モンテ・クリスト伯(三)
アレクサンドル・デュマ/泉田武二訳
目 次
四十六 無制限貸付
四十七 連銭葦毛《れんせんあしげ》
四十八 イデオロギー
四十九 エデ
五十 モレル家の人々
五十一 ピラムスとチスベ
五十二 毒物学
五十三 魔王ロべール
〔マイエルベールの歌劇の題名〕
五十四 暴騰暴落
五十五 カヴァルカンティ少佐
五十六 アンドレア・カヴァルカンティ
五十七 ムラサキウマゴヤシの畑
五十八 ノワルチエ・ド・ヴィルフォール
五十九 遺書
六十 信号機
六十一 ヤマネズミに桃をかじられる園芸家の悩みの解決法
六十二 亡霊
六十三 晩餐
六十四 乞食
六十五 夫婦喧嘩
六十六 縁組
六十七 検事の部屋
六十八 夏の舞踏会
六十九 調査
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四十六 無制限貸付
その翌日、午後二時頃、二頭の見事な英国馬に引かれた四輪馬車が、モンテ・クリスト邸の門前に止まった。青い服、同じ色の絹のボタン、やたらと太い金鎖をつけた白のチョッキ、淡茶色のズボン。眉の上まで垂れ下がった黒々とした、本物とは信じかねる髪。髪でかくせぬ下の方の皺《しわ》と、あまりにも不釣合だからだ。要するに、五十から五十五のくせに四十ぐらいに見せたがっている一人の男が、男爵冠の描かれた馬車のドアから首を出し、侍童に、モンテ・クリスト伯爵の在宅の有無を門番に聞かせにやった。
待つ間、その男は、あまりに細心なので、ぶしつけとも言えるほどの注意深さで、家の外見や、そこから見える庭の一部、行き来する召使いたちの仕着せを、じろじろと眺め廻していた。この男の目は鋭かった。だが怜悧というよりはむしろ狡猾《こうかつ》な目である。唇はひどく薄く、前に出るかわりに、口の中に入りこんでいる。幅広く突き出た頬骨は、まぎれもなく悪賢《わるがしこ》さのしるしであり、へこんだ額、およそ下品な大きな耳のずっと後ろへ出っぱっている後頭部は、下賎な者の目には、その見事な馬、シャツにつけた大きなダイヤ、上着のボタン穴からボタン穴に渡した赤い略綬の故に、大そう立派な男に見えるこの人物の顔つきに、観相学者の目からすれば、胸のむかつくような性格を与えていたのである。
侍童は門番小屋の窓ガラスを叩き、
「ここはモンテ・クリスト伯爵様のお住まいではないでしょうか」と訊ねた。
「閣下のお住まいはここだよ、だが……」
門番はこう答えてアリの顔を見た。
アリは首を横に振った。
「だが?……」侍童が訊ねる。
「だが、閣下に会うことはできないよ」門番は答えた。
「では、主人のダングラール男爵様の名刺を置いて参ります。主人が衆議院に参ります途中、お目にかかりたいと存じまして立寄りました、とお伝え下さい」
「わしは閣下には口をきけないが、お部屋つきの者がお伝えするよ」門番が答えた。
侍童は馬車のほうへ戻った。
「それで?」ダングラールが訊ねた。
少年は、今作法を教えられたことに、恥ずかしい思いを抱きながら、主人に門番の返事を伝えた。
「ふうん、その閣下と呼ばれている男は、大そうな貴族なんだな。部屋つきの者しかじかには口がきけぬとは。かまわん、わしへの信用状を持ってるんだから、金が欲しくなれば必ずわしはその男に会うことになるのだ」
こう言ってダングラールは馬車の奥にまた身を投げ、道の反対側までも聞こえるような大声で御者に怒鳴った。
「衆議院へ!」
すでにこの来訪を知らされていたモンテ・クリストは、彼の部屋の鎧戸ごしに、男爵の姿を見、高性能の望遠鏡を用いて、ダングラールが、伯爵の家や庭や召使いたちの仕着せを値ぶみしたのに劣らぬ注意深さで、ダングラールを細かく観察していた。
「まったく」モンテ・クリストは、望遠鏡を象牙の鞘《さや》におさめながら、吐き出すようにつぶやいた。「まったく醜悪きわまる奴だ。平たい額を見れば蛇〔狡智〕、丸くふくらんだ頭を見ればハゲタカ〔強欲〕、とがった鼻を見ればノスリ〔馬鹿〕と、一目見てわかるではないか」
「アリ!」こう叫んで、彼は銅の呼鈴を一度鳴らした。アリが現われると、「ベルトゥチオを呼べ」
直ちにベルトゥチオが入って来た。
「お呼びでございましょうか」執事が言った。
「うむ。君はさっき門前に止まった馬を見たかね」
「はい、すばらしい馬でございました」
モンテ・クリストは眉をしかめて、
「私はパリで最高の馬を二頭買えと君に言ったはずだが、私の馬と同じような馬がパリにまだ二頭いて、私の厩に入っていないのは、どういうわけかね」
眉をしかめた顔と、その声の厳しい調子に、アリは顔を伏せた。
「アリ、お前が悪いのではないよ」モンテ・クリストは、この男の声にも表情にも、こんなやさしさがあろうとは思えなかったほどのやさしさをこめてアラビア語で言った。「お前はイギリスの馬のことを知らないのだ」
アリの曇った顔がまた晴れた。
「伯爵様」ベルトゥチオが言った。「お話の馬は売物ではございませんでした」
モンテ・クリストは肩をすくめ、
「執事、それだけの代価を払える者にとっては、すべてが売物であることを知りたまえ」
「ダングラール様は、あの馬に一万六千フランお払いになりました」
「それなら、三万二千出さねばならなかったのだ。彼は銀行屋だ。銀行屋というものは、資本が倍になるチャンスを逃すものではない」
「本気でおっしゃっておられるのでございますか」ベルトゥチオが訊ねた。
モンテ・クリストは、自分に問い返す者がいるなど思ってもみなかったように、執事の顔を見据えた。
「今夜、私はある人を訪ねなければならない。私の馬車に、新しい馬具をつけたあの二頭をつないでおけ」
ベルトゥチオは一礼して退りかけたが、ドアの近くで彼はこう訊ねた。
「そのご訪問は何時のご予定でございましょうか」
「五時」モンテ・クリストが言った。
「今は二時でございますが」おずおずと執事が言った。
「知っている」モンテ・クリストはこう答えただけであった。
それからアリのほうを向いて、
「奥さんに、馬を全部お見せしろ。一番気に入った馬車馬を選んでいただくのだ。それから、食事を私と一緒になさるかどうか、返事をもらって来い。その場合は奥さんの部屋に用意するのだ。行け。下へ降りる際に、部屋つきの者をここへよこせ」
アリが姿を消すか消さぬうちに、もう部屋つきの者が入って来た。
「バチスタン」伯爵が言った。「私の所へ来てから一年になるね。この期間は、ふつう、私が使用人を試す期間だ。君は私の気に入っている」
バチスタンは頭を下げた。
「君のほうで、私が気に入ったかどうかはまだわからぬが」
「とんでもありません、伯爵様」あわててバチスタンが言った。
「最後まで聞け」伯爵が続けた。「君は一年に千五百フランの給料をとっている。つまり、つねに生命を危険にさらしているすぐれた勇敢な士官と同じ額だ。君は、君よりはるかに忙しい部課長も羨むような机も与えられている。君自身召使いなのに、君の下着、身の廻りを世話する召使いがなん人もいる。給料の千五百フラン以外に、私の身づくろいのための買物からぴんはねして、君は年にさらに千五百フランくすねている」
「ああ、閣下!」
「別にそれをどうこうは言わぬ。当り前だからね。しかし、そのへんまでにしておいてほしい。運よく君がありつけたこんな職は、他のどこにもみつかるものではあるまい。私は使用人を殴ったりはせぬ。罵《ののし》ったりもせぬ。怒りにまかせることもない。過ちはつねに許すが、仕事をなおざりにしたり、忘れることは絶対に許さぬ。ふつう、私の命令は短いが、明瞭で正確だ。命令を取り違えられるよりは、二度でも三度でも繰り返すことのほうを選ぶ。私は、知りたいことはなんでも知ることができるだけの金を持っている。それに、私はきわめて好奇心が強い。とくにそのことを言っておく。よきにつけ悪しきにつけ、君が私のことをしゃべったり、私のすることをとやかく言ったり、私の行動を監視したりしたことが私にわかれば、即座にこの家を出てもらう。私は使用人には絶対に一度しか警告をしない。君への警告はすんだ。行け」
バチスタンは一礼して、退出するため三、四歩歩きかけた。
「ところで」と、伯爵がまた言った。「言い忘れていたが、私は毎年、使用人の一人一人に一定額を積み立てている。暇を出された者は当然その金を失うことになる。いつまでもこの家にいた者が、私の死後それを受け取る権利を持つことになる。君が私の所へ来てから一年になる。積み立てはもう始まっているのだ。それが続くようにしたまえ」
この訓辞は、アリの面前でなされたが、フランス語は一言もわからないので、アリは無表情のままであった。しかし、フランスの使用人の心理を知っている者ならば、この訓辞がバチスタンに、どのような効果をもたらしたかは、誰にでもわかるであろう。
「私は、なに事につけ閣下の御意にかないますようにいたします。そして、アリさんを手本にいたします」
「いや、いかん」伯爵は石像のように冷たく言った。「アリは、長所もあるが多くの欠点も持っている。だから手本になどしてはならぬ。アリは例外だ。アリは給料をとっておらぬ。これは使用人ではない。私の奴隷、私の犬なのだ。もし彼が義務を怠れば、私は彼に暇はとらせぬ。殺すだけだ」
バチスタンは目を見はった。
「疑っておるのか」モンテ・クリストが言った。
伯爵は、バチスタンにフランス語で言った通りの言葉をもう一度アリに言った。
アリは聞いていたが、微笑を浮かべると、主人に近づき、片膝をついてうやうやしく主人の手に接吻した。
この訓戒のささやかな結末が、バチスタンの度胆をぬいた。
伯爵はバチスタンに部屋を出ろと手まねで示し、アリにはついて来いと命じた。二人は伯爵の書斎に入り、長いこと話をしていた。
五時、伯爵は呼鈴を三度叩いた。一度叩けばアリ、二度はバチスタン、三度はベルトゥチオである。
執事が入って来た。
「馬の用意!」モンテ・クリストが言った。
「お馬車につけてございます」ベルトゥチオが即座に答えた。「私もお供いたすのでございましょうか」
「いや、御者、バチスタン、アリ、それだけだ」
伯爵は下へ降り、朝、ダングラールの馬車を引いているのを見て讃嘆したあの馬が、自分の馬車につけられているのを見た。
そのそばを通るとき、彼は馬に一瞥を与えた。
「じつに見事な馬だ。君はよくぞ買った。ただ、少し遅かったがね」
「閣下」ベルトゥチオが言った。「手に入れるのに大へんな苦労をいたしました。それにひどく値が張りまして」
「だからといってこの馬の美しさが減るかね?」伯爵が肩をすくめてこう訊ねた。
「閣下さえご満足なら、なにも申し上げることはございません。どちらへ」
「ショセ=ダンタン通り、ダングラール男爵邸」
この会話は正面階段の上で交わされた。ベルトゥチオは最初の段を降りようとした。
「待ちたまえ」モンテ・クリストが彼を止めながら言った。「私は海岸に土地がいる。たとえばノルマンディーの、ル・アーヴルとブーローニュの間あたり。君の裁量にまかせるが、その土地には、小さな港、小さな入江、小さな湾がなければいけない。私のコルヴェット〔昔の三本マストの軍艦〕が入港でき、停泊できるように。あの船の吃水は十五フィート〔約四・五メートル〕しかない。船は、昼夜をわかたず私の合図があり次第、いつなん時でも出港できるようにしておかねばならぬ。今説明した条件にかなう土地の、あらゆる公証人に当ってみるのだ。なにか情報を得たら、君自身行ってみて、もしよいと思ったら、君の名義で買え。船はフェカン〔ル・アーブルに近い漁港〕に向かっているのだったな」
「私どもがマルセーユを発ちましたその日の夕方、出港するのを見ました」
「ヨットのほうは?」
「ヨットはマルチーグ〔マルセーユに近い漁港〕で待てと命ぜられております」
「よし。双方の船の船長と時どき連絡をとれ。彼らが居眠りなどしておらぬようにな」
「汽船のほうは、いかがいたしましょうか」
「シャロンにいる?」
「はい」
「ほかの二隻の帆船と同じ命令を下せ」
「かしこまりました」
「その土地が買えたら、直ちに、北仏および南仏の街道に、十キロごとに中継所を設置する」
「ご安心下さいませ」
伯爵は満足そうにうなずくと、階段を降り馬車に飛び乗った。見事な馬に引かれて疾駆する馬車は、銀行家の邸の前まで止まらなかった。
モンテ・クリスト伯爵の来訪が告げられたとき、ダングラールは鉄道に関する委員会を司会していたが、その会議はほとんど終っていた。
伯爵の名を聞くと、彼は立ち上がった。
「諸君」彼は委員たちに向かって言った。中のなん人かは、両院の錚々《そうそう》たるメンバーであった。「こんなふうに失礼させていただくことをお許し下さい。が、じつは、ローマのトムスン・アンド・フレンチ商会が私の銀行に、モンテ・クリスト伯爵とかいう男に対する無制限貸付の口座を開くように言って来たのです。いまだかつて、外国の私の取引先がこんなたわけたまねを私を相手にしたことはありません。おわかりのように、私はひどく好奇心に捉えられ、今でも捨て切れぬのです。今朝、私はその自称伯爵の家に寄ってみました。もし本物の伯爵なら、そんな金持ちであるはずがないでしょう。お目にかかれません、とのこと。いったいどう思います。モンテ・クリスト先生のやり口は、まるで殿下か美女のやり口じゃありませんか。それに、家はシャン=ゼリゼーにあって、自分の持家です。私は調べてみましたが、きちんとしているようでしたな。ですが、無制限貸付となると」と、ダングラールは賎しい笑いを浮かべて、「口座を開く銀行家を、かなり気むずかしくするものでしてね。だから、私は早くその男に会いたい。煙に巻かれているような気がしているのです。しかし、あちらのほうでは、どういう男が相手かご存じない。最後に笑うものが真に笑う、ですな」
大きく鼻の穴をふくらませて、大げさにこう言い終えると、男爵は客と別れて、ショセ=ダンタン一帯に大きな評判となっている、白と金の客間に行った。
まずはじめに客の目をくらませようと、彼は来客をここへ通すように命じていたのだ。
伯爵は立ったまま、本物だと銀行家が思いこまされている、アルバノやファットーレのなん枚かの模写を眺めていた。模写ではあっても、天井を飾るごてごてとした、金の菊ヂサ模様とは、まるで調和がとれていなかった。
ダングラールが入る音で、伯爵は振り向いた。
ダングラールは軽く頭を下げ、伯爵に、金の縫い取りのある白繻子張りの、金色の木の椅子に腰をおろすよう目顔ですすめた。
伯爵は腰をおろした。
「モンテ・クリストさんですな」
「衆議院議員、レジヨン・ドヌール五等勲章|佩用《はいよう》者、ダングラール男爵ですね」
モンテ・クリストは、男爵の名刺に記されていた肩書を全部繰り返したのだ。
ダングラールは痛いことを言われたと思い、唇を噛んだ。
「どうも、あなたが名乗っておられた称号をつけずに、最初にお呼びして、失礼しました。ですが、ご承知の通り、私どもは民主的な政府のもとに暮らしておりまして、私は、庶民の利益の代表なものですから」
「そのために、ご自分のことは相変わらず男爵と呼ばせておきながら、他人を伯爵と呼ぶ習慣はお捨てになった」
「いえ、自分をそう呼ばせることにも、そんなに執着しませんよ」さり気なくダングラールが答えた。「少しばかり功績があったからと、男爵にしてくれて、レジヨン・ドヌール五等勲章もくれました。しかし……」
「しかし、そんな肩書は辞退しておしまいになったのですか、昔、モンモランシー殿やラファイエット殿がなさったように。これは見ならうべき立派な行為ですなあ」
「そういうわけでもありません」ばつが悪そうにダングラールが言った。「ただ、召使いたちに対しては、おわかりと思いますが……」
「なるほど、使用人にはご前様と呼ばせ、新聞記者にはムッシューと呼ばせ、有権者には市民《シトワイヤン》と呼ばせるわけですな。そういう微妙な使いわけは、立憲政府にはまことにふさわしい。よくわかりました」
ダングラールは唇をつまんだ。この領域では、とてもモンテ・クリストの敵ではないと感じて、もう少し自分の得意な領域に話題を戻そうとした。
「伯爵」頭を下げながら彼は言った。「私はトムスン・アンド・フレンチ商会から通知書を受け取りました」
「それはよかった、男爵。あなたを、使用人がお呼びするような呼び方をして申し訳ありません。今ではもう男爵など作りはしないのですから、たしかにこれは、まだ男爵などがいる国の悪い習わしですな。よかった、と申しました。自己紹介の必要がなくなったわけですからね。どうもこれがいつも厄介で。通知書を受け取られた、とおっしゃったのですな」
「ええ。ですが、正直なところ、意味がよくわからないのです」
「ほう!」
「ご説明願おうと思ってお宅に立寄ってもみました」
「どうぞ。私はここにおりますし、伺《うかが》いましょう、ご説明します」
「その通知書によると、たぶん、ここに持っていると思いますが、(ダングラールはポケットの中を探した)、通知書によると、モンテ・クリスト伯爵に対して、私の銀行に、無制限の口座を開くとのこと」
「で、男爵、そのどこが曖昧なのでしょう」
「いえ別に。ただ、無制限という言葉が……」
「すると、その言葉はフランス語ではないのですな……じつはそれを書きましたのは、イギリス人とドイツ人の混血児《あいのこ》なのでして」
「いえいえ、フランス語です。語法の上からは、非の打ち所がありません。が、会計の面からしますと、そうは参りませんので」
「男爵、あなたのお考えでは、トムスン・アンド・フレンチ商会は、それほど安全というわけにはいかぬのでしょうか」モンテ・クリストが、できる限り無邪気を装って訊ねた。「私は困ったことになります、いくらか金をあの商会に預けてありますのでね」
「ああ、あの商会は大丈夫です」ダングラールは、からかうような笑いを浮かべた。「ただ、無制限という言葉は、金融の問題となるとどうも、あまりにも漠然としてますんでね……」
「意味が無制限だというわけですね」モンテ・クリストが言った。
「そこですよ、まさに申し上げたいのは。ところで漠然としているということは、疑わしいということです。賢者|曰《いわ》く、『疑わしき時は差し控えよ』とね」
「というと、トムスン・アンド・フレンチ商会がたわけたまねをしてもダングラール商会はその例にならう気はないというわけですね」
「どうしてそういうことになるのですかな、伯爵」
「そうですよ。トムスン、フレンチ両氏は、無制限な取引をする。しかしダングラール氏の取引には制限がある。なるほど賢者だ、今おっしゃったようにね」
「誰一人、私の金庫の中を心配したりした者はまだいませんよ」銀行家が誇らしげに答えた。
「では」モンテ・クリストは冷たく言い返した。「心配する最初の男が私というわけですな」
「どうしてそんなことを」
「あなたが私に説明を求められたからです。それに、どうやら大へんためらっておいでのようだ」
ダングラールは唇を噛んだ。また、この男にやられたのだ。しかも今度は、自分の領域で。男爵のいんぎん無礼な態度は上べだけのものであり、今や、ただの無礼すれすれのところまで来ていた。
モンテ・クリストのほうは、その逆に、この上もなく愛想よい笑みをたたえていた。そして、いつでも思う通りに無邪気な様子を見せ、これが彼を優位に立たせていた。
「とにかく」しばらく黙っていた後でダングラールが言った。「私の銀行でどの位の現金を手になさりたいのかお決めいただいて、こちらの考えをご説明することにしましよう」
「そうおっしゃっても」と、モンテ・クリストは、この話では一歩も譲るまいと心に決めて答えるのだった。「あなたに無制限貸付をお願いしたのは、どの位の額が必要になるかわからないからなのですよ」
銀行家は、優位に立てる機会がついに来たと思った。彼は椅子にふんぞり返り、尊大な笑みを浮かべて、
「いえ、ご遠慮なく、お望み通りをおっしゃって下さい。そうすれば、ダングラール商会の取引額が、なるほど制限はあるが、どんな大きな要求にも応じられるものであることをおわかり願えるでしょう。たとえあなたが百万要求なさったとしても……」
「もう一度おっしゃって下さい」モンテ・クリストが聞き返した。
「百万と申し上げたんですよ」ダングラールが、自分の馬鹿さ加減に気づかず平然と繰り返した。
「百万ぽっちがなんのたしになりますか、これは驚きましたな」伯爵が言った。「もし百万ぽっちしかいらないんなら、そんなはした金のために貸付口座など作りませんよ。百万ですって? 百万なんて金は、いつだって私の財布か、旅行鞄の中に入ってますよ」
こう言ってモンテ・クリストは、名刺入れから、国庫金出納所で持参人に支払われる、五十万フランの手形を二枚とり出した。
ダングラールのような男は、ちくりと刺したぐらいでは駄目で、ぶちのめしてやらねばならないのだ。この打撃は効いた。銀行家はふらつき、めまいを感じた。彼はモンテ・クリストにうつろな目を見開いたが、その瞳孔は、恐ろしいほど拡大していた。
「さあ、正直におっしゃったらどうです」モンテ・クリストが言った。「あなたは、トムスン・アンド・フレンチ商会を信用していないのでしょう。いや、べつになんでもありません。こんなこともあろうかと思って、私はこういうことには素人ですが、それなりの手は打っておきましたから。この二通の手紙は、あなた宛のものと同じものです。一通は、ウィーンのアレシュタイン・ウント・エスコレス商会からロスチャイルド男爵宛、もう一通は、ロンドンのベアリング商会からラフィット氏宛のものです。一言おっしゃって下さい、そうすれば、もうご迷惑はおかけしません。この二つの商会のどちらかに参りますから」
勝負は終った。ダングラールは負けたのである。彼は、わなわなとふるえる手で、伯爵が指の先につまんで差し出したウィーンからの手紙と、ロンドンからの手紙をひろげた。そして、もしモンテ・クリストが銀行家のうろたえぶりを斟酌《しんしゃく》してやらなかったら、ひどい侮辱を感じたほど細心に、通知書の署名を確かめた。
「ああ、この三つの署名はなん百万もの価値があります」ダングラールは、目の前の男がその権化である金の力に敬礼するためのように立ち上がった。「私どもの国の商会に、三口もの無制限の信用をお持ちとは。失礼いたしました。伯爵、疑いは消えましても、驚きは消えぬものでして」
「いえ、お宅ほどの商会が驚くほどのことではありません」モンテ・クリストがいんぎんに言った。「ではいくらか廻していただけますね」
「伯爵、どうぞおっしゃって下さい。いかようにでもいたします」
「では、話がついたわけですから……話はついたんですね」
ダングラールはうなずいた。
「もうまったく疑念はお持ちではありませんな」モンテ・クリストはなおも続けた。
「ああ、伯爵!」銀行家が叫んだ。「私ははじめからそんなものは持っておりませんでした」
「そうでした。ただ、証拠がごらんになりたかっただけでしたね。それでは」伯爵はまた繰り返した。「話はついたのですし、疑念ももうお持ちではないわけですから、もしよろしければ、初年度用の総額を決めておきましょう。たとえば、六百万」
「六百万、わかりました」ダングラールは息をつまらせた。
「もし、もっと入用になったら」モンテ・クリストが機械的に言った。「額を上乗せしましょう。が、私はフランスには一年しかいないつもりです。この一年の間にはこの額を超えることもありますまい……ま、それは後の話として……では、まず手はじめに、明日五十万フランお届け下さい。正午までは家におります。それに、もし私がいなくても、執事に受領証を渡しておきますから」
「伯爵、金は明朝十時にお届けします」ダングラールが答えた。「金貨と札とどちらにいたしましょう、それとも銀貨」
「金貨と札を半々にして下さい」
こう言って伯爵は立ち上がった。
「一つだけ正直に申し上げたいことがございますが」今度はダングラールが言った。「私はヨーロッパの大きな財産のことなら、すべて正確に知っていると思っておりましたが、あなた様のは、どうやら大そうなものにお見受けしますが、これは私もまったく存じませんでした。最近入手なさったものでしょうか」
「いえ、その反対で、ひどく古いものです、今まで手をつけることが許されず、そのため積り積った利子が元本の二倍にも三倍にもなった遺産なのです。遺言者が設定した期限に来たのはほんの数年前のことでした。ですから、私が使い始めてからまだなん年もたっていません。あなたがご存じないのも当然至極な話です。それに、近いうちに、もっとよくおわかりになりますよ」
伯爵は、この言葉に、フランツ・デピネをぞっとさせた、あの蒼白な微笑を添えたのであった。
「あなたのご趣味とご意志とで」ダングラールが続ける。「この首都に贅《ぜい》を尽した暮らしぶりを披露なさって、われわれけちな金持ち連を圧倒なさることでしょうな。が、先程私が入って参りましたとき、絵をご覧になっていたところを見ますと、お好きなようにお見受けますので、私の集めましたものをご覧に入れたいと存じますが。みな古いものばかりで、然るべく声価の定まった巨匠のものばかりです。私は最近のものは好かないので」
「おっしゃる通りですよ。新しいものは、みな一つの大きな欠点を持っていますからね。つまり、古くなるだけの風雪に耐えていないという」
「トルワルドセン、バルトロニ、カノヴァの像をいくつかお見せしましょうか、みな外国のものばかりで、ご覧の通り、私はフランスの芸術家は、あまり高く買いません」
「あなたには、彼らを不当に評価する権利がおありです。みなあなたの同国人ですからね」
「しかし、そういうことは後ほど、もっとよくお知り合いになってからのことに致しましょう。今日のところは、もしお許しいただければ、家内にお引き合わせするだけにとどめておきますが。あまり性急で申し訳ありませんが、あなた様のようなお得意様は、家族同様に思えますので」
モンテ・クリストは、銀行家が自分に対して示してくれる好意を、ありがたくお受けするというしるしに頭を下げた。
ダングラールがベルを鳴らした。けばけばしいお仕着せを着た召使いが現われた。
「奥様はお部屋かね」ダングラールが訊ねた。
「はい、男爵様」
「お一人か」
「いえ、お客様がおいでです」
「ほかの人の前でご紹介しても、失礼ではございませんな伯爵。べつにおしのびというわけでもございませんでしょう」
「ええ」笑いながらモンテ・クリストが言った。「私にそんな権利があるとは思いません」
「どなたが奥様の所にいるのだ。ドブレさんか」ダングラールが訊ねた。そのお人よしぶりが、この銀行家の家の中の公然の秘密をすでに知っているモンテ・クリストを、腹の中で笑わせた。
「ドブレ様でございます、男爵様」
ダングラールはうなずいた。
そして、モンテ・クリストのほうを向き、
「リュシヤン・ドブレ氏は、私どもの家の古くからの友人なのです。内務大臣秘書官をしています。家内のほうは、私と結婚しましたため身分を落としました。と申しますのは、古い家柄の出でして、セルヴィエール家の娘です。侯爵ナルゴンヌ大佐の未亡人でした」
「私はまだダングラール夫人には拝顔の栄に浴しておりませんが、リュシヤン・ドブレ氏にはすでにお会いしました」
「ほう、いったいどこで」
「モルセール氏のお宅で」
「ああ、あの息子の子爵のほうとお知り合いなのですね」
「カーニヴァルのとき、ローマに一緒におりました」
「ああ、そうでした。山賊だか盗賊だかと遺跡の中で、奇妙な事件があったとかいう話を聞いたようでしたな。奇蹟的に救われたとか。子爵がイタリアから帰ったとき、そんな話を家内や娘にしていたように思います」
「奥様がお越しをお待ちでございます」召使いがまた来てこう言った。
「先に立って、ご案内いたします」ダングラールが一礼しながら言った。
「ではお供いたします」モンテ・クリストが言った。
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四十七 連銭葦毛《れんせんあしげ》
男爵は、伯爵の先に立って、ごてごてと飾りたて、悪趣味をさらけ出した豪奢な部屋をいくつも通り抜けて、夫人の私室に案内した。バラ色のサテンの上にインドのモスリンを張った、八角形の小さな部屋である。椅子は、金泥をほどこした古木で、古い布が張ってある。ドアの上部にはブーシェ風の牧人たちの姿が描かれている。そして、丸い額に入った二枚の美しいパステル画が、他の調度と調和を保ち、この小さな部屋を、邸内でただ一つの、なんらかの風格のある部屋にしていた。じつは、この部屋は、ダングラールと建築家の間で決定された邸全体のプランの適用を免れ、帝政風の部屋として最も高い評判を得ていた部屋の一つとなっていた。この部屋の室内装飾は、男爵夫人とリュシヤン・ドブレだけが決定し、他人に口を入れさせなかった。執政官時代流の古代趣味を持つダングラールは、このしゃれた小部屋をひどく軽蔑していた。それに、誰か客を伴うという口実がなければ、ふつう彼はこの部屋には入れてもらえなかった。だから、事実上は、ダングラールが客を夫人に目通りさせるのではなくて、反対に、客が彼を夫人に目通りさせるのであった。しかも、客の顔立ちが夫人に気に入るか入らぬかによって、いい顔をされたり不快な顔をされたりしたのだ。
ダングラール夫人は、三十六歳という年にもかかわらず、まだまだその美しさをとくに記しておくに価した。寄木細工のささやかな傑作といえるピアノの前に坐っている。一方、リュシヤン・ドブレは、机の前に坐って、アルバムをめくっていた。
リュシヤンは、伯爵がこの部屋に来るまでに、伯爵に関することを十分に夫人に伝える暇があった。アルベールのもとでの昼食の際に、モンテ・クリストがどれほど強い印象を会食者一同に与えたかは、読者諸子がすでにご存じの通りである。ドブレがいかに、そう簡単に感動するたちの男ではなかったにしても、この印象はまだ消えてはいなかった。彼が夫人に伯爵のことを話した言葉にも、その影響が尾を引いていた。夫人の好奇心は、前にモルセールから聞き、今またリュシヤンから聞いた話でかきたてられ、その頂点に達していたのである。だから、夫人がピアノの前に坐り、ドブレがアルバムを繰っていたのは、最大の関心事をかくすための、社交界の一寸した手管にすぎなかった。したがって、男爵夫人はいつになくにこやかにダングラールを迎えたのであった。伯爵のほうは、彼が一礼したのに対して、儀式ばってはいるが、同時にしとやかな尊敬の念のこもった挨拶を返されたのである。
リュシヤンは伯爵とは、すでに知人になりかけている者同士の挨拶を交わし、ダングラールとは親しい者が交わす身ぶりを示した。
「男爵夫人」ダングラールが言った。「こちらはモンテ・クリスト伯爵だ。ローマの取引先が、この上もなく折入った紹介状を添えて、私の所へ紹介してくれた方だ。私が一言言えば、たちどころにパリ中の美しいご婦人方の寵児におなりになるだろう。伯爵は一年のご予定でパリにおいでになった。この一年間に六百万お使いになるとおっしゃる。ということは、舞踏会、晩餐《ばんさん》会、大宴会の連続が約束されているわけだ。ぜひ私どものこともお忘れにならぬよう念じている。もちろん私どものささやかなパーティーには必ずご招待申し上げるつもりだから」
紹介の言葉は、いやらしいほめ方ではあったが、一般的に言って、パリヘ来て一年のうちに王侯貴族の一財産にもあたる金を使ってしまおうとする男は、あまりにも珍しい存在なので、ダングラール夫人は、あきらかに興味を覚えた目つきで伯爵をちらっと見た。
「いつお着きですの……」夫人は訊ねた。
「昨日の朝着きました」
「やはり、いつものように、これは人から聞いたのですけれど、地の果てからおいでになりましたの」
「今回はただカディスからです」
「ほんとにひどい時期においでになりましたのね、夏のパリはやりきれませんのよ。舞踏会も、集まりも、パーティーもございません。イタリア・オペラはロンドンですし、フランス・オペラは、もうあちこちへ、ただパリにだけはいませんの。コメディー=フランセーズがどこでもやっていないことはご存じでございましょう。ですから気晴しといったら、シャン=ド=マルスとサトリのつまらない競馬ぐらいしかございません。伯爵様は競馬はなさいますの?」
「私は、フランスの風習を上手に教えて下さる方さえみつかれば、パリで人がすることはなんでもしてみたいと思っております」
「馬はお好きなのでしょうね」
「私は生涯の一部を東方で過ごしました。東方の連中は、ご承知のように二つのものしか愛しません、馬の気品の高さとご婦人がたの美しさ」
「まあ、伯爵様、女性を先におっしゃるぐらいの女性への礼儀はわきまえていただかないと」
「これで、先程私がフランスの風習を身につけさせてくれる教師が必要だと申し上げたのが、もっともなことだとおわかりいただけたでしょう」
このとき、ダングラール男爵夫人のお気に入りの小間使いが入って来て、夫人に近寄り、その耳もとになに事かささやいた。
夫人の顔色が変った。
「まさか!」夫人が言った。
「でも、奥様、ほんとうなのでございます」小間使いが答えた。
ダングラール夫人は夫のほうに向き直り、
「あなた、ほんとうなんですの?」
「何がだね」目に見えてうろたえながらダングラールが訊ねた。
「この娘《こ》が言ったことがです……」
「何と言ったのかね」
「この娘は、御者が、馬車にあたくしの馬をつけようとしたら、厩にあの馬がいなくなっている、と申したのです。これはどういうことなのかと伺っているのです」
「それはね」ダングラールが言った。「まあお聞き」
「ええ、伺いましょう。あなたが何とおっしゃるか、大へん興味がございますからね。ここにおられるお二方に、あたくしどものいずれが正しいかおっしゃっていただきましょう。まずあたくしから申します。みなさん」夫人は続けた。「ダングラール男爵は厩に馬を十頭持っています。その十頭の中に、あたくしの馬が二頭ございます。美しい馬で、パリ随一の馬です。ドブレさんはご存じですわね、あたくしの連銭葦毛《れんせんあしげ》を。ヴィルフォール夫人が、明日ブーローニュの森へおいでになるというので、あたくしの馬車をお貸しする約束なのですけれど、今になって、あの二頭の馬が見当らないのです。主人は、あれでなん千フランか儲かることになったんで、きっとあれを売ったんですわ。ほんとうに、投機家なんて、なんていやらしい人種なんでしょう!」
「あの馬はね」ダングラールが答えた。「元気がよすぎたのだよ。あれはまだ四歳になったばかりだ。あれのおかげで私はお前の身が心配でたまらなかった」
「なにをおっしゃるんですか。あたくしは一月前から、パリ随一の御者を使っているんですのよ。もっとも、あなたがあの御者も馬と一緒に売っておしまいにならなければ、の話ですけど」
「あのなあ、あれと同じぐらいの馬、いやもしいれば、もっと良い馬をみつけて上げよう。ただし、もっとおとなしくて穏やかなのを。私にもうあんなひどい心配をさせない馬だ」
夫人は、腹の底からの蔑《さげす》みを見せて肩をすくめた。
ダングラールは、この態度が夫婦の間のしぐさの域を越えていることには少しも気づく様子もなく、モンテ・クリストのほうを向き、
「まったく、もっと早くお近づきになっていればよかったと思いますよ。もうお宅のほうは調度など整いましたでしょうか」
「もちろんです」伯爵が言った。
「あなたにあの馬をおすすめすればよかった。あの馬をただみたいな値段で譲ってしまったのですからな。ですが、今申し上げた通り、私はあれを手放したかったのですよ、若者向きの馬ですから」
「お志ありがたく存じます。じつは今朝、かなり良い馬で、しかもあまり高くないのを買いましてね。ほら、ドブレさん、ご覧下さい。あなたも馬はお好きとお見受けしますが」
ドブレが窓へ近づく間に、ダングラールは妻に近寄った。
「考えてもごらん」彼はごく低い声で言った。「あの馬に途方もない値をつけた者がいたのだよ。どこの気違いか知らぬが、あれでは破産しちまうが、今朝その男が執事をよこしてね、私はあの馬で一万六千フラン儲けたというわけだ。そんなふくれ面をするな。お前に四千フラン、それからウジェニーに二千フランやるから」
ダングラール夫人は夫の上に、威圧するような眼差しを浴せた。
「あ!」ドブレが叫んだ。
「どうなさったんですの」夫人が言った。
「だって、私の見まちがいでなければ、奥さんの馬が、奥さんご自身の馬が、伯爵の馬車につながれているんです」
「あたくしの連銭葦毛が!」ダングラール夫人が叫んだ。
そして彼女は窓に走り寄った。
「ほんとうに、あたくしの馬だわ」
ダングラールは茫然としていた。
「まさか、そんなことが」モンテ・クリストが、驚いたふりをしながら言った。
「信じられん」銀行家はつぶやいた。
夫人がなに事かドブレの耳にささやき、ドブレがモンテ・クリストに近づいて来た。
「男爵夫人は、ご主人がいくらであの馬をお譲りしたか伺いたいとおっしゃってますが」
「そうおっしゃられても私はよく知らないものですから、まさか執事がこんなことをするとは。それに……、たしか三万フランだったと思うのですが」
ドブレはこの返事を夫人に伝えに行った。
ダングラールが、青い顔をし、あまりにもうろたえているので、伯爵はいささか気の毒になったようである。
「ご婦人方というものは」伯爵がダングラールに言った。「まことに恩知らずなものですな。せっかくあなたが親切心からしてあげたことにも、奥さんは一瞬の間も心を動かされない。恩知らず、という言葉はあたりません、どうかしている、と申すべきでしょう。ですが、止むを得ませんな、人はつねに害をなすものを好むものです。ですから、一番簡単なのは、いつでもご婦人方に自分の判断通りにさせておくことです、ほんとうですよ、男爵。もしそれで、頭をぶち割るようなことになっても、自分の責任にしか、しようがありませんからね」
ダングラールはなにも答えなかった。彼は、ごく近いうちに、すさまじい夫婦喧嘩になるぞと思っていたのだ。すでに男爵夫人は眉をしかめ、オリンポスのジュピターの眉のように、嵐の到来を知らせていたのだ。ドブレは嵐が高まりつつあるのを感じて、用事があると称して帰ってしまった。モンテ・クリストは、それ以上長くとどまって、彼が手に入れようとしている立場を損なってはならぬと思い、ダングラール夫人に一礼すると、男爵を夫人の怒りにさらしたまま退去した。
『よし』退出しながらモンテ・クリストは心のうちに思った。『これで、俺は目的を達した。今やあの夫婦間の平和は俺の手中にある。そして、夫の心も妻の心も一挙にひきつけてしまうことができる。なんという幸運か、だが』彼はつけ加えた。『今日のところはウジェニー・ダングラール嬢には紹介してもらえなかったな。顔が見られればありがたかったのだが。しかし』と、彼は、彼独特の笑いを浮かべて、『お互いにパリにいるのだ。まだいくらでも暇はある……いずれ会える……』
こう考えて、伯爵は馬車に乗り自宅に戻った。
二時間後に、ダングラール夫人はモンテ・クリスト伯爵から一通の好もしい手紙を受け取った。それには、美しいご婦人を嘆かせたままパリ社交界にデビューしたくはないので、夫人の馬をお返しするから受け取ってほしい旨が認められていた。
馬には、夫人が朝見たときと同じ馬具がつけられていた。ただ、両方の耳の所にリボンの花飾りがつけられていて、その真中に、伯爵はダイヤを一つずつ縫いつけておいた。
ダングラールも手紙を受け取った。
伯爵は、男爵夫人に金持ちの気まぐれからの贈り物をしたことの許しを乞い、さらに、東洋風な馬の返し方をしたことを詑びていた。
夕方、モンテ・クリストはアリをつれて、オートゥイユに向かった。
その翌日、三時頃、呼鈴が一回鳴らされて呼ばれたアリが、伯爵の書斎に入って来た。
「アリ、お前はいつも投縄の名手だと言っていたね」
アリはうなずいてから、誇らしげに頭をあげた。
「よし、それなら、投縄で牛を捕まえることができるか」
アリはうなずいた。
「トラは」
またうなずく。
「ライオンは」
アリは投縄を投げる身ぶりをし、それから首を締められて呻くまねをしてみせた。
「よし、わかった。お前、ライオンを獲《と》ったことがあるのか」
アリは誇らしげにうなずく。
「だが、走っている二頭の馬を捕まえることができるかな」
アリはにこっと笑った。
「それでは、いいか」モンテ・クリストが言った。「もうすぐ、昨日私が持っていたあの連銭葦毛に、猛烈な勢いで引かれた馬車が通る。たとえ踏みつぶされようとも、邸の門前でその馬車を止めるのだ」
アリは通りへ降りて行って、門前の敷石の上に一本の線を引いた。そして、また戻って来ると、アリを目で追っていた伯爵にその線をさし示した。
伯爵はそっとアリの肩を叩いた。これがアリに礼を言うときの伯爵のやり方だったのだ。それからヌビア人は、邸と通りの角の車よけの石の所へ行き、それに腰をおろして長ぎせるをふかした。一方モンテ・クリストは、もはやなに事も考えぬかのように家の中に戻った。
けれども、五時頃、つまり伯爵が馬車の到来を予期していた時刻になると、かすかな焦慮の念が彼の心に生まれたのが、わずかながら感じられた。彼は通りに面した部屋の中を、時折耳をそばだてながら歩き廻っていた。時々窓に近寄っては、窓ごしにアリが規則正しく煙草の煙を吐いているのを見た。このヌビア人がこの重大な使命に全身を投入していることを示すものである。
突然、遠くのほうで車の音がした。だが、その音は急速に近くなる。そして、一台の四輪馬車が見えた。御者が必死になって馬を止めようとしているが、馬は猛り狂い、たてがみを逆立て、すさまじいスピードで突進して来る。
馬車には、一人の若い婦人と七つか八つの子供が乗っていたが、互いにひしと抱き合い、恐怖のあまり悲鳴を上げる力さえなくしていた。車輪の下に、石ころ一つ、からみつく木の枝一本でもあれば、きしみゆらいでいる馬車は微塵に砕けてしまったであろう。馬車は道路の真中を走っていた。通りで、馬車が来るのを見ていた者たちの悲鳴が聞こえた。
と、アリが長ぎせるを置き、ポケットから投縄を取り出し、さっと投げた。右側の馬の前脚に縄が三重にからみつく。激しい衝撃でアリが三、四歩引きずられる。だが三、四歩走った所で、脚をとられた馬は、轅《ながえ》の上に横倒しになり轅をへし折った。これがまだ立っていたもう一頭のなおも前進しようとする努力を空しいものにする。御者はこの一瞬の隙を捉えて御者台から飛び降りた。が、その時すでにアリは、その鋼《はがね》のような指でまだ立っている馬の鼻孔を掴んだ。馬は苦痛のいななきを洩らしながらすでに倒れていた馬のわきに横倒しになって、ひくひくと馬体をふるわせた。
この間、銃弾が的を射抜くのに要する時間しかかかっていない。
しかし、その門前で事故が起きた邸の主人がなん人かの召使いを従えて飛び出して来るだけの時間はあった。御者が馬車のドアを開けるや、その邸の主人は馬車から、一方の手でクッションを掴み、一方の手で気絶したわが子をひしと胸にかき抱いている婦人を抱き降ろした。モンテ・クリストは、その二人をサロンに抱いて行き、ソファーに横たえた。
「もうご心配ありません、大丈夫です」モンテ・クリストが言った。
婦人は正気に返った。そして答える代わりに、どのような哀願の言葉よりも雄弁な眼差しで、わが子をさし示した。
事実、子供はまだ気を失ったままであった。
「ええ、奥さん、お心はわかります」伯爵が子供を調べて言った。「ですが、ご安心下さい。どこも悪い所はありません。ただあまり恐かったのでああなっただけです」
「でも」と母親は叫んだ。「あたくしを安心させようと思ってそうおっしゃってるのではございませんの? ご覧遊ばせ、あんなに青い顔をして。坊や、坊や、エドワール! お母さんに返事をしてちょうだい。あの、お医者様を呼んで下さい。子供を返して下さった方に、全財産をさし上げます!」
モンテ・クリストは、泣きくれる母親をなだめるようなしぐさをした。そして一つの箱を開け、ボヘミヤのびんを取り出した。金が象眼してあって、血のように赤い液体が入っている。そのわずか一滴を、子供の唇の上に落とした。
子供は、相変わらず顔の色は青かったが、すぐに目を見開いた。
これを見た母親の喜びは、狂喜に近かった。
「ここはどなたのお邸なんですの」彼女は叫んだ。「あんな恐ろしい試練の後で、こんな幸福を与えて下さった方は、いったいどなたなのでしょう」
「奥さん」モンテ・クリストは答えた。「ここは、あなたに母親の嘆きを与えずにすんで、ほんとうに喜んでいる男の邸です」
「ああ、あんな物好きを起こしたのがいけなかったんです。パリ中がダングラール夫人の見事な馬の噂でもちきりでした。で、あたくし、その馬を使ってみようなどと、馬鹿なことを考えて」
「なんですって」伯爵は、見事な演技で驚いたふりをしながら叫んだ。「あの馬は男爵夫人の馬だったんですか」
「そうなんです。あの人のことをご存じですの?」
「ダングラール夫人をですか?……存じております。あの馬のためにさらされた危険からお助けできたとあれば、私の喜びは倍加されます。と申しますのは、もしものことがあれば、その責めは私にあるのですから。私はあの馬を昨日男爵から買ったのです。しかし、夫人があまりにもあの馬を惜しがっておられるご様子なので、昨日、どうぞお受け取り下さいと言って、お返ししたのですから」
「では、あなた様はモンテ・クリスト伯爵様ですのね、エルミーヌから昨日たんとお噂を伺いました」
「そうです」伯爵が言った。
「あたくしは、エロイーズ・ド・ヴィルフォールでございます」
伯爵は、まったく未知の名前を聞いた男のように一礼した。
「ああ、ヴィルフォールもどれほど感謝いたすことでしょう。だって、あたくしども二人の命の恩人なのですもの。あなた様は、あの人に妻と子とをお返しになったのです。あの勇敢な召使いの方がいらっしゃらなければ、まちがいなく子供もあたくしも死んでおりましたもの」
「ああ、奥さん。私は今でも、あなたがさらされた危険のことを思うとぞっとします」
「あの召使いの方の献身的な働きに、十二分にお礼をさせていただけますわね」
「奥さん」モンテ・クリストが答えた。「どうか、ほめたり、礼をやったりしてアリを甘やかさないで下さい。あれにそういう習慣はつけさせたくありません。アリは私の奴隷なのです。あなた方のお命を救うことによって、あれは私に仕えたのです。私に仕えること、これはあれの義務なのです」
「でも、あの方は自分の命を投げ出して下さったんです」邸の主人の声音に異様な威圧を覚えたヴィルフォール夫人が言った。
「その命は私が救ったものです。したがって、あれの命は私のものです」
ヴィルフォール夫人は黙った。おそらく、最初会った瞬間から人の心に深い印象を与えるこの男のことを考えていたのであろう。
この沈黙の間に、伯爵は、母親が接吻の雨を浴びせているその子供を思うさま観察することができた。小さく、ひ弱で、赤毛の子のように肌が白い。しかし、どうカールしようにも始末におえないふさふさとした黒い髪が、おでこの額にかぶさり、顔を縁どって肩まで垂れていて、陰険な悪意と子供のいたずらっぽさに満ちたその目の光をきわ立たせていた。やっと赤味をとり戻したその口は、唇が薄く大きい。この八つの子の顔立ちは、すでに少なくとも十二歳の子のものである。まずこの子がしたことは、乱暴に身体をゆすって母の腕から身をふりほどくと、伯爵があの不死の妙薬を取り出した箱を開けに行くことであった。そして、即座に誰にもその許可を求めずに、どんなわがままも満たしてもらうことに慣れている子供らしく、びんの口を片端から開け始めた。
「坊や、さわっちゃいけない」伯爵が急いで言った。「その薬の中には危ないものがある。飲まなくても、嗅いだだけでも」
ヴィルフォール夫人は青くなった。そして、子供の腕をおさえ、わが子を引き寄せた。が、不安が静まると、夫人は短い、しかし、心の底をあらわにした視線をその箱に投げた。伯爵はその視線を捉えた。
このときアリが入って来た。ヴィルフォール夫人はうれしそうな様子を示した。そして、子供をさらに引き寄せながら、
「エドワール、あの召使いの人なのよ。とっても勇敢なの。あたしたちを引っ張ってた馬と、もう少しで滅茶滅茶になるところだった馬車を止めるために、命を投げ出してくれたのよ。だから、お礼をおっしゃい。だって、あの人がいなければ、きっと今頃は二人とも死んでいたにちがいないんですもの」
子供は口をとがらせて、蔑むように横を向いた。
「あんまり汚ない顔をしてるんだもの」子供は言った。
伯爵は、心に願っていたことの一つをその子がかなえてくれたように、笑みを洩らした。ヴィルフォール夫人のほうは、わが子を叱りはしたが、もしエドワールがエミールであったならば、ジャン=ジャック・ルソーの好みには決してあわなかったであろうような、ごく控え目な叱り方であった。
「いいか」伯爵がアラビア語でアリに言った。「このご婦人は、お前がお二人の命を救ったのだから、お前にお礼を言うように、と坊ちゃんに言ったのだ。するとこの坊ちゃんは、お前があんまり汚ない顔をしているんだもの、と答えたのだ」
アリは一瞬、その聡明な頭をめぐらし、上べはなんの表情も見せずにその子供をみつめた。しかし、その小鼻がかすかにふるえたのを見て、モンテ・クリストは、このアラビア人が心を深く傷つけられたことを知った。
「伯爵様」ヴィルフォール夫人が暇を告げるために立ち上がりながら訊ねた。「こちらにいつもお住まいなのでしょうか」
「いえ、これはただ別荘として買った家です。私はシャン=ゼリゼー二十番地に住んでおります。ところで、すっかりお元気になられたようですし、お帰りになりたいご様子。私の馬車にあの馬をつけるよう命じました。アリが、あんな汚ない顔をしているあのボーイが」と子供に笑いかけて、「お宅までおつれします。その間に、御者の方がここで四輪馬車を直します。どうしても必要なこの仕事がすみ次第、私の馬をつけて直接ダングラール夫人の所へ馬車を返させましょう」
「でも」ヴィルフォール夫人が言った。「あの馬では、とてもあたくし帰れませんわ」
「まあ見ていてご覧なさい」モンテ・クリストは言った。「アリの手にかかれば、あの馬も、仔羊のようにおとなしくなりますよ」
見れば、大へんな苦労をしてやっと立たせた馬に、アリが近づいていた。アリは気つけ薬をしみこませた海綿を手にしている。彼はその海綿で、馬の鼻孔と、汗と泡にまみれているこめかみのあたりをこすった。すると、すぐさま馬は大きな鼻息をならし始め、しばらく馬体全体をふるわせた。
そして、こわれた馬車の姿や事件の噂を聞きつけて門前に集まった多くの群衆のさなかで、アリは伯爵の馬車《クーペ》に馬をつけ、手綱を束ねて御者台に乗った。すると、見物人たちが驚いたことには、あの、まるでつむじ風にさらわれたかのように猛り狂っていたその馬を走らせるために、アリは力まかせに鞭《むち》を当てねばならなかったのである。それでもなお、この有名な連銭葦毛は、今はすっかり駄馬となってしまい、まるで走らず、まるで死にかけたようなよたよたとおぼつかない走り方しかしなかったので、ヴィルフォール夫人がその住まいであるフォーブール・サン=トノレまで帰るのに、二時間もかかった。
自宅に着き、家族たちの驚きも静まると、夫人はダングラール夫人に次のような手紙を認《したた》めた。
『エルミーヌさま
昨夜あなたとあれほどお噂申し上げたあのモンテ・クリスト伯爵に、子供と二人、奇蹟的に命を救けていただきました。まさか今日あの方にお目にかかるなんて、夢にも思っていなかったわ。昨日は、あなたがあまりあの方のことをほめそやすので、私は小さな頭をせいいっぱい使ってあなたをからかってしまったけど、今日は、あなたのあのお熱ぶりも、あなたをそうさせた当のお方にくらべれば、まだまだとても足りないと思うの。あなたの馬がラヌラグ〔ブーローニュの森に近い遊歩道〕で、まるで気が狂ったように暴れだし、エドワールも私も、街道の並木か村の境界石かにぶつかって、こなごなになってしまうところでした。この時、一人のアラビア人、ニグロ、ヌビア人、要するに伯爵に仕えている一人の黒人が、たぶんあの方に指図されてのことと思うけど、自分がひき殺されるかもしれないのに、すごい勢いで走っている馬を止めてくれたの。あの黒人がひき殺されなかったなんて、ほんとうに奇蹟的です。そのとき、伯爵がかけつけて、エドワールと私をお宅に運んで下さったんです。そして、子供を正気に戻らせてくれました。私は家に、伯爵の馬車で戻りました。あなたの馬車は明日お返しするはずです。あの事故以後、あなたの馬はすっかり弱ってしまっています。まるで≪ふぬけ≫になったみたい。一人の男に屈服させられてしまった自分にがまんがならないと思っているみたいです。伯爵から、敷わらの上に寝かせて、かいばは大麦だけにして二日間休ませれば、前と同じ元気な状態に戻るとお伝えしてくれとのことでした。ということは、昨日と同じ恐ろしい馬に戻るということね。
さようなら、あの遠出ができたことのお礼は言わないわ、でも考えてみれば、あなたの馬が急に妙な気を起こしたからって、あなたを恨むのは恩知らずかもしれないわね。だって、妙な気を起こしてくれたおかげで、私はモンテ・クリスト伯爵にお会いできたんですもの。あの有名な外国の方は、なん百万というお金を自由にできる方ということはさておいても、不思議に興味をひかれる方だから、私はなんとしてでもあの方が、どういう方なんだかよくよく見きわめさせていただくつもり。そのために、またあなたの馬でブーローニュヘ遠出しなければならないとしてもね。
エドワールは、すばらしい勇気であの事故に耐えたわ。気を失いはしたけど、でも、それ以前に悲鳴一つ上げなかったし、正気に戻ってからも涙一つ見せなかったの。あなたはまた私の母性愛が私を盲にしてるとおっしゃるでしょうけど、でもあの子のあんなひ弱できゃしゃな小さい身体の中には、鋼のような魂が入っているのよ。
娘のヴァランチーヌがお宅のウジェニーにくれぐれもよろしくって。私は、心をこめてあなたに接吻を送ります。
エロイーズ・ド・ヴィルフォール
追伸 お宅でモンテ・クリスト伯爵とご一緒できる機会を作ってよ。どうしても、もう一度お会いしたいの。それに、ヴィルフォールに、伯爵をお訪ねするよう約束させました。あの方がこの訪問を返して下さるといいけど』
夕方になると、このオートゥイユの出来事は、あらゆる人々の話題にのぼった。アルベールは母親に語り、シャトー=ルノーはジョッキー=クラブで、ドブレは大臣のサロンで話した。ボーシャンまでもが、彼の新聞の雑報欄に二十行の記事を載せて、伯爵をほめそやし、貴族のご婦人方すべてに、この気品高き外国人を英雄視させてしまったのである。
多くの人々がヴィルフォール夫人のもとを訪れた。これは、いずれしかるべき時にまた訪れて、この目覚ましい事件を詳しく夫人自身の口から聞く権利を確保するためであった。
ヴィルフォールは、エロイーズが言ったように、黒の燕尾服に白の手袋をつけ、最高の仕着せを着せた召使いをつれて馬車に乗った。馬車はその夜シャン=ゼリゼー三十番地の門前に止まった。
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四十八 イデオロギー
もしモンテ・クリスト伯爵が、ずっと以前からパリの社交界で暮らしていたなら、このヴィルフォールの彼に対してとった態度が、どれほどの好遇を意味するものであったかを、十分に理解することができたであろう。
時の王朝が、長子系であろうと次子系であろうと、また時の内閣が、正理論派であろうと、自由主義派であろうと、保守派であろうと、つねに宮中の覚えめでたく、政治的失脚をかつて経験したことのない者を一般に有能とみなす意味で、有能な男と万人から認められ、歩くの者から忌み嫌われながら、つねになにがしかの熱烈な庇護者を持ち、それでいてなんぴとからも愛されることのなかったヴィルフォールは、司法界での最高の地位を占めていた。アルレーないしモレ〔ともに十六、七世紀のパリ最高法院裁判長〕に匹敵する地位である。彼の家のサロンは、若い妻と、初めの結婚でもうけたまだわずか十八歳の娘とで若返ってはいたが、伝統を固く守り、しきたりを至上のものと心得るあの厳格なパリのサロンたることを失ってはいなかった。冷ややかな礼節、政府の考え方への絶対的忠誠、理論ならびに理論家への強い軽蔑、観念論者に対する激しい嫌悪、これがヴィルフォールが公私ともにわたる生活信条として公言しているものであった。
ヴィルフォールは単に司法官であったばかりではなく策謀家でさえあった。彼がつねに威厳と尊崇の念をもって語る、前の王朝との彼のつながりは、新王朝の人々に彼を尊敬させたし、該博《がいはく》な知識は、彼に遠慮をする気を起こさせたばかりではなく、時には彼に意見を求めさせさえした。もしヴィルフォールを除去してしまうことができれば、事態はおそらくこうはならなかったであろう。しかし、ちょうど君主に叛逆する封建諸侯のように、彼は難攻不落の城砦に住んでいた。その城砦とは、彼が検事であったということである。彼はその立場をフルに利用していた。そして、もしこの地位を彼が捨てるとすれば、それは議員に選出され、それまでの厳正中立を反対の立場に変える時であったろう。
原則として、ヴィルフォールは、人を訪問したり答礼の訪問をしたりすることはめったになかった。妻が彼の代わりに訪問をした。これを社交界では、司法官としての重大かつ数多い職務を斟酌《しんしゃく》して、当然のことと認めていたが、じつは、自尊心からくる計算、貴族の考え方の精髄にほかならなかった。要するに、『尊大なふりをせよ、さらば汝は尊ばれん』という格言の実行にほかならなかったのである。この格言は、『汝自身を知れ』とのギリシアの格言にくらべれば、わがフランスの社会においては百倍も有効で、このギリシアの格言は、今日では、他人を知るという、より容易で有利な技術に置きかえられてしまっている。
彼の味方にとっては、ヴィルフォールは強力な庇護者であり、敵にとっては、陰険な、それでいて仮借なき相手であった。敵でも味方でもないものにとっては、法の権化であった。尊大な物腰、感情を表わさぬ顔、どんより曇っていながら、横柄に人を刺すようにじろじろ見る目、これが四つの革命を一つ一つ、巧妙に積み上げて、己が台座を築き不動のものとしたこの男の姿なのであった。
ヴィルフォールは、フランス中で最も好奇心の少ない男、最も低俗ならざる男と言われていた。毎年一回舞踏会を催したが、十五分しか、つまり、国王が自ら催すものに臨席する時間よりも四十五分間少ない時間しか姿を見せなかった。いまだかつて、劇場、音楽会等いかなる公共の場所でも、彼の姿を見かけた者は一人もない。時折、それもごくたまに、ホイスト〔トランプの遊び〕をすることはあったが、家人は彼にふさわしい相手を選ぶように心がけた。大使とか、大司教、大公、議長、公爵未亡人といった顔ぶれである。
モンテ・クリストの門前に止まった馬車の主は、こんな人物であった。
召使いがヴィルフォールの来訪を告げに来たとき、伯爵は大きな机の上に身をかがめて、ペトログラード〔現在のサンクトペテルブルク〕から中国に至る経路を地図で辿っているところであった。
検事は、法廷に入るときと同じ厳めしく規則正しい足どりで入って来た。それは、われわれがかつてマルセーユで検事代理として見たのと同じ男、あるいはむしろ、あの男のその後の姿であった。つねにその掟を枉《ま》げることのない自然の歩みは、彼に対しても、その辿るべき流れをいささかも変えてはいなかった。ほっそりとしていた身体は痩せ細り、蒼白い肌は黄色くなった。奥目は落ちくぼみ、金の柄のついた眼鏡は、眼窩《がんか》にのせられると、顔の一部のように思えた。白いネクタイを除けば服はすべて黒。そしてこの喪の色を破るものは、絵筆で引いた血の線とも見える、ボタン穴に通した、目につかぬほどの赤い略綬の縁飾りのみであった。
いかに自制心の強いモンテ・クリストであっても、彼は、挨拶を返す際に、見る目にも明らかな好奇の目で司法官をうち眺めた。司法官は、例によって疑い深く、とくに世間でもてはやされるものは、かえって信用しない男であったから、この気品高き外国人――世間ではモンテ・クリストをすでにこう呼んでいたのだ――を、法王庁の枢機官、ないしは、アラビアンナイトのサルタンなどとは見ずに、むしろ、新しい舞台を開拓しようとやって来たぺてん師か、居住指定令を破ってやって来た犯罪人と見ようとしていた。
「昨日」とヴィルフォールは、司法官たちが弁論の際にわざと用い、人としゃべる際にも捨てることのできない、あるいは捨てようとしない、あのきんきん響く声音で言った。「家内と伜《せがれ》のためになさって下さったことを聞き、お礼を申し上げるのが義務と心得ました。その義務を果さんがためこうして参上した次第です。心の底から厚くお礼申し上げます」
こう言う間も、司法官の厳しい目は、いつもの横柄な色を少しも失っていなかった。今口に出した言葉を、彼は検事総長としての声で、そして、もう一度繰り返そう、彼のとりまきをして、法の権化と言わしめる、あの首も肩も微動だにさせぬ姿で、言ってのけたのだ。
「私は、一人の母親に子供を失わせずにすんだことを、大へんうれしく思っております」今度は伯爵が氷のように冷たい調子で言い返した。「母性愛ほど神聖なものはないと申しますからね。私にこのような幸せが訪れた以上、あなたに義務など果していただかなくてもよかったのです。こうしてお越しいただけたことは大へん名誉なことなのでしょう。私はヴィルフォール氏が、このような知遇はそうめったに人にはお与えにならぬということを存じておりますから。しかし、そのことがたとえどれほど貴重なことであっても、私の内心の満足に及ぶものではありません」
この予期しなかったなじるような調子に虚をつかれたヴィルフォールは、甲冑の下にぐさりと一撃をくった兵士のように、びくっと身をふるわせた。そうして、唇に浮かんだ蔑むような一本の皺《しわ》は、彼が初めからモンテ・クリスト伯爵を教養ある貴族とは見なしていないことを示していた。
彼は、途切れてしまったまま、話のつぎほの失われた会話を、なんとか続けようと、あたりに視線を投じた。
彼は、自分が入って来たときにモンテ・クリストが調べていた地図を見、また口を開いた。
「地理の勉強をなさっておいでですな。地理は実り豊かな学問です。とくにあなたのような方には。聞くところによりますと、その地図にのっている限りの国々をご覧になったそうですから」
「ええ」伯爵が答えた。「私は、あなたが毎日例外的な連中に対してなさっていること、つまり生理学的研究を、全体として捉えた人類に対して行ないたいと思ってます。その後で全体から部分へ降りて行くほうが、部分から全体に行くよりも簡単に思えるのです。未知から既知へではなく、既知から未知へと進めるのが、数学的公理ですからね……ま、とにかくおかけ下さいませんか」
こう言ってモンテ・クリストは検事に一つの椅子を手で示したが、検事はその椅子を自分で引き寄せねばならなかった。一方伯爵のほうは、検事が入って来たときに膝をついていた椅子にそのまま腰をおろしただけである。こうして伯爵は、窓に背を向け当面の話題となっている地図に片肘をついて、客に対して斜にかまえる形となった。話は、モルセールやダングラールの家で行なわれたときと、情況はともかくとして、少なくとも内容はまったく同じ調子のものになっていった。
「哲学論議ですな」しばしの沈黙の後にヴィルフォールが言った。手強い相手にぶつかったときの闘技者のように、彼はこの間に余力をたくわえていたのである。「ですが、正直に申し上げて、もし私があなたのようになにもしないですむ身分なら、もう少しましな事をやりますな」
「なるほど。顕微鏡で人間を研究する者にとっては、人間など醜悪なうじ虫ですからね。ところで、あなたは、私がなにもしないですむ身分だとおっしゃったようですが、あなたはどうなのです、なにかをしているとお思いなのですか。いや、もっとはっきり申し上げればあなたは、なにかというに価するようなことをしているとお思いなのですか」
この異様な外国人によって痛烈に加えられた第二の打撃に、ヴィルフォールの驚きは倍加した。ずっと以前から、このように強烈な逆説を聞かされたことはなかった。いや、より正確に言えば、このような言葉を聞くのは初めてであった。
検事は反撃にとりかかった。
「あなたは外国の方だ。そして、あなたご自身おっしゃったように思いますが、東方の国々で人生の大半をお過ごしとか、それら野蛮な国々では、裁判は手っとり早く行なわれましょうが、わが国において、裁判がどれほど慎重かつ着実に行なわれるものか、あなたはご存じないのです」
「存じておりますとも。存じています。古人の言う『罰ハ跛《かたよる》』〔罰はただちに来るとは限らぬが必ず来るの意〕です。私は十分に知っておるのです。私はとりわけ各国の裁判を研究しましたのでね。私は各国の刑法を自然法と比較しました。その結果、やはりこう申し上げざるを得ません。私が最も神のみ心にかなっていると思うのは、あの原始人たちの掟、つまり反坐《はんざ》法〔加害者に被害者と同じ苦痛を伴う刑を科する法〕である、とね」
「もし反坐法が採用されれば」検事が言った。「わが国の法典もずっと簡略化されますな。そして、司法官たちも、おっしゃったように、それこそ、大してすることはなくなってしまいますな」
「おそらくそうなるでしょう」モンテ・クリストが言った。「人間の考え出すものは、複雑から単純へと進みます。単純なものこそ完全なものです」
「が、それまでは」司法官が言う。「わが国の法典は現に存在しているわけです。ガリアの慣習法、ローマ法、フランクの慣例等に由来するさまざまな相矛盾する法規が。ところで、これらすべての法規を知るのには、ご同意いただけると思いますが、長い年月の学習を必要とします。そして、一度これを憶えたなら、それを忘れないための強靱な頭脳が要求されます」
「私もそう思います。ただ、あなたがフランス法についてご存じのことはすべて私も知っております。フランス法のみならず、すべての国の法を私は知っているのです。イギリス、トルコ、日本、インド、これらの国の法律を、私はフランスの法律同様に熟知しています。したがって、私にはこう申し上げる資格がある。それは、私がすでにしたことにくらべれば、(なに事も相対的なものですからね)あなたがなすべきことなど無に等しい、私がすでに習得したことにくらべれば、あなたはまだまだ数多くのことを習得しなければならないということです」
「しかし、どういう目的でそのようなものを習得なさったのですか」驚いたヴィルフォールが訊ねた。
モンテ・クリストは笑って、
「なるほど。あなたは世間では卓越した方という評判をとっておられるが、そのじつ、物事すべてを人間に始まって人間に終る、社会の物質的な卑俗な観点からのみご覧になるのですね。つまり、人間の知性が抱き得る、最も限定された最も狭い観点から」
「もう少し説明してもらえませんか」ますます驚きの念を強めながらヴィルフォールが言った。「おっしゃることがわかりません……あまりはっきりとは」
「あなたは、各国民の社会構造にのみ目をすえておられるので、機械のしくみだけしかご覧になってはおらず、それを動かしている神聖な職工の姿が目に入っていないと申し上げているのです。あなたは、目の前にもあるいは周囲にも、大臣ないし国王の署名した辞令により地位を得た者の姿しかご覧になってはいない。神が、地位を与える代りに果たすべき使命を与えられて、そうした地位ある者、大臣、国王などの上に位置せしめた人間たちの姿は、あなたのその狭い視野には入っていないと申し上げているのです。これは、脆弱で不完全な器官を持つ人間の弱さの特性です。トービット〔旧約外典中のユダヤ人、老年になって盲目となり天使ラファエルにより視力を回復した〕は、自分に視力をとり戻させてくれた天使を、ふつうの青年と思っていました。自分たちを滅亡に導いたアッチラを、各民族はほかの征服者たちと同じ征服者と思っていました。その天上よりの使命を知るためには、いっさいが明かされねばなりませんでした。両者の神性を明かすためには、一方は『われは主の天使なり』、他方は『われは神の鉄槌なり』と言わねばならなかったのです」
「それでは」と、ヴィルフォールは、さらに驚きの度を深め、この相手は幻想家か気違いなのではあるまいかと思いながら言った。「あなたはご自分を、今引用なさった、そういう特殊な人物の一人とお考えなのですか」
「当り前でしょう」モンテ・クリストは冷ややかに言った。
「失礼しました」あっけにとられたヴィルフォールが答えた。「しかし、お許しいただけると思います。こちらへ伺う際には、ふつうの人間の知識や頭脳と、これほどまでにかけ離れた知識頭脳をお持ちの方にお目にかかるとは存じませんでしたので。文明に毒されてしまったわが国では、あまり例のないことなのです。あなたのような莫大な富をお持ちの貴族が、少なくともそう伺っております、そういう方が、これはお訊ねしているのではありません、ただ、繰り返し申しますが、それほどの富に恵まれた者が社会的思索や哲学的冥想にふけって時を過ごすことは、あまり例のないことなのです。そうしたものは、せいぜい、運悪くこの世の幸福を与えられなかった連中を慰めるためのものですからね」
「ほう」モンテ・クリストが言った。「それでは、あなたは現在占めておられる高い地位に、これまで、例外というものを認めずに、例外に遭遇することさえなしに到達なさったのですか。今までただの一度も、ご自分の目が見ている男がどういう男か、一目で見破れるようご自分の目を鍛えることをなさらなかったのですか、正確かつ鋭い目がお入用なはずと思いますがね。司法官というものは、法規の最もすぐれた適用者ではなく、わけのわからぬ三百代言的なかけひきに最も長じた者でもなく、人間の心を検査する鋼鉄のゾンデでなければいけないし、個々の魂が多かれ少なかれつねに含有している金《きん》を検出する試金石でなければいけないのではないでしょうか」
「お言葉、恐縮至極です。いまだかつてあなたのようなことをお聞かせ下さった者はありません」
「それはあなたが、一般的な法則が支配している範囲の中に、いつでも閉じこもっておいでだからですよ。あなたはただの一度も、神が、人の目には見えない、例外的と申してもいいのですが、そういう存在を住まわせているより高い世界に羽ばたこうとなさらなかったからです」
「ではあなたは、そういう世界の存在をお認めになっておられるのですか。そういう、例外的な、人の目には見えない存在が、われわれの間にまじっているということを」
「もちろんじゃありませんか、あなたが呼吸し、それがなければ生きていけない空気を、あなたはご覧になれますか」
「では、お話のような存在を、われわれは見ることはできない?」
「できます。神が、その存在が形を持つことを許して下さった場合には、あなたも見ることができます。身体にもさわれるし、肘も触れるし、話しかければ返事もします」
「正直に申して」と、ヴィルフォールは笑った。「そういう人物の一人にお目にかかれると、誰かから知らせてもらいたいものですな」
「お望み通りになっているのですよ。先程ちゃんと申し上げました。もう一度、そう申しましょう」
「では、あなたご自身が?」
