モンテ・クリスト伯(五)
アレクサンドル・デュマ/泉田武二訳
目 次
九十三 ヴァランチーヌ
九十四 告白
九十五 父と娘
九十六 結婚契約
九十七 ベルギー街道
九十八 ホテル『鐘と壜《びん》』
九十九 法律
百 亡霊
百一 ロクスタ
百二 ヴァランチーヌ
百三 マクシミリヤン
百四 ダングラールの署名
百五 ペール=ラシェーズの墓地
百六 分配
百七 獅子の檻《おり》
百八 裁判官
百九 重罪裁判
百十 起訴状
百十一 罪のつぐない
百十二 出発
百十三 過去
百十四 ぺッピーノ
百十五 ルイジ・ヴァンパの献立表
百十六 免罪
百十七 十月五日
解説
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九十三 ヴァランチーヌ
モレルがどこに用事があり、誰と会うことになっていたかは、読者諸子はすでにお見通しであろう。
モンテ・クリストと別れたモレルは、ゆっくりヴィルフォールの邸のほうへ歩いて行った。
ゆっくりと、である。というのは、五百歩ほどの距離なのにまだ三十分以上も時間があったのだ。しかし、余りすぎるほどの時間がありながら、彼は早くモンテ・クリストと別れて、一人で自由な空想にふけりたかった。
彼は、自分のための時刻を知っていた。ヴァランチーヌが祖父の食事の世話をする時刻である。このときならば、祖父に仕えるヴァランチーヌを邪魔する者は誰もいなかったのである。ノワルチエとヴァランチーヌは、モレルに週二度の訪問を許していた。彼はこの特権を利用しに来たのである。
彼はノワルチエの部屋に着いた。ヴァランチーヌは彼を待っていた。不安におびえ、取り乱さんばかりにしていたヴァランチーヌは、彼の手を掴み、祖父の前につれて行った。
取り乱さんばかりに、と言ったが、その不安は、モルセールの思い切った行動が社交界に広めた噂によるものだった。オペラ座での事件を、皆が知っていた(社交界では、なに事によらず、すぐに知れわたってしまう)。ヴィルフォール家でも、そのような行動が、必然的な帰結として決闘になることを疑う者はいなかった。ヴァランチーヌは女性の本能的な勘《かん》で、モレルがモンテ・クリストの介添人になるであろうことを見抜いていた。そして、マクシミリヤンの勇気を知り尽し、また彼が伯爵に対して抱いている深い友情をも知っていたから、彼が、自分に与えられた消極的な役割だけには満足しきれないのではないかと恐れていたのである。
だから、決闘の模様が、どれほど熱心に問いただされ、語られ、聞き入れられたかは、想像にかたくあるまい。モレルは、この恐ろしい事件が思いもかけぬと同時に幸せな結果を迎えたことを知った恋人の目に、言いしれぬ歓喜の色を読みとることができた。
「それじゃ、今度は」と、ヴァランチーヌが、モレルに老人のわきの椅子をすすめ、自分も祖父の足がのせられている床几《しょうぎ》に腰をおろしながら言った。「少し、私たちのことをお話ししましょうよ。マクシミリヤン、お祖父様が、この家を出てヴィルフォールの邸以外の所にお部屋をみつけるおつもりになったことをご存じでしょう」
「ええ知ってますよ。そのとき心から賛成したことも覚えている」
「それなら、もっと喜んでよ。またお祖父様はその気になったの」
「そいつはいい!」
「それで、お祖父様が、この家を出るためのどんな口実をお考えになったかわかる?」
ノワルチエは、孫娘を見、目顔で黙らせようとした。しかしヴァランチーヌはノワルチエを見ていなかった。彼女の目も眼差しも微笑も、すべてモレルに向けられていたのである。
「ノワルチエさんがお考えになった口実なら、どんなものであろうと立派なものにちがいないよ」
「とってもいい理由なの。フォーブール・サン=トノレの空気は私の身体によくないからって」
「たしかだ。あのね、ヴァランチーヌ、ノワルチエさんのおっしゃることはほんとうだよ。二週間前から、どうも君の健康がそこなわれてるように思うんだ」
「ええ、じつはそうなの、少しね。だから、お祖父様は私のお医者様になって下さったってわけ。お祖父様はなんでもよくご存じだから、私はお祖父様を信用しているの」
「それじゃ、君が健康を害してるってのはほんとうなんだね、ヴァランチーヌ」モレルがせきこむように訊いた。
「いいえ、害しているってほどじゃないのよ。身体全体がだるいだけ。食欲がなくて、胃がなにかに慣れようと戦っているみたいな気がするの」
ノワルチエは、このヴァランチーヌの言葉を一言も聞き洩らしはしなかった。
「その正体のわからない病気に、どんな治療法をしているんだい」
「ただ、お祖父様の所へ届けられる水薬を毎朝一さじ飲んでいるだけ。一さじって言ったけど、一さじから始めて、今じゃ四さじ飲んでるわ。お祖父様に言わせると、あれはなんにでも効くお薬なんですって」
ヴァランチーヌは笑ってみせたが、その微笑にはなにか一まつのさびしさと苦しそうな影が宿されていた。
恋に酔うマクシミリヤンは、黙ったまま彼女をみつめていた。彼女は相変わらず美しかった。だが、その肌の白さはややツヤを失っていたし、目はふだんよりもきらきらと燃えているようであった。いつもなら真珠母《しんじゅも》のような白さの手も、時を経て黄色みを帯びた蝋細工《ろうざいく》の手のようであった。
青年はヴァランチーヌから目をノワルチエに移した。ノワルチエは、恋に恍惚となっている娘を、あのはかり知れない深い英知を秘めた眼差しで凝視していた。彼もまたモレルと同じように、祖父と恋人以外のなんぴとの目もそれと気づかなかったそのかすかな病苦の徴候を、じっとたどっていたのである。
「しかし、君が四さじにも増やしたというその薬は、ノワルチエさんのために処方されたものなんだろう?」
「すごく苦いお薬よ。あんまり苦いもんだから、その後で飲むものがみんな苦くなっちゃうの」
ノワルチエが問いかけるような目を娘に向けた。「そうなのよ、お祖父様。たとえばこんなふうなの。さっき、このお部屋へ降りて来る前に砂糖水を飲んだんだけど、私はコップに半分残してしまったの。すごく苦く感じたんですもの」
ノワルチエは顔を青くして、話したいという合図をした。
ヴァランチーヌは立ち上がって辞書を取りに行こうとした。
ノワルチエはその姿を、ありありと苦悩の色の浮かぶ目で追っていた。
はたして、娘の頭に血がのぼり、頬が染まった。
「あら!」陽気さを失わぬ声で彼女が叫んだ。「おかしいわ、目がくらむわ。お日様の光が目に入ったのかしら」
こう言って彼女は窓の掛金につかまった。
「太陽なんか差しこんでないよ」モレルは言った。ヴァランチーヌのこの身体の変調よりも、ノワルチエの表情のほうが彼には気がかりだった。
彼はヴァランチーヌの所へ走り寄った。
娘は微笑んだ。
「大丈夫よ、お祖父様。大丈夫、マクシミリヤン、なんでもないわ。こんなことは前にもあったの。でも、ちょっと聞いてみて、中庭で馬車の音がするようだけど」
彼女はノワルチエの部屋のドアを開け、廊下の窓に走り寄った。そして、急いで帰って来て、
「そうよ、ダングラール夫人とお嬢さんが訪ねていらしたわ。さようなら、私行かなけりゃ。ここへ私を呼びに来るにきまってますもの。いえ、また後で、と言ったほうがいいわね。マクシミリヤン、このままお祖父様のおそばにいて下さい。あの方たちを引き止めたりなどいたしませんから」
モレルはその後ろ姿を目で追った。彼女はドアを閉め、ヴィルフォール夫人の部屋および彼女の部屋に通ずる階段を登って行く音が聞こえた。
ヴァランチーヌがいなくなると、ノワルチエは直ちにモレルに辞書を持って来るよう合図し、モレルはこれに従った。ヴァランチーヌに教わって、モレルも老人の意中をすみやかに読みとれるようになっていたのだ。
しかし、いかに慣れているとはいっても、アルファベット二十四文字をいちいち唱えねばならず、一語一語を辞書でさぐり当てねばならなかったので、老人の考えていることをつぎのような言葉に翻訳できたのは十分後のことであった。
『ヴァランチーヌの部屋のコップと水差しを取りに行け』
モレルは直ちに呼鈴をならしてバロワの代わりの召使いを呼び、ノワルチエの言いつけだと言って、この命令を伝えた。
召使いはすぐ戻って来た。
水差しもコップも完全に空《から》であった。
ノワルチエが、また話をしたいという合図をした。
『なぜコップと水差しが空なのか。ヴァランチーヌは半分しか飲まなかったと言っておった』
この質問を翻訳するのに、また五分かかった。
「わかりません。ですが、小間使いがヴァランチーヌ様のお部屋におりましたから、たぶん小間使いが捨てたのだと思います」
「小間使いに訊いてみるんだ」今度は、老人の目の色を読んでモレルが言った。
召使いは出て行った。そして、すぐまた帰って来た。
「ヴァランチーヌ様は、奥様のお部屋へおいでになるとき、ご自分のお部屋をお通りになりました。そのとき喉がかわいておられたので、コップに残っていたのをお飲みになったのです。水差しのほうは、エドワール様がアヒルの池をお作りになるために、中の水をあけておしまいになったのです」
ノワルチエは、有り金残らず一挙に賭ける勝負師のように、目を天に向けた。
このとき以後、老人の目はドアに釘づけになり、もはやそこから離れなかった。
ヴァランチーヌが見たのはやはりダングラール夫人とその娘だったのである。ヴィルフォール夫人が自室にお迎えすると言ったので、二人は夫人の部屋に通された。ヴァランチーヌが自分の部屋を通ったのはそのためであった。彼女の部屋は継母の部屋と同じ階にあり、エドワールの部屋で隔てられているだけだったのである。
二人の婦人は、なにかを正式に伝えに来たことを思わせる、固苦しい様子でその部屋に入って来た。
同じ社会に住む者同士の間では、こうした空気はただちに伝わるものである。ヴィルフォール夫人のほうも、相手の格式ばった態度に同じような格式ばった態度で応じた。
このときヴァランチーヌが入って来て、また挨拶が改めて交わされた。
「今日伺いましたのは」若い二人が手をとりあっている間に、男爵夫人が言った。「娘とカヴァルカンティ公爵がごく近いうちに結婚することになりましたので、それをあなたにまっ先にお知らせしようと思いまして」
ダングラールは公爵という肩書きに執着していた。この庶民的な銀行家は、そのほうが伯爵よりは聞こえがいいと思っていたのである。
「それはそれは、心の底からお喜びを申し上げさせていただきますわ」ヴィルフォール夫人は言った。「カヴァルカンティ公爵はめったにないほどの美質をお持ちの青年のようにお見うけしますもの」
「あのね」男爵夫人は笑った。「お友達として言うと、じつは公爵が将来はともかく、今はまだ大貴族というふうには思えないのよ。私たちフランス人には、イタリアやドイツの貴族だなって一目でわかる妙なところもおありだし。でも、とてもやさしい方で、才気もあり、実質的な面では、主人は莫大な財産をお持ちだと言うの、これは主人の言葉そのままだけど」
「それから」ヴィルフォール夫人のアルバムをめくっていたウジェニーが言った。「お母さまもあの方に殊のほかご執心だとおっしゃったらいかが」
「それに、あなたも同じくご執心なのね、なんてお訊きする必要はないわよね」ヴィルフォール夫人が言った。
「私が?」ウジェニーがいつもの冷ややかな調子で答えた。「てんでそんな気持ちはありませんわ。私は家事とか、相手が誰であれ男の人の気まぐれとかに縛られて暮らすようには生まれついていないんですもの。あたくしは、芸術家に生まれついてるんです。ですから、心も人格も思想も自由に生まれついているんです」
ウジェニーが、あまりにもはっきり、きっぱりとこう言ってのけたので、ヴァランチーヌの顔に赤みがさした。このつつましやかな娘には、女の小心さなど少しもないように見えるこうしたたくましい性格は、理解できないのであった。
「それに」と、ウジェニーは続けた。「好むと好まざるとにかかわらずお嫁に行かなきゃならないんなら、アルベール・ド・モルセールさんに軽蔑されるようにして下さった神様には感謝しなければなりませんわ。そうでなかったら今頃私は、名誉を失ってしまった人の妻になっていたはずですもの」
「それはそうね」男爵夫人が、貴族のご婦人方によく見受けられ、庶民とつきあってもすっかり失われることのない、あの不思議な素直さを見せて言った。「ほんとにそうだわ。モルセール家の方たちがぐずぐずなさらなかったら、娘はあのアルベールさんと結婚していたわ。将軍は大へんご執心で、主人に無理にも結婚を承諾させようとわざわざおいでになったくらいですもの。ほんとにあぶないところでしたわ」
「でも」おずおずとヴァランチーヌが口をはさんだ。「お父様のそういう恥辱が全部子供の上にふりかかるものなんでしょうか。アルベールさんは、将軍のあの裏切行為なんかにはまったく無関係と思いますけど」
「あなたはそう言うけど」と、手きびしいウジェニーが言った。「アルベールさんも、自ら求めて汚名をこうむるようなまねをなさったのよ。昨夜オペラ座でモンテ・クリストさんに決闘を申し込んだのに、今日は決闘場で詫びを入れたらしいわよ」
「まさか!」ヴィルフォール夫人が言った。
「ああ、それは確かなのよ」先に述べたあの素直さでダングラール夫人が言った。「その場にいたドブレさんからお聞きしたわ」
ヴァランチーヌも真相を知っていたが、彼女は口にしなかった。ただ一言で彼女は追憶の世界におし戻され、心は、モレルの待つノワルチエの部屋に戻ってしまっていたのだ。
いわば深い物思いに沈んでいたヴァランチーヌは、しばらく前から会話には加わっていなかった。少し前から皆が口にしている言葉を繰り返すことさえ彼女にはできなくなっていた。と、いきなりダングラール夫人の手が、彼女の腕の上に置かれ、彼女を夢想から呼びさました。
「何ですの、小母さま」ヴァランチーヌは、電気にふれたようにびくっとして訊ねた。
「ヴァランチーヌさん、あなたお加減が悪いんじゃないの?」男爵夫人が言った。
「私が?」ヴァランチーヌは火のような額に手をやりながら言った。
「ええ、この鏡を見てごらんなさいな。一分間に三回も四回も、赤くなったり青くなったりしていてよ」
「ほんと!」ウジェニーが叫んだ。「あなたまっ青よ」
「あら、大丈夫よ、ウジェニー。二、三日前からずっとこうなの」
こう言ったヴァランチーヌは、抜目のなさなど持ち合わせぬ娘ではあったが、退《さが》るにはいい機会だと思った。それに、ヴィルフォール夫人が助け舟を出してくれた。
「退らせていただきなさい。ほんとに加減が悪いんですもの。この方たちもきっと許して下さるわ。お水を一杯飲むといいわ、きっと気分がよくなることよ」
ヴァランチーヌはウジェニーに接吻し、すでに帰ろうとして立ち上がっているダングラール夫人に頭を下げて部屋を出た。
「ほんとに可哀そうな娘《こ》で」ヴァランチーヌがいなくなると、ヴィルフォール夫人が言った。「私、ほんとに心配していますの。あの娘《こ》になにか大へんなことがおこりそうな気がして」
その間に、ヴァランチーヌは、正体がよくわからない興奮状態のまま、エドワールがなにかといたずらをしかけるのにも取りあわずにエドワールの部屋を抜け、自分の部屋を通って、小さな階段の所まで来た。彼女はその段を全部降り切った。最後の三段を余す所で、すでにモレルの声が聞こえていた。と、突然、目の前に雲がかかり、足がこわばって階段を踏みはずした。手にはもはや手摺りを掴むだけの力がなく、壁板をこするようにしながら、その最後の三段を、降りるというよりはころげ落ちた。
モレルはひとっ飛びにドアを開け、階段の下に倒れているヴァランチーヌをみつけた。
電光のように機敏に彼はヴァランチーヌを抱き上げ、肘掛椅子に坐らせた。ヴァランチーヌが目を開けた。
「なんて間抜けなんでしょう」ヴァランチーヌは熱にうかされたように多弁にしゃべった。「立ってることもできないのかしら。下の踊り場まで、あと三段あるのを忘れたなんて!」
「ヴァランチーヌ、君はきっと怪我《けが》をしてるよ、ああ」モレルが叫んだ。
ヴァランチーヌはあたりを見廻した。彼女はノワルチエの目の中に、深い恐怖の色を見た。
「大丈夫よ、お祖父様」彼女は無理に笑おうとしながら言った。「何でもないわ、何でもないの……ちょっと目まいがしただけよ」
「また目まいだ」手を組み合わせながらモレルが言った。「これは気をつけなきゃいけない、お願いだから」
「なにをおっしゃるの、大丈夫よ、もう直ってしまったわ、なんでもないのよ。今度は私にニュースを言わせてちょうだい。一週間後にウジェニーが結婚するわ。しあさって、盛大なパーティー、婚約披露宴があるんですって。私たちみんな、父も継母《はは》も私も招かれてるの……私が聞いた限りではね」
「僕たちのほうのは、いったいいつになるんだい? ヴァランチーヌ、君はお祖父様にはなんでも頼めるんだから、お祖父様から、『もうじきだ』という返事をいただいてくれよ」
「それではあなたは、事を早く進め、お祖父様に私たちのことを忘れないでいただくのに、私をあてになさってるの?」
「そうさ、ああ、早くしてほしい。君が僕のものになってしまわないと、君が僕から逃げて行ってしまうような気がするんだよ」
「まあ」ヴァランチーヌが身をわななかせながら言った。「ほんとにあなたって、士官にしては、恐れを知らぬと言われた軍人にしては、ずいぶん臆病なのね。お、ほ、ほ、ほ」
彼女はいきなりけたたましく、苦しそうに笑い出した。両腕を硬直させたままよじらせ、頭を椅子の上にのけぞらせると、そのまま動かなくなってしまった。
神がその唇には禁じた叫び声がノワルチエの目からほとばしった。
モレルはその意味を解した。助けを呼ぶのである。
青年は呼鈴の紐にとびついた。ヴァランチーヌの部屋にいた小間使いと、バロワの代わりの召使いが同時に駈けつけて来た。
ヴァランチーヌの顔があまりにも蒼く、あまりにも生気がなかったので、言われることを聞かずとも、この呪われた邸内を絶えず支配している恐怖が二人を襲った。二人は廊下に飛び出し、大声で救いを求めた。
ダングラール夫人とウジェニーは、ちょうどこのとき邸を出ようとしていた。彼女らはこの騒ぎの理由を聞くことができたのである。
「さっき言った通りですわ、可哀そうに」ヴィルフォール夫人が言った。
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九十四 告白
それと同時に、ヴィルフォールが書斎から叫ぶ声が聞こえた。
「どうしたのだ」
モレルは目顔でノワルチエの意見を求めた。ノワルチエは落ち着きをとり戻していて、目でわきの小部屋を示した。前にも一度同じような場面で、モレルが身をひそめたことのある部屋である。
帽子を掴み、息をはずませながらその部屋に飛びこむだけのひましかなかった。廊下に検事の足音が聞こえていた。
ヴィルフォールはノワルチエの部屋に飛びこんで来ると、ヴァランチーヌの所に駈けより、両腕に抱きしめた。
「医者だ、医者だ……ダヴリニー先生を呼ぶんだ。いや、私が呼んで来よう」
こう言うと、彼は部屋の外へ飛び出した。
別のドアからモレルが駆けこんで来た。
彼は恐ろしい思い出に心臓を突かれる思いがしたのだ。サン=メラン侯爵夫人が死んだ夜、彼が立ち聞きしてしまったあのヴィルフォールとダヴリニー医師の会話が彼の記億に蘇ったのである。あの症状は、幾分軽くはあるが、バロワが死んだときの症状とまったく同じではないか。
と同時に自分の耳に、わずか二時間前にモンテ・クリストが言った、
「なにか困ったことが起きたら、モレル、私の所へ来るのだ、きっとなにかしてあげられる」
という言葉がささやかれているように思った。
思いを馳せるよりも早く、彼はフォーブール・サン=トノレからマティニョン通りへ、マティニョン通りからシャン=ゼリゼーへと走り抜けていた。
その間にヴィルフォールは辻馬車に乗ってダヴリニーの家に着いた。あまり激しい呼鈴の鳴らしようだったので、門番があわてふためいて戸を開けに来た。ヴィルフォールはものを言う気力もなく、ただ階段に突進した。門番は彼を知っていたので、
「書斎におられます、検事様、書斎です」
と叫んだだけで検事を通した。
ヴィルフォールはすでに書斎のドアを押して、いやつき破っていた。
「ああ、君か」医師は言った。
「うん」ヴィルフォールは後ろ手にドアを閉めながら言った。「私だ。今度は、私のほうが大丈夫二人きりだろうな、と訊ねる番だ。ああ、私の邸は呪われている!」
「何だって!」上べは冷静に、しかし内心ではひどく驚いている様子を見せて医師は言った。「じゃ、また誰か病人が出たのか」
「そうなんだ」ヴィルフォールはわなわなとふるえる手で髪の毛をかきむしりながら叫んだ。「そうなんだ!」
ダヴリニーの目が、
『だから言わぬこっちゃない』
と言っていた。
そして、彼の唇からゆっくりとつぎのような言葉が洩れた。
「死にかけているのは誰かね。神のみ前にわれわれの無力を訴えている今度の犠牲者は、いったい誰なのだ」
悲痛な鳴咽がヴィルフォールの胸からほとばしり出た。「ヴァランチーヌだ! 今度はヴァランチーヌの番なのだ」
「あの娘《こ》がか!」苦痛と驚愕に襲われてダヴリニーが叫んだ。
「これで君がまちがっていたことがわかったろう」司法官はつぶやいた。「診てやってくれ。苦しんでいるあの娘のベッドの所へ来て、疑ってすまなかったと言ってやってくれ」
「君が言いに来るのはいつも遅すぎる。が、まあいい、行こう。が、急がねばならぬ。敵が君の邸を襲っているからには、ぐずぐずしてはいられない」
「今度こそ、君に弱いなどとは言われぬぞ。今度こそ犯人を見つけ、叩きのめしてやる」
「復讐を考える前に、被害者を救わねばならん、行こう」
こうして、ヴィルフォールを乗せて来た馬車が、ダヴリニーとともにまた彼を邸につれ戻した。それはちょうど、モレルがモンテ・クリストの邸の門を叩いたときと同時であった。
伯爵は書斎にいて、ベルトゥチオが急ぎ書き送って来た手紙を、ひどく気づかわしげに読んでいるところであった。
わずか二時間前に別れたばかりのモレルが訪れたと聞いて、伯爵は顔を上げた。
モレルにも、伯爵にとってと同じように、この二時間の間に多くの事が起きたのであろう。別れたときには口辺に微笑を浮かべていた青年が、うろたえた顔つきで戻って来たのである。
伯爵は立ち上がり、モレルの前に走り寄った。
「どうしたね、マクシミリヤン。顔は青いし、額から汗が流れている」
モレルは、腰をおろすというよりも椅子に倒れこんだ。
「ええ、大急ぎで来たもんですから。どうしてもお話がしたくて」
「お宅の皆さんはみなお元気かね」こう訊ねた伯爵の声音は、慈愛にあふれる好意に満ちており、その誠意を疑う余地はなかった。
「ありがとうございます、伯爵」青年は明らかにどう話を始めてよいのかとまどっている様子だった。「家の者は皆元気です」
「それはよかった。が、君はなにか私に話があると言ったね」次第に不安になって伯爵が言った。
「ええ、そうなんです。死神が入りこんだ家から、あなたの所へ駈けつけて来たんです」
「では、モルセールの邸から来たのかね」
「違います。モルセールさんの所で誰か亡くなられたんですか」
「将軍が今自分の頭を射ち抜いたよ」
「ああ、それはひどい不幸だ!」
「夫人やアルベールにとってはそうではないよ。名誉を失った父、夫よりは、死んだ父、死んだ夫のほうがまだましだ。血が恥辱をそそいでくれよう」
「気の毒な奥さん! 僕はとくに奥さんをお気の毒に思います。あんな立派な人なんですから」
「アルベールも気の毒だよ、マクシミリヤン。彼もまた、夫人の息子たるにふさわしい男だからね。だが、君の話に戻ろう。君は私の所へ駈けつけて来たと言ったね。なにか君の役に立てるのかね」
「ええ、あなたのお力が必要なんです。ということは、神様しか僕を救ける力はないような場合にも、あなたなら救う力があると思うほど、僕が馬鹿だってことですけど」
「いいから言ってみたまえ」
「ああ、こんな秘密を人間の耳に入れていいものかどうかわかりませんが、伯爵、運命が僕にそうさせ、やむを得ぬ事情が僕を強制するんです」
モレルはためらって言葉を切った。
「君は、私が君を愛していると思っているかね」やさしくモンテ・クリストは青年の手を両手に包みこんだ。
「ああ、そのお言葉で勇気を与えられました。それに、なにかがここで(とモレルは胸に手をあてた)あなたには秘密を持っていてはいけないと言っています」
「その通りだよ、モレル。君の心に語りかけているのは神で、その君の心が君に語りかけているのだ。君のその言葉を私に言ってみたまえ」
「伯爵、バチスタンを、あなたもご存じのある人の様子を聞かせにあなたからの使いとして、使いに出してもよろしいでしょうか」
「私自身がいつでも君のお役に立ちたいと思っているのだ、召使いたちを役立てるのは当り前ではないか」
「おお、あの女《ひと》がたしかに回復したという確信が持てなければ、僕はとても生きては行けないからです」
「バチスタンをここへ呼ぼうか」
「いいえ、僕が自分で言いに行きます」
モレルは部屋を出て、バチスタンを呼び、なにごとかを低くささやいた。召使いは全速力で走って行った。
「すんだかね?」モレルがまた現われたのを見てモンテ・クリストが訊ねた。
「ええ、これで少しは安心できるかもしれません」
「私は君の話を待っているのだよ」モンテ・クリストは笑った。
「そうでした、お話しします。じつは、ある晩のこと、僕はある邸の庭にいたんです。木立の茂みの中にかくれていましたから、誰も僕がそんな所にいるとは思っていませんでした。二人の男が僕のそばを通りました。今のところはその二人の名前は伏せさせて下さい。二人は低い声で話をしていました。ですが、僕はその二人の話にすごく関心があったものですから、二人の言葉を一言も洩らさずに聞いてしまったのです」
「どうやら不吉な話らしいね。君の顔の青さとそのふるえからみると」
「ええ、そうなんです。すごく不吉な話だったんです。僕がいたその邸の主人の家族の一人が亡くなったところでした。僕が話を立ち聞きした二人のうちの一人は、その邸の主人で、もう一人は医者でした。ところで、その主人のほうが医者に、その恐怖と苦悩とを訴えていました。というのも、急激な予期せぬ死が一か月の間に二度までもこの家を襲ったので、神の怒りを体した殺戮の天使が神の怒りにゆだねた家のように思えたのです」
「ほ、ほう」モンテ・クリストは青年の顔をまじまじと見た。そしてそれと気づかぬほどにそっと椅子を廻して、自分は影に入り、マクシミリヤンの顔に陽があたるようにした。
「そうなんです、一か月のうちに二度までも死がこの家を襲ったんです」
「で、医者はなんと答えた」
「医者は……医者はこの死は自然死ではないと言ってました。どう考えても……」
「何だというのか」
「毒殺だ、と」
「ほんとうに」とモンテ・クリストは、ひどく心を動揺させられた場合顔の赤さなり青さなり、あるいは自分が相手の言葉に聞き入っているその熱心さなりをかくすのに役立つ、あの軽い咳をしながら言った。「マクシリヤン、君はほんとうにその言葉を聞いたのかね」
「ええ、たしかに聞きました。医者はさらに、このようなことがまた繰り返されるなら、その筋に訴えねばならないと思うとつけ加えました」
モンテ・クリストは、きわめて冷静にその言葉を聞いていた、少なくとも聞いているように思われた。
「ところで、死は三度襲いかかったんです。邸の主人も医者もなにも言いませんでした。きっと、四度目も襲いかかろうとしています。伯爵、このような秘密を知った僕は、どう行動すべきだとお思いですか」
「ねえ、君」モンテ・クリストは言った。「君のその話は、私たち二人が知り尽している出来事の話のように思う。君がその話を聞いたという家を、私も知っている。少なくとも、それと同じような家を私は知っている。庭があって、一家の主人がいて医師がいて、しかも思いがけぬ不思議な死に三度も襲われた家をね。ところで、私を見てごらん。私は内緒話を立ち聞きしたわけではないが、君と同じぐらいそのことはよく知っている。それでいて、この私は心を痛めてなんとかしようなどと考えているだろうか。いや、そんなことは私の知ったことではない。君も言ったではないか、殺戮の天使が神の怒りにゆだねた家のようだ、と。だとすれば、君のその推測が事実ではないと誰が言えるか。当事者が見たがらぬものを見ようとするのはやめることだ。その家の中を徘徊しているものが神の怒りならぬ正義である以上は、マクシミリヤン、君は顔をそむけ、神の正義に道をあけるのだ」
モレルは慄然とした。伯爵の口調には、なにか陰惨な、重々しい、恐るべきものがあった。
「それに」と、伯爵は続けたが、声音ががらりと変わっていて、同じ口から出た言葉とは思えぬほどであった。「それに、そんな事件がまた起きるだろうなどと、誰が言ったのかね」
「伯爵、また起きているんです!」モレルは叫んだ。「だからこそ僕はあなたの所へ駈けつけて来たんです」
「それで私に何をしろというのか。検事に通報しろとでもいうのかね」
モンテ・クリストがこの最後の言葉を、あまりにもはっきり、あまりにもよく通る声で言ってのけたので、いきなりモレルは立ち上がって叫んだ。
「伯爵! あなたは誰のことを僕が話しているのか知っているんですね、そうですね」
「もちろんよく知っているとも。その証拠に細部の細部にまでわたって話してあげようか。それよりも、人物の一人一人の名前を挙げてみよう。君はある晩、ヴィルフォール氏の庭にいた。君の話から想像すると、それはサン=メラン夫人が亡くなった晩だ。君は、サン=メラン侯爵の死のことをダヴリニー氏と話していたヴィルフォールの話を聞いたのだ。それから、それに劣らず衝撃的な侯爵夫人の死について、ダヴリニー氏は、これを毒殺と信ずる、いや二つの死をいずれも毒殺と信ずると言っていた。そこで君は、類い稀なほど誠実な男である君は、その時以来胸に手をあてて考え続けてきた。この秘密をあばくべきかそれとも黙っているべきかと、良心に問いかけ続けてきたのだ。われわれはもはや中世に住んでいるのではないんだよ、神聖フェーメ〔中世ドイツの秘密裁判所〕も秘密判事も今はいないのだ。いったい何をそんな連中に訊ねに行こうとするのか。スターン〔英国の小説家(一七一三〜八六)〕も言うように、『良心よ、お前は俺にどうしろというのだ』だよ。彼らが眠っているなら眠らせておくことだ。夜眠れぬというのなら、不眠で蒼い顔をさせておけばいい。だが、君は、君の眠りを奪う良心の苛責などはないのだから、眠っていてほしい」
恐ろしい苦悶の色がモレルの顔に浮かんだ。彼はモンテ・クリストの手を掴んだ。
「でも、また始まったんですよ!」
「それなら」と伯爵は、なぜモレルがこのように固執するのかはかりかねて、マクシミリヤンの顔をまじまじとみつめながら言うのだった。「勝手にまたやらせておけばいいではないか。あの一家は、アトレウスの一族〔ギリシア神話の呪われた一族〕なのだ。神があの一家を罰し給うた。彼らはその刑に服さねばならぬ。ちょうど子供が紙を折って作った修道士がたとえ二百人もいても、作った者の一吹きで皆倒れてしまうように、彼らは皆この世から消えるのだ。三か月前にはサン=メラン侯爵、二か月前にはサン=メラン侯爵夫人、つい先頃はバロワ、そして今日は、ノワルチエ老人かヴァランチーヌだ」
「あなたはそれをご存じだったんですか!」たとえ天が落下して来てもびくともしそうにないモンテ・クリストがぞっとするほどの恐怖の表情を示して、モレルが叫んだ。「あなたはそれを知っていながら、何もおっしゃらなかった!」
「私になんのかかわりがある?」モンテ・クリストは肩をすくめた。「私があの連中をよく知っているだろうか。一方を救うために一方を失う必要があるだろうか。ありやしない。あの事件の犯人と被害者と、そのいずれかを大事に思う心など私にはないからね」
「でも、僕は、僕は」モレルは苦悩に呻きながら叫んだ。「僕はあの人を愛しているんです!」
「君が愛している、誰を」モンテ・クリストは飛びはねるように立ち上がって、両手をよじり天に向けられていたモレルの手を掴んだ。
「僕は身も世もあらぬほど愛しているんです、まるで気違いのように。あの人に一滴の涙を流させないためなら、身体中の血を全部献げてもかまわないと思うまでに愛しているんです。僕は今殺されようとしているヴァランチーヌ・ド・ヴィルフォールを愛しているんです。いいですか、僕はあの人を愛しているんです。だから、僕は神に、あなたに、どうすればあの人を救うことができるかとお訊ねしているんです!」
モンテ・クリストは、傷ついたライオンのうなり声を聞いた者のみが想像できるような、荒々しい呻き声を洩らした。
「馬鹿者!」今度はモンテ・クリストが腕をよじった。「君は、あの呪われた一族の娘を愛していたのか!」
モレルは、いまだかつてこのような声の響きを耳にしたことはなかった。このように恐ろしい目が彼の面前で火と燃えたためしはなかった。戦場で、あるいはアルジェリアの殺戮の夜々、彼があれほどしばしばその姿を見た恐怖のデモンもこれ以上不吉な火を彼の廻りにふり廻したことはなかった。
彼は怯えて後退りした。
モンテ・クリストのほうは、こうして怒りを爆発させ怒鳴った後、心の内なる光に目がくらむかのように、しばし目を閉じた。その間に、一心に心を集中し、嵐をはらみ波立つその胸が、黒雲の去った後、太陽の光の下に逆巻き泡立つ波がなごむように、次第に静まって行くのが見えた。
この沈思黙考、内心の葛藤《かっとう》は二十秒ほど続いた。
やがて伯爵は蒼い顔を上げた。
「見たまえ」伯爵の声は変わっていた。「神が見せる恐ろしい光景を前にしても少しも騒がず空威張りをしている男の冷淡さを、神がいかに罰する術をお持ちか。あの不吉な惨劇を冷淡に好奇の目で見ていたこの私、悪しき天使さながら、秘密のかげにかくれて(秘密というものは、富者や権力者には守りやすいものだが)、人のなす悪を嘲笑っていた私が、今は、そのうねりくねる歩みをただ見ていたヘビに自分が咬まれた思いがする。心の臓をね」
モレルは呻き声を洩らした。
「さあ」伯爵は続けた。「そのような嘆きはもういい。男になるのだ、強くなるのだ。希望を持て、私がいるではないか、私が君を見守っているではないか」
モレルは悲しげに首を振った。
「希望を持てと言っているのがわからないのか!」モンテ・クリストが声をはげました。「私が一度も嘘をついたためしがなく、一度も誤ったためしのないことを知るのだ。今正午だ。マクシミリヤン、君が今日の夕方とか明日の朝ではなく、今日の正午にここへ来たことを神に感謝したまえ。いいかね、モレル、私の言うことをよく聞くのだ、もし現在ヴァランチーヌが死んでいなければ、彼女は必ず助かる」
「ああ! 僕があそこを出たとき、あの人は死にかけていました!」
モンテ・クリストは片手で額を抑えた。
恐ろしい秘密の数々の重みに耐えかねるその頭の中をよぎるものは何か。
執念深いと同時に人間愛に満ちたその心に、光り輝く天使、ないしは暗黒の天使は何を語りかけているのか。
神のみぞそれをしろしめす。
モンテ・クリストはまたその面を上げた。そして、今度は目覚めたばかりの幼児のようにもの静かな声で言うのだった。
「マクシリヤン、このまま静かに家に帰りたまえ。一歩も外へ出るな。何かしようなどとはするな。君の顔に、不安の影もただよわせてはならぬ。私からのしらせを待て。さあ行きたまえ」
「ああ、伯爵。そんなに落ち着いておられるのを見ると、僕は恐ろしい気がします。あなたには、死に対して戦う力があるとおっしゃるのですか。あなたは超人間的な方なのですか。天使なのですか、神なのですか」
いかなる危険を前にしても一歩も退かなかった青年が、名状しがたい恐怖に襲われて、モンテ・クリストを前にして後ずさりした。
しかし、モンテ・クリストがあまりにも悲しげな、と同時にあまりにもやさしい微笑をたたえて彼をみつめていたので、彼は目に涙がこみ上げてくるのを感じた。
「私には大へんな力があるのだよ」伯爵が答えた。「帰りたまえ。私は一人にならねばならない」
モンテ・クリストがその周囲の者に与える不思議な有無を言わせぬ威圧感に圧倒されたモレルは、その力から逃れようと努めることさえできなかった。彼は伯爵の手を握り、その部屋を出た。
ただ、彼は門の所で立ち止まり、バチスタンがやって来るのを待った。マティニョン通りの角に姿を現わし、大急ぎで走って来るのが見えたのである。
この間に、ヴィルフォールとダヴリニーは帰路を急いでいた。二人が戻ったとき、ヴァランチーヌはまだ気を失ったままであった。医師は、事情が事情なので念入りに病人を診た。また、秘密を知っているだけに細心の注意を払った。ノワルチエは娘よりも蒼い顔をして、ヴィルフォール以上にその結果を熱心に待っていた。彼の全身が、英知と感受性そのものに化していた。
ついにダヴリニーが、ゆっくりとこう洩らした。
「まだ生きている」
「まだ生きている!」ヴィルフォールが叫んだ。「おお、なんという恐ろしいことを言うのだ」
「そうだ、もう一度言う、この娘はまだ生きている。ほんとうに驚いているのだ」
「だが、助かるのか」
父は訊ねた。
「助かる、生きているからね」
このとき、ダヴリニーの視線がノワルチエの目にぶつかった。その目があまりにも異常な喜びと、あまりにも豊かな思考の光に輝いていたので、医師はこの目に打たれた。
医師は娘の身体をまた椅子の上におろした。娘の唇はその輪郭が顔のほかの部分と区別がつきかねるほど蒼白かった。医師はじっと、彼の動きを待ちその意味を読みとっていた老人を見た。
「ヴァランチーヌの小間使いを呼んでいただきたい」
ダヴリニーがヴィルフォールに言った。
ヴィルフォールは、支えていた娘の頭を放して、自分で小間使いを呼びに走った。
ヴィルフォールがドアを閉めると、直ちにダヴリニーはノワルチエに近寄った。
「なにか私におっしゃりたいことがおありですね」
老人は十分意味のこもったまばたきをした。これは、ご記憶の通り、老人に許された唯一の背定の意志表示であった。
「私だけにおっしゃりたいのですか」
『そうだ』
「よろしい、あなたのおそばにいるようにいたしましょう」
このとき、ヴィルフォールが小間使いをつれて帰って来た。小間使いの後からヴィルフォール夫人が歩いて来た。
「いったいあの娘《こ》、どうしたんですの? 私の部屋から出て行って、気分が悪いとは言ってましたけど、でも大したことではないと思っておりましたのに」
こう言って若い妻は、目に涙を浮かべ、ほんとうの母親のような愛情を示してヴァランチーヌに近寄り、その手をとった。
ダヴリニーはノワルチエの顔を見続けていた。彼は、老人の目が丸く見開かれ、頬が蒼ざめわななくのを見た。汗がその額に露の玉を結んだ。
「あ!」ノワルチエの視線の先を追い、つまりヴィルフォール夫人に目を注いだ医師は、思わずこう洩らした。夫人は繰り返していた。
「ベッドに寝かせたほうがこの娘は楽だわ、ファニー、来てちょうだい。寝かせましょう」
ダヴリニーはこの申し出を受入れれば、ノワルチエと二人きりになれると思い、たしかにそれが今なすべき最善のことであると、うなずいて見せた。ただし、自分が命ずるもの以外は、絶対に何物をも口にすることを禁じた。
ヴァランチーヌは運ばれて行った。意識は取り戻していたものの、動くことはできず、口もほとんどきけなかった。今しがた襲われた発作のために四肢の力が萎えていたのだ。だが、辛うじて祖父に目で挨拶を送るだけの力は残されていた。祖父にとっては、ヴァランチーヌをつれ去られることは、魂をもぎとられる思いがするようであった。
ダヴリニーは病人につき添って行き、処方を書き、ヴィルフォールに、馬車で薬屋へ行き目の前で薬を調合させ、自分でその薬を持ち帰り、娘の部屋で医師を待つように命じた。
それから、もう一度、ヴァランチーヌにはなにも口にさせてはいけない旨を命じて、彼はノワルチエの部屋に降りて来た。入念にドアを閉めると、誰にも立ち聞きされていないことを確かめてから、
「さあ、あなたはお孫さんのご病気について、なにかご存じなんですね」
『そうだ』
「いいですか、無駄にできる時間はないのです。私がお訊きしますから、あなたはそれにお答えになって下さい」
ノワルチエは、いつでも返事ができるという合図をした。
「あなたは、今日ヴァランチーヌの身に起きた事件を予知なさっていましたか」
『わかっていた』
ダヴリニーはしばらく考えていたが、ノワルチエのほうに身を寄せて、
「これから申し上げることは失礼かもしれませんが、事情が事情なので、どんなこともなおざりにはできません。あの気の毒なバロワが死ぬところを、あなたはご覧になりましたか」
ノワルチエは目を天に向けた。
「あなたは、バロワの死因をご存じですか」ダヴリニーは、ノワルチエの肩に手を置いて訊ねた。
『知っている』老人が答えた。
「自然死とお思いですか」
うすら笑いのようなものがノワルチエの動かぬ唇をかすめた。
「では、バロワは毒殺された、というふうにお考えなのですね」
『そうだ』
「バロワがその犠牲となった毒物は、はじめからバロワを目ざして与えられたものとお思いですか」
『思わぬ』
「では、別の人を殺そうとしてバロワを殺してしまったその同じ人間が、今日ヴァランチーヌを殺そうとしたとお思いですか」
『そうだ』
「では、あの娘《こ》も死ぬでしょうか」ダヴリニーはさぐるような目でノワルチエをみつめた。
そして、彼はこの言葉が老人に与える効果を待った。
『いや』老人は、いかに有能な予言者の推測をも迷わせてしまうような、勝ち誇った様子で答えた。
「ではあなたは望みを持っておられるのですね」ダヴリニーは驚いて言った。
『そうだ』
「どういう望みを」
老人は、返事はできないのだということを目で知らせた。
「ああ、そうだった」ダヴリニーはつぶやいた。
それからまたノワルチエのほうを向いて、
「犯人がもうやる気がなくなるという望みをお持ちなのですか」
『いや』
「では、毒物がヴァランチーヌには効かぬだろうとお思いなのですか」
『そうだ』
「誰かがヴァランチーヌに毒を盛ったとお話ししても、そんなことはとうに知っている、というわけですね」
老人は、誰かが毒を盛ったという点については、いささかの疑いも抱いていない旨を目で知らせた。
「だとすれば、どうしてヴァランチーヌが死を免れるとお考えなのですか」
ノワルチエの目は執拗にある方向に向けられていた。ダヴリニーはその視線を先をたどり、老人の目が、毎朝老人のもとに届けられる水薬のびんに注がれているのを知った。
「は、はあ」ダヴリニーは、不意にあることに思いついて言った。「あなたは……」
ノワルチエは最後まで言わせなかった。
『そうだ』
「あの娘《こ》に前もって毒物に対する抵抗力をつけておくということをお考えになったのですね」
『そうだ』
「少しずつ慣れさせて」
『そうだ、そうだ』ノワルチエは理解してもらえたことがうれしくて、こう繰り返した。
「なるほど、あなたは、私が差し上げる水薬にブルシンが入っていることを私から聞いておられましたね」
『そうだ』
「それで、あの娘《こ》をこの毒物に慣れさせることによって、毒物の効果を失わせようとなさったのですね」
ノワルチエは、ふたたび勝ち誇ったような喜びの色を見せた。
「たしかにあなたはそれをやってのけられました。その配慮がなかったら、今日ヴァランチーヌは死んでいました。どうにも手のほどこしようがなく、悲惨な最後をとげたはずです。打撃は強烈でした、にもかかわらずあの娘は、ちょっとよろめいただけでした。少なくとも今回はヴァランチーヌの命は助かります」
人間のものとも思えぬほどの喜びが老人の目に花開き、その目は、無限の感謝をこめて天に向けられた。
このとき、ヴィルフォールが戻って来た。
「これがお申しつけの薬だ」
「この薬は君の目の前で調合されたね」
「うむ」検事は答えた。
「その後君の手から離れたことはないね」
「ない」
ダヴリニーはそのびんを受取り、びんの中の水薬を数滴、手のひらのくぼみに注ぎ、なめてみた。
「よし。ヴァランチーヌの部屋へ行こう。あの娘の部屋で皆に守るべき注意を与える。ヴィルフォール君、君自身で、誰もその注意を破らぬよう見張るのだ」
ダヴリニーがヴィルフォールとともにヴァランチーヌの部屋に入ったとき、厳めしい態度をした、もの静かではあるがおごそかな話し方をする一人のイタリアの僧が、ヴィルフォール邸に隣接する家を借りようとしていた。
どういう取引きによってそこに住んでいた三人の借家人が二時間後に引越して行ったのかはわからなかった。しかし、町に流れた噂では、その家はもう土台がぐらついており、いつ倒れるかわからぬ状態であった。がこのことも、大して家財道具を持たぬ新たな借り手にとっては問題ではなく、その日のうちに、五時頃引越して来たという。
新たな借り手が結んだ賃貸契約は、三年、六年、ないし九年だったという。借り手は六か月の家賃を前払いした。この新たな借り手は、すでに述べたようにイタリア人で、名前は、ジアコモ・ブゾニであった。
直ちに職人が呼ばれ、その夜、帰宅の遅れたその界隈のまばらな通行人たちは、大工や石工がそのぐらついている家を土台から直しているのを見て驚いたのであった。
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九十五 父と娘
前の章でわれわれはダングラール夫人がウジェニー・ダングラール嬢とアンドレア・カヴァルカンティ氏との結婚を、正式にヴィルフォール夫人に伝えるのを見た。
この正式の通知は、この重大な出来事に関係ある者が一人残らずそのように心を決めたことを示すもの、ないしは示すかに見えるものではあるが、じつはその前にちょっとした事件があり、それを読者諸子にお伝えしておかねばならない。
したがって、ここで少し時間的に逆戻りして、あの大へんな悲劇が起きた日の朝の、ダングラール男爵ご自慢の、すでにお話した例の金ぴかな豪勢なサロンにお運びいただきたいのである。
このサロンの中を、朝の十時頃、もの思わしげで、ひどく心配そうな様子の男爵が、すでになん分か前から、ドアの一つ一つに目をやり、物音を聞いては足をとめながら、歩き廻っていた。
ついに辛抱しきれなくなって、彼は召使いを呼んだ。
「エチエンヌ、なぜあいつがわしにサロンで待っていてくれと言ったのか、そして、どうしてこんなに長いこと待たせるのか、ちょっと見て来い」
昂ぶった不気嫌をこうして爆発させてしまうと、男爵はいくらか落ち着きをとり戻した。
事実、ダングラール嬢は、朝起きると、父に聞いてもらいたい話があると申し入れ、その話合いの場所として金ぴかのサロンを指定したのであった。このただならぬやり方、とくにいやに形式ばったこの話し合いの性格が銀行家を少なからず驚かせ、彼は早速娘の希望を入れて、先にサロンに来たのである。
やがてエチエンヌが使命を果たして帰って来た。
「お嬢様の小間使いの申しますには、お嬢様は今お召替えがおすみになり、間もなくお見えになるとのことでございます」
ダングラールはうなずいて、満足の意を示した。ダングラールは人前では、召使いたちの前ででも、善良な甘い父親のふうを装っていた。これは彼が演じている大衆劇の中で自分に課している役割の上での顔であった。これは彼が採用した顔であり、ちょうど、古代の芝居の面《めん》の場合、左半分は唇がたれ下って泣きべそをかいているのに、右半分は唇をまくり上げて笑っているのが都合がよいように、この顔は彼には都合のよい顔に思えるのだった。
急いでつけ加えるが、肉親に見せる顔となると、まくれ上がって笑っている唇は、たれ下ってべそをかいている唇の線まで下がるのであった。だから、一日の大半は、お人好しの表情は消え、残酷な夫、横暴な父親の姿に席をゆずっていた。
「あの気違い娘のやつは、わしに話があると言っていながら、なんだってわしの部屋に来んのだ。それに、なんでこのわしに話などしたいのだ」彼はこうつぶやいた。
彼がこれでもう二十回もこの不安な思いを頭の中で思いめぐらしたとき、ドアが開いてウジェニーが姿を現わした。黒いサテンの、くすんだ同色の花模様のついたドレスを着て、髪を結い上げ、まるでイタリア座へ観劇にでも行くときのように手袋まではめている。
「いったい、ウジェニー、どうしたというんだね。わしの書斎でもゆっくり話せるというのに、サロンなどとは仰々しいではないか」父親は大声で言った。
「まったくその通りですわ」ウジェニーは父親にどうぞお掛け下さいという身ぶりをしながら答えた。「今、お父様は二つのことをご質問になりましたけど、これからのお話はみなその質問の中に要約されております。ですから、その両方にお答えしますが、ふつうの場合の順序を逆にして、二番目のご質問に先にお答えすることにします。このほうが簡単ですから。私がお話をする場所としてサロンを選んだのは、銀行家の書斎というものが持つ不愉快な感じとその影響力を避けるためだったんです。あのなん冊もの出納簿、いくら金で飾られていたって。それに、城砦の扉みたいに固く閉ざされた引出し、どこから来るのか知りませんけど札束の山、それから、英国、オランダ、スペイン、インド、中国、ペルーから来たおびただしい手紙、こういうものは一般的に言って、一人の父親の精神に妙な影響を与えてしまって、世の中には、社会的地位とか有権者たちの意見とかよりもっと大切な神聖なものがあるのだということを忘れさせてしまうものです。ですから私はこのサロンを選びました。ここなら、お父様も、立派な額に入れられてにこやかに笑っているご自分や、お母様や私の肖像画をご覧になれるし、また、心慰さむ思いのする田園や牧歌的な風景をご覧になれます。私は外部から受ける印象の力というものをうんと信用しています。たぶん、お父様が相手では、私はまちがってるかもしれませんけど、でも仕方ありませんわ。多少は幻想を持ち続けていなければ、私はもう芸術家ではなくなってしまいますもの」
「なるほど」とダングラールは答えたが、この長ぜりふを泰然自若として聞いてはいたものの、ただの一言も理解していなかった。いつでも腹に一物ある男の常として、相手の考えていることの中に自分の論理の糸を探ることにのみ頭を使っていたのである。
「これで、第二点のほうはすっかり、あるいはだいたい明らかにされたと思います」ウジェニーは少しの乱れもなく言ってのけた。彼女の挙措《きょそ》振舞い、その言葉を特徴づけている男のようなあの落ち着き払った口調だった。「お父様もこの説明でご満足のようにお見うけします。では最初のご質問に戻りましょう。お父様は、私がなぜこのお話合いをお願いしたのかとお訊ねになりましたわね。簡単にお答えします。こういうことなんですの、私はアンドレア・カヴァルカンティ伯爵様とは結婚いたしたくございません」
ダングラールは椅子の上で飛び上がった。ショックのあまり、目と両腕とを同時に天に上げた。
「ええ、そうなんですの」相変わらずウジェニーが落ち着き払って続けた。「お驚きになるのは無理もありませんわ。だって、このつまらないお話が進んでいる間中、私はほんの少しの反対も表明しませんでしたものね。私はいつでも、そのときさえ来れば、私の意見を聞きもしなかった人たちや私にとって不愉快なことに対しては、率直にきっぱり反対の意志を言えると思っているのです。でも今度は、私がおとなしくしていたのは、哲学者の言う受動的な態度をとっていたのは、別の理由からです。従順で素直な娘として(ウジェニーの赤い唇にかすかな笑いがただよった)、お言いつけに従おうと努めていたんです」
「それで?」ダングラールは訊ねた。
「それで、あたくしはせいいっぱいの努力をしました。はっきり申し上げねばならない時が来ました。自分を抑えようと一生懸命に努力はしてみましたが、お言いつけに従うことはあたくしにはどうしてもできないことがわかりました」
「しかしだ」凡庸な頭しか持たぬダングラールは、情容赦なくたたみかけられる論理の重みに打ちのめされたようであった。静かに述べるウジェニーの口調は、それが前もってよくよく考えた上でのものであること、そして一歩も引かぬ意志の力をひそめていることを物語っていた。
「ことわる理由は何だ、ウジェニー、理由は」
「理由は」娘が言い返した。「あの方がほかの方にくらべて、醜男《ぶおとこ》だとか、馬鹿だとか、感じが悪いとか、そんなことではありません。アンドレア・カヴァルカンティさんは、男の人を容貌風采だけで見る人から見れば、かなり立派な方として通りますわ。それに、私の心が、ほかの方よりあの方に惹かれないというのでもありません。そんなのは、私が私よりずっと価値がないと思っている寄宿生の理由ですわ。私はどんな男の方も愛せないんです、お父様もよくご存じでしょう。私は、そんな必要もないのに、どうして自分の一生を生涯の伴侶に縛られなきゃならないのかわかりません。賢者がどこかで言っていませんでしたかしら、『余計なものはなにもいらぬ』と。また別の所で、『いっさいを自分がになえ』と。この二つの格言をあたくしはラテン語とギリシア語で習いましたわ。前のはたしかファイドロス〔ローマの寓話作家〕で後のはビアス〔ギリシアの学者七賢人の一人〕だったと思います。それでね、お父様、私はこの人生の荒浪の中で、だって人生って私たちの希望が次々とのみこまれて行く永遠の難破みたいなものですもの、私は不要なお荷物はみな海の中に投げ棄ててしまうんです。ただそれだけの話なの。こうして私は自分の意志だけを友として、完全に一人で生きて行きたいんです、つまり完全に自由に」
「不幸な女だ、とんでもない奴だ」ダングラールはつぶやいた。彼は長い経験から、このようにいきなりぶつかった障害というものの手強《てごわ》さを知っていたからだ。
「不幸な女ですって! 不幸な女っておっしゃったの? とんでもないわ、ほんとうよ。お父様のお言葉はまるで芝居がかってるとしか思えないわ。反対よ、私は幸せだわ。お伺いしますけど、あたくしに不足なものなんてあるかしら。世間の人たちは私をきれいだと思ってくれているし。これは好意的に迎えてもらうためには役に立つのよ。私は歓迎されるのが好きですもの。歓迎の気持ちは顔を輝かせるわ。となると、私の周囲の人たちの顔は、ふだんよりは美しくなりますもの。私は頭のよさにも多少恵まれているし、比較的感受性も鋭いほうだわ。おかげで、ほかの人たちの生き方から、よいと思えるものを自分の生き方にとり入れることもできます。ちょうど、サルが青い木の実を割ってその中身をとり出して自分の栄養にするように。私にはお金もあるわ。お父様はフランスでも有数のお金持ちなんですもの。私はそのたった一人の相続人ですからね。それにお父様は、サンマルタン座やラ・ゲテ座の芝居に出て来る父親みたいに、孫を生みたがらないからといって娘の相続権を奪ってしまうほど、階級にはこだわらない方だし。第一、先見の明のある法律が、私から相続権を奪う権利をお父様から奪っておりますものね。少なくとも全部を奪うことはできませんわ。それに、かくかくしかじかの者との結婚も私に強制はできません。こんなふうに、美人で、頭がよくて、オペラコミック流に言えば才能に飾られていて、しかもお金持ち。これは幸せなことよ! どうして私を不幸な女だなんておっしゃるの」
笑い、かつ傲慢なまでに誇らしげな娘を見ていると、ダングラールは残酷な衝動を抑えきれず、怒声を発した。だがそれはたった一声であった。娘の問いかけるような眼差しを受け、いぶかしげにひそめたその美しい黒い眉を前にして、彼は用心深く顔をそむけ、すぐに気を静めた。慎重さという鉄の腕に抑えこまれたのである。
「たしかに」彼は微笑を浮かべて言った。「お前は、お前がそうであることを誇らしく思っている通りの娘だ、たった一つの点を除けば、な。どういう点かはあまり唐突にはお前に言いたくない。お前が自分で見抜いてくれるのを待ちたい」
ウジェニーは、己が頭上にあれほど壮厳に戴いた冠の装飾の一つにけちをつけられたことに驚いて、ダングラールをみつめた。
「いいかね」銀行家は続けた。「お前は今、お前のような娘が結婚すまいと決心する場合、どのような気持ちでそう決心するのかを余すところなく説明してくれた。今度は、わしのような父親が娘を嫁がせようとする場合には、どういう動機でそうするのかをわしが言う番だ」
ウジェニーはうなずいた。父の言葉に耳を傾けようとする従順な娘としてではなく、反論を加えようとして待ちかまえる論敵としての態度であった。
「いいかな」ダングラールは続けた。「父親が娘に婿《むこ》を迎えると言うときには、つねに娘の結婚を願うなんらかの理由があるものなのだ。ある者は、お前がさっき言ったように、執念にとりつかれている。つまり、孫の中に、自分が再生するのを見たいという執念だ。わしにはこの弱さはない。予め言っておくが、家庭的な喜びといったものにはわしはほとんど関心がない。お前が哲学者でこういう冷淡さを理解でき、これをわしの罪悪とはみなさぬことを知っておるから、お前には率直にこう言うことができる」
「すばらしいわ、率直にお話ししましょう、私はそういうのが好き」
「いやいや、承知の通り、一般的に言えば、わしはお前が率直さを好む気持ちには同調せぬが、情況がわしにそうせよと命じていると考えられる場合には、お前のその気持ちに同調する。だから話を続けるが、わしはお前に一人の婿をすすめた。お前のためなんかではない。正直なところわしは今お前のことなど少しも考えてはおらんからだ。お前は率直さが好きだと言う、率直に言ったつもりだがね。お前のためなんかではなくて、あの婿をできるだけ早くお前が迎えてくれることがわしにとっては必要だったからだ。今わしが確立しようと思っておる取引関係のためにだ」
ウジェニーは身体を動かした。
「お前にはこういうことを言ってもいいはずだ。私を憎むにはあたらない、お前が無理に言わせたんだからね。わかっておるだろうが、こんな金勘定のことなど言いたくはなかったのだ。不愉快で非芸術的な印象ないし感覚を与えられるんじゃないかと、銀行家の書斎に入ることを恐れるお前のような芸術家相手にはね。だが、その銀行家の書斎で、一昨日お前が、毎月わしがお前の気まぐれ代として与えている千フランをよこせと言って入って来たあの書斎で、人は多くのことを学ぶということを知らねばならぬ。結婚などしたくないという若い者にとっても有益なことをな。人はあそこでたとえば、お前の過敏な神経を尊重してわしはこのサロンで教えてやるがね、銀行家の信用というものは精神的な意味でも肉体的な意味でも銀行家の生命だということを学ぶのだ。信用が、呼吸が肉体を支えるように、銀行家を支えているということをな。いつぞやモンテ・クリストさんが、このことで、わしには忘れることのできない話をしておられた。あの書斎で、人は、信用がなくなって行くにつれて肉体が屍となって行くということを知るのだ。しかも、大そう立派な理論家を娘に持たせていただいた銀行家の身に、ごくごく近いうちに訪れることなのだ」
しかし、この打撃を受けても、ウジェニーは頭を垂れるかわりに、きっとばかりに面を上げた。
「破産ね!」彼女は言った。
「正確な表現だね、ウジェニー、見事な表現だ」ダングラールは胸を爪でかきむしりながら、それでいて、心は持ち合わせぬが頭の働きは持ち合わせぬわけではない男の微笑を、そのけわしい顔に残したまま言った。
「破産、まさにそうだ」
「まあ」ウジェニーは言った。
「そうだ、破産したのだ。これで、悲劇詩人の言う、恐ろしさにみちた秘密がわかったろう。そこでだ、ウジェニー、わしの口から、お前の力で、どのようにしてこの痛手を軽くできるか知るがいい。わしは自分のために言うのではない、お前のためだ」
「まあ、お父様のおかげでこうむる災難を私が悲しんでるなんてお思いだとしたら、お父様はずいぶん人の顔色を読むのが下手なんですわ。私は破産したって、てんで平気よ。私の才能は残りますからね。パスタ〔イタリアの歌姫〕やマリブラン〔パリに生まれたスペインの歌姫〕やグリジ〔イタリアの歌姫〕のように、お父様がどんなにお金持ちでも私に与えられないほどのもの、十万か十五万フランの年収を私一人の力で得るようになれるかもしれなくてよ。しかもそれは、お父様が下さるたったの一万二千フランみたいに、渋い顔と無駄使いへのお叱言と一緒に渡されるのではなくて、拍手とブラヴォーの声と花束とともに私の手に流れこんでくるんだわ。それに、そうやってお笑いになっているところを見ると、お父様が疑っておいでのそういう才能がないとしたって、私にはまだ激しい独立を求める心が残されているわ。これはあたくしにとっては、いつでもあらゆる財宝に匹敵するものなの。私の心の中では生存本能までも左右する力のあるものなのよ。
そうよ、自分のためになんか私は悲しまないわ。あたくしはいつだって自分で切りぬけてみせます。本、鉛筆、ピアノ、それに大して高くなくて自分で手に入れられるものは、みんな残るわよ。私がお母様のために心を痛めるとお思いでしょうね。でもそれも考え違いだから考え直してほしいわ。私がとんでもない思い違いをしているのでなければ、お母様は、お父様を脅やかしている破局に対してはちゃんと手をお打ちになってるわ。お母様は平気なのよ。お母様は安全なの、たぶんそういうことになっていると思ってます。お母様が財産のことをいろいろ考えてやっておられたのは、あたくしのためを思ってのことではないわ。ありがたいことに、お母様は私には完全な独立を与えていて下さいます、私が自由を愛するからというのを口実にしてね。ああ、お父様。私は小さい頃から、周囲のことをあまりにも多く見すぎてしまったわ。それらのことの意味がわかりすぎてしまったために、不幸な目にあっても、必要以上のショックは受けなくなってしまったの。物心ついて以来、私は誰からも愛してはもらえなかった。でも仕方がないわ、それで必然的に、私のほうも誰も愛せなくなりました。ありがたいことだわ。これで私の心の中は全部お見せしましたわ」
「では」ダングラールは忿怒《ふんぬ》に蒼ざめたが、その怒りは、父性愛を傷つけられたが故のものではなかった。「ではお前は、どうしてもわしを破産させようというんだな」
「破産させる、あたくしがお父様を破産させるんですって! それはどういう意味ですの、あたくしにはわかりませんわ」
「これはいい。いくらか望みはあるようだ。まあ聞きなさい」
「伺います」ウジェニーはじっと父親を見据えた。娘のその強い眼差しを前にして、目を伏せずにいるためには、父親には努力を要した。
「カヴァルカンティさんはな」ダングラールは続けた。「お前と結婚する。結婚すればお前に三百万の持参金をくれることになっていて、それをわしの銀行に預けるというのだ」
「結構なお話ですこと」ウジェニーは手袋をこすり合わせながら、この上ない軽蔑をこめて言った。
「お前は、わしがこの三百万の金をお前に損させてしまうと思うか。とんでもない、この三百万は少なくとも一千万を生み出すために使うのだ。わしは同業者のある銀行家から鉄道の営業権を譲渡するという約束をとりつけた。鉄道というのはな、今日では、その昔ロー〔イギリスの財産家。アメリカにおけるフランス植民地のためにミシシッピー会社を設立し(一七一七年)フランスの財政に大きな勢力を持った。〕が、まるでお伽話のようなミシシッピー会社を作って、永遠の投機狂であるパリの連中を大儲けさせてくれた、あの一獲千金の夢を実現させる唯一の企業なのだ。わしの計算によれば、昔オハイオ河の流域に一エーカーの土地を持っていたのは、鉄道のレールを百万分の一だけ持っているに等しい。しかもこれは担保つきの投資だ。これは進歩だよ。お前にもわかるだろう、金とひきかえに、少なくとも千、千五百いや二千ポンドの鉄を持つことになるのだから。ところで、わしは一週間以内に四百万入金せねばならぬ。この四百万が、いいかね、一千万か千二百万になるのだ」
「でも一昨日お父様のお部屋へ伺ったとき、思い出していただけるでしょうけど、月末だったでしょう、それでお父様が五百五十万のお金を金庫にお入れになるのを見ましたわ。お父様は、二枚の国庫債券になっているあのお金をあたくしに見せて、あんな莫大な価値のある紙片が、日の光みたいにお前の目をくらませないのは不思議だっておっしゃってたじゃないの」
「たしかにな、だがあの五百五十万はわしの金ではない。ただ単にわしに寄せてくれている他人の信用の証拠にすぎんのだ。庶民的銀行家というわしの肩書きのおかげで、養育院からわしは信用を得ておる。あの五百五十万は養育院の金だ。これがふだんの時なら、わしは躊躇なくあの金を使う。だが今は、わしが大損をしたことを世間は知っておるのでな。さっき言ったように、わしの信用もなくなりかけておる。今すぐにも当局はあの預金をわしに要求するかもしれぬ。わしがあれをほかに使ってしまっていれば、わしは面目まるつぶれの支払停止に追いこまれる。言っておくがね、わしは支払停止をさげすみはせぬ。だがそれも儲かる支払停止の場合で、破産につながるものは別だ。お前がカヴァルカンティさんと結婚し、わしがあの人の持参金を手にするか、いや近く手にすると世間が思えば、わしの信用はまた高まり、一、二か月前から、どうにも不可解な不運に見舞われてわしの足もとに掘られた深淵に逆落としになってしまったわしの財産も立ち直るというわけだ。わしの言うことがわかったかね」
「よくよくわかったわ。私を三百万の担保にしようというわけでしょう?」
「金額が多ければ多いほど、自尊心もそれだけ満足させられるわけだ。金の高はお前の価値をお前に教えるからな」
「ありがとうございます。最後に一つだけお聞きしたいんですけど、カヴァルカンティさんがお持ち下さるはずのその持参金の金額の数字はいくらでもご利用なさって下さい、でもお金そのものには手をつけないと約束して下さる? これはエゴで言っているのではないの、心遣いの問題なんです。私はお父様の財産のたて直しには喜んでお力になりたいと思います。でも、他人を破産させるようなまねのお父様の共犯者にはなりたくありません」
「言っておるではないか、その三百万があれば……」ダングラールが怒鳴った。
「その三百万には手をつけなくても、なんとかきりぬけられるとお思いなの」
「できると思う。だが、それにしてもお前の結婚はわしの信用を強固なものとするのだ」
「私の結婚契約のために私に下さる五十万フランを、カヴァルカンティさんにお払いになれる?」
「市役所の帰りにあの人にお渡しする」
「いいわ」
「なにがいいのだ。どういう意味だ」
「私の署名をお求めになって、それで私の身は完全に自由にして下さるんでしょうね、と言っているんです」
「完全に」
「それなら、今申し上げた通り、いいわ、です。いつでもカヴァルカンティさんと結婚します」
「お前いったい何を考えておるのだ」
「あら、それは秘密よ、お父様の秘密を知ったのに、私のを教えてしまったら、お父様より優位には立てなくなるじゃないの」
ダングラールは唇を噛んだ。
「では、どうしても欠かすことのできぬ公式訪問はする気になっているんだな」
「ええ」ウジェニーは答えた。
「三日後の契約書の署名もな?」
「ええ」
「それなら今度はわしが言う番だ、結構だ、とな」
こう言ってダングラールは娘の手をとり、両手の中に握りしめた。
しかし不思議なことにこうして手を握っている間にも、父親は『ありがとうよ、ウジェニー』とは言う気になれなかったし、娘のほうも父親に笑顔は見せなかった。
「お話はもう済みましたのね」立ち上がりながらウジェニーが訊ねた。
ダングラールは、もうなにも言うべきことはないと、うなずいて見せた。
五分後には、ダルミイー嬢の弾くピアノと、デズデモナに対するブラバンチオの呪いの言葉を歌うダングラール嬢の声が聞こえて来た。
この歌が終ったとき、エチエンヌが入って来て、ウジェニーに、馬が馬車につながれ、男爵夫人が、訪問をするためウジェニーを待っている旨を告げた。
この二人の女性がヴィルフォール邸を訪ね、さらに別の訪問を続けるため同邸を出たことは、すでにわれわれの見た通りである。
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九十六 結婚契約
今お話しした場面から三日後、つまりウジェニー嬢と、ダングラールがあくまでも公爵だと言い張るアンドレア・カヴァルカンティ氏との結婚契約の日と定められた日の午後五時頃、さわやかな微風がモンテ・クリスト伯爵の邸の前の小さな庭の木々の葉をそよがせていた。伯爵は外出しようとしていて、すでに十五分も前から御者台に位置を占めていた御者が、足を踏みならしながら伯爵を待つ馬たちを抑えていた。そのとき、われわれがすでになん回か見たことのある、とくにオートゥイユの夜会の際に見かけたあの瀟洒《しょうしゃ》な馬車が軽快に門の角をめぐり、正面階段の石段の上に、アンドレア・カヴァルカンティ氏を降ろすというよりは、放り出した。まるで彼のほうでもどこかの姫君を妻に迎えるかのように、輝くばかりに金ぴかの服を着ていた。
彼はいつもの馴れ馴れしい態度で伯爵はお元気かと訊ね、軽やかな足どりで二階に登り、階段の上で伯爵に出会った。
青年の姿を見て伯爵は足を止めた。アンドレア・カヴァルカンティのほうは、駈け寄っていた。一たん走り始めればなに物も彼の足を止めることはできないのである。
「今日は、モンテ・クリストさん」彼は伯爵に言った。
「おお、アンドレアさん」半ばからかうような調子で伯爵が言った。「お元気ですか」
「ご覧の通りすごく元気です。いろいろお話があって来たんですが、お出かけになるところですか、それともお帰りになったところなんですか」
「出かけるところです」
「それじゃ、お暇をとらせたくありませんから、よろしければ、あなたの馬車に僕が乗りましょう。トムに、僕の馬車をあなたの馬車の後からついて来させますから」
「いや」この青年と一緒にいるところを人に見せる気などさらにない伯爵は、かすかに軽蔑の色を見せながら言った。「ここでお話を伺いたいと思いますな、アンドレアさん。部屋の中でのほうがゆっくり話ができるし、それに、あなたの言葉を盗み聞きする御者もいませんからね」
伯爵は二階にある小さなサロンに入り、腰をおろし、足を組みながらアンドレアにも坐るようにという身ぶりをした。
アンドレアはできる限り快活にふるまった。
「ご承知と思いますが、伯爵、今夜婚約が行なわれます。九時に義父《ちち》の家で契約書に署名するんです」
「ほう、そうですか」
「えっ、はじめてお聞きになるんですか。ダングラールさんからこのことの通知がなかったんですか」
「ありましたよ。昨日あの人から手紙をいただきました。でもたしか時間は書いてなかったな」
「そうかもしれません。義父はどうせ周知のことだからと思ったんでしょう」
「それじゃ、カヴァルカンティさん、うれしいでしょうね。この縁組はあなたにはほんとうにふさわしいものですからね。それにダングラール嬢は美人だし」
「ええそうです」カヴァルカンティはつつましやかな口調で答えた。
「彼女は大へんな金持ちだし。少なくとも私が思っている限りではね」
「大へんな金持ちだとお思いですか」青年は繰り返した。
「たしかにね。なんでもダングラール氏は財産の半分はかくしているという話ですからね」
「口では千五百万とか二千万とか言ってます」アンドレアは歓喜に目を輝かせながら言った。
「アメリカやイギリスではもうやや古くさいものになったが、フランスではまだ手のつけられていない事業にとりかかるのを別にしてもですよ」
「そうなんです、お話のことは僕も知っています。あの人が落札した鉄道のことでしょう」
「その通り。あの人はこの件で、これは大方の見方ですが、少なくとも一千万は儲けるでしょう」
「一千万! ほんとうですか。それはすごい」アンドレアは伯爵の言葉に金貨の音を聞いて酔っていた。
モンテ・クリストはさらに続けた。
「その財産がやがてはみなあなたのものになることはしばらくおくとしてもです。当然ですよ、ダングラール嬢は一人娘ですからね。それに、少なくともあなたのお父さんからお聞きしたところでは、あなた自身の財産はあなたのフィアンセの財産にひけをとらぬというじゃありませんか。が、まあお金の話はこのへんにしておきましょう。アンドレアさん、この件ではあなたは、いささか巧妙かつうまく立ちまわりましたね」
「まあまあというところですね」青年は言った。「僕は生まれついての外交家ですから」
