになさってください」と典獄は答えた。
窓は再びあけられた。
「あなたはお寂しいでしょうな。ラ・フェール伯爵がブロワのお住居《すまい》に引き籠《こも》られたのでは?あの方は古いお友達でございましょうな?」
「むろん、銃士仲間でしたから。ベーズモーさん、あなたもこの私と同じように、伯爵のことをご存じでしょう」
「いや、お友達でしたが、酒の徳利や年月のように、親しくはございません」
「もっともですな。しかし私は、あの人を愛するというよりも、尊敬しているのじゃ」
「なるほど。が、私は、あの方よりもダルタニャンさんのほうが好きです。あのあとを引くような、飲みっぷりはたいしたものです! ああいう人物は少なくも肚《はら》の底がわかってますから、いいですよ」
「ベーズモーさん、私は今夜は酔いつぶれそうだ。ひとつ昔のようにたらふく飲みましょう。もし、私の胸の奥に心配事でもあるなら、杯の中にあるダイヤをあなたがご覧になるように、はっきりお見せしますよ」
「ブラヴォー!」とベーズモーは言った。
そして彼は一気に大きな杯を飲み干して、何か司教の罪悪でも、嗅《か》ぎ出せると思って、喜びにぞくぞくした。
しかし典獄は、こうして杯を干している間に、アラミスが表門のほうの物音に、聞き耳をたてているとは、いっこうに気づかなかった。
八時ごろ、フランソワが五本めの葡萄酒をテーブルに運んだとき、一人の使者が城内にはいって来た。その大きな物音も、ベーズモーの耳には、少しもはいらなかった。
「悪魔が運んで来たな?」とアラミスは言った。
「何のことで?」とベーズモーは聞いた。「お飲みになっている、この葡萄酒のことではございますまいな?」
「いや、馬のことだ。一頭のくせに、まるで一中隊でも着いたような騒ぎを中庭でやっておる」
「なるほど! 使いがまいったのです」と典獄はぐいぐいと杯を干しながら答えた。「まったく悪魔が運んで来たのだ! こんなに早くては、ろくろく話せませんな! いや、おもしろい!おもしろい!」
「ベーズモーさん、私の杯が空なのを忘れては困りますな」とアラミスはきらきら光るクリスタルガラスの杯を見せながら言った。
「いや、これは光栄の至りで……フランソワ、葡萄酒をもって来い!」
するとフランソワがはいって来た。
「おい、葡萄酒だ、上等のを持って来い!」
「はい、しかし……ただいま使いがまいりました」
「使いなんか、悪魔に食われてしまえ!」
「はい、しかし……」
「書類なら事務室に置いて行かせろ。明日見るから、明日見りゃたくさんだ。明日も天道《てんとう》様は照るじゃろう」とベーズモーはこの最後の二つの文句を鼻唄《はなうた》にして言った。
「ああ、しかし……」とフランソワはぶつぶつ言った。
「まあ、君、使いの者が持参する書面は、ときには典獄に対する命令のこともあろう」とアラミスは言った。
「大方はそれでしょうて」と典獄は半分酔いの回った声で言った。
「大臣から来た命令ではないだろうか?」
「むろんそうでしょうて、が、しかし……」
「そして大臣は国王のご署名に副署するだけではないですか?」
「たぶんはそうでしょうて。だが、こうして山海の珍味を前に、友人と水入らずで打ち興じているときには、迷惑千万ですて。おや、これは失礼、ご夕食を進めている賓客《ひんかく》に向かって友人などとは。ましてや、未来の大司教に対し奉り、おこがましくも……」
「おっと、それはやめてください。ベーズモーさん。それよりフランソワをどうかしてやりましょう」
「フランソワがどうかいたしましたか?」
「ああしてぶつぶつこぼしておるが」
「それはけしからん」
「しかし、ああしてこぼしておる。何か特別な用件かもしれん。ぶつぶつこぼしておるフランソワのほうが当たりまえで、何も聞こうとしないあなたのほうがけしからんのかもしれんて」
「この私のほうがけしからんとおっしゃるので? これは、またひどいお言葉だ」
「いや、これは失礼。だが、重要な用件は聞かねばなるまい」
「ご、ごもっともで」とベーズモーはどもって言った。「国王の命令は神聖です! が、しかし食事中に来る命令などは、悪魔に……」
「ベーズモーさん、もしそんなことを大司教になさったら、それにこの命令が重要な用件でしたら……」
「司教にご迷惑をかけないようにいたしましたら、ご勘弁くださいますか?」
「私が軍服を着ていたことを、そして命令をあくまでも遵奉《じゅんぽう》する習慣になっていることを、お忘れくださるな」
「とすると、あなたは?」
「あなたが義務を履行することを望みます。どうかそうしてください。少なくとも、この従卒の前では」
「これはごもっともで」とベーズモーは言った。
フランソワは先刻から、典獄の言葉を待っていた。
「では国王のご命令を拝見しよう」とベーズモーは立ち上がりながら言った。それから低い声で付け加えた。「だが、猊下、その内容をどんなものとお思いになりますか? それはまず、『火薬庫付近の火の用心に注意すべし』とか、『何の何某《なにがし》は脱獄癖あるをもって、厳重に監視すべし』とかいう文句でございますよ。うつらうつらといい気持で眠ろうとすると、馬を矢のように飛ばして来て、ものものしくさし出す紙片を何かと見ると、『格別の変事なきや、ベーズモー典獄殿』とあります。暇つぶしにこんな命令を書いている人間なぞは、このバスチーユにはおりませんよ。彼らはこの城壁の厚さを考えたこともない。ここの獄吏の不断の監視も、何回となく行なう巡回も、考えたことがないのですよ。そしてせっかくくつろいで、愉快になっている私を苦しめようとするのですわい」とベーズモーはながながと不平をこぼしてから、アラミスの前に行って頭を下げて、「でございますから、彼らにはその仕事をさせておけばよろしいのでございます」と言った。
「彼らにはその仕事をさせ、あなたはあなたの仕事をしなさい」と司教は笑顔で言ったが、その気高い眼ざしはこのやさしい光にもかかわらず、きびしく命じていた。
そこへ従卒のフランソワが再びはいって来た。ベーズモーはその手から大臣の命令書を受け取った。彼はゆっくりとそれを開いて、ゆっくりと読んでいた。アラミスは酒を飲むふりをして、その杯越しに典獄のようすをうかがっていた。やがて、ベーズモーは読み終わると、
「さっきはいったい何をしゃべっていたのかな?」と言った。
「なんですかな?」と司教は尋ねた。
「釈放命令ですよ。我々の邪魔をしようとしてすばらしい便りが舞いこんだものだ!」
「釈放される当人には、なおもってすばらしい便りではないか」
「しかも、夜の八時とある!」
「慈悲の沙汰《さた》じゃな」
「慈悲も結構ですが、それも退屈している当人だけの話で、くつろいでいる、この私には少しもありがたくないですな」とベーズモーは憤慨して言った。
「では、それが出るとあなたが損をする。つまりそれは金をたくさん出す囚人ですかな?」
「どういたしまして、つまらない奴《やつ》で、五フランのねずみですよ!」
「ちょっと拝見。それとも悪いかな?」とアラミスは聞いた。
「いや、けっして。お読みください」
「『至急』と書いてある。おわかりかな?」
「ふむ、『至急』とはよかった。ここ十年もはいっている男だ。それを今日、いや、今夜の八時に釈放するのが、すなわち至急ですな!」
ベーズモーは非常に軽蔑《けいべつ》したふうに、肩をそびやかして、命令書をテーブルの上にほうり出して、また食べ始めた。
「これがあの連中のやり方ですよ」と典獄は口いっぱいに頬《ほお》ばったまま言った。「あいつらは人間をつかまえて、十年間も牢《ろう》にぶちこんでおき、『厳重に監視すべし!』とか、『厳重に監禁すべし!』とか、勝手な熱を吐いておきながら、いざこっちが、やっと危険人物の取り扱いに慣《な》れてくると、まったく不意打ちに、『釈放すべし!』とおいでなさる。理屈も何もあったものじゃありません。しかも『至急!』と言ってくる。これでは肩の一つもそびやかそうじゃありませんか」
「そんなことを言って、あなたはどうするつもりだ! 早く命令を履行しなさい」とアラミスは言った。
「しますとも! しますとも! 必ず履行しますよ!……ああ待ってくださいよ!……私は奴隷ではないのですからな」
「おや、ベーズモーさん、誰が奴隷だなんて言いました! あなたが誰にも拘束されていないことは、わかっているじゃないかね」
「おそれいります!」
「それに、あなたが見上げた心の持ち主だということもわかってるのじゃ」
「それについて、お話申しましょう」
「上司の命令に服従しなさい。兵士だったら、一生そうしなければならん」
「ですから命令に服従いたしますよ。明朝、夜の明け方に、その囚人を釈放いたします」
「明日ですって?」
「はい、夜の明け方に」
「なぜ今夜はいけないのかな? 封印した書面の上書にも、また中にも、『至急』としてあるが」
「今夜は食事中ですからな。このほうも至急ですよ」
「ベーズモー君、私は長靴こそはいているが、心持ちは司祭だ。私には慈悲心のほうが、食欲よりも強く働く。その不幸な男は、十年も牢獄にはいっていたのだ。さすればもう十分苦しんだはずだ。苦痛を取り除いてあげなさい。その男には幸運が向いて来たのだ。早く恩典に浴させてやりなさい。神様はその報いとして、天国の幸福をお授けになりますぞ」
「あなたはそれを希望される?」
「どうか、そうしてやっていただきたい」
「それほどおっしゃるのなら、承知しました。ただ料理が冷たくなります」
「いや、それはかまわぬ」
ベーズモーはフランソワを呼ぼうとして、呼び鈴を鳴らすために、後ろに身をかがめた。そのため自然と、彼は扉の方を振り向いた。
命令書はテーブルの上に置かれたままだった。アラミスはベーズモーが見ていない隙《すき》に乗じて、その命令書を、すばやくポケットから取り出した、他の書面とすり替えてしまった。
「フランソワ、副典獄に、ベルトディエール獄房の牢番たちを連れて、ここに来るようにと言ってくれ」と典獄は言いつけた。
フランソワは一礼して出て行った。あとには二人の会食者だけが残っていた。
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一四 釈放命令
二人の会食者の間には、ちょっと沈黙が続いた。このあいだ、アラミスは典獄から眼を離さないでいた。典獄はこんなにして、途中で食事を止める決心が、まだ十分につかないようだった。とにかくデザートの後まで、なんとかして延ばす理由をつけようと、頭をひねっていることは明らかだった。しかし、やがてその理由を見つけたらしく、
「うむ? こりゃ実行不可能ですよ!」と叫んだ。
「どうして、不可能ですかな?」とアラミスは言った。
「今時分、囚人を釈放することはできませんよ。パリの地理を知らない男が、どこへ行くでしょうか?」
「どこだって行けますよ」
「いや、まるでこれは盲人を突っ放してやるのと同じですわい」
「私の馬車がある。どこなりと望むところへ送ってやりましょう」
「あなたは何事にもうまいお考えをお持ちですな……フランソワ、副典獄にベルトディエール三号のセルドンの獄房をあけるように言ってくれ」
「セルドンとな」とアラミスは無造作に言った。「セルドンと言われたようだが」
「セルドンと言いましたとも。これが釈放される囚人の名前ですわい」
「マルキアリと言われるつもりではないかな?」とアラミスは言った。
「マルキアリ? ああ、そうでした! いや、いや、セルドンだ」
「思い違いをしておられるようだな、ベーズモーさん」
「私は命令書を読みましたよ」
「私も読んだ」
「このくらいの大きな字で、セルドンと書いてありましたよ」とベーズモーは一本の指をあげて見せた。
「私はマルキアリと読んだ。このくらいの大きな字で書いてあったな」とアラミスは二本の指をあげて見せた。
「では、証拠を調べましょう。そこに命令書があります。読んでご覧なさい」と自分のほうが正しいと思いこんでいたベーズモーは、言った。
「私には『マルキアリ』と読めるな。これをご覧なさい」とアラミスは命令書をひろげながら答えた。ベーズモーはそれを見るなり、腕を曲げて、
「うむ、うむなるほど、マルキアリと書いてある。はっきりそう書いてある。嘘《うそ》ではない!」と狼狽《ろうばい》しながら言った。
「どうですな!」
「だが? あれほど、毎日のように厳重に監視しろと、やかましく命令してよこす、あの囚人を?」
「いずれにせよ、マルキアリと書いてある」とアラミスはがんとして繰り返した。
「ですが、猊下《げいか》、私にはどうも腑《ふ》に落ちませんて」
「しかし、そうとしか読めんな」
「はて不思議だな! 私はアイルランド人セルドンの名前が、今でも眼に見えます。そうだ!名前の下に、インキのしみがついていたことも、ちゃんと覚えている」
「いや、インキのしみなぞはなかったな」
「ところが、私はそのしみの上に、吸い取り粉をこすりつけましたよ」
「とにかく、ベーズモー君、しみがあろうがなかろうが、命令書には、マルキアリを釈放すべしと書いてある」とアラミスは言った。
「命令書には、マルキアリを釈放すべしと書いてある」と再び自分の気持を落ち着けようとして、ベーズモーはこう機械的に繰り返した。
「だから、その囚人を釈放なさい。もっともセルドンをも釈放しなければ、あなたの気がすまぬというなら、私は少しも異論はない」
こうアラミスは言って、皮肉な笑《え》みを頬に浮かべた。ベーズモーはこれでやっと疑いを晴らして、元気を回復すると、
「猊下、このマルキアリと申しますのは、いつぞや、私も加わっております、『我が教団』の懺悔聴聞師《ざんげちょうもんし》が、ごく秘密に! しかも非常におうへいずくで、面会にまいった囚人でございます」と言った。
「ほほう、いっこうに知りませんな」と司教は答えた。
「しかも、まだそう古いことではございませんよ」
「かもしれないな。しかし、我々のあいだでは、今日の人は、昨日の人がしたことを、もう覚えていないのがいいのだ」
「ともかく、そのジェズイット派の懺悔聴聞師の来訪が、この男に幸福をもたらしたに相違ありませぬ」とベーズモーは言った。
アラミスは返事もせずに、再び食べたり、飲んだりしていた。
ベーズモーのほうは、もうテーブルの上のものには手も着けずに、再び命令書を取り上げて、しきりとそれを吟味した。
いつもなら、こうした穿鑿《せんさく》は、気が短いアラミスをかっとさせたかもしれぬが、ヴァンヌの司教であってみれば、腹を立てるわけにもいかなかった。ことに、そんなことは大事の前の小事だった。
「マルキアリを釈放されるかな?」とアラミスは典獄に言ってから、「このセリ酒は実に口当たりがよく、いい香りがしますな!」とごまかした。
「猊下、私はこれを持参した使いの者を呼んで、聞きただしてみます。そして納得がいった暁《あかつき》には、マルキアリを釈放いたしましょう」とベーズモーは答えた。
「命令書は封印してあるから、使いの者は内容を知るはずはない。あなたは何を確かめようとされるのかな?」
「なるほど、仰せのとおりでございますな。では、本省に照会いたしましょう。本省のド・リヨンヌさんが、この命令書を取り消すか、または承認いたすでございましょうから」
「すると、あなたは、どうも気がすまぬから、上司の指図を仰ごうと言わるるのだな」
「さようで」
「では、ベーズモーさん、あなたは国王陛下のご署名をご存じだろうな?」
「はい存じております」
「その命令書にはそれがありますか?」
「それはございます。が、万一……」
「偽造かもしれんとこう言われるのだな?」
「さようでございます」
「なるほど。ではド・リヨンヌさんの署名は?」
「それもはっきりと記してありますが、国王陛下のご署名が偽造だとすると、ド・リヨンヌさんの署名も偽造ということになりましょうな?」
「ベーズモーさん、あなたは論理を巨人の歩調のように進められますな。今の議論には、まったく太刀打《たちう》ちできませんよ。しかし、あなたにはこの署名が偽造であるという、何か特別の理由でもありますかな?」とアラミスは言った。
「その理由は、署名なさった方々がここにおられぬということでございます。ここにあるのが、はたして陛下とリヨンヌさんのご署名かどうか、はっきり断定するものが何一つないからでございます」
「うむ、ではベーズモーさん」とアラミスは鷲《わし》のような眼で、典獄をじっとにらみつけながら言った。「私は思いきり、あるだけの疑念を晴らす方法をとりますぞ。さあ、ペンをお貸しなさい」
そこで、ベーズモーは言われたとおり、ペンをさし出した。
「それから、なんでもいいから紙を一枚」とアラミスが言い足した。
ベーズモーは紙を渡した。
「では、私が、現在君の面前にいる、この偽りない私が、これから命令書を書く。いいかな?君がいかに疑い深い人でも、この命令書は信用するに相違ない」
ベーズモーはこの自信あり気な、ひややかな態度をまのあたりに見て、まっさおになってしまった。今まで、にこやかで、陽気だったアラミスの声音が、急にものすごく、陰気になったように思われた。そして燭台《とうだい》の蝋燭《ろうそく》は、墓場の祭壇の大蝋燭に取って替わり、杯の葡萄酒《ぶどうしゅ》は、まっかな血の聖杯に一変したかと思った。
アラミスはペンをとって、すらすらと書いた。ベーズモーは恐怖に打たれながら、それを肩越しに読んだ。
「A・M・D・G」と司教は書いて、その下に十字を一つ記した。この四文字は ad majorem Dei gloriam(「神の栄光を大ならしめよ」の意)という意味である。それから司教は次のごとく続けて書いた。
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バスチーユ典獄ベーズモー・ド・モンルザンの許に到達せる命令書は、同人において、妥当にしてかつ有効なりとしたため、ただちにこれを執行すべきものなり
神の恵みによるジェズイット教団管長
デルブレー(署名)
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ベーズモーはすっかりふるえ上がってしまって、顔を引きつらせ、口をぽかんとあけ、眼をうつろに見すえているばかりだった。彼は微動だにできず、ぐうの音《ね》も出なかった。
広い部屋の中には、燭台の灯を慕って、飛びまわる、小さな蠅《はえ》の羽ばたきのほかは、何の音も聞こえなかった。
アラミスは哀れな格好になった典獄の姿には眼もくれず、ポケットから黒い封蝋《ふうろう》を入れた小箱を取り出して、命令書を封じ、胴着の裏の、胸のあたりにかけていた印章で、その上に封印を押した。これがすむと、やはり無言のままで、書状をベーズモーに手渡した。
典獄はあわれみを乞うように、手をふるわせながら、気でも狂ったような、どんよりした視線を封印の上に向けていたが、感情の動きがやっと顔面に現われたかと思うと、雷にでも打たれたように、椅子の上にどかっと尻《しり》をついた。
「さあ、ベーズモー君」とアラミスは、長い沈黙の後で、どうやら正気づいた典獄に言った。「教団の管長は神のごとく恐ろしいものではない。まのあたりに見たといって死ぬというわけではない。勇気を出しなさい! さあ、立って、私と握手をしよう。私の言うとおりにしなさい」
ベーズモーは安心したのか、喜んで、これに従って、アラミスの手に接吻《せっぷん》した。それから立ち上がって、
「今すぐにでございますか?」とつぶやくように言った。
「いや、ご主人、急ぐことはない。もう一度腰を落ちつけて。この結構なデザートを食べられるがいい」
「猊下、私は今もって胸がどきどきいたします。ごいっしょに笑ったり、冗談口をきいたりいたしましたし、あなた様を友達扱いにしましたり!」
「まあ、それを言いなさるな。あなたは古くからの友人だ」と司教は、ベーズモーとの絆《きずな》があまり緊張し、それが切れてしまうことを恐れながら、こう答えた。「それを言いなさるな。お互いに持ちつ持たれつだ。君へは、私の保護と友情。私へは、君の服従。このふたつの報酬をきちんと支払って、お互いにむつまじくやっていこうではないか」
ベーズモーは偽造の釈放命令で、囚人の出獄を許すことの結果と、管長の命令書によってあたえられた保証とを、引き比べてみて、どうしたらよいか、すっかり考えこんでしまった。
アラミスはそれと察して、
「ベーズモー君、君はばかだな。私は君のために考えてあげているのだ。そんなに考えこむ癖は、やめ給え」と言った。
ベーズモーはそれを聞いて、再び頭を下げて、
「では、いかがしたらよろしいでしょうか?」と言った。
「囚人を釈放する手続きは?」
「規則がございます」
「うむ、それではその規則どおりにするさ」
「囚人が身分ある者でございますれば、私が副典獄を同伴して、その獄房に行き、連れてまいります」
「しかし、このマルキアリは身分ある者ではない」とアラミスは無造作に言った。
「私は存じませぬ」と典獄は答えた。
それはちょうど、「それを私に教えてくれるのはあなただ」とでも言っているようだった。
「いや、あなたが知らないのなら、私の言うとおりでいいわけだな。身分の卑しい者を扱うように、マルキアリを扱いなさい」
「よろしゅうございます。規則どおりにいたします」
「そうしなさい」
「規則では、牢番《ろうばん》か、獄卒の一人が、典獄の事務所に、囚人を連れてまいることになっております」
「なるほど、だがこれはあまりに慎重だな。それからは?」
「それからは、大臣よりべつに指令がございませんときには、囚人に収監の際、彼が身に着けておりました品物、衣類とか、手紙とかを返すことになっておりますので」
「このマルキアリには、その大臣からの指令に書かれているようなものがありましたかな?」
「いや、何もございません。と申しますのは、この哀れな男がここに参りましたときには、身に着ける装飾品も、手紙も持っておりませんでしたし、それにほとんど着る服もなかったくらいでございました」
「何事でも、そういうふうに簡単に考えなければならぬ! ベーズモー君、君は、物事を大げさにしていかん。君はここにいて、囚人を典獄の官舎に連れて来るようにしなさい」
ベーズモーはこの言葉に従って、副典獄を呼び、命令をあたえた。それをまた副典獄は、顔一つ動かさずに、部下に伝えた。
三十分ほどすると、中庭で門の締まる音が聞こえた。それは囚人を出した後で、尖塔《せんとう》の扉を締めたのである。
アラミスは部屋の中の蝋燭《ろうそく》を扉の後方の一本だけ残して、他は残らず吹き消した。この灯火がちらちらまたたくので、一つのものを見つめていることはできなかった。
足音が近くなった。
「君の部下たちの前に行きなさい」とアラミスはベーズモーに言った。
典獄はこの言葉に従った。
副典獄と獄卒たちの姿が消え失せた。
ベーズモーが囚人を従えて戻って来た。
薄暗い物陰に席を移したアラミスは、相手から見られずに、自分の方からだけ見ることができた。
ベーズモーはふるえた声で、この若者に釈放命令が出た旨《むね》を言い聞かせた。
囚人は身じろぎもせず、ひとことも口をきかずに、耳を傾けていた。
「規則により、このバスチーユで見聞きしたことは、いっさい他に洩《も》らさぬと、誓いなさい」と典獄は言い足した。
囚人はキリストの像を見て、両手をさし伸べてから、唇で誓った。
「さあ、これで君は自由の身だ。これからどこへ行くつもりかな?」と典獄は言った。
囚人はたよりとする後盾《うしろだて》をでも捜すように、後ろを振り返った。
そのとき、アラミスは薄暗い物陰から姿を現わした。
「この人のご用を務めるように、私がまいっております」とアラミスは言った。
囚人は心持ち顔を赤らめたが、ためらいもせずに、アラミスの腕の下に、片腕を入れて、
「神があなたをお護りくださいますように!」と、しっかりした声音で言った。これを聞いて典獄は身をふるわせた。それにまた、この祝福の形式も彼を驚かすのに十分だった。
アラミスはベーズモーの手を握りながら、
「君は私の命令書が迷惑かな? その筋から何か申して来た場合が案ぜられるかな?」と言った。
「いえ、猊下《げいか》、私はこのご命令書を大切に保存しておきます」とベーズモーは言った。「万一これが発見され身の破滅にでもなりました場合は、あなた様が有力な最後の保護者となってくださるでしょうから」
「君の共犯者になるのはご免だな」とアラミスは答えて、肩をそびやかした。そして、「さあ、お別れだ、ベーズモー!」と言った。
馬車の馬は、車台を揺り動かしながら、待ちくたびれていた。
ベーズモーは石段の下まで、司教を見送った。
アラミスは同行者を先に乗せ、自分も続いて乗りこむとただひとこと御者に、
「さあ、やれ」と言いつけた。それ以外には何も指図しなかった。
馬車は構内の石畳《いしだたみ》の上を音を立てて走った。松明《たいまつ》を持った一人の士官が馬の前に立って、彼らの通行を許すように、近衛兵《このえへい》に命令を伝えた。
諸所の柵門《さくもん》をあけるのに、だいぶ手間取ったが、そのあいだアラミスはじっと息をこらして、その胸の動悸《どうき》が聞こえるほどだった。
囚人も馬車の一隅にうずくまって、自分の居所を知らせないようにしていた。
ついに、今までよりも激しく馬車が揺れて、最後の堀を渡ったことがわかった。馬車の後ろで、最後の城門、サン・タントワンヌの城門が締まった。もう右にも左にも城壁はなかった。至る方向に大空が見え、至る所に自由があり、至る所に人の生活があった。馬は力強い手に御《ぎょ》されながら、郊外の中ほどまで静かに進んで行ったが、そこからは速歩となった。
馬がたけるためか、御者が鞭《むち》打つためなのか、馬車はだんだんと速力を増した。ベルシーを過ぎるころから、馬車はさながら宙を飛ぶようだった。こうしてヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュまで行くと、そこに替え馬が用意してあった。それからは、今までの二頭が四頭になって、馬車はムランの方面に走って行った。そしてセナールの森のまん中でちょっととどまった。御者はあらかじめ指図を受けていたとみえて、アラミスは合図一つする必要はなかった。
「どうしたのですか?」と若者は長い夢から覚めたように尋ねた。
「殿下、先までまいらぬうちに、殿下とご相談申し上げる必要があるのでございます」とアラミスは行った。
「その機会を待ちましょう」と若い王子は答えた。
「いや、殿下、ただいまのような絶好な機会はございません。この森のまん中には、我々二人だけでございます。どこにも我々の話を聞く者はありませぬ」
「御者は?」
「この御者は耳が聞こえないのでございます」
「それでは、あなたの言うとおりにしよう」
「この馬車の中のほうがよろしゅうございますか?」
「そうだ。坐《すわ》り心地がいい。私はこの馬車が好きだ。私を自由にしてくれたのも、これだからね」
「お待ちください。殿下。今一つ用心しなければならぬことがございます」
「それは何です?」
「ここは街道のことで、騎馬の者や、我々のような馬車が通らぬとも限りませぬ。我々の馬車に何か故障でも起こったかと思って、手を貸そうなどと申し出されては、かえって迷惑でございます」
「それでは、馬車を横道に引き入れるように御者に言いなさい」
「殿下、私もそう考えておりました」
そこで、アラミスは聾唖《ろうあ》の御者の肩をたたいて合図をした。御者は地上に飛び降りると、馬の轡《くつわ》を取って、とある曲りくねった小径《こみち》の苔《こけ》の上、ビロードのようなヒースの生えている中に、馬車を引っぱりこんだ。月のない晩だった。雲はインキの染みよりも黒い帳《とばり》をつくっていた。
御者はそこの勾配《こうばい》の上に横になった。彼の側では馬が左右のどんぐりから出た若芽を引き抜いていた。
「さあ、聞きましょう」と若い王子は言った。「だが、あなたはそこで何をしているのだ?」
「いや、殿下、私は拳銃《けんじゅう》をはずしておるのでございます。もう今となっては、これも不要になりましたから」
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一五 誘惑者
アラミスは馬車の中で、その同乗者に向き直って、言った。
「殿下、私はこんなか弱い人間で、才知も勝れず、社会の階級も、卑しい者でございますが、他人と話をいたしますときには、人間の知性を反映します。その顔の動きを見まして、いつも相手の心の底を見抜いております。ところが、今晩、あの薄暗い物陰から、十分あなた様を観察いたしましたが、私はあなた様のお顔から何も読み取ることはできませぬ。これでは、あなた様からまじめなお言葉を引き出すことができないのではなかろうかと、実は危ぶんでおるしだいでございます。私がこれから申し上げますことは、今まで世間にもれたこともないほど、重大な意味と価値を持っております。こうした非常に重大な問題でございますから、なにとぞ、一言半句をもお聞きもらしのないようにお願いいたします。これは私自身のためにお願いするのではございませぬ。殿下ご自身のためにお願いするのでございます」
「聞いています」と若い王子は心を決したように繰り返して言った。「虚心坦懐《きょしんたんかい》に、また何の恐れるところなく、君の話を聞きましょう」
こう答えて王子は、ふかぶかと馬車の厚いクッションにからだを埋めた。そして同乗者の方を盗み見ようとしたが、その姿はもちろんのこと、アラミスがそこにいるかどうかもわからなかった。
宵闇《よいやみ》は枝を交えた樹々の頂《いただき》から垂れこめて、あたり一面暗かった。厚い木立ちにおおわれた馬車の中へは、わずかな光線すらささなかった。森の小径には、夜霧が立ち始めていた。
「殿下」とアラミスは再び口を開いた。「殿下は現在フランスを支配している王政の歴史をご存じでございましょう。現国王は殿下と同じく、ご幼少から艱難辛苦《かんなんしんく》を重ねられた方でございます。ただ、殿下と違って、牢獄《ろうごく》における奴隷的な、日陰のご生活はなさいませんでしたが、その代わり、輝ける王位を践《ふ》まれてからも、さまざまな辛酸や屈辱を、お忍びにならなければならなかったのでございます。国王は、これを今でもご無念におぼしめされて、なんとかして復讐をしようと、お考えになっております。すなわち暴君になろうとお考えになっております。こう申してもルイ十一世や、シャルル九世のように、下々の血を流そうとはなさいませぬが、人民の富と資源を取り上げようと考えておられます。それはご自分が物質上の損害を被られたからのことでございます。それゆえ、私は現国王の功罪を公然と非難攻撃いたしましても、けっしてうしろめたきことはございません。それは私の良心にやましきことがないからでございます」
アラミスはしばらく語るのをやめた。それは森の静寂がまだ破られずにいられるかどうかと、耳を澄ますためではなかった。自分の心の底にある考えをまとめ、自分の言葉が、相手の胸に深く食いこむのを待つためであった。
「神はその業を必ずなすと申します」とアラミスは言葉を続けた。「私はこれを信じて疑いませぬから、神によって殿下をお助けして、あばいた秘密の保管者に選ばれたことを神に感謝しております。正義の神にとって、偉大なる天業をなし遂げるためには、鋭敏で、しんぼう強い、確信のある人物が必要であって、私こそ、その人物でございます。私は鋭敏で、しんぼう強い、確信を持った男でございます。私は『永遠なるがための忍耐』という、神の銘句を標語とする神秘な民草《たみぐさ》を支配しているのでございます」
王子はうなずいた。
「殿下」とアラミスは言った。「私は殿下が毅然《きぜん》たる威容をお示しになれば、私が支配しております民草が、殿下のお姿に必ずや感激すると考えております。殿下はまだご存じないでありましょうが、私は王者の威力を、この民草の上にふるっております。ああ! 殿下、この王者こそつつましい人民の王者であり、相続する者もなき人民の王者なのでございます。と申しますのも、この人民が平身低頭してばかりいて、自分のまいた穀物の収穫もできず、栽培した果実も口に入れることができないからでございます。人民は一つの理想のために働き、一人の指導的人物を作り上げるために、その全力を合わせます。この人物こそ全キリスト教信者の王冠の輝きに、金色|燦然《さんぜん》と照らし出された人物でございます。殿下、殿下のおそばに控えているのは、こういう人物でございます。こういう人物が、一大目的のために、殿下を深淵の底から引き揚げたのでございます。またこの大目的のために、彼は殿下を、もろもろの地上の権力よりも上に、彼自身よりも上に引き揚げたいと考えているのでございます」
王子は軽くアラミスの胸に手を触れて、言った。
「あなたは自分が管長となっている教団のことを言っているのですね。私にとっては、あなたの言葉は結局こういうことになる。あなたが自ら引き揚げた人物を顛覆《てんぷく》しようと思うときが、事が成るときだ、ということになる」
「殿下、お考え違いをなさってはいけませぬ。私が殿下とご一緒に、この恐ろしい大勝負を決行いたしますのは、二重の利害関係があればこそで、さもなければ、最初からこのような冒険はあえていたしませぬ。殿下はいったん高い所に引き揚げられれば、永久にいつまでもその地位におとどまりになるので、高い所にお上りになるときに、踏み台をけ倒して、遠くにころがしておしまいになればかまいません。そうなされば、踏み台をご覧になっても、その厄介《やっかい》になったことを二度とお思い出しになることもございますまい」
「ああ! そんなことは!」
「殿下、殿下のご立派な性質は、よくわかっております。まことにありがとう存じます。しかし、私は感謝以上のものを望むのでございます。頂上におのぼりになれば、殿下はさらにいっそう、私を味方とするほうがよいとお考えになると、私は信じておるのでございます。それからはじめて、殿下と私とで、長く後世までの語り草となるような、大事業を行なうことができるのでございます」
「詳しく言ってください。言葉に衣《きぬ》を着せずに、はっきりと言ってください。私が今日何者であるか、そして明日君が私を何者にしようと考えているのか、隠さずに言ってください」
