アレクサンドル・デュマ/泉田武二訳
モンテ・クリスト伯(一)
目 次
一 マルセーユ……帰港
二 父と子
三 カタロニア人
四 陰謀
五 婚約披露
六 検事代理
七 訊問
八 シャトー・ディフ
九 婚約披露の夜
十 チュイルリー宮殿の書斎
十一 コルシカの鬼
十二 父と子
十三 百日天下
十四 怒れる囚人と狂える囚人
十五 三十四号と二十七号
十六 イタリアの学者
十七 僧の部屋
十八 財宝
十九 三回目の発作
二十 シャトー・ディフの墓
二十一 チブラン島
二十二 密輸商人
二十三 モンテ・クリスト島
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一 マルセーユ……帰港
一八一五年二月二十四日、ノートル=ダーム・ド・ラ・ガルトの望楼が、三檣帆船《さんしょうはんせん》ファラオン号の姿を認めた旨の合図を送ってきた。スミルナ〔トルコの港、現在のイズミル〕、トリエステ、ナポリをまわって帰って来たのである。
いつものように、ただちに水先案内を乗せた船が港を出発し、シャトー・ディフ〔マルセーユの沖二キロのところにある小島に建てられた城。牢獄として用いられていた〕のわきをかすめて、モルジウー岬とリヨン島の間でファラオン号に接近しようとしていた。
たちまち、例によって、サン・ジャンの砦〔マルセーユ港の入口にある〕の物見台は見物人でいっぱいになった。マルセーユでは、船の入港、とくにそれがファラオン号のように、この古い港町で建造され艤装され荷物を積みこまれた船、しかも、この港町の船主の持ち船の場合は、いつでも大事件なのだ。
そうこうするうちにも、船はなお進んで来る。火山活動によってできた、カラザレーニュ島とジャロス島の間の狭い水路もうまく通過した。すでにポメーグ岬も過ぎた。三本のマストの帆、船首の三角帆、船尾の帆に風をはらんで進んでいる。だが、船足はあまりに遅く、憂《うれ》わしげに見え、見物人たちは、不幸を予知するあの本能的な勘《かん》で、船になにか事故が起きたのではないかと思うのであった。しかし、船の専門家たちは、たとえなにかが起きたとしても、それが船自体の事故ではないことを見抜いていた。どこから見ても、船は完全に制御された状態のもとで進んでいたからである。錨《いかり》は投ぜられんばかりになっているし、斜檣《しゃしょう》の索《さく》はすでにはずされている。そして、マルセーユ港の狭い入口からファラオン号を港内に入れようとしている水先案内人のかたわらには、動作がきびきびした敏捷《びんしょう》な目をした一人の青年がいて、船の動きの一つ一つに目を配り、水先案内人の命令の一つ一つを復唱していた。
群衆の中にただよっていた漠然とした不安の念が、サン・ジャンの見晴し台の上にいた見物人のうちの一人の胸をとくにひどく襲った。このため彼は、船の入港を待ちきれず、小さなボートに飛び乗り、ファラオン号めざして漕ぎ出すことを命じた。ボートはレゼルヴの入江の沖でファラオン号に出会った。
この男が近づいてくるのを見ると、あの青年が水先案内人のそばの自分の部署を離れ、帽子を片手にやってきて船端に身をもたせた。
十八歳から二十歳ぐらいの、背が高くすらっとした、黒いきれいな目の、漆黒《しっこく》の髪の青年であった。そして、幼い頃から危険と戦うことにはなれっこになっている者のみが持つ、落ちつきと決断力とを示す態度が、その身体のすみずみにまでみなぎっていた。
「ああ君か、ダンテス」ボートの男が叫んだ。「いったい何が起こったのだ。船全体が、どうしてこんなにうち沈んでいるのだ」
