モンテ・クリスト伯(二)
アレクサンドル・デュマ/泉田武二訳
目 次
二十四 眩惑
二十五 見知らぬ男
二十六 ポン・デュ・ガール亭
二十七 物語
二十八 収監簿
二十九 モレル商会
三十 九月五日
三十一 イタリア――船乗りシンドバッド
三十二 めざめ
三十三 ローマの山賊
三十四 出現
三十五 撲殺刑
三十六 ローマのカーニヴァル
三十七 サン=セバスチアーノのカタコンブ
三十八 再会の約束
三十九 招待客
四十 午餐
四十一 紹介
四十二 ベルトゥチオ
四十三 オートゥイユの家
四十四 復讐
四十五 血の雨
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二十四 眩惑
日輪《にちりん》は、その一日の行程の三分の一ほどの所に達していた。そして、その暖かく万物に活力を与える五月の陽光が、岩の上に降り注いでいた。岩もまたその暖かさを感じているかのようであった。茂みの中に姿をかくしたなん千というセミたちが、単調で連続的なささやきをかわしていた。テンニンカやオリーブの葉が細かくふるえ、金属的ともいえる音をたてていた。暖められた花崗岩の上をエドモンが一歩歩むごとに、エメラルドのようなトカゲが逃げていった。遠くには、斜面を飛び跳ねる野生の山羊の姿が見えた。この山羊が時折、この島に猟師を惹《ひ》きつけるのであった。要するに、島は生き物が住み、生気に満ち活気に溢れていた。が、エドモンは、自分がまったく孤独で、ただ神の御手《みて》の中にあるのを感じるのだった。
彼は不安にかなり似た感情を抱いていた。それは、たとえ砂漠の中にあってさえ、誰かに見られているのではないかという感じを起こさせる、あの白昼の光に対する不信の念なのであった。
この気持があまりにも強かったので、エドモンは、仕事にとりかかろうとしたその瞬間に、急にそれをやめ、つるはしを置き銃を手にすると、最後にもう一度、島で一番高い岩の上によじ登った。そして、そこから彼をとりまくいっさいのものに対して、遠く視線を投げるのであった。
だが、言っておかねばならぬが、彼の注意を惹いたものは、家々までが見分けられる詩的な島コルシカでもなければ、それに続く、ほとんど知られていない島サルディニアでもなく、水平線上に横たわる、船乗りの訓練された目のみが、華麗なジェノヴァ商業の港リヴォルノの位置を見定め得る、あるかなきかの海岸線でもなかった。それは、夜の明けきらぬうちに出港していった二檣《にしょう》帆船と、つい今しがた出港した小型帆船なのであった。
二檣帆船のほうはボニファチオ海峡に姿を消そうとしており、小型帆船のほうは、それとは逆のコースをとって、コルシカ島に沿って進み、コルシカを通過するところであった。
それを見てエドモンは安心した。
そこで彼は、もっと身近の周囲の事物に目を移した。彼は、巨大な台座の上に立つか細い像のように、円錐形の島の最も高い所に立っていた。眼下には人間は一人もいない。周囲には小舟一隻見当らぬ。ただあるものは、島のすそに打ち寄せて、永遠に銀の縁飾りをつけ続ける、紺碧《こんぺき》の海だけである。
彼は足を早めて降りて行った。が十分に用心しながら。今このときに、彼があれほどうまく巧みに演じてみせたあの事故と同じような事故が起きてしまうことを非常に恐れたからだ。
すでに述べたように、ダンテスは岩に残された目印を逆に辿《たど》った。そして、この線が、まるで古代のニンフの水浴場のように人目からかくれた小さな一種の入江に達しているのを見たのだ。この入江は、入口がかなり広く、中心部はかなり深く、小さな快速船が入ってひっそりかくれていられそうであった。そこで彼は、帰納的推理の糸をたどって、ファリア神父が錯綜《さくそう》した蓋然性《がいぜんせい》の中を、思考をたくみに導いていってみせたあの推理の糸をたどって、スパダ枢機卿は、人目を避け得るという利点から、この入江に近づき、彼の小型船をここにかくし、岩につけられている目印の線をたどって、この線の到達点に宝を埋めた、と考えたのである。
この推理が、ダンテスをあの丸い岩の所へまたつれ戻したのであった。
ただ、一つだけ彼を不安にし、彼の持ついっさいの力学的知識を混乱させてしまう事実があった。それは、重さ五、六千ポンドはあろうと思われるその岩を、それが腰をすえている一種の台の上に載せるには、よほどの力を用いなければならないが、いったいどうやって岩を引き上げたのか、ということであった。
突然ある考えが閃いた。『持ち上げたのではなくて、降ろしたのだ』
そこで彼は、岩の上に上がって、その岩がもと置かれていた場所を探した。
はたして、彼はゆるやかな坂がついているのをやがて見出したのである。岩は坂を滑り降りて、今ある位置に止ったのだ。ふつうの石材ほどの大きさのもう一つの岩が、支《か》い石となっていた。石や砂利が慎重につめこまれて、不連続な部分の痕跡が消されていた。そして、このちょっとした石工《いしく》の仕事の上に土がかぶせられ、草が生え、コケがひろがり、テンニンカやニュウコウの種子が根づいて、その古い岩が、大地に密着しているかのように見せているのであった。
ダンテスは注意深くその土を取りのけ、この巧みな技巧を全部知った、いや知ったと思った。
それから彼は、時の力でセメントのように固められている、間につめこまれた小石の壁に、つるはしで攻撃を開始した。
十分間仕事を続けると、固い壁にも片腕が入るぐらいの穴が掘れた。ダンテスは、見出し得る限りでの一番丈夫なオリーブの木を切り、枝を払い、これを穴にさし込んで、てこにした。
しかし、岩はひどく重く、同時に下に支《か》われた岩にしっかりと支えられていて、人の力では、たとえヘラクレスの力をもってしても、ゆり動かすことはできなかった。
そこでダンテスは、攻撃すべきは下に支《か》われた岩自体であると考えた。
だがどうやって。
当惑しきった者がやるように、彼はあたりを見廻した。そして彼の目は、あの友ヤコポが残して行ってくれた、火薬がいっぱいにつまった山羊の角の上に落ちた。
彼は微笑した。この地獄の発明が今その真価を発揮する。
つるはしを振い、上の岩とそれを支えている岩の間に、ダンテスは、工兵が人力のいたずらな消耗を避けようとするときによくやるように導坑をうがち、これに火薬を詰めた。それからハンカチを細かく裂き、火薬の中でころがして導火線を作った。
この導火線に火をつけると、ダンテスは身を遠ざけた。
すぐさま爆発が起きた。上の岩は計り知れぬ力で一瞬宙に浮き、下の岩はこっぱみじんに砕け散った。ダンテスが最初につけた穴から、無数の昆虫が身をふるわせながら出て来た。そうして、この神秘の入口の番人である一匹の無毒の蛇が、青い姿をくねらせて見えなくなった。
ダンテスは近づいた。上の岩は、支えを失い、海側に傾いていた。飽くことなき探索者は岩の廻りをまわってみた。もっとも動きやすい場所を見定め、岩角の一つに≪てこ≫をあてがい、シジフォスさながら、岩に向かって渾身の力をこめた。すでに衝撃でぐらついていた岩がゆらいだ。ダンテスはさらに力を入れた。神々の主〔ジュピター〕と戦うため、山を根こぎにしたタイタン〔ギリシア神話の中の巨人〕の一人とも見える姿であった。ついに岩が負け、ころげ、跳り上がりながら、海に落ち込み、姿を消し海底にのみ込まれて行った。
あとには丸い場所が残った。四角い敷石の中央にはめ込まれた鉄の輪が白日の下にさらされている。
ダンテスは喜びと驚きの入りまじった叫び声を上げた。最初の試みが、これほどすばらしい結果を生んだためしはあるまい。
ダンテスはなおも仕事が続けたかった。しかし、彼の腕はあまりにもひどくふるえ、心臓はあまりにも激しく動悸を打ち、目の前を火のような雲がよぎり、仕事を一時中止せざるを得なかった。
しかしこの躊躇《ちゅうちょ》も、稲妻が一閃するに要するほどの時間しか続かなかった。エドモンはてこを鉄の輪に通し、力いっぱいそれを持ち上げた。鉄の輪がはめ込まれていた敷石がはずれ、階段のようになっている急な坂をのぞかせた。階段は、次第に暗くなっていく洞穴の闇の中に没している。
別人であれば、ただちに躍り込み、歓声を上げたことであろう。だがダンテスは立ち止まり、顔青ざめて疑ったのである。
『いいか、逆境にめげぬ男となるのだ。失望にうちのめされてはならぬ。そうでなければ、おれの今までの苦しみはなんの甲斐もない。希望に暖かい息吹を吹きかけられてとてつもなくふくれ上がってしまった心が、冷酷な現実の中にまた戻り閉じこめられる時、心は折れるものなのだ。スパダ枢機卿はこの洞窟になにも埋めたりなどしなかった。おそらくここへ来たことさえないのだ。もし仮に来たとしても、チェザーレ・ボルジアが、あの飽くことなき探究者、陰険不屈の盗賊が、スパダ枢機卿の足跡を発見し、俺と同じようにあの目印をたどり、おれと同じようにこの石を持ち上げ、俺よりも前に洞窟に降りて行き、俺になどなにも残してはおかなかったのだ』
彼はしばし身動きもせず、思いにふけったまま、目を閉じて、その暗い、先へ続いている入口の上に立ちつくしていた。
『さて、俺がもうなにも期待していない今、まだなんらかの希望を抱くなど気違い沙汰だと自分に言い聞かせた今は、なおこの探険を続けるのは、この俺にとっては好奇心のためだ、それだけだ』
こうつぶやきながら、彼はなおも思いにふけり、じっと動かぬままであった。
『そうとも、これは、あの盗賊王侯の光と影とのあやなす人生の中に、彼の多彩な生き方を織りなす、さまざまな一連の事件の中に、まさにその位置を見出すべき一つのとほうもない出来事だ。あの信じられぬような毒殺事件は、必ずや他の事件ともつながりがあったはずだ。そうだ、ボルジアはある夜ここへ来た。たいまつを片手に、もう一方の手に剣を持って。二十歩ほど離れた所には、おそらくこの岩のすそあたりに、二人の警吏がいて、主《あるじ》が、ちょうどおれがこれからしようとしているように、その恐るべき、そして火と燃える腕で闇をはらいのけながら中に入って行く間、地上と空と海上とを警戒していたにちがいない。
そうなのだ。だが、こうして秘密を知られてしまった警吏たちを、チェザーレはどうしただろうか』ダンテスは自問した。
『アラリック〔西ゴートの酋長〕を埋葬した連中がやられたのと同じように』と彼は微笑しながら自答した。『埋められたものと一緒に埋めてしまったさ』
『だがしかし、もしここへ来たとすると』とダンテスはまたつぶやいた。『宝をみつけ手に入れただろう。イタリアを朝鮮アザミになぞらえて、その葉を一枚一枚食い尽したあの男ボルジアは、宝を取った後でまたあの岩をもとに戻しておくなどという時間の無駄をするほど、時間の使い方を知らぬ男ではなかった』
『降りてみよう』
口辺に疑いを示す微笑を浮かべ、人間の知恵が最後に洩らす『おそらく』という言葉をつぶやきながら、彼は洞窟の中へ降りて行った。
だが、彼が予期していたように中は暗くなく、また空気も澱《よど》み汚れてはおらず、ダンテスは、青みをおびた柔かい光を見出した。光と空気とは、今開けられた入口からばかりではなく、外側の地面からは見えない岩の割れ目からも入り込んでくるのだった。その割れ目を通して、緑のカシワのそよぐ枝と、這いまわるイバラの刺のあるつるがたわむれている青空が見えた。じめじめしているというよりは暖かく、臭いがないというよりは香気さえあるこの洞窟の空気の温度と島の温度には、日光とその青みがかった光との違いほどの差があったが、この洞窟にほんの数秒いただけで、すでに述べたように、闇に慣れていたダンテスの目は、洞穴の一番奥までも見すかすことができた。全体が花崗岩でできていて、そのきらきら光る面がダイヤのように輝いていた。
「ああ」エドモンは微笑しながらつぶやいた。「これが枢機卿の残した宝のすべてなのだ。あの善良な坊さんは、この見事な壁を夢で見て、金持ちになる希望を持ち続けたのだろう」
が、彼はすっかり暗記しているあの遺書の言葉を思い出した。
『第二の入口より最も遠き角に』
遺書はこう言っているのだ。
ダンテスは今、第一の洞窟に足を踏み入れたにすぎない。今度は第二の洞窟の入口を深さねばならないのだ。
ダンテスは方向を見きわめた。その第二の洞窟は、当然島の中央に向かっているはずだ。彼は石の性質を調べ、ある壁をたたいてみた。おそらく最大限の注意を払って外からはわからなくしてあるであろうが、きっとここに入口があるにちがいないと思ったのだ。
つるはしが一瞬余韻を響かせた。岩がにぶい音をたてた。その充実した音がダンテスの額に汗をにじませた。ついに辛抱強い坑夫は、その花崗岩の壁の一部が、叩くと、ほかよりはにぶい、こもったような音を返すように思った。彼は燃えるような眼差しを壁面に近づけ、囚人の勘《かん》から、他の者には気づくことのできなかったであろう一つの事実を知ったのである。そこに、たしかに入口がある、ということを。
しかし、チェザーレ・ボルジアと同じく、時間の価値をよく知っていたダンテスは、無駄な労力を省くために、ほかの壁もつるはしで調べ、地面を銃床で叩いてみた。あやしい箇所の砂を払いのけた。それでもなにもみつからず、なにも認められないとなってから、彼はまた、あの心地よい響きをたてる壁の所へ戻った。
彼はまた、前よりも強く叩いてみた。
すると、彼は奇怪なことを見た。それは、つるはしが当るたびに、壁画を描く前に壁に塗る下塗りの塗料のようなものが、岩壁からはがれ落ち、その下に、ふつうの石材のような白く柔かい石が見えてくるのである。岩窟の入口を性質の違う石でふさぎ、その上にこの塗料を塗り、さらにその上に、花崗岩の色と結晶をまねた模様をつけたのだ。
ダンテスは今度はつるはしの尖ったほうで叩いた。つるはしはその入口である壁の中に一インチほど入るのであった。
探すべきはまさにここなのだ。
人間の構造はまことに不思議なもので、ファリアが思い違いをしていたのではないという証拠が次々に現われたのであるから、ダンテスに確信を抱かせるはずなのだが、萎《な》えた彼の心は、ますます疑惑を深め、失望さえ感じそうになるのだった。彼に新たな力を与えるはずのこの新しい発見が、かえって残されていた彼の力を奪ったのである。つるはしは降ろされ、彼の手から滑り落ちそうになった。彼はつるはしを地面に置いた。額をぬぐうと外の明るみに出た。彼の様子をうかがう者はいないか見るためだ、と自分自身に言いわけをしたが、実は空気がほしかったからだ。失神してしまいそうに思えたからだ。
島に人影はなかった。天頂にある太陽が、火と燃える目で島を覆っているようであった。遠くには、小さな漁船がサファイアのような海の上に帆をひろげていた。
ダンテスはまだなにも食べていなかった。だが、こんな時になにか食べるなどは暇《ひま》がかかりすぎる。ラムを一口飲むと、彼はまた決意を新たにして洞窟に入った。
今しがた、あれほど重く感じられたつるはしが、また軽くなった。彼は、まるでペンのように軽々とそれを手にすると、力強く仕事を再開した。
なん回かつるはしを打ち込んでみて、ダンテスには、石と石とが漆喰で接合されてはおらず、ただ積み重ねてその上に上述の上塗りがほどこされているだけなのを知った。彼は石の隙間につるはしの尖端を入れ体重をかけ、その石が彼の足もとに落ちるのを見て歓声をあげた。
それから後は、つるはしにひっかけて、石を一つ一つ引き抜けばよかった。石は一つ一つ、最初の石のそばに落ちた。
はじめに口が開いた時に中に入ることもできたのである。だが、こうしてしばらく暇をかけたのは、希望にしがみついて、真実を知る時期を先に延ばしただけなのだ。
ついにダンテスは、またしばし躊躇した後、第一の洞窟から第二の洞窟に入っていった。
第二の洞窟は、前のものよりも天井が低く、暗い。そして、いっそう恐ろしい様相をただよわせている。今あけられたばかりの入口からしか入らぬ空気は、はじめの洞窟に入ったときその臭気がないのにダンテスが驚いた、あの毒気をおびた臭いがする。
ダンテスは、外気が流入してこのよどんだ空気が新しくなるまでしばらく待ってから奥に入った。
入口の左手に、深く暗い一隅がある。
だが前にも言ったように、ダンテスの目に闇は存在しない。
彼は目で第二の洞窟の中をさぐった。第一の洞窟同様に空《から》であった。
宝は、もし実在するとすれば、その暗い一隅に埋められている。
苦悩の瞬間がやって来た。無上の歓喜と最悪の絶望との間には、ダンテスにとって掘るべき二フィートの土が残されるのみとなったのだ。
彼はその一隅につき進んで行った。即座に決意を固めたかのように、彼は勇敢に地面に攻撃を開始した。
五回目か六回目につるはしを振りおろした時、鉄が鉄に当る音がした。たとえどのような不吉な警鐘も弔鐘《ちょうしょう》も、この音を耳にした者に対するほどの衝撃を与えたためしはあるまい。たとえダンテスが、どのようなものに出会おうとも、これほどに色青ざめることもあるまい。
すでにつるはしを振りおろした場所に、もう一度彼はつるはしを振りおろした。同じ抵抗がある。が、音は同じではない。
『鉄の≪たが≫をはめた木箱だな』彼はつぶやいた。
この瞬間、一つの影がよぎり陽《ひ》をさえぎった。
ダンテスはつるはしを放り出し、銃をとると、入口を通って明るみに出た。
一頭の野生の山羊が洞窟の第一の入口の上を跳び越え、そこから数歩の所で草をはんでいるのであった。
まさに夕食を確保する絶好のチャンスである。が、銃声が何者かの注意を惹くことをダンテスは恐れた。
しばらく考えたダンテスは、樹脂の多い一本の木を切り、密輸業者たちが昼食を準備した、まだくすぶっている焚火《たきび》の火をこれに移しに行き、そのたいまつを手にして戻って来た。
彼は、これから目にするものの、どんな細部をも見落したくはなかったのだ。
彼はたいまつを、不恰好な未完成な穴に近づけた。そして、思い違いではなかったことを確かめた。つるはしは、鉄と木とを交互に叩いていたのである。
彼はたいまつを地面に立て、また掘り始めた。またたく間に、長さ三フィート、幅二フィートほどの場所の土がとりのけられ、ダンテスは彫刻をほどこした鉄の≪たが≫のはまったカシワ材の木箱を見ることができた。蓋の中央には、土もその輝きを失わせることのなかった銀の板に、あの有名なスパダの紋章、すなわち、イタリアの楯形がそうであるように、楕円形の楯形の上に、縦縞紋に剣を置き、その上に枢機卿の帽子を戴いた紋章が輝いていた。
ダンテスはこれがすぐわかった。ファリア神父が、なん回これを描いてみせたことか。
こうなればもう疑う余地はなかった。宝はまさしくここにあるのだ。空《から》の箱をこの場所に戻すのに、これほどまでに念を入れる者がいようはずはない。
一瞬のあいだに箱の周囲の土がとり除かれた。ダンテスは、二つの南京錠《なんきんじょう》の間にある中央の錠前、両側面の把手が順次に現われてくるのを見た。これらすべてに、当時行なわれていたように、どんなにつまらぬ地金《じがね》をも美術品にしてしまう、彫刻がほどこされていた。
ダンテスは把手を掴み、箱を持ち上げようとした。とてもできることではなかった。
ダンテスは箱の蓋を開けようとした。錠前も南京錠も鍵がかかっている。この忠実な番人たちは、宝を人手に渡すのを拒んでいるかのようであった。
ダンテスは、つるはしの刃のほうを箱と蓋の間にさし込み、つるはしの柄に体重をかけた。すると蓋は悲鳴をあげ、砕けた。板に大きな裂け目ができてしまったので、錠は用をなさなくなり、これも、落ちた際に傷のついた板に執拗な爪をくい込ませたまま地面に落ち、箱が開いた。
頭がくらくらするような熱がダンテスを襲った。彼は銃をとり、引き金を起こし、そばに置いた。まず彼は、子供が、空想の世界のきらめく夜空に、実際に見える星よりも、いっそう数多くの星を見ようとしてやるように、目を閉じた。それからまたその目を見開いた。彼の目がくらんだ。
箱の中は三つに分けられていた。
最初の区切りには、淡黄褐色に輝く金貨が光っていた。
第二の仕切りには、磨かれていない金塊が整然とならべられていたが、その重みと価値を除けば、金とは思えなかった。
最後の第三の仕切りには半分ほどしか入っていなかったが、エドモンが、ダイヤ、真珠、ルビーを掌《てのひら》いっぱいにすくい上げると、きらきら輝く滝となってこぼれ落ち、ガラス窓に打ちつける霰《あられ》のような音をたてるのだった。
黄金と宝石とに、手を触れたり、なでまわしたり、手をつっこんだりしてから、エドモンは立ち上がり、気が狂いかけた人間のように興奮に身をふるわせながら、洞穴を走りぬけた。彼は海を一望のもとにできる岩の上に駈け上がった。なにも見えなかった。彼は一人だった。まさに彼のものである、はかりしれない、前代未聞の、夢のような富と、彼だけしか存在してはいなかった。ただ、夢を見ているのではないだろうか、目覚めているのだろうか。束の間の夢を見ているのか、それとも現実をしっかと抱き締めているのか。
彼はもう一度黄金を見る必要があった。が、その瞬間には、自分にその光景に耐えるだけの力があるとは思えなかった。しばし彼は、まるで理性が脱け出るのをおしとどめるかのように、頭のてっぺんを両手でかかえた。それから島を一気に横切ってつっ走り始めた。道を、ではない、モンテ・クリスト島に道はない、ただこれと定めた線をたどるでもなく、大声をあげ、腕を振り足を踏みならして野生の山羊を逃げ出させ、海の鳥をおびえさせながら。それから彼は廻り道をして帰って来た。まだ疑いながら、第一の洞窟から第二の洞窟へ突進し、ふたたび眼前に黄金と宝石の山を見出したのである。
今度は彼は跪《ひざまず》き、激しく動悸を打っている胸をわななく両手でおさえつけながら、神のみが意味を解し得る祈りを捧げた。
やがて彼は、興奮がいくらか静まり、したがって、幸せを感じた。このときはじめて彼は、至上の幸福を信じはじめたからだ。
そこで彼は自分の財産を勘定しはじめた。一本が二、三ポンドもある金の延べ棒が千本あった。それから彼は、一枚が今のフランスの金にして八十フランにはなろうと思われるエキュ金貨を二万五千枚積み上げた。そのすべてに、法王アレッサンドロ六世およびその前の歴代の法王の肖像がついている。それでもまだその仕切りは半分しか空《から》にならなかった。最後に彼は、真珠、ダイヤ、その他の宝石を両手で十杯すくった。その多くのものが、当時の最高の金銀細工の台がつけられており、石そのものの価値を除いても、すばらしい値打ちがある品であった。
ダンテスは日が沈み、次第にその姿を没して行くのを見た。洞窟の中に残っていて不意に襲われるのを恐れて、ダンテスは銃を片手に外へ出た。ビスケット一かけと幾口かのブドウ酒が彼の夜食であった。それから彼は入口の石をもと通りの位置に戻し、その上に身を横たえた。そして、洞窟の入口を身体で覆ったまま、数時間うとうとと眠った。
その夜は、すさまじい激情にいく度も襲われたこの男ですら、一生に二度か三度しか過ごしたことのないような、甘美な、と同時に恐るべき夜であった。
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二十五 見知らぬ男
夜が明けた。ダンテスは、ずっと前から目を開けて、それを待っていた。朝日がさすと、すぐに彼は起き上がり、前日のように、島の一番高い岩山に登り、あたりを見廻した。前日同様、人影はまったくなかった。
エドモンは山を降り、敷石を持ち上げ、ポケットを宝石でいっぱいにしてから、箱の板と金具をできるだけもと通りにして、その上に土をかぶせ、その上を踏み固めた。地面のほかの部分と同じようにするために、さらにその上に砂をまいた。それから洞穴を出て、敷石をもとに戻し、敷石の上に大小さまざまな石をのせ、石と石の間に土をつめ、そこにテンニンカやヒースを植え、もとからそこに生えていたように見せるために水をやった。その付近に集中している自分の足跡を消してしまうと、彼は仲間の帰りを待遠しい思いを抱きながら待った。事実、今はもう、あの金やダイヤを眺めて時間を過ごしたり、竜《ドラゴン》のように役に立たぬ宝の番をしている時ではなかった。今は、富という、人間が用い得る随一最大の武器がこの世で与えてくれる、社会的地位と勢力と権力とを掌中に収めるために、人の世に戻らねばならぬのだ。
密輸商たちは六日目に帰って来た。ダンテスは遠くから、進んで来るアメリー号の姿に気がついた。ダンテスは傷ついたフィロクテテース〔トロイア戦争の英雄の一人〕のように、港まで身を引きずって行った。仲間たちが上陸して来たとき、彼は、なおも痛みを訴えながらも、目に見えてよくなったと言い、それから今度は彼のほうが仲間たちの話に耳を傾けた。たしかに商売はうまくいった。しかし、積み荷を降ろしたとたんに、ツーロン〔マルセーユ南東六十八キロにある港〕の警戒にあたっていた一隻の二檣帆船が彼らのほうにやって来るという情報が入った。そこで彼らは、大急ぎで逃げだしたが、船をあれほど速く走らせることのできるダンテスがその場にいて船の指揮を取らぬのを残念に思ったという。はたして、間もなく追跡して来る船の姿が見えた。しかし幸い夜陰に乗じたのと、コルシカの岬をまわったおかげで、追跡の手を逃れることができた。
結局のところ、この航海は悪くなかった。皆は、そしてとくにヤコポは、ダンテスが同行しなかったために、その航海がもたらした利益の分け前を貰えなくて惜しいことをしたと言ってくれた。分け前は五十ピアストルにのぼったのである。
エドモンは心の中を見せなかった。もし彼が島を離れられれば貰えたであろう分け前を数え上げられても、うすら笑い一つ浮かべなかった。アメリー号がモンテ・クリスト島へ来たのはダンテスを迎えるためだけであったから、彼はただちにその夜、船に乗り込み、船長に従ってリヴォルノに向かった。
リヴォルノで彼は、あるユダヤ人の店へ行き、一番小さいダイヤを四個、一個五千フランで売った。一介の水夫がこんなものをどうして持っているのか、そのユダヤ人は訊ねることもできたはずだが、彼は訊ねなかった。一個あたり千フランもうかるからである。
その翌日、彼はま新しい小さな船を一隻買い、乗組員を雇うための百ピアストルを添えてヤコポに与えた。ヤコポがマルセーユに行き、メラン小路に住んでいるルイ・ダンテスという名の老人と、カタロニア村に住んでいるメルセデスという名の娘の消息を訊ねて来るというのが、その条件であった。
これはヤコポにとっては夢のような話であった。ダンテスは、実は自分が船乗りになったのは、若気のあやまちで、家族の者が彼の生活に必要な金を拒んだからなのだ、と話した。ところが、リヴォルノに帰ってみると自分だけを相続人にしておいてくれた伯父の遺産が手に入ったというのである。ダンテスにそなわっていた高度の教育からすればこの話はいかにもほんとうらしく見えたので、ヤコポは、かつての同僚が嘘をついているなどとは、一瞬の間も疑わなかった。
一方、エドモンのアメリー号との契約期間が切れていたので、彼は船長から暇をとった。船長は、はじめはひきとめようとしたが、ヤコポのように遺産相続の話を聞くと、この乗組員の決心を変えさせるのを諦めた。
翌日ヤコポはマルセーユに向けて出帆した。エドモンとはモンテ・クリスト島で落ち合うことになっていた。同じ日、ダンテスはアメリー号の乗組員たちに多額の心付けを与え、また船長にはいつか必ず便りをするからと約束して別れを告げ、どこへ行くとも言わずに出発した。
ダンテスはジェノヴァヘ行ったのである。
ダンテスが着いた時、ジェノヴァの船大工は地中海随一の腕を持つという噂を聞いて、ジェノヴァ製のヨットが欲しいと考えたあるイギリス人の注文で建造された小さなヨットの試走が行なわれていた。そのイギリス人は四万フランの値をつけていた。ダンテスは、もし即座にその船を渡してくれるなら六万フラン出そうと言った。イギリス人は船ができあがるまでの間、スイスヘ旅行に行っていた。三、四週間たたねば戻らぬはずであった。そこで船大工は、もう一隻別の船を作るだけの暇はあると考えた。ダンテスは船大工をあるユダヤ人の店につれて行き、店の裏の部屋でしばらくユダヤ人と過ごしていたが、やがてユダヤ人は、船大工に六万フランの金を払った。
船大工は乗組員を探してあげましょうと言ったが、ダンテスは礼を言いながらも、自分はいつも一人で航海するのだと言ってそれをことわった。ただ一つだけして貰いたいことがあるが、それは船室のベッドの枕もとに、かくし戸棚を作り、その中に秘密の三つの仕切りを作ってほしいというのであった。
二時間後、いつも一人で航海をするというスペインの貴族を一目見ようと集まった野次馬たちの見守る中を、ダンテスはジェノヴァの港から出た。
ダンテスは見事に船を操った。よくきく舵に助けられ、また舵の位置から離れる必要もなく、彼は思いのままに船を走らせた。この船はまるでほんのわずかの指示を与えれば直ちにこれに応じて動く、知能を具えた生き物のようであった。ダンテス自身、ジェノヴァの船大工は、世界一の船大工との名声にまさしくふさわしい連中だと腹の底で思うのだった。
野次馬たちは、その小さな船の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていたが、やがてその船の行先についていろいろと論議を戦わせた。ある者はコルシカだろうと言い、ある者はエルバ島だろうと言った。きっとスペインヘ行ったのだ、賭けてもいい、と言う者もあれば、いやアフリカに賭ける、と言う者もあったが、だれ一人として、モンテ・クリスト島の名に思いつく者はいなかった。
しかし、ダンテスが目ざしていたのはモンテ・クリストだったのだ。
彼は二日目の夕方島に着いた。その船はすばらしい帆船であった。それだけの距離を三十五時間で走破したのである。ダンテスは海岸の地形を完全に知っていたので、いつもの港ではなく、例の小さな入江に錨を投げた。
島は無人であった。ダンテスが島を後にしてから、近づいたものはいないようであった。すべて彼が残したままの状態になっていた。
翌日、彼の莫大な財産はヨットの船上に移され、かくし戸棚の三つの仕切りの中に収められた。
ダンテスはさらに一週間待った。その一週間の間、彼は島の周囲を船を走らせ、ちょうど調教師が馬を調べるように、船を調べた。一週間後には、彼はその船のよい点も悪い点もことごとく知ってしまった。ダンテスはよい点をさらに助長し、悪い点は直すことにきめた。
八日目、ダンテスは、満帆に風をはらんで島を目ざして来る小さな船の姿を見た。そしてそれがヤコポの船であることを知った。彼が合図をするとヤコポがこれに応え、二時間後には、船はヨットのわきに来ていた。
エドモンが頼んだ二つのことには、悲しい答えがもどって来た。
老ダンテスは死んでいた。
メルセデスは行方不明であった。
エドモンはこの二つの知らせを静かな面持ちで聞いた。が、聞き終えるとだれもついて来てはならぬと命じて、直ちに船を降りた。
二時間後に、彼はふたたび戻って来た。ヤコポの船の二人の水夫がヨットに乗り移って来て、操船を手伝った。ダンテスは舳先《へさき》をマルセーユに向けるように命じた。父の死は予想していた。しかし、メルセデスはどうなったというのか。
自分の秘密を打ち明けずには、エドモンは使いの者に十分な予備知識を与えることはできなかった。それに、まだほかにも知りたいこと、しかも自分でなければ調べることのできないこともあった。リヴォルノの床屋で見た鏡が、自分の正体を見破られる恐れのないことを彼に教えていたし、しかも今の彼には、どのようにでも変装することができるのである。だから、ある朝、彼のヨットは小さな船を従えて、大胆にもマルセーユの港に入って行き、あの運命的な夜、シャトー・ディフに向うため彼を乗船させた場所のま向いに停船した。
ボートに乗り移ったダンテスは、警吏がやって来る姿を見た時、ある種の戦慄を禁じ得なかった。しかしダンテスは、身についたあの落ち着いた態度で、リヴォルノで買ったイギリスのパスポートをその警吏に見せた。わが国ではフランスのものより敬意を以て迎えられるこの外国のパスポートによって、彼はやすやすと地上に降り立ったのである。
カヌビエール通りに立った彼が最初に目にしたものは、ファラオン号の一人の水夫であった。この男はかつて彼の部下であり、まるで、自分の変貌を彼に確かめさせるためにそこにいあわせたかのようであった。彼はまっすぐにその男のところへ行き、いくつかの質問をした。男は、自分に話しかけている人物をかつて見たことがあるのを思い出したような様子は、その言葉にも顔つきにもまったく見せずに、彼の問いに答えた。
ダンテスはその水夫に、教えてくれたお礼にと貨幣を一枚与えた。すると間もなく彼は、その正直な男が彼を追いかけて来る足音を聞いた。
ダンテスはふり向いた。
「あのう、お間違いになったんじゃないですか、四十スー〔一スーは二十分の一フラン〕銅貨を下すったおつもりでしようが、これは四十フラン金貨で」
「そうだね、間違えた。だが君の正直さは報いられねばならないから、もう一枚差し上げよう。これで私の健康を祝して、仲間の人たちと一杯やってくれたまえ」
水夫は、驚いてエドモンの顔を見たまま、礼を言うのも忘れていた。そして彼が立ち去るのを、
「あれはきっと、インドから来た太守だ」と、つぶやきながら見送るのだった。
ダンテスは歩みを続けた。一歩ごとに、感慨が新たになり、胸を締めつけられる思いがした。幼い頃の思い出、生涯消えることなく、つねに脳裡を去来する幼き日の思い出が、あらゆる広場の片隅に、通りの角の一つ一つに、四つ辻の車よけの石の一つ一つに刻みこまれていた。ノアーユ通りのはじまで来て、メラン小路を目にした時、彼は膝が萎《な》えて、あやうく馬車の車輪の下にころびそうになった。ついに彼は、父が住んでいた家の所まで来た。昔、老人の手で、あれほど丹精こめて棚造りにされていたウマノスズクサもノウゼンハレンもその屋根裏部屋の窓から姿を消していた。
彼は一本の木によりかかって、そのみすぼらしい小さな家の上のほうの階をみつめながら、もの思いにふけっていた。それから彼は戸口に歩み寄り、敷居を越え空き部屋はないかと訊ねた。そして、六階のその部屋にはすでに人が住んでいたのだが、どうしてもその住人を訪ねたい旨《むね》を長いこと述べたので、その家の管理人も、その部屋の住人に、ある外人に、その二つの部屋を見せてやってほしいと頼んだ。このちっぽけな住まいに住んでいたのは、若い男と若い妻で、一週間前に結婚したばかりであった。
この若い二人を見て、ダンテスは深い吐息を洩らした。
おまけに、父の部屋をダンテスに偲ばせるものはなに一つなかった。壁紙も違っていた。子供の頃のエドモンの友達で、その細かい所まで覚えている古い家具もすべてなくなっていた。壁だけが同じ壁だった。
ダンテスはベッドのほうに向きなおった。ベッドはもとの借家人のベッドと同じ位置にあった。われにもあらずエドモンの眼が涙に濡れた。老人がわが子の名を呼び続けながら息をひきとったのは、あの場所にちがいないのだ。
若い二人は、そのきびしい表情をした男が、眉一つ動かさずに、大粒の涙を二すじ頬の上に伝わせているのを、驚いてみつめていた。しかし、苦悩というものには厳粛なものが伴うのが常である。そのため若い夫婦はこの見知らぬ男に対してなんの質問もしなかった。ただ彼らは身を退けて、その男に思うさま涙を流させようとしただけであった。そして、その男が退出した時、二人は送りに出て、いつでも好きな時に訪ねてくれていい、貧しい家ではあるがいつでも歓迎する旨を告げるのだった。
エドモンは、その下の階を通った際に、そこには今でも仕立屋のカドルッスが住んでいるのかと訊ねた。しかし管理人の返事は、お訊ねの方は商売に失敗して、今ではベルガルドからボケールに通ずる街道ぞいで小さな宿屋をやっているというのであった。
ダンテスは下に降りると、メラン小路のその家の所有者のアドレスを聞き、持ち主を訪ね、ウィルモア卿(これが彼のパスポートに記載されている名前と肩書であった)と名乗り、その小さな家を二万五千フランで買い取った、その家の価値より少なくとも一万フランは高い価格であった。しかしダンテスは、たとえそれが五十万フランであっても、その値段で買い取ったにちがいない。
その日のうちに、六階の若夫婦は、契約書を作成した公証人から、新しい家主が、今彼らが住んでいる二部屋を空けるなら、家賃はまったく据え置きのままで、その家のどの部屋に住んでもよい、という通告を受けた。
この不思議な出来事は、一週間以上の間、メラン小路に出入りする者すべての関心を呼び、あらゆる憶測が取り沙汰されたが、どれ一つとして正確なものはなかった。
しかし、それにもまして皆の頭を混乱させ、わけがわからなくしてしまったのは、メラン小路を訪れたその同じ男が、その日の夕方、カタロニア人の小さな村を歩き廻り、一軒の貧しい漁師の家に入り、一時間以上も、すでに死んでしまった者とか、十五、六年も前に姿を消してしまった者の消息を訊ねたことであった。
翌日、その男がそうした質問をしに訪ねた家の者には、引き網二張りとトロール網一張りを具えた、ま新しいカタロニアの漁船が一隻贈られた。
贈り物を受けた家の者たちは、この気前のよい来訪者に礼が言いたかったのだが、彼らと別れると、その男は一人の船乗りになにごとか命じた後に馬に乗り、エクス門を通ってマルセーユを出て行ってしまったのである。
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二十六 ポン・デュ・ガール亭
筆者と同じように、南仏を徒歩で歩き廻った者ならば、ベルガルド〔ガール県の村〕とボケール〔ガール県のローヌ河ぞいの町〕の中間、といっても、ベルガルドよりはボケール寄りの所に、一軒の宿屋があることにお気づきであろう。ほんのわずかの風にもガタガタいうポン・デュ・ガール〔紀元前一九年に作られたローマ時代の水道橋〕のグロテスクな絵が書いてある看板がかかっている。この小さな宿屋は、ローヌ河の流れを基準にすると、街道の左側にあり、河に背を向けている。ラングドック地方で庭と称するものがついている。つまり、旅人用の入口とは反対の側が、いじけたオリーブの木と、埃《ほこり》で白くなった野生のイチジクがなん本かはいつくばっているかこいに面しているのだ。木の間に生えている野菜といえば、ニンニク、ピーマン、エシャロットぐらいのものだ。そして、かこいの隅に、まるで忘れられた見張りのように、カラカサマツの大木が一本、しなやかな幹をものうげに天に向けてのばし、その扇形に開いた頂《いただき》は、三十度の灼熱の太陽のもとで、カサカサと音をたてている。
これら大小の木々は、みな当然のことに、プロヴァンスの三大災害の一つであるミストラルの吹く方向に傾いている。他の二つの災害は、人も知るように、あるいは人が知らないように、デュランス河〔ローヌ河の支流〕と議会である。
まるで埃の湖といった感じの周辺の平地には、あちこちに小麦の茎がいくらか生えている。おそらく土地の園芸家がもの好きで栽培しているのだろうが、その一本一本が、この隠遁地に迷いこんだ旅人に、単調でかしましい鳴き声をあびせるセミの止まり木となっている。
ほぼ七、八年前から、このちっぽけな宿屋はある夫婦によって経営され、使用人としては、トリネットという女中と、パコーといううまや番がいるだけだった。ボケールからエーグモルトまで運河が掘られ、船が荷馬車に大幅にとって代わり、曳き船が駅馬車にとって代わってからというもの、この二人が協力すれば、客の用を足すには十分だったのである。
この運河のために落ちぶれてしまった哀れな宿の主人の嘆きにさらに追い打ちをかけるように、この運河は、これに水を注ぐローヌ河と、運河のため通行の途絶えた街道との間、先に短いが正確な描写をしておいたその宿屋からわずか百歩ほどの所を通っていたのである。
そのちっぽけな宿屋を経営している亭主は、四十から四十五ぐらいと思われる男であった。背は高く、やせた、たくましい、ぎらつく奥目で、ワシ鼻、猛獣の牙を思わせる白い歯の、典型的な南仏の男であった。そろそろ初老の域に入ろうとしているのに、まだ白くなるのをためらっているようなその髪は、彼が首飾りのような形にたくわえているひげ同様、濃く縮れて、ところどころに白いものをごくわずかまじえているだけであった。顔の色は、生まれつき黒いのだが、徒歩でなり馬車でなり客は来ないかと、つねに失望に終る期待を抱いて、朝から晩まで戸口で待ち続けるという、この哀れな男の習慣のために、黒ずんだ褐色が地肌の上にかぶさっていた。こうして客を待つ間、灼けつくような太陽から顔を守るものとしては、スペインのラバ曳きがやっているように、頭に赤いスカーフをまきつけているだけなのであった。この男こそ、われわれのかつての知己《ちき》ガスパール・カドルッスなのである。
彼の妻は、娘時代の名をマドレーヌ・ラデルといい、反対に青い顔をした、やせた、病身の女であった。アルルの近在で生まれた彼女は、その地方の伝統的な美しさの名残りをとどめてはいたが、エーグモルトの湖沼地帯やカマルグの沼地付近の住民に多い、あの不気味な熱病の、ほとんど絶え間のない発作のために、その顔も徐々にゆがめられているのであった。だからこの女は、二階にある彼女の部屋に閉じこもり、ふるえながら、ソファーの上に手足をのばしたり、ベッドによりかかったりして、亭主が例によって戸口の所で見張りを続けている間、ほとんど坐りきりであった。亭主がこのかしましい女房のそばに戻るたびに、不運に対するぐちを長々と始めるので、つい見張りの時間も長くなるのである。女房のぐちに対しては、亭主のほうはふつう、
「黙れカルコント、神様がこうなることをお望みなのだ」
という、短い哲学的な言葉で答えるのだった。
その呼び名は、マドレーヌ・ラデルが、サロンとランベスク〔ともにブーシュ・ド・ローヌ県の町村名〕の間のカルコント村で生まれたためである。この地方では大ていの場合、人をその名前よりはあだ名で呼ぶのがならわしなので、亭主はそれにならって、マドレーヌという、あまりにも優しく、そしておそらくはそのがさつな言葉にはあまりにも語調がよすぎる名前のかわりに、この呼び名を用いていたのである。
しかし、上べはこのようになにごとも神の御意志と諦めてはいるものの、わが宿の亭主が、いまいましいボケール運河のために落ちこんだ惨めな境遇に対して平然としていたとか、女房にしょっちゅうぐちをこぼされても平気であったとは考えないでいただきたい。この男は、南仏の連中がそうであるように、控え目でさほど大きなことも望みはしないが、ただ上べをつくろう点では体裁屋であった。だから、景気がよかった頃は、烙印祭にもタラスク〔南仏の町で精霊降臨祭と聖マルト祭に引き回す怪獣像〕の行列にも、必ずカルコントと顔を見せたものである。亭主のほうは、カタロニア風でもありアンダルシア風でもあるあの南仏のきらびやかな服を着こみ、女房のほうは、ギリシアとアラビアのものを真似たと思われるアルルの女のあの魅惑的な服を着て。だが、時計の鎖、首飾り、色とりどりのベルト、刺繍した胴衣、ビロードの上着、飾り刺繍のついたしゃれた靴下、さまざまな色のゲートル、銀のバックルのついた靴が、次第次第に姿を消していった。そうして、もはや過去の栄光の座を保ち得なくなったガスパール・カドルッスは、自分はもとより妻にも因果を含めて、そうした世間的な栄華はいっさい諦めてしまったのであった。だが、事業というよりはむしろ世間からの隠れ家として持ち続けている、この哀れな宿屋にまで、祭のにぎわいが聞こえてくるのを、胸をいためつけられながら聞いていたのである。
カドルッスはいつものように戸口の前にいて、鶏がなん羽か餌をついばんでいる、はげちょろけたちっぽけな芝生と、一方は南、一方は北にのびている人気のない道を、もの憂い目でながめていた。と、急に妻のかん高い声がしたので、彼はやむなくその場を離れた。ぶつぶつ言いながら屋内にもどり、二階にのぼった。が、旅人たちがもし通った場合には、どうぞお忘れなく、とでもいうように、入口は開け放したままであった。
カドルッスが家に入ったとき、上に述べた、カドルッスがながめていた街道は、真昼の砂漠同様、草一本生えておらずひとっ子一人通っていなかった。痩せこけた木が両側に並んだその街道は、白っぽくただどこまでものびているだけで、もっとましな時間を選ぶことも自由なのだし、こんなすさまじいサハラ砂漠に迷いこむ旅人などあるはずがないことをあまりにも明らかに示していた。
ところが、そうした予想に反して、もしその場を離れなかったならば、カドルッスは、ベルガルドの方向に一頭の馬とそれに跨がる人の姿が浮かんで来るのを見たであろう。馬と騎手とが全く一体となっていることを示す、あの互いの愛情が通いあった見事な騎乗ぶりでやって来たのである。馬はハンガリーの馬で、軽やかに側対歩でやって来る。騎手は黒衣の司祭であった。折から中天に達していた太陽の灼きつけるような暑さにもかかわらず、三角帽をかぶっている。馬と人とは、まったく楽に≪だく≫足で進んでいた。
宿の戸口の前で人馬は立ち止まった。馬が人を止めたのか、人が馬を止めたのかを見わけがたいほどであった。が、いずれにせよ騎手は地上に降り立ち、手綱をとって馬をひき、一つの蝶番《ちょうつがい》で、辛うじてひっかかっているこわれた雨戸の止め具に馬をつないだ。それから戸口のほうに歩を進め、赤い木綿のハンカチで額を流れる汗をぬぐいながら、司祭は、手にしていた杖の鉄の石突きで、三度戸口の床を叩いた。
すると、一匹の大きな黒犬がむっくり起き上がり、吠えながら白く鋭い歯をむき出した。犬が示した敵意は、この犬があまり来客になれていないことの証拠であった。すぐに、壁ぞいの急な木の階段をみしみしいわせる重い足音がして、その戸口に司祭が立っている宿の主が、身をこごめ後ろ向きになって降りて来た。
「はい、ただ今」と、驚いてカドルッスが言った。「マルゴッタン、静かにしろ。旦那さまどうぞご心配なく、吠えはしますが、咬みつきはしません。ブドウ酒でございますね、まったくひどい暑さでございますもの。あ、これはどうも失礼いたしました」と、カドルッスは相手がどんな旅人であるかを見て言葉を切った。「お客様のお人柄を存じあげませんでしたので。何を差し上げましょう、お坊さま、なんなりとお申しつけ下さいませ」
司祭は二、三秒のあいだ異常なまでに注意深くこの男の顔を見ていた。宿の亭主の注意を自分のほうに向けさせようとしているようにさえ思えた。亭主の表情に、返事がないのに驚いている様子しか見えないのを見きわめると、その驚きをいつまでも続けさせるべきではないと判断して、司祭はひどいイタリア訛《なま》りのフランス語でこう言った。
「カドルッスさんだね」
「はい」主《あるじ》はこの問いに、相手が黙り続けた場合以上に驚いたであろう。「いかにもさようで。ガスパール・カドルッスでございますが」
「ガスパール・カドルッス。そうだ、たしかにそういう姓名だった。昔そなたはメラン小路に住んでおられたね、五階に」
「その通りです」
「仕立屋を営んでおられた」
「はい。ですがうまくいかなくて。マルセーユは暑すぎるんでさ、しまいにゃ、だれも服なぞ着なくなっちまうと思います。暑いと言えば、お坊さま、なにかお飲み物をいかがでしょう」
「いただこう。一番よいブドウ酒を一本持って来てほしい。それからまた話を続けてもらいたい」
「ええ、お望みのままでございますとも」
こう言うと、カドルッスは、残り少なくなったカオールのブドウ酒を一本さばくことのできるチャンスを逃すまいと、早速、サロン兼台所の一階の部屋の床に作られた揚げ蓋を開けに行った。
五分後に戻ってみると、僧は椅子に腰をおろし、長いテーブルに肘をついていた。犬のマルゴッタンのほうはいつもと違い、この不思議な旅人がなにか飲むらしいということを察して、旅人と仲よくなったらしくその腿《もも》の上に痩せた首をのせ、もの憂げな目をしていた。
「そなたはお一人かな」と、主が僧の前にびんとグラスを置いている間に僧が訊ねた。
「いやはや、そうです、一人みたいなものでございます。女房はおりますが、まるきし手伝ってはもらえません。可哀そうな奴でして、カルコントの奴はしょっちゅう身体の具合が悪いもんですから」
「あ、結婚しておいでか」司祭は興味あり気にこう言って、この貧しい世帯のみすぼらしい家具の値ぶみをするように周囲を見まわした。
「あまり金はなさそうだとお思いなんでございましょう」カドルッスが溜息まじりに言った。「でも、いたし方ないじゃありませんか、正直なだけじゃ、この世でいい暮らしができるってわけじゃありませんからね」
僧は、射るような目を相手にそそいだ。
「そうですとも、正直ってことにかけちゃ自慢できるんでさ」亭主は、僧の視線を受け止めながら、片手を胸にあて、大きく頷《うなず》きながら言うのだった。「今のご時世じゃ、こう言える者ばかりはいません」
「そなたが自慢することがほんとうならたいへん結構だ。私は固く信じているのだが、遅かれ早かれ正直者は報われ、悪者は罰せられるからね」
「それはご商売がらそうおっしゃるのですよ、お坊さま。ご商売がらです」カドルッスが、苦い口調で言った。「おっしゃることを信じるも信じないも聞くほうの勝手です」
「そういう言い方はよろしくない。私が今言ったことの証拠を、じきに見せてあげられるかもしれない」
「それはどういう意味で」驚いたようにカドルッスが訊ねた。
「まずはじめに、そなたが確かに私の探している人かどうかを知らねばならぬ、と言っておるのだ」
「どんな証拠をお見せすればよろしいんで」
「一八一四年か一五年に、ダンテスという名の船乗りを知っておったかな」
「ダンテス!……知ってますとも。可哀そうなエドモン。あいつはたしかに、手前の一番いい友だちでしたよ」と、その顔を真赤に染めてカドルッスが大声をあげた。僧の澄んだ確乎たる目は、質問をしている相手全体を覆い尽してしまうかのように、大きく見開かれていた。
「そう、たしかエドモンという名前だったようだ」
「エドモンですとも、伜《せがれ》のほうだ。手前がガスパール・カドルッスというのと同じぐらいほんとうですとも。でどうなりました、あの可哀そうなエドモンは」亭主が続けた。「奴をご存じなんですか、まだ生きてますか、釈放されましたか、幸せですか」
「牢で死んだ。ツーロンの徒刑場で鉄の玉を引きずっている徒刑囚よりもみじめに、絶望したまま」
はじめ真赤になっていたカドルッスの顔から、死人のように血の気が失せた。彼は顔をそ向けた。僧は、帽子がわりにかぶっていた赤いハンカチのはじで、彼が涙をぬぐうのを見た。
「可哀そうな奴だ」カドルッスはつぶやいた。「お坊さま、これもさっき手前が言ったことの一つの証拠でございますよ。神様は悪い奴らにしか親切にしては下さらない」カドルッスは、南仏の連中独特の、色彩豊かな言葉でなおも続けた。「ああ、世の中は日ましに悪くなるばかりだ。天が二日ばかり火薬を降らせて、その後一時間ばかり火を降らせりゃいいんだ、そうすりゃ、なにもかもけりがつく」
「そなたは、腹の底からあの青年が好きだったようにお見うけするが」
「ええ、大好きでした。一時、あいつの幸運をねたんだことがあって、それが心残りですが。しかしそれ以後は、手前もカドルッス、誓って申しますが、あいつの不幸な運命が可哀そうでたまらなかったのです」
カドルッスはしばらく口をつぐんだ。その間、僧の目は相手を見据えたまま、宿の亭主の表情の動きを、一瞬の間も休まずにさぐり続けていた。
「で、あいつとお知り合いになったんですか」カドルッスが続けた。
「死の床に呼ばれてね、最後の宗教上の救いを与えるために」
「なんで死んだんです」喉もとを締めつけられたような声でカドルッスが訊ねた。
「わずか三十歳で牢で死ぬとすれば、牢そのものが殺す以外に、どんな理由があるか」
カドルッスは額から流れる汗をぬぐった。
「中でもとくに不思議なのは、死の床にあって、ダンテスがおみ足に接唇《せっしん》したそのキリストにかけて、投獄された理由がわからないと私に誓ったことだ」
「そうでしょう、そうでしょう」カドルッスがつぶやいた。「あいつにはわかるはずがなかったんだ。そうなんです、お坊さま、あいつは嘘をついたんじゃありません」
「あの青年が私に頼んだのは、自分では明かすことのできない、彼の不幸の謎を私に解いてくれ、そして、もし自分の思い出が汚されているのなら、それを回復してほしいということだったのだ」
僧の目は、さらにけわしく相手を見据え、カドルッスの顔に浮かんだ暗い影とも言える表情をむさぼるように見ていた。
「あの青年の獄中の仲間で、第二の王政復古のさい牢を出たある富裕なイギリス人が、莫大な価値のあるダイヤを一つ持っていた」僧が続けた。「病気をした時に、ダンテスが兄弟のように看病したことがあるので、そのイギリス人はお礼のしるしとして、牢を出る時にそのダイヤをダンテスに与えた。ダンテスは看守を買収するためには使わず、というのも、受け取るだけ受け取って、後で裏切ることも十分考えられるので、牢を出る時のために大切にとっておいた。牢から出れば、そのダイヤを売っただけで一財産だから」
「それじゃ、さっきおっしゃったように」カドルッスが目を光らせて訊ねた。「そんなに高価なダイヤなんで」
「なにごとも相対的なものだが、ダンテスにとっては莫大な価値のものだ。このダイヤは五万フランと評価されている」
「五万フラン! それじゃ、クルミの実ぐらい大きいんですな」
「いや、それほどではないが、自分の目でたしかめていただこう。今ここに持っているから」
カドルッスは、僧の衣服の下に、その預かった品を探すような目つきをした。
僧はポケットから黒い粒起革《りゅうきかわ》の小箱を取り出すと、その蓋を開けた。見事な細工の指輪にはめ込まれた、きらめく宝石が、カドルッスの目にまばゆく輝やいた。
「これが五万フラン」
「台を除いてね。台だけでもかなりの値打ちがある」
こう言って僧は小箱を閉じた。そして、まだカドルッスの目先にその輝やきがちらついているダイヤをまたポケットに収めた。
「でもどうしてまたそのダイヤをお持ちなのですか。エドモンがあなたさまを相続人にしたんでしょうか」
「いや、そうではなくて彼の遺言執行人になったのだ。『私には三人のいい友人と、一人のフィアンセがいます。四人ともきっと、私がいないのを深く悲しんでいてくれると思います。その友だちの中の一人はカドルッスというのです』彼はこう言ったのだ」
カドルッスは身ぶるいした。
「『もう一人は』」と僧は、カドルッスの心の動きなどそ知らぬ顔で続けた。「『ダングラールといい、三人目は』と彼はつけ加えたのだが、『私の恋敵ですが、やはり私を好いていてくれて』」
悪魔的な微笑がカドルッスの顔を輝やかせ、彼は相手の言葉をさえぎるような手つきをした。
「待っていただきたい。終りまで言わせてもらおう」と僧は言った。「なにか言いたいことがあるなら、その後で聞かせていただこう。『もう一人は、私の恋敵ですが、やはり私を好いていてくれて、フェルナンといいます。フィアンセのほうは、彼女の名前は……』私はフィアンセの名前を忘れてしまったな」と僧が言った。
「メルセデス」カドルッスが言った。
「あ、そうそう」僧が洩れかかった吐息をおし殺して言った。「メルセデスだった」
「それで」とカドルッスが訊ねた。
「水差しに水をくれないか」僧が言った。
カドルッスは急いで言いつけに従った。
僧はコップを満たすと、ごくごくと水を飲んだ。
「どこまで話したんだったかな」僧がコップをテーブルに置きながら訊ねた。
「フィアンセがメルセデスという名で」
「そうだった。『マルセーユヘ行って下さい』しゃべってるのはダンテスだよ、おわかりかな」
「わかります」
「『そしてこのダイヤを売って、それを五等分し、あの友人たちにわけてやって下さい。この世で私を愛してくれたのはあの連中だけですから』」
「なんだって五等分するんです。四人の名前しかおっしゃらなかったのに」
「五人目は、人から聞いたところでは亡くなったとのことなので。五人目はダンテスの父親だ」
「ああ! そうなのです」胸の中に渦まく感情にゆり動かされてカドルッスが言った。「あの気の毒な老人は死にました」
「私はそれをマルセーユで聞いた」と僧が、平静を装おいながら答えた。「しかし、亡くなったのは大分以前のことなので、詳しいことは何もわからなかった。その老人の最後について、そなた何かご存じかな」
「ええ、手前以上に知ってる者なんかいやしません。あの老人とはすぐ隣り合わせの家に住んでたんです。ああ、そうなんで、息子がいなくなってから、一年経つか経たないうちに気の毒な老人は死んじまったんですよ」
「何で死んだのかな」
「医者たちは病名を言ってました、胃腸炎だったな、たしか。老人を知ってる者たちは、悲しみのあまり死んだと言ってますが、手前は、あの人が死ぬのを見ていたと言ってもいいこの手前に言わせれば、あの人は……」
「どうして死んだのか」司祭が不安そうに訊ねた。
「飢え死にしたんですよ」
「餓死だと?」僧は椅子からとび上がって叫んだ。「どんなつまらぬけだものでも飢えでは死なぬ。街をさまよう犬にも、哀れと思う手がさしのべられてパンが投げ与えられる。一人の人間が、一人の善良なキリスト教徒が、彼と同じキリスト教徒と自称する者たちにかこまれたまま餓死する! そんな馬鹿な、おお、そんな馬鹿なことはあろうはずがない!」
「思ったままを申し上げたまでなんで」とカドルッスは答えた。
「お前さんが悪いんだよ」階段で声がした。「余計なことに口を出すんじゃないよ」
「お前こそ余計な口を出すな」とカドルッスが言った。「お客さまがお聞きになりたいってんだから、お話しするのが礼儀ってもんだ」
「そうよ、でも用心して話さないってことだってあるよ。どんなつもりでしゃべらせてんだかわからないじゃないか、馬鹿だね」
「大へん立派な意図からだ、請け合うよ、おかみさん。だからご主人はなにも心配はいらない。率直に話をしてくれればね」
「なにも心配しなくていい、そう。はじめは大そうな約束してさ、なにも心配しなくていい、と言っちまえばそれで終り。約束したことなんかちっとも気にもかけずに帰っちまう。ところがある朝、貧乏人にはどこからともなく不幸がやって来るんだ」
「安心してほしい、おかみさん。私はそなたたちに不幸などもたらしはしない、大丈夫だ」
カルコントはなおも二言三言ぶつぶつ言ったが、聞きとれなかった。一時《いっとき》もたげた頭をまた膝の上に落し、熱でぶるぶる身をふるわせながら、夫には会話をそのまま続けさせたが、一言も聞き洩らさぬような位置を占めた。
その間に僧はまたいく口か水を飲み、気をとり直した。
「だが、その気の毒な老人は、そんな死に方をするほど、皆から見捨てられていたのだろうか」
「いや、お坊さま、カタロニアの娘のメルセデスやモレルさんが放っておいたというわけじゃないんで。ですがあの老人はフェルナンをひどく毛嫌いしてましてね」カドルッスは皮肉な笑いを浮かべながら続けた。「ダンテスが友だちの中に数えてた、あの男ですよ」
「友だちではなかったと言うのか」
「ガスパール、ガスパール」階段の上から女房がささやいた。「言うことに気をつけるんだよ」
カドルッスは、うるせえな、という身ぶりをしただけで、彼の言葉をさえぎった妻には返事をせずに、
「自分の女房をほしがってる奴を友だちと呼べますかね」と、彼は僧に言った。「ダンテスは、まったく気の良い奴だからあんな連中をみんな友だち呼ばわりしてたんだ。可哀そうなエドモン!……まったくの所、なにも知らなくてよかった。さもなきゃ、死ぬ時に、連中を許すにゃ骨が折れたことだろう……人が何と言おうと」とカドルッスは、土臭い詩情といったもののこもった言葉で続けるのだった。「生きてる奴に憎まれるよりも、死人の呪いのほうが、手前には恐ろしい」
「馬鹿!」カルコントが言った。
「ではそなたは、フェルナンがダンテスになにかしたことを知っているのだな」
「知ってる、と思います」
「話してくれぬか」
「ガスパール、好きにおしよ、お前は亭主だからね」と女房が言った。「でもあたしのことを信じるなら、なにも言わないほうがいいよ」
「今度はお前の言うほうがもっともだと思うぜ」カドルッスが言った。
「では、なにもしゃべりたくないというのかな」
「話したって何になりましょう。あいつが生きてて、いつか友だちのこと敵のことを教えてくれと言って来たって、手前は申しません。さきほどのお話では、あいつは土の下だ。憎みもできず復讐もできない。みんな闇に葬っちまいましょうや」
「それでは、ほんとうの友にその報いとして与えられるべきものを、その価値のない上べだけの友に与えよと言うわけかな」
「まったく、おっしゃる通りでさ。それに、あの可哀そうなエドモンの遺産なんて、今の連中にとっちゃ、大海の中に落される一滴の水みたいなもんだ」
「おまけに、あの連中がその気になりゃお前さんなんか一ひねりだよ」女房が言った。
「それはどういうことだね。ではその人たちは金持になり権力を持ったというのか」
「じゃあ、連中のことをご存じないんですか」
「知らぬ、話してくれないか」
カドルッスはしばらく考えているようであった。
「やめましょう、まったくのところ話が長くなり過ぎます」
「口をつぐむのは自由だ」僧はまったく無関心な口調で言った。「そなたの用心深さは尊重しよう。それに、そなたの態度はほんとうに善良な人間の態度だ。もうその話はよそう。私に託されていることは何か。ほんの形式的なことだけだ。ではこのダイヤを売るとしよう」
僧はポケットからダイヤを出し、小箱を開けて、カドルッスの目の前でそれを光らせた。
「おい、お前ちょっと来て見ろ」カドルッスが上ずった声で女房に言った。
「ダイヤだって!」カルコントは、立ち上がり、かなりしっかりした足どりで階段を降りて来た。「このダイヤはいったいどうしたのさ」
「聞いてなかったのか」カドルッスが言った。「あいつが俺たちに遺産としてくれたのさ。まず親爺、それから友だち三人、フェルナン、ダングラール、それに俺だ。それとフィアンセのメルセデスにだ。このダイヤは五万フランの値打ちがある」
「まあ、きれいな石」
「その金額の五分の一が手前どものものになるんで」
「そう。それに、ダンテスの父親の分も加えてね、あなた方四人にその分を分けてもいいと思うから」
「でもなぜ手前ども四人に分けるんですか」カドルッスが訊ねた。
「あなた方四人がエドモンの友達だったからだ」
「裏切り者が友達なんかであるもんかね」
今度は女房のほうが低くつぶやいた。
「そうだ、そうだ。俺はそれを言おうとしてたんだ。裏切り者にほうびをやるなんざ、神をけがすことだ、神への冒涜《ぼうとく》だ。罪悪だ、きっと」
「そうしろと言ったのはあなた方だ」僧はダイヤを法衣の下にしまいながら静かに言うのだった。「エドモンの友人たちの住所を教えてもらいたい、彼の遺言を実行するためにね」
カドルッスの額から大粒の汗が流れていた。彼は、僧が立ち上がり、馬に一べつをくれるためであるかのように戸口のほうへ向かい、また戻って来るのを見た。
カドルッスとその女房とは、名状しがたい顔つきをしたまま、互いに顔を見合わせていた。
「あのダイヤが全部俺たちのものになるんだぞ」カドルッスが言った。
「そう思うかい」
「教会のお方が俺たちを騙《だま》したりなんぞするもんか」
「好きなようにおしよ。あたしは余計なことに口は出さないよ」
こう言うと女房は、がたがたふるえながらまた階段のほうへ行った。灼けつくような暑さだというのに、歯をガチガチいわせていた。
階段の一番上の段で彼女は立ち止まり、
「ガスパール、よくよく考えてよ」
「腹はきまったよ」カドルッスが言った。
カルコントは、ほっと一つ溜息をついて部屋に入った。彼女が自分の椅子にたどり着き、どっかと腰をおろすまで、彼女の足もとで床がきしんだ。
「どう腹をきめたのかな」僧が訊ねた。
「みんな申し上げる腹がですよ」
「ほんとうのところ、それが一番よいと私は思う。私にかくしておきたいことを、私がどうしても聞きたいからではなくて、要するに、そなたが、遺言者の願い通りに私が遺産を配分できるようにしてくれれば、それが一番よいのだ」
「手前もそう思いますよ」カドルッスは、期待と欲とに頬を真赤に紅潮させて答えた。
「では伺おう」
「ちょっとお待ちを。一番大事なところで話の邪魔をされるといけません。不愉快ですし、それにあなたさまがここへおいでになったことを誰かに知られてはまずいんで」
こう言うと、彼は宿の戸口の所へ行き、扉を閉め、さらに用心深く、夜間用のかんぬきまでもかけてしまった。
その間に僧は、楽に話の聞ける場所に位置を占めた。彼は影になっている所に席を占め、一方相手の顔には、陽がいっぱいにあたるようにしたのである。自分は顔を伏せ、両手を組むというより堅くこわばらせたまま、一言も聞き洩らすまいと耳をそばだてていた。カドルッスは椅子を引き寄せ、僧の正面に坐った。
「あたしがそうしろと言ったんじゃないからね」今これから始まろうとしている場面が床を通して見えるかのように、カルコントのふるえ声が聞こえてきた。
「よし、よしわかった。もうなにも言うな。みんな俺が責任をとる」
こう言って、彼は話し始めた。
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二十七 物語
「まずはじめに」と、カドルッスが言った。「一つ約束していただきたいことがございますんで」
「何だね」
「それは、これからお話しすることをどうご利用なさるにしても、決してそれが手前の口から出たことだけは言わないでいただきたいのでございます。と申しますのは、これからお話する連中は、今では金も力もある連中で、指一本で手前なんぞコップみたいにこなごなにされてしまいます」
「安心するがいい、私は司祭だ。告白はすべて私の胸の底に消える。私らの共通の友の遺志を、正当に執行することだけが目的だということを、思い出してほしい。なにごとも歯に衣《きぬ》きせず、また憎しみも混えずに話すのだ。ほんとうのこと、ほんとうのことを皆話せ。私は、これからそなたが話をしてくれる人たちのことは知らないし、また今後も知ることはあるまい。第一私はイタリア人で、フランス人ではない。私は神にお仕えする身、人間社会の者ではない。今まさに死なんとする者の最後の意志を実行するためにのみ出て来た僧院に、私はまた立ち戻る身なのだ」
このはっきりした約束が、カドルッスをいくらか安心させたようであった。
「それでは、あの可哀そうなエドモンが、ほんとうの心の底からの友だちだと思っていた連中の、友情の正体を申し上げたい、いや申し上げねばならぬと思います」
「父親のことから始めてくれないか。エドモンはその老人のことをしきりに私に話していた。たいそう深く愛していたようだ」
「悲しい話でございますよ」カドルッスは首をふりながら言うのだった。「はじめのほうはたぶんご存じと思いますが」
「そう、逮捕された時までのことはエドモンが話してくれた。マルセーユの近くの小さな料亭だったとか」
「レゼルヴだ。ああ、そうですとも、手前には、まだその場にいるみたいに、その時の様子が目に浮かびます」
「婚約披露だったのではないか」
「そうです。披露宴は、はじめは楽しくにぎやかでしたが、悲しい結末でしたよ。武装兵四人を従えた警部が入って来て、ダンテスを逮捕したんです」
「私の知っているのはそこまでだ。ダンテスも、自分のこと以外はなにも知ってはいなかった。私がさっき言った五人の誰にも会わなかったし、誰の噂も聞かなかったからだ」
「ダンテスが逮捕されると、すぐにモレルさんが事情を知ろうととび出して行ったんです。戻っての話は悲しい情報でした。老人は一人で家に戻り、泣きながら婚礼の服をたたみ、一日中部屋の中を行ったり来たりしてました。そして夜もベッドに入りません。手前はちょうど老人の真下に住んでおりましたもんで、一晩中歩きまわる足音が聞こえてたんでございます。手前だって、こいつは申し上げとかなきゃいけませんが、眠りやしませんでした。あの気の毒な年寄りの悲しみを思えば辛くてね。歩きまわる足音の一つ一つが、実際に胸を踏みつけるように、胸をおしつぶしました。
翌日、メルセデスがマルセーユヘ来ました。ヴィルフォールさんに保護を頼みにね。でもなんにもなりませんでした。あの娘はその足で年寄りを見舞いました。年寄りが、前の晩ベッドにも入らずに一夜を過ごし、前の日からなにも食べていないほどにうちひしがれ、暗くうち沈んでいるのを見たあの娘は、身の廻りの世話をするために自分の所へ連れて行こうとしたんですが、年寄りはがんとして言うことをききません。
『いや』と年寄りは言うのです。『わしはこの家を離れぬ。あの可哀そうな子がなによりも愛しているのはこのわしじゃ。だから、牢を出たら、大急ぎでわしに会いに駈けつけて来るじゃろう。もしここで待っていてやらなかったら、あれが、何と言うか』
手前は、これをみんな踊り場の所で聞いてたんでさ、メルセデスが、彼女について行くよう年寄りをなんとか納得させてくれればいいがと思ってたもんで。毎日頭の上で響くあの足音は、ただの一時《いっとき》も手前をくつろがせてはくれなかったんです」
「しかし、そなた自身は老人を慰めに登っていってはやらなかったのかね」
「ああ、お坊さま、慰めてもらいたいと思っている者しか、慰めることはできませんです。あの年寄りは、慰めてなんかもらいたがらなかった。それに、どうしてだか、あの年寄りは、手前に会うのを嫌ってたようでした。ですがある晩のこと、あの人が泣いている声が聞こえてきて、手前はたまらなくなって上がって行きました。でも、戸口の所まで行ったら、もう泣いてはおらず、お祈りをしてました。あの年寄りが、どれほど人の胸にしみこむ言葉、どれほど切々たる哀願の言葉を使ってたか、とても手前には申せません。あれはもう信仰なんてもの以上だった、苦しみなんてものじゃありませんでしたよ。だから、信心ぶりもしないし、猫かぶりの信者が嫌いな手前も、あの日ばかりは、ああ俺は一人ぼっちで幸せだ、神様が子供をお授け下さらなくてよかった、と思いました。だって、もし手前が人の子の父親で、あの気の毒な年寄りみたいな苦しみを味わわされたら、あの年寄りが神様に言ってたような文句は、頭ん中にも心の中にもみつけられなくて、それ以上苦しまないために、まっすぐに海へ飛び込んじまったでしょうからね」
「気の毒なお父上!」司祭がつぶやいた。
「日ましに一人ぼっち、孤独になっていきました。モレルさんとメルセデスは、しょっちゅう会いに来たんですが、ドアは閉まったままです。いることは手前にはわかってるんですが、返事をしないんです。ある日のこと、いつに似ず、メルセデスを迎え入れました。可哀そうに、あの娘だって絶望のどん底にいたのに、年寄りをなんとか元気づけようとしたんでさ。
『のう、わしの娘よ、信ずるがいい、あの子は死んだのじゃ。わしらはあの子を待っておったが、今はあの子のほうがわしらを待っておる。わしはうれしいのだ、わしが一番年をとっておって、一番先にあれに会えるからのう』
どんなに善良な者でも、おわかりでしょうな、自分を悲しませる者に会うのはやがて止めてしまうものでございます。年寄りのダンテスは、しまいにはまったく一人ぼっちになっちまいました。見知らぬ連中が時折り上がって行くのしか見ないようになりました。あまりちゃんとはくるんでない包みを持って降りて来るんです。その包みが何か、手前にはわかりました。暮らしに必要だった持ち物を、少しずつ売ってたんでさ。とうとうぼろの古着もなくなっちまった。家賃も三つたまってた。追い出すとおどかされましてね、一週間待ってくれと頼んで、待ってもらいました。家主が年寄りの所から出て来て、手前の家に寄ったもんで、手前はこの話を知ったんです。
はじめの三日は、いつものようにあの年寄りが歩きまわるのが聞こえてた。だが、四日目になると音がしなくなっちまいましてね。手前は上がってったんです。ドアは閉まってましたが、鍵穴からのぞくと、年寄りが見えました。あんまり青い顔をして、ひどくやつれているんで、こいつはひどい病気だと思い、モレルさんに知らせ、メルセデスの所へ走ったんです。二人とも駈けつけてきました。モレルさんは医者をつれて来ました。医者は胃腸炎と診断して、節食を命じたんです。手前はその場にいました。お坊さま、手前はこの医者のいいつけを聞いた時の年寄りの浮かべたうすら笑いが忘れられません。
それ以後は、ドアはいつでも開いてました。もう食べないことの言い訳ができましたからね。医者が節食を命じたんだもの」
僧は呻くような声を洩らした。
「こういう話には興味をお持ちになるでしょうね」
「うん、哀れな話だ」
「メルセデスはまたやって来ました。年寄りの変わり方があんまりひどいので、前の時と同じように、年寄りを自分の家に移そうとしたんです。モレルさんの考えも同じでした。力づくでも移そうとなさったんですが、年寄りがあんまり大声でわめくもんで、二人とも恐れをなしちまった。メルセデスはそのまま枕もとに残りました。モレルさんはメルセデスに、暖炉の上に財布を置いて行くからと合図して帰りました。ですが年寄りは、医者のいいつけを楯にとってなにも食べようとしません。とうとう、絶望と断食の九日の後に、年寄りは、自分に不幸をもたらした連中を呪いながら、そして、メルセデスに、
『もしエドモンにまた会ったら、わしは、あれの幸せを祈りながら死んだと伝えてくれ』
と言い残して息を引き取ったんです」
僧は立ち上がった。わななく手でからからにかわいた喉をおさえて、部屋の中を二めぐりした。
「で、そなたは老人が死んだのは……」
「餓死ですよ。餓死したんです。それはもう、お坊さまと手前と二人のキリスト教徒がここにいるということと同じぐらい確かです」
僧は、小刻みにふるえる手でまだ半分ほど水の入っていたコップを掴み、一気にそれを飲みほした。そして、目を赤くし、血の気の失せた頬をしてまた腰をおろした。
「まったくひどい不幸だ!」と、僧はしゃがれた声で言った。
「それも、神様はちっとも関係がなくて、みんな人間のせいで起きたんですから、まったくひどい不幸です」
「ではその連中の話を聞こう。だが、いいか」と、おどすような調子で僧が続けた。「私になにもかも話すと約束したことを忘れるでない。さあ、息子を絶望の果てに殺し、父親を餓死させた連中というのは、どういう奴らだ」
「やつを嫉《ねた》んだ二人の男ですよ。一人は嫉妬、一人は野心からだ。フェルナンとダングラールでさあ」
「嫉むあまりにどんなことをした」
「奴らはエドモンを、ボナパルト党員だと密告したんです」
「だが、二人のうちどっちが密告したのか、ほんとうに悪いのはどっちだ」
「二人ともですよ。一人は密告状を書き、一人は投函した」
「その手紙はどこで書かれた」
「レゼルヴです、婚約の日の前の日」
「そうだった、やはりそうだったのか」僧はつぶやいた。「ああ、ファリア、あなたは人間のこと、事物のことをなにもかもよくご存じだ!」
「なにかおっしゃいましたか」カドルッスが訊ねた。
「いやなんでもない、続けたまえ」
「ダングラールが密告状を、筆跡がばれないように左手で書いたんです。フェルナンがそれを出した」
「だが」いきなり僧が叫んだ。「そなたもいたぞ、そなたが」
「手前が?」ぎょっとしてカドルッスが言った。「手前がそこにいたと、誰からお聞きになりました」
僧は、少し早まったと思った。
「誰からも聞かぬ」と彼は言った。「だが、そんな詳しいことをみんな知っている以上は、その場にいたとしか思えぬ」
「その通りなんです」カドルッスは声をつまらせながら言った。「手前はその場におりました」
「そんな恥知らずなことを、そなた、黙って見ていたのか。それなら、そなたも同罪ではないか」
「お坊さま、あの連中は二人で、ほとんどなにもわからなくなっちまうくらい、手前に酒を飲ませたんです。霞がかかっちまったようになって、手前にはよく見えなかった。あんなに酔払っちまった男が言えるだけのことは言ったんです。ですが奴らは、これはみんな冗談だ、この場限りの冗談だと言ったんです」
「ところが翌日、その冗談がその場限りのものではなかったことを、そなたは知った。それなのにそなたはなにも言わなかった。エドモンが捕えられた時、そなたはその場にいたというのに」
「そうです、手前はその場にいました。そして、口を開きかけたんです。ところがダングラールが手前をとめたんです。やつはこう言いました。
『もしひょっとしてあいつが有罪なら、もし、エルバ島に寄って、ほんとうにパリのボナパルト委員会宛の手紙を託されていて、その手紙をあいつが持っているのがみつかったら、あいつの弁護なんかする奴は、同類と思われちまうぞ』ってね。
正直言って、手前はあの頃のお上《かみ》のすることがこわかった。手前は黙っちまった。卑怯でした、たしかにね。でもこれは罪を犯したことにはなりません」
「わかった。そなたは、なりゆきにまかせただけだ」
「そうなんで。これが夜といわず昼といわず手前を苦しめる後悔のたねです。誓って申しますが、なん回となく神様にお許しを乞いました。手前の一生を通じて、手前がほんとうにわが身を責める振る舞いは、後にも先にもこれ一回きりですが、手前が落ちぶれたのもおそらくその報いでございましょう。たった一瞬の利己心の罪を、手前はこうしてつぐなっているのです。だからこそ、カルコントが不平を言うと、いつでも手前は、『黙れ、神様がこれをお望みなんだ』と女房に言っているのです」
こう言ってカドルッスは、ほんとうに後悔している様子を全身で表わして、首うなだれた。
「わかった、そなたはなにもかも正直に話してくれた。そのようにわが身を責めるところをみれば、もう罪は許されよう」
「残念なことに、エドモンは死んじまいました。あいつは手前を許しちゃくれませんでした、あいつは!」
「あれはなにも知らなかったよ」
「でも今はたぶん知ってます。死んだ連中にはなにもかもわかるって言いますからね」
しばし沈黙が訪れた。僧は立ち上がり、もの思いにふけりながら歩きまわっていた。彼はまた戻って来て、腰をおろした。
「そなた、二、三度モレルさんという名を口にしたね。その人はどういう人なのかな」
「ファラオン号の船主でした。ダンテスの雇い主です」
「この悲惨な事件の際に、その人はどんなことをしたのかね」
「誠実で勇気があって献身的な人がやることをしました。二十回もエドモンのためにとりなしました。皇帝が帰還すると、手紙を書き、懇願し、脅しさえしたのです。そのため第二の王政復古の際には、ボナパルト派だというのでひどい迫害を受けたほどです。前にも言ったように、十回もダンテスの父親を訪ねて来て、自分の家に引き取ろうとしました。これもさきほど申しましたように、父親が死ぬ前日だったか前々日だったか、暖炉の上に財布を置いていってくれて、おかげで爺さんの借金は全部払えたし、葬式の費用も出た。ですから、あの気の毒な年寄りも、生きてた頃と同じように、誰にも迷惑をかけずに死ねたってわけですよ。その財布を手前はまだ持ってます。赤いレースの大きな財布でね」
「で、そのモレルさんというのはまだ生きておられるのか」
「はい」
「だとすれば、その方は神に祝福されたお方だから、お金もありお幸せなんだろうね」
カドルッスは苦笑した。
「ええ、手前同様お幸せですよ」
「モレルさんが不幸とは!」
「貧乏と紙一重でございますよ。いやそれ以上で、不名誉と紙一重でございます」
「それはどうして」
「ええ、こういうことなんです。二十五年もお働きになって、マルセーユの商業界随一の名誉ある地位を築き上げたあげく、モレルさんは完全に破産なすっちまった。二年の間に五隻の船をなくし、ひどい銀行の取引き停止に三回もあわれて、あのダンテスが指揮してたファラオン号にしか望みを託せなくなっているんです。インドから紅《べに》と藍《あい》を積んで来るはずなんですがね、もしこの船がほかの船みたいに沈んじまったら、モレルさんはもうお終いです」
「で、その方は奥さんや子供さんがおありか」
「はい、そうした中でもまるで聖女のように振る舞っておられる奥様と、それにお嬢様。このお嬢様は、好きな青年と結婚なさることになっているんですが、男のほうの両親が破産した家の娘を伜の嫁にはしたがってないんです。それから坊ちゃんがいます。陸軍中尉で。でも、おわかりでございましょう、あの気の毒な、立派な方にとっては、ご家族がいることは慰めになるどころか、むしろ苦しみを増すものなのですよ。もし一人なら、頭にピストルをぶち込めば、それで全部けりがつきますからね」
「恐ろしいことだ!」
「これが美徳に対してなさる神様の報いなのですよ。よろしいですか、さきほど申し上げたことを除けば、なに一つ悪いことをしたことのないこの手前は、貧乏のどん底にいる。女房になにもしてやれずに、熱病で可哀そうな女房が死ぬのを看とった後は、手前はダンテスの父親と同じように餓死するんです。ところがその一方、フェルナンとダングラールは黄金を枕というわけです」
「それはまたどうして」
「やつらにはなにもかもうまく行って、正直な者にはなにもかもうまく行かないからですよ」
「ダングラールはその後どうなった、一番悪い奴、そうだろう、そそのかした奴だ」
「やつがどうなったかですか。やつはマルセーユを離れました。やつの犯した罪を知らないモレルさんの紹介でスペインのある銀行家の手代になりました。スペイン戦争のとき、フランス軍の軍需品の一部を扱って一財産こしらえ、この金で株をやって、資本を三倍にも四倍にもしたんです。その銀行家の娘と結婚してましたが、やもめになると、ナルゴンヌ夫人という未亡人と再婚しました。これは、今の国王の侍従で国王のおぼえ最もめでたいサルヴィユー殿の娘です。百万長者になった彼は、男爵にしてもらった。だから今じゃダングラール男爵だ。モン=ブラン通りに邸があって、うまやには十頭の馬がいるし、控えの間には召使いが六人もいる。金庫になん百万入ってるか手前なんかにゃわかりやしません」
「ほう」と、僧は妙なアクセントで言った。「それで幸せなのかね」
「幸せかどうかなんて、誰にも言えやしません。不幸も幸福も、そいつは壁だけが知っている秘密でさ。壁に耳あり、だが口はない。大金持ちが幸せだってんなら、やつは幸せでしょうよ」
「で、フェルナンは」
「フェルナンは、こいつはまた話が別です」
「しかし、カタロニアの貧しい漁師で、金も教育もない男が、どうして財産を作れたのか、正直に言って、私にはさっぱりわからんが」
「誰にもわけがわからないんですよ。きっと誰も知らない秘密が、やつの一生にはあるにちがいありません」
「がいずれにしろ、表面にあらわれたところでは、どんな段階をたどって、そんな財産、あるいは地位に到達したのかね」
「両方ですよ、お坊さま。両方なんです、地位も財産、みんなです」
「まるでお伽話を聞いてるようだな」
「たしかにお伽話みたいなんですがね、でもまあお聞き下さいまし、そうすりゃおわかりになりますよ。フェルナンは、ナポレオンの復帰のなん日か前に召集されましてね。ブルボン王朝はカタロニア人には手をつけなかったが、ナポレオンが復帰したとなると、異例の動員令が下りまして、フェルナンは出征しなきゃならなかった。手前も行ったんですが、フェルナンより年をとってたし、あの可哀そうな女房をもらったところだったもんで、沿岸にやられただけでした。
フェルナンのほうは第一線部隊に編入され、前線に出て、リニーの戦闘に参加しました。
戦いの晩、フェルナンは将軍の部屋の戸口の所で伝令の任務についてました。この将軍は敵と内通してましてね、その晩将軍はイギリス軍と落ち合うことになってた。将軍はフェルナンに同行しないかと言って、フェルナンは同意し、部署を離れ、将軍について行きました。
ナポレオンが王位についたままだったら、フェルナンは軍法会議に送られるところだったのに、これがブルボン王朝への推薦状の役をしたってわけです。やつは少尉の肩章をつけてフランスに帰って来た。宮中のおぼえめでたい将軍が相変わらず庇護してくれたので、スペイン戦争の際、一八二三年には大尉でした。つまり、ダングラールが最初の投機をやった頃です。フェルナンはスペイン人だったので、スペインの人心をさぐるためマドリッドに派遣されました。そこでダングラールに再会しました。やつはダングラールと語らって、首都ならびに地方の王党派の支持が得られると将軍に進言し、約束をとりつけ、やつのほうも相手に約束をし、自分の連隊を、王党派が守っていて、やつだけしか知らない峡谷ぞいに誘導したのです。要するにあの短い戦いの間にたいへんな功績をあげたので、トロカデロ占領の後には大佐に任命され、レジヨン・ドヌール勲四等と伯爵の称号を与えられました」
「運命だな、なにごとも」僧がつぶやいた。
「はい。が、まだ先がございます。スペイン戦争が終りますと、それから先ヨーロッパを支配しそうに見えた長い平和のため、フェルナンの人生に影がさしそうになりました。ギリシアだけが、トルコに反旗をひるがえしてます。独立戦争を始めたところだったんです。みんなの目がアテネに向けられてました、ギリシアに同情し、ギリシアを支持するのが一般の風潮でした。フランス政府も公然とは援助しませんでしたが、ご承知のように、小数の義勇軍が行くのは黙認してました。フェルナンはギリシアで従軍することを願い出て許可されました。それも、軍籍に身を置いたままです。
しばらくして、モルセール伯爵、これがやつの名前なんです、モルセール伯爵が軍事顧問としてアリ=パシャに仕えているという話を聞きました。
ご承知のようにアリ=パシャは殺されましたが、死ぬ前にアリ=パシャはフェルナンにかなりの金を与えてその労に報い、フェルナンはその金を持ってフランスに帰って来ましたが、フランスでは中将の身分が認められてました」
「その結果今では……」僧が訊ねた。
「今ではパリのエルデ通り二十七番地に豪壮な邸を持ってます」
僧は口を開きかけ、一瞬ためらっているようであったが、やがて勇をこして、
「で、メルセデスは。その娘は姿を消したという話だったが」
「姿を消した、そうですよ、太陽がまた翌日さらに輝かしく昇天するために姿を消すようにね」
「ではその娘も金持になったのかね」僧は皮肉な笑いを浮かべながら訊ねた。
「メルセデスは今じゃ、パリ一流の大貴婦人でさあ」
「続けてくれないか、まるで夢物語を聞かされているようだ。だが私もこれまでに、ひどく珍しいことをいろいろ見てきたので、そなたの話にもさほど驚かないが」
「メルセデスは、はじめのうちは、自分からエドモンを奪った不幸にうちひしがれてました。ヴィルフォールさんにいろいろ頼んだり、ダンテスの父親を献身的に世話したりしたことはお話ししましたね。その絶望のさ中に、また一つ悲しみがあの娘を襲いました。フェルナンの出征ですよ。やつの犯した罪はあの娘は知らなかったし、兄とも思っていたフェルナンですからね。
フェルナンが行っちまうとあの娘は一人ぼっちになっちまった。
涙のうちに三か月が過ぎました。エドモンの消息もない、フェルナンの便りもない。目の前には、絶望のあげく死にかけてる老人がいるだけだ。
ある晩のこと、いつものようにマルセーユからカタロニア村に通ずる二本の道の角で一日中坐ってた後で、いまだかつてなかったほどうちのめされて自分の家に戻って来たんです。恋人も友達も、そのどっちの道からも帰っては来なかった。二人とも消息はわからなかったのです。
と、いきなり、聞きなれた足音がしたように思いました。不安に怯えながらふり返ってみると、ドアが開き、少尉の軍服を着たフェルナンが現われたんです。
あの娘がその人のために涙を流していた、その半身ではありませんでした。が、あの娘の過去の人生の一部が戻って来たんです。
メルセデスは、堅く堅くフェルナンの手を握り締めました。フェルナンは恋と思ったでしょうが、もうこの世に一人ぼっちではない、孤独な悲しみの中で長いこと待った末に、やっと友達に再会できたという喜びでしかなかったのです。それに、これは申し上げとく必要がありますが、フェルナンは決して嫌われてたわけじゃない、愛されていなかっただけです。もう一人の男がメルセデスの心を全部占領してた。そのもう一人はいなかった……行方不明だった……たぶん死んでいた。死んだと考えると、メルセデスはわっと泣きふし、苦痛のあまり両腕をよじりました。が、以前なら誰かがそんなことをほのめかしたりすると、すぐにそれを押しのけたこの考えが、今ではひとりでに心に浮かぶのでした。第一、ダンテスの父親さえ、しょっちゅうこう言い続けてたんですからね。『わしらのエドモンは死んだのじゃよ。もし死んだのでなければ、帰って来るはずじゃないか』とね。
さきほど申しましたように年寄りは死にました。もし生きてたら、おそらくメルセデスはほかの男の女房になんぞならなかったでしょう。そんなことをしたら年寄りが娘の不実を責めたでしょうからね。フェルナンにはそれがわかってました。年寄りが死んだのを知るとやつはまたやって来ました。今度は中尉になってました。最初来た時にはメルセデスには愛の言葉なんかは言いませんでした。二度目の時、自分が愛してるんだってことを娘に思い出させたんです。
メルセデスは、エドモンを待つためと、エドモンのために涙を流すために半年待ってくれと言いました」
「まったく」と僧は辛そうな微笑を浮かべながら、「合計一年半だ。どんなに愛された男でも、それ以上のものを求めることができようか」
それから彼はイギリスの詩人の言葉をつぶやくのだった。
弱キモノヨ、汝ノ名ハ女ナリ。
「半年後にアクールの教会で結婚式が行なわれました」
「それはその娘がエドモンと結婚することになっていた教会だ」司祭がつぶやいた。「婚約者が変わっただけだ」
「そういうわけでメルセデスは結婚しました。皆の目にはあの娘は落ち着いているように見えたんですが、それでも、もしあの娘が自分の心の底をのぞいてみるだけの勇気があったら、まだ愛していることがわかったはずの男と、一年半前に婚約披露をしたあのレゼルヴの前を通ったときには、あの娘はあやうく気を失うところでした。
