モンテ・クリスト伯(四)
アレクサンドル・デュマ/泉田武二訳
目 次
七十  舞踏会
七十一 パンと塩
七十二 サン=メラン侯爵夫人
七十三 約束
七十四 ヴィルフォール家の墓
七十五 要録
七十六 アンドレア地歩を進める
七十七 エデ
七十八 ヤニナからの通信によれば
七十九 レモネード
八十  告発
八十一 パン屋の隠居の部屋
八十二 押込み
八十三 神の御手《みて》
八十四 ボーシャン
八十五 旅
八十六 審判
八十七 決闘の申し込み
八十八 侮辱
八十九 夜
九十  決闘
九十一 母と子
九十二 自殺
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七十 舞踏会
時が流れ、モルセールの舞踏会が行なわれるべき土曜がめぐってきたときには、七月も暑い盛りに入っていた。
夜の十時であった。一日中すさまじい雷鳴を轟かせていた雷の名残りの雲が青い色合いを覆いつつ流れている。金の星をまきちらした空に、伯爵邸の庭の高い木々が、色濃く浮かび出ていた。
一階の各広間からは、楽の音《ね》とワルツやギャロップの渦巻く音が聞こえていた。鎧戸の隙間から鮮烈な光の帯が流れ出ていた。
このとき、庭には十人ほどの召使いがいるだけであった。この邸の主婦が、次第に晴れあがる空に安心して、夜食の支度をするよう命じたところだったのである。
その時まで、食堂にするか、芝生の上の長いテントの中にするか迷っていたのだが、満天に星をちりばめたその青く美しい空が、テントと芝生に軍配を上げたのである。
庭の小径には、イタリアでやるように、色とりどりのランタンがともされ、夜食の食卓には、いささかでも食卓の豪華さを解する国々でなされるように、ろうそくと花とが飾られた。この飾りつけは、その完全なものを見ようとすると、あらゆる豪華さのうち、もっともお目にかかりにくいものである。
最後の注意を召使いたちに与えてからモルセール伯爵夫人がサロンに入ろうとしたときには、伯爵の高い地位よりは、むしろ夫人の見事なもてなしぶりに惹かれて訪れて来た客たちで、サロンがいっぱいになり始めているところだった。メルセデスのいい趣味が、この舞踏会に、必ずや人に語り、また時に応じて真似ることもできる趣向をもたらすであろうことを、皆あらかじめ信じていたからである。
ダングラール夫人は、すでに述べた事件のためひどい不安を感じていたので、その日の昼間、夫人の馬車がヴィルフォールの馬車とすれ違ったときには、まだモルセール家へ行こうか行くまいかと迷っていた。ヴィルフォールが夫人に合図をして、二人の馬車が接近した。そして窓ごしに、検事が夫人に訊ねた。
「モルセールのお宅へはおいでになるでしょうね」
「いいえ、気分がすぐれないものですから」ダングラール夫人はこう答えたのだった。
「それはいけません」ヴィルフォールは意味深長な目つきをした。「おいでにならねばいけない」
「そうお思いになりまして?」
「そう思います」
「それでは、まいります」こうして二台の馬車はそれぞれ別の方角へまた走り始めたのであった。だから、それでなくても美しいのに、まばゆいばかりに身を飾って、ダングラール夫人はやって来た。夫人は、ちょうどメルセデスがサロンに入ったとき、別のドアからサロンに入った。
伯爵夫人はアルベールをダングラール夫人の所へやった。アルベールは夫人の前に行き、その身なりの美しさをほめ、夫人の好きな場所へ案内するためにその腕をとった。
アルベールはあたりを見廻した。
「娘を探しておいでなの?」微笑みながら男爵夫人が言った。
「じつはそうなんです。おつれにならないなんてむごいまねをなさったのではないでしょうね」
「ご安心なさい。ヴィルフォールさんのお嬢さんにお会いしたので、腕を組んだの。ほら、二人とも白いドレスを着てこちらへ来るわ、一人は椿の花束を持ち、もう一人は勿忘草《わすれなぐさ》を持って。ところで」
「何を探しておられるんですか」アルベールが笑いながら訊ねた。
「今夜はモンテ・クリスト伯爵はおいでにならないの?」
「十七!」
「それはどういう意味」
「いいぞっ、ていう意味です。あなたが僕にこの質問をした十七人目の人だ、という意味なんです。伯爵の人気は上々ですね……伯爵にこのことを言ってやりましょう」
「あなた、皆さんにも私と同じような返事の仕方をなさったの」
「あ、そうでした、まだ返事をしませんでしたね。ご安心下さい、あの社交界の人気者は来てくれます。僕たちはその特権を持ってるんですよ」
「昨日オペラ座へいらした?」
「いいえ」
「あの方がおいでになってたわ」
「ああ、そうですか。で、あの変わった人は、またなにか変わったことをやりましたか」
「あの人が姿を現わすときは必ずそうじゃありませんか。エルスレルが『びっこの悪魔』を踊ったのよ。あのギリシアのお姫様は恍惚としていたわ。カチュチャ〔スペインの舞踊〕が終ったら、伯爵は花束にすばらしい指輪をつけて、あのきれいな踊り子に投げたの。三幕目には、その指輪をつけて出て来て、伯爵に敬意を表したわ。ところで、あのギリシアのお姫様はおいでになるの?」
「いえ、それは諦めて下さい。伯爵の家でのあの人の地位は、それほどはっきりしたものじゃないんです」
「さ、もう私はいいから、ヴィルフォール夫人にご挨拶しにいらっしゃい。あなたとお話がしたくて、うずうずなさってるわ」
アルベールはダングラール夫人に一礼して、ヴィルフォール夫人の所へ行った。彼が近づくと夫人が口を開きかけたが、アルベールはそれをおしとどめて、
「賭けましょうか、何をおっしゃろうとしているか、僕にはわかってますよ」
「まあ!」
「もし当ったら、ちゃんとそうだと言って下さいますね」
「ええ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「モンテ・クリスト伯爵が来ているか、あるいは来るか、と僕に訊こうとなさったんでしょう」
「そうじゃないの。私が今気にしてるのはあの方のことじゃありません。フランツさんからお便りがあったかどうか伺おうと思ったのよ」
「今日受け取りました」
「何ておっしゃってました?」
「手紙と同時に発つって」
「そう、よかったわ。では、伯爵様は?」
「来ます、ご安心下さい」
「あの方が、モンテ・クリストというのとは別の名前をお持ちなのをご存じ?」
「いいえ、知りませんでした」
「モンテ・クリストというのは島の名前で、別に苗字があるのよ」
「そんな名前、あの人から聞いたことがありません」
「それじゃ、私のほうが少し先へ行ってるわけね。ザッコーネというの」
「かも知れません」
「マルタの方よ」
「それも、そうかも知れませんね」
「船造りの子よ」
「ふうん。でもなぜそれを奥さんは吹聴《ふいちょう》なさらないんですか、話題をさらってしまうでしょうに」
「インドで軍隊に入って、テッサリアで銀山を採掘しているの。そしてパリに来たのはオートゥイユに温泉宿を作るため」
「そいつはいいや、大ニュースだ。ほかの人に言ってもいいですか」
「ええ、でも少しずつ、一つずつよ、私から聞いたとは言わないで」
「どうしてですか」
「これはね、ひそかにあばかれた秘密なの」
「誰がやったんですか」
「警察」
「じゃ、この情報の出所は……」
「昨夜、警視総監の所。あんなに豪勢なふるまいを見て、パリ中が大騒ぎになったわね、おわかりでしょうけど、それで警察が捜査したのよ」
「ふうん。あの人が金持ちすぎるからって、浮浪者みたいに逮捕したりしたら、それこそとんでもない話だ」
「そうなのよ、捜査の結果がこんなによくなかったら、きっとそうなったかもしれなくてよ」
「気の毒に。伯爵はそんな危ない目にあったことを知ってるんでしょうか」
「そうは思わないわ」
「それじゃ、教えてあげれば親切だな。来たら必ず教えてあげよう」
このとき、目の生き生きとした、黒髪で、つやつやした口ひげをたくわえた美青年が、ヴィルフォール夫人に深々と頭を下げた。アルベールは手をさしのべた。
「奥さん」アルベールが言った。「マクシミリヤン・モレル大尉をご紹介します。アルジェリア騎兵大尉、わが国の、よき、そしてとくに勇敢な士官の一人です」
「オートゥイユのモンテ・クリスト伯爵様のお邸ですでにお会いしましたわ」夫人は、冷たい態度をあからさまに見せて横を向いてしまった。
この答、とくにそれが語られた語調が、表れたモレルの心を締めつけた。しかし、それを償うものがあった。ふり返ると、ドアの隅に美しい白い顔が見えたのである。大きく見開かれた、あからさまには表情を見せていない目が、じっと彼にそそがれ、勿忘草の花束がそっと唇にあてられた。
この挨拶の意味を十二分に解したモレルは、同じような目つきのまま、自分のハンカチを口もとに近づけた。そうして、この二つの生ける石像は、大理石の表情の下に、激しく胸を高鳴らせたまま、互いに部屋の端と端に離れ、一瞬このもの言わぬ熟視のうちに我を忘れ、いやむしろ他のすべての人々を忘れていた。
二人は、自分たちがいっさいのものを忘却してしまっていることを誰にも気づかれずに、いつまでも互いのことのみに没入していたはずなのだが、モンテ・クリスト伯爵が入って来た。
すでに言ったように、伯爵は、わざとそうするのか天性のものか、不思議な魅力をそなえていて、彼が現われる所、必ず人目をひくのであった。それは、なるほど仕立ての点では非の打ち所がないが、ごくあっさりしたなんの飾りもない黒の燕尾服のせいでもなければ、縫い取り一つない白のチョッキのせいでもない。優美な足を包むズボンのせいでもなかった。すべての人の目を彼に注がせてしまうのは、彼のつやのない顔色であり、波うつ黒髪であり、おだやかで端正な顔立ち、深く憂いをおびたその目の色、ともすれば激しい侮蔑の色を見せる、その繊細な口もとの線であった。
伯爵より美しい男はいるかも知れない。だが、彼以上に意味のある男はたしかに存在しなかった。伯爵の中にあるものすべてが、なにかしらの意味を持ち、その価値を持っていた。つねに有意義なことを考える習慣が、彼の顔立ちに、彼の顔の表情に、彼のどんなつまらないしぐさにも、他に例を見ない柔軟さと確固たるものを与えていたのだ。
それに、わがパリの社交界というのはきわめて奇妙な存在で、こうしたことのかげに、莫大な財産に色どられた不思議な物語がひそんでいなかったならば、このようなことには目を向けることさえしなかったにちがいないのだ。
それはともかく、伯爵は、人々の視線を浴び、軽く会釈を交わしながら、モルセール夫人の所まで来た。夫人は花で飾られた暖炉の前に立っていたが、ドアの正面にある鏡に映った、伯爵の入って来る姿をすでに見ていたから、彼を迎える心になっていた。
夫人は、伯爵が夫人の前で身をかがめたとき、笑みを浮かべて伯爵のほうに振り向いた。
おそらく夫人は伯爵のほうから話しかけるものと思っていたのだろう。そして、伯爵のほうでも、夫人のほうから言葉をかけるものと思っていた。だがどちらも黙ったままであった。平凡な挨拶など二人には意味のないものに思えたのだ。だから、互いに会釈を交わすと、モンテ・クリストは、両手をひろげてやって来たアルベールのほうへ行ってしまった。
「母にお会いになりましたか」
「今ご挨拶して来ました。お父様をお見かけしませんが」
「ほら、あそこで政治談義をやってますよ、あの名士連の小さいグループで」
「なるほど、あそこの人たちは名士の方たちですか。言われなければ、そうとは気づかなかったでしょう。どういう人たちです。名士といってもいろいろありますからね」
「最初がまず学者です。あの背の高い痩せた人。あの人はローマの野原で、椎骨《ついこつ》が一つ多いトカゲを発見したんです。帰って来て学士院でこの発見を報告しました。長いこと認められなかったのですが、あの背の高い痩せた人が勝ちました。その椎骨は学会で大きな反響をよびました。あの人はレジヨン・ドヌールの勲五等しか持ってなかったんですが、勲四等を授けられました」
「それは喜こばしい。そういう勲章の与え方はいいと思いますね。それでは、もう一つ椎骨をみつけると、勲三等というわけですか」
「かも知れませんね」
「それからあの、何を考えたのか、へんてこな緑の縫い取りの青い服を着ている人、あれはどういう人なんです」
「あの人があの服を着る気になったわけじゃないんです。共和国がああいう気になったんですよ。ご承知の通り、共和国はいささか芸術家なもんで、アカデミー会員に制服を着せようと思って、ダヴィッドに服のデザインを頼んだんです」
「ああ、なるほどね。とすると、あの人はアカデミー会員なんですか」
「一週間前に、博学の士の集団の仲間入りをしました」
「あの人の業績は? 専門は何なんです?」
「あの人の専門ですか、たしか、ウサギの頭にピンを刺したり、牝鶏にアカネを食べさせたり、コルセットで犬の脊椎を抑えつけてみたりしてるんだと思います」
「それで科学アカデミーに入ったんですか」
「いや、アカデミー・フランセーズです」
「いったい、それじゃアカデミー・フランセーズは何をするんですか」
「それは、どうやら……」
「あの人の実験が科学に大きな進歩をもたらした、というわけですね、たぶん」
「いえ、とてもいい文章を書くらしいんです」
「それじゃ、頭にピンを刺されるウサギや、骨を赤く染められる牝鶏や、脊椎を抑えつけられる犬たちの自尊心は大いに満足させられるでしょうね」
アルベールは笑いだした。
「それから、もう一人の人は?」伯爵が訊いた。
「もう一人?」
「ええ、三人目」
「ああ、淡いブルーの服の人ですか?」
「そう」
「あれは父の同僚で、先頃貴族院議員が制服を着ることに、最も激しく反対した人です。この件では壇上で大成功を収めました。自由主義的な新聞とは折合いが悪かったんですが、宮廷の意志に毅然として反対したので、和解できた人です。大使に任命されると噂されてます」
「どういう資格で貴族院に入ったんですか」
「喜歌劇を二つか三つ作ったのと、『世紀』に四つか五つの論説を書いたのと、それに五、六年続けて内閣に賛成投票したからです」
「すばらしいですね、子爵」モンテ・クリストは笑った。「あなたはおもしろい案内人ですよ。さて、一つお願いがあるんですがね」
「何でしょう」
「あの方たちには紹介しないで下さい。そして、もし向こうが紹介してくれとあなたに言ったら、私に知らせてほしいんです」
このとき、伯爵は腕に誰かが手をかけたのを感じた。彼は振り向いた。それはダングラールであった。
「ああ、男爵、あなたでしたか」
「なんだって私を男爵などとお呼びになるんです。私が称号になど執着していないことはよくご存じじゃありませんか。子爵、あなたとは違いますよ。あなたは、執着している、そうでしょう」
「もちろんです」アルベールが答えた。「もし僕が子爵じゃなかったら、なんでもなくなってしまいますからね。その点、あなたのほうは、男爵の称号なんか犠牲にしても、相変わらず百万長者ですから」
「七月王政の下では、それが一番立派な称号のようですな」ダングラールが言った。
「残念ながら」モンテ・クリストが言う。「男爵とか貴族院議員とかアカデミー会員のように、百万長者は終身というわけにはいかないんでね。フランクフルトの百万長者フランクとプルマンがよい例です」
「ほんとうですか」ダングラールが蒼くなった。
「そうなんです、今夜使いの者がそのしらせを持って来ましてね。あの人たちの所に百万ほど渡してあったのですが、事前に情報を掴んだので一月ほど前に返済を求めました」
「ああ、たいへんなことになった。あの人たちは私から二十万フラン引き出してるんです」
「それじゃお伝えしときますが、あの人たちの署名は五パーセントの価値しかありませんよ」
「そうですな。だが、私は知らされるのが遅すぎました。私はあの人たちの署名に敬意を表したんです」
「なるほど。これでまた二十万フラン……」
「しーっ、それを言わんで下さい」それからモンテ・クリストに近づいて、「とくにカヴァルカンティのご子息の前では」とつけ加えた。銀行家はこう言いながら、振り返って、その青年のほうに笑顔を向けた。
アルベールはすでに伯爵から離れて、母親と話をしに行っていたし、ダングラールはアンドレアに挨拶するために伯爵から離れたので、モンテ・クリストは一時、一人きりになった。
そうするうちにも暑さがひどくなった。
召使いたちは果物やアイスクリームをのせた盆を持って、各サロンを廻っていた。
モンテ・クリストはハンカチで、汗にぬれた顔をぬぐった。しかし、彼は盆が前を通るときには身を退いて、涼しさを呼ぶものをいっさい口にしようとはしなかった。
モルセール夫人はモンテ・クリストから目を離さなかった。夫人は盆が手もふれられずに彼の前を通りすぎるのを見ていた。彼が盆から身を遠ざけるその動きをも、夫人は見ていた。
「アルベール、気がついた?」
「何にですか、お母さん」
「伯爵がモルセール家の食物はいっさい受けつけようとなさらないこと」
「ええ、でも僕の所の昼食は食べてくれましたよ。あの昼食会で社交界にデビューしたんですからね」
「あなたの所とモルセール伯爵の家とはちがいます」メルセデスはつぶやいた。「ここへいらしてからずっと、私はあの方を見ているの」
「それで?」
「まだ、なに一つ召し上がらないわ」
「伯爵はすごく少食なんですよ」
メルセデスは悲しそうに笑った。
「あの方のそばに行って、今度お盆が通ったら、おすすめしてちょうだい」
「どうしてです、お母さん」
「アルベール、そうしてほしいの」
アルベールは母の手に接吻して、伯爵のそばに立った。
前のものと同じように盛りつけた別の盆が来た。メルセデスは、アルベールが伯爵にすすめ、アイスクリームを一つとって、それを伯爵にさし出すのを見た。しかし、伯爵は頑固にそれを拒んだ。
アルベールは母親のそばに戻って来た。伯爵夫人の顔はまっ青だった。
「ほらね、お断りになったでしょう?」
「ええ、でもどうしてそんなことを気になさるんですか」
「アルベール、あなたにもわかってるでしょうけど、女っていうものは不思議なのよ。私の家であの方が、なにか召し上がって下さったら、とてもうれしいの、たとえザクロ一つでも。きっとフランスの習慣にはお慣れになっていないのね、なにか好き嫌いがおありなんじゃないかしら」
「そんなことはありませんよ。イタリアではなんでも食べてるのを僕は見たんですから。今夜は身体の調子が悪いんですよ、きっと」
「それに、いつも暑い所に住んでおいでだから、ほかの人たちより暑さを苦になさらないのかもしれないわね」
「そうは思わないな。だって、息がつまりそうだって言ってたもの。窓の戸を開けたのなら、どうして鎧戸も開けないのかって言ってましたからね」
「ほんとうね、あんなふうになにも召し上がらないのが、そう心に決めてのことかどうかわかるかもしれないわね」
こう言ってメルセデスはサロンを出て行った。
間もなく、鎧戸が開けられ、窓を飾っているジャスミンや仙人草ごしに、ランタンのともされた庭全体と、テントの下に用意された夜食を見ることができた。
踊っていた男女も、賭けをしていた者も話しこんでいた者も、一様に歓声をあげた。飢えた肺という肺が、どっと入って来た大気を有頂天になって吸いこんだ。
それと同時にメルセデスが帰って来た。出て行ったときよりもさらに顔色が青かったが、なにか事がある場合にはいつも彼女の顔に見られる、あの毅然とした表情を見せていた。彼女は、まっすぐに、夫が中心になっている人の輪の所へ行き、
「みなさんを縛りつけておいてはいけませんわ。勝負をなさっていないんでしたら、ここで息をつまらせているより、庭の空気をお吸いになりたいでしょうから」
「ああ、奥さん」ひどく愛想がよく、一八〇九年に『いざ行かん、シリアへ』を歌った老将軍が、「私たちだけでは庭へは参りませんぞ」
「わかりましたわ、それでは私が先に参ります」
こう言って、モンテ・クリストのほうを向くと、
「伯爵様、腕をお貸し下さいませんこと」
このなんでもない言葉に、伯爵はよろめきそうになった。それから一瞬彼は、メルセデスの顔をみつめた。この一瞬は、電光の仄めく間ぐらいのものであったが、伯爵夫人にはそれが一世紀にも感じられた。モンテ・クリストはその眼差しに、それほどの思いをこめていたのだ。
彼は夫人に腕をさし出し、夫人はそれに掴まった。というよりも、夫人は小さな手でその腕にかすかにふれた。こうして二人はシャクナゲと椿に縁どられた正面階段を降りて行った。
二人の後から、ほかの階段を通って、にぎやかに笑いさざめきながら、二十人ほどの客が庭へ駈け降りた。
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七十一 パンと塩
モルセール夫人は、パートナーとともに木陰に入って行った。これは菩提樹《ぼだいじゅ》の並木道で温室に通じている。
「サロンの中はひどく暑うございましたわね、伯爵様」
「ええ、ですからドアや鎧戸をお開けになったのは、いい思いつきでした」
この言葉を言い終えたとき、伯爵は夫人の手がふるえるのを感じた。
「奥さんは、そんな薄いドレスを召して、首には紗《しゃ》のスカーフを巻いておられるだけでは寒いんじゃありませんか」
「これからどこへおつれするか、おわかりですの」モンテ・クリストの問いには答えずに伯爵夫人が言った。
「わかりません。でも、ご覧の通り、どこであってもいやとは申しません」
「温室ですの、あそこに見えますでしょう、この道の先に」
伯爵は夫人に問いかけるような目を向けた。しかし、夫人はなにも言わずに歩き続ける。そこで伯爵のほうも沈黙を守った。
二人は、見事な果物がいっぱいなっている温室に着いた。わが国では不足がちの太陽の熱にかわって、つねに調節された温度に保たれているために、七月のはじめにはすでにそれらの果物は完全に成熟していた。
夫人は伯爵の腕を離し、マスカットの一房を摘《つ》んだ。
「どうぞ、伯爵様」夫人は悲しげな微笑を浮かべた。目の線に涙の滴がふくれるのが見えるようであった。「フランスのブドウは、お国の、シチリアやキプロスのブドウとはとてもくらべものにならないことは存じておりますけれど、北の国の乏しい太陽の光に免じてお許しいただけますわね」
伯爵は頭を下げ、一歩退いた。
「奥さん、ほんとうに申し訳ないのですが、私は決してマスカットは口にしないのです」
メルセデスは溜息とともにブドウの房を地面に落とした。そのすぐ隣に、ブドウの株と同じく、この人工的な熱を受けたみごとな桃がなっていた。メルセデスはそのビロードのような肌をした実に近づき、その実を摘みとった。
「では、この桃をどうぞ」
しかし、伯爵はやはり同じしぐさでそれを拒むのだった。
「これもですの。悲しうございますわ」その声音はいかにも辛そうで、鳴咽をこらえながら言っていることが感じられた。
その後、長い沈黙が続いた。桃もブドウの房と同じように砂の上にころがった。
「伯爵様」やがてメルセデスが哀願するような目でモンテ・クリストをみつめながら言った。「アラビアには、同じ屋根の下でパンと塩を分ち合った者は、永遠の友になるという習わしがございます」
「私もそれは存じております。ですが、ここはフランスでアラビアではありません。フランスには、パンと塩を分ち合うことも、永遠の友も存在しないのです」
「でも」夫人はあえぐように、じっとモンテ・クリストの目を見据えたまま、両手でモンテ・クリストの腕をわななくほどに締めつけながら言うのだった。「私たちはお友達ですわね」
伯爵の心臓に血が逆流し、伯爵は死人のようにまっ青になった。それから、心臓から喉へと血がのぼり、頬を染めた。数秒の間、彼の目は、いきなり強い光をあてられたもののように、虚空をさ迷った。
「もちろんですとも、私たちは友人ですよ、奥さん。第一、どうしてそうでないわけがありましょう」
この口調は、モルセール夫人が期待していたものとはほど遠いものであった。夫人は横を向き、呻き声に似た吐息を洩らした。
「ありがとうございます」夫人は言った。
そして、夫人はまた歩き始めた。こうして、二人はただの一言も言葉を交わさずに庭を一めぐりしたのだった。
「伯爵様」黙りこくったまま十分も歩いた末に、いきなり夫人が口を開いた。「いろいろなものをご覧になり、ほうぼうを旅行なさり、ひどい苦労をなさったと伺いましたけど」
「私はひどい苦労をいたしました、たしかに」
「でも、今はお幸せですのね?」
「たしかに。誰も、私が不満を洩らすのを聞く者はおりませんからね」
「今の幸せが、あなたの心を前よりは和らげまして?」
「私の今の幸せは、過去の苦しみと同等のものです」
「結婚はなさってませんの?」
「私が、結婚を」モンテ・クリストは身をおののかせた。「誰がそんなことを申したのですか」
「誰からも聞いたわけではありません。でも、しょっちゅうオペラ座に若くておきれいな方をおつれになるとか」
「あれはコンスタンチノープルで買った奴隷ですよ。ある王侯の姫で養女にしたのです。娘に対する愛情以外のものは持ち合わせていません」
「ではずっとお一人で」
「一人です」
「妹さんとか……息子さんとか……お父様は……」
「誰一人おりません」
「それでどうして生きて行けますの、この世につなぎとめるものがなに一つなくて」
「私のせいではないのですよ奥さん。マルタにいたとき、私は一人の娘を愛しました。その娘と結婚しようとしていました。そのとき戦争が起きて、まるでつむじ風のように、私をその娘から遠くへさらってしまったのです。私はその娘が私を深く愛していてくれて、私を待っていてくれる、私の墓に対してさえ貞節を守ってくれると思っていました。私が帰ってみると、娘は結婚していました。これは二十歳すぎの男には、誰にでもある話です。が、おそらく私はほかの男よりも心が弱いのでしょう。私は、ほかの男が私の立場におかれた以上に苦しみました。それだけの話です」
夫人は一瞬足を止めた。息をつくために歩みを止めねばならなかったようであった。
「わかりましたわ、そして今でもその愛情があなたのお心の中には残っておりますのね。人は一度しか恋はできないものですもの……で、その方にお会いになりまして?」
「一度も」
「一度も!」
「その人のいる国へはその後一度も戻りませんでした」
「マルタヘ?」
「ええ、マルタヘは」
「では、その方はマルタにおいでなんですの?」
「だと思います」
「その方があなたを苦しめたのを、お許しになりましたの?」
「その人のことは許してます」
「でも、その方のことだけですのね。あなたをその方から引き離した人たちのことは今でも憎んでおいでなんですのね」
夫人はモンテ・クリストの正面に立った。その手には、まだ良い香りのするブドウの房の残りがあった。
「召し上がって下さい」
「奥さん、私は決してマスカットは口にしません」
夫人は絶望的な身ぶりをして、近くの茂みにその房を投げた。
「強情な方」夫人はつぶやいた。
モンテ・クリストは、まるでその非難が自分に向けられたものではないかのように平然としていた。
このとき、アルベールが駈けよって来た。
「ああ、お母さん! 大へんなことになりました」
「どうしたの、何が起きたの」夢からさめて、現実に引き戻されたかのように気をとり直して夫人が訊ねた。「大へんなこと? たしかに、いろいろ大へんなことが起きるにちがいないわ」
「ヴィルフォールさんがお見えになったんです」
「それで?」
「奥さんとお嬢さんを迎えに来られたんです」
「どうして」
「サン=メラン侯爵夫人がパリにお着きになったんだけど、マルセーユを発って、最初の宿駅でサン=メラン侯爵が亡くなったというんです。ヴィルフォールの奥さんは、とても陽気にしていて、そんなしらせは理解しようとも信じようともしないんだけど、ヴァランチーヌさんは、最初の言葉を聞くなり、お父さんもずいぶん気をつけた言い方をしたのに、みんな見抜いてしまって、まるで雷に打たれたようにうちのめされて、気を失ってしまったんです」
「ヴィルフォールのお嬢さんにとって、サン=メラン侯爵は何にあたられるんですか」伯爵が訊ねた。
「母方のお祖父さんです。フランツと孫娘の結婚を早めるためにおいでになるところだったんです」
「ああ、なるほど」
「これでフランツの結婚は先に延びますね。どうしてサン=メラン侯爵がダングラールのお嬢さんのお祖父さんも兼ねてくれなかったのかなあ」
「アルベール!」やさしくたしなめるように夫人が言った。「アルベール! 何てことを言うの。伯爵様、この子はあなたをたいへんご尊敬申し上げておりますから、そんな言い方をするものではないと言ってやって下さいませ」
夫人は数歩歩き始めた。
モンテ・クリストがその姿を、異様な目つきで、夢みるような、と同時に愛情のこもった讃美の色をたたえた目でみつめていたので、夫人はもとに戻って来た。
そして、夫人は彼の手をとり、同時に息子の手を握り、この二つの手を重ねさせて、
「私たちはお友達ですわね」夫人が言った。
「あなたのお友達などと、そんな大それたことは私は求めません。ですが、どんな場合にも、私はあなたの従順な僕《しもべ》です」伯爵はこう言った。
夫人は、なんとも言い表わしようのない胸を締めつけられる思いを抱きながら、その場を離れた。そして十歩も歩かぬうちに、夫人がハンカチを目にあてるのを、伯爵は見た。
「母とうまくいかなかったんですか」驚いてアルベールが訊ねた。
「とんでもない。お母さんが今私たちはお友達だと私に言ったじゃありませんか」
三人はサロンに戻ったが、ヴァランチーヌとヴィルフォール夫人は帰ったあとであった。
モレルがすぐその後を追って出て行ったことは言うまでもない。
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七十二 サン=メラン侯爵夫人
ヴィルフォールの邸では、悲痛な場面がくりひろげられていた。
ヴィルフォール夫人がいくら執拗にすすめても夫に同行する決意をさせることのできなかった舞踏会に、夫人と娘とがでかけた後、検事はいつものように書類の山とともに書斎に閉じこもった。余人であればうんざりしてしまうようなその書類の山も、これがふだんの日であれば彼の旺盛な仕事への欲を満足させるにはむしろ足りないぐらいであった。
が、今日は、書類は見せかけだけの道具にすぎなかった。ヴィルフォールが書斎にこもったのは仕事をするためではなく、考えるためであった。ドアを閉め、重要な用事以外は仕事の邪魔をせぬように命ずると、肘掛椅子に腰をおろし、ここ一週間ほどの間に起きた、彼の暗い懊悩と苦い追憶の盃から溢れ出ているものを、一つ一つ記憶をたどってみるのだった。
目の前に山と積まれている書類には手をつけずに、彼は机の引出しを開け、秘密の仕掛けを動かして、個人的なメモの束を取り出した。彼の政治的生涯、金銭問題、法廷での追及、あるいは秘められた情事において彼の敵となった者全員の名前が彼だけにしかわからない番号を付して整理されている貴重なメモである。
その数は今では膨大《ぼうだい》なものになっており、見ればぞっとするほどであった。しかし、そこにある名前が、たとえどれほど権力を持ち恐るべきものであっても、彼はそれを見てなん回となく微笑を浮かべたものであった。それはあたかも、山頂に立つアルピニストが足下に、そこに到達するまでにあれほどの時間をかけ苦労してよじのぼった、鋭い断崖、とうてい登ることのできぬルート、両側が絶壁の痩せ尾根を見下ろすときに浮かべる微笑であった。
これらの名前のすべてを、もう一度記憶の底にたどり、そのリストを繰り返し読み、吟味し、あれこれ考えてみた末に、彼は首を振った。
「違う」彼はつぶやくのだった。「これらの敵の誰一人として、あの秘密によってこの俺を叩きのめすために、今日のこの日まで忍耐強く苦しい思いに耐えていたなどということはあり得ない。時には、ハムレットが言ったように、地の奥底深く埋められたものの音が、地中から洩れ出て来て、燐光のように、空中を狂ったように走ることもある。しかしこれは、一瞬目をくらますだけの仄光《そくこう》にすぎない。あのコルシカ人があの話をどこかの司祭に話し、その僧が誰かに話したのだ。それをモンテ・クリストが知ったのだろう。そしてモンテ・クリストはその真相を知ろうとして……」
「だが、真相を知ったとて何になるのだ?」一瞬考えた後にヴィルフォールはまたつぶやいた。「モンテ・クリスト、マルタの船造りの子で、テッサリアの銀山を掘っている、フランスヘ初めてやって来たザッコーネにとって、こんな役にもたたない暗い秘密を知ったとて、いったいどんな利益があるというのだ。あのブゾニ神父、あのウィルモア卿、この友と敵との二人から得た情報は支離滅裂ではあるが、ただ一つだけ明確で、俺の目にははっきりしていることがある。それは、いついかなる時期にも、いかなる場面でも、いかなる状況のもとでも、俺と奴との間にはまったくつながりがないということだ」
ヴィルフォールはこうつぶやいたが、この言葉を、彼は自分でも信じてはいなかった。彼にとって最も恐ろしいのは秘密が暴露されることではなかった。というのは、彼は否認し、反論することさえできたからだ。忽然《こつぜん》として壁に血で書かれた、あの『数《カゾ》エタリ、秤《ハカ》レリ、分《ワカ》レタリ』〔旧約聖書ダニエル書第五章にある不吉な予告〕の文字そのものはさほど気にしなかった。彼の心を不安にしたのは、その文字を書いた手が、いったい何者の手なのかということであった。
彼が自分を安心させようと努め、かつて野心的な夢想にふける際にかいま見た政治的生涯を追い続けることは、この長い間眠っていた敵を目覚めさせることになるので、家庭の幸せのみに限られた未来だけを考えようとしていたとき、中庭に入る馬車の音が聞こえて来た。ついで、年老いた者が階段を上って来る足音が聞こえた。そして、主人の不幸を利用して自分の存在をきわ立たせようとする際に召使いたちが発する嘆声やすすり泣きの声が聞こえて来た。
彼は急いでドアの閂《かんぬき》をはずした。と、まもなく、前ぶれもなしに肩掛けを腕に掛け、帽子を手にした一人の老婦人が入って来た。黄色い象牙のようなつやのない額を白髪が覆《おお》っている。寄る年波に目尻に深い皺《しわ》のきざまれた目は、いっぱいにためられた涙の底にかくれていた。
「ああ、なんということでしょう」老婦人は言った。「私も死んでしまう。そう、きっと私も死んでしまう!」
こう言うなり、ドアに一番近い椅子に倒れ込むと、老婦人は泣き崩れた。
召使いたちはドアの所に立ったまま、それ以上は進みかねて、あのノワルチエの老僕の顔を見ていた。この老僕もまた、主人の部屋で物音を聞きつけ、駈けつけて来たまま、ほかの召使いたちの後ろに立っていたのである。ヴィルフォールは立ち上がり、義母《はは》の所へかけよった。そう、義母その人だったのだ。
「いったい、何が起きたのですか、そんなに動転なさって。サン=メラン侯爵はご一緒じゃなかったんですか」
「主人は亡くなりましたよ」老侯爵夫人が、いきなり、放心したように、ぽつりと言った。
ヴィルフォールは一歩後退りして、手を打ち合わせた。
「亡くなった……こんなに急に?」
「一週間前、夕食を済ませてから二人で馬車に乗ったのです。主人は数日前から身体の具合が悪くてね。でも、可愛いヴァランチーヌに会えるかと思うと、気をふるい立たせて、辛くてしかたなかったのに出発すると言って。マルセーユから六里ほど来たとき、いつもの錠剤をのんでから眠ったんだけど、あまり深い眠りなので私は、普通じゃないと思った。顔の色が赤くて、こめかみの所の血管がいつもより激しく脈を打っているように思えたんだけど、起こしたものかどうかと思ってね。そうこうするうちに夜になって、なにも見えなくなったもんだから、そのまま寝かしといたんだよ。するとまもなく、夢にうなされたように、低い、胸をかきむしられるような悲鳴を上げたと思うと、いきなり頭を後ろへのけぞらせてしまった。私は召使いを呼んで、御者に馬車を止めさせ、主人の名を呼んで、私の気つけ薬をかがせたんだけど、もうすべてお終い。主人は亡くなってました。主人の亡骸《なきがら》と並んで坐ったまま、私はエクスに着いたんです」
ヴィルフォールは呆然とし、口をぽかんと開けたままであった。
「もちろん、医者はお呼びになったんでしょうね」
「すぐ呼びましたよ。でもね、今言ったように手遅れでね」
「でしょうね。でも、侯爵が亡くなった病気の名前ぐらいは医者にはわかったでしょう」
「ええ、医者が言いました。脳溢血らしいんだよ」
「それからどうなさいました」
「主人はね、たとえパリからずっと離れた所で死んでも、遺骸は一家の墓に収めてほしいと、かねがね言っていました。私は鉛のお棺に亡骸《なきがら》を収めさせて、私だけ先に来たんです」
「ああ、お気の毒なお母さん。そんなひどい目にお会いになりながら、そんなことまでなさったんですか、しかもそのお年で」
「神様が、最後までやりとげるだけの力はお授け下さった。それに、あの人は、私があの人にしてあげたことぐらいのことは、私にもしてくれましたからね。ほんとうに、あの人を後に残して来てからというもの、私はもう正気じゃない。泣くこともできない。私の年になると、もう涙は涸れてしまっているというけど、ほんとうだね。でも、悲しんでいるうちは泣けそうなものだと思うんだけど。ヴァランチーヌはどこにいるの? 私たちがパリヘ来たのはあの子のためなんだからね、ヴァランチーヌに会わせておくれ」
ヴァランチーヌは舞踏会へ行っている、と答えるのはいかにもむごいようにヴィルフォールには思えた。彼は、ヴァランチーヌが継母とともに外出しているとだけ答え、祖母が来たことを知らせると言った。
「今すぐ、今すぐ呼んでおくれ」
ヴィルフォールはサン=メラン夫人の腕をかかえて、寝室につれて行った。
「少しお休み下さい、お母さん」
侯爵夫人はこの言葉に顔を上げた。そして、あれほどその死を嘆かせた娘、夫人にしてみればヴァランチーヌがその生まれかわりとも思える娘を思い出させるその男の顔を見て、この母という言葉に胸をつかれる思いで、夫人は跪《ひざまず》き、その高貴な頭を肘掛椅子に埋めた。
ヴィルフォールは女たちに夫人の世話を命じ、老バロワは、うろたえて自分の主人のもとにもどった。老人にとって、死神が一時自分のそばを離れ他の老人にとりついた姿を見ることほど恐ろしいものはないからである。それから、サン=メラン侯爵夫人が、なおも跪いたまま、心の底からの祈りを捧げている間に、ヴィルフォールは辻馬車を呼びにやり、モルセール夫人のもとに、妻と娘を迎えに行ったのであった。サロンのドアの所に立ったヴィルフォールの顔の蒼さを見て、ヴァランチーヌは駈けよりながら、こう叫んだ。
「まあ、お父様、なにか悪いことがあったんですのね!」
「お前のお祖母さんがお着きになったのだ、ヴァランチーヌ」
「でお祖父様は?」全身をおののかせながら娘が訊ねた。
ヴィルフォールは答えずに、ただ娘に腕をさしのべただけであった。
その時だった。ヴァランチーヌは目がくらみ、よろめいた。ヴィルフォール夫人が急いでその身体を支えた。そして、夫を助けて娘を馬車のほうへつれて行きながら、こう言った。
「不思議だわ、いったい誰にこんなことが予想できたかしら、ほんとに不思議だわ」
こうして、悲嘆にくれる一家は、その悲しみを黒いヴェールのようにその後の舞踏会に投げかけて帰って行った。
階段の下で、ヴァランチーヌは彼女を待っていたバロワに会った。
「ノワルチエ様が今夜中にお目にかかりたいと申しておられます」バロワが低い声でささやいた。
「お祖母様の所へお寄りしてから伺いますとお伝えしてちょうだい」
そのやさしい胸のうちで、娘は、今とくに自分を必要としているのはサン=メラン公爵夫人だと判断していたのだ。
祖母はベッドに横たわっていた。無言の情愛、せつなくこみあげる胸の思い、とぎれがちな吐息、熱い涙、これがこの祖母と孫娘の対面のうち語りうるもののすべてであった。ヴィルフォール夫人は夫の腕によりそったまま、少なくとも上べはその気の毒な未亡人への敬意を全身に表わしながら、この光景を見ていた。
やがて夫人は夫の耳もとにそっとささやいた。
「お許しいただければ、あたくしは退りたいんですけど。あたくしがいてはお義母さまのお気にさわるようですから」
サン=メラン夫人はこの言葉を聞きつけた。夫人はヴァランチーヌの耳もとに、
「そうだとも、あれは行かせておくれ、お前はここにいるんだよ」
ヴィルフォール夫人は部屋を出た。ヴァランチーヌは一人祖母の枕もとに残った。思いがけない侯爵の死に動転した検事も妻の後を追ったからである。
これよりさき、バロワは老ノワルチエのもとにまた戻っていた。先に述べたように、家の中のもの音を聞きつけたノワルチエが、老僕に様子を見に来させていたのである。
バロワが戻ると、生き生きとした、そして聡明なあの目が、老僕に問いかけた。
「ああ、大へん悲しいことが起こりました。サン=メラン侯爵夫人がお着きになったのですが、侯爵様はお亡くなりになりました」
サン=メランとノワルチエはさほど深い友情に結ばれた仲ではなかった。しかし、老人にとって、ほかの老人の死のしらせがどのような衝撃を与えるものであるかは、人の知るところである。
ノワルチエは、うちひしがれた男のように、あるいは考えこむ男のように、胸に首を落としたが、やがて片目だけを閉じた。
「ヴァランチーヌ様ですか?」バロワが言った。
ノワルチエが、そうだ、という合図をする。
「お嬢様は舞踏会に行っておられます。正装なさってご挨拶にお見えになりましたから、ご存じのはずでございます」
ノワルチエはまた左目を閉じた。
「はい、お嬢様にお会いになりたいのでございますね?」
老人が、望んでいるのはそのことだという合図をした。
「では、モルセール様のお邸にお迎えに行くはずですので、お帰りのところをお待ちして、ここへおいで下さるよう申し上げます。それでよろしいのでございますね」
『そうだ』全身不随の老人は答えた。
そこでバロワは、すでに見たように、ヴァランチーヌの帰りを待ちもうけていて、祖父の希望をヴァランチーヌに伝えたのだった。
サン=メラン夫人の部屋を出たヴァランチーヌは、その望み通りにノワルチエの部屋に行った。サン=メラン夫人が、ひどく興奮してはいたものの、ついに疲労に屈して、熱にうかされたような眠りに落ちたからである。
手の届く所に小さな机を近寄せ、その上に、夫人がしじゅう飲むオレンジエードの入った水差しとコップをのせておいた。
それから娘はベッドのそばを離れてノワルチエの部屋に行ったのである。
ヴァランチーヌが、老人に接吻すると、老人がいかにも慈愛のこもった目で彼女を見たので、ヴァランチーヌは、すでにもう涸れ果てたと思っていた目から、また涙があふれるのを感じた。
老人の目がさかんに語りかけている。
「ええ ええ、わかったわ、いつでもお祖父さまがついていて下さるっておっしゃるんでしょう?」
老人は、まさにそれが彼の目の語る意味であるという合図をした。
「ああ、うれしい! お祖父さまがいて下さらなかったら、私はどうなってしまうかしら」
午前一時であった。自分も眠かったバロワが、このような悲痛な一夜を過ごしたからには、皆さんお休みにならねばいけませんと言った。老人は、自分にとって休息とは、孫娘の顔を見ていることだ、とは言おうとしなかった。彼はヴァランチーヌに、もうおやすみと言ったが、事実ヴァランチーヌは、悲しみと疲れとでひどい顔つきをしていた。
その翌日、ヴァランチーヌが祖母の部屋に入ってみると、祖母は床に臥《ふ》したままであった。熱は少しも下がっていなかった。それどころか、老侯爵夫人の目は、不気味な火が燃えているようであった。夫人は、なにかひどく神経を昂《たか》ぶらせているようだった。
「まあ、お祖母さま、前より辛くおなりなの?」ヴァランチーヌは、この神経の昂《たか》ぶっている徴候を見て叫んだ。
「そうじゃないよ。ただね、早くお前が来てくれないかと待ち遠しい思いをしていたんだよ、お父さんを呼んで来てもらいたくてね」
「お父様を?」ヴァランチーヌは心配そうに聞き返した。
「そう、お話がある」
ヴァランチーヌには祖母の意志に逆らう勇気はなかった。第一、なぜそうしたいのかもわからなかったのだ。すぐにヴィルフォールが入って来た。
「この子に結婚の話があると言って来ましたね」サン=メラン夫人は、一刻の時も惜しむかのように、いきなりずばりと言った。
「ええ、もう話だけじゃなくて、はっきり約束してあることです」
「お婿さんはフランツ=デピネさんというんですね」
「ええ、そうです」
「私たちの味方だったデピネ将軍のご子息ですね。簒奪者がエルバ島から帰った数日前に殺されなすった」
「その通りです」
「ジャコバン党員の孫娘との結婚が、その方の気にさわるというようなことはありませんか」
「幸いなことに、もう昔の敵意など消えてしまいましたよ、お母さん。お父さんが亡くなられたときは、デピネ君はまだ子供同然でした。ノワルチエのことなどよく知らないし、会って楽しいとは思わぬまでも、少なくともなんにも感じないでしょう」
「似合いのお話でしょうね」
「どの点から見ても」
「その青年自身は?」
「誰からも尊敬されています」
「この子にふさわしい人でしょうね」
「私が知っている限りでの、最も優秀な男の一人です」
この話が交わされている間、ヴァランチーヌは黙っていた。
「それではね」しばらく考えていたサン=メラン夫人が言った。「急がなければいけません、私はもうそんなに長くは生きていられませんからね」
「お母さん!」
「お祖母さま!」
ヴィルフォールとヴァランチーヌが言った。
「私には自分が何を言っているかわかってます。急ぐのです。この子には母がないのですから、結婚を祝福してやるのにせめて祖母がいてやらねばなりません。あのルネ〔ヴァランチーヌの母親〕の血筋の者としては私一人しかいませんからね。あなたはルネのことなどすぐ忘れておしまいでしたがね」
「ああ、母をなくした可哀そうなこの子に母親を与えることが必要だったことを、お忘れになっておられるのです」
「継母《ままはは》は母親にはなれるもんじゃありませんよ。でも、今問題なのはそんなことではありません。ヴァランチーヌです。死んだ人はそっとしておきましょう」
この言葉は、一気にまくしたてられ、その口調からしても、なにか精神錯乱の前兆を思わせるようなところがあった。
「お望みの通りにいたします」ヴィルフォールが言った。「幸いなことに私の希望もお母さんのご希望に合致しておりますから。デピネ君がパリに着き次第……」
「お祖母さま、慣習からいっても、お祖父さまが亡くなったばかりなんですもの……そんな縁起でもない時にお式をするなんてことをお望みになるんですの?」
「ヴァランチーヌ」祖母が強い口調で孫娘の言葉をさえぎった。「そんな月並な理屈などこねてはいけません。そんなことで、しっかりした将来を固めるのをためらってしまうのは、心の弱い人たちのすることですよ。この私にしたって、私の母親の死の床でお式をあげたんです。そのために不幸せになるなんてことはありませんでしたよ」
「また、死などということを口になさる」ヴィルフォールが言った。
「ええ、いくらでも言いますよ……私はもうすぐ死ぬと言っているんです、おわかりかい。だから死ぬ前に私の婿《むこ》の顔を見ておきたい。私の孫娘を幸せにするんだよ、と命じておきたいんですよ。その人の目を見て、私の言うことをきくつもりかどうか知りたい。とにかく私はその人の顔を知っておきたいんです」祖母は恐ろしい調子で続けるのだった。「もしその人がほんとうにふさわしい人でなかったり、まともな行動のできない人だったら、お墓の中から化けて出てやるためにね」
「お母さん、そんな極端なことはお考えにならないで下さい、気違いじみてますよ。死者はいったん墓に横たわったら、二度と目覚めずに眠り続けるものです」
「そうよ、お祖母さま、気を静めてちょうだい」
「ところがこの私はね、はっきり申しますよ、ヴィルフォールさん、あなたが考えているようではないんですよ。昨夜の私の眠りはひどいものでした。まるで私の魂がもう私の身体から離れて私の上をふわふわ飛んでるみたいでした。なんとか目を開けようとしても、すぐまた閉じてしまう。あなたがたは、とくにヴィルフォールさん、あなたは、そんな馬鹿な、とお思いでしょうけれど、目を閉じていても、私にはちゃんと見えていたんです。今あなたがいるその場所に、あなたの奥さんの化粧室に通じるあのドアのある角から、なにか白いものが音もなく入って来たんです」
ヴァランチーヌは叫び声をあげた。
「それは熱のせいで神経が昂ぶっていたんですよ」ヴィルフォールが言った。
「ほんとうにしないならそれでもかまいません。でも、たしかにそうだったんです。私は白い影を見ました。それに、まるで神様が、私が、自分の感覚だけでは信用しないのではないかと思召《おぼしめ》したかのように、私は、ほら、そこの、その机の上のコップが動く音を聞いたんですよ」
「お祖母さま、夢をご覧になったんだわ」
「夢じゃなかった証拠にね、私が呼鈴に手をのばすと、そのしぐさを見て、影は消えたんです。そのとき女中があかりを持って入って来た。亡霊というものはね、それを見る必要のある者にしか姿を現わさないものなんですよ。あれは主人の魂だったんです。あの人の魂が私を呼びに来たとすれば、私の魂だって、孫を守ってやるために戻って来られないわけがあるものかね。つながりは、私とこの子のほうが近いと思いますよ」
「お母さん」意志とはうらはらに腹の底から動揺して、ヴィルフォールが言った。「そんな不吉な考えをつきつめないで下さい。私たちと一緒に、いつまでも楽しく、皆から好かれ、尊敬されて生きて下さい。私たちがそんなことは忘れさせてみせますよ……」
「とても駄目ですよ。で、いつデピネさんはお帰りになるの」
「もう今すぐにも着くと思います」
「結構だね。お着きになったら、すぐ私に知らせて下さいよ。急ぐのです、急がなければ。それから公証人を呼んでおくれ。私たちの財産がたしかに全部ヴァランチーヌのものになるようにしておきたいからね」
「お祖母さま」ヴァランチーヌはつぶやいた。そして、祖母の火のような額に唇をあてた。「まあ、大へん。ひどい熱だわ。呼ぶのは公証人じゃなくて、お医者様じゃないの!」
「お医者様?」祖母は肩をすくめた。「私は苦しくなんかありませんよ。喉がかわいているだけ」
「何をお飲みになる?」
「いつもの通りですよ、お前はよく知っておいでじゃないか、オレンジエード。コップがその机の上にあるでしょ、それを取っておくれ」
ヴァランチーヌは水差しのオレンジエードをコップに注ぎ、なにか恐ろしい気がしながら、それを手にし、祖母に渡した、亡霊がそれに触ったと祖母が言っていたからだ。
侯爵夫人は一息にそのコップを飲みほした。
それから枕の上で向きを変え、
「公証人を、早く」
ヴィルフォールは部屋を出た。ヴァランチーヌは祖母のベッドのそばに腰をおろした。可哀そうなこの娘のほうも、彼女が祖母にすすめた医者が必要なようであった。頬には火のような赤みがさし、呼吸はせわしなく喘ぐようであったし、熱があるかのように脈も早かった。
この哀れな娘は、サン=メラン夫人が自分たちの味方ではなく、そうとも知らずに敵としての役割を果していることを知ったときの、マクシミリヤンの絶望に思いをはせていたのだ。
一度ならず、ヴァランチーヌは祖母にいっさいを打ち明けようと思ったのである。そして、もしマクシミリヤン・モレルが、アルベール・ド・モルセールとかラウール・ド・シャトー=ルノーとかいう名前であったら、彼女は少しもためらわなかったであろう。しかし、モレルは平民の出であった。ヴァランチーヌは、誇り高いサン=メラン侯爵夫人の、貴族でない者への軽蔑の念を知っていた。だから、彼女の秘密は、口から出そうになるたびに、言っても無駄であるし、一度それが父や継母に知られてしまえば、すべてが駄目になってしまうという、悲しい確信の故に、いつもまた心の底におし戻されてしまうのだった。
ほぼ二時間ほどの時がこうして過ぎた。サン=メラン夫人は、熱にうかされたまま眠っていた。公証人の来訪が告げられた。
ごく低い声で告げられたのだが、サン=メラン夫人は枕の上に身を起こし、
「公証人かい? すぐここへよこしておくれ」
公証人は戸口の所に来ていたので、彼はすぐ部屋に入った。
「ヴァランチーヌ、あっちへ行っておいで。二人きりにしてほしいんだよ」
「でもお祖母様」
「行くのです」
娘は祖母の額に接吻し、目にハンカチをあてて出て行った。
ドアの所に召使いがいて、医者がサロンで待っている旨を告げた。
ヴァランチーヌは急いで下へ降りた。この医者は一家の知人で、当代一流の名医でもあった。ヴァランチーヌの誕生に立ち合ったこの医者は、ヴァランチーヌを可愛がっていた。彼にも、ヴァランチーヌと同年の娘がいたが、胸を病む母から生まれた娘であった。だから彼の一生は、娘の健康を絶えず気遣う一生となっていた。
「まあ、ダヴリニー先生。ほんとうにお待ちしていましたの。でも、それより、マドレーヌとアントワネットはお元気ですの?」
マドレーヌはダヴリニーの娘で、アントワネットは姪であった。
ダヴリニーはさびしい微笑を浮かべた。
「アントワネットはすごく元気でね、マドレーヌもまあまあだよ。そんなことより、あんたが私を呼んだんだろ。病人はお父さんでも夫人でもないんだね? 私たちは神経をなくしてしまうわけにいかないことは自明の理だが、あまりあれこれ考えぬほうがいいとは言いたいね。それ以外にはあんたが私を必要としているとは思えんな」
ヴァランチーヌは顔を赤らめた。ダヴリニーは、人の心を見通す点にかけては神業《かみわざ》に等しいものがあった。彼は、つねに肉体を精神で治療する医師の一人だったのである。
「いいえ、お呼びしたのは祖母のためなんです。私どもの不幸のこと、ご存じでしょう?」
「いや、全然」
「祖父が亡くなったんです」ヴァランチーヌは鳴咽をこらえながら言った。
「サン=メラン侯爵が?」
「ええ」
「急に?」
「脳溢血で」
「脳溢血?」医者が繰り返した。
「そうなんです。それで、片時の間も祖父のそばを離れたことのない祖母は、祖父が自分を呼んでいるっていう考えにとりつかれて、祖父の所へもうじき行くんだと言うんです。ダヴリニー先生、祖母を診てやって下さい」
「どこにおられる」
「部屋に、公証人と一緒に」
「ノワルチエ氏は?」
「変わりありません。頭は申し分なくはっきりしてます。でも、相変わらず動けないし、口もきけません」
「それと、相変わらずあんたを可愛がって。違うかね」
「ええ、祖父は私を可愛がってくれています。祖父だけは」ヴァランチーヌは溜息をついた。
「お祖母さんの容態は?」
「妙に神経を昂ぶらせていて、眠りも浅くおかしいんです。今朝も、眠ってる間に魂が身体の上をふわふわ飛んで、自分が眠っているのを見てた、なんて言うんです。少し頭がおかしくなってるんですわ。部屋に亡霊が入って来るのを見たし、コップに触る音を聞いたなんて言うんですもの」
「それはおかしいな。サン=メラン夫人はそんな幻覚を抱くような方ではないはずだ」
「祖母のあんな姿は初めて見ました。今朝は見ててとても恐ろしい気がしました、気が狂ってしまったのではないかと思って。それに、父までが、先生は父が馬鹿げたことなど信じない人だということはご存じですわね、その父までが、ひどく怯えたようなんです」
「ま、やがてわかるだろう。あんたの言ってることは、どうもふに落ちない」
公証人が降りて来た。祖母が部屋に一人でいるということがヴァランチーヌに告げられた。
「どうぞお上がり下さい」彼女は医者に言った。
「あんたはどうする」
「ああ、私はとても行けませんわ。祖母は医者を呼んではいけないと言ったんですもの。それに、先生もおっしゃったように、私も神経が昂ぶってて、熱っぽくて気分が悪いんです。気を静めるために庭を一廻りして来ます」
医者はヴァランチーヌの手を握った。医者が祖母の部屋へ上がって行くうちに、ヴァランチーヌは正面階段を下りて行った。
庭のどこがヴァランチーヌのお気に入りの散歩の場所かを、改めて言う必要はあるまい。家をとりまく花壇を二、三回めぐり、ベルトか髪に挿そうと、バラを一輪摘むと、彼女は例のベンチの所へ通ずるほの暗い小径に入って行き、そして、そのベンチの所から鉄柵の所へ行くのが常だったのである。
しかし今日は、いつものように花の中を二、三回めぐりはしたが、バラは摘まなかった。まだ彼女の全身にまでは及んでいなかったが、心に抱いた喪《も》の悲しみが、この単純な飾りをもしりぞけたのである。彼女は小径のほうに進んで行った。進むにつれ、彼女は、自分の名を呼ぶ声が聞こえるような気がした。彼女は驚いて足を止めた。
すると、その声はもっとはっきり彼女の耳に届いた。彼女はマクシミリヤンの声だと思った。
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七十三 約束
思った通りモレルであった。彼は前の晩から、生きた心地すらしなかった。恋する者と母親にのみ与えられた本能から、彼は、サン=メラン夫人のパリ到着と侯爵の死の後には、必ず自分のヴァランチーヌとの恋にかかわるなに事かが起きることを見抜いていたのである。
やがておわかりいただけるように、彼の予感は現実のものとなっていた。うろたえ、身をおののかせる彼の足をマロニエの茂る鉄門の所へ運ばせたものは、もはや単なる不安ではなかったのだ。
しかし、ヴァランチーヌはモレルが待っていようとは思わなかった。彼がいつもそこへ来る時間ではなかった。彼女が庭に来たのは単なる偶然、ないしは、深く愛し合っている場合のあのうれしい心の通い合いによるものであった。彼女が姿を見せたとき、モレルは彼女の名を呼び、ヴァランチーヌは鉄門の所に駈けよった。
「こんな時間にいらしたの!」
「うん。悪いしらせを聞きに、それから僕のほうからも知らせにね」
「それじゃ、まるでこの家は不幸の住み家だわ。聞かせて、マクシミリヤン。でもほんとうのことを言えば、悲しみはもうたくさんなんだけど」
「ヴァランチーヌ」モレルは、まともに口をきくために、己れ自身の激情をおさえた。「お願いだから、よく聞いてほしい。これから言うことは、ほんとうに大事なことなんだから。君の結婚式はいつに予定されてる?」
「あのね」ヴァランチーヌが言った。「私はあなたにはなにもかくしたくないの。今朝私の結婚の話が出たわ。大丈夫私に力をかして下さると思っていたお祖母さまがね、この結婚にはっきり賛成なさったばかりではなくて、ひどくお急ぎなもんで、デピネさんがお帰りになるのを待つだけなの。あの方がお着きになったら、もうその翌日には結婚契約書に署名されることになっているの」
苦しい吐息が青年の口から洩れ、彼は長いこと悲しそうに娘の顔をみつめていた。
「ああ!」彼は低く呻いた。「愛する女性から、『あなたの処刑の時が決まったわ、あと数時間後、でも仕方がないじゃない、そうならなければならないのよ。私はこれに反対するつもりは全然ないわ』と平然と言われるのは恐ろしいことだ。君は、契約書の署名は、ただデピネ君の帰りを待つだけと言ったね。彼が帰って来た翌日には彼のものになるのだと言ったね。とすれば、君がデピネ君のものとなるのは明日だ。彼は今朝パリに着いた」
ヴァランチーヌは叫び声を上げた。
「僕は一時間前にはモンテ・クリスト伯爵の所にいたんだ。二人で話をしていた。あの人は君の家の不幸を、僕は君の悲しみをね。と、そのときいきなり中庭で馬車の音がした。いいかい、そのときまでは、僕は予感なんてものは信じなかった。だが今は信じないわけにはいかない。その馬車の音を聞いたとき、僕は身ぶるいした。やがて階段を上がって来る足音が聞こえた。あのコマンドゥールの踏みならす足音も、ドン・ジュアンを、その足音を聞いたときの僕ほどには怯えさせなかったろう。まずアルベール・ド・モルセールが入って来た、僕は自分の予感を疑いかけた。かん違いだったかなと思い始めた。そのとき、彼の後から、もう一人の青年が進み出て、伯爵が、『おお、フランツ・デピネ男爵!』と言ったんだ。僕は全身の力、心にありったけの勇気をふりしぼって自分を抑えた。顔は蒼かったかもしれない、ふるえていたかもしれない。しかし、唇の微笑だけは消さなかったはずだ。だが、五分後に伯爵邸を出た僕は、その五分間に交わされた言葉のただ一言も聞いてはいなかった。僕はただの脱け殻だったのだ」
「マクシミリヤン!」ヴァランチーヌがつぶやいた。
「僕はこうして今ここにいる。ヴァランチーヌ、僕を生かすも殺すも、君の返事次第だということをよくわきまえた上で、はっきり答えてほしい。君はどうするつもりだ?」
ヴァランチーヌは顔を伏せた。彼女はうちのめされていたのだ。
「いいかい、君がわれわれの置かれている立場を考えるのは、これが初めてじゃない。たしかに重大で、重くのしかかる、決定的な局面に立たされている。僕は、無益な悲しみに身をゆだねている場合ではないと思う。心ゆくまで苦しみ、暇にまかせて涙の味を味わおうとする者にはそれもいいかもしれない。そういう人たちもいる。そして神様は、地上でのそうした彼らの諦めを、天上で考慮に入れては下さるだろう。だがしかし、身内に闘志を抱く者は、貴重な時間を一瞬たりとも無駄にはせず、運命が加えた攻撃に対して直ちに反撃するものだ。ヴァランチーヌ、君には不運と戦う意志があるかい。僕はそれを君に聞きに来たのだ」
ヴァランチーヌは身ぶるいし、大きく見開かれた怯えた目でモレルをみつめた。父に、祖母に、要するに家族全員に抵抗するなどという考えは、そのときまで思いつきもしなかったことである。
「何を言うの、マクシミリヤン。戦いってどういうこと。むしろ冒涜《ぼうとく》とおっしゃったほうがいいわ。私に、この私に、父の命令、今にも死にそうなお祖母さまの願いに反抗して戦えとおっしゃるの? そんなこと、とてもできないわ」
モレルが身体を動かした。
「マクシミリヤン、あなたは気高い心を持っていらっしゃるから、私の言うことがわかって下さるわね。わかるからこそ、そうして黙ってしまったのでしょう。私が戦う。ああ、とても駄目、そんなことはできないわ。私の力は、すべて私自身と戦うため、あなたがおっしゃったように、涙の味を味わうためにとっておくわ。父を傷つけ、お祖母さまの最後の時をかき乱すようなまねは、絶対にできない!」
「それが正しい考え方ですね」冷たくモレルが言った。
「なんて言い方をなさるの!」傷ついたヴァランチーヌが叫んだ。
「僕は、君を心から愛する者として言っているんです、お嬢さん」
「お嬢さん! お嬢さん、ですって! エゴイスト! 私が絶望のどん底にいることがわかっていながら、私の心などわからないふりをなさるのね」
「それは違う。僕には君の心がわかりすぎるくらいわかっている。君はヴィルフォール氏を困らせたくない、お祖母様のご意志に背くまねはしたくない。そこで明日、君を君の夫と結びつける契約書に署名しようとしている」
「だって、ほかに私にできることがあって?」
「お嬢さん、それを訊ねるのなら僕では駄目だ。このことに関しては僕は正しい判断はできませんからね。僕のエゴイズムが僕を盲にしますから」モレルはこう答えたが、その低い声と握りしめた拳は、次第に高まって行く胸中の激情を物語っていた。
「モレルさん、もし私があなたのおっしゃることを聞き入れそうだとお思いになったら、どういうことをおっしゃるつもりだったんですの。ねえ、おっしゃって下さい。どうせいいことは言えないなんて言ってる場合ではなくて、とにかく、こうしたらどうだとおっしゃってよ」
「本気でそう言ってるのかい、ヴァランチーヌ。僕に、こうしろと言えというのかい」
「ほんとうよ、マクシミリヤン。いいお考えなら、私はそれに従います。私があなたの愛情に身も心も捧げていることは、ご存じじゃないの」
「ヴァランチーヌ」モレルは、すでにもうはがれかけていた板を取り除いた。「僕が怒ってしまったことを許してくれる証拠に、手を出してくれないか。僕は頭がどうかしているんだ。一時間前から、とんでもない気違いじみた考えが、つぎつぎに頭をかすめるんだよ。ああ、でも僕の言うことを君がしりぞけた場合のことを考えると……」
「とにかく、おっしゃってみて」
「ヴァランチーヌ、こういうことなんだ」
娘は目を天に向け、吐息を洩らした。
「僕は自由な身だ。二人で暮らしていけるくらいの金を持っている。誓って言うけれど、君の額に僕の唇が触れる以前に、君はすでに僕の妻なのだ」
「お話を伺っていると身体がふるえて来るわ」
「僕について来てくれないか。まず君を妹の所へつれて行く。君の妹としての価値はあるやつだよ。それから、アルジェーなり、イギリスなり、アメリカなりへ渡ろう。一緒にどこか田舎へ行って、僕たちの味方が君の家の人たちを説き伏せてくれるのを待ってパリヘまた帰って来るほうがいいと君が言うのでなければね」
ヴァランチーヌは首を振った。
「そんなことだろうと思ってたわ、マクシミリヤン。そんなこととてもまともな考えじゃないわ。ここで今すぐ私が、そんなの駄目、と言わなかったら、私はあなた以上に頭がおかしいことになるわ。モレルさん、そんなの駄目よ」
「それなら君は、運命の定めるままに、君の運命をたどるというんだね、戦おうともしないで」モレルはまた顔を曇らせた。
「ええ、たとえそのために死んでも」
「それなら、ヴァランチーヌ、僕はもう一度繰り返そう。君の言う通りだ、とね。たしかに、気が狂っているのは僕のほうだ。君は、情熱というものが、たとえどのように正確な理性をも盲にしてしまうことを明らかにしてくれた。お礼を言おう。情熱など持ち合わせずにただ理性だけでものを言う君にね。これで決まった。明日君は決定的にフランツ・デピネ君と婚約する。しかもそれは、喜劇に結末をつけるために考え出された、契約書への署名という芝居の約束事なんかではなくて、君自身の意志によるものなのだ」
「ああ、マクシミリヤン! あなたはまた私を苦しめるのね。また、私の傷口に短刀をつき立てるのね。ねえ、もしあなたの妹さんが、あなたが今私におっしゃったようなことに同意なさったら、そのときはあなたはどうなさる」
「お嬢さん」モレルは苦しげな微笑を浮かべた。「僕はあなたが言ったように、エゴイストですよ。エゴイストだから、ほかの者が僕の立場だったらどうするかなんてことは考えません。ただ自分はどうするかということだけしかね。僕は一年前にあなたを知った。あなたを知ったあの日から、僕は自分の幸福のすべてをあなたの愛情に賭けて来た。そして、あなたが僕を愛して下さると言ったあの日から、僕はあなたを得ることに僕の将来を賭けた。これが僕の一生だった。今はもうなにも考えてません。ただツキが変わっただけだと自分に言いきかせるだけです。僕は天国を手にしたと思った。そしてそれを失ったのだ。賭けをする者にとって、自分が持っていたものはおろか、まだ持っていないものまでも失くしてしまうなんてことは、日常茶飯事ですからね」
モレルはこうした言葉を、静かに落ち着きはらって言った。ヴァランチーヌは、すでに心の底に渦まいていた心の乱れを、モレルの目には見せまいとしながら、その大きな目でさぐるようにモレルの顔をみつめた。
「で、これからどうなさるおつもりなの」
「僕はあなたに、さようなら、と言わせていただきます。僕の言葉をお聞き下さり、僕の心の底までも見ていて下さる神様を証人として、僕はあなたに、平和で幸福な、僕の思い出など入る余地のないほど満ち足りた人生を祈ります」
「ああ!」ヴァランチーヌがつぶやいた。
「さようなら、ヴァランチーヌ、さようなら」モレルは頭を下げた。
「どこへいらっしゃるの」叫びつつ、ヴァランチーヌは柵の間から手をのばし、マクシミリヤンの服を掴んだ。愛する男の落ち着きが本物でないことを、胸さわぎのうちに感じとっていたのだ。「どこへいらっしゃるの」
「君の家庭に新たな波風を立てぬようにするつもりだ。今の僕の立場に立ったとき、誠実な、そして愛を捧げた男がとるべき態度の模範を示すつもりだ」
「行っておしまいになる前に、何をなさろうとしているのか、おっしゃって」
青年はさびしい微笑を浮かべた。
「ああ、どうか、お願いですから、おっしゃって下さい」
「君は決心を変えたのかい」
「変えられるはずがないじゃないの、あなたにはよくおわかりのくせに」
「そう、それじゃさようなら、ヴァランチーヌ」
ヴァランチーヌは、彼女にそんな力があろうとはとても思えないほどの力で鉄柵をゆすぶった。そして、モレルが遠ざかろうとするので、彼女は柵から両手を出し、その手を組んで腕をよじらせた。
「どうなさるの、教えてちょうだい」彼女は叫んだ。「どこへいらっしゃるの」
「心配しなくていいんだよ」マクシミリヤンは門から三歩の所で足を止めた。「僕はべつに、僕のために用意されていたむごい運命の仕打ちを、もう一人の男のせいにするつもりはない。ほかの男なら、フランツ君の所へ行く、決闘を申し込んで果し合いをすると言って君を脅すかもしれない。が、それは馬鹿げたことだ。フランツ君はこのことになんのかかわりもない。あの人は今朝僕に初めて会った。会ったことなどもう忘れてしまっている。双方の家同士の約束で君たち二人が互いに結ばれることになったときには、僕という男がこの世に存在することさえ知らなかった。だから、僕はフランツ君にはなにも含むところはない。誓うよ、僕はあの人にはなにもしない」
「では誰のせいだとおっしゃるの、私のせいなの?」
「君のせい? ヴァランチーヌ、とんでもない! 女性とは神聖なものだよ。愛する女性とは、おかすべからざるものだよ」
「ご自分のせいなのね、それじゃ。ご自分のせいになさるのね」
「悪いのは僕だ、違うかい」
「マクシミリヤン、ここへ来て、お願い」
マクシミリヤンはなごやかな笑みを浮かべて近寄った。顔色さえ蒼くなければ、ふだんの彼と変わらなかった。
「よく聞いてほしい、大好きなヴァランチーヌ」歌うような、重々しい声だった。「僕たちのように、世間の前でも、両親の前でも、また神の前に出ても、顔を赤らめねばならぬようなことはただの一度も考えたことのない僕たちのような者には、互いの心が即座に読みとれてしまうものなんだね。僕は小説めいたことなど言わなかったし、メランコリックなヒーローでもない。マンフレッドやアントニーを気取るつもりもない。しかしね、口には出さずとも、宣言などしなくても、誓いなど立てなくても、僕は自分の生命を君に賭けていた。その君がいなくなる。前にも言ったし、また繰り返し言うように、君がそういうふうに行動するのは正しいことなんだ。だが、君はいなくなる。とすれば僕の生命も失われるんだ。君が僕から遠ざかるその瞬間から、僕はこの世にただ一人とり残される。妹は夫のそばで幸せにしているし、その夫は僕にとっては義理の弟でしかない。つまり、社会のしきたりが僕に結びつけているだけの男だ。だから、すでに無益のものとなった僕のこの命を必要とするものは、もうこの世にはいないんだ。僕が何をしようとしているか、わかったろう。僕は、君が結婚する最後の瞬間まで待つよ。時たま、偶然がもたらしてくれる思いがけないほんのわずかなチャンスをも逃したくはないからね。そのときまでに、デピネ君が死なないとも限らない。君たち二人が近づいた瞬間に、祭壇に雷が落ちないとも限らないからね。死刑囚にとっては、どんなことでもあり得そうに思えるものだ。もし自分の命が助かるというのなら奇蹟ですら実現の可能性のあることになってしまうんだ。だから、僕は最後の最後まで待つ。そして、僕の不幸が決定的な、とり返しのつかない、なんの望みもないものとなったらそのときには僕は義弟にすべてを打ち明ける手紙を書こう。もう一通、僕の意図を知らせるために警視総監宛のものも。そして、どこかの森の片隅か堀のかげか河の岸辺で、頭をぶち抜くつもりだ。僕が、今までにフランスで生きた男のうち最も誠実な男の伜であるということと同じぐらい確実にね」
ヴァランチーヌの四肢がわなわなとふるえた。彼女は両手で掴んでいた柵を放し、両腕が身体のわきに落ちた。二粒の大粒の涙がその頬をつたった。
青年は、娘の前に、暗い、だが決然たる顔を見せて立っていた。
「ああ、お願い、私を可哀そうだと思って、生きながらえて下さるわね」
「いや、名誉にかけて、君にはかかわりがないじゃないか。君は君の義務を果したことになる。君の良心は苦しまないはずだ」
ヴァランチーヌは跪き、はりさけそうな胸を抱きしめた。
「マクシミリヤン、ねえ、マクシミリヤン、この地上での私のお兄さま、そして天国での私のほんとうの夫なのよ、あなたは。どうかお願い、お願いだから私と同じようにして下さい。苦しみを抱いたまま、生きてちょうだい。いつかはきっと結ばれるわ」
「ヴァランチーヌ、さようなら」モレルはまた繰り返した。
「ああ、神様!」ヴァランチーヌは荘厳とも言える顔つきで両手を天にさしのべた。「ご覧下さいました通り、私は従順な娘であろうとして、私のできるだけのことはいたしました。祈り、嘆願し、哀願しても、この人は、私の祈りにも、嘆きにも、涙にも耳をかしてはくれません。それで」ヴァランチーヌは涙をぬぐい、決然たる態度を新たにしてさらに続けた。「それで、私は悔いを残して死にたくはありません。それよりは恥とともに死ぬほうを選びます。マクシミリヤン、あなたが生きて下さるなら、私はあなた以外の誰のものにもなりません。いつ? 何時に? 今すぐ? おっしゃって下さい、命令なさって下さい、いつでも私はおともします」
またすでになん歩か遠ざかりかけていたマクシミリヤンが、また戻って来た。喜びに顔を蒼くし、胸をはずませ、棚ごしに両手をヴァランチーヌにさしのべた。
「ヴァランチーヌ、そんな言い方はやめてくれないか。さもなければ、なにも言わずに死なせてほしい。もし君が、僕が君を愛しているように僕を愛していてくれるなら、君を得ることがどうして乱暴なまねということになろう。君は、ただの憐れみから僕に生きろと言うのかい。それなら僕は死んだほうがましだ」
「ほんとうのところ」ヴァランチーヌがつぶやいた。「私をこの世で愛してくれているのは誰かしら、この人だわ。私の悲しみのすべてを慰めてくれた人は誰かしら、この人。私の希望が憩い、さ迷う私の視線が止まり、傷ついた私の心が憩うのは誰かしら、この人だわ。いつだって、この人なんだわ。そう、今度はあなたが正しいわ。マクシミリヤン、どこへでもおともいたします。父の家も、なにもかも捨てましょう。ああ、私はなんという恩知らずな娘なんでしょう!」ヴァランチーヌはむせび泣きながら叫んだ。「なにもかも、忘れていたけど、あのお祖父様も」
「いや、お祖父様は捨てなくていい。ノワルチエ氏は、僕に好意的らしいと言ってたじゃないか。だから、逃げる前にあの方になにもかも打ち明けるんだ。そうすれば、神様のみ前で、君はあの方の同意を楯にとることができる。それに、結婚したらすぐ、あの方にも僕たちの所へ来ていただくんだ。君一人だった孫が二人になるわけだ。あの方が君にどうやって話をするか、君がどういうふうに返事をするか話してくれたね。僕も、その合図による痛ましい言葉を大急ぎで覚えるよ。ああ、ヴァランチーヌ、誓って言うが、僕らを待っているものは絶望ではなくて、僕が君に約束するのは幸福なんだ」
「ああ、マクシミリヤン。あなたが私に対してどれほど強い影響力を持っているか、ご覧になってみて。なんだか、あなたのおっしゃることが信じられるような気がしてきたわ。でも、あなたのおっしゃっていることは気違いじみたことなの。だって、お父様は私をお憎しみになるわ。私はお父様という人をよく知っているの。絶対にご自分の心をまげるようなことはなさらない。決して私をお許しにはならないわ。だから、よく聞いてちょうだい、マクシミリヤン、もし仮に、なにか策を講ずるなり、嘆願するなり、あるいは事故なり、そのほかなんでもいいけど、とにかくなんらかの方法で結婚を延ばすことができたら、あなた、待って下さるでしょう?」
「うん。もし君が、あんなおぞましい結婚など絶対にしない、裁判官や司祭の前につれて行かれても、『いいえ』と言うと誓ってくれるなら、僕も、待つと誓おう」
「誓います。私にとって最も神聖なもの、お母さまにかけて!」
「それじゃ、待とう」
「ええ、待ちましょう」ヴァランチーヌはマクシミリヤンの言葉にほっと息をついた。「私たちみたいな不幸に襲われた者を救ってくれるものはいくらでもあるわ」