「そうです、私はそういう例外的な人間の一人です。今日まで、誰一人として私の今の立場に立った者はいないと思っています。国王の王国は、山とか河とか、風習とか、言語の違いとかによって限界が定められています。ところが私の王国は、世界と同じ大きさを持っています。というのは、私はイタリア人でもなければ、フランス人、インド人、アメリカ人、スペイン人でもない。私はコスモポリタンです。どこの国も、私がそこで生まれるのを見たと言う資格はありません。私がどこの国で死ぬかは、神のみがご存じです。私はあらゆる風習を身につけ、あらゆる国の言葉を話します。あなたは私をフランス人とお思いではありませんか。私は、あなたと同じぐらい楽々と純粋なフランス語を話していますからね。ところで、ヌビア人のアリは、私をアラビア人と思っている。執事のベルトゥチオはローマ人と思い、私の女奴隷のエデはギリシア人と思っています。したがって、おわかりいただけると思いますが、私が、いかなる国にも属さず、いかなる政府にも庇護を求めず、いかなる者も同胞とは認めぬ以上、強者をためらわせる用心、弱者の手足を縛ってしまう障害といったものは、なにひとつ、私をためらわせることもなければ手足を縛ることもない。私に敵対し得るものは二つしかありません。私は、かなわぬ相手とは申しません、不断の努力でこれを克服していますからね。それは距離と時間です。そしてもう一つ、最も恐るべき相手、それは私が死すべき人間であるという条件です。これのみが、私の歩む歩みを途中でとどめることができます。私が辿りつこうとしている目的に達する以前にね。それ以外のことはすべて計算ずみです。人間が運と呼ぶもの、つまり破産、環境の変化、不測の事態、これらはすべて予見しています。そのいずれかが私を襲うことはできても、私を倒すことはできません。死なぬ限り、今の私に変わりはありません。あなたが今まで、たとえ国王の口からも耳にしたことのないことを申し上げたのは、こういう次第だからです。国王はあなたを必要とし、他の者たちはあなたを恐れていますからね。こんな馬鹿げたしくみになっているわれわれ人間社会で、『いつかは俺も検事を相手にする日があろう!』と心に思わぬ者がいるでしょうか」
「しかし、あなたご自身、そのようなことが言えるのでしょうか、今あなたはフランスに住んでおられるのですから、あなたは当然フランスの法律に従わねばならない」
「心得ています」モンテ・クリストは答えた。「ですが、私は、ある国へ行かねばならぬときには、まずその国の、私がなにかを期待できそうな、あるいは恐れねばならない人物をすべて調べ上げるのです。こうして、その人物たちが自分で知っているのと同じぐらい、いやおそらくそれ以上に、その人物のことを知ってしまうのです。これは、それがどんな男であろうと、私の相手になる検事が、私以上に困った立場に置かれてしまうという結果をもたらしてくれます」
「それはつまり」と、ヴィルフォールはためらいがちに言った。「人間は弱いものであるから、どんな人間も、あなたのお考えによれば、……過失を犯すものだ、ということでしょうか」
「過失……、あるいは犯罪をね」モンテ・クリストが無造作に言った。
「そして、あなただけが、あなたが同胞とはお認めにならぬ、そうご自身でおっしゃいましたが、人間の中で」かすかに声を上ずらせながらヴィルフォールが言った。「あなただけが完全無欠な存在だとおっしゃるのですか」
「完全無欠などということはありません。正体を見抜くことができない、というだけのことです」伯爵が答えた。「ですが、もしお気に召さぬようなら、このへんで止めにしておきましょう。あなたが、裏の裏まで見通す私の目を恐れておられる以上には、私はあなたの裁判を恐れてはいませんからね」
「いえ、続けましょう」かぶとを脱いだと思われてはと恐れたのであろう、せきこんでヴィルフォールが言った。「あなたの見事な、崇高とさえ言えるお話で、あなたは私を、常のものではない高みにまで高めて下さいました。もうこれは単なるお話ではありません。議論です。ところで、神学者たちがソルボンヌの講壇において、あるいは哲学者たちがその議論の中で、時折、どれほど苛酷な真理を言い合うものであるかはご承知でしょう。われわれは今、仮に、社会的神学、神学的哲学を論じ合っているといたしましょう。そこで大へん厳しい真実ですが、『友よ、君は自負心に身をゆだねている。君は他よりも高しとしているが、君の上には神があるのだ』と申し上げましょう」
「すべてのものの上にです」モンテ・クリストは、ヴィルフォールが思わずぞっとするほどの、深刻な声音で言った。「私は、自分を踏みつぶさずに面前を通り過ぎる人間には、いつでも鎌首をもたげようとしている蛇のような人間どもに対しては、己を高しとする心を抱いています。しかし、私を虚無の中から引き出して、現在の私を作り給うた神のみ前では、その心を捨てるのです」
「それなら、伯爵、私はあなたを尊敬します」と、ヴィルフォールは、その時まではあなたとしか呼ばなかったこの奇妙な対話で、この外国人を初めて貴族の肩書をつけて呼んだ。「そうです、もしあなたが実際に強力で、実際に他より優越し、実際に神聖、ないし見通し得ぬ存在、おっしゃる通り、これはだいたい同じことですから、そういう存在であるなら、尊大に振る舞われるべきでしょう。それが支配の掟というものです。ですが、あなたも、野心はお持ちでしょう」
「一つあります」
「どのような」
「私も人が誰しも一生にいちどは経験するように、悪魔《サタン》にさらわれてこの世で最も高い山にさらわれて行きました。山頂につくと、サタンは全世界をさし示して、その昔キリストに言ったように、私にこう言ったのです。
『さあ、人の子よ、何をやればこのわしを崇めるか』
そこで私は長いこと考えました。というのは、ずっと以前からある恐ろしい野心が実際に私の胸をさいなんでいたからです。私はこう答えました
『私はつねに摂理という言葉を聞いている。だが、私はついぞこれを見たことがない。それらしきものもだ。このことは、私に摂理など存在しないのではないかと思わせる。私は自分が摂理でありたい。なぜなら、私の知る限りでの最も美しく、最も偉大な、最も崇高なものは、それは善に酬《むく》い悪を懲《こ》らすことだから』
しかし、サタンは面を伏せ吐息をつきました。
『お前はまちがっている。摂理は存在しているのだ。ただお前に見えないだけなのだ。神の娘であるが故に摂理もまたその父と同じように、人の目には見えぬものなのだ。摂理は、秘められた原動力によって動き、人目につかぬ闇の中を進むが故に、それらしきものの影すらお前には見えぬのだ。わしにできることは、お前をその摂理の代行者の一人にすることだけだ』
取引は終りました。おそらくこれで私は己が魂を失ったことになるのでしょう。が、そんなことは意に介しません」モンテ・クリストはさらに語をついだ。「もう一度取引をしなければならなくなったら、私はまたやるでしょう」
ヴィルフォールは、驚愕の極に達してモンテ・クリストを見た。
「伯爵、ご両親はおありですか」
「いいえ、私は天涯孤独です」
「それは残念ですな」
「どうしてです」モンテ・クリストが訊ねた。
「両親があればあなたのその自負心を挫くような光景をご覧になれるからですよ。あなたは死しか恐れないとおっしゃいましたね」
「恐れるとは申しません。私の歩みをとどめ得るのは死のみだと申し上げたのです」
「では、老衰は」
「年をとる前に、私の使命は果されているでしょう」
「狂気は」
「私はもう少しで気が狂うところでした。『同一犯罪ニテ二度罰セラレルコトナシ』という公理をご存じですかな。これは刑法の公理ですから、あなたの領域の公理ですが」
「死とか老衰とか狂気以外にも」ヴィルフォールがまた言った。「まだ恐ろしいものがありますよ。たとえば脳溢血です。電撃のように襲ってきて、死なないかもしれないが、見舞われたらすべて終りです。あなたであることに変わりはないが、もはやもとのあなたではなくなる。アリエルのように天使に近かったあなたが、カリバンのような、畜生に近い動かぬ肉塊となってしまうのです。これを人間の用語では、前に申したように、脳溢血と呼ぶのです。他日、もしあなたにこの意味を十分に理解させることができ、あなたを論破しようとする相手にお会いになりたければ、どうぞ拙宅にお越し下さって、この話をお続け下さい。そのときは、私は、私の父ノワルチエ・ド・ヴィルフォールの姿をお目にかけましょう。フランス革命での最も過激なジャコバン党員、つまり、最も強力な組織の下で、最も目ざましい大胆きわまる活動をした男です。あなたのように地上の王国などには目もくれず、最も強大な王国の転覆に手をかした男です。あなたと同じように、神ではなくて至高の存在の、摂理ではなくて運命の使者を自任していました。ところがです、脳葉の血管が切れたというだけで、いっさいがぶちこわれてしまったのです。一日ではない、一時間でもない、たった一秒のうちにです。前日までは、前ジャコバン党員、前元老院議員、前炭焼党員として、ギロチン、大砲、短剣を嘲笑ったノワルチエ氏が、また、革命を楽しみ、その目から見れば、フランスは、キングが詰んでしまえば、歩も塔もナイトもクインもみな姿を消さねばならぬ大きなチェスボードにすぎなかった、あれほど人に恐れられたノワルチエ氏が、翌る日には、あの身動きできぬ哀れな老人ノワルチエとなったのです。家の中で一番弱い者、つまり孫娘のヴァランチーヌの意のままのね。このまま平静に肉体が完全に亡びるのを待っているだけの、要するに冷えきった口もきけない屍《しかばね》です」
「それはおいたわしい」モンテ・クリストが言った。「そういう光景は、私もこの目で見なかったわけではないし、考えないわけでもありません。私はいささか医学の心得もありますのでね。私も他の医師同様、生けるもの死せるものの中に、霊魂を求めたことも一度ならずあるのです。ちょうど摂理と同じで、霊魂もまた、私の心には感じられるのですが、私の目には見えないままです。遠く、ソクラテス、セネカ、聖アウグスチヌス、ガルの昔から、幾多の人びとが、あなたが今なさったような比較を散文ないし韻文で語っていますね。が、それにしても、私には、父親の苦しみがその子の精神に大きな変化をもたらし得るものであることはよくわかります。参上いたしましょう。せっかくおすすめ下さったのですから。そして、お宅をひどい悲しみに閉ざしているにちがいないその恐ろしい光景を拝見させていただいて、私に謙虚な心を抱かせるのに役立てましょう」
「神が私に大きな償いをして下さらなかったら、おっしゃるようにひどい悲しみに閉ざれていたことでしょう。墓穴にのめりこんで行く老人のかたわらに、二人の子供が人生を歩み始めようとしています。サン=メランの娘との私の最初の結婚でもうけた娘のヴァランチーヌと、命を救けて下さったあの息子、エドワールです」
「で結局のところ、あなたはその神の償いをどう考えておられるのですか」モンテ・クリストが訊ねた。
「私はこう考えています」ヴィルフォールは答えた。「父は情熱にひきずられて、人の裁きは受けずにすんでも、神の裁きは受けねばならぬ類いの罪をいくつか犯しました。神はその罪によって、ただ一人の人間のみを罰することを望まれ、父だけが罰せられたのだ、と」
モンテ・クリストは唇に微笑を浮かべたまま、心の奥底で、もしヴィルフォールに聞こえたならヴィルフォールを遁走せしめたであろうような、怒号を洩らした。
「では失礼します」すでにしばらく前から立ち上がっていて、立ったまま話をしていた司法官が言った。「あなたに敬意を抱いたまま失礼させていただきます。この敬意が、より親しく私という人間をお知りになった暁に、あなたにとって快いものであることを祈ります。私は並の人間ではありません、まるで違いますからね。それに、家内はあなたの永遠の友となってしまいました」
伯爵は一礼し、ヴィルフォールを書斎のドアのところまでしか送らなかった。ヴィルフォールは二人の従者を先に立てて馬車に戻った。ヴィルフォールの合図で従者たちは、大急ぎで馬車の扉を開けた。
そうして、検事が姿を消すと、
「さあ」と、モンテ・クリストは、押しつぶされた胸から無理に微笑を引き出して言った。「これだけ毒を吸えばたくさんだ、心が毒でいっぱいになった。解毒剤を求めに行こう」
そして、呼鈴を一度高らかに鳴り響かせて、
「上の、奥さんの部屋に行く」と、アリに言った。「三十分後に馬車を用意しておけ」
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四十九 エデ
メレ通りに住んでいる、モンテ・クリスト伯爵の新しい、いや古くからの知人が誰であるかは、読者諸子も憶えておられよう。マクシミリヤンとジュリーとエマニュエルである。
これから楽しい訪問ができる、楽しいいくばくかの時を過ごすことができるという思い、それは、自ら望んで落ち込んだ地獄の底にさしこむ天上からの一条の光であったが、この光が、ヴィルフォールの姿が見えなくなった瞬間から、伯爵の面を晴ればれと輝かせるのであった。呼鈴の音でかけつけたアリは、珍しくも喜びの色に輝くこの顔を見ると、主人のまわりを飛びかっているように見える楽しい思いの数々が、もの音におびえて逃げてしまうようなことのないようにと気づかうかのごとくに、爪先立ちになり息をつめてそっと退出するのであった。
正午であった。伯爵は、エデの部屋へ行くための一時間の時間をとっておいたのだ。いわば、このあまりにも長い間うちひしがれていた魂には、喜びの念は直ちには入りこむことができず、ふつうの魂が、荒々しい感情の嵐を前にした場合なんらかの準備を必要とするように、この魂は、やさしい感情を前にしては、その準備が必要だったのだ。
若いギリシアの女の部屋は、すでに述べたように、伯爵の部屋とは完全に離れていた。部屋全体がすっかり東洋風にしつらえられていた。すなわち、床には厚いトルコじゅうたんが敷きつめられ、壁には錦が吊るされている。各部屋のまわりを大きなソファーと、使う者が自由に位置を動かすことのできるクッションがとりまいている。
エデは、三人のフランス人の女と一人のギリシア人の女にかしずかれていた。三人のフランス人は最初の部屋に控えていて、小さな金の呼鈴が鳴れば直ちにかけつけ、ギリシアの女奴隷の命令に従うのである。このギリシア女は、女主人の意志を三人の侍女に伝える程度のフランス語を知っており、モンテ・クリストは三人の侍女に、エデに対しては女王に対するのと同じ敬意を払うよう命じていた。
エデは一番奥の部屋にいた。一種の円い私室で、上からしか光がささず、日の光は、バラ色のガラス窓を通してのみ入るのであった。エデは、床の上の銀の縫い取りのある青いサテンのクッションの上に身を横たえ、半ば身をソファーの上にのけぞらせ、ふっくらと官能的なすんなりのびた右腕で頭をかかえていた。左手で、水ぎせるの自在にたわむ管にさし込んだサンゴの吸口を持ち、口にくわえている。彼女の静かな呼吸が水をくぐらせる煙は、安息香をとかした水に香をつけられて彼女の口もとに達するのだ。
この彼女の姿勢は、東方の女性としてはごく自然なものなのだが、フランスの女性がとればおそらくわざとらしい男に媚びる姿態となるであろう。
衣裳はといえば、エペイロスの女のそれである。バラ色の花を縫い取った白いサテンのズボンは子供のもののように小さな足を見せているが、これが金糸と真珠とを縫いつけた先のそった小さなサンダルとたわむれているのを見なければ、パロス島の大理石でできていると見まごうばかりの小さな足であった。青と白の長い縞模様の、腕を通すゆったりとした袖のついた上着には、銀糸でかがったボタン穴と、真珠のボタンがついている。最後に、胴着のようなものを着ていて、そのハート型の切れこみが、首と胸の上部をすっかり見せており、胸より下の所を、ダイヤの三つのボタンが締めている、胴着の下のほうとズボンの上のほうは、パリの美女たちが羨やむような、絹の長い総のついた色鮮やかなベルトの下にかくれている。
頭には真珠を縫いつけた金の珠帽を少しかしげてかぶり、その帽子の下、帽子がかたむいているほうだが、あまりに黒いので青くさえ見える髪に、真紅の本物のバラが色鮮やかにつけられていた。
その顔の美しさは、ギリシアの女の美しさとして非のうち所のないものであった。ビロードのような黒く大きな目、まっすぐな鼻、サンゴのような唇、真珠のような歯。
それに、この全身の美しさに、若さの花が今を盛りと咲き匂っているのであった。エデは、十九か二十歳と見うけられた。
モンテ・クリストはギリシア人の侍女を呼び、エデにそばへ行ってもいいか、と許しを求めさせた。その返事として、エデは戸口にかかっていた綴れ織のとばりをあげるようにと合図した。その戸口の四角い枠組に縁どられて、横臥した若い娘の姿は美しい一幅の絵のように見えた。モンテ・クリストは歩を進めた。
エデは、水ぎせるを持っているほうの手の肘をついて身を起こし、手を伯爵にさしのべると同時に、にこやかな笑顔で伯爵を迎えた。
「なぜ」と、彼女はスパルタとアテネの娘たちの使う、あの響きのよい言葉で言った。「なぜあなたは、私の所へ入る許可などお求めになりましたの? あなたはもう私のご主人様ではございませんの、私はあなたの奴隷ではなくなってしまいましたの?」
今度はモンテ・クリストが笑った。
「エデ、そなたは……」
「なぜいつものように、お前とはお呼び下さいませんの」若いギリシアの娘は伯爵の言葉をさえぎった。「なにか私が悪いことをいたしましたのでしょうか、それなら罰をお与え下さらなければ。でも、そなたなどとおっしゃってはいけません」
「エデ」伯爵が言葉をついだ。「お前も知るように、ここはフランスなのだ。したがってお前も自由の身なのだよ」
「何をするための自由でしょう」
「私と別れてもいいのだ」
「あなたとお別れする! あなたとお別れしてどうするというのでしょう」
「私にはわからんよ。多くの人と会うことになる」
「私は誰にも会いたくございません」
「そして、お前が出会った美青年の中に、お前の気に入った者がいたら、私はそう不当なまねはしないつもりだ……」
「私は今まで、あなたほど美しい方にお目にかかったことはございません。そして、父とあなた以外に愛した人もありません」
「可哀そうに」モンテ・クリストは言った、「それはお前が、ほとんどお父上と私としか話をしたことがないからだよ」
「では、なぜほかの人と話をする必要がございますの。父は私を、『私の喜びだ』と言ってくれましたし、あなたは私を『私の愛そのものだ』とお呼び下さいます。そして父もあなたも、『わが娘』と呼んで下さるではありませんか」
「エデ、お前はお父上のことを憶えているか」
娘は微笑んだ。
「父は、こことここにいます」彼女は、目と心臓に手を置いて言った。
「では私は、私はどこにいるのかね」笑みをたたえながらモンテ・クリストが訊ねた。
「あなたは、どこにでもいたるところにおいでです」
モンテ・クリストはエデの手をとり、これに接吻しようとした。しかし、このあどけない娘は、手を引っこめて額をさし出した。
「エデ、いいかい、お前は今や自由なのだ。主であり女王なのだ。その衣裳をつけているもよし、気が変わったらぬぎ捨ててもいい。いたいだけここにいて、外へ出たくなったら外出するがいい。お前のために、馬車にはいつでも馬がつけられている。アリとミルトがどこへでもお前の供をするし、お前の命令通りに動く。ただ一つだけ、私がお前に頼んでおきたいことがある」
「おっしゃって下さい」
「お前の出生の秘密を明かさぬこと。お前の過去については一言もしゃべってはならぬ。どのような場合にも、お父上の輝かしいお名前と、お気の毒なお母上のお名前を口にしてはならぬ」
「さっきもう申し上げました、私はどなたにもお目にかかりません」
「いいか、エデ、そのように引きこもっていることは、パリではおそらく不可能だろう。お前がローマで、フィレンツェで、ミラノで、マドリードでやったように、北方の国々の生活を学び続けるのだ。お前がここで暮らし続けるにしろ、また東方へ帰るにしろ、それはきっとお前のためになる」
娘は、濡れた大きな目を伯爵に向けて答えた。
「私たちが東方に帰るにせよ、とおっしゃるつもりだったのでございましょうね、伯爵様」
「そうだよ」モンテ・クリストが言った。「私がお前から離れていくことなど決してないことはお前がよく知っているではないか、花から離れるのは木ではない、花が木から離れるのだ」
「私があなたから離れることなどございません。だって、あなたなしで生きていけようなどとはとても思えませんもの」
「可哀そうに、十年たてば私は年をとる。十年たってもお前はまだ若いのだよ」
「父は長い白いひげをたくわえていました。でもそれが私の父への愛の妨げにはなりませんでした。父は六十歳でした。でも父は、私が見るどの若者よりも、私には美しく見えました」
「だがね、ここの暮らしになじむことができると思うかね、どうだ」
「あなたにお目にかかれますの」
「毎日」
「それなら、何を聞こうとなさってますの、伯爵様」
「お前が退屈しはしまいかと恐れるのだよ」
「いいえ。朝は朝で、あなたがおいで下さる、と考えるでしょうし、夜は夜で、あなたがおいで下さったことを思い出していますもの。それに、一人でいるときにも、私には数々の思い出がございます。遠くにピンドスやオリンポスの山々が見える、広々とした景色、果しなく大きな絵の数々を私は思い描きます。それから、私は心の中に、それさえあれば人が退屈などしない三つの感情を持っております。悲しみと愛と感謝です」
「エデ、お前はまことエペイロスの娘にふさわしい。優雅で詩的で。お前の国で生まれたあの女神たちの血筋を引いているのがよくわかる。安心するがいい、お前の若さをいたずらに失わせるようなまねはせぬ。お前は私をお父上のように愛していてくれるが、私はお前を娘のように愛しているからね」
「それはまちがっておられます。私はあなたを、父のようになど愛してはおりません。私のあなたへの愛は、別の愛です。父は死にましたが、私は死にませんでした。でも、もしあなたがお亡くなりになったら、私も死にます」
伯爵は、深い情愛のこもった微笑を浮かべながら、娘に手をさしのべた。娘は、いつものように、その手に唇をおしあてた。
こうして、これから訪れようとするモレルとその家族と会うための心の準備をすませた伯爵は、ピンダロスの詩句を口ずさみながら部屋を出た。
若さは一輪の花、愛はその果実……
おもむろに熟しゆくそのさまを見ての後、
これを摘む者は幸いなるかな
伯爵の命により、馬車はすでに用意されていた。伯爵が乗ると、いつものように、馬車は全速力で走り出した。
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五十 モレル家の人々
伯爵は数分のうちにメレ通り七番地に着いた。
家は白く明るく、前に庭があって、かなりきれいな花をまじえた、二つの小さな植込みがあった。
その門を開けてくれた門番に、伯爵はあのコクレスの姿を認めた。しかし、読者諸子も憶えておられるように、コクレスは片目であり、この九年間にその片方の目もかなり弱っていたので、コクレスのほうでは伯爵を誰と見ぬくことはできなかった。
入口に車を止めるためには、石を積んで作った池から噴き出している小さな噴水を避けて、迂回しなければならない。この泉は界隈《かいわい》の羨望の的となったもので、この家が小ヴェルサイユと呼ばれていたのもこのためであった。
この池に、赤や黄の魚が泳いでいたことは言うまでもない。
家は、台所と地下室の上に建てられ、一階のほかに二階、三階、それに屋根裏部屋があった。若者たちはこの家を、広いアトリエと、庭の奥と庭の中にある二棟からなる付属の建物ごと買ったのである。エマニュエルは一目見て、この建物の配置はちょっとした投機に価すると見た。彼は、母屋と庭の一部を自分用にとっておき、一本の線を引いた。つまり、自分が住む部分と、アトリエと別棟およびそれに属する庭の一部との間に塀を立て、アトリエその他は賃貸した。こうして、彼はかなり安い価格で住まいを手に入れ、フォーブール・サン=ジェルマンの最もつましい邸の持ち主程度には、自宅に落ちつける身分となったのである。
食堂はカシで出来ていた。サロンはマホガニーと青いビロード。寝室はレモンの木と緑の緞子《どんす》。それから、勉強もせぬエマニュエルのための書斎、音楽家でもないジュリーの音楽室がある。
三階は全部マクシミリヤンに提供されていた。妹の住む二階とまったく同じ間取りだが、食堂だけはビリヤードになっていて、彼はよく友達をここへつれて来た。
伯爵の馬車が門前に止まったとき、マクシミリヤンは、自分の馬にブラシをかけるのを自ら監督しながら、庭の入口の所で葉巻をくゆらせていた。
すでに述べたように、コクレスが門を開けると、バチスタンが自分の席から飛び降りて、エルボーご夫妻ならびにマクシミリヤン・モレル殿に、モンテ・クリスト伯爵がお目通り願えるかと訊ねた。
「モンテ・クリスト伯爵!」モレルは葉巻を投げ捨て、訪問客の前に駈け寄りながら叫んだ。「もちろんお目にかかりますとも。ああ、ありがとうございます。ほんとうにありがとうございます。伯爵、よくぞお約束を忘れずにいて下さいました」
こう言って若い士官は伯爵の手を心をこめて握り締めたので、伯爵も、その喜びの表示の率直さを疑うわけにはいかなかった。そして、自分の訪問を待ちこがれていてくれたこと、自分をいそいそと迎えてくれていることを知ったのである。
「さあ、どうぞ、どうぞ」マクシミリヤンが言った。「私がご案内させていただきます。あなたのような方には、召使いなどにご来訪を告げさせるわけには参りませんからね。妹は庭におります。しおれたバラを摘みとっているのです。弟は、妹から六歩のところで、お気に入りの新聞『ラ・プレス』と『デバ』を読んでます。というのは、エルボー夫人のいる所ならどこでも、半径四メートルの範囲を見まわせば、必ずエマニュエル氏がいるというわけです。そして、理工学校《エコールポリテクニーク》で言うように、その逆もまた真なのですよ」
足音に、二十歳から二十五歳ぐらいの若い婦人が顔を上げた。絹の部屋着を着て、淡褐色のバラの木から、きわめて丹念にしおれた花を摘みとっていた。
この婦人が、トムスン・アンド・フレンチ商会の代理人が彼女に予言したように、今はエマニュエル・エルボー夫人となった、あのジュリーであった。
見知らぬ人を見て彼女は叫び声をあげた。マクシミリヤンが笑い出した。
「そのままでいいんだよ。伯爵は、まだパリにおいでになってから二、三日にしかならないけれども、マレー界隈の金利で暮らしている女がどういうものかはすでにご存じだから。もしご存じないとすれば、お前がお教えするんだね」
「まあ、こんなご案内の仕方をするなんて、兄の裏切りですわ」ジュリーは言った。「兄は妹の気持ちなど少しもいたわってはくれないんですの……ペヌロン……ペヌロン!……」
ベンガルバラの花壇を鋤《す》きおこしていた老人が鋤を地面に突きさし、帽子を片手に持ち、かみたばこを一時、できるだけ頬の奥におしかくしながら近づいて来た。まだふさふさとした髪に、いくらかまじる白髪が銀色に輝いていた。その赤銅色の肌と大胆ないきいきとした目は、この老人が、赤道直下の太陽に灼かれ、嵐の息吹に肌を荒らされた、老船員であることを物語っていた。
「お呼びのようでしたが、ジュリーお嬢様」と彼は言った。「ご用は」
ペヌロンは、主人の娘をジュリーお嬢様と呼ぶ習慣を捨ててはいなかった。エルボーの奥様とはどうしても呼ぶようになれなかったのだ。
「ペヌロン」ジュリーは言った。「旦那様にすばらしいお客様がお見えになったとお伝えしてちょうだい。お兄様がサロンのほうにご案内しますからって」
こう言ってから、モンテ・クリストのほうに向き直って、
「ほんのしばらく失礼させていただいてよろしいでしょうね」
こう言うと、伯爵の返事も待たずに、彼女は植込みのかげに走りこみ、横の通路を通って家に入った。
「いや、モレルさん」モンテ・クリストは言った。「どうもお宅の中に大騒動を起してしまったようで、困りましたな」
「なんの、なんの」マクシミリヤンが笑った。「亭主のほうは亭主のほうで、上着をフロックコートに着替えているのがご覧になれますか。メレ通りではもうあなたのことが知れわたっているからですよ。すでにあなたのことは話してあるのです、ほんとうですよ」
「どうやら、幸せなご家庭のようですね」と、伯爵は自分自身の思いに答えるように言った。
「ええ、そうなんです。私が保証します。だって、あの二人は幸せになるのになに一つ欠けてるものはないんですから。若いし、朗らかだし、愛し合ってるし、かつては莫大な財産を目の前にしていたこともあるのに、二万五千フランの年金があるのを、まるでロスチャイルド家の富を所有しているように思っているんですからね」
「それにしても少ないですね、二万五千フランとは」モンテ・クリストは言ったが、その声は、なんともいえぬ慈愛に満ちていたので、まるで慈父の声のようにマクシミリヤンの心にしみわたった。「でも、あの若い人たちはそこで立ち止まってしまうわけではないでしょう、あの人たちも百万長者になるでしょうね。弟さんは弁護士ですか……お医者さんですか……」
「商人でした。父の商会を継いだのです。父のモレルは五十万フランの財産を遺して亡くなりました。私と妹とで半分ずつ相続しました。兄妹二人きりですから。妹の夫は、その気高い廉直《れんちょく》な心、第一級の頭のよさ、それに一点の汚れもない人間の信用のほかは、なんの資産もなくて妹と結婚したのですが、妻と同じだけの金を自分も持ちたいと思ったのです。そこで、二十五万フラン貯めるまで働きました。六年で十分でした。伯爵、ほんとうに心を打たれる姿でした。働き者のあの若い二人が、しっかりと結ばれ合い、その能力からすればどんな大きな財産でも築き得るあの二人が、父の商会のしきたりをまったく変えずに、新しいやり方をする者ならば二、三年で足りることに六年の歳月をかけた姿はね。ですから、マルセーユでは今も称讃の声がこだましています。あれほどたくましい身を粉にしての働きぶりを見ては称讃しないわけにはいかなかったのです。ついにある日、エマニュエルは、ちょうど手形の支払いを済ませた妻の所へ来て、こう言いました。
『ジュリー、これが今コクレスから渡された百フランの棒包みだ。これでちょうど、僕たちがこれだけは稼ごうと決めておいた二十五万フランになる。これから先、これだけでがまんしなければならないとして、これで満足できるかい。いいかい、商会は年商百万フランあって、四万フランの利潤を上げられる。もし僕たちがその気になれば、一時間後に三十万フランで商会を売れる。というのは、ここにドロネーさんの手紙があるが、商会を合併したがっていて、僕たちが株を譲ればそれだけの額を出そうと言って来ているんだ。どうすべきかよく考えてみてくれないか』
『ねえ』妹が申しました。『モレル商会はモレルを名乗る者でなければ経営できないわ。お父様のお名前が、運命の荒波から永久に守られるのだとしたら、三十万で結構じゃないかしら』
『僕もそう思った。でもやはり君の意見が聞きたかったんだよ』
『それじゃあなた、そうしましょう。入金は全部済んでますし、手形も全部支払い済みですから、この半月の勘定の下に棒を引いて会計を閉めてしまうことができるわけよ。棒を引いて、会計を閉じましょう』
即座にそうされてしまいました。三時でした。三時十五分に客が一人来て、二隻の船に保険をかけてくれと言いました。これは現金で一万五千フランの収益になります。
『お客様』エマニュエルは申しました。『その保険でしたら、同業者のドロネーさんの所へおいで願えないでしょうか。私どもは商売を止めましたので』
『いつからです』驚いた客が訊ねました。
『十五分前からです』
こうして」と、笑いながらマクシミリヤンが続けた。「妹と義弟は二万五千フランしか年金がないということになったのです」
話を聞くうち、伯爵の心は次第にさわやかなものになっていったが、マクシミリヤンが言葉を言い終えるか終えぬうちに、エマニュエルがまた姿を見せた。帽子を持ちフロックコートに着替えている。彼は、訪れた客の身分を知る者らしく挨拶した。それから彼は、伯爵に花の咲いた小さな囲いを迂回させて、伯爵を家のほうに案内した。
サロンは、飾りけのない取ってのついた大きな日本の花瓶にあふれんばかりにいけられた花の香りがただよっていた。ジュリーはその場にふさわしい服をつけ髪も整え(彼女はこの芸当を十分間でやってのけたのだ)伯爵を迎えるために、伯爵がサロンに入るときに姿を現わした。
すぐ近くの大鳥籠で鳥が鳴いている。エニシダとアカシアの枝が、青いビロードのカーテンをその花房で縁どっていた。このしゃれた小さなひっそりとした住まいでは、すべてが静けさに包まれていた。鳥の鳴く声も住む者たちの微笑も。
伯爵はこの家に入ったときから、この幸福な雰囲気にひたされていた。だから、初めの挨拶が交わされたきり途切れた会話を続けるために伯爵の言葉を皆が待っているのを忘れて、彼は口もきかずに夢を追っているようであった。
その沈黙が礼を失するまでになったことに気がついた伯爵は、夢想を無理に断ち切って、
「奥さん」と、ようやく彼は言った。「私がここで見出したこの安らぎ、この幸せに慣れておいでのあなたは、私が深く心うたれたさまを見て、お驚きになられたでしょうね、申し訳ありません。しかし私にとっては、人の顔に浮かぶ満足の色というのは、ひどく新鮮な感じのするものなので、あなた方お二人のお顔をあかず眺めておる次第なのです」
「ええ、私どもほんとうに幸せですの」ジュリーが即座に答えた。「でも、私どもは長いこと苦しい思いをせねばなりませんでした。私どもほど、自分たちの幸せを高価にあがなったものは、めったにいないのではないでしょうか」
好奇の色が伯爵の顔に浮かんだ。
「ああ、それは、先日シャトー=ルノーが申しましたように、話せば長い内輪の話なのです」マクシミリヤンが言った。「伯爵のように、世に名高い不幸の数々や、貴顕の士の幸せの数々を見慣れた方には、こんな内輪なことはなんの興味もお感じにならないでしょう。しかし、今もジュリーが申しましたように、私たちはほんとうにひどい苦しみを味わったのです。こんなちっぽけな範囲の中でのことですが……」
「そして神が、万物に対してなされるように、その苦しみにも慰めを与え給うたのですね」モンテ・クリストが訊ねた。
「そうなんですの、伯爵様」ジュリーが言った。「私どもはそう申せます。だって、神様は、選ばれた者にしかして下さらないことを私どもにして下さったんですもの。天使の一人をお遣わしになったんです」
伯爵の頬が紅潮した。彼は、ハンカチを口にあて、心の動揺をかくすために咳をした。
「王侯貴族の子に生まれ、なに不足なく育った者は」エマニュエルが言った。「生きているという喜びがどういうものかを知りません。それは彼らが、荒れ狂う海に投げ出された小舟に命を託したことがないために、澄みきった空のありがたさを知らぬのと同じです」
モンテ・クリストは立ち上がり、なにも答えなかった。答えれば、声のふるえで、内心をゆさぶられている感動を知られてしまうからであった。彼は一歩一歩、サロンの中を歩き始めた。
「あまり私たちが美辞麗句をならべたてるので笑っておいでなのですね」モンテ・クリストを目で追っていたマクシミリヤンが言った。
「とんでもない」ひどく蒼い顔をしたモンテ・クリストが、片手で胸のときめきを抑え、もう一方の手でマクシミリヤンに、クリスタルガラスの覆いをさし示しながら答えた。その覆いの下には、絹の財布が黒いビロードのクッションの上に、いかにも大切そうに置かれていた。「私はただあの財布は何に使うのかなと考えていたのです。片側には紙片が一枚入っているようですし、それにもう一方の側にはかなりいいダイヤが入っていますね」
マクシミリヤンは真剣な顔つきになって答えた。「これは、わが家で最も大切な家宝なのです」
「まったくこのダイヤはかなり見事だ」モンテ・クリストが即座に答えた。
「いえ、兄は宝石の値打ちのことを申し上げているのではございませんの、十万フランの値打ちがあると言われておりますけど。兄はただ、そのお財布に入っている物が、先程お話しした天使が遺して行ってくれたものだと申し上げているんです」
「そのことの意味は私にはよくわかりませんが、それをお訊ねしてはいけないのでしょうね」モンテ・クリストは一礼しながらこう答えた。「失礼しました。ぶしつけなことをする気はなかったのです」
「ぶしつけですって? とんでもございません。それどころかそのお話をさせていただく機会をお与え下さってほんとうに私たちうれしいんですの。そのお財布にまつわる思い出を、私どもが秘密にしているのでしたら、こんなふうにお目にさらすようなことはいたしませんわ。私どもは、できることなら世界中にその話を公表したいのです。あの善行をほどこして下さった方が、はっとなさって、私たちに、その方だと分るように」
「ああ、なるほど」モンテ・クリストが息苦しそうな声で言った。
「伯爵」マクシミリヤンが、クリスタルガラスの覆いをとり、敬虔にその絹の財布に接吻して言った。「これは、父を死から救い、私どもを破滅から、家名を恥辱から救ってくれた方の手に触れたものです。その方のおかげで私どもは、貧困と涙の生涯に投げこまれていたはずの哀れな子供たちであった私どもが、今この幸せを心から喜んで下さる人々のお声を聞けるのです。この手紙は」とマクシミリヤンは財布から一枚の紙をとり出し、伯爵に見せて、「この手紙は、父が悲壮な決意をしたその日に、その方がお書きになったものです。そして、このダイヤは、そのおやさしいどこの誰ともわからない方が、妹の結婚資金にと下さったものなのです」
モンテ・クリストはその手紙を開き、なんともたとえようのない幸福を味わっている面持ちでそれを読んだ。それは、読者諸子がご存じの、ジュリー宛ての船乗りシンドバッドと署名されたあの手紙であった。
「どこの誰ともわからないとおっしゃいましたね。すると、そのようなことをしてくれた人は、今だにわからないままなのですか」
「そうなのです。まだ一度も、その方の手を握る喜びを味わっておりません。もとより神にこの恩寵を願わぬではなかったのですが」マクシミリヤンは語をついで、「しかし、この出来事全体を通じて私どもにはいまだに理解できない謎に閉ざされた面があるのです。なにか目に見えない、魔法使いの手ほどに強力な手で、すべてが動かされていました」
「でも」ジュリーが言った。「私はまだ、いつかきっとその方の手に接吻できるという希望を失ってはいません、そのお手が触れたこのお財布に私が接吻するように。四年前、ペヌロンはトリエステにいました。伯爵様、ペヌロンというのは、あの鋤を手にしておりました老船乗りです。水夫長から庭番になりましたの。ペヌロンは、そのトリエステにいたとき、波止場の上でヨットに乗り込もうとしていたイギリス人を見たのです。その人が、一八二九年六月五日に父の所に見えて、九月五日に私にこの手紙を書いた方だと思ったと言うんです。たしかにその方だったと言うのですが、話しかける勇気はなかったとか」
「イギリス人!」夢を追うようにしていて、ジュリーの眼差し一つ一つを恐れているようであったモンテ・クリストが言った。「イギリス人とおっしゃったのですね」
「そうです」マクシミリヤンが口を開いた。「ローマのトムスン・アンド・フレンチ商会の代理人だと言って、私どもの家に見えたイギリス人です。それだからこそ、先日モルセールさんのお宅で、あなたがトムスン・アンド・フレンチ商会は取引銀行だとおっしゃったとき、私はどきっとしたのです。前にも申し上げたように、それは一八二九年のことでした。あのイギリスの方をご存じでしょうか」
「でも、たしかトムスン・アンド・フレンチ商会のほうでは、あなた方にそんなことをしてさし上げた覚えはないと言い続けているとおっしゃいましたね」
「そうなんです」
「それならそのイギリス人は、お父上はお忘れになっていても、なにかでお父上にご恩を受けて、そのご恩返しをするためにそんな口実を使ったのではないでしょうか」
「こんなふうですと、どんな推測もなりたつんです、奇蹟ではなかったか、ということさえ」
「名前は何と言いました?」モンテ・クリストが訊ねた。
「船乗りシンドバッドと、その手紙に署名している名前のほかは、名前を残してくれませんでした」ジュリーが、まじまじとモンテ・クリストの顔を見ながら答えた。
「もちろん、それは本名ではありませんね、仮名ですな」
こう言うと、ジュリーがますます注意深く彼の顔をみつめ、彼の声の調子に耳をすましその特徴をとらえようとしているのを見て、彼はさらに続けた。
「どうです背丈は私ぐらい、もう少し大きいかもしれませんが、もう少し痩せていて、ネクタイを窮屈そうに高く締めボタンをかけ、ウェストをぎゅっと締め、ベルトを固く締めて、いつも手に鉛筆を持っていませんでしたか」
「まあ、それではあの方をご存じですの」喜びに目を輝かせてジュリーが叫んだ。
「いや」モンテ・クリストは言った。「私はただ臆測しただけです。そんなふうにほうぼうで慈善をふりまいているウィルモア卿という男を知っているものですから」
「名も名乗らずに!」
「おかしな人物でね、感謝などというものの存在を信じないんですよ」
「まあ」両手を組み崇高とも言える語調でジュリーが叫び声を上げた。「ではいったい何を信じておいでなのでしょう、お気の毒な方」
「信じてはいませんでした、少なくとも私が彼を知っていた頃には」モンテ・クリストが言った。魂の奥底から発したこのジュリーの声は彼の心の奥の奥の琴線にふれたのであった。「でもあの時以後、彼も、どうやら人の心に感謝というものが存在することの確証を得たかもしれません」
「あなたはその方を今でもご存じなんですか」エマニュエルが訊ねた。
「ああ、もしご存じなら」ジュリーが叫んだ。「私たちをその方の所へおつれいただけるでしょうか、これがその方だとお教えいただけるでしょうか、どこにおいでかおっしゃって下さい。ねえ、マクシミリヤン、もしあの方にお目にかかれたら、あの方もきっと、人の心の記憶力の存在を信じて下さるわ」
モンテ・クリストは、目に二粒の涙が浮かぶのを感じた。彼はまたサロンの中をなん歩か歩いた。
「お願いです」マクシミリヤンが言った。「もしあの方のことをなにかご存じなら、どうぞ私どもにご存じのことをおっしゃって下さい」
「ああ」モンテ・クリストは自分の声に洩れる感動を抑えながら言うのだった。「あなた方に力添えをしたのがウィルモア卿だとしても、あなた方は彼にはもうお会いになれないのではないかと思います。私は、二、三年前に彼とパレルモで別れました。彼はこの世で最も幻想的な国へ旅立ってしまいました。私は、彼がまず帰って来ないのではないかとさえ思っているのです」
「まあ、残酷なことをおっしゃって」ジュリーが怯《おび》えたように言った。
涙が若い婦人の目にこみあげて来た。
「奥さん」モンテ・クリストはジュリーの頬を伝う二粒の真珠の玉のような涙を、喰い入るようにみつめながら言った。「もしウィルモア卿が、今私が見たものを見たら、なお人生を愛するようになるでしょう。あなたが流しておられるその涙が、彼をまた人間と和解させるでしょうから」
こう言って彼はジュリーに手をさしのべた。ジュリーは、伯爵の目と声とに吸い寄せられるように、自分の手を伯爵に与えた。
「でも、そのウィルモア卿という方にも」と、最後の望みにすがりつくようにジュリーは言うのだった。「その方にもお国は、ご家庭は、肉親の方は、おありなのでしょう、とにかく誰かあの方の知人がおありなのでしょう。もしかして私たちが……」
「ああ、お探しにはならぬことですよ、奥さん」伯爵が言った。「私が不用意につい口にしてしまった言葉に、甘い夢はお描きにならぬことです。いえ、ウィルモア卿はおそらく皆さんが探しておいでの人ではないでしょう。彼は私の友人でした。彼の秘密はみな知っています。もし彼なら、その話を私にしたはずですから」
「その方は、なにもおっしゃってなかったんですの?」ジュリーが言った。
「なにも」
「なにか思い当るようなことも一言も?」
「一言も」
「でも、その方のお名前をおっしゃったじゃありませんか」
「ああ、それはですね……、こういう時にはいろいろ憶測をめぐらすものですよ」
「おい、ジュリー」マクシミリヤンが伯爵に助け舟を出した。「伯爵のおっしゃる通りだよ。お父さんがしょっちゅう言ってたのを憶えてるだろう、『私たちに幸せをもたらしてくれた人は、あれはイギリス人ではない』って」
モンテ・クリストはびくっとした。
「お父上が、そうおっしゃっておられたのですか……モレルさんが」彼はせきこんで訊ねた。
「父はあの行為の中に奇蹟を見ていたのです。父は、恩人が私たちのために墓から出て来たのだと思っていたのです。ああ、なんと心を打つ迷信じみた考え方でしょう。私自身は少しもそんなことは信じませんが、父のあの気高い心の中のこの信念を、私はどんなにそっとしておいてやりたかったことか。ですから、父は、ほんとうになつかしい友、失われた友の名を、なん回となく小さくつぶやきながら、この夢を追っていました。そして死が迫ったとき、永遠の世界が近づいて父の精神に、言わば墓地の天啓とも言うべきものがひらめいたとき、それまではもしかしたらという疑いでしかなかったものが、確信に変わったのです。いまはのきわの最後の言葉は、『マクシミリヤン、あれはエドモン・ダンテスだよ』という言葉でした」
しばらく前からその色を濃くしていた伯爵の顔の蒼さは、この言葉を聞くと、すさまじいまでのものとなった。全身の血潮が心臓に逆流した。彼は口をきくことができなかった。彼は、時間を忘れていたとでもいうかのように時計をとり出すと、帽子をとり、エルボー夫人に、唐突なぎごちないいとまを告げ、エマニュエルとマクシリヤンの手を握りながらこう言った。
「奥さん、時々ご挨拶に上がることをお許し下さい。私はお宅が好きですし、厚いおもてなしに感謝いたします。このような気持ちは、もう長い年月私が忘れていたものでしたから」
こう言うと、彼は大またに部屋を出て行った。
「モンテ・クリスト伯爵っていう人は変わったお人ですね」エマニュエルが言った。
「うん」マクシミリヤンが答えた。「だがね、すばらしい心の持ち主だと僕は思うよ。それに、たしかに僕たちを愛していて下さる」
「私は」ジュリーが言った。「あの方の声が心にしみこんで来たわ。それに、二、三度、この声は初めて聞く声じゃないって気がしたの」
[#改ページ]
五十一 ピラムスとチスベ
フォーブール・サン=トノレ通りの三分の二ほどの所、この富裕な界隈に立ち並ぶ立派な邸の中でも目につく美しい邸宅の背後に、広い庭園がひろがっている。城壁ほどの高さがある大きな塀よりも高い、こんもりと茂ったマロニエの茂みが、春が来ると、ルイ十三世時代の鉄格子の門をはめこんだ二本の角柱の上に対《つい》に置かれた二つの石の鉢に、そのピンクと白の花を降りそそぐのであった。
この豪壮な門は、その二つの鉢に見事に咲き出でたジェラニウムが大理石模様の葉と真紅の花を風にゆらめかせてはいるが、この邸の所有者が、建物と、フォーブール・サン=トノレに面した木立のある中庭と、この鉄門の中の庭以外は手放す決心をした日以後、もうそれも大分以前のことになるが、閉鎖されてしまっている。この鉄門はかつて、この邸に付属する広大な菜園に面していたのだが、持ち主が投機のデモンにとりつかれて一本の線、つまり、この菜園の端に通りを一本引いた。この通りは出来もしないうちに磨いた鉄の掲示板がかけられ、名前が記されていた。持ち主は、この通りに面して家が建てられるから、この菜園がその敷地として売れると考え、フォーブール・サン=トノレというパリの大動脈に匹敵する通りにしようと思ったのである。
しかし、思惑というものは、『事を計るは人、事をなすは金』のたとえに洩れず、名前だけつけられたその通りは、ゆりかごの中で死んでしまった。菜園を買った者は、代金をすっかり払って手に入れはしたものの、望むほどの金額で転売することはできなかった。そこで、いつかは必ず値上がりし、はじめの損害とねかせた資本を大幅に埋め合わせるにちがいないので、それを待つ間、この土地を野菜作りに年五百フランで貸すだけで満足したのである。
これは金を五厘に廻したことになる。五割に廻しても率が悪いと思う連中が多い今日では、これはまるでただみたいなものだ。
それはとにかく、すでに述べたように、かつてはこの菜園に面していたその鉄門は閉ざされていて、蝶番《ちょうつがい》も錆びついていた。いやそれどころか、野菜を作る百姓たちの賎しい目が貴族の邸内を汚さぬようにと、鉄柵には高さ六フィートの所まで、板がうちつけられていたのである。その板に隙間があって、こっそり覗《のぞ》こうと思えば覗けぬわけではなかったが、この家は大へん厳格な家だったから、ぶしつけな視線を恐れることもなかったのだ。
この菜園には、キャベツ、ニンジン、ラディッシュ、エンドウ、メロンなどではなくて、わずかにムラサキウマゴヤシ〔牧草の一種〕が生えていて、まだこの見捨てられたような土地が完全に見放されたわけではないことを物語っていた。計画倒れに終った通りに面した、低い小さな一つの門が、この塀にかこまれた土地の入口になっていた。この土地も土地が痩せているので、借地人たちが最近耕作を諦めてしまって、一週間前からはそれまでの五厘どころか、もはや収益皆無になってしまっていた。
邸の側は、すでに述べたマロニエが塀の上にそびえているが、その間にも、花をつけ鬱蒼《うっそう》と生い茂った木々が、大気を求めて枝をのばしている。その葉の茂みが濃く、日の光を通さぬほどの一角に、大きな石のベンチと庭園用の椅子がなん脚かあって、そこから百歩ほど離れている邸の建物の住人が人と語らう場所、ないしは好んでひっそりいこう場所らしく思われた。緑の葉に包まれてほとんど人目にはつかぬ場所だった。そこは、日の光も届かず、夏の盛りの暑さにも、いつもひんやりと涼しかったし、鳥は囀《さえず》っているし、家からも通りからも、言い変えると雑事からも騒音からも遠かったから、ここに人知れぬいこいの場所を定めたのも、なるほどと納得できるのであった。
春がパリの住人にまだ恵み与えてくれていた、ある暖かい夕べのこと、この石のベンチの上に、本が一冊、裁縫籠、日傘、それに刺繍しかけのバチスト〔上等な麻布〕のハンカチが置かれていた。そしてそのベンチから遠からぬ所、鉄門のそばに、板の隙間に目をおしあてて、板塀の前に立っている一人の若い娘がいた。彼女の視線は隙間ごしに、すでにわれわれが知っている無人の菜園に注がれていた。
それとほとんど同時に、菜園の小さな門が閉じられようとしていた。一人の青年が、す早くあたりをうかがい、自分を盗み見ている者がいないのをたしかめると、その門を通り抜け、後ろ手に門を閉め、急ぎ足で鉄門の所へやって来た。背が高くたくましく、オランダ布の上着をつけビロードの帽子をかぶっているが、その一分の隙もないほどに調えられた黒々としたあごひげ、口ひげ、頭髪は、この庶民的な服装には似つかわしくない感じを与えている。
娘はこの青年を待っていたのだが、まさかそんな服装で来るとは思っていなかったので、青年の姿を見ると、怯えて後ろにとびのいた。
しかし、青年のほうは門の隙間から、恋する者にのみ特有の目ざとい目で、白いドレスと長く青いベルトがひるがえるのを見てしまっていた。彼はその塀にかけ寄ると、隙間に口をあてて、
「こわがらなくていいよ、ヴァランチーヌ。僕だ」
娘は近づいた。
「まあ、今日はどうしてこんなに遅くいらしたんですの。もうじき晩のお食事よ。私の様子をうかがっている継母《はは》や、つけ廻している小間使い、それにこの刺繍もいつまでたっても終らないんじゃないかと思うほど、ここへ来て刺繍するのを邪魔ばかりしている弟から逃れるのに、私がどんなに策略を使ったり敏捷にたち廻ったりしなければならなかったかご存じ。さあ、どうしてこんなに遅くなったのか、わけを聞かせて下さい、それから、そんななりをなさったわけもうかがいたいわ。あなただってことがその服装のせいでわからなかったくらいなんですもの」
「ヴァランチーヌ。君は僕が愛するには身分が高すぎるから、愛してるなどとは言わない。けれど、君に会う度に、君が好きでたまらないと言いたくなってしまう。君と会っていないときに、この言葉がやさしく僕の心の中でこだまして僕を慰めてくれるようにね。今の君のお叱言《こごと》、ほんとうにありがとう。うれしかった。だって、君が僕を待っていてくれた証拠とまでは僕には言えないけれども、僕のことを考えていてくれた証拠だもの。君は僕が遅れた理由と、なぜこんな変装をしたのか聞きたいと言ったね。これから言うよ。それを聞いて君が僕を許してくれるといいと思う。僕は商売を決めたんだ……」
「商売を! それどういう意味なの、マクシミリヤン。私たちのことでそんな冗談を言えるほど私たちは幸せかしら」
「ああ、僕の命とも言えるもののことで冗談など言うもんか。しかしね、戦野をかけ廻ったり城壁を乗りこえたりするのにも疲れたし、君のお父さんが僕を泥棒として裁いてやるとおっしゃってたと、いつかの晩君から聞かされてほんとうに不安になったんだよ。そんなことになったら全フランス軍人の名誉を傷つけることになるからね。それに、アルジェリア騎兵大尉ともあろう者が、攻めるべき城砦ひとつ、守るべき防舎ひとつここにはないのに、しょっちゅうこの土地の廻りをうろついていれば、人目を驚かす可能性は十分だという不安もあるから、僕は野菜作りになったんだ。だから僕はその商売用の仕事着を着ているというわけだよ」
「酔狂なまねね」
「いや、これは僕の一生のうちでも一番賢明な行為だと思っているよ。僕たちはこれですっかり安心できるんだから」
「どうしてなのか、うかがいたいわ」
「それはね、僕はこの土地の地主に会いに行った。前の借地人との契約は切れていた。そこで僕が新しく借りたんだ。このムラサキウマゴヤシは全部僕のものなんだぜ。この牧草地に小屋を建て、今後君のすぐそばに住みついたとしても、誰にも文句は言われない。僕はうれしくて幸せで、とてもこの気持ちを抑えきれない。こんなものがお金であがないきれるとは君にも思えないだろう? そんなことは不可能だ、そうだろう? この無上の幸せ、幸福感、うれしさ、このためには命を十年縮めてもいいと思っているけれども、これをいくらで手に入れたと思う……年にたった百五十フランだぜ。しかも三か月ごとの分割払いでいい。こういうわけだから、わかるだろう、もうなにも心配することはないんだ。ここは僕の家だ。自分の家の塀に梯子をかけて、その上から見ることもできる。パトロールにとがめられることもなしに君に愛をささやく権利があるわけだ。野良着を着、ひさしのある帽子をかぶった男の口からその言葉を聞いても、君の自尊心が傷つきさえしなければね」
ヴァランチーヌは、うれしい驚きをこめた小さな叫び声を洩らした。それから急に、
「ああ、マクシミリヤン」と彼女は、彼の心を照らしていた日の光を、嫉妬深い雲が覆ったかのように、悲しそうに言うのだった。「そうなると、私たちあんまり自由過ぎて、私たちの幸せが、私たちに神様を試してみるようなまねをさせてしまうんじゃないかしら。安全なのをいいことにし過ぎないかしら。安全なことが、私たちを駄目にしてしまうわ、きっと」
「君は僕にそんなことが言えるのかい。君と知り合ってから、僕の考えも命も、君の命と考えに隷属させてしまっていることの証拠を、毎日君に対して見せているこの僕に、何が君にこの僕への信頼を植えつけたのか、それは僕の徳義心じゃないか。本能的に漠然となにか大きな危険を冒しているように思うと、君が僕に言ったとき、僕は全身全霊をあげて君に奉仕することにしたのだ。君に奉仕できるという僕の幸せ以外には、なんの報酬も求めずに。あの日以後、君は、君のために死ぬのを幸せと思っている者たちの中から僕を選んだことを、君に悔ませるような言葉を、一言でも、なにかのきざし一つでも、僕は君に言ったり示したりしただろうか。君は言ったね、可哀そうに、君はデピネ氏のフィアンセだと。お父さんがこの縁組を決めた、ということはこれは確定的なことなのだと。ヴィルフォール氏がこうしたいと思ったことはまちがいなくそうなるからとね。だから僕は陰にかくれていよう。僕の意志、君の意志ではなくて、事態の変わることを、摂理を、神の思召しを待ちながら。それでも君は僕を愛している、僕を憐れと思ってくれていると、ヴァランチーヌ、君はそう言ってくれた。あのやさしい言葉、ほんとうにありがとう。僕はあの言葉を、時々繰り返してくれることだけしか君には求めない。僕にすべてを忘れさせてくれるあの言葉だけをね」
「それであなたは勇気づけられたわ。私の人生は、楽しいと同時に不幸なものになったわ。以前の、私につらく当り、自分の子にだけ盲目的な偏愛をそそぐ継母《はは》のもたらした苦しみと、今こうしてあなたにお会いしているとき、私が味わう危険に満ちた幸せと、どっちがいったい私にとってはいいものなんだろうって、しょっちゅう考えるほどなの」
「危険に満ちただって?」マクシミリヤンが叫んだ。「君は、そんなむごい、そんな不当な言い方ができるんだろうか、僕以上に従順な奴隷を、いまだかつて君は見たことがあるかい。ヴァランチーヌ、君は僕に、時折口をきくことは許してくれた。しかし君の後をつけることは許してくれなかった。僕はそれに従った。この土地に忍びこみ、君と話をし、君の顔は見られないけれども君のそばにいられる方法をみつけた日から、今までに一度でも、この鉄門ごしに君のドレスの裾に手を触れることさえ、君に求めたことがあるだろうか、この塀、僕の若さと力とをもってすれば、あまりにもちゃちな障害だけれども、この塀を乗り越えようとして一歩でも歩を進めたことがあるだろうか。君の身持ちの固さを責めたことも、情欲をあからさまにしたことも一度もない。僕は往時の騎士のように、自分の言葉に釘づけにされているんだ。さあ、正直に言ってほしい。君を不当だなどと、僕に思わせないために」
「その通りだわ」ヴァランチーヌは、そのほっそりとした指の先を二枚の板の間にさし込みながら言った。マクシミリヤンはその指に接吻した。「あなたは誠実なお友達だわ。でもねえ、マクシミリヤン、やはりあなたはご自分の利益を守ろうとする気持ちからそうなさってるんだわ。あなたは、奴隷が、なにかを要求するようになったら、その奴隷はその日からすべてのものを失わねばならないということをご存じだったのよ。あなたは私に、兄としての愛情を約束して下さったわ。お友達もなく、父からは忘れられ、継母《はは》からは苛《いじ》められ、ただ慰めと言えば、身動きもできず口もきけない、冷たくなってしまったお祖父様だけしかいないこの私に。お祖父様の手は私の手を握ることもできない。ただその目だけが私に語りかけてくれる。そしてお祖父様の心臓は、おそらくその最後のぬくもりをこめて、私のために鼓動してくれているんだわ。私を弄《もてあそ》ぶ苛酷な運命が、私より強い者をみな私の敵とし、私をその犠牲《いけにえ》にしているのよ。私を支えるもの、私の友としては屍同然の老人一人なんですもの。ああ、ほんとうだわ、マクシミリヤン、もう一度言うけど、私は不幸な女なの。ですから、あなたが、あなたご自身のためではなくて、私のために私を愛して下さっているのは、当然なことなんだわ」
「ヴァランチーヌ」青年は深く心を動かされて言うのだった。「僕は、君だけを愛しているとは言わない。妹も義弟《おとうと》も愛しているからね。だがその愛は、静かで穏やかな愛情で、僕が君に対して抱いている気持ちとは、どの点をとってみても少しも似ていない。君のことを思い浮かべると、僕の血潮はたぎり、胸はふくらみ、心はあふれんばかりになる。だが、この力、この熱、この人間の力を超えた能力を、君がそれらを君のために役立てよ、と言う日まで、僕はただひたすら君を愛するためにのみ使うつもりだ。フランツ・デピネ氏はまだ一年は帰って来ないと聞いた。その一年の間に、どれほどの幸運が僕たちのために働いてくれるか知れない、どれほどの思いがけない事件が、僕たちに力を貸してくれるか知れない。だから、つねに希望は捨てずにいよう。希望を抱くということは、ほんとうに楽しくすばらしいことだ。が、それにしても、ヴァランチーヌ、君は僕をエゴイストと言って責めるけれども、それなら君は僕にとって何だった? 美しく冷たい純潔なヴィーナスの像だったじゃないか。僕のこの献身、服従、自己を抑えた態度のお返しとして、君は何を約束してくれた。なんにもだ。何を与えてくれた。ほんのわずかばかりのものじゃないか。君は、フィアンセのデピネ氏のことを話し、いつの日にかは彼のものにならねばならぬという思いに溜息をつく。ねえ、ヴァランチーヌ、それだけが君の心の中のすべてなのか。僕は自分の命を君に賭け、僕の魂を君に与え、僕のどんなにひそやかな心のときめきすらも君に捧げてしまっているというのに。そして、もし君を失うようなことがあれば、僕は死ぬだろうと低くつぶやいているというのに、君は自分が他の男のものとなると考えても恐ろしくはならないのかい。ああ、ヴァランチーヌ、僕が今の君だったら、今君が、僕が君を愛していることを確信しているように、自分が愛されていると感じたら、僕ならもうすでに百回もこの鉄門の柵の間から自分の手をさしのべて、『マクシミリヤン、私はあなたのものよ、あなただけのものよ、いついつまでも』と言いながら、哀れなマクシミリヤンの手を握っているよ」
ヴァランチーヌはなにも答えなかった。青年は、彼女が吐息を洩らし泣いているのを耳にした。
その効果はすぐさまマクシミリヤンの上に現われた。
「ああ、ヴァランチーヌ、ヴァランチーヌ」彼は叫んだ。「僕の言ったことは忘れてくれ、もし僕の言葉に、なにか君の心を傷つけることがあったのなら」
「いいえ、おっしゃる通りだわ。でも、あなたは私を、ほとんど他人同然の家の中にほうり出された哀れな娘とはお思いにならなくて? 父は私にとっては他人同然なんですもの。そして私の意志など、十年このかた、毎日毎日、一時間ごと一分ごとに、私の上に重くのしかかっている、私を意のままにする人たちの鉄の意志で踏みにじられて来たんですもの。私が何を苦しんでいるか、人にはわからないし、私も、あなた以外の人には誰にも言わなかったわ。上べは、誰の目にも、なにもかもが私には親切で、私が好意に包まれているように見えるの。でも実際にはすべてが敵だわ。世間はこう言うわ、『ヴィルフォール氏は厳格峻厳な人だから、娘にやさしくするってわけにはいくまいが、少なくともあの娘には、ヴィルフォール夫人の中に第二の母を見出せたという幸せがあるよ』。ところがそれは世間の考え違い。父は私に無関心だから私をほったらかしているのだし、継母《はは》は執念深く私を忌み嫌っているわ。しかもそれが消えることのない微笑のヴェールをかぶっているから、なおのこと恐ろしいの」
「君を嫌う、ヴァランチーヌ、君を! どうして君を嫌うことなどできるんだ」
「ああ、マクシミリヤン」ヴァランチーヌは言った。「正直言ってね、私を嫌うのも、ごく自然な感情からだと思うの。継母《はは》は自分の子を溺愛しているのよ、私の弟のエドワールを」
「それで?」
「それでね、私たちの間でお金の話なんかするのはおかしいとは思うけど、継母が私を嫌う原因は、少なくともそこから来てるように思うのよ。あの人には財産がないの。私には母の遺産があるし、それも、いつかは私のものになることになっているサン=メラン侯爵夫妻の財産で倍になるわ。だからそれが嫉ましいんだと思うの。ああ、ほんとうに、もし私が財産を半分|継母《はは》に分けてあげて、それで私がふつうの父の家にいる娘のように、ヴィルフォールの家でなれるんなら、今すぐにでも私はそうするのに」
「可哀そうに」
「そうなのよ、私はつながれているんだと思う。と同時に私はあんまり弱いもんだから、その絆《きずな》が私をがんじがらめにしていて、それを断つのがこわいような気がするんです。それに、父は、命令に背かれて黙っているような人ではありません。父は私に対しては絶対的な力を持っています。あなたに対しても、国王に対してさえも同じことでしょう。非の打ちようのない過去と、ほとんど攻撃しようのない地位に守られているんですもの。ああ、マクシミリヤン、心の底から言うわ、私は抗《あらが》いません。だって、もし戦えば、私だけではなくあなたも打ち砕かれてしまいそうな気がするんですもの」
「それにしても、どうして君はそう絶望的になるんだろう、どうして未来を暗くしか見ないんだろう」
「過去の経験からそう判断するからよ」
「そう言うけれど、僕は貴族という点から見れば高い地位に属しているわけではないにしても、それでも、多くの点で、君の住む社会と密接なつながりを持っている。フランスが二つに分裂していたかつてのフランスはもう存在していないんだよ。王国の最も高貴な家柄は、帝国の家柄の中にすっかり溶けこんでしまった。中世以来の槍一すじの貴族は、大砲の貴族と一体となったんだ。僕はその後者のほうだ。僕には、軍隊での輝かしい未来がある。たかが知れたものだが、僕だけで自由にできる財産もある。それに、父の思い出は、今までこの世に存在した最も廉潔な商人として、僕たちの故郷では、畏敬の念をもって讃えられている。僕たちの故郷と言ったけどね、ヴァランチーヌ、それは君だって、マルセーユの出と言えるからなんだ」
「マクシミリヤン、マルセーユのことは言わないで。マルセーユという言葉を聞いただけで、私はお母様のことを思い出してしまうの。誰しもがその死を惜しんだあの天使のようなお母さまのことを。この世でのその短い滞在中、娘の私をじっと見守っていて下さったけれど、今もなお、天上の永遠の滞在中も、私を見守っていて下さると、少なくとも私はそう願っているんです。ああ、もしお母様が生きていて下さったら、私はなんにも不安なんか感じない。私はお母様に、あなたが好きなのって言ったわ。そうすれば、お母様は私たちを守って下さったわ」
「ああ、ヴァランチーヌ」マクシミリヤンがまた口を開いた。「もしそのお母さんが生きておられたら、おそらく僕は君と知り合いになれなかった。君も言ったように、もし生きておられたら、君は幸せだったろう。そして、幸せなヴァランチーヌは、その高い地位の上から、僕みたいな男は、蔑《さげす》んだ目で見下したろうからね」
「まあ、マクシミリヤン、今度はあなたが不当なことをおっしゃるのね……でも教えてくれない……」
「何を教えてくれと言うんだい」ヴァランチーヌがためらっているのを見て、マクシミリヤンが言った。
「あのね」娘は続けた。「昔、マルセーユで、あなたのお父様と父との間に、なにか仲違いするようなことがあったの?」
「いや、僕の知ってる限りではそんなことはない」マクシミリヤンが答えた。「ただ、君のお父さんは熱烈とは言うもおろかなほどのブルボン派だったし、僕の父は、皇帝に心酔していたことを除けばね。僕の推測では、二人の間での不和がもしあるとすればそれだけだ。でも、どうしてそんなことを訊くんだ」
「これから言うわ、だってあなたには全部を知っていてもらわなければいけないんですもの」娘が言った。「あのね、あなたがレジヨン・ドヌール四等勲章を貰ったことが新聞に載った日のことなの。家中みんな祖父の部屋にいたんだけど、それに、ダングラールさんもいたわ。ご存じでしょう、一昨日、その方の馬が母と弟を死なせかけたあの銀行家。みんながダングラールさんのお嬢さんの結婚の話をしている間、私はお祖父様に新聞を読んであげていたの。あなたの記事の所まで来たとき、前の日の朝、あなたがこのいい報らせを教えて下さっていたから、私はもう先に読んでしまっていたんだけど、あなたのその記事の所まで来たとき、私うれしくて……でもそれと同時に、みんなの前で大きな声であなたの名前を言わねばならないと思うとふるえたわ。もし、私がわざと読まないですませてしまうのをかえってあやしまれると思わなかったら、きっと私はあなたの名前を飛ばして読んでしまったわ。だから、全身の勇気をかき集めて、私は読んだの」
「ヴァランチーヌ!」
「そしたらね、あなたの名前を言ったとたんに父が振り向いたのよ。私は、この名前を聞けば、みんな電撃に打たれたようになるだろうって確信してたもんだから、私ってどうかしているわね、父がぎょっとしたのを見たように思ったの。それに、きっとこの方のほうは私の見まちがいだと思うんだけど、ダングラールさんまでが、ぎょっとしたように見えたの。
『モレルだと?』父が言ったわ。『ちょっと待て』父は眉をしかめて『それはマルセーユのモレル家の者ではないかな。一八一五年にわしらをさんざん手こずらせた、狂暴なボナパルト派の』
『そうですな』ダングラールさんが答えたわ。『私は、あのもとの船主のモレルの伜《せがれ》ではないかとさえ思いますな』」
「ほんとうかい」マクシミリヤンが言った。「それでお父さんは何て答えたんだ、ヴァランチーヌ」
「ああ、ひどいことよ、とても私には言えないわ」
「いいから言ってごらん」マクシミリヤンが微笑みながら言った。
「『奴らの皇帝は』眉をしかめたまま父は続けたの。『奴らの遇し方を心得てたな、あの狂信者どもの。彼は、奴らを生身の弾丸と呼んだんだからな。ま、それが奴らにふさわしい唯一の名前だが。新政府が、この健全な原則を厳格に実行しているのを見て、わしは喜びにたえん。アルジェリアを政府が保有し続けているのはそのためにすぎんのだから、わしは政府をほめてやりたい。アルジェリアはわしらにはいささか高くつくが』」
「そいつはたしかに残酷な政策だね」マクシミリヤンが言った。「でも、ヴァランチーヌ、ヴィルフォールさんが言ったことを恥かしく思うことはないよ。僕の父だって、その点では君のお父さんにひけをとらない。いつでもこう言ってたよ。
『あれほど数多くのすばらしいことを作り上げた皇帝陛下が、なぜ弁護士や裁判官どもで一箇連隊お作りにならぬのか、奴らを第一線に送って敵の砲火にさらさぬのか』とね。
これでわかったろう。双方とも、表現の美しさといい、考え方のやさしさといい、よく釣合いがとれているじゃないか。だが、ダングラールさんは、検事閣下のその鋭い言葉にどう答えてた?」
「ああ、あの方は、あの方独特の陰険な笑いかた、私には残忍な笑いかたに思えるんだけど、その笑いかたで笑い出したわ。それからすぐ後で立ち上がって、帰ってしまったの。その時になって初めて私はお祖父様が、興奮なさっているのに気がついたの。あなたに言っておかねばならないけど、お気の毒な中気病みのお祖父様が、興奮なさってるのがわかるのは、私だけなのよ。それに、お祖父様の面前で話されたことが、だって誰もお祖父様のことなんか気にもかけないんですもの、お気の毒なお祖父様! お祖父様のお気にひどくさわったんじゃないかと私は思ったの。皇帝の悪口を言ってたんですものね、お祖父様は、狂信的な皇帝讃美者だったらしいのに」
「たしかに、帝政時代には有名だった方だ。元老院議員だったし、君は知っているかどうかわからないが、王政復古の際の陰謀には、そのすべてにお祖父様が関係しておられた」
「ええ、私もそんなことがひそひそと話されているのを聞いたことがあるわ、私にはとても妙に思えるんだけど。祖父がボナパルト派で、父が王党派だなんて。でも、事実そうなんですものね……そんなわけで私はお祖父様のほうを見たの、お祖父様が目で新聞をさしているの。
『どうしたの、お祖父様』私は言ったわ。『うれしいの?』
お祖父様はそうだと言ったわ。
『お父様がおっしゃったことが?』こう聞くと、そうじゃないって身ぶりをするの。
『ダングラールさんが言ったこと?』
やっぱり違うと言うの。
『モレルさんが』私はマクシミリヤンとは言えなかったわ、『レジヨン・ドヌール四等勲章を授けられたこと?』