フェルナンは幸福にはなりましたが、安心はしていられませんでした。というのはその頃手前はやつに会ったんです。やつはいつもエドモンが帰って来るのを恐れてました。そこでフェルナンは直ちに女房を他国へつれて行き、自分もよそへ行ってしまうことにしたんです。カタロニア村にいつまでもいるのは、危険が多すぎるし、思い出もありすぎるんでね。
婚礼の一週間後、二人は行っちまいましたよ」
「その後そなたメルセデスに会ったか」
「ええ、スペイン戦争のとき、ペルピニャン〔地中海沿岸のスペイン国境に近い町〕でね。フェルナンがそこに女房を残していたんです。あの頃は子供の教育をしてました」
僧は身ぶるいした。
「子供の」
「そうです。アルベールのね」
「だが、その息子の教育をするためには、彼女自身教育を受けたのか。エドモンから聞いたところでは、その娘は漁師の娘で、美しくはあるが教養はないように思っとったが」
「おお、それではエドモンは自分のフィアンセをてんで知らなかったんでさ。メルセデスは女王にだってなれますよ。もし王冠てものが、一番きれいで一番頭のいい頭上に輝くものならね。彼女の財産はもう大きくふくれつつありましたが、彼女もまたその財産と一緒に大きく成長して行きましたよ。彼女は絵を習い、音楽を習い、なんでも勉強しました。それもね、ここだけの話ですが、彼女がそんなに勉強したのも、気を紛らすため、忘れるためでしかなかったと思います。そんなにたくさんのことを頭につめ込んだのも、心の中にあるものと戦うためだったんですよ。でも今じゃもうなにもかもけりがついてるでしょう。財産と名誉とが彼女の心を慰めたはずです。金持で伯爵夫人だもの。ただ……」
「ただどうだというのかね」
「ただ、あんまり幸せじゃないと思うんですよ」
「どうしてそう思うのだ」
「いえね、手前があまりひどいことになっちまったもんで、昔の友だちがちっとは助けてくれるかな、と思いましてね、ダングラールの家へ行ってみたことがあるんですが、中へ入れてもくれませんでした。フェルナンの所へ行ったら、召使いに百フラン持って来させましたっけ」
「では、どちらにも会えなかったんだな」
「ええ。でもモルセール夫人は手前のことを見ました」
「というと?」
「手前が外へ出た時、財布が足もとに落ちたんです。二十五ルイ〔一ルイは二十フラン〕入ってました。急いで上を見ると、メルセデスが窓の鎧戸を閉めるところでした」
「ヴィルフォール氏はどうしたね」
「おお、あの方は手前の友達じゃありません。あの方は存じあげないんで。べつにお願いすることもなかったので」
「それにしても、あの人がどうなったかもまるで知らないのかね。また、エドモンの不幸にどんな役割を演じたかも」
「存じません。知っているのは、エドモンを逮捕させてからしばらくして、サン=メランのお嬢様と結婚して、マルセーユを離れて行きなすったってことだけです。おそらくほかの連中と同じように、幸運の女神があの人にも微笑んだんでしょうよ、ダングラールみたいに金持になり、フェルナンみたいに尊敬されてね。手前だけが、ご覧のように、貧乏でみじめで、神様からも忘れられたままなんでございますよ」
「それは違う。神のお裁きが憩《いこ》いをとっておられるときには、時として神がお忘れになっているかに見えることもある。が、必ず思い出される時が来るものなのだ。これがその証《あか》しだ」
こう言いながら、僧はダイヤをポケットから出し、カドルッスに差し出した。
「さあ、これを受け取るがいい。これはそなたのものだから」
「なんですって、これが手前一人のもの」カドルッスが叫んだ。「ああ、おからかいになっちゃいけません」
「このダイヤはあの青年の友の間で分けられるべきものだ。エドモンに友は一人しかいなかった。分ける必要はなくなったわけだ。このダイヤを受け取り、売るがいい。また言うが、これは五万フランの値打ちがある。それだけの金で、そなたが貧乏暮らしから脱け出せればいいと思う」
「ああ、お坊さま」カドルッスはおずおずと片手をのばし、片手で額に粒をなしている汗をぬぐった。「ああ、一人の男の幸せとか絶望とかを冗談のたねになすってはいけません」
「私は、幸せがどういうものか、絶望がどういうものかを知っておる。だから、私は決して人の心をもてあそんだりはせぬ。受け取るがいい、そのかわり……」
カドルッスはすでにダイヤに手をふれていたが、その手をひっこめた。
僧は微笑した。
「そのかわり、私に、モレルさんという方がダンテス老人の暖炉の上に置いていってくれたという、その赤い絹の財布をくれないか。さっきの話では、まだそなたが持っているということだが」
カドルッスはますます驚きを深めながら、カシワ材の大きな戸棚のほうへ行き、戸棚を開けた。そして、色あせた細長い赤い絹の財布を僧に渡した。昔はそのまわりに金箔を張った銅の環が二つついていたのだ。
僧はそれを受け取ると、そのかわりにダイヤをカドルッスに渡した。
「ああ、あなたこそほんとうに神に仕える方です」カドルッスは叫んだ。「だって、ほんとうのところ、エドモンがこのダイヤをあなたに渡したことなど、誰も知らない、だから自分のものにしてしまうことだっておできだったはずですから」
『そうだ』僧は低くつぶやいた。『貴様だったらそうしたかもしれぬな』
僧は立ち上がり、帽子と手袋をとった。
「ところで、話してくれたことは、みなほんとうなのだろうね。どこからどこまで信じていいんだろうね」
「お坊さま、この壁の隅に、祓《はら》い清めたキリスト様の木像がございます。この戸棚の中には女房の福音書がございます。福音書をお開き下さいまし。手前はキリスト様のほうに手をさしのべ、福音書の上で誓います。手前の魂の救済と、キリスト教徒としての信仰とにかけて、最後の審判の際に、神の耳もとに人の罪をささやく天使のように、いっさいを、事実の経過そのままに申し上げたことを誓います」
「よろしい」その口調からカドルッスが嘘を言ってはいないと確信した僧が言った。「その金がそなたの役に立ちますよう。さようなら。互いにあまりに多くの悪をなし合う人間から、遠く離れた所へ立ち戻るとしよう」
こう言って僧は、カドルッスの熱狂的な挨拶から辛うじて身をふりほどき、自分で戸口のかんぬきをはずし、外へ出ると、馬にまたがり、さかんに別れの言葉をならべている宿の主に、もう一度会釈して、来た時にたどった道をまたもとの方角へと出発したのであった。
カドルッスがふり返ってみると、後ろにいつもよりもいっそう青い顔をし、いっそう身をふるわせているカルコントがいた。
「あたしが聞いたことはみんなほんとうなのかい」
「何が? あの方がダイヤを俺たちだけにくれたってことか」喜びのあまり気も狂わんばかりになっているカドルッスが言った。
「そう」
「これ以上確かなことはありやしねえ。ほら見てみな」
女房はしばらくダイヤを見ていた。それから低い声でこう言った。
「もし、これがにせ物だったら?」
カドルッスは青くなって、よろめいた。
「にせ物だと」彼はつぶやいた。「にせ物……あの人がどうして俺ににせ物のダイヤなんかくれるんだ」
「お前さんの秘密をただで聞き出すためだよ、馬鹿だねえ!」
カドルッスはこの推測の重みに一瞬放心しているようであった。「ああ!」やがて彼は帽子を手にとり、頭にまきつけた赤いハンカチの上にかぶった。「本物かにせ物かつきとめてやる」
「どうやって」
「ボケールで市が開かれてる。パリから宝石商が来てるんだ。お前は留守番してろ、二時間後には帰るから」
こう言ってカドルッスは家をとび出し、見知らぬ男がとった道とは反対の道を駈けて行った。
「五万フラン!」一人残されたカルコントはつぶやいた。「大したお金だ……でも一財産てほどでもないね」
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二十八 収監簿
ベルガルド―ボケール街道上で今述べた場面が進行した日の翌日、淡いブルーの燕尾服、浅黄色のズボン、白のチョッキを着た、言いまわしにもアクセントにもイギリス風のところがある三十一、二の男が、マルセーユ市長を訪れた。
「市長さん、私はローマのトムスン・アンド・フレンチ商会の代理人です。十年前からマルセーユのモレル父子商会と取引きをいたしております。この取引きで約十万フランほどの債権がこげついておるのですが、モレル父子商会が破産にひんしているという噂を聞き、不安を感じないわけにはまいりません。そこで市長さんにモレル父子商会の情報をうかがいたいと思いまして、急遽《きゅうきょ》ローマから参りました次第です」
「たしかに私は、モレル氏には四、五年前から不運がつきまとっていることを存じております。船が相ついで四、五隻沈むし、三、四回支払い停止にはあうし。私も実は一万フランほどの債権者ではありますが、モレル氏の財産状態についてお教えすることは私にはできません。市長としての私がモレル氏をどう考えているかをお訊ねならば、厳格なまでに誠実な方で、今までのところ、いっさいの債務を正確無比に履行なさってきた方だとお答えしましょう。私に言えることはそれだけです。もっと詳しくお知りになりたいなら、刑務監査官のボヴィル氏をお訪ね下さい。ノアーユ通り十五番地です。たしかモレル商会に二十万フラン投資しているはずですから、もし実際に憂慮すべき事実があるのなら、私よりは投資額が大きいので、その点については私よりもよく事情を知っているでしょう」
英国人は、市長のこまやかな気の配り方を高く評価したようであった。彼は頭を下げると外へ出て、グレート・ブリテンの国民に特有のあの歩き方で、教えられた通りのほうへ歩いて行った。ボヴィルは事務室にいた。ボヴィル氏を見た英国人は驚いたような様子をした。今自分が訪れた相手の前に姿を現わすのは、これが初めてではないことを示すものであった。ボヴィル氏のほうは、ひどく落胆していて、当面彼の心を占領していることに彼の知力のことごとくが没入していたので、記憶や想像力を過去の世界にさ迷わせることなどとてもできない状態であった。
英国人は、この国民特有の落ち着いた態度で、マルセーユ市長に対してなしたと同じ質問を、ほぼ同じ言葉でボヴィルに質問した。
「おお、あなたのご懸念なさっていることは残念ながら、これ以上確かなものはないぐらい事実なのです。あなたは今すべての希望を失った男を目のあたりになさっているのですよ。私はモレル商会に二十万フラン投資しております。この二十万フランは、二週間後に結婚する娘の持参金だったのです。この二十万フランは、十万フランが今月十五日、十万フランが来月十五日に返済されるはずでした。これが確実に期日通りに行なわれるよう、私はモレル氏に申し入れたのです。ところが、つい三十分ほど前にモレル氏が、もし十五日までに彼の持ち船のファラオン号が帰らない場合には、返済は不可能だと言いに来たのです」
「でもそれは、返済期日の延期ということのように思えますが」
「いえこれは支払い停止ですよ!」落胆しきったボヴィル氏が叫んだ。
英国人はちょっと考えているようであったが、やがてこう言った。
「するとその債権に不安を抱いているとおっしゃるわけですか」
「つまりもう債権は消滅してしまったと思っているのです」
「それでは、その債権を私が買い取りましょう」
「あなたが?」
「そうです」
「でも相当割引かれるんでしょうな」
「いえ、二十万フランで」英国人は笑いながら、つけ加えた。「私どもの商会はそういう商売はいたしませんよ」
「あなたが支払って下さる?」
「現金で」
こう言って英国人は、ボヴィル氏が失うのではないかと恐れていた額の倍はあろうと思われる札束をポケットから取り出した。
一瞬ボヴィルの顔に喜びの光がさした。しかし彼は自分をおさえて、
「どう考えても、その金額の六パーセントも戻っては来そうにありませんが、それでもよろしいのでしょうか」
「そんなことは私には関係ありません。トムスン・アンド・フレンチ商会の問題です。私は商会の名において行動しているのです。おそらく競争相手の商会の破産を早めることが私どもの商会にとって有利となるのでしょう。ただ、私にわかっておりますことは、債権譲渡と引きかえにその額をお支払いする用意があるということだけです。ただし仲介手数料はいただきます」
「ええ、ええ、それは当然ですとも。手数料はふつう一・五パーセントですが、二パーセントお望みですか、三パーセント? 五パーセント? もっとお望みでしょうか。どうぞおっしゃって下さい」
「いえ、私も私どもの商会と同じで」と、英国人が笑いながら言った。「そういう商売はいたしません。私の手数料というのは、もっと別の性質のものです」
「おっしゃって下さい、うかがいましょう」
「あなたは刑務監査官でいらっしゃいますね」
「もう十四年以上になります」
「では収監簿をお持ちですね」
「もちろん」
「その帳簿には、囚人についての所見も加えられているでしょうね」
「囚人一人一人の書類があります」
「じつは私は、ローマである貧しい僧侶に育てられたのですが、突然行方不明になりまして、その後その僧侶がシャトー・ディフに収監されたということを聞いたのです。そこで、あの方の死の模様を知りたいと思うのですが」
「どういう名前でしたか」
「ファリアです」
「ああ、よくおぼえてますよ。気違いでした」
「そう言われてました」
「いやもう、正真正銘の気違いでしたよ」
「そうかもしれません。どんなふうな気違いだったのでしょう」
「莫大な財宝のありかを知っていると言いはりましてね。釈放してくれればとてつもない大金を政府に寄贈すると言ってました」
「気の毒に。そして死んだんですか」
「ええ、五、六か月前です、二月でした」
「すばらしい記憶力をお持ちですね、そんなに日付をおぼえておられるとは」
「この日付をおぼえているのは、哀れな囚人が死んだとき、一緒に妙な事件が起きたもんですからね」
「その事件というのを教えていただけませんか」と、英国人は訊ねた。その落ち着き払った顔に浮かんだ好奇の表情に、注意深い観察者ならば驚かされたことであろう。
「ええ、ええ、いいですとも。あのお坊さんの地下牢は、あるもとボナパルト党員の牢からほぼ四十五ないし五十フィート離れておったのです。この男は一八一五年の簒奪者《ナポレオン》の帰還に最も貢献した男ですが、信念も固く、きわめて危険な人物でした」
「ほんとうですか」
「ほんとうです。私自身、一八一六年か一八一七年にその男に会いましたがね、この男の地下牢へ降りて行くには、兵士の護衛つきでなければ行けませんでした。私はこの男からじつに強い印象を受けましてね、あの顔は決して忘れられません」
英国人はかすかな笑いを浮かべた。
「でその二つの牢は……」
「五十フィートほど離れておったのです。が、どうやらそのエドモン・ダンテスという男は……」
「その危険な男の名が……」
「エドモン・ダンテス、そうなんですよ。そのエドモン・ダンテスは、どうやら道具を手に入れたか、作り出したかしたらしい。というのは、二人の囚人が互いに往き来していた通路が発見されたのです」
「その通路は、おそらく脱獄のために掘られたものなんでしょうね」
「まさにその通りです。が囚人たちにとっては不運なことに、ファリア師は強直症《カタレプシー》の発作に襲われて死んでしまったのです」
「なるほど。それで脱獄計画は即座に中止ということになったのですね」
「死んだ者にとってはそうです。が生きているほうにとってはそうではなかった。その反対に、ダンテスはそこに脱走の時期を早める手段をみつけたのです。おそらく彼は、シャトー・ディフの死者もふつうの墓に埋葬されるものと考えたのでしょう。彼は死人を自分の牢に運び、死人を入れてあった袋に入って、埋葬の時期を待ったのです」
「それはまた大胆なやり方ですな。よほど勇気のある男だったとみえる」
「いやもう申し上げたでしょう、非常に危険な男でしてね。幸い、この男に対して抱いていた政府の危惧を、この男は自ら取り除いてしまいました」
「どうしてです」
「どうして? おわかりになりませんか」
「わかりません」
「シャトー・ディフには墓はないのですよ。死人は、足に三十六ポンドの鉄の玉をつけて海の中に放り込むだけなんです」
「それで?」と英国人は、どうもよくわからないといった様子で訊ねた。
「それで、その男の足に三十六ポンドの鉄の玉をつけて海に放り込んじまったんですよ」
「ほんとうに?」
「ええ。岩の上からまっさかさまに落ちて行くのを感じたとき、脱獄囚がどんなに驚いたかおわかりになるでしょう。そのときのあいつの顔が見てやりたかった」
「そいつはちょっとできんでしょう」
「なあに」と、二十万フランが確かに返ってくるというので上気嫌になっていたボヴィルが言った。「なあに、ちゃんと想像できますからね」
彼は大声で笑った。
「私にもね」と英国人は言った。
そして彼も笑ったが、それは英国人の笑い、つまり口の先だけでの笑いであった。
「では」と先に冷静さをとり戻した英国人が続けた。「脱獄囚は溺死したというわけですね」
「きれいさっぱりとね」
「とすると、長官は、兇暴な奴も気違いも一挙に片付けてしまったということですか」
「その通り」
「でもなにか証明書のようなものがその事件には作成されているんでしょうか」
「ええ、ええ、死亡証明書がね。もしダンテスに肉親がいれば、死んだのか生きているのかを知る必要もあるかもしれませんから」
「それでは、もう肉親の者たちは安心してその男の遺産を相続できるわけだ。死んだんですね、たしかに死んだんですね」
「それはもう。欲しいと言うならいつでも死亡証明を出しますよ」
「そうあってほしいものですな。ところで帳簿のほうに移りましょうか」
「そうでした。長話をしてしまって、帳簿の件がなおざりになってました、すみません」
「何がすまないのです、今までのお話がですか? とんでもない、じつに好奇心をそそられるお話でしたよ」
「まったくそうなんです。では、気の毒なお坊さんに関するものを皆ご覧になりたいというわけですね。おとなしいの一語に尽きる人でした」
「そうしていただければありがたいのですが」
「では私の部屋のほうへお越し下さい。お目にかけましよう」
こうして二人はボヴィルの書斎に移ったのだった。
そこではいっさいのものがまったく申し分ないほどに整頓されていた。帳簿は番号順に並べられ、書類はそれぞれの整理棚におさめられている。監査官は英国人を自分の椅子に坐らせ、その前にシャトー・ディフに関する帳簿と書類を置き、自由にそれらのものを見る時間を与えた。自分は部屋の隅に腰をおろし、新聞を読んでいた。英国人は苦もなくファリア神父に関する書類をみつけることができた。しかし、ボヴィルが彼に聞かせた話が、ひどく彼の興味をひいたようである。というのは、ファリア神父に関するこのはじめの書類の内容を知ってしまった後にも、彼は、エドモン・ダンテスの綴りをみつけるまで、書類をめくり続けたからである。その綴りの中に、彼はいっさいのものがきちんと揃っているのを見た。密告状、検事調書、モレル氏の請願書、ヴィルフォールの添え書き。彼はそっと密告状をたたみポケットに収めた。調書を読み、ノワルチエの名が書かれていないのを見た。モレルが検事代理のすすめで、当時はナポレオンが支配していたから、ダンテスがいかに帝政のために尽したかを、しかも、ヴィルフォールの証明があるために動かしがたい事実となっているダンテスの功績をまったくの善意から誇張して書いた、一八一五年五月十日付の請願書に目を走らせた。彼はすべてを理解したのであった。ヴィルフォールが手もとにとどめておいたこのナポレオン宛の請願書は、第二王政復古のもとでは、検事の手に恐るべき武器を与えたことになるのだった。だから帳簿を繰って、自分の名前の箇所に書かれた、次のような所見を見てもさして驚きはしなかった。
エドモン・ダンテス、熱狂的ボナパルト支持者。
エルバ島脱出に重要な役割を果たす。
厳秘に付し、厳重な監視下におくこと。
この所見の上の所に、別の筆跡で、
下記の所見よりして、なすべきことなし。
ただ、所見の筆跡とモレルの請願書の添え書きの筆跡を対照してみて、彼は所見も添え書きも同じ筆跡であること、すなわちヴィルフォールの手になるものであることを確認したのである。
所見に書き加えられている部分については、英国人は、それがダンテスの状況に一時的に関心を抱いたものの、上に引用した所見を見てその関心を抱き続けることができなくなった監査官によって認《したた》められたものであることを理解した。
さきに述べたように、監査官は遠慮から、ファリアの弟子が調べものをするのを邪魔しないようにと、遠く離れた所で『白旗』を読んでいた。
だから、ダングラールがレゼルヴの青葉棚の下で書き、二月二十七日、午後六時収集というマルセーユ郵便局の消印のある密告状を、英国人がたたんでポケットに収めるのを見てはいなかった。
しかし、言っておく必要があるが、たとえ見たとしても、その書類などてんで重要視してはおらず、自分の二十万フランを極めて重要視していた彼は、それがどんなにけしからぬ行為であっても、その英国人に異を唱えるようなことはしなかったであろう。
「どうもありがとうございました」ばたんと音をたてて帳簿を閉じながら英国人が言った。
「知りたいことはみなわかりました。今度は私のほうがお約束を守る番です。簡単な債権譲渡の証書を書いて下さい。その中に受領金額をお書き願います。同額をお支払いしますから」
こう言って彼はボヴィルに机の前のその席を譲った。ボヴィルは遠慮もせずにそこに坐り、急いで言われた通りの譲渡証書を書いた。その間に英国人は紙幣を数えて棚の縁に置いた。
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二十九 モレル商会
モレル商会の内部を知り、数年前にマルセーユを離れ、今われわれが到達した時期にこの商会にまた足を踏み入れた者は、大きな変わりように気づいたであろう。
いわば繁栄の一途をたどる商社内にたちこめるあの活気とくつろぎと明るさ、また、窓のカーテンのかげに見えるうれしそうな顔、耳にペンをはさんだまま廊下をせわしげに行きかう店員、運送屋たちの叫び声や笑い声がこだましている荷物でいっぱいの中庭、そうしたもののかわりに、なにかしら陰鬱な死んだような空気がただよっているのだ。人気《ひとけ》のないその廊下、がらんとしたその中庭に、かつては大勢いて事務室をにぎわわせていた使用人たちのうち、たった二人だけが残っていた。一人は二十三、四の青年でエマニュエル・レモンといい、モレル氏の娘に恋をしていた。両親がなんとかして商会を辞めさせようとしても、がんとして応ぜず残っていたのである。もう一人は、コクレスという名の、片目の会計係の老人であった。これは、今はほとんど住む人もいないが、昔はまるで巨大な蜂の巣のように騒がしかったこの家の若い連中がつけたあだ名で、あまりにも呼びならわされすっかり本名のかわりになってしまったので、今では本名を呼ばれても、ふり返りもしなかったであろう。
コクレスは引き続きモレル氏に仕えていた。廉直《れんちょく》なこの老人の身分には奇妙な変化が起きていた。彼は会計係であると同時に召使いだったのである。
しかしコクレスはやはりもとのままのコクレスであった。善良で辛抱強く献身的で、ただし計算の点では、全世界を相手にしても、たとえモレル氏に対してでも、この一点だけは一歩も譲らなかった。九九しか知らなかったが、人がどのように彼をまごつかせ、どんなに間違えさせようとしても、九九だけはすみずみまで諳《そら》んじていた。
モレル商会全体を覆う陰気な影の中にあって、コクレスだけは泰然自若としていた。しかし間違えてはいけない、泰然としていたのは感情が欠如していたためではなく、その反対に確乎たる信念があったからである。世間では、予《あらかじ》め運命の手により海に沈むものと定められた船からは、徐々にネズミがいなくなり、投錨時にはこの利己的な住民どもが完全に船を見捨ててしまうというが、そのネズミたちのように、この船主の店で生計をたてていた多くの店員や使用人たちが前述のように少しずつ事務室や店から姿を消していった。しかしコクレスは、彼らが去って行く姿を、立ち去る理由さえ知ろうとはせずに眺めていた。前述のようにコクレスには、なにごとも数字の問題に還元されるのであった。彼は二十年来モレル商会で働いてきた。その間つねに、支払いが正確に即座に行なわれるのを見てきたので、大河の水を与えられている水車を持つ粉ひきが、その河が流れを止めることもあり得るなどとは考えられないのと同じように、この正確さに狂いが生じ、支払いが中断されることもあるなどとは考えられなかったのだ。事実この時まで、コクレスのこの信念をゆるがすようなことはまだ一度も起きなかった。先月末の支払いも厳密な正確さで行なわれた。そのとき、コクレスはモレル氏の計算違いによる七十サンチームのモレル氏の損を発見し、その日のうちにその十四スー〔一スーは五サンチーム〕の剰余金をモレル氏に届けたのである。モレル氏は淋しそうな笑みを浮かべてそれを受け取ると、ほとんど空《から》の抽出しにその金を落し、こう言ったのだった。
「よくやったコクレス、君は会計係の至宝だよ」
そこでコクレスはこの上もなく満足して戻って来た。マルセーユの清廉の士のうちの至宝であるモレル氏の讃辞は、五十エキュの報償金よりもコクレスにはうれしかったのである。
しかし、見事に切り抜けた先月末以後、モレルは苛酷な日時を過ごしていた。この月末に対処するために、集められるだけの金を集めた。そこまで追いつめられた姿を人に見られた場合、自分が苦境に立っているという噂がマルセーユに広まるのを恐れて、自分でボケールの市へ行き、妻と娘の装身具と自分の銀製品の一部を売ったのである。この犠牲により、モレル商会は今回もまた名誉を汚さずにすんだ。しかし金庫の中は完全に空《から》であった。信用は、流れる噂におびえ、それがつねの、利己主義とともに姿を消した。だからボヴィルに今月十五日に支払うべき十万フランと、来月十五日に支払うべき十万フランに対処するには、モレルはまさしくファラオン号の帰港に望みを託すしかなかったのだ。ファラオン号と同時に錨を上げ、無事帰港した船の話では、ファラオン号は向うを発った、ということだった。
しかし、ファラオン号と同じくカルカッタを発ったその船は、すでに二週間も前に帰って来たというのに、ファラオン号についてはなんの消息もなかった。
ローマのトムスン・アンド・フレンチ商会から派遣された男が、前に述べたボヴィルとの重要な取引きをすませたその翌日、モレルの前に現われたのはそういう状況のもとであった。
エマニュエルが応待に出た。青年は新しい顔を見る度にびくついていた。というのも、新しい顔は新しい債権者を意味し、心配になって商会の主《あるじ》に事情を聞きに来るのである。青年は、はっきり言っておこう、そうした客を相手にするいやな思いを雇い主にさせたくなかった。青年は新しい客に用件を訊ねた。しかし客はエマニュエルには用はない、自分が話をしたいのはモレル氏自身であると答えるのだった。エマニュエルは溜息をつきながらコクレスを呼んだ。コクレスが姿を見せると、青年はその外国人をモレル氏のところに案内するよう命じた。
コクレスが先に立ち、外国人がその後に従った。
階段の途中で美しい十六、七の娘に出会った。娘は心配そうに外国人の顔をみつめた。
コクレスは娘のその表情には気がつかなかったが、外国人のほうはそれを見逃さなかったようである。
「モレル様はお部屋でございますね、ジュリー様」会計係が訊ねた。
「そうよ、そうだと思うわ」ためらいがちに娘が答えた。「コクレス、お前先に見に行って、お父様がいらしたらお名前を申し上げたら」
「名前をおっしゃっても無駄ですよ、お嬢さん」と英国人が答えた。「モレルさんは私の名前をご存じありません。この方には、ローマのトムスン・アンド・フレンチ商会の代理人とだけお父様にお知らせいただけばよろしいのです。お父様の商会と取引きがございます」
娘は青ざめた。そして階段を降りて行った。一方、コクレスと外国人は階段を昇り続けた。
娘はエマニュエルのいる事務室に入った。コクレスは、持っていた鍵で三階の踊り場の一角のドアを開けた。この鍵を持っているということは、彼がいつでも自由に主人の傍に行けることを示していた。彼は客を控えの間に招じ入れ、もう一つのドアを開けると後ろ手にドアを閉めた。そうして、しばらくトムスン・アンド・フレンチ商会から派遣された男を一人にしておいてから、また現われて、部屋に入ってもよいという合図をした。
英国人は部屋に入った。彼は、机の前に坐り帳簿の債務を記入してある欄を前にして、青い顔をしているモレルを見た。
外国人を見ると、モレルは帳簿を閉じ、立ち上がって椅子をすすめた。そうして、外国人が坐るのを見てから自分も腰をおろした。
十四年の歳月はこの立派な商人に大きな変化をもたらしていた。この物語の始めの時には三十六歳であった彼が、五十歳になろうとしていた。髪は白くなり、額には苦労のしわがよっている。かつてはあれほどの決意と決断力とを秘めていたその目も、ぼんやりと不決断の色を見せ、ある一つの考え、ある一人の人間の上に目をとどめておかねばならぬのを始終恐れているかのようであった。
英国人は、明らかに同情のまじった好奇心を抱いてモレルをみつめていた。
「あの」と、このようにじろじろ見られることがその息苦しさを増すかに見えたモレルが言った。「なにか私にお話しになりたいことが」
「はい、私がどこから来たかはご存じと思いますが」
「トムスン・アンド・フレンチ商会からですね、少なくとも会計係はそう申しました」
「あの方のおっしゃったことはほんとうです。トムスン・アンド・フレンチ商会は今月中および来月中に、フランスで三、四十万の支払いをせねばなりません。手前どもの商会はあなたの支払いがきわめて正確であることを知り、あなたの署名のある手形をみつけ得る限り集めました。そして、その手形の期限が来次第、それをお宅で現金化し、それを支払いにあてるよう申しつかっております」
モレルは深い吐息を洩らした。そして汗びっしょりの額に手をやった。
「そうしますと、私の署名した手形をお持ちなのですね」
「はい、相当の額になります」
「どの位になりましょうか」モレルは、つとめて平静をよそおった声で訊ねた。
「まずはじめに」と英国人はポケットから紙の束ねたものを取り出し、「刑務監査官のボヴィル氏が私どもの商会に譲渡なさいました二十万フランの譲渡証。ボヴィル氏にこの債務があるのをお認めになりますか」
「はい。私どもにご投資下さったもので、四・五パーセントの利率で、やがて五年になります」
「で支払わねばならぬことも」
「半額は今月十五日に、あとの半額は来月十五日に」
「その通りです。それからこれが、今月末の、三万二千五百フラン。これはあなたの署名のある手形が、第三者の手を径て私どもの系列に参ったものです」
「認めます」彼の生涯で初めて自分の署名の名誉を保つことができなくなるかもしれぬと考えて、恥かしさに顔を染めたモレルが言った。「それで全部でしょうか」
「いいえ、来月末期限のこの有価証券がございます。マルセーユのパスカル商会ならびにワイルド・アンド・ターナー商会から私どもの手に入りました五万五千フランほどのもの、全部合計しますと、二十八万七千五百フランになります」
このように数字を並べられている間にモレルがいかばかりの苦しみを味わったかは、とうてい筆舌には尽しがたい。
「二十八万七千五百フラン」彼はただ機械的にくり返した。
「そうです。ところで」と英国人は、ちょっと黙ってから続けた。「モレルさん、今日までのあなたの非のうち所のない誠実さを十分考慮に入れましても、やはり率直に申し上げますが、マルセーユ中に広まっている噂では、あなたは取引きに対処できなくなっておられるとのことですが」
この残酷とさえ言えるあからさまな言い方にモレルは恐ろしいほど顔面蒼白となった。
「今日まで、父が三十五年間経営し、その父からこの商会を受けついで二十四年の余になりますが、今日まで、モレル父子商会の署名のある手形で、会計の窓口に差し出され支払われなかった手形はただの一枚もございません」
「ええ、それは私も承知しております。しかしですね、お互い名誉を重んずる男同士です、率直にお話しいただけませんか。あなたは今度のこれも同様に正確にお支払いになれますか」
モレルは身ぶるいした。そして、彼がまだ抱いたこともないほどの確信をもって自分に話をする男の顔をじっと見た。
「そう率直におっしゃられますと、こちらも率直にお答えせねばなりません。はい、お払いいたします。もし、私はそうあってほしいと思っているのですが、私の船が無事帰って来てくれればお払いします。船が帰れば、相次ぐ事故に見舞われて落ちてしまった私の信用も戻るでしょうから。ただし、不幸にしてファラオン号が、この、私が、最後の望みを託している船が失われたら……」
気の毒な船主の目に涙がこみ上げて来た。
「それで、その最後の望みを託しているものが失われたら?」
「そうしたら、あなた、それを言うのはあまりにも辛うございます……でも、不運にはもう慣れました。恥にも慣れねばなりません。申し上げましょう、私は支払いを停止せざるを得なくなると思います」
「そのような場合に助けてもらえるような友人の方はおられないのですか」
モレルはさみしそうに笑った。
「取引きには友はいません。よくご存じではありませんか、あるのは取引先だけです」
「それはそうですね」英国人はつぶやいた。「では、望みは一つしかないわけですね」
「たった一つだけです」
「これが最後のものですか」
「最後のものです」
「そうなるとその望みの糸が切れれば……」
「破産です。完全に破産です」
「私がおたくへ参りました時、船が一隻入港して来ましたが」
「存じてますよ。私が落ち目になりましてもなおとどまって忠実に私に仕えていてくれる青年が、よいニュースを真っ先に私に知らせようと、この家の屋上にしつらえた望楼へ折を見ては上がってくれるのです。彼からその入港のことは聞きました」
「あなたの船ではないのですか」
「いいえ、あれはボルドーの船で、ジロンド号といいます。やはりインドから戻ったのですが、私の船ではありません」
「おそらくその船はファラオン号の消息を知っていて、なにか知らせてくれるのではないでしょうか」
「申し上げねばなりませんが、私の三檣船《さんしょうせん》の消息を知るのは、私にとっては、不安なままでいるのと同じぐらい恐ろしいのです。不安、これにはまだ望みがありますからね」
それからモレルは、低い声でつけ加えた。
「こんなに遅れているのは尋常なことではありません。ファラオン号は二月五日にカルカッタを出ている。もう一か月も前にここに着いていなければならないはずです」
「あれは何でしょう」と英国人が耳をそばだてながら言った。「あのもの音は」
事実階段のあたりで騒がしい音がしていた。人が行ったり来たりしている。悲痛な叫び声さえ聞こえて来た。
モレルはドアを開けるために立ち上がった。が、力が抜け、また椅子に腰を落してしまった。
二人の男は向き合ったままであった。モレルは全身をわなわなとふるわせ、外国人はそれを深く憐れむような表情でみつめていた。もの音がやんだ。が、モレルはなにごとかを待ち受けるようであった。このもの音には理由があった。そしてその結末もあるはずであった。
外国人には、誰かがそっと階段を昇って来るように思えた、そして、数人のものであるその足音は、踊り場の所で止まった。
控えの間のドアの鍵穴に鍵がさし込まれ、ドアの蝶番の金具がきしむ音が聞こえた。
「あのドアの鍵を持っているのは二人しかおらぬ、コクレスとジュリーだ」モレルはつぶやいた。
と同時にドアが開き、顔青ざめ、頬を涙で濡らした若い娘が姿を現わした。
モレルはふるえながら立ち上がり、椅子の肘掛けに身を支えた。そうしなければとても立ってはいられなかった。なにか訊ねようとしたが、もはや声は出なかった。
「お父様」娘は両手を組み合わせて言った。「悪いしらせを持って来た娘を許して下さい」
モレルの顔はすさまじいまでに青くなった。ジュリーはその腕の中に飛び込んだ。
「お父様! お父様! しっかりなさって!」
「では、ファラオン号は沈んだのだね」
娘は答えなかった。が、父親の胸に顔を埋めたまま、うなずいた。
「乗組員はどうした」モレルが訊ねた。
「救かったわ。さっき入港したボルドーの船に救けられたの」
モレルは諦めと感謝の気持をあらわしながら両の手を天にさしのべた。
「神様、ありがとうございました」モレルは言った。「少なくとも、あなたにうちのめされましたのは私一人ですみました」
いかに冷静な英国人も一滴《ひとしずく》の涙がその瞼《まぶた》を濡らした。
「お入り、さあお入り」とモレルは言った。「ドアの所にみんないることはわかってるよ」
事実、彼がこの言葉を言い終えるやいなや、モレル夫人がむせび泣きながら入って来た。エマニュエルがその後に続いた。七、八人の半裸の水夫たちの荒くれた顔も見えた。その男たちの顔を見た時、英国人はぎくっとした。彼らに近づくために一歩前に歩みかけたが、すぐ思い直して、反対に、書斎の一番遠い暗い隅に身を退けた。
モレル夫人は椅子に腰をおろし、夫の片方の手を両手で握っていた。
ジュリーは父親の胸に顔を埋めたままだった。エマニュエルは部屋の中ほどに立って、家族たちのグループとドアのあたりにいる水夫たちのグループをつなぐ役をしていた。
「どういう状況だったのかね」モレルが訊ねた。
「ペヌロン、そばへ行って説明したまえ」エマニュエルが言った。
赤道直下の太陽に赤銅色に日焼けした老水夫が、ちぎれた帽子を両手で丸めながら前に進み出た。
「只今、モレルさん」と、彼はまるで前の日にマルセーユを発ち、エクスかツーロンから帰って来たように言った。
「お帰り」船主は、涙のうちにも思わず微笑して言った。「だが、船長はどこにいる」
「船長は、身体の具合が悪くてパルマ〔スペイン領マリョルカ島の良港〕に残ってんでさあ。でもまあ、おかげさんで大したことはありません。四、五日すりゃあ、あっしたちとおんなしぐれえ元気で帰って来ますよ」
「それはよかった……ではペヌロン話してくれ」モレルが言った。
ペヌロンはかみ煙草を右の頬から左の頬に移し、口もとに手をやり、ふり向くと、控えの間に黒いつばきを吐き、それから前に出て、上体をゆすりながら話しはじめた。
「あん時あっしらは、一週間も凪《なぎ》で手こずったあげく、ボワイヤドール岬とブラン岬〔アフリカ大西洋岸の岬〕の間あたりを、南々西の良い風に吹かれて進んでたんでさ、そしたらゴマール船長があっしに近寄って来て、というのはあっしは舵を握ってたんで、こう言うんだ、
『ペヌロン爺さん、あの水平線の上に湧いてる雲を、おめえどう思う』
あっしもちょうどそれを見てたとこなんだ。
『あっしがどう思うかだって? あの早さでふくれ上がるのはただ事じゃねえ、悪さをするつもりのねえ雲にしちゃ黒すぎるぜ』
『俺もそう思う』船長はそう言って、『いずれにしろ用心しとくことにしよう。じきに風が吹いて来るから、それにしちゃ帆が多すぎらあ……おーい、最上帆巻けえ、先斜檣帆降ろせえ!』
ちょうどそん時だ、この命令が実行されねえうちに風が≪けつ≫から吹いて来やがって、船が傾いた。船長は、
『よし、まだ帆が多すぎるな。主帆絞れえ!』
五分後には主帆は絞られ、あっしたちは前檣帆と中檣帆、それに第二接檣帆だけで走りやした。
『ところでペヌロン爺さん』と船長があっしに言うんでさ。『なんだって首をふってんだ』
『あっしがお前さんだったら、いつまでもこんなところでうろついてなんざいねえや』
『爺さんのいう通りだ。はやてが来るぜ』
『なに言ってんだよ、船長』あっしはそう言ったんだ。『あそこで荒れてるやつをはやてと思って買う奴がいたら、そいつはもっと儲かるだろうぜ。ありゃあ正真正銘の嵐だ、そうでなけりゃ、あっしは盲だ』
つまりね、モントルドンの砂塵みてえに風がやって来るのが見えたんでさ。
『中檣帆を二つ縮めろ!』船長が怒鳴った。『はらみ綱をゆるめろ、風に帆桁を廻せ、中檣帆絞れ、帆桁の縮帆滑車にぶら下れ』」
「あの辺の海では、それだけでは足りないな」と英国人が言った。「私なら、帆は四つ縮め、前檣帆など捨ててしまう」
この思いがけない、確信に満ちたよく響く声は皆をぎょっとさせた。ペヌロンは目に手をかざして、船長の処置をずけずけと批判した男の顔をみつめた。
「あっしらはもっとうめえことをしたんでやすよ」と老水夫は、一種の尊敬の念をこめながら言った。「というのは、後斜桁帆を絞っちまいましてね、風の向きに舵を向け嵐のまん前をつっ走ったんでさ。十分後には中檣帆も絞っちまって、まるっきり帆なしで走ったんで」
「それをやってのけるには船が古すぎた」と英国人は言った。
「まったくその通りで。おかげで沈んじまったんだ。まるで悪魔の野郎が猛り狂ってるみてえに十二時間がぶられたあげく、急に水が洩り始めやがった。
『ペヌロン、どうやら沈みそうだぜ』船長が言ったんだ。『舵を俺によこせ、爺さんは船倉へ行ってくれねえか』
あっしは舵を渡して降りてった。もう水が三フィートもたまってた。上へ上がってって怒鳴りやしたよ。『ポンプだ! ポンプだ!』ってね。ええ、そうなんでさ、もう遅かった。仕事にかかったが、汲み出せば汲み出すほどたまりやがる。
『ええくそ』あっしは四時間働いた末に言いやしたよ。『沈むんなら沈みやがれ、人間どうせ一度しか死なねえや』とね。
『ペヌロン爺さん、それがてめえの手本の見せ方か』船長が言いやした。『よし待ってろ』
そう言って船長はケビンヘ行ってピストルを二丁持って来た。そして言ったんでさ。
『最初にポンプのそばを離れた奴は、脳天にぶち込むぞ!』」
「見事だ」英国人が言った。
「まっとうな道理ほど勇気づけるものはねえ」水夫が続けた。「それにそうこうするうちに空も明るくなって来たし、風も落ちて来たからなおさらだ。だが、やっぱり水はどんどん上がって来る。そんなに多くはねえが、たぶん一時間に二インチぐれえだ。がとにかく上がって来るんだ。一時間に二インチならてえしたことはねえとお思いだろうが、十二時間で二十四インチだ。二十四インチといやあ。二フィートだ。二フィートに、前からたまってた三フィート、つごう五フィートだ。船が腹ん中に水を五フィートためこんでりゃ、こりゃあ立派な水ぶくれでさ。船長が言いやした。
『さあ、これだけやりゃあもういいだろう。モレルさんも俺たちを責めはなさるまい。俺たちは船を助けるためにできるだけのことはしたんだ。今度は人間を助けなくちゃならねえ。みんな、ボートに乗れ、急ぐんだ!』
あのねえモレルさん、あっしたちゃあファラオン号が大好きだった。だがねえ、船乗りがどんなに船を可愛く思ったって、てめえの命のほうが可愛いんだ。だからあっしらは、船長に二度は言わせませんでした。それにね、船の奴も悲しい声を出しやがって、『逃げろ、早く逃げろったら!』と言うんでさ。船の奴は嘘は言わなかった。可哀そうにファラオン号の奴が、あっしらの足もとで沈んでくのがわかるんでさ。だから、あっという間にボートがおろされ、あっしら八人とも飛び乗った。
船長は最後に降りて来ました。いやそうじゃねえ降りて来たんじゃねえや。船長は船を離れようとしねえんで、あっしが胴体をかかえて、仲間の腕ん中へ投げこんだんでさ。それからあっしも飛び降りた。ちょうどそのときだった。あっしが飛び降りたとたんに、四十八門積んだ船の片舷一斉射撃みてえな音がして、甲板がふっ飛んだ。
十分後に舳先《へさき》が沈み、それから船尾が沈んだ。それから自分の尻尾を追っかける犬みてえに、くるくる廻りやがって、仲間たちよさよなら、ぶくぶく、それでけりだ。ファラオン号はいなくなっちまった。
あっしらのほうは、三日というもの飲まず食わず。だから、誰が一番先に食われるか、くじを引こうって話してた。そん時ジロンド号が見えたんでさ。合図を送ったら、こっちをみつけて、船首をこっちへ向けてくれた。ボートをよこしてくれて、あっしらを拾い上げたってわけですよ。これが事実ありのまんまのいきさつでさ。モレルさん、ほんとうですぜ、船乗りの誓いだ。そうだな、みんな」
皆から同意のざわめきが洩れ、話し手が、大筋をきわめて正確に、細部を鮮やかに描き出したことによって、皆の賞讃を博していることを示していた。
「みんなよくやった」モレルが言った。「みんな立派な連中だ。わしに不幸が襲っても、悪いのはわしの運命だけだということは、前々からわかっとったよ。これは神のみ心で、人間の罪ではない。神のみ心を崇めよう。ところで、給料はいくらになってるかね」
「え、そんな。モレルさん、そんな話はよしましょうや」
「いや、話そう」さみしい笑みを浮かべて船主が言った。
「それじゃ、三月《みつき》分です」とペヌロンが言った。
「コクレス、この立派な連中に、二百フランずつ支払いなさい。世が世なら」とモレルは続けた。『報償金として二百フランずつやれ』とつけ加えるところなんだがね。が、時期が悪い。残り少ない金も、もうわしのものではないのだよ。許してほしい。そして、だからといってわしを嫌いにならんでくれ」
ペヌロンの顔が感動にゆがんだ。仲間のほうをふり向き、彼らと二言三言、言葉を交わした後にまた戻って来て、
「そのことなんですがね、モレルさん」彼はかみ煙草をべつの頬に移し、控えの間の、前に吐いたつばのわきに、またつばを吐いた。
「そのことなんですが……」
「何だね」
「金ですよ」
「というと?」
「仲間たちは、さしあたり一人頭五十フランありゃいいってんですよ。残りは待つって」
「ありがとうよ、みんな、ありがとう」心の底までもゆり動かされてモレルが叫んだ。
「お前たちは、ほんとにきれいな心の持ち主だ。だがな、取ってくれ、受け取っておくれ。そして、もしいい働き口があったら、そこで働くんだ、お前たちはもう自由なんだから」
この言葉の最後の所が、水夫たちに異常な効果をもたらした。彼らは驚いて互いに顔を見合わせていた。ペヌロンは息がつまりかけて、あやうくかみ煙草を飲みこんでしまうところだったが、幸い、彼はその前に喉もとを手でおさえた。
「なんですって、モレルさん」と彼は喉をしめつけられたような声で言った。「あっしらはお払い箱なんですかい。それじゃ、あっしらがお気に召さねえんで?」
「そうではないのだ。お前たちが気に入らぬどころか、まるきりその反対だ。だが、いたし方あるまい? わしにはもう船がない。乗組員はもういらぬのだ」
「船がねえんですかい。そんなら別の船を造んなさりゃあいい。あっしらは待ちますぜ。おかげさんで、浮世の荒浪を乗り切るなあお手のもんだ」
「船を造る金がないのだ」船主はさみしげな笑みを浮かべた。「ペヌロン、たいへんありがたい申し出だが、受けるわけにはいかぬ」
「金がねえんなら、あっしらに給料を払うこたあねえ。そうなりゃ、あの可哀そうなファラオン号みてえに、まる裸でつっ走るまででさ」
「もういい、もういい」モレルは声をつまらせながら言った。「行っておくれ、お願いだ。もう少しいい時節にまた会おう。エマニュエル」船主はつけ加えた。「みんなと一緒に行って、わしの希望通りに事が運ぶよう見ていてくれ」
「少なくとも、こりゃあ、また会おうってことなんですね」ペヌロンが言った。
「そうだ。少なくともそうあってほしいと思うよ、また会おう、だ。さ、お行き」
こう言うとモレルはコクレスに合図をした。コクレスが先に立ち、水夫たちが続き、水夫の後にエマニュエルが続いた。
「さて」船主は妻と娘に言うのだった。「しばらく一人にしてくれないか。わしはこの方とお話があるのだ」
彼は目でトムスン・アンド・フレンチ商会の代理人を示した。いっさいの場景が展開される間、前述の数語を口にしただけで、この男は部屋の隅にただじっと立ちつくしていたのである。二人の女性は、すっかりその存在を忘れていた男に目を向けてから、部屋を退出した。だが部屋を出る時、娘は心の底からの哀願の眼差しをその男に投げ、男はかすかな微笑でこれに答えたのだった。冷静な観察者ならば、その氷のように冷たい顔に、そのような微笑がほころぶのを見て、意外の感にうたれたことであろう。男二人だけになった。
「というわけで」とモレルはまた椅子に腰を落しながら言った。「なにもかもご覧の通り、お聞きの通りです。これ以上なにも申し上げることはありません」
「拝見しました、ほかの不幸同様、まったく不当な不幸がまた一つあなたを襲ったことをね。そこで、私があなたにとって好もしい男になりたいという気になったのです」
「ほう、それはそれは」
「私はあなたの主たる債権者でしたね」
「少なくとも、あなたは支払い期日が最も近い手形をお持ちです」
「期日の延期をお望みですか」
「延期していただければ私の名誉は救われます。したがって私の今も」
「どの程度の延期を」
モレルはためらった。
「二か月」と彼は言った。
「結構です、三か月お待ちしましょう」
「でも、トムスン・アンド・フレンチ商会のほうは……」
「ご心配なく。いっさいの責任は私が負います。今日は六月五日でしたね」
「ええ」
「それでは、この手形を全部、九月五日に書き変えて下さい九月五日午前十一時に、(この時、柱時計はちょうど十一時をさしていた)お宅に参上いたします」
「お待ちしております。お払いするか、私が死んでいるかです」
この最後の言葉は、低くつぶやかれたので外国人には聞きとれなかった。
手形は書き変えられ、古いものは破棄された。とにも角にも、気の毒な船主は、最後の金をかき集めるための三か月の余裕を得たのである。
英国人は、英国人特有の冷静さでモレルの感謝の言葉を受け、ドアの所まで相手を祝福しながら送ったモレルにいとまをつげた。
階段の途中で彼はジュリーに会った。娘は降りるふりをしたが、じつは彼を待っていた。
「ああ」と彼女は両手を組んだ。
「お嬢さん」外国人が言った。「いつか……船乗りシンドバッドという署名の手紙が届きます。中に書いてあることがどんなに奇妙なことでも、その手紙の通りに間違いなく行動して下さい」
「わかりました」ジュリーが答えた。
「そうすると約束してくれますね」
「誓います」
「結構です。では、さようなら。いつまでも今のまま、心正しく清らかなままでいて下さい。きっと、神様があなたの心を嘉《よみ》し給い、エマニュエルを夫としてお与え下さいますよ」
ジュリーは小さな叫び声をあげ、桜桃のように真赤になり、倒れぬように手すりに掴まった。
外国人は手で別れの合図をしながら、階段を降りて行った。
中庭で彼はペヌロンに会った。ペヌロンは百フランずつの棒包みをそれぞれの手に持ち、それを持ち帰ったものかどうかと心をきめかねていたのだ。
「一緒に来てくれないか、君に話がある」
外国人はこう言うのだった。
[#改ページ]
三十 九月五日
モレルが、それをまったく予期せぬ瞬間にトムスン・アンド・フレンチ商会の代理人によって与えられたこの猶予は、つきまとった悪運がついに彼に襲いかかるのに倦《う》んだことを示すあの幸運の再来でもあるかのようにモレルには思えた。その日のうちに彼は、妻に、娘に、そしてエマニュエルにそのことを話した。平穏とはいわぬまでも、希望が一家の中に蘇《よみが》えった。だがまずいことに、モレルは、彼に対してこれほど好意ある妥協を示してくれたトムスン・アンド・フレンチ商会だけと取引きがあるのではなかった。彼が言ったように、取引きには取引先があるだけで友はいない。深く考えてみれば、トムスン・アンド・フレンチ商会が彼に対してなぜあのような寛容な態度を示してくれたのか、彼にはわからなかった。ローマの商会が、相手の破産を早めて投下資金の七、八パーセントを手にするよりは、三十万フラン近く貸しのある男を助けて、三か月後にその三十万フランをそっくり支払わせたほうがいい、との打算的な思慮をめぐらしたのだと考えるよりほかに、自分を納得させる説明は得られなかった。
不幸にして、憎しみからか盲目のなせる業か、モレルの取引先の連中は、そういう考え方はしなかった。ある者はその反対のことすら考えた。だから、モレルによって署名された手形は、期日を待ちかねるようにして会計の窓口に差し出された。そしてそれらはあの英国人が与えてくれた猶予のおかげで、コクレスの手から即座に支払われたのだった。したがってコクレスは相変わらず予言者のように泰然としていた。モレルだけが、もし彼が十五日に、ボヴィルの五万フランと、刑務監査官のものと同じように期日を延ばしてもらった三万二千五百フランを三十日に支払わねばならなかったとしたら、この月でもう自分は破滅であったと、ぞっとするのだった。
マルセーユの商業界全体の意見では、相次ぐ不運に叩きのめされたモレルは、もう持ちこたえられまいということだった。だから、この月末の支払いがいつもの通りの正確さで行なわれたのを見た時の人びとの驚きは大きかった。しかし、人びとの心に信用は戻らなかった。皆は異口同音に、この気の毒な船主の破産の申請は来月末になされるのだと、一月《ひとつき》だけ延ばすのだった。
その一月は、モレルの金策のためのあらゆる奔走に明け暮れた。往時は彼の手形は、期限の如何を問わず信用して受け取られた。求められさえした。彼は九十日の手形を振り出そうとした。だが、銀行の窓は閉じられていた。幸い彼には、あてにできる取立金があって、この金が取立てられ、モレルは、七月の月末が来たときもまた支払いに応ずることができたのであった。
それに、トムスン・アンド・フレンチ商会の代理人の姿を、その後マルセーユで見かけた者はいなかった。モレルを訪ねた翌日か翌々日、彼は姿を消したのである。彼がマルセーユでかかわりを持ったのは、市長と刑務監査官とモレルだけであったから、この三人が、三人三様に抱いたこの男の印象のほかには、彼のマルセーユ滞在の痕跡はなにもなかった。ファラオン号の水夫たちのほうは、なにか職がみつかったらしかった。彼らもまた姿を消したからである。
身体の具合が悪くパルマにとどまらざるを得なかったゴマール船長も、身体がよくなり戻って来た。彼はモレルのもとを訪れるのをためらっていた。が、船長の帰りを知ったモレルは、自分で船長に会いに行った。高潔な船主は、ペヌロンの話から、今回の不幸な事故に際してとった船長の勇敢な行動を前もって知っていたので、慰めたのはモレルのほうであった。彼は、ゴマール船長が取りに来たりなどするはずのない給料を届けに来たのである。
階段を降りかけたとき、モレルは上がって来るペヌロンに会った。ペヌロンは、彼の金を有効に使ったらしかった。上から下まで新調の服を着ていたのだ。船主の姿を見ると、この正直な舵手はひどく困ったような様子をした。彼は踊り場の一番隅に身を退け、かみ煙草を右から左へ、左から右へと交互に移しながら、大きな目玉をきょときょとさせ、モレルがいつものように心をこめて差し出す手を、おずおずと握り返しただけであった。モレルは、ペヌロンが当惑しているのは、その上等な服のせいだろうと思った。このまじめな男が、こんなぜいたくのために自分の金を使うはずはなかった。だから、きっとこの男は、すでに別の船と契約を結んだにちがいない。彼が恥ずかしがっているのは、もしこういう言い方ができるなら、もう少し長くファラオン号の喪に服さなかったことから来ているのだ。おそらく彼は、自分の幸運と新しい雇い主の申し出をゴマール船長に伝えに来たのだろう。
「いい連中だ。お前たちの新しい主人が、私と同じぐらいお前たちを可愛がってくれるといい。そして私よりずっと幸運でありますように」その場を立ち去りながらモレルはこう言った。
八月は、昔の信用を取り戻すための、あるいは新たな信用を獲得するための、モレルによって再開された絶え間のない試みのうちに日が流れた。八月二十日、マルセーユの人びとは、彼が郵便馬車に乗ったことを知った。そこで彼らは、破産の申請がなされるのはこの月の末である、そして、支配人のエマニュエルと会計係のコクレスに委任して、この残酷な事態に居合わせぬように事前にマルセーユを離れたのだと言い交わした。しかし八月三十一日が来てみると、万人の予想をくつがえして、会計の窓口はいつものように開かれた。コクレスは、まるでホラティウスの義人のように泰然自若として窓口の金網の後ろに姿を現わし、差し出される手形をこれまで通り注意深く調べた。そして最初の一枚から最後の一枚まで、同じ正確さで支払ったのであった。モレルが予期していた返済が二口来たが、これもコクレスは、船主個人の手形と同じ正確さで支払った。人びとにはもはやわけがわからなかった。悪いニュースを予告する者に特有のあのしつこさで、破産を九月の末にまた延ばすのだった。
一日にモレルは帰って来た。家族の者たちはみな大きな不安を抱きながら待っていた。このパリヘの旅で、救済の道が開かれることになっていたのだ。モレルは、今でこそ百万長者になっているが、自分の紹介でスペインの銀行家のもとに入り、そこで巨万の富の緒《いとぐち》を掴《つか》んだのであるから、昔は自分に恩を受けたダングラールのことを考えたのだ。今ではダングラールは、六百万から八百万の金を握っており、はかり知れぬ信用があるという。ダングラールは、一エキュも自分のポケットから金を出さずに、モレルを救うことができるのである。借金の保証をするだけでいいのだ。そうすればモレルは救われる。モレルは長いことダングラールのことは考えていた。しかし、どうにもならない本能的な反撥があって、このうまい方法に頼ることをでき得る限り遅らせていたのだ。彼は正しかった。というのは、屈辱的な拒絶にあって、彼はうちひしがれて帰って来たのである。
だから、家に帰ったモレルは、一言も泣き言を吐かなかったし、非難の言葉もいっさい口にしなかった。彼は涙を流しながら妻と娘に接吻し、エマニュエルに愛情のこもった手をさしのべると、三階の書斎に閉じこもり、コクレスを呼んでくれと言った。
「今度こそ」と二人の女性はエマニュエルに言った。「この家もおしまいだわ」
それから、二人だけでなにごとか短い相談をした後に、ジュリーが、ニームの駐屯地にいる兄に、すぐ帰るよう手紙を出すことになった。
不幸な女たちは、自分たちを脅やかしている打撃に耐えるためには、持てる力をすべて集中せねばならぬことを本能的に感じていたのだ。それに、マクシミリヤン・モレルは、まだやっと二十歳になったばかりではあったが、父に対して大きな影響力を持っていたのだ。
彼はしっかりした、まっすぐな青年であった。彼が一生の職業を決めねばならなくなったとき、彼の父は、彼に将来を前もっておしつけようとはしなかった。そして若いマクシミリヤンにどんな職業を好むかと訊ねた。その時彼は、軍隊に入りたい旨を明言したのである。その結果、彼はすばらしく勉強して理工科大学の入学試験に合格し、卒業すると五十三連隊の少尉となったのである。一年前から彼はこの階級であったが、最初の機会に中尉に昇進することが約束されていた。連隊でのマクシミリヤン・モレルは、ただ単に軍人に要求される義務ばかりではなく、人間に課せられているあらゆる義務を、正確に遂行する青年と目されていた。人は彼をストイシヤン〔ストア派の克己主義者〕と呼んでいた。このあだ名で彼を呼ぶ多くの者が、ただ人がそう呼ぶから自分もそう呼ぶにすぎず、それがどういう意味かさえ知らなかったことは言うまでもない。
彼の母と妹とが、やがて自分たちを見舞うと予感した重大な事態に、自分たちの支えになってもらおうと呼び寄せたのは、この青年なのである。
彼女らが事態を重大と感じたのは誤りではなかった。モレルがコクレスとともに書斎に閉じこもってからしばらくして、ジュリーは、コクレスが血の気を失い、よろめきながら、動転しきった顔つきで出て来る姿を見たのだ。
ジュリーはコクレスが自分のそばを通ったとき、彼に訊ねようとした。しかしこの正直な男は、いつもに似ぬ速さで階段を降り続けながら、天に両手をさしのべ、ただこう叫んだだけであった。
「ああ、お嬢様、お嬢様。なんと恐ろしい不幸でございましょう。いったい誰がこんなことを信じられましたでしよう」
すぐにまた、ジュリーは、コクレスが二、三冊の大きな帳簿と紙ばさみ、それに金の入った袋を持って階段を昇る姿を見た。
モレルは帳簿を調べ、紙ばさみを開き、金を数えた。金は全部で七、八千フランだった。五日までの入金は四、五千フランである。ということは、二十八万七千五百フランの手形の決済に対して、貸方勘定は最大限に見積っても一万四千フランしかないことになる。こんな額では賦払《ぶばら》い金としてさえ差し出せるものではなかった。
しかし、夕食に降りて来たときのモレルはかなり落ち着いているように見えた。この落ち着きが、うちしおれた姿よりもさらに二人の女性をおびえさせるのだった。夕食が済めば、モレルはマルセーユ人のクラブヘ行ってコーヒーを飲み、『セマフォール』を読む習慣だったが、この日は彼は外出せずに、また書斎に上がって行った。
コクレスのほうは、完全に頭がぼけてしまったようであった。昼間のなん時間か、彼は三十度の暑さで太陽が照りつけているというのに、帽子もかぶらず、中庭に出て、石の上に腰をおろしていた。
エマニュエルはなんとかして女たちを安心させようとした。しかし彼の言葉に力はなかった。青年は商会の内情を知りすぎていたので、モレル家の頭上に大悲劇が重くのしかかっているのを感じないわけにはいかなかったのだ。
夜になった。二人の女性は起きていた。モレルが書斎から降りて来て、自分たちの部屋に入って来てくれるかもしれないと思っていたのだ。しかし、呼びとめられるのを恐れたのであろう、彼女たちの部屋の前を足音をしのばせて通るモレルの足音を聞いただけであった。
彼女たちは耳を澄ました。彼は自分の寝室に入り、内側からドアを閉めた。
モレル夫人は娘を寝に行かせた。そうして、娘が自室に返ってから三十分後に、夫人は立ち上がり、靴を脱いで、廊下にしのび出た。鍵穴から良人が何をしているのか見ようというのである。
夫人は廊下で、さっと身を退いた影を見た。ジュリーであった。ジュリーも心配で、母より先に来ていたのである。
娘はモレル夫人の所へ来た。
「書きものをなさってるわ」娘は言った。
二人の女性は、互いに口に出さなくても、互いの心の中が読みとれた。
モレル夫人が鍵穴の所まで身をかがめた。たしかにモレルは書きものをしている。しかし夫人は、自分の娘が気がつかなかったものに気がついたのである。それは、夫が印紙を貼った紙に書いているということであった。
恐ろしい考えが夫人の脳裡にひらめいた。良人は遺書を書いている。夫人は全身をおののかせた。が、それでも夫人は、力をふりしぼってなにも口に出さなかった。
翌日モレルは、まったく落ち着いた様子をしていた。いつものように書斎に坐り、ふだんと同じように昼食に降りて来た。ただ食事が済むと、彼は娘を自分のそばに坐らせ、娘の頭を両腕で抱きかかえて長いことわが胸におしつけていた。
夕方、ジュリーは母親に、落ち着いているように見えはするけれども、父の心臓が激しく動悸をうっていたのに気がついたと告げた。
大たい同じようにしてさらに二日が過ぎた。
九月四日の夕方、モレルは娘に書斎の鍵を返すよう要求した。
ジュリーはこの要求にふるえ上がった。不吉なものに思えたのだ。なぜ父は、いつも自分が持っていて、取り上げられたのは子供の頃、罰として取り上げられた時だけだったこの鍵を、なぜ父は返せと言うのか。
娘はモレルの顔をみつめた。
「私がどんな悪いことをしたっていうの、お父様、この鍵を返せなんておっしゃって」
「なにもしてないよ」不幸なモレルは答えた。娘の単純な質問が彼の目に涙を溢れさせた。「ただ、私が必要なのだよ」
ジュリーは鍵を探すふりをした。
「部屋に置いてきたらしいわ」
こう言って彼女は部屋を出た。だが、自分の部屋へは行かず、下へ降りてエマニュエルに相談しに行った。
「お父様にその鍵を返してはいけません。そして明日の朝は、できればお父様のおそばを離れないように」
ジュリーはその意味を訊ねようとしたが、エマニュエルはそれ以上のことはなにも知らぬと答えた、いやそれ以上のことは言いたくなかったのだ。
九月四日から五日にかけての夜、モレル夫人は羽目板に耳をおしあてていた。午前三時まで、夫人は夫がいらいらと部屋の中を歩き廻る足音を聞いていた。
三時になってやっと夫はベッドに身を投げ出した。
二人の女性はその夜をともに過ごした。前日の夕方から、彼女たちはマクシミリヤンを待っていた。
八時に、モレルが彼女たちの部屋に入って来た。彼は落ち着いていた。しかし前夜の懊悩《おうのう》がその血の気の失せたやつれた顔に読みとれた。
女たちは、よくおやすみになれましたか、とはとても訊ねられなかった。
モレルは今までになかったほどに妻にやさしく、娘に対して父としての愛情を示した。彼はこの哀れな娘を、いくらみつめても、いくら抱きしめても飽きたりぬ思いであった。
ジュリーはエマニュエルの忠告を思い出し、父が部屋を出たとき、父について行こうとした。しかし父は、やさしく彼女をおしもどし、
「お母さんのそばにいておやり」と言うのだった。
なおもジュリーがついて行こうとすると、
「そうするのだ!」とモレルは言った。
モレルが娘に向かって、『そうするのだ!』などと言ったのはこれが初めてであった。が、この言葉は、父親のやさしい情愛のこめられた調子で言われたので、ジュリーはそれ以上一歩も前に進むことができなかった。
ジュリーは、黙ったまま身じろぎもせずにその場に立ちつくした。とその一瞬後に、ジュリーは二本の腕が彼女を抱き、唇が額におしあてられるのを感じた。
彼女は目を上げ、喜びの叫び声をあげた。
「マクシミリヤン兄さん」
この叫び声にモレル夫人が駈け寄って来て、わが子の腕の中に身を投げた。
「お母さん」と青年は、モレル夫人と妹の顔を交互に見ながら言った。「いったいどうしたんです、何が起きたというんですか。手紙を見て驚いて駈けつけて来ましたが」
「ジュリー」とモレル夫人は、青年を手で制しながら言った。「お父様に、マクシミリヤンが帰って来たとお知らせして来なさい」
娘は部屋から飛び出した。が階段に足をかけた時、彼女は一通の手紙を手にした一人の男に気がついた。
「ジュリー・モレル様ですね」その男はひどいイタリア訛《なま》りでこう言った。
「ええ、そうですけど」ジュリーはつぶやくように答えた。「でも私にどういうご用でしょうか、私はあなた様を存じ上げませんが」
「この手紙をお読み下さい」こう言って、男は短い一通の手紙を差し出した。
ジュリーはためらっていた。
「お父様の浮沈にかかわることです」と、使いの者が言った。ジュリーは男の手からその手紙を奪いとるようにして、急いで封を開き手紙を読んだ。
[#ここから1字下げ]
直ちにメラン小路に行き、十五番地の家にお入り下さい。管理人に六階の部屋の鍵をもらい、その部屋に入り、暖炉の隅の赤い絹のレースの財布を取り、その財布をお父上にお渡し下さい。
十一時までにこれをなさることが必要です。
あなたは私の命令に忠実に従うという約束をなさいました。その約東をお忘れにならぬよう。
船乗りシンドバッド
[#ここで字下げ終わり]
娘は歓声をあげた。そして目を上げて、この手紙を手渡した男に事情を訊ねようと、男の姿を求めたが、すでに男の姿はなかった。
そこで彼女は、もう一度読むために手紙に目を落した。そして、手紙に『追伸』があるのに気づき、彼女は読んだ。
[#ここから1字下げ]
この役を、あなたご自身お一人でなさることが必要です。もし誰かをおつれになったり、あなた以外の方が現われれば、管理人は、そんな話は知らぬと答えるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
この『追伸』を読んで娘の喜びは半減してしまった。なにも心配はないのだろうか。自分にしかけられたわなではないのだろうか。彼女はまったく清純な娘で、その年齢の娘に起こり得る危険がどういうものかを知らなかった。しかし、不安を感ずるには必ずしも危険の実体を知る必要はない。
むしろ注目すべき事実は、最大の恐怖をもたらすものは、正体のわからぬ危険だということである。
ジュリーはためらった。誰かに相談してみることにした。
が、不思議な気持が動いて、相談した相手は、母親でも兄でもなくエマニュエルであった。
彼女は下へ降り、エマニュエルに、トムスン・アンド・フレンチ商会の代理人が父を訪ねた際のことを物語った。彼女はその時の階段での場面を話し、自分がした約束を聞かせ、手紙を見せた。
「行かなければいけません」とエマニュエルは言った。
「行くの?」ジュリーがつぶやいた。
「そうです、私がおともします」
「でも、私一人でなければいけないって書いてあったじゃないの」
「お一人で行くんです。私はミュゼー通りの角でお待ちしてます。そして、もしお嬢様のお帰りが遅くて心配になったら、すぐおそばへ参ります。行かなければよかった、などとおっしゃるような破目になったら、そんな奴らはただじゃおきませんよ」
「それじゃ、エマニュエル」とためらいながらジュリーがまた口を開いた。「あなたは、この手紙の指示通りに行けと言うのね」
「そうです。使いの者は、お父様の浮沈にかかわることだと言ったんでしょう?」
「でも、お父様の危機ってどんな危機なの」娘が訊ねた。
エマニュエルは一瞬ためらったが、娘を即座に一刻も早く決心させたいという気持が勝った。
「いいですか、今日は九月五日ですね」
「ええ」
「今日の十一時に、お父様は三十万フラン近くの金を支払わねばならないのです」
「ええ、私たちも知ってるわ」
「ところが、お父様の金庫には、一万四千フランしかないんです」
「そうするとどういうことになるの」
「もし今日の十一時までに誰かが救いの手をのべてくれなければ、正午には、お父様は破産を宣告しなければならなくなるんです」
「ああ、一緒に来て!」青年をひきずりながら娘が叫んだ。
この間にモレル夫人はいっさいを息子に話した。
青年は、父を襲った相次ぐ不幸の結果、家の経費が大幅に切りつめられていることはよく知っていた。しかし、事態がそこまで悪化していることは知らなかった。彼はしばし茫然としていた。が、急にその部屋を飛び出すと、階段を駈け上がった。父親が書斎にいると思ったからである。しかしいくらノックをしても無駄であった。
青年が書斎のドアの前にいたとき、彼はほかの部屋のドアが開く音を耳にした。彼はふり向き、父の姿を見た。まっすぐ書斎には上がらず、モレルはまた自分の部屋に入り、たった今そこから出て来たのだった。
モレルは、マクシミリヤンの姿を見ると、驚いて叫び声をあげた。わが子が帰ったことを彼は知らなかったのだ。彼はその場に立ちつくし、左の腕で、フロックコートの下にかくし持っていた物をおさえていた。
マクシミリヤンは階段を駈け降り、父の首に飛びついた。が、いきなり彼は後へさがった。右手だけを父の胸にあてたままであった。
「お父さん」死人のように青くなりながら青年が言った。「なぜフロックコートの下にピストルを二丁お持ちなんです」
「ああ、こうなるのではないかと恐れておった」
「お父さん! お願いです!」青年は叫んだ。「なぜ銃をお持ちなんです」
「マクシミリヤン」と、息子の顔をじっと見据えてモレルが答えた。「お前は男だ。名誉を重んずる男だ。おいで、話してあげよう」
モレルはしっかりした足どりで階段を昇り、マクシミリヤンはよろめきながらその後に従った。
モレルはドアを開け、息子が入るとそれを閉めた。それから控えの間を通り抜け、事務机に近づき、二丁のピストルを机の隅に置いた。そして指の先で開いたままの帳簿を息子にさし示した。
その帳簿には、今の状況が正確に記載されていた。モレルは三十分後に、二十八万七千五百フラン支払わねばならなかった。
彼の所持金は全部で一万五千二百五十七フランであった。
「読みなさい」モレルが言った。
青年は読み、一瞬ぶちのめされたようになった。
モレルは一言も言わなかった。数字の示す冷酷な宣告につけ加えるべき、どういう言葉があるというのか。
「お父さん」やがて青年が言った。「ここまで追い込まれるまでに、すべてのことはなさったんですね」
「そうだ」
「ほかに取り立てられるあてはないんですか」
「まったくない」
「あらゆる金策を講じられたんですか」
「あらゆる」
「では、三十分後には」と暗い声でマクシミリヤンは言った。「お父さんの名に傷がつくのですね」
「血は汚名をそそぐよ」
「その通りです。お父さんのお心がわかりました」こう言って、二丁のピストルのほうに手をのばし、「一丁はお父さん用、一丁は僕のためですね、ありがとうございます」
モレルはその手をおさえた。
「お前のお母さん、お前の妹を誰が養う」
戦慄が青年の全身を走った。
「お父さん、お父さんは僕に生きよとおっしゃるおつもりなんですか」
「そう、わしはお前にそう言うのだ。なぜなら、それがお前の義務だからだ。マクシミリヤン、お前は冷静で強靱な頭の持ち主だ。マクシミリヤン、お前はただの男ではない。わしはお前になにも指図はせぬ、なにも命令はせぬ。ただわしはこう言う、お前の立場を、第三者として考えてみよ、そしてお前自身で判断せよ」
青年はしばし思いをめぐらしていた。やがて、崇高な諦めの色がその目に浮かんだ。ただ、彼はゆっくりと悲しそうな手つきで、彼の階級を示す肩章をもぎ取った。
「わかりました」モレルに手をさしのべながら彼は言った。「心安らかに死んで下さい。僕は生き残ります」
モレルは息子の膝に身を投じた。マクシミリヤンは父を引き寄せ、二つの高貴な心は、しばし鼓動を交わし合うのだった。
「わしの罪ではないことは知っていてくれるのだな」
「僕はお父さんが、僕が今までに会った人の中で、最も誠実な人だということを知ってますよ」
「よかった。これでもうすべて終った。さ、お母さんと妹の所へお戻り」
「お父さん」と青年は片膝を折って言った。「僕を祝福して下さい」
モレルはわが子の頭を両手でかかえ、自分のほうに引き寄せ、なん回も唇をおしあてた。
「おお、そうとも。わしは、わしの名において、また非のうち所のなかったこの家三代の者の名において、お前を祝福する。不運はこの家を破滅させたが、神のご意志は、この家を再興させることができる。わしのこのような死に方を見れば、いかに冷酷な者たちも、お前には同情しよう。お前には、わしに対しては拒否した猶予をも与えてくれよう。そのときは、人のそしりを受けぬよう努めるのだ。仕事にうちこみ、はげめ。勇敢に熱烈に戦うのだ。お前も、お母さんも、妹も、きりつめられるだけきりつめて暮らしなさい。私の債権者たちのお金が、お前の手の中で、日一日と増え、ますます大きな額となるようにするために。思うてみるがいい、破産宣告解除の日こそは、すばらしい日、偉大な日、荘厳な日となるのだ。その日、この事務室でお前はこう言うがいい。父は、今日私がなしたことをすることができなかったために死にました。が、父は静かに従容《しょうよう》として死につきました。死ぬ際に、私がこれをなしとげるであろうことを父は知っていたからです、と」
「ああ、お父さん」青年は叫んだ。「お父さんは死ななくてもいいんじゃないですか」
「もしわしが生きていれば、すべては一変する。もしわしが生きていたら、同情は疑惑に変わり、あわれみは憎悪に変わるだろう。もしわしが生きていたら、わしはもはや約束を履行しなかった男、契約を違《たが》えた男にすぎない。要するに単なる破産者だ。が、もしその逆にわしが死ねば、マクシミリヤン、よく考えるのだ、わしの屍《しかばね》は、不運だった誠実な男の屍でしかないのだ。生きていれば、どのような親しい友もわしの家を避けて通ろう。死ねば、マルセーユ中の者がこぞって涙を流しながら、わしの最後の住まいまでわしの後について来てくれよう。生きていれば、お前はわしの名を恥じねばならぬ。死ねば、お前は昂然と頭を上げ、こう言うことができる。
『私は、生涯で初めて約束を履行できなくなったが故に自らの生命を絶った男の息子です』と」
青年はうめき声を洩らした。が彼は諦めたようであった。再度、やむを得ぬことであるとの確信が、彼の、心ではなく、頭に入ったのであった。
「さ、わしを一人にしてくれないか、そして女たちを近寄せぬようにしておいてくれ」
「ジュリーにもう一度お会いになりたくはありませんか」
青年の心には、この父と娘との会見に、最後の希望が秘められていたのである。そのために彼はこう言ってみたのだった。モレルは首をふった。
「今朝会って、別れの挨拶はすませた」
「なにか僕にこうしてほしいとおっしゃることはありませんか」マクシミリヤンがかすれた声で訊ねた。
「ある。大事なことだ」
「おっしゃって下さい」
「トムスン・アンド・フレンチ商会だけが、人道的な立場からか、あるいは、利己的な立場からかもしれぬが、人の心を読むのはわしのすることではない、この商会だけがわしに同情を示してくれた。十分後に二十八万七千五百フランの手形の支払いを求めてやって来るその商会の代理人が、三か月の猶予をわしに、与えてくれたとは言わぬ、申し出てくれたのだ。いいか、この商会にまず最初に返済してほしい。この人は、お前にとって最も大切な人であらねばならぬ」
「わかりました、お父さん」
「では、もう一度さようなら、だ。さ、行きなさい。わしは一人にならねばならん。わしの寝室の書き物机の中に遺書が入っている」
青年は全身の力をなくしたまま立ちつくしていた。意志の力はあっても、それを実行する力はなかった。
「いいかマクシミリヤン」と父は言った。「わしがお前と同じ軍人だったとしてみよう。そして、わしがある角面堡奪取の命令を受け、奪取と同時にわしの命も奪われることをお前が知っていたとする。お前は、さっきお前が言ったように、『行きなさいお父さん、残れば名誉は汚されます、恥辱を受けるよりは死んだほうがましです』と言うのではないかな」
「ええ、そうです」
こう言って青年は、わななく腕に父親を抱きしめながら、
「いらして下さい、お父さん」彼は言った。
彼は書斎の外へ飛び出した。
息子が部屋を出ると、モレルは一瞬立ちつくしたままドアを見据えていた。それから手をのばし、呼び鈴の紐をみつけると、ベルをならした。
やがてコクレスが現れた。
もはや前のコクレスではなかった。この三日間、否定しがたい事実の前に彼はうちのめされたのだ。モレル商会が支払いを停止する、この考えが、二十年の年月が彼の頭にのしかかる以上に、彼の頭を地にかがませてしまったのだ。
「コクレス」とモレルは、なんとも表現のしようのない声音《こわね》で言った。「お前は控えの間にいてくれないか。三か月前にここに見えた方、知っているね、あのトムスン・アンド・フレンチ商会の代理人の方が間もなくお見えになる。そしたら知らせてほしい」
コクレスは返事しなかった。うなずいただけで控えの間に行き腰をおろし、そして待った。
モレルはまた椅子に腰を落した。目を柱時計に向けた。まだ彼には七分残されている。それですべてだった。時計の針は信じがたいほどの早さで進んだ。針の動くのが見えるようであった。
今この厳粛な瞬間に、まだ若いのに、たぶん誤ってはいるが、少なくとももっともらしい思考のはてに、彼のこの世で愛するすべてのものから今別れをつげようとし、彼にとってはなお家庭のやすらぎのすべてを失ってはいないその人生にいとまを告げようとしているこの男の脳裡をよぎるもの、それはとうてい言い表わし得るものではない。その一端をうかがうためには、汗に覆われた、だが諦観の色の見えるその額と、涙に濡れてなおかつ天を仰ぎ見ているその両の目とを見なければならなかった。
なおも時計の針は進む。二丁のピストルには弾丸がこめられていた。彼は手をのばし、その一丁を手にし、娘の名をつぶやいた。
それから彼は、その死をもたらす武器を置き、ペンをとると、二言三言書きしるした。
そのときになって、掌中の玉であるわが娘に、別離の言葉を言い尽していないような気がしたのだ。
それから彼は柱時計のほうを振り返った。彼はもはや分ではなく秒を数えた。
彼は銃をとり、口を半ば開き、目を時計の針に釘づけにした。それから撃鉄を起こし、その自らたてた音に身ぶるいした。
その瞬間、さらに冷たい汗が額を流れ、死ぬほどの苦痛が彼の胸を締めつけた。
階段の所のドアの蝶番の金具がきしむ音が聞こえた。
それから書斎のドアが開いた。
柱時計は十一時を打とうとしていた。
モレルはふり返らなかった。コクレスの、
「トムスン・アンド・フレンチ商会の代理人の方でございます」
という言葉を待ったのだ。
そして、彼はピストルを口に近づけた。
と、いきなり彼は一つの叫び声を聞いた。娘の声であった。
彼はふり向いて、ジュリーの姿を認めた。ピストルがその手から落ちた。
「お父様!」息を切らし、喜びのあまりほとんど失神しそうになりながら娘が叫んだ。「助かったのよ、お父様は救われたのよ!」
こう叫んで娘は、片手に赤い絹のレースの財布をかざしながら父親の腕の中に飛び込んだ。
「助かった、どういう意味かね」モレルが言った。
「そうよ、助かったのよ! これを見てよ!」
モレルはその財布を手にし、びくっとした。かすかな記憶が、それがかつて自分のものであったことを思い出させたのだ。
一方に、二十八万七千五百フランの手形が入っていた。
手形は支払い済みになっていた。
もう一方に、ハシバミの実ほどの大きさのダイヤが入っていて、つぎのような三言が書きしるされた小さな羊皮紙がそえられていた。
『ジュリーの嫁入り資金』
モレルは額に手をやった。夢を見ているようであった。
このとき、柱時計が十一時を打った。
その響きの一つ一つが、己が心臓に打ちおろされる鉄槌の響きのように感じられた。
「ジュリー、わけを話してくれないか、お前、どこでこの財布をみつけたのかね」
「メラン小路の家の中なの、十五番地の。六階のみすぼらしい部屋の暖炉の隅だわ」
「だが、この財布はお前のものではない」モレルが叫んだ。
ジュリーは、朝、彼女が受け取った手紙を父に差し出した。
「ではお前たった一人でその家へ行ったのかね」読み終えたモレルが言った。
「エマニュエルがついて来てくれたの。ミュゼー通りの角で待ってるからって。でもおかしいのよ、帰って来てみたら、あの人いないの」
「モレルさん! モレルさん!」階段で叫ぶ声がした。
「あの人の声だわ」ジュリーが言った。
それと同時に、エマニュアルが歓喜と感動とに動転した顔をして入って来た。
「ファラオン号です、ファラオン号ですよ!」
「なに、ファラオン号だと? エマニュエル、お前気でも狂ったのか。あの船が沈んだことはお前もよく知っておるではないか」
「ファラオン号なんです、ファラオン号だと合図があったんです。ファラオン号が港に入って来るんです!」
モレルはまた椅子に腰を落してしまった。力が抜け、彼の頭は、もうこの信じがたい、前代未聞の、お伽話のような一連の出来事を、整理して考えることを拒んでいた。
だが、今度は息子が入って来た。
「お父さん」マクシミリヤンが叫んだ。「なんだってファラオン号が沈んだなんておっしゃったんです。海岸の望楼が信号を送って来ましたよ。港に入って来ます」
「みんな」とモレルは言った。「もしそうだとしたら、神の奇蹟を信ぜねばならぬ。そんなはずはない、そんなはずは」
しかし、彼が今手にしているその財布、支払い済みのその手形、そのすばらしいダイヤは、現実のものなのだ。同じように信じがたいが。
「ああ、旦那様」と今度はコクレスが言った。「どういうことなのでございましょう、ファラオン号と申しますのは」
「さあみんな」とモレルは立ち上がりながら言った。「行ってみよう。そして、もしそれが誤報なら、神よわれわれを憐れみ給え」
彼らは階段を降りた。階段の途中でモレル夫人が待っていた。気の毒な夫人は、上に上がる勇気がなかったのだ。
一瞬の後には、皆はカヌビエールの通りに出ていた。
港には人がむらがっていた。
群衆はモレルの前に道を開けた。
「ファラオン号だ! ファラオン号だ!」人びとは口ぐちに叫んでいた。
事実、前代未聞の奇蹟のように、サン=ジャンの塔の前で、舳先《へさき》に白い文字で『ファラオン号(マルセーユ、モレル父子商会)』と書いた、前のファラオン号とまったくそっくりの、前のファラオン号と同じように紅《べに》と藍《あい》を積んだ一隻の船が、錨を投げ帆を絞っていた。甲板の上ではゴマール船長が命令を下していた。ペヌロン爺さんがモレルに合図を送っていた。
もはや疑う余地はなかった。五感に訴える証拠がそこにあった。一万もの群衆がその証拠をさらに裏づけていた。
この奇蹟のような事件の目撃者である全市の人びとの歓乎の中で、突堤の上でモレル父子がひしと抱き合っていたとき、顔半分を黒いひげで覆われた一人の男が、歩哨の哨舎のかげに身をひそめてその光景を感動の面持ちでみつめていたが、男はこうつぶやいた。
「高貴な心に幸いあれ。あなたがなし、これからもなさるであろう善行のすべてに祝福あらんことを。そして、私の感謝のしるしも、あなたの善行と同じく闇に埋もれたままでありますように」
そして、喜びと幸福感とを示す微笑を浮かべたまま、彼は身をひそめていたその場を離れた。誰もこの男の姿に気づく者はいなかった。それほど皆はその日の出来事に心を奪われていたのである。男は船の乗降場になっている小さな階段を降りて行き、三度呼んだ。
「ヤコポ、ヤコポ、ヤコポ」
すると一隻のボートが近づいて来て、男を乗せると、豪華な艤装をほどこした一隻のヨットに彼を運んだ。男は、水夫のような身軽さでその甲板に飛び乗った。そこから彼はもう一度モレルの姿を見た。モレルは、うれし涙を流し、群衆の一人一人に心のこもった握手をし、見知らぬ恩人の姿を天に求めるかのように、感謝のためのぼんやりした視線を天に向けていた。
「さて今度は」とその見知らぬ男は言った。「親切、同情、感謝よさらばだ。心を彩るいっさいのそうした感情よさらば。俺は、善人たちに報いるために神の身代りとなった……復讐の神よ、悪人どもを罰するため、汝の席をわれに譲れ」
この言葉とともに、彼は合図をした。その合図だけを待っていたかのように、ヨットはたちまち沖を目ざした。
[#改ページ]
三十一 イタリア――船乗りシンドバッド
一八三八年のはじめ、フィレンツェに、パリの最上流の社交界に属する二人の青年がいた。一人はアルベール・ド・モルセール子爵であり、もう一人はフランツ・デピネ男爵であった。彼らの間では、その年のカーニヴァルはローマで迎える約束になっていた。すでに四年近くイタリアに住んでいるフランツが、アルベールの案内役を引き受けるのである。
ところで、ローマでカーニヴァルを迎えるとなると、人民広場やカンポ・ヴァッチーノで野宿するのは厭だというのであれば、これは容易なことではない。そこで彼らはスペイン広場でロンドン・ホテルを営んでいるパストリーニ親方に手紙を書き、いい部屋をとっておいてくれるよう頼んだのであった。
パストリーニ親方は、もう三階の二室と小部屋しかあいてないが、一日一ルイという安い値段でその部屋を貸そうと返事をして来た。二人の青年はこの申し出を受諾した。そして、残された時間を有効に使うために、アルベールはナポリに向かった。フランツのほうはフィレンツェに残った。
彼はしばらくこのメジチ家の町が与えてくれる暮らしの楽しみを味わい、カジノと呼ばれる楽園を存分にさまよい歩き、フィレンツェの誇る貴顕《きけん》の士たちからの招待も受けてしまうと、すでにナポレオン揺籃《ようらん》の地のコルシカも見てしまったことなので、ナポレオンが一時憩いをとったエルバ島を見てやろうという気まぐれを起こしたのであった。
そこで彼は、リヴォルノの港につながれていた小舟の鉄の環をはずして、船頭にはただ、
「エルバ島へ行け」
と言っただけで、マントにくるまって寝てしまったのである。
舟は海鳥が巣から飛び立つように港を離れ、翌日フランツをポルト・フェライヨに降ろした。
フランツは、あの巨人が島に残した足跡をたどり尽した後に、この皇帝の島を横切って、マルチアナで船に乗った。
陸を離れて二時間後に、彼はピアノサ島に上陸した。この島には無数のアカシャコの群れが飛んでいるという話だったのだ。
猟は不猟だった。フランツは辛うじて、痩せこけたシャコを何羽か仕止めたにすぎなかった。骨折り損のくたびれ儲けをしたハンターのならいで、彼はかなり不機嫌なまま船に戻った。
「もし男爵様がお望みでしたら、よい猟ができるんでごぜえますが」と船頭が言った。
「どこでだ」
「あそこに島がありやすね」と船頭は、南のほうを指さし、この上もなく美しい藍色の海のただ中につき出た、円錐形の島を示した。
「あの島は何という島なんだ」フランツが訊ねた。
「モンテ・クリスト島でごぜえます」リヴォルノの男は答えた。
「だがあの島で狩をする許可は持ってないんでね」
「男爵様、そんなものはいりませんや、無人島でごぜえますよ」
「へえ、地中海のまん中に無人島があるとは、こりゃあ不思議だ」
「当り前でごぜえますよ、あの島は岩礁でして、島全体、耕やせる土地なんか一アルパン〔昔の耕地面積の単位〕もありやしないでしょう」
「どこの領地だ」
「トスカナ領で」
「どんな獲物にお目にかかれる」
「なん千頭という野生の山羊でさ」
「岩をなめて生きてるんだな」とフランツはとても信用できないという笑いを浮かべて言った。
「いえ、岩の間に生えてるヒースやテンニンカ、それにニュウコウを食べてるんでごぜえますよ」
「でもどこに泊るんだ」
「洞穴の中の地べたか、マントにくるまって舟でおやすみになるんですね。それに、もし男爵様がお望みなら、猟がすんだらすぐ舟を出してもよろしいんで。夜だって昼間とおんなじぐれえ走るってことはご存じでしょう。もし帆が駄目ならオールがごぜえますですよ」
友だちと落ち合うまでにはまだかなり日時があったし、ローマの宿ももう心配しなくてよかったので、フランツはこの申し出を受け、最初の狩の不猟の埋め合せをすることにした。