「ヴァランチーヌ、僕は君を信用しているよ。君のやることはみなうまく行くはずだ。ただ、君の嘆願をもおしきって、お父さんなりサン=メラン夫人が、フランツ・デピネ君を明日契約書に署名するために呼んだとしたら……」
「そのときは、約束するわ」
「署名せずに……」
「あなたの所へ参ります。一緒に逃げましょう。でもそれまでは、神様を試すようなまねは止めましょうよ。会うのをよしましょう。今まで人に知られなかったのはほんとうに神様の思召しなんですもの。もしみつかったら、もし、どういうふうにして私たちが会っているかを知られてしまったら、もう施すすべはなくなってしまいますもの」
「君の言う通りだ。でもどうやって……」
「公証人のデシャンさんを通じてお知らせします」
「あの人なら僕も知ってる」
「それに私も。お手紙を差しあげます。だから、信じて下さい。ああ、マクシミリヤン、私だって、この結婚は厭でたまらないのよ」
「ありがとう、ヴァランチーヌ、ほんとうにありがとう。これで決まった。時間がわかったら直ちに僕はここへ駈けつける。僕の腕にすがって、君はこの柵を乗りこえる。簡単だよ、囲いの門の所に馬車を待たせておくから、僕と一緒にそれに乗るんだ。そして、僕は君を妹の家につれて行く。君がそうしたいというのなら人目をしのんで、また君がそのほうがいいというのなら、堂々と僕たちの力と僕たちの意志をはっきりと味わって暮らそう。僕たちは身を防ぐ力もなくただ溜息だけを洩らして首をしめられる仔羊とはわけが違うんだ」
「いいわ。今度は私が言うけど、マクシミリヤン、あなたのなさることはきっとうまく行きます」
「ああ!」
「あなたの妻にご満足?」さびしそうに娘が言った。
「ヴァランチーヌ、満足だなどと言ったって、この気持ちはとても表わせないよ」
「でも、おっしゃって」
ヴァランチーヌは柵に近づいた、というより唇を柵に近づけていた。この言葉は彼女のかぐわしい息吹とともにモレルの唇にまでただよって来た。モレルは、冷たく非情な塀のこちら側に唇をおしあてた。
「じゃ、またね、ヴァランチーヌ」彼はこの幸せから身をひきはがすようにして言った。
「手紙くれるね」
「ええ」
「ありがとう。いとしき妻よ、さようなら」
罪のない、そして見えない接吻の音がして、ヴァランチーヌは菩提樹の木の下を逃げて行った。
モレルは、アカシデをかすめるその衣ずれの音と、砂をきしませるその足音が消えるまで耳をすましていたが、えも言えぬ微笑を浮かべて目を天に向け、これほどまでに愛されることを許し給うた神に感謝の念を捧げると、彼もまた姿を消した。
青年は家に帰り、その夜一夜と、翌《あく》る日の昼間いっぱい待っていたが、手紙は来なかった。ついに翌々日の朝十時頃、公証人デシャンのもとに行こうとしていたとき、やっと一通の小さな手紙を受けとった。ヴァランチーヌの筆跡はそれまで一度も見たことがなかったが、彼にはそれがヴァランチーヌからのものということがわかった。
手紙にはこう書かれていた。
『涙も、嘆願も、祈りも無駄でした。昨日、私は二時間の間、サン=フィリップ・デュ・ルールの教会におりました。二時間の間神様に魂の底からお祈りをしたのですけれど、神様も、人間同様に私の祈りには耳をおかし下さいませんでした。契約書の署名は今晩九時と決まりました。
私には、心が一つしかないのと同じように、言葉も一つしかございません。あなたにお約束した言葉です。この心はあなたのものでございます。
ですから今夜、九時十五分前に、柵の所で。
あなたの妻
ヴィルフォール・ド・ヴァランチーヌ
追伸 祖母は気の毒に、ますます容態が悪化しております。昨日は、神経が昂ぶって錯乱状態になりました。今日は、その錯乱がひどくて、ほんとうの狂気に近いものになっています。
こんな状態の祖母を捨てたのだということを、あなたの愛情で忘れさせて下さいますわね。ノワルチエのお祖父様には、契約書の署名が今夜行なわれるということは、かくしているようです』
モレルはヴァランチーヌが知らせてくれたことだけでは満足しなかった。彼は公証人のもとを訪れ、契約書の署名がその夜九時に行なわれることを確かめた。
それから彼はモンテ・クリストの邸に寄った。そこで彼は非常に多くのことを知ったのである。フランツがこの件を伯爵に告げに来たというのだ。またヴィルフォール夫人も伯爵に手紙をよこして、その席に招かぬことを許してほしいと言って来たという。サン=メランの死および未亡人の状態からして、この席は悲しい雰囲気のものとなるので、伯爵の顔を曇らせたくない、伯爵にはあくまでも幸せでいてほしい、というのだ。
前日フランツはサン=メラン夫人に紹介されたのだった。夫人はフランツに会うためにベッドを離れたが、すぐまた床に臥したという。
推測に難くないことだが、モレルはひどく興奮していた。伯爵ほどの炯眼《けいがん》の士がそれを見逃すはずはなかった。だから、モンテ・クリストは常にもましてやさしく彼を迎えた。そのあまりのやさしさに、二度三度と、マクシミリヤンは伯爵にすべてを打ち明けてしまいそうになった。しかし彼はヴァランチーヌとの固い約束を思い出し、その秘密は彼の胸中深く秘められたままであった。
昼間のうち、マクシミリヤンはヴァランチーヌの手紙を二十回も読み返した。これは彼女が彼にくれた最初の手紙であった。それにしてもなんという状況のもとでの手紙だろう! その手紙を読み返すたびに、マクシミリヤンはわれとわが身に対して、ヴァランチーヌを幸せにするという誓いを新たにするのであった。これほど勇気を要する決意をした以上、彼女にはどんな権利でもあるはずだ。その者のためにすべてを犠牲にした彼女は、その男に対していかなる献身をも要求できるはずだ。彼女を恋する男にとっては、まさしく至上至高の崇拝の対象であらねばならぬ。妻であると同時に女王なのだ。なんぴとも、彼女に感謝し彼女を愛するに足るだけの魂を持ち合わせてはいない。
モレルは、名状しがたい興奮を感じながら、
『マクシミリヤン、ここよ。つれて行って』
と言いながらヴァランチーヌが棚の所に来る瞬間を思い描いていた。
彼はこの逃亡の計画をすっかり組立てていた。二つの梯子がすでに囲いのムラサキウマゴヤシの中にかくしてある。マクシミリヤン自身が御者となる馬車も待たせてある。召使いもつれず、灯もつけない。最初の通りの角を曲ってからはじめて角燈に火をともす。念には念を入れて、警官の手に落ちるようなまねは絶対にしてはならないのだ。
時折、戦慄がモレルの全身を走った。あの塀のてっぺんからヴァランチーヌが降りるのを手伝ってやる瞬間を思い描いた。そのときこそ、今までその手を握りしめただけ、その指先に唇を触れただけの娘の身体が、自分の腕の中でふるえ、彼の意のままになっているのを感ずることができるのだ。
だが午後になって、刻々とその時が近づいてくるのを感ずると、モレルは一人になりたくなった。彼の血は煮えたぎっていた。もし友人から質問をされただけでも、声を聞いただけでも、彼はいら立ったにちがいない。彼は自分の部屋に閉じこもった。本を読もうとした。しかし、目はいたずらにページの上を滑り、なにも読みとることはできなかった。ついに彼は本をほうり出し、また、自分の計画を、梯子のこと、囲いのことを思い描くのであった。
ついにその時が近づいた。
いまだかつて、恋する男が時計をそっとその歩みのままに歩ませたためしはない。モレルは彼の時計をひどくせかせたので、六時には彼の部屋の時計は八時半をさしていた。彼は、出かける時間だ、とつぶやいた。たしかに契約書に署名がなされるのは九時だが、そんな無用の署名などヴァランチーヌが待つはずはない。そこでモレルは、彼の部屋の時計で八時半にメレ通りの家を出て、サン=フィリップ・デュ・ルール寺院が八時を告げたとき、例の囲いに入って行った。
馬と馬車は、いつもモレルが身をかくしている小屋のかげにかくされた。
徐々に日が落ちた〔パリは緯度が高いので夏の八時はまだ明るい〕。庭の木々の葉が、黒い不透明な塊となった。
そこでモレルはかくれていた場所から出て、胸をときめかせながら柵の隙間から中を覗いた。まだ誰もいなかった。
八時半の鐘が鳴った。
三十分が、待つうちに流れた。モレルは縦横に歩き廻り、それから目を塀におしあてに来るのだが、その間隔が次第に短くなった。庭はますます暗くなっていった。しかしその闇の中をいくらすかして見ても、白い服の姿は見えず、しんと静まりかえった中に、足音は聞こえてこなかった。
木の葉ごしに見える家は暗く沈み、結婚契約の署名というようなおごそかな行事がとり行なわれている家にふさわしい様子は、そのどこにも見られなかった。
モレルは時計を見た。九時四十五分である。が、すでに二、三回耳にした大時計が九時半を打つ音によって、すぐに彼の時計の誤りが訂正された。
すでにヴァランチーヌ自身が決めた時間よりも、三十分も余計に待ったことになる。彼女は九時、それもそれ以後ではなくそれ以前に、と言っていたのだ。
青年の心臓にとっては恐ろしい時の流れであった。その一秒一秒が、心臓にまるで鉛の槌《つち》のように打ちおろされていた。
どんなにかすかな葉ずれの音も、どんなに軽やかな風のそよぐ音も、彼の耳をそばだたせ、彼の額に汗をにじませた。彼はすぐさま、全身をおののかせながら梯子の位置を直し、一瞬をも無駄にしないために、その最初の段に足をのせるのであった。
この不安と希望との交錯する間に、胸がふくらみまた締めつけられる間に、教会の鐘が十時を告げた。
「おお」マクシミリヤンは怯えつつつぶやいた。
「契約書の署名にこんなに時間がかかるはずはない、なにか突発的な事故でもなければ。僕はありとあらゆる場合を考えてみた、いっさいの手続きがすむまでの時間を計算してもみた。きっと何かあったのだ」
そして、彼はいらいらと棚の前を歩き廻り、また戻って来ては冷たい鉄柵に燃える額をおしあてた。署名の後、ヴァランチーヌが気を失ってしまったのではないか。さもなければ、逃げる途中で捕まってしまったのではないか。青年が考えた仮定はこの二つであった。いずれも、絶望的なものだが。
彼がふと考えたのは、逃げる途中、気力の尽きたヴァランチーヌが、気を失い、庭のどこかの小径に倒れているのではないかということであった。
「ああ、もしそうなら、僕は彼女を失うことになる、しかも僕のせいで」叫ぶなり彼は梯子のてっぺんに躍り上がっていた。
この考えを彼にふきこんだ悪魔は、彼にとりついて離れなかった。そして、ふと浮かんだ疑いが一瞬後には理性で裏うちされて確信となってしまうほどの、あの執拗さで耳もとにささやき続けたのである。ますますその濃さを増す闇を見すかそうとする彼の目には、暗い小径になにかが横たわっているように見えた。モレルは思いきってヴァランチーヌの名を呼んだ。風が、聞きとれぬほどの呻き声を彼のもとに運んで来るような気がした。
ついに十時半が鳴った。もはやそれ以上自分を抑えることは不可能であった。どんなことも推測可能である。マクシミリヤンのこめかみは激しく脈打っていた。目の前を暗い影がよぎった。彼は塀を乗りこえ、内側に飛び降りた。
彼はヴィルフォールの邸内にいた。盗賊のように侵入したのだ。彼は、このような行為の後に来る事態を考えた。しかし、いまさら引き退るくらいならば、はじめから入ったりはせぬ。
一瞬の後には、彼はその茂みのはずれまで来ていた。彼が到達したその場所からは家がまる見えだった。
そのときモレルは、木の間ごしに目を走らせながら、すでに予測していたある一つの事実を確かめた。それは、儀式のとり行なわれる日にはそれが普通であるはずの、窓々に輝く光は見えず、ただ灰色の塊でしかない建物、それも、月の上にひろがる大きな雲の投げかける影にすっぽりと包まれた建物の姿しか目に入らなかったことである。
灯が一つ、時おりうろたえたように走る。一階の三つの窓の前を通るのだ。その三つの窓は、サン=メラン夫人の部屋の窓であった。
もう一つ別の灯は、赤いカーテンのかげでじっと動かぬ。そのカーテンは、ヴィルフォール夫人の寝室のものであった。
モレルはこうしたことをすべて見抜いた。日中いつでも、頭の中でヴァランチーヌの姿を追うために、数知れぬほど、そう、数知れぬほどなん回も、彼はこの家の間取りを思い描いていたから、実際に見たことはなくても、様子を知っていたのである。
青年は、この暗さ、この静けさに、ヴァランチーヌが来ないこと以上の恐怖を感じた。
不安のあまり度を失い、気も狂わんばかりになり、もう一度ヴァランチーヌに会い、たとえそれがどのようなものであろうと、予感される不幸の実態を確かめるためには、どんなことでもする覚悟を決めたモレルが、茂みの境まで行き、身をかくすものはなに一つない花壇を、できるだけ早く走り抜けてしまおうと身がまえたとき、まだかなり離れてはいるが、人の話す声が風に運ばれて、彼の耳もとにまで届いた。
この声に、彼は一歩退いた。すでに葉の茂みから身体半分のり出していた彼は、また全身を茂みにかくし、闇に身を沈めて息をころし、じっと動かなかった。
心はすでに決まっていた。もしそれが、ヴァランチーヌ一人だったら、通りがかりに一言声をかけて自分がいることを知らせる。もしヴァランチーヌにつれがいたとしても、少なくとも彼は彼女の姿を見ることができるのだ。そして、彼女自身に悪いことが起きたのではないことを確かめることになるのだ。もし、見も知らぬ者であれば、その交わされる言葉のなにがしかを聞くことができよう。そして、そのときまではどうにも解くことのできなかった謎が、解けるかもしれない。
雲にかくれていた月が、そのとき雲から出た。正面階段の戸口の所に、ヴィルフォールと、その後ろに黒い服を着た男の姿が現われるのをモレルは見た。二人は階段を降りて来る。そして、茂みのほうへ進んで来る。二人が四歩と歩かぬうちに、その黒い服の男が医者のダヴリニーであることが、モレルにはわかった。
彼らが自分のほうに来るのを見て、青年は思わず後ずさった。茂みの主木をなしている大きなカエデの幹が背中に触れた。それ以上、後ずさりするわけにはいかなかった。
やがて、この二人の散歩者の足もとでの砂の音がやんだ。
「いや、先生、これはまさしく天が私の家の敵であることを示したのだ」検事が言う。「なんという恐ろしい死に方だ。まるで落雷に打たれたかのようだ。私を慰めようとはしないでほしい。傷はあまりにも深く、なまなましい。死んだ、死んでしまったのだ!」
青年の額を冷たい汗が冷やし、歯をがちがちいわせた。ヴィルフォール自身が、神に呪われた家と言ったその家で、いったい誰が死んだというのか。
「ヴィルフォール君」医者の声の調子が、青年の不安をさらにかきたてた。「君をここへ誘ったのは、慰めるためではない。その逆だ」
「と、言うと?」検事は怯えた。
「今しがた君を襲った不幸のかげに、もう一つ、たぶんもっとひどい不幸がひそんでいるという意味だよ」
「ええ?」両手を組み合わせてヴィルフォールは呻いた。「これ以上、何を言おうというのだ」
「たしかにわれわれのほかには誰もいないだろうね」
「もちろん、誰もいない。が、どうしてそんなことを気にしなければならない」
「君に、大へんなことを言わねばならないからだ。ま、坐ろう」
検事は、腰をおろすというよりは、むしろ倒れこむようにベンチに腰を落とした。医師は検事の前に立ったままであった。片手を検事の肩に置いていた。モレルは、恐怖のあまり凍りついたようになり、一方の手で額をおさえ、もう一方の手で、その鼓動の音を聞きとられるのではないかと思えるほどの心臓をおさえた。
『死んだ、死んでしまった』彼は心臓の鼓動とともに、胸中に繰り返していた。
彼自身死ぬような気がした。
「話してくれないか、伺おう」ヴィルフォールが言った。「どんなことでもいい、私は驚かぬ」
「サン=メラン夫人はたしかに高齢だったにはちがいない。が、健康状態はすこぶるよかった」
モレルは、その十分間で、はじめて息をついた。
「悲しみのあまり死んだんだよ」ヴィルフォールが言った。「そう、悲しみのあまりだ。四十年もの間、侯爵のそばで暮らしたんだもの」
「ヴィルフォール、悲しみのあまり死んだのではない」医師が言った。「たしかに悲しみのあまり死ぬということはある。きわめて稀だがね。しかし、たった一日で、一時間で、十分で死ぬなどということはない」
ヴィルフォールはなにも答えなかった。ただ、そのときまで伏せていた顔を上げただけである。彼は、怯えた目で医師を見た。
「君は臨終のとき、ずっとあそこにいたね」ダヴリニーが訊ねた。
「もちろん。君が低声《こごえ》で、離れるなと言ったではないか」
「サン=メラン夫人が亡くなった病気の症状を君はよく見ていたかね」
「もちろん、サン=メラン夫人は数分おきに三回連続して発作に襲われた。回を追って間隔が短くなり、発作もひどくなった。君が来てくれたときは、もうその少し前から夫人は喘ぐような息をしていた。そのとき発作に襲われたんだが、私はただの神経的な発作だと思った。しかし、手足と首をぐんとのばしてベッドの上に起き上がったのを見て、これはいかんと思い始めたのだ。君の顔つきから、容態は私が考えている以上に悪いんだなと思った。発作がおさまったとき、私は君の目を見ようとしたが、君の目を見ることはできなかった。君は脈をとっていたからね。まだ君が私のほうに向き直らぬうちに二度目の発作が来た。最初のものより恐ろしい発作だった。同じような神経的な四肢の痙攣《けいれん》が起こり、口はひきつり紫色になった。
三度目の発作で夫人は息を引きとった。
最初の発作が終ったときから、すでに私は破傷風の徴候を認めた。君もこれに同意してくれた」
「うん、人前だったからね。しかし今は君と二人だけだ」
「いったい、何を言おうというのだ」
「破傷風の症状と、植物性の毒物による中毒の症状は、まったく同じだということをだ」
ヴィルフォールはいきなり立ち上がった。そして、しばらくじっと口もきかずにいたと思うと、また崩れるようにベンチに腰を落とした。
「ああ、なんということだ。君は言っている言葉の意味をよくよく考えてのことか」
モレルは自分が夢を見ているのか目覚めているのかわからなかった。
「いいかね」医師が言った。「私は自分が言ったことの重大性をよく心得ているし、どういう相手に言っているかも心得ている」
「君は、司法官に対して言っているのか、それとも友人に対して言っているのか」
「友人にだ。今のところはただの友人としての君にだ。破傷風の症状と植物性毒物による中毒症状は、あまりにも酷似しているので、私の証言に署名を求められると、たしかにためらわざるを得ない。だから、繰り返し言うが、私が言うのは、検事としての君にではなく、あくまでも友人としての君なのだ。ところで、その友人たる君に対して言うが、臨終の苦しみが続いたあの四十五分間、私はその模様、痙攣の具合、死に方を仔細《しさい》に観察した。そこで私は、サン=メラン夫人が毒物により死亡したと信じているばかりでなく、そう、その毒物の名前もわかっている」
「おお、なんということを」
「条件はみな揃っているじゃないか。神経的な発作でしょっちゅう中断される嗜眠《しみん》状態、脳の異常興奮、中枢の麻痺。サン=メラン夫人は偶然か、過失かでのまされた多量のブルシンないしストリキニーネによって毒殺されたのだ」
ヴィルフォールは医師の手を掴んだ。
「そんな馬鹿な! 私は夢を見ているのだ。これは夢なのだ。君のような男の口からそんなことを聞くとは! ああ、お願いだ、君にも思い違いをすることはあると言ってくれないか」
「たしかに、それはあり得る。しかし……」
「しかし?」
「しかし、私はそうは思わない」
「私を憐れと思ってくれ。ここ数日来、あまりにも意外なことばかり起きるので、私は気が狂いそうな気さえしているのだ」
「私以外の誰かが、サン=メラン夫人を診たかね」
「誰も」
「私の目にふれない処方を薬局に持たせたようなことは?」
「まったくない」
「サン=メラン夫人には敵がいたのか」
「私の知る限りではいない」
「夫人が死んで利益を得る者は?」
「いるものか、とんでもない。娘だけが夫人の遺産相続人だ、ヴァランチーヌだけだ……ああ、もしそんな考えがちらとでも私の心をかすめたら、一瞬たりともそんな考えを抱いたこの心を罰するために、私は自分の心臓に短刀を突き立てるだろう」
「おお、私はなにも誰か悪人がいると言っているのではない」今度はダヴリニーが大声で言った。「なにか事故、いいか、なにか過失があったのではないかと言っているだけだ。だが、事故にしろ過失にしろ、私の良心にひそかに語りかける事実がここにある。私の良心に、君にはっきり言えと命ずる事実がね。調べてみたまえ」
「誰を、どうやって、何を」
「それはたとえば、あの老僕のバロワだ。彼がまちがえて、自分の主人用の水薬をサン=メラン夫人にのませたというようなことはないか」
「父用のを?」
「そう」
「しかしノワルチエの水薬で、どうしてサン=メラン夫人を毒殺したりできるのか」
「それは簡単至極なことだ。君も知っての通り、病気によっては毒物が治療に用いられる。卒中もその一つだ。ノワルチエ氏に四肢の自由、言葉の自由を回復させようとあらゆる薬を用いたあげく、ほぼ三か月前から私は最後の手段を試みる決心をした。三か月前から、私はブルシンを治療に用いているのだ。だから、この前ノワルチエ氏用として投与した水薬には、〇・〇六グラムのブルシンが入っている。ノワルチエ氏の麻痺した身体には、〇・〇六グラムのブルシンはなんの作用も及ぼさない。第一、次第に増量して身体が慣れているからね。しかし、○・〇六グラムのブルシンは、彼以外の人間にとっては致死量だ」
「しかし君、ノワルチエの部屋とサン=メラン夫人の部屋との間には通路などないし、バロワは一度も義母《はは》の部屋に入ったことはない。つまり、私が言いたいのは、君がきわめてすぐれた医者であること、とりわけきわめて良心的な医者であることは十分承知しているが、そしてまた、どんな場合にも君の言葉は、太陽の光にも等しいほどに光り輝く松明《たいまつ》として私を導いてくれるものではあるけれども、しかしだ、それにしても、そう信じてはいるけれども、私は『過《あやま》ツハ人《ひと》ノ性《さが》ナリ』というあの公理にすがらずにはいられないのだ」
「ヴィルフォール」医師が言った。「誰か、私と同じぐらい君が信用できる医者がいるか」
「どうしてまたそんなことを。どうするつもりなのだ」
「その医者を呼べ。私が見たこと、気づいたことを、私はその医者に話そう。そして二人で解剖してみる」
「そうすれば毒物が検出されるのか」
「いや、毒物ではない。そんなことは言ってない。が、神経系統の悪化が確認され、明白な疑う余地のない窒息の症状を認めることになろう。そしてこう言うだけだ。ヴィルフォール、もしこういう事態が起きたのが不注意によるものだとしたら、召使いたちの監督を厳重にしたまえ、もしこれが恨みによるものなら、君の敵に気をつけたまえ、とね」
「ああ、ダヴリニー、なんということを言うのだ」うちのめされたヴィルフォールが答えた。「君以外の者がこの秘密を知れば、捜査が必要となる。私の家を捜査する、そんなことはできぬ! しかし」と、検事は思い直し、不安そうに医師の顔をみつめながら続けた。「しかし、君がそれを望むなら、どうしてもそうしろと言うのなら、私はそうしよう。たしかに私は、この事件に決着をつけねばなるまい。私の性格からすればそうだ。だが、すでに私が悲しみにうちひしがれていることは君も知っていよう。これほどの苦しみの後に、どれほど多くのスキャンダルをわが家にひきこむことになるか! ああ、家内も娘も、そのために死んでしまうだろう。そして、この私は、私は、ねえ君、今の私の地位に昇るためには、二十五年もの間検事を続けているためには、多数の敵を作らねばならない。私の敵は多勢いる。この事件が言いふらされれば、彼らは勝ち誇って歓喜に身をふるわせるだろう。そしてこの私はただ恥辱にまみれるだけだ。こんな世俗的なことを考えるのを許してほしい。もし君が僧侶なら、こんなことは言わぬ。だが君は生身の男で、人間というものをよく知っている男だ。君は私にはなにも言わなかった、そうしてくれないか」
「ヴィルフォール君」医師は心を動かされた。「私の第一の義務はヒューマニズムだ。もし科学にそれだけの力があったら、私はサン=メラン夫人を救うことができただろう。だが夫人は死んだ。とすれば私には生きている人たちに対する義務がある。この恐ろしい秘密は、われわれ二人の胸中深く秘めておこう。もし誰かの目がこれを見破ったら、私が黙っていたのは私の無知のせいだと言ってくれていい。だがね、調べるのだ、精力的に調査したまえ。これが、このまま済むとは思えないからね……そして、もし犯人をみつけたら、そのときこそ私は君にこう言うよ、『君は司法官だ、思う存分やりたまえ』とね」
「ああ、ありがとう、ほんとうにありがとう」ヴィルフォールは筆舌に尽しがたい喜びをこめて言うのだった。「君ほどの友を私は持ったためしがないよ」
そして、ダヴリニーがこの妥協をひるがえすのを恐れるかのように、彼は立ち上がり、医師を家のほうにつれて行った。
二人は遠ざかって行った。
モレルは、息を吸うためでもあるかのように茂みから首を出した。そして、亡霊のものかと思えるほどに蒼いその顔を月が照らした。
「神は、はっきりと、しかし恐ろしいやり方で僕をお守り下さった。だがヴァランチーヌ、可哀そうなヴァランチーヌは、これほど多くの苦しみに耐えられるだろうか」
こう言って、彼は赤いカーテンの窓と、白いカーテンの三つの窓とを交互に眺めた。
赤いカーテンの窓にはほとんど光が見られなかった。おそらくヴィルフォール夫人がランプを消し、常夜灯のみが窓ガラスにその光を投げていたのだろう。
建物の端のほうは反対に、白いカーテンの三つの窓の一つが開けられるのをモレルは見た。暖炉の上の一本のろうろくが、か弱い光を家の外に投げていた。そして、一つの人影が一時、バルコニーの所へ来て肘をついた。
モレルははっとした。むせび泣く声が聞こえたように思ったのだ。
ふだんはあれほど勇敢でたくましい彼の魂が、愛と恐怖という、人間の感情のうち最も強烈な二つのもので乱され興奮させられている今、迷信的な幻覚をも受け入れてしまうほどに弱められていたとしても不思議ではない。彼のように身をひそめていては、ヴァランチーヌの目が彼の姿を認めることなど不可能であるのに、彼はその窓辺の人影に自分が呼ばれているように思った。彼の乱れた頭がそうささやき、燃える心がそれを繰り返した。この二重の錯覚が、抗《あらが》いがたい現実となり、理解の域を逸脱した若さの衝動にかられ、彼は身をひそめていた場所から躍り出て、人に見られる危険をも、ヴァランチーヌを怯えさせる危険をも、娘がわれにもあらず悲鳴を上げて家中の者を呼び集めてしまう危険をもかえりみずに、月に照らされて大きな白い湖のように見える花壇を一気に走り抜けた。そして、家の前に並んでいたオリーブの木の植木箱の所まで来ると、正面階段の段にとりつき、階段を駈け上がり、彼はドアを押した。抵抗もなく彼の前のドアが開いた。
ヴァランチーヌは彼を見ていなかった。彼女の目は空に向けられ、紺青の空を滑る銀色の雲を追っていたのだ。その雲の形は、昇天する亡霊のようであった。詩的な昂揚した彼女の心は、あれは祖母の魂だとささやいていた。
そのうちにも、モレルは控えの間を通り抜け、階段の手摺りをさぐりあてていた。階段に敷きつめてあるじゅうたんが彼の足音を殺した。第一、モレルは興奮の極に達していたので、ヴィルフォールがそこにいたとしても怯《ひる》むものではなかった。もしヴィルフォールの姿が見えたら、彼の心はすでに決まっていた。彼はヴィルフォールに近づき、いっさいを告白し、自分を彼の娘に、彼の娘を自分に結びつけている愛を許し同意を乞うつもりであった。モレルは気が狂っていたのだ。
幸い、誰にも会わなかった。
ヴァランチーヌから聞いて知っていた、家の内部の間取りの知識が役に立った。彼は無事に階段を上りきった。そこまで来て方角をたしかめようとしたとき、聞き覚えのあるすすり泣きの声が、彼にたどるべき道を教えた。彼は向きを変えた。半ば開かれたドアから、一条の光とむせび泣く声とが彼の所まで洩れて来ていた。彼はそのドアを押し、中に入った。
壁のくぼみの所の、顔を覆い、身体の線を見せている白いシーツの下に、死体があった。偶然知らされてしまったあの秘密を知っているだけに、モレルにはそれがいっそう恐ろしいものに思えた。
ベッドのかたわらの、大きな安楽椅子のクッションに顔を埋めて跪いているヴァランチーヌは、身をわななかせ、むせび泣きにしゃくり上げながら、組み合わせこわばらせた手を、誰にも見えない頭の上にさしのべていた。
彼女は窓を開け放したまま窓辺を離れたのだった。そして、声高に祈りを捧げていた。どれほど無感覚な心をも打たずにはおかぬ声の調子であった。早口に、支離滅裂に、ほとんど聞きわけられぬほどの祈りの言葉が彼女の口から洩れていた。それほどに、焼けつくような苦しみに喉をしめつけられているのだった。
鎧戸の隙間から洩れ入る月の光が、ろうそくの光を弱め、このなんとも痛ましい姿をその不吉な色合いで青白く染めていた。
モレルはこの光景に耐えきれなかった。彼は人並以上の慈悲心の持ち主ではなかったし、情にもろいほうでもなかったが、目の前で苦しみ、涙を流し、腕をよじっているヴァランチーヌは、もはや黙って見ていられる姿ではなかった。彼は吐息を洩らし、名前を口にした。すると、涙にひたり、椅子のビロードの上に石像と化していたコレッジヨ描くところのマグダレナの顔が上げられ、彼のほうを向いた。
ヴァランチーヌは彼を見た。驚いた様子は少しもなかった。絶望の極にある心には、生半可《なまはんか》な感情など抱く余地はないのだ。
モレルは愛する者に手をさしのべた。ヴァランチーヌは、彼に会いに行かなかったことの言いわけを言うかわりに、ただ白布に覆われて横たわる遺骸をさし示し、またむせび泣くのであった。
どちらもこの部屋では口をきく勇気はなかった。死の女神が部屋のどこかに立っていて、唇に指をあて、沈黙を命じているように思えて、それを破ることはためらわれたのだ。
が、ついにヴァランチーヌが最初に口を開いた。
「どうやってここへいらしたの? あなたのためにこの家の扉を開けたのが死の女神でさえなかったら、私は、ほんとうによく来て下さいました、と申し上げるのに」
「ヴァランチーヌ」モレルは、手を組み、ふるえる声で言った。「僕は八時半からあそこにいた。いつまでたっても君が来ないから、心配になって、塀をのり越えて、庭にしのび込んだんだ。そのとき、この痛ましい出来事を話している人の声がした……」
「誰の声?」
モレルはぞっとした。医師とヴィルフォールの会話が逐一脳裏によみがえって、白布ごしに、そのよじれた腕、こわばった首、紫色の唇が見えるような気がしたからだ。
「使用人たちの話し声でなにもかもわかったんだ」
「それにしても、ここまでおいでになるなんて、私たちお終いになってしまうわ」ヴァランチーヌは怯える様子も咎める様子もなく言った。
「悪かった。すぐ帰る」モレルが同じ調子で言った。
「いけないわ。誰かに会うかもしれませんもの。ここにいらして」
「でも、誰かここへ来たら?」
娘は首を振った。
「誰も来ません。安心なさって下さい。あそこに私たちの守護神がいらっしゃるわ」
こう言って彼女は、身体の形がはっきりそれとわかる白布の下の遺骸を指さした。
「が、デピネ君はどうした、教えてくれないか」
「フランツさんが契約書に署名なさるためにおいでになったとき、お祖母さまが息を引きとったんですの」
「ああ!」利己的な喜びを感じながらモレルが言った。この祖母の死が、ヴァランチーヌの結婚を際限もなく延ばすであろうとひそかに考えたからである。
「でも、私の悲しみをなおのこと深くしたのは」と、そんな気持ちに直ちに罰を加えるようにヴァランチーヌが続けた。「お祖母様が、いまはのきわに、できるだけ早く式を挙げるようにとお命じになったことなの。お祖母様までが、私の味方をするおつもりで、そのじつ、私の敵になってしまわれたのよ」
「しーっ」モレルが言った。
若い二人は口を閉じた。ドアの開く音がした。廊下にひびく足音が聞こえ、階段を踏む足音がする。
「父が書斎から出て来たんだわ」
「先生を送るんだね」モレルが言い添えた。
「どうして先生だってことがわかるの」驚いたヴァランチーヌが訊ねた。
「たぶんそうだろうと思っただけだ」
ヴァランチーヌは青年の顔をみつめた。
その間に、通りに面した扉の閉まる音がした。ヴィルフォールは、庭へ出るドアにも鍵をかけ、また階段を上がって来た。
控え室まで来ると、一瞬立ち止まって、自分の部屋に戻ったものか、それともサン=メラン夫人の部屋に入ったものかと迷う様子だった。モレルはさっと扉のカーテンのかげに身をひそめた。ヴァランチーヌは身じろぎもしなかった。悲しみの極にあれば、ありきたりの恐怖心など超越してしまっているといったふうであった。
ヴィルフォールは自分の部屋に入った。
「こうなっては、もう庭のドアからも、玄関からも出られないわ」
モレルはぎょっとしてヴァランチーヌの顔を見た。
「こうなったら、安全に出られる出口は一つしかないわ。お祖父様の部屋の出口」
彼女は立ち上がった。
「こちらへいらっしゃい」
「どこへ?」
「お祖父様の所」
「僕がノワルチエ氏の所へ?」
「そうよ」
「そんなことを考えてるのかい」
「ええ、ずっと前から。私にはこの世に味方は一人しかいないんですもの。私たち二人には、お祖父さまが必要なのよ……さあ」
「ヴァランチーヌ、大丈夫かい」娘の言うことにそのまま従っていいかどうかためらいながらモレルは言った。「僕は今になって目が覚めた。ここへ来るなど狂気の沙汰だったんだ。君は、君の理性は大丈夫なんだろうね」
「大丈夫、私はなにも心にやましいことはありません、私がお守りしようと思っていたお祖母様の遺骸をここに置き去りにしてしまうことをのぞけば」
「ヴァランチーヌ、死はそれ自体神聖なものだよ」
「そうね、それに、そんなに長い間ではないはずだわ」
ヴァランチーヌは廊下を渡り、ノワルチエの部屋に通ずる狭い階段を降りた。モレルは足音を忍ばせて後に続いた。ノワルチエの部屋の踊り場に来たとき、二人は老僕に出会った。
「バロワ、ドアを閉めて、誰も中に入れないでちょうだい」ヴァランチーヌが言った。
ヴァランチーヌが先に入った。
ノワルチエはまだ椅子に坐っていて、ほんのかすかな物音にも耳をすまし、老僕から家の中の出来事を逐一報告を受け、部屋の入口にむさぼるような目を向けていた。ヴァランチーヌの姿を見て、彼の目が輝いた。
ヴァランチーヌの物腰態度には、なにか真剣な荘重なものがあって、これが老人の胸を打った。輝いていたその目が、問いかけるような眼差しに変わった。
「お祖父様」彼女は短く言った。「よくお聞きになってちょうだい。ご存じのように、サン=メランのお祖母様が一時間前にお亡くなりになりました。もう私には、お祖父さまよりほかに、私を愛して下さる人はいないの」
老人の目を、限りない慈愛の色がよぎった。
「だから、お祖父様にしか、私の苦しみ、いえ、私の望みを打ち明ける人はいなくなってしまったの、そうでしょう?」
全身不随の老人が、そうだという合図をした。
ヴァランチーヌはマクシミリヤンの手をとった。
「ねえ、この方をよくご覧になって」
老人は、さぐるような、そしてわずかばかり驚いたような目をモレルに注いだ。
「この方はマクシミリヤン・モレルさんです。たぶんお祖父様も噂をお聞きになったことがあると思うけれど、マルセーユのあの誠実な貿易商のご子息です」
『聞いたことがある』
「このモレルという名は非のうち所がありません。マクシミリヤンは、その名をさらに栄誉あるものにしようとしています。三十歳なのに、もうアルジェリア騎兵の大尉で、レジヨン・ドヌール四等勲章の受勲者なんですもの」
老人は、思い出したという合図をした。
「それでね、お祖父様」ヴァランチーヌは老人の前に跪き、一方の手でマクシミリヤンをさし示しながら、「私はこの方を愛しているの、この方以外の人のものにはなりません。もし、どうしてもほかの人の嫁になれと言われたら、私は悲しみのあまり死んでしまうか、さもなければ自殺してしまいます」
病人の目が、千々に乱れた心を示した。
「お祖父さまは、マクシミリヤン・モレルさんがお好きでしょう?」
『好きだ』動けぬ老人が答える。
「それなら、私たち二人を、二人ともお祖父様の孫なんですもの、二人をお父さまのご意志から守って下さるわね」
ノワルチエはその聡明な目をモレルに注いだ。
『それは君次第だ』と言っているようであった。
マクシミリヤンはその意味を理解した。
「お嬢さん、あなたにはお祖母様の部屋で果さねばならない神聖な義務がある。しばらく僕にノワルチエ氏と話をさせてもらえませんか」
『そうだ、その通りだ』老人の目が言った。
それから不安そうな目をヴァランチーヌに向けた。
「お祖父様のおっしゃることがわかるかっておっしゃりたいのね」
『そうだ』
「それなら大丈夫。私たちはしょっちゅうお祖父様のことを話してましたから、私がお祖父様とどうやってお話しをするか、この方もよくご存じなの」
こう言うと、彼女は、深い悲しみの色に覆われてはいるが、じつに美しい笑顔をマクシミリヤンに向けながら、
「この方は、私の知っていることはなんでも知っているわ」
ヴァランチーヌは立ち上がり、モレルのために椅子を引き寄せると、バロワに、誰も部屋の中に入れるなと命じた。そして、祖父にやさしく接吻し、モレルにさびしそうにさよならを言って部屋を出た。
モレルは、ヴァランチーヌからなんでも聞いている、祖父と孫娘との間だけの秘密も知っていることを示すために、辞書とペンと紙をとり、ランプののせてあった机の上にそれらを並べた。
「まずはじめに、僕がどういう男か、どれほどヴァランチーヌさんを愛しているか、これからあの人をどうするつもりかをお話ししたいと思いますが」
『伺おう』老人が言った。
この老人の姿はかなり威圧的なものであった。見かけは役に立たぬお荷物でしかないが、若く、美しく、たくましく、人生の第一歩をふみ出したばかりの二人の恋人にとっては、今やただ一人の保護者、ただ一人の心の支え、ただ一人の審判者となっていたのだ。
人並すぐれた気品と峻厳さの刻まれたその顔がモレルを威圧した。モレルはふるえながら話し始めた。
彼は、どのようにしてヴァランチーヌを知り、ヴァランチーヌを愛するようになったか、そして、孤独と不幸のさ中にあったヴァランチーヌが、どのように彼の献身的な愛を受け入れてくれたかを物語った。自分の出生、地位、資力について話した。一度ならず彼は病人の目に問いかけたが、その目はいつも、
『わかった、続けたまえ』と答えていた。
話のはじめの部分を語り終えたとき、モレルは言った。
「僕の愛、僕の希望は申し上げましたから、これからどうするか、その計画についてもお話ししなければならないと思いますが」
『話したまえ』
「ではお話ししますが、僕たちはこう決めたのです」
彼は、すべてをノワルチエに語った。馬車を囲いの中にかくしてあること、ヴァランチーヌをさらって行くこと、妹の家へつれて行き、結婚するつもりだということ。そして、やがてはヴィルフォール氏も許してくれるのではないかと、尊敬をこめて期待していること。
『いかん』ノワルチエが言った。
「いけませんか。このやり方は駄目でしょうか」
『駄目だ』
「では、この計画には賛成していただけないのですね」
『賛成できぬ』
「それなら、もう一つ別の手段があります」
老人の問いかけるような目が訊ねた。
『どういう手段か』
「フランツ・デピネ君に会いに参ります。これをヴァランチーヌさんのいない所で言えるのをうれしく思いますが、会ってデピネ君が紳士的にふるまわざるを得ないようにし向けます」
ノワルチエの目が問いかける。
「どういうふうにするか、とおっしゃるのですね」
『そうだ』
「それはこうです。申し上げたように会いに行って、ヴァランチーヌさんと僕とを結びつけている絆を説明します。もしこまやかな感情の持ち主なら、フィアンセとの結婚を諦めることによって、その繊細な心を見せてくれるでしょう。そうなれば、その瞬間から、僕は死ぬまで友情と献身とを彼に捧げます。もし、利害感情におし流されるなり、下らない自尊心からこの結婚に執着して、彼が拒んだ場合は、それは彼が僕の妻を束縛することで、ヴァランチーヌは僕を愛していて僕以外の男は愛せないのだということを十二分に説明してから、あらゆる有利な条件を彼に与えて、彼と決闘をします。僕が彼を殪《たお》すか、彼が僕を殪すかです。もし僕が彼を殪せば、彼はヴァランチーヌを妻とすることはできません。もし彼が僕を殪せば、僕には確信がありますが、ヴァランチーヌは彼の妻にはなりません」
ノワルチエは、えも言われぬ喜びを味わいながら、その気品のある誠実な顔つきを眺めていた。その顔には、言葉が言い現わすすべての感情がにじみ出ており、しかも、いわばしっかりした正確なデッサンに色彩がつけ加え得るもののすべてを、その端正な顔の表情がそこにつけ加えていた。
しかし、モレルが話し終えたとき、ノワルチエはなん回も目を閉じた。それは、ご承知の通り、『否』を意味するものであった。
「いけないんですか。このプランも前のものと同じように、賛成していただけないんですね」
『そう、不賛成だ』
「でも、それではどうすればいいのでしょうか。サン=メラン夫人が最後に残された言葉は、孫娘の結婚を直ちに行なうように、というものだったのです。では、なり行きにまかせねばならないのでしょうか」
ノワルチエは不動のままであった。
「わかりました、待たねばならないのですね」
『そうだ』
「でも、ぐずぐずしていれば、僕たちはお終いなのです。ヴァランチーヌ一人では、力もないし、まるで子供のように言うことをきかせられてしまいます。どうなっているのか知るためにここまで入って来られたのも奇蹟なら、あなたにお目通り願えたのも奇蹟です。とてもこんなチャンスが二度と訪れるとは考えられません。僕が申し上げた二つのプラン、僕の若さに免じて傲慢な言い方をするのを許していただきたいのですが、あの二つのプランのうちのどちらかしか、とるべきプランはないんです。どちらをよりよいとお考えかおっしゃって下さい。ヴァランチーヌさんが、僕の誠実さに身を委ねることをお許し下さいますか」
『いや』
「僕にデピネ君に会いに行けとおっしゃいますか」
『いや』
「ああ、われわれが神に期待する救けなど、いったい誰がもたらしてくれるでしょう」
老人は目で笑った。人が神の名を口にするときいつも笑うのだ。この老ジャコバン党員の心には、まだわずかばかりその無神論の名残りが残っていたのである。
「偶然が与えてくれるんですか」
『いや』
「あなたがですか」
『そうだ』
「あなたが」
『そうだ』老人は繰り返した。
「僕がお訊ねしていることの意味が十分にわかっておいでなのでしょうか。こんな念をおして申し訳ありません。しかし、僕の命はあなたのご返事にかかっているのです。僕たちを、あなたが救って下さるとおっしゃるのですか」
『そうだ』
「確信がおありですか」
『ある』
「責任を持って下さいますか」
『持つ』
こう言いきったその目には断乎たるものがあったので、はたしてそれだけの力があるかどうかはともかく、少なくともその意志だけは疑う余地がなかった。
「ああ、ありがとうございます。ほんとうにありがとうございます。でも、神様があなたに言葉と身ぶりと動きとをお返し下さらない限り、どうやって、その椅子に縛りつけられたままのあなたが、口もきけず動くこともできないあなたが、どうやってあの結婚に反対なさることができるのですか」
老人の頬をある微笑が輝かせた。動かぬ顔の中で目だけが笑う不思議な微笑だった。
「では、待つしかないんですね」青年は訊ねた。
『そうだ』
「でも契約書は?」
同じような微笑が浮かんだ。
「署名は行なわれないとおっしゃるんですか」
『そうだ』
「署名すら行なわれない!」モレルは叫んだ。
「あ、お許し下さい。あまりに大きな幸せを告げられた場合は、疑ってみても仕方がないじゃありませんか。契約書には署名されないんですね」
『そうだ』全身不随の病人が言った。
こう保証されても、モレルはまだ信じきれなかった。手足のきかぬ老人がしたこの約束はあまりにも常軌を逸している。強固な意志から生まれたというよりは、諸器官の衰えから来たものではないのだろうか。自分の狂気に気づかぬ狂人が、自己の力をはるかにこえることをやってみせると言いはるのは、普通のことではないだろうか。力の弱い者ほど重い物を持ち上げてみせたと言いふらし、臆病者ほど巨人と戦ったなどと言い、貧乏人ほど巨万の富を手にしたことがあると言い、きわめて貧しい百姓が、空威張りしてジュピテール〔ジュピター〕などと名乗ったりするものである。
青年の心のとまどいを見抜いたのか、それとも、彼が見せた素直な態度を本心からは信用しなかったのか、ノワルチエはモレルをじっと見据えた。
「何をおっしゃりたいのですか。なにもせずに待つという約束を、もう一度繰り返せとおっしゃるのですか」
ノワルチエの視線は、じっと見据えたまま動かなかった。約束では足りぬというかのように。そして、モレルの顔から手に視線を移した。
「誓えとおっしゃるのですね」
『そうだ。誓いたまえ』病人が荘重な態度のまま答えた。
モレルには、老人がこの誓約をきわめて重大視していることがわかった。
彼は手をさしのべた。
「デピネ氏に対してどういう行動をとるか、あなたの決定をお待ちすることを、名誉にかけて誓います」
『よし』老人の目が言った。
「ではこれで、もう帰れとおっしゃるのでしょうか」
『そうだ』
「ヴァランチーヌさんに会わずに」
『そうだ』
モレルは言いつけに従う意を表わしてうなずいた。
「先ほどあなたの孫娘がしたように、あなたの孫にも、接吻させて下さいますでしょうか」
ノワルチエの目の表情には、思い違いをする余地はなかった。
青年は、老人の額の、娘の唇がふれたのと同じ位置に、自分の唇をおしあてた。
そうして、もう一度老人に頭を下げてからその部屋を出た。
踊り場の所に、ヴァランチーヌに言いふくめられていたバロワがいた。バロワはモレルを待っていたのだ。そして、庭に出る小さなドアに通ずる、暗い曲りくねった廊下を案内した。
そのドアまで来たモレルは、鉄柵の所に戻り、アカシデの木をつたってまたたく間に塀の上によじ登り、すぐさま梯子づたいにムラサキウマゴヤシのかこいに降り立った。そこには馬車が待っていた。
彼は馬車に乗りこんで、あまりの激情にくたくたになりながらも、来たときよりは晴れやかな心を抱いて、真夜半ごろメレ通りに戻った。そしてベッドに身を投げると、深い酔いに酔いしれたように眠りに落ちた。
[#改ページ]
七十四 ヴィルフォール家の墓
それから二日後の朝十時頃、ヴィルフォールの邸の門前にはかなりの群衆が集まっていた。そして、葬儀の馬車と個人の馬車の長い列が、フォーブール・サン=トノレとペピニエール通りを通って行った。
それらの馬車の中に、長い旅をして来たと思われる奇妙な形をした馬車が一台まじっていた。それは黒塗りの一種の荷物輸送用の馬車で、一番早くこの葬儀に来合せた馬車の一台だった。
そこで人々はいろいろ訊ねた末に、不思議なめぐりあわせから、この馬車がサン=メラン侯爵の遺体をのせていること、そして一つの葬儀と思って集まった人々が、じつは二つの遺体につき従うことになるということを知ったのであった。
葬列に従う人の数は多かった。ルイ十八世ならびにシャルル十世の高官のうちでも最も忠節を尽したサン=メラン侯爵は数多くの友人を持っていたし、ヴィルフォールに対する社会的な義理から参列している人たちも加わって、おびただしい数の人が集まっていた。
直ちに当局へ願いが出され、二つの葬儀を同時にとり行なう許可を得た。同じように葬儀の装いをこらした二台目の馬車がヴィルフォール邸の門前に引かれて来て、侯爵の枢《ひつぎ》は、荷物運送用の馬車からその霊枢車に移された。
二つの遺体はペール=ラシェーズの墓地に埋葬されることになっていた。ヴィルフォールは前々からここに、一家の者の遺体を安置する納骨堂を作らせておいたのだった。
この墓には、すでにあのルネが眠っており、十年の別離の末に、今父と母とを迎えようとしていた。
つねに物見高く、つねに葬儀には感動するパリの市民は、伝統的精神と金銭関係での確実さ、そして主義に対する頑固なまでの献身とで知られた、この古い貴族二人を、彼らの最後の住居に導く壮大な行列を、敬虔な心を抱いて静かに見送るのであった。
葬列に連なる一台の馬車の中で、ボーシャンとアルベール、それにシャトー=ルノーがこの思いがけない死について語り合っていた。
「僕はつい去年、サン=メラン夫人にマルセーユでお会いしたがね」シャトー=ルノーが話している。「僕はアルジェリアから帰る途中だったんだが、健康そのものだったし、頭も相変わらず切れて、動きもてきぱきしてて、百までも生きる人だと思ったがなあ。いくつだったんだい」
「六十六だ」アルベールが答えた。「フランツから聞いたところによればね。いや、年のせいで亡くなったんじゃないんだ、侯爵の死を悲しむのあまりのことなんだよ。侯爵の死以後、ひどく動揺してしまって、ついに完全には正気にもどらなかったらしい」
「いったい死因は何なんだ」ボーシャンが訊ねた。
「脳充血らしい。あるいは脳溢血だ。同じものだろう?」
「まあな」
「脳溢血だと?」ボーシャンが言った「そいつは信じがたいな。僕もサン=メラン夫人には一、二度会ったことがあるが、小さくて華奢《きゃしゃ》な身体つきをしてた。体質も多血質というよりは神経質だ。サン=メラン夫人のような体質の人が、悲しみのあまり脳溢血にやられるっていうのは、まずないことだぜ」
「いずれにしろ」アルベールが言った。「夫人を殺したのが病気にしろ、医者にしろ、ヴィルフォール氏、いやヴァランチーヌ嬢、いやむしろわがフランツ君がすばらしい遺産にありついたことは確かだよ。年に八万フランだ」
「しかもあの老ジャコバン党員のノワルチエ氏が死ねば、その倍になるんだからな」
「あの爺さんは因業《いんごう》だからなあ」ボーシャンが言った。「粘リ強ク目的ヲ追求スル男だよ。死神相手に賭けをして、自分の遺産相続人がみな死ぬのを見届けてやる、と言ったにちがいないよ。たしかにこの賭けに勝つと思うぜ。まさに一七九三年の国民公会議員だよ。なにしろ、一八一四年にナポレオンに向かってこう言ったんだからな。
『陛下、落目でございます。陛下の帝国は成長するのに疲れ果てた幼ない茎のようなものでございます。共和国を庇護者になさいませ。体質が改善された暁にはまた戦の庭に打って出ましょう。私は五十万の軍勢を集め、マレンゴ、オーステルリッツの勝利を再現してご覧にいれます。思想は死ぬものではありませぬ。時に眠ることはあっても、眠りに落ちた以前にもまして強力に目覚めるものでございます』」
「どうやらあの人にとっては、思想とは人のようなものなんだな」アルベールが言った。「一つだけ心配なことがあるんだが、フランツ・デピネのやつ、その義理のお祖父さんとうまくやれるかどうかということだ。お祖父さんのほうは、フランツの嫁さんなしには生きていけないんだから。ところで、フランツはどこにいるんだ」
「ヴィルフォールと一緒に先頭の馬車に乗っているよ。ヴィルフォール氏はフランツをもう家族の一員だと思ってるんだ」
柩に従うどの馬車の中でも、だいたい同じような会話が交わされていた。相次いで起きたしかも急なこの二つの死を、みな不思議に思っていた。だが、どの馬車の中にも、あの夜庭を歩きながらダヴリニーがヴィルフォールに洩らした恐ろしい秘密に思いいたる者はいなかった。
ほぼ一時間ほどの行進の後に、葬列は墓地の門に着いた。おだやかではあったがうす暗い日で、これからとり行なわれようとしている悲しい儀式にはふさわしかった。一家の納骨堂のほうへ向かう一群の中に、シャトー=ルノーはモレルの姿を認めた。彼はただ一人、馬車に乗って来ていた。イチイに縁どられた小径を、蒼い顔をして黙りこくったまま、一人で歩いている。
「来てたのか」シャトー=ルノーは若い大尉の腕の下に自分の腕を通しながら言った。「君はヴィルフォール氏を知っていたのか。それなら、どうしてヴィルフォールの邸で君に会わなかったんだろう」
「僕が知っていたのはヴィルフォール氏じゃない。サン=メラン夫人なんだ」
このとき、アルベールがフランツと一緒にやって来た。
「紹介するにしては場所が悪いが、まあいいや、縁起をかつぐような奴はいないからね」アルベールが言った。「モレルさん、フランツ・デピネ君を紹介します。一緒にイタリア一周をした、すばらしい旅の仲間です。フランツ、マクシミリヤン・モレルさんだ。君のいない間にできた僕のすばらしい友人でね、今後、人の心、精神、友情なんてことを僕が口にするときは、必ずこの人の名前が出ると思うよ」
モレルは一瞬ためらいを感じた。心ひそかに敵と思っている男に、友好的な挨拶をするのは、許しがたい偽善ではないのか。が、自分がたてた誓いと、場所柄の厳粛さが彼の心によみがえった。彼は、心のうちをなに一つ表情に表わさぬよう努力し、自分を抑えてフランツに頭を下げた。
「ヴィルフォール嬢は悲しんでいただろうね」ドブレがフランツに言った。
「それはもう、なんとも説明できないほどだった。今朝など、あまりやつれはてた顔をしていたので、あの人とは思えないほどだったよ」
上べはなんでもないこの言葉が、モレルの胸をおしつぶした。ではこの男はヴァランチーヌに会ったのか、ヴァランチーヌと話しをしたのか。
若く、心中煮えたぎる思いの士官は、誓いを破ってしまおうとする慾望を必死になってこらえた。
彼はシャトー=ルノーの腕をとり、急いで納骨堂のほうへ引っぱって行った。納骨堂の前に葬儀屋が二つの柩を並べたところであった。
「すごい墓だな」堂に目をやりながらボーシャンが言った。「夏も御殿、冬も御殿か。デピネ、君もここに住むことになるんだな。もうじき君は家族の一員だからね。しかし僕は哲学愛好の徒として、田舎の小さな家がいいな。遠い木陰の別荘だ。僕の哀れな死体の上に、こんな石材をのせられちゃかなわんよ。死ぬとき集まって来たまわりの連中に、僕はヴォルテールがピロンに書き送った言葉、『ワレ田舎ヘ行カン』と言ってやる。それでおしまいさ……どうした、フランツ、元気を出せよ、君の女房は遺産も相続するんだぞ」
「まったく、ボーシャン、君はやりきれない奴だよ」フランツが言った。「政治問題ばかりとり扱ってるんで、君はなんでも笑いとばしてしまう癖がついてるんだ。政治をいじる連中はなにごとも信じようとしないしな。しかしね、ボーシャン、普通の人間と一緒にいられて、幸いにして一時でも政治から離れていられるときぐらいは、君が衆議院や貴族院のクロークに預けっぱなしにしている、君の心をとり戻したらどうだ」
「おやおや、それじゃ人生とは何かね」ボーシャンが言った。「死の世界への控え室での一時の休憩じゃないか」
「ボーシャンてのは好かないな」こう言ってアルベールは、フランツと三、四歩後ろへ退り、ボーシャンには哲学談議をドブレとやらせておいた。
ヴィルフォール家の納骨堂は、高さ二十フィートほどの白の石造りの四角い建物であった。中が、サン=メラン家とヴィルフォール家の二つの部分に仕切られていて、そのそれぞれに入口がついていた。
ほかの墓であれば、場所の節約のため引出しがみみっちく重ねられていて、その中にまるで正札然とした文字盤をつけられて、遺体が入っているが、そんなものは見えなかった。青銅の扉を開けるとまず見えるものは、厳めしい暗い前室であった。ほんとうの納骨室とは壁で隔てられている。
この壁の中央に、今述べた二つのドアがついていて、ヴィルフォール家とサン=メラン家の納骨室に通じているのだ。
ここならば、心ゆくまで嘆きを発散することができた。ピクニックか逢曳でもするつもりでペール=ラシェーズを訪れる心ない散歩者が歌を歌ったり、叫び声を上げたり駈け廻ったりして、納骨堂にいる人の、静かな冥想、涙にぬれた祈りを乱すようなこともない。
二つの柩は右側の納骨室に入った。それがサン=メラン家のものであった。二つとも、すでに用意され、柩が安置されるのを待っていた台架の上にのせられた。ヴィルフォール、フランツ、それにごく近い肉親だけがこの聖なる部屋に入った。
宗教上の儀式はすでに門の所で済まされていたし、べつに述べられるべき言葉もなかったので、参列者たちは直ちに解散した。シャトー=ルノー、アルベール、モレルの三人は一緒に自分たちの家路をたどり、ドブレとボーシャンも彼らの家路をたどった。
フランツはヴィルフォールと一緒に、墓地の門の所に残っていた。モレルは口実をみつけて立ち止まり、フランツとヴィルフォールが同じ馬車に乗って墓地から出て行くのを見た。そして、この二人が二人きりでいることに、悪い予感を抱くのだった。彼はパリヘ帰った。シャトー=ルノー、アルベールと同じ馬車に乗ったのだが、この二人の青年がかわす言葉が、一言も彼の耳には入らなかった。
事実、フランツがヴィルフォールと別れようとしたとき、ヴィルフォールはこう言ったのだ。
「男爵、この次はいつお会いできますか」
「いつでもお望みのときに」フランツはこう答えた。
「できるだけ早いほうが」
「おっしゃる通りにいたします。一緒にお宅まで参ったほうがよろしいでしょうか」
「もし、お差し支えがなければ」
「ありません」
義父となるべき人と、婿となるべき者が同じ馬車に乗ったのはこういう次第だったのだ。モレルが、二人が通り過ぎて行くのを見て、ひどい不安を感じたのも当然だったのである。
ヴィルフォールとフランツは、フォーブール・サン=トノレに戻って来た。
検事は、誰の部屋にも入らず、妻にも娘にも言葉をかけずに、青年を自分の書斎に通し、椅子をすすめた。
「デピネ君、ちょっと考えると時期があまりふさわしくないように思えるかもしれませんが、故人の意志に従うのが柩の上に捧ぐべきなによりの供物であってみれば、じつはそうでもないので申すのですが、一昨日、サン=メラン夫人がいまはのきわに申したことを思い出していただきたいのです。つまり、ヴァランチーヌの結婚を遅滞なくとり行なうよう、という言葉です。ご承知のように、故人の身辺は申し分なく片がついております。故人の遺書により、サン=メラン家の遺産はすべてヴァランチーヌのものであることが保証されております。公証人が昨日、結婚契約書を最終的に交わすことを可能にする書類を、私に見せてくれました。公証人にお会いになって、私からと言って、その書類をご覧下さっても結構です。公証人は、フォーブール・サン=トノレ、ボーヴォー広場のデシャン氏です」
「おそらく」デピネは答えた。「悲嘆にくれておられるヴァランチーヌさんにしてみれば、今は、夫のことなど考えている時ではないでしょう。正直言って、僕が心配なのは……」
「ヴァランチーヌは」ヴィルフォールは相手の言葉をさえぎった。「祖母の遺志を果たすことだけしか考えていません。ですから、そっちのほうにはなんの障害もありません、保証します」
「それならば、僕のほうにもなにも不都合はないのですから、どうぞよろしいようになさって下さい。一度お約束したからには、僕はその約束を果します。うれしいだけではなくて、ほんとうに幸せだと思っています」
「では、話は進めてもいっこうに差し支えないわけですな。すでに三日も前に契約書に署名がなされるはずでした。すっかり用意はできているはずですから、今日直ちに署名いたしましょう」
「でも、喪中ですから」フランツがためらった。
「いえ、ご安心下さい。私の家では世間のしきたりをなおざりにするようなことはしません。ヴァランチーヌは、喪があけるまでの三か月間、あの子のサン=メランの領地に引きこもらせましょう。あの子の領地と申しましたが、あの土地はあの子のものになりましたからな。あそこで、もしおよろしければ、一週間後にひっそりと目立たぬように、つつましく、戸籍上の式だけ挙げるとしましょう。あの土地で式を挙げさせるというのがサン=メラン夫人の希望だったのです。式が済み次第、君はパリに帰って来ればいいし、喪があけるまで、君の妻は、向こうで母親と過ごせばいいでしょう」
「よろしいようになさって下さい」
「では、三十分お待ち下さい。ヴァランチーヌもサロンに降りて来るでしょうし、デシャン氏を呼びにやります。直ちに契約書を読み、署名しましょう。今晩のうちに家内がヴァランチーヌをあの子の領地につれて行きます。われわれも一週間後に参りましょう」
「一つだけお願いがあるのですが」フランツが言った。
「どういうことでしょう」
「アルベール・ド・モルセールとラウール・ド・シャトー=ルノーにこの署名に立ち合ってもらいたいのです。この二人は僕の証人です」
「お知らせするのに三十分あれば十分でしょう。ご自分で呼びにおいでになりますか、それとも、誰かを呼びにやりましょうか」
「僕が自分で行きたいと思います」
「では、三十分後にお待ちしてます。三十分後にはヴァランチーヌのほうも準備をさせておきますから」
フランツはヴィルフォールに一礼して部屋を出た。
通りに面した扉がフランツの後ろで閉まると、直ちにヴィルフォールは、三十分後にサロンに降りて来るようにとヴァランチーヌに伝えさせた。公証人とデピネの証人たちが来ることになっているというのである。
この思いがけないしらせに、家中は大騒ぎになった。ヴィルフォール夫人は信じようとしなかったし、ヴァランチーヌは雷にうたれたように、うちひしがれた。
彼女は、誰に救いを求めたものかと探すように、あたりを見廻した。
彼女は祖父のもとへ行こうとした。が、階段の所でヴィルフォールに会ってしまった。ヴィルフォールは彼女の腕を掴み、サロンにつれこんでしまったのである。
控えの間でヴァランチーヌはバロワに会った。彼女は、この老僕に絶望的な眼差しを投げた。
ヴァランチーヌのすぐ後から、ヴィルフォール夫人がエドワールをつれてサロンに入って来た。この若い妻も、一家の悲しみを分ち味わっていたことがありありと見えた。顔は蒼く、ひどく疲れきっている様子だった。
夫人は腰をおろすと、エドワールを膝にのせ、この子こそ彼女の全生命といわんばかりに、時折その子を、ぎゅっと激しく胸に抱きしめるのだった。
やがて、二台の馬車が中庭に入って来る音がした。
一台は公証人の馬車、もう一台はフランツとその友人たちの馬車であった。
すぐに全員がサロンに集まった。
ヴァランチーヌはまっ青な顔をしていて、こめかみの青い血管が、目のまわりに浮かび、頬にそって走っているのが見えるほどであった。
フランツは、かなり激しい心の動きを感じないわけにはいかなかった。
シャトー=ルノーとアルベールは、驚いて顔を見合わせた。これから始まろうとしている儀式は、さっき終ったばかりの儀式よりも陰鬱なものに思えたのだ。
ヴィルフォール夫人は、ビロードのカーテンのかげの暗い所にいて、いつもうつむいて膝の息子ばかり見ているので、その顔色から彼女の心の動きを知ることはむずかしかった。
ヴィルフォールはふだんと変わらず、冷ややかにかまえていた。
公証人は、いかにも法律を扱う者らしく、机の上に書類を並べ、椅子に腰をおろし、眼鏡をかけ直してから、フランツのほうに向きなおった。
「あなたが、フランツ・ド・ケネル、デピネ男爵ですね」
「そうです」フランツが答える。
公証人はうなずいた。
「まずあらかじめ申し上げておかねばならないことがあります。これはヴィルフォール氏からのお話なのですが、あなたのヴィルフォール嬢とのご結婚が、ノワルチエ氏のお孫さんへのお気持ちを変えさせまして、お孫さんに譲るはずになっていた資産のすべてを、ほかにお譲りになることになっているのです。しかし、申し添えますが」公証人は続けた。「遺言者は、その資産の一部しかほかに譲る権利はありませんから、全部をほかに譲ったとなると、遺言は、異議に対して無力となり、遺言は効力なきもの、無効となるのです」
「その通りです」ヴィルフォールが言った。「ただ、あらかじめデピネ君に申し上げておきますが、私の生きている間は、父の遺言に異議をとなえる者はありません。私の地位からして、ほんのわずかの醜聞もまきちらしてはならぬからです」
「ヴィルフォールさん」フランツは言った。「僕はこんな問題がヴァランチーヌさんの前で提起されたのを残念に思います。僕は今までに、一度だってヴァランチーヌさんの財産の額など調べたことはありません。どれほど削られても、僕のものよりは多額のものでしょうけれど。僕の家の者がヴィルフォール家との縁組に求めていたものは、高い社会的地位ですが、僕が望むものは幸せです」
ヴァランチーヌは、人目につかぬほどのかすかな感謝の意を表わした。二粒の涙が静かにその頬をつたった。
「それから」ヴィルフォールが婿となるべき者に言った。「君のものになるはずだった財産を失ったことを除けば、この思いがけない遺書も、決して君を傷つけるようなものではありません。ノワルチエの頭が弱くなっていることで説明がつくことなのです。父が気に入らないのは、娘が君と結婚することではなくて、ヴァランチーヌが嫁に行ってしまうということなのです。ほかの誰との結婚でも、やはり父には気に入らんのです。老人というものはエゴイストでね、娘はノワルチエのまたとない話相手だったのが、デピネ男爵夫人となればそうはいかなくなりますからね。今の父の痛ましい状態では、大切なことはめったに父に話すこともないのです。弱った頭では話のすじ道を追うこともできないでしょうから。もう今頃は、孫娘が嫁に行くということぐらいは覚えていても、新しく自分の孫になろうとしている者のことなど、名前さえ、すっかり忘れてしまっていると思いますよ」
ヴィルフォールがこの言葉を言い終え、フランツがそれにうなずいて答えたとき、サロンのドアが開いて、バロワが姿を現わした。
「皆様」と、彼は、このように厳粛な場面で召使いが主人に言うにしては、妙に腹の据わった声で言った。「皆様、ノワルチエ・ド・ヴィルフォール様が、今すぐフランツ・ド・ケネル、デピネ男爵様にお目にかかりたいとのことでございます」
バロワもまた、公証人と同じように、人違いをせぬよう、婚約者に肩書を全部つけて言った。
ヴィルフォールはぎくっとした。ヴィルフォール夫人は膝から息子を滑り落とした。ヴァランチーヌは、まっ青な顔をして、黙ったまま、彫像のように立ち上がった。
アルベールとシャトー=ルノーは、前にもまして驚いた目を見交わした。
公証人はヴィルフォールの顔を見た。
「そんなわけにはいかぬ」検事が言った。「第一、デピネ君は今このサロンを離れるわけにはいかないのだ」
「今すぐとおっしゃっておられます」バロワが、やはり同じように腹の据わった声で言う。「主人のノワルチエ様が、重要なお話があるのでフランツ・デピネ様にお会いしたいと」
「ノワルチエのおじいちゃまは、お話ができるようになったの?」エドワールが、相変わらずの出しゃばりぶりを発揮した。
しかし、頭のよさを示すこの言葉も、ヴィルフォール夫人を微笑ませはしなかった。彼女の頭はほかの考えごとでいっぱいであり、事態はきわめて重大のように思えたのだ。
「ノワルチエ氏に、お申しこしの件はお言葉通りにはできかねると伝えたまえ」
「その場合は、皆様に、ノワルチエ様ご自身がサロンにおいでになる旨お伝えせよとのことでございます」
皆の驚きは頂天に達した。
うすら笑いのようなものがヴィルフォール夫人の頬に浮かんだ。ヴァランチーヌは、思わず、天に感謝するかのように天井に目を向けた。
「ヴァランチーヌ」ヴィルフォールが言った。「お祖父様がどうしてまた急にそんな気まぐれを起こしたのか、ちょっと様子を見に行ってくれないか」
ヴァランチーヌは、すぐさま部屋を出るために歩きかけたが、ヴィルフォールが思い直して、
「待ちなさい、私も一緒に行く」
「失礼ですが」フランツが言った。「ノワルチエさんがお呼びになったのはこの僕なんですから、誰よりも僕があの方のお望み通りにしなければならぬように思います。まだお目通りを願っておりませんでしたが、この機会に敬意を表することができれば幸せに思います」
「いや、いや」不安の色をありありと見せてヴィルフォールが言った。「それには及びませんよ」
「お言葉ですが」フランツは、はっきり心を決めた男の口調で言った。「僕は、ノワルチエさんが僕に対して抱いておられる嫌悪というものが、どれほど誤ったものであるかということを証明できるこの機会を失いたくありません。どれほど激しく僕を嫌っておられたとしても、僕の心からお仕えする心で、きっとやわらげてみせる、と心に決めているのです」
こう言うと、それ以上ヴィルフォールに引きとめられぬよう、フランツは立ち上がってヴァランチーヌの後を追った。ヴァランチーヌは、漂流者が岩に手が触れたときのような喜びを抱いて、すでに階段を降りかけているところであった。
ヴィルフォールも二人の後を追った。
シャトー=ルノーとモルセールは、前の二回よりもさらに驚いて、三度《みたび》目を見交わすのであった。
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七十五 要録
ノワルチエは、黒い服を着て肘掛椅子に坐って待っていた。
来ると思っていた三人が入ると、彼はドアを見た。老僕が直ちにそのドアを閉じた。
「いいか」ヴィルフォールが低声《こごえ》で、喜びをかくせずにいるヴァランチーヌに言った。「ノワルチエが、お前の結婚のさまたげになるようなことを言ったら、その意味がわかったような顔をしてはならない」
ヴァランチーヌは顔を赤らめ、なにも答えなかった。
ヴィルフォールはノワルチエに近づいた。
「これがフランツ・デピネ君です。お呼びになりましたね。ご希望通りこうして来てくれました。もちろん、ずっと以前からお引きあわせしようと望んでいたのです。こうして本人にお会いになることによって、ヴァランチーヌの結婚への父上の反対が、根拠のないものだったことがおわかりいただければ、非常にうれしく思います」
ノワルチエは、ただじっとヴィルフォールを見ただけであった。ヴィルフォールの全身に戦慄を走らせるような目であった。
老人は目でヴァランチーヌに近くに寄るようにと合図した。
祖父との会話の際にいつも用いている方法で、たちまちのうちに彼女は『鍵』という言葉をさぐりあてた。
そこで病人の目を見ると、その目は二つの窓の間にある小さな家具の引出しに注がれている。
その引出しを開けると、はたして一本の鍵が入っていた。
彼女がその鍵を手にし、老人が、自分の求めていたものはまさしくそれであるという合図をしたとき、今度は老人の目が、永年の間使われずにいて、中には用のない反古《ほご》ばかり入っているものと思われていた、古い机のほうに向けられた。
「この机を開けるの?」ヴァランチーヌは訊ねた。
『そうだ』
「引出し?」
『そうだ』
「両袖《りょうそで》の?」
『違う』
「真中の?」
『そうだ』
ヴァランチーヌはその引出しを開け、書類の束を一つとり出した。
「ほしいのはこれ、お祖父さま?」
『違う』
彼女は、引出しの中が完全に空になるまで、次々と別の書類をとり出した。
「引出しはもう空っぽよ」
ノワルチエの目が辞書に注がれている。
「はい、お祖父さま、わかりました」娘は言った。
そして、アルファベットを最初から一字一字唱えた。Sの所でノワルチエはヴァランチーヌを止めた。
ヴァランチーヌは辞書を開き、単語をたどって、SECRET〔秘密のしかけ〕という単語をさぐりあてた。
「ああ、この引出しに仕掛けがあるのね」
『そうだ』
「誰がそれを知ってるの」
ノワルチエは、今しがた召使いが出て行ったドアを見た。
「バロワ?」
『そうだ』
「バロワを呼ぶ?」
『呼べ』
ヴァランチーヌはドアの所へ行きバロワを呼んだ。
この間、ヴィルフォールはじりじりして、その額を汗が流れていた。フランツはただ驚きあっけにとられている。
老僕が姿を現わした。
「バロワ、お祖父さまがね、私にその小机の中の鍵をとれとおっしゃって、この机の引出しを開けさせたの。それで、この引出しに仕掛けがあって、それの開け方をお前が知ってるとおっしゃってるらしいのよ、開けてちょうだい」
バロワは老人の顔を見た。
『言われた通りにしろ』物言うノワルチエの目が言っている。
バロワは従った。二重底が開き、黒いリボンで束ねられた一綴りの書類が出て来た。
「これでございますか」バロワが訊ねた。
『そうだ』
「この書類をどなたにお渡しすればよろしいのでしょうか、ヴィルフォール様でございますか?」
『違う』
「ヴァランチーヌ様?」
『違う』
「フランツ・デピネ様?」
『そうだ』
フランツは篤いて、一歩前に進み出た。
「僕にですか」
『そうだ』
フランツはバロワの手から書類を受け取った。そして、表紙に目をやると、そこにはこう書かれていた。
『予の死後は、予が友デュラン将軍に渡すべきこと、将軍はその死に際しては、きわめて重要な書類ゆえ、厳重に保管すべき旨《むね》を厳命して、子息にこの書類を引きつぐべきこと』
「これを、僕にどうしろとおっしゃるんですか」
「おそらく、そのまま封を切らずに保管してほしいと言うのでしょう」検事が言った。
『違う、違う』ノワルチエがしきりに言った。
「この方に読んでいただきたいんでしょう?」ヴァランチーヌが訊ねる。
『そうだ』
「おわかりになりましたでしょう、男爵様。祖父はその書類を読んでいただきたいと申しております」
「では、とにかく腰をおろそう、暇がかかりそうだ」ヴィルフォールがいらいらしながら言った。
『坐れ』老人の目が言った。
ヴィルフォールは腰をおろした。しかし、ヴァランチーヌは立ったまま、父の肘掛椅子に身をもたせ、フランツはヴィルフォールの前に立っていた。
フランツの手には、その謎めいた書類が握られている。
『読みたまえ』老人の目が言った。
フランツは封を切った。部屋の中が静まりかえった。その沈黙の中でフランツは読み始めた。
『一八一五年二月五日開催、サン=ジャック通りのボナパルト派クラブにおける議事要録』
フランツは読むのをやめた。
「一八一五年二月五日! 父が殺された日だ!」
ヴァランチーヌとヴィルフォールは黙ったままであった。老人の目だけがはっきりこう言っていた。
『続けたまえ』
「たしか、このクラブを出てから父は行方不明になったんだ!」
ノワルチエの眼差しが言い続ける。
『読むのだ』
フランツは読み続けた。
『下名、砲兵中佐ルイ=ジャック・ボーピエール、陸軍少将エチエンヌ・デュシャンピ、ならびに山林監督官クロード・ルシャルパルは、以下のことを明言するものなり。
一八一五年二月四日、エルバ島より、ボナパルト派クラブの会員に対し、フラヴィヤン・ケネル将軍を好意と信頼をもって迎えるようとの書状が届いた。一八〇四年より一八一五年に至るまで皇帝陛下に忠誠を尽した同将軍は、先頃ルイ十八世よりそのエピネの領地に対して、男爵の称号を与えられはしたが、ナポレオン政権に対する献身的忠誠を抱いているものと考えられる旨がしたためられていた。
このため、ケネル将軍のもとに、翌五日の会合に出席を要請する書状が届けられた。この書状には、会合の行なわれるべき、町名番地はしるされておらず、署名もなく、ただ、もし出席の用意があれば、夜九時に迎えの者が行く旨がしたためられていた。
会合は夜九時より十二時まで行なわれた。
九時、クラブの会長が将軍宅を訪れた。将軍の用意はできていた。会長は将軍に、クラブヘ案内する条件の一つとして、永久にその会合の場所を知らずにいること、目かくしされることを認め、これをはずさぬと誓うこと、を告げた。
ケネル将軍はこの条件を受諾し、案内される場所を知ろうなどとはしない旨を名誉にかけて約した。
将軍は馬車を用意させてあったが、会長は、御者が目を開いたまま、どの通りを通るかを知ってしまうのでは、将軍に目かくしをしてもなにもならぬからと、その馬車を使うことはできぬと言った。
〈ではどうする〉将軍が訊ねた。
〈私の馬車があります〉
〈私の御者に知られるのは危険だというその秘密を、自分の御者には知られてもいいと思うほど、その男を信用しているのか〉