お祖父様はそうだって。
マクシミリヤン、あなたはこれが信じられる? あなたのことを知らないお祖父様が、あなたがレジヨン・ドヌールを貰ったのを喜んだということが。これはきっと、お祖父様がおかしくなってしまっているからなのね。だって、お祖父様は子供にお戻りになったって言われているんですもの。でも、私は、お祖父様が好き、そうだっておっしゃって下さったから」
「これはおかしい」マクシミリヤンは考えこんだ。「それじゃ君のお父さんは僕を嫌っておいでなんだろう、ところが一方では、君のお祖父様はその反対に……党派のもたらす愛とか嫌悪とかいうものは、まったく不思議なものだなあ」
「しーっ」いきなりヴァランチーヌが言った。「かくれて! 逃げて! 人が来るわ」
マクシミリヤンは鋤にとびつき、ムラサキウマゴヤシを無残に掘り返し始めた。
「お嬢様! お嬢様!」木立の後ろから呼ぶ声がした。「奥様が探していらっしゃいますよ。奥様がお呼びです。サロンにお客様がお見えです」
「お客様!」あわてきったヴァランチーヌが言った。
「どなたがお見えになったの」
「大貴族、とか、王族とか、モンテ・クリスト伯爵様です」
「すぐ行きます」ヴァランチーヌが大きな声で言った。
この名前を聞いて、ヴァランチーヌの『すぐ行きます』が、会う瀬の度の『さようなら』となる男を、鉄門のこちら側でびくっとさせた。
『なんだって!』鋤に身をもたせて考えこみながらマクシミリヤンはつぶやいた。『どうしてモンテ・クリスト伯爵はヴィルフォール氏と知り合いなんだ』
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五十二 毒物学
ヴィルフォール夫人のいる部屋に、今しがた入って来たのは、まさしくモンテ・クリスト伯爵であった。検事が彼の家を訪ねたその答礼に訪れたのである。伯爵の名が告げられると、ご想像の通り、家中大騒ぎになった。
ヴィルフォール夫人は、伯爵の来訪が告げられたとき、サロンにいたが、すぐに息子を呼び寄せた。子供に伯爵への礼を改めて言わせようと思ったのである。この大人物の話を二日前から聞かされ通しであったエドワールは、大急ぎで駆けつけて来た。母親の命令に従ったのではない。伯爵に礼を言うためでもなかった。ただ好奇心から、伯爵をよく観察して、母親に、『まったく悪い子だわ、でも許してあげなきゃね、ほんとうに頭がいいんですもの』と言わせるような、ふざけた嘲弄の言葉の種をみつけるためであった。
ひと通りの挨拶がすむと、伯爵はヴィルフォール氏の在宅の有無を訊ねた。
「主人は法務大臣に食事に招かれまして、たった今出かけましたの」若い妻が答えた。「お会いできなくて、きっと残念に思いますわ」
サロンには先客が二人いたが、むさぼるように伯爵をみつめてから、礼儀を失せず、さりとて好奇心も一応は満足させるだけの時を過ごしてから、その客たちは帰って行った。
「ところで、お姉さんのヴァランチーヌは何をしているの」夫人がエドワールに言った。「伯爵様にご紹介申し上げるからって、言ってらっしゃい」
「お嬢さんがおありですか」伯爵が訊ねた。「まだお小さいんでしょうね」
「主人の娘なんですの」若い妻がすぐに答えた。「前のひととの間にできた娘《こ》ですわ。もう大きくてきれいな娘です」
「でも陰気くさいよ」エドワールが、帽子の羽根飾りにしようと、金色の止まり木にとまっている見事なオウムの尾羽根をむしりながら口をはさんだ。オウムはその痛みに鳴きわめいている。
ヴィルフォール夫人はただこう言っただけである。
「エドワール、静かにしてちょうだい」
「このおっちょこちょいの申したことも大たいはあたっていますの。あたくしが、困ったと思いながらしょっちゅう申しておりますことを聞きかじって、そのまま口にしたんですわ。あの娘は、私たちがなんとかして明るい気持ちにしてやろうと思っても、暗い性格でふさぎこんでいるんです。せっかくきれいなのが台なしになってしまうこともよくあるくらいなんですの。それにしても遅いわね、エドワール、どうしてなのか見てらっしゃい」
「いない所を探してるからだよ」
「どこを探してるの」
「お祖父ちゃんの所さ」
「あそこにはいないって言うの?」
「いない、いない、いない。あんな所にいるもんか」エドワールは歌のように節をつけて答えた。
「じゃ、どこにいるの。知っているなら、おっしゃい」
「あの大きなマロニエのとこだよ」悪童は、母が悲鳴をあげるのもかまわずに、生きたハエをオウムに与えながら答えた。オウムはこの餌がひどく好きらしかった。
ヴィルフォール夫人が呼鈴に手をのばし、小間使いにヴァランチーヌのいる場所を教えようとしたとき、娘が入って来た。たしかにさびしそうな顔をしている。よく注意して見れば、その目に涙の跡すら認めることができたであろう。
物語のテンポに引きずられて、読者諸子には顔立ちなどお知らせしないままに登場させてしまったが、このヴァランチーヌという娘は、十九歳の、背のすらりと高い深い青い色の目をした、明るい栗色の髪の娘であった。そのもの憂《う》げな身のこなしには、この娘の母親の特徴であった、あのなんとも言えぬ高い気品がそなわっていた。白くほっそりとした手、真珠色に光る首すじ、ところどころはかない色を帯びている頬が、最初見たときには、人がその姿を詩的に、水面に影を写す白鳥になぞらえたあの英国の美女の一人のような風情をこの娘に与えていた。
娘は部屋に入って来た。母のそばに、すでにいやというほどその噂を聞いていた外国人がいるのを見ると、彼女は若い娘がよくやる作り笑いもしなければ、目を伏せることもせずに、しとやかに頭を下げ、これが伯爵の注意をひいた。
伯爵は立ち上がった。
「ヴィルフォール家の娘、私の義理の娘でございます」と、夫人は、ソファーに坐ったまま身をかがめ、手でヴァランチーヌを示しながら言った。
「こっちはモンテ・クリスト伯爵、中国の王様、コーチシナの皇帝だよ」姉に陰険な目を注ぎながら、いたずら小僧が言った。
今度はヴィルフォール夫人も青くなって、このエドワールという名の家の厄介者に腹を立てそうになったが、伯爵は、反対に、にこにこ笑って、好もしそうにその子の顔をみつめるのだった。母親はうれしくてたまらなかった。
「ですが、奥さん」伯爵が中断された会話をまた続けようと、夫人とヴァランチーヌの顔をかわるがわる見ながら口を開いた。「どこかで、すでにお会いしたことはなかったでしょうか、奥さんにもお嬢さんにも。さっきもそんな気がしたのですが、お嬢さんが入って来られたとき、そのお姿が、混乱していた記憶、こんなことを言って申し訳ありませんが、その記憶に一条の光を投げてくれました」
「そんなはずはございませんわ。娘は人前に出るのはあまり好みませんし、あたくしどもはめったに外出いたしませんもの」と、若い妻が言った。
「ですから、お嬢さんに、それから奥さんにしても、この可愛らしいいたずら坊やにしても、お会いしたのは社交界などではありません。第一、私はパリの社交界はまったく存じません。すでに申し上げたと思いますが、つい二、三日前にパリヘ来たばかりなのですから。そうではなくて、思い出すのをお許しいただきたいのですが……ちょっとお待ちになって下さい……」
伯爵は、いっさいの記憶を集中しようとするように、額に手をあてた。
「いや、戸外でした……あれは……どこだったかな……しかし、たしか日がさんさんと照っていて、宗教上の祭りに関係があったように思います……お嬢さんは花を手にしておられた。坊やはその庭の見事なクジャクの後を追いかけていて、奥さんはブドウ棚の下におられた……奥さん、お力を貸していただけませんか。私が今申しましたことで、なにかお思い出しになりませんか」
「いいえ、ほんとうですわ」夫人は答えた。「それにしましても、もしどこかでお目にかかっているとしたら、あなた様のことは、ちゃんと憶えているはずでございます」
「伯爵様は、もしかするとイタリアで私たちにお会いになったのかも」おずおずとヴァランチーヌが言った。
「なるほど、イタリアでね……そうかもしれない」モンテ・クリストが言った。「イタリアヘ旅行なさったことがおありですか、お嬢さん」
「母と私と、二年前に参りました。お医者様が、私の胸のことを心配なさって、ナポリに転地するようすすめて下さったものですから。私たち、ボローニャ、ペルージア、それにローマを通りました」
「あ、その通りです、お嬢さん」たったそれだけの暗示が、記憶をはっきり蘇らせるのには十分であったというように、モンテ・クリスト伯爵が叫んだ。「ペルージアでしたよ。聖体祭の日です。お目にかかったのを思い出しました。旅館のポスト荘の庭でした。奥さんとお嬢さんと坊ちゃん、それに私が、たまたまそこで一緒になったのでした」
「ペルージアのことも、ポスト荘のことも、それにお話の祝日のことも、よく憶えておりますけど」ヴィルフォール夫人は言った。「でも、どう記憶をたどってみましても、思い出せません。もの覚えが悪くてお恥ずかしいんですけど、お目にかかった記憶がございませんの」
「おかしいですわ、私も思い出せません」ヴァランチーヌが、モンテ・クリストにその美しい目を向けながら言った。
「僕は憶えてるよ」エドワールが言った。
「奥さん、少しお力添えしましょう」伯爵がまた口を開いた。「灼けつくような日でした。あなた方は、祭のせいでなかなか来ない馬を待っておられました。お嬢さんは庭の奥のほうへ行ってしまわれたし、坊ちゃんはクジャクの後を追って見えなくなりました」
「ママ、僕あいつを捕まえたんだよ」エドワールが言う。「しっぽの羽根を三本抜いてやったんだ」
「奥さんは、ブドウ棚の下に一人で残っておられました。もうお忘れですか、あなたが石のベンチに坐っておられて、今申しましたように、お嬢さんも坊ちゃんもいない間に、誰かと長いことお話をなさったことを」
「ええ、そうでしたわ、その通りです」若い妻は赤くなりながら答えた。「憶えております。長いラシャのマントを召した方と……たしかお医者様だったと思うのですけれど」
「それです、奥さん。その男が私なのですよ。私はあの二週間前からあの宿に泊っていて、私の召使いの熱病を治し、宿の主の黄疸《おうだん》を治したものですから、みんな私を名医と思いこんでいました。私たちは長いこと、いろいろなことをお話ししましたよ。ペルジーノのこと、ラファエロのこと、風習やら衣裳やら、たしか人からお聞きになったとかで、ペルージアでは当時まだなん人かの者がその秘密を伝えていたという、あの有名なアクワ=トファナのことなど」
「ああ、そうでしたわ」夫人は、なにか不安を抱いたようにあわてて言うのだった。「思い出しました」
「あなたがおっしゃった細かいことはもう忘れてしまいましたが」モンテ・クリストはまったく平静に言葉をついだ。「これだけははっきり憶えております。あなたも、ほかの人たちと同じように誤解なさって、お嬢さんの健康のことで、あれこれ私に意見を求められました」
「でもそうおっしゃいますけど、あなた様はほんとうにお医者様でしたわ」夫人が言った。「病人をお治しになったんですもの」
「モリエールやボーマルシェならこうお答えするでしょうな、まさに私が医者でなかったから、私が病人を治したのではなくて、病人のほうが治ったのだ、と。私はただこう申し上げておきましょう。私は化学と自然科学を徹底的に研究しました、と。ただあくまでも素人としてです……おわかりでしょうか」
この時、時計が六時を打った。
「六時だわ」目に見えてうろたえていたヴィルフォール夫人が言った。「ヴァランチーヌ、お祖父様のお食事ができているかどうか、見に行って下さい」
ヴァランチーヌは立ち上がり、伯爵に一礼して、一言も言わずに部屋を出て行った。
「ああ、困りましたな。私のせいでお嬢さんを、部屋から遠ざけられたのですか」ヴァランチーヌが行ってしまうとすぐに伯爵が訊ねた。
「とんでもございません」若い妻があわてて打ち消した。「ノワルチエさんに食事をさせる時間なんですの。哀れな生命を支えるための哀れな食事ですわ。主人の父がどんなに気の毒なことになっているか、ご存じでしょうか」
「ええ、ヴィルフォールさんから伺いました。たしか中気だとか」
「そうなんですの。あの気の毒な年寄りは、まるで身動きもできず、人間の仕組みの中で魂だけが目覚めてますの。まるで消えかかっているランプのように、蒼白くゆらめいている魂だけが。こんな家の中の不幸のことなどお聞かせして申し訳ございません。あなた様がすぐれた化学者であるとお話し下さっていたのを、あたくしがお話を途中で切ってしまったんでしたわね」
「ああ、奥さん、私はそうは申しませんでした」伯爵が笑いながら答えた。「そうではなくて、私が化学を勉強したのは、東方で暮らす決心をしたからなのです。ミトリダテス王の例にならおうとしたのですよ」
「ミトリダテス、レタスポンティクス〔ラテン語「ポントスの王、ミトリダテス」の意〕」うるさい小僧が、見事なアルバムの肖像を、じょきじょき切りながら言った。「毎朝、毒を入れたミルクを一杯ずつ飲んでいた王様だ」
「エドワール、なんて悪い子なの!」ずたずたにされたアルバムを息子の手から取りあげて、ヴィルフォール夫人が叫んだ。「ほんとに手に負えない子だわ。ほんとうにうるさいこと。私たちだけにしてちょうだい。ノワルチエお祖父様の所にいるヴァランチーヌ姉さんの所へ行きなさい」
「アルバム……」
「アルバムって?」
「そう、アルバムをくれよ」
「どうして画を切ったの」
「だっておもしろいんだもの」
「行きなさい、さあ」
「アルバムをくれなきゃ行かないよ」大きな肘掛椅子にふんぞりかえって、言い出したらきかないいつものくせで、子供が言った。
「さあ、いいでしょ、もうそっとしといてちょうだい」夫人が言った。
夫人はアルバムをエドワールに与え、子供を送り出した。
伯爵はヴィルフォール夫人の姿を目で追っていた。『息子が出て行ったら、夫人はドアを閉めるかな』彼はこうつぶやいた。
ヴィルフォール夫人は、子供が出た後で、入念にドアを閉めた。伯爵はそれに気づかぬような様子をしていた。
それから夫人は、あたりをもう一度見廻してから戻って来て、二人用のソファーに腰をおろした。
「こんなことを申してすみませんが」と、伯爵は、われわれがよく知っている例の人のよさを見せながら言った。「あの可愛いいたずら小僧に、かなり厳しい態度をとっておいでですね」
「ぜひそうでなくてはいけませんわ」夫人は、まさに母親らしく落ち着きはらって答えた。
「エドワール君がミトリダテス王のことで暗誦したのは、コルネリウス・ネポス〔紀元前一世紀のラテンの伝記作家〕の一節です」伯爵が言った。「坊ちゃんの家庭教師が決して坊ちゃんと無駄な時間を費やしているのではないこと、そして、坊ちゃんが年よりはずっと進んでいることを証明する折角の引用を、あなたは途中でやめさせてしまったのですよ」
「ほんとうのところを申しますと」お世辞の言葉に甘く酔わされた母親が答えた。「あの子はなんでも楽に理解して、憶えようと思ったことはなんでも憶えてしまいますの。欠点といえば、とてもわがままなことだけですわ。でも、あの子の申しましたことですけど、伯爵様は、ミトリダテスがそんな予防策を講じていたこと、それに、それが効きめがあったとお思いになりますの?」
「そう信じているからこそ、こうしてお話ししているこの私自身、ナポリ、パレルモ、スミルナで毒殺されてしまわぬよう、その方法を用いたのです。この用心をしていなかったら、かの地で命を奪われていたかもしれません」
「で、うまく行きましたの?」
「完全に」
「ああ、そうでしたわね。前にペルージアでそんなことをお話し下さったのを憶えております」
「ほんとうですか」伯爵は見事な演技で驚いたふりをしながら、「私は全然憶えておりません」
「あの時あたくしが、毒物というものは、北国の者にも南の国の者にも同じような効力を持つのかと伺ったとき、あなた様は、北国の人間の、体温が低くリンパ性の体質は、南の国の人間の充実した精力的な体質と同じ反応は示さないとお答えになりましたのよ」
「その通りです」モンテ・クリストが言った。「私は、ナポリ人やアラビア人であればまちがいなく死んでしまう植物を、ロシア人ががつがつ食べて、それでいてまるで平気なのをこの目で見たことがあります」
「だとすると、こういうふうにお思いなのですね、東方の人たちの場合よりもあたくしたちのほうが、効果はいっそう確かだというふうに。次第に量を増やしながら毒物を飲むことには、暑い地方の人たちよりも、この霧や雨に閉ざされたあたくしたちのほうが、容易に順応できるとお思いですのね」
「そうです。ただ、もちろん、自分の身体をならしておいた毒物に対してしか予防になりませんよ」
「ええ、わかっております。で、どうやって、例えば伯爵様はどうやって身体をならしますの、いえ、おならしになりましたの」
「簡単ですよ。まず、仮に、どんな毒が奥さんに対して用いられるかを、奥さんが前もってご存じだとします。その毒物を仮に……、そう例えばブルシン〔アルカロイド系の猛毒〕としましよう」
「ブルシンはニセアンゴスチュラの木〔Brucea ferruginea〕からとれるんでしたわね」
「その通りです」モンテ・クリストが答えた。「どうやら、お教えすることはあまりないようですね。感心いたしました。そのような知識をお持ちのご婦人はめったにいません」
「正直に申しますけど」ヴィルフォール夫人が言った。「あたくし、神秘学〔錬金術、占星術等々を言う〕は大好きですの。まるで詩のように、想像力に働きかけて来て、しかも代数方程式のように数字に帰結してしまうんですもの。でも、どうぞお続けになって下さい。お話、ほんとうに興味がございますの」
「では」モンテ・クリストは話し始めた。「その毒物を仮にブルシンだとしましょう。最初の日には一ミリグラムお飲みになるのです。二日目には二ミリグラム。こうして、十日後には〇・一グラム飲みます。そして、さらに一日量を一ミリグラム増やし、二十日後には〇・三グラム飲むことになります。これは、あなたにはなんの支障もなく耐えられる量ですが、あなたと同じ予防策を講じていない者にとっては、すでに危険な量です。結局一か月後には、あなたと同時に、同じ水差しの水を飲んだ者を殺すことができます。あなたのほうは、少し気分が悪くなって、その水の中になにか毒物が入っていたなと気づくぐらいのものですが」
「なにかほかの解毒法をご存じないでしょうか」
「存じません」
「私、あの、ミトリダテスの話を、よくなん回も読み返すんですけど」なにかを考えている様子でヴィルフォール夫人が言った。「あれは作り話だと思っておりました」
「いいえ、奥さん。物語の常に反して、あれはほんとうなのです。それにしても、今おっしゃっていること、今私に訊ねておられることは、その場限りの気まぐれな疑問を抱かれてのことではありませんね。二年前にも、奥さんは同じ質問を私になさったのですから。あの時も、ずっと前からミトリダテスのこの話が心を捉えているとおっしゃったのですからね」
「その通りですわ。娘時代に一番好きだった勉強は、植物と鉱物でした。それからもう少し大きくなって、ちょうど花が東方の人たちの愛情のすべてを説明するように、薬草の使用法が、しばしば東方の民族の歴史、個人の生活全体を説き明かすことがあると知ったとき、自分が男ではなくて、フラメル〔十四世紀の学者。錬金術師と伝説は言う〕やフォンタナ〔十七世紀のイタリアの物理学者にして解剖学者〕、あるいはカバニス〔十八世紀の医者〕のようにはなれないのを残念に思ったものですわ」
「東方の連中は、ミトリダテスのように毒物を鎧《よろい》としただけではなく、短剣にもしたのですから、なおのこと残念でしたね。彼らの手にかかると、科学は単に防禦用の武器ではなく、大部分の場合、攻撃用の武器にもなるのです。あるものは自分たちの肉体的苦痛に対して用いられ、あるものは敵に対して用いられる。アヘン、ベラドンナ、ニセアンゴスチュラ、ヘビノキ、ラウロセラスを使って、自分を眠らせてくれぬものを眠らせてしまうのです。あなた方がこちらで、善良な女と呼んでいる、エジプト、トルコ、ギリシアの女たちで、化学に関しては医者を驚かせ、心理に関しては懺悔聴聞僧を怯えさせないような女は一人もいませんよ」
「ほんとうでしょうか」ヴィルフォール夫人の目は、この会話に熱中して、異様な火を燃やしてぎらぎら輝いていた。
「ええ、ほんとうですとも」モンテ・クリストは続けた。「人に恋をさせる植物から、人を殺す植物に至るまで、こうして企らまれ解決されているのです。天国の門を開く水薬から、一人の人間を地獄につき落とす水薬に至るまで、東方の秘められたドラマは、これらによって綾《あや》なされ解きほぐされているのです。人間の精神的肉体的性質の中にある奇怪なもの奇妙なものに応じて、あらゆる種類の微妙に違うものがあります。さらに、あの化学者たちは、この薬と毒を、恋のため、あるいは復讐のためというのに応じて、見事に適応させる技術を持っているのです」
「でも伯爵様」若い妻がまた言った。「あなた様が大部分の時期をお過ごしになった東方の社会は、その美しい国から私どもに伝えられて来た物語のように、幻想的な社会なのでしょうか。人を抹殺しても罰を受けないんですの? バグダッドやバッソラは、実際にガラン〔フランスの東洋学者。『千一夜物語』の翻訳者〕が書いている通りなんでしょうか。それらの社会を支配しているサルタンや大臣たち、フランスで言う政府を構成している人たちは、ほんとうにハルン=アル=ラシッドやジャファールのような人たちで、毒殺者を罰しないばかりか、その犯罪が巧妙な場合には総理大臣にしたり、その話を金文字で彫らせて、退屈なときの暇つぶしに読むのでしょうか」
「いいえ、奥さん、幻想的な社会は、東方にももう実在しません。かの地にも、別の名前を用い、別の服装に身を包んではいますが、警察署長もいれば予審判事もいる、検事もその道の専門家もいます。犯人を、ごく快的に、絞首刑にしたり、首をはねたり、串刺しにしたりします。ただこの犯人どもが、まことに巧妙な策士どもでしてね、官憲の追跡をくらまし、じつに巧みな術策を用いて仕事を成功させてしまうすべを心得ているのです。私どもの国では、憎悪とか貪欲のデモンにとりつかれた馬鹿者は、殺してしまいたい敵なり抹殺してしまいたい祖父母がいると、食料品屋へ行き、ネズミがうるさくて眠れないとかなんとか言って、本名より簡単にばれてしまうのに偽名を使って、五、六グラムもの砒素を買いこむ。せいぜい頭がいい場合でも、五、六軒の食料品屋へ行く。五倍も六倍も顔を知られてしまうわけですがね。そして、その薬が手に入ると、敵なり祖父母に、マンモスでもマストドンでもころりといってしまうほどの砒素を盛るから、被害者は無茶苦茶に呻き声をたてて、あたり近所を大騒ぎにしてしまう。そこで、警官や憲兵が雲霞のごとくやって来る。医者が呼ばれ、解剖してみると、胃や腸から匙《さじ》ですくうほどの砒素が出て来る。翌日のあらゆる新聞が、被害者と犯人の名前をあげて、事件を報じます。もうその晩のうちに、一軒のあるいはなん軒もの食料品屋が、『ええ、この旦那に砒素を売ったのは手前で』と言いに来ます。買手の顔を知らないと言うどころか、遠慮なしにこの人だこの人だと言うでしょう。そこでこの馬鹿な犯罪人は逮捕され、投獄され、訊問され、対決させられ、恐れ入りました、となって、有罪判決、ギロチン、というわけです。もし多少身分のある女性の場合は終身禁固です。ま、こんなところがあなた方北の国の人たちの化学に対する理解の程度でしょうな。はっきり申し上げざるを得ませんが、デリュのほうが、まだましでしたよ」
「仕方ないじゃございませんか」若い妻が笑いながら言った。「人間、できることしかできませんもの、皆が皆、メジチ家やボルジア家の秘法を知っているわけではございませんわ」
「では」肩をすくめながら伯爵は言った。「そういう能無しなまねばかりしている原因をお話ししましょうか。お国の芝居がいけないのですよ。パリで上演されている芝居の脚本を読んだかぎりで私が判断したところですが、いつだって、小さなびんの中身を飲むか、指輪の台の爪を噛むかすると、ばったり倒れて死ぬ、というのばかりです。五分後には幕が降り、観客は散ってしまう。この殺人の後は誰も知りません。肩帯をつけた署長の姿も、四人の部下をつれた伍長の姿も決して見られません。それで、弱い頭の持ち主に、事はこんな具合に運ぶものだというふうに思いこませてしまうのです。しかし、一歩フランスを出てごらんなさい、アレッポなり、カイロなりいやナポリやローマでいいから行ってごらんなさい。通りを胸を張って、生き生きと、血色のいい人たちが歩いています。ところが跛《びっこ》の悪魔〔マドリッドの家々の屋根をはぎ、そこに住む者の秘密をあばく悪魔。ル・サージュの作品に出て来る〕のマントがあなたをかすめたら、この悪魔はこう言うでしょう、『あの人は三週間前から毒を飲まされてる、一か月後には完全に死ぬよ』」
「それじゃ」ヴィルフォール夫人が言った。「あちらの人たちは、アクワ=トファナの秘密をまたみつけたのかしら。ペルージアでは、その秘密は失われたと聞きましたけど」
「なにをおっしゃるんですか、奥さん。われわれ人間の間で、なにかが失われるなんてことがあるでしょうか。技術は移動するものです、世界を廻るのです。名前が変わる、ただそれだけです。学のない者はだまされる。しかし結果は同じなのです。毒物というものは、ある特定の器官に作用します。あるものは胃に、あるものは脳に、またあるものは腸に。さて、ある毒物が、咳をひき起こすとします。この咳が肺炎、あるいは医学書に書いてある別の病気を誘発します。が、致命的な病気であることに変わりはありません。たとえ致命的なものでないにせよ、無知な医師の投薬のおかげで、致命的なものになってしまいます。大たいにおいて医者は貧弱な化学知識しか持たず、病気をよくもすれば、あなたの思うがままに悪くもしてしまうでしょうからね。こんなわけで一人の人間が巧みにものの見事に殺され、それでいて官憲は、まったく入りこむ余地がない。あの国特有のこうした現象を研究していた、私の友人で恐るべき化学者である、シチリアのアデルモンテ・ディ・タオルミネ神父がしょっちゅう口にしていたようにね」
「恐ろしいお話、でもすばらしいことですわ」一心に聞いているので身動き一つしない夫人が言った。「あたくし白状いたしますけど、そういうお話は、みんな中世にこしらえ上げられたものだと思っておりましたの」
「それはそうでしょう。しかし、今日ではそれがより完全なものとなったのです。時の流れにしろ、各種の奨励にしろ、褒賞にしろ、勲章にしろ、はたまたモンティヨン賞にしろ、もしそれが社会を完璧なものに導くためのものでなかったなら、そんなものがいったいなんの役に立つというのです。ところで、人間が完璧なものであるのは、神と同じように、創造し破壊できる存在になったとき初めてそうだと言えるでしょう。人間は破壊するすべはすでに知っています、道のりの半分は踏破されたのです」
「そうしますと」ヴィルフォール夫人は、なおも自分の目的のほうに話を戻して、「ボルジア、メジチ、ルネ、ルッジエリ、それにずっと後の、近代のお芝居や小説にいやというほど取りあげられている、あのトレンク男爵もでしょうけど、こういった人たちの使った毒は……」
「芸術品でした。まさにそう言うほかはありません。真の学者というものは、ただ平凡に個人だけを相手にするとお思いですか。とんでもありません。科学は、連続して起こる事件や力業、もしこう言えるなら、気まぐれを好むものなのです。ですから、例えば今しがたお話ししたアデルモンテ神父は、この点に関してさまざまな驚くべき実験をやっています」
「ほんとうですの」
「ほんとうです。そのうちの一つだけお聞かせしましょう。彼は、野菜や花や果樹の植わったすばらしい庭を持っていました。その野菜の中から、彼は一番手頃なもの、つまりキャベツを選びました。このキャベツに、三日間砒素の溶液を注いだのです。三日目にキャベツは病気になり黄色くなりました。切る時期です。ほかの人びとの目には、熟したように見えましたし、端正な形ももとのままです。アデルモンテ神父だけが、これが毒物に汚染されていることを知っていました。そこで彼はそのキャベツを家に持ち帰り、ウサギをつれて来て、アデルモンテ神父は、彼の数々の野菜や花や果実に少しも劣らぬほど、数多くのウサギ、猫、モルモットを飼っていたのです、で、ウサギをつれて来てキャベツの葉を一枚食べさせました。ウサギは死にました。これにとやかく言うたねを見つけようとする予審判事がいるでしょうか。マジャンディ氏やフルーランス氏〔ともに当時の生理学者〕を、ウサギ、モルモット、猫殺害の容疑で告発する検事がどこにいるでしょう。いやしません。そんなわけでそのウサギが死んでも、当局はまるで問題にしませんでした。アデルモンテ神父は料理女に、死んだウサギの腸《はらわた》を抜かせて、その腸を堆肥の上に捨てました。たまたま牝鶏が堆肥の上にいて、その腸をついばむ。今度は牝鶏が病気になって、翌日死にました。死ぬ間際に苦しみもがいていたとき、一羽のハゲタカがやって来て、アデルモンテ師の国にはハゲタカがたくさんいるのです、これが牝鶏の死骸に襲いかかり、岩山の上へさらって行って、食べます。三日後、この哀れなハゲタカは、牝鶏を食べて以来ずっと身体の調子が悪かったのですが、空高く飛んでいる最中に目まいに襲われ、虚空をくるくる廻転しながら養魚池にどさりと落ちてしまいます。カワカマス、ウナギ、ウツボなどががつがつと食べます。ご承知でしょう、連中はハゲタカだって食べてしまうのです。さて、もし仮に、毒物に四次汚染されたこのウナギ、カワカマス、ウツボがその翌日食膳に供せられたとしたら、それを食べた人たちは、五次汚染されるわけですが、一週間か十日後には、内臓が痛み、心臓が苦しくなり、幽門に腫物《しゅもつ》ができて死んでしまうでしょう。解剖の結果医師はこう言います。
『患者の死因は、肝臓腫瘍または腸チフスである』とね」
「でも」ヴィルフォール夫人が言った。「伯爵様はそのように出来事を次々におつなげになりましたけれど、なにかちょっとしたことでもあれば、そうはつながりませんわ。ハゲタカがそんなに都合よく来あわせないかも知れませんし、養魚池の近くに落ちないかも知れませんもの」
「ああ、技術の存する所はまさにそこなのです。東洋の大化学者たらんがためには偶然を支配せねばなりません。そこまで行っているのです」
ヴィルフォール夫人はなにか思いにふけりながら耳を傾けていた。
「でも、砒素はいつまでも残りますわ。どんな飲み方をしても、致死量が体内に入れば、その瞬間から、あとで必ず検出されます」
「結構ですなあ」モンテ・クリストが言った。「まさに私があの善良なアデルモンテに言ったことですよ。彼はちょっと考えていましたが、微笑を浮かべ、シチリアの諺で、これはたしかフランスの諺にもなっていると思いますが、私にこう答えたのです。
『世界は一日でできたのではない。七日でできた、日曜日にまたおいで』
次の日曜日に私はまた行きました。彼は、キャベツに砒素をかけるかわりに、ストリキニーネの塩《えん》、学者が、ストリクノス・コルブリナと呼ぶものの溶液をかけていたのです。今度はキャベツが病気になっている様子などまったくありません。ですからウサギはなんの疑いも持たずに食べてしまいました。五分後には死んでいました。牝鶏がウサギを食べ、翌日死ぬ。そこで私たちがハゲタカになったのです。私たちが牝鶏を運び、牝鶏の腹を開きました。今回は、特異な症状はすべて消えていて一般的な症状しかありません。どの器官にも、特別な兆候はまったく出ていないのです。神経系統に緊張が見られますがそれだけです。脳溢血の痕跡がありますが、それ以外にはなにもありません。毒物死ではなくって、牝鶏は脳溢血で死んだのです。これは牝鶏にはめったにないケースだということは私も承知していますが、人間ではざらにあることです」
ヴィルフォール夫人は、ますますなに事か思いにふけるようであった。
「そんな物質が、化学者にしか作れなくて、ほんとうにようございましたわ。もしそうでなかったら、人間のうち半数の者が、あとの半数に毒を盛ってしまいますもの」
「化学者、または化学にたずさわる者しかですね」モンテ・クリストが無造作に答えた。
「それに」夫人は、自分の考えていることを無理にも払いのけようとして、「どんなに巧妙にやったとしても、罪は罪ですわ。人間の追求の目は逃れても、神の目を逃れることはできませんもの。東方の人たちは、良心にかかわる問題には、私たちよりずっと強くて地獄というものをちゃんと前もって抹殺しておいただけなんですわ」
「奥さん、それこそは、奥さんのように誠実な魂をお持ちの方には当然生まれてくる良心の恐れというものです。しかしその恐れも、合理的な考え方をすれば根拠のないものとなりますよ。人間の思想の悪い面は、奥さんもご承知のあのジャン=ジャック・ルソーの『五千里離れた所から指の先を一本上げただけで殺せる中国の官吏』という逆説の中に要約されてしまいます。人生はこういうことをするために過ぎて行くのですし、人間はこんなことばかり考えるのにその知恵をしぼるのです。自分の同胞の心臓に、残忍に短剣をたたきこんだり、この地球上から抹殺するためにさきほど話していた砒素を大量に盛るような者は、めったにありません。それこそまさに異常な、あるいは愚劣な行為です。そんなことができるためには、血液の温度が三十六度、脈搏が九十で、しかも魂が常軌を逸脱していなければなりません。しかし、言語学で行なわれているように、ある単語をもう少し意味の弱い同義語に置きかえて、簡単な除去を行なうだけだとしたらどうでしょう。忌わしい殺人を犯すのではなくて、あなたの邪魔になる者をあなたの進む道からきれいさっぱり取り除く、しかも、ショックも与えなければ、暴力も用いない、あんな苦痛を与える道具も用いないで。苦痛というやつは、拷問に等しいものになり、被害者を殉教者に、加害者を文字通りの処刑人にしてしまいますからね。血も流れず、悲鳴も上がらず、身をよじることもなく、とくに、あの恐ろしい、と同時にこちらにとって危険な、瞬間的に事がなされてしまうというのでなければ、『社会の安寧を乱してはならぬ』という人間社会の掟にも、あなたはふれずにすむわけです。これが沈着かつ冷静な東方の連中が実際にやり、成功を収めていることなのです。彼らは、重大な局面に際しては時間のことなどあまり気にしませんからね」
「でもまだ良心というものが残りますわ」ヴィルフォール夫人が上ずった声で、おし殺したような吐息を洩らしながら言った。
「そうですね」モンテ・クリストは言った。「そうですとも、良心があります、幸いに。もしそれがなかったら、人間はひどく不幸になるでしょう。いささか過激な行為の後でも、良心がわれわれを救ってくれます。良心というやつは、無数のよい言訳を与えてくれます。その言訳を判断するのはわれわれだけですからね。しかしこの言訳は、われわれを安らかに眠らせるためにはすぐれたものであっても、法廷でわれわれの生命を救う役にはまず立ちますまい。ですから、例えばリチャード三世は、エドワード四世の二人の子供をなきものにした後で、見事に良心を役立てねばならなかったのです。彼はこう己に言いきかせることができました。『あの二人の子供は、残忍な迫害者である国王の子供で、父親の悪徳を受けついでいる。彼らの若い性向の中にそれを見抜けるものはわしだけなのだ。あの子供たちは、わしが英国人民に幸福を与えるのに邪魔になる。あの子供らは、必ずや英国人民に不幸をもたらしたであろう』と。またマクベス夫人も、良心に救けられました。シェークスピアがどう言おうと、彼女は自分の夫にではなくて息子に王位を与えたかったのです。ああ、母親の愛情というものはかくも偉大な美徳なのです。数多くのことをなさしめるかくも強力な原動力なのです。ダンカン王の死後、もしマクベス夫人に良心がなかったら、夫人は不幸のどん底に落ちたことでしょうね」
伯爵が彼独特の率直な皮肉をこめてまくしたてる、こうした恐ろしい教訓、戦慄すべき逆説を、ヴィルフォール夫人は貪るように聞き入っていた。
そうして、しばしの沈黙の後で、夫人はこう言った。「伯爵様は、恐ろしい議論をなさる方ですのね。それに、世の中を少し暗く見すぎていらっしゃいますわ。そんなふうにお考えになるのは、蒸溜器やレトルトを通して人間をご覧になるからかしら。立派な化学者でいらっしゃるんですもの、当然ですわね。それに、子供にお飲ませ下さって、あんなに早く生き返らせた、あの不死の秘薬……」
「あ、あれはお気をつけになって下さい。あの薬は、死にかけていたお子さんを生き返らせるのに、一滴で十分でした。しかし三滴飲ませたら、血が肺に逆流して、心臓の動悸が激しくなり、六滴なら呼吸ができなくなり、あの時よりはるかに危険な仮死状態をもたらすでしょう。十滴なら一たまりもありません。坊ちゃんが不用意にもあの薬に手をふれた時、私がどれほど急いでびんを取り上げたかご存じでしょう」
「では、猛毒なんですの?」
「ああ、とんでもありません。まずこのことを認めていただきましょう、つまり、毒物という言葉は存在しないということです。なぜなら、どれほど激烈な毒物も、医学では用いられていて、その扱い方によってはすぐれた治療剤となるからです」
「ではあれは何ですの」
「あれは私の友人、あの卓越したアデルモンテ神父の巧妙な調剤によるもので、使い方も教えてくれたものです」
「すばらしい鎮痙剤《ちんけいざい》なのでございましょうね」
「これ以上効くものはありません。奥さんご自身、ご覧の通りです」伯爵が答えた。「私はしょっちゅう使ってます。もちろん、でき得る限り慎重に、ですがね」彼は笑いながらこうつけ加えた。
「そうでございましょうとも」ヴィルフォール夫人がすぐに答えた。「あたくしは、神経質ですぐ気を失いますの。あたくしにはアデルモンテ先生のような方が必要なんですわ。楽に呼吸ができて、いつかは窒息して死んでしまうのではないかと恐れている不安を取り除いてくれるような薬をこしらえていただかねばなりません。でも、さしあたり、それはフランスではまず手に入りませんし、そのアデルモンテ様もあたくしのためにわざわざパリへなどおいで下さいませんから、プランシュ氏の鎮痙剤でがまんいたしましょう。ハッカとホフマン点滴薬が、私の家では大へん大事なものになっております。ご覧下さいまし、これが特別誂えの錠剤なんですけど普通の量の倍量なんですの」
モンテ・クリストは、夫人の差し出す鼈甲《べっこう》の小箱のふたを開け、こういう薬の価値がわかるその道に通じた者らしく、その錠剤の臭いをかいだ。
「これはいいものですね。しかし、これは嚥下しなければなりませんね。これは、失神している者にはまず不可能なことです。私は私の薬のほうを選びますね」
「それはむろんあたくしだって、実際に効果を見たんですもの、あのお薬のほうがいいと思いますわ。でも、あれは秘密なんでございましょう、それをお訊ねするほどあたくしは厚かましくございませんわ」
「私のほうは」モンテ・クリストは立ち上がりながら言った。「あれをお教えするほど、女性の方には親切な男でしてね」
「まあ」
「ただ、一つだけ心に留めておいて下さい。それは、あれは少量なら薬ですが、多量に用いれば毒物であるということです。ご覧になった通り、一滴なら生命をとり戻します。五、六滴ではまちがいなく人を殺すでしょう。ブドウ酒のコップに注いでも、まったく味を変えないだけに恐ろしいのです。ま、このへんで止めましょう。まるでそうしろとおすすめしているようですから」
六時半が鳴ったところであった。ヴィルフォールと夕食を共にすることになっていた、夫人のある女の友達の来訪が告げられた。
「伯爵様、これが二度目ではなくて、三、四回目にお会いするのでしたら」夫人が言った。「そして、伯爵様にご恩を受けた女というだけではなくて、お知り合いと言える女でしたら、どうしてもお夕食を、とお引きとめするんですのに。その場合でしたら、一度ぐらいお断りになっても引き下がりませんことよ」
「まことに申し訳ございません」モンテ・クリストが答えた。「私も、どうにもはずすことのできない先約があるものですから。ギリシアの姫をオペラに案内する約束をしているのです。まだ見たことがありませんのでね、私が案内するのをあてにしているのです」
「どうぞいらして下さいまし。でも、私のお薬の処方のほうもお忘れなく」
「どうして忘れたりなどいたしましょう。それを忘れるのは、おそばで過ごさせていただいた、この私どもの語らいの時を忘れることです。そんなことがあり得ようはずはありません」
モンテ・クリストは頭を下げ、部屋を出て行った。
ヴィルフォール夫人は、思いにふけっていた。
「おかしな方」彼女はつぶやいた。「洗礼名で呼ぶとしたら、アデルモンテとお呼びしたいわ」
モンテ・クリストのほうから言えば、結果は予期以上のものであった。
彼はその邸を立ち去りながら、こうつぶやいていた。『土地は上々、播いた種子は必ず芽を出すぞ』
そして、その翌日、約束通り、彼は頼まれた処方を送り届けたのである。
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五十三 魔王ロべール〔マイエルベールの歌劇の題名〕
オペラヘ行くという口実は、その夜はオペラ座ですばらしい公演があっただけに、もっともな理由だった。長いこと病気をしていたルヴァッスールがベルトランの役で舞台に復帰し、例によって、流行作曲家のこの作品はパリの上流社会の連中をオペラ座に吸い寄せていた。
モルセールは、大多数の金持ちの子弟がそうであるように、特等席を持っていたし、いつでも席を貸してもらえる知人の桟敷が十以上もあった。その上、流行児たちの桟敷を自由に使えたことは言うまでもない。
シャトー=ルノーの席はモルセールの席の隣であった。
ボーシャンは新聞記者だから、劇場の主《ぬし》のようなもので、どこにでも席をとることができた。
その夜、リュシヤン・ドブレは大臣の桟敷を使えたので、彼はこれをモルセール伯爵に提供した。モルセール伯爵は、メルセデスが行くことを拒んだので、これをダングラールに廻したのである。もし、ダングラール男爵夫人ならびに令嬢がその桟敷をお使い下さるなら、上演中、お二人にお目にかかりに参上すると伝えた。この二人の婦人には申し出を断わる意志はなかった。百万長者ほど、ただの桟敷を好むものはいない。
ダングラールは、自分の政治的主義主張ならびに反対党の議員という立場からして、大臣の桟敷に行くわけにはいかないと言った。そこで男爵夫人はリュシヤンに手紙をやって、ウジェニーと二人だけでオペラ座へ行くわけにはいかないから、迎えに来てくれと頼んだのである。
事実、もし女だけ二人で行けば、世間はこれをひどく非難したであろう。それでいて、ダングラール嬢が、母と母の愛人とともにオペラ座へ行っても、世間はなにも言わぬのである。社交界というものは、そういうふうにできているものなのだ。
幕が上がった。いつものように客席はほとんど空《から》であった。芝居が始まってから劇場へ来るというのも、わがパリのしきたりである。その結果、第一幕は、観客の側からすれば、芝居を見たり聞いたりするのではなくて、客席へ入って来る観客の顔を見たり、扉の開閉する音とおしゃべりの声しか聞かぬうちに、過ぎるのである。
「あ!」舞台わきの最前列の桟敷が開くのを見て、いきなりアルベールが言った。「G…伯爵夫人だ」
「G…伯爵夫人て誰だい」シャトー=ルノーが訊く。
「なんてことを言うんだ。そんなことを聞くなんて許せないね。G…伯爵夫人とは誰かなどと本気で訊いてるのか」
「ああ、そうだった。ヴェネチアの美人だったな」
「そうさ」
この時夫人のほうでもアルベールに気がつき、彼と会釈を交わし、にっこり笑ってみせた。
「知ってるのか」シャトー=ルノーが訊ねた。
「うん、ローマでフランツに紹介されたんだ」
「君がフランツにローマでしてもらったことを、パリで僕にしてくれないか」
「いいとも」
「しーっ」観客が叫んだ。
音楽を聞きたいと思っているらしい平土間の観衆のことなど、てんで意に介する様子もなく、二人の青年はなおもおしゃべりを続ける。
「彼女、シャン=ド=マルスの競馬に来てたぜ」シャトー=ルノーが言った。
「今日か」
「うん」
「あ、そうか。競馬があったな。君は賭けたのか」
「なあに、ほんのわずかだけね、五十ルイ」
「どの馬が勝った」
「ナウティルス、僕の賭けた馬だ」
「だが、レースは三つあったはずだ」
「うん。ジョッキー=クラブ賞、金盃レースがあった。このレースで、少し妙なことがあったんだ」
「どんな」
「しーっ」観衆が叫ぶ。
「どんな」アルベールが繰り返す。
「このレースに勝ったのは、誰も知らない馬と騎手だ」
「そんな馬鹿な」
「ところがそうなんだ。ヴァンパという名前で登録されたその馬にも、ジョブという名で登録されたその騎手にも、誰も注意を向けなかった、一頭のすばらしい栗毛が、握り拳ほどしかない小さな騎手を乗せてスタートしたときはね。騎手のポケットに二十ポンドの重りを入れなきゃならなかったほどさ。ところが、一緒に走ったアリエルとバルバロに、三馬身の差をつけてゴールしちまった」
「で、その馬と騎手が誰のものだか誰も知らなかったのか」
「そう」
「君はたしか、その馬は……」
「ヴァンパだ」
「それなら」と、アルベールは言った。「君よりは僕のほうが少し余計に知ってるぞ、僕はその馬の持ち主を知ってる」
「うるさいぞ!」平土間から三度声がした。
今度は非難の声が大きかったので、さすがの二人も、やっと、それが自分たちに向けられていることに気がついた。二人は一瞬向き直って、そんな無礼なこと(と彼らは考えていた)をした奴を、観衆の中から見つけ出そうとした。しかし誰も同じ非難を繰り返さなかったので、彼らはまた舞台のほうを向いた。
この時、大臣の桟敷が開いて、ダングラール夫人、令嬢、それにリュシヤン・ドブレが席に着いた。
「は、はあ、君のご存じの方々がお見えになったぜ」シャトー=ルノーが言った。「いったい君は、そんな右のほうを見て、何を見ているんだ。あっちで君を探してるぜ」
アルベールはふり向いた。実際に、彼の目はダングラール男爵夫人の目とぶつかり、夫人は、その扇で小さく彼に会釈を送ってよこした。ウジェニーのほうは、その大きな黒い目を特等席のほうに向けて伏せるか伏せないかといった様子しか示さなかった。
「まったく僕にはわからんよ」シャトー=ルノーが言った。「向こうの身分が低いという点を除けば、第一、君がそんなことをあまり気にするとは思えないし、わからんなあ、君があのダングラール嬢をそうよく思わないのが。ほんとうにすごい美人じゃないか」
「すごい美人だ、たしかにね」アルベールは言った。「だが正直言って、同じきれいなのでも、僕はなにかこうもっとやさしくて、しとやかで、要するに女らしいほうが好きなんだよ」
「若い連中はいつでもそれだ」シャトー=ルノーは三十歳なので、モルセールを子供扱いにしてこう言った。「若い連中は決して満足しないものだよ。猟の女神ディアナをモデルにして作ったかと見まごうばかりのフィアンセを持ちながら、それでも君は不満なんだからなあ」
「まさにそこなんだよ。ミロかカプアのヴィーナスなら、もっと好きになれる所もあるかも知れないんだが、あの、いつも妖精たちにかこまれている猟の女神のディアナには、いささかおじ気をふるってるんだよ。アクテオン〔ディアナの水浴を盗み見たため怒ったディアナに鹿に変えられ、自分の猟犬に食い殺された〕のようにされてしまいはせぬかとね」
たしかにこの娘を一目見れば、モルセールが告白した気持ちも納得がいくのであった。ダングラール嬢は美しかった。が、アルベールが言ったように、いささかきつい美しさなのである。美しい黒髪ではあるが、その生まれつきのウェーブに、手を加えようとすると己が意志をおし通そうとするような、人間の手に反抗するものが感じられた。時折ひそめられるということのほかには欠点のない見事な眉の下の、髪と同じ黒い目には、とくに、これが女性の眼差しかと驚くほどの≪てこ≫でも動かぬといった色が宿されているのである。鼻のプロポーションは、彫刻家が女神ユノの鼻に与えるであろうものとまったく同じである。口だけがやや大きすぎるが、きれいな歯で、この歯が白い肌と対照的な赤すぎる唇をきわだたせていた。最後に、口のはたのほくろも、ふつうのこうした自然のいたずらの場合よりは大きく、この顔立ちに、モルセールをややひるませた、意志の強そうな性格を示しているのであった。
それに、ウジェニーの身体つきのほかの部分も、今描いたこの顔立ちにふさわしいものであった。シャトー=ルノーが言ったように猟の女神ディアナなのだが、彼女の美しさにはもっときつい、たくましいところがあった。
彼女が受けた教育は、もし非難されるべき点があったとすれば、それは、彼女の顔立ちのある箇所と同じように少し男の子のような教育を受けたという点である。彼女は二、三か国の国語を話し、絵も上手で、詩も作り、作曲もした。彼女はとくにこの音楽に情熱を燃やし、寄宿舎の頃の女友達と一緒に音楽の勉強をしていた。その友達というのは、貧しい娘であったが、すぐれた歌手になるあらゆる素質を持っていると保証されていた。人の言うところでは、ある大作曲家が父親のものとも言えそうな愛情を注ぎ、いつの日にかはきっとその声で成功できると励まして歌の勉強をさせていた。
ルイーズ・ダルミイー、これがこの未来の大歌手の名前であったが、ルイーズが将来劇場に入るであろうという可能性が、ウジェニーをして、彼女を自宅に住まわせはしたものの、人前では決して一緒にはいないようにさせていた。それに、この銀行家の家には、友達という独立した地位はなかったから、ルイーズはふつうの家庭教師よりは上という位置が与えられていた。
ダングラール夫人が入って来てから間もなく幕が下りた。長い幕間のおかげで、三十分間は休憩室を歩き廻ったり、人を訪ねたり自由にできるので、特等席にはほとんど人がいなくなった。
モルセールとシャトー=ルノーは真先に客席を立った。一瞬ダングラール夫人は、アルベールがそれほど急ぐのは、自分に挨拶をしに来るためだと思い、娘のほうに身をかがめて、耳もとに、アルベールが来るとささやいた。が、娘のほうは、微笑しながら首をふっただけであった。それと同時に、ウジェニーが否定したのを裏づけるように、モルセールは舞台わきの最前列の桟敷に姿を現わした。その桟敷はG…伯爵夫人のものである。
「あ、あなたでしたの、旅のお方」夫人は古くからの知り合いとしての親しみを示して、アルベールに手をさしのべた。「憶えていて下さってうれしいわ。それに、とくに私のために最初にここへ来て下さるなんて」
「パリヘおいでになったことを知っていたら」アルベールが言った。「そしてご住所がわかっていたら、こんな時まで待っていませんでしたよ。それはとにかく、友人のシャトー=ルノー男爵をご紹介します。まだフランスに残っている数少ない親代々の貴族の一人です。シャン=ド=マルスの競馬においでになったことを彼から聞きました」
シャトー=ルノーが頭を下げた。
「あなたも競馬においでになってたんですの」夫人がせきこんで訊ねた。
「はい」
「それじゃ」G…夫人がまたすぐさま言った。「ジョッキー=クラブ賞をとった馬がどなたの馬か教えていただけるかしら」
「いいえ」シャトー=ルノーが答えた。「じつはさっき、僕も同じ質問をアルベールにしたんです」
「そんなにお知りになりたいんですか」アルベールが訊ねた。
「何を」
「馬の持ち主です」
「それはもう。じつはね……でも、もしかしたらあなたご存じなんじゃなくて、子爵様?」
「奥さん、なにか話しかけられましたね。じつはね……とおっしゃいましたが」
「それじゃ申しますけど、じつはあのみごとな栗毛とあのバラ色のジャケットを着たきれいな小さい騎手をはじめ一目見ただけで、たいへん気に入ってしまったものですから、どうしても勝たせたいと祈っておりましたの、まるで財産を半分賭けてしまったみたいに。ですから、ほかの馬を三馬身も引き離してゴールに入ったときは、あんまりうれしくて、夢中で手をたたいてしまいましたわ。ところが宿に戻ってみたら驚くじゃございませんか、私の部屋の階段に小さなバラ色の騎手がいるんですもの。一瞬私は、レースの勝者も私と同じ宿に泊っているんだと思いましたが、サロンに入ってみますと、最初に目に入ったのが、あの誰も知らない馬と騎手が獲得した賞品の金のカップなんです。そして金のカップの中に紙が一枚入っていて、こう書いてあったんですの。
『G…伯爵夫人に捧ぐ。ルスウェン卿』って」
「まさにそれですよ」モルセールが言った。
「え? まさにそれって、どういうことですの」
「まさしくルスウェン卿その人だと申し上げているんです」
「ルスウェン卿って?」
「僕たちが言っていた、吸血鬼ですよ、アルゼンチナ座の」
「まあ、ほんと?」伯爵夫人が叫び声を上げた。「あの方、こちらにおいでですの」
「そうなんです」
「お会いになるの? お宅においでになる? あの方のお宅にいらっしゃる?」
「ごく親しい友人です。シャトー=ルノーもあの人とは知り合いですよ」
「競馬に勝ったのがあの方って、どうしてわかりますの」
「馬の名がヴァンパでしょう……」
「だから、どうだっておっしゃるの」
「だから、もうお忘れなんですか、僕を捕まえた山賊の名を」
「ああ、そうでしたわね」
「まるで奇蹟のように、伯爵がその手から救ってくれた」
「そうそう、憶えてます」
「彼の名がヴァンパです。あの人だってことがおわかりでしょう」
「でも、なぜあのカップを下さったのかしら、この私に」
「まず第一に、それは、ご想像の通り、僕が奥さんのことをさんざんあの人に話したからですよ。第二には、同じ国の人に会えてうれしかったんじゃないでしょうか、同じ国の女の人に関心を持ってもらいたかったんでしょう」
「まさか、あの方のことで私が言った馬鹿げたことを、あの方に話したりなさらなかったでしょうね」
「そいつはうけ合いかねます。そのカップをルスウェン卿という名前で届けたところをみると……」
「まあ、恐ろしい、とことんまで私をお憎しみになるわ」
「あの人のやり方に、そんな敵意が見えましたか」
「いいえ、たしかに」
「それご覧なさい」
「では、あの方、パリにおいでなんですのね」
「そうです」
「評判はいかが」
「それなんですがね」アルベールが言った。「一週間はいろいろ言われたんですが、その後、イギリス女王の戴冠式やマルス嬢のダイヤの盗難事件などが起きて、皆はもうその話しかしなくなりました」
「アルベール」シャトー=ルノーが言った。「君はたしかに伯爵の友達だね。だから君はそんな言い方をするんだ。奥さん、アルベールが言ったことを信用なさってはいけません。パリではモンテ・クリスト伯爵のことしか話題にはなっていませんよ。あの人はまずダングラール夫人に三万フランの馬を贈りました。それからヴィルフォール夫人の命を助けました。そして、どうやらジョッキー=クラブ賞のレースに勝ったようです。モルセールがなんと言おうと、僕は逆に、今も伯爵の話で持ちきりだと言いますよ。そして、あの人が人並はずれたことを続ける気があるなら、一月たったって、誰もあの人の話しかしませんよ。人並はずれたことが、あの人のふつうの暮らし方のようですが」
「かもしれないね」モルセールが言った。「それはとにかく、ロシア大使の桟敷を手に入れたのは誰なんだろう」
「どの?」伯爵夫人が訊ねた。
「最前列の柱間のです。すっかり装いを新しくしたようです」
「ほんとうだ」シャトー=ルノーが言った。「第一幕のとき、誰かいたかな」
「どこに」
「あの桟敷にさ」
「いいえ」夫人が言った。「どなたもお見えにはなりませんでしたわ」夫人は、はじめの話に戻って続けた。「では、あの賞をとったのはモンテ・クリスト伯爵だとおっしゃるのね」
「絶対そうです」
「それじゃ、私にあのカップを下さったのも?」
「まちがいありません」
「でも、私はあの方を存じあげていませんわ」夫人が言った。「お返ししなけりゃ」
「そんなことをなさってはいけません。そんなことをなされば、あの人は別のを届けて来ますよ。サファイヤを刻むか、ルビーを彫るかして作ったカップをね。あの人はそういうやり方をするんです。そういう人なんだから仕方ありません」
この時、第二幕の開幕を告げるベルが鳴った。アルベールは自分の席に戻るために立ち上がった。
「またお会いできますこと?」伯爵夫人が訊ねた。
「お許しいただければ、幕間ごとに来て、パリでなにかお役に立てることがあるかどうか伺いに参ります」
「お二人とも、毎週土曜の夜、家へお友達の方々をお呼びしてますの。リヴォリ通り二十二番地です。どうぞいらして下さいませ」
若い二人は頭を下げ、桟敷を出た。
客席に入ったとき、二人は平土間の観客が皆立ち上がって、ある一点を見ているのを見た。二人も皆の視線をたどると、もとロシア大使のものであった桟敷に視線が止まった。黒い服を着た、三十五から四十歳ぐらいの一人の男が、東洋風の衣裳をつけた一人の女性とともに、その桟敷に入って来たところであった。女性は、すばらしい美人であった。その衣裳が豪華そのものであったために、前述のように、万人の目が彼女のほうに向けられたのであった。
「ほう、あれはモンテ・クリストと例のギリシアの娘だ」アルベールは言った。
まさしく、それは伯爵とエデであった。
一瞬後には、その娘は平土間ばかりではなく、客席全体の注目の的となった。女たちは、シャンデリアの灯に輝き流れるそのダイヤの滝を見ようと、桟敷から身を乗り出していた。
第二幕は、集まった群衆の中になにか事件が起きたことを示す、あの低いざわめきの中で経過した。誰も、静かにしろとどなろうとはしなかった。若く、かくも美しく、目もまばゆいほどのその女性は、人が見ることのできる見物《みもの》のうち最も好奇心をそそるものであったのだ。
今度は、ダングラール夫人の合図ははっきりと、次の幕間にアルベールに来てほしいという意を伝えた。
モルセールは、人が自分を待っていることがはっきりしている場合に、人を待たせるほど悪趣味ではなかったので、その幕が終ると、急いで舞台のすぐ前の桟敷に上がって行った。
彼は二人の婦人に頭を下げ、ドブレに手をさしのべた。
「ああ、僕はもうすっかり参ってたんだよ。君に交替してもらいたくて、君に助けを求めてるんだ。奥さんが伯爵のことで質問責めにするんだよ。どこの人、どこから来たの、どこへ行くの、とね。だけど僕はカリヨストロ〔十七世紀のイタリアの有名な冒険家。東洋ならびにヨーロッパの名所を歩き廻り、東方の医薬の秘法を知っていると自称した〕じゃない。だからかんべんしてもらうために、『そんなことはモルセールに聞いて下さい。彼ならモンテ・クリストのことは掌をさすがごとくに知っているから』と言ったんだ。そこで合図が送られたというわけだ」
「機密費を五十万フランも使えるのに」男爵夫人が言った。「そんなこともわからないなんておかしいじゃありませんか」
「奥さん」リュシヤンが言った。「五十万使えるとしても、モンテ・クリスト氏のことなんか調べるより、もっとほかのことに使いますよ。僕の目から見れば、インドの富豪のように、ふつうの金持ちより二倍も金があるという以外にはとりたてて価値のない男ですからね。が、僕はモルセールにあとはまかせます。モルセールと話して下さい。僕はもう関係ありません」
「インドの富豪だって、三万フランの馬を二頭、一つ五千フランもするダイヤを四つも耳につけて送り届けて下さるなんてことはありませんわ」
「ああ、ダイヤはあの人の妙な癖なんですよ」モルセールが笑いながら言った。「きっとポチョムキンのように、いつもポケットにダイヤを持っていて、親指太郎が小石をまくように道にダイヤをまきながら歩くんです」
「どこか鉱山でも発見なさったんでしょう」ダングラール夫人が言った。「あの方が、主人の銀行に無制限貸出の信用をとりつけたことをご存じ?」
「いいえ、知りませんでした」アルベールが言った。
「でも、それは当然だな」
「それに、あの方が主人に、パリ滞在は一年の予定で、その間に六百万使うつもりだとおっしゃったことも?」
「まさにお忍びでご旅行中のペルシャの王様ですね」
「それにしてもリュシヤン様」ウジェニーが言った。「あの方、ずいぶんおきれいだとお思いになりません?」
「まったくお嬢さんほど、同性の人の美しさを正しく評価なさる方にはお会いしたことはありませんよ」
リュシヤンは眼鏡を目に近づけた。
「きれいだ!」と彼は言った。
「で、あの方をモルセール様はご存じなのかしら?」
「お嬢さん」アルベールが言った。ほぼ彼にじかに向けられたと言ってよいこの質問に答えたのである。「あの人のことは、今僕たちが話題にしている謎の人物程度には知っています。あの女性はギリシアの人です」
「そんなことは衣装を見ればわかりますわ。私たちばかりか客席の人たち皆が知っていることしか教えて下さったことにはなりませんわ」
「まったくなにも知らない案内人で申し訳ありません」モルセールが言った。「しかし、僕はそれぐらいのことしか知らないんです。それから、あの人が楽器を奏でることを知ってます。伯爵の所で食事をしたとき、グズラの音を聞きましたが、あれはあの人が弾いていたにちがいありませんから」
「では、あの方は訪問客をお迎えになるのね」ダングラール夫人が訊ねた。
「いや、それは大した迎え方ですよ」
「ダングラールに、お夕食なり、舞踏会なりにあの方をお招きするようにさせなきゃいけないわ、あの方がそのお返しに私たちを招《よ》んで下さるように」
「なんですって、奥さんはあの人の家へいらっしゃるおつもりなんですか」笑いながらドブレが言った。
「どうしていけませんの? 主人と参りますのよ」
「でも、あの人は独身ですよ、あの得体の知れぬ伯爵は」
「そうでないことはご覧の通りじゃありませんか」今度は男爵夫人が笑って、ギリシアの美女をさし示しながら言った。
「あれは、あの人自身がわれわれに言ったところによれば、奴隷なんですよ。モルセール、憶えてるだろ、君の所での食事のときにそう言ったのを」
「リュシヤンさん」男爵夫人が言った。「そうおっしゃるけど、あの方はまるでお姫様のようだわ」
「アラビアンナイトのね」
「アラビアンナイトの、なんて申してはおりません。でも、お姫様のように見せるものはいったい何かご存じ? ダイヤよ。あの方はダイヤに埋もれてるわ」
「少し多過ぎるくらい」ウジェニーが言った。「ダイヤがなければもっとおきれいなのに。きれいな形をしている頸だって手首だってよく見えるでしょうに」
「まったく芸術家ね」ダングラール夫人が言った。「ほら、あんなに熱中しているわ」
「私は、美しいものはなんでも好きなの」ウジェニーは言った。
「では、伯爵のことはどうお思いです」ドブレが言う。「伯爵のほうも悪くないと思いますがね」
「伯爵?」とウジェニーは、伯爵のことなど見るつもりはなかったかのように言った。「伯爵って、ずいぶんお顔の色が蒼いわ」
「それなんですよ」モルセールが言った。「あの顔の蒼さはどうしたわけだろう、と僕たちの間では謎になっているんです。G…伯爵夫人は、ご存じのように、吸血鬼だと言うんです」
「あら、あの方パリヘまたいらしてるの、G…伯爵夫人は」男爵夫人が訊ねた。
「舞台脇の桟敷にいらっしゃるわ、お母様、ほとんど真向いの」ウジェニーが言った。「あの、見事なブロンドの方、あの方よ」
「ああ、ほんと」ダングラール夫人が言った。「モルセールさん、あなたが今何をしなきゃならないかおわかりになる?」
「お申しつけ下さい」
「モンテ・クリスト伯爵様の所へ行って、おつれして来てちょうだい」
「そんなことしてどうするの」ウジェニーが言った。
「お話しするのよ。お会いしたいとは思わないの?」
「全然」
「おかしな子ね」男爵夫人はつぶやいた。
「ああ、あの人は迎えに行かなくてもきっと来ますよ」モルセールが言った。「ほら、奥さんを見て、会釈してます」
男爵夫人は伯爵ににこやかな笑みを見せながら会釈を返した。
「では、お役目を果たすとしましょうか」モルセールが言った。「ちょっと失礼して、あの人と話ができるかどうか様子を見て来ます」
「あの方の桟敷へ行けばよろしいのよ、簡単じゃないの」
「でも、まだ紹介されてないからなあ」
「どなたに」
「あのギリシアの美女にですよ」
「あれは奴隷だとおっしゃったじゃありませんか」
「ええ、でも奥さんは、あれはお姫様だとおっしゃいましたよ……いえ、あの人はきっと、僕がここから出るのを見たら桟敷を出るだろうと思います」
「たぶんね、行ってらっしゃい」
「行ってまいります」
モルセールは一礼して桟敷を出た。果して、モルセールが伯爵の桟敷の前まで来たとき、その扉が開いた。伯爵は、廊下に立っていたアリにアラビア語でなに事かささやくと、モルセールの腕をとった。
アリはまた扉を閉め、その前に立った。廊下のこのヌビア人のまわりに、大勢の人だかりができた。
「まったくパリというのは奇妙な町ですね」モンテ・クリストが言った。「パリジャンというのも奇妙な人たちですよ。まるでヌビア人を見るのはこれが初めてといった有様です。あの可哀そうなアリのまわりにつめかけている人たちをご覧なさい。アリにはさっぱりわけがわからんでしょう。一つだけ申しますがね、例えば、パリの人がチュニス、コンスタンチノープル、バグダッド、カイロヘ行っても、まわりに人だかりがするなんてことはありませんよ」
「それは東方の人たちが思慮のある人たちで、見る価値のあるものしか見ようとしないからでしょう。ですが、アリだって、あんなに人気があるのはあなたの召使いだからです。今やあなたは大へんな売れっ子ですからね」
「ほんとうですか。誰がそんなに私を売りこんでくれたのでしょう」
「ご自分ですよ。あなたは千ルイもの馬車馬を贈られた。検事の妻の生命を救い、ブラック少佐の名で純血種の馬にキヌザルほど小さい騎手を乗せて走らせました。そして、金盃を獲得すると、それを美しい婦人に贈られた」
「いったい誰がそんな馬鹿々々しい話をあなたにしたんですか」
「なにをおっしゃるんですか。まず第一にダングラール夫人です。桟敷であなたにお目にかかりたくて、と言うより、桟敷へあなたがおいでのところを人に見せたくてうずうずしてます。第二に、ボーシャンの新聞です。第三には、僕の想像ですよ。あくまでも名前を伏せておくおつもりなら、なぜあなたの馬に『ヴァンパ』なんて名前をおつけになったんですか」
「ああ、なるほど。これはうっかりしました。それはともかくとして、モルセール伯爵はオペラにはおいでにならないのですか。お姿をお探ししているのですが、どこにもお見えにならないので」
「今晩来ます」
「どの席ですか」
「男爵夫人の桟敷だと思います」
「夫人と一緒の、あのきれいな方はお嬢さんですか」
「ええ」
「おめでとう」
モルセールは笑った。
「そのことは後で、もっと詳しくお話しすることにしましょう」モルセールは言った。「音楽をどうお思いですか」
「どの音楽です」
「さっきお聞きになった音楽ですよ」
「人間が作曲し、故ディオゲネスではありませんが、二本足の羽のない鳥が歌ったものとしてはすばらしく美しい音楽だと申しておきましょう」
「まるで、好きなときに天上の七つのコーラスをお聞きになれるようなおっしゃり方ですね」
「ややそれに近いですかな。子爵、すばらしい音楽、つまり人間の耳がいまだかつて聞いたことのない音楽を聞きたいと思うときには私は眠るのです」
「それなら、ここは絶好ではありませんか。どうぞお眠《やす》み下さい。オペラなんて、それ以外のために作られたものではありませんから」
「いえ、正直申してここのオーケストラはうるさすぎます。今お話しした眠りを眠るためには、静寂と沈黙が必要なのです。それにある一つの準備が……」
「ああ、例のハシッシュですね」
「その通りです。子爵、もし音楽が聞きたくなったら、拙宅へ食事にいらして下さい」
「でも、お宅で昼食をいただいたとき、僕はもう聞きましたよ」
「ローマで?」
「ええ」
「ああ、エデのグズラですね。可哀そうに国を追われたあの娘は、故国の調べを時折、私の前で弾くのを楽しみにしているのです」
モルセールはそれ以上は言わなかった。伯爵のほうも口を閉じた。この時ベルが鳴った。
「失礼してよろしいですか」桟敷のほうに戻りながら伯爵が言った。
「どうぞ」
「G…伯爵夫人に、吸血鬼からくれぐれもよろしくとお伝え下さい」
「男爵夫人には?」
「お許し下さるなら、今晩ご挨拶に上がりたいと申し上げて下さい」
第三幕が始まった。第三幕の間に約束通りモルセール伯爵が来て、ダングラール夫人と一緒になった。
モルセール伯爵は、客席をざわめかすような人物ではなかったので、彼が席を占めた桟敷の者以外には彼が来たことに気づく者はいなかった。
しかし、モンテ・クリストは彼を見た。かすかな笑いがその口辺をかすめた。
エデのほうは、幕が上がっている間はなにも見なかった。素朴な性格な者であれば誰でもそうであるように、耳と目とに語りかけるものを彼女はすばらしいと思っていたのだ。
第三幕はいつものように進行した。ノブレ、ジュリヤ、ルルーの諸嬢はふつうのアントルシャを演じ、グラナダ公はロベール・マリオに挑戦され、最後に、読者もご存じのこの威厳のある王が、娘の手をとって舞台を一巡してそのマントを見せた。それから幕が降り、観客は休憩室と廊下へどっとあふれ出た。
伯爵は桟敷を出て、すぐにダングラール夫人の桟敷に姿を現わした。
男爵夫人は、驚いて、かすかに喜びの念のまじった叫び声を抑えることができなかった。
「伯爵様、さあどうぞこちらへ」夫人が言った。「お手紙でもお礼を申し上げましたけれど、ぜひ口でもお礼を申し上げねばと思っておりましたの」
「奥さん、まだあんなつまらないことを憶えておいでなのですか。私のほうはとっくに忘れておりました」
「はい。でも、どうしても忘れられないのは、あの翌日、同じ馬が私のお友だちのヴィルフォール夫人を危ない目にあわせたのを、お救け下さったことですわ」
「それにしたところで、私はお礼を言われるには価しません。ヴィルフォール夫人にあれだけのことをして差し上げたのは、召使いのヌビア人、アリですから」
「では、私の伜をローマの山賊の手から救ってくれたのも、やはりアリですかな」モルセール伯爵が言った。
「いえ、伯爵」と、彼は将軍がさしのべた手を握りながら言った。「あれはお礼を受ける資格があります。しかし、もうあなたはそれを私におっしゃいましたし、たしかにお受けしました。正直に申して、そんなにお礼を言われますと恥ずかしい気がいたします。ですから、男爵夫人、お嬢さんにご紹介いただけませんでしょうか」
「あら、もうご紹介はすっかり済んでおりますの、少なくともお名前だけは。二、三日前から、私ども伯爵様のお噂ばかりしておりましたもの。ウジェニー」夫人は娘のほうを向いて、「モンテ・クリスト伯爵様よ」
伯爵が頭を下げウジェニーは軽く会釈した。
「伯爵様、すばらしいお方とご一緒ですけれど、お嬢様ですの?」ウジェニーが訊ねた。
「いいえ違います」モンテ・クリストは、この極端な率直さ、というよりずけずけとものを言う言葉に驚きながら答えた。「私が後見人になっている可哀そうなギリシアの女です」
「お名前は?」
「エデです」
「ギリシアの女」モルセール伯爵がつぶやいた。
「そうなんですの」ダングラール夫人が言った。「アリ=テベレンの宮廷で、今私たちが目にしているほど見事な衣装をご覧になったことがありまして? たいへんな武勲をたててお仕えになったそうですけど」