彼が承知すると、水夫たちは二言三言低い声で言葉を交わした。
「どうしたんだ、なにか不都合でも起きたのか、急に行けなくなったのか」とフランツは訊ねた。
「いえ」と船頭が答えた。「ただ男爵様に申し上げておかなくちゃならねえのですが、あの島はご禁制の島なんで」
「それはどういう意味だ」
「つまり、モンテ・クリスト島には人が住んでねえもんですから、コルシカやサルディニア、それにアフリカなんかからやって来る密輸業者や海賊どもがときどき寄港するんでごぜえますよ。だもんで、もしあっしらがあの島にいたなんてことがわかると、リヴォルノヘ帰ってから、六日間船を停められちまうんで」
「ちえっ、それじゃ話が違ってきたぞ。六日か。神様がこの世をお作りになったのとちょうど同じ日数だ。そいつは少し長過ぎるな」
「ですがね、男爵様がモンテ・クリストに行ったなんてことを、いったい誰がしゃべるんでござんしょうね」
「ああ、僕はしゃべらんぞ」フランツが叫んだ。
「俺たちもだ」水夫たちが言った。
「そうときまったら、モンテ・クリストヘ行け」
船頭は命令を下し、舟は舳先《へさき》を島に向け、島をめざして進み始めた。
フランツは水夫たちの作業が終るのを待っていた。舟が新たな進路をとり、帆が微風をはらみ、四人の水夫が、三人は舳先に一人は舵の所に再び位置を占めた時、彼はまた口を開いた。
「ガエタノ」と彼は船頭に言った。「さっきの話だと、モンテ・クリスト島は海賊のかくれ家になっているようだが、そうなると、獲物は山羊だけじゃなさそうだな」
「その通りで」
「僕は密輸業者のいることは知ってたが、アルジェー占領と摂政政治の崩壊以後は、海賊なんてクーパーやマリヤット船長〔いずれもイギリスの海洋小説家〕の小説の中にしかいないと思ってたよ」
「とすりゃあ、それは思い違いで、法王のレオーネ二世が根絶やしになすったってことになってる山賊が、ローマの入口んとこまで来て、毎日のように旅人を掴まえてるのとおんなしで、海賊だっているんでさ、まだ半年にもならねえが、法王庁へ来たフランスの代理公使がヴェルレトリ〔ローマの南の町〕のじき近くで身ぐるみ剥がれたって話をお聞きになりませんでしたか」
「聞いた」
「もしあっしらのように男爵様もリヴォルノにお住まいでごぜえやしたら、時々こんな話をお聞きになりますですよ。バスチア〔コルシカの港〕、ポルト・フェライヨ、チヴィタ・ヴェッキア〔イタリア地中海岸の港〕へ着くはずの、商品を積んだ小さな船や英国のしゃれたヨットが、いつまでたっても到着しない、どうなったかもわからねえ、たぶん暗礁にでもぶつかってこなごなになっちまったんだろうって話をね。ところがこのぶつかった暗礁ってのが、七、八人の男が乗り組んだ背の低い細い舟でしてね。暗い海の荒れた晩に、人の住まねえ離れ島のかげで襲撃して掠奪するんでさ、ちょうど山賊が森かげで駅馬車を掴まえて掠奪するのとおんなしでさ」
「それにしても」とフランツは相変わらず舟の中に寝そべったまま訊ねた。「そんな目にあった連中は、どうして訴えないんだろう。フランスなりサルディニアなりトスカナなりの政府に、そんな海賊どもに仕返しをすることを要求しないのかな」
「どうしてとおっしゃるんで」
「うん、どうして」
「それはね、まずはじめに、金目のものをみんな舟に運んじまってから、乗組員の手足を縛り、首に二十四ポンドの鉄の玉をつけちまう。でっかい樽ぐれえの穴を船底にあけて甲板に上がり、昇降口をみんな閉めるんでさ。十分もすりゃ、船は泣き言を言い始め、悲鳴をあげながら、ゆっくりゆっくり沈む。はじめはあっち、お次はこっちとね。それからまた浮かんじゃ、こんだもっと深く沈むんで。いきなり大砲をぶっぱなしたみてえな音がする。中の空気が甲板をはじき飛ばす音でさ。こうなりゃ、船はまるで水に溺れてもがいてるやつみてえに、どんどん沈みながらあばれ廻る。やがて隙間という隙間に入りこんで溢れた水が、出口という出口から、まるででっかいマッコウクジラの吹く潮みてえに吹き出すんでさ。とうとう最後の呻き声をあげて、ぐるっと一廻りして、海の底に沈んじまう。海にでっかいじょうごみてえな凹みができて、しばらく渦を巻いてやすが、だんだん凹みも埋まって、きれいさっぱりなくなっちまう。こんなぐええで五分もたちゃ、この静かな海の底に消えちまった船の姿は、神様の目でなきゃみつからねえというわけでごぜえやす」
「こんだおわかりになりましたか」と船頭は続けた。「どうして船が港に戻らねえか、そして乗組員がどうして訴えねえのか、そのわけが」
ガエタノがもし、モンテ・クリスト行きをすすめる前にこの話をしていたら、おそらくフランツも、その島へ行くのをよくよく考えてしまったことだろう。が、すでに出発してしまったのだ。今さら後へ退くのは怯儒《きょうだ》と彼には思えた。彼は、自らを危険に身をさらすようなことはせず、一度そのような境遇になってしまえば、あくまでも冷静にこれと戦う類いの人間であった。彼は、人生における危険を、決闘の相手としてしか見ず、相手の動きを計算し、相手の力をおしはかり、息をととのえるためには卑怯とそしられぬ程度には退きもし、自分の優位を一目で見抜き、一撃のもとに相手をたおす、平静な意志の力を持った人間であった。
「ばかな、僕はシチリアもカラブリアも歩き廻ったし、二か月間エーゲ海を船で旅したが、山賊や海賊は、その影さえ見なかったね」
「ですからあっしはなにも男爵様が、島へ行くのをお止めしようと思って申し上げたわけじゃごぜえませんので、ただお訊ねにお答えしたまででして」
「うん、お前の話はおもしろかったよ。できるだけ長くその話を聞いていたいから、舟をモンテ・クリストヘやってくれ」
そうするうちにも、舟はその航程の終りに近づきつつあった。いい微風が吹いていた。小舟は一時間に六、七マイル進んだ。近づくにつれて、島はますます大きさを増しながら海のふところから出て来るようであった。沈みかけた太陽に照らされた透明な大気を通して、弾薬庫の中の砲弾のように積み重ねられた岩の姿が見え、その隙間にヒースの赤、木々の緑が見えていた。水夫たちは、まったく落ち着いているようには見えたが、警戒心を呼び起こされていることは明らかであった。船が滑って行く広大な鏡の上に視線を配っている。水平線上には白い帆をつけた漁船がなん隻がいるだけだった。波頭をかすめるカモメのように漂っている。
太陽がコルシカの後ろに沈み始めた頃、舟はモンテ・クリストから十五マイルほどしか離れていなかった。コルシカの山々は右手に見え、空にその黒いぎざぎざな線を見せていた。岩の塊は舟の行く手に巨人アダマストール〔ポルトガルの詩人カモエンスの作中人物。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過した際、その船の行く手に立ちふさがったという〕のごとくに立ちはだかり、上半分が金色となった太陽を舟から見えなくしていた。徐々に闇が海から立ち昇り、今まさに消えようとする昼間の最後の残映を追い払うかのようであった。やがて光の輝きは、円錐の頂にまで追いやられ、火山の頂きの燃える飾りのように、しばらくそこにとどまっていた。ついに、なおも昇り続ける闇がそのふもとを侵したように次第に頂きを侵し、島はもはや灰色の山としか見えず、それも次第に姿が定かではなくなっていった。三十分後、真暗な闇が訪れた。
幸い水夫たちには慣れた海域であった。トスカナの島々であれば、どんなちっぽけな岩礁でも彼らは熟知していた。舟をすっぽりと包む真暗闇の中では、フランツもまったく不安を感じないというわけにはいかなかったはずだ。コルシカはすっかり姿を消し、モンテ・クリスト島も見えなくなっていた。しかし水夫たちは、ハイエナのように闇の中でも目がきくかのごとくに、舵を握る舵手は、いささかのためらいも示していなかった。
日没から一時間ほどたったとき、フランツは左手四分の一マイルの所に、黒い塊を見たように思った。しかしそれが何なのか、はっきりと見きわめることはできなかったので、空に浮かぶ雲かなにかを陸地と見間違えて水夫たちの嘲笑を買ってはと、彼は沈黙を守っていた。が、突然海岸に明るい光が見えた。陸地が雲によく似ていることはあっても、火は流星とは違う。
「あの光は何だ」フランツは訊ねた。
「しーっ!」船頭が言った。「火ですよ」
「だって、人は住んでないって言ったじゃないか」
「住みついている者はいねえと言ったんでさ。でもね、密輸業者たちが船を寄港させるとこだってことも申し上げやしたぜ」
「海賊もだ」
「海賊も」ガエタノはフランツの言葉を繰り返した。「でやすから、島をやり過ごさせたんでさ。ほれごらんなせえまし、火が後ろのほうに行っちまってるでしょう」
「だがあの火は、危険なしるしというよりも安全なしるしのように思うがなあ。人目につくのを恐れる連中が火を焚くはずはあるまいし」
「いえ、そんなこたあ理由になんねえ。闇ん中での島の位置をお考え下さりゃ、あの場所じゃ、あの火は海岸からもピアノサからも見えねえで、海からだけ見えることがわかんなさるはずでごぜえます」
「それじゃあの火は、悪い連中がいるせいかもしれないと言うんだな」
「そいつを確かめなくちゃならねえんで」ガエタノは終始その地上の星を見すえたまま答えた。
「どうやって確かめる」
「じきにおわかりになりやすよ」
こう言ってガエタノは水夫たちと相談を始め、五分ほど話し合った末に、水夫たちは黙ったまま操船作業をした。すると、たちまち船首が廻らされ、今来た航路を逆に進み始めた。こうして方向転換してしばらくすると、土地の起伏のかげにかくれて火が見えなくなった。すると舵手は舵を廻して、舟にまた新しい方向を与えた。舟は目に見えて島に近づき、間もなく五十歩ほどの近さにまで接近した。
ガエタノは帆をおろした。舟は停まった。
これらいっさいのことはまったくの沈黙のうちに行なわれ、進路を変えてからは一言の言葉も洩らす者はなかった。
この島へ来ることを言い出したのはガエタノであり、彼はそのいっさいの責任を負っていたのである。四人の水夫はオールの準備をしながらも彼から目を離さなかった。明らかにオールで漕ごうとしている。あたりが暗いので、それも容易なのだ。
フランツは、すでにわれわれが知っているその冷静な態度で、武器を点検していた。彼は二連銃を二丁とカービン銃を一丁持っていた。銃に弾丸をこめ、火皿の覆《おお》いをたしかめて、彼は待った。
船頭は上衣とシャツを脱ぎ捨て、ズボンのベルトを締め直した。彼は裸足《はだし》だったから、靴や靴下を脱ぐ必要はなかった。こういういでたちになった彼は、いや、いでたちを脱ぎ捨ててしまった彼は、絶対に口をきくなという意味を伝えるため、唇に指をあてた。そうして海の中に身を沈め、細心の注意を払い、音ひとつたてずに岸に向かって泳いでいった。泳者が後にひくかすかに光る波だけが彼の動きを示していた。
やがてその波も消えた。明らかにガエタノは岸に泳ぎ着いたのだ。
小舟の上にいる者は、三十分の間みな身動き一つしなかった。と、岸のあたりにまたかすかに光る引き波が見え、舟に向かって近づいて来る。やがて、そして二かき、ガエタノは舟に戻った。
「どうだった」フランツと四人の水夫が言った。
「スペインの密輸の連中でさ。コルシカの山賊が二人一緒にいるだけでやす」
「そのコルシカの山賊二人はスペインの密輸業者と何をしてるんだ」
「そんなことおっしゃったって」と、ガエタノはまことのキリスト教徒として慈悲心をこめて言うのだった。「お互い助け合わなくちゃいけねえ。コルシカの山賊はね、よく陸《おか》の上で警官やら憲兵に追いつめられちまうんだ。するてえと、目の前に舟がある。舟ん中にはあっしらみてえな親切な野郎どもがいるというわけなんで。山賊たちはあっしらの水上ホテルに泊めてくれと言う。窮鳥《きゅうちょう》ふところに入ればってやつだ。あっしらは乗せてやるんですよ。そして、もっと安全なように沖へ出ちまう。こちとらに一文の金がかかるわけでもねえのに人一人の命が救えるんだ、少なくともあっしらとおんなし人間の自由がね。しかもちゃんと受けた恩をおぼえててくれて、場合によっちゃ、あっしらの積み荷を、もの好きな連中に邪魔されずに降ろせる場所を教えてくれるんでごぜえやすよ」
「なんだ、それじゃガエタノ、お前も密輸を少しはやってるんだな」
「どうしろとおっしゃるんで」ガエタノは言いようのない笑いを浮かべて言うのだった。「人間、なんだってやりまさ、食ってかなきゃなりませんからね」
「それじゃ、今モンテ・クリストにいる連中もお前の仲間ってわけか」
「まあね、あっしら船乗りは、フリー・メーソン〔秘密結社〕みてえなもんで、ある合図で仲間だってことがわかるんでごぜえやす」
「では、僕たちが上陸しても大丈夫だと思うんだね」
「絶対に大丈夫、密輸の連中は泥棒じゃござんせん」
「だが、コルシカの山賊二人は……」フランツは、起こりうるあらゆる危険を事前に考えてみるのだった。
「なあに、やつらが山賊になったのも、やつらが悪いんじゃありません、お上《かみ》が悪いんで」
「どうしてまた」
「当り前でさ。人をヤッちまったからって追われてんですよ、それ以外の理由はねえ。仇を討つのがコルシカの男の本性じゃねえみてえなんだ!」
「その、人をヤッちまったっていうのはどういう意味なんだ。人殺しをしたということなのか」フランツがなおも訊ねた。
「仇を殺したって意味でさ。人殺しとはてんでわけが違いまさあ」
「それじゃ、密輸業者と山賊におもてなしを願いに行こうじゃないか。迎え入れてくれると思うか」
「間違いありません」
「何人いる」
「四人でさ。それに山賊二人だからつごう六人でごぜえやす」
「それならちょうど僕たちと同数だ。その連中が敵意を示した場合でも、力は対等だから、制圧できる。よし、それなら今度こそモンテ・クリストヘ行け」
「はい、かしこまりました。ですがやはり用心はしなくちゃなりませんからそのおつもりで」
「何を言うんだ。ネストールのごとく賢く、ユリシーズのごとく慎重にやってくれ。用心してくれていい。いや、ぜひそう願うよ」
「それじゃ、声をたてずに」一同は声を殺した。
フランツのような、なにごとも正確な視点から見る男にとっては、事態は、危険ではないとはいいながら、重大な局面であると感じないわけにはいかなかった。あたりは真の闇である。海のまっただ中にたった一人、いるのは彼の知人ではなく、したがって彼のために身を投げ出す理由などまったく持たない水夫たちだけである。しかもその水夫たちは、彼が数千フランの金をベルトの下に持っていることを知っており、彼の見事な銃を、物ほしげにではないにせよ、少なくとも物珍しそうになん回となくうち眺めていたのである。そしてまた、彼は今、つき従う者としてはその男たちしか持たずに、モンテ・クリスト〔キリストの山の意〕と名前だけはひどく宗教的であっても、フランツに対して、密輸業者や山賊が、キリストに対するカルヴァリオの丘〔キリストが磔になった地名〕のもてなし以外のものは約束していそうにもない島に上陸しようとしているのである。昼間は話半分に聞いていたあの沈められる船の話も、夜になってみれば、ほんとうらしく思えるのだった。だからたぶん杞憂《きゆう》ではあろうが、この二重の危険の中に身を置いた彼は、男たちから目を離さず銃から手を離さなかった。
そうするうちにも水夫たちはまた帆を上げ、行きつ戻りつした航路の水をまたかきわけて舟を進めた。いくらか闇に慣れたフランツは闇を通して、舟がその線にそって進む巨大な花崗岩の塊の姿を見きわめることができた。そしてついに、もう一度岩角を廻った時、前よりも赤々と輝いているあの火を見た。火のまわりには五、六人の男が腰をおろしていた。炎の影が海の上に百歩ほども尾を引いていた。ガエタノはその光にそって進んだ。だが、舟をその光の中には入れないようにしていた。そして、ついに舟が焚火の正面に来たとき、彼は舳先を焚火に向けると、漁師の歌を大声で歌いながら、勇敢に光の輪の中に入って行った。歌詞は彼だけが歌い、仲間の水夫はそのリフレインを合唱した。
歌の最初の文句が聞こえると、焚火のまわりに坐っていた男どもが立ち上がって船着場に近よって来た。目をこらして、明らかにこちらの舟の大きさと意図を見きわめようとしているようである。やがて彼らは納得がいったらしく、なおも海岸に立ったままの一人を残して、みなもとの焚火のまわりに坐り直した。焚火の所では、仔山羊が一頭丸ごと炙《あぶ》られていた。
舟が岸から二十歩ほどにまで近づいたとき、岸に残っていた男が機械的に、パトロールを迎える歩哨のようにカービン銃をかまえて、サルディニアの言葉で、
「誰か!」
と叫んだ。フランツは落ち着いて二連銃をかまえた。
するとガエタノはその男となにごとか言葉を交わした。舟の客にはまるで意味がわからなかったが、自分のことを言っているのにちがいなかった。
「男爵様」と船頭が訊ねた。「名前を名乗りますか、それともおしのびで」
「名前は絶対知られては困る。だから、僕はフランス人で、ただ遊びのために旅をしてるんだと言ってくれ」
ガエタノがこの返事を伝えると、歩哨に立っていた男は、焚火の前にいた一人の男に命令を下した。言われた男はすぐ立ち上がり、岩山の中に姿を消した。
静寂が訪れた。みなそれぞれ自分の仕事に没頭しているように見えた。フランツは下船の準備、水夫たちは帆の始末、密輸業者たちは仔山羊を焼くこと。だが、こうしてさり気ない顔をしていながら、彼らは互いに観察し合っているのだった。
さっきどこかへ行った男が、突然、彼が姿を消したのとは反対の方角から姿を現わした。彼が歩哨の男にうなずいてみせると、歩哨はフランツたちのほうに向き直って、ただ一言、
「サコモディ」と言った。
このイタリア語の『サコモディ』という言葉は翻訳不可能である。この言葉は、同時に、『来なさい』『お入りなさい』『ようこそ』『どうぞお楽に』『なんなりとご自由に』を意味する。これは、あまり多くの意味を表わすので町人貴族をひどく驚かせたモリエールの芝居の中の、あのトルコ語の言葉のようなものである。
水夫たちは、相手に二度と同じことを言わせなかった。オールを四回ほどかくと、舟は岸に着いた。ガエタノは砂浜に飛び降り、さらに歩哨と二言三言、言葉を交わした。水夫たちも次々に舟を降り、フランツの番になった。
フランツは一丁の銃を肩にかけていた。ガエタノがもう一丁のほうを持ち、水夫の一人が彼のカービン銃を手にしている。彼の服装は、芸術家風でもありダンディ風でもあったので、相手に猜疑心《さいぎしん》を起こさせず、したがってまったく不安を与えなかった。
皆は舟を岸につなぎ、適当な野営地を探しに歩き始めた。が、おそらく、彼らが歩いて行った方角は見張りに立っていた密輸商の男には都合が悪かったのだろう、男がガエタノに向かって怒鳴った。
「あ、そっちじゃなくしてくれ」
ガエタノはぶつぶつと詫びの言葉を言い、それ以上我意を通そうとはせずに、反対の方角に歩き始めた。二人の水夫が道を照らすためのたいまつに火を移しに焚火の所へ行った。
三十歩ほど行くと、岩にかこまれた小さな見晴し台に出て足を止めた。岩に腰かけが刻んであり、坐ったまま見張りができる小さな望楼のようになっている。周囲には、岩の間の土から丈の低いカシワや生い茂ったテンニンカの茂みが生えていた。
フランツがたいまつを下げてみると、灰があったので、この場所を居心地のよい場所と思った者が前にもいたこと、そしてここはおそらく、モンテ・クリスト島を訪れる流れ者たちの、しじゅう来る場所にちがいないということがわかった。
なにか起こるのではないかという気持は失せていた。一度陸地に足を踏み、友好的とは言えぬまでも、少なくとも無関心な、彼を迎えた男どもの態度を見てしまうと、彼の懸念はいっさい消えてしまった。そして、向うの野営地で炙られている仔山羊の臭いに、懸念は食欲に変わった。
彼がそのことをちょっとガエタノに言ってみると、ガエタノは、自分たちも舟に、パン、ブドウ酒、六羽のシャコがあるし、鳥を焼く火も燃やせるのだから、夕食などお安いご用だと答えた。そして、
「それに、もし男爵様があの仔山羊の臭いにたまらねえ思いをなすってるんなら、鳥を二羽やって、その代わりに肉を一切れ貰って来てもようござんすぜ」とつけ加えるのだった。
「そうしてくれ、ガエタノ、そうしてくれよ」フランツは言った。「まったくお前は駈引きの天才だよ」
その間に水夫たちは、ヒースをいく抱えもひっこ抜き、テンニンカと葉のついたままのカシワの薪を作り、これに火をつけると、かなり大きな焚火ができた。
フランツは、相変わらず仔山羊の臭いをかぎながら、待ち遠しい思いをして船頭の帰りを待った。船頭が帰ったとき、船頭はなにか考えこんでいるような様子でフランツの所へやって来た。
「で、どうだった」フランツは訊ねた。「何かあったのか、頼みを聞いてくれなかったのか」
「その反対なんでさ。あの連中があなた様のことを若いフランス人だと言ったら、向うの頭《かしら》がね、あなた様を夕食に招きてえって言ったと言うんですよ」
「それはまた、いやに礼儀正しいお人だな、その頭っていうのは。ことわる理由はないね。それに僕のほうからも応分のものは出すんだからね」
「いえ、それがそうじゃねえんでごぜえますよ。食い物はたっぷりあるんでさ、あり過ぎるくれえだ。ただね、あなた様をその方んとこまでおいで願うのに、妙な条件がついてるんでさ」
「その方のとこ? それじゃ家を持ってるのか」
「いえ。でも、なんでもあの連中の言うところじゃ、家じゃねえが、おっそろしく気分のいい住まいだそうで」
「お前、その頭のことを知ってるのか」
「噂は聞いたことがごぜえやす」
「よい噂か、悪い噂か」
「両方でさ」
「ふん。で、その条件というのは」
「あなた様に目かくしをして、そのお方がご自身ではずせと言うまでは、目かくしをはずさねえことでごぜえます」
フランツはこの申し出に何が秘められているかを知ろうと、でき得る限りガエタノの目の色をさぐってみた。
「ええ、そうでやすとも」と、フランツの考えに答えてガエタノは言うのだった。「こいつは、よくよくお考えになったほうがようござんすよ」
「もしお前が僕だったらどうする」
「あっしはなんにも取られるようなものは持つちゃいねえ、あっしは行きますよ」
「招待を受けるというんだな」
「ええ、好奇心だけでもね」
「その頭のとこには、なにか珍しいものでもあるのか」
「お聞きなせえまし」ガエタノは声を落した。「人の言うことがほんとうかどうかは知らねえが……」彼は言葉を切り、誰か他人が盗み聞きしてはいないかとあたりを見まわした。
「で、何と言ってるんだ」
「なんでも、そのお頭は地下に住んでて、この地下室にくらべりゃピッチの宮殿〔フィレンツェのアルノ河左岸にあるピッチ家の宮殿〕もものの数じゃねえと」
「夢みたいな話だな」
「いえ夢じゃねえんで。ほんとうなんで。サン=フェルナンド号の船頭のカマってのが一度そこに入って、目を廻して出て来やしてね、あんな宝物はお伽話の中にしきゃ出て来ねえって言ったんでさ」
「ほう、そんなこと言って、アリババの洞窟へでも僕を入らせるつもりなのか」
「あっしはただ聞いた話を申し上げただけでごぜえます」
「では、招待を受けろと言うんだな」
「いえ、そうは申しちゃおりません。男爵様はお好きなようになさればよろしいんで。こんな時に、こうしろなんてことは、とても申し上げられるもんじゃござんせん」
フランツはしばらく考えていた。それほどの富を持つ男が、彼に悪意を抱くはずはない、わずか数千フランしか持たぬ彼に。どう考えても、すばらしいご馳走しか思い浮かばないので、彼は招きに応ずることにした。ガエタノが彼の返事を伝えに行った。
しかし、前述のようにフランツは慎重であった。だから彼は、その不思議な謎の招待主のことをもっと詳しく知りたいと思った。そこで彼は、自分の仕事に誇りを持つ男特有の真剣な面持ちでシャコの羽をむしっている水夫のほうを向いて、向うの連中は何に乗ってこの島に来たのかと訊ねた。小舟も快速船も小型帆船も見えないのである。
「そんなこたあ気にしちゃいませんや。連中が乗ってる船を俺は知ってるからね」
「いい船か」
「男爵様も、あんなのを一隻持って世界一周でもすりゃあいいと思いますよ」
「大きいのか」
「そうさね、百トンぐれえだ。おまけに楽しみ用の船で、イギリス人の言うヨットって奴だ。けど、どんな天候でも海へ出られるように造られてんですよ」
「どこで建造されたのかな」
「知らねえけどよ、俺はジェノヴァだと思う」
「だが、密輸業者の頭が、自分の商売用の船をジェノヴァで造らせたりするかな」
「俺はなにも、あのヨットの持ち主が密輸をやってるなんて言やしねえよ」
「違う? だがガエタノはそう言ったように思うがな」
「ガエタノは乗組員を遠くから見ただけだ。誰とも口をきいちゃいねえ」
「だがその男が密輸業者の頭ではないとすると、いったい何者だ、それは」
「金持の殿様でよ、遊びで旅をなさってんだ」
『さてと』フランツは考えた。『ますます謎の人物になってきたぞ。人によって言うことが違うんだからな』
「で名前は」
「名前を聞くと、船乗りシンドバッドと答えるが、俺は本名じゃねえと思う」
「船乗りシンドバッド?」
「そうだ」
「で、その殿様の住まいは」
「海の上だ」
「どこの国の人だ」
「知らねえ」
「会ったことはあるのか」
「時どき」
「どんな人だ」
「いずれお会いになりゃ男爵様ご自身でおわかりになりますよ」
「で、僕をどこで迎えようっていうのかな」
「たぶんガエタノの言った地下の御殿でしょうよ」
「それでお前、ここへ寄港したとき、島は無人島なんだから、その魔法の御殿に入ってみようという気を起こしたことはないのか」
「ありますとも。それも一回や二回じゃねえ。でもなん回探したって無駄だった。あらゆる洞穴を片っ端から探したが、ネズミの通る通路一つみつかりやしねえ。おまけに、入口の扉は鍵じゃ開かねえで、呪文で開くんだそうだ」
「まったくのところ、これは、アラビアンナイトの島に乗り込んじまったぞ」フランツはつぶやくのだった。
「閣下がお待ちです」フランツの背後で声がした。あの歩哨の声だと彼にわかった。
来た男はヨットの乗組員二人をつれて来ていた。返事の代わりにフランツはハンカチをとり出し、自分に言葉をかけた男にそれを渡した。
一言も口をきかずに、相手は、ほんの少しの不注意もしないようにと気を配っている様子を見せながら、フランツに目かくしをした。終ると、相手はフランツに絶対にそれをはずそうなどとはしないという誓いを求めた。
フランツは誓った。
すると二人の男が彼の両腕を片方ずつかかえた。彼はその二人につれられ、歩哨の男の後について歩き始めた。
三十歩ほど歩いたとき、次第に強くなってきた仔山羊の臭いで、あの焚火の前を通っていることがわかった。それからさらに五十歩ほど歩かせられた。明らかに、ガエタノに行かせなかった方角である。行かせなかった意味が今わかった。やがて空気が変わったので、フランツは地下に入ったことを知った。しばらく行くと、ぎいーっという音がして、空気がまた変わり、なま暖かくいい香りのする空気になった。最後に彼は、自分の足が厚く柔かいじゅうたんを踏むのを感じた。案内人が彼を放した。一瞬の沈黙があった。それから外国の訛りはあるが上手なフランス語で、こう言う声が聞こえてきた。
「ようこそお越し下さいました。もうハンカチをおとりになってもかまいません」
ご想像の通り、フランツは相手に二度は繰り返させなかった。彼はハンカチをとった。すると自分は、四十近くの、チュニジア風の衣裳をつけた男の前にいた。絹の青い長いふさのついた赤い球帽、びっしり金の刺繍をした黒いラシャのゆったりした上衣、太いふっくらした深紅色のズボン、上衣と同じように金の刺繍をしたズボンと同じ色の脚絆《きゃはん》、黄色いトルコスリッパ。見事なカシミヤ織りのベルトがその腰を締めつけ、鋭利な反った短剣をたばさんでいる。
顔の色は鉛色とも言えるほどに青いが、この男ははっとするほど美しい顔をしていた。目はいきいきと射るようであった。額と同じ高さのまっすぐな鼻は、純粋なギリシアのタイプであった。真珠のように白い歯は、まわりの黒い口ひげと見事な調和を保っている。
ただその顔の青さだけが異常であった。長いこと墓の中に閉じこめられていて、その後二度と生きている者の血の気をとり戻さぬ男のようであった。
背は高くはないが、それ以外はいい身体をしており、南仏の男たちのように手や足は小さかった。
だが、ガエタノの話を夢物語とあしらったフランツを驚かせたのは、その贅《ぜい》をきわめた室内の装飾であった。
部屋全体が、金の錦模様の花を浮かせた真紅のトルコ織りで張りつめられている。一つの壁のくぼみには、長椅子が一つあって、その上には、金の鞘《さや》に、宝石をちりばめたまばゆいほどの柄《つか》ごしらえのアラビアの刀剣類が飾られている。天井には、しゃれた形と色のヴェネチアグラスのランプが下り、足もとはくるぶしまでも埋まるほどのトルコじゅうたんである。フランツが入って来たドアの前にも、また、すばらしい照明がほどこされているらしい奥の部屋に通ずるドアの前にも、ドアカーテンが垂れていた。
主《あるじ》はフランツをしばらく驚くままにしておき、それにフランツが自分をじろじろ見るのに対して、同じようにフランツを見返し、フランツから目を離さなかった。
「ここへお越しを願う際に」と、やっと彼は言った。「用心をさせていただいたことを幾重にもお詫びいたします。ですが、この島はふだんほとんど人がおりませんので、この住まいの秘密を知られますと、私がまた参りましたとき、この仮住まいがかなりひどいことになっているだろうと思うのです。これは私にとっては大へん不愉快なことです。それによる損失のためではなく、好きなときに世間から離れられるという保証がなくなってしまうからです。少しばかり愉快でない思いをおさせしてしまったので、今度はそれを忘れていただけるよう、いささか努めましょう。あなたがこんな所で出会おうとは思わなかったようなもの、つまり、かなりいける食事と、まあましなベッドを提供するつもりです」
「とんでもありません」フランツは答えた。「あんなことの詫びをおっしゃる必要はありません。魔法の宮殿に入る者はみな目かくしをされるのをしょっちゅう見てますよ。『ユグノー』〔マイエルベールの歌劇〕のラウールを見て下さい。それに正直言って、僕は少しも不服になど思っていません。あなたのお見せ下さっているものは、『アラビアンナイト』の夢物語の続きですから」
「ほう! それでは私はルクルス〔ローマの武将で美食家〕のように申しましょう。お越し下さることがわかっていれば、その用意をいたしておきましたものを、と。が、いずれにしろここは隠遁の場所、これをそれなりにご自由にお使いいただくより仕方ありませんし、夕食も、あり合わせで召し上がっていただくことになります。アリ、支度はできたかね」
この言葉と同時にドアの所のカーテンが上がって、白い簡単な寛衣《チュニック》をまとった、黒檀のように真黒なヌビアの黒人が主人に向かって、食堂へ移ってもよいという合図をした。
「ところで」と未知の男がフランツに言った。「あなたも同じお気持がどうかは知りませんが、どういう名前で、あるいは称号でお呼びしたらいいかわからぬままに、二時間も三時間もさし向かいで過ごすのは、どうも窮屈でいけないように思うのですが。私は客をおもてなしする作法からいって、お名前や称号をお訊ねするのは、礼儀にかなわぬことを十二分に承知しております。ただ、言葉をおかけする時お呼びできるような、なにか呼び方をひとつご指示いただけませんか。私のほうは、あなたに気楽におっしゃっていただけるよう、人はふつう私を船乗りシンドバッドと呼んでいると申し上げておきましょう」
「では僕は、あの有名な魔法のランプがないだけで、まるでアラジンのような立場ですから、さしあたり、アラジンとお呼び下さって結構です。そうすれば、私がよい魔法使いの力で東洋につれてこられたのだと思いたいその東洋に、いつまでもいられることになりますから」
「それではアラジン様」とその不思議な主が言った。「お聞きのように食事の支度ができたそうです。では食堂のほうへご足労願えませんでしょうか。賎しい奴隷めがご案内のため先に参ります」
こう言ってドアのカーテンを上げ、実際にシンドバッドはフランツの先に立った。
フランツは夢から夢へと辿っているようであった。食卓にはすばらしい盛りつけがなされている。この主要な点を確認してしまうと、彼は視線を周囲に向けた。食堂も今出て来た寝室に劣らず豪奢なものであった。全部大理石でできていた。非常な価値を持つ古代の浮彫りがほどこされており、細長いこの部屋の両端には、籠《かご》を頭上にかざした見事な二つの立像があった。籠の中には、すばらしい果物がピラミッド形に盛られている。シチリアのパイナップル、マラガのザクロ、バレアレス諸島〔地中海のあるスペイン領の島〕のオレンジ、フランスの桃、チュニスのナツメヤシの実。
食事はといえば、キジのまる焼きを、コルシカのツグミ、イノシシの股肉の煮こごり、バタ焼きにした仔山羊四半身、見事なヒラメ、ものすごく大きなイセエビがとりかこんでいた。こうした大皿の間隙をアントルメ〔デザートの前の軽い料理〕の小皿が埋めている。
大皿は銀で、陶器の小皿は日本のものであった。
フランツは夢を見ているのではないかと目をこすった。
アリだけが給仕を許されていた。そして巧みにやってのけていた。客は主にアリをほめた。
「そうなのです」と主は、くったくなく食事を進めながら言った。「これは可哀そうな奴でしてね、じつに私によく尽してくれ、しかも最善を尽すんです。私が命を助けてやったことを忘れないんですね。どうやら、首がだいぶ大事だったらしくて、首をつないでおいてやったのを、感謝してるんですよ」
アリが主に近づき、主人の手をとってそれに唇をつけた。
「シンドバッド殿」フランツが言った。「どういういきさつでそのような善行をほどこされたのかお聞きしてはぶしつけでしょうか」
「いえ、まことに簡単なことです。これはチュニスの高官の後宮の近くをうろついてたらしいのですよ。黒人の男が近づいてもいい限界を越えてね。そこで高官から、舌、手、首を切り落される刑を言い渡されました。第一日目には舌を、二日目には手を、三日目に首を切るのです。私はかねて私の用をする唖《おし》の男がほしかった。そこであの男の舌が切り落されたと聞き、すばらしい二連銃と交換にこの男をくれと言ったのです。その前日、その高官がひどくその銃をほしそうにしてましたのでね。しばらくためらってましたよ。よほどこの哀れな奴を殺してしまいたかったらしい。しかし、私は英国製の狩猟用の短剣を添えると言ったのです。私は高官の持っていた剣を切断してみせたものです。そこで高官は、この男の手と頭を助けてやる決心をしました。二度と再びチュニスの地は踏まぬという条件でね。そんなことは言われるまでもありません。この異教徒ははるか彼方にアフリカの海岸が見えただけで、船倉に逃げこんでしまって、世界第三の大陸が見えなくなってからでなければ出て来させることはできぬくらいなのです」
フランツは一瞬黙ったまま、この話を彼に聞かせた主の、温厚そうに見える残忍さをどう考えたらよいのかと思いまどった。
「ところで、あなたがその名を名乗っておられるあのすばらしい船乗りのように、あなたも航海を続けておられるのですか」
「ええ、これは、まさかそれが達成できようとは思えなかった時期に抱いた念願なのですよ」と謎の男が笑いながら言った。「ほかにもいくつかそんな念願を抱いてますがね、それはいずれ順次に達成できるだろうと思ってます」
シンドバッドはこの言葉を、きわめて冷静な調子で言ったのだが、彼の目は異常に兇暴な光を帯びていた。
「だいぶ辛い目にあわれたのではないですか」フランツが言った。
シンドバッドはびくっとした。そしてじっと彼を見すえた。
「どうしてそれがおわかりです」
「なにもかもがそれを示してます。あなたのお声、目、顔色の青さ、それに今の暮らしぶりが」
「私は、この私は知り得る限りでの最も幸福な暮らしを送っている。まさにトルコの太守のような暮らしを。私はすべてを創造する王者だ。ある場所が気に入ればそこにとどまる。退屈すれば去る。私は鳥のように自由で、鳥のように翼を持っている。時どき、人間の裁判をからかって楽しみもする。官憲が探している山賊や、追跡している犯人を横どりしてね。その後で私には私の裁判があるのだ。下賎であると同時に高尚な、執行猶予もなければ控訴もない、断罪か無罪かだけの、しかもなんぴとの介入も許さぬ裁判が。ああ、もしあなたがこの暮らしの味を知ったなら、もうほかの暮らしなどしたくなくなりますよ。なにかよほど大きな計画がおありでなければ、もうふつうの世間になどお戻りにはならぬでしょう」
「たとえば復讐のような、ですか」
謎の男は、相手の胸の奥底、脳の裏の裏までも見通すような視線で青年の顔を見据えた。
「なぜ復讐などとおっしゃるのです」
「なぜなら、あなたは社会から迫害を受けて、社会に復讐をしようという恐ろしい考えを持っている人のように見えるからです」
「それなら」とシンドバッドは、鋭い白い歯を見せて奇妙な笑いを浮かべながら言った。「あなたのお考えは当を得ていませんな。ご覧のように私はいわば博愛の徒でしてね。いつかパリヘ行って、アペール氏やプチ・マント・ブルーの人と競争をすることになるでしょう」
「パリヘおいでになるのは、それが初めてということになるのですか」
「おお、そうなのですよ。あまりパリに興味を持たなすぎるように見えるでしょうね。でも私が悪いんじゃありません。ひどく遅れてしまいましたが、いつかはきっと参ります」
「近いうちにおいでになるおつもりですか」
「まだわかりません。まだいろいろと不確定な要素があって、どうなるかわからぬ都合次第なのです」
「あなたがパリにおいでの折に、僕もパリにいたいと思います。そして、僕にできる範囲で、モンテ・クリストでこんなすばらしいおもてなしにあずかったご恩返しをいたしましょう」
「お言葉、喜んでお受けいたします。ただ残念なことに、もし参るとしても、おそらく匿名でということになりましょう」
そうするうちにも食事は進んだ。それはフランツのためにだけ用意されたもののようであった。というのは、謎の男は、自分に出された豪華な食事の一皿か二皿かにほんのわずか口をつけただけなのに、不意に飛びこんだ客のほうは、さかんに賞味していたからだ。
最後にアリがデザートを運んで来た。というよりも、石像の手から籠を取り、それを食卓の上に載せたのである。
その二つの籠の間に、アリは金めっきをした銀の、同じ金属の蓋がしてある小さな盃を置いた。
うやうやしくそれを捧持して来たアリの態度が、フランツの好奇心を刺激した。彼は蓋をとってみた。アンゼリカのジャムのような緑色のねったものが入っていたが、彼がまったく知らないものであった。
彼はまた蓋をしたが、蓋を取る前もまた蓋をした後も、同じように、盃の中身に関しては無知なままであった。主《あるじ》に目を向けると、主は彼の失望を見て笑っていた。
「おわかりになりませんか、その小さな容れ物の中に入っているものが。だいぶ興味をお持ちのようですが」
「その通りです」
「そこに入っている緑のジャムこそは、ヘベ〔青春の女神〕がジュピターの食膳に供した神々の食物《アンブロシア》にほかなりません」
「ですがそのアンブロシアも人間の手に渡った際には、その神聖な名を失い、人間の名で呼ばれることになったのではないでしょうか。俗界の言葉でいうと、この成分は何なのですか。どうもこれにはあまり馴染めませんが」
「ああ、それこそわれわれ人間がもともと卑俗なものとしてできていることの証拠ですよ」シンドバッドが大声で言った。「そういうふうだからわれわれは、幸福がすぐそばにあるのに、それを見もせず注目もせずに通り過ぎてしまう。あるいはそれを見、注目したとしても、それが幸福であるとは気づかない。あなたが実利を求める人で、黄金があなたの神であるなら、これを味わってごらんなさい。ペルー、グジャラート〔インドのボンベイ州北部の地方〕、ゴルコンダ〔インドのテリンガナ地方の要地〕の金山があなたの眼前に道を開きます。あなたが想像の世界の人、あなたが詩人であるなら、やはりこれを味わってごらんなさい。可能性の限界などというものは消滅してしまいます。無限の世界が眼前にひらけ、心も精神も自由に、際限なき夢幻の広野をさまようでしょう。あなたが野心家で、地上の偉大さを追い求めるなら、やはりこれを味わってみることです。一時間後にあなたは王となる。ヨーロッパの片隅のフランスとかスペインとかイギリスとかのちっぽけな国の王ではない。世界の王、宇宙の王、全創造物の王だ。あなたの玉座はサタンがイエスを連れ去ったあの山の頂にそそり立つのです。しかも、サタンをあがめ、その爪に唇をつけることなど強いられずに、あなたは地上いっさいの国々の王となれるのです。どうですか、私がおすすめしているものに、誘惑をお感じになりませんか。簡単なことなのですよ、ただこうするだけでよいのです、ご覧下さい」
こう言ってシンドバッドはそれほどにも礼讃したものが入っているその小さな盃の蓋をとり、ティースプーンで、その摩訶《まか》不思議なジャムをすくい、口にもっていって、目を半ば閉じ、頭をうしろにのけぞらせて、ゆっくりと味わった。
フランツは、彼が礼讃するその食物をすっかり飲み下すまで待っていた。そして、相手がやや正気をとり戻したのを見てこう訊ねた。
「それにしても、その食物はいったい何なのですか」
「あなたは≪山の老人≫の話を聞いたことがありますか。フィリップ・オーギュスト〔フランスの王(一一六五〜一二二三)〕を殺させようとした老人です」
「もちろんあります」
「それでは、その老人が豊かな谷あいを支配していて、老人のきれいな名前の由来である山がその谷あいを見おろしていたことをご存じですね。この谷あいに、ハッセン=ベン=サバによって植えられたみごとな果樹園があった。そして果樹園の中のあちこちに四阿《あずまや》があった。意にかなった者だけを老人はこの四阿に入れた。そして、マルコ・ポーロによると、この楽園に移し植えたある草を食べさせたということです。この楽園は、四季を通じて花をつけ、つねに熟した実がなっている樹木と、つねに処女である娘たちにかこまれていた。ところで、幸運な若者たちが現実と思っていたものは、すべてこれ夢だったのです。しかしこの夢は、あまりにも甘美で、あまりにも陶酔をもたらし、あまりにも官能的な夢だったので、若者たちは、この夢を与えてくれる老人に、身も心も売り渡し、老人の命令には神の命令に従うごとくに従った。彼らは指名された犠牲《いけにえ》を訪ねて地の果てまでも行ったし、責め殺されても泣言ひとつ言わなかった。彼らが耐え忍ぶ死は、その聖なる草、今あなたの前にあるそれが、若者たちに前もって味わわせた、あの甘美な世界への移行の過程に過ぎないと考えただけでね」
「それでは」とフランツは叫んだ。「これはハシッシュ〔インド大麻からとった麻薬〕ですね。僕は知ってます、名前だけは」
「まさにその通りです、アラジン殿。これはハシッシュです。アレクサンドリアのハシッシュのうちでも、最良で最も純粋なハシッシュです。偉大な製造人、世界でただ一人の男、『幸売ル者ニ、人ミナ感謝ヲ捧グ』という銘をつけた宮殿を建ててやらねばならぬくらいの男、アブゴールの手になるハシッシュです」
「あなたの礼讃がほんとうかそれとも誇張か、じつは僕自身で試してみたくなったんですが」
「試してごらんなさい、どうぞお試し下さい。ですが、最初一回だけの経験にあまり重きをおかぬよう。ほかのすべてのことと同じように新たな刺激に対しては、感覚を慣らすことが必要です。それが弱いものであれ激しいものであれ、悲しいものであれ楽しいものであれ。この神薬に対しては人間の本性の戦いがあるのです。快楽のためにはできておらず、苦悩にしがみつく本性の。ですから、この戦いにおいて本性を打ち破らねばならない。現実が夢に席を譲らねばなりません。そうなってはじめて夢がすべてを支配する、夢が人生となり、人生が夢となる。が、いったいこう変わったとて、どこが違うのでしょう。つまり、現実の人生の苦しみと、虚溝の人生の快楽とを比較したなら、あなたはもはや現実に生きようとはなさらず、ただ夢をのみ追いたいとお思いになるでしょう。すでにあなたのものとなったその世界から、また別の世界に移ることは、ナポリの春からラップランド〔北極圏のヨーロッパ最北部〕の冬に移るような、楽園を捨て地上に戻るような、天国を捨て地獄に落ちるような気がなさることでしょう。ハシッシュを味わうことです、どうぞ」
返事をする代わりにフランツは、その神秘なねりものを主がすくったほどの分量だけスプーンにすくい取って、口にもっていった。
「おや」フランツは、その神聖なジャムを飲みこんでから言った。「この効果がおっしゃったほど甘美なものかどうかはまだわかりませんが、味のほうは、おっしゃるほど美味とは思いませんね」
「それはこれを味わうあなたの口蓋《こうがい》の味蕾《みらい》がまだこれの持つ崇高な味に慣れていないからです。あなたは、海のカキ、茶、黒ビール、松露《しょうろ》などが、最初口にしたときからお好きでしたか、その後はしじゅう召し上がっておられるでしょうが。あなたには、キジをアッサ・フェティダ〔悪臭のある樹脂〕で味つけしたローマ人、ツバメの巣を食べる中国人が理解できますか。残念ながらおできにならぬでしょう。ハシッシュとて同じことなのです。一週間だけお続けになってごらんなさい。おそらく今は味がなくてむしろ吐き気を催おすようにしか思えないでしょうが、その味のこまやかさに匹敵し得る食物はこの世にないとお思いになりますよ。とにかく向うの部屋に参りましょうか。あなたのおやすみになる部屋へ。アリがコーヒーと、パイプを持って来るはずです」
二人は立ち上がった。そしてシンドバッドと名乗る男、われわれがこの夜の客同様に、なにか呼び名をつけるために時どきそう呼んでいる男が、召使いになにか言いつけている間に、フランツは隣の部屋に入った。
この部屋の内部は、よりあっさりしたものではあったが、やはり劣らず贅《ぜい》をこらしたものであった。円形の部屋で、周囲を大きな長椅子がとりまいている。長椅子も、壁も、極上の柔かいじゅうたんのように柔かくて気持のよい、豪奢な毛皮が張りつめられていた。豊かなたてがみをつけたアトラス山脈〔北アフリカの山脈〕のライオンの毛皮、鮮烈な縞のあるベンガルの虎の毛皮、ダンテに出て来るような、愉快な斑点のある希望峰のヒョウの毛皮、シベリアの熊とノルウェーの狐の毛皮であった。そうして、これらの毛皮がふんだんに、重ね合わせて用いられているので、深い芝草の上を歩くような、極上の絹のベッドに憩うような感触を与えるのであった。
二人は長椅子の上に横になった。管《くだ》はジャスミンで、琥珀《こはく》の吸い口のついたトルコの長ぎせるが手の届くところにあり、同じきせるで吸わなくてもいいようになん本もタバコをつめたものが用意されていた。二人はそれぞれにきせるをくわえ、アリがそれに火をつけ、アリはコーヒーをとりに行った。
しばらく沈黙が続いた。その間シンドバッドは、会話を交わしている最中でさえも、たえず彼の心を占領しているように見える考えを追っていた。そしてフランツは、上等なたばこが、煙とともにいっさいの精神の悩みを運び去り、その代わりに魂の夢を与えてくれるかのように、たばこを吸うものがよく陥いるあの夢想にふけっていた。
アリがコーヒーを運んで来た。
「どういうふうにして召し上がりますか」と、謎の男が訊ねた。「フランス風、それともトルコ風? 濃くですか薄くですか。砂糖を入れて、入れずに? ドリップで、それとも煮立てて? どのようにでも。あらゆるものが用意してあります」
「トルコ風でいただきます」
「ごもっともです」と主は言った。「それで東方の暮らしに向いておいでのことがわかりますよ。東方の人びと、ああ、彼らのみが真の生き方を知っています。私はね」と、つけ加えた時、彼が浮かべた不思議な笑いをフランツは見逃さなかった。「パリでの仕事を終えたら、東洋へ行って死にたいと思うのです。もしその頃私に会おうとなさるなら、カイロかバグダッドかイスパハン〔イランの町〕あたりで私を深さねばならぬでしょう」
「なあに、そんなことはいともたやすいことですよ。ワシの翼が生えて来たような気がします。この翼さえあれば、一昼夜で世界一周できますからね」
「は、はあ。ハシッシュが効いてきましたね。それではその翼をひろげて、超人間的な世界を羽ばたいて下さい。なにもご心配はありません。私どもがあなたを見守ってますから。で、もしイカルスの翼のように太陽の熱で溶けるようなことがあれば、私どもが落ちてくるあなたを抱きとめてさしあげますから」
そこで彼は、アラビア語でアリに二言三言ささやいた。アリはわかりましたというしぐさをして、身を退けたが、部屋を立ち去りはしなかった。
フランツのほうは、彼の内部に不思議な変化が起きていた。昼間の肉体的な疲労も、晩の一連の出来事によってもたらされた精神的な懸念も、いわば、眠りが訪れてくるのをまだ感じとることのできるあの眠りはじめの時のように、すっかり消滅してしまった。彼の身体は、まるで実体の失せたもののように軽くなった。頭は、いまだかつてなかったほどに冴《さ》えわたり、感覚はその能力を倍加したように思えた。水平線がひろがる。だがそれはもはや、彼が眠りに落ちる前に見た、その上に漠たる不安をただよわせていたあの暗い水平線ではない。青く、透明な、広びろとした水平線である。海の青さのことごとくを、太陽のきらめきのことごとくを、微風の香りのことごとくをそなえた海だ。それから彼は、水夫たちの歌声の響く中に、あまりにも清くあまりにも澄んだ歌声なるが故に、もし譜面に写しとることができたならば、神の調べとも言えたであろうその歌声の響く中に、モンテ・クリストの島が現われるのを見た。これとてももはや、波に牙をむく岩礁ではなく、砂漠の奥のオアシスのように。舟が近づくにつれて歌声は数を増した。あたかも、ローレライのごとき妖精が、あるいはまたアンフィオン〔ギリシア神話の神。彼の竪琴の音に石がひとりでに集まり城壁を作ったという〕のごとき妖術師が、魂を呼び寄せ、あるいは町を築こうしているかのように、この神の島からは、妖しくも神秘な調べがたちのぼっていたのだ。
ついに舟は岸に着いた。が、二つの唇が合わせられたときのように、衝撃もなく舟の揺れもなかった。彼は洞窟に入った。魅惑的な楽の音はまだなり止まぬ。彼は、キルケ〔オデュッセイアの伝説で有名な日神の娘〕の洞窟のあたりに吹く風もさこそと思われるような、かぐわしい空気を吸いながら、階段をなん段か降りた、いや降りたと思った。精神に夢を描かせる香気と、官能を焼き尽す情炎とがかもし出すあのキルケの洞窟のあたりに吹く風のような空気を吸いながら。そして彼は眠りに落ちる前に見たものをみなふたたび見た。幻想的な主のシンドバッドから、唖の召使いのアリに至るまで。ついでそれらのものは、幻燈の灯《あかり》を消したときの残映のように、彼の眼前で混じり合い姿を消した。すると彼は立像のある部屋にいた。夜の間、眠りと官能の悦楽とを見守る、古い青白いランプだけがその部屋には灯されていた。
淫蕩と詩情とに溢れた豊満な肢体の、あのさっき見た立像。吸い寄せるような目、煽情的な唇、豊かな髪。それはフリュネ〔ギリシアの娼婦〕、クレオパトラ、メサリナ〔ローマの妃。淫蕩で有名〕、三人の偉大な娼婦たちであった。それからこれらの淫らな女どもの幻のまん中に、オリンポスの神々のさ中のキリスト教の天使のように、清純な一筋の光明のように、純潔な乙女の顔が一つ、静かな幻が一つ進み出た。石像どもの淫らな肢体にその汚れを知らぬ額を覆うかに見える、あのしとやかな姿が一つ。
それから彼は、その三つの石像が、三つの恋情を一人の男の上に集めたように思った。男とは彼であった。女どもは、夢の中でまた夢を見ていた彼のベッドに近づく。白い長い寛衣《チュニック》の裾に足をかくし、胸はあらわに、ほどけた髪を波うたせ、神々を屈服させ、聖者のみがこらえることのできたあのポーズで、鳥を射すくめるヘビのような、冷酷な燃えさかる目をして。抱擁にも似た悩ましさと、接吻にも似た悦楽とをそなえたこの目に、彼は全身をゆだねた。
フランツは目を閉じたように思う。そして閉じる寸前に周囲に投げた視線で、すっかり顔を覆ったあの清純な石像の姿をかすかに捉えたように思う。彼の目は現実の物には目を閉ざし、彼の官能は、どうしようもない感覚に対して開放された。
絶え間なき官能の悦楽であった。予言者が、選ばれた者にのみ約束した休みなき愛の交合であった。石の唇がみな生きたものとなった。石の胸に暖かく血が通った。ハシッシュの力をはじめて味わうフランツにとっては、蛇のとぐろのような、冷たくしなやかな石像どもの唇が、かわるがわる彼の口に重ねられるのを感ずるとき、この愛は苦痛であり、この官能の悦楽は拷問に等しかった。だが、彼の手が、このいまだ味わったことのない愛をしりぞけようとすればするほど、彼の官能は、ますますこの神秘な夢に魅了され、魂までも投げ出してしまうほどの苦闘の末に、惜しみなく身も心も与えてしまったのだ。そして、ついには、この石の女どもの愛撫と、この途方もない夢の魔力に息も絶えだえに、疲労に全身を焼かれ、官能のすべてを汲み尽されて、うち倒れたのであった。
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三十二 めざめ
目をさましたとき、フランツにはあたりの事物が夢の第二部のような気がした。自分は、憐憫の眼差しのような日の光が辛うじてさしこんでいる、墓の中にいる。手をのばすと、石の感触があった。身体を半ば起こしてみた。彼は、外套にくるまり、芳香を放つ柔らかな乾いたヒースのしとねの上に寝ているのであった。
すべての幻影は消え失せていた。石像たちは、彼が夢を見ている間だけ、彼女らの墓穴から出て来た亡霊のように、目ざめとともに逃げ去った後であった。
彼は、陽のさしこんで来るほうへなん歩か歩いた。夢の激しさの後に、現実の静けさがあった。彼は洞穴の中にいるのだった。入口のほうに進む。アーチ形の入口を通して、青い空と紺碧の海が見えた。大気と水とは、朝日を浴びてまばゆく輝いている。海岸では水夫たちが腰をおろして談笑していた。岸から十歩ほどの所で、錨を入れた舟がゆったりと揺れていた。
彼は、額を吹きぬけるさわやかな微風をしばし味わっていた。岸に打ち寄せ、銀のような白い泡のレースを岩礁のあたりに残す、かすかな波の音を聞いた。人が幻想的な夢からさめたときには、ひとしお神々しいものに感ずる大自然の事物の持つ魅力に、彼は無念無想のまま身をゆだねていた。次第に、この静かな、清らかな、そして偉大な外界のいとなみが、彼に、あのまこととも思えぬ眠りを思い起こさせ、さまざまな思い出が記億の底に蘇えり始めた。
彼は、この島に到着したこと、密輸業者の頭《かしら》に紹介されたこと、豪奢をきわめた地下の宮殿のこと、すばらしい夕食のこと、一さじのハシッシュのことを思い出した。
ただ、陽のさんさんとふりそそぐ現実の世界を前にしては、これらすべてのことは、少なくとも一年も前に起きたことのように思えるのだった。それほど彼の見た夢は、生き生きと彼の脳裡に蘇えり、彼の頭の中に大きな位置を占めていた。だから、彼女らの愛撫で彼の夜を彩どったあの幻たちの一人が、水夫らのまん中に坐っていたり、舟の上で揺れていたりする姿が目に浮かぶのであった。その上、頭はまったくすっきりしており、肉体に疲れはまったく残っていなかった。頭が重いなどということもなく、その逆に、身体全体を幸福感が包み、空気と陽の光とを、いまだかつてなかったほどに、存分に吸いこむことができるのだった。
だから彼は、明るい足どりで水夫たちに近づいて行った。
水夫たちは彼の姿を見ると、すぐ立ち上がって、船頭が近寄って来てこう言った。
「シンドバッドの殿様が、男爵様にくれぐれもよろしくとのことでごぜえやした。そんで、男爵様にお別れの挨拶ができねえのが大へん残念だが、急にマラガヘ行かねばならなくなったのでお許し願いてえとおっしゃってましたです」
「ああ、それじゃ、やはりあれはみんなほんとうだったんだな。この島で僕を招待してくれて、まるで王侯のようなもてなしをしてくれた、そして僕が眠っている間に発ってしまった人が実際にいるんだな?」
「いらっしゃいますとも。ほれ、あそこにあの方のヨットが帆をいっぱいに張って遠ざかって行きまさあ。望遠鏡をお使いになりゃ、たぶん、乗組員のまん中にいなさるそのお方が見えますでごぜえます」
こう言ってガエタノは、コルシカの南端めがけて帆走する小さな船のほうに腕をのばした。フランツは望遠鏡をとり出し、焦点を合わせ、示された位置に向けた。
ガエタノの言った通りであった。謎の外国人は彼のほうを向いて立っていた。彼もまた望遠鏡を手にしていた。前の晩、フランツと食卓を共にしたときと寸分違わぬ服装をして、別れの合図にハンカチを振っている。
フランツは、彼もハンカチをとり出し、相手が振るのと同じように、彼もハンカチを振ってその挨拶に答えた。
一瞬後に船尾にかすかな煙が見え、ゆるやかに後方に流れ、ゆっくり空に昇って行った。やがてかすかな砲声がフランツの耳に達した。
「お聞きになりましたか」ガエタノが言った。「お別れの挨拶でさ」
青年はカービン銃をとり、空に向けて発砲した。だが、銃の音が、ヨットと海岸とを距てる距離を越えて届く望みはなかった。
「どういたしやしょう」ガエタノが言った。
「まずたいまつに火をつけてくれないか」
「ああわかりやしたよ、魔法の御殿の入口を探そうってんでしょう。お望みならご随意にどうぞ。お申しつけのたいまつは差し上げますです。あっしも、あなた様とおんなし考えにとりつかれましてね、三、四回気まぐれを起こしてやってみましたが、とうとう諦めちまったんでさ。ジョヴァンニ、たいまつに火をつけて、男爵様に差し上げろ」
ジョヴァンニはその通りにした。フランツはたいまつを手に、ガエタノを従えて地下に入った。
彼は、自分が目をさました場所をみつけた。ヒースのしとねがまだ踏みしだかれたままになっている。だが、洞穴の壁をくまなくたいまつで照らしてみても無駄であった。なにもなかった。煙の痕があったので、彼の前にもすでに同じような調査を無駄に試みた者がいたことがわかっただけである。
しかしながら、まるで未来そのもののように、立ち入る術のないその花崗岩の壁を、彼は一フィートも余さずに調べたのである。彼の狩猟用短剣の刃がさし込まれぬ割れ目は一つもなかった。彼は、どんな岩の突起も、あるいは動くのではないかと思い、見れば必ず押してみたのだ。だが、すべては無駄であった。彼はなんの成果も得られぬままに、この捜索で二時間を失ったのである。それだけの時間の後に彼は諦めた。ガエタノは、そうれごらんなさい、という様子を示していた。
フランツが砂浜に戻ったときには、もうヨットは水平線上の小さな白い点でしかなかった。望遠鏡の助けをかりてみたが、それを使っても、なにも見わけることはできなかった。
ガエタノは彼に、この島へ来たのは山羊を撃つのが目的であったことを思い出させた。彼はすっかり忘れていたのである。彼は銃をとり、楽しむというよりは、義務を果たすといった様子で島をかけ廻り始めた。十五分後には山羊を一頭と仔山羊を二頭仕止めた。だがこの山羊は、カモシカのように野生で敏捷ではあったが、あまりにも人が飼う山羊に似ていたので、フランツには狩の獲物とは思えなかった。
それに、それとはまったく別の強烈な印象が、彼の頭をいっぱいにしていた。前夜以来、彼はまさにアラビアンナイトの主人公で、どうしても彼は、例の洞穴のほうへ引き戻されるのであった。
一回目の捜索が無駄であったにもかかわらず、二頭のうち一頭の仔山羊を焼くようガエタノに命じてから、彼は二回目の捜索を始めたのだった。この二度目の調査はかなり長い時間続けられた。というのは、彼が戻ってみると、仔山羊は焼き上がっており、昼食の準備ができていたからだ。
フランツは、前の晩、あの謎の男の使いが夕食に彼を招きに来たときと同じ場所に腰をおろした。彼には、波の頂をたゆたうカモメのような、コルシカに向けて進み続ける小さなヨットの姿がまだ見えていた。彼はガエタノに言った。
「それにしても、お前はさっき、シンドバッド殿はマラガに向けて出帆したと言ったが、僕にはどうも、まっすぐポルト・ヴェッキオ〔コルシカの港〕に向かっているように思えるなあ」
「あの船に乗ってる連中の中に、今は、コルシカの山賊が二人いるって申し上げたのをお忘れになったんですかい」
「そうだった。岸にそいつらを上げてやるのか」
「その通りで。まったくあのお方は、神も悪魔も恐れねえお人だと人は言うが、哀れな男一人のために、わざわざ五十里も遠まわりをなさるお方なんでごぜえやす」
「だがそんなにしてやったら、そんな慈善をほどこした国の当局と、いざこざを起こすことになるだろうに」
「なあに」ガエタノは笑った。「そんなものがあのお方にとって何だってんです、当局なんてのが。あのお方は、そんなものは歯牙にもかけねえ。追っかけてみるがいいや。でえ一、あのヨット、ありゃ船じゃねえ、ありゃ鳥だ。十二ノットのフリゲート艦にだって、三ノットも差をつけちまう。それに陸に上がっちまえば、どこにだって仲間がいねえ所はねえんでさ」
この話で最も明白なことは、フランツを招いてくれたシンドバッドの殿様なる男が、地中海沿岸全域の密輸業者ならびに山賊たちと知己の間柄であるということであった。このことは、その男の立場をかなり奇妙なものにせずにはおかぬものであった。
フランツにとっては、もはやモンテ・クリスト島には、なにも彼を引きとめるものはなかった。すでに洞窟の秘密をあばく希望を失ってしまった彼は、食事が終るまでに舟の支度をしておくように水夫たちに命じて、急いで昼食をとり始めた。
三十分後に彼は船上にいた。
彼は最後の視線をヨットにそそいだ。ヨットはポルト・ヴェッキオ湾に姿を消そうとしていた。
彼は出発の合図をした。
小舟が動き始めたとき、ヨットの姿は消えた。ヨットとともに、前夜の事件の現実性も消えていった。夕食も、シンドバッドも、ハシッシュも、石像たちも、フランツにとってはいっさいが一つの夢の中に溶けこんでしまうのであった。
小舟は昼いっぱい、そして夜を徹して走った。そして翌る日、太陽が昇ったとき、今度はモンテ・クリスト島が姿を消した。
一度上陸してしまうと、フィレンツェでの遊びの始末やら挨拶廻りなどにとり紛れて、彼は一時ではあるが、起きた一連の出来事を忘れていた。そして、ローマで待っている友と落ち合うことしか念頭になかった。
彼は出発し、木曜日の夕方、郵便馬車で税関広場に到着した。
前に述べたように、部屋は予約してあった。だから、パストリーニ親方のホテルに辿りつけばよかったのだ。これが容易なことではなかった。道路が群衆でいっぱいだったからだ。ローマは早くも、大きな行事の前のあの熱にうかされたようなざわめきの巷《ちまた》と化していたのだ。ところで、ローマには四つの大きな年中行事がある。カーニヴァル、復活祭、聖体祭、それに聖ペテロの祭である。
それ以外の時期は、この町はふたたび、生と死との間の状態、暗い無感覚な状態に落ちこみ、この世とあの世との一種の中継点といった風情をただよわせる。崇高な中継点、詩情に溢れたきわめて特徴的な憩いの場所で、すでに五、六度足をとめたフランツは、その度ごとにますますその美と幻想とにうたれるのだった。
やっとの思いで、ますます数を増し興奮の度を高めていく群衆をかきわけ、フランツはホテルにたどり着いた。最初に彼が訊ねたのに対しては、予約済の馬車の御者や、満員の宿屋の主に特有のあの不作法な態度での、ロンドン・ホテルに部屋はないという返事が返ってきた。そこで彼は、パストリーニ親方に名刺を届けさせ、アルベール・ド・モルセールを呼んでくれと言った。この方法はうまくいって、パストリーニ親方は自ら飛んで来て、閣下をお待たせして申し訳ありませんと詫び、ボーイどもを叱りつけ、すでに客にまといついていた案内人《チチェローネ》の手から手燭をとり、アルベールの所へ案内しようとした。そのときアルベールもそこへ迎えに出た。
部屋は二つの狭い寝室に小部屋が一つついていた。寝室のほうは二つとも道路に面していて、これがパストリーニ親方の自慢の種で、まるではかり知れぬ値打ちがあるのだとでも言うかのようであった。その階のほかの部屋は全部、たぶんシチリア島かマルタ島の人と思われるたいへん富裕な旅行者が借りきっていた。その客が、どちらの島の男か、ホテルの主は言うことができなかった。〔異本ではここにモンテ=クリスト伯爵の名が出てくる〕
「結構だよ」とフランツは言った。「だが今すぐ必要なのは夕食を何か用意してくれることだ。それから、明日以後の馬車だ」
「お食事のほうは」とホテルの主が言った。「ただいますぐにお支度いたしますが、馬車のほうは……」
「なんだって、馬車のほうはだと?」アルベールが叫んだ。「ちょっと待ってくれ、ちょっと。冗談を言っちゃいけないよ、僕たちは馬車がいるんだ」
「お客様、手前どもは、なんとか一台ご用立てするよう、できるだけのことはいたしてみますが、それ以上のことは申し上げかねます」
「で、いつ返事がもらえる」フランツが訊ねた。
「明朝」
「なあに、金を余計払えばいいのさ。わかってるよ。ドレイクでもアアロンでも、ふだんの日なら二十五フランなのが、日曜祭日には三十フランか三十五フランだ。一日五フランの手数料をやって、四十フランだ。それで手をうとうや」アルベールが言った。
「その倍をお出しになっても、お客様方が馬車を手に入れることはむつかしかろうと心配しておりますのです」
「それなら僕の馬車に馬をつなげばいい、旅でいささかいたんでるが、まあいいさ」
「その馬がみつかりそうにないのでございます」
アルベールは、わけのわからぬ返事をされた男の顔をして、フランツの顔を見た。
「どういうことだかわかるかい、フランツ。馬がないんだってさ。でも駅馬ならあるだろう、それは使えないのかな」
「二週間も前から予約済でございます。今じゃ、駅馬としてどうしても必要なものしか残っておりません」
「どうする」フランツが訊ねた。
「僕はね、自分の知能の限界を越えることには、もう頭を悩まさないで、ほかのことを考えることにしてるんだ。パストリーニ親方、夕食の支度はできたかい」
「はい、閣下」
「それじゃ、まず飯だよ」
「でも、馬車と馬は」フランツが言った。
「心配するなよ。ひとりでにやって来るさ。金さえ出せばいいんだ」こう言ってモルセールは、財布がふくれ、紙入れに札が入っていれば、不可能なことはなにもないのだという、あの驚くべき哲学を捧じて、食事をすませ、床に入り、枕を高くして眠り、六頭立ての馬車でカーニヴァルを見物している夢を見た。
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三十三 ローマの山賊
翌日、フランツのほうが先に目をさました。そして目をさますと同時にベルをならした。
まだ鈴の音が鳴りやまぬうちに、パストリーニが自ら姿を現わした。
「やはり」とホテルの主人は、そらごらんなさい、といった顔で、フランツが訊ねるのも待たずに言うのだった。「昨日、お約束をしなかったときに思った通りでございました。手遅れでございまして、ローマにはもう馬車はただの一台もございません。最後の三日間は、の意味ですが」
「ということは、一番馬車がほしい時じゃないか」
「どうしたんだい」アルベールが入って来て訊ねた。「馬車がないのか」
「そうなんだよ。一目で見抜いたね」
「そりゃまた立派な都だね、お前たちご自慢の永遠の都も」
「閣下」客たちにこのキリスト教世界の首都をやはり威厳のある町と思わせておきたかったパストリーニが答えた。「つまり、日曜の朝から火曜の晩までは馬車が一台もないという意味でして。それまででしたら、お望みなら五十台でもご用立ていたします」
「ほう、それだけでも大したことだよ」アルベールが言った。「今日は木曜だ。日曜までに、どんなことがやって来るかわかるものか」
「やって来るのは一万から一万二千人もの観光客だよ」フランツが答えた。「そうなりゃ、ますます馬車なんか手に入らなくなる」
「今を楽しもうや、先のことをくよくよしないでさ」アルベールが言った。
「せめて」フランツが訊ねる。「窓ぐらいは確保できるんだろうね」
「どこに面した窓で」
「コルソ通りさ、きまってるじゃないか」
「へ、はい、窓を」パストリーニは大声を出した。「とんでもない、てんで駄目でございます。ドリア邸の六階に一つだけ残っておりましたが、ロシアの皇族の方が、一日二十ツェキーノ〔昔の金貨〕で借り上げてしまいました」
二人の青年は、あっけにとられて互いに顔を見合わせた。
「こうなったら」とフランツがアルベールに言った。「一番いいのは何だと思う、ヴェネチアでカーニヴァルを過ごすのさ。馬車はなくてもゴンドラがあるよ」
「いや、そんなのは駄目だ。僕はローマのカーニヴァルを見物することに決めているんだ。必ずローマで見てやるぞ、竹馬に乗ってでも」
「ああ、そいつはすごい思いつきだ」フランツが叫んだ。「とくにろうそく(モコレッティ)を消すときにはね。操り人形の吸血鬼かランドの住民に扮したら、ものすごく受けるよ」
「いずれにいたしましても、日曜までの馬車はお入り用でございますか」
「当り前だよ」アルベールが言った。「僕たちが執達吏の書生みたいに、ローマの街を徒歩で走り廻るとでも思ってるのか」
「急いでお申しつけに従います。ただ、申し上げておきますが、一日六ピアストルになっております」
「僕はね、パストリーニ親方」フランツが言った。「僕はお隣りの人のようなお大尽ではないから、今度はこちらから申し上げよう、僕がローマヘ来たのはこれで四回目だ。ローマの馬車の、ふだんの日、日曜、祭日の値段ぐらいは知ってるよ。今日、明日、明後日の分として十二ピアストルやる。それでもうんと儲かるじゃないか」
「ですが閣下」パストリーニは抗弁しようとした。
「行けよ」フランツが言った。「さもないと僕はお前の御者とじかに交渉するぞ。あれは僕の御者でもあるんだ。あれは僕の前からの馴染みでね。今までにも僕からずいぶん金をふんだくった。まだこれから先もふんだくれるだろうというので、僕がお前にやると言った額より安く手をうつぞ。そうなれば、お前は差額を儲け損なうことになるが、自業自得だよ」
「いえ、それには及びません」パストリーニは、かぶとを脱いだイタリアの商売人特有のあの笑いを浮かべながら言った。「できるだけ手前がやってみましょう、ご満足いただけると存じます」
「結構だ、これでこそ話し合いというものだ」
「馬車はいつご入り用でしょうか」
「一時間後だ」
「では一時間後には玄関におつけいたしておきます」
実際に、一時間後には、馬車が二人の青年を待っていた。粗末な辻馬車であったが、場合が場合なので、お抱え馬車に格上げしたものであった。が、たとえ、その馬車がどんなに外見がみすぼらしくても、こんな馬車を最後の三日間使うことができたら、二人の青年はどれほど喜んだろうか。
「閣下」窓ガラスに鼻を押しつけているフランツの姿を見た案内人が叫んだ。「お召し車をお邸におつけしますか」
イタリア人の誇張癖には馴れているフランツも、はじめはあたりを見廻した。だが、この言葉がかけられたのは、まさしく自分に対してであった。
フランツは閣下であり、お召し車とはぼろ馬車のことで、お邸とはロンドン・ホテルのことであった。
この国民の、事を大げさに誉めそやす才能がこの言葉の中に余す所なく現われていた。
フランツとアルベールは下に降りた。お馬車がお邸に近づいた。閣下たちは座席の上に脚をのばし、案内人は後ろの席に飛び乗った。
「どちらへご案内申し上げましょう」
「まずサン=ピエトロ寺院、それからコロセウムだ」と、生粋のパリっ子らしくアルベールが言った。
だがアルベールが知らないことがあった。それは、サン=ピエトロ寺院を見物するにはまる一日かかり、十分に見きわめようとすればまる一か月もかかるということであった。だから、サン=ピエトロ寺院を見物しただけで、昼間が全部つぶれてしまった。
ふと気がつけば、もう日が沈みかけていた。
フランツは時計をとり出した。四時半である。二人はただちにホテルに戻った。玄関の所でフランツは、御者に八時にまた馬車を用意しておくように命じた。サン=ピエトロ寺院を昼間見せたので、月光の下でのコロセウムを友に見せたかったのである。自分がすでに見た町を友人に見せるときには、かつて自分の愛人であった女を見せる場合と同じ気取りを示すものである。
そこでフランツは、御者に道順を示した。まずポポロ門を出て、城壁の外側ぞいに進み、サン=ジョヴァンニの門からまた市内に入る。こうすれば、コロセウムはなんの前ぶれもなしにいきなり眼前に姿を現わし、カピトリヌスの丘や、フォールム〔古代ローマの公共広場〕、セプティミウス・セウェルスの凱旋門、アントニヌス皇帝とファウスティナ皇后の神殿、ヴィア・サクラといった遺跡の数々を行く途中で見てしまって、コロセウムをあまり巨大とも感じなくなってしまうようなことがないのだ。
二人は食卓についた。パストリーニ親方は、すばらしいご馳走を約束していた。彼は二人にまあまあな夕食を出した。べつに文句をいうことはなかった。
食事が終る頃、パストリーニが入って来た。フランツは、彼が食事をほめてもらいたいのだろうと思い、ほめようとして、言いかけると、彼はすぐその言葉をさえぎり、こう言うのだった。
「閣下、おほめにあずかり大へんうれしうございます。が、手前が参上しましたのはそのためではございませんので……」
「馬車がみつかったのかい」アルベールが葉巻に火をつけながら訊ねた。
「いえいえ。閣下、もう馬車のことはお考えにならず、覚悟をおきめになって下さい。ローマでは、事は、成るか、成らぬかのいずれかでございます。できません、と申しましたら、もうそれでおしまいなのです」
「パリではもう少し融通がきくね。駄目なときは倍払えば、ほしいものが即座に手に入るのさ」
「フランスの方はみなさんそうおっしゃいますが」と、多少むっとしてパストリーニが言った。「それではどうして旅になどお出になるのか、手前にはわかりかねます」
「だから」とアルベールは、椅子の後ろの二本の脚だけに体重をかけて身体をのけぞらせ、煙を天井に向けて吐き出しながら言った。「旅行なんかするのは、僕たちみたいな頭のおかしい阿呆どもさ。気のきいた連中は、エルデ通りの邸とガン大通り、それにカフェ・ド・パリから離れたりするもんか」
言うまでもなく、アルベールはこの通りに住んでいて、毎日粋な散歩をし、ボーイと馴染みになった場合には客が夕食もとるそのただ一軒のカフェで、ふだんの日は夕食をとっていたのだ。
パストリーニ親方はしばらく口をつぐんでいた。なんと返事をしようかと考えているのだが、どうもはっきり考えがまとまらぬらしい。
「そんなことより」アルベールが、宿の主《あるじ》の風土に関する考察をさえぎった。「ほかに用があって来たんだろ、来たわけを聞かせてくれないか」
「あ、そうでした。こういうことなのでございます。八時にお馬車をお命じなさいましたね」
「そのとおりだ」
「コロッセオにおいでになるおつもりで」
「コロセウムのことか」
「まったく同じでございます」
「それならそうだ」
「御者に、ポポロ門から出て城壁の外を廻ってサン=ジョヴァンニ門からまた市内に入れとおっしゃったとか」
「たしかに言った」
「それなら、その道順は駄目でございます」
「駄目!」
「少なくとも大へん危のうございます」
「危ない、どうして」
「あの有名なルイジ・ヴァンパがおりますもので」
「まずはじめに聞くが、その有名なルイジ・ヴァンパっていうのはいったい何だ」アルベールが訊ねた。「ローマじゃ有名かもしれんがパリじゃ聞いたことがないね」
「なんですと、ご存じない?」
「残念ながらね」
「この名前を一度もお聞きになったことがございませんか」
「一度も」
「ならば申しますが、これは山賊で、この山賊にくらべたら、デゼラリスとかカスパローネといった手合いなど、聖歌隊の子供たちのようなもので」
「気をつけろ、アルベール」フランツが叫んだ。「とうとう山賊が出てきたぞ」
「親方、言っておくけどね、僕はお前が言うことなんか、一言も信じやしないぞ。ただ、ここでこう前置きするならいくらでも聞いてやる、『昔むかしある所に……』とね。さあしゃべれ」
パストリーニ親方はフランツのほうを見た。この二人の青年の中では、フランツのほうがまだ物わかりがいいように思えたのだ。まともな男と話をすべきである。親分はこれまでに数多くのフランス人を泊めた。が、フランス人の考え方には、どうしても理解できない面があったのだ。
「閣下」とパストリーニは、非常に真剣な顔をして、前述のようにフランツに向かって言った。「もし手前を嘘つきとお思いなら、申し上げておきたいと思っておりますことを申し上げても無駄でございます。ですが、お二人のおためを思えばこそ申し上げたいのだということは断言できます」
「なにもアルベールはお前を嘘つきだと言ってるわけじゃないよ、ただ信じないと言ってるだけだ」フランツが言った。「僕は信じるよ、だから安心して話してくれないか」
「でも閣下、手前がいつでもほんとうのことしか言わぬということを疑われたのでは……」
「お前はカッサンドラ〔ギリシア英雄伝説の女予言者〕より気むずかしいな。カッサンドラはそれでも予言はしたが、誰一人彼女の言葉を信じなかった。お前の場合は少なくとも、聞き手の半分には信じてもらえるんじゃないか。まあ坐れよ、そしてヴァンパ氏が何者なのか話してくれ」
「さきほど申しましたように、ヴァンパというのは、あの有名なマストリルラ以来見なかったような山賊でございます」
「で、その山賊と、僕が御者に、ポポロ門から出てサン=ジョヴァンニの門から入れと言ったのと、どういう関係があるんだ」
「たしかにポポロ門から出ることはおできになるでしょうが、もう一つの門から入るわけにはいくまい、ということなんでして」
「どうしてまた」
「夜になりますと、門から五十歩も出ればもう安全というわけには参りませんものですから」
「ほんとうか」アルベールが叫んだ。
「子爵様」パストリーニは、アルベールが自分の言葉に対して表明した不信の念に、またしても心の底まで傷つけられた。「手前は、あなた様に申し上げているのではございません。ローマをご存じで、手前どもがこんなことでは冗談など言わぬということをよくご存じのおつれ様に申し上げておるのでございます」
「おいフランツ」アルベールがフランツに向かって言った。「こいつはすばらしい冒険だぞ。馬車にピストルや短銃、それに二連銃を詰め込むんだ。ルイジ・ヴァンパが僕たちを掴まえに来たら、こっちが掴まえてやる。ローマヘつれて来るんだ。そして法王に献上すれば、これほどの大手柄に何をお礼に差し上げよう、ということになるぜ。そしたら、単刀直入に、お厩《うまや》の馬を二頭と馬車が一台欲しいと言ってやるんだ。カーニヴァルを馬車で見物できるってわけさ、それにおそらくローマの連中は、カピトリヌスの丘で僕たちに冠を与え、クルティウスやホラティウス・コクレスのような、祖国の救世主とあがめるだろうがね」
アルベールが長ながとこんなことを言っている間、パストリーニは何とも言えぬ顔をしていた。
「第一」とフランツはアルベールに言った。「その馬車に積み込むというピストルやら短銃やら二連銃やらをどこで手に入れるんだ」
「まったくのところ僕の兵器庫にはないね。テラチーナ〔ローマの南の町〕で短刀まで没収されちまった。君のは」
「僕のも、アクアペンデンテで同じようにやられちまったよ」
「おい、親方」と一本目の葉巻の火を二本目に移しながらアルベールが言った。「そういう措置は、盗賊どもにとってまったく都合がよいとは思わんかね。どうも分捕り品を連中と山分けしてるとしか思えないんだが」
おそらくパストリーニ親方はこの冗談をたちのよくないものと思ったにちがいない。彼は生返事しかせず、まともに話し合えるだけの道理をわきまえているのはフランツだけというかのように、フランツに話しかけた。
「山賊に襲われたら抵抗しないのがふつうだぐらいのことは、閣下はご存じと思います」
「なんだと!」勇気があるので、ただ言いなりに持ち物を奪われるという考えにがまんができないアルベールが叫んだ。「抵抗しないのがふつうだ?」
「さようで、どんなことをしたって無駄でございます。溝やあばら屋の中、あるいは水道橋のかげからおどり出て、お二人を同時に銃でねらいすます十人以上もの山賊相手に、どうなさるおっもりでしょうか」
「ええい、畜生! そうなったら殺されるまでだ」アルベールが叫んだ。
宿の主は、まったくおつれ様は頭がどうかなさってますな、とでも言いたげな様子で、フランツのほうを向いた。
「アルベール」フランツが言った。「君の返事は崇高なものだよ。老コルネーユ〔十七世紀のフランスの大悲劇作家〕の、『死ねばよかった』〔コルネーユの悲劇『オラース』の有名なせりふ〕にも匹敵する。ただね、オラースがこの返事をしたときは、ローマの存亡がかかってたからそれだけの価値があったのさ。ところが僕たちの場合は、気まぐれを満足させようというだけの話じゃないか。気まぐれのために命をかけるなんてのは滑稽だよ」
「ああ、その通りで!」パストリーニ親方が叫んだ。「ほんとによござんした。それこそ話というもんでございます」
アルベールはラクリマ・クリスティ〔『キリストの涙』の意。有名なワイン〕を自分で注ぎ、ちびちび飲みながらわけのわからぬことをぶつぶつ言っていた。
「それじゃ親方」フランツがまた言った。「僕のつれも気が静まったようだし、僕が手荒なことなどするつもりのないことはわかってくれたんだから、ルイジ・ヴァンパ殿がどういうお人なのか話してくれ。羊飼いか、それとも貴族なのか。若いのか年寄りなのか、小男か大男か。それを聞かせてくれよ。もしジョヴァンニ・スボガールやララのようにどこかで出会うようなことがあったら、せめてこの人だとわかるようにね」
「ヴァンパのそういうことでしたら手前にお訊ね下さるのが一番でございます。なにしろ手前は、ルイジ・ヴァンパがまだほんの子供の頃から知っておりますんですから。手前自身、ヴァンパの手に落ちてしまったことがありましてね、フェレンチノからアラトリ〔ともにローマの南東の町〕へ参ります途中でしたが、手前にとっては幸いなことに、ヴァンパは昔のことを覚えていてくれましてね、そのまま通してくれました。通行税を払わせなかったばかりか、まことに見事な時計を贈ってくれまして、身の上話を聞かせてくれたんでございます」
「その時計を見せてもらおうじゃないか」
パストリーニはチョッキのポケットから、製作者の銘入りの見事なブレゲ〔フランスの有名な時計製作者。その手になる時計〕を取り出した。パリの印と伯爵の冠が刻まれている。
「これでございます」
「ちぇっ」アルベールが言った。「これはすばらしい。僕も同じようなのを持ってるが、――彼はチョッキのポケットから自分の時計を出し――これは三千フランもしたんだ」
「話のほうを聞こう」今度はフランツが、椅子を引き寄せ、それに腰をおろすようにと目顔で知らせながら言った。
「掛けましてもよろしゅうございますか」
「当り前だ」アルベールが言った。「お前は説教師じゃあるまいし、立ったまま話はできないさ」
宿の主は、これから話を聞こうとする二人それぞれに、ルイジ・ヴァンパに関することをいつでもお話しいたしますという意味で、うやうやしくおじぎをしてから腰をおろした。
「ああ」パストリーニが口を開きかけたときに、フランツがそれを制した。「さっきお前は、ルイジ・ヴァンパをほんの子供の頃から知っていると言ったね。とすると、まだ若いのかい」
「若いどころじゃございませんとも。まだ二十二になるかならぬかで。ああ、まだまだ先の長い男でございます、ご安心下さいまし」
「どう思う、アルベール。二十二でそんなに有名になるなんて、すばらしいじゃないか」
「うん、たしかに。あとで世界をいささか騒がせたアレキサンダーもシーザーもナポレオンも、その男ほど若くはなかったな」
「すると」とフランツが宿の主に言った。「僕たちがこれから聞く話の主人公は二十二にしかならぬ男というわけだね」
「なるかならぬかでございます、さきほど申し上げました通り」
「大男かい小男かい」
「背丈はふつうでございます。ちょうど閣下ぐらいで」パストリーニはアルベールを指しながら言った。
「くらべてくれてありがとうよ」頭を下げながらアルベールが言った。
「先へ進めよ、親方」フランツが、友のすぐ腹をたてる性格を笑いながら言った。「どういう階級の男なんだ」
「パレストリナ〔ローマの東の町〕とガブリ湖の中間にある、サン=フェリーチェ伯爵の農園にいた、なんの変てつもない牧童だったのです。パンピナラで生まれて、五つのとき伯爵の所へ奉公したのでございます。父親もアナニの羊飼いで、自分でわずかばかりの羊を持ち、羊毛と、羊の乳をローマヘ売りに来て暮らしをたてておりました。
まだほんの小さいうちからヴァンパはおかしな性格の子でして、七つの時、パレストリナの司祭の所へ参り、字を教えてくれと申したのです。これはむずかしい相談でした。というのは、牧童のほうは羊の群れから離れるわけには参りません。ですがこの司祭はいい方で、あんまり貧しくて司祭にお金を払うこともできないちっぽけな、ちゃんとした名前もなく、ただボルゴ〔『村、部落』の意〕とだけ呼ばれている部落に、毎日通ってミサをあげておりましたので、ルイジに、部落から帰る時刻に、途中で落ち合い、教えてやろうと言ってくれました。ただ時間が短いから十分その短い時間を活用するようにと言い添えて。
子供は喜んでその通りにすることにしました。
毎日ルイジは、パレストリナからボルゴヘ通ずる道へ羊に草を食わせにつれて来ました。毎日朝の九時、司祭が通りかかり、司祭と子供は溝のへりに腰をおろしたのです。牧童は司祭の祈祷書で勉強しました。
三か月後には、子供は字が読めるようになっていました。
それだけではありません。今度は字を書くことを覚えたいというのです。
司祭はローマの書道の先生に、太字、中字、細字と三通りのアルファベットを書いてもらい、このアルファベットを手本にして、鉄のとがったものでスレートに書けば、字が書けるようになると教えました。
その晩すぐに、羊を農園につれ戻してしまうと、幼いヴァンパはパレストリナの錠前屋へ駈けて行き、大きな釘を一本選び、これを鍛え、叩き、丸みをつけて、昔の短刀みたいなものを作りました。
翌日、子供はスレートをいっぱい集めて勉強にとりかかりました。
三か月後には字が書けるようになっていました。
司祭はこの頭のよさと、勤勉さにすっかり感心して、なん冊かのノートとペン一箱、それにナイフを一本ご褒美に与えました。
そこでまた勉強を始めましたが、最初のにくらべれば問題ではありません。一週間後には、例の短剣と同じぐらい上手にペンを使えるようになりました。司祭はこの話をサン=フェリーチェ伯爵にしました。伯爵はその牧童に会ってみたいと言い、自分の前で読ませたり書かせたりした後に、下僕たちと一緒に食事をさせるよう家令に命じ、月に二ピアストルずつ与えました。
この金でルイジは本と鉛筆を買ったのです。
まったくあの子は写生がうまくて、なんでも写生していたのです。子供の頃のジョット〔イタリア中世末期の画家〕のように、スレートの上に自分の羊や木や家などを描いてました。
それからナイフの先で、木を彫り、いろいろな形をこしらえました。あの人気のある彫刻家のピネルリがやはり始めはそうしたように。
六つか七つの、つまりヴァンパより少し年下の女の子が、パレストリナの隣りの農場で羊の番をしていました。ヴァルモントネで生れた孤児《みなしご》で、テレザという名でした。
二人はいつも一緒になって、並んで腰をおろし、二人の羊がごちゃごちゃになるのもかまわず、一緒に草を食べさせながら、おしゃべりをし、笑い合い、遊んでいました。夕方になると、サン=フェリーチェ伯爵の羊とチェルヴェトリ男爵の羊を分け、明日の朝また会おうねと言って、子供たちは別れをつげ、それぞれの農場へ帰ったのです。
翌日、二人はちゃんと約束を守りました。こうして二人はつれだったまま大きくなっていったのです。
ヴァンパは十二、小さなテレザは十一になりました。ルイジは、芸術的な才能を、一人でいてものばせるだけのばしていましたが、その一方で、急に沈んでみたり、不意に熱中してみたり、いきなり怒りだしたりして、いつでも相手を嘲弄するような所のある子でした。パンピナラやパレストリナの少年たちの誰一人としてこの子を手下にするどころか、友だちにさえなれませんでした。どんな譲歩も受け入れず、ただ要求のみするわがままな性格が、この子から、友情とか、共感の表現とかをいっさい遠ざけていたのです。テレザだけが、たった一言、眼差し一つ、身ぶり一つで、女の手にかかるとすぐ譲るけれども、男の手にかかると、相手が誰であろうと、ぽきりと折れてしまうのではないかと思えるほどに硬化してしまうこの子の性格を、思いのままに操っていたのです。
テレザはその反対に、元気がよくて、敏捷で明るく、それにもましてコケットな子でした。だからサン=フェリーチェ伯爵の家令が渡す月二ピアストルの金も、ルイジが木を彫って作った小さな作品をローマのおもちゃ屋で売った金も、みな真珠のイヤリング、ガラスの首飾り、金のピンになってしまいました。この幼いボーイフレンドの気前のよさのおかげで、テレザはローマ近在の百姓娘の中では、一番きれいで一番おしゃれな娘だったわけです。