「悲しいことが起きたんですよ、モレルさん」青年が答える。「たいへん悲しいことが。とくに私にとっては。われわれはチヴィタ=ヴェッキア〔イタリアの港〕の沖で、あの立派なルクレール船長を失ったのです」
「で、積み荷は?」せきこんで船主がたずねる。
「積み荷は大丈夫です。この点ではご満足いただけると思います。ただ、ルクレール船長が…」
「船長がどうしたというのだ」見る目にもほっとした様子で船主がたずねた。「あの船長の身に何が起きたというのだ」
「亡くなったのです」
「海へ落ちたのか」
「いいえ。脳炎で、ひどく苦しまれた末に亡くなられました」
こう言って部下のほうをふり向き、
「そーれ、めいめい投錨の部署につけえ!」
乗組員たちがこの命令に従った。即座に、この船に乗り組んでいた八人ないし十人の水夫たちが、それぞれに、ある者は帆脚索《ほあしづな》に、ある者は帆桁に、動索に、船首の帆索に、絞帆索に飛びついたのである。
その若い船乗りは、この作業の始まる様子をちらと無造作に見やって、自分の命令が実行されようとしているのを見ると、また話し相手のほうに向きなおった。
「またどうしてそんなことになったのか」船主は、若い船乗りが中断したところから会話をまた続けた。
「それがモレルさん、まったく思いがけなかったんです。ナポリの港の長官と長いこと話をなさってから、船長はひどく興奮なさった様子でナポリを出たのですが、二十四時間後には熱を出して、三日後にはもう亡くなってしまわれました…
私たちは型通りの葬式をしました。きちんとハンモックに包まれ、三十六ポンドの錘《おも》りを足と頭に一つずつつけて、エル・ジグリオ島の沖に眠っておられます。奥さんには、船長の勲章と剣とを持ち帰りました」さみしそうな微笑を見せながら青年が続けた。「英軍相手に十年も戦ったのに、ふつうの人たちと同じようにベッドの中で死んじまうなんて、まったくお気の毒です」
「仕方がないよ、エドモン君」次第に気をとり直した様子の船主が言った。「われわれはすべて死ぬのだ。古いものは新しいものに席をゆずらねばならん。そうでなければ進歩はない。君はさっき、積み荷は大丈夫と…」
「大丈夫です、申し分ありません。二万五千フラン程度の利益をあてになさるのなら、こんな航海はさせないことですね」
こう言うと、船が砦の隅櫓《すみやぐら》を通過したので、青年は、「マスト、船首、船尾の帆の巻き方用意!」
と叫んだ。
命令は、軍艦の場合と同じぐらいすばやく実行された。
「全帆巻き方始め」
この最後の命令で帆は全部巻き上げられた。今や船は、ただ惰性で動いているにすぎず、ほとんど進んでいるようには思えなかった。
「もういいですよ、モレルさん。よろしかったらこちらへ上って来ませんか」船主がじりじりしている様子を見てダンテスが言った。「会計係のダングラールが船室から出て来ました。お聞きになりたいことはみんな聞けますよ。私は錨を入れるのを見にいかねばなりません。それに船を喪に服させないと」
船主は相手に二度と言わせなかった。ダンテスが投げたロープをつかむと、さすが海の男と思わせるように、器用に、まるくふくらんだ船腹にとりつけられた梯子を登っていった。一方ダンテスは、一等航海士としての部署にもどり、話のほうは、彼がダングラールという名で呼んだ人物にまかせた。ダングラールは船室から出ると、そのまま船主の前にやってきた。
やってきたのは二十五、六の、かなり陰気な顔つきをした、上役にはへつらいながら、下の者にはうちとけない男である。だから、会計係などというものはただでさえ水夫たちの反撥を買うものだが、エドモン・ダンテスが好かれていたのとはまったく対照的に、この男は乗組員たちから嫌われていた。
「モレルさん、船長のご不幸のことはお聞きになったでしょうね」ダングラールが言った。