「ほう」モンテ・クリストが言った。「伯爵はヤニナ〔ギリシアの町の名〕でお働きでしたか」
「パシャの軍隊の顧問をしておりました」モルセールが答えた。「私のささやかな財産も、正直に申せば、あの高名なアルバニアの君主のご恩の賜《たまもの》なのです」
「ご覧なさいませ」ダングラール夫人がなおも言った。
「どこをです?」モルセールが口ごもるように言った。
「ほら」モンテ・クリストが言った。
そうして、モルセールを腕でかかえるようにして、モルセールもろとも桟敷の外へ身を乗り出した。この時エデは、伯爵を目で探していたが、伯爵がかかえたモルセールの顔のそばにその蒼い顔を見た。
モルセールの顔が、この若い娘にメズサの首のような効果をもたらした。身を乗り出して二人の顔を食い入るように見た。それから、低い悲鳴を上げた。小さな悲鳴だったが、彼女の近くにいた者とアリには聞こえ、アリは直ちに扉を開けた。
「あら」ウジェニーが言った。「伯爵様が引きとっておられるあの方、どうなさったのかしら。お加減が悪いようですわ」
「ほんとうですね」伯爵が言った。「でもご心配には及びません。エデは非常に神経質なのです。そのため、匂いにひどく敏感で、嫌いな香水をかいだだけでも気を失うほどなのです。しかし」と伯爵はポケットから小びんを取り出し、「薬を持ってますから」
こう言って彼は、男爵夫人とその娘に同時に頭を下げてから、モルセール伯爵とドブレの二人と握手をかわし、ダングラール夫人の桟敷を出た。
彼が自分の桟敷に戻ったとき、エデはまだ蒼い顔をしていた。彼が姿を見せるとすぐ彼女はその手を握りしめた。
モンテ・クリストは娘の手が、じっとり汗ばみ氷のように冷たいのを感じた。
「伯爵様があちらでお話しをなさってたのはどなたですの」
娘は訊ねた。
「モルセール伯爵だよ」モンテ・クリストが答えた。「お前のお父上に仕えていた。自分の財産はお父上のおかげだと言っていたよ」
「ああ、憎むべき奴だわ」エデが叫んだ。「トルコに父を売ったのはあいつ。財産は、その裏切りの代償なの。伯爵様はご存じなかったんですの」
「私はエペイロスでのその話を少し聞いたことはあるがね」モンテ・クリストは答えた。「だが詳しいことは何も知らない。おいで、詳しく聞こう、もっとおもしろいだろう」
「ええ、参りましょう、早く。あの男の前にこれ以上いたら、私は死んでしまいそう」
エデはさっと立ち上がり、真珠とサンゴを縫いつけた白いカシミヤのアラビア風のマントに身を包み、幕が上がる瞬間に桟敷を出た。
「ご覧なさい、ほんとにあの方のなさることは変ってるわ」G…伯爵夫人がアルベールに言った。アルベールは伯爵夫人のそばに戻っていたのである。「『ロベール』の第三幕を神妙に聞いていたと思ったら、第四幕が始まるっていうのに、席をお立ちになるんですもの」
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五十四 暴騰暴落
この出会いの後数日たって、アルベール・ド・モルセールはモンテ・クリスト伯爵をそのシャン=ゼリゼーの邸《やしき》に訪ねた。邸は、たとえそれがほんの一時の仮住居であっても、その莫大な財力にものをいわせて自分の住む場所はつねにそうしてしまうように、宮殿のような様相を呈していた。
アルベールは改めてダングラール夫人の礼の言葉を伝えに来たのである。その言葉はすでに、ダングラール男爵夫人、旧エルミニー・ド・サルヴィユーと署名した手紙で、伯爵に伝えられてはいたが。
アルベールはリュシヤン・ドブレを伴っていた。ドブレも友の言葉に自分の挨拶の言葉を添えた。それはたしかに正式のものではなかったが、伯爵の鋭い目は、その言葉の出所が誰であるかを見逃さなかった。
伯爵には、リュシヤンは二重の好奇心から自分に会いに来たように思え、その気持ちの半分はショセ=ダンタンに源があるように思えた。事実、三万フランもの馬を贈ったり、オペラ座に、百万フランものダイヤをつけたギリシアの女奴隷をつれて来るような男の家の中での暮らしを、自分の目で見ることのできないダングラール夫人が、いつも自分の目の代わりにしている男の目に、この家の中の様子を見て来いと命じたのだと想像しても、まちがいではなさそうであった。
しかし伯爵は、リュシヤンの来訪と男爵夫人の好奇心との間に関係があると気づいているようなそぶりはまったく見せなかった。
「だいたいいつもダングラール男爵とは連絡がおありなんですか」彼はアルベール・ド・モルセールに訊ねた。
「もちろんです、伯爵。いつか申し上げたじゃありませんか」
「では、相変わらず続いているわけですね」
「今まで以上ですよ」リュシヤンが言った。「もう事は決まっているんです」
こう言ってリュシヤンは、おそらくこの言葉を言ったことで、あとの話には無関係でいてもよいと判断したのであろう、目に鼈甲《べっこう》の眼鏡をあて、細身のステッキの金の握りを握りしめながら、武器や絵を眺めて部屋を一巡りし始めた。
「ほう」モンテ・クリストは言った。「しかしあなたのお話を伺ったところでは、そんなに早く事が決まろうとは思えませんでしたがね」
「仕方がないでしょう、もの事は人の思惑などおかまいなしに進行してしまうものです。こちらが考えていない時でも、もの事のほうはこっちのことを考えてます。ふとふり向いて見ると、事の進行ぶりに驚くといったわけです。父とダングラールさんは共にスペインで働きました。父は軍隊で、ダングラールさんは糧秣のほうで。革命で零落した父と、親の遺産などまったくなかったダングラールさんが出世の緒《いとぐち》を掴んだのは彼《か》の地です、父は政治および軍隊でのすばらしい出世、ダングラールさんは政界および財界での目ざましい出世のね」
「ほんとうにそうですね」モンテ・クリストは言った。「たしかお邪魔したときにダングラール氏もそんなことをおっしゃっていたように思います」伯爵はアルバムを繰っているリュシヤンのほうをちらっと見やりながら言葉を続けた。「きれいですね、ウジェニーさんは。たしか、あの方はウジェニーとおっしゃったと思いますが」
「たいへんきれいです。たいへん美しいっていうのかなあ」アルベールが答えた。「でも、ああいう美しさは僕はあまり好きではありません。僕向きじゃありません」
「まるで、もう夫になられたようなおっしゃり方だ」
「そんな」今度はアルベールがリュシヤンが何をしているかを見るためにあたりを見廻した。
「どうも、このご結婚にはあなたはあまり乗り気ではないように見受けられますね」モンテ・クリストが声を低めた。
「ダングラール嬢は、僕には金持ちすぎるんです」モルセールが言った。「それでおじ気をふるうんですよ」
「それはまた立派な理由ですね。それではあなたご自身は金持ちではないんですか」
「父は五万フラン程度の年金が入ります。僕が結婚したら一万か一万二千ぐらいはくれるでしょうが」
「たしかにそれは少ないですね、とくにパリではね」伯爵が言った。「しかし、この社会では財産だけがすべてではありません。立派な家名とか社会的な高い地位も、これは大したものなのです。あなたの家の名は有名だし、地位もすばらしい。それにモルセール伯爵は軍人であられる。バイヤールの廉潔さとデュゲクランの清貧との縁組みは、世間から好意の目で迎えられますよ。無欲こそは高貴な剣に映える最も美しい陽の光です。私はあなたとは逆に、この縁談はこれ以上望めぬほどに似合いのものだと思いますね。ダングラール嬢はあなたを金持ちにし、あなたは彼女を貴族にする」
アルベールは首を振り、物思わしげであった。
「正直に言って」モンテ・クリストがまた口を開いた。「あんなに美しく金持ちのお嬢さんをどうしてそんなにお嫌いになるのかわかりませんな」
「ああ」モルセールが言った。「もし嫌っているとしたら、それは僕だけではないのです」
「では誰です? お父上はこの結婚を望んでおられるというお話でしたし」
「母です。母は慎重で確かな眼を持っています。それで、母がこの縁組にはいい顔をしないのです。どうやらダングラール家に対してなにか偏見のようなものを持っているようなんです」
「ああ、それは肯《うなず》けますな」伯爵がややわざとらしい口調で言った。「モルセール伯爵夫人は、高貴さ、貴族、上品そのもののような方ですから、庶民の厚ぼったいごわごわした手に、手を触れるのをためらっておいでなんです。いやそのお気持ちは当然ですよ」
「実際にそうなのかどうか、僕にはわかりません」アルベールが言った。「わかっているのは、もしこの結婚が実現すれば、母が悲しむということだけです。ほんとうならもう一月半も前に、話を決めるために集まらねばならなかったんです。でも、僕があまり頭が痛かったので……」
「ほんとうに痛かったんですか」伯爵が笑いながら訊ねた。
「ええ、ほんとうでしたとも。たぶん不安な気持ちが……それで集まるのは二か月先にのばしたのです。なにもそんなに急ぐことはありませんから。僕はまだ二十一ですし、ウジェニーは十七にしかなっていません。でもその二か月も、来週には期限切れです。話を決めねばなりません。僕がどれほど困っているか、とてもわかってはいただけませんよ。ほんとうにあなたは自由でお幸せですね」
「それならあなたも自由になさればいい。誰がその邪魔をしているのか、伺いたいものですね」
「もしダングラール嬢と結婚しなければ、父はそれこそひどくがっかりするでしょう」
「それじゃ、彼女と結婚なさるんですな」奇妙に肩を動かして伯爵が言った。
「ええ」アルベールが言った。「でも、母は、がっかりするのではなくて、苦しむでしょう」
「それじゃ結婚しなけりゃいい」伯爵が言った。
「様子を見ましょう、そしてなんとかやってみましょう。いい知恵を貸して下さいますね。で、もしできれば、僕をこの困った立場から救い出して下さい。あんなすばらしい母を苦しめないためなら、父と喧嘩したっていいと思います」
モンテ・クリストは横を向いた。感動している様子だった。
「あの」と、彼は、サロンの一番奥の肘掛椅子に坐り、片手に鉛筆、片手に手帖を持っていたドブレに声をかけた。「何をなさってるんですか、プッサンをクロッキーなさってるんですか」
「私が?」ドブレは落ち着いて答えた。「ええ、そうですとも、絵が大好きでクロッキーなんてとても。そうじゃありません。絵とはまるで反対なことをしています。数字を書いてるんです」
「数字を?」
「ええ、計算しているんですよ。子爵、君にも間接的には関係があるんだぜ。ダングラール家が、この間のハイチの公債の値上がりでどの位儲けたか計算してたんだよ。三日の中に、二百六から四百九に値上がりした。あの抜け目のない銀行家は、二百六でうんと買いこんでいたんだ。三十万フランは儲けたね」
「あの人にしては最高の当りというわけじゃないね」モルセールが言った。「スペイン公債では今年、百万儲けたじゃないか」
「おい、アルベール」リュシヤンが言った。「ここにおいでのモンテ・クリスト伯爵が、イタリア人が言うように、
ダナロ エ サンティア
メタ デルラ メタ
〔金と聖らかさとは話し四半分〕
とおっしゃるぜ。それにしたって話が大きいよ。誰かがそんなことを言ったら、僕は肩をすくめるだけさ」
「でもハイチのことをおっしゃいましたね」モンテ・クリストが言った。
「おお、ハイチの話は別です。ハイチは、フランスの投機のエカルテ〔トランプ遊びの一種〕なのです。ブイヨットが好きになったり、ウィストに親しんだり、ボストン〔以上いずれもトランプ遊び〕に夢中になったりもしますが、飽きが来るんです。いつでもエカルテに戻って来ます。いわば前菜のようなものですよ。ダングラール氏は昨日、四百六で売りました。三十万がとこポケットに入れたわけです。もし今日まで持っていたら、二百五に下がってしまいましたから、三十万フラン儲けるかわりに、二万か二万五千損をしましたよ」
「なぜ債券が四百九から二百五にまた下がるんですか」モンテ・クリストが訊ねた。「申し訳ありませんが、私は取引所関係の仕組みはまるで知らないものですから」
「それはね」アルベールが笑いながら答えた。「いろいろ情報が入って来るし、それがまた、まちまちなものだからですよ」
「ほ、ほう」伯爵が言った。「ダングラール氏は一日に三十万もの金を儲けるか損するか賭けるわけですね。これはこれは。すると、大へんな金持ちなんですね、あの人は」
「賭けるのはあの人じゃありません」リュシヤンがせきこむように大声で言った。「奥さんのほうです。まったく大胆な人だ」
「しかし、リュシヤン、分別もあり、情報なんてものがあまりあてにならないことをよく知ってる君が、だって情報源は君なんだからね、君があの人に止めさせればいいじゃないか」モルセールがにやにや笑いながら言った。
「どうして僕にそれができる、ご主人さえできないのに」リュシヤンが訊ねた。「君も男爵夫人の性格は知ってるじゃないか。あの人は誰の言うことも聞きやしない。自分のやりたいことしかしない人だよ」
「ああ、もし僕が君の立場だったらな」アルベールが言った。
「そしたら」
「僕はあの人に投機は止めさせてみせるよ。それぐらいのことは将来の婿のためにしてくれてもいいと思うね」
「どうやってやるというんだ」
「なあに、いとも簡単なことだよ。教訓を与えてやるんだ」
「教訓?」
「そう。君は大臣秘書官だから、いっさいの情報を握っている。君が口を開けば、証券仲買人は大急ぎで君の言葉を速記する。あの人に、たて続けに十万ばかり損をさせるんだ。そうすれば慎重になるさ」
「よくわからんよ」リュシヤンが口の中で言った。
「いや、わかりきったことだよ」と青年は、正真正銘率直に答えた。「いつか、ある朝あの人に前代未聞のニュース、君だけが知ることのできる信号情報を教えてやるんだ。たとえば、アンリ四世がガブリエルの家に現われた、というような。すると相場は上がる。あの人は買いに出る。ところがその翌日、ボーシャンが新聞に、
『消息通すじの伝えた、アンリ四世が一昨日ガブリエル邸を訪問したとの情報は、まったく根拠のないものである。アンリ四世王はポン・ヌフを一歩も離れなかった』
と書けば、あの人はまちがいなく損をする」
リュシヤンは鼻の先で笑った。モンテ・クリストは、無関心を装ってはいたが、この会話の一語をも聞き洩らさなかった。彼の刺すような目は、この秘書官の困惑の中に、なにかある秘密を読み取ったとさえ思った。
アルベールがまったく気づかなったこの困惑のために、リュシヤンは早々に訪問を切り上げることにした。
彼は明らかに気まずい思いをしているようであった。伯爵が彼を送りながら、低声《こごえ》でなに事かリュシヤンにささやくと、リュシヤンは、
「伯爵、喜んでお受けします」
と答えた。
伯爵はまた若いモルセールの所へ戻って来た。
「よくよく考えてみれば、ドブレ氏の前で義理のお母さんのことを、あんなふうなおっしゃり方をして悪かったとお思いになりませんか」
「伯爵」モルセールが言った。「お願いですから、今から義理の母なんていう言葉はお使いにならないで下さい」
「ほんとうに、誇張でなしに、伯爵夫人はこのご結婚にそんなにひどく反対なさっているんですか」
「男爵夫人は滅多に家へは来ませんし、母のほうも、ダングラール夫人の家には、二度とは行っていないはずです」
「それなら」と伯爵が言った。「率直に申し上げる勇気が出ました。ダングラール氏の銀行は私の取引銀行です。ヴィルフォール氏は、運よくあの方に私がしてさし上げたことを感謝して下さって、丁重なご挨拶をいただきました。こんな具合ですので、次々と晩餐やら夜会やらに招待されることになると思うのです。あまり万事に豪勢にふるまうと思われたくありませんし、それに先手を打つ意味もあって、オートゥイユの私の別荘にダングラールご夫妻とヴィルフォールご夫妻をお招きする計画を立てたのです。もし私がこの夕食会にあなたとモルセール伯爵ご夫妻をお招きすれば、なんだか縁組のための会合のようになってしまいはしないでしょうか。少なくともモルセール伯爵夫人は、もしダングラール男爵が令嬢をおつれ下さるようなことがあると、事態をそのようにご覧になるのではないでしょうか。そうなれば伯爵夫人は私をおぞましくお思いになるでしょう。私はそう思われたくありません。私はその逆に、これは機会あるごとに、あの方に申し上げて下さい、ぜひともあの方のお心の中にいい印象を残したままでいたいのです」
「伯爵」モルセールが言った。「僕に対して、そのように率直におっしゃっていただいてありがたく思います。僕たちを除外して下さるというお話よくわかりました。母の心にいい印象を残しておきたいとおっしゃいましたが、すでにすごくいい印象が残っていますよ」
「そうお思いですか」モンテ・クリストが関心を示して言った。
「ええ、確かです。先日、あなたがお帰りになってから、一時間もあなたのことを母と話したのです。が、前の話に戻りましょう。もし母が、あなたのお心遣いのことを知ったら、僕は断然これを母に伝えますがね、母はこの上もなくあなたに感謝するにちがいありません。たしかに、父のほうは憤慨するでしょうが」
伯爵は笑いだした。
「ではこれで」と彼はモルセールに言った。「あなたにはわかっていただけた。しかし、考えてみると、憤慨するのはお父上だけではないでしょう。ダングラール夫妻も、私をひどく非礼な男と思うでしょう。あの方たちも、私があなたをかなり親しい目で見ていることは知ってますし、パリでの一番古いお知り合いであることもね。そのあなたがおいでになっていないとなると、どうしてあなたをお招きしなかったのか、と私に訊ねるでしょうね。せめて、なにかもっともらしい先約でも作っておいて下さい。で、それを私に二言三言、手紙で知らせておいて下さい。ご承知のように、銀行屋さんには書きつけだけしか通用しませんからね」
「伯爵、僕はもっとうまくやりますよ」アルベールが言った。「母は海の空気が吸いたいと言っているんです。その夕食会は何曜日ですか」
「土曜です」
「今日は火曜ですね。よろしい、明日の晩出発しましょう。明後日はもうル・トレポール〔ディエップに近い英仏海峡の町〕に行ってますよ。ほんとうに伯爵は、人をうまく楽な立場にして下さる方ですね」
「私が? だいぶ買いかぶっておいでですね。あなたにとって気持ちのいい友人でありたい。ただそれだけですよ」
「いつ招待状をお出しになりますか」
「今日にも」
「わかりました。これから大急ぎでダングラールさんの所へ行って、母と僕とは明日パリを離れると言っておきましょう。あなたにはお会いしなかったことにしておきます。だから夕食会のことは僕はなにも知らないわけです」
「どうかなさってますよ。あなたが私の所にいたのを、ドブレ氏は見ているんですよ、あの人は」
「あ、そうだった」
「逆にこうしましょう、私はあなたにお会いし、ここで略儀ながらご招待したところ、あなたはル・トレポールヘ行くからと言って、夕食会には来られないとお答えになった、とね」
「それじゃ、そうしましょう。でも、明日発つ前に、母に会いに来て下さいますか」
「明日以前ではむずかしいですね。それに、旅のお仕度の最中に舞い込むことになりますからね」
「それじゃ、もっといい方法をとりましょう。今までのあなたは魅力のある人にすぎませんでしたが、惚れぼれするような方になりますよ」
「そんな立派な人間になるにはどうすればいいのでしょう」
「どうすればいいのか、ですって?」
「ええ、そうお伺いしています」
「今日はあなたは、風のように自由です。家へいらして僕と夕食を共になさって下さい。ごく小人数ですよ、あなたと母と僕だけです。あなたは母をちらっとしかご覧になってません。が、今日は近くからよくご覧になれます。すばらしい女性です。一つだけ残念なのは、母と同じようなそして二十歳ぐらい若い女性がいないということです。そうすれば、たちどころにモルセール伯爵夫人と子爵夫人が揃うのに。父にはお会いになれません。今夜は委員会があって、尚璽《しょうじ》閣下の家の夕食に招かれてます。おいでになって下さい、旅の話をしましょう。あなたは世界中をご覧になったのですから、その数々の変わったお話を聞かせて下さい。先夜、オペラ座にあなたと一緒にいらしたあの美しいギリシアの方のことも聞かせて下さい。女奴隷だなんておっしゃってますが、王女様のように扱っておいでじゃありませんか。イタリア語、スペイン語を話しましょう。ね、うんとおっしゃって下さい。母もきっと喜びます」
「まことに申し訳ありません」伯爵が言った。「お招き、ほんとうにうれしく存じます。どうしてもお受けするわけにはいかないのが残念です。私は、あなたがお考えになっているほど身体があいてはないのです。人と会う非常に大切な約束があるんです」
「ああ、お気をつけになって下さい。あなたは、つい今しがた、夕食会の件で、どうやれば厭なことから逃げられるかを教えて下さったばかりですよ。証拠を見せていただかなければとても信じられません。僕は幸いダングラールさんのように銀行家ではありませんが、あの人と同じぐらい疑い深いんですよ」
「では証拠をお見せしましょう」
伯爵はこう言って、呼鈴を鳴らした。
「母との食事をおことわりになるのはこれでもう二度目ですよ」モルセールが言った。「なんだか、予め、そう決めているみたいです」
モンテ・クリストはぎくっとした。
「そんなふうには考えないで下さい。それに、ほら証拠がやって来ましたよ」
バチスタンが入って来て、ドアの所に立ち主人の言葉を待っていた。
「私はあなたがお訪ね下さることを前以て知らされてはおりませんでした。そうですね」
「あなたは人並はずれた方ですから、なんとも返事はできません」
「少なくとも私は、夕食に招待されると予想することはできませんでした」
「ああ、その件はたぶんそうでしょう」
「それでは、いいか、バチスタン。今朝私が君を書斎に呼んだとき、私は君に何と言ったかね」
「五時が鳴ったら直ちにお邸の門を閉めさせるよう、と」
「それから?」
「ああ、伯爵……」アルベールが言った。
「いいえ、子爵。私はあなたがお立てになった、私についての謎めいた評判をすっかりぬぐいさってしまいたいのです。マンフレッドの役をいつまでも演じ続けるのはあまりにもむずかしすぎますからね。それから、バチスタン、続け給え」
「それから、バルトロメオ・カヴァルカンティ少佐殿とご令息以外は、誰にもお目にかからぬ、と」
「おわかりですか、バルトロメオ・カヴァルカンティ少佐というのは、イタリアの最も古い家柄の人で、この家系についてはダンテがオジエ〔フランスの系譜学者〕の役を果しています。憶えておられるかどうか、『地獄篇』の第十歌です。それに、その令息というのが、だいたいあなたと同じ年頃の好青年でしてね。同じ子爵の称号を持っています。父親のなん百万という金を持って、パリの社交界入りをしようというわけです。少佐は令息を私の所へ今夜連れて来るのです。イタリア風に言えばアンドレア小伯爵《コンティノ》をね。私に預けるというんですよ。よい素質があれば後押ししてやろうと思ってます。力を貸していただけますね」
「もちろんです。では、そのカヴァルカンティ少佐というのは、古くからのお友だちなのですね」アルベールが訊ねた。
「いいえとんでもない。この方は立派な貴族で、きわめて礼儀正しく、慎ましやかで、控え目な人です。イタリアには多勢います、ごく古い家柄の子孫でね。私はこの人にフィレンツェやボローニャ、ルッカなどでなん回かお目にかかりました。その彼が当地に着いたことを知らせてよこしたのです。旅での知り合いというものは、なかなか要求が強いものですよ。たまたま一度だけ見せた友情を、どこにいても、また要求する。誰とでも一時間を過ごすことのできるような教養ある人間ならば、下心など抱こうはずがない、とでもいうかのようですよ。この善良なカヴァルカンティ少佐が、またパリを見るわけです。モスコーへ凍えに行く途中、通りすがりに見ただけだったパリをね。私は彼にうまい食事をご馳走しましょう。彼は息子を私のもとに残す。私はその監督を引き受けると約束する。やりたい放題の馬鹿騒ぎをさせておきますよ。それでお互いの義務は済むのです」
「そいつはいいや」アルベールが言った。「あなたは、まったく得がたい養育係です。では失礼します。日曜日には帰って参ります。ところで、フランツから便りがありました」
「ほう、ほんとうですか」モンテ・クリストが言った。「相変わらずイタリアが気に入っているのですか」
「そうなんだろうと思います。でも、あなたがおられないのをさみしがってます。あなたはローマの太陽だった、あなたのいないローマは曇りだと言ってます。そのうち、雨だと言いだすんじゃないかと思いますよ」
「では私のことを考え直してくれたのでしょうか、お友だちのフランツ君は」
「その逆です。今でもあなたをこの上なく奇妙な人だと思い続けてます。だからあなたをなつかしがっているんです」
「好い青年ですね」モンテ・クリストが言った。「あの人には最初にお目にかかった晩から、ほんとうに好もしい人だという気持ちを抱かされました。なんでもいいから食事がしたいと言っておられた晩で、私の食事を受けて下さった。あの方は、デピネ将軍の令息ではありませんか」
「その通りです」
「一八一五年にむごたらしい殺され方をした?」
「ボナパルト派にね」
「そうです。私はほんとうにあの人が好きだ。あの人にも結婚話があるんじゃないですか」
「ええ、ヴィルフォールのお嬢さんと結婚することになってます」
「ほんとうですか」
「僕がダングラール嬢と結婚することになっているのと同じぐらい」アルベールが笑いながら言った。
「笑っておられますね……」
「ええ」
「なぜお笑いになるんです」
「だって、あっちのほうでも、僕とダングラール嬢との間と同じぐらいしか、結婚を受け入れる気持ちがないからです。が、伯爵、僕たちはまるで、女の人たちが男の話をするように女の話をしてますね。これは許しがたいことですよ」
アルベールは立ち上がった。
「もうお帰りですか」
「そんなことをお訊き下さるんですか。もう僕は二時間もあなたを、おしゃべりでくたくたにさせてしまっています。それなのに、ご丁寧に、もうお帰りですかなどと言って下さるんですから。ほんとうに、伯爵、あなたは世界一礼儀正しい方です。それにお宅の召使いの方々、皆なんとよくしつけられているんでしょう。とくにあのバチスタンなど。僕はこんな召使いの人は見たことがありません。家の連中ときたら、まるでみんなテアトル=フランセの召使いを手本にしているみたいです。しゃべる台詞《せりふ》が一言しかないもんだから、きまってフットライトの所まで出て来てそれを言う連中です。もしバチスタン氏を解雇なさるようなことがあったら、ぜひ僕に雇う優先権を与えて下さい」
「承知しました、子爵」
「あ、まだ申し上げることがありました。お話の慎ましいルッカの方、カヴァルカンテ・ディ・カヴァルカンティ様に、くれぐれもよろしくお伝え下さい。で、もしひょっとして、ご令息の身を固めさせるおつもりなら、うんと金持ちで、せめて母方のほうは大貴族で、父方のほうは男爵ぐらいのお嫁さんを見つけてあげて下さい。僕もお手伝いしますから」
「ほ、ほう」モンテ・クリストは答えた。「そんなにまでして下さるんですか。ま、先のことは誰にもわからぬと申しますからな」
「ああ、伯爵」モルセールが叫んだ。「たとえ十年でもいいから、あなたのお力で、独身のままいられたら、僕はあなたをどれほどありがたく思うかわかりません。今の百倍もあなたが好きになります」
「なに事も、不可能ということはありません」モンテ・クリストが重々しく言った。
そして、アルベールにいとまを告げると伯爵は自室に戻り、呼鈴を三度叩いた。
ベルトゥチオが現われた。
「ベルトゥチオ、土曜の晩、オートゥイユの家にお客様をお迎えする」
ベルトゥチオはかすかに身をふるわせた。
「かしこまりました」
「すべてぬかりなく準備をととのえるために、どうしても君が必要なのだ。あの家は美しい。というより、少なくとも美しいものにできる」
「それには、なにもかも模様替えせねばなりません。壁布なども古くなっておりますので」
「では全部取り替えたまえ。ただ、赤い緞子の寝室だけは例外だ。完全に今あるがままの姿にしておけ」
ベルトゥチオは頭を下げた。
「庭にも手をつけるな。だが、中庭などは好きなようにしたまえ。前とは見違えるようになれば私もうれしい」
「伯爵様にご満足いただけますように、できる限りのことをいたします。ですが、お夕食についても、ご意見をお聞かせいただければなお安心なのでございますが」
「ベルトゥチオ、まったく君はパリに来てから、自信をなくし、おどおどしているね。私がどういう男か、もう君にはわからなくなったのかね」
「ですが、せめてお客様のお名前なり伺えますれば」
「まだ私にもわからんのだ。君もそんなことを知る必要はない。ルクルスがルクルスの家で食事をするだけの話だ」〔ローマの将軍。大へんな美食家として有名。ある晩の食事が豪華ではなかったので執事に向かって「汝は今夜ルクルスがルクルスの家で食事をすることを知らなかったのか」と言ったという〕
ベルトゥチオは頭を下げ、部屋を出て行った。
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五十五 カヴァルカンティ少佐
モンテ・クリストが、モルセールに食事に招かれたのを断わる口実に、ルッカの少佐が訪れるはずだからと言ったとき、伯爵もバチスタンも嘘をついたわけではなかった。
七時が鳴ったところであった。ベルトゥチオは、伯爵の命令に従って二時間前にオートゥイユに行っていた。一台の辻馬車が邸の門前に止まり鉄門の脇に五十二歳ぐらいの男を降ろすと、すぐさま恥ずかしそうに走り去って行った。男は、黒い肋骨のついた緑色のフロックコートを着ていた。この種の服は、ヨーロッパではいつまでもすたらないものとみえる。青いラシャの太いズボン、エナメルがはげかけており底革が少し厚過ぎるようではあるが、まださほど古ぼけてもいない長靴、鹿皮の手袋、憲兵の帽子に似た形の帽子、自ら進んでそれを身に着けたのでなければ徒刑囚の首枷《くびかせ》としか見えぬような白い縁のついた黒い襟。これがこの人物の人目をそばだてるいでたちであった。男は門のベルを鳴らし、シャン=ゼリゼー大通り三十番地、モンテ・クリスト伯爵のお住まいはこちらかと訊ねた。そうして、門番からそうだという返事を聞くと、中に入り、背後に門を閉め、正面階段のほうに向かった。
その男の骨ばった小さな顔、白くなりかけた髪の毛、灰色の濃い口ひげを見て、来訪者の正確な人相を予め知らされ、玄関の下で待っていたバチスタンは、これがその客であることを知った。だから、その男が、この頭のよい召使いに名前を一言言っただけで、直ちにモンテ・クリストは客の来訪を知らされたのである。
この外国人は一番質素なサロンに通された。伯爵はそこで待っていて、にこやかに客の前に進み出た。
「ああ、ようこそおいで下さいました。お待ちしていましたよ」
「なんですって」ルッカの男は言った。「閣下が私を待っていて下さった」
「そうです。今日の七時にお越しになると知らされておりましたからね」
「私が参るのをあなたがご存じだったとおっしゃるのですか」
「そうです」
「ああ、よかった。実は、それを忘れているのではないかと、不安に思っておりました」
「何をです」
「お知らせするのをです」
「とんでもない」
「でも、確かに思いちがいではないのでしょうな」
「大丈夫です」
「今日の七時に閣下が待っておられたのは、確かに私ですか」
「あなたです。では確かめましょう」
「いえ、私をお待ち下さっていたのなら、そんな必要はありません」
「いや、いや」モンテ・クリストは言った。
ルッカの男はかすかに不安を感じたようであった。
「いいですか」モンテ・クリストが言った。「あなたはバルトロメオ・カヴァルカンティ侯爵ですね」
「バルトロメオ・カヴァルカンティ、その通りです」ルッカの男がうれしそうに繰り返した。
「オーストリアで従軍した元少佐」
「私は少佐だったのでしょうか」おずおずとその老軍人が訊ねた。
「ええ、少佐です。あなたがイタリアで得ていた階級をフランスではそう呼ぶのです」
「なるほど」ルッカの男が言った。「それ以上は伺いません、ご承知の通り私は……」
「それに、あなたはご自分の意志でここへ来られたのではない」モンテ・クリストが続けた。
「ええ、確かにその通りです」
「誰かに言われて私の所へおいでになった」
「そうです」
「あの有徳のブゾニ神父に」
「その通りです」少佐はうれしそうな声をたてた。
「では手紙をお持ちですね」
「ここにあります」
「ほらご覧なさい。さ、手紙を下さい」
こう言って、モンテ・クリストは手紙を受け取り、それを開いて読んだ。
少佐は驚きで大きく見開かれた目で伯爵をみつめていた。もの珍しそうに、室内のあちこちも見廻すのだが、その目はいつもまたこの家の持ち主に戻るのだった。
「たしかにそうだ。あのなつかしいブゾニ神父だ。『カヴァルカンティ少佐、ルッカの名門の貴族。フィレンツェのカヴァルカンティ家の末裔《まつえい》』」モンテ・クリストが手紙を読み続ける。「『収入五十万フラン』」
モンテ・クリストは手紙から顔を上げ、一礼した。
「五十万の収入がおありですか、カヴァルカンティさん」
「五十万と書いてありますか」ルッカの男は訊ねた。
「文字通り。これは当然ですよ、ブゾニ神父はヨーロッパ中の金持ちのことは、誰よりもよく知っている人ですからね」
「それじゃ五十万なんでしょうね。しかし、正直に申しまして、私はそれほどの額にのぼるとは思っておりませんでした」
「それはお宅の執事が私腹を肥やしているからですよ、カヴァルカンティさん。それぐらいのことはがまんしなければなりません」
「おかげで目が開きました」真顔でルッカ人が言った。
「あいつを追い出しましょう」
モンテ・クリストが読み続けた。
「『氏にとって唯一の不幸は』」
「ああ、その通りです。一つだけです」ルッカ人が吐息を洩らした。
「『愛児を失ったことである』」
「可愛い子でした」
「『幼くして一家の敵、ないしはジプシーに誘拐されたものである』」
「五つの時でした」ルッカの男は深い吐息とともに天を仰いだ。
「お気の毒に」モンテ・クリストは言った。
伯爵はさらに読み続けた。
「『私は氏に希望を与え、生きる力を与えた。伯爵、十五年このかた杳《よう》として行方の知れなかったその子息を、そなたが探してくれるであろうと氏に伝えた』」
ルッカ人は、名状しがたい不安の面持ちでモンテ・クリストの顔をみつめていた。
「見つかりますよ」モンテ・クリストは答えた。
少佐は立ち上がった。
「では、手紙に書いてあることは皆ほんとうなのですか」
「バルトロメオさん、疑っておいでだったのですか」
「いえ、いえ。どうしてそんな。ブゾニ神父のような、まじめな、信仰心厚いお方が、こんな悪ふざけなどなさるはずがありません。でも閣下、まだ手紙には先があります」
「ああ、そうでしたね。追伸があります」
「ええ、追伸、が、あ、り、ま、す」ルッカ人が繰り返した。
「『カヴァルカンティ少佐が、銀行預金を移す面倒を避けられるよう、私は旅費として二千フランの手形を与えた。また、そなたの私への債務残金四万八千フラン相当の信用状を送る』」
少佐は、見る目にも明らかな心配そうな様子でこの追伸を目で追っていた。
「わかりました」伯爵はこう言っただけであった。
『わかったと言ったが……』ルッカ人はつぶやいた。そして、「では……、あの……」
「では?」モンテ・クリストが訊ねる。
「追伸の……」
「追伸の?」
「追伸の通り、手紙のほかの部分と同じように、やはりお引き受け下さるので」
「もちろんです。ブゾニ神父と私との間には貸借関係があります。私の債務残高が正確に四万八千だったかどうか知りませんが、私たちの間では、紙幣の一枚や二枚、とやかく言うことはありません。ああ、それではこの追伸のことを、たいへん重要に考えておられるのですね」
「正直に申しますと」ルッカ人は答えた。「実はブゾニ神父の署名には全幅の信頼を置いているものですから、ほかには金の持ち合わせがないのです。したがって、もしその金が入らないとなると、パリで非常に困却いたす次第です」
「あなたのようなお方なら、どこにおられたってお困りになることなどないでしょうに。これはこれは」
「知人が一人もなければ、いたし方ありません」
「でも、あなたには知人がおありです」
「ええ、ですから」
「どうぞ最後までおっしゃって下さい」
「ですから、その四万八千フランをお渡しいただけましょうか」
「お求めがあり次第」
少佐はあっけにとられて大きな目をぐるりと廻した。
「ま、とにかくお掛け下さい」モンテ・クリストが言った。「まったく、私は何をしていたんでしょう、十五分も立たせたままにしておくとは」
「どうぞおかまいなく」少佐は椅子を引き寄せ腰をおろした。
「では、なにか召し上がりませんか」伯爵が言った。「ケレスか、ポルトか、それともアリカンテか」
「アリカンテをいただきましょう。おすすめ下さいますから。私のとりわけ好きなブドウ酒です」
「いいのがあるんですよ。ビスケットも?」
「せっかくですから、ビスケットも」
モンテ・クリストは呼鈴を鳴らした。バチスタンが現われた。
伯爵はバチスタンの前に行った。そしてごく低い声で訊ねた。
「どうだ?」
「青年はあちらに来ています」召使いがやはり低い声で答えた。
「よし。で、どこへ通した」
「閣下のご命令通り、青のサロンに」
「結構だ。アリカンテのブドウ酒とビスケットを持って来なさい」
バチスタンは出て行った。
「ほんとうに大へんなお手数をおかけしてしまって、痛み入ります」ルッカ人が言った。
「とんでもない」モンテ・クリストは言った。
バチスタンが、酒のびんとビスケットを持って、また入って来た。
伯爵は一つのグラスに酒をみたし、二つめのグラスには、そのルビーのような色をした酒をほんのわずか注いだ。酒の入っていたびんは、クモの巣だらけで、顔の皺《しわ》が人間の年齢のあかしとなる以上に、酒の古さを物語るその他のさまざまな証拠が見えていた。
少佐は自分のグラスをまちがえなかった。一杯にみたされたグラスと、ビスケットを一枚取ったのである。
伯爵はバチスタンに、盆を客の手の届く所に置けと命じた。客は、唇の先でアリカンテを味わってみて、満足のしかめ面をして見せると、器用な手つきでグラスにビスケットをひたした。
「それでは」モンテ・クリストが言った。「あなたはルッカにお住まいで、お金はあるし、貴族だし、人々からも尊敬されているとすれば、人が幸福になるための条件はなに不足なくそなえておられるわけですね」
「なに不足なくです、閣下」少佐はビスケットを飲みこみながら言った。
「なに一つ不足はありません」
「あなたの幸せのために欠けているのは、ただ一つだけですな」
「一つだけです」
「ご子息をみつけることでしたね」
「ああ」少佐は二枚目のビスケットをつまみながら、
「それが欠けていたのです」
ルッカの男は目を上げ、溜息をつこうとした。
「では伺いますが、それほど嘆いておられるご子息というのは、どういう方なのですか。たしかあなたはずっと独身だと聞きましたが」
「人はそう思っていました」少佐が言った。「私自身……」
「そうでしたな」モンテ・クリストがまた口を開いた。「あなたご自身もそういう評判をわざとおたてになった。若気の過ちを人目からかくそうとなさった」
ルッカの男は立ち上がった。できるだけ平静な、威厳のある態度をとりつつも、自分の心を落ち着かせるためか、想像力をより働かせるためか、慎ましやかに目を伏せて、伯爵を上から見下ろした。伯爵の唇に浮かぶ例によって例のごとき微笑は、あい変わらず好意に満ちた好奇心を示していた。
「そうです、私はこの過ちをすべての人の目からかくそうとしました」
「ご自分のためにではない」モンテ・クリストが言った。「男はそんなことでどうということはありませんからな」
「ああ、もちろん私のためにではありません」少佐は微笑しながら首をふって答えた。
「その子の母親のためにですね」伯爵が言った。
「母親のためにです」ルッカ人は三枚目のビスケットを手にしながら叫んだ。「哀れな母親のためにです」
「ま、どうぞお空け下さい」モンテ・クリストは二杯目のアリカンテを注ぎながら言った。「情がこみ上げて喉がおつまりでしょう」
「哀れな母親のためだったのです!」ルッカ人は、意志の力で涙腺を刺激して、目尻を空涙で漏らせぬものかと努力しながら、つぶやくのであった。
「イタリアでも一流の名門に属する方でしたね、たしか」
「フィエゾレの貴族です、伯爵。フィエゾレの貴族でした」
「でお名前は?」
「あれの名前をお知りになりたいのですか」
「おお、いえいえ」モンテ・クリストが言った。「おっしゃっていただく必要はありません、存じておりますから」
「伯爵はなにからなにまでご存じです」一礼しながらルッカ人が言った。
「オリヴァ・コルシナリ、でしたな」
「オリヴァ・コルシナリです」
「侯爵夫人でしたか」
「侯爵夫人です」
「でも、ついには家族の反対を押し切って結婚なさったんでしたな」
「ええ、そうなのです。最後には」
「で」伯爵は続けた。「正式の証明書をお持ちでしょうね」
「何の証明書ですか」
「何のって、オリヴァ・コルシナリとの結婚証明書とご子息の出生証書ですよ」
「子供の出生証書?」
「アンドレア・カヴァルカンティ、あなたのご子息の出生証書です。アンドレアという名前ではありませんか」
「たぶんそうだと思います」
「なんですって、だと思うんですか」
「まったく、はっきりそうだとは申し上げられないのです。あまり以前にあれを失くしたものですから」
「なるほど」モンテ・クリストは言った。
「とにかく、書類は全部お持ちでしょうな」
「伯爵、まことに残念ながら、その書類を用意するようにとは言われておりませんでしたので、たずさえるのを失念いたしました」
「それはまずい」モンテ・クリストが言った。
「どうしても必要でしょうか」
「絶対に必要です」
ルッカの男は額をかきむしり、
「ああ、絶対に必要!」
「もちろんです。もし誰かがその結婚の効力と、ご子息が嫡出子であることに疑いを起こしたら」
「たしかにその通りですね。疑う余地はあるわけです」
「その青年にとってはまずいことになるでしょう」
「致命的でしょうね」
「すばらしい縁組もそれで望めなくなるかもしれません」
「ああ、残念なことをしました」
「フランスでは、なかなか厳しいのです。イタリアでのように、司祭の所へ行って、『私たちは愛し合っているんです、一緒にして下さい』というだけでは済まないんですよ。フランスには民法上の婚姻というのがありましてね、法律上結婚するためには、身元を確認するための書類が必要なのです」
「なんという不運だ。私はその書類を持っておりません」
「幸い、私が持ってますよ、この私が」モンテ・クリストが言った。
「あなたが」
「ええ」
「あなたが書類を」
「持っております」
「これはこれは」書類がないために自分の旅の目的も果せず、四万八千フランの金も、あるいは手に入らなくなるのではないかと恐れていたルッカの男が言った。「なんという幸せでしょう。そうです、これこそ幸せというものです。思いも及びませんでした、私には」
「まったくそうでしょうとも。そうなにもかも思いつくというものではありませんからね。ただ、ブゾニ神父は、あなたのためにそれを思いついて下さったのです」
「あの司祭様が」
「注意深い方ですよ」
「すばらしい方です。で、あの方があなたに書類を送って来られたのですか」
「ここにあります」
ルッカの男は、讃嘆のしるしに手を組み合わせた。
「あなたはモンテカッティニのサタ=パウラ寺院でオリヴァ・コルシアニと結婚なさった。これが司祭の証明書です」
「ほう、ほんとだ」少佐は驚いてそれを見た。
「それから、これがアンドレア・カヴァルカンティの出生証書、サラヴェッツァの司祭が発行したものです」
「みな正規のものです」少佐が言った。
「では、この書類をお持ち下さい。私が持っていても仕方がありません。ご子息にお渡しになるのです。大切にしまっておくようにとね」
「そういたします……でも、もし伜がなくしたら……」
「もしなくしたら?」モンテ・クリストが訊ねた。
「あちらへ手紙を書かねばなりませんな、別のを取り寄せるにはうんと暇がかかりましょう」
「事実、むずかしいでしょう」モンテ・クリストが言った。
「まず不可能でしょう」ルッカの男が答えた。
「その書類の価値がわかっていただけて、安心しました」
「いくら金を積んでも手に入らぬものと考えます」
「ところで」モンテ・クリストが言った。「青年の母親のことですが」
「青年の母親のこと?」少佐が不安そうに繰り返した。
「コルシナリ侯爵夫人のことですよ」
「ああ」ルッカの男が言った。足もとがよろめき始めたようであった。「あれがいなければいけないのでしょうか」
「いいえ」モンテ・クリストが言った。「第一あの方は……」
「いや、あれは……」
「お亡くなりになったのでは?」
「ああ、そうなのです」せきこんで少佐が言った。
「存じておりました。十年前にお亡くなりになったのですね」
「今だにあれの死を悲しんで涙を流しております」少佐はポケットから格子縞のハンカチをとり出し、まず左目の縁、ついで右目の縁をかわるがわるぬぐった。
「仕方がないではありませんか。われわれはみなひとしく死ぬのです。もうおわかりのことと思いますが、このフランスでは、あなたが十五年もご子息と離ればなれになっていたことなど、人に知られるのは無用のことです。子供をさらうジプシーの話など、ここでははやりません。あなたはご子息を教育なさるために、地方の学校におやりになったのだ。そして、その教育の仕上げを、このパリの社交界でさせたいとお考えになっている。これがあなたが奥さんをなくされてからお住まいだったヴィアレッジオを発って来られた理由だ。それでいいでしょう」
「そうお思いになりますか」
「もちろんです」
「それなら結構です」
「もし、親子が別れていたことをかぎつけるものがあったら……」
「おお、そうです、そしたら何と言いましょう」
「養育係が不忠者で、あなたの一族の敵に身を売って……」
「コルシナリ家に?」
「もちろんそうです……あなたの家名の断絶をはかって子供を誘拐した、と」
「なるほど。あれは一人っ子ですから」
「さて、これで万事決まりました。どうか記憶が新たになった今の話をお忘れにならないように。あなたを驚かせることがあるのですが、もうお気づきでしょうね」
「いいことですか」ルッカの男は訊ねた。
「ああ、父親の目も心も同じように欺けぬものですな」
「どうですかな」少佐が言った。
「誰かがうっかりあなたに打ち明けてしまったか、それとも、あちらに来ていることをご自身で気づかれましたな」
「誰がです」
「ご子息です、アンドレア君ですよ」
「だと思っていました」落ちつきはらって少佐は言った。「ではここに来ているのですね」
「ここに。先程入って来たとき、召使いが私にご子息がいらしたことを伝えました」
「ああ、ありがたい、ありがたい」少佐は、一言ごとにフロックコートの肋骨を抱き締めながら言った。
「そのお気持ちはよくわかります」モンテ・クリストは言った。「少しお気持ちが静まるまで時間をさし上げねばなりませんね。それに、ご子息のほうにも、あれほど待ち望んでおられた親子の対面の、心の準備をさせてあげたいと思います。ご子息だって、あなたに劣らず待ち焦れておられたでしょうからね」
「だと思います」カヴァルカンティが言った。
「では、ほんの十五分もしたら参りますから」
「では、あの子をあなたがおつれ下さるのですか。ご自身で私にあの子とお引き合わせ下さるほどのご親切を」
「いえ、私は父と子の間に邪魔に入るつもりはありません。お二人だけですよ、少佐。ですが、ご安心下さい。もし血のつながりがご子息ということを教えてくれない場合でも、まちがう気遣いはありません。ご子息はこのドアから入って来ますからね。ブロンドの、少し濃すぎるかもしれませんが、ブロンドの美青年ですよ。物腰も申し分のない。いずれわかります」
「ところで」少佐が言った。「ご承知のように、私はブゾニ神父が下さった二千フランしか持っておりませんでした。それを旅費にしたものですから……」
「お金がお入用なんですね。それは当然ですよ、カヴァルカンティさん。さあ、千フラン紙幣が八枚あります。お改め下さい」
少佐の目が宝石のように輝いた。
「残高は四万フランです」モンテ・クリストが言った。
「閣下、受け取りがお入用でしょうか」少佐は札をフロックコートの内ポケットにしまいながら言った。
「そんなもの何になりますか」伯爵が言った。
「でも、ブゾニ神父に返済したしるしに」
「では、残りの四万フランを手になさったら、まとめて領収書を書いていただきましょう。誠実な男同士ではそのような配慮は無用です」
「ああ、なるほど、その通りです。誠実な男同士ではね」
「では、侯爵、最後に一言」
「おっしゃって下さい」
「ちょっとご忠告申し上げてよろしいでしょうか」
「これはこれは、こちらからお願いしたいくらいです」
「そのフロックコートは、お脱ぎになっても差し支えはないと思いますが」
「そうでしょうか」少佐は自分の服を満更でもなさそうに見た。
「ええ。ヴィア=レッジアではまだそのようなものも着ていられますが、パリでは、もう大分以前からその服は、いくら趣味がよくても、時代遅れです」
「それは弱りました」
「いえ、愛着がおありなら、お帰りの時またお召しになればいい」
「でも、何を着たらいいでしょう」
「トランクの中にあるものを」
「トランクの中のを! 私はスーツケース一つしか持っておりません」
「あなたご自身ではね、たぶん。荷物にわずらわされるのはかないませんからね。とくに昔の軍人は身軽なまま旅をするのが好きですから」
「まさにそのために……」
「だが、あなたはたいへん用意周到な方でいらっしゃる。あなたは予めトランクをいくつか送っておかれた。昨日プリンス・ホテルに着きましたよ。リシュリュー通りの。あなたが部屋を予約されたホテルのね」
「では、そのトランクの中に?」
「たぶんあなたは、必要なものは皆、あなたの召使いに入れさせたと、私は想像するのですがね。外出着も軍服も。正式の際には軍服をお召し下さい。それがいいと思います。勲章もお忘れなく。フランスでは勲章を軽蔑するのですが、相変わらず必ず着けるんですよ」
「わかりました、わかりました」次から次と目もくらむ思いの少佐が言った。
「ではもう、あなたの心臓も激しい感動を味わっても大丈夫になられたでしょうから、ご子息のアンドレア君に再会なさる心がまえをして下さい」
こう言うと、恍惚とし有頂天になっているルッカの男に愛想のいい会釈を残し、モンテ・クリストは掛布のかげに姿を消した。
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五十六 アンドレア・カヴァルカンティ
モンテ・クリスト伯爵は、バチスタンが青のサロンと呼んだ隣のサロンに入った。そこには、屈託のない身のこなしの、かなり上品な服を着た青年が先に来ていた。三十分前に馬車が邸前に降ろしたのである。バチスタンには、この青年が、言い含められていた客であることをすぐに知ることができた。背は高く、髪はブロンド、ひげは赤毛、目は黒い。顔の色は赤く、まぶしいほどに白い肌は、まさに主人から言われていた通りであった。
伯爵がサロンに入ったとき、青年はだらしなくソファの上に寝そべり、金の握りのついた短い籐《とう》のステッキで無意識に長靴を叩いていた。
モンテ・クリストを見ると、彼はあわてて立ち上がった。「モンテ・クリスト伯爵様ですか」と、彼は言った。
「そうです」伯爵は答えた。「あなたはアンドレア・カヴァルカンティ子爵ですね」
「アンドレア・カヴァルカンティ子爵です」青年はこう繰り返しながら、まったく無造作に頭を下げた。
「私への紹介状をお持ちのはずですが」モンテ・クリストが言った。
「その手紙の署名があまりおかしいので、お話ししなかったのです」
「船乗りシンドバッド、でしょう?」
「その通りです。僕は、アラビアンナイトに出て来る船乗りシンドバッドしか知らないものですから……」
「いや、その子孫です。私のたいへんな金持ちの友人でね。変わったというより頭が少しおかしい英国人で、ほんとうの名前はウィルモア卿というのです」
「あ、それでなにもかもわかりました」アンドレアが言った。「それならぴたりです。それは僕がお会いしたあの英国の方です、あそこの……、ええ、そうです、わかりました。伯爵、お役に立つことはなんでもいたします」
「おっしゃることがほんとうなら」伯爵が笑いながらすかさず答えた。「あなたのこと、ならびにご家族のことを詳しくお話し願えませんか」
「喜んで」と青年は、記憶力のよさを示すとうとうたる調子で話しだした。「僕は、申し上げた通り、アンドレア・カヴァルカンティ子爵です。父は、フィレンツェの貴族名簿に記されているカヴァルカンティ家の末裔、バルトロメオ・カヴァルカンティ少佐です。僕の家は、父には年収五十万フランありますから、まだ非常に裕福ではありますが、数多くの不幸にみまわれました。僕自身、裏切者の養育係に五つか六つのとき誘拐されました。その結果、十五年もの間、僕をこの世に生んでくれた父に会えずにいます。もの心つくようになってから、自由になり、他人の束縛を受けなくなってから、僕はずっと父を探していますが、みつかりません。ところがついに、あなたのお友達の船乗りシンドバッドが手紙を下さって、父はパリにいるというのです。そして、あなたから父の消息を聞くために、あなたにお会いしろと」
「ほんとうにあなたのお話し下さったことは興味深いお話ですね」と伯爵は、いわば悪しき天使のそれのような美しさを見せているその屈託のない顔つきを、暗い満足感を味わいつつ眺めていた。「私の友人のシンドバッドの言葉通りに行動なさって、ほんとうによかった。と言うのは、お父上がたしかにここにおられて、あなたを探しておいでだからです」
伯爵は、このサロンに入ったときからずっと、青年から目を離さなかった。青年の落ち着きはらったその目と平然たるその声に伯爵は感嘆した。しかし、ごく当り前な、『お父上がたしかにここにおられて、あなたを探しておいでです』という言葉を聞くと、アンドレアは飛び上がって、
「父が、父がここにいるのですか」
と叫んだのである。
「まちがいなく」モンテ・クリストは答えた。「お父上のバルトロメオ・カヴァルカンティ少佐です」
青年の面上に、恐怖の色が走ったが、それは直ちに消えた。
「あ、そうです、その通りです。父はバルトロメオ・カヴァルカンティ少佐です。で、伯爵、そのなつかしい父が、ここにいるとおっしゃるのですね」
「そうです。今お別れしたばかりですよ。昔失くされた愛児についてのお話にはいたく胸をうたれました。あの方の苦しみ、不安、希望の数々は、感動的な詩になりますよ。とうとうある日のこと、情報が入りましてね、ご子息の誘拐者たちが、かなり巨額の金を出すなら、ご子息をお返しする。あるいは居所を教えるというのです。やさしい父にとってはそんなことは障害になりません。その金はイタリアへのビザを添えて、ピエモンテの国境へ送られました。たしか、あなたは南フランスにおいででしたね」
「ええ、そうです」アンドレアはかなりぎごちない様子で答えた。「ええ、僕は南フランスにおりました」
「一台の馬車がニースであなたをお待ちしていたはずですが」
「そうなんです。その馬車がニースからジェノヴァへ、ジェノヴァからトリノ、トリノからシャンベリー、シャンベリーからポン=ド=ボーヴォワザン、そしてポン=ド=ボーヴォワザンからパリへと僕をつれて来たのです」
「結構です。お父上は途中であなたにお会いになるおつもりだった。その道すじはまさにお父上が通って来られた道なのです。あなたの経路がそんなふうだったのも、そのためです」
「しかし」アンドレアが言った。「父が僕に会えたとしても、僕であることがわかったかどうか。父と会えなくなってから、僕は少し変わりましたから」
「いや、血が知らせるということがあります」モンテ・クリストは言った。
「ああ、なるほど、そうですね」青年が答えた。「血が知らせるということは考えませんでした」
「さて」モンテ・クリストは言葉を続けた。
「一つだけカヴァルカンティ侯爵が心配しておられることがあるんですがね。それは、あなたがお父上と離れておられた間に、何をしていたかということです。あなたを迫害していた連中がどんなふうにあなたを扱ったか。あなたの出生にふさわしいだけの敬意をはらったかどうか。あなたが精神的な苦痛を味わわされたために、これは肉体的な苦痛より百倍も悪いものですからね、そのために、あなたの持って生まれた恵まれた資質が傷つけられてはいないか。あなた自身、あなたが属している地位にふたたび戻って、その地位を恥ずかしめずに立派にやっていくことができるかどうかです」
「根も葉もないことを耳になさっても……」早のみこみの青年が口ごもりながら言った。
「私がですか。私は、あの慈善家のウィルモア卿から初めてあなたの話を聞いたのです。あなたが発見されたとき、嘆かわしい状況のもとにおられたということは知っております。が、それがどんな状況かは知りません。彼にもべつに質問しませんでした。私はあまり好奇心は強くないほうでね。あなたが不幸な目にあっておられるのが彼の興味をひいた。だからあなたは興味ある人なのだ。彼は私にこう言ったのです。あなたが失った社会的な地位に戻らせてやりたい、父親を探してやるつもりだ、きっとみつかる、と。彼は探して、どうやらみつけたらしいですね、ここにおられるんですから。結局昨日、私は彼からあなたがおいで下さることを知らされたのです。あなたの財産についても若干の指示がありました。それだけです。ウィルモアというのが変わった男だということは私も承知しています。ですがね、それと同時に、彼は安心のできる男で、金鉱そのもののような金持ちですから、奇矯なふるまいがあったところで破産するようなことはありません。ですから私は彼の指示に従う約束をしたのです。こんなことを伺ってお気を悪くなさらないで下さい。私はいささかあなたの面倒もみてあげねばならない立場なものですから、あなたを襲った不幸の数々は、あなたの意志とは無関係に襲って来たのですし、そのために私のあなたへの尊敬は少しも傷つけられていませんが、その不幸が、あなたを上流社会にはなじめない人間にしてしまっていはしないか、それが知りたいのです。あなたの財産と家名とによって、あなたは、この社会でいくらでもいい顔ができるのですがね」
「伯爵」青年は伯爵が話すうちに次第に落ち着きをとり戻して答えた。「その点についてはご安心いただきたいと思います。僕を父から引き離した誘拐者どもは、おそらく、後で僕を父に売りつけようと思ったのでしょう。すでに彼らがそうしたように。彼らは僕を高く売りつけるためには、僕の持っていた資質を損なわぬこと、できればもっとそれを高めねばならないと考えました。ですから僕はかなりいい教育を受けました。僕は人さらいから、中央アジアの奴隷たちが受けるのとほぼ同じ待遇を受けたのです。つまり、奴隷商人たちが彼らをローマの市場で高く売るために、奴隷たちを文法学者や医者や哲学者に仕立てるようにです」
モンテ・クリストは満足そうに微笑した。どうやら、アンドレア・カヴァルカンティにこれほどのことは期待していなかったようである。
「それに」若者は続けた。「もし僕に教育の面、むしろ社交界のしきたりでしょうが、そういう面で多少欠けたところがあったとしても、僕の出生にまつわる不幸、またその後も引き続いた不幸の数々を考えて、人は大目に見てくれるのではないでしょうか」
「それじゃ、子爵、あなたの好きなようになさるんですね」モンテ・クリストが無造作に言った。「あなたのご自由だし、あなたのことなんだから。ただ、私の言うことは違いますよ。私だったら、そんな昔の話は一言も言いませんね。あなたの話はまさに一篇の小説です。世間というものは、黄色い二枚の紙の表紙にはさまれた小説はもてはやしても、生きた皮で装幀《そうてい》された小説には奇妙に猜疑《さいぎ》の心を抱くものです。たとえそれが、あなたの場合のように金で飾られていてもね。子爵、ここがご注意申し上げたいむつかしい所なのですよ。あなたが、その哀れな話を誰かになさってごらんなさい、その話は、たちまちまったく歪められて伝わってしまう。あなたはアントニー〔デュマの戯曲の主人公〕の役を演じなければならなくなります。アントニーの時代はもういささか古いんでね。おそらく世間の好奇心をかきたてることはできるでしょう。しかし、いつも人に観察されとやかく言われるのを好まぬ者もいるわけです。きっとあなたはうんざりしてしまいますよ」
「おっしゃる通りだと思います、伯爵」青年は、モンテ・クリストのきびしい視線を受けて、思わず蒼くなりながら言った。「ほんとうにそれは困ります」
「いや、そんなに大げさに考えてはいけません」モンテ・クリストは言った。「失敗すまいとして、馬鹿げたことをする破目になりますからね。いえ、簡単な身の処し方をきめればいいんです。あなたのような頭のいい方にはそれがあなたの利益につながっているだけに、余計採用しやすいんじゃないかと思いますよ。証人やら立派な友人やらの力で、あなたの過去のうさん臭そうな所は全部消してしまうのです」
アンドレアは目に見えて色を失った。
「あなたの保証人に私がなってあげたいのは山々ですがね、しかし、たとえ最も親しい友でも疑うというのが私の気性でもあり、他人を疑わせるようにし向けたい気持ちもあるのです。したがって、私は芝居の連中が言うように、自分の柄でない役を演ずることになってしまいます。それではどんなへまもやりかねない、やらぬほうがましです」
「しかし、伯爵」アンドレアが図々しく言ってのけた。「僕をあなたに紹介して下さったウィルモア卿のことを考えたら……」
「たしかにね」モンテ・クリストが続けた。「しかし、アンドレア君、ウィルモア卿はあなたの青少年時代が、いささか荒れ模様なものであったことも、私に言わなかったわけではないのですよ。いや」伯爵はアンドレアがなにか言いたそうな身ぶりをしたのを見て言った。「べつにその打ち明け話をしてくれとは言ってません。第一、ルッカからあなたのお父上のカヴァルカンティ侯爵をお呼びしたのは、あなたが誰の世話にならなくてもいいためなのです。お会いになることです。幾分がんこで固苦しい方かもしれませんが、それは軍人だからです。十八年もオーストリア軍に勤務していたのですから大目に見るべきでしょう。オーストリアには、ふつうわれわれはそう大きな要求はしませんからね。要するに、立派な父親であることはまちがいありません」
「ああ、安心しました。ずっと以前に別れてしまったものですから、父の記憶がまったくないのです」
「それに、大きな財産というものは、たいていのことには目をつぶらせてしまうものですからね」
「父はほんとうに金持ちなのでしょうか」
「百万長者です……年収五十万フラン」
「では……」と青年は心配そうに、「いい暮らしができるでしょうか」
「最高の暮らしがね。お父上は、あなたがパリにおいでになる間は、年に五万フランずつ受け取れるようして下さってます」
「それなら僕はいつまでもここにいますよ」
「ええ、まあ……それは情況次第でしょうな。事を計るは人、事をなすは天、ですから」
アンドレアは溜息をついた。
「が、とにかく、僕がパリにいる間は、なにかの事情でパリを離れざるを得なくなるようなことがなければ、今お話しのそのお金は、たしかに僕のものになるんでしょうか」
「もちろんです」
「父がくれるんですか」不安そうにアンドレアが訊ねた。
「そうです。ただし、ウィルモア卿に保証されてます。卿は、お父上の依頼でダングラール氏の銀行からあなたが月五千フラン引き出せるようにしておきました。パリで最も確実な銀行の一つです」
「それで、父は長いことパリにとどまるでしょうか」気がかりな様子でアンドレアは訊ねた。
「ほんの数日しかおいでになれません」モンテ・クリストが答える。「勤務があるので、二、三週間以上留守にするわけにはいかないのです」
「ああ、おなつかしいお父さん」アンドレアは、このあわただしい出発を喜ぶ気持ちをありありと見せた。
「ですから」と、モンテ・クリストはアンドレアの声の調子にだまされたふりをして、「あなた方のお話しの時間を少しでも遅らせたくありません。あの立派なカヴァルカンティ氏に接吻する心の用意はできていますか」
「まさか、そんなことを疑っておられるわけではないと思いますが」
「それではサロンのほうにお入り下さい。お父上がお待ちです」
アンドレアは深々と伯爵におじぎをしてから、サロンに入って行った。
伯爵は目でその姿を追っていたが、姿が消えると、一枚の絵に通じているバネを押した。すると絵は額縁からはずれて、巧妙にしつらえられた隙間があき、隣のサロンの中が見えた。
アンドレアは後ろ手にドアを閉め、少佐のほうに進んだ。少佐は近づく足音を聞いて、すでに立ち上がっていた。
「ああ、おなつかしいお父さん」と、アンドレアは、閉ざされたドアごしでも伯爵に聞こえるように、大きな声で言った。「あなたがお父さんですか」
「アンドレアか、今日は」重々しく少佐が言う。
「これほど長い間別れていて、今またお目にかかれるなんて、なんという幸せでしょう」彼は、相変わらずドアのほうを見ながら言った。
「まったく、長かったなあ」
「接吻を交わさないのですか」アンドレアが言った。
「好きなようにおし」少佐が言う。
二人は、まるでテアトル・フランセの舞台で役者が抱き合うように抱き合った。つまり、互いの肩の上に頭をのせ合ったのである。
「これでやっと一緒になれましたね」アンドレアが言った。
「やっと一緒になれた」少佐が言った。
「もう離ればなれになんかなりませんね」
「いや、別れねばならぬだろう。お前はフランスを第二の祖国と思っているのではないかな」
「じつは、とてもパリを離れる気にはなれないのです」
「わしのほうは、わかっておろうが、ルッカを離れて暮らすことはできぬ。だから、できるだけ早くイタリアヘ戻る」
「でも、お発ちになる前に、書類は渡して下さるんでしょうね。それがあれば僕が生まれた家柄を簡単に証明できますから」
「むろんだとも、そのためにわざわざやって来たのだから。お前にそれを渡すためにお前に会おうと、さんざん苦労したから、またお互いに探し合うことなどとてもできぬ。わしの残り少ない一生が費やされてしまうだろうからな」
「で、書類は?」
「ここにある」アンドレアは奪いとるように、父の結婚証明書と自分の出生証書を掴んだ。そして、いい息子ならそれが当然のむさぼるような調子で書類を開くと、じつによく訓練された目であることを示すと同時に、激しい利欲にかられていることをも示す、す早いものなれた視線をその二枚の書類の上に走らせた。
読み終えたとき、なんとも言いようのない歓喜の色がその額に輝いた。そして、異様な笑いを浮かべて、少佐の顔をみつめながら、
「なるほど」と、彼はすばらしくうまいトスカナの言葉で言うのだった。「イタリアには懲役ってのはねえとみえる……」
少佐は立ち上がった。「どういうことだ」
「こんなものをこしらえても罪にならねえからさ。この半分をしでかしたって、お父さま、フランスじゃ、五年はツーロンの空気を吸わせられるぜ」
「なにを言う」ルッカ人はなんとか威厳をとりつくろおうとした。
「カヴァルカンティさんよ」アンドレアは少佐の腕をおさえながら言った。「俺の親爺になるってんでいくら貰った?」
少佐がなにか言おうとした。
「しーっ」アンドレアは声を落として、「俺のほうからまず相手を信用するお手本を見せてやる。あんたの伜に化けて、俺は年に五万フラン貰うことになってる。だから、あんたが俺の親爺じゃないなんてことを言う気になるはずがねえことぐらいはわかるだろう」
少佐は不安そうにあたりを見廻した。
「ええ、心配するなってことよ。ここにいるのは俺たちだけだ。第一俺たちはイタリア語をしゃべってる」
「それじゃ言うが、わしのほうは一時払いで五万くれるはずだ」
「カヴァルカンティさんよ」アンドレアが言う。「あんた、お伽話を信じるかい」
「いや、昔は信じなかったが、今じゃ信じないわけにはいかぬ」
「じゃ、証拠があると言うんだな」
少佐はポケットから一握りの金貨を取り出した。
「ほらこの通り、手でちゃんと触れる証拠をな」
「それじゃ、俺にしてくれた約束を信じてもいいと思うか」
「そう思う」
「あの伯爵は約束を守るだろうか」
「逐一守るな。だが、わかってるな、金を手に入れるには、わしらの役割をちゃんと演じなければならぬ」
「どうやって?」
「わしはやさしい父親の……」
「俺は、父を敬う息子の……」
「あの人たちが、お前がわしの子であることを望んでいるんだから」
「あの人たちって誰だ」
〔以下の会話は話し手がいつの間にか交替してしまっているが、原文通りに訳出しておく〕
「くそっ、そんなこと俺が知るか。お前に手紙をよこした人たちさ。手紙を受け取らなかったか」
「貰った」
「誰から」
「ブゾニ神父とかいう人から」
「お前の知らない人か」
「一度も会ったことがない」
「何て書いてあった」
「お前、わしを裏切らないだろうな」
「そんなことをするものか。俺たちの利害は一致しているんだ」
「そんなら、これを読め」
こう言って少佐は青年に一通の手紙を渡した。
アンドレアは低声《こごえ》で読んだ。
『そなたは貧しい。悲しい老年がそなたを待っておる。金持ちとは言わぬまでも、誰の世話にもならずにすむ身分になりたいとは思わぬか。
直ちにパリヘ行け。シャン=ゼリゼー大通り三十番地、モンテ・クリスト伯爵を訪れ、そなたが、コルシナリ侯爵夫人との間にもうけた五歳のおり誘拐された息子に会わせてくれと頼むのだ。
息子の名はアンドレア・カヴァルカンティ。
そなたのためを思う下名の心を疑われぬよう、下名は以下のものを同封する。
一、フィレンツェのゴッツィ氏支払いの二千四百トスカナ・リーヴルの手形。
二、モンテ・クリスト伯爵への四万八千フランの信用状。
伯爵邸には、五月二十六日夜七時に到着のこと。
署名 ブゾニ神父』
「これだ」
「これだ、だと? 何を言いたいんだ」少佐が訊ねた。
「俺もほとんど同じ手紙を受け取った、と言ってるのさ」
「お前が」
「うん、俺が」
「ブゾニ神父からか」
「いや」
「じゃ、誰だ」
「英国人だ。ウィルモア卿とかいう。船乗りシンドバッドと名乗ってる」
「わしがブゾニ神父を知らぬのと同じように、お前もその人を知らんのだな」
「いや知ってる。あんたよりはましだ」
「会ったことがあるのか」
「うん、一度」
「どこで」
「ああ、そいつは言えねえな。あんたが俺と同じぐらいわけを知っちまうことになる。そいつはまずい」
「で、手紙には何て書いてあった」
「読んでみな」
『君は貧しい。君にはみじめな将来しかない。名を上げ、気楽な身となり、金持ちになりたくはないかね』
「そんなこと訊くまでもねえや」青年がかかとの上で身をゆすりながら言った。
『ニースをジェノワ門の所から出た所に用意されている駅馬車に乗れ。トリノ、シャンベリ、ポン=ド=ボーヴォワザンを経由して、五月二十六日午後七時、シャン=ゼリゼーのモンテ・クリスト伯爵を訪れ、父に会わせてくれるよう頼むのだ。