「では申し上げます。殿下はルイ十三世の王子であらせられます。ルイ十四世の御兄君であらせられます。されば当然フランスの王位を継ぐべきお方であります。しかるに、弟君である、現国王は殿下を排して、正当の君主たる権利をご自分に保留せられたのでございます。はたしていずれが嫡出《ちゃくしゅつ》でいらせられるか否かを議論できますのは、神と侍医たちばかりでございます。ところが侍医たちはつねに、現在の王位にない国王よりも、現在の国王に味方いたします。神は一人の誠実な人物を悲運の底におとしいれ給うたのでございます。殿下が迫害をお受けになったのは天意でございますが、この迫害がかえって幸いして、今日殿下がフランス国王になられるご資格を得られたのでございます。王位継承のことが議せられたところを見ますと、殿下は王位を継ぐ権利をお持ちになったのである。また殿下をお隠し申したところを見ますと、殿下の国王たる権利をお持ちになったのである。それに何人《なんぴと》もあえて殿下の血をお流し申さなかったことは、殿下が王統のご血筋でいらせられる証拠でございます。今まで殿下はしばしば神をお恨みになりましたが、神がこれに対し何を報いられたかは、おわかりでございましょう。すなわち、神は殿下に、弟君と同じご容貌《ようぼう》や、身体つきや、年齢をあたえ給うたのでございます。殿下が迫害をお受けになった原因こそ、やがては、華々しいご復活の原因となるのでございます。明日、いや明後日から、現王ルイ十四世は、神意を行なう人間の手で王位から引きおろされ、殿下がルイ十四世の生ける影、国王の幻として、これに代わって王位におつきになるのでございます」
「わかった。では弟の血を流すわけではないのだな」と王子は言った。
「あの方のご運命については、殿下だけが審判者となられるのでございます」
「彼らが私に対して悪用した秘密は?」
「その秘密を今度は殿下がご利用なさるのです。弟君はその秘密を隠すために何をなさいましたか? あの方は殿下を人の目より隠されたのでございます。それゆえ、殿下はあの方の生ける影像となって、宰相《さいしょう》マザランや、母君アンヌ・ドートリッシュ様の奸計《かんけい》の裏をおかきにならねばなりませぬ。殿下が国王のあの方に瓜《うり》二つでいられるように、あの方も囚人だった殿下に瓜二つでいられるのでございますから」
「そうすると、誰が弟を保護するでしょう?」
「殿下、誰があなた様を保護いたしましたか?」
「君はこの秘密を知っている。そしてこれを私のために利用した。まだ君のほかに、これを知っている者がいますか」
「大妃殿下と、シュヴルーズ夫人でございます」
「この二人はどうするでしょう?」
「どうして殿下をお見分けすることができましょう? 殿下さえお気をおつけになれば」
「なるほど。だがもうひとつ重大な故障がある」
「何でございますか? 殿下」
「弟には妃がある。私は弟の配偶者を奪うわけにはいかぬ」
「造作もないこと。スペインを説いて、離婚を承諾させます。それは殿下の新たな政策のためにもなりますし、人道にかなったやり方でもございます」
「幽閉された王の口からもれたときは?」
「誰にでございますか? まさかそのときには、私の信頼する人物を、その周囲に付き添わせます。殿下、それに……」
「それに……」
「天業は必ずしも正々堂々と行なわれるものではありませぬ。このような大計画は、あたかも幾何学の計算のように結果をまって、価値がきまるものでございます。殿下は幽閉中の国王について、お心を労されることはございません。神のおぼしめしが殿下を王位にのぼらせ、殿下にとって不利な、あの方を破滅に導こうとしていますならば、必ずや神は、あの方の苦痛と、殿下の心労とを同時に絶やすようになさいましょう。それゆえに、あの方の魂も肉体も、わずかの期間しか、苦しまぬようにできております。無名の一個人として幽閉せられた殿下は、よく困苦にお耐えになりましたが、弟君が牢獄につながれることになりますれば、永らくその災厄に耐えることはできませぬ。神はあらかじめ定めたときに、すなわち間もなく、あの方の魂を召されるのでございます」
アラミスがここまで話してきたとき、森の奥から、夜烏《よがらす》が生きとし生けるものをふるい上がらせるような、物悲しげな、長い鳴き声をあげた。
「私は魔王を追放しよう」とフィリップは身をふるわせながら言った。「そのほうが人情にかなっている」
「それは国王となられましたうえでのおぼしめし次第でございます」とアラミスは答えた。
「しかし、ただいま私が申しあげましたことは、殿下の希望にそい得ましたか? 殿下の明察にかないましたでしょうか?」
「うむ。君の考えには少しも遺漏《いろう》がない。しかしただ二つのことが落ちているが」
「その第一は?」
「率直に話してほしい問題は、君が今話した希望をくつがえす原因となるもの、我々が出会わねばならぬ危険のことだ。これについて話してみてください」
「それは非常に大きな、限りない、恐ろしいものでございますが、今申し上げましたとおり、万事が都合よく運んでおりますので、それを勘定に入れる必要はございません。殿下が弟君と瓜二つであらせられるように、あの方の忍耐と勇猛心をお持ちになれば、殿下にも私にも危険はございません。しかし、危険はありませんが、ただ障害があるのでございます。この障害という言葉は、どこの国の言葉にもございますが、私には理解できませぬ。私が国王でしたら、不合理で無用なるものとして抹殺してしまう言葉でございます」
「そうだ、非常に大きな障害がある。君が忘れている越えがたい危険がある」
「ほう!」とアラミスは言った。
「それは良心の叫びだ。いつまでも絶えぬ悔恨《かいこん》だ」
「いかにも、そうでございましょう」と司教は言った。「殿下はお心が弱い。なるほど、これは大きな障害でございます。溝を恐れる馬は、かえって溝の中に落ちて死し、ふるえながら剣を交える者は、かえって敵の刃にかかって倒る、と申します」
「君は兄弟がありますか?」と若者はアラミスに言った。
「私は世の中に唯一人でございます」とアラミスは拳銃の引き金のような、ひややかな力強い声で答えた。
「だが、誰か愛する人があるでしょう?」とフィリップは言い足した。
「一人もございませぬ! いや、私は殿下を尊敬しております」
若者は深い沈黙におちいってしまった。その息づかいだけが、アラミスの耳に、大きな音となって聞こえた。
「殿下」とアラミスは再び口を開いた。「私はまだ殿下に申し上げることがございます。まだまだ私には殿下のおためになる意見や、有効な手段が残っております。私はけっして、木陰を好む人の目に激しい光線を当てたり、休息と野原を愛する、やさしい人の耳に、いかめしい大砲のとどろきを響かせたりするものではありませぬ。殿下、私はどこまでも、殿下の幸福を念頭におくものでございます。どうぞ私の申し上げることを、よくお聞きください。それは澄み渡った空と緑の野と清い空気とに、あこがれを持っていらっしゃるあなた様にとって、大切な事柄でございますから、よくお聞きください。私はある快楽の国、知られざる天国、世界の一隅を存じております。そこには、森があり、花があり、流れがあります。そこでは、まったく自由で、人に知られずに過ごせます。そしてあなた様はまもなく浮き世の悲惨なこと、人間のばかげた騒ぎをお忘れになることができましょう。ああ! 殿下、私の話をよくお聞きください。私は、冗談口をきいているのではございませぬ。私にも人間の魂がございますので、お心の中はよく推察しております。私は自分の意志や、自分の気まぐれや、自分の野心の坩堝《るつぼ》の中に、殿下を投げこもうために、お気の進まぬことをお勧めするのではございません。あくまでもおやりになるか、全然おやめになるか、どちらかにいたしましょう。殿下は自由になられてから、急に大きく呼吸されたので、お気がくじけ、病気になり、お弱くなられたようでございます。私には、殿下がもう大きく、長く呼吸することを、好まれぬように思われてなりません。殿下はもっと地味な生活を、もっとお力に適した生活を、お選びになりたいのでございますか? 私は殿下を今までずいぶんお苦しめ申し上げましたが、やがては殿下が幸福になられるようにひたすら願ってやまぬものでございます。神は私を看護《みと》っておられます。そして私はこの神の力にすがって事を進めたいのでございます」
「話してみてください! 話してみてください!」と王子は嬉《うれ》しそうに言った。アラミスはこれを見のがさなかった。
「私はバ・ポワトゥーに誰も気づかぬ別天地のあるのを存じております」と司教は言った。「二十リウ四方もある場所でございます。いかがです、広いものでございましょう? 殿下この二十リウもある場所が一面、水と雑草と灯心草でおおわれておりまして、その中にはところどころに樹のこんもりと茂った小島があるのでございます。それに厚いマントのように葦《あし》でおおわれた、大きな沼池が、ほほえむ太陽の下で、ひっそりと深い眠りをむさぼっているのでございます。ここには数家族の漁師が、ポプラと榛《はん》の木で筏《いかだ》を造って住んでおりますが、この筏の家の床は葦ででき、その屋根は丈夫な灯心草で編んでございます。こうした小舟、水に浮かぶ家は、風のまにまに、当てもなく流れて行き、たとい偶然に岸にぶつかっても、そのぶつかりようがあまり柔らかなので、家の中で眠っている漁師も目を覚まさないほどでございます。漁師はたくさんの水鶏とか鳧《けり》とか鴨《かも》とか、千鳥とか、田鴨《たがも》とかを、罠《わな》や鉄砲で捕《と》りますし、また、銀色の鱒《ます》とか、大きな鰻《うなぎ》とか、生きのいい|かます《ヽヽヽ》とか、薔蔽《ばら》色と灰色の鱸《すずき》とかが、どっさりと漁師の網にかかるのでございます。ですから太った大きいものだけを取って、あとは捨ててしまえばよろしいのです。この場所には、町の者も兵士も、誰一人としてはいったことがございません。そこでは太陽は穏やかに照り輝き、こんもりとした繁みには、葡萄《ぶどう》の木が生えていて、黒や白の美しい房が枝もたわわになります。週に一度は、小舟が共同のパン焼竈《やきがま》に、いい匂《にお》いのする黄色い温かいパンを、取りに行くのでございます。殿下がそこにいらっしゃれば、太古の人のようにお暮らしになれます。葦の美しい家にお住まいになり、尨犬《むくいぬ》を飼い、釣り竿《ざお》と猟銃を手にせられて、猟や魚釣りをお楽しみに、安らかな一生をお送りになるのもよろしいでございましょう。殿下、この袋の中に金貨が千枚ございます。これだけございますれば、今お話しいたしました沼地全部をお買い求めになって、一生を安楽にお過ごしになることができましょう。この土地ほど肥《こ》えた、自由な、幸福な場所はほかにございますまい。この袋をさし上げますから、快くお納めくださいまし。今すぐ馬車馬のうちの二頭を引き離させますから、それにお乗りください。あの聾唖《ろうあ》の御者が、昼間は眠り、夜になると馬車を走らせ、私がお話しいたしました土地までご案内いたします。これで私も、殿下にご奉公ができたと思えば、満足でございます。これで、私はあなた様を幸福にいたすことができるでございましょう。これはあなた様を力強い方にお仕立て申すより、天意にかなったことかもしれませぬ。力強い方にすることは、非常にむずかしいことでございますから! さあ! 殿下、ご返事をうかがいましょう。金はここにございます。ご躊躇《ちゅうちょ》はご無用です。ポワトゥーにいらっしゃれば、何の危険もございませんし、金貨さえおやりになれば、たとえ熱病におかかりになっても、土地の魔法使いが治療をいたしましょう、それに引き換えて、今一方の道をお選びになれば、王位にのぼられてから、暗殺されたり、牢獄の中でくびり殺されたりする危険におあいにならないとも限りません。いや、私もこの二つを比べて考えますると、自分にもいずれを選んでよろしいやら、ちょっと決心がつきかねます」
「返事をする前に」と若い王子は答えた。「私を馬車から降ろして、少し歩かせてください。心の底から湧《わ》き出てくる、天来の声に耳を傾けて、それから決心をつけましょう。十分間でよろしい。十分たったら、返事をしましょう」
「殿下、どうぞお心のままに」とアラミスはうやうやしく一礼をしながら言った。そしてその声は、いかにも重々しく、いかめしいものだった。
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一六 未来の国王と法王
アラミスは王子より先に降りて、あけた扉をおさえていた。彼は、王子が全身をふるわせて、苔蒸《こけむ》した地面に足を着け、それからよろよろした足どりで、馬車の周囲を歩くのを見た。可哀そうな囚人はまだ人々が踏む大地を踏むことに慣れないようだった。
それは八月十五日の夜の十一時ごろだった。嵐にでもなりそうな厚い雲が、空一面にひろがって、星一つ見せなかった。輪伐樹林の小径《こみち》の端に、浮き出た暗い灰色の影は、しばらくあたりを見回していたが、やがてこの真の暗闇《くらやみ》の中で、ひとり物思いにふけった。草から昇る匂いとか、槲《かしわ》の木が放つもっとしみとおるようなすがすがしい香りとか、何年振りかではじめて王子を包んだ、暖かで柔らかな外気とか、こうした田舎の自由な、得も言われぬ快楽は、今まで長いあいだ、禁じられていただけに王子にとっては、何と魅力ある喜びだったろう。彼は感情をおさえることもできないで、思わず歓喜の溜息《ためいき》をもらした。
それから、王子はそろそろと重くなった頭を上げて、幾層にもなった空気を呼吸した。そうするにしたがって、その匂いが彼を元気づけ、彼の顔も清々《すがすが》しくなった。胸のあたりに両腕を組んだ王子は、この新たな幸福で胸がいっぱいになってしまうのを恐れるように、高い森の円天井《まるてんじょう》の下で、夜気をさもうまそうに幾度か吸いこんだのだった。彼の眺める大空、どこからか聞こえてくる水の音、天地に満つるこの清新さ、これはことごとく現実ではないか? この世の中に、夢みる何物かがほかにあると信じているアラミスは狂人ではなかろうか?
何の不安も、また何の恐怖も苦労もない、田園生活の酔わせるような光景とか、あるいは、若き夢想の前に絶えずきらきらと輝く幸福な数多き日とかは、バスチーユ牢獄《ろうごく》で顔色|蒼白《そうはく》の、からだもそこねた、不幸な囚人にとってはほんとうに力強い魅惑であったに相違ない。アラミスが馬車の中に入れてきた金貨千枚と、人目に隠された、ポワトゥーの人無き別天地とは、正しく、王子の前に並べられた魅惑であったのだ。
アラミスは、フィリップが嬉しそうに、足音も立てないで歩いて行く後を、気づかわしげに追いながら、王子がだんだんと深い瞑想《めいそう》にふけっていくのを見て、そんなふうに考えたのであった。
事実、夢中になってしまった若い王子は、もはや足も地についていなかった。王子の魂は、すでに神の御足の下に飛んで行き、この生死にかかわる煩悶《はんもん》のときに際して、一条の光明を見出そうとして、祈祷《きとう》を捧げていた。
このときぐらい、アラミスが心配もし、当惑もしたことは、かつてなかった。いかなる障害をも打ち破る、鉄石の意志を備えた彼であるのに、微風にそよぐ木の葉のような、自然界の風物が、人間の心におよぼす影響を予想しなかったばかりに、一世一代の大計画に失敗するとなれば、なんたる運命の皮肉であろう!
アラミスはフィリップの胸中に起こりつつある煩悶を思って、大きな不安にかられて、一ところに立ち尽くしていた。この不安な気持は、王子が要求した十分のあいだ続いた。そのあいだ、フィリップは悲しげで、心配そうな眼つきで空の方を眺め続けていた。アラミスは燃えるような鋭い視線を一瞬間もフィリップから放さなかった。
すると、とつぜん若者の頭ががくりと前にたれた。彼の眼つきは冷酷になり、額には皺《しわ》が寄り、凶暴《きょうぼう》な勇気で口が曲がった。やがて、その眼は一ところを見つめるようになったが、ちょうどそれは地上の楽園と権力とをもって、キリストを誘惑しようとした魔王の眼つきに、そっくり似ていた。
暗く曇っていたアラミスの眼は、再び暖かみを取り戻した。そのとき、フィリップはあわただしく、神経質に司教の手を握って、叫んだ。
「さあ! フランスの王冠の手にはいる場所に連れて行ってください!」
「それが、殿下のご決心ですか!」とアラミスは聞き返した。
「そうだ。これが私の決心だ」
「まちがいなくそうでございますか?」
フィリップは返事もしようとしなかった。彼はきっとして司教を見つめていた。その眼の中には、はたして司教が彼のために、決起してくれるかどうかをただす色を見せていた。
「その御顔つきには、自然と殿下のご気性が現われております」とアラミスは王子の手の上に頭を下げて言った。「殿下は必ずお偉くおなりになります。私が保証申し上げます」
「話を続けよう。私は二つの点を君と相談したいと思った。第一に我々の出会う危険、または障害。これはもう話がすんだ。もう一つは、君が私にどういう条件をつけようと考えているのか。さあ、それを聞かしていただきたい」
「殿下、条件とおっしゃいますが?」
「もちろん。君はくだらぬことで、私を躊躇《ちゅうちょ》させてはいけない。私は君がこの事件に何の利害をも持たないとは思わない。だから、遠慮なく、率直に実際のところを話してください」
「では、お話しいたしましょう。殿下が国王におなりになれば……」
「それは、いつのことです?」
「明日の夕方のことでございましょう。いや、明日の夜でございます」
「もっとよく説明してください」
「それには、殿下に質問しなければなりませぬ」
「では質問してください」
「先日、私は殿下まで腹心の者をつかわして、詳細の覚え書きをお渡しするように申しつけましたから、定めてお目を通されたことと存じます。あれをご覧になれば、殿下の宮廷を組織している人物のことが、すっかりおわかりになると存じます」
「あの覚え書きは全部目を通した」
「よく念を入れてお読みでしたか?」
「暗記するほど、よく読んだ」
「で、よくおわかりでございますか? まことに失礼でございますが、バスチーユからお出になったばかりの殿下でいらせられればこそ、お尋ね申すのでございます。今から一週間の後には、殿下のような御聡明《ごそうめい》な方に、もう質問を試みることなどは不要でございます。そのときは、殿下は完全に、自由と権力とをおもちになられます」
「それでは、何なりと質問してください。生徒が教師の前に出てやるように、いちいち答えてみましよう」
「では殿下、まずご一族から始めましょう」
「母上はアンヌ・ドートリッシュ。いろいろとご心痛をあそばされている。それに持病の持ち主であらせらる。ああ! あの母上を覚えている! よく覚えている」
「では弟君は?」とアラミスは頭を下げて尋ねた。
「覚え書きに非常によく描いた、肖像画を添えてあったし、私は君が詳細に、性格や経歴や習慣を記載してくれた人たちを、一目で見定めることができる。弟は美しい栗色の髪を持ち、その顔色は青い。彼は妃のアンリエットを愛していない。だが、ルイ十四世であるこの私は、なおも彼女に少し執着している。たとい女官のラ・ヴァリエールに暇を出すように彼女が言って、私に悲しい思いをさせたとしてもだ」
「そのラ・ヴァリエールにはご用心なさらなければなりません」とアラミスは言った。「彼女は真剣に現国王を愛しておりますから、婦人の愛の眼は、容易に欺《あざむ》けるものではございません」
「彼女は金髪で、青い眼を持っている。そのやさしい眼ざしから、彼女であるということがすぐわかる。彼女は少し足をひきずる、私のもとに毎日手紙をくれる。私はサン・テニャン伯爵に託して、この返事を出すことになっている」
「サン・テニャンをご存じでございますか?」
「会ったも同様だ。最近にこの人物が私のために作った詩も、私が答えた詩も覚えている」
「よろしゅうございます。それでは財務官をご存じでございますか?」
「コルベールか、陰鬱《いんうつ》な、醜男《ぶおとこ》だ。しかし頭はいい、髪が額にかぶさっている。大きな、がっしりした頭。フーケの大敵だ」
「フーケのことは、ご心配になる必要はございません」
「そうだ、当然君は、彼の追放を求めるだろうから」
アラミスはこの一言に驚いて、言った。
「殿下はほんとうにお偉くおなりあそばすでしょう」
「このとおり、私は自分の日課を暗記している。神が加護し給い、それからあなたが力を貸してくれれば、万々失敗はないと思う」
「が、まだもう一つ難物《なんぶつ》がございます」
「そうだ。君の親友のダルタニャン、銃士長の」
「さようでございます。いかにも、私の親友でございます」
「ラ・ヴァリエールをシャイヨーまで送って行った人。まめまめしく母上につかえた人。フランスの王宮に、非常な功労のあった人。この人をも君は追放してくれというのだろうか?」
「いや、けっして追放してくださいとは申しませぬ。ダルタニャンには、いずれ時機を見て、いっさいを打ち明けようと考えております。しかし、殿下、ご油断をなさってはなりませぬ。こちらから打ち明けぬうちに、この陰謀を嗅《か》ぎつかれますと、殿下か私が、どちらかが殺されるか、捕縛《ほばく》されます。実に腕の冴《さ》えた人物でございます」
「それはよく考えてみよう。では、フーケのことを話してください。あの大臣をどうしようと思ってるのですか?」
「ちょっとお待ちください。殿下、もう少しおうかがいしたいことがございます」
「それが君の義務だ。いや、義務というより権利だからな」
「フーケ閣下のお話をする前に、いま一人の友人のことが心配なのでございます」
「デュ・ヴァロンのことか? あのフランス一の剛の者の。あの男のことは保証する」
「いえ、私の申しますのは……」
「では、ラ・フェール伯爵のことですか?」
「それから、彼の倅《せがれ》。これは私たち四人の息子でございます」
「ラ・ヴァリエールを死ぬほど恋している若もの。私の弟に自分の恋人を無理やりに奪われた男! それは安心なさい。元どおりに幸福にしてやる方法もあるだろう。ただ一つ、私が尋ねたいのは、男が女を愛している場合、女に裏切られても、女を忘れぬものだろうか? 裏切った女を許すものだろうか? これはフランスの習慣ですか? それとも人情の法則ですか?」
「ラウールがラ・ヴァリエールを愛しておりますように、深く婦人を愛している男は、結局はその婦人の過失や罪を許すものでございます。もっとも、ラウールが思いあきらめることができますかどうかは、私にもわかりません」
「何とか考えよう。そのほかに友人のことで、何か言っておくことがありますか?」
「これだけでございます」
「それでは、フーケのことだ。君の考えは?」
「今までどおり、大蔵大臣にしておいていただきとう存じます」
「よろしい! だが現在フーケは宰相《さいしょう》の格式になっているが」
「それほどの勢力はございません」
「しかし私が国王になった場合、何も存ぜぬし、いろいろとまごつくだろうから、宰相は必要だろう」
「殿下には味方が必要ではございませぬか?」
「味方は一人しかおらぬ。それは君だ」
「いま少したちますれば、味方の人数もふえると存じます。しかし私ほど殿下のご繁栄のために、熱心で、献身的な者はほかにございませぬ」
「私は君を宰相にしよう」
「いや、すぐではいけませぬ。世間の疑惑を招く恐れがございます」
「お祖母《ばあ》様のマリー・ド・メジシスの宰相リシュリウも、初めは君がヴァンヌの司教であると同じように、リュソンの司教にすぎなかったな」
「殿下は私からさし上げました覚え書きを、まことによくご研究あそばしました。ご聡明のほどは感激に耐えません」
「リシュリウが王妃の保護によって、まもなく大司教となったことも、私は知っている」
「私も大司教に任命くださってからでなければ、宰相にしていただかぬほうがよろしいかと存じます」とアラミスは頭を下げて言った。
「デルブレー、二か月とたたないうちに、君を大司教にしてあげよう。しかし、これは些細《ささい》な問題だ。それ以上のことを要求してもかまわない。大司教だけで、君は満足しないだろうからな」
「それでは、いま一つお願いいたしたいことがございます」
「言ってご覧なさい!」
「フーケ閣下も、ぐっと年をとりましたから、長らく政務をみるわけにはいきません。彼は政務のかたわら、その身体に余っている元気で、気晴らしをするのが好きでございます。しかしこの元気には必ずや心労や病気を伴うものでございます。そこで我々は彼の心労を取り除いてやりたいと思います。と申しますのは、彼が義侠《ぎきょう》の男であり、気高い心の持ち主であるからでございます。しかし、彼の病気は救うわけにはまいりません。こういうわけで、あなた様はフーケの負債をことごとくお支払いくださいまして、国家の財政を健全な状態に回復あそばされましたらば、フーケ閣下は詩人や画家に取り巻かれて、申さば、小さな宮廷の王として立って行くことができるでございましょう。彼も我々のおかげで裕福となりましょう。そのとき、私は殿下の宰相となりまして、殿下と私自身の利益を考えることにいたしましょう」
若い王子はじっとアラミスを見つめた。
「ただいまリシュリウの話が出ましたが」とアラミスは話を続けた。「彼はいつも単独でフランスを統治しようと考えておりましたが、そもそものまちがいでございました。彼は二人の王、すなわちルイ十三世と彼自身を、同一の王座につかせたのでございます。がしかし、これは別々の二つの王座にすえたほうがよろしかったのでございます」
「二つの王座に?」フィリップは物思いにふけりながら言った。
「キリスト教に深く帰依《きえ》されました、国王のご寵愛《ちょうあい》とご支持により」とアラミスは静かに話し続けた。「実際に、大司教がフランスの宰相になりまして、国家の財宝と兵力を自己の手中に収め、その偉大なる実力をフランス一国に用いるといたしますれば、これは不当の上に不当を重ねたことになります。それに殿下は」とアラミスはフィリップの心の奥まで見通すように、付け加えて言った。
「御父君のような華奢《きゃしゃ》で、優柔不断な国王ではなく、ご自分の頭脳と剣とをもって、国をすべられる国王に、おなりあそばしましょう。すなわちご自分の実力のみで、殿下は国家を統治あそばされるでございましょう。私などの力をお借りになる必要はございますまい。それに、殿下と私との間柄は、秘密の考えのために、そのあいだに軋礫《あつれき》があってはいけません。私は殿下をフランスの王座におつかせ申します。そして殿下は私にサン・ピエールの王座をお授けくださいませ。こうして殿下と私とが、しっかと互いに手を握り合って、協力いたしますれば、シャルル五世や、シャルルマーニュ大帝の宏業も、殿下のご規模のなかばにすら達することができますまい。私は何一つとして盟約などは結んでおりませぬし、偏見などは持っておりません。ですから、異教徒の迫害から殿下をお護りすることもできましょうし、また殿下をして御血族の確執よりお救い申し上げることもできると信じます。『私は二つの世界を我々二人にあたえよ。霊魂の世界は私に、物質の世界は殿下に』と申したいのでございます。そしてもし私が先に亡くなりましたら、殿下が私の後を継いでいただきます。殿下、どうおぼしめしになりますか、この私の計画を?」
「なるほど、私も嬉《うれ》しいし、満足です。これというのも、君の人柄がよく理解できたからです。デルブレー司教、私は君を大司教にしてあげよう。そして大司教になったら、私の宰相に用いよう。それから君が法王に当選するために必要な手続きを教えてさえくれれば、私はその手続きを取ろう。どんな保証でも自由に要求してください」
「その必要はございません。私はただ殿下が何ものかをつかまれることを希望しているものであります。殿下が最高の地位につかれないかぎり、私は自分も出世しようとは考えておりませぬ。殿下のご羨望《せんぼう》を避けるために、また殿下のご利益をはかり、殿下のご友情に心を配るために、私はいつも殿下と一定の距離を保つつもりでございます。およそ契約と申すものは、それによってあたえられる利益が、当事者の一方にかたよるために、とかく破れやすいのでありますが、殿下と私の場合は、けっしてそういうことはございません。私は保証を辞退いたします」
「それで……私の弟は姿を消してしまうのですね?」
「すこぶる簡単に、指でちょっと押せば、床板が落ちる仕掛けになっておりまして、この仕掛けで、おやすみ中に他に移ってしまいます。おやすみになるときは立派な国王で、お目が覚めれば捕われの身でございます。そのときから、殿下だけが元首になられるのでございます。そうなりましたなら、殿下は私をおそば近くにおおきになるのが、何より大事でございます」
「私もそう思う。私は手をあげて誓います」
「殿下の前にひざまずくことをお許しくださいませ。殿下が国王の冠を、私が法王の冠を、それぞれ頭にいただく日がまいりましたら、殿下を抱擁《ほうよう》することをお許しください」
「いや、今日も抱擁してください。そして私のために、ますます偉大な、ますます老練な、ますます卓越した才能を働かせてください。どうか私のよき父親になってください!」
アラミスは、王子の言葉を聞いて、感に耐えられなくなった。心の中に、今まで経験したこともない感情を覚えたような気がした。しかしこの印象もすぐと消え去った。
「この王子の父か! そうだ、私は聖父だ!」と彼は心の中で言った。
かくて、二人は再び馬車に乗った。馬車はヴォー・ル・ヴィコントの街道を非常な速力で走って行った。
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一七 ヴォー・ル・ヴィコント城
ムランの町から一リウほどの所にある、ヴォー・ル・ヴィコント城は一七三五年にフーケによって建てられた。そのころ、フランスにはまったく金銀がなかった。マザランが全部使い果たしたのに、その残りをフーケが浪費したからである。しかし人というものは、多くの欠点を持っていると同時に、また有利な短所を持っているものである。フーケはこの宮殿の造営に幾百万の金銀をばらまいたが、そのために三名の勝れた人物を傘下《さんか》に集めることができた。すなわち、建築家のルヴォーと、庭園を設計したル・ノートル、それに部屋の装飾を受け持ったル・ブランである。
ヴォー・ル・ヴィコント城、その人像柱《カリヤチード》でささえた壮麗な柵門《さくもん》をくぐって行くと、見事な石の欄干をめぐらしてある、深い堀で囲まれた、広大な庭に臨んだ本館の正面に出る。王座につける王者のごとく、踏段の上に位する中央突出部は高雅そのもので、四隅に亭が一つずつ設けられてある。そしてそのイオニア式の雄大な円柱は、本館と同じ高さに厳然とそびえている。アラベスク模様の彫刻を施した建物の腰線と数多くの柱にささえられた破風《はふ》とは、建物の至る所に、華麗と優雅な感じをあたえ、屋上にいただく幾つかの円塔は、さらに広大と威厳とをそえている。
しかし、この城館《シャトー》の第一の誇りともいうべきは、ヴォーの遊苑《ゆうえん》と庭園であろう。一六五三年に偉観であった大噴水は、今日でもなおその壮麗な面影を残している。この見事な滝は、さすがに国王や諸侯に賛嘆の声を放たしめただけのことはある。それから有名な洞窟《どうくつ》、幾百編の詩歌の題材となったニンフの住所については、到底筆紙にはその林泉美を描き尽くすことはできない。今はただ、有名な詩人のボワローの詩を引用して、その美観をしのぶことにしよう。
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それはうるわしの花飾り、
匂いめでたき、紫雲英《れんげ》の園生《そのう》
…………………
苑《その》より出て、憩いせば、
風も薫《かお》れる夕月夜。
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この遊苑にある樹木は、いずれも八年しかたっていない。それは高く天をついてそびえてはいるが、その梢《こずえ》の若葉は、日の光に、ほんのりと顔を赤らめたように萌《も》え出ているのである。造園術の天才ル・ノートルは、全国の専門家から、巧妙な栽培法をもって速成した自慢の植木を、この遊苑に供給させたほか、近郷近在の立派な樹木をことごとく、この遊苑に移し植えたのである。遊苑の規模を大きくするために、三つの村落と、その付属地を買収したフーケには、樹木を買い入れるぐらいなんでもなかった。
ド・スキュデリーが、この城館《シャトー》について記したところによれば、「フーケは遊苑に水を絶やさぬようにするために、一つの川を一千の泉に分かち、この一千の泉の水を集めて、いくつかの滝《たき》つ瀬《せ》を造った」ということである。
さて、この壮麗な大宮殿は、近く「世界第一の王者」を迎える準備ができたのであった。フーケの友人たちは、俳優といっしょに、舞台用の衣裳《いしょう》を運んで来たものもあった。また彫刻家や画家を連れて来るもの、立派な文人を連れて来るものもあった。これは、皆多くの即興の作品をここで作ろうとして集まって来たのであった。
飛沫《ひまつ》をあげている所々の滝は、水晶よりも輝かしい水を落としていた。そして泡を立てながら、青銅製の水神や、海の女神の上にあふれ流れ、日光に映えてきらきらと光った。
大勢の使用人たちが、隊を組んで、中庭や廊下を右往左往して駆け回っていた。その朝着いたばかりのフーケは、最後の指図をするために、監督者の検分した後から、注意深く静かに見回っていた。
前にも述べたように、それは八月の十五日であった。太陽が大理石や青銅の諸神像の上に、やきつくような光線を注いでいた。そして海神の法螺貝《ほらがい》に溜《たま》った水を暖め、また果樹園における見事な桃をもうれさせた。ルイ十四世は、その後五十年たってから、ヴオーの倍も美しいマルリーにおける王の庭園に、この桃の良種がないのを嘆いたという話である。このとき、大王はこの桃を思い出して、臣下の一人に、
「そちは若年であるから、フーケの家の桃の味を知るまい」と言ったという。
思えばこの世の栄華ほどはかないものはない! ニコラス・フーケの財産を国庫に没収し、彼からル・ノートルとル・ブランを奪い、そのあげく身柄を牢獄《ろうごく》に投じて、悲惨な余生を送らした国王は、一敗地にまみれた往年の敵について、ただ桃のことを想い起こしたのみであった! フーケが庭の泉水、彫刻家の試作、詩人の草案、画家の下絵などのために、千万金を費したのは、何の役にも立たなかった。これによって後々まで自分が記憶されると思ったのは空《くう》であった。四つ目棚の菱形《ひしがた》のあいだに、緑色のとがった舌形の葉に隠れて、実った肉づきのよい丹朱の一個の桃。ルイ十四世の胸に、フランス最後の大蔵大臣の思い出をよみがえらしたものが、ただこの小さな果実だけだったとは!