「聞いたとも。ルクレール船長は気の毒なことをしたよ。立派な誠実な人だった」
「それに、海と空との間で年をとられた、すばらしい船乗りでした。あのような方こそ、モレル父子商会のような大会杜の利害をまかせるのにふさわしい方です」
「だがね」と船主は、錨をおろす位置を見定めているダンテスの姿を目で追いながら、「船長の仕事を覚えるには、君が言うほど年寄りでなくてもいいように思えるね。あのエドモン君を見たまえ。だれにも教えてもらわなくても、大丈夫見事にやってのけているようじゃないか」
「そうですね」ダングラールはちらっと横目でダンテスを見た。その目には憎しみの炎が燃えた。「ええ、若いですよ。若いからこわいもの知らずでね。船長がお亡くなりになると、すぐもう、誰にも相談せずに船の指揮をとって、しかもまっすぐマルセーユヘ帰ってこないで、エルバ島で一日半も無駄足をふんだんですからね」
「船の指揮をとったのは、一等航海士として当然の義務だ。が、エルバ島で一日半無駄足をふんだというのは間違っておる。船になにか損傷があって修理のためというのなら別だが」
「船は私同様どこも悪くありません。モレルさんのお身体がそうであってくれればいいと私が願っているほど、どこも悪い所などありませんでした。あの一日半の無駄は、ただの気まぐれ、上陸してみたいという、ただそれだけのためだったんですよ」
「ダンテス、ちょっと来てくれ」と、青年のほうを向いて船主は言った。
「すみません、今すぐ行きますから」ダンテスが答えた。
そして、乗組員たちに向かって、
「投錨!」
ただちに錨がおろされた。鎖が音をたててのびていく。そこに水先案内人がいたのだが、ダンテスはこの作業が終るまでその場を離れなかった。作業が終ると、
「マストの旗をマストの半ばまで下げろ。船尾の旗を半旗に。帆桁を十字形に組め」
「おわかりでしょう、すっかり船長気取りでいやがる」ダングラールが言った。
「いや事実上そうだよ」船主が答えた。
「その通り。あなたのサインともう一人のかたのサインがないだけです」
「なんの、あのまま船長にしておいてなにが悪い。あれが若いことは私もよく承知しているが、万事心得ておるようだし、腕もじつにたしかだ」
暗い影がダングラールの額をよぎった。
ダンテスが近づいてきて、
「すみませんでした、モレルさん。錨もおろしましたから、もうお話をうかがえます。お呼びだったと思いますが」
ダングラールは一歩さがった。
「私は、君がなぜエルバ島へ寄ったのか聞きたかったのだよ」
「それが私にもわからないんです。ルクレール船長の最後の命令を果たすためでした。船長は息を引き取る時に、侍従長のベルトラン閣下〔ナポレオンの忠臣でエルバ島にもついていった〕に手渡せと言って、包みを一つ私に渡したのです」
「じゃあ、お会いしたんだな」
「誰にですか」
「閣下に」
「ええ」
モレルはあたりを見廻し、ダンテスをわきにつれていった。
「で、皇帝陛下はどうしておられた」
と、彼はせきこんで訊ねた。
「お元気でした。私がお見うけしたところでは」
「とすると、君は陛下にもお目にかかったわけだな」
「私が閣下の所にいた時、陛下が入ってこられたのです」
「なにか申し上げたか」
「つまり陛下のほうから話しかけてこられたのです」
ダンテスが笑いながら言った。
「で、何と申された」
「船の模様とか、いつマルセーユを出航したか、どこを通ってきたか、何を積んでいるかとか。どうも、もし空船で私が船主だったら、船をお買いになりたかったのではないかと思います。でも、私が、私はただの一等航海士で、船はモレル商会のものだと申しましたら、『ああ、あの商会なら余は知っておる。モレルは先祖代々船主で、余がヴァランスの部隊におった頃、モレル家の者が余と同じ連隊におった』と申されました」