「では、外交官になれますね。外交というものは、ご承知でしょうが、学んで覚えられるものではない。これは本能的なものですから……で、あの人の心は掴んだんですね」
「正直言って、僕は不安なんです」アンドレアはテアトル・フランセで見たドラントかヴァレールがアルセストに答えるような口調で言った。
「少しは君を愛しているんですか」
「そりゃそうです」勝利者のような微笑を浮かべてアンドレアは言った。「なにしろ僕と結婚するんですから。でも、大切な点を一つ忘れてはなりません」
「どんな」
「それは、この件では僕が不思議な助力を得ているということです」
「まさか!」
「ほんとうです」
「周囲の状況に助けられているというのですか」
「いいえ、あなたからです」
「私から? 冗談じゃありませんよ、公爵」モンテ・クリストはこの称号にわざと力を入れて言った。「あなたのためにこの私に何ができましょう。あなたの名前、社会的地位、あなた自身の価値、それだけでは十分ではないとおっしゃるんですか」
「そうです。あなたがいくらおっしゃっても、あなたのような方の立場が、僕の名前、社会的地位、僕の価値なんかよりはずっと大きな力があったと、僕は申しますよ」
「あなたはとんでもない思い違いをしておいでだ」青年の腹黒いたくらみを感じとり、青年の言葉の裏に含まれる意味を読み取ったモンテ・クリストは言った。「私があなたの世話をしたのは、お父さんのお力と財産とを私が知って以後のことでしかありません。いったい誰が、あなたには一度も会ったことのなかったこの私に、あなたにも、あなたをこの世に生み出した高貴な方たちにもお会いしたことのない私に、あなたを引き合わせてくれたのですか。ウィルモア卿とブゾニ神父、このよき二人の友ではありませんか。あなたの保証人ではないが、あなたのお世話をする気にならせたのは何でしょう。それは、イタリアであれほど知られ尊敬されているあなたのお父さんのお名前ですよ。個人的には、私はあなたのことはなにも知りません」
この言葉の落ち着き、澱みのなさは、アンドレアに、さしあたり自分は、自分より強力な腕でがんじがらめにされていることを理解させた。この腕はそう簡単にふりほどけるものではなかった。
「ですけどねえ、伯爵。父はほんとうにそんな莫大た財産を持っているんでしょうか」
「どうやら、そうらしいですね」モンテ・クリストは答えた。
「父が約束してくれた持参金、あれはもう着いているかどうかご存じですか」
「通知状は受け取りました」
「でもその三百万のほうは」
「その三百万は送金中のようです」
「では、ほんとうに受け取れるんですね」
「何を言うんです! 今までのところ、お金があなたに渡らなかったことはないように思いますがね」
アンドレアはひどく驚き、しばし夢想にふけるのを禁じ得なかった。
「それでは」と彼は夢想からさめて言った。「一つだけ、なおお願いしたいことがあるんですが。たとえあまりお気が進まなくても、わかってはいただけると思うんですが」
「話してごらんなさい」モンテ・クリストは言った。
「僕は、僕の財産のおかげでたくさんの上流の人たちと知り合いになりました。少なくともさしあたり、多数の友人もいます。しかし、今度のような結婚をするとなると、パリ社交界の人々の前に、僕が高名な名前で庇護されているのを見せる必要があります。父の手をかりられぬ以上、祭壇に進む際、手をひいてもらう、強力な手が僕には必要なんです。ところで、父はパリヘは来てくれないのでしょう?」
「お年をめしておられるし、全身傷だらけのお身体です。旅行のたびごとに死ぬほど辛い思いをなさるとおっしゃってますよ」
「わかりました。僕はあなたにお願いがあって来たんです」
「私に?」
「ええ、あなたに」
「ほう、どんなことでしょう」
「つまり、父の代わりになっていただきたいんです」
「何をおっしゃるんですか。あなたとお知り合いになれてからなん回もお会いしているのに、そんなことをおっしゃるとは、私という男がまだおわかりにならないんですか。私に五十万貸せとおっしゃられるほうが、いやこんな金は、正直な話、めったに貸せるものではありませんが、そうおっしゃって下さるほうが、私の困惑はまだ少ないでしょう。たしか前にも申し上げたと思うんですが、この世のことに、とくに精神的にかかわりあうことには、モンテ・クリスト伯爵という男は、つねに慎重さ、さらに言えば東洋人の迷信的な小心さを持ちこむのです。
カイロに、スミルナに、コンスタンチノープルに後宮を持つ私が結婚式での重要な役割を演ずる、とんでもない」
「ではお断わりになるのですか」
「はっきりお断わりします。あなたが私の息子であっても、弟であっても、同様にお断わりします」
「ああ!」アンドレアはがっかりして叫んだ。「それじゃどうしたらいいんでしょう」
「百人もの友だちがいると、あなたご自身おっしゃったじゃありませんか」
「その通りです。でも、ダングラールさんのお宅へ紹介して下さったのはあなたですから」
「違いますよ。事実をありのままに思い出すとしましょう。あなたをあの人と一緒にオートゥイユヘ夕食に招いたのは私です。が、あなたですよ、あの人に自己紹介なさったのは。これはまるで違うことだ」
「ええ、でも僕の結婚には、あなたは手を貸して下さった……」
「私が! 信じていただきたいが、これっぽっちも手など貸していませんよ。あなたが結婚の申し込みをしてくれと私に頼みに来たとき、私がお答えしたことを思い出していただきたい。おお、縁組の中での役割など、私は絶対にしません。これは私の確乎たる原則です」
アンドレアは唇を噛んだ。
「でも、来ては下さいますね」
「パリのお歴々は来るんですか」
「もちろんです」
「それじゃ私も皆さんと同じように参上しましょう」
「契約書に署名もして下さいますね」
「ああ、そんなことはべつに差し支えないと思います。私の用心深さもそこまでは行きませんから」
「それでは、それ以上のことはして下さるお気持ちがないんですから、して下さることだけで満足するより仕方がありません。でも、最後にもう一言だけ」
「どんなことです?」
「ご意見を伺いたんです」
「ご注意下さい、意見を述べるということは、なにかしてあげるということよりも危険なことなんですぞ」
「でもこれは、べつにあなたになんの危険も及ぼさないと思います」
「言ってごらんなさい」
「妻のほうからの持参金は五十万フランです」
「その額はダングラールさんが私にも言っていた額です」
「それを受け取るべきでしょうか、それとも公証人にそのまま預けておくべきでしょうか」
「事が上品に運ぶよう望むなら、ふつうはこんな具合になりますね。二人の公証人は契約の場で、翌日か翌々日に互いに会う約束をします。翌日か翌々日かに互いの持参金を交換し互いに受領証を交わします。それから実際に式が行なわれると、夫婦財産の所有者としてあなたの自由にそのなん百万かの金がゆだねられるのです」
「というのは」アンドレアがある種の不安を包みきれずに言った。「義父《ちち》が僕たちの資金を、先程お話しの例の鉄道に投資すると話しているのを聞いたように思うものですから」
「しかしそれは、万人が保証するところによると、あなたの財産を年内にも三倍にする道ですよ。ダングラール男爵はよいお父さんだし、金勘定も上手です」
「それじゃ、みなうまく行きます。ただ、あなたに断われたのだけが胸を刺しますが」
「こんな場合には当然な用心深さとのみお考え下さい。ではまた今夜九時に」
「では今夜また」
モンテ・クリストの心にやや抵抗があり、それでも儀礼的な笑みはたたえていたその唇は蒼ざめていたが、アンドレアはかまわずに伯爵の手をとり、それを握りしめてから馬車に飛び乗り姿を消した。
それから九時までの四、五時間を、アンドレアは、あちこち走り廻って彼が口にしていた友人たちを訪ねて過ごした。今ダングラールの掌中に握られている先行き明るい事業の話で彼らの目をくらませ、できる限りぜいたくな身なりで銀行家の邸に来る気にさせた。それ以後、事業の話は聞いた者皆の頭をおかしくしてしまったのである。
事実、夜の八時半になると、ダングラールの家の大サロン、それに隣接する廊下、同じ階にある別の三つのサロンには、心の交流などを求めるのではないが、なにか目新しいものがありそうな場所には行ってみたいという、あの抗いがたい欲求からやって来た、香水の香りをぷんぷんさせた人の群れがあふれていた。
アカデミー会員であれば、社交界の夜会などというものは、浮気な蝶、飢えた蜜蜂、ぶんぶんうるさい雀蜂を引きつける花のコレクションとでも評したであろう。
各サロンともろうそくがあかあかと灯されていたことは言うまでもない。絹の壁布の金色の玉縁飾に光がふんだんに降りそそいでいた。金がかかっているだけの、この悪趣味なインテリアが、ろうそくの光に輝いていた。
ウジェニーはじつに上品なシンプルな身なりをしていた。同じ白の刺繍のある白い絹のドレス。漆黒の髪にさした、髪に半ばかくれた白いバラ。これが装いを飾るすべてであった。ごく小さな宝石一つつけてはいなかった。ただ、この楚々たる装いの持つ、彼女の目から見れば俗っぽい処女性の象徴としての意味を、断乎として拒否する信念がその目の色にはうかがえた。
ダングラール夫人はウジェニーから三十歩ほどの所で、ドブレ、ボーシャン、シャトー=ルノーと話をしていた。この厳粛な盛儀に列するためドブレもこの邸にまた入ることができたが、それは他のすべての人びとなみに迎えられただけの話で、なんらの特権も与えられてはいなかった。
ダングラールは代議士や財界人にかこまれて、政府が事情やむなく自分に入閣を求めた場合に実施するであろう新たな租税理論を開陳していた。
アンドレアは、オペラ座のもっともスマートなダンディをつかまえて、なんら気おくれしていないように見せるには、奔放にふるまう必要を感じていたので、かなり横柄な口ぶりで、将来の生活設計について語っていた。彼の十七万五千フランの年収でパリのファッション界に進歩をもたらしてみせるなどと語っていたのである。
人々は、寄せては返すトルコ玉、エメラルド、オパール、ダイヤの波のようにサロンの中をゆれ動いていた。
いつの場合でもそうだが、いちばんごてごてと飾りたてているのはもっとも年をとった女どもであり、いちばんうるさくしゃしゃり出るのは、もっとも醜い女どもであった。
もしどこかに美しい白ユリ、ういういしく芳香を放つバラの花が咲いているとしても、それは探し求めねばみつからなかった。ターバンを巻いた母親か、極楽鳥を飾りたてた伯母のかげにかくれているからだ。
人の群れが笑いさざめく中で取次役がつぎつぎと、財界の名士とか、軍の高官とか、有名な文人とかの名を告げた。するとそのたびごとに、それぞれのグループがわずかにざわめいてこれらの来客を迎えるのだった。
しかし、この人の波の大海を真にざわめかす特権を有する一人の客のために、どれほど多くの者が、無関心と軽蔑を含んだ冷笑をもって迎えられたことであろう。
眠れるエンデュミオンを形どった大きな振子時計の針が、金色の文字盤の上に九時を指し、機械の意志の忠実な再現者たる鐘が九度その音を響かせたとき、モンテ・クリスト伯爵の名が声高に告げられた。電気の火花にうたれたように、居合わせた者すべてが一せいにドアのほうを振り向いた。
伯爵は黒い服を着て、例によって簡素な服装であった。白いチョッキが広く気品のある胸を包んでいる。黒い襟が独特なすっきりした感じを与えている。蒼白な男らしい顔色によく映えるのだ。身を飾るものといえば、チョッキの白のピケをかすかに横切る細い金の鎖だけであった。
ドアの所にはたちまち人の輪ができた。
伯爵は一目で、サロンの片隅にいるダングラール夫人の姿を認め、別の端にダングラールを、そしてその前にウジェニーがいるのを認めた。
伯爵はまず、ヴィルフォール夫人と話をしている男爵夫人に歩み寄った。ヴィルフォール夫人は、相変わらずヴァランチーヌの具合がよくないので、一人で来ていたのである。それから、彼の前には人が道を開けたので、男爵夫人の所からまっすぐにウジェニーの所へ行き、祝いの言葉を述べたが、ごくごく手短かな控え目なもので、これは誇り高い芸術家である娘には意外であった。
彼女のそばにはルイーズ・ダルミイーがいて、ルイーズは、イタリア宛に伯爵が丁重に書いてくれた推薦状のお礼を言った。彼女が言うには、それを折あるごとに利用させていただくつもりでいるとのことであった。
これらのご婦人方から離れると、伯爵は向きを変えた。彼に手をさし出すべく近寄って来たダングラールがそばにいた。
この社交的な三つの義務を済ませたモンテ・クリストは立ち止まって、ある種の階級の者に特有な、とくにある種の力を具えた者に特有な、あの確信に満ちた眼差しをあたりにさまよわせた。
『私は自分のなすべきことをした。今度は他人が私に対してなすべきことをなすべきである』
と言いたげなあの眼差しである。
隣りのサロンにいたアンドレアは、モンテ・クリストが人びとに与えた言わば一種の戦慄を感じた。彼は伯爵に挨拶しに駈けつけた。
伯爵は完全に人にかこまれていた。あまり口をきかず、価値のない言葉は決して口にせぬ人の場合つねにそうであるように、人びとは争って伯爵に言葉をかけてもらおうとしていた。
このとき公証人たちが入って来て、署名のために用意された金泥をほどこした木の机にかけられた、金糸で刺繍したビロードのテーブルクロスの上に、手書きの文字を書きこんだ書類をのせた。
公証人のうち一人が腰をおろし、もう一人は立っていた。
この儀式に立ち合うパリのお歴々のうち半数を数える人たちが署名するはずの契約書の朗読が始まろうとしていた。
各人めいめいに位置を占めた。と言うよりは、ご婦人方は輪を作り、男たちは、ボワローのいわゆる『力強い文体』のおかれるべき位置にはご婦人方ほど気にとめないので、アンドレアのそわそわした様子、ダングラールの緊張ぶり、ウジェニーの平然たる態度、男爵夫人のこの重大な儀式を浮き浮きと陽気なものに受けとっている様子などをあれこれ批評していた。
結婚契約書が朗読される間はしんと静まり返っていたが、朗読がすむと、サロンはふたたびざわめき、前よりも一そう騒がしくなった。すばらしい金額、若い二人の将来に約束されているなん百万という金と、それに加えて、その目的のために特別にしつらえた部屋に飾られていた花嫁衣装とダイヤの数々が、集まった人々の目をくらませ、羨望の念を抱かせたのである。
ダングラール嬢の魅力は若い男たちの目にはそのためにいやまし、しばし、陽の光をも影うすいものとした。
女たちが、その数百万の金を羨みながらも、美しくあるためには金などいらぬと思っていたことは言うまでもない。
アンドレアは友人たちにかこまれ、祝辞やらお世辞やらを言われて、夢見て来たことが現実のものとなったのだと思い始め、頭がぼうっとしかけていた。
公証人がおごそかにペンをとり上げ、それを頭上にかざして言った。
「皆さん、只今から契約書に署名を行ないます」
男爵が最初に署名することになっていた。それからカヴァルカンティの父親の父権代行者、男爵夫人、それから正式文書で用いられているおぞましい文体で言うところの、未来の配偶者の順である。
男爵がペンをとり署名した。父権代行者も。
男爵夫人がヴィルフォール夫人の腕をとって近づいて来た。
「ねえ、あなた」男爵夫人がダングラールに言った。「残念にお思いになりませんこと? いつかモンテ・クリスト伯爵様があやうく殺されかけたあの殺人窃盗事件のことで、なにか思いがけないことが起きて、ヴィルフォールさんはおいでになれないんですって」
「そいつは残念だ!」ダングラールは、まるで『そんなことはどうだっていいや』と言うのと同じ調子で言った。
「それは困りましたな」モンテ・クリストが近寄って来て言った。「ヴィルフォールさんがおいでにならないのは、私のせいじゃないかと心配なんですがね」
「まあ! 伯爵様が?」ダングラール夫人が署名しながら言った。「もしそうだとしたら、よろしくて、あたくし、絶対にお許ししませんことよ」
アンドレアは耳をそばだてた。
「しかし私が悪いのではないように思います」伯爵は言った。「ですからそれを証明したいと思うのですが」
人はむさばるように耳を傾けた。めったに口を開いたことのないモンテ・クリストが話をしようとしているのである。
「覚えておられるでしょうが」伯爵は静まり返った中で続けた。「私の家に泥棒に入った男が死んだのは、私の家ででした。私の家から出たところを、どうやら仲間の者に殺されたらしいのです」
「ええ覚えてますよ」ダングラールが言った。
「それで、その男を介抱するために服を脱がせたのですが、その服を隅へ放っておいたのを当局が持って行きました。当局は上着とズボンだけ持って行って証拠品保存所へ収め、チョッキを忘れて行きました」
アンドレアは見る目にも蒼ざめて、そっとドアのほうへにじり寄った。彼は水平線に雲がかかるのを見た。その雲は嵐をはらんでいるように彼には思えた。
「ところでその厄介なチョッキが今日みつかったのです。血まみれで心臓の所に穴のあいたのが」
ご婦人方は悲鳴を上げた。二人か三人気絶しかけた者もいた。
「チョッキを私の所へ持って来たのですが、誰もこのボロが誰がどうしたものかわかりませんでした。私だけが、これはたぶん殺された男のものではないかと考えたわけです。そこで、召使いが気持ちの悪いのをこらえて注意深くこの死人の着ていたものを、急いでさぐってみると、ポケットの中で紙片に触れ、それをとり出しました。手紙でした。誰宛だったとお思いですか。男爵、あなた宛だったんです」
「私宛?」ダングラールは叫んだ。
「ええ、そうなんです。紙についていた血痕を通して、やっとあなたの名前を私は読みとったのです」モンテ・クリストは、皆の驚き騒ぐ声の中で答えた。
「でも」と夫を不安そうに見やりながらダングラール夫人が言った。「それがどうして、ヴィルフォールさんをおいでになれなくしてしまったのでしょう」
「それは簡単なことですよ、奥さん」モンテ・クリストが答えた。「そのチョッキと手紙は、いわゆる証拠品です。私は、手紙もチョッキもみな検事さんの所へ届けました。男爵、おわかりいただけると思いますが、犯罪に関係ある品は、法律にゆだねるのが一番たしかな道ですからね。これはきっとあなたに対するなにかの悪企みです」
アンドレアはじっとモンテ・クリストを見据えていたが、隣のサロンに姿を消した。
「かもしれませんな」ダングラールは言った。「その殺された男はたしか前科者でしたな」
「そうです。カドルッスという前科者です」
ダングラールの顔がかすかに蒼ざめた。アンドレアは隣のサロンから控えの間に出た。
「が、とにかく署名をなさって下さい」モンテ・クリストが言った。「私のおしゃべりが皆さんをお騒がせしてしまったようですな。奥さん、お嬢さん、お二方に心からお詫びいたします」
署名をしおえたところであった男爵夫人はペンを公証人に返した。
「カヴァルカンティ公爵様」公証人が言った。「カヴァルカンティ公爵様、どこにおいでですか」
「アンドレア、アンドレア」すでに苗字ではなく名前で呼び合うほどにこのイタリアの貴族と親しくなっていた青年たちが口ぐちに呼んだ。
「お呼びして来い。署名をなさる番だとお伝えするんだ」ダングラールが取次役に向かって怒鳴った。
が、その瞬間、居合わせた人の波が、入りこんで来た「餌食ヲ求メル」恐ろしい怪物に追いたてられるかのように大サロンになだれこんで来た。
たしかに、後ずさりし、怯え、叫びわめくだけのことはあった。
憲兵士官が、各サロンの入口に二名ずつの憲兵を立て、肩帯をつけた警察署長を先立ててダングラールのほうに歩み寄って来たのである。
ダングラール夫人は悲鳴を上げて気絶してしまった。
ダングラールは自分が危ないと感じ(良心が平静ではあり得ない人間がいるものなのである)、恐怖にゆがんだ顔を一堂の者に見せていた。
「いったいどうしたというのですか」署長の前に進み出てモンテ・クリストが訊ねた。
署長はそれには答えず、
「皆さんの中で、アンドレア・カヴァルカンティというのはどなたです」と質問した。
人々は探し、訊ねてみた。
「しかし、そのアンドレア・カヴァルカンティというのはどういう人なのです?」ダングラールがうろたえんばかりにして訊ねた。
「ツーロンの監獄を脱走した前科者です」
「どんな罪を犯したのですか」
「奴の囚人仲間であったカドルッスという男を、モンテ・クリスト伯爵の家から出たところを殺害したかどで告発されているのです」署長が平然として言いはなった。
モンテ・クリストはあたりをす早く見廻した。
アンドレアの姿は消えていた。
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九十七 ベルギー街道
思いもよらぬ憲兵隊の出現とそれに続く真相の暴露が、ダングラール邸のサロンを混乱におとし入れた数分の後には、広い邸内が、まるで招待客の中にペストかコレラにかかった者がいると告げられでもしたかのように、急に空っぽになってしまった。ドアというドア、階段という階段、出口という出口から、人々は先を争って帰って行った、というよりは逃げ出して行った。これはまさしくおざなりな慰めの言葉などかけてはならぬ場合だったのである。ひどい破局を迎えた場合にはどんなに親しい友の言葉であっても、そんなものはただうるさいだけのものだからだ。
銀行家の邸には、書斎に閉じこもって憲兵隊の指揮官に供述をのべているダングラールと、すでにわれわれが知っているあの私室にいる怯えきったダングラール夫人、それに高慢な目をし、唇に軽蔑の色をたたえたまま、離れられない友のルイーズ・ダルミイーとともに自室にひきとったウジェニーを残すだけであった。
多くの使用人たちは、この日の祝宴のため、カフェ・ド・パリの菓子職人、コック、配膳係などを呼んであったので、ふだんより数が多かったが、これは自分たちへの侮辱だと言って、その怒りを主人たちにぶつけ、もとより中断されてしまった客の接待などまるで念頭になく、配膳室や調理場や彼らの部屋に、それぞれなん人かずつかたまっていた。
それぞれ異った利害を持って怯えているこうした連中の中で、ただ二人だけがわれわれの関心をひくのである。ウジェニー・ダングラールとルイーズ・ダルミイーである。
婚約者であるウジェニーは、すでに述べたように高慢な態度で唇に軽蔑の色を浮かべ、誇りを傷つけられた女王のような足どりで、彼女以上に蒼ざめおろおろしている友を従えて自室に戻ったのであった。
「ああ、なんて恐ろしいんでしょう」若い音楽家が言った。「こんなことを誰が予測できたかしら。アンドレア・ヴァルカンティさんが……人殺しだなんて……脱獄囚……前科者だなんて!」
皮肉な笑いがウジェニーの唇をひきつらせた。
「まったく私は運命に呪われてるのね。モルセールみたいな男から逃げられたと思ったら、カヴァルカンティみたいな奴の手に落ちてしまうんですもの」
「あら、あの二人をごっちゃにしてしまってはいけないわ、ウジェニー」
「何言ってるの、男なんてみんなけがらわしい存在よ。男たちを嫌う以上のことができて私はうれしいわ、軽蔑できるんですもの」
「私たちはどうするの?」ルイーズが訊ねた。
「私たち?」
「そう」
「三日後にやるはずだったことをやるのよ……この家を出るんだわ」
「じゃあ、結婚しなくなった今でも、やっぱりそうしたいの?」
「いいこと、ルイーズ。私はね、まるで楽譜みたいに、整然と、規則正しく、なにもかもきめられてしまっているこういう生活が、ぞっとするほど厭なのよ。私がいつも願い、望み、求めていたのは、芸術家としての生活よ。自由な独立した生活、自分にしか依存せず、自分だけしかあてにしない生活だわ。ここにいてどうするの? 一月《ひとつき》もたてばまた私を嫁にやろうとするわ。相手は? たぶんドブレさんね。前にちょっとそんな話があったわ。いいえ、ルイーズ、そんなのはいや。今夜の出来事はいい口実になるわよ。私が探したわけでもなく求めたわけでもない。神様が授けて下さったのよ。よくぞ授けて下さったわ」
「あなたって、ほんとうに強くて勇気があるのね」ブロンドでか細い娘が、褐色の髪の友に言った。
「あなた、まだ私のことを知らなかったの? さあ、ルイーズ、私たちのやることを話しましょうよ。駅馬車は……」
「幸い、三日前から買い切ってあるわよ」
「私たちが乗ることになっている場所に廻させておいた?」
「ええ」
「パスポートは?」
「これよ」
ウジェニーはいつもの落ち着きはらった手つきでその紙片をひろげた。
「レオン・ダルミイー。二十歳。職業、芸術家。髪の色黒。妹同伴」
「すてきだわ。誰からこのパスポート手に入れたの」
「モンテ・クリストさんにローマとナポリの劇場主への紹介状をお願いしに行ったとき、女のまま旅をするのは不安だって言ったの。とてもよくわかって下さって、男名前のパスポートを私のために手に入れて下さることを引き受けて下さったのよ。二日後にこれを下さったから、私が自分で『妹同伴』て書き添えたの」
「それじゃ、あとはもうトランクをつめるだけじゃないの」ウジェニーが楽しそうに言った。「結婚式の晩ではなくて、契約書署名の晩に発つというだけの話よ」
「でもよく考えてよ、ウジェニー」
「ああ、もうなにもかも考えたあげくのことだわ。やれ繰越だ、月末だ、株が上がった、下がった、やれスペイン債だ、タヒチ債だ、なんてことしか聞けないのにはもううんざりよ。そんなものの代わりに、ルイーズ、わかる? 大気、自由、鳥の歌声、ロンバルジアの平野、ヴェネチアの運河、ローマの宮殿、ナポリの海辺が手に入るの。ところで私たち、いくら持ってる?」
訊かれた娘は、象嵌をほどこした机から、鍵のついた財布をとり出し、それを開けて、中の二十三枚の札を数えた。
「二万三千フランあるわ」
「それに、少なくともそのぐらいの真珠とダイヤと宝石があるわ」ウジェニーは言った。「私たちはお金持ちよ。四万五千フランあれば、お姫様のように暮らしたって二年、おかしくない程度の暮らし方なら四年は暮らせるわよ。
でも半年後には、あなたはピアノで、私は私の声で、このお金を倍にしているわ。じゃ、あなたはお金を持ってちょうだい。私は宝石箱を持つから。そうしておけば、万一片方が失くしたって、もう一人が持っているってわけ。さあ、トランク、早く、トランクを」
「待って」ルイーズは、ダングラール夫人の部屋に通ずるドアの所へ行って耳をすました。
「何を心配してるの」
「誰かが不意に入って来やしないかと思って」
「ドアには鍵がかけてあるわよ」
「ドアを開けろって言われないかしら」
「言いたきゃ言えばいいわ、開けてやらないもの」
「あなたってほんとうにアマゾン〔神話に出て来る勇敢な女族〕の女ね」
二人の娘は、てきぱきと、旅行に必要と思われるものをすべて一つのトランクにつめた。
「それじゃ、服を着替えて来るから、その間にトランクを閉めといて」ウジェニーが言った。
ルイーズはその白く小さな手で、力いっぱいトランクの蓋を押しつけた。
「とても駄目よ。私の力じゃ足りないわ、あなた閉めてよ」
「ああ、そうだったわね」ウジェニーは笑いながら言った。「私がヘラクレス〔怪力の持ち主〕であなたが蒼白きオンパレ〔リディアの女王。ヘラクレスはその奴隷であった〕であることを忘れてたわ」
ウジェニーは、トランクの上に片膝をのせ、トランクの蓋が合わさり、二つの掛金に南金錠をかけてしまうまで、その白くたくましい腕に力を入れたままでいた。
この作業が済むと、ウジェニーは箪笥《たんす》を開けた。その鍵は彼女が身につけていたのだ。そして、綿の入った紫色の絹の旅行マントをとり出した。
「どう、用意周倒でしょう。このマントがあれば、あなたも寒い思いはしないわ」
「でも、あなたは?」
「あら、私は寒がったりなんかしないわよ。よく知ってるじゃないの。それに、この男の服を着てれば……」
「ここで着替えてしまうつもり?」
「もちろんよ」
「でも、そんな暇があるかしら」
「臆病ね、全然心配いらないわよ。家の人たちはみんなそれどころじゃないわ。それに、私は当然絶望のどん底にたたきこまれているはずなんだし、それを思えば、私が部屋に閉じこもっていたって、別に不思議はないじゃないの、そうでしょ?」
「それもそうね。それを聞いて安心したわ」
「ちょっと手伝ってよ」
こう言うと、ウジェニーはダルミイーに与えダルミイーがすでに肩にひっかけているマントをとり出したあの引出しから、男ものの服を一式とり出した。半長靴からフロックコートに至るまで、下着の類も揃っていた。余分なものはなかったが、必要なものは全部あった。
そうして、ウジェニーは半長靴をはき、ズボンをはき、ネクタイを締め、チョッキのボタンを首の所までかけ、そのすらりとした形のよい身体の線を出すフロックコートを着こんだが、その手早さからみると、どうやら前にもたわむれに男装をしたことがあるらしかった。
「まあ、よく似合うわ、ほんとによく似合うわ」ルイーズがうっとりとウジェニーをみつめながら言った。「でも、そのきれいな黒髪、女みんなを羨ましがらせて溜息をつかせている、そのすばらしい髪が、そこにある男ものの帽子の下にうまくおさまるかしら」
「すぐにわかるわよ」ウジェニーは言った。
ウジェニーは、その長い指に余るほどゆたかな編んだ髪を左手に持ち、右手に長い鋏《はさみ》を掴んだ。やがて、鋏の刃がその見事なゆたかな髪の中で悲鳴を上げ、髪の毛がフロックコートに落ちぬよう頭をのけぞらせていたウジェニーの足もとに落ちた。
ついで前髪が切り落とされ、ウジェニーは左右のこめかみのあたりの髪を次々とまったく惜し気もなしに切り落とした。それどころか、彼女の目は漆黒の眉の下で、ふだんよりもさらに光をまし喜びに輝いていた。
「すばらしい髪なのに!」ルイーズがさも惜しそうに言った。
「どう、このほうが百倍もいいでしょ?」まったく男の髪になったそのばらばらなカールをなでつけながらウジェニーは言った。「このほうがずっと私がきれいだと思わない?」
「あなたはきれいよ、いつだって」ルイーズは言った。
「で、どこへ行くの」
「ブリュッセルはどうかしら。一番近い国境ですもの。ブリュッセルからリエージュ、アーヘンヘ行って、ライン河をストラスブールまでさかのぼるの。それからスイスを横切って、サン=ゴタールを通ってイタリアに下るのよ。どう?」
「いいわ」
「あなた何を見てるの」
「あなたをよ、ほんとにそのナリをしたあなたってすてきだわ。人が見たら私をさらって逃げている男だと思うわよ」
「その通りよ、ほんとうにそうなんですもの」
「ウジェニー、ほんとにそう思っていいのね?」
こう言って、人がみな涙にかきくれているものとばかり思っていた二人は、一人は自分のことを考え、一人は友への献身の心から、大いに笑いながら、逃走の準備のためどうしてもちらかってしまったあたりの乱雑さのうち、ひどく目につく痕跡を消したのであった。
それから灯を吹き消し、あたりに目を配りながら、耳をすまし、首を前にさしのべて、二人の家出人は、化粧室のドアを開けた。これは中庭に降りる裏階段に通じている。ウジェニーが先に立ち、片手でトランクを持っていた。そのトランクの反対側の取手を、ダルミイーは両手でやっと持ち上げていた。
中庭に人影はなかった。夜半十二時の鐘が鳴った。
門番はまだ起きている。
ウジェニーはそっと近づいた。大男の門番が椅子でだらしなく居眠りしているのが門番小屋の奥に見えた。
彼女はルイーズのほうに戻り、一時地面におろしておいたトランクを持つと、二人して塀の投げる影づたいにアーケードまで行った。
ウジェニーは、万一門番が目を覚ましたりしても、一人しか彼には見えないように、門の角にルイーズをしのばせた。
それから、彼女は中庭を照らす灯の光を全身に浴びながら、
「門を開けろ」と、窓ガラスを叩きながら彼女の一番美しいコントラアルトで声高に言った。
ウジェニーの予想通り門番は立ち上がり、外へ出ようとする者の顔を確かめるために二、三歩近寄りさえした。だが、じれったそうに細身のステッキでズボンを叩いている青年を見ると、彼は直ちに門を開けた。
すぐさまルイーズが、蛇のようにその半開きの門から滑り出て、身軽に外へ躍り出た。
ウジェニーも、おそらくふだんよりは胸をときめかせていたにちがいないのだが、上べは落ち着きはらって外へ出た。
便利屋が通りかかり、二人はそれにトランクを持たせた。そうして、届け先はヴィクトワール通りで、その三十六番地であると指示してから、二人の娘はこの男の後を歩いて行った。この男がいることで、ルイーズは心強く思ったが、ウジェニーのほうは、ユディト〔敵将を誘惑しその睡眠中にその首を切り落としたユダヤの勇婦〕かダリラ〔サムソンの髪を切ることによってその力を奪った聖書の中の女性〕のように勇敢であった。
指定の番地の所へ着いた。ウジェニーは男にトランクを下に置けと命じ、小銭をなん枚かやって、その家の鎧戸を叩いてから、男を帰した。
ウジェニーが叩いた鎧戸は、どこかの邸の下着係の小女の部屋のもので、前もって知らせてあったのである。この小女はまだ床についていなくて、すぐに窓を開けた。
「門番に言って、貸馬車を引き出させてくれないか。それから、駅馬のたまりへ行って馬をつれて来させてくれ。駄賃にこの五フランをやる」
「ほんとにあなたはすてきだわ、尊敬さえするわ」
小女は驚いて見ていたが、彼女は二十ルイ〔一ルイは二十フラン〕もらえることになっていたので、一言も文句は言わなかった。
十五分後に、門番が御者と馬をつれて戻って来た。御者はまたたく間に馬を馬車につなぎ、門番が馬車にトランクをのせ、摩擦除けをあてがいロープでしっかりと縛りつけた。
「これがパスポートで」御者が言った。「で、お若い旦那、どの道を参りましょう」
「フォンテーヌブロー街道を」ウジェニーが男の声に近い声で答えた。
「あら、何を言ってるの」ルイーズが訊ねた。
「追手をまくのよ。あの少女に二十ルイやったけど、四十ルイで私たちを裏切るかもしれないわ。大通りへ出たら方向を変えるのよ」
こう言うとウジェニーは、見事な寝台馬車に改造された旅行馬車に、踏板にほとんど足もふれずに飛び乗った。
「いつでもあなたのやることはもっともね」歌の教師は友のわきに席を占めながらこう言った。
十五分後に、正しい道に進路を変えた御者は、鞭を鳴らして、サン=マルタンからパリ市外へ出た。
「ああ!」ほっと吐息をつきながらルイーズが言った。「私たち、とうとうパリを出たのね」
「ええ、そうよ。誘拐はものの見事に成功よ」ウジェニーが答えた。
「そうね、でも、暴力は使わずにね」ルイーズが言った。
「それを情状酌量を要求する理由にするわ」ウジェニーが答えた。
この言葉は、ラ・ヴィレットの敷石の上を走る馬車の音にかき消された。
ダングラールには、もはや娘はいなくなったのである。
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九十八 ホテル『鐘と壜《びん》』
さて、ウジェニーとその友にはブリュッセル街道を進ませておいて、われわれは、あわやというところで幸運を掴みそこねた哀れなアンドレア・カヴァルカンティのもとに戻ることにしよう。
アンドレア・カヴァルカンティという青年は、年は若いが、なかなか抜け目のない、非常に頭のいい男であった。
だから、サロンがざわめいたとたんに、もう彼は、われわれが見た通り、次第々々にドアに近づき、二、三の部屋を通りぬけて、ついには姿をくらましてしまったのである。
書き忘れていたことであるが、さればといって、省略してしまうわけにはいかぬことがある。それは、カヴァルカンティが通りぬけた部屋の一つに、新婦の嫁入仕度が陳列されていたことである。ダイヤを納めた宝石箱、カシミヤのショール、ヴァレンシアのレース、英国製のヴェールなど、その名前を聞いただけで若い娘たちが心をときめかせる魅惑的な品々で、結納と言われるものである。
ところで、この部屋を通りぬける際に、アンドレアは、単に非常に頭がよくて抜け目がない男というだけではなく、先見の明もあることを示した。つまり、そこに並べられていた装身具のうち、最も金目のものを奪ったのである。
こうして旅費をせしめると、半ば気が軽くなって、窓から飛び降り、憲兵の手をするりと抜けてしまった。
古代の闘士のようにすらりと背が高く、スパルタ人のように筋骨たくましいアンドレアは、行先もきめずにただ捕まりそうになった場所から遠ざかるだけの目的で、十五分の間走り続けた。
モン=ブラン通りから出て、ウサギが巣に戻る本能を持つように、泥棒が持っている市門に向かう本能から、ラファイエット通りの端に来ていた。
彼は息を切らし、喘ぎながら足を止めた。
彼のほかは人っこ一人いなかった。左手には広々とした人影のないサン=ラザールの囲い地があり、右手にはパリが深く沈んでいた。
「俺はもう駄目なんだろうか」彼はつぶやいた。「いや、俺が、敵の奴ら以上の活動力を発揮できれば、まだまだ大丈夫だ。だから、俺が助かるかどうかは、なん万メートル走れるかにかかっている」
このとき、フォーブール・ポワソニエールの高台から官営の馬車が登って来るのが見えた。陰気な顔でパイプをくゆらしている御者は、どうやらいつも溜り場にしているフォーブール・サン=ドニのはずれに行こうとしているようであった。
「おーい」ベネデットが言った。
「何か用かね、旦那」御者が訊ねる。
「君の馬は疲れてるかね」
「疲れてるかって! 違えねえ、今日は一日中、こいつは何もしてやしねえ。四回けちな走り方をしただけで、チップが二十スー〔一スーは二十分の一フラン〕、しめてたったの七フランでさ。親方には十フラン返さなきゃならねえのに!」
「その七フランに、この二十フランを加えたいとは思わんかね」
「御《おん》の字でさ、旦那。二十フランといや馬鹿にはできねえ。どうすりゃいいんで」
「簡単なことさ、君の馬が疲れてさえいなけりゃね」
「こいつは風みたいに走りますぜ。どこそこへやれとだけおっしゃっていただけば」
「ルーヴル村だ」
「ああ知ってまさ。果実酒《ラタフィア》のできる所ですね」
「そうだ。友達に追いつけばいいんだ。明日シャペル=アン=セルヴァルで狩をする約束で、ここで十一時半まで馬車をつれて来て待っているはずだったんだが、もう十二時なので、待ちくたびれて一人で行っちまったらしい」
「でしょうね」
「で、やってみてくれるか」
「もちろんでさ」
「ブールジェまで行ってくれれば追いつけなくても二十フランだ。ルーヴルまで行って、駄目だったら三十フラン」
「もし追いついたら?」
「四十フラン!」アンドレアはちょっとためらったのだが、どんな約束をしても追いつくはずはないのだからと考えて、こう言った。
「ようがす」御者は言った。「さあお乗んなさいまし。さあ行こう、そーれ!」
アンドレアの乗った馬車は、疾走してフォーブール・サン=ドニを横切り、フォーブール・サン=マルタンぞいに進み、市門を出てどこまでも続くラ・ヴィレットを走った。
実際にはいもしない友達に追いつく気遣いはまったくなかったが、それでもカヴァルカンティは、ときどき、帰宅の遅れた通行人や、まだ起きている居酒屋などに、黒鹿毛の馬に引かれた緑色の馬車は通らなかったかと訊ねた。オランダヘ通ずる街道には多数の馬車が通るし、その九割までが緑色であるから、訊くたびにふんだんに情報が得られた。
訊けば必ず今通り過ぎたという。五百歩先、二百歩先百歩先を走っている。ついに追いこす。だがつねに目ざす友達の馬車ではない。
一度、カヴァルカンティの馬車のほうが追いこされたことがあった。疾駆する二頭の見事な駅馬に引かれて疾走する馬車であった。
「ああ、俺にあの馬車と、あの馬があればな。とくに、あれに乗るのに必要なパスポートがあればな」カヴァルカンティはつぶやいた。
彼は深い溜息をついた。
その馬車は、ウジェニーとダルミイーを乗せた馬車だったのである。
「さあ、出発するんだ!」アンドレアは言った。
「早く友達に追いつくんだ」
そこで哀れな馬は、パリの市門を出て以来ずっと続けていた疾走を、また始めた。そして、全身から湯気をたてながらルーヴルに着いた。
「どうしても友達には追いつけないな。これ以上走らせたら馬が参っちまう」アンドレアは言った。「だからここで追いかけるのは止めたほうがいい。さあ、三十フランだ。赤馬ホテルに泊まることにするよ。明日席があり次第馬車に乗る。さよなら」
こう言って、アンドレアは御者の手に五フラン銀貨を六枚握らせてから街道の敷石の上に身軽に飛び降りた。
御者はうれしそうにその金をポケットに入れると、並足でパリのほうへ戻って行った。アンドレアは赤馬ホテルヘ行くふりをしたが、しばらく戸口の前に足をとめただけで、乗って来た馬車が視界から消える音を聞くと、いきなり走り出した。そうして、すごい駈足で二里の道を走破したのである。
彼は休んだ。御者に彼が行くと言っていたシャペル=アン=セルヴァル〔オワーズ県の村〕の近くのはずであった。
アンドレア・カヴァルカンティがそこで足を止めたのは疲れたからではなかった。心を決める必要があったのだ。計画を立てねばならなかったのだ。乗合馬車に乗ることはできない。駅馬車も駄目。このいずれかに乗って旅をするには、パスポートがどうしても必要なのである。
オワーズ県、つまり、フランスで最も身をひそめる場所の少ない、しかも当局の監視の厳しい県にこのままとどまっていることもできない。とくにアンドレアのような犯罪のエクスパートには不可能なことなのである。
アンドレアは溝のかげに腰をおろし、頭を両手でかかえて考えこんだ。
十分後に彼は顔を上げた。決心がついたのである。
彼は、ダングラールの邸の控えの間にかかっていたのをはずし、舞踏会用の服装の上に着込んでいた外套の片側一面を泥まみれにしてから、シャペル=アン=セルヴァルに向かい、大胆にもこの村でただ一軒の宿屋の門を叩いた。
亭主が扉を開けた。
「モントルフォンテーヌからサンリスヘ行く途中で、乗ってた馬がひどい暴れ馬で、急に跳ねて十歩も先にふり落とされちまった。今晩中にコンピエーニュに着かないと、家の者がひどく心配するんだが、貸馬はないかね」
よい悪いは別にして、宿屋には必ず馬の一頭ぐらいはいる。
シャペル=アン=セルヴァルの宿の亭主は厩係を呼び、ブラン〔「白」の意〕に鞍をつけるように命じた。そして七歳になる伜を起こした。お客さんの後ろに乗っかって行き、馬をつれ戻れというのである。
アンドレアは亭主に二十フラン渡したが、金をポケットからとり出す際に名刺を落とした。
この名刺は、カフェ・ド・パリで知り合った彼の友人のものであった。だから、アンドレアが立去り、彼のポケットから落ちたその名刺を拾ったとき、宿の亭主は、サン=ドミニック通り二十五番地に住む、モレオン伯爵に馬を貸したものと思いこんだ。名刺にはこの名前と住所が書かれていたのである。
ブランの足は遅かったけれども、つねに同じ足どりで辛抱強く走った。三時間半で、アンドレアは、コンピエーニュまでの九里の道を進んだ。彼が、なん台もの乗合馬車が止まっている広場に着いたとき、市役所の大時計が四時を告げた。
コンピエーニュには、たった一度しか泊った者にも忘れられなくなるような、すばらしいホテルが一軒ある。
パリ近郊を散策した際に、ここに一度足をとめたことのあるアンドレアは、このホテル『鐘と壜《びん》』を思い出した。彼はホテルのほうに足を向け、街燈の灯でホテルの看板を見た。持っていた小銭を全部やってついて来た子供を帰すと、入口のドアを叩いた。まだ三、四時間あるので、うまいものを食べ、ぐっすり眠ってそれから後の疲労にそなえるのが最善の策であると考えたからだが、これはいかにも正しい考え方であった。
ドアを開けに来たのはボーイであった。
「僕はサン=ジャン=オ=ボワで夕食をしてからやって来た。真夜半に通る馬車に乗るつもりだったのに、馬鹿なことに道に迷ってしまって、森の中を四時間もうろつき廻った。中庭に面したあのしゃれた部屋に泊めてくれないか。それから、鷄の冷肉とボルドーのワインを一本部屋に運んでもらいたい」
ボーイは少しもあやしまなかった。アンドレアの話しぶりは落ち着きはらっていたし、葉巻を口にくわえ、外套に手をつっこんでいた。身なりは上品で、ひげはきれいに剃られ、長靴の手入れも行き届いている。どこから見ても近くに住む者が帰宅に遅れたとしか思いようがない。
ボーイが部屋の仕度をしている間に、ホテルの女主人が起きて来た。アンドレアは彼女を、この上もなく愛想のいい笑顔で迎え、先日コンピエーニュに立寄った際に一度泊ったことのある三号室に泊めてもらえないか、と訊ねた。あいにく三号室は、妹と一緒に旅をしている一人の青年が泊っていた。
アンドレアはがっかりした様子を示した。女主人が、彼のために今仕度をしている七号室も、三号室とまったく同じ作りであると説明すると、はじめて機嫌を直した。彼は、足を暖め、最近シャンティイーあたりを散策した折のことなどを話しながら、部屋の仕度ができた旨を告げに来るのを待っていた。
アンドレアが中庭に面したしゃれた部屋をほしがったのにはわけがないではない。『鐘と壜』の中庭は、劇場の観客席を思わせる三層の廻廊がめぐらされ、柱廊にそって這い上がるジャスミンやクレマチスが、軽やかな自然の装飾となっていて、世界中の宿屋の入口の中でも、最も魅力的な入口をなしているのである。
鷄肉は新しく、ブドウ酒は古かった。火はあかあかと音をたてて燃えている。アンドレアは、まるでなに事もなかったかのような旺盛な食欲で食べられるのに自分でも驚いた。
それから彼は床に入り、直ちに、二十歳の若者であれば、良心の苛責に苦しんでいるときにも、たちまちとりつかれる抗しがたい眠りに落ちた。
ところで、アンドレアは、良心が咎めてもいいはずであるが、彼は少しもそんなものは感じていなかったと言っておかねばならない。
アンドレアの計画、彼にとって最善の安全を保証する策というのはこうである。
夜明けとともに起き、きちんと勘定を済ませてからホテルを出る。森に入り、絵の習作をするという口実で、金をやって百姓に泊めてもらう。木樵の服と斧を手に入れ、流行児の身なりを捨て労働者の姿となる。手を泥でよごし、鉛の櫛で毛を褐色にし、昔の仲間に教わった処方で顔色を日焼色に染める。森づたいに、一番近い国境に辿り着く。歩くのは夜、昼間は森の中か採石場で眠るのだ。時折パンを買うとき以外は、人の住む場所には近寄らぬようにする。
一たん国境を越えてしまえば、ダイヤを金にかえる。その金と、まさかの時の用意につねに身につけている十枚の紙幣とを合わせれば、まだ五万フランぐらいは自由にできるわけだ。これは彼の哲学に従えば、にっちもさっちも行かぬ事態とは思えなかった。
それに、ダングラールが、自分たちの身に起きた不幸の噂をもみ消しにかかることに、大いに期待していたのである。
アンドレアがなぜこんなに速やかにぐっすりと眠れたかというそのわけは疲労のほかに、以上のような理由があったのである。
その上、アンドレアはできるだけ朝早く目が覚めるように、鎧戸を閉めずにおき、ドアに閂《かんぬき》をかけ、彼が肌身離さず持ち歩いている、そのすばらしい切味は試しずみのきわめて鋭利な短刀を刃を出したままナイト・テーブルの上にのせておいた。
朝七時頃、顔の上にさし込んで来た、暖かく明るい陽ざしで彼は目を覚ました。
非常に出来のよい頭の場合、最も大切な考え(これはつねに存在するものである)最も大事な考えは最後に眠りに落ち、思考力が目覚める際には、最初に脳裡にひらめくものなのである。
アンドレアがまだ目を完全には開けきらぬうちに、この最も大切な考えが彼をとらえ、彼の耳に、眠り過ぎたぞとささやいたのであった。
彼はベッドを飛び降り、窓辺に駈け寄った。
憲兵が一人中庭を歩いている。
憲兵というものは、たとえやましいところのない人間にとっても、この世で最も目につく存在である。まして、内心びくびくしている者、あるいはびくつくだけの理由のある者にとっては、憲兵の制服を色どる、あの黄、青、白の色彩は見るも恐ろしい色となるのだ。
「なぜ憲兵がいるんだ」アンドレアは心に思った。
急に彼は、読者がすでにご存じのはずの彼独特の論理で、自らこう答えるのだった。
「ホテルに憲兵が来たとてべつに不思議はない。が、とにかく着替えるとしよう」
アンドレアは、彼がパリで送った数か月間の粋な暮らしの間、召使いの手を借りてはいたものの、決して失いはしなかった素早い動作で着替えをした。
「よし」着替えながらアンドレアはつぶやいた。「あいつが行ってしまうまで待とう。行っちまったら、逃げ出す」
こう言いながら彼は、長靴をはき、ネクタイを結び、そっと窓辺に行った。そしてふたたびモスリンのカーテンを上げてみた。
最初の憲兵が立ち去っていないばかりか、もう一つ青、黄、白の制服が、彼が下へ降りて行ける唯一の階段の下に立っている。さらに三人目の憲兵が、馬に乗り騎兵銃を手にして、彼がホテルの外へ出る唯一の出口である表通りへの大門の前に歩哨に立っている。
この三番目の憲兵の意味するところは明白であった。というのは、この憲兵の前には野次馬の輪ができていて、ホテルの門を完全にふさいでしまっていたからである。
「俺を探してるんだ! 畜生!」これがアンドレアの頭に浮かんだ最初の考えであった。
青年の額が蒼白になった。不安におびえ、彼はあたりを見廻した。
彼の部屋は、この階のほかの部屋と同じように、衆目にさらされている廻廊へ出る出口しかない。
「もう駄目だ」これがつぎに浮かんだ考えであった。
事実、アンドレアのような立場の者にとっては、捕まることは、すなわち重罪裁判、判決、死、それも情容赦もなく一刻の猶予もない死を意味していたのだ。
一瞬彼は、わなわなとふるえる手で頭をかかえた。
この一瞬の間、彼は恐怖のため気が狂いそうであった。
が、やがて、このさまざまな考えがぶつかり合う中から、希望を抱かせる考えが一つほとばしり出た。蒼白な笑みが、彼の青い唇と、ひきつった頬に浮かんだ。
彼はあたりを見廻した。彼が探しているものは、みな机の大理石の上に集められていた。ペンとインクと紙である。
彼はペンをインクにひたし、手のふるえをおし殺して、そのノートの最初の頁につぎのように書いたのである。
『私にはお払いすべき金がありません。が私は恥じしらずな男ではありません。代償としてネクタイピンを置いて行きます。宿賃飲食代の十倍の値打ちがあります。夜明けとともに逃げ出したことをお許し下さい。私は恥ずかしかったのです』
彼はネクタイからピンを抜くとそれをノートの上に置いた。
こうしておいてから、彼は、閂をかけっぱなしにはせずに、逆に閂をはずし、ドアを少し開けた。部屋を出る際に閉め忘れたかのようにしたのである。そして、いかにもこうした軽業になれた男らしく、暖炉の中に身をすべり込ませ、デイダミア〔アキレスの愛人〕のもとのアキレスを描いた衝立《ついたて》を引き寄せ、灰の中の自分の足跡を足で消してから、彎曲した煙突の中をよじ登り始めた。これは、彼がこの期《ご》に及んでもなお望みを託した唯一の脱出口だったのである。
それと同時に、アンドレアの目を驚かせたあの最初の憲兵が警察署長を先立てて階段を上って来た。階段の下を固めている二人めの憲兵に援護されており、階段の下の憲兵は、これまた門前に立っている憲兵に援護されていた。
なぜアンドレアがこのような辛い訪問を受ける破目に立ち至ったのかその事情は次の通りである。
夜が明けきらぬうちに、信号機が八方に信号を発し、しらせを受けた各市町村は、時を移さず治安当局をたたき起こし、カドルッス殺害犯人の探索に治安要員を投入せしめたのである。
王領であり、狩猟の根拠地としての町であり、部隊が駐屯している町であるコンピエーニュでは、治安当局、憲兵、警察署長にはことかかない。だから、信号による命令が伝達されるや、直ちに臨検が開始された。ホテル『鐘と壜』はコンピエーニュ随一のホテルであるから、当然のことにまずここから臨検が始められたのだ。
それに、その夜市役所(市役所はホテル『鐘と壜』に隣接している)の歩哨に立っていた者の報告によれば、その夜のうちに多くの旅行者がこのホテルに投宿したという。
朝六時に交替した歩哨は、彼が歩哨に立って間もない時刻、つまり四時数分過ぎに、白い馬に乗り、うしろに百姓の子供を乗せた若い男の姿を見たことを思い出した。その男は、広場で馬を降り、百姓の子供と馬を帰し、ホテル『鐘と壜』のドアを叩き、ドアが開けられ、男が入るとドアが閉まったという。
あまりにも遅い時間にホテルに着いたこの若い男に、疑惑の目が向けられた。
ところで、この若い男こそアンドレアにほかならなかったわけである。
この情報に力を得て、警察署長と憲兵(彼は憲兵伍長であった)は、アンドレアの部屋のドアに向かって進んだのであった。ドアは半開きになっていた。
「ほ、ほう」国家機構のさまざまな術策の中で育った古狐の伍長はつぶやいた。「ドアが開いてるというのは気に入らねえな。閂がやたらとかけてあったほうがいいんだがな」
はたして、アンドレアが残した簡単な手紙とネクタイピンは、おもしろくない事実に確証を与えていた。少なくとも裏書きしているように思えた。アンドレアは逃げてしまった後だった。
裏書きしているように思えた、と言ったが、それは、この伍長はたった一つの証拠ぐらいでへこたれる男ではなかったからである。
彼はあたりを見廻した。ベッドの下をのぞき、カーテンをひろげ、戸棚を開け、最後に暖炉の前で立ち止まった。
アンドレアが用心深く足跡を消しおいたので、灰の上には彼が通った痕跡は残っていなかった。
しかしながら、これは一つの出口である。このような情況下にあっては、いかなる出口も入念に調べてみる必要がある。
そこで伍長は、薪の束とわらを持って来させた。そして、大砲に弾丸をつめるような具合に暖炉にこれをつめ、火を点じた。
火は内壁の煉瓦《れんが》をぱちぱちいわせ、不透明な煙の柱が煙突内に立ち上り、火山の噴煙のように空に噴き出た。しかし、伍長が期待したように、煙突内の男が落ちて来ることはなかった。
それは、幼ない頃から世間に反抗して来たアンドレアが、伍長という階級にまで昇進していたにせよ、憲兵に対抗しうるだけの男だったからである。したがって、暖炉に火がつけられることを予想した彼は、屋根に出て、煙突のかげにうずくまっていたのだ。
一瞬彼は助かるかもしれぬと思った。伍長が二人の部下を呼び、大声にこう叫ぶのを聞いたからである。
「もうここにはいないぞ!」
だが、そっと首をのばしてみると、二人の憲兵は、そう言われたのだから当然退散するはずなのに、逆に警戒を厳重にした。
今度はアンドレアのほうがあたりを見廻した。市役所、この十六世紀の巨大な建物が、彼の右手に陰気な砦のようにそびえ立っている。この建物の窓からは、まるで山の上から谷を見おろすように、ホテルの屋根を隅々まで見渡すことができる。
アンドレアは、それらの窓のいずれかから、いつあの伍長の顔が現われるか知れたものではないと思った。
みつかればお終いである。屋根の上での捕物となれば、逃げおおせる見込みはまったくない。
そこで彼は、ふたたび下へ降りる決心をした。登って来たのと同じ道を通ってではなく、別の同じような道からである。
彼は煙の出ていない煙突を目で探した。屋根の上を這って進み、その煙突に辿りつくと、誰にも見られずにその中に姿を消した。
その瞬間、市役所の小さな窓が開き、憲兵伍長が首を出した。
しばらくの間その首は、この建物を飾る石の浮彫の一つのように、じっと動かなかったが、やがてがっかりした長い吐息を洩らしてから、また消えた。
彼がその代表者である法律そのもののように冷厳な態度で伍長は、広場に集まった群衆の浴びせる質問には一言も答えずに、またホテルに入った。
「どうでした?」部下の二人が訊ねた。
「犯人は、たしかに今朝早く逃亡したと思われる。ヴィレール=コトレならびにノワイヨン街道に捜索隊を派遣し、森を捜査するのだ。捕まえられるさ、まちがいなく」
憲兵伍長に特有の抑揚で、この尊敬すべき役人が、まちがいなく、という言葉を言い終るか終らないかのときに、長い悲鳴と激しい呼鈴の音がホテルの庭に鳴りひびいた。
「おや、何だあれは」伍長が叫んだ。
「ひどくお急ぎのお客様のようです」ホテルの主が言った。「何号室だ」
「三号室です」
「ボーイ、大急ぎで行ってみろ!」
このとき、悲鳴とベルの音がさらに激しくなった。
ボーイが駈け出した。
「待て」伍長はボーイをおしとどめた。「ベルを鳴らしている者は、ボーイを呼んでいるのではないらしい。われわれ憲兵のほうが役に立ちそうだ。三号室にはどんな客が泊まっておるのか」
「郵便馬車でお着きになった、妹さんをおつれの若い方です。ベッドが二つある部屋をお求めになりました」
呼鈴が三度、悲鳴を上げるような調子で鳴りひびいた。
「署長殿、来て下さい!」伍長は叫んだ。
「私のすぐ後からついて来て下さい」
「ちょっとお待ちを」ホテルの主人が言った。「三号室へ行くには、階段が二つあります。外のと中のと」
「よし」伍長が言う。「俺は中から行く。こっちは俺が引き受ける。カービン銃は装填《そうてん》してあるな」
「はい、伍長殿」
「ではお前たちは外の階段を見張れ。もし逃げようとしたら発砲せよ。信号によれば重罪犯人とのことだ」
伍長は、直ちに署長の先に立ち、今彼が洩らしたアンドレアの素姓が群衆の中にまき起こしたどよめきを背に受けながら、内階段の中に姿を消した。
こうなった事情は次の通りなのである。
アンドレアは、煙突の三分の二ぐらいの所までは、じつに巧みに降りて来た。が、そこまで来たとき、足をすべらせ、両手で身体を支えはしたものの、彼の意志よりは早い速度で、とくに願ったよりは大きな音をたてて下へ落ちたのである。もしその部屋が無人であればなんでもないことであった。だが、まずいことにその部屋には人がいたのだ。
二人の女性が一つのベッドの中で眠っていて、その音が二人を目覚めさせてしまったのである。
二人の目は音のした場所に釘づけになった。そして、暖炉から一人の男が出て来るのを見た。
ホテル中に聞こえた悲鳴を上げたのは、二人のうちの一人、ブロンドの娘のほうだった。一方、褐色の髪の娘は、呼鈴の紐に飛びつき、力いっぱいその紐をゆすぶって急を告げた。
アンドレアは、ご想像の通り、不幸な男を装った。
「お慈悲です!」顔蒼ざめ、うろたえて、相手が誰であるかも見ようとせずに、彼は叫んだ。「お願いです、人を呼ばないで下さい。助けて下さい! あなた方に危害など加えませんから」
「アンドレア、人殺し!」二人の娘のうちの一人が叫んだ。
「ウジェニー! ダングラールさん!」恐怖が驚愕に変わってカヴァルカンティはつぶやいた。
「助けてえ! 助けてえ!」ウジェニーの動かなくなった手から呼鈴の紐を奪ってダルミイーが叫んだ。そして、ウジェニーよりもさらに力をこめて呼鈴を鳴らした。
「助けて下さい、追われてるんです」アンドレアは手を合わせた。「お慈悲です、後生です、僕を引き渡さないで下さい」
「もう手遅れよ、上がって来るわ」ウジェニーが答えた。
「それじゃ、どこかへかくして下さい。べつに理由もないのに、ただこわくなってしまったんだと言って下さい。疑いをそらしてくれれば、僕の命を助けて下されるんです」
二人の娘は、身体をぴったり寄せ合って、毛布にくるまったまま、この哀願には黙して答えなかった。ありとあらゆる恐怖、ありとあらゆる嫌悪が、二人の頭の中に渦巻いていた。
「じゃ、わかったわ」ウジェニーが言った。
「来た所から帰るがいいわ、ろくでなし。ああ行きなさい。私たちはなにもしゃべらないから」
「いたぞ、いたぞ!」踊り場で叫ぶ声がした。「やつの姿が見えるぞ!」
事実、伍長は鍵穴に目をくっつけて、立ったまま哀願しているアンドレアの姿を見てしまったのだ。
すさまじい銃床の一撃で錠がふっとび、さらに二回叩きつけると閂が飛んだ。ぶち破られたドアが内側に倒れた。
アンドレアは中庭ぞいの廻廊に出るもう一つのドアに駈け寄り、ドアを開けて飛び出そうとした。
銃を持った二人の憲兵がそこにいた。銃を頬にあて、ねらいをつけている。
アンドレアは、はっとして立ち止った。立ちつくしたまま、顔面蒼白となって、上体をややのけぞらせたまま、ひきつった手に、役にも立たぬ短刀を握りしめた。
「逃げなさい!」恐怖が去るにつれて哀れと思う心が蘇って来たダルミイーが叫んだ。
「逃げられないなら、自殺しなさい!」ウジェニーが、古代ローマの闘技場で、勝った剣闘士に向かって、倒れた敵に止めをさすことを栂指で命ずるあの巫女の姿勢と声音とで言った。
アンドレアは身ぶるいした。そして、相手を蔑むような笑いを浮かべてウジェニーを見たが、その微笑は、彼の腐りきった心には、名誉が命ずるこの崇高な残忍さというものを、まったく理解できないことの証拠であった。
「自殺だと!」彼は短刀を投げ捨てた。「何のためにそんなことをするんだ?」
「だって、あなたは言ったじゃないの」ウジェニーは叫んだ。「死刑になるって。極悪犯人として処刑されるんだって」
「へん!」アンドレアは腕を組んでやり返した。「俺にゃ、仲間がいるんだ」
伍長がサーベルを手にして彼の方に歩み寄った。
「おい、おい」カヴァルカンティは言った。
「鞘におさめろよ、こけおどかしはいらねえぜ、こちとらは降参しちまってるんだ」
こう言って彼は両手をさし出し、手錠を受けた。
二人の娘は、自分たちの目の前で行なわれた、社交界人士の仮面を脱ぎ捨て、またもとの凶悪犯にもどったこの男の、おぞましい変貌を恐ろしげに見守っていた。
アンドレアは娘たちのほうをふり返り、軽薄な微笑を見せながら、
「ウジェニーさん、お父さんになにかお言伝てはありませんか。どうやら、パリヘ帰ることになりそうなんでね」
ウジェニーは両手で顔をかくした。
「おや、おや。べつに恥ずかしがるこたあないでしょう。郵便馬車に乗って、俺を追っかけてくれたのを、恨んでなんかいませんよ……俺はあんたの夫同然だったんだもんね」
この嘲弄を残してアンドレアは部屋を出た。残された二人の家出娘は、恥ずかしいのと、その場に居合わせた者たちからあることないことをささやかれて、身も世もあらぬ思いであった。
一時間後に、二人とも娘の身なりをして、二人は自分たちの旅行用の馬車に乗りこんだ。
二人を人目からさえぎるために、ホテルの門は閉められていた。しかし、だからといって、門を開けたとき、目をぎらつかせ、口々にささやき交わしている野次馬たちの二重の人垣の中を通り過ぎないわけにはいかなかった。
ウジェニーは馬車の窓の日除けをおろした。だが、姿こそ見えなくなったが、声は聞こえて来る。嘲笑う人々の声は彼女の耳もとにまで達するのであった。
「ああ、なんだってこの世に人なんかいるのかしら!」ダルミイーの腕の中に身を投げかけ、ただ一撃のもとにその首を切り落としてしまえるように、ローマ帝国にただ一つの首しかないことを願わせた、あのネロの怒りに目をぎらぎらと光らせながら、ウジェニーは叫んだ。
その翌る日、二人はブリュッセルのフランドル・ホテルに宿をとった。
その前日以来、アンドレアはコンシェルジュリー〔パリ裁判所内の牢獄〕に投獄されていた。
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九十九 法律
われわれはすでに、ウジェニーとダルミイーが、誰にも邪魔をされずに変装しまんまと家を抜け出した姿を見たが、それは、家の者がめいめいにやらねばならぬ自分の仕事があり、彼女たちのことになどかまってはいられなかったからである。
銀行家のほうには、額に汗をにじませ、破産という亡霊の前に、莫大な赤字の欄をならべさせるにまかせて、われわれは男爵夫人の後を追うことにしよう。彼女を襲った打撃の激しさに、しばしうちひしがれたままになっていた夫人は、いつもの助言者、リュシヤン・ドブレに会いに行った。
じつのところ、男爵夫人は、この結婚で、母親としての務めを放棄できるとあてにしていたのである。ウジェニーのような性格の娘が相手では、それはつねに厄介至極な役割であったのだ。家庭の秩序を維持せしめるいわば一種の暗黙のうちの了解の中では、母親が娘にとって、たえず聡明さの模範であり、申し分のない女性の典型であるのでなければ、母親は真に娘に対して力を持つことはできないものである。
ところで、ダングラール夫人は、ウジェニーのものを見通す力とダルミイーのウジェニーへの忠告を恐れていた。夫人は、娘がドブレに対して投げる蔑《さげす》むような眼差しをその目で捉えていた。大臣秘書と自分との間の愛情、ならびに経済的な関係の秘密を、娘がすっかり知っていることを物語っているように思える眼差しであった。だが、さらに明敏かつ深い解釈をすれば、これは逆に、ウジェニーがドブレを嫌っていることを夫人に証明するはずのものであった。それも、ドブレが父の家の障害ないし醜聞の種であるからではなく、ウジェニーがドブレを、ディオゲネスがもはや人間と呼ぼうとはせず、プラトンが二本足の羽毛を持たぬ動物という呼び方をしたあの二足獣の範疇に、はっきりと入れてしまっていたからなのである。
ダングラール夫人は、自分のものの見方から……不幸なことにこの世の者は誰でも、他人の見方でものを見ることをできなくさせる自分のものの見方というものを持っているのだが……繰り返して言う、ダングラール夫人は自分のものの見方から、ウジェニーの結婚が駄目になったことを心の底から残念に思った。この縁談が、ふさわしく似合いのもので、娘の幸せになるにちがいないからというのではなく、この結婚が自分に自由を返してくれるはずだったからである。
だから、すでに述べたように、夫人はドブレのもとに駈けつけた。ドブレは、パリの名士連とともに結婚契約の祝宴に出席し、それに続く事件を目撃した後、急ぎ自分のクラブに行き、なん人かの友人とその夜の出来事についてしゃべったのであった。その頃、世界の首都と言われるこの有名な口さがない都の四分の三までが、この事件の話をしていたのである。
黒いドレスに身を包み、ヴェールで顔をかくしたダングラール夫人が、門番がドブレは留守であるとはっきり言うのもかまわずに、ドブレの部屋に通ずる階段を上って行ったとき、ドブレは、ある友人が、こんなひどい事件が起きてしまった以上、ウジェニー・ダングラールならびにその持参金二百万と結婚してやるのが、ドブレのダングラール家の友人としての義務であることを納得させようとして、彼にさかんにそれとなく言う言葉を押し戻すのに懸命だった。
ドブレは防戦につとめながらも、じつは言い負かされたいと思っていた。というのは、その考えは、しばしば彼の心に浮かぶ考えだったからである。そして、彼はウジェニーが、独立心旺盛で高慢な性格の持ち主であることをよく知っていたので、時折この結婚はまったく不可能だと言って、完全に否定的な態度をとったりもしたが、モラリストが一人残らず言っているように、ちょうどサタンが十字架のかげで目覚めているのと同じで、悪しき想念というものは魂の奥底に目覚めていて、どんなに廉直《れんちょく》汚れなき人の心をも奪うものであり、彼はその悪しき想念にひそかに心をくすぐられていたのであった。お茶を飲み、賭けをし、大へんな利益につながることだけに興味|津々《しんしん》であることは想像に難くないおしゃべり、これが夜半の一時まで続いた。
この間、リュシヤンの召使いに招じ入れられたダングラール夫人は、小さな緑色のサロンで、その日の朝彼女が届けさせた二つの花籠にはさまれ、ヴェールをかぶったまま、胸をときめかせて待っていた。言っておかねばならないが、この花を、ドブレは自分で、無駄な枝を切り、盛り上げ、生けたのである。その入念さが彼が留守であっても、この哀れな女にとっては慰めであった。
十一時四十分、甲斐なく待ち疲れたダングラール夫人は、また辻馬車に乗り自宅へ向かわせた。
ある種の上流社会の婦人には、うまく男を掴まえた浮気なお針子と共通する点があって、ふつうは真夜中過ぎには帰宅せぬものである。夫人は、ウジェニーが家を出る際に払ったのと同じぐらいの注意を払って邸に入った。彼女は、足音を忍ばせ胸をしめつけられる思いで、ご承知の通り、ウジェニーの部屋に隣接する自分の部屋への階段を上った。
夫人はとかくの噂の種をまくことを極度に恐れていた。また、少なくともこの点では哀れなまともな女だったのだが、ウジェニーに罪のないこと、父親の家庭に対してウジェニーが忠実であるということは固く信じていた。
自分の部屋に戻ると、彼女はウジェニーの部屋のドアに耳をおしあてた。物音一つしないので、中に入ろうとしたが閂がかかっていた。
ダングラール夫人は、ウジェニーが祝宴の際に受けたひどい精神的打撃に疲れはてて、床につき眠っているのだと思った。
彼女は女中を呼び、訊いてみた。
「お嬢様はダルミイー様とお部屋にお戻りになって、ご一緒にお茶を召上がり、その後で、もうなにも用はないからとおっしゃって、お暇を下さいました」
この返事を聞いて、ダングラール夫人は少しも疑わずに床についた。だが、娘たちの身の上について一安心した夫人の心は、出来事それ自体に向けられていった。
頭の中で考えがはっきりするにつれて、結婚契約の際に起きた一場の事件は、ますます重大な意味を帯びて来るのだった。それはもはや、単なる醜聞の種ではなく、まさに大事件であり、恥ずかしいなどというものではなく、面目まるつぶれのことなのであった。
このとき男爵夫人は、われにもあらず、つい先頃、夫と息子のことで同じような不幸な目にあった気の毒なメルセデスに対して、自分がわずかな憐憫の情も抱かなかったことを思い出した。
『ウジェニーはもう駄目だわ、私たちも』夫人は心に思った。『あの事件が世間にひろまれば、私たちの面目はまるつぶれ。私たちの住むような社会では、嘲笑の種にされるということは、つねに新しい、血のとまらぬ、不治の傷なんだから』
『神様がウジェニーにあんな妙な性格を与えて下さったことは、どんなに幸せだったことか』夫人はさらにつぶやいた。『私はしょっちゅうはらはらし通しだったけれど』
彼女は天に感謝の目を向けた。神秘な神の摂理は、起こるべきもろもろの事態に応じて、前もってすべてをととのえておいて下さるのだ。そして、ある欠点、場合によっては悪徳さえも、幸せのもとにしてしまわれるのだ。
ついで夫人の想念は、海原に翼を拡げる鳥のように、空間を越えてカヴァルカンティのもとに至った。
『あのアンドレアが、ならず者で、盗人で、人殺しだったとは。しかし、あのアンドレアの挙措振舞いを見れば、完全な教育とは言わないまでも、多少の教育は受けた人のようだったのに。アンドレアは、莫大な財産を持っているというふれこみで、立派な人たちの後ろ楯を得て社交界にデビューした人なのに』
どうすればこの迷路で道を見定めることができるだろうか。いったい誰に訊ねたなら、この悲惨な状況を脱け出すための助言が得られようか。
時として身の破滅を招くことではあるが、愛する男に助けを求めたいという、女の最初の衝動にかられてドブレのもとに駈けつけたのだが、ドブレに言えることは一つしかないはずであった。それは、自分などよりも、もっと強力な誰かに相談してみるべきだということである。
そう思うと男爵夫人は、ヴィルフォールのことを考えた。
カヴァルカンティを逮捕させようとしたのはヴィルフォールである。まるで見も知らぬ家庭でもあるかのように、彼女の家の中に非情にも大混乱をもたらしたのはヴィルフォールなのだ。
いや違う、よくよく考えてみれば、検事は非情な男ではない。己れの義務に忠実な司法官なのだ。残酷な、しかし確かな手で、腐敗した部分にメスを入れてくれた、誠実で変わらぬ友情を抱いている友なのだ。刑の執行人ではなくて外科医なのだ。ダングラール家の人々が婿として世間に紹介したあの青年の汚辱を取り除き世間の目からダングラール家の名誉を守ろうとしてくれた外科医なのだ。
ヴィルフォールが、ダングラール家の友として、このような動きをしてくれた以上、検事が前もってなにかを知っていて、アンドレアの策謀に手を貸していたなどということはもはやまったく考えられない。
ヴィルフォールの行動は、よく考えてみると、男爵夫人には、共通の利益にもとづくもののように思えてくるのだった。
だが、検事の峻厳さは、そこまででとどめねばならない。明日会いに行こう、そして、司法官としての義務に背かせることはできないまでも、せめてその許されるぎりぎりのところまではやってもらうことにしよう。