〈御者はクラブの一員です。われわれの馬車を操るのは国家参事官です〉
〈それでは、別の危険があるわけだ、転覆するという〉将軍は笑った。
われわれはこの冗談を、将軍が会合への出席を強要されたのではなく、まったく自らの意志によって出席したことの証拠として、ここに記録するものである。
馬車に乗るや、会長は将軍に、目かくしされてもよいという約束を思い出させた。将軍はこれになんらの異議も唱えなかった。このために車中に用意されていたスカーフが目かくしの役を果した。
途中、会長は、将軍が目かくしの下から外を見ようとしているらしいのに気づき、先の誓約を思い出させた。
〈おお、そうだったな〉
馬車はサン=ジャック通りのとある路地の前で止まった。将軍は会長の腕にすがって馬車を降りたが、この男が会長とは知らず、ただの会員とのみ思っていた。路地を抜け、二階に上がり、会議の部屋に入った。
会議が始まった。その夜どういう人物の紹介があるかを予め知らされていた会員たちが、部屋を埋めて集まっていた。部屋の中央まで来たとき、将軍は目かくしをとるようすすめられ、直ちにこれに従った。そして、そのときまでは、その存在することすら考えていなかったこの結社に、多数の知己の顔を見出して非常に驚いた様子であった。
まず将軍の本心を訊ねたのに対し、将軍は、エルバ島よりの書簡の数々を読めばわかるはず、とのみ答えた』
フランツは読むのをやめて、
「父は王党派だったのです。父の気持ちなど聞く必要はなかったんです。父の気持ちは知れわたっていたんですから」
「だからこそ、お父上と私とのつながりが生まれたんですよ、フランツ君」ヴィルフォールが言った、「主義を同じくする場合は、容易に友人になれますからね」
『読みたまえ』老人の目が言い続ける。
フランツはまた読み始めた。
『会長は、さらに明確に意志を述べるよう、将軍に求めた。ケネル氏は、その前に、自分に何を求めるのか、それを知りたい旨を答えた。
そこで、その協力を期待し得る人物として将軍を推薦して来たエルバ島よりのさきの書状の内容が示された。その中の一節には、予想されるエルバ島脱出のことが述べられており、近く別の書状が届くことが記されていた。マルセーユの船主モレルの持ち船、ファラオン号到着の際に、より詳しい情報を知らせる、同船の船長は皇帝に一命を捧げている、というものであった。
兄弟に対すると同じぐらい信をおけると考えられていた将軍が、これを読む間、不満と嫌悪の色をあからさまに見せた。
読み終えたとき、彼は無言のまま、眉をひそめていた。
〈将軍、この書状をどうお思いですか〉会長が訊ねた。
〈国王ルイ十八世に忠誠を誓っていくらもたたぬのに、先の皇帝の味方をするためそれを破ることはできない〉
この明白な返事を聞いては、もはや将軍の本意を誤解する余地はなかった。
〈将軍、われわれにはルイ十八世もなければ、先の皇帝もありません〉会長が言う。〈われわれには、十か月来、暴力と裏切りによりその領土たるフランスを離れておられる皇帝陛下がおられるのみです〉
〈お言葉ながら、あなたがたにとってはルイ十八世は存在しないかもしれぬ。だが、私にとっては存在する。私を男爵にし、旅団長として下さったこと、この二つの称号を私が得たのは、あのお方のフランス王権への帰還のたまものであるからだ〉
〈将軍〉会長は、語調を強め、立ち上がりつつ言った。〈お言葉にお気をつけ下さい。あなたのお言葉により、エルバ島でのあなたに対する判断が誤っていたこと、そして、われわれを誤らせたことが明白となりました。書状の内容をお知らせしたのは、あなたに対して抱いていた信頼、ひいては、あなたに対する敬意からでした。ところがわれわれは誤りを犯していた。爵位と階級とが、われわれが覆そうとしている新政府にあなたを結びつけている。あなたに、われわれへの協力を強いようとは思いません。われわれは、その人の良心と意志に反するならば、なんぴとも加入してもらおうとは思わぬのです。ただし、われわれはあなたに、紳士として行動なさることを要求します。たとえあなたにそのお気持ちがなくとも〉
〈あなたは、あなたがたの陰謀を知りつつ、しかもそれを洩らさぬことを紳士の行動とおっしゃるのか! 私はそれを、あなたがたの陰謀に加担するものと考える。私のほうがあなたより率直ですな〉』
「ああ、お父さん!」フランツは読むのを一時中止した。「今こそ、なぜ奴らがお父さんを殺したかわかりました」
ヴァランチーヌはフランツに目を注がぬわけにはいかなかった。父を思う子の激情にかられた青年の顔は美しかった。
ヴィルフォールはフランツの後ろで、縦横に歩き廻っていた。
ノワルチエは、三者三様のこの姿を目で追っていたが、その威厳のあるきびしい態度を崩しはしなかった。
フランツはまた原稿に戻り、先を読み続けた。
『〈将軍〉会長が言った。〈われわれは、この会合においで下さることをお願いしました。決して強制的におつれしたのではありません。目かくしをお願いした。あなたはそれを承諾なさった。この二つのことを承諾なさったとき、われわれが決してルイ十八世の王位を強固にするために心をくだいているのではないことを、あなたはご存じだった。そうでなければ、官憲の目をくらますためのあのような配慮は無用のことです。さて、おわかりいただけると思いますが、他人の秘密をさぐるために仮面をつけ、あなたを信用した者を倒すのには、その仮面をとりさえすればいいというのでは、あまりに都合がよすぎる。そんなことはできないはずだ。まず、今たまたまわが国を支配している仮の国王の味方か、あるいはまた皇帝陛下のお味方なのか、率直におっしゃっていただきたい〉
〈私は王党派だ。ルイ十八世に忠誠を誓った。私はその誓いを守る〉
この言葉に一座はざわめいた。会員の大多数の目つきから、デピネ氏にこの不用意な言葉を吐いたことを後悔させるべし、との気運が動いていることがわかった。
会長がふたたび立ち上がり、皆を制した。
〈将軍、あなたは慎重かつ思慮深い方だから、われわれが互いに置かれている立場がどういう結果をもたらすかはおわかりのはずだ。あなたの率直な態度からして、われわれにはあなたに一つの条件を提示する道が残されている。あなたがお聞きになったことをいっさい洩らさぬと、名誉にかけて誓っていただきたい〉
将軍は佩剣《はいけん》に手をおいて叫んだ。
〈あなた方が名誉を口にするなら、まず名誉の掟をふみにじらぬことだ。なにごとも暴力を以て強制はせぬことだ〉
〈将軍〉会長は、おそらく将軍の怒りよりもすごみのある、静かな口調で続けた。〈剣から手をお難し下さい。これはあなたのためを思っての忠告です〉
将軍は、周囲を見廻した。その目には不安の色が表われかけていた。しかし彼は思い直すことはしなかった。それどころか、全身の力をふりしぼって、こう言ったのである。
〈絶対に誓わぬ〉
〈それでは死んでいただかねばなりません〉静かに会長が答えた。
デピネ氏は蒼白になった。彼はもう一度あたりを見廻した。数名の会員がささやきかわし、マントの下で武器をさぐっていた。
〈将軍、ご安心願いたい。あなたは、名誉を重んずる者たちの中におられる。われわれは、あなたの意志に反して最後的手段にうったえる前に、あなたを説得すべくあらゆる手段を講ずるものです。だが、と同時に、あなたも言われたように、あなたは謀叛の徒の中におられる。あなたはわれわれの秘密を握った。それをお返し願いたい〉
意味深い沈黙がこの言葉の後に続いた。
〈ドアを閉めよ〉会長が守衛に言った。
この言葉の後にも、死のような静けさがただよった。
やがて将軍が進み出て、懸命に自分を抑えながら、
〈私には息子が一人おる。暗殺者どもにとりかこまれれば、息子のことを考えざるを得ない〉
〈将軍〉会合の長が、気品ある態度で言った。〈一人で五十人を相手にする者は、つねに、その五十人を侮辱する権利があります。弱者に与えられる特権です。ただ、その権利を行使するのはまちがいだ。将軍、私の言葉を信じていただきたい。お誓いなさい、そしてわれわれを侮辱せぬことだ〉
将軍は、またしてもこの集会の長の威厳に屈して、しばらくためらっていたが、やがて会長の席に進み寄ると、
〈誓いの文句は?〉
〈こうです。『一八一五年二月五日午後九時より十時の間に私が見聞きしたことを、相手の如何を問わず口外せぬことを誓う。この誓いを破った場合には死に価するものであることも言明する』〉
将軍は戦慄の走るのを感じているらしく、しばらくの間返答することができなかった。が、ついに激しい嫌悪の情を克服し、要求された誓いの言葉を口にしたが、その声はあまりに低く、聞きとれぬほどであった。そのため、数名の会員から、もっと大きな声で明確に誓言せよとの要求があり、その通り実行された。
〈これでもう私は退出したいが。解放していただけますかな〉将軍は言った。
会長は立ち上がり、将軍を送るべき三名の会員を指名し、将軍に目かくしをした後、将軍とともに馬車に乗りこんだ。その三名の中には、将軍をつれて来た御者も含まれていた。
クラブの他の会員は無言のまま散って行った。
〈どこへお送りしましょう〉会長が訊ねた。
〈どこでもかまわぬ、あなた方のいない所なら〉デピネ氏が答えた。
〈将軍〉そこで会長が言った。〈お気をつけ下さい。もはやここは会合の席ではありません。もはやここには集団を組んだ者はおらぬのです。相手を侮辱した責任を負いたくなければ、ここにいるわれわれを侮辱せぬことです〉
しかし、この言葉の意味を理解しようとはせずに、デピネ氏は答えた。
〈あなたは馬車の中でも、クラブの中と同様に勇敢でいられる。四人でも一人よりは強いからな〉
会長は馬車を止めさせた。
ちょうどオルム河岸にさしかかった所で、河岸に降りる階段があった。
〈なぜこんな所で止める?〉デピネ氏が訊ねた。
〈あなたが一人の男を侮辱なさったからだ。その男は、立派にそのつぐないをしてもらうまでは一歩も先へ進まぬつもりだ〉
〈これも暗殺の一つのやり方だな〉将軍が肩をすくめた。
〈将軍、あなたが先程おっしゃった者ども、すなわち、自分の弱さを楯とする卑怯者の一人と私に思われたくなければ、余計なことは言わぬことです。あなたはたったお一人だ。私一人がお相手しよう。あなたは手もとに剣をお持ちだ。私の杖には剣が仕込んである。あなたには介添人がない。この者たちのうちの一人にあなたの介添を務めてもらいましょう。では、もしよろしければ、目かくしをおとり下さい〉
将軍は直ちに目を覆っていたスカーフをむしりとった。
〈これで相手が誰だかわかるぞ〉
馬車のドアが開けられた。四人の男は馬車から降りた』
フランツはまた読むのを止めた。彼は、額を流れる冷たい汗をぬぐった。その瞬間まで知らなかった父の死の模様を、顔蒼ざめ身をおののかせながら読み上げる息子の姿は、なにかしら鬼気せまるものがあった。
ヴァランチーヌは、祈りを捧げるかのように手を組み合わせていた。
ノワルチエは、軽蔑と誇りとのまじった崇高とも言えるような目で、ヴィルフォールをみつめていた。
フランツが続けた。
『前述のように、二月五日であった。その三日前から、氷点下五、六度の寒さであった。階段はがちがちに凍っていた。将軍は背が高く肥っていた。会長は階段を降りるさい手摺《てすり》側を将軍にゆずった。
介添人二人がその後に続いた。
暗い夜であった。階段の下から河の流れまでの地面は、雪と霜に覆われ、氷塊もいくつか流れて行く黒く深い水が見えた。
介添人の一人が石炭船から角燈をとって来て、その光で武器を調べた。
会長の剣は、彼自身言ったように、杖の中に仕込まれたもので、相手の剣より短く、つばもついていなかった。
デピネ将軍は、この二本の剣のいずれをとるかは籤《くじ》で決めようと言ったが、会長は、決闘を申し込んだのは自分であり、その際、武器はそれぞれ自分のものを使う、と言ったはずと答えた。
介添人たちが、なおもこの点にこだわると、会長は二人に沈黙を命じた。
角燈が地面に置かれた。二人の敵手は両側に別れ、戦いが開始された。
角燈の光が、二本の剣を仄光《そくこう》のようにきらめかせたが、戦う人間のほうは、辛うじてその姿を認めうる程度だった。闇はそれほど深かったのである。
将軍は、軍隊でも随一の剣の名手に数えられる人であった。しかし、はじめの突きからして少し急ぎすぎたので、彼は後退した。後退する際に彼は倒れた。
介添人は将軍が死んだものと思ったが、相手は、自分の剣が触れていないことを知っていたので、起き上がるのを助けようと手をさしのべた。この状況は、将軍の心を静めはせずに、将軍を怒らせた。今度は彼のほうから襲いかかった。
しかし相手は一歩も退かず、剣で敵を受けとめた。あまりに進みすぎたと思い、将軍は三度後退し、また攻撃をしかけた。
三度目に、彼はまた倒れた。
最初のときと同じように滑ったものと思われた。しかし、再び起き上がる様子がないので、介添人たちは近寄り、彼を立たせようとした。しかし、将軍を抱きかかえた者は、その手になま暖かいものを感じた。血であった。
ほとんど気を失っていた将軍が意識をとり戻してこう言った。
〈ああ! どこかの刺客か、連隊の剣術師範を呼びおったな〉
会長はそれには答えず、角燈を持っていたほうの介添人に近づき、袖をまくり、剣につかれた二箇所の傷を見せた。それから上着をおし広げ、チョッキのボタンをはずし、脇腹の三箇所めの傷を見せた。
この間、彼は呻き声一つ洩らさなかった。デピネ将軍は危篤状態となり、五分後に息を引きとった』
この最後の言葉を読むフランツの声は、喉をしめつけられた声だったので、ほとんど聞きとれなかった。そして、その言葉を読み終えると、目の前の雲を払うように目に手をやった。
しかし、一瞬の沈黙の後に、彼はまた続けた。
『会長は杖の中に剣をおさめ、再び階段を昇った。血が点々と、彼の通った後の雪の上にしたたった。彼がまだ階段を昇りきらぬうちに、彼は水音を聞いた。介添人が、将軍の死を確認してから、将軍を水中に投じた音であった。
したがって、将軍は正当な決闘で殪《たお》れたのである。伝えられるように、罠にかけられて暗殺されたのではない。
以上により、この恐ろしい事件に関与した者のいずれかが、後日、謀略の罪ないし名誉の掟に背いた罪を被《き》せられんことを恐れ、事実の真相を明らかにせんため、ここに署名するものなり。
署名。ボーピエール、デュシャンピ、ルシャルパル』
フランツが息子にとってはあまりにも恐ろしいこの朗読を終え、ヴァランチーヌが感動のあまり顔を蒼白にして涙をぬぐったとき、そして、身をわななかせつつ隅にうずくまっていたヴィルフォールが、てこでも動かぬていの老人に哀願するような目を向けて、それ以上の騒ぎを起こさないでくれと懇願しようとしたとき、デピネがノワルチエに言った。
「ノワルチエさん、あなたはこの痛ましい事件の詳細をご存じなんですし、立派な署名でそのことを明らかにさせておいでです、それに、僕に対しても関心はおありのようですから、もっとも、この点は、僕のせいであなたが悲しまれたという証拠しか今のところありませんが、どうか、このクラブの会長の名前をおっしゃって下さい。あの父を殺した者の名を教えて下さい」
ヴィルフォールは、うろたえたようにドアのノッブをさぐった。ヴァランチーヌは誰よりも早く、老人がなんと答えるかわかった。彼女はしょっちゅう、老人の腕に二つの剣で刺された傷のあるのを見ていたのだ。彼女は一歩後ずさりした。
「お願いです、お嬢さん」フランツがフィアンセに言った。「僕を二つのときに孤児にした男の名を知るために、力をかして下さい」
ヴァランチーヌは答えず、身動きもしなかった。
「デピネ君」ヴィルフォールが言った。「さあ、もうこんな恐ろしい場面はこのへんで打ち切りにしましょう。それに、個人の名前はわざと伏せてあるのですよ。父もその会長が誰であるか知ってはいません。たとえ知っていても、それを言うことはできぬでしょう。固有名詞は辞書にはありませんからね」
「ああ、なんということだ!」フランツは叫んだ。「これを読む間じゅう僕を支えてくれて、どうにか最後まで読む勇気を与えてくれた唯一の希望、それは、少なくとも、父を殺した男の名前がわかるということだったんだ! ノワルチエさん!」彼はまたノワルチエのほうを向いた。「お願いです、なんとかして……僕に教えて下さい。おっしゃりたいことを僕にわからせて下さい!」
『よし』ノワルチエが答えた。
「おお、お嬢さん! お祖父様は僕に教えて下さると、その男の名を教えて下さるという合図をなさいました。手をかして下さい……、わかりますか、力をかして下さい」
ノワルチエは辞書をみつめた。
フランツはわなわなとふるえながら辞書をとり上げ、アルファベットの文字をMまで唱えた。
Mまで来ると、老人は、『それだ』という合図をした。
「|M《エム》!」フランツが繰り返す。
青年の指が単語の上を走る。だが、どの単語にも老人は否定の答をする。
ヴァランチーヌは両手に顔を埋めていた。
ついにフランツは、|MOI《モワ》〔私〕という単語に到達した。
『それだ』老人が答えた。
「あなたが!」フランツが叫んだ。髪が逆立った。「ノワルチエさん! あなたなんですか、私の父を殺したのは!」
『そうなのだ』ノワルチエは、威厳のこもった眼差しで青年を見据えた。
フランツは力なく椅子に崩れ落ちた。
ヴィルフォールはドアを開けて逃げ出した。老人の恐るべき心の中に今なお残っている、わずかばかりの生命を、締め殺してやりたいという気持ちに襲われたからだ。
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七十六 アンドレア歩を進める
この間に、カヴァルカンティの父親のほうは、自分の勤めに復帰するためにパリを去っていた。オーストリア皇帝の軍隊に戻ったのではない。彼が最も熱心な常連であったルッカのルーレット場にである。
彼の旅費ならびに、威厳のあるいかめしい父親役を演じた報酬として与えられた金を、ただの一文も減らさずに、大切に持ち帰ったことは言うまでもない。
アンドレアは父の出発の際に、自分がバルトロメオ侯爵とレオノーラ・コルシナリ侯爵夫人の息子であることを証明する書類いっさいを受け取っていた。
だから、外国人を容易に受け入れ、その外国人の実際の姿ではなしに、見せかけだけの姿で、それなりの扱いをしてしまうパリの社交界に、アンドレアはほぼ確実に食いこんだのであった。
第一、パリという所は、いったい若者に何を要求するだろうか。ある程度パリの言葉が話せること、まともな身なりをしていること、賭けに強くて、金貨で支払いをすることである。
しかも言うまでもなく、パリっ子の青年に対するよりも、外国人の青年に対する見方のほうが甘いのだ。
だから、アンドレアは、二週間ばかりの間にかなりの地歩を築いた。人々は彼を伯爵と呼び、年収五万はあると噂し、サラヴェッツァの採石場に埋められているという、彼の父親の莫大な財宝について語りあったのである。
この最後の点について、ある学者の前でそれを事実として話すと、その学者は、問題の採石場を自分は実際に見たと断言した。このことは、そのときまで半信半疑で受けとられていたこの話に、重大な重みを与え、以後、現実のこととして受け入れられるようになった。
ある晩のこと、モンテ・クリストがダングラールを訪れたときの、すでに読者諸子もご承知のパリ社交界のあのサークルの状態はこんなものであった。ダングラールは外出していたが、夫人がお目にかかるから、夫人の部屋にどうぞと言われ、モンテ・クリストはこれを受け入れた。
オートゥイユのあの夕食会、またそれに続いた一連の出来事以来、ダングラール夫人はモンテ・クリスト伯爵の名を聞くと、背すじの寒くなる思いがするのだった。伯爵の名を聞いた後に、伯爵が現われなければ、夫人の不安はさらに色濃くなるのであった。その逆に、伯爵が姿を現わすと、その晴れやかな顔、輝く目、好意的な、夫人のご機嫌さえとり結ぼうとする態度が、やがて夫人の不安を残るくまなく払いのけてしまうのである。これほどやさしい外面を持つ男が、自分に対して悪い企みを抱くことなど、どうしてもあり得ぬことのように夫人には思える。それに、いかに腐りきった心でも、なんらかの利害に結びつけねば悪を考えることはできないものだ。無益な理由のない悪は、異常な行為同様に、嫌悪感を起こさせるだけである。
すでに一度読者諸子をおつれしたことのある夫人の私室にモンテ・クリストが入ったとき、夫人は、娘が渡す、アンドレアと一緒に見たデッサンを落ち着かない目で眺めていた。伯爵が来たことはいつもと同じ効果をもたらしたのだ。伯爵の名を聞いてぎくりとさせられた後に、夫人は伯爵を笑顔で迎えたのであった。
モンテ・クリストのほうは、一目でその場の模様を見てしまった。
二人掛けの椅子に半ばねそべるようにしている夫人のかたわらにウジェニーが腰をおろし、カヴァルカンティは立っていた。
まるでゲーテの作品の主人公のように、黒い服にエナメルの靴、白いレースの靴下をはいたアンドレアは、かなり白く、かなり手入れのいい手を髪につっこんでいた。髪の中でダイヤが光っている。モンテ・クリストがいくら注意しても、この見栄坊の若者は、それを小指にはめずにはいられないのだ。
髪にやった手の動きに、ウジェニーに向けられた刺客のような眼差しと、目と同じ相手に向けられた溜息がつけ加わっている。
ダングラール嬢は相変わらずであった。つまり、美しく、冷たく、そして人を見下すような態度である。アンドレアの眼差し、溜息、そのどの一つをも彼女はちゃんと知っている。だが、それらはみな、いわば、ミネルヴァの鎧《よろい》の上を滑ってしまうのであった。ある哲学者によれば、時にはサフォの胸を覆うこともあるというあの鎧の上を。
ウジェニーは伯爵に冷やかな会釈をし、会話が始まったのをしおに、さっさと勉強室に退ってしまった。やがて、ピアノの音とともに、明るく朗らかな二人の女性の声が聞こえて来たので、モンテ・クリストは、ウジェニーが、自分と一緒にいるよりも、またアンドレアと一緒にいるよりも、歌の教師であるルイーズ・ダルミイー嬢と一緒にいるほうが好きなのだと思った。
このとき、モンテ・クリストは、ダングラール夫人と話をし、その話に熱中しているように装いながらも、アンドレア・カヴァルカンティの気遣わしげな様子に気づいていた。ドアの所まで行って音楽に耳を傾けていながら、そのドアを出て行く勇気もなく、やたらと感心した様子を見せている。
やがて銀行家が帰って来た。最初にモンテ・クリストに目を向けたのはたしかだが、すぐに彼は、アンドレアを見た。
妻に対しては、ある種の夫が妻に対してする挨拶をしただけであった。夫婦生活に関する幅の広い典範でも発行されぬかぎり、独身者にはこの挨拶がどんなものか想像もつくまい。
「あのお嬢さん方は、あなたに、一緒に音楽を楽しもうとはお誘いしなかったのですかな?」ダングラールはアンドレアに訊ねた。
「ああ、それが誘って下さらなかったのです」今までのものよりさらに大きな溜息をつきながらアンドレアが答えた。
ダングラールは直ちに、隣室へのドアの所へ行き、そのドアを開けた。
すると、二人の娘がピアノの前の同じ椅子に腰をおろしているのが見えた。彼女たちは、互いの片手ずつで連弾をしていた。気まぐれにこういう練習をしょっちゅうやっているので、かなりこの弾き方が上手になっていたのだ。
こうして眺めたダルミイー嬢の姿は、ウジェニーとともにドアの枠に縁どられて、ドイツでよくやる活人画のようであった。この娘はかなり目につく美しさ、というよりなんともいえぬしとやかさをそなえた娘であった。妖精のように、小柄でほっそりした金髪の娘である。ゆたかな巻毛が、ペルジーノ描くところの乙女のようにやや長すぎる首の上にたれ、もの憂げな目をしている。胸が悪いのだとか、いつかは『クレモナのヴァイオリン』のアントニアのように、歌いながら死んで行くだろうとか言われていた。
モンテ・クリストはこの部屋に、す早い好奇の目を走らせた。しょっちゅうこの家で耳にしていたダルミイー嬢を見るのは、これが初めてであった。
「わしたちは、仲間には入れてもらえぬというわけかね」銀行家が娘に訊ねた。
そして、その部屋に青年を導き入れた。すると偶然が、巧みにそうしたのか、アンドレアの後ろでドアが閉まった。どういうふうになったのか、モンテ・クリストと夫人が坐っていた場所からは見えなかった。しかし、銀行家もアンドレアについて行ってしまったので、ダングラール夫人は、そんな光景には気づきもせぬ顔をしていた。
やがて伯爵は、ピアノに合わせてコルシカの歌を歌うアンドレアの声を聞いた。
伯爵が、それがアンドレアであることを忘れさせベネデットであることを思い出させるその歌を、にやにやしながら聞いていると、ダングラール夫人はモンテ・クリストに、その朝またミラノの取引先の破産で三、四十万フラン損をしたのに平気でいる夫の太っ腹な態度をほめそやすのであった。
たしかにこれはほめるに価した。伯爵が夫人から、あるいは彼の持っている情報網でそのことを知らされていなかったなら、ダングラールの顔からはなに一つ読みとれなかっただろうから。
『よし、もう損をかくすようになったな。一か月前は損を吹聴したのに』モンテ・クリストはひそかに思った。
それから声に出して、
「いや、奥さん、ダングラールさんは株に明るいから、ほかで損をしたところで、株でとり返してしまいますよ」
「あなたも、皆さんと同じ思い違いをなさってますのね」
「どういう思い違いです?」
「ダングラールが投機をすると思っていらっしゃることですわ、主人は投機は一切いたしませんのに」
「ああ、そうでした。思い出しましたよ、ドブレさんがいつかこうおっしゃってた……ところで、ドブレさんはどうなさったんですか。ここ三、四日おみかけしませんが」
「私も」ダングラール夫人が見事な冷静さを見せて答えた。「でも、なにをおっしゃりかけたんですの」
「なんの話でしょう」
「ドブレさんがあなたになにかおっしゃったって」
「そうでしたね、ドブレさんはこう言ったんですよ。投機のデモンに身を捧げているのはあなただと」
「正直に申しますけど、しばらくの間興味を持ちました。でも今はもう興味をなくしてますの」
「それはよくありませんよ。財産なんてものはあてにならぬものです。もし仮に私が女だったとして、たまたま銀行家の妻だったとしたら、いかに夫の幸運、いや事業なんてものは幸運か不運かだけですからね、いかに夫の幸運を信じていても、私は自分だけの財産を確保しようとするでしょうね。たとえその財産を得るために夫の知らぬ人間に自分の利害いっさいをゆだねてしまわねばならないとしてもね」
夫人は思わず顔を赤らめた。
モンテ・クリストはそれには気づかなかったように、「ほら、昨日もナポリの債券で大儲けした人がいるというではありませんか」
「私はそんなもの持っておりませんわ」夫人が急いで言った。「今までも持ったことはございません。もうそんなふうに取引所の話をするのはたくさんですわ。まるで二人とも仲買人にでもなったみたいですもの。それより、お気の毒なヴィルフォールさんのことでもお話しいたしましょう。ひどいめにお会いになって悲しんでおいでですわ」
「いったいあの家に何が起きたんですか」モンテ・クリストはまったくなにも知らぬ顔で訊ねた。
「ご存じでしょうに。マルセーユをお発ちになった三、四日後にサン=メラン様がお亡くなりになったと思ったら、お着きになって二、三日で侯爵夫人が亡くなられたんですもの」
「ああ、そうでしたね、それは聞きました。しかしクロディアスがハムレットに言うように、それが自然の掟というものですよ。父親は子供たちより先に死に、それを子供たちは嘆き悲しむ。今度は自分たちが子供たちよりも先に死んで、子供たちが涙を流すんです」
「でも、それだけではございませんのよ」
「え、それだけではないんですか」
「そうなんですの。お嬢様を結婚させようとなさってたこと、ご存じでしたわね」
「フランツ・デピネ君にですね。でその縁談がこわれたんですか」
「昨日の朝、フランツさんが話はなかったことにしてくれ、とおっしゃったらしいんです」
「ほ、ほう! でその破談の理由はおわかりですか」
「いいえ」
「まったく、なんということをお聞きするのでしょう。それで、ヴィルフォールさんはどういうふうにそうした不幸の数々を受けとめておいでです?」
「例によって、たいへん冷静に」
このとき、ダングラールだけが戻って来た。
「まあ、あなた、カヴァルカンティさんを娘と二人きりにしておいでになったんですか」
「ダルミイーさんがいるではないか、あの人をどう思っているのかね、お前は」
それからモンテ・クリストのほうを向くと、
「いや、なかなかの好青年ですな、伯爵、あのカヴァルカンティ公爵は……ただ、あの人はほんとうに公爵なんでしょうな」
「それは私には保証しかねますね。父親のほうを侯爵だと言って紹介されたんですから、まあ伯爵ですかな。ただ、彼自身は称号のことなどあまりふりまわさぬように思いますね」
「なぜです。もし公爵なら、大いにそれを誇るべきだ。誰にもその権利はある。私は生まれをかくすのは嫌いですな、私は」
「これはまた、じつに立派な民主主義者ですな」モンテ・クリストが笑った。
「でも、あなた、なんてことをなさるの? もし、ひょっとしてモルセールさんがおいでになったら、ウジェニーのフィアンセである自分さえ入れてもらえなかった部屋に、カヴァルカンティさんがいるのをご覧になってしまうじゃありませんか」
「ひょっとしてとはよく言ったな。まったくあの男は、ひょっとするのでなければ、家へは来ないんだから。めったに顔など出さんじゃないか」
「それにしたって、もしおいでになって、あの方が娘のそばにいるのをご覧になったら、いい気持ちはなさいませんわ」
「あの男が? なにを言うか、それはお前の思い違いだ。アルベール君は、嫉妬《やきもち》などやいては下さらんよ、そんなに娘が好きじゃないんだ。それに、あの男がいい気持ちになろうがなるまいが、そんなことはかまわん」
「でも、今の私たちの立場では……」
「そうだ、わしらの今の立場だ。今の立場を、お前知りたいか? あの男の母親の催した舞踏会で、あいつは一回しか娘と踊らなかった。カヴァルカンティさんは三回も踊った。それなのに、あいつはそれに気づきもせん」
「アルベール・ド・モルセール子爵様がおみえでございます」召使いが来訪を告げた。
夫人は急いで立ち上がった。夫人は娘にそれを伝えようと勉強部屋へ行こうとしたが、ダングラールがその腕を抑えた。
「ほっておけ」
夫人は驚いて夫の顔をみつめた。
モンテ・クリストはこの事のなり行きを見ぬふりをしていた。
アルベールが入って来た。彼は非常に美しく、また明るい様子をしていた。彼は夫人に屈託なく挨拶し、ダングラールには親しげに、モンテ・クリストには愛情をこめて挨拶した。それから夫人のほうを向いて、
「お嬢さんはその後もお元気ですか」
「すこぶる元気ですよ」すぐさまダングラールが答えた。「今も自分の部屋でカヴァルカンティさんと音楽を楽しんどるところです」
アルベールは落ち着いた、気にしない態度を保っていた。内心むっとしていたのだろうが、自分に注がれているモンテ・クリストの視線を感じていたのだ。
「カヴァルカンティ君はすばらしいテノールのいい声をしてますね。それにウジェニーさんはすばらしいソプラノだ。タールベルク〔当時のドイツの名ピアニスト〕のようにピアノも弾けるし」アルベールは言った。
「きっとすばらしい合唱になりますよ」
「二人はじつによく合うということですな」
アルベールはダングラールのこの卑しい洒落《しゃれ》には気づかぬようであったが、夫人は顔を赤らめた。
「僕も、音楽の才能はあるんですが、少なくとも教師の言うところではね、しかし奇妙なことに、ほかの人の声とはうまく合わせられないんです。とくにソプラノとは、いまだかつて合ったためしがありません」
ダングラールは、ざまあ見ろ、という意味のうすら笑いを浮かべた。
「ですから、昨日は、公爵と娘は大喝采をあびましてね」心に願う通りの効果をあげようと思ったのだろう、ダングラールが言った。「モルセール君は、昨日はあの場においでになりませんでしたかな」
「公爵って誰です?」
「カヴァルカンティ公爵ですよ」ダングラールは、どうしてもこの青年に、この肩書をつけねば気がすまないのだ。
「あ、失礼しました。彼が公爵とは知らなかったもんですから。カヴァルカンティ公爵が昨日ウジェニーさんと一緒に歌われたんですか、そいつは見事だったでしょうね。聞けなくてほんとうに残念でした。ですが、お招きには応じられなかったんです。母をシャトー=ルノーのお母さんの所へつれて行かねばならなかったもんですから。ドイツ人が歌ったんです」
それから、しばらく黙っていた後に、なんでもないことのように、
「お嬢さんに、ちょっと敬意を表して来たいんですが」
「おお、ちょっとお待ちになって下さい」銀行家がアルベールを引きとめながら言った。「あのなんとも言えぬ短詠唱が聞こえるでしょう、タ、タ、タ、チ、タ、チ、タ、タ。まったくうっとりさせられる。もう終りますから、もうすぐです……すばらしい! いいぞ、いいぞ、いいぞ!」
銀行家は、熱狂的に手を叩いた。
「まったくなんとも言えませんね」アルベールが言った。「カヴァルカンティ公爵ほどには、誰もあの国の歌をあんなによく理解することはできませんよ。たしか、公爵だとおっしゃいましたね、たとえ公爵でなくたって、公爵になるでしょう。イタリアではそんなことは簡単なんですから。が、わが名歌手諸君のことに戻りましょう。ひとつお願いがあるんですけれども、ここに局外者が一人いるなんてことは知らせずに、お嬢さんとカヴァルカンティ君に、もう一曲頼んでいただけませんか。少し離れた所で、そっと、見られもせず、見もしないで音楽を聞くっていうのはすばらしいものですからね。そうすれば、歌手のほうは、少しもわずらわされずに、自分の才能のおもむくまま、ないしは心の衝動のままに思う存分歌えるわけです」
今度はダングラールも、アルベールの落ち着きぶりに面喰らった。
彼はモンテ・クリストをわきへ呼び、
「あのフィアンセの態度をどうお思いです?」
「たしかに、冷たいですな、疑う余地はありません。しかし、だからどうだとおっしゃるんです。もう約束なさってるんでしょう」
「たしかに約束しましたよ。でも、娘を愛してくれる男にやると言ったんで、愛してもいない男にやるとは言いませんよ。あの男を見て下さい。石のように冷たくて、親爺そっくりの傲慢さだ。たとえあの男がもっと金持ちでも、カヴァルカンティ家ほどの財産があったとしても、あれは敬遠するでしょうな。たしかにまだ娘の気持ちは聞いてませんが、もし娘に男を見る目があれば……」
「いや、これはあの青年への友情が私を盲にしているせいかもしれませんが、しかし、モルセール君は好もしい青年ですよ、断言します。きっとお嬢さんを幸せにするでしょうし、いずれは名をなします。なんと言ってもお父さんの地位が高いから」
「ですかね」ダングラールが言った。
「どうして、そんな、怪しいものだ、という顔をなさるんです」
「昔のことがありますからね……あのうさん臭い昔のことが」
「しかし、父親の過去など、息子には関係ないでしょう」
「大ありですとも!」
「ま、そう興奮なさらずに。一月前には、あなたもこの結婚は申し分ないと思っておられたじゃありませんか。おわかりと思いますが、私は途方にくれているんです。あのカヴァルカンティ君にあなたがお会いになったのは私の家ですからね、私はあの青年のことをよく知らないんですよ、重ねて申し上げておきますが」
「私はよく知ってます。それで十分です」
「あなたは知っておいでになる? なにか、お調べになったんですか」
「そんな必要がありますか。一目見ただけでどういう男かわかるもんですよ。第一、金がある」
「請けあいませんよ」
「しかし、保証人になられたじゃありませんか」
「たった五万フランのね」
「よい教育も受けている」
「ですかね」今度はモンテ・クリストが言った。
「歌の才能もある」
「イタリア人はみなそうです」
「伯爵、どうもあなたはあの青年に対して公平な見方をなさらぬようですな」
「ええ、そうです、たしかに。モルセール家との約束を知りながら、わきから割り込んで来て、財産にものを言わせるというのは、どうも見苦しくてね」
ダングラールは笑いだした。
「あなたはピューリタンですなあ! でもこんなことは世間では日常茶飯事ですよ」
「とおっしゃっても、このまま破談にするわけにはいきませんよ、ダングラールさん。モルセール家のほうでは、すっかりその気になってますからね」
「その気になってますかね」
「はっきりしてます」
「それなら、そう言えばいいんだ。伯爵、ちょっと父親にその旨お伝え願えませんか。あの家とはとくにお親しいんですから」
「私が! どこでそんなところをご覧になりましたか」
「あの家での舞踏会のときですよ。驚きましたなあ、伯爵夫人が、あのつんとすましたメルセデス、古い馴染みになど口もきいてやらんといった顔をしている、あの人を見下したカタロニアの女が、あなたの腕をとって、庭に出て、小径を歩き廻り、三十分もたってからしか帰って来なかったんですからな」
「ああ、男爵!」アルベールが言った。「歌が聞こえませんよ。あなたのような音楽好きの方にしては、ずいぶん無作法じゃありませんか」
「わかりましたよ、皮肉屋さん」ダングラールが答えた。
それからモンテ・クリストのほうを向いて、
「父親に、今のことお伝え願えますか」
「お望みなら、喜んで」
「しかし、今度は明確に、最終的な申し入れをしてほしいですな。娘をほしい、日取りはいつ、金銭的な条件をはっきり、それで合意するならする、駄目なら駄目とね。ただし、おわかりでしょうが、遅滞なくやってもらいたいのですよ」
「いいでしょう、話はお伝えします」
「返事を楽しみにしているとは申しませんが、とにかく待ちます。銀行家というものは、ご承知の通り、一たんとり決めた約束の奴隷ですからな」
こう言って、ダングラールは、三十分前にアンドレアがついた溜息よりも深い溜息をついた。
「いいぞ、いいぞ、いいぞ!」歌が終ると、モルセールが喝采しながら、ダングラールの口真似をした。
ダングラールがアルベールを横目でにらんだとき、召使いが入って来てなにごとか彼にささやいた。
「すぐ戻ります」彼はモンテ・クリストに言った。「待っていて下さい、たぶん後でお話があると思いますから」
ダングラールは出て行った。
夫人は、夫がいなくなったのを幸いに、娘の勉強部屋のドアを押した。ウジェニーと一緒にピアノの前に坐っていたアンドレアが、はじかれたように立ち上がるのが見えた。
アルベールは笑顔でウジェニーにおじぎをしたが、ウジェニーは、困った様子もなく、いつものように冷やかな会釈を返した。
カヴァルカンティは、明らかにどぎまぎしていた。彼はモルセールにおじぎをしたが、モルセールのほうは、世にも不作法な態度で挨拶を返した。
それからアルベールは、ダングラール嬢の声をべたぼめにほめ上げ、こんなすばらしい声が聞けるのだったらと、前日の夜会に列席できなかったことをしきりに残念がるのであった。
一人ほうっておかれたカヴァルカンティは、モンテ・クリストをわきにつれ出した。
「さあさ、もう音楽と、そんなお世辞はたくさんですわ、こちらでお茶をどうぞ」夫人が言った。
「ルイーズ、いらっしゃいよ」ウジェニーが友だちに言った。
皆は隣のサロンに移った。実際に、お茶が用意されていた。
皆が英国風にスプーンを茶碗の中に置きっぱなしにしはじめた頃、またドアが開いて、ダングラールが現われた。明らかに興奮している。
中でもモンテ・クリストがそれに気づき、目で銀行家に問いかけた。
「じつは、今ギリシアから郵便が届きましてね」
「は、はあ、それで呼ばれたわけですな」
「そうです」
「国王のオトンはお元気ですか」アルベールが朗らかな調子で訊ねた。
ダングラールはそれには答えずに、ただ横目でアルベールを見た。モンテ・クリストは、ふとその顔に浮かび、すぐまた消えた憐憫《れんびん》の色をかくすために、横を向いた。
「一緒に帰りましょう」アルベールが伯爵に言った。
「ええ、お望みなら」伯爵が答えた。
アルベールには、銀行家の視線の意味がまるでわからなかった。そこで、その意味が十分にわかっているモンテ・クリストのほうを向いて、
「あの人が僕を見た目つき、ご覧になりましたか」
「見ました。だが、あの目つきになにか変わったところでもありましたかな」
「そう思います。でも、ギリシアからのしらせっていうのは、どういう意味なんですか」
「どうして私にそれがわかるというんですか」
「だって、あの国のことはよくご存じだと思うからです」
モンテ・クリストは、返事をしたくないときに人がよく浮かべる微笑を浮かべた。
「あ、あの人が来ます」アルベールが言った。「僕はウジェニーさんに、カメオをほめて来ます。その間にお父さんのほうはあなたとお話しできるでしょう」
「もしほめるんなら、せめて声をおほめなさい」モンテ・クリストが言った。
「いやあ、それなら誰だってやりますよ」
「子爵、君はまったく度しがたいうぬぼれ屋ですね」
アルベールは口辺に笑みをたたえてウジェニーのほうに行った。
その間に、ダングラールが身をかがめて伯爵の耳にささやいた。
「いや、いいご忠告をして下さいましたよ。フェルナンとヤニナ、この二つの言葉には、恐るべき話があるんです」
「ほう!」
「そうなんです。いつかお話ししますよ。が、あの青年をつれ帰って下さい。私はもうあの男と一緒にいるのは、なんともかないませんのでね」
「そうしようと思っていたところです、彼は私と一緒に帰ります。で、それでも父親のほうにはあの話をしますか」
「もちろんです」
「わかりました」
伯爵はアルベールに合図した。
二人はご婦人方に挨拶して部屋を出た。アルベールは、ダングラール嬢の蔑むような態度には平気の平左であったし、モンテ・クリストはダングラール夫人に、銀行家の妻たるものが、先の用心のためにとるべき態度を繰り返したのであった。
カヴァルカンティは、一人勝者として後に残った。
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七十七 エデ
伯爵の馬車が大通りの角を曲ると、いきなりアルベールが、不自然と思えるほどの高笑いをしながら、伯爵のほうを向いた。
「サン=バルテルミーの大虐殺の後で、シャルル九世がカトリーヌ・ド・メディシスに言ったように、『私の演技をどう思うかね』と、僕はあなたにお訊ねしたいんですが」
「なんのことですか」モンテ・クリストが訊ねる。
「僕の競争相手がダングラール家に入りこんだ件ですよ」
「どんな競争相手?」
「どんなだなんて。あなたが庇護なさってる、アンドレア・カヴァルカンティ君ですよ」
「それはよくない冗談ですよ、子爵。私はアンドレア君を庇護などしてません、少なくともダングラール氏に対しては」
「もし彼があなたの力をかりねばならないのなら、僕はあなたを非難しますが、幸い、僕を相手とする限り、彼はそんなもの必要ないんです」
「ほ、ほう。君はあの男がウジェニーさんに求愛していると言うんですか」
「保証しますよ。恋に悩む目をきょろつかせ、恋する男の歌を歌ってるんです。誇りぞ高きウジェニーの手をば求めて。なんだ、まるで詩の文句みたいですね。が、これはなにも僕が悪いんじゃない。どうでもいいや、繰り返しますがね、誇りぞ高きウジェニーの手をば求めているんです」
「どうだっていいじゃありませんか、向こうで君のことしか眼中にないとすれば」
「そんなことはありませんよ、伯爵。僕は両方からこっぴどいめにあわされてるんですから」
「両方から?」
「そうです。ウジェニーさんはろくに返事もしてくれないし、仲よしのダルミイーさんは一言も返事をしないんですからね」
「なるほど。しかし、父親のほうは君が大のお気に入りですよ」
「あの人が? とんでもない。僕の心臓にめったやたらと短剣をぶちこんだじゃありませんか。もっとも、芝居で使う、刃が柄の中に入ってしまうやつですけど。向こうじゃ、本物の短剣のつもりでね」
「嫉妬をやくのは愛している証拠ですよ」
「ええ、でも僕は嫉妬なんかやいてません」
「彼のほうでは嫉妬しているよ」
「誰にですか、ドブレにですか?」
「いや、君に」
「僕に? 断言しますが、一週間もたたないうちに、僕なんか門前払いされちまいます」
「子爵、それは君の思い違いですよ」
「証拠がありますか」
「聞きたいですか」
「ええ」
「私は、男爵に対して最終的な申し込みをするようモルセール伯爵に伝えるよう頼まれたんです」
「誰から」
「男爵自身から」
「ああ」アルベールはでき得る限り甘えた態度で言うのだった。「そんなことはなさらないでしょう、ね?」
「それは違う。私はちゃんと伝えますよ、約束したんだから」
「そうかあ」アルベールは溜息をついた。「あなたは僕をどうしても結婚させようとしていらっしゃるんですね」
「私は誰に対しても親切にしたいと思っているだけです。ところで、ドブレ君のことだが、近頃男爵夫人のところには姿を見せませんね」
「仲たがいしたんです」
「夫人と?」
「いいえ、ご主人と」
「なにかに気がついたのかな」
「ああ、人が悪いなあ」
「あの人がかんづいていたと思いますか」モンテ・クリストがいとも無邪気に言った。
「これだ! いったいあなたはどこの国からおいでになったのですか、伯爵」
「コンゴから、とでもしておきましょうか、お望みなら」
「それでもまだ近すぎますよ」
「私にパリのご亭主連のことがわかるとでも言いたいんですか」
「伯爵、亭主なんてものはどこの国の亭主だって同じですよ。どこかの国のある個人を知れば、人間全部がわかっちまいます」
「それじゃ、どんなことが原因でダングラールとドブレとが仲たがいしたんですか。あの人たちはあんなにうまくいってるように思えたが」モンテ・クリストがまたも無邪気に訊ねた。
「そうなると、もうそれはイシスの女神の神秘みたいなもんですよ。僕はその秘密を知らされてはいません。カヴァルカンティ君があの家の家族になったら、彼に聞いて下さい」
馬車がとまった。
「さあ、着いた。まだ十時半です、上がって行きませんか」モンテ・クリストが言った。
「喜んでお言葉に甘えます」
「私の馬車で送らせますから」
「それには及びません、僕の馬車がついて来ているはずです」
「なるほど、あそこにいる」モンテ・クリストは馬車から飛び降りた。
二人は家に入った。サロンには灯がともされていて、二人はその中に入った。
「お茶の支度を頼む、バチスタン」モンテ・クリストが言った。
バチスタンは一言も口をきかずに出て行ったが、すぐさま、夢幻劇の食事さながら地中から浮かび出たかと思えるように、すっかり用意のととのった盆を持って現われた。
「まったく、僕があなたに感心するのは」アルベールは言った。「あなたの富ではないんです。お金ならもっと金持ちもいるかもしれません。また、あなたの才気でもありません。ボーマルシェは、あなた以上ではないかもしれないけど、同じぐらいの才気はあります。そうじゃなくて、あなたの召使いたちからのかしづかれ方なんです。一言も聞き返さずに、まるでベルの鳴らし方で何がほしいのかがわかって、しかもそれがいつでも出せるようにしてあるみたいに、一分、いや一秒で運んで来るということなんです」
「たしかにそういうところも多少はあります。連中は私の習慣を心得ててね。たとえば、ちょっとやってみましょうか。お茶を飲みながら、なにかほしくありませんか」
「ええ、煙草が吸いたくて」
モンテ・クリストが呼鈴を一度ならした。
すぐさま、特にしつらえたドアが開いて、アリが、最高級のラタキア煙草をつめた長ぎせるを二本持って現われた。
「すごいなあ」
「そんなことはありませんよ。簡単なことです。お茶かコーヒーを飲めば、ふつうは私が煙草を吸うことをアリは知ってるし、あなたをつれて来たことも知ってます。客をもてなすのに、とくにきせるをすすめる国の男ですからね、一本ではなく二本持って来たわけです」
「たしかに、説明されてみればその通りですけど、それにしても、こんな人はあなたしかいません……あれ、何の音だろう」
こう言ってモルセールは、ギターに似た音が聞こえて来るドアのほうに身をのり出した。
「まったくあなたは、今夜はよほど音楽に縁がありますな。ダングラール嬢のピアノから逃げ出したと思ったら、今度はエデのグズラに掴まりましたね」
「エデ! なんていい名前なんだろう。それじゃ、バイロン卿の詩以外に、実際にエデという名前が存在するんですか」
「もちろんです。エデという名はフランスにはめったにありませんが、アルバニアやエペイロスではかなりありふれた名前です。これはあなた方の言う、たとえば、純潔、貞潔、無垢《むく》といった意味なんです。パリの人たちの言う洗礼名の一種です」
「それはすばらしい。親切《ボンテ》嬢、沈黙《シランス》嬢、慈悲《シャリテ》嬢なんていう名のフランスのお嬢さんがいたらどんなにいいでしょうね。ダングラール嬢が、クレール=マリー=ウジェニーなんて名前ではなくて、シャストゥテ・ピュドゥール・イノサンス〔純潔、貞潔、無垢〕嬢という名前だったらどうです。きっと婚姻公告のときすごい人気を呼ぶでしょうよ」
「馬鹿な! そんな冗談を大声で言うものではありません。エデに聞こえますよ」
「気を悪くなさるでしょうか」
「いや」伯爵は傲然と言った。
「気立てのいい人だからですか」
「気立てがどうのという問題ではありません。義務なのです。奴隷というものは、主人のやることに腹を立てることなどありません」
「いやだなあ、あなたこそ冗談はやめて下さい。まだ奴隷なんてものが存在するんですか」
「もちろん。エデは私の奴隷ですからね」
「ほんとにあなたって人は、やることも持ち物も人と同じではないんですね。モンテ・クリスト伯爵の奴隷! たしかにこれはフランスでは相当な地位だ。あなたのお金の動かし方からすると、一年に三十万フランの価値はある地位ですからね」
「三十万フラン! あの可哀そうな子はそれ以上のものを持っていたんです。アラビアンナイトの財宝もものの数ではないほどの財宝を褥《しとね》に生まれたんですよ、あの子は」
「ではほんとうに王女様なんですか」
「よくぞおっしゃいましたね、あれの国で最も地位の高い王女です」
「ちっとも気がつきせんでした。しかし、そんな王女様がどうしてまた奴隷になどなったんですか」
「僣王デュオニュシオスはどうして教師になどなりました? 戦争の落とし子ですよ、子爵、運命のいたずらです」
「お名前は秘密なんですか」
「ほかの人にはね、ただし君に対しては別だ。君は私の友人だし、私が口外するなと言えば、黙っていてくれるでしょう」
「名誉にかけて」
「君は、ヤニナのパシャの話を知ってますか」
「アリ=テベレンの話ですか。もちろん知ってます。父はその方《かた》に仕えて財をなしたんですから」
「ああ、そうでしたね、忘れてた」
「それで、エデはアリ=テベレンの何にあたるんですか」
「何なんてものではない、娘です」
「なんですって、アリ=パシャの娘?」
「あの美しいヴァジリキ妃との間の」
「それでいて、あなたの奴隷?」
「ああ、可哀そうに、その通りなんです」
「どうしてまた」
「ある日、コンスタンチノープルの市場を通りかかった際に買ったのです」
「そいつはすごい。伯爵、あなたとお話ししていると、現実を見るんじゃなくて、まるで夢の世界です。では、こんなことをお願いするのは、いくらなんでも無作法なんですが」
「かまいません。言ってごらんなさい」
「あの人と外出なさるし、オペラ座へもおつれになるんですから……」
「だから?」
「ほんとうにこんなことをお願いしてもいいですか?」
「君なら、私に何を言ってもかまいませんよ」
「それじゃ、伯爵、僕にあの王女様を紹介して下さい」
「喜んで。ただし条件が二つあります」
「どんな条件でも受け入れます」
「まず第一に、誰にも私があの子を君に紹介したことを口外しないこと」
「わかりました。(モルセールは手をさしのべ)誓います」
「第二に、君の父君が、あの子の父親に仕えていたことは言わぬこと」
「誓います」
「申し分ありません。子爵、その誓いを忘れませんな」
「もちろんです」
「よろしい。私は君が名誉を重んずる男だということをよく知っている」
伯爵は、呼鈴をまたならした。アリがふたたび現われた。
「エデに、私があれの部屋でコーヒーを飲むと伝えるのだ。お友達を一人おつれするからと言ってな」
アリは頭を下げ、部屋を出て行った。
「それでは、子爵、直接ものを訊ねないように。なにか訊《き》きたいことがあったら、私に言うこと。私が訊くから」
「わかりました」
アリが三度姿を現わし、ドアの前のカーテンを上げたまま、カーテンを抑えた。主人とアルベールに、どうぞお通り下さいと知らせるためである。
「行きましょう」モンテ・クリストが言った。
アルベールは髪を手でなでつけ、ひげをひねり上げた。伯爵は帽子を手にし、手袋をはめて、アルベールの先に立ち、アリが歩哨のように立ち、ミルト指揮下の三人のフランス女性が衛兵のごとく守っている、その部屋に入って行った。
エデは、彼女のサロンになっているとっつきの部屋で、驚いた目を見開いて待っていた。モンテ・クリスト以外の男が彼女の部屋に足を踏み入れるのは、これが初めてだったからである。部屋の隅《すみ》のソファーに腰をおろし、脚を組んでいた。縞模様で刺繍のある東洋のとびきりぜいたくな絹に包まれて、いわば巣に入っていた。かたわらに、さっきその音色で彼女がいることを知らせてしまった楽器があった。この彼女の姿は美しかった。
モンテ・クリストの顔を見ると、彼女は、娘としての微笑、それに恋する者の微笑、彼女にしかないこの二重の微笑を浮かべて立ち上がった。モンテ・クリストは彼女の前に進んで、手をさしのべた。いつものように彼女はその手に唇をおしあてた。
アルベールは、フランスにいては想像することもできない、彼が初めて目にするこの不可思議な美しさに魅せられたまま、ドアの所に立ちつくしていた。
「どなたをおつれになりましたの」娘は現代ギリシア語でモンテ・クリストに訊ねた。「ご兄弟、お友達、ただのお知り合い、それとも敵ですの」
「お友達だよ」モンテ・クリストがやはりギリシア語で答えた。
「お名前は?」
「アルベール伯爵。ローマで私が山賊の手から救ってあげたあの方だ」
「何語でお話しすればよろしいの?」
モンテ・クリストはアルベールのほうを向いて、
「君は現代ギリシア語を知ってますか」
「ああ、残念ながら古代ギリシア語も駄目です。ホメロスもプラトンも、こんな出来の悪い、いや、あえて言えば、こんな生意気な生徒には会ったためしがないでしょう」
「それでは」と、エデは、この質問を自分からすることによって、モンテ・クリストの問いとアルベールの答がわかったことを示しながら、「もしお殿様が私に話せとおっしゃるのなら、フランス語かイタリア語でお話しいたしましょうか」
モンテ・クリストはちょっと考えて、
「イタリア語でお話し」
それからアルベールのほうを向いて、
「君が現代ギリシア語か古代ギリシア語を知らないのは残念ですな。エデは両方ともそれは見事に話すのです。この子は君にイタリア語でしゃべらされる。これはたぶん、君にこの子について誤った観念を抱かせますよ」
彼はエデに合図した。
「お殿様と一緒においでになったお友達の方ですわね、ようこそ」娘はすばらしいトスカナの言葉で言った。ダンテの言葉をホメロスの言葉ほどに響きあるものにしたあの心地よいアクセントで言ったのだ。「アリ、コーヒーとおタバコを」
こう言ってエデは、近くへどうぞと手招きした。その間にアリは、この若い女|主《あるじ》の言いつけを実行すべく引き退った。
モンテ・クリストはアルベールに二脚の折畳椅子をさし示し、二人はめいめいの椅子を持って一種の円卓のそばに近づけた。円卓の中央には水ぎせるがあり、生花やデッサンや楽譜がのっていた。
アリが、コーヒーと長ぎせるを持ってまた入って来た。バチスタンはここへは入ることを禁じられていたのである。
アルベールはヌビア人のさし出した長ぎせるをことわった。
「いや、どうぞ、どうぞ」モンテ・クリストが言った。「エデはパリの人と同じぐらい教養がありましてね。ハヴァナは、あのひどい臭いがいやだと言って嫌いますが、東洋のタバコは、ご承知の通り、香《こう》のようなものですからね」
アリは部屋を出た。
コーヒー茶碗が並べられていた。アルベールのものにだけ砂糖入れが添えられていた。モンテ・クリストもエデも、このアラブの飲物をアラブ風に、つまり砂糖を入れずに飲むのである。
エデは手をのばし、その桜色のほっそりした指の先で、日本の陶器の茶碗を掴み、まるで子供が、好きな飲み物なり食べ物なりを口にするときのような、あどけないうれしそうな様子を見せて、それを口に運んだ。
これと同時に二人の侍女が、アイスクリームとシャーベットを載せた二つの盆を持って入って来て、こういうときに使う二つの小テーブルにそれをのせた。
「伯爵、それに|奥さん《シニョーラ》」アルベールがイタリア語で言った。「どうか僕が茫然としているのをお許し下さい。まるで夢見心地なのです。でも、それは当り前じゃないでしょうか。僕は今こうしてまた東洋を見出しています。それも、残念ながら僕が実際に見た東洋ではなくて、パリの真中で夢に見ていた東洋なんです。つい先程まで、僕は乗合馬車のがらがらいう音とか、レモネード売りの鈴の音を聞いていたのです。ああ、シニョーラ、どうして僕はギリシア語が話せないんでしょう。この幻想的な雰囲気の中であなたとお話しできたら、一生忘れられぬ夜となるでしょうに」
「私は、あなた様とお話しする程度にはイタリア語を話せます」エデがもの静かに言った。「もし東洋がお好きなのでしたら、できるだけ、東洋風のおもてなしをいたします」
「何の話をしたらいいですか」アルベールはそっと伯爵に訊ねた。
「いや、なんでもお好きなことを。この子の国のこと、この子の幼ない頃の思い出など。それから、もし君がそのほうがいいというのなら、ローマ、ナポリ、フィレンツェのことでもいいですよ」
「ギリシアのご婦人を目の前にして、パリの女と話すようなことを話す必要はありません。東洋のことを話させて下さい」
「どうぞ、アルベール君。エデには一番楽しい話題ですよ」
アルベールはエデのほうに向き直った。
「おいくつのとき、ギリシアをお離れになったのですか」
「五歳のときです」エデは答えた。
「で、生まれたお国のことを覚えておいでですか」
「目を閉じますと、幼い頃見たものが、みんな浮かんで参ります。目にも二つありますわ。一つは肉体の目、もう一つは心の目。肉体の目は時に忘れることがありますけど、心の目はいつまでも覚えておりますもの」
「覚えている一番遠い想い出はいつ頃のことですか」
「やっと歩けるようになった頃のことです。ヴァジリキと呼ばれていた母は、(ヴァジリキというのは、王のごとき、という意味です、と昂然と頭を上げてエデは言い添えた)私の手をひいて、二人ともヴェールをかぶり、二人の手もとの金貨を全部財布の底に入れてから、囚人たちのためにもの乞いに出ました、『貧者《まずしきもの》をあわれむ者はエホバに貸すなり』〔原注、旧約聖書箴言十九章〕と口ずさみながら。そして財布がいっぱいになると宮殿にもどりました。父にはなにも言わずに、私たちを貧しい女どもと思って人々が与えてくれたそのお金を全部、修道院に送りました。それから囚人たちに分配されたのです」
「その頃はおいくつだったんですか」
「三つでした」
「それじゃ、三つの頃以後のことは、なんでも覚えておられますか」
「なにもかも」
「伯爵」モルセールはそっとモンテ・クリストに言った。「この方に、身の上話を話すことを許してあげて下さい。あなたは僕に父のことを話してはならぬとおっしゃいましたが、この方はきっと話して下さると思うんです。こんな美しい口から父の名が出たら、どんなに僕はうれしいか、とてもご想像にはなれないと思います」
モンテ・クリストはエデのほうを向き、これから与える注意にはとくに気をつけて聞くようにと、眉で合図してからギリシア語でこう言うのだった。
「オ父上ノ身ノ上ヲオ話シ。タダシ、裏切者ノ名ト、裏切リニツイテハ話シテハナラヌ」
エデは深い溜息をついた。そして、その澄んだ額を暗い影がよぎった。
「なんておっしゃったんですか」アルベールが低声《こごえ》で訊いた。
「君は私の友達だから、君に対してはなにもかくさなくていいということをもう一度言ったんですよ」
「それでは、囚人たちのためのその昔の物乞いがあなたの一番古い思い出なんですね。ほかには?」
「ほかにですか? 湖のそばのカエデの木陰にいました。今でも木の葉ごしにきらきらとゆれ動くその湖が見えます。一番の古木で葉も一番茂ったカエデの木にもたれて、父はクッションの上に坐っていました。私はまだほんとに小さくて、母が父の足もとに身を横たえている間、私は父の胸まで垂れた白いひげと、ベルトにたばさんだダイヤの柄のついた剣をいじって遊んでいました。時々アルバニア人が父の所へ来て、私は気にもしませんでしたけど、なにか言うと、父が『殺せ』とか『赦してやれ』とか同じ声で答えました」
「若い女性の口からこんな話を聞くのは不思議な気がします。それも舞台の上ではなくて、これは作り話ではないのだ、と自分に言いきかせながらなんですから。それで」アルベールは訊ねた。「そんな詩的な世界、そんなすばらしい遠い国とくらべて、フランスをどうお思いですか」
「美しい国だと思います。でも、私は女の目でフランスを見ていますから、フランスのありのままの姿を見ているわけですが、私の国のこととなると、子供の目で見たのですから、私の目が、なつかしい祖国として見るか、辛い苦しみの場所として見るかによって、いつでも光り輝く霧、あるいは暗い霧に包まれているように思えます」
「そんなに小さいのに、どうしてそんな苦しい思いなどなさったのでしょう」アルベールは思わず平凡な問いをせずにはいられなかった。
エデはモンテ・クリストに目を向けた。モンテ・クリストは、それとわからぬほどの目くばせをしなから、ギリシア語でつぶやいた。
「話シナサイ」
「小さい頃の思い出ほど人の根底を作り上げてしまうものはありません。今お話しした二つの思い出以外は、私の幼い頃の思い出は、悲しいものばかりでございます」
「お聞かせ下さい、シニョーラ。口に出しては申し上げられぬほどの喜びを抱きつつお話をうかがいますから」
エデは悲しい微笑を浮かべた。
「ほかの思い出もお聞きになりたいとおっしゃいますのね」
「お願いします」
「私が四つのある晩のことでした。私は母に起こされました。私たちはヤニナの宮殿にいたのです。母は、私が寝ていたクッションから私を抱き上げました。目を開けてみると、母の目は大粒の涙でいっぱいでした。
母はなにも言わずに私をつれて行きました。
母が泣いているのを見て、私も泣きそうになりました。
『声を出してはいけません』母が言いました。
いつも、母がすかしてもおどしても、ほかの子供たちと同じで、私もわがままでしたから、泣きやんだりはしなかったのですが、その時は、母の声にはなにかすごく恐ろしいひびきがあって、私はすぐに泣き止みました。
母は急ぎ足で私をつれて行きます。
そのとき、私は私たちが大きな階段を降りて行くのを見ました。私たちの前を、母の侍女たちが、皆、箱やら袋やら、装身具、宝石、金貨の入った財布などを持って、階段を降りて、いえ、ころげ落ちるようにしていました。
女たちの後ろから、二十人ほどの衛兵が長い銃やピストルで武装して、ギリシアがふたたび一つの独立国となってからはフランスのあなた方もご存じの、あの軍服を着てついて来ました。
眠気のために半ば動きの鈍くなっている奴隷や女たちの長い列には、なにか不吉な影がただよっていました。私自身はっきり目がさめていなかったので、女たちもそうだと思ってしまったのかもしれませんけど、少なくともそう思いました」エデは、頭をふり、思い出すだけで顔を蒼くした。
「階段を大きな影が走っていました。モミの木の松明《たいまつ》が円天井に影をゆらめかせるのです。
『急げ』廊下の奥で声がしました。
畑を渡る風に麦の穂が身をかがめるように、この声にみな身をかがめました。
私はこの声にぞっとしました。
その声は父の声だったのです。
父は一番最後を進んでいました。あの立派な服を着て、手にはナポレオン皇帝からいただいたカービン銃を持ち、そして寵臣のセリムに身を支えられながら、うろたえ騒ぐ羊を追う羊飼いのように、私たちを前へ前へと歩かせるのでした。
父は」と、エデは昂然と顔を上げ、「ヨーロッパにその名も高い、ヤニナのパシャ、アリ・テベレンです。父を前にしては、トルコもふるえ上がったものでした」
誇りと威厳のこもったなんとも言えぬ声音《こわね》で語られるこれらの言葉を聞くと、アルベールは、わけもなく戦慄をおぼえるのだった。亡霊を呼び寄せる女予言者さながら、その非業の死ゆえに、現代ヨーロッパの人々の目に偉大な存在として映る、あの血まみれの顔を思い描かせたとき、アルベールは、娘の目の中に、妖しいぞっとするようななにかがきらめくように思ったのである。
「やがて」と、エデは続けた。「人々の歩みが止まりました。私たちは階段の下にいました。湖のほとりでした。母はその高鳴る胸に私を抱きしめています。父はあたりに不安そうな目を向けていました。
私たちの前には大理石の階段が四段あり、その下に一艘の小舟がゆれています。
私たちのいる所から、湖の真中になにか黒い塊が見えていました。それは四阿《あずまや》で、私たちはそこへ行ったのです。
この四阿まではかなり遠かったように思いましたが、たぶん暗かったせいでしょう。
私たちは小舟に乗りこみました。櫂《かい》が水にふれても、まったく音をたてなかったことを覚えています。私は櫂を見るために身をのり出しました。櫂にはギリシア独立義勇軍兵士たちのベルトが巻きつけてありました。
漕手以外には、小舟には、侍女たちと父母、それにセリムと私だけしか乗っていませんでした。
義勇兵たちは湖の岸に残り、階段の一番下の段に膝をついていました。追手が来た場合には、上の三段を防壁にしようというのです。
私たちの小舟は風のように進みました。
『なぜこんなに早く舟を進めるの』私は母に訊ねました。
『しーっ。私たちは逃げているからですよ』
私にはわかりませんでした。なぜ父が逃げるのでしょう。全能であった父。父を前にすれば逃げるのは敵のほうだったのに。
〈彼等ワレヲ忌《い》ミ嫌ウ、故ニワレヲ恐レルヤ?〉
を座右の銘としていた父が。
事実、父は湖上を逃走しているのでした。父は申しました。『ヤニナの城の守備隊が、長い勤務に倦み疲れて……』」
ここで、エデは問いかけるような目をモンテ・クリストに注いだ。以後モンテ・クリストの目は彼女の目を放さなかった。娘は、話を作ったり、省略したりする者のように、ゆっくりと後を続けるのだった。
「シニョーラ」この話を固唾《かたず》をのんで聞いていたアルベールが言った。「ヤニナの城の守備隊が長い勤務に倦み疲れて……とおっしゃったんですが」
「父を捕えるためにサルタン〔トルコ皇帝〕が派遣した軍司令官クルシッドと手を結んだのです。そこで父は、全幅の信頼を寄せていたフランス人のある将校をサルタンのもとに派遣してから、隠居所と呼んでいた、ずっと前から用意させてあった隠れ家に引退する決心をしたのです」
「その将校を、その名前を覚えておられますか」アルベールが訊ねた。
モンテ・クリストは娘と閃光のようなす早い視線を交わした。モルセールは気づかなかった。
「いいえ、思い出せません。でももう少したったら思い出すでしょうから、そうしたら申し上げます」
アルベールは父の名を言いそうになったが、モンテ・クリストが、言ってはならぬというように、そっと指を上げた。青年は誓約を思い出し、口をつぐんだ。
「私たちが漕ぎよせたのは、その四阿《あずまや》でした。
アラベスク模様で飾られた一階、テラスは水に洗われています。湖面を見おろす二階。この宮殿で目に見えるものはそれだけでした。
しかし、一階の下に、島の地下に掘り進められた地下室、広い洞窟があったのです。そこへ、母と私と侍女たちはつれて行かれました。六万箇の財布と二百箇の樽が一山に積まれていました。財布には金貨で二千五百万、樽には三万ポンドの火薬が入っていました。
この火薬の樽のそばにセリムががんばっていました。先ほどお話しした父の寵臣です。セリムは、先に火をつけた芯の燃えている槍を手に、昼も夜も番をしていました。父の合図があり次第、四阿《あずまや》も、衛兵も、パシャも、女たちも金貨も、いっさいを爆破してしまえとの命令を受けていたのです。
奴隷たちが、このぶっそうな男がすぐ隣にいることを知り、昼夜の別なく祈ったり、泣いたり、呻いたりしていたのを覚えています。
私にはいつでも、蒼い顔色をした黒い目のあの若い兵士の姿が目に浮かびます。死の天使が私の所へ降りて来たら、きっとセリムをその姿の中に見ることでしょう。
いったいどれほどの間そうしていたのか、私には申し上げることができません。あの頃は、私は時間というものを、まだ知らなかったのです。時々、たまにですけれど、父が母と私をテラスに呼んでくれることがありました。地下室で、呻く人の影と火のついたセリムの槍しか見られない私にとっては、それは楽しいひとときでした。父は大きな窓の前に坐り、暗い目を遠い水平線に注いでいました。湖の上に現われる黒い点の一つ一つをさぐるように見ていたのです。母は父のそばに半ば身を横たえて、頭を父の肩にもたれさせていました。私はその足もとで遊んでいました。なんでも物を大きく見てしまう、あの子供特有の驚異の目をみはって、地平線上にそそり立つピンドスのきり立った山肌や、湖の青い水の上に浮かぶ、白くごつごつしたヤニナの城や、遠くから見ればコケのように見え、近く寄って見れば巨大なモミやテンニンカである、山の岩肌にへばりついた地衣《ちい》のような、黒ずんだ緑の大きな森を見ていました。
ある朝、父が私たちを呼びに人をよこしました。父はかなり落ち着いていましたが、いつもより顔が蒼ざめていました。
『もう少しの辛抱だよ、ヴァジリキ。今日ですべては終る。今日、サルタンから勅命が届く。わしの運命が決まるのだ。完全な赦しが与えられれば、堂々とヤニナに帰れる。悪いしらせであれば、今夜逃げるとしよう』
『でも、敵が私たちを逃がさなかったら』母が申しました。
『安心おし』アリは笑いながら答えました。『セリムと火のついた槍とが、奴らのことは引き受けてくれる。奴らはわしの死を望んではおるが、わしと共に奴らも死ぬというのでは、それを望みはせぬ』
父の本心から出たものではないこの慰めの言葉に対しては、母はただ溜息で答えただけでした。
母は父のために冷たい水を用意しました。父はしょっちゅうそれを飲んでいました。四阿《あずまや》に引込んでから、父はひどい熱に苦しんでいたのです。母は父の白いひげに香水をかけ、長ぎせるに火をつけました。なん時間もの間、時折父はただぼんやりとその煙が空に消えて行くさまを追っていたのです。
突然父が、急激に身を動かしました。あまりの激しさに私はこわくなったほどです。
それから、じっと見据えた目を離さず、父は望遠鏡をよこせと言いました。
よりかかっていた壁の漆喰よりも白い顔をして、母は望遠鏡を父に渡しました。
父の手がふるえているのが見えました。
『舟だ。二、三、四……』父がつぶやきます。
そして、武器を手に立ち上がり、まだ覚えていますが、ピストルの火皿に火薬を注ぎました。
『ヴァジリキ』父が母に、それとわかるほど身をふるわせながら申しました。『いよいよわれわれの運命の定まる時が来た。三十分後には、皇帝の返事がわかる。エデをつれて地下室に戻れ』
『私はおそばを離れたくはございません』ヴァジリキが申しました。『あなたがお亡くなりになるなら、私もあなたとご一緒に死にとうございます』
『セリムのそばへ行くのだ!』父が怒鳴りました。
『さようなら、殿様』従順に、まるで死神を迎えたように身を二つに折って母は申しました。
『ヴァジリキをつれて行け』父が義勇兵たちに申しました。
けれども、私は、皆が一瞬忘れていた私は父のそばに駈け寄り、父のほうに両手をさしのべました。父は私を見ると、私のほうに身をかがめて、私の額に唇をおしつけました。
ああ、あの口づけ、あれが最後のものでした。今でも額に私はそれを感じます。
下へ降りて行くとき、テラスの格子ごしに、私たちは次第に大きくなる湖上の小舟の姿を見ました。ついさっきまでは黒い点のようだったのに、もう波をかすめる鳥ほどに見えます。
その間、四阿《あずまや》の中では、腰板に身をかくした二十名の義勇兵が、父の足下に坐って、血走った目でそれらの舟の到着をうかがっていました。螺鈿《らでん》をほどこし、銀を象嵌《そうがん》した長い銃をいつでも撃てるようにしてたずさえています。無数の弾丸が床にちらばっていました。父は時計を見ました。そして、苦しげに歩き廻っていました。
私が父から受けた最後の口づけの後に、父から私が離れたとき、私の胸をうったのはこの光景でした。
母と私は地下室を横切りました。セリムは相変わらずその部署にいました。彼は私たちにさびしい笑顔を向けました。私たちは地下室の奥のクッションをとって来て、セリムのそばに坐りました。大きな危険に見舞われたとき、捧げ合った心は互いに呼び求めるものです。そして、私はまだほんの子供でしたが、私たちの頭の上を、大きな不幸の影が舞っているのを本能的に感じていたのです」
アルベールは、このヤニナ太守の最後の話は、この話を決して口にしようとしなかった父からではないが、他人からなん回となく聞かされていた。その死については、さまざまな人の書いたものを読んでいた。しかし、生身の人間の中に脈うち、しかもこの少女の声で語られるその話、なまなましいその声音、嘆き悲しむその悲歌は、名状しがたい魅力と言いしれぬ恐怖を、彼の心にしのびこませるのであった。
エデはといえば、この恐ろしい想い出にうちひしがれ、しばし話すのをやめていた。彼女の額は、嵐にうたれる花のように、うなだれたまま手に支えられていた。その目はぼんやりと焦点を失い、今なお地平の彼方に緑なすピンドスの山と、今彼女が描いてみせた陰惨な光景を映す、魔法の鏡、あのヤニナの湖の青い水を見ているかのようであった。
モンテ・クリストは、言うに言われぬ憐憫と興味ありげな表情を示して、少女をみつめていた。
「続ケルノダ」伯爵が現代ギリシア語で言った。
エデは、モンテ・クリストのよく響くその声に、夢からさめたように顔を上げ、また語り始めた。
「夕方の四時でした。外は一点の雲もなく輝きわたっていても、私たちは地下室の闇の中に沈んでいたのです。
たった一つの光が地下室の中にきらめいていました、闇黒の空のただ一つの星のように。それは、セリムの槍の先の火でした。母はキリスト教徒でした。母は祈りました。
セリムは時折、
『神は偉大なるかな』
という聖なる言葉を繰り返し唱えていました。
それでも母は、まだ多少の希望は持っていたのです。地下室へ降りるとき、母は、コンスタンチノープルヘ派遣され、父が全幅の信頼を寄せていたあのフランス人の姿を認めていたのです。父は、サルタンに仕えるフランス軍人が、概して高尚で寛容な精神の持ち主であることを知っていたのでした。母は階段のほうへなん歩か歩み寄って耳をすましました。
『あの連中が近づいて来るわ。平和と、命とをもたらしてくれますように』母は申しました。
『ヴァジリキ様、なにをご懸念あそばします』なんとも言えずやさしい、それでいて誇りに満ちた声でセリムが答えました。『和平をもたらしたのでなければ、奴らに死をお見舞いするだけです』
こう言ってセリムは、槍の火をかきたてましたが、その姿は古代クレタ島のディオニュソスさながらでした。
しかし、まだほんの子供であどけなかった私には、この勇気がただ狂暴で気違いじみたものに思え、こわくなりました。そして、空中に吹きとばされ火に焼かれるこの恐ろしい死におびえました。
母も同じ思いでした。母がふるえているのが感じられましたから。
『ああ、お母さま! 私たちは死ぬの?』私は叫びました。