「まさにその通りだ」船主がひどく喜んで叫んだ。「ポリカール・モレルといって、私の叔父だ。大尉になった。ダンテス、もし君が叔父に、陛下が叔父のことを覚えておられたと話したら、あの老兵は涙を流すだろうよ。よしよし」と、船主は青年の肩を優しく叩きながら言葉を続けた。「よくぞルクレール船長の指示に従ってエルバ島に寄ってくれた。ただ、侍従長閣下に包みを渡したり陛下とお話をしたりしたことが世間に知れると、君の身に危険が及ぶかもしれんがね」
「どうしてそれが私の身に危険が及ぶことになるとおっしゃるのですか。私は自分が何を持って行ったのかさえ知らないし、陛下だって、ふつうはじめて会った者にする質問しか私にはなさらなかったんですよ。あ、すみません」とダンテスがまた言った。「検疫と税関がやってきます。失礼してよろしいでしょうか」
「いいとも、いいとも」
青年は離れていった。そしてダンテスが遠ざかると、ダングラールが近づいてきた。
「どうやら、ダンテスはポルト・フェライヨ〔エルバ島の港〕へ寄ったことに、うまい理由をつけたようですな」
「立派な理由だよ、ダングラール君」
「ほう、それは結構でした。義務をちゃんと守らない仲間というのは、いつ見ても気持のいいもんじゃありませんからね」
「ダンテスはちゃんと義務を果たしておる。非難すべき点はどこにもない。あの寄港はルクレール船長の命令だったのだ」
「ルクレール船長といえば、船長の手紙をお渡ししませんでしたか」
「誰が」
「ダンテスですよ」
「私には渡さなかったな。ダンテスが持っているのか」
「包みのほかに、船長は手紙を一通渡したように思ったんだがな」
「ダングラール、どの包みのことを言っているのだ」
「ダンテスがポルト・フェライヨヘ置いてきた包みのことですよ」
「ポルト・フェライヨヘ届ける包みを持っていたことを、どうして知っているのか」
ダングラールは顔を赤らめた。
「少し開いてた船長室のドアの前を通りかかったのです。で、船長が包みと手紙をダンテスに渡しているのを見たんです」
「手紙のことはなにも言わなかったが、もし持っているのならそのうち渡してくれるだろう」
ダングラールはちょっと考えていたが、
「それじゃ、モレルさん、手紙のことはダンテスにはなにも言わないでおいてください。私の思い違いかも知れません」
このとき、青年がもどってきて、ダングラールは離れていった。
「さて、ダンテス君。もうおひまかね」
と船主がたずねた。
「はい」
「あまり長くはかからなかったな」
「ええ、税関には積み荷のリストを渡しました。港湾倉庫のほうは、係員を水先案内人と一緒によこしましたから、こちらの書類を渡しておきました」
「それじゃ、もうここですることはなにもないんだね」
「はい、全部済みました」
「それじゃ、私の家へ夕食をしに来られるわけだな」
「申し訳ありません、モレルさん。ほんとに申し訳ないんですが、まず最初は父の所へ行かねばなりません。お招き下さってほんとうにありがたいとは思うのですが」
「そうだった、そうだった。君がいい息子だということは、私も知ってるよ」
「で…」とダンテスが、ためらいがちにたずねる。「ご存じだといいんですが、父は元気でしょうか」
「いや元気だと思うよ、エドモン君。見かけなかったがね」
「ええ、父は自分のちっぽけな部屋に閉じこもったきりですから」
「そのことは、君の留守中、お父さんはなにも不自由しなかったということだよ」
ダンテスは笑った。
「父は自尊心が強いのです。たとえなにもかも不自由だったとして、この世のだれにだって、なにか欲しいなどとは言わないと思います。神様は別ですが」