フーケは賓客《ひんかく》の宿泊設備や、その他、接待についての万端の用意は、アラミスにまかせてあるので、自分はただ全体の締めくくりにのみ心を配った。こちらでは、グールヴィルが花火の支度を彼に見せ、あちらでは、モリエールが劇場に案内した。それからフーケは礼拝堂、客間、画廊と、次々に見て歩いて、すっかり疲れて、再び階下に降りようとすると、階段のところにアラミスがいて彼を手招いた。
フーケはこの友人といっしょになった。二人は今少しででき上がる、大きな油絵の前に立ち止まった。この画布の前では、画家のル・ブランが、疲労と構図とで顔を蒼白《そうはく》にし、着物を絵具でよごし、汗みどろになりながら、手早い刷毛《はけ》使いで最後の仕上げをやっていた。それは彼らが臨御《りんぎょ》を待っている、国王の大礼服姿を描いた肖像画で、この服地の見本は、アラミスがご用裁縫師のペルスランから無理やりに手に入れたものであった。
フーケは肖像画の前に立って、生けるがごとき国王の風貌《ふうぼう》をじっと見つめていたが、これだけの大作を仕上げた、異常な努力に報いる適当な方法が、思い当たらなかったので、いきなり画家の首に腕を回して、抱き締めた。このためにフーケは一千ピストールもする立派な服を台なしにしてしまった。だが、ル・ブランには非常な満足をあたえることができた。
それは画家にとっては得意な瞬間であったが、ご用裁縫師ペルスランにととっては苦痛の瞬間であった。ペルスランもやはりフーケの後について来たのだった。彼はル・ブランの描いた油絵の中に、彼自慢の美術品ともいうべき、国王のために調製した大礼服を見たのだった。
ペルスランの苦痛と叫び声は、城館《シャトー》の頂にあった信号で中断された。ヴォーの見張り兵は、ムランの方角に当たって、国王と王妃たちの鹵簿《ろぼ》が静かな平原を進んで来るのを認めたのだった。国王はすでに長い供奉《ぐぶ》の馬車と騎兵を従えて、ムランの町にはいっていたのだ。
「あと一時間たつと」とアラミスはフーケに言った。
「あと一時間!」とフーケは吐息をもらしながら答えた。
「あの連中がまいります。こんな大がかりな園遊会を催して何になる、などとあざけり笑っていた連中が」アラミスは作り笑いをしながら、言い続けた。
「ああ、このおれも、それを自分に聞きたくなるわ!」
「二十四時間後には、私がそのお答えをいたします。にこにこなさいませ。喜びの日なのでございますから」
「デルブレー、あんたは私のいうことをどう思うか知らんが」と感情を高潮させたフーケは、地平線上に見えるルイ十四世の鹵簿《ろぼ》を指さしながら言った。「あの方は私を好かれないし、おれもあの方は大嫌いだ。しかしいったいこれからどうなるのか。おれにはわからん。ああしてこの屋敷に近づいて来られるのを見ると……」
「それで、どう?」
「私の正賓として、ここに臨御されれば、私にとっては、神聖なお方だ。私の君主だ。ほとんど親しいといってもよいお方だ」
「親しい? さようでございます」と言ってアラミスは笑った。
「これ、笑うまい、デルブレー。あのお方がほんとにそれをお望みなら、私はあの方を愛しもしよう」
「それは私におっしゃらずに。コルベール氏におっしゃることでございます」とアラミスは答えた。「コルベールに! それはまた、何で!」とフーケは叫んだ。
「それは、あの方が大蔵大臣になりましたら、すぐに陛下の御手許金の中から、閣下に年金を支払うでございましょうから」
こう言って、アラミスは一礼して立ち去ろうとした。
「どこへ行くのだ!」とフーケは憂鬱《ゆううつ》な顔付になって尋ねた。
「私の部屋へ、着替えにでございます」
「デルブレー、あんたはどの部屋に泊っているのだ?」
「三階の群青の間に」
「国王陛下の真上にある部屋かね?」
「さようでございます」
「それでは窮屈だろうに。ろくろくからだを動かすこともできぬ部屋に、またなんだってわざわざ……」
「閣下、夜は、寝床で眠るか、書物を読むだけでございます」
「召使いは何人かな?」
「側使いが一人だけでございます」
「たった!」
「それが書物を読んでくれますので、十分でございます。それでは、閣下、失礼いたします。おからだをおいといになって、お元気で陛下をお出迎えなさいませ」
「後でまた会おうか? あんたの友人のデュ・ヴァロン君にもな!」
「彼は私の隣室におります。いま、服を着替えております」
フーケは微笑しながら頭を下げた。そして敵の襲来を知って、前線を巡視しようとする司令官のように、歩いて行った。
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一八 ムランの祝酒
実際に、ルイ十四世はただ町を通り抜けるつもりで、ムランにはいったのである。若い国王は歓楽にひどく飢えていた。ここまで来る途中、彼はたった二度、ラ・ヴァリエールの姿を見かけたばかりだった。彼女と言葉を交えるには、謁見《えっけん》の儀式をすませた後、庭園の中で闇《やみ》にまぎれてでなければ、折りがなさそうに思われるので、一刻も早くヴォーの宿舎に着きたかった。しかし、この王の予定も実現が困難になってしまった。というのは、銃士長ダルタニャンと財務官コルベールのことを考えに入れなかったからだった。
このガスコーニュ生まれの銃士長は、アラミスが王室ご用の裁縫師ペルスランに頼んで、国王の新しい服を見せてもらったわけが腑《ふ》に落ちないので、何となく、むしゃくしゃしていた。
「おれの友人のヴァンヌの司教は、いったい何のために、あんなことをしたのだろう」とダルタニャンは何かこれには曰《いわ》くがあるに相違ないと思った。
そして彼はいろいろと頭をひねってみたが、むだだった。
ダルタニャンはいろいろと宮中の陰謀を見聞しており、大臣フーケの立場をも、当人以上によく知っていた。ところが裕福な者でも破産してしまうような、まして破産している者にとっては狂人じみた、不可能ともいうべき大事業である、この大園遊会をフーケが催すという前触れを耳にしたときから、とてつもない疑惑をいだいていたのだった。そこへ、アラミスがベル・イルから帰って来て、フーケから大監督に任命され、園遊会の事務いっさいに対して、ねばり強い干渉をすることを聞いた。そのうえ、アラミスはバスチーユの典獄べーズモーを幾度となく尋ねているのである。こうした、疑えば際限のないあやしい行動が、この二週間というもの、非常にダルタニャンの心を悩ましていたのである。
「アラミスのような性格の男を相手にするには、長剣を手にしていなければ勝めがない。それも彼が武士であるあいだは、なんとかしておさえつける見込みもあったが、胸甲の上に袈裟《けさ》を掛けるようになった今日では、もうこちらが無力だ。それにしても、アラミスは何を企んでいるのだろう?」とダルタニャンは考えて、深い思案に沈んだ。
「ともあれ、あの男が、コルベールを倒すだけを目的にするなら、かまわんが、またそれ以外に何か目的にするものがあるとすると?」
こう考えて、ダルタニャンは額をこすった。かつて彼は、この豊饒《ほうじょう》な土地から、数々の名案を掘り出したものである。
彼は最初、このことをコルベールに相談してみようかと思った。が、アラミスと結んだ友誼《ゆうぎ》や誓約を思えばそれもできなかった。彼は躊躇《ちゅうちょ》した。それに彼は心からこの財務官を憎悪していたのである。
次には、これを王に申しあげてしまおうかと考えた。しかし実際これという証拠もない嫌疑《けんぎ》は、王にも納得が行かないのは当然な話である。
いろいろと思案したあげく、ダルタニャンはアラミスに会ったらすぐ、彼に直接聞いてやろうと決心した。
「不意打ちを食わせれば、さすがのアラミスも何か口を割るだろう。そうだ、きっと何か吐く。今度のことには確かに、何か曰くがあるのだから!」と銃士長は考えた。
いくらか心が落ち着いたダルタニャンは、それでも十分に供奉《ぐぶ》の準備を整えた。当時はまだ兵員の数が少なかった近衛《このえ》隊の訓練に、最も注意を払った。その結果、王がムランに着いてみると、フランス近衛の派遣隊のほかに、銃士隊とスイス兵とから編成された、有力な護衛を引き具することになった。それはちょうど、小編成の一軍団のようであった。コルベールはこの兵隊を見て、大いに喜んだ。そしてもう三分の一も人数が多かったらと、自分の希望をもらした。
「どうしてか?」と王が尋ねた。
「フーケ閣下の歓待に、このうえにもあつく報いたいためでございます」とコルベールは答えた。
「閣下の没落をこのうえにも早めるためか」とダルタニャンはそのそばで、ひそかにつぶやいた。
供奉の軍隊がムランの入り口に現われると、重立った役人たちが出迎えて、市の鍵《かぎ》を捧呈《ほうてい》した。そして祝い酒を献ずるために、市庁にお立ち寄りくださるようにと願い出た。
単に市中を通り抜けて、ヴォーに一刻も早く行くつもりだった王は、予定を狂わせられて、くやしさに顔をまっかにした。
「誰がこんな愚劣なまねをして、手間取らせるのだ?」と、市長が奉迎の辞を述べている最中に、王は口のなかでぶつぶつ言った。
「私ではございません。コルベール氏の仕業かと存じます」とダルタニャンが答えた。
コルベールは、自分の名が出たのを小耳にはさんで、聞いた。
「ダルタニャン君は何を言われたのです?」
「ムランの酒をおすすめするために、陛下を途中でお止めしたのは、あなただと申し上げたのです。そのとおりでしょうな?」
「まさしくそうです」
「それなら、陛下がなんとか仰せられたのも、あなたのことでした」
「なんと仰せられましたか?」
「さあ、よく覚えていませんが……ちょっと待ってくださいよ……ええと、確かあほう……いや、いや……ばかか、まぬけかでした。そうです。陛下はムランの酒のことを思いついた男は、まずそういった類の人物だと仰せられたのですよ」
ダルタニャンはこうまっこうから悪口をあびせておいて、悠然と乗馬の首筋をなでた。すると、コルベールの大きな頭は枡《ます》のようにふくれ上がった。
ダルタニャンは激しい怒りのために、コルベールの顔がますます醜くなるのを眺めながら、平然としていた。奉迎の辞はなおもながながと続いて、王の顔色が目立って赤くなってきた。
「これはいかん!」とひややかに銃士長は言った。「陛下は脳溢血《のういっけつ》のご様子ですぞ。コルベールさん。いったいあなたはなんとしてこんなことを思いつかれたのです? 困ったものだ」
「私はご奉公の熱誠から、かく取りはからったのです」とコルベールは開き直った。
「ほほう!」
「銃士長、ムランは納税額の大きい町ですぞ。市民の感情を害しては、まずいですからな」
「なるほどな! しかし、私は財政の方面は暗いから、わかりませんが、ただ、私はあなたのお考えの中で、一つのお考えしかわかりませんでしたのでな」
「それはなんです?」
「あちらの尖塔《せんとう》の上で、行幸を今か今かとお待ちしているフーケ閣下に、ちよっと気をもませてやろうというお考えですよ」
この一言は確かに急所をついた。コルベールは完全に口をつぐんで、引きさがった。このとき幸いに市長の歓迎の辞が終わった。王は献上の祝い酒を飲み干して、再び鹵簿《ろぼ》は町を横切って進んだ。王は固く唇を噛《か》んだ。というのは日はとっぷり暮れてきて、ラ・ヴァリエールと散歩をしようと思っていた希望も無残に打ち砕かれてしまったからであった。
そうでなくとも、供奉全体がヴォーの行在所《あんざいしょ》にはいるには、いろいろの命令を出すために、少なくとも四時間はかかった。そこで焦躁《しょうそう》に耐えきれなくなった王は、日暮れ前に城館《シャトー》に着こうと思って、できるだけ行列を急がせた。ところが、またそのやさきに新しい邪魔がはいった。
「陛下はムランに宿泊になるのではありませんか?」とコルベールがダルタニャンに耳打ちをした。
こんなことを銃士長に話しかけるコルベールは、この日よほどどうかしているに違いなかった。ダルタニャンは王がこんな所に泊る意志なぞ毛頭ないことを知っていた。が彼としては、十分に護衛を整えてでなければ、王をヴォーの行在所へは導きたくなかった。また一方から言えば、あまり手間取ることも、短気な王の逆鱗《げきりん》に触れることであった。このところを何としたものかと思い迷った後、ダルタニャンはいっそコルベールの言葉をそのまま、王に言上してみようと決心した。
「陛下、ただいまコルベールが、陛下にムランに一泊のおぼしめしがおありではないのかと、尋ねてまいりましたが?」と彼は王に言上した。
「ムランに泊る! いったいなんのためだ?」とルイ十四世は叫んだ。「ムランに泊る! フーケが今夜我々を待ち受けているというのに、いったい誰がそんなたわけたことを考えたのだ?」
「それはただ、陛下に少しでもお手間を取らせたくないとの心遣いからでございます」とコルベールが口早に答えた。「と申しますのは、いかなる場所といえども、先駆と護衛隊の宿舎が定まりましてからでなければ、おはいりになれぬ慣例になっておりますので」
ダルタニャンは口髭《くちひげ》を噛《か》みながら、じっと耳を傾けていた。
一行の中の大妃アンヌや、王妃も、この問答には興味を寄せた。この二人の女性は疲れているので、この辺で泊りたかった。それに、王がその晩、サン・テニャンや、女官達といっしょに散歩するのを妨げたかったからでもあった。
ルイ十四世は噛もうにも口髭がないので、その代わりに鞭《むち》の柄をしきりに噛んでいた。どうしたら、この場を切り抜けることができようか? ダルタニャンは納まり返っているようすだし、コルべールはひどく不機嫌な顔をしている。鬱憤《うっぷん》をもらそうにも相手がいなかった。
「王妃の意見を聞くとしよう」と王は貴婦人たちに会釈《えしゃく》をしながら言った。
この思いやりのある態度がマリー・テレーズの心を和らげた。彼女は人の好い、大まかな女性だったのでこんなふうに意見を聞かれると、つい、しとやかに、
「陛下のおぼしめしのとおりにいたしとう存じます」と答えた。
「ヴォーに着くには、どのくらいかかりますか?」と、そのとき、大妃アンヌ・ドートリッシュは、心痛している胸に手を当てて、ゆっくりした口調で尋ねた。
「道はさほど悪くはございませぬから、両陛下のご馬車では一時間でございます」とダルタニャンは言ったが、王が自分の方を見たので、
「国王陛下には十五分でございます」と大急ぎに付け加えて言った。
「日のあるうちに着くかな」とルイ十四世が言った。
「しかし、いかに早くおいであそばしても、軍隊を宿舎に入れる手数がございますから、陛下のお早いのは、なんの役にも立ちません」とコルベールが穏やかに反対した。
「畜生め! おれだったら、貴様の信用なんかぶちこわしてやるのだが。なあに、十分もかかりはせん」とダルタニャンは心の中で思ったが、やがて王に向かって大声で言った。「私が陛下のご立場にあったとしましたら、護衛兵を後へ残して、一個の友人としてフーケのもとへまいります。そして近衛隊長だけを連れてまいります。その方が立派な態度でもあり、さらに一段と神聖な威厳を加えることになると考えます」
これを聞いて王の眼は喜びに輝いた。
「それはうまい考えだ」と王は言った。「予は友人として、友達を尋ねて行くのだ。馬車の人々はゆるりとまいられよ。騎馬の我々は先へ進もう」
かくて王は騎馬の人々を引きつれて出発した。
コルベールは馬首の後に大きなふくれつらを隠した。
ダルタニャンは疾駆《しっく》しながらつぶやいた。「今夜はアラミスと一談判して、目鼻をつけにゃならん。それにフーケだって恥を知る男だ。よし! おれがこう口から出した以上、そういう男だと思わなければなるまいて」
こうしたわけで、夕方の七時ごろ、ルイ十四世は前触れのラッパの吹奏《すいそう》も、先駆の騎兵もなく、また斥候《せっこう》も銃士もなく、ヴォー城の門前に姿を現わした。そこには臨幸《りんこう》との報に接したフーケが、三十分も前からかぶり物もとって、家族の者たちや、友人たちに取り囲まれながら、国王の到着を待っていたのであった。
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一九 美酒と嘉肴《かこう》
フーケが国王の鎧《よろい》をとると、王は馬から降りて、優雅に愛想よく、手をさしのべられた。するとフーケは、王がそこまでは望まれないのもかまわず、その手をうやうやしく自分の唇へ持っていった。
国王は第一の露台で、後から来る馬車の到着を待ちたいと言った。しかし長く待つ必要はなかった。大蔵大臣の命令で、道路はあらかじめ修繕されていたから、ムランから、ヴォーまでのあいだに石ころ一つなかった。それだから馬車は敷物の上を滑るように、気持よく走った。そして八時には、全部の貴婦人たちは疲労の色も見せずに、城館《シャトー》に到着して、フーケ夫人の出迎えを受けた。この貴婦人たちの到着を合図に、庭の木からも、飾り鉢からも、大理石の彫像からも、昼をあざむく光が煌々《こうこう》と射した。この光の魔術は三陛下が宮殿の奥に姿を消すまで続いた。その他、人間の感覚と精神とを楽しませる、あらゆる歓楽、あらゆる贅沢《ぜいたく》を、フーケはその善美をきわめた宮殿に設備して、国王を迎えたのであった。
我々はここに、三陛下の臨御を仰いだ盛大なる饗宴《きょうえん》や、奏楽や、仙境にでも見るような不思議な催し物を詳述するつもりはない。我々はただ、最初陽気で、あけ放しで、幸福そうであったルイ十四世の顔が、間もなく憂鬱《ゆううつ》で、窮屈そうな、いらだった表情を帯びるようになった次第を説明すれば十分である。王は自分の宮殿とそこにあるわずかにフランス国王としての欲望を満たすに足るだけの調度や什器《じゅうき》とを思い浮かべた。ルーヴル宮の大きな飾り鉢、アンリ二世や、フランソワ一世や、ルイ十一世の用いた古い家具や杯盤などがあるが、これらは歴史的記念物にすぎなかった。美術工芸品であり、歴代の国王の遺物にすぎなかった。ところがフーケの場合は、彼の所蔵品の価値が細工そのものに存するのであった。フーケは黄金の器物を用いて食事をした。その食器はかかえの工芸家が、とくに彼のために鋳造した品だった。フーケはフランスの国王がその名さえ知らぬ美酒を飲んでいた。その酒の一つ一つが王室の地下室にあるものよりも高価な酒で、それを大杯になみなみと注いで飲むのだった。
またフーケの客間や、壁布、額などをどう描写したらよかろうか? 召使いや、大勢の職員の勤務振りを何と書いたらよかろうか? 主人の言い付けに従って手足のごとくに動く彼ら、客の満足と団欒《だんらん》とを最高の法律と心得ている、接待ぶりをどう言ったらよかろうか?
足音も立てずに忙しく歩き回る人たち、召使いの数よりは少ないが、数多い賓客、山海の珍味を盛った食器や、金銀の花瓶の幾百、眼もくらむばかりの光の洪水、馥郁《ふくいく》たる香りと美しい色彩を持った温室造りの草花など、饗宴の前奏曲にすぎぬ、この晩餐《ばんさん》の光景が、出席者をまったく恍惚《こうこつ》とさせてしまった。客は音声や身振りではなく、沈黙と注目によって、幾度となく賛嘆の意を表した。
国王はと見れば、その眼には涙がたまっていた。彼は王妃の顔を眺めることもできなかった。誰よりも気位の高い大妃アンヌ・ドートリッシュは、自分に出されるものを、何もかも軽蔑《けいべつ》して、主人を威圧した。
それに比べると、若い王妃は気立てもやさしく、好奇心に富んでいたので、フーケの歓待をほめ、うまそうに出されたものを食べた。そして珍しい果物が食卓に出るとその名を尋ねた。フーケはその名は知らぬと答えた。これらの果物はみな彼の貯蔵室から持ち出されたもので、彼が外国の果実栽培法を心得ているため、今までもしばしば自分で作ったことがあると言った。王はこの上手な返事に感心したが、それだけに一段と肩身の狭い思いがした。王妃の態度は少しなれなれしいと考えた。それから大妃のふるまいはあまりに横柄《おうへい》だと思った。が、王がいちばん気がかりなのは自分自身だった。彼はなんとかして、極端に軽蔑もせず、また、むやみにほめもせずに、冷静な態度で通したいと思っていた。
しかし、フーケはあらかじめこのことを知っていた。彼は何事をも明察する才を備えた人物だった。国王はフーケのもとに臨幸の際は、国王としての接待によらず、一同の人たちといっしょに饗応《きょうおう》に預りたいと意味ありげに断言していたが、フーケの特別な注意によって、王への饗応は一同の方とは別に、中央テーブルのまん中に並べた。それにその晩餐は王の好物ばかり選んで出してあった。こうなっては元来食欲の旺盛《おうせい》なルイである。食べたくないとは言えなかった。
また、フーケのやり方はいま一段と行き届いていた。彼は王の言い付けに従い、いったん食卓についたが、スープが出るとすぐに席を立って、自身で王の給仕をつとめ、また、フーケ夫人は大妃の肱掛椅子《ひじかけいす》の後ろに立った。この慇懃《いんぎん》をきわめた歓待振りには、さすがに横柄な大妃も、機嫌をなおした。大妃はサン・リュカールの葡萄酒《ワイン》にビスケットを浸して食べた。王は食事をしながら、フーケに向かって、
「こんな食事はほかでは、やれないな」と言った。
そこで、全宮廷の人々は、それぞれむさぼるように食べ始めた。その光景は、さながらエジプトの蝗《いなご》の大群が、青々とした裸麦の上に降りたようであった。
しかし食欲を満たしてしまうと王は再び憂鬱になった。今まで自分が満悦したようすを見せていたと思うだけに、いっそう憂鬱になった。ことに廷臣たちがフーケに媚《こ》びへつらうのが気に食わなかった。
ダルタニャンはよく食べ、酒も水を割らずに飲んで、物を噛《か》みながら、機会を逸せずに、さまざまのことを観察していた。
晩餐がすむと、王はぜひ散歩したいと言いだした。そこで園内にはこうこうと灯火がともされ、そのうえ月までがヴォーの主人の命《めい》を承るように、庭の樹立ちや池の面を、そのダイヤの輝きや燐《りん》の光で、銀色に染め出した。小径《こみち》には、木陰が多く、しっとりと砂が敷きつめられてあって、散歩するのにも快かった。饗宴は一点の非の打ちどころもなかった。王は森の曲り角でラ・ヴァリエールに会った。そして、彼女の手を握り締めて、「そなたを愛しているよ」とささやくこともできた。後から来るダルタニャンと、先に立って行くフーケを除いて、この愛の言葉は誰にも立ち聞きされる心配はなかった。
魅惑の夜は静かにふけていった。そこで王は自分の部屋に案内してくれと要求した。するとすぐここかしこに、ざわめきが起こった。大妃と王妃とは竪琴《テオルブ》とフリュートの音に送られて、それぞれの部屋に引き取った。王は階段をのぼると、そこに銃士隊が待っていた。これはフーケがムランから迎えて、晩餐に招じたからであった。
これを見て、ダルタニャンの疑惑はすっかり晴れた。彼は疲れていたが、よく晩餐も食べた。そして生まれてはじめて、国王の臨御の下に、心ゆくまで饗宴を楽しみたいという気持になった。
「フーケは我が党の士だ」と彼はつぶやいた。
国王は盛大な儀式のうちに、「|夢の神《モルフェ》の間」にと案内された。この部屋は宮殿の中で最も華麗な最も広大な部屋だった。画家のル・ブランの筆で、|夢の神《モルフェ》が貴賎《きせん》の別なく、人間にあたえる吉凶さまざまの夢を、その部屋の円天井に描いてあった。その構図は、一部が快く、他の一部が陰惨で、恐ろしくできていた。すなわち、一方にはやさしい眠った子供、蜜蜂《みつばち》、芳香、草花、美酒、悦楽、休息などを主題とした壁画を描き、また一方には、毒を注いだ杯、眠っている人の頭上にひらめく|ヒ首《あいくち》、魔法使い、醜悪な容貌《ようぼう》をした妖怪《ようかい》、炎や深夜よりも恐れられるたそがれなどを描いてあった。
この壮麗な部屋にはいった国王は、寒気を催した。フーケがこれを見て、そのわけを尋ねた。
「予は眠いのだ」とルイはまっさおになって答えた。
「陛下はお付きの方々をお召しになりますか?」
「いや、予は二、三の人たちと話をしたい。コルベールに予が会いたいと伝えてくれ」と王は言った。
かしこまったフーケは一礼して、部屋を出た。
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二〇 ダルタニャンの苦言
ダルタニャンは一刻を失うまいと決心していた。実際彼はいつもむだに時間を過ごすことができない男だった。だから彼はアラミスに会おうとして、所々方々を捜し回ったあげく、ついに彼を見つけた。ところが、アラミスは国王がヴォーにはいられると、すぐ自室に引きこもってしまったのだ。もちろん、国王陛下のお慰みに、何かすばらしい趣向を考えていたに違いなかった。
ダルタニャンは、アラミスを三階の「群青の間」という立派な部屋に見出した。この「群青の間」というのは、その壁布が青いので、こういわれていた。また、そこには、ポルトスと数名の快楽派《エピキュール》の連中が同席していた。
アラミスは進み出ると、この友人を抱擁《ほうよう》して、いちばんよい席をすすめた。その場にいた人々は銃士長がアラミスと密談しに来たのだと察した。そこで快楽派《エピキュール》の連中は席をはずして出て行った。
ところがポルトスは動かなかった。腹いっぱい御馳走《ごちそう》を詰めこんでからに、肱掛椅子の中で眠っていたのである。それで何を話してもさしつかえない。それにポルトスの高鼾《たかいびき》はなだらかな調子を持っていた。だから古代ギリシアの朗吟調のような、一種の低い歌を聞きながら、話をすればよいのだった。
ダルタニャンはまず自分のほうから、話をきり出さなければならないと思ったが、さてなかなか、そのきっかけがむずかしかった。それで、彼は単刀直入、一気にその問題に触れていった。
「とうとう、こうしてヴォーまでやって来たわけだな?」
「うむ、やって来たな。泊ってみた気分はどうだな?」
「たいへんいいな。それにフーケ閣下も気に入った」
「どうだ、閣下はすばらしい人だろう?」
「うむ、申し分ないな」
「陛下は最初のうちは、フーケ閣下によそよそしくあそばしていられたが、しまいには非常に打ち解けられてきたという話だな?」
「という話だというからには、君は直接見たわけではないのか?」
「うむ。いま部屋を出て行った連中と、明日の余興や、馬上試合の打ち合わせで忙しかったものでな」
「そうか、では君はこの園遊会の総監督というわけだな?」
「ぼくは知ってのとおり、演劇や音楽などが好きだから、こうした方面では、いつも詩的情緒を考える役さ」
「なるほどな。おれは君の詩を覚えているぞ。あの詩は美しかったな」
「いや、今ではすっかり忘れてしまったよ。しかし、他の連中の詩を読んで結構楽しんでいる。モリエールとか、ペリソンとか、ラ・フォンテーヌとかいう連中の詩だ」
「ときにアラミス、おれは晩餐を食べながら、考えついたことがある。なんだかわかるか?」
「わからんね。話してみろ。何のことだか見当がつかんよ。君はいろいろのことを考えだす男だからな」
「では言おう。おれが考えついたことは、フランスの真の国王は、ルイ十四世ではないということだ」
「えっ! 何だと!」とアラミスは銃士長の眼を見つめて、思わずこう叫んだ。
「真の国王はフーケ閣下だよ」
アラミスはほっと息をついて、微笑した。
「なるほどな、君もご多分にもれず、ねたましいのだな。コルベールがそんなことを言いだしたのだろう?」
ダルタニャンはアラミスのご機嫌をとるために、ムランの祝い酒のことで、コルベールがやりそこなった顛末《てんまつ》を話して聞かせた。
「あのコルベールという男は生まれがいやしいよ」とアラミスは言った。
「それはそうだ」
「やがて、あいつは四月たたぬうちに、大臣になるだろう」
「まさか!」
「そして君はリシュリウや、マザランに仕えるように、あいつに仕えると思うよ」
「君がフーケ閣下に仕えるのと同じにか」とダルタニャンが言った。
「いや、雲泥の差だ。フーケ閣下はコルベールではないよ」
「それはそうだ」
ダルタニャンは、こう言って憂鬱そうな様子をして見せて、それから尋ねた。
「コルベールが四月たたぬうちに、大臣になるというのは、どういうわけかね」
「フーケ閣下が辞職するからだ」とアラミスが答えた。
「破産するというのかね」
「すっかり破産だ」
「それなら、どうしてこんな園遊会を催すのだ?」とダルタニャンは心から心配するように尋ねた。これにはアラミスもいっぱいだまされた。「君はなぜフーケ閣下をいさめて、思いとどまらせなかったのだ?」
こう激しく突っこんで聞かれると、アラミスは再び疑念を起こした。
「国王のご機嫌を取り結ぶためにしたことなのだ」
「自分が破産してまでもか?」
「そうだ。陛下のためには、自分が破産してもだ」
「いかにも不可思議な考えだな!」
「必要あってのことだ」
「おれにはわからんよ、アラミス」
「わからんか? 君にはコルベールの敵対運動が激しくなって来ているのが?」
「陛下を動かして、大蔵大臣を排斥しようとしているな」
「目にあまることだ」
「フーケ閣下排斥の陰謀もある」
「それは知らぬ者はないな」
「フーケ閣下は、破産してまでも、陛下をお喜ばせ申そうとしている。ところが一方では閣下を排斥しようとする陰謀が企てられている。とすれば、陛下もこれに荷担《かたん》なさることは万々あるまいて」とアラミスは静かに言った。
「なるほどな、だが同じばかを尽くすにも、いろいろ種類がある。おれは君たちのばかげたやり方が気に食わん」とダルタニャンは答えた。
「何のことだな?」
「それは晩餐会《ばんさんかい》もよかろう。舞踏会もよかろう。音楽も、演劇も、馬上試合も結構だ。また滝も、花火も、飾灯も賛成だ。がしかし一家一門、召使いの末に至るまで、ことごとく新調の服を着せる必要がどこにあるのだ?」
「それは君の言うのがもっともだ。私もそのことをフーケ閣下に言った。すると、その答えはこうだ。もし自分に十分の資力があれば、風見《かざみ》から地下室まで、まったく新しい城館《シャトー》を建てて、これへ陛下の臨御をお願いしたい。そして還幸後には、その建物も家具もいっさい焼き払って、二度と他の者に使用させないようにする、こう言うのだ」
「途方もない空想だな!」
「私もそう言った。すると閣下は、『この際経費の節約をすすめたりする人間があれば、その人を敵と思う』と言うのだ」
「正気の沙汰《さた》とは言えんな。それに、あの肖像画だって、そうだ」
「どの肖像画だ?」とアラミスが言った。
「陛下の肖像のことだ。それから、あの趣向も……」
「何のことだ?」
「君たちの奇抜な趣向さ。そのために、この前、ご用裁縫師のペルスランの店で、君に出会ったおりに、君は服地の見本を持って行ったではないか」
と言ってダルタニャンは口をつぐんだ。矢は放たれたのだ。彼はその効果を見守っていさえすればよかった。
「あれはご愛嬌《あいきょう》さ」とアラミスは答えた。
ダルタニャンはつかつかと友人のそばに寄って、その両手をとり、じっとその目をのぞきこみながら言った。
「アラミス、君は今でもおれのことを、少しは思っていてくれるのか?」
「それは考えてるよ!」
「よし、よし! それなら一つ頼みがある。聞かせてくれ。君はなぜ、ペルスランの店から、陛下の御服の見本切れを持って行ったか?」
「私といっしょに来て、ル・ブランに聞くがいい。彼はこの二日二晩、あの見本を頼りに仕事をしているのだ」
「おい、アラミス。他の人間に言って聞かせるなら、それでも通用するだろう。が、このおれに向かって……」
「君はどうかしているぞ! ダルタニャン」
「おい、本当のことを打ちあけてくれ、おれが不愉快に思っていることを、説明してくれないか?」
「君はだんだんとわからなくなってくる。いったい、何をそんなに疑っているのだ?」
「君はおれの直覚力を信じるか? 昔は信じてくれたっけな。いいか。この直覚力は、君が何か人知れず計画をたてていることを、おれに語るのだ」
「私が、計画を?」
「確かにそう思われるのだ」
「何を、くだらん!」
「おれは誓って言う。確かにそうだ」
「ダルタニャン、君にそんなことを言われると、私は実につらいよ。君に黙っていなければならないような計画を、私が立てていたら、私は君にそれを打ち明けるだろうか? また、打ち明けなければならない計画を持っていたら、もうとっくの昔に打ち明けていたろうよ」
「いや、アラミス。計画によっては、適当な機会の到来するまでは、絶対にもらすことのできないものもあるぞ」
「そうすると、その適当な機会なるものがまだ到来しないだけのことだな」と司教は笑いながら答えた。
ダルタニャンは悲痛な面持ちで、頭を振った。
「ああ、男子の交わり! なんという空虚な言葉だ! いまおれと相対している男は、おれが命をくれと言えば、からだを八つ裂きにされることもあえて辞さないはずの男だ」
「君のいうとおりだ」とアラミスは凛《りん》とした声で言った。
「その男が、おれのためには、その血管の血を、一滴残らず流そうという男が、いま、心の一端をすら、おれの前に開いてくれん。おれは繰り返して言う、男子の交わりなぞというのは、畢竟《ひっきょう》たんなる空言にすぎん!」
「お互いの交わりについて、そんなことを言うのはまちがっているぞ」と司教はきっぱりした声で答えた。
「おい、我々三人を見ろ、昔、四人組と謳《うた》われた、その中の三人だぞ。それがどうだ。君はおれをあざむいている。おれは君を疑っている。ポルトスは、ああして高鼾《たかいびき》だ。結構な三幅対だな! これで、昔の面影がどこにある!」
「ダルタニャン、私はただ一言、君に言っておく。福音書に誓って言っておく。今でも、私は昔のように君を愛している。私は君を疑うことがあるとすれば、それは他人のためにすることで、君と私とのためではない。私は何事をするにも、必ず君を加える。うまくいけば、君に分け前もやる。だから、君も同じような好意を約束してくれ!」
「アラミス、その言葉を口にしている現在の君は、たしかに友誼《ゆうぎ》に満ちていると、おれも思うよ」
「いま言ったようなことは、実際ありうることだ」