昔のことを持ち出してみよう。過去の思い出を蘇らせるのだ。罪深いものではあったが幸せだったあの頃のことを口にして頼んでみよう。ヴィルフォールは事件をもみ消してくれるだろう。そこまで行かなくても、ほったらかしてくれるかもしれない(このためには、彼は別のほうに目を向けるだけでいいのだ)。あるいは、少なくともカヴァルカンティをこのまま逃がしてくれるかもしれない。いわゆる欠席裁判でただ不在の犯人に対してその罪を問うにとどめてはくれるだろう。
ここまで考えて、やっと夫人は安心して眠りに落ちた。
翌朝九時に起きた夫人は、小間使いも呼ばず、誰にも気づかれぬようにして、着替えをすませた。前の晩と同じように目だたぬ身なりで、彼女は階段を降り、邸を出た。プロヴァンス通りまで歩き、辻馬車に乗って、ヴィルフォールの邸に向かわせた。
一《ひと》月前からこの呪われた家は、ペスト患者の発生が告げられた隔離箇所のような陰惨な様相を呈していた。一部の部屋は内からも外からも固く閉ざされ、閉め切られた鎧戸は換気のためにたまに開けられるだけであった。その開いた窓から、召使いの怯えた顔がのぞいたと思うと、墓穴の上に墓の敷石が閉じるように、またその窓は閉ざされるのであった。そこで近所の人々は、低い声で、
「今日もまた検事さんの家から棺《ひつぎ》が出て来るんだろうか」
と、ささやきかわすのであった。
ダングラール夫人は、悲しみに沈むこの家のたたずまいにぞっとした。辻馬車を降り、膝をがくがくいわせながら、閉ざされた門に近づき、ベルを鳴らした。
ベルの音までが家全体の悲しみを分ち持つように陰気に鳴りひびいて、三回目にやっと門番が現われ、辛うじて声が通るだけ扉を開けた。
門番は女の姿を見た。上品な身なりの上流社会の婦人である。けれども、扉はなおほとんど閉じられたままであった。
「とにかくお開けなさい」夫人は言った。
「まず、お名前を伺いませんと」門番が言う。
「名前ですって? 私の顔は知ってるじゃないの」
「今はもうどなた様も存じ上げてはおらないのでございます」
「頭がどうかしたんじゃないの!」夫人は叫んだ。
「どちらからおいでで」
「まあ、なんてひどい」
「奥様、お許し下さいまし、そう申し渡されておりますもんですから。お名前を」
「ダングラール男爵夫人です。二十回も私の顔は見てるじゃありませんか」
「かもしれませんです。で、ご用件は」
「まったく変な人ねえ、ヴィルフォールさんに、使用人の無作法なことを申し上げるわよ」
「奥様、これは無作法ではございません、用心のためなのでございます。ダヴリニー様のお言葉があった方か、検事様にお話のある方しかお入れできないのです」
「それなら、まさに検事様にお話があって来たんです」
「お急ぎのご用でございますか」
「見ればわかるでしょう、私はまだ帰るために馬車に乗ってはいなくてよ。もういいわ、これが私の名刺、ご主人の所へ持っていらっしゃい」
「私の戻るまでお待ちいただけますか」
「待ちます、早く行きなさい」
門番は、ダングラール夫人を路上に立たせたまま門を閉めた。
しかし男爵夫人は、さほど長いこと待たずにすんだ。間もなく門が、夫人が通れる程度に開いたのである。夫人が入ると、門は夫人の背後でまた閉まった。
一瞬の間も門から目を離さずにいた門番は、中庭まで来ると、ポケットから呼子をとり出し、呼子を吹いた。
ヴィルフォールの召使いが正面階段の上に現われた。
「奥様、その男を許してやっていただきとう存じます」夫人の前に歩み寄りながらその召使いが言った。「ですが、検事様の固いご命令があるものですから。検事様から、門番はそうするよりほか仕方がなかった旨をお伝えせよとのことでございます」
中庭には、やはり同じような用心がなされてから中に入れられた出入り商人がいて、その商品を調べられていた。
男爵夫人は正面階段を上った。彼女は、いわば自分の悲しみの輪をひろげる、この悲惨な様相に深く胸をうたれた。終始その召使いに案内され、召使いは彼女からひとときも目を離さず、夫人は司法官の書斎に招じ入れられた。
ダングラール夫人の足をここまで運ばせた用件が、夫人の心を広く占領してはいたけれども、奉公人どものこのような迎え方はいかにも無礼に思えたので、夫人はまずその不満を口にした。
が、ヴィルフォールが、苦悩の重みに垂れていた頭をもたげ、あまりにも悲痛な笑みを浮かべて夫人をみつめたので、不平を洩らす言葉は、夫人の唇の上で消えた。
「使用人たちが怯えきっていても、許してやってほしい。私もそれを咎めるわけにはいかないのです。自分たちが疑われているので、彼らも疑い深くなっている」
ダングラール夫人は、召使いたちが怯えていて困る、と検事が洩らしていると、しばしば社交界で噂になっているのを聞いたことはある。だが、自分の目で実際に経験してみなかったならば、事態がこれほどとは、とても想像できなかった。
「あなたも、あなたも苦しんでおられるんですのね」
「そうです」司法官は答えた。
「では、私に同情して下さいますわね」
「心の底から」
「私がなぜお伺いしたかおわかりいただけますかしら」
「あなたの身に起きたことを私に話をしに来たのでしょう、違いますか」
「そうです、ほんとうにひどい不幸ですわ」
「つまり、災難ですな」
「災難なんてもんじゃありませんわ!」夫人は叫んだ。
「ああ」検事は、泰然として静かに答えるのだった。「私はもう、回復不可能なことでない限り、不幸とは呼ばなくなったのです」
「ではあなたは、世間の人が忘れるとお思いなんですか……」
「どんなことでも忘れられてしまうものです。お嬢さんは、今日結婚なさらないとしても明日は結婚なさるでしょう。明日なさらないとすれば、一週間後には。それに、ウジェニーさんの将来が駄目になってそれを悲しんでおられるとは、私には思えませんね」
ダングラール夫人は、半ば嘲るようなこの落ち着きぶりに驚いて、ヴィルフォールの顔を見た。
「私は、お友達の所へ参りましたのでしょうか」夫人は、苦しげな威厳に満ちた声音で訊ねた。
「そのことはよくご存じのはずです」
こうはっきり言ったとき、ヴィルフォールの頬が、かすかに赤味をおびた。
事実この答えは、今男爵夫人と彼の心を占めている出来事とは別の、さまざまな出来事を仄めかす言葉だったのだ。
「それならもう少し親身になって下さい。司法官としてではなく、お友達として話をなさって下さい。心の底から辛い思いをしているときに、陽気にしているなどとはおっしゃらないで下さい」
ヴィルフォールはうなずいた。
「不幸を訴えられると、三か月前からの私は、つい自分の不幸のことを考えてしまう癖がついてしまったので。この自分本位の比較という作業が、そうはすまいと思いながら、私の心の中で行なわれてしまう。私の不幸にくらべれば、あなたのものなど単なる災難にすぎぬように思えるのは、そういうわけなのだ。私が今おかれている忌わしい立場にくらべれば、あなたの立場などむしろ羨ましいぐらいだ。が、こんなことを言えばあなたはとまどうだけ。これはわきへおいておこう。何の話だったかな」
「あなたからあのぺてん師の事件はどうなっているかお聞きしようと思って伺ったんです」
「ぺてん師!」ヴィルフォールは相手の言葉を繰り返した。「あなたは、ある種のことは和らげ、ある種のことは強調しようとしている。アンドレア・カヴァルカンティ、いや、あのベネデットがぺてん師とは、とんでもないまちがいだ。ベネデットは正真正銘立派な殺人犯だ」
「私もあなたがそのように訂正なさるのは正しいと思います。でも、あなたがあのならず者に対して敵意を燃やせば燃やすほど、あなたは私どもの家庭をうちのめすことになるのです。ねえ、あの男のことは、しばらくお忘れになって下さい。追跡するかわりに、逃がしてやって下さい」
「来るのが遅すぎました、命令はすでに下されたのです」
「じゃあ、もしあの男が捕まったら……捕まるとお思いですの?」
「それを願っています」
「もし捕まえたら、ねえ、牢屋は囚人であふれているっていうじゃありませんか、あの男を牢屋に入れっぱなしにしておいて下さい」
検事は、それはできぬという身ぶりを示した。
「せめて娘がお嫁に行くまで」男爵夫人はつけ加えた。
「できない。裁判には定められた手続きというものがある」
「私のためにでも?」夫人は半ば笑顔、半ば真顔で言った。
「誰のためでも。私自身のためであろうと他人のためであろうと」
「ああ!」夫人は、この嘆きによって表わされる彼女の考えを言葉には出さなかった。
ヴィルフォールは相手の心のうちを探るあの目で夫人をみつめた。
「あなたが言おうとしていることは私にはわかっている。世間に知れわたっているあの恐ろしい噂のことを仄めかしておいでなのだ。三か月前から、私に喪服を着せているあの三人の死、奇蹟的にヴァランチーヌが免れた死、あれは自然死ではないという噂のことだ」
「私はそんなこと少しも考えてませんでした」せきこむように夫人は言った。
「いや、考えておられた。そしてそれは当然のことだ。あなたには、どうしてもそれを思い浮かべずにはいられないからだ。あなたは心の奥底で、こうつぶやいておられた。『お前は犯罪を追うと言う、ならば答えよ、なぜお前自身の身のまわりの犯罪を罰せずにおくのか』と」
男爵夫人は青くなった。
「あなたはそうつぶやいておられた、違いますか」
「ええ、その通りですわ」
「それにお答えしよう」
ヴィルフォールは自分の肘掛椅子をダングラール夫人の椅子に近づけた。そして、机の上に両手をつき、いつもより低い声で話し始めた。
「犯罪を罰せずにいるのは、犯人がわからないからなのだ。真犯人の首ではなく無実の者の首を切り落としてしまうことを恐れるからだ。だが、犯人がわかったら、(ヴィルフォールは机の正面に置かれた十字架のほうに手をさしのべ)犯人がわかったときには」と彼は繰り返した。「たとえそれが誰であろうと、生ける神に誓って、その犯人は死刑に処する。さあ、今私が誓った言葉、必ず私が守ってみせるこの誓いの言葉を聞いた後でも、あなたはまだあのならず者を許してやれと私に言えるのですか」
「でも、あの男が言われているほどの悪人だという確信がおありなんですの?」
「いいですか、ここに奴の書類がある。ベネデット、まず、十六歳のとき偽造のかどにより五年間の懲役。ご覧の通り、あの青年は末頼もしい奴だった。ついで、脱走、殺人だ」
「どういう素姓の男ですの」
「てんでわからん。浮浪児だ、コルシカの」
「では、誰も弁護してくれる人はいなかったのでしょうか」
「誰も、両親さえわからんのだ」
「でも、あのルッカから来た人は?」
「あいつもどうせ同じぺてん師だ。たぶん奴の共犯者だろう」
男爵夫人は手を合わせた。
「ヴィルフォール!」この上なくやさしい、この上なく愛情のこもった声であった。
「頼むから」検事は冷淡ととれなくもない確乎たる口調で言うのだった。「頼むから、犯人を大目に見ろとは言わないでほしい。私はいったい何か、法律なのだ。法律に、あなたの悲しみを見る目があるだろうか。法律にあなたのやさしい声を聞く耳があるだろうか。あなたの微妙な心の動きを自分のものにしようとしても、法律に記憶などあるだろうか。ないのだ。法律はただ命ずるのみ。そしていったん命じたとなったら、必ず人を罰するものなのだ。
あなたは、私が生きた存在であって、法典ではないとおっしゃるだろう。人間であって書物ではないと。私を見てほしい、私の周囲を見てほしい。人間たちは私を同胞として扱ってくれたろうか。この私を愛してくれたろうか。誰かが、ヴィルフォールのために、罪を許してくれと頼んでくれただろうか。そして、その誰かに対して、ヴィルフォールの罪を許すと人は言っただろうか。否、否、否だ。罰せられた、罰せられ通しだったのだ。
女であるあなたは、つまり、あなたはサイレン〔その美声で人を魅惑し、舟を難破せしめたという〕だから、その魅惑的な多くを語る目で、執拗に私に話しかける。その目を見れば、私はわが身を恥ずべきことを思い出させられる。よろしい、恥に顔を赤らめよう、あなたが知っていること、さらにはあなたのたぶん知らぬことでも。
だがとにかく、私自身が罪を犯して以来、おそらくは他の人々よりも深い罪を犯したあのとき以来、私は潰瘍をみつけるべく他人の衣服をはぎとったのだ。そしていつでも私はそれを見出した。それだけではない、私は、この人間の弱さ邪悪な心の証しをみつけては、幸せに思い欣喜《きんき》したのだ。
というのは、私が有罪と認定した者の一人一人が、私が罰した犯人の一人一人が、私だけがおぞましい例外ではないことの生きた証拠、新たな証拠に思えたからだ。ああ! 残念ながら、人みなすべて邪悪なのだ。それを証明しよう、邪悪な輩《やから》を罰しようではないか」
ヴィルフォールはこの最後の言葉を熱に浮かされたような怒りをこめて話したので、彼の言葉は雄弁で残忍な調子のものとなった。
「でも」と、ダングラール夫人は最後の努力を試みた。「あの青年は、浮浪児で、親もなく、誰からも見棄てられたのだとおっしゃったじゃないの」
「仕方がないな、いやむしろよかったかもしれぬ。誰も奴のために涙を流す者などいないようにと、神が奴をそういうふうにしておいて下さったのだ」
「それは弱者を虐げることですわ」
「人殺しが弱者とは!」
「あの男の汚辱が私たちの家に降りかかるんです」
「私の家には死神がいるのだ」
「ああ、あなたは」夫人は叫んだ。「あなたは他人に対してほんとうに冷酷な方ですわ。それなら私も申します。あなたに対して同情などいたしません」
「よろしい!」ヴィルフォールは、威嚇するように天に腕をふり上げながら立ち上がった。
「せめてあの男の裁判を、もし捕まったら、この次の公判に廻して下さい。そうすれば半年ありますから、世間の人も忘れてくれるでしょう」
「できない。まだ五日ある。審理はすんでいる。五日あれば私には十分すぎるほどだ。それに、わかってもらえないのですか、この私自身も、すべてを忘れたいのだ。仕事をしているときには、私は昼夜ぶっ通しで、仕事をするが、仕事をしていると、なにもかも忘れている瞬間がある。なにもかも忘れている瞬間、私は幸せなのだ、まるで死人のように。だが、それでも苦しむよりはまだましなのだ」
「あの男は逃げたのです。逃がしてやって下さい。なにもしないでいるというのなら、簡単にできる寛大な処置ですわ」
「さっきも言った通り、もう遅いのです。夜明けから信号が発せられた。今頃は――」
「検事様」召使いが入って来て言った。「内務大臣からのこの至急便を竜騎兵が持って参りました」
ヴィルフォールはその手紙を掴むと、大急ぎで封を切った。ダングラール夫人は恐怖に身をおののかせた。ヴィルフォールは歓喜にふるえた。
「捕まえたぞ!」ヴィルフォールは叫んだ。
「コンピエーニュで逮捕された。これでケリだ」
ダングラール夫人は、冷ややかに蒼ざめた顔で立ち上がった。
「さようなら」夫人は言った。
「さようなら」ドアまで送りながら、むしろ楽しそうに検事が答えた。
それから自分の机に戻ると、右手の甲でその手紙を叩きながら、彼はこうつぶやいた。
「さあ、俺は今までに、偽造一件、窃盗三件、放火三件を手がけて来たが、殺人だけが欠けていた。こいつがそれだ。この公判は見物《みもの》だぞ」
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百 亡霊
検事がダングラール夫人に言ったように、ヴァランチーヌはまだ回復していなかった。
疲れはてて、彼女はベッドを離れることができずにいたのである。ヴァランチーヌは、自分の部屋で、ヴィルフォール夫人の口から、今述べたこと、つまり、ウジェニーの家出、アンドレア・カヴァルカンティ、いやベネデットの逮捕、ならびに彼が殺人容疑で起訴されたことを知ったのだ。
しかし、ヴァランチーヌはひどく弱っていたので、この話を聞いても、ふだん健康なときに聞いた場合ほどの衝撃は受けなかったかもしれない。
事実それは、彼女の病める脳裡に浮かんだり、眼前をよぎる、奇怪な想念や瞬時の幻影に入り混じった、漠然とした観念、ぼんやりした幻でしかなかった。しかも、それもやがては消え、彼女の個人的なさまざまな心の動きがふたたびそのすべての力をとりもどすのであった。
昼の間は、ノワルチエがいてくれるので、ヴァランチーヌは現実の世界にとどまっていることができた。ノワルチエは孫娘の部屋へ自分を運ばせ、そこにとどまり、慈愛のこもった目でヴァランチーヌを見ていてくれたのである。そして、裁判所から帰ると、今度はヴィルフォールが、父と娘の間に腰をおろして、一、二時間を過ごしてくれるのだった。
六時にヴィルフォールは書斎に戻る。八時になると、ダヴリニーがやって来て、ヴァランチーヌのために調合した夜の薬を、自分で持って来てくれた。それから、人々はノワルチエを自室に運ぶのである。
医師が選んだ看護婦が、それまでいた人々と交替して、十時か十一時頃、ヴァランチーヌが眠りに落ちるまでは退室しなかった。
下へ降りると、看護婦はヴィルフォール自身にヴァランチーヌの部屋の鍵を渡す。だから、それ以後は、病人の部屋には、ヴィルフォール夫人の部屋とエドワールの部屋を通らなければ、誰も入ることはできなくなるわけである。
モレルは毎朝、ヴァランチーヌの様子を聞きにノワルチエを訪れた。だが不思議なことに、モレルは日一日と、不安そうな様子を示さなくなっていた。
それはまず第一に、ひどい神経の興奮状態にあるとはいいながら、日一日とヴァランチーヌの容態がよくなって行くからであった。それに、彼がうろたえて伯爵のもとに駆けこんだとき、モンテ・クリストは、もしヴァランチーヌの生命があと二時間もてば、ヴァランチーヌは助かると言っていたではないか。
ヴァランチーヌはまだ生きている。すでに四日も経っているのだ。
上に述べた神経の興奮状態は、眠っている間、というより、眠りに落ちる前の半醒半夢の状態のときにも、ヴァランチーヌを放さぬのであった。夜のしじま、雪花石膏の被いの中で燃えている暖炉の上の常夜燈にほの暗く照らされる中に、病人の部屋に現われ、その細かくふるえる翼で病人の熱をかきたてるあの幻影どもの姿をヴァランチーヌは見るのだった。
そんなとき、彼女は、あるときは自分を脅迫する継母の姿、あるときは手をさしのべているモレルの姿、またあるときは、モンテ・クリスト伯爵のようなふだんはあまり縁のない者の姿が見えるような気がした。こういう錯乱状態のときには、家具の一つ一つまでが動きうろつき廻るのだ。そして、これが朝の二時か三時頃まで、鉛のような眠りが彼女を捉え、夜明けにいざなってくれるまで続くのである。
ヴァランチーヌがウジェニーの家出、ベネデットの逮捕を知らされ、そして、しばらくの間、彼女自身の個人的な心の動きにこれらの事件が混じりあい、徐々にこれらの事件が彼女の心から遠のいていった日の夜、そして、ヴィルフォール、ダヴリニー、ノワルチエが次々と引きとって、サン=フィリップ・デュ・ルールの鐘が十一時を告げ、看護婦が病人の手の届く所に医師が調合した水薬を置き、部屋のドアを閉ざし、戻って来た配膳室で、使用人たちがあれこれ話す言葉にぞっとする思いで耳を傾け、ここ三か月来、検事の控えの間での夜毎の話題となっていた不吉な話を記憶の底にとどめていたとき、これほど念入りに閉ざされていた部屋で、まったく予期せぬ事件が起きていたのである。
看護婦が退出してからすでに十分ほどたっていた。
ヴァランチーヌは、一時間前から、毎晩やって来る熱に悩まされていた。自分の意志の言うことをきかない頭は、たえず同じ考え、同じ映像をせっせと生み出す、あの精力的で、単調で、執拗な脳のいとなみを続けていた。
常夜燈の蕊からは、奇怪な影を宿す無数の光がほとばしっていたが、突然、そのたゆたう光に照らされた暖炉のわきの壁のくぼみに置かれた書棚の扉が、ほんのかすかな音もたてずにゆっくりと開くのを、ヴァランチーヌは見たように思った。
これがふだんであれば、ヴァランチーヌは呼鈴を掴みその絹の紐を引いて助けを求めたであろう。だが、今の彼女の状態では、なに一つとして驚くに価するものはないのだ。こうした幻影がいずれも精神の錯乱状態の所産であることを彼女は知っていた。この確信は、朝になればこうした夜明けとともに消えてしまう夜の幻影が、その痕跡さえ残さぬことから来ていた。
ドアのかげから人間の顔が現われた。
熱にうかされていたために、こうした亡霊にはなれっこになっていたヴァランチーヌは、さして怯えもしなかった。彼女は、それがモレルであることを願って、大きく目を見開いただけである。
その顔は、彼女のベッドのほうに歩み続け、足を止めると、耳をすましているようであった。
このとき、常夜燈の灯がこの夜の来訪者の顔を照らした。
「あの人じゃないわ」彼女はつぶやいた。
そして、彼女は、自分は夢を見ているのだと思い、夢の中ではよくあるように、この男が消えてしまうか、あるいは他の人間に姿を替えてくれるのを待った。
ただ、彼女は脈をふれてみた。激しく脈打っているのを感ずると、このしつこい幻影をかき消す最良の方法は、薬を飲むことであるのを思い出した。ヴァランチーヌが医師に訴えた興奮状態を鎮静するために調合されたものだけに、その水薬の冷たさが、熱を下げ、脳の知覚を更新してくれるのである。薬を飲むと、しばらくの間は、いくらか楽になるのであった。
ヴァランチーヌは手をのばして、クリスタル・ガラスの受皿の上のコップを取ろうとした。しかし、彼女がふるえる手をベッドの外にさしのべる間に、亡霊のほうも、前よりは歩度を早めて二歩ベッドのほうに歩み寄った。そして、ヴァランチーヌのすぐ近くに来たので、彼女にはその息づかいも聞こえたし、相手の手に抑えられているのすら感じた。
この夜のこの幻影、いやむしろ現実と言ったほうがいいかもしれないが、これはそれまでにヴァランチーヌが経験したものの域を逸脱していた。彼女は、自分ははっきり目覚めていて現実の世界に生きているのだと思い始めた。自分の理性がちゃんと働いていることを知り、彼女は身をおののかせた。
ヴァランチーヌが感じた相手の手の力は、彼女の腕を抑えるものであった。
彼女はそっと手を引込めた。
すると、どうしても目の離せないその人影は、第一、その顔は脅迫者のものというよりは、保護者のもののように思えるのだが、その人影はコップを手にして、常夜燈のほうに近づいた。そして、その透明度、純度を確かめようとするかのように、水薬をじっとみつめた。
だが、この最初の検査だけではまだ足りない。
その男は、そっと歩き、じゅうたんがその足音を完全に消してしまっているから、やはり亡霊かもしれぬが、その男は、水薬を一さじ分ほどコップに注ぎ、それを飲みほした。ヴァランチーヌはただ茫然として眼前で行なわれることを見ていた。
彼女は、これらのものはじきに消えて、別の光景に席をゆずるのだろうと思っていた。ところが、その男は影のごとくかき消えるかわりに、彼女に近寄って来て、ヴァランチーヌにコップをさし出し、心のこもった声で、
「大丈夫だ、お飲みなさい」
ヴァランチーヌはふるえ上がった。
彼女の描く幻が、人間の声を伴って話しかけたのははじめてである。
彼女は悲鳴を上げそうになって口を開いた。
男は自分の唇に指をあてた。
「モンテ・クリスト伯爵様!」彼女はつぶやいた。
ヴァランチーヌの目にたたえられた恐怖の色、手のふるえ、毛布の中に急ぎ身を縮めた動作を見れば、彼女の心の中の疑惑と、たしかにそうだ、という思いとの最後の戦いがうかがわれた。けれども、このような時刻にモンテ・クリストが彼女の部屋にいるということ、不可思議な、まるでお伽話のような、説明のつかない、壁を抜けて来たような入り方、これはヴァランチーヌの動揺した理性をもってしては、どうしてもあり得ないことのように思えるのだった。
「人を呼ばないで下さい。こわがらなくていいのだ」伯爵は言った。「ほんのかすかな疑惑も、ほんのかすかな恐れも、心の奥底にさえ感じてはいけないよ、あなたの前にいる男は(そう、これはあなたが考えている通りだが、幻ではないからね)あなたの前にいる男は、あなたが夢に描き得る限りでの最もやさしい父であり、最も敬愛すべき友なのだから」
ヴァランチーヌには答える言葉がみつからなかった。今しゃべっている男が、たしかに目の前に実在するということを明らかにしたその声に、彼女はすっかり怯えていたので、自分の声をそれに合わせる勇気がなかった。だが、彼女の怯えた目はこう言っていた。『もしあなたが邪心などまったくないとおっしゃるのなら、どうしてここにおいでになったの』
伯爵は、その明敏な洞察力によって、ヴァランチーヌの心のうちをよぎるものをさとった。
「いいかね、よく聞いてほしい。いや、私の顔を見てほしい。目は赤いし、いつもよりさらに蒼い顔をしているはずだ。この四日間、私が瞬時の間も目を閉ざさなかったからだ。四日前から、私はあなたから目を離さず、あなたを守ってきた。われわれの友マクシミリヤンにあなたを失わせないために」
病人の頬に、さっと歓喜の赤みがさした。伯爵が口にしたマクシミリヤンの名が、彼女に抱かせた疑惑の名残りを払拭《ふっしょく》したからだ。
「マクシミリヤン!……」彼女は繰り返した。それほど口にするのがうれしい名前であった。
「マクシミリヤンは、それじゃあの人は、あなたになにもかもうち明けたんですのね」
「なにもかも。あなたの命は僕の命だと言っていたよ。だから私は、あなたの命を救ってみせると約束したのだ」
「あの人に、私を救うとお約束なさったの?」
「そうだ」
「たしか、さっき、私から目を離さず守ってきたとおっしゃいましたわね。では、あなたはお医者様なのですか」
「そう。今、神があなたの所へおつかわしになれる限りでの、最もいい医者だ、ほんとうに」
「見張っていたとおっしゃるけど、どこからですの」ヴァランチーヌは心配になった。
「私にはあなたのお姿は見えませんでしたけど」
伯爵は手をのばし、書棚を指さした。
「私はあの扉のかげにかくれていた。あれのうしろは、私が借りた隣の家に接している」
ヴァランチーヌは純潔な乙女としての自尊心のために目をそむけて、この上もなくおぞましそうに、
「伯爵様、あなたのなさったことは狂気の沙汰ですわ。あなたがして下さった保護は、侮辱そのものみたいなものですわ」
「ヴァランチーヌ、この長い見張りの間に私が見たものは、どんな人間があなたの所へ来るか、どんな食事を運んでくるか、どんな飲み物を飲ませるか、それだけだ。そうして、その飲み物が危険なものに思えたときには、私は、つい今しがた入って来たように入って来て、あなたのコップを空にし、毒物のかわりに、身体のためになる飲み物を入れた。あなたに対して仕組まれた死ではなく、生命をあなたの血管に脈うたせる飲み物をね」
「毒薬! 死!」また熱にうかされて幻覚にとらえられたのではないかと思って、ヴァランチーヌは叫んだ。「いったいどういうことですの」
「しーっ」モンテ・クリストはまた指を唇にあてた。「私は死と言ったのだ。繰り返すが、死だ。だが、とにかくまずこれをお飲み。(伯爵はポケットから赤い液体の入った小さなびんをとり出し、そのなん滴かをコップに注いだ)これを飲んでしまったら、今夜はもうなにも飲んではいけない」
ヴァランチーヌは手をさし出した。しかし、コップに手がさわると、すぐまた恐ろしそうにその手を引っこめた。
モンテ・クリストはコップをとり、その半分を飲み、ヴァランチーヌにさし出した。ヴァランチーヌはにっこり笑いながら、入っていた残りの液体を飲みほした。
「ああ、これだわ、毎晩飲んでいる水薬と同じ味がします。飲めば胸がいくらかさっぱりして、頭もいくらか平静になるあのお薬と。ありがとうございました、伯爵様」
「この四晩の間、あなたがなぜ生きてこられたかわかったね。だがこの私は、どんな生き方をして来たことか。あなたのために、私は残酷な時間を過ごさねばならなかった! あなたのコップに猛毒が注がれるのを見て、私がそれを暖炉に捨ててしまうひまもないうちに、あなたがそれを飲んでしまうのではないかとふるえていたとき、あなたはこの私を、すさまじい拷問にかけていたのだ」
「伯爵様は」ヴァランチーヌは恐怖のどん底にたたきこまれていた。「猛毒が私のコップに注がれるのを見て、すさまじい拷問にかけられる思いだったとおっしゃいましたわね。でも、もし毒物が私のコップに注がれるところをご覧になったのなら、毒物を注いでいる人のこともご覧になったはずですわね」
「見た」
ヴァランチーヌは半身を起こして、その雪よりも白い胸もとに、上等な麻の襟をかき合わせた。熱にうかされたための冷たい汗に、恐怖心のあまりのさらに冷たい汗が混じり始めていて、その襟はじっとりとしめっていた。
「その人をご覧になりましたの?」彼女はもう一度訊ねた。
「見た」再度伯爵は答えた。
「恐ろしいことをおっしゃいますのね。私に信じこませようとなさっていることは、まるで悪魔の仕業ですわ。何ですって、私の父の家で、私の部屋で、病床で苦しんでいるというのに、それでも誰かが私を殺そうとし続けているなんて! ああ、お帰りになって下さい。あなたは私の良心を試そうとなさっているんです。神様の善意を冒涜《ぼうとく》なさってるんだわ。そんな馬鹿な、そんなことがあろうはずがありません」
「では、ヴァランチーヌ、この死の手が襲ったのはあなたがはじめてだったかな。あなたの身のまわりで、サン=メラン氏、サン=メラン夫人、バロワが倒れるのを見なかったかな。もし三年前から服用している薬が、毒物を習慣的に服用しているために毒物に対する抵抗力を与えていなかったら、ノワルチエ氏が倒れるのを、あなたは見なかっただろうか」
「ああ! そのためだったのね、一《ひと》月前からお祖父様が私にもあのお薬を無理にも飲ませたのは」
「で、その薬というのは、半乾きのオレンジの皮のような、苦い味がしなかったか、違うかね」モンテ・クリストは思わず声を高めた。
「ええ、そうです」
「そうか、それでわかった。あの人もここに毒殺者がいることを知っておられたのだ。おそらくその犯人が誰であるかも。
お祖父様は、可愛い孫娘のあなたを、死をもたらす毒物に対して、前もって抵抗力をつけておいて下さったのだ。習慣的に用い始められていたので、その毒物の効果がうすれていたのだ。今まで私にもどうしてもわからなかったが、普通だったら人を殺さずにはおかない毒物を四日前に飲まされたのに、あなたがどうしてまだ生きているのか、それでわかった」
「でも、その人殺し、毒殺犯人は誰なんですか」
「私のほうから訊こう。夜、あなたの部屋に人が入って来るのを見たことはないかね」
「あります。しょっちゅう、お化けのようなものが通るのが見えるような気がしました。そのお化けは近づいたり、遠のいたりして、消えてしまうんです。でも私は、熱にうかされているせいで幻を見ているんだと思っていました。さっきも、あなたが入っていらしたときも、ずっと熱にうかされているか、さもなければ夢を見ているんだと思い続けていたくらいですもの」
「では、あなたの命をねらっている者を知らないんだね」
「存じません。どうして私を殺そうとなどするのでしょう」
「それなら今にわかる」モンテ・クリストは耳をすましながら言った。
「どうしてですの」恐ろしそうにあたりを見廻しながらヴァランチーヌが訊ねた。
「今夜のあなたは、熱もなければ、錯乱してもいない、はっきり目が覚めているからだ。ほら十二時が鳴っている。人殺しが出て来る時間だからだよ」
「ああ、どうしましょう」額ににじみ出る汗を手でぬぐいながら、ヴァランチーヌが言った。
事実、十二時がゆっくりと陰気に鳴っていた。まるで青銅の槌の一撃一撃が、娘の心臓を打ちすえるようであった。
「ヴァランチーヌ」伯爵が続けた。「助かるためにありったけの力を結集して、胸の鼓動を抑え、声を喉でおし殺し、眠っているふりをするのだ。そうすればきっとわかる。きっと」
ヴァランチーヌは伯爵の手を掴んだ。
「音が聞こえるような気がします、お帰りになって下さい!」
「さようなら、と言うより、また近いうちに」伯爵は答えた。
そうして、娘の心に感謝の気持ちがこみ上げてくるほどの、悲痛な慈愛のこもった笑みを見せて、伯爵は爪先立ちに書棚の所へ戻った。
だが、その扉を閉める前にまたふり返って、
「ぴくりとも動いてはいけない、一言も口をきいてはいけない。ぐっすり眠っていると思いこませるのだ。さもないと、私が駈けつける前に、あなたは殺されてしまうかもしれない」
この恐ろしい命令を言い終えてから、伯爵は扉のかげに姿を消し、その背後で音もなくその扉は閉ざされた。
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百一 ロクスタ※ ※アグリッピナおよびネロの手先となって働いたローマの女毒殺者
ヴァランチーヌは一人残された。サン=フィリップ・デュ・ルールの時計よりは遅れている別の二つの時計が、また十二時を打った。
その音が鳴り止むと、遠くを走る馬車の音のほかは、またもとの静けさにもどった。
ヴァランチーヌの神経は、彼女の部屋の時計に集中した。振子が秒を刻んでいる。
彼女はその秒を数えた。そして、自分の心臓の鼓動よりも、それが二倍だけ遅いのを知った。しかし、それでもなお彼女は信じきれなかった。誰に対しても悪意など抱いたことのないヴァランチーヌには、誰かが自分の死を願っているなどとは、どうしても考えられなかった。なぜ、何の目的で。敵を作ってしまうようなどんな悪いことを私はしたのだろうか。
眠りこんでしまう心配はなかった。
たった一つの考え、恐ろしい考えが、彼女の精神を緊張させていた。この世に、彼女を殺そうとした者、今なお殺そうとしている者が一人いるということである。
もし今度は、その者が、毒が効かないのに業《ごう》をにやして、モンテ・クリストの言葉通りに、剣の力に訴えたら! 伯爵が駈けつけるのが間に合わなかったら! もし、死ぬようなことがあったら! もしこのまま、もうモレルには会えないのだとしたら!
こう思うと、ヴァランチーヌの顔は鉛色となり、全身を冷たい汗が流れ、今にも呼鈴の紐を掴み、助けを呼びそうになった。
が、書棚の扉ごしに、彼女には伯爵の目が光っているように思えた。彼女の記憶にありありと残っていて、その目のことを思うと、彼女は恥ずかしさのあまり、伯爵のあまりにも無遠慮な友情がひきおこした身のおきどころのないこの気持ちを、感謝の気持ちが消してしまう日がはたして来るだろうかと思うのであった。
二十分、二十の永遠の時の流れがこうして過ぎた。それからさらに十分が。ついに、一秒ほど進んでいる振子時計が、一つ、よく響く鐘を打った。
と同時に、書棚の板を爪でひっかく音がして、伯爵が見張っていてくれること、そして彼女にも見張っているようにすすめていることを、ヴァランチーヌに知らせた。
はたして、反対の方、つまりエドワールの部屋の方の床がきしむ音が聞こえたようにヴァランチーヌには思えた。彼女は耳をすました。ほとんど息をとめるほどに、息をころした。ドアのノッブが音をたてる。ドアが開く。
ヴァランチーヌは肘をついて身を起こしていたのだが、ベッドに横になり、目を腕でかくすだけのひましかなかった。
それから彼女は、ふるえおののきながら、名状しがたい恐怖に心臓をしめつけられる思いで、彼女は待った。
誰かがベッドに近づいて来て、ベッドの帳《とばり》にふれた。
ヴァランチーヌは、あらん限りの勇気をふりしぼって、いかにも安らかに眠っているように思わせるような寝息をととのえた。
「ヴァランチーヌ」ごくごく低い声がする。
ヴァランチーヌは骨の髄までふるえ上がった。が、返事はしなかった。
「ヴァランチーヌ」再度同じ声が繰り返した。
同じく返事はない。ヴァランチーヌは、絶対に目を覚まさぬと約束したのだ。
それから、なにも動かなくなった。
ただ、ヴァランチーヌは、さっき自分が飲みほしたばかりのコップに液体が注ぎこまれる音を聞いた。
そこで彼女は、目を覆っていた腕の下で、思いきってそっと目を半ば開いてみた。
と、彼女は白い部屋着を着た一人の女が、予め小びんに入れて持って来た液体を、自分のコップに注いでいるのを見た。
このわずかな一瞬の間、ヴァランチーヌは息をのんだのかもしれない、あるいは思わず身じろぎしたのかもしれない。その女は、不安そうに、その手をとめると、彼女のベッドの上に身をかがめ、ほんとうに眠っているのかどうか確かめようとした。それはヴィルフォール夫人であった。
ヴァランチーヌは、それが継母であることを知ると、鋭い戦慄を覚え、ベッドをきしませた。
ヴィルフォール夫人は壁ぎわに身をひそめ、ベッドの帳《とばり》のかげにかくれて、音もたてずに注意深く、ヴァランチーヌのどんなかすかな動きも見逃すまいと様子をうかがっていた。
ヴァランチーヌはモンテ・クリストの恐ろしい言葉を思い出した。夫人の、小壜を持っていないほうの手に、長くて鋭利な短刀のようなものが光っているように思えた。そこでヴァランチーヌは、あらん限りの意志の力をふりしぼって、目を閉じようとした。だが、われわれの五感のうち最も臆病な器官の、ふだんならば最も単純なこの機能が、このときはほとんど働かなくなっていた。それほどまでに、貪欲な好奇心が眼瞼《まぶた》を閉じるのを妨げ、真実を見極めようとしていたのだ。
その間に、物音一つしない中でヴァランチーヌがまたたて始めた規則正しい寝息を聞いて、たしかに眠っていると安心したヴィルフォール夫人は、また手をのばし、ベッドの枕もとのほうに引き寄せられている帳《とばり》のかげに半ば身をかくしたまま、小びんの中身をすっかりヴァランチーヌのコップに注いだ。
それから夫人は部屋を出て行ったが、かたりとも音をたてなかったので、ヴァランチーヌには夫人が出て行ったのがわからぬくらいであった。
ヴァランチーヌには、手が消えるのが見えただけである。二十五歳の若く美しい婦人の、まるみをおびたみずみずしい手、それが死を注いだ。
ヴィルフォール夫人が彼女の部屋にいたその一分半ほどの間に、ヴァランチーヌが感じたことを言い表わすのは不可能である。
彼女が埋没していた、全身の麻痺にも似た放心状態から、書棚をひっかく爪の音が彼女をわれにかえらせた。
彼女は辛うじて頭をもたげた。
相変わらず音もなく、再び書棚の扉が開き、モンテ・クリスト伯爵が現われた。
「これでもまだ疑うかね」伯爵が訊ねた。
「ああ!」娘はつぶやいた。
「見たかね」
「なんということでしょう」
「誰だかわかったんだね」
ヴァランチーヌは呻き声を洩らした。
「ええ、でもとても信じられません」
「では、死んだほうがましだというのか、そしてマクシミリヤンをも死なせてもかまわぬというのか」
「ああ神様、神様!」娘は繰り返した。
「でも、この家を脱け出すことはできないでしょうか、逃げるわけには」
「ヴァランチーヌ、あなたの命をねらう手は、どこまでもあなたを追いかけるだろう。金の力で、あなたの召使いを買収するだろう。死は、あらゆる姿を装ってあなたの前に立ち現われる。泉から飲む水の中にも、木から摘む果実の中にも」
「でも、お祖父様のおかげで、私には毒は効かなくなっているとおっしゃったじゃありませんか」
「ある毒物に対してはね。それもあまり量が多くなければだ。毒物を変えてくるかもしれないし、量をうんと増やすかもしれない」
伯爵はコップをとり上げ唇をひたした。
「ほら、もうやっているよ。この毒はもうブルシンではない。これは麻酔剤だ。アルコールの味がする。アルコールにとかしたのだ。もしあなたが、ヴィルフォール夫人がこのコップに注いだのを飲んでいれば、あなたはすでに死んでいたよ」
「ああ、それにしてもどうしてあの人は、そんなに私を執拗に追い廻すのでしょう」
「ほう、それがわからないとは、あなたはなんと心のやさしい、善良な人なのだ。悪などまるで信じないのだね、ヴァランチーヌ」
「わかりません。私はあの人にこれっぽっちも悪いことなどしたことはありませんもの」
「だが、あなたは金持ちだ。ヴァランチーヌ、あなたには二十万フランの年収がある。その二十万フランの年収を、あなたはあの女の息子から奪っているのだよ」
「どうしてですの。あのお金はあの人のものではありません。祖父母から私がいただいたものです」
「その通りだ。だからこそサン=メラン氏ご夫妻はなくなられた。それは、あなたが祖父母の遺産を全部相続できるようにするためだ。ノワルチエ氏があなたを相続人とした日以後、ノワルチエ氏の命がねらわれたのもそのためだ。そして、今度はあなたに死んでもらわねばならない。あなたのお父上があなたの遺産を継ぎ、唯一の遺産相続人となるあなたの弟が、お父上の遺産を相続できるようにね」
「エドワールが! 可哀そうに。それじゃこんな罪が犯されたのは、みなあの子のためなんですのね」
「ああ、やっとわかったようだね」
「ああ、こんな罪の報いがあの子の身にはね返りませんように!」
「あなたはまるで天使だよ、ヴァランチーヌ」
「でも、お祖父様のことは、もう殺すのを諦めたんでしょうか」
「あなたさえ死ねば、相続権が剥奪されぬかぎり、遺産は自然に弟さんのものとなるということを考えたのだ。結局のところ罪を犯す必要はないわけだし、それをやれば二重の危険をおかすことになると考えたのだ」
「そんなたくらみが、女の人の頭の中に浮かぶなんて! ああ!」
「ペルージアのことを思い出してごらん。あの宿駅の宿屋のブドウ棚のこと、褐色のマントを着た男に、アクワ=トファナのことをお継母《かあ》さんが訊ねたのを。あの時からこの悪魔のような考えがあの女の頭の中で熟していったのだ」
「ああ、伯爵様」心根のやさしい娘は涙にくれながら言うのだった。「そうなのでしたら、私はどうしても殺されてしまうんですのね」
「いや、ヴァランチーヌ、殺されはせぬ。私は犯人どもをすべて予知しているからね。もう正体がわかっているから、私たちの敵はうち負かされたのだ。ヴァランチーヌ、殺されなどせぬ。あなたは、愛し、愛されるために生きねばならぬ。幸せになり、気高い心を持った男を幸わせにするために生きるのだ。だが、ヴァランチーヌ、生き永らえるためには、私を心の底から信頼しなければならない」
「命令して下さい。どうすればいいのですか」
「私が与えるものを、目をつぶって飲むことだ」
「ああ、誓って申しますけど、もし私がこの世で一人だったら、死んでしまったほうがましです」
「誰も信じてはいけない。お父上さえも」
「父はそんな企みの共犯者ではないのでしょう、そうですわね」ヴァランチーヌは手を組み合わせて言った。
「違う。しかし、お父上は、法的に罪を裁く習慣を身につけておられるから、この家に次々と襲いかかる死が、自然死ではないとにらんでおられるはずだ。ほんとうならお父上があなたの見張りをすべきなのだ。今この時も、私の代わりにお父上がここにいるべきなのだ。コップの中身を捨てるのもお父上がやるべきだった。殺人犯に対して、お父上はすでに立ち向かっておられねばならなかったはずだ。幽霊対幽霊の戦いだ」伯爵はこうつぶやいたが、言葉の最後はとくに声を強めた。
「伯爵様、私、生きるためならなんでもいたします。もし私が死んだら、そのために死んでしまうほど私を愛していてくれる人がこの世に二人いるんですもの。お祖父様とマクシミリヤンと」
「その二人からも、あなたから目を離さなかったように、目を離さない」
「では、私をどうにでもなさって下さい」こう言ってから、ヴァランチーヌはごく低い声で、
「ああ、神様、これからどんなことが私の身に起きるのでしょう」
「たとえどんなことが起きようとも、ヴァランチーヌ、少しも恐れてはいけない。苦しくなっても、視覚、聴覚、触覚がなくなっても、なにもこわがらなくていい。目覚めたときそれがどこであるかわからなくても心配しなくていい。目が覚めてみたら、それが墓穴の中、あるいは釘づけにされた棺の中であったとしても。すぐに思い起こしてほしい。そしてこう自分に言いきかせるのだ。『今も、一人の友、一人の父、私の幸せとマクシミリヤンの幸せを願っている男が、私を見守っていてくれるのだ』と」
「ああ、なんという恐ろしいことなのでしょう」
「ヴァランチーヌ、それくらいならお継母《かあ》さんを訴えたほうがましだと思うかね」
「そんなことをするなら、死んだほうがどれほどましか。ええ、そうです、死んだほうがましです」
「いや死にはしない。どんなことが起きようとも、不平を言わず、希望を持ち続けると約束してくれるね」
「マクシミリヤンのことを思い浮かべるようにします」
「あなたは私のいとしい娘なのだよ、ヴァランチーヌ。私だけがあなたを救うことができる。きっと救ってみせる」
ヴァランチーヌは恐怖のきわみに達し、手を組み合わせた。(彼女は、神に勇気を授け給えと祈るべき時が来たことをさとったのである)そして、祈るために身を起こし、切れ切れな言葉をつぶやいた。その白い肩を被うものとては、その長い髪しかなく、薄いレースの寝間着を通して、心臓が波うつのが見えていることをも忘れた。
伯爵は、彼女の腕をそっと手でおさえベッドカバーを首の所までかけた。そして、父親のような笑みをたたえて、
「ヴァランチーヌ、心の底からあなたのことを思う私の気持ちを信じるのだよ。神の善意とマクシミリヤンの愛を信じるようにね」
ヴァランチーヌは感謝でいっぱいの目をひたと伯爵に向け、覆いの下で子供のようにおとなしくしていた。
すると伯爵はチョッキのポケットからエメラルドのボンボン入れをとり出し、金の蓋を開けると、ヴァランチーヌの右手に、豆粒ほどの大きさの錠剤を一粒のせた。
ヴァランチーヌはそれをもう一方の手でつまみ、伯爵の顔をまじまじとみつめた。この不敵な保護者の顔には、威厳と神にもまごう力とがにじみ出ていた。あきらかにヴァランチーヌが目顔で訊ねていた。
「そうだよ」伯爵が答えた。
ヴァランチーヌは錠剤を口に持って行き、それを飲み下した。
「それじゃ、これでさようなら。私も眠る努力をしてみよう。あなたが救かったからね」
「どうぞいらして下さい。どんなことが起きても、こわがらないとお約束します」
モンテ・クリストは長いことじっと娘をみつめていた。娘は、伯爵が今与えた麻酔剤の効き目に抗しきれずに、徐々に徐々に深い眠りに落ちて行った。
そこで彼は、コップを手にし、その四分の三ほどを暖炉の中に捨てた。なくなっている分だけヴァランチーヌが飲んだと思わせるためである。そしてコップをまたナイトテーブルの上に置いた。こうしておいて、書棚の所まで行き、まるで主の足もとに眠る天使のように、信じきってあどけなく眠っているヴァランチーヌに最後の一瞥《いちべつ》を投げると、そのまま姿を消したのであった。
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百二 ヴァランチーヌ
ヴァランチーヌの部屋の暖炉の上の常夜燈が、まだ水の上に浮かんでいる最後の油を吸い上げながら、燃え続けていた。すでに、前よりもいっそう赤みをました光の輪が、雪花石膏のホヤをいろどり、前よりも明るくなった炎が、しばしば哀れな人間の末期の苦しみになぞらえられる、生命なきものの最後のあがきのようなぱちぱちという音をたてていた。ほの暗い陰気な光が、ヴァランチーヌの白い帳《とばり》とシーツとを乳白色に染めていた。
今はもう、通りの物音はまったく消えていた。家の中の静けさは、恐ろしいほどであった。
と、エドワールの部屋のドアがまた開き、すでにわれわれが見たあの顔が、ドアとは反対側の鏡に映った。毒薬の効果をたしかめに来たヴィルフォール夫人である。
夫人はドアの所で立ち止まり、人がいるとはとても思えぬこの部屋で、ただそれだけが聞こえるランプのぱちぱちという音に耳をすました。それから、そっとナイトテーブルのほうに進み、ヴァランチーヌのコップがはたして空になっているかどうかを見た。
すでに述べたように、コップにはまだ四分の一ほど残っている。
ヴィルフォール夫人はコップを手にして、灰の中に中身を捨てに行った。液体がよくしみこむように灰をかきまわした。そして、念入りにコップをゆすぎ、自分のハンカチでふいてから、ナイトテーブルの上に戻した。
もし誰かこの部屋の中をのぞき見る者があったら、ヴィルフォール夫人がヴァランチーヌの顔を見、ベッドに近づくのをためらうのが見えたことだろう。
このほの暗いあかり、この静寂、この恐ろしい夜の詩が、おそらくは彼女の良心の恐るべき詩に声を合わせていたにちがいない。毒殺者は己が作品に怯えたのである。
ついに意を決した夫人は、帳《とばり》をおしひろげ、枕もとに手をついて、ヴァランチーヌの顔をみつめた。
娘はもはや呼吸していなかった。半ば開かれたその歯の間から、生きていることを示すかすかな息さえも洩れてはいなかった。血の気の失せたその唇は、すでにわななくことを止めていた。皮膚の下ににじみこんだかと思われる紫の色にうっすらとくまどられたその目は、眼球がふくらませている瞼の部分だけが、ほかよりは白くつき出ていた。長いまつ毛が、ろうのように艶《つや》を失った肌の上に黒い線を引いている。
ヴィルフォール夫人は、動かぬ中にあまりにも多くを物語るこの顔を、じっと見ていた。それからさらに大胆にも、毛布をはねのけて、娘の心臓の上に手を置いたのである。
心臓は音をたてず、冷えきっていた。
手の下で脈をうっているのは、自分の指の血管であった。夫人はぞっとして手をひっこめた。
ヴァランチーヌの腕がベッドの外に垂れている。その腕は肩のつけ根から肘の内側に至るまでは、ジェルマン・ピロン〔十六世紀のフランスの彫刻家〕の美の女神像の腕を模したかと思えた。だが前腕の部分は、痙攣《けいれん》のため、かすかに形がゆがんでいる。端正な形の手は、やや硬直した指をひろげて、マホガニーのベッドの枠の上にのせられていた。
爪のつけ根は青みがかっていた。
ヴィルフォール夫人の目には、もはや疑う余地はなかった。すべては終ったのだ。彼女がなさねばならなかった最後の恐るべき仕事は、ついになし遂げられたのだ。
毒殺者には、もはやこの部屋でなすべきことはなにもなかった。じゅうたんの上でさえ大きな足音がするのではないかと恐れているのがありありとわかるほどに注意深く、夫人は後ずさりした。だが、後ずさりしながらも、夫人は帳《とばり》を手で持ち上げたまま、この死の光景に見入っていた。死がいまだ腐敗をもたらさず、ただ動かぬというだけにとどまっている限り、神秘としてのみとどまり、いまだ嫌悪をもらさぬ限り、死の光景には、人の心を引きつけて放さぬものがある。
数分間の時が流れた。ヴィルフォール夫人は、ヴァランチーヌの顔の上の経帷子《きょうかたびら》のような、手に持ったその帳を放すことができなかった。彼女は思いにふけった。罪を犯した者の思いといえば、それは良心の苛責であろう。
このとき、常夜燈がさらに激しくはじける音をたてた。
ヴィルフォール夫人はこの音にぎくっとして、帳を手放した。
と同時に常夜燈の灯が消えた。室内は恐ろしい闇に閉ざされた。
その闇の中で、時計が目覚め、四時半を打った。この相つぐ衝撃にふるえ上がった毒殺者は、手さぐりにドアの所にたどりつき、額にあぶら汗をにじませて自分の部屋に戻った。
闇はなお二時間続いた。
やがて、鎧戸ごしにほの白い日の光が徐々に部屋にさしこんで来た。そして、やはり徐々に、次第にその明るさを増し、部屋の中の品物や人の身体に、色彩と形とを返しはじめた。
このときである、看護婦の咳をする声が階段にひびき、看護婦が、茶碗を手にしてヴァランチーヌの部屋に入ったのは。
父親か恋人ならば、一目見れば明白であった。ヴァランチーヌは死んでいたのである。だが、ただ金で雇われた者の目には、ヴァランチーヌは眠っているとしか見えなかった。
「結構だわ」ナイトテーブルに近づきながら看護婦は言った。「水薬を少しはお飲みになったのね。コップが三分の二ほど空になってるわ」
そうして彼女は暖炉の所へ行き、火をつけ、椅子に坐りこんだ。まだ起きたばかりだというのに、看護婦はヴァランチーヌが眠っているのを幸い、さらにしばしの眠りを楽しんだのである。
八時を打つ時計の音に、彼女は目を覚ました。あまりいつまでもヴァランチーヌが眠っているのを不思議に思い、ベッドの外に垂れ下っているその腕を眠っている娘が引っこめなかったことに驚いて、看護婦はベッドに近づいた。そのときはじめて彼女は、その冷たい唇と、冷えきった胸とに気づいたのである。
看護婦は、身体のわきにその腕を戻そうとした。だが、恐ろしいまでに硬直したその腕は言うことをきかなかった。看護婦であれば、この腕の硬さの意味はとり違えようがなかった。
彼女はすさまじい悲鳴をあげた。
そして、ドアの所へ駈け寄ると、
「誰か来て! 誰か来てえ!」と叫んだ。
「なに、誰か来てだと!」階段の下でダヴリニーの声が応じた。
医者が毎日来る時間だったのだ。
「なんだ、誰か来てくれだと!」書斎から飛び出して来るヴィルフォールの声がした。
「先生、救けを求める声を聞かなかったか」
「聞いた、聞いた。上へ行ってみよう」ダヴリニーは答えた。「早くヴァランチーヌの部屋へ行ってみよう」
しかし、医師と父親とが部屋に入る前に、同じ階の部屋や廊下にいた召使いたちが、すでに部屋に入っていて、ベッドの上の血の気の失せた顔をしてじっと動かぬヴァランチーヌを見て、手を天に上げ、めまいに襲われたようによろめいていた。
「奥さんを呼んで来るんだ! 奥さんを起こせ!」部屋に入る勇気のないらしい検事が、ドアの所から叫んだ。
だが、使用人たちは返事をするかわりに、彼だけはすでに部屋に入り、ヴァランチーヌのもとに駈け寄って、腕の中に抱き起こしていたダヴリニーの顔を見た。
「この娘《こ》もか……」彼は娘をまたねかせながらつぶやいた。「ああ、神よ、あなたはいつになったらおやめ下さるのです」
ヴィルフォールは部屋の中にとび込んだ。
「何と言ったんだ、ああ神様!」彼は手を天に向けて叫んだ。「先生! 先生!」
「ヴァランチーヌは死んだよ」ダヴリニーが、おごそかな、おごそかな中に恐るべき意味のこもった声で言った。
ヴィルフォールは、くずおれるように倒れこみ、ヴァランチーヌのベッドに顔を埋めた。
医師の言葉とヴィルフォールの泣き声を聞くと、怯えきった使用人たちは口々に低く呪いの言葉をささやきかわしながら逃げ出して行った。階段に廊下に、彼らの急ぐ足音が聞こえた。それから中庭をぞろぞろ歩く気配がした。そして、それでお終いだった。物音は消えた。上から下まで一人残らず、彼らはこの呪われた邸を出て行ったのである。
このとき、朝の部屋着に袖を半ば通したヴィルフォール夫人が、ドアカーテンをもたげた。一瞬彼女は戸口の所に立ち止まって、その場にいる者の様子をうかがい、空涙を浮かべようとしていた。
と、いきなり彼女は一歩前に出た、というよりも、テーブルのほうに手をさしのべたまま、はじかれたように飛び出した。
夫人は、ダヴリニーが不思議そうにそのテーブルの上に身をかがめ、たしかに自分が夜のうちに空にしておいたはずのコップを手にしたのを見たのだ。
コップには、彼女が中身を灰の中に捨てたとき入っていたのとちょうど同じ、三分の一だけ入っていたのだ。
ヴァランチーヌの幽霊がこの女毒殺者の前に立ちはだかったとしても、これほどの驚きをもたらしはしなかったであろう。
事実、それはまさに彼女がヴァランチーヌのコップに注ぎ、ヴァランチーヌが飲んだ水薬と同じ色だったのだ。それはまさに、ダヴリニーの目を欺くことはできぬ毒物なのだ。ダヴリニーが入念にそれをみつめている。これはまさしく、おそらく神が、犯人は用心に用心を重ねたのに、その罪の痕跡、証拠を残し、その罪を告発するために実現し給うた奇蹟なのだ。
ヴィルフォール夫人が恐怖の立像のように身じろぎもせずに立ちつくし、死者の床のシーツに顔を埋めたヴィルフォールが自分の身のまわりで起きていることをなにも知らずにいる間に、ダヴリニーは窓辺に近寄り、さらによくコップの中身を目で調べ、指にたらした一滴を味わってみた。
「ああ、これはブルシンではない」彼はつぶやいた。
「たしかめてみよう」
そこで彼はヴァランチーヌの戸棚に駈け寄った。それは今では薬棚になっていた。そして、中の小さな銀の箱から、硝酸の小びんをとり出し、コップの中の乳白色の液体の中に数滴したたらせると、たちまちそれは、真赤な血の色に変った。
「ああ!」ダヴリニーは、真相を見きわめた裁判官の恐怖と、問題の謎を解いた学者の喜びとのまじった嘆声を洩らした。
ヴィルフォール夫人は一瞬くるりと一回転した。彼女の目に炎が燃え、やがて消えた。彼女はよろよろと、手でドアをさぐり、姿を消した。
一瞬後に、遠くで床の上に誰かが倒れる音が聞こえた。
だが、誰もそれには気をとめなかった。看護婦は、一心に化学分析をみつめていたし、ヴィルフォールは相変わらず放心状態のままであった。
ダヴリニーだけがヴィルフォール夫人の姿を目で追っていた。そして、彼の目は、エドワールの部屋ごしにヴィルフォール夫人の部屋に注がれ、床の上に倒れたまま動かぬ夫人を見た。
「ヴィルフォール夫人の手当に行け」彼は看護婦に命じた。「気分が悪いようだ」
「でも、お嬢様は?」看護婦がつぶやいた。
「ヴァランチーヌはもう手当の必要はない。ヴァランチーヌは死んだからだ」
「死んだ! 死んでしまった!」ヴィルフォールが、この青銅のような心には、それがまったく新たな経験したことのない、未知のものであっただけに、いっそう人の胸をかきむしるような、悲しみの極みにたたきこまれて、呻くように言った。
「死んだですって!」第三の声が叫んだ。
「ヴァランチーヌが死んだなんて、誰が言ったんですか」
二人の男はふり向いた。そして、戸口の所に立っている、顔面蒼白な、うろたえきったモレルの姿を見た。
彼が現われた事の次第はこうである。
いつもの時間に、ノワルチエの部屋に通ずる小さな門を通って、モレルはやって来た。
いつになく門が開いていた。だから、呼鈴を鳴らすまでもなく、彼は中に入った。
玄関で、ノワルチエの部屋への案内を乞うべく、召使いを呼びながら彼はしばらく待っていた。
だが誰も応ずるものがいない。ご承知の通り、使用人たちはみなこの家を出て行ってしまったのである。
この日、モレルは少しも心配の種を持っていなかった。モンテ・クリストはヴァランチーヌの命を必ず助けると約束してくれたのだし、その日まで、その約束は確実に守られていたのだ。毎晩、伯爵はよいしらせを聞かせてくれて、それは翌日、必ずノワルチエ自身によってほんとうであることが立証されて来たのだ。
だが、この人気《ひとけ》のない様子が彼にはいぶかしく思えた。彼はもう一度呼んでみた。さらにもう一度。やはりしーんとしている。
そこで彼はかまわず上がることにした。
ノワルチエの部屋のドアも、ほかのドア同様に開けっぱなしになっている。
彼が最初に見たものは、いつもの場所で椅子に坐っている老人の姿であった。その大きく見開かれた目は、内心の恐怖を物語っているように思えた。顔全体を覆う異常な蒼さも、それを裏書きしている。
「お加減はいかがですか」かすかに胸をしめつけられる思いを感じながら、青年は訊ねた。
『元気だ、元気だよ』老人の目ばたきが答えた。
が、その表情はますます不安を増大させているようであった。
「なにか気がかりなことがおありなんですね」モレルは続けた。「なにかほしいものがおありなんですね。誰かをお呼びしましょうか」
『うむ』ノワルチエが答えた。
モレルは呼鈴の紐にとびついた。だが、千切れるほどに引いても無駄であった。誰も来はしなかった。
ノワルチエのほうをふり向くと、老人の顔の蒼さと不安の色はますますひどくなって行く。
「どうしたことだ! それにしても、なぜ誰も来ないんだ。誰かほかに病人でもいるんだろうか」
ノワルチエの眼球が、眼窩《がんか》からとび出しそうになっていた。
「いったいどうなさったんですか。ご様子を見ていると、心配でたまりません。ヴァランチーヌ! ヴァランチーヌが!……」
『そうだ、そうなのだ』ノワルチエが言う。
マクシリヤンはなにか言おうとして口を開いた。しかし、彼の舌は、なに一つ言葉を言うことはできなかった。彼はよろめき、壁板につかまった。
それから彼はドアのほうに手をのばした。
『そうだ、そうだ、そうだ』老人が言い続ける。
マクシミリヤンは小階段に突進し、二飛びで駈け上がった。ノワルチエの目が、
『もっと早く、もっと早く』
と叫んでいるように彼には思えたのだ。
邸内のほかの場所と同じように、人気《ひとけ》のない部屋をいくつも駈け抜けて、ヴァランチーヌの部屋につくまで、一分しかかからなかった。
ドアを押す必要はなかった。ドアは大きく開かれていたのである。
彼が耳にした最初のものは、むせび泣く声であった。彼は、まるで霞を通してかのように、ぐしゃぐしゃになった白いツーツの山の中に埋もれている、跪いた黒いものの姿を見た。不安が、すさまじい不安が、彼を戸口の所に釘づけにした。
このとき、彼は、『ヴァランチーヌは死んだ』という声を聞いたのである。そして、もう一つの声が、こだまのように、
『死んだ,死んでしまった!』
と応ずるのを聞いたのだ。
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百三 マクシミリヤン
ヴィルフォールは、悲嘆にくれている姿を見られたのをいささか恥ずかしく思いながら立ち上がった。
二十五年間たずさわって来た恐るべき職業が、彼を多少ともふつうの人間とは違った人間にしていたのである。
一瞬うろたえた彼の目は、モレルの上に注がれた。
「どなたですか。死者のいる家にはそんな訪れ方をするものではないということをお忘れのようだが。出て行きたまえ、出て行くのだ!」
だが、モレルは動かなかった。彼は、乱れたベッドとその上に横たわる蒼白な顔のぞっとするような光景から目を離すことができなかった。
「出て行けと言っているのが聞こえないのか」ヴィルフォールは怒鳴り、ダヴリニーはモレルを外へ出そうとして彼のほうに歩み寄った。
モレルは、茫然たる様子で、その死体、二人の男、部屋の中を見、しばらくためらっていたようだが、やがて口を開いた。が、頭の中には無数の不吉な考えがむらがり寄せて来ているのに、ついに答えるべき言葉を見出すことができず、髪の毛の中に両手をつっこんだまま、またもと来た道を戻った。一瞬心をほかにそらされたヴィルフォールとダヴリニーは、その姿を目で追った後に、
『おかしな奴だ』
と言うような目を見かわした。
が、五分とたたぬうちに、階段がひどく重い重みにきしむのが聞こえて来た。そして、モレルが超人的な力を発揮して、ノワルチエを椅子ごと抱きかかえて、老人を二階に運び上げて来るのが見えた。
階段の上まで来ると、モレルは車椅子を床におろし、急いでヴァランチーヌの部屋まで押して来た。
青年の狂乱せんばかりの心がその力を十倍にもしたが故になし得た業《わざ》であった。
だが、とりわけすさまじいものがあった。それは、モレルに押されてヴァランチーヌのベッドのほうに進んで来るノワルチエの顔であった。英知のあらん限りをふりしぼり他の感覚器官を補うべく目にいっさいの力を結集したノワルチエの顔であった。
だから、この蒼白な顔、らんらんと燃える眼《まなこ》は、ヴィルフォールにとっては、見るも恐ろしい幽鬼のそれであった。
父と接触を持つたびに、いつもなにか恐ろしいことが起きていた。
「どうか、あの人たちが、あの人をどうしてしまったか見て下さい」モレルが、ベッドの所まで押して来た車椅子の背に片手を置き、もう一方の手をヴァランチーヌのほうにさしのべながら叫んだ。「お祖父様、どうかご覧になって下さい!」
ヴィルフォールは一歩後ずさりした。そして、ノワルチエを祖父と呼んだ、ほとんど見も知らぬその青年を、驚いてみつめた。
このとき、老人の全神経は、血走ったその目に集中したかに思えた。それから、首の血管がふくれ上がり、てんかん病みの肌にしのびこむような、青みがかった色が、その首すじ、頬、こめかみのあたりを覆った。この全身を貫ぬく内心の爆発に、欠けているものは絶叫だけであった。
その叫び声は、いわば全身の毛穴からほとばしっていた。口がきけぬだけにかえってすさまじく、声にならぬだけに悲痛であった。
ダヴリニーは老人のもとに駈け寄り、強い誘導剤をかがせた。
「ノワルチエさん」モレルが中風患者の麻痺した手を掴んで叫んだ。「僕が誰で、なんの権利があってここに来たのかを、訊ねておられます。ああ、あなたはそれをご存じです。どうか、おっしゃって下さい」
青年の声は鳴咽のうちに消えた。
老人のほうは、その喘ぐような息づかいが、その胸をゆり動かしていた。末期の苦しみに至る直前の発作に襲われているかと思われるばかりであった。
やがて、涙がノワルチエの両眼からほとばしった。流す涙もなくただ泣きむせんでいる青年にくらべれば、まだしも幸せであった。うつむくことはできぬので、老人は目を閉じた。
「おっしゃって下さい」モレルが喉をしめつけられたような声で続けた。「僕があの人のフィアンセだったことを! あの人が、僕の気高い愛人であり、僕がこの世で愛したただ一人の人だったことを! さあ、おっしゃって下さい、この遺骸は、僕のものだとおっしゃって下さい!」
こう言うと、青年は、力強き者が崩れ落ちる際の、あの痛ましい姿を見せて、ベッドの前にどっとばかり膝をついた。そのわななく指が、しっかりとベッドを握りしめている。
このあまりにも悲痛な姿に、ダヴリニーは感動をかくすために顔をそ向けた。ヴィルフォールは、それ以上の説明は求めようとせずに、われわれがその死を悼む者を愛してくれた人々のほうにわれわれを押しやる、あの親近感から、青年に手をさしのべた。
しかし、モレルにはなにも見えなかった。彼はヴァランチーヌの冷たい手を握り、涙を流すことはできず、ただ呻きながらシーツを噛んでいた。
しばらくの間、その部屋には、むせび泣く声と呪咀《じゅそ》の言葉と祈りの文句の入り混った声しか聞こえなかった。そのうちにもひときわ高く聞こえるのは、息を吸いこむたびにノワルチエの胸の中の生命の泉を一つ一つ破壊するかとも思えるような、しゃがれた、胸をかきむしられるような呼吸の音であった。
やがて、居合わせたもののうち最も自制心を失わなかったヴィルフォールが(それまでしばらくの間、いわば自分の席をマクシミリヤンにゆずっていたのだが)口を開いた。
「君は」彼はマクシミリヤンに言った。「君はヴァランチーヌを愛していたと言ったね。フィアンセだったそうだが、私はその恋のことは知らなかった、そんな約束があることも。だが、父親である私は、君に対してそのことは許そう。私がこの目で見たからだ、君の嘆きが大きく、真実で、本物であることを。
それに、私のほうも、悲しみはあまりに大きく、私の心には、怒りの入りこむ余地などないのだ。
だが、ご覧の通り、君が望んだ天使はこの世を去ってしまった。この娘《こ》はもう人間の愛など必要としない。今では、この娘はただ神のみを愛しているのだから。あの娘がわれわれの手もとに忘れて行ったこの悲しい亡骸《なきがら》に最後の別れを言いたまえ。もう一度最後に、君が待ち望んでいたその手をとりたまえ。そして永久にこの娘からは別れるのだ。ヴァランチーヌはもう、祝福を授けて下さる司祭にしか用はないのだ」
「それはまちがっておられます」モレルは、片膝をついて身を起こしながら言った。今まで経験したいかなるものよりも鋭い苦痛に心臓をつらぬかれる思いであった。
「まちがっておられます。死んだ、こんな死に方をしたヴァランチーヌには、司祭だけではなく、仇を討つ者が必要です。
ヴィルフォールさんは司祭さんを呼びにいらして下さい。僕は、僕は仇を討ちます」
「それはどういうことなのだ」モレルが逆上のあまり洩らした言葉に怯えながら、ヴィルフォールはつぶやいた。
「つまり、あなたの中には二つの人格がおありになるということです。一人は、存分に涙をお流しになった父親、もう一人は、その務めを開始なさる検事としてのあなたです」
ノワルチエの目が光り、ダヴリニーが近寄って来た。
「検事さん」その場に居合わせた者皆の表情に現われている気持ちを目で読みとって、青年は続けた。「僕は自分が何を言っているかよく心得ています。そして皆さんも僕と同じぐらいよく、僕がこれから申し上げることをご存じのはずです。 ヴァランチーヌは殺されたんです」
ヴィルフォールは頭を垂れた。ダヴリニーはさらに一歩前に進み、ノワルチエの目はうなずいていた。
「検事さん」モレルは続けた。「現代では、たとえヴァランチーヌほど若くもなく、美しくもなく、人から愛されもしない人間でも、もしその人がむごい死に方をすれば、必ずその死因が糾明《きゅうめい》されます。 さあ、検事さん」モレルはさらに語調を強めてつけ加えた。「情容赦は無用です。僕はここに犯罪があると告発します。犯人を探して下さい」
彼の仮借なき目がヴィルフォールに問いかけていた。ヴィルフォールは、ノワルチエに、ダヴリニーに目で救いを求めていた。
しかし、父にも医師にも彼は味方を見出すことはできず、モレルの目と同じ断乎たる二人の目にぶつかっただけである。
『そうだ!』老人は言っていた。
「その通りだ」ダヴリニーは言った。
「それは違う」三人の意志と自分自身の激情に抗《あらが》うようにヴィルフォールは言い返した。「私の家で犯罪など起きてはいない。ただ運命が私をうちのめしているだけだ。神が私を試練にかけておられるのだ。考えれば恐ろしいことだが、しかし殺人などは行なわれてはおらぬ」
ノワルチエの目が火と燃え、ダヴリニーがなにか言おうとして口を開いた。
モレルが手をさしのべて、皆を制した。
「僕ははっきり申し上げる、殺人が行なわれたのです」モレルは言った。その声は低くはなったが、その恐ろしいひびきは少しも失わなかった。
「はっきり申し上げる、この四か月間で、これは四人目の被害者です。すでに一度、四日前に犯人はヴァランチーヌを毒殺しようとしました。が、ノワルチエさんが周倒に用心をしておいて下さったおかげでそれは失敗しました。犯人は量を増やしたか、あるいは毒物を変えて、今度は成功したのです。あなたは、この僕と同じぐらいこのことはご存じなのだ。ここにおられる先生が、医師として、また友人として、あなたにそれをすでに言っているからです」
「君は逆上しているのだ」ヴィルフォールは追いつめられたことを感じながらも、なおももがこうとした。
「僕が逆上しているですって! よろしい、それなら僕はダヴリニー先生ご自身に訴えます。
検事さん、先生にお訊ね下さい。お宅の庭で、あなたのお邸の庭で、サン=メラン侯爵夫人が亡くなった晩、先生がおっしゃった言葉を覚えておられるかどうか。お二人とも、あなたと先生です、お二人とも二人きりだとお思いになって、あの痛ましい死のことを話しておられたときのことです。あなたが今口になさっている運命や不当にも攻撃なさっている神は、ただ一つのこと、つまり、ヴァランチーヌを殺した奴をこの世にお作りになった点でしか、あの死にはかかわりがないのです」
ヴィルフォールとダヴリニーは顔を見合わせた。
「そうですとも、思い出して下さい。あなた方が、静まり返った中でお二人の間でだけ交わされたと思っておいでだったこれらの言葉は、僕の耳に入ってしまったのです。たしかに、ヴィルフォールさんが自分の家族のためを思って法をまげるのを見たあの晩以後、僕は当局にすべてをぶちまけるべきだったんだ。そうすれば僕は今の僕のように、ヴァランチーヌ、君の死に手をかすようなことはしなくてすんだのだ。ああ、愛するヴァランチーヌ! だが、今は共犯者でも、必ず君の仇は討ってやる。この四番目の殺人は万人の目に明らかな現行犯だ。もし君のお父さんが君を見捨てるなら、ヴァランチーヌ、僕が、僕が、僕は誓う、必ず犯人を追いつめてみせる」
今度は、あたかも自然がついに、この頑健な肉体が己れ自身の力によってくずおれるのを憐れんだかのように、モレルの言葉の終りのほうは喉の奥で消えた。彼の胸は鳴咽にはりさけ、長いこと流れることを拒んできた涙がその目からあふれた。彼は倒れこむように、ヴァランチーヌのベッドのわきに膝をつき、涙を流した。
今度はダヴリニーが口を開く番であった。
「私も」と、彼は力強い声で言った。「私も犯罪を法的に糾明することをモレルさんとともに要求する。私が卑怯にも君の家庭のためを思ってしたことが、犯人を勇気づけたことを思うと、胸がむかむかするからだ」
「ああ!」ヴィルフォールは絶望的な呻きを洩らした。