私の声に、奴隷たちの泣きわめく声と祈りの声がこだましました。
『エデ、お前は今こわがっているけれど、きっと神様が、お前がその死を願うようにして下さいます』
それから声を落として、
『セリム、ご主人様のご命令はどういうことなの』
『もし短剣を私におよこしになった場合は、サルタンが殿の赦免を拒否したのです。私は火をつけます。もし指輪をおよこしになれば、殿は赦されたのであり、私は火薬庫を引き渡します』
『セリム』母がまた言いました。『ご主人様のご命令が届き、それが短剣だったら、私たち二人が恐れているそんな死に方をさせずに、私たちはこの喉をさし出しますから、その短剣で殺してほしい』
『わかりました、ヴァジリキ様』静かにセリムが答えました。
いきなり大きな叫び声のようなものが聞こえて来ました。私たちは耳をすましました。喜びにわきたつ声でした。コンスタンチノープルヘ派遣されていたフランス人の名を、義勇兵たちが声高になん回も繰り返しています。彼が皇帝の返事を持って来たのです。よい返事だったに違いありません」
「そのフランス人の名前を思い出しませんか」モルセールが言った。語り手が思い出すのを助けてやろうとしていた。
モンテ・クリストが彼に合図を送った。
「思い出せません」エデは答えた。
「騒ぎはますます大きくなりました。足音が近づきます。地下室への階段を降りて来ます。
セリムは槍をかまえました。
やがて、地下室の入口までさしこむ光の、青っぽい薄明りの中に、一つの人影が浮かび出ました。
『誰か』セリムが叫びました。『誰であろうと、それ以上一歩も前へ出るな』
『サルタン万歳!』その人影が言います。『アリ大臣は完全に赦免された。命を救けられたばかりではなく、財産もすべて返される』
母は歓声をあげました。そして私を胸に抱きしめました。
『止まるのです!』母がすでに外へ飛び出しかけたのを見て、セリムが申しました。『指輪を見るまでは駄目なのです』
『そうでしたね』こう言って母は跪《ひざまず》き、私のために神に祈ると同時に、私を神のみもとにまでさし上げようとするかのように、私を高く天にさし上げたのです」
ここで再びエデは言葉を切った。激情がこみあげて続けられなくなったのだ。蒼白な額から汗が流れ、しめつけられた声は、からからな喉を通ることができぬようであった。
モンテ・クリストは冷たい水をコップに注いだ。そして、それを少女に渡しながら、やさしく、それでいて命ずるような調子もこめられた口調で、
「しっかりしなさい」
エデは目と額をぬぐい、また続けた。
「そうしているうちに、闇になれた私たちの目は、その影がパシャが派遣した男であることを認めました。味方です。
セリムにもそれがわかりました。しかし、誠実なこの青年は、ただ一つのことしか知りませんでした。主命に従うということです。
『誰の命により来たか』セリムが申します。
『われらが殿、アリ=テベレンの命で』
『殿のご命令により来たのであれば、俺に渡すべきものを知っているはず』
『知っている。指輪を持って来た』
こう言いながら、その男は頭の上に片手を上げました。しかし、私たちがいた所からは遠すぎたし、明るさも足りなくて、セリムには、その男が見せたものをはっきり確認することができません。
『何を持っているか、ここからは見えぬ』セリムは言いました。『こっちへ来い、さもなければ私がそっちへ行く』
『そのいずれも許さぬ』若い兵士は答えました。『その場に、俺に見せる物を置け。その光のさしている場所に。そして、俺が見終るまで退っていろ』
『よし』使者が申しました。
そして、確認のための品を言われた場所に置いて後に退りました。
私たちの胸はときめきました。その品物は実際に指輪のように見えたのです。ただ、その指輪は父の指輪なのでしょうか。
セリムは、なおも火のついた槍をたずさえたまま、入口の所へ参りました。さしこむ光に照らされながら身をかがめ、その品を拾い上げました。
『殿の指輪だ!』セリムは指輪に口づけし、『よし!』
火のついた芯を地面に落とし、セリムはそれを踏みつけて火を消しました。
使者は歓声をあげ手を叩きました。軍司令官クルシッドの兵士が四人かけつけて来ました。そしてセリムは、五本の短剣をうちこまれて倒れたのです。五人がそれぞれに突いたのです。
そうこうするうちに、犯した罪に興奮した彼らは、恐怖になお蒼ざめてはいましたが、地下室に突入して来て、火はないかとくまなく探し、金貨の袋の上をころげ廻りました。
この間に、母は私を抱き上げると、私たちだけしか知らない迷路を駈け抜け、四阿《あずまや》のかくし階段まで来ました。あずまやの中はすさまじい混乱の巷でした。
下の広間はクルシッドの部下たち、つまり敵でいっぱいでした。
母が小さなドアを開けようとしたとき、パシャの、恐ろしい威嚇するような声が響きわたりました。
母は壁板の隙間に目をあてました。偶然私の前にも隙間があったので、私もそこからのぞきました。
『何の用か』金文字で書かれた書面を手にした男に向かって、父が言っています。
『皇帝陛下の上意を伝えに来たのだ。この勅命が見えるか』
『見える』
『では読め。陛下は汝の首を所望だ』
父は突然高笑いしました。脅しの言葉よりも恐ろしい哄笑でした。二発のピストルの弾丸が彼の手から発射され、二人の兵士を倒した後も、まだ笑いはやんでいませんでした。
父をとり囲み、床に伏せていた義勇兵たちも立ち上がり、いっせいに発砲しました。部屋はたちまち轟音と火と煙で埋まりました。
すぐさま別の方角でも銃撃が始まり、弾丸が飛んで来て、私たちのまわりの壁にぶすぶすと穴をあけます。
弾幕のさ中に立って、新月刀を手に、火薬で顔を真黒にした父、太守アリ=テベレンは、なんと美しく、なんと偉大な姿だったことでしょう。敵がどれほど逃げまどうたことか。
『セリム! セリム! 火の番人! 汝の義務を果せ!」
『セリムは死にました!』四阿《あずまや》の奥からと思える声が答えました。『殿、もはやこれまででございます!』
これと同時に、鈍い爆発音が聞こえて、父のまわりの床が微塵《みじん》に飛び散りました。
敵兵どもが床の下から射ったのです。三、四人の義勇兵が、下から上へ射抜かれて、全身に傷を負って倒れました。
父は努号し、弾痕の穴に指をつっこみ、床板を一枚すっかり引きはがしました。
が、それと同時に、この開かれた穴から、二十発もの弾丸が吹き出し、火山の溶岩のように吹き上げた焔が、壁布にうつり燃え上りました。
このすさまじい混乱、阿鼻叫喚《あびきょうかん》のさ中に、一きわ高く響いた二発の銃声と、ほかのいっさいの叫び声よりも悲痛な二声の叫びが、恐怖で私を凍らせました。この二発の銃声は父に致命傷を与えたものなのです。二回の叫び声は父が洩らしたものだったのです。
それでもまだ父は窓にしがみついて立っていました。母は、父とともに死のうとドアを激しく押しましたが、ドアは内側から鍵がかかっていました。
父のまわりには、義勇兵たちが、断末魔の苦悶に、ひくひくと身もだえしています。二、三の傷を負わなかった者、あるいは軽傷の者が窓から飛び出しました。と、そのとき、床全体が崩れ落ちました。父は片膝をつきました。と同時に、サーベル、ピストル、短剣を手にした二十本の腕がのび、たった一人の男に、一時に二十人が襲いかかったのです。足もとに地獄が口を開けたかのように、怒号する鬼どもにかきたてられた炎の渦巻く中に、父の姿は消えました。
私は地面にころがされたのを感じました。母が気を失い、倒れてしまったのでした」
エデは、呻き声とともに両腕を落とし、言われた通りにしたつもりだが、これでよかったのかと訊ねるように伯爵を見た。
伯爵は椅子から立って少女の所へ行き、その手をとると、現代ギリシア語でこう言った。
「少シオ休ミ。裏切リ者ヲ罰スル神モアルコトニ思イヲイタシテ、元気ヲトリ戻スノダ」
「伯爵、これは恐ろしい話ですね」エデの顔の蒼さにおびえながらアルベールが言った。
「こんな残酷なことをお願いしたことを後悔しています」
「いいんですよ」モンテ・クリストは答えた。
そして、エデの頭の上に手をのせて、
「エデは勇気のある娘でね、時には、自分の苦しみを語ることに慰めを見出すこともあるんですよ」
「私の過去の苦しみは、あなたのご親切を思い出させてくれるんですもの」エデが急いでこう言った。
アルベールは、なおも聞きたそうな顔で少女を見た。彼が一番聞きたいこと、つまり、どうして彼女が伯爵の奴隷となったのかを、エデがまだ話していなかったからである。
エデは、伯爵の目にもアルベールの目にも、同時にこの同じ願いを見た。
エデは語り続けた。
「母が意識をとり戻したとき、私たちはクルシッドの前にいました。
『私を殺して下さい。ただ、アリの妻としての名誉だけはお守り下さい』
『わしに言っても駄目だね』クルシッドは申しました。
『誰に言えばいいのです』
『お前の新しいご主人様にだ』
『誰ですか』
『そこにおる』
こう言ってクルシッドは、父の死に対して最も功績のあった者のうちの一人を指さしました」少女はひそかな怒りをこめて続けた。
「では、あなた方はその男のものとなったのですか」アルベールが訊ねた。
「いいえ」エデは答えた。「さすがに私たちをわがものにしておくことはできず、その男は私たちを、コンスタンチノープルヘ行く奴隷商人に売ったのです。私たちはギリシアを横切り、息もたえだえに、皇帝の城門の所までたどり着きました。野次馬でいっぱいでしたが、私たちを通すために道をあけました。このとき、野次馬たちの視線の先を追っていた母が、いきなり悲鳴をあげて、その門の上の首を私にさし示しながら倒れてしまいました。
その首の下にはこう書いてありました。
『ヤニナのパシャ、アリ=テベレンの首なり』
私は泣きながら母を抱き起こそうとしました。母は死んでおりました。
私は市場につれて行かれ、お金持ちのアメリカ人に買われました。いろいろ教育してくれて、先生もつけ、私が十三になると、サルタンのマハムードに私を売ったのです」
「前に言ったように」モンテ・クリストが言った。「そのサルタンから私がまた買ったんですよ。私がハシッシュの丸薬を入れるのに使っているエメラルドと同じエメラルドでね」
「ああ、お殿様はほんとにご親切な方、偉大な方」エデはモンテ・クリストの手に口づけをしながら言うのだった。「お殿様のものになれて、私はほんとうに幸せ」
アルベールは、今聞いた話に茫然としていた。
「コーヒーを召し上がれ、話はもう終りましたよ」モンテ・クリストが言った。
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七十八 ヤニナからの通信によれば
フランツは、とり乱しよろめきながらノワルチエの部屋を出て行った。さすがにヴァランチーヌも気の毒に思ったほどである。
きれぎれな言葉をつぶやいたのみで、書斎に逃げこんだヴィルフォールは、二時間後につぎのような手紙を受け取った。
『今朝あのような事情をおあかし下さった以上、ノワルチエ・ド・ヴィルフォール氏は、同家とフランツ・デピネ家の縁組が、よもや可能とはお考えになりますまい。フランツ・デピネは、今朝語られた事件につきご存じであったとお見うけするヴィルフォール氏が、事前にこのことをお知らせ下さらなかったことを、きわめて遺憾に存じます』
今、うちのめされたこの司法官の姿を見れば、人はみな、彼がこの事態を予測していたとは思わぬであろう。事実、ヴィルフォールは、まさか父があのような話をするまでに率直な、いや乱暴なまねをしようとは、夢にも思っていなかった。息子の意見などほとんど眼中になかったノワルチエは、たしかに、それまで事実をヴィルフォールの目に明らかにしようとしたことなど一度もなかった。またヴィルフォールも、一つは生まれながらの名であり、他方は人が与えた名前で、そのいずれで呼ぶかは各人の好き好きであるが、ケネル将軍ないしデピネ男爵は、暗殺されたものとのみ思い、正式の決闘の末に生命を落としたなどとは考えてもいなかった。
それまではあれほど敬意を払ってくれていた青年からのこれほど手きびしい手紙は、ヴィルフォールのように自尊心の強い男にとっては致命的なものであった。
彼が書斎に入ると、ほとんど間をおかずに夫人が入って来た。
フランツがノワルチエに呼ばれて出て行ったことは、皆をひどく驚かせたので、公証人と二人の証人の間に一人とり残されたヴィルフォール夫人の立場は、時がたつにつれて次第に気まずいものになってきた。そこで夫人は意を決し、様子を聞いて来ると言って、その部屋を出て来たのであった。
ヴィルフォールは、自分とノワルチエとデピネとの間で話し合った結果、ヴァランチーヌとデピネとの縁談は破談になったと言うにとどめた。
これを、待っている者たちに伝えるのはむずかしいことであった。そこでヴィルフォール夫人はもとの部屋に戻ると、話し合いのはじめに、ノワルチエが脳溢血の発作のようなものに襲われ、契約も自然に四、五日延期されることになったと言っておいた。
このしらせは、まったくの作りごとではあったが、同じような悲劇が二つもあった後に引き続いておきたことだけに、聞かされた者は驚いて顔を見合わせ、なにも言わずに帰って行った。
この間に、ヴァランチーヌは、うれしいと同時にそら恐ろしい気もしながら、自分ではもう断ちがたいものと諦めていた鉄鎖を一挙に断ち切ってくれた、病みおとろえた老人に接吻し礼を述べると、少し休みたいので帰ってもいいかと訊ねた。ノワルチエはその目で、彼女が求めた許可を与えたのだった。
しかし、自分の部屋へ上がろうとはせずに、ヴァランチーヌは、老人の部屋を出ると、廊下を通って、小さなドアから庭へ出た。つぎつぎに襲いかかる事件のさ中にあって、ひそかな恐れが終始彼女の胸に重くのしかかっていた。彼女は時折、リュシー・ド=ラマムーアの婚約の際のレーヴンズウッド卿のように、蒼ざめたすさまじい形相をしたモレルが現われるような気がしていたのだ。
事実、彼女はまことにいい時に柵の所に来たのであった。マクシミリヤンは、フランツがヴィルフォールと一緒に墓地を立ち去る姿を見て、事態の推移をあやしみ、フランツの後をつけて来たのだった。マクシミリヤンは、フランツがヴィルフォール邸に入るのを見、ついでフランツがまた出てきて、アルベールとシャトー=ルノーといっしょに帰っていくのを見た。マクシミリヤンにしてみれば、もはや疑う余地はなかった。そこで彼はあのかこいに身をかくし、どんな事態にもそなえたのである。ヴァランチーヌが、逃げるチャンスを掴めさえすれば、直ちに自分のもとに駈け寄って来ることを確信していた。
その確信は裏切られなかった。板にはりついていた彼の目は、いつもの用心もせずに柵の所に走り寄る娘の姿を見たのである。彼女を一目見ただけでマクシミリヤンは安心した。彼女の最初の一言に、躍り上がって喜んだ。
「救われたのよ!」
「救われた!」モレルは繰り返したが、そんな幸せを信じかねた。「でも、誰が救ってくれたんだ?」
「お祖父様。ああ、お祖父様を好きになってちょうだい」
モレルは、老人を心の底から愛することを誓った。誓うのになんの心の抵抗もなかった。今この瞬間、彼は、老人を友としてまた父として愛するだけでは足りずに、神として崇めていたからだ。
「でも、どうしてそんなことになったんだ。どんな方法で?」
ヴァランチーヌは、すべてを語ろうとして口を開きかけた。しかしこの話の底には、単に祖父一人のものではない恐ろしい秘密があることを思った。
「いつかみんなお話しするわ」
「でも、いつ?」
「私があなたの奥さんになったら」
この言葉は、モレルを、それ以後どんな話でも素直にきき入れる気持ちにする言葉だった。だから、彼は自分が今知っていることだけで満足すべきであり、その日一日分としては、これでもう十分であるというふうにさえ考えたのである。ただ、翌日の夕方またヴァランチーヌに会えるという約束をとりつけるまでは、帰るとは言わなかった。
ヴァランチーヌはモレルの望み通りにすることを約束した。彼女の目にはなにもかもが変わって見えた。たしかに今は、マクシミリヤンの妻になれると考えるほうが、つい一時間前に、フランツの妻にはならぬと考えていたのよりも、はるかに考えやすかった。
この間に、ヴィルフォール夫人はノワルチエの所へ行っていた。
ノワルチエは、いつもそうして夫人を迎えるように、暗くけわしい目で夫人を見た。
「ヴァランチーヌの縁談が破談になりましたことは申し上げるまでもないと存じます。お話がこわれましたのはこのお部屋なのでございますから」
ノワルチエはなんの表情も見せなかった。
「でも」夫人は続けた。「ご存じなかったことですけど、あたくしはこの縁談には反対しておりましたの。あたくしの意に反して進められていたのです」
ノワルチエは、説明を待つ様子で嫁を見た。
「ところで、この縁談をお父様がお嫌いになっていたことはあたくしも存じておりました。その縁談がこわれましたので、お父様にお願いに上がったのです。ヴィルフォールにもヴァランチーヌにもできないお願いをしに」
ノワルチエの目が、どんな願いかと訊ねた。
「私だけにしかできないお願いなんです。その結果なんの利益も得ないのはあたくしだけなものですから。あたくしは、ヴァランチーヌに返してやって下さいとお願いに来たのです。お父様のご慈愛をとは申しません、それはいつだってヴァランチーヌは失ったことなどないのですから。そうではなくて財産を孫娘に返してやっていただきたいのでごさいます」
ノワルチエの目が一瞬とまどった。もちろん夫人のこの申し出の動機をさぐろうとしたのだが、それを見きわめることができなかったのである。
「お父様のご意志も、今あたくしがお願いしたことと一致すると考えてよろしいでしょうか」
『いい』ノワルチエは答えた。
「それではこれで退らせていただきます。感謝の気持ちとうれしさでいっぱいでございます」
こう言うと、夫人はノワルチエに一礼して退出した。
実際に、翌日すぐノワルチエは公証人を呼ばせた。最初の遺書は破棄され、新たな遺書が作成されたが、その中でノワルチエは、ヴァランチーヌが自分から引き離されることはないという条件のもとに、全財産をヴァランチーヌに遺贈したのである。
誰かが計算したところによると、サン=メラン侯爵夫妻の遺産相続人であり、祖父の寵愛もとり戻したヴィルフォール嬢は、将来三十万フラン近い年収を得ることとなった。
ヴィルフォール家でこの縁談が破談になっている間に、モルセール伯爵のほうはモンテ・クリストの訪問を受けていた。モルセールは、ダングラールに誠意を示すために、陸軍中将の軍服を着込み、持っているかぎりの勲章で飾りたて、一番良い馬を馬車につけるように命じた。こうして身辺を飾りたてた彼は、ショセ=ダンタン通りにおもむき、ダングラールに来訪を告げさせたのである。ダングラールはちょうど月末の帳簿をしめているところであった。
しばらく前から、この銀行家の機嫌のよい時を掴まえるにしては、これはいい時期ではなくなっていた。
だから、古くからの友の姿を見ると、ダングラールは尊大にかまえ、肘掛椅子にどっかと腰をおろした。
いつもはもったいぶっているモルセールが、その反対に、にこやかな愛想のいい態度をとっていた。だから、話を切り出せば歓迎されるにちがいないことをほぼ確信して、まわりくどいことはぬきにして、彼は単刀直入に本題に入った。
「男爵、こうして参上したよ。どうも長い間、昔の約束のまわりをうろついていたが……」
モルセールは、この言葉で銀行家の顔が輝くものとばかり思っていた。銀行家が暗い顔をしているのは、今まで自分が黙っていたせいだと思っていたのである。だが、ほとんど信じがたいことには、その顔は逆に、前よりも無愛想で冷たいものとなった。
モルセールが、言いかけた言葉を途中でやめたのはそのためだった。
「どういう約束だったかな、伯爵」と、銀行家は、将軍の言う意味がどうしてもわからないといった様子で訊ねるのだった。
「おお、あなたは形式を重んずるんだね。儀式というものはすべて、しきたり通りにやらねばならぬと言いたいんだろう。よろしいわかった。ま、許してほしい。私には伜が一人しかおらんのでね、伜を結婚させるなんてことを考えたのは、これが初めてなんだよ。よし、それじゃ、これからやるからな」
こう言ってモルセールは、無理に笑顔を作って、立ち上がった。そして、ダングラールに深々と頭を下げてから言った。
「男爵、私は、愚息アルベール・ド・モルセール子爵の妻として、ウジェニー・ダングラール嬢をいただきに参上したことを光栄とするものであります」
しかし、この言葉を、ダングラールは、モルセールが相手に期待したような好感をもっては迎えず、眉をひそめた。そして、立ったままでいる伯爵に、坐れとさえも言わずに、
「伯爵、返事をする前に少々考えたいんだがね」
「考える!」ますます驚いてモルセールが繰り返した。「はじめてこの話をしてから、やがて八年にもなるのに、考える時間がなかったのかね」
「伯爵、すでにもう考えずみと思ってたことを、もう一度考え直さねばならぬようにする事件は、毎日のように起きるものだよ」
「いったいどういうことなんだ。私にはわけがわからなくなったぞ、男爵」
「私が言うのは、ここ二週間ばかりの間に新しい事態が……」
「ちょっと待っていただきたい。芝居をしているのか、それともそうではないのか伺いたい」
「どういうことかね、芝居?」
「そう、はっきりした話合いをしようじゃないか」
「望むところだよ」
「モンテ・クリスト氏に会っただろう」
「しょっちゅうお会いする」ダングラールはシャツの胸飾りをゆすぶりながら、「友人なんでね」
「それじゃ、最近会ったとき、私がこの縁談について、忘れているとかはっきりした態度をとらぬとか、あの人に言ったはずだ」
「その通り」
「だから、こうして私は来たのだ。ご覧の通り、私は忘れてもいなければ、はっきりしていないわけでもない。あなたに約束の履行をうながしに来たのだから」
ダングラールは答えなかった。
「そんなに急に気持ちが変わったのか?」モルセールはつけ加えた。「それとも、私にこんな申し込みをさせたのは、私を馬鹿にして楽しむためだったのか」
ダングラールは、自分が前もって考えていた話をこんな調子で続けたのでは、事態は自分の不利になると思った。
「伯爵、私が即答しかねているのに驚くのはもっともだ。私にもそれはよくわかる。だから、信じてもらいたいが、誰よりもまずこの私がそれで苦しんでいるのだ。信じてくれ、これにはやむにやまれぬ事情があってな」
「まるでとりとめのない話じゃないか。ふつうの者ならそれでも満足しようが、モルセール伯爵はそんなことでは満足しませんぞ。モルセール伯爵のごとき男は、人に会いに来て、約束の履行をせまり、相手がその約束を破るというのであれば、少なくとも然るべき理由を申し述べることを、その場で要求する権利を持っている」
ダングラールは卑怯者であった。が、人にそう思われたくはなかった。彼はモルセールの言葉の調子が癪にさわった。
「だから、然るべき理由がないのではないと言っているんだ」ダングラールは言い返した。
「何を言いたいんだ」
「理由はちゃんとあるが、言うのはむつかしいんだよ」
「しかし、そんな奥歯にもののはさまったような言い方で、この私が満足しないことぐらいはわかるだろう。いずれにせよ、はっきりしているのは、あなたが私の家との縁組を拒んでいるということだ」
「拒んでるんじゃない、心を決めかねている、ただそれだけのことだよ」
「まさか、おとなしくへり下って、あなたのご寵愛が戻るのを待っているほど、あなたの気まぐれを私が認めるとは思わんだろうね」
「それじゃ、伯爵、もしあなたが待てないのなら、話はなかったことにしようじゃないか」
尊大で怒りっぽいその性格から爆発しそうになる自分を抑えるために、モルセールは血の出るほど唇を噛んだ。しかし、こんな状況では、物笑いなのは自分のほうであることを知り、彼はすでにサロンのドアの近くまで歩き始めたが、ふと思い直して、また戻って来た。
一つの影がその額をよぎったのだ。自尊心を傷つけられたそのかげりではなく、かすかな不安の色が浮かんでいた。
「ダングラール、われわれも古いつきあいだ。だから、お互い多少の思いやりがあって然るべきだ。説明すべきだよ。せめて、伜に対してあなたが好意的でなくなったのは、どんな不幸な事件があってのことなのか、それぐらいは教えてくれてもいいだろう」
「子爵個人のことではないんだ。言えることはそれだけだね」モルセールが折れて出たのを見て、また横柄になったダングラールが答えた。
「では誰のことなのだ」モルセールがうわずった声で訊ねた。その額は蒼白であった。
ダングラールは、こうした相手の表情を一つも見逃さずに、ふだんの彼には似合わぬ、鋭い目で相手を見据えた。
「これ以上言わないのをありがたく思うんだな」
おそらく抑えつけている怒りからであろう、モルセールはわなわなとふるえた。
「私には聞く権利がある」懸命に自分を抑えながらモルセールは答えた。「なんとしてでも釈明してもらおう。家内に対してなにか文句があるのか。私の財産が十分ではないというのか。政治的意見が、あなたのものとは違うからというのか……」
「そんなことではない。もしそうなら私は許しがたい奴と言わねばならない。そんなことは皆承知の上で約束したんだから。いや、あれこれ理由を探すのはやめたまえ。そんなふうにあなたに自己反省などさせてしまったことを恥ずかしく思ってるんだ。ほんとうに、そこまでにしておこうじゃないか。破談でもなく婚約でもなく、その中間の延期という言葉を使おう。なにもあわてる必要はないんだから。私の娘は十七、おたくの伜は二十一。一時延期しているうちには時がたつ。時がすべてを解決してくれるさ。前の日には謎に包まれていたものも翌《あく》る日には明らかになることもあるし、一日のうちに、どんなひどい中傷もはたとやむこともある」
「中傷と言ったな」顔を鉛色にしてモルセールが怒鳴った。「このわしを中傷する者がおるのだな!」
「詮索《せんさく》は止《よ》そうと言っているのだ」
「では、この拒絶におとなしく甘んじろと言うのだな」
「私のほうが辛いんだよ。そう、あなたにとってよりも、私にとってのほうがずっと辛い。お宅との縁組には期待をかけていたし、破談というものは、男のほうよりも女にとって傷になるからな」
「わかった、もういい」モルセールは言った。
そして、怒りにまかせて手袋をくしゃくしゃに握りしめながら、彼はその部屋を出た。
ダングラールは、彼が前言をひるがえしたのは、自分のせいではないのかとは、モルセールがただの一度も訊ねようとしなかったことに気づいていた。
その夜ダングラールは、数人の客と長いことおしゃべりをした。ご婦人がたのサロンに入りびたっていたカヴァルカンティは、最後に銀行家の家を出た。
翌日、目がさめると、ダングラールは新聞を持って来るように言い、直ちにそれが届けられると、三、四のものはわきへ置いて、『アンパルシアル』を手にした。
それは、ボーシャンが編集主幹をしている新聞であった。
彼は急いで封を切り、じれったいといわんばかりに新聞をひろげた。『パリ情報』の欄などには目もくれず、雑報欄に、『ヤニナからの通信によれば』という文句で始まる小さな記事をみつけると、にやりとした。
「よし」読み終えた彼は言った。「フェルナン大佐殿に関するこの小さな記事は、どうやらモルセール伯爵閣下への釈明などしなくてもいいことにしてくれそうだわい」
これとまったく同時刻に、つまり、午前九時が鳴ったとき、黒い服を着て、きちんとボタンをはめたアルベール・ド・モルセールは、興奮の面持ちで語気も荒く、シャン=ゼリゼーの邸で案内を乞うていた。
「伯爵様はつい三十分ほど前にお出かけになりました」門番が言った。
「バチスタンもおつれになったか」モルセールは訊ねた。
「いいえ、子爵様」
「では呼んでくれ、話がしたい」
門番はバチスタンを呼びに行き、一緒に戻って来た。
「バチスタン」アルベールは言った。「ぶしつけなまねをしてすまなかったが、僕は君に、君のご主人がほんとうに外出なさったのかどうか聞きたかったのだ」
「お出かけになりました」バチスタンは答えた。
「僕に対してもそう答えるのか」
「私は、ご主人様が喜んであなた様をお迎えになるのを存じております。あなた様をふつうの方と混同いたすようなまねはいたしません」
「それでいいんだ、重要な用件で伺ったのだ。お帰りは遅くなると思うか」
「いいえ、と申しますのは、十時に食事の用意をお命じになりましたから」
「わかった。それでは僕はシャン=ゼリゼーを一廻りして、一時間後にまた来る。もし伯爵が僕より早く戻られたら、お待ちいただきたい旨をお伝えしてくれ」
「必ずお伝えいたします、なにとぞご安心下さいますよう」
アルベールは乗って来た辻馬車を、伯爵邸の門前に待たせたまま、歩いて散歩にでかけた。
ヴーヴ小路の所を通る際に、コセの射撃場の前に停車している馬車の馬が、伯爵の馬のような気がした。彼は近くに寄って、たしかに伯爵の馬と御者であることを知った。
「伯爵は射撃場におられるのか」モルセールは御者に訊ねた。
「はい」御者が答えた。
事実、モルセールが射撃場の近くに来たときから、なん発もの規則的な銃声が聞こえていた。
彼は中に入った。
小さな庭にボーイがいた。
「申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますでしょうか、子爵様」ボーイが言った。
「どうしてだい、フィリップ」ここの常連であったアルベールは、こうひきとめられて驚いた。その理由がわからなかったのである。
「と申しますのは、今射撃をしておいでの方は、射撃場をお一人でお使いになっておられて、決してほかの方の前では射撃をなさらないのでございます」
「お前の前でもか、フィリップ」
「ご覧の通り私は、自分の小屋の前におります」
「誰がピストルに弾丸をこめている」
「その方の召使いが」
「ヌビア人か」
「黒人です」
「まちがいない」
「ではあの方をご存じなのでこざいますか」
「迎えに来たんだよ、友人だ」
「おお、それなら話は別でございます。ただいま中へ行ってお知らせして参ります」
フィリップは、彼自身の好奇心にかられて板がこいの中に入って行った。間をおかずに、モンテ・クリストが戸口の所に現われた。
「こんな所まで追いかけて来てすみません。でも、はじめに申しますが、これはお宅の召使いの方が悪いのではありません。非礼なまねをしたのは僕だけなのです。お邸へ伺ったら、お出かけになったが十時には食事にお戻りになるということだったので、僕も十時になるのを待つために、ぶらついていたんです。歩いているうちに、あなたの馬と馬車をみつけたもんですから」
「そうおっしゃるところをみると、私と食事をしたいのだと考えていいですね」
「とんでもありません、こんな時に食事などしていられません。もっと後なら一緒に食事ができるかもしれませんが。ただし、残念ながらあまり愉快な会食者ではありませんよ」
「いったい何の話をしているんですか」
「伯爵、僕は今日戦います」
「君が? また何のために」
「決闘のためですよ、きまってるじゃありませんか」
「いや、それはよくわかってます。理由は何なんですか。いろいろな事が決闘の理由になりますからね、君もよくご承知の通り」
「名誉を傷つけられたからです」
「ああ、それはおろそかにできぬ理由だ」
「おろそかなことではありませんからお願いがあって伺ったんです」
「どういう」
「介添人になっていただきたいんです」
「これは話が重大になりましたね。ここではなにも話すのはやめにして、邸に帰りましょう。アリ、水をくれないか」
伯爵は袖をまくり、射撃場に入る小さな玄関のような所に入って行った。射手が手を洗う場所である。
「子爵様、こちらへお入りになりませんか。おもしろいものがご覧になれますよ」フィリップがそっとささやいた。
モルセールは入ってみた。的のかわりに、トランプのカードが板の上にはってある。
遠くから見たモルセールは、カードが全部そろっていると思った。エースから十までのカードが見えたからだ。
「なあんだ、ピケ〔トランプの一種〕をやっていたんですか」
「いや、トランプのカードを作っていたんです」伯爵が言った。
「どうやって」
「うむ、君が今見ているのはエースと二だけなのです。ただね、私の射った弾丸が、それを三や五、七、八、九、十にしたのです」
アルベールはそばへ行ってみた。
たしかに、弾丸はカードを、正確に一直線に、また等間隔に、本来その数の札がそう印刷されているはずの位置を、射抜いていたのであった。しかもアルベールは、標的の板の所へ行く途中で、二、三羽のツバメを拾い上げた。ついうっかり伯爵のピストルの射程内に迷いこんだのを、伯爵が撃ち落としたものである。
「すごい!」モルセールはつぶやいた。
「大したことはありませんよ、子爵」モンテ・クリストは、アリが持って来た手ぬぐいで手をふきながら言った。「暇つぶしをしたかったのでね。が、いらっしゃい、待ってるんですよ」
二人はモンテ・クリストの馬車に乗り、間もなく三十番地の門前で馬車を降りた。
モンテ・クリストはモルセールを自分の書斎に案内して、椅子をすすめた。二人は腰をおろした。
「これで落ち着いて話ができる」伯爵が言った。
「この通り、僕は落ち着いてますよ」
「誰と決闘しようというんです」
「ボーシャンとです」
「友達と!」
「決闘の相手はふつう友達にきまってますよ」
「しかし、理由がなければ」
「理由はあるんです」
「あの人が君に何をしました」
「昨夜の新聞の記事に……それより、これをお読みになって下さい」アルベールはモンテ・クリストに新聞をさし出した。モンテ・クリストは次のような記事を読んだ。
『ヤニナからの通信によれば――
今まで知られていなかった、少なくとも公表されていなかった事実が明らかにされた。ヤニナの町を守っていた各城砦は、アリ=テベレン太守が全幅の信頼を寄せていた、フェルナンというフランス人将校により、トルコ軍の手に引き渡されたものである』
「で、この記事のどこが君を傷つけるというのですか」
「どこが傷つけるかですって?」
「そう、フェルナンというフランス将校の手でヤニナの城が引き渡されたことが、君にどういうかかわりがあるんですか」
「僕の父、モルセール伯爵は、フェルナンという名前なんです」
「それで、お父上はアリ=パシャに仕えておられたのですか」
「つまり、ギリシアの独立のために戦っていたんです。中傷もはなはだしい」
「なるほど。子爵、論理的に話を進めましょう」
「ええ、そうしましょう」
「今のフランスで、士官フェルナンがモルセール伯爵と同一人物であることなど、知っているものがありますか、それに、一八二二年だか二三年だかに占領されたヤニナのことなどに今頃関心を持つものがいるでしょうか、この点はどうです」
「だからこそ陰険なんですよ。今まで当時のことを時の流れに埋もれさせておきながら、今になって、忘れられていた事件をほじくり出して、父の高い地位を汚すようなスキャンダルの種をまこうというんですから。父の名を受けつぐ者として、僕はこの名前の上に、かすかな疑惑の影さえただようことを欲しません。ボーシャンの新聞がこの記事をのせたんですから、介添人を二人、ボーシャンの所へ送って、記事を取り消させます」
「ボーシャン君は取り消さないでしょうね」
「その場合は決闘です」
「いえ、決闘にはならんでしょう。ボーシャン君は、ギリシア軍の中にはフェルナンという将校など五十人もいたんじゃないか、と答えるでしょうからね」
「そんな返事をされたって決闘します。ああ、あの記事はどうしても消滅させねば……父のような立派な軍人、あれほど輝かしいその生涯が……」
「あるいはこういう記事をのせるかもしれません。このフェルナンは、洗礼名がやはりフェルナンというモルセール伯爵とはなんら関係がないと信ずる根拠を得ている」
「僕には、完全かつ全面的な取り消しが必要なんです。そんなものではとても満足できません」
「それじゃ、介添人を送るというんですね」
「ええ」
「それはいかん」
「ということは、僕がお願いしたことをお断わりになることですよ」
「ああ、決闘についての私の諭理を、君は知っているはずじゃありませんか。ローマで私は君に、私の信条をお話ししたはずです。お忘れですか」
「でも、伯爵。僕は今朝、つい今しがた、その信条とはあまり合致しない訓練をなさっているところを見ましたよ」
「それはね、わかっているでしょうが、一方にのみ片寄っていてはいけないんですよ。気違いもいるこの世に住んでいる以上は、気違いのやる訓練もまたしておかねばならないのです。いついかなる時に、頭の狂った奴が、君がボーシャンに決闘を申しこもうとしている理由ほどの理由もなしに、なにかふとした馬鹿げたことで私の所へ来ないとも限らない。介添人をよこすかもしれないし、公共の場所で私を侮辱するかもしれない。そうなったら、この頭の狂った奴を、私は倒さねばならない」
「では、あなたはご自分が決闘なさることは容認なさるんですね」
「もちろん!」
「それなら、どうして僕には決闘をするなとおっしゃるんですか」
「私は、君は決闘をすべきではないとは一言も言っていない。ただ、決闘というのは重大なことだから、よくよく考えてみねばならぬと言っているのです」
「彼はよくよく考えたでしょうか、父の中傷をする際に」
「もし考えなかったとしても、また、それを君に白状したとしても、彼を憎んではいけない」
「ああ、伯爵、あなたは寛大すぎますよ」
「君は、あまりにも厳しすぎる。いいですか、私はこう思う……よく聞いて下さい。私が思うには……私の言うことに腹を立ててはいけませんよ」
「伺います」
「私はね、報道された記事は真実だと思う」
「父の名誉にかかわるそんな推測は、息子としては容認できません」
「ああ、われわれは、いろいろなことを容認する時代に生きているんですよ」
「それは今の時代の悪い所です」
「それを正そうとするつもりですか」
「ええ、僕に関する部分は」
「ああ、君はなんという厳格主義者でしょうね」
「僕はこういう男なんです」
「傾聴すべき忠告にも耳を傾けないんですか」
「いえ、友人からのものなら聞き入れます」
「私を友人と思いますか」
「はい」
「それなら、介添人をボーシャン君の所へ送る前に、情報を集めることです」
「誰から」
「たとえばエデからでも」
「こんな問題に女性を巻き添えにするんですか。あの人に何ができるんです」
「お父上が、あれの父親の敗北ならびに死についてはなんのかかわりもなかったと明言するとか、たとえばね。あるいは、この件の真相を君に明らかにして、もし万一、君のお父上が不幸にして……」
「伯爵、すでに申し上げたはずです、そんな推測は僕には容認できません」
「このやり方は拒否するんですね」
「拒否します」
「どうしても?」
「どうしても」
「それじゃ、最後にもう一つ」
「わかりました。でもこれで最後ですよ」
「聞きたくありませんか」
「とんでもない、聞かせて下さい」
「ボーシャン君に介添人を送るのはやめることです」
「どうしてですか」
「君自身で会いに行きなさい」
「そんなのはしきたりに背くことです」
「君の場合は、ふつうの場合とは違います」
「でも、どうして僕が自分で行かねばならないんですか」
「そうすれば、問題は君とボーシャン君の間だけのことになる」
「よく説明して下さい」
「いいですとも。もし、ボーシャン君が取り消す気持ちになっている場合は、彼に善意からするのだという余地を残しておいてやらねばなりません。それでも取り消しはなされるんですからね。もし逆に取り消しを拒めば、その時こそ、君のその秘密に他人を二人介入させる時です」
「他人じゃありません、友達ですよ」
「今日の友は、明日の敵ですからね」
「ああ、なんてことを!」
「ボーシャン君がその証拠です」
「だから……」
「だから、慎重になさいと言うのです」
「だから、僕自身がボーシャンに会いに行くべきだとお思いなんですね」
「そう」
「一人で?」
「一人で。相手の自尊心にかかわることをなにかさせようとするなら、ほんのわずかでも相手の自尊心を傷つけぬようにしてやらねばいけない」
「ご説ごもっとものような気がします」
「ああ、ほんとによかった」
「僕一人で参ります」
「そうなさい。ですが、ほんとうは、全然行かないにこしたことはないんですがね」
「そんなことはできません」
「ではそうするんですね、それでも、君がやろうとしていたことよりはましですから」
「でもその場合、慎重の上にも慎重に、あらゆる手段を尽して、それでも決闘が行なわれることになったら、介添人になって下さいますね」
「子爵」モンテ・クリストはそれまで見せなかったほどに真剣な顔になって言うのだった。「時と場合によっては、私が君に対して身をなげうつ覚悟でいることは、君もご覧になったはずです。しかし、君が今私に求めていることは、私が君にしてあげられる範囲を逸脱しているのです」
「なぜなんですか」
「いつかは、それもわかると思います」
「でも、それまでは?」
「私が秘密にしておくのを許してもらいたいと思います」
「わかりました。フランツとシャトー=ルノーに頼みます」
「フランツ、シャトー=ルノー両君にお頼みなさい、それなら申し分ありません」
「でも、もし決闘ということになったら、剣かピストルの扱い方を、少し指導していただけますね」
「いや、それもできぬことです」
「あなたはほんとにわからない人だなあ。それじゃ、まったくこの件には介入したくないとおっしゃるんですね」
「絶対に介入したくありません」
「ではこの話はやめましょう。失礼します」
「さようなら、子爵」
モルセールは帽子を手にして部屋を出た。
門の所に馬車が待っていたので、せいいっぱい怒りをこらえながら、馬車をボーシャンの家に向かわせた。ボーシャンは新聞社へ行っていた。
アルベールは馬車を新聞社に向かわせた。
ボーシャンは、新聞社の部屋は伝統的にそうなのだが、暗い埃まみれの部屋にいた。
アルベール・ド・モルセールの来訪が告げられた。もう一度その名を言わせてからも、なお半信半疑なまま、彼は叫んだ。
「どうぞ!」
アルベールが姿を現わした。ボーシャンは、紙の束をこえ、その部屋の床板ならぬ赤い敷石の上に散乱するさまざまな大きさの新聞の包みを、おぼつかない足どりで踏みつけながら入って来る友を見ると、大声をあげた。
「こっちだ、こっちだ、アルベール」言いながら彼はアルベールに手をさしのべた。「またなんだってこんな所へ来てくれたんだ。親指太郎のように道に迷ったのか、それとも一緒に飯を食おうと言うのかい。そのへんで椅子をみつけてくれないか。ほら、あそこだ、ジェラニウムのそばの。なにしろそいつだけしか、新聞紙《フーユ》じゃない|木の葉《フーユ》もこの世にあるってことを思い出させてくれるものは、ここにはないんでね」
「ボーシャン」アルベールは言った。「君の新聞のことで来たんだ」
「モルセール、君がか? 何の用なんだ」
「記事の取り消しをしてもらいたいんだ」
「君が、記事の取り消しを? いったいどの記事だ、アルベール。まあ、とにかく坐れよ」
「いやいい」アルベールはふたたびそう答えて、頭を軽く下げた。
「わけを聞かせてくれないか」
「僕の家族の一員の名誉を傷つける事実の取り消しだ」
「なんだって!」ボーシャンは驚いた。「どういう記事だ、そんな馬鹿な」
「ヤニナからの通信だよ」
「ヤニナから?」
「そう、ヤニナからの。僕がここへ来た理由を知らないような顔をしているな」
「誓って知らんぞ……バチスト! 昨夜の新聞を持って来い」ボーシャンが怒鳴った。
「その必要はない、僕のを持って来た」
ボーシャンはぶつぶつ早口に口の中でつぶやきながら読んだ。
『ヤニナからの通信によれば……』
「事の重大さがわかったろう」ボーシャンが読み終えるやいなや、モルセールが言った。
「それじゃ、この士官が君の親類ってわけか?」新聞記者が訊ねた。
「そうなんだ」アルベールは顔を赤らめた。
「で、僕にどうしろと言うんだい」ボーシャンが柔和な口調で言った。
「僕はね、この記事を取り消してもらいたいんだよ」
ボーシャンはじっとアルベールの顔をみつめたが、明らかに好意的な解決をしてくれそうな目つきだった。
「いいか、これは話が長くなりそうだ。記事を取り消すというのは、どんな場合でも重大なことなんでね。ま、坐れよ。もう一度、この記事を読んでみるから」
アルベールは腰をおろした。ボーシャンは友人が非難したその三、四行の記事を、前よりもいっそう注意深く読み返した。
「どうだ、わかったろう」アルベールがきっぱりと、むしろ乱暴な口調で言った。「君の新聞が僕の家族の一員を侮辱したのだ。僕は取り消しを要求する」
「君は……取り消せと……」
「そう、取り消しだ」
「失敬だが、子爵、君はどうも話のし方を知らんなあ」
「そんなものは知ろうとは思わないよ」アルベールは立ち上がりながら言い返した。「僕は君が流した記事の取り消しをあくまでも要求するだけだ。必ず取り消させる。君は僕とかなり親しいから」
ボーシャンがその傲岸《ごうがん》な顔を上げ始めたのを見て、アルベールは、口をぎゅっと引き結んで続けた。「君は僕と親しいから、僕という男がこういう場合、言い出したらてこでも動かぬことを、君は知ってるはずだ」
「僕が君の友達だとしても、今言ったような言葉は、僕にそのことを忘れさせることになるぜ……だがまあお互いに腹を立てるのはよそう。少なくとも今のところは……君は心配し、いらいらして、興奮してるよ……とにかくそのフェルナンてのは、君の何なんだ」
「僕の父だ、まさしくね。フェルナン・モンデゴ、モルセール伯爵、二十もの戦場を駆けめぐった老将、その名誉ある傷痕に、けがらわしいどぶ泥を塗りつけたのだ」
「君の父上?」ボーシャンは言った。「それじゃ話は別だ。それなら君の憤激もわかるよ、アルベール。読み直してみよう」
そして彼は、またその記事を、今度は一語一語たんねんに読み直した。
「だが、この記事のフェルナンが君の父上だと、いったいどこに書いてある」
「どこにも書いてない。それは僕も知ってるんだ。だが、他人はそう思うだろう。だから僕はこの記事を取り消すことを要求するんだ」
『要求する』という言葉に、ボーシャンはちらっと目を上げてモルセールを見たが、すぐまたその目を落とし、しばらく考えこんでいた。
「これを取り消してくれるな、ボーシャン」相変わらず抑えてはいるものの、次第に高まる怒りを感じながらアルベールは言った。
「うん」ボーシャンが言った。
「よかった!」
「だが、この記事が誤報であることを僕が確認してからだ」
「なんだと!」
「たしかにこれは事実を明らかにする価値がある。きっと明らかにする」
「だがいったい、明らかにするとおっしゃいますがね、何を明らかにするんでしょうね」アルベールは、もはや怒りを抑えきれなかった。「もし、これは僕の父ではないと思うなら、今すぐそう言えばいいのだ。もしこれが父だと思うなら、そう思う根拠を伺いましょう」
ボーシャンは、あらゆる心の動きの微妙な影まで示し得る、彼特有の微笑を浮かべた。
「では申しましょう。他人行儀な方がおいでですからな。もしあなたが、私に決闘を申し込みに来られたのなら、まずはじめにそれをおっしゃるべきだ。友情がどうとか、その他、三十分も前から私ががまんして聞いていたような汚ならしい言葉の数々など言いに来る必要はまったくない。今後われわれは、ほんとうにそういう道を歩むんですかな」
「そうだ、もし君があの汚らわしい中傷を取り消さぬなら」
「ちょっと待て。脅迫などはせぬように願いたいものですな、アルベール・モンデゴ、モルセール子爵。私は敵の脅迫などがまんがなりませんし、友人のものであればなおのこと。要するに、フェルナン大佐に関する記事を取り消せとおっしゃるんですね、誓って申し上げるが、私がまったく与かり知らなかったこの記事を」
「そうだ、それを要求するんだ!」アルベールは何が何やらわからなくなってきていた。
「取り消さねば、決闘というわけですな」ボーシャンが同じように静かな口調で言った。
「そうだ!」アルベールは声を高めた。
「それでは私の返事を申します。この記事は私がのせたものではない。私はこれを知らなかった。しかし、あなたが来られたことにより、私はこの記事に関心を持ちました。今後も関心を持ち続けます。この記事は、権威ある筋によって否認されるなり確認されるなりするまでは、取り消しません」
「では」アルベールは立ち上がった。「私はあなたの所に、介添人をさし向けます。その者たちと、場所ならびに武器を打ち合わせて下さい」
「結構です」
「では、よろしければ今夜、遅くとも明日お会いしましょう」
「とんでもない! もしどうしてもそれが必要となったときに、はじめて僕は決闘場へ行く。それに僕の考えでは、(決闘を申し込まれたのは僕だから、僕にはそれを言う権利がある)僕の考えでは、まだその時期ではない。僕は君が剣の名手であることを知っている。僕のほうはまあまあだ。君が、六発のうち三発は的の黒点に命中させることも知ってる。ま、これは僕と似たりよったりだが、僕たちの間で決闘すれば、最後まで戦うことになる。君は勇気があるし、それに……僕もそうだ。だから、理由もなく、僕が君を殺したり、君に僕が殺されたり、なんて破目には陥りたくない。今度は僕のほうから、最終的にはっきり質問する。
僕が言ったように、何回も繰り返したように、名誉にかけてあの記事のことは僕は知らなかったと断言しても、もしあの記事を取り消さねば僕を殺すというほどまでに、君はあの記事の取り消しに固執するのかい。それに、君のようにそのフェルナンという名前で、それがモルセール伯爵だと見抜くことは、ドン・ジャフェでもない限り、誰にも不可能であってもか」
「あくまでも固執する」
「それなら、僕は喉笛を切られることに同意しよう。ただし、三週間待ってくれ。三週間後に会ったときには、『そうだ、あの記事は誤報だった、取り消す』とか、あるいは、『そうだ、あの記事は事実だった』と言って、君の選択次第で、剣の鞘をはらうなり、ピストルを箱から取り出すなりしよう」
「三週間!」アルベールは叫んだ。「しかし、その三週間は、僕には三世紀にも思える。その間僕の名誉は汚されたままなのだ」
「君がまだ僕の友達でいてくれたなら、僕はこう言ったろう。『がまんしろよ、アルベール』とね。だが君は敵になってしまった、だから僕はこう言うよ、『そんなことは知ったこっちゃありませんよ、こちらは』と」
「では、三週間後ですね、承知しました」モルセールは言った。「ただし、お忘れにならぬよう、三週間後には、延期も、どのような言い逃れも許されませんぞ」
「アルベール・ド・モルセールさん」ボーシャンが自分も立ち上がって言った。「三週間後、つまり二十四日後でなければ、私はあなたを窓から放り出すわけにはいかない。あなたにも、その時までは、私を一刀両断にする権利はない。今日は八月二十九日、したがって九月二十一日にお目にかかりましょう。その時までは、いいですか、これは紳士としてあなたに与える忠告です。距離をおいてつながれた二匹の番犬同士の遠吠えのようなまねはお互いに慎しみましょう」
こう言うとボーシャンは深々とアルベールに頭を下げ、彼に背を向けて、印刷工場に入って行った。
アルベールは腹いせに、積み重ねられていた新聞に、細身のステッキをめったやたらと突き立てた。それから彼はその場を去ったが、二度三度と、印刷工場のほうをふり返らずにはいられなかった。アルベールは、彼の口惜しさをもはやどうにもしてはくれぬ罪のないその新聞紙をステッキでひっぱたいた後に、馬車の前の部分をステッキで叩いていたが、大通りを横切る際に、彼はモレルの姿を認めた。顔を上に向け、目を輝かせ、大手を振って、中国風呂の前を通り、サン=マルタンの門の方角から、マドレーヌ寺院のほうへ歩いて行く。
「ああ、幸せな男もいるんだな」アルベールは吐息を洩らした。
偶然ではあるが、アルベールはまちがっていなかったのである。
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七十九 レモネード
事実、モレルは非常に幸せであった。
ノワルチエが彼を呼びに人をよこしたのだ。どういう用件か早く知りたかったので、辻馬車の馬の四本の脚よりも自分の二本の脚のほうを信用して、馬車には乗らなかった。彼はメレ通りを出て、走るように、フォーブール・サン=トノレにおもむく途中なのであった。
モレルは駈足で進んだ。可哀そうにバロワは、夢中でモレルを追いかけていた。モレルは三十一歳、バロワは六十歳だったのである。モレルは恋に酔いしれていたが、バロワは酷暑にへとへとになっていた。関心事も年もかけ離れたこの二人は、底辺の所ではへだたり、頂点では接している、三角形の二辺のようなものであった。
頂点とはノワルチエであった。ノワルチエは、至急、と言ってモレルを呼びに行かせたが、バロワにとっては絶望的なことながら、モレルはこれを文字通りに受けとったのである。
着いたとき、モレルは息もきらしていなかった。恋が翼を与えたのだ。だが、もう久しく前から恋には縁のないバロワは全身汗みずくであった。
老僕は、その専用の入口からモレルを案内し、書斎のドアを閉めた、やがて床に衣《きぬ》ずれの音がして、ヴァランチーヌが来るのがわかった。
喪服姿のヴァランチーヌはうっとりするほどに美しかった。
夢見心地のモレルは、もうノワルチエとの話などどうでもいいとさえ思いかけたが、老人の車椅子の音が床をきしませ、老人が入って来た。
ヴァランチーヌと自分を絶望のどん底から見事に救い出してくれたことに対してモレルが並べたてるお礼の言葉を、老人は好意のこもった眼差しで受けとめていた。それからモレルは目を移して、また新たに自分に与えられた老人の好意を問いかけるように、ヴァランチーヌを見た。娘は、はにかんでモレルから離れて腰をおろし、自分が喋らされるのを待っていたのだった。
ノワルチエも彼女を見た。
「お祖父様が伝えろとおっしゃったことを言わなければいけないのね」彼女は訊ねた。
『そうだ』ノワルチエは答えた。
「モレル様」ヴァランチーヌは、彼女を穴のあくほどみつめている青年に言った。「ノワルチエのお祖父様は、あなたにいろいろなお話があるのです。三日前からずっと私にお聞かせになりました。今日あなたにお迎えをさし上げたのは、それを私から伝えさせるためだったのです。私を通訳にお選びになったので、一言一句そのままお伝えいたします」
「おお、早く話して下さい、早く」青年は答えた。
ヴァランチーヌは目を伏せた。これはモレルには楽しいことの前兆に思えた。ヴァランチーヌが弱さを見せるのは、幸せなときに限られていたからである。
「お祖父様はこの家を出るおつもりです。バロワが今、適当な部屋を探しています」
「でも君は? ノワルチエさんにとっては可愛くて、おそばにいてあげなくてはならない君は?」
「私はお祖父様のおそばを離れません。これはお祖父様と私との間ですでに決まったことです。私の部屋もお祖父様のお部屋のすぐ近くにみつけます。私がお祖父様と一緒に住むことに父が同意するか、または反対するか。同意すれば私は直ちにこの家を出ます。もし反対なら、成年に達するのを待ちます、あと一年半ですから。そうなれば、私は自由で、自分の財産も持てます。それから……」
「それから?」
「お祖父様のお許しを得て、あなたとのお約束を守ります」
ヴァランチーヌはこの最後の言葉を小さな声で言ったので、モレルが、むさぼるようにこの言葉を聞いていなければ、聞きとれぬほどであった。
「お祖父様のお考えになっていることは、私が今言ったことでいいのね」ヴァランチーヌがノワルチエに言った。
『そうだ』
「私がお祖父様と住むようになれば、モレル様は、このやさしいそして立派な保護者のいらっしゃる所で、私に会いにおいでになれるわけです。たぶんなにも知らず、そして移り気な私たちの心にやっと結ばれかけたこの絆《きずな》が、ほんとうにふさわしいものに思われ、その時になっても未来の幸せを保証してくれるようなら(だって、障害を前にして燃え上がった心は、それがなくなってもう安心となると、冷えてしまうと申しますもの)そのときこそこの私に、私を求めて下さいませ、お待ちしております」
「ああ」モレルは、神を前にしたように老人の前に、また天使を前にしたようにヴァランチーヌの前に跪かんばかりになって言うのだった。「こんな幸せに価するほどの善行を、僕はいったいこれまでにしたのでしょうか」
「その時までは」娘はさらに、澄んだ厳しい声で続けた。「世間のしきたりを守りましょう。父や母の意志も、それが相変わらず私たちを引き離そうとするのでない限り、父や母の意志も尊重しましょう。一言で言えば、また繰り返しますが、待ちましょう。この言葉の中にすべてが言い尽されていますから」
「その言葉が強制する犠牲を、ノワルチエさん、僕は諦めではなくて、喜びをもって甘受することを誓います」
「こうなったら」ヴァランチーヌは、マクシミリヤンの心にはこの上なくやさしいものに映る眼差《まなざ》しを向けて、「もう無茶なまねはおやめになって下さい。今からもう、あなたのお名前を清らかに立派に名乗るのを自分の運命と心得ている娘の身を台なしにするようなことはしないで下さい」
モレルは手を胸にあてた。
その間、ノワルチエは二人をやさしく見守っていた。バロワは、部屋の奥に立ちつくしていた。彼にはなにもかくす必要はなかったのだ。彼は、そのはげ上がった額から落ちる大粒の汗をぬぐいながら微笑していた。
「まあ、なんて暑そうなんでしょう、あのバロワ」ヴァランチーヌは言った。
「お嬢様、手前はじつによく走りましたぞ。ですが、これはモレル様のために申さねばなりませんが、モレル様は手前よりも、さらに早くお走りになりました」
ノワルチエは、レモネードの入った水差しとコップののった盆を目で示した。水差しの減っている分は、三十分ほど前に老人が飲んだのである。
「さあ、バロワ、召し上がれ。この飲みさしの水差しばかり見ているじゃないの」
「じつは、死ぬほど喉がかわいておりまして、皆様のためにそのレモネードで乾杯できましたらどれほどうれしいかと」
「お飲みなさい、そしてまたすぐ戻って来てちょうだい」
バロワは盆を持って部屋を出た。そして、廊下へ出るやいなや、彼が閉め忘れたドアから、ヴァランチーヌが満たしてやったコップを飲みほすために、頭をのけぞらせるのが見えた。
ヴァランチーヌとモレルはノワルチエの目の前で別れの言葉を交わした。そのとき、ヴィルフォールの部屋の階段でベルが鳴った。
ヴァランチーヌは時計を見た。
これは誰かの来訪を告げるものであった。
「お昼だわ。今日は土曜日だし、お祖父様、きっと先生よ」
ノワルチエは、きっとそうにちがいないという合図をした。
「ここへおいでになるわ。モレル様はお帰りになったほうが、そうでしょう、お祖父様」
『そうだ』老人が答えた。
「バロワ」ヴァランチーヌが呼んだ。「バロワ、来てちょうだい」
老僕の答える声が聞こえた。
「只今参ります、お嬢様」
「バロワが出口までお送りします」ヴァランチーヌがモレルに言った。「ですから、一つだけお忘れにならないで下さい。それは、私たち二人の幸せを台なしにするようなまねはするなとお祖父様がおっしゃったこと。いいわね、将校さん」
「待つと約束したんだ、僕は待つよ」
このとき、バロワが入って来た。
「どなたがおみえになったの」ヴァランチーヌは訊ねた。
「ダヴリニー先生でございます」バロワがよろめきながら答えた。
「まあ、どうしたの、バロワ」
老僕は答えなかった。うろたえた目で主人をみつめ、ひきつった手が、立っているためになにか掴まる所を探している。
「倒れるぞ」モレルが叫んだ。
事実、バロワの身体は次第に大きくゆらめき、顔も、顔面の筋肉がひくひくと痙攣して顔つきが変わり、ひどい神経障害に襲われたことを示していた。
このように苦しむバロワを見て、ノワルチエは目にいっそうの力をこめ、その目には、人の心をゆさぶる不安げなもろもろの感情があらわに浮かんでいた。
バロワは主人のほうに二歩三歩歩んだ。
「ああ、神様、ああ、どうしたというんでしょう」バロワが言った。「苦しい……もう目が見えない。無数の火の矢が頭を貫ぬく。ああ、触らないで下さい、私に触らないで下さい」
目がとび出て、うつろになっていった。頭をのけぞらせ、身体のほかの部分がこわばった。
ヴァランチーヌはおびえて悲鳴を上げ、モレルは、目に見えぬ危険から守るように彼女を抱きしめた。
「ダヴリニー先生、ダヴリニー先生!」ヴァランチーヌが喉をしめつけられたような声を出した。「早く来て下さい、助けて!」
バロワは後ろ向きになると、三歩ほど後ずさりし、よろめいて、ノワルチエの足もとに倒れこみ、その膝に手をついて叫んだ。
「ご主人様、ご主人様!」
このとき、叫び声を聞きつけたヴィルフォールが部屋の戸口の所に姿を現わした。
モレルは、半ば失神しているヴァランチーヌを放した。そして後ろに飛びのいて、部屋の隅に行き、カーテンのかげにほぼ身をかくした。
目の前にかま首をもたげた蛇を見たときのように、蒼くなって、彼はこの不幸な瀕死の老僕に凍りついたような視線を注いでいた。
ノワルチエは、じれったさと恐怖とに血の煮えたつ思いをしていた。彼の魂は、召使いといわんよりは彼の友であったこの哀れな老人を救いに飛び立っていた。生と死とのすさまじい戦いが、この額の上の血管のふくれ上がるさまと、目のまわりにまだ生き残っている筋肉の痙攣とにあらわれていた。
バロワは、顔面をひくひくさせ、眼は血走り、首をのけぞらせ、手で床を叩きながら横たわっていた。手とは逆に、その脚は硬直して、屈曲するのではなく、ぽっきり折れてしまいそうであった。
唇からかすかに泡を吹き、苦しそうにあえいでいる。
ヴィルフォールは、部屋に入った瞬間から彼の目をひいていたこの光景を、しばし茫然としてみつめていた。
彼はモレルの姿は見なかった。
こうして口もきけずに凝視していたが、その間に彼の顔は蒼ざめ髪は逆立った。やがて彼は、ドアに向かって突進すると、
「先生! 先生! 来てくれ!」
「お母さま!」ヴァランチーヌは階段の壁にぶつかりながら継母《はは》を呼んだ。「いらして下さい、早く!気つけ薬をお持ちになって下さい!」
「どうしたの?」ヴィルフォール夫人の抑えた金属的な声が訊ねた。
「ああ、早くいらして!」
「先生はどこにいる? どこなんだ」ヴィルフォールが叫んだ。
ヴィルフォール夫人はゆっくりと降りて来た。階段を踏む足音が聞こえた。夫人は片手にハンカチを握り、それで顔をぬぐった。もう一方の手には気つけ薬のびんを持っている。
戸口まで来たとき、夫人がまず目を向けたのはノワルチエであった。ノワルチエの顔は、このような状況下ではそれが当然な激しい心の動きを除けば、いつに変わらぬ健康な顔つきであった。ついで夫人は瀕死の病人に目を向けた。
夫人は顔色を変え、その目は、老僕からその主人へと、いわば跳ね返った。
「いったい先生はどこにいるのだ。お前の部屋に入ったではないか。見ての通り、脳溢血だ。瀉血《しゃけつ》すれば救かる」
「今しがた何か食べたのかしら」夫人は質問をはぐらかした。
「食事はしていません」ヴァランチーヌが言った。「でも、お祖父様のご用事をたすために、今朝ひどく走ったんです。帰って来てから、レモネードをコップ一杯飲んだだけです」
「ああ、どうしてブドウ酒にしなかったのかしら。レモネードはうんと悪いのに」夫人が言った。
「レモネードがすぐ手の届く所にあったからですわ、お祖父様の水差しに。可哀そうに、喉がかわいていたもんで、目の前にあるものを飲んだんです」
夫人は身ぶるいした。ノワルチエは奥の奥まで見通すような視線を夫人に浴びせていた。
「おい、私はお前に、ダヴリニー先生はどこにいるかと訊いているのだ。答えなさい」ヴィルフォールが言った。
「先生はエドワールの部屋ですわ、少し加減が悪いものですから」それ以上はぐらかすこともできずに夫人が答えた。
ヴィルフォールは自分で呼びに行くために、階段を駈け上がった。
「さ、これを」若い妻は気つけ薬をヴァランチーヌに渡した。「きっと潟血をするでしょう。私は部屋に戻ります、とても血は見ていられないので」
こう言って夫人は夫の後を追った。
モレルは身をひそめていた暗い隅から出て来た。誰もかくれている彼の姿を見たものはいなかった。それほどバロワに気をとられていたのだ。
「さ、早くお帰りになって。私がお呼びするのをお待ちになって下さい。さあ」ヴァランチーヌが言った。
モレルはノワルチエの意見を求めるそぶりを見せた。冷静さを失っていなかったノワルチエが、モレルに『そうしろ』という合図をした。
モレルはヴァランチーヌの手を胸におしあて、それからかくし廊下を通って外へ出た。
それと同時に、ヴィルフォールと医師とが反対側のドアから入って来た。
バロワが正気をとり戻しかけていた。発作がおさまったのである。うめき声もまた洩らしはじめた。そして片膝をついて身を起こしかけた。
ダヴリニーとヴィルフォールは、バロワを長椅子の上に運んだ。
「どうすればいい」ヴィルフォールが訊ねた。
「水とエーテルを持って来てくれないか。君の家にあったかな」
「ある」
「テレビン油と吐剤を買って来てほしい」
「よし、誰か買いに行け!」ヴィルフォールが言った。
「さてと、みんなこの部屋から出てもらいたい」
「私もですか」ヴァランチーヌがおずおずと訊ねた。
「そう、あなたはとくに」医師が声を荒げた。
ヴァランチーヌは驚いてダヴリニーをみつめ、ノワルチエの額に接吻して部屋を出た。
彼女の背後で、医師は沈鬱な様子をしてドアを閉めた。
「あ、先生、意識が戻ったぞ。大した発作じゃなかったんだな」
ダヴリニーは暗い表情で笑った。
「気分はどうかね、バロワ」医師は訊ねた。
「少しは楽になりました」
「このエーテルの入った水が飲めるか」
「やってみます。でも、私に触らないで下さいまし」
「なぜかね」
「指の先で触られただけでも、また発作にやられそうな気がするんです」
「お飲み」
バロワはコップを手にすると、それを紫色の唇に近づけ、半分ほど飲みほした。
「どこが苦しい」医師が訊ねた。
「どこもかしこもです。ひどく痙攣しているみたいで」
「目まいがするか」
「はい」
「耳なりは」
「すごい耳なりです」
「いつからそうなった」
「つい今しがたです」
「急にか」
「まるで電撃のように」
「昨日はなんでもなかったか、一昨日は」
「なんでもありませんでした」
「ぼんやりするとか、頭が重いとか」
「いいえ」
「今日何を食べたかね」
「なにも食べておりません。レモネードを一杯飲んだだけでございます」
こう言ってバロワはノワルチエのほうを見ようとした。ノワルチエは、この恐ろしい光景を、その動きの一つをも見逃さず、一言一句も聞き洩らさずに、車椅子の中から、身じろぎもせずにじっと見ていた。
「そのレモネードはどこにある」医師が早口に言った。
「下の水差しの中でございます」
「下っていうのはどこだ」
「調理場です」
「とりに行って来ようか」ヴィルフォールが訊ねた。
「いや、ここにいてくれ、そして、患者にコップの残りをなんとか飲ませてくれ」
「だが、レモネードは……」
「私がとりに行く」ダヴリニーは一跳びにドアの所へ行き、ドアを開けると使用人用の階段に突進し、あやうくヴィルフォール夫人をつきとばしそうになった。夫人も調理場へ降りて行くところだったのだ。
夫人が悲鳴を上げた。
ダヴリニーは目もくれなかった。ただ一つの考えにかられて、彼は最後の三、四段を飛び降り、調理場に飛びこみ、盆にのっている四分の三ほど空になった水差しを見た。
彼は、ワシが獲物に襲いかかるように、その水差しをわし掴みにした。
息を切らしながら、彼はまた一階に昇り、もとの部屋に戻った。
ヴィルフォール夫人は、のろのろと自分の部屋に通ずる階段を昇っていた。
「ここにあったのはこの水差しにまちがいないか」ダヴリニーは訊ねた。
「はい、先生」
「このレモネードが、お前の飲んだレモネードだな」
「と思います」
「どんな味がした」
「苦い味がしました」医師はレモネードを数滴、掌の凹みにたらし、唇ですすって、きき酒をするときのように、口の中でころがしてから、暖炉にその液体を吐き出した。
「まちがいなくこれだ。ノワルチエさんもこれをお飲みになりましたか」
『飲んだ』老人は答えた。
「で、あなたも苦いとお感じになりましたか」
『感じた』
「ああ、先生! またです! ああ、神様、私を哀れと思召せ!」
医師は患者の所に走り寄った。
「さっき頼んだ吐剤、届いたかどうか見て来てくれ」
ヴィルフォールは部屋を飛び出しながら叫んだ。
「吐剤だ! 吐剤買って来たか!」
誰も答える者はいなかった。家中が恐怖のどん底にたたきこまれていたのだ。
「肺に空気を送りこんでやる道具があれば、たぶん窒息は防げると思うんだが」ダヴリニーはあたりを見廻した。「だめだ、なにもない」
「ああ、先生」バロワが叫んだ。「なんにもせずに見殺しになさるんですか。ああ、もう死ぬ、神様、もう駄目です」
「ペンだ、ペンはないか」医師が訊ねた。
彼は机の上に、羽ペンが一本あるのをみつけた。
彼は、痙攣を起こしながら、吐き出そうと空しい努力をしている患者の口に、ペンを入れようとした。だが、固く歯を食いしばっているので、ペンは入らなかった。
バロワは、最初の時よりもさらにひどい神経障害に襲われたのであった。彼は長椅子から滑り落ち、床の上で硬直した。
医師はバロワをこの発作に襲われるままにしていた。もはやどうしてやるすべもなかったのである。医師はノワルチエの所へ行った。
「ご気分はいかがですか、よろしいですか」早口に低声《こごえ》で彼は言った。
『よい』
「胃が重くありませんか、軽いですか」
『軽い』
「日曜ごとに差し上げている錠剤をおのみになったときと同じようですか」
『そうだ』
「レモネードを作ったのはバロワですか」
『そうだ』
「あなたがバロワにそれを飲めとおっしゃったんですか」
『違う』
「ヴィルフォールですか」
『違う』
「奥さんですか」
『違う』
「ではヴァランチーヌですか」
『そうだ』
バロワが溜息をつき、あくびをしたが、その顎の骨のなる音が医師の注意をひきつけた。彼はノワルチエの所から患者のもとに走り寄った。
「バロワ、喋れるか」
バロワは、意味のわからぬ言葉をもぐもぐと言った。
「さ、しっかりするんだ」
バロワは血走った目を見開いた。
「レモネードは誰が作った」
「私です」
「こしらえてすぐにご主人の所へ運んだのか」
「いいえ」
「では、どこかに置いといたんだな」
「配膳室に。呼ばれたもんですから」
「誰がここへ運んだ」
「お嬢様です」
ダヴリニーは自分の額を叩いた。
「ああ、なんということだ」医師はつぶやいた。
「先生! 先生!」バロワが叫んだ。三回目の発作が来たのだ。
「吐剤は来ないのか」医師が怒鳴る。
「このコップに用意してある」ヴィルフォールが部屋に入って来ながら言った。
「誰が調合した」
「薬屋の店員だ。私と一緒に来た」
「飲むんだ」
「とても駄目です先生。もう手遅れです。喉がつまって、ああ、息がつまる。心臓が! 頭が……ああ、地獄だ! 長いことこうして苦しむんですか」
「いや、そんなことはないよ」医師が言った。「もうじき楽になる」
「ああ、わかりました、お言葉の意味が。ああ、神様、われを憐れみ給え」
こう言って、悲鳴をあげながら、彼は、電撃を受けたように、あおのけざまに倒れた。
ダヴリニーはその心臓に手をあて、唇に鏡を近づけた。
「どうだ?」ヴィルフォールが訊ねた。
「調理場へ行って、スミレのシロップを大急ぎで持って来るように言ってくれ」
ヴィルフォールは直ちに降りて行った。
「どうぞあまりおびえないで下さい、ノワルチエさん」ダヴリニーは言った。「瀉血のために、患者を別の部屋に運びますから。実際この種の発作は、見る者には恐ろしい光景を呈しますからね」
そして、医師はバロワを両腕に抱きかかえ、隣の部屋へ引きずって行ったが、すぐまたノワルチエの部屋にレモネードの残りを取りに来た。
ノワルチエが右目を閉じた。
「ヴァランチーヌですね、ヴァランチーヌを呼んでほしいんですね。すぐ来るように言わせましょう」
ヴィルフォールが上がって来た。ダヴリニーは、廊下でヴィルフォールに出会った。
「どうなんだ」ヴィルフォールが訊ねた。
「来てくれ」ダヴリニーが言った。そして、彼はヴィルフォールを部屋に入れた。
「まだ気を失ったままか」検事が訊ねる。
「死んだよ」
ヴィルフォールは三歩ほど後ずさりし、両手を頭の上で組み合わせ、はっきり憐憫の情を示して、
「こんなに急に死んでしまうとは」言いながら彼は死体をみつめた。
「そうだ、まことに急だよ。だが君はべつに驚くには当るまい。サン=メラン夫妻も急死した。君の家では皆、急死してしまうね、ヴィルフォール」
「なんだと!」恐怖と驚愕とをこめた口調で司法官は言った。「またそんな恐ろしいことを君は考えているのか」
「いつも、いつもだよ。この考えは私の念頭から一時も離れないのだ」ダヴリニーは厳しい面持ちで言うのだった。「ヴィルフォール、よく聞いてほしい、今度こそ私の考えにまちがいがないことを君も納得してくれるだろう」
ヴィルフォールはわなわなとふるえていた。
「なんの痕跡も残さずに人を殺せる毒物がある。この毒物を私はよく知っている。それが引きおこすいっさいの症状、それがもたらすいっさいの現象を私は研究した。その毒物を、サン=メラン夫人の死の中に認めたように、今またバロワの死にも認めたのだ。この毒物には検出法がある。これは、酸で赤くなったリトマス試験紙を青くし、スミレのシロップを緑色に変える。リトマス試験紙は持ち合わせがないが、ほら、頼んでおいたスミレのシロップを持って来た」
事実、廊下に足音が聞こえた。医師はドアを半開きにして、女中の手からつぼを受け取ってまたドアを閉めた。つぼの底に、さじ二、三杯ぶんのスミレのシロップが入っていた。
「見たまえ」はたからでもその音が聞こえそうなほど心臓が高鳴っている検事に医師は言った。「この茶碗にはスミレのシロップが入っている。この水差しには、ノワルチエ氏とバロワが飲んだレモネードの残りが入っている。もしレモネードが、混ぜものがなく無害なものであれば、シロップはもとの色を保つし、もしレモネードに毒物が入っていればシロップは緑色になる。見ていたまえ」
医師はゆっくりと、水差しから茶碗の中へ数滴のレモネードを注いだ。と、直ちに茶碗の底に濁りができた。はじめはその濁りは青い色合いをしていたが、やがて、サファイア色からオパール色になり、オパール色からエメラルド色となった。
この最後の色になると、色はそのままいわば定着したのである。実験の結果は疑う余地を浅さなかった。
「可哀そうにバロワは、ニセアンゴスチュラとサン=ティニャスの実で毒殺されたのだ。今こそ私は、人前でも神の前でも断言する」ダヴリニーはこう言った。
ヴィルフォールはなにも言わなかった。ただ両手を天にさしのべ、うろたえた目を見開いた。そして、椅子にどっとばかりに倒れこんだ。
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八十 告発
しばらくしてダヴリニーは司法官をわれに返らせた。司法官はこの死人の部屋のもう一つの死体のようになっていたのである。
「ああ、私の家には死神がいる」ヴィルフォールが叫ぶ。
「犯人と言いたまえ」医師が答えた。
「ダヴリニー、私が今感じていることを私にはとても言えない。恐ろしくて、苦しくて、気が狂いそうだ」
「そうだろう」ダヴリニーは、威圧するような落ち着いた声で言った。「だが、私は今こそわれわれが行動すべき時だと思う。今こそ、この頻発する死の奔流を防ぐ堀をうがつ時だ。私には、社会と犠牲者の復讐をなしとげるという希望なしには、この秘密をもうこれ以上保つことはできない」
ヴィルフォールは暗い目であたりを見廻した。
「私の家の中に、私の家の中に」彼はつぶやいた。
「さあ、司法官。男になるのだ。法の適用者として、犯人を根絶やしにして名を上げるのだ」
「根絶やしなどと、私はぞっとするよ」
「用いるべき言葉を使ったまでだ」
「では、誰かを疑っているのか」