「君はコルベールを倒そうとはかっている。それだけのことなら、そうといっぺんにしゃべってしまえ。おれは道具を持っているから、あいつの歯を抜いてやるよ」
アラミスは、さっとその上品な顔をかすめる軽蔑《けいべつ》の微笑を隠すことができなかった。
「で、かりにコルベールを倒そうと企んでいるとしたら、悪いのか?」
「いや、いや、そんなことは君にとっては、吹けば飛ぶようなことだ。君が陛下の御服地の見本をペルスランから手に入れたのは、コルベールを倒すためではない。アラミス、お互いに敵ではない。兄弟だぞ。何を君はたくらんでいるのか、言ってみろ。ダルタニャンの一言は金鉄だ。おれに君の味方ができなければ、誓って中立を守る」
「私は何もたくらんではおらん」とアラミスは言った。
「アラミス、おれの心の奥底でささやく声は、いつもぱっと明るく暗い道を照らしてくれる。それはかっておれを欺いたことのない声だ。君の陰謀の目的は国王だろう!」
「国王?」と司教は不満の情を表わしながら、こう叫んだ。
「そんな顔をしてもだめだ。国王を倒すのだろう」
「君は荷担するかね」とアラミスは絶えず皮肉な微笑を顔に浮かべながら言った。
「アラミス、おれは荷担以上のことをする、おれは中立を守るよりも以上のことをする。おれは君を救おう」
「気がへんだぞ」
「このことでは、おれのほうが一枚|上手《うわて》なのだ」
「国王|弑逆《しいぎゃく》をたくらんでいるなどと、そんな嫌疑を私に!」
「誰がそんなことを言った?」と銃士長はうそぶいた。
「お互いに諒解《りょうかい》しようではないか。弑逆でなければ、正統の国王に対して、何を企てると言うのだ? 私にはわからん」
ダルタニャンは何も答えなかった。
「それに、ここには近衛隊も銃士隊も来ているのだ」と司教は言った。
「それはそうだ」
「だから、君はフーケ閣下の城館《シャトー》にいるのではない。君の家にいるも同様だ」
「なるほど」
「それに私がその場にいなかったらば、先刻コルベールが申し上げたような、フーケ閣下打倒の意見を、おそらく君は国王陛下に言上していたに相違ない」
「アラミス、アラミス、後生だから、親友らしい一言を聞かせてくれ!」
「親友の言葉は、つねに真実だ。もし私がフランスの真の国王である、アンヌ・ドートリッシュの王子に向かって、指一本でも触れる考えがあったり、私に王座の前で、ひれ伏す確固たる信念がなかったり、また、こうした信念のもとに、このヴォーにおける明日という日が、我が国王陛下の最も光輝あるよき日にならないとしたら、私のからだは、雷に打たれてしまうだろう!」
こういう言葉を、アラミスは寝室の凹間《アルコーブ》の方へ顔を向けて言ったのであった。ダルタニャンはちょうどこの凹間《アルコーヴ》を背にして、腰掛けていたので、そこに誰か隠れていたとしても、そこまでは気が付かなかった。この言葉の調子と、その悠々として迫らない態度、また威厳に満ちた誓約、こうしたものが銃士長をことごとく満足させた。そこで彼はアラミスの両手をとって、真心をこめて、それを握り締めた。
アラミスは顔色一つ変えずに、詰問《きつもん》を切り抜けてきたが、この賞賛の身振りには、さすがに顔を赤らめずにはいられなかった。あざむかれたダルタニャンはアラミスを賞賛した。そしてすっかり信頼し切った彼は、アラミスに恥ずかしい思いをさせた。そこでアラミスは、
「もう行くのか?」と自分が赤面したのを隠すために、ダルタニャンを抱擁《ほうよう》しながら聞いた。
「うむ、職務がある。合言葉を聞いておかなければならん」
「君はどこに寝るのか?」
「陛下の寝室の次の間に寝ることになるらしい。だが、ポルトスはどこに寝る?」
「なんなら向こうに連れて行ってくれ、高いびきをかくので閉口だ」
「ふむ、そうか。それでは部屋はいっしょではないのだな?」
「この男も部屋を宛てがわれている。どこか知らんが」
「それはいい!」と銃士長は言った。彼はこの二人が別々になるのだと聞いて、もう一点の疑念もなくなってしまった。
そして彼はポルトスの肩を乱暴にたたいた。ポルトスは大きなあくびでこれに答えた。
「おい!」とダルタニャンが声をかけた。
「やあ! ダルタニャンか! いい所で会ったなあ! おお、そうだ。忘れていた。おれはヴォーの園遊会に来ていたのじゃ」
「すばらしい服だな」
「これもコクラン・ド・ヴォリエール君のおかげじゃな」
「おい! そんなに力を入れて歩くと、床が抜けるぞ」
「そうとも。この部屋は円天井《まるてんじょう》の上になっているのだからな」と銃士長も言った。
「それに、この部屋は剣術の道場ではないからな。陛下の部屋の天井は安眠にふさわしい、華奢《きゃしゃ》なつくりにできている。だから、この床は陛下の天井のおおいにすぎないということを忘れてはいけないぞ、それでは兄弟、おやすみ。私もすぐ寝るとしよう」と司教は言い足した。
そして彼はやさしく笑いながら、二人を送り出した。
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二一 のぞき穴のからくり
二人の友人が室外に去ると、アラミスは大急ぎで、扉の掛け金を下ろし、窓という窓をぴったりと閉じてから、
「殿下! 殿下!」
とあたりをはばかるように呼んだ。
すると寝台の後ろにあった引き戸を押して、凹間《アルコーヴ》からフィリップが姿を現わした。
「ダルタニャンは大分疑っているようだな」と彼は言った。
「ほう! 殿下はダルタニャンがおわかりでございましたか?」
「君が彼の名を呼ばぬうちからわかっていた」
「彼があなた様の銃士隊長であります」
「なかなか私に忠義を尽くしてくれそうだ」とフィリップはとくに「私に」という言葉に力を入れてこう言った。
「犬のように忠実でございますが、ときどきかみつきます。ダルタニャンがもう一人のほうの姿を消す前に、殿下を見破るようなことがなければ、あくまでもあの男を信頼なさいませ。何もわからなければ、相変わらず忠義を尽くしましよう。わかったところで、後の祭りならば、彼はガスコーニュ人で、けっしてだまされたとは申しますまい」
「私もそう思う。で、これからする仕事は?」
「どういうふうにあなた様がおやすみになるか、用意の場所から、国王のおやすみのようすをおうかがいになり研究くださいませ」
「よろしい。私のいる所は?」
「あの畳椅子《たたみいす》にお掛けくださいませ。ただいま床板をすべらせますから、そこからおのぞきください。この穴はちょうど国王の部屋の円天井に取りつけてある偽《にせ》の窓の一つに当たるのでございます。お見えになりますか?」
「うむ、王が見える」
フィリップは敵の姿でも見つけたように、ぎくりとした。
「何をしていられますか?」
「誰かに、自分のそば近くすわれと言っているようだ」
「フーケでございますか?」
「いや、いや、ちょっと待ってください……」
「殿下、覚え書きと肖像画とを思い浮かべてくださいませ!」
「王が前にすわれと言っているのは、コルベールだ」
「コルベールが王の御前に出る? そんなはずはございません!」とアラミスが叫んだ。
「見てご覧なさい」
アラミスは床板の細い隙間《すきま》からのぞいた。
「なるほど、コルベールだ。殿下! これからどんな話が聞こえましょうか? ああして打ち解けた結果は、いったいどういうことになりましょう?」
「とにかく、フーケに有利なことはあるまい」
フィリップは観測を誤らなかった。ルイ十四世がコルベールを呼んだことは、すでに述べたとおりである。そのため、コルベールはこうして国王の前にまかり出たのである。二人の間の対話は、今まで王があたえた最高の寵遇《ちょうぐう》によって行なわれた。事実、国王はその臣下とただ二人だけだった。
「コルベール、椅子にお掛け」
この国王の言葉に、免職でもされるかと案じていた財務官は、喜びに我を忘れるくらいであったが、この名誉を辞退した。
「コルベールは椅子に掛けますか?」とアラミスが尋ねた。
「いや、立ったままでいる」
「では、殿下、一つ聴いてやりましょう」
未来の国王と未来の法王とは、自分らが死命を制している、哀れむべき人物たちの対話を、熱心に聞いていた。
「コルベール、今日はさんざん予をてこずらせたな」と国王が言った。
「陛下……それは私もよく存じております」
「うむ、その返事は気に入ったぞ。そうだ、おまえは承知していた。それでいて、ああいうことをやったのは勇気があるからだな」
「ご機嫌をそこなうことは覚悟の前でございましたが、陛下のおために秘すべきことは秘したいと存じましたから」
「何を? おまえは予のために、何を心配していたのか?」
「陛下、たとい陛下が消化をお悪くあそばすだけのことでございましても、私は心配でございました。と申しますのは、馳走《ちそう》攻めにして、陛下の健康をそこねるつもりでもなければ、あんな狂人じみた晩餐会《ばんさんかい》を国王のために催す者はございません」とコルベールは言った。
コルベールはこの下品な冗談を国王がどう受け取るかと様子を見た。
しかし気むずかしくて有名なルイ十四世は、コルベールに対して別段とがめるような気配もなく、機嫌よくこう言った。
「実をいうと、フーケは予を馳走し過ぎたよ、コルベール、あの莫大《ばくだい》な費用をささえるのに必要な金は、どこから引き出したのか? おまえは知っているか?」
「はい、存じております」
「少しでも明確にすることができるか?」
「容易なことでございます。一厘一毛の細かい点までも」
「おまえの綿密な計算はよく知っておるぞ」
「これは財務官に必要欠くべからざる、第一の資格でございます」
「ところが、皆が皆、そうではない」
「お言葉はまことに身の光栄に存じます」
「だが、フーケは金持ちだ。非常な金持ちだ。世間の者は、誰もよくそれを知っておる」
「はい、誰でも存じております。生きている人々も死んだ人々も」
「それはどういう意味かな? コルベール」
「生きている人々は、フーケ閣下が裕福になられたのを見て、ほめたたえます。しかし死んだ人々は私どもよりも、その間の消息に通じておりますから、この富がどうしてつくられたか、その原因を存じております。ですから一同は大臣の罪を非難しております」
「そうすると、フーケが財産をこしらえたのは、何かわけがあるのだな?」
「財政をつかさどる官吏は、おうおう、そのために利益を受けるのでございます」
「何か、まだ秘密な話があるのだな。恐れることはない。我々は二人だけなのだからな」
「私は自分の良心に恥じるところがございませんゆえ、また陛下の庇護《ひご》の下に立っておりますゆえ、何も恐れるものはございません」とコルベールは言って、一礼した。
「それゆえ、死人が語るものとすれば……」
「陛下、ときとしては、死人にも口がございます。これをご覧くださいませ」
これを聞いたアラミスは、一言一句も聞きもらさじと聞き耳を立てている王子の耳もとに、口を寄せて言った。
「殿下は、帝王学を勉強なさいますために、こうしてのぞいていらっしゃるのでございますから、あらゆる王国の醜行をお聞きもらしのないようになさいませ。将来こうした場合にのぞまれました際は、神のごとく、いやむしろ悪魔のごとく、それを理解されて、処断あそばしませ。ですから、よく注意してお聞きあそばせ。そして参考になさいませ」
王子がなおも熱心にのぞいていると、ルイ十四世はコルベールの手から、一通の書面を受け取っていた。
「大司教マザランの手跡だな!」と王は言った。
すると、コルベールは頭を下げて、
「陛下は記憶がよくていられます。国王として、政務をみそなわすお方には、一目で書風を見分けるということが、一つのすばらしき才能かと存じます」
王は元の宰相《さいしょう》マザランの手紙を読んだ。
「よくわからぬところがあるが」と非常に興味深く感じた王が言った。
「それは陛下がまだ会計審査にお慣れにならぬためでござります」
「フーケの手に渡された金のことを言っているようだな」
「一千三百万でございます。たいへんな額でございます!」
「そうだ……で、この一千三百万が総計より足りないのだな? そこがよくわからぬ。どうしてこんな欠損が生じるのだろうな?」
「欠損を生じるどころか、既に大欠損でございます。それを私は申し上げているのでございます」
「なるほど、ではおまえが一千三百万の欠損を予に教えてくれるのじゃな?」
「いいえ、私ではございませぬ。それを陛下にお教え申すのはこの帳簿でございます」
「このマザランの手紙は金額の用途と保管者の名を明記してあるな?」
「ご判断のとおりでございます」
「うむ、するとフーケはまだ受け取った千三百万を、元に返さないということになる」
「会計上からみますれば、確かにそういうことになりまする」
「うむ」
「そうしますと?……フーケ閣下はその千三百万を私事に使用したに相違ございません。千三百万ありますれば、陛下がかつてフォンテーヌブローでお催しになったのよりも、四倍も大がかりの園遊会を催すことができます。ご記憶でいられましょうが、フォンテーヌブローのときには、総体の経費が、わずかに三百万でございました」
国王に対して、昔の記憶を呼び起こすように仕向けたコルベールのやり方は、まったく老獪《ろうかい》なしかたである。というのは、以前フォンテーヌブローで自分が催した園遊会を思い出した国王は、今度のヴォーにおけるフーケの催しと比較して、はじめて自分の催した園遊会が、フーケより数倍も劣っていることを悟ったからである。財政に暗い国王の心を、これほど上手に翻弄《ほんろう》した以上、コルベールはもうこれという重要な用件はなかった。彼は王が再び憂鬱《ゆううつ》になったのを見て、もどかしそうに、その唇から発する最初の言葉を待っていた。三階ののぞき穴から、このようすを見ていたフィリップとアラミスも、やはりもどかしい思いで、成行きをいかにと待っていた。
王はしばらく思案してから、
「コルベール、こういう事件は普通、どういう結果になるものか、おまえは存じておるか?」
「いえ、存じません」
「すると、この千三百万の公金を横領した事実が、もし証拠立てられると……」
「しかし、それはすでに証明されております」
「いや、コルベール、予の言うのは、それが正式に確かめられればという意味だ」
「それは明日にもできるかと存じます。陛下が……」
「予がフーケの城館《シャトー》に滞在していなければな」とおごそかに、国王は答えた。
「君主はどこにおいであそばしても、ご自分の宮殿にいらせられると同然でございます。まして公金をもって建てた邸に、滞在の場合は、当然のことでございます」
これを聞いて、ルイ十四世はしばらく考えていたが、やがて眼を上げて、コルベールが返事を待っているのを見ると、急に話題を変えて言った。
「コルベール、大分おそくなったようだ。もう寝るとしよう」
「あっ! しかし陛下、私は……」とコルベールはあわてて言った。
「何事も明日だ、明朝までに、予も決心をつけよう」
「よろしゅうございます」とコルベールが答えた。彼は非常に不満であったが、王の前では、その心持ちをそぶりにも出さなかった。
王が会釈をあたえると、コルベールはうやうやしく一礼して、戸口の方に退去した。
「誰かある!」と王が呼んだ。
次の間に控えた人々がはいって来た。
そのとき、フィリップは監視の場所から離れようとしていた。
「あっ、もう少し」とアラミスは王子をやさしく引き止めて、「ただいまのことは、まったく些細《ささい》なことでございます。明日になれば、もう何も心配する必要はございません。しかし国王の就寝の作法や、夜中のいろいろな礼式! これが殿下、なかなか大切なものでございます。殿下はどういうふうにしておやすみになればよいかそれを見学くださいませ、それ、あれをご覧なさいませ!」と言った。
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二二 財務官コルベール
この翌日大蔵大臣フーケが国王のために催した豪奢《ごうしゃ》な大園遊会のありさまは、歴史がくわしく物語っている。すなわち、それは歓楽と喜悦の一日であった。散歩《プロムナード》があり、山海の珍味を山盛りにした食事があり、喜劇があった。この喜劇の中で、ポルトスはコクラン・ド・ヴォリエールが「うるさい連中」という喜劇を演じているのを見て、ひどく驚いた。
しかし前夜のことが気にかかり、またコルベールの弁舌が注いだ毒の効力から、まだすっかり回復しきらない国王は、一歩進むごとにあたかも「千一夜」の驚異が足もとから忽然《こつぜん》と出現するような、すばらしい、変化の多い、意外な、この一日中、なんとなく不興げで、口数も少なく、打ち解けないようすを見せていた。何物も王を快活にすることができなかった。王を見た者は誰でも、その心の奥底に、原因こそ遠いが、次第にその深さを増している鬱憤《うっぷん》の情がひそんでいるのを、認めずにはいられなかった。そして正午に近くなって、王ははじめて平静な気持を取り戻したようであった。がたぶんそのときには、彼はすでに何事かを決心しているらしかった。
アラミスは王の後からついて歩いていたが、ちょうどそれは王の心の推移を一歩一歩たどっているようで、やがては自分の思う壼《つぼ》にはまる事件が、起こるに相違ないと考えていた。
アラミスから言えば、今度はコルベールが自分と提携しているようなものだった。いちいちこっちから指図して、王を突つかせたとしても、これ以上にうまくやれそうもなかった。
この日は一日中、王は自分の憂鬱な心を追い払おうと思ってか、しきりに女官のラ・ヴァリエールをそばに引きつけて、なるべくコルベールやフーケとはいっしょにならないように努力しているようだった。
やがて夕暮れがきた。王は遊苑《ゆうえん》を逍遥《しょうよう》する前に、一勝負したかった。そこで、この国王の希望に従って、晩餐《ばんさん》と散歩とのあいだに、賭《かけ》勝負をすることになった。その結果、王は金貨一千枚を儲《もう》けた。そしてこの儲けをポケツトに入れると、王は席を立って、
「さあ、みんな、園内を散歩しよう」と言った。
そこにはもう女官たちがあちこちと逍遥していた。王がカルタで金貨一千枚を儲けたのは、フーケがわざと金貨一万枚の損をしたからで、結局廷臣たちのあいだには、その儲けとしてなお十万九千リーヴルの金貨がばらまかれたわけだった。こういう次第で、廷臣たちや近衛《このえ》隊の将校連は、ほくほくものだった。
しかし国王の顔には、まだ幾らか不快な色が残っていた。ある小径《こみち》の隅で、コルベールは王を待っていた。これはおそらく、二人のあいだに何か会合の打ち合わせがしてあったに相違なかった。というのは、あれほどコルベールを避けるようにしていた王が、急に彼に合図をして、いっしょに遊苑の奥深くはいって行ったからだった。
しかしラ・ヴァリエールは王の暗い額と、忿怒《ふんぬ》に燃えた眼を見ていた。彼女は王が遊苑の奥深くはいって行くのを、いち早く見つけた。そして愛の眼は、王の胸にひそむ何物をも見のがさなかった。彼女は王の怒りが誰かの運命を危くすることを知ると、慈悲の天使のようにそのあいだを隔てて、報復の念を思いとどまらせようと決心した。
ながらく愛人と離れていたため、気持が落ち着かず、寂しく、半狂乱のようになった彼女は、王の感情がひどく動揺している様子を見て、胸が痛んだ。それで、打ち沈んだ面持ちで、王の前に現われた。
コルベールはその姿を見ると、すぐうやうやしく立ち止まって、王との距離を十歩ばかり取った。それで、ほとんど水入らずのようになったので、王はラ・ヴァリエールのそばに寄って、その手を取った。
「そなたはからだのぐあいでも悪いのかな? 何か心配事でもあるように、溜息《ためいき》をついているし、眼も涙でぬれている」
「陛下、もしそうでございますれば、私はただ陛下のお胸の中の、お悲しみを考えまして、思いわずらっているのでございます」
「予の悲しみ? そなたはまちがっている。いや、予の気持は悲しみではないのだ」
「それでは何でございます?」
「屈辱だ」
「屈辱? まあ! 陛下がそんなお言葉を!」
「予の言う意味は、どういう場所に来ていようとも、予以外に君主のあるべき道理はないというのだ。そなたのまわりを見回してご覧。そしてフランスの国王ともあろう予が、この荘園の領主のために、すっかり威光をおおわれておりはせぬかどうか、考えてご覧。ああ! ここの領主は……」とルイは拳《こぶし》を握りしめ、歯を食いしばった。
「それで?」とラ・ヴァリエールは恐ろしさにふるえながら言った。
「ここの領主は不忠不義の臣だ。ほしいままに予の財産を盗んで、威張りくさっておる! それゆえ、予はこの無礼きわまる大臣の園遊会を、悲哀と愁傷の場面に変えてやろうと思う。そして長く後々までも、語り草にしてやりたいのだ」
「まあ! 陛下は……」
「では、ルイーズ、そなたはフーケの味方となるのか?」とルイ十四世はがまんしきれなくなって、言った。
「いいえ、そうではございません。陛下のお耳にはいりましたことが、もしや何かのまちがいではございますまいかと、お尋ねするのでございます。陛下はこうした宮中の取り沙汰《ざた》が、どれほど信ずる価値のあるものでございますか、毎度のことで、ようくご存じでいらせられましょう」
ルイ十四世は、コルベールに近く寄るように合図して、
「コルベール、よく説明してくれ」と言った。「このラ・ヴァリエールに国王の言葉を信じさせるには、おまえの言葉が必要だ。フーケがどういうことをしているかを、このひとに話して聞かせなさい。ルイーズ、聞いてくれるだろうな。長くかからないよ」
ルイ十四世はどうしてこんなことをラ・ヴァリエールに頼んだのだろうか? それは至極単純なことであった。すなわち、王の気持は平らかでない、何か納得しがたいものが心の中にあった。千三百万の公金横領の話を聞いたとき、彼はこの話の裏に何か暗い、曖昧《あいまい》で陰険な計略を感じたのであった。だから王は自分がいだいているが、まだ実行に移すのを躊躇《ちゅうちょ》している決意を、ラ・ヴァリエールの悪に対する潔癖な心に映して、ただ彼女からそれをうながすようにしてもらいたかったのである。
「お話しくださいませ」とラ・ヴァリエールは自分の方に進み寄って来た、コルベールに向かって言った。「うかがいましょう。フーケ様の罪というのは、何でございますの?」
「いや、べつに大罪というわけでもありません」とこの腹黒い男は言った。「信任を濫用《らんよう》したまでのことでございます」
「コルベール、早く話して聞かせなさい。そして説明がすんだら、向こうに行って、ダルタニャンに命令があると伝えてくれ」
「まあ、ダルタニャン様を!」とラ・ヴァリエールが叫んだ。「どういうご用で、あの人をお召しになるのでございます? どうぞ、お聞かせくださいませ」
「傲慢不遜《ごうまんふそん》な不忠者を逮捕するのだ」
「フーケ様を逮捕あそばします?」
「おう! それがどうした?」
「あの方のお館《やかた》で?」
「なぜいかん? 罪があるなら、彼の館におろうと、どこにおろうと、罪人たるに変わりはない」
「破産するのも覚悟で、陛下をお慰め申し上げているフーケ様を?」
「そなたは謀反人《むほんにん》を弁護するのか?」
コルベールはくすくすと忍び笑いを始めた、王はこの笑い声のする方をとがめるように、振り向いた。
「陛下、私はフーケ様のために申し上げているのではございません。陛下のおためを思って申し上げているのでございます」とラ・ヴァリエールは言った。
「予のためと!……そなたは予のためと言うのか?」
「陛下、そのようなご命令をお下しあそばしては、陛下の名誉にかかわります」
「予の名誉にかかわる!」と王は怒りに顔色を変えてつぶやいた。「そなたは妙に強情を張るようだな」
「私は自分の言葉にこだわってはおりません。ただ陛下のおためを考えて申し上げているのでございます」と気高《けだか》い乙女《おとめ》は答えた。「陛下、私はご入用ならば、命をも陛下に捧げるつもりでおります」
コルベールはそばにいて、口を出したそうに、もぞもぞしていた。それを見抜いて、ラ・ヴァリエールはいつものやさしい気立てにも似ず、燃えるような鋭い視線を投げて、その男を沈黙させた。そして、
「コルベール様、陛下のあそばすことが正しくございませば、私や周囲の人たちが、どのような損害を受けましても、私はなんとも申しません。けれども、陛下がまちがったことをあそばすのでしたら、それが私たちの得になりましても、私はまっすぐに、それはいけませぬと申し上げます」と言った。
「しかし、私も陛下のおためを思っております。陛下をお愛し申し上げる心には変わりありません」とコルベールは強く言い放った。
「なるほど、あなたも私も陛下をお愛し申し上げていますが、その愛し方が違っております」とラ・ヴァリエールは若い国王の心の底までしみ通るようなしんみりした調子で答えた。「私は非常に陛下をお慕い申し上げております。これは世間が知っております。私の愛の純なことは陛下もお認めくださいます。陛下は私の国王であり、主人でもあります。そして私はまことに身分いやしい侍女《じじょ》にすぎません。けれど陛下の名誉を傷つける者がございましたら、その人は私の生命に害を加える人です。ですから、今一度申します。フーケ様をそのお館で逮捕するように、陛下におすすめする人たちは、陛下の名誉を汚す人たちです」
コルベールは頭をがっくり下げた。それはもう王が味方になってくれないような気がしたからである。がそれでも、頭を低くたれたまま、
「ひとこと申し上げることがあります」とつぶやいた。
「おっしゃいますな。私は承りません。それに何をおっしゃることがありましょう? フーケ様に罪があるということですか? それは陛下のお言葉もあるので、私もそう思います。けれど、たといあの方がどのような大罪人だといたしましても、陛下は今フーケ様のお館に正賓として滞在あそばしていらっしゃる以上、あの方の身柄に傷をつけてはなりません。よしんばこの城館《シャトー》が贋金《にせがね》づくりや、強盗の巣窟《そうくつ》でありましても、フーケ様の住居は神聖で、おかしてはなりません。夫人がその中におすまいでござりますもの。そして死刑執行人が侵入できない隠れ家でございます!」
ラ・ヴァリエールはこう言って口をつぐんだ。王は、我にもなく、彼女に対して感嘆を禁ずることができなかった。その声音にこもった情熱と、その主張の気高さに打たれたからである。コルベールも、これではしっぽを巻いて、引きさがるよりほかはなかった。やがて王はほっと溜息をついて、首を振りながらラ・ヴァリエールの手を握った。
「ルイーズ、そなたはどうして予に楯《たて》をつくのだ?」と王はやさしく言った。「予がフーケに猶予をあたえれば、あの悪人が、何をしでかすか、わかるかね?」
「あの方の生命は、いつも陛下のお手に握られているのではございませんか?」
「逃げでもしたら?」とコルベールが叫んだ。
「そういたしましたら、陛下がフーケ様をお逃がしあそばしたことが、いつまでも記録に残りまして、陛下の高徳は、ますます国民の仰ぐところとなるでございましょう」
ルイはラ・ヴァリエールを抱きかかえて、その手に接吻した。
「おれは負けた」とコルベールは心の中で思った。
が、すぐその顔がまた急に輝いた。
「うむ! おれはまだ負けないぞ!」と彼は自分に言ったのである。
そして王が大きい菩提樹《ぼだいじゅ》の繁みに人目を避けて、ラ・ヴァリエールをひしと胸に抱き締めているあいだに、コルベールは紙入れの中を探って、手紙のような形に折りたたんだ一枚の紙片を取り出した。そしてこれを眺めてほくそえんだところを見ると、よほど大事なものに相違なかった。それからコルベールは、近づいて来る松明《たいまつ》の明りが照らし出した、王とラ・ヴァリエールとが形づくっている美しい影像に、憎悪の眼を走らせた。
ルイは恋人の白い衣装《いしょう》の上に映った松明の光を見て、
「ルイーズ、もうあちらにおいで、人が来るから」と言った。
「誰かやって来ますよ」とコルベールも乙女を離そうとしてせき立てた。
ルイーズはすばやく樹の繁みの中に姿を消した。続いて、ひざまずいていた王が起ち上がりかけたとたんに、コルベールが、
「や! ラ・ヴァリエール様が何か落として行かれました」と言った。
「何だな?」と王が聞いた。
「何か白いもの、紙、いや手紙でございましょう。陛下、そこにございます」
王はすぐと身をかがめて、その手紙を拾いながら、その手の中にまるめこんだ。
ちょうどそのとき、松明の行列が着いて、あたりの闇《やみ》はま昼のように明るくなった。
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二三 王の嫉妬《しっと》
この松明行列は、フーケが国王のご覧に供そうとした新しい祝賀の催しであった。ちょうどそのとき、ラ・ヴァリエールの取りなしで、ルイ十四世の決心はすでに大分揺らいでいた。
ルイは自分の恋人が寛大な、しかも強い心の持ち主であることを知ったのも、結局フーケが機会を与えてくれたためであると思ったので、彼はほとんど感謝に近い心持ちで、フーケを眺めた。
それは最後の催し物が始まる時刻であった。フーケが国王を城館《シャトー》の方に案内するのを合図に、たちまち、けたたましい大音響とともに、ヴォーの円屋根《ドーム》から火の塊りがほとばしり出て、あたり一面に眼もくらむ光の雨を降らせ、花壇の隅々までも照らしだしたのである。
花火の催し物が開始されたのである。コルベールは王が、ヴォーの主人役に取り巻かれ、歓待を受けている場所から、二十歩ほど離れて立っていたが、王の心がややもすれば花火の壮観に奪われそうなので、なんとかしてその注意を呼び戻そうと苦心していた。
やがて、王はフーケに握手を与えようとして、ふと自分の手に、ラ・ヴァリエールが立ち去るとき落として行った手紙を握っているのに気がついた。恋人の愛情を考えて、花火より恋の引力のほうが強く、若い王の心はすぐその記念物にひきつけられた。
花火は刻々と美しさを加えて、観客は口々に感嘆の叫び声をあげていた。王はラ・ヴァリエールから自分に宛てた恋文だとばかり思って、花火の明りで、その手紙を読んでいった。ところが読むにつれて、まっさおな色が王の顔に浮かんできた。そしてその険悪な忿怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》は、周囲の燦然《さんぜん》たる数々の色彩の火に照らしだされて、見る者をしてぞっとふるえ上がらすほどの、恐ろしい容貌《ようぼう》であった。嫉妬と狂気とにかられた王は、もはや敵を許すことはできなかった。暗い真相が彼の眼前に明白になった瞬間から、彼の憐憫《れんびん》とか、同情とかいう優しい感情は、ことごとく心の中から消え失せたようだった。王はあたかも心臓をかきむしられるような激痛を感じ、非常に弱気なためその苦痛を隠すことができなかった。彼はもう少しで恐怖の叫び声をあげて、近衛《このえ》隊を呼ぶところであった。
読者もすでにおわかりと思うが、この手紙はコルベールがわざと王の足もとに落としておいたもので、かつてフーケからラ・ヴァリエールヘ宛てた恋文である。
フーケは王の顔色が青ざめたのを見ても、その原因がわからなかった。コルベールは王の逆鱗《げきりん》のようすを見て、心中ひそかに嵐の近づいたことを喜んだ。
「陛下、いかがあそばしました?」とフーケはうやうやしく尋ねた。
この声は若い国王をその凶暴《きょうぼう》な夢想から引き出した。ルイは非常な努力をして、
「なんでもない」と答えた。
そして花火の終わるのを待たずに、城館《シャトー》の方に歩きだした。
フーケはそれに従って行った。廷臣一同もその後に続いた。空では最後の花火が誰も見る者なく、寂しげに光を放っていた。
フーケは今一度ルイ十四世に尋ねてみたが、答えを聞くことができなかった。彼は王の不機嫌は、遊苑《ゆうえん》の中で、ラ・ヴァリエールとの間に喧嘩《けんか》でもあったためであろうと想像した。この考えは彼を安心させるに十分であった。そこで彼は、王がおやすみを言ったときに、この若い国王のために、友情のこもった、やさしい微笑をさえ送ったのである。
ところが、この翌日はいよいよ出発という、その前夜である。ルイとしては、自分をもてなすために千三百万枚の金貨を費した主人に向かって、「おやすみ」以外になんとか感謝の言葉を述べるのが当然だった。がしかし王にはそれができなかった。
フーケが退出しようとするとき、王はようやく口をきいた。それは次のような言葉、
「フーケ、あなたには追って沙汰《さた》をする。では、どうかここにダルタニャンを呼ぶように言ってください」と、ただこれだけだった。
こうしてうわべは平静を装っていたが、ルイ十四世の血は、その血管の中で煮えくり返っていた。彼は先王がダンクル元帥の暗殺を命じたように、フーケを死刑にすることを少しもいとわなかった。それゆえに、王はこの恐ろしい決意を、王者の微笑の下に隠してしまった。
フーケは王の手をとって、うやうやしく接吻した。ルイはそっと身ぶるいを感じながらも、フーケの唇を自分の手に触れさせた。
それから五分ほどして、ダルタニャンは王の命令により、この部屋にはいって来た。
アラミスとフィリップは、彼らの部屋に在って、例ののぞき穴から、熱心にそのようすをうかがっていた。
王は銃士長が肱掛椅子《ひじかけいす》まで来るのを待ちかねて、自分のほうから走り寄って、
「誰もはいって来ぬように、気をつけてくれい!」と叫んだ。
「よろしゅうございます」と答えたダルタニャンは一目で王の不機嫌な顔色を読んだのであった。そして戸口の所で部下に命令を伝えてから、王の側に引き返して来て、
「陛下、何か大事が出来《しゅったい》いたしましたか?」と言った。
「ここにはどれほど兵士を連れて来ている?」と銃士長の質問にも答えず、王は聞いた。
「なんのためでございますか?」
「幾人いるかと尋ねているのだ」と王はじだんだを踏みながら、繰り返して聞いた。
「銃士隊がまいっております」
「うむ、そのほかには?」
「近衛隊が二十名、それにスイス兵が十三名来ております」