モレルは顔を上げ、異常なまでにらんらんと輝いている老人の目の色を読み、
「ほら、ノワルチエさんがなにかおっしゃりたいご様子です」
『その通り』この哀れな老人の、力を奪われたいっさいの機能が、その目に集中されているだけに、それは見るもすさまじい形相であった。
「犯人をご存じなんですか」モレルが言った。
『そうだ』老人が即座に答えた。
「じゃ、教えて下さるんですね」青年は叫んだ。「聞きましょう、ダヴリニー先生、伺いましょう」
ノワルチエは、不幸なモレルに憂いのこもった微笑を向けた。幾度かヴァランチーヌの心を慰めた、あのやさしい目の微笑を向けて、モレルの注意をひいた。
そして、相手の目を、いわばその目で射すくめるようにしてから、目をドアのほうに向けた。
「私に出て行けとおっしゃるんですか」苦しげな声でモレルは言った。
『そうだ』
「ああ! でも、僕を隣れと思って下さい」
老人の目は無情にもドアのほうに向けられたままであった。
「せめて、あとでまた来てもいいですね?」モレルは訊ねた。
『いい』
「僕だけ出るんですか」
『いや』
「どなたをおつれすればいいんですか。検事さんですか」
『いや』
「先生ですか」
『そうだ』
「ヴィルフォールさんとお二人きりになりたいんですね」
『そうだ』
「でも、検事さんに、あなたのおっしゃることがおわかりになるでしょうか」
『わかる』
「おお、安心したまえ」二人きりで話が聞けるのを喜んだヴィルフォールが言った。「私には父の言いたいことはよくわかるのだ」
今述べたうれしそうな言い方はしながらも、検事の歯ははげしくかちかちと鳴っていた。
ダヴリニーはモレルの腕を掴み、青年を隣室につれて行った。
家全体が死の静寂よりも深いしじまに包まれた。
やがて、十五分ほどして、よろめく足音が聞こえ、ダヴリニーとモレルがいたサロンの戸口の所にヴィルフォールが現われた。ダヴリニーは思いにふけり、モレルはむせび泣いていた。
「こっちへ」ヴィルフォールは言った。
そして二人をノワルチエの椅子のそばにつれて行った。
モレルは注意深くヴィルフォールの顔をうかがった。
検事の顔は土気色であった。額には錆《さび》のような色の大きなしみが浮かんでいた。
指の間に握ったペンが、幾重にも折り曲げられ、ぽきぽきと小さく折れた。
「お二人に誓っていただきたいのだが」検事はひきつった声でダヴリニーとモレルに言った。「この恐るべき秘密はわれわれの間だけのものにしてほしい」
二人は、そんな、という動きをした。
「お願いだ!」ヴィルフォールは続けた。
「ですが」モレルが言った。「犯人は! 殺害者は! 人殺しは!……」
「安心したまえ。法の裁きはつける」ヴィルフォールは言った。「父は犯人の名を明らかにしてくれた。父も君と同じように仇を討ちたくてたまらないのだ。それでいて、その父が私と同じように、この犯罪の秘密を守ってくれと、君に頼んでいるのだ。そうですね」
『そうだ』きっぱりとノワルチエは答えた。
モレルは思わず、嫌悪と不信の動きを見せた。
「おお!」ヴィルフォールがマクシミリヤンの腕をおさえて引きとめながら言った。「父が、君も知っての通りの一徹な父が、君にこんなことを頼むのは、ヴァランチーヌを殺害した者が、すさまじい復讐を受けることを知っているからだ。
そうですね」
老人は『そうだ』という合図をした。
ヴィルフォールは続けた。
「父は私という人間をよく知っている。私は父に約束した。だから、お二人とも安心してほしい。三日、三日間の猶予をいただきたい。あなた方が訴え出ても三日ではかたがつかない。三日後には、私はわが子を殺害された恨みをはらす。どのようなものに動ぜぬ者をも心の底からふるえ上がらせずにはおかぬやり方で。
そうですね」
こう言いながら彼は歯ぎしりしつつ老人の麻痺した手をゆすぶった。
「今の約束はみな守られるでしょうか、ノワルチエさん」モレルが訊ねた。ダヴリニーの目も問いかけていた。
『守られる』陰惨な喜びをたたえた目が答えた。
「ではお二人とも、誓って下さい」ヴィルフォールが、ダヴリニーの手とモレルの手を重ね合わせながら言った。「私の家の名誉を憐れみ、この復讐を私にまかせる、と誓って下さい」
ダヴリニーは顔をそ向け、かすかな声で承諾した。しかし、モレルのほうは、検事から手をふりほどくと、ベッドに駈け寄り、唇を冷えきったヴァランチーヌの唇におしつけ、絶望の淵に沈む魂が洩らす長い呻き声をたてながら部屋をとび出して行った。
すでに述べた通り、使用人は一人残らず姿を消していた。
だからヴィルフォールは、さまざまな手続きをダヴリニーに頼まなければならなかった。大都会に住む者にとっては人が死ぬと、とくにこれほど疑わしい状況下で人が死ぬと、数も多く、きわめて面倒な手続きをしなければならないのだ。
ノワルチエの姿、このまったく動きのない苦しみ、身ぶりのない絶望、声のない涙は、見るも恐ろしいながめであった。
ヴィルフォールは書斎に戻り、ダヴリニーは、死者の検死をする、世間ではかなりどぎつく〈死人の医者〉と呼んでいる市役所所属の医師を呼びに行った。
三十分もたった頃、ダヴリニーが同業者を伴って帰って来た。通りに面した門はすべて閉められていたし、門番もほかの使用人とともにいなくなっていたので、門を開けに行ったのはヴィルフォール自身であった。
しかし、彼は階段の踊り場の所で足をとめてしまった。もはや死者のいる部屋には入る勇気がなかったのだ。
そこで、医師たち二人だけがヴァランチーヌの部屋に入った。
ノワルチエが、死者と同じような蒼い顔をして、死者と同じように動きもせず口もきかずに、ベッドのわきにいた。
検死医は、いかにもその半生を死体とともに過ごして来た男らしく、無造作に近寄ると、娘の上にかかっていたシーツをはねのけ、ただ少しだけ唇を開けさせた。
「ああ、可哀そうに、たしかに死んでますよ」ダヴリニーが吐息とともに言った。
「たしかに」医師は、ぽつんと一言答えて、またシーツをヴァランチーヌの顔にかけた。
ノワルチエが、声にならぬ息ぎれの音をたてた。
ダヴリニーはふり返った。老人の目が光っている。心やさしい医師は、ノワルチエが孫娘の顔を見たがっているのを察した。彼は老人をベッドに近づけた。そして検死医が死者の唇にふれた指を消毒液にひたしている間に、まるで眠っている天使のような、その静かな蒼白い顔を覆っているシーツをとりのけた。
ノワルチエの目尻に浮かんだ一粒の涙は、医師への感謝のしるしであった。
検死医は、ヴァランチーヌの部屋のテーブルの隅で調書を書き、この最後の手続きがすむと、またダヴリニーに送られて部屋を出て行った。
ヴィルフォールは、二人の足音を聞くと、また書斎の戸口の所に出て来た。
二言三言、検死医に礼を述べてから、彼はダヴリニーのほうに向き直って、
「で、司祭のほうは?」
「ヴァランチーヌの枕辺で、君がとくに祈りを捧げてもらいたいような司祭がいるかね?」
「いや、できるだけ近くの人を呼んでほしい」
「一番近いのは、お宅のすぐ隣に越して来たイタリアのお坊さんですな。帰りがけにそうお伝えしましょうか」検死医が言った。
「ダヴリニー、頼むからこの方と一緒に行ってくれないか。君が自由に出入りできるようにこの鍵を渡しておく。司祭をおつれして、君も可哀そうなあの娘の部屋にずっといてやってくれないか」
「司祭になにか話したくないか」
「私は一人になりたい。許してくれるな、司祭なら人の悲しみはよくわかってもらえるだろう、父親の悲しみも」
こう言ってヴィルフォールは、邸のマスターキーをダヴリニーに渡し、検死医にもう一度別れの挨拶をしてから、書斎に入り、仕事を始めた。
ある種の人間にとっては、仕事は苦痛をいやすものなのである。
二人の医師が通りへ出たとき、法衣をまとった一人の男が、隣家の戸口の所に立っているのが見えた。
「さっきお話しした人ですよ」検死医がダヴリニーに言った。
ダヴリニーは僧に話しかけた。
「娘をなくしたばかりの気の毒な父親、ヴィルフォール検事のためにお務めをしていただけないでしょうか」
「ああ、存じておりますよ。お邸で亡くなられた方がおられる」司祭はひどいイタリア訛りで答えた。
「それなら、どういうことをしていただきたいか、申し上げるまでもありますまい」
「参りましょう、私どもの義務の前に進み出るのが、私どもの使命ですから」
「若い娘です」
「承知しております。お邸から逃げ出して行く召使いたちのうちの一人から聞きました。ヴァランチーヌというお名前だったことも。すでにご冥福を祈っておりました」
「ありがとうございます。すでにそのような聖なるお務めを始めておられるのですから、どうかそれをお続けになって下さい。死んだ者の枕辺にお坐りいただけませんか。死を悼み悲しんでおる家族一同が感謝するでしょうから」
「参りましょう。あえて申しますが、いまだかつてないほどの熱烈な祈りを捧げましょう」
ダヴリニーは司祭の手をとり、書斎に閉じこもっているヴィルフォールとは顔を合わせずに、ヴァランチーヌの部屋に招じ入れた。死体は夜にならなければ埋葬人に渡されないことになっていた。
部屋に入ったとき、ノワルチエの目が司祭の目とぶつかった。たしかにノワルチエは、そこになにか特殊なものを読みとったにちがいなかった。その目は司祭をとらえて放さなかったからである。
ダヴリニーは死んだ娘のことばかりではなく、生きている老人のことも司祭に頼んだ。司祭は、ヴァランチーヌのためには祈りを捧げ、老人に対してはその世話をしようと約束した。
僧は厳かにそう約束し、たぶん祈りを邪魔されないためと、老人が心おきなく悲嘆にくれられるようにするためであろう、ダヴリニーが部屋を離れると、直ちに、医師が出て行ったばかりのドアだけではなく、ヴィルフォール夫人の部屋に通ずるドアにまでも閂《かんぬき》をかけてしまった。
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百四 ダングラールの署名
翌日は陰気な曇り日であった。
夜の間に埋葬人たちは、その不吉な仕事を終えていた。ベッドの上に横たえられた死体を死装束に包みこんだのである。人が死の前での平等をいかに口にしたところで、死んだ者が生前愛した贅沢《ぜいたく》の最後のあかしを示しつつ、死者たちを陰鬱に包みこむあの死装束である。
その死装束は、ヴァランチーヌが二週間前に買った極上の白麻にほかならなかった。
宵のうちに、この仕事のために呼ばれた男どもが、ノワルチエをヴァランチーヌの部屋から老人の部屋に移したのだったが、予期に反して、老人は孫娘の遺体のそばから離れることになんの難色も示さなかった。
ブゾニ神父は夜明けまで通夜をし、夜明けとともに、誰も呼ばずに自宅に帰って行った。
朝八時頃、ダヴリニーがまた来た。彼は、ノワルチエの部屋に行く途中のヴィルフォールに会った。そこで彼は、ヴィルフォールとともに、老人がどのようにしてその夜を過ごしたか様子を見に行った。
二人は、老人のベッドともなっている大きな安楽椅子の中で、安らかに眠っている老人を見た。かすかに微笑さえ浮かべているかのようである。
二人とも、驚いて戸口の所に足をとめた。
「見たまえ」ダヴリニーは、眠りこけている父の姿に見入っているヴィルフォールに言った「自然はどのように激しい悲しみをも静めることができるのだ。ノワルチエさんが孫娘を可愛がっていなかったなどとは言えまい。にもかかわらず、あの人は眠っている」
「うむ、その通りだ」驚いてヴィルフォールが答えた。「眠っている。不思議だ。ほんのちょっとでも意にそわないことがあれば、幾晩でも夜通し眠らずにいる人なのだが」
「悲しみにうちのめされたんだ」ダヴリニーは言い返した。
そして、二人とも思いにふけりながら検事の部屋に戻った。
「見てくれ、私は、私は、眠らなかった」ヴィルフォールは、手のふれられていないベッドを指さしながら言った。「悲しみは私をうちのめしなどしない。二晩続けて私はベッドに入っていない。この二日二晩の間に、私は書いた……私はこの書類を調べ、殺人犯ベネデットの起訴状に註を加えたのだ!……おお、仕事よ、仕事、わが情熱、わが喜び、わが熱中の源よ、わが悲しみのことごとくをうちのめすものは汝なのだ!」
こう言って、彼はダヴリニーの手をわなわなと握りしめるのだった。
「私になにか頼みたいことがあるかね」医師は訊ねた。
「いや。ただ、十一時にまた来てくれないか。正午なのだ、ああ! 可哀そうに、あの娘がこの家を出るのは!」
こう言って、人の子に戻った検事は、目を天に向け、吐息を洩らした。
「じゃ、君はサロンで弔問客を迎えるのか」
「いや、その悲しい役は、従弟がやってくれる。私は仕事をするよ、仕事をしていると、すべてが消滅するのだ」
事実、医師がまだ戸口に着かぬうちに、検事はまた仕事を始めていた。
正面階段の上で、ダヴリニーはヴィルフォールが言っていたその親戚《しんせき》の男に出会った。この物語の中でも、またヴィルフォール家にとっても、まったく意味を持たない人物で、世俗の用を足すために生まれて来たような男である。
彼は時間通りに、黒い服を着こみ、腕に喪章をつけて、必要な間だけそういう顔をし続け、終ればさっさとやめてしまうとりつくろった顔をして、従兄の家にまかり越したのであった。
十一時になると、弔問客たちの馬車が中庭の敷石の上を行きかい、フォーブール・サン=トノレの通りは、金持ちのこととなれば祝い事でも葬式でも同じように見たがり、公爵令嬢の結婚式同様に、盛大な葬儀にはいち早く駈けつける群衆のささやきで満たされた。
次第々々に、サロンは弔問客でいっぱいになっていった。まず、すでにわれわれの古いなじみの一部、すなわち、ドブレ、シャトー=ルノー、ボーシャンが到着し、ついで、法曹界、文壇、軍関係のお歴々が来るのが見られた。ヴィルフォールは、その社会的地位もさることながら、その個人的な才能からして、パリ社交界でも一流の人物の中に列せられていたからである。
例の従弟が戸口に立って、客を中へ招じ入れていた。言っておかねばならぬが、これが父親とか兄弟とか婚約者とかであれば、客たちは心にもない顔をつくろい、空涙も流さねばならないところを、そこに関係のない者の顔を見出したことは、ただの弔問客にとっては、大いにほっとすることなのであった。
知人同士は目で呼び合い、それぞれにグループを作っていた。
そのうちの一つが、ドブレとシャトー=ルノーとボーシャンであった。
「可哀そうなことをしたな」ほかの者と同じように、この痛ましい事件に心にもない哀悼の意を表しつつ、ドブレが言った。「あんなに金があって、あんなにきれいだったのに。シャトー=ルノー、いつだったかな、せいぜい三、四週間前に、例の署名されなかった契約書の件で集まったとき、こんなことを予想できたかい」
「いや、てんで」シャトー=ルノーが言った。
「あの人のことを知ってたか」
「一、二度話をしたことがある。モルセール夫人の舞踏会の時にね。やや暗い感じはしたが、魅力的な人だと思ったよ。継母はどこにいる? 君、知らないか」
「今日は一日、われわれを迎えてくれたあの人の奥さんと過ごすんだ」
「あれは何者だい」
「誰が」
「われわれを迎えてくれた男さ、代議士か」
「いや」ボーシャンが言った。代議士には毎日会うはめになってるが、あの顔は知らない」
「君の新聞にはこの死亡記事を載せたのか」
「僕が書いた記事ではないが、載せたことは載せた。ヴィルフォール氏にとって愉快な記事とは思えんよ。たしか、もし検事邸以外の場所で四つの連続死亡事件が起きたのなら、検事はさらに激しい感情にかりたてられたはずである、というような書きぶりだった」
「それに」シャトー=ルノーが言った。「ダヴリニー先生は、先生は母の主侍医なんだが、ヴィルフォール氏はひどく絶望的になっていると言ってた。ところで、ドブレ、君は誰を探してるんだ」
「モンテ・クリスト伯爵を探してるんだよ」
「ここへ来る途中、大通りで会ったぜ。近く旅に出るんだと思うね、銀行へ行くところだった」ボーシャンが言った。
「銀行へ? あの人の銀行というと、ダングラールじゃなかったか」シャトー=ルノーはドブレに訊ねた。
「だと思う」大臣秘書はかすかにうろたえながら答えた。「だが、ここに来てないのはモンテ・クリスト氏だけじゃないぜ。モレルの姿も見えないな」
「モレルだって! 彼はこの家の知人だったのか」シャトー=ルノーが訊ねた。
「たしか、ヴィルフォール夫人にだけしか紹介されてなかったと思うな」
「かまわないから、来るべきだったよ。今晩の話題は何だと思う。この葬式、これが今日のニュースじゃないか。だが、しーっ、静かにしようぜ、司法大臣が来た。あの涙を浮かべた従弟氏に、短いスピーチをせねばならぬと思ってるようだ」
そこで三人の青年たちは、司法大臣のスピーチを聞くために、戸口のほうに近づいた。
ボーシャンの言ったことは事実であった。彼は弔問に向かう途中、モンテ・クリストに会ったのである。モンテ・クリストのほうは、ショセ=ダンダン通りのダングラール邸に向かうところであった。
銀行家は窓から伯爵の馬車が中庭に入って来るのを見た。彼は、暗いが愛想のいい顔で伯爵を迎えに出た。
「伯爵」彼はモンテ・クリストに手をさしのべながら言った。「私の不幸を悔《くや》みに来て下さったんですね。まったくのところ、不幸がこの邸に住みついちまいましてね。あなたのお姿が見えたとき、私はちょうど、わしはあの気の毒なモルセール一家に不幸が訪れればいいと願っていたのではないだろうか、とすればまさに諺に言う、『人を呪わば穴二つ』ですからね、そんなふうに自分に問いかけていたくらいです。ですが、誓ってそんなことはない。私は、モルセールに不幸が起きればいいなどとは思ったことはありません。あの男は、私同様卑賎な生まれから身を起こし、これまた私同様腕一本で成り上がった者にしては、いささか高慢ではあったでしょうが、でも欠点というものは誰にでもあるもので。ああ、お気をつけになったほうがいいですよ、伯爵、われわれの年代の者は……あ、これは失礼、あなたは私どもの年代ではありませんでしたな、あなたはまだお若い……われわれの年代の者にとっては、今年はいい年じゃありません。その証拠があの謹厳そのものの検事さん、またお嬢さんをなくしたヴィルフォールです。思い返してみて下さい。ヴィルフォールは、今申しましたように、家族みんなに妙な死に方をされてしまうし、モルセールは名誉を失い死んでしまうし、この私は、あのベネデットの悪党ぶりにしてやられて、世間の笑い者になってしまうし、それに!」
「それに、何です?」伯爵は訊ねた。
「ああ! それではまだご存じじゃなかったんですか」
「なにかまた悪いことでも?」
「娘が……」
「お嬢さんが?」
「ウジェニーが出て行っちまったんです」
「え、何ですって、まさか!」
「ほんとうなんですよ、伯爵。まったくのところ、妻も子もないあなたが羨ましい」
「そうお思いですか」
「ええ、ほんとうに」
「で、ウジェニーさんは……」
「あの娘には、あの悪党が私どもに与えた侮辱に耐えられなかったんです。旅に出させてくれと言いましてね」
「で、もうお発ちになったんですか」
「先だっての夜」
「奥さんとご一緒に?」
「いえ、親戚の娘と……でも、もうあの可愛いウジェニーは帰って来やしません。私がよく知っているあの娘の性格じゃ、フランスヘ帰って来いと言ったって、金輪際《こんりんざい》きくわけがありません」
「仕方がないじゃありませんか、男爵。家庭的な悲しみというものは、子供だけが財産であるといった一文無しにとっては致命的なものでしょうが、百万長者にとっては耐えられぬものではありません。哲学者がなんと言おうと、実際的な人間は、『金さえあれば苦労なし』と、その点についてはいつも反論を加えているんですからね。あなたがこのなにものにもまさる慰めの効きめをお認めにさえなれば、ほかの誰よりも早く、あなたは立ち直れるはずじゃありませんか。なにしろあなたは財界の王で、いっさいの権力の交差点に立つお方だ」
ダングラールは、からかわれているのか、それとも本気なのかと、伯爵をちらと横目で見た。
「そうですな、財産というものが慰めになるんだとしたら、私は立ち直れるはずです。私には金がありますからな」
「金持ちですとも、男爵、あなたの財産はピラミッドさながらですよ。こいつを崩そうたって、そんな勇気はないでしょうし、勇気があったって、できることではありません」
ダングラールは、伯爵の信じきった人のよさに微笑を洩らした。
「それで思い出しましたがね、じつはあなたがお見えになったとき、私は手形を五枚作っているところだったんです。二枚はもう署名したんですが、残りの三枚に署名してしまってもよろしいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ、男爵」
一瞬沈黙が訪れ、その間に、銀行家が走らせるペンのきしむ音がした。モンテ・クリストは天井の金ぴかの装飾を見ていた。
「スペインの手形ですか」モンテ・クリストは言った。「それともハイチの、いやナポリのですか」
「いいえ」ダングラールは得意そうな笑いを浮かべた。
「持参人払いの手形です、フランス銀行のね。ほれ」彼はつけ加えた。「私が財界の王であるように、財界の皇帝たるあなたは、こんなちっぽけな紙きれ一枚が百万フランの値打ちがあるのなど、いくらもごらんになったでしょうな」
モンテ・クリストは、ダングラールが得意満面で彼にさし出した、その紙きれを、目方をはかるような形で手にのせた。
『フランス銀行理事殿におかれましては、小生の請求により、小生の預金より、現金にて百万フランお支払い下さいますよう。男爵 ダングラール』
「一、二、三、四、五枚」モンテ・クリストは数えた。
「五百万! いやはや、すごいやり口ですな。まさにクレジュス〔その莫大な富で有名であったリュディアの王〕だ!」
「私の仕事のやり方はざっとこんなものでしてね」
「お見事です。とりわけ、これが、私が信じている通りにすぐ現金になるとすれば」
「なりますよ」
「そのような信用があるというのはじつにすばらしいことです。ほんとうのところ、こんなものはフランスでしか見られません。五枚の紙きれが五百万などとは。この目で見なければ信用できませんよ」
「お疑いになるんですか」
「いや」
「どうもその口ぶりでは……どうです、お望み通りにいたしましょう。家の店員を銀行におつれ下さい。そうすれば、店員が同じ額の銀行券を持って出て来るのがご覧いただけます」
「いや」モンテ・クリストはその五枚の手形を折りたたみながら言った。「それには及びません。大へんにおもしろそうですから、私自身でやってみたいと思います。私がお宅に設定した信用は六百万で、そのうち九十万フランはすでに受け取りましたから、あなたは私に五百十万負債があるわけです。あなたのご署名を拝見するだけで信用して、この五枚の手形をいただきましょう。これは六百万の受け取りです。これで私たちの間の勘定は清算されたことになります。私は予めこの受け取りを用意して来たんです。というのは、じつは、今日はどうしても金が必要なものですから」
こう言ってモンテ・クリストは、一方の手でその五枚の手形をポケットに入れ、同時にもう一方の手で、受け取りを銀行家にさし出していた。
たとえ足もとに雷が落ちても、これ以上の恐怖をダングラールに与えはしなかったであろう。
「な、なんですって!」ダングラールは口ごもった。「伯爵、その金をお持ちになるんですか。ああ、ごかんべん願います。それは、養育院に返さねばならぬ金なのです、預金なのです。私は今日午前中に返す約束をしたのです」
「ああ、それなら話は別です。私はべつにこの五枚の手形には固執しません。別の形でお支払い願いましょう。私はただ好奇心からこの手形をいただいたまでです。ダングラール銀行は、一言も文句を言わず、五分間も待てとは言わずに、現金で五百万私に払ってくれたと、世間中に言ってやろうと思いましてね。これはきっと受けますよ。が、とにかくこの手形はお返ししときましょう。繰り返しますが、別のをいただきましょうか」
伯爵はその五枚の手形をダングラールのほうにさし出した。ダングラールは土気色になって、まず、肉片をとり上げられたハゲタカが籠の金網の間から爪をのばすように、手をのばした。
と、急に思い直し、すさまじい努力をしてやっと思いとどまった。
やがて彼の顔に微笑が浮かび、うろたえたその顔つきも次第になごんできた。
「実際のところ、あなたの領収書なら現金も同様ですな」
「そうですとも。もしあなたがローマにおいでなら、私の領収書で、トムスン・アンド・フレンチ商会は、あなたほどの難色を示さずに、あなたに支払いますよ」
「いやいや、申し訳ありませんでした、伯爵」
「では、この金はいただいてよろしいんですね?」
「ええ」ダングラールは生え際ににじむ汗をぬぐいながら言った。「どうぞ、どうぞ」
モンテ・クリストは五枚の手形をまたポケットにしまったが、その顔には、
『よく考えたほうがいいですな、後悔してるんなら、まだ間に合うんですぞ』
という意味の、例のなんとも言い表わしようのない表情を浮かべていた。
「いえ、いえ、たしかに。どうぞそれをお持ち下さい。ですが、ご承知のように金を扱う人間ほど形式主義者はおりませんものでな、私はその金を養育院へ返すつもりでいたもんで、どうしてもその手形で払ってやらないと、そっちのほうの金を盗んでいるような気になってしまって。まるで、同じ一エキュが、ほかの金貨じゃ一エキュの値打ちがないみたいに。どうかお許し下さい」
こう言って彼は大声で笑い出したが、その声はひきつっていた。
「かまいませんよ」モンテ・クリストは鷹揚《おうよう》に言った。
「ではいただきます」
彼はその手形を紙入れにはさんだ。
「が、まだ十万残ってますな」ダングラールが言った。
「おお、そんなはした金、手数料だってそれぐらいにはなりますよ。とっておいて下さい。私たちの間ではもう清算済みです」
「伯爵、本気でおっしゃってるんですか」
「私は銀行家相手に冗談など言ったことはありません」無礼とも言えるほどのきまじめな顔でモンテ・クリストは言い返した。
そして、彼がドアのほうに歩きかけたとき、ちょうど召使いが入って来て、
「養育院の収入役、ボヴィル様がおみえでございます」
と告げた。
「ほう、私はどうやら間に合ったようですな。あなたの手形の取り合いですね、これは」
ダングラールはまた蒼くなった。そして早々《そうそう》に伯爵にいとまを告げた。
モンテ・クリスト伯爵は待合室に立っていたボヴィルとていねいな挨拶をかわし、伯爵が立ち去ると、ボヴィルはただちにダングラールの部屋に通された。
養育院収入役が手にしていた書類入れを見たとき、伯爵のきまじめな顔に、ふと笑いが浮かんで消えたのを、そこに人がいれば見たはずである。
門の所で馬車が待っていた。彼は直ちにフランス銀行に向かわせた。
この間に、ダングラールは心の動揺を懸命に抑えながら、ボヴィルを迎えていた。
彼の唇に笑みと愛想よさとがはりついていたことは言うまでもない。
「ようこそ債権者さん、と申しますのは、お越し下さったのは債権者の方と思いますので」
「お見通しの通りです、男爵。養育院の代理として参上しました。未亡人たちや孤児たちが、私を通して、五百万フランをいただきに伺ったわけです」
「それでいて、孤児たちは気の毒だなどと世間では言うんですからな。まったく可哀そうな子供たちですよ」ダングラールはいつまでも冗談をやめずに言った。
「で、私は彼らの代理で参ったのです。昨日差し上げた手紙は受け取っていただけたのでしょうね」
「拝見しました」
「領収書を持参しております」
「ボヴィルさん。お宅の未亡人たちや孤児たちに、もしできれば、二十四時間だけ待ってもらえぬものでしょうか。というのは、さっきここから出て行かれるのをご覧になったモンテ・クリストさんが……あの方にお会いになりましたな?」
「お会いしましたが、それで?」
「それで、あの方が孤児たちの五百万を持って行ってしまわれたのです」
「それはいったいどういうことですか」
「伯爵は私どもに、無制限貸出の権利をお持ちなんです。ローマのトムスン・アンド・フレンチ商会の保証でね。あの方は一ぺんに五百万フランを払えとおっしゃって来たんです。私はフランス銀行の手形をお渡ししました。私の資本が入れてあるもんですからね。で、おわかり願えると思うんですが、一日のうちに理事の手から一千万も引き出すのでは、どうも少し異常すぎると思われやしないかと思いましてね」
「二日にわたってのことなら」と、ダングラールは笑いながらつけ加えた。「こんなことは申しません」
「驚きましたな」ボヴィルは満面に疑惑をみなぎらせて叫んだ。「さっきここを出て行かれて、まるで知己のごとくに私に挨拶なさったあの方に、五百万お渡しになったとは」
「たぶん、あなたのほうでご存じなくとも、あちらではご存じなんでしょう。モンテ・クリストさんの知らぬ人はありませんからな」
「五百万!」
「これがあの方の領収書です。聖トマス〔十二使徒の一人。その傷痕を見、手でふれるまではキリストの復活を信じなかった〕のようになさい。しかとご覧になって、手でさわってみて下さい」
ボヴィルはダングラールがさし出した紙片を受け取り、そして読んだ。
『ダングラール男爵より、五百十万フラン受領しました。上記金額は、ローマのトムスン・アンド・フレンチ商会より随時返済されます』
「ほんとうですな、これは」ボヴィルが言った。
「トムスン・アンド・フレンチ商会をご存じですか」
「ええ、昔二十万フランの取引きをしたことがあります。が、その後あの商会の話は聞いたことがありません」
「これは、ヨーロッパでも一流の商会ですよ」ダングラールは、ボヴィルの手からとり返した受領書を、無造作に机の上に投げながら言った。
「あなたの銀行だけで五百万も持ってるんですか。ほう、モンテ・クリスト伯爵というのはインド太守かなにかなんですか」
「いや、私もよくは知らないんですがね。が、あの方は無制限貸出の権利を三つもお持ちなんですよ。私の所と、ロスチャイルドと、ラフィットです。それに」ダングラールは無造作につけ加えた。「私に、手数料として十万フラン下さいました」
ボヴィルは讃嘆おくあたわずという表情を示した。
「一度お訪ねしなければいけませんな。手前どもに、浄財を寄付していただくために」ボヴィルは言った。
「おお、それはもう手になさったも同然ですよ。なにしろ、あの方は施し物だけで、月に二万以上もなさっているんですから」
「それはすばらしい。それに、私はモルセール夫人と息子さんの例をあの方にお話ししましょう」
「どういうお話です?」
「全財産を養育院に寄付なさったんです」
「どの財産を」
「お二人の財産です。モルセール将軍の、亡くなられた将軍の財産です」
「どうしてまた」
「あんな卑劣な手段で手に入れた財産など欲しくないというわけです」
「どうやって暮らすんです」
「お母さんは田舎に引込み、息子さんは軍隊に入るんです」
「ほ、ほう。それはまた潔癖な人たちだ」
「私は昨日、贈与証書の登録をしてもらいました」
「どのくらい持ってました」
「おお、大したことはありません。百二、三十万といったところです。それはとにかく、私どもの金の話に戻りましょう」
「結構です」いとも自然にダングラールは言った。「その金はお急ぎになるわけですな」
「もちろんです。会計検査が明日行なわれるもんですから」
「明日! なぜそれをすぐにおっしゃらないんですか。明日なら、まだたっぷり時間はありますよ。検査は何時です?」
「二時です」
「正午にとりによこして下さい」彼特有の笑いを浮かべながらダングラールは言った。
ボヴィルは、多くを答えなかった。うなずきながら、書類入れをゆすっていた。
「あ、いいことがあります」ダングラールが言った。「こうなさい」
「どうしろとおっしゃるんですか」
「モンテ・クリストさんの受領書なら現金も同じことです。これをロスチャイルドかラフィットヘお持ちなさい。即座に引き受けてくれますよ」
「ローマ支払いになっていてもですか」
「大丈夫です。ただ、五、六千フラン割引かれますがね」収入役は一歩飛びのいた。
「とんでもない、明日まで待ったほうがましですよ。ほんとうにあなたはやり手だ」
「いえ、ちょっとね、お許し下さい」ダングラールは鉄面皮ぶりを発揮して言った。「じつは、あなたが欠損の穴埋めをしなきゃならないんじゃないか、と、ふとそんな気がしたものですから」
「何をおっしゃる!」
「まあ、まあ。こんなことは外に出ちまうもんなんですよ。そういうときには、多少の損はしなけりゃ」
「ありがたいことに、そんなことはありませんな」ボヴィルは言った。
「では、また明日。そうですな、収入役さん」
「ええ、また明日。ですが、まちがいないでしょうな」
「なにをあなた、ご冗談でしょう。正午に使いの方をおよこし下さい。フランス銀行のほうにも通知しておきますから」
「私が自分で参ります」
「それならなお結構です。またお目にかかれますからな」
二人は握手をかわした。
「ところで」と、ボヴィルが言った。「あの気の毒なヴィルフォールのお嬢さんのお葬式にはいらっしゃらないんですか。私は大通りで葬列に出会いましたが」
「行きません」銀行家は言った。「ベネデットの件以来、私はまだ、いささか世間の笑いものになっておりますんでね、世間の目からかくれているんです」
「ああ、それは違いますよ。あれはみんなあなたのせいじゃありません」
「いえね、私のように後ろ指一本さされたことのない名前を持つ者には、こたえるのです」
「誰もがあなたのことをお気の毒に思っています、ほんとうですよ、とくにお嬢さんのことは」
「可哀そうなウジェニー!」ダングラールは深い溜息をついた。「あの娘《こ》が、尼になるっていうのをご存じですか」
「いいえ」
「ああ、しかし、残念ながらほんとうなんです。事件の翌る日、あの娘は友だちの尼さんと一緒に出かける決心をしたんです。イタリアかスペインの、うんと厳格な修道院を探すと言ってます」
「それはまたひどい!」こう言ってボヴィルは、父親に、その不幸をいたむ言葉を並べて帰って行った。
が、ボヴィルが外へ出るか出ないかのうちにダングラールは、フレデリックが演ずるロベール・マケールを見た者にだけ想像できるような、力をこめた身ぶりとともに、
「馬鹿め!」
と叫んだ。
そして、小さな紙入れにモンテ・クリストの受領書をはさみ込むと、
「正午に来てみろ、正午になんか、わしはもう遠くへ行っておるわ」
とつけ加えた。
それから彼は、ドアに厳重に鍵をかけ、金庫の引出しを全部ぶちまけ、五万フランほどの札をかき集め、さまざまな書類を焼き捨て、ほかの書類は目につくようにしておき、手紙を書き始めた。封をすると、表書きに、
『ダングラール男爵夫人殿』としたためた。
「今夜」彼はつぶやいた。「わしは、自分でこの手紙を家内の化粧台の上に置いてやるのだ」
そうして、引出しからパスポートをとり出すと、
「よし、まだ二か月は有効だな」とつぶやくのだった。
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百五 ペール=ラシェーズの墓地
ボヴィルは実際に、ヴァランチーヌをその人生最後の住まいに向かわせる葬列に出会ったのであった。
天気は暗く曇り、まだなま暖かいとはいうものの、すでに黄ばんだ木の葉にとってはその息の根をとめる力を持つ風が、木々の枝からその葉をもぎ取り、徐々に裸にしていって、各大通りを埋めたおびただしい群衆の上に、木の葉を舞わせていた。
生粋のパリっ子であるヴィルフォールは、ペール=ラシェーズの墓地のみが、パリの家庭での死者を迎えるにふさわしい場所と考えていた。ほかの墓地は、田舎の墓地、いわば死者が一時の宿をとる家具つきホテルのように彼には思えたのである。上流社会の死者が、ほんとうに自宅に住まうようにくつろげるのは、ぺール=ラシェーズ以外にはない。
すでに見たように、彼はここに永代使用権を買ったのであったが、そこには、あまりにも短期間の間に、彼の最初の妻の家族全員の名の刻まれた墓標がたてられたのである。
霊廟の切妻壁には、〈サン=メラン、ヴィルフォール両家の墓〉と刻まれていた。これが、ヴァランチーヌの母、ルネの遺志だったからである。
フォーブール・サン=トノレを発した盛大な葬列は、だからペール=ラシェーズに向かっていた。
葬列はパリ市中を横切った。フォーブール・デュ・タンプルの通りを通り、それから墓地まで、パリ市の外側の各大通りを進んだ。五十台以上の名士を乗せた馬車が、二十台の葬儀用の馬車に続き、さらにこの五十台の馬車の後に、五百人以上の者が徒歩で続いた。
ヴァランチーヌの死は、ほとんどすべての若者の胸を激しく打ったのであった。
今世紀のとかく冷ややかな風潮、散文的なご時世にもかかわらず、花の盛りを死によってつれ去られたこの美しく清純で愛くるしい乙女の死の詩的影響を若者たちの誰しもが受けていたのである。
パリを出たとき、四頭立ての馬車が疾走して来るのが見えた。いきなり、鋼鉄のバネのようなその強靱な脚を固くして馬はとまった。モンテ・クリストであった。
伯爵は馬車から降りると、徒歩で霊柩車の後に従っていた群衆の中にまじった。
シャトー=ルノーはその姿を認めた。彼は直ちに馬車を降り、伯爵の所へやって来た。ボーシャンも同じように、乗っていた貸馬車を捨てた。
伯爵は注意深く、群衆の人と人の間をうかがっていた。明らかに彼は誰かを探しているのだ。が、やがて諦めると、
「モレル君はどこですか、あなた方のうち誰かご存じありませんか」と、訊ねた。
「ヴィルフォールさんの家でもそう訊ね合ったんですよ。誰も彼をみかけなかったので」シャトー=ルノーが答えた。
伯爵は口をつぐんだが、なおあたりを見廻していた。
ついに葬列は墓地に着いた。
モンテ・クリストの射るような目が、さっとイチイと松の茂みの中をさぐった。やがて、彼の不安は一掃された。人影が植込みのかげを走り、伯爵は、おそらく、彼が探している者の姿をそこに見たのだ。
この壮大な墓地での埋葬式がいかなるものであるかは、読者諸子の知るところである。白い小径に散らばっている人の群れ。天と地の静けさ。その静けさを破る、木の枝の折れる音、墓の廻りの生垣に人が踏みこむ音。ついで司祭たちの単調な歌。それに、あちこちの花の茂みのかげから洩れてくるしのび泣く声。悲しみに沈み手を組み合わせた女たちだ。
モンテ・クリストが認めた人影は、アベラールとエロイーズの墓の後ろの、五点形の植込みを走り抜け、遺体を引いて来た馬たちの前を行く埋葬人夫たちと一緒になった。そして、人夫たちと同じ足どりで墓所に定められた場所まで来た。
みなめいめいになにかを見ていた。
モンテ・クリストは、彼の周囲の者がほとんど気づきもしないその人影しか見ていなかった。
伯爵は、その男の手が服の下にかくし持った武器をさぐるのではないかと、それをたしかめるために、再度人の列を離れた。
この人影は、葬列が止まったとき、モレルであることがわかった。襟もとまでボタンをかけた黒いフロックコートを着ていた。蒼ざめた額、こけた頬、わななく手に帽子をくしゃくしゃに握りしめ、これからとり行なわれようとする埋葬の儀式をなに一つ見落とすまいとして、霊廟を見下す小さな丘の上の一本の木に背をもたせていた。
すべてはしきたり通りに進行した。なん人かの男が、例によってこれは一番悲しみなど感じていない連中であったが、なん人かの男が弔辞を述べた。ある者はあまりに早く訪れた死をいたみ、ある者は父親の嘆きいかばかりかを長々と述べた。中には、すでにその頭上に法の刃がふりかざされていた罪人のために、この娘が一度ならずヴィルフォールに寛大な処置を頼んだなどと、気のきいたことを言うものもあった。やがてマレルブ〔十六世紀のフランスの詩人〕がデュペリエに贈ったスタンスをめったやたらとこねくりまわした美しい比喩や悲しい詩句も言い尽されてしまった。
モンテ・クリストはなにも聞いていなかった。なにも見ていなかった。と言うよりも、彼はモレルしか見ていなかった。モレルの落ち着いた身動き一つせぬ姿が、この青年士官の心の奥底に去来するものを見抜き得るただ一人の男にとっては、見るも恐ろしい光景となっていたのである。
「あっ」いきなりボーシャンがドブレに言った。「モレルがいるぞ! なんだってあんな所にかくれてるんだ」
二人はシャトー=ルノーにも教えた。
「すごく蒼い顔をしてるなあ」シャトー=ルノーがぞっとしながら言った。
「寒いんだよ」即座にドブレが答える。
「いや」シャトー=ルノーがゆっくりした口調で言う。「僕は、悲しんでいるんだと思うな。マクシミリヤンは涙もろい男なんだよ」
「へえ、ヴァランチーヌとはほとんど知るや知らずの仲だっていうのにかい。君自身そう言ってたじゃないか」ドブレが言った。
「そりゃそうだが、僕は、モルセール夫人の舞踏会のとき、彼が三回も彼女と踊ったのを思い出すよ。伯爵、ご存じでしょう、あなたが大いにもてはやされたあの舞踏会のときのことです」
「いや、知りませんね」伯爵は、どういう質問に、また誰に答えているのかもわからずに答えた。彼は、ただ一心にモレルを見張っていたのだ。モレルの頬は、息をころすかつめるかしている者に起こるように、紅潮していた。
「弔辞は終りましたな。皆さん、さようなら」唐突に伯爵が言った。
そして、別れの合図をして姿を消したが、どこへ行ったのかはわからなかった。
葬儀は終った。会葬者たちはパリヘの道を戻った。
シャトー=ルノーだけは、しばらく目でモレルを探した。だが、彼が伯爵の遠ざかって行くのを目で追っているうちに、モレルはもといた場所から離れていた。シャトー=ルノーは、探してもみつからぬままに、ドブレとボーシャンの後を追った。
モンテ・クリストは木立の中に飛びこんだのであった。そして、大きな墓のうしろに身をひそめ、モレルのどんなかすかな動きをも見逃すまいとうかがっていた。モレルは、野次馬たちが、ついで人夫たちが立ち去ってしまった霊廟に、徐々に近づいて来た。
モレルはうつろな目で、ゆっくりとあたりを見廻した。が、彼の視線の輪が、自分とは反対側の部分をながめまわしたとき、モンテ・クリストは、相手に見られずにさらに十歩ほど近づいた。
青年は跪《ひざまず》いた。
伯爵は、首を前にさし出し、じっと見開いた目を見据えて、膝を曲げたまま、なにかの気配があれば直ちに飛び出せる姿勢で、なおもモレルに近づいて行った。
モレルは、石に額をすりつけんばかりに身を折り曲げ、両手で鉄格子を掴み、つぶやいていた。
「おお、ヴァランチーヌ!」
噴き出るようなこの二つの言葉に、伯爵は胸のはり裂ける思いがした。彼はさらに一歩近づいた。そしてモレルの肩をたたき、
「君だったんだね、探していたんだよ」
モンテ・クリストは、モレルが怒りを爆発させ、自分を責め、非難するものと思っていた。が、それは違っていた。
モレルは振り返り、平静な様子で、
「僕は祈っていたんです」と言うのだった。
伯爵のさぐるような目が、青年を頭のてっぺんから足の先まで眺めまわした。
眺め終えると、彼は前よりも安心したようであった。
「パリまで送ろうか」伯爵は言った。
「いえ、結構です」
「なにかしてほしいことは?」
「祈りを続けさせて下さい」
伯爵はなにも言わずに遠ざかった。が、それはまた新たな見張り場所に立つためであった。その位置から、伯爵はモレルの一挙一動をも見逃さなかった。やがてモレルは立ち上がり、石で白くよごれた膝の埃を払い、ただの一度もふり返らずに、パリヘの道を戻って行った。
ロケットの通りをゆっくり下って行く。
伯爵は、ぺール=ラシェーズに駐車していた馬車を帰し、モレルの後を百歩ほど離れてついて行った。マクシミリヤンは運河を渡り、大通りを通って、メレ通りに戻った。
モレルが帰って閉じられた門が、五分後にモンテ・クリストのために開かれた。
ジュリーが庭の入口にいた。庭師としての仕事を大切なものに考えているペヌロン爺さんが、ベンガルバラの挿木をしているのを、そこで、注意深く見守っていたのである。
「まあ、モンテ・クリスト伯爵様!」ジュリーは、モンテ・クリストがこのメレ通りを訪れるたびに、この家の者がいつも見せる、あのうれしそうな様子を示して叫んだ。
「マクシミリヤンが今帰って来たと思うが、違うかね」伯爵は訊ねた。
「通るのが見えたようですけど、ええ」と若い妻は答えた。「でも、すみません、エマニュエルをお呼びになって下さいません」
「すまないが、すぐマクシミリヤンの所へ上がらねばならないのだ。非常に大切な話があるもんでね」
「それじゃどうぞ」
こう言って彼女は、モンテ・クリストが階段に姿を消すまで、その美しい笑顔で見送った。
モンテ・クリストは、すぐさま、一階とマクシミリヤンの部屋の間の二つの階を昇りきった。踊り場まで来たとき、彼は耳をすました。かたりとの音も聞こえない。
一つの家族しか住んでいない古い家の大部分がそうであるように、踊り場の後ろのドアはガラス戸になっていた。
ただ、このドアには鍵がさしこんでなかった。マクシミリヤンは中に閉じこもっていた。しかし、ドアごしに部屋の中を見ることは不可能だった。ガラスの内側には赤い絹のカーテンがかかっているのである。
伯爵の不安を、その赤い顔の色が示していた、このものに動じぬ男にはめったに起こらない徴候である。
『さてどうしたものか』彼はつぶやいた。彼は一瞬思いをめぐらした。
『呼鈴をならそうか。いや、いかん。ベルの音、つまり人の訪れを告げる音は、今おそらくマクシミリヤンがおかれているに違いないような立場の者に、その決心を早めさせてしまうことがよくある。そうなればベルの音に、もう一つ別の音が返ってくることになる』
モンテ・クリストの頭のてっぺんから足の先まで戦慄が走った。モンテ・クリストは電光のごときす早い決断をする男であったから、彼はガラスを一枚肘で突いた。ガラスは砕け散った。それから彼はカーテンをまくり上げた。ペンを片手に、机の前に坐っていたモレルがガラスの砕ける音に飛び上がったのを伯爵は見た。
「なんでもない」伯爵は言った。「すまなかった。足がすべって、すべったはずみにガラスを肘で突いてしまったのだ。ガラスが割れたついでに、中へ入れさせてもらうよ。そのまま、そのまま」
伯爵は割れたガラスの所から手を中に入れてドアを開けた。
モレルは、明らかに当惑した様子で立ち上がり、モンテ・クリストの前に歩み寄ったが、迎え入れるためではなく、むしろ道をふさぐためであった。
「まったくこれは君の召使いの落度だね」モンテ・クリストは肘をさすりながら言った。「この床はまるで鏡のようにぴかぴかだ」
「おけがはありませんでしたか」モレルの言葉は冷たかった。
「さあどうかな。ところで君は何をしていたのかね。書き物をしていたのかね」
「僕がですか」
「指がインクで汚れているよ」
「ほんとだ。書き物をしていました。いくら軍人でも、僕には珍しいことではありません」
モンテ・クリストは、なん歩か部屋の中に踏みこんだ。マクシミリヤンは伯爵を通さぬわけにはいかなかった。しかし、彼はぴったり伯爵の後についていた。
「書き物をしていたのかね」相手がやりきれなくなるほどじっと見据えながら、また伯爵が言った。
「そうだとすでに申し上げたはずです」
伯爵はあたりに視線を投げた。
「インクつぼのわきにピストルがあるね」彼は、机上におかれた銃をモレルにさし示しながら言った。
「旅に出ようと思って」
「マクシミリヤン」モンテ・クリストが限りない慈愛をこめて言った。
「何でしょう」
「マクシミリヤン君、お願いだ、あまり極端に思いつめてはいけない」
「僕が思いつめてるですって!」モレルは肩をすくめた。「旅に出るのが、どうして思いつめたことになるんですか、伺いたいもんですね」
「マクシミリヤン、お互いにつけている仮面はぬごうじゃないか。マクシミリヤン、私が、つまらぬおせっかいをやいているふりをしても君がごまかされないのと同じように、私も君のその平静さを装っている態度にはごまかされないよ。
君にもわかっているだろう、そうじゃないか? 私にこんなまねができるか、ガラスを破り、友人の部屋の秘密をあばいたりできるか、私がほんとうに心配している、いや恐ろしい確信を抱いているのでなければ。
モレル、君は自殺しようとしているのだ」
「そうですか!」ぎょっとしながらモレルは言った。「いったいどこからそんな考えが出て来たんですか」
「君は自殺しようとしていると言っているのだ」同じ声音で伯爵は続けた。「これが証拠だ」
こう言って彼は机に近寄るなり、書き始めていた手紙の上に青年がのせておいた白紙をとりのけ、その手紙を手にした。
モレルは伯爵の手からそれをもぎ取ろうとして飛びついた。
しかし、この動きを予期していたモンテ・クリストは、機先を制して、マクシミリヤンの手首を掴み、まるで、はじけるばねを抑える鋼鉄の鎖のように、マクシリヤンの動きを封じた。
「モレル、この通り君は自殺しようとしているではないか。ここに書いてある!」伯爵は言った。
「よろしい」装っていた平静さから、いきなり激しい口調になって、モレルが叫んだ。「そうだったとして、僕がこのピストルの銃口を自分に向ける決心をしたとして、いったい誰にそれを止めることができるんですか。
いったい、誰に僕を止める勇気があるのですか。
僕がこう言ってもですか、
『僕の希望はすべてついえた。僕の心は破れ、生命の火は消えた。僕の周囲にはもはや死の悲しみと嫌悪の対象しかない。この世は灰となったのだ。人間の声は僕を引裂く』
また、こう言ってもですか、
『せめて死なせてくれるのが慈悲というものだ。死なせてくれなければ、僕は気が狂ってしまうからだ。僕は気違いになってしまう』
ねえ、伯爵、心の底からの苦しみと涙とともに僕がこう言うのを見ても、
『それはまちがっている』と人は答えるでしょうか。
せめてこれ以上不幸な男となるまいとするのを、人はとめられるものでしょうか。
伯爵、答えて下さい、その勇気があなたにはおありなんですか」
「ある、モレル」その静かな声は青年の激した調子と奇妙な対照を示していた。「その勇気を持つ者は、この私だ」
「あなたが!」モレルは、怒りと非難の色をつのらせて叫んだ。「僕をだまし、馬鹿々々しい希望を持たせたあなたがですか。なにか思いきったことをするなり、最後の決断をするなりすれば、僕があの人を救えた、いや少なくとも、僕の腕の中で死なせてやることはできたはずの時に、あだな望みを抱かせて、僕を引きとめ、なだめ、はやる心を眠らせてしまったあなたがですか。あなたは、限りない英知と、限りない物質的な力があるようなふりをしているだけだ。自ら神の意志の役割を演じ、いや演じているふりをしていながら、毒を盛られた娘に解毒剤を与える力さえ持ってはいない。ああ、あなたは、見るもおぞましい人かさもなければ、憐れむべき人だ」
「モレル……」
「そうだ、あなたは仮面をぬごうとおっしゃいましたね。よろしい、ぬぎましょう。あなたが墓地で僕の後をつけて来たときも、僕はまだあなたの問いには答えました。僕は誠実な男ですからね。あなたがここへお入りになったとき、僕はあなたをここまでお通ししました……ですが、あなたがあまりにも人の心を踏みにじり、まるで墓穴の中にひそむように僕が閉じこもっているこの部屋に来てまで僕に挑みかかり、この世の苦痛はすべて味わい尽したと思っていた僕に、あなたがまた新たな苦痛を味わわせに来た以上は、僕に恩恵を施す者と自称するモンテ・クリスト伯爵よ、万人の救い主たるモンテ・クリスト伯爵よ、満足するがいい、あなたは、友が死ぬのをその目で見るのだ!……」
言うなりモレルは、狂ったような笑いを唇に浮かべてふたたびピストルのほうに身をおどらせた。
幽霊のように顔蒼ざめたモンテ・クリストは、だが目だけはまぶしいほどに輝かせたまま、手をのばしてピストルを抑え、狂ったような青年にこう言った。
「私は繰り返すぞ、君は死なせぬ」
「とめられるものならとめてみろ!」モレルは言い返して、再度おどり出ようとしたが、それもまた伯爵の鋼鉄のような腕にはばまれた。
「とめてみせる!」
「いったいあなたは何者だと言うんですか。自由で自ら考える能力のある者に、その資格もないのにそれほど横暴な権力を振うとは」
「聞きたまえ、私は」モンテ・クリストは続けた。「この世のうちでただ一人君にこう言える者なのだ。『モレル、私は君のお父上の息子が今日死ぬことを望まぬ』とね」
こう言って、モンテ・クリストは、威厳をこめ、顔付を変え、厳かな態度で、腕を組んだまま胸をはずませている青年のほうに歩み寄った。モレルは、この男の神ともみまごう姿に思わず圧倒されて一歩退いた。
「なぜ父のことなど口になさるのですか」モレルは口ごもった。「僕の今日のこのことに、なぜ父のことをからませるのですか」
「それは、私が、今日君が自ら命を絶とうとしているようにお父上が自殺を決意なさった日に、お父上のお命を救った男だからだ。君の妹に財布を贈り、お年を召したモレル氏にファラオン号をお贈りした男だからだ。君が子供の頃、君をこの膝の上で遊ばせた、エドモン・ダンテスだからだ!」
モレルは、よろめき、息をつまらせ、あえぎ、うちひしがれてさらに一歩退いた。ついで、全身の力がぬけ、一声大声に叫ぶと、モンテ・クリストの足もとにひれ伏した。
が、急に、この讃嘆すべき肉体には、早くもふたたび力がすみずみまでみなぎった。彼は立ち上がると、部屋をとび出し、階段に向かって突進しながら声を限りに叫んだ。
「ジュリー、ジュリー! エマニュエル、エマニュエル!」
モンテ・クリストもとび出そうとした。しかし、マクシミリヤンは、死んでもその場を動くものかと、伯爵が出ようとするドアを抑えていた。
マクシミリヤンの声を聞きつけて、驚いたジュリー、エマニュエル、ペヌロン、それに召使いもなん人か、駈け上がって来た。
「跪くんだ!」彼は涙にむせぶ声で叫んだ。「跪くんだ。この人こそ恩人、この人こそ、お父さんの命を救ってくれた人なんだ。この人は……」
彼は、
「エドモン・ダンテスだ」と言おうとした。
が、伯爵はその腕を抑えて言わせなかった。
ジュリーは伯爵の手にすがりついた。エマニュエルは守護神に対するかのように接吻した。モレルはまたも跪き、額を床にこすりつけた。
すると、この青銅のごとき男の心も胸のうちにふくれ上がり、あらゆるものを舐め尽す激しい炎が、喉から目へと走りぬけた。彼は面を伏せ、涙を流した。
それからしばらくの間、この部屋の中に聞こえるものは、神に最も愛されている天使たちにもふさわしいような、崇高な涙と鳴咽の調べであった。
ジュリーは、今経験した深く激しい感動から覚めると、やにわに部屋をとび出し、下の階へ降りて、子供のような喜びを抱きながら、サロンに駆けこみ、メラン小路の謎の男が与えたあの財布の上にかぶせてあったガラスの覆いを持ち上げた。
この間に、エマニュエルはとぎれとぎれに、伯爵にこう言っていた。
「ああ、伯爵、なぜ、僕たちがあれほど謎の恩人のことをしょっちゅう口にしているのを聞きながら、あれほどの感謝と敬愛の念に包まれている僕たちをご覧になっていながら、なぜ今日まで、そのことを明かしては下さらなかったんですか。ああ、それは僕たちに対して、いえ伯爵、あえて申しますが、あなたご自身にとっても、それはあまりにもむごいじゃありませんか」
「あのね、エマニュエル」伯爵は言った。「こういう口のきき方をしてもいいと思う、君は気づきもしなかったが、君は十一年来の私の友だからね。この秘密は、おそらく君の知らぬ大事件のために、やむなく明かさざるを得なかったのだ。
神も照覧あれ、私はこの秘密は、死ぬまで私の魂の奥底に埋もれさせておきたかったのだ。君の義兄さんのマクシミリヤンが、乱暴なふるまいに及んで無理に明かさせてしまったのだ。今ではそのふるまいを後悔してるとは思うがね」
伯爵は、マクシミリヤンが、跪いたまま椅子に身を投げかけるのを見やりながら、
「義兄さんから目を離すな」エマニュエルの手を意味ありげに抑えてこう低くささやくのだった。
「なぜですか」青年は驚いて聞き返した。
「それは言えない。とにかく目を離すな」
エマニュエルは部屋の中を見廻した。そしてモレルのピストルを見た。
彼の目は、怯えたようにそのピストルの上に吸いつけられ、ゆっくりと指をそのほうに向けてモンテ・クリストにさし示した。
モンテ・クリストはうなずいた。
エマニュエルはピストルのほうへ行こうとした。
「そのままにしておきたまえ」伯爵は言った。
それからモレルの所へ行き、その手をとった。しばし青年の心をゆすぶった激情は、深い放心状態に席をゆずっていた。
ジュリーが戻って来た。絹の財布を手にしている。朝置く露のようなきらきら光る二粒のうれし涙がその頬をつたっていた。
「これが形見の品です。恩人の名がわかったからといって、大切ではなくなったなんて、お考えにならないで下さい」
「ジュリー」顔を赤らめながらモンテ・クリストが言った。「その財布を返してくれないか。もう私の顔も知ってしまったのだから、思い出の種は、私に対して抱いてくれる愛情だけにしてほしい」
「おお、とんでもありません」ジュリーはその財布を胸に抱きしめながら言うのだった。「そんなことはおっしゃらないで下さい。だって、いつかは伯爵様が私たちから離れて行っておしまいになるかもしれないんですもの。辛いことですけど、いつかはそうなさるおつもりなんでしょう、違いまして?」
「見事にお見通しだね」伯爵は笑いながら答えた。「一週間後には私はこの国を離れている。私の父は、飢えと悲しみのために息絶えたというのに、神罰を受けて然るべき者が、のうのうと幸せに暮らしているこの国をね」
近く旅に出る旨を口にしながら、モンテ・クリストはじっとモレルの顔を見ていた。そして、『私はこの国を離れている』という言葉も、モレルをその痴呆のように思考力を失っている状態からひき戻さぬのを見ると、この友の悲しみと最後の戦いを挑まねばならぬことをさとり、ジュリーとエマニュエルの手をとって、両手の中に握りしめながら、父親の威厳をこめてやさしく二人に言うのだった。
「二人とも、すまないがマクシミリヤンと二人だけにしてくれないか」
これは、ジュリーにとっては、モンテ・クリストがふたたび口にするのを忘れているあの形見を持ち去るよい機会であった。
彼女は急いで夫の手を引っ張った。
「二人きりにしておきましょうよ」
伯爵は、まるで石像のように動かぬモレルと二人だけになった。
「マクシミリヤン」伯爵は、火のように熱い指でその肩に触れながら言った。「どうかね、また人間に戻ったかね」
「ええ、また苦しみを感じ始めましたからね」
伯爵は眉をひそめた。なにか暗い思いを抱きながら、ためらっているようだった。
「マクシミリヤン! 君が考えていることはキリスト教徒にはふさわしくないことだよ」
「ああ、ご安心下さい」モレルは顔を上げ、言いようのない悲しみの色のただよう微笑を見せて言うのだった。「もう自ら死など求めません」
「では、もう銃も絶望もさようなら、だね」
「ええ、僕のこの悲しみをいやしてくれるものとして、銃や短刀などよりよいものを持ってますからね」
「何を言うのだ! いったい何を持っているというのかね」
「この悲しみ自体が僕の息の根を止めてくれますよ」
「マクシミリヤン」モンテ・クリストは、モレルと同じような悲哀の色を浮かべて言った。「私の言うことを聞くのだ――
ある日、今の君と同じ絶望に襲われたとき、というのは、私の絶望もやはり同じような覚悟を私にさせたのだからね、ある日私は君のように自殺しようと思った。ある日、やはり絶望の果てに、君のお父上もまた、自殺しようとなさった。
もし、お父上がピストルの銃口を額に向けようとしたとき、もし、私が三日前から手を触れなかった囚人の食事を私のベッドから遠ざけようとしていたとき、誰かがお父上に、私に、私たち二人に、この最後の瞬間に、
『生きるのだ! いまにきっと幸せな日が来る、生きていることを喜べる日が来る』
と言ったなら、その声がどこから来たものであろうと、私たち二人は、疑惑をこめた微笑を浮かべるか、あるいはどうしても信じられぬ苦しみを抱きつつもその言葉を受け入れただろう。それでいて、君を抱くたびに、いったい何度君のお父上は、生きていることをありがたく思ったことだろうか、私自身、どれほど……」
「ああ!」モレルは伯爵の言葉をさえぎった。「あなたは、あなたの自由を奪われただけじゃありませんか。父は財産を失っただけです。が、僕は、僕はヴァランチーヌを失ったんです」
「私を見るがいい、モレル」モンテ・クリストは、場合によっては、彼を偉大に見せ説得力あるものにする、あの威厳をこめて言った。「私を見るのだ。私の目に涙はなく、血管に熱い血が騒いでもおらず、心も不安に怯える動悸《どうき》に高鳴ってはいない。だが、私は、君が苦しんでいるのを見ているのだよ。マクシミリヤン、まるでわが子のように私が愛している君が苦しんでいるのを。このことは、苦しみとは人生のようなもので、その先には、必ずなにか未知のものがあるということを君に語りかけてはいないだろうか。私が君に生きていてくれと願うのは、生きていろと命令するのは、いつかはきっと、君を生かし続けたことを、君が私に感謝する日が来るという確信があるからなのだ」
「ああ、なんということをおっしゃるんですか。お気をつけになって下さい。おそらくあなたは、恋などなさったことがないんでしょう」
「まるで子供だね」
「恋に関してなら、認めます。おわかりでしょうか、僕は大人になったときからずっと軍人です。二十九歳まで、僕は恋を知らずに過ごしたのです。それまでに抱いた気持ちなんて、恋の名に価しませんからね。それが、二十九で僕はヴァランチーヌに会いました。つまり、二年近く前から、僕は彼女を愛していたわけです。二年近く前から、僕に対して書物のように開かれたその心の中に、神ご自身の手で書かれた、娘としての妻としての美徳の数々を読みとることができたのです。
伯爵、ヴァランチーヌと一緒にいれば、僕には、限りない、すごく大きな、未知の幸福がありました。この世の幸せにしては、あまりに大きく、あまりに完全で、あまりに神々しい幸せでした、なぜってこの世はこの幸せを僕に与えてはくれませんでしたからね。ということはね、伯爵、ヴァランチーヌがいなければ、僕にとっては、この世にはただ絶望と悲嘆しかないということなんです」
「私は希望を捨てるなと言ったのだよ」伯爵は繰り返した。
「お気をつけになって下さい、と僕も繰り返しますよ。あなたは僕を説き伏せようとなさっている。もし僕を説き伏せたとしたら、あなたは僕を狂わせてしまうことになるんです。だって、僕に、僕がまたヴァランチーヌに会えると信じこませてしまうことですからね」
伯爵は微笑した。
「友であり、父である伯爵!」モレルは興奮して叫んだ。「三度申します、お気をつけになって下さい。あなたの僕への影響力が、僕にはこわいんです。お言葉がどういう意味を持つか、気をつけて下さい。ほら、僕の目はまた輝き始め、心がまた燃え上がり、息を吹き返し始めてます。お気をつけになって下さい、あなたは僕に超自然的なことを信じさせておしまいになるのです。
もしあなたがヤイロの娘〔キリストが再生させた〕の上の墓石を持ち上げろとお命じになれば、僕はそれに従うでしょう。もしあなたが手をさしのべられて、波の上を歩けとおっしゃれば、僕は使徒のように、波の上をも歩くでしょう。お気をつけになって下さい、僕はあなたの意のままなのです」
「希望を持つのだ」伯爵は繰り返した。
「ああ!」興奮の高みから、また悲嘆のどん底に落ちて、モレルは叫んだ。「あなたは僕をからかっておられるんだ。あのやさしい、いや利己的な母親たちのように、子供の泣声がうるさいからといって、子供の悲しみを甘い言葉でなだめようとする、あの母親たちのようなものだ。
そうだ、お気をつけ下さいと言ったのはまちがいでした。あなたはなにも恐れることはないんです。僕は、念入りに念入りに、僕の胸中深くこの悲しみを秘めることにします。あなたに、そんなものに同情する気さえ起こさせぬほど、そっと、気づかれぬように秘めておきますから。
さようなら、伯爵、さようなら」
「いや違う、その逆だ」伯爵は言った。「これからは、マクシミリヤン、君は私のそばで私と一緒に暮らすのだ。もう君は私からは離れないのだ。そして一週間後には、君と私はフランスを後にする」
「で、相変わらず希望を持てとおっしゃるんですか」
「私が希望を持てと言うのは、君を立ち直らせる良薬を知っているからだよ」
「伯爵、僕にまだこれ以上悲しめるとして、あなたはそれを、なさってるんです。僕が受けた心の打撃のもたらしたものを、あなたは通り一ぺんの苦しみとしか受け取ってはおられません。だから、旅などという、通り一ぺんの方法で僕を立ち直らせることができるとお思いなんです」
こう言ってモレルは、とても信じられるものかとばかりに首を振った。
「何と言えばいいのかね」モンテ・クリストがふたたび口を開いた。「私は約束は守る男だ。試しにやらせてみてはくれないかね」
「僕の死の苦しみを長引かせるだけですよ」
「それはまたなんと弱い心の持ち主なのだ、君は。友が試しにやってみようとしていることのために、わずか数日の期間さえ、その友に与える力も君にはないのか! いいかね、モンテ・クリスト伯爵という男が、どういう能力の持ち主か、君は知っているのか。この世の多くの権力に対して、命令する力のあることを知っているのか。
神への信仰心厚きが故に、信仰さえあれば人は山をも持ち上げることができるとおっしゃった方にその奇蹟を実現していただける人間だということを知っているのか。
その奇蹟を、私は期待しているのだ。君はそれを待て。さもなければ……」
「さもなければ……」モレルが聞き返した。
「さもなければ、心にとめるがいい、私は君を友情にこたえぬ男と呼ぶ」
「伯爵、僕を憐れに思って下さい」
「マクシミリヤン、よく聞いてほしい、私は君をほんとうに隣れと思っている。隣れと思うから、一か月たっても、日も同じ、時刻も同じ一か月後、もし君の悲しみがいやされていなければ、私の言葉をよくよく心にとめておいてほしい、私は、私自らの手で、君をこの弾丸をこめたピストルと、イタリアの毒の中でも最も確実なもの、信ずるがいい、ヴァランチーヌの命を奪ったものよりも、さらに確実で効き目の早い毒薬の前に、君を坐らせてあげよう」
「約束して下さいますか」
「約束する。私は男だからね。私も、前に言ったように、死のうと思ったことがあるからね。それに、不幸が私から遠のいてからも、幾度私は、この永遠の眠りの至楽を夢みたかしれないからだ」
「ああ、たしかに約束して下さるんですね」酔ったようにモレルは叫んだ。
「約束なんてものではない、私は誓うよ」モンテ・クリストは手を前にさしのべて言った。
「一か月後、あなたの名誉にかけて、僕の悲しみが消えていなければ、あなたは僕に、僕のこの生命を自由にさせて下さるんですね。たとえ僕がどんなまねをしても、僕を友情にこたえぬ男などとはお呼びになりませんね」
「一か月後、日も同じ日、マクシミリヤン、一か月後の同じ時刻、これは神聖な日付だよ。君がそれに気づいているかどうか知らないが、今日は九月五日だ。
私が、死のうとなさっていたお父上をお救いしたのは、十年前の今日なのだ」
モレルは伯爵の手をとり、それに唇をあてた。伯爵は、あたかもこの崇敬の念が当然であることを知るかのように、なすがままにさせていた。
「一か月後に」と伯爵は続けた。「君は、私たち二人が坐っているテーブルの上に、すばらしい銃と、甘美な死を見出すこととなろう。だがその代わりに、そのときまで待つ、そのときまでは生きると約束してくれるね」
「おお、今度は僕が誓います」モレルは叫んだ。
モンテ・クリストは、わが胸に青年を抱き寄せ、長い間抱きしめていた。
「では、今日から君は私の家に来て住むのだ。エデの部屋を使いたまえ。せめて、娘の代わりに、息子にいてもらえる」
「エデですって! エデさんがどうかしたんですか」
「あの娘《こ》は昨夜発ったよ」
「あなたを離れて?」
「向こうで私を待つためだ……
さ、シャン=ゼリゼーで私と一緒になれるように準備をしたまえ。それから、私を、人に姿を見られずに、ここから出してほしい」
マクシミリヤンは頭を下げ、まるで子供か使徒のように、その命令に従った。
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百六 分配
アルベール・ド・モルセールが母親と自分のために選んだサン=ジェルマン=デ=プレの家の二階は、諸設備の完備したささやかな住まいとなっていたが、これの借手はどうしても素姓のわからぬ人物であった。
この男の顔を、出るときも入るときも、門番さえ一度も見ることはできなかった。というのは、冬は、劇場の前で主人を待つ大家《たいけ》の御者たちのように、赤い大きな胸飾りの中に深々と顎を埋めているし、夏は、門番の部屋の前を通って、ちょうど顔が見られるときになるときまって鼻をかむのである。言っておく必要があるが、この住人は、世間一般のならわしに反して、誰からもその行動を見張られるようなこともなく、あのように人目を忍ぶのは身分が高いからだと噂され、有力者とみなされてしまいその謎の出現もとやかく言われずにすんでいるのであった。
彼は、ふつう、きまった時刻にやって来た。時には、多少早かったり遅かったりすることもあったが、冬でも夏でも、だいたい四時頃やって来て部屋に入る。ただし泊ることは絶対にない。
冬は三時半になると、そのささやかな住まいを管理している口の固い女中が火を入れる。夏は三時半に、その同じ女中が氷柱を立てた。
四時になると、すでに述べたように、その謎の男がやって来る。
彼の二十分後に、その家の前に馬車が止まる。黒か、濃いブルーの服を着て、いつも大きなヴェールに顔をかくした婦人が一人、馬車を降り、影のように門番の部屋の前を通り過ぎ、ひそやかな足どりで、音もなく階段を上って行く。
婦人は、どこへ行くのかと問いかけられるようなことは一度もなかった。
だから、彼女の顔も、謎の男の顔同様に、二人の門番には知られていなかった。まことに模範的な門番で、このように慎ましい門番は、この首都のおびただしい数の門番の中でも、おそらくこの二人だけであろう。
この婦人が二階より上へは行かなかったことは言うまでもない。彼女は特殊なノックの仕方をする。ドアが開き、ついでまた閉じられ二度と開かない。ただそれだけである。
家から出て行くときも、入るときとまったく同じであった。
謎の女のほうが先に出る。相変わらずヴェールに顔を包んだまま、馬車に乗り、あるときは通りの一方の角に馬車は消え、あるときは別の角から消える。それから二十分後に、今度は謎の男が、赤い胸飾りかハンカチかで顔をかくしたまま出て来る。そして同じように消えて行くのである。
モンテ・クリストがダングラールを訪れ、ヴァランチーヌの埋葬がとり行なわれた日の翌日、この謎の男が、いつになく、午後の四時ではなくて、朝の十時頃この部屋に入った。
と、ほとんど同時に、いつもの間隔をおかずに、一台の辻馬車が到着して、ヴェールをかぶった婦人が急ぎ足で階段を上って行った。
ドアが開き、そして閉じられた。
が、そのドアが閉まりきらぬうちに、婦人が声高にこう言ったのである。
「おお、リュシヤン!」
このため、べつにその気はなかったが、門番は、この声を聞きつけ、このとき初めて、部屋の借手がリュシヤンという名であることを知った。が、これは模範的な門番であったから、このことは女房にも洩らすまいと心に誓うのであった。
「どうしたんです」ヴェールの女が、混乱し心せくあまりにその名を洩らしてしまった男が言った。「わけを聞かせて下さい」
「あのねえ、私、あなたのことを頼りにしてもいいこと?」
「当り前ですよ、よく知ってるじゃありませんか。いったい何があったんです。今朝の手紙を見て、僕はすごく心配になったんですよ。ひどくあわてているし、字は乱れてるし。さあ、僕を安心させるか、さもなきゃ、とことんまで心配させるかして下さい」
「リュシヤン、大へんなことになったの」婦人はリュシヤンにさぐるような目を向けた。
「ダングラールが昨夜、行ってしまったのよ」
「行ってしまった、ダングラールさんが行ってしまった! いったいどこへ」
「知らないわ」
「何ですって、知らない? とすると、もう帰っては来ないおつもりなんですか」
「きっとそうよ!