二人の子供は、昼間中を共に過ごし、喧嘩もせずに持って生まれた性向のままに、大きくなっていきました。ですから、二人の話の中、願いや夢の中では、ヴァンパはいつでも軍艦の艦長とか将軍とか司政官である自分の姿を思い描いていましたし、テレザは、金持ちで、美しい服を着飾り、お仕着せを着た召使いたちにかしずかれる自分を思い描くのでした。そうして、こんな途方もないまばゆいようなアラベスクで自分たちの将来を飾りたてて一日を過ごしてしまうと、二人は別れをつげ、それぞれに自分の羊の群れを羊小屋につれ戻し、同時に、夢の高みから、現実のみじめな立場へとまた降りて行くのでした。
ある日、牧童が伯爵の家令に、サビーネの山から狼が一匹出て来て、羊の群れのまわりをうろついたと申しました。家令は銃を一丁与えました。これこそヴァンパが望んでいたものなのです。
この銃は、たまたまブレシア〔イタリアの町。鉄砲の製造で有名〕の逸品でして、イギリスのカービン銃に劣らぬほどよく弾丸が飛びます。ですがある日のこと伯爵が手負いの狐をうち殺した際に、銃床を傷めてしまいましたので、廃品にしていたものでした。
そんなことは、ヴァンパほどの彫刻師にとっては大したことではありません。前の銃床を調べ、自分の気に入るようにするにはどんなものと取り替えたらいいかすぐ見きわめてしまいました。そして、見事な彫刻をほどこした銃床をこしらえましたので、もしこの木部だけを町で売れば、十五や二十ピアストルの金はすぐ手に入ったはずです。
ですがそんなことをするつもりはありませんでした。銃は長いこと、この若者の夢だったのです。
独立ということが自由の代わりとされている国ぐにでは、雄々しい心、たくましい肉体がまず欲しがるものは武器です。武器は攻撃と防禦とを同時に保証し、これを持つ者を力あるものにし、多くの場合人から恐れられますからね。
この時以後、ヴァンパは暇さえあれば射撃の練習にはげみました。火薬と弾丸を買い、あらゆるものが彼の射撃の的となりました。サビーネの山の斜面に生えている情ない貧弱なオリーブの木の幹、獲物をあさりに夜巣穴から出て来る狐、大空を舞う鷲。やがてすごく上達したので、はじめは銃声を聞いておびえたテレザも、そのこわさを克服して、自分の若い友だちが、当てようと思う場所に、まるで手で持って行って当てるように正確に弾丸を命中させるのを見ておもしろがるようになりました。
ある夕方、二人の若者がいつも坐っている場所の近くのモミの林から、実際に狼が一匹出て来ましたが、林から十歩と歩まぬうちに射ち殺されました。
ヴァンパは見事仕止めたことに得意になって、狼を肩にかつぎ、農園に戻って参りました。
この噂が、ルイジの名を近在にひろめることになったのです。すぐれた男というものは、どこにいても、崇拝者を作り出すものでございます。近在では、この若者を、十里四方の百姓のうち、最も有能で、最も強く、最も勇敢な男と噂するようになったのです。テレザのほうは、もっと広い範囲で、サビーネの娘のうち最も美しい娘と言われていたのですが、誰もこの娘に愛をささやこうなどと思う者はいませんでした。みな、ヴァンパがこの娘を好きだということを知っていたからでございます。
とは申しましても、この若い二人は、お互いに愛しているなどとは一言も言ったことがありません。この二人は、まるで地中で根をからませ、空中で枝をからませ、空で香りを混ぜ合わせている二本の木みたいなものだったのでございます。ただ、お互いに相手の顔が見たいという気持は同じでした。この気持はやがて相手なしにはいられぬ気持となり、一日でも離れているぐらいなら、死んだほうがましと思うほどになってしまいました。
テレザは十六、ヴァンパは十七でした。
その頃、レピニの山に巣喰う山賊の一味の噂がしきりと聞かれるようになりました。ローマの近郊での山賊の跳梁がほんとうに根絶やしにされたことなど一度もありません。頭目がいなくなることはあっても、一度頭目が現われれば手下には事欠きません。
あの有名なククメットが、アブルッツィ〔イタリア中部の地方名。山岳地帯〕で追跡を受け、ナポリ王国では本物の戦争までやらかしたあげくにここを追われ、マンフレド〔十三世紀シチリアの王。フランスのアンジュー公に敗れた〕のようにガリリヤノ河を渡り、アマジネ河のほとり、ソンニノとユペルノの間あたりにやって来て身を隠したのです。
やがてククメットは、世間の関心の的となりました。この頭目については、その常軌を逸した大胆不敵なやり口や言語道断な残忍さが取沙汰されております。
ある日彼は若い娘を一人さらって来ました。これはフロジノーネの測量師の娘でした。山賊の掟ははっきりしています。娘はまずさらって来た男のもの。後はくじ引きで、不幸な娘は、山賊どもが娘を捨てるか、娘が死ぬかするまで、一味の者全員のなぐさみものになるのです。娘の両親が金持で、娘の身代金を払えるなら、山賊は使者を派遣して身代金を交渉します。使者の安全と娘の首がひきかえです。身代金を拒めば、捕えられた娘にとってはもう取り返しのつかぬことになります。
娘には、ククメットの一味の中に恋人がいました。カルリーニという名前でした。
恋人の顔を見ると娘はその男のほうに手をさしのべ、助かったと思いました。が哀れなカルリーニのほうは娘の顔を見ると、心臓が破裂する思いでした。というのは、自分の恋人を待ち受けている運命が十分に予測できたからです。
けれども、カルリーニはククメットのお気に入りでしたし、三年ものあいだ危ない橋を共に渡り、ククメットの頭上にすでにサーベルをふりかざしていた憲兵をピストルで射ち倒し、ククメットの命を救ったこともありますので、ククメットがいくらか自分に情をかけてくれるのではないかという期待を持ったのです。
そこで彼は頭目をわきへつれて行きました。その間娘のほうは、森の中の空地に生えていた大きな松の木の幹にもたれて坐り、ローマ近在の農家の娘のあの派手なスカーフで、山賊どもの淫らな眼から顔をかくしていました。
つれ出すとカルリーニは頭目にいっさいを話しました。さらわれて来た娘との恋のこと、変わらぬ愛の誓いのこと。そして、互いに近く住むようになってから、毎晩、遺跡の中でどれほど逢曳をくり返したかなどを。
その日はちょうどククメットが隣村ヘカルリーニを使いに出したために、逢曳の場所へ行くことができなかったのです。ところが、ククメットは遇然――と頭目は言うのです――そこに行きあわせて、それで娘をさらったというわけです。
カルリーニは頭目に哀願して、自分のために特例を設けてほしい、リタの父親は金持だから身代金はたっぷり払うだろうと言って、リタには手をつけてくれるなと頼みました。
ククメットは子分の願いに動かされたように見えました。そしてカルリーニに、フロジノーネのリタの父親のもとに遣わす適当な羊飼いを探すことを命じたのです。
そこでカルリーニは、喜び勇んで娘のそばに行き、助かったことを告げ、娘に、自分の身の上に起きたこと、身代金は三百ピアストルであることを認《したた》めた手紙を、父親宛に書くようにと言ったのです。
父親には最大限十二時間の猶予が与えられました。
つまり翌日の朝九時までです。
娘が手紙を書き終ると、カルリーニは直ちにその手紙を持って、使者を探しに平地へ駈け降りて行きました。
彼は羊をかこいの中に入れている牧童をみつけました。山賊どもの使者は羊飼いなのでございます。羊飼いたちは山と町の中間、野蛮な生活と文明社会との中間におりますからね。
牧童は、一時間後にはフロジノーネに着くと約束して、すぐ出発して行きました。カルリーニは大喜びで、恋人のもとに戻りこの吉報を知らせてやるために帰路につきました。
一味の連中は空地にいました。彼らは陽気に夕食をとっていましたが、その食物は、山賊どもが年貢と称して百姓たちから徴収して来たものです。この騒いでいる連中の中をいくら探してもククメットとリタの姿は見あたりません。
彼は二人はどこにいるのかと訊ねました。山賊どもの答えは、どっという笑い声でした。冷たい汗がカルリーニの額を流れ、彼は不安に髪をひきむしられる思いでした。
もう一度彼は訊ねました。食事をしていたうちの一人がオルヴィエトのブドウ酒をコップに注ぎ、
『勇敢なるククメットと美人のリタの健康を祝して』
と言いながらコップをカルリーニにさし出しました。
この時カルリーニは、女の悲鳴が聞こえたように思いました。彼はいっさいを見抜きました。彼はコップを取るや、それをさし出していた男の顔に叩きつけ、悲鳴が聞こえた方向へ飛んで行きました。
百歩ほど走り、彼はやぶのかげで、ククメットに抱かれたまま気を失っているリタの姿を見たのです。
カルリーニの姿を見るとククメットは、両手にそれぞれピストルを持ったまま立ち上がりました。
二人の山賊はしばし睨《にら》み合ったままでした。一方は淫らな笑いを唇に浮かべ、一方は死人のような青い額をしています。
この二人の男の間で、今にもなにか恐ろしいことが起きそうでした。しかし、次第にカルリーニの顔付がやわらいで来ました。ベルトのピストルの上に置かれていた手が、だらりとわきにおろされました。
リタは二人の間に横たわったままです。
月がこの光景を照らしています。
『で、おめえ』とククメットが言いました。『引き受けた仕事はすんだのか』
『すんだよ、頭《かしら》』カルリーニが答えます。『明日、九時までにリタの親父が金を持ってここへ来る』
『そいつあ結構だ。それまで俺たちはいい夜を過ごせてもらおうぜ。この娘はなかなか可愛いや。おめえ、まったく好みがいいぜ。俺は手前だけよきゃいいって性分じゃねえから、仲間んとこへ戻って、娘をこんだ誰のものにするか、くじを引こうや』
『それじゃ、この娘も掟どおりにするって決めたのか』
『どうしてこの娘だけ別にしなくちゃならねえんだ』
『俺は、頭が俺の頼みを聞いてくれて……』
『おめえのどこが他のやつより偉えんだ』
『それはそうだ』
『だがよ、安心しな』笑いながらククメットが言いました。『ちっとばかし早いか遅いかの違いだけで、おめえの番も来るからよ』
カルリーニは歯も砕けんばかりに歯を食いしばっていました。
『さ』食事をしている連中のほうへ歩き出しながらククメットが言いました。『来ねえのか』
『すぐ行くよ』
ククメットは、カルリーニから目を離さずに遠ざかって行きました。カルリーニに後ろからやられるのを恐れたにちがいありません。けれどもカルリーニの様子には敵意のかげは見えませんでした。
彼は腕を組み、まだ気を失っているリタのそばに立ちつくしているのです。
一瞬ククメットは若者が娘を抱いて、娘ともども逃げるのではないかと思いました。しかし、彼にしてみれば、今となってはそんなことはどうでもよかったのです。欲しいものはリタから奪ってしまった後だし、身代金にしたところで、三百ピアストルを仲間で山分けすれば微々たる額で、大して気にするほどのものではありません。
ですからククメットは空地のほうへ歩いて行きました。ところが驚いたことに、カルリーニも、彼のすぐ後から戻って来たのです。
『くじ引きだ、くじ引きだ』頭目の姿を見ると山賊どもは口ぐちに叫びました。
そして、この男どもの眼は、いずれも酒の酔いと劣情とにぎらぎら光っていました。焚火の火が、彼らの全身を赤く染めて、まるで悪鬼のような姿でした。
山賊どもの要求は正当なものです。そこで頭目は、彼らの要求を認めるようにうなずきました。皆の名前を書いた札を帽子の中に入れ、カルリーニのものもです、一味のうち一番年少の者が、この即席のくじ箱の中から一枚引きました。
その紙にはディアヴォラッチオの名前が書かれていました。
これは、頭目の健康を祝そうとカルリーニに言い、カルリーニがその顔にコップを叩きつけたあの男です。
こめかみから口にかけて、大きな傷口がぱっくり開き、血がだらだら流れています。
ディアヴォラッチオは、こうして幸運に恵まれたのを知ると、大声で笑い出しました。
『お頭《かしら》、さっきはカルリーニのやつ、お頭のための祝盃をことわりやがったんですがね、あっしのために祝盃をあげるよう言ってやっちゃくれませんか、あっしの言うことよりはお頭の言うことを聞くでしょうから』
誰しもがカルリーニが怒りを爆発させるものと思いました。ところが、皆がひどく驚いたことには、カルリーニは片手にコップ、もう一方の手にブドウ酒のびんをとると、コップに酒を満たし、
『ディアヴォラッチオ、お前の健康を祝して』と、まことに静かな声で言ってのけたのです。
そして、手もふるえさせずに、コップの中身を飲みほし、そうして焚火のそばに腰をおろしたのでした。
『俺の食い物をくれよ、走り廻ったんで腹が減った』彼はこう言いました。
『カルリーニいいぞ!』山賊どもが叫びました。
『よかった、よかった。それでこそ仲間ってもんだ』
こう言って皆はまた焚火のまわりに円陣を作りました。ディアヴォラッチオは離れて行きます。
カルリーニは、まるで何事もなかったかのように食べかつ飲みました。
山賊どもは、その平然とした顔が不思議でたまらず、ただ驚いて彼をみつめていました。するとそのとき、背後から土を踏む重い足音が聞こえて来たのです。
ふり返り、両腕に娘を抱きかかえたディアヴォラッチオの姿を見ました。
娘は頭をのけぞらせ、長い髪が地面まで垂れています。
二人が焚火の照らす光の輪の中に入って来るにつれて、山賊どもは娘の顔の青さと、ディアヴォラッチオの顔の青さに気づきました。
この二人の出現には、あまりにも異常で、またあまりにも厳粛なものがただよっていたので、皆は一せいに立ち上がりました。ただカルリーニだけは別です。彼は、まわりで何事も起きていないかのように、相変わらず飲み食いを続けています。
ディアヴォラッチオは、黙りこくった輪の中を進み続け、リタを頭目の足もとにおろしました。
このときはじめて、皆には、娘の顔の青さとディアヴォラッチオの顔の青さの理由がわかりました。リタの左の乳房の下に、短剣が柄まで深ぶかと刺し込まれていたのです。
皆の目がカルリーニに注がれました。ベルトの短剣は鞘《さや》だけでした。
『は、はあ』頭目が言いました。『カルリーニがなぜあのとき後に残ったかわかったぞ』
野蛮な性格というものは、強烈な行為に称讃の念を抱くものです。山賊どもの誰一人として、カルリーニのやったようなことはおそらくしないでしょうが、誰しもが、彼がそれをやった気持は理解しました。
『それでだ』今度はカルリーニも立ち上がり、手をピストルの握りにあてながら、娘の死体に近づいて言いました。『まだ誰かこの女を俺と張り合う奴はいるか』
『いや、いねえ』頭目が言いました。『この女はおめえのものだ』
そこでカルリーニは、今度は彼が娘を抱き上げ、焚火の炎が投げかける光の輪から出て行きました。
ククメットはいつものように見張りを配置し、山賊どもは焚火のまわりで、マントにくるまって寝てしまいました。
真夜中に、見張りが皆を起こし、またたく間に頭目以下全員がはね起きました。
リタの父親でした。娘の身代金を持って自分でやって来たのです。
『さあ』と父親は金の入った袋をさし出しながら、ククメットに言いました。『三百ピアストル入っている。娘を返してくれ』
しかしククメットは金を受け取らず、ついて来るようにと合図をしました。老人はそれに従いました。二人とも、月の光が木の間を洩れる木々の下を、皆から離れて行きました。やがてククメットは立ち止まり、手をのばして、一本の木の下にかたまっている二人の人影をさし示して言うのでした。
『ほら、おめえの娘をカルリーニに返せと言ってやんな。あいつがみんな知ってるよ』
こう言うと、頭目は仲間の所へ引き返して行きました。
老人は立ちつくしたまま目をこらしました。なにかまだわからないが、大へんな恐ろしい不幸が頭上を舞っているような気がしました。
自分のほうに近づく老人がたてる足音で、カルリーニは顔を上げました。二人の人影の輪郭が老人の目に次第にはっきりしてきます。
一人の女が地上に横たわり、腰をおろした男の膝に頭をのせています。男は女に覆いかぶさるようにしています。男がわが胸に抱きしめていた女の顔が見えたのは、男が身を起こしたときでした。
老人にはそれが娘とわかりました。カルリーニにはリタの父親だとわかりました。
『待ってたよ』山賊はリタの父親にこう言いました。
『この野郎、なにをしでかしたんだ』こう言って老人は、こわごわと胸に短刀をつき立て、顔青ざめ、血潮に染まった、動かぬリタの姿を見たのでした。
月が娘を照らし、その蒼白い光を注いています。
『ククメットがあんたの娘を犯したんだ。それで、俺はこの娘を愛してたから殺したんだ。というのは、ククメットの後は、一味のやつらみんなのおもちゃにされるところだったからだ』
老人は一言も口をききませんでした。ただ幽霊のように青くなっただけです。
『それで、もし俺のやったことが悪かったんなら、娘の仇を討ってくれ』
こう言ってカルリーニは娘の胸から短刀を引き抜きました。そして立ち立がると、一方の手で上着の前をひろげ、裸の胸を老人にさし出しながら、老人に一方の手でその短刀を渡そうとしました。
『よくやってくれた』老人が低い声で言いました。『息子よ、わしに接吻しておくれ』
カルリーニはむせび泣きながら恋人の父親の腕の中に飛び込みました。この血なまぐさい男がはじめて流す涙でした。
『さ、それでは娘を埋めてやるのを手伝ってくれないか』老人はカルリーニに言いました。 カルリーニがつるはしを二本探して来て、娘の父親と恋人とは、茂った枝が娘の墓に陰を宿すはずのカシワの木の根元に穴を掘り始めました。
墓が掘り上がると、まず父親が娘に接吻し、ついで恋人が接吻しました。それから一人が足を持ち、一人が両肩を持って、二人は娘を墓穴におろしました。
そうして二人は両側に跪《ひざまず》き、死者の祈りを捧げたのです。
祈りが終ると、土を死体の上にかけて、墓穴を埋めました。
老人はカルリーニに手をさしのべながら、
『どうもありがとうよ。さ、あとはわし一人にしてくれ』
『でも……』
『一人にしてくれ、わしの命令だ』
カルリーニは従いました。仲間の所へ戻り、マントにくるまり、やがてほかの連中と同じ深い眠りに落ちたようでした。
前の日に、野宿の場所を変えることが決まっていました。
夜の明ける一時間前に、ククメットは手下の者どもを起こし、直ちに出発の命令を下しました。
しかしカルリーニは、リタの父親がどうなったかを確かめずには森を離れる気になれませんでした。
彼は、父親を一人にした場所へ行ってみました。
老人は、娘の墓に影を落すカシワの木の枝に首を吊っておりました。
そのとき彼は、父親の死体と娘の墓穴の上で、二人の仇を討つという誓いを立てたのです。
しかし彼はこの誓いを果たすことはできませんでした。というのは、それから二日後、ローマの憲兵隊と遭遇した際に、カルリーニは殺されたからです。
ただ人びとが不思議に思ったのは、敵と正面から相対していたのに、彼が両肩の間に弾丸を受けていることでした。
しかし、山賊の一人が、カルリーニが倒れたとき、ククメットがカルリーニの十歩後方にいたことを仲間に教えると、皆の不思議に思う気持も消えました。
フロジノーネの森を出発した日の朝、闇にまぎれてククメットはカルリーニの後をつけ、カルリーニの誓いの言葉を聞いたのでした。そして用心深い男ですかち先手を打ったというわけです。
この恐るべき頭目については、まだこのほかにも、やはり並外れた話がいくらも伝わっております。
ですから、フォンディ〔ローマの南約百キロの町〕からペルージア〔ローマの北約一五〇キロの町〕に至るまで、ククメットという名前を聞いただけで、みなおぞけをふるったものでございます。
こういう話は、ルイジとテレザのおしゃべりでもしょっちゅう話題に上りました。
娘のほうはこうした話を聞くたびにふるえ上がりました。しかしヴァンパは、あれほど正確に命中させる彼のいい銃をたたきながら、笑って彼女を安心させるのでした。それでも安心しない場合には、百歩も離れた枯枝にとまっているカラスを指さし、ねらいを定めて引き金を引きました。するとカラスが、射抜かれて木の根元に落ちるのでした。
そうこうするうちにも時は流れて、若い二人は、ヴァンパが二十歳、テレザが十九歳になったら結婚しようと約束しておりました。二人とも孤児でしたので、それぞれの主人に許しを乞えばいいわけです。
二人は許しを求めて、許されました。ある日、二人が将来のことを話していると、二、三発銃声が聞こえました。そして突然、いつも二人が羊に草を食《は》ませる場所のすぐそばの森から、一人の男が飛び出して来て二人のほうへ走って来ました。
声が届く所まで来ると、男は二人に向かって叫びました。
『追われてるんだ、かくまってくれねえか』
二人にはその逃げて来た男が山賊であることは一目でわかりました。けれども、百姓とローマの山賊との間には、もともと共鳴するものがあって、百姓はいつでも山賊に手をかしてやる気持を持っているのです。
ですから、ヴァンバはなにも言わずに、二人の洞穴の入口をふさいでいる石の所へ駈けて行き、石を手前に引き寄せて入口を開け、逃げて来た男に、誰も知らないそのかくれ場所にかくれろと合図したのです。男が入ると、また石を入口に押しつけテレザの所へ戻って腰をおろしました。
それとほとんど同時に、馬に乗った憲兵が四人、森の境界の所に姿を現わしました。三人は逃げた男を探しているようでした。一人は、首に縄をつけた山賊を一人引きずっています。
三人の憲兵は、す早くあたりに視線を走らせ、若い二人の姿を認めると、馬を飛ばして駈け寄り、二人に訊ねました。
二人は何も見なかったと答えました。
『そいつは残念だな』憲兵の班長が言いました。『逃げた奴は頭目なんだ』
『ククメット』ルイジもテレザもともに思わず叫び声をあげました。
『そうだ。奴の首にはローマ金で千エキュの懸賞がかかっているから、お前たちが、奴を掴まえるのを手伝ってくれたら五百エキュはお前たちのものだったんだがな』
若い二人は目と目を見交わしました。班長は一瞬希望を持ちました。五百エキュといえば三千フランです。これから結婚しようという貧しい孤児二人にとって、三千フランは一財産でございます。
『まったく残念だ』ヴァンパが言いました。『でも俺たちは奴の姿は見かけなかった』
そこで憲兵たちは、あたりをくまなく探し廻りましたが無駄でした。
それから、つぎつぎに彼らは姿を消して行きました。
そこでヴァンパは石をどけに行き、ククメットが出て来ました。
ククメットは、石の戸口の隙間から、若い二人が憲兵たちと話をしているのを見ていました。話の内容もだいたい想像がつきました。ルイジとテレザの表情から、自分を引き渡すつもりなど毛頭ないことを読み取っていたのです。そこで彼はポケットから金貨のいっぱい入った財布をとり出し、これを二人にやると申しました。
しかしヴァンパは昂然と頭を上げました。テレザのほうは、その金貨のいっぱいつまった財布があれば、どんなに高い宝石も綺麗な着物も買えると思って目を輝かせていました。
ククメットはぬけめのない悪魔《サタン》でした。蛇が山賊の姿をしていたのです。彼はこのテレザの目を見逃さず、テレザがまぎれもなくイヴの娘であることを見抜いたのでした。彼は、命を救けてくれた者たちに挨拶を送るという名目で、なん回もふり返りながら森の中へ帰って行きました。
ククメットが二度と姿を見せず、その噂も聞かぬままになん日かがたちました。
カーニヴァルの時期が近づきました。サン=フェリーチェ伯爵は壮大な仮面舞踏会の計画を発表し、そこにはローマ中の貴顕の士が、みな招待されることになっていました、
テレザがその舞踏会をどうしても見たいと言い出して、ルイジは、自分の保護者である家令に、テレザと自分を伯爵家の召使いたちの中にまぎれこませて、その舞踏会を見せてくれるように頼み、この願いがいれられました。
この舞踏会を伯爵が催したのは、とくに、愛娘のカルメラを喜ばせるためだったのです。
カルメラはテレザとちょうど同い年で、背丈もまったく同じてした。テレザも、少なくとも美しさにかけてはカルメラと同じでした。
舞踏会の夜、テレザは一番きれいな衣装をつけ、一番高価なピンを刺し、一番きらきら光るガラス細工を身につけました。テレザはフラスカティ〔ローマ南東の町〕の女の装いです。
ルイジは、ローマの百姓が祭の日に着るあの派手な衣装です。二人は、すでに許されていたように、召使いや百姓たちの中にまぎれこみました。
舞踏会は豪華でした。別荘の屋内にあかあかと灯がともされたばかりではなく、なん千という色とりどりのランタンが、庭の木々に吊されました。ですから間もなく邸内からテラスヘ、テラスから庭園の小径へと人があふれていきました。
広場ごとに楽団がいて立食場もあり、飲物も用意されています。そぞろ歩きしている連中が足をとめ、カドリール〔四人が組になって踊る踊り〕の組ができ、人びとは踊りたい所で踊るのでした。
カルメラはソニノの女の装い。真珠をびっしり縫い込んだ帽子をかぶり、ヘアピンはダイヤをちりばめた金でした。ベルトは大きな花模様を織り込んだトルコの絹、上着とペチコートはカシミヤ、前掛けはインドのモスリン、コルセットのボタンは全部宝石だったのです。
カルメラのつれの二人の娘は、一人はネットゥーノの女、もう一人はリッチアの女の装いをしていました。
ローマで最も富裕で高貴な家柄の四人の青年が、世界中どこへ行っても類を見ない、あのイタリア人特有の馴れ馴れしい態度で、三人の娘たちに寄りそっていました。青年たちの扮装は、それぞれ、アルバノ、ヴェルレトリ、チヴィタ=カステルラナ、ソラの百姓の姿でした。
これらの野良着が、百姓女に扮した娘たちの衣装同様に、金や宝石で飾りたてられていたことは言うまでもありません。
カルメラはふと、同じ百姓に扮装した者だけでカドリールを踊るということを思いつきました。ただそれには百姓女が一人たりません。
カルメラはあたりを見廻しました。招いた客の中には、カルメラやつれの娘と同じような装いの女は一人もいません。
サン=フェリーチェ伯爵が、百姓たちにまじって、ルイジの腕にもたれているテレザを指さしました。
『よろしいんですの、お父様』
『いいとも、カーニヴァルではないか』
カルメラは、おしゃべりをしながら自分に寄りそっていた青年のほうに身をかがめて、テレザを指さしながら二言三言申しました。
青年は、さし示すその美しい手を目でたどって、わかりましたという身ぶりをすると、テレザの所へ、伯爵令嬢が先導するカドリールに入るよう誘いに来ました。
テレザは目の前で炎が燃え上がったような気がしました。彼女はルイジに目顔で訊ねました。拒むことなどできるわけがありません。ルイジは、かかえていたテレザの腕が、ゆっくりと滑り抜けて行くままにしました。テレザはその瀟洒《しょうしゃ》な騎士《ナイト》につれられて遠ざかって行きます。そして、ふるえながらその高貴な人びとのカドリールの中に位置を占めました。
たしかに、芸術家の目には、テレザの一分の狂いも隙もない衣装は、カルメラやそのつれの衣装とはまた違った味を持つものでした。しかしテレザはおしゃれではすっぱな娘でしたから、モスリンにほどこした刺繍や、ベルトのシュロの模様や、カシミヤの光沢に目がくらみ、サファイヤやダイヤの輝やきに気も狂う思いがしていました。
一方ルイジのほうでは、それまで知らなかった一つの感情が心の中に生まれていました。それは、まず彼の心臓を噛み、そこから血管をおののきながら駆けめぐり、全身に伝わる、にぶい痛みのようなものでした。彼は、テレザとその騎士との一挙一動を一つも見逃すまいと目で追っていました。二人の手が触れると、目まいを感じ、動脈が激しく脈打つのでした。鐘の音が耳の中で鳴り響いているようでした。二人が話をしている時、テレザはおどおどと目を伏せて相手の言葉を聞いているだけなのですが、ルイジには、この美青年の燃えるような目の色から、それがほめ言葉であることが読み取れるので、足もとの大地がくるくる廻り、地獄の声が彼の耳に、ぶちのめせ、殺せ、とささやくかに思えるのでした。激情に身を委ねてはならぬと思い、彼はよりかかっていた並木の幹を片方の手でしっかりと握っていましたが、片方の手は、ベルトにたばさんだ短刀の彫刻をほどこした柄を、わななきながら握りしめていました。そして、自分ではそうと気づかずに、なん回か鞘からすっかり引き抜いているのでした。
ルイジは嫉妬していたのです。コケットで自尊心の強いテレザが、彼の手から逃げてしまうのではないかと思ったのです。
けれども、はじめはおどおどして、おびえてさえいた百姓娘も、間もなく気を取り直しました。前にも申しましたようにテレザは美人でした。そればかりではありません。テレザには魅力がありました。野生の魅力、都会の娘の持つ、ただ愛想がいい作りものの魅力とはまったく違う力を持った、あの野生の魅力があったのです。
カドリールの人気の大半をテレザがさらってしまいました。ですから、彼女はサン=フェリーチェ伯爵の令嬢がうらやましかったかもしれませんが、手前どもに言わせれば、テレザに嫉妬したのはむしろカルメラのほうでございましょう。
そんなわけで美青年の騎士は、テレザをほめちぎりながら、ルイジが待っていたもとの場所ヘテレザをつれて来ました。
踊りの途中二、三度テレザはルイジに目をやりました。その度に、娘はルイジが青ざめた顔をひきつらせているのを見たのです。一度など、鞘から半ば抜かれた短刀の刃が、不吉な稲妻のように、娘の目を射たのです。
ですから、娘はふるえながら恋人の腕をとりました。
カドリールは大成功でした。二回目を踊らねばその場のおさまりがつきそうにありません。カルメラだけが反対しました。けれども、伯爵がやさしく娘に頼みこんだので、カルメラも最後には承知しました。
直ちに騎士たちのうちの一人がテレザを誘いに進み出ました。テレザがいなければカドリールは踊れないからです。ところが、娘はすでに姿を消していました。
事実ルイジには、二度目の試練に耐えるだけの力が自分にあろうとはとても思えなかったのです。半ばは説得、半ばは力づくで、彼はテレザを庭のほかの場所につれて行ったのでした。テレザは本意ではありませんでしたがそれに従いました。けれども、若者の度を失った顔、時折り神経をたかぶらせ身をわななかせて黙りこくっているその姿から、なにか異常なことがルイジの心に起きているのだということをさとっていました。テレザ自身、心の中にうしろめたいものを感じないではいられませんでした。といっても、なにも悪いことをしたわけではないのですが、ルイジには自分を責める権利があるように思えたのです。何を? それはわかりませんでした。それでいて、ルイジが責めるのももっとものように思えるのです。
しかしテレザが驚いたことには、ルイジは何も言いません。その夜会の続く間、一言も彼の唇からは洩れませんでした。ただ、夜の寒さが庭にいた客たちを邸内に逃げこませ、別荘の扉が、その後ろから屋内での楽しみのために閉ざされると、ルイジはテレザをつれて帰りました。そして、テレザが自分の家に入ろうとしたとき、彼はこう言ったのです。
『テレザ、さっきサン=フェリーチェ伯爵のお嬢さんと向き合って踊ってた時、何を考えてた』
『あたしはね』娘は天真爛漫に答えました。『お嬢さんが着てたような衣装が着られるんなら、あたしの命を半分上げてもいいって考えてたの』
『あのお前の騎士はお前に何て言った』
『あんな衣装を着るのは、あたし次第だって。あたしがたった一言言えばいいんだって言ってたわ』
『その通りだ。お前そんなにあの服が欲しいのか』
『ええ』
『よし、そんならお前にあの服をやる』
娘は驚いて顔を上げ、相手に訊ねようとしました。けれどもルイジが、あまりにも暗く、そしてあまりにも恐ろしい形相をしていたので、言いかけた言葉も唇の上に凍りついてしまいました。
それに、それだけ言うと、直ちにルイジは遠ざかって行ってしまったのです。
テレザはその姿を目の届くかぎり、闇の中を目で追っていました。そして見えなくなると、溜息をつきながら家の中に入ったのです。
その晩のことです、大事件が持ち上がりました。たぶん召使いの誰かが、灯を消すのをついうっかり忘れたのでしょう。サン=フェリーチェの別荘に火がつきました。ちょうど美人のカルメラの部屋の付属の建物です。真夜中に炎の明かりで目を覚ましたカルメラは、ベッドから飛び降り、部屋着をまとってドアから逃げようとしました。しかし、通らねばならない廊下はもう火の海です。そこで娘は部屋に引き返し、大声で助けを求めました。するとそのとき、突然、地面から二十フィートの所にある窓が開いて、一人の若い百姓が部屋の中に躍り込み、娘を抱き上げると、超人的な力と業とを見せて、芝生の芝の上に娘を降ろしたのです。娘はその場で気を失ってしまいました。娘が気がついたとき、父親が目の前にいました。召使いが皆自分をとりまいて、自分を介抱しています。別荘の一棟が全焼しました。ですが、それがなんでしょう、カルメラは無事救われたのです。
救けた男をほうぼう探したのですが、その男は二度と姿を現わしませんでした。みんなに聞いてみても、その男を見た者は誰もおりません。カルメラはといえば、すっかり度を失っていたので男の顔を覚えていなかったのです。
それに伯爵は大へんな金持でしたから、カルメラを襲った危難を別とすれば、これとても、奇蹟的にそれを免れたのですから、伯爵には、これもほんとうの不幸というよりは新たな神の恩寵としか思えず、火災による損害などものの数ではありませんでした。
その翌日、若い二人はまたいつもの時間に、森の境界の所で会いました。ルイジのほうが先に来ていました。ひどく明るい顔をして娘の前にやって来ました。前夜の出来事などすっかり忘れてしまっているようです。テレザは見るからに物思わしげでした。しかしそんなに明るいルイジを見ると、テレザも、つとめて明るい屈託のない顔を装いました。もっとも、なにかの激しい感情に心を乱されでもしないかぎり、明るくくよくよしないのがこの娘の本質だったのです。
『テレザ』ルイジが言いました。『昨夜、伯爵のお嬢さんが着ていたような服が着られるなら、何をやっても惜しくないと言ったな』
『ええ』驚いてテレザは答えました。『でも、あんなこと望んだりして、あたしどうかしてたのよ』
『俺はあのときお前にこう答えたはずだ。よし、お前にあの服をやるってな』
『ええ』ルイジの言葉にますます驚きの念を深めながら娘が答えました。『でもあんたがああ言ったのは、あたしを喜ばすためだったんでしょ』
『俺は今まで、お前に約束して、果たさなかったことはないぞ』ルイジが誇らしげに言いました。『洞穴に入って、服を着替えろ』
こう言ってルイジは岩をどけ、テレザに、見事な鏡の両脇で燃えている二本のローソクの灯に照らされた洞穴の中を見せました。ルイジの作った野趣横溢のテーブルの上に、真珠の首飾りとダイヤのピンがのっています。そのそばの椅子には衣装が掛けられていました。
テレザは歓声を上げ、その衣装をどこから持って来たのかを知ろうともせず、ルイジに礼を言う暇もとらずに、化粧室に変貌したその洞穴の中に飛び込んだのです。
テレザが入った後、ルイジはまた岩をもとに戻しました。というのは、ルイジのいる所からはパレストリナが見えないようにしている小さな丘の頂上に、馬に乗った一人の旅人がいるのをルイジは見たからです。旅人は進むべき道がはっきりしないといったように、一瞬馬を止め、南の国の遠い景色に特有な、あの輪郭のくっきりとした姿を青空の中に浮かび上がらせています。
ルイジの姿を認めると、旅人は馬を急がせてルイジの所へやって来ました。
ルイジの思った通りでした。旅人はパレストリナからチヴォリヘ行くところだったのですが、どの道を行けばいいか迷っていたのです。
若者は道を教えてやりました。しかし、そこから四分の一マイルほど行くと街道は三つの道に分れてしまい、そこまで行ってから、また迷うおそれがありました。そこで、旅人はルイジに、案内してくれないかと頼んだのです。
ルイジはマントを脱いで地面に置き、カービン銃を肩にかけ、こうして重い服を脱いでしまうと、山の男の、馬でさえついて行くのが困難なほどのあの速足で、旅人の前に立って歩き始めました。
十分でルイジと旅人は、前に牧童が言った四つ辻のような所に着きました。
そこまで来るとルイジは、まるで帝王のような尊大な態度で、三本の道のうち旅人がこれからたどるべき道のほうに手をのばしたのです。
『あの道だ、もう後は間違いっこないよ』
『ほら、これはお礼だ』旅人はこう言って、いくらかの小銭を牧童にさし出しました。
『いらないよ。俺は親切で教えてやっただけだ、金のためじゃない』
『だが』と旅人は、都会の人間の卑屈さと田舎の人間の自尊心とのこうした違いには慣れているらしく、『報酬がいらぬと言うのなら、贈り物は受けてくれるだろう』
『ああ受けるとも、それとこれとは別だから』
『では、このヴェネチアの金貨を二枚受け取ってくれ。フィアンセにやって、金の耳輪でも作らせるんだね』
『それじゃ、この短刀を受け取ってくれよ。アルバノからチヴィタ=カステルラナの間じゃ、これ以上良い彫りの柄のものはみつからないはずだ』
『いただこう。だがそれでは私のほうが礼を言わねばならない。この短刀は金貨二枚よりも高価だ』
『商人にとってはそうかもしれない。が、それは俺が自分で彫ったんだから、俺にとってはせいぜい一ピアストルだ』
『名は何という』
『ルイジ・ヴァンパだ』と牧童は、まるでマケドニア王アレキサンダーだ、とでも答えるかのような態度で答えました。
『私の名は』と旅人が申しました。『私は船乗りシンドバッドだ』」
フランツ・デピネは驚いて叫んだ。
「船乗りシンドバッド!」
「さようでございます。それが、自分の名前だと言ってヴァンパにその旅人が申した名前でございます」
「いいじゃないか、その名前になにか文句でもあるのか」アルベールが口をはさんだ。「じつにいい名前だよ。白状するがね、小さい頃僕はシンドバッドの冒険に夢中になったものだよ」
フランツはそれ以上言わなかった。船乗りシンドバッドという名前は、ご想像の通りに、前日モンテ=クリスト伯爵という名前を聞いたときと同じように、思い出の数々をフランツに蘇えらせたのだ。
「話を続けたまえ」彼は宿の主に言った。
「ヴァンパは、横柄にその金貨二枚をポケットに入れると、来た道をゆっくり戻って行きました。洞穴から二、三百歩の所まで来たとき悲鳴が聞こえたような気がしました。
そのすぐ後で、彼は自分の名が呼ばれるのをはっきりと聞いたのです。
呼ぶ声は洞穴の方角から聞こえて来ます。彼はカモシカのように跳躍して、走りながら銃に弾丸をこめました。そして一分とたたぬうちに、彼が旅人がいるのを見た丘の向いの丘の頂に達しました。
『助けて!』という非鳴が、前よりはっきり彼の耳に届きます。
ルイジは眼前に見おろす空間全体に目を走らせました。一人の男がテレザを、まるで半人半馬のネッソス〔ヘラクレスの妻ディアネイラを奪おうとしてヘラクレスの矢に倒された〕がディアネイラを奪うかのように、さらって行きます。
森のほうへ向かうその男は、もう洞穴と森との四分の三ぐらいの所まで達しています。
ヴァンパは距離をはかりました。その男は少なくとも自分より二百歩は先んじています。男が森に達しないうちに追いつくチャンスはありません。
牧童は、足に根が生えたように立ち止まりました。彼は銃尾を肩にあて、銃身をゆっくり娘をさらった男の方角に向け、しばらく走る男を追って、射ちました。
男は急に立ち止まり、両膝をがくんと折ったと思うと、テレザもろともばったり倒れました。
しかしテレザはすぐまた立ち上がりました。逃げようとした男は倒れたままです。断末魔の苦しみにもがいています。
ヴァンパはすぐさまテレザのもとに飛んで行きました。というのは、瀕死の男から十歩歩いた所で、今度はテレザの足の力が抜け、彼女が膝をついてしまったからです。敵を倒した弾丸が同時にフィアンセをも傷つけてしまったのではないかと、若者はひどい不安にかられました。
幸いなんでもありませんでした。恐怖がテレザの力を萎《な》えさせただけでした。テレザがまったく無事であることを確かめると、ルイジは射たれた男のほうを見ました。
こぶしを握りしめ、苦痛に口をゆがめ、末期の汗を浮かべ髪を逆立てたまま、男は息を引きとったところでした。
目は威嚇するかのように見開かれたままでした。
ヴァンパは死体に近より、それがククメットであることを知りました。この山賊は若い二人に救けられた日から、テレザに惚れ、自分のものにしてやると心に決めていたのでした。あの日から彼は、娘をねらっていたのです。そして、娘の恋人が旅人に道を教えるために、テレザを一人残して行ったのを幸い、娘をさらったのでした。そして、もうこの娘は俺のものだと思ったとたんに、牧童の狙いたがわぬ銃弾が心臓を射抜いたのでした。
ヴァンパは、その顔に心の動き一つ見せるでもなく、しばらくククメットをみつめていました。テレザのほうはその逆に、まだがたがたふるえながら、おずおずとしか死んだ山賊には近づけませんでしたし、恋人の肩ごしにこわごわ、ちらっと死体を見ただけでした。
やがてヴァンパが恋人のほうに向き直り、
『ほ、ほう、こいつはいい、着替えがすんだな。今度は俺がめかす番だ』
実際テレザは、頭のてっぺんから足の先まで、サン=フェリーチェ伯爵の令嬢の衣装をつけていました。
ヴァンパはククメットの死体を抱き上げ、洞穴の中に運びました。今度はテレザが外に残る番でした。
もしまた別の旅人が通りかかったなら、その旅人はおかしなものを見たことでしょう。カシミヤのドレスを着、真珠の耳飾り首飾りをつけ、ダイヤのピンを刺し、サファイア、エメラルド、ルビーのボタンといった装いの女羊飼いが、羊の番をしているのです。
おそらくその旅人は、フロリアン〔フランス十八世紀の寓話作家〕の時代に逆もどりしたように思い、パリヘ帰る途中、サビーネの山のふもとにアルプスの羊飼いの娘が坐っていたと人に語ったことでしょう。
十五分後にヴァンバが洞穴から出て来ました。ヴァンパの衣装もそれなりに、テレザのものに劣らずりゅうとしたものでした。
彼は、暗紅色のビロードで彫りのある金のボタンのついた上衣、一面に刺繍した絹のチョッキ、首のまわりに結んだローマ風のスカーフ、金糸で刺繍した赤と緑の絹の弾帯をつけていました。空色のビロードのズボンは、膝の下の所をダイヤのついた尾錠でとめてあります。アラベスク模様に彩られた鹿革のゲートル、色とりどりのリボンをなびかせた帽子、ベルトには時計を二つ下げ、弾帯には、見事な短剣をたばさんでいました。
テレザは讃嘆の叫び声を上げました。この装いのヴァンパは、レオポルド・ロベール〔スイスの画家〕かシュネッツの絵のようでした。
彼はククメットの衣装をすっかり着込んだのでした。
若者は自分の姿がフィアンセにもたらした効果を見て、誇らしげな微笑を口辺にただよわせました。
『さあ、こうなったら、お前、どうなっても俺と運命を共にする気があるか』
『あるわよ』娘は夢中で叫びました。
『俺の行く所なら、どこへでもついて来るか』
『この世の果てまでも』
『それじゃ俺の腕をとれ。行こう。ぐずぐずしている暇はないんだ』
娘はどこへ行くのかとも訊ねずに、自分の腕を、恋人の腕に通しました。この時のルイジは、テレザには神様のように美しく、雄々しく、頼もしく思えたからです。
数分後には森との境界を越え、二人は森の中へ進んで行きました。
ヴァンパが山の道はどんな小径でも知っていたことは申すまでもありません。切り拓かれた道など一本もなくて、木や茂みの様子でたどるべき道をたしかめながら進むしかないのですが、一瞬の躊躇も見せずに、ヴァンバは森の奥へと進みます。二人はこうしてほぼ一時間半ほど歩きました。
それだけ歩くと、森で一番木の生い茂った場所に着きました。川床の乾いた一すじの急流があって、深い谷間に続いています。ヴァンパはこの両側をがけに狭まれた、松の濃い影で薄暗くなった異様な道を進みました。降りやすい点を除けばウェルギリウスの語るアウェルヌスの小径〔地獄に通じる道〕のようでした。
テレザはこの荒れた人気のない場所の光景に、またこわくなって、一言も口をきかずに案内人にぴったり寄り添っていました。しかし、進んで行くルイジのいささかも乱れぬ足どりを見、まったく平静な表情がその顔にただよっているのを見ると、テレザ自身も、自分のこわさをこらえるだけの勇気はわいてくるのでした。
いきなり、二人から十歩ほどの所で、それまでかくれていた木のかげから、一人の男が姿を現わした様子で、ヴァンパに狙いをつけました。
『一歩も動くな、さもないとぶち殺すぞ』男が叫びました。
『おやおや』蔑《さげす》むような身ぶりで片手を上げながらヴァンパが言いました。テレザはもう恐ろしさをがまんできず、ヴァンパにぴったり身を押しつけました。『狼同士噛み合おうってのか』
『誰だ、おめえ』見張りが訊ねます。
『俺はルイジ・ヴァンパだ。サン=フェリーチェの牧童だ』
『どうしようってんだ』
『|白い岩《ロッカ・ビアンカ》の空地にいるお前の仲間たちに話がある』
『じゃ、ついて来な、いやそれよか、おめえは場所を知ってんだから、先に歩け』
ヴァンパは山賊の用心深さを蔑むような笑いを浮かべ、テレザと一緒に先に立ち、それまでと変わらぬ、落ち着いたしっかりした足どりで道を進み続けました。
五分後に山賊が止まれと合図しました。
若い二人はそれに従いました。
山賊は三回カラスの鳴きまねをしました。
この三度呼んだ声に、やはりカラスの鳴声が一声答えます。
『よし、先へ進んでいいぞ』ルイジとテレザはまた進みました。
けれども、進むにつれて、ふるえていたテレザは、ますます強く恋人に身を押しつけました。事実、木々を通して、武器がちらちらし、銃身がきらめくのが見えていたのです。|白い岩《ロッカ・ビアンカ》の空地は、昔はたぶん火山だったと思われる小さな山の頂にありました。レムスとロムルス〔ローマの建国者とされる双生児兄弟〕がアルバを脱れてローマを建設しに来た時代以前に活動をやめた火山ですが。
テレザとルイジは山の頂に着き、と同時に、二十人ばかりの山賊が目の前にいました。
『この若えのがみんなを探してて、みんなに話がしてえんだとよ』見張りが申しました。
『何が言いてえってんだ』頭目がいないあいだ頭の代理をしている男が訊ねました。
『俺は、羊飼いなんて商売に厭気がさしちまったんだ』ヴァンパは言いました。
『ああ、わかったぜ』代理が言いました。『俺たちの仲間に入れてほしくて来たんだな』
『歓迎するぜ』それがルイジ・ヴァンパだとわかったフェルジーノ、パンピナラ、アナニ出身のなん人かの山賊が叫びました。
『そうだ、ただし、仲間にしてくれというのとはいささか話が違う』
『じゃ何しに来たんだ』驚いて山賊どもが言いました。
『お前らの頭にしろと言いに来たんだ』
山賊どもはどっと笑いだしました。
『そんな大したことを望みやがって、おめえ何をした』代理が訊ねました。
『俺はお前らの頭のククメットを殺して来た。これが奴の着てた服さ。それから、俺のフィアンセに婚礼衣装をやるためにサン=フェリーチェの別荘に火をつけた』
一時間後、ルイジ・ヴァンパは、ククメットに代わり頭目に選ばれていたのでございます」
「アルベール」とフランツが友のほうを振り向きながら言った。「市民ルイジ・ヴァンパのことを今はどう思う」
「そんなのは神話さ」アルベールが答えた。「そんな奴はいなかったのさ」
「神話というのは何でございますか」パストリーニが訊ねた。
「そいつをお前に説明するのは大へんだよ」フランツは答えた。「それじゃお前は、ヴァンパが今、ローマの周辺で商売をやってると言うんだね」
「ヴァンパ以前のどんな山賊もやったためしがないほどの、大胆不敵なやり方ででございます」
「すると、警察がいくら捕まえようとしても駄目だってわけだな」
「仕方ございませんでしょう、やつは、平地の羊飼いとも、テヴェレ河の漁師とも、海岸の密輸の連中ともちゃんと気脈を通じているのですから。山を探せば河にいる。河を追えば沖へ出ちまう。それから、ジリオ島かグアヌーティ島かモンテ・クリスト島にひそんでいるものとばかり思っておりますと、不意にアルバノとかチヴォリとかリッチアにまた現われるといった次第でございます」
「で、旅人をどういうふうにするんだ」
「ああ、それはもう簡単至極で、町からの距離によって、身代金を届ける時間を、八時間、十二時間、一日といったふうに決めます。それだけの時間が過ぎちまいますと、あと一時間だけ猶予を与えるんでございます。六十分目に、まだ金が届きませんと、捕まえた旅人の頭をピストルでぶち抜く、あるいは心臓を短刀でぶすり、それで万事けりでございます」
「どうだいアルベール」フランツが友に訊ねた。「これでもまだコロセウムに城壁の外を通って行く気があるかい」
「もちろんさ、その道のほうがきれいならね」
このとき九時が鳴り、ドアが開いて御者が姿を現わした。
「閣下、お馬車がお待ちしております」
「よし」フランツが言った。「それじゃコロセウムヘ行ってくれ」
「ポポロ門から出てでございますか、それとも町中を通って」
「とんでもない、町中だ!」フランツが怒鳴った。
「ああ、フランツ」とアルベールが、自分も立ち上がり、三本目の葉巻に火をつけながら言った。「正直なところ、君はもう少し勇気があると思ってたんだがな」
こう言って、二人の青年は階段を降り、馬車に乗った。
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三十四 出現
古代の遺跡の前をまったく通らず、したがって、次第に目が馴れてしまってコロセウムの巨大さが減ずるようなことがいささかもないまま、アルベールをコロセウムにつれて行くための安全な方法をフランツは見出していた。それは、システィナ通りを行き、サンタ・マリア・マジョーレ教会の前を直角に折れ、ウルバナ通りサン=ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会を通って、コロッセオ通りまで行くのである。
この道順は、さらにもう一つの利点があった。それは、パストリーニが話した、モンテ・クリスト島でフランツをもてなしてくれた謎の人物がまじっている物語がもたらした印象から、フランツの心をそらすものが何もないという点であった。だからフランツは、座席に坐って肘をつくと、自分の胸中に湧き起こり、一つとして満足すべき解答の得られなかった、果てしのない無数の疑問の中に沈んで行くのだった。
さらに一つのことが、彼の知己《ちき》である船乗りシンドバッドのことを思い出させるのである。それは、山賊どもと水夫たちのつながりであった。パストリーニは、ヴァンパが漁師や密輸業者の船に身をひそめると言っていたが、このことがフランツに、あの小さなヨットの乗組員と夕食を共にしていた二人のコルシカの山賊を思い出させるのだ。あのヨットは、わざわざ遠廻りをして、二人の山賊を上陸させるためだけの目的で、ポルト=ヴェッキオに寄港したのだ。モンテ・クリストで彼をもてなしてくれた男が名乗り、イスパニア広場のホテルの主《あるじ》が口にした名前は、その人物が、コルシカ、トスカナ、スペインの沿岸でと同じ慈善的役割を、ピオンビーノ、チヴィタ=ヴェッキオ、オスティア、ガエタの沿岸でも果たしていることを示していた。そして、フランツが覚えているだけでも、あの人物はチュニスやパレルモのことを話していた。これは、彼がかなり広い交友範囲を持っていることの一つの証拠である。
しかし、こうした疑問の数々がどれほど強く青年の心をとらえてはいても、コロセウムの巨大な亡霊のような影が眼前にそそり立った瞬間に、そうした思いはすっかり消えてしまった。コロセウムの窓を通して、月が、幽霊の目から注がれるような青白く長い光を投げていた。馬車はメサ・スダンのすぐそばで止まった。御者がドアを開けた。二人の青年は地上に降り立ったが、まるで地から生えて来たように目の前に一人の案内人がいた。
ホテルの案内人がついて来ていたから、これで二人になったわけである。
ローマで、こうした案内人を雇うぜいたくを避けようとしてもできない相談である。客がホテルの玄関に足を踏み入れたとたんに客にまといつき、ローマから足を踏み出す日までは絶対に客から離れぬ全般的な案内をする案内人のほかに、それぞれの名所、いや名所の各部分にそれぞれ専門の案内人がいる。だから、マルティアリス〔一世紀のローマの詩人。紀元八〇年にコロセウム開場を祝う詩を発表〕をして、
『メンフィス〔古代エジプトの町。古王朝時代、近くに多くのピラミッドができ首都となった〕よ、その野蛮なる奇蹟ピラミッドを誇るをやめよ。世の人よバビロンの栄華を歌うなかれ。巨大なるカエサルが闘技場の前にものみな全て席を譲れ。この永遠なる建造物を讃えんがため、世のすべての声を集めよ』
と歌わせた、比類なき歴史的建造物であるこのコロセウムに、案内人がいないなどということがあり得るものかどうか、ご自身でご判断願いたい。
フランツとアルベールは、案内人の横暴ぶりを避ける努力はまったくしなかった。それに、遺跡の中をたいまつを持って自由に歩けるのは案内人だけなのだから、案内人を拒むことはなおのことむずかしかったのだ。だから、二人はいっさい無抵抗で、手足の自由を案内人にゆだねてしまったのである。
フランツはすでに十回も来たことがあるので、コロセウム見物の内容は十分知っていた。しかし、友達のほうはそうではなく、この皇帝フラウィウス・ウェスパシアヌスが作った建造物に足を踏み入れたのはこれが初めてであったので、案内人のおしゃべりの無知さかげんにもかかわらず、アルベールがきわめて強い感動に打たれたことを記して、皇帝への讃辞とせねばならない。西洋の国の夕暮れ時にも匹敵する南国の神秘な月の光に照らされるとき、その大きさが倍にも見えるこのような遺跡の壮大な姿は、それを見ない者にとっては想像を絶するものだからだ。
静かにものを考えたかったフランツは、内部の柱廊の下を百歩も行くと、アルベールを案内人たちにまかせてしまった。案内人たちは、ライオンの穴とか剣闘士の控えの間とか皇帝用貴賓席とかを逐一アルベールに見せて廻るという万古不易の権利をどうしても行使するというのであった。フランツは半ば崩れ落ちた階段を登り、アルベールたちにはそのまま反対の方向へ行かせた。彼はとある一本の円柱のかげに腰をおろした。正面に切れ込みがあって、そのためにこの巨大な花崗岩の建造物の壮大な姿をくまなく見渡すことができる。
フランツが、今述べたように円柱の陰に身をかくすようにしてから十五分ほどたった。たいまつを持った二人の案内人につれられたアルベールが、コロセウムのちょうど反対側の出口から出て来るのを見ていた。彼らは、鬼火を追う亡霊のように、巫女《みこ》の座のほうへ、階段状になった観客席を一段一段降りて行くところであった。と、そのとき、彼がいま坐っている場所へ来るために登った階段と向かい合わせの階段から、石が一つはがれ落ちて、建造物のはるか下のほうへころげ落ちる音を聞いたような気がした。長い年月の重みで石がはがれて奈落の底に落ちることなど、珍しい事ではないかもしれない。だが今の場合は、人間の足の重みで石が落ちたようにフランツには思えた。できるだけ足音をしのばせてはいるが、どうやら人の足音も聞こえてくるようなのである。
はたして、やがて一人の男が階段を登るにつれて徐々に姿を現わしはじめた。階段の降り口はフランツの正面にあって、月に照らされているが、その段は下へ行くにつれて闇に没している。
自分と同じで、案内人の無意味なおしゃべりよりはひとり夢想を楽しむほうが好きな観光客かもしれない。とすれば、べつにこの出現は驚くにはあたらなかった。だが、階段の最後の段を登るときのためらいがちな様子、平らな所まで出て足を止め耳をすましている様子を見れば、その男がなにかある特別な目的を持ってここへ来、誰かを待っていることは明らかであった。
フランツは本能的に、できるだけ円柱のかげに身をかくした。
彼とその男が立っている面から十フィートの高さにある天井に穴があいていて、井戸の口のようなその円い穴から、星をちりばめた空が見えていた。おそらく、すでになん百年ものあいだ月の光をさし込ませていたと思われるこの穴のまわりには、草が生い茂り、その緑色の頼りなげな葉の縁が、濃紺の大空にくっきりと浮かび出ていた。また、太いカズラやたくましくのびたキヅタが、上の観客席から垂れ下り、天井からロープのように揺れていた。
不意に現われてフランツの注意を惹いた謎の人物は、薄暗がりの中に立っているので、その顔付まではわからなかったが、その衣装を見きわめられぬほど暗くもなかった。大きな茶色のマントに身を包み、左肩にはね上げたマントの一部が顔の下のほうをかくしている。そして顔の上のほうは大きな縁のある帽子にかくれていた。服装の下の端だけが天井の穴からさし込む斜めの光を受けて見えていて、エナメルのブーツを粋《いき》に覆っている黒いズボンが見てとれた。
この男は、貴族とまではいかぬかもしれないが、上流社会の人士であることは明らかだった。
男がそこに現われてから数分たった。そしていらいらした様子を見せはじめたとき、かすかなもの音が上の観客席から聞こえて来た。
と同時に一つの影が月の光をさえぎり、一人の男が天井の穴から顔を出し、闇を見すかした。マントを着た男を見ると、直ちに垂れ下ったカズラと揺れているキヅタを掴み、するすると滑り降りて来た。そして地上三、四フィートの所から身軽に飛び降りた。この男は完全にテヴェレ右岸の百姓の衣装であった。
「お待たせしてしまって申し訳ありません、閣下」男はローマの方言で言った。「ですが遅れたのはほんの二、三分で。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの鐘が十時を打ったばかりですから」
「私が早く来たのだ、お前が遅れたのではない」見知らぬ男が純粋なトスカナの言葉で言った。「だから、堅苦しいことは抜きにしよう。それに、もしお前が来るのが遅れたら、私はお前の意志とはかかわりのない理由があったと思っただろうよ」
「その通りでございます。サン=タンジェロの城へ行って来たのですが、ベッポに会うのにえらく骨を折っちまいまして」
「ベッポというのは何だ」
「ベッポというのは牢の役人で、あの法王様の牢内の様子を知るために、少しばかり金をやっている男でございます」
「ほ、ほう。なかなか用心深い男だな、お前も」
「何をおっしゃいます、閣下。何が起こるかわかったものじゃございません。この私も、いつかあのペッピーノみたいに網にかかっちまうかもしれません。そうなったら、牢の壁を食い破るネズミの一匹ぐらいは必要でございましよう」
「要するに、何がわかった」
「火曜の二時に、二つの処刑が行なわれます。ローマのしきたり通りに、祭りの始まるときです。一人は撲殺の刑。これは自分を育ててくれた司祭を殺したとんでもないやつで、まるで興味がありません。もう一人が打ち首で、これが可哀そうなペッピーノです」
「止むを得ないではないか。お前は法王庁のみならず、周辺の王国に対しても大きな恐怖をまき起こしている。だから当局が見せしめにしようとするのも無理はない」
「ですが、ペッピーノは私の一味ですらないのです。あれはただの羊飼いで、私たちに食糧を供給したこと以外には、なにも罪を犯していません」
「それなら立派にお前の共犯者だ。だから彼の顔をたてておるではないか。石槌《いしづち》で撲殺するのではなくて、もしお前がいつか逮捕されたらそうするように、首を斬ることにしている。それに、これは見物客の楽しみに彩りを添えることになろう。誰しもが喜ぶ見せものが行なわれるというわけだ」
「私があいつのために用意している、あいつ自身期待していない見せものを除いてもね」テヴェレ右岸の男が言った。
「お前、ちょっと言わせてもらうが」とマントの男が言った。「なにかまた馬鹿なまねをするつもりらしいな」
「私は、私のために尽してくれたために窮地に陥ったやつの処刑を妨げるためなら、なんだってやります。あんないいやつのためになにもしてやらなければ、神かけて、私は自分を卑怯者と呼ばねばなりませんからね」
「どうするつもりだ」
「処刑台のまわりに二十人ばかり配置して、あいつがつれて来られたら、私が合図をして、短剣をふりかざして護送兵に襲いかかり、あいつを奪いますよ」
「それはあまり成功するチャンスがなさそうだね。私の計画のほうがお前のよりもずっとよい」
「どういう計画でございますか」
「私が知っているある男に一万ピアストルやって、ペッピーノの処刑を来年までのばすようなんとか工作させる。それからその一年の間に、これも私が知っているある男に千ピアストルやって、脱獄できるようにさせるのだ」
「大丈夫、うまくいきますか」
「当り前だ」とマントの男はフランス語で言った。
「何とおっしゃいましたか」テヴェレ右岸の男が言った。
「お前とお前の手下全部が短剣、ピストル、カービン銃、短銃を持ってやること以上のことを、私は私一人で、私の金を使ってやってみせると言っているのだよ。まあまかせておきなさい」
「そいつはありがたい。ですが、もしあなたのほうがうまくいかなかったら、私たちのほうはいつでも用意ができてますからね」
「用意しておくがいい、そうしたいならね。だがきっと赦免状を手に入れてみせる」
「火曜といえば明後日です、それをお忘れにならないで下さい。明日だけしかありません」
「うむ。だが一日は二十四時間だ。一時間は六十分。一分は六十秒。八万六千四百秒あれば大へんな仕事ができる」
「もしうまくいったら、それをどうやって知らせていただけますか」
「簡単だよ。私はカフェ・ロスポリの最上階の窓を三つ借りている。赦免状を手に入れたら、角の二つの窓には黄色い緞子《どんす》の布をかけるが、真中の窓は赤い十字のついた白の緞子だ」
「結構です。で誰にその赦免状を渡させるのですか」
「お前の部下を一人、苦業僧に化けさせて私の所へよこしてくれないか。苦業僧のみなりをしていれば、処刑台の下まで行けるから、赦免状を信心会の長老に渡すのだ。長老がそれを死刑執行人に渡す。その間に、このことをペッピーノに知らせるのだ。恐怖のあまり死んでしまったり気が狂ったりしないようにな。そうなれば彼のためにした出費は全部無駄になる」
「閣下、私は心から閣下をお慕いしております」百姓姿の男が言った。「それはご承知でございますね」
「そうあってくれればうれしいとは思っているよ」
「それで、もしペッピーノを助けて下さいましたら、お慕いするどころではなくなります、どんなご命令にも服従致します」
「言葉に気をつけるがいいぞ。いつか、きっとお前を呼ぶ。なぜなら、この私にも、いつかきっとお前が必要になる日が来るだろうからな」
「それなら、その時は閣下、私が今こうしてここへお目にかかりに参りましたように、必要な時刻に必ず参ります。たとえ世界の果てにおいでになっても、ただ一言『こうせよ』とお手紙を下さればいいのです、神かけて……」
「しーっ」謎の男が言った。「音がする」
「たいまつを持ってコロセウムを見物している観光客です」
「二人一緒にいる所を見られるのはまずい。あの案内人の密偵《いぬ》どもはお前の顔を知っているかもしれぬ。お前の友情がどんなに清らかなものであっても、お前と私との間にこんなつながりがあると知られると、私の信用にいささか傷がつくかもしれないのでね」
「では、赦免状を手にお入れになったら」
「真中の窓に赤い十字のついた白の緞子の布をさげる」
「手に入らなければ」
「三つとも黄色だ」
「その場合は?」
「その場合は、思う存分短剣を振うがいい。そうしてもいいよ、私もその場でお手並み拝見といこう」
「失礼します。私は閣下をご信用申し上げております。閣下も私を信用して下さい」
こう言うとテヴェレ右岸の男は階段から姿を消して行った。一方謎の男のほうは、前よりもいっそうマントで顔をかくし、フランツから二歩ほどの所を通り、外の観客席を通って闘技場のほうへ降りて行った。
その一瞬後に、フランツは自分の名前が天井の下に鳴り響くのを耳にした。アルベールが彼の名を呼んでいるのであった。
フランツは、例の二人の男が遠ざかるまで待ってから返事をした。二人の男に、自分たちの話を立ち聞きした者がいることを教える気がしなかった。顔こそ見えなかったが話は一言も洩らさずに聞いてしまったのだ。
十分後フランツはスペイン広場のホテルヘ向けて馬車を走らせていた。アルベールが、猛獣が観客席を襲うのを予防するための鉄の刺《とげ》をつけた金網について、プリニウス〔ローマの一世紀の文学者〕やカルプルニウス〔ローマの一世紀の詩人〕にのっとって大いに蘊蓄《うんちく》を傾けているのを、放心したままひどく無作法に聞き流していた。
彼はなにも逆らわずにアルベールに言いたいだけ言わせておいた。彼は早く一人になって、自分の目の前で行なわれたことを、なにものにもわずらわされずに考えてみたかったのだ。
あの二人の男のうち、一人は彼にとってはまったく知らぬ男であった。顔を見るのも声を聞くのも初めてであった。だが、もう一人の男は、これはそうではなかった。男の顔は始終闇に埋もれているか、あるいはマントでかくされているかしていたので、顔をはっきり見ることはできなかったが、あの声の調子は、初めてそれを聞いたとき、あまりにも強く印象づけられた声なので、いつかそれが目の前で発音されれば、すぐそれと気づかぬようなものではなかったのだ。
とくに、あのからかうような声の調子には、かん高い耳ざわりな所があって、モンテ・クリストの洞窟の中でと同じように、コロセウムの廃墟の中でもフランツをぞっとさせたのである。
だから、フランツは、この男はまぎれもなく船乗りシンドバッドであるという確信を抱くのだった。
だから、これがもしほかの場合であれば、この男が彼に抱かせた好奇心は非常なものがあったから、フランツは自分がそこにいることをその男に教えたことであろう。しかし、今夜の場合は、彼が立ち聞きした話の内容があまりにも内密な話だったので、もし自分が姿を現わせば、それは相手にとってけっして快いものではないであろうとの賢明な懸念の気持が動いて、それができなかったのである。
彼は、すでにご承知のように、その男が立ち去るのをただ見送った。しかし、今度どこかで会ったらその時こそはこの最初の機会を逃がしたようには機会を逃がしはしないと心に誓うのであった。
フランツは、あれこれ考えてよく眠れなかった。彼はその夜を、洞窟の男とコロセウムの男とを結びつけ、この両者を同一人と考えざるを得ないような、あらゆる条件を思いめぐらすことに費やした。そして、考えれば考えるほど、フランツはますますこの確信を強めるのだった。
彼は夜が明けてから眠りに落ちた。そのために非常に遅くなってからしか目がさめなかった。アルベールはいかにもパリっ子らしく、すでに夜の手配をすませていた。彼はアルゼンチナ座の桟敷を取らせたのである。
フランツはフランスに手紙をなん通が書かねばならなかったので、彼はアルベール一人に昼間いっぱい馬車を使わせた。
五時にアルベールが戻って来た。彼はフランツの紹介状を持って行ったので、それから以後毎晩のように招待されることになり、ローマ見物をして来たのである。
それだけのことをするのにアルベールには一日で足りたのだった。
さらに彼は、今やっている芝居と、それを演ずる役者のことまで聞いて来た。
題は『パリジアナ』で、役者の名は、コゼルリ、モリアニ、ラ・スペキアであった。
わが二人の青年は、運の悪いほうではなかった。二人は、『ルチア・デイ・ラメルモール』の作者〔ドニゼッティ〕の歌劇の傑作の一つが、イタリアで最も有名な役者によって演ぜられるのを見に行くことになるのである。
アルベールはどうしてもイタリアの劇場には馴染めなかった。上流社会の者は一階席へは行けないし、二階正面桟敷も、屋根のない隣の桟敷との仕切りが低い桟敷もない。これは、オペラ・プッフ座の指定席やオペラ座の一階桟敷に専用の席を持っている者には辛いことである。
しかし、だからといってこのことは、アルベールが念入りにめかしこむのを妨げるものではなかった。というのは、わが国のモードを代表するに最もふさわしい青年として、まことに恥ずかしいことなのだが、もう四か月間もイタリアを縦横に歩き廻っていながら、アルベールはまだ恋の一つすらものにしていなかったのである。
アルベールはこの点について時おり冗談を言ってみたりした。だが内心では、当代随一のプレイボーイ、アルベール・ド・モルセールたるものが、いまだに無駄骨の折り続けということには、なんともおもしろくない思いをしていたのである。わが親愛なるフランスの同胞たちの謙虚なしきたりに従って、アルベールはパリを発つ際に、イタリアでは大いにもてて、自分の艶福《えんぷく》ぶりを話してガン大通りをわかせてやれる自信が十分にあっただけに、なおのことがまんがならなかった。
ああ、彼などてんで相手にされなかったのである。ジェノヴァ、フィレンツェ、ナポリの美しい伯爵夫人たちは、夫にではないが、愛人にしっかりと操をたてていた。だからアルベールは、イタリアの女性はフランスの女性よりもその不実に対して貞節であるという残酷な確信を抱くに至っていたのだ。
もとより作者は、イタリアに、例外が存在しないなどと言うつもりはない。これは他のいずれの国とも同じである。
とはいうもののアルベールは、ただスマートな騎士であるばかりでなく、頭の切れもよいし、おまけに子爵であった。たしかに新しい貴族ではある。だが今日ではもはや、そうしたことを詮索《せんさく》する者はいないから、一三九九年以来の貴族であろうと、一八一五年以来であろうと、どうでもいいではないか。その上アルベールには五万フランの年金があった。ご承知の通り、パリで流行の最先端を追うには余るほどの金である。だから、それまで彼が滞在したどの町でも女性の目を惹けなかったということは、いささか屈辱的なことだった。
だから、カーニヴァルは、この価値あるしきたりを祝う国ぐにならばどの国でも、どんなに謹厳な者も羽目をはずしてしまう自由な時期なので、アルベールはローマで一挙に挽回できることを期待していたのであった。ところで、カーニヴァルは翌日幕を開くことになっていたので、アルベールはどうしてもその開幕以前に自分を売りこんでおく必要があったのだ。
だからアルベールは、そういう下心で劇場の一番目につく桟敷の席をとった。そして、そこへ行くために入念に身じまいを正した。わが国の劇場の張り出し桟敷にあたる最前列の桟敷であった。また、二、三、四階の席はみな貴族の席で、そのため貴賓席と呼ばれている。
それに、ゆっくり十二人は入れるその桟敷はアンビギュ座の四人用の桟敷よりも、この二人の友には安くついたのである。
アルベールにはもう一つの希望があった。もし彼がローマの美女の心を射止めることができれば、当然彼は馬車に席を占めることができ、そうなればカーニヴァルを豪奢な馬車の上から、あるいは王侯貴族がいならぶバルコニーから見物できるかもしれないのである。
こうした思惑が彼を常になかったほどに快活にしていた。彼は役者たちに背を向け、桟敷から上半身をのり出して、長さ六インチもある双眼鏡で美しいご婦人がたの様子をうかがっていた。
アルベールがいかに努力しても、美しい婦人のだれ一人として、好奇心からにせよ眼差し一つそれにむくいてはくれなかった。事実だれしもが自分たちのこと、自分たちの恋、楽しみ、近づいた聖週の翌日始まる謝肉祭のことばかり話していて、いっときも役者たちや芝居には注意を向けなかった。ただ例外的に、ある場面の時だけ舞台のほうに向き直って、コゼルリのレシタティーヴォの一部を聞いたり、モリアニのすばらしい楽句に拍手を送ったり、ラ・スペキァにブラヴォーと叫んだりするだけで、後はまたいつに変わらぬ調子で個人的なおしゃべりにもどるのであった。
第一幕の終り頃、それまで空席だった桟敷のドアが開いて、パリで紹介された一人の女性がその桟敷に入って来たのをフランツは見た。フランツはその人がまだフランスにいるものとばかり思っていた。この婦人が現われたときのフランツの動きを見たアルベールは、友のほうを振り向いて、
「あの女《ひと》を知っているのかい」
「うん、どう思う」
「きれいだよ。それにブロンドだ。すばらしい髪だなあ。フランス人か」
「ヴェネチアの人だ」
「名前は」
「G…伯爵夫人」
「ああ、名前は知ってる。きれいなだけじゃなくてすごく頭もいいって評判だ。あの人にヴィルフォール夫人の所で紹介してもらえばよかった、それを思うと残念だ。夫人の家でのこの前の舞踏会のときあの人もいたんだよ。僕は大馬鹿だった」
「その失敗の補いをつけてやろうか」
「なんだって、僕をあの人の桟敷につれて行くほどの仲なのかい」
「いや今までに三、四回しか話をする光栄には浴していないさ。でも、そうしても決して無作法のそしりは受けない程度の仲だろう」
このとき、伯爵夫人がフランツに気づいて、手でしとやかな合図を送ってきた。フランツはうやうやしく頭を下げてこれに答えた。
「ほう、だいぶお安くないようだな」アルベールが言った。
「いやあ、君の思い違いだよ。われわれフランス人は、いつもそうして外国人に馬鹿なまねをしてしまうのさ。なにごとにつけパリ的な見方しかできない。スペインや、とくにイタリアではね、つき合い方がなれなれしいからといって、その間柄が親密だなどと考えちゃいけないんだ。あの伯爵夫人とは親しみを感じあっている、ただそれだけのことさ」
「心が通いあうというわけか」アルベールが笑いながら訊ねた。
「いや、考え方だけさ、それ以上じゃない」真顔でフランツが答えた。
「で、どういうときにそうなったんだ」
「ちょうど昨夜やったような、コロセウム見物のときさ」
「月の光に照らされてかい」
「うん」
「二人きりで?」
「まあね」
「どんな話をした」
「死者のこと」
「なんだ、それはまた楽しい話をしたものだな」アルベールが大声を出した。「僕だったら、あんなきれいな伯爵夫人のおともをしてそんなそぞろ歩きをしたら、生きてる人間のことしか話さないぜ」
「とすれば君はへまをしたことになるだろうよ」
「とにかく、さっき約束してくれたように、彼女に紹介してくれるね」
「幕が降り次第」
「まったくなんてこの第一幕は長いんだ」
「フィナーレを聞けよ、きれいだぜ。コゼルリは見事に歌ってる」
「うん、だがなんていう身のこなしだ」
「ラ・スペキアは最高にドラマチックだぜ」
「でも、ゾンタークやラ・マリブランを聞いた耳には……」
「モリアニの歌い方をすばらしいと思わないか」
「僕は、褐色の髪のやつがブロンドの役を歌うのは好かないんでね」
「アルベール」と、フランツは、相変わらず夫人のほうばかり見ているアルベールのほうにふり向いて言った。「君はまったく手におえない気むずかし屋だな」
やっと幕が降り、モルセール子爵は大いに満足した。彼は帽子を手にし、髪をちょっとなでつけ、ネクタイやカフスに手をやり、さあ早く、という気持をフランツに示した。
フランツが目顔で訊ねると、伯爵夫人のほうでも、どうぞ、という合図を送ってよこしたので、フランツはすぐさまアルベールのはやる気持を満足させてやった。途中、動いたためにワイシャツの襟や服の折り返しにできたかもしれない皺《しわ》を直しながらついて来るアルベールを従えて、フランツは円形の客席をまわって、伯爵夫人のいる四番の桟敷のドアをノックした。
イタリアの習慣に従って、桟敷の中の前列に夫人と並んで坐っていた青年が、すぐに立ち上がって、新しく来た客に席をゆずった。また別の客が来れば、今度はいま坐った者が席をゆずらねばならないことになっている。
フランツは伯爵夫人にアルベールのことを、その社会的地位からしても、また頭の切れ具合からしても、当代随一の部類に属する青年だと紹介した。これは嘘ではなかった。たしかに、パリの、アルベールがその中で暮らしている社会の中では、彼は非のうち所のない騎士であった。それから、フランツはアルベールが、夫人のパリ滞在中に紹介してもらう機会を逸してしまったのを非常に残念に思い、自分にその埋め合わせをしてくれと頼んだので、本来ならば自分自身、誰か適当な仲介者が必要なのだが、こうしてじかに来てしまった失礼を許していただきたいとつけ加えた。
伯爵夫人は、にこやかにアルベールに会釈し、フランツには手をさしのべてこれに答えた。
アルベールは夫人にすすめられて前の空いた席に坐り、フランツは後列の、夫人の後ろの席に坐った。
アルベールはじつにいい話題をみつけた。パリの話であった。彼は伯爵夫人に二人が共に知っている人たちの話をした。フランツにはアルベールが本領を発揮しているのが感じられた。彼はアルベールにそのまましゃべらせておいて、アルベールの大きな双眼鏡を借り、今度は彼が客席を眺めはじめた。
彼らの正面の三番目の桟敷の前列に、すばらしく美しい婦人がただ一人坐っている。ギリシアの衣装を身につけているが、いかにも楽な着こなしなので、それが彼女の本来の衣装であることは明らかだった。
彼女の背後の暗がりの中に、男の姿が一人見えたが、顔を見わけることはできなかった。
フランツは、アルベールと夫人との話をさえぎって、夫人に、男の目ばかりでなく女の目さえも惹きつけるその美しいアルバニアの女性を知っているかと訊ねた。
「いいえ、あたくしが存じておりますことは、あの方がこのシーズンの初めからローマにいらっしゃるということだけですわ。と申しますのは、お芝居のシーズンが始まりましたときに、もうあの席にいらっしゃるのを見ましたもの。一月前から、お芝居がある度に必ずいらっしゃいます。今、ご一緒の男の方とおいでになることもあれば、黒人の召使いをおつれの時もございますわ」
「どうお思いですか」
「ほんとにおきれいな方。メドラ〔バイロンの詩『海賊』の中の人物〕もあの方のような人だったんでしょうね」
フランツと伯爵夫人は微笑をかわした。夫人はまたアルベールと話しはじめ、フランツはその美しいアルバニアの女性を眺めた。
幕が上がりバレーが始まった。これは、舞踊作者としてイタリアではすさまじい名声を博しながら、水上芝居でその名声を台無しにしてしまったあの有名なアンリの演出によるイタリア・バレーの傑作であった。主役から端役に至るまで全員が筋の運びに重要な役を占めていて、百五十人もの踊り手が一せいに同じしぐさをし、同じ腕、同じ脚を同時に上げるバレーである。
『ポリスカ』という題であった。
フランツは、美しいギリシアの女性に心を奪われていたので、どんなにそれがおもしろいバレーでもバレーに注意を向けるどころではなかった。女性のほうは、いかにもこのバレーを楽しんでいる様子がうかがわれた。その楽しそうな様子は、つれの男の徹底した無関心ぶりと好対照を示していた。男は、この舞踊芸術の傑作の続いている間、身動き一つせずに、オーケストラのトランペットやシンバルや鈴のすさまじい騒音をものともせずに、安らかに、さわやかなまどろみを楽しんでいるように思えた。
ついにバレーが終った。陶酔しきった平土間の熱狂的な拍手のうちに幕が降りた。
オペラの間にバレーをはさむというこのしきたりのおかげで、イタリアでは幕間が非常に短い。踊り手たちがピルエットや、アントルシャをしている間に、歌手たちは休息し衣装をとりかえる暇を持つことができる。
第二幕の序曲が始まった。弦の音が鳴り始めたとき、フランツは、眠っていた男がゆっくり立ち上がり、ギリシアの女性に近づくのを見た。女は振り向いて二言三言男に話しかけ、また桟敷の手すりに肘をついた。
男の顔は相変わらず暗がりの中にあった。だからフランツにはその顔立ちを見ることはできなかった。
幕が上がった。フランツの注意がふと役者たちのほうに向けられ、彼の目は、一瞬ギリシアの美女から舞台に移された。
第二幕はご承知のように夢の二重唱で始まる。横たわったままのパリジアナがアッツォの前でウゴに対する自分の恋の秘密を洩らす。裏切られた夫は、嫉妬に猛り狂い、妻が不貞を働いたと思いこみ、ついには妻を起こして、必ず近いうちに復讐する旨を伝える。
この二重唱は、ドニゼッティの創造力豊かなペンから生まれたもののうち、最も美しく、最も迫力があり、最も恐ろしいものの一つである。フランツはこれを聞くのは三回目であった。彼は自分を音楽気違いとは思っていなかったが、これには深い感銘を受けた。だから、客席の拍手に加わるべく拍手しようとしたそのとたん、合わさりそうになった彼の手が、はたと止まった。そして、彼の口から洩れかけたプラヴォーの叫びも、唇の上で消えた。
桟敷の男がすっくと立ち上がっていた。そしてその顔が光の中にあった。フランツはあのモンテ・クリストの住人、前の晩コロセウムの遺跡の中で、その背丈、その声をたしかにその男のものと思った、あの男の顔を見たのだ。
もはや疑う余地はなかった。この不思議な旅人はローマにいたのだ。
おそらく彼の表情は、この出現が彼の頭にもたらした混乱をそのまま表わしていたのであろう。伯爵夫人が彼の顔を見て笑い出し、どうしたのか訊ねた。
「奥さん」フランツは答えた。「僕はさっき、あのアルバニアの人をご存じですか、とお聞きしましたね。今度は、あのご主人のほうをご存じですかとお聞きしたいのですが」
「あの女の方以上には存じませんわ」
「一度も心にとめられたことはないんですか」
「フランス人らしいお訊ねね。ご存じの通り、あたくしどもイタリアの女にとっては、お慕いしている方以外には、この世に男の方なんてございませんのよ」
「そうでした」
「いずれにしても」と夫人はアルベールの双眼鏡を目にあて、桟敷のほうに向けながら言うのだった。「今お墓から出て来たみたいね。墓掘り人足の許しをもらってお墓から出て来た死人みたい。恐ろしいほど顔が蒼いわ」
「いつもそうなんです」
「あら、ご存じなの。それじゃ、あの方がどなたなのかお聞きするのはあたくしのほうじゃないの」
「会ったことがあるような気がするんです。たぶんあの人だと思うんだけど」
「ほんとに」と、その美しい肩で、血管の中を戦慄が走るのを見せるような動きを示しながら夫人が言った。「あんな方には一度お会いしたら、とても忘れられるものではありませんわね」
フランツが感じたことは、彼だけがとくに感じた印象ではなかったのだ。同じような感じを別の者も持ったのだから。
「それで」とフランツは、夫人がもう一度その男を眺めた後で訊ねた。「あの人のことをどう思いますか」
「実在のルスウェン卿といった感じね」
事実、バイロンの人物を改めて思い出し、フランツはぞっとした。もし吸血鬼の存在を彼に信じさせることのできる男があるとすれば、それはまさにこの男だった。
「どうしてもあの人が誰なのか知りたい」立ち上がりながらフランツが言った。
「あ、やめて」伯爵夫人が叫んだ。「あたくしを一人にしないで。帰りにあなたに送っていただくつもりなんですもの。そばにいて下さい」
「ほんとうに」とフランツは身をかがめて夫人の耳もとにささやいた。「ほんとうにこわいんですか」
「だって、バイロンがはっきり書いてるわ、自分は吸血鬼の存在を信じる、自分はそれを見たって。ちゃんとその顔つきまで描写してるのよ。あの顔、まさにあの顔だわ。あの黒い髪、妖しい炎が燃えているような大きな目、死人のような蒼さ。それに、見てごらんなさい、つれている女の人だってふつうの女の人ではないわ。外国の……ギリシアの女、離教者よ。きっとあの男の人と同じ魔女だわ。もしどうしてもそうしたいのなら、明日あの人を探して。でも今日は、私のそばを離れることは許しません」
フランツはなおも言い張った。
「あのね」と夫人が立ち上がりながら言った。「あたくし、お芝居を最後までは見ていられませんの、お客様が見えることになっているんです。あなたは、送って下さらないほど女への礼儀知らずかしら」
帽子をとり、ドアを開け、夫人に腕をとらせること以外の返事のしようはなかった。
その通りになった。
伯爵夫人はほんとうに怯《おび》えていたのだ。フランツ自身、なにか迷信的な恐怖を覚えずにはいられなかった。夫人の場合はただ本能的に怯えているだけだが、フランツの場合は具体的な思い出に由来しているだけにそれも当然であった。
フランツは、伯爵夫人が馬車に乗るときにふるえているのに気がついた。
彼は夫人を宿まで送った。誰もいなかった。夫人を待つ客など一人もいなかったのだ。彼は夫人を責めた。
「ほんとうのことを言うと、あたくし気分がすぐれませんの。一人になりたいんです。あの男の人の顔を見たら、すっかりこわくなってしまって」
フランツは無理に笑おうとした。
「お笑いにならないで。それに笑いたくなどないんでしょ。一つ約束して下さる?」
「どんな」
「約束するとおっしゃって」
「どんなことでも、あの男の正体をあばくのを諦めること以外は。僕には、奥さんに申し上げられない理由があって、どうしてもあの男が何者なのか知りたいんです。どこから来たのかどこへ行くのか」
「どこから来たかは存じませんけど、どこへ行くかはわかってますわ。地獄にきまってます」
「さっき僕にしろとおっしゃった約束のことに戻りましょう」
「あ、それはね、まっすぐホテルヘお帰りになって、今夜はもうあの男に会おうなんてなさらないこと。別れた相手とすぐ次に会う相手との間にはなにかしら縁のようなものがあるものですわ。あたくしとあの人との間を結びつけるような役はしていただきたくないの。もしそうなさりたいのなら、明日あの人を追いかけるとよろしいわ。でも、あたくしを恐ろしさのあまり死なせたくなかったら、紹介して下さってはいやよ。そうと決まったら、これでさようなら。よくおやすみになってね。眠れないのは誰か、あたくしにはよくわかってるわ」
こう言って伯爵夫人はフランツと別れた。フランツには、夫人が自分をからかって喜んでいるのか、それとも言葉通りにほんとうに怯えているのか、どっちともきめかねていた。
ホテルに帰ってみると、アルベールは部屋着を着て、タイツをはき肘かけ椅子にだらしなく腰をおろし葉巻をふかしていた。
「ああ君か」アルベールがフランツに言った。「帰るのは明日とばかり思ってたよ」
「アルベール、この機会にもう一度だけ言っておくけどね、君はイタリアの女についてとんでもない思い違いをしてるよ。君自身、恋の誤算続きで、もうそんな考え方はしなくなってもいい頃だと思うんだが」
「仕方がないじゃないか。まったくイタリア女ってやつは、てんでわけがわからん。手をさしのべて手を握らせる、ひそひそ話はする、自分の家へつれて行く。パリの女がその四分の一でもやったら、たちまち名前に傷がつくぜ」
「それこそ彼女たちが、かくすことなどなにもなく、いつも白日の下で暮らしているから、ダンテが言ったように〈スィ〉〔英語のイエス〕が高らかに響くこの美しい国では、そんなことにもったいなどつけずにいられるのさ。それに、伯爵夫人がほんとうにこわがってたのを、君も見たじゃないか」
「こわがるって何をだ。僕たちの正面にいたギリシア美人と一緒だったあの紳士か。でも僕は、あの二人が桟敷から出たとき、なんとか正体をつきとめてやりたくなってね、廊下ですれ違ったんだ。君たちがなぜ死者の世界のことなんか考えたのか、てんでわからないね。身なりもすばらしければ、すばらしい美男子だ。あれはフランスのブランかユマンで仕立てた服だぜ。なるほど顔色は少し蒼いさ。だがね、蒼いのは身分の高い証拠だぜ」
フランツは微笑した。アルベールは自分の顔が蒼いと自負していたのだ。
「だからね」フランツが言った。「伯爵夫人のあの男に対する考えは、常識はずれだと僕も思う。あの男は君のそばでなにか話したかい。言ったことをなにか耳にしたか」
「しゃべった。だが現代ギリシア話で。言葉の中に古代ギリシア語の変形した単語があった。言っとくけど、学生時代、僕は古代ギリシア語は得意だったんだ」
「じゃ、現代ギリシア語をしゃべってたんだね」
「たぶんね」
「間違いない、あの人だ」フランツはつぶやいた。
「なんて言った」
「いや、なんでもない。ところで君は何してたんだ」
「ちょっと驚かしてやろうと思ってね」
「どういうふうに」
「馬車が手に入らないことは知っているだろ」
「あたり前さ。手に入れようと思って、僕たちは人間の力でできるだけのことをしたんだが、それでも駄目だったんじゃないか」
「そこでだよ、すごい考えがあるんだ」
フランツは、相手の想像力をそれほど信用していないような顔つきでアルベールの顔を見た。
「君、そんな妙な目つきで僕を見ないでほしいものだね」
「君の考えが、ほんとうに君の言葉通りすばらしいものなら、すぐにもやめるけどね」
「まあ聞けよ」
「聞いてるよ」
「馬車を手に入れる方法はない、そうだったな」
「そうだ」
「馬も」
「その通り」
「でも荷車なら手に入るだろう」
「たぶんね」
「牛二頭も」
「手に入るだろうな」
「そこでだ、これからがいよいよ本題だ。僕はその荷車を飾らせる。僕たちはナポリの農夫に扮するんだ。あのレオポルド・ロベール〔スイスの画家〕の名画を再現するわけだ。もっとよく似せるために、もし伯爵夫人がポッツオリ〔ナポリの西の町〕かソレントの女の衣装をつけてくれれば、仮装は完全なものになる。彼女は美人だから、みんな『子を抱く女』のモデルだと思うぜ」
「なるほど!」フランツが叫んだ。「今度は君の言う通りだったな。ほんとうにいい思いつきだ」
「フランス流のね、ふぬけ王〔宮中監督官に権力をすっかり奪われてしまったメロヴィンガ王朝の愚王たち〕のをちょっと手直ししただけさ。ああ、ローマ市民諸君、諸君は僕たちが賎民さながら、君たちの町の通りを徒歩で走り廻るものと思っていたろう。それというのも、君たちが十分な馬車と馬を持っていないからだ。だが諸君、馬車も馬も作り出してごらんにいれる」
「で君はもう誰かにそのすごい思いつきのことをしゃべったのかい」
「宿の亭主にね。帰るなりここへ来させて、僕のほしい物を言ってやったんだ。お安いご用だと言ってたよ。僕は牛の角を金色に塗りたかったんだが、それには三日かかるって言うんだ。そこで、まあこの贅沢《ぜいたく》はがまんしなきゃならない」
「どこにいる」
「誰が」
「亭主さ」
「頼んだ物を集めに行ってるよ。明日じゃちょっと遅すぎるかもしれないんでね」