君は、バルトロメオ・カヴァルカンティ侯爵とオリヴィア・コルシナリ侯爵夫人との間にできた子供だ。その出生を証明する書類は、侯爵が君に手渡す。これがあれば、君はカヴァルカンティの名でパリ社交界に乗り出すことができる。
年五万フランの収入により君はその地位を維持することができよう。
ニースの銀行家フェレア氏支払いの五千フランの手形、ならびに、君の必要経費は私が支払う旨のモンテ・クリスト伯爵への紹介状を同封する。
船乗りシンドバッド』
「ふうん、こいつはすごい」少佐が言った。
「だろう?」
「伯爵には会ったか」
「今別れて来たところだ」
「で、伯爵は認めてくれたのか」
「なにからなにまで」
「どういうことになっているのかわかるか」
「てんでわからねえ」
「これにはなにかからくりがあるぞ」
「いずれにしろ、ひっかかるのはあんたでも俺でもない」
「そりゃそうだ」
「だとすりゃあ」
「わしらの知ったことじゃない。そうだろうが」
「俺もそう言いたかったところだ。そうときまれば、とことんまでやろうぜ。うまく化けるんだ」
「よし、わしがいい相棒だってことがわかるぞ」
「一時《いっとき》だって疑ったことなんかありませんよ、お父さん」
「わしの名を恥ずかしめぬ伜じゃ」
モンテ・クリストはこの瞬間をとらえてサロンに入って行った。伯爵の足音を聞いて、二人は互いの腕の中に飛びこんだ。伯爵が入ったとき二人は抱き合っていた。
「侯爵」モンテ・クリストは言った。「どうやらお心にかなった息子さんのようですね」
「ああ、伯爵、うれしくて息がつまりそうです」
「で、君のほうは?」
「ああ、伯爵、僕は幸せで窒息しそうです」
「父子ともどもよかったですなあ」伯爵が言った。
「一つだけ悲しいのは」少佐が言った。「こんなに早くパリを離れねばならぬことです」
「カヴァルカンティさん、二、三の私の友人にご紹介しないうちは、お発ちにならないでいただきたいのですがね」
「伯爵のご命令次第です」
「さて、君、正直に言ったらどうかね」
「誰にですか」
「もちろんお父上にだよ。君の経済事情をちょっとお話ししたまえ」
「ああ、ほんとうに痛い所をおつきになります」
「少佐、お聞きですか」
「聞きました」
「でもおわかりですか」
「よくわかりました」
「可愛いご子息は、金に困っているとおっしゃっているんですよ」
「どうしろとおっしゃるので」
「きまってるじゃありませんか、金をおやりなさい」
「私が」
「そう、あなたが」
モンテ・クリストは二人の間に割りこんだ。
「さあ」彼はアンドレアに言いながら、その手に札束を滑りこませた。
「これは何ですか」
「お父上の返事だよ」
「父の?」
「そう。君は今、金に困っていると言おうとしたのではないのかね」
「ええ、それで?」
「だからお父上が私に、君にそれを渡してくれと頼まれたのだ」
「僕の収入の内金ですか」
「いや、君がパリに落ち着くための費用だ」
「ああ、お父さん」
「しーっ」モンテ・クリストが言った。「お父上は、私が君に、その金はお父上から出たものだと言ってほしくないのだよ」
「父の心遣いありがたいと思います」アンドレアはズボンのポケットに札束をねじこみながら答えた。
「それでいい」モンテ・クリストは言った。「さ、帰りなさい」
「で、今度はいつお目にかかれましょうか」カヴァルカンティが訊ねた。
「ああ、そうです、いつお目にかかれますか」アンドレアも訊ねた。
「もしよろしければ、土曜……そう、土曜日にしましょう。オートゥイユの私の家で、ラ・フォンテーヌ通り二十八番地です、なん人かの客を夕食に招いてます。あなた方の銀行であるダングラール氏も来ます。あなた方をご紹介しておきましょう。お二人とも顔を知ってもらったほうがいい。あの人から金を受け取るわけですから」
「正装ですか」小さい声で少佐が訊ねた。
「正装です。軍帽、勲章、短ズボン」
「で、僕は?」アンドレアが訊ねた。
「ああ、君は略装でいいよ。黒のズボン、エナメルの長靴、白のチョッキ、黒か青の上着、長いネクタイ。仕立ては、ブランかヴェロニックに頼むんだね。もしアドレスを知らなければ、バチスタンに聞けばわかる。身なりは控え目にすればするほど、実際には金持ちなんだから、効果が上る。馬を買うならドゥヴドゥーの所へ行きたまえ。馬車を買うならバチストだ」
「何時にお伺いしたらいいでしょう」青年が訊ねた。
「六時半頃」
「わかりました、その時刻に参ります」少佐が帽子を手にして言った。
二人のカヴァルカンティは伯爵に一礼して出て行った。
伯爵は窓に近寄り、腕を組み合って中庭を通って行く二人の姿を見ていた。
「まったく、二人とも大した奴らだ。奴らが本物の親子でないのが残念だ」
そうして、しばらく暗い物思いに沈んでいたが、
「モレルの家へ行こう」と彼は言った。「嫌悪というやつは、憎悪よりも胸をむかつかせる」
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五十七 ムラサキウマゴヤシの畑
ここで読者諸子を、ヴィルフォール氏の邸と境を接するあの畑におつれすることをお許し願わねばならない。マロニエの覆いかぶさる鉄柵のかげに、われわれは、すでに知っている二人の人物を見出すのである。
今回はマクシミリヤンのほうが先に来ていた。塀に目をおしあてているのは彼であった。奥深い庭の木立の間に見えかくれする一つの人影と、園路の砂を踏む絹の編上靴の音をうかがっている。
やっと待ちこがれていたその足音が聞こえて来た。人影は一つではなくて二つであった。ヴァランチーヌが遅れたのは、ダングラール夫人とウジェニーの来訪のためであった。待ち合わせの時間になっても、客が帰らなかったのである。そこで、約束をすっぽかす破目にならぬよう、娘はダングラール嬢に庭を散歩しないかと誘ったのである。自分の遅刻に辛い思いをしているであろうマクシミリヤンに、それが自分のせいではないことを見せるためであった。
青年は、恋する者の直観で、即座にすべてを理解し、心は静まった。それに、ヴァランチーヌは、マクシミリヤンに自分たちが行き来する姿が見えるように、散歩の道を選び、行き来する度に、つれには気づかれないが、鉄柵の外の青年には捉えることのできる視線を投げて、目でこう語りかけていたのである。
「もう少し待って。私が悪いんじゃないんですもの」
マクシミリヤンは、対照的な二人の娘の違いを感にたえた気持ちでながめながら、じっとがまんしていた。片や物憂げな目をしたブロンドで、美しい柳のようなカーヴを描く身体つき、一方は、誇らかな目をした褐色の髪で、ポプラを思わせる直立した身体つき。言うまでもないが、これほど対照的な娘の姿のうち、青年の心の中で完全な優位を占めていたのはヴァランチーヌであった。
三十分ほど歩き廻ってから二人の娘は遠ざかって行った。マクシミリヤンは、ダングラール夫人の訪問が終る時刻が来たことを知った。
はたして、待つ間もなく、ヴァランチーヌが一人でやって来た。ぶしつけな目が、自分がまた庭に戻るのを追っていはしないかと、彼女はわざとゆっくり来た。そして、まっすぐ鉄柵の所へ来ることはせずに、さり気なく木の葉の茂みのかげをさぐり、通路という通路の奥に視線を走らせてから、ベンチに腰をおろした。
これだけの注意を払ってから、娘は鉄柵の所に走り寄って来た。
「こんにちは、ヴァランチーヌ」という声がした。
「こんにちは、マクシミリヤン。お待たせしてしまったわ。でも理由はご覧になったでしょ?」
「うん、ダングラール嬢だったね。でも君があのお嬢さんとこんなに親しいとは思わなかった」
「誰が親しいなんて言ったの」
「誰も。でも、腕を組みあってた様子や、話をしていた様子を見ればそうとしか思えないよ。寄宿舎の友だち同士が打ち明け話をしているようだった」
「たしかに打ち明け話をしていたのよ」ヴァランチーヌが言った。「あの人はモルセールさんとの縁談が厭でたまらないと言ってたし、私はデピネさんとの結婚が辛く思えるって話してたの」
「ヴァランチーヌ!」
「私とウジェニーが打ちとけあっているように見えたのはそういうわけなのよ」娘が続けた。「私は、私が愛することのできない人のことを話しながら、愛している人のことを考えていたの」
「ヴァランチーヌ、君はまったくなにごとにつけてもやさしい人なんだね。ダングラール嬢が絶対に持つことのできないものを君は持っている。それは、花ならば香り、果物ならば風味といった、女性のなんとも言いようのない魅力だ。美しいだけでは花じゃない、姿が見事なだけでは果物じゃない」
「あなたがそんなふうにご覧になるのは、あなたの愛がそうさせるのよ」
「違う、ヴァランチーヌ。絶対にそうじゃない。いいかい、僕はさっき君たち二人を見ていた。そして、正真正銘、ダングラール嬢をたしかに美しい人だとは思ったが、男があの人を好きになるとは、どうしても思えなかった」
「それは、あなたもおっしゃったように、私がいたからだわ。私がそばにいたので、正しい判断がおできにならなかったのよ」
「違う……が、ちょっと訊きたいんだけど……ほんの好奇心からの質問だけどね。ダングラール嬢について考えたことがあるもんだから」
「どんなお考えだか知りませんけど、どうせ不当なお考えなんでしょう。あなた方男の方が私たちを批判なさる場合は、私たち哀れな女は、男の方たちに寛い心を期待するわけにはいかないんですものね」
「その反面、君たち女性同士は、お互いにたいへん公平な見方をするよね」
「それは私たちの判断には、たいてい感情が入りこんでいるからですわ。でも、お訊ねは何なの」
「ダングラール嬢がモルセール君との結婚を嫌っているのは、ほかに好きな人がいるからかな」
「マクシミリヤン、私はウジェニーのお友だちではないと言ったでしょ」
「これは驚いた」モレルが言った。「友だちでもないのに、若い娘が打ち明け話なんかするものかな。そのことで君があの人になにか訊いてみたってことを認めたまえ。ほら、君は笑ってるじゃないか」
「みんな見えてしまうんなら、間にこんな板塀なんかあってもなんにもならないわね」
「さあ、あの人は君に何て言った?」
「誰も好きな人なんかいないって言ったわ」ヴァランチーヌが言った。「結婚そのものがぞっとするほど厭なんですって。自由で誰にも拘束されない生活が送れたらどんなにうれしいか。お父様が破産してしまえばと思うほど。そうすればあの人のお友だちのルイーズ・ダルミイーさんのように芸術家になれるのにって言ってたわ」
「ほらね」
「それはどういうことですの」
「べつに」こう言ってマクシミリヤンは笑った。
「じゃ、なぜお笑いになるの」ヴァランチーヌが言う。
「ああ、ヴァランチーヌ、君だってこっちを見ているじゃないか」
「あっちへ行けっておっしゃるの」
「と、とんでもない。話を戻そう」
「ああ、そうでしたわ。十分ぐらいしか一緒にはいられないんですもの」
「ああ!」マクシミリヤンが驚いて叫んだ。
「そう、マクシミリヤン、あなたが嘆くのも当り前だわ」ヴァランチーヌが憂いをこめて言った。「ここにいるのはあなたの情ないお友だちなの。あなたはどんなにでも幸せになれる人なのに、私はあなたになんて辛い思いをさせているんでしょう。いつも自分をひどく責めてばかりいるのよ」
「ヴァランチーヌ、そんなことはどうだっていいじゃないか。これで僕は幸せだと思っているんだから。こうしていつまでもいつまでも待たされても、五分間でも君の姿を見、二言でも君の口から洩れる言葉を聞き、神はいかなる心をも僕たちの心ほど和合させたことはないし、まるで奇蹟のようにしっかりと結びつけたことはないから、これを引き離すおつもりはないと確信できるだけで、十分に酬いられていると僕には思えるんだから」
「わかったわ、ありがとう、マクシミリヤン、二人のために希望を捨てないで。そうすれば、私は半ば幸せになれるの」
「いったい、また何が起きたんだい、ヴァランチーヌ。そんなに早く行ってしまうなんて」
「わからないの。義母《はは》が話があるから部屋へ来てくれって言うの。私の財産の分配のことでなにか知らせがあったからって言ってよこしたのよ。私の財産なんか、あの人たちみんなで取ってしまったらいいんだわ。私はお金がありすぎるのよ。私のお金を取ってしまったら、後は私をそっと自由にしておいてほしい。私がいくら貧乏になっても、マクシミリヤン、愛して下さるわね」
「僕はいつだって君を愛するよ。金持ちだろうと貧乏だろうとかまいやしない。僕のヴァランチーヌがそばにいてくれて、誰にも君を奪われる心配がないんなら! でも、その話っていうのは、君の縁談に関係のある、なにか新しい知らせでも入ったんだとは思わないかい」
「そうは思わないわ」
「だけどね、いいかい、ヴァランチーヌ。心配しなくていいんだ。僕は生きてる限り、ほかの女の人のものにはならないからね」
「マクシミリヤン、それで私を安心させているつもりなの」
「悪かった。君の言う通りだ。僕は残酷だったね。僕はこう言おうと思ったんだ。先日僕はモルセール君に会った」
「それで?」
「フランツ君は彼の友人だ、知ってるだろう?」
「ええ。それで?」
「彼はフランツ君から手紙を受け取った。近いうちに帰って来るというんだ」
ヴァランチーヌは顔色を失い、鉄柵に手をついた。
「まあ、もしそうだったら、いえ、違うわ、それなら母から話があるなんて言って来ませんもの」
「なぜ」
「なぜって……私にはわからないけど……でも母はあからさまには反対なさらないけど、この縁談はあまり気が進まないようなの」
「それなら、ヴァランチーヌ、僕はヴィルフォール夫人が好きになってしまいそうだ」
「あら、あまりあわてないでちょうだい、マクシミリヤン」ヴァランチーヌはさびしい笑みを浮かべながら言った。
「とにかくその縁談に反対しているのなら、それを破談にするためだけにでも、ほかの縁談に耳をかしてくれるかもしれない」
「そう思ったらまちがいなの。母が拒むのは、夫になるべき人ではなくて、結婚そのものなのよ」
「なんだって、結婚そのものだって? そんなに結婚を嫌うんなら、どうしてご自分は結婚したのかな」
「マクシミリヤン、あなたは私の言うことがおわかりになっていないのよ、こういうことなの。一年前、私が修道院に入りたいって言ったとき、母は、反対すべきだとは思いながら私の申し出をすごく喜んだの。父も、きっと母に言われてのことでしょうけど、同意したわ。私を引きとめたのは、あの気の毒な祖父だけ。マクシミリヤン、あなたには想像もおできにならないわ。この世で愛する者といえば私だけ、そして、こんなことを言うのは神様を冒涜することになるんだったら、お許しを乞わねばならないけど、私にしか愛してもらえないあのお気の毒なお祖父様の目が、どんな表情を見せたか、あなたにはとてもご想像になれないわ。私の決心を知ったとき、どんなふうに私を見たか。その眼差しの中にどれほど私を責める色がたたえられていたか、嘆きも洩らさず、溜息もつかず、動かないその頬をただ伝い落ちる涙にどれほどの絶望がこめられていたか! ああ、マクシミリヤン、私は後悔に似た気持ちに襲われて、お祖父様の足もとにつっ伏してこう叫んだわ。
『ごめんなさい、お祖父様! 私はどんな目にあってもいい、でもお祖父様のそばは離れない』
そしたらお祖父様は目を天に向けたの……マクシミリヤン、私はどんな苦しみにも耐えられるわ、だって、あのお祖父様の目が、私のこれからの苦しみを、前もって償っていて下さるんですもの」
「ヴァランチーヌ! 君は天使だ。僕のような、ベドウィン族を右に左に斬って捨てた男の前に、どうして君のような人が現われてくれたのかわからない。神が、彼らを神に背く者とみなしておられない限りね。が、それにしても、君が結婚しないと、ヴィルフォール夫人にどういう利益があるのかな」
「さっき私が、私はお金持ち、お金がありすぎるって言ったのを、お聞きにならなかったの。私は私の母のほうから五万フラン近くの年収を相続しているの。祖父母も、サン=メラン侯爵夫妻も、同じぐらいのものを遺してくれることになってるわ。ノワルチエのお祖父様が、私だけを唯一の相続人になさることは目に見えてるし。そうなると、私に較べて、弟のエドワールは、義母《はは》のほうからはまったく遺産が期待できないし、とても貧しいってことになるの。義母《はは》はあの子を溺愛しているわ。だからもし私が宗門に入れば、私の財産は全部、侯爵夫妻からも私からも財産を受けつぐ父の手に集められて、結局は義母《はは》の子供に行くわけよ」
「あんなに若くてきれいな女《ひと》が、そんなに貪欲な心を持ってるなんて信じられないな」
「でもそれは自分のためじゃないのよ、マクシミリヤン、子供のためなのよ。あなたが欠点として非難なさるものも、母性愛という点から見れば、むしろ美徳だわ」
「しかし、ヴァランチーヌ。君の財産の一部をその子に分けてやったらどうなんだろう」
「そんな申し出をどうすればできるのかしら」ヴァランチーヌは言った。「とくに、口を開けば私は無欲ですとしか言わない女《ひと》に向かって」
「ヴァランチーヌ、僕の恋は神聖なものだ。神聖なものの例に洩れず、僕はこの恋にも僕の尊崇の念のヴェールをかぶせ、僕の心の中にだけそっとしまってある。この世の誰も、妹さえ、この恋のことは夢にも知らない。たとえ誰であろうと打ち明けてはいないからね。だがヴァランチーヌ、この恋を一人の友だちに話すことを許してくれないか」
ヴァランチーヌは身をおののかせた。
「お友だちに?」彼女は言った。「ああ、マクシミリヤン、あなたがそんなふうにおっしゃるのを聞くだけで、私はふるえ上がってしまうの。お友だちって、いったいどなたですの」
「あのね、ヴァランチーヌ。君は今までにある人に対して、こんな親しみを感じたことはないかな。その人を初めて見たとき、ずっと前から知っているような気がして、いったいいつ、どこで会ったんだろうと考える。どうしても場所も時も思い出せないもんだから、しまいには、きっと前世で会ったんだと思って、この親しみは、きっと前世の記憶がよび覚まされたものなんだと思ってしまうような」
「あるわ」
「それなんだ、他人とは違うその人に初めて会ったときに僕が感じたのは」
「他人とは違う人?」
「そう」
「ずっと前からのお知り合い?」
「まだやっと一週間か十日前だ」
「一週間しかおつき合いしてない人をお友だちって言うの。マクシミリヤン、あなたが、お友だちっていう美しい言葉を、そんなに安っぽく使う方だとは思っていなかったわ」
「理屈の上では君の言う通りだ。でも何と言われようと、この本能的な直観だけは僕は疑わない。あの人は、将来僕に訪れるいい事には、かならずかかわりがあるように思う。あの深い目がちゃんと僕の将来を見通していて、あの力強い手が、僕の将来を導いていてくれるような気がするんだ」
「占者《うらない》なの?」ヴァランチーヌが笑いながら言った。
「うん」マクシミリヤンは言った。「なん回か、とくにいいことをあの人は見抜く力があるんじゃないかと思わせられた」
「まあ」ヴァランチーヌがさびしそうに言った。「マクシミリヤン、その方を紹介して下さらない? 今まで苦しみ続けて来たのを償なえるほど愛してもらえるかどうか教えて欲しいわ」
「可哀そうに。でも君も知っている人だよ」
「私が?」
「そう。君のお母さんとその子供の命を救けた人だ」
「モンテ・クリスト伯爵様?」
「その通り」
「ああ」ヴァランチーヌが叫んだ。「あの方なら私のお友だちにはなって下さらないわ、義母《はは》のお友だちですもの」
「伯爵がお母さんのお友だちだって? 僕の直観は、この点ではまちがいない、それは君の思い違いだよ」
「マクシミリヤン、あなたご存じではないでしょう? 今では、この家の支配者はエドワールではないのよ、伯爵様なの。義母《はは》からはひっぱりだこ、義母はあの方は人智のすべてをそなえた方だと思っているし、父からは尊敬されて、おわかりになる? 父に尊敬されているのよ、あの人ほど高遠な思想を雄弁に語る人には会ったためしがないと言って。エドワールは神様のように思っているわ。伯爵様の大きな黒い目がこわいらしいけど、それでもあの方がおいでになった姿を見ると、すぐに駈けて行って、あの方の手を開けるの。いつでもすばらしいおもちゃが入っているわ。モンテ・クリスト様は、ここにおいでの時は、父の家にいらっしゃるのではありません。ヴィルフォール夫人の家にいるのでもありません。モンテ・クリスト様は、ご自分のお家にいらっしゃるのです」
「それなら、ヴァランチーヌ。君が言うようなことになっているんだったら、君はあの人がそこにいるということの効果を、もう感じているはずだ、あるいはもうじき感じるはずだ。あの人はイタリアでアルベール・ド・モルセール君に会った。結果は山賊の手から彼を救け出したことだった。あの人がダングラール夫人の姿を見る。すると豪勢な贈り物が届いた。君のお母さんと弟があの人の門の前を通る。するとあの人が使っているヌビア人が二人の生命を救った。あの人はたしかに、事物を自由にする力を授けられている。豪奢でありながらあれほどすっきりした趣味を僕は見たことがない。あの人の微笑は、僕に向けられるときは、あまりにもやさしいので、他の人たちがあの人の微笑をひどく辛辣なものに受け取っているのを忘れてしまうほどだ。ああ、ヴァランチーヌ、あの人は君にはそういう笑顔を見せなかったかい。もしあの人がそうしたら、君は幸せになれる」
「私が!」娘は言った。「とんでもないわ、マクシリヤン。あの方は私のことなんか見向きもしないわ。それどころか、もし私が通りかかれば、私からは目をそむけるわ。あの方はやさしい心の方ではありません、さもなければ、人の心の底を見通す目なんてお持ちではないのよ。あなたがそう思っておいでなのは、思い違いだわ。だって、もしあの方がやさしい心をお持ちなら、この家の中にたった一人ぼっち、悲しい顔をしている私をご覧になれば、その事物を自由にする力とかで、私を守って下さるはずですもの。あなたがおっしゃるように、あの方がお日様の役をしておられるなら、その光で私の心を暖めて下さるはずだわ。あの方はあなたを愛しているとおっしゃったわね。ああ、あなたはご存じかしら。人間というものは、あなたのような、五フィート六インチもある士官にはやさしい顔を向けるものなの。立派な口ひげを生やし、長いサーベルを下げた人にはね。でも、涙ばかり流してる哀れな娘など、平気で踏みつぶせると思ってるものなのよ」
「ああ、ヴァランチーヌ。それは絶対に君の思い違いだ」
「そうでなければ、マクシミリヤン、もしあの方が私を社交上、つまり、どうにかしてこの家で主人顔をしたいと思う男として私に接しているのなら、一度でもいいから、あなたがそれほどおほめになるその笑顔を私に向けて下さってもいいはずだわ。ところが違うの。あの方は私がみじめな立場にいることをご覧になり、あの方にはまるで役に立たないことがわかると、私のことなど気にもとめないのよ。父や義母《はは》、それに弟に取り入るために、あの方もご自分の力で可能な限り私を迫害するかもしれなくてよ。はっきり言って、私はいわれもなくそんなに軽蔑される女じゃないわ、あなたもおっしゃったように。あ、ごめんなさい」娘は、自分の言葉がマクシミリヤンにもたらした効果を知って続けた。「私が悪かったわ。私はあの方について、自分の心にあるのかどうかさえわからないことを言ってしまったの。あなたがおっしゃる、あの方の周囲に及ぼす力が確かにあることを認めます、私にもその力を及ぼしたことを。でもその及ぼし方は、有害でまともな考え方をだめにするような及ぼし方ね」
「わかったよ、ヴァランチーヌ」吐息を洩らしながらモレルは言った。「もうその話はよそう。僕はあの人にはなにも言わない」
「困ったわ、私、あなたを傷つけてしまったのね。あなたの手を握って、お詫びが言えたらいいんだけど。でも、あなたのお話を信じたいの。ねえ、あのモンテ・クリスト伯爵様はあなたに何をして下さったの」
「正直言って、伯爵が僕に何をしてくれたかと訊かれても困るんだ。はっきりこれと言えることはなにもないんだよ。だから、前にも言ったように、僕があの人を好もしく思うのは本能的なものなんだ。筋道をたてて言えることはなにもない。太陽は僕になにかをしてくれるだろうか。なにもしてくれやしない。僕を暖めてくれて、その光で君の姿を見せてくれる、それだけだ。香りにしたところで、僕になにかをしてくれるだろうか。してくれない。その臭いが僕の五官の一つを快よく蘇らせてくれるだけだ。なぜその香りをお前は讃えるのかと訊ねられても、僕にはほかに言いようがない。僕のあの人への愛情は、あの人の僕への愛情と同じようにおかしなものなんだ。この思いがけず互いの心に抱かれた友愛には、偶然以上のものがあると、ひそやかな声が僕に語りかけている。あの人のどんなに些細な行動も、どんなに心の底に秘められた考えも、僕の行動と考えとの間に相関関係があるように思う。君はまた笑うね。だが、あの人と知り合ってから、僕の身に起こるいいことはみなあの人が原因なのだという馬鹿々々しい考えにとりつかれてしまったのだ。とはいうものの、僕はそんな保護など必要とせずに三十年も生きて来た、そうだろ。そんなことは問題じゃない、たとえばこうなのだ。あの人は僕をこの土曜日に夕食に招いてくれた。僕たちのような間なら当然のことだよね。ところが、後で何を知らされたと思う。君のお父さんもこの夕食に招ばれているんだ。お母さんも来ることになっている。僕はお二人にお目にかかるわけだ。ご両親にお目にかかることが、将来どういうことをもたらすかわからないじゃないか。外見上はごく単純なことだけれど、僕には、これにはなにかふつうではないものを見るんだ。奇妙にこれに頼る気持ちになっている。あの、なんでも見通してしまう不思議な伯爵は、僕とヴィルフォール夫妻を引き合わせようとしているんじゃないかと思うんだ。なん回か、僕は、あの人が僕の恋を見抜いているのではないかと、あの人の目の色を読もうとしたんだよ」
「そんなお話ばかりうかがっていると、あなたを幻想家と思いこんでしまいそう。それに、あなたの良識がどうかしちゃったんじゃないかってほんとうに心配になってしまうかもしれないわ。私の両親と会うことになったのには、偶然以上のものがある、ですって? 人を訪ねたことなどない父は、義母にいくら言われてもこの招待はことわるところだったのよ。義母は逆に、あのけたはずれなお金持ちがどんな暮らし方をしているか見たくてたまらないので、大へんな苦労をして父に一緒につれて行ってもらうようにしたの。マクシミリヤン、信じてちょうだい。あなたを除けば、私には、死骸同然の祖父しかこの世に救けを求める相手は絶対にいないのよ。心の支えを求めるとすれば、あの気の毒なお母様、亡くなったお母様だけ!」
「ヴァランチーヌ、君のほうが正しいような気はする。理屈ではたしかに君の言う通りだ。だが、いつも僕に対しては絶大な力を持つ君のやさしい声も、今日は僕を納得させない」
「あなたの声もよ。もっと別の実例を示して下さらなければ、正直言って私には……」
「例はあるんだ」マクシミリヤンがためらいがちに言った。「ただ、たしかにね、ヴァランチーヌ、白状しなきゃならないけれど、これはさっきのよりも理屈にあわないんだ」
「仕方ないわ」ヴァランチーヌが笑いながら言った。
「そうは言っても」モレルは続けた。「これも、もともと霊感と感受性に富んだ男で、軍務について十年、一歩前へ、あるいは後ろへ、と命ずる内心の閃きによって、弾丸《たま》がわきをかすめて、なん回か命拾いをした僕には、これも決定的なものに思えるんだ」
「マクシミリヤン、弾丸《たま》がそれるのは、私が祈っているせいだとどうして思って下さらないの? あなたが戦地においでの時は、神様や亡くなったお母様に私がお祈りするのは、私のためではなくてあなたのためなのに」
「うん、君と知り合うようになってからはね」モレルが微笑みながら言った。「だけど、君と知り合う前のことはどう思う、ヴァランチーヌ」
「意地悪、私のおかげだなんてちっとも思おうとはなさらないんだから、あなたご自身、理屈に合わないとおっしゃるその実例を伺いましょう」
「それじゃ、板の隙間から見てごらん。あそこ、あの木の所に、僕が乗って来た馬が見えるだろ」
「まあ、みごとな馬ね」ヴァランチーヌが声をあげた。「どうして門のそばまでつれて来なかったの。そうすれば私が馬に話しかけたのに。きっとわかってくれたわ」
「実際、ご覧の通りあの馬はかなり高価な馬なんだ。ヴァランチーヌ、僕の財産が大したものじゃないことは知ってるね。そう向こう見ずなことをする男でないことも。僕は馬喰《ばくろう》の所であの見事なメデア、こう名前をつけたんだがね、メデアをみつけた。値段を訊いたら、四千五百フランだという返事だ。君にもわかるだろうけれども、僕はそれ以上その馬を愛《め》でることは断念しなければならなかった。僕は馬喰のもとを去った。正直に言って悲しかったよ。というのは、馬の奴、やさしい目で僕を見たんだ。頭を僕にこすりつけ、僕が乗るとなんとも言えない愛らしくいじらしい様子で輪を描いて歩いたんだ。その晩僕は家に友人を招いていた。シャトー=ルノー君、ドブレ君、それに、君が幸いにして名前も知らない悪友五、六人だ。皆はブイヨットをやろうと言いだした。僕は賭けをしたことがない。金をなくせるほど金持ちじゃないし、儲けたいと思うほど貧乏でもないからね。だが、わかるだろう、そこは僕の家だった。僕のなすべきことは、カードをとりにやることしかない。だから僕はそうしたんだ。
皆がトランプをするためにテーブルの前に坐ったときモンテ・クリストさんが来た。あの人も席に着き、皆で賭けた。そして僕は勝った。白状しにくいんだけど、五千フラン儲けたんだ。夜半の十二時に客は帰った。僕はがまんできなくて、馬車を掴まえ、その馬喰の所へ行かせた。胸をどきどきさせ、すっかり上気して僕はベルを鳴らした。ドアを開けてくれた男は僕を気違いと思ったことだろう。僕は、ドアが開くか開かないかのうちに中に飛び込んだ。僕は厩に入って、秣棚《まぐさだな》を見た。うれしいことに、メデアが秣をもぐもぐやってるじゃないか。僕は鞍に飛びついて、自分でそれをメデアの背につけた。手綱をつけた。メデアは、ほんとうにいそいそと、僕がその仕事をしおえるのを待っていた。それから僕は四千五百フランをあっけにとられている馬喰の手に渡すと、家に帰った、と言うより、シャン=ゼリゼーを一晩中乗り廻していた。そして、僕は伯爵の部屋の窓の灯を見たのだ。カーテンのかげに、あの人の姿が見えたような気がする。さて、ヴァランチーヌ、断言してもいいが、伯爵は僕があの馬を欲しがっているのを知って、僕にあの馬を手に入れさせるためにわざと負けてくれたんだよ」
「マクシミリヤン、ほんとうにあなたは少し幻想を抱き過ぎるわ。あなたは私のことを、あまり長くは愛して下さらないかもしれない……そんなふうに詩的にばかり考える方は、私たちの間のような単調な恋に、ただわけもなく青春をすりへらすなんてことはできないものよ……でも、たいへん! ほら、誰か呼んでるわ……聞こえるでしょう?」
「ああ、ヴァランチーヌ、その板の隙間から、君の一番小さい指を。接吻させてくれないか」
「マクシミリヤン、私たちはいつまでも、お互いに、声だけ、影だけでいましょうって言ったじゃないの」
「君の思う通りでいいよ、ヴァランチーヌ」
「お望みのことをしてあげたら、あなたうれしい?」
「うれしいとも」
ヴァランチーヌはベンチの上に乗り、隙間から小指をさし出すかわりに、棚の上から片手全体をさし出した。
マクシミリヤンは叫び声を上げ、彼も車除けの石の上に登り、この愛《いと》しい手を掴むと燃えるような唇をおしあてた。が、その小さな手はただちに彼の手をすり抜けてしまった。そして、青年は、おそらく今味わった感触におびえたにちがいないヴァランチーヌが、その場を逃げて行く足音を聞いたのである。
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五十八 ノワルチエ・ド・ヴィルフォール
ダングラール夫人とその娘が帰ってから、今お伝えした会話が行なわれている間に、検事の邸内ではつぎのような光景が展開していた。
ヴィルフォール氏は夫人を伴って、父の部屋に入った。ヴァランチーヌに関しては、彼女がどこにいるかは、われわれのすでに知るところである。
二人は、老人に頭を下げ、二十五年以上も老人に仕えている老僕のバロワを部屋から出した後で、老人の両わきに腰をおろした。
ノワルチエ氏は、脚に車のついた大きな肘掛椅子に腰かけている。朝そこへ老人を坐らせ、夜になるとその椅子からほかへ運ぶのである。老人の前には鏡があって、部屋全体が映っており、もはや動けなくなった身体を動かさなくても、部屋に出入りする者の姿が見られたし、周囲で人が何をしているかも見られるようになっていた。ノワルチエは、死体のように身動きしないまま、その聡明な鋭い目で息子たちの顔を見た。二人の儀式ばったおじぎの仕方は、なにか思いがけない正式な申し出を予告していた。
視覚と聴覚、この二つだけが、二つの火花のように四分の三はすでに墓場用のものになっているこの人間の肉体に、まだわずかに火をともしていた。しかも、この二つの感覚のうち一つだけでも、このまるで石像のような肉体の内部に生命が宿っていることを外に示しているのだった。そして、内に宿る生命のあかしであるその眼差しは、夜、砂漠で道に迷った旅人に、その沈黙と暗黒の中にも目覚めている生きた存在があることを教える、あの遠い光にも似ていた。
だから、長く肩まで垂れている髪が真白なのに反して、黒い眉毛の下の、老ノワルチエのこの黒い目には、他の器官を犠牲にしてその器官のみを鍛えた男の器官がすべてそうであるように、かつてはその肉体、その精神の全域にわたってみなぎっていた、活動力、敏捷さ、力、智力のすべてが結集していた。たしかに、腕の動き、声の響き、身体の姿勢は失われていたが、この力強い目はすべてを補っていた。彼はこの目で命令し、この目で感謝の言葉を述べた。これは生きた目を具えた死体であった。この顔の上部に、怒りの火がともされるとき、あるいは喜びの光が輝くとき、時として、この石像の顔ほど恐ろしいものはなかった。哀れな全身不随の老人のこの言葉を解し得る者は三人だけであった。ヴィルフォールとヴァランチーヌ、それに、すでに述べた老僕である。しかし、ヴィルフォールは、たまにしか、言わばそうしなければならないときにしか父に会わなかったし、会っても、父の言おうとすることを理解してやって父を喜ばせようとはしなかったから、孫娘のみが老人の喜びであった。ヴァランチーヌは、献身と愛情と忍耐心とによって、その眼差しからノワルチエの考えていることをことごとく読み取れるようになっていたのである。このもの言わぬ言葉、ほかの誰にもわからない言葉に、ヴァランチーヌは、あらん限りの声と、せいいっぱいの表情と、心のすべてを傾けて答えた。だから、人間の肉体とはいっても、ほとんど泥人形に近い、それでいて、底知れぬ知識と、比類なき洞察力と、もはや自由に動かすことのできなくなった肉体に閉じこめられた魂が持ち得るだけの強烈な意志の力とをなおも失ってはいないこの男と、若い孫娘との間には、生き生きとした対話が成立するのであった。
ヴァランチーヌは、自分自身の考えを老人にわからせるために、老人の考えを理解するという、この奇妙な問題を解決していたわけである。こうした訓練のおかげで、日常生活のことで、この生きている魂の欲求、半ば感覚を失った死体の要求を、彼女が正確に見抜けぬことはまずなかった。
老僕のほうは、すでに述べたように二十五年もこの主人に仕えていたので、主人の生活習慣は知悉《ちしつ》しており、ノワルチエのほうからなにか用事をこの老僕に頼まねばならぬことはめったになかった。
ヴィルフォールは、父と話し合うためにやって来たその常ならぬ会話を始めるのに、これら二人の助けを借りる必要はなかった。すでに言ったように、彼自身老人の言葉を完全に知っていたのである。彼があまりその言葉を利用しようとしなかったのは、わずらわしいのと無関心なためであった。だから彼はヴァランチーヌには黙って庭へ行かせ、バロワを遠ざけたのであった。そして、父の右側に腰をおろし、ヴィルフォール夫人が左側に坐ると
「父上」と、彼は言った。「ヴァランチーヌが一緒に来なかったこと、それにバロワを遠ざけたことに驚かないで下さい。これからご一緒にご相談することは、若い娘や使用人の前では話せないことなのです。家内と私とはどうしてもお伝えしておかねばならないことがあって来たのです」
この前置きの間は、ノワルチエの顔は無表情のままであった。その一方、ヴィルフォールの目は、老人の心の奥の奥までも読み取ろうとするかのようであった。
「おしらせというのは」検事は、氷のように冷たい絶対にうむを言わせぬ語調で続けた。「家内も私も、これはご承認いただけるものと信じております」
老人の目は、なおも無表情であった。相手の言葉は聞いている、ただそれだけである。
「父上、ヴァランチーヌを嫁がせます」
ろう人形の顔も、このしらせを聞いた老人の顔ほどに冷ややかな顔はしていられなかったであろう。
「三か月以内に式を行ないます」
老人の目はなおも光のないままである。
ヴィルフォール夫人が口を開き、急いで言いそえた。「あたくしたちは、この知らせにはきっと関心がおありだろうと思いましたの。第一、ヴァランチーヌはいつでもお父様の愛情を引きつけているように思えましたので。ですから、お嫁に行く相手の方のお名前だけ申し上げればいいと存じます。ヴァランチーヌが望むことのできる最高の階級の方ですわ。財産はおありだし、立派な家柄ですし、あたくしたちがあの娘《こ》をめあわせようとしている方の趣味も生き方も、必ずあの娘を幸せにしてくれるたぐいのものと思います。お名前も、ご存じないはずはございません、フランツ・ド・ケネル、デピネ男爵でございますの」
ヴィルフォールは妻のこの短い話の間、ひとしお注意深い視線を老人の顔に注ぎ続けていた。ヴィルフォール夫人がフランツの名を口にしたとき、ノワルチエの、彼の息子が知り尽しているその目に動揺の色が浮かび、言葉を発するために唇が開くように、その瞼が見開かれ、言葉ならぬ一筋の閃光がほとばしった。
検事は、父とフランツの父との間に、往時、人も知るはげしい不和の感情があったことを知っていたので、その目の光と動揺との意味を理解した。しかし、それでいながら彼は、まるで気づかなかったかのように見過ごしてしまい、妻がやめた所から、また話を続けた。
「父上、わかっておられると思いますが、ヴァランチーヌもそろそろ十九歳になりますので、家庭を持たせねばなりません。ですがこの話を進めますうちにも、私たちは父上のことを片時も忘れはしませんでした。ヴァランチーヌの夫となるべき者から、私たちとは一緒に暮らさないまでも、これは若い夫婦にとっては窮屈でしょうから、少なくとも父上とは一緒に暮らすという約束を予《あらかじ》めとりつけてあります。ヴァランチーヌはことのほか父上を慕っておりますし、父上のほうでもあの娘《こ》を可愛がっておいでのようにお見受けしますから。したがって、父上の暮らしは今までと少しも変わりません。父上を看取る者が一人ではなくて二人の子供になるだけです」
ノワルチエの眼差しの光が血の色に燃えた。
明らかにこの老人の魂の中を恐るべきものが去来しているのだ。明らかに苦悩と怒りの叫び声が喉元までこみ上げているのだ。外へ爆発することができずに、彼の息をつまらせているのだ。顔は真赤になり唇は真青になっている。
ヴィルフォールは平然として窓を開けながらこう言った。
「この部屋は暑いですな。この暑さは父上のお身体に悪い」
それから彼はまた戻って来たが、腰はおろさなかった。
「この縁談は」ヴィルフォール夫人が口をそえた。「デピネさんもご家族も喜んでおられますの。もっともご家族といっても、伯父様と伯母様だけですけど。お母様は、あの方を生み落としたときお亡くなりになり、お父様は一八一五年、つまりあの方がまだ二歳半のときに殺されておしまいになりました。ですからあの方は、ご自分の意志だけで万事お決めになれるんですの」
「謎の殺人事件です」ヴィルフォールが言った。「犯人はまだわかっていません。多くの者に嫌疑がかかりましたが、はっきり容疑者と断定するまでには至りませんでした」
ノワルチエは、内心を見せまいと懸命な努力をしたので、微笑を浮かべるためのように唇がひきつった。
「ところで」ヴィルフォールが続けた。「真犯人たち、自分が犯罪を犯したことを知っている連中、生きている間は人間の裁きが、死後は神の裁きが下るはずの連中は、もし自分たちがわれわれのような立場にいて、娘をフランツ・デピネに与えて、かすかな疑惑の痕さえも消してしまえたら、さぞかしうれしい気がするでしょうな」
ノワルチエは、その崩壊した肉体に、まだ残っていようとはとても思えぬほどの力で内心の怒りを静めた。『そうか、わかった』彼はヴィルフォールにその目で答えた。その眼差しは、深い軽蔑と理智的な怒りの色を同時にたたえていた。
その眼差しにこめられたものを読みとったヴィルフォールのほうは、ただわずかに肩をすくめてみせただけだった。
それから彼は妻に向かって、立ち上がるよう合図した。
「ではお父様」ヴィルフォール夫人が言った。「ご機嫌よろしう。エドワールにご挨拶に伺わせましょうか」
受諾の意を表わすには、老人が目を閉じ、拒否の意はなん回も目ばたきすることによって表わすことに決められていた。そうして、目を上に向ければ、なにか言いたいことがあるのだった。
ヴァランチーヌを呼んでほしいときには右目だけを閉じる。
バロワを呼ぶときには左目を閉じた。
ヴィルフォール夫人の申し出に対して、彼ははげしく目ばたきした。
あからさまな拒否を受けて、ヴィルフォール夫人は唇をかんだ。
「ではヴァランチーヌをよこしましょうか」
『うむ』勢よく目を閉じて老人が答えた。
ヴィルフォール夫妻は一礼し部屋を出る際に、ヴァランチーヌを呼ぶように命じた。すでにヴァランチーヌには、その日、ノワルチエのかたわらでなすべきことがある旨を知らされていたのだった。
夫妻の出た後から、まだ心の動揺のため頬を染めたヴァランチーヌが老人の部屋に入って来た。祖父がどれほど辛い思いをし、どれほど多くのことを自分に話したがっているかを知るには、ヴァランチーヌには、ただ一目見ればよかった。
「まあ、お祖父様、どうなさったの! 不愉快な思いをなさったのね、そうでしょ? 怒ってるのね」
『そうだ』老人は目を閉じた。
「いったい誰に? お父様に? 違う。お義母様に? 違う。私に?」
老人は、『そうだ』というしぐさをした。
「私に?」ヴァランチーヌは驚いて言った。
老人はしぐさを繰り返した。
「お祖父様、私が何をしたっていうの」ヴァランチーヌが叫んだ。
返事はなかった。彼女は続けた。
「今日の昼間はお祖父様にお会いしなかったわ。それじゃ、私のことをなにか聞いたのね?」
『そうだ』老人の眼差しがはっきり答えた。
「考えてみるわ。誓ってもいいけど、私はなにも……あ……お父様たちが来てたのね、そうでしょう」
『そうだ』
「あの二人がお祖父様を怒らせたのね。どうして? 行って聞いて来ましょうか、そうすれば私もお祖父様にお詫びができるわ」
『行くな、行くな』目が語った。
「まあ、でも、お祖父様こわいわ。いったいお父様たちは何を言ったのかしら」
彼女は思いをめぐらした。
「ああ、わかった」彼女は声を落とし、老人に近づいて言った。「私の結婚のことを言ったんでしょう」
『そうだ』怒った目が答える。
「わかったわ、私が黙っていたんで怒ってたのね。でも、お父様たちが、私に黙ってろって言ったのよ。じつは、私にさえなにも話してはくれなかったの。私はこの秘密を立ち聞きみたいにして知ってしまっただけなの。だからなのよ、お祖父様になにも言わないでいたのは。ごめんなさい、ノワルチエのお祖父様」
じっと見据えたまま光を失った祖父の目は、こう答えているようであった。
『わしが心を痛めておるのは、お前が黙っていたことだけではないのだよ』
「じゃあ何なの」娘は訊ねた。「お祖父様を私が捨てて行くと思ってるのね。結婚すればお祖父様のことなど忘れてしまうって」
『違う』老人が言った。
「それじゃ、デピネさんが私たちが一緒に暮らすことに同意なさっていることも聞いたのね」
『そうだ』
「それじゃ、なぜ怒ってるの」
老人の目が、限りなくやさしい表情を見せた。
「わかったわ、私を愛して下さってるからなのね」
老人は『そうだ』というしぐさをした。
「で、私が不幸になると思っていらっしゃるのね」
『そうだ』
「フランツさんが嫌いなの?」
老人の目は、
『そうだ、そうだ、そうだ』と三度繰り返した。
「それじゃ、お祖父様はうんと悲しんでいらっしゃるのね」
『そうだ』
「それじゃね、あのねえ」ヴァランチーヌはノワルチエの前に跪《ひざまず》き祖父の首に両腕を廻して、「私もうんと悲しいの。だって私もフランツ・デピネさんが好きじゃないんですもの」
歓喜の光が祖父の目をよぎった。
「私が修道院に入ろうとしたとき、お祖父様が私のことをすごくお怒りになったこと、憶えてるでしょう?」
一粒の涙が老人の乾いた瞼を濡らした。
「あれはね」ヴァランチーヌは続けた。「死ぬほど厭なこの結婚から逃げるためだったの」
老人の呼吸があえぐような呼吸となった。
「それじゃ、この結婚はお祖父様をうんと悲しませるのね。ああ、お祖父様が私に力をかして下さることができたらいいのに。お父様たちの計画を二人でやめさせることができたらいいのに! でもあの二人と戦う力はお祖父様にはないんですもの。頭はまだすごくよく働いて、意志の力だってすごく堅固なのに。でも、戦うとなったら、お祖父様も私と同じぐらい、いえもっと弱いんですもの。ああ、健康でたくましかった昔のように、お祖父様が力強い私の庇護者であってくれたらよかったのに! でも今じゃ、私の気持ちを理解して下さるだけ、私と一緒に喜んだり悲しんだりして下さるだけなんですもの。これが、神様が私から奪うのをお忘れになった最後の私の幸せなんだわ」
この言葉に対して、ノワルチエの目には、なにか意味深長でいたずらっぽい表情が浮かんだので、ヴァランチーヌは、そこにこういう言葉が読み取れるように思ったのだった。
『お前はまちがっとるよ、わしはまだまだお前のためにいろんなことがしてやれるぞ』
「私のためになにかして下されると言うの、お祖父様?」ヴァランチーヌはその目の色をこう解釈した。
『そうだ』
ノワルチエは目を上に向けた。これは、祖父とヴァランチーヌの間で、彼がなにかをほしいときの合図と決められていた。
「何がほしいの。何かしら」
ヴァランチーヌはしばし思いをめぐらした。あることに思いつくごとに、それを声に出して聞かせた。そして、思いつく限りのことを言ってみても、老人が『違う』と答え続けるので、
「それじゃ、非常手段よ。私ってほんとうに馬鹿なんですもの」
こう言うと、彼女はアルファベットを、中気の病人の目に笑顔で問いかけながら、Aから順にNまで唱えた。Nまで来ると、ノワルチエが『そうだ』というしぐさをした。
「ああ、お祖父様が欲しい物は、Nで始まるものなんだわ。Nに用があるわけね? それじゃ、Nの何かしら。|NA《ナ》、|NE《ヌ》、|NI《ニ》、|NO《ノ》」
『それだ、それだ、それだ』老人が合図した。
「あ、|NO《ノ》なの?」
『そうだ』
ヴァランチーヌは辞書をとりに行き、それを祖父の前の書見台にのせた。彼女は辞書を開き、老人の目が辞書のページの上に視線を据えると、彼女の指は見出し語を上から下へと速やかに走って行った。
ノワルチエが今の惨めな状態に陥ってからの六年間というもの、ずっとやりつけていたために、この作業は彼女にとってはいともやさしいものになっていて、ヴァランチーヌは、老人が自分で辞書を引くのと同じぐらいの速さで、老人の思っている単語をみつけてしまうのであった。
|NOTAIRE《ノテール》〔公証人〕いう単語の所で、ノワルチエが、止まれ、という合図をした。
「ノテール」彼女は言った。「お祖父様、公証人に用がおありなの?」
老人は、まさしく公証人を呼んでほしいのだという合図をした。
「それじゃ、公証人を呼びにやってほしいのね」ヴァランチーヌは訊ねた。
『そうだ』中気の病人が答える。
「お父様にもそのことをお知らせするの?」
『そうだ』
「公証人を呼ぶのは、急ぐの?」
『そうだ』
「それじゃ、今すぐ呼びにやるわ。してほしいことはそれだけ?」
『そうだ』
ヴァランチーヌは呼鈴の所へ駈けより、ヴィルフォールかヴィルフォール夫人に来て貰うよう頼むために召使いを呼んだ。
「これでいいのね」ヴァランチーヌは言った。「そう……そうだと思ってたわ。どう、考えていらっしゃることをみつけるのも楽じゃないでしょ?」
こう言って娘は、愛児に向けるような笑顔を祖父に向けた。
ヴィルフォール氏がバロワにつれられて入って来た。
「父上、どういうご用でしょう」彼は中気の病人に言った。
「お父様、お祖父様が公証人を呼んでくれって」このおかしな、そして思いもかけなかった要求を聞いて、ヴィルフォールは病人と視線を交わした。
『その通りだ』と病人は、断乎として答えた。ヴァランチーヌと老僕との助けをかりて、今こそ自己の欲求を知り、戦いをも辞せぬという決意が見えていた。
「公証人が必要なのですか」ヴィルフォールがまた言った。
『そうだ』
「どうなさるんです」
ノワルチエは答えなかった。
「なぜまた公証人など」ヴィルフォールは訊ねた。
中気の病人の目は動かぬままであり、したがって無言であった。それは、『わしはあくまでも自分の意思を曲げぬ』ということを意味していた。
「なにか私たちを困らせようとなさるためですか。そんな必要があるんですか」
「とにかく」バロワが、年老いた召使いによくある、言いだしたら≪てこ≫でも動かぬ様子を見せて言った。「旦那様が公証人を呼べとおっしゃるのですから、たしかに公証人が必要なのでございます。ですから、私は公証人を呼びに参ります」
バロワは、ノワルチエ以外は誰も主人とは認めていなかった。また、なにごとにつけても、ノワルチエの意志に他人が逆らうようなことは絶対に認めなかった。
『そうだ、わしは公証人を呼べと言っておる』老人は、挑むような様子で目を閉じてみせた。それはあたかも、『わしの意志に逆らえるものなら逆らってみよ』と言っているかのようであった。
「父上、どうしても呼べとおっしゃるなら、公証人を一人来させましょう。ですが、私は公証人に私の立場をよく話しますよ。それから父上のことも。と申しますのは、ひどく滑稽な場面になりそうなので」
「そんなことはかまいません」バロワが言った。「とにかく私は公証人を呼びに参ります」
こう言って、老僕は意気揚々と部屋を出て行った。
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五十九 遺書
バロワが出て行くとき、ノワルチエはさまざまな意味をこめた、あの意味ありげな目でヴァランチーヌを見た。娘はこの眼差しの意味を解した。そしてヴィルフォールも。その額は曇り、眉をひそめた。
彼は椅子を引きよせ、中気の病人の部屋に腰を据え、そして待った。
ノワルチエはその姿を、まったく無関心な目で見ていた。が、彼はヴァランチーヌを横目に見て、なにも心配するな、そのままそこにいなさいと命じていたのである。
四十五分ほどして、老僕が公証人をつれて帰って来た。
最初の挨拶がすむと、ヴィルフォールが言った。
「ここにいるノワルチエ・ド・ヴィルフォールがあなたをお呼びしたのです。全身が麻痺していて、四肢の動きと声が奪われています。われわれだけが、辛うじて、この老人の考えていることの断片を知ることができます」
ノワルチエの目がヴァランチーヌの助けを求めた。真剣な、そしてうむを言わせぬ目だったので彼女はただちにこう言った。
「私には祖父の言いたいことが全部わかります」
「その通りでございます」バロワが口をそえた。「全部です。おつれする途中で申し上げたように、なにからなにまで」
「失礼ながらヴィルフォールさん、それにあなたもです、お嬢さん」公証人はヴィルフォールとヴァランチーヌに向かって言った。「これは、裁判所の公吏としましては、うっかり処理しますと重大な責任を背負いこむことになるケースです。証書が有効であるための一要件は、公証人が、口述する人の意志を忠実に受けとめているという確信が持てることです。さて、私には、口のきけない依頼人の場合、その意志がはたして『諾』であるのか『否』であるのかについて確信が持てません。口がきけない以上は、なにを望み、なにを忌否《きひ》しておられるのか、明確な心証を得られませんから、私の職務は無益ですし、行なわれたとしても不当なものです」
公証人は退出するために歩きかけた。勝ちほこったような、あるかなきかのうすら笑いが検事の口辺にただよった。
一方、ノワルチエは悲痛な表情をこめてヴァランチーヌを見た。ヴァランチーヌは公証人の前に立ちふさがった。
「あの、私が祖父と交わす言葉は、簡単に覚えられる言葉なんです。ほんの二、三分で、私が読み取るのと同じぐらいあなたにも読み取れるようにしてさし上げられます。あなたが良心に恥じずに職務を遂行なされるためには、どういうことが必要なのでしょう」
「お嬢さん、作成する証書が有効であるためには」公証人が答えた。「要するに諾否《だくひ》がはっきりしていなければいけないのです。身体が病気であっても遺言はできますが、精神が健康でなければ遺言はできません」
「それでしたら、祖父が今でも、むしろ前以上に知性の働きはしっかりしているという確証を、二つの合図でお持ちになれますわ。ノワルチエは身体の動きと声は奪われていても、ウィ〔然り〕と言いたいときには目を閉じます。ノン〔否〕と言いたいときにはなん回も目ばたきします。それだけご存じなら、ノワルチエとお話しができるはずですわ、お話しになってみて下さい」
老人がヴァランチーヌに注いだ目は、愛情と感謝とに濡れていたので、それは公証人にも理解することができた。
「お孫さんが今おっしゃったことをお聞きになって、おわかりになりましたか」公証人が訊ねた。
ノワルチエはそっと目を閉じ、しばらくしてそれを開いた。
「あなたはお孫さんのおっしゃったことをお認めになりますか。つまり、お嬢さんがおっしゃった合図が、たしかにあなたのお考えを相手に理解させる手段であるということを」
『そうです』老人が言った。
「私をお呼びになったのはあなたですか」
『そうです』
「遺書作成のために?」
『そうです』
「その遺書を作成せずに私が帰りましてもかまいませんか」
中気の病人は、はげしくなん回も目ばたきした。
「これでおわかりになりましたでしょう」娘が訊ねた。「良心にもとることなく職務を遂行していただけますかしら」
が、公証人に答えるいとまを与えずに、ヴィルフォールが彼をわきにつれ出した。
「ノワルチエ・ド・ヴィルフォールが受けたほどの肉体的打撃をこうむっても、精神にも重大な障害を受けずにいられるとお思いですか」
「私が危惧を感ずるのは、そんなことではありません。ただ、返事を引き出すために、どうやったらあの方のお考えを読み取ることができるかということです」
ヴァランチーヌと老人とはこの会話を聞いていた。ノワルチエは、ヴァランチーヌをけわしい目でじっと見据えた。この眼差しは明らかに、抗弁を求めていた。
「そんなことでしたらご心配なさらないで下さい」彼女は言った。「どんなにむずかしくても、というより、祖父の考えていることを知るのが、あなたにはむずかしいことのように思えても、その点ではなんの疑いもさしはさむ余地のないほど明確に、私がお教えしますわ。この六年というもの、私はノワルチエのそばにおります。この六年の間に、祖父の心に思っていることで、一つでも私にわからせることができずに、祖父の心の中に埋もれてしまったものがあったかどうか、祖父自身の口からお聞きになって下さい」
『ない』老人が答えた。
「では試してみましょう」公証人が言った。「あなたはこのお嬢さんを通訳としてお認めになりますか」
中気の老人は『然り』という合図をした。
「よろしい。では、あなたは私に何をしろとおっしゃるのですか。どういう証書を作成しろとおっしゃるのですか」
ヴァランチーヌはアルファベットの文字を全部、Tの所まで唱えた。
この文字の所で、ノワルチエの雄弁な目が彼女を止めた。
「ご老人が求めておられるのはTの字ですな」公証人が言った。「まことにはっきりしてます」
「ちょっとお待ちになって」ヴァランチーヌはこう言って、祖父のほうを向き、「タ、テ……」
老人は二つ目の音節で彼女を止めた。
そこでヴァランチーヌは辞書をとり、注目している公証人の前でページを繰った。
『テスタマン〔遺書〕』ノワルチエの目が止めた指は、こう言っていた。
「遺書!」公証人が叫んだ。「まぎれもありません、ご老人は遺言をなさろうとしておられます」
『そうだ』ノワルチエがなん回も合図を繰り返した。
「これなら申し分ありません、お認めいただけますね」公証人は呆然としているヴィルフォールに言った。
「たしかに」とヴィルフォールは言い返した。「おそらくその遺書も、なお申し分のないものとなりましょう。というのは、娘の聡明なインスピレーションなしには、遺言の各条項が紙の上に一語一語きちんとは並ばぬと思うからです。ところがヴァランチーヌは、ノワルチエ・ド・ヴィルフォールの心の底に秘められた意志を正確に伝達する役としては、いささかその遺言の内容に利害を持ちすぎています」
『違う、違う』中気の病人が言った。
「なんですって」ヴィルフォールが言った。「ヴァランチーヌが、その遺書の内容に利害関係を持たぬとおっしゃるのですか」
『持たぬ』とノワルチエは答えた。
公証人が、この試みにひどく興味を持ち、この異色のエピソードを世間で話をしてやろうと心に決めながら言った。
「つい先程まではとても不可能としか思えなかったことが、今ではこんなたやすいことはないと思えるようになりました。この場合、遺書は秘密証書による遺書ということになります。つまり、七人の証人の前で読み上げられ、遺言者によって証人の前で承認され、公証人の手によって、やはり証人の前で封印されれば、法により合法的なものと認められることになります。遺書の有効期限はふつうの遺書よりもやや長期のものとなります。まず書式ですがこれはいずれの場合も同じです。内容については、遺言者の資産状況を、それを管理なさっていてよくご存じのあなたのお話によって書きこみます。ですがこの証書を非のうち所のないものとするために、完全に公正なものにしましょう。私の同僚に助手になってもらいましょう。ふつうそこまではしないのですが、口述に立ち合ってもらいます。これでご満足ですか」公証人は老人に向かってこう続けた。
『満足だ』自分の意志を理解してもらえたうれしさに瞳を輝かせて老人が答えた。
「いったい何をしようというのだろう」ヴィルフォールは、その高い地位からして、そうはしたないまねもできず、さりとて父が意図するものがわからぬままにつぶやいた。
彼はもう一人の公証人を呼びにやろうとして振り向いたが、すべてを聞いていたバロワがすでに主人の意志を察して出て行った後であった。
そこで検事は、妻に上がって来るように伝えさせた。
十五分後には皆、中気を病む老人のもとに集まり、二人目の公証人も到着していた。
二人の公吏は、簡単に打ち合せを終えた。ノワルチエに、一般的なごくふつうの遺書の書式を読み聞かせてから、最初の公証人が、いわば老人の知力検査を始めるために、老人のほうを向いて言った。
「遺言をする場合は、誰かの利益のためにするものですか」
『そう』ノワルチエが答える。
「あなたの資産がどの程度のものかご存じでしょうか」
『知っている』
「私が数字を順に申します、次第に数字を大きくして行きますから、あなたの資産の額になったら止めて下さい」
『わかった』
この質問は一種厳粛なものがあった。それに、知性の肉体に挑む戦いがこれほど明らかに見られる場合もなかったであろう。それは、崇高と言いたいところであるが、少なくとも目をみはらせる光景であった。
皆はノワルチエのまわりに円を作った。二人目の公証人は机の前に坐り、いつでも書き取れる態勢にあった。最初の公証人は老人の前に立ち、質問を始めた。
「あなたの資産は三十万フラン以上ですね、そうですね」
ノワルチエは『然り』という合図をした。
「あなたは四十万フランお持ちですか」公証人が訊ねる。
ノワルチエは不動のままである。
「六十万、七十万、八十万、九十万」
ノワルチエは「然り」の合図をした。
「あなたは九十万フランお持ちなのですね」
『そうです』
「不動産でですか」
ノワルチエが『否』の答えをした。
「公債ですか」
ノワルチエが『然り』と答える。
「その証書をお持ちですね」
バロワを老人が見やると、老僕は部屋を出て、直ちに小さな箱をたずさえて戻って来た。
「この箱を開けてもよろしうございますか」公証人が訊ねた。
ノワルチエが『然り』と答える。
箱を開けると、公債登録台帳に記載された九十万フランの証書が入っていた。
公証人は、一枚一枚証書を同僚の手に渡した。計算してみるとノワルチエが申し立てた通りの額であった。
「大へん結構です。この方の知力が少しも冒されていないことは明白です」
こう言うと、彼は病人のほうを向き、
「あなたは九十万フランの資本をお持ちですが、現在のような資本投下が行なわれておりますと、年額約四万フランの利潤が上がっておりますね」
『そうです』
「この資産をどなたに遺贈なさりたいのですか」
「ああ、それはお聞きになるまでもありませんわ」ヴィルフォール夫人が言った。「ノワルチエは孫娘のヴァランチーヌ・ド・ヴィルフォールだけを可愛がっております。この六年というもの、病人の世話をして来たのはヴァランチーヌなのですもの。倦まずたゆまず看病したのですから、祖父様の愛情を独占してしまいましたわ。愛情どころか感謝まで。ですから、その献身の代償をヴァランチーヌが受け取るのは当然のことと存じます」
ノワルチエの目は、ヴィルフォール夫人が勝手に老人の意志を忖度《そんたく》して、それに同意しているかに見せかけても、それにはだまされぬぞというかのような、鋭い光を放った。
「では、この九十万フランは、ヴァランチーヌ・ド・ヴィルフォール嬢に遺贈なさるのですね」公証人は、あとはもうこの条項を書き入れさえすればよいとは思いながらも、なお念のため、ノワルチエの同意をたしかめておき、この異常な光景に居合わせた者全員にも老人の意志を確認させておこうと考えたのである。
ヴァランチーヌは一歩退いて、目を伏せたまま涙を流していた。老人はその姿に深い情愛をこめた眼差しを注いだ後に、はっきりと目ばたきをしてみせた。
「違うのですか」公証人が言った。「あなたが抱括受遺者として指定なさるのはヴァランチーヌ・ド・ヴィルフォール嬢ではないのですか」
ノワルチエは、『違う』という合図をする、
「おまちがえではありませんか」驚いて公証人が大声を上げ、「たしかに『違う』とおっしゃったのですか」
『違う、違う』ノワルチエは繰り返した。
ヴァランチーヌは顔を上げた。彼女はあっけにとられていた。自分が相続権を奪われたからではない。ふつう、人にこのような行動をさせる感情を自分がかきたててしまったことに対してである。
しかしノワルチエが、いかにも慈愛に満ちた目で彼女をみつめたので、ヴァランチーヌは声を上げた。
「お祖父様、わかったわ、財産は下さらなくても、愛情だけは下さるのね」
『おお、そうとも』心をこめて閉じられた病人の目が語った。その心をヴァランチーヌはまごうかたなく受けとめたのである。
「ありがとう、お祖父様」娘はつぶやいた。
だが、この遺贈拒否は、ヴィルフォール夫人の心に、予期しなかった希望を抱かせた。夫人は老人のそばに寄り、
「では、エドワール・ド・ヴィルフォールに遺贈して下さるのでしょうか、ノワルチエのお祖父様」と、人の子の母は訊ねた。
老人の目ばたきはすさまじいものであった。憎悪とも言えるものさえこめられていた。
「違うのですね」公証人が言う。「ではここにおいでのご子息に対して贈られるのですか」
『いや』老人が即座に答えた。
二人の公証人はあっけにとられて顔を見合わせた。ヴィルフォールとその妻は、一方は屈辱の念から、一方は怒りの念から、ともに顔を赤らめた。
「いったい、私たちがお祖父様に何をしたって言うの。もう私たちのことは愛しては下さらないの」ヴァランチーヌが言った。
老人の視線が、す早く息子、嫁を過ぎてから、深い情愛をこめてヴァランチーヌの上にとまった。
「それじゃ、お祖父様が私を愛していて下さるなら、今なさっていることと、私への愛情がどう結びつくのか教えてちょうだい。お祖父様には私の心はおわかりのはずよ。私はお祖父様の財産のことなんか一度だって考えたことはないわ。それに、私はお母様からいただいたものだけで、お金持ち、それもお金持ち過ぎるくらいだって言われているわ。ねえ、教えてちょうだい」
ノワルチエは燃えるような目をヴァランチーヌの手に向けた〔「手を求める」は「求婚」の意。「手を与える」は「結婚承諾」の意〕。
「私の手?」
『そうだよ』
「彼女の手ねえ」居合わせた者全部が言った。
「ああ、皆さん、おわかりでしょう、なにをしても無駄です。気の毒に父は頭がどうかしているのですよ」ヴィルフォールが言った。
「あ!」とつぜんヴァランチーヌが叫んだ。「わかったわ。私の結婚のことでしょう、ね、お祖父様」
『そうだ、そうだ、そうだ』病人が、三度《みたび》繰り返した。瞼を開く度にその目から光がほとばしった。
「その結婚のことで私達を怒っておいでなんでしょう」
『そうだ』
「馬鹿々々しい」ヴィルフォールが言った。
「お言葉ですが」公証人は言った。「これはお言葉に反して、すべて筋が通っており、私には申し分なく脈絡あってのことと考えられます」
「お祖父様は私にフランツ・デピネさんと結婚してほしくないのね」
『そうだ』老人の目が答えた。
「あなたの意に反して結婚なさるので、お孫さんには遺贈しないとおっしゃるのですか」公証人が大声で言った。
『そうです』老人が答える。
「となりますと、その結婚さえなければ、お孫さんがあなたの遺産相続人となるわけですね」
『そうです』
老人の周囲は深い沈黙に包まれた。
公証人二人は相談し合い、ヴァランチーヌは、手を組み合わせて、感謝の意のこもった笑顔を祖父に向けていた。ヴィルフォールはその薄い唇をかんでいた。夫人は、顔にひろがってしまう喜びの感情を抑えることができなかった。
「しかし」ヴィルフォールが最初にこの沈黙を破った。「この縁組の利点について判断を下すべきものは私一人のように思う。娘の縁組について決定権を持つただ一人の人間として、私は娘がフランツ・デピネ君と結婚することを望むし、必ず結婚させる」
ヴァランチーヌは涙を流しながら椅子に倒れこんだ。
公証人は老人に向かって言った。
「ヴァランチーヌ嬢がフランツ氏と結婚なさった場合は、あなたは財産をどうなさいますか」
老人はじっとしたままであった。
「しかし、なんらかの処分はなさるおつもりでしょう」
『そうです』
「どなたかご家族の方に」
『いいえ』
「では貧しい者のために」
『そうです』
「しかし、法律により、ご子息にまったく遺贈なさらぬわけにはいかぬことをご存じですね」
『知っている』
「では、法の許容する範囲において処分なさるわけですね」
ノワルチエはじっとしている。
「やはり全額を処分なさるおつもりですか」
『そうです』
「しかし、それではあなたの死後、遺言に対して異議が出ますよ」
『いや』
「父は、私がどういう男か知っておるのです」ヴィルフォールが言った。「父の意志が私にとっては神聖なものであることを、父は知っているのです。それに、私の地位では、貧乏人と訴訟で争うことなどできないことも父にはわかっておるのです」
ノワルチエの目が勝利の色を浮かべた。
「どうなさいますか」公証人がヴィルフォールに訊ねた。
「べつに。これは父の頭の中で決められたことです。父が決心を変えるような人ではないことを、私はよく承知しています。諦めましょう。その九十万はこの家を出て、養老院なり養育院なりを潤《うる》おすことになりましょう。ただし、私は老人の気ままなどには従いません。私は私の良心のままに行動します」
こう言うと、父親に自由に遺言を行なわせるべく、ヴィルフォールは妻とともに退出した。
その日のうちに遺書は作成された。証人が呼ばれ、遺書は老人によって承認され、証人の前で封印され、ヴィルフォール家の公証人、デシャンの手に預けられた。
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六十 信号機
自室に戻ったとき、ヴィルフォール夫妻は、訪ねて来たモンテ・クリスト伯爵がサロンに通されて、自分たちを待っている旨を知らされた。ヴィルフォール夫人は、そう急にサロンに入るには、あまりに興奮していたのでまず寝室に入ったが、検事のほうは、夫人よりは自己を抑制できたので、そのままサロンに向かった。
しかし、心の動揺を抑えることができ、顔をとりつくろうことはできても、額にただよう影を払うことは、ヴィルフォールにはできなかったので、微笑に輝く笑顔を見せた伯爵は、その暗い憂わしげな様子に気づいてしまった。
最初の挨拶がすんだとき、
「これはまた、どうなさったのです」モンテ・クリストが訊ねた。「いささか重大な論告をなさったところへ舞いこんでしまいましたかな」
ヴィルフォールは笑おうとした。
「いえ、伯爵、ここには私以外には被告はおりません。裁判に負けたのはこの私なのですよ。論告の矢を放ったのは、運命のいたずら、強情、狂気です」
「どういうことなのでしょう」いかにも気になるように装いながら、モンテ・クリストが訊ねた。「実際にあなたになにか重大な不幸が起きたのですか」
「いやなに、伯爵」苦汁をかみしめるような静かな調子でヴィルフォールが言った。「お話しするほどのことではありません。ほとんどとるにたらんことです。金をいくらか失くしただけのことですから」
「実際、あなたほどの財産をお持ちで、しかも、あなたのような哲学的な高邁《こうまい》な精神をお持ちならば、金を失くすことなど大したことではありませんな」モンテ・クリストは答えた。
「ですから、私が気にしているのは金のことではありません。とは申しても、九十万といえば、惜しく思って当り前、少なくとも口惜しい気になる金額ではありますがね。私が心を痛めるのは、運命、時の勢い、宿命といったもののいたずらに対してなのです。子供に帰ってしまった老人の気まぐれによって、私が期待していた財産を無にし、おそらくは私の娘の将来をもめちゃめちゃにしてしまう、私が受けたこの打撃をもたらしたものを、私は何と呼んだらいいのかわかりません」
「なんですって」伯爵が大声で言った。「九十万フランとおっしゃったのですか。いや、これは確かにおっしゃる通り、惜しく思って当然の額ですよ、たとえ哲学者でも。で、いったい誰がそんな苦痛をあなたに与えたのですか」
「父ですよ、前にお話しした」
「ノワルチエ氏が、なるほど。ですが、たしか、完全に全身不随で、すべての機能が失われていると伺ったように思いますが」
「そうです、肉体的機能はね。動くことはできませんし、話すこともできないのですから。が、それでいて、父は考え、意志を持ち、行動することができるのです。私は五分前に父と別れて来たところですが、父は今、二人の公証人に遺言を口述しております」
「では口をおききになったわけですか」
「それ以上です。父は自分の意志を伝えることができるのです」