昨夜の十時、自分の馬車でシャラントンの市門の所まで行ったんですって。そこには、馬をつけた駅馬車が待っていて、御者にフォンテーヌブローへ行けと言って、召使いと一緒に乗り込んだって言うの」
「いったい、どういうことなんですか」
「ちょっと待って。あの人、私に書き置きを残して行ったの」
「書き置き?」
「ええ、お読みになって」
こう言って男爵夫人はポケットから一通の封を切った手紙をとり出し、それをドブレにさし出した。
ドブレは、すぐには読まずに、その内容を見抜こうとするかのように、いやむしろ、どういう内容であろうと、予め覚悟をきめておこうとするかのように、しばしためらっていた。
やがて、決心がついたのであろう、彼は読み始めた。
ダングラール夫人の心をこれほど混乱させてしまった手紙の内容は、次のようなものであった。
『貞淑なる妻に』
思わずドブレは読むのを止め、男爵夫人の顔を見た。夫人は目まで赤くなった。
「お読みになって」
ドブレは読み続けた。
『お前がこの手紙を手にする頃には、お前にはもう夫はいない。おお、あまり熱い涙などは流さないでほしい。娘がいなくなったように、夫もいなくなる。つまり、その頃わしは、フランス国外へ出る三、四十本の街道のうちの一つを辿っていよう。
お前にはわけを話しておく義務があると考えるし、お前はそれが理解できる女だと思うから、それを書きしるしておく。
よく読むのだ。
今朝急に五百万の返済をせまられ、わしはそれを払った。そのすぐ後で、同額の返済をせまられた。わしはそれを明日に延ばしてもらった。わしにとってはどうにもがまんできぬほど不快なものとなるはずのその明日を避けるために、わしは今日家を出る。
最愛の妻よ、わかるだろうね。
わしはこう言っておるのだ――
お前は、わしの事業のことをわし同様に知っておるのだから、お前にはわかるはずだ。いやわしよりよく知っているはずだ。少し前まではかなり巨額なものであったわしの財産の半分が、どこへ消えてしまったのかという段になれば、わしにはてんでわからぬが、お前ならば、ものの見事に余すところなく説明できるとわしは確信しておるからだ。
まったく女というものは、絶対に誤ることのない確実さを本能的に持っているものだ。女は、自分たちが発明した代数学で、奇蹟までも説明してみせる。ところがわしは、わしの数字しか知らぬから、わしの数字がわしを欺いたとなると、もうその日からなにがなにやらわからなくなってしまったのだ。
わしの没落の早さに、ときには目をみはったことがあるかね。
わしの金塊がまたたく間に白熱し溶けて行くさまに、少しはまぶしいと思ったことがあるかね。
白状するが、わしはただ火だけしか見なかった。お前がその灰の中に、いくらかでも金を見出していてくれればと思う。
そういうせめてもの慰めを抱いているからこそ、万事に慎重な妻よ、わしはお前を捨てることになんら自らを責める心もなく、お前から離れて行けるのだ。お前には友人もいれば、例の灰もあり、さらに無上の幸せとして、今わしが快くお前に返すお前の自由がある。
だが、他人には言えぬことを一言、書いておくべきときが来た。
わしは、わしの家庭の幸せのため、またわしたちの娘の財産のためにお前が働いているのだという希望が持てた間は、なにごとにもじっと目をつぶってきた。しかし、お前がわしの家を広大な廃墟と化したからには、わしはもう他人の財産の基礎を築くのに手をかすつもりはない。
わしは、金持ちだが身持ちの悪いお前を妻とした。
こういう率直な言い方をするのを許してほしい。だがたぶん二人だけの間で話をしているのだから、遠まわしな言い方などする必要はなかろう。
わしは、わしたちの財産をふやしてきた。十五年以上の間、この財産はふえ続けた。わしにとっては今だに不思議な、わけのわからぬ破局が襲いかかりいきなりわしらの財産に組みつき、ひっくり返してしまうまではな。はっきり言えるが、これはわしのせいでは絶対にない。お前のほうは、お前は自分の財産をふやすことだけにつとめた。そしてそれにお前は成功した。わしはだいたいそう確信している。
だからわしは、お前を妻としたときそのままに、金持ちだが身持ちの悪い女のまま残して行く。
さようなら。
わしも今日からは、わしだけのために働くことにする。
お前がわしに見せてくれたお手本を、わしが感謝していることを信じてほしい。わしもそのお手本を見習うことにする。
心からなる夫
ダングラール男爵』
男爵夫人は、ドブレがこの長く辛い手紙を読んでいる間、ずっとその顔を見守っていた。人に知られたその自制心の強さにもかかわらず、青年が一、二度顔色を変えるのを、夫人は見た。
読み終えると、彼はすぐもと通りにその手紙を折りたたみ、考えこむ姿勢になった。
「どう?」ダングラール夫人は、理解するにかたくない不安の色を浮かべながら訊ねた。
「どうって?」ドブレは機械的に聞き返した。
「その手紙を読んでどうお思いになる?」
「それは簡単ですよ。ダングラールさんは僕たちのことに感づいたまま家を出られたと思いますね」
「そうにちがいないわね。でも、おっしゃることはそれだけ?」
「お言葉の意味がよくわかりませんね」ドブレの言葉は氷のように冷たかった。
「行ってしまったのよ! 完全に行ってしまったのよ! もう帰って来やしないわ!」
「おお、そういうふうには考えないことですよ、奥さん」
「いいえ、はっきり申しますわ、主人はもう帰っては来ません。私はあの人のことをよく知っているんです。あの人は、自分の利害から割り出した決心は、絶対に変える人ではありません。
私がなにかの役に立つと思えば、私をつれて行ったはずです。あの人が私をパリに残したということは、私たちが別れたほうがあの人の計画には都合がいいということなんですわ。ですから、私たちが別れるのは決定的なんです。私はもう永久に自由の身なんですわ」ダングラール夫人は、祈るような調子でこうつけ加えた。
だが、ドブレは返事をせずに、夫人に、不安を抱いて相手の心をさぐるような目をさせているだけであった。
「まあ!」たまりかねて夫人が言った。「返事をしては下さらないの」
「そう言われても、僕には一つしかお訊きすることはないんです。どうなさるおつもりですか」
「それを私のほうからお訊きしたいの」胸をときめかせながら夫人は答えた。
「ああ、じゃ、僕にこうしろと言ってほしいというわけなんですね」
「そうなの、こうしろとおっしゃっていただきたいの」夫人は胸をしめつけられる思いで言った。
「それを言えとおっしゃるのなら」青年は冷ややかに答えるのだった。「旅に出ることをおすすめしますね」
「旅に出ろですって!」ダングラール夫人はつぶやいた。
「そうですよ。ご主人も言われたように、あなたはお金があるし、まったく自由な身の上です。少なくとも僕の考えでは、ウジェニーさんの破談、それにご主人の失踪《しっそう》と、二つも事件が重なったからには、パリをしばらく留守にすることが、絶対に必要だと思いますね。
ただ大事なのは、世間の人に、あなたが夫に捨てられたということを知らせ、あなたを貧乏だと思いこませることです。破産した男の妻が金持ちで、豪勢な暮らしをしているというのでは世間は承知しませんからね。
最初のほうは、あと二週間ばかりパリにいて、夫に捨てられたと会う人ごとにおっしゃって、とくに親しい人たちには、どのようにして捨てられたのかをお話しになればいいんです。その連中が吹聴《ふいちょう》してくれますからね。その後でお邸を出るんです。宝石類を残したまま、あなたの資産も放棄なさってね。そうすれば、みんながあなたの無欲ぶりをほめそやし、あなたの行動を讃えますよ。
こうなれば、世間はあなたが捨てられたことを知り、あなたを貧乏だと思いこむ。なにしろ、あなたの資産の情況を知っているのは僕だけですからね。今すぐにも、誠実な共同事業者として会計報告をしますよ」
男爵夫人はこの話を、色蒼ざめ、うちのめされて聞いていた。ドブレが平静に冷淡にしゃべればしゃべるほど、夫人はおぞましさと絶望を感じていた。
「捨てられた!」夫人は繰り返した。「まさに捨てられたんだわ。そうです、おっしゃる通りですわ。誰も私が捨てられたことを疑う人などいないでしょう」
これだけが、この自尊心が強く、そして激しい情炎を燃やしていた女がドブレに対して答え得た言葉だった。
「しかし、金はありますよ、すごい金持ちだ」ドブレはなおもこう言いながら、紙入れからなん枚かの紙片をとり出し、それをならべた。
ダングラール夫人は、懸命になって胸の鼓動を抑え、目のふちに浮かぶ涙をこらえようとしながら、黙って相手のすることを見ていた。辛うじて自尊心が夫人の心の中で勝を占め、胸の鼓動を抑えることはできなかったにしても、涙は流さずにすんだのである。
「奥さん、二人で事業を始めてから約半年になります。
あなたは十万フランの資本を投下なさった。
二人で事業を始めることにしたのは今年の四月です。
五月に実際に事業が始まりました。
五月には、僕たちは四十五万フラン儲けました。
六月には利益は九十万に達しました。
七月には、これに百七十万加わりました。ご承知のように、例のスペイン債の月です。
八月は、月始めには三十万フラン損をしましたが、十五日には損失を取り返し、月末には見事仇を打ちました。昨日で集計したところでは、二人で事業を始めてから昨日までで、僕たちの資産は二百四十万フラン、つまり一人あたり百二十万フランです。
つぎに」とドブレは、まるで取引所の仲買人のような落ち着いた手なれた様子で手帳を調べながら、「この資産への利子が八万フランあって、これも僕がお預かりしています」
「でも」男爵夫人はドブレの言葉をさえぎった。「利子ってどういうことですの。あのお金を運用するなんてことは一度もおっしゃいませんでしたのに」
「お言葉ですがね」ドブレは冷ややかに言うのだった。
「あれを運用する権限はあなたから委託されていたんですよ。その権限を行使したまでです。
ですから、利子の半分の四万フランはあなたのものです。それに最初に投下なさった資本の十万、計百三十四万フランがあなたの取り分です」
ドブレはさらに続けた。
「ところでね、奥さん、僕はあなたのお金を一昨日、おわかりのようにあまり前のことではありませんが、用心のために動産にしておいたんです。まるで、あなたに今にも金を返せと言われるのを見越していたみたいです。あなたのお金はここにあります。半分は紙幣、半分は持参人払いの手形で。
ここに、と言ったのはほんとうなんですよ。僕の家も安全とは考えなかったし、公証人もそう口が固いとは思えないし、不動産では公証人の口以上に世間に知れてしまいますからね。それにあなたには、夫婦共有財産の範囲以内でしか、なにも買うことも、所有することもできないわけですから、今となっては、あなたの唯一の財産であるこのお金を、僕はこの戸棚の奥に取り付けた箱の中に入れておきました。万一をおもんぱかって、その取り付けも自分でやりました。
さてと」ドブレは戸棚を開け、ついで金庫も開けながら続けた。「奥さん、千フラン紙幣八百枚です。ご覧の通り、鉄綴じのアルバムみたいでしょう。それに年二万五千フランの利札が加わります。それから残額分は、たしか十一万フランと思いますが、僕の取引銀行の一覧払い手形です。僕の銀行はダングラールさんの所ではありませんから、必ず現金になります、ご安心下さい」
ダングラール夫人は機械的に、手形と利札と札束を受け取った。
机の上にならべられたこの莫大な額の金が、まるでつまらぬもののように見えた。
涙はすでに乾いていたが、胸は鳴咽にふくらませたまま、ダングラール夫人はそれらの金を集め、鉄の小箱は手提げ袋に入れ、利札と手形は紙入れにはさんだ。そして、蒼ざめたまま、ただ黙って立っていた。このように金持ちになってしまったことを慰めてくれるやさしい言葉を待ったのだ。
だが、待っても無駄であった。
ドブレは言うのだった。
「これでもう奥さんはすごい暮らしができますよ。年収かれこれ六万フランとなれば、少なくとも向こう一年間は客を招いたりはできない女にとっては、大へんな額です。
どんな気まぐれを起こしても、それができるわけです。そればかりか、もしあなたの分だけでは足りないとお思いでしたら、もうお忘れになっているかもしれませんが、今までのこともありますから、私の分をお使い下さってもかまいません。喜んで提供しますよ、おお、もちろんお貸しするわけですが、僕の持っているものを全部、つまり百六万フランを」
「ありがとうございます」男爵夫人は答えた。「わかっておいででしょうけど、お渡し下さったものだけでも、少なくとも当分の間は社交界にまた出るつもりのない女にとっては、多すぎるほどのものですわ」
ドブレは一瞬驚いたが、すぐ気をとり直し、『どうぞご随意に』という意味を、最もいんぎんに伝える言葉に代わる身ぶりをした。
そのときまでは、ダングラール夫人はまだなにがしかの希望を抱いていたにちがいない。だが、ドブレがふと見せたそのしぐさと、そのしぐさに伴った斜《はす》かいに流し見る目、ついで深々と下げられた頭、そして意味深い沈黙とを見ると昂然と頭を上げ、ドアを開け、荒々しさ、とげとげしさは見せずに、さりとてためらいも見せずに、階段を降りて行った。その部屋をこのように出させる相手に対しては、最後の別れの言葉をかける気にもなれなかった。
「ふん、好きにするがいいさ」ドブレは夫人が行ってしまうと言うのだった。「あの邸に一人でいて、小説でも読むんだろう。もう株はできないから、トランプでもするさ」
それから彼はまた手帳を手にし、今支払った金額のそれぞれの欄を慎重に棒を引いて消した。
「まだ俺には百六万フラン残っている。
ヴィルフォールのお嬢さんが死んでしまったのは残念だったな。あれこそ、どこから見ても俺の女房にふさわしい女だった。あの人と結婚したのにな」
こうつぶやいてから、彼は落ち着き払って、いつものように、ダングラール夫人が立ち去ってから二十分たつのを待った。それから出て行くためである。
この二十分の間、彼は時計をかたわらに置いて、数字をいじくっていた。
ル・サージュがその傑作の中で先鞭をつけてしまわなければ、冒険を好む者ならば、成功の程度はともかくとして、誰もが創り出したであろうあの悪魔、他人の家の中をのぞくために屋根をはぐあの悪魔のアスモデが、ドブレが数字をいじくっている今、このサン=ジェルマン=デ=プレの家の屋根をはいだならば、不思議な光景が見られたことであろう。
ドブレが今しがたダングラール夫人と二百五十万もの金を山分けした部屋の上にも、われわれがよく知っている人物が住む部屋があったのだ。その人物たちは、今まで述べて来た話の中でもかなり重要な役割を演じて来た者たちなので、彼らにまた会うのも一興である。
その部屋には、メルセデスとアルベールがいたのだ。
この数日の間に、メルセデスはすっかり変わってしまった。彼女が、その最も勢いさかんなときには、ほかのどのような階級とも截然《さいぜん》と区別してしまう豪奢ぶりをひけらかしていたので、ひとたび質素な服をまとえばもう昔の彼女とはとても思えぬ、という意味ではない。また、零落の淵に沈み、みじめな衣服をまとうことを余儀なくされていたというのでもない。その目がもはや輝かないが故に、口もとに微笑がただよわぬが故に、そうして、かつては、つねにあふれるばかりの才気がその口からほとばしらせた言葉を、絶え間ない心労が唇の上で凍りつかせてしまうが故に、メルセデスは変わったと言ったのである。
メルセデスの才気をしぼませたものは貧困ではなかった。貧困を彼女に耐えがたいものにしているのは、彼女に勇気がないからではなかった。
それまで住んでいた環境を離れ、自ら選んだ新しい世界に埋没したメルセデスは、ちょうど、あかあかと照らされたサロンから急に外の闇の中に出た者のようなものであった。メルセデスは、宮殿からいきなり茅屋《ぼうおく》に降り立ち、貧窮を余儀なくされて自ら食卓に運ばねばならぬ素焼の皿にも、かつてのベッドにとって代わった粗末な寝台にも、ただただ途方にくれていたのだ。
事実、あの美しいカタロニアの女、上品な伯爵夫人から、もはやその誇らかな目も、魅力的な微笑も消えていた。彼女の周囲をとりまくものに目がとまれば、それは彼女の心を悲しませるものばかりだったからである。その部屋は、汚れが目立たぬというのでケチな家主が好んで用いる、灰色の地に灰色の模様のついた壁布の張られた部屋であった。じゅうたんもない板の床。安物のくせにぜいたくめかして、注意を引こうとし無理にも目を向けさせようとする安ぴかものの家具。要するに、目にふれるものといえば、上品なたたずまいを見慣れた目にはどうしても必要なあの調和というものを、ただどぎつい調子でぶちこわしているものばかりなのだ。
モルセール夫人は、邸を出てからこの部屋に住んでいた。彼女は、いつまでも静まりかえっている静寂を前にして、ちょうど深淵の縁に立った旅人のように、目まいを感じていた。そして、アルベールがいつも、そっと彼女の心をおしはかるように自分をみつめているのに気づくと、無理にその唇に生気のない微笑を浮かべようとするのだが、なんともいえずやさしく暖かいあの目の微笑をともなわぬこの微笑は、ただの光の反射、つまり熱のないただの光といった感じを与えるのだった。
アルベールのほうも、それまでのぜいたくの名残りにわずらわされて、今の生活になじむことができず、居心地の悪い思いに悩まされていた。手袋なしで外出しようと思っても、手が白すぎる気がするし、町を徒歩で駈けまわるにしては、彼の長靴はエナメルでぴかぴかであった。
しかし、この気高く聡明な二人は、母子の情愛の絆でしっかりと結ばれており、なにも口にしなくても互いの心を理解できたし、友人同士の間でも、生活がかかっている物質的な真相を口にする際に言わねばならぬいろいろな前置きを言う必要も二人にはなかった。
アルベールは、母親を蒼ざめさせることもなく、
「お母さん、もうお金がありませんよ」
と言えるようになっていた。
メルセデスはいまだかつて真の意味での困窮を味わったことはなかった。彼女も、若い頃は、しばしば貧しさを口にしたが、これは大違いである。不足ということと、なくてはならぬということとは、似たような言葉だが、じつは天と地ほどの違いがあるのだ。
カタロニア村にいた頃、メルセデスには数多くのものが不足していた。だが、必要欠くべからざるものはいつでも持っていた。よい網さえあれば魚がとれた。魚を売れば網をつくろう糸が買えた。
そして一人ぼっちになってしまい、まったく金のたしにはならない愛情だけを抱いていたときには、自分のことだけを考えればよかった。人おのおの、自分のこと、自分のことだけを考えていた。
メルセデスは、当時持っていたわずかなものを、できるだけ気前よく自分だけの用に用いた。今は、彼女は二人分をまかなわなければならなかった。しかも文無しだったのである。
冬が近づいていた。かつては控えの間から寝室に至るまで、邸内くまなく暖房が行き届いていたが、このむき出しの、すでに寒さがしのび寄っている部屋には火もなかった。彼女の部屋は金にあかせて集めた花で飾られた温室のようであったのに、今は貧しい花一輪なかった。
だが、彼女には息子がいた……
やや度を過ぎたきらいのある義務感からの興奮が、そのときまでは二人を天界におし上げていた。
興奮は狂信に似ている。狂信は俗世の事には無感覚なものである。
その狂熱が静まると、夢の世界から徐々に現実の世界へと降りねばならなかった。
あらゆる理想を語り尽した後には、現実を語らねばならなかった。
「お母さん」ちょうどダングラール夫人が階段を降りていたとき、アルベールはこう言っているところであった。「僕たちの全財産を計算してみましょう。先のプランを立てるのに総計が知りたいんです」
「総計ゼロよ」メルセデスは辛そうな微笑を浮かべて言った。
「いいえ、お母さん、総計はまず三千フラン。これだけあれば二人で立派に暮らしていけると思います」
「子供ねえ!」メルセデスは溜息をついた。
「ああ、残念なことに、僕はお金の価値を知るまでに、かなりお母さんにお金を使わせてしまいました。お母さん、三千フランといえば大金ですよ。このお金で一生安楽に暮らして行くめどを立てました」
「そんなことを言ったって」と、哀れな母親は続けた。「第一そのお金をお受けするの?」メルセデスは顔を赤らめた。
「そのことはもう決まったと思うんです」アルベールはしっかりした口調で言った。「僕たちはお金を持っていないんですから、お受けしてもいいと思います。ご存じのように、マルセーユのメラン小路の家の庭に埋めてあるんですから。
二百フランで、二人でマルセーユヘ行きましょう」
「二百フランで? アルベール、お前そんなことを考えてるの」
「その点なら、僕はもう、乗合馬車も汽船もちゃんと調べてあって、計算済みです。
お母さんはシャロンまで馬車で行く。どうです、女王待遇でしょう。これが三十五フラン」
アルベールはペンをとり、紙に書いた。
[#ここから1字下げ]
馬車 三十五フラン……計三十五フラン
シャロン――リヨン間のお母さんの船賃……六フラン……計六フラン
リヨン――アヴィニョン間の船賃 十六フラン……計十六フラン
アヴィニョン――マルセーユ 七フラン……計七フラン
雑費 五十フラン……計五十フラン
総計百十四フラン
[#ここで字下げ終わり]
「百二十フランとしましょう」アルベールは笑いながら言い添えた。「どうです、ずいぶん気前がいいでしょう」
「でも、お前は、お前はどうするの」
「僕ですか、僕が八十フラン僕用にとってあるのをご覧にならなかったんですか。
若い男というものはね、なにもそう楽な思いばかりしなくても大丈夫なんですよ。それに僕は旅には慣れてますからね」
「馬車に乗って召使いをつれての旅ならね」
「どんな旅でもですよ、お母さん」
「わかったわ。でもその二百フランはどうするの」
「その二百フランはここにあります。それに別の二百フランも。
あのね、僕は時計を百フランで売ったんです。鎖についていた飾りが三百フラン。
ついてたなあ! 飾りのほうが時計の三倍なんですからね。これまた例の贅沢こそは必要なりって話〔ヴォルテールの言葉〕ですよ。
だから僕たちは金持ちってわけです。お母さんの旅費は百十四フランあれば足りるのに、二百五十フランも持てるんですからね」
「でも、ここの部屋代だっていくらか借りてるでしょ?」
「三十フランです。でもこれは僕の百五十フランのほうから出しておきます。
そうしますよ。だって、僕の旅費はぎりぎりなら八十フランでいいんですからね、僕はぜいたく三昧ってとこです。が、まだそれだけじゃないんです。これをどうお思いですか、お母さん」
こう言ってアルベールは、おそらく昔の気まぐれの名残り、いやもしかすると、例の小門をひそかに叩いたヴェールに顔を包んだ謎の娘たちのうちの誰かからのやさしい贈り物かもしれないが、金の閉じ金のついた小さな手帖から、千フラン紙幣を一枚とり出した。
「これって何?」メルセデスが訊ねた。
「千フランですよ、正真正銘の」
「いったいどうやってその千フランを手に入れたの」
「聞いて下さい、お母さん。でも、あまりびっくりしないで下さい」
こう言うと、アルベールは立ち上がり、母親の両頬に接吻してから、じっと母の顔をみつめた。
「僕がどれほどお母さんを美しいと思っているか、お母さんには想像もつきません」青年は、息子としての深い愛情をこめて言うのだった。「お母さんは、ほんとうに、僕が今までに会った女の人の中で、最も美しく、そして最も心の気高い人です」
「お前って子は」と、メルセデスは、瞼のはしに浮かぶ涙を懸命にこらえようとしながら言った。
「ほんとうに、僕のお母さんへの愛情が、崇敬の念に変わるには、お母さんが不幸になることしか必要ではなかったんです」
「お前のような息子がいる限り、私は不幸ではありませんよ。いつまででも、お前がいてくれる限り、不幸になどなりません」
「ああ、そうですね。でも、お母さん、試練が始まるのはここからです。僕たちが決めたこと、おわかりですか」
「なにか決めたわけ?」
「そうです。お母さんはマルセーユに住み、この僕は、アフリカに行くと決めたんです。今までの名は捨て、アフリカで新しい名を名乗ります」
メルセデスは吐息を洩らした。
「じつは、昨日から僕はアルジェリア騎兵に身を投じたんです」青年はなにか恥ずかしさを感じて目を伏せた。なぜなら、彼がこうして身を落としたことが持つ崇高な意味を、彼自身十分にはわかっていなかったからである。
「いや、僕はむしろ、僕の身体は僕のものだから、売ってもいいと思ったんです。昨日から僕は、別の誰かの身代わりになっているわけです。世間で言う身売りをしたんです」彼は無理に笑おうとしながらつけ加えた。「思ってたより高く売れました、二千フランでね」
「じゃあこの千フランは……」メルセデスは身をおののかせた。
「その半分です。あとの半分は一年後に貰えます」
メルセデスはなんとも表現しようのない表情で天を仰いだ。瞼のはしに宿っていた二粒の涙が、内に秘められた激しい心の動きにあふれ落ち、音もなくその頬をつたった。
「この子の血を売ったお金!」彼女はつぶやいた。
「そうです、もし僕が殺されたりすればね」アルベールは笑った。「でも安心して下さい。僕は断乎として自分の命は守るつもりですから。僕は今ほど、生きたいと思っているときはないんです」
「ああ、神様!」
「第一、どうして僕が死ぬなんてお考えになるんですか。
南のネー将軍と言われたラモリシエールは死んだでしょうか。シャンガルニエは死んだでしょうか。 ブドー〔以上三名はいずれ有名なアルジェリアの軍司令官〕は死にましたか。
僕たちの知人のモレルは死にましたか。
ですからね、お母さん。僕が刺繍をした軍服に身を固めて帰って来る日の喜びを考えて下さい。
断言しておきますがね、あの軍服を着た僕は、きっと見事だと思います。僕があの連隊を選んだのは、あの粋な軍服のせいなんです」
メルセデスは、つとめて笑顔を見せようとしながらも、吐息を洩らした。この聖女のような母親は、わが子にだけ犠牲を負わせることの辛さを、いやというほど感じていたのだ。
「さあ、これでわかりましたね、お母さん。お母さんはもう四千フラン以上も持っているんです。四千フランあれば、ゆっくり二年は暮らせるでしょう」
「そう思う?」
この言葉は、伯爵夫人の口から思わず洩れてしまったものであったが、その辛そうな言い方のために、この言葉の真の意味をアルベールは逃がさなかった。彼は胸が締めつけられる思いがした。彼は母の手をとり、その手をやさしく握りしめながら言うのだった。
「そうですよ、生きていけますとも」
「生きてみせます! でも、お前は行かないで、ね」
「お母さん、僕は行かねばなりません」アルベールは、静かなしっかりした声で言った。
「僕を愛していて下さるなら、僕をお母さんのそばで、ただのらくらとなんの役にも立たずに過ごさせてはおかぬはずです。それに僕はもう署名したんです」
「お前はお前の思う通りになさい。私は神様のお心のままにします」
「思う通りに、ではありません、考える通りにです。それが必要だからです。僕たち二人は、もはやなんの希望もない人間でしょう、そうですね。今のお母さんにとって、人生とは何ですか、無ですよ。僕にとって人生とか何か。おお、お母さん、お母さんがいなければこれも無に等しい、ほんとうですよ。もしお母さんがいなければ、誓って申しますが、僕がお父さんに疑惑を持ち、お父さんの名前を拒否したあの日以後、僕の人生はすでに終っていたはずですから。とにかく、もしお母さんが僕にまだ希望を持たせてくれるなら、僕は生きて行きます。もし、僕にお母さんを将来幸せにする努力をさせてくれるなら、僕は自分の力を倍にも働かせます。そして、向こうで、アルジェリア総督にお会いして、あの方は実に立派な心をお持ちだし、ほんとうの軍人ですから、僕は僕の忌わしい話をすっかり話すつもりです。時折僕のほうに目を向けて下さるようにあの方にお願いします。あの方が約束を守って下さって、僕の行動を見ていて下されば、六か月以内に、僕は将校になっているか、さもなければ死んでいるでしょう。もし将校になれば、お母さんの将来も安定します。お母さんと僕とが使うお金が入るようになりますからね。それに、二人がほんとうに誇りに思える新しい名前を持つことができます。ほんとうのお母さんの名前ですからね。もし僕が死んだら……そう、僕が死んだら、そのときはお母さんも死んで下さい。そのときは、僕たちの不幸は、その頂点で終末を迎えるんです」
「わかりました」メルセデスは、その気品のある雄弁な目を向けながら答えた。「お前の言う通りね。私たちを見ていて、私たちの行いで私たちを判断しようとしていて下さる人たちに、私たちが、少なくとも気の毒だと思われるのに価する人間であることを証明しましょう」
「暗いことばかり考えないで下さい、お母さん!」アルベールは叫んだ。「僕たちは幸せ、いや少なくとも、きっといつかはうんと幸せになれるんです。お母さんは聡明な方だし、耐え忍ぶ力も強い方です。僕は、ぜいたくも言わず、無茶なこともしない男になりました。なったと思ってます。軍隊に入れば、僕は金持ちです。お母さんも、ダンテスさんの家に入れば、静かに暮らせます。やってみましょうよ! お願いします、お母さん、やってみましょう」
「ええ、やってみましょう、アルベール。お前は生きていかねばなりませんからね。お前は幸せにならなければいけないんですから」メルセデスは答えた。
「それじゃこれで財産の分配は終りましたね、お母さん」青年は大いに安心したようなふうを装いながらつけ加えた。「今日すぐにも発てますよ。前にも言ったように、お母さんの馬車の席を予約してありますから」
「でも、お前のは?」
「僕は、あと二、三日残らねばなりません。別れて暮らすのの始まりですよ。僕たちはこれに慣れておかないと。紹介状を貰ったり、アフリカについていろいろ調べておかなければならないんです。マルセーユでまた一緒になりますから」
「それじゃ、わかったわ、行きましょう」メルセデスはこう言って、彼女が持って来たたった一枚のショールを肩にかけた。それはたまたま、黒いカシミヤの非常に高価なものであった。「行きましょう」
アルベールは急いで書類をかき集め、宿の主に借りていた三十フランを支払うためにベルを鳴らした。そして、母に腕をかして、階段を降りて行った。
誰かが二人の前を降りて行った。その男は、階段の手すりにふれる衣擦《きぬず》れの音を聞き、振り返った。
「ドブレ!」アルベールがつぶやいた。
「モルセールじゃないか」降りかけていた段の所で立ち止まった大臣秘書が答えた。
ドブレの人目を忍ぶ気持ちよりも、好奇心のほうが勝った。第一、もう顔を見られてしまったのだ。
パリ中を騒がせたあの不幸な出来事の後で、あまり人に知られていないこんな家で、当の青年にまた会うのは、ひどく興味をそそるものに思えた。
「モルセール!」ドブレはまた言った。
それから、薄暗がりの中に、黒いヴェールをかぶったまだ若々しいモルセール夫人の上品な姿を見ると、
「あ、失敬」彼は笑ってこうつけ加えた。「邪魔はしないよ、アルベール」
アルベールにはドブレが何を考えているかがわかった。
「お母さん」彼はメルセデスのほうをふり返った。「ドブレです。内務大臣秘書で、僕の昔の友達の」
「えっ、昔のだって」ドブレがつぶやいた。「それはどういう意味だ?」
「それは、ドブレさん。今では僕には友達がいないからです。今後も持ってはならないからです。僕を覚えていてくれてありがとうございます」
ドブレは階段を二段上り、相手の手を固く握りしめた。
「アルベール、信じてくれ」彼は、まだ彼が抱き得た感動をこめて言った。「僕は君を襲った不幸に心から同情しているんだ。どんなことでも君の役に立ちたいと思ってるよ」
「ありがとうございます」アルベールは笑顔で答えた。「不幸な境遇にはいても、誰に助けを求めなくてもすむ程度の金は持っています。僕たちはパリを離れます。旅費を払ってもまだ五千フラン残りますから」
自分の紙入れに百万フラン入れているドブレの顔が赤くなった。理づめで、あまり詩的なところのない男ではあったが、つい今しがたまで二人の女がこの同じ家におり、その一人は当然の報いとしての汚辱にまみれ、マントの襞《ひだ》の下に百五十万フランの金を抱きながら、貧しく立ち去って行き、もう一人のほうは、不当に痛めつけられながら、不幸のさ中にあっても気品を保ち、わずかばかりの金を持って豊かな気持ちでいることに、思いをいたさぬわけにはいかなかった。
この対比が、彼の礼儀の歯車を狂わせ、この模範的な生き方の示す哲理が彼を圧倒した。彼はありきたりの挨拶もそこそこに、急いで階段を降りて行った。
その日、内務省の彼の部下の役人たちは、彼の不機嫌にさんざんに悩まされた。
だが、その日の夕方には、彼はマドレーヌ通りにある、年に五万フランの家賃を上げるほどの豪邸を入手しに行ったのである。
その翌日、ドブレがその契約に署名をしていた頃、つまり夕方五時頃、モルセール夫人は、やさしく息子に接吻し、また息子からもやさしく接吻された後に、乗合馬車に乗り込んでいた。夫人が乗った後、馬車の扉は閉まった。
一人の男が、ラフィット運輸の中庭の、各事務室の上にある中二階の窓のかげに身をひそめていた。彼はメルセデスが馬車に乗るのを見た。乗合馬車が出て行くのを見た。アルベールが立ち去るのを見た。
そして、彼はふと思いまどう気持ちにみたされた、その額に手をやり、こうつぶやくのであった。
「ああ! どうやってあの罪のない二人に、この俺が奪った幸せを返してやったものか。神がお力をかして下さるだろう」
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百七 獅子の檻《おり》
ラ・フォルス〔パリにあった監獄〕の、最も凶悪な囚人を収容している一画は、サン=ベルナール牢と呼ばれている。
囚人たちは、そのたくましい表現力を持つ言葉で、ここに『獅子の檻』という別名をつけていたが、これはおそらく、ここに入れられている囚人たちが、しょっちゅう鉄格子をかじったり、また時には看守に咬みついたりする牙を持っていたからであろう。
これは牢の中の牢であった。壁もほかの房の倍の厚みがあった。毎日、看守がその太い鉄格子を仔細《しさい》に調べる。これらの看守たちのヘラクレスのようにたくましく大きな体格、その冷たく辛辣な目を見れば、その威圧感と頭の働きとで囚人たちをおさえこむために彼らがここの看守に選ばれたことがわかるのであった。
この一画の運動場は四方を高い壁がかこみ、太陽は、この精神的にも肉体的にも醜悪な連中のうごめく深淵にさしこむ気になったときには、その壁の上から斜めに光を落とすのであった。その敷石の上を、夜が明けると、まるで幽霊のように蒼ざめ不安に怯え殺気だった者どもがうろつき始める。法の裁きが、そのとぎすました断頭台の刃の下に身をかがませている人間どもである。
太陽の熱を一番よく吸収しいつまでもそのぬくもりを保っている壁にへばりつき、うずくまっている彼らの姿が見える。二人ずつで話し合っている連中もいるが、大ていは一人一人離れている。目はたえず扉のほうに向けられている。その扉は、この陰惨な居場所から誰かを呼び出すためか、社会のるつぼから放り出された新たな滓《かす》をこの奈落の底に吐き出すために開くのである。
サン=ベルナール牢には独自の面会室がある。長方形の部屋で、面会人が囚人の手を握ったり、なにか物を渡したりできぬように、三フィートほどの間隔をおいて平行にしつらえられた二列の鉄格子で二つの部分に仕切られている。この面会室は、暗くじめじめしており、どこを見てもぞっとするような部屋であった。その鉄格子ごしに伝えられ、そのために鉄の棒も錆びたと思えるような、身の気のよだつような打ち明け話に思いを致せばなおさらのことである。
しかし、いかにおぞましいとはいえ、この場所は、余命いくばくもないここの連中にとっては、憧れの娑婆《しゃば》の空気にひたることのできる天国なのだ。『獅子の檻』を出れば行先は、サン=ジャックの市門〔断頭台があった〕か徒刑場か独房と、まず相場がきまっていたのだ。
今描写した、湿気が壁に冷たい雫《しずく》をしたたらせているこの牢の中を、服のポケットに手をつっこんで歩き廻っている一人の青年がいた。彼は『獅子の檻』の住人たちから強い好奇の目で見られていた。
彼が着ている服がぼろぼろに裂けていなければ、その服の仕立てのよさのために、彼は上流社会の男とみなされたことであろう。裂けてはいても着古されたものではなかった。いたんでいない場所の生地は上等で手ざわりもよく、なんとかもと通り新品の服にしようと努めているその囚人に手入れをされると、容易にもとの艶をとり戻すのであった。
彼は、入所以来かなり変色してしまった上質の麻のシャツを着こむにも同じように気をくばった。そしてそのエナメルの長靴にも、紋章の王冠をいただいた頭文字の刺繍のあるハンカチで磨きをかけるのであった。
『獅子の檻』の囚人たちのうちのなん人かが、強い興味を抱いて、この囚人の身だしなみのさまをうち眺めていた。
「ほら、王子様がおめかししてるぜ」窃盗犯の一人が言った。
「奴は生れつきいい男だ。櫛《くし》とポマードさえありゃあ、白手袋をはめた旦那方も顔色なしだぜ」別の男が答える。
「奴の服は新品だったにちげえねえ。靴もぴかぴかだ。奴みてえなお上品なお方が俺たちの仲間たあうれしいじゃねえか。憲兵の山賊どもなんざ、さもしい奴らよ。あんなきれいなおべべをやぶきやがって。嫉妬《やきもち》を焼きやがったのさ」
「どうやら名うての奴だぜ、あいつは」また別の男が言った。「どんなことでもやったんだ……それもどえれえことをよ……娑婆から、あんな若えのに送りこまれて来たんだからな。まったく見上げたものよ!」
このぞっとするような賞讃の対象となっている当人は、こうした讃辞を、いやその雰囲気を楽しんでいるようであった。言葉そのものは聞こえなかったからである。
身じまいがすむと、彼は物売場の窓口に近づいた。看守が一人それに背をもたせている。
「あのねえ、君」彼はその看守に言った。「僕に二十フラン貸してくれないか、すぐ返すから。僕に貸す限り、なんの心配もいらんよ。僕は、君みたいな素寒貧とは違ってなん百万も持ってる親類があるんでね……すまんが二十フラン貸してもらえないか。自費独房に入りたいし、部屋着を買いたいんだ。朝から晩まで、燕尾服に長靴じゃたまらんよ。それにしてもなんたる服だ、カヴァルカンティ公爵ともあろう者が!」
看守はくるりと背を向けて、肩をすくめた。彼はこの言葉を聞いても笑いもしなかった。笑えば額の皺《しわ》ものびたであろうに。というのは、この男は、ほかにいくらでも、いやしょっちゅう同じような言葉を耳にしていたからである。
「ふん、貴様は情知らずな奴だな、くびにしてやるぞ」アンドレアは言った。
この言葉は看守を振り向かせ、今度は大声で笑った。
そこで囚人たちが集まって来て輪を作った。
「僕が言ってるのは」アンドレアは続けた。「たったそれだけの金があれば、服と部屋が手に入る。そうすれば、いつか近いうちに面会に来る高貴なお方を、失礼にあたらぬようにお迎えできるからなんだ」
「そうだ、そうだ!」囚人たちが言った。「まったく、どう見たって、あいつはちゃんとした奴だぜ」
「そんならお前らがその二十フランを貸してやりゃあいいだろう」看守はもたせていた大きな肩を別の肩に変えながら言った。
「そのぐらいは仲間なんだからしてやってもいいはずだ」
「僕はこの連中の仲間じゃない」青年は高慢に言い放った。「僕を侮辱すると承知せんぞ、貴様にそんな権利はないのだ」
泥棒どもは、なにやら低くささやきながら顔を見合わせた。アンドレアの言葉よりはむしろ看守の挑発によって巻き起こされた嵐が、その貴族の囚人の上に吼えはじめた。波があまりに激しくなった場合になすべきことはよく心得ている看守は、次第に波が高まるのを黙って見ていた。しつこく頼みこむ男を軽く痛い目にあわせて、長い監視の一日に、ちょっとした楽しみを加えようとしていたのだ。
すでに泥棒どもはアンドレアにつめ寄っていた。ある者はこう言い交わしていた。
「古靴だ! 古靴だ!」
これは、この連中の不興をこうむった囚人を、古靴ならぬ鋲《びょう》を打った靴で打ちのめす残忍なリンチである。
またある者は≪うなぎ≫を提唱していた。これはまた別の種類の慰さみで、ねじったハンカチに、砂、小石、あれば大きな小銭をつめ、これで犠牲者の肩といわず頭といわず、古代の武器の棍棒よろしく叩きのめすのだ。
「そのおしゃれなお方を打ちのめせ、上品なお方をな」数人の者がわめいた。
が、アンドレアは彼らのほうを向くと、目ばたきしてみせ、舌で頬をふくらませた。そして、沈黙を強いられている悪党どもの間では、仲間であることを示すいかなる合図にも匹敵する、あの唇を鳴らすしぐさをしたのである。
これはカドルッスが彼に教えた、悪党仲間の合図であった。
彼らは、アンドレアが仲間の一人であることを知った。
たちまち、振り上げられたハンカチはおろされ、≪古靴≫は彼らの頭《かしら》の足に戻った。この旦那のしたことはもっともだ、この旦那は旦那なりに正直なのかもしれねえ、おれたち囚人たちも他人の思想の自由を尊重する模範を示そうという声が上がった。
騒ぎはおさまった。看守は唖然として、いきなりアンドレアをひっとらえ、身体検査を始めた。『獅子の檻』の住人たちのこの急激な変わりようは、ただ相手に魅了されたためではなく、もっとなにか強力な意志表示があったにちがいないと思ったのだ。
アンドレアは文句を言いながらも、されるがままにしていた。
と、突然その窓口の所で大声に呼ぶ声がした。
「ベネデット!」監視人が叫んだのだ。
看守は捉えていた手を放した。
「僕を呼んだのか?」アンドレアは言った。
「面会室へ来い」同じ声が言った。
「どうだ、面会人だ。やい貴様、カヴァルカンティともあろうものを、並の人間並に扱うと、どういうことになるか見てろよ」
こう言い残してアンドレアは、黒い影のようにその一画を滑りぬけ、仲間の囚人どもと、それに看守さえも思わず抱いた賞讃の念を背に受けて、半開きになったその窓口の所から走り出た。
事実、面会室へ呼ばれたのであった。アンドレアが有頂天になったのも無理はない。この悪賢い青年は、並の者がやるように身柄を貰い下げてもらうべく手紙を書く権利など行使せずに、じっとこらえて沈黙し続けていたのである。彼はこう言っていたのだ。
『俺は明らかに、誰か有力な人に保護されている。すべてがこれを証明している。急に幸連がころげこみ、楽々と障害が除かれ、にわかに家庭ができ、高名な家名が俺のものとなった。金が降ってくるし、俺の野心を満足させるために、願ってもないほどの縁談まで持ちあがった。俺の運命の女神がほんのわずかの間失念していたために、俺の保護者が不在だったために、俺は進退きわまった。だが、決定的にではない。永久に駄目というのではない。援助の手が、ほんの一時引込められただけだ。俺が破滅の淵にまさに落ちこむ最後の瞬間には、必ずやまた再び、その手は俺のほうにさしのべられ、俺をしっかりと掴んでくれるにちがいない。
この際、どうして軽はずみなことなどできよう。そんなことをすれば、保護者を遠ざけてしまうことになるだろう。俺の保護者がこの俺を、この窮地から救うには方法が二つある。金で買収してここからこっそり逃がすか、強引に判事たちに無罪判決をさせるかだ。なにも言わず、ただじっと待とう、完全に見離されてしまったことがはっきりするまで。そうなったら……』
アンドレアは巧妙と言い得るプランをすでに考えていたのだ。この悪党は、攻撃しては大胆不敵、守ってはしぶとかった。雑居房の惨めさにも、あらゆる不如意にも彼はよく耐えた。けれども、次第々々に、持って生まれた性格が、いやむしろ身につけた生活習慣が頭をもたげた。アンドレアには、着るものもなく、汚ならしい身なりをし、ひもじい思いをすることがつらくなった。時間がひどく長いように思えていたのだ。
このようなつらい思いをしていたとき、監視人の声が彼を面会室に呼んだのである。
アンドレアは歓喜に胸をおどらせた。予審判事の取り調べにしては早すぎるし、刑務所長ないし医師の呼出しにしては遅すぎた。だから、思いがけぬ面会人が来たはずなのだ。
導き入れられた面会室の鉄格子の向こうに、アンドレアは、激しい好奇心に見開かれた目で、ベルトゥチオの、暗い、頭のよさそうな顔を認めた。ベルトゥチオのほうも、鉄格子や、閂《かんぬき》のおりた扉や、厳重な鉄格子のはまった窓のかげにただよう闇を、驚きかつ眉をひそめる思いで見ていた。
「あ!」はっと胸をつかれてアンドレアが声を洩らした。
「ベネデット」ベルトゥチオは、うつろな、それでいてよくとおる声で言った。
「あんたは、あんたは!」青年は怯えてあたりを見廻した。
「俺の顔を忘れたのか、悪い伜だ!」
「黙って! 黙ってくれよ!」四方の壁に耳があることを知っているアンドレアが言った。「ああ、そんな大きな声を出さずに!」
「お前、俺と話がしたいんだな、二人きりで」
「うん、そうだ」
「よかろう」ベルトゥチオはポケットをまさぐりながら窓口のガラスの向こうに見えている看守に合図をした。
「読んで下さい」ベルトゥチオは言った。
「いったい何だ、あれは」アンドレアが訊いた。
「お前を別の房へつれて行って、そこへ入れて、俺と話をさせろという命令書だ」
「おお!」アンドレアはこおどりした。
そして、直ちに思い返して、こう心につぶやくのだった。
『またしてもあの謎の保護者が現われた。俺は忘れられてはいなかったんだ! 秘密にしておきたいんだな、誰もいない部屋で話そうってんだから。秘密は守るさ……ベルトゥチオは俺の保護者から派遣されて来たんだ!』
看守はしばらく上役の意向を聞いた後に、鉄格子の二重の扉を開けて、アンドレアを檻を見おろす二階の一室につれて行った。彼はもう有頂天になってはいなかった。
その部屋は、監獄の通例にしたがって、石灰の白壁であった。囚人にはまぶしいような明るい部屋に思えた。ストーブ、ベッド、椅子が一脚、机が一つ。これがこの部屋のぜいたくな調度である。
ベルトゥチオは椅子に腰をおろし、アンドレアはベッドに身を投げた。看守は出て行った。
「さてと、何を言いたい?」執事が言った。
「それより、あんたのほうは?」アンドレアが言った。
「お前から話せ」
「いや、俺に会いに来たんだから、あんたのほうこそ俺に言うことがうんとあるはずだ」
「それなら、よし。お前は相変わらず悪の道をつっ走ってるな。盗み、人殺し」
「ふーん。俺を独房に移したのが、そんなことを言うためだったんなら、なにもわざわざこんなまねはしなくてもよかったはずだ。そんなこたあ、俺はもうみんな知ってるんだ。それよか、俺の知らねえことがあるはず。そいつを話そうじゃねえか、え。あんたは誰の使いで来たんだ」
「ほ、ほう。馬鹿に先を急ぐね、ベネデット」
「そうさ、ずばりといきたいんだ。無駄なことを言うのはよそうぜ。誰の使いで来た」
「誰の使いでもない」
「じゃあ、どうして俺が牢にいることを知った」
「シャン=ゼリゼーで馬を優雅に走らせてる高慢ちきなおしゃれが、お前だってことはずっと前からわかってた」
「シャン=ゼリゼーか……は、はあ、近くなったな。宝探しで言う、お蔵に火がつくってやつだ。シャン=ゼリゼーねえ……さあ、俺のお父さんのことを話そうや、どうだ?」
「この俺はいったいお前の何なんだ」
「あんたか、あんたは養父さ……だが、察するところ、俺が四、五か月で使っちまった十万ばかりの金を俺に恵んでくれたのは、あんたじゃない。この俺にイタリア人で貴族の父親をこしらえてくれたのもあんたじゃない。俺を社交界に入れてくれて、オートゥイユの晩餐会にパリのお歴々と一緒に招いてくれたのもな。あの時の味はまだ忘れられないな。検事もいた。あのとき、お近づきになっておかなかったのは大失敗だった。そうすれば今、うんと俺の役に立ったのに。悪事露顕のあの事件が起きる寸前、百万か二百万の金を俺に保証してくれたのもあんたじゃない。さあ、話せよ、尊敬すべきコルシカの旦那、さあ……」
「俺に何を言えというんだ」
「手伝ってやるよ。
あんたはさっき、シャン=ゼリゼーって言ったっけな、立派な育ての親さん」
「それで?」
「それでよ、シャン=ゼリゼーには、さる金持ちのお方が住んでおられる、大金持ちのな」
「お前が盗みに入り、人を殺したお邸の、そうだろう」
「だと思うな」
「モンテ・クリスト伯爵様か」
「ラシーヌが言ってる通り『その名を口にしたのはそなたじゃ』〔フェードルのせりふ〕そいじゃこの俺は、あのお方の腕の中に飛びこんで、しっかと息のつまるほど抱きしめて、『お父さん、お父さん』と、ピクセレクール〔当時のフランスの劇作家〕の芝居よろしく叫ばなきゃならねえってわけか」
「ふざけるのはいい加減にしろ」いかめしい口調でベルトゥチオは答えた。「今お前が口にしたように、そのようなお名前は、こんな所で口にしてはならぬ」
「へえ!」ベルトゥチオの厳しい面持ちにいささか唖然としてアンドレアは言った。「どうしていけねえんだ」
「そのお名前をお持ちの方は、神のご寵愛深く、とてもお前のような悪党の父親になどなれぬお方だからだ」
「たいへんなことを言うぜ」
「たいへんなことになるぞ、気をつけぬとな!」
「脅す気か!……俺は脅しなんかこわくねえぞ……あのな……」
「貴様と同じような能なしが相手だとでも思ってるのか」ベルトゥチオの声音が、ひどく静かで、その目が確信に満ちていたので、アンドレアは腹の底からゆすぶられる思いがした。「監獄仲間の月並な悪党どもや、世間の欺されやすい連中が相手だと思ってるのか……ベネデット、お前は恐るべき手の中に握られているのだ。その手が、お前のために開かれようとしている。これを利用するんだ。一時休ませて下さってはいるが、もしお前が、その方の自由な動きを邪魔するような気を起こせば、直ちにお前の頭上にお落としになる雷を、おもちゃになどするな」
「親爺が……俺は親爺が誰だか知りたいんだ」頑固な青年が言った。「必要とあれば死んでもいい。だがつきとめてやる。この俺には、醜聞が何だってんだ。いいことさ……名は売れるし……ジャーナリストのボーシャンの言う≪宣伝≫てやつよ。だが、あんた方上流の人たちにとっちゃ、醜聞が起きれば必ずなにかをなくすんだ。なん百万もの金や紋章があったってな……さあ、俺の親爺はいったい誰なんだ」
「そいつを教えに来たんだ」
「ほう!」ベネデットは喜びに目を輝かせた。
このとき、扉が開いた。そして、看守がベルトゥチオに向かって、
「すみませんが、予審判事がこの囚人を待ってるもんですから」
「僕の訊問ももうこれでお終いですね」アンドレアは執事に言った。「しつこいやつは悪魔に食われろだ」
「明日また来る」ベルトゥチオは言った。
「わかりました」アンドレアは言った。「憲兵さんたち、お伴しますよ……あ、そうだ、書記課に十エキュばかり〔一エキュは三フラン〕置いてってくれませんか、必要なものが貰えるように」
「そうしておく」ベルトゥチオが答えた。
アンドレアは彼に手をさしのべたが、ベルトゥチオは手をポケットにつっこんだまま、ただ、銀貨をじゃらじゃらいわせただけであった。
「そのことが、言いたかったんですよ」アンドレアは無理に笑おうとしたが、ベルトゥチオの妙に落ち着いた態度に完全に圧倒されていた。
「俺の思い違いだったかな」俗にサラダ籠と呼ばれている、長方形で鉄格子のはまった護送車に乗りこみながら彼はつぶやいた。「じゃ、また明日!」彼はベルトゥチオのほうに振り向いてつけ加えた。
「また明日!」執事は答えた。
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百八 裁判官
ブゾニ神父がノワルチエと二人だけで死者のいる部屋に残り、この老人と司祭の二人が若い娘の遺体の守りをしたことは、読者諸子もご記憶のはずである。
おそらく、司祭の口にした神のご激励が、慈悲の心にあふれる説得力のある言葉が、老人にまた勇気をとり戻させたらしい。司祭と話し合ってからというもの、最初老人の心を奪った絶望のかわりに、大きな諦めの念がノワルチエの面《おもて》に見えたのである。ヴァランチーヌに寄せていた老人の愛着を思い浮かべる者すべてにとって、これは驚くべき平静さであった。
ヴィルフォールは、娘が死んだ朝以来、老人に会っていなかった。邸中がすっかり変わった。ヴィルフォールには新たな召使いが雇われ、ノワルチエには別の下僕が雇い入れられた。新たな二人の女中がヴィルフォール夫人の世話をした。門番から御者に至るまで、全員が新しい顔ばかりで、いわばこの呪われた家のそれぞれの主人の間に立ちはだかり、以前からかなり冷たくなっていた主人たち相互の関係をたち切ってしまっているようであった。
それに、三日後には重罪裁判が開かれることになっていた。ヴィルフォールは書斎に閉じこもり、カドルッス殺害犯人に対して始められた、訴訟記録を熱に浮かされたようにすさまじい勢いで作り上げていた。この事件は、モンテ・クリスト伯爵が巻きこまれたほかのすべての事件と同じように、パリ社交界での大きな話題となっていた。証拠は十分とは言えなかった。なぜならその証拠は、彼が告発する被告の昔の監獄仲間である悪党が死ぬ間際に書いた、わずかな言葉に立脚するものだったからである。恨み、あるいは復讐のために仲間を犯人だと言ったのかもしれないのだ。司法官の心証だけが固まっているにすぎなかった。検事は、ベネデットが犯人であるという恐ろしい確信を抱くに至っていたのだ。彼は、この困難な勝利から自尊心の喜悦といったものを引き出そうとしていた。それのみが彼の凍りついた心の琴線を目覚めさせるものだった。次回の重罪裁判の冒頭にこの件を処理したいと考えているヴィルフォールの不休の努力によって、予審は着々と進められていた。だから、傍聴券を得ようとしておびただしい数の者に頼みこまれるのを避けるために、彼は以前にもまして姿をかくしていなければならなかった。
それに、可哀そうなヴァランチーヌが墓地に埋葬されてからわずかの日数しかたっておらず、一家の悲しみもまだ新たなところから、父親が、己れの義務にただひたすらうちこむのを見ても誰も不思議とは思わなかった。これは、彼が悲しみをまぎらわす唯一の手だてだったのである。
一度だけ、それはベネデットがベルトゥチオの二度目の来訪を受け、そしてこの時、ベルトゥチオはベネデットに父親の名前を教えたはずなのだが、その翌日の日曜日にヴィルフォールは一度だけ父親の姿を見かけた。それは、司法官が疲労|困憊《こんぱい》して邸の庭に降りたときであった。執念深いある一つの思いにうちひしがれ、暗い顔をして、一番背の高いケシの頭をその杖で叩き落とした古代ローマの王タキニウスのように、籐《とう》のステッキで、先頃終った夏には輝くばかりに咲き匂っていた、小径ぞいに立ち並ぶタチアオイの枯れかけた長い茎を叩き折っていた。
すでに彼は、一度ならず庭の奥まで、つまり、今ではうち棄てられてしまった例の囲い地に面した鉄柵の所まで行ってみた。帰りも同じ小径を通り、また同じ足どりで、同じ面持ちでまた散歩を繰り返そうとしたとき、日曜と月曜を母親のそばで過ごすために寄宿舎から帰って来ていた息子が、騒々しく遊ぶ声の聞こえて来る、建物のほうへ機械的に目を向けた。このとき、彼はその窓の一つにノワルチエの顔を見た。しおれかけたヒルガオの花と、バルコニーに一面にからみついている野ブドウの葉に別れを告げに来ている、まだ暖かい今年最後の陽ざしを楽しむために、老人は車椅子をこの窓辺に押して来させたのだった。
老人の目は、ヴィルフォールにはよく見えないある一点に、いわば釘付けになっていた。ノワルチエのその眼差しのあまりの憎悪の色、あまりの荒々しさ、あまりの焦立たしさに燃えているさまに、検事は、よく知り尽しているその顔のあらゆる表情を正確に読みとることができるだけに、自分の歩いていた道から離れて、このきびしい目が誰に注がれているのかを見ようとした。
すると、ほとんど葉の落ちた菩提樹《ぼだいじゅ》の茂みの下に腰をおろし、本を手にしたヴィルフォール夫人の姿を見た。夫人は時折読書を中断して息子に微笑みかけたり、息子が執拗にサロンから庭に投げるゴムまりを投げ返してやったりしていた。
ヴィルフォールの顔は蒼ざめた。老人が何を考えているかがわかったからである。
ノワルチエはなおも同じ点ばかりみつめていた。が、急にその視線が、妻から夫へと向けられた。この電撃のような目を浴びねばならなかったのは、今度はヴィルフォール自身であった。その目は、対象を変え、その言葉を変えはしたが、その威圧するような表情は少しも変えてはいなかった。
ヴィルフォール夫人は、頭上を火の矢のように飛び交うこの激情にはまったく気づかず、ちょうどこのとき、まりを手にしたまま投げ返さずに、息子に取りに来て、母の接吻を受けなさいというしぐさをしていた。だがエドワールはなかなか応じようとはしない。わざわざ行っても貰えるものが母親の愛撫だけでは割に合わぬとでも思っていたのだろう。やっと子供は意を決して、窓からヘリオトロープとエゾギクの茂みの中に飛び降り、額にいっぱい汗をかいて母親の所へ駈けて来た。ヴィルフォール夫人は額を拭いてやり、湿った象牙のようなその額に唇をつけた。そして、片手にまりを、もう一方の手に一掴みのボンボンを握らせて子供を帰した。
ヴィルフォールは、ちょうど鳥がヘビに引き寄せられるように、目に見えぬ力に引き寄せられて、家のほうに近づいて行った。彼が近づくにつれ、ノワルチエの視線もその姿を追って低くなっていった。その瞳の火はいよいよその灼熱の度を加え、ヴィルフォールが心の底までも喰い尽されてしまうように感ずるほどになった。事実この目には、血と燃ゆるほどの非難と、戦慄すべき威嚇がこめられていた。そうして、ノワルチエの瞼と目は、わが子が忘れているその誓いを思い出させようとするかのように天に向けられたのである。
「わかっております、父上」中庭の下からヴィルフォールは答えた。「わかっております。もう一日だけ辛抱なさって下さい。お約束は必ず実行いたします」
この言葉にノワルチエは心を静めたようであった。彼の目は何事もなかったかのようにほかの方向に向けられた。
ヴィルフォールは、彼に息苦しい思いをさせているフロックコートのボタンを乱暴にはずし、蒼白な手を額にあてて、書斎に戻った。
夜は寒く静かに更けていった。いつものように、邸内の者は皆床に入り、眠りに落ちた。ヴィルフォールだけは、やはりいつものように、ほかの者たちと同時には床につかなかった。彼は朝の五時まで仕事をした。前日予審判事によって作成された最後の調書を読み返し、証人の供述書を調べ、彼が今までに作成したもののうちでも最も迫力があり、最も巧みに表現された起訴状を、さらに明晰《めいせき》なものにした。
翌日の月曜日に、重罪裁判の第一回公判が行なわれることになっていた。その日の朝の光が、ほの白く不吉にさしそめるのをヴィルフォールは見た。その青白い光が、書類の上に赤インクで引いた線を浮き立たせた。司法官は、ランプの灯がその最後の吐息を洩らす間だけ、ほんの一時《ひととき》まどろんだのであった。彼はランプのぱちぱちという音に目を覚ました。指はじっとり湿っていて、血にひたしたように赤く染まっていた。
彼は窓を開けた。大きなオレンジ色の雲の帯が遠くの空をよぎり、地平線上に黒く影絵のように見えるポプラの木立にかかっていた。マロニエの木の所の鉄柵の向こうのムラサキウマゴヤシの畑から、ヒバリが一羽空に舞い上がり、澄んだ朝の歌を聞かせた。
夜明けの湿った大気が彼の頭を満たし、記憶を蘇えらせた。
「いよいよ今日だ」彼は力をこめて言った。「今日こそは、正義の刃を持つ者が、いずこにひそむ罪人をも切り捨てるべき日なのだ」
彼の目は、思わず、見廻し窓になっているノワルチエの部屋の窓のほうに向けられた。前日彼が老人の姿を見たあの窓である。
その窓のカーテンは閉ざされていた。
だが、父のイメージはあまりにも強烈だったので、この閉ざされた窓に対しても、彼はそれが開かれているもののように思われ、その窓ごしに威嚇する老人の顔を見る思いがした。
「そうですとも、ご安心下さい」彼はつぶやいた。
彼の頭はがっくりと落とされた。うなだれたまま彼は部屋の中を二、三回歩き廻った。そして、ついには服を着たまま長椅子に身を投げ出した。眠るためではない。仕事のため骨の髄まで冷えこみ疲れきった手足を休めるためであった。
次第に家の者たちが目を覚ました。ヴィルフォールは書斎にいたまま、いわば家のいとなみを構成する物音を耳にしていた。ドアが開閉する音、女中を呼ぶためにヴィルフォール夫人の鳴らす呼鈴の音、その年頃の子供が目覚めるときにはふつうどの子もそうするような、機嫌よく床を離れた子供の最初に上げる叫び声。
ヴィルフォールも呼鈴を鳴らした。新しく雇い入れられた彼の召使いが入って来た。新聞を持って来た。
新聞だけではなく、一杯のココアも運んで来た。
「何を持って来たのだ」ヴィルフォールは訊ねた。
「ココアでございます」
「そんなものは頼んでないぞ。誰がそんな心遣いをしたのかね」
「奥様でございます。旦那様は今日は例の殺人事件の件で大いに弁舌をお振いになるので、力をつけておく必要がおありだからと申されまして」
こう言って召使いは長椅子のわきの机の上に銀の茶碗をのせた。この机もほかの机と同じように書類がのっていた。
召使いは部屋を出て行った。
ヴィルフォールは一瞬暗い面持ちでその茶碗をみつめていたが、やがて、いきなりえいとばかりにその茶碗を手にすると、中に入っていた飲み物を一息に飲みほした。まるでそのココアが死をもたらすものであってくれればいいと思っているかのようであった。死ぬことよりも困難な事を命ずる、ある義務を免れるために、死を求めているようであった。それから彼は立ち上がり、もし見る者があれば、その者をぞっとさせるようなうすら笑いを浮かべて、書斎の中を歩きはじめた。
ココアに毒は入っていなかった。ヴィルフォールはなにも異常を感じなかった。
食事の時間になったが、ヴィルフォールは食堂には現われなかった。召使いがまた書斎に入って来た。
「奥様から、今十一時が打ちまして、公判は正午開廷とのことでございます」
「それでどうだと言うのか」
「奥様は着替えもお済みになり、すっかり支度ができているから、お伴いたしましょうかと」
「どこへ」
「裁判所でございます」
「何をしに」
「奥様はぜひ公判を傍聴したいとのことでございます」
「ほう!」ヴィルフォールは威嚇とすらとれる口調で言った。「法廷に行きたいというのか!」
召使いは一歩後ずさりして言った。
「もし、検事様がお一人でおいでになりたいのでしたら、その旨をお伝えいたしますが」
ヴィルフォールは、しばし黙ったまま、黒々としたひげが際立った対照をなしている蒼白い頬に爪を立てていた。
「話したいことがあるから部屋で待つように、と奥さんに伝えてくれ」
「かしこまりました」
「それからもう一度来て、顔を剃って、着替えをさせてくれ」
「すぐに戻ります」
召使いは姿を消したが、言葉通りにすぐ戻って来て、ヴィルフォールの顔を剃り、いかめしい黒ずくめの服を着せた。
そうして、それがすむと、
「お召し替えがおすみになりましたら、すぐお越し下さいと奥様が申しておられました」
「すぐ行く」
ヴィルフォールは書類をかかえ、帽子を手にして、妻の部屋に向かった。
ドアの所で、彼は一瞬立ち止まり、土気色の額を流れる汗をハンカチでぬぐった。
それから彼はドアを押した。
ヴィルフォール夫人は、東洋風の長椅子に腰をおろし、新聞やら仮綴じの本やらをいらいらとめくっていたが、幼ないエドワールが、それを母がまだ読み終えぬうちに、細かく切りきざんで喜んでいた。夫人はすっかり外出用の身なりを備えていた。帽子は椅子の上で待っていたし、手袋もすでにはめていた。
「あ、おいでになりましたのね」夫人はごく自然な落ち着いた声で言った。「まあ、お顔の色がすぐれませんこと! 徹夜でお仕事をなさったんですか。なぜ一緒にお食事をしにいらっしゃいませんでしたの。ところで、つれて行って下さるんですか、それとも、私はエドワールと別に参りましょうか」
ご想像の通り、夫人はなんとか返事を得ようと、さかんに質問を繰り返したが、それらの問いに対して、ヴィルフォールは彫像のようにただ冷たくおし黙ったままであった。
「エドワール」ヴィルフォールは有無を言わせぬ目つきで子供を見据えながら言った。「サロンで遊びなさい。お母さんと話があるから」
夫人は、この冷たい態度、意を決したような口調、それに、予め子供を遠ざける配慮を見て、身ぶるいした。
エドワールは顔を上げ、母親を見た。そして、母親がヴィルフォールの命令に同意していないのを知ると、また鉛の兵隊の首をちょん切り始めた。
「エドワール!」ヴィルフォールがあまりに荒々しい声で怒鳴ったので、子供はじゅうたんの上で飛び上がった。「聞こえないのか、行きなさい!」
ふだんこのように扱われたことのない子供は、立ち上がり、顔色を変えた。それが恐れのためか、憤りのためか、定かではなかった。
父親は子供の所へ行き、腕をとると、額に接吻してやった。
「行くのだ、いい子だからね」
エドワールは部屋を出て行った。
ヴィルフォールはドアの所まで行き、子供が出た後、ドアに閂をかけた。
「まあ!」若い妻は、夫の心の底を見すかすようにみつめながら笑おうとしたが、ヴィルフォールの固い表情の前に、その微笑も凍りついてしまった。「どうなさったんですの」
「いつもお前が使っている毒薬はどこにしまってある」妻とドアとの間に立ちはだかったまま、検事はなんの前置きもなしに、はっきりとこう言った。
夫人は、自分をねらって頭上を舞うトビが次第にその輪を縮めるのを見るときヒバリが感ずるような気持ちを味わった。
土気色と言えるまでに蒼ざめた夫人の胸から、叫びともつかず呻きともつかぬ、かすれたきれぎれの声が洩れた。
「あなた、私には……私には何のことかわかりませんわ」
恐怖の発作に襲われて夫人は立ち上がったが、さらに激しい恐怖に襲われたのであろう、夫人はソファーのクッションの上にくずおれた。
「私は」ヴィルフォールはなおもこの上なく落ち着きはらった声で続けた。「お前が、私の義父《ちち》サン=メラン侯爵と、義母《はは》と、バロワと、そして私の娘のヴァランチーヌを殺害した毒薬を、どこにかくしたかと訊いているのだ」
「ああ、あなた」夫人は手を組み合わせて叫んだ。「何をおっしゃいますの」
「訊問するのはお前ではない、お前は答えればいい」
「夫に対してですの、それとも裁判官に対してですの?」
「裁判官に対してだ、裁判官として訊いておる!」
この妻の顔の蒼さ、苦しみあえぐ目の色、全身のおののきは、見るも恐ろしい眺めであった。
「ああ、あなた! あなた!……」夫人はつぶやいた。それ以上は言えなかった。
「答えない気か!」恐るべき訊問者が怒鳴った。
それから、その怒りよりもぞっとするようなうすら笑いを浮かべて、彼はつけ加えるのだった。
「お前は否認することはできない」ヴィルフォールは、法の名において夫人を捕まえるかのように、夫人に手をさしのべた。「お前は破廉恥極まる巧妙さで、いくつもの犯罪を遂行した。だがそれも、愛情ゆえにお前のことには盲目となってしまう者しか欺くことはできなかった。サン=メラン侯爵夫人の死以後、私は私の邸内に毒殺犯人がいることを知った。ダヴリニー先生が私にそれを教えてくれたのだ。バロワが死んだとき、おお、神よ許し給え、私はある者に、天使のような者に嫌疑をかけた。たとえ犯罪など存在しない場合にも、つねに私の心の奥に火と燃え目ざめている嫌疑を。だが、ヴァランチーヌの死以後、私にはもう疑う余地はなかった。いいか、私だけではない、他人にとってもだ。こうして、お前の犯した罪は、今では二人の人間に知られ、多くの者に疑われ、やがては万人の知るところとなるのだ。前にも言ったように、こうして話しているのは、もはや夫ではなく裁判官なのだ!」
若い妻は両手で顔を覆った。
「あなた!」夫人はつぶやいた。「お願いです、外見だけを信じないで下さい!」
「お前は臆病者なのか」ヴィルフォールは蔑むように叫んだ。「たしかに、私はかねて、毒殺犯人というものは臆病者であることに気づいていた。お前が臆病者なのか、目の前で自分が殺した二人の老人と一人の娘が息絶えるのを平気で見ていられるほどの恐ろしい勇気を持っていたそのお前が」
「ああ、あなた!」
「お前が臆病なのか」次第に心が激しながらヴィルフォールは続けた。「四人の断末魔の苦しみの時間を、一分また一分と数えたお前が。地獄のもののような計画をねり、奇蹟的とも思えるほど巧妙かつ正確に、あの恥ずべき毒薬を混入したそのお前が。すべてをあれほどまでに巧みにやってのけたお前が、たった一つのこと、すなわち、お前の罪が露顕したときにお前がどうなるかという計算を、お前は忘れていたというのか。おお、そんなことがあり得ようはずはない。当然科せらるべき刑を逃れるために、お前が使ったものよりもずっと楽に確実に死ねる毒物を、お前は自分用にとってあるはずだ……お前はたしかにそうしているはず、少なくとも私はそう思いたい」
夫人は両手をよじり、跪いた。
「わかっておる……わかっておる。お前は自白しようというのだ。だが、裁判官の前での自白、最後の最後になって、もはや否認できぬとなってからの自白は、裁判官が犯人に科する刑を、少しも減ずるものではないのだ」
「刑!」夫人は叫んだ。「あなた、刑ですって! 刑という言葉をこれで、二度もおっしゃいましたわ」
「その通り。お前が刑を免れられると思ったのは、四回も犯罪を犯したからか。お前の求刑をする者の妻であるからお前はその刑を受けずにすむとでも思ったのか。違う、それは違う! たとえなんぴとであろうと、毒殺犯人には断頭台が待っている。さっきも言ったようにもしその犯人が、より確実な毒物を自分用にとっておくという配慮をしていなかった場合にはな」
ヴィルフォール夫人は野獣のような呻き声を上げた。とり乱した顔に、おぞましい抑えようのない恐怖が走った。
「いや、断頭台を恐れることはない」司法官は言った。「お前の名誉を傷つけようとは思わぬ。それは私の名誉を傷つけることだからだ。そうではなく、もし私の言った言葉をよく聞いたのなら、お前が断頭台では死ねぬということがわかるはずだ」
「いいえ、わかりません。どういうことですの」うちのめされた不幸な妻がつぶやいた。
「首都最高の司法官の妻たる者は、自分の汚名を、今まで汚れることのなかった家名にきせてはならぬし、自分の夫と子供とを汚辱の巻添えにしてはならぬということを言っている」
「そうですわ、ええ、そうですとも」
「それでいい。それでこそお前は立派な行動をしてくれることになる。それに対して礼を言う」
「お礼ですって! 何に対してですの」
「お前が今言ってくれたことに対してだ」
「私、何を申しまして? 私は頭がどうかしてしまって、もうなにもわかりませんの。ああ、神様!」
こう言うと、夫人は髪をふり乱し、唇から泡をふいて立ち上がった。
「お前は、私がここへ入って来たときにした、『いつもお前が使っている毒薬はどこにある』という質問に答えてくれたわけだ」
夫人は両腕を天にさしのべ、わなわなとふるえる両の手を握りしめた。
「いいえ、いいえ」夫人はわめいた。「まさかあなたはそんなことはお望みにならないわ」
「私が望まぬことは、お前が断頭台で息絶えることだ、わかったかね」ヴィルフォールは答えた。
「おお、あなた、お願いです」
「私が望むことは、裁きが行なわれることだ。私がこの地上にいるのは罪人を罰するためなのだ」らんらんたる視線を浴びせながら彼はつけ加えた。「これがほかの女ならば、たとえ女王陛下であろうと、私は死刑執行人を派遣するところだ。だが、お前に対しては、私は寛大な処置をとりたい。お前に対しては、私はこう言う。『お前は、楽に、速やかに、確実に死ねる毒薬を数滴は残してあるだろうね』と」
「ああ、あなた、許して下さい、死なずにすませて下さい」
「この女は臆病者だったのだ!」ヴィルフォールはつぶやいた。
「私が、あなたの妻であることをお考えになって下さい」
「お前は毒殺犯人だ」
「神様のお慈悲で!」
「ならぬ!」
「私に対して抱いて下さった愛情のために」
「ならぬ、ならぬ!」
「私たちの子供のために。ああ、私たちの子供のために、私に生き永らえさせて下さい」
「ならぬというに! 言っておくが、もしお前を生かしておけば、お前はいつかは、あの子までも殺してしまう女だ」
「私が、あの子を殺す!」猛り狂った母親は、ヴィルフォールにむしゃぶりつきながら叫んだ。「私が、私のエドワールを殺すですって! あ、は、は、は、は」
ぞっとするような笑い、悪魔の笑い、狂女の笑いが夫人の言葉を終らせ、血を吐くような喘ぎに変った。
夫人は夫の足もとに倒れていた。
ヴィルフォールは夫人に近づいた。
「よく考えるのだ。もし私が帰って来たとき、まだ裁きが遂行されていなければ、私は私自身の口でお前を告発し、私自身の手でお前を逮捕する」
夫人は、あえぎつつ、うちのめされ、おしひしがれて聞いていた。その目だけが生きていて、すさまじい、火を宿していた。
「わかったな」ヴィルフォールは言った。「私は殺人犯に死刑を求刑しに出かける……もし帰って来てまだお前が生きていたら、お前は今夜はコンシェルジュリー〔パリの監獄〕で寝ることになる」
ヴィルフォール夫人は吐息を洩らした。神経が弛緩し、彼女はじゅうたんの上にくずおれた。
検事は哀れをもよおした。夫人を見る目がいくらかなごんだ。そして、夫人の上に身をかがめると、
「さようなら」彼はゆっくりと言った。「さようなら」
この永遠の別れの言葉が、死の刃となって夫人に降りそそいだ。彼女は気を失った。
検事は部屋を出た。外へ出ると、ドアに厳重に鍵をかけた。
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百九 重罪裁判
当時裁判所内ならびに世間でベネデット事件と呼ばれていたこの事件は、大きなセンセーションをまき起こした。カヴァルカンティの偽名のもとに、カフェ・ド・パリ、ガン大通り、それにブーローニュの森の常連であった彼は、パリに滞在し、羽ぶりのよさをひけらかしていた二、三か月の間に、数多くの知己を得ていた。各新聞とも、雅《みやび》やかな生活をしていた間と服役中に被告が立ち寄った場所を書きたてていた。そのため、とくにアンドレア・カヴァルカンティ公爵を個人的に知っている者たちは、激しい好奇心をかきたてられた。だから、彼らは是が非でも、監獄仲間殺害の犯人として被告席に坐るベネデットの姿を一目見ようと思っていた。
多くの人びとにとっては、ベネデットは、司法当局の犠牲とは言わぬまでも、過失によって犯人とされているのであった。人びとはパリで彼の父カヴァルカンティに会ったことがある。だから、人びとはこの父親が、高名な息子の身柄を要求しに、また現われるものと期待していた。彼がモンテ・クリスト伯爵邸の前に降り立ったときに着ていた、例のフロックコートのことを一度も耳にしたことのない多くの人びとは、この老貴族の示す堂々たる風采、貴族ぶり、社交界に関する知識に圧倒されたのであった。言っておかねばならぬが、口を開かぬとき、また金勘定をしていないときの彼は、いかにも領主らしく見えたのである。
被告自身については、あれほど愛想がよく、美しくて、金使いの荒かった彼を思い出したので、莫大な財産があれば、善悪いずれを行なうにしても極端なことができ、権勢も途方のないものとなるこの世の中ではたまたまあるように、誰か敵の策略に陥れられたと思いたがった。
だから人はみなこの公判に駈けつけた。ある者は裁判の模様を眺めて楽しむために、ある者はいろいろと意見を述べるために。朝の七時から鉄柵の前に行列ができた。そして開廷一時間前には、すでに運よく入ることのできた連中で傍聴席はいっぱいになった。
開廷前、いや往々にして開廷後も、大きな事件の裁判がある日の傍聴席は、サロンに似ている。多くの人びとが互いに知人をみつけ、他人に席をとられてしまわぬ程度に席が近いときには近くへ行き、間にあまりたくさんの一般人や弁護士や憲兵などがいるときには互いに合図をしあったりする。
夏らしい日もなく夏が過ぎてしまったり、あるいは夏が短かかったりした場合に、ときとしてその償いをしてくれる、あの秋のすばらしい日和であった。朝、ヴィルフォールが見た昇る朝日の上にかかっていた雲は、魔法のように消え失せ、九月最後の、なごやかな陽差しがさんさんと照りそそいでいた。
ボーシャンは報道関係に君臨する一人であり、どこにでもその玉座を持っていたから、片眼鏡で左右を見廻していた。彼は、シャトー=ルノーとドブレをみつけた。二人は一人の警官に頼みこんで、警官の権利として二人の前に位置を占めるかわりに後ろに坐ってもらうことにしたところであった。警官は、一人が大臣秘書で一人が大金持ちであることをかぎつけていたのだ。彼はこの身分の高い隣人たちに大いに敬意を表し、二人の席をとっておいてやるとさえ約束して、二人をボーシャンの所へ行かせたのであった。
「われわれの友人の顔を見に来たというわけだな」ボーシャンが言った。
「そういったわけだ」ドブレが答える。「まったく大した公爵様だよ。イタリアの貴族連など悪魔に食われろだ」
「ダンテに系図を書かせ、祖先は『神曲』にまでさかのぼるって男がな」
「縄目《なわめ》の恥辱を受けた貴族か」シャトー=ルノーが冷ややかに言った。
「死刑だろうな」ドブレがボーシャンに訊く。
「何を言ってるんだ、訊きたいのはこっちのほうだと思うがね」新聞記者は答えた。「当局の意向はわれわれより君のほうがくわしいんだから。この間の君の所の大臣の夜会で裁判長に会ったか」
「会った」
「何て言ってた」
「君を驚かせるようなことをね」
「ほう、早く話せよ。もう久しいことそんな話は耳にしたことがないんだ」
「いやね、裁判長の話では、ベネデットは世間じゃ、狡智にかけては右に出ずる者なく、奸策の権化のごとく言われているが、そのじつ、ごくつまらない間の抜けたいかさま師にすぎず、死後、骨相学的見地から解剖などしてみる必要などまったくないような奴だと言うんだ」
「まさか」ボーシャンは言った。「だって、じつにうまく公爵様に化けてたぜ」
「ボーシャン、君にとってはそうかもしれない。なにしろ、君はああいう気の毒な貴族連中が嫌いで、なにか失態をしでかせば大いに溜飲を下げる男だからね。だが、僕は違うな。本能的に貴族かどうか嗅ぎわける。どんな家柄であろうと、貴族であれば、猟犬のような嗅覚で必ず嗅ぎあててみせる」
「じゃあ君は、彼の公爵領のことは信じなかったのか」
「公爵領は信じた……だが公爵だってことは信じなかったよ」
「そいつはいいや」ドブレが言った。「だが、君以外の者にはそれで通ってたことはたしかだ……僕は大臣連中の家でも奴に会ったことがある」
「ああ、そうかい」シャトー=ルノーは言った。「そうだとすると、大臣連中も貴族というものをてんで知らんね」
「君が今言ったことは名言だぜ、シャトー=ルノー」ボーシャンが吹きだしながら言った。「短いが、いい言葉だ。うちの新聞のコラムに載せるお許しを得たいもんだね」
「使いたまえ、ボーシャン君」シャトー=ルノーは言った。「僕はそれ相応の値段で僕の言葉を売るよ」
「ところでね」ドブレがボーシャンに言った。「僕のほうは裁判長に会ったが、君は検事に会ったんだろ」
「駄目さ、一週間前からヴィルフォール氏は顔を見せない。それも無理ないよ。なにしろ、家庭に不幸が続いたあげくの果てに娘にまで妙な死に方をされたんだから」