「とすると、今晩中に返事が聞けるってわけだね」
「返事を待ってるんだよ」
このときドアが開いて、パストリーニが顔を出した。
「よろしうございますか」
「いいにきまってるじゃないか」フランツが叫んだ。
「それで、頼んどいた荷車と牛はみつかったかい」アルベールが言った。
「いえ、それ以上のものをみつけましてございます」主《あるじ》は得意満面で答えた。
「気をつけろよ、親方」とアルベールが言った。「満つれば欠くる、だぜ」
「なにとぞ手前をご信用遊ばしまして」パストリーニは自分の能力を鼻にかけたような調子で言うのだった。
「いったいどうしたと言うんだ」今度はフランツが訊ねた。
「お隣りに」と宿の主は言った。「モンテ・クリスト伯爵様がお泊りのことはご存じでいらっしゃいますね」
「たぶんそうなんだろうな」アルベールが言った。「その人のおかげで、こっちはまるでサン=ニコラ=デュ=シャルドネ通りの学生の部屋みたいな所におしこまれてるんだからな」
「それででございます、お二方のお困りのご様子をお聞きになって、伯爵様がお二方に、ご自分の馬車の席二つと、ロスポリ館の窓の席を二つ提供しようとおっしゃってますんで」
アルベールとフランツは顔を見合わせた。
「でも」アルベールが訊ねた。「その外国人の申し出をお受けしたものかどうか。僕たちは全然知らないんだし」
「そのモンテ・クリスト伯爵っていうのはどういう人なんだい」フランツが主に訊ねた。
「シチリアだかマルタだかの大殿様でございます。手前も正確には存じませんが、ボルゲーゼ家のように身分の高い、金鉱そのもののような大金持で」
「僕にはね」とフランツがアルベールに言った。「もしその人が亭主の言うほど立派な態度を示す人なら、もう少し別のやり方で僕たちを招待すると思うんだ。招待状をよこすとか、あるいは……」
このとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」フランツが言った。
非常に上品なお仕着せを着た召使いが部屋の戸口の所に現われた。
「モンテ・クリスト伯爵様からのお使いで、フランツ・デピネ様ならびにアルベール・ド・モルセール子爵様のもとに参りました」とその召使いが言った。
そして亭主に二枚の名刺を渡し、亭主が二人の青年にそれを渡した。
「モンテ・クリスト伯爵様は」召使いが続ける。「お隣りにおります者として、明朝参上いたしたく、それをお許しいただけるかどうか、また何時に拝顔の栄を賜わりまするか、お聞きして参れとのことにございます」
「これは驚いた」アルベールがフランツに言った。「非のうち所がないよ、至れり尽せりだ」
「伯爵に」フランツが答えた。「こちらから参上いたします、と申し上げてくれ」
召使いは退出した。
「これこそまさに優雅を競うというやつだな」アルベールが言った。「パストリーニ、まったくお前の言った通りだよ。お前の言ったモンテ・クリスト伯爵こそ、まさに礼の何たるかを心得ておられる方だ」
「では、あの方のお申し出をお受けになりますんで」
「もちろんさ」アルベールが答えた。「だが、正直言うと、荷車と農夫にもちょっと未練があるな。この楽しみを失う埋め合わせがロスポリ館の窓でなければ、やはり最初の考え通りにしたろうな。君はどう思う、フランツ」
「僕もロスポリ館の窓というので心を決めたんだよ」フランツがアルベールに答えた。
事実、ロスポリ館の窓を提供してくれるというこの話は、フランツに、彼がコロセウムの遺跡で耳にした謎の男とテヴェレ右岸の男との間にかわされたあの会話を思い出させたのだ。あの話の中で、マントを着た男は死刑囚の赦免状を手に入れると約束していたのだ。ところで、もしあのマントを着た男が、いっさいのことがフランツにそう思わせるように、アルゼンチナ座に現われてあれほどフランツの心を激しくゆり動かした男と同一人物であるならば、きっとそれがはっきりわかるであろう。そうすれば、心ゆくまでこの男に対する好奇心を満足させることができよう。
フランツはその夜の一部を、この二度の出現を夢想しながら、そして翌日を待ち遠しく思いながら過ごした。事実、翌日こそはすべてが明らかになるはずであった。そして今度こそ、モンテ・クリスト島で自分をもてなしてくれた男が、ギュゲス〔リュディアの牧童。姿をかくす力のある金の指輪を持っていたという〕の指輪を持っていて、その指輪の力で姿を消す能力でも持っていない限り、フランツの目から逃れることができないのは明らかであった。だから、八時前にフランツはもう目をさました。
アルベールのほうは、フランツのような早起きをする理由はまったく持たなかったから、まだぐっすり寝込んでいた。
フランツは宿の主を呼んだ。主はいつものように追従笑いを浮かべながら入って来た。
「パストリーニ、今日は処刑があるそうじゃないか」
「さようでございます。でも、そのために窓をほしいとおっしゃっても、もう手遅れでございます」
「そうじゃない。それに、もしどうしても処刑が見たいならピンチオの丘なら、見る場所ぐらいはあるだろうからね」
「おお、閣下が下司どもと一緒になって、お名を汚すようなまねはなさるまいと思っておりました。あれは、下司な連中の野外見物席みたいなものでして」
「いや、たぶん僕は行きやしないさ。ただちょっと知っておきたいことがあるんだよ」
「何でございましよう」
「囚人の数と名前、それに刑の種類だ」
「ちょうどようございました。たった今タヴォレッテを持って参ったところでございます」
「タヴォレッテって何だ」
「タヴォレッテと申しますのは、処刑の前日に街角ごとにつるす木の札で、その上に囚人の名前と処刑の理由、それに刑の種類をはりつけるのでございます。この布告は、罪人がしんから悔悟するように、信者たちに神に祈ることをすすめるためのものでございます」
「で、お前の所へそのタヴォレッテを持って来たのは、お前にもその信者たちの祈りに加われということなのか」とフランツは、とても信用できないという面持ちで訊ねた。
「いえ、閣下。手前はタヴォレッテをはって廻る男と話がつけてありまして、芝居のポスターを持って来るように、これも持って来るんでございます。もしお客様のうちどなたかが処刑をご覧になりたいと思召したとき、前もってわかるようにでございます」
「ほう、それはまた念の入った気の配りようだな」フランツが叫んだ。
「いえ」パストリーニが笑いながら言った。「手前をご信用下さいます高貴なお客様がたにご満足をいただくためには、手前のできる限りのことはいたすのでございます、これだけは自慢の種でして」
「わかったよ。聞く耳を持つ者には必ずそう言ってやるよ。ところでそのタヴォレッテを一枚読みたいな」
「お安いご用でございます」こう言って主はドアを開け、「一枚踊り場にかけさせておきました」
主はタヴオレッタ〔タヴォレッテの単数形〕をはずし、フランツにさし出した。
以下がその処刑公告の逐語訳である。
二月二十二日、火曜日、謝肉祭第一日、ラ・ロタ法廷の判決により、アンドレア・ロンドロを、サン=ジョヴァンニ・イン・ラテラノの僧会員チェザーレ・テルリニ師殺害のかどにより、またペッピーノ、別名ロッカ・プリオリを、忌むべき山賊ルイジ・ヴァンパならびにその一味と気脈を通ぜしこと明らかなりと認め、ポポロ広場において処刑することを万民に布告するものなり。
第一の者、撲殺刑《マッツォラート》
第二の者、斬首刑《デカピタート》
心寛き者、上記二名の罪人に心からなる悔悟の情の与えられるよう神に祈願されんことを。
これこそまさしくフランツが前々夜コロセウムの廃墟の中で聞いたことであった。予定表になに一つ変わっている所はない。罪人の名、処刑の理由、刑の種類、すべて正確に同じであった。
かくては、どう考えてみても、テヴェレ右岸の男はルイジ・ヴァンバにほかならず、マントの男は船乗りシンドバッド以外の人物ではあり得なかった。彼は、ローマにおいても、ポルト=ヴェッキオやチュニスにおけると同じように、彼の博愛主義に徹した行動をし続けているのであった。
そうするうちにも時間が過ぎた。九時になっていた。フランツはアルベールを起こしに行った。と、驚いたことには、アルベールがすっかり着替えをすませて部屋から出て来たのである。カーニヴァルがアルベールの頭の中を駆けめぐっていたために、フランツが予想したよりも早く目がさめたのであった。
「それじゃ」とフランツは宿の主に言った。「僕たちはもうすっかり身仕度もできてるから、わが親愛なるパストリーニ、モンテ・クリスト伯爵をお訪ねしていいと思うかい」
「ええ、よろしうございますとも。モンテ・クリスト伯爵様は、いつも大そう朝は早うございます。もう二時間も前にお目ざめのはずでございます」
「じゃ、今すぐ伺っても失礼ではないと言うんだね」
「その通りでございます」
「それじゃ、アルベール、君さえよければ……」
「いいとも」
「では隣りの方の親切に、お礼を言いに行こう」
「うん行こう」
フランツとアルベールは踊り場を通りすぎるだけでよかった。宿の主が先に立ち、ベルを鳴らした。召使いがドアを開けに来た。
「フランスの殿方たちでございます」主がイタリア語で言った。
召使いは頭を下げ、どうぞお入り下さいというしぐさをした。
二人は、パストリーニのホテルでお目にかかろうとは思ってもみなかったような、贅《ぜい》をこらした家具のある二つの部屋を通り抜けた。そして、まことに優雅なサロンに入った。床にはトルコ絨毯が敷きつめてあり、この上もなく坐り心地のよい椅子が、ふかふかなクッションと、反った背を見せていた。巨匠の名画が壁にかかり、絵の間には見事な武器が飾られ、ドアの所には大きな綴れ織りのドアカーテンがおりている。
「どうぞお掛け下さいますよう」召使いが言った。「ただ今伯爵様にお取次ぎいたします」
こう言って召使いは一つのドアから姿を消した。
そのドアがまた開いたとき、グズラ〔ダルマチア人の一弦の楽器〕の音が二人の友に聞こえてきたが、すぐにその音はやんだ。ドアは、開くと同時にまた閉まった。まるで、楽の一節をサロンに入れるためだけのもののようであった。
フランツとアルベールは、目を見交わし、家具や絵や武器を眺めた。最初見たときよりも、見直してみるとさらにいっそう見事なものに思えた。
「どう思う」フランツは友に訊ねた。
「驚いたなあ、わが隣人はスペイン株の暴落で儲けた株式仲買人か、おしのびで旅行中のどこかの王子だぜ」
「しーっ、すぐにわかる、そこに来てるもの」
事実ドアが開く蝶番の音が二人の客の所まで聞こえて来た。そしてそれとほとんど同時に、綴れ織りのカーテンが上がって、このぜいたくな品々の所有者に道をあけた。
アルベールはその前に進み出たが、フランツはその場に釘づけになった。
いま入って来た男は、コロセウムのマントの男、桟敷の見知らぬ男、モンテ・クリストの謎の住人にほかならなかったのだ。
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三十五 撲殺刑
「ようこそ」入るなりモンテ・クリスト伯爵は言った。「わざわざお越しを願って申し訳ありませんでした。しかし、あまり朝早くお邪魔しては失礼かと思ったものですから。それに、お越し下さるとのお言伝《ことづて》でしたので、お心にまかせたほうがと考えた次第です」
「伯爵、フランツも僕もなんとお礼を申し上げていいかわかりません。ほんとうに困っていたところをお助け下さって。まことにありがたいお招きをいただいた時、僕たちは、まったくおかしな車をこしらえようと思っていたところだったのです」
「なんということだ」伯爵は長椅子に坐るようにすすめながら言った。「お二人にそんなに長いあいだ辛い思いをさせていたのもみなあの気のきかぬパストリーニが悪いのです。あなた方が困っておられることなど、一言も言わないのですから。ここではたった一人で、お隣りの方々と、お知り合いになる機会はないものかと、そればかり考えていたこの私にです。なにかのお役に立てることを知ったその瞬間に、私がどれほど急いでこのご挨拶できる機会を捉えたか、おわかりいただけると思います」
二人の青年は頭を下げた。フランツはまだ言うべき言葉がみつけられなかった。彼にはまだ決心がつかなかった。伯爵の様子には、フランツを前に会った男だと認める気も、またフランツにあの時の方ですねと言ってもらいたい気持も、まるでうかがえないので、なにか一言言って過去のことを仄《ほの》めかしたものか、あるいは、先に延ばしてさらに新しい証拠を持ち出すべきかと思いまどっていた。それに、前の晩に桟敷にいたのがこの人であることは確かだが、前の前の晩にコロセウムにいたのがこの人であるとは、それほど確信を持っては言えなかった。そこで彼は、伯爵に直接的な攻撃はかけずに、なりゆきにまかせることにした。第一、彼のほうが優位に立っているのだ。彼は相手の秘密を握っている。それにひきかえ、相手は、なにもかくすもののないフランツに対しては、なんの力も持ち得ないのだ。とはいうもののフランツは、とりあえず話を、疑わしい点を解明するような話題に持って行こうと決心した。
「伯爵」と彼は言った。「あなたは馬車の席を二つと、ロスポリ館の窓の席を二つ僕たちに下さいました。そこで、お教え願いたいのですがどうすればポポロ広場の、イタリア風に言えば、ポストをとれるのでしょう」
「ああ、そうでしたね」と伯爵は、上の空で答えた。じっといつまでも注意深くモルセールの顔を見ている。「ポポロ広場で、処刑かなにかがあるんですね」
「そうです」相手が自ら、こちらの引きよせたいと思う場所へやって来たのを感じながらフランツは答えた。
「ちょっとお待ち下さい、たしか昨日、執事にそのことを言いつけておいたはずなんですが。たぶん、また少しばかりお役に立てると思いますよ」伯爵は呼び鈴の紐のほうに手をのばして、三度それを引いた。
「あなたは」と伯爵がフランツに言った。「時間の使い方とか、使用人たちが行ったり来たりするのを簡略化する方法に頭をお使いになったことがおありですか。私はね、その一つの試みをやっているのです。呼び鈴を一回鳴らせば部屋係のボーイ、二回なら料理頭、三回なら執事です。こうすれば、一分も無駄にならず、一言も無駄なことは言わずにすみます。ほら、来ました」
四十五から五十ぐらいの男が入って来るのが見えた。フランツには、それが、あの洞窟に彼を案内した密輸業者に瓜二つと思われたが、フランツに見覚えがあるなどという様子はまったく見せなかった。言い含められているな、と彼は思った。
「ベルトゥチオ」伯爵が言った。「昨日言いつけておいたように、ポポロ広場に面した窓を手に入れておいたかね」
「はい、閣下」執事が答えた。「ですが、なにぶんにも遅うございましたので」
「なんだと」伯爵が眉をしかめて言った。「私は窓が一つほしいと言っておいたはずだ」
「ですから、閣下は一つお手に入れられました、すでにロバニエフ王子が借りておられた窓でございます。ですが、そのためには百……」
「よし、よし。ベルトゥチオ、そう家の中のことをお客様の前では申し上げぬものだ。お前は窓を手に入れた、それでいいのだ。御者にアドレスを教えておきたまえ。お前は階段の所で待っていて、私たちを案内するのだ、それだけでいい。行きなさい」
執事は頭を下げ、出て行こうとした。
「ああ、パストリーニの所へ行って、タヴォレッタが来てるかどうか聞いて来てくれないか」伯爵がまた口を開いた。「処刑の予定表を持って来てくれないかと言ってくれ」
「その必要はありません」と、ポケットから手帖を出しながらフランツが言った。「その木の札を僕はこの目で見ました。書き写してあります、これです」
「それはよかった。それじゃ、ベルトゥチオ、お前は退ってよろしい、もう用はない。ただ、食事ができたら知らせるように。お二人とも」二人の友のほうを向いて伯爵が続けた。「食事を一緒にさせていただけますね」
「でも、それではあまりご好意に甘えすぎて」アルベールが言った。
「いえ、それどころか、私には大へんうれしいのです。いつかパリで返していただきますから、どちらかお一人に、いえお二人に。ベルトゥチオ、三人分仕度しなさい」
彼はフランツの手から手帖を受け取った。
「それでは、と」と伯爵はポスターを読むような調子で続けた。「『本日二月二十二日、アンドレア・ロンデロを、サン=ジョヴァンニ・イン・ラテラノの僧会員チェザーレ・テルリニ師殺害のかどにより、またペッピーノ、別名ロッカ・プリオリを、忌むべき山賊ルイジ・ヴァンパならびにその一味と気脈を通ぜしこと明らかなりと認め、処刑するものなり』か、ふん。『第一の者は撲殺刑、第二の者は斬首刑』なるほど。初めはこの通りに行なわれることになっていたのです。だが私は、この式次第には、昨日あたりから若干変更があったように思う」
「ほう」フランツが言った。
「そうなのです。昨日、ロスピリオージ枢機卿のお宅で、実は昨夜私はこのお宅へお邪魔していたのですが、二人の罪人のうちの一人に執行猶予を与えるとかどうとかいう話がありましてね」
「アンドレア・ロンドロにですか」
「いや」伯爵が無造作に答えた。「もう一人のほう(伯爵は名前を思い出すためであるかのように手帖に目をやった)ペッピーノ、別名ロッカ・プリオリにです。おかげで斬首刑のほうはご覧になれませんが、まだ撲殺刑のほうは残ってます。これは初めて見る者には興味深い刑でしてね、いや二度目だってそうです。それに較べると最初のほうは、第一あなたもすでにご存じでしょう、あまりにも簡単、単純です。思いがけいことなどなに一つありません。ギロチンの刃に狂いはありませんよ。ふるえもしなければ、切り損なうこともない。シャレー伯爵の首を切った兵士のように、三十回もやり直すなんてことはありません。もっともこれはリシュリューが伯爵の執行人としてこんな辛抱強い男をすすめたふしがあるんですがね。いいですか」と伯爵は、さも軽蔑するような口調でつけ加えるのだった。「刑罰のことならヨーロッパの連中のことなど話させないで下さい。彼らなんかには刑罰の何たるかがまるでわかってはいないのです。残忍さという点ではまるで子供、いや老いぼれきってしまったと言ったほうがいいかもしれません」
「まったくのところ、伯爵」とフランツが言った。「あなたは世界中のさまざまな国民の刑罰を比較研究なさったようですね」
「少なくとも、私がまだ見てないものはそんなにありません」冷やかに伯爵が答えた。
「で、そんな恐ろしい光景をご覧になって楽しいとお思いですか」
「はじめは嫌悪の情をもよおしました。二度目には平気になり、三回目には好奇心がわきました」
「好奇心ですって、恐ろしい言葉だとお思いになりませんか」
「どうしてです。この人生には、ほんとうに考えなければいけないことといえば、ただ一つしかありません。死です。だとすれば、どのようなさまざまなやり方で魂が肉体を離れるかを研究することに、好奇心はわきませんか。その国々のさまざまな、性格、体質、風習に応じて、各個人個人が、存在から虚無の世界への最後の移行をどのように耐え忍ぶかを究めることに。私の場合は、ただ一つのことだけ申し上げましょう。人が死ぬのを見れば見るほど、死ぬなんてことは簡単なことだと思うようになる、ということです。ですから、私の考えでは、死は、刑罰ではありましょうが、罪をつぐない得るほどのものではありません」
「どうもよくわかりません」フランツが言った。「もう少しご説明願えませんか。おっしゃっておられることが、どれほど僕の好奇心をそそったか、とても申し上げられないほどなものですから」
「いいですか」伯爵は言った。その顔には憎悪の色がにじみ出た。一方、聞き手の顔には血の気がさした、「かりに、ある男が、あなたの父でもいい、あなたの母でもいい、あなたの恋人でもいい、要するに、もしあなたの心からその人を奪われたら、永久にふさがることのない心の空洞ができ、心に四六時中血を流し続ける傷を残すようなたいせつな誰かを、ある男が、いまだかつて聞きおよんだこともないような責苦の果て、終ることのない拷問の果てに殺したとする。その場合でも、社会があなたに許している報復で十分だとあなたはお思いになりますか。ギロチンの刃が人殺しの後頭骨の基部と僧帽筋との間を切断したからといって、あなたになん年ものあいだ精神的な苦悩を与えた男が、ほんの数秒間肉体的な苦痛を味わったからといって、それで十分だとお考えですか」
「ええ、僕も人間の裁判というものが、慰めまで与えるには不十分であることは知っています」フランツが言った。「人間の裁判は、血に血を注ぐことができるだけです。裁判に対しては、可能なことを要求すべきで、それ以上のことは要求すべきではありません」
「それともう一つ具体的なことを申しておきましょう。ある個人が殺されることによって、そのよって立つ基盤が危うくなるような場合には、社会は死に対するに死をもって報復しますが、しかし、人の臓腑が引きちぎられるような苦痛でありながら、社会はまったくこれに意を用いず、今われわれが話していた不十分きわまる報復すら与えてはくれないような苦痛が、数知れずありはしないでしょうか。トルコの串刺しの刑、ペルシアの飼槽《かいおけ》の刑、イロコイ族の腱を踏みつぶす刑などですら、あまりにも軽すぎるような犯罪で、しかもなお社会が懲罰を加えることもなく放置している犯罪がありませんか……いかがですか、そういう犯罪はありませんか」
「あります、だからこそ、決闘が許されているのはそうした犯罪を懲らしめるためなのです」
「ああ決闘ね」伯爵が大声で言った。「目的は復讐だというのに、その目的を達するには、これはまたとんだお笑いぐさな手段だ。ある男があなたの恋人を奪った、あなたの妻を誘惑した、あなたの娘を犯した。神が人間を創り給うた時、その一人一人にお約束下さった幸福を、神に期待する権利のあった一人の人間の一生を、その男は苦しみと悲惨と汚辱の一生にしてしまったのです。あなたの精神を狂わせ、あなたの心を絶望の淵にたたき込んだこの男に、剣をその胸に刺したからといって、弾丸をその頭に射ち込んだからといって、あなたは復讐をとげたとお考えになるのですか。とんでもない、決闘に勝つのがしばしばこの男で、世間の目には罪を洗い流したことになり、神からもいくらかその罪を許された形になるということは勘定に入れなくてもだ。とんでもない」伯爵は続けた。「私が復讐をしようと思ったら、そんな復讐の仕方はしませんよ」
「では、あなたは決闘などお認めにならないのですか。あなたは決闘はなさらないのですか」今度はアルベールが、このあまりにも異常な論理が述べられたのに驚いて訊ねた。
「おお、やりますとも」伯爵が言った。「誤解しないで下さい。私は、些細なこと、侮辱されたとか、嘘つき呼ばわりをされたとか、平手打ちを食わされたとかいう場合には決闘もします。それも、あらゆる肉体の鍛練をした結果、腕におぼえはあるし、長い間に徐々に危険にも馴れてしまったのでまず間違いなく敵を殺せる自信がありますから、いとも気軽にやってのけますよ。ええ、やりますとも、そういうことでなら決闘で戦います。けれども、じわじわとやってくる、深く、果てしなく、永遠に続く苦しみに対しては、もし可能ならば、私に加えられたその苦しみとまったく同じ苦しみを味わわせてやる。東方の人々の言うように、目には目を、歯には歯を、です。東方の人々こそは、あらゆる点についてのわれわれの師であり、夢の人生を生み出し、現世に楽園を作った、創造上の選ばれたる民です」
「しかし」フランツが伯爵に言った。「その論理ですと、あなたご自身のことでは、あなたが裁判官となり刑の執行人ともなるわけですが、最後まで法権力の埒外《らちがい》にご自分を置いておくのは、非常に困難なことです。憎しみは盲目であり、怒りは軽率なものですからね。自ら復讐の杯を満たそうとすれば、自ら苦杯を喫するおそれがあります」
「もしそれが金のないへまな男であればその通りです。しかし、巨万の富を持つ有能な男であれば違います。それに、最悪の場合でも、さっき話に出た最後の刑罰が待っているだけです。博愛主義のフランス革命が、四裂の刑や車責めの刑の代わりとしたあのギロチンです。そうなると、もしその男がすでに復讐をとげていたとすれば、そんな刑罰が何でしょうか。まったく、どうやらあのペッピーノとかいう男は彼らの言う斬首刑《デカピタート》にならぬらしいのですが、私にはそれが残念でならないのですよ。それがどれほどの時間続くものか、また語るに足るだけのものかどうかを、あなたご自身の目で見られるはずだったのですから。いや、どうもこれはカーニヴァルというのに、妙な話をしてしまったものですね。どうしてこんな話になってしまったのかな。そうそう思い出しました。私の借りた窓の席がほしいとおっしゃったんでしたね。ええ大丈夫です。席をさしあげましょう。が、とにかくまず食事にしませんか。支度ができたと言いに来たようですから」
事実、サロンの四つのドアのうちの一つを開けて、召使いが、おごそかな声をはり上げた。
「みな様どうぞ」
二人の青年は立ち上がって、食堂に移った。
内容はきわめて上等で、しかもじつに洗練された給仕による食事の間中、フランツはアルベールの目の色をさぐっていた。伯爵の話がアルベールの心にもたらしたにちがいない印象を読みとろうとしたのである。しかし、日頃の無関心な態度から、伯爵の言葉になどあまり注意を向けていなかったためか、あるいは、モンテ・クリスト伯爵が決闘の点ではアルベールに妥協したので伯爵に対してしこりを残していなかったためか、あるいはまた、フランツだけが知っている、すでに述べた伯爵の前歴が、フランツだけに伯爵の論理のどぎつさをとくに強く感じさせたためか、彼には友がほんのわずかでもそれを気にかけているようには見受けられなかった。それどころか、アルベールは、四、五か月もの間イタリア料理ばかり、ということは世界中で最もまずい料理ばかりを食べさせられていたので、その食事を大いに賞味していたのである。伯爵のほうは、どの料理もほんの一口、口に運ぶだけであった。まるで、招待客と食卓を共にしているので、儀礼的におつきあいをしているだけで、客が帰るのを待って、自分には異様な特別な料理を出させようとしているかのようであった。
この様子は、フランツに、G…伯爵夫人が伯爵を見たときのあの怯え、伯爵、つまり、夫人の正面の桟敷にいるのをフランツが指さして教えたその男が吸血鬼であると夫人が信じこんでしまったことを、ふと思い出させるのだった。
昼食が終ったとき、フランツは時計を取り出した。
「おや、何をなさっているんです」伯爵が言った。
「そろそろ失礼しなければなりません」フランツは答えた。「まだやらねばならぬことが山ほどあるんです」
「どんな」
「まだ仮装の用意ができてません。今日は仮装しなければならないことになってますから」
「それならどうぞご心配なく。たしかポポロ広場に個室を一つ用意してあるはずです。そこへなんなりとお命じ下されば、衣装を運ばせておきましょう。あちらで仮装しようじゃありませんか」
「処刑の後でですか」
「もちろん、後でも、最中でも、あるいは前でもお好きなときに」
「処刑台の前で?」
「処刑台も祭りの一部ですよ」
「伯爵」とフランツは言った。「よく考えてみましたが、ほんとうにいろいろとご親切にしていただいてありがとうございました。ですが、馬車の席とロスポリ館の窓の席だけはご好意に甘えさせていただくとして、ポポロ広場の窓の僕のための席は、どうぞご自由になさって下さい」
「しかし、申し上げておきますが、じつに興味あるものを見る機会を失うことになりますよ」伯爵が答えた。
「あとでお話を伺います。あなたの口からお話を伺えば、目で見るのとほとんど同じ印象を与えていただけると信じておりますから。それに、すでに一度ならず処刑を見てみたいものと思ったことはあるのですが、どうしてもその決心がつかないのです。君はどうする、アルベール」
「僕は」子爵が答えた。「カスタンの処刑を見た。でも、あの日僕は少し酔ってたらしいんだ。僕が学校を卒業した日でね、前の晩どこかの酒場で夜通し飲んでたから」
「それに、パリでしなかったからといって、外国でもそれをしないという理由にはなりませんよ。旅行するのは見聞をひろめるためです。ローマではどういうふうに処刑が行なわれるのか、と聞かれたときに、知りません、と答えるご自分の顔を想像してごらんなさい。おまけに、処刑されるのはとんでもない悪党だというではありませんか。わが子のようにして育ててくれた優しいお坊さんを、薪掛けで殴り殺したやつです。なんという悪党だ。聖職者を殺すには、薪掛けなどとは違う武器を使うものだ。そのお坊さんが、父親であるかもしれないのならなおのことです。あなただって、もしスペインヘ行けば闘牛をご覧になるでしょう。それなら、これから見に行くものも闘牛みたいなものとお考えになればいい。古代ローマの闘技場に集ったローマ人のことを思い出して下さい。三百頭のライオンと百名もの人間を殺したあの狩のことをです。拍手喝采していた八万の観衆を思い起こすことです。賢母たちは結婚前の娘をつれて来たし、あの白い手をした美しい巫女《みこ》たちは、栂指《おやゆび》で『さあ、ぐずぐずせずに、私のために、そのもう死にかかっている男の息の根を止めよ!』という意味の、小さく可愛い合図を送ったのです」
「行くかい、アルベール」フランツが言った。
「行くとも。僕も君と同じだったんだけど、伯爵の雄弁で決心がついたよ」
「それじゃ行こう、君がそうしたいって言うんだから。ただポポロ広場へ行くのに、コルソ通りを通って行きたい。伯爵、通って行けるでしょうか」
「徒歩でなら行けます、馬車では行けません」
「それなら僕は歩きます」
「どうしてもコルソ通りを通らなければならないのですか」
「ええ、見たいものがあるのです」
「それではコルソ通りを通りましょう。馬車はバブイノ通りを通らせて、ポポロ広場でわれわれを待たせればいい。それに私もコルソ通りを通るのは、不都合ではありません。言いつけておいたことがきちんと行なわれているかどうか確かめられますから」
「閣下」召使いがドアを開けて言った。「苦業僧の身なりをした人が閣下にお話があるそうでございます」
「ああ、よし、話はわかっている」伯爵が言った。「みなさん、サロンのほうにまたお移りいただけませんか。まん中のテーブルの上にうまいハヴァナの葉巻が置いてあります。すぐ私も参りますから」
青年二人は立ち上がって一つのドアから食堂を出た。伯爵は、もう一度詑びを述べて、別のドアから出て行った。葉巻の大の愛好家で、イタリアに来て以来、カフェ・ド・パリの葉巻を吸えないことを、決して小さな犠牲とは思っていなかったアルベールは、テーブルに近づき、本物のピュロスを見て歓声を上げた。
「ところでね」フランツがアルベールに訊ねた。「モンテ・クリスト伯爵をどう思う」
「どう思うかだって」明らかにアルベールは友がそんな質問をするのに驚いたようであった。「好もしい人だと思うよ。申し分のないまでに歓待してくれるし、見聞は広いし、学はあるし、思慮も深い。ブルトゥスのようにストア派だ。それに」と彼は、煙をいとおしむように吐き出しながらつけ加えた。煙は渦をまいて天井に立ちのぼった。「その上にだよ、すばらしい葉巻も持ってる」
これがアルベールの伯爵観であった。フランツは、アルベールが、人物や事物に対してなにかある意見を抱く場合は必ず熟慮熟考の上でのことであると自負しているのを知っていたので、アルベールのこの見方を変えさせようとはしなかった。
「しかしね」と彼は言った。「一つだけ妙なことに気づかなかったかい」
「どんな」
「ばかに注意深く君を見ていたよ」
「僕を」
「うん、君を」
アルベールは考えていた。
「ああ、そうか」彼は溜息を洩らしながら言った。「べつに不思議じゃないさ。もう一年近くもパリヘ帰っていないから、とんだ野暮な服を着てるにちがいないよ。伯爵は僕を田舎者と思ったんだろう。ねえ、君、できるだけ早い機会に、そうではないと言っといてくれよ、決して田舎者なんかじゃありませんとね、頼むよ」
フランツは微笑した。一瞬後に伯爵が入って来た。
「お待たせしました。私のほうはすっかりすみました。命令は伝えてあります。馬車は馬車でポポロ広場へ行きます。こちらはこちらで、よろしければコルソ通りを通ってポポロ広場へ参りましょう。モルセールさん、その葉巻を少しお持ち下さい」
「これはどうも、喜んでいただきます。というのは、イタリアの葉巻は官製のよりさらにまずいもんですから。パリヘお越しの節は、きっとこのお返しをいたします」
「ありがたくお受けします。そのうちにパリヘ参るつもりでおります。お許しを得ましたから、ぜひお邪魔させていただきましょう。さ、参りましょうか、あまりゆっくりはしていられません。十二時半です。参りましよう」
三人は階下《した》へ降りた。御者は主人の最終的な命令を受け、バブイノ通りに馬車を進めた。一方、徒歩の三人はイスパニア広場を横切り、フィアノ館とロスポリ館の間にまっすぐ出られる、フラティナ通りを上って行った。
フランツはロスポリ館の窓ばかり見ていた。彼は、コロセウムでマントの男とテヴェレ右岸の男との間でとり決められた合図を忘れてはいなかったのだ。
「あなたの窓はどれですか」と、彼はできるだけ自然な口調で伯爵に訊ねた。
「一番上の三つです」伯爵はいとも無造作に答えた。とりつくろっている様子はみじんもなかった。伯爵にはフランツがどういう目的でこの質問をしたか知るよしもなかったのである。
フランツの目は、す早くその三つの窓に向けられた。両側の窓には黄色の緞子がかかり、まん中の窓には赤い十字のついた白の緞子がかけられている。
マントの男はテヴェレ右岸の男との約束を果たしたのだ。もはや疑う余地はない。マントの男は、まさしく伯爵であったのだ。
三つの窓にはまだ誰もいなかった。
あたりではいたる所で準備が進められている。椅子を並べたり、足場を組んだり、窓に幕を張ったり。鐘が鳴るまでは、仮装した人々も姿を見せることはできず、馬車も通れなかった。しかし、すでに窓という窓のかげに仮装した人びとの、門という門のかげに、馬車の気配がしていた。
フランツとアルベールと伯爵は、コルソ通りを下って行った。ポポロ広場に近づくにつれ、群衆はその数をまし、その群衆の頭ごしに、二つのものがそそり立っているのが見えた。広場の中心を示す十字架を戴いたオベリスクと、そのオベリスクの前の、ちょうどバブイノ、コルソ、リペッタの三つの通りから見たときの視線の交叉する所にある、処刑台の二本の柱であった。その柱の間には、ギロチンの丸い刃が光っている。
通りの角で、伯爵の執事が主人を待っていた。
伯爵は二人の客に知らせたがらなかったが、おそらく法外な値段で借りたと思われるその窓は、バブイノ通りとピンチオの丘との間にある大きな館の三階の窓であった。それは、前述のように、寝室に通ずる化粧室のような部屋であった。寝室へのドアを閉めれば、その部屋を借りた者は、自分たちだけになれるのである。いくつかある椅子の上には、すばらしい青と白のサテンの道化の衣装が置いてあった。
「衣装の選択をおまかせいただいたので」伯爵が二人に言った。「こんなものを用意させました。まず第一に、これが今年は一番流行しそうですし、それに、粉がついても目立たないので、コンフェッティ〔カーニヴァルで投げ合う砂糖で包んだアーモンド〕には都合がいいからです」
フランツはろくに伯爵の言葉を聞いていなかった。彼は、まだ新たなこの親切を十分に評価できなかったのであろう。ポポロ広場の光景、今の時点では最も主要な飾りつけとなっている恐ろしい装置に関心のすべてを奪われていたのだ。
フランツは、ギロチンを見るのはこれが初めてであった。ギロチンと言っておこう。というのは、ローマのマンダイヤもわが国の死刑用の道具とほとんど同じ形をしているからである。刃が三日月形をしており、凸状の部分で切り、ギロチンより少し低い所から刃が落ちる。それだけの違いである。
罪人を寝かせる跳ね板の上に、二人の男が坐っていて、昼食をとっていた。フランツが見た限りではパンとソーセージを食べている。一人が跳ね板を持ちあげてブドウ酒のびんを取り出し、一口飲んでから相棒に渡した。この二人は首斬り役人の助手なのだ。
これを見ただけで、フランツは毛根から汗がふき出るのを感じた。
前夜カルチェリ・ヌオヴェからサンタ=マリア=デル=ポポロの小さな教会に移された罪人たちは、それぞれ二人の僧につきそわれて、鉄格子をはめた遺骸仮安置所で一夜を過ごした。その部屋の前を一時間交替の歩哨が行き来していたのである。
教会の戸口の両側に二列に憲兵が立ち並び、処刑台まで列を作っていた。この列は処刑台のまわりを円くとりまき、幅十歩ほどの入口をあけ、円の周囲は百歩ほどであった。それ以外の所は、広場全体が男や女の頭で埋まっていた。多くの女たちが子供を肩にのせている。上半身が群衆より高く上に出ている子供たちは、絶好の見物席にいるというわけである。
ピンチオの丘は、階段席に観客がいっぱいにつまった円形劇場といった光景であった。バブイノ通りとリペッタ通りの角の教会のバルコニーは、特権を持った見物人であふれていた。柱廊の階段は、門のほうへ潮の流れに押し流されて行く、色とりどりのゆれ動く波のようであった。壁の凹凸のどれにも、人が立てる所には、生きた彫像となって人が立っていた。
伯爵の言葉に嘘はなかった。人が死ぬところを見ることほど好奇心をそそる見物《みもの》はこの世にないのである。
それでいて、この光景の厳粛さからすれば当然そうあって黙るべき沈黙のかわりに、この群衆からはすさまじいざわめきが立ち昇っているのである。笑い声、努号、歓声。伯爵が言ったように、すべての人々にとって、この処刑は、カーニヴァルの始まり以外のなにものでもないのであった。
突然魔法にかけられたように、そのざわめきが止んだ。教会の扉が開かれたのだ。
それぞれに目の所だけ穴をあけた灰色の袋のようなものをかぶった苦業僧の一団が、各人一本ずつろうそくを手にして、まず現われた。その先頭をこの信徒団の長老が進む。
苦業僧の後ろから背の高い一人の男が来た。この男は、ズボンだけはいて、あとは裸であった。ズボンの左側に、鞘におさめられた大きな短刀をつるしている。右肩には重い鉄の大槌《おおづち》をかついでいた。この男こそ死刑執行人であった。
男は脚に紐でしばりつけたサンダルをはいている。
死刑執行人の後を、処刑される順に、まずペッピーノ、そしてアンドレアが歩いていた。
それぞれ二人の僧につき添われている。
二人とも目かくしはされていなかった。
ペッピーノはかなりしっかりした足どりで歩いていた。おそらく、自分のためになされた手筈を知らされていたにちがいない。
アンドレアは、両腕とも左右の僧に支えられていた。
二人とも、時おり懺悔聴聞僧のさし出す十字架に唇をあてていた。
フランツは、それを見ただけで、足ががくがくした。彼はアルベールを見た。アルベールも着ているワイシャツと同じぐらい顔面蒼白であった。そして、まだ半分しか吸っていない葉巻を機械的に遠くへ投げ捨てた。
伯爵だけが平然としていた。それどころか、かすかな赤みさえ、その蒼白い頬にさして来るかのようなのである。
彼の鼻腔は、血の匂いをかぐ猛獣のそれのようにふくらみ、かすかに開かれた唇の間に金狼《きんろう》の牙を思わせる白く鋭い小さな歯をのぞかせていた。
それでいながら、彼の顔には、フランツがそれまで見たことのない、にこやかな優しい表情が浮かんでいるのだ。とくにその黒い目は、寛容と慈愛の色をたたえている。
その間にも、二人の罪人は処刑台への道を歩み続けていた。二人が進むにつれて、次第にその顔つきがはっきり見えてきた。ペッピーノは日焼けした顔の、野性的な奔放な目つきをした二十五、六の美青年であった。彼は頭を高く上げ、自分の救い主がどの方角からやって来るかと、風の匂いをかいでいるようであった。
アンドレアはでぶでずんぐりしていた。その野卑な残忍さをたたえた顔つきからは年齢を知ることはできなかった。牢にいる間に、ひげはのび放題になっていた。首を片方の肩に落し、脚はなえていた。身も心も、自分の意志などまったく働かぬ、ただ機械的な動きに従っているだけのように見えた。
「たしか」フランツは伯爵に言った。「処刑は一つしか行なわれないとおっしゃったと思いますが」
「嘘ではありませんよ」伯爵が冷たく答えた。
「でも、罪人は二人います」
「そうです。しかし一人はやがて死に、あとの一人は、まだまだ長い間生きられるのです」
「もし赦免状が届くなら、もう来なけりゃ間に合わないように思いますが」
「ですから、ほら来ましたよ、ご覧なさい」伯爵が言った。
事実、ペッピーノがギロチンの下まで来たとき、遅れたらしい一人の苦業僧が、兵士の列を通り抜けた。兵士たちはその通過を妨げようとはしなかった。そしてその苦業僧は、信徒団の長老の前に進み出て、四つに折った一枚の紙片を渡した。
ペッピーノの燃えるような目は、この出来事をなに一つ見逃さなかった。信徒団の長老はその紙をひろげ、読み、片手を上げた。
「主キリストに幸あれ、法皇|猊下《げいか》をほめ讃えよ」長老がはっきりした声で高らかに言った。「罪人の一人に特赦が授けられましたぞ!」
この特赦という言葉に、アンドレアがびくっとして、顔を上げた。
「特赦って誰にだ」彼は怒鳴った。
ペッピーノは身じろぎもせず、だまったままあえいでいた。
「ペッピーノ、別名ロッカ・プリオリの死罪を免ずるものなり」長老が言った。
そして、その紙を憲兵を指揮していた隊長に渡した。
隊長はそれを読んでから、また長老にそれを返した。
「ペッピーノに特赦だと!」うちしおれきっていたそれまでの様子とはうって変って、アンドレアがわめいた。「やつが赦《ゆる》されて、なぜ俺が赦されねえんだ。俺たちゃあ、一緒に死ぬはずなんだ。やつのほうが俺より先に死ぬって言ってたじゃねえか。俺だけ殺すなんて法はねえ。俺はいやだ!」
アンドレアは二人の僧の手をふりほどき、身をよじり、怒号し、わめきちらし、両手を縛った縄を切ろうと、気違いじみた暴れようをした。
死刑執行人が二人の助手に合図した。助手は処刑台の下に飛び降り、罪人をとり押さえた。
「どうしたんですか」フランツは伯爵に訊ねた。
というのは、すべてローマの方言で話されたので、彼にはよくわからなかったのだ。
「どうしたかというんですか、おわかりになりませんか。今死のうとしているあの男は、仲間が一緒に死なないというので猛り狂っているんですよ。放っておけば、あの男は、自分は今すぐ奪われる命を仲間に全うさせるくらいならば、仲間をひっかき、噛みつくでしょうね。おお人間どもよ、カルル・モールの言う、鰐《わに》のごときやからよ」伯爵は、群衆に向かって拳をつき出しながら叫んだ。「あれこそは汝らの姿だ。汝らはつねに汝らの本性にふさわしいまねをするのだ」
アンドレアと二人の助手は、土まみれになって地面をころげまわっていた。罪人はあいかわらずわめきたてていた。
「やつも死ななくちゃいけねえ、やつを殺してくれ。俺だけ殺すってえ法はねえ」
「ご覧なさい」伯爵は二人の青年のそれぞれの手を掴んだまま続けた。「ご覧なさい。これはじつにおもしろい。あの男は、自分の運命を諦め、処刑台に向かって歩いていた。臆病者かもしれぬ、がとにかく反抗もせず抗弁もせずに死のうとしていた。彼になにがしかの力を与えていたものが何かご存じですか。彼の心の慰めとなっていたものが何かご存じですか。それは、もう一人の男が自分の苦しみを分つということなのだ。自分と同じように死ぬということなのだ。自分よりも先に死ぬということなのだ。二頭の羊を屠所《としょ》にひいて行ってごらんなさい、二頭の牛を屠殺場にひいて行ってごらんなさい。そしてそのうちの一頭に、仲間は殺されずにすむよ言っておやりなさい。羊は喜んで『めえ』と鳴くでしょう、牛はうれしそうに『もう』と鳴くでしょう。ところが人間は、神が、その姿に似せて作ったという人間、神が、隣人愛をその至高、唯一、最優先の掟として与えた人間、自己の考えを表現するために神が声を授けた人間は、仲間の命が救われたと告げられたとき、まず何と叫ぶか。神を罵《ののし》る言葉だ。自然の生み出したこの傑作、万物の長たる人間に栄光あれ!」
伯爵はこう言って笑った。だがその笑いは、このように笑えるようになるまでには、どれほど陰惨な苦痛を味わってきたかが読みとれるような、ぞっとするような笑いであった。
その間にも格闘は続いていた。それは見るもおぞましいものであった。二人の助手はアンドレアを処刑台の上にかつぎ上げた。群衆の全員がアンドレアに敵意を見せた。二万もの声が一つになって叫んでいた。
「殺せ! 殺せ!」
フランツは後へとびすさった。しかし伯爵がその腕を掴み、窓ぎわに引きすえた。
「どうなさったのです。可哀そうになったのですか。とんだお門違いですよ。あなたがもし、狂犬だ、という叫び声を耳にしたら、あなたは銃をとり、直ちに通りに飛び出し、その犬を、情け容赦もなく銃口をつきつけんばかりにして射ち殺してしまうでしょう。だが、その哀れな犬は、別の犬に咬まれたということ以外には、なんの罪もない。ただその仕返しをしようとするだけだ。ところがあなたは、別に誰に咬まれたわけでもない、それなのに恩人を殺した男、手を縛られているからもう人は殺せないので、なんとかして牢の仲間、不幸を共にした仲間の死を見ようともがいている男に同情なさるのだ。いや、いや、見るのです、見るのだ」
そう言われるまでもなかった。フランツはその恐ろしい光景に呪縛されたようになっていた。二人の助手は、罪人を処刑台の上に引きずり上げてしまうと、罪人が噛みつき、怒鳴り、もがき続けるのを、強引に跪《ひざまず》かせてしまった。この間、死刑執行人はわきに位置を占め、鉄槌《てっつい》をかまえていた。合図で二人の助手がとびのいた。罪人は立ち上がろうとした。だがその暇《いとま》を与えず、鉄槌が彼の左のこめかみに打ちおろされた。低く鈍い音が聞こえた。罪人は牛のようにうつぶせに倒れ、ついで反動であお向けになった。すると死刑執行人はベルトから短刀を抜き、一撃のもとにその咽笛《のどぶえ》を切り、すぐさま腹の上に乗り、足で踏みつけ始めた。
踏みつける度に罪人の首から血が噴き出た。
今度こそフランツはもうそれ以上立ってはいられなかった。後ろにとびのき、肘掛け椅子に倒れこむと半ば意識を失ってしまった。
アルベールは、目を閉じたまま、それでも立っていたが、窓のカーテンにしがみついていた。
伯爵は、悪魔のように勝ちほこってじっと立ちつくしていた。
[#改ページ]
三十六 ローマのカーニヴァル
フランツが正気にもどったときアルベールは水を飲んでいた。その顔の蒼さが、水を飲まずにはいられなかったことを示していた。伯爵はすでに道化の衣装に袖を通していた。フランツは機械的に広場に目を向けた。処刑台も死刑執行人も殺された者も、すべてが姿を消していた。ただあるものは、騒がしく、せわしない、喜びにあふれた群衆の姿だけであった。法王の死とカーニヴァルの仮装行列の開始を告げるときにしか鳴らぬチトリオの丘の鐘が、高らかに鳴り響いていた。
「どうなったんですか」彼は伯爵に訊ねた。
「べつに、ごらんの通りなにも起きてませんよ。カーニヴァルが始まっただけです。早く着替えましょう」
「ほんとうに」フランツは答えた。「あの恐ろしい光景は夢としか思えませんね」
「あれは夢だったからですよ。あなたは悪い夢をご覧になっただけだ」
「ええ、僕はね。でも、処刑された男には」
「それも夢です。ただあの男は眠り続けているが、あなたのほうは目が覚めた。ですが、どっちが幸せか、これは誰にもわからんでしょう」
「でも、ペッピーノは、彼はどうなりました」
「ペッピーノは頭のいいやつです。自惚《うぬぼ》れなどみじんもなくて、人はふつう自分のことにかまってくれないと怒るものですが、それとはまるで逆でね、皆の注意が仲間のほうに向けられているのを見て大喜びでした。だから、あれは皆がもう一人のほうにばかり気を取られているのを幸い、群衆にまぎれこんで、姿を消してしまいました。つき添っていてくれたありがたいお坊さんたちに礼も言わずにね。まったく人間というやつはとんでもない利己的な恩知らずのけだものですよ……ところで着替えをどうぞ。ほらモルセールさんがお手本を見せてますよ」
事実アルベールは、自分の黒のズボンとエナメルのブーツの上に、機械的なしぐさで、タフタのズボンをはいているところだった。
「ねえ、アルベール」フランツは訊ねた。「馬鹿騒ぎできるかい、正直に言ってくれないか」
「いや、とても。だがね、あんなものを見たんで今はむしろ安心しているのさ。伯爵が言ったことがわかったんだよ。一度あんなものに馴れてしまえば、ああいうものに驚かなくなるってことがね」
「人間の性格を見きわめることができるのは、あの瞬間だけだ、ということもおわかりでしょう」伯爵が言った。「処刑台の最初の段に足をかけたとき、死が、その人間が生涯かぶり続けてきた仮面を剥ぐのです。そして素顔が現われる。もっともアンドレアの素顔はあまり見よいものじゃありませんでしたが。まったくおぞましい悪党だ!……さ、着替えましょう、お二人とも」
すねた女のように、つれの二人の手本に従わぬのは、フランツにはむしろ滑稽に思えた。だから彼は、自分も仮装の衣装に袖を通し、白い仮面に劣らず蒼白な顔に仮面をつけた。
仮装ができ上ると、三人は階下《した》へ降りて行った。戸口の所にコンフェッティと花束をいっぱい積みこんだ馬車が待っていた。
馬車は行列に加わった。
今行なわれたばかりのもの以上に対照的なものを思い描くことは困難である。あの陰惨で静まりかえった死の光景とはうって変わって、ポポロ広場は、騒々しい気違いじみたどんちゃん騒ぎの≪るつぼ≫と化しているのであった。仮面をつけた群衆が、戸口という戸口から外へ出、窓という窓をつたい降りて、四方八方からあふれ出て来た。町の辻々から、ピエロ、道化《アルルカン》、ドミノ、侯爵、テヴェレ右岸の百姓、グロテスクな化け物、騎士、農夫といった思い思いの扮装をこらした連中の乗った馬車が大通りへどっとくり出した。みな口々にわめきちらし、身ぶり手まねし、粉をつめた卵やコンフェッティや花束を投げている。親しい者も赤の他人も、知人も見知らぬ人も、互いに言葉とつぶてで攻撃し合う。腹をたてることは許されず、なんぴともただ笑いとばしてしまわねばならない。
フランツもアルベールも、激しい心の痛みをいやすには、乱痴気騒ぎの中に引っぱり出してやれば、飲むほどに酔うほどに過去と現在をへだてるヴェールが次第に厚くなってくるのを感ずる男といった具合であった。相変わらず、というより、ずっと彼らは、今しがた目にした光景の残映を追い続けていた。しかし、徐々に群衆の陶酔が彼らにもうつってきた。あやふやな理性が自分たちから離れて行くように思えた。二人とも、この喧騒、雑踏、逆上に自分たちも加わりたいというおかしな気分になっているのを感じていた。隣りの馬車からモルセールめがけて投げつけられた一握りのコンフェッティが、つれの二人もろとも彼を粉まみれにし、まるで百本もの針を投げつけたように、彼の首と仮面から出ている顔の部分につきささった。これが、出会う仮面同士がみなすでに開始していたつぶて合戦にモルセールを巻きこむ結果となった。アルベールは馬車の上に立ち上がった。彼は袋の中から両手いっぱいにすくい取ると、力いっぱい、見事な腕の冴えを見せて隣りの連中に卵と砂糖菓子を投げつけた。
この瞬間から戦闘が開始された。三十分前に見たものの記憶は、二人の青年の脳裡からすっかりぬぐい去られていた。いま目の前に展開している、色とりどりにゆれ動く気違い騒ぎの光景は、それほどまでに二人の心を奪ってしまったのである。モンテ・クリスト伯爵のほうは、すでに述べたように、いかなる時にも、瞬時として心を動かした様子を見せはしなかった。
実際、通りのはじからはじまで、五階ないし六階の館が立ち並び、バルコニーというバルコニーに綴れ織りがたらされ、窓という窓にラシャを張った、広く美しいコルソ通りをご想像願いたい。バルコニーにも窓にも、ローマ市民、イタリア人、世界の隅々からやって来た外国人の、三十万もの観光客があふれている。生まれつき貴族の者、金で貴族になった者、才能によって貴族になった者、あらゆる貴族が集まっていた。美しい女性たちも、この光景に酔いしれて、バルコニーから身をかがめ、窓から身を乗り出して、下を通る馬車にコンフェッティの雨を降らせていた。馬車はこれに答えて花束を投げ返す。上から落ちる砂糖菓子、下から上る花束で、大気も煙るかのよう。そして、道路の敷石の上には、ひきもきらず狂ったように浮かれ騒ぐ群衆が、突拍子もない仮装で続く。馬鹿でかいキャベツが歩く、人間の胴体の上で水牛の頭がもうっと鳴く。後足で立って歩いているようにみえる犬がいる。こうしたもののただ中に、カロ〔フランスの画家〕が夢みた聖アントワーヌの誘惑よろしく、思わず見とれるような美しい顔を見せているアルタルテがいる。ついて行こうとしても、やはりカロが夢想した悪魔たちにさえぎられてしまうといった具合。ま、こんなところでローマのカーニヴァルの様子を少しは思い描いていただけるであろう。
二度目にまた通りを廻って来たとき、伯爵は馬車を止めさせ、つれの二人に、私はここで失礼したい、馬車はご自由にお使い下さいと言った。フランツが目を上げてみると、ロスポリ館の前であった。まん中の窓、赤い十字のついた白い緞子をかけたあの窓のところに、青いドミノ姿の人影が見えた。フランツは、その衣装の下に、アルゼンチナ座のあのギリシアの女性を思い描くことができた。
「皆さん」伯爵は地面にとび降りて言うのだった。「役者に飽きて、見物人に戻りたくなったら、私の窓にお二人の席が用意してあることをお忘れなく。それまでは、御者も馬車も召使いたちも、どうぞご自由に」
言い忘れていたが、伯爵の御者は、『熊とパシャ』のオドリーと寸分違わず、熊の毛皮をどっしりと着こみ、馬車の後部に立っていた二人の召使いは、背丈にぴっちり合った青猿の仮装をしていた。仮面にはバネがついていて、行き交う人びとにしかめっ面をして見せることができるのである。
フランツは伯爵の親切な申し出に礼を述べた。アルベールのほうは、ローマの百姓女を満載した一台の馬車に色目を使っていた。この馬車も二人の馬車と同じように、行列の途中でどの馬車もやる一時の休息のために馬車を止めていたのだ。アルベールはさかんにこの馬車めがけて花束を投げていた。
運悪く、行列がまた動き出し、アルベールの馬車はポポロ広場のほうへ通りを下り、彼の目をひいた馬車は反対にヴェネチア館のほうへ上がって行った。
「おい」彼はフランツに言った。「君は見なかったかい」
「何を」
「ほら、向うへ行く、あのローマの百姓女たちを乗せた馬車さ」
「いや」
「あれはまったくきれいな女ばかりだったと思うぜ」
「君が仮面をつけていたのは残念だったね。今までの恋の失望を一挙にとり戻すチャンスだったのに」
「おお」アルベールは、半ば笑いながら、半ばまったくだという顔で答えた。「カーニヴァルが、きっとなんらかの埋め合わせをしてくれると思ってるよ」
アルベールのこの期待に反して、その日は、それからまた二、三回その百姓女たちの馬車に出会っただけで、なにごともなく過ぎてしまった。ただ、出会ったときに、一度、故意か偶然か、アルベールの仮面がとれた。
このとき、アルベールは残っていた花を全部相手の馬車に投げつけた。
アルベールが百姓女のきらびやかな衣装の下に美しい女だと見ぬいた女性たちのうちの一人が、このアルベールの粋なやり方に心を動かされたのであろう、二人の馬車がまたすれ違ったとき、今度は向うからその女がスミレの花束を一つ投げてよこしたのである。
アルベールは大急ぎでそのスミレの花にとびついた。フランツには、それが自分に投げられたと思う根拠はなにもなかったので、黙ってアルベールにその花をとらせた。アルベールは得意満面でスミレを襟のボタン穴にさし、馬車は意気揚々として行進を続けた。
「いよいよアバンチュールの始まりだね」フランツがアルベールに言った。
「笑いたいだけ笑えよ」アルベールは答えた。「だが、たしかにそうらしいな。この花だけは手放さんぞ」
「そうともさ」笑いながらフランツが言った。「また会う日のための目じるしだからね」
この冗談が、現実の色彩を帯び始めたのである。行列の動きにつれて進むうちに、フランツとアルベールはまた百姓女たちの馬車とすれちがい、アルベールに花を投げた女が、襟のスミレを見て手をたたいたのであった。
「いいぞ、アルベール」フランツが言った。「これは吉兆だ。僕は失礼しようか、一人になったほうがいいんじゃないか」
「いや、そうあわてないほうがいい。最初から、パリのオペラ座の舞踏会の際に言う、時計の下の待ち合わせで、馬鹿と思われたくはないからね。もしあのきれいな百姓女がもっと事を進める気があれば、明日また会えるだろう、いや、向うからこっちをみつけるさ。そして、ここにいるって知らせるだろう。どうすべきかはその時わかるよ」
「実際君は賢明なることネストールのごとく、慎重なることユリシーズのごとしだね。もし君のキルケが、君をなにかの動物に変えることができるとしたら、彼女はよほど頭がよく有能だと言わねばなるまい」
アルベールの考えは正しかった。その美しい未知の女性は、その日はそれ以上事を進めまいと心にきめていたのだろう。二人がその後なん回も通りを上下し、目で探してみても、その女性の馬車をみつけることはできなかった。その馬車は隣接した通りに姿を消してしまったらしい。
そこで彼らはロスポリ館に戻った。しかし、青いドミノ姿とともに、伯爵の姿も消えていた。そして、黄色い緞子をたらした二つの窓にも、伯爵の招待客と思われる人たちがいるだけであった。
このとき、仮装行列の開始を告げた鐘が、また鳴り響いて、行列の終了を告げた。コルソ通りの行列は直ちに列を解き、またたく間に馬車は、一台残らず脇の通りに姿を消して行った。
フランツとアルベールは、このときちょうどマラッテ通りの前にいた。
御者は無言のままその通りに馬車を入れた。そして、ロスポリ館のわきを廻ってイスパニア広場に出て、ホテルの前で馬車を止めた。
パストリーニが戸口まで二人を迎えに出た。
フランツがまず考えたことは、伯爵に帰ったことを告げ、ロスポリ館へもっと早く戻り、伯爵と落ちあうべきであったのに、それに間にあわなかったことを詑びることであった。だが、パストリーニは、モンテ・クリスト伯爵が自分のためにもう一台の馬車を命じ、その馬車が四時にロスポリ館へ伯爵を迎えに行ったからご心配には及びませんと言うのであった。その上、パストリーニは、アルゼンチナ座の伯爵の桟敷の鍵を二人に渡すよう命じられていた。
フランツはアルベールに、どうするかと訊ねたが、アルベールは芝居見物を考えるよりも先にやりたい大事な計画があったので、返事をするかわりに、パストリーニに、仕立屋を世話してもらえるかと訊ねた。
「仕立屋でございますか」宿の主は聞きかえした。「いったいどうなさいますので」
「僕たち二人用の、できるだけ上等なローマの百姓の衣装を明日までに作らせるのさ」
パストリーニは首を振った。
「明日までに二着もの服でございますって」彼は叫んだ。「お許し下さいまし、ほんとうにフランス流の要求でごさいますよ。この一週間は、ボタン一つに一エキュお払いになったって、チョッキのボタンをつける仕立屋もみつかりっこないというのに、服を二着なんて、とんでもございません」
「それじゃ、ほしい服を手に入れるのは諦めてくれというわけだな」
「そうではございません。出来合いのものなら、手に入ります。手前におまかせ下さいまし。明日お目ざめのときには、きっとご満足のいただける帽子、上着、ズボン、みんな揃えておきますです」
「アルベール」フランツが言った。「亭主にまかせようよ。腕のいい男だってことは証明ずみなんだから、だから安心して晩飯を食って、食事がすんだら『アルジェーのイタリア女』を見に行こう」
「『アルジェーのイタリア女』の件は賛成だ。だがねパストリーニ、僕もこの方も」とフランツを指さして、「頼んだ服が明日着られるかどうか、僕たちはほんとうにこのことを重大に考えているんだから、それを忘れるなよ」
宿の主はもう一度、なにもご心配には及びません、必ず申し分のないものを揃えておきますと断言した。それを聞いた二人は、道化の衣装を脱ぐために部屋に上がった。
アルベールは彼の衣装を脱ぐ際に、スミレの花束を大切に大切にしまった。これは翌日の再会の目じるしなのだ。
二人の友は食卓についた。しかし食事の間中、アルベールは、パストリーニ親方の料理と、モンテ・クリスト伯爵の料理との明らかな違いに、気をとめざるを得なかった。伯爵に対して偏見を持っているらしいフランツも、事実を前にしては、この勝負はパストリーニに分《ぶ》がないことを、白状せざるを得なかった。
デザートのとき、伯爵の召使いが、馬車を何時に用意したらいいかと訊ねに来た。アルベールとフランツは、互いに顔を見合わせた。あまりに好意に甘えすぎるのではないかと心の底から思ったのだ。召使いはその気持を読み取って、
「モンテ・クリスト伯爵様は、馬車を一日中閣下がたのお役に立てるようにと厳しくお申しつけになりました。なにとぞご懸念なくご自由にお使い遊ばされますよう」
青年たちは、とことんまで伯爵の好意に甘えることにし、馬車に馬をつなぐように命じた。その間に、二人は、昼間の数多くの戦いで多少とも乱れていた昼の衣装を、夜の装いに着替えた。
この身だしなみをすませると、二人はアルゼンチナ座に向かい、伯爵の桟敷に腰をおろした。
第一幕の最中にG…伯爵夫人が自分の桟敷に入って来た。夫人の視線はまず前夜伯爵の姿を見た桟敷のほうへ向けられた。そのために、二十四時間前、夫人がフランツに妙な意見を述べた男の桟敷にいる、フランツとアルベールの二人を夫人は見たのであった。
夫人のオペラグラスがあまりにも熱心に自分のほうに向けられているので、フランツは、それ以上夫人にいぶかしく思う気持を続けさせるのは気の毒に思えた。そこで、観客席を自分の客間と心得てよいというイタリアの劇場の観客に与えられている特権を利用して、二人は自分たちの桟敷を出て、伯爵夫人のご機嫌伺いにおもむいたのである。
二人が夫人の桟敷に入ると、夫人はすぐにフランツに、主賓の席に坐るように手招きした。
今回はアルベールが後ろの席であった。
「まるで」とフランツに坐るいとまも与えずに夫人が言った。「あのルスウェン卿の生れ変りと、とるものもとりあえずお近づきになったって感じね。お二人ともあの人の一番のお友達みたいですわ」
「いや、まだおっしゃるほどお互いに親しい間柄になったわけじゃありませんが」フランツは答えた。「僕たちがあの人のご好意に一日中甘えさせてもらったことは事実です」
「まあ、一日中」
「ええ、その通りなんです。昼は昼食の招待を受けたし、仮装行列の間はずっと、コルソ通りをあの人の馬車を乗り廻し、夜は夜で、あの人の桟敷で芝居を見に来たというわけです」
「お知り合いなの」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えます」
「どういうことかしら」
「話せば長い話になります」
「話して下さる?」
「奥さんをこわがらせ過ぎないかな」
「ほかに理由はないの」
「この話に結着がつくまでお待ちになって下さい」
「よろしいわ、あたくし、ちゃんと結末のついているお話が好きですから。それじゃ、どうしてあの人とお会いになったの、どなたのご紹介で」
「紹介なんかされません。逆にあの人のほうから僕たちの前に姿を現わしたんですよ」
「いつ」
「昨夜、奥さんとお別れしてから」
「どなたの仲立ちで」
「それがまったく散文的な仲立ちでしてね、宿の主人です」
「それじゃ、あの方もイスパニア広場のホテルにお泊まりなの、あなた方とご一緒に」
「同じホテルどころか、同じ階なんです」
「何ておっしゃる方、お名前をご存じなんでしょう?」
「もちろんです、モンテ・クリスト伯爵です」
「妙なお名前ね、家柄を表わすお名前じゃないわ」
「ええ、あの人が買った島の名前です」
「で、伯爵なの?」
「トスカナの伯爵です」
「また新しい方があたくし達のお仲間になるってわけね」と、ヴェネチア周辺で最も古い家柄に属する伯爵夫人が言った。「で、どういう方なの」
「モルセール子爵に聞いて下さい」
「お聞きになったでしょ、あなたに伺ってごらんなさいとおっしゃってるわ」
「好もしい方だと思わないとしたら、僕たちは気むつかし屋ってことになりますよ」アルベールが答えた。「十年来の友達だって、あの人がしてくれたほどのことはしてくれないでしょう。しかもそのやり方が、優雅で、洗練されてて、礼儀正しくて、まさに貴族にふさわしいやり方なんです」
「まあま」伯爵夫人は笑った。「あの吸血鬼が、お金を少しは人のためにも使おうと思っているどこかの成金だってことがいずれおわかりになりましてよ。ロスチャイルドと間違えられないようにララ〔バイロンの詩の主人公〕のような目をしているっていうわけ。あの女の方にはお会いになって?」
「女の方って誰ですか」フランツが微笑しながら訊ねた。
「昨日のギリシアのきれいな方」
「会いません。あの人のグズラの音は聞こえたように思うんですが、全然姿は見せませんでした」
「つまり、フランツ」アルベールが言った。「君が姿を見せなかったと言うのは、ことさらに謎めかしているだけだよ。いったい君は、白い緞子のかかった窓にいた青いドミノを誰だと思ってるんだ」
「その白い緞子の窓っていうのはどこのことですの」伯爵夫人が訊ねた。
「ロスポリ館です」
「じゃ、伯爵はロスポリ館の窓を三つもお持ちなの」
「ええ、コルソ通りをお通りになりましたか」
「通りましてよ」
「それじゃ、黄色い緞子をかけた二つの窓と、赤い十字のついた白い緞子のかかった窓をご覧になりませんでしたか。あの三つが伯爵のです」
「まあ、それじゃあの方はインドの太守かなにかなのね、きっと。カーニヴァルの一週間、ロスポリ館みたいな所の三つの窓なんて、どのぐらいするかご存じかしら。コルソの通りでも一番眺めのいい場所よ」
「ローマ金貨で二、三百エキュ〔ローマ金貨一エキュは六フラン〕」
「二、三千エキュとおっしゃらねば駄目」
「これはすごい」
「そんなお金、島からの収入ですの」
「島? 島からは一文も収入なんか上がりませんよ」
「それじゃ、どうしてそんな島をお買いになったの」
「気紛れからです」
「変わった方ねえ」
「事実僕にも」アルベールが言った。「かなり変わった人のように思えました。もしあの人がパリに住んでたら、フランツ、僕は、気取ってて人を茶化すやつか、文学にこり過ぎておかしくなっちまったやつだと断言するね。昼間だって、ディディエかアントニーそこのけの退場ぶりを見せたじゃないか」
このとき新しい客が入って来たので、習慣に従って、新しい客にフランツは席を譲った。こうして状況が変わったので、席が変わっただけではなく、話題も変わってしまった。
一時間後に、二人の友はホテルに戻った。パストリーニはすでに、二人の翌日の仮装に必要なものを集めにかかっていて、自分の有能ぶりにきっとご満足がいただけると約束するのだった。
事実、翌日の九時に、パストリーニは、九着から十着のローマの百姓の衣装を持った洋服屋をつれて、フランツの部屋に入って来た。二人は、ほぼ自分たちの背丈に合う揃いの服を選び、宿の主に、それぞれの帽子に二十メートルほどのリボンを縫いつけさせることとと、庶民が祭りの日に腰にまきつけるならわしの、横縞の入った派手な色のあの絹の飾りベルトを二本手に入れることを命じた。
アルベールは、自分のいでたちが似合うかどうか大急ぎで見てみた。ビロードの上着とズボン、はしの所に刺繍をした靴下、尾錠のついた靴、絹のチョッキであった。このきらびやかな服装でアルベールはずんと男前が上がったと言わねばならなかった。そのベルトがほっそりした彼の腰を締め、わずかに傾けてかぶったその帽子が、肩にリボンの波を降らせたのを見た時、フランツは、われわれがある種の民族を肉体的にすぐれていると思っているのも、実はその衣装に負う所が非常に大きいのだと思わざるを得なかった。あの色鮮やかな長衣を着ていた往時のトルコ人たちは目もさめるようであったのに、ボタンのついた長いフロックコートを着、彼らを赤い封蝋をつけたブドウ酒のびんのように見せてしまうトルコ帽をかぶった今のトルコ人たちのなんと見苦しいことか。
フランツはアルベールをほめそやした。アルベールは鏡の前に立ち己《おの》が姿に微笑を送っていた。まぎれもなく大いに満足なのであった。
彼らがまだそうしている間に、モンテ・クリスト伯爵が入って来た。
「どれほど遊びのつれが好もしい相手であっても、自由気ままにさせてもらうほうがありがたいものです。今日以後の数日間は、昨日お使いになった馬車をご自由にお使い下さるように、とお伝えしに参ったのです。宿の主が申し上げたはずですが、私はほかに三、四台ホテルに預けてありますから、私が不自由することはありません。遊びにお出かけの際にも、用足しをなさる際にも、ご自由にお使い下さい。もしなにかご用がおありでしたら、ロスポリ館においで下さればお会いできます」
二人の青年はなにか言おうとしたが、この申し出を断わるいい口実はどうしてもみつけることができなかった。第一、これは大へんありがたい申し出であったのだ。だから二人もついには好意を受けることにした。
モンテ・クリスト伯爵は十五分ほど、じつに楽々とあらゆる話題を口にして二人と過ごした。すでにお気づきの通り、伯爵はあらゆる国の文学に通じていた。伯爵のサロンを一目見ただけで、フランツにもアルベールにも、彼が絵の愛好家であることがわかった。話の途中で、ふとなに気なく洩らす言葉が、科学も伯爵にとって無縁なものでないことを二人に示していたし、とりわけ化学に強い関心を抱いているように思われた。
二人の友は、伯爵にご馳走になった昼食のお返しをしようとはしなかった。伯爵のあのすばらしい食事のお返しに、パストリーニの粗末な定食を出すことは、あまりにもたちの悪い冗談でしかなかった。二人はそのことを率直に述べ、伯爵は二人の細かい心の使いようを十分に理解して二人の詫びを聞き入れた。
アルベールは伯爵の態度にすっかり魅せられてしまい、学のある所だけが貴族にふさわしくないと言うのであった。馬車を自由に使えるということが彼を有頂天にした。彼はあの魅力にあふれた百姓女たちにねらいをつけていた。前日、彼女たちがすばらしく優雅な馬車に乗って現われたので、その点でひけをとらぬままで、また彼女たちの前に姿を現わすことができるのがうれしかったのだ。
一時半に二人の青年は階下へ降りて行った。御者と召使いは、自分たちがかぶった獣の毛皮の上にお仕着せを着こむということを思いついていた。これが昨日にもましてグロテスクな装いとなり、フランツとアルベールに彼らをほめそやさせる結果となった。
アルベールは、センチメンタリズムを発揮して、しおれたスミレの花を襟のボタン穴につけた。
鐘が鳴り始めると、直ちに二人は、ヴィットリア通りを通ってコルソ通りに急いだ。
二度目に廻ったとき、生き生きとしたスミレの花束が、女道化師たちを乗せた馬車から飛んで来て、伯爵の馬車に落ち、アルベールに、前の日の百姓女たちも自分とフランツと同じように衣装を変えて来たことを教えた。偶然かそれともアルベールにそうさせたと同じ気持からなのか、アルベールが粋をきかせて女たちの衣装をつけて来たのに対して、女たちも彼の衣装をつけて来たのだった。
アルベールは新鮮なスミレを前のものと取り替えたが、しおれたほうのスミレも手に持っていた。そして、また相手の馬車とすれちがった際に、それをいとおしげに唇にあてたのである。これは、スミレを投げてよこした女ばかりではなく、笑いさざめくほかのつれまでも大いに喜ばせた。
その日もまた前日に劣らぬにぎわいであった。深く観察する者は、騒がしさも楽しさも、前日よりも増していることに気づいたかもしれぬ。一瞬、例の窓辺に伯爵の姿が見えたが、もう一度その前を通った時には、すでに姿が消えていた。
アルベールとスミレの花束の女たちとの間の愛の交歓が一日中続けられたことは言うまでもない。
夕方宿に帰ると、フランツには大使館から手紙が来ていた。翌日法王に閲見を許される旨が認《したた》められていた。前になん回かローマに来たときにも、彼は必ず閲見を申し出て許可されていた。だから信仰心からとその感謝の気持から、あらゆる徳の稀なる典型を示してくれた聖ペテロの後継者の足下に、敬意を表することなしに、全キリスト教世界の首都を立ち去りたくはなかった。
だからその日は、フランツはカーニヴァルのことは考えていられなかった。このグレゴリオ十六世という気高くも聖なる老人の前にぬかずくとなれば、たとえその老人の偉大さが優しい善意のみに包まれていても、深い感動を伴った尊崇の念を抱かぬわけにはいかぬのである。
ヴァチカンを出ると、フランツはコルソ通りを通ることすら避けて、ホテルヘまっすぐに帰った。彼は心に宝玉のような敬虔な信仰心を抱いて帰って来たのである。その心を仮装行列の乱痴気騒ぎにふれさせることさえ、神を冒涜《ぼうとく》することであった。
五時十分にアルベールが戻って来た。彼は有頂天になっていた。女道化師は百姓女の衣装をつけ、アルベールの馬車とすれちがったとき、仮面をとってみせたのである。
彼女は美しかった。
フランツは心からアルベールに、よかったねと言った。この祝いの言葉を、それを受けてしかるべき者としてアルベールは受けた。アルベールによると、ほかの女に真似のできない上品なもの腰その他からして、この美しい未知の女性は、たしかに第一流の貴族の家の女性だというのである。
彼は彼女に翌日手紙を渡すことに心をきめていた。
フランツはこの打ち明け話を聞きながら、アルベールが、なにか自分に頼みたいことがあるのに、それを言い出しかねている様子に気がついた。フランツは、自分にできることであれば、アルベールの幸せのために、どんな犠牲もいとわないと言って、なんとかアルベールにそれを言わせようとした。アルベールは友人同士の間での礼儀にかなう程度の時間だけ、相手に、言え、言え、と言わせてから、ついにフランツにその頼みを打ち明けた。翌日、馬車を自分にだけ使わせてもらえれば大いにありがたいというのだった。
アルベールは、美しい百姓女が仮面をはずすなどという大へんな好意を見せてくれたのは、友がいなかったからだと思っていたのだ。
ご想像の通り、フランツは、友人の好奇心をそれほどまでに心地よくかきたて、自尊心をそれほどまでに満足させるアバンチュールを、そのさ中で中断させてしまうほどエゴイストではなかった。彼は、この立派な友人がまるで慎しみなど持たないことを知っていたから、この幸運の委細を必ずや後で教えてくれるにちがいないと思った。そして、フランツは、ここ二、三年イタリア各地を歩き廻っているのに、自分ではこうした恋の手管をほんのかすかにすら経験したことはないので、こういう場合に事がどう進展するものなのか知っておくのも悪くはないと思ったのである。
そこで彼は、翌る日は、ロスポリ館の窓から見物するだけでがまんしようとアルベールに約束したのであった。
実際に翌日、フランツは、行ったり来たりするアルベールを見ていた。アルベールは大きな花束を一つ持っていた。おそらく恋文の使者にこれを仕立てたにちがいない。白いツバキをまわりにあしらってあるのですぐそれと知れるその花束が、バラ色のサテンの服を着た美しい女道化師の手に抱かれているのを見たとき、この想像は確信に変わった。
その夜は、もう喜ぶというようなものではなかった。狂喜と言ってよかった。アルベールは、きっと同じやり方でその美しい未知の女性が返事をよこすことを信じて疑わなかった。そこでフランツはアルベールの希望を先取りして、祭りの騒ぎで疲れたから、翌日の昼間はアルバムを整理し、ノートをつけて過ごしたいと言った。
アルベールの予想に狂いはなかった。翌日の夕方、アルベールがフランツの部屋に飛びこんで来た。四角い紙の隅を持って、ひらひらさせている。
「どうだい、言った通りだったろう」
「返事をくれたのか」フランツは叫んだ。
「読んでみろよ」
この言葉は、どうにも表現しようのない抑揚をつけて発音された。フランツはその手紙を受け取って読み始めた。
『火曜の夜、七時、ポンテフィチ通りの前で馬車をお降りになり、あなたのモコレツト〔小さいろうそく〕を奪うローマの百姓女の後をおつけ下さい。サン=ジアコモ教会の階段の一番下の段までいらしたら、百姓女にあなたがわかりますように、道化の衣装の肩にピンクのリボンをおつけ下さいますよう。
火曜の夜までお目にかかりません。
心変わりなさいませぬよう、またくれぐれもお気をつけて』
「どうだい」アルベールが、フランツが読み終えたときに言った。「それをどう思うかね、君は」
「いや、事はどうやら心おどるアバンチュールの色合いを強めてきたと思うね」
「僕もそう思うんだ。君がたった一人でブラッチアノ大公の舞踏会に行くことになりはしまいかと、大いに心配しているんだ」
フランツとアルベールはその日の朝、それぞれ、この有名なローマの銀行家から招待を受けていたのであった。
「ちょっと注意するがね、アルベール」フランツは言った。「貴族は皆大公邸に集まるんだ。もしその美しい未知の女性が、ほんとうに貴族なら、大公の邸に姿を見せないわけにはいかないんだ」
「大公邸に来ようが来まいが、僕は彼女についての意見は変えないね」アルベールはさらに続けて、「手紙を読んだだろう?」
「うん」
「イタリアでのメツォ・チトの娘が受ける教育がどれほど貧弱なものか君は知ってるのか」
イタリアではブルジョワ階級をこう呼ぶのである。
「うん」またフランツはこう答えた。
「それじゃ、もう一度読み返してみたまえ。そして、筆跡をしらべて、単語にしろ綴りにしろ、一つでも間違いがあったら指摘してほしいね」
たしかに筆跡はきれいだし、綴りも完璧であった。
「君は果報者だよ」もう一度手紙を返しながらフランツはアルベールに言った。
「笑いたいだけ笑ってくれ、からかいたいだけからかってくれ、僕は恋をしているんだ」アルベールが言った。
「うわあ、おどかすなよ」フランツが叫んだ。「ブラッチアノ大公邸の舞踏会に一人で行くだけじゃなくて、どうやらフィレンツェヘも僕一人で帰ることになりそうだね」
「実際のところ、もしあの未知の女性が、顔の美しさと同じぐらい心もきれいだったら、はっきり言っておくけれども、僕は少なくとも六週間はローマに滞在するよ。僕はローマが好きだ。それにね、僕は前から考古学にひどく興味を持っていたんだよ」
「ほう、それじゃ、もう一人か二人あんな人と出会ったら、君がアカデミー・デ・ザンスクリプション・エ・ベル・レットルの会員に選ばれる日も期待できなくはないというわけだ」
アルベールは本気になってアカデミーの椅子を得る権利が自分にはあるのだと主張するかもしれなかった。だが、このとき、食事の仕度ができた旨が二人に告げられた。ところで、アルベールの場合には、恋は食欲の敵どころではなかった。そこで、議論は食後ということにして、彼は友とともに、急いで食卓についた。
食事がすんだところへ、モンテ・クリスト伯爵の来訪が告げられた。この二日というもの、二人は伯爵の姿を見ていなかった。パストリーニの言うところでは、伯爵は用があってチヴィタ・ヴェッキアヘ行ったということだった。前日の夜発って、ほんの一時間ほど前に帰って来たばかりであった。
伯爵は愛想がよかった。自分で気をつけているのか、それとも、すでにある種の場合に彼の辛辣な言葉の中に二、三度なり響いた、あのとげとげしい心の糸が、場合が場合だけに呼びさまされようがなかったためか、ごくふつうの人と変わらなかった。この男はフランツにとってはまことの謎であった。伯爵は、この若い旅行者が、自分が誰であるかを知ったことを、疑うことはできないはずである。にもかかわらず、今度また出会ってから、フランツにほかの場所で会ったことを思いだしたと思わせるような言葉は、ただの一言もこの男の口からは出ないのだ。フランツのほうでは、はじめて出会った時のことをにおわせたくて仕方がないのだが、自分と友人とに親切の限りを尽してくれる人に、不愉快な思いをさせてはと思って、辛うじてこらえているのだ。
二人がアルゼンチナ座の桟敷をとりたいと思ったのに、全部満員であると断わられたということを、伯爵は聞き知ったのだった。
それで、伯爵は自分の桟敷の鍵を持って来てくれたのである。少なくともそれが来訪の表面上の理由であった。
フランツとアルベールは、それでは伯爵の席を奪うことになると言って辞退してみた。しかし伯爵は、その夜はパルリ座へ行くことになっているので、もし二人が利用しなければ、桟敷の席が無駄になってしまうと答えるのであった。
この返事が二人に好意を受けさせた。
フランツは、最初会ったときにひどく驚かされた伯爵の顔の蒼白さに、次第に馴れてしまった。彼は、そのきびしい顔つきの美しさを認めないわけにはいかなかった。蒼さはただ一つの欠点である。いやむしろそれが最も大きな魅力かもしれなかった。まさにバイロンの詩の主人公である。フランツは、伯爵に会えば必ずとは言わぬまでも、伯爵のことを思い浮かべる際には、この暗い顔を、マンフレッドの肩の上、ないしはララの縁なし帽の下に思い描かずにはいられなかった。苦汁に満ちた思いがつねに宿っていることを示す額のしわ。魂の奥底までも見通すような燃えるような目。そこから洩れる言葉に、一度聞けば、聞く者の記憶の底に刻みつけられるような特殊な性格を与える、傲岸《ごうがん》で軽蔑するようなあの唇。
伯爵はもう若くはなかった。少なくとも四十歳にはなっていた。それでいて、彼が席を共にする青年たちに勝てるだけのものを持ち合わせていることは、誰の目にも明らかであった。実はそれは、英国の詩人の幻想的な主人公たちに酷似しているということが、伯爵になにか人を呪縛する力があるかのように思わせるためであった。
アルベールは、自分とフランツがこのような人と出会った幸運を、いつまで語っても飽きなかった。フランツはアルベールほど感激屋ではなかったが、それでも、すぐれた人間が周囲の者の心に及ぼす、あの影響の力を受けていた。
フランツは、伯爵がすでに二度も三度も口にしたパリ行きの計画を考えていた。その風変わりな性格と、個性的な顔立ち、それに莫大な富とをもってすれば、必ずやパリで大きな評判をまき起こすであろうことは疑う余地がなかった。
けれども、伯爵がパリヘ来たときにパリにいたいとは思わなかった。
その夜の芝居見物もイタリアの劇場のならわし通りに事が運んだ。つまり、歌い手の歌を聞くのではなく、人を訪ね、おしゃべりをして過ぎたのである。G…伯爵夫人は話を伯爵のほうに持って行きたがったが、フランツは、ぜひ聞かせたいもっとずっと新しい話があると言って、アルベールが実は話したくてたまらないのに上べだけはそんなはしたないまねはすまいと見せかけているのもいさいかまわず、三日前から二人の友の重大関心事となっている大事件を夫人に話した。
少なくとも旅行者の言葉を信じるなら、イタリアにおいては、こうした恋のなり行きは、さほど珍しいことではないので、夫人は露ほども疑う様子は見せずに、上々の首尾が約束されているアバンチュールが得られたことを、アルベールのために喜んでくれた。
ローマの貴族全体が招かれているブラッチアノ大公の舞踏会での再会を約して、三人は別れを告げた。
花束の婦人は約束を守った。翌日もそのまた翌日も、彼女はアルベールに姿さえ見せなかった。
ついに火曜日になった。カーニヴァル最後の日であり、最も騒々しい日である。火曜日には劇場は十時に開く。夜の八時を過ぎると、四旬節〔復活祭の前の四十日間。この期間は荒野で苦行したキリストを偲び、肉を断ち懺悔をする〕に入るからである。火曜日には、暇がない、金がない、その気になれない、というのでそれまでの祭りに加わらなかった者も、みなこの乱飲乱舞にまじり、乱痴気騒ぎに身を投じ、全体の喧騒と雑踏に、各自のわめき声と激しい挙動をつけ加えるのである。
二時から五時まで、フランツとアルベールは行列に加わって、反対に進む馬車に、馬のひづめの間や馬車の車輪の間を行きかう人びとに、コンフェッティを投げ交わしていた。こんな恐るべき大混乱の中で、事故一つ、口論一つ、喧嘩一つ起きないのである。この点ではイタリア人はまことにすぐれた国民である。イタリア人にとっては、祭りはまさしく祭りなのである。この物語の作者は、かつて五、六年イタリアに住んだことがあるが、わが国の祭りにはつき物のこうした事件によって、祭りの厳粛さが乱されたことはただの一度も見たおぼえがない。
アルベールは道化の衣装に身を包んで得意満面であった。肩にはピンクのリボンが結びつけられており、その先端は≪ひかがみ≫にまで達していた。アルベールとフランツとを混同される恐れを少しでもなくそうと、フランツはこの前と同じローマの百姓の衣装をつけていた。
時が経つにつれ、喧騒はますます激しさをました。道路のどの敷石の上にも、どの馬車の中にも、どの窓辺にも、声を出さぬ口は一つもなく、怠けている手は一本もなかった。これはまさに、叫喚の雷鳴と、降りしきる砂糖菓子、花束、卵、オレンジ、花の霰《あられ》とからなる人間の嵐であった。
三時に、ポポロ広場とヴェネチア館で同時に花火が打ち上げられ、このすさまじい騒音にその音も消されがちながら、競馬の開始が告げられた。
競馬は、小さいろうそくと同じで、カーニヴァルの最終日にのみ行なわれる行事の一つである。花火の音を合図に、馬車は即座に列を解き、それぞれ自分たちがいる場所に一番近い脇の道路に退避する。
しかもこの移動が、信じられぬほどの鮮やかな手並みと、奇蹟的な迅速さで行なわれるのである。警官がめいめいに止まるべき地点を指定するでもなく、進むべき道を示すでもない。
歩行者が建物にへばりつくと、馬のひづめとサーベルの鞘の大きな音が聞こえてくる。
一列横隊十五騎の憲兵の一隊が、コルソ通りの幅いっぱいにひろがって疾駆し、競走馬のために道をあけるのだ。憲兵の騎馬隊がヴェネチア館に到着すると、また花火が一せいに鳴らされ、通りが空《から》になったことを知らせる。
それとほとんど同時に、あたりにこだまする途方もなく大きな叫喚のさ中を、三十万の観衆のあげる叫び声と背上におどる鉄の鞭に興奮しきった七、八頭の馬が、まるで影のように走り去るのが見える。ついでサン=タンジェロの城砦の大砲が三発射たれる。これは三番の馬が勝ったことを告げるものだ。
すると直ちに、それ以外の合図なしに、また馬車が動きだし、またコルソ通りへと逆流する。あたかも、一時せき止められていた奔流が、注ぎこむ大河の川床めがけて一せいにほとばしり出るように、通りという通りからあふれ出すのだ。こうしてまた大きな潮の流れが、前よりも速やかに、御影石の岸の間を流れ始める。
ただ、騒音と動きの要素がもう一つ加わる。モッコリ売りの登場である。
モッコリとかモコレッティというのは、復活祭用のろうそくから糸ろうそくに至るまでの、大小さまざまなろうそくで、カーニヴァルの掉尾《とうび》を飾る舞台の役者たち〔群衆〕に、
一 自分のろうそくの灯を消されぬようにする。
二 他人のろうそくの灯を消す。
という二つの相反する注意をうながすものなのである。
モコレット〔モコレッティの単数〕は生命の灯に似ている。人間はこれを伝えるのにいまだたった一つの方法しか発見していない。しかもそれは、神から伝えられた方法だ。
だが、生命の灯を奪う方法はなん百というほど作り出した。たしかに、この最後的な作業には悪魔が人間にいくらか手を貸したにはちがいないが。
モコレットは灯に近づければ火がともる。
だが、モコレットを消すために作り出された無数のものを、いちいち描ききれる者がいるだろうか。巨大なふいご、怪物のようなろうそく消し、化物のようなうちわ。
めいめいが、フランツもアルベールもほかの連中も、先を争ってモコレッティを買った。
夜の闇が急速に近づいていた。そして、なん百人という商人たちの、『モコレッティ』と繰り返す金切り声の叫びの中で、すでに星が二つ三つ、群衆の頭上で輝き始めた。これが合図とでもいった具合であった。
十分後には、五万もの灯が、きらきらまたたきながらヴェネチア館からポポロ広場へ下り、ポポロ広場からヴェネチア館へと上っていった。
鬼火の祭といった光景である。
見たことがなければ、とうていこの光景を思い描けるものではない。
星という星がみな空から降りて来て、地上の狂ったようなダンスに加わったとでもご想像願いたい。
それらがみな、地球の他の場所では人間の耳が聞いたこともないような叫喚のさ中で行なわれるのである。
社会的身分の区別が消滅してしまうのは、とくにこの瞬間である。人足が王侯貴族に、王侯貴族がテヴェレ右岸の百姓に、テヴェレ右岸の百姓が町の者にまといつき、めいめいが吹いたり、消したり、また灯をともしたりしているのだ。もしここに老いたる風神アイオロスが現われたら、モッコリの王とされるであろうし、北風《アキロン》ならば、その王位の継承者と見なされたであろう。
この気違いじみた燃えさかる追っかけっこはほぼ二時間続いた。コルソ通りは日中のように赤あかと照らされ、四階五階の見物人の顔まで見わけられた。
アルベールは五分毎に時計を取り出していた。ついに時計が七時を示した。
二人の友はちょうどこのとき、ポンテフィチ通りの所にいた。モコレットを手にしたままアルベールは馬車を飛び降りた。
二、三人の仮面をつけた者が彼に近づいて灯を消そうとしたり、ろうそくを奪おうとした。しかし、拳闘の名手であったアルベールは、次々に十歩も離れた所へその連中を突きころがして、サン=ジアコモ教会へと走り続けた。