「誰も疑ってはいない。死は君の家の門を叩き、家の中に入る。この死は盲目ではない。なにもかも心得ていて、部屋から部屋へと進むのだ。私は古人の知恵にならって、手さぐりをしている。君の家族への友情と君への尊敬の念が私の二つの目かくしとなっているからだ。ところで……」
「ああ、聞かせてくれ、もっと。勇気が出そうだ」
「ところで、君の所に、君の家の中に、おそらく君の家族の中に、百年に一人ずつ生まれた、あのおぞましい人間が一人いる。ロクスタ〔アグリッピナの手先となった有名な毒殺者〕とアグリッピナ〔ネロの母。クラウディウスを毒殺した〕は同じ時代に生きたが、これは例外で、あまりに多くの犯罪に汚れたローマ帝国を滅亡させようとの、神の意志の表われだ。ブリュヌオー〔アウストラシア王妃〕とフレデゴンド〔ネウストリア王の妾。王妃を殺して自分が王妃となったため、前妃の妹ブリュヌオーの夫と戦い、これを暗殺させ、さらに自分の夫をも暗殺させてフランク王国を支配し、ブリュヌオーとも戦ってこれを破った〕は、人間が、たとえ地獄の使者の手をかりてでも精神を支配するすべを学びとろうとしていた、芽生えたばかりの文明の苦しい作業が生んだ女たちだ。ところで、この四人の女たちは、かつては、あるいはその当時、いずれも若く美しい女だった。かつてはその額も花と輝いていた、または当時もなお花とみまごうばかりの額をしていた。君の家にいる犯人の額に咲き匂っているのと同じ、純情無垢な花のかんばせだったのだ」
ヴィルフォールは呻き声を洩らし、手を組み合わせ、すがるように医師を見た。
だが、医師はなおも非情に続けるのだった。
「その犯行により利益を得る者を探せ、これが捜査のイロハだね」
「ああ、そのおぞましい言葉のために、人間の裁きは、いかばかり多くの過ちをおかしたか私は知らない。だが、この犯罪は、どうやら……」
「ほう、君もついに犯罪が存在することは認めたね」
「認める。仕方あるまい? 認めざるを得ない。だが、先を続けさせてくれ。どうやらこの犯罪の意図するところは、私一人にあるように思える。犠牲者たちが目的ではないように思う。この不可思議な不幸の数々のかげに、私の不幸がひそんでいるように思えるのだ」
「ああ、人間というものは、あらゆる動物の中で最も利己的な動物だ」ダヴリニーはつぶやくのだった。「地球が廻るのも、太陽が輝くのも、死が人命を奪うのも、みな自分一人のためとつねに思っている、自分のことしか考えぬ動物だ。草の葉の先で神をののしるアリなのだ。生命を失った人たち、あの人たちはなにも失わなかったのか。サン=メラン氏、サン=メラン夫人、それにノワルチエ氏は……」
「なに? ノワルチエ氏?」
「そうとも。いいか、恨まれていたのがあの可哀そうな召使いだったとでも思っているのか。違う。シェークスピアのポロニアスのように、あれは身代りに死んだのだ。レモネードを飲むことになっていたのはノワルチエ氏だ。理の当然として必然的にレモネードを飲んだのはノワルチエ氏だ。ほかの人間はたまたま飲んだにすぎない。死んだのはバロワだが、当然死ぬはずだったのはノワルチエ氏だ」
「しかし、それなら父はなぜやられなかった」
「いつかの晩、サン=メラン夫人が死んだ後で、庭で君に言ったろう。ノワルチエ氏の身体があの毒物の服用に慣れていたからだ。老人にとってはなんでもない量でも、ほかの者にとっては致死量だからだ。そして最後に、一年前から私がノワルチエ氏の全身不随をブルシンで治療していたことを、誰も、犯人さえも知らなかったからだ。犯人は、ブルシンが猛毒であることを知らなかったわけではない。経験によって知っていた」
「ああ!」ヴィルフォールは腕をよじってつぶやいた。
「犯人の足跡を追ってみろ。犯人はサン=メラン氏を殺した」
「おお、なんてことを言うんだ!」
「誓ってもいい。聞かされた症状は、私がこの目で見たものとあまりにも合致している」
ヴィルフォールはあらがうのをやめ、呻き声を洩らした。
「犯人はサン=メラン氏を殺した」医師は繰り返した。「犯人はサン=メラン夫人を殺した。両方の遺産が手に入るわけだ」
ヴィルフォールは額を流れる汗をぬぐった。
「よく聞きたまえ」
「ああ、一言も、一言半句も聞き洩らしはせぬ」ヴィルフォールは口の中で言った。
「ノワルチエ氏は」ダヴリニーの情容赦のない声が続けた。「ノワルチエ氏はつい最近君たちの、君の家族の利益に反し、貧乏人たちに財産を遺贈するという遺書を作った。ノワルチエ氏は危険を免れた。なにも得るところがないからだ。だが、老人が第一の遺書を破棄し、第二の遺書を作成したとたんに、おそらく第三の遺書の作成を恐れて、老人をねらった。第二の遺書はたしか一昨日作成されたんだったな。わかるだろう、時を移さずやったわけだ」
「ああ、ダヴリニー、許してくれ」
「許すことなどできない。医師というものはこの地上で神聖な使命を持っている。医師が生命の根源にまでさかのぼり、死の神秘の闇にまで降りて行くのは、その使命を満たすためなのだ。犯罪が行なわれ、神が、おそらくはそのおぞましさに犯人から目をそむけられたとき、これが犯人だ、と言うのは医師の務めだ」
「娘を許してやってくれ」ヴィルフォールはつぶやいた。
「わかってるな、その名前を口にしたのは君だぞ。父親の君だぞ」
「ヴァランチーヌを許してやってくれ。いいか、そんなことはあるはずがない。それぐらいなら私は自分を告発したほうがましだ。ダイヤのような心、清らかな百合の花のようなヴァランチーヌが!」
「検事、許すことはできぬよ、犯行は明白だ。サン=メラン氏に送った薬は、ヴィルフォール嬢が自分で包装した。そしてサン=メラン氏は死んだ。ヴィルフォール嬢はサン=メラン夫人の煎じ薬をこしらえた。そしてサン=メラン夫人は死んだ。
ヴィルフォール嬢は、外へ使いにやられたバロワの手からレモネードの水差しを受け取った。老人がいつも午前中に空にしてしまう水差しだ。老人は奇蹟的に死をまぬがれた。
ヴィルフォール嬢が犯人だ。毒殺犯人なのだ。検事、私はヴィルフォール嬢を告発する。君の義務を果たしたまえ」
「君、私はもう抗弁しない。弁解もせぬ。ただ、お願いだ。私の人生と、私の名誉を救ってくれ」
「ヴィルフォール」医師は次第に力をこめて言うのだった。「私の情状酌量の限界をこえる場合だってあるのだ。もし君の娘が最初の犯罪だけしか行なっておらず、第二の犯行を思いめぐらしているのを私が見たのだったら、私は君にこう言うだろう。『娘に警告しろ、娘に罰を与えろ、どこかの修道院なり尼寺へ入れて、涙と祈りに余生を送らせろ』とね。そして、第二の犯罪をおかしただけなら、私はこう言うだろう。『ヴィルフォール、これは解毒剤の知られていない毒薬だ。思考ほどに速く効き、稲妻のように体内をかけめぐり、電撃のように必殺の毒物だ。これを、神に娘の魂の許しを乞いながら、娘に与えろ。そうして、君の名誉と生命を救うのだ。娘が恨んでいるのは君だから』と。私には、あの娘が、偽善的な微笑を浮かべ、やさしい励ましの言葉など口にしながら君の死の床の枕もとに近づくのを見ることになる。ヴィルフォール、急ぎ先手を打たねば、やられるのは君だぞ、と、これがあの娘が二人しか殺さなかった場合に君に言う言葉だ。しかしあの娘は、三人の死の苦しみを見、三人の瀕死の人間の姿をまじまじと見、三人の死体のかたわらに跪いたのだ。毒殺犯人を死刑執行人に引き渡せ、引き渡すのだ。君は君の名誉を口にするが、私の言う通りにしたまえ。不朽の名声が君を待っていよう」
ヴィルフォールは跪いた。
「聞いてくれ、私には君のような力はない。いやむしろ、君にだって、もしこれがヴァランチーヌではなく、君の娘のマドレーヌだったら、君にもそんな力はあるまい」
医師の顔が蒼ざめた。
「女から生まれた男はみな、苦しみそして死ぬために生まれたのだ。私は苦しもう、そして死を待とう」
「言っておくがね、その死はゆっくりと来るぜ。おそらく、君の父上、君の妻、君の息子を襲ってからだ」
ヴィルフォールは息をつまらせ、医師の片腕をだきしめた。
「私の言うことを聞いてくれ、私を哀れと思ってくれ、私を救ってくれ……違う、娘は犯人ではない。たとえ裁判所に引きずり出されても、私は言うぞ、『違う、娘は犯人ではない』と。私の家に犯罪などないのだ。私の家で犯罪が行なわれることなど、いいか、私は望まぬ。犯罪がどこかに忍びこむとすれば、それは死神のように、ただそれだけで入りこむことなどないからだ。それに、私が殺されようと、それが君になんだというのだ。君は友達か、人間か、心はあるのか……いや、君は医者だった。それなら君にはこう言おう、『娘を私の手で死刑執行人の手に引き渡すことなどせぬ』とな。ああ、考えただけでも胸をかきむしられる思いだ。気違いのように、われとわが胸に、自分の爪で穴をあけてしまいたくなる……それに、もし君がまちがっていたら、もし娘ではないほかの誰かだとしたら! いつの日か、幽霊のように蒼ざめた顔の私が、君にこう言いにきたとしたら、『人殺し、貴様は俺の娘を殺したのだ』とね。おい、もしそんなことになったら、私はキリスト教徒だが、ダヴリニー、私は自殺してしまうぞ」
「わかった」医師は一瞬の沈黙の後に言った。「待つとしよう」
ヴィルフォールは、なおもその言葉を疑うように医師をみつめた。
「ただし」ダヴリニーは、ゆっくりとした厳かな声で続けた。「君の家族の誰かが病気になっても、君自身が、やられたと感じたとしても、私のことは呼ぶな。呼ばれても私はもう来ないからね。この恐ろしい秘密を君と二人だけで守りはする。だが、恥と悔恨とが、私の良心の中で次第に育ち大きくなるのはご免だからね、ちょうど君の家の中で、犯罪が育ち大きくなるように」
「とすると、私を見捨てるというのか」
「そう、もうこれ以上君については行けんからね。私は死刑台の下まで来たから足を止めるのだ。またなにか別の事実が現われて、この恐ろしい悲劇に結末をつけるだろう。さようなら」
「ダヴリニー、お願いだ」
「あまりのおぞましさに頭が汚れてしまって、私には君の家がいまわしくどうにもならぬものとしか考えられないのだ」
「一言だけ、もう一言だけ頼む。こんな恐ろしい状況の中に私を残したまま、君は帰ってしまう、君が秘密を明かすことによって、君がさらに大きなものとしたこの恐怖のどん底に。だが、この急激な死、哀れな老僕のこの急死を、世間は何と言うか」
「そうだったな。私を送って行ってくれたまえ」
まず医師が外へ出た。ヴィルフォールがその後に続いた。不安な面持ちの召使いたちが廊下や階段に集まっていた。その前を医師は通らねばならなかった。
「バロワはね」医師は皆に聞こえるようにわざと声を大きくして言った。「ここなん年もの間家の中にばかりいすぎたんだよ。主人と一緒に、ヨーロッパ中を馬や馬車で駈け廻るのが好きだったのに、車椅子のまわりだけの単調な勤めに殺されたようなものだ。血が重くなっちまってね。肥りすぎだったし、首も太くて短かかった。脳溢血にやられたんだ。私に知らせてくれるのが遅すぎた。
ところで」と、医師は声を低くして、「スミレのシロップの茶碗は暖炉の灰の中に捨ててしまえよ」
こう言うと、医師は、ヴィルフォールの手にもふれず、自分が言ったことを繰り返すこともせずに、家中の者の涙と嘆く声とに見送られて家を出た。
その夜のうちに、ヴィルフォール家の全使用人が、調理場に集まって彼らだけで長いこと話し合った末に、ヴィルフォール夫人にいとまを貰いたいと申し出た。いかに頼んでも、またいかに給料を値上げするからと言っても、彼らを引きとめることはできなかった。なにを言っても、彼らはこう答えるのだった。
「この家には死神がとりついてますから」
彼らは、どんな哀願にも耳をかさず、これほどいいご主人たち、とくに、これほど気だてがよくて、親切で、やさしいヴァランチーヌ様とお別れするのは辛いと言いながら、みな出て行ってしまった。
ヴィルフォールはその言葉を聞いて、じっとヴァランチーヌを見た。
ヴァランチーヌは泣いていた。
不思議なことに、この涙が彼の心にひきおこした感動を抱いたまま夫人の顔も見たのだが、嵐の夜空の雲間を、不吉に滑る流星のように、見えたと思う間もなくすっと消えた陰険な微笑が、夫人の薄い唇をかすめたように彼は思った。
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八十一 パン屋の隠居の部屋
銀行家の冷たいあしらいを思えば当然のことながら、モルセール伯爵が恥辱と憤懣《ふんまん》やるかたなくダングラールの家を出たその日の夜、アンドレア・カヴァルカンティは、縮らせた髪をてらてらに光らせ、口ひげをひねり上げ、爪の形まで見える白い手袋をはめ、馬車の上に立ち上がらんばかりになって、ショセ=ダンタンの銀行家の邸の中庭に入って来た。
サロンで十分ほど話をしてから、彼はダングラールをうまく窓のくぼみの所へつれて行った。そして、たくみな前置きの後に父の出発以後の生活の辛さを述べたてた。父が帰ってしまってからは、まるで息子のように迎えてくれた銀行家の家族の中に、一人の男が恋する前には必ず求めるあらゆる幸せの保証を見出した、と彼は言うのだった。そして、恋ということになれば、幸せにも、お嬢さんの美しい目の中にそれを見出したというのである。
ダングラールは全身の注意を払ってその言葉を聞いていた。この恋の告白を、もう二、三日も前から彼は待っていたのだ。そして、いよいよその告白がなされたとなると、モルセールの言葉を聞いて曇り、影をおびた彼の目は、大きく見開かれた。
しかし、青年のこの申し込みを受け入れる前に、一応は良心的な意見を言っておきたかった。
「アンドレアさん、結婚のことを考えるのにはまだ少し若すぎませんかね」
「とんでもありません。少なくとも僕はそうは思いません。イタリアの大貴族は、一般に早婚なんです。これは合理的な風習ですよ。人生なんて、いつ風向きが変わるかわかりませんから、幸せは、手の届く所に来たら、直ちに掴んでしまわなければ」
「それでは、私にとっては大へん名誉なあなたの申し込みが、家内と娘にも受け入れられたとして、金銭的なことはどなたと話し合いをいたしましょう。これは大切な談合で、父親だけが子供たちの幸せになるように、うまく事を決められるように思いますがね」
「父は、賢明でしきたりもよく心得てますし、道理もわきまえてます。父は、僕がフランスで身を固めたくなるという場合を予想していました。ですから、出発の際に、僕の身分を証明する一切の書類と、もし父の気に入る相手を選ぶなら、結婚した日から年に十五万フランの金を僕に保証してくれるという手紙を残して行ったのです。これは、僕が判断する限りでは、父の収入の四分の一です」
「私のほうは、娘を嫁にやる時には、五十万フラン持たせてやろうとかねがね思っていました。それにあの娘は、私の唯一の相続人ですよ」
「それでは、僕の申し込みが、ダングラール男爵夫人とウジェニーさんに拒まれない限り、事は申し分なく運びます。僕たちは年に十七万五千フランの金を自由にできるわけです。ここでこういうことを考えてみましょう。父侯爵に、年金ではなくて、元金を一時にもらうようにするのです。(これは容易ではないことは僕もよく承知していますが、でもできないことではないと思います)。あなたにその二、三百万をうまく廻していただくのです。有能な方の手にかかれば、二、三百万は、一割には廻るでしょうからね」
「私は決して四分でしかお預かりしません。三分五厘ということだってあるんです。がまあ家のお婿さんだ、五分でお預かりしましょう。利潤は二人で分けましょうや」
「そいつはすごいですよ、お父さん」カヴァルカンティは、貴族らしく外面を糊塗《こと》しようと努めていても、つい時折とび出てしまう、いささか野卑な本性にひきずられた。
だが、すぐまた気をとり直して、
「あ、すみません。ご覧の通り、そんな望みが持てるとなっただけで頭がおかしくなってしまうんですから、これがほんとうにそうなったら、どうなることでしょうね」
「しかし」と、こっちはこっちで、はじめはまったく利害など問題ではなかったこの話が、急速に取引きの話になってしまったことなど気づきもせぬダングラールが言った。「お父さんが、あなたにやらぬとはおっしゃれぬあなたの財産があるでしょう」
「どういう財産ですか」青年は訊ねた。
「お母さんの遺産ですよ」
「ああ、もちろんです。僕の母、レオノーラ・コルシナリから受けついだ分ですね」
「で、どのくらいの額になりますかな、そのほうは」
「そうですね、これのことは気にとめたことがありませんが、少なくとも二百万とは申せます」
ダングラールは、失った財宝をまたみつけた守銭奴が、溺れかけた者が、足の下に、沈んでしまうと思っていた底知れぬ深海ではなくて、固い大地がふれたときに感ずるような、息のつまるほどのうれしさを感じた。
「では」アンドレアが父を敬う子のように銀行家に頭を下げて言った。「希望を持っても……」
「いいですとも、アンドレアさん、そちらのほうにさえこの約束を進める上での障害がなければ、もう契約はすみましたよ。ですが」とダングラールは考えるような面持ちで、「あなたのパリ社交界での後ろだてのモンテ・クリスト伯爵が、この私どもへの申し込みに、あなたと一緒においでにならなかったのはどういうわけでしょうな」
アンドレアはそれと気づかれぬくらいに顔を赤らめた。
「僕は伯爵の家から来たのです。あの人は文句なくいい人ですが、どうにも理解に苦しむ変わった人なんです。あの人は僕の考えに一も二もなく賛成してくれました。父が、年金ではなくて元金を僕に与えるのをほんの少しでもためらうことはあるまいと言ってくれました。父にうんと言わせるために口添えしてくれるとさえ約束してくれたのです。ですが、結婚の申し込みという件ではこれまで一度もそんな責任をとったことはないし、これからも決してしないと明言するんです。ですが、あの人のために言わねばなりませんが、この結婚申し込みに関する責任を嫌う気持ちを、自分でも困ったものだと思ったのは、僕の場合だけだと言い添えました。この縁組は似合いだしとてもよいと思うからだそうです。それに、公的にはなにもしたくないが、あなたが話をなされば、その時にはお答えするそうです」
「ほう、大へん結構ですな」
「それでは、これで義理のお父さんへのお話はこれだけにして、今度は銀行家としてのあなたにお話があります」アンドレアは彼の持つ最も愛想のいい微笑を浮かべた。
「何をお望みですかな」今度はダングラールが笑った。
「僕は明後日、四千フランばかりお宅で受け取ることになってるんですが、来月はいろいろ出費がかさみそうで、それっぽっちではとても足りそうにないのを伯爵もわかって下さって、僕にこの二万フランの手形を、渡したとは言いません、僕に下さったのです。ご覧の通り、あの人自身で署名して下さいました。これでどうでしょうか」
「こういう手形なら百万でも持っていらっしゃい、お引き受けしますよ」ダングラールは、手形をポケットにしまいながら言った。「明日の何時がいいかおっしゃって下さい。会計係に二万四千フランの領収書を持たせてお宅に伺わせますよ」
「では、よろしければ朝十時に。できるだけ早いほうがいいんです。明日は田舎のほうへ行こうと思っているもんですから」
「よろしい、十時に。今もプリンスホテルでしたね」
「そうです」
翌日、銀行家の時間に正確な点を裏書きするように、二万四千フランの金が青年のもとに届けられた。カドルッスに与える二百フランをホテルに残して、青年は実際に外出した。
この外出は、アンドレアの側からすれば、この危険な友人を避けるためであった。だから、彼はできるだけ遅くホテルに戻った。
しかし、彼が中庭の敷石を踏んだとたんに、彼の帰りを待っていたホテルの門番が帽子を片手にして目の前に立った。
「あの男が参りました」
「どの男だ」その実片時も念頭を離れぬくせに、まるで忘れていたかのように、無造作にアンドレアは訊ねた。
「閣下が金をやっている男でございます」
「ああ、そうか。昔、父の召使いだった男だ。それで、あれにやれと言って置いて行ったあの二百フランを渡したんだな」
「はい、閣下、まちがいなく」
アンドレアは自分を閣下と呼ばせていたのである。
「でも」と門番は続けた。「受け取ろうとしないんです」
アンドレアは蒼くなった。ただ、夜だったので誰も彼が蒼くなるのを見た者はいなかった。
「なに、受け取ろうとしなかった?」彼はかすかに不安にゆれる声で言った。
「はい、閣下にお話があるとか。外出中だと答えましたが、なおねばってて。それでもとうとう納得した様子で、このたずさえて来た封書を渡されました」
「ほう!」
彼は自分の馬車の角燈でその手紙を読んだ。
『俺の住んでる所は知ってるな。明日の朝、九時に待ってるぜ』
アンドレアは、封が開けられた気配はないか、無遠慮に手紙の中を見た者はないかと、封をたしかめてみた。だが、手紙は、封印を破らねばとうてい中が読めぬように折りたたまれ、ふんだんに菱形やら角じるしがついていた。封印にはまったく傷がない。
「よし、可哀そうな奴だ。すばらしくいい奴なんだがな」
アンドレアはこう言うと、この言葉によって、若い主人と老僕とのいずれを尊敬していいのかわからなくなってしまった門番を、その場に置き去りにした。
「急いで馬をはずして、僕の部屋に上がって来い」彼は侍童に言った。
一飛びに部屋に駈け上がったアンドレアは、カドルッスの手紙を焼き、灰までも消滅させた。
これをやり終えたとき、侍童が入って来た。
「ピエール、お前は僕と同じ背丈だったな」
「光栄です、閣下」召使いが答えた。
「昨日届いた新しいお仕着せがあるだろう」
「はい」
「僕は町のお針子とちょっといわくがあるんだが、その娘に、僕の肩書きも身分も知られたくないんだ。お前のお仕着せと、お前の身分証明書を持って来てくれないか。ひょっとして宿屋に泊ったりしたときのためにな」
ピエールは言われた通りにした。
五分後、すっかり変装をすませたアンドレアは、誰にも見破られずにホテルを出た。馬車を拾い、ビクビュスの赤馬旅館に向かわせた。
翌日、彼はプリンスホテルを出たときのように、つまり、誰にも気づかれずに赤馬旅館を出ると、フォーブール・サン=タントワヌ大通りを下って、メニルモンタン通りまで大通りを行き、左手三軒目の家の前で足をとめた。門番がいないので、誰に訊ねたものかと、あたりを深していると、
「何を探してんだい、可愛い坊や」と、向かいの果物屋のおかみが声をかけた。
「パイユタンさんはどこでしょう、でぶのおかみさん」アンドレアが応じた。
「隠居したパン屋かい」
「その通り、それです」
「中庭の奥、四階の左側だよ」
アンドレアは教えられた道をたどった。四階にウサギの片肢がぶらさがっていた。彼はそれを不気嫌にゆすぶった。呼鈴がその不気嫌さをそのまま伝えて、せわしなく鳴った。
間もなく、ドアにとりつけた小さな窓格子にカドルッスの顔が見えた。
「ほう、ばかに正確だな」
こう言って彼は閂《かんぬき》をぬいた。
「当り前さ」入りながらアンドレアが言った。
彼はお仕着せの帽子を前にほうったが、帽子は椅子の上にはのらずに床に落ちて、ころころと部屋を一周した。
「まあまあ、そうむくれるなよ、坊主。ええおい、俺はお前のことを思ってたんだぜ。このうまそうな飯を見てみろ。お前の好きなものばっかしだ、ざまあみろってんだ」
たしかにアンドレアが息を吸いこむと、料理の臭いがして、そのごっつい香りが飢えた胃袋には魅力であった。脂肪《しぼう》とニンニクのまじった臭いで、下等なプロヴァンス料理であることを示していた。それにグラタンにした魚の臭いがし、ナツメグとチョウジの鋭い香りがひときわ強くただよっている。これらの臭いは、かまどにのせられた二つの蓋《ふた》をした二つの深皿と、鋳物のオーヴンの中でぐつぐついっている鍋から立ちのぼってくるのだった。
アンドレアが隣の部屋を見ると、小ぎれいな食卓があって、二人前の食器と、一本は緑、一本は黄色の封をした上等なブドウ酒が二本、水差しにたっぷり入ったブランデー、瀬戸の皿に形よく置かれた大きなキャベツの葉にのせられたフルーツサラダがその食卓を飾っていた。
「どうだい、坊主。ええ、いい臭いじゃねえか。くそっ、俺はあっちにいた時分にゃ、料理がうまくてよ、みんな俺の料理に舌なめずりしやがった、覚えてるか。お前が一番先に俺のソースの味をみたっけな。たしか、まずいとは言わなかったはずだぜ」
こう言って、カドルッスは後から入れるタマネギの皮をむき始めた。
「結構なこった」不機嫌にアンドレアが言った。「お前と一緒に飯を食わせるために俺に手間ひまとらせたんなら、お前なんか悪魔に食われろ、だ」
「おい坊主」カドルッスはしかつめらしく言うのだった。「飯を食いながら話をしようぜ。それにお前も恩知らずな野郎だ。ちったあ友達の顔を見てうれしいとは思わねえのか。俺のほうじゃ、うれしくて涙がこぼれてるってのによ」
カドルッスは実際に涙をこぼしていた。ただ、かつてのポン・デュ・ガール亭の亭主の涙腺を刺激しているのが、うれしさなのかタマネギなのかを判定するのはむつかしかった。
「黙れ、偽善者め、お前は俺が可愛いだと?」
「そうとも、可愛いのさ。これが嘘なら地獄に落ちたっていい。これは俺の弱みだ。俺にもわかってるんだが、こいつはどうしようもねえ」
「そのくせ、俺に一杯食わせる気で呼びつけやがった」
「なんてことを」カドルッスは上っぱりでその大きな庖刀《ほうちょう》をふいた。「もしこの俺がお前を可愛いと思わなかったら、お前が俺にさせているこんなみじめな暮らしにがまんできると思うか。見てみろ、お前はそうしてお前の召使いの服を着てら。ということは、お前には召使いがいるってことだ。俺には召使いなんかいねえ。俺は野菜の皮まで自分でむかなきゃならねえんだ。お前は俺の料理を軽蔑してるな。それはお前が、プリンスホテルやカフェ・ド・パリの定食ばかり食ってるからよ。ところでこの俺様だって、その気になりゃ、召使いが持てるんだ。馬車だって持てら。好きな所で飯だって食えるんだ。どうしてそれをこの俺はしねえでがまんしてるんだ? 可愛いベネデットに苦労させたくねえからじゃねえか。その気になりゃ俺にもそうできるってことを認めたらどうだ、ええ?」
こう言ったカドルッスの目の色が、はっきりその答えを示していた。
「よし、お前が俺を可愛がってるとしておこう。それじゃ、どうして俺に、一緒に飯を食いに来いなんて言ったんだ」
「お前に会うためよ」
「俺に会うため? そんな必要はねえだろう、ちゃんと前もって条件をきめたんだ」
「おっと待った、追而書《おってがき》のねえ遺書なんてものがありますかね。が、お前はまず飯を食いに来たんだったな。とにかく坐れや。まずこの、お前のためにわざわざブドウの葉っぱの上に盛った、サーディンと新鮮なバターから始めようじゃねえか。ああ、お前、俺の部屋を見てるな。わらをつめた椅子が四つ、一枚三フランの絵。ちぇっ、仕方がねえやな、プリンスホテルじゃねえんだから」
「なんだ、いやにくさってるじゃねえか。もう幸せには思ってないのか、パン屋の隠居になれればそれでいいんだと言ってたくせに」
カドルッスは溜息をついた。
「いったい、何が言いたいんだ。お前の夢がかなったんじゃないか」
「俺はな、やっぱり夢だと言いてえのよ。パン屋の隠居ってなあ、ベネデット、金持ちな人だ。年金が入るのさ」
「そうとも、お前だって年金が入る」
「俺が?」
「そうさ、お前もさ、俺はお前に二百フラン持って来てやったぜ」
カドルッスは肩をすくめた。
「しぶしぶ出される金を受け取るなあみじめなものよ。明日になりゃあ消えちまうような、はかねえはした金をな。お前の羽振りのいいのが長続きしねえ場合にそなえて、俺が貯金しとかなきゃならねえってこともわかるだろう。あのな、そのう……連隊の司祭が言ったように、人の運なんてのはわからねえものなんだ。お前が今、大した羽振りだってこたあ、ちゃんと知ってるんだぜ、この悪党め。ダングラールの娘と結婚するってえじゃねえか」
「なに、ダングラールの?」
「そうともさ、ダングラールのな。ダングラール男爵様のって言わなきゃいけねえのか。そんなのはベネデット伯爵様って言うのとおんなじだ。やつは俺の友達だったんだよ、ダングラールはな。やつが、よっぽどもの覚えが悪くねえかぎり、お前の結婚式には俺を招ぶはずだ。俺の結婚式に来たんだからな。そう、そうなんだ、この俺様のな。くそっ! あの頃はあいつも今みてえに威張っちゃいなかった。ご親切なモレルさんとこのけちな使用人だったのさ。俺はなん回も、やつと一緒に飯を食ったもんだ、モルセール伯爵ともな……どうだ、俺には立派な知り合いがいるってことがわかったろう。ちっとばかしこの縁をたぐりゃあ、俺たちは同じサロンで顔をつきあわせることになるんだってことも」
「そいつは驚きだ。カドルッス、お前のねたみがお前に虹を見せてるだけさ」
「いいだろう、ベネデット。言ってる言葉の意味ぐらいは心得てるものさ。たぶん、いつか、晴着を着こんで、正門に乗りつけ、『門を開けていただきたい』なんてことを言うことになるだろうぜ。ま、それまでは、とにかく坐れ、食おうじゃねえか」
カドルッスが手本を示し、客にすすめる皿の一つ一つをさかんに自慢しながら、旺盛な食欲を見せて食べはじめた。
客も腹をきめたらしく、思いきってブドウ酒の栓を抜き、ブイヤベースと、ニンニクと油を入れたタラのグラタンをつつきはじめた。
「よう大将、やっとお前も、お前の昔の宿屋の亭主と仲直りしてくれたらしいな」
「当り前さ」アンドレアは答えた。若くたくましいだけに、今のところは食欲だけがほかのいっさいのものに優先していたのだ。
「どうだ小僧うまいか」
「すごくうまい。こんなうまいものをこしらえて、そいつを食ってるやつが、どうして人生がおもしろくねえなんて思うのかわからないよ」
「いいか、それはな、ある一つの考えが、俺の幸せを台なしにしちまってるからよ」
「どんな」
「それはな、俺が友達の金で暮らしてるってことよ。いつだってまともに自分で稼いで暮らして来たこの俺がな」
「ほ、ほう。そんなこたあどうだっていいさ。俺は二人分の金ぐらいはあるんだ、気にするこたあない」
「いや、そうはいかねえ。信じられねえかもしれねえが、毎月月末になると、俺は胸が痛むんだ」
「ばかにしおらしいんだな、カドルッス」
「昨日も二百フランを受け取る気にならなかったぐれえだよ」
「そうだ、俺に話がしてえと言ってた。だが、ほんとにそれが胸が痛んだためかねえ」
「正真正銘の胸の痛みだ。それに、俺に一つ考えが浮かんだからだ」
アンドレアはびくっとした。カドルッスに、考えがあると言われるたびに、彼はびくつくのである。
「みじめなもんだぜ」カドルッスが続けた。「しょっちゅう月末を待つってのは、わかるか」
「そう言うが」相手がどうするつもりか見てやろうと腹をきめて、アンドレアは、哲学者然と言った。「人生なんてものは待つことだけで過ぎていくもんなんじゃないかな。たとえばこの俺だって、それ以外の何をしてるというんだ。俺は、じっと辛抱してるんだぜ、ええ?」
「そうさ、お前は、二百なんてけちな金じゃなくて、五、六千、いやたぶん一万か、ひょっとすると一万二千もの金を待つんだからな。お前はかくしだてするのがうめえや。あっちじゃ、哀れな友達のカドルッスの目にふれねえようにちっちゃな財布やら貯金箱やらを持ってやがったっけ。ところが幸い、相手のカドルッス様は鼻がきくときてら」
「お前はしょっちゅう昔のことばかり、たわごとを並べるんだな。そんなごたくをくどくどと並べたてていったいなにになるんだ、ひとつ伺おうじゃねえか」
「ああ、そいつはお前が二十一で、お前には昔のことが忘れられるってことさ。俺は五十だ。昔のことを思い出さずにゃいられねえんだ。が、まあいいや、話に戻ろうぜ」
「よし」
「俺はな、もし俺がお前だったら、と言おうと思ってたんだ」
「だとしたら?」
「俺は金を握っちまう」
「なに、金を握るだと」
「そうよ、立候補資格がとりてえとか、農場を買うんだとか言って、半年分を前金でもらっちまうのさ。もらっちまったら、半年分を持ってずらかっちまう」
「おい、おい、そいつは、悪くねえ思いつきだろうよ」
「ま、俺の料理を食って、俺の言う通りにしな、そうしたからって、身体のほうも心のほうも、悪くなるってもんじゃねえからな」
「だがな、それじゃ、どうしてお前は、今お前が俺に言ったその忠告に従わねえんだ。半年分、いや一年分でもいい、その金を握ってブリュッセルにでも引っこんじまわねえんだ。パン屋の隠居どころか、破産した男が借金の後始末をしているぐらいに見える。こいつは恰好いいぜ」
「たわけたことを言うな、千二百ばかりの金で引き下れるか」
「カドルッス、お前も欲が深いな。二月《ふたつき》前には、餓死しかけてたんだぜ」
「食うほどに食欲もでるってやつさ」カドルッスは笑うサルか、うなるトラのように、歯をむき出した。「だからな」カドルッスは、年に似合わず、相変わらず白く鋭いその歯で大きなパンをかみ切った。「あることを計画したんだ」
カドルッスの計画は、カドルッスの考え以上にアンドレアをおびえさせた。考えというのはまだ芽生えにすぎぬが、計画となればそれは実行である。
「その計画ってのは、さぞかし立派なんだろうな」
「あたりきよ、計画のおかげで俺たちはなんとかさんの家から逃げられたんじゃねえか。あの計画は誰が考えたっけな、たしかこの俺だと思ったがな。それだからってあれもそう悪かあなかった。なにしろ、ここにこうして二人ともいるんだからな」
「そんなことは言ってないよ。お前も時にはいい所があるさ。が、とにかくその計画ってのを聞こうじゃねえか」
「言うともさ」カドルッスが追いうちをかける。「お前、びた一文腹を痛めねえで、この俺に一万五千フランばかり持たせちゃくれめえか……いや、一万五千フランじゃ足りねえ、三万以下じゃ俺はまともな人間になるつもりはねえ」
「駄目だ、俺には出来ねえよ」
「どうやら、俺の言うことがわかっちゃいねえようだな」カドルッスが、落ち着いた口調で冷たく答えた。「びた一文お前の腹を痛めずにと言ったんだぜ」
「盗みでもしろってんじゃねえのかい。そんなことすりゃ、俺の仕事はいっさいおじゃんだぜ。お前も共倒れだ。そして二人ともまたあちら行きだぞ」
「おお、俺様のほうは、また捕まったっておんなしこった。俺はおかしな奴でな、ときどき仲間が恋しくなるのさ。お前みてえに昔の仲間なんざ二度と会いたくねえというような、情《つれ》ねえやつたあ違うんだ」
アンドレアは、今度はびくつくぐらいではすまなかった。彼は蒼ざめた。
「カドルッス、馬鹿なまねはよせ」
「そうはいかねえよ。ま、安心しなってことよ、ベネデット。ただ、お前は巻きこまれねえで俺が三万フラン稼ぐ方法をちょっと教えてくれ。黙って俺にやらせときゃいいんだ、それだけのことよ」
「それじゃ考えてみるよ、いろいろと」
「だが、それまでは月々のものを五百フランに値上げしてくれ、俺はどうしてもそうしてえことがあってな、女中を雇うのよ」
「よし、五百フランやる。だかな、俺にも辛いんだぜ、これは。カドルッス……お前も図々しいぞ……」
「へん、お前が金のなる木を持ってるからさ」
アンドレアは、相手がこれを言うのを待っていたかのようであった。なるほど一瞬のうちに消えはしたが、電光のごとくす早い光が彼の目を輝かせたのである。
「そいつはほんとうだ。俺を庇護して下さるお方は、俺にはすばらしいお方だからな」
「そのお方様ってのは、月にどのぐらいくれるんだ」
「五千フランだ」
「お前は五千で、俺は五百か。まったく幸運を掴むには、父無《ててな》し児じゃなきゃ駄目なんだな。月に五千フランか……それだけの金をいってえどう使うんだ」
「なあに、すぐなくなっちまうさ。だから俺もお前と同じように、まとまった金がほしいんだ」
「まとまった金? そうさ……よくわかる……誰だってまとまった金がほしい」
「ところで、俺はそいつを持てるんだ」
「誰がくれるんだ、お前の公爵様か」
「そう、公爵様だ。ただ残念ながら待たなきゃならねえ」
「死ぬのをか」
「そう」
「どうして」
「遺書に俺の名を書いといてくれたからだ」
「ほんとか」
「誓ってもいい」
「どのぐらいだ」
「五十万」
「それっぽっちか。少ねえな」
「いや、言った通りだ」
「そんな馬鹿な!」
「カドルッス、お前、俺の友達だな」
「今さらなんだ。生きるも死ぬも一緒さ」
「それじゃ、秘密をうち明ける」
「言ってみろ」
「黙って聞け」
「ああ、いいとも、貝みてえに口をつぐんでら」
「それじゃな、どうやら俺は……」
「どうやら? びくびくすんな、俺たちしかいねえよ」
「どうやら俺は親爺をみつけたらしいや」
「ほんとうの親爺か」
「そう」
「カヴァルカンティの親爺じゃなくてか」
「そうさ、あいつは行っちまったもの。お前の言う通り、本物のほうだ」
「で、その親爺ってのは……」
「いいか、カドルッス、モンテ・クリスト伯爵だ」
「なんだと!」
「そうなんだ。わかるか、そうだとすりゃあ、なにもかも合点がいく。どうやら、大っぴらには俺にそう言いたくないらしい。だが、カヴァルカンティには俺を息子だと認めさせた。その報酬に五万フランやっている」
「お前の親爺になるだけで五万フラン! 俺だったらその半値で引き受けるぜ、二万、いや一万五千だ! なんだって俺のことを思い出してくれなかったんだ、この恩知らず!」
「俺が知ってたわけはねえだろ、なにもかも俺たちがあちらに入ってた間にきまっちまったんだから」
「ああ、そうか。で、お前こう言ったな、あのお方の遺書に……」
「五十万フラン遺贈される」
「確かだな?」
「見せてくれたもの。だがそれだけじゃないんだ」
「追而書《おってがき》があるんだな、俺がさっき言ったように」
「たぶんな」
「で、その追而書には?」
「俺を認知してる」
「へえ、いい親爺だ。誠実な親爺だよ、親の中でも誠実無比の親ってわけだ」カドルッスは、両手で持っていた皿を空中でくるくると廻した。
「どうだ、俺がお前にかくしごとをしてるなんて、もう一度言ってみろ」
「いや、言わねえ、お前が俺を信用しててくれることは、ちゃんと俺の目に映ってら。でお前の親爺の公爵様は、金持ちなんだな、すごい金持ちなんだな」
「だと思うぜ。あの人にも自分の財産がわからないんだ」
「そんなことってあるのかな」
「ちぇっ、俺はこの目で見てるんだぜ。しょっちゅうあの人の家には行ってるからな。いつかな、お前のそのナプキンぐらいの大きさの紙入れに、五万フラン入れて銀行の給仕が持って来た。昨日は銀行家が、十万フラン、金貨で届けたっけ」
カドルッスはしばしつんぼになったようであった。青年の声が金の音に聞こえ、金貨が滝のように流れ落ちる音を聞くようであった。
「お前、その家へ行くのか」カドルッスは無邪気に訊ねた。
「好きな時にいつでもな」
カドルッスはしばらく考えこんでいた。彼の頭の中で、なにか深いたくらみが思いめぐらされていることは容易に見てとれた。
と、いきなり、
「一度見たいもんだな。すごく立派なんだろうな」
「実際、豪華なもんだぜ」
「シャン=ゼリゼーに住んでるんだったな」
「三十番地だ」
「ほう、三十番地か」
「そうだ。ほかの建物とは離れた、中庭と庭園にかこまれた立派な邸だ。すぐわかる」
「だろうな。だが、俺の見てえのは外じゃねえ、家の中だ。立派な家具だよ、中にあるにちげえねえ」
「チュイルリー宮殿を見たことあるか」
「いや」
「そうか、あれよりすごいんだ」
「なあ、アンドレア。そのご親切なモンテ・クリスト様が財布を落としたとき、そいつを拾ったらいいだろうなあ」
「なあに、そんなのを待ってるこたあねえよ。あの家には、金なんて、果樹園の果物みてえに、いたる所にぶら下ってらあ」
「いつか、俺を一緒につれてってくれねえか」
「そんなことできるもんか、いったいどういう資格で行くんだ」
「ちげえねえ。だがな、お前の話を聞いてよだれが出て来た。なんとしてでも見てえんだ。なんとか方法をめっけるさ」
「馬鹿なまねはよせよ、カドルッス」
「床みがきでございって行くさ」
「隅から隅までじゅうたんが敷きつめてある」
「ああ、可哀そうなこの俺。そいじゃ、夢に見るだけでがまんするか」
「それが一番いい、ほんとだぜ」
「せめて、どんなふうなんだかわかるようにしてくれ」
「どうすりゃいいんだ」
「簡単至極だ。でかいのか」
「でかすぎもせず、小さすぎもせずってとこだな」
「配置はどうなってんだ」
「図を書くのにペンとインクがなきゃだめだ」
「あるぜ」威勢よくカドルッスは言った。
そして、古い書きもの机の上の、白い紙を一枚とペンとインクをとりに行った。
「ほらよ、紙に全部書いてくれ、坊主」
アンドレアは、気どられぬほどのうすら笑いを浮かべてペンをとり、書き始めた。
「建物は、さっき言ったように中庭と庭園にかこまれてる。わかるか、こんな具合だ」
「塀は高いか」
「いや、せいぜい二メートルちょっとだ」
「そいつは不用心だ」
「中庭にはオレンジの木の鉢植と、芝生と花の茂みがある」
「罠《わな》なんかはねえだろうな」
「ない」
「厩《うまや》は?」
「鉄柵の両側、ここだ」
アンドレアは図を書き続けた。
「一階はどうなってる」カドルッスが言った。
「一階は、食堂とサロンとビリヤードと、それに玄関の所の階段と小さな忍び階段だ」
「窓は?」
「豪勢な窓だ。立派で大きくて、大丈夫、お前ぐらいの背丈の男なら、ガラス一枚分だけで入れると思うな」
「そんな窓があるのに、なんだって階段なんかあるんだ」
「なにを言うんだ、それがぜいたくってものさ」
「ところで鎧戸は?」
「うん、鎧戸はある。が、使ったためしがない。変わってるんだよ、あのモンテ・クリスト伯爵って人は。夜半《よなか》でも空を見るのが好きなんだ」
「で、使用人たちはどこに寝る」
「ああ、使用人には連中の住む所が別にあるのさ。入って右手に、梯子を入れとくしゃれた納屋があってさ、その納屋ん中に使用人たちの部屋がずらりと並んでるってわけだ。母屋《おもや》の各部屋とは呼鈴でつながってる」
「くそっ、呼鈴か!」
「なんてった?」
「いや、なんでもねえ。呼鈴なんかつけるにゃ、大そう金がかかるだろうって言ったまでよ。いってえ、なんの役に立つんだ、そんなものがよ」
「以前は夜の間、中庭を犬がうろついてたが、オートゥイユの家へつれて行かせちまった。知ってるだろ、お前の来たあの家だ」
「知ってる」
「俺は昨日もあの人に言ったんだ。『伯爵様、不用心でございます。あなたがオートゥイユにいらして、使用人たちをおつれになってしまうと、お邸は空になってしまいますから』とな」
「そいで、それからなんてった?」
「それから、『いつかきっと泥棒に入られますよ』ってな」
「なんて答えた」
「あの人の返事か」
「そうよ」
「あの人はこう答えたよ。『泥棒が入ったからって、私にはどうということもないではないか』」
「アンドレア、機械仕掛けの机かなんかがあるぞ」
「何だい、それは」
「泥棒を鉄格子の中に閉じこめちまって、音楽が鳴りだすんだ。なんでもこないだの博覧会にあったって話だ」
「マホガニーの机があるだけさ。いつだって鍵はさしこんだままだ」
「それで盗まれねえのか」
「いや、使われてる連中はみなあの人に心服してるからな」
「その机の中にゃ、金が入ってるんだろうな」
「たぶん中には……何が入ってるかわからないよ」
「どこにあるんだ」
「二階だ」
「ちょっと二階の間取りを書いてくんねえか、一階のを書いてくれたようによ」
「お安いご用だ」
アンドレアはペンをとった。
「二階はな、わかるか、控え室とサロン。サロンの右手に図書室と書斎。サロンの左手に、寝室と化粧室、問題の机があるのはこの化粧室の中だ」
「化粧室に窓は?」
「二つ、こことここ」
アンドレアは、図の上では角にあって、寝室の長方形に接し、それよりは小さい正方形で表わされている部屋に窓を二つ書いた。
カドルッスはなにかを思いめぐらす表情になった。
「で、あのお方はしょっちゅうオートゥイユヘ行くのか」
「週に二、三回。たとえば明日は、昼間っから行って夜は向こうへ泊る」
「確かか」
「あっちでの夕食に招かれてる」
「結構だなあ、それこそほんとうの暮らしってもんだ。町中に一軒、田舎に一軒家を持ってるなんてな」
「それが金持ちってもんだよ」
「で、お前行くのか」
「たぶんね」
「あっちで晩飯を食うときゃ、お前はいつもあっちへ泊るのか」
「泊りたけりゃね、伯爵の家は俺の家みたいなもんだから」
カドルッスは、相手の腹の底から真実をもぎとろうとするかのように、青年の顔を見た。だが、アンドレアはポケットから葉巻のケースをとり出すと、ハヴァナを一本抜き出し、それにゆっくり火をつけて、わざとらしいところなど少しもなく、煙をくゆらせはじめた。
「例の五百フラン、いつほしい」彼はカドルッスに訊ねた。
「今すぐだ、そこに持ってるんならな」
アンドレアは二十五枚のルイ金貨をポケットから出した。
「二十フラン金貨はご免だ」カドルッスは言った。
「なんだ、こいつを軽蔑するのか」
「とんでもねえ、ひどくありがてえものに思うさ。だがな、そいつはほしくねえんだ」
「馬鹿だなあ、両替でとくするんだぜ。金貨は五スー〔一スーは二十分の一フラン〕増しだ」
「ちげえねえ。ところが、両替屋はカドルッス様の後をつけて来ら。そしてちょっと来いってことにならあ。それから、小作料を金貨で払った小作人たちの名前を言わなきゃならなくなる。悪ふざけはやめときな、ただの銀貨がいいんだ、どっかの王様の顔のかいてある、まあるいおぜぜがな。どこのどいつだって、五フラン玉ぐれえなら持てるもんな」
「俺が今五百フランなんて持ってねえことはわかるだろう。使いでも頼まなきゃ」
「そいじゃ、お前んとこのあの門番に預けといてくれ。あいつは正直な男だ。後で取りに行く」
「今日か」
「いや、明日だ。今日は暇がねえ」
「よし、じゃあそうしよう。明日、オートゥイユヘ出かけるときに預けて行く」
「あてにしていいんだな」
「大丈夫だ」
「女中を決めとかなくちゃならねえからな」
「決めろよ。だが、これでもうお終いなんだろうな、ええ? もうこれ以上俺をいためつけねえな」
「金輪際《こんりんざい》」
カドルッスがひどく暗い顔をしたので、アンドレアはこの変化に気づかざるを得なくさせられるのを恐れた。彼はつとめて陽気に屈託のない様子を装った。
「馬鹿に陽気じゃねえか。まるでもう遺産を手に入れたみてえだぜ」カドルッスが言った。
「残念ながらまだだ……だがな、一たん手に入れたら……」
「そしたら?」
「友達のことは忘ねえってことよ、それだけ言っておく」
「そうだ、お前はもの覚えがいいからな、まったく」
「何を言うんだ。俺はお前が俺をおどしにかけると思ってたぜ」
「この俺が? なんてことを! それどころか、俺はもひとつ、友達としてお前に忠告しようと思ってたんだぜ」
「どんな」
「お前が指にはめてるそのダイヤを、ここへ置いてけってことさ。そうさ、お前捕まりてえのか、俺たち二人ともおだぶつになっちまってもいいってのか、そんな馬鹿なまねをしやがって」
「なぜだ」
「わからねえのかよ。お前はお仕着せを着て、召使いに化けてるんだぜ。そのくせ、四、五千フランもするようなダイヤなんぞ指にはめたままでいやがる」
「くそっ! お前は目がきくな。なんだって価格査定官にならなかったんだ」
「ダイヤについちゃ、通《つう》なんでね。以前はたんと持ってた」
「大いに自慢してもいいな」
アンドレアは、この新たなゆすりに対して、カドルッスが懸念したように怒り出すこともなく、指輪を相手に渡した。
カドルッスは、指輪をぐっと目に近づけた。アンドレアには、彼がダイヤのカットの稜《りょう》が十分に鋭いかどうかを吟味していることがわかった。
「こいつは偽《にせ》ダイヤだぜ」カドルッスが言った。
「なに、ふざけるな」
「まあそう怒りなさんな、今わかる」
こう言ってカドルッスは、窓の所へ行って窓ガラスをそのダイヤでこすった。キーというガラスの音が聞こえた。
「スミマセンデシタ!」小指にダイヤをはめながらカドルッスが言った。「俺の眼鏡ちげえだった。だがな、宝石商なんてのは泥棒だからな、じつにうまく宝石の偽物《にせもの》をこせえやがるんで、宝石店なんぞにはうっかり泥棒になんぞ入れねえぐれえなんだ。これまたやれなくなっちまった仕事ってわけさ」
「じゃ、もうこれでお終いか、まだなにかほしいものがあるか。上着か、帽子か。今のうちだ、遠慮するな」
「いやもういい。お前はしんからいい仲間だ。もう引きとめねえ。俺も、あんまり欲を出さねえようになるよう心がけるよ」
「だがそのダイヤを売る時は気をつけろよ。さっき金貨でお前が心配してたようなことにならねえようにな」
「俺はこいつは売らねえよ、安心しな」
『そうだ、少なくとも明後日あたりまでは売るまい』アンドレアは思った。
「運のいい野郎だ。さあ、召使いやら馬やら馬車やら、それに許婚者《いいなずけ》やらに会いに行きな」
「もちろんさ」
「いいか、お前が俺の友達のダングラールの娘と結婚した日には、この俺に立派な引出物をくれるものと思ってるぜ」
「そいつはお前がただそう思ってるだけだって言ったはずだぜ」
「持参金はいくらだ」
「だから言ったろう……」
「百万か?」
アンドレアは肩をすくめた。
「百万ならまあまあだ。どうせ、俺がお前のために望むほどのものは、お前はもらえやしねえんだから」
「ありがとうよ」
「ほう、しおらしいな」野卑な笑い方をしてカドルッスがつけ加えた。「待ちな、送ってやる」
「それには及ばねえよ」
「いや送らなきゃならねえ」
「どうしてだ」
「ドアにちっとばかし仕掛けがあってな。どうしてもそれだけの用心はしなくちゃいけねえと思ったもんだからな。ユレ=フィッシェ作、ガスパール・カドルッス改良の錠前だ。お前が大金持ちになったら同じのを作ってやるよ」
「ありがとうよ、一週間前に知らせるからな」
二人は別れた。カドルッスは、アンドレアが三つの階を降り切るだけではなく、中庭を通り過ぎてしまうまで踊り場に立って見ていた。それから彼は大急ぎで部屋に戻ると、念入りにドアを閉め、アンドレアが置いて行った図面を、建築家のように、研究しはじめた。
『あの可愛いベネデットめ、遺産を相続して悪い気はしまいて。それに、その五十万フランを手にする日を早めてやった男は、やつの悪い友達にはなるめえ』カドルッスはつぶやくのだった。
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八十二 押込み
今述べたような会話が交わされた日の翌日、モンテ・クリストは、アリと召使いたち、それに、試してみようと思った馬をつれて、実際にオートゥイユにでかけた。モンテ・クリストが前の日には考えていなかった、そして、アンドレアもモンテ・クリスト以上に思ってもみなかった、このオートゥイユ行きを急に思いたったのは、ベルトゥチオが、家とコルヴェット艦の報告をたずさえてノルマンディーから帰って来たからであった。家はきちんと整備され、コルヴェット艦のほうは一週間前に到着して、ある入江に投錨したとのことであった。すでに必要な手続きをすませ、六人の乗組員とともに碇泊しており、いつでもまた航海に出られるようになっているという。
伯爵はベルトゥチオの懸命な努力をほめ、フランス滞在もあと一か月以上にはならぬはずだから、すみやかに出発の準備をととのえておくように命じた。
「それから、私はパリからル・トレポールヘ一夜のうちに行かねばならぬ。五十里を十時間で行けるよう、街道八か所に、次々と替え馬を用意しておけ」
「閣下がすでにそのご意向を洩らしておられましたので、馬はすべて用意いたしてございます」ベルトゥチオは答えた。「私が買い求めまして、私自身が、最も適当な場所に配置しておきました。つまり、ふつう人が足を止めぬ村々に」
「よくやった。私はあと一両日ここにいるから、そのように手配してもらいたい」
ベルトゥチオが、この滞在に必要なことを命ずるために部屋を出ようとしたとき、バチスタンがドアを開けた。金めっきの銀盆に一通の手紙をのせている。
「何をしに来たのかね」モンテ・クリストは、全身埃まみれのバチスタンを見て訊ねた。「ここへ来いとは言わなかったように思うが」
バスチスタンはそれには答えず、伯爵に近より、手紙をさし出した。
「重要かつ急を要するお手紙でございます」バチスタンが言った。
伯爵は手紙を開き、それを読んだ。
『モンテ・クリスト伯爵様にお知らせ申しあげます。今夜、一人の男がシャン=ゼリゼーのお宅に侵入いたします。化粧室の机に入っていると思いこんでいる書類を盗むのが目的でございます。モンテ・クリスト伯爵様は勇敢な方のこととて、警察の助けなどおかりにならぬと存じます。警察の介入は、このご忠告を申しあげておる者の身を危険にさらすものであります。寝室から化粧室へ発砲なさるか、化粧室で待伏せなさることによって、伯爵様ご自身の手で賊をこらしめることができましょう。あまり多くの人数、および目につくような警戒は、確実に賊を遠ざけ、ご忠告申し上げておる者が偶然知り得たこの敵が何者であるかを知る機会を伯爵様が失う結果となりましょう。この最初の企てに失敗し賊が再度侵入をはかった場合には、おそらくこのようなご忠告を申し上げる機会は得られぬものと思われます』
伯爵がとっさに考えたのは、これは泥棒のしかけた罠ではないかということであった。伯爵をより重大な危険にさらそうがために、つまらぬ危険を予告しておくという、下手な罠である。だから伯爵は、手紙の主の意に反して、いや匿名の友がそう言っているのでなおのこと、その手紙を警察署長のもとに届けさせようと思った。が、そのとき急に、これは実際に自分の敵なのかもしれぬ、自分だけの敵で、自分でなければそれが誰であるかわからず、場合によっては、あの、フィエスコ〔ジェノヴァの貴族。フランス王フランソワ一世らと共謀して、ジェノヴァ総督を殺そうとしたが、実行の夜、溺死した。ルソー、シラーにより作品化されている人物〕が自分を殺そうとしたモール人を利用したように、自分だけが利用できるかもしれぬ敵ではないのかという考えが脳裏に浮かんだ。読者諸子は伯爵の人となりをよくご存じであるから、彼が、大胆不敵かつたくましい精神の持ち主で、すぐれた人間を作り出す唯一のものであるあの気力をもって不可能事にたち向かう男であったなどとは述べる必要もあるまい。彼のそれまでの生活経験と、なにごとを前にしても一歩も退くまいと心に決めそれを貫いて来た決意とによって、神そのものである自然、および、いわば悪魔とも言える人間社会に対し時として彼が挑んだ闘争に、伯爵はひそかな喜悦を味わうに至っていたのであった。
『奴らは書類を盗もうとしているのではない』モンテ・クリストはつぶやいた。『奴らは私を殺そうとしているのだ。盗賊ではなく暗殺者なのだ。私個人のことへの警視総監閣下の介入はご免だ。私には、閣下の経費を軽減してさしあげるぐらいの金はあるからな』
伯爵は、手紙を届けた後、すでに部屋を出ていたバチスタンをまた呼び戻した。
「パリヘ戻って、残っている召使いを全員ここへつれて来るのだ。私は、このオートゥイユで、召使い全部を必要とする」
「ですが、伯爵様、それではお邸は空になってしまいます」
「そんなことはない。門番がいるではないか」
「門番小屋からお住まいまではかなり遠うございます」
「それで?」
「お邸中を荒しましても、物音ひとつ聞こえません」
「誰が荒すのかね」
「むろん泥棒でございます」
「バチスタン、馬鹿を言ってはいけない。たとえ邸中のものを連中が皆持って行っても、召使いの数が足りないために私が感ずるほどの不愉快さを、私が感ずるはずはないではないか」
バチスタンは頭を下げた。
「わかったね、同僚を上から下まで残らずつれて来るのだぞ。ただし、それ以外はいっさいふだんのままにしておけ。一階の鎧戸を閉めるだけだ」
「二階の鎧戸は?」
「今まで閉めたためしはないではないか。行け」
伯爵は、自分の部屋で一人で食事をする、給仕はアリ一人でよい、と告げさせた。
伯爵はいつものように、静かにごくわずかの夕食をすませた。食事が終ると、アリについて来いと命じて、小さな門から邸を出た。まるで散歩をするような具合にブーローニュの森まで来て、それから夜のとばりの降りる頃、シャン=ゼリゼーの自分の邸の前に立った。
邸内は真っ暗である。バチスタンが言ったように、母屋から四十歩ほども離れている門番小屋だけに、かすかな灯がともされていた。
モンテ・クリストはとある一本の木に背をもたせ、ほとんど誤ることのないその目で、玄関に至る二本の通路をさぐり、そこを通っている者はいないかと確かめてみた。それから、何者かひそんでいる者はいないかと、あたりの道路に目をこらした。十分後に、彼は自分をうかがう者が一人もいないという確信を得た。ただちに、彼はアリとともに小門に駈け寄り、急ぎ邸内に入った。そして、彼がその鍵を持っていた裏階段から建物に入り、カーテンひとつ開けるでもなくゆらめかせるでもなく、寝室に到達した。門番さえ、空っぽとのみ思いこんでいるこの邸に、主が帰っていようとは夢にも思わなかった。
寝室まで来ると、伯爵はアリに手真似で止まれと言い、化粧室に入って行った。そして、すべてが異常ないことを確かめた。高価な机も定位置にあったし、鍵もそのまま机についている。彼はしっかりと鍵をかけ、鍵を抜きとり、寝室のドアの所へ戻って来ると、閂の受け座をはずしてまた寝室に入った。
この間にアリは伯爵が求めた武器をテーブルの上に並べておいた。銃身の短いカービン銃一丁、二連発のピストル二丁である。このピストルは、上下連装のもので、射的用のピストルと同じぐらいねらいやすくできている。これだけの武器を持つことにより、伯爵は、五人の相手の生殺与奪の権を握ったのである。
九時半に近かった。伯爵とアリは、急いで一切れのパンを食べスペインのブドウ酒を飲んだ。それからモンテ・クリストは、壁板を一枚ずらした、そこから隣の部屋が見えるようになっていた。伯爵はピストルとカービン銃を手もとに置き、アリは、伯爵のかたわらに立って、十字軍の昔以来形の変わらぬあのアラブの小さな斧を手にしていた。
化粧室の窓と並んでついている寝室の窓から、伯爵は通りを見ることができた。
こうして二時間が過ぎた。外は完全な闇であった。しかし、アリは野獣のように生まれついているおかげで、また伯爵のほうは、おそらく訓練の結果身につけた目の力で、二人ともその闇の中に、中庭の木の葉がかすかにそよぐのさえも見わけているのであった。
もうとっくの昔に、門番小屋の小さな灯も消えていた。
敵の攻撃は、もし現実にそれが計画されているなら、おそらく窓からではなしに、一階の階段から行なわれるものと思われた。モンテ・クリストの考えでは、賊は彼の命をねらっているのであって、金をねらっているとは思えなかった。だから、賊が襲撃して来るのは寝室であろう。忍び階段から来るか、化粧室の窓から来るか、とにかく賊は寝室へ来るはずである。
彼はアリを階段へのドアの所に立たせ、自分は化粧室の見張りを続けた。
アンヴァリッドの大時計が十一時四十五分を告げた。西風がじめじめした息吹にのせて、三つ打つその音の不吉なひびきを運んで来た。
その最後の音が消えかけたとき、伯爵は化粧室の方角にかすかな物音がしたように思った、この最初の物音、なにかきしむような音は、二度、三度と聞こえてきた。四度目の音を聞いたとき、伯爵はそれが何であるかをさとった。たしかな熟練した手が、窓ガラスの周囲をダイヤで切っているのだ。
伯爵は胸の動悸が早まるのを感じた。いかに危険に鍛えぬかれていても、またいかに危地に立つことを予め知ってはいても、単に思い描くことと現実とのへだたり、計画と実行との巨大な距離を、心のおののきと肌のわななきとによって思い知らされるのが常である。
しかしモンテ・クリストは、アリにそれを合図で知らせただけであった。アリは、危険が化粧室の方角から迫っていることを知り、主人に近づこうと足を踏み出した。
モンテ・クリストは、なんとしても敵の正体とその数を知りたいと思った。
賊が細工をしている窓は、伯爵が化粧室に視線を注ぎ入れている壁の穴の正面にあった。だから彼の目はその窓に釘づけとなった。彼は、外の闇よりも濃い影がその上に描かれているのを見た。それから、一枚の窓ガラスが、まるで外から紙をはりつけたように、完全に不透明になった。そしてガラスが割れたが、下へは落ちなかった。そのあいた穴から一本の腕がさしこまれ、窓の掛金をさぐっている。一瞬の後には窓が開けられ、一人の男が入って来た。
男は一人であった。
『大胆な奴だ』伯爵はつぶやいた。
と、このとき、伯爵はそっと肩にふれるアリの手を感じた。振り向くと、アリが二人のいる部屋の通りに面した窓を指さす。
モンテ・クリストは二、三歩この窓に近づいた。彼は、この忠実な僕《しもべ》の鋭敏な感覚の冴えを知っていた。はたして、伯爵はもう一人の男が、ある門を離れ、車よけの石の上に乗って、邸内の様子をうかがおうとしている姿を見た。
『よし、賊は二人だ。一人は侵入し、一人は見張りだ』
彼はこうつぶやき、アリに通りの男から目を離すなと合図し、自分はまた化粧室の男の見張りに戻った。
ガラスを切った男はすでに室内に入っており、手を前にさし出して方向をたしかめている。
ついに賊は、部屋の中の様子をすっかりのみこんだらしい。化粧室にはドアが二つあったが、賊はその両方のドアの閂をかけた。
賊が寝室のドアに近づいて来たとき、モンテ・クリストは入って来るものと思った。そこでピストルのうちの一丁の発射準備をととのえたが、彼はただ、銅の環の中を滑る閂の音を聞いただけであった。賊は用心しただけなのであった。この夜の来訪者は、伯爵が前もって受け座をはずしておいたことを知らなかったから、そうすることによって自分の家にいるような具合に、まったく安心して仕事ができると思いこんでしまったのである。
部屋の中に一人となり、自由に動き廻れるとなると、賊は大きなポケットからなにかをとり出した。それが何であるかは伯爵には見きわめることができなかった。賊はそれを円卓の上にのせ、それからまっすぐ例の机の所へ行き、鍵穴を手でさぐり、予期に反して、鍵がさしこまれていないことに気づいた。
しかしガラスを破った賊は、ぬかりのない男で、あらゆる場合のことを考えておく男であった。伯爵はやがて、ドアを開けてもらうために呼んだ錠前屋が持って来る、あのさまざまな鍵のぶら下った鍵束がゆれ動くときの、鉄と鉄とのふれ合うじゃらじゃらいう音を聞いたのであった。この鍵を泥棒どもはナイチンゲールと呼ぶが、それはおそらく、夜更けにこれらの鍵が鍵穴にきしむ音が、彼らの耳を楽しませるからであろう。
『なんだ、ただの泥棒か』モンテ・クリストは、がっかりしたような微笑を浮かべた。
だが、賊は暗いので、適当な道具がみつからなかった。そこで彼は、円卓の上に置いた物を使った。バネを押すと、直ちにほのかな、しかしものを見るには十分な灯がともり、黄色い光がその男の手と顔を照らした。
「おやっ」モンテ・クリストは驚ろいて後ずさりしつつ、かすかに叫び声を洩らした。「あれは……」
アリが斧を振りかざした。
「動くな」モンテ・クリストは低い声でアリに言った。「斧を置け。もうここでは武器はいらんよ」
それから彼は、さらに声を落として二言三言つけ加えた。というのは、驚愕のあまり伯爵が思わず洩らした叫びは、かすかなものではあったが、賊をぎくっとさせるには足りたからである。賊はなお、古代の研師《とぎし》のような姿勢のままでいた。伯爵はアリに命令を与えたのであった。直ちにアリは忍び足でその場を離れ、壁のくぼみにかかっていた黒い服と三角帽をとって来た。その間にモンテ・クリストはすばやくフロックコートとチョッキとワイシャツをぬいだ。すると、壁板の穴から洩れて来る光で、伯爵の胸が、細かくしなやかな鎖帷子《くさりかたびら》で覆われているのが認められた。もはや短剣で刺される心配のなくなった近代のフランスで、これを身につけた最後の者はおそらくルイ十六世であろうが、胸を刺されることを恐れていた彼は、首を切られてしまったのである。
その鎖帷子はまもなく法衣の下にかくれ、伯爵の髪も、剃髪のかつらの下にかくれた。かつらの上に三角帽がのせられると、伯爵の僧の姿への変装が完成した。
賊のほうは、その後音が聞こえないので、立ち上がり、伯爵が変装している間に、例の机の所へ行き、ナイチンゲールを鍵穴にさしこんでがちゃがちゃいわせ始めていた。
「よし」いかなる鍵破りの名人も知らぬ秘密の仕組があるその錠前に自信があるのか、伯爵はこうつぶやいた。「貴様にはまだ四、五分かかる」
そして、彼は窓に近づいた。
先程、伯爵が車よけの石の上にのぼるのを見た男は下へ降りていた。相変わらず通りをうろついている。だが不思議なことに、シャン=ゼリゼーなりフォーブール・サン=トノレなりからやって来るかもしれぬ人影を警戒する様子はなく、彼はひたすら伯爵邸内の事態にのみ気を奪われているらしいのである。男の動きは、すべて化粧室内の事の推移をうかがわんためのものであった。
モンテ・クリストは、急に額を叩くと、半ば開けた口辺に、声にならぬ笑いをただよわせた。
それからアリに近づいて、ごく低い声で言った。
「ここにいろ。暗闇にひそんでいて、どんな音を聞こうと、なにが起ころうと、入って来てはならぬ。私がお前の名前を呼ぶまでは、絶対に姿を見せてはならぬ」
アリはわかりました、ご命令通りにいたしますと、うなずいてみせた。
そこでモンテ・クリストは、戸棚からろうそくを取り出し、火をともして、賊が鍵を開けるのに夢中になっている最中に、手にしたろうそくの光が自分の顔全体を照らすように気を配りながら、そっとドアを開けた。
ドアは静かに開けられたので賊はその音を聞かなかった。が、急に部屋が明るくなったので賊はひどく仰天した。
賊は振り向いた。
「よう、カドルッス君、今晩は。こんな時刻にいったい何をしに来たのかね」
「ブゾニ司祭様!」カドルッスが叫んだ。
そして、ドアにはみな閂をかけておいたのにどうして目の前に忽然として司祭が出現したのかわからず、カドルッスは合鍵の束をとり落とし、身動きもできずに、その場に茫然としていた。
伯爵は、カドルッスと窓との間に立ちはだかり、恐怖におののく泥棒の唯一の退路を遮断してしまった。
「ブゾニ司祭様」カドルッスはうろたえた目で伯爵を凝視したまま繰り返した。
「たしかにブゾニ司祭、まぎれもなくその通りだ。君が私を覚えていてくれて安心したよ、カドルッス君。してみると、私たちは大へんもの覚えがいいようだね。たしか、この前会ったのは、もうやがて十年になるからね」
この落ち着き、この皮肉、この威圧が、目がくらくらするほどの恐ろしさで、カドルッスをうちのめした。
「司祭様、司祭様」カドルッスは拳を握りしめ、歯をかちかちいわせながらつぶやいた。
「モンテ・クリスト伯爵の家からなにか盗もうというわけかね」自称司祭が続ける。
「司祭様」つぶやきつつカドルッスは窓辺に近づこうとしたが、伯爵は無慈悲にその道をふさいでいた。「あっしにはわからねえんで……どうか信じて下さいまし! ほんとうのところあっしは……」
「窓ガラスは切られており、龕灯《がんどう》、ナイチンゲールの束、机は半ばこじ開けられている、これでは明白ではないか」
カドルッスは自分のしているネクタイで喉を締めつけられる思いであった。彼は、身をかくす隅、姿を消す穴を求めた。
「どうやら、いつまでたっても性根は直らぬとみえるな、人殺しめ」
「司祭様、あなたはなにもかもご存じでございます。あれはあっしではねえんで、あれはカルコントだ。裁判でも認めてくれました。だって、あっしは懲役をくらっただけなんですから」
「では刑期を済ませたのだな。こうして、またつれ戻されるようなまねをしているところをみると」
「いえ、ある人に救い出されたんでごぜえやす」
「その者は社会に対して、なんとも結構なことをしてくれたものだ」
「あっしは、でもちゃんと約束して……」
「では、脱獄したのだな?」モンテ・クリストは相手の言葉をさえぎった。
「え、ええ」カドルッスはひどくおびえた。
「悪質な累犯だ……それではグレーヴ広場〔刑の執行が行われた〕に引き出されるぞ。私の国の連中が言う『困ったことだ、仕方がない』というやつだ」
「司祭様、あっしはつい出来心で……」
「罪人はみなそう言う」
「食うに困って……」
「やめないか」侮蔑するようにブゾニは言った。「食うに困ったなら施しを乞うことはできよう。だが、空家と思った家にしのびこんで机をこじあける理由にはならぬ。それに、宝石商のジョアネスが、私が君に与えたダイヤの代価として四万五千フラン払いに来たとき、ダイヤと金と両方を手に入れるためジョアネスを殺害したのも食うに困ってのことなのか」
「お許し下さいまし司祭様、あなたは一度はあっしをお助け下さいました。もう一度お助け下さいまし」
「とてもその気にはなれぬな」
「あなた様お一人ですか、それとも、いつでもあっしを捕まえられる憲兵たちがあちらにいるんでごぜえますか」カドルッスは両手を合わせた。
「私のほかは誰もおらぬ。もし君がほんとうのことを言うなら、君を憐れと思ってやろう。そして、私の心の弱さが、また悪いことをひきおこすかもしれぬが、君を逃がしてもやろう」
「ああ、司祭様」カドルッスは両手を合わせて叫んだ。そして、モンテ・クリストに一歩近づいてこう言った。「あっしは、本心からあなた様を救いの主と申し上げることができます」
「君は、誰かに監獄から出してもらったと言うのだね」
「ええ、それはもうたしかでございます」
「誰かね」
「イギリス人で」
「名前は?」
「ウィルモア卿でございます」
「私はその人を知っておる。だから嘘をつけばすぐわかるぞ」
「あっしは、ほんとにほんとのことを申し上げております」
「そのイギリス人が君に力をかしてくれたということになるね」
「いえ、あっしではなくて、同じ監獄にいた若えコルシカ人にです」
「その若いコルシカ人の名は?」
「ベネデット」
「それは洗礼名だ」
「ほかには名前がねえんです、捨て子だもんで」
「では、その若者も君と一緒に脱獄したんだな」
「へえ」
「どうやって」
「あっしらは、ツーロンの近くのサン=マンドリエで働らかされておりました。サン=マンドリエをご存じですか」
「知っておる」
「で、正午から一時まで、みんなが眠ってる間に……」
「徒刑囚が昼寝とは! 結構な身分だな」
「ちぇっ、働きづめに働けるもんじゃねえや、犬とは違いますぜ」
「違っていて、犬にとっては幸せだったよ」
「みんなが昼寝をしている間に、あっしらはちっとばかしみんなから離れて、あのイギリス人が届けてくれたやすりで鉄格子を切り、泳いで脱走したんでさ」
「そのベネデットとやらはどうなった」
「あっしはなんにも知りません」
「いや知っておるはずだ」
「ほんとに知らねえんで。あっしらはイエールで別れちまったんです」
こう言ってカドルッスは、この言葉にさらにほんとうらしい重みをつけるため、司祭にもう一歩近づいた。司祭は、相変わらず静かに相手に問いかける姿勢のまま、もとの位置に身じろぎもせずに立っていたのだ。
「嘘をつけ!」有無を言わせぬ声音であった。
「司祭様……」
「嘘をつけ! その男は今でも君の仲間なのだ。君はそいつにも片棒をかつがせておるのであろう」
「ああ、司祭様……」
「ツーロンを出てから、どうやって暮らしてきた、言ってみろ」
「まあ、どうにかこうにか」
「嘘をつけ!」三度司祭は言った。さらにきめつけるような調子であった。
おびえたカドルッスは伯爵の顔を見た。
「君は、その男から受け取った金で暮らしてきた」
「じつは、そうなんで、ベネデットはさる大貴族の伜になっちまったもんで」
「その男が貴族の伜とはどういうわけかね」
「私生児だったんでさ」
「その大貴族とやらの名は」
「モンテ・クリスト伯爵、今あっしらがいるこの邸の主でさ」
「ベネデットが伯爵の息子?」今度はモンテ・クリストのほうが驚いた。
「そうなんでさ、信じなくちゃいけねえ。なにしろ伯爵はにせの親爺をこしらえてやって、月に四千フランの金をやり、五十万フランの遺産をやることにしてるんですからね」
「は、はあ」事の次第がわかりはじめた偽《にせ》司祭が言った。「で、今のところはその若者はなんと名乗っておる」
「アンドレア・カヴァルカンティ」
「では、あの、私の友人のモンテ・クリストが邸への出入りを許し、近くダングラール嬢と結婚することになっておる、あの若者だな」
「その通りで」
「それでも君は黙っておるのか、あきれたやつだ。その男の前身を知り、前科のあるのを知っておりながら」
「どうして仲間の出世の邪魔をしなきゃならねえんです?」
「その通りだな、ダングラール氏に知らせるのはお前ではなく、この私の役目だ」
「そんなことはしねえで下さいまし」
「なぜだ」
「あっしらは飯の食いあげになっちまいます」
「お前らのような悪党に飯のタネをなくさせぬよう、この私がお前らの仲間になり、お前らの罪の片棒をかつぐとでも思っておるのか」
「司祭様!」カドルッスはさらに近づいた。
「私はなにもかも言うつもりだ」
「誰にでごぜえますか」
「ダングラール氏に」
「くそっ!」叫びざま、カドルッスはチョッキから短刀を引き抜き、伯爵の胸にぶちこんだ。「一言も言わせるもんか、くそ坊主!」
が、カドルッスが驚いたことには、短刀は、伯爵の胸には刺さらず、刃こぼれしてはね返ってしまったのである。
と同時に、伯爵は相手の左手首を掴み、すさまじい力で捻じ上げたので、短刀はそのこわばった指から落ち、カドルッスは痛みに耐えかねて悲鳴を上げた。
しかし、この悲鳴にも伯爵は手をとめずに、腕の関節が脱臼し、賊がまず膝をつき、ついで顔を床にすりつけるまで、なおもその手首を捻じ上げた。
伯爵はその顔を踏みつけてこう言った。
「貴様の頭を踏みつぶしてやろうか、悪党め!」
「どうかお慈悲を!」カドルッスが叫んだ。
伯爵は足をおろし、
「立て」
カドルッスは立ち上がった。
「すげえ力ですね、司祭様」カドルッスは、ペンチのような握力で痛めつけられた腕をさすった。「まったくすげえ力だ」
「黙れ、神が貴様のような野獣をとり抑えるため私にこの力を与え給うたのだ。私は神のみ名においてふるまっておる、このことはよく覚えておくがいい。そして、今貴様を許してやるのも、神の思召しにおつかえするためなのだ」
「おお痛え」
「このペンと紙をとれ、私が言う通り書くのだ」
「あっしは字が書けねえんで」
「嘘をつけ! ペンと紙とをとれ!」
カドルッスは、この抗《あらが》うことのできぬ力に屈服し、腰をおろして書きはじめた。
『あなたがお邸に出入りさせ、お嬢様を嫁がせようとなさっている男は、私とともにツーロンの監獄を脱獄した前科者でございます。あの男の囚人番号は五九号、私は五八号でございました。
奴の名はベネデット。両親には一度も会っていないため、本名は奴自身知りません』
「署名を」伯爵が続けた。
「あっしを破滅させてしまうおつもりですか」
「馬鹿者、貴様を破滅させる気なら、一番手近な憲兵隊に引きずって行く。それに、この手紙が届く頃には、たぶん貴様はもうなにも心配せずともよくなっている。署名しろ」
カドルッスは署名した。
「宛名、『ダングラール男爵様、銀行家、ショセ=ダンタン通り』」
カドルッスは宛名を書いた。
司祭はその手紙を手にした。
「これでよし、行け」
「どこからでございますか」
「入って来た所から」
「この窓から出ろとおっしゃるんで」
「そこから入って来たではないか」
「なにかあっしをやっつけることを考えてるんじゃねえんですか」
「馬鹿者、私が何を考えているというのだ」
「じゃ、なぜ門を開けては下さらねえんで」
「門番の目を覚まさせてもいいのか」
「司祭様、あっしが死ぬのを望んではいねえとおっしゃって下さいまし」
「私は神の願うところを願うまでだ」
「でも、あっしが降りてく間はあっしに襲いかからねえと誓って下さいまし」
「馬鹿な上に臆病者だな貴様は」
「どういう男になりゃいいとおっしゃるんで」
「それは私のほうが聞きたい。私は貴様を幸せな男にしてやろうとした。だが、人殺しにしてしまっただけだった!」
「司祭様、もう一度だけやってみて下せえまし」
「よし。いいか、お前は私が約束を守る男であることを知っておるな」
「知っております」
「もしお前が無事に家に帰れたら……」
「あなたさえ大丈夫なら、ほかに恐れなきゃならねえものはねえはずでしょう」