「妙な死に方! ボーシャン、それはどういうことだ」
「そうなんだよ。だから、知らんふりをしてろよ。偉い司法官の家でのことだからと言ってね」ボーシャンは言いながら、片眼鏡を目にあて、手を放しても落ちないように目におしつけていた。
「ボーシャン君、そう言っちゃなんだが、片眼鏡の扱い方では、どうもドブレに及ばぬようだね。ドブレ、ボーシャンに教えてやってくれないか」シャト=ルノーが言った。
「あ、やっぱり見まちがいじゃなかったな」ボーシャンは言った。
「どうしたんだ」
「あの女《ひと》だ」
「あの女って?」
「旅に出たと聞いてたがな」
「ウジェニーさんか」シャト=ルノーが訊ねた。「もう帰って来たのかな」
「いや、母親のほうだ」
「驚いたなあ」シャト=ルノーが言った。「そんな馬鹿な。娘が家出して十日、夫が破産して三日しかたたないのに」
ドブレはかすかに顔を赤らめ、ボーシャンの視線をたどった。「なんだ、ヴェールをかぶった、知らない女《ひと》じゃないか。どこか外国の貴婦人だよ。カヴァルカンティ公爵の母親だぜきっと。それより、さっき君はすごくおもしろいことを言ってた、いや言いかけてたようだがね、ボーシャン」
「僕がか」
「うん、ヴァランチーヌが妙な死に方をしたとか」
「ああ、そうだった。それにしても、どうしてヴィルフォール夫人が来てないのかなあ」
「あの人もご苦労様でね」ドブレが言った。「メリッサ水〔気付け薬〕を蒸溜して病院に贈ったり、自分や女友達のためにコスメチックを作ったりするのに忙しいらしいや。このお楽しみのために年に二、三千エキュも使うって話だ。たしかに君の言う通りだな、どうしてヴィルフォール夫人がいないんだろう。あの人に会うのはうれしいんだがな。僕はあの人が大好きだ」
「僕は嫌いだね」シャトー=ルノーが言った。
「どうして」
「そんなこと知るもんか、なぜ好きか、なぜ嫌いか。僕は虫が好かないから嫌いなんだ」
「でなけりゃ、これも本能的にってやつだな」
「かもしれない……が、ボーシャン、さっきの君の話に戻ろうじゃないか」
「ではね」ボーシャンが口を開いた。「君たちは、なぜヴィルフォール家ではしげしげと人が死ぬのか、それを知りたくはないかね」
「しげしげと、はよかったなあ」シャトー=ルノーが言う。
「これは、サン=シモンの中にある言葉だぜ」
「が、事はヴィルフォールの家の中のことなんだから、話をそっちへ戻そうぜ」
「まったくだ」ドブレが言った。「僕はね、三か月前から喪に閉ざされているあの家から、ずっと目を離さずにいるんだ。一昨日もヴァランチーヌのことで、奥さんが僕に言っていた」
「奥さんて誰だ」シャト=ルノーが言った。
「大臣の奥さんにきまってるじゃないか」
「あ、これは失敬、僕は大臣連の家には行かないんでね。大臣のほうは公爵連中にまかせてる」
「君は、さっきまではみごとなだけだったが、今度は火のように痛烈になったね。ま、そのへんでかんべんしてくれよ、さもないとジュピターのようにわれわれを焼き尽してしまいそうだ」
「もう口をきかんよ」シャトー=ルノーは言った。「が僕のほうこそかんべんしてほしいな、しっぺ返しは止めにしてくれ」
「さあ、ボーシャン、話の結末を急ごうじゃないか。さっきも言ったように、奥さんから、この件についてなにか知ってることを教えてくれと、一昨日頼まれたんだよ。教えてくれないか。奥さんに教えなきゃならない」
「ではね、諸君。ああしげしげと、僕はあくまでもこの言葉を使うがね、ああしげしげとヴィルフォール家で人が死ぬのは、家の中に殺人犯人がいるからなんだ」
二人の青年は身ぶるいした。というのは、同じような考えを、彼らも一度ならず抱いたことがあったからである。
「で、その犯人とはいったい何者なんだ」
「エドワールさ」
聞き手の二人は吹き出したが、語り手は少しもひるむことなく続けるのだった。
「そうなんだよ、諸君、幼ないエドワールさ。すでに一人前の大人のように人を殺す恐るべき子供だ」
「冗談か」
「とんでもない。僕は昨日、ヴィルフォール家から暇をとった召使いを一人雇った。まあ聞け」
「拝聴してる」
「明日はもう暇を出すつもりだがね。というのは、あの家にいたときはものを食べるのが恐ろしくて絶食していて、それを取り戻そうと、えらく食うんでね。それはともかくとして、どうやらあの子は、時々、自分の気にいらない者に対して、なにかの毒薬の入ったびんを用いたらしい。まず最初が、あの子のご機嫌を損じたサン=メランのおじいちゃま、おばあちゃまだ。あの子はその妙薬を三滴ほど二人のコップに注いだ。たった三滴で十分なんだ。それから年老いたバロワ。ノワルチエおじいちゃまの老僕で、時折、君たちも知っているこの可愛いいたずら小僧をこっぴどく叱りつけてたからね。いたずら小僧は、バロワに三滴妙薬を盛った。気の毒なヴァランチーヌの場合も同じさ。あの人は叱りつけたりなどしなかったが、あの子は嫉《ねた》んでた。妙薬三滴を盛って、あの場合もほかの連中と同じで、万事休すさ」
「君はなんだってそんな恐ろしい作り話をするんだ」シャトー=ルノーが言った。
「そうだ、まるで別世界の話だと思うだろう」ボーシャンが言った。
「馬鹿々々しくて話にならんよ」ドブレは言った。
「ほらほら、もう君たちは話をしち面倒にしようとしてるじゃないか」ボーシャンは言った。「ふん、僕の召使いに聞いてみるんだね。いや、明日はもう僕の召使いではなくなる男にね。家の中じゃそういう評判だったんだ」
「だが、その妙薬はいったいどこにあるんだ。どういう毒物なんだ」
「子供がかくしてるのさ」
「どこで手に入れたんだ」
「母親の実験室だ」
「それじゃ、母親の実験室には毒薬があるのか」
「そんなことは僕が知ってるわけはないだろう。まるで検事の訊問みたいだぜ。僕はただ聞いた話をしているだけだ。話した男の言葉を言ってるのさ。それ以上のことは言えやしない。可哀そうに、あの男はこわくてなんにも食べられなかったんだ」
「とても信じられん」
「いや、そんなことはない。信じられんなんてことはないぞ。去年、リシュリュー通りで、兄さんや姉さんたちが眠っている間に、耳に針を刺して殺して喜んでた子供がいたじゃないか。われわれの次の世代はひどく早熟なんだよ、君」
「君」シャトー=ルノーが言った。「君自身、僕らに話したことを一言も信じていないってことを僕は断言するね……ところで、モンテ・クリスト伯爵の姿が見えないなあ。どうして来ていないんだろう」
「こんなことには飽き飽きしてるのさ」ドブレが言った。「それに、公衆の面前に姿を現わしたくないんだよ。カヴァルカンティ父子にはまんまとしてやられたからね。どうやらあの父子は、偽の信用状を持って伯爵のもとを訪れたらしい。その結果、あの人は、公爵領を抵当に十万フランばかり損をしたんだ」
「ところでね、シャトー=ルノー」ボーシャンが訊ねた。「モレルはどうしてる」
「それがね、三度も彼の家に行ったんだが、モレルの影さえ見えんのだ。だが妹さんは心配している様子もない。僕に晴ればれとした顔で、自分も二、三日前から会ってないが、元気でいることだけは確かだと言うんだよ」
「ああ、わかったぞ」ボーシャンが言った。「モンテ・クリスト伯爵は傍聴席へは来られないんだ」
「どうして」
「事件の当事者だからさ」
「あの人も誰かを殺したのか」ドブレが訊ねる。
「そうじゃない。逆に、殺されそうになったのは伯爵のほうだ。カドルッスが、年下の友人ベネデットに殺されたのが、伯爵の家から出て来た時だってことは君たちも知ってるじゃないか。また、例のチョッキが発見されたのが伯爵の家だったということも。チョッキに入ってた手紙が、結婚契約書の署名を駄目にした。その例のチョッキが、見えるかい、証拠物件として、机の上に血まみれのままあそこにのせてある」
「ああ、よく見える」
「しーっ、諸君、開廷だ。席に着こうぜ」
事実、法廷内に大きなざわめきが起きた。例の警官が、えへんと大きな咳ばらいをして、席をとっておいてやった二人を呼んだ。そして、守衛が協議室に通ずる戸口の所に現われ、ボーマルシェの時代から守衛が持っているあのきんきん響く声で叫んだ。
「皆さん、開廷です!」
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百十 起訴状
しーんと静まりかえった中で、判事たちが席に着いた。陪審員たちもそれぞれに席を占めた。注目の的、いや全員の讃嘆の的とさえ言えるヴィルフォールは、帽子をかぶったまま、肘掛椅子に腰をおろし、落ち着き払った目であたりを見渡していた。
父親としての悲しみも少しもその平静さを失わせてはいないらしい冷厳な顔つきを、皆が皆驚嘆の目で見ていた。そして、人間的な感情などとはおよそ無縁なこの男を、一種恐怖の心でみつめていた。
「憲兵、被告を入廷させよ」裁判長が言った。
この言葉に、傍聴人の関心はますます高まり、皆の目は一様に、ベネデットが入って来るはずのドアに吸いつけられた。
やがてそのドアが開き、被告が入って来た。
すべての者が同じ印象を抱いた。被告の表情を読み違えた者は一人もいなかった。彼の顔には、どの被告の血液をも心臓に押し戻し、額と頬の血の気を失わせさせる、あの激しい心の動揺の痕跡すらなかった。片方を帽子の上におき、もう一方を白いピケのチョッキの前あきに優雅に入れている彼の両手も、まったくふるえてなどいなかった。その目も落ち着いており、輝いてさえいた。法廷に入ると、この青年の視線は、居並ぶ判事たちや列席者たちをながめ廻し、裁判長と、そしてとくに検事の上により長い時間とどまっていた。
アンドレアのかたわらに、彼の弁護人が位置を占めた。官選弁護人である(というのは、アンドレアは自分から弁護人を依頼する気などまったくなく、そんなことには少しも重きをおいていなかったからである)。色褪せたブロンドの若い男で、当の被告よりも百倍も緊張しているために顔を紅潮させていた。
裁判長が起訴状の朗読を求めた。ご承知のように、ヴィルフォールの、あの老練な仮借なき筆で認《したた》められた起訴状である。
ほかの被告であればうちのめされたにちがいないこの長い朗読の間、皆の目はアンドレアに注がれたまま一瞬の間も離れなかった。アンドレアはその重みを、剛毅をもって知られるあのスパルタ人のごとくに平然と耐えていた。
おそらく、ヴィルフォールがこれほど明晰かつ雄弁であったためしはなかった。犯罪は色鮮やかに描き出された。被告の経歴、その変貌ぶり、かなり幼ない頃からの彼の行跡の因果関係が、検事ほどの優秀な頭脳に人生経験と人間の心についての知識が付加することのできた類い稀な才能を駆使して、詳述されていた。
この前置きだけでも、ベネデットは、法によって、より実質的な刑を与えられるのを待たずに、すでに世論から見放されていた。
アンドレアは、続けざまに自分に対して振り上げられ振りおろされるこの攻撃に、いささかの関心も示さなかった。しばしば彼に目を注ぎ、今までに幾度か数多くの被告に対して加えてきた心理学的探究を、彼に対しても続けていたヴィルフォールが、奥の奥まで見通すほどに鋭い目でいかに凝視しても、ただの一度もアンドレアの目を伏せさせることはできなかった。ついに朗読は終った。
「被告」裁判長が言った。「その方《ほう》の姓名は」
アンドレアは立ち上がった。
「裁判長、お許し下さい」その声の響きは一点の曇りもなく澄みきっていた。「ですが、裁判長は、私がお答えしかねるような順序で質問をなさっておられます。私がふつうの被告とは違うということを、後ほど証明してごらんにいれたいと思います。ですから、どうか、違う順序でご返事することをお許し下さい。どのようなご質問にもお答えするつもりでおりますから」
裁判長は驚いて陪審員たちを見た。陪審員たちは検事を見た。
居合わせた者全員の間に大きな驚きの色が見えた。だが、アンドレアにたじろぐ様子はまったくなかった。
「年齢は」裁判長は言った。「この質問には答えるかね」
「そのご質問にも、ほかのご質問にもお答えします。その順番が来れば」
「年齢は?」裁判長は繰り返した。
「二十一歳です。と言うより、あと数日で二十一歳になります。一八一七年九月二十七日から二十八日にかけての夜に生まれましたから」
メモをとっていたヴィルフォールがこの日付を聞いて顔を上げた。
「どこで生まれたのか」裁判長が続けた。
「パリ近郊のオートゥイユです」ベネデットは答えた。
ヴィルフォールはふたたび顔を上げ、恐ろしいメズサの顔を見るようにベネデットをみつめ、血の気を失った。
ベネデットのほうは、刺繍のある上等な麻のハンカチを優美な手つきで口もとにあてた。
「職業は?」裁判長が訊ねた。
「はじめは文書偽造」アンドレアは平然として言ってのけた。「ついで泥棒になり、最近人殺しとなりました」
ざわめきが、いやむしろ憤《いきどお》りと驚愕のどよめきが法廷の至る所からまき起こった。判事たちさえもあっけにとられて顔を見合わせ、陪審員たちは、上流階級の人士のものとしては予想もできないこの皮肉な態度に、心からの嫌悪の色をあからさまに示した。
ヴィルフォールは片手で額をおさえた。はじめは蒼ざめていたその額が、赤く燃えるような色になった。いきなり彼は立ち上がり、うろたえた者のようにあたりを見廻した。息がつまったのだ。
「検事さん、なにか探しておられるのですか」ベネデットがこの上なく愛想のいい笑顔で訊ねた。
ヴィルフォールは答えなかった。そして、また腰をおろした、と言うよりも、椅子に倒れこんだ。
「被告、今度はその方《ほう》の名前を言うことに同意するか」裁判長が言った。「その方が自分の犯した数々の罪を自らの職業と見なし、一つ一つ数え上げた際の兇暴さをてらう態度、そしてそれを己が名誉と心得ていること、これは、道徳と人間に捧ぐべき尊敬の名において、当法廷はその方を厳しく非難せねばならぬが、おそらくはこれが、その方が姓名を名乗るのを遅らせた理由なのであろう。その方はそうした数々の肩書きを先に述べることによって、その方の名前を際立たせようとしたのだな」
「裁判長、恐れ入りました」ベネデットはあくまでも上品な声音で、この上なく礼儀正しく言うのだった。「それほどまでに、私の考えの奥の奥までもお見通しとは。たしかにそういう目的でご質問の順序を逆にして下さるようお願いしたのです」
驚愕は頂点に達した。被告の言葉には、もはや駄ぼらもなければ皮肉もなかった。動揺した傍聴人たちは黒雲の奥に雷鳴が轟くのを予感していた。
「では訊ねる、その方の姓名は」裁判長が言った。
「私には、名前を申し上げることができないのであります。自分の名前を知らないからです。ですが、父の名前は存じております。父の名前は申し上げることができます」
重苦しい目まいに襲われ、ヴィルフォールは目の前が真暗になった。苦しい汗のしずくが頬をつたい、わなわなとふるえる取り乱した手がうちふるえさせている紙の上にぽたぽたと落ちるのが見えた。
「では父の名を言いなさい」裁判長は言った。
しわぶき一つ、息づかい一つ、満場を埋めた人びとの沈黙を乱すものはなかった。みながみな被告の言葉を待った。
「私の父は検事であります」静かにアンドレアは答えた。
「検事!」驚いて裁判長は問い返した。ヴィルフォールの面上の動転の色には気づかなかった。「検事が!」
「はい。名前をとのお言葉ですから、名前を申します。ヴィルフォールという名です!」
開廷中の裁判の尊厳を重んずる心から長いこと抑えられていた怒りが、すべての人びとの胸の奥底から、まるで雷のように一気に爆発した。法廷自身、この大衆のどよめきを抑えることを忘れていた。罵声、非難の叫びがベネデットに浴せられた。ベネデットは平然としている。激した身ぶり、憲兵のあわただしい動き、人が集まっている所で混乱や騒ぎが起きるときまって表面に出て来る下卑た連中の嘲笑。これらが五分もの間続いたあげくに、裁判官と守衛はやっともとの静寂に戻すことができた。
この騒然たる中で裁判長の叫ぶ声が聞こえていた。
「被告、その方は裁判を愚弄する気か。その方は、その方の同胞の前に、前代未聞の腐敗を露呈しようとするのか。今日の社会は、そのような件に関してはなんら咎むべきものがないにもかかわらず」
十人ほどの者が、腰をおろしたまま半ばうちひしがれたようになっている検事のそばに駆け寄り、慰めや励ましの言葉を述べ、心からの同情の念を表明していた。
法廷内はふたたび平静さをとり戻したが、ただ一か所だけ、ざわめきささやきかわしているかなりの人数のグループがあった。
女が一人気を失ったというのである。気付け薬をかがせ、その女性はやがて正気に返った。アンドレアはこの騒ぎの間中、にこやかな顔を傍聴人たちに向けていたが、やがて被告席のベンチの柏材の手摺りにいともスマートに片手をつくと、こう言うのであった。
「皆さん、私が法廷を侮辱し、この尊敬すべき方がたの前に無用の醜聞をまきちらそうとしているなど、そんなことがあってはなりません。私は年齢を訊ねられました。私はそれを申しました。どこで生まれたかと訊ねられました。私はそれに答えました。私の名前をお訊ねになりましたが私には申し上げることができないのです。なぜなら両親が私を棄てたからです。しかし、私自身には名前がありませんから、それは言えなくとも、父の名は言うことができます。そこでもう一度申し上げますが、私の父の名はヴィルフォールです。今すぐにもそれを証明できます」
アンドレアの声音には、ざわめきを沈黙に変えるだけの、確信と自信と力とがあった。彼の目は、しばし検事の上に注がれた。検事は、雷にうたれ屍と化した男のように、椅子にすわったままじっと動かなかった。
「皆さん」アンドレアは、身ぶりと声音とで沈黙を要求しながら続けた。「私の申し上げたことを説明し証明しなければなりません」
「だが、その方は」たまりかねて裁判長が叫んだ。「予審の際ベネデットと名乗り、孤児と言っておる。コルシカが故郷だと申し立てておるではないか」
「私は、予審の際には、予審にふさわしいようなことを申しました。と申しますのは、私が自分の言葉に与えたいと思っていた厳粛な意味を、弱められたり、あるいは抑圧されたりはしたくなかったのです。これは必ずそうされてしまうにきまっていますから。今こそ繰り返して申し上げましょう。私はオートゥイユで、一八一七年九月二十七日から二十八日にかけての夜に生まれました。私は検事ヴィルフォールの子供です。もう少し詳しいことがお知りになりたいでしょうか。申し上げます。
私は、ラ・フォンテーヌ通り二十八番地の二階、赤い緞子を張った部屋で生まれました。父は、私は死んだと母に言って、私を抱き、HとNの頭文字をしるしたタオルに包んで庭に運び、私を生埋めにしたのです」
被告の確信とヴィルフォールの恐怖とがいや増すのを見たとき、傍聴人の間に戦慄が走った。
「だが、どうしてそのような詳しいことを知っておるのか」裁判長が訊ねた。
「申し上げます。父が私を生埋めにしたその庭には、ちょうどその夜、父を深く恨み、コルシカ流の復讐をとげようとずっと以前から父をつけねらっていた男がひそんでおりました。その男は茂みに身をかくしていたのです。父がなにかを地中に埋めるのを見ると、父がこの仕事をしている最中に短刀をぶちこみました。ついで、父が埋めたものを宝物と思い、穴を掘り返して、まだ生きていた私を発見したのです。この男は私を孤児院に運び、私は五十七号として登録されました。三か月後に、この男の姉がロリヤノからパリに私を引き取りにやって来て、自分の息子だからと言って私をつれ帰ったのです。こういうわけで、私はオートゥイユで生まれながら、コルシカで育ったのです」
一瞬廷内は静まり返った。皆が一様にその胸に吸いこむ不安の念がなければ、廷内に人がいるとは思えぬほどの深い沈黙であった。
「続けるがいい」裁判長の声がした。
「たしかに、私をひどく可愛がってくれたこのいい人たちの家で、幸福に育つことができたはずなのです。しかし、持って生まれた邪悪な性格が、養母が私の心に注ぎ込もうとしたあらゆる美徳にうちかってしまったのです。私は悪の道を辿りつつ大きくなり、ついに罪を犯すに至りました。そうしてある日、私が、私をこのように邪悪な人間にし、忌わしい運命を私に与えた神を呪ったとき、養父は私にこう申しました。
『神様を呪うとは何事であるか。神様は、お怒りにもならずお前をこの世に生まれさせて下さったのだ。罪はお前の父親のせいであって、お前のせいではない。もしお前が死ねばお前を地獄に追いやったお前の父親、もし奇蹟的に生きのびることができたとしても、みじめな境涯に追いつめた父親のせいだ』
そのときから、私は神を呪うことをやめました。が、父を呪いました。裁判長、裁判長が先程お咎めになったあのような言葉をここで申しましたのもそのためです。ここにおいでの皆さんを今なおふるえ上がらせている忌わしい醜聞の種をまいたのもそのためです。もしこれが、また一つ罪を重ねたことになるのでしたら、どうか私を罰して下さい。ですが、もし、生まれ落ちたその時からすでに、私の運命がとり返しのつかぬものであり、苦しく、つらく、嘆かずにはいられぬものであったことをおわかりいただけたのなら、どうか私を哀れとお思い下さい」
「がその方の母親はどうした」裁判長は訊ねた。
「母は私を死んだものと思っておりました。母に罪はありません。私は母の名を知ろうとは思いませんでしたし、今も存じておりません」
この瞬間、すでに述べた、一人の女をとりかこむグループの真中で、鋭い悲鳴が聞こえ、それはやがてむせび泣く声に変わった。
その婦人は、激しい神経性のショックに襲われて倒れ法廷から運び出された。運ばれる途中で、その顔を被っていたヴェールが落ち、ダングラール夫人であることがわかった。
ヴィルフォールは、興奮しきって知覚が麻痺し、がんがん耳鳴りがし、頭は気も狂わんばかりになっていたが、それが夫人だとわかると、思わず立ち上がった。
「証拠だ、証拠があるか!」裁判長が言った。「被告、そのようなおぞましい事実の数々には、十二分な証拠がなければならぬことを思い起こすがいい」
「証拠ですか」ベネデットは笑った。「証拠を見せろとおっしゃるのですか」
「さよう」
「では、ヴィルフォール氏をご覧下さい。その後で、私に証拠をお求め下さい」
皆それぞれに検事のほうを見た。検事は、自分に釘づけになっているこれら数百の視線の重みに耐えながら、よろめく足どりで判事席に進み出た。髪は乱れ、顔には爪の痕が赤く印されていた。
傍聴人が一様に長い驚愕の声を洩らした。
「お父さん、私は証拠を見せろと言われているんです」ベネデットは言った。「お見せしましょうか」
「いや、いらん」喉をしめつけられたような声でヴィルフォールは呻いた。「その必要はない」
「なに、その必要はない?」裁判長が叫んだ。「それはどういう意味ですかな」
「それは」検事が叫んだ。「いくらあがいても、私をおしつぶすこの致命的な呪縛からは逃れられぬという意味です。私にはわかっておるのです。私は復讐の神の手中にある。証拠などは必要ありません。今この青年が申したことは、すべてこれ真実であります」
この世の終りに先立つもののような暗く重苦しい沈黙が、並いる者すべてをその鉛のマントで包んだ。皆の頭髪は逆立っていた。
「なんですと、ヴィルフォールさん」裁判長が叫んだ。「幻覚にとらわれているのではありませんか。え、気はたしかなのですか。あまりにも突飛な、あまりにも意外な、あまりにも恐ろしい非難を受けて、頭がどうかなさったことは想像できなくはありませんが。どうか、気をたしかに」
検事は首を振った。熱にさいなまれている者のように、その歯は激しく触れ合っていたが、顔の色は死者のようにまっ青であった。
「気はたしかです。身体だけは弱っておりますが、これは致し方ありますまい。私は、この青年が今私に対して加えた非難のすべてを是認いたします。今から直ちに自宅に謹慎し、私の後継者である検事のご指示に従います」
低い、ほとんど呻くような声でこの言葉を口にしながら、ヴィルフォールはよろめきつつドアのほうに歩み寄った。守衛が機械的にそのドアを開けた。
二週間このかたパリの上流社会を騒がせた一連の出来事に恐ろしい結末を与えた、この意外な事実の暴露と告白に、一堂の者が動転し声を呑んでいた。
「ほう」ボーシャシは言った。「事実の中にドラマなしなどと言うやつの顔が見たいね」
「まったくだ」シャトー=ルノーが言った。「僕はモルセール氏のような最後のほうを望むね。こんな悲惨な結末よりは、ピストルのほうがずっと楽だよ」
「それに、必ず死ねるしね」ボーシャンが言った。
「僕は一時、あの人の娘と結婚しようかと思ったこともあるんだが」ドブレが言った。「まったくあの女《ひと》も死んでよかったな、可哀そうな娘だ」
「閉廷します」裁判長が言った。「審理は次回に延期。本件は予審にさし戻し、別の検事の手にゆだねます」
アンドレアのほうは、相変わらず平然と腰をおろし興味深げであったが、憲兵に護衛されて法廷を出て行った。憲兵たちは思わずアンドレアに敬意を払うのであった。
「で、どう思うかね」ドブレがルイ金貨を握らせながら警官に訊ねた。
「情状酌量でしょうな」警官は答えた。
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百十一 罪のつぐない
ヴィルフォールは、厚い人垣が自分の前に道を開けるのを見た。大きな苦悩というものは、人に畏敬の念を起こさせるものであり、どのようにひどい時代であっても、大きな悲劇を目の前にしたときの群衆の最初の反応が、同情でなかったという例はない。憎まれた者の多くが暴動のさ中で殺されることはあっても、不幸な男が、たとえそれが犯罪を犯した者であっても、その死刑宣告に立ち合った者から侮辱されたためしはめったにない。
だからヴィルフォールは、野次馬、守衛、裁判所の所員の人垣の間を、自らの告白により罪人と認められながら、その苦しみに守られて、遠ざかって行った。
人びとが本能的には正確に捉えることができても、知性をもって説明することはできぬ境遇というものがあるものである。こういう場合に、最も熱烈で最も自然な叫び声を上げる者こそは最大の詩人である。大衆はこの叫びをもって、いっさいが物語られたものとみなす。彼らがそれだけで満足するのは正しいし、その叫びが真実である場合に、これを崇高なものと思うならばなおのこと正しい。
それに、裁判所を出たときのヴィルフォールの茫然自失たる状態を述べることは困難であろうし、動脈を脈打たせ、神経繊維をこわばらせ、血管という血管を破れんまでにふくれ上がらせ、数知れぬ苦痛で身体中の急所をずたずたにしているその熱を、描写することも至難の業であろう。
ヴィルフォールは、ただ習慣にのみ導かれて、いくつもの廊下を身を引きずって行った。彼は肩から法官服を脱ぎ捨てた。それが作法にかなうと考えたからではない。それが、耐えがたい重荷、苦痛に満ちたネソスの衣〔怪物ネソスの血を塗った衣で、これを着たヘラクレスはその毒のために死んだ〕のように思えたからである。
よろめきつつ彼はドーフィーヌの中庭まで辿りついた。自分の馬車をみつけ、御者を起こし、自分で扉を開け、フォーブール・サン=トノレの方角を指で示すと、クッションの上に倒れこんだ。御者は馬車を出した。
音をたてて崩れた彼の運命の重みのすべてが彼の頭上にのしかかって来たのであった。その重みが彼をおしつぶしていた。その結果がどうなるのか、彼にはわからなかった。それをおしはかってみることもしなかった。ただそれを感じていた。熟知した条文に解釈を加える冷厳な殺人者として、法規を論ずる彼ではなかった。
彼は心の底に神を思い描いていた。
「神よ!」彼はつぶやくのだった。「神よ! ああ、神よ!」
今しがた起きた崩壊のかげに、彼は神の姿しか見ていなかった。
馬車は速力を上げて走っている。ヴィルフォールは、クッションの上でゆられながら、なにか異物を感じた。
彼はそれに手をやった。それは、クッションと背の間にヴィルフォール夫人が置き忘れた扇であった。その扇が彼にある記億を呼び覚ました。この記憶は、深夜に閃く電光のごときものであった。
ヴィルフォールは妻のことに思いを馳せた……
「おお!」灼熱した鉄の棒で心臓を貫ぬかれる思いでヴィルフォールは呻いた。
事実、一時間前から、彼は自分の不幸の一面しか眼中になかったのだ。それが今突如としてもう一つの面が、いずれ劣らぬ恐ろしい一面が、彼の脳裡に浮かんだのである。
この妻に、彼は冷厳な裁判官として相対し、死の宣告を下したのであった。この妻は、恐怖におののき、悔恨にうちひしがれ、彼自身の非の打ち所のない美徳を武器としての雄弁で、彼が思い知らせたその恥に絶え入らんばかりになり、至上絶対の権力の前に抗する力もなく、か弱い哀れなこの妻は、今この瞬間に、おそらくは自ら死を求めようとしているのだ!
彼が死を命じてからすでに一時間が経過していた。おそらく今彼女は、犯した罪の一つ一つを思い起こし、神に慈悲を乞い、美徳の誉高い夫の前に跪いて、死によってあがなおうとする許しを求める遺書をしたためているはずなのだ。
ヴィルフォールは、再度、苦痛と怒りとの呻き声を洩らした。
「ああ!」彼はサテンを張った座席の上で身もだえした。「あの女が罪を犯すに至ったのは、この私に触れたからなのだ。この私の身体からは、罪の毒液が滲み出ているのだ。あれは、人がチフスに、コレラに、ペストに感染するように、罪に感染したのだ……にもかかわらず私はあれを罰した……私は、『恥を知れ、死ね』とあれに言ってのけた。この私がだ! おお、いかん、あれを死なせてはならぬ……私と共に来るのだ……二人で逃げよう、フランスを去ろう。大地が続く限り、どこまででも。私はあれに断頭台のことを口にした……ああ、神よ! どうして私にそのようなことが口にできたのか! この私にも、私にも断頭台が待っているというのに……逃げるのだ……そうだ、あれになにもかも打ち明けよう。そう、毎日毎日あれに語り続けよう、頭を垂れ、私も、私も罪を犯したのだと。おお、まさに虎と蛇との組合わせではないか。私のような夫に、まことふさわしい妻ではないか……死なせてはならぬ。私の汚らわしい罪で、あれの罪を軽くしてやらねばならぬ!」
ヴィルフォールは、馬車の前の窓ガラスを、下げるというよりは、叩きこんだ。
「早く、もっと早く走れ!」彼の叫ぶ声に、御者は御者台の上で飛び上がった。
鞭を恐れる馬は邸まで飛ぶように疾駆した。
「そうだ、そうだとも」邸が近づくにつれ、ヴィルフォールは繰り返した。「あれを死なせてはならぬ。罪を悔い改めさせるのだ。子供を育てさせるのだ。あの不死身の老人とともに、家族の壊滅のさ中にあってもただ一人生き残った、可哀そうなあの私の子を。あれはあの子を可愛がっていた。あれがしたことはすべてあの子のためなのだ。わが子を愛する母親の心を絶望に陥しいれてはならぬ。あれは前非を悔いるはず。なんぴともあれが犯人とは知るまい。私の邸で行なわれ、すでに世間が疑惑を抱いているあの犯罪も、時がたてば忘れられてしまうだろう。もし仮に、敵がそれを忘れぬとしても、ままよ、そのときは私の犯した罪に加えてしまうまでだ。二つや三つ犯した罪が余計になろうと、それが何だというのか。妻は金を持って逃げればよい。世界中が私もろとも呑みこまれてしまうように思えるこの奈落の縁から、子供をつれて遠く遠く逃げてしまうのだ。あれを死なせてはならぬ。まだまだあれは幸せになれるはずだ、あれは愛情のすべてをわが子に注いでいるのだから。そして、あの子もあれを捨てるようなことはないのだから。そうさせてやれば、私は善行をほどこしたことになる。私の心も休まるというものだ」
こう考えると、検事は、久方ぶりでいくらか楽に息をつくのであった。
馬車が邸の中庭にとまった。
ヴィルフォールは踏段から正面階段に飛び降りた。彼は、意外に早い主人の帰宅に驚く召使たちの姿を見た。彼らの顔にそれ以外の表情は読みとれなかった。誰一人として、彼に言葉をかける者はなかった。いつものように、彼の前で立ち止まり、黙って彼を通しただけである。
彼はノワルチエの部屋の前を通った。半ば開いたドアごしに、彼は二つの人影らしいものを見た。しかし父親と一緒にいる人物のことなど彼は気にとめなかった。彼の関心をひいていたものはほかにあったのである。
「よし」妻と今は人の住まぬヴァランチーヌの部屋のある踊り場に通ずる小さな階段を昇りながら彼はつぶやいた。「ここはなにも変わっていないぞ」
彼はまず踊り場のドアを閉めた。
「誰にも邪魔をされてはならぬ。あれと自由に話をする必要がある。あれに自分の罪を告白するのだ。なにもかも……」
彼はドアに近づいた。クリスタルガラスの把手《とって》に手をかけた。ドアが開いた。
「鍵がかかってない! よし、これはいいぞ」彼はつぶやいた。
彼は小さなサロンに入った。夜になれば、エドワールのベッドがしつらえられる部屋である。寄宿生でありながらエドワールは毎晩帰って来たのだ。母親がどうしても子供を手離せなかったからである。
彼はそのサロンをすばやく見廻した。「誰もいないな。あれはきっと寝室にいるのだろう」
彼はドアに駆け寄った。これには閂がかかっていた。ぞっとして彼は足を止めた。
「エロイーズ!」彼は怒鳴った。
中で椅子が動く音がしたようである。
「エロイーズ!」彼は繰り返した。
「どなた」彼がその名を呼んだ者の声がした。
その声がいつもより弱々しいように彼には思えた。
「開けろ! 開けるのだ! 私だ!」
だが、こう命じても、また命ずるその声が苦悩にみちたものであったにもかかわらず、ドアは開かれなかった。
ヴィルフォールはドアを蹴破った。
寝室への入り口の所に、蒼ざめて、ひきつった顔をしたヴィルフォール夫人が立っていた。ぞっとするほどまでにじっと見据える目で彼をみつめている。
「エロイーズ! いったいどうしたのだ。わけを話せ!」
若い妻は彼のほうに、そのこわばった土気色の手をさしのべた。
「済みましたわ」夫人は喉をひき裂かんばかりの喘ぎの中で言った。「これ以上まだ何をしろとおっしゃいますの?」
こう言うと、夫人はどっとばかりに床に倒れた。
ヴィルフォールは駈け寄って、妻の手を掴んだ。その手には、金の栓をしたクリスタルガラスの小びんが握られていた。
ヴィルフォール夫人は死んでいた。
ヴィルフォールは恐怖に酔ったようになり、血の気を失って、部屋の戸口の所まで後ずさりし、妻の死体をみつめていた。
「子供はどうした!」いきなり彼は叫んだ。「子供はどこにいる。エドワール! エドワール!」
あまりに悲痛なその声に、召使いたちが駈けつけて来た。
「子供は、あの子はどこにいる」ヴィルフォールは訊ねた。「邸からあの子を遠ざけるのだ。あの子に見せてはならぬ……」
「エドワール様は、下にはおいでになりませんが」召使いが答えた。
「きっと庭で遊んでおるのだ、見て来い」
「いえ、かれこれ三十分ほど前に、奥様が坊ちゃまをお呼びになりまして、エドワール様は奥様のお部屋にお入りになったきり、下へは降りていらっしゃいませんでした」
冷たい汗がヴィルフォールの額を濡らした。足が床につまずきよろめいた。さまざまな考えが、こわれた時計の狂った歯車のように頭の中を廻転し始めた。
「奥さんの部屋にだと!」彼はつぶやいた。「奥さんの部屋に!」
彼はのろのろと、片手で額の汗をぬぐい、片手で壁に身を支えながら、もとの場所に戻って行った。
部屋に入れば、彼は不幸な妻の姿をふたたび見ねばならない。
エドワールの名を呼ぶためには、棺と化したこの部屋に、こだまをひびかせねばならなかった。声を出すこと、それは墓の静寂を乱すことであった。
ヴィルフォールは、舌が喉にはりついたまま動かぬのを感じた。
「エドワール、エドワール」彼は口ごもった。
子供の答はなかった。召使いたちの話によれば、母親の部屋に入ったきり、出て来なかったという子供は、いったいどこにいるのか。
ヴィルフォールは一歩前に進んだ。
ヴィルフォール夫人の死体は、寝室の入口をふさぐ形で横たわっていた。中にエドワールがいるにちがいないその死体はぞっとするような謎の皮肉を唇にたたえたまま、かっと見開いた目で、その戸口を見張っているかのようであった。
死体の後ろの、巻きあげられたドアカーテンの間から、寝室の一部が見えている。立型のピアノ、青いサテンの長椅子の端。
ヴィルフォールはさらに三、四歩前に進んだ。そしてソファーの上にわが子が寝かせられているのを見た。
おそらく子供は眠っているのだ。
不幸な男は、言うに言われぬ喜びにふるえた。彼がのたうち廻っているこの地獄に、清らかな一条の光がさしこんだのである。
死体を乗りこえて寝室に入り、わが子を抱き上げ、子供とともに逃げるだけだ。遠くへ、ずっとずっと遠くへ。
ヴィルフォールは、もはや、その巧みな処世術によって文化人の典型とされていたあの男ではなかった。致命傷を受け、最後にわが身に牙を立て、折れた牙をその傷口に残す虎であった。
今の彼が恐れるものは、世間の思惑ではなく、亡霊であった。彼は、まるで燃えさかる炎を飛び越えるように、死体を一飛びに飛び越えた。
彼は子供を抱き上げ、抱きしめ、ゆすぶり、名前を呼んだ。子供は答えなかった。彼はむさぼるように、その頬に唇をおし当てた。その頬は土気色で氷のように冷たかった。硬直した手足に触れた。手を子供の心臓にあててみた。心臓はもはや動いてはいなかった。
子供は死んでいたのである。
エドワールの胸から、四つに畳んだ紙が落ちた。ヴィルフォールは、雷にうたれたように、がっくりと膝をついた。力のなえた彼の腕から落ちたエドワールは母親のほうへころがった。
ヴィルフォールはその紙を拾った。妻の筆蹟であった。彼はむさぼるようにそれを読んだ。
それには、次のようなことがしたためられていた。
『私がよき母親であったかどうかは、あなたがご存じです。私が罪を犯しましたのはわが子のためなんですもの!
よき母親というものは、子供を残して一人旅立つようなまねはいたしません』
ヴィルフォールは自分の目を信ずることができなかった。自分の理性を信ずることもできなかった。彼は身をひきずるようにして、エドワールのほうに近づいた。そして、もう一度、牝獅子が死んだ仔獅子をみつめるときのように、仔細にわが子を調べてみた。
やがて胸をかきむしるような呻きが彼の胸から洩れた。
「神だ、またしても神だ!」
この二つの犠牲《いけにえ》の姿が彼をふるえ上がらせた。二つの死体がころがっているその部屋への恐怖が、身内にこみ上げて来るのを感じた。
つい先刻までの彼は、強者の巨大な力となる怒りによって、また、ティタン一族をして天によじ登らしめ、アイアスをして神々に拳をふり上げさせた、絶望という無上の力によって支えられていたのだ。
ヴィルフォールは苦悩の重みに頭を垂れた。膝をついて身を起こし、汗に濡れ、恐怖に逆立った髪をふり乱した。そうして、いまだかつて、他人に憐憫の情を抱いたことのないこの男が、老人に会いに、父の顔を見に行ったのである。心がくじけた果てに、己が不幸を語るべき相手を、そのかたわらで涙を流すことのできる相手を求めたのだ。
彼は、われわれがすでに知っているあの階段を降り、ノワルチエの部屋に入った。
ヴィルフォールが部屋に入ったとき、ノワルチエは、自由のきかない身体が許す限り愛想よく、いつに変わらず冷静なブゾニ神父の言葉に熱心に耳を傾けているようであった。
司祭の顔を見たヴィルフォールは手で額をおさえた。いきり立って一きわ高く逆巻く波のように、過去のことが思い出されたのだ。
オートゥイユでの晩餐の翌日自分が司祭を訪ねたこと、ヴァランチーヌが死んだ日、司祭が自分を訪ねたときのことを思い出した。
「あなたがここにおいでになっているとは!」ヴィルフォールは言った。「いつも死神のお伴をして姿を現わすものとみえますな」
ブゾニは立ち上がった。司法官の血の気を失った顔つき、荒々しい目の光を見て、重罪裁判に結末がついたことを知った、いや知ったと思った。その余のことは彼は知らなかった。
「この前は、お嬢さんの遺骸の前で祈りを捧げるために参ったのです!」ブゾニは答えた。
「で、今日は、今日は何をしに来たのです」
「あなたが私に十分に借りを返したことを告げに来たのです。これからは、神もこの私のように、これでご満足下さるよう祈るつもりだと告げに」
「おお」ヴィルフォールは、額に恐怖の色を浮かべて後ずさった。「その声は、その声はブゾニ神父の声ではない!」
「そうだ」
司祭は剃髪のかつらをはぎ取り、頭をふった。すると、かつらに抑えられていた黒い長髪が肩まで垂れ、男らしい顔を縁どった。
「モンテ・クリスト氏の顔だ!」血走った目でヴィルフォールは叫んだ。
「それも違う、検事さん、もっと遠い昔をよくよく思い出すことですな」
「その声は、その声は! 最初にいったいどこで聞いた声だろう」
「この声を、あなたは初めて、二十三年前にマルセーユで聞いたのだ。サン=メラン嬢と結婚した日に。書類を調べてみるがいい」
「あなたはブゾニではない、モンテ・クリストでもないのか。ああ、あの執念深い、私の命をねらう、あの見えざる敵なのだな! 私は、マルセーユであなたになにか悪いことをしたのだ。おお、われに禍あれ!」
「そうだ、その通り、まさにその通りだ」伯爵はその広い胸の上に腕を組んだ。「思い出せ、思い出すんだ!」
「が、私が貴様に何をしたというのか」ヴィルフォールの頭は、もはや夢ではなく、さればとてうつつでもないあの霧に包まれたような状態の中で、正気と錯乱との境をさまよっていた。「貴様に何をしたというのか、言え、話せ!」
「私に、じわじわと訪れるおぞましい死の宣告をしたのだ。父を殺したのだ。私から、自由とともに恋を奪い、恋とともに幸せな運命を奪った」
「誰なのだ、いったい誰なのだ、ああ!」
「私は、あなたがシャトー・ディフの地下牢に埋めた不幸な男の亡霊だ。ついにその墓を脱け出たその亡霊に対して、神はモンテ・クリスト伯爵の仮面を与え給うた。今日までその正体があなたにはわからぬようにと、ダイヤと金とでその亡霊を被い給うたのだ」
「あ、わかった、わかったぞ、貴様は……」
「私はエドモン・ダンテスだ」
「貴様はエドモン・ダンテスだ」検事は叫びつつ伯爵の手首を掴んだ。「それじゃ、一緒に来い!」
こう言って検事は階段へ伯爵を引っ張って行った。モンテ・クリストは、驚きながらも、そして、検事がどこへつれて行こうとするのかもわからずに、検事について行った。なにかまた新しい悲劇を予感していた。
「そら、エドモン・ダンテス」検事は妻と息子の死体をさし示した。「見ろ、これで貴様の復讐はとげられたか」
モンテ・クリストはこの無残な光景に色を失った。彼は復讐の許される範囲を大きく逸脱したことを知ったのである。今はもはや、
「神はわれの味方、神はわれとともにあり」
とは言えぬことをさとったのである。
なんとも説明のできぬ苦悩にさいなまれつつ、彼は子供の遺骸にとびついて目を開かせてみた。脈をとってみた。そして、ヴァランチーヌの部屋に子供を抱いたまま飛びこむと、中からしっかりと鍵をかけてしまった……
「私の子供を!」ヴィルフォールはわめいた。「私の子供の亡骸《なきがら》を奴は持って行ってしまった。ええい、畜生! 貴様のようなやつは死んでしまえ!」
彼は、モンテ・クリストに続いてその部屋に飛びこもうとした。が、夢の中でのように、足に根が生えたように、感じた。彼の目は眼窩もはじけんばかりにかっと見開かれた。曲げられた指が胸の肉にじわじわとつき立てられ、やがてその爪を血が赤く染めた。こめかみの血管が、あまりに小さなその頭蓋をおし上げる煮えくりかえるようなさまざまな思いにふくれ上がった。燃えさかる炎が脳を舐めつくした。
こうしてじっと動かぬまま数分が流れ、ついには恐ろしい精神の完全な錯乱が訪れた。
大声に一声叫んだかと思うと、彼はいきなり高笑いを始め、階段を駆け降りて行った。
十五分ほどの後、ヴァランチーヌの部屋のドアがふたたび開いて、モンテ・クリストが姿を現わした。
顔蒼ざめ、暗い目をして、胸をおしつぶされるような思いを抱き、ふだんあれほどもの静かで上品なその顔立が、苦悩にゆがんでいた。
彼は両腕に、どうやっても救うことのできなかった子供を抱いていた。
彼は片膝をつき、その子を母親のかたわらにそっと寝かせ、頭を母親の胸にのせてやった。
それから立ち上がると、彼はその部屋を出た。階段の上で召使いに出会った彼はこう乱ねた。
「ヴィルフォール氏はどこにいるか」
召使いは答えずに、庭のほうに手をさしのべた。
モンテ・クリストは正面階段を降りて、指さされた方角に歩みを進めた。そして見た。周囲をとりまく召使いたちの真中で、ヴィルフォールは、スコップを手にして、たけり狂ったように土を掘りおこしていた。
「ここでもない、ここでもないぞ」ヴィルフォールはこう言っていた。
そして、彼はまたさらに別の所を掘るのであった。
モンテ・クリストは彼に近づき、そしてごく低く、
「あなたはご子息を失くされた、だが……」へりくだったとさえ言える声音であった。
ヴィルフォールは彼の言葉をさえぎった。彼は相手の言葉を聞こうともせず、聞こえてもいなかったのだ。
「みつけてみせますよ。あの子がここにはいないなどと言っても無駄です。必ずみつけてみせます。たとえ最後の審判の日まで探さねばならぬとしても」
モンテ・クリストはぞっとして後ずさりした。
「ああ、気が狂ったのだ!」
そして、まるでこの呪われた邸の壁が頭上に崩れ落ちるのを恐れるかのように、彼は路上に飛び出した。このとき初めて、彼は、自分に、己れがなしたことをやるだけの権利があったかどうかを疑ったのである。
「おお、もう十分だ、もうこれで十分だ。最後の男は見逃してやろう」
自宅に戻ったモンテ・クリストは、ちょうどシャン=ゼリゼーの邸内をさ迷い歩いていたモレルに出会った。神によって、墓場に戻るべく定められた時刻を待つ幽霊のようにひっそりとした姿であった。
「待ちたまえ、マクシミリヤン」笑顔を向けて伯爵は言った。「明日パリを発とう」
「もうここでの用事は皆済んだのですか」モレルが訊ねた。
「済んだ。あまりやりすぎぬことを神が望んでおられる」モンテ・クリストは答えた。
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百十二 出発
最近起きた一連の事件はパリ全市の話題をさらった。エマニュエル夫妻は、当然のことながらひどく驚いて、メレ通りの小さなサロンでこれらの事件のことを語り合っていた。二人は、モルセール、ダングラール、ヴィルフォールと、あまりに急激であると同時に思いもよらなかったこの三人の破滅を考え合わせてみるのだった。
二人を訪ねて来ていたマクシミリヤンは、二人の話を聞いていた。と言うよりも、例によって無感動な状態にひたったまま、ただ二人が話しているそばにいるだけであった。
「ねえ、エマニュエル」ジュリーが言った。「つい昨日まではお幸せだったあのお金持ちの人たちは、ご自分たちの財産、幸せ、世間の尊敬といったものを築き上げる際に、悪魔の役割のことを計算に入れるのを忘れたんじゃないのかしら。ちょうどペローのお伽話の、結婚式とか洗礼とかに招待し忘れた魔女のように、その悪魔が忘れられたのを怒って、いきなり出現したみたい」
「まったくひどい災難に会ったものだ」モルセールとダングラールのことを思いめぐらしながらエマニュエルは言った。
「どんなにつらかったかしら」ジュリーは、女の本能的な勘《かん》から、兄の前では名前を口にしたくないヴァランチーヌのことを思い浮かべていた。
「あの人たちに罰を下したのが神なら、至高の善である神も、あの人たちの過去になんら減刑に値するものを見出せなかったからだ。あの人たちが呪わるべき人たちだったからなのだろう」
「エマニュエル、そう断定してしまうのはあんまり乱暴じゃないかしら。お父様がピストルを手になさって、今にも頭を射ち抜こうとなさったとき、もし誰かが、あの時、『あの男にはその罰を受けるだけのことはあった』と言ったとしたら、その人はまちがっていたじゃないの」
「そうだ。だが神はね、僕たちのお父様が死ぬのをお許しにはならなかった。アブラハムにその子を犠牲《いけにえ》とすることをお許しにならなかったようにね。この族長にも僕たちにも、神は死の翼を道半ばにして断ち切る天使をお遣わしになったのだ」
彼がこの言葉を言い終らぬうちに、鈴の音が聞こえた。
これは誰か訪問客があったときに門番が鳴らす合図であった。
それとほとんど同時にサロンのドアが開いて、モンテ・クリスト伯爵が戸口に姿を現わした。
マクシミリヤンは顔を上げたがまた顔を伏せてしまった。
「マクシミリヤン」伯爵は、自分の来訪がこの家の人びとに与えたそれぞれ違う反応には気をとめる様子もなく、こう言った。「私は君を迎えに来たのだよ」
「僕を迎えに?」夢から覚めたようにモレルは言った。
「そう。私と旅に出ることにはなっていなかったかね。その準備をしておくように言っておいたはずだが」
「僕はここへ、この二人に別れを告げに来ていたんです」
「どこへいらっしゃいますの、伯爵様」ジュリーが訊ねた。
「まずマルセーユヘ」
「マルセーユヘ?」若い二人が異口同音に繰り返した。
「そう。お兄さんをいただいて行くよ」
「まあ! 伯爵様、お兄様を元気にして返して下さいましね」
モレルは頬の赤らむのをかくすために顔をそ向けた。
「それじゃ、君たちはお兄さんが苦しんでいるのに気がついていたのかね」
「はい」若妻は答えた。「私たちと暮らしていたんじゃつらいんじゃないかと思ってます」
「私がお兄さんの気が紛れるようにしてあげるよ」
「用意はできています」マクシミリヤンが言った。「さよなら。さよなら、エマニュエル! さよなら、ジュリー」
「どうして、さよならなの」ジュリーが叫んだ。「そんなに急に行ってしまうの、用意もなにもしないで、パスポートも持たずに?」
「ぐずぐずしていると別れの悲しみが増すだけだ」モンテ・クリストは言った。「それにマクシミリヤンは、なにもかも用意してあると思う。そうするように言っておいたからね」
「パスポートも持ってますし、荷物もできています」単調な静かな調子でモレルが言った。
「たいへん結構」笑顔でモンテ・クリストは言った。「いかにも優秀な軍人らしい正確さだね」
「そんなふうに、急に行っておしまいになるんですの? 私たちに一日の猶予も与えては下さいませんの? 一時間も?」
「馬車が門の所で待っている。私は五日後にはローマに着いていなければならない」
「でも、マクシミリヤンはローマヘ行くわけじゃないでしょう」エマニュエルが言った。
「僕は、伯爵が僕をつれて行きたいと思う所へ行くのだ」モレルはさびしい微笑を浮かべた。「あと一か月は、僕の身柄は伯爵のものなんだよ」
「まあ、伯爵様、お兄様のこのしゃべり方!」
「マクシミリヤンは私と一緒に行くのだよ」伯爵は、あの相手の心を納得させる愛想のいい顔つきでこう言うのだった。「だから、お兄さんのことは心配しなくていい」
「さよなら、ジュリー」モレルが繰り返した。「さよなら、エマニュエル」
「あのさりげない顔が、私の心をしめつけるんです。ああ、お兄様、お兄様はなにか私たちにかくしていらっしゃるのね」
「とんでもない!」モンテ・クリストが言った。「元気で、笑って、うれしそうにして帰って来るよ」
マクシミリヤンはモンテ・クリストに、蔑むような、焦立っているような視線を浴びせた。
「お発ちになる前に、伯爵様」ジュリーが言った。「みんなお話ししておきたいんですけど、いつか……」
「ジュリー」伯爵は彼女の両手をとりながら言い返した。「君が何を言おうと、その目の中に私が読みとるもの、君の心が考え、私の心が感じとるもの以上のことは言えない。小説の中の善行を施した者のように、私は君に会わずに発つべきだったのだろう。だが、そのような美徳は、私のような者にはとても及びもつかぬ美徳だった。私は弱い見栄坊な男だからね。うれしそうな、やさしい濡れた瞳は、私にとっては心地よいものなのだ。さ、でかけよう。わがままついでに、君たちに『私を忘れないでくれ』と言うよ。たぶん、二度と君たちには会えないだろうから」
「もうお会いできないんですって!」エマニュエルが叫んだ。ジュリーの頬を二粒の大粒の涙が流れた。「もうお目にかかれない! とすれば、今お別れする人は、人間ではなくて、神様だ。善行を施すために地上に現われた神が、今、天にお戻りになるんだ!」
「そんなことは言うものではない」口早にモンテ・クリストは言った。「決してそのようなことは言ってはならない。神は絶対に悪をなさらぬものだ。思う所で立ち止ることがおできになる。偶然といえども神より強力ではない。逆に、偶然を支配するのが神なのだ。違うよ、エマニュエル、私は一個の人間にすぎない。君の讃美は、君の言葉が神をけがすものであるのと同様に、不当なものだ」
こう言って、腕の中に飛びこんで来たジュリーの手に唇をおしあてながら、伯爵はもう一方の手をエマニュエルにさしのべた。そうして、幸せが住むこの楽しい住み家から無理に身をふりほどくようにして、マクシミリヤンに後からついて来いと合図した。マクシミリヤンは、ヴァランチーヌの死以来、いつも彼がそうであったように、相変わらず受身で、無感覚で、茫然自失のていであった。
「お兄様に明るさをとり戻させて下さい」ジュリーがモンテ・クリストの耳もとにささやいた。
モンテ・クリストは、十一年前、モレルの部屋へ通ずる階段でその手を握りしめたように、ジュリーの手を握りしめた。
「まだ船乗りシンドバッドを信じているかね」伯爵は笑いながらこう訊ねた。
「ええ、もちろんですわ」
「それなら、神を信じて、安心しておやすみ」
すでに述べたように、馬車が待っていた。たくましい、四頭の馬が、たてがみを逆立て、じれて敷石を蹴っていた。
正面階段の下に、アリが待っていた。顔に汗が光っている。長いこと走って来たものらしい。
「で、老人の所へは行って来たんだな」伯爵はアラビア語で訊ねた。
アリはうなずいた。
「それで、手紙をあの方の目の前に拡げて見せたんだろうな、私が命じたように」
『はい』奴隷はふたたび敬意をこめて答えた。
「で、何と言っておられた、いや、どうなさった」
アリは、主人によく見えるように日の当る場所に出て、心の底から懸命に老人の顔つきを真似て、ノワルチエが『そうだ』と言いたいときにするように、両目を閉じてみせた。
「よし、老人は承諾して下さった。さあ行こう」モンテ・クリストは言った。
彼がこの言葉を洩らすか洩らさぬかのうちに、早くも馬車は走り始め、馬たちは敷石の上に火花をほとばしらせていた。マクシミリヤンは一言も口をきかずに片隅に身を寄せていた。
三十分たった。馬車がいきなり止まる。アリの指につないだ絹の紐を、伯爵が引いたのだ。
ヌビア人は馬車を降り扉を開けた。
星のきらめく夜であった。ヴィルジュイフの登り坂の上である。その台地から、きらきら光る波のような無数の灯をゆらめかせている、暗い海のようなパリが見えた。まさしく波である。猛り狂う大洋の波よりも、騒がしく、情熱的で、ゆれ動き、兇暴かつ貪欲な波である。大海原の波のような静けさを知らぬ波、絶え間なくぶつかり合い、泡立ち、なにものをものみ込んでやまぬ波!……
伯爵はただ一人立ちつくしていた。彼の手の合図で、馬車は数歩前に進んだ。
彼は腕を組んだまま、長いことこの大窯《おおがま》をじっとみつめていた。滾《たぎ》り立つ奈落の底から飛び立ち、世界をゆさぶりに行くありとあらゆる思想が、溶かされ、きたえられ、形を成しにやって来るその大窯を。そうして、敬虔な詩人にも、また嘲笑的な唯物論者にも、ひとしく夢を抱かせるこのバビロンの都に、その鋭い視線を十二分に注いだ後に、
「偉大なる都よ!」祈りを捧げるかのように、頭を垂れ、手を組み合わせて彼はつぶやくのであった。「半年足らず前、私は汝の門をくぐった。私は、神のご意志が私をここに導いたと信じている。神は今、この私を勝利者として汝から立ち去らせる。汝の城壁の中での私の暮らしの秘密を、ただお一人私の心を読むことのできるその神に私はゆだねた。神のみが、今去り行くこの私に、憎悪もなければ誇る心もなく、ただ悔む心なしとはせぬことをご存じだ。神が私に与え給うた力を、私が自分のためにも、あだな理由のためにも用いなかったことを、神のみが知っておられる。おお、偉大なる都よ、私が求めていたものを私が見出したのは、汝のときめく胸の中においてであった。忍耐強い坑夫となって、私は汝の腸をうがち、悪を除去した。今や、私の仕事はなしとげられた。私の使命は終ったのだ。今はもう、汝は私に、喜びも苦しみも与えることはできぬ。さらば、パリよ。さらば!」
彼の視線は、夜の精のように、なおも広大な平野の上をさまよい続けた。それから、額に手をやりながら、彼はふたたび馬車に乗った。彼の背後で扉が閉まり、やがて馬車は、車輪の響きを轟かせ砂塵をまき上げて、台地の彼方に姿を消した。
二人とも一言も口をきかずに二里の道を走った。モレルは夢を追い、モンテ・クリストはモレルが夢見る姿をながめていた。
「モレル、君は私について来たことを後悔しているのかね」
「いいえ、伯爵。でもパリを離れるのが……」
「パリに君の幸せが待っていると私が考えたら、私は君をパリに残して来たのだが」
「パリにはヴァランチーヌが眠っているんです。パリを離れるということは、もう一度あの人を失うことなんです」
「マクシミリヤン、われわれが失った友人たちは、地中に眠っているのではないよ。われわれの心の中に埋もれているのだ。つねにその友とともにいられるように、神がそう望んで下さったのだ。私にはね、そのようにしていつでも私とともにいる人が二人いる。一人は私に生命を与えてくれた人。もう一人は、私に知性を与えてくれた人だ。その人たちの魂は私の心の中に生きている。なにか迷いが生ずると、私はこの二人に訊ねてみる。だから、もし私がなにか善い行いをしたとすれば、それはその人たちの意見のおかげなのだ。モレル、君の心に訊ねてみるがいい。そんな仏頂面をいつまでも私に向け続けるべきかどうかとね」
「伯爵、僕の心の声はただ悲しく、僕に不幸しか約束してはくれません」
「なにごとをも喪のヴェールを通してしか見ないのは、弱った心の特性なのだよ。魂が自らを狭い殻の中に閉じてしまうのだ。君の魂は暗く閉ざされている。その君の魂が君に暗澹たる空しか見せないのだ」
「そうかもしれません」
こう答えて、マクシミリヤンはまた物思いに沈むのであった。
旅は、伯爵の能力の一つであるあのすばらしい早さで進められた。町々はまるで影のように走り去り、初秋の風にそよぐ木々は、髪をふり乱した巨人のような姿で彼らの眼前に立ち向かって来るようであったが、彼らと相会したと見る間に、後方に駆けぬけていくのであった。翌日、朝のうちに二人はシャロンに到着した。そこには伯爵の汽船が待っていた。一瞬の遅滞もなく、馬車が積みこまれ、二人の旅人はすでにして船上の人となった。
船は快速船として建造され、インドのカヌーを思わせた。その二つの外輪は、渡り鳥さながら、水面をかすめ飛ぶ二枚の翼のようであった。モレルさえ、スピードに酔う快感を味わっていた。ときおり吹きつけて来ては髪をなびかせる風が、一瞬、その額の雲を吹き払うかに思われた。
伯爵のほうは、パリが遠ざかるにつれて、神々しいばかりの澄みきった輝きが、光背《こうはい》のように彼を包んだ。祖国を追われた者が今ふたたび祖国へ帰る姿のようであった。
やがて、白く、暖かで、活気にあふれるマルセーユが見えて来た。ティルス〔古代フェニキアの港市〕およびカルタゴの妹であり、地中海帝国を引きついだ港だ。年ふるごとにますますその若さを誇るマルセーユが、彼らの眼前に現われて来たのだ。この港は、二人にとって思い出多い眺めであった。あの円い塔、サン=ニコラの砦、ピュジェの手になる市役所、二人が幼ない頃遊んだ煉瓦作りの波止場のある港。
だから、二人とも同じ心で、カヌビエールの大通りで足を止めた。
一艘の船がアルジェに向けて出帆しようとしている。デッキにあふれる積荷や乗客、見送りに来た、名を呼びかわし涙を流している親類や友人たち。毎日目にしている者にとってさえ感動的な光景である。このざわめきも、波止場の広い敷石の上に足を踏み降ろしたときから心に抱いていた考えを、マクシミリヤンから引き離すことはできなかった。
「ほら」モンテ・クリストの腕をとって、彼は言った。「ここが、ファラオン号が入港したとき、父が立った場所です。ここが、あなたが死と不名誉とから救って下さったあの誠実な人が、僕の腕の中に飛びこんで来た場所なんです。今でも、あのときの父の涙を僕は自分の頬に感じます。泣いていたのは父だけではありません。僕たちを見て、多勢の人たちも泣きました」
モンテ・クリストは微笑んだ。
「私はあそこにいたのだよ」彼はモレルに通りの角をさし示した。
伯爵がこう言ったとき、彼が指さした方角に、悲しみに呻くような声が聞こえた。一人の婦人が、今出帆しようとしている船の上の乗客に、手を振っているのが見えた。その婦人はヴェールをかぶっていた。モンテ・クリストは感動を覚えて、その婦人を目で追っていた。もし、伯爵とは逆に、モレルがその船に瞳をこらしていなかったとすれば、モレルには伯爵のその心の動きがはっきりと感じ取られたはずである。
「あっ!」モレルは声を上げた。「まちがいない。あの帽子を振っている青年、軍服姿のあの青年は、アルベール・ド・モルセールだ!」
「そうだ」モンテ・クリストは言った。「私にはわかっていたよ」
「そんな。あなたは反対のほうを見ていたじゃありませんか」
伯爵は、答えたくないときにいつもそうするように、ただ微笑を浮かべた。
そして、彼の目はふたたびヴェールをかぶった婦人に向けられたが、婦人は街角から消えて行った。
そこで彼は向き直ると、
「マクシミリヤン、君はここでなにかすることはないかね」
「僕は父の墓に涙を注ぎに行こうと思います」彼は低い声で答えた。
「それはいい。行きたまえ。そして、向こうで待っていてほしい。あとから私も行く」
「僕を一人になさるんですか」
「うむ……私にも、祈りを捧げに行かねばならぬ所がある」
モレルは、伯爵がさしのべた手の中に自分の手を落とした。なんとも表現しようのない憂いに満ちた様子でうなずきつつ、彼は伯爵から離れて、市の東部のほうへ遠ざかって行った。
モンテ・クリストは、その姿が見えなくなるまで、その場に立ちつくしたままモレルを見送っていたが、やがてメラン小路のほうに歩み始めた。この物語の初めの部分で、読者にはすでになじみ深いものとなっているはずの、あの小さな家を訪れるためである。
その家は、マルセーユの暇な人びとの散歩道となっている菩提樹の並木のかげに今なお建っていた。南仏の太陽に灼かれて黄ばんだ石の上に、年をへたために黒ずみ、所どころ欠落したその腕をからませているブドウの木のカーテンにすっぽり包まれていた。訪ねる人の足で踏み減らされた二段の石の階段が入口に導く。三枚の板でできたその扉は、毎年手は加えられるものの、漆喰もペンキも塗られたことは一度もなく、また雨が降って自然に隙間がふさがるのを辛抱強く待っているのであった。
老朽家屋ではあるがしゃれていて、見かけはみすぼらしいが明るいこの家こそは、かつて老ダンテスが住んでいた家である。ただ、老人は屋根裏に住んでいたが、伯爵は、建物全体をメルセデスに自由に使わせたのであった。
出帆真際の船から遠ざかって行くのを伯爵が見た、あの長いヴェールをまとった婦人はこの家に入ったのだ。彼女は、伯爵が街の角に姿を現わしたその瞬間にこの家の扉を閉めた。したがって、彼は、ふたたびその婦人の姿を見たと思う間もなく、婦人が家の中に姿を消すのを見たのである。
彼にとっては、そのすり減った階段も、昔の知己であった。彼は、ほかの誰よりもよく、その扉の開け方を心得ていた。頭の大きい釘一本で、中の鍵があくのである。
だから、彼は、ノックもせず声もかけずに、まるで一人の友人、いやその家の主のように中に入った。
煉瓦を敷いた通路の先に、太陽がさんさんと降り注ぎ、明るく暖かい小さな庭がひろがっている。伯爵がそのこまやかな心遣いから、二十四年前に埋めたことにした金を、指示通りの場所で、メルセデスがみつけたあの庭である。通りに面した戸口から、その庭木の一部が見えていた。
戸口に立ったモンテ・クリストは、鳴咽に似た溜息の声を耳にした。この声が彼の目を導き、厚い葉むらと真紅の細長い花をつけたソケイノウゼンの棚の下に、腰をおろし、うつむいて泣いているメルセデスの姿を見た。
ヴェールはすでにはずされていた。ただ一人、天に向かって両手で顔を覆い、今こそ思うさま、吐息を洩らしすすり泣いているのであった。これまであまりにも長い間、息子には見せまいとこらえ続けてきた涙であった。
モンテ・クリストは二、三歩前に進んだ。彼の足もとで砂がきしんだ。
メルセデスは顔を上げ、目の前に一人の男が立っているのを見て、怯えた声を上げた。
「奥さん、私にはもはやあなたを幸せにする力はありませんが、あなたを慰めに来ました。一人の友人からのものとして、受け取っていただけるでしょうか」
「たしかに私はたいへん悲しい思いをいたしております。たった一人になりました……私には息子だけしかおりませんでしたのに、あの子も行ってしまいました」
「彼がしたことは立派なことです」即座に伯爵が言った。「彼は、男なら誰もが、その祖国に対して捧げるべき義務があることを悟ったのです。ある者はその才能を、ある者はその英知をね。ある者は夜も寝ずに、ある者はその血をもって。あなたと一緒にいたのでは、もはや無用のものとなった生命を、あなたのそばですり減らしてしまうだけです。あなたの悲しみに、ご子息は馴れることはできなかったでしょう。自分が無力なるが故に人を憎む人間になったでしょう。逆境と戦うことによって、ご子息は偉大にたくましくなられるはずです。逆境を幸運に変えることでしょう。あなた方お二人の未来を再建する仕事をご子息にさせておいたほうがいい。あえて予言しますが、あなた方の未来は、頼もしい手に握られているのです」
「おお!」哀れな女は悲しそうに首を振りながら言うのだった。「あなたが口になさるその幸運を、私はあの子にお授け下さるよう神様にお祈りしております。でも、私はそれを授かることはありません、この私は。私自身の中でまた私の周囲で、あまりにも多くのことが崩れ去りましたので、私はもうお墓のすぐそばにいるような気がいたします。伯爵様、ほんとうにありがとうございました、私があんなに幸せだった場所の近くに住まわせて下さって。人が死ぬべき場所は、その人が幸せに暮らした土地ですもの」
「ああ! あなたの言葉の一つ一つがつらく、焼ごてのように私の心に降り注ぎます。あなたに私を憎む理由がおありなだけに、いっそうつらく、いっそう赤熱した焼ごてとなって。あなたの苦しみはすべて私がひき起こしたものですから。なぜあなたは、私を責めるかわりに、私に同情しては下さらないのです、そのほうが私はなおのこと苦しい思いをするでしょうに」
「あなたを憎み、あなたを責めるの、エドモン……私の子供の命を救って下さったあなたを憎むの? だって、モルセールの自慢の種だった息子を殺すのが、あなたの血なまぐさい宿命的な意図だったはずですもの。おお、私をご覧になって。責める心の一かけらでもあるかどうかおわかりになるはずです」
伯爵は目を上げて、半ば立ち上がり彼のほうに両手をさしのべているメルセデスを見た。
「私を見て下さい」深い悲しみをたたえてメルセデスは続けた。「今はもう、私の目の光にも耐えられるはず。今はもう、年老いたお父様の住んでいらした、あの屋根裏の窓で、私を待っていてくれたエドモン・ダンテスに、私が微笑みかけに来たあの頃ではありません……あれ以来、長く苦しい日々が流れ、あの頃と私との間に、深い深い溝を掘ってしまいました。エドモン、あなたを責める、あなたを憎む。違うわ、私が責めるのはこの私、私が憎むのはこの自分なの。ああ、私はなんて見下げ果てた女なんでしょう!」彼女は手を組み、天を仰ぎ見て叫んだ。「私は罰を受けたのです! あの頃の私は、信仰も純潔も愛も持っていました。天使を作り出すこの三つの幸せを。が、なんという見下げ果てた女でしょう、私は神様を疑ったんですもの!」
モンテ・クリストは一歩近寄り、静かに手をさしのべた。
「いけないわ」メルセデスはそっと自分の手を引っこめた。「私に触れてはいけないわ。あなたは私を復讐の対象からはずして下さいました。けれど、あなたが復讐なさった者のうち、私が最も罪が深いんです。ほかの人たちはみな、憎しみとか貪欲とか利己心からああいうことをしたのです。なのに私は、卑怯な心からああしたんですもの。あの人たちはそうしたいからした。私はこわかったんです。いいえ、私の手など握ってはいけません。エドモン、あなたは今、なにかやさしい言葉を探していらっしゃる。私にはそれがわかります。でも言わないで。その言葉は、ほかの女の方のためにとっておいて下さい。私にはもうその資格がありませんもの。さあ……(彼女は完全にヴェールをとった)ご覧になって下さい。悲しみのために、私の髪は灰色になってしまいました。あまりに多くの涙を流した私の目は、紫色の血管でくま取られています。額には皺《しわ》が寄りました。それに反して、エドモン、あなたは今でも若々しいわ、相変わらず美しくて、誇らしげで。それは、あなたには信仰があったからよ。力があったからよ。神のみ胸でいこい、神があなたに力をお与え下さったからだわ。私のほうは、卑怯でした。私は神を否定したの。神は私をお見捨てになったわ。そしてこの有様」
メルセデスは泣き崩れた。女の心は、追憶の打撃の前にくだけたのである。
モンテ・クリストはその手をとり、うやうやしく接吻した。だが、メルセデス自身、その接吻が、まるで聖女の石像の手におしあてられたもののように、冷ややかなものであることを感じていた。
「この世には」彼女は続けた。「最初の過ちがその将来をなにもかも駄目にしてしまうように運命づけられている者がいるものですわ。私は、あなたがお亡くなりになったものとばかり思っていました。私は死ぬべきだったんです。だって、永久に私の心の中にあなたの死をいたむ心を抱き続けたとて、それが何になったでしょう。三十九歳の女を五十の女のようにしただけですわ。みんなの中で私だけがあなたであることを見抜き、息子の生命だけを救うことができても、それが何になるでしょう。どのように罪深い男にせよ、私が夫として受け入れた男をも、私は救うべきだったのではないでしょうか。それなのに、私はなにもせずに彼を死なせてしまいました。ああ、それどころか、私は卑劣な無関心さと軽蔑の念で、あの人の死に力をかしたんです。あの人が誓いに背き謀反人となったのもこの私のためであることを思い起こさず、いえ、思い起こそうとさえせずに。私がここまで息子について来ても、それが何になったでしょう。ここで、私はあの子を捨ててしまったんですもの。たった一人で発たせ、あのアフリカの死地に黙って行かせてしまったんですもの。ああ、私は卑怯でした、はっきりそう申します。私は私の愛を否定してしまったのです。そして、背教者のように、周囲の人たちみんなを、私は不幸にしてしまう女なんです」
「違う、メルセデス、違う。自分をそんなにおとしめてはいけない。違う、君は気高く清らかな女《ひと》だ。君は、君の苦しみによって、私から剣を奪ったのだ。だが、私の背後には、目には見えず、それとも知られずに、怒れる神がいて、私はその代理人にすぎなかった。その神は、私が放った雷をとどめようとはなさらなかった。この十年来、私が毎日その足もとにひれ伏していたこの神に、私は希《こいねが》う、この神に証人になっていただく。私が君のためには私の命を犠牲にしたことを。私の命に結びついていた計画をも命とともに犠牲にしたということを。だが、メルセデス、私は誇りをもって言う、神は私を必要となさった。だから私は生き永らえたのだ。過去を見たまえ、現在を見たまえ、そして未来を予見してみてくれないか。私がはたして神の道具でないかどうかを見てほしい。最も恐ろしい不幸、最も苛酷な苦痛、見も知らぬ者からの迫害、これが私の人生の前半だった。その後急に、幽囚、孤独、悲惨の後に、大気と自由と富とが訪れた。盲目でない限り、神が偉大な意図のもとに私にお遣わしになったとしか考えようのないほど、すばらしい、目にもまばゆい、途方もない富が。そのとき以後、私にはこの富が、神の使徒の象徴のように思えた。そのとき以後、気の毒な女《ひと》ではあっても、君がときにはその楽しさを味わったこの人生のことなど、私にはもはや考えられなかった。ただのいっときの静かな時間もなかった、ただのいっときも。呪われた街を焼き払いに行く火焔の雲のように、私は自分がおしやられているのを感じていた。危険きわまる航海に船出し、生死にかかわる探険に思いをはせる勇敢な船長たちのように、私は食糧を準備し、武器を積み込み、攻防の手段を集積した。肉体はいかに苛酷な鍛練にも、精神はいかに激しい衝撃にも馴れさせた。腕には人を殺すすべを、目には人の苦しみを平然とながめるすべを、口には、いかに恐ろしい場面を前にしても微笑を浮かべるすべを教えたのだ。かつての人のよい、信じやすく、仇はすぐ忘れる男から、執念深く、陰険兇暴な、いやむしろ、声を持たず盲目な運命そのもののように冷酷な男となった。そこで私は、眼前に開かれた道をまっしぐらに突進したのだ。私は空間を飛び越え、目的に到達した。わが行く手に立ち現われた者に禍あれ!」
「もうたくさん」メルセデスは言った。「エドモン、もういいのよ。あなたであることがわかった、たった一人の女が、あなたの心を理解できた、たった一人の女であることを信じて下さい。ところでね、エドモン、あなたであることがわかり、あなたを理解することのできた女は、その女があなたの行手に立ち現われて、あなたに、まるでガラスのように微塵に砕かれてしまったとしても、その女はやはりあなたを讃美し続けたはずなの。私と過去との間に越えられぬ溝があるように、あなたとほかの男との間にも越えられぬ溝があるんです。はっきり申します、私にとって最もつらい責苦は、あなたとほかの男の人たちを比較すること。あなたほどの方は、この世には一人もいませんもの。あなたと肩を並べられるような人はね。さようならとおっしゃって下さい、エドモン、お別れしましょう」
「別れる前に、なにかしてほしいことはないか、メルセデス」モンテ・クリストは訊ねた。
「エドモン、私の願いはただ一つ、あの子の幸せだけ」
「人間の生涯を掌中に握っておられる神に、あの子を死から守り給えとお祈りするんだ。それ以外のことは私が引き受ける」
「ありがとう、エドモン」
「だが、君はどうする、メルセデス?」
「私はなにもいりません。私は二つのお墓の間で生きているんですもの。一つは、ずっと昔に死んだエドモン・ダンテスのお墓、私が愛していた。こんな言葉は、色褪せた私の唇にはもうふさわしくはないけれど、私の心は今でもその思い出を抱いています。この世のなにをくれると言われても、この心の追憶だけは失いたくありません。もう一つは、エドモン・ダンテスが殺した人のお墓。殺されて当然とは思います。でも、死者のために祈らねばなりません」
「ご子息はきっと幸せになります」伯爵はまた言った。
「でしたら、私もこの上なく幸せですわ」
「でも……それにしても……君はどうする」
メルセデスはさびしい微笑を浮かべた。
「昔のメルセデスのようにここで暮らす、つまり、働きながら暮らしていきますと言っても、お信じにはならないでしょう。もう祈ることしかできない女ですものね。でも、働く必要はないんです。あなたが埋めておいて下さったお金が、お教え下さった通りの場所にありました。世間の人は、私が誰なのか知ろうとするでしょうし、何をしているのかと訊ねるでしょう。どうやって生きているのかわからないでしょう。でもそんなことはかまいません。これは、神様とあなたと私と三人の間だけのことですもの」
「メルセデス」伯爵は言った。「君を責めるつもりはないが、モルセール氏が貯えた財産を全部抛棄したのは、少し犠牲を大きくしすぎたのではないだろうか。あれの半分は、当然、君の倹約と細心な管理とに帰せらるべきものだ」
「何をおっしゃろうとしているのかはわかりますけど、それをお受けするわけには参りませんの。息子が許してはくれません」
「それなら、アルベール・ド・モルセール氏の許可なしにはあなたに対してはなにもしないことにしましょう。ご子息の意志を訊ね、それに従いましょう。が、もし私のしたいことを、ご子息が受け入れて下さるなら、あなたも快く受け入れてくれますね」
「エドモン、ご存じのように、私にはもう考える力がありません。決断する力は私にはもうないのです、決断しないという決断しか。神様がその嵐で私をゆすぶり、私はもう意志の力を失くしてしまいました。ワシの爪に掴まれた雀のように、私は神様の掌中にあります。私はこうして生きているのですから、神様は私が死ぬことをお望みではないのでしょう。もし、救いの手をさしのべて下さるなら、それも神様の思召しでしょうから私はお受けいたします」
「言葉に気をつけて下さい。そのような神の崇め方はない。神は、人が神を理解し、神の力をたしかめることを望んでおられるのです。そのためにこそ、神はわれわれに自由な意志を与え給うた」
「ひどい方!」メルセデスは叫んだ。「そんなおっしゃり方はやめて下さい。もし、神様が私に自由な意志を与えて下さっていたなどと考えたら、絶望から救われるためのいったい何が私に残されていると言うの?」
モンテ・クリストはかすかに色を失い、頭を垂れた。この苦悩の烈しさにうちひしがれたのである。
「また会いましょう、とは言ってくれないのですか」手をさしのべながら、彼は言った。
「いいえ、またお会いしましょう、と申しますわ」メルセデスは即座に答えて、おごそかに天を指さした。「これが、私がまだ希望を持っている証拠ですわ」
そして、おののく手で伯爵の手に触れると、階段を駈け上がり、伯爵の視野から消えて行った。
モンテ・クリストは、ゆっくりとその家を出て、港への道をたどった。
だが、メルセデスは、ダンテスの父親のあの小さな部屋の窓辺にいながら、伯爵の遠ざかる姿を見てはいなかった。彼女の目は、大海原にわが子を連び去って行く船を、遠く探し求めていたのである。
しかし、彼女の声は、その意志を無視するかのように、
「エドモン、エドモン、エドモン!」
と、低くつぶやき続けていた。
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百十三 過去
おそらく二度と会うことはないであろうメルセデスを残し、伯爵は胸ふさぐ思いでその家を出た。
幼ないエドワールの死以後、モンテ・クリストの内部に大きな変化が生じていた。なだらかな長い曲りくねった坂道をたどり、復讐の頂に達した彼は、山の反対側に深い疑惑の谷を見たのである。
それだけではない。今メルセデスと交わした会話は、彼の心にあまりにも多くの追憶を呼びおこしたので、その追憶自体をうち破らねばならなかった。
伯爵の体質では、凡庸な者には一見独創性らしきものを与え、その精神を生き生きとさせるが、卓越した魂は殺してしまう、このような憂欝にいつまでも浸ってはいられなかった。伯爵は、自らを責めるはめに立ち至ったのは、自分の計算になにか過ちがまぎれこんだからにちがいないとつぶやくのだった。
「俺の過去の見方が悪いのだ。俺がそのような過ちを犯したはずがあろうか。
何だと! 俺がめがけた目的が、馬鹿げた目的だというのか。十年この方歩み続けて来た道が、まちがいだったというのか。その希望のすべてを投入しての作品が、不可能ではないにしても神を恐れぬ仕事であることを建築家に証明するのに、わずか一時間で足りるというのか!