「幾名の兵士が必要だろうか……」
「何をあそばすのに?……」と銃士長は穏やかな大きな眼を見開いて、尋ねた。
「フーケを逮捕するには?」
ダルタニャンは一歩後にさがった。
「フーケ閣下を逮捕せよと仰せられますか!」と驚いた銃士長は言った。
「できぬというのか?」と王は冷淡な憎悪のこもった声で叫んだ。
「私はできませぬなどとは申しませぬ」とぐっと癪《しゃく》にさわったダルタニャンは、こう言いかえした。
「よろしい。では、やれ」
ダルタニャンは踵《かかと》をめぐらして、戸口の方につかつかと歩いて行ったが、六歩ほど行ったと思うと、急に立ち止まって、
「恐れながら、陛下」と言った。
「何だ?」と国王は答えた。
「この逮捕を行ないますには、ご命令書をいただきとう存じます」
「何のためだ? いつからおまえは国王の言葉を不十分と考えるようになったのか?」
「腹立ちの感情からほとばしる言葉は、その感情が変化するとともに、変化いたすことがございますから」
「寝言《ねごと》を申すな! おまえは何かほかに考えを持っているのだろう?」
「はばかりながら、私には、他人の持っておりませぬいろいろの考えがございます」とダルタニャンは無作法に答えた。
王は激昂《げっこう》はしたものの、ちょうど馬が飼い主の強い手で、脚を折るように、ダルタニャンの前では辟易《へきえき》した。そして、
「どういう考えだ」と聞いた。
「陛下はまだここに逗留《とうりゅう》あそばしておりますのに、その主人を逮捕せよとご命令になります」とダルタニャンが答えた。「これはただ一時の感情からでございます。腹立ちが静まり次第、陛下は後悔あそばすでございましょう。そのときになりまして、私は、陛下に署名をご覧に入れたいのでございます。そのために取り返しはつかぬにしましても、少なくとも、陛下が短気をお起こしあそばしたのがまちがっていたということを、それが証明することになります」
「短気を起こしたのがまちがいだと!」と王はなおも立腹しながらわめいた。「父君も祖父君も、ときには短気を起こされたではないか?」
「父君も祖父君も、臣下の城館《シャトー》に滞在中に、短気を起こされたことは、けっしてございませぬ」
「王はどこにあろうとも君主だ」
「それは、へつらう人間の文句で、コルベール以外の口からは聞かれぬことでございます。しかも、それは真の道ではございませぬ」
ルイは唇を噛《か》んだ。
ダルタニャンは続けて言った。
「ここに一人の人物がございまして、身代《しんだい》をつぶしてまでも、国王陛下をお慰め申し上げようとしております。しかるに陛下は、この者を逮捕せよと仰せられる。さような理屈があってよろしいものでございましょうか? 陛下、私の名がフーケで、他人がそのように私に仕向けましたなら、私は花火仕掛けも何もかもひとのみにのみこんでしまい、それに火をつけて、自分も他人も残らず粉微塵《こなみじん》にして、空へ吹っ飛ばしてしまいます。それでもおぼしめしとあらばやらなければなりませんが」
「どうも心外だな。予の周囲の者は、みんな予のしたいと思うことをじゃまするらしい!」
「いや、私はけっして陛下のあそばすことを、お妨げはいたしません。ほんとうに決心あそばしましたか?」
「明日の朝までに決心を定めるから、それまでフーケを監視していてくれ」
「仰せのとおりにいたします」
「それから予が起きたら、また命令を聞きに来てくれ」
「はい、またうかがいにあがります」
「では、さがってよろしい」
「そういたしますと、もうコルベール氏にもご用はございませんか?」と銃士長は部屋を退出するときに、こう言ってとどめを刺した。
王はぎくりとした。全身が復讐《ふくしゅう》でこり固まっていたので、自分のあやまちも念頭になく、
「いや、誰にも用はない、誰もここに入れてはならんぞ! あちらに行け!」と言った。
ダルタニャンは引きさがった。王は自ら扉を締めて、あたかも吹き流しや、鉤《かぎ》を刺され、引きずり回されている、傷ついた牡牛《おうし》が闘牛場を飛び狂うように、荒々しく室内を行ったり来たりした。果ては激しい感情の叫び声をあげて、自分を慰めようとしていた。
「不埒《ふらち》な奴《やつ》だ! 予の歳入を浪費するばかりか、盗んだ金をもって、誰も彼も買収しておる。秘書官も友人も将軍も芸術家も、ことごとく買収しておる。そのうえに、予の最愛の女までを奪おうとしたのだ。それで、あの不実者は、ずうずうしくもきゃつの肩を持ちおった。こんな愛情なんてあるだろうか?……」
そう思った瞬間、王は腸《はらわた》を断つような切なさを感じた。
「色魔《しきま》め!」と王は深い憎悪をもって考えた。「女の機嫌ばかりとって、誰も彼もまるめこんでしまう狒老爺《ひひじじい》め! あの女の腐ったような奴は、黄金やダイヤの花飾りを女に贈ったり、絵描きに自分の色女の女神姿を描かしたりしておる!」
王は絶望で身をふるわした。そして考え続けた。「きゃつは予のあらゆるものをけがしおる! あらゆるものを破壊しおる! ついには予の命まで、きゃつのために取られるぞ! きゃつは不倶戴天《ふぐたいてん》の敵だ! だが、今に見ろ、きゃつを倒してみせるぞ! 憎い奴だ!……憎い奴だ!」
こうした言葉をはきながら、王は腰を掛けていた肱掛椅子の腕木を、何度も激しくたたいた。それから癲癇《てんかん》でも起こったように立ち上がって、つぶやいた。
「明日だ! 明日だ!……ああ! 幸福な日が来るぞ! 太陽がのぼるとき、あの輝く空の王者と威光を争うものは、予以外にはないのだ。きゃつは一敗地に塗《まみ》れる。そして世人はきゃつの破滅を眺めるとき、少なくとも予がきゃつよりも偉大であることを、認めねばならぬだろう」
ついに感情を制しきれなくなった王は、寝室のそばの小卓をなぐり倒した。それから苦しみに耐えられなくなって、ほとんど泣きながら、息がつまったまま、敷布の上に打ち倒れた。そして彼は礼服も脱がず、その敷布に噛みついて、そこに肉体の安静を見出そうとした。
寝台は王の重みできしんだ。それからは、王の息切れした胸からもれる、うなり声が聞こえるばかりで、「|夢の神《モルフェ》の間」はまったく静まり返った。
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二四 大逆罪
フーケからラ・ヴァリエールに宛てた恋文を読んだ結果、王を極度に興奮させた激怒も、だんだんと苦しい疲労の中に溶けこんでしまった。
ルイは十五分間ほどで、自分の感情をおさえることができた。やがて彼は拳《こぶし》を痙攣《けいれん》させたり、眼に見えぬ憎悪の対象を焼きつくような眼で見つめたりしなくなった。またフーケやラ・ヴァリエールを激しい言葉でののしらなくなった。王は忿怒《ふんぬ》から絶望に沈み、絶望から虚脱の状態におちいって行った。
王は数分間、寝台の上で、からだをこわばらせ、寝返りをうった後、元気のなくなった腕は、ぐったりと倒れた。彼の頭はレースで飾った枕《まくら》に埋まり、疲れ果てた四肢は筋肉の軽い収縮から、悪寒《おかん》を催した。それでも、まだ胸からはときどき吐息がもれていた。
ルイは忿怒で曇り、また涙で赤くなった目を天井《てんじょう》の守護神に向けた。夢の神モルフェは両手にいっぱい持っている、眠り薬の罌粟《けし》の花を、国王のからだの上に振りまいた。王はすぐ眼を閉じて、眠りについた。
すると王は、その深い快い眠りのあいだで、天井に描かれた夢の神モルフェが、人間のような眼で自分を見つめているように思われた。何か光ったものが、円天井《まるてんじょう》の中で、あちこちと動いていた。そして不吉な悪夢の群がりの中から、一人の男の顔が現われ、感慨深そうなようすで、自分を眺めているようだった。奇妙なことに、この人物は王自身と非常によく似ていて、ルイは自分の顔が鏡に映っているのだと信じた。ただ、その顔には深い哀れみの色が浮かんでいたのであった。
そしてやがて、円天井がだんだんと王の目から遠ざかり、ル・ブランの描いた人物や物体が、しだいに暗くなっていくようだった。また今まで微動もしなかった寝台が、波の下に沈む船のように静かに、ゆったりと動きだした。確かに、王は夢を見ていたのであろう。その夢の中で、帳《とばり》に結び付けた黄金の王冠が、それをつり下げた円天井と同じように、彼の視線からずんずんと遠ざかって行った。そして両手でこの王冠をささえている天使が、遠くに消えて行く国王を呼び止めるように思われた。
寝台はなおも沈んでいった。目を見開いた王は、この残酷な幻覚を、どうしても現実と思わずにはいられなかった。そのうちに、国王の部屋の明りがだんだんと薄暗くなって、やがて真の闇《やみ》となってしまうと、なんとも説明できないひややかな、陰気なあるものが、あたりの空気にしみこんだようだった。もはや天井の絵も、黄金の装飾も、ビロードの帳も見えなかった。ただ見えるものとては、薄暗い灰色の壁だけだった。そしてその黒い陰がだんだんと濃くなっていくのだった。しかも寝台はなおも沈み続けた。この一瞬間が、王には一世紀のように思われた。そして暗い冷たい空気の層に達した。
もはや王は、井戸の底から日の光を見るくらいにしか、寝室の明りを見ることができなかった。
≪恐ろしい悪夢を見ているのだ! もう覚めてもよいころだ。さあ、目をさまそう!≫と王は思った。
誰だって、こうした経験がある。息もつまってしまうような悪夢にうなされている時、ランプの明りがまったく消え、ただ頭の中の光だけをたよりにして、「何でもないのだ。おれは夢を見ているのだ?」と叫ばない者はいないだろう。
ルイ十四世が経験したのも、やはりこれと同じことだった。「目を覚まそう!」と叫ぼうと思ったとき、彼は自分が目を覚ましていることに気づいた。そして眼をあけると、自分の周囲を見回した。
すると、自分の左右に、二人の武装した男が、いずれも大きなマントを身にまとい、顔に仮面をかぶって、突っ立っていた。その一人が小さなランプを手に持っていた。ランプの赤い明りに照らし出された光景は、国王として、これ以上の悲惨《ひさん》さを見ることはできない、といってもいいくらいだった。
ルイには夢がまだ続いているとしか思えなかった。この夢を破るには、腕を動かすか、声を出して何か言うよりほかはなかった。寝台から飛び降りて見ると、彼はじめじめした地面の上に立っていた。そこで、ランプを持った男に向って言った。
「これはどうしたのだ? このいたずらはどういうわけだ?」
「いたずらではない」と角灯を持った仮面の人物が、太い声で答えた。
「おまえはフーケの配下か?」と少し狼狽《ろうばい》した王は尋ねた。
「誰の配下でも、そんなことは問題ではない。あなたは我々の手中にある。それで十分だ」と幽霊のような男は言った。
王は臆《おく》するどころか、かえってがまんができなくなって、第二の仮面の男に向かって言った。
「これが余興の喜劇なら、フーケに言ってくれ。予はこれを不快に思うから、停止を命ずるとな」
王がこう言った第二の仮面の人物は、大兵《だいひょう》肥満な男であった。彼は大理石材のように、身動きもせず直立していた。
「ふむ、貴様は返答をせぬな!」と王はじだんだを踏んで、言った。
「何も言うことがないから、返辞をせぬのだ」と巨人は割れ鐘のような声でどなった。
「では予をどうしようと言うのか?」とルイは忿怒で腕を組み合わせて叫んだ。
「いずれわかります」と手提げランプを持った男が答えた。
「だが、ここはどこだ?」
「ご覧なさい!」
王はあたりを見回したが、仮面の男のかかげたランプの光で見えたのは、じめじめした壁だけで、|なめくじ《ヽヽヽヽ》のはった跡が銀色にところどころ光っていた。
「あっ! 土牢《つちろう》か?」と王は叫んだ。
「いや、地下道だ」
「どこに行く地下道か?」
「我々についておいでなさい」
「予はここから一歩も動かんぞ」と王は叫んだ。
「おとなしくしないと、抱き上げて、あんたをマントで包んでしまうぞ。そのために窒息《ちっそく》すれば、いよいよ取り返しがつくまいが」と二人の人物の中の大男のほうが、こう答えた。
こう言いながら、この男はマントの下から、筋肉のたくましい片手を突き出した。王は乱暴に合うのを恐れた。この二人がここまで来て、素直に引きさがるはずはない。必要とあればいかなる極端な手段にも訴えるだろう。王は頭を振って言った。
「予は二人の刺客の手に捕えられたようだ。では、行こう!」
二人の人物は、これに対して何も答えなかった。ランプを持った男が先に立ち、王はその後について、第二の仮面の男がしんがりをつとめた。こうして彼らは曲りくねった、長い地下道を通った。そして神秘な陰気な宮殿にでもあるような階段を幾度も上り下りした。幾度か曲がって行くあいだに、王は頭の上の方に水の流れる音を聞いた。ついに彼らは鉄の扉で締めきった長い覆道《ふくどう》に来た。ランプを持った男が、途中かちかちと鳴っていた、皮帯につるした鍵《かぎ》の一つで、この扉を開いた。
すると空気がさっとはいってきて、ルイは真夏の日の暑さに熱せられた樹々から、発散する心地よい香りを感じた。王はちょっと立ち止まって躊躇《ちゅうちょ》した。が、後ろからついて来た大男が、王を地下道の外に押し出した。
王は自分を引き出した男の方を振り返って、
「貴様たちはフランス国王を、どうするつもりか?」と言った。
「その言葉を忘れるようになさい」とランプを持った男が答えた。
すると大男は、同僚から渡されたランプを吹き消して、
「いまのおまえの言葉は八つ裂きの刑に値いするぞ。しかし国王陛下はお慈悲深く渡らせられる」と言い足した。
ルイはこのおどし文句を聞くと、逃げだそうとでもするように、急にからだを動かした。しかし大男の手はすぐ、むずと王の肩をおさえたので、そのまま立ちすくんでしまった。
「どこへ行くのだ?」と王が言った。
「こちらに来なさい」と第一の男が、幾らか尊敬を含めた調子で答えて、待ち受けていたらしい馬車の方へ王を連れて行った。
その馬車は、すっかり木立ちの繁みに隠れていた。足鎖を掛けられた二頭の馬が、大きな樫《かし》の木の下枝につながれていた。
その男は馬車の扉をあけ、踏み板を下ろして、
「お乗りなさい」と言った。
王は馬車の後ろの席に腰を掛けた。扉が締まって、王と案内の男が車内に閉じこめられた。すると大男は馬をつないであった綱を切り放すと、手ずから馬具を付けてから、空いていた御者台に上がった。
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二五 一路牢獄《ろうごく》へ
すぐに馬車は走りだして、パリ街道へ出た。セナールの森には、最初の馬のように、替え馬が樹につないであった。御者台の男は馬を替えると、パリに向けて、また走り続けた。そして朝の三時ごろにはパリにはいった。馬車はやがてサン・タントワンヌ通りにさしかかった。そして番兵の誰何《すいか》にあうと、「陛下のご用だ!」と答えて、御者は監獄事務所の中庭に達する、バスチーユの円形の構内に、馬車をかり入れた。それから石段の下まで来て、そこに止まった。馬は汗で湯気を立てていた。守衛長が走り出て来た。
「典獄を起こして来い」と御者をつとめた大男が雷のような声でどなった。
この声はサン・タントワンヌ町の入り口まで聞こえるような大きな声だったが、この声以外には、城内では物音一つしなかった。十分ばかりして、典獄のべーズモーが、寝巻のままで、入り口の敷居の所に姿を現わした。
「いまごろどうした? 誰を連れて来たのだ」と彼は尋ねた。
角灯をさげた男が馬車の扉をあけると、御者台にいる大男に、二こと三ことささやいた。すると、この男は御者台から飛び降り、座席の下に入れておいた小銃を取り上げて、銃口をルイの胸に突きつけた。
「口をきいたら、銃殺してしまえ!」と馬車から降り立った男が声高《こわだか》に言った。
「心得た!」と他の男は一も二もなく、これに応じた。
王と同乗して来た男は、石段をのぼった。そこに待ち受けていた典獄が、
「デルブレー猊下《げいか》!」と叫んだ。
「しっ! 君の部屋に行こう」とアラミスは答えた。
「まあ! どうしてこんな時刻に、お出かけになりましたので?」
「べーズモー君、まちがいだったよ。このあいだのことは君のほうが正しかったようだ」とアラミスは静かに答えた。
「何のことでございますか?」と典獄は聞いた。
「釈放命令の件です」
「それはまたどういうわけで……」と典獄は驚きと恐怖から、息もつまるようだった。
「事《こと》は至極簡単です。覚えているだろうな、べーズモー君、釈放命令が君のもとに送付されたことを」
「はい、マルキアリの」
「そうだ。我々はあれをマルキアリに対する命令書だと思ったな?」
「はい。しかしご記憶でございますか? 私が信用しないと申すのに、あたたは私を強制して、あの命令書を信用させなすったのです」
「おい、べーズモー君、言葉が過ぎるぞ、私は熱心に説得したのだ。ただ、それだけのことだ」
「熱心に説得したと、そうです。マルキアリを引き渡すように説得して、ご自分の馬車で連れてお帰りになりましたな」
「いや、ところがそれがまちがいだったよ。べーズモー君、役所でそれがわかったのだ。だから私はセルドンの釈放命令書を持参した。可哀そうなスコットランド人セルドンを釈放せよという命令書をな」
「セルドン? 今度はまちがいございますまいね?」
「自分で読んでご覧なさい」と言って、アラミスは命令書を典獄に手渡した。
「や、この命令書は、すでにいったん私の手に渡ったものです」
「ほう! それはほんとうかな?」
「確かに先夜見た命令書でございます。こ、これだ! インキのしみに見覚えがある」
「そんなことはどうだかしらんが、とにかくそれを君のところに持って来たのだ」
「が、そうしますと、もう一方のほうは?」
「もう一方の何かな?」
「マルキアリのことですが?」
「連れて来ました」
「しかし、それだけでは困ります。再収容の命令書が必要でございます」
「べーズモー君、ばかなことを言っては困る。まるで子供のようなことを言われる! 君の受け取ったマルキアリの命令書はどこにあるかね?」
べーズモーは金庫に駆け寄って、書類を取り出した。アラミスはそれをつかむとすぐに、落ち着き払って四つに引き裂き、ランプの所に持って行き、焼き捨ててしまった。
「とんでもない! 何をなさる?」とベーズモーは極度に恐れおののきながら叫んだ。
「典獄、自分の立ち場を考えてご覧なさい」とアラミスは自若として答えた。「事はいかに簡単だかおわかりだろう。君の手もとには、マルキアリの釈放を命ずる書類は、もう一つもないのだ」
「ああ! 私はこれで破滅だ!」
「そんなことはない。私がマルキアリを連れ戻したではないか。だから彼が出獄しなかった前と少しも変わりはせんぞ」
「ああ! そうか!」と典獄は言ったものの、まだ恐怖から回復しなかった。
「そうとも。だから、すぐ彼を収容し給え」
「なるほど、それもそうですな」
「それから、この命令書どおりに、そのセルドンを引き渡してもらいましょう。こうすれば、君の帳簿も合うわけだな。おわかりかな?」
「私は……私は……」
「そうか、わかったのだな、結構です」とアラミスが言った。
べーズモーは両手を握り合わした。
「しかし、どういうわけで、いったんマルキアリをお連れになってから、また連れてお戻りになったのですか?」と典獄はにがりきって叫んだ。
「君のような友人には、何も秘密にすることはないが」と言ってアラミスはべーズモーの耳もとへ口を持って行って、小声でささやいた。
「君も知ってるだろう? 実に瓜《うり》二つだ。あの不幸な男と……」
「国王陛下がですか? はい」
「よし、ところでマルキアリが放免されると、それを利用して第一に何をやったと思う? 見当がつくかな?」
「どうして私などに見当がっきましょう?」
「フランス国王だと主張したのだ」
「へえ! だいそれたことを!」とベーズモーが叫んだ。
「国王陛下と同じような服を着て、自らフランス国王と称したわけなのだ」
「まあ! なんという!」
「というわけで、また連れ戻しに来たのだ。あれは狂人じゃ。それに相手嫌わず、その狂人振りを発揮するのだ」
「では、どういたしたものでしょうか?」
「なあに、簡単なことだ。誰にも彼を会わさぬことです。よろしいかな。べーズモー君、陛下は彼の狂人振りをお耳にされると、非常な立腹だ。ここをよくわきまえておきなさい。これは君の一身上にかかわる大事だからだ。よく申し伝えて置くが、陛下ご自身と私を除くほか、何人にでも彼を会わしたら、死刑に処するとのきびしいご沙汰《さた》だ。べーズモー君よろしいか? 死刑ですぞ」
「かしこまりました」
「では降りて行って、あの不埒者《ふらちもの》をいま一度牢獄に入れるとしよう。それとも、ここに連れて来る方がいいかな?」
「連れてまいって、何になりますか?」
「いますぐ彼の名を囚人名簿に記入するほうがいいと思うが。どうかな?」
「もちろんのことで!」
「それなら、あの男を入れ給え」
べーズモーはすぐと、鐘と太鼓を鳴らさせた。これは何人《なんぴと》にも会わせてはならぬ特別な囚人を収容するために、全員引き取り方を命ずる警報であった。通路の人払いがすむと、典獄は囚人の身柄を受け取りに、馬車のところへ行った。その囚人の咽喉《のど》には、まだポルトスが銃を擬していた。すなわち、先刻からの御者の役は、ポルトスだったのである。
「おお! おまえか! 可哀そうな奴《やつ》だ。よし! よし!」と国王を見たべーズモーはこう叫んだ。そしてすぐ、王を馬車から降ろして、典獄はベルトディエール第十二号へとルイを連れて行った。その後からまだ仮面を脱がないポルトスと、再び仮面をかぶったアラミスとが随いて行った。それから典獄は、フィリップが六年間|呻吟《しんぎん》していた獄房の扉をあけた。
王は一言も言わずに、獄房の中にはいった。その顔はまっさおで、目はぎらぎらと光っていた。ベーズモーは扉を閉じ、錠の中で鍵《かぎ》を二度回して、それからアラミスの方へ振り向いて、
「陛下に瓜二つであることは事実ですね。しかしあなたのおっしゃるほどでもありません」と小声で言った。
「それでは本物を替え玉に使ったら、あなたは見破ったろうな?」
「まあ! 何というご質問です!」
「君は実に得がたい人物だ、では今度はセルドンを釈放しなさい」とアラミスが言った。
「そうそう。忘れるところでした……すぐ命令を出しましょう」
「なあに、明日で結構、まだ時間があるから」
「明日ですって? いや即刻釈放いたします」
「そうか。それならあなたの仕事に取り掛りなさい。だが、よくわかっていますな?」
「何がわかっているのでございますか?」
「陛下からのご命令がなければ、誰もあの男の獄房にはいれぬということを。そのご命令は私が自分で持参するから」
「よくわかっております。ご免ください、猊下《げいか》」
アラミスはポルトスの所に戻って行った。
「さあ、ポルトス、大急ぎでヴォーへ引っ返すのだ」
「忠実に陛下のご用をつとめ終わると身も心も軽くなる。陛下にお仕えすれば、国を救うことになる。馬も引いて行く荷がなくなったな。さあ、出掛けよう」とポルトスは言った。
馬車はバスチーユのはね橋を渡った。囚人を下ろしたから馬車は軽くなったはずだった。しかしアラミスにはその歩みが重く感ぜられた。馬車が渡り終わると、橋はすぐとまたはねられた。
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二六 獄房の夜
感覚を失い、すっかり疲れ果てた若い王が、バスチーユの獄房に導かれたとき、死そのものが眠りのようなものだと思った。そして死には夢があり、ヴォーの部屋の床の中に寝台が没し、その結果、自分は死んでしまったのだ。しかもまだ夢は続いて、もうこの世の人でない彼、ルイ十四世は、王位|剥奪《はくだつ》、幽閉《ゆうへい》、そして昨日まで無限の権力を握っていた君主に対する侮辱という、到底人の世にありうべくも思われぬ恐ろしい悪夢を見ていると思った。
「これがいわゆる無窮《むきゅう》とか、地獄とかいうものだろうか?」とルイは典獄の手で、獄房の重い扉が締められたとき、こうつぶやいた。
王は自分の周囲を見回しさえもしなかった。壁に寄り掛かって、自分をどこまでも死んだものと思って、このうえさらに悪いものを見ないようにじっと目をつぶっていた。
「予はどうして死んだろうか?」となかば気が狂った王は考えた。「あの寝台が何か仕掛けか何かで下に落ちたのかな? いや、そうでない。予は打傷一つした覚えがない。物にぶつかった覚えもないし……それに、そんなことをするくらいなら、むしろ食事に毒を盛ったはずだが?」
突然、獄房の冷気がマントのように、ルイの肩の上にかぶさったと思われた。
「予は父君が国王の服を着けられたまま、寝台の上で死んでおられたのを見た」とルイは心の中で考えた。「その顔は衰弱して、青い穏やかな表情をされ、手と足とは冷たく硬直していた。そのようすはけっしてたくさんの夢を見ながら、お眠りになっているのではないということを物語っていた。国王は永遠の眠りについても、国王である。父君はビロードの玉座につかれるように、その死の床の上で、なお君臨されていた。国王はけっしてその威厳を捨て去るものではない。何も罪を犯さなかった予を、神は罰せられるわけはない」
すると異様な物音がこの若い国王の注意をひいた。そこであたりを見回すと、炉棚《ろだな》の上のキリスト磔刑《たっけい》の大きな壁絵の下に、恐ろしく大きな鼠《ねずみ》が、この部屋の新しい客を盗み見ながら、堅いパンの残りをかじっている。
それを見ると、王は急に恐怖と嫌悪を感じた。そして大きな叫び声をあげて、扉の方に後じさった。この胸から脱け出た叫び声で、ルイははじめて自分が生きていることに気付き、意識がはっきりとした。
「囚人だ! 予は、囚人だ!」と彼は叫んだ。
王は呼び鈴を押すつもりで、あたりを見回した。
「バスチーユには呼び鈴はない。予が幽閉されている所はバスチーユなのだ。が、どういうふうにして監禁されたのだろう? フーケの陰謀に相違ない。予はヴォーに来て、罠《わな》に掛かったのだ。しかしこれだけのことをしでかすには、フーケ一人ではできまい。彼の手先……さっき聞いたのは、確かにデルプレーの声だ。するとやはり、コルベールの言うのが真実だった。それにしても、フーケの目的はなんだろう? 予に代わって王位につこうというのか? いや、そんなはずはない! しかし、何ともわからぬことだ……」こう考えて来て、王は憂鬱《ゆううつ》になった。「おそらく、弟のオルレアン公が王位をうかがっているのだろう。叔父《おじ》が父君に代わろうとしたように。しかし王妃は? 母上は? それからラ・ヴァリエールは! ああ! ラ・ヴァリエール! 可哀そうに彼女は義妹のアンリエットの自由にされてしまうだろう。きっとそうだ。予を幽閉したように、彼女をも幽閉したに相違ない。我々は永久に引き離されてしまったのだ!」
王は恋人との別離を考えて、急にすすり泣きを始めた。
「そうだ。ここには典獄がいる。典獄を呼びつけて話すとしよう」と王は憤慨《ふんがい》しながら言った。
ルイは大声で呼んだ。だが誰も答えなかった。王は椅子をつかんで、頑丈な樫《かし》の扉に向かってたたきつけた。すると階段の遥《はる》か遠くから、反響ががんがんと返って来た。しかし人間の声は、一つも聞こえて来なかった。
それはバスチーユでは少しも彼が尊敬されていない証拠だった。やがて忿怒《ふんぬ》の発作がひとまず落ち着いたころ、鉄格子のついた窓は、ほのぼのと明るい曙《あけぼの》を示すように、黄金色の菱形《ひしがた》となった。王は再び呼び始めた。最初は静かな声で、それから次第に力一杯大きな声で呼ばわった。誰も答える者はなかった。二十ぺん以上も続けざまに、いろいろと試みてみたが、いずれもむだであった。
王の全身の血は湧《わ》いて、頭に逆流してきた。日ごろ命令を下すに慣れている彼である。自分の言うとおりにならないと思うだけでも、腹立たしさにからだがわなわなとふるえた。次第次第に忿怒の情が大きくなって行った。ついに王は持ち上げるのに重過ぎる椅子をぶちこわして、それを槌《つち》に使って扉をたたき始めた。あまり何度も力いっぱいたたいたので、汗がたらたらと額から流れ落ちた。そのたたく音はますます大きく、いつまでも続いた。やがて息をころしたような叫び声が、そこかしこに聞こえた。
王はこの声を聞いて、それをよく聞こうとして、扉をたたくことをやめて、耳をそばだてた。それはかつての王の犠牲者であり、いまは同じ仲間同士である、囚人たちの声であった。この声は厚い天井や、暗い壁を貫いて、水蒸気のように、王のところまで上がって来た。そしてそれは自分たちを監禁《かんきん》するように命じたルイを責める、溜息《ためいき》や涙のごとく、扉をたたいた王を非難していた。ルイは多くの人たちから自由を奪ったあげく、いままた、彼らからその睡眠を奪ったのであった。
こうした考えが、もう少しのことで王を狂人にするところだった。彼は元気づけ、また情報とか結論とかを得ようと欲していた、彼の意志を強化した。そこで王は再び椅子の棒切れを持って、扉をたたきだした。こうして一時間もたつと、獄房の外の廊下に人の気配がして、力いっぱい扉をたたき始めたので、王はたたくのを一時中止した。
「おや! 気でも違ったのか? 今朝はまたどうしたというのだ?」と乱暴な荒々しい声で言った。
「今朝だと?」と王はびっくりして、考えてみた。そして今度は、丁寧に、
「君はバスチーユの典獄かね?」と聞いた。
「おいおい、貴様の頭は変だぞ」とその声が答えた。「しかしいくら騒ぎ立てるにしても、あんなことをしてはいかん。静かにしておれ!」
「君は典獄か?」と王は再び尋ねた。
しかし獄吏はそれに一言も答えず、立ち去ってしまった。
そうと知ると、王の怒りは際限もなく高ぶった。虎のような身軽さで、いきなりテーブルから窓へと飛び移り、力まかせに鉄格子を打った。窓ガラスが一枚割れて、その破片はがちゃんと中庭に落ちた。王はそこにかじりついて、「典獄! 典獄!」と呼ばわった。こうした発作状態が一時間ほど続いた。
髪は乱れて額に振りかかり、衣服は裂けて、壁土でまっ白になり、下着はずたずたに破れた。王はこうしてたけり狂っていたが、やがてへとへとになってやめた。彼はこの無慈悲な壁と、時以外には何者も貫けぬセメントと、そして絶望のほかには武器一つない自分の境遇を、はっきりと悟ったのであった。
彼は額を扉にもたせかけて、激しい心臓の鼓動のだんだんに静まるのを待ちながら考えた。
「囚人に食物を持って来る時間が来るだろう。そのときこそ誰かに口をきいて、返答を聞いてやろう」
しかし王はバスチーユの囚人が、何時に朝食を給されるかを知らなかった。二十五年間、王位にあって、あらゆる幸福を享楽しながら、自由を奪われた不幸な囚人の苦痛に一顧をもあたえなかった自分を省みたとき、悔恨の念は、匕首《あいくち》のごとくに王を刺した。彼は慙愧《ざんき》のため顔を赤くした。この恐ろしい屈辱を忍びながら、王はいまや、自分がかつて多くの人に科した苦痛を神が自分にあたえるのだと思った。
このときこそ、苦痛に打ちひしがれた王の魂を、宗教の力で目覚めさせるに絶好な機会であった。しかしルイはあえて神に祈るために、またこの試練の目的を神に尋ねるために、ひざまずこうとはしなかった。
「神は正しい。神の仕業《しわざ》はよろしきをえている。ところがいままで予は多くの者の自由を奪ってきた。その予が神に祈って、自由を乞うのは卑怯《ひきょう》きわまることだ」と彼は思った。
王が自分の心の苦痛を、こう考えるようになったとき、扉の後で、またさっきと同じような物音が聞こえた。そして今度はこれに続いて、錠の中で鍵《かぎ》を回す音と、閂《かんぬき》をはずす音がした。
彼ははいって来る男に近づこうとして、前に飛び出したが、国王たる身分にふさわしからぬ挙動だと気がつくと立ち止まった。そして新たにはいって来る者に、自分の感情を少しでも隠そうとして、窓の方に背を向けて、気高い、落ち着いたふうを装いながら、待ち受けた。
はいって来たのは、食物の寵《かご》を持った獄吏にすぎなかった。
王は不安の念にかられながら、この男を見つめて、相手の話しだすのを待っていた。
「やあ! 貴様は椅子をこわしたな。あんのじょうだ。すっかり気が狂ったな!」と、この男は言った。
「気をつけて物を申せ。おまえの一身に重大な結果を来たすぞ」と王は言った。
獄卒は寵をテーブルの上に置き、じっと囚人の顔を見つめていたが、驚いて、
「なんだって?」と言った。
「典獄にこれへまいるように伝えてくれい」と王は鷹揚《おうよう》に言い足した。
「こら、貴様はいつも穏やかな、聞き分けのいい男だったが、だんだんと乱暴になって来たようだな。いまのうちに、早く気がつかないと困るな。椅子をこわしたり、騒ぎ立てたりすると、土牢《つちろう》の方に移すぞ。もう二度と乱暴はいたしませんと言え。典獄には内分にしてやるからな」と獄卒は言った。
「予は典獄に会いたいのだ」と王は眉《まゆ》も動かさずに答えた。
「典獄は貴様を土牢にお移しになるぞ。気をつけなければいかん」
「ぜひ会いたいのだ! わかったかな?」
「あっ! 貴様の眼つきがまたへんになってきた。そうだ、ナイフを取り上げておこう」
獄卒は王のナイフを取り上げると、扉を締めて出て行った。王は後に取り残されて、いままでよりもいっそう、驚愕《きょうがく》とみじめさを感じた。
彼は再び椅子の棒切れで、扉をたたいたり、窓から皿や小鉢を投げ出して見たが、まったくむだであった。誰一人として相手にしてくれるようすはなかった。
それから二時間の後、彼のようすは、誰が見ても国王とは、否、身分ある人とは思えなかった。まともな頭の持ち主とは思えなかった。扉を爪《つめ》で引っかいたり、獄房の石畳をはがしたり、恐ろしい叫び声をあげたりするようすは、どう見ても正真の狂人であった。
典獄のほうでは、いっこう平気だった。獄卒や衛兵は典獄まで報告したが、それが何になろう? 牢獄の中では、こういう狂人は普通ではなかったか? そのために城壁は厚くできているではないか?