「それじゃ、お父さんにお会いしたら、待ってるからね」
「またしても申し訳ないんですが、父に会ったあと、もう一人、やはり同じぐらい心にかかっている人の所へ行かねばなりません」
「ああ、そうだ。カタロニアの連中の中に、お父さんに劣らず君を待ちこがれている人が一人いたっけな。美人のメルセデス」
ダンテスが微笑した。
「はっはっは、私はべつに驚かんよ。あの娘《こ》はファラオン号の便りを三度も私にたずねに来たからね。おい、エドモン、君は不平など言えんぞ。きれいな恋人がいてさ」
「恋人じゃありません。フィアンセです」
と、若い船員はまじめな顔をして言った。
船主は笑いながら、
「ときにはどっちだって同じことさ」
「私たちは違います」
ダンテスが答えた。
「よし、よし、エドモン」船主が続ける。「私は君を引きとめたくない。君は私の仕事をじつによくやってくれたから、今度はなんでも君のお役に立ちたいがね。金がいるんじゃないか」
「いいえ。航海中の給料を全部持ってますから。つまり、三か月分の俸給です」
「君は堅い男だよ、エドモン」
「私には貧しい父がいるんです」
「そうだ、そうだ。君はいい息子だ、わかっとるよ。お父さんに会って来なさい。私にも息子が一人おる。三か月も航海してきたのに、いつまでも息子に会わせてくれないやつのことは、私だって恨むだろうよ」
「それじゃ、お許し下さるんですね」
青年は頭をさげた。
「そう、君が私になにか言うことがなければな」
「ありません」
「ルクレール船長は臨終のとき、私への手紙を君に渡さなかったかね」
「お書きになれなかったのでしょう。お言葉で思い出しましたが、二週間お暇をいただきたいんですが」
「結婚するためか」
「ええ、それからパリヘ行くためです」
「いいとも。好きなだけ暇をとるがいい。船の積み荷をおろすのに六週間はかかる。だから、三か月以前に出航することはまずあるまい…ただし、三か月後にはいてくれないと困る。ファラオン号は」と、船主は若い船員の肩を叩きながら続けた。「船長なしでは出航できないからな」
「船長なしで」喜びに目を輝かせてダンテスが叫んだ。「お言葉にお気をつけになって下さい。あなたは今、私の心の一番深い所に秘めておいた希望にお答えになったんですよ。私をファラオン号の船長にして下さるおつもりなんですか」
「私一人の会社だったら、私は君に手をさしのべて、こう言うだろうよ。『これで決まった』とね。だが私にはもう一人の協力者がいる。イタリアの諺《ことわざ》にもあるじゃないか。『仲間がいるということは、主人がいるということさ』だが、事の半分は少なくとも決まっとる。君は二票のうち一票は獲得ずみだから。ま、もう一票のほうは私にまかせてくれ。できるだけのことはする」
「ああ、モレルさん」若い船員は、目に涙をためながら、船主の手をつかんだ。「モレルさん、父とメルセデスの名にかけて、お礼を申し上げます」
「わかった、わかった。立派な人間には、天に神がおわすのだ。お父さんに会いに行け。メルセデスに会いに行け。その後で家へ来い」
「でも、岸までお送りしましょう」
「いや、結構。ダングラールと金の支払いをせねばならん。航海中、あの男には満足していたかね」
「ご質問の意味によります。友達としてなら、答えは、いいえ、です。私が馬鹿なまねをしてしまった日から、彼は私を嫌っているようです。つまらないことで私たち二人は喧嘩をしてしまい、モンテ=クリスト島に十分だけ上陸して喧嘩のかたをつけようじゃないか、なんて言ってしまったんです。こんな申し入れをしたのは私が悪かったと思います。だから彼が拒んだのも当然です。私になさったご質問が、会計係としてはどうか、というのなら、申し分のない男で、彼がやった仕事ぶりには、きっとあなたもご満足だろうと思います」