そんな考えには俺はなじめぬ。そんな考え方は俺を気違いにしてしまう。今の俺の理論の組立てに欠けているのは、過去というものへの正しい評価なのだ。俺は今、その過去を、地平の別の端から見ているからだ。事実、人が歩みを進めるにつれ、過去は、人がその中を横切って行く景色のように、遠ざかるにつれて消えて行く。今の俺には、夢の中で傷を受けた者に起きるようなことが起きている。彼らはその傷を見、痛みを感じはするが、その傷を受けたことは思い出せない。
さあ、蘇った男よ、けたはずれの富者よ、眠りより目覚めた者よ、全能の幻想家よ、しばし、貧困と飢えにさいなまれた生活のあの忌わしい光景を思い起こせ。運命が汝をおしやり、不幸が汝を導き、絶望が汝を迎えたあの道をいま一度辿ってみるがいい。今、モンテ・クリストがダンテスをみつめる鏡のガラスには、あまりに多くのダイヤが、黄金が、幸せが光を放ちすぎている。ダイヤをかくせ、黄金を曇らせよ、光を消せ。富者よ、貧しき者をいま一度見出すのだ。自由なる者よ、囚われの身を、蘇った者よ、屍をいま一度見よ」
われとわが身にこう語りかけながら、モンテ・クリストはケスリー通りを辿って行った。二十四年前、黙りこくった夜の衛兵に連行されて行った、あの通りであった。今、生き生きと笑うがごとき様子を見せているあの家々も、あの夜は、ただ暗く、音もなく閉ざされていた。
「だが、やはりあのときと同じ家々なのだ」モンテ・クリストはつぶやいた。「ただ、あのときは夜だった。今は真昼間だ。太陽が明るく照らし、嬉々とした姿に見せているだけなのだ」
彼は、サン=ロラン通りを通って波止場に降りた。そして、衛兵所のほうに歩みを進めた。彼が舟に乗せられた場所である。ズックの幌《ほろ》をつけた遊覧船が通りかかった。モンテ・クリストは船頭を呼んだ。思いがけぬ稼ぎをかぎつけた船頭が必ずそうするように、船頭はいそいそとして船を漕ぎ寄せた。
天気はすばらしかった。船を出すには絶好だった。水平線上で、太陽が、近づくにつれて真赤に燃える波の中に沈もうとしていた。鏡のように波一つない海に、飛び跳ねる魚が波紋を描いた。目に見えぬ敵に追われ、大気の中に救いを求めて水から躍り出るのだ。やがて、海を渡るカモメのように白く優雅に、マルチーグ島に向かう漁船が、コルシカかスペインに向かう貨物船の船影がいくつか、水平線上を通って行くのが見えた。
その美しい空、その優美な船の姿、景色いっぱいにみちあふれる金色の光。にもかかわらず伯爵は、マントに身を包んだまま、あのときの恐ろしい船の中でのことを、一つ一つ思い浮かべていた。カタロニア村で、ただ一つぽつんと燃えていたあの灯。つれて行かれる行先を彼に教えた、あのシャトー・ディフの姿。海に飛び込もうとしたときの憲兵たちとの格闘。勝てぬことをさとったときの絶望。まるで氷の環のように、こめかみにおしあてられたカービン銃の銃口の冷たい感触。
やがて、夏涸れの泉が、秋雲が涌くようになると、徐々にうるおいをおびて、一滴また一滴と水をしたたらせ始めるように、かつてエドモン・ダンテスの心にあふれていた、あの古い滲出した苦汁が、己が胸中に徐々にしたたり始めるのを、モンテ・クリスト伯爵は感ずるのだった。
彼には、もはや美しい空も、優美な船の姿も、燃えるような光もなかった。空は喪のヴェールに覆われ、黒き巨人と人の呼ぶシャトー・ディフの出現が、あたかも不倶戴天の仇敵の亡霊が出現したかのように、彼をふるえ上がらせた。
船は着いた。
本能的に、伯爵は船の端まで後ずさりした。船長が、媚びるような声で、
「着きましたよ、旦那」
と言っても、聞こえぬようであった。
モンテ・クリストは、この同じ場所、この同じ岩の上を、あのとき、荒々しく衛兵たちに引きたてられたことを、銃剣の先で腰をつつかれながら、この坂を無理に登らせられたことを思い出していた。
あのときは、その道がひどく長いようにダンテスには思えたのだった。モンテ・クリストには、それがひどく短い距離に思えた。オールの一かき一かきが、海水のしずくとともに、無数の感慨と思い出とをまき散らした。
七月革命以来、シャトー・ディフにはもう囚人はいなかった。密輸を取り締まるための衛兵所として、衛兵の一隊が駐屯しているだけであった。門番が一人、観光客に今は名所となったこの恐怖の記念物を見せるために、門の所で客を待っていた。
だが、そのようなことを聞き知ってはいても、円天井の下に入り、暗い階段を下り、見せてほしいと言った地下牢に入ったときには、彼の額は冷たく蒼ざめ、額の冷たい汗が心臓にまで逆流した。
伯爵は、王政復古当時の古い看守がまだ残っているかどうかと訊ねてみた。が、皆退職したか、別の職に変わっていた。彼を地下牢に案内した門番は、一八三〇年からここにいるにすぎなかった。
彼は、自分が入れられていた地下牢に案内された。
狭い通気孔から洩れてくる頼りない光を、彼はふたたび見た。その後取り払われてしまったベッドのあった場所を見た。そしてベッドのかげの、ふさがれているが、石が新しいので今なおそれとわかる、ファリア神父が掘った穴を見た。
モンテ・クリストは脚の力が抜けるのを感じた。彼は椅子を引き寄せ、その上に腰をおろした。
「この城について、ミラボーが閉じこめられていたという話以外に、なにか別の話はあるのかね」伯爵は訊ねた。「とても、人間が生身の人間を閉じこめたとは思えないこの陰惨な場所に、なにか伝えられている話が」
「あります」門番は答えた。「今いるこの地下牢のことで、看守のアントワーヌが私に聞かせた話があります」
モンテ・クリストはぞっとした。そのアントワーヌこそ、彼の看守だったのだ。彼は、その名前も顔も忘れかけていた。だが、名前を言われてみると、その男がどういう男であったか、ひげにかこまれたその顔も、褐色の上着も、そして、今なお、じゃらじゃらいう音が聞こえるような気がする鍵の束も、ふたたび目に浮かぶのであった。
伯爵は振り返ってみた。門番の手にした松明《たいまつ》の灯でなおのこと闇が濃く思える廊下の暗がりの中に、その男の姿が見えるような気がした。
「その話をお聞かせしましょうか」門番が訊ねた。
「うむ、話してくれ」
こう言って彼は、自分自身の話を聞くことに怯えた心臓の激しい鼓動を抑えるために、胸に手をあてた。
「話してくれ」彼は繰り返した。
「この牢には、ずっと以前に一人の囚人が入ってました。ひどく危険な奴だったらしく、おっそろしく頭が切れるんでなおのこと危険だったんです。この城に、その男と同じ頃、もう一人の奴が入れられてました。こいつは兇暴ではなくて、頭のおかしくなった哀れな坊主でした」
「ほう、頭のおかしいねえ」モンテ・クリストが繰り返した。「どんなふうにおかしかったのだ」
「もし釈放してくれたら、なん百万という金をやると言うんですよ」
モンテ・クリストは天を仰いだ。だが天は見えなかった。彼と天との間には石の壁があった。彼は、ファリア神父が財宝を与えようと言った相手の者どもの目と、ファリア神父が与えようとしたその財宝の間にも、同じように厚い壁があったことに思いをはせた。
「その囚人たちは、互いに会うことはできたのかね」
「いえ、とんでもない。厳重に禁じられてました。しかし、連中は、牢から牢に地下道を掘って、その禁令を破ったんです」
「どっちがその地下道を掘ったのか」
「そりゃあ若いほうにきまってますよ。若いほうは頭も切れるし力も強い。逆に坊さんのほうは年寄りだし力も弱い。それに、頭がすっかりいかれてて、とても一つのことを考え続けられやしなかったんですから」
『盲ども!』モンテ・クリストはつぶやいた。
「とにかく若いほうが地下道を掘りました。何で掘ったのかはわかりません。が、とにかく掘ったんです。その証拠に、今でもその痕があります。ほら、ご覧になれますか」
こう言って門番は松明を壁に近づけた。
「ああ、ほんとうだ」伯爵は感動のあまりかすれた声で言った。
「こうして、二人の囚人は互いに行き来していたんです。どのくらいの期間そうして行き来していたのか、てんでわかりません。ところで、ある日、老人のほうが病気になって死んでしまいました。若いほうがどうしたか、おわかりになりますか」門番は言葉を切った。
「話してくれ」
「奴は死人を運んで、自分のベッドに寝かせたんです、顔を壁のほうに向けて。それから、空になった牢に戻ると、穴をふさぎ、死人の袋の中にもぐりこんだんです。こんなことを考えた奴を見たことがありますか」
モンテ・クリストは目を閉じた。死体から伝わった冷たさがまだ残っているあのごつごつした布が、彼の顔に触れたときの感触の一つ一つを、今ふたたび感じとる思いであった。番人は続けた。
「いいですか、奴の計画というのはこうだったんです。奴はシャトー=ディフでも死人は埋葬されるものと思ってました。囚人に棺桶などはずむはずはないからというんで、かぶせられた土をかきわけて出て来るつもりだったんです。だが、残念ながらこの城には、この城なりのやり方があって、奴の目論見を狂わせちまったんです。ここでは死人は土には埋めなかった。足に重りをくっつけて海に抛りこんじまうだけだったんです。で、そういうことになった。奴は廻廊の上から海に投げこまれたわけです。翌日、ほんとうに死んだほうの囚人が奴のベッドで発見され、当局はいっさいを見抜きました。というのは、埋葬人夫どもが、そのときまでは言う勇気がなくて黙ってたんですが、彼らが死体を虚空に抛り出したとき、恐ろしい悲鳴を聞いたからなんです。悲鳴はすぐ、奴が姿を没した海の水におし殺されちまいましたがね」
伯爵は息がつまる思いがした。汗が額を流れ、苦痛が心臓をしめつけた。
『違う』彼はつぶやいた。『俺が疑惑を抱いたのは、すでに過去を忘れかけていたからだ。だが、俺の心は今またえぐられ、復讐の火に燃える』
「それで、その囚人の消息はそれ以後まったくとだえたのかね」彼は訊ねた。
「ありません、まるっきり。だってそうでしょう、二つに一つですよ。水平に落ちたとすれば、五十フィートもの高さから落ちたんです、即死ですよ」
「だが、足に重りをつけたと言ったではないか。とすれば、垂直に落ちたはずだ」
「垂直に落ちたとすれば、鉄の玉の重みで海の底にひきずりこまれちまう。可哀そうに、今でもそこに眠ってるんでさ」
「可哀そうだと思うのか」
「当り前ですよ、いくらもとのねぐらだといったって」
「どういうことかね」
「そいつは、もとは高級船員だったのが、ボナパルト派だというんで捕まったという話でした」
『真実よ』伯爵はつぶやいた。『神はそなたを、水にも火にもめげずに浮かび出ずるべく作り給うた。かくて、哀れな船乗りも、語りつぐなにがしかの者の追憶のうちに生きながらえている。人は炉ばたで、彼の恐ろしい話を語り、彼が海底に眠るべく虚空を落下する話に身をおののかせるのだ』
「その男の名前を知る者はなかったのか」伯爵は声に出して訊ねた。
「ええ、もちろんです。わかるはずがありません。三十四号としか呼ばれてなかったんですから」
『ヴィルフォールよ!』モンテ・クリストはつぶやくのだった。『俺の亡霊に悩まされた不眠の夜々、貴様が幾度となく繰り返さねばならなかった言葉もそれだったのだ』
「もっと見物をお続けになりますか」門番が訊ねた。
「うむ。その気の毒な僧侶の房を見せてもらえないかね」
「ああ、二十七号のですね」
「そう、二十七号のだ」モンテ・クリストは繰り返した。
モンテ・クリストには、彼がファリアの名を訊ね、僧が壁ごしにこの番号を答えたときの、あのファリア神父の声を今また聞いた心地がした。
「こちらへ」
「ちょっと待ってくれないか」モンテ・クリストは言った「この牢を隅々までよく見ておきたい」
「それはちょうどようございました。二十七号の鍵を忘れて来ましたので」案内人が言った。
「とりに行くがいい」
「松明《たいまつ》を置いてまいりましょう」
「いや、持って行ってかまわぬ」
「でもそれじゃ、あかりがなくなってしまいますよ」
「私は夜でも目がきくのだ」
「ほう、それじゃあいつとおんなじだ」
「あいつとは誰のことかね」
「三十四号ですよ。暗闇になれちまったんで、牢の一番暗い所に落ちてるピンでも見えたっていう話です」
『そうなるまでに十年かかったのだ』伯爵はつぶやいた。
案内人は松明を持って遠ざかって行った。
伯爵の言葉に嘘はなかった。暗闇の中に残されて、ほんの数秒が過ぎると、もう彼には、白日のもとでのようにどんなものでも見わけることができた。
彼はあたりを見廻し、まさにそこに、かつての自分の地下牢を見るのだった。
『そうだ、あれは俺が腰をおろしていた石だ。あの壁のくぼみは、俺の肩がこすった痕だ。あの血の痕は、俺が壁に額をうちつけ、額をぶち割ろうとした日に、額から流れた血の痕だ……おお、この数字は……憶えているぞ……はたして、生きている父にまた会えるかどうかと、父の年を計算し、まだ誰のものにもなっていないメルセデスに会えるかどうかと、メルセデスの年を計算した日に彫りつけた数字だ……計算し終えたとき、俺は一瞬希望を持った……ただ、俺は、飢えと不実とは計算に入れなかった!』
伯爵の口もとに苦い笑いがこぼれた。夢の中のように、墓地に運ばれる父の姿と、婚礼の祭壇に進むメルセデスの姿が見えたのだ。
別の壁面に刻まれた文字が彼の目を射た。緑がかった壁に今なお白く浮き出ている文字だ。モンテ・クリストは読んだ。
〈神よ、われに記憶力を残させ給え!〉
「おお、そうだ」彼は叫んだ。「これが、俺の最後の頃の唯一の祈りだった。もはや俺は自由の身となることは願わなかった。俺は記憶力を失わぬことを願ったのだ。気が狂い記憶を喪失してしまうことを恐れていた。ああ、神よ! あなたは私に記憶力を残して下さいました。そして今、私は思い出すことができたのです。ありがとうございます、神よ!」
このとき、壁に松明の灯影《ほかげ》が映った。案内人が降りて来たのである。
モンテ・クリストは歩み寄った。
「ついて来て下さい」案内人が言った。
そして、明るい地上に出る必要もないままに、彼は伯爵を、別の牢の入口に通ずる地下の通路へと導いた。
そこでもまたモンテ・クリストは、無数の想いに襲われるのだった。
最初に彼の目を射たのは、壁に刻まれた日時計であった。ファリア神父はこれによって時刻を知ったのだ。それから、この哀れな囚人が死んだベッドの残骸である。
この光景を目にすると、伯爵が自分の牢で抱いた痛ましい思いとはうらはらに、やさしく愛情にみちた気持ちが、感謝の気持ちが、彼の胸をふくらませ、二粒の涙がその目からこぼれた。
「気違い坊主のいたのはここですよ」案内人が言った。「そこを通って若いほうの奴は坊さんに会いに来てたんです(こう言って、案内人はモンテ・クリストに地下道の入口を見せた。こちら側の口は開いたままになっていた)。石の色から見て、どうやら十年ぐらい二人の囚人はたがいに往来していたと、ある学者は言ってます。可哀そうに、その十年の間、二人ともずいぶんと退屈してたんでしょうな」
ダンテスは、ポケットからなん枚かの金貨を掴み出し、二度までも、そうとも知らずに自分を哀れと思ってくれているその男のほうに、その手をさしのべた。
門番は小銭をいくらかくれたものと思ってその金を受け取ったが、松明の光で、客がくれた金額が余りに多いことを知った。
「旦那、おまちがえになったんじゃございませんか」
「どうしてかね」
「下さったのは金貨でございますよ」
「わかっている」
「え、ご存じなんで」
「そう」
「この金貨を私に下さるおつもりなんですか」
「そうだ」
「じゃ、安心してこのまま頂いてしまってもよろしいんでございますか」
「いいとも」門番は驚いてモンテ・クリストをみつめた。
「しかも、いささかのやましさもなくだ」伯爵はハムレットのような口調で言った。
「旦那」門番は、なおも自分の幸運を信じきれずに続けた。「どうしてそんなに気前よくして下さるのかわかりかねますが」
「なあに、簡単にわかることだよ。私は船乗りだった。だから、ほかの人よりは、お前の話に強くうたれたのだ」
「では、旦那。こんなにしていただいたんですから、私のほうからもなにか差し上げることにいたしましょう」
「何をくれると言うのかね。貝殻か、わら細工か、結構だよ」
「そうじゃありません、旦那。そんなんじゃないんです。さっきの話にかかわりのある品物なんで」
「ほんとうか?」せきこんで伯爵が叫んだ。「いったい何なのだ」
「いえね、こういうわけなんでございます。十五年もの間囚人がいた部屋には、きっとなにかがみつかるもんだ、と、私はこう心の中でつぶやきまして、壁をあちこち探ってみたんです」
「あ!」モンテ・クリストは、事実、ファリア神父が二か所のかくし場所を作っていたことを思い出して叫んだ。
「さんざ探したおかげで」門番が続けた。「私は、ベッドの枕もとの所と、暖炉の炉床の所が、うつろな音がするのを発見したんです」
「うむ」
「私は石をはずしてみました。そしてみつけたんです」
「縄梯子と、いろいろな道具だろう?」伯爵が大声で言った。
「どうしてそれをご存じなんですか」驚いた門番が訊ねた。
「知ってはおらぬ、そう思ったのだ。囚人のかくし場所にあるものといえば、だいたいはそんなところだ」
「そうなんです。縄梯子と道具でした」
「今でもそれを持っているか」モンテ・クリストは叫んだ。
「いえ、旦那。それらのものは売っちまいました。見物客にとっては珍奇な品なもんで。ですが、別のが残ってるんです」
「何だ」モンテ・クリストがじりじりして訊ねた。
「布を巻いたものに書いた本みたいなものです」
「ほう、その本がまだお前の手もとに残っているのか」
「本だか何だか知りませんが、今申し上げたものはございます」
「とって来てくれ、さあ。それがもし私が考えている物なら、安心していい」
「ひとっ走り行って来ます」
こう言って案内人は出て行った。
そこで伯爵は、死が彼のために祭壇にしたあのベッドの残骸の前に行き、うやうやしく跪《ひざまず》いた。
「おお、第二の父よ、私に自由と学問と富とを与えて下さった父よ。われわれよりはすぐれた本質を持つ存在に似て、善悪を知る智恵を具えておられた父よ、もし墓の底にも、地上に生き残った者たちの声におののく、われら生ける者に似たものがあるなら、そして、遺体の変貌の中にも、われらが多く愛し多く苦しんだこの地上にただよう、なにかしら生あるものが残されているなら、一つの言葉、一つの合図、なにがしかの啓示により、高貴なる心よ、至高の精神よ、慈愛深き魂よ、私にお与え下さった父の愛と私が捧げまつる子としての愛の名にかけてお願い申し上げます、私の心から、確信と変わることはないにしても悔恨としては残りそうな、この疑惑の名残りをぬぐい給え」
伯爵は頭を垂れ両の手を組んだ。
「ほら、旦那!」背後で声がした。
モンテ・クリストはびくっとしてふり向いた。
ファリア師がその学の蘊奥《うんのう》を吐露したあの布の巻物をさし出している門番であった。この原稿こそ、イタリア王国に関するファリア師の大著だったのである。
伯爵は奪い取るようにしてそれを手にした。彼の視線は、まずつぎのような銘句の上に落ちた。
『汝竜の牙を抜き、獅子をその足もとに踏みつけん、と主はのたまえり』
「ああ! これが答えだ。父よ、感謝します!」伯爵は叫んだ。
彼は、ポケットから小さい紙入れをとり出した。千フラン紙幣が十枚入っていた。
「さ、これをやる」
「これを下さるんですか」
「そうだ。だが、私が行ってしまうまでは中を見ないという条件だ」
そして、今ふたたび見出すことができ、彼にとっては無上の財宝の価値があるこの形見の品を胸に抱きしめたまま、彼は地下牢を飛び出し、船に乗ると、
「マルセーユヘ!」と命ずるのだった。
やがて、遠ざかり行く陰惨なその牢獄に目を据えて、彼はこう言った。
「あの陰惨な牢にこの俺を閉じこめた者どもに禍あれ。俺があそこに閉じこめられていたことを忘れた者どもに禍あれ!」
カタロニア人の村の前を通るとき、伯爵は目をそむけた。そして、マントに頭を包み、一人の女性の名をつぶやいた。
勝利は完全であった。伯爵は二度までも疑惑にうち勝ったのである。
彼が、恋というにひとしいほどの情愛をこめて口にした名は、それはエデの名であった。
陸地に足をおろすと、モンテ・クリストは墓地のほうへ進んで行った。そこへ行けばモレルに会えることを知っていたのである。
彼もまた、十年前にこの墓地に、ある一つの墓を敬虔な心を抱いて探し求めたのだった。探しても無駄だった。数百万の金を手にフランスに戻った彼に、餓死した父の墓をふたたび見出すことはできなかった。
モレルはたしかにそこに十字架を建てたのだが、その十字架は倒れ、墓掘り人足ともが薪《たきぎ》にしてしまったのである。墓掘り人足は、墓地に倒れている古い材木はみな薪にしてしまうものなのだ。
誠実な商人のほうはもう少し幸せであった。子供たちの腕に抱かれて死んだ彼は、子供たちの手で、それより二年前に永遠の国に先に旅立っていた妻のかたわらに運ばれ、そこに眠ったのである。
夫妻の名の刻まれた二枚の大きな大理石の敷石が、鉄柵にかこまれ四本の糸杉が影を落とすかこいの中に、ならんで置かれていた。
マクシミリヤンは、その糸杉のうちの一本に背をもたせ、光のない目でこの二つの墓をみつめていた。
彼の悩みは深く、半ば茫然自失のていであった。
「マクシミリヤン」伯爵が言った。「君が見なければいけないのはそこじゃないよ、あそこだ」
こう言って伯爵は天を指さした。
「死者はどこにでもいる。僕にパリを離れさせたとき、あなたはそうおっしゃったじゃありませんか」
「マクシミリヤン、君は旅の途中、マルセーユになん日か滞在させてくれと言ったね。今でもそうしたいかい」
「もう何をしたいとも思いません。でも、ほかでよりも、ここで待っているほうが楽なような気がします」
「それはよかった。というのは、私は君と別れねばならない。ただ、君の約束は忘れないよ、いいね」
「ああ、伯爵、僕のほうは忘れてしまいますよ、きっと!」
「いや、君が忘れるはずはない。モレル、君はなによりもまず名誉を重んずる男だからだ。君は誓ったのだし、その誓いを改めて繰り返すはずだからだ」
「おお、どうか僕を哀れと思って下さい。僕はほんとうに不幸なのです」
「モレル、私は君よりも不幸な男を知っている」
「そんな馬鹿な」
「ああ! 人はみな、かたわらで涙を流しうめいている者よりも自分のほうが不幸だと思っているが、これはわれわれ哀れな人間のうぬぼれだよ」
「自分が愛しほしがったこの世で唯一の宝を失った者以上に不幸なものなんているでしょうか」
「いいかね、モレル。しばらくの間、私が言うことに耳を傾けるのだ。私は一人の男を知っている。その男も君と同じように、一人の女性に、その幸せの夢のすべてを託していた。彼はまだ若く、彼が愛する年老いた父と、熱愛するフィアンセがいた。後になって、神が姿を現わしすべては彼を神の無限の調和に導くための手段であったことを教えてくれなければ、神の善意を疑わせるような運命のいたずらが、いままさにその娘と結婚しようとしたとき、いきなり彼から自由と恋人と、そして彼が夢み、すでにわが物と思っていた(というのは、彼は盲で現在しか目に入らなかったからね)彼の未来を一挙に奪い去り、地下牢に彼をほうりこんでしまったのだ」
「地下牢なら、一週間か一月、いや一年後には出られますよ」
「彼は十四年間入っていたのだよ」伯爵はモレルの肩に手を置きながら言った。
マクシミリヤンはふるえあがった。
「十四年!」彼はつぶやいた。
「十四年だ」伯爵が繰り返した。「彼もその十四年の間に、絶望に苦しむときが数多くあった。彼も君と同じように、自分が人間のうちで最も不幸だと思いこんで、自殺しようとした」
「それで?」モレルが訊ねた。
「最後の瞬間に神が、人間の形をとって姿を現わした。というのは、神はもう奇蹟は行なわないからね。おそらく、最初は神の無限の慈悲が彼には理解できなかったろう、涙に曇った目が開かれるには時間がかかるものだから。が、とにかく彼は辛抱し、そして待った。ある日彼は奇蹟的に墓から蘇った。姿を変え、金持ちとなり、力を具え、神に近い存在となってね。まず彼が呼び求めたのは父だった。その父はすでに死んでいたのだ!」
「僕の父も死にました」
「そうだね。だが君の父上は君の腕に抱かれて、愛され、幸せに、名誉を保ち、裕福なまま、白日に照らされて亡くなられた。彼の父は、貧しく、絶望のうちに、神を疑いつつ死んだのだ。そして、その死後十年たって、息子がその墓を探したときには、墓さえもすでになくなっていた。『お前をあれほど愛していた人が神に抱かれて眠っているのはあそこだ』と言える者は一人としていなかった」
「おお!」
「この男は君よりもずっと不幸な息子だよ。父親の墓がどこにあるのかさえ彼にはわからないのだから」
「でも、その人には、その人が愛していた妻が残ってます、少なくとも」
「それは違う、その妻は……」
「死んだんですか」マクシミリヤンが声を高めた。
「もっと悪い。不実だったのだ。その女性は自分のフィアンセを迫害した敵の一人と結婚した。モレル、これでこの男のほうが、恋人としても君よりずっと不幸な男だったことがわかるだろう」
「で、その人に神はなにか慰めをお与え下さったのですか」モレルは訊ねた。
「少なくとも心の平和だけは与えて下さった」
「その人も、いつかは幸せになれるでしょうか」
「彼はそれを希望しているよ」
マクシミリヤンは胸に顔を埋めた。
「お約束します」しばらく沈黙した後に彼はこう言って、モンテ・クリストに手をさしのべた。「ただし、忘れないで下さい……」
「十月五日、私は君をモンテ・クリスト島で待っている。四日の日に、バスティアの港でヨットが君を待っている。ウリュス号というヨットだ。君を私の所へつれて来る船長に君の名前を言ってほしい。いいね、マクシリヤン」
「わかりました、伯爵、必ずその通りにします。ただし忘れないで下さい、十月五日には……」
「男の約束というものがまだわからないのかね……私は二十回も言ったはずだ、その日になっても君がまだ死にたいというのなら、私が手をかしてあげると。では、さようなら」
「僕を一人残していらっしゃるんですか」
「うむ、イタリアに用事があるんでね。私は君を一人残して行く。君が一人で不幸と戦うために。神がその選び給うた者をその足下に運ばせるためにお遣わしになるたくましい翼を持ったワシと、君が一人で戦えるようにね。ガニュメデスの神話〔美しかったのでゼウスがワシに変装して天上へつれ去ったという〕は単なる作り話ではなく寓話なのだ」
「いつお発ちになりますか」
「今すぐ。汽船が私を待っている。一時間後には、私はもう君から遠く離れていよう。港まで送ってくれるかね」
「お心のままです」
「接吻してくれたまえ」
モレルは伯爵を港まで送った。すでに、黒い煙突から、巨大な羽根飾りのような煙が空に立ちのぼっていた。間もなく船は出航した。そして一時間後には、モンテ・クリストの言葉通りに、その白い煙の羽根飾りは、夕霧にかすむ東の水平線上に棚引くのが、かすかに見えるだけとなった。
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百十四 ぺッピーノ
伯爵の船がモルジウー岬のかげに姿を消そうとしていた頃、一人の男が、フィレンツェからローマヘの街道を駅馬車を走らせて、アクワペンデンテの小さな町を通り過ぎたところであった。できるだけ余計に道のりを進むためかなりのスピードで走らせてはいたが、さりとて人にあやしまれるほどには走らせなかった。
フロックコート、いや旅行のためにひどくくたびれているが、まだま新しくぴかぴか光るレジヨン・ドヌール勲章のついた外套を着て、上着にも略綬をつけたこの男は、この二つのしるしばかりではなく、御者に話しかけるアクセントからも、フランス人であることがわかった。彼が国際語〔フランス語〕の国で生まれたもう一つの証拠は、フィガロの goddam〔英語の god damn(畜生!)の訛り〕のように、ある国語の繊細微妙さのいっさいに代わり得る、つぎの音楽用語以外のイタリア語はまったく知らなかったことである。
「アレグロ!」彼は登り坂のたびに御者にこう言った。
「モデラート!」下り坂のたびにこう言った。
アクワペンデンテ街道を通ってフィレンツェからローマまで行けば、どれほどの登り坂と下り坂があるか、まさに神のみぞ知るである。
この二つの単語は、彼がこれを言う気のいい相手を大いに笑わせたのであった。
永遠の都が見えても、つまり、ローマが見えるストルタに着いても、外国人ならば誰しもが座席から腰を浮かせて、ほかのものが見えるずっと以前にその姿が見られる、あの有名なサン=ピエトロ寺院のドームを見ようとする激しい好奇心など、この旅人はてんで感じなかった。彼はただポケットから紙入れをとり出しただけである。そして、その紙入れから四つに畳んだ一枚の紙をとり出し、尊敬に近いような念の入れ方で、紙をひろげまた畳んで、こう言っただけである。
「よし、まだわしにはこれがあるぞ」
馬車はポポロ門を通り抜け、左折してスペインホテルの前で止まった。
われわれの古い馴染であるパストリーニ親方が入口の所で、帽子を片手に旅人を迎えた。
旅人は馬車を降り、うまい夕飯をと注文して、トムスン・アンド・フレンチ商会の場所を訊ねた。これは即座に知ることができた。この商会はローマでも最も有名な商会だったのである。
それは、サン=ピエトロ寺院に近いバンキ通りにあった。
ローマでも、ほかの各都市と同じように、駅馬車の到着は一つの事件である。マリウスやグラックスの子孫である十人ばかりの若者が、靴もはかず、肘に穴のあいた服は着ているが、片手の拳を腰にあて、片方の腕を形よく頭上に曲げて、旅人と駅馬車と馬とをうち眺めていた。このえりぬきの街の悪童どもに、五十人ばかりのヴァチカンの野次馬が加わっていた。テベレ河に水があるときには、サン=タンジェロの橋の上から河につばを吐きながらとぐろをまいている連中である。
ところで、このローマの悪童どもや野次馬連中は、パリの同じような連中よりは幸せなことに、あらゆる国の言葉を知っているので、その旅人が部屋と夕食を頼み、トムスン・アンド・フレンチ商会の場所を訊ねるのを聞いてしまったのである。
その結果、今着いた旅人がまともな案内人とともにホテルを出たとき、一人の男が野次馬の輪から離れて、旅人には気づかれず、その案内人にも気づかれた様子もなく、パリの警官ならではと思えるような巧妙さで、わずかの距離を置いて、この外国の旅人の尾行を始めたのである。
そのフランス人は、トムスン・アンド・フレンチ商会へ行くのをひどく急いでいたので、馬車に馬をつける間待っていることができなかった。馬車は途中で彼に追いつくか、あるいは銀行の前で彼を待つことになっていた。
馬車が追いつく前に銀行に着いた。
フランス人は案内人を控えの間に残して中に入って行った。案内人はただちに、事業所を持たぬ、いや、ローマの銀行、寺院、遺跡、博物館、劇場の入口あたりに無数の事業所を持つ、例の事業家の二、三人とおしゃべりを始めた。
フランス人と同時に、野次馬の輪から離れた男も銀行に入った。フランス人は事務室の受付のベルを鳴らし、最初の部屋に入った。影のようにつき従う男も入った。
「トムスン・アンド・フレンチ商会ですな」外国の旅人は訊ねた。
この部屋のいかめしい番人然と控えていた帳簿係の合図で、従僕のような男が立ち上がった。
「どちら様で」従僕が訊ねる。
「ダングラール男爵だ」旅人は答えた。
「こちらへ」
ドアが開き、従僕と男爵がそのドアから消えた。ダングラールの後から入って来ていた男は、待つ人のためのベンチに腰をおろした。
ほぼ五分の間、帳簿係はペンをきしませていた。その五分の間、腰をおろした男は一言も口をきかず、微動だにしなかった。
やがて、紙を走るペンの音がやんだ。帳簿係は顔を上げ、ぬかりなくあたりを見廻し、二人だけであることをたしかめると、
「ああ、ペッピーノじゃないか」
「そうだ」簡潔に男が答える。
「あのデブに、なんかめぼしい物でも嗅ぎつけたのか」
「あいつのことはあんまり偉そうなことは言えねえのさ。予め知らされてるんだ」
「じゃ、なんでも知りたがるお前だが、あいつがここへ何をしに来たか知ってるわけだな」
「当り前よ。金を引き出しに来たんだ。だがな、いくら引き出すかが知りてえわけだ」
「じきに教えてやるよ」
「結構だ。だが、いつかみてえにでたらめを教えるなよ」
「何を言ってるんだ、いったい誰のことだ。いつかここから三千エキュ持ってったイギリス人のことか」
「いや、あいつはたしかに三千エキュ持ってた。俺たちもちゃんとみつけた。俺が言ってるのは、例のロシアの公爵のことさ」
「それで?」
「それでよ、お前は三万フラン持ってるはずと言ったが、二万二千しかみつからなかったぞ」
「探し方が悪かったんだ」
「ルイジ・ヴァンパがじきじきに身体検査したんだぞ」
「それじゃ、借金でも払ったか……」
「ロシア人がか?」
「さもなきゃ、なにかに使ったか」
「ま、そうかも知れねえ」
「そうにきまってる。が、ちょっと俺に監視所に行かせてくれ。あのフランス人、俺が正確な数字を知らねえうちに取引きしちまうからな」
ペッピーノはうなずいた。そしてポケットから数珠を出し、なにか祈りの文句をもごもごと唱え、その間に帳簿係は、従僕と男爵とが入って行ったドアから姿を消した。
十分ほどして、帳簿係が面を輝かして戻って来た。
「どうだった」ペッピーノが仲間に訊ねた。
「急げ、急げ。たいへんな額だぞ」
「五、六百万じゃねえか?」
「そうだ。お前金額を知ってたのか」
「モンテ・クリスト伯爵閣下の受領証でだな」
「お前伯爵を知ってるのか」
「それと引き替えなら、ローマ、ヴェネチア、ウィーンで現金になる」
「その通りだ!」帳簿係は叫んだ。「どうしてお前はそんなによく知ってるんだ」
「前もって知らされてるって言っただろう」
「なら、何だって俺の所へなんぞ来たんだ」
「あいつがたしかに俺たちの目ざす相手かどうか確かめるためだ」
「まさにあいつだ……五百万。すげえ金だぜ。そうだろう、ペッピーノ?」
「そうだ」
「一生俺たちの持てる金じゃねえ」
「少なくとも」ペッピーノは悟りきったように答えた。「そのおこぼれにはあずかれるさ」
「しーっ! 奴が来る」
帳簿係はペンをとり、ペッピーノは数珠を手にした。ドアがふたたび開いたとき、帳簿係はものを書いていたし、ペッピーノはお祈りをしていた。
銀行家と一緒にダングラールが晴ればれとした顔つきで出て来た。銀行家は入口までダングラールを送った。
ダングラールの後ろから、ペッピーノも銀行を出た。
きめておいた通りダングラールを迎えに来た馬車はトムスン・アンド・フレンチ商会の前で待っていた。案内人が馬車の扉を開けておさえている。ローマの案内人というのは、たいへん愛想がよくて、何にでも使える男なのである。
ダングラールは、二十歳の青年のように身軽に馬車に飛び乗った。
案内人は扉を閉め、御者のわきに腰をおろした。
ペッピーノが後ろの席に乗る。
「閣下、サン=ピエトロを見物にいらっしゃいますか」案内人が訊ねた。
「何をしに」男爵が応じた。
「何をって、見物にです」
「わしはローマヘ見物に来たのではない」声に出してこう言った後、貪欲な笑いを浮かべて、そっと、「わしは金をこの手に触れるために来たんじゃ」とつけ加えた。
そして、実際に、彼が今しがた一通の書状を入れた紙入れに手を触れてみた。
「では、どちらへおいでになりますか……」
「ホテルヘ」
「パストリーニの家へ」案内人が御者に言った。
馬車は自家用車のように早く走った。
十分後、男爵は自分の部屋に戻り、ペッピーノは、この章のはじめに記しておいた例のマリウスやグラックスの子孫たちの一人になにごとか耳うちした後に、ホテルの前にしつらえられているベンチにどっかと坐りこんだ。耳うちされた男は、カピトリーノの丘のほうへ一目散に駈けて行った。
ダングラールはぐったりし、満足を味わい、眠気をもよおしていた。彼はベッドに入り、紙入れを枕の下に入れて眠りに落ちた。
ペッピーノは時間があり余ったので、人足どもと賭博をして、三エキュ損した。気晴しにオルヴィエトの酒を一びん飲んだ。
翌日、ダングラールは早く寝たのに遅くなってから目が覚めた。この五晩か六晩、彼は、たとえ眠ったとしても、その眠りはひどく浅かったのである。
彼はたらふく食事をとった。それから、彼自身言っていたように、この永遠の都の数々の美を見物する気持ちなどまったくないままに、駅馬車を正午に呼んでくれと頼んだ。
だがダングラールは、警察の手続きと駅馬車を統率する親方のものぐさを計算に入れていなかった。
馬車が来たのは二時になってからであったし、案内人が査証を受けたパスポートを持ち帰ったのは三時であった。
こうして準備に手間どる間に、パストリーニ親方の門前には、多数の野次馬が集っていた。
例のグラックスとマリウスの子孫どもも例外ではない。
男爵は、銅貨の一枚にでもありつこうとして彼を閣下閣下と呼ぶこの人垣の間を、意気揚々と通り抜けた。
すでにご存じのように、きわめて庶民的な男であるダングラールは、このときまで、ただ男爵と呼ばれるだけで満足し、まだ閣下とは呼ばれたことがなかったので、この敬称は彼の心をくすぐった。彼は、この悪党どもに一ダースほどの銀貨をばらまいた。もう一ダース貰えれば、すぐにも彼を殿下と呼んだにちがいない連中にである。
「どの街道を行きますか」御者がイタリア語で訊ねた。
「アンコーナ街道」男爵は答えた。
問いも答えもパストリーニ親方が通訳し、馬車は速駈けで出発した。
事実、ダングラールはヴェネチアに寄り、そこで財産の一部を受け取り、ついでヴェネチアからウィーンヘ行き、残りを現金化するつもりだった。
彼の意図は、歓楽の都と人から言われたこのウィーンに身を落ちつけることであった。
ローマ平野を三里ほど行くか行かぬかのうちに夜のとばりが降り始めた。ダングラールはこんなに遅く出発しようとは思っていなかった。こんなに遅くなるとわかっていれば、ローマを出るつもりはなかった。彼は、次の町まであとどれぐらいあるかと御者に訊ねた。
「ノン・カピスコ〔わかりません〕」御者は答えた。
ダングラールは、
『たいへん結構!』と言うように大きくうなずいた。
「次の駅馬のある町で泊ろう」ダングラールはわれとわが身につぶやいた。
ダングラールは、彼をぐっすり眠らせてくれた、前日味わった幸福感の余韻をまだ楽しんでいた。二重のバネのついた上等な英国製の馬車の中で、彼はのびのびと手足をのばした。疾駆する二頭の駿馬に引かれて行く自分を感じていた。駅と駅との間隔は七里である。彼はそれを知っていた。銀行家で、幸運にも破産したとなれば、いったい何をすればいいのか。
ダングラールは十分間だけパリに残してきた妻のことを考えた。さらに十分間、ダルミイー嬢と世界を走り廻っている娘のことを思った。そしてさらに十分間を、債権者たちのことと、その債権者たちの金の使い道を考えるのに費やした。それから、もう思い浮かべることもないので、彼は目を閉じて眠りに落ちた。
それでも、ひときわ大きく馬車がゆれたりすると、ときおりダングラールはちょっとの間目を開けた。そして、疾走中いきなり石と化した花崗岩の巨人のように見える、ところどころ途切れた水道橋が至る所に点在するローマ平野を、相変わらず同じ速さで運び去られて行くのを感じていた。しかし、夜は冷たく暗く雨もよいだったので、『ノン・カピスコ〔わかりません〕』としか答えない御者に、どの辺を走っているのか、と訊ねるくらいならば、うつらうつらしている者にとっては、座席に腰を据えたまま目を閉じているほうがはるかにましであった。
だから、ダングラールは、駅についてから目を覚ませばいいと自分に言いきかせて、眠り続けたのであった。
馬車がとまった。ダングラールは、早く着けばいいと思っていた目的地に着いたのだと思った。
彼は目を開けて、ガラス越しに外を見た。どこかの町の中か、少なくとも村の中だろうと思ったのだが、たった一軒のあばら屋のようなもののほかはなにも見えなかった。三、四人の男が幽霊のように行ったり来たりしている。
しばらくの間、ダングラールは、自分の路程を走り終えた御者が、運賃をとりに来るのを待っていた。その機会をとらえて、新しい御者にいろいろ訊いてみるつもりであった。だが、馬がはずされ、新しい馬がつけられても、誰も金をとりには来なかった。不思議に思ったダングラールは扉を開けてみた。が、たちまちたくましい腕で扉は閉められ、馬車が走り出した。
仰天した男爵は、すっかり目が覚めた。
「おい! おーい、ミオ・カーロ〔親しき者よ〕」彼は御者に声をかけた。
この単語も娘がカヴァルカンティ公爵と二重唱で歌ったときにダングラールが憶えた歌の文句のイタリア語である。
だが、そのミオ・カーロは答えなかった。
そこでダングラールは諦めてガラス窓を開けた。
「おい、いったいどこへ行くんだ」彼は窓から首を出して言った。
「デントロ・ラ・テスタ!」威嚇するような身ぶりとともに、重々しく威圧的な声が言った。
ダングラールは、デントロ・ラ・テスタが『首を引っこめろ』という意味であることを理解した。ご覧の通り、彼のイタリア語は大進歩をとげていたのである。
彼は不安にかられながらもその言葉に従った。そして、その不安は分を刻むごとに大きくなり、しばらくすると、すでに述べておいたように、馬車が出発したときには、なにも考えることがなく眠気をもたらした彼の頭が、さまざまな想いでいっぱいになってしまった。そのいずれもが、旅行者の、とくにダングラールのような立場の旅行者の関心をかきたてずにはおかぬようなものであった。
強い心の衝撃は最初鋭敏な機能を目に与え、やがて目を使いすぎるためによく見えなくなるものだが、彼の目もこの段階を闇の中で経過したのであった。恐怖を抱く前までは正確にものが見える。恐怖を抱いている間はものが二重に見え、恐怖を抱いた後は、目がかすんでしまうものである。
ダングラールは、マントに身を包んだ一人の男が、右側の扉の所で馬を走らせているのを見た。
「憲兵だな」彼はつぶやいた。「フランスの信号通信が俺のことを法王庁に知らせたのだろうか」
彼はこの不安を除こうと心に決めた。
「どこへつれて行くんだ」彼は訊ねた。
「デントロ・ラ・テスタ!」同じ声が、同じ威嚇するような調子でまた言った。
ダングラールは左の扉を見た。
やはりこの扉のほうも、もう一人の男が馬を走らせている。
「完全に袋のネズミだ」額に汗を浮かべてダングラールはつぶやいた。
彼は馬車の奥深く身を投げ出したが、今度は眠るためではなく、考えるためにであった。
やがて彼は身を起こした。
馬車の奥から、彼は平野に目を走らせた。通りすがりに見たあの石の化け物のような水道橋がまた見えた。ただ右手にではなく、今は左手に見える。
馬車をもと来た方角に反転させたことがわかった。またローマにつれ帰ろうというのだ。
「いまいましい奴らめ! 罪人を引き渡そうってんだな」
馬車はすさまじい速度で走り続けた。一時間が恐怖のうちに過ぎた。行く手に立てられている道標ごとに、この逃亡者は、疑う余地なく、自分がつれ戻されているのを知ったからである。やがて彼は、大きな黒々とした塊を見た。馬車がこれにつき当るかと思われた。だが、馬車はこの塊にそって迂回したのである。それは、ローマをとりまく城壁にほかならなかった。
「おや、町には入らないぞ」ダングラールはつぶやいた。「とすると、俺を掴まえたのは警察じゃない。おお、神様! だとすれば、これは……」
髪が逆立った。
彼は、アルベール・ド・モルセールが、ダングラール夫人とウジェニーに、その息子となり夫となる話があったころ話した、パリではあまり信じられなかったローマの山賊についてのおもしろい話を思い出したのである。
「きっと盗賊どもだ」彼はつぶやいた。
急に馬車が、それまでの砂利道の土よりは固いものの上を走り始めた。ダングラールは思いきって目を道の両側に向けた。奇妙な形をした歴史的建造物がいくつも見える。今ではその細かい点までも思い浮かぶモルセールの話で頭はいっぱいであった。彼はアッピア街道を走っているにちがいないと思った。
馬車の左手の谷あいのような所に円形の穴が見えた。
カラカラ帝の円形競技場である。
右側の扉の前を走っていた男がなにか一言言うと、馬車がとまった。
と同時に左側の扉が開いた。
「シェンディ!〔降りろ〕」声が命じた。
直ちにダングラールは馬車を降りた。彼はイタリア語を話すことはできなかったが、すでに聞きとることはできるようになっていたのだ。
生きた心地もなく、男爵はあたりを見廻した。
御者を含めずに、四人の男が彼をとりまいていた。
「ディ・クワ〔こっちだ〕」四人の男のうちの一人がこう言って、アッピア街道から、ローマ平野の不規則な起伏の多い地帯に入って行く小道を下りはじめた。
ダングラールは文句も言わずに案内者について行った。ほかの三人がうしろからついて来るのは、ふり返らなくてもわかっていた。
しかし、これら三人の男どもは、だいたい等しい間隔を置いて見張りに立ったようであった。
十分ほども歩いたろうか、その間ダングラールは先に立つ男と一言も言葉をかわさなかったが、塚と高い草の茂みの間に着いた。三人の男が黙ったまま三角形に立っていて、彼がその中心にいる。
彼は口をきこうとしたが、舌がひきつった。
「アヴァンティ〔前へ進め〕」ぶっきら棒な命令口調で同じ声が言った。
このときはダングラールにはこの言葉の意味が二重にわかった。一つは言葉で、もう一つは相手のしぐさで。というのは、うしろから歩いて来た男が、どんとばかりに彼をつきとばしたので、前にいた案内者にぶつかってしまったからである。
この案内をして来た男は、われらがペッピーノであった。ペッピーノは高い草をわけて、テンかトカゲでなければとてもそれが踏みならされた道であるとはわからぬ曲りくねった道をつき進んで行った。
ペッピーノは、灌木の茂みをいただいた大きな岩の前で足をとめた。この岩は瞼のように半ば口を開き、若者に通り路を開けている。若者は、まるでお伽話の悪魔が揚蓋から姿を消すように、その中に消えた。
ダングラールの後からついて来た男が、声と身ぶりで、この銀行家にも同じようにしろと命じた。もはや疑う余地はない。フランスの破産した男は山賊の手に落ちたのである。
ダングラールは、前も後も恐ろしい危険にさらされた者が、恐怖で勇気をふるい立たされるように、決行することにした。彼の腹は、ローマ平野の岩の裂け目を通り抜けるにはあまり都合よくできていなかったが、ペッピーノに続いて割れ目に身をこじ入れた。そして、目をつぶって滑り降り、ペッピーノの足もとに落下した。
地面に着いたとき、彼はまた目を開けた。
通路は広かったが真暗であった。自分の住家に戻った今は、ペッピーノはべつに身をかくす必要もなく、彼は火打石を打ってたいまつに火をともした。
ダングラールの後から、もう二人の男が降りて来て後衛をつとめ、たまたま足をとめたりすると後ろからダングラールを押し、なだらかな坂を下って、なにやら不気味な感じの広場の中央に到着させた。
事実、何層にも積み重ねた棺状に穴を掘った壁面は、まわりの石が白いだけに、どくろの顔のあの黒く深い目を開いているように見えた。
一人の見張りがカービン銃の銃身の鐶《かん》を左手でならした。
「誰か!」見張りが言った。
「仲間だ、仲間だ。お頭《かしら》はどこにいる」ペッピーノが言った。
「あそこだ」見張りは自分の肩ごしに、岩をくりぬいた大広間のような場所を指さした。広間の灯がアーチ形の大きな壁の穴から通路に洩れている。
「いい獲物ですぜ、お頭」ペッピーノがイタリア語で言った。
そして、ダングラールのフロックコートの襟を掴み、入口のようになっている壁の穴のほうに彼をつれて行った。そこから広間に入ったが、頭《かしら》はここを自分の住まいにしているようであった。
「この男か」プルタルコスの『アレクサンドロス大王伝』を読みふけっていた頭が訊ねた。
「まさにこいつで」
「よし、そいつの面《つら》を見せろ」
かなり無作法なこの命令に、ペッピーノがいきなりダングラールの顔に松明《たいまつ》を近づけたので、ダングラールは眉を焼かれないようにあわてて飛びのいた。
その動転した顔には、醜い血の気の失せた恐怖の表情がありありと出ていた。
「この男は疲れている。ベッドヘつれて行け」頭は言った。
「おお、そのベッドなるものは、壁をくりぬいたあの棺のうちの一つだ」ダングラールはつぶやいた。「眠りというのは、あの闇の中で光っている短刀が、俺にもたらしてくれる死なのだ」
事実、その巨大な広間の暗い奥のほうで、アルベール・ド・モルセールのときは『ガリア戦記』を、ダングラールのときは『アレクサンドロス大王伝』を読んでいた男の仲間たちが、乾草や狼の毛皮の寝床の上に起き上がる姿が見えたのである。
銀行家は低い呻き声を洩らし、案内する男の後について行った。彼は祈りを唱えようとも悲鳴を上げようともしなかった。もはや彼には、体力も意志も能力も感情もなかった。人がつれて行くから前に進むだけの話であった。
彼は段につまずいた。目の前に階段があるのを知ると、額をぶつけないように本能的に身をかがめ、一枚岩をくりぬいた小さな部屋の中に入った。
この部屋は、まったく飾り気はないが清潔で、はかり知れないほど地下深くにあるのに湿気はなかった。
乾草を敷き、その上に山羊の皮をかぶせた寝床が、部屋の隅にあった。これを見て、ダングラールは自分が助かる吉兆を見る思いがした。
「おお、神のおかげだ。これは本物の寝床だぞ」彼はつぶやいた。
それまでの一時間に、彼が神の名を口にしたのはこれで二度目であった。こんなことはここ十年来なかったことである。
「エッコ〔ここだ〕」案内の男が言った。
そしてダングラールを部屋の中に押しこむと、そのうしろで扉を閉めた。
閂《かんぬき》の音がした。ダングラールは囚われの身となったのである。
たとえ、閂などなくても、サン=セバスチアーノのカタコンブを根城とし、すでに読者にはかの有名なルイジ・ヴァンパであることがおわかりにちがいないその頭のまわりに陣を張っている兵士どもの間を通り抜けることなど、天降った天使を案内人とする聖ペテロででもなければできるわざではない。
ダングラールもこの山賊が誰であるかがわかった。モルセールがフランスにこの山賊を紹介しようとしたときには、その存在をてんで信用しようとしなかったが。山賊の正体を知っただけではない。その部屋も、モルセールが閉じこめられ、どうやら客人用のものとなっている例の部屋であることも知った。
その話を思い出して、ダングラールはふとうれしさを感じ、心を静めることができた。即座に自分を殺さなかった以上、山賊どもに自分を殺す意図はないのだ。
金をとるために掴まえたのだ。なんルイ〔一ルイは二十フラン〕かの金しか身につけてはいないから、山賊どもは自分を人質にするつもりなのだ。
彼は、モルセールの身代金がたしか四千エキュ程度であったことを思い出した。モルセールよりは大物らしい風采をしているつもりなので、自分の身代金は八千エキュと考えた。
八千エキュといえば四万八千フランである。
彼にはまだ五百五万フランほど残ってる。それだけの金があれば、どんな場合でも切りぬけることができる。
だから、五百五万フランもの身代金を一人の男に対して要求した例などあったためしはないので、ダングラールは寝床に身を横たえると、二、三度寝返りをうった後は、ルイジ・ヴァンパがその伝記を読んでいる英雄のように、安らかに眠りこんでしまったのであった。
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百十五 ルイジ・ヴァンパの献立表
ダングラールが恐れた永遠の眠りでないかぎり、どんな眠りにも目覚めがある。
ダングラールは目を覚ました。
絹のカーテン、ビロード張りの壁、暖炉の中で灰になっていく薪から立ちのぼり、サテンの天井からまた降りてくる香りに慣れたパリ人にとって、石灰岩の洞窟での目覚めは、あまり質のよくない夢のようなものであったにちがいない。
寝床の山羊の皮に手が触れたとき、ダングラールはサモア人かポニア人の夢を見ていると思ったにちがいなかった。
だがこのような場合、どんなに手強い疑惑も、一秒もあれば確信に変わってしまうものである。
「そうだ」彼はつぶやいた。「わしはアルベール・ド・モルセールが話しておった山賊どもの手に落ちたのだ」
まず彼がしたことは、大きく息を吸ってみることだった。傷を受けていないことをたしかめるためである。これは、彼が読んだとは言えぬが、その中のいくらかのものは心にとめた唯一の書物、『ドン・キホーテ』の中にあった方法なのである。
「傷は受けていない。奴らはわしを殺しもしなければ傷も負わせなかった。が、金は取ったろう」
彼は急いでポケットに手を入れてみた。ローマからヴェネチアまでの旅費にととっておいた百ルイは、ちゃんとズボンのポケットに入っていた。そして、五百五万フランの手形の入っている紙入れも、フロックコートのポケットにあった。
「おかしな山賊だな。財布にも紙入れにも手をつけぬとは。昨夜、寝しなに思ったように、奴らはわしの身代金を要求する気だ。おや、時計もあるぞ、今何時だ」
ダングラールの時計はブレゲの傑作で、前の日に馬車が出るとき、念入りにねじを巻いておいたのだが、その時計が朝の五時半を告げた。これがなければ、ダングラールには時間が皆目見当つかなかったろう。この小部屋には陽はまったくさしこまぬからだ。
山賊どもに説明を求めるべきか。それとも山賊どものほうからなにか訊ねてくるのを辛抱強く待つべきか。後のほうがより慎重なやり方である。ダングラールは待つことにした。
彼は正午まで待った。
この間ずっと見張りが扉の前にいた。朝八時に見張りは交替していた。
いったいどんな男が自分を見張っているのか、ダングラールは見たいと思った。
日の光ではないがランプの光が、扉の板の隙間から洩れてくるのに気づいていたので、彼はその一つに近づいた。ちょうど見張りの山賊がブランデーを一口飲んでいるところだった。酒が入っている革袋のせいで、この酒はダングラールの胸をむかつかせるような悪臭を放っていた。
「うへっ」ダングラールは部屋の奥までとびのいた。
正午に、ブランデーを飲んでいた男が別の見張りと交替した。ダングラールは新しい番人が見たくなり、また扉の隙間に近づいた。
こいつは昔の闘技者を思わせる山賊だった。目の大きい、唇の厚い、鼻がつぶれたゴリアテである。赤茶けた髪が、まるでヘビのようによじれた束になって肩まで垂れている。
「ほ、ほう。こいつは人間よりは人喰鬼に似てるぞ。ま、いずれにしろわしは年寄りで肉もかなり固い。でぶの白髪は食ってうまいもんじゃない」
ご覧のとおり、ダングラールはこのときはまだ冗談が言えるだけの機智を残していたのだ。
と、このとき、その番人は人喰鬼ではないことを証明するかのように、小部屋の扉の前に腰をおろすと、雑嚢《ざつのう》から黒パンと玉ねぎ、それにチーズを取り出し、すぐさまこれにかぶりついた。
「いやはやなんだってあんな臭いものが食えるのか、わしにはてんでわからんぞ!」扉の隙間からその山賊の食事をかい間見て、ダングラールは言った。
そして、彼は山羊の皮の上に坐りこんだが、この皮がまた彼に、最初の見張りのブランデーの臭いを思い出させた。
だが、ダングラールのしたことは無駄であった。自然の秘密は不可解なものである。たとえどのように粗悪な食物にしろ、空っぽな胃の腑《ふ》に働きかける誘惑には、抗しがたい説得力があるものなのだ。
ダングラールは不意に、自分の胃袋が今現在すっからかんであるのを感じた。番人がさほど醜くは見えなくなり、パンも黒くはなく、チーズも新鮮なものに見えてきた。
ついには、野蛮人のぞっとするような食物である生の玉ねぎまでが、ダングラールが、
「ドニゾー、今日はちょっとしたうまい物を作ってくれんかね」と言ったときなど、彼の料理番が腕をふるってこしらえる、牛肉と玉ねぎのシチューとか、ロベール・ソースを思い出させるのだった。
彼は立ち上がって扉を叩いた。
山賊は顔を上げた。
ダングラールは、相手に聞こえたのがわかったので、また扉を叩いた。
「ケ・コーサ?〔何か〕」山賊が訊ねた。
「ねえ君」ダングラールは指で扉を叩きながら言った。「わしに食物をくれることを考えてくれてもよさそうな時間だと思うがね、このわしにも!」
だが、言っていることがわからなかったのか、それとも、ダングラールの食事についての命令は受けていないのか、大男はまた自分の食事を続けた。
ダングラールは自尊心を傷つけられたのを感じ、こんなけだものみたいな奴を相手にして、これ以上体面を傷つけたくないと思い、また山羊の皮の上に横たわって、以後一言も口をきかなかった。
四時間が過ぎた。大男が別の山賊と交替した。胃袋にたまらないうずきを感じていたダングラールは、また目を扉の隙間におしあて、自分をここにつれて来たあの案内の男の利口そうな顔を見た。
それはまさしく、扉の前に腰をおろし、できるだけ楽な見張りをしようとしているペッピーノであった。彼は両脚の間に土鍋を置き、その中には、暖かそうでいい匂いのするべーコン入りのエジプト豆のシチューが入っていた。
そのエジプト豆のわきに、ペッピーノはさらにヴェルレトリのブドウの籠と、オルヴィエトの酒のびんを置いた。
たしかにペッピーノは美食家なのである。
このうまそうな食事の仕度を見て、ダングラールの口に唾《つば》がたまってきた。
「は、はあ。こいつのほうが前の奴より扱いやすいかどうか試してみよう」囚われの男はつぶやいた。
そして彼はそっと扉を叩いた。
「はい、ただ今」山賊は答えた。パストリーニ親方の家に出入りしているうちに、フランス語の熟語まで憶えてしまったのだ。
事実彼は扉を開けてくれた。
ダングラールは、その男が彼に向かって『首を引っこめろ』と乱暴に叫んだ奴であることを知ったが、相手を咎めたりしている場合ではなかった。逆に彼は、できるだけ愛想のいい顔をし、にこやかな笑みをたたえて、
「すみません、私にも食事をさせろとは言われてませんか」
「これはこれは!」ペッピーノは叫んだ。「閣下は、もしかしてお腹がすいておられるのでは?」
『もしかしてとはご挨拶だわい』ダングラールはつぶやいた。『ちょうど二十四時間、わしはなんにも食ってはおらんというのに』
「その通りです」声を大きくして彼はつけ加えた。「腹がへってます、それもかなり」
「で、閣下はなにか召上がりますか」
「できれば、今すぐ」
「おやすいご用です。ここでは食べたいものはなんでも手に入ります。もちろんお金は払っていただきますが。まともなキリスト教徒の間でならどなたでもそうするように」
「言うまでもない!」ダングラールは大声で言った。「もっとも、人を捕まえ、人を閉じこめた者は、せめて食物ぐらいはその囚人に与えるものだとは思うがね」
「ああ、閣下、それはしきたりに反します」
「あまりまともな理屈ではないな」ダングラールはこう言ったが、愛想よくして見張りのご機嫌をとり結ぼうと思っているので、「ま、それで納得することにしよう。さ、なにか食わせてくれ」
「すぐ持って参ります、閣下。何がよろしいでしょうか」
こう言ってペッピーノは、立ちのぼる湯気がじかにダングラールの鼻に来るように土鍋を置いた。
「ご注文を承わります」
「ここに調理場があるのかね」銀行家は訊ねた。
「何ですって! 調理場があるかとおっしゃるんですか。完全なものがございます」
「で料理人は?」
「えりぬきの者です」
「それでは、鷄でも魚でも野鳥でも、なんでもかまわん、とにかく食わせてくれ」
「閣下のお望み次第でございます。では、鷄をお持ちしましょうか」
「うん、鷄だ」
ペッピーノは立ち上がり、あらんかぎりの声をはり上げて叫んだ。
「閣下に鷄を!」
ペッピーノの声がまだ天井にこだましている間に、一人のすらっとした、古代の魚売りのように上半身裸の美青年が銀盆に鷄をのせて来た。鷄は手でおさえなくても彼の頭上にのっているのである。
「カフェ・ド・パリにいるみたいだな」ダングラールはつぶやいた。
「参りました、閣下」ペッピーノが若い山賊の手から鷄を受け取りながら言った。そしてそれを虫の喰ったテーブルの上に置いた。この机と一脚の椅子、それに山羊の皮の寝床、この小部屋の調度といえばそれだけだった。
ダングラールはナイフとフォークを要求した。
「ここにございます、閣下」ペッピーノは言いながら、先のかけたナイフとツゲのフォークをさし出した。
ダングラールは片手にナイフ、片手にフォークを持ち、まさに鷄を切ろうとした。
「すみません、閣下」ペッピーノが銀行家の肩に手を置いて言った。「ここでは前金でいただくことになっております。お帰りのときに文句をおっしゃるといけませんので……」
『は、はあ。こうなるとやはりパリとは違うな、思いっきりぼろうという魂胆らしい点を除いても。が、まあここは気前よくするとしよう。イタリアは物価が安いと聞いている。ローマでは鷄一羽十二スー〔二十スーが一フラン〕ぐらいのものだろう』
「ほら」彼はペッピーノに一ルイ〔二十フラン〕を投げ与えた。
ペッピーノはその金貨を拾い上げた。ダングラールは鷄にナイフを近づけた。
「ちょっとお待ちを、閣下、ちょっとお待ちを」身を起こしながらペッピーノが言った。「これではまだ少し足りません」
「言わんこっちゃない、ぼりやがる!」ダングラールはつぶやいた。
それから、こうして金をむしり取られることにも覚悟をきめて訊ねた。
「この痩せこけた鷄にいくら足りんというのかね」
「閣下は内金として一ルイお払い下さいました」
「たかが鷄一羽に対して、一ルイが内金だと!」
「その通り、内金でございます」
「よろしい……先を言え、先を」
「あと足りないのは、四千九百九十九ルイだけでございます」
この途方もない冗談に、ダングラールは大きな目をむいた。
『ほう、おもしろい冗談だよ、まったくのところ』彼はつぶやいた。
彼はまた鷄を切ろうとした。が、ペッピーノはその右手を彼の左手でおさえ、右の手をさしのべた。
「さあ」
「なんだと、冗談じゃないのか」
「冗談なんかではありません、閣下」ペッピーノはクエーカー教徒のようにまじめくさった顔で言った。
「この鷄が十万フランだというのか!」
「閣下、こんな洞窟の中で鷄を飼うのがどれほどたいへんなことか、とても信じられないほどなのでございます」
「わかった、わかった。ひどくおもしろい、楽しい冗談だと思うよ。が、わしは腹がへっておるのだ、とにかく食わせてくれ。さあ、この一ルイをお前にやる」
「といたしますと、残りは四千九百九十八ルイでございます」前と同じ、くそ落ち着きに落ち着いた調子でペッピーノが言った。「ゆっくりお待ちすれば全部いただけるでしょう」
「そいつは」ダングラールは、自分をからかうような相手の辛抱強さにむっとして答えた。「そいつは絶対に駄目だぞ、このとんちきめ! わしをいったい誰だと思っておるのか」
ペッピーノがちょっと合図すると、あの若い男が、さっとばかりに鷄をとり上げてしまった。ダングラールは山羊の皮の上に身を投げだした。ペッピーノは扉を閉め、べーコン入りのエジプト豆を食べはじめた。
ダングラールにはペッピーノのしていることは見えなかったが、山賊が豆を噛む音は、囚人にいやでも今ペッピーノがものを食べていることを知らせるのだった。
「下司野郎!」ダングラールは言った。
ペッピーノは聞こえないふりをして、ふり向きもせずに、悠々と食べ続けていた。ダングラールは自分の胃袋が、ダナオスの娘たち〔底に穴のあいた桶に水を満たす刑に処せられた〕の桶のように穴があいているように思えた。これが満たされることがあろうとは彼には思えなかった。
それでもなお彼は三十分がまんした。だが、この三十分が、彼には一世紀もの長さに思えた。
彼は起き上がり、また扉の所へ行った。
「ねえ、君、これ以上わしを苦しめないでくれ。わしにどうしろというのか言ってくれないか」
「いえ、閣下。それより何をお望みかをおっしゃって下さい……ご命令下さればなんでもいたします」
「ではまず扉を開けてくれ」