アラミスの言葉が頭にしみこんでいたべーズモーは、国王の命令を固く守り、ただ一つのことしか願っていなかった。その願いとは、マルキアリの精神異常がますますひどくなって、天蓋《てんがい》か、鉄格子にでもぶら下がって、首をくくってくれればいいという願いだった。
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二七 大臣の述懐
話は前に戻って、かの銃士長ダルタニャンはルイ十四世の御前から退出すると、フーケの気高い人柄とか、コルベールのフーケ打倒の運動とか、国王の宮女ラ・ヴァリエールに対する寵愛《ちょうあい》ぶりとか、幾多の心配事に頭を悩ましながら、何事か思案にふけっているようすだった。やがて決心の色を顔に浮かべて、彼独特の身振りで、肩から掛けた皮帯を強く引き締めてから、まっすぐとフーケのもとに出かけて行った。
フーケは大妃や王妃にお別れの挨拶《あいさつ》を言上した後、大園遊会もめでたく終了したので、ほっと一息ついて、これからゆっくりとからだを休めようとしているところだった。
あたりの空気はまだ花火の焔硝《えんしょう》の匂《にお》いで、臭かった。蝋燭《ろうそく》にはゆらゆらした灯がともり、花環からは香り高い花が抜けて、地面に落ちていた。舞踏を楽しんでいる人たちや、廷臣の群れが三々五々、客間の中に残っていた。
挨拶したり、挨拶を受けたりしている友人たちに囲まれて、フーケは疲れた眼をなかば閉じていた。彼は一刻も早く休みたかった。そしてずうっと以前から集めた月桂樹の中にすわっていた。
フーケは半分死んだようになって、自分の部屋に引き上げて来た。彼はもう何も聞きたくもなかったし、見たくもなかった。少しでも早く寝台の上に横になりたかった。ル・ブランの描いた、円天井《まるてんじょう》の守護神、夢の神モルフェは、この家の主人にまで眠り薬の罌粟《けし》の花をまき乱したのか、フーケはむしょうに眠かった。
彼がちょうど近侍に手伝わせて、寝る支度をしているとき、ダルタニャンはその部屋の入り口に姿を現わした。
「ああ! ダルタニャン君か?」とすでに右|袖《そで》を脱いで、着替えをしていたフーケは言った。
「さようです」と銃士長は答えた。
「さあおはいりなさい」
「ありがとうぞんじます」
「何か園遊会の批評でもしに見えたか? あなたはなかなかすばらしい考えを持っているからな」
「いやさようではございません」
「あなたの仕事に何かさしさわりでもありましたか?」
「いや、少しもありませぬ」
「部屋がお気に入らんかな?」
「まことに結構です」
「それなら、私も嬉《うれ》しい。今度はいろいろとお世話になりました。私からも、ぜひお礼を言わなければならん」
この言葉の意味は、「君には部屋がとってあるのだから、やすんでください。私もやすませてもらうのだから」というのであった。
しかしダルタニャンはのみこめぬようだった。そして大臣に、
「もうおやすみになるのですか?」と尋ねた。
「さよう。何か用事でも?」
「いや、べつに。すると閣下はこの部屋でおやすみになるので?」
「ご覧のとおりな」
「閣下は陛下のために、すばらしい園遊会を催されましたな」
「あなたはどうでしたか?」
「いや、実に結構でした」
「国王陛下には満悦であらせられましたか?」
「すこぶる満足のように拝されました」
「あなたは何か私に対する陛下の伝言でも持って来られたのですかな?」
「閣下、私のような者では立派なお使いはできません」
「ダルタニャン君、謙遜《けんそん》せんでもいいよ」
「そこにあるのが、閣下の寝台ですか?」
「そうです。しかし、あなたはどうして、そんなことを聞かれる? 自分の寝台が気に入らぬのですか?」
「率直に申せば、気に入りません」
フーケはこれを聞いて、びっくりした。
「ダルタニャン君、では、あなたは私の部屋を占領しようと言われるのかな?」
「占領するなんて、けっして申しませんが」
「では、どうしようと言うのかな?」
「どうかいっしょに、ここで寝かしてくださいませんか?」
フーケはじっと銃士長を見つめていたが、
「ははあ! あなたはいま、陛下のお部屋からさがって来られたのだな?」
「閣下、いかにもさようでございます」
「で、陛下は私の部屋で一夜を明かせと仰せられたのだな」
「いや、閣下……」
「よろしい。ダルタニャン君、あなたの好きなようにしてください」
「いや、私はけっして、そんな……」
フーケは近侍に向かって、
「あちらに行っておれ」と言った。
近侍が出て行くと、ダルタニャンに向かって、
「あなたは私に何か話があるのだろうな?」と言った。
「私が?」
「あなたのような物のわかった人が、重大な理由もないのに、こんな時刻にやって来るはずがない。用件は何ですか?」
「お尋ねくださいますな」
「では、私はどうすればいいのだ? ははあ、私をしばりに来たのだな」
「けっしてそんなわけではありません」
「それでは監視するつもりかな?」
「はい、名誉にかけて、閣下を監視いたします」
「名誉にかけて! ああ、それなら、またべつだ! では私は現在自分の邸《やしき》でしばられるのか?」
「そんなことをおっしゃるな!」
「いや大きな声で叫ぶ」
「それではやむをえません。沈黙を命じます」
「よろしい! この私に向かって、しかも私の邸で圧迫を加えるのか?」
「我々のあいだに誤解があってはよくありません。そこにチェス盤がある。いかがです。一局戦わしては?」
「ダルタニャン君、すると私は、陛下のご不興をこうむっているわけかな?」
「いや、けっしてそうではありませぬが、しかし……」
「では、禁止命令のため、あなたの監視からのがれることができないのだな?」
「閣下のおっしゃることは、一言も私にはわかりません。私が引き取ることをお望みなら、そうおっしゃってください」
「ダルタニャン君、君を相手にしていると、私は狂人になりそうだ。私は眠くてしようがなかったが、君のおかげですっかり眼が覚めてしまった」
「まったく私が悪いのですが、しかし私と仲よくやっていこうというお考えなら、私の見ている前でおやすみください。そう願えればありがたいのですが」
「監視ですかな?……」
「それならば、私は出て行きます」
「どうもあなたの言うことは、さっぱりわからん」
「では、閣下、おやすみなさい」とダルタニャンは引きさがろうとするふりをした。
するとフーケはその後を追って、ひややかな調子で言った。
「ダルタニャン君、もういいかげんにして、率直に話してください。何の理由で私を逮捕しようというのだ? 私が何をしたのだ?」
「あなたが何をなさったか、私は知りませんが、逮捕はいたしませぬ……少なくとも今夜は……」
「今夜は!」とフーケはまっさおになって叫んだ。「それでは明日は?」
「まだ明日には間があります。誰に明日のことが保証できますか?」
「早く、早く、隊長、デルブレーと話をさせてください」
「ああ! それはできません。誰とも会わさないように監視せよとのきびしい御|沙汰《さた》です」
「隊長、あなたの親友のデルブレーとも会ってはいけないのか!」
「いや、閣下、私が面会を禁止いたしますのは、けっして親友のデルブレーばかりではございません」
フーケは顔を赤くしたが、やがてあきらめたようすになって、しみじみと言った。
「ごもっともだ、破滅する身となっては、かつて恩を施した者に対してすら、何事も要求する権利がない。まして何も恩を施してない人たちに向かって、ああしてくれ、こうしてくれとは言えぬ理屈だ。ダルタニャン君、あなたは私を逮捕する役目に回るほどあって、いままで、私に何も依頼したことがなかったな」
「閣下」とこの気高い、人を動かすような苦悩の声に感じたダルタニャンは答えた。「どうか、この部屋から出ないという誓いを立ててくださいませんか?」
「あなたが私を監視している以上、そんなことを誓う必要がありますか? フランス一の剣道の達人を相手にして、私が反抗するとでも考えておいでかな?」
「いや、そういうわけではありません。閣下、私はこれから、デルブレーを捜しに行こうというのです。それにはあなたがここに残っていただかなければなりません」
フーケは思わず驚喜の叫び声をあげた。
「デルブレーを捜しに! 私を残しておいて!」と彼は両手を握り合わせながら叫んだ。
「デルブレーはどこに泊っていますか? 群青の間でしたな?」
「そう、そうです」
「ここから群青の間まで行って戻って来るには、十分はかかりましょう」とダルタニャンは言った。
「およそ、そのくらいはかかるな」
「それにアラミスが寝ていたら、彼を起こすのに五分かかるとみて、都合十五分間、私は不在になるわけですが、閣下はけっして逃亡を企てないことをお誓いになりますか?」
「誓います」とフーケは深い感謝の表情をもって、銃士長の手を握り締めながら答えた。
ダルタニャンは姿を消した。
フーケは銃士長が出て行くのを眺めていたが、扉の締まるのを待ちかねて、鍵《かぎ》の置いてある所に飛んで行き、いろいろの家具に取りつけた秘密のひきだしをあけ、手紙や書付けや覚え書きの類をつかみ出して、大急ぎでそれを、大理石の暖炉の中にくべて燃やした。そして全部燃やしてしまうと、安心したのか、気抜けした人のように、肱掛椅子《ひじかけいす》の上にぐったりと腰を下ろした。
ダルタニャンが引き返したときには、フーケはまだそのままの姿勢でいた。ダルタニャンはフーケが誓いを立てた以上、それを破ろうとは思わなかった。しかし監視者の不在を利用して、自分の身を危険におとしいれるような、手紙とか、覚え書きとか、契約書とかを始末するくらいのことはやるだろうと考えていた。それで彼は獣の跡を嗅《か》ぎつけた猟犬のように、頭をあげながら、きな臭い匂《にお》いを嗅ぎわけて、さてこそと満足げにうなずいた。
ダルタニャンがはいって来たとたんに、フーケのほうでも頭をあげた。彼はダルタニャンの一挙一動を見のがさなかった。
そして二人は互いに顔を見交わして、言わず語らずのうちに、双方の諒解《りょうかい》ができたことを知った。
「どうでした? デルブレーは?」とまずフーケが声をかけた。
「デルブレーは夜の散歩が好きですし、月明をあびながら、ヴォーの遊苑《ゆうえん》で、詩人たちと詩作にふけっているのか、部屋にはいませんでした」
「えっ! 部屋にいない」とフーケは叫んだ。望みの綱が切れたのである。というのはデルブレー修道院長であるアラミスのほかには、いまの窮状から彼を救い出す者がいないからである。彼は深い溜息《ためいき》をついた。そして肱掛椅子から立ち上がると、部屋の中を二、三度行ったり来たりした。が、やがて、非常に落胆したようすで、美しいレースで飾られた、立派なビロードの寝台に腰を下ろした。
ダルタニャンは、フーケの姿を見て、心の底から気の毒に思った。
「しっかりなさい! 閣下、あなたのようなお方が、そんなに気を落とされることはありません。そんなところを友人の方たちが見たらば、どう思うでしょう?」
「ダルタニャン君」とフーケは悲哀に満ちあふれた微笑を顔に浮かべながら言った。「あなたは私という者を理解しておられん、友人たちが見ておらねばこそ、私はこんなようすをするのだ。私は孤独では暮らしたことはない。それは私がないも同然です。私はいままで自分を支持してくれるように、友人をつくることに努力してきたのだ。そして隆盛のときは、この幸福に満ちた友人たちの声は私に賞賛の叫びをはなったのです。またわずかでも私が落胆しているときには、そのつつましい声は私の心のささやきとよく調和してくれました。孤立無援ということは、私はいまだかつて知らぬのです。私の行く手にぼろを着て立っている、幽霊ともいうべき貧乏は、私の恐れるところではありません。なぜなら貧乏は孤独でも追放でも、また幽閉《ゆうへい》でもないからだ。ベリソンや、ラ・フォンテーヌやモリエールのような友達があれば、私はけっして貧しい男だとは言えない。私はけっして寂しくはない。ああ! ところがいまは私がどんな寂しい思いをしているか、どんなに心細いか、あなたに、私の心持ちがわかったらなあ! 愛する友人たちから、まったく私を引き離したあなたは、孤独の権化《ごんげ》だ、虚無の権化だ、そして死の権化だ!」
ダルタニャンは深く心を打たれて、
「しかし、フーケ閣下、あなたはご自分の不幸を大げさに考えていらっしゃる。陛下はあなたを好いていられます」と答えた。
「いや、いや」とフーケは頭を振って言った。
「コルベール氏があなたを憎んでいるのです」
「コルベールが? それは私に何か関係がありますか!」
「あなたを没落させようとしています」
「うむ! やるなら、やってみるがいい。私はもう没落している」
この異様な告白を聞くと、ダルタニャンは自分の周囲を見回した。そしてなんとも言わなかったが、フーケは相手の心持ちを察して、語り続けた。
「人間はもはや好むところの豪奢《ごうしゃ》を味わうことができなくなった以上、その豪奢な物質は何になります? 我々の所有物の大部分は何の役に立つだろう? そのきらびやかなことが、ついには鼻についてきたのだ。あなたはヴォーの城館があると言われるだろう。しかしそのすばらしさが何の役に立ちますか? もし私が破産してしまえば、|水の精像《ヤード》の壼《つぼ》の中に水を注いだり、青銅製の|いもり《ヽヽヽ》の胎内に火を移し入れたり、水神像《トリトン》の胸に息を吹きこんだりする遊苑の費用はどこから出るだろうか? ダルタニャン君、人間が相当に裕福になるには、富み過ぎるくらいに富まなければならんよ」
ダルタニャンは頭を振った。
「いや、あなたが考えておられることはよくわかっている」とフーケは口早に答えた。「もしヴォーがあなたの物なら、あなたはこれを売り払うというのだろう。そして田舎で土地を買おうというのだ。森があり、果樹園があり、畑の付いた土地を、自分を養う土地を買おうというのだ。だが四百万では……」
「二千万に売れるでしょう」
「百万でもむずかしいな。この荘園を二百万で買いとって、私がやったように、維持して行けるような金持ちは、このフランスには一人もないのだ」
「とにかく、百万あれば貧乏人とは言えませぬ」
「と言って、金持ちでもなかろう。だが、あなたは私の言うことがわからんな。いや、私はこのヴォーの荘園は売りたくないのだ。お気に入ったら、あなたにさし上げてもよいよ」
こう言うと、フーケはなんとも言えないふうに肩をそびやかした。
「陛下に献上なさい。あなたのおためになりましょう」
「いや、陛下は私が献上したようなものをお受け取りにはならぬ」とフーケは答えた。「陛下がお気に入れば、もちろん、私から取り上げていらっしゃるよ。ダルタニャン君、陛下さえここに逗留《とうりゅう》でなければ、私はこの燭台《しょくだい》を持って、あの円屋根《ドーム》の下に行き、あすこに貯えてある花火の材料に火をつけて、この宮殿を焼き払ってしまいたい」
「ばかなことを!」と銃士長はぞんざいに答えた。「それにしても、あの庭園を焼くことはできません」
「ああ! いま私はヴォーを焼く、私の宮殿をこわしてしまうと言ったが!」とフーケはかすかにつぶやいた。「しかしヴォーは私の所有物ではない。享楽という意味から言えば、このすばらしい遊苑や建物や壁画は、それに金を投じた男の財産かもしれん。だが、それを保存するという問題になると、私の物ではない。これを創造した人たちのものだ。このヴォーこそはル・ブランや、ル・ノートルや、ペリソンや、ルヴォーや、ラ・フォンテーヌの所有に属するものだ。ここで『うるさい連中』を上演したモリエールの所有物だ。いや、後世に属するものだ。そうだろう、ダルタニャン君。自分の邸がもう自分の所有ではなくなっているのですよ」
「いかにも立派なご意見です。フーケ閣下の面目が躍如《やくじょ》としております」とダルタニャンが言った。「しかし、あなたはすでに破産だとおっしゃるが、もしそうならば、立派に男らしく運命に直面なさい。あなたこそ後世に属する方です。あなたはご自分から、人物を小さくすることはありません。しかるに、そのあなたを逮捕する役目を仰せつかった私は、閣下に比べたら、まことにつまらん人間であります。が、あえて言う。私は自分の過去を振りかえって見ると、かえってますます勇気が起きてきます。私はこのまま最後まで騎士で行く。そしてやめるときが来たらいさぎよくやめます。閣下も私のようになさい。けっしておためにならぬことはありません。閣下のような方には、生涯にただ一度しか破滅はありませぬ。畢竟《ひっきょう》、『終りは事業を飾る』という諺《ことわざ》のとおりですな」
フーケは立ち上がって、ダルタニャンの首に片腕をかけ、もう片方の手で、しっかりとその手を握り締めた。
「立派な教訓だ」としばらく間をおいてから言った。
「一武弁のつまらぬ説法です」
「こうしたことを私に言ってくださるのは、私に好意を持っていてくださるからだな」
「まあ、そうでしょう」
フーケはまた憂鬱《ゆううつ》なようすになった。それからしばらくして、
「デルブレーはどこにいるのだろう。しかし迎えにやってくださいとお願いするわけにはいかない」
「お頼みにならんほうがよいな。私もご依頼に応じかねます。そんなことをすると皆に知れますし、アラミスが巻き添えを食いましょう」
「では、夜明けを待つことにしよう」とフーケが言った。
「さよう、それがいちばんよろしいですな」
「夜が明けたら、我々はどうするのかな?」
「閣下、私にはわかりかねます」とダルタニャンは答えると、肱掛椅子に腰を下ろした。
一方フーケはその寝台の上に肱枕《ひじまくら》をしながら、なかば横になって、自分の将来のことを案じていた。
こうして二人は蝋燭《ろうそく》の灯を燃えるにまかせながら、一夜を明かすことになった。フーケが眠られぬままに大きく溜息をつくと、ダルタニャンはそれよりも、大きないびきをかいた。
アラミスはもちろんのこと、誰も部屋にやって来るものはなく、彼らの安眠を妨げるものはなかった。広い邸の中には、物音一つしなかった。
外では、近衛《このえ》の巡察隊と、銃士隊の歩哨《ほしょう》が砂利道を歩き回る足音が聞こえていた。それはかえって眠っている者のためには、静けさを増しているようだった。そしてまた、風や泉の水の音は、人間の生死にかかわりがあるいろいろの小さな物音に関係なく、その永遠の働きを続けていた。
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二八 黎明《れいめい》
ルイがバスチーユの牢獄《ろうごく》に幽閉されて、錠前と鉄格子の中に呻吟《しんぎん》しているあいだに、フィリップは優雅な天蓋《てんがい》の下に、静かに眠っていた。前者のいたましい運命に引き替えて、これはまたなんと華やかな対照だったろう。
若い王子はルイが「|夢の神《モルフェ》の間」から降りたと同じように、アラミスの部屋から下って来たのだった。円天井《まるてんじょう》はアラミスの手にあやつられて、静かに下って行き、フィリップは国王の寝台の前に立った。この寝台はルイを深い地下道の底に置き去りにしてから、再び元の位置にのぼって来ていたのであった。
ただ一人豪華な舞台に立たされて、いよいよ大芝居を打たなければならぬとなると、フィリップはさすがに千万無量の感慨で、胸がいっぱいになった。
彼は自分の血を分けた弟が脱け出たばかりの寝台を眺めて、顔色を変えずにはいられなかった。この無言の共犯者は、割り当てられた仕事を果たして戻って来たのである。それも犯罪の痕跡《こんせき》を印して戻って来たのである。
寝台の上にある、その犯罪の痕跡をよく見ようとして、身をかがめたフィリップは、そこに一枚のハンカチを見つけた。それがまた湿っているのは、ルイ十四世が額の冷や汗をふいたのであろう。それを見て、彼は恐怖のために身をふるわした。
「自分はいま運命に直面している」とフィリップは両眼を血走らせ、顔をまっさおにしながら、こう言った。「この運命は、これまでの監禁生活以上の恐ろしいものだろうか? 王位を奪った私は、自分の良心の声に耳を傾けることをやめてよいだろうか? そうだ! ルイはこの寝台に横になっていたのだ。この枕の中に頭を埋めていたのだ。このハンカチのしみは、彼の悲痛の涙だ。だから私はこの寝台でやすむのを躊躇《ちゅうちょ》する。国王の紋章を刺繍《ししゅう》したこのハンカチをつかむことを躊躇する!……しかし、そんな気が弱いことではだめだ! デルブレーは人間の行動は、つねにその考えよりも一段上に出るべきだと言ったではないか! デルブレーを見習おう。自分はルイ十四世という邪魔者さえなかったら、最初からこの寝台に横になるべきはずだったのだ。このフランス王室の紋章を刺繍したハンカチは、当然自分のものであったのだ。フランスの王、フィリップよ、この寝台の上にのぼれ! フランス唯一人の王、フィリップよ、おまえのものであるその紋章を取り返せ! おまえの父ルイ十三世の唯一人の継承者、フィリップよ、おまえの地位を奪った者は、おまえが忍んで来たほどの苦痛をも受けないぞ。この纂奪者《さんだつしゃ》に対して、おまえは慈悲や情を示すことはないのだ!」
フィリップは心の底からいとわしい気持がこみ上げてきて、恐怖のために、わなわなとからだがふるえたが、こう自分の心に強く言い聞かせて、いきなり国王の寝台に身を投げた。そしてルイ十四世が寝ていたぬくもりのまだ失せぬ場所にからだを押しつけて弟の汗でまだ湿っているハンカチで、額をぬぐった。
フィリップは仰向けに寝台の上に横になり、頭をふうわりした、柔らかな枕に当てて上を見ると、前にも述べたように、そこには黄金の翼をひろげた天使が、フランスの王冠を捧げていた。
この侵入者は、いまや眼つきには暗い悲哀の色をたたえ、そのからだはわなわなとふるえていた。それはあたかも、嵐の夜、滝のような雨の中をさまよって、ついに獅子《しし》の留守に、その巣窟《そうくつ》にはいりこんだ虎のようだった。すなわち猫族の匂《にお》いがそしてそのすみかの生ぬるい香りが、虎をここまでひきよせたのだった。そこにはかわいた草を敷きつめた寝床があり、ぬるぬるした骨の破片があるのだ。ときどき洞穴《ほらあな》の割れめにひらめくまばゆいばかりの光、樹の枝々の衝突する音、ころげ落ちる石の響きなどが、漠然とした危険を感じさせ、疲れ果てて眠っている虎をはっと眼覚めさせるのだ。
しかしフィリップは容易に寝つくことができなかった。ほんのわずかな物音にも、彼は注意深く耳を傾けた。何か恐ろしい不運と恐怖とが、身に迫っているのではないかと思うと、心臓の動悸《どうき》がだんだんと激しくなった。が、断固たる決意で強まっている自分の力を頼んで、彼は何事か起きればいい、そうすればかえって、肚《はら》をすえる縁になろうと思って、待ちかまえていた。しかし何事も起こらなかった。
明け方近くになって、影のように部屋の中に忍んで来た者があった。フィリップは予期していたことで、少しも驚かなかった。
「デルブレーか?」と彼は聞いた。
「はい、陛下、全部相すみました」
「どんなぐあいに?」
「予期のごとくに」
「抵抗したか?」
「いや、おそろしく抵抗いたしました。泣くやら、訴えるやらで」
「それから?」
「とどのつまりは、完全な勝利、絶対の沈黙でございます」
「バスチーユの典獄は怪しまなかったか?」
「少しも」
「予と瓜《うり》二つに似ている点は?」
「それこそ成功の基でございます」
「しかし、同人はきっと弁明するに相違ない。そこをよく考えなければならぬが……」
「はい、その点につきましては、遺漏《いろう》なく用意ができております。二、三日中に、囚人を牢獄から引き出して、国外に追放する手筈《てはず》になっております。非常に遠い場所に……」
「だが、追放しても帰ってくるぞ。デルブレー」
「いや、人間の力では、人間の一生では、到底帰って来られない遠い場所へと、申し上げるところでございました」
若い国王とアラミスとは、もう一度顔を見合わせて、目くばせをした。
「そして、ヴァロン男爵は?」とフィリップは話題を変えて尋ねた。
「今日|拝謁《はいえつ》を願って、内々にお喜びを申し上げます」
「どういうことにしたらよかろうか?」
「ヴァロン男爵にでございますか?」
「そうだ。公爵を授けようかな?」
「公爵を」と答えて、アラミスは意味ありげに微笑した。
このとき、すなわち、この二人の謀反人《むほんにん》が、成功の歓喜と得意の情を、こうしたむだ話で包み隠していた最中、アラミスは何事かを聞きつけて、耳をそばだてた。
「いまのは何だ?」とフィリップが尋ねた。
「夜が明けたのでございます」
「それで?」
「昨夜、陛下は就寝前に、今朝夜が明けましたならば、何かあそばされる決心でございましたろう」
「そうだった。予は銃士長に出て来るように言ったのだ」と若い国王は答えた。
「そう仰せられましたのならば、彼はきっと出てまいります。きちょうめんな人物でございますから」
「廊下に足音が聞こえる」
「彼に相違ございません」
「では、攻撃に取りかかろう」と若い国王は決然として言い放った。
「用心が肝要でございます。ダルタニャンを向こうに回しては、攻撃は無謀でございます。彼は何事も存じません。何事も見ておりません、我々の秘密を、全然感づいてはおりますまい。しかし、今朝まずここにはいってまいりますと、きっと何事かを発見して、調査を始めるに相違ありません。でございますから、ダルタニャンをこの部屋に入れます前に、十分に外気を通すか、さもなくば、大勢の人々を呼び入れて、彼の感覚をにぶらせねばなりますまい」
「しかし、拝謁を申しつけることになっておるのだから、どうして追い払うことができようか?」とフィリップは強敵ダルタニャンとの太刀打ちをしきりに望んでいた。
「それは私におまかせくださいまし。まず最初に私が一本打ちこんで、敵の気勢をくじきますから」と司教は答えた。
「先方も一本打ち込んで来たぞ」と王は言い足した。
いかにも、扉をこつこつたたく音がした。そしてアラミスの言ったとおり、ダルタニャンがはいって来た。
銃士長はフーケの部屋で、肱掛椅子《ひじかけいす》の上に眠ったふりをして、非常に疲れ果てていた。しかし黎明《れいめい》が大臣の部屋の贅《ぜい》を尽くした軒蛇腹《のきじゃばら》を、その青みがかった光で照らし始めると、椅子からすばやく起き上がり、長剣を帯《お》びなおし、袖《そで》で上衣の塵《ちり》を払い、また上官の検閲を受ける兵士のように、帽子にブラッシをかけた。
「お出掛けか?」とフーケが尋ねた。
「はい、それで閣下は?」
「私はここにおる」
「お誓いになりますな?」
「誓いますとも」
「よろしい。実はその返辞をうかがいたかったのです。おわかりですかな?」
「それはどういう意味ですか?」
「いや、私はこれでなかなかかつぎ屋でしてな。今朝、起き上がるときに、剣が飾り紐《ひも》に引っかかっておりませんでした。それから、負い皮がすっかりはずれていました。これはまちがいなく……」
「吉兆かな?」
「はい、さようで、それにご覧ください。剣がいまひとりでに、皮帯のいちばんしまいの穴にはいりました。これは何の前兆かご存じですか?」
「いや、わからんよ」
「これは今日誰かを逮捕しなければならぬという前兆です」
「すると、つまり私を逮捕することが、あなたにとって喜ばしい結果をもたらすというわけですな」
とフーケは銃士長の露骨な言葉に、非常に驚かされて、こう言った。
「閣下を逮捕する! あなたを?」
「そうだろう。その前兆というのは……」
「閣下には関係がありませぬ。と申しますのは、閣下は昨日から逮捕されているのですから。私が逮捕するのはあなたではありません。それだから今日は吉だというのです」
こうダルタニャンは愛想よく述べると、国王に拝謁するために、フーケの部屋を出た。
彼が部屋の敷居をまたいだとき、フーケは次のように言った。
「好意に甘えて、最後にもう一つお願いがある」
「よろしゅうございます」
「実はデルブレーに会いたいのだ」
「では彼をあなたのもとに連れてまいりましょう」
ダルタニャンはこううまく返辞ができるとは思っていなかった。彼はこの日、朝のうちに起こった前兆どおり一日を過ごさねばなるまいと思っていた。
こうして、前にも述べたように彼は国王の部屋の扉をたたいたのだった。すると、扉が開いた。銃士長は国王が自身であけたのだと思った。前夜、彼はルイ十四世があのように激昂《げっこう》しているのを見たのだから、こう考えたのもけっして無理ではなかった。それで最敬礼をするつもりで、顔を上げてみると、王ではなくて、アラミスの平然たる、長い顔がそこにあった。
「アラミス!」と彼はびっくりして叫んだ。
「お早う、ダルタニャン」とアラミスは落ち着き払って答えた。
「君がここにいるとは?」
「陛下は昨夜のお疲れで、まだおやすみだ」と司教は言った。
「ほ、ほう!」とダルタニャンは言った。彼には、どうしてアラミスが一晩のうちに、国王の寵愛《ちょうあい》をほしいままにするようになったか、合点《がてん》がいかなかった。国王の側近に奉仕して、その名において命令を発するというのは、よほどのお気に入りでなければできるはずはなかった。
ダルタニャンの表情に富んだ眼と、なかば開い唇とが、寵臣《ちょうしん》アラミスに向かって、言葉よりもはっきりとこれだけのことを語った。
「それから」とアラミスは続けて、「銃士長殿、今朝は、特別の許可を受けたものでなければ、陛下のお部屋へ通さないようにしてくれ給え。陛下はいましばらくおやすみになりたいとの仰せだ」と言った。
「しかし」とダルタニャンは王が黙っているのに不審を起こして、言った。「しかし陛下は今朝拝謁を許すと仰せられたのだ」
「後だ、後だ」と王の声が凹間《アルコーヴ》の奥の方から聞こえた。この声に、ダルタニャンはぎくりとした。
アラミスはそれ見たことかと言わぬばかりに、にやりと笑ったので、ダルタニャンはびっくり面食らって、急いで頭を下げた。
「それから」とアラミスは言葉を続けた。
「ダルタニャン君、君は陛下にお願いがあって来たのだろう。願いの筋はお聞き届けになったぞ。陛下のご命令書だ。これをすぐフーケ閣下に渡してくれ」
ダルタニャンは命令書を手にとって見て、
「釈放命令? ああ、そうか!」とつぶやいた。
この命令書はアラミスがいかに王の寵遇《ちょうぐう》を得ているかを物語るものだった。特別の寵遇をこうむっていればこそ、こうした重大な命令を王の名において発することもできるのだ。
ダルタニャンには、これだけわかりさえすれば、後のことは全部わかるのだった。彼は退出しようとして、二足後へ引いて、一礼した。
「いっしょに行こう」と司教が言った。
「どこへ?」
「フーケ閣下のところへ。私は大臣の喜ぶようすが見たいのだ」
「ああ! そうか。アラミス、さっきの君には面食らったぞ」とダルタニャンが言った。
「だが、いまはもうわかったろうな?」
「むろん、わかっている」と答えたが、口の中で、「いや、いや、まだわからん。しかし命令書があるのだから、どちらにしても同じことだ」とつぶやいた。
そして、こう言い足した。
「お先にどうぞ」
こうして、ダルタニャンはアラミスをフーケの部屋に案内した。
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二九 謀臣アラミス
フーケは心配して待っていた。常例の接見の時刻に先だって、戸口まで挨拶《あいさつ》に来た召使いや友人たちを、彼は幾人も追い返したのである。しかしそうした人たちにも、彼は自分の身に降りかかる危難については、一言も語らず、ただアラミスのありかを尋ねたばかりだった。
だからダルタニャンが戻って来たのを見ると、そしてその背後にヴァンヌの司教の姿を認めると、大臣は喜びを隠すことができなかった。いままでの不安に比べて、喜びはそれだけ大きかった。アラミスの姿を見ただけで、逮捕のためにこうむった不幸を償うに十分だった。
アラミスは無言のまま、落ち着き払っていた。ダルタニャンは思いがけないいろいろの事件に圧倒されて、すっかり気が転倒していた。
「うむ、銃士長、デルブレーを連れて来てくれましたな?」
「もっといいことがありますぞ。閣下」
「なんです?」
「釈放ですよ」
「私が釈放されたと!」
「はい、陛下のご命令により」
フーケはすぐと平静の態度に戻って、アラミスに目顔で尋ねた。
「そうそう。閣下はヴァンヌの司教に礼を言わなければなりませんな。陛下のおぼしめしが変わったのは司教のおかげでありますから」
「ああ、そうですか!」とフーケは釈放の沙汰《さた》を感謝するよりも、むしろアラミスの尽力を恥じ入ったように言った。
「しかし君」とダルタニャンはアラミスに向かって、「おれも一つ、お願いがあるのだがな」と言った。
「どんなことでも」とアラミスの調子はきわめて落ち着いていた。
「では、たった一つ尋ねたいことがある。君はいままでに陛下の御前に出たことが一、二度しかない。それだのに、どうしてお気に入りになれたのだ?」
「そう言われると、君のような友人には隠し立てもなるまい」
「うむ、では話してくれ」
「よろしい。君は私が一、二度しか拝謁《はいえつ》しないと思っているが、その実、百度以上も拝謁している。ただそのことを秘密にしておいたまでだ」
こうした言葉が、ダルタニャンの額をまた赤くしたのもそのままにして、アラミスはフーケの方を向いた。
「閣下、国王陛下は、いままでよりもいっそう、あなたの友人であると、閣下に伝えるように、それからまた、このたび陛下のおために催された大園遊会が、ことのほか御意にかなったことをも伝えるように、との仰せであります」
こう言うと、アラミスはフーケの方を向いてうやうやしく敬礼した。さすがのフーケも彼の真意を計りかねて、何と言ってよいかわからず、ただ茫然《ぼうぜん》と立っていた。
ダルタニャンは二人のあいだに何か秘密な話があるらしいのを見て、いったん遠慮して席をはずそうかと思い、戸口の方に足を向けたが好奇心のほうが強かったので、その場を去らずにいた。
すると、アラミスがもの柔らかに、彼の方を向いて、
「君はさっき、私から伝えた陛下の起床後に関する命令を忘れまいな」
これだけで、銃士長は相手の気持がはっきりわかった。そこでフーケに一礼してから、次いでアラミスに皮肉な尊敬を表した顔付で挨拶をして、引きさがって行った。
フーケは銃士長の姿が室外に消えるのを待ちかねて、扉のところに行き、それをしっかりと締めてから、司教のそばに戻って来た。
「デルブレー、さあ、もう事情を説明してもさしつかえあるまい。私には、何のことやら、さっぱりのみこめないのだ」
「一部始終を説明いたしましょう」とアラミスは椅子に腰をかけ、フーケにもすわらせながら、言った。「さてどこからお話ししてよいかな?」
「第一に、どうして陛下は私を釈放されたのかな?」
「それよりも、どうして逮捕を命ぜられたかと、お尋ねになるべきです」
「私は逮捕されてから、考える暇があったので、いろいろとあれかこれかと思いめぐらしてみましたが、どうもこれはちょっとした嫉妬《しっと》からきているのだと思う。コルベールが園遊会に来て、私のことをねたみ、何か私をおとしいれる事柄を発見したのだろう、たとえば、ベル・イルの一件とか?」
「いや、いまのところ、ベル・イルは問題ではありません」
「では、なんだな?」
「閣下はマザランが閣下から盗みとったあの書類、あの金貨千三百万の受取り証を覚えておいでになりますか?」
「それは、覚えているとも」
「で、閣下は公金横領者と認められておいでです」
「ほう!」
「いや、そればかりではありません。ラ・ヴァリエールヘ宛てた手紙、あれを覚えておいでですか?」
「ああ! 覚えておる」
「あれがあるので、あなたは謀反人《むほんにん》であり、婦女|誘拐者《ゆうかいしゃ》でもあるのです」
「それなら、なぜ許されたのかな?」
「まず、よく事実をのみこんでいただきましょう。よろしいですか。陛下はあなたに公金横領の罪があると考えていらっしゃる。いや、私もあなたが潔白なことは、よく存じております。が陛下として、あの受取り証をご覧になっていらっしゃるから、あなたを有罪とお認めになるよりほかはありません」
「しかし、どうもはっきりせんな」