「どうやって」
「目の力ですよ。父の目はまだ生きています。あの目は人を殺すこともできます」
「あなた」入って来たところであったヴィルフォール夫人が言った。「少しことを大げさにお考えじゃありませんこと」
「お邪魔しております」頭を下げながら伯爵が言った。
ヴィルフォール夫人は、こぼれるような笑みをたたえて身をかがめた。
「しかしヴィルフォールさん」モンテ・クリストが訊ねた。「ヴィルフォールさんがおっしゃったのはどういうことなのです? わけのわからぬ不興をこうむったものですな」
「わけのわからぬ、なるほどその通りですな」肩をすくめて検事は答えた。「老人の気まぐれというやつは」
「それで、その決定をなんとか考え直してもらう方法はないのですか」
「ございますの」ヴィルフォール夫人が言った。「その遺書を、ヴァランチーヌにとって不利なものにせずに、あの娘《こ》にとって有利なものにするかしないかは、主人の心次第ですのよ」
夫婦が、なにやら謎めいたことを言い始めたのを見た伯爵は、無関心なふりをしながら、鳥籠の水飲場の中にインクを注いでいるエドワールを、讃嘆しつつ細心な注意をこめてみつめていた。
ヴィルフォールが妻に答えて言った。
「お前も知って通り、私はこの家で家長としての権利をあまりふりまわしたくはない。それに、私が首をたてに振ろうが横に振ろうが、宇宙のさだめがそれに左右されるなどとは考えたこともない。しかし、私の決定は、私の家庭内では尊重されねばならぬし、老人の世迷い言や子供の気まぐれが、私が長年にわたって考え決定した計画を覆《くつがえ》すようなことがあってはならないのだ。お前も知ってのように、デピネ男爵は私の友人だった。その子息との縁組は最も望ましいものなのだ」
「ヴァランチーヌがお父様と同じ意見だとお思いなのね。たしかに……あの娘はこの結婚にはずっと反対し続けでしたわ。さっき私たちが見聞きしたことだって、あの二人が一緒に決めたプランを実行しただけのことであっても、私はべつに意外には思いません」
「そんなふうに九十万フランの財産を諦められるものではない」
「あの娘《こ》は俗世を諦めてしまうかもしれませんよ。一年前にも、修道院に入りたがったんですもの」
「そんなことは問題ではない。必ずこの結婚は実現させてみせる」
「お父様の意にさからってもですか」ヴィルフォール夫人は、別の痛い所をついてこう言った。「それは大へんなことですわ」
モンテ・クリストはまったく聞いていないふりをしていたが、そのじつ、交わされる言葉を一言も聞き洩らしてはいなかった。
「私は」ヴィルフォールが口を開いた。「いままでつねに父を尊敬して来たと言うことができる。子としての自然の感情のほかに、私には、父がすぐれた精神の持ち主であると思えていたからだ。父というものは、われわれを生み出してくれた人として、そして、われわれを導いてくれる人として、この二重の意味で神聖なものだ。だが今日、私は、父親への過去の憎しみをその子にまで及ぼすような老人には、知性を認めることを断念せざるを得ない。だから、父の気まぐれのままに私が行動したら、もの笑いの種となろう。ノワルチエに対しては、今後とも私は大きな尊敬を抱き続けよう。父が私に加えた金銭的な罰も甘受しよう。だが、私は意志は変えない。どちらが正しいかは世間が判定してくれるだろうよ。だから、私は私の娘をフランツ・デピネ男爵に嫁がせる。なぜなら、この結婚は、私の考えでは、立派なふさわしいものだし、要するに私は、私の気に入った男に娘を嫁がせたいからだ」
「なんですって」伯爵が言った。検事は、さかんに目で伯爵の同意を求めていたのだ。「ノワルチエ氏は、ヴァランチーヌさんがフランツ・デピネ男爵と結婚するからといって、相続権を奪うとおっしゃるのですか」
「ええ、ええ、その通りなのです。それが理由なのです」ヴィルフォールが肩をすくめて言った。
「少なくとも表向きの理由は」夫人が言い添えた。
「ほんとうの理由だ、たしかだ、私は父をよく知っている」
「そうかしら」若い妻は答えた。「ではお伺いしますけど、なぜデピネ様がお父様にはことのほかお気に召さないのでしょう」
「私はフランツ・デピネ君は知っておりますがね。ケネル将軍のご子息ですね、シャルル十世がデピネ男爵になさった」
「その通りです」ヴィルフォールが答えた。
「それなら、私には好青年に思えますがね」
「ですから、それは口実にすぎないのよ。私はそう思いますわ」ヴィルフォール夫人が言った。「お年寄というものは、自分の愛情についてはタイラントなんですわ。お父様は孫娘に結婚してもらいたくないんですよ」
「ですが」モンテ・クリストが言った。「なぜそんなにお嫌いになるのか、その理由をご存じありませんか」
「まあ、どうしてわかりまして?」
「政治的な敵意かなにか」
「たしかに、父とデピネ君の父親とは動乱の時代に生きた人たちです。その終りのほうしか私は知りませんが」ヴィルフォールが言った。
「お父上はボナパルト派ではありませんでしたか」モンテ・クリストは訊ねた。「たしかそんなことをあなたから伺ったような気がしますが」
「父はなによりもまずジャコバン党員でした」感情が激していたので慎重さを忘れてヴィルフォールが言った。「ナポレオンが父の肩に着せかけた元老院議員のガウンもあの老人を変装させただけで、本質を変えさせたわけではありません。父が陰謀を企てたのも、皇帝に対してではなくて、ブルボン王朝に対してでした。というのは、父にはそうした恐るべき点があったのです。実現不可能なユートピアのためになど一度も戦ったことはなく、実現できそうなことのためにのみ戦いました。そして、その実現できそうなことをやりとげるためには、どのような手段も選ばぬあの恐るべき山岳党の理論を適用したのです」
「それなら、そのことですよ」モンテ・クリストが言った。「ノワルチエ氏とデピネ氏は政治的な場で出会ったのでしょう。デピネ将軍はナポレオンの下で働きはしましたが、腹の底では王党派の心情を持ち続けていたのではないでしょうか。将軍を同志にできるのではないかと考えた連中に招かれて、出かけて行ったボナパルト派のクラブから出たところを殺された、あの人物でしょう?」
ヴィルフォールは恐怖に似た気持ちを抱いて伯爵をみつめた。
「私の思い違いですかな」モンテ・クリストは言った。
「いいえ、まさにその通りなんですの」ヴィルフォール夫人が答えた。「今おっしゃった通りだからこそ、ヴィルフォールは、昔の憎悪の火など消してしまおうと思って、憎み合った親の子供同士が愛し合うようにしむける気になったんですの」
「ご立派な考え方です」モンテ・クリストが言った。「慈悲心にあふれた考え方で、世間も必ずや拍手を送るでしょう。たしかに、ノワルチエ・ド・ヴィルフォール嬢がフランツ・デピネ夫人と名乗るのはすばらしいことですね」
ヴィルフォールはぎょっとした。そして、伯爵が今口にした言葉がいかなる意図のもとに言われた言葉であるのか、相手の腹の底を読み取ろうとするかのように、伯爵をじっとみつめた。
しかし伯爵は、相変わらずその口辺にただよう愛想のいい微笑を崩さなかった。だから今度もまた、奥の奥を見通さずにはおかぬ彼の目をもってしても、検事は皮膚のかげにかくれたものまで見抜くことはできなかった。
「ですから」ヴィルフォールが口を開いた。「祖父の財産を失うことはヴァランチーヌにとって大きな不幸にはちがいないけれども、それだからといって、そのためにこの結婚が駄目になるとは思いません。デピネ君にしても、この金銭的な損失を見て、しりごみするとは思いません。そんな金よりも、犠牲を耐えてでもデピネ君との約束を守ろうとする私という人間のほうを高く買ってくれるはずです。それに、ヴァランチーヌがあれの母の遺産で金持ちであることも計算に入れるでしょう。この遺産はあれの母方の祖父母で、あれをひどく可愛がっているサン=メラン侯爵夫妻が管理しています」
「あの方たちは、ヴァランチーヌがお父様にしたように、愛しお世話申し上げねばならない方たちですわ。それに、遅くても一月後にはパリにおいでになるんだし、ヴァランチーヌも、あんなひどいことをされたからには、今までのようにお父様のおそばで埋もれている必要はなくなりますわ」
伯爵は、この自尊心が傷つけられ、利益を得る夢もついえたためにうつろとなった声を、楽しみながら聞いていた。
「ですが、私には」しばらく黙っていてからモンテ・クリストは言った。「失礼の段は予めお詫びしておきますが、自分が嫌悪する男の子息と結婚するからといってノワルチエ氏がヴィルフォール嬢の相続権を奪うというのはまあわかるとしても、あの可愛いエドワールはべつに責められるべき落度もないように思えるのですが」
「でございましょう、伯爵様」ヴィルフォール夫人がなんとも形容しがたい抑揚で大きな声で言った。「不当、ほんとうに不当ななさり方ですわ。あの可哀そうなエドワールは、あの子だってヴァランチーヌと同じノワルチエの孫なのですもの。それなのに、もしヴァランチーヌがフランツさんと結婚するようなことにならなかったとしたら、遺産は全部ヴァランチーヌにやってしまうはずだったんです。おまけに、エドワールはヴィルフォールの名を持つ身なのに、ヴァランチーヌがたとえ実際に遺産を貰えなかったとしても、ヴァランチーヌのほうがあの子より三倍もお金持ちなんです」
この非難の言葉が発せられると、伯爵はそれを聞いてはいたが、もうなにも言わなかった。
「まあ、まあ」ヴィルフォールが言った。「伯爵、家の中のお恥ずかしいことをこれ以上話題にするのはやめにしようではありませんか。そうです、たしかに私の財産が、貧乏人どもを豊かにすることになるのです。今日では彼らこそ真に富める者なのに。父は、私の正当な希望を奪ったことになりましょう。しかもなんの理由もなしに。しかし私は、分別ある人間として、心ある人間として行動したつもりです。私はデピネ君に、あの金の生む利息を進呈すると約束しました。たとえひどく生活を切りつめねばならぬとしても、それだけのものは進呈するつもりです」
「でも」と、心の中でたえずつぶやき続けていたただ一つの考えに戻って、夫人が言った。「むしろデピネさんにこの不運のことを打ち明けてしまって、あの方のほうからこのお話をないものにしていただいたほうがいいのではないかしら」
「そんなことになったら一大事だ!」ヴィルフォールが叫んだ。
「一大事?」モンテ・クリストが繰り返した。
「おそらく」やや語調を柔らげながらヴィルフォールが言った。「破談というものは、たとえそれが金銭上の理由であっても、嫁入り前の娘にとっては不利を招くものですからな。それに、私が消そうと思っている昔の噂に、また根拠を与えてしまうことになりかねない。いや、どういうことにもなりますまい。デピネ君が誠実な男子であるならば、ヴァランチーヌが相続権を奪われたとあれば、前にもまして約束を守る気になるでしょう。さもなければ、単に金銭欲だけで行動することになる。いや、そんなことはあり得ない」
「私もヴィルフォールさんのように考えますね」モンテ・クリストが、じっとヴィルフォール夫人をみつめながら言った。「もし私があの人に忠告できるほど親しければ、聞くところではデピネ君は近くお帰りになるそうですから、このお話がこわれたりするようなことがないようにはっきり決めてしまえとすすめるんですがね」
ヴィルフォールは見た目にもうれしそうな様子で立ち上がった。妻のほうはかすかに顔色が蒼くなった。
「私の願っていた通りです。あなたがそうおっしゃって下さったことをありがたく思います」ヴィルフォールはモンテ・クリストに手をさしのべてこう言った。「そうと決まれば、今日起きたことはすべて、無かったことにしてほしいと思います。予定の計画にはなんら変更はありません」
「ヴィルフォールさん」伯爵が言った。「世間というものが、ものごとに対してたとえどのように不当な判断しかしないものであっても、あなたのそのご決心に対しては、必ずや拍手を惜しまないと思いますね。あなたの友人はみなそれを誇りと思うでしょうし、デピネ君にしても、持参金なしの、そんなことになるわけがありませんが、たとえ持参金なしのお嬢さんを妻とせねばならないとしても、お宅のように、約束を守り義務を履行するためにはそれほどまでの犠牲もあえてする家族の一員となることに感激するはずです」
こう言いながら伯爵は立ち上がり、いとまを告げようとした。
「もうお帰りですの、伯爵様」ヴィルフォール夫人が言った。
「帰らねばなりません。私はただ、土曜日においで下さる旨のお約束を思い出していただくためにお邪魔しただけなのですから」
「私どもが忘れるとでもお思いになりましたの」
「おこころざしありがたく存じます。しかし、ご主人は、大へん重大な、ときには大へん火急なことにもなるご職業をお持ちですから……」
「主人はお約束申し上げたのです。たとえすべてを失うような場合でも約束を守る人だということは、今ご覧になったばかりではありませんか。まして、主人のプラスにしかならないことですもの」
「で」ヴィルフォールが訊ねた。「そのパーティーの場所は、シャン=ゼリゼーのお邸ですか」
「いいえ」モンテ・クリストが言った。「わざわざお越しいただければ、ますます光栄至極なのですが、田舎のほうです」
「田舎?」
「ええ」
「どのへんでしょう、パリの近くですね」
「郊外です。市からほんの三十分ほどの所、オートゥイユです」
「オートゥイユ!」ヴィルフォールが叫んだ。「ああ、そうでしたね、あなたはオートゥイユにお住まいだったと家内から聞きました。あのとき家内はお宅に運びこんでいただいたのでした。オートゥイユのどのへんですか」
「フォンテーヌ通りです」
「フォンテーヌ通り!」ヴィルフォールが上ずった声で言った。
「何番地ですか」
「二十八番地です」
「それでは」ヴィルフォールが叫んだ。「それではサン=メランの家を買ったのはあなただったのですか」
「サン=メラン氏?」モンテ・クリストが訊ねた。「それではあの家はサン=メラン氏の家だったのですか」
「そうなんですの」夫人が口を開いた。「こんなことがお信じになれますかしら」
「どんなことですか」
「あの家、きれいな家だとお思いでしょう?」
「すばらしい家です」
「それなのに、主人はどうしてもあそこには住もうとしなかったんですのよ」
「ほう、これはヴィルフォールさん」モンテ・クリストは言った。「そういう偏見をお持ちだとは知りませんでしたな」
「私はオートゥイユは好かんのです」検事は気持ちを抑えようと努めながら言った。
「ですが、まさかそのお気持ちが、あなたをお迎えする喜びを私から奪ってしまうようなことはないでしょうね」心配そうにモンテ・クリストが言った。
「いや、伯爵……たぶん大丈夫……いえ、できるだけ参れるようにいたします」ヴィルフォールが口ごもりつつ言った。
「言いわけなど許しませんよ」モンテ・クリストは答えた。「土曜の六時、お待ちしています。もしお越しいただけない場合には、私は、そうですね、二十年も前から人の住んでいなかったあの家には、なにか不吉な、血なまぐさい伝説でもあるんだとでも思いかねませんよ」
「参ります、伯爵、参りますよ」あわててヴィルフォールが言った。
「ありがとうございます」モンテ・クリストが言った。「では、これで失礼させていただかねばなりません」
「さきほど、どうしてもお帰りにならねばならないとおっしゃってましたけど」夫人が言った。「それに、たしかどういうご用がおありなのかおっしゃりかけていたのが、話題が別のほうへ行ってしまったように思いますけど」
「正直なところ、奥さん」モンテ・クリストが言った。「行先を申し上げたものかどうか迷っています」
「まあ、とにかくおっしゃってみて下さい」
「私はじつに野次馬根性の強い男でしてね、それのことを夢想しだすと、なん時間もそれのことばかり考えていたある物を、見に行こうと思っているのです」
「何ですの?」
「信号機《テレグラフ》です。あ、つい口をすべらせてしまいました」
「信号機!」夫人が繰り返した。
「ええ、信号機なのです。私は時おり、丘の小道の先に、日の光を浴びて、あの黒い腕木が、巨大な甲虫類の肢《あし》のように折り曲がるのを見るたびに、感に耐えなかったのです。というのは、私はこんなことを考えてしまうからです。あの奇妙なサインは、正確に空を切り、机の前に坐っている一人の男の未知の意志を三百里も離れた所の、これまた机の前に坐っているもう一人の男のもとへと伝えるわけですが、灰色の雲、あるいは紺碧の空の上に、全能の神のような男の意志一つで描かれているのだ、とね。そう思うと、私は妖精、空気の精、地中の精、要するに神秘な力みたいなものの存在を信じてしまいそうになり、笑ってしまったものです。しかし、あの白い腹をして黒く細い肢を持った大きな虫のそばまで行って見る気にはなりませんでした。あの石の翅《はね》の下には、ひどくとりすました衒学《げんがく》的な、頭に学問やら秘法やら秘術やらをつめこんだ、ちっぽけないわば人間の精とでもいったようなのがいるんじゃないかと思ったものですから。ところがある日、信号機を動かしているのは、年給千二百フランの哀れな雇員《こいん》で、一日中、天文学者のように空ではなく、漁師のように海でもなく、阿呆のように景色でもなく、ただひたすら、四、五里先の腹が白くて肢が黒い虫、つまり同じ信号機を眺め暮らしているということを知ったのです。それを聞くと、私はこの生きたサナギを近くで見たい、このサナギがその殻の奥から、別のサナギにつぎつぎと糸を引き出して見せているさまをこの目で見たくなったのです」
「で、見においでになるんですか」
「そうなんです」
「どの信号機ですか。内務省の、それとも天文台の」
「ああ、いいえ。そんな所へ行けば、知りたくもないことを私に無理にわからせようとしたり、自分たちも知らないことを聞きたくもないのに説明しようとする連中がいるでしょうからね。いえ、私はまだあの虫についての幻想は損ないたくはありません。人間について抱いていた幻想は、もう失ってしまいましたからね。ですから内務省や天文台の信号機には参りません。行きたいのは、野原の中の信号機です。塔の中でじっとしている純粋な善人に会うためにね」
「まったく変わった貴族ですなあ、あなたは」ヴィルフォールが言った。
「どの線を見に行けとおすすめになりますか」
「それは、今一番よく使われている線でしょう」
「わかりました。ではスペイン線ですね」
「そうです。よく説明してもらえるように大臣に添状を書いてもらってさしあげましょうか」
「いえ、結構です。私はべつになにもわかりたくはないのですから。わかったりなどしたら、信号機というものはもうその瞬間から無くなってしまうのです。あるものはただ、デュシャテル氏なりモンタリヴェ氏がバイヨンヌの知事に送るサインにすぎなくなってしまいます。『テレ』および『グラフェイン』というギリシア語の二字に姿を変えてしまいます。私はあの肢の黒い虫と驚くべきその言葉を、まったく純粋なままに、そして畏敬の念をまったく損なわずに、心に抱いていたいのです」
「それではどうぞいらして下さい。二時間もすれば夜になってしまって、なにも見えなくなります」
「おどかさないで下さい。どこが一番近いでしょう」
「バイヨンヌ線でですか」
「ええ、バイヨンヌ線で結構です」
「それならシャティヨンですね」
「シャティヨンの次のは」
「モンレリの塔だと思います」
「ありがとうございました。失礼いたします。土曜日に感想をお聞かせしましょう」
門の所で伯爵は二人の公証人に出会った。ヴァランチーヌの相続権を奪うために来たこの二人は、必ずや彼らの名を高めるものとなるはずの証書を作成しおえたことにいたく満足していた。
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六十一 ヤマネズミに桃をかじられる園芸家の悩みの解決法
彼が言ったようにその日の夕方ではなかったが、翌日の朝、モンテ・クリスト伯爵はアンフェールからパリを出て、オルレアン街道を進み、ちょうどそこを通ったとき信号機が痩せこけた長い腕を動かしていたにもかかわらず、リナの村を通過して、モンレリの原と呼ばれる平地の中で一番高い場所に立てられているモンレリの塔がある場所に着いた。
丘のふもとで伯爵は馬車を降り、幅十八インチの小径を丘の頂上めざして登り始めた。頂上に着くと、ピンクと白の花が終り緑の実をつけた果樹の列が行手をさえぎっていた。
モンテ・クリストはこのささやかな囲いの入口を探し、すぐにそれをみつけた。小さな木柵の扉で、蝶番《ちょうつがい》の部分は柳の枝、釘に紐をひっかけて閉じてある。伯爵はこの仕組を即座に知り、門が開いた。
伯爵が入った所は、縦二十フィート横十二フィートの小さな庭で、一方には、今われわれが門と呼んだ苦心をこらした入口のある果樹の列、その反対側には、キヅタがからみつき、いたる所にニオイアラセイトウの咲いている古い塔があった。
孫たちが祝日〔その人の洗礼名となっている聖人の日。たとえばポールならば六月二十九日。誕生日とは違うがわが国の誕生日のような祝いをする〕を祝いにやって来た日のお祖母さんさながらに花に飾られしわのよったこの塔を見れば、昔の諺に言う『壁に耳あり』のその耳のみならず口をもこの塔がそなえていたとしても、恐ろしい惨劇の数々をこの塔が語るとは思えなかった。
この庭を散策するには、赤い砂をまいた一筋の小径があった。現代のルーベンスたるドラクロワの目を楽しませるかとも思える色どりで、年ふりた大きなツゲが小径にはみ出している。この小径は8の字型に大きく曲線を描き、二十フィートしかない庭なのに、六十フィートの散策を可能にしていた。ラテンのすぐれた園芸家たちの、笑みこぼれたみずみずしい女神であるフローラとても、この小さな囲いの主が彼女に捧げる礼拝ほどに細心かつ純粋なものは受けたためしはなかったであろう。
実際、花壇を構成している二十本のバラの、どの葉にも虫の喰った跡など一つも見当らず、湿り気をおびた土地の植物を傷めつけ喰い荒らす、房をなしたあの緑色のアブラムシのついた雄シベなどただの一本もなかった。それでいてこの庭に湿り気がなかったわけではない。煤《すす》のように黒々とした土、木々の暗い葉むらがそれを十分に語っていた。その上、自然の水が不足すれば直ちに人の手が水を補っているらしい。庭の一隅にいけられた樽に、溜り腐った水がいっぱいにたたえられており、その緑の水面には、性が合わないためか、その円周の相対する点上に互いに背を向けて一匹のカエルと一匹のガマがいた。
またさらに、小径には一本の草もなく、花壇に一本の雑草の芽もなかった。陶器の鉢のジェラニウム、サボテン、シャクナゲを手入れし剪定《せんてい》する伊達女も、まだ姿を見せぬこの些やかな囲いの主ほどの細心さは持ち合わせていない。
モンテ・クリストは釘に紐をかけて門を閉めてから、この土地のすべてを目におさめた。
「どうやらここの信号手は年ぎめの庭師を雇っているか、よほど園芸にうちこんでいるかだ」とつぶやいた。
と、いきなり彼は、木の葉を積んだ手押し車のかげにうずくまっていたなにかにぶつかった。そのなにかは、驚きを示す叫び声を上げながら立ち上がった。モンテ・クリストの目の前に、五十歳ぐらいの男が立っていた。イチゴを摘み、それをブドウの葉の上にのせていたのだ。
十二枚ほどの葉があり、それとほぼ同数のイチゴがあった。
男は立ち上がる際に、イチゴや葉や皿を落としそうになった。
「取り入れをしてるんですね?」にこにこしながらモンテ・クリストは言った。
「申し訳ありません、上にいなくて」男は帽子に手をやりながら答えた。「たった今降りて来たところなんで」
「いやお邪魔はしたくありませんよ」伯爵は言った。「イチゴを摘んで下さい、まだ摘んでないのがあるんならね」
「まだ十あります。ここに十一あるでしょう。二十一なったんです。去年より五つ余計です。が、それも不思議はないんで、今年の春は暖かかったですからね。ご承知でしょうが、イチゴにとって大事なのは暖かいことなんです。だから去年は十五しかとれなかったのに、今年は、今摘んだのが十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八。あ、二つ足りない。昨日はちゃんとあったんです、たしかにあったんです。私は数えたんですから。こいつはきっとシモンのかみさんとこの伜《せがれ》が盗んでったんだ。今朝このへんをうろついてたっけ。あの悪童め、庭の中のものを盗むとは。どういうことになるか覚えてるがいい」
「まったく、ひどいことをするもんですね。でも、食いしん坊のいたずら盛りなんだし、まあ大目に見てやることですね」
「そりゃそうです。ですが、やっぱりひどくおもしろくありませんよ」園芸の好きな男が言った。「それはそうと、もう一度お詫びいたしますが、こんなにお待たせしてしまいましたが、もしや上役の方ではないでしょうか」
こう言って彼は伯爵とその青い服をおどおどした目でさぐるように見た。
「ご心配なく」伯爵は、自在に、恐ろしいものにも好意あふれるものにもすることのできる微笑を浮かべたまま言った。このときの微笑には好意しか現われていなかった。「私はあなたの勤務状況を視察に来た上役でもなんでもありません。ただの通りすがりの者で、好奇心にかられてやって来たものの、お暇をつぶす結果になったので後悔し始めているのです」
「いえいえ、私の時間なんて、そう大事なものじゃありません」暗い微笑を浮かべて男は答えた。「もっとも政府の時間ですから、無駄にしてはいけないんですが。しかし、さっき受けた信号によると、一時間は休めるはずなんです。(男は日時計に目をやった。モンレリの塔の庭には、なにもかも、日時計すらしつらえられていたのだ)ご覧の通りまだ十分あります。イチゴが熟していたもんで。それにもう一日たってしまうと……あなたはヤマネズミがイチゴを食べるなんてことをお信じになりますか」
「いや、まるで思ってもみませんでした」まじめくさってモンテ・クリストが答えた。「ローマ人のようにヤマネズミを蜜に漬けて食べたりしないわれわれにとっては、これはありがたくない隣人ですね」
「ローマ人はやつらを食べたんですか」庭いじりの好きな男が言った。「ヤマネズミをねえ」
「ペトロニウス〔ローマの風刺小説家〕が書いています」
「ほんとですか。『ヤマネズミのように肥っている』なんて言いますけど、うまくはないでしょうね。ヤマネズミがいくら肥ってたって不思議はありませんや。なにしろ一日中寝て暮らし、一晩中起きてかじり続けなんですからね。去年ね、アンズが四つなったんです。そいつを一つ台なしにされちまいました。それからツバイモモが一つなりました。たった一つです、珍しい実ですからね。ところがですよ、その実の壁のほうの半分を食べられちまった。見事なツバイモモで、じつにうまかった。あんなうまいものは食べたことがありません」
「食べたんですか」
「つまり、残ってた半分だけね。うまかったですよ。まったく腹が立つ、やつらはできの悪いのは食べないんだから。シモンのかみさんとこの伜と同じだ。あいつもできの悪いイチゴは取らない。ですが、今年は」園芸家は続けた。「ご安心下さい、実が熟しはじめたら、たとえ徹夜で張り番をしてでも、あんなことはさせません」
モンテ・クリストは必要なことはすべて見てしまった。人には誰でも、果実がその芯《しん》に虫を宿しているように、心の底に巣食うどうしようもない道楽を持っているものである。この信号手のそれは園芸であった。伯爵はブドウの房に日が当るのをさえぎっているブドウの葉を摘み取り始めた。これが庭いじりの好きな男の心を惹きつけてしまう結果となった。
「信号機を見においでになったのですか」
「そうなんですが、規則で禁じられていなければの話なんで」
「禁じられてなんかいません。私たちが送っている内容なんか誰も知らないし、誰にもわかりっこないんで、見せたって危険なんかありませんからね」
「聞くところによると、あなた方は、あなた方にもわからない信号をただその通り送っているだけなんだそうですね」
「そうなんですよ。それにそのほうがいいですね」笑いながら信号手が言った。
「どうしてそのほうがいいんです」
「だって、これなら責任がありませんからね。私は機械にすぎません。ただ動いてさえいれば、それ以上のことは要求されません」
『まずい!』モンテ・クリストは心の中でつぶやいた。『もしかすると、この男はまったく欲のない男なのではないだろうか。とすると、ひどくついてないことになるぞ』
「あのう」園芸家が日時計に目をやりながら言った。「十分間もそろそろ経っちまうんで、持ち場に戻りますが、私と一緒に上に上がってごらんになりますか」
「お伴しましょう」
モンテ・クリストは塔の中に入った。三階に分れていて下の階は鋤《すき》、熊手、如露《じょろ》といった農器具が壁に立てかけてあった。調度品といえばそれだけだった。
その上の階は、信号手の居室、というより夜寝るだけの部屋であった。貧しい世帯道具がいくつか、ベッドが一つ、テーブルが一つ、椅子が二つ、水がめが一つ、それにひからびた植物が天井に吊るしてある。伯爵にはそれが、スイートピーとインゲンであることがわかった。男はその種子をさやのまま保存していたのである。そして植物園の植物学者ほどの細心さでそれらすべてに名札をつけていた。
「信号を覚えるには長いことかかるんですか」モンテ・クリストが訊ねた。
「覚えるのはそんなにかかりませんが見習期間が長くてね」
「給料はどのぐらいなんですか」
「千フランですよ」
「それはまた少ない」
「まったくです。しかし、ご覧の通り住まわせてもらってますからね」
モンテ・クリストは部屋をながめた。
『この部屋に愛着を感じていなければいいが』と、彼はつぶやいた。
二人は一番上の階に登った。これが信号手の部屋であった。モンテ・クリストは、この雇員が信号機を動かすために用いる二つの鉄のレバーを交互に見た。
「これはおもしろい」と彼は言った。「しかし、結局のところ、いささか味気ない人生だと思っておられるでしょうね」
「ええ。はじめのうちは、じっと一所ばかり見てるんで斜頚《しゃけい》になっちまいます。が、一年か二年もすれば慣れますよ。それに、休み時間もあるし、休みの日もありますからね」
「休みの日がですか」
「ええ」
「どういう日です?」
「霧のかかった日ですよ」
「ああ、なるほど」
「そんな日は私にとってはほんとにうれしい日で、私は庭におりるんです。植込みをしたり、剪定《せんてい》をしたり、刈りこみをしたり、虫の駆除をしたり。けっこう時間はたってしまいます」
「ここへ来てどのくらいになりますか」
「十年前からです、見習の五年を入れると十五年ですね」
「お年は?」
「五十五です」
「恩給がもらえるようになるのには何年勤めねばならないんですか」
「それが、二十五年なんです」
「でいくらですか」
「百エキュです〔一エキュは三フラン〕」
『哀れな奴だ』モンテ・クリストはつぶやいた。
「なんとおっしゃいましたか」雇員が訊ねた。
「すごくおもしろい、と言ったんです」
「何がです?」
「見せて下さるものみんなが……で、あなたは信号の意味がまるっきりわからないのですか」
「まるっきりわかりません」
「わかろうとしたこともないんですか」
「ありません。そんなことをしたって仕方がないでしょう」
「しかし、直接あなた宛の信号もあるわけでしょう」
「もちろんあります」
「そういうのはわかるんでしょうね」
「いつも同じことばかりですからね」
「どんな意味のものですか」
「『送るべきものなし』とか『一時間休止』とか『以後明朝』とか」
「それはまたひどく簡単なことですね。ですが、ご覧なさい、向こうの信号機が動き始めましたよ」
「あ、ほんとだ。ありがとうございます」
「で、何て言ってるんですか。あれはおわかりになりますか」
「ええ、用意はいいか、と言ってるんです」
「返事はどうやって」
「右の信号機に、用意よし、という合図を送り、それが同時に左の信号機に、用意はいいか、という合図になるんです」
「なるほどうまい方法ですね」
「じきご覧になれますよ」男は誇らしげに言った。「五分後には向こうが話しだします」
「ではまだ五分あるわけだ。それだけあれば十分すぎます。一つ質問してもいいですか」
「どうぞ」
「庭いじりはお好きですか」
「夢中です」
「二十フィートの庭のかわりに、二アルパン〔一アルパンは約三五アール〕の土地が持てたらうれしいと思いますか」
「そうなったら、そこを地上の楽園にしてみせますよ」
「年に千フランでは苦しいでしょう」
「かなり苦しいですね。でもとにかく生きてはいます」
「それはそうです。ですが、みすぼらしい庭しかお持ちじゃありませんね」
「ええ、それはその通りです。広いとはとても言えません」
「それに、こんなじゃ、ヤマネズミの住み家で、みんなかじられちまいますね」
「まったくそれが悩みの種で」
「もし仮に、右の信号機が動き始めようとしているときに、うっかり横を向いていたら」
「信号が見えませんね」
「するとどうなります」
「信号を次に送ることができません」
「それで」
「怠慢で信号が送られなかったら、私は罰金をくらいます」
「いくらの」
「百フランです」
「年収の十分の一、それはきつい」
「まったく」
「罰金をくらったことがありますか」
「一度だけ。バラの接ぎ木をしていたとき、一度あります」
「なるほど。では、信号の内容を少し変えたり、あるいはまるっきり別の信号を送ったらどうなります」
「それは全然話が別です。私はくびになって、恩給ももらえなくなります」
「三百フランですか」
「百エキュ、そうです。ですから、そんなまねは絶対しませんよ」
「十五年分の給料にあたる金を手にするためにもですか。これはちょっと考えてみる価値があるんじゃないですか」
「一万五千フランですか」
「ええ」
「なんだかこわいみたいなお話です」
「いやいや」
「誘惑なさるおつもりですか」
「その通り。一万五千フランですよ」
「右の信号機を見せて下さい」
「いや、そんなものは見ずにこれをご覧なさい」
「何ですかそれは」
「おや、この小さな紙を知らないんですか」
「札じゃありませんか」
「正直正銘のね。十五枚あります」
「誰のお金ですか」
「あなたのです、欲しければね」
「私の」雇員は息をつまらせた。
「そうですとも、完全にあなたのものです」
「右の信号機が動いてます」
「勝手に動かせておきなさい」
「あなたのおかげで気が散っていけません、罰金をくらってしまいます」
「百フランじゃありませんか。この十五枚の札を受け取ったほうがずっと得《とく》ですよ」
「右の信号手がじりじりしてます。信号を繰り返してます」
「ほっとくんですね、そしてこれを受け取りなさい」
伯爵は雇員の手に札束を握らせた。
「さてと」伯爵が言った。「それで全部じゃありませんよ。一万五千フランじゃ暮らせませんからね」
「これからもこの勤めを続けますから」
「いや、そうはいきません。送られた信号とは別の信号を送るんですから」
「ええっ、いったいどうしろとおっしゃるんですか」
「まるで簡単なことです」
「私は強制でもされない限り……」
「そう、強制するつもりなんです」
こう言ってモンテ・クリストは、別の札束をポケットから出した。
「ここにさらに一万フランある。すでにあなたのポケットに入っているのと合わせれば二万五千フランだ。五千フランで小さな家と二アルパンの土地が買える。残った二万フランは、年に千フランの利息を生むよ」
「二アルパンの庭ですか」
「それに年利千フラン」
「ああ」
「だから、受け取るんだね」
こう言ってモンテ・クリストは無理に一万フランを雇員の手に握らせた。
「どうすればいいんです」
「むずかしいことはなにもない」
「でも」
「この信号を送ればいい」
モンテ・クリストはポケットから一枚の紙を出した。それには三つの信号が認《したた》められており、その信号を送る順序を示す番号がついていた。
「そう手間のかかるものじゃないだろう」
「ええ、ですが……」
「ツバイモモその他が手に入るかどうかの分れめだよ」
ねらいは的を射た。顔をほてらせ、大粒の汗をにじませながら、男は、右の信号機が送って来たものとはまるで違う、伯爵が示した信号を次々と発信した。右の信号手は信号がこのように変わってしまったことを理解できず、ツバイモモを育てている男の気が狂ったのだと思い始めた。
左の信号手は、その信号を忠実に次へ送信したから、ついにはそれが内務省の受信するところとなった。
「さあこれであなたは金持ちになれたよ」モンテ・クリストが言った。
「ええ、でもひどいことをしたもんだ」
「いいかい、私はあなたに後悔してもらいたくない。私の言葉を信じるのだ。あなたは誰にも悪いことをしたわけではない。神の思召しの手助けをしただけなのだよ」
雇員は札をみつめた。なでさすり、数えた。顔が蒼ざめ、そして赤くなった。やがて彼は水を飲みに自分の部屋へ駈け降りた。が、水がめの所まで行きつくことはできなかった。乾したインゲンの中で、彼は気絶してしまったのだ。
信号通信が内務省に着いて五分後に、ドブレは馬車に馬をつけさせ、ダングラールの邸に駈けつけた。
「ご主人はスペインの公債をお持ちですか」と、彼は男爵夫人に言った。
「と思います。六百万ほど」
「なりゆきで売ってしまうんです」
「どうしてですの」
「ドン・カルロスがブールジュを脱出してスペインに戻ったのです」
「どうしてそれをご存じですの」
「当り前ですよ」ドブレは肩をすくめて言った。「僕は情報を握ってますからね」
夫人は相手に二度は言わせなかった。夫人は夫のもとに駈けつけ、ダングラールは仲買人の所へ駈けつけ、値段にかまわず売れと命じた。
ダングラール氏が売りに出たのが知れると、スペイン債はたちまち値を下げた。ダングラールは五十万フラン損をしたが、債券を全部処分した。
夕方『メサジェー』紙には次のような記事が載った。
『〈信号通信〉国王ドン・カルロスはブールジュにての監視の目を逃れ、カタロニアを越えてスペインに帰国した。バルセロナはすでに同国王を支持し蜂起した』
その夜は一晩中、債券を売ってしまったダングラールの先見の明の噂でもちきりであった。これほどの打撃を受けながら五十万フランの損ですんだ相場師は幸運だったというのである。
債券を売らずにいた者、また、ダングラールの債券を買った者は破産するものと思われ、悪夢のような一夜を過ごした。
翌日『モニトゥール』紙に次のような記事が載った。
『昨日メサジェー紙の報じた、ドン・カルロスの脱出ならびにバルセロナ反乱の報道には、なんの根拠もない。
ドン・カルロス王はブールジュを去らず、イベリア半島は平穏そのものである。
信号が霧のため誤読され、この誤報となった』
債券の相場は、落ちこみ分の倍上昇した。
損失ならびに儲け損なった分で、ダングラールは百万の損をしたわけである。
「これでいい」モンテ・クリストはモレルに言った。ダングラールが痛めつけられた奇妙な相場の乱高下のニュースが伝わったとき、彼はモレルの家にいたのである。
「私は、二万五千フランで、十万フラン払ってもいいような発見をしたよ」
「いったい何を発見なさったんですか」マクシミリヤンが訊ねた。
「ヤマネズミに桃をかじられる園芸家の悩みの解決法をね」
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六十二 亡霊
オートゥイユの邸《やしき》は、はじめ外から見たところでは、豪奢なところは少しもなく、モンテ・クリスト伯爵ほどの富豪の住まいにしてはいささか期待はずれの観があった。だが、この簡素なたたずまいは主人の意志にそったものなのであり、彼は、外部にはいささかの変更も加えてはならぬと厳命していたのである。このことは、家の中を見れば一目瞭然に読みとれることであった。入口の扉を開けたとたんに、光景は一変するのである。
ベルトゥチオは、家具調度を選ぶにも、また住まいを整備する早さにおいても、実力以上のものを発揮した。昔、ルイ十四世の視界をさまたげる並木を、一夜のうちに伐り払わせてしまったダンタン公爵のように、ベルトゥチオは三日のうちに、なにも生えていなかった中庭に木を植えさせ、大きな根ごと持って来させた見事なポプラやカエデが、邸の正面を覆うこととなった。邸の前には、草に半ば埋もれた敷石が敷かれていたが、これが取り払われ芝生がひろがっていた。その日の朝張られたばかりで、庭師のやった水がまだ露を結んでいる広大な緑のじゅうたんとなっていた。
それに、命令は伯爵から出ていた。伯爵自身が、植えるべき樹木の数と位置、敷石を取り除いて張る芝生の形と広さとを示した図面をベルトゥチオに渡していたのである。
こうなってみると、その家は見違えるほどに変わってしまった。緑の額の中にすっぽりおさまったこの家は、ベルトゥチオさえ、昔の家とはとても思えないと断言するほどであった。
執事は、自分がやる以上は、庭園にも少し手を加えたかったところなのである。しかし伯爵は、ここにはまったく手を触れることを許さなかった。ベルトゥチオは控えの間、階段、暖炉を花に埋もれさせて、その埋め合わせとした。
片や命令を実行する者として、また片や命令を実行させる者として、執事がその最大の能力を、主人がその深い識見を見せているのは、二十年来住む者もなく、前日までは暗く陰気で、いわば歳月の臭いといったかび臭い臭いにひたされたこの邸が、一日のうちに、かつての盛時そのまま、生き生きと蘇り、主人の好きな香りをただよわせたことである。伯爵がここへ来てみると、自分の書物も武器もすぐ手もとにあり、好きな絵が目の前にあった。控えの間には、彼がその甘える姿を好む犬どもがいるし、鳴き声の好きな鳥もいた。あの『眠りの森の美女』の城のように、長い眠りから覚めたこの邸全体が、生き、歌い、花開いていたのである。ちょうど、長い間住み親しみ、不幸にもその家を離れねばならないとき、われわれが無意識のうちに魂の一部をそこに残してしまう、あの住み慣れた家のように。
使用人たちが、その美しい中庭を嬉々として行き来していた。ある者は料理を運び、この家にずっと住み続けているかのように昨日修復されたばかりの階段をすべるように上り降りし、ある者は車庫に馬車を入れている。馬車はそれぞれ番号がつけられ、きちんと格納され、五十年も前からそこに納められているようであった。厩では、秣棚《まぐさだな》の馬が馬丁たちに向かっていななき、馬丁たちは、召使いが主人に向かって喋るとき以上の尊敬をこめた言葉で馬に語りかけていた。
図書室は壁の両側に書棚がしつらえられ、約二千冊の書物が納められていた。一つの仕切り全部が現代小説に当てられ、前日出版されたものもすでに並べられ、赤と金の装幀を誇っていた。
家のもう一方の側には、図書室と対《つい》をなして、温室があった。大きな日本の陶器の花びんに盛られた珍しい植物が咲きほこっている。この目と嗅覚の法悦ともいうべき温室の中央に撞球台があり、つい一時間前に、玉突をしていた者が、クロスの上で玉が止まるがままに置き去りにしたかのようであった。
たった一つの部屋だけは有能なベルトゥチオも手をつけなかった。二階の右の角にあるこの部屋には大階段を上って行くことができ、忍び階段をつたって外へ出られる。この部屋の前を召使いたちは物珍しそうに通ったが、ベルトゥチオはこわごわ通るのであった。
五時きっかり、伯爵がアリをつれてオートゥイユの家の前に着いた。ベルトゥチオは伯爵の到着を、待ち遠しさに不安のまじった気持ちを抱いて待っていた。彼は、主人が眉をひそめるのではないかと恐れつつも、ほめ言葉を期待していたのである。
モンテ・クリストは中庭に降り立ち、家中を見廻り、庭園を一めぐりした。気に入った様子も、不満な様子も見せず黙りこくっていた。
ただ、例の閉ざされた部屋の反対側にある自分の寝室に入ると、はじめて来たときから目をつけていた香木で作った小さな家具の引出しに手をさしのべた。
「これは手袋を入れるのにしか使えんな」
「その通りでございます、閣下。お開け下さいまし、手袋が入っております」ベルトゥチオがうれしくてたまらなくなって言った。
ほかの家具にも、伯爵が、ここにはこれが入っているだろうと思う通りのもの、薬びん、葉巻、宝石がおさめられていた。
「結構だ」伯爵が言った。ベルトゥチオはうれしさにうっとりしながら退出した。伯爵の周囲の者に及ぼす影響はこれほどまでに実際に強く大きなものだったのだ。
六時きっかりに、門前に馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえた。わがアルジェリア騎兵大尉がメデアにまたがって到着したのだった。
モンテ・クリストは口辺に微笑をたたえて正面階段の上で待っていた。
「私が一番乗りでしょう」モレルが伯爵に叫んだ。「みんなが来る前に、しばらくあなたを一人じめにしたくて、わざとそうしたんです。ジュリーとエマニュエルからくれぐれもよろしくとのことでした。それにしても、ここはすばらしいですね。召使いの方はちゃんと馬の世話をして下さるでしょうか」
「安心したまえ、マクシミリヤン君。連中は馬の世話はよく心得ているよ」
「よくわら束でこすってやらなきゃならないんです。どんなにこれがすばらしい走り方をしたか。まさに疾風のようでした」
「ああ、そうだろうよ、なにしろ五千フランの馬だ」モンテ・クリストは父親が息子に向かって喋るような声音で言った。
「あのお金、惜しいことをしたと思ってるんですか」明るく笑いながらモレルが言う。
「私が? とんでもない、そんなことはないよ。ただ、馬がもしいい馬でなければ後悔するだろうな」
「伯爵、ほんとうにいい馬で、馬の目ききにかけてはフランス随一のシャトー=ルノー君も、内務省のアラビア馬に乗ってるドブレ氏も、今、後から追っかけて来ます。ご覧の通りいささか私に差をつけられ、ダングラール夫人の馬たちに追っかけられてますよ。夫人の馬たちは、一時間にゆうに六里は走りますからね」
「では、ほかの人たちも、君を追ってすぐ後から来るわけだね」モンテ・クリストが訊ねた。
「ほら、来ましたよ」事実、この時、全身汗みずくの馬に引かれた馬車と、息を切らした二頭の乗馬が、邸の門前に到着し、門が開いた。ただちに馬車は円を描いて正面階段の所に、二人の騎手を従えて停止した。
すぐさまドブレは馬を降り、馬車の昇降口の前に立った。彼は夫人に手をさしのべ、夫人がドブレに対して、モンテ・クリスト以外の者には気づかれぬ、ほんの一寸したしぐさをした。
伯爵は見逃しはしなかった。このしぐさの最中に、しぐさ同様目につかぬ小さな白い手紙が光るのを見てしまったのだ。手紙は、いつもそうしつけているとみえて、ごく楽に、ダングラール夫人の手から大臣秘書の手に渡った。
妻の後から銀行家が降りて来た。馬車からではなく、墓穴からでも出て来たかのように蒼い顔をしていた。
ダングラール夫人は、モンテ・クリストにだけその意味がわかる、す早くそしてさぐるような視線を周囲に走らせた。夫人はその視野の中に、中庭と柱廊と家の正面とを見た。それから、もし夫人の顔が蒼くなれるものなら必ずや顔色にもそれが出たはずの、かすかな心の動揺を抑えて、夫人はモレルに話しかけながら正面階段を昇った。
「もしあなたがお友だちでしたら、あなたの馬をお売りになりませんの、とお伺いするところですけど」
モレルは笑ったが、しかめっ面といったほうがいいくらいのものであった。彼は、急場を救ってくれと言うかのようにモンテ・クリストのほうを見た。
伯爵はその気持ちを読みとった。
「奥さん、どうしてそのご質問を私になさらないのですか」
「あなたに対しては、なにかが欲しいなんてとても申せませんわ。必ず下さるんですもの。ですからモレルさんにお訊ねしたんです」
「残念ながら」伯爵が言った。「モレル君があの馬を譲れないのは、私が証人になりますよ。彼の名誉があの馬を手放すかどうかにかかっているのです」
「どういうわけですの」
「モレル君は、六か月以内にメデアを手なづけてみせると賭けをしたのです。もうおわかりでしょうが、もしその期限以前にあれを手放したりすれば、馬を失うだけではなく、怖気《おじけ》づいたのだと言われるでしょう。アルジェリア騎兵大尉としては、たとえ美しいご婦人、これはこの世で最も神聖なものと私は思いますがね、そのご婦人のわがままをいれるためであっても、そんな噂をたてさせるわけにはいきません」
「奥さん、そんなわけですから……」感謝の微笑をモンテ・クリストに向けながら、モレルが言った。
「それに」と、ダングラールが、いかに笑顔をとりつくろってもかくしきれぬ気むずかしい調子で言った。「お前は馬はもうこれ以上いらないように思うがね」
ふだんは、このようなことを言われて、言い返さずにすますようなダングラール夫人ではなかった。が、青年たちがひどく驚いたことには、夫人はなにも聞こえなかったふりをして、なにも答えなかった。
モンテ・クリストは、いつにない卑下した心を暴露しているこの沈黙にほくそ笑みつつ、夫人に巨大な二つの中国の壺《つぼ》を見せていた。その表面にはその大きさといいその巧みさといい、自然ならではその見事さ、みずみずしさ、魂といったものは持ち得ないと思われる、海草がうねっていた。
男爵夫人は驚嘆させられていた。
「まあ、これならチュイルリーのマロニエでも植えられますわ。でも、こんな大きなものをどうやって焼くことができたんでしょう」
「ああ、奥さん」モンテ・クリストが言った。「それはわれわれに訊ねても仕方ありません。ちっぽけな像や薄手の模様ガラスばかり作っているわれわれにはね。これは古い時代の、いわば大地と海の精の作品なのですから」
「どういうことなんでしょう、何時頃のものなんですの」
「私もよくは知りません。ただ聞くところによると、中国のある皇帝が特製の窯《かま》を作らせ、この窯で次々にこれと同じような壺を十二箇焼かせたとのことです。火の熱のため二箇は割れてしまいました。残った十箇を三百ひろの海底に沈めたのです。海は人が自分に何を求めたかを知っており、壺に海草をからませ、サンゴをよじらせ、貝をちりばめました。このとてつもない深みの中で二百年を過ごすうちに、これらはみな固く凝結してしまいました。革命が起きてこの試みをしようとした皇帝は地位を追われたからです。皇帝は壺を焼いて海の底に沈めた旨の記録を残しただけでした。二百年後にこの記録が発見され、壺を引き揚げようということになりました。特製の機械を装備した潜水夫が、壺を沈めた湾の底に壺を探しに行きましたが、十箇のうち三箇しか発見できませんでした。残りのものは潮に流されこわれてしまったのです。私はこの壺が好きです。潜水夫だけしか見られないような、異様な形をした不思議な恐ろしい怪物どもが、この壺の底にびっくりして濁った冷たい目を向けたり、敵の追跡を逃れるためこの壺の中にかくれた無数の魚たちが眠ったというようなことを、時折夢想しましてね」
この間、あまり骨董《こっとう》品には興味のないダングラールは、無意識に見事なオレンジの木の花を、一つまた一つとむしり取っていた。オレンジの花を全部もいでしまうと、今度はサボテンに手を出した。しかしサボテンはオレンジほどおとなしくはないので、いさいかまわず指に棘《とげ》を刺した。
彼は身ぶるいして、まるで夢から覚めたように目をこすった。
「ダングラールさん」笑いながらモンテ・クリストが言った。「あなたは絵がお好きで、すばらしいものをお持ちなので、私のものなどおすすめできませんが、それでもここには、ホベマが二枚、ポール・ポッターが一枚、ミエリスが一枚、ジェラール・ドウが二枚〔ともにオランダの画家〕、ラファエロが一枚、ヴァン・ダイクが一枚、スルバランが一枚、ムリリョが二、三枚〔後者二名はスペインの画家〕ありますから、これはお見せする価値があると思います」
「あ、このホベマには見覚えがありますよ」ドブレが言った。
「ほう、そうですか」
「ええ、美術館に収めないかと言って来たんです」
「美術館にはないと思いましたが」モンテ・クリストが言った。
「ええ、買い上げを断ったのです」
「どうしてだい」シャトー=ルノーが訊ねた。
「君はのんきだよ。政府には金がないからさ」
「あ、これは失敬。そんなことはこの八年来聞かされ通しだったんだが、まだどうもぴんとこなくてね」
「そのうちぴんとくるようになるさ」ドブレが言う。
「僕はそう思わんね」シャトー=ルノーは答えた。
「バルトロメオ・カヴァルカンティ少佐殿、ならびにアンドレア・カヴァルカンティ子爵様がお着きでございます」バチスタンが来訪を告げた。
仕立て上がったばかりの黒いサテンの襟、顎ひげをきれいにととのえ、半白の口ひげ、しっかりした目つき、三つの大きな勲章と五つの十字勲章を飾った少佐の制服、要するに老軍人としての一分の隙《すき》もない装い、これが、われわれにはすでになじみのあの慈愛深き父親、バルトロメオ・カヴァルカンティの現われ出でた姿であった。
少佐のかたわらに立って、仕立ておろしの派手な服に身を包み、唇に微笑を浮かべながら、これまたわれわれがすでになじみのすばらしい息子のアンドレア=カヴァルカンティが進んで来た。
三人の青年たちはお喋りをしていたが、彼らの視線は父から子へと移り、当然のことに息子のほうに長くとどまり、品定めをしていた。
「カヴァルカンティ!」ドブレが言った。
「いい名だね」モレルが言う。
「うん」シャトー=ルノーが答えた。「まったくイタリア人というのはいい名前を持っている。だが、着こなしは下手だ」
「シャトー=ルノー、君は気むずかし屋だよ」ドブレが言った。「あの服はすばらしい仕立だぜ、それに新品だ」
「そこなんだよ、僕が彼らに文句をつけたいのは。あの男は今日生まれて初めて服を着たみたいじゃないか」
「この方たちはどういう方なのですか」ダングラールがモンテ・クリスト伯爵に訊ねた。
「お聞きの通り、カヴァルカンティ家の人たちですよ」
「名前はわかりましたが」
「ああ、そうでしたね。あなたはわがイタリアの貴族のことはあまりよくご存じではありませんでしたね。カヴァルカンティといえば、大貴族ですよ」
「財産家ですか」銀行家が訊ねる。
「すごい財産家です」
「何をしてるんですか」
「財産を食いつぶそうとしてるんですが、とても食いつぶせずにいます。それに、あなた宛の信用状を持っているそうです。一昨日私に会いに来ましてそう言ってました。あなたのためになるかとも思って招いたのです。ご紹介しましょう」
「ですが、あの方たちは全然|訓《なま》りのないフランス語を喋っているように思いますがね」ダングラールが言った。
「息子のほうは南のほうの、マルセーユかその付近の学校で教育を受けたらしいんです。すぐおわかりになるでしょうが大へん夢中になってましてね」
「何にですの」男爵夫人が訊ねた。
「フランスの女性にですよ、奥さん。どうしてもパリでお嫁さんをみつけるそうです」
「それはまたとんでもないことを考えたもんだ」ダングラールが肩をすくめた。
ダングラール夫人は夫を見た。その目の色は、ふだんであれば、嵐を予告するものだったのだが、今度もまた夫人は口をつぐんでいた。
「男爵は今日はいやに暗い顔をなさってますが、大臣にでも任命されたんじゃありませんか」モンテ・クリストがダングラール夫人に訊ねた。
「いいえ、私の存じております限りでは、まだそんなことはございませんわ。株でもやって失敗したんじゃないかと思いますの。誰のせいにしていいかわからないんでしょう」
「ヴィルフォール様ご夫妻!」バチスタンが叫んだ。
来訪が告げられた夫妻が入って来た。ヴィルフォールは、懸命におしかくしてはいたが、明らかに動揺していた。その手に触れたとき、モンテ・クリストは、その手がふるえているのを感じた。
『まったく、心をかくす術を心得ているのは女だけだな』モンテ・クリストは、検事に笑顔を向け、検事夫人の頬に接吻しているダングラール夫人を見ながら、心につぶやいた。
はじめの挨拶がすんだとき、伯爵は、ベルトゥチオがみなのいる部屋に接続した小サロンにそっと入って来る姿を見た。それまで彼は配膳室にいたのである。
伯爵は彼の所へ行った。
「どうしたのかね、ベルトゥチオ」
「閣下からまだお客様の人数を伺っておりませんでしたので」
「ああ、そうだったな」
「お食事は何人分用意いたしましょうか」
「自分で数えてみたまえ」
「皆様お揃いでしょうか」
「うむ」
ベルトゥチオは、半ば開いたドアの隙間に視線をすべり込ませた。
モンテ・クリストはその姿を見ていた。
「あ、あれは!」ベルトゥチオが叫んだ。
「どうした」伯爵が訊ねる。
「あの女だ、あの女だ!」
「どの女だ」
「白いドレスの、ダイヤずくめの……ブロンドの……」
「ダングラール夫人か」
「名前は存じませんが。でも、あの女です」
「あの女って誰だ」
「庭にいた女です、妊娠してた。庭を歩き廻りながら待っていた、待っていた女です」
ベルトゥチオは、口をぽかんと開けたまま、顔蒼ざめ、髪を逆立てていた。
「誰を待っていたんだ」
ベルトゥチオは、それには答えず、マクベスがバンコーを指さしたのに似たしぐさで、ヴィルフォールをさし示した。
「ああ、ああ、ご覧になれますか」やっと彼はこうつぶやいた。
「何を、誰を」
「あの人です」
「あの人、ヴィルフォール検事か。たしかに見えるぞ」
「でも、それじゃ私はあの人を殺さなかったんでしょうか」
「何を言ってる。気でも狂ったんじゃないのかね、ベルトゥチオ」
「それじゃ、あの人は死ななかったんで」
「死になどしなかった。ご覧の通りね。お前は、お前の国のやり方通りに、左の第六肋骨と第七肋骨の間を刺さずに、その少し上か下を刺したのだ。裁判官というものは、どうしてどうして、お前たちなどにむざむざ殺される人たちではない。さもなければ、お前が私に話したことはみんな現実のことではないのだ。お前が勝手に描いた夢だったのだ。お前の幻覚だ。復讐の思いが腹にもたれたまま眠ってしまい、それが胃を重くして悪い夢を見ただけのことだ。さあ落ち着け。そして数えるんだ。ヴィルフォール夫妻で二人、ダングラール夫妻で四人、シャトー=ルノー君、ドブレ君、モレル君で七人、バルトロメオ・カヴァルカンティ少佐、八人」
「八人です」ベルトゥチオが繰り返した。
「待て、待つんだ。なにをそうあわてて立ち去ろうとする! もう一人数え忘れてるぞ。左のほうをもっとよく見ろ……ほら……アンドレア・カヴァルカンティ君、ムリリョの聖処女を見ている、黒い服を着た青年だ、ほら振り返った」
ベルトゥチオは叫び声を上げかけたが、今度はモンテ・クリストの目がその声を唇の上で止まらせた。
「ベネデット!」彼は低くつぶやいた。「なんというめぐり合わせだ」
「六時半が鳴ってるぞ、ベルトゥチオ」伯爵が厳しく言った。「皆が食卓につけるよう命じておいた時間だ。私は待たされるのが嫌いだということは知っているね」
こう言ってモンテ・クリストは客が待っているサロンに入った。ベルトゥチオは壁につかまりながら、やっと食堂にたどり着いた。
五分後にサロンの二つのドアが開いた。ベルトゥチオが姿を現わし、シャンティイにおけるヴァテル〔大コンデ公の司厨長。公がシャンティイにルイ大王をお招きした夕食に、魚の到着が遅れたため責を負い自殺した〕のように最後の悲壮な勇気をふりしぼって、
「伯爵様、お食事の支度がととのいました」
と言った。
モンテ・クリストはヴィルフォール夫人に腕を与えた。
「ヴィルフォールさん、ダングラール男爵夫人のお相手をお願いいたします」
ヴィルフォールは伯爵の言葉に従った。皆は食堂に席を移した。
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六十三 晩餐《ばんさん》
食堂へ移るとき、客の誰もが同じ思いにかられていたのは明らかであった。自分たちをこの家に引き寄せたのは、いかなる奇怪な力によるものかとわが身に問いかけていたのだ。しかし、ここへ来てしまったことに、どれほどの驚き、いや、ひどい不安すら感じた者も、来なければよかったとは思っていなかった。
しかし、伯爵とのつきあいの日の浅いこと、常のものとは変わったその孤独な境遇、誰も実体を知らない夢のような財産のことを思えば、男たちは警戒心を起こして然るべきであったし、女たちは、客を迎える女性のいないこの家に足を踏み入れてはならぬと考えるべきだった。だが、男たちは警戒心を、女たちは社会のしきたりをそれぞれなおざりにしてしまった。抗しがたい力で胸をえぐる好奇心がすべてに優越したのである。
カヴァルカンティ父子に至るまで、一方はこちこちになり、一方はうきうきしていたけれども、誰一人として、どういう目的を持っているのか理解できないこの男の家に、自分たちが初対面の相手と一緒にいることに、奇異な感じを抱いているようには見えなかった。
ダングラール夫人は、モンテ・クリストに言われたヴィルフォールが、自分に腕を貸すために近づいて来たとき、びくっと身体を動かした。ヴィルフォールは、男爵夫人の腕が自分の腕にのせられるのを感じたとき、金縁の眼鏡の下の自分の目が動揺するのを意識した。
この二つの動きの、そのいずれをも伯爵は見逃さなかった。こうしてただちょっと二人の人間を触れ合わせてみるだけでも、この観察者にとっては、きわめておもしろい眺めだったのである。
ヴィルフォールの右がダングラール夫人、左がモレルの席であった。
伯爵はヴィルフォール夫人とダングラールの間に腰をおろした。その間の席は、カヴァルカンティ父子にはさまれたドブレと、ヴィルフォール夫人とモレルにはさまれたシャトー=ルノーによって埋められた。
食事は豪華なものであった。モンテ・クリストは努めてパリ流の調和を完全にくつがえした。客の食欲を満足させるよりは、好奇心を満足させる料理を出そうとした。出されたのは東洋風の食事であった。ただし、アラビアの仙女たちの食事もかくやと思われる類いの東洋風の料理であった。
ヨーロッパの豊作角《コルヌコーピア》〔果物や花を一杯につめた角。豊作の象徴〕を満たすため、無きずのまま世界各地からやって来る美味なあらゆる果物が、中国の鉢や日本の皿にピラミッド型に盛られている。見事に輝く羽毛をつけた珍しい鳥、銀盆に横たえられた奇怪な形の魚、エーゲ海、小アジア、希望峰の、奇妙な形をしたびんに入った、それを見れば味わいをいっそう増すように思える酒の数々。これらのものが、アピキウス〔ローマの有名な美食家〕がその客たちと共に眺めた珍味の行列のように、パリジャンたちの前に並んでいるのであった。客たちは、たった十人の晩餐でも、千ルイ〔一ルイは二十フラン〕かかることもあり得るのだと思うのだった。ただし、クレオパトラのように真珠を食べたり、ロレンツォ・ディ・メジチのように金を溶かして飲んだりすればの話だが。
モンテ・クリストは皆が驚いているのを見ると笑い出し、あからさまにからかい始めた。
「皆さん、これはお認め願えると思うのですが、富もある段階に達してしまうと、それ以上必要なものは、なくもがなのものしかありません。これはご婦人方もお認めいただけるでしょうが、感激もある段階にまで達してしまうと、あとはもう、確実に感じられるのは理想だけしかないのと同じではないでしょうか。ところで、この論をおし進めて行くと、驚異とは何でしょう。われわれが理解できぬものです。真に望ましい富とは何でしょう。われわれが手にすることのできぬ富です。さて、私が見ることのできないものを見、手に入れることのできないものを手に入れる、これが私の人生の課題なのです。私は二つの手段、つまり金と意志の力とによって、これを解決しています。私はなにか一つの気まぐれを起こすと、たとえばあなた、ダングラールさん、あなたが鉄道の新線をお作りになったり、ヴィルフォールさん、あなたが一人の男を死刑に処したり、ドブレさん、あなたがある王国に平和をもたらしたり、シャトー=ルノーさん、あなたがご婦人のご機嫌をとり結んだり、それからモレルさん、あなたが誰にも乗れない馬を乗りこなしたりするときと、まったく同じだけの忍耐心を発揮してその実現をはかるのです。ですから、たとえばこの二匹の魚をご覧下さい。一匹はペテルスブルグから五十里の所、もう一匹はナポリから五里の所でとれたものです。そんな二匹をこうして同じ食卓に並べてみるのも一興ではありませんか」
「で、何という魚なんですか」ダングラールが訊ねた。
「ロシアに住んだことのあるシャトー=ルノーさんがおられますから、シャト=ルノーさんが一匹の名前は教えて下さるでしょう。それから、イタリア人のカヴァルカンティ少佐がもう一匹の名前を」
「これは、コチョウザメと思います」シャトー=ルノーは言った。
「その通りです」
「それからそれは、ヤツメウナギではないでしょうか」カヴァルカンティが言った。
「まさにそうですよ。今度はダングラールさん、お二人に、この魚がどこでとれるかお訊《き》きになってごらんなさい」
「コチョウザメはヴォルガ河でしかとれません」シャトー=ルノーが言う。
「こんな大きさのヤツメウナギがとれる所は、私はフザロ湖しか知りません」カヴァルカンティが言う。
「まさに一方はヴォルガ河から、もう一方はフザロ湖から来ました」
「そんなことはできるはずがない」客がみな異口同音に叫んだ。
「ところが、それこそ私を楽しませるものなのです。私はネロと同じで、『不可能ヲ望ム者』なのです。それに、あなた方をも楽しませるものですよ。おそらくその魚の肉は、実際にはスズキやサケほどうまくはないでしょうが、それがすばらしくおいしいと感じてしまわれるでしょう。あなた方は手に入れることなどできないとお思いなのに、それがここにあるからです」
「それにしても、どうやってパリまでこの二匹を運んだのですか」
「なあに、いとも簡単なことです。二匹をそれぞれ大きな樽に入れて運んだのです。一方の樽にはヴォルガ河のアシや草を入れ、もう一方の樽にはフザロ湖の水草やイグサを入れましてね。特製の貨車にのせました。そのため、コチョウザメは十二日、ヤツメウナギは八日間生きていました。私の料理番がコチョウザメを牛乳、ヤツメウナギをブドー酒にひたして殺すまで、両方とも完全に生きていました。信用できませんかな、ダングラールさん」
「少なくとも疑いは残りますな」ダングラールはその野卑な笑いを浮かべながら答えた。
「バチスタン」モンテ・クリストが言った。「もう一匹のコチョウザメとヤツメウナギを持って来なさい。わかってるね、別の樽の、まだ生きているのを」
ダングラールは目をみはった。客たちは手を叩いた。
四人の召使いが、海草の入った二つの樽を運んで来た。そのおのおのに、食卓に供せられたのと同じ魚が入っていて、ぴちぴちしていた。
「なぜ二匹ずつ取り寄せたのですか」
「片方が死ぬかもしれないからです」モンテ・クリストが無造作に答えた。
「まったくあなたは途方もない方ですな。哲学者がなんと言おうと、金があるということはすばらしいことですよ」
「そういうことを思いつくというのがとくにすばらしいわ」ダングラール夫人が言った。
「いえ、これを思いついたのは私の手柄ではありません。ローマ人たちの間ですでに、大へんほめそやされていた思いつきなのです。プリニウス〔ローマの著述家〕が語っているところによると、奴隷たちにリレー式に、頭にのせた魚をオスティアからローマまで運ばせたということです。この魚は、プリニウスは『ムルス』と呼んでいますが、彼が書いた挿絵を見ると、どうやらタイではないかと思われます。生きたままのタイを手に入れるというのがまた贅沢《ぜいたく》なのであり、これが死ぬところを見るのがおもしろい眺めだったのです。というのは、死ぬ際に三、四回色が変わり、消えて行く虹のように、プリズムの七色の色合いを次々にたどったのです。その後で調理室にまわされました。その死ぬ真際の姿に価値の一部があったのです。生きているところを見られないのでは、死んでしまったものなど軽蔑されました」
「なるほど。しかしオスティアからローマまででは、七、八里しかありませんよ」ドブレが言った。
「ええ、それはその通りです。しかし、ルクルス〔ローマの武将〕から千八百年も経っているのですから、彼以上のことをしなければ、この年月のどこに価値がありますか」
カヴァルカンティ父子は大きな目をみはったが、口をきくような馬鹿なまねはしなかった。
「なにもかも見事なものです」シャトー=ルノーが言った。「しかし、正直に言って、私が一番すばらしいと思うのは、あなたの命令が実行されるそのすばらしい早さですよ。伯爵、あなたはこの家をほんの五、六日前にお買いになったというではありませんか」
「ええ、せいぜいそんなものです」
「だとすれば、一週間でこの家は徹底的に改造されてしまったわけですね。というのは、もし私の思い違いでなければ、門は別の所にあったし、中庭も、敷石が敷いてあってなにもなかった。それが今は、まわりに樹齢百年と思えるほどの大木の植わった芝生がある」
「いたし方ありませんな、私は緑と木陰が好きなもんですから」
「ほんとうに」ヴィルフォール夫人が言った。「以前は街道に面した門から入ったものですわ。私が奇蹟的に救けていただいたときも、たしか街道から私をお邸に運び入れて下さいました」
「ええ。ですがその後、鉄柵ごしにブーローニュの森が見える門のほうがいいと思いましてね」
「四日間で。それはすごい!」モレルが言った。
「まったく、古屋敷が新邸に変わってしまったんだから、これは奇蹟ですよ」シャトー=ルノーが言った。「ここの建物はひどく古くておまけに陰気でした。母に言われてここを見に来たときのことを覚えてます。二、三年前、サン=メラン侯爵がこれを売りに出したときです」
「サン=メランですって?」ヴィルフォール夫人が言った。「では、あなたがお買いになる前は、このお邸はサン=メラン侯爵のものでしたの?」
「そうのようですね」モンテ・クリストが答えた。
「まあ、ようですねなんて。あなたは誰からこの家をお買いになったのか、ご存じないんですの」
「存じません。細かいことは執事にやらせておりますから」
「たしかにこの邸は、少なくとも十年前から人が住んでいませんでした」シャトー=ルノーが言った。「鎧戸が閉まり、戸は閉ざされ、中庭に雑草が生えている姿は陰気そのものでしたよ。まったくのところ、これが検事閣下の岳父の持家でなかったら、なにか大へんな犯罪でも行なわれた幽霊屋敷と思われかねませんでしたね」
それまで、自分の前に置かれた珍しいブドウ酒の三つか四つのグラスにまったく手をふれなかったヴィルフォールが、行き当りばったりにその一つを掴むと、一息に飲みほした。
モンテ・クリストはそのまましばらく様子を見ていたが、シャトー=ルノーの話の後に続いた沈黙の中で、こう言った。
「これは不思議ですね、男爵。じつは私もここに初めて入ったときには、同じことを考えましたよ。この邸があまりにも陰鬱なので、執事が私のかわりに話をまとめたのでなければ、私は決して買いませんでしたよ。執事は公証人から鼻薬でもかがされたんでしょう」
「かもしれませんな」ヴィルフォールが無理に笑おうとしながら口ごもるように言った。「しかし、そんな買収の件は私にはまったく関係ありません。サン=メラン侯爵は、この家を売って孫娘の持参金の一部にしようとしたのです。三、四年前から住む者もなく、廃屋になりかけてましたからね」
今度はモレルが蒼くなった。
「とくにある部屋が」モンテ・クリストが続けた。「べつに見たところどうということはなく、ほかの部屋と変わりなく、赤い緞子が張られているのですが、私にはなぜかひどく悲劇的に思えたのです」
「どうしてですか、なぜ悲劇的なんですか」ドブレが訊ねた。