「だが、ねえダンテス」船主がたずねた。「もし君がファラオン号の船長だったら、君は喜んでダングラールを今のまま残しておくかね」
「モレルさん。船長だろうと一等航海士だろうと、船主の信用を得ている男のことは、私はいつだって尊敬しますよ」
「よし、よし、ダンテス。どこから見ても君が立派な人物だということがわかったよ。もうこれ以上引きとめまい。行きたまえ。行きたくてうずうずしてるじゃないか」
「お暇がいただけるんですね」
「行け、と言ってるんだよ」
「乗ってこられたボートを使っていいでしょうか」
「使いたまえ」
「さようなら、モレルさん、ほんとにありがとうございました」
「さよなら、エドモン、幸運を祈るぞ」
若い船乗りはボートに飛び乗り、船尾に腰をおろすと、カヌビエール〔港に突きあたるマルセーユの目抜き通り〕ヘボートを着けるよう命令した。すぐさま二人の水夫がオールの上に身をかがめた。二列にならんだ船の間の、港の入口からオルレアン岸壁に続く狭い水路をふさいでいるなん百という小舟をぬって、ボートは全速力で滑っていった。
船主は、笑みをたたえながら、岸までその姿を目で追っていた。青年が岸壁の敷石の上に飛び上るのが見えたかと思うと、たちまち、この有名なカヌビエール通りを朝五時から夜九時まで埋めつくす、雑多な色どりの群衆の中にその姿は消えていた。マルセーユの人たちはこの通りがひどくご自慢で、この上もなく大まじめに、しかも、その言葉に独特な性格をおびさせるあのアクセントで、こう言うのだ。『もしパリにカヌビエールがあったら、パリは小マルセーユになるのに』
船主がふり向くと、うしろにダングラールが立っていた。うわべは船主の命令を待っていたように見えたが、実際は、モレル同様、目で若い船員の姿を追っていたのだ。
ただ、同じ一人の男を追っていたこの二つの視線には、大へんな違いがあった。
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二 父と子
憎悪の悪魔に魅入られたダングラールには、船主の耳に、ダンテスのことで、なにごとか底意のある言葉を吹きこもうとさせておいて、われわれはダンテスの姿を追うことにしよう。ダンテスは、カヌビエールの通りを端から端まで歩いた後、ノアーユ通りに入り、メラン小路の左側にある、一軒の小さな家に入った。急いで暗い階段を五階まで上る。そして、片手で手すりにつかまり、もう一方の手で心臓の動悸《どうき》をおさえながら、半開きのドアの前で止まった。そこから、小さな部屋が奥まで見えた。
この部屋がダンテスの父親の住む部屋であった。
ファラオン号入港のしらせは、まだこの老人のもとには届いていなかった。老人は椅子の上にのって、窓の手すりの柵にそって這い登っているクレマチスのまじったノウゼンハレンに、ふるえる手で一心に棚を作ってやっているところであった。
とつぜん彼は、両腕で腰を抱かれるのを感じた。そして、聞き覚えのある声が、彼のうしろでこう叫んだ、
「お父さん、ああ、お父さん」
老人は叫び声を上げて、ふり向いた。それから息子を見ると、身をふるわせながらまっさおな顔をして、息子の両腕の中に倒れこんだ。
「お父さん、どうなさったんです」不安になった青年が叫んだ。「まさかご病気なのでは」
「いや、いや、エドモン。いや、そうじゃない。だが、まさかお前が帰ってくるとは。こんなに不意にお前に会えたのでうれしくて、そのショックじゃ…ああ、わしは死にそうじゃ」