「いや、すぐはっきりいたします。そのうえ、陛下はあなたの書かれた恋文をお読みになったのです。あなたのラ・ヴァリエールに対する心持ちをお知りになったのです。ですから、あの女性に対するあなたのお気持は、少しも疑いを入れる余地がありません。これだけの事実を、あなたはお認めになるでしょうな」
「なんとも、そして結論するところは?」
「というわけで、陛下とあなたとが、敵同士になってしまわれたことは、まちがいありません」とアラミスはひややかに言った。
「だが、陛下は私をこうして許されたのだから」
「そんなことがありうると、お考えですか?」
「陛下のおぼしめしはどうか知らんが、私はこの既成の事実を信ずる」
アラミスは、これを聞いて軽く肩をそびやかした。
「では、どうして、さっき君が言ったような言葉を、陛下が私に伝えるようにと仰せられたのだ?」とフーケが聞いた。
「陛下は何も私にお言付けにはなりません」
「何も……」と大臣は茫然として言った。「しかし、このご命令書は?……」
「ああ! そうでした。ご命令書は確かに出ております」
アラミスがこう答えた調子があまりに奇妙なので、フーケはぎょっとせずにはいられなかった。
「おい、君は何か私に隠しているな。私にはちゃんとわかるぞ」とフーケは言った。
アラミスはまっ白な指であごを静かになでていた。
「いったい、陛下は誰を追放なさったのだ?」
「子供の当てっこのようなことをなさってはいけません」
「では話してくれ!」
「当ててご覧なさいませ」
「いや、陛下は何と仰せられたのだ? わが友情の名において、隠し立てをしてくれるな」
「陛下は何とも仰せられません」
「私をいらいらさせて殺すのか? デルブレー」
「そんなことは」
「しかし、どうして君は、そう急に陛下のお心を支配するようになったのだ?」
「そこが肝心なところでございます」
「君は自分の思うままに陛下を動かし奉ることができるのか?」
「そう思います」
「信じられないな」
「私もそう言いたいところです」
「デルブレー、どうか我々の友誼《ゆうぎ》から、ほんとうのことを話してくれ。どうして君はルイ十四世の御心の奥まではいりこむことができたか?陛下は確かに君を好かれなかったが」
「陛下は私を好かれましょう、今度は」とアラミスは最後の言葉に力を入れて答えた。
「すると陛下とのあいだに何か特別なことでもあるのだな?」
「さようです」
「おそらく、何か秘密でもあるのだな?」
「はい、一つの秘密があります」
「陛下の利害関係に関する秘密だな?」
「さすがに閣下はお眼が高い。よく図星をつけられましたな。実は、フランスの利害に関する重大な秘密を発見しましたのです」
「うむ、そうか!」とフーケはむやみに聞きただそうとはしない、つつしみ深い男らしく、口をつぐんだ。
「私がこの秘密の重大なことをまちがったかどうか、ご判断のうえ、お聞かせください」とアラミスは続けて言った。
「それを私に打ち明けようというなら、聞こう。ただ、気をつけてくれ給え、私は君にそれを打ち明けるように頼んだのではないよ」
アラミスはしばらくのあいだ、考えていた。
「言い給うな! また尋ねる折もあろう」とフーケは叫んだ。
するとアラミスは伏せ目がちにしながら、
「閣下はルイ十四世の誕生当時のことを覚えておいでですか?」と言った。
「今日このごろのように覚えておる」
「誕生に関して、何かお聞きになりましたか?」
「いや、何も聞いておらん。陛下がルイ十三世の王子であられるという以外には」
「私の秘密はそこから始まっております。王妃陛下は一人の王子を分娩《ぶんべん》になったのではない。双生児を分娩になったのであります」
フーケはきっと頭を上げて、
「そして、第二のお方は亡くなられたのか?」と聞いた。
「だんだんとわかってまいります。このお二人の双生児は母陛下のご自慢でもあり、フランス王国の希望でもありました。しかし父陛下は、同等の権利をもった二人の王子があっては、将来いろいろの紛争が起こるにちがいないと、憂慮あそばされて、一人のほうを闇《やみ》に葬ってしまわれました」
「葬った?」
「まあ、お聞きください、双生児のご兄弟は、二人とも生長された。一人は王位についていらせられ、閣下はその大臣であります。いま一人の方は、日陰者としてお育ちになりました」
「そして、その方には?」
「私が御味方をしております」
「なるほど! それで、そのお気の毒な王子は、どうしておられるのだ?」
「どうしておられる、ではございません。どうせられたとお聞きください」
「うむ、うむ」
「そのお方は、田舎で育てられてバスチーユの牢獄《ろうごく》に幽閉《ゆうへい》されました」
「そんなことがありえようか?」とフーケは両手をつかみ合わせて、叫んだ。
「お一人は最大の幸運の方ですし、いま一人の方は実になんとも申しようのない不幸な方です」
「それで母陛下はそれをご存じか?」
「アンヌ・ドートリッシュは、何もかもご存じでいらせられます」
「それから現国王陛下は?」
「ああ! 何事もご存じありませぬ」
「そのほうが結構だ!」とフーケが言った。
この言葉はアラミスを|ぎょっ《ヽヽヽ》とさせたようであった。彼は非常に心配そうな顔つきをして、相手を眺めた。
「いや、許してくれ、君の話をさえぎって悪かった」とフーケが言った。
「実になんとも申しようのない不幸なお方だと、申したところでした。ところが、万物の上に哀れみをたれ給う神が、このお方をお助けくださることになりました」
「ほう、どういうふうに?」
「それはだんだんとおわかりになります。ところで、私はこの双生児のご兄弟が、お二人とも正統な王子でいられますから、どちらも王位につかれる資格があると思いますが、閣下のお考えはいかがでしょう」
「確かに、それに相違ない」
「閣下のような法律の大家が、私と同じ意見をお持ちになっていられるのは、喜ばしいことです。すると、お二人がどちらも対等の権利だということは、これで決まりました」
「議論の余地はない。しかし驚くべきことだな!」
「まだまだ、話はこれからです。もう少ししんぼうしてお聞きください」
「うむそうしょう」
「ところで、神はこの不幸な王子のために、復讐者と申しましょうか、擁護者と申しましょうか、とにかく、そういった人物を出そうとお考えになったのです。たまたま現国王、つまり王位の纂奪者《さんだつしゃ》の大臣、才能のある、偉大な心の持ち主である大人物が一人現われることになりました」
「うむ、そうか。わかった」とフーケは叫んだ。「君は私の力をかりて、ルイ十四世の不幸なご兄弟をお救い申そうというのだな。よく考えついた。デルブレー、私がお救い申そう。礼を言うぞ!」
「いや、いや、そうではありません。どうか、終りまでお聞きください」とアラミスは平然として言った。
「では、もう黙っておるぞ」
「ところで、現国王の大臣であるフーケ閣下は、国王のご不興をこうむりました。ある男の陰謀《いんぼう》に国王が耳を傾けられたので、財産も自由も、生命までも、失われるような危機に直面することになりました。しかし、つねに犠牲にされた王子を救おうとなさっている神は、フーケ閣下に対して、国家の秘密を知っている人物を、味方としてあたえ給うたのであります。そしてその人物こそは、宮中の奥深く二十年も隠されていた秘密を、手中に握っている人物なのであります」
「もう、それでいい」と寛大な心を抱きながらフーケは言った。「何もかもわかった。君は私が逮捕されるという知らせを聞いて、陛下に私が許されるようにお願いしたが、ご承知がないので、その秘密をもらすと陛下を脅迫申し上げたのだな。いや、よくわかった、わかった! それで君は陛下の御心をつかんでいるのだな。よくわかった!」
「いや、閣下はまだ何もおわかりになっておりません」とアラミスは答えた。「それにまた話の腰を折られる。私がそんな秘密を陛下の御前でもらしたら、こうやっていま生きておられるでしょうか?」
「たったいま、君は陛下のお部屋にいたではないか?」
「いたかもしれません。また陛下はその場で私を殺させるだけの時間の余裕がなかったかもしれません。しかし私に猿轡《さるぐつわ》をはめさせて、地下牢にぶちこませるくらいの余裕はあったはずです。さあさあ、もう少し筋道の立った考え方をなさらんか。ちぇっ!」
どんな場合でも、自分を忘れたことのない男が、つい昔の銃士時代の言葉をはいたので、フーケは、いま肚《はら》の底を見せぬヴァンヌの司教が、興奮の絶頂に達していることを、見て取らないわけにはいかなかった。
「それに、そんなことを陛下に言上すれば、ますます閣下を危険におとしいれることになります。そんなことをいたしましたら、私は閣下の真の友人と言えましょうか? 陛下の黄金を横領したのはなんでもない。陛下のご寵愛《ちょうあい》の婦人に懸想したとて、たいしたことではありませぬ。――しかし、国王の位置と名誉とを、閣下が掌中《しょうちゅう》にお握りになったらいかがです。陛下はご自分の手で、閣下の心臓をつかみ取らなければ、お気がすまされますまい」
「では、陛下には秘密を打ち明けしなかったのだな?」
「この秘密を打ち明けるくらいなら、私は毒をのんで死んでしまいます」
「では、どういうふうにしたのだ?」
「これからが本筋です。これは必ずや閣下の興味をひくと存じます。聞いていてくださるでしょうな?」
「聞いているとも! さあ、話してくれ」
アラミスは部屋を一回りして、誰も盗み聞きをする者のないことを確かめて、再びフーケのそばの肱掛椅子《ひじかけいす》に来て、腰を下ろした。フーケはひどく心配そうな面持ちで、この秘密が打ち明けられるのを待ちかまえていた。
「お話しするのを忘れていましたが」とアラミスは語りだした。そしてフーケは一語も聞きもらさじと耳を傾けて一心に聞いていた。「この双生児のご兄弟については、まことに珍らしい事情がございます。それは神がお二人を、瓜《うり》二つに、まったく見分けがつかぬほどに、おつくりになりました。生みの母上陛下でも、お見分けはつかぬと思われます」
「信ぜられぬことだな!」とフーケが叫んだ。
「容貌《ようぼう》が似ていらっしゃるばかりか、その上品な気品といい、歩き方といい、からだつきといい、声といい、寸分も違いはありません」
「しかし、思想は? 知力の程度は? また人情の通じているぐあいは?」
「そこが違っております、閣下、バスチーユに幽閉されていた方が、すべての点について、弟君より勝れておいでです。もしこの不幸な王子が牢獄から出られて、王位につかれたならば、フランスはおそらく、建国以来の英邁《えいまい》なる名君をいただくことになろうと思うほどです」
フーケはこの大きな秘密の重みに圧倒されたかのように、両手に顔を埋めた。アラミスはさらに彼に近寄って、誘惑の毒舌を続けた。
「それから、閣下、もう一つ相違しておる点は、ルイ十三世の二人の王子のうち、コルベールを知らない方は、後からお生まれになった方だけです」
フーケは、つと顔を上げた。その顔はまっさおで、ゆがんでいた。矢は的にあたっていた。が胸ではなくて、頭にあたっていたのだ。
「君の言うことはわかった」とフーケはアラミスに言った。「私に謀反《むほん》をすすめるのだな?」
「まずさようなところで」
「君が最初言ったように、これは王国の運命を変改する計画だ」
「王国ばかりか、大臣の運命をも。そうです。閣下」
「つまり、バスチーユに幽閉されているルイ十三世の王子を、いま『|夢の神《モルフェ》の間』におやすみになっているルイ十三世の王子の代わりに、王位につかせようという、その陰謀に荷担《かたん》しろと、すすめるのだな?」
アラミスは陰険な微笑を浮かべて、
「仰せのとおりで!」と言った。
フーケはしばらくにがりきって、無言でいたが、やがて、
「しかし、こうした政治的工作は、全フランス王国を転覆《てんぷく》するような性質であるということを君は考えなかった。また、国王と呼ぶ無限の根を張っている、この大木を引き抜き、その後に他の木を植えるためには、まだ地面が固まっていないということを、君は考慮に入れていないのだ。だから新国王の嵐の去った後の風や、自分の動揺などに対して、身をささえることはできまい」
アラミスは相変わらず薄笑いを浮かべていた。
フーケはなおも、勝れた頭を働かせながら、語り続けた。
「第一、それにはわが国の貴族、聖職者、及び第三階級を糾合《きゅうごう》しなければならぬ。現在位についてあらせられる国王を廃し、先王ルイ十三世の御陵を、恐ろしい醜聞で荒らさなければならぬ。大妃アンヌ・ドートリッシュと申し上げる婦人の生涯と名誉を犠牲にしなければならぬ。なおもう一方、王妃マリー・テレーズと申し上げる婦人の生涯と心の平和とを犠牲にしなければならぬ。またこれがことごとくできたとしても、この陰謀に成功しようとするには……」
「どうもおっしゃることがわかりません」とアラミスはひややかに言った。「いま仰せられたことに一言でも筋の立つことがありますかな?」
「なんだと?」と大臣は驚いて叫んだ。「君ほどの男が、事の実際方面を考えようとはしないのか! 君は政治的幻影を描いて、一人でほくそ笑っているのか?」
「では、神は一人の王を廃し、これにもう一人の王を代わらしめるには、どういう手段を取られるでしょうかな」とアラミスは相手を軽蔑《けいべつ》した悪《わる》丁寧な調子で言った。
「神は!」とフーケは叫んだ。「神はその代理者に命じて、甲を除いて、乙を王位につかしめるのだが、その代理者の名は死だということを、君は忘れている。ああ! デルブレー、君の考えは、もしや……?」
「そんなことは問題ではありません。閣下、あなたは目的以上のことをお考えになっておられます。誰がルイ十四世を弑逆《しいぎゃく》するというようなことを申しましたか? あなたにわかっていただきたいのは、神は何の紛擾《ふんじょう》もなく、何の物議をかもすこともなく、目的を達するということです。そして神意を奉ずる者は、その計画に神と同様に成功するということです」
「君は何を言ってるのだ?」とフーケはハンカチでこめかみのあたりをふきながら、それよりも白ちゃけた顔で叫んだ。
「陛下の部屋に行ってご覧なさい」とアラミスは静かに続けて言った。「いまは、閣下も秘密をご存じですが、弟君の寝台に横たわっているのが、バスチーユの囚人だとお見分けがつきましたら、お偉いものです」
「しかし、陛下は?」とフーケはこの話を聞いて恐怖の念にかられて、どもるように言った。
「どちらの陛下です? 閣下を憎んでおられる陛下ですか? それとも、閣下を贔屓《ひいき》にせられる陛下ですか?」とアラミスはやさしい調子で言った。
「その……昨日の国王陛下は?……」
「昨日の国王? その点はご安心下さい。長いあいだ犠牲にされていた者と、入れ替わりにバスチーユに行っておられます」
「えっ! そして誰がお連れ申した?」
「私が」
「君が?」
「さようです。それもきわめて簡単な手法です。昨夜、私は国王をさらったのです。あの方が暗闇《くらやみ》の中に没して行くあいだに、もう一人の方は、光の中に浮かび上がったのです。何一つ物音もしませんし、稲妻も雷鳴もありません。誰の目も覚ますようなこともいたしませんでした」
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三〇 王の味方
フーケはちょうど眼に見えない物で撃たれたように、息づまった叫び声をあげ、痙攣《けいれん》させた両手で頭をかかえながら、
「君がそれをやったのか?」とつぶやいた。
「はい、手ぎわよく。どうお考えですか?」
「君が国王を廃したのか? 幽閉《ゆうへい》したのか?」
「さようです」
「そんなことを、ここでやったのか、このヴォーで?」
「はい、このヴォーで、あの『|夢の神《モルフェ》の間』で。あの部屋はまるで、こういうことを予期して造ったようですな」
「で、それはいつ行なわれたのだ?」
「昨夜です」
「昨夜?」
「十二時と一時とのあいだに」
フーケはアラミスに飛びかかろうとするような挙動をしたが、やっと自分をおさえて、
「ヴォーで! 私の家で!……」と締め殺されたような声で言った。
「閣下のお邸だと思いますが。コルベールがこれをあなたから盗まなくなりましてからは、確かにあなたのお邸ですな」
「すると、君は私の家で、この罪を犯したのだな?」
「この罪を!」とアラミスはあっけに取られた。
「この大罪を! 暗殺よりもいまわしい大罪を! そして私の名を永久にけがし、子供の名誉までも傷つけた大罪を!」とフーケはだんだんと興奮してきた。
「閣下は頭が狂っていらっしゃる。お声が高過ぎます。お気をつけてください!」とアラミスはおろおろと狼狽《ろうばい》した声で答えた。
「私は全世界に聞こえるように、大きな声で叫ぶのだ」
「フーケ閣下、お気をつけなさらんか!」
フーケは司教の顔をまっ正面から見つめて、
「君は私の家の屋根の下で安らかに休んでいらっしゃったお方に、大逆の罪を犯して、この私の名誉をけがした。おお! なんというわざわいだ」と言った。
「あなたの家の屋根の下で、あなたの生命財産の破滅をはかった人物にこそ、わざわいは来るべきです! あなたはそれをお忘れですか?」
「あの方は、私がお招き申し上げた方だ。私の君主だ!」
アラミスは両眼を血走らせ、唇を痙攣的にふるわせて、立ち上がった。
「私は|わからず《ヽヽヽヽ》屋を相手にしているのかな?」
「君は正しい人間を相手にしているのだ」
「狂ってる!」
「私は君の犯罪の遂行を妨げるぞ」
「狂気の沙汰《さた》だ!」
「私は自分の名誉を君に蹂躙《じゅうりん》させるくらいなら死んでしまう。そのくらいなら君を殺すことも辞せん」
こう言うと、フーケはダルタニャンが寝台の枕《まくら》もとに置いて行った、自分の長剣を取り上げて、きらきら光る刃物をしっかりと手に握った。
アラミスは眉《まゆ》をひそめて、自分も武器を探りでもするように、懐中に手を突っこんだ。フーケはこれを早くも見つけて太腹な彼は自分の剣を遠く寝台と壁とのあいだに投げて、アラミスのそばに近づき、武器を捨てた手で、その肩をつかみながら、言った。
「デルブレー、私はこんな汚名を着せられるくらいなら、この場で死ぬ。少しでも、私を哀れむ心持ちがあるなら、頼む、私の生命を取ってくれ」
アラミスは身動きもせず、無言のままだった。
「返辞をせぬのか?」
アラミスは静かに頭をあげたが、その眼にはいま一度希望の輝きが見えたようだった。
「閣下、これからの事態をよくお考えください」と言った。「裁きはすみましたが、陛下はまだご存命です。そして国王陛下が幽閉されているために、あなたの生命は助かっているのですぞ」
「そうだ。君は私の身のためを思って、やったのだろう」とフーケは答えた。「しかし私は君の好意を受けん。といって、君の破滅することは望んでいない。君はこの家から出て行ってくれ」
アラミスは傷ついた心臓からもれようとした叫びを、無理におさえつけた。
「私はすべての人々を歓待《かんたい》する」とフーケは名状しがたい威厳をもって言葉を続けた。「君は、君が破滅におとしいれた人物以上に、ひどいめにあうことはない」
「あなたはひどいめにおあいですぞ。きっと、そうなりますぞ!」とアラミスは予言するようにしわがれた声で言った。
「デルブレー、私は君の予言を認める。しかし、どんなひどいめにあおうと、かまわない。君はヴォーを立ち給え、フランスを立ち去らなければいけない。四時間の猶予をあたえるから、国王陛下の領土以外へ退去しなさい」
「四時間?」とアラミスはばかにしきって信じられぬように言った。
「フーケは誓って、その時間のきれぬうちには、君を追跡させない。だから追手がかかっても、君は追手より四時間だけ、有利の立場にあるわけだ」
「四時間!」とアラミスはどなるように繰り返した。
「これだけの時間があれば、船に乗って、ゆうゆうとベル・イルに逃げることができよう。私はベル・イルを避難所として、君にあたえる」
「ああ! ありがたいです」とアラミスは皮肉な調子で言った。
「それなら、すぐ行きなさい。お互いに急いで出掛けるのだ。君は自分の生命を救うために、私は自分の名誉を救うために。さあ、別れる前に握手してくれ」
アラミスは懐中に入れていた手を出した。それには血が付いていた。くやしさのあまり、胸に爪《つめ》を立てていたのであった。それは人間の生命よりもむなしき、つまらぬ計画を生んだことについて、肉体を罰しているようであった。フーケは恐ろしく感じたが、次いで深い哀れみの念に打たれて、アラミスを抱き締めるように、両腕をひろげた。
「おれは武器を持っていなかった」とアラミスはものすごい、残忍そうな形相《ぎょうそう》でつぶやいた。
それからフーケの手には触れもせずに、横を向いて、一足二足後へさがった。彼の最後の言葉は呪《のろ》いの文句であったし、彼の最後の身振りは、その血で赤く染まった手で描いた呪いの所作《しょさ》であった。そしてフーケの顔には数滴の血が振りかかった。
こうして二人とも、急いで秘密の階段から中庭へと降りた。
フーケは最良の馬ばかりを用意させた。しかしアラミスはポルトスの部屋へ行く階段の下に突っ立って、長いこと思案にふけっていた。そのあいだに、フーケの馬車は、中央庭園の石畳の上を全速力で出て行った。
「ひとりで行こうか?……それとも王子にお知らせしたものか?……」とアラミスは自分の心に尋ねた。「王子にお知らせするとして、それからどうする?……王子といっしょに出掛ける?……あの危険な証人をどこまでもいっしょに引っぱって行くのか?……内乱を起こそうか?……ああ、軍用金もないではないか!……自分がいなかったら、殿下には何ができるだろう?……ああ! おれがいなかったら、殿下は、おれと同じように破滅してしまうだろう……しかし、先のことは誰がわかる?……運命にまかせるがいい!……あのままにしておけ!……おれは敗けた!……どうしたものだろう?……ベル・イルヘ逃げるか? ポルトスをここに残したまま?……いや、ポルトスの難儀をよそに見て、おれ一人で逃げるわけにはいかん。ポルトスといっしょに行こう。そして彼は自分と運命をともにすべきだ。ぜひそうしなければならぬ」
そこでアラミスは誰かと出会わないかとこわごわ、十分に気を配りながら、どうやら人目にも触れずに、階段をのぼった。
パリから帰ったばかりのポルトスは、もうぐっすりと寝こんでいた。彼のからだは疲れを忘れていた。ちょうど彼の頭脳が思想を忘れていたように。
アラミスは影のように軽やかに室内にはいった。そして、この大男の肩にたくましい手を当てて、
「おい、ポルトス!」と声をかけた。
ポルトスはねぼけ眼で、寝床からむくむくと起き上がって来た。
「すぐここを立つのだ」とアラミスが言った。
「ほう!」とポルトスは言った。
「支度せんかい」
アラミスはこの巨人が服を着るのを手伝ってやって、金貨だのダイヤだのを、そのポケットに押しこんだ。
その最中に何か軽い物音がしたので、見ると、なかば開いた扉から、こっちを見ているのはダルタニャンであった。アラミスはぎくりとした。
「そんなにあわてて、君らは何をしているのだ?」と銃士長が尋ねた。
「しっ!」とポルトスが言った。
「おれたちは重大なご用で派遣《はけん》されるのだ」とアラミスがそれに言い足した。
「うらやましいなあ!」と銃士長が言った。
「それどころか、わしはひどく疲れている。眠くてやりきれんわい。しかし国王陛下のご命令とあっては!」とポルトスが言った。
「君はフーケ閣下に会ったか?」とアラミスはダルタニャンに尋ねた。
「うむ、いましがた、馬車に乗って行かれた」
「君に何か言われたか?」
「別れの挨拶《あいさつ》だけだよ」
「それだけか?」
「これ以上何も言われるわけがない。もう君とおれとでは身分が違うからな」
「まあ、私の言うことを聞け」とアラミスは銃士長を抱擁《ほうよう》しながら、言った。「君の幸運の日がまた戻って来たぞ、誰もうらやむことはないよ」
「ばかを言え!」
「いや、私は予言する。今日は君の貫禄がいちだんと増す日だぞ」
「ほんとうか!」
「私が耳の早いのを知らないか?」
「うむ、それに違いないが」
「さあ、ポルトス、支度はいいか? 出掛けよう!」
「いつでも結構だ」
「では、まずダルタニャンを抱擁してやれ」
「もちろんだ!」
「馬は?」
「いくらでもおるよ。おれの馬がいるか?」
「いや、ポルトスは自分の廐《うまや》を持っている。では、さらばじゃ!」
こうして、二人の脱走者は、現在銃士長の見ている前で、いや、それより、ポルトスは鎧《よろい》をダルタニャンにおさえてもらうようにして、馬にまたがった。そして銃士長は二人の姿の遠ざかるのを見送っていた。
「ほかの場合だと、おれはあいつらが脱走したと言うのだが、しかし、今日の政治ではそう言わずに、派遣と言うらしいな。それでもかまわないさ、どれ、自分の仕事に取りかかろう」とこのガスコーニュ人は考えた。
そして彼はもの思いにふけりながら、自分の宿舎に帰って行った。
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三一 きびしい獄則《ごくそく》
フーケは全速力で馬車を走らせていた。道々彼は、いましがた知ったアラミスの計画を考えて、また新たな恐怖に身をふるわせながら、
「ああした非凡な人たちは、若気のいたりと言いながら、よくもあんな陰謀を計画し、それを平気で実行に移すものだ、どうしてあんなことができるのだろう?」と考えた。
ときには、アラミスの言ったことが、夢ではないかと思ったりした。そして自分をおとしいれるわなではなかろうか、バスチーユに着くと、自分は逮捕状を執行されて、王位を剥奪《はくだつ》された、国王と同じように、収監されるのではなかろうか、フーケはそう考えたりした。
こういう気がしたので、途中で馬を替えさせているあいだに、密封した命令書を数通|認《したた》めた。この命令書はダルタニャンや、信頼できる腹心の人々に宛てたものであった。
「こうした方法なら、自分が無事に戻りさえすれば、帰館後でなければ、この命令は彼らの手に届かない。したがって開封されずにすむだろう。また、もし帰館が遅れるようになるならば、何か不幸な事態に合ったのだ。その場合には、陛下と自分とを救助に来てくれるだろう」とフーケは考えたのだった。
こうしていろいろと手配りをしているうちに、馬車はバスチーユ監獄の門前に着いた。フーケは五リウ半の距離を、たった一時間で走って来たわけである。
アラミスなら造作もないことだが、フーケはそうはいかなかった。バスチーユの門前で、フーケが名を名のっても、大臣だと認めさせようとしてもむだであった。門内には、どうしても入れてくれなかった。
懇願《こんがん》するやら、威嚇《いかく》するやら、命令するやらして、番兵を説き伏せて、衛兵の一人に取り次いでもらい、副典獄のところへ行ってくれるように頼んだ。そしてあえて典獄のほうには、通じてもらわなかった。フーケは城門の前にとどめた馬車の中で、歯噛《はが》みをしながら、衛兵の戻って来るのを待っていた。するとやがて、衛兵が憂鬱《ゆううつ》そうなようすで、再び姿を現わした。
「どうだった? 副典獄は何と言ったな?」とフーケはいらいらしながら言った。
「ええ、副典獄はお笑いになりました。『フーケ閣下はヴォーにご滞在中だ。また、パリにおられるとしても、こんな時刻にお起きになるはずはない』と言われました」と衛兵は答えた。
「ばかな! 貴様たちは木偶《でく》の坊《ぼう》の集りだ」とフーケは馬車を飛び出しながら、どなった。そして衛兵が城門を締める暇もあたえず、いきなり扉の隙間《すきま》から、仲間を呼ぶ衛兵の声をしりえに、門内に駆けこんだ。
フーケは衛兵との距離をだいぶ離したので、叫び声なぞは少しも心配しなかった。が衛兵は後を追い駆けながら、第二の城門の番兵に向かって、
「そっちに行ったぞ! 気をつけろ!」と呼ばわった。
番兵はフーケに向かって、手槍《てやり》を突きつけた。しかし頑丈で敏捷《びんしょう》なフーケは、怒りにかられて、その手槍を番兵の手から引ったくると、それで、したたかに相手の肩を打った。はずみにそばにいた初めの衛兵までが、側杖《そばづえ》を食った。二人は仰山《ぎょうさん》な叫び声をあげた。この声に前衛隊の第一班がどっと繰り出して来た。
「君たちの中で、おれを知っている者はないか?」とフーケは叫んだ。
すると、その中の一人が、
「閣下……あっ! 閣下でございますか!……皆の者、止まれ」と叫んだ。
そして彼は仲間の仇《あだ》を討とうとしている前衛隊をやっと停止させた。
そこでフーケは開門を命じたが、衛兵規則を楯《たて》に、拒絶された。で、今度は典獄を呼んで来るように命じた。ちょうどそのとき、外の騒ぎを耳にした典獄が、副典獄と二十名の兵士を従えて、すわバスチーユ攻撃かと急いで駆けつけて来た。
典獄のべーズモーは、すぐフーケを認めた。そこで勇ましく振り回していた長剣を下ろして、
「ああ! 閣下でございましたか、どうも、はや、何とも申しわけが!」とどもった。
フーケは汗だらけになり、まっかな顔をしながら、
「典獄、君のところの警備ぶりは、実に立派なものだな」と言った。
この言葉を皮肉に取ったべーズモーは、どんな叱責《しっせき》を受けることかと思って、まっさおになった。が、フーケはようやく気を落ち着けてから、痛そうに肩をこすっている、衛兵と番兵とを呼んで、
「衛兵には金貨二十、番兵には金貨五十を褒美《ほうび》として取らせるぞ。そして、このことは、国王陛下に申し上げよう」と言った。
それから典獄をうながして、その官舎に同行した。
べーズモーはもう恥辱《ちじょく》と不安とでふるえていた。するとフーケはきびしい顔つきになって、鋭い声で尋ねた。
「君は、今朝デルブレーに会ったか?」
「はい、閣下」
「君は共犯者となった犯罪の恐ろしさを知っているか?」
「どんな犯罪でございますか?」
「四つ裂きの刑に当たる重大犯罪だ。しかしそんなことを言っている場合ではない。すぐ囚人のいるところに案内しなさい」
「どの囚人でございますか?」べーズモーはふるえ上がって言った。
「知らんふりをするのだな! いや、それに違いない。あんな大陰謀に荷担《かたん》したことを自白すれば、君の身の破滅だからな。君が知らぬふりをするなら、こっちも、そのつもりで真に受けるふりをしておこう」
「閣下、どうぞ……」
「もういい、囚人のところに案内しなさい」
「マルキアリでございますか?」
「誰だ、マルキアリというのは?」
「今朝デルブレー様が連れて戻られた囚人でございます」
「マルキアリというのか?」とフーケは典獄の平然となった態度に、少し心の動揺を感じた。
「はい、閣下、それが帳簿にのっている名前でございます」
フーケは典獄の心の奥底まで見すかした。そして権力と誠実とを持っている人物のつねとして、べーズモーの心の中を読みとった。なおまた、ちょっと典獄の顔つきを見ても、アラミスがこんな男を共犯者にするはずはないと思った。そこでフーケは典獄に向かい、
「それは、デルブレーが一昨日連れ出したという囚人か?」と言った。
「はい、閣下」
「そして、その囚人を今朝連れ戻ったというのか?」とフーケは口早に言いだした。彼はアラミスの陰謀の段取りがただちにわかった。
「さようでございます」
「それで、その囚人の名がマルキアリというのか?」
「はい、マルキアリといいます。もし閣下が彼を連れ出すためにおいでになったのなら、たいへん好都合でございます。と申しますのは、そのことにつきまして、私は報告書を書くところでございましたので」
「で、囚人はどうしている?」
「今朝から、私共をてこずらしてばかりおります。まるでバスチーユがひっくりかえるように暴れておるのでございます」
「私がいま、厄介払いをしてやる」とフーケは言った。
「ああ! それはありがたいことで!」
「では彼の獄房に案内しなさい」
「閣下、どうか命令書をお出しください」
「何の命令だな?」
「陛下からのご命令書で」
「いずれ私が署名してお渡しする」
「それではいけませぬ。閣下、ぜひとも、陛下のご命令が必要でございます」
フーケは腹を立てたようすで、
「君がそれほど疑ぐるなら、その者を釈放した命令書を出して見せなさい」と言った。
そこでべーズモーはセルドンの釈放命令書を出して見せた。
「うむ、なるほど」とフーケが言った。「しかしセルドンはマルキアリではない」
「しかしマルキアリは釈放されておりません。閣下、彼はここにおります」
「だがデルブレーがマルキアリを連れ出して、再び連れ戻ったと言ったではないか」
「そんなことは申しませぬ」
「いや、現に私はちゃんとそう聞いた」
「つい、口がすべってまちがったのでございます」
「べーズモー君、気をつけなさい!」
「閣下、私は何も恐れるものはございません。厳重な規則によって、行動しているのでございます」
「確かにそんな口がきけるかな?」
「聖徒の前でも、そう断言いたします。デルブレー様はセルドンの釈放命令書を持っておいでになりました。それでセルドンは釈放されたのでございます」
「いや、バスチーユを出たのはマルキアリだ」
「閣下、では、その証拠を見せていただきましょう」
「とにかく、その囚人に会わせてもらおう」
「フランス王国の政治をつかさどっておいでになる閣下は、国王陛下のご命令書がなければ、誰も囚人に面会できぬということをご承知のはずです」
「しかし、デルブレーは獄房にはいった」
「それは、閣下、これから証明しなければならぬことです」
「べーズモー君、気をつけて口をきき給え」
「そのつもりで行動しております」
「デルブレーはもう没落したのだ」
「没落? デブプレー様が! まさかそんなことが!」
「君は確かにあの男にそそのかされたのだ」
「いえ、閣下、私は何人にもそそのかされません。国王陛下のご用をつとめるだけでございます。陛下のご命令書をお示しくだされば、お入れいたします」
「さあ、典獄、もし私を囚人に会わせてくれれば、ただちに陛下のご命令書を君に手渡すことを約束する」
「閣下、いますぐお渡しください」
「君があくまで拒絶するなら、君を初め、君の部下全部をこの場でことごとく逮捕させるぞ」
「閣下、そんな乱暴なことをなさる前に、よくお考えください」とべーズモーはまっさおになって言った。「私どもは陛下のご命令に従うよりほかにしかたはないのでございます。そんなことをあそばすくらいなら、造作もなく陛下のご命令書をお手に入れることができると考えます」
「もっともだ、もっともだ!」と立腹したフーケがどなった。それから、幾らか声を和らげて、「君はなぜ私がこの囚人に面会したがっているか、知っているかね?」
「いえ、存じません、私はただもう、あまりの恐ろしさに、気が転倒しそうでございます」
「いや、典獄、私が一万の兵士と、三十門の砲を率いて引き返して来たら、それこそ君は気が転倒するだろうよ」
「ああ! 閣下は気が違われましたな!」
「君と君の呪《のろ》われた望楼に対して、私は全パリ市民を糾合し、この城門を打ちこわしてはいるよ。そして君をコワンの塔の銃眼で、絞首刑にするぞ!」
「閣下、閣下、どうぞお許しを!」
「十分の猶予をあげるから、決心をつけなさい」とフーケは静かな声で言った。「私はこの肱掛椅子にすわって待っている。十分たっても、君が強情を張るなら、私はここを引きあげる。気がへんだとも、なんとでも勝手に思うがいい。どういうことになるか、はっきり見せてあげる!」
べーズモーは絶望におちいった人のように、じだんだを踏んだが、一言も答えなかった。
するとフーケはペンとインキをとって、典獄の見ている前で書き始めた。
[#ここから1字下げ]
パリ市長殿。貴下はパリ衛戊《えいじゅ》隊の兵員を集合し、国王陛下にご奉公のため、ただちにバスチーユに向かって進撃を開始せらるべし。
[#ここで字下げ終わり]
べーズモーは肩をそびやかした。フーケは書き続けた。
[#ここから1字下げ]
ブーイヨン公爵並びにコンデ親王は、スイス近衛《このえ》隊及び国王親衛隊を指揮して、国王陛下にご奉公のため、ただちにバスチーユに向かって進撃を開始せらるべし。
[#ここで字下げ終わり]
べーズモーは思案した。フーケはなおも書いた。
[#ここから1字下げ]
全兵士、全市民及び全貴族へ布告。ヴァンヌの司教にして騎士デルブレー、及びその共犯者を見つけ次第ただちに逮捕すべきこと。右共犯者次のごとし。第一、大逆罪嫌疑者バスチーユ典獄べーズモー。
[#ここで字下げ終わり]