「本能的なものが説明できるものでしょうか」モンテ・クリストは言った。「なぜだかわからないが、自然に陰惨なものを感じてしまう場所というのが、ありはしませんか。過去の一連の追憶とか、今の時代、今いる場所にはまったく関係のない別の時代、別の場所にわれわれを誘ってしまう、気まぐれな夢想とかによって。が、とにかくあの部屋は、私にガンジュ侯爵夫人の部屋ないしはデズデモナの部屋をありありと思い出させるのです。おお、そうです、食事も終りましたから、その部屋をお見せしなけりゃいけませんね。その後で庭に降りて、コーヒーを飲みましょう。食事の後は見物というわけです」
モンテ・クリストは、いかがですか、というように客を眺めた。ヴィルフォール夫人が席を立った。モンテ・クリストもそうした。皆その例にならった。
ヴィルフォールとダングラール夫人は、しばらく席に釘づけになったようにしていた。二人は、冷たく、黙ったまま、凍りついたような目を見交わした。
「お聞きになって?」ダングラール夫人が言った。
「行かずばなるまい」ヴィルフォールは立ち上がり、夫人に腕をかしながら答えた。
皆はすでに好奇心にかられて邸内に散っていた。見せてもらうのはなにもその部屋だけではなく、モンテ・クリストが茅屋《ぼうおく》を宮殿に変えてしまったこの邸のほかの部分も同時に見て廻るのだろうと思っていたからである。だから、めいめいが開いたドアがあればそこに突進した。モンテ・クリストは遅れた二人を待っていた。そうして、二人が通りすぎると、もしその意味を理解できたら、これから入る部屋とは違った意味で客たちをぞっとさせたであろうようなうすら笑いを浮かべて、一番後からついて行った。
人々は実際に部屋々々を見て廻り始めた。ベッドのかわりに長椅子とクッションが置かれており、家具としてはパイプと武器しか飾ってない東洋風の部屋。サロンには、古い時代の巨匠たちの絵がかけられていた。寝室は、中国の布が張られていた。気まぐれな色彩、幻想的な模様の見事な織物であった。そして最後に、人々は例の部屋に入った。
とくに変わったところはなにもなかった。ただ、日がすでに落ちていたのに、この部屋には火が灯されておらず、ほかのすべての部屋が新たな装いをこらしているのに反して、この部屋だけは古ぼけた姿のままであった。
この二つだけで、この部屋になにか不吉な影を宿させるには十分であった。
「まあ、ほんとにぞっとするようですわ」ヴィルフォール夫人が言った。
ダングラール夫人はなにかつぶやこうとしたが声にならなかった。
さまざまな感想がのべられたが、その結論は、この赤い緞子を張った部屋はなにか不気味だということであった。
「いかがです」モンテ・クリストが言った。「この奇妙なベッドの位置、血の色をした陰気なこの壁布をご覧下さい。それに、湿気で色のさめたこのパステルの二つの肖像画は、蒼ざめた唇とおびえた目をして、『私は見た!』と言っているようではありませんか」
ヴィルフォールの顔は鉛色になり、ダングラール夫人は暖炉のそばにあった長椅子の上に坐りこんでしまった。
「あら」ヴィルフォール夫人が笑いながら言った。「ずいぶん勇気があるわね、その椅子に坐るなんて。その上で犯罪が行なわれたかもしれないのに」
ダングラール夫人はあわてて立ち上がった。
「それに」モンテ・クリストが言った。「これだけではないのです」
「まだ何かあるんですか」ダングラール夫人の動揺を見逃していなかったドブレが訊ねた。
「そう、まだ何かあるんですか」ダングラールが訊ねた。「今までのところでは、正直言ってそう大したこともないように思えますな。カヴァルカンティさんはいかがです」
「ああ、私どもの国には、ピサにウゴリノの塔、フェラーラにタッソーの牢獄、リミニにフランチェスカとパオロの部屋がありますからな」
「なるほど。しかし、この小さな階段はないでしょう」モンテ・クリストは、壁布のかげにかくれていたドアを開けた。「これを見て下さい。そしてご感想をうかがいましょう」
「気味の悪い妙な階段ですね」シャトー=ルノーが笑いながら言った。
「気が滅入ってしまうのはキオ〔エーゲ海にあるギリシアの島〕の酒のせいかな。が、この家全体が陰惨なものに見えるのは確かだ」ドブレが言った。
モレルは、ヴァランチーヌの持参金の話が出て以来、ずっとふさぎこんでいたので一言も口にしなかった。
「オセロかガンジュ師か、そんな人物が、神の目からはかくせなくとも、大急ぎで人目からはかくしてしまおうと気味の悪い荷物をかついで、暗い嵐の夜、この階段を一歩一歩降りて行った様子が目に浮かびませんか」
ダングラール夫人はヴィルフォールの腕にすがったまま半ば気を失った。ヴィルフォールも壁に背をもたせなければ立っていられなかった。
「あ、どうなさったんです、奥さん、ひどく顔色が悪い」ドブレが叫んだ。
「どうしたかっておっしゃるの?」ヴィルフォール夫人が言った。「簡単なことですわ。モンテ・クリスト様がこわい話ばかりなさるからよ。私たちを死ぬほどこわがらせようと思っておいでなんですわ」
「そうですよ、伯爵」ヴィルフォールが言った。「ご婦人方をこわがらせておいでだ」
「どうなさったんですか」ごく低い声でドブレがダングラール夫人にまた訊ねた。
「なんでもないの」夫人は不安をこらえながら答えた。「外の空気が吸いたくなっただけ」
「庭へお降りになりますか」ドブレは夫人に腕をかし、忍び階段のほうへ向かった。
「いえ、いいえ、ここにいたほうがいいわ」夫人が言った。
「奥さん、ほんとうにそんなにおびえてしまわれたんですか」モンテ・クリストが笑いながら言った。
「いいえ。でも、空想がまるで現実のように思えるような話し方をなさるんですもの」
「ああ、その通りですね」モンテ・クリストは笑った。「これはみな勝手な想像なんです。ですから、どうしてこの部屋を、やさしくて貞淑な母の部屋と考えないのでしょう。この真紅の布を張ったベッドにしても、女神ルキナ〔出産の女神〕の訪れたベッドと考え、この忍び階段も、産婦の疲労を回復させる睡眠をさまたげぬよう、医師なり乳母なりが通るのに使われたもの、あるいは父親が眠っている子供を抱いて通ったものと考えてもいいわけですね」
この安らかな描写に心を安んじるどころか、ダングラール夫人は呻き声を洩らすと、今度こそ完全に気を失ってしまった。
「ダングラール夫人は身体の具合がお悪いようだ。馬車へおつれせねばなるまい」
「あ、しまった、私は薬を忘れて来た」モンテ・クリストが言った。
「私のがありますわ」ヴィルフォール夫人が言った。
夫人はモンテ・クリストに小さなびんを渡した。伯爵がエドワールに試みて、すばらしい薬効を示した、あの赤い液体と同じものがいっぱいに入っていた。
「あ」ヴィルフォール夫人の手から壜《びん》を受け取りながらモンテ・クリストが言った。
「ええ、お教え下さった通りに作ってみましたの」夫人がつぶやいた。
「うまくできましたか」
「と思います」皆はダングラール夫人を隣の部屋に運んだ。モンテ・クリストがその唇に赤い液体を一滴たらすと、夫人は正気に返った。
「ああ、なんて恐ろしい夢を見たんでしょう」
ヴィルフォールは夫人の手を強く握りしめ、それが夢ではないことをわからせようとした。
人びとはダングラールを探した。だが、あまり詩的な感受性を持ち合わせぬダングラールは、すでに庭へ降りてしまい、リヴォルノ、フィレンツェ間の鉄道|敷設《ふせつ》計画についてカヴァルカンティの父親のほうと喋っていたのである。
モンテ・クリストは申し訳なく思っているようであった。彼はダングラール夫人の腕をとり、庭に案内した。ダングラールがカヴァルカンティ父子にはさまれてコーヒーを飲んでいた。
「奥さん、ほんとうに私はあなたをおびえさせてしまったのでしょうか」
「いいえ。でも、その時の精神状態如何でひどくおびえたりもするものですわ」
ヴィルフォールは無理に笑おうとした。
「ですから、これでおわかりでしょう」ヴィルフォールが言った。「単なる臆測、単なる空想だけで十分……」
「それが、お信じになるかどうかは別として、私はこの家で犯罪が行なわれたと確信しているのです」
「お気をつけ遊ばせ、ここには検事がおりますのよ」ヴィルフォール夫人が言った。
「その通りでした」モンテ・クリストは答えた。「ちょうどこうしてご一緒にいるのですから、この機会を利用して、供述いたしましょう」
「あなたが供述を?」ヴィルフォールが言った。
「ええ、証人の前で」
「これはおもしろい」ドブレが言った。「ほんとうに犯罪が行なわれたのだとすると、食後の腹ごなしにはうってつけだ」
「犯罪は実在しています」モンテ・クリストは言った。「皆さん、どうぞこちらへ。ヴィルフォールさん、おいでになって下さい。供述が効力を持つためには、それが所管の当局に対してなされたものでなければなりませんからね」
モンテ・クリストはヴィルフォールの腕をとり、と同時にダングラール夫人の腕も自分の腕でしめつけながら、闇の一段と濃い例のプラタナスの下まで検事を引っぱって行った。
ほかの客も皆その後に続いた。
「ほら、ここですよ、今立っているここです」モンテ・クリストはこう言って、足で地面を叩いた。「年老いてしまった木を若返らせようと思って、ここに私は腐葉土を入れさせたのです。ところが、職人たちが穴を掘ってみると、箱、いやむしろ箱の金具が出て来たのです。その真中に、新生児の骸骨がありました。これはまさか幻覚とはいえますまい」
モンテ・クリストにはダングラール夫人の腕がこわばり、ヴィルフォールのこぶしがふるえるのが感じられた。
「新生児?」ドブレが繰り返した。「いやこれはたいへんなことになってきたぞ」
「となると、さっき僕は、家にも人間と同じように心も顔もあり、家も心の中が顔に出るものだと言ったが、やはりその通りだった。この家が暗い顔をしていたのは、良心の苛責があったからだ。罪をかくしていたので良心に責められていたんだ」シャトー=ルノーが言った。
「ほう、これが犯罪だと誰がきめつけられますかな」ヴィルフォールは最後の努力をしながら言った。
「なんということをおっしゃる。新生児を生き埋めにする、これが犯罪ではないのですか」モンテ・クリストが叫んだ。「では、この行為を、検事閣下は何とお呼びになるのですか」
「生き埋めにされたときめつけるわけにはいきますまい」
「もし、すでに死んでいたのなら、なぜここに埋めたのですか。この庭は、いまだかつて墓地であったことはない」
「この国では嬰児殺しはどうなるのですか」カヴァルカンティ少佐が無邪気に訊ねた。
「そりゃもう、ばっさり首を切るだけですよ」ダングラールが答えた。
「ああ、ばっさりね」カヴァルカンティが言った。
「私もそう思います……そうでしたね、ヴィルフォールさん」モンテ・クリストが訊ねた。
「その通りです、伯爵」検事は人間のものとも思えぬ声音で答えた。
モンテ・クリストは、この場面を二人の人間のために用意しておいたのだが、これがその二人に耐えられる限度であることを見てとった。そして、あまり追いつめてしまわぬようにと、
「ところで、どうやらコーヒーのことを忘れていたようです」
彼はこう言うと、客たちを芝生の中央のテーブルに案内した。
「伯爵様、気の弱いところをお見せしてしまって恥ずかしいんですけれど、あまり恐ろしいお話をうかがったので、すっかり気もそぞろになってしまいました。すみませんけど腰をおろさせていただけませんこと」
言うなり、ダングラール夫人は椅子に腰を落とした。
モンテ・クリストは夫人に一礼し、ヴィルフォール夫人に近づいた。
「ダングラール夫人はまだあの薬が必要なように思いますよ」
しかし、ヴィルフォール夫人がその女友達に近づかぬうちに、検事はダングラール夫人の耳にこうささやいた。
「話しておかねばならないことがある」
「いつ」
「明日」
「どこで」
「私の部屋、よければ検察庁の。あそこが一番安全な場所だし」
「参ります」
このとき、ヴィルフォール夫人が近づいた。
「ありがとう」ダングラール夫人が、笑おうと努めながら言った。「もうなんでもないの。すっかりよくなったわ」
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六十四 乞食
夜は更けていった。ヴィルフォール夫人はパリヘ帰りたい意向を述べた。ダングラール夫人は、明らかに居心地の悪い思いをしていたのだが、帰りたいとは言えずにいたのだ。
妻に言われて、ヴィルフォールがいとまを告げる口火をきった。彼は、自分の妻がダングラール夫人を介抱できるようにと、ダングラール夫人に自分の四輪馬車の席をすすめた。ダングラールのほうは、カヴァルカンティとの鉄道事業の話に熱中していて、事態の進行にはまったく注意を向けていなかった。
モンテ・クリストは、ヴィルフォール夫人に薬を求めた際に、ヴィルフォールがダングラール夫人に近づいたのに気づいていた。ヴィルフォールはダングラール夫人さえ辛うじて聞きとれるほどの低い声で話したのであったが、その状況からして、ヴィルフォールが夫人に話した内容を見ぬいていた。
モンテ・クリストは、皆がそれぞれ帰り仕度をするのにいっさい反対もせず、モレル、ドブレ、シャトー=ルノーを馬で発たせ、ヴィルフォールの四輪馬車に二人の婦人を乗せた。一方、ダングラールは、ますますカヴァルカンティの父親に魅せられてしまい、自分の二人乗りの馬車に一緒に乗るようにすすめた。
アンドレア・カヴァルカンティは、門前で待っていた二輪馬車の所へ行った。やたらとけばけばしい英国風の身なりをした侍童が、鉄色に近い灰色の大きな馬を、長靴の爪先で背のびしながら抑えていた。
アンドレアは食事の間あまり喋らなかった。非常に頭のいい青年で、金も権力もある人たちの中で、なにか馬鹿なことを言ってしまいはせぬかと恐れたためであるし、また、その見開かれた目が、客の中の検事を恐怖心なしには見ることができなかったせいでもあろう。
それに、彼はダングラールに掴まってしまったのだ。ダングラールは、硬直した首を持つ老少佐と、まだいくらかおどおどしているその息子を一瞥し、モンテ・クリストが丁重にもてなしている様子を思い合わせて、この相手は、パリの社交界で一人息子の教育の仕上げをするためにパリヘやって来た大金持ちだと思いこんでしまったのである。
だからダングラールは、少佐の小指に輝くダイヤを、至極満悦のていで眺めたのであった。少佐は世故に長《た》け、用心深い男だったので、貰った札になにごとかあってはとの恐れから、直ちに金目のものに換えたのである。食事が済んでからも工業とか旅行の話にかこつけて、ダングラールは父子にその暮らしぶりを訊ねたのだった。父子は、一方は四万八千フランの一時金が、他方は五万フランの年金がこのダングラールの銀行から支払われると知らされていたので、銀行家に対して、愛想のいい笑顔をふりまきながら応対した。許されることなら、銀行家の召使いたちの手さえ握りしめたかったほど二人はダングラールヘの感謝の意を表わしたい気持ちにかられていたのだ。
ある一つの事が、とりわけダングラールのカヴァルカンティヘの尊敬の念、畏敬とさえいえるほどのものをかきたてた。カヴァルカンティは、ホラチウスのあの『何事ニモ関心ヲ示サズ』との、格言を守ってすでにわれわれが見たように、最良のヤツメウナギはどの湖でとれるかを述べることによって、学識の片鱗を示すにとどめたのであった。それから一言も言わずに、ヤツメウナギの自分の分を食べたのである。これを見たダングラールは、この程度の贅沢は、高名なカヴァルカンティ家の子孫には日常茶飯のことで、ルッカでは、モンテ・クリストがフザロ湖のヤツメウナギ、ヴォルガ河のコチョウザメを取り寄せるのに用いたと同じ方法で、スイスから取り寄せたマス、ブルターニュから送られたイセエビを毎日食べているのだという結論を下してしまったのである。だから彼は、カヴァルカンティが言った、
「明日、事務的なことで参上したいと思います」という言葉を、好意を満面に表わして歓迎したのであった。
「喜んでお迎えいたします」ダングラールはこう答えた。
その上、彼はカヴァルカンティに対して、もしご子息と別々になるのがさほど辛くなければ、プリンス・ホテルまでお送りしようとまで言ったのである。
カヴァルカンティは、息子はもうずっと以前から若者としての暮らしをしており、したがって自分の馬も馬車も持っているし、来るときも一緒に来たわけではないから、別々に帰ることになんら支障はないと思うと答えた。
こういうわけで少佐はダングラールの馬車に乗り、銀行家はそのわきに腰をおろしたが、息子に年五万フラン与えるということは、年利五、六十万フランになる資産を予想させるのに、この男が几帳面で節約を旨とする考えを持っていることにますます感心していた。
アンドレアのほうは、偉そうな様子を見せようと、侍童を叱り始めた。正面階段の所まで来ないで門前で待っていたために、馬車まで三十歩歩かねばならなかったというのである。
侍童はおとなしく小言を聞き、いらだち足を踏みならしている馬を抑えるために左手でくつわをとり、右手で手綱をアンドレアにさし出した。アンドレアは手綱をとり、足どりも軽く、エナメルの長靴を踏段にのせた。
このとき、一つの手が彼の肩におかれた。青年は、ダングラールかモンテ・クリストがなにか言い忘れたことがあって、帰る間際にそれを言いに来たものと思い、振り返った。
だが、彼が見たものは、そのどちらでもなく、日に焼けたひげむくじゃらの異様な顔であった。紅玉のようにぎらぎら光る目、口辺にただよううすら笑い。その口には、ただの一本も欠けることなく、狼やジャッカルの歯のような、飢えた、白く鋭い三十二本の歯が並んでいた。
赤い格子縞のスカーフが、ほこりまみれで灰色の髪の頭を包んでいる。骸骨のように歩けばガチャガチャ音でもしそうな、痩せて骨ばった長身の身体には、垢《あか》だらけのぼろぼろな作業服をまとっている。アンドレアの肩におかれ、彼が最初に見たその手は、ひどく大きいものに思えた。馬車の角燈の光で見たその顔に見憶えがあったのか、それとも相手のこのおぞましい姿に驚いただけだったのか、それはいずれわかるが、とにかく青年はびくっとして、とびのいた。
「何か僕に用か」彼は言った。
「申し訳ありやせん、旦那」男は赤いスカーフに手をやりながら答えた。「お邪魔でしょうが、ちょっとお話があるんで」
「夜もの乞いなんかする奴があるか」侍童が、このしつこい男から主人を解放しようとした。
「あっしは乞食じゃねえよ、坊や」見知らぬ男は皮肉な笑いを浮かべて侍童に言った。そのぞっとするような笑いに、侍童は身を遠ざけた。「あっしはお前さんの旦那に二週間ばかり前に用を頼まれたんで、二言三言お話がしてえだけさ」
「さあ」今度はアンドレアが侍童に心の動揺を気づかれぬよう、力をこめて言った。「何が言いたいんだ、早く言いたまえ」
「あっしはね……、じつは……」赤スカーフの男はごく低い声で言った。「パリまで歩いて帰らなくてもすむようにしてもらいてえんで。ひどく疲れてるんでさ。あんたみてえにたらふく晩飯を食っちゃいねえもんだから、立ってるのがやっとなんだ」
青年はこの奇怪ななれなれしさに身ぶるいした。
「とにかく、どうしろというんだ」
「つまり、あんたのその立派な馬車に乗せて、送ってってもらいてえんだよ」
アンドレアはまっ青になったが、一言も答えなかった。
「そうともさ」赤スカーフの男はポケットに手をつっこみ、挑むような目で青年をみつめながら言った。「俺が考えてるのはそれさ。わかったか、ベネデット」
この名前を聞いて、青年は思いをめぐらせたらしい。彼は侍童のそばへ行き、こう言った。
「この男は、たしかに私が頼んだ用のことで私に報告に来たのだ。お前はパリの入口まで徒歩で行け。あまり遅くならぬようそこで馬車を拾え」
あっけにとられたまま、侍童は遠ざかって行った。
「せめて暗い所へ行かせてくれ」アンドレアが言った。
「おお、それなら俺がいい所へつれてってやらあ、待ちな」
赤スカーフの男はこう言って、馬のくつわをとり、二輪馬車を、たしかにそこならば、アンドレアがその男の言いなりになっているのが誰にも見られないですむ場所へ導いた。
「俺は別に、そんな立派な馬車にただ見栄や外聞で乗りたいわけじゃねえ。ただ疲れちまってるし、それにほんの少しばかりあんたに話してえことがあるだけなんで」
「さあ、乗れ」青年が言った。
昼間でないのが残念であった。二輪馬車の手綱をとる若く粋な青年のかたわらの、錦織のクッションの上に悠然と腰をおろしたこの乞食の姿は、まことに珍奇な眺めにちがいなかったからである。
アンドレアはつれの男に一言も口をきかずに、オートゥイユの家並の切れる所まで馬を進めた。男のほうも、そんなすばらしい馬車に乗っての散策にうっとりしているかのように、にやにやしながら沈黙を守っていた。
オートゥイユを出ると、アンドレアは、あたりを見廻し、誰にも姿を見られず立ち聞きもされていないことを確かめた。それから馬を止め、赤スカーフの男の前で腕を組んだ。
「なんだって僕の暮らしに波風を立てに来たんだ」アンドレアが言った。
「お前のほうこそ、なんだって俺を信用しねえんだ」
「僕がどう信用しないって言うんだ」
「どうだと? それを俺に訊くのか。俺たちはヴァールの橋んとこで別れたが、お前は俺に、ピエモンテかトスカナに行くって言ったじゃねえか。なのにお前はパリに来た」
「それがどうしてお前の損になるっていうんだ」
「損になんかなりやしねえ。それどころか、ありがてえことになるとさえ思ってる」
「は、はあ、つまり僕を金づるにしようというんだな」
「何を言うんだ。そいつはひでえ言い方だぜ」
「とんだ了見違いだ、カドルッス。はっきりことわっておく」
「まあ、そうむきになるなよ、坊主。だがお前だって、貧乏ってものの味は知ってるじゃねえか。貧乏ってやつは、人を妬《ねた》みぶかくするもんなんだ。俺はお前がピエモンテかトスカナで荷物運びかガイドをやってると思ってた。俺は心の底からお前を可哀そうだと思ってたんだ、まるで自分の伜みてえにな。俺がいつでもお前を、伜と呼んでたのを覚えてるだろう」
「だから、それから」
「まあ、落ち着け、きかねえやつだ」
「落ち着いてるさ、最後まで言ってみろ」
「ところが、ボン=ゾムの門を、侍童をつれ、二輪馬車に乗り、すげえ新品の服を着こんだお前が通るじゃねえか。いったいお前、鉱山でもみつけたのか、それとも仲買人の株でも買ったのか」
「そこで、さっき自分で言ったように、妬ましくなったってわけだな」
「いや違う。俺はうれしかったんだ。あんまりうれしかったんで、おめでとうの一つも言いてえと思ったのさ。だが、ちゃんとした身なりをしてねえんで、お前に迷惑がかかっちゃいけねえと思って、ちっとばかし気をつけたんだ」
「大した気のつけ方だ、使用人の前で話しかけるんだからな」
「仕方がねえじゃねえか。お前を掴まえられるときに話しかけただけよ。お前はおっそろしく威勢のいい馬を持ってる、馬車は軽いときてら。お前は当然のことにウナギみてえにするりと逃げちまわあ。今晩逃がしたら、もうこれっきり会えねえかもしれねえ」
「僕は逃げかくれなぞしない」
「お前は幸せだよ、俺もそう言いてえや。だが、俺は人目を忍ぶ身だ。もしかしたら、俺が誰だかわかっちゃもらえねえと思ってたぜ。だが覚えててくれた」カドルッスはあの性悪な笑いを浮かべながらつけ加えた。「お前はまったくいいやつだ」
「さあ、何が欲しい」
「以前のように親しい口はきかねえな。そいつは悪い了見だぜ、ベネデット。古い仲間じゃねえか。気をつけろよ、さもねえと、こっちもちっと欲が深くなるぜ」
この脅迫が青年の怒りをなえさせてしまった。身動きできなくする風がその上を吹き抜けたのである。
彼はまた馬を走らせた。
「あんたこそよくないよ、カドルッス、自分で古い仲間と言っておきながら、その仲間にあんな態度をとるなんて。あんたがマルセーユ生まれなら、俺は……」
「じゃあ、自分の素姓をわきまえてるってんだな」
「そうじゃない、俺はコルシカで育った。あんたが年寄りで頑固なら、俺は若くて強情だ。俺たちのような間では、脅迫なんてのはよくないな。ものごとすべて、愛想よく運ばなきゃ。あんたにとってよくない運が、俺にとってよくたって、こいつは俺のせいじゃないだろ」
「するてえと、お前は運がいいってわけだな。あの侍童も、二輪馬車も、その身なりも、みんな借物じゃねえんだな。こいつはいいや」カドルッスは欲に目をぎらつかせた。
「よくよくわかってるくせに。なにしろ話しかけて来たんだから」アンドレアは次第にいらだって来た。「もし俺が頭にあんたみたいにスカーフを巻いて、垢《あか》だらけの作業服をひっかけ、穴のあいた靴をはいてたら、あんたは知らん顔してただろうよ」
「俺を蔑《さげす》んでるじゃねえか、坊主、そいつはよくねえぜ。お前にこうしてめぐり会えたからにゃ、俺だって一人前の身なりができるってわけだ、お前はやさしい子だからな。お前は服を二着持ってりゃ、大丈夫一着は俺にくれるはずだ。この俺は、お前がえらくひもじい思いをしてるときにゃ、俺のスープといんげん豆をわけてやったもんだぜ」
「そうだったね」
「まったく大食いなやつだった。今でも大食いか」
「そうだよ」アンドレアは笑った。
「さっきお前が出て来たあの王侯のお邸でも、うんと食ったんだろうなあ」
「王侯じゃない、伯爵だよ」
「伯爵か、金持ちだな?」
「うん、だが当てにはしないほうがいいよ、とっつきいい相手じゃなさそうだ」
「まあまあ、心配するんじゃねえ。べつにお前の伯爵様にどうこうしようってこんたんはねえ。お前一人のものにしとくよ。だがな」カドルッスは、前にも彼の唇をかすめた例の性悪な笑みを浮かべて、「そのためには、ただってわけにはいかねえ、わかるな」
「どうしろって言うんだ」
「月に百フランありゃあ、たぶん」
「たぶん?」
「生きていける」
「百フランで?」
「かつかつだ、わかるな。だが……」
「だが」
「百五十ありゃあ、おんの字だ」
「二百フランやるよ」アンドレアはルイ金貨十枚をカドルッスの手においた。
「ありがてえ」
「毎月一日に門番の所へ来なよ、二百フラン渡しとくから」
「なんだ、また侮辱するじゃねえか」
「どうして」
「奉公人ふぜいに俺の相手をさせようってのか。いや、いいか、俺はお前しか相手にしねえぞ」
「わかったよ。俺を呼んでくれ、毎月一日に、俺の年金が続く限り、あんたも金が受け取れる」
「よしよし、やっぱり俺のめがねちがいじゃなかった。お前はいい子だ。お前のようなやつに幸運が舞いこむのは神のお恵みってもんだ。さてと、お前の幸運てのを聞こうじゃねえか」
「なぜそんなことを知る必要があるんだ」カヴァルカンティは訊ねた。
「ちぇっ、また警戒しやがる」
「そうじゃないさ。それじゃ言うけど、親爺がみつかったんだよ」
「ほんとのか」
「ふん、金をくれる間はね」
「ほんものと思い、敬い奉るってわけか。そいつは当然至極だ。で、親爺の名は何てんだ」
「カヴァルカンティ少佐」
「で、お前に満足してるのか」
「今までんとこは、俺で十分らしいや」
「その親爺をみつけてくれたのは誰だ」
「モンテ・クリスト伯爵」
「さっき出て来たお邸のか」
「うん」
「なあおい、俺をお祖父さんというふれこみで、伯爵んとこへ世話してくれねえか。大勢使ってるらしいからな」
「わかった、話してやるよ。だけど、それまでどうする気だい」
「俺がか」
「うん」
「そんなことまで考えてくれるたあありがてえぜ」
「あんたが俺のことを考えていてくれるらしいから、こっちもそっちのことを気にしても当り前だろ」
「ちげえねえ……俺はな、まともな家に部屋を借りてきちんとした身なりをし、毎日ひげをそって、カフェーへ新聞を読みに行く。夜はシルクハットをかぶって芝居を見に行く。隠居したパン屋の旦那といったあんばいだ。これが俺の夢よ」
「それはいい。それをほんとうに実行して、神妙にしてりゃ、なにもかもうまく行く」
「そうでやしょう、ボシュエ様〔フランス十七世紀の司教、説教家〕。で、お前はなんになるつもりだ……貴族院議員か」
「そんなことわかるもんか」
「カヴァルカンティ少佐殿はそうなんだろうな……だがまずいことに世襲制度は廃止になっちまった」
「政治の話なんかやめろ、カドルッス。さ、もう欲しいものは受け取ったんだし、パリにも着いた。馬車からとび降りて、消えろよ」
「そうはいかねえ」
「どうして、そうはいかねえ、だ」
「考えてもみろ、坊主。頭にゃ赤スカーフ、はだし同然で、身分証明書も持っちゃいねえ、しかも、ポケットにはそれまであったものを別にしても、ナポレオン金貨が十枚も入ってら、二百フランだぜ。まちがいなく市の入口でとっつかまらあな。そうなりゃ、身の証しを立てるため、俺は、この十枚のナポレオン金貨はお前から貰ったと言わなきゃなるめえ。そうすりゃ、手配だ証拠調べだってことになる。俺が、さよならも言わずにツーロンをおさらばしたことがばれちまって、警察から警察へと地中海の海岸までまた逆戻りさせられちまう。ああもこうもなく囚人一〇六号に舞い戻りだ。パン屋の隠居とすましこむ夢もおさらばだ。そうはいかねえんだよ、坊主、俺はこのままパリにいてまともな暮らしがしてえ」
アンドレアは眉をひそめた。カヴァルカンティ少佐の嫡男と目されている男は、自分でもそれを誇っているように、かなり悪賢い男であった。彼は一瞬馬車を止め、すばやくあたりに視線を走らせた。そのさぐるような目が一わたりぐるりを見終ると、彼の手はさり気なくポケットにすべりこみ、ピストルの用心金をなで始めた。
だがこの間に、つれから目を離さなかったカドルッスも、背中に手を廻し、万一のために身につけていた、長いスペイン・ナイフの刃を、そっと出していた。
おわかりの通り、この二人の友は、互いの気持ちをまことによく理解し合える友で、直ちに相手の心を察したのである。アンドレアの手は、武器を持たずにポケットから出て、赤い口ひげの所へ行き、しばらくひげをなでていた。
「わかった、カドルッス。それであんたは幸せになれるんだね」
「できるだけやってみる」ポン・デュ・ガール亭の亭主は、ナイフの刃を柄の中におさめながら答えた。
「よし、それじゃパリに入ろう。だがどうやって怪しまれずに市門を通る? そのなりじゃ、歩いてるより馬車に乗ってるほうが怪しまれるぜ」
「待ちな、今にわかる」
こう言ってカドルッスは、アンドレアの帽子をとり、侍童が馬車から追い払われた際に自分の座席に残して行った、大きな襟のついたマントを取り上げると、それを肩にひっかけた。それから、主人自ら手綱をとっている馬車の、良家の召使いのあのしかつめらしいポーズをとった。
「俺はどうするんだ。帽子なしのままか」
「ふん、帽子をとばされてもおかしくねえぐらいの風は吹いてるぜ」
「驚いたな、いい加減にしろ」
「誰が馬車を止めろと言った。俺じゃねえはずだ」
「しーッ」
馬車は無事市門を通過した。
最初の通りの角でアンドレアは馬車を止めた。カドルッスは馬車からとび降りた。
「おい、召使いのマントと俺の帽子はどうしたんだ」
「まさか俺に風邪をひかす気はねえんだろ」
「しかし俺はどうなる」
「お前か、お前は若えし、俺のほうはもう年寄りだ。また会おうせ、ベネデット」
言うなり彼は路地に入ってしまい姿を消した。
「ああ」吐息を洩らしながらアンドレアはつぶやいた。「この世じゃ、完全に幸せってわけにはいかねえんだな」
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六十五 夫婦喧嘩
三人の青年たちはルイ十五世広場の所で別れた。つまりモレルは大通りを行き、シャトー=ルノーは革命橋を渡り、ドブレは河岸をたどった。
モレルとシャトー=ルノーは、議会のすぐれた演説の中、およびリシュリュー通りの劇場で上演されるよく書けた芝居の中で今なお用いられている言葉で言えば、それぞれの≪家庭≫にそのまま戻ったと考えられるが、ドブレはそうではなかった。ルーヴルのアーケードの前まで来ると左に折れ、カルーゼル広場を全速力で横切り、サン=ロッシュ通りに入り、ラ・ミショディエール通りから出て、ダングラールの邸の門前に着いた。このときちょうどヴィルフォールの馬車が、ヴィルフォール夫妻をフォーブール・サン=トノレに降ろした後、男爵夫人を自宅に送るためにその門前に止まったところであった。
ドブレはこの邸の常連らしく、真先に中庭に入り、手綱を従僕に投げ渡してから、ダングラール夫人を迎えるために馬車の扉の所に戻り、部屋に入る夫人に腕を与えた。門が閉まり、夫人とドブレとが中庭に入るとドブレが早速こう言った。
「エルミーヌ、どうしたんですか。伯爵のあんな話、いやあんなたわいもない作り話に、あんなに参ってしまうなんて」
「私、今晩はひどく身体の調子が悪いからよ」男爵夫人は答えた。
「そんなことはない、エルミーヌ。僕はそんなことは信じませんよ。伯爵の邸に着いたとき、あなたはあんなに元気だった。ダングラール氏はたしかに多少不機嫌だった。だけど、あの人の不機嫌なんかで、あなたがどうってことないことぐらい、僕はちゃんと知ってますよ。誰かがあなたに何かをしたんだ。そのことを話して下さい。誰かがあなたに無礼なまねをしたら、僕がそれを許してはおかぬことはあなたも知っているはずです」
「そうじゃないのよ、リュシヤン。ほんとうにさっき言った通りなの。それに、あなたもお気づきになった主人の不機嫌が重なっちまったもんだから。そんなことあなたにお話しするまでもないと思ったのよ」
ダングラール夫人が、女というものが自分でも気づくことのできない神経過敏な状態に陥っているか、あるいは、ドブレが感づいていたように、誰にも打ち明けたくないなにか非常なショックに見舞われたことは明らかであった。一時的に逆上するのも、女性の生活の一部をなす要素であるとわきまえているドブレは、それ以上しつこくは訊かなかった。改めて訊ねてみるなり、自発的に話させるなり適当な機会を待つことにしたのである。
自分の部屋のドアの所で、男爵夫人はコルネリーに出会った。
コルネリーは夫人のお気に入りの侍女であった。
「ウジェニーは何をしてるの」夫人が訊ねた。
「夜ずっと勉強なさってましたが、もうおやすみになりました」
「でも、ピアノが聞こえるようだけど」
「あれはルイーズ・ダルミイー様が、お嬢さまがおやすみになっている間、弾いておられるのです」
「そう。私の着替えを手伝ってちょうだい」
三人は寝室に入った。ドブレは大きな長椅子の上にねそべった。ダングラール夫人はコルネリーをつれて化粧室に入った。
「リュシヤン」夫人が化粧室のドアごしに声をかける。「あなたいつも、ウジェニーがあなたに声もかけないと、不服に思っておいででしょう」
「奥さん」リュシヤンは、夫人の小さな犬とふざけながら答えた。犬のほうも彼をこの家の友人だと心得ていたので、さかんにリュシヤンにじゃれついていた。「それは僕だけじゃないでしょう。モルセールが、フィアンセから一言も言葉をかけてもらえないとあなたに洩らしているのをいつか聞いたように思います」
「その通りよ、でも近いうちに様子が変わると思うわ。あなたのお役所にウジェニーが行くはずだから」
「僕の所へ?」
「つまり大臣の所へね」
「どうしてです」
「オペラ座に入れてもらえないかってお願いするためによ。ほんとにあんな音楽気違いは見たことがないわ。社交界の娘にしては少しおかしいわよ」
ドブレは笑った。
「もし男爵と奥さんの同意を得ておいでになるのなら、その契約をしますよ。できるだけお嬢さんの能力にふさわしい条件で契約するようにします。お嬢さんのような立派な才能にふさわしい金を払うにしては、政府はあまりにも貧乏ですがね」
「コルネリー、もう退ってもいいわ」
コルネリーが姿を消し、すぐにダングラール夫人がしゃれたネグリジェ姿で化粧室から出て来て、リュシヤンのわきに腰をおろした。
それから、なにかを夢想するような様子で、小さなスパニエルを愛撫し始めた。
リュシヤンはしばらく黙ってその姿を見ていた。
「ねえ、エルミーヌ」やがて彼は言った。「正直に答えてくれないか、なにか気にさわったことがあったんだね」
「べつに」男爵夫人はこう答えたが、息がつまっていたので、立ち上がり、息をしてから、鏡に自分を映してみた。
「今夜はひどい顔をしてるわ」
ドブレは、そんなことはないと言ってやるために、微笑みながら立ち上がりかけた。と、いきなりドアが開いた。
ダングラールが現われたのだ。ドブレは浮かしかけた腰をおろした。
ドアの音に夫人は振り向き、驚きの色をかくそうともせずに夫を見た。
「やあ、どうかね」銀行家は言った。「今晩は、ドブレさん」
夫人は、こうして思いがけなく夫がやって来たのにはなにか意味があると思った。たとえば、昼間口にしてしまった辛辣な言葉をとりつくろうためといったような。
夫人は威厳のある態度をとり、夫には答えずにリュシヤンのほうを向き、
「なにか読んで下さらない、ドブレさん」
ドブレは、はじめはダングラールが来たことに一まつの不安を感じたのが、夫人が落ち着いているのに気をとり直して、金を象眼した真珠母の刃のついたナイフが中ほどの所にはさんである一冊の本のほうに手をのばした。
「失礼だが、お前もこんなに遅くまで起きていては疲れるだろう、十一時だ。それにドブレさんは家も遠いことだから」銀行家が言った。
ドブレはあっけにとられた。ダングラールの声音が、落ち着いた礼儀正しいものでなかったからではない。その落ち着いた礼儀正しい声音の中に、今夜は妻の意向とは違うこともしようとする、ふだんとは違う意志を見たからである。
夫人も驚いた。そしてそれを目の色に表わした。もし夫が、国債の終り値を探して新聞に目をそそいでいなければ、夫人のその目は夫に考え直させたにちがいない。
そんなわけで、この目も完全に的がはずれ、まったく力を発揮することができなかった。
「リュシヤンさん」夫人が言った。「申し上げときますけど、私は少しも眠くありませんの。お話ししたいことが山ほどありますから、たとえあなたが立ったまま居眠りなさるようなことがあっても、徹夜で話を聞いていただきますからね」
「仰せのままです」リュシヤンは平然として答えた。
「ドブレさん、今夜家内のたわ言なぞ聞くのにそんなひどい思いはなさらないで下さい。明日聞いてやってくれませんか。ですが、今夜は私がいただきます、今夜は私にお譲り願います。お許しいただければ、今夜家内と大へん重大な問題を話し合いたいので」
今度のこの攻撃は、直截《ちょくさい》かつあまりにも真向からのものだったので、リュシヤンと夫人は茫然としてしまった。この攻撃に対して互いに救いを求めるかのように、二人は目を見交わした。だが、一家の主としての権威が勝利をおさめ、勝負は夫のものであった。
「あなたを追い払うなどとは思わないで下さいよ、ドブレさん」ダングラールが続けた。「そんなつもりはまったくないのですから。思いがけないことが起きて、どうしても今夜中に家内と話をしなければならなくなったのです。こんなことはめったにないことなんで、悪く思わないで下さい」
ドブレは口の中で二言三言もごもご言うと、一礼して『アタリー』〔ラシーヌの悲劇〕のマタンのように、ほうぼうの角にぶつかりながら外へ出た。
「信じられないなあ」自分の背後でドアが閉まったとき、彼はつぶやいた。「さんざん笑いものにしてた亭主どもが、こんなに簡単に俺たちより偉くなっちまうなんて」
リュシヤンが行ってしまうと、ダングラールは長椅子のリュシヤンが坐っていた所に腰を据え、おっそろしく気取ったポーズをとってやはり犬とふざけようとした。しかし、ダングラールに対しては、ドブレに対するほどの親近感を持っていなかった犬が咬みつこうとしたので、彼は首の皮をつまんで部屋の向こう側の長椅子の上に持って行った。
つれて行かれる間、犬は悲鳴を上げたが、椅子に置かれると、クッションのかげに小さくなった。ふだん受けたことのないこの取り扱いにどぎもを抜かれて、あとはじっと黙ったまま、身動き一つしなかった。
「あなた」眉ひとつ動かさずに夫人が言った。「ずいぶん進歩なさったのね。ふだんは野卑なだけでしたけど、今夜は野蛮ですわ」
「今夜はふだんより機嫌が悪いからだ」
エルミーヌはありったけの軽蔑の念をこめて銀行家を見据えた。ふだんならば、この目つきが自尊心の強いダングラールを憤激させるところなのだが、その夜は、彼は気にもとめぬようであった。
「あなたがご機嫌が悪いからって、それが私にとってどうだっておっしゃるの」夫が平然としていることにいら立って、夫人が言い返した。「そんなこと、私に関係がありまして? あなたの不機嫌など、あなたのお部屋に閉じこめておいたらいかが。さもなきゃ、事務所にお預けになるのね。ちゃんとお金をお払いになってる店員がいるんですから、不機嫌とやらはその人たちに持ってけばよろしいわ」
「いや、お言葉だが、それはまちがっとる。だから私はそのお言葉には従わぬ。たしかデムーティエ氏が言ってたが、事務所は私のパクトールの河〔リディアの河。砂金を産した。現在では富の源泉を意味する〕だ。その流れを変えたり、平和を乱したりはしたくない。私の店員たちはまともな連中で、私に金を儲けさせてくれる。彼らが稼いでくれるものを正当に評価したら、私が払っている給料は、彼らの値打ち相応というにはあまりにも少なすぎる。だから、私は彼らに怒りをぶちまけるようなことはせぬ。私が怒りをぶちまける相手は、私の家の飯を食い、私の馬を台なしにし、私の金庫を空にする連中だ」
「では、そのあなたの金庫を空にする連中というのは、いったい誰ですの。はっきりおっしゃっていただきたいわ」
「いや、ご心配なく。謎めいた言い方をしても、そう長いこと、誰かしら、と考えさせはせぬよ。金庫を空にするやつらというのは、たった一時間のうちに五十万フランもそこから引き出すやつらのことだ」
「おっしゃる意味がわかりませんわ」夫人は、声がふるえるのと顔が赤らむのをかくそうとしながら答えた。
「いや、その逆によくわかっているのさ。が、もしあくまでもわからんふりをしようというのなら言ってやるが、私はスペイン債で七十万フランすってしまったのだ」
「まあ」嘲笑うように夫人が言った。「その損を私のせいになさろうとするんですか」
「当り前じゃないか」
「あなたが七十万フラン損をなすったのは、私のせいでしょうか」
「いずれにしろ、私のせいではない」
「これを最後に一度だけ申し上げておきますけど」夫人が辛辣に言った。「私の前では絶対に金庫のことなど口にしないで下さい。そんな言葉は、両親の家でも、前の主人の家でも、私は聞いたおぼえはございません」
「それはそうだろうな、たしかに。その人たちはいずれも一文なしだったからな」
「それだからこそ、この家で私の耳を朝から晩まで引き裂くような銀行の下卑な言葉を、あの人たちの所では覚えずにすんだんです。なん回もなん回も数えてる金貨のあの音、私はぞっとするわ。それにもまして耳ざわりな音といったら、あなたの声ぐらいしか私は聞いたことはありませんからね」
「ほう、これはまったく不思議だ。私は、お前は私の事業にいたく関心を持っておると思ったがね」
「あたくしが! いったい誰がそんな馬鹿らしいことをあなたに信じこませたんですか」
「お前自身だよ」
「まあ、なんてことを!」
「いや、まちがいない」
「いったいどんな時にそんなことをしたか教えていただきたいもんだわ」
「いいとも、いともたやすいことだ。二月だった。お前が先にハイチ債のことを言いだした。ル・アーヴルに入った船が、無期延期になったと思われていたこの債券の支払いが近く行なわれるというニュースをもたらした夢を見たと言ってた。私はお前の夢がよく当るのを知っていたから、ひそかにハイチ債をできるだけ買い集めさせた。そして四十万フラン儲け、そのうち十万フランをきちんとお前に渡した。その金をお前は好きなように使った。そんなことは私には関係のないことだ。
三月、鉄道の営業権の入札があった。三つの会社がそれぞれ同額の保証金を積んだ。お前は、私の勘《かん》ではミディという会社にその権利が落ちそうだと言った。お前は投機にはまったく素人だと言っておるが、私はお前の勘《かん》は、ある種のことに関してはじつにさえていると思っている。
私は即座にこの会社の株の三分の二を買った。はたして権利はこの会社に与えられ、お前の予想通りに、株価は三倍になった。私は百万フランの金を手にし、そのうちの二十五万フランがお小遣いという名目でお前の手に渡された。その二十五万フランをお前はどう使った」
「いったい、何がおっしゃりたいの」腹立たしさ、いら立たしさに全身をわななかせながら夫人が叫んだ。
「まあ待ちなさい、もうすぐだ」
「結構だこと!」
「四月、お前は大臣の家に夕食に呼ばれた。スペインのことが話題になり、お前は秘密の話を聞いてしまった。ドン・カルロス追放の件だった。私はスペイン債を買った。追放が実際に行なわれ、シャルル五世がビダリア河〔スペインとフランスの国境線をなす河〕を再び越えた日、私は六十万フラン儲けた。この六十万フランのうち、お前は五万エキュ〔十五万フラン〕を手にした。この金はお前のもので、お前は勝手にそれを処分した。私はその金の使い道など聞こうとは思わない。だが、いずれにしてもお前が今年五十万フラン受け取ったことはたしかだ」
「それから?」
「そうとも、それからだ! まさにそれからだよ、うまく行かなくなるのは」
「あなたの喋り方を聞いていると……ほんとに……」
「私の喋り方は、私の考えをそのまま表わしている。私にはそれだけでたくさんだよ。それから、つまり、そのそれからというのは、三日前だ。三日前にお前はドブレさんと政治の話をした。そしてあの人の言葉から、お前はドン・カルロスがスペインに戻ったらしいと思った。そこで私は債券を売った。ニュースがひろまって恐慌状態になり、もう売るなんてものではなかった。ただでくれてやるようなものだった。翌日、誤報だということになって、この誤報のおかげで私は七十万フラン損をした」
「それで?」
「それでだ、私が儲けたときにはその四分の一をやったのだから、私が損をしたときには、その四分の一を私に返してもらいたい。七十万フランの四分の一は十七万五千フランだ」
「それはまたずいぶん無茶なお話ね。それに、どうしてドブレさんのことなど引き合いに出すのか、私にはわかりませんわ」
「それは、もし万が一、お前が、私の要求する十七万五千フランの持ち合せがなかったら、お前はお友達から借りねばならんし、ドブレさんはお前のお友達だからだ」
「なんてことを!」夫人が叫んだ。
「おお、そんな大げさな身ぶりをしたり大声を出したり、近頃の芝居のまねはやめてほしいね。さもないと、私にこんなことを言わせてしまうことになるからね。お前があの人にやった五十万フランをかかえて、うすら笑いを浮かべながら、どんな腕ききの賭博師も発見できなかったもの、つまり賭金をはらずに儲けることができ、絶対に損をしないルーレットをみつけた、とうそぶいているドブレさんの姿が私には見えてるんだよ、などとね」
夫人は怒りをぶちまけようとした。
「けがらわしい! いったいあなたは、今日私を非難していることを今まで知らなかったとでも言うつもりなの」
「知っていたとも知らなかったとも私は言わぬ。ただ言いたいのは、この四年間、お前が私の妻でなくなり、私がお前の夫でなくなってからの、私の態度を考えてみろ、そうすれば、それがつねに首尾一貫していることがわかるだろう、ということだ。仲たがいしてしまう少し前のこと、お前は、イタリア座に華々《はなばな》しくデビューしたあの有名なバリトン歌手について歌の勉強がしたいと思った。私のほうは、ロンドンで評判の高かったあの踊り子についてダンスを習いたいと思った。これは、私の分とお前の分とで、私にはほぼ十万フランについた。私はなにも言わなかった。夫婦には調和が必要だからね。男と女が、ダンスと歌の奥義をきわめるには、十万フランもそう高いものではない。やがてお前は歌に嫌気がさして、大臣秘書について外交を勉強してみようという気になった。私は黙って勉強させている。わかるかね、お前の金箱からレッスン料を払っておるのだから、私にはてんで関係のないことだ。ところが今日、お前が私の金箱から金を引き出しておるのに気がついたのだ。お前の手習いが、月に七十万もかかるということにな。もう止めなさい。こんなことを続けるわけにはいかん。外交のレッスンをただで教えてもらえるなら、私はがまんしよう。さもなければ、今後一歩もこの家に足を踏み入れさせぬことだ。おわかりかな」
「あんまりだわ!」エルミーヌは声をつまらせた。「あなたはもう、さもしいなんてものを通りこしてるわ」
「お前が、さもしいぐらいでとどまってなくて、『妻は夫に従うべし』という法の公理に、ひどくわがままに従ってるのは、大へんうれしいね」
「侮辱だわ!」
「なるほど。話を決めよう、冷静に話し合おうじゃないか。私は今まで一度だって、お前によかれと思うときにしか、お前のことに口出ししたことはない。お前もそうしてほしい。私の金庫のことなど、お前には関係がない、そう言ったな。よろしい、お前は自分の金庫だけでやってくれ。私の金庫の金をふやしたり、空にしたりしないことだ。それに、これが政治的な闇討ちでないという保証がどこにある。私の反政府的態度に腹を立て、民衆の支持を私が得ていることを妬《ねた》み、大臣がドブレさんと≪ぐる≫になって、私を破産に追いこもうとしているのかも知れぬのだ」
「まさか!」
「いや、違いない。いまだかつてこんなことがあったか……信号の誤報など。あり得ないことだ、少なくともまずあり得ないことだ。信号機が一つ前の信号機とまるで違う信号を送るなど……これは私のために故意に仕組まれたのだ、まちがいない」
「でも」夫人がつつましやかに言った。「ご存じないんですの、あの信号手はお払い箱になって、告訴されるという噂さえありますわ。逮捕令状が出て、逮捕されるはずだったのに、捜査が始まったとたんに逃げてしまったとか。逃げたのは頭がおかしいか、後ろめたいか、どちらかの証拠ですわ……あれはただのまちがいだったのよ」
「そうとも、馬鹿どもはげらげら笑い、大臣は悪夢のような一夜を明かし、政府の秘書諸君はやたら書類に字を書きこんだだけだが、この私には七十万フランの損をさせたまちがいさ」
「それにしても」エルミーヌが急に言った。「そんなことはみんな、あなたによれば、ドブレさんが原因なんですから、なぜそれを、ドブレさんに直接おっしゃらずに私におっしゃるんですの。男を槍玉にあげていながら、なぜ女に責任をなすりつけるんですの」
「私がドブレさんを知っているかね。知合いになりたいと思っとるかね。いろいろご意見を言って下さるかどうか知りたがり、そのご意見に従いたがるかね。私が賭をするのかね。そうじゃない、それはみんなお前がやってることで、私じゃない」
「でも、ずいぶんそれであなたは得《とく》をなさったんですから、私には……」
ダングラールは肩をすくめた。
「まったく、密通の一つや十をパリ中に知れわたらぬようにやりおおせたからといって、大へんな頭の持ち主のように思いこんでる女どもほど阿呆なものはない。お前が夫にさえ、自分のふしだらをかくせたかどうか考えてみるがいい。そんなことは手管のイロハだがね。たいていの場合、亭主というやつは真実を見たがらぬものだから。お前は社交界の女、お前の仲間の半数がやってることをただ真似しているだけなのさ。だが、私はほかの亭主どもとは違う。私はちゃんと見た、いつだって見てきた。この十六年間、心の中で思っていることの一つぐらいは私の目をごまかしたかもしれぬが、ただの一つのふるまいも、行動も、過ちも、私の目からかくすことなどできなかったのだ。にもかかわらずお前は、自分の手並みにうぬぼれきって、私をだましおおせたと信じきっていた。その結果どうなったと思う? 私がなにも知らぬふりをしていたので、ヴィルフォールさんからドブレさんに至るまで、私の前に出て、びくびくしないお前の男友達は一人もいなかったじゃないか。私をこの家の主《あるじ》として遇さなかった者は一人もない。これは私のお前に対する唯一の要求だったがね。今日私があの連中に関してお前に言っているようなことを、私に関してお前に言えた者は一人もなかった。お前が私をおぞましい男とするのはいい。が、笑いものにするのは許さん。なかんずく、私を破産させること、これはとくに絶対に許さん」
ヴィルフォールの名を聞くまでは、夫人はかなり落ち着きのある態度を示していた。しかし、この名前を聞くと、夫人は蒼ざめ、はじかれたように立ち上がり、幽霊を払いのけるときのように手を前に出した。そして、夫人自身が知らない、いやおそらくは、ダングラールの計算が大ていの場合そうであるように、なにか陰険な計算のもとに、夫がその全部を見せようとはしない秘密を、夫からもぎとろうとでもするかのように、二、三歩夫のほうに近寄った。
「ヴィルフォールさんですって? それはどういう意味なの」
「それはな、こういう意味だ。お前の最初の夫のナルゴンヌ氏は、哲学者でもなければ銀行家でもなかったから、いや、その両方だったからかもしれんが、九か月間留守にした後に帰って来て、お前が妊娠六か月なのを見ると、検事を相手にしてもなんの利益もないと考え、苦悩と怒りのために死んでしまった。私は冷酷な男で、自分でもそれを心得ているばかりではなく、それを誇りにもしている。これは事業で私が成功するための手段の一つだ。なぜあの人は、相手を殺すかわりに、自らの生命を断ったのか。あの人には守るべき金庫がなかったからだ。だが、この私は、私の金庫を守らねばならぬ。私の協力者たるドブレさんは、私に七十万フランの損害を与えた。彼がその損害の彼の分を負担するなら、今まで通り取引を続けよう。さもなければ、彼は私に十七万五千フラン支払い不能となって破産ということになる。破産した奴は破産した人間がみなそうするようにふるまってもらう。消え失せることだ。たしかに、私も認める、あれはなかなかに魅力のある青年だ、彼の情報が正確な間はな。しかし、情報がでたらめとなれば、彼よりましな男は世間になん十人もいる」
ダングラール夫人はうちのめされていた。しかし、夫人はこの最後の攻撃に応酬しようと悲壮な努力をした。夫人は、椅子に倒れこみ、ヴィルフォールのこと、晩餐のときの模様、そして、数日来次々とこの家を襲い、それまでなんとはなしに保たれていた家庭の平和を、醜い争いに変えてしまった不幸の数々を思いうかべていた。夫人が気絶してしまおうと必死の努力をしていたにもかかわらず、ダングラールは夫人を見ようともしなかった。彼はそれ以上一言も言わずに寝室のドアを引き、自室に戻ってしまった。だから、ダングラール夫人は、半ば失神した状態からわれに返ったとき、一場の悪夢を見たのだとしか思えなかった。
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六十六 縁組
この夫婦喧嘩が行なわれた翌日、いつもならばドブレが、役所へ出勤する途中、ダングラール夫人をちょっと訪ねに寄る時間に、ドブレの馬車は、ダングラール邸の中庭には現われなかった。
この時刻、つまり十二時半頃、ダングラール夫人は馬車の用意をさせて外出した。
ダングラールはカーテンのかげから、予期していたこの外出をそっとうかがっていた。夫人が帰ったら直ちに知らせるようにと家人に命じておいたが、二時になっても夫人は戻らなかった。
二時に、彼は馬を馬車につけさせ、議会に行き、予算案への反対演説の登録をした。
正午から二時まで、ダングラールは書斎にいたのであった。至急便の封を切り、次第次第に顔を曇らせ、客を迎えて過ごした。その中にカヴァルカンティ少佐がいた。相変わらず青い服を着、しゃちこばって、正確に、前日予告した通りの時間に銀行家との取引を済ませるために現われたのである。
会議中、ひどく不機嫌な様子をあらわに示し、とくに大臣に対してはいまだかつてなかったほどに辛辣《しんらつ》な態度で臨んだダングラールは、議会を出ると、また馬車に乗り、御者に向かって、シャン=ゼリゼー三十番地に行けと命じた。
モンテ・クリストは在宅していた。ただ、誰か客がいて、ダングラールにしばらくサロンでお待ち願いたい旨《むね》が告げられた。
銀行家が待っていると、ドアが開き、僧衣をまとった男が入ってきた。だがその男は、ダングラールのように待つことはせず、おそらく彼よりもこの家にとっては親しい人物なのであろう、彼は一礼すると、すぐに奥へ入り姿を消してしまった。
やがて、僧が消えたドアがまた開き、モンテ・クリストが現われた。
「男爵、失礼いたしました。実は私の親友の一人のブゾニ神父がパリに着きましてね。先程ここを通るのをご覧になったと思いますが。もうだいぶ前に別れたきりだったものですから、すぐに彼のそばを離れる勇気がなかったのです。事情ご賢察の上、お待たせしてしまったことをお許し下さい」
「どういたしまして。理由は簡単で、悪い時にお邪魔に上がってしまった私のほうこそいけないのです。退散いたしましょう」
「とんでもない。とにかくお坐り下さい。それにしても、いったいどうなさったのです。ひどく心配そうなご様子ですが。ほんとに、そのお顔は私を怯《おび》えさせますよ。資本家の苦しみは、彗星《すいせい》と同じで、常にこの世に不幸が起きることを予告するものですからね」
「じつは数日前から、不運に見舞われましてね、入ってくるのは悪いしらせばかりです」
「それはいけない。株がまた値下りでも?」
「いえ、それからはもう立ち直りました、少なくともここ数日中にはね。私が言っているのは、トリエステでの破産のことなのです」
「ほう、その破産した男というのは、もしかしたらヤコポ・マンフレディではありませんか?」
「その通りですよ。考えてもみて下さい、もうずっと以前から、私と年間八、九十万の取引をしていた男です。ただの一度のまちがいもなかったし、ただの一度だって支払いが遅れるようなことはなかったのです。王侯のような支払い方をしていた、いや、し続けている好漢です。私は百万フランの前払いをしたのです。ところが、いきなりあのヤコポ・マンフレディの奴め、支払いを停止してしまったのです」
「ほんとうですか」
「まったく前代未聞の災難です。彼に六十万の手形を振り出したところが、不渡りで戻って来ました。さらに私は、彼が署名した、今月末パリの彼の取引先支払いの四十万フランの手形を持っているんです。今日は三十日ですから金をとりにやったところ、そうなんです、取引先は姿を消しちまっているんです。スペイン債の件といい、さんざんな月末ですよ」
「では、ほんとうにスペイン債で損をしたんですか」
「もちろんです。きっかり七十万、私の金庫から出て行きました」
「どうしてまたそんな苦い味をなめたのですか、あなたのような抜け目のない資本家が」
「これは家内のせいなんです。家内がドン・カルロスがスペインヘ帰った夢を見ましてね。家内は夢を信じるものですから。家内はこれを霊感による作用だと言って、あれに言わせると、夢に見たことは必ず起こるというのです。あれが信じているものですから、私はあれが賭けるのを許しました。家内は賭け、損をした。なるほど賭けた金は家内ので私の金ではありません。ですが、それにしても、家内のふところから七十万もの金が出た場合、亭主は平気ではいられませんよ。が、これをご存じなかったんですか、大きな噂になったんですがね」
「ええ、聞くことは聞きました。しかし、細かいことは知りませんでした。それに、証券取引のことには、まったく無知ですから」
「では投機はなさらないのですか」
「私がですか。どうして私が投機などせねばならぬのです? そうでなくてさえ、収入を管理するのに苦労しているのに、そうなったら、執事のほかに、出納係として雇人も一人、給仕も一人雇わねばならなくなります。が、スペインの件ですが、ドン・カルロス帰国の話は、奥さんが夢を見たというだけではないように思いますね。新聞にもその話は出ていたんじゃないですか」
「あなたは新聞などお信じになるのですか」
「まるで信じません。しかし、『メサジェー』だけは例外で、あの新聞は確実な報道、信号通信しか報じていないように思います」
「ところが、まさに説明のつかぬことながら、ドン・カルロス帰国の報は、まさにその信号通信だったのです」
「結局、今月は約百七十万フラン損をなさったわけですな」
「約じゃありません、正確に百七十万です」
「ほう! これは三流の資産家には手ひどい打撃ですな」モンテ・クリストが憐れむように言った。
「三流?」いささか侮辱を感じたダングラールが言った。「それはどういう意味ですかな」
「その通りですよ。私は資産を三つのカテゴリーに分類しているのです。一流、二流、三流の資産というふうにね。私の言う一流の資産とは、手もとにある財宝、領地、鉱山、ならびに、フランス、オーストリア、イギリスといった国家からの収益からなるもので、それらの財宝、鉱山、収益等の合計が一億ぐらいに達するものです。私が二流の資産と呼ぶのは、生産活動、会社経営、総督領、公国等、年収百五十万以下の、総資本五千万のものです。そして三流というのは、複利によって増えて行く資本のことです。儲けは他人の意志あるいは時の運に左右されます。破産があれば損害を受け、信号通信にもゆさぶられる。いわば場当り的な投機、時の運によってどうにでもされてしまう事業のことで、その総資本額が、名目上にしろ実質にしろ、千五百万程度のものです。あなたの場合は、だいたいそのへんではありませんか、いかがです?」
「ええ、まあそうですな」ダングラールは答えた。
「となると、今月のような月末が六回もあれば、三流の資産家は息が絶えてしまいますな」モンテ・クリストが平然として続けた。
「ああ、ずけずけとおっしゃいますね」ダングラールが色を失って苦笑しながら言った。
「七か月としましょう」モンテ・クリストが同じ調子で言い返した。「お考えになったことがおありですか、百七十万の七倍はほぼ千二百万だということを。おありにならない? そうですか、当り前ですな。そんなことを考えたら資本投下などできませんからね。資本というものは、資本家にとっては、文化人にとっての皮膚のようなものです。われわれは、程度の差こそあれ豪奢な服を着ている。これがわれわれの信用です。しかし人は死ねば、皮膚しか身につけていない。同じように、事業をやめれば、あなたは実際の資産、せいぜい五、六百万の資産しかないことになる。というのは、三流の資産の場合、実質は見かけの三分の一ないし四分の一しかないのがふつうですからね。ちょうど機関車が、煙に包まれていると大きく見えはするけれども、その実、多少とも力の強い機械にすぎないようなものです。ところで、あなたは、あなたの実質的な力である五百万のうち、約二百万を失った。これは、それだけあなたの名目上の資産、あなたの信用が減ったことになる。つまり、ダングラールさん、あなたの皮膚には血のふき出る傷口が開き、これが四回繰り返されれば、生命とりとなるわけだ。どうぞお気をつけのほどを。金がご入用ですかな? お貸ししましょうか」
「なんとも下手な計算をなさいますね」ダングラールが、あらん限りの冷静さと、表面をとりつくろう努力をかき集めてわめいた。「今では、金はまた私の金庫に戻ってますよ。ほかのうまくいった事業のほうからね。ふき出た血は、栄養摂取のおかげでまた戻って来ました。スペインの戦いには負け、トリエステでも敗北を喫しましたが、インドのわが海軍は、なん隻もの宝船を分捕ったでしょうし、メキシコの工兵隊は鉱山を発見したはずです」
「結構ですな、ほんとうに結構です。ですが傷痕は残ってますからね。今度また損をしたら、直ちにまた口を開けますよ」
「いやいや、私は石橋を叩いて渡りますからな」ダングラールが、自分の信用を売り込むのが 商 売 の香具師《やし》流の卑俗な能弁でまくしたてた。「政府が三つぐらい崩壊しなけりゃ、私が破産するなんてことはありませんよ」
「残念ながら、そういうことは現に起こりましたな」
「大地が作物を稔《みの》らせないなんてことにならねば」
「七頭の肥えた牝牛と七頭の痩せた牝牛の話をお忘れですかな」
「それなら、ファラオの時代のように海の潮が引いてしまわぬ限り。今なお海はいくつもあり、船は船団を組めばいいんですから」
「それはよかった。ほんとうによかった、ダングラールさん。私がまちがっていたようですね。あなたは二流の資産家の部類に入ります」
「私はその名誉を望み得ると思います」ダングラールが、例によって意味のない微笑を浮かべて言ったが、モンテ・クリストはその笑いを、へぼ絵かきが、廃墟の上にぬったくる蒼白い月ほどにしか受けとめなかった。
「ですが、事業の話が出ましたので」と、話題を変えるきっかけが掴めたのを嬉しく思いながら、ダングラールがつけ加えた。「少しばかり、カヴァルカンティ氏に何をしてあげればいいのかお話し下さいませんか」
「それは、もしあなた宛の信用状をあの人が持っているなら、そして、それがほんとうに信用できるとお考えなら、金を渡すことですよ」
「結構です。今朝あの方が、四万フランの手形を持ってお見えになりました。ブゾニ神父の署名のある、あなた宛ての一覧払いの手形です。あなたの裏書きがあって、あなたから私のほうに廻って来たものです。四万フラン即金でお払いしましたよ」
モンテ・クリストは、同意を示すようにうなずいた。
「それだけじゃなくて、あの方はご子息のために、私の店に口座を開きました」
「失礼ですが、あの青年にあの人はどのぐらいやるのですか」
「月に五千フランです」
「年六万フランですね。そんなところだろうと思ってましたよ」モンテ・クリストが肩をすくめながら言った。「気の小さい連中でね、あのカヴァルカンティ家の連中は。いったい月に五千フランで、いい若い者が何ができるというんです」
「しかし、もしご子息が、さらになん千フランか必要な場合は、もちろん……」
「それはよしたほうがいい。父親はその金をみなあなたの勘定にしてしまいますよ。あなたはイタリアの金持ちというものをご存じないのだ。彼らはまさに守銭奴でしてね。で、その口座を彼のために開いたのは誰ですか」
「フェンジ商会ですよ、フィレンツェでも一流の」
「これであなたが損をなさるなどとは申したくありません、そんなつもりは毛頭ありませんが、とに角、契約の条項の範囲内になさっておくことですな」
「あのカヴァルカンティを信用なさっていないのですか」
「私はあの人の署名があれば一千万でも貸しますよ。あの人は、先程申し上げた二流の資産家の部類に入りますからね、ダングラールさん」
「それなのに、まったく飾らぬ人ですなあ。知らなければ、ただの少佐と思っちまったことでしょうよ」
「少佐と思うのならあの人には光栄ですよ。まったく、おっしゃる通り、あの人は風采が上がりませんからね。私などは、初めてあの人に会ったとき、肩章の間でかびの生えちまった老中尉だと思ったんですからね。しかし、イタリア人なんてのはみんなあんなものです。東洋の魔術師のように、人目をたぶらかさぬときは、年とったユダヤ人によく似ているんです」
「ご子息のほうは、まだましですな」
「ええ、少し気が小さいかもしれませんが、まあまあのように思います。じつは心配していたんですよ」
「どうしてです?」
「いや、少なくとも私が聞いたところでは、あなたが私の家であの青年にお会いになったのは、彼が社交界に出てすぐだったからです。彼はきわめて厳格な家庭教師に伴われて旅行していて、パリヘは一度も来たことがなかったのです」
「ああいうイタリアの方は、みなさん仲間うちだけで結婚なさるならわしのようですな」さり気なくダングラールが訊ねた。「お互いの財産を合わせるのがお好きなようで」
「たしかに、ふつうはそうしています。しかし、カヴァルカンティは変わってましてね、決して他人の真似はしないのです。私はどうしても、あの人は息子にフランスで嫁をみつけさせるためにフランスヘよこしたとしか考えられませんね」
「そうお思いですか」
「確かです」
「あの方の財産の噂をお聞きになったことがおありでしょうか」
「もうその話ばかりです。ただ、ある者は何百万も持っていると言うし、ある者は、銀貨一枚持っていないと言いはるんです」
「で、あなたご自身のご意見は」
「信用なさっては困りますよ、まったく個人的な意見ですからね」
「でも、とにかく……」
「私の意見は、ああいう古い行政長官、昔の傭兵隊長は、カヴァルカンティ家は軍隊を指揮し、いくつかの地方を統治していましたからね、あの連中は、長子のみが知り、長子のみに代々語り伝えられる場所に、なん百万という金を埋めたというのが私の意見です。その証拠は、あの連中の顔が、フィレンツェ金貨のように黄色くひからびていることです。あまりみつめすぎたんでその色がうつったのでしょう」
「なるほど、あの人たちがこれっぽっちも土地を持っていないのを見ても、たしかにその通りですな」
「少なくとも、ほとんど持っていませんね。カヴァルカンティがルッカに館を一つしか持っていないのを私はよく承知してますからね」
「ほう、館を一つ、いやそれだけでも大したものですな」ダングラールは笑った。
「ええ、しかもそれをあの人は、大蔵大臣に貸しているんです。自分はちっぽけな家に住んでね。いやはや、さっきお話ししたように、とんだしまり屋だと思いますよ」
「これは、これは、はっきりおっしゃいますな」
「よろしいですか、私はあの人のことをほとんど知らないのです。これまでに会ったのは三回ぐらいのものでしょうか。あの人のことで私が知っているのはブゾニ神父を通じてと、あの人自身の言葉によるものだけです。今朝あの人は、子息の将来のことを私に話しました。そして、かなりの資本を、まるで死んだような国、イタリアで眠らせておくのに厭気がさし、フランスなりイギリスなりで、数百万のあの人の資本を殖やす方法はないものかと考えていることを言外にほのめかしていました。ですがこう申しても十分にご注意下さい、私が個人的にいくらブゾニ神父を信用していても、責任は負いませんからね」
「そんなことは問題ではありません。いいおとくいさんをご紹介下さってありがとうございました。私の帳簿を立派な名前で飾ることができます。出納係も、カヴァルカンティ家がどういうものか説明してやりましたので、大いに誇りに思っております。ところで、これはほんの茶飲み話としてお訊ねするのですが、ああいう人たちはご子息を結婚させる際には、持参金を与えるものなのでしょうか」
「ああ、それは場合によりけりですね。私はあるイタリアの大貴族を知ってますが、金鉱ほどに金持ちで、トスカナ一の名門のこの人は自分の気に入った結婚をした息子には数百万の金を与え、意に反した結婚をした息子には月三十エキュの金しかやりませんでしたね。もしアンドレアが父親の思惑通りの結婚をすれば、百万、二百万、三百万ぐらいの金を与えるでしょうね。それが、たとえば銀行家の娘だとすると、あの人は息子の舅《しゅうと》の店に興味を抱くでしょうな。が、その一方でもし嫁が気に入らぬとなったら、もうそれまで、カヴァルカンティの父親のほうは、金庫の鍵を手にして、厳重に鍵をかけてしまいます。そうなれば、アンドレア先生は、パリの庶民の伜《せがれ》と同じように、トランプやサイコロのいかさまで暮らさねばならなくなります」
「あの息子さんは、いずれババリヤかペルーの王女様でもおみつけになるんでしょう。余人をよせつけぬ王家とか、夢のような財宝を持った家系を望んでおられるのでしょうな」
「いや、アルプスの向こうの大貴族は、よくごく平凡な人間と結婚しますよ。ジュピターに似て、さまざまな血をまじえるのが好きなんですね。は、はあ、ダングラールさん、そんな質問をなさるのは、あなたはアンドレアに嫁を世話したいとお思いなんですね?」