「もし無事に家に帰れたら、パリを離れ、フランスを離れろ。お前がどこにいようと、お前がまともに暮らしているかぎり、私はささやかながら金を届けてやろう。というのは、お前が無事帰れたなら、それは……」
「それは?」ふるえながらカドルッスは訊ねた。
「それは、神がお前を許し給うたのだと私は思う。ならば、私もお前を許そう」
「まったく正直なところ、あんたの言うことを聞いてると、死ぬほど恐ろしいや」カドルッスは後ずさりしながらつぶやいた。
「さ、行け!」伯爵は指でカドルッスに窓を示した。
相手の約束にもまだ安心しきれぬカドルッスは、窓を乗りこえ、梯子に足をかけた。
彼はふるえながらそこで止まった。
「さ、降りろ」腕を組んだまま司祭が言った。
カドルッスには、司祭のことは心配しなくてもいいことがわかりかけてきた。彼は降りはじめた。
すると、伯爵はろうそくを手にして窓に近づいた。そのため、シャン=ゼリゼーの通りからも、一人の男に照らされたもう一人の男が窓から降りる姿が見られるようになった。
「何をなさるんで? もしパトロールでも通ったら……」
こう言ってカドルッスはろうそくを吹き消し、また梯子を降り続けた。だが、彼がほんとうに安心したのは、庭の土に足がふれてからであった。
モンテ・クリストは寝室に戻った。そして、す早く庭から通りへ視線を投げ、カドルッスが、まず庭を迂回し、入って来た場所とは違う場所に出るために、塀の一番はじに梯子を立てかけるのを見た。
それから目を庭から通りへ移し、待っていたらしい男が、通りをカドルッスと並行して走り、カドルッスが降り立とうとしている場所に移動するのを見た。
カドルッスはゆっくりと梯子を昇り、一番上の段まで昇ると、塀の笠石ごしに頭を出し、通りに人影がないのを確かめた。
人っ子一人見当らなかった。物音ひとつしなかった。
アンヴァリッドの大時計が一時を打った。
そこでカドルッスは笠石の上にまたがり、梯子を引き上げ、塀の上を越えさせ、下へ降りる準備にとりかかった。降りるというよりはむしろ、梯子の二本の枠の上を滑るのである。これをたくみにやってのけたところをみると、彼はそれをしょっちゅうやっていたものとみえる。
だが、一度滑りはじめてしまうと、途中で止まることはできなかった。途中まで滑り降りたとき彼は闇の中に躍り出た人影を認めはしたが、どうすることもできなかった。地面に足がふれたとき、一本の腕がふり上げられるのを見たが、すでに遅かった。身を防ぐいとまもなく、その腕は彼の背中めがけてしたたかに振りおろされ、彼は、
「助けてくれ!」
と絶叫しつつ梯子を手放した。
第二の攻撃が、間をおかずに脇腹にぶちこまれた。
「人殺しだあ!」
叫びつつ彼は倒れた。
最後に、地面にころがったカドルッスの髪を掴んで、敵はその胸に三回目の攻撃を加えた。
今度もカドルッスは叫ぼうとしたが、呻き声しか洩らすことはできなかった。呻きながら、三つの傷口から三筋の血を流していた。
殺人犯は、もはや叫び声も上げられぬのを見ると、髪を掴んで引き起こした。カドルッスは目を閉じ、口をねじ曲げていた。犯人は相手が死んだものと思い、手を放して頭を地面に落とし、姿をくらませた。
そこでカドルッスは、敵が遠ざかったのを知ると、片肘をついて身を起こし、渾身《こんしん》の勇をふりしぼって、絶え入りそうな声で叫んだ。
「人殺しだ! 死ぬ! 助けてくれ! 司祭様!」
この悲痛な叫びは夜の闇を貫いた。忍び階段のドアが開き、ついで庭の小門が開いた。そして、アリとその主人とが灯を持って駈け寄って来た。
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八十三 神の御手《みて》
カドルッスは、哀れな声で悲鳴を上げ続けていた。
「司祭様、助けて下せえ!」
「どうした」モンテ・クリストが訊ねた。
「助けて下せえ、闇討ちにされました」
「私らが来た、しっかりするのだ!」
「ああ、もうおしめえだ。来て下さるのが遅かった。あっしの死ぬのを見て下さるだけだ。ひどい傷だ。なんて血だ!」
こう言ってカドルッスは気を失った。
アリとその主人は怪我《けが》人を抱き上げ、邸内に運び入れた。家の中に入ると、モンテ・クリストはアリに着物をぬがせろと命じた。そして、カドルッスが受けた恐ろしい三つの傷を見た。
「神よ、時としてあなたの復讐は暇がかかります。が、その場合、より完全な復讐が天より下るように私には思えます」
アリは、何をすべきかと問いかけるように主人の顔を見た。
「フォーブール・サン=トノレに住んでいるヴィルフォール検事をお訪ねして、ここへおつれしろ。行きがけに門番を起こし、医者を呼びにやれ」
アリは命令に服し、にせ司祭と、相変わらず失神したままのカドルッスの二人だけにした。哀れな男が再び目を開けたとき、二、三歩の所に腰をおろしていた伯爵が、憐れむような暗い顔で、カドルッスをみつめていた。その動いている口もとは、なにか祈りの言葉を唱えているようであった。
「医者を! 司祭様、医者を!」
「もう呼びに行ったよ」
「医者が来たってもう助からねえことはわかってます。が、元気はつけてくれるでしょう。あっしは、告発するだけの時間がほしいんでさ」
「何を告発するのだ」
「あっしを殺した奴を」
「そいつを知っておるのか」
「知っていやすとも。ええ、知ってます。ベネデットだ」
「あのコルシカの若者か」
「その通りで」
「お前の仲間の」
「ええ。あっしが伯爵を殺して、まんまと伯爵の遺産を受け取るか、さもなきゃ、あっしが伯爵に殺されて、あっしを厄介ばらいしちまえるんじゃねえかと考えて、奴は伯爵の邸の図面をよこしておいて、通りで待ち伏せしてあっしを刺したんだ」
「私は医者と同時に検事も呼びに行かせた」
「とても間にあいそうにねえや、身体中の血がみんな出ちまうのがわから」
「待っていろ」
モンテ・クリストは部屋を出て、びんを持って戻って来た。
瀕死の男は、救いの手がそのドアから来ることを本能的に察し、伯爵がいない間、一瞬の間もドアから目を離さず、すさまじいまでに凝視していた。
「早く、司祭様、早く! また気を失っちまいそうだ」
モンテ・クリストは近づいて、びんに入っていた液体を、二、三滴怪我人の紫色の唇に注いだ。
カドルッスがほっと吐息を洩らした。
「やあ、まるで生き返ったみてえだ、もっと……もっと……」
「あと二滴飲めば、お前は死んでしまう」
「じゃあ、あの悪党を告発する相手をよこして下せえ」
「お前の供述を私が書いてやろうか、お前は署名だけすればいい」
「ええ……ええ」カドルッスは自分の死後仇が討てる思いに目を輝かせた。
モンテ・クリストは書いた。
『私は、ツーロンの監獄での仲間、囚人番号五九号、コルシカ人ベネデットにより殺害され、死んでいくものです』
「早く、早く。さもねえと署名できなくなっちまう」
モンテ・クリストはカドルッスにペンを持たせ、カドルッスは力をふりしぼって署名すると、またベッドに倒れ、こう言うのだった。
「あとは司祭様がおっしゃって下せえ、あいつはアンドレア・カヴァルカンティと名乗って、プリンスホテルに泊ってる、それから……ああ、神様、もう駄目だ」
カドルッスは再度気を失った。
司祭がびんを嗅がせると、怪我人はまた目を開けた。
復讐心はその失神の間にも彼の心から消えてはいなかった。
「ああ、みんな言ってくれますね、司祭様」
「みな言うぞ、それ以外のこともな」
「どんなことを」
「あの男がお前にこの邸の図面を渡したのは、おそらく伯爵にお前を殺させようと思ってのことだ、とな。あいつは伯爵に手紙で密告した。伯爵が不在だったので、私がその手紙を受け取り、お前が来るのを寝ずに待ちうけていたのだ、と」
「奴はギロチンにかけられますね、そうですね。奴がギロチンにかかると請け合って下せえ。そう思えば、死ぬのもいくらか楽になる」
「私はこうも言ってやる」伯爵は続けた。「あいつはお前の後をつけて来た。ずっと様子をうかがい続け、お前が出て来るのを見ると、塀の角の所まで走り、身をひそめた」
「みんな見ておられたんですか」
「私の言葉を思い出すがよい。『もしお前が無事家に帰れたなら、神がお前を許し給うたのだと私は思う、ならば私もお前を許そう』と私は言った」
「なのにあっしに教えてはくれなかったんですかい」カドルッスはわめきながら、肘をついて身を起こそうとした。「あっしがここを出るとき、あっしが殺されるってえことを知っていたから、あんたはそれを教えちゃくれなかったんだ!」
「そうだ。私はベネデットの手に、神のお裁きを見たからだ。神の思召しをさまたげるようなことをすれば、それは神への冒涜と私には思えたからだ」
「神のお裁きだと! そんなこたあ聞きたくねえや。そんなものがあるとしたって、あんたが一番よく知っての通り、罰を受ける奴と受けねえ奴がいるじゃありませんか」
「まあ、待て!」司祭は瀕死の男をふるえ上がらせるような声で言った。
カドルッスは驚いて司祭の顔をみつめた。
「それに、神は万人に対して慈悲をたれ給う、お前に対してなさったようにな。神は審判者である以前に、父なのだ」
「あんたは神様を信じてるんですかい」
「たとえ不幸にして今まで神の存在を信じていなかったとしても、今のお前を見れば信じるようになったろう」
カドルッスは握りしめた拳を天に向けた。
「よいか」司祭は、神を信ぜよと命ずるかのように怪我人の上に手をさしのべた。「お前が、死ぬまぎわとなってもまだ認めようとしないその神が、お前のためにして下さったことを聞かせよう。神はお前に健康と力と十分な仕事、それに友達さえも与え給うた。要するに、良心の安らぎと自然な欲望の満足とを得て、安らかに暮らそうとする人間に与えられる暮らしをお与え下さったのだ。これほど完全な形で与えられることなどめったにない、これら神の賜物を大切に育て上げることをせずに、お前のしたことは何か、ただ怠けて酒に溺れた。酔い痴れたお前は、最良の友の一人を裏切ったのだ」
「助けてくれ! 俺は坊主なんかいらねえ、俺がほしいのは医者なんだ。もしかすると致命傷じゃねえかもしれねえ。もしかすると死なずにすむかもしれねえ、助かるかもしれねえんだ」
「お前の傷は深く、さっき私が飲ませた三滴の薬がなければ、お前はとっくに息が絶えていたのだ。だから、聞け」
「ああ、あんたはおかしな坊さんだ。死にかけてるやつを慰めるんじゃなくて、絶望させちまうんだから」
「よいか、お前が友達を裏切ったとき、神はお前を打ちのめすかわりに、まずお前に警告をお発しになった。お前は貧困に陥り、飢えた。後半生をお前は、実現できたはずの暮らしをただ熱望するだけで過ごした。神がお前に奇蹟を行ない給うたとき、お前はすでに貧困に名をかりて犯罪を夢見た。神が貧困のさ中にあるお前に、一物も持たぬお前にとっては目もくらむような財産を、私の手を通してお届け下さったあのときだ。だが、この思いもよらぬ、夢想だにしなかった持ったためしのない財産も、手にしたとたんにお前にはもう不足だった。お前はそれを倍にしようとした。どうやって。人殺しによってだ。お前は財産を倍にした。そこで神は、人間の裁きの前にお前をひき出すことによってその金をお取り上げになった」
「あのユダヤ人を殺したのはあっしじゃねえ、カルコントだ」
「そうだ。だから神は、このときは正しかったとは言わぬが、なぜなら正しいお裁きならば当然お前には死が与えられたはずだから。つねに慈悲深い神は、裁判官たちがお前の言葉に心を動かされ、お前の命を助けることをお許しになったのだ」
「ちぇっ、終身懲役ですぜ、とんだお慈悲だ!」
「そのお慈悲を、しかしお前はそれがなされたときにはほんとうのお慈悲と思った。死を前にしてふるえおののいていたお前の臆病な心は、終身の汚辱にも躍り上がって喜んだのだ。すべての悪党どもと同じように、お前も心のうちに、『墓場に出口はないが、監獄には出口がある』とつぶやいたからだ。お前の考えは正しかった。というのは、思いもかけぬ方法でその戸が開かれたからだ。一人の英国人がツーロンを訪れたが、彼は二人の男をその恥辱の淵から引き出してやろうと心に誓っていたのだ。彼はお前とお前の仲間を選んだ。再度天から幸運がお前の頭上に降りて来たのだ。お前は金と平和とを一時に得た。人並みの暮らしをやり直すことができたのだ。終生悪党としての暮らしを宣告されていたお前がだ。ところが不届きにも、お前は三度神を試そうとした。決して手にしたことがないほどのものを持ちながら、なおもそれでは足りぬとお前はつぶやいた。お前は、理由もなく、申し開きも立たぬ第三の罪を犯した。神も疲れた。神はお前を罰し給うたのだ」
カドルッスは目に見えて衰弱していった。
「水をくれ、喉がかわく……喉がやけつくようだ!」
モンテ・クリストはコップの水を与えた。
「大悪党のベネデットは、それでも奴は逃げちまいますぜ」コップを返しながらカドルッスは言った。
「なんぴとも逃げることはできぬ。カドルッス、これは私が言うのだ。ベネデットは罰せられる」
「ならあんただって罰せられる、あんただって。あんたは坊さんとしての義務を果たさなかったんだから……あんたはベネデットが俺を殺すのをやめさせなきゃいけなかったんだ」
「私が!」伯爵は死にかけている男に恐怖で血の凍る思いをさせるような微笑を浮かべた。「お前が私の胸を覆っていた鎖帷子に短剣を突き立て刃こぼれさせたばかりだというのに、その私にベネデットがお前を殺すのをとめさせようというのか!……そう、もしお前がしおらしく前非を悔いていたなら、私はベネデットにお前を殺させはしなかったろう。ところがお前は傲慢で血に餓えていた。私は神の思召しが成就するにまかせたのだ」
「俺は神様なんか信じねえ!」カドルッスはわめいた。
「あんただって信じちゃいねえんだ……嘘をつくな……嘘だ!」
「黙れ! 残りわずかな血まで噴き出させてしまっているのだぞ……ああ、お前は神を信ぜぬのか、神の御手により死ぬというのに。たった一度の祈り、ただの一言、ただ一粒の涙で、神はお前をお許し下さるというのに、お前は神を信じようとはせぬのか。お前の息の根を即座に止められるように殺人犯の短剣をお前に向けることのできた神を……。神はお前に、悔悟のため十五分の時間を与え給うた。本心に立ち帰れ、不届者、前非を悔いるのだ」
「いやだ、悔い改めなんぞするもんか。神なんていねえんだ。神の思召しなんてあるもんか、偶然があるだけだ」
「神の思召しはある。神は存在する」モンテ・クリストが言った。「その証拠は、今そうしてお前がいっさいの望みを断たれ、神を否認しつつ横たわっていること、そして、お前の前に、金もあり幸せで無事息災な私が、否認しようとしてはいるがその実心の底ではその存在をお前が信じている神の御《み》前に、こうして手を組んで立っているということだ」
「いってえあんたは誰だ」カドルッスは視力の薄れて行く目で伯爵の顔を見据えた。
「よく私の顔を見るがよい」モンテ・クリストはろうそくをとり、自分の顔に近づけた。
「やっぱし、司祭……、ブゾニ司祭だ……」
モンテ・クリストは、彼の顔形を変えていたかつらをぬぎ、その蒼白な顔によく似合う、美しい黒髪をたらした。
「おっ!」カドルッスはおびえた。「その黒い髪さえなけりゃ、あんたはあのイギリス人、あんたはウィルモア卿だ」
「私はブゾニ師でもなければウィルモア卿でもない。もっとよく見ろ、もっと昔のこと、お前の若かった頃のことを思い出せ」
この伯爵の言葉には、なにか磁力のように怪我人のなえ尽きた五感をもう一度だけ蘇えらせる力があった。
「おお、たしかに、俺はあんたに会ったような気がする。昔、あんたを知ってたような気がする」
「そうだ、カドルッス。そうとも、お前は私に会った、私を知っていたのだ」
「だが、いってえ誰だ。なんだって、俺に会ったことがあり、俺を知ってたんなら、俺を見殺しにするんだ」
「どうにも助けようがないからだ。お前の傷が致命傷だからだ。もし仮にお前の傷が助け得るものだったら、私はそこに、神の最後の慈悲を見出しただろう。その場合は、父の墓にかけて誓うが、もう一度だけ私はお前の命を救い、前非を悔いさせるよう努めたことだろう」
「父の墓にかけて!」カドルッスは最後の生命の火を燃やし、どのような男にとっても神聖きわまりないものであるこの誓いの言葉を口にした男の顔を、いっそう間近に見ようと身を起した。「いったい、あんたは誰だ」
伯爵は死が刻々と迫るさまを絶えず追い続けていた。そして、この生命の力が最後のものであることを悟った。彼はまさに死のうとする男に近寄り、静かな、それと同時に悲しげな目でその男を包みながら、その耳もとにささやいた。
「私は……私は……」そして、ほとんど開かれぬその唇は、伯爵自身それを聞くのを恐れるかのように、低くある名前をつぶやいた。
膝をついて身を起こしていたカドルッスは、腕を前にさしのべ、後ずさりしようとした。そして、手を組み合わせると、最後の力をふりしぼってその手を上にあげた。
「おお、神様。あなたを否認したことをお許し下さい。まさしくあなたはおいでになります。まさしくあなたは天にましますわれらの父でございます。地上の人間どもの審判者でございます。神よ、主よ、あっしはあなたを長いこと見そこなっておりました。神よ、主よ、あっしをお許し下さいまし。あっしをみもとにお召し下さいまし」
カドルッスは目を閉じ、最後の叫びと最後の吐息とともに、あおのけざまに倒れた。
大きく口をあけた傷口からの血の流れが即座に止まった。
彼はこときれていた。
「一人!」すでにこの恐ろしい死により変形しかけている死体をじっと見据えたまま、伯爵が謎のように言った。
十分後に、医者と検事が、一人は門番に、もう一人はアリに案内されて到着した。二人は、死者のかたわらで祈りを捧げていたブゾニ師に迎えられた。
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八十四 ボーシャン
その後二週間というもの、パリでは、大胆不敵にも伯爵邸に押しこんで盗みを働こうとした男の噂でもちきりであった。死ぬ真際に、その男はベネデットを犯人と指名していた。警察当局は犯人追跡のため係官を八方に走らせることになった。
カドルッスの短刀、龕灯《がんどう》、鍵束、それに発見できなかったチョッキ以外の衣服は裁判所に押収され、死体は屍体公示所に運ばれた。
誰に対しても伯爵は、この事件は彼がオートゥイユの家にいた間に起きたので、ブゾニ師から聞いたこと以外はなにも知らぬと答えた。ブゾニ師は、たまたまその夜、伯爵の蔵書の中の貴重な文献を探すため、伯爵邸で一夜を明かさせてほしいと伯爵に頼んだのだというのである。
ただ一人ベルトゥチオは、人が彼の前でベネデットという名前を口にするたびに、まっ青になっていた。しかし、ベルトゥチオの顔の青さに気づく者のいる道理はなかった。
現場に呼ばれたヴィルフォールは、他殺事件と断定し、自分が論告すべき刑事事件には必ず抱くあの熱烈な態度を見せて捜査を指揮した。
しかし、きわめて活溌な捜査活動もなんらの進展を見せずに、すでに三週間が過ぎてしまった。人びとは、伯爵邸での窃盗未遂および、共犯者による窃盗犯殺人事件を忘れかけ、社交界では、近く行なわれるダングラール嬢とアンドレア・カヴァルカンティ伯爵との結婚のことに関心を向けはじめた。
この結婚はほぼ公表されたも同然であった。青年はフィアンセとして銀行家の邸に迎えられていたのである。
父親のカヴァルカンティ氏に手紙を書いたところ、同氏もこの結婚に大いに乗り気で、軍務のため滞在しているパルマを離れられないのがきわめて遺憾であると伝え、十五万フランの年利をもたらす財産を息子に与えることに同意する旨を表明していた。
三百万フランの金がダングラールの銀行に預けられ、ダングラールがこれを運用することになっていた。相次ぐ投資の失敗により、義父となるべき男の地位が必ずしも安定していないと青年に忠告する者もいたが、青年は金のことには執着せず、心から義父を信用して、こうした根も葉もない言葉をしりぞけ、このことについては男爵に一言も洩らさぬという心遣いを示したのであった。
だから、男爵はアンドレア・カヴァルカンティ伯爵に心から惚れこんでいた。
ウジェニー・ダングラール嬢のほうはそうはいかなかった。結婚というものに本能的な嫌悪を抱いていた彼女は、モルセールを遠ざける手段としてアンドレアを近づけたのである。だが、アンドレアが近づきすぎたとなると、彼女は明らかに反撥の色を示しはじめた。
おそらく男爵もこれに気づいてはいたのだろうが、この反撥を単なるわがままとしか考えられなかったので、わざと気づかぬふりをしていた。
そうこうするうちに、ボーシャンがアルベールに求めた猶予期間がほとんど過ぎようとしていた。それに、事態が自然におさまるのを待てと言ったモンテ・クリストの言葉の意味を、アルベールも次第に理解するようになった。誰一人として将軍のあの記事を取りあげるものはいなかったし、ヤニナの城を敵の手に渡した士官が、貴族院に議席を占めるモルセール伯爵だとは夢想だにしなかった。
しかし、だからといってアルベールの恥辱を受けたという気持ちはおさまらなかった。彼が傷ついたあの数行の記事には、たしかに攻撃の意図があったからである。それに、あの会談を打切ったときのボーシャンの態度を思い出すたびに彼の心はうずくのであった。だから彼は、あくまでも決闘を行なう決心を抱き続けていた。もしボーシャンが同意してくれれば、介添人に対しても真の理由はかくしておくつもりであった。
ボーシャンのほうは、アルベールが彼を訪ねた日以後、その姿を見かけた者はいなかった。彼に面会を求める者があると、数日間旅行のため不在であるという返事がかえって来るのだった。
いったいどこへ行ったのか、誰も知る者はなかった。ある朝、アルベールは、ボーシャンの来訪を告げる召使いの声に起こされた。
アルベールは目をこすり、ボーシャンを一階の喫煙室で待たせるよう命じ、大急ぎで着替えをすませて、下へ降りて行った。
ボーシャンは部屋の中を歩きまわっていたが、アルベールを見て足を止めた。
「今日こちらからお訪ねするつもりだったのにそれも待たず、そうしてあなたのほうからおいでになったところをみると、どうやら吉と出たようですね」アルベールは言った。「さあ、早く言ってもらいましょうか、僕が手をさしのべ、『ボーシャン、過失を認めろよ、そして僕の友達でいてくれるね』と言うべきなのか、ただ簡単に、『武器は何にしますか』と訊ねるべきなのか」
「アルベール」ボーシャンの悲しげな声が茫然とさせるほどにアルベールの胸を打った。「まあ、坐ろうじゃないか、そして話をしよう」
「しかし、僕はその逆に、坐る前にあなたは返事をすべきだと思いますね」
「アルベール、返事をすること自体がむずかしい場合だってあるんだよ」
「それじゃ、返事をしやすくしてあげましょう。記事を取り消す意志がおありですか、イエスですかノーですか」
「モルセール、フランス貴族院議員、陸軍中将モルセール伯爵のような人の、名誉と社会的地位と生涯とにかかわる問題には、イエスかノーか答えるだけで満足できるものではない」
「ではどうする」
「僕がしたようにするのさ、アルベール。一家の名声と浮沈にかかわる問題とあれば、金、時間、疲労などとるにたりぬことだ。こうつぶやくものなのだ、つまり、友人と死を賭して闘うためには、単なる可能性だけでは十分ではないと。また、三年間もの間その手を握り続けてきた相手と剣をまじえるためには、あるいはその相手に向かってピストルの引金を引くためには、少なくとも、自分がなぜそのようなことをするのか、その理由を知る必要がある、自分の腕で自分の生命を守らねばならぬ男に必要な心の落ち着きと良心の平静さを抱いて決闘場におもむけるように、とね」
「とにかく、何を言いたいんだ」モルセールがいらいらして訊ねた。
「つまり、僕はヤニナに行って来た」
「ヤニナに、君が!」
「そうだ、僕が」
「まさか」
「アルベール、これが僕のパスポートだ。ヴィザを見てくれ。ジュネーヴ、ミラノ、ヴェネチア、トリエステ、デルヴィノ、ヤニナだ。君も、共和国、王国、帝国の官憲は信じるだろう」
アルベールはそのパスポートに視線を向け、それらを読みとった後に、驚いてボーシャンを見た。
「ヤニナに行ったのか」
「アルベール、もしこれが、赤の他人、知らぬ男、三、四か月前に僕に決闘を申し込み、僕がうるさいので殪《たお》してしまったあの英国人のように、ただの英国貴族だったら、僕がこれほどの手間をかけなかったことは、君もわかってくれるだろう。だが僕は、君に対してはこれだけ慎重にやらねばならぬと考えたのだ。往くのに一週間、帰るのに一週間かかった。それプラス検疫に四日、四十八時間の滞在、これが僕の過ごした三週間だ。僕は昨夜遅く帰って来た、そして今ここにいる」
「ああ、ずいぶんもってまわった言い方だな、ボーシャン。僕が聞きたい返事をいやに先にのばすじゃないか」
「それはね、正直なところ、アルベール……」
「ずいぶん言いにくそうだね」
「うん、僕は恐れているんだ」
「君の通信員が誤報を送って来たと白状するのがこわいんだろう。この際自尊心なんか捨てろよ、ボーシャン。言っちまえよ、君の勇気を疑うなんてことはないからさ」
「いや、そうじゃないんだ」新聞記者はつぶやいた。「その逆で……」
アルベールはすさまじいまでに顔色を変えた。彼はなにか言おうとした。だがその言葉は唇の上で消えた。
「アルベール」ボーシャンが限りない友情をこめて言った。「信じてくれ、君に誤報の許しを乞えたら僕がどれほどうれしいか、それなら僕は心の底から君に詫びるよ。だが、悲しいかな……」
「だが、何なんだ」
「アルベール、記事は正しかった」
「なんだって! あのフランス士官は……」
「そうだ」
「あのフェルナンは……」
「そうなのだ」
「自分が仕えていた人の城を売り渡したあの裏切者は……」
「アルベール、僕がこれから言う言葉を許してくれ。その男は君のお父さんだ」
アルベールは激怒してボーシャンにとびかかろうとした。が、ボーシャンはやさしい眼差しとさしのべた手でそれを抑えた。
「ほら」彼はポケットから一枚の紙をとり出した。「これが証拠だ」
アルベールはその紙をひろげてみた。それはヤニナの著名の士四名の証言で、アリ=テベレン太守に仕えていた軍事顧問、フェルナン・モンデゴ大佐が二千ブルス〔トルコ貨幣で一ブルスは五〇〇ピアストル〕の金と引替えにヤニナの城を売り渡した旨が認《したた》められていた。
署名は領事によって相違ないものと証明されている。
アルベールはよろめき、うちのめされて椅子に倒れこんだ。
今度こそ疑う余地はなかった。苗字までが余さず記されているのだ。
一言も口をきかぬ重苦しい沈黙の後に、彼の心臓はふくれ上り、首の血管は怒張し、涙がどっとばかりに目にこみ上げて来た。
苦しみの絶頂に身をゆだねた青年の姿を、深いいたわりの目でみつめていたボーシャンが、アルベールに近づいた。
「アルベール、今はもう僕の気持ちがわかってくれるね。僕は自分で見、自分で判断しようとしたのだ。君にとっていい結果が得られることを期待しながら。だが、調査の結果はその逆に、その軍事顧問、アリ=パシャによって総司令官にまで昇進させてもらったそのフェルナン=モンデゴが、フェルナン・ド・モルセール伯爵にほかならぬことを確かめることになってしまった。そこで僕は、君が僕に友情を抱いていてくれたことを思い起こしながら帰って来た。そして君のもとに駈けつけたのだ」
アルベールは、相変わらず椅子に身を横たえたまま、日の光があたるのを防ごうとするかのように、両手で目を覆っていた。
「僕は君の所へ駈けつけて来た、君にこう言おうと思ってね、アルベール、現代のような、変転きわまりない時代には、父親の過失は子供にまでは及ばぬものだ。アルベール、われわれがそのさ中に生まれた革命続きの時代に、なんらかの汚泥ないしは血痕に、軍服なり法衣なりを汚さずにこの時代を乗りこえた者はまずいないんだよ。僕がいっさいの証拠を握り、君の秘密を知った今となっては、君の良心が、僕はそう確信しているが、君の良心が罪としか思わぬような決闘を、誰も僕に強いることはできない。だが、もう君が僕に要求できないことを、君にしてあげるために僕はやって来たのだ。僕だけが握っているこの証拠、秘密、証言を、君はなくしてしまいたいとは思わないか。この恐ろしい秘密を僕たち二人の胸だけにおさめておきたいとは思わないか。僕の言葉を信じてくれ、僕は絶対に口外しない。さあ、そうしたくはないか、アルベール。アルベール、言ってくれないか」
アルベールはボーシャンの首にかじりついた。
「ああ、君はなんという気高い心の持ち主なんだ!」アルベールは叫んだ。
「さあ」ボーシャンは証拠の紙片をアルベールにさし出した。アルベールはわななく手でそれを掴み、手の中に握りしめ、もみしだいて、その紙を裂こうと思った。しかし、細かくちぎった紙がわずかでも風で飛び、いつの日にか彼の顔面に叩きつけられることもあるかもしれぬと思い、葉巻に火をつけるために絶えず燃えていたろうそくのそばへ行き、紙片を一枚残らず燃やしてしまった。
「ボーシャン、君はすばらしい友達だ」燃やしながらアルベールはつぶやいた。
「みんな悪い夢のように忘れてしまうことだね」ボーシャンが言った。「黒くなったこの紙の上を走るこの最後の赤い火のように、みんな消えてしまえばいい。一言も口をきかぬこの灰からたち昇る煙のように、なにもかも消えてなくなれ」
「そうだ、そうだよ。そして、僕を救ってくれた君に対する僕の永遠の友情だけが残れ。僕の子供たちが君の子供たちに対しても受けつぐ友情だ。僕の血管を流れる血も、僕の肉体に宿る生命も、僕の名の名誉も、すべては君のおかげであることを永久に思い出させてくれる友情だ。だって、もしこんな秘密が世間に洩れていたら、ああ、ボーシャン、僕は断言するが、僕は自分の頭をぶち抜いていたろう。いや、母が気の毒だ。僕はその弾丸で母を殺すことはできぬから、僕は国外へ逃れていたろう」
「アルベール!」
だが、アルベールは、この予期せぬ喜び、いわば不自然な喜びからやがてさめて、またさらに深い悲しみの中に沈んだ。
「どうしたんだ、まだ何かあるのか」ボーシャンは訊ねた。
「じつはね、僕の心の中でなにかが崩れてしまったようなんだ。聞いてくれボーシャン。一点の汚れもない父の名が息子の心に抱かせるあの尊敬、あの信頼、あの誇り、それをこんなふうに一瞬のうちに捨てきれるものではない。ああ、ボーシャン、ボーシャン! 今の僕は、どういうふうに父のそばへ行けばいいのか。父が僕の額に唇を近づけたとき、僕はその額をそむけるのか。父が手をさしのべたとき、僕は自分の手を引っこめるのか……ボーシャン、僕はこの世で最も不幸な男だ。ああ、お母さん、気の毒なお母さん」アルベールは涙に濡れた目で母の肖像をみつめた。「もしお母さんがこのことをお知りになったら、どれほどお苦しみになることでしょう」
「さあ、アルベール、勇気を出すんだ」ボーシャンは友の両の手をとって言うのだった。
「だがそれにしても、君の新聞にのったあの記事は、いったいどこから来たんだ」アルベールが叫んだ。「この裏には秘められた憎悪があるぞ、目に見えぬ敵がいるぞ」
「だからこそ、なおのことしっかりするんだ、アルベール! 心の動揺をわずかでも顔に出してはいけない。ちょうど雲が、破壊と死とを、嵐が襲う瞬間までそれとはわからぬこの恐ろしい秘密を内に秘めているように、君はその苦しみをじっと胸に秘めておくんだ。さあ、アルベール、その嵐の瞬間のために、君の力を貯わえておくんだ」
「それじゃ君は、まだこれで終ったとは思っていないんだね」おびえたアルベールが言った。
「僕かい、僕はべつになにも思わないさ。が、とにかくどんなこともあり得るということさ。ところで……」
「何だ?」ボーシャンが言いよどんでいるのを見てアルベールは訊ねた。
「やはり君はダングラール嬢と結婚するのか」
「こんな時に、なんてことを訊くんだ」
「僕の考えではね、その縁談がこわれるかうまく行くかは、今僕たちが問題にしていることにかかわりがあると思うからだよ」
「なんだって!」アルベールは叫んだ。その額は真赤であった。「君はダングラール氏が……」
「僕はただ君の縁談はどうなっているかと訊いただけだ。僕の言葉に、僕が言おうとすること以外の意味はつけないでくれ。余計なかんぐりはよせよ」
「うん、縁談はこわれた」
「そうか」こう言ってからボーシャンは、友がまた暗くふさぎこみそうなのを見て、
「おい、アルベール、悪いことは言わないから外へ出ないか。馬車か馬でブーローニュの森を一廻りしたら、気もまぎれるぜ。それからどこかで飯を食って、その後で君は君の用足しに、僕は僕の仕事をしに行くとしよう」
「そうしよう。だが、歩いて行こうや。少し疲れたほうがさっぱりするかもしれないから」
「よしきた」
そこで二人の友は徒歩で家を出た。大通りを通りマドレーヌ寺院の所まで来たとき、
「おい、途中まで来たんだから、モンテ・クリスト氏に会いに行こう」ボーシャンが言った。「あの人に会えば心も晴れるぜ。あの人は、人に質問などしないという点で、心を晴ればれとさせてくれるすばらしい人だ。僕の意見ではね、うるさく質問しない人というのが慰さめ方の一番うまい人なのさ」
「よし、あの人の所へ行こう。僕はあの人が好きだ」
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八十五 旅
二人の青年が一緒に訪れた姿を見て、モンテ・クリストはうれしそうな叫び声を洩らした。
「は、はあ。どうやらなにもかも終ったようですな。なにもかもはっきりし、決着がついたというわけだ」
「そうなんです」ボーシャンが言った。「馬鹿々々しい噂はひとりでに消えましたし、また口にする者がいたら、僕がまっ先に相手になります。ですから、もうその話はやめましょう」
「アルベール君からお聞きになるでしょうが、私も彼にそう言ったんですよ。ところでね」伯爵は言い添えた。「今朝は、私は今まで過ごしたこともないほどの厭な午前中を過ごしてましてね」
「何をなさってるんですか」アルベールが言った。「書類の整理をなさってるようですが」
「書類? ありがたいことにそうじゃない。私の書類はいつでもきちんと整理されている、なにしろ私の書類なんてものはありませんからね。カヴァルカンティ氏の書類ですよ」
「カヴァルカンティ氏の?」ボーシャンが訊いた。
「そうさ、君は知らないのか。伯爵が世間に出してやろうとしてる青年さ」
「いや、誤解してもらっては困る」モンテ・クリストが答えた。「私は誰も世に出してなんかやらない、ましてカヴァルカンティ氏など」
「そして、僕のかわりにダングラール嬢と結婚する男だ」アルベールは無理に笑おうとしながら続けた。「これにはね、ボーシャン、君にも十分察しがつくだろうが、僕はひどくつらい思いをしてるんだ」
「なんだって、カヴァルカンティがダングラール嬢と結婚する?」ボーシャンが訊ねた。
「これは驚いた。君は世界の果てからでもやって来たんですか」モンテ・クリストが言った。「噂の女神の夫と言われるジャーナリストの君が。パリ中その噂でもちきりですよ」
「で、伯爵、この縁組をまとめたのはあなたなんですか」
「私が? とんでもないゴシップは書かんで下さい。そんなことを言われちゃ困りますよ。縁組をまとめる? いいえ、私はその逆に、全力をあげて反対したんです。結婚の申し込みをするのも断わったんですからね」
「ああ、わかりました。アルベールのためにですね」
「僕のためだって、違う、絶対に違う。伯爵が証言してくれると思うけれども、逆に僕は、幸い破談になったこの縁談をこわしてくれといつも伯爵に頼んでいたんだ。伯爵は、僕が感謝すべき相手はご自分ではないとおっしゃるがね。まあいいさ、僕は古代の人びとにならって、未知ナル神の祭壇でも建てるさ」
「いいですか、この縁談を進めたのは私ではない。そのため、舅《しゅうと》ともあの青年とも気まずいことになっているくらいなのです。ウジェニー嬢一人がまだ私に好意を持ってくれているだけでね。私にはどうもあの人は生来結婚には向いていないように思えるので、私があの人に自由を捨てさせる気にはとてもなれないのを知っているからです」
「その結婚はもうすぐ実現するとおっしゃるんですね」
「ああ、それはもう。私が何を言っても無駄でしたよ。私はあの青年のことはなにも知らない。人は金持ちで名門の出だと言うけれども、私にとっては、それらはみな噂にすぎないのでね。私はこのことを口がすっぱくなるほどダングラール氏に言ったのです。が、あの人はすっかりお気に入りのルッカ人にのぼせ上がっていてね。私は、私にはさらに重大なことに思えるある一つの条件まであの人に伝えた。あの青年が小さい頃、取り違えられてしまったのか、ジプシーにさらわれたのか、養育係に誘拐されたのか、私はよく知らない。しかし、私が知っているのは、十年間というもの、父親があの子を見失っていたということです。十年間さまよっている間にあの青年が何をしていたか、それは誰にもわからない。ところが、こうしたことは、なにひとつ役にたちませんでした。私は少佐に手紙を書いてくれと頼まれた。書類を送ってもらうためにね。そしてこれがその書類というわけです」
「ダルミイー嬢はあなたにどんな顔を向けてますか、歌のお弟子さんをとりあげてしまうあなたに」ボーシャンが訊いた。
「それは私にもよくわからない。ただ、あの人はイタリアヘ行くらしいですね。ダングラール夫人が私にあの人の話をして、イタリアの興業主たちに推薦状を書いてくれと言ってました。私に多少の恩義を感じているヴァルレ座の座長に一言書いて夫人に渡しましたがね。ところで、アルベール、どうしたんだね、ひどく沈んでるじゃないか。ひょっとして、自分でも気づかずに、ダングラール嬢が好きだったんじゃないかな」
「僕にわかるわけがありませんよ」アルベールはさびしそうな微笑を浮かべた。
「とにかく、いつもの君とは違うよ」モンテ・クリストは続けた。「どうしたのかね、ええ?」
「頭痛がするんです」
「それなら、子爵、ぜひすすめたいそういう場合の必ずなおる療法がある。私自身、なにかいらいらするようなときには、いつもそうしてなおしてしまう」
「どういう療法ですか」
「土地を変えるのだ」
「ほんとうですか」
「ほんとうだ。ところで、今私はいらいらしているんでね、土地を変えようと思っている。一緒に来ないかね」
「あなたがいらいらなさってるんですって、伯爵! いったい何に」ボーシャンが言った。
「よく、のんきな顔でそんなことが言えますね。君の家で捜査が行なわれてるときの君の顔が見たいものです」
「捜査! 何の捜査ですか」
「ヴィルフォール氏があの親愛なる殺人犯に対して行なっている捜査ですよ。どこかの監獄を脱獄したならず者かなにからしい」
「ああ、そうでしたね、新聞で読みました。そのカドルッスというのは何者なんですか」ボーシャンが言った。
「それは……どうやらプロヴァンス〔南フランスの地方〕の男らしい。ヴィルフォール氏はこの男のことを、マルセーユにいた頃耳にしたことがあるし、ダングラール氏も会ったことがある。そこで、検事はこの事件に強い関心を抱き、警視総監もきわめて深い興味を持っているようだ。これに対する感謝は人後に落ちるものではないが、このために、パリ市内ならびにパリの周辺で捕まえたならず者を、この二週間というもの、カドルッス殺しの犯人ではないかというので、みんなここへつれて来るのだ。もしこれが三か月も続けば、私の家の中の様子を隅ずみまで知らぬ泥棒や人殺しは、この美しいフランスに一人もいなくなってしまうだろう。だからいっそのこと連中に家をすっかり明け渡して、私はできるだけ遠くへ行ってしまう気になったのだ。子爵、私と一緒に来たまえ、つれて行くよ」
「喜んでおともします」
「じゃ、話はきまったんだね」
「ええ、でもどこへ行くんですか」
「前に言ったよ。空気が澄んでいて、うるさい音も聞こえず、どんなに傲慢な男も己れの卑小さを感じる場所だ。私はこの謙虚な気持ちが好きなのだよ。アウグストゥスのように世界の王者と人には言われているが」
「要するにどこなんですか」
「海だよ、子爵、海だ。ご覧の通り私は船乗りなんでね。子供の頃私は、老オケアノス〔海の神〕の腕に抱かれ、美しいアンフィトリテ〔海の女神。オケアノスの娘〕の胸に抱かれて育った。私はオケアノスの緑のマントと、アンフィトリテの青いドレスで遊んだのだ。私は、人が恋人を愛するように海を愛している。だから長いこと会わずにいると会いたくなるのだ」
「行きましょう、伯爵」
「海へかね」
「ええ」
「申し出を受けてくれるかね」
「お受けします」
「それじゃ、子爵、今夜私の中庭に、旅行用の馬車が来る。家のベッドに寝るように、身を横にできる馬車だ。四頭の馬が引く。ボーシャン君、四人は楽に乗れるから、私たちと一緒に来ませんか。おつれしますよ」
「ありがとうございます。ですが、僕は海から帰って来たばかりですから」
「ほう、君は海へ行ってたのですか」
「ええ、まあそんなところです。ボロメー島〔イタリア北部の大湖マジョーレ湖にある島々〕へ行っていました」
「いいじゃないか、来いよ」アルベールが言った。
「いや、モルセール、僕が断るときはどうしても駄目なときだということをわかってほしい。それに」と彼は声を落として、「僕がパリにいることは大事なことなんだ、たとえ編輯室を毎日見張ってるだけにしてもね」
「ああ、君はほんとうにすばらしい友だ。そうだ、君の言う通りだ。よくよく見張り、警戒しててくれ、あんなことをあばきたてた敵をみつけるよう努力してくれ」
アルベールとボーシャンは別れた。二人の握手には、他人の前では口に出せぬもろもろの思いがこめられていた。
「ボーシャンというのはじつにいい青年だ、そうじゃないかね、アルベール」新聞記者が帰った後でモンテ・クリストが言った。
「ええ、そうなんです、ほんとうに心の温かいやつなんです。だから僕は心の底から彼が好きなんです。ところで、結局二人だけっていうことになりましたけど、二人も三人も僕には大して違いはないように思いますが、どこへ行くんですか」
「もし君さえよければ、ノルマンディーにしよう」
「いいですとも。まったくの田舎へ行けるわけですね。社交界もないし隣人もいない」
「私たちは二人きりだよ。あとは乗り廻す馬と狩のための犬と釣をする小舟だけだ」
「まさに僕の望むものです。母にこのことを話して、あとはあなたのご命令に従います」
「だが、許して下さるだろうか」
「何をですか」
「君がノルマンディーへ行くことを」
「僕がですか。僕にはそんなに自由がないでしょうか」
「君一人でなら、どこへでも君は行ける。それは私もよく承知している。なにしろイタリアくんだりで君に会ったんだからね」
「だとしたら?」
「だがね、モンテ・クリスト伯爵などという男と一緒ではね」
「伯爵、あなたはもの覚えが悪いんですね」
「どうして」
「母がどれほどあなたに好感を持っているか、前にお話ししたじゃありませんか」
「女の心はしょっちゅう変わるもの、とフランソワ一世も言ったよ。女、それは波である、これはシェークスピアの言葉だ。一人は偉大な国王、一人は偉大な詩人で、二人とも女はよく知っているはずの人たちだよ」
「たしかにそうです、全体的に見た女は。でも母はふつうの女とは違います。母はほんとうの女です」
「哀れな外国人には、どうも君の国の言葉の微妙な点がわからないのだが」
「つまりこういうことなんです。母は自分の気持ちを大切にしてめったに人を好きになどなりません。でも、一たん好きになったら、もう永久に変わらないんです」
「ああ、なるほどね」モンテ・クリストは吐息を洩らした。「君はお母さんが私に、まったくの無関心以外のお気持ちを抱いていて下さると思っているのかね」
「いいですか、僕は前にも言いましたが、もう一度言います。あなたはほんとに不思議でほんとにすばらしい人なんです」
「ほう」
「そうなんです。だって、母が、あなたに会って、好奇心などとは僕は言いませんよ、あなたに強い関心を抱いてしまったんですから。僕と母だけのときには、僕たちはあなたのことしか話さないんです」
「で、お母さんは、あのマンフレッドには気をつけろとおっしゃるんだろう?」
「とんでもない、母はこう言うんです。『アルベール、伯爵は気高い心をお持ちの方のように思いますよ、あの方に好かれるようになさい』」
モンテ・クリストは目をそらし、溜息をついた。
「ほんとうかね」
「だから、わかって下さい」アルベールは続けた。「僕の旅行に反対するどころか、心の底から喜んでくれますよ。この旅行は母が毎日僕にすすめていることにかなうことですからね」
「じゃあ帰りたまえ。また今夜会おう。五時にここへ来たまえ。向こうには夜半の十二時か一時に着く」
「えっ! ル・トレポールにですか」
「ル・トレポールかその近くにね」
「四十八里行くのにたった八時間しかかからないんですか」
「それだってかかりすぎるぐらいだよ」
「ほんとうにあなたは、奇蹟みたいなことをやってのける方ですね。汽車を追いこすようになるのはおろか、もっともこれは、とくにフランスではそうむつかしいことではないでしょうが、いつかは、信号より早く着くなんてことになりますよ、きっと」
「ま、そうなる日までは、子爵、向こうまでは七、八時間はかかるのだ。時間に遅れないようにしたまえ」
「大丈夫です。旅行の準備以外にやることはありませんから」
「では、五時に」
「ええ、五時に」
アルベールは出て行った。モンテ・クリストは笑顔で会釈をして見送ると、一瞬もの思わしげな顔になり、深い夢想に沈んでいるようであった。やがて、夢想を払いのけるように額に手をやり、呼鈴の所へ行くと二度それを叩いた。
モンテ・クリストが二度鳴らした呼鈴の音を聞いて、ベルトゥチオが入って来た。
「ベルトゥチオ、ノルマンディーへ行くのは、はじめ考えていたように明日でも明後日でもない。今夜だ。今から五時まであれば、君には十分すぎるね。最初の中継点の馬丁たちにその旨を伝えておくのだ。モルセール氏が同行する。行け!」
騎乗した先ぶれがポントワーズに走り、馬車が六時きっかりに通過する旨を伝えた。ポントワーズの馬丁は、次の中継点に早馬を走らせ、次の中継点にも早馬が飛んだ。こうして六時間後には、街道に配置された各中継点全部に指令が行きわたった。
出発前に伯爵はエデの部屋に行き、自分が旅に出る旨とその行先を告げ、邸内の指図をすべてエデにまかせた。
アルベールは時間通りにやって来た。はじめは陰欝だった旅も、そのスピードが肉体にもたらす効果によって明るいものとなった。アルベールはそれまで、このようなスピードを思い描いたことはなかった。
モンテ・クリストが言った。
「お国の駅馬車は一時間に二里〔約八キロ〕しか進まないし、前の馬車の許可なくしては追越すことを得ずなどという馬鹿々々しい法律があって、病人とか気まぐれな旅人が、敏速かつ健康な旅人をそのうしろに数珠つなぎにしてしまう権利を持つようでは、どこかへ行くなんてことはできないね。私はそんな不便をなくすために、自分専用の御者と自分の馬で旅をするのだ。そうだな、アリ」
こう言って伯爵は、馬車の窓から首を出し、馬を叱咤《しった》するかけ声をかけた。馬はこれにより翼を得た。馬たちはもはや駈けているのではなかった。宙を飛んでいるのであった。馬車は国道を轟音を発して驀進《ばくしん》し、人びとはふり返って燃えさかる流星の通り過ぎるのを見た。アリもまた馬を叱咤し、白い歯を見せて笑い、その力強い手に波うつ手綱を握りしめ、美しいたてがみを風になびかせる馬を疾駆させていた。砂漠の児アリの独壇場であった。その黒い顔、燃えるような目、アラブの雪白のマント、まき起こす砂塵のさ中のアリの姿は、シムーン〔サハラ砂漠の熱風〕の精、暴風の神とも思われた。
「こんな快感は味わったことがありません。スピードがもたらす快感ですね」アルベールは言った。
彼の額にさしていた影も、風を切って進む馬車のその風に吹き払われたかのように残るくまなく消えていた。
「それにしても、いったいどこでこんな馬をみつけたんですか。こういうふうにとくに作り上げたんですか」
「その通りだ。六年前に、足が早いので有名な種馬をハンガリーでみつけてね、値段はベルトゥチオが金を払ったので私はもう忘れたが、それを買った。同じ年に子が三十二頭生まれた。これから、同じ父馬の子をみな見ることになるがね、いずれも黒一色、額の星を除いては斑点一つない。この種馬中の逸品には、パシャの後宮の姫を選ぶような具合に牝馬を厳選したからね」
「それはすごい! 伯爵、その馬たちをどうなさっているんですか」
「ご覧の通り、旅をするのに使っているよ」
「でも、永久に旅をなさるわけじゃないでしょう」
「いらなくなったらベルトゥチオが売る。三万か四万儲かると言ってるよ」
「しかし、あなたからその馬を買うほどの金持の国王はヨーロッパにはいないでしょう」
「それならベルトゥチオは東洋の太守にでも売るだろう。馬の代金を払うのに宝の庫は空になるだろうが、また臣下の足の裏を笞でひっぱたいて金を絞り上げ、庫を一杯にするさ」
「伯爵、今ふと考えたことを言いましょうか」
「言ってみたまえ」
「それはね、ヨーロッパ中で、ベルトゥチオはあなたにつぐ金持ちだということです」
「それは子爵、君の思い違いだね。もし君がベルトゥチオのポケットをひっくり返してみても、十スーの現金も入ってはいないよ」
「そんなわけないでしょう。ベルトゥチオが特殊な存在だとでもおっしゃるんですか。あんまり不可思議なことばかりおっしゃらないで下さい。さもないと、前もって申しておきますが、僕はあなたのことを信じられなくなってしまいます」
「私はいつでも不可思議なことなど言わぬ。数字と理論だけだ。ところで、この両刀論法を聞いてくれたまえ。執事は主人の金をくすねる。だが、なぜそんなことをするのかね」
「それは、執事っていうのはそういうものだからだと思いますよ。盗むために盗むんです」
「いや、そうではない。執事には妻があり子供がいる。自分や家族の欲望を満たすために盗むのだ。そしてとくに、いつ主人を失うかわからぬから、将来のために盗みを働くのだ。ところがベルトゥチオは天涯孤独の身の上だ。あれは私に無断で私の財布の金を使っているが、私という主人を失う恐れはまったく抱いていない」
「それはまたどういうわけですか」
「私にはあれ以上の執事がみつけられないからだよ」
「あなたのは蓋然性についての循環論法ですよ」
「そんなことはない。私は確信している。私にとってよき使用人とは、私が生殺与奪の権を握っている使用人のことだ」
「じゃ、あなたはベルトゥチオの生殺与奪の権を握っておいでなのですか」
「そうだ」
会話を鉄の扉のようにぴしゃりと閉ざしてしまう言葉があるものだが、伯爵の『そうだ』もそれであった。
それから先の旅も、相変わらずのスピードで続けられた。八つの中継点に配置された三十二頭の馬は、四十八里を八時間で走破したのである。
馬車は真夜半に見事な庭園の門前に到着した。門番が立ったまま、開けた鉄門をおさえていた。門番は最後の中継点からの早馬で到着を知らされていたのである。
午前二時半であった。アルベールは自分の部屋に案内された。風呂と夜食が用意されていた。馬車の後部座席に坐って旅の伴をした召使いがアルベールの世話をした。前部座席に坐ってやって来たバチスタンは伯爵の世話をすることになっていた。
アルベールは風呂に入り、夜食をとり、床についた。波のうねりの哀愁を秘めた音が、彼の子守唄であった。朝起きるなり、彼はまっすぐに窓辺に行った。窓を開けてみると、そこは小さなテラスになっていて、目の前に海が、広大無辺な海があった。背後は小さな森に面した美しい庭園である。
かなりの広さの入江に、細い船体、高いマスト、斜桁《しゃこう》にモンテ・クリストの紋章のついた旗をかかげた小さなコルヴェット艦がゆれていた。紺碧の海に金色の山、上部に真紅の十字架を配した紋章であった。これは、キリストの受難により黄金よりも貴重な山になったカルヴァリオの丘と、その神聖な血が聖なるものとした恥ずべきあの十字架とを思い起こさせるモンテ・クリスト〔キリストの山〕の名を暗示すると同時に、この男の謎の過去の闇のうちに秘められている、苦悩と再生との個人的な追億の象徴でもあった。この帆船のまわりには、女王の下知《げち》を待つ忠臣のように、近くの村の漁民たちの小さな帆かけ船が数隻浮かんでいた。
たとえたった二日しか滞在しない場合でも、伯爵が足を止める場所がいつもそうであるように、ここで最高度に快適な暮らしができるような配慮がなされていた。だから、ここでの生活も、到着したその時から心地よいものであった。
アルベールは控えの間に、二丁の銃と狩に必要な道具一式が揃っているのを見た。一階の天井の高い部屋には、辛抱強く暇なために釣が大好きな英国人たちが、保守的なフランスの釣師にはまだ採用させるに至っていない、精巧な釣道具が揃えられていた。
その日一日がこうした遊びで過ぎた。モンテ・クリストは狩にも釣にもすぐれた腕を持っていた。二人は十二羽ほどのキジを庭園で仕止め、ほぼ同数のマスを川で釣り上げた。海に面した四阿《あずまや》で夕食をとり、図書室でお茶が出された。
三日目の夕方、モンテ・クリストにとってはほんの遊びでしかないこうした生活に、すっかりへとへとになってしまったアルベールが窓辺で眠っている間、モンテ・クリストは建築家と、邸内に作ろうとしている温室の図面を引いていたが、そのとき、街道の砂利を蹴散らすひずめの音がアルベールの頭をもたげさせた。彼は窓ごしに自分の召使いの姿を中庭に見て、はっと不吉な予感にうたれた。モンテ・クリストにこれ以上迷惑はかけぬようにと、彼がつれて来なかった召使いなのである。
「フロランタンがここへ!」彼は椅子からはね降りた。
「お母さんが病気なのでは?」
彼はその部屋のドアに駈けよった。
モンテ・クリストはその姿を目で追い、アルベールがまだ息を切らしている召使いに近づくのを見た。召使いはポケットから封印をした小さな包みを取り出した。包みには新聞と一通の手紙が入っていた。
「誰からの手紙だ?」アルベールがせきこんで訊ねた。
「ボーシャン様からです」フロランタンは答えた。
「じゃ、ボーシャンがお前をここによこしたのか」
「はい。私をお呼びになって、この旅に必要なお金を下さり、駅馬をさし向けて下さって、子爵様にお目にかかるまでは止まらぬと私に約束させました。十五時間で走りぬけて参りました」
アルベールは身をおののかせながら手紙を開いた。叫び声をあげると、見る目にも明らかにわなわなとふるえる手でその新聞を掴んだ。
急に目の前が真暗になり、足がなえてしまった。倒れそうになって、主人を支えるべく腕をのばしたフロランタンに身をもたせた。
「可哀想な青年だ」モンテ・クリストはつぶやいたが、自分の発したこの同情の言葉を彼自身聞きとれぬほどの低い声であった。「父の罪は孫子の代までも及ぶさだめなのか」
この間にアルベールは気をとり直し、新聞を読み続けた。そして、汗にぬれた髪を振り乱し、手紙と新聞をくしゃくしゃに丸めると、
「フロランタン、お前の馬はパリまで帰れるか」
「ひどい駅馬で、足を痛めています」
「そいつは困った。で、お前が出て来たときの家の様子はどうだった」
「かなり落ち着いておりました。ですが、ボーシャン様の所から私が戻りますと、奥様は泣いておられて、私にいつ子爵様がお戻りになるかとお訊きになりました。そこで、ボーシャン様のお使いでお迎えにあがるところですと申し上げたのですが、それをお聞きになると、行くなとおっしゃるように手をおのばしになったのです。しかし、ちょっとお考えになって、『そうね、行ってちょうだい、フロランタン、帰って来てもらいましょう』とおっしゃいました」
「ええ、お母さん、帰りますよ。安心して下さい、僕はすぐ帰ります。こんなことをした破廉恥漢に目にもの見せてやる! が、とにかく発たなきゃならない」
彼はモンテ・クリストを残した部屋に戻った。
それはもはや同じ人間とは思えなかった。わずか五分の間にアルベールは痛ましい変貌《へんぼう》をとげていた。ふだんのままの姿で部屋を出て行ったアルベールが、戻って来たときには、声はかすれ、顔には熱っぽい赤みがさし目は青い隈《くま》のできた瞼の下でぎらぎらと輝き、酔った男のように足もとがよろめいていた。
「伯爵、心からのおもてなしありがとうごさいました。もっと長くお言葉に甘えていたかったのですが、パリヘ帰らなければならなくなりました」
「いったい何が起きたのかね」
「たいへんな不幸に見舞われました。でも、このまま行かせて下さい。僕の生命よりも重大な問題なのです。伯爵、どうかなにもお訊きにならずに、馬を一頭貸して下さい」
「私の馬はみなどれでも使っていいよ。だが、馬で行ったのでは疲れてくたくたになってしまう。四輪馬車か二輪馬車か、とにかく馬車で」
「いえ、それでは時間がかかりすぎます。それに、ご心配下さっているその疲れが僕には必要なんです。疲れれば少しは気分が楽になるでしょう」
アルベールは弾丸に当った男のように、四、五歩輪を描いて、ドアの近くの椅子の上に倒れこんだ。
モンテ・クリストは、この二度目の失神に気づかなかった。彼は窓辺に行って、「アリ、モルセールさんに馬を。急げ! お急ぎなのだ!」と叫んだ。
この声がアルベールを正気に戻した。彼は部屋の外へ駈けだし、伯爵が後を追った。
「ありがとうございます!」鞍に飛びついた青年がつぶやいた。「フロランタン、できるだけ早く帰って来い。替え馬を貰うには、なにか符牒《ふちょう》でもあるのか」
「ただ、今お乗りになっている馬をお渡しになればいいんです。すぐ別の馬に鞍を置いてくれます」
アルベールは馬を走らせようとしかけたが、すぐ止めて、
「伯爵、あなたには僕の出発が不思議で、また突飛なことに思えるでしょう。新聞のわずか数行の記事が、一人の男を絶望の淵に沈めてしまい得るものだということは、あなたにはおわかりにならないと思います。が、とにかく」アルベールは新聞を伯爵に投げながらつけ加えた。「これを読んで下さい。ただし、僕が行ってから。恥ずかしさに赤らむ僕の顔を見られるのは厭ですから」
こう言うとアルベールは、伯爵がその新聞を拾っている間に、召使いが長靴につけ終えたばかりの拍車を馬の脇腹にぶちこんだ。自分に拍車を入れる必要があると考える騎手などいないと思っていた馬は、驚いて、まるで弩《おおゆみ》の矢のように走り始めた。
伯爵は限りない同情のこもった眼差しで青年の姿を見送っていた。そして、新聞に目を落とし、つぎのような記事を読んだのは、青年がすっかり見えなくなってからである。
『三週間前アンパルシアル紙上に報ぜられた、ヤニナ太守アリに仕え、ヤニナの城を敵に渡したばかりではなく、その恩義ある主をもトルコ軍に売り渡したフランス人士官は、同紙の報じた通り、当時実際にフェルナンという名前であった。しかし、その後、この士官はその洗礼名に貴族の称号ならびに領地の名を冠した。
彼は今日、モルセール伯爵を名乗り、貴族院の一員である』
ボーシャンがあれほどの好意を見せて闇に葬ったこの恐ろしい秘密が、かくて、まるで武装した亡霊のように、ふたたび姿を現わしたのであった。冷酷にも事情を知った他の新聞が、アルベールがノルマンディーへ出発した翌々日、不幸な青年の気を狂わせんばかりにしたこの数行の記事を載せたのであった。
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八十六 審判
朝八時、アルベールはボーシャンの家に雷のようなすさまじい勢いで飛びこんだ。予め知らされていたので、召使いはアルベールを主人の部屋に案内した。ボーシャンは風呂から上がったところであった。
「それで?」アルベールは言った。
「うん、気の毒に、僕は君を待っていた」
「僕はこうしてやって来た。相手が誰であろうと、あのことを君がしゃべるはずはない。君は誠実でいい奴だから、なんてことは言わないよ。そんなはずはない。第一、僕の所へ使いをよこしてくれたことが、君の友情の証しだ。だから、余計な前置きで時間をつぶすのはよそう。この攻撃がどのへんから来てるのか、君にはなにかわかってるのか」
「それについての僕の考えはあとで簡単に言うよ」
「そうか。だがまずはじめに、この憎むべき暴露記事の次第を詳しく話してくれないか」
そこでボーシャンは恥と苦悩にうちのめされているアルベールに、以下に要約する事情を話したのであった。
その記事が出たのは前々日の朝、アンパルシアルとは別の新聞紙上であった。そして、その新聞が政府与党のものであるだけに事態は一そう深刻であった。その記事が目に飛びこんだとき、ボーシャンは食事をしていた。直ちに彼は馬車を呼びにやり、食事半ばでその新聞社に駈けつけた。弾劾《だんがい》記事を載せた新聞社の支配人とは、その主張する政治思想は正反対であったが、時として、いやしばしばそういうことがあるように、ボーシャンは仲のいい友達だった。
彼が着いたとき、その支配人は自社の新聞を手にして、どうやら彼の筆になるらしい甜菜《てんさい》糖に関する記事にご満悦のていであった。
「ああ、君がその君の社の新聞を手にしているところをみると、僕がここへ来た理由は言わなくてもいいようだね」ボーシャンは言った。
「ひょっとすると、君は砂糖きびの味方なのか」与党紙の支配人が訊ねた。
「いや、そんな問題には僕は門外漢だ。別のことで来たんだ」
「どういうことで」
「モルセールの記事のことだ」
「ああ、そうか。たしかにあれはおもしろいとは思わんか」
「おもしろすぎて、名誉毀損になりかねない。勝ち味のうすい裁判沙汰になるかもしれないぞ」
「そんなことになるもんか。あの記事にはちゃんとした証拠が全部揃ってるんだ。モルセール氏はおとなしくしているだろうと確信してるよ。それにね、国家が与えた名誉にふさわしくない卑劣漢を暴くのは、国家に対する義務じゃないか」
ボーシャンは狼狽《ろうばい》した。
「だがね、誰がそんな詳しい情報を提供したんだ。というのは、うちの新聞がまず口火を切ったんだが、証拠がないためにその後は黙らざるを得なかった。だが、モルセール氏の仮面をはぐのは、君の所よりもうちのほうが余程興味があるんだぜ。彼は貴族院議員でうちは彼とは敵対関係にあるんだからね」
「なあに、簡単なことさ。うちはスキャンダルのあとなど追っかけ廻さなかった。向こうから飛びこんで来たのさ。昨日ヤニナから来た男が、厖大《ぼうだい》な資料を持ちこんだんだ。弾劾を開始するのをうちがためらったもんだから、もしうちが断わるんなら他社の紙面に載せると言うんだよ。ボーシャン、君も特種ってものがどういうものかは知ってるだろう。こいつを見逃す手はない。攻撃は開始された。これは強烈だぜ、ヨーロッパの隅々まで鳴り響くよ」
ボーシャンは、もはや首うなだれるほかに致し方のないことを知り、望みを失って、アルベールに使いを走らせるべくその新聞社を出たのであった。
だが、アルベールヘの手紙に書けなかったこと(これから述べようとすることは使いの者が出発してから後のことだったので)、それは、その日の貴族院では、ふだんはもの静かなこの高い地位の人々の集団の各派に大きな動揺が見られたということである。議員はそれぞれに定刻以前に登院した。そして、一般国民の関心のまととなり、この高貴な集団の中でも最も高名なメンバーの一人に国民の注意をひきつけることになるであろう、この不祥事を語り合っていた。
新聞の記事を低い声で読んだり、意見を述べたり、事実をさらに確定的なものにする思い出話を交わしたりしていたのだ。モルセール伯爵は同僚の議員から好かれていなかった。成り上がり者のすべてがそうであるように、自分の地位を保つためには、極端に尊大な態度を取らざるを得なかったのである。大貴族たちは彼を嘲笑していた。才能ある人々は彼をよせつけなかった。真の栄誉に輝く者たちは本能的に彼を軽蔑していた。伯爵は、いわば贖罪《しょくざい》の犠牲《いけにえ》とならざるを得ない立場に追いこまれていたのである。ひとたび主《しゅ》の指が犠牲をとさし示せば、人々はみな彼への非難の叫びを上げようと待ちかまえていたのだ。
ただ一人、モルセール伯爵だけは知らなかった。弾劾記事の載った新聞を彼はとっていなかった。その朝、彼は手紙を書き、馬の試乗をして過ごしたのである。
だから彼はいつもの時間に、昂然と頭を上げ、誇らしげな目をし、あたりはばからぬ態度で馬車を降り、守衛たちのためらう顔、同僚のあいまいな会釈にも心をとめずに廊下を抜け議場に入った。
モルセールが議場に入ったとき、すでに会議は三十分以上も前に始まっていた。すでに述べたように、伯爵は事態をなにも知らなかったのだから、物腰態度をふだんと変えていたわけではないのに、その物腰態度が全議員の目にはふだんよりもいっそう傲慢なものに映ったのであった。このような場合に立ち現われた彼の姿は、彼の名声を嫉む議員たちには挑戦的に思えたので、人々はみなこれを非礼と受けとった。多くの者はこれを虚勢だと思い、またある者はこれを侮辱的態度と感じた。
議会全体が論戦の火ぶたを切る気持ちに燃えていることは明らかであった。
全員が弾劾記事を載せた新聞を手にしていた。だが、例によって、誰しもが攻撃を加えた責任をかぶることにはためらいを見せていた。ついに、公然とモルセール伯爵の敵であることを宣言していた一人の貴族院議員が演壇に登った。その厳粛な態度は人々が待ちうけていた瞬間がついに来たことを示していた。
恐ろしいほどの静寂が訪れた。人々がそういつもいつもこれほど熱心に耳を傾けることはしなかったこの演説者に対して、このときだけなぜそれほどの深い注意が向けられるのか、モルセールだけがその理由を知らなかった。
伯爵は演説の前置きの部分を平静に聞き流した。演説者はその中で、これから述べることは極めて重大、神聖、かつ貴族院の存立そのものにもかかわる問題であるとして、同僚議員全員の傾聴を求めたのである。
ヤニナ、フェルナン大佐という言葉が発せられたとたんに、モルセール伯爵の顔がすさまじいまでに蒼白となったので、議場はざわめいた。全議員の目が伯爵に集中した。
倫理的な傷というものは、人目にはつかぬという特質があるが、決してふさがることはない。つねに痛み、人がそれにふれれば直ちに血をふき、心の中に巣くったままぱっくり傷口を開けているものなのである。
一瞬のざわめきに乱された静寂が、演説者がふたたび口を開きそうな気配にまたもとに戻ると、弾劾演説に立った弁士は、ためらいの気持ちを表明し、自分のなすべきことのむずかしさを述べた。自分が、いかなる場合にも細心の注意を必要とするかかる個人的な問題を論ずることとなる論戦の口火を切るのは、モルセール氏の名誉、議会の名誉を守らんがためであるというのであった。そして最後に、中傷がこれ以上大きくなるだけの暇をおかずに、これをうち砕き、モルセール氏が恥をそそぎ、世論が長年にわたって同氏に与えて来た地位を回復できるよう、すみやかに調査が行なわれることを要求すると結んだ。
モルセールは、このあまりにも大きな思いもうけぬ悲運にうちのめされ身をわななかせ、ただうつろな目を同僚に向け、二言三言つぶやくのがせいいっぱいであった。このおびえた態度、それは無実の者の驚きとも、罪ある者の恥らいともとれて、若干の同情を集める結果となった。真に心の広い人間は、彼らの敵の不幸が自分たちの憎悪の限界を越えた場合、つねに同情を抱くものなのである。
議長は調査の可否を求めた。起立による採決の結果、調査が行なわれることになった。
伯爵は、弁明に必要な準備にどれほどの日時がかかるかと訊ねられた。
恐るべき打撃を受けはしたが、まだ完全にとどめを刺されたわけではないことを知ると、モルセールには勇気が蘇った。
「議員諸君」彼は答えた。「おそらくは闇の中にかくれたままの見えざる敵により私に加えられたこの攻撃のごときものをしりぞけるには、時間をかけてはならないのである。それは直ちに行なわれるべきであり、私の目を一瞬くらませた電光に対しては、電撃をもって応ぜねばならない。おっしゃるような弁明をではなく、私が同僚諸子と同席するにふさわしい人間であることを証明するため、なぜ私の血を流すことをご要求いただけなかったのか」
この言葉は弾劾された男にとって有利な印象を聞く者に与えた。
「したがって私は、その調査の一刻も早からんことを求めるものである。私は本調査の有効性に必要な書類いっさいを院に提出する」
「何日にしますか」議長が訊ねた。
「私は、今日にも院の要求に応じます」
議長は振鈴を鳴らした。
「今日直ちにこの調査を行なうことにご異議ありませんか」議長が訊ねた。
「異議なし」これが満場一致の答えであった。モルセールによって提出される書類を審査する十二名の委員が指名された。この委員会の第一回目の会合は夜八時、院内において開かれることになった。もし会合を重ねる必要がある場合には、毎日同じ時刻、同じ場所で開かれるはずであった。
こう決まると、モルセールは退出の許可を求めた。そのぬけめのない一すじ縄ではいかぬ性格から、いつかはこうした嵐に襲われることもあろうかと、それに対処するため久しく前から集めておいた書類を、彼はとりに行かねばならなかったのである。
ボーシャンは、以上述べたようなことをアルベールに語った。もっとも、彼の話は、生彩のない生命なきものに対して、なまなましい生きたものの持つ優位を、筆者の記述に対して持っていた。
アルベールは、あるときは希望に、あるときは怒りに、そしてまた時として恥に身をふるわせながら友の言葉に聞きいっていた。彼はボーシャンが前に内緒で教えてくれたおかげで、父に罪があることを知っていたからだ。彼は、実際に罪のある父がどのようにして身の潔白を証明し得るのだろうかと自らに問いかけてみるのだった。
話が、すでに述べた所まで来ると、ボーシャンは言葉を切った。
「それから?」アルベールが訊ねた。
「それから?」ボーシャンが問い返した。
「そうだ」
「アルベール、その後は、恐ろしいことを言わねばならなくなる。君は知りたいのか」
「どうしても知っておかねばならない。ほかの誰の口から聞くよりも、君の口から聞きたいんだ」
「それじゃ話すがね、気をたしかに持つんだぞ、アルベール。今ほど君が勇気を必要とすることはこの先決してないだろうからね」
アルベールは、自分の生命を守ろうとする者が鎧をたしかめ、剣をたわめてみるように、額に手をやって、自分自身の力をたしかめた。
彼は力を感じた。額の熱を力と感じたからだ。
「よし、話してくれ」彼は言った。
「夜になった」ボーシャンは続けた。「パリ中がこの事件に固唾《かたず》をのんでいた。多くの者は、君のお父さんが出席さえすれば、それで弾劾は失敗だと主張していた。また多くの者は姿を見せないだろうと言った。お父さんがブリュッセルに発つのを見たと言う者もいたし、噂されるように伯爵がパスポートを受けとったのはほんとうかと警察に問い合わせた者もいる。
正直に言うが、僕は、僕の友人の若い議員でこの委員会のメンバーの一人に頼んで、なんとか傍聴できる場所に入れてもらえるようにとあらゆる手段を講じた。七時にその議員が僕を迎えに来て、まだ誰も来ないうちに守衛に僕を紹介してくれて、その守衛が芝居の桟敷のような所へ僕を入れてくれた。僕は柱をたてにして、暗闇の中に身をひそめた。これから繰りひろげられようとしている恐ろしい光景を、これで始めから終りまで見聞きできると思った。
八時ちょうど、全委員が到着した。
モルセール氏は八時を打つ最後の音とともに入って来た。手には書類を持っていた。顔つきもかなり落ち着いているようだった。いつもとは違って、態度は質朴で、身なりも入念ではあるが質素なものだった。旧軍人らしく、上着のボタンは上から下まで全部かけてあった。
こうした彼の姿は最良の効果をもたらした。委員会全体が、彼に悪意など持たなかった。そして多くの委員が彼の所へ来て握手をした」
アルベールは、こうした話の一つ一つに、心臓が破れる思いがした。だが、その苦しみのさ中にも、感謝の気持ちがしのびこんで来た。その名誉がこれほど大きく傷つけられようとしている時に、父にそれだけの敬意を示してくれた人たちに、できることなら接吻したいと思った。
「このとき、一人の守衛が入って来て、委員長に一通の手紙を渡した。
『モルセール君、発言を許します』委員長が手紙の封を切りながら言った。
伯爵が弁明を開始した。アルベール、はっきり言うがね、すばらしい雄弁だったし、じつに見事な論述だったよ。伯爵は、ヤニナ太守が最後の瞬間まで自分に全幅の信頼を寄せていたことを証明する書類を提出した。太守の生死をトルコ皇帝とじかに交渉する役を太守は伯爵に命じたのだからね。伯爵は指揮権の象徴である指輪を示した。これはふだんアリ=パシャがその手紙の封印に用いていたもので、それをパシャは、伯爵が帰って来たときに、たとえそれが昼であろうと夜であろうと何時なんどきでも、後宮の中へでも伯爵がパシャに会いに入れるようにと、与えておいたものだった。不幸にして交渉は失敗し、恩人の身を守るために戻ったとき、すでにアリ=パシャは死んでいたというのだ。だが、アリ=パシャは死に際して、最愛の寵姫とその娘を自分に託した。それほど信頼が厚かったと伯爵は言った」
アルベールはこの言葉に身ぶるいした。というのは、ボーシャンの話が進むにつれて、エデのあの物語が青年の脳裏に蘇って来たからだ。美しいギリシアの娘が、あの使者のこと、指輪のこと、そしてどのようにして売られ奴隷の境涯に落ちたかということを彼に語ったのを思い出したのだ。
「で父の話はどういうふうに受けとられた?」不安にかられてアルベールは訊ねた。
「正直言って僕は感動したね。僕と同時に、委員全員が感動させられたよ。
その間に委員長は、さっき渡された手紙になげやりな目を向けていたが、初めの二、三行を読んだだけで、急に注意を呼びさまされた。彼は読み、また読み返した。そして、モルセール氏に目を据えて、
『モルセール伯爵、あなたはヤニナ太守がその妻と娘をあなたに託したとおっしゃいましたね』
『申しました。しかし、その件でも、ほかの場合同様、不幸はなおも私に追討ちをかけました。小生が戻ったとき、すでにヴァジリキとその娘のエデの姿は消えていたのです』
『あなたはその二人をご存じですか』
『私とパシャとの親密さ、ならびに私の忠誠に対してパシャが抱いて下さった信頼のおかげで、私は二十回もその二人に会う機会を得ております』
『その二人がその後どうだったか多少はご存じですか』
『ええ、心の苦しみ、おそらくは困窮の果てに死んだと聞いております。私は金持ちではなかった。私の生命そのものが危殆《きたい》に瀕していた。残念ながら私は二人を探すことができない状態でした』
委員長はかすかに眉をひそめた。
『諸君、諸君はモルセール伯爵の陳述を聞きかつその説明をも逐一《ちくいち》たどられた。伯爵、あなたが今申されたことを裏付ける証人を出すことができますか』
『ああ、悲しいかな、証人はおらんのです。太守の側近の者たち、そしてあの宮廷での私を知っている者は、みな死ぬか四散するかしてしまったのです。同国人の中では私一人、私だけがあのすさまじい戦争で生きながらえたのだと思います。私にはアリ=テベレンの手紙しかない。それらは先程お目にかけた。指輪しかない。太守の意志を証明するものだが、それはここにある。そして最後に、私の提出し得るものとしては最も雄弁な証拠がある。つまりそれは、あの匿名の弾劾以後、誠実なる男としての私の言葉と、純粋無垢な軍人としての生涯に反論すべきいっさいの証拠の欠如ということです』
同感の意を表わすささやきが委員会全体に流れた。このときは、アルベール、もしそのままなにも事件が起きなければ、この件はお父さんの勝ちだったのだ。
もはや採決するだけだったのだが、このとき委員長が口を開いた。
『委員諸君ならびに伯爵、ここで、自ら出頭し、その者の言うところでは極めて重要な証人であるという者を、証人として喚問することにご異議はなかろうと思います。伯爵が申し述べられたことから考えれば、この証人は、疑う余地なく、われわれの同僚の潔白を余すところなく証明するために喚問されるのであります。ここにこの件に関する先程受け取った手紙があるのですが、これを読み上げたほうがよろしいでしょうか。それとも、これは見過ごして、この出来事は不問に付することにいたしましょうか』