「しっかりして下さいよ、お父さん。僕ですよ、僕なんです! 喜びに悪いことなしってよく言うじゃありませんか。だから、なんの前ぶれもなしにこの部屋へ入って来たんです。さあ、そんなうろたえた目で僕を見ないで、笑って下さい。僕は帰って来ました。それに、僕たちは幸せになるんですよ」
「ああ、よかったな。だが、どうしてわしらが幸せになるというんじゃ。もうこれからはずっとここにおるというのか。早く、お前の幸せとやらを聞かせないか!」
「神よ」青年が言った。「他人の家族の不幸とひきかえに得たこの幸せを喜ぶことを許したまえ。でも、この幸せが僕のほうから望んだものではないことは、神様はご存じだ。幸せは向うからやって来た。それを悲しむ力は僕にはない。お父さん、あのルクレール船長が亡くなったんです。それで、たぶん、モレルさんのお力で、僕がその後任になりそうなんです。わかる? お父さん。二十歳で船長ですよ。給料はルイ金貨百枚〔一ルイは二十フラン〕、利益の歩合ももらえる。僕みたいな貧しい船乗りには、とても考えられなかったことじゃありませんか」
「そうじゃ。まったくじゃ。まさに幸せというものじゃ」
「だから、もらった最初のお金でお父さんに小さな家を買ってあげたい。お父さんのクレマチスやノウゼンハレン、それにスイカズラが植えられる庭のついた…でも、お父さん、どうなさったんです。気分が悪いみたいだけど」
「大丈夫、心配するな、なんでもあるまいて」
こう言うと、老人は力つきてうしろに倒れた。
「しっかりして下さい、お父さん。ワインを一杯飲めば、元気が出るでしょう。グラスはどこにあるんですか」
「いや、結構。探さんでいい。わしはいらんから」
と、老人は息子をとめようとして言った。
「いや、いりますよ。場所を教えて下さい」
彼は戸棚を二つ三つ聞けてみた。
「無駄じゃ。ワインはないのじゃ」
「なんですって、ワインがない」今度はダンテスが青ざめた。老人の落ちくぼんだ青い頬と、空の戸棚を交互に見やりながら、「ワインがないんですって! お父さん、まさかお金が足りなかったんでは」
「わしに足りないものなぞないぞ、お前さえこうしてそこにいてくれればの」
「でも」ダンテスは頬から流れる汗をぬぐいながら口の中でつぶやくように言った。「でも、三か月前に出かけるとき、二百フランお渡ししたじゃありませんか」
「そのとおりじゃ、エドモン。だが、お前は、隣のカドルッスに少しばかり借金があったのを、出かけるときには忘れておった。あの男がわしにそれを思い出させての、お前の代わりにわしが払わなんだら、モレルさんの所へ行って払ってもらうと言うのじゃ。わかるな、それではお前のためにならんと思ってのう…」
「それで」
「それで、わしが払った」
「でも」ダンテスは叫んだ。「僕がカドルッスに借りていたのは百四十フランですよ!」
「そう」老人が小さく答えた。
「で、それを、僕がお渡しした二百フランの中から払ったんですか」
老人はうなずいた。
「とすると、お父さんは三か月間を六十フランで暮らしたわけだ」
と、青年はつぶやいた。
「わしが、ほとんどなにもいらんことはお前も知っておるではないか」
「ああ、許して下さい」
エドモンは、倒れるように父親の前に脆《ひざまず》いた。
「何をしておる」
「ああ、胸がかきむしられるようです」
「なんの、お前が帰ってきてくれた」微笑しながら老人が言った。「もう、なにもかも忘れてしまった。今はなにもかもがうまくいっておるからのう」
「ええ、僕は帰ってきました。すばらしい将来と少しばかりのお金と一緒に。さあ、お父さん。受けとって下さい。そして、今すぐ、なにか食べ物を買いにやって下さい」
こう言うと、彼はテーブルの上に、ポケットの中身をぶちまけた。ポケットには、十二枚ほどの金貨と、五フラン貨幣が五、六枚、それに小銭が入っていた。
老ダンテスの顔が輝いた。