教会の階段は見物人や、互いに相手の手からろうそくを奪おうとして争っている仮面をつけた連中でいっぱいだった。フランツはアルベールを目で追っていた。そして階段の最初の段に足をかけるのを見た。と、ほとんど同時に、あの見なれた花束を持った百姓女の衣装の仮面の女が腕をのばした。今度はアルベールは全然抵抗せずに自分のモコレットを奪われるがままにしていた。
彼らがかわした言葉を聞きとるにはフランツの位置は遠過ぎた。しかし、敵意のこもった言葉でなかったことは確かである。アルベールと百姓女とは腕を組んで遠ざかって行ったのだから。
なおしばらくの間、フランツは群衆の中の二人の姿を追っていたが、マチェルロ通りの所で見失った。
突然、カーニヴァルの終了を告げる鐘の音が鳴り渡った。と同時に、まるで魔法のように、すべてのモコレッティの灯が消えた。たった一吹きの大きな風が、すべてを闇に閉ざしたかのようであった。
フランツはまっ暗闇の中に没していた。
同時にいっさいの喧騒も止んだ。灯を奪った強大な風が、音をも奪い去ったかのようであった。
もはや、仮装した人びとを自宅につれ帰る馬車のわだちの音しか聞こえなかった。窓の後ろに、所どころぽつんぽつんと光っている灯しか見えなかった。
カーニヴァルは終ったのである。
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三十七 サン=セバスチアーノのカタコンブ
おそらくフランツはその一生のうちでも、この瞬間ほどの印象の断絶、賑《にぎ》わいから淋しさへの急速な移行を経験したことはあるまい。ローマは、夜の魔王の魔法の一吹きによって、一挙に大きな墓場と化してしまったかのようであった。しかもたまたまその闇のとばりをいや増すものとして、欠け始めていた月は十一時頃にならねば昇らぬのであった。だから、青年がたどる通りという通りは、深い真の闇の中に沈んでいたのである。が、それも長い距離ではなかった。十分後には、彼の、いや伯爵の馬車はロンドン・ホテルの前に止まった。
夕食が彼らを待っていた。だが、アルベールはとてもそんな時間には帰れぬと言っていたので、フランツは一人食卓に向かった。
いつも二人が一緒に食事するのを見馴れていたパストリーニは、アルベールがいないわけを訊ねた。フランツは、アルベールが前々日に招待を受けて、そこへ行ったのだと答えておいた。モコレッティの灯がいきなり消えて、それまでの光にとってかわったあの闇、喧騒の後のあの静寂が、フランツの心にまだ不安のかげりのただようある種の淋しさの影を落していた。だから彼は、宿の主《あるじ》が二度も三度も入ってきて、なにか注文はないかとあれこれ気を遣《つか》っているのに、黙りこくったまま食事をすませた。
フランツはできるだけ遅くまでアルベールの帰りを待つつもりであった。彼は馬車を十一時に来るように命じた。そして、もしアルベールがなにかの用でホテルに姿を現わしたら直ちに教えてくれるようにパストリーニに頼んでおいた。十一時になってもアルベールは戻らなかった。フランツは着替えをすませ、自分はその夜をブラッチアノ公爵のもとで過ごすと主《あるじ》に言い残してホテルを出た。
ブラッチアノ公爵の邸《やしき》はローマでも最も美しい邸の一つである。夫人はコロナ家の正統の血を継いでおり、その名をはずかしめぬ人であったから、公爵家で行なわれる催しの数々は全ヨーロッパに聞こえていた。フランツもアルベールも公爵への紹介状をたずさえてローマに来ていた。だから公爵がまずフランツに訊ねたことは、つれはどうしたのかということであった。フランツは、自分はモコレッティの灯が消える寸前に彼と別れマチェルロ通りで見失ってしまったと答えた。
「ではそのまま戻らなかったのだな」公爵が訊ねた。
「今まで待っておりましたが」フランツは答えた。
「行先はわかっておるのか」
「正確には存じません。ですが、誰かと会う約束でもあったんじゃないかと思います」
「それはいかん。今日は、夜ふかしするには一番悪い日、いや一番悪い夜じゃ。そうではありませんかな」
この最後の言葉はG…伯爵夫人に向けられたものであった。夫人は今来たばかりで、公爵の弟のトルロニア氏の腕をとって歩いているところだった。
「あたくしは反対にすばらしい夜だと存じますわ」伯爵夫人が答えた。「ここにいる者はみな、時があまり早くたってしまうのを嘆くだけでございますもの」
「いや、わしはここに来ておられる方々のことを言っておるのではない」公爵は笑いながら言った。「ここにおられる方々は、男はみなあなたに恋をし、女はみなあなたのような美しい方を見て、嫉妬のあまり病気になることぐらいしか、ほかにはなんの危険もない。わしが申しておるのは、ローマの通りをほっつき歩いておる連中のことだ」
「まあ、舞踏会に参るためではなしに、こんな時間に町を歩いている方っていったいどなたなんですの」
「われわれの友人のアルベール・ド・モルセールですよ、奥さん。ある見知らぬ女性について行ったんで僕と別れたんです」フランツは言った。「その後、姿を見せません」
「まあ、どこにいらっしゃるか、ご存じないの」
「まるっきり」
「武器は持ってるの」
「道化の仮装をしてるんです」
「行かせるべきではなかったのう」公爵が言った。「そなたのほうがローマのことはよく知っておるのだから」
「止めましたよ、今日競馬に勝った三番の馬の脚でも止められるほど熱心に」フランツは答えた。「で、彼はどうなるとおっしゃりたいんですか」
「わかるものか、夜は暗いし、マチェルロ通りはテヴェレ河のすぐそばじゃ」
フランツは、公爵と伯爵夫人の考えが自分の不安とあまりにも一致しているのを知り、戦慄が全身を走るのをおぼえた。
「ですから、ホテルには僕がお邸で夜を過ごさせていただく旨を言い残して来ました。帰って来たというしらせが来るはずです」
「そら、ちょうど家の召使いがそなたを探しておるようじゃ」
公爵の言葉通りであった。フランツをみつけるとその召使いが近づいて来て、
「閣下、ロンドン・ホテルの主人から使いが参りまして、モルセール子爵様のお手紙を持った男がホテルで閣下をお待ち申し上げているとのことでございます」
「子爵の手紙を持って!」フランツは叫んだ。
「はい」
「で、どんな男だ」
「私は存じません」
「どうしてここへ持って来ないんだろう」
「使いの者はなにも説明しませんでした」
「その使いの者はどこにいる」
「私が閣下にお伝えするため舞踏会場に入るのを見ますと、直ちに立ち去りました」
「なんということでしょう」伯爵夫人がフランツに言った。「早くお帰りなさい、お気の毒に、あの方にきっと何かが起きたんですわ」
「駈けて行きます」
「詳しいことを知らせにまた戻って来て下さる?」伯爵夫人が訊ねた。
「ええ、大したことでなければね、もしそうでなかったら、僕自身どうなるかわかりません」
「くれぐれもお気をつけてね」
「ええ、大丈夫です」フランツは帽子を掴み、大急ぎで邸を出た。馬車は、二時に迎えに来てくれと言って、帰してしまっていたが、幸い、ブラッチアノ邸は一方はコルソ通りに、もう一方はサン=タポストリ広場に面していたので、ロンドン・ホテルまでは十分かからぬぐらいの距離であった。ホテルに近づいたとき、フランツは通りのまん中に立っている一人の男を見た。フランツは、即座にそれがアルベールからの使いの者だと思った。その男は大きなマントに身を包んでいた。フランツは男の所へ行った。すると驚いたことには、男のほうから言葉をかけてきた。
「なにかご用で」と男は、あくまでもそこにとどまって見張りを続けたいようなそぶりを示しながら、一歩後へさがって言うのだった。
「モルセール子爵の手紙を持って来たのはお前ではないのか」フランツが訊ねた。
「閣下はパストリーニのホテルにお泊りで」
「そうだ」
「子爵とご一緒に旅をなさっている方で」
「そうだ」
「閣下のお名前は」
「フランツ・デピネ男爵だ」
「では、この手紙はまさしく閣下宛のものでございます」
「返事がいるのか」男の手から手紙を受け取りながらフランツは訊ねた。
「ええ、少なくともお友達の方はそれをお望みです」
「じゃ一緒に部屋まで来い、返事を渡すから」
「ここでお待ちしたほうがいいんで」使いの者は笑いながら答えた。
「どうしてだ」
「お読み下されば、閣下ご自身おわかりになります」
「じゃ、きっとここにいるな」
「まちがいなく」
フランツはホテルに入った。階段でパストリーニに会った。
「それで?」パストリーニが訊ねる。
「それでって、何のことだ」フランツが答えた。
「お友達からだと言って来た男にお会いになりましたね」
「うん会った。この手紙を渡された。僕の部屋に灯りをつけさせてくれないか」
宿の主人は召使いの一人にろうそくを持ってフランツの先に立つよう命じた。フランツはパストリーニがうろたえた様子をしていると思った。その様子を見て、早くアルベールの手紙を読みたいと思うのだった。そこでろうそくに火が灯されると、すぐにろうそくに近づき、手紙をひらいた。手紙はアルベールの手で書かれ、アルベールのサインがしてあった。フランツは二度読み返した。それほどその手紙の内容は思いもよらぬものだったのである。
以下が原文通りに書き写されたその手紙である。
『これを受け取ったら、直ちに、机の四角い引出しにある僕の財布の中から信用状を取り出してくれないか。もし足りなければ君のも足してくれ。トルロニアの所へ行き、今すぐ四千ピアストル受け取って、使いの者に渡してくれたまえ。大至急この金が僕の所へ届かないと大へんなことになる。これ以上は言わない。君が僕を信頼できるのと同じぐらい僕は君を信頼しているからね。
追伸 今は僕もイタリアの山賊の存在を信じるよ。
汝が友 アルベール・ド・モルセール』
この文面の下に、見知らぬ筆跡で、つぎのようなイタリア語が書かれていた。
『もし朝六時までに四千ピアストルがわが手に入らざる場合は、アルベール・ド・モルセール子爵の生命は終りを告げるべし。 ルイジ・ヴァンパ』
この二つ目の署名がフランツにすべてを解き明かし、使いの者が部屋に上がるのを嫌った理由もわかった。フランツの部屋よりは通りのほうが、あの男にとっては安全だったのである。アルベールは、彼がその存在を長い間信じようとはしなかった山賊の首領の手に落ちたのだった。
ぐずぐずしている暇はなかった。彼は机の所に駈けつけ、言われた引出しの中に財布を見出した。財布の中に信用状が入っていた。総額六千ピアストルのものであった。しかしこの六千ピアストルのうちアルベールはすでに三千ピアストルを使ってしまっていた。フランツは信用状を持っていなかった。フィレンツェに住んでいて、ローマには七日か八日の予定で来たのであるから、百ルイほどしか持って来なかった。しかもその百ルイのうち残っているのはせいぜい五十ルイくらいのものだった。
したがって、フランツとアルベールの二人だけで要求された金額を揃えようとすれば、七、八百ピアストル足りない。もっともこのような場合には、フランツはトルロニア氏の好意をあてにすることができた。
そこで彼は急ぎブラッチアノ邸に引き返そうとしたのだが、この時ある考えが彼の脳裡にひらめいた。
モンテ・クリスト伯爵のことを思い出したのだ。フランツはパストリーニを部屋へよこすよう命じ、主がドアの所に現われたのを見ると、
「パストリーニ」と彼はせきこんで言うのだった。「伯爵は部屋におられると思うか」
「はい、いらっしゃいます、今しがたお戻りになりました」
「それじゃ、お部屋へうかがって、お邪魔したいが、と申し上げてくれないか」
パストリーニは急いで申しつけられた通りにし、五分後に戻って来た。
「伯爵様がお越しをお待ちでございます」と主は言った。
フランツは踊り場を横切り、召使いが伯爵のいる所へ彼を案内した。伯爵はフランツがまだ見たことのない小さな部屋にいた。まわりに長椅子がならんでいる。伯爵がフランツの前に来た。
「これはまたどういう風の吹きまわしでこんな時間においで下さったのでしょう。夜食をとろうとでもおっしゃるのですかな。だとすればたいへん嬉しいことですが」
「いいえ、重大な用件を申し上げに参ったのです」
「用件を!」伯爵はいつものあのさぐるような目でフランツを見た。「どういうご用件でしょう」
「ほかに誰もいないでしょうか」
伯爵はドアの所へ行ってまた戻って来た。
「誰もいません」
フランツはアルベールの手紙を渡した。
「お読みになって下さい」
伯爵は手紙を読んだ。
「は、はあ」伯爵が言った。
「追伸のほうもよくお読みになりましたか」
「ええ、たしかに。
『もし朝六時までに四千ピアストルがわが手に入らざる場合は、アルベール・ド・モルセール子爵の生命は終りを告げるべし。 ルイジ・ヴァンパ』」
「どうお思いですか」フランツは訊ねた。
「要求された金額をお持ちですか」
「ええ、八百ピアストル足りません」
伯爵は机の所へ行き、それをあけ、金貨のぎっしりつまった引出しをすべらせて、
「まさか、私以外の者に頼むようなまねはなさらなかったでしょうね」
「とんでもありません、まっすぐにこちらへ伺ったのです」
「それはありがたい。さあどうぞ」
と、伯爵は引出しの中の金貨をとれというしぐさをした。
「どうしてもこの金をルイジ・ヴァンパに届けなければいけないでしょうか」青年は今度は彼のほうがじっと伯爵を見据えながら訊ねた。
「何をおっしゃる、それはご自身でご判断下さい。追伸の言葉はきわめてはっきりしています」
「僕には、もしあなたが会いに行って下されば、話が簡単につくような気がするんですが」
「誰にです?」驚いた伯爵が訊ねた。
「たとえば、一緒にルイジ・ヴァンパに会いに行って下されば、ヴァンパもあなたに対してはアルベールの釈放を拒みはすまいと思うのです」
「私に対しては? 私がそんな山賊にどういう影響力を持っているとおっしゃるんですか」
「あなたはヴァンパに、彼が忘れるはずのないような恩をほどこしてやったばかりじゃありませんか」
「どんな恩を?」
「あなたはペッピーノの命を救ってやったではありませんか」
「ほ、ほう、誰がそんなことを言いました」
「そんなことはどうでもいいでしょう、僕は知っているんです」
伯爵は一瞬口を閉ざし、眉をひそめていたが、やがて、
「で、もし私がヴァンパに会いに行くとしたら、ご一緒願えますかな」
「僕がついて行くことがご不快でなければ」
「それじゃ決まりました。天気は良いし、ローマの田園を散歩するのも、結構楽しいでしょう」
「武器を持って行ったほうがいいですか」
「何に使うんです」
「お金は」
「いりません、この手紙を持って来た男はどこにいますか」
「通りです」
「返事を待って?」
「そうです」
「われわれの行先を知る必要があります。その男を呼びましょう」
「無駄ですよ、上がらないって言うんです」
「あなたのお部屋ならそうでしょうが、私の部屋なら面倒なことは言わんでしょう」
伯爵はその小さな部屋の通りに面した窓辺に行き、特殊な吹き方で口笛を吹いた。マントの男が壁から離れて通りのまん中に来た。
「上がって来い」と、伯爵が、召使いにでも命ずるような口調で言った。
使いの者はすぐそれに従った。ためらう色もなく、むしろ急いでそうするようにさえ見えた。正面階段の階段をとび越え、ホテルに入る。五秒後には、もうその男はその小さい部屋のドアの所に立っていた。
「なんだ、ペッピーノか」伯爵が言った。
しかしペッピーノは返事をするかわりに、跪《ひざまず》き、伯爵の手をとるとなん回も唇をあてた。
「は、はあ、お前は命を救けてやったのをまだ忘れないんだな。これは不思議だ。もう一週間も前なんだぞ」
「忘れません、閣下。永久に忘れはいたしません」ペッピーノは深い感謝の念のこもった口調で答えるのだった。
「永久にか。それはまたずいぶん長いな。ま、お前がそう思っているだけでも大へんなことだ。立て、そして答えるのだ」
ペッピーノがフランツに不安そうな目を向けた。
「ああ、この方のいる前でしゃべってもいい。私の友達だ」
「友達だなどと言ったのをお許し下さい」伯爵がフランス語でフランツのほうを向いて言った。「この男に信用させるためにそう言う必要があったのです」
「僕の前でしゃべっても大丈夫だ。僕は伯爵の友達だからね」フランツも言った。
「それはよかった」ペッピーノは、伯爵のほうを向いて、「どうぞお訊ね下さい、お答えします」
「アルベール子爵はどうしてルイジの手に落ちたのだ」
「あのフランス人の馬車が、なん回もテレザの乗ってた馬車とすれ違ったんです」
「頭《かしら》の愛人のか」
「ええ、そこであのフランス人がテレザに色目を使ったんで、テレザがおもしろがってそれに答えたんです。フランス人が花束を投げるとテレザも投げ返す。もちろんお頭の許しがあってのことです。同じ馬車に乗ってましたから」
「なんだと!」フランツが叫んだ。「あのローマの百姓女の馬車にルイジ・ヴァンパがいたのか」
「馬車を操ってたのが頭です、御者のなりをして」ペッピーノが答えた。
「それから」伯爵が訊ねる。
「それから、フランス人が仮面をとりました。テレザも、これも頭の許しを得た上でですが、仮面をとりました。フランス人が会いたいと言って、テレザが承知しました。ただ、サン=ジアコモの階段にいたのは、テレザじゃなくてベッポです」
「なに!」フランツがさえぎった。「アルベールのモコレットを奪ったあの百姓女が?」
「十五になる男の子ですよ」ペッピーノが答えた。「でもお友達の方がごまかされたからって、恥にはなりません。ベッポは、ほかにも大勢そうやってひっかけたんですからね」
「で、ベッポがその人を城壁の外へつれ出したんだな」伯爵が言った。
「その通りです。マチェルロ通りのはずれの所で馬車が一台待ってて、ベッポはフランス人にも後から乗るようにうながしてその馬車に乗りました。フランス人はいともいんぎんに自分の右の席をベッポに与えて、自分はべッポのそばに腰をおろしたってわけです。そこでベッポが、ローマから一里ほど離れた別荘へつれてくって言ったら、フランス人はベッポに、地の果てまでもついて行くって言うんです。すぐさま御者はリペッタ通りを上って、サン=パウロ門に着きました。田舎に入ってから二百歩も行くと、フランス人があんまり厚かましくなったんで、ベッポは喉もとに二丁拳銃をつきつけ、御者もすぐ馬を止めて御者台でふり向きざま、同じようにしました。それと同時にアルノ河の川べりにかくれていた四人の仲間が馬車のドアに飛びついたんです。フランス人は大いに抵抗しようとしたんです。ベッポの首を締め上げさえしたんだそうですが、武装した五人の男が相手じゃどうにもなりません。降参するより仕方がありません。みんなはフランス人を馬車から降ろして、小さな川ぞいに歩き、サン=セバステアーノのカタコンブ〔古代ローマ時代のキリスト教徒の地下の墓地〕で待ってたテレザとルイジの所へつれてったんです」
「それにしても」伯爵がフランツのほうに向きなおって、「これもなかなおもしろい話じゃありませんか。あなたはこうしたことにはお詳しいが、いかがですか」
「まったくおもしろい話だと申し上げますよ、アルベールの身に起こったことでなければね」
「実際、もし私がいなかったら、お友達にとってはいささか高くつくめぐり合わせでしたね。でもご安心下さい。少しこわい思いをしただけですみます」
「やはり迎えに行くんですか」
「当り前ですよ。とんだ良い景色の所におられるわけですからなおさらです。サン=セバステアーノのカタコンブをご存じですか」
「いえ、まだ入ってみたことはありません。いつかきっと入ってみようとは思っているんですが」
「それではちょうどいい機会です。こんな機会はまたとないでしょう。馬車をお持ちですか」
「いいえ」
「さしつかえありません。私のためには四六時中いつでも馬をつけて用意しておくならわしになっていますから」
「馬をつけて」
「ええ、私は大へん気紛れでしてね。申し上げておかねばなりませんが、私は、起きぬけに、夕食後に、あるいは真夜中に、急に地球上のどこかへ行きたくなることがあるんです。すると直ちに発ってしまうのです」
伯爵は呼び鈴を一回鳴らした。部屋の召使いが現われた。
「馬車を外へ出しておけ。グローブポケットのピストルは全部とり出すこと。御者を起こす必要はない。アリが馬車を操る」
やがて門前に止まる馬車の音が聞こえた。
伯爵は時計をとり出し、
「十二時半です。ここを五時に出ても間に合うでしょうが、そうゆっくりしていては、お友達に辛い夜を過ごさせることになるでしょう。急いで無法者どもの手から救い出しに行ったほうがいい。今でも私と一緒に行く気がおありですか」
「もちろんですとも」
「それじゃ、行きましょう」
フランツと伯爵はペッピーノを従えて部屋を出た。
玄関口に馬車がいた。アリが御者台にいる。フランツは、モンテ・クリストの洞窟にいたあの口のきけない奴隷をそこに見た。
フランツと伯爵は馬車に乗った。馬車はクーぺであった。ペッピーノがアリの脇に位置を占めると、馬車は全速力で走り出した。アリは前もって命令を受けていたらしい。コルソ通りを通り、カンポ・ヴァッチーノを横切り、サン=グレゴリオ通りを上り、サン=セバスチアーノ門に着いた。門番は通行を阻止しようという様子を示したが、モンテ・クリスト伯爵が、昼夜を問わずいかなる時刻にもローマ市への出入を許す旨のローマ総督の許可証を見せると、墜格子《おとしごうし》が上がって、門番は一ルイの礼金をもらい、馬車は門を通過した。
馬車の進む道は旧アッピア街道で西側は墓地である。時折、昇りはじめた月の光で、フランツは見張りが遺跡のかげから姿を見せるように思った。ペッピーノとの間に合図が交わされると、すぐまた闇の中に没し、姿を消すのである。
カラカラの闘技場の少し手前で馬車は止まり、ペッピーノが馬車のドアを開け、伯爵とフランツは馬車を降りた。
「十分で着きますよ」伯爵がフランツに言う。
そしてペッピーノをわきに呼び、低い声でなにか命令を与えた。ペッピーノは馬車の荷物入れからとり出した松明《たいまつ》を手にして立ち去った。
さらに五分経過した。その間フランツは、牧童が、ローマ平野の起伏の多い地形による、凹凸のはげしい土地の中の一本の小径をつき進んで行き、巨大なライオンの逆立ったたてがみを思わせる、あの丈の高い赤っぽい草の中に消えて行くのを見ていた。
「では、ついて行きましょう」伯爵が言った。
フランツと伯爵も、その同じ道をたどった。百歩ほど行くと、道は下り板となって、小さな谷間のほうに降りて行くのであった。やがて、闇の中で話をしている二人の男の姿が見えた。
「このまま進んでもかまわないでしょうか、それとも待ったほうがいいでしょうか」フランツは伯爵に訊ねた。
「進みましょう。ペッピーノが、私たちが来たことを見張りに言ってあるはずですから」
事実、その二人の男のうち一人はペッピーノで、もう一人は見張りの山賊であった。
フランツと伯爵は近づいて行った。山賊がおじぎをした。
「閣下」ペッピーノが伯爵に言う。「私について来ていただけますか、カタコンブの入口はすぐそこです」
「よし、先に立て」
灌木の茂みのかげの、岩の間に、人一人がやっと通れるくらいの入口があった。
ペッピーノはこの岩の隙間に身を滑りこませた。二、三歩も行くとこの地下の通路は広くなっている。そこで彼は立ち止り、たいまつに灯をともし、あとの二人がついて来るかどうか確かめるために後ろをふり向いた。
まず伯爵がそのいわば地下室の換気窓のような穴に入り、フランツがその後から来た。
進むにつれ、なだらかな下り坂になり、幅も広くなる。とは言っても、フランツと伯爵は、まだ身をかがめて進むことしかできず、二人並んで歩くことも無理のようであった。
こうして三人はさらに百五十歩ほど進んだ。すると、
「誰か」
という声に足を止めさせられた。
と同時に三人の目には、自分たちのたいまつの火が、闇の中の銃身に反射して光るのが見えた。
「仲間だ」ペッピーノが言った。
そして彼だけ前へ進んで、この第二の見張りに低い声でなにごとかささやくと、この見張りもまた、最初の見張りと同じように頭を下げ、この夜の来訪者たちに先へ進んでもよいというしぐさをした。
見張りの背後に、二十段ほどの階段があった。フランツと伯爵はその二十段を降り、墓地の辻のような所に出た。五本の道が放射状にのびている。壁は、なん段にも掘られていて、その一つ一つが棺《ひつぎ》を安置する棚になっており、ついにカタコンブの内部に入ったことを示していた。
伯爵がフランツの肩に手を置いた。
「休息している山賊の野営のさまをごらんになりたいですか」
「もちろんです」
「それでは一緒においで下さい……ペッピーノ、たいまつを消せ」
ペッピーノが命令に従った。フランツと伯爵とは真の闇に包まれた。ただ、二人の前方五十歩ほどの所の壁ぞいに、赤っぽい光が見え、ペッピーノがたいまつを消すと、さらにその光ははっきり見えるようになった。
三人は音もたてずに進んだ。伯爵は、まるで闇を見通す不思議な能力を持っているかのように、フランツを案内するのだった。それに、彼らの目標となっている光の反映が、近づくにつれてますますフランツの目にははっきり見えてくるのだった。
アーケードが三つあり、そのまん中のが入口となっており、そこを通って中に入るのである。このアーケードは、一方は伯爵とフランツが今いる通路に面し、もう一方は四角い大きな部屋に面していた。部屋の周囲には今述べたのと同じ棺の棚が一面に掘られている。部屋の中央には四つの石が立っていて、その上には今も十字架を戴いているところを見れば、往時は祭壇として用いられたものだ。円柱の中ほどに置かれた、たった一つのランプが、闇の中に姿をかくした二人の来訪者の目に、ほの白いゆらめく光で、異様な光景を照らし出していた。
一人の男が坐っている。来訪者たちがそこから見ているアーケードに背を向けて、円柱に肘をつきなにかを読んでいる。
これが山賊の頭目、ルイジ・ヴァンパであった。
彼のまわりには、それぞれ思い思いに、マントにくるまって寝そべったり、この遺体安置所の周囲をとりまいている石のベンチのようなものに背をもたせたりしている、二十人ほどの山賊の姿が見られた。みな、すぐ手の届く所にカービン銃を置いている。
奥のほうに、音もたてず、向う側の入口のようなものの前を、幽霊のように往き来している見張りの姿がかすかに見えた。そのあたりは闇がいっそう濃いので、その入口のようなものははっきりとは見えない。
フランツがこの珍しい光景を十分に堪能《たんのう》した頃をみはからって、伯爵は、声を立てるなというしるしに口に指をあて、通路からその遺体安置所へ通ずる三段の段を登った。まん中のアーケードを通って部屋に入り、ヴァンパのほうに進む。ヴァンパは読書に没頭していて、伯爵の足音には気づかなかった。
「誰か」
ヴァンパほどほかのことに気をとられてはおらず、ランプの灯で、頭《かしら》の背後で大きくなった人影を見た見張りが叫んだ。
この叫びにヴァンパがはね起き、同時にベルトの拳銃を抜いた。
またたく間に山賊全員が立ち上がっていた。二十丁のカービン銃の銃口が伯爵に向けられている。
「これは、これは」まったく平静な声で眉一つ動かさずに伯爵は言うのだった。「ヴァンパ君、友だちを迎えるにしては、大そうな歓迎ぶりだね」
「銃を下ろせ」頭目は叫んで、片手で命令を下すしぐさをし、片手でうやうやしく帽子をとった。
それからこの光景を眺めている不思議な人物のほうを向いて、
「申し訳ありません、伯爵様。まさかおいで下さるとは思ってもみなかったものですから、伯爵様とは思いませんでした」
「どうもお前はなに事につけてもの覚えが悪いようだね、人の顔を忘れるばかりではなく、約束したことも忘れるようだ」
「どの約束を忘れたとおっしゃるのでしょうか」ヴァンパは、もし自分が過失を犯したのなら、直ちにそれをつぐなうことしか考えぬ、といった様子で訊ねた。
「私だけではなしに、私の友達にも指一本触れぬということになっていたのではなかったかね」
「その約束をどう破ったとおっしゃるんですか」
「今夜お前はアルベール・ド・モルセール子爵を誘拐して、ここへつれて来たではないか。ところが」と、伯爵はフランツをぞっとさせるような口調で続けた。「あの青年は、私の友人の一人なのだ。あの青年は私と同じホテルに泊まっている。あの青年は、この私の馬車で一週間の間、コルソ通りの行列に加わった。にもかかわらず、いいか、繰り返すぞ、お前は子爵を誘拐しここへつれて来た」こう言って伯爵はポケットから例の手紙をとり出し、「お前は、子爵が見も知らぬ他人ででもあるかのように、身代金まで要求したのだ」
「野郎ども、なんだって、それを俺に言わなかったんだ」頭目は手下の者どもに向かって言った。手下の者どもは頭ににらみつけられて、みな後ずさりした。「なんだって貴様らは、俺たちみんなの命をお預けしてある伯爵様との約束を、この俺に破らせるようなまねをしたんだ。キリストのおん血にかけて、もし貴様らの中であの若者が閣下のお友達であることを知っていた野郎がいたら、俺のこの手で脳天をぶち抜いてやるぞ」
「いかがです」フランツを振り返って伯爵が言った。「これはなにかのまちがいだと申したでしょう」
「お一人ではないんですか」ヴァンパが不安そうに言った。
「この手紙の宛名の人とご一緒だよ。私はルイジ・ヴァンパが約束は必ず守る男だということをこの方に証明したかったのだ。こちらへどうぞ、閣下」伯爵がフランツに言った。「今犯した罪をどれほど心苦しく思っているか、ヴァンパ自身が申し上げるそうです」
フランツはヴァンパに近づいた。頭目はフランツのほうへ二、三歩進み出て。
「ようこそおいで下さいました、閣下。伯爵がおっしゃったこと、私がお答えしたことをお聞きになったと思います。私がお友達の身代金として決定した四千ピアストルのために、こんなことになるのは私の本意ではありません」
「でも」と、フランツは不安そうにあたりを見廻しながら言った。「捕えられた友達はどこにいるんだ。姿が見えないが」
「無事なんだろうね」眉をひそめながら伯爵が言った。
「あそこにいます」ヴァンパが見張りの山賊がその前を往き来している壁の窪みを指さしながら言った。「もう自由の身であることを私が言いに行きます」
頭目は自分がさし示した、アルベールの牢の役をしていた場所へ歩み寄った。フランツと伯爵もその後に続いた。
「人質はどうしてる」ヴァンパが見張りに訊ねた。
「いやあ、お頭、あっしにはわかりませんや。一時間以上も前から、身動きする音も聞こえねえんで」
「こちらへ、閣下」ヴァンパが言った。
伯爵とフランツは、矢張り頭目の後について、七、八段の階段を登った。頭目が、かんぬきをはずし、扉を押した。
すると、遺体安置所を照らしていたのと同じようなランプの灯で、山賊の一人が貸したマントにくるまって、一隅に横たわっているアルベールが見えた。彼はぐっすり眠りこんでいたのである。
「ほう」伯爵が彼独特の微笑を浮かべて言った。「朝七時に射殺される男にしては、なかなかの度胸だな」
ヴァンパは、一種賞讃の眼差しで眠っているアルベールを見ていた。ヴァンパがこうした勇気の証しに心動かされぬ男ではないことが読みとれた。
「伯爵様、おっしゃる通りでした」ヴァンパが言った。「この男はあなたのお友達にちがいありません」
こう言って、彼はアルベールに近寄り、肩に手をかけて、
「閣下、お起き下さいまし」
アルベールは腕をのばし、目をこすり、それから目を開けた。
「ああ、頭《かしら》か。もっと寝かせといてくれればよかったのに。僕はいい夢を見てたんだ。トルロニアの家でG…伯爵夫人とギャロップを踊っていたんだ」
彼は時計をとり出した。自分で時間の経過を確かめるために、手放さなかったのだ。
「午前一時半。なんだってこんな時間に起こしたんだ」
「もう自由になさって結構ですと申し上げるためにですよ」
「ねえ君」とアルベールはまったく屈託のない調子で言うのだった。「これからは、大ナポレオンの言った『悪いしらせ以外には予を起こすな』という言葉をよく覚えとくんだな。もし寝かせといてくれれば、ギャロップを最後まで踊れて、一生君に感謝したのにな……じゃあ、身代金を払ってくれたんだな」
「いいえ」
「それじゃいったい、どうして釈放されるんだ」
「私が、その方のおっしゃることなら、たとえどのようなことでもお言葉に従う方が、あなた様の身柄を要求しにおいでなさいましたので」
「ここまで?」
「ここまで」
「ああ、なんという親切な方だ」
アルベールは身のまわりを見廻し、フランツに気づいた。
「これは驚いた、フランツ、君はこんな男にまで勢力を持っているのか」
「違う、僕じゃない。僕たちの隣の人さ、モンテ・クリスト伯爵だよ」
「ああ、そうか」アルベールはネクタイとカフスを直しながら、快活に言った。「伯爵、ほんとうにあなたは得がたい方です。一生ご恩を忘れぬ男と思って下さい。まず第一に馬車のこと、そして今度のこと」こう言って彼は伯爵に手をさしのべた。伯爵は自分の手をさしのべる際に、びくっと身をふるわせたが、それでも相手に手を与えた。
ヴァンパはこの光景をただあっけにとられて見ていた。たしかに彼は、自分の前では身をふるわせる人質しか見ていなかった。ところが今ここに、すべてを笑いとばすふだんの性格が少しも変わっていない男が一人いるのだ。フランツは、アルベールが山賊に相対しても、祖国の名誉を立派に守り通したことが、いたく満足であった。
「アルベール」フランツが言った、「急げば、まだトルロニアの家へ行ってパーティーを最後まで楽しむ暇はあるぜ。途中で止めたギャロップをまた続けるのさ。そうすればルイジ殿にはなに一つ恨みは残らぬはずだ。この件では、ルイジ殿はほんとうに紳士としてふるまってくれたよ」
「ああ、そうだった。君の言う通りだ。二時には着けるな。ルイジ殿、閣下においとまを告げるには、まだなにか手続きがありますか」
「なにもありません」山賊が答えた。「風のように自由なお身の上です」
「それじゃ、楽しく達者でね、さ、行こう行こう」
こう言ってアルベールは、フランツと伯爵の先に立って、階段を降り、四角い大広間を横切った。山賊どもはみな帽子を手にして立っていた。
「ペッピーノ」頭目が言った。「たいまつをよこせ」
「いったいどうしようというのだ」伯爵が訊ねた。
「お送りします。せめてこれぐらいのことはさせていただきます」
牧童の手から灯のついたたいまつを受けると、ヴァンパは、主人に仕える召使いのようにではなく、国賓を案内する国王のように、来客たちの前に立って歩き始めた。
入口の所まで来ると、彼は頭を下げた。
「では伯爵様、もう一度お詫びを申し上げます。今回の件で私に悪いお気持は残されませんように」
「残すものか」伯爵が言った。「それどころか、あまりていねいに過ちを償ってくれたので、よくぞ過ちを犯してくれたと感謝したいくらいだ」
「みなさん」と、頭目は二人の青年のほうに向き直って、「こう申し上げてもあまりぞっとなさらないでしょうが、もしいつか私をもう一度お訪ね下さる気持になられたらいつどこにおりましても、歓迎申し上げます」
フランツとアルベールは頭を下げた。まず伯爵が外に出、アルベールがそれに続いた。フランツだけが残った。
「なにか私にご質問でも」笑いながらヴァンパが言った。
「ええ、正直に言って、僕たちが入って行ったとき、あれほど熱心に何を読んでいたのか知りたくて」
「シーザーの『ガリア戦記』、私の愛読書です」
「どうしたんだ、来ないのか」アルベールが訊ねた。
「行く、すぐ行く」フランツが答えた。
彼も換気孔のような入口から外に出た。
平地をなん歩か歩いたとき、
「あ、ちょっと失礼」アルベールがこう言ってまた後戻りをした。「頭《かしら》すまないけど火を」
アルベールは葉巻にヴァンパの持つたいまつで火をつけた。
「さあ、伯爵、今度は大急ぎです。ブラッチアノ公爵邸の夜会にどうしても行きたいんです」
来た時に乗り捨てた場所に馬車がいた。伯爵がアリに、たった一言アラビア語を言うと、馬は全速力で走り出した。
二人の友が舞踏会場に戻ったのは、アルベールの時計で、正確に二時であった。
二人が帰って来たというので大騒ぎとなったが、二人一緒に広間に入ったので、アルベールの身を案じていた人々の不安はただちに解消した。
「奥さん」モルセール子爵は伯爵夫人の前に進み出て言うのだった。「昨夜、私とギャロップを踊って下さると約束して下さいましたね。この嬉しい約束を守っていただきに参るのが少し遅くなりました。でも、嘘はつかぬ男であると奥さんもご存じの私の友人が、私が悪いのではないことを証明してくれると思います」
そしてこのとき、音楽がワルツの開始を告げたので、アルベールはその腕を夫人の腰にまわして、夫人とともに踊る人々の渦の中に消えて行った。
この間フランツは、アルベールにいわば手を与えざるを得なくなったとき、モンテ・クリスト伯爵の全身をつらぬいたあの異様な戦慄のことを思い浮かべていた。
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三十八 再会の約束
その翌日、朝起きてまずアルベールが言ったのは、フランツに伯爵を訪ねないかという言葉だった。前夜伯爵に礼は述べたが、伯爵が自分のためにしてくれたことに対しては、もう一度改めて礼を言うべきであるとアルベールは思ったのである。
なにか恐怖のまじった魅力によって伯爵にひきつけられていたフランツは、アルベールを一人だけ行かせたくない気がして、自分もついて行った。二人は客間に通された。五分後に伯爵が現われた。
「伯爵」アルベールは伯爵の前に進み出て言った。「昨日うまく申し上げられなかったことを今朝また繰り返すことをお許し下さい。つまり、僕がどんな状況のもとにある時にお力添えをいただいたか、僕は決して忘れませんし、あなたが僕の命の恩人、少なくともそれに近い方であることを、肝に銘じておくということをお伝えしたいのです」
「いやあ、そう感謝のお気持を大げさにおっしゃられては痛み入ります」伯爵は笑いながら答えた。「ご旅行の費用が、私がいたために、二万フランほど浮いたというだけのことですよ。そう口に出しておっしゃるほどのことでもありますまい。それより、あなたこそ、天衣無縫、なるようになれのご態度、お見事でしたなあ」
「何をおっしゃるのですか、僕は、まずい喧嘩を始めてしまった、果たし合いになってしまうとばかり思っていたのです。それで、一つだけはあの山賊どもに教えておいてやろうと思ってました。どこの国でも果たし合いはするけれども、笑いながら果たし合いをするのはフランス人だけだということをね。ですが、だからといってあなたを恩人と思う心に変わりはありません。僕は、僕なり、僕の友人なり、知人なりが、なにかあなたのお役にたてることはないだろうか、とそれを伺うために参ったのです。僕の父、モルセール伯爵は、スペインの出なので、フランスとスペインで高い地位についています。僕も、そして僕を愛してくれている者も、みないつでもあなたのお役に立ちたいと思っております」
「それでは申しますがモルセールさん、じつはそうおっしゃって下さるのを待っていたのです。お申し出、ありがたく頂戴いたします。お願いしたいことがあったものですから、あなたに目をつけていたのです」
「どんなことでしょうか」
「私はまだパリヘ行ったことがありません。私はパリを知らないのです……」
「なんですって」アルベールは叫んだ。「今までパリをご覧にならずに過されたのですか、まさか」
「とお思いでしょうが、じつはそうなのです。しかし、私もあなた同様に、これ以上、世界の知性の首府を知らずに過ごすことはできまいと思ってます。それに、もし私に、パリの社交界に私を紹介して下さる方がいたら、どうしても行かねばならないこのパリ行きをとっくの昔に実現していたと思うのです。ただ知り合いがまったくなかったものですから」
「あなたのような方が!」アルベールは叫んだ。
「そう言って下さるのはうれしいのですが、私は、自分を、アグアド氏やロスチャイルド氏と富を競うことぐらいしか能のない男と思っておりますし、パリヘ相場をはりに行くわけでもありませんので、こんなつまらぬことで行きそびれていたのです。さあ、モルセールさん、約束して下さいますね(伯爵はこの言葉に異様な微笑を伴わせた)、私がフランスに参りましたら、パリの社交界の扉を私のために開いて下さると。なにしろ私はそこでは、ヒュロン族かコーチシナ人も同然で、誰一人知人はいないのですからね」
「ああ、それでしたらもう喜んで、大丈夫立派にお役を務めます」アルベールは答えた。
「それに、(フランツ、僕をあまり馬鹿にしないでくれ)、今朝手紙が来てパリヘ帰らなければならなくなりました。すごく気の良い、パリの社交界に有力な知人の多い家と僕との間になにか話があるというのですから、なおのこと大丈夫です」
「縁談かい」笑いながらフランツが言った。
「そうなんだよ。だから、君がパリヘ帰って来たときには、僕はもう腰を落ちつけた男になっていて、たぶん一家の長だ。生まれつき謹厳な僕にはふさわしいだろう、そうじゃないか? いずれにしても、伯爵、もう一度申しますが、僕も僕の家族も、全身全霊をあげてあなたをお迎えいたします」
「ご厚意お受けします。というのも、こうした機会がなかったばかりに、かねてから考えていながら、計画を実行できなかったのですから」
フランツはその計画が、モンテ・クリスト島のあの洞窟で伯爵がふと洩らしたものであることを一瞬の間も疑ってはいなかった。だから、伯爵をパリに赴《おもむ》かせる計画の正体を暴くものを伯爵の表情から読み取ろうとして、伯爵がこの言葉を口にしている間、じっとその顔を見ていた。しかし、この男の心の底をうかがうことは、とくに、微笑でそれが覆いかくされているときには、きわめてむずかしいことであった。
「でも、伯爵」モンテ・クリスト伯爵のような人物を社交界に出す役を引き受けることになったのがうれしくてたまらぬアルベールはまた口を開いた。「これは、旅の途中でよく人が口にする、いいかげんな計画ではないのでしょうね、砂上の楼閣で、風が一吹きすればけしとんでしまうような」
「いや、誓いますよ」伯爵が言った。「私はパリヘ行きたいのです。行かねばならないのです」
「いつですか」
「あなたはいつパリに帰っておいでですか」
「僕ですか、僕は遅くとも二、三週間後には帰ってます。帰るための日数だけです」
「それでは、三か月の猶予を差し上げましょう。これなら大分ゆとりがあるでしょう」
「三か月後には僕の家をお訪ね下さるのですね」アルベールが喜んで叫んだ。
「同じ日、同じ時刻にいかがですか。申し上げておきますが、私は誰も真似のできぬほど正確な男ですよ」
「同じ日の同じ時刻。たいへん結構です」
「それでは、決まりました」伯爵は鏡のそばにかかっていたカレンダーをさし示して、「今日は二月二十一日です。(彼は時計をとり出した)午前十時半。五月二十一日午前十時半にお伺いしますが」
「結構ですとも。昼食を用意しておきます」
「お住まいは」
「エルデ通り二十七番地です」
「ご両親のお邸《やしき》にお住まいなのに、ご迷惑をおかけしませんか」
「僕は父の邸に住んではいますが、中庭の奥の別棟に住んでますから」
「そうですか」
伯爵はメモ帳をとり出し、『エルデ通り二十七番地、五月二十一日午前十時半』と書きつけた。
「さ、ご安心下さい」メモ帳をポケットにしまいながら伯爵が言った。「お宅の時計の針よりも私のほうが正確でしょうから」
「僕が発つ前にまたお目にかかれますか」
「場合によりけりですが、いつお発ちですか」
「明日夕方五時に発ちます」
「それでは、おいとまを申し上げておきましょう。私はナポリに用があって、土曜の夜か日曜の朝でないと戻りません。で、あなたも」と伯爵はフランツに向かって、「あなたもお発ちですか、男爵」
「ええ」
「フランスヘ」
「いいえ、ヴェネチアヘです。僕はまだ一、二年イタリアにおります」
「ではパリではお目にかかれませんね」
「ええ、残念ながらお目にかかれないと思います」
「ではお二人とも、旅のご無事を祈ります」伯爵は二人の友のそれぞれに手を差しのべながらこう言った。
フランツがこの男の手に触れたのはこれが初めてであった。フランツは身ぶるいした。死人の手のように冷たい手だったからである。
「最後にもう一度」アルベールが言った。「はっきりお約束しましたよ、名誉にかけて、いいですね。エルデ通り二十七番地、五月二十一日午前十時半」
「五月二十一日午前十時半、エルデ通り二十七番地」伯爵が繰り返した。
そこで二人の青年は伯爵に頭を下げその部屋を出た。
「どうしたんだい」自分の部屋に入ったアルベールがフランツに言った。「君はなんだか心配そうな様子をしているが」
「うん、正直言ってね、伯爵は不思議な人なんだよ。君とパリで会うと言ったあの約束が気になって仕方がない」
「あの約束が……気になる。おい、君少しどうかしてるんじゃないのか、フランツ」
「どうかしてるかもしれないが、とにかく気になるんだ」
「いいかい、ちょうどいい機会だから言うんだけれどね、君は伯爵に対してかなり冷たいね。伯爵のほうは僕たちに対して、まるで反対に、言う所なしだ。君はなにか伯爵に文句をつける点でもあると言うのかい」
「まあね」
「ここで会う前に、どこかで会ったことがあるのか」
「その通りなんだ」
「どこでだ」
「これから話すことを絶対に口外しないと約束するかい」
「約束する」
「誓うか」
「誓う」
「よし、それじゃ話そう」
そこでフランツはアルベールに、彼のモンテ・クリスト島への旅の話をした。島で密輸業者たちと会った次第、その中にコルシカの山賊が二人いたこと。彼は、伯爵がそのアラビアンナイトのような洞窟で、夢物語のようなもてなし方をしてくれた際のことを事こまかに話した。食事のこと、ハシッシュのこと、彫像のこと、現実も夢も。そして目覚めた時、これらの出来事の証拠ならびに追憶としては、ポルト=ヴェッキオヘ向けて帆を上げていた小さなヨットの姿しかなかったことを。
それから彼はローマでの話に移った。コロセウムの夜のこと、伯爵とヴァンパの間で交わされていたあのペッピーノのことに関する会話、その中で伯爵がペッピーノの特赦をとりつけてやると言った、読者諸賢も知る通りに、伯爵が見事に果たした約束のこと。
そして最後に彼は、前夜の事件のことに及んだ。身代金を揃えるのに六、七百ピアストル足りなくて困ったこと、そこで伯爵に頼んでみたらという気を起こしたこと、この思いつきが、あれほど絵画的で、同時にあれほど満足すべき結果に終ったことを話したのである。
アルベールはフランツの言葉に熱心に耳を傾けていた。
「それで」フランツが話し終えたとき、アルベールは言った。「そういう話のどこにいったい文句をつける点があると言うんだ。伯爵は旅行家だよ。金持だから自家用の船を持っている。ポーツマスなりサザンプトンなりへ行ってみたまえ、同じように気まぐれな金持の英国人のヨットでいっぱいだぜ。旅の途中で足を休める場所を確保するため、また、僕が四か月前から君は四年も前から食わされているすさまじい料理を食べずにすむように、そして、眠ることもできない忌わしいベッドに寝なくてもすむようにと、伯爵はモンテ・クリストに仮の住まいをこしらえたんだ。この住まいができ上がると、今度はトスカナの当局に自分が島から追い出され、せっかく金をかけたのにそれが無駄になってしまうのを恐れたから、伯爵は島を買って島の名を名乗ったのだ。よくよく記憶の底を探って、新たに得た領地の名を名乗る貴族がどれほど多いか言ってみたまえ」
「でも、乗組員の中にコルシカの山賊が二人いたんだぜ」
「そんなのはべつに驚くほどのことじゃないさ。コルシカの山賊は盗賊ではなくて、ただ単に、なにか復讐をやったために自分の町や村にはいられなくなった逃亡者にすぎぬことは、君は誰よりもよく知っているじゃないか。そうだろ。だから、彼らに会っているからってべつにどうということはない。僕はね、いつかコルシカヘ行くようなことがあったら、総督や知事に会いに行く前にコロンバの山賊に会いに行くね。もっとも見つけられればの話だが。あの連中には魅力を感ずるんだ」
「しかしヴァンパとその一味は。あの連中は旅人を襲って盗みを働くまぎれもない山賊だ。君もこれは否定すまい。あんな連中に対する伯爵のあれほどの影響力を君はどう思うんだ」
「僕はね、その影響力のおかげで命が助かったことはほぼまちがいないのだから、あれをあまりとやかく言うわけにはいかない。だから、君のようにそれを伯爵の大きな後ろ暗さとは考えずに、僕がそれに目をつぶるのも君は当然と思ってくれるだろう。命を救われたとは言わぬまでも、それは少し大げさかもしれないから、しかし四千ピアストルを払わずにすませてくれたのだ。フランスの金で二万四千フランだ。フランスではとても僕にそんな値段をつけてはくれまいがね」アルベールは笑いながらつけ加えた。「つまり、自分の国の人間の価値をほんとうに知る者は一人もいない、ということだな」
「それなら、まさにそのことだ。いったい伯爵はどこの国の人なのだ、何語をしゃべる、どうやって暮らしをたてている、あの莫大な財産はどうやって手に入れた、あのように陰気で人間嫌いな色合いを今の人生に落している謎に秘められたままの彼の前半生はいったいどのようなものだったのか、もし僕が君だったらこれが知りたいね」
「ねえフランツ、僕の手紙を読んだとき、君は伯爵の力を借りねばならぬと思い、君は伯爵にこう言ったね、『友達のアルベール・ド・モルセールの身が危ないのです、彼を救けるのに手を貸して下さい』と」
「そうだよ」
「その時、伯爵は君に訊ねたかい、『アルベール・ド・モルセール氏というのはどういう方ですか、名前の由来は、どうやって財産を手に入れましたか、何で暮らしをたてていますか、どこの国の方ですか、お生まれは』と」
「いや、たしかにね」
「伯爵は来てくれただけだ。伯爵は僕をヴァンパの手から救ってくれた。表面は、君の言うように豪放さを装ってはいたが、その実あの時はひどく参っていたんだよ。それなのに、あれだけのことをしてくれた代償として伯爵が僕に求めたのは、パリに立ち寄るロシアやイタリアの貴公子に毎日のようにしてやっていること、つまり、社交界にあの人を紹介することだけだ。それを君はあの人にしてやりたくないと言うのか。とすれば君はほんとうにどうかしてるぜ」
常の場合とは違って、この時ばかりは、道理はすべてアルベールの側にあったことを言っておかねばならない。
フランツは溜息を洩らしながら言うのだった。
「それじゃまあ、好きにしろよ、子爵。君の言い分は、理屈の上ではたしかにみなもっともだから。だが、それでもモンテ・クリスト伯爵っていうのはやはり謎の人物だぜ」
「モンテ・クリスト伯爵は慈善家なのさ。何のためにパリに来るか君に言わなかったね。それはモンティヨン賞〔慈善家モンティヨンが設定した賞〕を争うためだ。賞をとるために、僕の票と、賞をとらせてくれるあの醜い人の力があればいいというのなら、よし、僕の票は投ずるし、もう一つのほうも確保してあげよう。さあフランツ、もうこれでこの話は止めにしよう。食事をしてサン=ピエトロ寺院へ最後のお詣りに行こうじゃないか」
アルベールの言葉通りに事が運び、翌日の夕方五時に、二人の友は別れを告げた。アルベール・ド・モルセールはパリヘの帰途につき、フランツ・デピネは、二週間滞在する予定のヴェネチアヘ向かった。
ただ、馬車に乗る前にアルベールはホテルのボーイにモンテ・クリスト伯爵宛の名刺を渡した。伯爵が再会の約束を必ず守ってくれるかどうかまだ心配だったからである。名刺には、『子爵アルベール・ド・モルセール』の名の上に、鉛筆でこう認められてあった。
『五月二十一日、午前十時半、エルデ通り二十七番地』
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三十九 招待客
アルベール・ド・モルセールがローマでモンテ・クリスト伯爵と再会を約したエルデ通りのその邸では、アルベールの言葉を反故《ほご》にしないためのいっさいの準備が、五月二十一日の朝のうちにととのえられていた。
アルベール・ド・モルセールは、大きな中庭の一角にあり、使用人たちの建物に面した棟に住んでいた。この棟の二つの窓だけが通りに面しており、三つは中庭に、そして別の二つは庭は見廻し窓になって庭に面していた。
この庭と中庭の間に、帝政期建築の悪趣味な、モルセール伯爵夫妻の住む広い当世風の建物が建っていた。
敷地の通りに面した部分は端から端まで、ところどころに花の鉢を載せた塀が続き、その中央に、金色の槍のついた大きな鉄格子の賓客用の門があった。門番小屋にほぼ接する形の小さな門は、使用人たちや、徒歩での主人たちの出入りに使われている。
アルベールをこの別棟に住まわせていることから、息子と別れて住みたくはないが、さりとて子爵ぐらいの年頃の青年には完全な自由が必要なのだということを十分にわきまえている母親の聡明な細かい配慮をうかがい知ることができた。そしてまた、一方では、言わば小鳥の籠を金で塗ってやるように甘やかされた良家の子息の自由で怠惰な暮らしが好きな息子のほうの、利己的な計算もそこに認められることを見逃すわけにはいかない。
通りに面した二つの窓からアルベールは邸の外を見渡すことができた。外を見るということは、人々が視界をよぎるのをつねに見ていないと気のすまぬ若者たちにとっては、どうしても必要なことなのである。たとえその視野が、一本の通りに限られている場合でも。通りを観察し、もしその観察がさらに深めるだけの価値があると思えば、アルベールは、その調査を続けるために、先に述べた、門番小屋のわきの小門と対をなす小門から外へ出ることができた。この小門のことは少し詳しく述べておく価値がある。
この門は、邸の建物が建てられて以来まるで人びとからは忘れられてしまったような小さな門であった。永久に閉ざされたままと思われていたのだ。それほどひっそりと目立たず、埃《ほこり》をかぶったままであった。ところが、錠前にも蝶番《ちょうつがい》にも入念に油が差されており、人知れずしょっちゅう使われていることを示していた。この腹黒い小さな門は、じつはほかの二つの門と張り合っていたのであり、門番を嘲笑《あざわら》い、その警戒の目、その権限をまんまとだし抜いていたのである。アラビアンナイトの洞窟の有名な扉のように、アリババの『開けゴマ』の呪文のような、なにか、世にも優しい声でつぶやかれる神秘な呪文か、世にもほっそりとした指でさすられるかすれば、この門は開くのであった。
この小さな門から通ずる広い静かな廊下は控えの間になっており、そのつき当たりの右側には、中庭に面したアルベールの食堂があり、左側には庭に面した彼の小さな客間があった。窓の前に扇形に拡がっている木の繁みや蔓草《つるくさ》が、この二間だけ一階になっているその部屋の内部を、中庭や庭からぶしつけに覗く目から防いでいた。
二階は下と同じ広さの部屋がそれぞれの上に配置されていて、控えの間の上はもう一つの部屋になっている。これらの三室は、客間、寝室、居間であった。
一階の客間は、喫煙用のソファーを置いた部屋である。
二階の居間は寝室に面しており、かくしドアで階段に通じていた。すべてぬかりなく配慮が行き届いていたわけである。
この二階の上は広いアトリエで、壁や仕切りをとり払い、大きな部屋にしてある。いわば、芸術家と伊達男が妍《けん》を競いあっている、雑多なありとあらゆるものを集めた部屋といったおもむきである。アルベールが次から次と気まぐれを起こして集めたものが放りこまれ績み上げられている。狩の角笛、チェロ、フリュート、管絃楽器一揃い。一時アルベールは、音楽を愛好するとまではいかないが、やってみようという気になったことがあるからだ。イーゼル、パレット、パステル。音楽に一時熱を上げた後には、画家気取りになったからである。そして、フルーレ、ボクシングのグローブ、両刃《もろは》の太刀《たち》、あらゆる型の木刀。現代の若者たちの間での流行を追って、アルベール・ド・モルセールも、音楽や絵画に対したのとは比較にならないほどの忍耐心で、それなくしては教育が偏頗《へんぱ》なものとなってしまう三つの業《わざ》、つまりフェンシング、ボクシング、棒術を身につけようとしていたからだ。肉体の鍛練の場であるこの部屋に、彼は次々と、グリジエ、クック、シャルル・ルブーシェといった人たちを迎えた。
この特別室のその他の家具は、フランソワ一世時代のいくつかの古い櫃《ひつ》である。中国の陶器、日本の花瓶、ルッカ・デルラ・ロビアの焼き物、ベルナール・ド・パリシーの皿がいっぱいに入っている。アンリ四世かシュリ、ルイ十三世かリシュリュウが腰かけたと思われる古めかしい椅子もある。これらの椅子のうちの二つに、青地に王冠を戴いたフランス王家の百合の花三輪を浮かせた紋章が刻まれているところを見れば、ルーヴル宮殿の家具倉庫、ないしは少なくとも王族の邸の家具倉庫から出たものと思われるからである。地味で簡素な底部を持つこれらの椅子の上には、ペルシアの太陽が染め上げたり、カルカッタかシャンデルナゴール〔インドの町〕の女たちの指が織りなした鮮烈な色彩の豪奢な織り物が乱雑に投げ出されていた。これらの織り物がそこでどういう役をしているのか、これはなんぴとにも言いがたいことである。ただ見る者の目を憩わせながら、持ち主自身にも分らぬ用途に用いられる日を待ちながら、これらの織り物はその肌ざわりのよい金色の光で部屋を明るくしているのであった。
一番目立つ場所に、ロレとブランシェが紫檀《したん》の木で作ったピアノがあった。いわば小人国のサロンとでもいうべきわが国の小さなサロンにふさわしいピアノではあるけれども、その狭い響鳴箱の中には十分にオーケストラをおさめており、ベートーヴェン、ウェーバー、モーツァルト、ハイドン、グレトリ、ポルポラの傑作の重みに呻き声を発するのであった。
それから至る所に、壁ぞい、ドアの上、天井といった所に、剣、短刀、マラヤの短剣、大|鎚《つち》、斧、金銀を象眼した金色の甲冑《かっちゅう》、植物標本、鉱物標本、飛び立たんばかりに燃えるような色の翼を拡げ、閉じられることのない口ばしを開けた剥製の鳥。
この部屋がアルベールのお気に入りの部屋であったことは言うまでもない。
しかし、伯爵との約束の日、略装のアルベールが選んだ司令部は一階の客間であった。一つのテーブルを、ゆったりとした柔かいソファーが、いくつか間をあけてとりかこみ、テーブルの上には、名の知られたタバコがみな揃えられていた。ペテルスブルグの黄葉から、シナイの黒葉に至るまで、メリーランド、プエルトリコ、ラタキエ〔シリアの地名〕のたばこが、オランダ人が愛玩するひび焼きの陶器の壷に美しくおさめられていた。そのわきには、いい香りのする木のケースに、大きさと品質の順に、ピュロス、レガリア、ハヴァナ、マニラの葉巻が並べられている。そして扉を開け放った戸棚の中には、ドイツのパイプ、琥珀の口がつき、サンゴをあしらったトルコの長ぎせる、金を象眼した、まるで蛇のようにとぐろを巻いたモロッコ皮の長い管の水ぎせるの数々がおさめられていて、喫煙者の気まぐれと愛着とを待っていた。現代風の食事をした客たちがコーヒーの後で、彼らの口から吐き出され、天井に向かって長い思い思いの渦を巻きながら立ち昇る煙を通して見るのが好きな、こうした品物の配列、いやむしろ均整のとれた乱雑さといったものの指揮は、アルベール自身がとった。
十時十五分前に、一人の召使いが入って来た。これは十五の侍童《じどう》で、英語しかしゃべれず、ジョンという名であった。アルベールの召使いはこの少年だけである。もちろんふだんの日は邸の料理人を使えたし、特別な日には、父伯爵の召使いを使うことも自由であった。
この侍童は、みなにはジェルマンと呼ばれ、若い主人の信頼を得ていたが、持って来た新聞をテーブルの上に置き、手紙の束をアルベールに手渡した。
アルベールはそのさまざまな手紙に気のない目を向け、その中から優美な筆蹟の香水のかけられた封筒に入った二通の手紙を選び出すと、その封を切り、ある程度熱心にそれを読んだ。
「この手紙はどういうふうに届けられた」アルベールが訊ねた。
「一通は郵便、一通はダングラールの奥様の召使いが持って来ました」
「ダングラール夫人に、桟敷の席はありがたくお受けする旨伝えさせろ……あ、ちょっと待て……それから、昼のうちにローザの所へ行ってくれ。オペラ座の帰りに、彼女の誘い通りに夜食を食べに行くと伝えるのだ。キプロス、ケレス、マラガのブドウ酒を取り揃えて六本、それにオスタンド〔ベルギーの地名〕のカキを一樽ローザの所へ届けておいてくれ。これは俺用だと言い添えるんだぞ」
「お食事は何時にいたしましょう」
「今何時だ」
「十時十五分前です」
「それじゃ、十時半きっかりだ。ドブレは省へ行かねばならないだろうし……それに……(アルベールは手帖を見た)伯爵に約束した時刻だ、五月二十一日、午前十時半。あの人の約束をそれほど信用しているわけではないが、こっちは正確にしたい。ところで、母上はもう起きておられるか」
「もし子爵さまがお望みでしたら、伺《うかが》って参ります」
「うん……母上のリキュールのストックを少し分けてもらってくれ、俺のには足りないものがある。それから、三時頃お部屋へ伺うとお伝えしてくれないか、ご紹介したい人がいると言ってな」
召使いは部屋を出て行った。アルベールはソファーに身を投げ、二、三種類の新聞の封を切った。そして、演芸欄を見て、バレーではなくオペラしかやっていないのを知り、顔をしかめた。香料の広告を見て、人から聞いた歯磨きを探したが見当らず、パリで最もよく読まれている三種類の新聞を次々に放り出すと、長いあくびをしながら、
「まったく、新聞もますます退屈になるな」とつぶやいた。
このとき、軽やかな馬車が門前に止まり、まもなく召使いが入って来て、リュシヤン・ドブレの来訪を告げた。背が高く、ブロンドで、色が白く、灰色の落ち着いた目をした青年である。彫刻した金ボタンのついた青い服に、白のネクタイ。鼈甲縁《べっこうぶち》の片眼鏡を絹の紐でぶらさげている。これを時折、眉と頬骨の所の筋肉で右の眼のくぼみにはめるのである。彼は、笑みも浮かべず、口もきかず、かなりよそよそしい態度で入って来た。
「ああ、お早うリュシヤン、驚いたなあ、君がこんなに正確に来るなんて。正確? いや、君は最後に現われると思ってたよ、君が十時五分前に来るとはね、約束の時間は十時半だというのに。まったく奇蹟だな、内閣が倒れるとでもいうのか」
「いや」リュシヤンは、ソファーに深々と腰をおろしながら言った。「安心したまえ、わが内閣はしょっちゅうふらついてはいるが、倒れることなどないさ、無事永久に続くんじゃないかと思い始めてる、イベリア半島の件でわが内閣の地歩が固まりそうなのを別にしてもね」
「ああそうだった、君たちはスペインからドン・カルロス〔スペイン王カルロス四世の次子。フェルナンド七世の弟。一八三三年兄が死に生まれたばかりのその娘イザベラが王位についたため七年にわたる内乱、カルリスタ(カルロス派)戦争が起こる。カルロスはスペイン北部に政府を作りカルロス五世と称した。フランスのブールジュに亡命し四十五年に長子に王位を譲りイタリアに引退した〕を追い出そうとしているんだったな」
「違うよ、混同しちゃいけない。われわれは国境の向うから連れて来ようとしているんだ。ブールジュで国王としての待遇をするのさ」
「ブールジュで」
「そうさ、べつに不服を言うには当らない。あそこはシャルル七世の首都だった。なんだ、知らなかったのか、パリでは昨日から知れ渡っていることだし、証券取引所には一昨日から洩れちまっている。というのは、ダングラール氏が、(あの人がどうやってわれわれと同時に情報を入手しているのか僕も知らんが)、買いに出て百万も儲けた」
「で君のほうは、どうやら新しい勲章を貰ったようだな。胸に青い縁飾りが一つふえたじゃないか」
「ふん、シャルル三世勲章をくれたのさ」ドブレはさり気なく答えた。
「まあそう冷たい顔をするな、貰ってうれしいと白状しろよ」
「ま、それはそうだ。おしゃれの仕上げとしては、ボタンのついた燕尾服に勲章はよく似合うから。粋だしね」
「英国の皇太子かライヒシュタットの大公みたいに見えるしな」モルセールが笑いながら言う。
「まそんなわけでこんなに早く来たんだ」
「シャルル三世勲章を貰ったんで、そのうれしいニュースを僕に知らせようと思ってか」
「そうじゃない、手紙をうんと書いたからなんだ。至急の外交文書二十五通だ。今朝夜が明けてから家へ帰り、眠ろうとしたんだが、頭痛がしてね。そこでまた起き出して一時間ばかり馬に乗った。ブーローニュで急に退屈と空腹に襲われた。この二つが一緒に来るというのも珍しいが、とにかく両方が僕に反抗して手を結んでね。まるでカルリスタ=共和党同盟だよ。そこで僕は今朝君の所でご馳走になれるのを思い出してやって来たってわけだ。腹が減ってる、食べさせてくれ。退屈してる、楽しませてくれ」
「それは僕の主《あるじ》としての義務だよ」アルベールはこう言ってベルを鳴らし召使いを呼んだ。その間、ドブレは、握りにトルコ玉を象眼した細身のステッキの先で、ひろげられた新聞をはね飛ばしていた。「ジェルマン、ケレスを一杯とビスケットを持って来い。リュシヤン、酒が来るまで、葉巻があるよ、むろん密輸ものだがね。これを味わって、そして大臣にこれと同じようなのを売るようにとすすめてほしいね。善良なる市民が吸わせられているクルミの葉みたいなしろものじゃなくてさ」
「馬鹿を言うな、僕はそんなことはしないぞ。君は官製品というとすぐまずくて吸えたものではないと決めてかかるんだ。それに、そいつは内務省の管轄ではない、大蔵省だ。ユマン氏の所へ行くがいい、間接税局、A廊下二十六号だ」
「まったく君の顔の広いのには恐れ入るよ。ま、とにかくその葉巻一本どうだい」
「子爵、君はいいなあ」リュシヤンは、金めっきのろうそく立ての上で燃えているバラ色のろうそくでマニラに火をつけ、ソファーにふんぞり返って言った。「君は何もしなくてもよくて。しかも、君は自分の幸せを知らないんだよ」
「じゃ君は何もすることがなかったらどうするんだ、各国に平和をもたらす者たる君は」アルベールはかすかな皮肉をこめて言った。「大臣秘書官として、ヨーロッパ全体の大きな陰謀にもパリの小さな陰謀にも首をつっこんでいる君は。保護しなければならぬ国王たち、いやそれどころか王妃たちもいる。政党も統合させねばならないし、選挙も管理しなければならない。ナポレオンが剣とその勝利によって戦場にもたらした以上のものを、君は、ペンと信号《テレグラフ》とによって内閣にもたらしているじゃないか。役職から入る収入のほかに二万五千フランの年金もある、シャトー=ルノーが四百ルイ出すと言っても譲らなかった馬も持っている。ズボン一つ仕立て損なったことなど絶対にない洋服屋も抱えている。オペラ座、ジョッキー=クラブ、ヴァリエテ座の席もある。これだけ揃っていてもまだ退屈をまぎらすものがないというのかい。よし、僕が退屈をふっとばしてやるよ」
「どうやって」
「ある人を紹介してやるよ」
「男か女か」
「男だ」
「男はもうたくさんだよ」
「いや、この男のようなのはまだ君は知らないね」
「どこから来るんだ、地の果てからか」
「もっと遠いな、たぶん」
「うわーっ、まさかその男がわれわれの食事を持ってくるわけじゃないだろうね」
「違うよ、安心したまえ、食事は母の調理場でこしらえる。そんなに腹が減ってるのか」
「うん、正直なところ。口に出すのはお恥かしいが。だが昨夜はヴィルフォールさんの所で食べたんだ。君は気がついているかな、検事なんて連中の家ではひどいものを食っているんだよ。連中はみな後ろめたい気持がしているみたいにね」
「まあ他人の家の食事をいくらでもけなすがいいさ、それで政府の大臣たちの所の食事がうまくなるんならね」
「まったくだ。だがね、われわれは少なくともまともな人々を招待するわけじゃない。多少頭の良い、そして票を入れてくれる田舎者をお招きせざるを得ないのだが、もしそうでなけりゃ、役所で飯など食うものか、ほんとうだよ」
「それじゃ、ケレスをもう一杯、それにビスケットももう一つどうだい」
「喜んで。君の所のスペインの酒はすばらしい。あの国に平和をもたらしたのはまったく正しかった、と君も思うだろう」
「そうだ。だがドン・カルロスはどうする」
「ドン・カルロスはボルドーの酒を飲めるさ。十年もしたら伜《せがれ》をわれわれがあの幼い女王と結婚させる」
「その頃まだ君が内務省にいたら金羊毛勲章〔スペインの最高勲章〕ものだな」
「アルベール、君は今朝は、煙で僕の腹をふさがせる気らしいね」
「ああ、それが一番胃を楽しませるのにはいいんだ、信じたまえ。だが、ちょっと待て、控えの間にボーシャンの声が聞こえたぞ。彼と議論すればいいや、そうすれば少しはがまんもできるだろう」
「何の議論をするんだ」
「新聞についてだよ」
「ああ、アルベール」リュシヤンは軽蔑しきった色を見せて言った。「僕が新聞など読むと思ってるのか」
「それならなおのことさ。ますます議論がおもしろくなるぜ」
「ボーシャン様でございます」召使いが告げた。
「どうぞ、どうぞ、恐るべきペンの勇士」アルベールはこう言って立ち上がり、その青年の前に進み出た。「このドブレがね、ご当人の言うところによると君の記事を読みもせずに君を嫌ってるんだよ」
「当り前だろ」ボーシャンが言った。「僕だって同じさ、この人が何をしているかも知らずに非難ばかりしている。こんにちは、三等勲章受勲者殿」
「なんだもう知ってるのか」大臣秘書官は、新聞記者と握手と微笑を交わしながら言った。
「もちろんさ」ボーシャンが答えた。
「世間ではどう言ってる」
「どの世間だ、一八三八年には世間といってもいろいろあるからな」
「うるさく政治批評をやる連中さ、君もその闘将の一人だがね」
「いや、至極当然のことだと言ってるね。君たちは大分赤い種子〔過激派〕を播《ま》いてるから、青いもの〔共和主義者〕も少しは芽生えるはずだとね」
「まあまあだな」リュシヤンが言った。「なぜ君は僕らの仲間にならないんだ。君ほど頭が切れれば三、四年で出世できるがなあ」
「だから、僕は君のすすめに従うために、たった一つのことだけを待ってるのさ。せめて半年もつ内閣の出現をね。さてアルベール、君に一言だけ、哀れなリュシヤンにちょっと息をつかせてやりたいからね。昼食なのかい夜食なのかい、僕には議会があるんだ。ご承知の通り僕らの稼業はすべてがバラ色ってわけにはいかないんだ」
「昼飯だけだ。あと二人客が来ればいい。その二人が来ればすぐ食事にする」
「どういう客を食事に招いたんだい」ボーシャンが訊ねた。
「貴族一人と外交官だ」アルベールが答えた。
「それじゃ、貴族のほうには二時間足らず外交官にはたっぷり二時間待たされるぜ。デザートの頃にまた来るよ。イチゴとコーヒーと葉巻をとっておいてくれ、議員食堂で骨付きのあばら肉でも食うよ」
「そんなことはやめてくれよ、ボーシャン。貴族がモンモランシーで、外交官がメッテルニヒでも、十時半には正確に飯にするから。それまでは、ドブレのように、このケレスとビスケットをやってくれ」
「それじゃまあこのままいるとするか、今朝は憂さ晴らしがしたいんだ」
「ほう、ドブレと同じだな。内閣が憂鬱な時は反対派は機嫌がよさそうなものだが」
「ねえ君、それは君が僕の悩まされているものを知らないからだよ。今日は午前中衆議院でダングラール氏の演説を聞かなきゃならない、そして晩にはダングラール夫人の所で、貴族院議員の悲劇を聞かされることになっているんだ。立憲政府など悪魔に食われろ、だよ。人の話じゃ、選択の自由はあったというんだから、どうしてこんなものを選んじまったのかなあ」
「なるほど、思いきり笑いとばす種《たね》を仕込んでおきたいってわけだね」
「ダングラール氏の演説の悪口は言わんほうがいいぜ」ドブレが言った。「あの人は君たちに票を投ずる。反対派だよ」
「そいつがまずいんだ。だから、腹の底から笑いとばせるように君たちが彼を貴族院のほうに送って演説させてくれるのを待ってるんだよ」
「ボーシャン」アルベールが言う。「スペインの事件が片づいたんで、君は今朝は馬鹿にとげとげしくさからうようだね。パリ消息に僕とウジェニー・ダングラール嬢との縁組のことが出ているのをおぼえてるのかい。率直に言っていつか僕に『子爵、娘には二百万フランやることにします』と言ってくれる人の雄弁を、君があまり悪く言うのを黙っているわけにはいかないんだがね」
「ほう、その結婚は駄目さ」ボーシャンは言った。「国王はあの人を男爵にすることはできた。貴族院議員にすることもできるだろう。だがほんとうの貴族にすることはできんよ。あまりにも貴族的な武人であるモルセール伯爵が、たかが二百万フランぐらいのことで、そんな身分違いの縁組に同意なんかするものか。モルセール子爵の嫁は侯爵令嬢ぐらいでなけりゃ」
「それにしても、二百万といえば大金だぜ」モルセールは言った。
「ブールヴアール〔大通り〕の劇場か、植物園=ラペ間の鉄道の資本金だな」
「モルセール、言わせておけよ」ドブレが無頓着に言った。「結婚すればいいさ。どうせ財布と結婚するんだろう。それだったらかまうもんか。その財布に紋章が一つ足りなくたって、ゼロが一つ多いほうがいいさ。君の紋章にはメルレット〔口ばしと足のない鳥の紋〕が七つついてる。奥方に三つやったって、まだ四つ残る。それでも、従兄弟がドイツ皇帝で、もう少しでフランス王になるかもしれなかったギュイーズ公のより一つ多いぜ」
「うん、僕も君の言うことはもっともだと思うよ、リュシヤン」アルベールは上の空で答えた。
「たしかだよ。それに百万長者なんてものはみな庶子のごとくに貴族なんだ、ということは庶子かもしれんということだがね」
「しっ、ドブレ、それを言うな」笑いながらボーシャンが言う。「シャトー=ルノーに聞かれたら、君のその逆説好きを直すために、彼は先祖のルノー・ド・モントーバン〔中世の英雄〕の剣で君を串刺しにするぞ」
「そんなことすれば剣のけがれさ」リュシヤンが答えた。「僕は平民、ごくごく身分の賎しい平民だからね」
「へえ!」ボーシャンが叫んだ。「閣内にベランジェ〔シャンソン作者。ナポレオンを讃美し、王政復古に反抗した〕ばりの歌を歌う者がいるとはね。いったいどうなっちまうんだ」
「シャトー=ルノー様、マクシミリヤン・モレル様」召使いが新たな来客二人の名を告げた。
「これで全部だ」ボーシャンが言った。「さあ飯にしようぜ。たしかあと二人来ればいいと言ったな、アルベール」
「モレル」驚いたアルベールがつぶやいた。「モレルってのはいったい誰だろう」
が、言い終えぬうちにシャトー=ルノーがアルベールの手を握った。三十歳の青年で、頭のてっぺんから足の先まで貴族である。つまり、ギッシュ家の顔とモルトマール家の才智〔ともに貴族の名門〕を兼ねそなえた青年である。
「アルジェリア騎兵隊マクシミリヤン・モレル大尉を紹介させてくれたまえ。僕の命の恩人でね。あとはお人柄を見ればわかるだろう。僕の英雄に頭を下げてくれ」
こう言って彼はわきに寄り、背の高い上品な青年の姿をアルベールに見せた。読者諸子はすでにマルセーユで会ったことを思い出していただきたい。かなり劇的なシーンでこの青年をご覧になっているからお忘れではあるまい。額の広い、刺すような目をし、黒い口ひげをたくわえている。見事に着こなした、半ばフランス風半ば東洋風の豪奢な軍服が、レジヨン・ドヌール勲章をつけたその広い胸と、堂々と胸を張った身体をさらに立派なものに見せていた。
若い士官は上品に丁寧なおじぎをした。モレルの動きは、彼が偉丈夫であっただけに一つ一つがみな優美であった。
「大尉殿」アルベールは、心をこめいんぎんに言った。「シャトー=ルノー男爵は、あなたを紹介すれば僕が喜ぶことをちゃんと知っていたのですよ。彼の友達なら僕たちの友達にもなって下さい」
「たいへんいい」シャトー=ルノーが言った。「子爵、もしもの場合には、大尉が僕にしてくれたことを君にもしてくれるようお願いしておきたまえ」
「何をしてもらったんだ」アルベールが訊ねた。
「いや、話をなさるほどのことではありません。少し大げさに言っておいでなのです」モレルが言った。
「ええっ、話すほどのことではないですって」シャトー=ルノーが言う。「命にかかわることが話すほどのことではない……おっしゃり方があまりにも世間離れしてますよ。あなたは毎日命を危険にさらしているからそれでもいいでしょうが、私はたまたま、たった一度そういう目にあっただけですからね……」
「少しわかりかけてきたけれど、モレル大尉が君の命を救ってくれたんだね」
「そうなんだ、まさにその通りなんだ」シャトー=ルノーが答えた。
「で、どういう時に」ボーシャンが訊ねる。
「ボーシャン、僕は腹が減って死にそうなんだ」ドブレが言った。「話を長びかせないでくれよ」
「いや、僕はべつに食卓についちゃいけないとは言ってないぜ」ボーシャンは答えた。「シャトー=ルノーは飯を食いながら話せばいいのさ」
「あのねえ」モルセールが言った。「まだ十時十五分だってことを忘れないでくれよ。あと一人客を待たねばならないんだ」
「ああ、そうだった、外交官をね」ドブレが言った。
「外交官がどうか、僕にはまるきりわからないんだ。わかっているのは、僕がその人にあることを頼んだら、じつに見事に使命を果してくれたということだけだ。もし僕が国王だったら、たとえ金羊毛勲章でも、ガーター勲章でもあらん限りの勲章を即座に授けたと思う」
「まだ食卓には着かないというわけだから、男爵、僕らと同じようにケレスを一杯やったらどうだい、そして君の話を聞こうじゃないか」ドブレが言った。
「みんな、僕がアフリカヘ行く気になったことは知っているね」
「アフリカヘの道は君のご先祖が君のために切り拓いておいてくれた道だものね、シャトー=ルノー」モルセールが愛想よく答えた。
「そうだ。だが、君のはご先祖のようにキリストの墓を解放するためではなさそうだな」
「その通りだよ、ボーシャン」若い貴族が言った。「ピストルが撃ちたくて行っただけの話なんだ。君たちも知っているように、決闘は嫌いになっちまった。僕が事を丸くおさめてもらおうと思って頼んだ二人の立会人に、無理矢理親友の一人の腕をぶち抜かされてしまってからね。君たちみんなも知ってる、あの気の毒なフランツ・デピネの腕をだもの……」
「ああ、そうだった、いつか君たちが決闘したことがあったね……何がもとでだっけ」ドブレが言った。
「もうあのことを思い出すのはまっぴらごめんだ」シャトー=ルノーが言った。「僕がはっきり覚えてるのは、僕のような腕を眠らせておくのを恥と心得て、アラビア人どもに対して、人からもらった新しいピストルを試してやろうと思ったことだ。そこで僕はオランに向けて船に乗った。オランからコンスタンチーヌに着いたが、ちょうど包囲を解くところだった。僕も一緒に退却した。二昼夜というもの、僕は昼の雨、夜の雪にかなりよく耐えた。ついに三日目の朝、僕の馬が寒さで死んでしまった。可哀そうに、厩《うまや》の毛布やストーブに慣れていたので、アラビア馬がアラビアの十度の寒さにあって、異郷にいる思いがしたのさ」
「それで君は僕のイギリス馬を買いたがったんだな」ドブレが言う。「君のアラビア馬より寒さに強いだろうと思ったんだろう」
「それは違う、僕はもう二度とアフリカヘは行かぬと誓ったんだから」
「よほどこわかったんだな」ボーシャンが訊ねた。
「白状するがその通りだ」シャトー=ルノーは答えた。「こわがるだけのことはあったんだ。馬は死んだ。僕は歩いて退却していた。そこへ六人のアラビア人が馬を疾駆させて僕の首をはねに襲って来た。僕は二人を銃で、二人をピストルで見事にうち倒した。だがまだ二人残ってる。しかももう武器はない。一人が僕の髪の毛を掴んだ。今僕が髪を短かくしているのはそのためなんだ。何が起こるかわかりやしないからね。もう一人が長剣を僕の首にあてた。鋭い刃の冷たさを感じたそのとき、ここにおられる方がアラビア人に襲いかかり、髪を掴んでいた奴をピストルで射ち殺し、僕の喉笛を切ろうとしていた奴をサーベルで一刀両断にして下さったのだ。この方はその日、必ず誰か人を救けると心に誓っておられて、それがたまたま僕だったというわけだ。僕は金持になったら、クラグマンかマロケッティ〔ともに当時の有名な彫刻家〕に偶然の神の像を作らせるよ」
「ええ」微笑を浮かべながらモレルが言った。「あれは九月五日で、父が奇蹟的に救われた記念の日なのです。ですから、私のできる範囲で、毎年この日を記念することにしているのです、なにかをして……」
「なにか英雄的なことをでしょう」シャトー=ルノーが口をはさんだ。「要するに僕が選ばれたわけだ。でもそれだけじゃない。敵の剣から救ってくれた後で、寒さからも救ってくれた。聖マルタンのようにマント半分だけではなく、自分のマントをすっかり僕に着せてくれてね。それから飢えからも。僕に何を食べさせてくれたと思う」
「フェリックス亭のペーストかい」ボーシャンが訊ねた。
「いや、自分の馬だよ。二人で一切れずつむさぼり食った。あれはすごかったなあ」
「馬がかい」笑いながらモルセールが訊ねる。
「いや、犠牲にするということがさ。ドブレに、他人のために自分の英国馬を犠牲にするかどうか訊いてみろよ」
「他人ならしないが、友人のためにならするね」ドブレが答えた。
「私にはあなたが友人になって下さることがわかっていたのですよ、男爵」モレルが言った。「それに、すでに申し上げたように、あの日私は、英雄的であろうとなかろうと、犠牲であろうとなかろうと、かつて幸運が私たちにしてくれたことのお礼に、不運に苦しむ人になにかしてあげねばならなかったのです」
「モレルさんがちょっと洩らされた今の話は、すばらしい話なんだ」シャトー=ルノーが続けた。「君たちがもっと深くおつき合いするようになったらいつか話してもらえるよ。が、今日のところは、頭じゃなくて胃のほうになにかを詰めこもうや。アルベール、何時に飯を食うんだい」
「十時半だ」
「きっかりか」時計を引き出しながらドブレが訊ねた。
「ああ、五分ぐらいは大目に見てくれよ。僕もじつは命の恩人を待っているんだから」
「誰の」
「僕のさ、きまってるじゃないか。僕には命を救けられる資格がないとでも思ってるのか。首を切るのはアラビア人だけじゃないぜ。これからする食事は善行者の集《つど》いだ。われわれの食卓には、少なくとも僕はそうなることを希っているんだが、二人の善行者をお迎えすることになる」
「どうしたらいいかな」ドブレが言った。「モンティヨン賞は一つしかない」
「そうだな、そんなら貰う資格のまったくない奴にやればいいさ」ボーシャンが言った。「アカデミーはいつでもそうやって切り抜けてきたんだから」
「どこから来るんだ、その人は」ドブレが訊ねた。「しつこく訊いて申し訳ない。たしかに君はさっきこの質問に答えてくれたが、あまりはっきりしなかったんで、もう一度訊いてもいいと思って」
「正直なところ、僕も知らないんだ」アルベールは言った。「僕がその人を招待した時、もう三か月前だがね、その人はローマにいた。だがその後、あの人がどこへ行ってるんだか、誰にもわからない」
「で、その人が約束の時間を正確に守れると君は思ってるのかい」ドブレが訊ねた。
「あの人にできないことはなにもないと思ってる」
「大目に見るのは五分だけだぜ、もうあと十分しかない」
「それじゃ、それまでの時間を利用して、その客のことをちょっと話しておこう」
「お言葉だけどね」ボーシャンが言った。「その話は記事になりそうかい」
「うん、なる。しかもとびきり奇抜な記事にね」
「それじゃたのむ、というのはもう議会には間にあわないから、その埋め合わせをしなきゃならないんだ」
「この間のカーニヴァルに、僕はローマにいた」
「そんなことは誰でも知ってるよ」ボーシャンが言う。
「そうだ。だが君たちが知らないことがある。それは僕が山賊にさらわれたってことだ」
「山賊なんているもんか」ドブレが言った。
「ところがいるんだ、しかも恐るべき奴が。つまりじつに見事なのが。ぞっとするほどすばらしい奴らだと思ったよ」
「おいおい、アルベール」ドブレが言った。「白状しちまえよ。料理人がまだ来てないとか、マレンヌかオスタンドのカキがまだ届いてないとか。マントノン夫人のひそみにならって、料理の代わりに作り話を出そうってんだろ。正直に言えよ、われわれは話のわかる仲間なんだから、かんべんしてやって、君の話がどんなに眉つばものであっても聞いてやるからさ」
「じゃあ、僕はこう言おう。たとえどんなに眉つばに見えようが、これは始めから終りまでほんとうにあったことなんだ。山賊どもは僕をさらって、サン=セバスチアーノのカタコンブという、すごく淋しい場所につれて行ったんだ」
「そこは僕も知ってる」シャトー=ルノーが言った。「あやうく熱を出すところだったよ」
「僕はそれ以上さ」モルセールが言った。「実際に熱を出しちまったんだもの、身代金を払わねば釈放しないと言われた。たかが、ローマ金で四千エキュ、二万六千フランのね。旅行の終りで、信用状もすっからかんだった。僕はフランツに手紙を書いた。そうなんだ、フランツが証人だ。僕がこれっぽっちでも嘘をついているかどうかフランツに訊いてみるがいい。僕はフランツに、もし彼が四千エキュ持って朝の六時までに来てくれなければ、六時十分に、僕がそのとき同席の栄に浴していた天上の列聖ならびに栄光に輝く殉教者たちの仲間入りをしてしまう、とね。ルイジ・ヴァンパ氏は、これがその山賊どもの頭目の名前なんだが、これは信じてほしい、約束を寸分|違《たが》わず果しただろう」
「だが、フランツが四千エキュ持って来たんだろ」シャトー=ルノーが言った。「フランツ・デピネ、アルベール・ド・モルセールの名前があれば、四千エキュの調達などで困るわけがない」
「いや、フランツは、ただなんにも持たずに、ある人をつれて来ただけだった。さっき言った客で、君たちに紹介できればいいと思っている人さ」
「ほ、ほう。それじゃその人は、カクス〔『エネイード』中の巨人の山賊〕を殺したヘラクレス、ないしはアンドロメダを救い出したペルセウスのような人なんだな」
「いや、僕と同じぐらいの背丈の人さ」
「全身針ネズミの如く武装したのか」
「編み針一本持ってはいなかった」
「じゃ、君の身代金の交渉をしたってわけか」
「二言三言、頭目の耳にささやいただけで、僕はもう釈放さ」
「君を捕まえたことをその人にお詑びさえしたってわけだ」ボーシャンが言う。
「まさにその通りなんだよ」モルセールが言った。
「ほ、ほう、じゃその人はアリオスト〔イタリアのルネサンス期の有名な詩人〕だったんだな」
「いや違う、ただのモンテ・クリスト伯爵さ」
「モンテ・クリスト伯爵なんて名前はないぜ」ドブレが言った。
「僕はそんな名前があるとは思わないね」シャトー=ルノーが、ヨーロッパの貴族名簿を掌をさすが如くにそらんじている男らしい落ち着きを見せて言った。「誰かモンテ・クリスト伯爵なんていうのを知ってる者がいるか」
「たぶんパレスチナに由来するんだろうよ」ボーシャンが言った。「モルトマール家が死海を領有していたように、先祖がカルヴァリオの丘を持ってたとでもいうんだろう」
「失礼ですが」マクシミリヤンが言った。「みなさんを混乱から引き出すことができようかと存じます。モンテ・クリストというのは、小さな島の名なのです。父が使っていた船乗りたちがよく口にするのを聞いたことがあります。地中海のただ中の一粒の砂、果てしなき大海の中の一点にすぎないのです」
「まったくその通りなんです」アルベールが言った。「僕がお話ししている人は、その一粒の砂、一点にすぎぬものの領主であり王なんです。たぶんトスカナのどこかで伯爵の称号を買ったのでしょう」
「では君のその伯爵は金持なんだね」
「もちろんそうなんだろうと思う」
「だって、そんなことは見ればわかると思うがね」
「それが君の考え違いなんだよ、ドブレ」
「君が何を言ってるんだかわからなくなったよ」
「君はアラビアンナイトを読んだことがあるかい」
「これはまたご挨拶だな」
「それじゃ、君には、あの中の人物が金持か貧乏人かわかるかい。彼らの麦の粒がルビーかダイヤではないと言いきれるかい。彼らはみすぼらしい漁師のようななりをしている、そうだろ。だから君が彼らをそう思っていると、いきなり彼らは秘密の洞窟を開いてみせる、中にはインドでも買えるほどの財宝があるというわけさ」
「それで?」
「それで、わがモンテ・クリスト伯爵もそういう漁師の一人なのさ、伯爵はあの物語から名前をとってさえいる。船乗りシンドバッドと名乗って、黄金でいっぱいの洞窟を持っているんだ」
「モルセール、君はその洞窟を見たのか」ボーシャンが訊ねた。
「いや、僕じゃない。フランツだ。だが、しーッ、あの人の前ではこのことは一言も言ってはいけない。フランツはそこへ目かくしをされてつれていかれたんだ。唖やクレオパトラ顔負けの美女たちにかしづかれた。ただし、女たちについては、フランツもあまりはっきりしない。なにしろ女たちはフランツがハシッシュを口にしてから部屋に入って来たんでね。だから、彼が女と思ったものが、じつは石像が踊っていただけということも、十分にあり得るんだ」
青年たちは、『君は頭がおかしくなったんじゃないのか、それとも僕たちをからかってるのか』といった目つきでモルセールを見た。
「たしかに」と、なにごとか考えている様子のモレルが言った。「私も、ペヌロンという年寄りの水夫が、モルセールさんのおっしゃったのと同じような話をしているのを聞いたことがあります」
「ああ、モレルさんが僕の加勢をしてくれてよかった」アルベールが言った。「君たちにとっては困るだろうがね。迷宮に迷いこんでしまった僕に糸玉を投げて下さったわけだから」
「お言葉だがねえ、君があんまり馬鹿々々しい話をするからだよ……」ドブレが言った。
「大使や領事たちがそんな話をしたことがないからというんだな。あの連中にそんな時間があるもんか。外国旅行をする同国人をいためつけるのに夢中なんだからね」