「閣下、お待ちください」とべーズモーは叫んだ。「私には何がなんだか、さっぱりわかりませんが、事態がこう恐ろしく逼迫《ひっぱく》してまいったのですから、私のとった臨機の処置が、まちがっているかどうか、それは陛下がご判断くださるでしょう。さあ、閣下、いっしょにお出でください。マルキアリに面会を許可いたします」
フーケは部屋の外に飛び出した。その後からべーズモーが額の冷や汗をふきながらついて行った。
「なんという恐ろしい朝だ! ひどいめにあったものだ!」と彼はつぶやいた。
「早く歩きなさい!」とフーケがこれに答えた。
べーズモーは鍵番《かぎばん》に向かって、先頭に立つように合図をした。彼はフーケと二人きりになるのを恐れたのである。フーケは早くもそれに気づいて、
「子供のようなまねはよせ」と荒々しく言った。「その男はここに残しておけ。君自身、鍵を持って案内しなさい。それから、誰にもこれから起こる出来事を知らしてはいかん。よろしいか」
「はあ」とべーズモーはあやふやな返辞をした。
「も一度返辞をしなさい。はっきりと、いやならいやと言うがよい。私はすぐバスチーユを出て、出兵命令を下すから」とフーケはどなった。
ベーズモーは頭を下げて、鍵番から鍵を受け取り、フーケといっしょに、尖塔《せんとう》の階段をのぼって行った。ところがだんだんとこの螺旋《らせん》階段を上にのぼって行くにしたがい、何事ともわからぬ弱いつぶやき声が聞こえ、やがてそれが、はっきりした叫び声と恐ろしい呪いの声に変わってきた。
「あれは何だ?」とフーケが尋ねた。
「あれがマルキアリです。狂人は、ああいうふうなわめき声を出します」と典獄は言った。そしてこの返辞には、フーケにとって、慇懃《いんぎん》よりも、むしろ不快な|あてつけ《ヽヽヽヽ》を含んだ眼つきが加わっていた。
フーケは身ぶるいをした。いましがた、とくに恐ろしい叫び声が聞こえて、それが国王の声だとわかったからであった。
フーケは階段の踊り場で立ち止まり、べーズモーの手から鍵束を引ったくった。典獄はこの新しい狂人が、その鍵で彼の脳天をぶち割るかと思った。
「ああ! デルブレーはこんなことを言ってくれなかった」と彼は叫んだ。
「どの鍵であけるのだ?」とフーケは言った。
「そ、それです」
恐ろしい叫び声、続いて割れるばかりに扉をたたく音。それが階段の中で反響して聞こえた。
「君は引きさがってくれ!」とフーケは威嚇《いかく》するような声で、べーズモーに言った。
「願ったりかなったりだ」と典獄はつぶやいた。「狂人同士の顔合わせだ。きっと、どっちかが殺されるだろう」
「早く行け」とフーケは繰り返して言った。「私が呼ばぬうちに、この階段に足を掛けたら、バスチーユでもいちばんひどい獄房にぶちこむぞ」
「こんなことにかかり合っていると、おれは命がなくなるわい」とべーズモーはよろよろした足どりで階段を降りながら、こうぶつぶつとつぶやいた。
囚人のわめき声はますます恐ろしくなってきた。フーケはべーズモーが階段を降りきったのを見とどけてから最初の錠前に鍵をさしこんだ。
ちょうどそのとき、彼は、
「助けてくれ! 助けてくれ! 予は国王だ!」と怒り狂って叫び立てるルイのしわがれた声を聞いたのだった。
第二の鍵は第一のと違っていたので、フーケは鍵束の中から、それを捜し出さなければならなかった。
そうしているあいだにも、王は夢中になり、狂人のように激昂《げっこう》して、声を限りに叫んでいた。
「予をここに押しこめたのはフーケだ。予の味方になって、フーケを倒してくれ! 予は国王だぞ! 国王の味方となって、フーケを倒してくれ!」
こうしたわめき声はフーケの心を恐怖でいっぱいにした。この叫び声に続いて、扉をたたく恐ろしい音が聞こえた。王は椅子をこわし、槌《つち》のようにして、扉を破ろうとしていたのだった。フーケはやっと鍵を捜し当てた。そのころには、王は精も根も尽き果てて、もう声さえもろくろく出ないようだったが、それでも、
「フーケを殺せ! 大罪人フーケを殺せ!」とどなっていた。
そのとき、扉がぱっと開いた。
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三二 王の感謝
互いにもう少しでぶつかりそうであった二人の人物は、相手の顔がわかると、はたと立ち止まった。そしていずれも驚愕《きょうがく》の叫び声をあげた。
「君は予を殺しに来たのか?」と王は相手がフーケだとわかると、こう言った。
「一天万乗の国王が、こんな有様に!」と大臣はつぶやいた。
まことにフーケが突然にはいって行った瞬間の、若い国王のようすほどものすごいものはなかった。服はぼろぼろに裂け、シャツは胸がはだけて、ずたずたになっていて、傷ついた腕から流れ出た血と、胸の汗とで、きたなくよごれていた。兇暴《きょうぼう》な青白い顔をして、頭髪はぼうぼうと乱れたルイ十四世の姿こそは、まるで、絶望と飢餓と恐怖とを、ただ一つの彫像に集めたようであった。この姿にひどく心を動かされたフーケは、両腕をひろげ、眼に涙を浮かべて、王の側に駆け寄った。
それを見てルイは、いままで扉をこわすのに使っていた木の切れ端を、フーケの上に高く振りかざした。
「陛下!」とフーケは感情でふるえた声で言った。「陛下はご自分の味方の中で、最も忠実な者をお認めになりませんか」
「味方だと? 君が?」とルイは憎悪と、すみやかな復讐への渇望とから、ぎりぎり歯がみをしながら、こう繰り返した。
「陛下を尊敬申し上げている召使いでございます」とフーケは言い足すと、いきなりひざまずいた。
王は武器を投げ捨てた。するとフーケは近寄って、王の膝《ひざ》に接吻して、やさしく王をかき抱きながら、
「お痛わしい! どんなに苦労をあそばしましたろう!」と言った。
場面がまるで変わったために、我れに帰ったルイは、自分を顧みて、取り乱した身なりが恥ずかしく、自分の狂態が恥ずかしく、また保護の態度を示されたのも恥ずかしくて、後ずさりした。
フーケは王のこの挙動が合点《がてん》できなかった。王には王たる誇りがあった。ルイはこうした意気地のない有様を臣下に目撃されたかと思うと、どうしてもがまんがならなかった。が、その心持ちがフーケにはわからなかった。
「さあ、陛下、もう自由でございますぞ」と彼は言った。
「自由?」と王は繰り返した。「ああ! 君は予を釈放するのか? いったん、予を倒そうとして、手を振り上げておきながら?」
「そんなことをお信じあそばしますな!」と憤慨したフーケは叫んだ。「私がそんな行動に出たとお考えになってはいけません」
そして口早に、しかも熱心に、陰謀の一部始終を物語った。
その物語が続いているあいだ、ルイは恐ろしい苦悩をこらえていた。そして、それがすむと、双生児の兄弟に関する秘密の重大さよりも、自分が冒した危険の大きかったことに、遥《はる》かに多く心を打たれた。
「君」と、いきなり王はフーケに言った。「その双生児の話は嘘《うそ》だ。そんなことがあるものか。君がそんな話にだまされるはずはない」
「陛下!」
「母上の名誉を、母上の御徳を、疑うようなことは、断じてできない。予の宰相《さいしょう》は罪人をもう裁いたのか?」
「陛下、そうお怒りにかられて速断あそばさずに、よくご思案なさいませ」とフーケが答えた。「ご兄弟がお生まれあそばされたことは……」
「予には兄弟は一人しかない。それはオルレアン公だ。君も現に知っているはずだ。確かにこれはバスチーユ典獄から始まった陰謀だ」
「陛下、お気をつけください。あの男は、その王子と申す方が陛下と瓜《うり》二つであるところから、だまされているのでございます」
「瓜二つだと? ばかなことを申せ!」
「そのマルキアリと申す方は、誰の眼もあざむかれるところを見ますと、不思議なほど、陛下にお似申しておるに相違ございません」とフーケが主張した。
「愚かなことを申せ!」
「いや、さようではございません。陛下の大臣をも、大妃陛下をも、陛下の将軍をも、その他王室の方々をもことごとくあざむきおおせるよう、万端の手筈《てはず》を整えました一味の者共は、その方が陛下に瓜二つであることを、よくよく確信してかかりましたに相違ございません」
「それでその一味というのは、どこにいるのか?」と王はつぶやいた。
「ヴォーにおります」
「ヴォーに! 君は黙ってその者を置いておくのか?」
「私は陛下をお助け申し上げるのが、第一のつとめと考えました。いま、このつとめを果たしました上、陛下のご命令あそばすことは、いかなる事でもいたします。私は指図を待っております」
ルイはしばらく考えていたが、
「パリに軍隊を全部集合させろ」と言った。
「そのためには、すでに必要な命令を下しましてございます」とフーケは答えた。
「君が命令を下したと?」王は叫んだ。
「はい、一時間以内に、一万の軍隊が指揮の下に集まります」
王はこの返辞を聞くまでは、そのとりなしにもかかわらず、フーケに対して頭から疑っていたが、いまでは打って変わったように、驚喜の面持ちで、宰相の手を握った。
「その軍隊を率いて、ただちに君の邸に向かい、反徒を包囲することにしよう。いまごろはもう、あそこに堡塁《ほうるい》を築いて、防備を固めているかもしれん」と王は続けて言った。
「さようなことがございましたら、私はことの意外に驚くでございましょう」
「それはまた、なぜだ?」
「なぜと申して、この陰謀の張本人は私に見破られましたために、計画がまったく失敗に帰したように思われますので」
「では、君はその偽りの王子をも見破ったのか?」
「いえ、まだお目にかかりません」
「では、誰に会ったのだ?」
「陰謀の張本人に会ったのでございます。この不幸な王子と申される方は、ただ道具に使われておるばかりでございます」
「なるほど、そうであろう!」
「その張本人と申しますのは、ヴァンヌの司教、デルブレーでございます」
「君の友人か?」
「いままでは友人でございました」とフーケは鷹揚《おうよう》に答えた。
「これは君にとって悲しむべきことだな」と王はむっとした調子で言った。
「私が犯罪を知らない限りは、こうした友情は不名誉なものではございません」
「君がそれを予知しなかったという法はない」
「私に罪がございますれば、いかようにも処分を仰ぎとう存じます」
「いや、フーケ、そういう意味で言ったのではない」と王は自分の心の忿懣《ふんまん》を、こんなふうに示したことを後悔しながら、即座に答えた。「実は、悪人の奴《やつ》は仮面をかぶっていたが、予は何となく彼ではないかという気がした。しかし、その仲間に非常に腕力の強い男がいて、予をおどかしたが、あれは何者だろう?」
「それは以前の銃士であり、彼の友人である、ヴァロン男爵でございましょう」
「ダルタニャンの友人か? ラ・フェール伯爵の友人だな? ああ!」と王はこの最後の名を口にすると、こう叫んだ。「この陰謀の犯人とブラジュロンヌとの関係を忘れてはならぬぞ」
「陛下、あまり極端にお走りになっては相なりませぬ。ラ・フェール伯爵はフランス中でも最も潔白な正義の士でございます。私が陛下にお引き渡しいたします者だけで満足くださいませ」
「君が予に引き渡す者だけで? よろしい! 君は罪ある者を予に引き渡してくれるのだな?」
「陛下はどう解釈になったのでございますか?」とフーケが尋ねた。
「予は、これより軍隊を率いてヴォーに赴き、この蝮蛇《まむし》の巣に手を入れ、一人残さず捕縛《ほばく》してしまうつもりだ」と王は答えた。
「陛下はこの者どもを死刑にあそばすのでございますか?」とフーケは叫んだ。
「最後の一人までもじゃ!」
「ああ! 陛下!」
「よく了解しておいてもらおう。フーケ」と王は傲然《ごうぜん》として言った。「国王が最後の手段として、誅戮《ちゅうりく》のほかは行なうことができなかったのは昔のことだ。ありがたいことには、国会というものがあって、予の名において審判を行なう絞首台というものがあって、これによって最高の刑罰が行なわれるのだ」
フーケはまっさおになった。
「おそれながら申し上げます。この種の事件に関して審判などを行ないましては、醜聞をひき起こして、尊厳にかかわることに相なります。大妃アンヌ・ドートリッシュ様の御名を愚民の口に上せて、嘲笑《ちょうしょう》にまかせるようなことがあっては一大事でございます」
「しかし、公正な裁きはいたさねばなるまい」
「はい、しかし陛下。王族の血を断頭台の上に流すことはできません」
「王族の血を! 君はそれを信じているのか?」と王は床の板瓦《いたがわら》を踏み鳴らし、怒気《どき》を含んだ声で叫んだ。「双生児などというのは捏造《ねつぞう》だ。デルブレーの罪は、第一にその捏造にある。予が罰したいと思うのは、予に加えた暴行や侮辱よりも、まずその大罪だ」
「死刑をもってお罰しになるのでございますか?」
「そうだ。死刑だ」
「陛下」と大臣は長いあいだ下げていた頭を昂然《こうぜん》とあげて、強い調子で言った。「陛下がご兄弟のフィリップ様の首をお切りになりたければ、それでもよろしいでございましょう。それはおひとりのことで、それについては、母君のアンヌ・ドートリッシュ様にも相談あそばすでございましょう。母君のお指図にはまちがいはございますまい。私は陛下の王冠の名誉のためにでも、それに関係したくございません。しかし、ただ一つお願いがございます」
「言ってみなさい」と王は大臣の最後の言葉にひどく不安を覚えて、言った。「何を要求するのか?」
「デルブレーとヴァロンの赦免《しゃめん》をお願いいたします」
「予をねらう暗殺者を?」
「二人の謀反人《むほんにん》の赦免を。彼らはただ謀反を起こしただけでございます」
「おお! すると君は自分の味方の赦免を請うのだな」
「私の味方!」とフーケはひどく感情を害して言った。
「君の味方とも。しかし国家の安全をはかる必要上、見せしめに罪ある者を罰しなければならない」
「私は、ただいま陛下を自由のおからだにしてさし上げましたことや、陛下の一命をお救い申したことをいまさら陛下にご注意申し上げるようなことはいたしますまい」
「これ!」
「もしデルブレーが暗殺者の役めをつとめようという考えでありましたら、彼は今朝、セナールの森で容易に弑逆《しいぎゃく》の罪を犯すことができたのでございます。が私は、このことを陛下にご注意申し上げるわけではございません」
王は危険に曝《さら》されていた自分を振り返って、まっさおになった。
「陛下の御頭に拳銃《けんじゅう》の一発を打ちこめば」とフーケは言い続けた。ルイ十四世の顔はいよいよまっさおになった。「デルブレーは永久に赦免されたでございましょう」
王は九死に一生を得た思いに、顔色を青くした。
「デルブレーが暗殺者でありましたなら」とさらにフーケは言葉を続けた。「何も私に計画を打ち明ける必要はございません。ほんとうの国王を亡き者にいたしましたら、偽りの国王を見破ることは永久に不可能でございましたろう。また簒奪者《さんだつしゃ》は母君アンヌ・ドートリッシュ様に見破られたといたしましても、母君のお子様たることは変わりはございません。簒奪者といえども、デルブレーの考えをもってすれば、つねに先王ルイ十三世様の血を受けられた国王でございます。しかも謀反人にはこの陰謀の安全とか、外部の人が知れぬこととか、また罪にならぬことなどの有利な点がございます。もしデルブレーが陛下の御頭に拳銃の一発を打ちこめば、彼はいま申したすべての有利なことを得るわけでございます。こういうわけでございますから、どうか特別のおぼしめしをもって、彼を赦免くださいますよう、お願い申し上げます」
こうしてフーケは、アラミスが王に対して雅量《がりょう》を示したことを述べて、せつに赦免を請うたが、王は心を動かされるどころか、かえってそのためにはなはだしい屈辱を受けたように思った。国王たる自分の生命が、一臣下の手に握られているかと思うと、自負心の強い彼は不愉快でたまらなかった。フーケが友人の赦免を得るために最も有効と考えて、口にした言葉の一つ一つが、ルイ十四世のすでに潰瘍《かいよう》を生じた心臓の中に、毒液を一滴一滴と注ぎこんでいくように思われた。いかなる手段も、彼をなだめることができなかった。そして王はフーケに荒々しく言った。
「君がなぜにあの連中の赦免を請うのか、予にはさっぱりわけがわからん。請わなくとも得られるものを、どうして請うのか?」
「陛下のお言葉は、私にもわかりかねます」
「それも造作なく得られるのに。予はいまどこにおる?」
「恐れながら、バスチーユに」
「そうだ、牢獄《ろうごく》の中にいる。予は狂人と見なされているのだろうな?」
「さようでございます」
「何人もここではマルキアリしか知っておらぬのだろう?」
「いかにもそうでございます」
「しからば、このままにして、狂人マルキアリに、牢内で一生を終わらせるがよい。デルブレーもヴァロンも、予に赦免を求める必要はない。新しい王が彼らを許すだろうから」
「陛下は私を誤解しておられます」とフーケは無愛想に答えた。「そうした考えを思いつかないほど、私は子供でもありませんし、デルブレーとてもばか者でもございますまい。いま、陛下の仰せられたように、私が新王を擁立《ようりつ》する考えでありましたら、何もバスチーユの城門を破って、陛下をお救い申し上げることはございません。さようなことは非常識なふるまいでございます。陛下はお怒りのために、お心が乱れていらっしゃる。さもなくば、臣下として最も重大なご奉公を申し上げたこの私に、不快を感じさせるようなことは、あそばしますまい」
ルイはあまり自分の言葉が過ぎて、フーケを怒らせたと思った。そこで、急に言葉を和らげて、
「予は君をはずかしめるつもりで言ったのではない」と答えた。「ただ自分の良心に従って、そういう謀反人を許すわけにはいかないと言ったまでだ」
フーケは口をつぐんだまま、一言も答えなかった。
「予は君に劣らず、寛大な態度を示しているつもりだ」と王は言い足した。「予はいま、君の意向一つで、左右されているからだであるからな。だから予のほうが一段と寛大であるといいたい。そうだろうな。君は予に条件を持ち出しているからだ。予がその条件を拒絶すれば、自由と生命を犠牲にしなければならぬ」
「なるほど、私がまちがっておりました」とフーケが答えた。「さようでございます。私の態度は特別の赦免を強請するように見えましたでございましょう。私は陛下のお許しを請います」
「君は許しを請われるのだな、フーケ」と王は微笑しながら答えた。そしてやっと、前夜からの幾多の事件でゆがめられていた王の顔も、いつもの平穏な面持ちとなった。
「私はお許しを得ましたが」とフーケは幾分|執拗《しつよう》に言った。「デルブレーとヴァロンはいかがでございましょう?」
「予が生きている限り、彼らを許すことはない。そのことは二度と言ってくれるな」
「かしこまりました」
「君はそのために、予を恨むようなことはあるまいな?」
「さようなことは、けっしてございません。多分、そんなことであろうと覚悟してまいりましたので」
「予が彼らの赦免を拒むことを、君は覚悟していたと申すか?」
「はい、そしてそのために、すでに手段を講じましてございます」
「それはどういうわけか?」と王は驚いて、こう叫んだ。
「デルブレーは、ただいまも申し上げましたとおり、私のもとに自訴してまいりました。彼は私の国王と私の国とを救う幸福を、私の手にゆだねてくれました。それで、私は彼を殺すに忍びなかったのでございます。また彼を陛下の逆鱗《げきりん》の的にすることもできなかったのでございます。それは自分の手にかけて殺したと同じ結果に相なりますので」
「うむ、それでどうした?」
「陛下、私はデルブレーに最上の馬をあたえまして、陛下が追手をおかけにならないうちに、四時間の先発を許してやったのでございます」
「それなら、それでよい!」と王はつぶやいた。「しかし予が追手をかければ、たといデルブレーが四時間先に出発していても、追いつけぬことはあるまい」
「四時間の余裕をあたえますれば、彼の一命は助かると存じまして、こういう手段をとったのでございます」
「どうして助かるかな?」
「四時間の余裕がありますれば、彼は陛下の銃士隊よりも先に、ベル・イル島の私の城館《シャトー》に着くことができましょう。私はあの城館を避難所として彼にあたえたのでございます」
「しかし、君はベル・イルを予に贈ってくれたのを忘れたのか?」
「私の友人たちを逮捕させるために献上したのではございませぬ」
「すると、君はあれを予から、また取り戻そうというのだな?」
「この事件に関する限り、そういうことになります」
「予の銃士隊があの島を占領すれば、それでしまいだぞ」
「たとい陛下の銃士隊でも、また陛下の軍隊でも、占領することはできませぬ。ベル・イルは難攻不落でございます」とフーケはひややかに言った。
王の顔からは血の気がなくなった。その眼からは、さっと稲妻のような光がほとばしり出た。フーケは、それを見て、自分の運命の破滅を直感した。しかし彼は義のためには、何物をもおそれない男だった。王の忿怒《ふんぬ》に燃えた眼で見つめられても、少しも怯《ひる》もうとしなかった。王はじっと怒りをおさえて、しばらく無言でいたが、やがて、
「君はヴォーに行くのか?」と言った。
「陛下の指図に従います」とフーケはうやうやしく一礼をしながら答えた。「しかも、陛下は廷臣たちにお姿をお見せになる前に、お召物をおかえにならねばなるまいかと存じます」
「ルーヴル宮に寄ってまいろう。さあ、行こう」と王は言った。
こうして二人は、もう一度マルキアリが出て行くのに胆《きも》をつぶしたべーズモーの前を通って、牢獄を出た。これを典獄はわずか残っている髪の毛をかきむしりながら茫然《ぼうぜん》と眺めていた。
もっとも、フーケは典獄のために、囚人の釈放書を書いてやったが、それに王が、「検閲の上、之を裁可す、ルイ」と書いたので、べーズモーはますますわけがわからなくなってしまった。そして拳骨《げんこつ》で自分の顎《あご》を|いや《ヽヽ》というほど突いたが、これは全く狂気の沙汰《さた》だという意味らしい。
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三三 贋《にせ》の国王
そうこうしているあいだに、ヴォーでは王位の纂奪者が大胆にもその役割を続けていた。
フィリップは自分の起床の儀式のために、すでに用意の整っている参列者に拝謁《はいえつ》を許す旨を言い渡した。デルブレー修道院長はまだ戻って来ないが、そう手間の取れぬことと信じていたし、大胆不敵な気持から、いっさいの保護を離れて、またいっさいの助言を聞かずに、自分の価値と運命とを試してみたくなって、この命令を発したのであった。
さらにこの決心を促したのは、もう一つの理由からであった。すなわち大妃アンヌ・ドートリッシュがこれから姿を見せようとするのである。罪深き母親が、その犠牲にしたわが子の前に現われようとしているのである。フィリップは弱気なところはあったが、将来自分が幾多の権力をふるおうとするアラミスに、立会人になってもらいたくなかったのである。
フィリップが入り口の両開き戸をあけると、幾人もの人物が黙々とはいって来た。彼は内舎人《うどねり》に衣装を着けさすあいだ、身動きもしなかった。彼は前夜、ルイの習慣を子細に観察しておいたので、すべてそれにならって、少しの疑惑も招かなかった。
こうしてフィリップは狩猟の衣装を美々しく装うて、参列者を迎えた。彼は自分の記憶と、アラミスの覚え書きとで、どの人物をも見誤まることはなかった。まっ先に、大妃アンヌ・ドートリッシュが王弟に助けられ、次いでその妃アンリエットが、サン・テニャン伯爵を従えて、王の前に伺候した。
フィリップはこの人たちの顔を見て、微笑したが、母を見たときには思わずからだをふるわした。
その気高い、威厳のある容貌《ようぼう》にも、心の苦悩は深く刻まれていて、国家のためにわが子を犠牲にした大妃の苦衷《くちゅう》を、彼も思いやらずにはいられなかった。彼は母が美しいのを認めた。父ルイ十三世は、この母を愛していたという。自分も同じように愛したい、そして老齢な母を残酷な罰で虐げたくはないとフィリップは思った。
また、彼は弟を見て、感動を覚えたが、これは無理もないことであった。この弟は何も自分から横領していない。自分の生命に何の危害を加えたわけでもない。弟は分家として、本家が栄えることを願っているのだ。ただ歓楽にふけりたいために、金がいるという話だ。フィリップはこれにも親切な兄になってやろうと思った。
次にフィリップは笑顔をたたえ、最敬礼をしているサン・テニャン伯爵に親しげに会釈《えしゃく》をした。それから彼は義妹アンリエットに手をさし出したが、彼女の美貌《びぼう》に打たれて、その手がふるえた。しかし落ちつき払った王女の眼に、冷たい表情を見たときには、これなら今後も安んじていられると思った。
「こんなふうに私にひややかならば、義兄となるのは容易なことだ」と彼は考えたのだった。
ただフィリップがその瞬間をおそれていたのは、王妃マリー・テレーズに面接することだった。彼の心と精神とは、すでに激しい試練に会っていた。いかに強い素質を持っていたにせよ、おそらくこの上の新しい衝撃には耐えられそうもなかった。が幸いなことには、王妃は出て来なかった。
やがて、大妃アンヌ・ドートリッシュは、フーケがフランス王室に示した款待に対して、政治的解釈を下し始めた。大妃は自分の敵愾心《てきがいしん》の中に、王の手腕に対する称賛や、健康に関する質問や、母親らしいちょっとしたお世辞や、外交的策略などを混ぜていた。
「それはそうと、あなたはフーケの肚《はら》の中がわかっておいでになりますか?」と大妃は言った。
「サン・テニャン、ご苦労だが、王妃を見舞って来てください」とフィリップは言った。
これこそフィリップがはじめて声高《こわだか》に言った言葉だった。その声とルイ十四世の声とのかすかな相違を、母の耳は聞きのがさなかった。アンヌ・ドートリッシュはじっとわが子の顔を見つめた。
サン・テニャンが退出すると、フィリップは言葉を続けた。
「母上、私はフーケの悪口を聞くことを好みません。あなたもご存じのとおり、あなたはフーケのことをいつもよく仰せられていました」
「それはほんとうです。ですからあなたがフーケに対してどんな感情を持っていらっしゃるかと、伺ったまでのことです」
「陛下」とアンリエットが口を出した。「私はいつも大臣をよく思っております、あの人は上品な趣味の人、立派な人ですもの」
「少しも、けちけちせぬ大臣ですな、彼は私の借用証を全部金貨で支払ってくれます」と王弟は言い足した。
「誰も彼も自分のことばかり考えて、国家のことを念頭においていません」と大妃はにがにがしげに言った。「フーケは国家を破滅におとしいれています」
「では、母上」とフィリップはいっそう低い調子で言った。「あなたもやはり、コルベールの味方になられるのですか?」
「まあ! 何をおっしゃるのです?」と大妃は驚いて言った。
「しかし母上は、あなたの昔のお友だちのシュヴルーズ夫人の言いそうなことをおっしゃいます」とフィリップは言った。
この名を聞いて、アンヌ・ドートリッシュはまっさおになって、唇を薄くすぼめた。フィリップは牝獅子《めじし》を怒らせたのだった。
「なぜまた、シュヴルーズ夫人のことをおっしゃるのですか? 何か今日は、私に対して気に入らぬことでもあるのですか?」と大妃は言った。
フィリップは言葉を続けた。
「あの夫人はいつも誰かに対して陰謀をいだいていたのではないでしょうか? 夫人は母上をお尋ね申し上げませんでしたか?」
「あなたがそういうぐあいに私に話されるところは、まるでお父様そっくりです」
「父上はシュヴルーズ夫人を嫌っていらっしゃいました。それもしかるべき理由があったのです」とフィリップは言った。「私にしましても、それ以上にあの夫人を好みません。もしあの夫人が昔のようにここに来て、金をもらうという口実で、あちこちに軋轢《あつれき》や憎悪をまき散らすなら……」
「どうあそばす?」とアンヌ・ドートリッシュはただならぬ見幕《けんまく》で、昂然《こうぜん》と言った。
「知れたこと」と若い王子は断固として言った。「シュヴルーズ夫人を王国から追放します。そのほか、夫人といっしょに、秘密や陰謀を企てた発頭人たちも同じく追放します」
こうした恐ろしい言葉がどう響くか、それをフィリップは勘定に入れていなかった。いや、むしろその効果を見たかったのであろう。これはちょうど、慢性の病気に苦しんでいる者が、その苦痛の単調を破ろうとして、わざわざ傷に触れて、さらに強い苦痛を求めるようなものであった。
アンヌ・ドートリッシュはほとんど気が遠くなりそうになった。その眼は開いていたが、まったく動かず、しばらくは何も見ずにいた。それから王弟の方に腕を伸ばした。王弟のオルレアン公は王の逆鱗《げきりん》も恐れずに、すぐと母を抱きかかえた。大妃は、
「陛下、あなたはあまり母にひどく当たられます」とつぶやいた。
「母上、それはどういう点ですか!」とフィリップは答えた。「私はただシュヴルーズ夫人のことを申しただけです。母上は国家の安泰よりも、また私自身の安泰よりも、あの夫人のほうが大切におぼしめすのですか? と申しますのは、あの夫人は私の宮廷にはいりこんで、誰彼の別なく、その人の恥辱《ちじょく》や破滅を企んでいる女です。たとい神がある種の罪業を大目に見のがされてきたとしても、私は、神のおぼしめしに逆らうことができると信じている、あのシュヴルーズ夫人だけは、断じて許すわけにはまいりませぬ」
フィリップの言った、この最後の言葉は大妃をひどく激昂《げっこう》させたようすで、これにはフィリップもさすがに哀れを催して、その手をとって接吻した。しかし大妃は、この心中の反抗と怨恨《えんこん》とをおさえてなされた接吻の中に、八年にわたる獄裡《ごくり》の苦悩を棒引きにする意味が含まれていたことを気がつかなかった。
フィリップはしばらく無言のまま、つのっていく感情の嵐をおさえていたが、やがて快活な調子で、
「我々は今日、まだ出立しないつもりです。私には計画があるのです」と言った。
そして、アラミスが姿を現わしはしないかと、彼は扉の方を振り向いた。すなわち、アラミスの不在がそろそろ心配になって来たのであった。
そのとき、大妃は退出したいと言った。
「母上、いましばらくここに」とフィリップは言った。「そしてフーケと仲直りをしていただきたいと思います」
「私は何もフーケに悪意を持ってはおりません。ただ、濫費《らんぴ》を恐れているだけです」
「それは必ず厳重に取り締まって、大臣の長所のみを用いるようにいたしましょう」
「陛下は誰を捜していらっしゃるのですか?」とアンリエットが言った。彼女は王が始終扉の方を眺めているのを見て、王の心臓に一本の矢を放ってみたかった。というのは、王がてっきりラ・ヴァリエールか、またはその手紙を待っているのに相違ないと想像したからであった。
フィリップはいままで鍛えてきた、驚くべき鋭敏さのおかげで、早くも義妹の心の中を察して、
「いや、私は非常に卓越した人物で、最も腕のある顧問を待っているのです。まいりましたらあなた方にも紹介し、推薦したいと思っています」と答えた。それから、「ああ! ダルタニャン、こちらへはいれ」と言った。
ダルタニャンが姿を現わした。
「ご用でございますか?」
「お前の友人であるヴァンヌの司教はどこにいるか?」
「しかし、陛下は……」
「予は彼を待っているが、まだまいらぬ。捜して来てくれ」
ダルタニャンは少しの間、あっけに取られていたが、まもなくアラミスが何か王の使命でひそかにヴォーを出て行ったことを思い出して、王はそれを秘密にされたいのだなと判断した。それで、
「陛下は、たってデルブレーにご用でございますか?」と答えた。
「いや、たってとは言わん」とフィリップが言った。「それほどの用事があるわけではない。しかし、もし見つけたら……」
「そのデルブレーというのは、ヴァンヌの司教ですか?」
「はい、さようでございます」
「フーケの友人の?」
「はい、昔の銃士でございます」
アンヌ・ドートリッシュはむっとして、顔を赤くした。
「かつて抜群の働きのあった、四勇士の一人でございます」
大妃はもっと非難したいのをこらえて、いいかげんのところで、話を打ち切ろうとして、
「陛下、ともかくも、結構なことでございますね」と言った。
そこで一同は頭を下げた。
「お会いくださればわかります」とフィリップが言葉を続けた。「リシュリウの深遠さを持っていて、マザランの貪欲《どんよく》さを持っておらぬ人物でございます」
「宰相《さいしょう》にでもなるのですか?」と王弟は顔色を変えて言った。
「それについてはいずれお話ししましょう。しかし、ここに来ないとはへんだな?」
フィリップはこう答えてから、大きな声で、
「フーケに会いたいと言ってくれ。いや、皆はそのままでよろしい。さがらずともよろしい」と言った。
サン・テニャン伯爵は戻って来て、王妃は少しかげんが悪くて、引きこもっておられる旨を言上した。
人々がフーケとアラミスとを捜しに行ったあいだに、新しい王は落ち着き払って、彼の試練を続けていた。王の一家、廷臣、内舎人《うどねり》など、誰一人として彼の身振り、声音、そして起居振舞いに疑いをいだくものはなかった。
フィリップのほうは、腹心のアラミスのさし出したくわしい人相書きや、性格の覚え書きを、周囲のすべての顔に当てはめて、巧みに応待しているのであった。
簒奪者《さんだつしゃ》としては将来のことを何一つ心配することはなかった。なんと不思議なほどの手軽さで、神は、世界の最高の運命を転覆して、代わるに最低の運命をもってしたのだろう!
フィリップは神が自分に示し給うた好意を賛美した。そして、これというのも、自分の勝れた性質からすべて導かれたものと考えてみた。しかし、ときおり、この新しい栄光の上をかすめる幽霊のようなものを感じた。アラミスはまだ姿を見せなかった。
王家一族の談話にも、すでに倦怠《けんたい》がうかがわれた。フィリップは一方に気をとられていたので、王弟や王女アンリエットをさがらせることを忘れていた。王女は内心驚いて、だんだんいら立って来た。大妃アンヌ・ドートリッシュはわが子のそばに行って、スペイン語で話しかけた。
フィリップはこの国語をまるで知らなかったので、この思いがけぬ障害の前にまっさおになってしまった。しかしあたかもアラミスの沈着な心が、フィリップの勇気を鼓舞《こぶ》したかのように、彼を少しも狼狽《ろうばい》させなかった。フィリップは、つと立ち上がった。
「え、なんですか? ご返辞してください」とアンヌ・ドートリッシュが言った。
しかし、これには答えずに、フィリップは秘密の階段の入り口の方を向いて、
「あの音は何だ?」と聞いた。
すると次のように叫ぶ人声が聞こえた。
「こちらへ、こちらへ! もう二、三段でございます、陛下!」
「フーケ閣下のお声ですかな?」と大妃のそばにいたダルタニャンが言った。
「それなら、デルブレーも来るだろうな」とフィリップが言い足した。
しかしフィリップは、よもや、そんなに近くにいようとは思わなかった人影を見た。
眼という眼は、いまやフーケがはいって来るはずの戸口の方に向けられていた。しかし、はいって来たのはフーケではなかった。
国王始め列席者たちの口から発せられた苦痛の、恐ろしい叫び声が部屋の隅々から起こった。
その瞬間に、国王の部屋に現出した光景は、いかに異常な要素を持ち、いかに驚くべき事件を予定されている人物でも、まれにしか遭遇しえぬ光景であった。
なかば閉ざされている鎧戸《よろいど》は、厚い絹を裏に張った、ビロードの大カーテンを通す、おぼろな光を入れているだけであった。
この柔らかな薄明りの中で、眼はだんだんと大きくみはられていたが、列席者の各自は互いに、眼そのものよりも信念で見合っているといってよかった。しかし、こうした情況では、周囲の細かいものは、何一つ見落とすことはなかった。そして新たにそこに現われた物は、さながら太陽の光に照らし出された物のごとく、輝いて見えたのである。
こうしてルイ十四世は眉《まゆ》をひそめ、まっさおな顔をして、秘密の階段の帳《とばり》のところに姿を現わしたのであった。
そして、その背後から現われた、フーケの顔には、峻厳《しゅんげん》と哀愁の色が浮かんでいた。(つづく)