モルセール氏は顔色を変え、手にした書類を握りしめ、書類がその指の間で悲鳴を上げた。
委員会の返答は手紙を読み上げることだった。伯爵のほうは、なにかを考えこむ面持ちで、まったく意見を述べようとはしなかった。
だから委員長は次のような手紙を読み上げた。
『委員長殿
私は、エペイロスおよびマケドニアに於ける陸軍中将モルセール伯爵の行動に関する調査委員会に対し、最も確実な情報を提供できるものであります』
委員長はここでちょっと間《ま》を置いた。
モルセール伯爵は顔面蒼白となっていた。委員長は目で委員の意見を求めた。
『続行!』四方から声が飛んだ。
委員長はまた読み始めた。
『私はアリ=パシャの死の際その場におりました。私はその最後を見届けたのです。ヴァジリキとエデがその後どうだったかも知っております。私は切に委員会のご配慮を願い、証人として喚問して下さることを要求致します。この手紙が委員長殿に渡されますときには、私は議場の玄関におります』
『でその証人、いや敵はどんな男ですか』伯爵は訊いたが、その声の中に、ひどい心の動揺を見ることは容易だった。
『すぐにわかります』委員長はこう答えて、『当委員会はこの証人を喚問しますか』
『賛成賛成!』全員が同時に叫んだ。
守衛が呼ばれた。『守衛、誰か玄関で待っておる者がいるかね』委員長が訊ねた。『はい、委員長殿』
『どういう人かね』
『召使いをつれたご婦人の方です』
みな顔を見合わせた。
『そのご婦人を入場させなさい』委員長が言った。
五分後に守衛がまた現われた。皆の目は入口に吸いつけられていた。僕もね、皆と同じ期待と不安を抱いたよ。
守衛の後ろから、全身をすっぽり大きなヴェールに包んだ婦人が進んで来た。そのヴェールごしに感じられる身体の線と、そこから発散する香水の香りから、若く上品な女性であることはわかったが、それだけしかわからない。
委員長がその謎の女性にヴェールをとって下さいと頼み、ヴェールがとられると、その女性がギリシア風の衣装をつけていることがわかった。それに、すごい美人なんだ」
「ああ、あの人だ」アルベールが言った。
「えっ、あの人って?」
「うん、エデだ」
「誰から聞いた?」
「いや、そう思っただけだ。だがボーシャン、続けてくれ。ご覧の通り僕は落ち着いてるし、気もたしかだ。が、そろそろ話も終りに近いはずだ」
「モルセール氏はね、その女性を、恐怖のまじった驚愕の表情で見守っていた。モルセール氏にとっては、その魅力的な唇から出る言葉が生か死かの別れめなのだ。が、ほかの者にとっては、これはあまりにも不思議な、興味|津々《しんしん》たる出来事だったので、モルセール氏が救われるか破滅するかなんてことは、もう二の次の問題になってしまっていた。
委員長がその若い女性に、手で椅子をすすめた。が、彼女はちょっと会釈してみせて、立ったままでいるという。伯爵のほうはまた椅子に腰を落としてしまっていた。脚に力がなくなって身体を支えていられなくなっていることは明らかだった。
『奥さん、あなたは当委員会に書状をおよこしになり、ヤニナの事件について情報を提供するとおっしゃいました。あなたは、当時の一連の事件の目撃者だとのことですが』委員長が言った。
『はい、たしかに目撃者でございました』謎の女性は、なんとも言えぬ愁いを秘めた声で答えた。東洋の女性に特有のあのよく響く声だった。
『お言葉ですが、当時はまだずいぶん小さかったわけですね』
『四歳でした。でも、あの出来事は私にとりましては、この上もなく重大なものでしたから、どんな細かいことでも頭から消えたことはありませんし、事の推移は残るくまなく記憶に残っております』
『いったいあなたにとってどのような重大な意味をあの事件は持っていたのですか。あの悲惨な結末があなたにそれほどまで深い印象を刻みつけたとおっしゃるが、あなたはいったいどういう方なのですか』
『父の生死がかかっていたのでございます。私はエデと申します。ヤニナ太守アリ=パシャとその最愛の妻ヴァジリキの娘です』
慎ましさと誇りとに染められた紅潮した頬の色、燃えるような目の輝き、明かされた秘密の重大さが委員全員に名状しがたい効果をもたらした。
伯爵のほうは、たとえ足もとに雷が落ちたとしても、あれほどまでに茫然とした態度は見せなかっただろう。
『奥さん』敬意をこめて一礼してから委員長がまた続けた。『一つだけ簡単な質問をお許し下さい。これは疑うわけではないのです。そして最後の質問です。あなたが今おっしゃったことの正当性を証明することがおできになりますか』
『できます』こう言ってエデは、いい香りのする小さなサテンの袋をヴェールの下からとり出した。『ここに私の出生証明書がございます。父が認《したた》め、重臣たちが署名しております。出生証明書のほかに、洗礼証明書もございます、父は、母の宗教のもとで私が養育されることに同意いたしましたから。マケドニアとエペイロスの大司教の印が捺《お》されています。それからもう一つ、これが一番大切なものと思いますが、フランス士官によりアルメニアの奴隷商人エル=コビールに対してなされた、私と母の身柄売却の証書です。この士官は、トルコ皇帝との恥ずべき取引きに際して、戦勝の分け前として、恩人の妻と娘を譲り受け、千ブルス、つまりほぼ四十万フランで売ったのです』
モルセール伯爵の頬は、蒼白というより緑色がかった青になった。委員会が沈痛な沈黙でむかえたこの恐ろしい非難の言葉に、伯爵の目は血走った。
エデは相変わらず冷静に、だが他の女が怒ったときよりも、この冷静なエデのほうがずっと威嚇的だったが、アラビア語で認《したた》められた売却証書を委員長に提出した。
提出される書類の中には、アラビア語か現代ギリシア語、あるいはトルコ語で書かれたものもあるだろうと、予め院内に通訳が用意されていた。あの輝かしいエジプト戦争の際に習得して、アラビア語に堪能《たんのう》な議員が、通訳が読み上げるのをその犢皮紙《とくひし》の上でたどった。
『私こと、奴隷商人にしてトルコ皇帝の後宮御用商人たるエル=コビールはヤニナ太守故アリ=テベレンおよびその寵姫ヴァジリキの娘、当年十一歳のエデなるキリスト教徒の奴隷の代価として、皇帝陛下にお渡しすべく、西欧の貴族モンテ・クリスト伯爵より、二千ブルスの価値あるエメラルドを受領したことを認める。エデは、コンスタンチノープルに到着の際死亡したその母とともに、七年前、フェルナン・モンデゴなる太守アリ=テベレンに仕えていたフランス士官により、私に売却されたものである。
上記の売買は、皇帝陛下の命を受け、私が千ブルスの金額にて皇帝陛下のため行なったものである。
皇帝陛下の認可により、回教紀元一二七四年、コンスタンチノープルにて作成。
署名、エル=コビール
本証書に関する一切の疑念なきを期するため、またその偽りなきを証せんがため、本証書には皇帝の玉璽《ぎょくじ》を捺印するものとし、売却人はこの捺印の責を負うものとす』
事実、奴隷商人の署名のわきに、トルコ皇帝の玉璽が押されていた。
この朗読と書類の検分が終ると恐ろしいほどの沈黙が訪れた。伯爵はもはやただ目を注いでいるだけだった。己れの意志に反してエデにはりついたままのその目は、血に燃えているようだった。
『奥さん』委員長が言った。『モンテ・クリスト伯爵を喚問することはできませんか。パリのあなたのお近くにおられることと思いますが』
『私の第二の父であるモンテ・クリスト伯爵は、三日前からノルマンディーへ行っております』
『としますと、誰があなたにこういう行動に出ろとすすめたのですか。当委員会としてはあなたのその行動に感謝しておりますし、あなたのお生まれとご不幸を思えば当然至極の行動とは思いますが』
『私にこんなことをさせましたものは、尊敬の念と苦しみとでございます。私はキリスト教徒ですけれど、神よ許し給え、私はいつでもあの高名な父の仇を討つことを夢みておりました。私がフランスヘ足を踏み入れ、裏切者がパリに住んでいることを知ったとき以来、ずっと私は目を見開き、耳をそばだてていたのです。私は、心の気高い庇護者の家の奥にじっと閉じこもっておりました。けれど、私がそのように暮らしていたのは、自分の思考自分の冥想の中で暮らすことができる闇と静寂とを私が好んだからです。でも、モンテ・クリスト伯爵は、私を真の父親のような配慮で包んで下さり、世間でどのような暮らしがいとなまれているか、私の知らぬことはなに一つないようにして下さいました。ただ、私は、その物音を遠くから聞いていたのです。私は新聞はみな読んでおります。あらゆるアルバムが送られて来ますし、どんな楽譜もみな届けられます。こうして、私自身は巻きこまれずに他の人たちの暮らしを追っているうちに、今朝貴族院でおきたこと、それに今夜のことを知ったのです。そこで私はあの手紙を書きました』
『すると、モンテ・クリスト伯爵は、あなたの行動にいっさいかかわりがないのですね』
『あの方はなにもご存じありません。私がただ一つだけ心配しているのは、このことをお聞きになったら、あの方が私の行動に賛成なさらないのではないかということです。でも』とその若い女性は火と燃える瞳を天に向けて続けたのだ。『とうとう父の仇を討つ機会が与えられた今日という日は、私にとってはすばらしい日でございます』
伯爵はこの間ただの一言も洩らさなかった。同僚の議員たちは伯爵をみつめていた。おそらく、たった一人の婦人の香わしい息吹にうちひしがれたその運命を憐れんでいたのだろう。伯爵の不幸は、徐々に暗い形となってその表情に現われて来た。
『モルセール君』委員長が言った。『あなたはこのご婦人を、ヤニナ太守アリ=テベレンの娘であると認めますか』
『いいえ』伯爵は立ち上がろうと努力しながらこう言った。『これは、私の敵により仕組まれた罠であります』
エデは、誰かが来るのを待っているかのようにドアのほうに目を据えていたが、いきなり振り向くと、伯爵が立っているのを見て、すさまじい叫び声を上げた。
『お前は私に見覚えがないのか。この私は幸いお前に見覚えがある。お前はフェルナン・モンデゴ、お父様の軍隊の教育に当っていたフランス士官です。ヤニナの城を敵に渡したのはお前。お前の恩人の生死をトルコ皇帝と直接交渉するため、その恩人によりコンスタンチノープルに派遣され、すべては許されたとの偽りの勅命を持ち帰ったのはお前なのです! その偽りの勅命によって太守から、火の番人セリムに言うことをきかせる指輪を手に入れたのはお前なのです。お前はセリムを殺した。母と私を奴隷商エル=コビールに売ったのもお前です! 人殺し! 人殺し! お前の額にはまだお前の主人の血の痕が残っている! みなさんご覧になって下さい』
あまりに迫真的な情熱のこもったこの言葉に、全員の目が伯爵の額に向けられた。そして、伯爵自身、まだなま暖かいアリ=パシャの血潮をそこに感じるかのように、額に手をやった。
『では、あなたはモルセール氏が、たしかに士官フェルナン・モンデゴと同一人物だと認定なさるのですね』
『いたしますとも! ああ、お母さま! お母さまはおっしゃいましたわね、〈お前は自由の身の上だったのですよ。お前には、お前の好きなお父さまがいらした。お前は王妃にもなれる身の上だったのです。あの男をよくよくご覧、お前を奴隷にしたのはあの男なのですよ。お父さまの首を槍にさして高くかかげたのはあの男、私たちを売り、私たちを敵の手に渡したのはあの男です。よくあの男の右手を見てごらん、大きな傷があるでしょう。もしあの男の顔を忘れても、奴隷商人エル=コビールから、金貨を一枚一枚受けとったあの手を見れば、あの男だということがわかります〉認定いたしますとも! ああ、さあ今こそ、私に見覚えがないかどうか、言ってみるがいい』
その一語一語が、まるで短剣のように伯爵の頭上に降りそそぎ、辛うじて残っていた力までも奪っていった。伯爵は思わず、あわててその手を胸の中にかくした。実際に傷痕がついていたのだ。そして、暗い絶望につき落とされ、また椅子に崩れるように腰を落とした。
この光景は、強い北風にはぎとられた木の葉が舞い散るような混乱の渦になみいる委員の頭をまきこんでしまった。
『モルセール伯爵』委員長が言った。『気を落としてばかりいてはいけません、答えて下さい。本委員会の裁きは、神の裁きと同じように、万人に対して厳正かつ公正なるものです。あなたに敵と戦う手段を与えずに、みすみすあなたが敵にうちのめされるようなことにはいたしません。新たな調査をお望みになりますか、議員二名をヤニナに派遣いたしましょうか。発言して下さい』
モルセール氏はなにも答えなかった。
すると、全委員がおびえたように顔を見合わせた。みな、精力的で激しい伯爵の気性を知っていた。この人が反撃できないということは、よほどその脱力感が激しいと言わねばならなかった。だが、眠りに似たこの沈黙には必ずや雷にも似た目ざめが続くはずと考えねばならなかった。
『どうなのですか、いかがなさいますか』委員長が訊ねた。
『べつになにも』立ち上がりながら低い声で伯爵が言った。
『では、アリ=テベレンの娘は、まさしく真実を述べたのですね。罪ある者が、その言葉に対してはいかなる場合にも〈否〉とは言えなくなる、まことの証人なのですね。あなたは、弾劾された事実を、実際に行なったのですね』
伯爵はあたりを見廻した。その絶望的な表情は鬼の心をも動かし得たであろうが、審判者たちの心を和らげることはできなかった。伯爵は円天井を見上げたが、すぐそれから目をそらしてしまった。まるで、その円天井が開き、天という名のもう一つの裁きの庭、神という名のもう一人の審判者が輝き出でるのではないかと恐れるかのように。
そして、乱暴な手つきで、彼を息苦しくしていた上着のボタンをむしり取ると、陰惨な顔をした気違いのように、議場から出て行った。しばらくの間、よく反響する円天井の下に伯爵の足音が不気味にこだましていたが、やがて駈足で彼を運び去る馬車の車輪の響きが、そのフィレンツェ様式の建物の柱廊をゆるがした。
『諸君』静寂が戻ったとき委員長が言った。『モルセール伯爵を、叛逆、裏切り、卑劣の行為ありたるものとお認めになりますか』
『異議なし!』調査委員全員が異口同音に答えた。
エデは委員会が終るまで列席していた。彼女は、喜びの色も憐憫の色もなに一つその表情には表わさずに、伯爵に対する判決を聞いていた。
そうして、顔をヴェールで覆うと、威厳をこめて委員たちに会釈してから、ウェルギリウスが女神たちの歩みに見たあの足どりで、議場を出て行った。
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八十七 決闘の申し込み
ボーシャンは続けた。
「そこで僕は、議場内の沈黙と暗闇に乗じて、人に見られずに外へ出た。僕を議場内に入れてくれた衛兵がドアの所で待っていた。いろいろな廊下をいくつも通って、ヴォージラール通りに面した小さな戸口までつれて行ってくれた。僕は傷ついた心と陶酔とを同時に味わいながら、アルベール、こんないい方を許してくれ、君のことを思えば心が痛んだが、あくまでも父の仇を討とうとしていたあの娘の気高さに僕は陶酔していた。そうだ、僕は断言するがね、あの秘密を誰が暴露したにせよ、それはたぶん敵がしたことだろう。ただし、その敵は、神のみ使いにほかならない」
アルベールは頭を両手でかかえていたが、恥ずかしさに赤らみ涙に濡れた顔を上げると、ボーシャンの腕を掴み、
「ボーシャン、僕の人生はもう終りだ。あと残されているのは、君のように、神がこの打撃を僕に加えたなどと言うことではなく、どんな奴が僕に憎悪を抱き続けているのかをつきとめることだ。そして、相手がわかったら、僕がその男を殪《たお》すか、その男が僕を殪すかだ。ところで、もし仮に軽蔑の念が君の友情の息の根をまだとめていなければの話だが、君の友情に期待して、僕に力をかしてくれと頼みたいんだが」
「軽蔑? この不幸が君になんのかかわりがあるんだ。ないぞ! ありがたいことに、僕たちはもう、子孫に父祖の行為の責任をとらせるような不当な偏見の時代には生きていないのだ。アルベール、君の生涯をもう一度ふり返ってみたまえ。なるほど始まったばかりだ。だが、いかなる美しい一日の夜明けも、君の人生の暁ほどに清らかなためしはなかったじゃないか。君はまだ若い、金もある。フランスを離れろよ。この、あわただしい生活を送り好みもめまぐるしく変わる偉大なバビロンの町〔古代文明の中心都市。ここでは近代文明の中心都市パリのこと〕ではどんなことでもすぐ忘れられてしまう。三、四年たったら帰って来たまえ、ロシアのお姫様とでも結婚してね。そうすれば昨日のことなど覚えている奴は一人もいないよ、まして十六年前のことなど」
「ありがとう、ボーシャン、そう言ってくれる君の好意は痛いほど身にしみる。が、そうはいかないんだ。僕はさっき僕の希望を述べた。なんなら希望ではなくて意志と言ってもいい。わかってくれると思うが、僕のようにこの事件の渦中に巻きこまれている男には、君のような見方はできないんだ。君には天上から来たと思えることが、僕にはもっと不純なものから来ているように思える。神の意志は、正直に言って、このこととはまったく無縁に思えるんだよ。これはありがたいことなんだ。なぜなら、これが天上からの因果応報の使者であれば、見ることも手にふれることもできないが、手にふれることができ目に見える相手を見出すことができるのだ。おお、そうとも、僕は断言する、その敵に対して、この一か月の間のいっさいの僕の苦しみの復讐をしてやる。今僕は、もう一度言うが、ボーシャン、僕はどうしても物質的な人間の世界に舞い戻りたい。だから、君が言ってくれたように、君がまだ僕の友達なら、この攻撃をしかけて来た相手を探すのを手伝ってくれ」
「よし、わかった。君がどうしても僕に地上に戻れと言うのなら、僕はそうする。君がどうしても敵を探すというなら、僕も君と一緒に探す。そして、きっとみつけ出してみせる。というのは、僕の名誉も君の名誉とほとんど同じように、その敵を探し出せるか否かにかかっているからだ」
「それじゃ、ボーシャン、わかってくれるね、今すぐ、時をうつさずに調査を始めよう。一分でも遅れれば、それが僕には永遠の長さに思えるんだ。告発者はまだ罰せられていない。だからそいつは、このまま無事に済んでしまうなんて思っていられるわけだ。誓って言うぞ、もしそんなことを考えてるとしたら、とんでもないまちがいだ!」
「まあ、ちょっと聞いてくれないか、アルベール」
「ああ、ボーシャン、君はなにか知ってるらしいね。さあ、君は僕を生き返らせてくれるよ」
「はっきりしたことだとは言わないが、少なくとも闇を照らす一条の光だと思う。この光を辿って行けば、たぶん目的に達することができそうだ」
「早く言え、僕が気がせいてたまらないことはわかってるだろうに」
「それじゃね、僕がヤニナから帰って来たときには、君に言うまいと思っていたことを言うからね」
「言ってくれ」
「こういうことがあったんだよ、アルベール。僕は情報を得るために、当然のことながらヤニナ随一の銀行家を訪ねた。僕が例の件をちょっとしゃべりかけたら、君のお父さんの名前を出さないうちに、相手がこう言うんだ、
『ああ、わかりました。どういうご用でおいでになったか』とね。
『どうしてまた、なぜですか』
『まだ二週間にもなりませんがね、同じことを訊かれたもんですからね』
『誰に』
『パリの銀行家ですよ、私の取引先の』
『名前は?』
『ダングラールさん』」
「あの男が!」アルベールは声を上げた。「たしかにあいつは、ずっと前から気の毒な父を嫉んでたんだ。あいつは、私は庶民的な男だなどと言ってるが、モルセール伯爵が貴族院議員であることにがまんができないんだ。ほら、なんの理由もなしに破談になったね、そうだ、まさにこれだ」
「調べてみろよ、アルベール。だが、今から興奮してはいけない。調べてみろと言ってるんだ。そして、もし事実なら……」
「そうとも、もし事実なら、僕の苦しんだぶんは、必ず仕返しをしてやるぞ!」アルベールは叫んだ。
「言っとくが、アルベール、相手はもう老人だぞ」
「あいつが僕の家の名誉に対して払っただけの敬意はあいつの年齢に対して払ってやるさ。もしあいつが父に恨みがあるのなら、父にまともにぶつかればよかったんだ。ところがそうじゃない、正面から相手になるのがこわかったんだ」
「アルベール、僕は君が悪いと言ってるんじゃない。ただ引き止めているだけだ。アルベール、慎重にやるんだ」
「なあに、心配するな。第一、君にも一緒に行ってもらうよ。厳粛な事実は証人の前で行なわれねばならんものだからね。今日日が落ちぬうちに、もしダングラール氏がやったのなら、ダングラール氏が生きることを止めるか、僕が死ぬかだ。そうだとも、ボーシャン、僕は、僕の名誉に立派な葬式をしてやりたいんだ」
「それじゃ、それほどまでの決心をしているなら、直ちに実行に移すべきだ。ダングラール氏の所へ行くか? よし、行こう」
二人は辻馬車を呼びにやった。銀行家の邸に入った二人は、門の所にアンドレア・カヴァルカンティの馬車と従者がいるのを見た。
「ほう、これは都合がいいぞ」アルベールが沈痛な声で言った。「もしダングラール氏が僕との決闘をしたがらなければ、僕はあいつの婿を殪してやる。あの男は決闘を拒むわけにはいかない、カヴァルカンティともあろう男は」
来訪が告げられると、アルベールの名を聞いて、前日の出来事を知っていた銀行家は、門前払いにしようとした。が、すでに遅かった。アルベールはその召使いの後からついて来ていて、銀行家の召使いへの言いつけを耳にすると、ドアを押し開け、ボーシャンを従えてダングラールの書斎にまで入りこんだ。
「これはしたり、自分の家では会いたい人に会い、会いたくない人には会わぬという自由はもうなくなったんですかな。あまりにも非礼なふるまいではありませんかな」銀行家は怒鳴った。
「いいえ」アルベールは冷たく答えた。「時と場合があります。あなたは今、臆病者でない限り、少なくともある人間に対しては居留守を使えぬ、そういう場合に今のあなたはいるのです」
「では、いったいこの私にどういう用件があるというんです」
「僕は」とモルセールは、暖炉に背をもたせているカヴァルカンティには一顧をも与えず、相手につめよりながら言った。「僕は、人家から離れた場所であなたにお会いすることを要求します。十分間、それ以上とは申しません、十分間誰もあなたを邪魔することのないような場所で。そこで会った二人のうち、どちらか一人だけが葉陰に残ることとなりましょう」
ダングラールはまっ青になった。カヴァルカンティが身体を動かした。アルベールはアンドレアのほうを向いて、
「おお、そうです、もしお望みなら、伯爵、あなたもおいでになる権利があります。あなたはこの家の家族同然の方ですからね。僕はこの種の面会申し込みは、受けて下さる人がいるなら何人に対してでも申し込みます」
カヴァルカンティは茫然とした様子でダングラールの顔を見た。ダングラールは、やっとの思いで立ち上がると二人の青年の間に割って入った。アンドレアに対するアルベールの攻撃が、彼の立場を変えた。そして、アルベールが訪ねて来たのは、最初自分が想像したのとは違う理由からではないかと思った。
「もしあなたが、私があなたよりもこの人のほうに好意を持ったからといって、この人に喧嘩をふっかけに来たのなら、予め申しておきますが、私は事を検事に訴えますぞ」
「あなたは思い違いをしています」アルベールは暗い微笑を浮かべた。「僕は縁談のことなどこれっぽっちも話していませんよ。僕がカヴァルカンティさんに口をきいたのは、われわれの話に介入なさる気配が見えたからです。それに、ええそうです、あなたのおっしゃったのは正しかった、今日の僕は誰にでも喧嘩を売りたい気持ちですからね。が、ご安心下さい、ダングラールさん、優先権はあなたがお持ちです」
「いいですか」ダングラールが怒りと恐怖に青ざめた顔で言った。「もし私が道で狂犬に出会ったら、私はぶち殺してしまう。それでも罪を犯したなどと思うどころか、社会のためになることをしたと考える。ところで、もしあなたが狂犬みたいに、どうしても私に咬みつこうとするのなら、私は容赦なくあなたをぶち殺しますぞ。あなたのお父さんの名誉が汚されたとしても、それが私のせいですかね」
「そうだ、恥知らず! 貴様のせいだ!」アルベールは叫んだ。
ダングラールは一歩後ずさりした。
「私のせいだと、この私の? 気が狂ったんじゃないかね。この私が、なんでギリシアのことなど知っているのか。私があんな国に旅行をしたことがあるか。私があんたのお父さんをそそのかして、ヤニナの城を敵に売り渡させたり、裏切らせたりしたのかね、それに……」
「黙れ!」アルベールが沈鬱な声で言った。「たしかに、あなたが直接噂をまきちらし、この不幸をひき起こしたわけではない。だが、偽善者面をしてかげでその口火を切ったのだ」
「私が!」
「そうだ、あなただ! どこから秘密が洩れた」
「新聞でご存じだと思いますがね、ヤニナからにきまってる」
「誰がヤニナに手紙を出した」
「ヤニナに?」
「そう、父のことを問い合わせる手紙を誰が書いた」
「どこの誰でもヤニナに手紙は書けると思うがね」
「だが書いたのはたった一人だ」
「たった一人?」
「そう、そしてその男は、あなただ」
「たしかに書きましたよ。娘を嫁にやるときには、相手の青年の家族のことをいろいろ調べたって差し支えはなさそうに思いますな。これは権利であるばかりではなく、親としての義務だ」
「あなたは、どういう返事が来るかを十分承知の上で手紙を書いたのだ」
「私が? ああ、断言しますがね」ダングラールの声には自信と安心感とがこめられていた。おそらくこれは、恐怖心から来たものではなく、むしろ心の底で彼がこの不幸な青年に対して抱いた同情から来たものであった。「私は誓いますよ。私はヤニナに手紙を書こうなどとはてんで考えていなかった。アリ=パシャの悲惨な最後のことなど、この私が知ってたはずはないでしょう」
「じゃ、誰かに書けと言われたんですか」
「その通り」
「誰かに言われた?」
「そうです」
「誰ですか、それは……聞かせて下さい……おっしゃって下さい……」
「いいですとも、お安いご用です。私はあなたのお父さんの昔の話をした。お父さんがどうやって財をなしたか、今もってわからぬと言った。するとその人は、お父さんが財をなしたのはどこかと訊くから、『ギリシアです』と答えると、その人が、『それではヤニナに手紙をお書きなさい』と言ったんですよ」
「そうすすめたのは誰なんです」
「モンテ・クリスト伯爵ですよ、あなたが親しくしている」
「モンテ・クリスト伯爵があなたに、ヤニナに手紙を書けと言ったんですか」
「その通り。だから私は手紙を書いた。手紙をご覧になりたいですかな、お見せしますよ」
アルベールとボーシャンは顔を見合わせた。
「ダングラールさん」それまでまったく口を開かなかったボーシャンが言った。「あなたは、今パリにいなくて、弁明できない立場にいる伯爵に責任をかぶせているように思えますがね」
「私は人のせいになどしておらん。私は事実を話しているだけだ。今あなた方の前で言ったことをモンテ・クリスト伯爵の前でもう一度言ってもいいのですぞ」
「それで、伯爵はあなたがどういう返事を受け取ったか知っているんですか」
「あの人にお見せしましたからね」
「あの人は、父の洗礼名がフェルナンで、苗字がモンデゴだということを知ってたんですか」
「ええ、私がずっと前に話しましたからね。それに、私がしたことは、私の立場に立ったら誰でもやることをやったまでだ。いやむしろそれさえしなかったぐらいだ。あの返事が届いた翌日、モンテ・クリストさんにすすめられてお父さんが、正式に娘をくれと言って来た。話にケリをつけたいと思う者なら誰でもがそうするように、私はお断りした。にべもなくお断りしたのは事実だ。だが、なにも事は明かさず、騒ぎたてもせずにだ。まったくのところ、騒ぎたてる必要など私にはない。モルセール氏の名誉、不名誉、そんなものが私になんのかかわりがある。そんなもので、私の収入が増えるわけでも減るわけでもない」
アルベールは額が赤くなるのを感じた。疑う余地はなかった。ダングラールは、卑怯未練にではあるが、全部が全部真実ではないにしても、ある程度の真実を語る者の自信にみちた態度で弁明をしていた。彼にそうさせたのは、もとより良心のしからしむるところではなく、恐怖心からのことではあったが。それに、アルベールの求めていたものは何か。ダングラールとモンテ・クリストのいずれが罪が深いかというようなことではなかった。しかけて来た攻撃の軽重は問わず、とにかく攻撃を加えたことに責任をとる相手であった。決闘の相手だったのだ。ダングラールに決闘などする気のないことは明らかであった。
それに、それまで忘れていたこと、また気づかなかったことが、彼の目に見えて来、記憶に蘇って来た。モンテ・クリストは、アリ=パシャの娘を買ったのだから、なにもかも知っていたのだ。ところで、すべてを知っていながら、彼はダングラールにヤニナに手紙を書けとすすめたのだ。その返事の内容を知ると、エデに紹介してほしいというアルベールの願いを受け入れた。エデの前では、彼は話がアリの死に及ぶのを黙って見ていた。エデにその話をさせまいなどとはしなかった。(ただし、たぶんあのとき現代ギリシア語で彼が言った言葉の中で、モルセールに父のことだと気づかせてはならぬという指示を与えたにちがいない)第一、彼はあのときアルベールに、エデの前では決して父の名を口にせぬようにと言ったではないか。そして最後に、大騒ぎが起きることを知っていたその時期に、アルベールをノルマンディーにつれて行った。疑う余地はない、すべては計算されていたのだ。まごうかたなく、モンテ・クリストは父の敵どもとグルになっているのだ。
アルベールはボーシャンを片隅につれて行って自分の考えを述べた。
「君の考えは正しいな。ダングラール氏はこの事件のうち、表面に出たありのままの事実にかかわっているにすぎない。君が弁明を求めるべきなのはモンテ・クリスト氏だ」
アルベールは向き直って、ダングラールにこう言った。
「おわかりでしょうが、このままお目にかからぬというわけではありません。僕にはまだ、あなたが他人の責任になさっていることが事実かどうか知る必要があります。僕はこの足で、モンテ・クリスト氏に確かめに行きます」
そして、銀行家に一礼すると、アルベールはボーシャンとともに、カヴァルカンティになどとりわけ関心を示す様子もなく、その部屋を出た。
ダングラールは戸口まで二人を送り、戸口の所でアルベールに、自分はモルセール伯爵に個人的な恨みなど抱くいわれはなにも持ち合わせていないと、改めて言うのだった。
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八十八 侮辱
銀行家の邸の門の所で、ボーシャンがアルベールを立ち止まらせた。
「あのね、僕はさっきダングラール氏の所で、君が弁明を求めるべきなのはモンテ・クリスト氏だと言ったね」
「そう、だからこれから行くんじゃないか」
「ちょっと待ってくれ、アルベール。伯爵の所へ行く前に、よく考えてみるんだ」
「何を考えると言うんだ」
「その行為の重大性をだ」
「ダングラール氏の所へ行ったことより重大だと言うのか」
「そうだ。ダングラールは金に生きる男だ。君も知っているように、金に生きる男は、そう簡単に決闘などして財産をフイにしてしまうようなことはしないものだ。ところが伯爵のほうは貴族だ、少なくとも外見はね。この貴族が、じつは剣の名手かもしれぬとは思わないかね」
「僕が恐れているのはただ一つ、あの人が決闘に応じないのではないかということだけだ」
「安心しろよ、必ず応ずる。僕は、あの人がすごい決闘の名手なのではないかとさえ思っているんだ。気をつけろ!」
「ボーシャン」モルセールは晴れやかに笑った。「それこそ僕の望むところだ。僕の身に起こり得る最大の幸せは、父のために死ねるということだ。そうなれば僕たち一家は救われるんだ」
「お母さんはそのために死んでしまうぞ」
「気の毒なお母さん」アルベールは目に手をやった。「そのことはよくわかっている。だが、母が、恥ずかしさのあまり死ぬよりは、このことのために死んだほうがどれだけいいかわからない」
「決心は変わらないか」
「変わらない」
「よし、それじゃ行け。だが、伯爵は帰って来ていると思うか」
「僕より三、四時間遅れて帰って来たはずだ。きっともう帰って来てる」
二人は馬車に乗り、シャン=ゼリゼー大通り三十番地に向かわせた。
ボーシャンは、自分だけが馬車から降りようとしたが、アルベールは、この事件はふつうの事件とは違うから、決闘の作法からはずれたやり方をしてもかまわないはずだと言った。
アルベールの行動は、すべて神聖な動機から出ているものだったので、ボーシャンはなんでも彼の思いのままにさせてやろうとしか考えなかった。だから、ボーシャンはアルベールの意見を入れ、ただ後について行くことにした。
アルベールは門番小屋からひとっ飛びに正面階段に達した。応待に出たのはバチスタンであった。
はたして、伯爵は帰宅したところであった。が、入浴中で誰にも会わぬという。
「入浴の後は?」モルセールは訊ねた。
「夕食をおとりになります」
「食事の後は?」
「一時間お寝《やす》みになります」
「それから」
「それからオペラ座においでになります」
「確かだな」
「確かでございます。八時ちょうどに馬車の用意をお命じになりました」
「結構だ。それだけわかれば文句はない」
それから、ボーシャンのほうに向き直って、
「君になにか用事があるんなら、今のうちにすませてしまってくれ。今夜、誰かと会う約束があったら、それは明日にのばしてくれないか。わかってくれると思うが、今夜僕がオペラ座へ行くについては、君にも来てほしいんだよ。それに、できたらシャトー=ルノーもつれて来てくれ」
ボーシャンは、相手がこう言ってくれたので、八時十五分前に迎えに行くことを約して、アルベールと別れた。
家に帰ったアルベールは、フランツとドブレとモレルに、その夜オペラで会いたい旨を伝えた。
それから彼は、前日の出来事以後、誰にも会わず部屋にこもりきりの母に会いに行った。母は、屈辱の苦しみにうちひしがれて床についていた。
アルベールの姿はメルセデスに予想通りの効果をもたらした。息子の手を握りしめ、わっとばかりに泣き崩れたのである。が、その涙が彼女の気持ちを楽にした。
アルベールは、しばし母の顔のすぐそばにおし黙ったまま立ちつくしていた。彼の青ざめた顔の色、ひそめた眉に、父の仇を討とうとする彼の決意が、次第に鈍って行くのが読みとれた。
「お母さん、モルセール氏に誰か敵がいるのをご存じですか」
メルセデスは身ぶるいした。アルベールが、〈お父さんに〉とは言わなかったことに気づいたのだ。
「アルベール、お父様のような地位におられれば、ご自分ではご存じない敵が多勢いるものです。それに、あなたも知っての通り、正体のわかっている敵は、そう恐ろしい敵ではありません」
「ええ、それは僕も知っています。ですから、僕はお母さんの洞察力に期待するのです。お母さん、お母さんはほんとうにすぐれた方で、なにひとつお母さんの目から逃れることはできません」
「なぜそんなことを言うの」
「だってお母さんは、たとえば、家で催したあの舞踏会の晩、モンテ・クリスト氏が家ではなにも食べないのに気がつかれたじゃありませんか」
メルセデスは、熱にほてる肘をついて、おののきながら身を起こし、
「モンテ・クリスト様! さっき私に訊いたことと、どういう関係があるの?」
「お母さんはご存じですよ。モンテ・クリスト氏は東洋人といってもいい人です。東洋の連中は、心おきなく復讐ができるようにと、敵の家では、いっさい食べもしなければ飲みもしないんです」
「モンテ・クリスト様が私たちの敵だと言うの、アルベール?」メルセデスの顔から血の気が失せて、身のまわりのシーツよりも白くなった。「誰がそんなことを言ったの、どうしてなの? アルベール、頭がおかしくなったんじゃないの。モンテ・クリスト様は、私たちに対しては礼儀以外のものはお示しになりませんでした。あの方はあなたの命を救けて下さって、あの方を紹介したのはあなた自身じゃありませんか。ああ、アルベール、お願い、そんな考えを持っているんだったら、すぐそんな考えは捨ててちょうだい。私があなたにすすめることがあるとすれば、いえ、お願いすることがあるとすれば、それは、あの方と仲よくしてほしいということ」
「お母さん」アルベールは暗い眼差しで言った。「お母さんが僕にあの男を大事にしろと言うのは、お母さんにそれなりの理由がおありだからでしょう」
「私に!」メルセデスは声を上げた。蒼くなったのと同じぐらい早く顔を赤らめ、すぐまた前よりもいっそう蒼い顔になった。
「きっとそうです。で、その理由というのは、あの男は僕たちに害を加えるはずがないから、ということなんじゃないんですか」
メルセデスは身をおののかせながら、じっとさぐるような目を向けていた。
「ずいぶんおかしな言い方をするのね。妙な先入観を持っているような気がしますよ。伯爵様があなたに何をなさったでしょう。三日前にあなたはあの方と一緒にノルマンディーへ行ったじゃないの。三日前には、私は、そしてあなた自身も、あの方は最良の友だと思っていたじゃないの」
皮肉な微笑がアルベールの唇をかすめた。メルセデスはこの微笑を見た。女の、そして母の本能から、彼女はすべてをさとった。だが用心深くまた気丈《きじょう》に、彼女は自分の心の乱れとおののきとをかくした。
アルベールはそれ以上口を開こうとしなかった。しばらくして伯爵夫人が、また話を続けようとした。
「あなたは私の様子を見に来てくれたのね。正直に言って、アルベール、気分がすぐれないのよ。ここにこのままいて、私の相手をしてくれないかしら。一人でいるのはたまらないわ」
「お母さん」青年は言った。「火急の大事な用事がなかったら、僕は仰せの通りにします。そして、それが僕にとってどんなにうれしいことかご存じでしょう」
「ああ、いいのよ、アルベール」メルセデスは吐息とともに答えた。「おいでなさい、お母さんはあなたを親孝行の奴隷にしたくはありません」
アルベールは聞こえないふりをして、母に一礼すると部屋を出て行った。
青年がドアを閉めると、すぐにメルセデスは信用のおける召使いを呼び、その夜アルベールが行く所は、どこまでもアルベールの後をつけ、直ちにそれを報告するように命じた。
それからベルを鳴らして侍女を呼び、ひどく弱っていたにもかかわらず、なにごとが起きても対処できるように、着替えをすませた。
召使いに命じられた仕事は実行のむつかしいことではなかった。アルベールは自室に戻り、きわめて入念に身なりをととのえた。八時十分前にボーシャンが来た。ボーシャンはシャトー=ルノーに会い、シャトー=ルノーは、幕が上がるまでには一階席に行っていると言ったという。
二人はアルベールの馬車に乗り、べつに行先をかくす理由はなにもないので、大声で、
「オペラ座へ」と命じた。
気がせくままに、彼は幕の開く前に到着した。シャトー=ルノーはすでに自分の席に坐っていた。ボーシャンがすべてを話していたので、アルベールはシャトー=ルノーになにも説明する必要がなかった。父の仇を討とうという息子の行動は、きわめて当然のことなので、シャトー=ルノーはアルベールを思いとどまらせようなどとはせず、どのようにでも力になるという言葉を改めて言うにとどめたのだった。
ドブレはまだ来ていなかった。しかしアルベールは、彼がオペラ座の公演に姿を見せぬことはまずないことを知っていた。アルベールは幕が上がるまで、劇場の中をうろついた。廊下なり階段なりでモンテ・クリストに出会えるのではないかと思ったのだ。ベルが鳴り、彼はまた座席に戻って、一階席のシャトー=ルノーとボーシャンの間に腰をおろした。
だが、彼の目は円柱の間の桟敷に釘づけになっていた。第一幕の間中、その扉が開く気配はまったくなかったのである。
ついに、アルベールがこれで百回も時計を見たときに、その桟敷の扉が開いた。第二幕が始まるところであった。黒づくめの服を着たモンテ・クリストが入って来て、観客席を見廻すために手すりによりかかった。モレルがその後に続いて入って来て、目で妹と義弟を探していた。二人が二列目の桟敷にいるのをみつけると、彼らに手を振った。
伯爵は場内を一わたり見廻して、しきりに自分のほうに伯爵の目を引きつけようとしているらしい、蒼白な顔とぎらぎら光る目に気づいた。それがアルベールであることははっきりわかったのだが、この平静さを失った顔つきには、伯爵に、気づいたそぶりを見せてはならぬと教えるものがあったのにちがいない。伯爵は、心の中を見せるような動きはなに一つ示さずに腰をおろし、ケースからオペラグラスをとり出して、別のほうを眺めるのだった。
しかし、アルベールを見ているそぶりは見せずに、伯爵はその姿から目を離さなかった。第二幕終了の幕がおりたとき、彼の、なにものも見逃さぬ確かな目は、青年が二人の友につき添われて、一階席を出る姿を追っていた。
その同じ顔が、真向いの桟敷の窓ガラスの所にまた現われた。伯爵は嵐が近づくのを感じた。自分の桟敷の鍵がまわされる音を聞いたとき、彼は晴れやかな笑顔でモレルと談笑していたが、伯爵は事態を知り、なにごとが起きてもそれに対処するだけの心構えをととのえていた。
扉が開かれた。
その時になって、はじめてモンテ・クリストはふり向いた。そして鉛色の顔をし、わなわなと身をふるわせているアルベールを見た。アルベールの後ろに、ボーシャンとシャトー=ルノーがいた。
「これはこれは!」ふだん、彼の挨拶を単なる社交辞令とは区別する、あの好意に満ちた慇懃《いんぎん》な態度で、伯爵が声を上げた。「わが騎士がついにゴールインというわけですね。ようこそ、モルセール君」
不思議なまでに自分の気持ちを抑制することのできるこの男の顔には、親愛の情のみが示されていた。
このときはじめてモレルは、子爵から手紙を受け取ったことを思い出した。手紙には、なんの説明もなしにオペラ座に来てほしいとだけ書いてあったのだ。モレルは、なにか恐ろしいことが起きる予感がした。
「われわれは、偽善的な社交辞令や、心にもない友情の言葉などを交わしに来たのではありません。伯爵、われわれはあなたに弁明を求めに来たのです」
青年のふるえる声が、食いしばった歯の間から辛うじて外へ出た。
「オペラ座で弁明をお求めになるのですか?」伯爵の声音はあくまでも落ち着きはらい、その眼差しは相手の心の底までも見すかすほどのものであったので、この二つのことから、この男がいかなる場合にも自信に満ちあふれていることが見受けられるのであった。「いかに私がパリの風習にはなれていないにしても、まさかこんな場所で弁明を求められようとは思っていませんでしたよ」
「しかし、居留守を使ったり、やれ入浴だ、食事だ、睡眠だと言って会えない相手の場合には、会える所で会うしかありませんからね」
「私に会うのはそんなにむつかしくありませんよ。現に昨日も、たしかあなたは私の所におられたはずだ」
「昨日は」青年は頭が混乱して来た。「僕は、あなたがどういう人か知らなかったからあなたの所にいたのです」
アルベールはこの言葉を口にする際、近くの桟敷にいる人びと、また廊下を通る人びとにも聞こえるように、声を一段とはり上げた。だから、この口論を聞きつけて、近くの桟敷の者はふり向いたし、廊下を歩いていた者は、ボーシャンとシャト=ルノーの背後に足を止めた。
「それでもあなたは社交界人士ですか」モンテ・クリストは顔色ひとつ変えずに言った。「とても良識ある態度とは言えませんね」
「僕があなたの腹黒さを知り、その復讐を僕がしようとしていることをあなたに理解させることができれば、僕の態度は当然のことになりますね」腹を立てたアルベールが言った。
「私には理解できませんよ」モンテ・クリストが言い返した。「たとえ理解できたにしても、大きな声でわめきすぎる。ここは私の桟敷だ。私だけが他人よりも大きな声を出す権利を持っている。帰りたまえ」
こう言ってモンテ・クリストは、ほれぼれするような断乎たる態度でアルベールに扉をさし示した。
「僕はあなたをここから出してみせる、このあなたの桟敷から!」アルベールは、わなわなとふるえる手で手袋をもみしだきながら言った。それを伯爵は見逃さなかった。
「なるほど」落ちつき払ってモンテ・クリストは答えた。「君は私に喧嘩を売りに来たのですね、私にはそれがよくわかる。ただ、一言だけ忠告しておきますがね、子爵、よく心にとめておくことだ、挑戦する際にやたら騒ぎたてるのは悪い癖だ。騒ぎたてるのは万人に似合うとは限らぬからね、モルセール君」
このモルセールという名に、この口論を聞いていた者の間に、さざ波のようなざわめきが起きた。前日来、モルセールの名はすべての人の口の端にのぼっていたのだ。
アルベールには誰よりもよく、また誰よりも先にこのあてこすりの意味がわかった。彼は手袋を伯爵の顔めがけて投げつけようとした。が、モレルがその手首を抑え、この場面が決闘の申し込み以上のものになるのを恐れたボーシャンとシャトー=ルノーが、後ろから彼をひきとめた。
だが、モンテ・クリストは坐ったまま椅子を傾けて、ただ片手をのばし、アルベールの握りしめた指の間の、じっとり汗ばみくしゃくしゃになった手袋を掴んだ。
「私は、あなたの手袋が投げられたものと見なします。私はそれを、弾丸をくるんでお返ししましょう。さあ、ここから出て行って下さい。さもないと、召使いを呼び、抛り出させますよ」
ぞっとするような声音であった。
アルベールは、酔ったように、また愕然として、目を血走らせたまま、一、二歩後ずさりした。
モレルがこの機を逃さず扉を閉めた。
モンテ・クリストは、またオペラグラスをとり上げ、なにも変わったことは起きなかったかのように、場内を眺めはじめた。
この男は、青銅の心と大理石の顔を持っていたのだ。モレルが身をかがめ、伯爵の耳もとに、
「彼に何をなさったのですか」
「私がかね、少なくとも個人的にはなにもしていない」
「でも、今のあのただならぬ騒ぎには、なにか理由があるはずです」
「モルセール伯爵の事件で、あの青年は頭に血がのぼっているんだよ」
「あなたはあの件になにか、かかわりがあるんですか」
「議会に、彼の父親の裏切り行為を教えたのはエデなのだ」
「たしかにそのことは聞きました。しかし、いつかあなたと一緒にこの桟敷にいるのを見た、あのギリシアの女奴隷が、アリ=パシャの娘とはどうしても思えませんでした」
「しかし、それは事実だ」
「ああ、なんと! それでなにもかもわかりました。さっきのことは予め考えた上での行動です」
「どういうわけかね」
「アルベールが僕に手紙をよこして、今夜オペラ座で会いたいと言って来たんです。決闘申し込みの証人にするためだったんですね」
「たぶんそうだろうね」モンテ・クリストは落ち着き払っていた。
「で彼をどうなさるんですか」
「誰を」
「アルベールです」
「アルベール?」モンテ・クリストが同じ調子で言った。「彼をどうするかと言うのかね、マクシミリヤン。君がここにいて、私が君の手を握っているのと同じぐらい確実に、私は明日午前十時までに彼を殪《たお》す。それが私のすることだ」
今度はモレルがモンテ・クリストの手を両手の中に握りしめた。そして、そのびくとも動かぬ手の冷たさにぞっとした。
「ああ、伯爵! 彼のお父さんは、彼のことをあれほど可愛がっているのです」
「そのようなことは、私に言うな」モンテ・クリストが初めて感じたらしい怒りをこめて声を上げた。「あいつを苦しめてやるのだ!」
モレルはあっけにとられて、モンテ・クリストの手をとり落とした。
「伯爵!」
「マクシミリヤン君」伯爵は相手の言葉をさえぎった。
「デュプレが『おお、マチルド! わが魂の憧れよ』をどんなにすばらしく歌うか、聞きたまえ。
ほら。私はね、ナポリで最初にデュプレの才能を見抜き、最初に拍手を送ったのだ。ブラヴォー!」
モレルは、もうなにを言っても無駄であることをさとった。そこで彼は待った。
アルベールとの口論の終り頃に上がっていた幕が、このときまた降りた。扉を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」モンテ・クリストが応じたが、その声にはかすかな心の動揺も出てはいなかった。
ボーシャンが現われた。
「今晩は、ボーシャン君」モンテ・クリストは、その夜初めて新聞記者に会ったような言い方をした。「まあ、お坐り下さい」
ボーシャンは一礼して中に入り、腰をおろした。
「伯爵、僕は先程、ご覧になったと思いますが、アルベールと一緒に参りました」
「ということは」と、モンテ・クリストは笑いながら、「今のあなたは一緒に食事をしようと思っておいでになったわけですね。あなたがあの人よりは節度を心得ているのをたいへんうれしく思いますよ」
「伯爵、たしかにアルベールは逆上していました。その点彼が悪いことは僕も認めます。ですから、僕は自分だけの判断で、お詫びに来たのです。僕としてはお詫びをしたのですから、紳士であるあなたは、ヤニナの人たちとあなたとの関係をご説明願えば、それをお断わりにはなるまいと思います。そのあとで、あのギリシアの娘について若干つけ加えさせていただきますが」
モンテ・クリストは、唇と目で、相手に沈黙を命ずる表情を作った。
そして笑いながらこうつけ加えた。
「これで、私の希望はいっさい消えてしまったわけだ」
「どういうことですか」
「そうじゃありませんか、あなた方は大そう熱心に私が大へん変わり者であるという評判をたてられた。あなた方によれば、私はララであり、マンフレドでありルスウェン卿だった。それが、私を変わり者と見る時期が過ぎると、あなた方はその人物像を台なしになさる。私をごく平凡な男に仕立てあげようとしているのです。私にほかの連中と同じ、凡俗の徒になれとおっしゃる。この私に説明を求める始末だ。とんでもない、ボーシャン君、ご冗談でしょう」
「しかし」ボーシャンが傲然《ごうぜん》と言った。「時には、誠実さというものが……」
「ボーシャン君」その不思議な男がさえぎった。「モンテ・クリスト伯爵に命令を下す者はモンテ・クリスト伯爵なのだ。だから、そのようなことはいっさい口にしないでもらいたい。私は、私のしたいことをする。そして、信じてほしいが、やりたいことは、私は、つねに、ものの見事にやってのける」
「伯爵、紳士間のことはそのようなことではすみません。名誉に対する保証が必要です」
「私自身が生きた保証だ」動ずる気色もなくモンテ・クリストが答えたが、その目は威嚇の炎に燃えていた。「二人とも、互いに流したいと思っている血潮が血管の中に脈うっている。これこそ互いの保証だ。この答えを子爵に告げたまえ。そして、明日十時までには、私は子爵の血が流れるのを見るであろうと」
「それでは、あとは決闘の取り決めをするだけです」
「私にはどう決まってもいいことだ。そんなつまらぬことで観劇の邪魔をしに来ないでいただきたい。フランスでは決闘は、剣かピストルで行なわれる。植民地ではカービン銃を用いるし、アラビアでは短剣だ。あなたが介添人になるあの人に、侮辱を受けたのは私だが、どうせ変わり者の私のこと、武器の選択はまかせると伝えたまえ。どのように決まろうと、一言の文句も異議もなく承諾するからと。どのように決まろうとです、おわかりですね。たとえ、くじによる決闘でもかまいません。これはふつうは馬鹿々々しいことだが。しかし私は違う。私は必ず勝つと確信している」
「必ず勝つ!」あっけにとられた目で伯爵を見ながら、ボーシャンは繰り返した。
「ええ、必ず」モンテ・クリストは軽く肩をすくめながら言った。「その確信がなければ私はモルセール氏とは戦いませんよ。私は彼を殪す。そうしなければならないのです。必ずそうなります。ただ、今夜拙宅に、武器と時間を一言お知らせ下さい。私は人を待たせるのが嫌いですから」
「武器はピストル、午前八時にヴァンセンヌの森で」ボーシャンは、あわててこう言ったが、相手が、うぬぼれの強い大ぼらふきなのか、それとも化け物なのかわからなかった。
「結構です。これですっかり決まったのだから、あとは、静かに音楽を聞かせて下さい。それから、君の友人のアルベール君に、今夜また来るようなまねはするなとお伝え下さい。あんな悪趣味な粗野なまねは、彼のためにならないとね。帰って眠ることです」
ボーシャンはただ驚いて外へ出た。
「こうなれば」とモンテ・クリストはモレルのほうを向いて言った。「君をあてにしていいね」
「もちろんです。僕はいつでもあなたの意のままです。ただ……」
「何かね」
「僕がほんとうの原因を知ることが必要だと思うんですが」
「ということは、断わるという意味かね」
「とんでもない」
「ほんとうの原因かね? あの青年自身、盲のまま歩いているのだ、真の原因など知らずに。真の理由、それを知っているのは、私と神だけだ。だが、誓って言うが、それをご存じの神はわれわれの味方になって下さるだろう」
「それだけ伺えば十分です。もう一人の介添人は誰ですか」
「このようなことを頼める人は、パリでは君と、君の義弟《おとうと》さんのエマニュエル君しか私にはいない。エマニュエル君は引き受けてくれるだろうか」
「あれなら、僕の場合と同じように、保証しますよ」
「よし。それで私に必要なものは全部揃った。明日、朝七時に私の家に来てくれるね」
「二人で参ります」
「しーっ、幕が上がる。聞こうじゃないか。この歌劇の曲は、いつも、ただの一つも聞き洩らさぬようにしているのだ。じつにすばらしい音楽だよ、この『ウィリアム・テル』というのは」
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八十九 夜
モンテ・クリストはいつものように、デュプレがあの有名な『われに続け』を歌い終えるまで待ち、それからやっと立ち上がって、外へ出た。
出口の所で、モレルは、翌朝七時にエマニュエルとともに伯爵邸へ行くという約束を繰り返して伯爵と別れた。それから伯爵は、相変わらず落ち着いた様子で笑みをたたえたまま馬車に乗った。五分後に彼は自宅に戻った。ただ、入りしなに彼がアリに、
「アリ、象牙の握りのついたピストルを持って来い」
と言ったときの表情を見誤まった者は、伯爵を知らぬ者であったろう。
アリが主人の所へ箱を持って来ると、伯爵は、わずか一塊の鉄と鉛とに自分の生命を託す人間としてはごく当然な入念さでピストルを仔細に点検した。これは、モンテ・クリストが自室で的を射つために作らせた特製のピストルであった。雷管一つで弾丸が発射され、隣室にいてさえ、伯爵が、射撃用語で言う≪腕を落とさぬようにしている≫最中とは気づかぬものであった。
彼は銃を手中にし、的にしている小さな鉄板に狙《ねら》いをさだめようとしていたとき、部屋のドアが開きバチスタンが入って来た。
が、彼が口を開く前に、伯爵は、開いたままのドアの所に、ヴェールをかぶった一人の婦人の姿を認めた。隣室の暗がりの中に立っている。バチスタンの後に、ついて来たのだ。
婦人は伯爵がピストルを手にしているのを見、また机の上に二振りの剣を見た。彼女は部屋の中に駆けこんで来た。
バチスタンは目顔で主人の意向を訊ねた。伯爵の合図で、彼は部屋を出てドアを閉めた。
「どなたですか」伯爵はその婦人に訊ねた。
見知らぬ婦人はあたりを見廻し、ほかに人がいないことを確かめてから、跪《ひざまず》こうとするかのように身をかがめ、手を組み合わせて絶望的な口調でこう言った。
「エドモン、私の子供を殺さないで下さい」
伯爵は一歩後ずさりし、かすかな叫び声を洩らすと手にした銃をとり落とした。
「何という名前を口にされたのですか、モルセール夫人」
「あなたのお名前です」夫人はヴェールをとりながら叫んだ。「たぶん、私だけが忘れなかったあなたのお名前です。エドモン、あなたの所へ参ったのはモルセール夫人ではなくて、メルセデスでございます」
「奥さん、メルセデスは死にましたよ。今では、そういう名前の人を私は知りません」
「メルセデスは生きております。メルセデスは覚えております。メルセデスだけは、あなたにお会いしたとき、すぐあなただとわかりましたもの。いいえ、お姿を見なくても、あなたのお声だけで、エドモン、お声の調子だけでわかりました。あれ以来、メルセデスはあなたの後を一歩一歩つけておりました。あなたから目を放さず、あなたを恐れておりました。メルセデスには、モルセールに加えられた攻撃が、誰の手によるものかなどと、考えてみる必要はありませんでした」
「フェルナンとおっしゃるおつもりなんでしょう」モンテ・クリストが辛辣な皮肉をこめて答えた。「われわれは今、われわれの名を思い出そうとしているんですから、すべての名を思い出そうじゃありませんか」
モンテ・クリストがフェルナンという名前を口にしたとき、それには、メルセデスの全身に恐怖の戦慄を走らせるほどの憎悪がこめられていた。
「その通り、エドモン、私は思い違いはしていなかったじゃありませんの。私はやはり正しかったのですわ、私の子供の命を奪わないで下さい」
「いったい、私がご子息を憎んでいるなどと誰が言ったのです」
「誰も申しません。でも、ああ、母親というものは、裏まで見通す目を持っているものでございます。私はなにもかも見抜きました。私は今夜、息子の後をつけてオペラ座に参りました。一階桟敷に身をひそめて、なにもかも見ていたのです」
「もしすべてをご覧になったのなら、フェルナンの伜が公衆の面前で私を侮辱したのもご覧になったでしょう」モンテ・クリストがぞっとするような静かな口調で言った。
「ああ、お願いでございます」
「あなたは、もし私の友人のモレル君が腕を抑えなければ、フェルナンの伜が私の顔に手袋を投げつけるところだったのも見たはずだ」伯爵が続けた。
「聞いて下さい。あの子もあなただということを見抜いたのです。父親を襲った不幸をもたらしたのがあなただということを」
「奥さんは混同しておられる。あれは不幸ではなくて懲罰だ。モルセール氏を叩きのめしたのは私ではなく、神の思召しが彼を罰し給うたのです」
「ではなぜあなたが神の思召しの代理をなさるんですか」メルセデスは叫んだ。「神がお忘れになっておられるのに、なぜあなたが思い出さねばならないんですか、いったい、エドモン、あなたになんのかかわりがあるのですか、ヤニナやその太守など。アリ=テベレンを裏切ったからといって、フェルナン・モンデゴが、あなたに何をしたというのです」
「ですから、このことはみな、フランス士官とヴァジリキの娘との間のことです。それは私にはなんのかかわりもない。あなたのおっしゃる通りです。私が復讐を誓ったとしても、それはフランス士官に対してでもなければ、モルセール伯爵に対してでもない。漁師フェルナン、カタロニアの娘メルセデスの夫に対してだ」
「ああ、運命が私に犯させた過ちに対して、それはあまりにも恐ろしい復讐です。だって、悪いのは、エドモン、この私なのですもの。もしあなたが誰かに復讐しなければならないとしたら、それは私に対してです。あなたがいなくなり、一人ぼっちにさせられて、それに耐えるだけの力のなくなっていた私に対してなのです」
「だが」モンテ・クリストが叫んだ。「私がいなくなったのはなぜだ。あなたが一人ぼっちになったのはなぜだ」
「あなたが逮捕されたからですわ、エドモン。あなたが牢に入れられたから」
「では、なぜ私は逮捕されたのか、なぜ牢に入れられたのか」
「私は存じておりません」
「そう、あなたはご存じない。少なくともそうであってほしいと私は思う。それでは私が教えよう。私が逮捕され投獄されたのは、ラ・レゼルヴの青葉棚の下で、私があなたを妻にするはずだった日の前日、ダングラールという名の男がこの手紙を書き、漁師フェルナンがこれを投函する役を引き受けたからなのだ」
こう言ってモンテ・クリストは机の所に行き、一つの引出しから一枚の紙をとり出した。紙の色は褪せ、インクの色は錆色に変わったその紙片を、彼はメルセデスの目の下に置いた。
それは、ダングラールの検事への手紙であり、トムスン・アンド・フレンチ商会の代理人になりすましたモンテ・クリストが、ボヴィル氏に二十万フランの金を払い、エドモン・ダンテスに関する書類から抜き出して来たものであった。
メルセデスは、恐怖の念を抱きながら次のような文面を読んだのである。
『国王ならびに教会に忠実なる者として、検事閣下に対し、以下のことをお知らせ申し上げます。ナポリ、ポルト=フェライヨに寄港後、今朝スミルナより帰港したファラオン号の一等航海士エドモン・ダンテスは、ミュラーより簒奪者宛の手紙、および簒奪者よりパリのボナパルト委員会宛の手紙を託されました。
ダンテスを逮捕なされば、その証拠を入手できるでありましょう。その手紙は、彼の身辺、彼の父親の家、もしくはファラオン号上の彼の船室内で発見されるはずであります』
「まあ、なんということを!」メルセデスは汗にぬれた額に手をやった。「で、この手紙は……」
「私はそれを二十万フランで買ったのです。が、決して高くはなかった。なぜなら、これで今日、あなたにも、私がなぜこのような行為をするのかわかっていただけたわけですから」
「この手紙のもたらした結果は」
「それはご承知の通り、私の逮捕でした。ただ、あなたがご存じないのは、その逮捕の期間だ。あなたがご存じないのは、私が十四年間、あなたから一キロしか離れていない所、シャトー・ディフの地下牢に入っていたということだ。そして、その十四年間、毎日毎日、最初の日に立てた復讐の誓いを新たにしていたということだ。しかし、私は知らなかった。あなたが、私を密告したフェルナンの妻になっていようとは。そして父が死んでいようとは、しかも餓死していようとは」
「ああ、神様!」
「だが、これが、十四年間牢にいた挙句、牢から出て知ったことなのだ。これが、死んだ父と生きているメルセデスとにかけて、私にフェルナンヘの復讐を誓わせたものなのだ。私は……私は復讐してみせる」
「あなたは、あのフェルナンがたしかにそれをしたと思っておいでですの」
「私の魂にかけて、そうです。私が言っているように、彼はそれをしたのだ。第一、フランスに帰化しながら英軍に走り、スペインの生まれでありながらスペイン軍と戦い、アリに雇われながら、アリを裏切り、アリを殺したことにくらべれば、こんなことはさほどおぞましいことではない。これらのこととくらべれば、あなたが今読んだ手紙など、いったい何か。恋の手管のだまし討ちにすぎない。その男と結婚した妻はこれを許すべきだ。私もそう思うし、それはわかる。だがしかし、その女性と結婚するはずだった恋人にとっては許すことができぬ。ところで、フランス軍は謀反人に復讐しなかった。スペイン軍は反逆の徒を銃殺にはしなかった。墓に眠るアリは、逆臣を罰することができずにいる。だがこの私は、裏切られ、だまし討ちにあい、やはり墓穴の底に投げこまれた私は、神の恩寵によりその墓穴から出て来た。私は復讐して神の恩にむくいねばならない。神はそのために私をおつかわしになり、こうして今ここに私がいるのだ」
哀れな妻はまた顔を両手の中に埋めた。脚が折れ曲がり、彼女は跪いた。
「許して、エドモン。あなたを今でも愛しているこの私のために、許して下さい」
妻としての品位が、恋する女の、そして母親の激情を抑えた。彼女の額は床にふれんばかりに垂れていた。
伯爵は彼女の所へ駈けより、彼女を起こした。
そのとき、椅子に腰をおろした彼女は、自分の涙を通して、モンテ・クリストの雄々しい顔を見ることができた。そこには、苦悩と憎悪とがまだ威嚇的な表情を刻みこんでいた。
「あの呪われた種族を踏みつぶすなというのか」彼はつぶやいた。「あの男を罰せよとお命じになった神に背けとおっしゃるのか。不可能だ、それは不可能だ!」
「エドモン」哀れな母は、いかなる手だてをも用いてみようとして言うのだった。「私がエドモンとお呼びしているのに、なぜ私のことをメルセデスとは呼んで下さらないんですの」
「メルセデス」モンテ・クリストは繰り返した。「メルセデス! おお、おっしゃる通りだ。この名は今なお口にすれば快い名だ。これほどはっきりと私の唇からこの名が出るのは、長い年月をへて、今が初めてだ。おお、メルセデス、あなたの名を、私は憂いの溜息とともに、苦悩の呻きとともに、絶望の喘ぎとともに口にしたのだ。私はこの名を、寒さに凍え、地下牢のわらの中にうずくまりながら唱えた。酷暑にうちのめされ、牢の敷石の上をころげまわりながら口にしたのだ。メルセデス、私は復讐せねばならない。私は十四年間苦しみ、十四年間涙を流し、呪い続けたのだから。今、私は言う、メルセデス、私は復讐せねばならぬ!」
かつてあれほどまでに愛した女の哀願の前にゆれ動いた伯爵は、自分の憎悪をかきたてるため、過去の苦しみを思い浮かべるのだった。
「復讐なさい、エドモン」哀れな母は叫んだ。「でも、ほんとうに罪ある者に対して、あの人に復讐して下さい。この私に復讐して下さい。でも、あの子には復讐なさらないで!」
「聖書にはっきり書いてある」モンテ・クリストは答えた。「父祖の罪は、三代、四代後の子孫にまでも及ぶ、と。神がこの言葉をその予言者に口述したとすれば、どうして私が神以上に広い心を持ち得よう」
「神様は、時と永遠とをお持ちだからですわ、この二つのものは、人間には手の届かぬものです」
モンテ・クリストは獣の唸るのにも似た吐息を洩らし、両手いっぱいに髪をかきむしった。
「エドモン」伯爵に手をさしのべながらメルセデスが続けた。「私は、あなたと知り合ってからというもの、あなたのお名前を讃美し、あなたの追憶を大切にして参りました。エドモン、私の心の鏡にたえず映っているこの高貴で清らかな面影を、曇らせるようなまねはしないで下さい。あなたが生きているという望みを抱ける間、私がどれほどあなたのために神様にお祈りしたか、あなたにわかっていただけたら! いえ、あなたが死んでしまったものと、そうです、ああ、あなたが死んでしまったものと思ってからも。私は、あなたのなきがらはどこかの暗い塔の奥に埋もれているものと思っていました。獄吏たちが獄死した囚人を放りこむというあの奈落の底に、あなたのなきがらは落ちて行ったのだと思っておりました。私は泣きました。祈ることと涙を流すこと以外に、この私には、エドモン、あなたのためになにがしてあげられたでしょう。お聞きになって下さい。十年の間、私は毎晩同じ夢を見ました。あなたは脱獄をはかり、別の囚人にとってかわり、その経帷子《きょうかたびら》の中にもぐりこんで、獄吏たちがシャトー・ディフの断崖からその生きた死骸を投げ落とし、岩に身体を砕かれたとき発したあなたの叫び声で、はじめて墓掘人足たち、これがあなたの死刑執行人になったわけですけど、はじめてあなたが死人とすりかわっていたことがわかったという話を聞いたのです。それでね、エドモン、私が命を助けてと哀願しているあの子の首にかけて誓いますけれど、十年の間、私は毎晩、岩礁の上でなにか得体の知れない妙な形をしたものをゆすっている男たちの夢を見たのです。毎晩、私は恐ろしい絶叫を聞き、全身がふるえ冷たくなって目が覚めるのです。私だって、エドモン、ああ、信じて下さい、いかにも私は罪深いけれど、私だってほんとうに苦しんだのです」
「あなたは、自分のいない間に父親に死なれたことがあるか」モンテ・クリストは両手を髪の中につっこんだ。「自分が愛していた女性が、自分が奈落の底で喘いでいるというのに、仇に手をさしのべるのを見たことがあるか……」
「ありません」メルセデスは相手の言葉をさえぎった。「でも、私は、私が愛していた人が、私の子供の殺人者になろうとしている姿を見ました」
あまりにも悲痛な苦しみとあまりにも絶望的な声音とともにメルセデスの口から出たこの言葉に、鳴咽の声が伯爵の喉を引き裂いた。
獅子《しし》は手なずけられ、復讐者は敗れたのである。
「どうしろと言うのですか。ご子息の命を助けろと言うのですか。よろしい、ご子息は生き永らえるでしょう」
メルセデスが上げた叫び声がモンテ・クリストの瞼に二粒の涙を宿させた。が、その二粒の涙はたちまちにして消えた。おそらく、神が天使を遣わしてその涙を掬《きく》させ給うたのであろう。主なる神の目には、グザラテやオフルの最良の真珠とは比較にならぬほど尊いものに思えるその涙を。
「ああ!」メルセデスは伯爵の手をとり、その手を唇に近づけながら叫んだ。「ああ、ありがとう、エドモン、ありがとう。あなたはやっぱり私がいつも夢に描いていた通りのあなたでした、私が愛し続けていた通りのあなたでした。今こそそれを言うことができます」
「哀れなエドモンは、あなたにそう長くは愛されることができぬのですから、なおのことそうおっしゃって下さい。死者は墓穴に戻りましょう、亡霊はまた闇の中に帰るのです」
「何をおっしゃるの、エドモン?」
「あなたがそれを命ずるのだから、死なねばならぬと言っているのです」
「死ぬですって! それはどういう意味ですの。誰が死ねなんて言いましたの、どうして死ぬなどという気持ちにおなりですの」
「公然と、全観客の前で、あなたやあなたのご子息の友人たちの前で侮辱され、私が許したことを勝利と同じように勝ち誇るであろう一人の青年に挑戦されたこの私が一瞬でも生きていたいと願うなどとは、いかにあなたでも想像はできますまい。メルセデス、あなたの次に私が最も愛したもの、それは私自身だ。つまり、私の誇りだ。私を他人よりもすぐれた人間にしてくれたこの力だ。この力こそ、私の生命だった。あなたは、たった一言で、その力を打ち砕いてしまった。私は死なねばならない」
「でも、その決闘は行なわれません、エドモン。だって、あなたはお許しになったんですもの」
「決闘は行われる」モンテ・クリストが厳粛な口調で言った。「ただ、大地が吸うはずだったあなたのご子息の血のかわりに、この私の血が流れることになるだけだ」
メルセデスは大きな叫び声を上げ、モンテ・クリストに駈けよろうとした。が、急にその足を止めると、
「エドモン、私たちの頭上には神様がおいでになります、あなたが生きてらしたんですもの、そして、こうしてふたたびお会いできたんですもの。私は心の底から神様を信じております。神様がお力をかして下さるまでは、私はあなたのお言葉にすがります。あの子は死なずにすむとおっしゃいましたのね、そうでしたわね」
「ええ、その通りです、奥さん」モンテ・クリストは、自分がなした壮烈な犠牲的行為を、メルセデスが、それ以上叫び声もあげず、驚きもせずにただ受け入れたことに驚いていた。
メルセデスは伯爵に手をさしのべた。
「エドモン」語りかける相手をみつめる彼女の目は涙にぬれていた。「あなたはほんとうに立派な方、ほんとうに偉大なことをして下さいました。希望などみな砕かれてばかりいながらあなたに身も心も捧げ続けていた哀れな女に憐れみの心を抱いて下さったのは、なんと崇高なことでしょう。ああ、私は年のせいよりも、苦しみのためにすっかり年をとってしまいました。私はもう、笑顔や眼差しで、昔あれほど長い間みつめていて下さったあのメルセデスを、私のエドモンに思い出させることはできません。エドモン、信じて下さい、さっき申しましたように、私も、私もひどく苦しんだのです。繰り返して申しますけど、ただ一つの喜びも見出せず、ただ一つの希望も持てずに人生を送るというのは悲惨なことです。でも、これは、この地上ではなに事にも終りはないということの証拠ですわ。そうです、なに事にも終りはありません、私の心にまだ残されているものでそれを私は感じるのです。ああ、もう一度申します、エドモン、あなたが今して下さったように、許すということは、立派で、偉大で、崇高なことですわ」
「メルセデス、あなたはそう言うが、もしあなたが、私の払う犠牲の真の大きさを知ったなら、あなたは何と言うだろう。至高のものなる主《しゅ》が、天地をお創りになり、渾沌《こんとん》の中に肥沃な世界をおひらきになった後に、われわれ人間の罪が、いつかは一人の天使に涙を流させるにちがいないと、その天使の嘆きをあわれんで三分の一の所で創造の手を止めてしまわれた場合のことを考えてほしい。下ごしらえはすべて終り、形もととのい、ものみなすべて生命を与えられようとし、さてその作品を賞《め》でようとした瞬間に、神が太陽の火を消し、世界をまた永遠の闇の中に蹴こんでしまわれた場合のことを考えてほしい。そうすれば、少しはあなたにもわかってもらえるだろう。いや、それでもあなたには、今生命を失うことによって私が失うものは想像もできない」
メルセデスは、驚きと賞讃と感謝とが同時に表わされている目で伯爵をみつめた。
モンテ・クリストは、燃えるような両手で額を支えていた。そうせねば、あまりの想念の重さに額を支えてはいられぬかのようであった。
「エドモン。もう私には、申し上げることは一つしかございません」
伯爵は苦しい微笑を浮かべた。
「エドモン」メルセデスは続けた。「私の額は色褪せ、目の輝きは失せ、美しさも消え、顔かたちはもう昔のメルセデスではありませんけれど、心は昔のままの心だということが、やがておわかりになるでしょう……さようなら、エドモン。もう私には、神様にお願いすることはありません……昔ながらに気高く偉大なあなたに、またお会いできたんですもの。さようなら、エドモン、さようなら、そして、ありがとう!」
伯爵は答えなかった。
メルセデスは部屋のドアを開けて、復讐が挫折したことにより伯爵がひたされていた深く辛い夢想からさめぬうちに姿を消した。
モルセール夫人をつれ去る馬車が、シャン=ゼリゼーの石畳の上にわだちの音をひびかせ、モンテ・クリスト伯爵が顔を上げたとき、アンヴァリッドの大時計が一時を告げた。
「馬鹿者! 復讐を誓ったあの日、なぜ心臓をもぎ取っておかなかったのだ!」伯爵はつぶやいた。
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九十 決闘
メルセデスが帰った後は、モンテ・クリストの邸は、すべてがふたたび暗い闇に閉ざされた。彼の周囲でも、彼の体内でも、彼の思考は停止した。あれほど精力的だった彼の頭脳が、極端な疲労の後に肉体が眠るように、眠りに落ちてしまったのである。
「何ということだ!」ランプもろうそくもむなしく燃え尽きて行き、控えの間では召使いたちがじりじりしながら待っている間、彼はこうつぶやいた。「何ということだ! あれほど時間をかけて用意し、あれほどの苦労と細心の注意を払ってうち建てた建造物が、ただの一撃、ただ一言、ただ一吹きで崩れ去ってしまったとは! 自分でもなにがしかのものと思い、あれほど誇りにしていたこの自分、シャトー・ディフの地下牢ではあれほどちっぽけな存在でしかなかったが、これほど大きな存在にすることのできたこの自分が、明日はわずか一握りの塵芥《ちりあくた》と化するのか! ああ、私が惜しむのは肉体の死ではない。この命の根源の破壊は、人がみな指向し、不幸な者すべてが希求する安息ではないか。あれほど長い間、私が求め続け、あのファリヤが私の牢に現われたとき、私が苦しい飢餓の道を辿ってその前に進みつつあった、あの肉体の静寂ではないか。私にとって死とは何か。静寂の中へのさらなる一歩、沈黙の中へのさらなる二歩なのだ。違う、私が惜しむのは、だから、生命ではない。あれほどの時間をかけて準備し、あれほどの苦労をしてうちたてた計画が廃墟と化することだ。神のご意志は、この計画を嘉《よみ》し給うとばかり思っていたが、じつはご意志にそぐわぬことであったのか。神は、計画の成就をお望みではなかったのだ。
私がかつぎ上げ、目的地まで運んで行けると思っていた、この地球ほどにも重い重荷は、私の願いの問題であって力の問題ではなかった、私の意志の問題であって、能力の問題ではなかった。それを、道いまだ半ばに達せぬうちにおろしてしまわねばならないのだ。絶望の十四年と、希望の十年の歳月が、天命を受けた者としてくれたこの私が、また運命論者に戻ってしまう。
それもこれも、すべては、私が息絶えたと思っていた私の心が、じつはただ眠っていただけだったからだ。私の心が目を覚まし、動悸を打ち始めたからなのだ。一人の女の声で、胸の奥底にかきたてられたこの動悸の痛みに抗しきれなかったためなのだ!