「ああそうか、それで腹を立ててるんだな。大使や領事に喰ってかかるというわけだ。だがね、どうやってあの連中が君たちを保護するというんだ。議会は連中の俸給を毎日のように削っている。もう大使になる者を見つけられなくなってるくらいなんだ。君は大使になりたいか、アルベール。コンスタンチノープルの大使に任命してもらってやるぜ」
「ご免こうむる。僕がメヘメット・アリに好意的な態度を見せようものなら、とたんにサルタンは、僕に紐をさし向けてよこして、僕の秘書たちが僕の首を締めようってんだからね」
「よくわかってるじゃないか」ドブレが言った。
「うん、だがそんなこととは関係なしに、モンテ・クリスト伯爵は実在するんだ」
「当り前さ、誰でも実在するよ。ありがたいことにはね」
「たしかに誰でも実在はする。だが、ああいうふうには実在しない。誰しもが黒人の奴隷や、王侯のごとき画廊や、カゾーバのごとき武器の数々、六千フランもする馬、ギリシア女の側室を持っているわけではない」
「そのギリシア女の側室を見たのか」
「うん、顔も見たし声も聞いた。顔はヴァルレ座で見たし、声は、伯爵の所で食事をした日に聞いた」
「じゃ、その超人的なお人も飯は食うんだな」
「もちろんだ。だが食べるといってもほんの少しだけだから、食べないと言ってもいい」
「そいつはきっと吸血鬼だぜ」
「笑いたければ笑うがいい。G…伯爵夫人もそう言ってた。君たちも知る通り、夫人はルスウェン卿を知ってるんでね」
「こいつはいい」ボーシャンが言った。「『コンスティテュシオネル』の例の海蛇と好一対の話を、新聞記者ではない男がするとはね。吸血鬼か、こいつは申し分ないや」
「淡黄褐色の目、瞳孔は自在に拡げたり縮めたりできる」ドブレが言った。「顔面角は広く、秀でた額、鉛色の顔色、黒いひげ、白く鋭い歯、終始変わらぬ礼儀正しさ」
「ところが、まったくその通りなんだよ、リュシヤン」モルセールは言った。「その人相書きに寸分違わない。僕はその人を見てしょっちゅうぞっとしたものだ。とくに、僕たちが一緒に死刑の執行を見た日にね。執行人がその務めを果たす姿や、罪人の悲鳴よりも、あの人の顔と、地上のあらゆる刑罰について平然と話すあの人の声のほうが、ずっとずっと僕に気味の悪い思いをさせた」
「モルセール、その人は君をコロセウムの遺跡につれて行って、君の血を吸わなかったかい」ボーシャンが訊ねた。
「あるいは、君を釈放させた後で、燃えるような赤い羊皮紙に、エザウが長子権を護る旨署名したように、君に魂を譲る旨の署名をさせなかったかい」
「なんとでもからかうがいい」いささかむっとしてモルセールが言った。「君たちのようなガン大通りの常連で、ブーローニュの森を散歩しているしゃれたパリジャンを見ながら、あの人のことを思い浮かべると、どうも人種が違うように思うよ」
「そうであってこそありがたいぜ」ボーシャンが言った。
「いずれにしろ」シャトー=ルノーが言う。「君のそのモンテ・クリスト伯爵という人は、ふだんはたいへんいんぎんな人なんだな、イタリアの山賊と交渉するときは別として」
「なあに、イタリアの山賊なんているもんか」ドブレが言った。
「吸血鬼だってだ」ボーシャンがつけ加える。
「モンテ・クリスト伯爵もな」ドブレが続けた。「おい、アルベール、十時半が鳴ってるぜ」
「悪い夢を見たんだと白状したらどうだ。飯にしようぜ」ボーシャンが言った。
が、時計の響きがまだ消えぬうちに、ドアが開き、ジェルマンが来訪を告げたのである。
「モンテ・クリスト伯爵閣下でございます」
今までの話の聞き手たちは思わず飛び上がった。モルセールの話が彼らの心の中に不安めいたものをいつしか入りこませていた証拠であった。アルベール自身でさえ、急激な心の動揺を抑えることができなかった。
通りを走って来た馬車の音も、控えの間を歩いて来る足音も聞こえなかったのだ。ドアさえ音もなく開いたのであった。
伯爵が戸口に姿を現わした。その身なりはまことに簡素なものであったが、どれほどうるさい当時の流行児でも隙を見出すことのできない服装であった。服も帽子もシャツも、すべてが洗練され尽くした好みのもので、最高級の仕立屋の手になるものであった。
年はせいぜい三十五歳ぐらい。皆の心を打ったのは、ドブレが描いた人相とあまりにも酷似していた点である。
伯爵はにこやかな笑みをたたえたまま客間の中央に進み出て、まっすぐアルベールの前に来た。アルベールも歩み寄り、急いで手をさしのべた。
「正確さは王者の礼節と、たしかわが国の王の誰かが申しました。けれども、旅人の場合は、いかに善意を持ち合わせていても、つねにこの礼節を守るというわけにはまいりません。しかし、子爵、私の善意に免じて、たしか二、三秒お約束の場所に姿を現わすべき時刻に遅れたと思いますが、お許しいただけることと思います。五百里の道のりは、途中無事というわけにはまいりません。とくにフランスでは、御者を叩いてはならぬことになっているようなので」
「伯爵」アルベールが答えた。「僕は今しがた二、三の友人にあなたがお越し下さる旨を話していたところなのです。お約束下さったこの機会のために呼び集め、あなたに紹介させていただこうと思った友人たちです。こちらがシャトー=ルノー伯爵。この家柄はかの十二重臣にまでさかのぼり、祖先は円卓に列しました。こちらがリュシヤン・ドブレ、内務大臣秘書官です。これが恐るべき新聞記者のボーシャン。フランス政府の脅威です。ですが、国内では有名でも、彼の新聞はイタリアには入っていませんから名前をお聞き及びではないでしょう。最後が、マクシミリヤン・モレル、アフリカ騎兵隊大尉です」
この名前を聞くと、それまでは丁重にではあるがイギリス流の冷淡さと無感動な様子で頭を下げていた伯爵が、思わず一歩前に進み、その蒼白な頬に一瞬赤味がさした。
「新たな征服者の軍服をお召しですね。見事な軍服です」
伯爵のどのような心の動きが、その声にこれほど深い張りを持たせ、なんらかの理由があって故意に曇らせる場合のほかは、静かに澄みきったその美しい目を、思わず輝やかせたのかは、誰にも言いあてることはできなかったであろう。
「今までにわがアフリカ騎兵をご覧になったことはないのですか」アルベールが言った。
「一度も」すっかりわれに返った伯爵が即座に答えた。
「この軍服の下には、軍人の中でも最も勇敢、かつ高貴な心が鼓動を打っているのです」
「いや、伯爵」モレルが口をはさんだ。
「大尉、言わせて下さい……今しがた僕たちは」アルベールは続けた。「この方のまことに英雄的な行為を聞いたのです。そのために、僕は今日はじめて大尉にお目にかかったのですが、僕の友人としてご紹介することを大尉にお許し願いたいと思います」
この言葉を聞いたときにもまた、モンテ・クリストの異様な凝視と、かすかな赤みと、彼の場合内心の感動を示すものである瞼のふるえとに、見る者は気づいたはずである。
「ああ、この方は高貴な心をお持ちなのですね、それはよかった」伯爵は言った。
この、一種の感嘆の辞は、アルベールの言葉に答えるというよりは、むしろ伯爵自身の胸の思いに答えたものであったが、皆を、とくにモレルを驚かせ、モレルはあっけにとられてモンテ・クリストの顔をみつめた。しかし、言葉の調子はやさしく、言うなれば柔和なものであったので、その感嘆の仕方がどれほど異様であろうとも、それで腹を立てるわけにもいかなかった。
「なぜそれを彼は疑ったりしたんだろうね」ボーシャンがシャトー=ルノーに言った。
「まったくのところ」社交界で身についた能力と、貴族の鋭い目で、モンテ・クリストという人物の内面を見抜けるだけは見抜いてしまったシャトー=ルノーが答えた。「まったくのところ、アルベールはほんとうのことを言ったよ。伯爵はまさに変わった人物だ。モレルさん、どう思います」
「率直な目をしておられるし、声は感じがいいし、ですから、たしかに私についておっしゃったことは少しばかり奇妙ですが、私は好きですよ」
「皆さん」アルベールが言った。「ジェルマンが食事の仕度ができたと言ってます。伯爵、ご案内させて下さい」
皆黙ったまま食堂に移り、めいめいの席に着いた。
「皆さん」腰をおろしながら伯爵が言った。「一つ白状しておかねばなりません。これから無作法なまねをしてしまうかもしれないのでその言い訳というわけなのですが、私は外国人です。しかも、パリに来たのはこれが初めてという余所者《よそもの》です。したがって、フランスの生活はまったく存じません。私はほとんど今まで、パリのよき伝統とはおよそ相容れぬ東方の暮らしばかりしてきました。ですから、もし皆さんが、私のふるまいの中に、あまりにトルコ的、あまりにナポリ的、アラビア的なものをお認めになっても、どうぞお許しいただきたいのです。これだけ申し上げて、それでは皆さん、食事をいただくことにいたしましょうか」
「なんという見事な話しぶりだ」ボーシャンがつぶやいた。「あれはまさに大貴族だ」
「大貴族だ」ドブレがつけ加えた。
「どこへ行っても通用する大貴族だぜ、ドブレ君」シャトー=ルノーが言った。
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四十 午餐
読者もおぼえておられようが、伯爵は小食な客であった。この旅行者のパリ生活が、最初から、その物質的な、と同時に最も大切な面において不快なものになるのを恐れて、アルベールはこの点にふれた。
「伯爵、気がかりなことが一つあるのですが、それは、エルデ通りの料理がスペイン広場の料理ほどにはお口にあわないのではないか、ということです。予めお好きなものをお伺いして、お好みにあわせた料理を用意させるべきだったでしょうか」
「私のことをもう少しよく知っておられたら」と、伯爵は微笑しながら答えた。「私ほどほうぼうを旅行している者に対して、そのような、むしろ侮辱的とも言えるお心遣いはなさらないでしょう。私はナポリではマカロニを、ミラノではポレンタ〔大麦、とうもろこし、栗粉などのかゆを煮つめてつくるイタリア料理〕を、バレンシアではオヤポドリダ〔スペイン料理。肉、野菜のごった煮〕、コンスタンチノープルではピラフ、インドではカレー、中国ではツバメの巣を食べて暮らして来たのです。私のようなコスモポリタンには常食にしている料理というようなものはありません。私はどこででも、なんでも食べる。ただほんの少ししか食べないというだけです。私の少食をお責めになりますが、今日は非常に食欲旺盛です。昨日の朝からなにも食べていないものですから」
「ええっ、昨日の朝から」皆が大声を出した。「それでは、二十四時間、なにも召し上ってないのですか」
「そうです」モンテ・クリストは答えた。「私は道からそれてしまいましてね、ニームの近くで道を聞かねばなりませんでした。そんなわけで少し遅れてしまいましたので、途中足を止めたくなかったのです」
「では、馬車の中で食事をなさったのですか」モルセールが訊ねた。
「いいえ、眠りました。退屈していながら気晴しをする元気もないとき、あるいは、腹は空いているのに食べる気にならないときには、いつもそうするのです」
「とすると、いつでも思いのままに眠れるんですか」モレルが訊ねた。
「だいたいは」
「なにか眠る方法をお持ちなのですか」
「必ず眠れる方法をね」
「それは私どもアフリカ駐屯軍の者にとってはたいへんすばらしいことなんですが、なにしろ食物がいつでもあるわけではなし、飲物もほとんどない状態ですから」モレルが言った。
「そうですね」モンテ・クリストは言った。「ただ残念ながら、これは私のような、例外的な生活を送っている者にはすばらしい方法なのですが、軍隊に用いた場合は非常に危険なものです。軍務の必要が生じた場合にも、目が覚めませんからね」
「どんな方法なのか教えていただけませんか」ドブレが訊ねた。
「ええ、いいですよ」モンテ・クリストは答えた。「べつに秘密になどしていません。非常に良質の阿片、これを私は広東へ自分で求めに行くのですが、というのは純粋なものでないといけませんから、その阿片と、東方、つまりチグリス河とユーフラテス河の間で取れる極上のハシッシュとを混合したものです。この二つの成分を等量に混ぜ合わせて、丸薬のようなものにし、必要に応じて飲むのです。十分後には効果が現われます。フランツ・デピネ男爵に訊いてごらんなさい。たしか、あの方はある日これを飲んだことがおありですから」
「ええ」モルセールが答えた。「彼からちょっと聞きました。じつに楽しい思いをしたと言ってます」
「それでは」と、新聞記者らしくひどく疑い深いボーシャンが言った。「あなたはいつでもその薬を持ち歩いておられるのですか」
「いつでも」モンテ・クリストが答えた。
「その貴重な丸薬を見せて下さいと申し上げるのはあまりにもぶしつけでしょうか」ボーシャンが、この外国人の揚げ足をとってやろうと思って、こう続けた。
「そんなことはありません」伯爵はこう答えると、ポケットから、エメラルドをくりぬいた見事な小箱を取り出した。金のねじ蓋がついて、これをはずすと、エンドウ豆ぐらいの大きさの緑色がかった小さな丸薬が出せる口が開く。丸薬は強烈な刺激臭がある。エメラルドの中にはこのような丸薬が四つ五つ入っていたが、一ダースぐらいは入る容器であった。
その小箱は食卓を一巡したが、客たちがそれを順に廻したのは、丸薬の香りをかぐためというよりは、その見事なエメラルドを仔細《しさい》に眺めるためであった。
「その珍味をこしらえるのは料理人ですか」ボーシャンが訊ねた。
「いいえ、私はそんなふうに、真の喜びをやたらな者の手にはまかせませんよ。私はかなり化学には詳しいものですから、この丸薬は自分で作ります」
「このエメラルドはすばらしいですね。母も家代々伝わるかなりいい宝石を持ってはいますが、こんな大きいのを見たのは初めてです」シャトー=ルノーが言った。
「私はこれと同じものを三つ持っていました」モンテ・クリストがまた口を開いた。「その一つは大公にさし上げ、大公はご自分の剣にちりばめられました。もう一つは法王にさし上げ、法王は王冠に、だいたい同じ大きさですが美しさではかなり劣る別のエメラルドと対《つい》をなすようにはめこまれたのです。この別のエメラルドは、ナポレオン皇帝が先の法王ピオ七世に献じたものです。三つめのは私は自分用にとっておきました。中をくりぬかせたので価値は半減しましたが、私の欲した用途のためには使いやすくなりました」
皆はめいめいに驚きながらモンテ・クリストの顔を見ていた。あまりにあっさり言ってのけたところをみれば、彼がほんとうのことを語っているか、さもなければ気がふれているかのいずれかであることは明白であった。しかし、まだ伯爵が手に持ったままのそのエメラルドを見ると、皆は彼の言葉は真実だと思うのだった。
「で、大公と法王はそのすばらしい贈り物のお返しに、あなたに何をくれましたか」ドブレが訊ねる。
「大公は一人の女を自由の身にしてくれました」伯爵が答えた。「われらが父、法王は一人の男の生命を救ってくれました。ですから、私も生涯に一度だけは、神が私を王位につく身分に生まれさせてくれた場合と同じ権力を持ったというわけです」
「あなたが救ったのはペッピーノですね」モルセールが叫んだ。「ペッピーノのために特赦の権利をお使いになったんですね」
「まあそんなところです」微笑をたたえたままモンテ・クリストが言った。
「伯爵、そのようなお話を伺って、僕がどれほどうれしいか、あなたにはご想像になれません。僕は友人たちに、あなたのことを夢物語の人物のような方、アラビアンナイトの魔術師、中世の魔法使いのような方だと話しておいたのです。ところがパリジャンという連中は、あまり逆説に敏感なもんで、自分たちの日常生活の条件にうまくあてはまらないことは、どんなに疑う余地のない真実でも、でたらめな空想の産物としか受け取らないのです。たとえばこのドブレにしてもボーシャンにしても、帰りが遅くなったジョッキー・クラブの会員が大通りで追剥ぎに襲われたとか、サン・ドニ通りやフォーブール・サン=ジェルマンで四人殺されたとか、タンプルの大通り、ないしはクリュニーで十人、十五人、二十人の盗賊を捕えた、などと記事にのせたりその記事を読んだりしているくせに、イタリアの海岸の沼地やローマ平野、ポンティノの沼沢地帯に山賊がいるということは信じようとしないのです。ですから、伯爵、あなたご自身の口から、僕が山賊に捕えられ、あなたの義侠的なおとりなしがなかったら、今日こうしてエルデ通りの陋屋《ろうおく》に友人たちを食事に招くどころか、サン=セバスチアーノのカタコンブで復活の日を待ちわびていただろうということを、話してやって下さい」
「これはこれは」モンテ・クリストは言った。「もうそんなつまらぬことは言わぬという約束だったではありませんか」
「伯爵、それは僕ではありません」モルセールが大声を出した。「僕と同じようなことをしてやった別の人でしょう。僕と混同なさってるんです。いえいえ、その話をしましょう。あの時のことを話す気になって下されば、僕が知っているわずかなことをもう一度話して下さることになるばかりではなく、僕の知らない多くのことを話して下さることになるのです」
「しかし」伯爵は微笑しながら言った。「あの件では、あなたは主役を演じたわけですから、私の知っていることはみなご存じのように思いますが」
「もし僕が、僕の知っていることをみな話したら、あなたは、僕の知らないことをみな話して下さると約束して下さいますか」
「お説ごもっともですね」
「それなら」と、モルセールは話し始めた。「僕の自尊心はひどく傷つけられる話なんだが、その三日前から、僕はトゥリア〔ローマ七王のうち六番目の王であるセルウィウストゥリウスの娘。王位をねらい夫に父を殺させたという〕かポッパエア〔ネロの妻〕の子孫と勝手に思いこんでいた一人の仮面の女に色目を使われていると思ってた。ところがなんのことはないそれはただの田舎者だったんだ。僕が百姓女と言わずに、田舎者と言ってることに注意してくれたまえ。僕の知っていることはこうだ。まったく間抜けだったが、さっき話をした奴より間抜けだったが、じつは十五、六の山賊を百姓女と思いこんでたのさ。まだ、顎にはひげも生えてなくて、ほっそりした腰つきのね。僕が図々しくその肩に唇をおしつけようとしたその瞬間に、こいつが僕の喉もとにピストルをつきつけた。そうして、七、八人の仲間の手を借りて、僕をサン=セバスチアーノのカタコンブヘつれて行った。いやむしろ引きずって行った。するとそこに山賊の頭目がいたが、こいつがおっそろしく学のある奴で、シーザーの『ガリヤ戦記』を読んでるじゃないか。読むのを止めて下さって、こう言ったんだ。もし翌朝の六時までに四千エキュを彼の金庫に払い込まなければ、六時十五分には、僕は完全にこの世からおさらばだ、とね。ちゃんと手紙がある、フランツが持ってるよ。僕の署名があって、ルイジ・ヴァンパ先生の追伸がついた手紙がね。もし君たちが疑うんなら、僕はフランツに手紙を出す。彼がその署名にまちがいないことを証明してくれるだろう。僕の知っているのはこれだ。さあ今度は、僕の知らないことです。伯爵、どうして、あまり人を尊敬しないあのローマの山賊どもに、あなたをあれほど尊敬させることができたのかということなのですが。正直に申しますが、フランツも僕も、あまりの見事さにうっとりしてしまったのです」
「簡単な話ですよ」伯爵が答えた。「私はあのルイジ・ヴァンパを十年も前から知っているのです。まだ小さくて、羊飼いをしている頃でした。ある日私は、彼が道を教えてくれたので、お礼にもうはっきり覚えてませんがなにがしかの金貨をやったのです。すると、彼は、私に借りを作るのはいやだと言って、自分で彫った短刀をくれました。これはあなたも私の武器のコレクションの中にあるのをご覧になったはずです。ずっと後になって、私たちを友情の絆で結んでくれたはずのこの贈り物の交換を、彼が忘れてしまったのか、あるいは私の顔がわからなかったのか、彼は私を捕まえようとしたのです。ところが、十二人ばかりの彼の手下と共に彼を捕えたのは、逆に私のほうでした。私は彼をローマの官憲に引き渡すこともできたのです。ローマの官憲は始末をつけるのが早いし、彼の場合ならなおのこと手取り早くけりをつけたでしょう。しかし私はそれをしなかった。私は彼と手下を放してやりました」
「もう旅人は襲わぬという条件をつけて、ですね」新聞記者のボーシャンが笑いながら言った。「連中がその約束を固く守ったことと思いますが、喜ばしいことですね」
「違います」モンテ・クリストが答えた。「単に、私と私の友人には手をつけぬという条件です。私がこれから申し上げることは、あなた方、社会主義者、進歩派、人道主義者の方々は異様に受け取られるかもしれませんが、私は隣人のことなどに心を用いたりはしません。私を守ってもくれない社会、さらに言わせていただければ、一般的に言って、私を痛めつける場合にしか私のことを考えてはくれない社会など、私は決して守ろうとはしませんよ。山賊どもに私を尊敬させ、連中に対しては中立の立場をとってやったとしても、やはり社会や隣人は私に恩を感ずるべきです」
「これはいい」シャトー=ルノーが叫んだ。「利己主義をこれほど堂々と強烈に弁護する勇敢な男の弁を聞いたのは初めてだ。すばらしい、これは。伯爵、ほんとにすごいですよ」
「少なくとも率直ですね」モレルが言った。「しかし、伯爵は、今われわれにあれほど絶対的な論法でお示しになったその原則に、一度だけ背いてしまわれたことを悔んでおいでだと、私は信じます」
「どうして私が原則に背いたことになるのでしょう」モンテ・クリストが訊ねた。彼は、時折マクシミリヤンをじっとみつめずにはいられなかった。あまり熱心にみつめるので、勇敢な若者も、伯爵の澄みきった視線の前に、すでに二、三度目を伏せたほどであった。
「お言葉ですが、知人でもないモルセールさんを救出なさったことによって、あなたは、隣人と社会とに奉仕をなさったことになります」
「彼は人間社会の花だから」ボーシャンは真顔でこう言って、シャンパンのグラスを一息に飲みほした。
「伯爵!」モルセールが叫んだ。「理論でやっつけられましたね。僕の知る限りでの最も厳格な理論家のあなたが。あなたはエゴイストどころか、まるで逆の博愛主義者だってことが、すぐ明らかに証明されてしまいますよ。ああ、伯爵、あなたはご自分では、私は東洋人だ、オリエントの男だ、マレー人だ、中国人だ、野蛮人だとおっしゃる。苗字はモンテ・クリストで、名前は船乗りシンドバッド。それでいてパリヘ足を踏み入れたその日から、もうあなたは、本能的に、われわれ風変わりなパリジャンの一大長所、あるいは一大短所をお持ちになってしまわれました。つまり、持ち合わせてもいない悪徳を持っているかのような顔をし、そなえている美徳をおかくしになるのです」
「子爵」モンテ・クリストが言った。「私の言動のどこをとってみても、今あなたや、ここにおいでの皆さんが私に与えて下さったおほめのお言葉に価するようなものは、なに一つ見当りません。あなたは私にとって、見ず知らずの他人ではありませんでした。私はあなたを存じあげていたのですから。部屋を二つお譲りもしたし、昼食もさし上げた。私の馬車も一台お貸しし、ご一緒にコルソ通りの仮装行列を見物した仲です。ポポロ広場でのあの処刑の模様も一緒に窓から見ました。あまりにも印象が強烈だったために、あなたは気分が悪くなりかけましたね。そこで、ここにおられる皆さんがたにお訊ねしましょう。私にとってのこうしたお客様を、あなたがたがおっしゃる、恐ろしい山賊の手にいつまでも放置しておけるものでしょうか。それに、あなたもご承知の通り、あなたをお救いしたのは、私に下心あってのことでした。私がフランスヘ来た際に、あなたにパリのサロンに紹介していただこうと思ったからなのです。しばらくの間は、あなたはこの決心を、その場限りのあまりあてにならぬ計画とお考えになることもできました。けれども今日は、ご覧の通り、それはまぎれもない現実となりました。これははっきりお認め願わねばなりません。さもないとあなたは約束を破ることになります」
「約束は守ります」モルセールが言った。「でも僕は、伯爵、あなたが幻滅を感じておられるのではないかと心配なのです。あなたは起伏の多い景色、数奇な事件、幻想的な世界になれ親しんでおられるのですから。ここには、波瀾《はらん》に富んだ暮らしをしておられるあなたが常日頃見聞きなさっているようなことはなに一つありません。われわれのチンボラソ〔南米エクアドルの最高峰六二五〇メートル〕はモンマルトルの丘ですし、ヒマラヤはヴァレリヤンの丘で、また大砂漠はグルネルの原です。隊商が水にありつけるようにと掘抜き井戸を掘ってはありますがね。盗賊はいます。人が言うほどではありませんが数も多い。でも、この盗賊どもは、大君主よりも下っぱの密偵をこわがるような奴らでね。要するにフランスはあまりにも散文的な国で、パリはあまりにも文明開化の都なものですから、八十五県くまなく、コルシカはフランスから除きますから八十五県と申し上げるのですが、くまなくお探しになっても、信号《テレグラフ》のない山など一つもないし、警察がガス燈をつけさせずにおく、ほの暗い洞穴一つありはしません。ですから、僕がしてさし上げられることは一つしかありません。そのためならいかようにでもお役に立ちたいと思います。それは、どこへでもあなたをご紹介申し上げるということです。もちろん僕で駄目なら友人に頼んで。もっとも、これさえ、あなたは誰の手をかりる必要もありません。あなたのそのお名前と、富と、頭の切れをもってすれば(モンテ・クリストは皮肉な笑みをかすかに浮かべたまま頭を下げた)、どこへでもご自分で入って行けます。どこででも歓迎されます。ですから、実際には僕がお役にたてるのはたった一つです。多少パリの暮らしに慣れていて、多少は贅沢《ぜいたく》な味も知っており、市場も少しは知っているということが、少しはお役にたてるのなら、手頃な家を一軒お世話いたしましょう。僕は、ローマであなたがして下さったように、自分の住まいを提供するとは申しませんよ。僕は、エゴイストだと口に出して言ったりはしませんが、そのじつすごいエゴイストですからね。と申しますのは、この家には僕以外には、雨露をしのぐべき場所を持つゆとりがないのですよ。ただし二人の女性のための部屋は別ですが」
「ああ、奥さんのためにとっておかれているわけですね」伯爵が言った。「そうでした、なにか縁談がおありのようなことをローマでおっしゃってましたね。近々おめでたがおありで、そのお喜びを申し上げねばならぬのでしょうか」
「いやまだその予定というだけです」
「その予定ということは」ドブレが言った。「そうなるかもしれない、ということだよな」
「いやそうじゃない」モルセールが言った。「父はこの縁組にご執心なんだ。僕も近いうちに、家内ではないが、少なくとも家内となるべき人を君たちに紹介できると思っている。ウジェニー・ダングラール嬢だ」
「ウジェニー・ダングラール!」モンテ・クリストがまた口を開いた。「ちょっと待って下さい。それはダングラール男爵のお嬢さんではありませんか」
「ええ、そうです。新男爵ですけどね」モルセールが答えた。
「それがどうしたというのです。国家に対してそれだけのことをしたのなら」モンテ・クリストが言った。
「たいへんな功績ですよ」ボーシャンが言う。「本心は自由主義者なのに、一八二九年にシャルル十世のために六百万の起債を成功させ、国王に男爵にしてもらい、レジヨン・ドヌール勲章を授けられた。そこでその略綬を、チョッキのポケットのところにつけていると思いきや、なんと上着の襟のボタン穴に堂々とつけている男です」
「ああ、ボーシャン、その話は『コルセール』か『シャリヴァリ』の記事用にとっておいてくれよ。僕の前では、未来の岳父《がくふ》の悪口はやめにしてくれたまえ」
モルセールはこう言ってモンテ・クリストのほうを向き、
「さっきの口ぶりでは、男爵をご存じのようにお見受けしますが」
「いいえ存じ上げておりません」モンテ・クリストは無造作に言った。「ですが、近いうちにお見知りおき願うことになるでしょう。男爵に振り出された、ロンドンのリチャード・アンド・ブラウント、ウィーンのアルシュタイン・ウント・エスケレス、ローマのトムスン・アンド・フレンチの各商会の信用状を持っておりますから」
この最後の商会の名前を言うとき、モンテ・クリストは横目でマクシミリヤン・モレルの顔を見た。
この外国人がマクシミリヤン・モレルの心になにか動揺を与えようとしたのだとすれば、そのねらいはあやまたなかった。マクシミリヤンは電撃を受けたかのように、びくんと身をふるわせたのである。
「トムスン・アンド・フレンチ商会、あなたはあの商会をご存じなのですか」
「今申し上げたのはローマでの私の銀行です」伯爵は静かな口調で答えた。「なにかあの銀行のことでお役にたてますかな」
「ああ、伯爵、きっとあなたは、私どもが今までいくら調べてもわからなかった調査に手を貸していただけると思います。昔、あの商会は私どもの家に恩をほどこしてくれたのです。ところが、どういうわけか、いくら問い合わせても、そんなことをしたおぼえはないとしか返事をしてくれないのです」
「なんなりとお申しつけ下さい」モンテ・クリストはこう答えて一礼した。
「ダングラール氏の話で、妙な具合に話題がそれてしまった」モルセールが言った。「モンテ・クリスト伯爵に手頃な家をみつけてさしあげる話をしていたんだ。諸君、みんなで知恵を出し合おうじゃないか。わが大パリヘ初めておいでになったお客様をどこに住まわせよう」
「フォーブール・サン=ジェルマンだな」シャトー=ルノーが言った。「あそこなら、庭も中庭もあるしゃれた小さな邸がある」
「なに言ってるんだ、シャトー=ルノー」ドブレが言った。「君は、自分が住んでいるあんな陰気で淋しいフォーブール・サン=ジェルマンしか知らないんだ。伯爵、彼の言うことなど聞いてはいけません。ショセー・ダンタンにお住まいなさい。これこそパリの中心です」
「オペラ通りがいい」ボーシャンが言う。「バルコニーつきの二階だ。銀糸織のクッションを運び込ませれば、伯爵は、長ぎせるをふかすなり、丸薬を飲むなりしながら、パリ中の者が通るのを眼下に眺められる」
「モレルさん、あなたには考えはないんですか、なにも提案はないというわけ」シャトー=ルノーが言った。
「ありますよ」青年は微笑しながら答えた。「ないどころではありません、ちゃんとあるんです。ただ、皆さんが派手な所ばかりおっしゃるので、伯爵がそのどれかに心を惹かれるのではないかと思って、待っていたんです。伯爵がなにもおっしゃいませんから申し上げてもいいと思いますが、じつにしゃれた、ポンパドゥール好みの小さな邸のアパルトマンをおすすめします。メレ街で、妹が一年前から借りている家です」
「妹さんがおありですか」モンテ・クリストが訊ねた。
「ええ、すばらしい奴です」
「結婚なさっておられるんですか」
「やがて九年になります」
「お幸せですか」さらに伯爵は訊ねた。
「人の子として許される限り幸せです。愛していた男と結婚しました。私の家が不幸のどん底にあった時にも、ふみとどまって忠勤をはげんでくれた男です。エマニュエル・エルボーといいます」
モンテ・クリストは人の気づかぬほどの微笑を見せた。
「私は半期休暇の間妹の家に住んでいます。私は義弟のエマニュエルと二人で、伯爵が必要となさることは、なんでもお教えいたします」
「ちょっと待って下さい」モンテ・クリストが返事をする前にアルベールが叫んだ。「モレルさん、ご自分のなさっていることに気をつけて下さい。あなたは、船乗りシンドバッドのような旅行家を、家庭生活の中に閉じこめてしまおうとなさってるんですよ。パリを見に来た人を一家の長にしておしまいになるなんて」
「いや、そんなつもりはありません」微笑しながらモレルが答えた。「妹は二十五、義弟は三十です。二人とも若くて、陽気で、楽しい連中です。それに伯爵はご自分の家におられるのと同じで、連中の所へ降りて来たいと思うときのほかは、二人と顔を合わせることもありません」
「ありがとう、ほんとうにありがとうございます」モンテ・クリストが言った。「私は、もしそうしていただけるなら、妹さんと義弟の方にご紹介いただいて、それだけで満足いたしましょう。皆さん方のおすすめのいずれをもお受けするわけにはまいりません。と申しますのは、私の住まいはもうすっかり用意されておりますので」
「なんですって」モルセールが叫んだ。「それじゃ、ホテルにお泊りになるんですか。そいつはあなたにとってはうっとうしい話ですよ」
「私はローマで、そんなにひどい暮らし方をしていたでしょうか」モンテ・クリストは訊ねた。
「とんでもない、ローマでは、お部屋をととのえさせるのに、五万ピアストルもお使いになったんですから。しかし、毎日そんな出費を繰り返すおつもりはないと思うのですが」
「いや、そのために思いとどまったわけではありませんが、私はパリに一軒家が欲しいと思いましてね、自分の持家という意味です。前もって召使いをよこしておきました。もう家を買って、私のために家具も入れてあるはずです」
「それでは、パリのことをよく知っている召使いをお持ちだとおっしゃるんですか」ボーシャンが大声を出した。
「いや、あれにとっても私同様フランスヘ来たのは初めてです。黒人で口もきけません」
「じゃ、アリですか」皆が唖然としている中でアルベールが訊ねた。
「そうです、そのアリです。ヌビア人の唖のね。たしかあなたはローマでお会いになったはずですが」
「ええ、たしかに。よくおぼえてます。でも、ヌビア人なんかにどうしてパリで家を買う役など申しつけたのですか。唖に家具をととのえさせるなんて」
「それはお考え違いですよ。私は、あれならなにを選ぶにも私の好みにあわせられると確信しています。と申しますのは、ご承知の通り、私の好みはいささか変わっていますからね。あれは一週間前に着きました。パリ中を、良い犬がひとりで獲物を追うときのような本能を働かせて、走り廻ったことでしょう。あれは、私の気まぐれ、気まま、欲求、なんでも心得てます。私の思い通りにいっさいをしつらえたと思います。私が今日十時に着くことも知ってましたから、九時からフォンテーヌブローの市門の所で私を待っていました。この紙きれを私に手渡したのです。私の新しい住所です。どうぞ、お読み下さい」
こう言ってモンテ・クリストは一枚の紙をアルベールに渡した。モルセールは読んだ。
『シャン=ゼリゼー三十番地』
「これはまったく独創的だ」ボーシャンが思わず口に出した。
「しかも、大貴族にふさわしい」シャトー=ルノーが言い添える。
「あなたはまだご自分の家をご存じないんですか」ドブレが訊ねた。
「ええ、前に申し上げたように、私は時間に遅れたくなかったものですから。馬車の中で身づくろいを済ませて、子爵のお邸の門の前で降りたのです」
青年たちは顔を見合わせた。モンテ・クリストが芝居をしているのではないかとさえ思えた。が、この男の口から出る言葉は、独特な性格を帯びてはいるが、率直そのものなので、モンテ・クリストが嘘をついているとは思えぬのであった。第一、なぜ彼が嘘をつく必要があろう。
「それじゃ仕方がないから、僕らにできるささやかなことをしてさし上げるだけでがまんしようや」ボーシャンが言った。「僕は新聞記者だから、パリ中の劇場のドアを伯爵のために開けさせるよ」
「ありがとうございます」にこにこ笑いながらモンテ・クリストが言った。「執事に命じて、各劇場の桟敷を取らせてあります」
「その執事の方もヌビア人の唖ですか」ドブレが訊ねた。
「いえ、これはあなた方の同国人です。もっとも、コルシカ人がどこかの国の人と同国人であるならば、の話ですが。あなたはあれをご存じじゃありませんか、モルセールさん」
「もしかしたら、あのベルトゥチオじゃありませんか、窓を借りるのがじつにうまかった」
「その通りです。私の所へ食事にお越し願ったときお会いになりました。あれは勇敢な男でしてね、軍隊にいたこともあれば密輸をやっていたこともある、その他なんでもやったはずです。なにかつまらないこと、短刀で人を刺したとかどうとかで、官憲といざこざをおこしたこともなかったとは言いきれません」
「伯爵、あなたはそんなまともな市民を執事になさったんですね」ドブレが言った。「年にどれくらい盗みをしますか」
「そうですね、正直なところ、まるきり盗みなど働かぬのです。私の仕事をよくやってくれます。不可能ということを知らない。ですから私は手もとに置いているのです」
「あなたは、調度のととのった家をお持ちで、シャン=ゼリゼーにお邸があり、召使いも執事もおありだ。あと足りないのは愛人だけですね」シャトー=ルノーが言った。
アルベールは微笑した。ヴァルレ座とアルゼンチナ座の伯爵の桟敷にいた、あの美しいギリシアの女を思い浮かべていたのだ。
「私には愛人よりいいものがいます」モンテ・クリストが言った。「私は女奴隷を持っているのです。あなた方はオペラ座、ヴォードヴィル座、ヴァリエテ座で愛人をお雇いになる。私はコンスタンチノープルで買ったのです。あなた方より高くつきましたがね、しかし買ってしまったのですから、あとの心配はなにもありません」
「でもね、お忘れになっていやしませんか」笑いながらドブレが言った。「シャルル王が言ったように、われわれは名前もフランク人なら、性質もフランクですよ、あなたの女奴隷も、フランスの土を踏んだとたんに自由の身になったはずです」
「誰があれにそれを伝えるのですか」モンテ・クリストが訊ねた。
「そんな、誰だって言えますよ」
「あれは現代ギリシア語しかしゃべれません」
「それじゃ話が別です」
「でも、せめてお顔ぐらいは拝見させていただけるんでしょうね」ボーシャンが訊ねた。「それとも、唖の召使いをお持ちだとすると、宦官《かんがん》もお持ちですかな」
「いや、とんでもない。私の東洋趣味もそこまでは行きません。私の周囲にいる者たちは、誰でも離れて行くことは自由です。離れて行けば、私の世話も誰の世話もいらないというわけです。おそらくそれで私から離れて行かぬのでしょうが」
しばらく前からデザートに移り、皆は葉巻をくゆらしていた。
「二時半だ」ドブレが立ち上がりながら言った。「君のお客さんは好もしい人だが、どんなに好もしい相手でも、別れを告げねばならない場合もあるんだ。いやな奴に会いに行くためでもね。僕は役所に戻らなきゃならない。大臣に伯爵のことを話しとくよ。彼がどういう人物なのか知っとく必要があるからね」
「大丈夫か」モルセールが言った。「どんなに悪賢い奴でも、そいつは諦めちまったんだからね」
「なあに、警察の予算は三百万あるんだ。もっとも、たいていは前もって使われちまってるがね。でも平気さ、これのために使える分が、いずれにしても五万ぐらいは残っているはずだ」
「あの人がどういう人かわかったら僕に教えてくれるね」
「約束する。じゃ、さよなら、アルベール。皆さん、失礼いたします」
こう言ってドブレは出て行くと、控えの間でどなった。
「馬車を廻せ!」
「よし」ボーシャンがアルベールに言った。「僕は議会に行かない。ダングラール氏の演説よりましな記事を読者に提供できるからね」
「頼むよ、ボーシャン」モルセールが言った。「一言も書かないでくれ、お願いだ。伯爵を紹介し、人となりを説明する役は僕にさせてくれ、珍しい人物だろう?」
「珍しいなんてもんじゃないよ」シャトー=ルノーが答えた。「今まで会った人の中で、最も非凡な人だ。モレル君、行こうか」
「伯爵に名刺をお渡しする間だけ待って下さい。メレ通り十四番地へお訪ね下さるとおっしゃってるもんで」
「ご安心下さい、必ずお訪ねします」伯爵はこう言って一礼した。
マクシミリヤンは、モンテ・クリストをモルセールと二人きりにして、シャトー=ルノー男爵とともに出て行った。
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四十一 紹介
モンテ・クリストと二人だけになると、アルベールはこう言った。
「伯爵、僕に、独身の男のアパルトマンがどんなものか、見本を一つお見せする役をさせて下さい。イタリアの邸宅ばかり見慣れておいでの伯爵には、パリの青年、それも住まいには比較的恵まれている一人の青年が、どのぐらいの広さがあれば満足するものか、調べておかれるのもいいことだと思います。部屋から部屋へ移るごとに、窓を開けねば、きっと息がつまりますよ」
モンテ・クリストはすでに食堂と階下の客間は知っていた。そこでアルベールはまずアトリエに案内した。ご記憶の通り、これはアルベールのお気に入りの部屋である。
モンテ・クリストは、アルベールがこの部屋につめこんでいるあらゆるものの、正当な価値を見定めることのできる男であった。古い櫃《ひつ》、日本の陶器、東方の織物、ヴェネチアのガラス細工、世界各国の武器、こうしたものすべてが伯爵のなじみのものばかりであった。一目見ただけで、何世紀のものか、どこの国のものか、またその由来までもわかってしまうのである。モルセールは説明役のつもりでいたのだが、逆に彼のほうが、伯爵から、考古学、鉱物学、生物学の講義を受けたのである。二人は二階に降りた。この客間には、近代の画家の作品がかけられていた。デュプレの、丈の高いアシ、すんなり延びた木々、鳴いている牛、すばらしい空を描いた風景画があった。ドラクロワのアラビア騎兵の絵があった。白い頭巾つき外套を身にまとい、きらきら光るベルトを締め、金銀をちりばめた武器を持ち、馬は猛り狂って咬み合い、男たちは鉄の大鎚をかざして傷つけ合っている。ブーランジェの、詩人の域にまで高められたあの力強い筆致でパリのノートル=ダムを描いた水彩画があった。花を実際の花よりも美しく、太陽を実際の太陽よりも輝かしく描き出したディアズの絵。サルヴァトール・ロザのごとく色彩豊かで詩情においてはそれにまさるドカンのデッサン。天子の顔を持つ子供、聖処女の目鼻だちを持つ女を描いたジロー、ミュレールのパステル画。ドーザが東方を旅行した際、ラクダの鞍《くら》の上、あるいは回教寺院のドームの下で数秒で鉛筆を走らせたアルバムから破りとったクロッキーの数々。要するに、過去の世紀とともに失われ散逸《さんいつ》した絵画の埋め合わせ、代替物として、近代絵画の与え得るいっさいのものがそこにはあった。
アルベールは、少なくとも今度は、この外国の旅行者に目新しいものを見せることができるものと予期していた。ところが驚いたことには、この男は、絵の署名を見るまでもなく、第一、署名の中には頭文字しか記されていないものもあったのだが、一目見るなり直ちに作品の作者名をことごとく言いあててしまうのであった。その様子を見れば、ただ単にそれらの画家の名を彼が知っているばかりではなく、彼自身、これら天才たちの一人々々を鑑賞し研究していることが容易に想像できた。
二人は客間から寝室に移った。これは品がいいと同時に、簡素な好みの部屋であった。たった一枚の肖像画、だが署名はレオポルド・ロベールの肖像画が、にぶい金色の額の中に輝いているだけであった。
この肖像画がまずモンテ・クリスト伯爵の視線をとらえた。伯爵は足を早めて部屋に入るとその絵の前に立ちつくした。
二十五、六の一人の若い婦人像であった。褐色の肌、もの憂い眼瞼《まぶた》の下の燃える瞳。カタロニアの漁師の女の衣装をつけている。赤と黒の胴着、髪には金のピンをさしていた。海を見ている。気品のある横顔が、紺碧の海と空とをバックにして浮き出ていた。
室内は暗かった。そうでなければ、アルベールは伯爵の頬に広がった鉛のような蒼白さを目にすることができたであろうし、肩と胸とをかすめたかすかなおののきをも見逃さなかったであろう。
一瞬の沈黙が訪れた。その間モンテ・クリストの目は、執拗にその絵を見据えたままであった。
「綺麗な愛人をお持ちですね」モンテ・クリストがまったく平静な声で言った。「それにこの衣装、たぶん踊りの衣装と思いますが、うっとりするほどよく似合う」
「ああ、伯爵、それはとんでもない誤解です。もしその絵の横に誰かいたら僕はあなたを許しませんよ。あなたは母をご存じない。その額の中は母なのです。六、七年前にそんな姿で描かせたのです。その衣装は、たぶん気まぐれでそんな衣装をつけたのでしょうが、あまりよく似ているんで、今でも母を見ると一八三〇年当時の母を見る思いがします。母はこの肖像画を父伯爵の留守中に描かせました。帰って来たときに、驚かせてやろうというやさしい気持ちからだったと思うのですが、おかしいことに、この絵は父には気に入りませんでした。ご覧のように、レオポルド・ロベールの傑作の一つと言えるこの絵の価値も、父のこの絵に対する嫌悪の情を克服することはできませんでした。ここだけの話ですが、正直言って、父は貴族院の中でも最も熱心な議員で、軍隊でも学科にかけてはその名を知られている将軍の一人ではありますが、美術の愛好家という点ではまったく下らないものしかわからない人なのです。その点母とはまるで違います。母は自分でも見事な絵を描きますし、これほどの作品を完全に手放す気にはなれなくて、僕にこれをくれたのです。僕の所なら、モルセール伯爵を不快にする機会もより少ないわけですから。父のほうはグロの描いた肖像を後でご覧にいれます。こんな内輪の話をしてしまって申し訳ありません。でも、僕はあなたを父伯爵の所へご案内するつもりでおりますので、この肖像画のことを父の前であなたがほめたりなさらないようにと思ってお話ししたのです。それにこの絵には不吉な力があるんです。母が僕の所へ来てこの絵を見ないことはまずありませんし、この絵を見て涙を流さないこともそれ以上珍しいことなのです。また、この絵が邸にもたらした影は、結婚して二十年以上にもなるというのにまだ新婚当時のように仲のよい父と母との間にできた、唯一の影なんです」
モンテ・クリストは、アルベールの言葉になにかをかくそうとする意図はないかと、探るようなす早い視線をアルベールに向けたが、アルベールがただ心の中をそのまま話していることは明らかであった。
「伯爵、もう僕の宝物は全部お見せしました。つまらないものかもしれませんが、何かをさし上げたいと思います。ここではご自分の家におられるのと同じだとお思いになって下さい。さらにくつろいでいただくために、父のモルセールの所へご案内させて下さい。ローマから、していただいたことを手紙で知らせておきましたし、お訪ね下さると約束して下さったことも知らせてあります。父も母もあなたに早くお礼を申し上げねばと待ちかねているのです。あなたがなに事にも少々飽きておられることは僕も知っております。家庭生活なんて、船乗りシンドバッドにはおもしろくもなんともないでしょう。もっとほかのいろいろな光景をご覧になっているんですからね。でも、僕の申し出をご承諾願えませんか、パリ生活入門として。礼儀、訪問、紹介、これがパリ生活ですから」
モンテ・クリストは頭を下げて返事とした。彼は、礼儀をわきまえた人間が従うことを義務と心得ている社交儀礼のつもりで、この申し出を、なんの情熱も悔む心もなく受諾した。アルベールは召使いを呼び、モルセール夫妻にモンテ・クリスト伯爵が訪ねる旨を告げさせた。
アルベールはモンテ・クリストとともに、召使いの後を追った。
伯爵の控えの間に来たとき、客間に通ずるドアの上に紋章が見えた。その豪奢《ごうしゃ》な縁どりと室内の装飾とを調和させている様は、邸の主がこの紋章をいかに重視しているかを示していた。
モンテ・クリストはこの紋章の前に足を止め、注意深くみつめていた。
「青地に金のツグミが七羽並んでいる。これはモルセール家の紋章でしょうね」モンテ・クリストが訊ねた。「私の知っているのは、紋の図柄の各部の名称ぐらいで、おかげで紋を読むことはできるのですが、紋章学となると、まったく無知なのです。なにしろ、私は、サン・ステファノ騎士領の助けを借りてトスカナ公国にこしらえてもらった、成り上がり伯爵ですからね。それも、しょっちゅう旅行する者にとっては貴族になることが絶対に必要だと、繰り返し人に言われなければ、貴族になどならずにいたと思います。まったく、馬車の荷物台になにか持っていないかと、税関吏がやって来るのを防ぐ役しかしないとしても、たしかにこれは必要なものですから。そんなわけなので、こんな失礼なことをお訊ねしても、お許しになって下さい」
「ちっとも失礼なことなんかありません」アルベールは、確信をこめてあっさり言ってのけた。「お見通しの通り、これはわが家の紋章です。つまり父の先祖の。しかし、ご覧のように、赤地に銀の塔の、母のほうの先祖の紋と組み合わされてます。母方の血からすれば僕はスペイン系ですが、モルセール家はフランス系です。僕の聞いたところでは、それも南仏では最も古い家柄の一つだとか」
「その通りですよ」モンテ・クリストが答えた。「ツグミがそのことを示しています。聖地占領を企て、ないしは実行した武装巡礼たち〔十字軍〕の大部分は、十字架または渡り鳥を紋章としました。十字架は、自分たちが身を献げた使命のしるしであり、渡り鳥は、自分たちが企て、信仰の翼に乗って達成しようと望んだ長途の旅のシンボルでした。あなたの父方のご先祖は、おそらくフランス十字軍の一員だったのでしょう。聖ルイ王の時だったとしても、それは十三世紀にさかのぼります。これはたいへんなことですよ」
「そうかもしれません。父の書斎のどこかに、系図があります。それを見ればそんなこともわかります。以前その系図についての註釈を見たこともあります。オジエ〔系図学者〕やジョクールが見たらさぞ有益だったろうと思えるようなものでした。今はもう僕は系図のことなど考えてません。でもね、伯爵、僕は案内役なので申し上げておきますが、庶民的と言われているわが政府のもとで、家柄のことがいやに気にされ始めているんです」
「となると、お国の政府は、紋章学的意味がまったくなく、私が建造物の上に見かけるあの二枚の貼り札よりましなものを、過去において選ぶべきであったということになりますね。子爵、あなたの場合は」とモンテ・クリストはモルセールのことに話を戻して、「お国の政府より幸せですよ。あなたの紋章はほんとうに美しいし、想像力に語りかけてきますからね。そう、たしかにあなたは南仏とスペインの血を受けておいでだ。さっき見せて下さった肖像画が似ているとすれば、あの気品のあるカタロニアの婦人の顔の、私が讃嘆したあの褐色の肌の色もなるほどと思われます」
オイディプスかスフィンクスでもなければ、伯爵がこの言葉の中にこめた皮肉を見抜くことはできなかったであろう。上べは、きわめて礼儀正しく装われていたのだ。だからモルセールは微笑をもって感謝の意を表わし、先に立って、紋章の下の、先に述べたように客間に通ずるドアを押した。
その客間の最も目立つ位置にもう一枚の肖像画があった。将軍の軍服を着た三十五から三十八ぐらいの男の絵であった。最高階級を示す二重のモールのついた肩章をつけ、三等勲章受勲者であることを示すレジヨン・ドヌール勲章の綬《じゅ》を首にかけている。右の胸に救世主勲章、左の胸にシャルル三世勲章をつけている。これは、この肖像画に描かれた人物が、ギリシアとスペインの戦役に従軍したか、あるいは、受勲ということになればまったく同じことになるのだが、この二つの国において、なにか外交上の使命を果したことを示すものであった。
モンテ・クリストが、前の肖像画のときに劣らず熱心に細部に至るまでしげしげとこの肖像画をみつめていると、横のドアが開き、モルセール伯爵が彼の前に現われた。
四十から四十五ぐらいの男であるが、うち見たところ、少なくとも五十ぐらいに見えた。黒い口ひげと眉とが、軍隊流に短く刈りこんだ白髪に近い髪の毛と異様な対照をなしていた。平服を着ているが、襟のボタン穴には、さまざまな色の線のついた略綬をつけており、この男がさまざまな勲章の受勲者であることを示している。男は、かなり気品のある、と同時にいそいそとした足どりで入って来た。モンテ・クリストは一歩も動かずに、その男が自分の前に歩み寄るのを見ていた。モルセール伯爵の顔を見据えるその目と同じように、彼の足もまた、床に釘づけになっているかのようであった。
「お父さん」青年が言った。「モンテ・クリスト伯爵をご紹介します。ご存じの通り、あのひどい事態の際、幸いにもお会いできた、ほんとうによくして下さった友人です」
「ようこそおいで下さいました」モルセール伯爵はモンテ・クリストに頭を下げながら微笑を浮かべて言った。
「たった一人の跡継ぎの命をお救け下さり、当家の者にとりましては、このご恩は一生忘れられるものではありません」
こう言いながらモルセール伯爵はモンテ・クリストに椅子をすすめ、自分も窓に向かって腰をおろした。
モンテ・クリストのほうは、モルセール伯爵にすすめられた椅子に腰をおろしはしたが、自分は窓の大きなビロードのカーテンの陰にかくれ、伯爵の疲労と気苦労が刻みこまれた顔の上に、年が刻んだしわの一つ一つに記されている長い間秘められた心の苦痛を読みとることのできる位置に身を置いた。
「伯爵夫人は」モルセール伯爵が言った。「子爵が、あなたがお訪ね下さる旨を伝えましたとき、ちょうど身づくろいをしておりました。間もなく降りて参ります。十分後にはこの客間に来ると思います」
「パリ到着早々その日のうちに、名声に背かぬ価値をお持ちの方とこうしてお知り合いになれて、まことに光栄に存じます。運命の女神もあなたに対してだけは過ちを犯さなかったわけですが、今もなお運命の女神はミティジャの平原〔アルジェリアの肥沃な平野〕、アトラスの山列《やまなみ》〔アルジェリア、モロッコ、チュニジアの山脈〕で、あなたに差し上げるべき元帥杖を手にしてあなたをお待ちしているのではありませんか」
「いやじつは」モルセールは顔を赤らめながら即座に答えた。「私は軍務を退いたのですよ。王政復古の際貴族に列せられた私は、最初の戦闘に参加し、ブルモン元帥の指揮下にありました。ですから私はさらに上級の指揮官となることを主張できたはずです。正統な王朝がそのまま続いていたとしたら、どうなっていたか誰にもわからぬはずです。しかし、七月革命というやつは、あまりの栄誉に輝いているものらしく、功績のあった者のことなど忘れています。帝政時代の功績以外は、いっさいかえりみようとしなかった。ですから私は辞表を出しました。戦場で己が肩章を手に入れた者にとって、サロンなどという足もとのぐらつく土地ではどう作戦行動をとっていいのやら見当がつきかねますからね。私は剣を捨て政界に身を投じました。工業に身を献げています。実利的な技術を研究しておるのです。軍務についていた二十年の間、やりたいと思いながらその暇がありませんでした」
「あなたのお国の他の国々に対する優越性を維持させているものは、そういう点なのですね」モンテ・クリストが答える。「立派な家柄の出であり、大きな財産もおありなのに、あなたは、名もない一兵卒としての階級に身を置くことに同意なさった。これはめったにあり得ないことです。それから将軍となり、フランスの貴族となり、レジヨン・ドヌール三等勲章受勲者となられた今、二度目の修業をお始めになった。将来いつの日にか同胞のために役に立つこともあろうということのほかには、なんの希望もなく、なんの報酬も求めずに、です……ああ、伯爵、これはほんとうにすばらしいことです。いや、それどころか、崇高なことと申せましょう」
アルベールはあっけにとられてモンテ・クリストの顔を見、言葉を聞いていた。モンテ・クリストが、これほどまでに熱烈な言葉を口にする姿は、アルベールの見慣れぬものであった。
「まったく」と、モンテ・クリストは、たぶん彼の言葉が、モルセールが額によぎらせたかすかな暗い影をぬぐわせるためであったろうが、さらに言葉を続けた。「イタリアでは、われわれはそのようにはふるまわぬのです。われわれは民族、家柄のままに成長するだけです。枝葉も幹ももとのまま。そして、大多数の者は無意味な人生をそのまま続けるのです」
「しかし、あなたほどの才能をお持ちの方なら」モルセール伯爵が言う。「なにもイタリアのみが祖国ではありますまい。フランスは誰に対しても恩知らずというわけではないでしょう。自分の国の者にはむごい扱いをしても、ふつう、外国の方は大手を拡げてお迎えする国ですから」
「ああ、お父さん」笑いながらアルベールが言った。「そんなことをおっしゃるのはモンテ・クリスト伯爵のことをよくご存じないからですよ。伯爵が求めておられるのは脱世俗的なものです。名誉なんか望んではおられません。ただパスポートに記載しておけば役に立つという点でしか名誉のことなど考えておられないんです」
「そのお言葉は、私に関して今までに私が耳にした最も正確な表現です」外国人が答えた。
「ご自分の未来をどのようにでも選ぶことがおできになったために、花の咲く道をお選びになったというわけですな」モルセール伯爵は溜息まじりに言うのだった。
「その通りです」モンテ・クリストはすぐにこう答えて、画家も描くことはできず、生理学者も分析しかねるあの微笑を浮かべた。
「伯爵を議会におつれしてもよいのですが、お疲れになるでしょうな」将軍は、明らかにモンテ・クリストの人となりにすっかり魅せられてこう言った。「今日は、今の貴族院をご存じない方にとっては、興味のある討論が行なわれるのです」
「いつか日を改めてお誘い下さればたいへんありがたく存じます。ですが今日は伯爵夫人にお引き合わせいただけるということですので、お待ちしましょう」
「あ、母です」子爵が叫んだ。
事実、モンテ・クリストが急いで振り返ってみると、夫が入って来たのとは反対側のドアの所、客間の入口にモルセール夫人の姿があった。身じろぎもせず蒼い顔をした夫人は、モンテ・クリストが振り向くと、なぜかそれまでドアの金色の縁枠にもたれさせていた片腕を、だらりと下げたのであった。夫人は少し前からそこにいて、アルプスの向こうから訪ねて来た客の口から出た、最後の言葉を聞いていたのである。
モンテ・クリストは立ち上がり、深々と伯爵夫人に対して頭を下げた。夫人もまた、黙したままうやうやしく身をこごめた。
「なんだ、どうしたのかね」伯爵が訊ねた。「この部屋が暖かすぎて気分が悪いのではないか」
「お母さん、ご気分が悪いんですか」子爵がメルセデスの前に走り寄って叫んだ。
彼女は二人に礼を言うように微笑んでみせた。
「いいえ。でも、もしいらっしゃらなければ、あたくしたちが今頃は涙と喪《も》のさ中にいたはずのお方に初めてお目にかかったので、胸が締めつけられるような思いがしてしまったのです。伯爵様」夫人は女王のような威厳をそなえたまま進み出て続けた。「息子が生きながらえておりますのはあなた様のおかげでございます。あたくし、あなたに神様のお恵みがありますようにと祈っておりました。今日は、お恵みを祈っていたのと同じぐらい、つまり、心の底からのお礼を申し上げる機会を、こうしてお与え下さったことを感謝いたします」
モンテ・クリスト伯爵は、また頭を下げた。前よりもいっそう深々と。彼はメルセデス以上に蒼ざめていたのだ。
「奥さん」モンテ・クリストは言った。「伯爵も奥さんも、私のいたしましたごく当り前の行為に、あまりにも過分なお言葉をたまわります。一人の人間を救う、父親に苦しみを免れさせ、母親に嘆きを与えないようにする、これは善行というほどのことではありません。人間としてごくふつうの行ないです」
えも言われぬやさしさと礼節とにあふれたこの言葉に、モルセール夫人は声音に深い感動をこめて答えるのだった。
「あなたのような方をお友だちにできましたことは、この子にとってほんとうに幸せですわ。このように事をお運び下さった神様に感謝いたします」
こう言ってメルセデスはその美しい目を、無限の感謝の念をこめて天に向けた。モンテ・クリスト伯爵には、そこに二粒の涙がゆらいでいるように思えた。
モルセール伯爵が夫人に近寄った。
「私は伯爵に失礼せねばならぬとお詫びを申し上げたが、お前からもお詫びしてくれないか。議会は二時に始まるのに今三時だ。私もしゃべらねばならないのだ」
「どうぞお出かけ下さいませ。お留守をお客様に忘れていただくよう努めますから」夫人は前と同じ、情愛のこもった調子で言った。「伯爵様」モンテ・クリストのほうに向き直って、夫人が続けた。「あたくしどもとご一緒にずっと過ごしていただけますわね」
「奥さん、ありがとうございます。お誘い、ほんとうにお礼の言葉もございません。ですが、私は今朝、お宅の門の前で旅の馬車から降りたのです。パリでどんな家に住むのか、まだ存じておりません。何処に住むことになるのか、住所だけしか知らないような始末なのです。些細《ささい》な不安にはちがいありませんが、おわかりいただけると存じます」
「せめて、またいつかそうなさって下さいますわね、約束していただけますかしら」伯爵夫人は訊ねた。
モンテ・クリストはその返事をせずに頭を下げた。がその様子は承諾したものと解してよさそうであった。
「それでは、お引き止めいたしません。あたくしのお礼の気持ちが、ぶしつけになったり、しつこすぎたりすることは望みませんから」
「伯爵」アルベールが言った。「もしよければ、ローマで僕にして下さったことをパリで僕にさせて下さい。あなたが馬車を用意なさるまで、僕のクーペ〔二人乗りの箱馬車〕をご自由にお使い下さいませんか」
「お心遣い心からお礼を申し上げますよ、子爵」モンテ・クリストが言った。「ですが、私はベルトゥチオが、あれに与えた四時間半を有効に使ったものと思っております。おそらくご門の前に、馬をつけた馬車が来ているでしょう」
アルベールは、伯爵のこういうやり口には慣れていた。アルベールは伯爵が、まるでネロのように、つねに不可能を求めていることを知っていた。だから、彼はべつに驚かなかった。ただ、モンテ・クリスト伯爵の命令がどのように実行されたかを自分の目で確かめたいと思った。そこでアルベールは、邸の門までモンテ・クリストを送って行った。
モンテ・クリストの思った通りであった。彼がモルセール伯爵の控えの間に姿を見せたとたんに、ローマで二人の青年のもとに伯爵の名刺をたずさえ、二人に主人の訪問のおもむきを告げに来たあの従者が、柱列の所から飛び出して行った。そして、著名な旅行者が正面玄関の階段まで来てみると、そこに自分を待っている馬車を見出したのである。
それはケレールの仕事場で作られたクーペで、パリ中の流行児たちも知る通り、ドレイクがその前日、一万八千フランでも譲らなかった馬がつながれていた。
「拙宅までご同行下さいとはおすすめしません」伯爵がアルベールに言った、「おいでいただいても、どうせ急ごしらえの家しかお目にかけられません。ご承知の通り、私は急ごしらえということにかけてはたいへん評判な男でしてね。一日だけ猶予を下さい。それからご招待させていただきます。そのほうがお客様に失礼なまねはせずにすむと思いますから」
「伯爵、あなたが一日待てとおっしゃれば、もう僕は安心していますよ。お見せいただけるのは、もはや家などというものではなくて御殿でしょうから。まったくあなたは、なんでも言うことをきく魔法使いかなにかをお持ちのようです」
「ほう、世間にはそう思わせておいて下さい」モンテ・クリストは、彼の見事な馬車のビロード張りの段に足をかけながら言った。「きっとご婦人方とおつきあい願う際に役に立つでしょうからね」
こう言って彼は車中に身を躍りこませ、その背後でドアが閉まった。馬車は疾駆しはじめたが、モンテ・クリストがモルセール夫人と別れた客間のカーテンがかすかにゆらぐのを、彼が見落とすほどのスピードではなかった。
アルベールが母のもとに戻ったとき、夫人は自分の部屋にいて、大きなビロードの肘掛椅子に身を沈めていた。部屋全体が薄暗がりに包まれ、陶器の花びんの胴のあたりや金の額縁の角のあたりが、所々、きらきら光っているのが見えるだけであった。
アルベールには、母が、蒸気の後光のように髪のまわりに巻きつけているヴェールの雲の中にかくされた、母の顔を見ることはできなかった。が、母の声が変わっているように彼には思えた。そして、花籠のバラやヘリオトロープの香りの中に、気つけ薬の酸っぱい刺すような臭いが残っているのに気がついた。暖炉の上に彫った水盤に、サメ革のサックから出された夫人の薬びんがのっているのが、アルベールの不安な目を惹きつけた。
「気分が悪いんですか、お母さん」部屋に入りながら彼は叫んだ。「僕がいない間に具合が悪くなったんですか」
「お母さんが? いいえ、アルベール。でもね、気温が高くなり始めの頃は、まだ身体が馴れないうちは、バラやオランダ水仙やオレンジの花は、匂いがきつ過ぎるのよ」
「それなら、お母さん」アルベールは呼鈴に手をのばしながら、「次の間に花を運ばせなきゃ駄目ですよ。ほんとうにお加減が悪いんだ。さっきだって、客間に入って来たとき、すごく蒼い顔をしてました」
「お母さんが蒼い顔をしていたって言うの?」
「お母さんの蒼い顔、とてもきれいだったけど、やっぱり驚きましたよ。お父さんも僕も」
「お父様がそうあなたにおっしゃったの?」メルセデスがせきこむように訊ねた。
「いいえ、お母さんにですよ。お父さんがそう言ったじゃありませんか」
「憶えてないわ」
召使いが入って来た。アルベールが鳴らした呼鈴の音でやって来たのである。
「その花を次の間か化粧室へ運んでくれ」子爵は言った。「それがあるとお母さんは気分が悪くなるんだ」
召使いは言われた通りにした。
かなり長い沈黙が、花びんを移す仕事の間中続いた。
「モンテ・クリストというお名前は、いったい何なの」伯爵夫人が、召使いが最後の花びんを持って出て行ったときに訊ねた。「苗字、地名、それともただの称号?」
「たぶん称号だと思いますよ。伯爵はトスカナ諸島の中の島を一つ買ったんです。そして、今朝あの人が自分で言ってたところによると、そこに領地を作ったんです。フィレンツェのサン=ステファノ、パルマのサン=ジョルジョ=コンスタンティノ、いやマルタの騎士領でさえ、そのようにして手に入れられることはお母さんもご存知でしょう。それにあの人は貴族の家柄だなんてことは一言も言ってません。自分を成り上がり貴族と呼んでます。ローマでは伯爵といえば大貴族と目されているのにですよ」
「あの方の物腰態度、見事だったわ。少なくとも、ここにいらした短い時間に、お母さんがお見受けしたところでは」
「非のうち所がありませんよ、お母さん。ヨーロッパの最も高貴な三つの貴族、つまり、イギリス、スペイン、ドイツの貴族たちの中で、僕が知っている最も貴族的な人をはるかに凌駕《りょうが》するほどです」
夫人はしばらく考えていた。この短いためらいの後に、夫人が言った。
「あのね、アルベール。これは母親として質問するのよ、わかってるわね、あなたはモンテ・クリスト様の内輪の生活も見たわけね。あなたには洞察力があるし、社交界のことにも馴れているし、あなたの年には似合わないほど気転もきく人。伯爵様は、外見通りの方だと思う?」
「どう見えますか」
「それはあなたがさっき自分で言ったじゃないの、大貴族だって」
「人はそう思ってるって言ったんですよ」
「あなたはどう思うの、あなた自身は」
「僕は、じつを言うと、あの人についてはっきりしたことは知らないんです。たぶんマルタ島の人だと思うけど」
「生まれを聞いているんじゃないの、人柄を聞いてるんです」
「ああ、人柄か、それなら話は別です。あの人についてずいぶん変わったことを見たもんで、もし言えとおっしゃるなら、僕の考えてることを言いますよ。僕はこう言いたいな、バイロンの作品の主人公の一人だとね、マンフレッドとかララとかウェルネルのような、不幸が生涯消えることのない刻印を押した人。古い家柄の残党の一人で、父親の財産を奪われはしたが、その冒険的な才能の力で財を築き、そのおかげで社会の掟《おきて》を見下しているような人物ですよ」
「というと?」
「モンテ・クリストというのは地中海のまん中にある島なんです。住民も駐屯部隊もいなくて、あらゆる国の密輸商、あらゆる地方の海賊どもの巣窟になってます。こういう立派な実業家たちが自分たちの領主に、かくれ家に使わせてもらう礼金を払っていないとは言えないでしょう」
「ありそうなことね」夫人はなに事か思いにふけりながら言った。
「でも」青年が言った。「密輸業者だろうと何だろうと、いいじゃありませんか、お母さんだってご自分の目でご覧になったんですから同じ意見をお持ちでしょうけど、モンテ・クリスト伯爵はすばらしい人です。パリ中のサロンで大成功を博しますよ。そうだ、今朝だって、僕の部屋で、あのシャトー=ルノーまでも目を見はるほどの社交界へのデビューぶりを見せたんですからね」
「伯爵様はおいくつぐらいかしら」メルセデスは、明らかにこの質問を重大に考えている様子を示した。
「三十五、六です」
「そんなにお若いの、まさか」メルセデスは、アルベールが言った言葉と、自分の考えが自分に言っていた言葉との両方にこう答えた。
「でもほんとうなんですよ。三、四回僕に、それも決して予めなにか考えてなんてことではなしに、あの時は五つだった、あの時は十だった、また別のあの時は十二だった、と言ったことがあるんです。僕は、こういうことにはいつも興味をそそられてたんで、年代を照合してみたんです。一度もまちがってませんでした。あの年令が無いように見える不思議な人の年は、だからたしかに三十五歳です。それにね、お母さん、憶えておいででしょう、あの生き生きとした目、黒々とした髪、蒼いけれど、しわなどない額、あれはただ頑健だというだけじゃなくて、若いせいですよ」
伯爵夫人はおし寄せる苦い思いのあまりの重圧に抗しかねるように、面《おもて》を伏せた。
「であの方が、あなたに友情を抱いて下さったのね、アルベール」夫人はわなわなと身をふるわせながら訊ねた。
「と思います」
「で、あなたは、あなたもあの方が好きなの?」
「僕は好きです。フランツ・デピネが何と言おうと。フランツは、あの人のことを僕にあの世から蘇えった人だと思わせようとしたんです」
伯爵夫人は恐怖に襲われたような様子を示した。
「アルベール」夫人が乾いた声で言った。「お母さんはいつもあなたに、新しいおつき合いには気をつけるようにって言ってるでしょう。今はもうあなたも大人だし、お母さんに意見を言ってくれることさえできるほどです。でもね、やはり同じことを言いますよ。アルベール、気をつけなさい」
「そのご忠告が僕にとって有益であるためには、いったい何に気をつけなければならないのか知る必要がありますよ。伯爵は賭はしない。飲むものは、スペインのブドウ酒を一滴たらして色をつけた水だけ。自ら大金持ちを名乗っていますから、もし金を借りに来たら鼻の先であしらってやれます。伯爵の、いったい何を警戒しなければいけないとおっしゃるんですか」
「あなたの言う通りね。お母さんの不安は馬鹿げてるわ、それもあなたの命の恩人だっていうのに。ところで、お父様はあの方を愛想よくお迎えになったの? あたくしたちは、伯爵様にはふつう以上のおもてなしをしなければいけません。お父様は時々お忙しいと、お仕事のことでいらいらなさって、そういうおつもりではないのに、ともすると……」
「お父さんは申し分ありませんでした」アルベールが母の言葉をさえぎった。「それどころか、伯爵が、まるで三十年来の知己のように、じつに効果的にまた時宜を得てお父さんにすごくうまいお世辞を二、三回言ったら、すっかり上機嫌になったようでした。この小さな讃辞の矢の一本一本が、お父さんをくすぐったんでしょう」笑いながらアルベールがつけ加えた。「ですから、別れるときにはすっかりうちとけてしまって、議会に伯爵をおつれして自分の演説を聞かせようとさえしたんですよ」
伯爵夫人は答えなかった。夫人は、深い夢想に沈んでいくかのようであった。深い夢想なるがゆえに、両の眼瞼が次第に閉じられていく。青年は母の前に立ちつくし、母親が若くまだ美しい場合に子供が抱く、あの、そうでない場合以上にやさしくこまやかな、子としての母への愛情のこもる眼差しで母をみつめていた。やがて目が閉じられたのを見ると、一瞬、その甘美な思いを抱いたまま立ちつくして、母の吐く息に耳をすましていたが、母がまどろんだものと思い、爪先立ちになって遠ざかり、母を一人残した部屋のドアをそっと押した。
『まったくあの人ときたら』彼は首をふりふりつぶやくのだった。『ローマにいたとき、僕はきっとあの人が社交界にセンセーションを巻き起こすと予言した。僕は狂いのない温度計で、あの人の人に与える印象を計ってるんだからな。お母さんがあの人をすばらしい人だと認めたんだから、きっとすばらしい人にちがいない』
彼は厩《うまや》に降りて行ったが、モンテ・クリスト伯爵の手に入れた馬車馬が、伯爵自身は、そうとはつゆ知らずに、アルベールの鹿毛を、識者の目からすれば二位に蹴落としてしまったことに、いささか口惜しい気持ちを抱かぬわけにはいかなかった。
「実際人間は不平等だなあ。お父さんに頼んで貴族院でこの人間不平等論をぶってもらわなきゃならない」
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四十二 ベルトゥチオ
この間に伯爵は自宅に到着していた。着くまでに六分かかった。この六分の間に、彼は、自分たちが買えなかった馬の値段を知る二十人もの若者たちが、一頭あたり一万フランもの金を払ってその馬を手に入れた大貴族を一目見ようと、それぞれの乗馬を疾駆させて来る姿を見た。
パリ滞在中モンテ・クリストの住まいとなるはずの、アリが選んだ家は、シャン=ゼリゼーを上って右手にある、中庭と庭にかこまれた家であった。中庭のまん中のこんもり茂った木々が、家の正面の一部をかくしている。この木立をめぐって二本の腕のように、左右にのびる二本の通路が鉄格子の門から馬車を左右に段のある正面階段に導く。階段の一段一段に、花をいっぱいにいけた陶器の花びんが置かれている。広い敷地の中央に位置するこの家は、正門のほかに、ポンティウー通りに面した入口もある。
御者が門番に声をかける前に、大きな鉄門が開かれた。伯爵が到着するのをすでに見ていたのだ。パリでも、ローマでも、どこにいても、彼は電光のごとく迅速なかしずかれ方をしているのであった。そこで御者は、邸内に入り、速度をゆるめることなく半円を描いた。まだ通路の砂の上に轍《わだち》の音が響いている間に、鉄門はすでに再び閉じられていた。
正面階段の左側に馬車は停止した。二人の男が馬車のドアの所に現われる。一人はアリで、信じられないほど率直に喜びの色を浮かべて主人に微笑みかけた。これに酬いるに、モンテ・クリストは、ただちらっとアリに目を向けただけである。
もう一人の男は、うやうやしく頭を下げ、伯爵が馬車を降りるのに腕をかそうとした。
「ありがとう、ベルトゥチオ」こう言うと伯爵は身軽に三段の踏み段を飛び越した。「公証人は?」
「小サロンに来ております、閣下」ベルトゥチオが答えた。
「家の所番地がわかりしだい刷らせておけと言った名刺は?」
「出来上っております。パレ=ロワイヤルの一番よい木版工の所へ参りまして、目の前で彫らせました。ご命令通り、最初に刷り上った一枚を直ちにショセ=ダンタン通り七番地の代議士ダングラール男爵様の所へお届けしておきました。残りは閣下の寝室の暖炉の上にございます」
「結構だ。今何時かな」
「四時でございます」
モンテ・クリストは、モルセール伯爵の控えの間から馬車を呼ぶために飛び出して行ったあのフランス人の召使いに、手袋と帽子とステッキを渡してから、先に立つベルトゥチオに案内されて小サロンに行った。
「この控えの間の大理石像は貧弱だな」モンテ・クリストが言った。「みんな取り払ってほしいね」
ベルトゥチオが頭を下げた。
執事が言ったように、公証人は小サロンで待っていた。パリの二等書記の正直そうな顔をした、郊外の公証人というこれ以上は望めない地位に上った男であった。
「あなたが、私が買おうとしている別荘の売買を委託されている公証人だね」モンテ・クリストが訊ねた。
「はい、伯爵様」公証人が即座に答えた。
「売買契約書はできているかな」
「はい」
「持って来てくれたかね」
「ここにございます」
「結構だ。で、私が買う家というのはどこにあるのかね」無造作にモンテ・クリストが半ばベルトゥチオに、半ば公証人に訊ねた。
執事は、私は存じません、という身ぶりをした。
公証人はあっけにとられてモンテ・クリストをみつめ、
「伯爵様は、ご自分がお買いになる家がどこにあるのかご存じないのでございますか」
「まったく知らない」
「家をご覧になっていないので」
「どうして見られると言うんだね。私は今朝カディス〔スペインの都会〕から来たのだ。パリヘは来たことがない。フランスに足を踏み入れたのもこれが初めてだ」
「それなら話は別でございます」公証人が答えた。「伯爵様がお買いになる家はオートゥイユにございます」
この言葉を聞くと、ベルトゥチオの顔が目に見えて蒼ざめた。
「そのオートゥイユというのはどの辺かね」モンテ・クリストが訊ねる。
「このすぐ近くでございます。パッシーの少し先、ブーローニュの森にかこまれました、それはもうよい所でございます」
「そんなに近いのか、それでは田舎ではないではないか。ベルトゥチオ、君はどうしてそんなパリのすぐ入り口の家など選んだのだ」
「私がですか」執事は異常な力をこめて言った。「とんでもございません。伯爵様がその家を選ぶのをお命じになったのは私ではございません。なにとぞよくお思い出しになって下さいませ、記億の底を探っていただきとう存じます」
「ああ、そうだった。今、思い出した、私はあの広告を新聞で見たのだ。『別荘』といういんちきな言葉につい気をひかれてしまったのだった」
「まだ間に合います」せきこんでベルトゥチオが言った。「もし閣下が、どこかほかを探せと仰せなら、私は最良のものをみつけますが、アンギヤンでもフォントネ=オ=ローズでもベルヴューでも」
「いや、いい」モンテ・クリストはあっさりと言った。「この家があるんだから、それにしておこう」
「おっしゃる通りでございます」謝礼金がふいになりはしないかと恐れていた公証人がせきこんで言った。「いいお邸でございます。泉からは水が流れ、こんもり茂った木立、長いこと空家になってはおりますが気持ちのよいお住まい。その上、古くはございますが、家具も値打ちもので。骨董《こっとう》を皆さんお求めになります当節ではなおのことでございます。いや失礼なことを申しました。が、伯爵様も今の時代の趣味をお持ちと思いましたので」
「かまわんよ。とにかく手頃なものなんだね」
「手頃なんてものではございません。豪壮と申せましょう」
「よし、こんな買物を逃がす手はない。契約書を」
こう言ってモンテ・クリストは、契約書のその家の位置と所有者を記載した箇所をすらっと眺めてから、手早く契約書に署名した。
「ベルトゥチオ、この方に五万五千フラン差し上げなさい」
執事はおぼつかない足どりで出て行き、札束を持って戻って来た。公証人はその札を、法的な手続きを済ませなければ決して金を受け取らない男の手つきで数えていた。
「これで手続きはいっさい完了したわけだね」モンテ・クリストが訊ねた。
「いっさい済みました」
「家の鍵を持ってるかね」
「家を管理しております門番が持っておりますが、あの邸に伯爵様にお住み願うよう門番宛の私の命令書がここにございます」
「よろしい」
モンテ・クリストは公証人に、『もう用はない、帰れ』という意味を顎で示した。
「ですが」と正直者の公証人は思いきったように言うのだった。「伯爵様はお間違えになったのではございませんでしょうか、いっさいこみで五万フランなのですが」
「しかし礼金は?」
「この額の中から支払われることになっております」
「しかし、オートゥイユからここまで来てくれたわけだろう」
「それにはちがいございません」
「それならご足労をかけた分を支払わねばならないよ」
こう言ってモンテ・クリストは、帰れ、という身ぶりをした。
公証人は後ずさりしながら、頭を床近くまで下げて部屋を出た。彼が公証人として登録した日以来、こんな客に会ったのは初めてのことであった。
「お送りしたまえ」伯爵がベルトゥチオに言った。
執事は公証人の後から出て行った。
一人になるや、直ちに伯爵はポケットから鍵のかかった紙入れを取り出し、つねに首にかけて放したことのない小さな鍵でそれを開けた。
しばらく中を探していたが、なに事か書き記した一枚のメモの所で手を止めると、テーブルの上に置かれていた売買契約書とつき合わせてみた。そうして、記憶の底をたどりながら、
『オートゥイユ、ラ・フォンテーヌ通り二十八番地か、まさにこれだ。こうなれば次は、宗教的な恐怖か、それとも肉体的な恐怖か、そのいずれで≪どろ≫を吐かせるかだ。一時間後には皆わかるはず』
「ベルトゥチオ!」モンテ・クリストは、たわむ柄のついた小さな木槌で呼鈴を叩きながら叫んだ。どらの音のようなかん高い長い音が鳴り響いた。「ベルトゥチオ!」
執事がドアの所に姿を現わした。
「ベルトゥチオ、たしか君はいつか、前にフランスヘ来たことがあると言ったね」
「フランスの所どころへは、はい」
「パリの郊外は知っているね」
「いいえ、閣下、存じません」執事はわなわなと身をふるわせた。人間の感情についてよく知っているモンテ・クリストは、当然のことにこれをはげしい不安のあかしと見た。
「君がパリの郊外に一度も行ったことがないというのは残念だね。じつは私は、今すぐにも私の新しく買った家を見に行こうと思う。君が一緒に来てくれれば、いろいろ役に立つことが聞けると思ったのだが」
「オートゥイユヘでございますか!」ベルトゥチオが大声で言った。赤銅色の顔が鉛のように蒼ざめている。
「私がオートゥイユヘ参るのでございますか!」
「では私のほうから聞きたいね、君が私とオートゥイユに行くのに、何の不思議があるのかね。私がオートゥイユに住む時には、当然君はオートゥイユに来てくれなければいけない、君はこの家の一員なんだからね」
ベルトゥチオは、主人の有無を言わせぬ眼差しを浴びて面を伏せ、そのまま身じろぎもせず、返事もしなかった。
「ほ、ほう、いったいどうしたのだ。君は、馬車を呼ぶためにもう一度ベルを私に鳴らさせるつもりかね」モンテ・クリストは、ルイ十四世があの有名な、『朕《ちん》は待たされるところであった』という言葉を言ったときと同じ声音でこう言った。
ベルトゥチオは一飛びに小サロンから控えの間に飛び出すと、上ずった声で叫んだ。
「閣下のお馬車を!」
モンテ・クリストは、二、三通の手紙を認《したた》めた。その最後の封をしている時に、執事がまた現われて、
「お馬車が玄関先でお待ちしております」
「では、君の手袋と帽子を取って来たまえ」モンテ・クリストが言った。
「私も伯爵様とご一緒に参るのでございますか」ベルトゥチオが大声を出す。
「当り前だ。君はいろいろ指図しなければならない。私はあの家に住むつもりなんだからね」
伯爵の命令に抗弁するなどということは前例のないことであった。そこで執事は、一言も文句を言わずに主人の後に従った。モンテ・クリストは馬車に乗りこむと、執事にも乗るように、というしぐさをした。執事は、謹んで前の座席に腰をおろした。
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四十三 オートゥイユの家
モンテ・クリストは、ベルトゥチオが正面階段を降りる際に、コルシカ流に十字を切るのを見た。拇指で宙に十字を切るのである。また馬車に席をしめる際にも、ベルトゥチオは短い祈りの文句をぶつぶつとつぶやいた。好奇心の強い者以外は誰しも、この誠実な執事の示す、伯爵が考えた郊外散歩に対する恐怖の姿に憐れを催したことであろう。だが伯爵は、いたって好奇心の強い男だったので、このちょっとした遠出をベルトゥチオに免除しようとはしなかった。
二十分でオートゥイユに着いた。執事の動揺はますます大きくなるばかりであった。オートゥイユの村に入ると、ベルトゥチオは馬車の隅にへばりつき、通り過ぎる家を一軒一軒、熱にうかされたように喰い入るようにみつめていた。
「ラ・フォンテーヌ通り二十八番地で馬車を止めさせるのだ」伯爵は、情容赦もなく執事をじっと見据えたまま、こう命じた。
汗がベルトゥチオの顔ににじむ。それでも彼はその命令に従った。馬車から身を乗り出して御者に叫んだ。
「ラ・フォンテーヌ通り二十八番地」
この二十八番地というのは村のはずれに位置していた。馬車で来る間に夜になっていた。いやむしろ、雷電を帯びた黒雲が、早々とたれこめたその闇に、劇的なシーンの様相と壮厳さとを与えていると言ったほうがよかった。
馬車が止まり、従者がドアの所に走り寄り、ドアを開けた。
「なんだ、ベルトォチオ、君は降りないのかね」伯爵が言った。「それじゃ、そのまま馬車の中にいるつもりか。いったい今夜は何を考えておるのだ」
ベルトゥチオはドアから飛び降り、伯爵に肩を差し出した。今度は伯爵はその肩に掴まりながら、三段の踏段を一段一段降りた。
「ノックしたまえ、私が来たと伝えるのだ」
ベルトゥチオがノックすると、ドアが開き門番が姿を見せた。
「何だね」門番が訊ねた。
「新しいご主人様だよ」従者が言った。
そして、公証人がよこした証書を門番に差し出した。
「じゃあ、家が売れたんですかい、旦那がお住みになるんで」門番が訊ねた。
「そうだよ」伯爵が言った。「お前が前の主人を恋しがったりしないように私も努めるつもりだ」
「恋しがったりなんぞしやしません」門番が言った。「ごくたまにしかお会いしてないんですから。もうおいでにならなくなってから五年の余にもなります。お売りになってよかった。ちっともあの方のためになんぞならない家でしたからね」
「前の主人というのは何という人だった」モンテ・クリストが訊ねる。
「サン=メラン侯爵様です。きっと、かけただけの金額ではとてもお売りになれなかったでしょうな」
「サン=メラン侯爵!」モンテ・クリストが繰り返した。「まてよ、その名前は初耳ではないようだ。サン=メラン侯爵……」
彼は思い出そうとしているようであった。
「お年を召した貴族で、ブルボン家に忠実に仕えた方でございました」門番が続けた。「一人娘がおありで、ニーム、ついでヴェルサイユの検事をなさってたヴィルフォール様と結婚なさいました」
モンテ・クリストはベルトゥチオをちらっと見た。執事の顔は、倒れぬように身をもたせている壁の色よりも蒼白であった。
「で、そのお嬢さんはなくなられたのではなかったかな」モンテ・クリストは訊ねた。「なにかそんな噂を聞いたような気がする」
「さようでございます。二十一年前でした。あれ以来、私どもは、あのお気の毒な侯爵様には三回とお目にかかっておりません」
「いやありがとう」執事の虚脱ぶりを見て、これ以上この糸を強く引けばついには切れてしまうと判断したモンテ・クリストが言った。「ありがとう。灯《あかり》をくれないか」
「ご案内いたしましょうか」
「いや、いい。ベルトゥチオが道を照らしてくれる」
モンテ・クリストはこう言って、金貨を二枚門番に与えた。礼の言葉や深い吐息が門番の口からほとばしった。
「ああ、旦那様」暖炉の縁や、付属の棚の上を探した挙句に門番が言った。「ろうそくを切らしてしまいまして」
「ベルトゥチオ、馬車の角燈を一つ持って来い。そして部屋を見せるのだ」伯爵が言った。
執事は素直にこれに従ったが、角燈を差し出す手のわななきを見れば、この命令に服するのがどれほど彼にとって辛いことであるかが容易に察せられた。
二人は、かなり広い一階を見て廻った。二階には客間と浴室と、寝室が二つあった。その一つを通り抜けると、らせん階段があって、庭に通じている。
「ほう、非常階段があるな。これは便利だ。ベルトゥチオ、照らしてみろ。先に立て。どこに通じているのか行ってみよう」
「伯爵様、庭に通じているんです」
「どうしてそれを知っているのかね」
「通じているはずだという意味でございます」
「それなら確かめてみよう」
ベルトゥチオは溜息をつき、先に立った。階段はやはり庭に通じていた。
外へ出る戸口の所で執事の足が止まった。
「どうした、ベルトゥチオ」伯爵が言った。
しかし、声をかけられた男は、なにも聞こえぬふうで、茫然とふぬけのようになっている。うろたえた彼の目はあたりを見廻し、なにか恐ろしい過去の痕跡を求め、ひきつった手は、おぞましい記憶を押しのけようとするかのようであった。
「どうしたのだ」なおも伯爵が声をかける。
「だめでございます」内側の壁の角に手をかけたままベルトゥチオが叫んだ。「私はこれから先へは参れません。とても行けません」
「それはどういう意味なのだ」一語一語句切られた、有無を言わせぬモンテ・クリストの言葉であった。
「だって、とてもふつうのことじゃないではございませんか。伯爵様がパリで一軒家をお買いになるのに、それがオートゥイユ、オートゥイユも、ラ・フォンテーヌ通りの二十八番地の家だなんて! ああ、なぜ、来る前に私はなにもかもお話ししてしまわなかったのでしょう。そうすれば、まさか私に、ここへ来いなどとはおっしゃらなかったはずです。私は、伯爵様のお家が、この家ではないことを願っておりました。まるで、人殺しの家以外にはオートゥイユに家がないみたいだ」
「なんといういやなことを言うのだ」いきなり足を止めて、モンテ・クリストが言った。「しようのない奴だ。根っからのコルシカ人だな。神秘だの迷信だのばかり信じおって。さあ、角燈を取れ、庭を見てみよう。私が一緒なら、こわくはあるまいと思うがね」
ベルトゥチオは角燈を拾い上げ、いいつけに従った。
ドアを開けると柔らかに光る空が見えた。月が、暗い雲の波で月を覆いかくす雲海に、力ない戦いをいどんでいる。一瞬月に照らし出されたかと見る間に、雲の波はさらにその暗さを増し、月は無限の深淵の底に姿をかくしてしまうのであった。
執事は左へ曲って行こうとした。
「そっちじゃない。通路など行って何になる。きれいな芝生なんだから、まっすぐ行こう」
ベルトゥチオは額に流れる汗をぬぐった。それでも言われる通りにした。だが、やはり左の方へ進んだ。