ペッピーノは扉を開けた。
「わしは、ええいくそ! わしは飯が食いたい」
「お腹がすいておられるのですか」
「そんなことはわかっておるではないか」
「何を召上がりますか」
「ひからびたパン一切れ。このいまいましい洞窟では鷄は法外な値段だからな」
「パンでございますね、かしこまりました」ペッピーノはこう言って、
「パンを!」と叫んだ。
若者が小さなパンを持って来た。
「参りました」ペッピーノが言った。
「いくらだ」ダングラールは訊ねた。
「四千九百九十八ルイでございます。二ルイは前にいただいておりますから」
「なんだと、パン一切れが十万フランか」
「十万フランでございます」
「だが、鷄が十万フランだと言ったではないか」
「一品料理は手前どもではやっておりません、みな定食になっておりまして、少し召上がろうと、たくさん召上ろうと、十皿でも一皿でも、料金は同じでございます」
「またそんな冗談を! ねえ君、はっきり言うが、これは無茶だ、てんで話にならん。それより、わしを餓死させる気だとはっきり言ったらどうだ。そのほうが話は早いぞ」
「とんでもありません、閣下。閣下が勝手に自殺なさろうとしているのです。お金をお払いになって、食事をなさって下さい」
「大馬鹿者、何で払えと言うんだ」ダングラールは怒った。「十万フランもの金をポケットにいれてる奴がいるとでも思ってるのか」
「閣下は、ポケットに五百五万フランお持ちです。それだけあれば、十万フランの鷄五十羽と、五万フランの鷄の半身が食べられます」
ダングラールは身ぶるいした。今こそ目かくしがとれた。これはやはり冗談だったのだ。だが、ついに彼はその冗談の意味を知ったのである。
彼はもはやその冗談を、つい今しがたまでのように、下らない冗談とは思わなかった。
「それではね、もしその十万フランを払えば、それでいいんだね、安心して飯が食えるんだね」
「もちろんです」
「だが、どうやって払えばいいのだ」いくらかほっとしながらダングラールは言った。
「いとも簡単です。閣下はローマのバンキ通りのトムスン・アンド・フレンチ商会に口座をお持ちですから、私に四千九百九十八ルイの手形を書いて下さい。手前どもの銀行が取り立ててくれます」
ダングラールは、せめて善意のある態度だけは見せようと、ペッピーノのさし出したペンと紙をとり、手形を書き署名した。
「さ、持参人払いの手形だ」
「では、どうぞ鷄を」
ダングラールは溜息をつきながら鷄を切った。そんな大金を払ったにしては、ずいぶんと痩せこけた鷄に思えた。
ペッピーノのほうは念入りに手形を読み、それをポケットにしまって、またエジプト豆を食べ続けた。
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百十六 免罪
翌日、ダングラールはまた腹がへった。この洞穴の空気はやけに腹をすかせるのであった。囚人は、今日は絶対に金を使うまいと思った。倹約家である彼は、鷄を半分とパンを一かけ、小部屋の隅にかくしておいたのである。
だが、それを食べ終えたとたんに喉がかわいた。これは考えに入れていなかったことである。
彼は、舌がからからに乾いて上顎にひっつくまで喉のかわきと戦った。
ついに、喉を焼く火に抗しかね、番人を呼んだ。
見張りが扉を開ける。新顔であった。
顔なじみの者を相手にしたほうが得策であると考えた彼は、ペッピーノを呼んでもらった。
「お呼びでございますか、閣下」いそいそと姿を現わした山賊の態度が、ダングラールにはよい兆しのように思えた。
「ご用は?」
「飲み物がほしい」
「閣下、ご承知の通り、ローマの郊外ではブドウ酒は滅法お高うございます」
「では、水をくれ」相手の攻撃をかわそうと、ダングラールは言った。
「ああ、閣下。水はブドウ酒よりも貴重でして、なにしろひどい日照り続きで」
「やれ、やれ、また同じことの繰り返しらしいな」
こう言って、彼は冗談を言っているように見せるために笑ったが、この不幸な男は、こめかみが汗で濡れるのを感じていた。
「ではね、君」涼しい顔をしているペッピーノを見ながら、ダングラールは言った。「ブドウ酒を一杯くれ。駄目かね」
「前に申しました通り」ペッピーノがまじめくさって答えた。「手前どもでは分け売りをいたしません」
「よし、それならびんごともらおう」
「どのブドウ酒にいたしましょう」
「一番安いやつだ」
「いずれも同じお値段ですが」
「いくらだ」
「一本二万五千フランです」
「やい」ダングラールは、アルパゴン〔モリエールの『守銭奴』の主人公〕以外には、人間にはとても出せぬ声で、いまいましげに怒鳴った。「わしを丸裸にする気だと言ってしまえ。そのほうが、そんなふうに一枚一枚はぎとるよりずっと手っ取り早いわ!」
「どうやら主人はその気かもしれません」
「主人てのはいったい誰だ」
「一昨日、閣下がその人の所へつれて行かれたあの人です」
「今どこにいる」
「ここに」
「会わせてくれ」
「お安いご用です」
待つ間もなく、ルイジ・ヴァンパがダングラールの前に現われた。
「お呼びですか」
「わしをここへつれて来た連中の頭領は君かね」
「はい、閣下」
「わしの身代金としていくらほしいのか言ってみたまえ」
「ざっくばらんに申して、閣下が身につけておられる五百万です」
ダングラールは心臓がでんぐり返る思いがした。
「わしは、あとにも先にもそれっきりしか持っておらんのだ。巨万の富の残りがこれなのだ。こいつを奪うぐらいならわしの生命を奪ってくれ」
「閣下の血を流すことは禁じられているのです」
「誰が君に禁じたのかね」
「われわれがその命令には絶対に服従する方からです」
「では、君も誰かに服従しているわけか」
「はい、首領に」
「わしは、君が首領だと思っとったが」
「私はこの連中の頭です。ですが私の首領は別におられます」
「その首領も誰かの手下なのか」
「はい」
「誰の」
「神の」
ダングラールはしばし考えこんだ。
「どうもよくわからんな」
「でしょうね」
「で、その首領がわしをこんなふうに扱えと君に言ったのかね」
「そうです」
「どういうつもりなのだ」
「わかりません」
「わしの財布は空になってしまう」
「たぶんね」
「ねえ君、百万ほしくないか」
「いいえ」
「二百万」
「いいえ」
「三百万……四百万……四百万だぞ。逃がしてくれたら君に四百万やる」
「どうして五百万払うべきところを四百万しか払わぬと言うんですか。ずいぶん高い利子ですね銀行の殿様。さもなければ私がてんでものを知らぬかだ」
「みんな持ってけ! みんな持ってけと言ってるんだ」ダングラールはわめいた。「そしてわしを殺せ!」
「まあ、まあ、お静かに、閣下。あんまり血のめぐりをよくすると、また食欲が出て、日に百万フランも食わなきゃならなくなる。もう少し倹約して使うんだな!」
「だが、払う金がなくなったらどうなるんだ!」憤激してダングラールは怒鳴った。
「腹がへるだろうね」
「腹がへる?」ダングラールは顔色を変えた。
「たぶんね」ルイジ・ヴァンパは冷やかに答えた。
「だが、あんたはわしを殺すつもりはないと言ったではないか」
「ない」
「それなのにあんたはわしが餓死してもかまわんというのか」
「それとこれとは話が違う」
「ええい、畜生め! わしはお前らの大それた計算の裏をかいてやるぞ。どうせ死ぬんだ。今すぐ死んだほうがましだ。わしを苦しめろ、拷問にかけろ、殺せ。だが絶対にわしは署名などせんぞ!」
「ご随意に、閣下」
ヴァンパはこう言って小部屋を出て行った。
ダングラールはわめきちらしながら山羊の皮の上に身を投げた。
いったいこの連中は何者なのだ。姿を見せぬ首領とは何者なのか。いったい自分に対してこの先執拗に何をしようというのか。誰でも身代金を払えば自由の身になれるのに、なぜ自分だけはそれができないのか。
おお、そうだ。死ねば、いきなり急死でもすれば、どうやらあくまでも謎の復讐をしようと牙をむいている敵どもの裏をかくことができる。
そうだ。が、死とは。
おそらくその長い人生で、初めてダングラールは死を考えた。死への欲求と恐怖のまじった感情を抱いて。ついに彼にも、心臓が動悸をうつたびに『お前は死ぬのだ!』と自分自身に語りかけてくる、生きとし生けるものすべてがその体内に宿しているあの執拗な亡霊に、目をとどめるべき時が来たのだ。
ダングラールは、猟師に追いつめられたために勢いづき、ついで絶望し、ときとしてその絶望のゆえに死地を脱する野獣に似ていた。
ダングラールは逃亡を考えた。
だが壁は一枚岩である。小部屋から外へ出る唯一の出口には、本を読んでいる男がいる。その男のうしろに、銃をたずさえた人影がいくつか行ったり来たりしているのだ。
署名はせぬという彼の決意は二日間続いた。その後で、彼は食物を乞い、百万フラン払うと言った。
すばらしい食事が出て、彼は百万フランとられた。
それ以後のこの不幸な囚人の生活は、絶え間なくうわごとを繰り返すような状態になった。それまでにあまりにも苦しんだので、もはや苦しみに身をさらす気持ちは失せ、いかなる要求にも応じた。十二日ほど過ぎて、かつて、はぶりのよかった頃のような食事をしたある日の午後、残金を計算してみると、持参人払いの手形を乱発したために、もはや手もとには五万フランしか残っていないことに気がついた。
このとき、不思議な反応が彼の心に起こった。五百万もの金を捨てるように費やした彼が、残りの五万フランをなんとかして助けようとしたのである。この五万フランを与えるくらいならば、むしろまた餓えに苦しむ暮らしをしようと決意したのだ。狂気とも言えるかすかな希望を抱いたのだ。あれほど長い間神を忘れていた彼が、神を思い、神はときとして奇蹟を行い給うたとつぶやいたのである。この洞窟が崩れ落ちるかもしれぬ。法王庁の騎銃隊が、この呪われた山賊どもの住み家を発見し、救出しに来てくれるかもしれぬ。そうすればまだ五万フラン残っている。五万フランという金は、一人の人間が餓死せずにすむ金額である。彼は神に、その五万フランを守らせ給えと祈った。そして、祈りつつ彼は涙を流した。
こうして三日が過ぎた。その間、たとえその心の中にではないにせよ、神の名はつねに彼の唇にあった。ときおり彼は錯乱に陥ることがあった。そんなとき、彼は窓ごしに、粗末なベッドの上でいまはのきわの苦しみに喘ぐ老人の姿が見えるような気がした。
この老人も、やはり飢えのために死んだのである。
四日目、彼はもはや人間ではなかった。生ける屍であった。以前に食べた食事のこぼれは、すでに残るくまなく床から拾い尽され、地面を覆っていた筵《むしろ》まで彼は貪り始めていた。
そこで彼は、守護の天使にすがるような調子で、ペッピーノに食物を乞うた。一口のパンに千フラン払うと言った。
ペッピーノは答えなかった。
五日目、彼は扉の所まで身体をひきずって行った。
「君だってキリスト教徒だろう」跪《ひざまず》いて彼は言った。
「君は、神のみ前では兄弟である男を殺そうというのか」
「おお、昔の友人たちよ!」彼はつぶやいた。
そして彼は顔を地面にこすりつけた。
それから絶望に喘ぎながらまた身を起こして、
「首領! 首領!」と叫んだ。
「ここにいる」即座に現われたヴァンパが言った。「まだなにかほしいのですか」
「わしの最後の金を取ってくれ」ダングラールは紙入れをさし出しながら、呻くように言った。「そして、生かしておいてくれ、この洞窟の中で。もう逃がしてくれとは言わん、わしはただ生きていたいだけだ」
「だいぶお苦しみとみえますな」ヴァンパは訊ねた。
「つらい、苦しい、それもひどく」
「しかし、あなたよりもっと苦しんだ人が多勢いますよ」
「とてもそうは思えん」
「いるとも、餓死した人たちだ」
ダングラールは、幻覚に襲われているときに、ベッドの上で呻いているのを窓ごしに見たあの老人の姿を思い浮かべた。
彼は呻きつつ地面に額をうちつけた。
「おお、たしかに、わしよりも苦しんだ者もいる。だが少なくとも、あの人たちは殉教者だった」
「後悔はしているんだな」暗く厳そかな声が聞こえ、ダングラールの髪を逆立てた。
彼の視力の衰えた目が姿を見きわめようとした。山賊のうしろにマントに身を包んだ一人の男がいて、石柱の作る影の中にひっそりと立っているのが見えた。
「何を後悔せねばならぬのでしょう」ダングラールはつぶやくように言った。
「あなたが犯した罪をだ」同じ声が答えた。
「おお、後悔しますとも!」ダングラールは叫んだ。
彼は痩せた拳で自分の胸を叩いた。
「それならば私はあなたを許そう」男はマントを脱ぎ捨て、一歩進んで光の中に身を置いた。
「モンテ・クリスト伯爵!」一瞬前まで、飢えと悲惨とで蒼かった顔を、恐怖のためにさらに蒼くしてダングラールは言った。
「いや違う。私はモンテ・クリスト伯爵ではない」
「では、いったい誰なのですか」
「私は、あなたが売り、身柄を引き渡し、名誉を台なしにした男だ。あなたにフィアンセが身売りを余儀なくさせられた男、あなたが財産を築くため踏みつけにした男、父をあなたに餓死させられた男、あなたを餓死の刑に処した男だ。だが、私自身が許されねばならぬが故に、あなたを許す男、私はエドモン・ダンテスだ!」
ダングラールはただ一声叫んだだけであった。彼は地にひれ伏した。
「立つがいい」伯爵は言った。「あなたの生命は救われた。ほかの二人のあなたの共犯者には、そのような幸運は訪れなかった。一人は狂人となり、一人は死んだ。残りの五万フランはそのまま持っているがいい。私からの贈り物だ。養育院からあなたがかすめとった五百万フランのほうは、匿名ですでに返済されている。
さ、今こそ飲み、かつ食べるがいい。今夜は私があなたにご馳走しよう。
ヴァンパ、この人が飢えをしのいだら逃がしてやれ」
伯爵が遠ざかって行く間中、ダングラールは地に伏したままであった。彼が顔を上げたときには、通路に消えて行く影のようなものを見ただけである。その影に、山賊どもが頭を下げていた。
伯爵が命じたように、ダングラールはヴァンパのもてなしを受けた。イタリア最高のブドウ酒と、最も美味な果物が運ばれ、彼を駅馬車に乗せると、街道で、一本の木によりかからせて置き去りにした。
場所もわからぬまま、彼は夜が明けるまでそこにいた。
夜が明けて、彼は小川のほとりにいることを知った。喉がかわいていたので、その小川まで身を引きずって行った。
水を飲もうと身をかがめたとき、彼は髪の毛がすっかり白くなっているのに気がついた。
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百十七 十月五日
夕方の六時近くであった。秋のきれいな太陽がその金色の光をたゆたわせる鈍い色合いの陽ざしが、青い海に空から降りそそいでいた。
日中の暑さが徐々にやわらぎ、日盛りの午睡から覚めた大自然の息吹のようなそよ風が吹き始めていた。地中海の海岸に涼風を送り、強烈な海の香にまじった木々の芳香を岸から岸へともたらす甘美な風である。
ジブラルタルからダーダネルスヘ、チュニスからヴェネチアヘひろがるこの巨大な湖の上を、一隻の優美軽快なヨットが、たちこめはじめた夕靄《ゆうもや》の中を走っていた。その動きは、風に翼をひろげ水の上を滑り行く白鳥のそれであった。ヨットは、速くそして美しく、後にきらきら光る航跡を残して走っていた。
次第々々に、われわれがその最後の光に敬意を表した太陽が、西の水平線にその姿を没していく。だが、あたかも神話の光輝く夢物語をうつつのものとするかのように、その無遠慮な光は波のまにまになお見えかくれして、愛人をその紺碧のマントにかくそうとあだな努力をしているアムフィトリテ〔海の女神。ポセイドンの妻〕の胸の中に、今しがた火の神が身をかくしたことをあばいているかに見えた。
うち見たところ、辛うじて乙女の巻毛をなびかせるには足りるかと思えるほどの風なのだが、ヨットはスピードを上げて進む。
へさきに一人の男が立っている。背が高く、日焼けした顔。目を見開き、円錐形の黒い塊となって、巨大なカタロニア人の帽子のように波間につき出ている陸地が近づくのを見ていた。
「あれがモンテ・クリスト島か」重苦しい、深い悲哀の刻まれた声で、このヨットが一時その指揮下におかれているらしいその旅の男が訊ねた。
「はい、閣下」船長が答えた。「着きました」
「着いたか!」旅の男は名状しがたい憂いをひめた声でつぶやいた。
それから、低くこうつけ加えた。
「そうだ、あれが港らしい」
そして、彼はふたたびもの思いに沈んだが、その胸中は、涙以上に悲しみのこもった微笑にうかがわれた。
数分後、陸地に火が見えたと思う間もなく消え、ヨットまで銃声が聞こえてきた。
「閣下」船長が言った。「陸から合図を送って来ましたが、ご自身でご返事をなさいますか」
「どの合図か」
船長は手を島のほうにのばした。島の中腹に、大きな羽毛のような白っぽい煙が一つ立ちのぼり、次第にひろがりちぎれていった。
「あ、そうか」彼は夢からさめた者のように言った。
「銃を貸してくれ」
船長は彼に弾丸をこめたカービン銃をさし出した。旅の男はそれを受け取ると、ゆっくりと持ち上げ、空に向けて発砲した。
十分後、帆は巻かれ、小さな港から五百歩の所に錨が投げられた。
四人の漕手と水先案内一人を乗せたボートがすでに水面におろされていた。旅の男はボートに降り立った。しかし、彼のために青い敷物を敷いた船尾には腰をおろさず、立ったまま腕を組んだ。
漕手たちは待っていた。オールが、羽を乾かす鳥の翼のように、半ば持ち上げられていた。
「出発!」旅の男が言った。
八本のオールが、しぶき一つあげずに同時に水面におろされた。ボートは、オールに押され、早い速度で海面を滑りだした。
またたく間に、ボートは自然のままの切れ込みでできている小さな入江に入った。やがてボートが海底の細かい砂の上に乗り上げる。
「閣下、この二人の男の肩にお乗り下さい。岸までお運びします」水先案内が言った。
青年はこうすすめられても、それにはまったく無関心な態度で答えた。彼はボートから足を出すと、そのまま水の中に入った。水はベルトの所まできた。
「ああ、閣下、そんなことをなさってはいけません。私どもがご主人様に叱られます」
青年はかまわず、浅瀬をさぐりながら先に立つ二人の水夫について、岸に向かって歩き続けた。
三十歩ほどで岸についた。青年は乾いた砂の上で足のしずくを払った。そして、これからどの方へ行けと言われるのかと、あたりを見廻した。すでに日はとっぷりと暮れていたのである。
頭をめぐらしたとき、一本の手が彼の肩に置かれ、いきなり声がして彼をぎくっとさせた。
「やあ、マクシミリヤン」その声はこう言っていた。「君は正確に約束を守ってくれたね、ありがとう」
「あなたでしたか、伯爵」青年は喜びに似た気持ちを抱いて叫んだ。そして両手でモンテ・クリストの手を握りしめた。
「そう、ご覧のように、私も君と同じで、正確に行動する男だ。だが、ずぶ濡れじゃないか。カリュプソがテレマコスにでも言いそうな言葉だが、まずお召替えをというところだね。まあこっちへ来たまえ。ここには君のために用意をととのえておいた住まいがある。そこへ行って、旅の疲れをいやし、身体を暖めるんだね」
モンテ・クリストは、モレルがうしろをふり向いたのに気づいた。彼は待った。
事実、青年は自分をつれて来た者たちが一言も口をきかずに、自分が彼らに金をやらなかったにもかかわらず、黙って立ち去って行くのを、驚いて見ていたのであった。すでに、小さなヨットに戻って行くボートのオールの水面をうつ音が聞こえているのである。
「は、はあ。君は水夫たちを探しているんだね」伯爵が言った。
「ええ。僕は連中に一文も払わなかったんです。それなのに行ってしまいました」
「そんなことは気にしなくていいんだよ、マクシミリヤン」モンテ・クリストは笑った。
「私の島への運賃船賃はいっさい無料という契約を船乗りたちと結んであるのだ。文明国で言う、予約契約というやつだよ」
モレルは驚いて伯爵の顔を見た。
「伯爵、あなたはもうパリにおられた頃のあなたではありませんね」
「どうしてかね」
「そうですよ、ここでは笑顔を見せておいでです」
にわかにモンテ・クリストの額が曇った。
「君が私を本来の私に立ち帰らせようと思うのももっともだ。君にまた会えたのが私にはうれしかったもんだからね。どんな幸せも束の間のものでしかないことを私は忘れていたのだよ」
「いいえ、違うんです、伯爵」モレルはふたたび友の両手を握りしめて叫んだ。「あなたは笑って下さい、喜んで下さい。そして、人生がつらいのはいたずらに苦しむからだということを、あなたのその平然たる態度で証明して下さい。おお、あなたは慈愛にあふれた方です、いい方です、偉大な方です。あなたがわざと楽しそうにしていらっしゃるのは、僕に勇気を与えるためなんです」
「それは違うよ、モレル」モンテ・クリストは言った。「私はほんとうにうれしかったのだ」
「では、あなたはこの僕のことをお忘れになっていたんですね。それは結構でした」
「どうしてかね」
「そうですとも。わかっているじゃありませんか、僕はあなたに、闘技場に入った古代の剣闘士が皇帝に言うように、『死に行く者が敬礼を捧げます』と申し上げます」
「悲しみはまだいやされていないのかね」モンテ・クリストが謎のような目つきをして訊ねた。
「ああ!」モレルは苦痛のにじむ目をして言った。「あなたは、僕の悲しみがいやされることもあるかもしれないなどと本気でお考えだったんですか」
「いいかね」伯爵は言った。「私の言うことをよくよく聞くのだ、いいね、マクシミリヤン。君は私を並の男とは思っていまい、意味のないうつろな言葉をまくしたてるお喋りだとは。私が君に、悲しみはいえたかと訊いたのは、人間の心を知り尽した男として訊ねたのだよ。いいかね、モレル。一緒に君の心の奥底に降りて行ってみよう、そして君の心を探ってみよう。まだ君の心は、蚊に刺されたライオンを飛び上がらせるように肉体を飛び上がらせる、あのこらえきれない狂暴な苦痛にさいなまれているのか。今でも、墓に入らねばいやされることのない焼けつくような渇《かわ》きを覚えているのか。哀惜の念を理想化するのあまり、死者を追い求めて生きた生命を生命の埓外《らちがい》に放り出す気でいるのか。それとも、単に勇気を失い尽した挙句の意気|阻喪《そそう》、光を放とうとしている希望をおし殺してしまう無力感なのか。涙を流すこともできなくさせる記憶の喪失なのか。おお、もしそうだとすれば、君がもう泣くことさえできず、自分の麻痺した心を死んだものと思っているなら、そして神の中にしか力を感ぜず、天に向ける目しか持たぬのなら、マクシミリヤン、言葉などもういらない。言葉などちゃちなもので、われわれの魂が含ませようとする意味などとても持ち得るものではないからね。マクシミリヤン、君の悲しみはいえたのだよ、もう嘆くのはよしたまえ」
「伯爵」静かだがしっかりした声でモレルは言った。「伯爵、僕の言葉を、その指が地を指さし、その目は天に向けられている者の言葉として聞いて下さい。僕は、友の腕に抱かれて死ぬためにあなたのおそばに参りました。たしかに、僕が愛している者たちはおります。僕は妹のジュリーを愛してますし、その夫のエマニュエルも愛しています。ですが、僕はたくましい腕に抱きかかえられたいのです。僕が息を引きとる瞬間に微笑みかけてほしいのです。妹は泣き崩れ気を失ってしまうでしょう。僕は妹の苦しむ姿を見ることになります。僕はもう苦しむのはたくさんです。エマニュエルは僕の手からピストルを奪い、家中響きわたるような声でわめくでしょう。伯爵、僕に約束して下さったあなたは人間以上の方です。あなたが死を知らぬ存在だったら、僕はあなたを神と呼びます。あなたなら、静かにやさしく、僕を死の門までつれて行って下されるのではないでしょうか」
「マクシミリヤン」伯爵が言った。「私にはまだ一つ疑問が残っているんだがね。君は自分の苦しみをならべたてるのに誇りを感ずるほどに、勇気をなくしてしまったのか」
「いいえ、ご覧下さい、僕の気持ちは淡々たるものです」モレルは手を伯爵にさし出しながら言った。「脈もふだんより早くも遅くもありません。いいえ、僕は辿りつくべき所に辿り着いたような気がしています。もう、これから先へは進みません。あなたは僕に、待てそして希望せよとおっしゃいました。ご自分のなさったことの意味がおわかりですか、あなたの知恵が誤ったものであることが。僕は一か月待ちました。つまり一か月の間僕は苦しんだのです! 僕は希望を持ちました(人間なんて、哀れでみじめなものですからね)。僕は希望を持ちました。何の? 僕にもわかりません。なにか未知の、馬鹿々々しい、気違いじみたことを。奇蹟をね……どんな? 神にしかわからないでしょう。希望という名のこの狂気を、われわれの理性の中にお混ぜになった神にしか。ええ、僕は待ちました。希望を持ちました。僕たちがこうして話をしている十五分の間に、あなたはそうとも知らずに、何回も僕の心を傷つけ、責めさいなんだのです。なぜなら、あなたの言葉の一つ一つが、僕にはもはやなんの希望もないことを証明していたのですから。おお、伯爵! 僕はどれほど甘美に死の胸に抱かれて憩えることでしょう!」
モレルがありったけの力を一気にこめて発したこの最後の言葉が、伯爵をおののかせた。
「ねえ伯爵」伯爵が黙っているのを見てモレルが続けた。「僕に求めた猶予期間の期限を、あなたは十月五日とお決めになりました……今日は十月五日ですよ……」
モレルは時計をとり出した。
「今九時です。僕はまだ三時間生きていられます」
「わかった!」モンテ・クリストは答えた。「こっちへ来たまえ」
モレルは、ただ機械的に伯爵の後に従った。マクシミリヤンがそれと気づかぬうちに、すでに二人は洞穴の中にいた。
彼は足もとにじゅうたんが敷かれているのに気づいた。ドアが開き、芳香が彼を包んだ。強烈な光が彼の目を射た。
モレルはためらって足をとめた。身体を包む甘美な雰囲気にふと抵抗を感じたのだ。
モンテ・クリストがそっと彼を引き寄せた。
「彼らの皇帝であり、彼らの財産をその死後わが物とするネロによって死を宣告され、花で飾られた食卓につき、ヘリオトロープとバラの香とともに死を吸いこんだいにしえのローマ人と同じように、残された三時間を使うのも悪くないんじゃないかな」伯爵はこう言った。
モレルは微笑を浮かべた。
「お心のままに」モレルは言った。「いずれにしろ死は死です。つまり、忘却、安息、生命の不在、したがって苦しみの不在ですから」
彼が腰をおろすと、モンテ・クリストはその正面に席をしめた。
二人は、すでに筆者が描いたあの華麗な食堂にいた。相変わらず花と果物をいっぱいに盛った籠を頭上にのせた大理石の彫像のあるあの食堂である。
モレルはうつろな目であたりを見た。おそらくなにも見てはいなかったであろう。
「男同士として話をしましょう」彼はじっと伯爵をみつめながら言った。
「話したまえ」
「伯爵、あなたはありとあらゆる人間の知識をそなえておられます。まるで、われわれの世界よりも、さらに進化したさらに聡明な世界から天降って来た方のようです」
「そう言えなくもなさそうだね、モレル」彼の顔を美しいものに見せるあの憂いをおびた微笑を見せて伯爵は言った。「私はね、苦しみという名の星から降って来たのだよ」
「僕はあなたの言うことなら、その意味を深く考えようともしないで、みな信じてしまいます。その証拠に、僕に生きよとおっしゃったから僕は生きながらえました。希望を持てとおっしゃったから、希望を持ちかけました。ですからね、伯爵、僕はね、あなたはすでに一度は死んだことがあるのではないか、とさえ言いたいんです。伯爵、死とはつらいものですか」
モンテ・クリストはたとえようもない慈愛の目でモレルを見ていた。
「うむ、たぶん非常につらいものだろうよ。もし君が、あくまでも生きようとする、このいつかは必ず死すべき肉体を乱暴にうち砕いたりしたらね。短刀の目に見えない無数の歯に咬ませて、君の肉体に悲鳴を上げさせたり、あるいはまた、ごくわずかな衝撃にも苦痛を感ずる脳髄を、とかく道をそれがちな愚かな弾丸などでぶち抜いたりすれば、君は苦しむだろうね。最後に苦しみもがくその中で、こんな高価な代償を払ってあがなう安息よりは、むしろ生きているほうがましだったと思いながら、ぶざまに命を捨てることになる」
「わかりました。死にも、生と同じで、苦しみと快楽の秘密があるんですね。要はその秘密を知ることだ」
「その通りだよ、マクシミリヤン。君は今じつに大切なことを言ったのだ。死は、われわれが死に接する態度の如何によって、乳母のようにやさしくねかしつけてくれる友にもなれば、荒々しく肉体から魂をもぎとる敵にもなる。いつの日にかこの世界がさらに一千年の歳月を閲《けみ》して、自然の持つ破壊力のすべてを人間が自由にできるようになり、それを人類全体の幸せのために役立てられたら、そして、君が今言ったように、死の秘密を人間が知ったら、死は、恋人の腕に抱かれて味わうあの眠りのように、甘美な悦楽に満ちたものとなるだろう」
「それで、伯爵、もしあなたが死にたいと思ったら、あなたにはそのような死に方ができますか」
「できる」
モレルは伯爵に手をさしのべた。
「今こそわかりました。なぜあなたが僕にここで会おうとおっしゃったのかが、この大海原のまっただ中の孤島の、この地下の宮殿、ファラオでさえ羨やむほどの墳墓で会おうとおっしゃった意味が。それはあなたが僕を愛していて下さるからなのですね。僕を深く愛していて下さり、今お話しになった死を僕に与えて下さるおつもりだからですね。苦痛もなく、ヴァランチーヌの名を呼びながら、あなたの手を握りしめながら僕の生命の灯が消えて行く死を」
「そうだ。君の推察の通りだよ、モレル」伯爵は無造作に言った。「私はそのつもりだ」
「ありがとうございます。明日はもう苦しまなくてもすむと思えば、僕の哀れな心も和みます」
「なにも思い残すことはないかね」モンテ・クリストは訊ねた。
「ありません」モレルは答えた。
「私のこともかね」深い思いをこめて伯爵が訊ねた。
モレルははっとした。その澄んだ目がにわかに曇り、ついでただならぬ光に輝いた。大粒の涙がふき出ると、その頬に銀のすじを残してこぼれ落ちた。
「おや! 君はこの世に思い残すものがあるのに、それでも死ぬのか」
「ああ、お願いです」弱々しい声でモレルは叫んだ。
「もうなにもおっしゃらないで下さい。これ以上僕の苦しみを長引かせないで下さい」
モレルの意志が弱まっていくと伯爵は思った。
この確信が、一度はシャトー・ディフの地下に埋めて来たあの恐ろしい疑惑を伯爵の心に蘇らせた。
彼は心に思った。
『俺は今、この男に幸福を返してやろうとしている。俺はこの返却を、ちょうど天秤の片方の皿に俺がのせた悪につり合わせるための重りだと思っている。今になって、もしそれが俺の誤りだとしたら、この男が、真の幸福に値するほど不幸ではないのだとしたら、ああ! 善を思い返すことによってしか悪を忘れることのできないこの俺はいったいどうなるのか』
「いいか、モレル。君の苦しみは大きい。それは私にもわかる。だがしかし君は神を信じている。君は、魂の救済までも失う気にはなれないはずだ」
モレルは悲しげな微笑を浮かべた。
「伯爵、ご承知のように、僕は心にもない詩的な言葉など吐ける男ではありません。が、僕の魂は、もはや僕のものではないのです」
「いいかね、モレル。私にはこの世に一人の身寄りもいない。私は君を自分の息子のように思い暮らしてきた。それで、息子の命を救うためなら、私は私の命でも犠牲にしよう。私の財産などなおさらのことだ」
「どういう意味ですか」
「それはね、モレル。君は莫大な財産がもたらしてくれるこの世の快楽をよく知らないからこの人生に別れを告げたいなどと思うのだという意味だ。モレル、私には一億近い財産がある。それを君に上げよう。これほどの財産があれば、なんでも君の望む通りになる。君には野心があるかね。それだったら、どんな人生でも君の前に道をひろげている。世界をゆさぶるのだ。世界の顔を変えてしまうのだ。狂気の沙汰に耽溺するもいい。必要とあれば悪人にもなれ。が、とにかく生きるのだ」
「伯爵、あなたは僕に約束なさったのですよ」モレルは冷やかに答えた。そして時計をとり出して、こうつけ加えた。「今十一時半です」
「モレル、私の目の前で、私の家で、君はそんなことを考えているのか」
「ではここから立ち去らせて下さい」暗い顔つきになってマクシミリヤンは言った。「さもないと、あなたが僕を愛して下さるのは僕のためではなくてご自分のためだと思うようになってしまいます」
こう言って彼は立ち上がった。
「わかった」このモレルの言葉に顔を輝かせて、モンテ・クリストは言った。「君はそれを望むのだ。君の意志は固い。そうだ君はほんとうに不幸なのだね。君は言ったね、君の悲しみをいやすことのできるものは奇蹟だけだと。坐りたまえ、モレル。そして待っていたまえ」
モレルは言われる通りにした。今度はモンテ・クリストが立ち上がり、入念に鍵がかけられていて、その鍵は金の鎖で吊して伯爵自身が持っている戸棚の中から、見事な彫りをほどこした銀の小箱をとり出した。その四隅は、彎曲した人の像をかたどっている。悲しみもだえるあの女像柱のような、天を渇仰する天使の象徴、女性の顔が描かれていた。
彼はその小箱をテーブルの上にのせた。
それからその箱を開けて、金の小さな箱をとり出し、かくしボタンを押すと、バネの力でその蓋が開いた。
この箱の中には、油脂状の粘体が入っていた。磨き上げた金と、箱を飾るサファイア、ルビー、エメラルドの色が映って、その色は見定めがたい。青、紅、金色に輝く玉虫色のように見えた。
伯爵はその物質を、金めっきした銀の匙《さじ》でごく少量すくった。そして、モレルの顔をじっとみつめながら、それをモレルにさし出した。
そのとき、はじめてそれが緑がかった色をしていることがわかった。
「これが君の求めたものだよ。これが、私が君に約束したものだ」
「まだ生きているうちに」その匙《さじ》をモンテ・クリストの手から受け取りながら青年は言った。「心の底からお礼を申し上げておきます」
伯爵は二本目のさじをとると、もう一度金の小箱の中身をすくった。
「何をなさるんですか」その手をおさえて、モレルは訊ねた。
「そうなんだよ、モレル」伯爵は微笑を浮かべて言うのだった。「神よお許し下さい。私もね、君と同じように生きることに疲れてしまったらしい。で、いい機会に恵まれたから……」
「やめて下さい!」青年は叫んだ。「おお、人を愛し、人から愛されてもいるあなたは、希望を信じておられるあなたは、僕がしようとすることをなさってはいけません。あなたの場合には、きっとそれは罪になります。気高くそして心の寛やかな友よ、さようなら。僕は、あなたが僕のためにして下さったことを、一つ残らずヴァランチーヌに話してやります」
こう言って、モレルは、ゆっくりと、左手を伯爵のほうにさしのべてその手を握りしめたほかは、なんのためらいもなく、モンテ・クリストによって与えられた神秘な物質をのみこんだ、いやゆっくりと味わった。
そして二人は黙った。アリが、音もなく、緊張して、煙草と水ぎせるを運んで来たが、コーヒーをテーブルにのせて姿を消した。
徐々に徐々に、石像の持つランプの灯が、その手の中で光を失っていき、香炉から立ちのぼる香《こう》のかおりもうすれていくようにモレルには思えた。
正面に腰をおろしているモンテ・クリストが、闇の奥から彼をみつめている。モレルには、もはや伯爵の目の光しか見えなかった。
激しい苦痛が青年をとらえた。水ぎせるが手から落ちるのを彼は感じた。周囲の物が、わずかずつ、形と色とを失っていった。視力のうすれた彼の目が、壁にいくつものドアやカーテンのようなものが開くのを見たように思った。
「伯爵、僕には死んでいくのが感じられます。ありがとうございました」
彼は、これを最後と、伯爵に手をさしのべようとした。しかし、すでに力を失った彼の手は、まただらりと身体のわきに垂れた。
このとき、モンテ・クリストが微笑したように彼は思った。その微笑は、なん回となく、この男の底知れぬ心の謎をのぞかせた、あの不思議なぞっとするような微笑ではなく、父親が理窟にあわないことを言う幼な子に向けるやさしい同情のこもった微笑であった。
それと同時に、伯爵の姿が急に大きくなっていくように彼の目には映った。ほとんど背丈が二倍ほどにもなったその姿が、赤い壁布の上に浮き出ている。黒髪をうしろになびかせ、最後の審判の日に悪人どもを威嚇する天使の一人のように傲然と立ちはだかっているように見えた。
モレルは、圧倒され、従順な心になって、ソファーの上に身を投げた。綿に包まれるような麻痺が血管のすみずみにまで滲みわたった。さまざまな思いが次々と、ちょうど新たな絵の配置が万華鏡をいろどるように、言わば彼の脳裡をいろどった。
ぐったりと横たわったまま喘いでいるモレルには、自分の体内で生きているものとしてはこの夢しか感じられなかった。人が死と呼ぶ未知の状態に先立つ、とりとめのない錯乱状態に大きく翼をひろげて入って行くように思った。
彼はもう一度伯爵に手をさしのべようとした。だが、今度は彼の手は動こうとさえしなかった。最後の別れの言葉を口にしようとしたが、彼の舌は、墓穴をふさぐ石のように、彼の喉を重くふさいでしまうのであった。
けだるくなった彼の目が、その意志に反して閉ざされた。だが、瞼のかげに人影が一つ動いている。闇に包みこまれているはずなのに、彼にはそれが誰であるかはっきり知ることができる。
それは、今ドアを開けた伯爵である。
たちまち、隣の部屋、いやすばらしい宮殿を照らしていたあふれんばかりの光が、今モレルがその甘美な臨終を迎えようとしている部屋になだれこんだ。
そのとき彼は見た。その部屋の戸口の所、二つの部屋の境の所に、目もさめるほど美しい女性が一人やって来るのを。
蒼い顔にかすかな笑みをたたえたその女性の姿は、復讐の天使をはらいのける慈悲の天使かとも思われた。
『もう天国の門が開かれたのだろうか』死を迎えようとしている彼は思った。『あの天使は、僕が失った人に似ている』
モンテ・クリストは、その若い女性に、モレルが横たわっているソファーを指で示した。
彼女は、手を組み、唇に微笑をたたえて彼のほうに歩み寄って来た。
『ヴァランチーヌ! ヴァランチーヌ!』魂の奥底からモレルは叫んだ。
だが、彼の口はただの一語も声を発しなかった。そうして、この内心の感動に彼の力のすべてが集約されたかのように、吐息を一つ洩らすと、彼は目を閉じた。
ヴァランチーヌは駈け寄った。
モレルの唇がまだ動いている。
「君の名を呼んでいるのだよ」伯爵が言った。「眠りの底から君を呼んでいるのだ、君が君の生涯をゆだねた男がね。死が君たちを引離そうとした。だが、幸い私がいた。私は死にうち勝ったのだ! ヴァランチーヌ、今後は、もう君たちはこの地上で別れることはないはずだ。君に会おうとして、彼は墓に飛びこんだのだからね。私がいなければ、君たちは二人とも死んでいたろう。私は君たちを互いの手に返してやることができた。神よ、私がこの二つの生命を救ったことを、み心にとどめられんことを!」
ヴァランチーヌはモンテ・クリストの手を掴み、抗しがたい歓喜にかられて、その手を唇に持って行った。
「おお、うんと私に感謝してほしい」伯爵は言った。「何回でも何回でも、倦むことなく、私が君を幸せにしたと繰り返してくれ! どれほどその確信が私にとって必要か、君にはわかるまい」
「ええ、そうですとも、その通りです。私は心の底からお礼を申し上げます」ヴァランチーヌは言った。「もし私のこの感謝の気持ちが心からのものではないなどとお疑いでしたら、そうです、エデにお訊きになってみて下さい。私の大好きなお姉様のあのエデにお訊ね下さいまし。私たちがフランスを発った日から、あなたのことを私に話してくれて、今日私のために輝いてくれているこの幸せな日を、辛抱強く待たせてくれたあのエデに」
「君はエデが好きかい」隠そうとしても隠しきれない感動の色を見せて、モンテ・クリストが訊ねた。
「ええ、もう魂の底の底から」
「それではね、ヴァランチーヌ」伯爵は言った。「君に一つお願いがあるのだ」
「私にですって、まあ! そんなことをさせていただけるんですの?」
「そう。君はエデを姉と言ってくれたね。あれを君のほんとうの姉にしてほしいのだよ、ヴァランチーヌ。私に恩を感じているなら、それをそっくりあれに返してやってほしい。モレルと君とで、あれを守ってやってくれないか。というのはね(伯爵の声は喉の奥で消え入りそうになった)というのは、これから先、あれはこの世でたった一人になってしまうのだ……」
「たった一人!」伯爵のうしろで声がした。「なぜですの」
モンテ・クリストはふり向いた。
エデが立っていた。蒼く、凍りついたような顔をして、極度の驚愕に襲われた様子で伯爵をみつめていた。
「それはね、エデ。明日お前は自由の身となるからだ」伯爵は答えた。「お前にふさわしい社会的な地位を、ふたたびお前がしめることになるからだよ。私の運命がお前の運命を暗いものにしてしまうことを私が望まないからだ。お前は王女だ。お父上の富と名前を、私はお前に返すのだ」
エデの顔から血の気が失せた。神に自らのために祈る乙女のように、すき透ったその両手をひろげ、涙にかすれる声で言った。
「では、殿様は私と別れようとおっしゃるのですね」
「エデ、お前はまだ若い、お前は美しい。私の名前さえ忘れて、幸せになるのだ」
「わかりました」エデは言った。「ご命令通りにいたします。お名前も忘れ、幸せになります」
エデは退出するために一歩しりぞいた。
「まあ!」モレルのぐったりした頭を自分の肩にのせたままヴァランチーヌが叫んだ。
「あんなに蒼い顔をしているのが見えませんの? あんなにつらい思いをしているのがおわかりになりませんの?」
エデが、聞く者の心を引き裂くような声で言った。
「ヴァランチーヌ、この方に私の心などおわかりになるはずはありません。この方は私のご主人様、私は奴隷なんですもの。この方は、なにもご覧になる必要はないの」
伯爵は、心の奥底に眠る琴線までも目覚めさせるこの声の調子に、慄然とした。彼の目は娘の視線にぶつかったが、その光をまともに受けとめることはできなかった。
「おお! やはりそうだったのか。エデ、お前は私と一緒にいても幸せだというのか」
「私はまだ若うございます」エデは静かに言った。「あなたのおかげでいつも楽しかったこの人生が好きです。死ぬのにはまだ未練が残ります」
「ということは、エデ、もし私がお前と別れれば……」
「私は生きてはおりません、殿様!」
「では、私を愛していてくれるのか」
「おお、ヴァランチーヌ! 私が愛しているかってお訊きになるのよ。あなたがマクシミリヤンを愛しているかどうか、この方に言ってあげて!」
伯爵は胸がひろがり、心臓がふくらむのを感じた。彼は両腕をひろげた。エデは一声叫ぶなり、その腕の中にとびこんだ。
「ええ、愛してます」彼女は言うのだった。「お父様を愛するように、お兄様を愛するように、そして夫を愛するように! 自分の命を、神様を愛するように、私はあなたを愛しているんです。だって、私にとっては、あなたはこの世の中で最も美しく、最も善良な、最も偉大な方なんですもの!」
「私の可愛い天使よ、お前の望む通りにしよう」伯爵は言った。「私を敵に立ち向かわせ、私を勝利者にして下さった神が、そうだ今こそはっきりわかる、神は、この勝利の果てに悔恨を残すことを望んではおられぬのだ。私は自分を罰しようとした、神は私を許そうとなさっておられる。エデ、私を愛しておくれ! お前の愛が、私が忘れねばならぬものを私に忘れさせてくれるであろうことを、誰が知ろう」
「それはどういう意味ですの」エデは訊ねた。
「私はね、お前のたった一言が、二十年もかかってやっと身につけることのできた私ののろまな知恵などより、はるかに明るく真理を照らし出すと言っているのだよ。エデ、私にはこの世にお前しかいない。お前のおかげで私はこの人の世にまた立ち帰れる。お前のおかげで私は苦しむことができる。お前のおかげで、私は幸せになれるのだ」
「ヴァランチーヌ、聞いた? 私のおかげで苦しむことができるんですって! この方のためなら命でもさし出すつもりのこの私のおかげで!」
伯爵はしばし冥想にふけった。
「私は真理をかい間見たのだろうか。おお、神よ。報酬か懲罰かは問う所ではありません。私はこの運命をお受けいたしましょう。おいで、エデ……」
伯爵はエデの腰に手を廻し、ヴァランチーヌの手を握りしめてから部屋を出て行った。
一時間ほどの時が流れた。その間、ヴァランチーヌは、声もなく、目を見据えて、喘ぎながらモレルのかたわらにいた。ついに彼女は、モレルの心臓が鼓動しはじめるのを感じた。かすかな息が口を開かせた。そして、生命が蘇るのを知らせるあのかすかな身のおののきが青年の全身を走った。
ついに彼の両目が見開かれた。だが一点を凝視して、まだ感覚はないようであった。次第に視力が戻って来た。はっきりと、たしかに物が見える視力が。視力とともに感情も戻った。感情とともに苦痛も。
「ああ!」絶望的な口調で彼は叫んだ。「僕はまだ生きている! 伯爵は僕をだましたのだ!」
彼の手がテーブルにのび、ナイフを掴んだ。
「ねえ」ヴァランチーヌがこの上なく美しい笑みをたたえて言った。「目を覚ましてちょうだい、そして、私のほうをご覧になって」
モレルは一声大声で叫んだ。とても信ずることができず、まるで天使の姿に目がくらんだかのように、頭が混乱して、がっくりと膝をついた……
翌日、モレルとヴァランチーヌは腕を組み、さしそめた朝日を浴びながら、海岸を散歩していた。ヴァランチーヌはモレルに、モンテ・クリストが彼女の部屋に姿を現わし、いっさいの秘密をとき明かし、犯罪を証明し、そして、彼女が死んだものと思わせることによって、奇蹟的に彼女を死から救った経緯を物語った。
洞窟の扉が開いていたので、二人は、洞窟から外へ出ていた。空には、夜明けの青い色の中に、まだ夜の星が輝いていた。
このとき、一群の岩のほの暗いかげに、一人の男がいて、近づいてもよいという合図を待っているのにモレルは気づいた。彼はヴァランチーヌにその男をさし示した。
「あ、ヤコポだわ。ヨットの船長よ」
こう言って彼女は手を上げて、彼を自分とマクシミリヤンのほうに呼び寄せた。
「なにか僕たちに話があるのか」モレルが訊ねた。
「伯爵様から、このお手紙をお渡しするように言われました」
「伯爵様から!」若い二人は同時につぶやいた。
「はい、どうぞお読み下さい」
モレルは封を切って読み始めた。
『親愛なるマクシミリヤン。
フェラッカ船〔オールと帆を兼用する細長い小舟〕が君のために錨を投じている。ヤコポが君をリヴォルノヘつれて行く。リヴォルノではノワルチエ氏が孫娘をお待ちだ。彼女が君を婚礼の祭壇へつれて行く前に、孫に祝いの言葉を言ってやりたいとおっしゃっている。この洞窟の中にあるもの、シャン=ゼリゼーの私の邸、それからル・トレポールの小さな邸は、エドモン・ダンテスからの、主人のモレル氏のご子息への結婚祝だ。ヴィルフォール嬢がその半分を受け取ってくれることを期待する。というのは、狂人となられたお父上と、義理の母上とともに去る九月に亡くなった弟御から同嬢に伝えられる財産を、すべてパリの貧民たちに与えてやってほしいからだ。
モレル、これから先、君の人生を見守ることになる天使に伝えてくれたまえ。サタンのように、一時は己れを神に等しい存在と思いこんだが、今はキリスト教徒としての謙虚な心から、至高の力と無限の知恵は神のみ手にのみあることをふたたび知った男のことをときには神に祈ってほしいとね。その祈りが、その男が心の底に秘め続けていく悔恨の念を、少しは和らげてくれるだろうから。
君に対してはこう言おう、私が君に対してなぜあのような態度をとったかといえば、それは、この世には幸福もなければ不幸もない、ある状態とある状態の比較があるだけだからだ。極端な不幸を経験した者のみが、至高の幸福を感じ得る能力を持つのだ。生きることがどれほど楽しいかを知るためには、マクシミリヤン、一度は死のうと思ったことがなければならない。
心から愛する子らよ、生きるのだ、そして、幸せになるのだ。そして神が人間に対して、未知の未来の秘密をおあかし下さる日までは、人間の英知はすべてつぎの二語に集約されていることを忘れてはならない、
待て、望みを捨てるな!
汝が友
エドモン・ダンテス
モンテ・クリスト伯爵』
父が狂人となったこと、弟が死んだこと、そのいずれをも知らなかったヴァランチーヌに、それを教えたこの手紙の朗読の間、彼女は顔色を失い、苦しい吐息がその胸から洩れた。声もなく流れるとはいえ、見る者の胸をえぐる涙が、その頬を伝った。彼女の幸せはあまりにも高価な代償によってあがなわれたものなのであった。
モレルは、不安にかられてあたりを見廻した。
「それにしても、伯爵はあんまり僕たちによくして下さりすぎる。ヴァランチーヌは僕のささやかな財産でがまんしてくれるだろうに。伯爵はどこにおいでだ、つれて行ってくれないか」
ヤコポは手を水平線の彼方に向けた。
「何ですって! どういうことなの、それは!」ヴァランチーヌが訊ねた。「伯爵様はどこなの、エデはどこにいるの」
「ご覧下さい」ヤコポは言った。
若い二人の目は、船乗りのさし示す水平線上にそそがれた。地中海の空と海とをわかつ濃紺の水平線上に、カモメの翼ほどの大きさの白い帆を、二人は認めた。
「行っておしまいになった!」モレルは叫んだ。「行ってしまわれたのだ! さようなら、友よ。さようなら、お父さん!」
「行っておしまいになったのね」ヴァランチーヌはつぶやいた。「さようなら、お友達、さようなら、お姉様!」
「はたして、いつかまたお会いできるんだろうか」涙をぬぐいながらモレルが言った。
「ねえ」ヴァランチーヌは言うのだった。「伯爵様がおっしゃったばかりじゃないの、人間の英知はすべてこの二つの言葉に集約されているって、
待て、望みを捨てるな!」(完)
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解説
アレクサンドル・デュマは一八〇二年七月二十四日、ヴィレール=コトレという、パリの東北約六十キロの町で生まれた。父は中将にまで昇進したナポレオン麾下の猛将であったが、ナポレオンに疎んぜられ、デュマが生まれた頃は、すでに退役してヴィレール=コトレで失意の日を送っていた。この父は、アレクサンドル・ド・ラ・パイユトリーというフランスの貴族が、一旗上げようとしてサント・ドミンゴ島に渡り、女奴隷のセセット・デュマに生ませた子である。母はヴィレール=コトレの宿屋の娘であった。デュマが四歳にもならぬうちに父将軍が死ぬ。ナポレオンは将軍に年金を与えなかったから、母親はタバコ屋を営みながら細ぼそと暮らしをたて、幼いデュマを育てた。初等教育はグレゴワール神父のもとで受けたが、勉強よりも鳥や獣を追いかけて森の中を駆け回るほうが好きな子であった。
十五歳のとき、メネッソンという公証人の事務所に走り使いとして入る。家の貯えもなくなり、金を稼がねばならなかったのだ。ついでクレピ・アン・ヴァロワ(ヴィレール=コトレの西約十五キロの町)の公証人のもとで書記として働く。しかし、法律の文章などにはまったく興味が持てなかった。たまたまある劇団がソワッソン(ヴィレール=コトレの東北約二十キロの町)にやって来てシェイクスピアの芝居を上演した。デュマはこれに魅了された。
一八二二年、デュマははじめてパリの土を踏んだ。パイエという年長の友と一頭の馬にかわるがわる乗り、道すがら狩りをしてその獲物を食糧としての旅であった。パリには友人のアドルフ・ド・ルーヴァンがいた。パリのコメディ=フランセーズでは、名優タルマの主演する芝居を上演していた。ルーヴァンはデュマをタルマに会わせてくれた。ルーヴァンはタルマに、デュマをデュマ将軍の息子であると紹介した。タルマは劇場の入場券を手配してくれて、芝居の幕が降りてから楽屋を訪れたデュマを、「コルネイユも弁護士の書記だったよ」と励ました。デュマは、近いうちにパリに出て劇作家になってみせると心に誓った。デュマは二十歳になっていた。
翌年、デュマはパリに出た。彼はフォワ将軍を訪ねて就職を頼んだ。将軍はいろいろ訊ねてみて、デュマがまったくなんの教育も身につけていないのに驚いた。これではどうにもならぬと思いつつも、将軍はデュマに、「とにかくアドレスを書いて行きたまえ」と言った。デュマがまず自分の名前から書き始めたとき、将軍は手を打って、
「やれやれ助かったぞ!」
「どうしてですか」と、いぶかるデュマに将軍は答えた。
「君は字がうまいじゃないか」
こうして、フォワ将軍の世話でデュマはオルレアン公(後のルイ・フィリップ)の秘書室に見習い書記として入ることになった。年俸千二百フランである。オルレアン公の秘書室に入って二カ月たらずで、デュマはその美しい筆跡のおかげで本採用となり、一八二四年一月に俸給も年干五百フランに昇給した。パリヘ出たデュマは、自分がいかに無知無学であるかを知った。しかし彼は絶望しなかった。猛然と勉強を開始したのである。とくにラテン語と地理学を勉強した。生理学、物理、化学も学んだ。また、秘書室の副主任ラサーニュにすすめられて読書を始めた。バイロン、ウォルター・スコット等々。朝の十時半から夕方五時までは秘書室に釘づけである。しかも、週に二、三回は夜の八時から十時までの時間も秘書室に戻っていなければならない。劇作家を志していたから、修業の手段として夜は芝居を見るとなると、皆が眠っている時しか読書に使える時間はなかった。
やがて母親もパリに出て来た。当時デュマはマリー=カトリーヌ=ラベーという裁縫女と同棲していた。七月には息子も生まれていた。後の『椿姫』の作者小デュマである。母親と愛人と息子の三人を住まわせ養わねばならない。これは一日わずか四フラン二十五サンチームしか稼げぬ男にとっては容易なことではなかった。母親がパリヘ来て一年半ほどたつと、母親が持っていた百ルイ(二千フラン)はもう底をつきかけていた。俸給以外の収入を得なければ家計の収支はつぐなえない。
一八二五年九月二十二日、『狩と恋』というヴォートヴィル(諷刺的な通俗喜劇)が上演された。これはピエール=ジョゼフ・ルッソーとルーヴァンとデュマの共作である。稿料は三人で十二フラン、それに一フランの席を六席であった。したがってデュマは毎晩六フランずつ貰えるわけである。これをかたにポルシェという男が五十フラン貸してくれた。公演は成功で、ポルシェはさらに三百フラン貸してくれた。翌年の十一月には、ラサーニュとその友人のアルフォンス・ヴュルピヤンとの合作のヴォートヴィル『婚礼と埋葬』が上演され、これが一回につき十フランの金をもたらし(四十回上演された)、そのおかげでデュマはその年の冬を過ごすことができたという。
一八二七年、イギリスの劇団がオデオン座でシェイクスピアを上演した。それまでのポルシェからの借金はほぼ返していたので、デュマはまた二百フラン借り、家計に百五十フラン入れた残りの五十フランをこの観劇にあてた。最初は『ハムレット』だった。デュマがすでに暗記していた芝居である。彼は気も転倒せんばかりに感激した。彼は生まれてはじめて、芝居というものについての正確な概念を会得したのである。『ロミオとジュリエット』『オセロウ』等々が、眩惑された彼の眼の前を流れていった。
デュマは、スウェーデンの女王クリスチーヌのその寵臣モナルデスキー殺害事件を主題とする『クリスチーヌ』を書いた。パリに出た直後に知り合ったノディエの力添えで、コメディ=フランセーズのオーディションにかけられ、受理された。コメディ=フランセーズで作品が上演されるのは、劇作家の夢である。デュマは有頂天になったが、『クリスチーヌ』はコメディ=フランセーズでは上演されなかった。デュマが、主役に予定されていた有力女優マルス嬢の機嫌を損ねたためとも、また、ほかに同じ主題の脚本があり、それを優先させるべきだとの意見が劇場内にあったためとも言われている。
いつまでも『クリスチーヌ』の上演が本決まりにならず日を過ごすうちに、デュマは『アンリ三世とその宮廷』の構想を得た。アンリ・ド・ギーズ公の夫人を誘惑したかどでギーズ公の臣下に暗殺された、アンリ三世の廷臣サン=メグランの事件と、モンソロー伯爵夫人と青年ビュッシーとの恋がもたらした事件という二つの史実をもとにした芝居である。この作品は一八二八年九月、コメディ=フランセーズのオーディションで、満場一致、採用と決まった。しかしデュマは上司から、役所と文学の二者択一を迫られる。デュマに劇作をやめる気など毛頭ない。役所の給料は差し止めとなった。デュマは銀行から三千フラン借りた。一八二八年十月から彼は役所へは出勤しなくなった。
年が明け、デュマはせっせと『アンリ三世とその宮廷』の舞台稽古を見に通った。いよいよ初演というその三日前、重なる心労から母親が脳溢血で倒れた。死は免れたものの半身不随となった。息子が劇壇にデビューしたその初演の舞台を、母親は見に行くことができなかったわけである。一八二九年二月十一日、『アンリ三世とその宮廷』がコメディ=フランセーズではじめて上演された。大成功であった。観客の中にヴィクトル・ユゴーとアルフレッド・ド・ヴィニーもいた。無名だったデュマが一夜にして名声を博したのである。原稿は直ちに六千フランで売れた。
一八三〇年七月、七月革命の結果ブルボン王朝は崩壊した。オルレアン公は国王ルイ=フィリップとなった。デュマは革命達成のために働いた。二連銃を手にバリケードを築き、パリで欠乏した火薬をソワッソンに乗りこんで分捕って来たりもした。
この頃、デュマはベル・クレルサメールという愛人に夢中になっていた。すでにメラニー・ヴァルドールという愛人がいたが、もともとデュマは一人の女に貞節を尽すというような男ではない。一八三一年にはベル・クレルサメールとの間に女の子マリー=アレクサンドル・デュマが生まれている。この年の二月、デュマは司書の職を辞した。
五月三日、『アントニー』がポルト=サン=マルタン座で初演された。ここには後にデュマの、ついでヴィニーの愛人となった名女優マリー・ドルヴァルがいた。愛人との密会の現場に愛人の夫に踏みこまれた男が愛人を殺し、その夫に向って、「この女が抵抗したので殺した」と言って、罪を背負って死刑台に登り、こうして愛人の名誉を救い、己が罪もつぐなう、という構想の芝居である。『アントニー』は熱狂的な大成功をおさめ、百回以上もの公演を重ねた。十月には『諸侯のもとでのシャルル七世』がオデオン座で上演された。デュマは「大成功」と書いているが、観客の反応は冷たかった。この作品は、ラシーヌの『アンドロマック』、ゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』、ミュッセの『火中の栗』の真似であった。またスコットの作品から借用した箇所もある。このことを非難されても、デュマはそんなことは意に介さぬ男であった。後にデュマ曰く、「天才は盗むのではない、征服するのだ」
十二月には同じ劇場で『リチャード・ダーリントン』が上演された。ほかの二人との三人でこの芝居は書かれた。公演は成功し、芝居が終ったとき、そのあまりの恐ろしさに顔を真青にしていたミュッセは、「どうしたのか」と訊ねるデュマに、「僕は息がつまりそうだ」と答えたという。
一八三二年二月に上演された『テレサ』の主演女優にイダ・フェリエという無名の女優を、『アントニー』を好演したボカージュが推した。デュマはこれを受け入れ、夜食にイダを誘い、その夜のうちに愛人にしてしまった。ベル・クレルサメールが地方巡業に出ていて、パリを留守にしている間の出来事であった。デュマは後にこのイダを妻とした(その後離婚)。
この年のカーニヴァルには、デュマの家で盛大な仮装舞踏会が開かれた。当時最も有名だった画家で友人でもあったドラクロワ、ブーランジェらが壁面に画布を張らせて、即興的に壁画を描いてくれた。このどんな富豪高官といえども己がものとすることのできない豪華な舞台装置の中に、当時の代表的な役者、女優、作家、芸術家たちが、それぞれに趣向をこらした仮装に身を包んで登場した。まだ三十歳になっていなかったデュマは、ユゴー、ヴィニーとともに、ロマン派劇を代表する劇作家、人気の点ではむしろ二人をしのぐ地位に到達してしまっていたのである。詩句の美しき、作品の文学的価値からすれば、前二者に遠く及ばぬであろうが、観客を楽しませる面白い芝居を書くという点では、デュマは天才であった。
一八三二年五月、『ネールの塔』が上演された。これはフレデリック・ガイヤルデという青年が書いたものを、ポルト=サン=マルタン座の支配人アレルの依頼でデュマが書き直したものである。メロドラマの典型ともいうべきこの芝居は、すさまじいまでの成功を収めた。
この年の七月、デュマはスイスヘ向けて出発した。共和主義者として密告され、身が危険となったのでほとぼりをさますためであったとも言われている。翌年の一八三三年からこの『旅の印象』全五巻を発表し始めた。最初の二巻が三三年と三四年に、後の三巻は一八三七年に出版されている。三三年の暮れから三四年にかけて、『アンジェール』ほかいくつかの、デュマ一人の作、あるいは共作の芝居が上演されている。
一八三四年から三六年にかけて、デュマは二回にわたって南仏を旅したが、この旅でデュマが歩き回った地方は、『モンテ・クリスト伯』の舞台となっている。
一八三六年には、長篇シリーズ『フランス年代記』の第一作なども発表されているが、この年を代表するものは、八月にヴァリエテ座で上演された『キーン』である。主演にフレデリック・ルメートルを得て、この作品は大成功を収めた。翌一八三七年、デュマはレジヨン・ドヌール勲章を授与されている。
一八三八年、二つの事件が起きている。一つは母の死であり、もう一つはオーギュスト・マケと知り合ったことである。デュマの名を不朽のものとした、後の『三銃士』『モンテ・クリスト伯』の共作者オーギュスト・マケをデュマに紹介したのはジェラール・ド・ネルヴァルであった。
一八三九年四月、コメディ=フランセーズで『ベリル嬢』が上演された。この作品は成功し、一八八四年までに四百九回上演されている。
しかし、一八四〇年頃から、デュマの著作目録は、にわかに小説がその比重を増すようになる。これまでのデュマはまぎれもなく劇作家であるが、これ以後のデュマは、小説家として規定したほうが自然である。
デュマは一八二六年から一八七〇年の間に、九十一篇の戯曲、二百篇の小説、十巻の回想録、十九巻の旅行記を書いた。
小説のうち主なものを記せば、『ポール船長』(一八三八年)、一八四四年から一八四七年にかけて発表された『三銃士』『二十年後』『ブラジュロンヌ子爵』(以上はダルタニャンを主人公とする三部作)、『モンテ・クリスト伯』(一八四四年から一八四五年)、『王妃マルゴ』(一八四五年)、『赤い館の騎士』(一八四六年)、『モンソローの奥方』(一八四六年)、『黒いチューリップ』(一八五〇年)等々である。
『モンテ・クリスト伯』は、はじめ日刊紙「デバ」に連載され、パリ中を熱狂させた。「デバ」の連載が終らぬうちに単行本の出版が始まる。最初出た単行本は全十八巻で、以後さまざまな版が出た。一年間で二十万フランもの収入をデュマにもたらした。デュマは「モンテ・クリスト荘」という、とてつもなくぜいたくな邸宅を建てた。その一生で三十四人の愛人を作ったというデュマは、もともとたいへんな浪費家で、戯曲や小説で莫大な金を稼ぎながら稼ぐ以上に使ったが、それにしてもこの「モンテ・クリスト荘」の場合はひどかった。建築費は四十万フランに達したという。デュマは破産し、債権者たちに追われ、一八五一年にはベルギーのブリュッセルに逃れねばならなかった。『回想録』はここで書かれた。三年後フランスに戻ったが、もはや大衆は彼から離れていた。以後はほとんど何も書いていない。
一八七〇年十二月五日、ディエップの近くのピュイでデュマはその壮大な生涯を閉じた。貧窮のうちに、といってよい死であった。(泉田武二)