「ええ、これは悪い投機ではなさそうに思うものですから。私は投機家ですよ、私は」
「お嬢さんとではないんでしょうね。アンドレアがアルベールに締め殺されてもかまわぬとは、お考えではないでしょう」
「アルベールですって?」ダングラールは肩をすくめた。「ええ、たしかに彼はそのことをだいぶ考えてはいます」
「アルベールはお嬢さんのフィアンセなんでしょう?」
「つまり、モルセール氏と私の間でこの縁組のことをなん回か話したことがあるというわけです。ですが、モルセール夫人とアルベールは……」
「まさかアルベールがそう有利な結婚相手ではないとおっしゃるんじゃないでしょうね」
「ふん、家の娘はモルセール君ぐらいの値打ちはあると思いますね」
「たしかに、お嬢さんの持参金は大したものでしょう。それは私も疑いませんよ、信号機があんな馬鹿なまねをまたしでかさない限りはね」
「いや、持参金のことだけじゃないんです。ところで、ちょっとお伺いしたいのですが」
「何でしょう」
「なぜモルセールとその家族を夕食におよびにならなかったんですか」
「およびしたんですよ。ですが、お母さんとディエップヘ行くと言って断わられたのです。海の空気を吸うようにとお母さんが医者に言われたとか」
「そうでしょう、そうでしょう。海の空気はあの人の身体にはいいでしょうよ」ダングラールは笑った。
「どうしてです?」
「あの人は若い頃海の空気を吸ってたからですよ」
モンテ・クリストはこの皮肉に気づく様子を見せずにやりすごした。
「が、とにかく」伯爵が言った。「アルベールにはお嬢さんほどの金はないにしても、立派な家名があるじゃありませんか」
「たしかに。ですが、私の家名だって私には可愛いですからな」
「なるほどお宅の名は人によく知られています。お名前が爵位を飾ったんですからね、世間では爵位が名前を飾ったと思いましたが。しかし、あなたも頭の切れる方ですから、牢固として抜きがたい偏見によれば、五世紀来続いている古い貴族のほうが二十年前からの新貴族よりは高く評価されていることはおわかりになるでしょう」
「だからこそ」ダングラールは、つとめてせせら笑いを浮かべた。「それだからこそ、私はアルベール・ド・モルセール氏よりは、アンドレア・カヴァルカンティ氏のほうを選ぶのですよ」
「いやしかし、モルセール家はカヴァルカンティ家にひけはとらぬと思いますがね」
「モルセール家が! 伯爵、あなたは信義を重んじる方なはず、ですね?」
「と思っています」
「それに、紋章にも通じておられる」
「少しは」
「そこでです、私の家の紋章の色を見て下さい。これのほうがモルセールの紋章よりは色がたしかなんですな」
「どういうわけですか」
「というのは、なるほど私は生まれながらの貴族ではないが、少なくとも私の名はダングラールです」
「それで?」
「ところが彼の名はモルセールではない」
「ええ? モルセールではないんですか」
「てんで違います」
「これは、これは」
「私の場合は、私を男爵にした人がいる。だから私は現実に男爵です。ところが彼は、勝手に伯爵になってしまった。だから彼は伯爵ではないのです」
「まさか」
「いいですか、伯爵」ダングラールは続けた。「モルセールは私の友人です。と言うより、三十年来の知己です。ご承知のように、私は自分の素姓を決して忘れたことがありませんから、自分の紋章など大したものと思っちゃいません」
「そのお言葉は、大へん謙虚な心のしるしか、あるいは大へんな自負心のしるしです」
「とにかく私がけちな店員だった頃、モルセールはただの漁師でした」
「その頃の名前は?」
「フェルナンです」
「ただフェルナンですか」
「フェルナン・モンデゴ」
「確かですね?」
「当り前ですよ。しょっちゅう魚を買ったんで私はあの男を知ったんですからね」
「それなら、なぜあの人にお嬢さんをやろうとしたのです」
「それはフェルナンもダングラールも成り上がり者だからです。二人とも貴族になり、二人とも金持ちになった。実際のところはお互いに釣合いがとれてます。ただし、ある一つのこと、彼については人が噂し、私については噂しないある一つのことを除けばの話ですがね」
「いったい何なのですか」
「いや、なんでもありません」
「ああ、わかりましたよ。あなたがおっしゃったことで、フェルナン・モンデゴという男について新たになった記憶があります。その名前を私はギリシアで聞きました」
「アリ・パシャの件で?」
「その通り」
「あれが臭いんです。正直に申しますと、なんとか真相を知ろうと、私もいろいろやってみたんですがね」
「どうしてもお知りになりたいんなら、造作のないことだったのに」
「どうしてです?」
「たぶん、ギリシアに取引先をお持ちと思いますが」
「もちろんですとも」
「ヤニナにも?」
「どこにだって……」
「それでは、ヤニナの取引先に手紙をお出しになるんですな。そして、アリ=テベレンの悲惨な末路に、フェルナンというフランス人がどういう役割を果したか問い合わせてごらんなさい」
「なるほど!」ダングラールは勢いよく立ち上がった。
「今日早速書きますよ」
「それがいいですね」
「やります」
「で、もし醜悪な内容の返事を受け取られたら……」
「お伝えしますよ」
「それはありがたいですな」ダングラールは部屋を飛び出し、馬車まで一気に駈け寄った。
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六十七 検事の部屋
馬車を走らせ家路を急ぐ銀行家はそのままにして、昼早く外出したダングラール夫人の後を追うことにしよう。
ダングラール夫人が十二時半に馬をつけさせ馬車で出かけたことはすでに述べた。夫人はフォーブール・サン=ジェルマンの方角に向かい、マザリーヌ通りを通り、ポン=ヌフの通路の所で馬車を止めた。
夫人は馬車を降り通路を抜けた。夫人は、昼間外出する趣味のいい婦人にふさわしく、きわめて目立たぬ服装をしていた。
ゲネゴー通りで辻馬車に乗り、この外出の目的地としてアルレー通りへ行けと指示した。
馬車に乗ると、直ちに夫人はポケットから厚手の黒いヴェールを取り出し、それを麦藁帽につけ、その帽子をまた頭にのせた。そして、小さな懐中鏡をのぞき、白い肌ときらきら光る瞳しか人からは見られないのを確かめて満足した。
馬車はポン=ヌフを渡り、ドーフィーヌ広場のほうからアルレーの中庭に入った。馬車の扉が開く際に金が払われ、夫人は大急ぎで階段へ走り寄り、身軽に階段を昇ると、まもなくパ=ペルデュ広間〔裁判所内の広間〕に着いた。
昼間は、裁判所には事件が多く、忙しそうな人間が多勢いる。忙しい連中というものは、女になどあまり目を向けぬものである。だから、ダングラール夫人は、弁護士が姿を現わすのを待っている十人ばかりの女たち同様、人に顔を見られずにパ=ペルデュの広間を通り抜けた。
ヴィルフォールの控えの間には人がごった返していたが、ダングラール夫人は自分の名前を告げる必要さえなかった。夫人がその部屋に入ると、すぐさま守衛が立って来て、検事閣下がお会いになる約束をなさった方ではないかと夫人に訊ねた。そうだ、という返事に、守衛は夫人を部外者は通さない廊下から、ヴィルフォールの部屋へ案内した。
司法官は肘掛椅子に坐り、ドアに背を向けて書きものをしていた。彼は、ドアが開き、守衛が「どうぞお入り下さい」と言った言葉を聞いていた。そしてドアが閉まるときも身動き一つしなかった。だが、遠ざかって行く守衛の足音が消えると、すぐさま急いで向き直り、ドアにかんぬきをかけ、カーテンを引き、部屋の隅々を見てまわった。
それから、誰にも見られておらず立ち聞きされてもいないことを確かめ、したがって、安心すると、彼はこう言った。
「約束を守って下さってありがとう」
彼は夫人に椅子をすすめ、夫人はすぐ腰をおろした。あまりに激しい動悸のため、息苦しさを感ずるほどだったのである。
「もうずいぶんになりますね」検事は、ダングラール夫人に向かい合うように肘掛椅子を半廻転させ、自分も坐りながら言った。「こうして二人きりでお話しできるのは。こうしてまた会っても、残念ながら、じつに辛い話をしなければならないのですからね」
「でも、あなたに一言言われただけで、私はこの通り参りましたわ。あなたにとってより私にとってのほうが、ずっと辛いお話ですのに」
ヴィルフォールは苦笑した。
「ほんとうだな」ヴィルフォールは、夫人の言葉に答えるというより、胸の思いに答えるように言った。「たしかに、われわれのすべての行為が、われわれの過去に、暗い、あるいは明るい影を落としているというのは、ほんとうだな。人生に残す足跡は、砂の上に一筋の溝を掘るヘビの歩みに似ている、というのはほんとうだ。ああ、その溝は、多くの者にとっては涙のうがった溝なのだ」
「あの、私の今の気持ちおわかりいただけますでしょう? お願いですから、少しはいたわっていただけないかしら。多勢の罪人たちがふるえながら恥ずかしそうに入ったこの部屋。この椅子に、私もふるえながら恥ずかしくてたまらない気持ちを抱いて腰をおろしているんです……私は、自分が罪人で、あなたが恐ろしい検事のような気がして、そうではないと必死になって打ち消してはいますけど」
ヴィルフォールは首をふり、吐息を洩らした。
「私は、私はね、私が今坐っているこの椅子は、検事の椅子ではなく、被告席だと心につぶやいているのです」
「あなたが?」ダングラール夫人は驚いた。
「ええ、私が」
「あなたは、ご自分に対してあまりにも厳しすぎるので、立場を大げさにお考えになっているんだと思いますわ」夫人の美しい目に、一条の光が宿って消えた。「今おっしゃった溝というのは、情熱的な青春時代がつけたものなのよ。情熱の奥底、快楽の果てには、いつでもわずかばかりの悔恨があるものですわ。それだからこそ、福音書、あの不幸な者の永遠の泉は、私たち哀れな女に心の支えとして、罪を犯した娘や不義を働いた妻の見事なたとえを語ってくれているのです。ですから、正直に言いますけど、若い頃のあの狂乱を思い浮かべるとき、私は時折、神様はお許し下さるだろうと思うことがありますの。だって、私の苦しみの中に、その申し開きとまではいかなくても、その償いぐらいはあるんですもの。でも、あなたは、なにを恐れることがありましょう。誰も男の方を責めるものはおりませんし、男の方の場合は醜聞すら名誉となるんですもの」
「奥さん」ヴィルフォールが言い返した。「あなたは、私がどういう人間かご存じだ。私は偽善者ではない。少なくとも、理由もなしに偽善的な態度はとらない。私の額がけわしいとしても、それは数々の不幸が曇らせたからだ。私の心が化石のごとく冷えきっているとしても、それは心が受けた衝撃を耐え忍ぼうとするためだ。若い頃の私はこうではなかった。マルセーユのクール通りで、あなたと同じテーブルに坐っていた、あの婚約披露の晩の私は、こうではなかった。だが、あれから、私も、私のまわりも、みんな変わってしまった。私の生命は、困難な事態を追ううちにすりへってしまった。故意にかその意志なくしてか、自由意志によってか単なる偶然によってか、私の行く手に立ち現われて、そうした困難な事態を私にもたらした者どもをうち破る辛い戦いのうちにすりへってしまったのです。自分がどうしても欲しいと思うものを、それを持っている相手の手から獲得しようとするとき、あるいは相手からもぎ取ろうとするとき、その相手が猛烈な抵抗を示さないなどということは、まずありません。だから、大部分の悪しき行為というものは、どうしてもそうしなければならないという、もっともらしい形をとって眼前に現われるものだ。そうして、興奮、恐怖、錯乱のさ中で犯された罪は、いくらでも避けて通ることのできたはずの罪だということが後になってわかるのです。その時は盲になっているから見えなかったが、とるべきであった手段が、じつに容易に簡単に目の前に見えて来る。『どうして私はあんなことをせずにこうしなかったのだろう』こうつぶやくのです。あなた方ご婦人は、男と違ってめったに後悔はなさらない。なぜなら、女性が決断を下すということはまずないからだ。あなた方の不幸は、たいていの場合おしつけられたものだし、あなた方の過ちはたいていの場合、他人の罪だからだ」
「いずれにしても、これだけは認めてほしいわ、私が過ちを犯したとしても、そしてそれが私一人の罪だとしても、私は昨日ひどく罰せられましたわ」
「気の毒に!」ヴィルフォールは夫人の手を握った。「か弱いあなたの力にはひどすぎる罰でしたね、二度もうちのめされそうになったのだから。ただ……」
「何でしょう?」
「ただ、言っておかねばなりません……全身の力をふるい立たせてほしい。それだけではないのだから」
「まあ!」ダングラール夫人は怯えた。「まだどんなことがありますの?」
「あなたは過去しか見ていない。それはたしかに暗いものだ。だが、さらに暗い未来を思い描いてほしい。未来を……まちがいなく恐ろしい未来……おそらく血なまぐさい未来を」
男爵夫人はヴィルフォールの沈着な性格を知っていた。だから、この興奮ぶりにひどく怯え、声をたてようと口を開いた。だが、その声は喉の奥で消えた。
「どうしてあの恐ろしい過去が、あれがまた蘇えったのか!」ヴィルフォールが叫んだ。「どうして、墓の底から、あの過去が眠っていたわれわれ二人の心の底から、まるで亡霊のように出て来て、われわれの頬を蒼ざめさせ、額を赤らめさせるのか!」
「ああ、たぶん偶然の一致ですわ」エルミーヌが言った。
「偶然? いや違う、偶然などというものではない」
「いいえ、そうだわ。あんなことになったのは、偶然ではないというの? 宿命的なものには違いないけど、偶然だわ。モンテ・クリスト伯爵があの家を買ったのが、偶然ではないの? 土を掘らせたのも、あの可哀そうな子が木の下から出て来たのも偶然ではないの? 私のお腹から生まれたなんの罪もないあの子、一度も接吻もしてやらなかったけれど、涙はあれほどそそいだあの子。伯爵が、あの子の亡きがらが花の下から出て来た話をしたとき、私の心はみな伯爵のほうへ飛んで行ったわ」
「それが違うのだよ。そこがまさに、私があなたに言おうとする恐るべき点なのだ」ヴィルフォールが低い声で答えた。「違う、花の下に亡きがらなど発見されはしなかった。子供など掘り出されはしなかったのだ。涙を流すことはない。嘆く必要もない。必要なのはふるえることだ」
「どういう意味なの」ダングラール夫人は身をわななかせた。
「モンテ・クリスト氏は、あの木の下など掘ったところで、子供の骨も、箱の金具もみつけたはずはない。あの木の下には、そのどちらもありはしなかったからだ」
「そのどちらもなかった!」夫人はヴィルフォールを見据えた。その、すさまじいまでに拡がった瞳孔は、恐怖の色を示していた。「そのどちらもなかった!」夫人は、その言葉のひびき、その声の音色によって、自分から離れて行く思考力をつなぎとめようとするかのように、また繰り返した。
「なかった、絶対になかった」ヴィルフォールはがっくりと額を両手の中に落とした。
「でも、あそこにあの子を埋めたのではなかったの? なぜ私を欺したの、どういうつもりで? ねえ、おっしゃって」
「あそこだ。だが、いいかい、よく聞くのだ、あなたは私を気の毒に思ってくれるだろうから。この二十年間、私が今から言うこの苦しみの重荷を、これっぽっちもあなたに負わせることはせずに、一人で背負い続けてきたこの私をね」
「まあ、なんだかこわい、でもかまわない、おっしゃって下さい、伺いますから」
「あの晩がどのように過ぎて行ったかは、あなたも知っているね。あなたはあの赤い緞子《どんす》の部屋のベッドの上で、息も絶え絶えだった。私は、あなた同様息をきらしながら、あなたが身二つになるのを待っていた。子供が生まれた。身動き一つせず、息もせず、声もたてぬままの赤ん坊が、私の手に渡された。私たちは死んでいると思った」
ダングラール夫人は、椅子から飛び上がろうとするような、激しい動きを見せた。
しかし、ヴィルフォールは、話を聞いてくれと哀願するかのように手を組み、夫人をおしとどめた。
「私たちは赤ん坊が死んでいると思った。私は柩《ひつぎ》がわりの箱にその子を入れ、庭へ降り、穴を掘り、急いでそれを埋めた。私が土をかけ終えたとたんに、あのコルシカ人の腕が私のほうにのびて来た。私は影のようなものが立ち上がり、仄光《そくこう》のようなものがきらめくのを見た。
私は痛みを感じた。叫ぼうとした。冷たい戦慄が全身を走り、喉を締めつけた……私は死にそうになって倒れた。私は殺されたと思った。私はあの時のあなたの、あの崇高なまでの勇気を生涯忘れはしない。われに返った私が、息も絶え絶えになりながら、あの階段の下までこの身を引きずって行ったとき、あなた自身息も絶え絶えだったのに、私を迎えに来てくれた。この恐ろしい事件は沈黙の闇に葬っておかねばならなかった。あなたには乳母に支えられながらまた家に戻るだけの気力があった。決闘というのが私の傷の口実だった。あらゆる予期に反して、秘密は私たち二人の間だけで保たれた。私はヴェルサイユヘ運ばれた。三月《みつき》の間、私は死と戦った。ようやく私が生命をとりとめる見通しがついたとき、医者は南仏の太陽と空気とを私に命じた。四人の男がパリからシャロンまで、一日に六里ずつの旅を続けて私を運んでくれた。シャロンで私はソーヌ河を下る船に乗せられ、ついでローヌ河を、河の流れるままにアルルまで下った。アルルからまた担架で運ばれ、マルセーユヘの道を続けた。全快するまでに半年かかった。私はあなたの消息を聞かなかった。あなたがどうなったかを問い合わせる勇気もなかった。パリヘ帰ったとき、ナルゴンヌ氏の未亡人のあなたが、ダングラール氏と結婚したことを知ったのだ。
意識をとり戻してから私が考えたことといえば、いつだって同じこと、いつだってあの子の亡骸《なきがら》のことだった。毎晩あの子は夢に現われた。地面の底から浮かび出て、あの穴の上をふわふわ飛びながら、目と身ぶりで私を脅すのだ。だからパリヘ戻るが早いか、私は調べてみた。私たちがあそこを出てから、あの家には人が住んでいなかった。ただ、九年契約で人に貸す約束ができたところだった。私はあの家を借りた男に会いに行き、家内の両親のものであるあの家が人手に渡るのが耐えられぬふうを装った。私が、契約を解除してくれればその損害金を支払うと言うと、六千フラン欲しいと言う。一万でも、二万でも私は払ったことだろう。私はそれだけの金を持っていたので、直ちに契約解除の署名をさせた。そして、欲しくてたまらなかったこの譲渡を受けると、馬を飛ばしてオートゥイユに向かった。私があの家を出てから、誰もあの家に入った者はいなかった。
午後五時だった。私は赤い部屋に入り夜を待った。
すると、一年来、絶え間のない死の苦しみの中で心につぶやいて来たことが、それまで以上に威嚇的な姿で私の脳裏に浮かんで来た。
私に、身内の仇を討つと宣言し、ニームからパリまで追って来たあのコルシカ人、庭にひそみ、私に襲いかかり、私が穴を掘るのを見、私が子供を埋めるのを見たあのコルシカ人は、あなたが誰であるかをつきとめたかもしれない。おそらくつきとめただろう……あの恐ろしい事件の秘密をたねに、あなたをゆすりはせぬか……私があの男の短刀では死ななかったとあの男が知ったなら、これこそはあの男にとっては心楽しむ復讐ではないか。だから、なによりも急を要するのは、どうあっても、あの過去の痕跡を消してしまうこと、いっさいの物的証拠を湮滅《いんめつ》してしまうことだった。そうしたところで、あまりにも鮮烈な記憶は残るだろうけれども。
契約を解除させたのもそのためだったし、そこへやって来たのも、待っていたのもそのためだった。
夜になった。私はさらに夜が更けるにまかせた。その部屋に灯はついていなかった。風がカーテンをゆらめかせる。そのかげに人がひそんでいてそっと私をうかがっているように思った。時おり私は身ぶるいした。私の後ろ、あのベッドの中で、あなたが呻いている声が聞こえるような気がしたのだ。私には振り向く勇気がなかった。しじまの中で私の心臓が動悸をうっていた。あまりに激しく動悸をうつので、傷口がまた開くのではないかと思えるほどだった。ついに私は、一つ、また一つと、あの田舎のさまざまな物音が消えて行くのを耳にした。もう恐れねばならぬものはない、姿も見られず立ち聞きされる心配もないことがわかり、私は下へ降りて行く決心をした。
ねえ、エルミーヌ、私は人並みの勇気は持っているつもりだ。だが、胸から階段のドアのあの小さな鍵をとり出したとき、二人でなでさすったあの鍵だ、あなたが金の輪につけさせたいと言っていたあの鍵をとり出し、ドアを開け、窓ごしに青白い月が、あのらせん階段の上にまるで幽霊のような白く長い光の帯を投げているのを見たとき、私は壁にしがみつき、あやうく悲鳴をあげそうになった。私は気が狂うのではないかと思った。
やがて私は自分を抑える力をとり戻し、一段一段、階段を降りて行った。どうしても抑えることができなかったのは、妙に膝ががくがくすることだった。私は手すりに掴まった。一瞬でもそれを離したら、私はころげ落ちてしまっただろう。
私は下の扉にたどり着いた。この扉の外の壁にスコップが立てかけてあった。私はカンテラを持っていた。芝生のまん中で、それに灯をともすために私は立ち止まり、それからまた歩きだした。
十一月が終ろうとしていた。庭の緑はすべて姿を消し、木々はもう、肉をそぎとられた長い腕を持つ骸骨でしかなかった。落葉が足もとで砂と一緒に音をたてていた。
恐怖があまりにも激しく私の心臓をしめつけるので、あの木立に近づきながら、私はポケットからピストルを出し、弾丸をこめた、枝ごしに、あのコルシカ人が顔を出すのが見えるような気がしていた。
私はカンテラで木立を照らした。なんの姿も見えなかった。あたりを見廻したが、たしかに私一人しかいなかった。夜の亡霊どもを呼び寄せる、あの鋭く不吉なフクロウの鳴き声以外には、しじまを乱すものはなかった。
一年前、穴を掘るために私が立ち止まったその場所で、一年前にすでに見たことのある二またになった一本の枝に、私はカンテラを掛けた。
夏の間に草が厚く生い茂り、秋になっても、それを刈りにこの場所に来た者はいない。けれども、あまり草が茂っていない場所が私の目をひいた。明らかにそこが、私が土を掘り返した場所だ。私は仕事にかかった。
私が一年来待ちこがれていた瞬間がついに訪れたのだ。
だから、スコップの先に固いものが触れるはずだと思いながら、私はどれほどそれを期待し、せいを出し、芝草の茂みを一つ一つ探ってみたことか。なにもない! しかし私は、最初の穴より二倍も大きな穴を掘ったのだ。私は、自分がかん違いしているのではないか、場所をまちがえたのではないかと思った。私は自分のいる位置を確かめ、木々を見た。あのとき私の目に映ったさまざまなものを、もう一度みつけようとした。冷たく刺すような北風が葉の落ちた枝をならしていたが、私の額には汗が流れていた。私は、短剣で刺されたのが、穴を埋めた土を踏み固めている時だったのを思い出した。踏み固めるとき、エニシダに掴まっていたのだ。私の後ろには、庭を散歩する者が腰をかけるための庭石があったはずだ。というのは、倒れたとき、エニシダから離れた手が、その庭石の冷たさを感じたからだ。私の右にはエニシダがあった。後ろに庭石があった。私はあの時と同じように位置して、倒れた。起き上がった私はまた掘り始めた。穴を大きくしたのだ。ない! やはりない! 箱はそこにはなかった」
「箱がなかった、ですって?」ダングラール夫人は恐怖に息をつまらせてつぶやいた。
「私がそれだけのことしかしなかったとは思わないでほしい」ヴィルフォールは続けた。「そうではない。私は木立のあたりを全部掘ってみた。あの殺人犯が、宝物と思いこんでそれを奪おうとして箱を掘り出し、思い違いだとわかったので、また穴を掘って埋めたのではないかと考えたのだ。なかった。そこで私は、あいつはそんな配慮はせずに、ただどこかの隅に放り出してしまったのではないかと思った。この仮定に立つと、探すためには夜明けを待たねばならなかった。私はまたあの部屋へ行き、そして待った」
「ああ!」
「夜が明けた。私はまた下へ降りた。私はまず木立の所へ行ってみた。暗くて見逃した穴の跡はないかと思ったからだ。二十フィート四方、深さ二フィート以上の土が掘り返されていた。金で雇われた男なら一日がかりでもやれたかどうか。それを私は、一時間でやってのけていたのだ。なにもなかった。まったくなにもなかった。
そこで私は、箱がどこかへ捨てられたという推測にもとづいて、箱を探し始めた。おそらくあの小さな門に通ずる通路ぞいにちがいない。だが、はじめのと同じように、この捜索も徒労だった。心臓をしめつけられる思いで、私はまた木立の所に戻って来た。この木立も、もはや私にはなんの望みも持たせてはくれなかった」
「ああ、ふつうだったら気が狂ってしまうわ!」
「一瞬、気が狂ってしまえばいいと思った。が、そうなってはくれなかった。そのうちに、力をまたふるい立たせ、したがって、思考力もかき集めて、私は、なぜあの男はあの死骸を持ち去ったのだろう、と考えた」
「だって、それはおっしゃったじゃないの、証拠を握るためだ、と」
「違うのだ、それはあり得ない。死骸を一年も持っていられるものではない。当局にそれを見せれば、当局はあの男の供述をとる。ところが、そんなことは行なわれていなかった」
「それじゃ、どういうこと?」激しく胸をときめかせながらエルミーヌが訊ねた。
「そうなると、もっと恐ろしい、もっと致命的な、われわれにとっては、さらに恐れねばならぬなにかがある。たぶん、あの子は生きているのだ。あの人殺しが、あの子の生命を救ったのだ」
ダングラール夫人がすさまじい叫び声をあげた。そして、ヴィルフォールの両手を掴み、
「あの子が生きている! あなたはあの子を生き埋めにしたのね! あなたは、あの子が死んでいるとははっきり知らずに、あの子を埋めたのね、ああ!」
ダングラール夫人は立ち上がった。検事の両手の手首をしなやかな手の中に握りしめながら、威嚇するように検事の前に立っていた。
「私に何がわかるというのか。私はごく平静にそう言うよ」ヴィルフォールはじっと目を据えたままこう答えた。その目は、この権力の座にある男が、絶望と狂気の瀬戸際まで追いつめられていることを示していた。
「ああ、坊や、可哀そうに!」こう叫ぶと、夫人はまた椅子に倒れこみ、ハンカチで鳴咽《おえつ》をおし殺した。
ヴィルフォールは気をとり直し、夫人の頭をいっぱいにしているこの母性愛の激発をそらすためには、自分が抱いている恐怖をダングラール夫人にも伝えることが必要だと思った。
「わかってもらえると思うが、もしそうだとすると」ヴィルフォールは、今度は自分が立ち上がり、さらに低い声で話すために男爵夫人に近づいた。「私たちはもうおしまいだ。あの子が生きている。そしてあの子が生きていることを誰かが知っている。誰かが私たちの秘密を知っているのだ。モンテ・クリストは私たちの前で、あの子がもはや埋まってはいなかった場所からあの子を掘り出したと言ったのだから、この秘密を知っているのは、それはあの男だ」
「神様、正義の神様、神様の復讐だわ!」夫人がつぶやいた。
ヴィルフォールの答えは、わめき声のようなものだけだった。
「でも、あの子は、あの子のことは?」執拗に母親は訊ねた。
「ああ、どれほどあの子を探したことか」ヴィルフォールは腕をよじらせた。「眠れぬ長い夜毎に、なん度あの子の名を呼んだことか。百万の人間から百万の秘密を聞き出し、その秘密の中から私の秘密の鍵をさぐるために、いく度王侯の富を得たいと願ったことか。ある日、私は百回目のスコップをとり、あのコルシカ人があの子をどうしたかを考えたが、これまた百回目だった。逃げる者にとって子供は邪魔になる。あの子が生きていることを知って、あいつは子供を河に投げこんだのではないか」
「まさかそんな! 復讐のために大人を殺すことはあっても、平気で子供を溺れさせるなんてことはないわ」
「たぶん」と、ヴィルフォールは続けた。「あいつは子供を育児院に預けたかもしれない」
「そうよ、そうよ。あの子は育児院にいるわ!」
「私は育児院に駈けつけた。そしてまさにあの夜、九月二十日の夜、一人の赤ん坊が捨子収容口に捨てられていたことを知った。上等なリンネルの手ぬぐいをわざと半分に引き裂いたのにくるまれていた。この手ぬぐいには、男爵冠半分とHの字がついていた」
「それだわ、まちがいないわ。私の下着類にはみんなその印がついていたの。ナルゴンヌは男爵だったし、私の名はエルミーヌ〔Hはエルミーヌの頭文字〕だから。ああ、神様ありがとうございます。坊やは生きていたんですのね!」
「そう、生きていた」
「あなたは、平気でそれを私におっしゃるの? 私がうれしくて死んでしまうのではないかなどと心配もなさらずに! どこにいるんです、あの子はどこにいるの?」
ヴィルフォールは肩をすくめた。
「私が知っているはずはないではないか。もし知っていたら、劇作家や小説家でもあるまいし、あんなに順を追って一つ一つ話しをしていくと思うかね。知らぬ、ああ、私は知らないのだ。私が育児院へ行った半年ほど前に、一人の女が手ぬぐいのもう半分を持って現われて、子供を返してくれと言ったそうだ。法が定めるいっさいの保証をその女が具えていたので、育児院はあの子をその女に渡してしまった」
「だったら、その女のことを調べなきゃ、その女を探さなきゃいけなかったじゃないの」
「私が何をしたと思っているのかね。私は刑事事件の捜査を装って、警察の持つ、密偵、有能な刑事の総力をこの女の探索に投入した。シャロンまでの足跡は掴めたが、シャロンでその足跡は消えてしまったのだ」
「足跡が消えた?」
「そう、消えてしまった、永久にね」
ダングラール夫人はこの話を、場面ごとに、溜息と涙と泣き声をまじえながら聞いていた。
「それだけですの、それだけしかなさらなかったの?」
「とんでもない。私はその後も、捜索、調査、情報収集を止めはしなかった。が、ここ二、三年、多少その手がゆるんだ。だが今は、またふたたび、かつてなかったほど忍耐強く執拗に捜査を再開するつもりだ。というのは、わかるね、私をかりたてるものは、もはや良心ではなく、恐怖だからだ」
「でも、モンテ・クリスト伯爵はなにもご存じないんだわ。知っているなら、あんなふうに、私たちに交際を求めることなんかしないんじゃないかしら」
「いや、人間の悪意というものは、きわめて底の深いものだ。神の善意よりももっと底の深いものなのだ。われわれに話をするときのあの男の目に気づいたか」
「いいえ」
「だが、よくよく見たことはあるだろう」
「それはあるわ。たしかに不思議な目、でもそれだけだわ。私がおかしいと思ったのは、私たちに出してくれたあのすばらしいご馳走に、あの人が手をつけなかったこと、どのお料理も、あの人はご自分の分をおとりにならなかったわ」
「そうだ、私もそれに気づいていた。もしあの時、私が今知っていることを知っていたら、私も手をつけなかったろう。あの男がわれわれを毒殺しようとしているのではないかと考えたはずだ」
「それはあなたの考え違いだったはずだわ、今はおわかりじゃないの」
「そう、たしかに。だが、私の言うことを信じてほしい、あの男にはなにか別のたくらみがある。あなたに会いたいと思ったのはそのためなのだ。あなたに話がしたいと言ったのも。あなたに、すべての人間を警戒させ、とくにあの男を警戒させようとしたのはそのためなのだ」ヴィルフォールは、それまで以上に男爵夫人を、じっと見据えた。「私たちの関係を誰にも喋ってはいないだろうね」
「一度も、誰にも」
「私の言っている意味がわかるね」ヴィルフォールがやさしく言った。「誰にも、というのは、しつこいようで申し訳ないが、この世のなんぴとにもという意味だよ」
「ええ、よくわかってるわ」夫人は頬を染めながら答えた。「絶対に、誓うわ」
「夜、昼間のことを書きつける習慣はないね、日記はつけないね」
「つけないわ。私の人生は、ただ気まぐれに過ぎて行くだけですもの。自分でも忘れてしまう」
「夢を見て寝言は言わないね、自分で知っている限りでは」
「私は子供のように眠ります、お忘れになったの?」
男爵夫人の頬が赤く染まった。そして、ヴィルフォールの頬は蒼ざめた。
「そうだったね」ほとんど聞きとれぬほどの声であった。
「それで?」
「私のなすべきことがわかった。一週間以内に、私はモンテ・クリスト氏の正体をつきとめてみせる。彼がどこから来たか、これからどこへ行くのか、そして、なぜわれわれの前で庭から赤ん坊が掘り出されたなどと言ったのかも」
ヴィルフォールはこの言葉を、もし伯爵が耳にしていたら、ぞっと身ぶるいしたであろうような調子で言った。
それから彼は、夫人がいやいやながら与える手を握り、敬意をこめてドアの所まで送った。
ダングラール夫人は、来た時とは別の辻馬車に乗りポン=ヌフの通路の所まで戻り、その通路の向かいに自分の馬車と御者とを見出した。夫人を待つ間、御者は御者台の上で、すやすやと眠っていたのである。
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六十八 夏の舞踏会
同じ日、ダングラール夫人が検事の部屋で、今述べた話をしていたちょうどその頃、一台の旅行用の馬車が、エルデ通りに入り、二十七番地の邸の門から中庭に入った。
すぐに扉が開き、モルセール夫人が息子の腕に支えられて、馬車から降りて来た。
アルベールは、母親が自室に入ったのを見届けると、直ちに風呂と馬車の支度を命じ、召使いの手で着替えをさせてもらい、シャン=ゼリゼーのモンテ・クリスト邸におもむいた。
伯爵はいつもの笑顔で彼を迎えた。不思議なことに、この男の心の中、頭の中には誰も入りこめぬような気がするのであった。もしこう言えるなら、強いてこの男の内部に入りこもうとすると、必ず壁にぶつかるのである。
モルセールは、両腕を開げて駈け寄ったが、伯爵の顔を見ると、笑顔を向けてくれてはいたのだが、その手をおろしてしまい、ただ手をさしのべることしかできなかった。
モンテ・クリストのほうは、いつもそうするように、その手にふれはしたが、握りしめることはしなかった。
「伯爵、ただ今帰りました」
「ようこそ」
「ほんの一時間前に着いたんです」
「ディエップからですか」
「ル・トレポールから」
「ああ、そうでしたね」
「どこよりもまずお宅に伺いました」
「それはどうもありがとう」モンテ・クリストは、まるで全然別のことを言うように言った。
「で、なにか変わったことはありませんか」
「変わったこと? あなたは私に、外国人の私にそれをお訊きになるんですか」
「いえ、こういう意味なんです。変わったことというのは、なにか僕のためにして下さいましたか、という意味です」
「私になにか用をお頼みになりましたかね」モンテ・クリストは気がかかりなふうを装った。
「そんな、とぼけないで下さい。いくら離れていても以心伝心というものがあると言います。ル・トレポールにいたとき、僕はエレキを感じたんです。僕のためになにかして下さったわけではないにしても、少なくとも僕のことを考えては下さったはずです」
「かも知れませんね。たしかにあなたのことは考えた。だが、私が導体となった磁力は、正直なところ私の意志とは無関係な働き方をしてしまったのですよ」
「ほんとうですか、それを聞かせて下さい」
「簡単なことです。ダングラールさんが私の家で食事をなさった」
「それは知ってます。あの人と顔を合わせるのを避けるために、母と僕は旅に出たんですから」
「ただ、ダングラールさんは、アンドレア・カヴァルカンティ君と食卓を共にしたのです」
「あのイタリアの貴公子のことですか」
「大げさに言うのはやめましょう。アンドレア君は子爵を自称しているにすぎません」
「自称している、とおっしゃったんですか」
「そう、自称している、とね」
「ではほんとうはそうではないんですか」
「そんなことは私が知っているはずがないでしょう。彼はそう言っている、私もそう思っているし、ほかの人もそう思っている。とすれば、まるで彼が実際にそうであるのと同じじゃありませんか」
「まったく不思議な方ですね、あなたは。まあいいや、それで?」
「それで、とは?」
「ダングラールさんはお宅で食事をなさったんですね」
「そう」
「そのアンドレア・カヴァルカンティ子爵と一緒に」
「アンドレア・カヴァルカンティ子爵、その父親の侯爵、ダングラール夫人、ヴィルフォール夫妻、それに愉快な人たち、ドブレ君、マクシミリヤン・モレル、それに……誰だったかな……ちょっと待って下さい……ああ、シャトー=ルノー君だ」
「僕の話が出ましたか」
「一言も出ません」
「がっかりだなあ」
「どうしてです、あなたのことをみんなが忘れていたとしても、それはあなたが望んでいたようになっただけじゃありませんか」
「伯爵、みんなが僕のことを口にしなかったのは、僕のことばかり考えてたからですよ。だからがっかりしちまうんです」
「かまわないでしょう、ダングラール嬢は私の家であなたのことを考えていた人たちの中にはいなかったんだから。ああ、もっとも、家では考えていたかな」
「ああ、そのことなら、絶対にそんなことはありません。もしあの人が僕のことを考えていたとしたら、まちがいなく、僕があの人のことを考えるのと同じ考えです」
「それはまたいじらしい心の通い方ですね。それじゃ、あなた方は憎み合っているんですか」
「あのねえ、もしダングラール嬢が、あの人のためというのではとても僕には我慢できない僕の人身御供《ひとみごくう》のような立場を隣れに思い、僕たち両家の間で決められた結婚の約束を無視して僕を救ってくれるような女《ひと》なら、ほんとうにありがたいんです。要するに、あの人は、恋人としてはすばらしい人だろうとは思うんですが、妻としてはどうも……」
「それがこれから妻にしようという人に対するあなたの意見なんですか」伯爵は笑った。
「ええ、そうですよ。多少残酷かもしれませんが、でも、少なくとも正確です。さっき言ったような夢は実現するはずもありませんから、なんらかの決着をつけるためには、ダングラール嬢が僕の妻になるしかないんです。つまり、あの人が僕と一緒に暮らす、僕のそばで思索し、僕のそばで歌を歌い、十歩と離れぬ所で詩を作り音楽を奏でる。これが一生続くんです。ぞっとしますよ。伯爵、恋人なら別れられますが、妻は、これは話が別だ。永久に、近くにいても遠くにいても、永久に僕のものだ。ダングラール嬢は、たとえ遠くにいても、あの人を僕のものにしておくのはぞっとする」
「気むずかしいんですね、子爵」
「ええ。僕はときどき、不可能なことを考えてしまうもんですから」
「どういう?」
「父がみつけたような妻を僕もみつけるという」
モンテ・クリストの顔が蒼ざめ、アルベールの顔をみつめながら、すばらしいなん丁かのピストルをひねくりまわし、さかんに引金をならした。
「では、お父上は大へんお幸せなんですね」
「僕が母をどう思っているかご存じですか。まさに天使です。今でもあの通りきれいだし、相変わらず頭が切れて、ますますよくなるばかりです。僕はル・トレポールヘ行って来ました。ほかの息子にとっては、母親のお伴をするというのは、ご機嫌とりかさもなければ苦役ですが、僕は、この僕は母と二人きりで暮らしたこの四日間、はっきり言いますが、マブの女王か仙女王のティターニアをル・トレポールヘつれて行った場合よりも、もっと満足し、心が安まり、ロマンチックな気持ちを味わいました」
「それはまたあまりにも完全無欠な理想像ですね。あなたの言うことを聞いていると、誰しも独身のままでいたいとしみじみ思ってしまいますよ」
「まさにそれなんですよ。この世に完璧な女性が現に存在することを知っているので、ダングラール嬢なんかとは結婚する気になれないんです。われわれの身びいきというものが、自分のものによりいっそう輝きを与えるということに、お気づきになったことがおありでしょうか。マルレやフォサンの店のショウウィンドウできらめいているダイヤは、自分のものとなるとさらに輝きを増すものです。しかし、もっと上質のダイヤがあるという証拠をつきつけられ、しかもそれより劣ったダイヤを一生持ち続けなければならないとしたら、その時の苦痛はおわかりいただけるでしょう」
「いかにも社交界の人士だな」伯爵はつぶやいた。
「だから、ウジェニーが、僕のことを貧弱なつまらない男、あの人は百万を持っているのに僕はせいぜい十万あるかなしというのに気づいてくれる日が来たら、僕は躍り上がって喜びますよ」
モンテ・クリストは微笑した。
「僕はほかのことも考えたんです」アルベールは続けた。「フランツは変わったことが好きですから、強引に彼をダングラール嬢に惚れさせちまおうと思ったんです。できるだけ気をそそるような手紙を四通書いたんですが、フランツのやつ泰然自若として、『僕はたしかに変人だが、いくら変わっていても、前言をひるがえすような男ではない』という返事をよこしたんです」
「まったく献身的な友情ですなあ、自分はせいぜい恋人にしかしたくないと思っている女を友だちにおしつけるとはね」
アルベールは笑った。
「それはそうと、そのフランツが帰って来ます。もっとも、あなたにはあまり関係ありませんね。フランツをお好きではないようですから」
「私が? 子爵、私がフランツ君を嫌いだなどと、どこを見て言うんですか。私は万人を愛しています」
「じゃあ、僕もその万人のうちの一人なんですね、お礼を申します」
「いや、混同しないで下さい。私は、神が、汝の隣人を愛せ、とお命じになった意味で、心から万人を愛しています。私はある種の人間しか憎みません。フランツ・デピネ君のことに話題を戻しましょう。近くお帰りですって?」
「ええ、ヴィルフォールさんに呼ばれてね。ダングラールさんがウジェニーを嫁がせようとしているのと同じぐらい、ヴァランチーヌさんを嫁がせるのに夢中なんです。たしかに娘を持つ父親にとっては、一番気骨の折れる仕事のようですね。どうやらこの仕事から解放されるまでは、父親たちは熱を出し、脈も九十ぐらいになるらしいですね」
「しかし、デピネ君はあなたとは違いますね。彼は自分の不幸をじっと耐えようとする」
「それ以上です、彼はまじめに考えてます。白ネクタイをつけ、もう家庭のことなど口にしています。彼はヴィルフォール家に対して、大きな敬意を抱いているのです」
「当然の敬意でしょう?」
「と思います。ヴィルフォール氏は、厳格な人と言われて来ましたが、正義の人です」
「よかった。あなたがあの気の毒なダングラール氏のようには扱わぬ人物が、少なくとも一人はいるわけだ」
「たぶんそれは、僕があの人の娘と結婚しなくてもいいからですよ」
「まったくあなたは、手のつけられないうぬぼれ屋ですね」
「僕が?」
「ええ。まあ、葉巻を一本どうぞ」
「喜んでいただきます。でも、どうして僕がうぬぼれ屋ですか」
「だってそうじゃありませんか、あなたは自分で自分の身を防ごうとしている、ダングラール嬢との結婚を避けようとじたばたしている。かまわないから、ほっておくんです。約束を引っこめるのはたぶんあなたのほうではありませんよ」
「えっ!」アルベールは目をむいた。
「たぶんね。誰も首に縄をつけてまでとは言わないでしょう。あなたは」伯爵は声の調子を改めた。「本心からこの話をこわしたいと思いますか」
「そのためなら十万フラン払ってもかまいません」
「それなら喜ぶんですね。ダングラール氏も、この話をこわすためなら、その倍は出す気になっています」
「ほんとうですか、そんならうれしいけど」こう言いながらも、アルベールは額をかすかな影がよぎるのを抑えることができなかった。「でも、伯爵、ダングラール氏のほうには理由あってのことなんですね」
「まったくなんといううぬぼれ屋でエゴイストなのだ。他人の自尊心を鉈《なた》でぶった切ろうとしていながら、自分の自尊心が針の先でちょっと傷つけられてもわめきちらすような人に会えて、ほんとうによかったと思うね」
「そうじゃないんです、でも、ダングラール氏は……」
「僕に惚れこんでいたはずだ、でしょう? ところがね、たしかにダングラール氏は悪趣味だ、それは認めよう、だが、彼は別の男にさらに惚れこんじまったんですよ」
「いったい誰に」
「私は知らない。よく考え、よく見、なにか暗示が目についたら、すかさず捉えて活用することですね」
「わかりました。ところで、母が……いやまちがえました、父が舞踏会を開くつもりでいます」
「こんな季節に舞踏会をですか」
「夏の舞踏会が近頃はやってるんです」
「たとえ、はやっていなくても、伯爵夫人がお望みになりさえすれば、流行になりますよ」
「悪くないですね。おわかりいただけると思いますが、これは純粋な舞踏会ですからね。七月にパリに残っている者こそ、ほんとうのパリジャンです。カヴァルカンティ父子への招待を引き受けて下さいますか」
「その舞踏会は何日後に開かれるんですか」
「土曜日です」
「カヴァルカンティの父親のほうは、もうパリを発ってるでしょう」
「でも、ご子息のほうは残っておられるでしょう?ご子息をつれて来るのを引き受けて下さいませんか」
「いいですか、私は彼のことをよく知らないんですよ」
「あなたがご存じない」
「ええ、三、四日前に初めて会っただけです。彼のことは保証できませんよ」
「でも、あなたはあの人をお招きになったじゃありませんか」
「私の場合は違います。彼はある立派な僧侶が私に紹介してきたのです。もしかするとその人のめがね違いかもしれません。直接ご招待なさい、それなら結構です。しかし、私に紹介してくれとは言わないことですね。後になって、彼がダングラール嬢と結婚するようなことになると、あなたは私のやり口を咎めるでしょうからね。そして、私と決闘なんてことになるかもしれません。それに、私自身行けるかどうかわかりません」
「どこへ?」
「お宅の舞踏会に」
「なぜ来ては下さらないんですか」
「まず第一に、まだお招きを受けていないからです」
「僕はわざわざ自分でお招きしに来たんですよ」
「ああ、それはどうもご親切に。しかし、さしつかえがあるかもしれません」
「僕がなにかをお願いすれば、あなたは、どんなにでも都合をつけて下さる方です」
「そう言われても」
「母がお願いしているんです」
「モルセール伯爵夫人がですか」モンテ・クリストはぎくっとした。
「伯爵、申し上げておきますが、母は僕となら、なんでも話します。で、さっき申し上げた、あなたの心の琴線に鳴りひびくものがなかったとしたら、あなたには、琴線などまったくないということになりますよ。この四日間、僕たちはあなたのことばかり話していたんですからね」
「私のことを。まことに恐縮です」
「いえ、これはあなたが演じておられる役割の特権なんです。問題の人物とされている場合のね」
「ほう、するとお母様にとっても私は問題の人物なんですな。私はあの方は、理知的な方でそんな突拍子もないことをお考えになる方とは思っていませんでしたがね」
「問題の人物なんですよ、あなたは。すべての人にとっての。母にとってもほかの人たちにとっても。ご安心下さい、たしかに問題だとは思われていても、まだその問題は解けていません。あなたは依然として謎の人物です。母はいつでも、あなたがどうしてそんなに若々しいんだろうと、それだけを不思議がっています。G…伯爵夫人はあなたをルスウェン卿だと思っていますが、母は、内心あなたをカリョストロかサン=ジェルマン伯爵〔前者はイタリア、後者はフランスのともに山師。錬金術師を自称した〕だと考えてるんだと僕は思います。母にお会いになったら、ほんとうにそう思ってるのかどうか、じかに確かめてみて下さい。あなたならわけないでしょう。なにしろカリョストロの仙石〔ほかの金属を金に変える力がある石〕とサン=ジェルマンの智力を併せそなえておられるんですから」
「前もって教えておいて下さってありがとう」伯爵は微笑した。「どんな臆測にも対処できるように心がまえをしておきますよ」
「では、土曜日には来て下さいますね」
「モルセール夫人がお望みですからね」
「ありがとうございます」
「ダングラールさんは?」
「もう繰り返し招待されてます。父がやりました。僕たちは、大ダゲッソー〔十八世紀のフランスの偉大な司法官〕たるヴィルフォールさんもお招きしたいんですが、どうもこれは絶望的です」
「なに事にも絶望してはならぬ、諺にもあるじゃありませんか」
「ダンスはなさいますか」
「私がですか」
「ええ、あなたがダンスをなさっても別に不思議はないでしょう」
「ああ、それはそうですね。四十の坂を越えなければね……いや、私は踊れません。ですが、人が踊っているのを見るのは好きです。モルセール夫人はダンスをなさるんですか」
「やはり一度も踊ったことはありません。二人でお話しをなさって下さい。母はとてもあなたとお話しをしたがっていますから」
「ほんとうに?」
「嘘なんか申しません。断言しますが、母がこんなふうに興味を示したのは、あなたが初めてです」
アルベールは帽子をとり、立ち上がった。伯爵は入口までアルベールを送った。
正面階段の上の所でアルベールを引きとめて、
「私のことを怒っていますね」
「なんのことを」
「私は軽率だったと思ってます。ダングラールさんのことなどお話しすべきではありませんでした」
「とんでもない。いくらでも聞かせて下さい、もっともっと。いつでも聞かせて下さい」
「ああ、それならよかった。ところで、デピネ君はいつ着くんです?」
「いくら遅くても五、六日後には」
「結婚式は?」
「サン=メラン侯爵夫妻が着き次第」
「デピネ君がパリに着いたら、つれて来て下さい。あなたは私がデピネ君を嫌っているとおっしゃるが、私は彼に会うのがうれしいもんですからね」
「かしこまりました。必すご命令通りにいたします」
「さようなら」
「土曜日にまた。もちろん、どんなことがあってもですよ、いいですね」
「なにを今さら、もうお約束しましたよ」
伯爵は手を振りながらアルベールを見送った。そして、アルベールが馬車に乗ったのを見ると、彼は振り向いた。後ろにベルトゥチオが立っていた。
「どうだった?」伯爵は訊ねた。
「夫人は裁判所にいらっしゃいました」執事が答えた。
「長いこと裁判所にいたか」
「一時間半」
「それから家に帰ったのか」
「まっすぐ」
「それではベルトゥチオ、今私が君に言えることは、ノルマンディーへ行って、私が話したささやかな土地を探しに行くことだね」
ベルトゥチオは頭を下げた。そして、彼も、今受けた命令通りのことをしようと考えていたので、その晩直ちに出発した。
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六十九 調査
ヴィルフォールは、ダングラール夫人への言葉、いやむしろ自分自身に向かって言った言葉通りに、モンテ・クリスト伯爵がどのようにしてオートゥイユの邸での事件を知ったのかをさぐり始めた。
彼はその日のうちに、もと刑務監査官で、その後治安当局のより高い地位に昇進したボヴィルという男に手紙を書き、情報の提供を求めた。ボヴィルは、誰から情報を聞いたらいいか正確に知るために、二日間の猶予を求めて来た。
その二日が過ぎ、ヴィルフォールは次のような報告を受け取った。
『モンテ・クリスト伯爵と呼ばれている人物は、ウィルモア卿ととくに親しく、ウィルモア卿は、裕福な外国人であり、時折パリに現われ、現在パリ滞在中である。モンテ・クリスト伯爵は、また同時に、シチリアの僧ブゾニともとくに親交がある。ブゾニ神父は、中近東方面で数多くの善行をほどこし、彼の地では高名な僧である』
ヴィルフォールはこの二人の外国人に関する最も迅速かつ正確な捜査を命ずる返事を書いた。翌日の夕方、その命令が実行されたが以下は彼が受けた報告である。
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ブゾニ神父は、わずか一か月のパリ滞在予定であるが、サン=シュルピス寺院の裏の、二階までしかない小さな家に住んでいる。全部で四部屋で、二階が二部屋、下が二部屋。これがその家のすべてで、この家屋をブゾニ神父一人で借りている。
下の二部屋は、椅子、テーブル、クルミの食器戸棚を具えた食堂と、なんの飾りもなく、掛時計もない、白塗りの木の壁のサロンである。ブゾニ神父が自分用には、必要最少限の品物だけしか持っていないことは明らかである。
もっとも、ブゾニ神父は二階のサロンを好んで用いている。このサロンには、神学の書物や羊皮紙の書物がぎっしりつまっており、召使いの話では、ブゾニ神父は数か月間もこの中に埋もれて過ごすというが、これは実際には、サロンというよりは図書室である。
この召使いは、訪問者の顔を一種の覗き穴から見て、それが見知らぬ者であったり、気に入らぬ者であったりすると、神父はパリにはおられぬと答える。多くの者は、神父がしょっちゅう旅行をし、長いことパリを留守にすることを知っているので、この答を信用してしまう。
さらに、在宅の場合も留守の場合も、パリにいてもカイロにいても、神父は施しをし続け、その覗き穴は、召使いが主人の名で行なう施し物の渡し口ともなっている。
図書室の隣のもう一つの部屋は寝室である。帳《とばり》のないベッドが一つ、肘掛椅子が四つ、黄色いユトレヒトのビロードを張った長椅子が一つ、それに跪台《きだい》、これが家具のすべてである。
ウィルモア卿のほうは、フォンテーヌ=サン=ジョルジュ通りに住み、全財産を旅につぎこんでしまうあの英国人の一人である。家具つきの部屋を借りて住んでいるが、一日のうちそこで過ごすのはほんの二、三時間で、めったに泊ることもない。一つの性癖があって、それは、噂では、かなり正確に書くことはできるというのに、絶対にフランス語を喋ろうとしないことである。
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この貴重な情報が検事のもとに届いた翌日、一人の男がフェルー通りの角で馬車を降り、オリーブ色に塗られたドアを叩き、ブゾニ神父に面会を求めた。
「司祭様は朝から出かけておられます」召使いが答えた。
「私はそんな返事で引き退るわけにはいかぬ。私は、その方に対しては居留守など使えぬお方に命じられて来たのだ。ブゾニ神父にこれをお渡し願いたい……」
「お留守だと申し上げました」召使いは繰り返した。
「それでは、帰られたらこの名刺とこの封書を渡してほしい。今夜、八時ならご在宅かな?」
「まちがいなく。ただしお仕事中でなければ、でございます。お仕事中はお留守と同じでございますから」
「ではその時間にまた来る」
こう言って来訪者は引きとった。
はたしてその時間に、同じ男が同じ馬車に乗り、もっとも今度はフェルー通りの角ではなくオリーブ色のドアの前で馬車をとめたが、ふたたびやって来た。彼はドアを叩き、ドアが開き、彼は中に入った。
召使いが示した敬意のこもった態度から、男は彼の書状が期待通りの効果をもたらしたことを知った。
「司祭はご在宅ですか」
「はい、図書室でお仕事中でございますが、お待ちでございます」
見知らぬ男はかなり急な階段を昇った。大きな笠で集められた光がその表面のみを照らしているテーブルの前に、法衣をまとったブゾニ神父がいた。部屋のほかの部分は暗かった。中世の〈……ウス〉という名の多くの学者たち〔ラテンの学者にはウスで終る名前の人が多い〕の頭を包んでいたあの僧頭巾をかぶっている。
「ブゾニ司祭様でしょうか」来訪者が訊ねた。
「さよう。もと刑務監査官ボヴィル氏が警察当局から遣わされた方ですな?」
「その通りです」
「パリの公安関係の刑事かな?」
「そうです」見知らぬ男は、ややためらうように、そして顔を赤くしながら答えた。
司祭は、目だけではなくこめかみまでも覆うような大きな眼鏡を掛け直し、また坐って、来訪者にも坐るようにと手で示した。
「お話を伺いましょう」司祭がひどいイタリア訛りで言った。
「私が命ぜられております使命は」来訪者は、口にしにくい言葉を言うように、一語一語に力を入れて話した。
「これを果たす者にとっても、またお話を伺わせていただく人にとっても、信頼が最も大切な使命なのです」
僧はうなずいた。
「そうなのです、司祭様の誠実なご性格を警視総監もよくご存じで、その故にこそ、司直の身にあるものとして、公安維持にかかわることを、あなたからお聞きしたいと、私を公安維持の名のもとに派遣なさったのです。ですから、友誼とか人情とかのため、当局に対して真実をおかくしになるようなことはしていただきたくありません」
「あなたが知りたいことが、まったく私の良心を傷つけるものでない限りは、そういたしましょう。私は僧侶だ、たとえば懺悔の秘密などは、私と神のお裁きとの間にのみとどめておくべきで、私と人間の裁きとの間で語られてはならぬこと」
「その点でしたらご安心下さい、あなたの良心は十分に尊重いたしますから」
この言葉を聞くと、司祭はランプの笠の自分に近いほうを下に下げ、反対側のほうを上向きにした。そのため、見知らぬ男の顔いっぱいに光があたり、僧の顔は相変わらず暗がりの中に沈んでいた。
「すみませんが、この光が、ひどくまぶしくて」警視総監に派遣された男が言った。
僧は緑色の厚紙の笠を押し下げた。
「ではお話を承わりましょうか、どうぞ」
「では本題に入ります。あなたはモンテ・クリスト伯爵をご存じでしょうか」
「ザッコーネ氏のことをお話しておられるように思うが」
「ザッコーネ! ……ではモンテ・クリストという名前ではないのですか」
「モンテ・クリストというのは土地の名、いや、岩礁の名でな、苗字《みょうじ》ではない」
「それでは結構です。言葉などどうでもいいでしょう。モンテ・クリスト氏とザッコーネ氏は同一人物なのですから」
「まったく同一の人物だ」
「ではザッコーネ氏について伺います」
「結構」
「その方をご存じですかと申しました」
「よく存じている」
「どういう人です」
「マルタの大きな船造りの伜でな」
「はい、それは私も知っております。そういう噂です。しかし、ご承知のように、当局としては、そういう噂だというのでは満足するわけには参りません」
「しかし」僧は愛想のいい笑顔を見せながら、「その噂が真実なら、誰しもそれで満足しなければなるまいて。警察もみなと同じようにするしかあるまい」
「ですが、お言葉に確信がおありですか」
「何を言う! 確信あってのこと」
「私はあなたが本心からおっしゃっているということを少しも疑ってなどおりません。私は、確かにそうお思いですかと申し上げているのです」
「いいかな、私はザッコーネの父親を存じている」
「は、はあ」
「そうなのだ。で、ごく幼い頃、私はその息子と造船台でなん回となく遊んだものだ」
「しかし、あの伯爵の称号は?」
「ご承知のように、そんなものは金で買うことができる」
「イタリアではそうなんですか」
「イタリアに限らぬよ」
「ですが、莫大なものとしじゅう噂されている、あの富は……」
「おお、そのことなら、まさに莫大なものだ」
「あの方をよくご存じのあなたは、どのぐらいのものだとお思いですか」
「十五万から二十万の年収は十分にある」
「それなら肯《うなず》ける額ですね。しかし世間では三百万、四百万と言っています」
「二十万の年収があるということは、四百万の資産を意味しますぞ」
「いえ、三、四百万の年収があるというのです」
「それは信じられんな」
「あなたは、モンテ・クリストというあの方の島をご存じですか」
「もちろん。パレルモ、ナポリ、ローマからフランスに船で来る者は、誰でもあの島のことは知っておる。島のすぐそばを通るから、その際、島が見える」
「すばらしい島だということですが」
「ただの岩礁じゃよ」
「それでは、どうして伯爵はそんな岩礁など買ったのでしょう」
「伯爵になるためだ。イタリアでは、伯爵になるためには、伯爵領を持たねばならぬ」
「あなたは、ザッコーネ氏の若い頃の冒険をお聞きになったことがおありでしょうね」
「父親のほうの?」
「いいえ、息子のほう」
「ああ、その辺から私もあまり正確には言えなくなるのだ。その頃から私はあの幼な友達に会わなくなったものだから」
「戦争に行ったのでしょうか」
「軍務には服したと思う」
「どういう軍隊ですか」
「海軍だ」
「あなたはあの方の懺悔聴聞僧ではないんですか」
「それが、そうではないのだよ。あの男は新教徒ではないかと思う」
「ええっ、新教徒!」
「私は、ではないかと思う、と言っている。断定はしない。それに、フランスでは信教の自由が確立しているのではなかったかな」
「その通りです。ですから、われわれが関心を抱いでいるのはあの方の信仰ではなくて、行動なのです。警視総監閣下の名において、私はあなたがご存じのことをおっしゃって下さることを求めます」
「あの男は大へんな慈善家として通っておる。法王猊下も、彼の中近東でのキリスト教徒に対するすぐれた功績を嘉《よみ》せられ、『キリストの騎士』の称号を与え給うた。これはふつう王侯にしか与えられぬものだ。これら諸国の王侯ならびに国家に対する功績により立派な勲章も五つ六つ与えられた」
「身につけていますか」
「いや、だが誇りにはしている。人間を殺戮する者に与えられる勲章よりは、人類を幸せにする善行に対して与えられる褒美《ほうび》のほうが好きだと言っている」
「ではあの男はクエーカー教徒ですか」
「その通り、クエーカー教徒だ。もちろん、大きな帽子も栗色の服も着てはおらんが」
「あの人には友達はいますか」
「いる。あの男は、知り合いになった者は、みな友達と思っているから」
「が、それにしても敵もいるでしょう」
「一人だけいる」
「その人の名は?」
「ウィルモア卿だ」
「その方はどこにいます」
「今、このパリにいる」
「その方からもいろいろお話を伺えるでしょうね」
「重要なことをな。あの人はザッコーネと時を同じくしてインドにおったから」
「どこに住んでいるかご存じですか」
「ショセ・ダンタンのどこかだが、町名や番地は知らぬ」
「あなたはそのイギリス人とあまり仲がよくないのですか」
「私はザッコーネが好きだし、あの男が嫌うので、そのために冷たい仲になっている」
「司祭様はモンテ・クリスト伯爵が、今回パリヘ来た以前にも、フランスヘは来たことがあるとお思いですか」
「ああ、そのことならはっきり答えることができる。いや、一度も来たことはない。半年前、私の所へ、いろいろ教えてほしいと言ってきたほどだから。私は、いつまたパリに戻れるかわからなかったので、カヴァルカンティ氏をさし向けた」
「アンドレアですか」
「いや、バルトロメオ、父親のほうだ」
「よくわかりました。もうあとは一つしかお聞きすることはありません。名誉と人類愛と信仰の名において、率直にお答え願います」
「伺おう」
「モンテ・クリスト伯爵はどういう目的でオートゥイユの家を買ったのですか」
「よく知っている、あの男が私に話したから」
「どういう目的なのですか」
「ピザン男爵がパレルモに創設したような精神病院にするためだ。あの病院をご存じかな」
「評判は聞いております」
「すばらしい施設だ」
こう言って、僧は、中断した仕事にまた戻りたいと思っていることを示すように一礼した。
来訪者は、僧の心を察したためか、聞きたいことはみな聞いてしまったためか、自分も立ち上がった。僧は彼を戸口まで送った。
「あなたはたくさんの施しをなさっておられます」来訪者が言った。「ご裕福だとは伺っておりますが、貧しい者たちのため私もわずかばかり寄進させていただきたいと思います。私の寄進を受けて下さいますか」
「かたじけないが、この世で私が、どうしてもこれだけは、と思っていることがあるとすれば、それは、私がなす善行は私の力だけでなすということなのだ」
「ではありましょうが」
「この決心は変わらぬ。しかし、その心はお忘れにならぬよう、機会はいくらでもある。ああ、富める者の歩む道すじには、貧しき者がひしめいておるのだから」
僧はドアを開けながらもう一度頭を下げた。見知らぬ男も一礼して外へ出た。
彼の馬車はまっすぐにヴィルフォールの邸に向かった。
一時間後、馬車がまた出て来て、今度はフォンテーヌ=サン=ジョルジュ通りに向かい、五番地で止まった。そこがウィルモア卿の住まいだったのである。
この見知らぬ男は、あらかじめウィルモア卿に手紙で面会を求め、ウィルモア卿は、十時に会う約束を与えていたのであった。だから、警視総監に派遣された男が十時十分前にウィルモア卿の家に着いたとき、ウィルモア卿はまだ帰宅してはいないが、時計が十時を打てば必ず帰るという返事を受けた。卿は几帳面さと時間厳守の権化だったのである。
来訪者はサロンで待っていた。これはべつになんの取柄もないサロンで、ありきたりの家具つきホテルのサロンであった。
近代風のセーヴル焼の花瓶《かびん》が二つのった暖炉、弓を引きしぼったキューピッドのついた振子時計、鏡が二枚ついた姿見。姿見の両側には、案内人を背負ったホメロスと、施しを乞うベルサリオスを描いた版画があった。灰色地に灰色の模様の壁紙、赤地に黒い柄の布を張った家具。これがウィルモア卿のサロンであった。
磨《す》りガラスのほやのかかったランプが弱々しい光しか投げておらず、総監閣下に派遣された男の疲れた目をいたわるために、わざと光を弱めてあるかのようであった。
十分待って、振子時計が十時を打ち始めた。五つ目が鳴ったとき、ドアが開きウィルモア卿が姿を現わした。
ウィルモア卿はどちらかといえば背が高いほうで、まばらな赤茶けた顎ひげ、白い肌、白髪になりかけた金髪をしていた。身なりはまったく突拍子もないイギリス風であった。つまり、一八一一年に皆が着ていたような、金ボタンと高いピケの襟のついた青い燕尾服、白のカシミヤのチョッキを着ている。浅黄色のズボンは三インチも短かすぎるのだが、同じ生地のズボンの裾止めが、膝の上まで上がってしまうのを抑えていた。
入るなり彼が言った最初の言葉はこうであった。
「ご承知でしょうが、私はフランス語が喋れません」
「少なくとも、わが国の言葉をお話しになりたがらないということは存じております」総監に派遣された男が答えた。
「しかし、あなたのほうは、フランス語でお話しになってもかまいませんよ。私は喋れないが、聞いて理解することはできますから」
「私は」と、来訪者は言葉を英語に変えて言った。「英語で会話を続ける程度には楽に英語が喋れます。ですから、どうぞご懸念なく」
「ほう」ウィルモア卿が、生粋のグレート・ブリテン生まれでなければ持てないアクセントで言った。
総監派遣の男は紹介状をウィルモア卿にさし出した。ウィルモア卿はいかにも英国教徒らしい冷たく落ち着いた態度でそれを読み、読み終えると、英語でこう言った。
「わかりました。大へんよくわかりました」
そこで質問が始まった。
大たいブゾニ神父になされたものと同じであった。ただ、ウィルモア卿はモンテ・クリストの敵という性格から、ブゾニ神父のように控え目な態度をとらなかったので、説明はより広範なものとなった。彼はモンテ・クリストの若い頃のことを話した。彼によれば、モンテ・クリストは十歳のとき、当時英国と戦っていたインドの土侯の一人の軍隊に身を投じたという。ウィルモアがモンテ・クリストに初めて会ったのは彼の地であり、二人は相戦ったのであった。この戦さで、ザッコーネは捕虜になり、イギリスに送られ、牢獄として用いられていた廃船に乗せられたが、そこから泳いで脱出した。それから彼の、旅、決闘、漁色が始まった。そして、ギリシアの反乱が起こり、彼はギリシア人側についた。ギリシアの味方をしているうちに、テッサリヤの山中で彼は銀鉱を発見したが、彼はこのことを用心深く誰にも洩らさなかった。ナヴァリノ海戦〔英仏露の艦隊がトルコ・エジプト艦隊に大勝した〕の後、ギリシア政府の基礎が固まったとき、彼は国王オトンにこの鉱山の採掘許可を求め、採掘権を与えられた。これが、ウィルモア卿によれば年収百万から二百万に上るという、彼の莫大な資産の源なのである。ただし、鉱山が掘り尽されればこの資産もたちどころに乾《ひ》上がってしまうというのであった。
「しかし、なぜ彼がフランスに来たのかご存じでしょうか」
「鉄道で一儲けするつもりなのです。それに、あの男は有能な化学者であり、同時に、それに劣らずすぐれた物理学者でもあるので、新しい信号装置を開発し、その実用化をはかっているのです」
「一年にどのくらいの金を使う男でしょうか」
「おお、せいぜい五、六十万フランでしょう。けちですからな」
明らかに、憎悪の念がこの英国人にこういうことを言わせているのであった。伯爵の悪口を言うたねが見当らぬままに、彼は伯爵がけちであると言ったのだ。
「彼のオートゥイユの家についてなにかご存じですか」
「ええ、もちろん」
「どういうことをご存じなのでしょうか」
「どういう目的であの家を買ったのか、とお訊ねになるわけですな」
「ええ」
「伯爵はね、夢みたいなことをあれこれやってみた挙句に破産してしまうタイプの投資家なんです。オートゥイユの、先頃手に入れた家の付近に、バニェール・ド・リュションやコトレに匹敵する鉱泉の湯脈があると称しています。あの家をドイツで言う『温泉宿』にするというのですよ。その湯脈なるものを掘り当てようとして、もう二、三回は庭中を掘っくり返しました。湯脈などみつからなかったので、まあ見ていてごらんなさい、近いうちにあの周辺の家を買い入れますから。ところで、私はあの男を憎んでますからね、鉄道、電信、温泉などであの男が破産してしまえばいいと思ってるんです。いずれは必ずそうなるんですから、あの男の破産をこの目で見て楽しんでやろうと、始終あの男のあとをつけまわしているんです」
「なぜあの男を憎んでおいでなんですか」
「私があの男を憎むのは、英国へ渡ったとき、あの男が私の友人の妻君を誘惑したからです」
「しかし、恨みがあるなら、どうして復讐しようとはなさらないのです」
「伯爵とは三回も決闘をしましたよ。最初はピストル、二度目は剣、三回目は両刃《もろは》の太刀《たち》」
「その結果は?」
「最初は腕を射抜かれました。二度目は肺を刺され、三回目にはこの傷を負わされました」
英国人は耳のあたりまで来ているシャツの襟を折り曲げて傷痕を見せた。その赤い色は、その傷がそう古くないことを物語っていた。
「だから、私はあの男をひどく憎んでます。奴は、必ずこの私の手にかかって死ぬことになるでしょう」
「しかし、どうもあの男を殺すという方向には進んでいないようですが」
「なにをおっしゃいますか、私は毎日射撃練習に通ってるし、一日おきにグリジエに私の家に来てもらっていますよ」
以上が来訪者が知りたいと思っていたこと、と言うよりも、英国人が知っていそうに思えることのすべてであった。そこで刑事は立ち上がり、英国流の固苦しい礼儀正しさで挨拶を返すウィルモア卿に一礼した後に退出した。
ウィルモア卿は、通りに面した扉が刑事が出た後で閉まる音を聞くと、寝室に入り、顔をひとなでした。すると、ブロンドの髪、赤茶色の顎ひげ、人造の顎、あの傷痕は消え、モンテ・クリスト伯爵の、黒髪と艶のない肌、それに真珠のような歯が現われた。
一方、ヴィルフォールの邸に戻った男が、ヴィルフォールであり、警視総監に派遣された男ではなかったことも事実である。
検事はこの二つの訪問でやや安心した。なにも安心できる材料は得られなかったが、さりとて不安になる材料もなかったのである。だから、その夜彼は、オートゥイユでの夕食会以後初めていくらか平静な眠りにつくことができたのであった。(つづく)