モンテ・クリストはその逆に右の方へ進む。木立の茂みの所まで来て彼は足を止めた。
執事はこらえ切れなくなって、叫んだ。
「そこから離れて下さい! そこをどいて下さい、お願いでございます。ちょうどその場所に立っておいでなんです」
「どういう場所かね」
「奴が倒れた場所です」
「ベルトゥチオ」モンテ・クリストが笑いながら言った。「しっかりするんだ、いいな。ここはサルテーヌでもコルト〔ともにコルシカの地名〕でもない。これはマキ〔コルシカの密林〕ではなくてイギリス風の庭園だ。いささかかん違いをしていることは確かだがね、だからといってそう文句を言うこともない」
「伯爵様、早くそこをどいて下さい、早く、お願いでございます」
「気でも狂ったのではないかね」冷たく伯爵が言った。「もしほんとうにそうなら、そう言ってほしい、惨事が起きないうちに精神病院へでも君を閉じこめちまわねばならないからね」
「ああ、閣下」ベルトゥチオは首をふり、手を組み合わせた。その姿は、この時伯爵がより大きな利益を得ようという考えにとらわれておらず、この小心者が良心の苛責にさいなまれるさまをなに一つ見逃すまいと注意を集中していなかったならば、伯爵を吹き出させたであろう。「ああ、閣下、惨事はもう起きてしまったのでございます」
「ベルトゥチオ」伯爵が言った。「率直に言うがね、君はやたらと身ぶりをしたり、腕をよじったりしている。悪魔がとりついて身体の中から出て行かない人間みたいに目をきょろきょろさせているよ。ところで、私はかねがね一番しつこい悪魔は、秘密という奴だと考えている。私は、君がコルシカ人であることは知っている。暗い顔をして、しょっちゅう昔の復讐のことかなにかを思い出していることも知っている。イタリアでは私はそのことを見過ごしてきた。というのは、イタリアでは、そうしたことも通用するからね。だがフランスでは、ふつう人殺しというのはきわめて悪い趣味とみなされている。人殺しを追求する警官もいれば、断罪に処する裁判官もおり、報復のための処刑台もある」
ベルトゥチオは両手を合わせた。このような動きをしながらも、彼は角燈を手放さなかったので、そのうろたえた顔が光に照らし出された。
モンテ・クリストは、ローマでアンドレアの処刑をうち眺めたのと同じ目つきで、その顔をじっと見ていた。やがて、哀れな執事を再びふるえ上らせた声で、
「ブゾニ司祭は私に嘘をついたのだな。一八二九年のフランス旅行の後で、推薦状をつけて私のもとに君をよこした。その文面では君はじつに立派な資質を備えているとのことだった。私は司祭に手紙を書くとしよう。司祭に君の保護者としての責任をとってもらう。私は、その殺人事件の全貌を知ることになるだろう。ただし、予め言っておくがね、ベルトゥチオ、私はある国に住んでいるときには、その国の法律に従うならわしだ。君のために、フランスの当局といざこざなど起こしたくはない」
「ああ、閣下、そんなことはなさらないで下さい。私は忠実に閣下にお仕えしたではありませんか」ベルトゥチオは絶望的な声を出した。「私はいつだって正直でした。私は、出来得る限りの善行さえ積んで来たのでございます」
「そうでなかった、とは言ってない。だが、なぜそのようにおどおどするのだ。それはよくない兆しだぞ。汚れなき良心は、頬をそんなに蒼ざめさせるものではないし、手にそれほどの熱を与えるものでもない……」
「でも、伯爵様」ためらいながらベルトゥチオが言った。「あなた様ご自身でおっしゃったじゃございませんか。ニームの牢で私の懺悔《ざんげ》をお聞きになったブゾニ司祭様が、私には良心を苦しめるものがあるのだと、私をあなた様のもとによこしたとき、伯爵様におっしゃった、と」
「そうだ。だが、有能な執事になるだろうと言って君を私の所へよこしたときには、私は君が盗みでも働いたのだろうぐらいに思っていた」
「そんな、伯爵様」ベルトゥチオが軽蔑するように言った。
「さもなければ、君はコルシカ人だから、人を殺す欲望に抗しかねたのだろうとね。コルシカでは、皮膚を一枚作ると言うがね、実際には逆に一枚だめにしてしまう人殺しのことを」
「そうなのです、伯爵様、まさにその通りなのでございます」ベルトゥチオは、モンテ・クリストの膝下《しっか》に身を投げ出して叫んだ。「そうなのです。復讐だったのでございます。誓って申しますが、単なる復讐だったのでございます」
「わかった。だが、まだ私がわからないのは、この家が、どうして君をそれほどおびえさせるかということだ」
「でもそれは伯爵様、当然でございましょう、復讐が行なわれたのがこの家の中なんですから」
「なに、私の家でか」
「いえ、まだ伯爵様のお家ではございませんでした」ベルトゥチオがあっさり言ってのけた。
「では、誰の家だったのか。サン=メラン侯爵と門番は言っておったようだが。サン=メラン侯爵にどんな恨みがあって復讐などしたのか」
「侯爵様ではありません、ほかの男です」
「不思議な偶然の一致だな」モンテ・クリストは思いにふけるような様子で言った。「君にそれほどの後悔の念をもたらす惨劇の行なわれた場所に、べつにそうしようと思ったわけではないのに、君が今こうしているとは」
「伯爵様」執事が言った。「それもこれも運命の手で導かれたものでございます、私はそう信じております。まず、あなた様が、ほかではなくオートゥイユに家をお買いになりました。その家が、私が人殺しの罪を犯した家。伯爵様は庭にお降りになるとき、まさにあの男が降りた階段を通られました。そして、あの男が一撃を受けたまさにその場所に、伯爵様は足を止められた。その二歩先、そのプラタナスの木の下に、穴があって、あの男が子供を埋めたのです。これはみな決して偶然なんてものではございません。そうですとも、もしこれが偶然なら、あんまり神の思召しに似過ぎてます」
「それじゃ、神の思召しと考えることにしよう。私は、いつでも人がそう望むように考えるたちだからね。それに、病める心はいたわらなければいけない。さあ、気をとり直して私に話すのだ」
「私は今までに一度しか話したことがありません。ブゾニ司祭様にだけです。こんな事は」ベルトゥチオは頭をふりながら続けた。「懺悔の時でもなければ話せるものではありません」
「それでは、ベルトゥチオ、君は懺悔聴聞僧の所に帰されたほうがいいというのだね。あの人と一緒にカルトジオ会なりベルナール会なりの僧になって、その上で君の秘密をしゃべるがいい。だが、私はそんなお化けにおびえている男はぞっとしないね。夜、家の者が庭も散歩できないのは好ましくない。それに、はっきり言って、警部の訪問などにも興味はない。というのは、これは憶えておくがいい、イタリアでは金をやれば当局は黙るが、フランスでは逆に、金をやればかえって騒ぎたてるのだ。私は君を、少しはコルシカ人で、大いに密輸業者のにおいがし、有能な執事だと思っていたが、どうやらまだまだ別の職をお持ちのようだね。もう君は私の家の者ではない」
「伯爵様、伯爵様」執事はこの脅迫に地面にひれ伏して叫んだ。「お話ししさえすればこのまま使っていただけるのでしたら、話します、みんなお話しいたします。おそばを離れる時は、処刑台への道を歩む時でございます」
「それなら話は別だ。だが、嘘をつく気なら、よく考えるがいい、なにもしゃべらぬほうが身のためだ」
「とんでもありません。私の魂の救済にかけて、いっさいを申し上げます。ブゾニ司祭様でも、ほんの一部しか私の秘密をご存じないのです。でも、お願いでございます、まずそのプラタナスの所をおどきになって下さい。ほら、月が雲を白く光らせ、そこにあなた様がそうして、ヴィルフォールのと同じマントでお身体を包んで立っておられると……」
「なに!」モンテクリストが叫んだ。「ヴィルフォール氏なのか」
「閣下はあの方をご存じなんですか」
「もとのニームの検事だろう」
「そうです」
「サン=メラン侯爵のお嬢さんと結婚した」
「そうです」
「法曹界で、最も誠実、峻厳、苛酷な司法官として知られている人だね」
「じつは伯爵様、非のうち所のない名声を博しているそのお人が……」
「うん」
「とんだ破廉恥漢なのでございます」
「そんな馬鹿な」
「ところが、申し上げた通りなんです」
「ほんとうか。その証拠を握っているのか」
「少なくとも握っておりました」
「握った証拠を失くしてしまったのか、間抜け」
「はい。でもよく探せばまたみつかると思います」
「なんということだ。話すのだ。私も真実興味をそそられてきた」
こう言って、伯爵はルチアの短い調べを口ずさみながら、ベンチの所へ行って腰をおろした。ベルトゥチオは記億の糸をたぐりながら後に続いた。
ベルトゥチオは伯爵の前に立ったままでいた。
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四十四 復讐
「伯爵様、どこからお話しすればよろしいでしょうか」ベルトゥチオは訊ねた。
「どこからでも好きな所からでよい、私はなにも知らないのだから」
「でも、ブゾニ司祭様が閣下にお話しになったと思いますが……」
「なにか少しばかりはね。しかし、もう七、八年もたってしまったから、みな忘れてしまったよ」
「では、初めからお話ししても閣下を退屈させるようなことはございませんね」
「話すがいい。夕刊のかわりになるだろう」
「話は一八一五年にさかのぼります」
「ほう、一八一五年か、ずいぶん古い話だな」
「はい。ですがどんな小さなことでも、ありありと記憶に残っているものですから、つい昨日のことのように思えます。私には兄弟、兄が一人おりました。皇帝の軍隊におりました。コルシカ人だけで編成されていた連隊の中尉になってました。この兄が私にとっては唯一人の友でした。私どもは、私が五つ、兄が十八のときに孤児になったのです。兄は、私をまるで自分の子供のように育ててくれました。一八一四年、ブルボン王朝の下で兄は結婚し、皇帝がエルバ島から帰ると、直ちに兄はまた軍隊に戻り、ワーテルローで負傷し、軍団とともにロワール河の後方まで退却したのです」
「まるで、百日天下の歴史の講義を聞いているようだね。で、もうそれは終ったんだろうね」
「申し訳ありません、閣下。でも、この前置きはどうしても必要なのです。辛抱するとお約束下さったじゃありませんか」
「よし、よし、約束は守る」
「ある日、私どもは一通の手紙を受け取りました。申し上げておかねばなりませんが、私どもは、コルシカ岬の先端のロリヤノという小さな村に住んでました。手紙は兄からのもので、軍団は解散した、シャトールー、クレルモン=フェラン、ル・ピュイ、ニームを経て帰るというのです。そして、もし私に金があったら、ニームの知り合いの宿屋の所まで届けて欲しいと言って来たのです。この宿屋とは私もつながりがありました」
「密輸のだな」
「だって伯爵様、生きていかねばなりません」
「たしかにな、それで」
「私は兄が大好きでした、前にも申しましたね。そこで私は、金を送るのではなくて、自分で届ける気になったのです。私は千フランばかり持ってましたので、アスンタ、これは兄嫁ですが、アスンタに五百フラン残し、残りの五百フランを持ってニームに発ちました。これは造作のないことでした。私は小舟を一隻持っていて、沖で荷物を積まねばなりませんでした。なにもかも私の計画に好都合に運んだのですが、積荷が終ったとたんに風が逆になってしまって、私どもは四、五日間はローヌ河に入れませんでした。やっとたどり着いて、アルルまで河を上り、私は舟をベルガルドとボケールの間につなぎました。そしてニームに向かったのです」
「いよいよ本題だね」
「はい。お許し下さい。ですが、じきおわかりになりますが、私は絶対必要なことしか申し上げておりません。さて、ちょうどそれは南仏一帯にあの有名な殺戮《さつりく》の嵐が吹き荒れている時でした。トレスタイヨンとかトリュフミーとかグラファンとか呼ばれていた、二、三の徒党がいて、ボナパルト派と目される者を片っぱしから通りで惨殺していたのです。この虐殺のことは、おそらく閣下もお聞き及びと思います」
「かすかにね。私はあの頃、フランスを遠く離れていたのだ。それから」
「ニームの町に入ると、文字通り血の中を行くようでした。一歩ごとに死骸にぶつかるのです。徒党を組んだ人殺しどもが、殺し、略奪し、火をつけているのです。
この殺戮《さつりく》の光景を見て、私は身ぶるいしました。わが身のためにではありません。私は一介の漁師にすぎませんから、べつに恐れることはありません。それどころか、あの時期は、私ども密輸の連中にとっては、稼ぎ時だったのです。私は兄のために身ぶるいしたのです。皇帝|麾下《きか》の軍人で、肩章をつけたままの軍服姿、つまり危険きわまりない姿でロワール河の軍隊から戻って来る兄のために。
私は大急ぎで知り合いの宿屋にかけつけました。が、恐れた通りでした。兄はその前日ニームに着き、泊めてもらおうと思っていた宿屋の門前で、兄は殺されたのです。
私は全力を尽して殺した奴の名前を知ろうとしました。しかし、誰一人として連中の名前を教えてはくれません。それほど恐れられていたんです。そこで私は、フランスの司直に訴え出ることを思いつきました。人からさんざん聞かされてましたし、なに物も恐れないというフランスの司直に。私は検事の所へ行きました」
「その検事はヴィルフォールという名前だったか」モンテ・クリストがさりげなく訊ねた。
「そうでございます。検事代理をしていたマルセーユから来たんです。忠誠心を買われて昇進したとか、エルバ島からの上陸をまっ先に政府に知らせたのは彼だったという話です」
「では、ヴィルフォールの家に行ったわけだね」
「私は彼にこう言いました。『検事閣下、私の兄が昨日ニームの通りで殺されました。誰に殺されたのか私は知りません。でも、それをつきとめるのはあなたのお務めです。あなたはここの司直の長です。司直の手で守ることのできなかった者の仇は、司直が討つべきです』
『お兄さんはどういう人かね』検事が訊ねました。
『コルシカ大隊の中尉です』
『では、簒奪者の軍人ではないか』
『フランス軍の軍人です』
『それなら、剣を用いる者が、剣でほろびたのだ』検事が言い返しました。
『それは違います。兄は人殺しにあったのです』
『私にどうしろと言うのか』
『申し上げたじゃありませんか。仇を討っていただきたいのです』
『誰に』
『人殺しどもに』
『私が犯人を知っているというのか、この私が』
『探させて下さい』
『なぜその必要があるのかね、お兄さんは喧嘩かなにかしたんだろう。決闘をして負けたのだ。昔の軍人どもはすぐ過激なまねをする。帝政時代にはそれでよかったろうが、今は彼らの身の破滅となる。ところでわれわれ南仏の人間は、軍人も過激な行ないも嫌いでね』
『閣下』私はこう言いました。『私のためにお願いするのではありません。私は、涙を流し、自分で仇を討ち、それですみます。しかし、兄には妻がいます。私にもしものことがあったら、可哀そうな兄嫁は飢え死してしまいます。兄の仕事だけで生きてきたんですから。兄嫁のために、政府から年金が出るようにして下さい』
『革命には悲劇はつきものだ。お兄さんはその犠牲になったのだ。不幸にはちがいない。が政府には、そのことのために君の家族の人たちに対してはなんの責任もない。もし私たちが、ボナパルト派の連中が権力を握っていた頃、彼らが王党派に対して行なった復讐の数々を、すべて裁かねばならぬとしたら、お兄さんは今頃は死刑になっていたろうよ。できたことは、まったく当り前のことなのだ。これは報復の掟だからね』
『何ですって! 司法官であるあなたが、そんな話し方をなさるなんてことがあるんですか』私は怒鳴りました。
『コルシカ人てのはみんな気違いだ。まだ同国人〔ナポレオンのこと〕が皇帝だと思っている。君は年代を間違えているのだ。二か月前にそれを言いに来るべきだったね。今日ではもう手遅れだよ。帰りたまえ、君が帰らねば、私は、部下に君を送らせるがね』
私は、もう一度哀願してみたらなんとかなりそうかどうかを見るために、しばらく検事の顔を見ていました。あの男はまるで石像でした。私は彼につめ寄り、低い声で、
『よろしい、あんたはコルシカ人がどういう人間か知っているんだから、コルシカ人がどういうふうに約束を守るか知らせてやる。あんたは、兄がボナパルト派だったから殺されてよかったと思ってるんだ。あんたは王党派だからな。俺もボナパルト派だ。俺はあんたに宣言するぞ。俺はあんたを殺す、とな。今の瞬間以後、俺はあんたに、復讐《ヴェンデッタ》〔コルシカで同族の者を殺された場合の復讐のこと〕を宣言する。いいか気をつけろよ。できるだけ警戒を厳重にしろ。今度面と向かったときは、あんたの最後の時だからな』
こう言って、私は、彼があっけにとられているうちにドアを開け、逃げ出したんです」
「ほ、ほう」モンテ・クリストが言った。「まじめそうな顔をしていながら、ベルトゥチオ、君はそんなまねをしたのか、しかも、検事閣下にむかって。これは、驚いた。で、そのヴェンデッタという言葉が何を意味するかは検事も知っていたんだね」
「ようく知ってました。ですからそれ以来、一人では外出せずに、自宅に閉じこもったきりでした。一方じゃ私をいたる所探させながら。幸い、私はじつにうまくかくれてましたから、みつかりませんでした。そこで検事もこわくなって、それ以上ニームにいることにおじけをふるい、居所を変えてくれと願い出たんです。実際にそのすじに力のある奴だったので、ヴェルサイユに任命されました。ですが、伯爵様もご存じの通り、仇に復讐を誓ったコルシカ人にとって、遠いなんてことは問題ではありません、どんなに足の早い馬に引かせたって、奴の馬車は、私より半日以上先に行くことはできませんでした。私のほうは二本の足で追ったんですが。
大事なのはただ殺すことではありません。その機会なら百回もありました。奴を殺して、しかも人に見られず、とくに、捕まらぬようにしなければなりません。私はすでに身軽ではありませんでした。私には、守ってやり、食べさせてやらねばならない兄嫁がいたんです。三か月の間、私はヴィルフォールをねらってました。三か月の間、奴の行く所ならどこでも、私の目が奴を追わずには、奴は一歩もただの一歩も歩けなかったし、散歩もできませんでした。ついに私は、奴がこっそりとオートゥイユヘ行くのをつきとめたのです。私はなおも後をつけました。今私たちがいるこの家に入るのを見たのです。ただ、ほかの人たちのように、通りに面した正門から入るのではなくて、馬で来るにしろ、馬車で来るにしろ、馬車や馬は宿屋に預けて、あそこに見えるあの小さい門から入るのです」
モンテ・クリストは、闇を通して、ベルトゥチオが指さした門が、実際に見えたことを知らせるために、うなずいてみせた。
「私はもうヴェルサイユにいる必要はありませんでした。私はオートゥイユに腰を据えて情報を集めました。奴を捕まえるとすれば、罠を張らねばならないのは、明らかにここなんです。
この家は、門番が閣下に申し上げたように、サン=メラン侯爵、ヴィルフォールの夫人の父親のものでした。サン=メラン侯爵はマルセーユに住んでましたから、この別荘は侯爵には不要だったわけです。ですから侯爵は、男爵夫人としか名前のわかっていない若い未亡人に貸しているとかいう話でした。
事実、ある晩のこと、若くてきれいな女の人が一人で庭を散歩しているのを見ました。この庭はよその家の窓からは全然見えません。女の人は、しょっちゅうあの小さな門のほうに目を向けてました。そこで私は、その女の人が、その晩、ヴィルフォールの来るのを待っているのだなと思いました。彼女が私の近くに来て、暗いながらもその顔がはっきり見えたとき、私は十八、九の美しい顔を見たのです。背が高くてブロンドでした。ごく簡単な部屋着を着ていたので、腰のあたりを締めつけたりするものもなく、彼女が妊娠していることがわかりました。それも臨月ま近のようでした。
しばらくしてから、小さな門が開き、一人の男が入って来ました。若い婦人は、走れる限りの走り方で、男に走り寄りました。互いの腕の中に飛びこみ、やさしく接吻を交わすと、一緒に家の中に入って行きました。
その男がヴィルフォールでした。私は、奴が帰るときには、奴は夜帰るのですから、奴はこの庭をずっと一人で横切るものと判断しました」
「それで」伯爵が訊ねた。「その後、その婦人の名前はわかったのか」
「いいえ、閣下」ベルトゥチオは答えた。「もう少しお聞きになれば、それを知る暇がなかったことがおわかりになります」
「先を続けたまえ」
「あの晩、たぶん検事を殺すこともできたでしょう。ですが、私はまだこの庭の詳しい様子を知り尽していませんでした。即死させてしまえないことを恐れました。もし誰かが悲鳴を聞いて駈けつけて来たら、逃げられないかもしれないと思ったのです。私は決行を、次の機会に延ばしました。そして、なに一つ見逃さぬように、庭の塀にそった通りを見おろせる小さな部屋を借りました。
三日後の夜七時頃、私は、馬に乗った召使いがこの家から出て、セーヴル街道に通ずる道を駈けて行くのを見たのです。私は、ヴェルサイユヘ行くな、と思いました。三時間後に、その男は埃まみれになって帰って来ました。使いの用がすんだのです。
それから十分して、マントにくるまった別の男が、徒歩でやって来て、庭の小さな門を開け、門を後ろ手で閉めました。
私は大急ぎで階下《した》に降りました。ヴィルフォールの顔は見ませんでしたが、私は自分の胸の高鳴りでそうと知ったのです。私は通りを横切り、塀の角の車除けの石の所に行き、それを台にして、庭の中をひとまず見渡しました。
今度はもう、のぞくだけでは満足せずに、ポケットから短刀をとり出し、先が十分にとぎすまされているのを確かめると、塀を飛び越えました。
まず私がしたことは、例の門の所に駈けて行くことでした。奴は鍵を差しこんだままにして、ただ二回鍵を廻しておいただけです。
ですから、この門から私が逃げるのを妨げるものはなにもありません。私はあたりの様子を調べ始めました。庭は長方形で、まん中に、細かいイギリス芝の芝生がひろがっています。芝生の隅には、こんもりした葉の、秋の花をつけた木立の茂みがあります。
家から小さな門へ行くためには、また門から家に行くためには、家に入るにしろ家から出るにしろ、ヴィルフォールはこの木立のそばを通らねばなりません。
九月の末でした。強い風が吹いてました。空を飛ぶ大きな雲にかくれてはまた出る、蒼白い欠けた月が、家に通ずる小径の砂を白く光らせてはいますが、月の光も、こんもり茂った木立のかげの暗がりの中までは達しません。人一人が身をひそめていても姿を見られる気づかいはなかったのです。
私は、ヴィルフォールがそのそばを通るはずの、一つの木立の中に身をひそめました。やっとそこに身をひそめたとき、私の頭上で枝をたわめる風の音にまじって、私はうめき声のようなものを聞いたのです。ですが、ご承知の通り、いやご存じないかもしれませんが、人を殺す瞬間を待つ者は、いつでも、低いうめき声が聞こえるような気がするものなのです。それから二時間|経《た》ちましたが、その間に、私はなん回か同じようなうめき声を聞いたような気がしました。夜半の十二時が鳴りました。
その最後の音がまだ気味の悪い余韻を残しているとき、私は、私どもが先程降りて参りましたあの忍び階段の窓が灯に照らされるのを見たのです。
ドアが開き、マントの男がまた現われました。恐ろしい瞬間でした。しかし、私は長いことこの瞬間のために覚悟を決めていたので、気が挫けるようなことはありませんでした。私は短刀を抜き、刃を出し、身構えました。
マントの男はまっすぐこっちへやって来ます。が、なにも覆うもののない場所をやって来るにつれて、男が右手に武器をたずさえているのに気づきました。私は不安になりました。戦うのを恐れたのではありません、しくじるのを恐れたのです。男が私からほんの二、三歩の所まで来たとき、私が武器と思ったのは、なんのことはない、ただのスコップであることがわかりました。
ヴィルフォールが木立の縁の所まで来たときも、私にはまだ、なぜスコップなど持っているのかわかりませんでした。ヴィルフォールは、あたりを一瞥《いちべつ》すると、地面に穴を掘り始めたのです。掘るのに邪魔になるので、奴が脱いで芝生の上に置いたマントの中になにかがあるのに気づいたのはその時です。
その時、正直に申しますと、憎悪を抱きながらもふと好奇心が起きました。ヴィルフォールがいったい何をしに来たのか知りたくなったのです。私は身動きもせず、息をつめて、待っていました。
やがて、ある考えがひらめきました。検事がマントの下から、長さ二フィート、幅七、八インチの小さな長細い箱を引き出したのを見て、まちがいないと思いました。
私は検事が穴の中にその箱を置き、その上に土をかぶせるのを黙って見てました。検事はその柔らかい土を足で踏み固め、夜半の仕事の痕跡をなくそうとしています。この時、私は奴に襲いかかり、奴の胸に短刀をぶちこみざま、こう言ったのです。
『俺はジョヴァンニ・ベルトゥチオだ。貴様の死は兄のため、貴様の財宝は兄嫁のため。俺の復讐が、俺の望んだ以上に完全なものであったことが、これで貴様にもわかったろう』
私は奴にこの言葉が聞こえたかどうか知りません。たぶん聞こえなかったでしょう。悲鳴一つあげずに倒れたのですから、私は、手に顔に、奴の熱い血潮を浴びるのを感じました。しかし私は陶酔し有頂天になっていました。その熱い血潮は、私をかっとさせるかわりに、むしろ私を冷静にさせたのです。す早く私は、スコップをふるって箱を掘り出しました。それから、私が箱を奪ったことがわからないように、私もその穴を埋め、スコップを塀の外へ抛り出し、門から飛び出して、外から二回鍵を廻して鍵をかけ、その鍵は持って来てしまいました」
「なるほど」モンテ・クリストが言った。「些細な人殺しの上に盗みも働いたというわけだ」
「違います、閣下」ベルトゥチオが答えた。「ヴェンデッタに損害賠償金がついたまでです」
「で、金はうんと入ってたかね」
「お金ではありませんでした」
「ああ、そうだった、君はなにか子供のことを言ってたね」
「その通りでございます。私は河の所まで走って行くと、土手に腰をおろし、箱の中身を早く見たくて、短刀で錠をこじあけました。
柔らかい白麻の産衣に、生まれたばかりの赤ん坊が包まれてました。顔は赤紫、手は紫色で、へその緒が首に巻きついて窒息したことを示していました。ですが、まだ冷たくなってはいなかったので、足下を流れる河に投げ込むのはためらいました。事実、その一瞬後に、私は心臓のあたりがかすかに動悸を打っているような気がしたのです。私は、首に巻きついているへその緒をはずしました。私は以前バスチアの病院で看護人をしていましたのでこういう場合、医者がやるのと同じことをしたのです。つまり、根気よく赤ん坊の肺に空気を吹きこんでやったのです。十五分間必死の努力を続けると、赤ん坊は息をし始め、その胸から産声を発しました。
私も叫びました。これは歓喜の叫びでした。『神様は俺を呪ってはおられない。俺が一人の男から奪った命の代わりに、一人の人間に命をお返し下さったのだもの』私はこうつぶやきました」
「で、その赤ん坊をどうした」モンテ・クリストが訊ねた。「逃げなきゃいけない男にとっては、そいつはかなり厄介な荷物だがね」
「ですから、私はその子をずっと手もとに置いておこうなどとは考えませんでした。でも、パリには、そういう可哀そうな子供たちを収容する養育院があることを、私は知っていました。市の門の所で、私はその子を道端でみつけたと申しました。そして養育院のことを訊ねたのです。箱があるので信用されました。白麻の産衣が、金持ちの子であることを示しています。私が浴びている血も赤ん坊のもので、まさかほかの男の血とは思われません。なにも文句はつけられませんでした。養育院の場所を教えてくれて、それはアンフェール通りの一番端にありました。私はその産衣を二つに切りましたが、産衣についていた二つの文字のうち、一つが赤ん坊を包むほうに残るようにしておきました。私は赤ん坊を、養育院の捨て児収容口に置くと、呼鈴をならし、一目散に逃げ出したのです。二週間後に、私はロリヤノに帰り、アスンタにこう申しました。
『義姉《ねえ》さん安心してくれ。イスラエルは死んだが、仇は討ったぜ』
義姉《あね》が、それはどういうわけか、と訊ねましたので、事の次第をみな話してやりました。
『ジョヴァンニ』義姉が申します。『その子をつれて来ればよかったのに。その子がなくした親の代わりにあたしたち二人がなってやれたじゃないか、ベネデットという名前をつけて。そうすれば、この善行で、きっと神様もあたしたちを祝福して下さったよ』
答えるかわりに私は、私どもがもう少し金持ちになったら子供を引き取れるようにと私が持っていた、例の産衣の半分をアスンタに見せました」
「産衣には何という文字がついていたのかね」モンテ・クリストが訊ねた。
「男爵冠の下にHとNです」
「いや恐れ入った。ベルトゥチオ、君が紋章用語を使うとはね、いったいどこで紋章学を学んだのかね」
「閣下にお仕えするうちにです。おそばにいると、どんなことでも覚えてしまいます」
「先を続けたまえ、私には二つのことが知りたくなった」
「どんなことでしょうか」
「その男の子がどうなったかだ。その子は男の子だと言ったんじゃなかったかな」
「いいえ、申し上げた覚えはございません」
「そうか、そう聞いたように思ったが、私のまちがいだろう」
「いえ、まちがいではございません。事実その子は男の子だったのでございます。でも閣下は、二つのことが知りたいとおっしゃいました。二つ目は何でございましょう」
「君が懺悔聴聞僧に来て欲しいと言って、ブゾニ司祭がニームの監獄へ君に会いに行ったとき、君が何の罪に問われていたのか、ということだよ」
「その話は、非常に長くなりますが」
「かまわないではないか、まだやっと十時だ。私が寝つきが悪いのは君も知っているし、君のほうでも、まだ眠くはないと思うがね」
ベルトゥチオは一礼して、ふたたび話を始めた。
「私は、半分は、つきまとう思い出を追い払うため、半分は可哀そうな後家の暮らしを助けるために、また密輸の商売を夢中になって始めました。革命にはつきものの、取締りのゆるみのおかげて、仕事はずっとやりやすくなっていました。アヴィニョン、ニーム、ユゼスでつぎつぎに起こって、いつ止むとも知れなかった暴動のために、とくに南仏沿岸は警戒がおろそかになっていたのです。いわば政府が与えてくれたこの停戦状態を、私どもは、沿岸各地と連絡を結ぶのに利用したのです。兄がニームで殺されてから、私はこの町に入る気になれませんでした。その結果、かつて取引のあったあの宿屋の主は、私どもがその宿屋へ行きたがらないのを知ると、向こうからやって来てベルガルドとボケールを結ぶ街道ぞいに、『ポン・デュ・ガール』という看板を出した支店を作ったのです。こうして私どもは、エーグ=モルトの近くや、マルティーグ、ブークなど、十二か所の倉庫を持つようになりました。そこへ貨物を集めておくのです。必要とあれば、税関吏や憲兵から身をかくす場所にもなります。たくましさに裏打ちされたある種の才覚《さいかく》を働かせれば、密輸という商売はすごく儲かる商売です。私の場合は、憲兵と税関吏とを二重の意味で恐れなければならない身ですから、山の中で暮らしていました。裁判官の前に出頭させられたら、いろいろ調べられる恐れがあります。この調査というやつは、必ず過去のことをほじくり出します。私の過去は、密輸で入った葉巻とか、許可証なしで出廻ったブランデーの樽なんてものよりはいささか重大なものにぶち当る可能性がありますからね。ですから、捕まるくらいなら死ぬほうがなん百倍もましだと思っていたので、どんな無鉄砲なことでもやってのけました。私どもの仕事は、即座に決断して、強烈果敢に実行することが必要なのですが、わが身を可愛がりすぎることが、この仕事の唯一の障害だということを、一度ならず、私は身をもって知らされたのです。実際、ひとたび命をなげ出してしまうと、ほかの連中とはくらべものにならぬ人間になります。この覚悟を決めた人間は、その瞬間から、十倍の力を持ち、眼の前がぱあっと開けたような気がするものです」
「哲学だね、ベルトゥチオ」伯爵が言った。「君は、今までに少しずつあらゆることをやって来たんだね」
「失礼しました、閣下」
「いや、そうじゃないんだ、夜の十時半に哲学談議は、少々時間が遅すぎるというだけのことだよ。それ以外のことを咎《とが》めてるのではない。君の哲学は正しいと思うからね。これはどの哲学についても言えることではない」
「私の商売の範囲は次第に拡がって行き、儲けも大きくなりました。アスンタは倹約家でしたから、私どものささやかな財産もふえて行きました。私がまた旅に出ようとしていたある日のこと、アスンタが言いました。
『行っといで、帰ったら、お前を驚かしてやるからね』
いくら訊ねても無駄でした。一言も言おうとしません。私は出かけました。
旅は一月半近く続きました。ルッカ〔イタリアの町〕で油を積み、リヴォルノでイギリス産の木綿を受け取りに行ったのです。荷揚げもなんの不都合な事件もなしにすみ、利潤を上げ、大喜びで帰って来ました。
家に帰った私が最初に見たものは、アスンタの部屋の一番目につく場所にあった、その部屋のほかの調度にくらべれば、贅沢《ぜいたく》な揺りかごの中の、七、八か月の赤ん坊だったのです。私は歓声をあげました。検事を殺してから、この子を捨てたことだけが、私の心を暗くしていたのです。言うまでもありませんが、検事を殺したこと自体には、良心の苛責など感じませんでしたから。
アスンタは、私の心を見抜いていたのです。私の留守を利用して、あの産衣の半分を持ち、子供を養育院の所に置いて来た日時を、忘れないように書きつけて、パリヘ行き、自分で赤ん坊を返してくれと言ったのです。面倒なことは一口も言われずに、アスンタは赤ん坊を渡されました。
ああ、伯爵様、正直に申しますが、揺りかごの中で眠っているその哀れな赤ん坊を見ていると、私の胸はいっぱいになり、目から涙がこぼれて来ました。
『アスンタ、あんたはほんとうに立派な女だ。神様も祝福して下さるよ』私はこう叫びました」
「それは君の哲学ほど正しくはないね。それはほんとうのところ、そう信じただけだからね」モンテ・クリストが言った。
「ああ、閣下」ベルトゥチオが言葉をついだ。「まさにおっしゃる通りでございます。神様は、まさしくこの子に私を罰する役をお与えになったのですから。あれ以上邪悪な性格が、あれ以上早く表に出ることはございますまい。ですが、あの子はひどい育てられ方をしたわけではありません。義姉《あね》は、王侯貴族の子供のようにあの子を育てたのですから。愛くるしい顔をした子でございました。中国の磁器の色合いのような澄んだ青い目をして、それがまた、顔全体の乳のように白い肌にまことによく似合って。ただ、濃すぎるブロンドの髪が、顔に異様な印象を与えていました。目つきをより鋭いものにし、笑顔の底の悪意をよりいっそう強く見せるのです。不幸なことに、『赤毛は底抜けの善人か極悪人』と申します。この諺はベネデットに関しては当たっていました。小さいうちから悪人の根性まる出しでした。それに、母親の甘さが、この傾向に拍車をかけたことも事実でございます。義姉がその子のために、村から四、五里も離れた町の市場へ行って、出始めの果物や極上の菓子を買って来るのに、あの子は、パルマのオレンジや、ジェノヴァの砂糖づけよりも、隣家の塀を乗り越えて盗んだ栗とか、隣家の納屋に乾してあるリンゴのほうが好きだったのです。家の果樹園の栗でもリンゴでも、いつでもあの子は自由に食べられたのに。
ある日、ベネデットが、たしか五つか六つの頃、隣のワシリオが、財布からルイ金貨が一枚なくなったと、文句を言いに来たのです。コルシカの習わしのままに、ワシリオは財布も宝石類もしまっておくなんてことはしていませんでした。伯爵様が誰よりもよくご存じのように、コルシカには泥棒はおりませんから。数え違いじゃないのかと言ったのですが、ワシリオは絶対まちがいないと言うのです。その日ベネデットは、朝からどこかへ行ってました。私どもはひどく心配していたのですが、夕方になって、あの子はサルを一匹つれて帰って来ました。木の根元につながれていたのだ、と言うのです。
何を思いつくか知れたものではないこの悪童は、一月ほど前からサルをすごく欲しがっていたのです。ロリヤノに来た旅芸人が、サルをなん匹がつれていて、そのサルの芸をひどくおもしろがっていたのですが、それでこんな気まぐれを起こしたのでしょう。
『この辺の森にサルなどいはしない』私はこう申しました。『まして木につながれたサルなどな。このサルをどうやって手に入れたか言ってみろ』
ベネデットはなおも嘘をおし通しました。こまごまといろいろなことまでつけ加えて、その想像力は大したものだと思わせましたが、嘘っぱちは目にみえてます。私が腹を立てると、笑い出す始末です。私は脅しました。するとすっととび退いて、こう言ったのです。
『あんたに俺は殴れないよ。あんたにその権利はない、あんたは俺の親爺じゃないもの』
いったい誰がこの致命的な秘密をあの子に知らせてしまったのか、私どもにはわかりませんでした。私どもが用心に用心を重ねてかくしてきた秘密だったのです。いずれにしましても、その子が本性をさらけ出したこの答えは、私をぞっとさせたと申せます。振りあげた拳は、悪童の身体にふれさえせずにおろされてしまいました。あの子は勝ち誇りました。この勝利によって子供はますます図々しくなり、この日以後、アスンタの金は、義姉が拒んだり抑えたりできなかった、子供の気まぐれや道楽に消えていきました。義姉は、あの子に背かれれば背かれるほど、ますます可愛くてたまらないようでした。私がロリヤノにいるときは、まだよかったのです。が、ひとたび私がいなくなると、家の主はベネデットでした。そしてなにもかも、めちゃめちゃになるのです。十一になるかならぬかというのに、あの子が選ぶ友だちといえば、みな、バスチアやコルトの最もたちの悪い連中ばかりです。その頃すでに、いたずらではすまされぬことをしでかして、私どもが裁判所から注意を受ける始末でした。
私は怯《おび》えました。裁判所に調べられたら、きっと大へんなことになります。ちょうど私は、大事な仕事があってどうしてもコルシカを離れねばならないときでした。私は長いこと考えた末、なにか悪いことが起こりそうなので、それを避けるために、ベネデットを一緒につれて行こうと決心しました。忙しくて辛い密輸の仕事と、船上での厳しい規律が、腐りかけている根性を、まだ徹底的に腐っていないとしたら、なんとかたたき直してくれるのではないかと思ったのです。
私はベネデットをわきへつれ出して、十二の子供の心をそそりそうなことをあれこれ約束したりして、私について来ないかと言ってみたのです。
あれは、私に最後までしゃべらせました。そして、私がしゃべり終ると、いきなりげらげら笑い出したのです。
『叔父さん、気でも狂ったのかい』(あれは機嫌のいい時には私をこう呼んでいたのです)『叔父さんの暮らしと俺の今の暮らしをとりかえるなんて。叔父さんが、いやおうなくやらされてるひでえ仕事と、今の俺の、てんですばらしいなんにもせずにいられる身分をとりかえるのかい。夜は寒さにふるえ通し、昼間はじりじり焼かれる。いつでもこそこそ逃げかくれして、みつかれば鉄砲玉をくらっちまう。それもこれも、けちな金を稼ぐためなんだ。金なんか俺には、欲しいだけあらあ。くれって言いさえすりゃ、おふくろがくれるもの。わかるだろ、叔父さんの誘いになんか乗ったら、俺はとんだ阿呆さ』
私はこのふてぶてしさと理屈のつけ方に、茫然としたままでした。ベネデットは仲間の所へ遊びに行ってしまいました。遠くから、あれが私を仲間に指さして阿呆扱いしているのが見えました」
「すごい子供だ」モンテ・クリストがつぶやいた。
「まったく、あの子が私の子でしたら、私の息子でしたら」ベルトゥチオが答えた。「せめて甥でしたら、真直な道につれ戻すこともできたでしょう。自信が力を与えてくれますからね。でも、自分がその父親を殺した子供を殴るのかと思うと、私にはどんな罰も加えられなかったのです。義姉は、私との言い合いになるといつでも子供の味方ばかりしていましたが、私はその義姉にいろいろ注意を与え、また、かなりの額の金がなん回となくなくなった、と義姉が言うものですから、わずかばかりの財産をかくしておける場所も教えてやりました。私のほうでは決心がついていました。ベネデットは読むことも書くことも、数の計算も申し分なくよくできました。ふと勉強に気が向いて夢中になると、ほかの子が一週間かかるところを一日で覚えてしまったのです。決心がついていたと申しました、それは遠洋航路の船に、秘書としてあの子を乗せるようにすることでした。なにも知らせずにおいて、ある朝いきなり船に乗せてしまう。こういうふうにして、船長によく頼んでおけば、あれの将来は当人次第です。こう計画をきめて、私はフランスヘ向けて出発しました。
今度の仕事は、いっさい、リヨン湾で行なわれることになっていました。仕事は次第にやりにくくなっていました。もう一八二九年だったからです。完全に平和が回復していました。したがって、沿岸の警備も、かつてないほど適正厳重になっていたのです。その警備が、ボケールの市が開かれたばかりで、一時的になおいっそう厳重になっていました。
旅は、はじめのうちは無事に事が運びました。私どもは、船底が二重になっていて、密輸商品をその中にかくした船を、ボケールからアルルまで、ローヌ河の両岸にびっしり並んだ船の間につなぎました。船が着くと、私どもは夜陰に乗じて禁制品の陸揚げを始め、かねて連絡のある連中や、荷物置場になっている宿屋の主の手を経て、町への搬入を始めたのです。うまく行ったので油断したせいか、あるいは裏切り者でもいたのか、ある日の夕方五時頃、私どもが簡単な食事をとろうとしていると、見習い水夫が、あわてふためいてやって来て、税関の分隊がこっちへ来るというのです。私どもが、どきっとしたのは、分隊が来たというそのことではありません。しょっちゅう、とくにあの時は、ローヌ河の一帯を、中隊が巡回していましたから。そうじゃなくて、その子供の言うところでは、その分隊は姿を見られぬように注意していると言うんで、それでどきっとしたのです。すぐさま立ち上がったんですが、時すでに遅し。明らかに、捜査の対象になっていた私どもの船は、すっかり包囲されてます。税関吏の中に、憲兵もまじっているのに私は気づきました。ふだん、憲兵以外の軍隊ならびくともしない私も、憲兵を見てはすっかり縮み上って、船倉へ降りて、積荷口をすり抜け、河の中に身を沈めました。それから私は、長い間《ま》をとってしか息をつかずに水の中を泳いだおかげで、みつからずに、ローヌ河と運河を結ぶ、できたばかりの堀割の所に達することができました。この運河は、ボケールからエーグ=モルトヘ通ずるのです。ここまで来られればもう救かったも同然です。堀割にそって行けば、人に見られずにすむのです。私は無事運河に出ました。私がこの道を選んだのは、考えあってのことで、偶然ではありません。私は閣下に、ベルガルド=ボケール街道に小さな宿屋を営んだ男のことをお話しいたしましたね」
「うん、よく憶えている。その男は、たしか君と取引があった男だったね」モンテ・クリストが言った。
「さようでございます」ベルトゥチオは答えた。「ですが、その男は、七、八年前に、以前マルセーユで仕立屋をやっていて、商売がうまく行かず、なにかほかの商売で一旗上げようとしていた男に、その宿屋を譲ったのでございます。宿の最初の持ち主と私どもとの間にとり交わされていたとり決めが、新しい持ち主との間にも持ちこされていたことは、申すまでもございません。ですから、私はこの新しい宿の主にかくまってもらうつもりだったのです」
「で、その男の名は何というのかね」ベルトゥチオの話に興味を感じ始めたらしい伯爵が訊ねた。
「ガスパール・カドルッスと申しました。カルコント村生まれの女が女房で、私どもは、カルコントという、村の名前以外にはその女の名前を知りませんでした。可哀そうに、沼地の熱病を患っていて、やつれきって死にかけてました。亭主のほうは、四十から四十五ぐらいのたくましい男で、一度ならず、危ないところを救けてくれて、頭の廻転の早さと勇気のほどを見せてくれたものです」
「それは、いつ頃のことだと言ったっけね」モンテ・クリストが訊ねた。
「一八二九年でございます」
「何月だ」
「六月」
「始めかね末かね」
「三日の晩でした」
「一八二九年六月三日か…… わかった、続けたまえ」
「そんなわけで、このカドルッスにかくまってくれと頼むつもりでした。しかし、なんでもない場合でも、ふつう、私どもは、街道に面した入口からは入らないことになっていたものですから、このならわしを破るまいと心に決めて、私は垣根を乗り越えて庭に入りました。腹這いになって、いじけたオリーブの木と野生のイチジクの木の間を進み、カドルッスの宿に、客がいるのではないかと心配しながら、いわば物置のような所まで辿りつきました。その物置では、最上のベッドの中同様に寝心地のいい夜を、一度ならず過ごしたことがございます。この物置は、宿屋の一階の広間とは、板壁で仕切られているだけで、その壁には穴があいていました。そこから、私どもが物置に来ていることをカドルッスに知らせるのに都合のよい時期をうかがうために、わざとあけておいたのです。もしカドルッスが一人なら、私が来たことを知らせて、税関吏に襲われたために中断した食事をさせてもらい、すでにその気配が見えていた雷雨にまぎれてローヌ河へとって帰し、船と乗組の連中がどうなったかを確かめに行くつもりでした。そんなわけで私は物置へそっと忍びこんだのですが、やはりそうしてよかったのでした。と申しますのは、この時ちょうどカドルッスが、見知らぬ男と一緒に帰って来たところだったのです。
私はじっと息をひそめたまま、待ちました。宿の主の秘密を立ち聞きしようなどというつもりはさらさらなく、ほかにしようがなかったからです。それに、こんなことはすでに十回もあったことでした。
カドルッスと一緒に来た男は、明らかに南仏の男ではありません。ボケールの市に宝石を売りに来る宝石商の一人でした。ヨーロッパの各地から、商人や買手が流れこむこの市が開かれている一《ひと》月の間に、宝石商は十万から十五万フランもの取引をすることがあるのです。
まずカドルッスが威勢よく入って来ました。そして、広間がいつものように空っぽで、犬が一匹番をしているだけなのを見ると、女房を呼びました。
『おい、カルコント。あの司祭様は俺たちを欺いたりはしなかったぞ。ダイヤは本物だ』
うれしそうな叫び声が聞こえました。ほとんど間をおかずに、病みやつれて引きずる足もとで階段がきしみました。
『なんて言ったんだい』死人より蒼い顔をした女房が訊ねました。
『ダイヤは本物だったと言ってるんだよ。ここにおられるのは、パリでも一流の宝石商の方だ。五万フランで買って下さるってわけだ、ただ、あのダイヤがまさしく俺たちのものだってことを確かめるために、お前にも話を聞きたいっておっしゃるんだ。俺がお話ししたように、どんなふうにして、奇蹟的にダイヤが俺たちの手にころがりこんだか、ってことをな。旦那、とりあえずどうかお掛け下さい。手前は、むし暑うございますから、なにか暑気払いを持って参りましょう』
宝石商は注意深く宿の中を見廻していました。王侯貴族の宝石箱におさめられていたと思われるダイヤを売ろうとしているこの家の連中の、見る目にもはっきりした貧しさ加減をね。
『伺いましょう、奥さん』宝石商は言いました。亭主が女房に合図をしたりしないように、そして二人の話がぴったり一致するかどうか確かめようとして、亭主のいないすきを利用しようと思ったんでしょう。
『ああ、ほんとに思ってもみなかった神様のお恵みなんですよ』女房はぺらぺらとまくしたてました。『一八一四年だか一五年だかに、カドルッスは、エドモン・ダンテスという方とお知り合いだった、と思って下さいな。この気の毒な方がね、カドルッスのほうじゃまるっきりこの方のことなんか忘れたってのに、向こうじゃちゃんとうちの人のことを覚えていてくれて、その方が、お見せしたダイヤをうちの人に、形見として下さったんですよ』
『しかし、どうしてあのダイヤがその方のものになったんでしょう』宝石商が訊ねました。『牢に入る前からお持ちだったわけですな』
『いいえ。なんでも、大へんお金持ちのイギリス人と牢の中で知り合いになったらしいんですよ。牢屋で同室だったその人が病気になって、ダンテスが兄弟も及ばぬほどの看病をしたもんで、牢を出るときあのダイヤをくれたんです。ダンテスのほうは運が悪くて牢屋で死んでしまい、死ぬときにあたしたちにそのダイヤを遺産として遺してくれました。今朝、ダンテスがダイヤを預けた立派な司祭様が届けて下さったんです』
『同じだ』宝石商がつぶやきました。『結局のところ、どうにも信じられないように見えますが、この話はほんとうなのでしょう。とすれば、折合わないのは値段の点だけですな』
『なんですって、値段が折合わない!』カドルッスが申しました。『手前はまた、手前が言った値段を承諾していなさると思ってましたよ』
『つまりですな』宝石商が言います。『四万フランならいただきましょう』
『四万!』カルコントが叫びました。『そんな値段じゃ売れないよ。司祭様は五万フランの値打ちがあるとおっしゃったんだから、台ぬきでね』
『なんという名の司祭ですか』なおもしつこく宝石商が訊ねます。
『ブゾニ司祭様よ』女房は答えました。
『では、外国の方ですな』
『イタリアの方、マントヴァの近くの方だと思うわよ』
『ダイヤを見せて下さい』宝石商が言いました。『もう一度拝見したいもんですから。はじめ一度見たきりでは、石を正確に見損うことがあるんでしてね』
カドルッスはポケットからサメ皮の小箱をとり出して、ふたを開け、宝石商に手渡しました。ハシバミの実ほどもあるダイヤで、私はよく覚えています、まだありありと目に見えるようです。そのダイヤを見ると、カルコントの目は貪欲にきらきら光りました」
「立ち聞きしていた君は、どう思ったかね」モンテ・クリストが訊ねた。「そんなお伽話を信じたのかね」
「はい、閣下。私はカドルッスを悪人とは思っていませんでした。カドルッスは、大それたことなど、いや、こそ泥ひとつできる男ではないと思っていました」
「それは、君が世間をよく知っているということよりは、君が善良な心の持ち主だということを証明しているようだね。話に出ていたエドモン・ダンテスという男を知っていたか」
「いいえ、その時まで一度も聞いたことがありませんでした。それに、たった一度だけ、ブゾニ司祭様ご自身から、ニームの監獄でお目にかかったとき伺っただけで、その後も二度と聞いたことがありません」
「よろしい、続けたまえ」
「宝石商は指輪をカドルッスの手から受け取ると、ポケットから鉄のペンチと小さな銅の秤《はかり》を取り出しました。そして、石を指輪にはめこんでいる金の爪をひろげて、ダイヤを台からはずし、秤にのせて細心に目方をはかっていました。
『四万五千まで出しましょう。がそれ以上はびた一文駄目です。第一、それがこのダイヤの値打ちだと思ったので、ちょうどそれだけしか今持ってない』
『そんなことはかまわない』カドルッスが申しました。『あんたと一緒にボケールまで行って、あとの五千フランを貰えばいい』
『いや』宝石商はカドルッスに指輪とダイヤを返しながら申しました。『このダイヤはそれ以上の値打ちはありません。それに、じつは四万五千と言ったのだって後悔してるんですよ。このダイヤには、最初気づかなかった傷があるんでね。ま、仕方ありません、私は二枚舌は使いません。四万五千フランと言ったんですから、前言を取り消すようなことはしません』
『せめてダイヤを指輪にちゃんと戻してよ』カルコントが金切声を出しました。
『ごもっともです』宝石商が言いました。
そして、石を台の爪にはめこみました。
『いいとも、いいとも』カドルッスは、小箱を自分のポケットにしまいながら、『誰かほかの奴に売るさ』
『なるほど。しかし、ほかの者は私ほど簡単ではありませんぞ。ほかの者なら、私になさったような話では満足いたしますまい。あなた方のような人が、五万フランもするダイヤを持っているというのは、ふつうではありません。お上に届けるでしょうな、そしてブゾニ司祭を探し出さねばならなくなりましょう。二千ルイものダイヤを人にやる司祭というのも、めったにいるものではありませんからな。当局が乗り出すことになりましょう。あなた方は牢にぶちこまれる。そして、無実だとわかっても、三、四か月たって放り出されるだけで、指輪は裁判所の保管所のどこかにまぎれこんじまってるか、五万いや五万五千フランするかもしれないダイヤの代わりに、せいぜい三フランぐらいの偽物を握らされることになりましょう。五万といっても、買う身になれば、おわかりでしょうが、危ない橋を渡るわけなんで』
カドルッスと女房は、互いに目と目で互いの腹の中を探っていました。
『いや』カドルッスが口を開きました。『俺たちは五千フラン損しても平気なほど金持ちじゃない』
『どうぞお好きに。ですが、ご覧のように、こんなきれいな金貨を持って来たんですがね』
こう言って宝石商は片方のポケットから金貨を一掴み取り出し、宿の亭主の目の前でぴかぴか光らせてまぶしい思いをさせ、もう一方のポケットから札束を取り出しました。
苦しい戦いがカドルッスの心の中に起きているのが、手にとるようにわかりました。彼が手の中で、ひっくりかえし、またもと通りにと、こねくり廻しているサメ皮の小箱が、自分の目をまぶしくしている莫大な金額に価するものとは、彼にはどうしても思えないようでした。彼は女房のほうを振り向きました。
『お前どう思う』低い声で彼は女房に訊ねました。
『売っておしまい』女房は言いました。『ダイヤが買えずにボケールヘ戻ったら、きっとあたしたちをお上に密告するよ。そしたら、この人も言うように、ブゾニ司祭様なんか二度と探し出せるかどうかわかりやしないからね』
『よし、それじゃ決まった』カドルッスが言いました。
『四万五千フランでダイヤは売ろう。だが、女房は金の鎖が欲しいって言うし、俺は銀のバックルが欲しいんだがね』
宝石商はポケットから、細長い平らな箱を出しました。中には言われた品が幾品も入ってます。
『私は公正な取引をする男だ。さあ、どれでも好きなのを』
女房は、五ルイはしそうな金の鎖を、亭主は十五フランぐらいしそうなバックルを選びました。
『もうこれで不満はないでしょうな』宝石商が言いました。
『司祭は、五万フランの値打ちがあるとおっしゃったんだ』カドルッスがつぶやくと、
『さあ、さあ、こっちへよこしなさい。なんて手に負えない人だ』宝石商が、カドルッスの手からダイヤを取りながら言いました。『四万五千フラン払うんだ。年利が二千五百フラン入る。できることなら私も手にしてみたいような財産だっていうのに、それでもまだ不服なんだから』
『で、四万五千フランは、いったいどこにあるんだ』カドルッスはひからびた声で訊ねました。
『ほれ、ここに』
こう言って宝石商は、金貨で一万五千フラン、札で三万フランを数えてテーブルの上にのせました。
『ちょっとお待ち、今ランプをつけるから』カルコントが申します。『暗くなっちまったからね、まちがえるといけない』
事実、言い合いをしているうちに夜になってました。三十分ほど前からその気配が見えていた雷もやって来てました。遠くで鈍い雷鳴の轟くのが聞こえました。しかし、宝石商もカドルッスもカルコントも、もう欲の鬼にとりつかれていて、そんなものは耳に入らないようでした。私だって、その金貨の山と札束に魅入られたようになってしまいました。私は夢を見ているような気がして、夢の中でよくあるように、その場に呪縛されたようになってました。
カドルッスは、繰り返し繰り返し金貨と札を数え直して女房に渡し、女房がまたなん回も数え直しました。
この間、宝石商はダイヤをランプの光に反射させていました。ダイヤの内光が、窓を強烈に照らし出している雷雨の前ぶれの稲妻を忘れさせていました。
『どうです。勘定は合いましたかな』宝石商が訊ねました。
『うん』カドルッスが言いました。『カルコント、財布と袋を持って来い』
カルコントは箪笥《たんす》の所へ行って、革の財布と袋を持って来ました。財布から手あかで汚れた二、三通の手紙を出し、その代わりに札を入れました。袋のほうには、六フラン金貨が二、三枚入ってましたが、おそらくこれがこの貧しい夫婦の全財産だったのでしょう。
『さてと』カドルッスが言いました。『あんたは俺たちに、たぶん一万フランばかり損をさせたと思うが、一緒に晩飯を食って行きませんか。本気で言ってるんですぜ』
『ありがとうございます』宝石商は言いました。『もう大分遅いでしょう。私はボケールヘ戻らなくてはなりません。家内も心配してるでしょう』彼は時計を出して、『たいへんだ、もうじき九時になる。ボケールに真夜半までには帰れますまい。では失礼。もし、またひょっとしてブゾニ司祭のような人にお会いになったら、私のことをお忘れなく』
『一週間たてば、もうボケールにはいないんでしょう、来週はもう市も終りだもの』
『いません。が、そんなことはなんでもありませんよ、パリヘ手紙を下さい。パレ=ロワイヤル、ガルリー・ド・ピエール四十五番地、ジョアネスです。もしそれだけのことがあるなら、わざわざ参りますよ』
雷鳴が轟き、ランプの灯を覆い尽すほどの強烈な稲妻が光った。
『ほ、ほう、こんなひどい天気でもお帰りになるんですか』カドルッスが訊ねました。
『雷なんかこわくありませんよ』
『でも盗人は?』カルコントが訊ねました。『市の間は街道はぶっそうなんですよ』
『盗人なら』ジョアネスが言いました。『奴らにはこれがあります』
彼は、銃口まで弾丸のつまった二丁の小さなピストルを見せました。
『これは吠えると同時に咬みつく犬でね。カドルッスさん、あんたのダイヤを欲しがる奴のうち最初のお二人さん用ですよ』
カドルッスと女房は、陰険な目と目を交わしました。二人とも同時に、なにか恐ろしいことを考えた様子でした。
『じゃ、お気をつけて』カドルッスが言いました。
『ありがとう』宝石商が言いました。
彼は古い櫃に立てかけてあったステッキを取ると、出て行きました。宝石商が戸を開けたとき、すさまじい風が吹きこんで、ランプの灯が消えそうになりました。
『これはひどい天気になりそうだな。この天気の中を二時間歩かなきゃならないとは』
『お止めなさいよ』カドルッスが言いました。『家へ泊ればいい』
『そうですよ。お止しなさいよ』カルコントがふるえ声で言いました。『お世話はしますから』
『いえ、ボケールヘ帰って寝なきゃいけません、さようなら』
カドルッスはゆっくりと戸口の所へ行きました。
『天も地も見わけがつきませんな』すでに家の外に出ていた宝石商が言いました。『右へ行くんでしょうか、左へ行くんでしょうか』
『右です』カドルッスが言います。『まちがう気づかいはありません、街道は両側が並木になってますから』
『ああ、わかりました』遠くのほうへ消えてしまったような声が答えました。
『早く戸をお閉めよ』カルコントが言います。『あたしゃ、雷が鳴ってるときに戸が開いてるのは嫌いだよ』
『それに、家に金があるときは、だろ?』こう言ってカドルッスは戸にしっかりと鍵をかけました。彼は部屋に戻り、箪笥の所へ行って、袋と財布をとり出しました。そして二人で、また金貨と札を数え始めたのです。私は、ほの暗いランプの灯が照らし出す、この時の二人の欲そのもののようなあんな顔つきは、見たことがありません。とくに女房のほうが醜悪な顔をしていました。ふだんでも熱病のためぶるぶるふるえてるんですが、それがうんとひどくなって、蒼い顔は鉛色、落ちくぼんだ目がきらきら光っていました。
『どうしてお前さんはあの人に、家へ泊ったらなんて言ったんだい』女房が訊ねました。
『それはお前』カドルッスが、ぎょっとして答えました。『あの人が……あの人がボケールまで帰らなくてもいいようにと思ってさ』
『ふうん』女房が、なんとも言いようのない言い方で言いました。『あたしはまた、もっと別の理由だと思ってたよ』
『おい、おい』カドルッスが大きな声を出しました。『なんだってお前はそんなことを考えるんだ。よしんば考えたって、口に出して言うこたあねえだろう』
『おんなじ事さ』しばらく黙っていた後でカルコントが申しました。『お前さん男じゃないよ』
『どうして』
『もしお前さんが男だったら、あいつはここから出て行けやしなかったよ』
『お前!』
『さもなきゃ、ボケールには帰れないだろうね』
『おい!』
『街道は弓なりに曲ってるし、あいつは街道しか行けない。運河沿いに近道があるのにね』
『お前、神様に背く気か、ほら、聞け……』
事実、この時、広間を青白い稲妻が照らし出したかと見る間に、すさまじい雷鳴が聞こえました。そして雷鳴は次第に弱まり、呪われた家に名残りを惜しむかのように、遠ざかって行くのでした。
『イエス様』カルコントは十字を切りました。
それと同時に、ふつう雷が落ちたあとに訪れるあの気味の悪い静寂の中で、戸口を叩く音が聞こえました。
カドルッスも女房もふるえ上って、怯えた目を見交わしました。
『誰だ』カドルッスが立ち上がり、金貨と、テーブルの上にちらばっている札を一山にかき集め、それを両手でかくしながら怒鳴りました。
『私ですよ』声がしました。
『誰だ、あんたは』
『宝石商のジョアネスですよ』
『どうだい、お前さん、お前さん何てった』カルコントが言いました。『あたしが神様に背く、だって? 神様はちゃんとあいつを返して下さったじゃないか』
カドルッスはまっ青になって、息を切らしながら、また椅子の上に腰を落としてしまいました。反対に、カルコントのほうは、立ち上ると、しっかりした足どりで戸口の所へ行き、戸を開けました。
『お入りなさいよ、ジョアネスさん』カルコントが言いました。『まったく』滴をぽたぽたたらしながら宝石商が言いました。『まるで、悪魔が今夜はボケールには帰したがらないみたいで。正気の沙汰でないことは、早くやめるにこしたことはありませんからね、カドルッスさん。泊めて下さるとおっしゃったんだから、泊めていただこうと思って戻って来ました』
カドルッスは、額を流れる汗をぬぐいながら、なにかぶつぶつ言っていました。カルコントは、宝石商の後ろの戸を閉め、しっかり鍵をかけました」
[#改ページ]
四十五 血の雨
「中に入りながら、宝石商は、様子をうかがうように、あたりを見廻しました。なにか疑いを抱いていたとしても、なにもそれを裏づけるものはなさそうですし、疑いなど抱いていなかったとして、新たに抱かせるような気配もありません。
カドルッスは相変わらず、両手で金貨と札を抑えていました。カルコントは、あらんかぎりの笑みを浮かべて客を迎えました。
『は、はあ』宝石商が言いました。『金が足りないんじゃないかと思って、私が出て行ってから、また財産の数え直しをしていたんですな』
『いや、そうじゃない』カドルッスが言いました。『この金を手に入れさせてくれた事件が、あんまり思いがけないことだったもんで、とても信じられないんだ。目の前にはっきりした証拠を見てないと、まるで夢を見てるような気がするんだ』
宝石商は笑いました。
『泊っているお客はいるんですか』
『いや、泊めませんよ』カドルッスが答えました。『町に近すぎるんで、泊まる客はいやしません』
『では、私はひどくご迷惑をかけることになりますな』
『あなたがあたしたちに迷惑だなんて』カルコントが愛想よく申しました。『とんでもございません、ほんとうですよ』
『で、どこへ泊めていただけますかな』
『上の部屋に』
『でも、それはあなた方のお部屋でしょう』
『いえ、かまいません。隣の部屋に予備のベッドがございます』
カドルッスは、あっけにとられて女房の顔を見ました。宝石商は、客の服を乾かすためにカルコントが火をつけた暖炉の薪で背中をあぶりながら、鼻歌を歌っていました。
その間にカルコントは、テーブルの片隅にナプキンを拡げ、その上に粗末な夕食の残りを並べ、生卵を二、三個添えたのです。
カドルッスは、また札を財布に、金貨を袋に入れ、それを箪笥にしまいました。そして暗い顔でもの思わしげに縦横に歩き廻っておりました。時どき宝石商のほうに顔を向けるのですが、宝石商は暖炉の前に湯気をたてながらつっ立って、身体の片側が乾くにつれて身体を廻しています。
『さ、できました』カルコントがブドウ酒のびんをテーブルの上に置いて言いました。『いつでも召し上がりたいときにどうぞ』
『あなた方は?』ジョアネスが訊ねました。
『俺は夜食は止めとこう』カドルッスが答えると、カルコントがあわてて、
『あたしたちは夕食がひどく遅かったもんで』
『では私一人がいただくわけで』
『お給仕します』カルコントが、ふだんは金を払う客にも見せたことのない、いそいそとした調子で答えました。
時折、カドルッスはそんな女房の姿に、稲妻のようにす早い視線を投げていました。
雷雨はまだ続いています。
『聞こえるでしょう?』カルコントが申しました。『ほんとにお戻りになってよござんしたよ』
『いや、もし食事をしている間に嵐が、小止みになったら、やはりまた出かけますよ』
『これはミストラル〔南フランスの北東風〕だ』首をふりながらカドルッスが言いました。『明日まで吹き続けますよ』
こう言って彼は溜息をつきました。
『まったく、外にいる連中は大へんですなあ』食卓につきながら宝石商が申しました。
『ほんとに』カルコントが言いました。『ひどい夜を過ごさねばなりませんわ』
宝石商は食事を始めました。カルコントはなおも、こまごまと客に気を遣いかいがいしく世話をし続けます。ふだん、あれほど気むずかしく、すぐ不機嫌になるこの女が、親切と礼儀のお手本みたいになってしまったのです。もし宝石商が、もっと前にこの女を知っていたら、この急変ぶりに驚き、おかしいと思わずにはいなかったでしょう。カドルッスのほうは、一言も口をきかずに、相変わらず部屋の中を歩き廻っていました。客の顔を見ることさえ、ためらっているようでした。
食事が終ったとき、カドルッスは自分で戸を開けに行って、
『どうやら嵐もおさまりそうだな』彼はこう申しました。
が、この瞬間、彼の言葉を打ち消すように、すさまじい雷鳴が家をゆるがし、雨をまじえた突風が吹きこんで、ランプの灯を消してしまいました。
カドルッスはまた戸を閉めました。女房が消えかけていた薪の火でろうそくをともしました。
『さあ』カルコントが宝石商に言いました。『お疲れでしょう、ベッドのシーツを取りかえておきました。上がっておやすみなさいまし。ごゆっくりどうぞ』
ジョアネスはなおしばらくはそこにいて、嵐がおさまらないのを確かめていました。そして、雷も雨も激しくなるばかりなのを知ると、宿の主夫妻に『おやすみ』を言って、階段を上がって行きました。
宝石商は私の頭の上を通りました。彼の足もとで階段が一段ごとにきしむ音が聞こえました。
カルコントは貧婪《どんらん》な目でその後ろ姿を追っていました。一方カドルッスは、その逆に、背を向けたまま、客のほうを見ようともしません。
あれ以来いつも記憶によみがえってくる、これら一連の光景は、私がそれを目の前に見ていたときには、べつになんの不思議もないように思えました。結局のところ、目の前の出来事はごくあたり前のことばかりでした。私にはどうもありそうもない話に思えるダイヤの一件を除けば、みなごくごく自然でした。そこで、私はくたくたに疲れておりましたので、嵐が小止みになったらすぐ出かけるつもりで、なん時間か眠ることにしたのです。そして夜の間にその場を離れるつもりでした。
私には、上の部屋で宝石商がたてる物音が聞こえていました。彼は彼で、その夜をできるだけ気分よく過ごそうと、あれこれやっていたのです。やがて、彼の身体の重みでベッドがきしみました。床に入ったのです。
私は、眼瞼が知らず知らずのうちに閉じられるのを感じました。べつになんの疑惑も抱いていなかった私は、睡魔と戦おうとはしませんでした。私は最後にもう一度台所を見ました。カドルッスは、細長いテーブルのわきの、田舎の宿屋で小椅子の代わりをする、あの木のベンチに腰をおろしていました。彼はこっちに背を向けていたので、その顔つきは見られませんでした。たとえ逆向きになっていたとしても、やはり見られなかったでしょう、彼は顔を両手の中に埋めていたのですから。
カルコントは時々亭主の姿を見て、肩をすくめ、亭主の正面に腰をおろしました。
このとき、消えかけていた火が、カルコントが置き忘れた乾いた薪に燃え移って、前よりは少し明るい光が部屋の中を照らし出しました。カルコントはじっと亭主の顔を見据えています。そして、なおも亭主が同じ姿勢を崩さないでいると、彼女がその鉤なりに曲った手を亭主のほうにのばすのが見えました。彼女は亭主の顔にさわりました。
カドルッスはびくっとしました。女房の唇が動いたように見えましたが、彼女が思いきり低い声でしゃべったせいか、それとも眠気のため私の感覚が麻痺していたせいか、その言葉は私の所までは届きませんでした。私はもう霞を通したようにしかものが見えませんでしたし、眠りに落ちるときの、もう夢を見始めているんだというあの気持ちになっていました。ついに私の目が閉じられ、私は知覚を失いました。
私がぐっすり眠っていたとき、私はピストルの音と、それに続く恐ろしい悲鳴で目を覚まされました。よろめくような足音が、二、三歩上の部屋の床の上でしてから、私の階段の頭の真上の所へ、なにか鈍い物体がころげ落ちました。
私はまだはっきり目が覚めていませんでした。私はうめき声を聞きました。それから人が格闘する際に発するようなおし殺した叫び声がしました。
一きわ長く尾を引き、やがてうめき声に変わった最後の悲鳴が、私を眠っている状態から完全に引き出しました。
私は肘をついて身を起こし、目を見開きましたが暗くてなにも見えません。私は手を額にやりました。階段の床板を通して、生暖かい雨がしきりにぽたぽたと落ちて来るようなのです。
この恐ろしい物音の後に、深い深い沈黙が訪れました。頭上を一人の男が歩く足音が聞こえます。男は下の広間に降りて、暖炉に近づき、燭台に火をともしました。
その男はカドルッスでした。顔は青く、シャツは血まみれです。
燭台に火がつくと、彼はまた急いで階段を上がって行きました。忙しい不安げな足音がまた聞こえました。
すぐまた彼は降りて来ました。手に小箱を持っています。たしかにダイヤが入っているのを確かめてから、どのポケットにそれを入れようかと、ちょっとためらっていました。それから、たぶんポケットの中は安全なかくし場所と思わなかったのでしょう、首に巻いていた赤いスカーフの中に包みました。
ついで、箪笥の所へ走って行き、札と金貨を取り出すと、札はズボンのベルトの内側のポケットに、金貨は上着のポケットに入れ、シャツを二、三枚手にすると、戸口のほうへ走り寄り、闇の中へ姿を消しました。このとき、私にはいっさいが明々白々となったのです。今起きたことで、私は、まるで自分が犯人のようにわが身を責めました。うめき声が聞こえているようですから、気の毒な宝石商はまだ死んではいないのかもしれません。救いの手をさしのべてやったら、私がやったのではないにしても、私が黙ってやらせてしまった罪の一部は、まだ私の手で防ぐことができるかもしれないのです。私が寝ていた廊下のような所と、下の広間とを隔てる、隙間だらけの板戸を、私は肩で押しました。板戸がはずれ、私は室内に入りました。
私は燭台の所へ駈けて行き、階段に突進しました。死体が一つ、階段を斜めにふさいでいます。カルコントの死体でした。
私が耳にしたピストルの音は、彼女めがけて発射されたものだったのです。頭をぶち抜かれていました。二つの傷口からどくどく血が流れているだけではなく、口からも血を吐いていました。彼女は完全に死んでいました。私は死体をまたいで通り過ぎました。
寝室の中は、凄惨そのもの、乱雑を極めていました。二つか三つの家具はひっくり返り、宝石商がしがみついているシーツは床にひきずっているし、宝石商自身は、頭を壁にくっつけて、胸に受けた三つの傷口から流れ出る血の海の中で、床の上に横たわっているのです。
四つ目の傷には、長い庖刀がつき刺さったままで、柄しか見えていません。
私は、二丁めのピストルを踏んづけました。火薬が湿っていたのでしょう、弾丸は発射されていませんでした。
私は宝石商のそばに行きました。まだ完全には死んでいません。私のたてた物音、とくに床板の震動で、彼はうつろな目を見開き、一瞬私をじっと見ることができ、なにかしゃべりたそうに唇を動かすと、そのまま息が絶えました。
このすさまじい光景に、私は気も狂わんばかりになりました。誰のことも救けることができないとなると、もうたった一つ、逃げたいという気持ちしかありませんでした。両手を髪につっこみ、恐怖のわめき声を上げながら、私は階段を駈け降りました。
下の広間に、五、六人の税関吏と二、三人の憲兵からなる一隊が来ていました。
私は捕まりました。私は抵抗もしませんでした。もうなにもわからなくなっていたのです。しゃべろうとしましたが、わけのわからない叫び声を発しただけです。
ふと見ると税関吏と憲兵が私を指さしてます。目を落として自分の姿を見ると、私は全身に血を浴びていました。階段の床板を通して私の上に降り注いでいたあの生暖かい雨、あれはカルコントの血だったのです。
私は、私がかくれていた場所を指さしました。
『奴は何を言いたいんだ』憲兵が訊ねました。
税関吏の一人が見に行きました。
『あそこから入ったと言ってるんだ』
こう答えて税関吏は、事実私が入って来た穴を示しました。
そこで私は、連中が私を犯人だと思っていることを知りました。私は、声と勇気をとり戻して、私を抑えていた二人の男の手をふり払い、わめきました。
『俺じゃない、俺じゃない!』
二人の憲兵がカービン銃を私につきつけました。
『少しでも動けば、ぶち殺す』
『だって、俺じゃないんだ』
『ニームの判事の前で嘘っぱちを並べるがいい。とにかくついて来い。忠告はただ一つ、抵抗するな』
私の意志でそうなったのではありません。驚愕と恐怖とに、私はうちのめされていました。連中は私に手錠をかけ、馬の尻尾に私をつないで、ニームに連行しました。
私は一人の税関吏に尾行されていたのです。私をあの家の近くで見失ったので、あの家で私が一夜を過ごすのではないかと考えたわけです。こいつは仲間に知らせに行きました。そして、ちょうどピストルの音がしたとき、連中が到着し、どう見ても私がやったとしか思えない状況の中で私を捕まえたんですから、私は自分の無実を認めさせるのはたいへんだと思いました。
ですから、私は一つのことだけを考えました。予審判事に私がまず頼んだことは、ポン・デュ・ガール亭という宿屋に立寄った、ブゾニとかいう司祭を探してくれ、ということでした。もしカドルッスがでたらめを言っていて、そんな司祭など実在していないとしたら、カドルッスが捕まっていっさいを白状しない限り、私はもうおしまいです。
二か月の月日が流れました。その間、これは、私の取り調べにあたった判事さんへの称讃の念をこめて申し上げておかねばなりませんが、判事さんは、私が探してくれと言った司祭を、全力をあげて探して下さったのです。私はすでにいっさいの希望を失っていました。カドルッスは依然として捕まりません。九月八日、つまり事件後三か月と五日たったとき、私は第一回目の公判を迎えようとしていたのですが、もう諦めていたブゾニ司祭が、牢に来てくれたのです。司祭さんはマルセーユでこのことを知り、私の願いに応ずるため、急遽かけつけて下さったというお話でした。
私がどれほど喜んで司祭さんをお迎えしたかは、おわかりいただけると思います。私は司祭さんに、私が見たことをみんなお話ししました。私は、恐る恐るダイヤの話を持ち出しました。すると予期に反して、これは逐一ほんとうだったのです。また、これも予期に反して、司祭さんは、私の話を完全に信じて下さいました。司祭さんのやさしい慈悲の心にうたれ、また司祭さんが私の国の習わしをよくご存じなのを知り、私が犯した唯一の罪の許しも、その慈悲深い口から聞けるのではないかと考えた私は、オートゥイユでの一件も、包みかくすことなくその一部始終をお話ししました。私が、心の動きのままにしたこのことが、計算ずくでしたのと同じ結果を生みました。言う必要などまったくなかったこの第一の殺人の告白が、司祭さんに、私が第二の殺人はしていないという確証を与えたのでした。司祭さんは、別れしなに、希望を捨ててはならぬ、裁判官たちに私の無実を証明するため、自分の能力の及ぶ限りのことをしよう、と約束して下さいました。
事実、牢での私への扱いがゆるやかになったり、私の裁判は、今行なわれている裁判の次に延期されているということを教えられたとき、私はたしかに司祭さんが私のためにいろいろやっていて下さるのだと思いました。
この間に、神の思召しで、カドルッスが外国で捕まり、フランスに引き戻されました。奴はいっさいを白状しました。女房の予謀、とくに教唆《きょうさ》によるものだと言ったのです。奴は無期懲役になり、私は釈放されました」
「その時だね、ブゾニ司祭の手紙を持って私の所へ来たのは」モンテ・クリストが言った。
「さようでございます。ほんとうに司祭さんにはお世話になりました。
『いつまでも密輸をやっていては、お前は身を滅ぼすことになる』司祭さんはおっしゃいました。『ここを出たら、足を洗え』
『でも神父様、私はどうやって食べていくんです、義姉をどうやって食べさせていくんですか』私はこう訊ねました。
『私の所へ懺悔をしに来る人で、私を非常に尊敬してくれている人がいる。その人から、信用のおける男を探してくれと頼まれているのだが、お前にその気はないか、その人に紹介してやるが』
『ああ、神父様、なんとおやさしいことでしょう』
『だが、決して私に後悔させるようなまねはせぬと、誓えるか』
私は誓うために手をのばしました。
『その必要はない。私はコルシカ人をよく知っている。コルシカ人が好きだ。紹介状を書いてやろう』
こうおっしゃって、私が閣下にお渡しした、あの手紙を書いて下さったのです。あの手紙で、閣下は私を雇って下さいました。ここで、誇りを持ってお訊ねいたしますが、閣下は、私の勤めぶりにご不満をお持ちでしょうか」
「いや」伯爵は答えた。「君はじつによく働いてくれると言えるのがうれしいよ。ただ私をあまり信用してくれないようだがね」
「私がでございますか、伯爵様」
「そうだよ、君がだ。君には姉さんがいるし養子まである。それなのに、姉さんのことも子供のことも、ただの一度も私に話してくれなかったのは、どういうわけかな」
「ああ、閣下、それはまだ私が、私の一生で一番悲しいことをお話ししてないからでございます。私はコルシカに参りました。おわかりいただけると存じますが、一刻も早く義姉に会い、慰めてやろうと思ったのです。が、ロリヤノに着いてみると、家は喪に閉ざされているではありませんか。惨劇が演じられたのです。隣近所の者は今でも憶えているくらいです。可哀想な義姉は、私の忠告を守って、しょっちゅう、家にありったけの金をよこせというベネデットの要求をはねつけていたのです。ある朝のこと、ベネデットは義姉に脅し文句を残したきり、一日中姿を見せませんでした。アスンタは泣きました。あのろくでなしに、母親としての愛情を抱いてましたから。夜になり、義姉は寝ずにベネデットの帰りを待っていました。十一時になって、奴が二人の友達をつれて帰って来ました。馬鹿騒ぎのいつもの仲間です。アスンタは奴に両手をさしのべました。ところが、奴らはアスンタを抑えつけ、中の一人が、これがあの手におえぬ子供ではないかと思うと私は身体がふるえるのですが、こう怒鳴ったのです。
『拷問ごっこをしようぜ。こいつがどこに金をかくしてるか白状させるんだ』
ちょうど隣のワシリオはバスチアヘ行っていました。女房だけしか家にいなかったのです。この女房以外には、義姉の家で起きたことを見聞きした者はいません。まさかそんなひどいことをするとは思わなかったので、やがて自分の死刑執行人となる奴らに微笑みかけているアスンタを、二人で抑えつけ、あとの一人は、戸口や窓をふさいでしまいました。それから、このように本気で拷問の準備をしているのを見たアスンタが、恐怖のあまり叫び声をあげるのを、三人一緒になってその口をふさぎ、アスンタの足に燃えている薪を近づけたのです。こうして私どものわずかな財産のかくし場所を白状させようとしたのです。が、もみ合ううちに、アスンタの服に火がつきました。自分たちに火がつかぬようにと、そこで奴らはアスンタを放しました。火だるまになったまま、義姉は戸口に駈け寄りましたが、戸口は閉まってます。
窓に駈け寄りました。窓もふさがれてます。このとき、隣の女房はすさまじい悲鳴を聞きつけました。アスンタが救けを求めていたのです。やがてその声はおし殺され、悲鳴がうめき声に変わりました。恐怖と苦悩との一夜を過ごした翌日、ワシリオの女房が思いきって外へ出て、判事に私どもの家を開けてもらったとき、身体が半分焼けていながら、まだ息のあったアスンタを発見したのです。戸棚がこじ開けられ、金はなくなっていました。ベネデットはロリヤノからいなくなり、帰って来ません。その日以後、私は奴の姿も見なければ、噂を聞いたこともありません。
私が閣下の所へ参りましたのは、この悲しい話を聞いてからでございました。もうベネデットのことは申し上げるまでもございませんでした、奴は消えてしまったのですから。そして義姉のことも、義姉は死んでしまったのでございますから」
「で、その事件を君はどう思うのかね」
「私が犯しました罪の報いと思っております」ベルトゥチオは答えた。「ああ、あのヴィルフォールの血すじというのは、呪われた一家でございます」
「私もそう思う」伯爵が暗い面持ちでつぶやいた。
「これでもう、閣下、その後私が二度と見たことのないこの家、いきなり来てしまったこの庭、私が一人の男を殺したこの場所が、閣下はそのわけを知りたいとおっしゃいましたが、私をあのように怯えさせるのも無理はないとおわかりいただけたのではないでしょうか。今も、私の目の前、ここ、私の足もとの、ヴィルフォールが自分の子供を埋めるために掘ったその穴に、ヴィルフォールが横たわっているような気さえするのです」
「たしかに、どんな可能性でもあるのだ」モンテ・クリストは坐っていたベンチから立ち上がった。そして、低い声でこうつけ加えた。「検事が死ななかったという可能性さえ。ブゾニ司祭は、よくぞ私の所へ君をよこしてくれた。君も私にその話をしてくれてよかったのだよ。私は君のしたことを、悪いとは思っていないからね。まったくその名に似ないベネデット〔祝福された者の意〕のほうは、君はその子がどこへ行ったか探そうとはしなかったのか。その後どうなったかを、知ろうとはしなかったのか」
「一度もございません。もし奴の居所がわかったら、奴の所へ行くどころか、私は化け物の前から逃げ出すように逃げ出しますよ。ありがたいことに、奴の噂はただの一度も、この世の誰からも聞いたことはございません。死んでいてくれればいいと思ってます」
「ベルトゥチオ、その望みはないな」伯爵が言った。「悪人というものは、そんなに都合よく死ぬものではない。神は、その復讐の道具として使うために、悪人どもを保護しておられるようだからね」
「さようでございましょうね。それなら、私が神様にお願いすることはただ一つ、それは、もう二度とふたたび奴には会わせないでいただきたいということでございます」執事は頭をたれ、さらに続けた。「これでもう何もかもご存じになられたわけです。神様が天上での私の審判者であるのと同じように、伯爵様はこの世での私の審判者でございます。なにか慰めのお言葉をいただけないでしょうか」
「その通りだね。ブゾニ司祭もこう言うだろうと思うが、君が襲った男、あのヴィルフォールは、君に対してした仕打ちからして、またたぶんもっとほかの理由からも、懲罰に値する男だった。ベネデットがもし生きていたら、さっき言ったように、なにか神の復讐に役立った後で、自分が罰せられることになろう。君は、自分を責めることはただ一つしかない。君は、死の手からあの子を奪ったとき、なぜその子を母親に返してはやらなかったのかね。ベルトゥチオ、これは罪だ」
「さようでございます。これは罪、ほんとうの罪でございます。この点では、私は卑怯者だったのですから。赤ん坊の命をとりとめたとき、私のなすべきことはただ一つ、おっしゃるように、赤ん坊を母親に返すことでした。でも、そのためには、私は母親を探さねばならず、人目をひき、おそらく捕まってしまったでしょう。私は死にたくありませんでした。私は義姉のために、また、私どもコルシカ人が生まれつき持っている、復讐をとげた後、凱歌を奏して生き永らえるという誇りのためにも、私は命が惜しかったのです。いえ、おそらく、ただ自分の命が惜しくて、この世に執着したのでしょう。ああ、私は、可哀そうな兄ほど勇敢な男ではないのです」
ベルトゥチオは両手で顔を覆った。モンテ・クリストは、その姿に、長いこと謎めいた視線を注いでいた。
そうして、時刻と場所がらのせいで、いっそう重苦しいものになっている沈黙の後に、伯爵は、平素に似合わぬ憂いをおびた口調でこう言った。
「ベルトゥチオ、この件についてはもう話さないことにするがね、この話を終るにあたって、よく私の言葉を銘記しておくがいい。私がブゾニ司祭自身の口から、しじゅう聞かされた言葉だ。いかなる悪にも二つの良薬がある。時と沈黙だ、とね。さ、ベルトゥチオ、あとはしばらく、私をこのまま庭を歩き廻らせておいてくれないか、あの惨劇を演じた君にとっては胸をえぐるような恐怖を与えるものが、私にとっては、心地よいとさえ言える。これはこの邸に思わぬ価値を添えてくれよう。木というものは、いいかね、影を作るが故に人を楽しませ、影自体は、夢想と幻想とを作るが故に人を楽しませるのだ。私は庭を、ただ塀にかこまれた地面とのみ思って買った。ところが、そのただの地面が、突然、契約書になど記載されていない亡霊でいっぱいの庭に変わったのだ。ところで、私は亡霊が好きだ。生きている者が一日でなす悪を、死者は六千年かかってもなし得ぬではないか。だから、ベルトゥチオ、帰りたまえ、そして安らかに眠るがいい。もし臨終の際、君の懺悔聴聞僧がブゾニ司祭ほど寛容な人でなかったら、私を呼ぶがいい。私がまだこの世にいたらね。君の魂が、人が永遠と呼ぶ、あの辛い旅に出ようとしているときに、私は、君の魂をやさしく眠りにつかせるような言葉を言ってあげるから」
ベルトゥチオはうやうしく伯爵の前に頭を下げ、ほっと吐息をついて遠ざかって行った。
モンテ・クリストは一人残った。三、四歩前に歩みながら、彼はこうつぶやいた。
「ここ、プラタナスのそばに、赤ん坊が埋められた穴がある。あそこが、庭に入ったときの小さな門だ。あの角が、寝室に通ずる忍び階段だ。べつに手帖に記すまでもない。目の前に、身のまわりに、足の下に、立体地図、生きた地図があるのだから」
伯爵は、最後にもう一度その庭を一めぐりしてから、馬車の所に戻った。伯爵がもの思いにふけっている様子なのを見たベルトゥチオは、なにも言わずに、御者のわきの席に乗った。
馬車はパリヘの道を戻り始めた。
シャン=ゼリゼーの家に着くと、その夜のうちにモンテ・クリストは、長年住みなれた者でなければそうはできないようなふうに、家中を見て廻った。彼は先頭に立って歩いていたが、ただの一度も、ドアをまちがえて開けるとか、自分が行こうと思う場所にまっすぐに行けない廊下や階段を進むこともなかった。この夜の点検にはアリが同行した。伯爵はベルトゥチオに、住まいの装飾や部屋割りなど、いくつかの命令を与えた。そして時計をとり出すと、いつも主人の言動に注意しているヌビア人〔アリのこと〕に言った。
「十一時半だ。エデが間もなく着くはずだ。フランスの女たちには知らせてあるかね」
アリは、あの美しいギリシアの女性にあてられた部屋のほうに手をのばした。その部屋はほかとは離れているし、つづれ織のかげにドアがかくれているので、家中を廻ってみても、そこにサロンが一つと、人の住む寝室が二つあるとは誰も気づかぬようになっていた。アリは、その部屋のほうを指さすと、左手の指で、三を示し、その手を平らにして頭をのせ、目をつぶって眠っているふりをした。
「ああ」この手真似に慣れていたモンテ・クリストが言った。「三人、寝室で待っている、と言うんだな」
『はい』アリが頭を上下に動かした。
「奥さんは今晩は疲れていよう」モンテ・クリストが続けた。「きっと、早く寝たいだろう。奥さんに話をさせてはいけない。フランスの侍女たちは、新しいご主人にご挨拶だけさせて、すぐに引き取らせるのだ。お前は、ギリシアの侍女とフランスの侍女が話などしないよう、気をつけるのだ」
アリがうなずいた。
やがて門番の「お着きーっ」という声が聞こえた。鉄格子の門が開き、一台の馬車が通路を走って来て、正面階段の所で止まった。伯爵は下へ降りた。馬車のドアはすでに開けられていた。顔まですっぽりと、一面に金の縫い取りをした緑色の絹のマントに身を包んだ若い婦人に、伯爵は手をさしのべた。
若い婦人はさしのべられた手をとり、その手に尊敬のまじった愛情をこめて唇をつけた。二言三言、言葉が交わされた。婦人はやさしく、伯爵は、やさしいが重々しく。老ホメロスがその神々の口に語らせた、あの響きのよい言葉〔ギリシア語〕である。
それから、バラ色のろうそくを持ったアリを先に立てて、モンテ・クリストがイタリアでいつもつれていた、あのギリシア美人にほかならぬその若い婦人は、自分の部屋に案内されて行った。それから伯爵は、自分用にあてた棟に退《さが》った。
十二時半、邸内の灯がすべて消え、全員眠ったようであった。(つづく)