それにしても」と、伯爵は、メルセデスがあれほど容易に受け入れた恐ろしい明日の光景を思いめぐらしながら続けるのだった。「それにしても、あれほど気高い心を持ったあの女《ひと》が、利己心から私を殺して平気なはずはない。力と生命力にあふれたこの私を。あの女《ひと》が、そこまで母性愛、いや子ゆえの闇にふみ迷うはずはない。美徳もあまりに度が過ぎれば罪となろう。違う、あの女《ひと》は、なにか悲壮な場面を思い描いているのだ。敵対する二本の剣の間に身を投ずる気なのだ。ここでは崇高な行為であっても、決闘場においては滑稽なことだ」
自尊心が伯爵の額を染めた。
「滑稽だ」彼は繰り返した。「その滑稽さは、私の上にはねかえって来る。この私が滑稽なざまをさらす! ああ、それくらいなら、死んだほうがどれほどましか!」
こうして、自分がメルセデスにその息子の命を助けると約束したために、自ら招いた己が明日の悲運に、早くも気を昂ぶらせた伯爵は、ついにこう呟くに至ったのである。
「馬鹿な。馬鹿な、馬鹿な! あの青年のピストルの前に、生命のない標的として立つなどという慈善行為をするとは! 私の死を、あの青年は、自殺だなどとは絶対に思わぬ。だが、私の名誉を残すためには……(神よ、これは虚栄ではありますまい。正当な誇り、ただそれだけです)私の名誉を残すためには、相手を殪すためにすでに上げられたこの腕を止《とど》めることに同意したのは、私の意志、まったく自由な私自身の意志によるものであることを、世人に知らせねばならない。他人に対しては、あれほど強力であったこの腕を、私自身が射落とすのだということを、どうしても知らせねばならぬ、必ず知らせてみせる」
こう言って、彼はペンをとり、机の秘密の引出しから一枚の紙をとり出した。そして、パリに着いた時以来|認《したた》められていた彼の遺書にほかならないその紙の下に、いわば遺書補足書を加え、どんな明盲《あきめくら》にも彼の死がどういうものであるかはっきりわかるようにした。
「神よ、私がこれを書いたのは」彼は天を見上げて言った。「私の名誉のためと同時にあなたの名誉のためでもあるのです。この十年間、おお神よ、私はあなたの復讐の御《み》使いをもって任じてきました。あのモルセール以外の悪党ども、ダングラールのごとき、ヴィルフォールのごとき輩《やから》が、いえ、あのモルセール自身も、なにか時のはずみで彼らの敵が始末されてしまったなどと考えてはならぬのです。その逆に、すでに彼らに懲罰を加える裁断を下されていた神のご意志が変更になったのは、私の意志のみによるものであることを、彼らは知らねばなりません。この世で加えられなかった懲罰はあの世で彼らを待ちうけているのであり、彼らは現世を永劫の来世と引替えたにすぎぬのだということを知らねばなりません」
彼が、苦悩のため目覚めている人間の見る悪夢ともいうべき、こうした暗い思いのまにまにただよっている間に、日の光が窓ガラスを白ませ、彼が今、神の摂理の無上の正しさを書き綴った彼の手もとの青い紙片を、ほの白く照らし始めた。
朝の五時であった。
と、不意にかすかなもの音が彼の耳にとどいた。モンテ・クリストは、おし殺した吐息のようなものを聞いたように思った。彼は頭《こうべ》をめぐらしあたりを見まわしたが、誰の姿も見えなかった。ただ、もの音がかなりはっきりとくり返されたので、疑いは確信に変わった。
そこで、伯爵は立ち上がり、そっとサロンのドアを開けた。そして、両腕をたれ、その蒼白い美しい顔をのけぞらせたエデの姿を見た。伯爵が部屋を出ようとすれば、いやでも彼女の姿が目に入るように、ドアをふさぐ形で肘掛椅子に腰をおろしていたのだが、長時間の不眠に疲れはて、若い者には抗しがたい敵である睡魔に襲われたのであった。
ドアが開く音も、エデを眠りから目覚めさせはしなかった。モンテ・クリストはその姿に、慈愛と哀惜のあふれる視線を注いだ。
『あの女《ひと》は、自分に息子がいることを思い出した。それなのにこの私は、娘がいることを忘れていた』
こうつぶやくと、彼は悲しげに頭を振り、
『可哀そうなエデ、この娘は私の顔が見たかったのだ。話がしたかったのだ。何事かを恐れたか、いや見抜いたのだ……おお、この娘《こ》に別れを告げずに行ってしまうことは私にはできぬ。この娘《こ》を誰かに託さねば、私は死ぬわけにはいかぬ』
彼はまたそっともとの場所に戻り、遺書の下にさらに書き加えた。
『余は、アルジェリア騎兵大尉にして、余がかつての主人、マルセーユの船主ピエール・モレルの子息、マクシミリヤン・モレルに二千万フランを遺贈す。その一部は、マクシミリヤンの妹ジュリーならびに義弟エマニュエルに、彼がこの二人の幸福を損なうと判断せざる場合は、彼の手により与えられるものとす。上記の二千万フランは、ベルトゥチオがその秘密を知るモンテ・クリストの余が洞窟に埋蔵されてあり。
マクシリヤンの心に宿る他の女性なくして、ヤニナ太守アリの息女エデを娶《めと》らんと欲せば、余が意志とは余は言わじ、余が願いを満たすものなり。エデは、余が父の愛情もて育て、余に対し、娘としての愛情を抱きおりし娘なり。
本遺書は、すでにエデを余が財産の残りすべての相続人と定めあり。領地ならびに、英国、オーストリア、オランダよりの年収、各地の館《やかた》、邸宅等の不動産にして、上記二千万フランならびに、使用人たちへの各種遺贈分を差し引いたる後も、その額六千万フランに及ぶべし』
彼がこの最後の行を書き終えたとき、背後で上げられた叫び声が、彼の手からペンをとり落とさせた。
「エデじゃないか、お前、これを読んだのか」
事実、娘は、瞼にさす日の光に目を覚まし、立ち上がって伯爵に近づいたのだった。じゅうたんに吸いこまれて、その軽い足音が聞こえなかったのだ。
「伯爵様」彼女は両手を合わせた。「どうして、こんな時間にそのようなものをお書きになっておられるのですか。なぜ、私に全財産をお譲り下さるのですか、私から離れて行っておしまいになりますの?」
「私は旅に出るのだよ」モンテ・クリストの声には、無限の悲哀と慈愛がこめられていた。「もし、私に万一のことがあったら……」
伯爵は口をつぐんだ。
「そしたら?……」娘の声には、伯爵がそれまでこの娘の口からは聞いたことのない、いっさいごまかしを許さぬ響きがあり、彼は身ぶるいした。
「もし万一のことがあった場合にも、私は、わが娘が幸せであってほしいのだよ」
エデはさびしげに微笑しつつ首を振った。
「死ぬということをお考えですのね」
「それは有益な考えだと賢者も言っているよ」
「それなら、もしおなくなりになった場合には、誰かほかの方がたに財産をお遺《のこ》しになって下さい。もし伯爵様がおなくなりになったら……、私はもうなにもいらなくなりますもの」
言うなり、娘はその紙片を掴み、四つに裂いてサロンの真中に抛り投げた。奴隷の身としてはやれるはずのないこの思いきった行為に力尽きて、彼女は床の上に倒れた。今回は、眠ったのではく、気を失ったのだ。
モンテ・クリストは少女の上にかがみこみ、両腕に抱き上げた。そして、その蒼ざめた美しい肌、閉ざされた美しい眼、うち棄てられたように、知覚を失ったその身体を見ているうちに、初めて彼の脳裡に、娘は自分に、父としてではない愛情を抱いているのではないかという考えが浮かんだ。
「ああ!」深い落胆とともに彼はつぶやいた。「だとすれば、私はまだ幸せになれたはずだったのだ」
それから彼は、気を失ったままのエデを、彼女の部屋に運び、侍女たちの手に委ねた。そうして、書斎に戻ると、今度は、急いで後ろ手にドアを閉ざし、破棄された遺書を新たに書き写した。
写し終えたとき、中庭に入って来る馬車の音が聞こえた。モンテ・クリストは窓に近寄り、マクシミリヤンとエマニュエルが馬車から降りるのを見た。
「よし、時間だったな」
彼は遺書に念入りに封印をした。
やがて、彼はサロンに足音を聞き、自分でドアを開けに行った。モレルがドアの所に姿を見せた。
彼は、二十分ほど早く来たのであった。
「早く来すぎたかもしれませんが、正直なところ、僕は一睡もできなかったんです。家中がみなそうでした。しっかり自分を取り戻すためには、あなたにお会いして、勇気に満ちた確信のほどを見せていただく必要があったんです」
モンテ・クリストは、この愛情のあかしに抗することができなかった。彼は青年に手をさしのべるのではなく、両腕を大きく広げた。
「モレル」彼は感動した声で言った。「今日は私にとってはすばらしい日だ。君のような男から愛されていることをしみじみと感じた日なんだからね。お早よう、エマニュエル君。マクシミリヤン、じゃ、一緒に来てくれるんだね」
「当り前ですよ!」若い大尉が言った。「信じてなかったんですか」
「いや、それでも、もし私に落度があるとしたら……」
「いいですか、僕は昨夜、決闘の申し込みが行なわれていた間中、ずっとあなたの顔を見ていました。一晩中、あなたの自信に満ちた態度を思い続けていたんです。そして、正義はあなたの味方だ、さもなければ人間の顔なんて一つも信用できなくなる、と思ったんです」
「しかし、アルベール君は君の友達だし」
「ほんのちょっと知ってるだけですよ」
「私に会った日に、初めて彼に会ったのかね」
「ああ、そうでした。いかがです、あなたにそう言われなければ、思い出すこともできませんでした」
「ありがとう、モレル」
こう言って、伯爵は呼鈴を一度鳴らした。
「ほら」直ちに現われたアリに言った。「これを公証人の所へ届けさせろ。モレル、これは私の遺書だ。私が死んだら、内容を調べに行くがいい」
「何ですって!」モレルは叫んだ。「あなたが死ぬ!」
「あらゆる場合を予想せねばなるまい? それはそうと、昨日私と別れてから何をした」
「トルトニ〔当時パリにあった有名なカフェ〕へ行きました。予想通り、ボーシャンとシャトー=ルノーに会いました。正直に言いますが、探していたんです」
「どうしてかね、すべては決まっているのに」
「聞いて下さい、伯爵、事は重大かつ避けられません」
「そうは思わなかったのか」
「いいえ、侮辱は公然と行なわれました。すでにそれを口にせぬ者はいません」
「それで?」
「それで、僕は武器が変えられないかと思ったんです、ピストルではなくて剣に。ピストルは盲目ですから」
「うまくいったかね」かすかな希望の色を見せてモンテ・クリストがせきこむように訊いた。
「駄目でした。あなたが剣の名手だということを向こうは知ってるんですから」
「馬鹿な! 誰がそんなことをしゃべったのかな」
「あなたに負けた剣術の教師たちです」
「では、君は失敗したんだね」
「はっきり断わられました」
「モレル、君は私がピストルを討つところを一度も見たことがなかったね」
「一度もありません」
「それじゃ、まだ時間があるから、見たまえ」
モンテ・クリストは、メルセデスが入って来たときに手にしていたピストルを取り上げた。そして、鉄板にクラブのエースを貼《は》り、四発で、そのクラブの四つの枝を全部消滅させてしまった。
一発ごとにモレルは蒼ざめた。
彼は、モンテ・クリストがこの妙技を示した弾丸を調べてみた。鹿弾丸《しかだま》ほどの大きさもなかった。
「これはすごい。エマニュエル、ちょっと見てみろよ」
それから、モンテ・クリストのほうを向いて、
「お願いです、アルベールを殺さないで下さい。あいつにはお母さんがいるんです」
「なるほどね、私にはいない」
この言葉は、モレルをふるえ上がらせるような口調で言われた。
「伯爵、侮辱されたのはあなたです」
「たしかにね、それがどうかしたかね」
「つまり、あなたが先に討つんです」
「私が先に?」
「ああ、これは、僕がそう決めたんです、いや、むしろそうさせたんです。こっちはいろいろと譲歩したんですから、向こうがそのぐらいのことをするのは当然です」
「距離は何歩かね」
「二十歩」
ぞっとするような笑みが伯爵の唇をかすめた。
「モレル、今見たことを忘れちゃいけないよ」
「ですから、あなたの同情にすがる以外に、僕にはアルベールを救う道はありません」
「私が同情する?」
「と言って悪ければ、寛大なお心にです。あなたと同じように、僕もあなたの射撃の腕は信じます。ですから、他人に言えば滑稽でしょうけれど、あなたになら言えます」
「どんなことを」
「腕を射抜いて下さい、傷を負わせて下さい。でも、殺さないで下さい」
「モレル、もう一つ聞いてほしいことがある。モルセール君を殺さないでほしいなどと言ってもらう必要は私にはないのだよ。予め言っておくが、モルセール君は死にはしない。だから、二人の友人と無事家に帰れる。私のほうは……」
「あなたのほうは?」
「まったく話は別だ。私はかつがれて戻ることになる」
「ええっ!」マクシミリヤンはわれを忘れて叫んだ。
「予め言っておくように、モルセール君が私を殪すのだよ」
モレルは、もうなにもわけがわからなくなって伯爵の顔を見た。
「いったい、昨夜から今までに、何があったんですか」
「フィリッピの戦い〔アントニウスがブルトゥスを破った〕の前夜に、ブルトゥスの身に起きたと同じことだ。私は亡霊を見た」
「で、その亡霊が?」
「その亡霊はね、モレル、私が長生きしすぎたと言ったのだよ」
マクシミリヤンとエマニュエルは顔を見合わせた。モンテ・クリストは時計をとり出して、
「行こう。七時五分だ。決闘は八時ちょうどということになっている」
馬車はすっかり用意をととのえて待っていた。モンテ・クリストは、二人の介添人とともにその馬車に乗りこんだ。
廊下を通るとき、モンテ・クリストは一つのドアの前で足を止め、中の様子に耳を傾けたのであった。マクシミリヤンとエマニュエルは、遠慮してそのままなん歩か先に歩いて行ったのだが、むせび泣く声に答える溜息を聞いたような気がした。
時計が八時を打ったとき、三人は定めの場所に着いた。
「着きましたよ」馬車の窓から首を出してモレルが言った。「われわれのほうが先ですね」
「お言葉ですが」と、言うに言われぬ恐怖心を抱きながら、主人の後について来たバチスタンが言った。「あちらの木陰に馬車が見えるように思いますが」
「ほんとだ」エマニュエルが言った。「青年が二人いる。誰かを待っているようだ」
モンテ・クリストは、ひらりと馬車から飛び降り、エマニュエルに、それからマクシミリヤンに手を貸して、二人を馬車から降ろした。
マクシミリヤンは、伯爵の手をそのまま両手で握りしめた。「よかった。この手こそ、その人の生命が、善良な動機の中に生きている人の手で、僕が見るのが好きな手です」
モンテ・クリストはモレルを、わきへではなく、義弟の一、二歩後ろへ引きよせて、こう訊ねるのだった。
「マクシミリヤン、君には心に思う女の人がいるか」モレルは驚いてモンテ・クリストを見た。
「打ち明け話をしろと言うんじゃないよ。ただ訊いているだけだ。ハイかイイエで答えてくれればいいのだ」
「伯爵、僕はある娘を愛しています」
「うんと愛しているのかね」
「自分の命以上に」
「そうか、また一つ私の望みが消えたな」こう言ってから、吐息を洩らし、
「エデも可哀そうな娘だ」彼はつぶやいた。
「まったくのところ」モレルが叫んだ。「あなたという人をよく知らなかったら、僕はあなたのことを、実際よりもずっと勇気がない人だと思いますよ!」
「それは、私が今別れようとし、その身の哀れを嘆いているある人のことを考えているからだ。何を言うのだ、モレル。それほど勇気を失ってしまうのが兵士のすることだろうか。私が惜しむのは私の命だろうか。二十年間、生死の間をさ迷って来た私にとって、生きようと死のうと、それが何だというのか。それに、安心したまえ、これが弱さと言えるなら、この弱さを見せるのは君に対してだけだよ。この世というものがいわば一つのサロンで、そこを出る際には、礼儀正しく後を濁さずに、つまり、ちゃんと挨拶して賭けの借りを払ってから出るべきだということは、私もわきまえている」
「よかった、よくぞおっしゃって下さいました。ところで、ピストルはお持ちになりましたか」
「私がか? どうしてかね、向こうの方々が持って来てくれたと思うよ」
「訊いて来ます」
「うむ。ただし、余計な交渉は無用だぞ、わかったね」
「はい、ご安心下さい」
モレルはボーシャンとシャトー=ルノーのほうに進んで行った。この二人も、マクシミリヤンの動きを見て、五、六歩彼のほうに歩み寄った。
三人の青年は、愛想よくとは言えぬまでも、礼儀正しく挨拶を交わした。
「失礼ですが、モルセール氏の姿をお見かけしませんが」
「今朝、ここで落ち合うからと言ってよこしたんです」シャトー=ルノーが答えた。
「はあ」モレルが言った。
ボーシャンが自分の時計を見た。
「八時五分です。まだ約束を違えたというほどの時間はたっていませんよ、モレルさん」
「いえ、そういうつもりで言ったのではありません」
「それに」とシャトー=ルノーがさえぎった。「馬車が来ます」
事実、皆がいる辻に達する並木通りを、一台の馬車が疾駆して来た。
「たぶん、ピストルをご用意下さったと思います。モンテ・クリスト氏は、自分のものを使う権利を放棄すると言っています」
「伯爵がそのようなこまやかな配慮をなさると思ったので、ピストルを持って来ました。このようなこともあろうかと一週間か十日前に私が買ったものです。まったくの新品で、まだ誰も使っていません。お調べになりますか」ボーシャンが言った。
「いや」モレルは一礼して言った。「あなたが、モルセール氏もそのピストルを使ったことがないとおっしゃるなら、そのお言葉だけで十分とはお考えになりませんか」
「馬車で来たのは、モルセールじゃないよ。驚いたなあ、フランツとドブレだよ」シャトー=ルノーが言った。
事実、その二人が近寄って来た。
「君たちがここへ来るとは!」シャト=ルノーが、それぞれと握手を交わしながら言った。「偶然だなあ」
「いやね、今朝、アルベールが決闘場に来てくれと言って来たんだ」ドブレが言った。
ボーシャンとシャトー=ルノーは意外な面持ちで顔を見合わせた。
「わかるような気がしますよ」モレルが言った。
「ほう」
「昨日の午後、私はモルセール氏から、オペラ座へ来てほしいという手紙を受け取りました」
「僕もだ」ドブレが言った。
「僕も」フランツが言った。
「われわれもだよ」シャトー=ルノーとボーシャンが言った。
「あの人は、決闘の申し込みの際に、あなた方に立ち合ってほしかったのです」モレルが言った。「決闘にも立ち合ってほしいんですよ」
「そうだ」青年たちが言った。「その通りだ、マクシリヤン。どう考えてもあなたの考えている通りですよ」
「しかし、それにしても、アルベールは遅いなあ」シャトー=ルノーがつぶやいた。「もう十分も遅刻だ」
「あ、来た」ボーシャンが言った。「馬で来たぞ。ほら、召使いをつれて、全速力で走って来る」
「ピストルで決闘するというのに、馬に乗って来るとは、なんて馬鹿なことをするんだ!」シャトー=ルノーが言った。「あれほど言っといたのに!」
「それに、見ろよ、ネクタイを締めて、前あきの服に白いシャツを着てるぜ」ボーシャンが言う。「あんなナリをするんなら、なんだって胃袋の上に的を書かなかったんだ。そのほうが、ずっと簡単だし、早くけりがつくじゃないか」
その間にアルベールは、五人の青年が作る輪から十歩ほどの所に着き、馬から飛び降りると、手綱を召使いの腕に投げ渡した。
アルベールが近づいて来た。
顔は蒼ざめ目は赤く腫《は》れていた。彼が一晩中一睡もしていないことは明らかであった。
「僕の頼みを聞き入れて、来てくれてありがとう。君たちの示してくれたこの友情に、僕以上の感謝の気持ちは誰も抱けないよ」
モレルは、アルベールが近づいて来たとき、十歩ほど退って、皆からは離れていた。
「モレルさん」アルベールは言った。「あなたにも感謝しているんです。ですからこちらへおいで下さい。あなたも邪魔ではないんです」
「モルセールさん、あなたはたぶん、私がモンテ・クリスト氏の介添人だということをご存じないんでしょう」
「はっきりそうとは知りませんでしたが、そうじゃないかな、とは思ってました。よかった、立派な人が一人でも余計にこの場にいてくれれば、それだけ僕はうれしいんです」
「モレルさん」シャトー=ルノーが言った。「モンテ・クリスト伯爵に、モルセール氏が到着した旨、ならびに当方は準備がいっさいととのった旨をお伝え下さって結構です」
モレルは、使命を果たすべく歩きだそうとした。
と同時に、ボーシャンが馬車からピストルのケースを取り出そうとした。
「ちょっと待ってほしい」アルベールが言った。「僕はモンテ・クリスト伯爵に申し上げたいことがある」
「二人だけでですか」モレルが訊ねた。
「いや、皆の前でです」
アルベールの介添人たちは、あっけにとられて顔を見合わせた。フランツとドブレは小声でなにか言い交わしていた。モレルは、この思いがけない出来事がむしろうれしく、エマニュエルと歩道をぶらついていた伯爵を呼びに行った。
「私に何の用があるのかね」モンテ・クリストが訊ねた。
「わかりません、が、お話ししたいんだそうです」
「ああ、また新たな侮辱を繰り返して、神を試すようなまねをせねばいいが!」
「そういうつもりではないように思います」モレルは言った。
伯爵は、マクシミリヤンとエマニュエルにつき添われて前に進んだ。その静かな澄みきった顔は、四人の青年を従えてやはり近づいて来るアルベールの色を失った顔とは、奇妙な対照をなしていた。
互いに三歩へだたった所で、アルベールと伯爵は足を止めた。
「諸君、もっとそばへ来てくれないか」アルベールが言った。「僕がこれから伯爵に申し上げることは、一言も聞き洩らしてほしくないんだ。これから僕が申し上げることが、どんなに奇妙なものに思えても、訊ねる者には誰にでも君たちの口からそのまま伝えてほしいからだ」
「伺いましょう」伯爵が言った。
「伯爵」アルベールの声は、はじめはふるえていたが、次第にしっかりした口調になった。「僕は、モルセール氏のエペイロスにおける行動をあなたが暴露したことを非難し続けてきました。モルセール伯爵がたとえいかなる罪を犯そうとも、それを罰する権利はあなたにはないと思っていたからです。しかし今日は、その権利があなたにあることを知っています。僕を急ぎあなたにお詫びする気にさせたのは、フェルナン・モンデゴのアリ=パシャに対する裏切り行為ではなく、漁師フェルナンのあなたに対する裏切り行為です。その裏切りの結果生じた、前代未聞の不幸の数々です。ですから、僕はこう申します、高らかにこう宣言いたします、そうです、伯爵、あなたが僕の父に復讐なさったのは当然であった、と。そして、子としての僕は、あなたがそれ以上のことをなさらなかったことを感謝いたします」
この思いもよらぬ場面に居合わせた者のど真中に雷が落ちたとしても、このアルベールの宣言ほどに彼らを驚かせはしなかったであろう。
モンテ・クリストのほうは、その目は限りない感謝をこめて、次第に天に向けられていった。ローマの山賊にかこまれていたときのアルベールの勇気を十分に知っていた伯爵は、その血気にはやる性格が角をためられ、どうしてこう急に謙虚なものになったのかと、目をみはる思いであった。だから彼は、そこにメルセデスの力を見たのであった。そして、なぜあの気高い心が、自分の申し出た犠牲に、どうせ無駄とわかっている抗《あらが》いを示さなかったのかということも、今はじめて理解するのであった。
「今申し上げたお詫びでお許しいただけるものなら、握手をさせていただけないでしょうか、どうやらあなたがお持ちになっているらしい、絶対に過失を犯さないという、類い稀な美徳の次に立派な美徳は、僕の考えによれば、自分の犯した過失を率直に告白することができるということです。が、この告白は僕だけに必要なものです。僕は男の規律にのっとって行動しましたが、あなたは神の規律にのっとって行動なさったのですから。一人の天使だけが、われわれ二人のうちのいずれかを死から救うことができました。一人の天使が天から舞い降りて来たのです。二人を友とするためではないにしても、ああ、運命の悲しさ、それは不可能なことですが、少なくとも二人を互いに尊敬し合う男とするために」
モンテ・クリストは目をうるませ、胸をあえがせながら、口を半ば開きかけたまま、片手をアルベールにさしのべた。アルベールはその手を極み、恐懼《きょうく》に似た気持ちを抱いて握り締めた。
「諸君、モンテ・クリスト氏は、僕の詫びを入れて下さった。僕は伯爵に対して、軽率に行動を起こしてしまった。軽率さは悪い助言者だ。僕の行動はまちがっていた。今、僕の過失はつぐなわれた。僕は自分の良心の命ずるところを行なったのだから、世間が僕を臆病者とは思わないだろうと思う。だが、いずれにしても、もし人が僕の意のあるところを誤解するなら」アルベールは昂然と顔を上げ、友人と敵とに挑戦するかのように続けた。「僕は世人の誤解を解く努力をするつもりだ」
「いったい昨夜、何があったんだろう」ボーシャンがシャトー=ルノーに問いかけた。「どうも、われわれはつまらぬ役を演じているようだね」
「まったくだ。アルベールが今やったことは、すごくみじめなことか、さもなきゃ、すごく立派なことだ」男爵が言った。
「いったいぜんたい、こりゃどういうことなんだ」ドブレがフランツに訊ねた。「なんだって、モンテ・クリスト伯爵はモルセール氏の名誉を傷つけたというのに、それが伜の目から見れば当然なんだと! もし僕の家族に、十回ヤニナの事件があったら、僕は十回決闘するぞ」
モンテ・クリストは、面を伏せ、腕をだらりと下げたまま、二十四年間の追憶の重みに耐えかねていた。彼は、アルベールのこともボーシャンのこともシャトー=ルノーのことも、その場に居合わせた誰のことも念頭になかった。彼は、息子の命を奪わないでほしいと言いに来た、あの勇気ある婦人のことを考えていたのだ。彼は彼女に自分の生命を与えると言った。その生命を、彼女は、あの青年から子としての感情を永久に奪ってしまうかもしれぬ、恐ろしい一家の秘密を打ち明けることによって、救ったのである。
「やはり神の思召しだ」彼はつぶやいた。「ああ、今日、初めて、私は自分が真に神の御《み》使いであると確信できる!」
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九十一 母と子
モンテ・クリスト伯爵は、憂愁と威厳とに満ちあふれた微笑をたたえて、五人の青年に別れの会釈をした。そして、マクシミリヤンとエマニュエルとともに馬車に乗った。
アルベール、ボーシャン、シャトー=ルノーの三人だけが決闘の場に残った。
アルベールは、臆する色は見せずに、自分の今の行為を彼の介添人たちがどう思うかと訊ねるような眼差しを二人に向けた。
「まったくのところ、アルベール」と、彼のほうが感受性が強かったのか、あるいは感情をいつわる気持ちが薄かったのか、ボーシャンが先に口を開いた。「おめでとうを言わせてくれ。この不快な事件の、思いもかけぬ結末だったよ」
アルベールは黙ったまま思いに沈んでいた。シャトー=ルノーは、なにも言わずにただ長靴をしなやかなステッキで叩いていた。
「そろそろ行かないか」彼は、この気づまりな沈黙の後にこう言った。
「いつでも行くよ」ボーシャンが答えた。「だが、モルセール氏に祝辞を述べるひまだけくれないか。彼は今日、まことに騎士道精神にのっとった、まことに類い稀な度量の広さの証しを示したんだから!」
「そうだ、そうだ」シャトー=ルノーも言った。
「あれほど見事に己れを制することができるというのは、ほんとうに立派なことだよ」
「まったくだ。僕なんかにはとてもできない」シャトー=ルノーが意味ありげに冷たく言った。
「ねえ、君たち」アルベールがさえぎった。「君たちは、モンテ・クリスト伯爵と僕との間に、きわめて重大なことが行なわれたということが、よくわかっていないようだ」
「わかってる、わかってるとも」即座にボーシャンが言った。「だがね、パリの野次馬連中には、とても君のヒロイズムは理解できないぜ。だから、遅かれ早かれ、君の健康を損ねてしまうほど、そして一生かかっても足りないほど、君は連中に説明ばかりしなきゃならなくなる。ナポリかハーグか、さもなきゃ、ペテルスブルグヘ行くんだな。パリの連中みたいな頭のいかれた連中より、名誉ということについてはずっとわかりのいい連中が住んでいる、静かな町だよ。あっちへ行ったら、ピストルの的をいくらでもぶち抜け、剣術の第四の構えでも、第三の構えでも気のすむまでやれ。すっかり世間から忘れられてしまって、なん年後かにひっそりフランスに帰って来るか、さもなきゃ、泰然としていられるように、学問的習練にかけては人から尊敬されるようになるんだね。そうじゃないか、シャトー=ルノー」
「まったく同意見だ」貴族が言った。「決着のつかない決闘ほど、あとあとまで尾をひいて、なん回も決闘を繰り返させるものはないからね」
「二人とも、ありがとう」冷たい微笑を浮かべながらアルベールは答えた。「忠告通りにするよ。君たちに言われたからじゃなくて、僕がフランスを去るつもりでいたからだ。それに、介添人になってくれた好意にもお礼を言う。君たちのその好意は僕の心に深く刻まれている。というのは、今言われたような言葉を聞いた僕は、その好意しか思い出せないからね」
シャトー=ルノーとボーシャンは顔を見合わせた。二人とも同じ印象を受けたのだ。謝意を述べるアルベールの声音には、強い覚悟のほどがにじみ出ていて、これ以上会話が続けば、やりきれない空気になりそうであった。
「さようなら、アルベール」いきなりボーシャンが、無造作に手をさしのべたが、アルベールのほうは、まだ放心状態からさめてはいないようであった。
その証拠に、彼はさし出された手を握ろうとはしなかった。
「さようなら」シャトー=ルノーも左手にステッキを持ったまま、右手を振った。
アルベールの唇がかすかに動いた。
「さようなら」
彼の目は、さらにはっきりとその心の中を示していた。抑えた怒り、誇り高い侮蔑、高潔な憤怒の色をたたえていた。
二人の介添人が馬車に乗っても、彼はなおしばらくは、その憂わしげな不動の姿勢を崩さなかったが、召使いが手綱を結びつけておいた小さな木から、いきなり馬を離すと、ひらりと鞍にまたがり、パリヘの道を疾駆し始めた。十五分後には、彼はエルデ通りの邸に戻っていた。
馬から降りるとき、彼は、伯爵の寝室のカーテンのかげに、蒼ざめた父の顔が見えたように思った。アルベールは吐息を洩らしながら顔をそむけ、自分の小さな別棟に入った。
中に入った彼は、子供の頃から、彼の人生を甘美な、そして幸せなものにしてくれた、さまざまな贅沢《ぜいたく》な品に最後の視線を投げた。彼は、もう一度絵をみつめた。人物は彼に微笑みかけるようであったし、風景はひときわ色鮮やかに見えた。
それから彼は、母の肖像画をカシワ材の枠からはずし、画布を巻いた。あとには、それを縁どっていた金色の額だけが、黒いうつろな穴を残した。
ついで、彼はトルコの美しい剣、英国の小銃、日本の陶器、宝石をちりばめたカップ、フシェールとかバリとかの署名のあるブロンズの彫刻を整理した。引出しを調べ、その一つ一つに鍵をさしこんだ。身につけていた金を、書きもの机の引出しに抛りこみ、カップや宝石箱や、飾棚にあったさまざまな宝石の類いをその中に入れた後、引出しは開け放しておいた。そして、これらのものすべての正確な目録を作り、机の上にいっぱいに積んであった本や書類を片づけると、その机の上の一番目につく所に、その目録を置いた。
この仕事を始めたとき、アルベールが一人にしておいてくれと命じておいたにもかかわらず、召使いが入って来た。
「何の用だ」彼は、怒ったというよりもさびしそうな声で訊ねた。
「申し訳ありません。邪魔するな、とのことでございましたが、モルセール伯爵様に呼ばれましたので」
「それで?」
「子爵様のお言いつけをお伺いしてから伯爵様の所へ参りたいと存じまして」
「どうしてだ」
「伯爵様は、決闘場へお伴したことをおそらくご存じと思いましたので」
「そうだろうな」
「で、私にご用とおっしゃるからには、事の次第をお訊ねになると存じます。何とお答えしましょうか」
「ありのままを言え」
「では、決闘は行なわれなかったと申し上げてよろしゅうございますね」
「僕がモンテ・クリスト伯爵にお詫びをしたと言って来い」
召使いは頭を下げて部屋を出た。
アルベールはまた目録の作成にとりかかった。
彼がこの仕事を終えようとしたとき、中庭で足をふみならす馬の蹄の音と、窓ガラスをゆする馬車の車輪の音がアルベールの注意をひいた。彼は窓に近寄り、父が馬車に乗りこみ、どこかへ出かけるのを見た。
邸の門が父の馬車が出た後で閉まると、直ちにアルベールは母の部屋へ行った。来たことを告げさせる者が誰もいなかったので、彼はそのまま母の寝室まで入って行った。そして、そこで彼が見た光景と、彼が見抜いたものとが、彼の胸をつまらせた。
母と子二人の肉体に同じ魂が宿っているかのように、メルセデスもまた彼女の部屋で、アルベールが今して来たことと、同じことをしていたのである。すべてがきちんと整理されていた。レース、装身具、宝石、下着、金、いっさいのものが引出しの奥に整理されようとしていた。伯爵夫人は、引出しの鍵を一つ一つ、念入りに一所に集めていた。
アルベールはこれらの準備を見たのだ。そしてその意味を解した。
「お母さん!」
叫ぶなり、彼はメルセデスの首にかじりついた。
このときの二人の表情を描き出すことのできる画家がいたら、それは美しい一幅の絵となったことであろう。
事実、固く心を決めてなされているこうした準備は、自分でしているときには少しも不安な感じを抱かせなかったが、母がしているのを見ると、アルベールをおびえさせるのであった。
「何をなさっているんですか」
「あなたは何をしてたの」母は答えた。
「ああ、お母さん!」口もきけぬほどの思いがアルベールの胸にこみあげてきた。「お母さんと僕とは違います。僕が心に決めたのと同じことを、お母さんが決心なさるなどできるはずがありません。僕はお母さんのこの家と、そして……、そしてお母さんにお別れするつもりだと言いに来たんです」
「私もよ、アルベール。私もこの家を出ます。正直に言うけど、私の子が一緒に来てくれるだろうと思っていたの。まちがってたかしら」
「お母さん、僕はお母さんを、僕の運命の巻添えにすることはできませんよ。今後は、僕は名もなく無一文で暮らさねばならないのです。このつらい暮らしの手習いを始めるために、僕が自分で稼げるようになるまでのパンを、友達から借りねばならないのです。だから、僕はこの足で、フランツの所へ行って、僕の計算で必要だと思われるだけの金を借りるつもりなんです」
「可哀そうに! お前が貧乏に苦しみ、ひもじい思いをするなんて。ああ、そんなことは言わないでちょうだい。お母さんの決心も鈍ってしまうから」
「僕の決心は鈍りませんよ。僕は若いし、力も強い。勇気もあると自分では思っています。そして、昨日以後、意志の力がどういうものかということもわかったのです。ああ、お母さん、世の中には、ひどい不幸に苦しみながら、ただ死ななかったというだけではなく、天が与えた幸福へのいっさいの約束の廃墟の上に、神が授けたいっさいの希望の残骸の上に、また新たな運命を築き上げた者が、数多くいるのです。僕はそのことを知りました。そういう人たちを見ました。彼らが、敵に叩きこまれた深淵の底から、雄々しくも栄光に輝きつつ立ち上がり、かつて自分たちを打ちのめした者どもを支配し、逆に地獄に蹴落としたのを僕は知っています。いや、そうじゃない。僕は今日かぎり、過去とは縁を切ったのです。僕は、過去から何も受けつぎません。名前さえもです。だって、お母さん、お母さんならわかっていただけるでしょう? あなたの息子は、他人の前で顔を赤らめねばならぬ男の名前を名乗ることはできないのです!」
「アルベール、私の心がもっと強ければ、私のほうからそう言いたかったの。私の声が消えて言えなかったことを、お前の良心が言ってくれたのね。お前の良心の言う通りになさい。お前にはお友だちがいます。アルベール、そのお友だちとも、一時ご縁を絶つのです。でも、お母さんの名にかけて、望みを失わないでちょうだい。お前の年では、まだまだ人生は美しいものなんですから。お前はまだやっと二十二になったばかりじゃないの。お前の心のように純粋な心には、名前だって汚れのないものが必要です。私のお父さんの名前を名乗りなさい。エルラという名でした。アルベール、私はお前のことをよく知っています。お前がどういう人生を歩むにしろ、必ず近いうちにこの名前を輝かしいものにしてくれるはず。そうなったら、過去の不幸から、より輝かしい世間にまた姿を現わして来なさい。私はきっとそうなると思っているけれど、もしそうはなりそうになくても、せめてこの望みだけは持たせておいてちょうだい。もう、この希望しか残されていなくて、未来などなく、この家の敷居をまたいだら、そこから墓場が始まるだけのこのお母さんに」
「お母さん、僕はご希望の通りにしますよ。ええ、僕はお母さんと希望を分ち合います。天の怒りも、僕たちを追いかけることはないはずです。お母さんはそれほど清らかなんだし、僕はなんの罪も犯していないのですから。でも、僕たちは決心したんですから、すぐさま実行に移しましょう。モルセール氏は三十分ほど前に出かけました。おわかりのように、騒ぎやら説明やらを避けるには絶好のチャンスです」
「私のほうはもういいことよ」メルセデスが言った。
アルベールは直ちに大通りまで行き、二人が邸を出るための辻馬車を呼んで来た。彼は、サン=ペール通りのとある小さな家具つきの家を思い出していたのだ。そこならば、ささやかながら小ざっぱりとした母の住まいになると思ったのである。
門前に辻馬車が止まり、アルベールが馬車から降りたとき、一人の男が彼に近づき、一通の手紙を手渡した。
見れば、例の執事であった。
「伯爵様から」と、ベルトゥチオは言った。
アルベールは手紙を受け取り、それを読んだ。
読み終えると、彼は目でベルトゥチオを探したが、青年が手紙を読んでいる間に、ベルトゥチオの姿は消えていた。
そこで、アルベールは目に涙を浮かべ、感動に胸をふくらませながら、メルセデスの部屋に戻った。そして、一言も言わずに、母にその手紙を渡した。
メルセデスは手紙を読み始めた。
『アルベール、
君が今実行に移そうとしている計画を私が見抜いたと言ったら、高潔な心の動きが私にも理解できるということを君に示すことになろう。君は今自由の身で伯爵の邸を去ろうとしている。そして、君同様に自由な身の母君を、君の所へ引き取ろうとしている。だが、アルベール、よく考えてみたまえ。君は高貴な心の持ち主だが、君が返しきれぬほどの恩を君は母君から受けているのだよ。戦いは君だけのものとしておきたまえ。君は苦しみを求めてもよい。だが、母君には、君の初めての努力に必ず伴うはずの貧困生活をさせてはならない。今日母君を襲った不幸のほんの反映すら、母君には受けるいわれのないものだから。神のご意志は、悪人の罪を罪なき者がつぐなうことをお望みにはならぬ。
君たち二人が、なにも身につけずにエルデ通りの家を去ることを、私は知っている。どうして私が知ったか、そんなことを詮索《せんさく》する必要はない。私は知っている、それだけでいいではないか。
いいね、アルベール。
二十四年前、私は喜びにあふれ誇りに満ちて故国に帰って来た。私にはフィアンセがいた。心から愛していた清らかな一人の乙女だった。私はこのフィアンセに、たゆみなき労働によって苦労して貯めた百五十ルイ〔三千フラン〕の金を持ち帰った。この金はそのフィアンセのもので、彼女に与えるつもりにしていた。海は腹暗い裏切者ということを知っていた私は、父が住んでいたマルセーユのメラン小路の家の小さな庭に、この宝物を埋めておいた。
母君はこのみすぼらしくなつかしい家をよくご存じだ。
先頃パリヘ来る際、私はマルセーユを通った。つらい思い出を秘めたその家を見に行った。夜、スコップを片手に、私が私の宝物を埋めた場所をそっと掘ってみた。鉄の小箱はまだそこにあった。誰もそれに手をふれた者はいない。私が生まれた日に、父が植えてくれたイチジクの木が影を落とす一角にその箱は埋っている。
ところで、アルベール、かつて私が心から愛していた婦人の心静かな暮らしの足しになるはずだったこの金が、今また不思議な運命のめぐり合わせで、同じ用途を見出したのだ。ああ、私の意のあるところを察してほしい。この気の毒な婦人になん百万でも棒げることのできる私が、私が愛していた婦人から引き離された日以来、茅屋《ぼうおく》のかげに忘れられていた一片の黒いパンしかお返ししない私の意のあるところを。
アルベール、君は心の広い男だ。だが、自尊心と恨みの念とが君を盲にしているかもしれない。もし君が私の申し出を拒み、私こそ君に申し出る権利のあることを他人に求めようとするなら、君の父君のために父親を飢餓と絶望のうちに殺された男が、君の母君のお命を救おうとしているのを拒むのは、あまりにも狭い心だと言わねばならない』
母が読み終えると、アルベールは、母がどう心を決めるかと、青い顔をして身じろぎもせずに待っていた。
メルセデスはたとえようもない表情を浮かべた目を天に向けた。
「私はお受けします。あの方は、私の修道院入りの持参金を払って下さる権利をお持ちなんですもの」
こう言って、彼女はその手紙を胸に抱きしめ、わが子の腕をとると、自分でも予期しなかったほどのしっかりとした足どりで、階段のほうへ歩き始めた。
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九十二 自殺
その間に、モンテ・クリストもまた、エマニュエルとマクシミリヤンとともにパリ市内に戻っていた。
帰路は楽しかった。エマニュエルは、戦いが平和裡に解決したのを見た喜びをかくそうとはしなかった。彼は、自分の博愛主義を高らかに宣言していた。モレルは、馬車の一隅に身をもたせたまま、義弟がその喜びを言葉で発散させるのを黙って見ていたが、彼もまた、心からの喜びをかみしめていた。ただ彼の目だけがそのうれしさに輝いていた。トローヌの門の所で、ベルトゥチオに会った。彼は、歩哨のように身動きもせずにそこで待っていたのである。
モンテ・クリストが窓から首を出し、なにごとか小声で言葉を交わすと、執事は姿を消した。
「伯爵」ロワイヤル広場の所まで来たとき、エマニュエルが言った。「すみませんが、僕の家の前で降ろしていただけませんか。家内に、あなたのこと、それに僕のことをこれ以上心配させたくないものですから」
「伯爵の勝利を皆に見せてやるのが滑稽なことでないなら、伯爵にも家へ上がっていただくんだが」モレルが言った。「伯爵にも、安心させてあげねばならぬ方たちがおいでだろう。僕たちはもう家に着いたんだから、エマニュエル、おいとましようじゃないか。そして、このままお帰り願おう」
「ちょっと待ってくれないか」モンテ・クリストが言った。「そんなふうに一ぺんに二人とも行ってしまわないでほしい。あなたは美しい奥さんの所へお帰りなさい、くれぐれもよろしく。モレル、君はシャン=ゼリゼーまで一緒に来てくれないかね」
「喜んでお伴します」マクシミリヤンは答えた。「ちょうどあっちに用がありますから」
「昼食には帰る?」エマニュエルが訊ねた。
「いや」マクシミリヤンが答えた。
馬車の扉が閉まり、馬車がまた走りだした。
「どうです。僕はあなたに幸運をもたらすでしょう」伯爵と二人きりになったときモレルが言った。「そうお考えになったことはありませんか」
「あるさ。だからいつでも君をそばに引きとめておきたいのだよ」
「しかし奇蹟的だなあ」自分の考えに答えてモレルが言った。
「何がだね」
「今起きたことがですよ」
「うむ」伯爵が微笑とともに答えた。「まさにその通り、奇蹟的だ」
「だって、アルベールは勇気のある男なんですよ」
「ほんとうに勇気がある。頭の上に短剣がぶら下っているのに、ぐうぐう眠っているのを見たことがある」
「僕は、彼が二度決闘したのを知っています。じつによく戦いました。だから、それと今朝のことをどう結びつけるか、です」
「これまた君の目に見えない力だね」笑いながら伯爵が言った。
「彼が軍人でなかったということが、アルベールには幸いしたんです」
「どうしてかね」
「決闘の場で詫びるなんて!」若い大尉は頭をふった。
「いいかね」伯爵の声はやさしかった。「モレル、世間のなみの連中と同じ偏見に陥ってはいけない。アルベールは勇気のある男だ。だから卑怯者であるはずがないことは認めるね。彼の今朝の行動にはなにかそれなりの理由があり、したがって、あの彼の行動は、なにものにもまして、英雄的な行動だったということも」
「もちろんです、もちろんですよ。でもやはり僕はスペイン人が言うように、『今日の彼は昨日よりも勇気がなかった』と言いたいんです」
「昼食を一緒にしてくれるだろうね」話を切り上げようとして伯爵が言った。
「いいえ、十時にはおいとまします」
「じゃ、君の用というのは昼食の約束だったのかね」
モレルは笑って首をふった。
「だが、いずれにしろどこかで飯は食わねばならないだろう」
「でも、腹が空いていなければ別でしょう?」
「ほう、そんなふうに食欲をなくさせる感情は、私は二つしか知らないね。一つは悲しみ、(幸い君はひどく朗らかだから、これではない)それと恋だ。ところで、君の心について君が言ったことから考えると、どうやら君は……」
「ええ、僕は否定しませんよ」
「マクシミリヤン、それを話してはくれないかね」その熱心な声は、伯爵がこの秘密をどうしても知りたがっていることを示していた。
「今朝、僕はあなたに、僕にも人を愛する心があることをお見せしてしまいましたね」
答えるかわりにモンテ・クリストはマクシミリヤンに手をさしのべた。
「それで、その僕の心は、ヴァンセンヌの森であなたのそばから離れてから、別の所に行ってしまってるんです。僕はそいつをこれからまたみつけに行こうと思うんです」
「行きたまえ」伯爵はゆっくりとした口調で言った。「だがね、もし君がなにか障害にぶつかったら、私が、この世で多少は力のある男で、その力を、私が好きな人たちのために使うのを幸せだと思っているということ、そして、君は私の好きな男だということをぜひ思い出してほしい。いいね、モレル」
「わかりました。わがままな子供が、困った時に親のことを思い出すように、僕はあなたのことを思い出します。僕があなたを必要とするようになったら、きっとそうなると思います、そしたら、あなたの所へ参ります」
「よろしい、その言葉を覚えておくよ。それじゃ、さようなら」
「さようなら」
馬車はシャン=ゼリゼーの邸の門前に着いていた。モンテ・クリストは馬車の扉を開けた。モレルは舗道の上に飛び降りた。
ベルトゥチオが正面階段の上で待っていた。
モレルの姿がマリニー通りのほうに消えると、モンテ・クリストは急いでベルトゥチオの前まで行った。
「どうだった」
「あの方はお邸をお出になります」
「息子のほうは?」
「ご子息様の召使いのフロランタンの考えでは、ご子息様も同じようになさるようです」
「来てくれ」
モンテ・クリストはベルトゥチオを書斎につれて行き、われわれがすでに知っているあの手紙を認《したた》め、それを執事に渡した。
「行け、急ぐのだ。それから、エデに私が帰って来たと伝えてほしい」
「ここにおります」エデの声であった。彼女は馬車の音を聞きつけて降りて来ていたのだ。無事に戻った伯爵を見て、その顔は歓喜に輝いていた。
ベルトゥチオは出て行った。
最愛の父に再会した娘の喜びと、熱愛する恋人に会えた女の恍惚とを、あれほどに待ちわびた伯爵のこの帰宅のはじめの数分の間に、エデは味わい尽したのだった。
モンテ・クリストの喜びは、たしかにエデのものほど表に現われてはいなかったが、やはり大きなものであった。長い間苦しみ続けて来た心にとって、歓喜とは、太陽に灼きつけられた大地への慈雨のごときものである。心も大地も降りそそぐこの恵みの雨を吸いこみ、しかもそれを外には表わさぬ。数日前から、モンテ・クリストは、もはや考えようとはしなかったこと、つまりこの世にメルセデスが二人いるということ、自分もまだ幸せになれるのだということに気づき始めていたのである。
彼の幸福に燃える目が、エデの濡れた瞳の中にむさぼるように吸いこまれようとしたとき、いきなりドアが開いた。伯爵は眉をしかめた。
「モルセール様がおいででございます」バチスタンが言った。この言葉の中に詑びも含まれているかのようであった。
事実、伯爵の顔が輝いた。
「どっちだ、子爵か、伯爵か」
「伯爵様です」
「まあ!」エデが叫んだ。「まだ終ってはいませんの?」
「終ったかどうか私にはわからない」モンテ・クリストは娘の手をとった。「だが、お前がなにも心配する必要のないことだけはわかっているよ」
「でも、あの人でなしが……」
「エデ、あの男は私にはなにもできやしない。恐れねばならなかったのは、あの男の息子が相手だったときだ」
「ですから、私がどれほど心配したか、殿様には決しておわかりになりません」
モンテ・クリストは微笑んだ。
「私の父の墓にかけて」モンテ・クリストは娘の頭の上に手をさしのべて言うのだった。
「もし不幸が見舞うとしても、それは私に対してではない」
「殿様のお言葉は、神様のお言葉のように、私は信じます」
モンテ・クリストは、このかくも清純な、そしてかくも美しい額にそっと唇をあてた。二人の心はときめいた。一方は激しく、一方はひそやかに。
「おお、神よ!」伯爵はつぶやいた。「あなたは、この私にもまだ恋することを許し給うのでしょうか! ……モルセール伯爵をサロンにお通ししろ」美しいギリシアの娘を忍び階段のほうへつれて行きながら、彼はバチスタンに言った。
どうやらモンテ・クリストは待ち受けていたらしいが、おそらく読者諸子にとっては意外なこの訪問について、多少説明を加えておこう。
すでに述べたが、アルベールが自分の部屋でしていたように、メルセデスもまた後を濁さぬようにと、財産目録を作り、宝石を整理し、引出しをしめ、鍵を集めていたとき、廊下へ明りをとるためにドアにはめこんであるガラスの所に、蒼ざめた陰惨な顔が一つ現われたのを、彼女は気づかなかった。そこからは、中が見えるだけではなく、中の物音も聞こえるのである。そこから覗きこんでいる男は、絶対に自分の姿を見られずに、モルセール夫人の室内の様子を見聞きすることができるのであった。
このガラスをはめこんだドアから、その男はモルセール伯爵の寝室に身を運んだ。寝室に着くと、男は、ひきつった手で中庭に面した窓のカーテンをもたげた。彼は、十分の間その場にじっと立ちつくし、おし黙ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。彼にとっては、おそろしく長い十分であった。
決闘場から帰ったアルベールが、自分の帰りをカーテンのかげからうかがっている父の姿を見、顔をそ向けたのはこの時である。
伯爵の目は大きく見開かれた。彼は、アルベールがモンテ・クリストに対して加えた侮辱がすさまじいものであったことを知っていた。そして、このような侮辱は、世界中のどこの国であろうと、どちらかが死なねば決着のつかぬ、決闘につながることも知っていた。ところが、アルベールは無事に帰って来た。伯爵の仇を打ったのだ。
名状しがたい歓喜がその陰惨な顔を輝かせた。太陽が、その褥《しとね》と言わんよりは墓にも似た雲の中に没する前に、最後の光を投げかけるようなものであった。
しかし、すでに述べたように、アルベールがその勝利を告げに自分の部屋に上がって来るのを、いくら待っても無駄であった。息子が、父の傷つけられた名誉のため決闘におもむく前に、父に会いに来なかったことは理解できる。しかし、見事父の名誉の復讐をとげた以上、なぜ息子が自分の腕の中に飛びこんで来ようとはしないのか。
そこで伯爵は、アルベールに会えぬので、アルベールの召使いを呼ばせたのである。アルベールがこの召使いに、すべてをかくさずに話す許可を与えたことはご承知の通りである。
十分後に、モルセール将軍の姿が正面階段に現われた。黒いフロックコートを着て、軍隊式のカラーをつけ、黒いズボンに黒の手袋であった。どうやら彼は、前もって言いつけておいたらしい。階段の最後の段に達したか達しないうちに、車庫から馬をつけた馬車が出て来て、彼の前で止まったのである。
このとき、彼の召使いがやって来て、包みこんだ二ふりの剣のためぴんと張っている軍隊合羽を馬車に投げこみ、扉を閉めると、御者のわきに腰をおろした。
御者は、行先を訊ねるために馬車の前で身をかがめた。
「シャン=ゼリゼー、モンテ・クリスト邸だ。急げ!」将軍は言った。
鞭を入れられた馬たちは躍り上がった。五分後に馬車は伯爵邸の門前に止まった。
モルセール氏は自ら扉を開け、馬車が止まりきらぬうちに青年のような身軽さで歩道に飛び降り、呼鈴を鳴らし、大きく開いた門の中へ召使いとともに姿を消した。
一瞬後に、バチスタンがモンテ・クリストにモルセール伯爵の来訪を告げ、モンテ・クリストはエデを送り出しながら、モルセール伯爵をサロンに通すよう命じたのである。
将軍がもう三回も大またにサロンの端から端まで歩いて、ふとふり返ると、戸口にモンテ・クリストが立っていた。
「やはりモルセールさんでしたね」モンテ・クリストが静かな声で言った。「私は聞き違えたのかと思いましたよ」
「ええ、私ですとも」はっきり発音できぬまでに、恐ろしいほど唇をわななかせながら伯爵が言った。
「それにしても、どうしてまたモルセール伯爵がこんなに朝早くお訪ね下さったのか、お訊きしたいと思いますが」
「今朝あなたは、伜と決闘をなさいましたな」
「それをご存じなんですか」伯爵は答えた。
「そればかりか、伜には、あなたとの決闘を望み、全力を尽してあなたを殪そうとする立派な理由があったことも知っておる」
「たしかに、非常に立派な理由がありましたよ。ですが、ご覧の通り、それだけの理由がありながら、ご子息は私を殺しはしなかったし、決闘しようとさえしなかった」
「しかし伜は、あなたを父の不名誉の原因と考えておる。今、わしの家を押しつぶそうとしている恐ろしい崩壊の原因と見なしておるのだ」
「その通りですな」モンテ・クリストはぞっとするような落ち着き払った口調で言った。「ただし、それは二次的な原因であり主たる原因ではない」
「おそらくあなたは、伜に詫びを入れたか、言い訳をしたのだろう」
「私は言い訳など一言も申しません。詫びたのはご子息のほうだ」
「その行為をどうお考えになるのか」
「たぶん、この件には、私よりも罪深い者がいると確信なさったからでしょうな」
「それは誰かな」
「あの人の父親です」
「わかった」蒼ざめながら伯爵が言った。「だがその罪深い者が、自分の罪を認めようとは思っておらぬことをご存じでしょうな」
「存じております……だから、こういうふうになることを私は予期していた」
「わしの伜が卑怯者になることを予期していたと言うのか!」伯爵が怒鳴った。
「アルベール・ド・モルセール氏は卑怯者ではありません」
「いやしくも剣を手にしている者で、不倶戴天の敵がその剣の先にいるというのに、戦わぬ者は、卑怯者というほかはない。ここにあれがおれば、そう言ってやるのだが」
「モルセールさん」冷ややかにモンテ・クリストは言った。「まさかあなたが、そんな家庭内の些事を話しに来られたとは思えません。そんなことはアルベール氏におっしゃるんですな、ご子息がお答えになるでしょう」
「そうですとも」将軍は、浮かんだと思う間に消えたうすら笑いとともに言い返した。「おっしゃる通りだ。そんなことを言いに来たのではない。私もあなたを敵と心得ておると言いに来たのだ。私はあなたがどうも虫が好かんとな。ずっと以前から貴様を知っておって、ずっと憎み続けておったような気がする。要するに、今時の若い者は決闘もできぬのだから、われわれが戦うしかないと言いに来たのだ……どうですかな?」
「よろしい。だからこそ、先程、こうなることを予期していたと言ったのは、あなたがおいで下さるだろうと思っていた、という意味だったのです」
「それは結構……では、用意はよろしいな?」
「いつなりと」
「いずれかが死ぬまで戦うのだということをご承知でしょうな」憤怒に歯を食いしばりながら将軍が言った。
「いずれかが死ぬまで」モンテ・クリストは、軽くうなずきながら繰り返した。
「では、出かけましょう。介添人など、わしらにはいらんから」
「たしかに、無用ですな。よくよく知りあった仲ですから」
「いやいや、まったく知らぬ間だからだ」
「ほ、ほう」手のつけられない落ち着き払った態度でモンテ・クリストは言った。「そうでしょうかね。あなたは、ワテルローの戦いの前夜脱走した兵卒フェルナン、スペインでフランス軍の案内役とスパイの役を務めたフェルナン中尉、恩人のアリを裏切り、敵に売り渡し、暗殺したフェルナン大佐ではないんですかね、そして、そういうフェルナンが一緒になって、陸軍中将、貴族院議員モルセール伯爵が作り上げられたのではないのでしょうか」
「なにを!」この言葉は真赤に焼けた鉄棒のように将軍をうちのめし、将軍は怒鳴った。「このわしを殺そうという今、わしの恥を咎めだてしおって! そうとも、わしのことを貴様が知らなかったなどとは言わんぞ。悪魔め、貴様が過去の闇の中に忍びこみ、どんな松明《たいまつ》の火でかは知らぬが、わしの生涯の一頁一頁を読んだことを、わしは知っている。だがな、外は恥辱にまみれたこのわしの中身のほうが、そのきらびやかな皮をかぶった貴様よりも、まだまだ名誉を残しているぞ。たしかに貴様はわしのことを知っている。だがわしのほうは貴様など知らぬ。金銀宝石をじゃらつかせるペテン師め! パリではモンテ・クリスト伯爵と呼ばれる男。イタリアでは船乗りシンドバッド、またマルタでは、そんなことは知るものか、もう忘れてしまったわ。だがな、そうした数ある名前のうち、わしが訊きたいのは本名だ、知りたいのは貴様のほんとうの名前だ。決闘場で貴様の心臓に剣をぶちこむときに、その名を言ってやれるようにな」
モンテ・クリストはすさまじいまでに色蒼ざめ、その灰褐色の目は、なにものをも灼き尽すがごとくに燃え上った。彼は部屋に付属の小部屋に飛びこむと、一秒とかからずに、ネクタイ、フロックコート、チョッキをかなぐり捨て、船乗りの着る短い上着に袖を通し、水夫帽をかぶり、その下に長い黒髪を垂らした。
こうして、すさまじい憎悪の形相で腕を組み、なぜ急に相手が姿を消したのかわからず、ただ彼を待っていた将軍の前に歩み寄って行った。将軍は、歯をがちがちいわせ、足が萎《な》え、後ずさりしたが、辛うじてテーブルに片手を支えて踏みとどまった。
「フェルナン! 俺の数ある名前のうち、ただ一つの名を言えば、貴様をぶちのめすには十分だろう。だがその名前は、貴様にはもうわかるだろう。いや、思い出せるはずだ。俺の受けた苦しみ、拷問の数々にもめげず、復讐の喜びが若返らせたこの顔を、今こそ貴様に見せているのだからな。貴様が結婚して以来……俺のフィアンセのメルセデスと結婚して以来、貴様が夜毎の夢に見たはずのこの顔をな!」
将軍は、頭をのけぞらせ、手を前につき出し、口もきけずにこの恐ろしい光景を、じっと見据えた目でまじまじと見ていた。それから、背をもたせた壁際まで行き、ゆっくりと壁をつたって戸口にたどりつくと、後ずさりのまま外へ出た。彼が洩らした叫び声は、陰惨悲痛、胸をかきむしるような、
「エドモン・ダンテス!」という一語だけであった。
ついで、人間のものとも思えぬような呻き声を洩らしながら、彼は邸の柱廊まで身を引きずって行き、よろよろと中庭を横切ると、召使いの腕の中に倒れこみ、よく聞きとれぬ声で、ただ、
「邸へ、邸へ」とつぶやいた。
途中、冷たい外気と、召使いたちの目を意識しての恥かしさが、彼に思考をまとめるだけの力を蘇らせた。だが、邸までの道は短かった。自宅に近づくにつれ、伯爵はまた苦悩が新たになるのを感じていた。
家の少し手前で伯爵は馬車を止めさせ、馬車を降りた。邸の門は大きく開けられていた。こんな豪壮な邸に呼ばれたことにとまどっている風情の辻馬車が一台、中庭に停まっていた。伯爵は、恐ろしいものを見るようにその辻馬車を見た。だが、誰かに訊ねてみる勇気はなかった。彼は自分の部屋に急いだ。
人が二人階段を降りて来る。彼にはその二人を避けるため、わきの小部屋に飛びこむだけのひましかなかった。
それは、邸を出ようとしている、アルベールの腕にすがったメルセデスであった。
二人は、緞子のドアカーテンのかげに身をひそめたその不幸な男の鼻の先を通った。メルセデスの絹のドレスがいわば彼をかすめたのである。
「元気を出すんです、お母さん。さ、早く行きましょう。ここはもう僕たちの家ではないんです」
彼は、自分の伜がこう言ったときの、生あたたかい息が、自分の顔にかかるのを感じた。
言葉は消え、足音は遠ざかった。
将軍は、緞子のカーテンにわななく手でつかまり、身を立て直した。彼は鳴咽をこらえていた。妻からも息子からも同時に見捨てられた世の父親の胸から、これほど恐ろしい鳴咽が洩れたためしはなかった……
やがて、彼は辻馬車の鉄の扉が閉まる音、そして、窓ガラスをゆるがす馬車の重い車輪の響きを耳にした。そこで彼は、もう一度だけ、彼がこの世で愛したものの姿を見ようと、寝室にとびこんだ。しかし、メルセデスの顔もアルベールの顔も、この孤影悄然たる邸に対し、見捨てられた夫、父に対して、最後の眼差し、別れの言葉、哀惜の情、つまりは許しを投げかけるために、馬車の窓から出されることもなく、辻馬車は去って行ったのである。
馬車の音が、アーケードの敷石にこだましたとき、一発の銃声が響き、爆風で破れたその寝室の窓ガラスから、一条の黒い煙が流れ出た。(つづく)