「誰のものじゃ、これは」
「もちろん、僕のものですよ、お父さんのものですよ、僕たち二人のものです。受け取って下さい。食べ物を買って下さい。幸せになって下さい。明日はまた別のお金が入ります」
「ま、そうあわてるものではない」老人が笑いながら言った。「お前が許してくれるなら、お前の金を少しずつ使わせてもらおう。あまりいちどきに買物をすると、世間では、お前の帰りを待たねばわしが買物ができなかったと思うじゃろう」
「好きになさって下さい。でも、なによりもまず女中を一人やとうことです。お一人にはもうしておきたくありません。密輸のコーヒーと、極上のタバコを船倉の小さな箱に入れてあります。明日、さし上げましょう。あ、しーっ、だれか来ます」
「お前が帰ってきたのを知って、カドルッスが来たんじゃろう、たぶん、お帰りなさいを言いにの」
「そうか。心の中で思っていることと、言うことが別のやつがここにもいる」ダンテスはつぶやいた。「でも、かまいやしない。以前、世話になった隣人だし、快く迎えましょう」
事実、ダンテスが小声でこう言い終えたとき、踊り場のドアの枠の中に、カドルッスの黒いひげを生やした顔が見えた。二十五、六の男である。彼は手に布地を持っていた。仕立屋なので、これを服の裏地にしようとしているのである。
「おお、エドモン、帰ってきたのかい」
彼は、ひどいマルセーユなまりで、大口をあけて笑いながら言った。笑うと、象牙のように白い歯が見えた。
「ごらんの通りね、カドルッス。なんなりとお役に立てればと思ってるよ」
こうは言ったものの、ダンテスはその言葉の陰の冷淡さをかくしきれなかった。
「いや、ありがとう。幸い、なにもお願いすることはなくってね。ときおり他人《ひと》さまのお世話をするのはむしろおれのほうだ。(ダンテスの身体が動いた)いや、あんたのことを言ってるんじゃないよ。おれはあんたに金を貸した。あんたはその金を返した。仲のいい隣同士ならあたりまえのこと。それにもう貸借なんかない」
「親切にしてくれた人への借りはなくならないよ」とダンテスは言った。「お金はもう借りてなくても、感謝の借りが残る」
「そんなこと言うこたあない。過ぎたことは過ぎたこと。それよか無事の帰国を祝おうや。おれがね、こんなふうにして栗色の生地を仕入れに港のほうへ歩いていくと、ダングラールに会ったのさ。『お前、マルセーユに帰ってきたのか』『ああそうさ、とにもかくにもな』ってやつが答えた。『お前はスミルナにいると思ってたぜ』『いたかもしれないさ、スミルナから帰ってきたんだからな』『で、エドモンのやつはどこにいる』『さあ、たぶん親父んとこだろ』ダングラールがそう答えたんで、やってきたってわけだ。友だちと握手がしたくてね」
「カドルッスはいい人じゃ、わしらをそんなに思ってくれておる」
「もちろんおれはあんたがたが好きだ。尊敬さえしてる。正直な人間てものはほとんどいないからなあ。ところで、お前、ずいぶんと金持になったようだな、え」
と、仕立屋は、ダンテスがテーブルの上に置いた一握りほどの金貨、銀貨を横目で見やりながら続けた。
ダンテスは、この隣人の黒い目に、貪欲の炎が燃えるのを見た。
「とんでもない」彼は無造作に言った。「この金は僕のじゃない。僕の留守中、不自由したものはなかったかと、心配して父に言ったもんだから、僕を安心させるために、父が財布の中身をテーブルの上にあけてみせたのさ。さあ、お父さん」と、ダンテスは続けた。「そのお金をお父さんの貯金箱にしまって下さい。今度はカドルッスがお金がいるっていうんでなければね。いるときはいつでも貸すとして」
「いらんよ」カドルッスが言った。「一文もいらん。おかげさまで、商売で食えるんでね。大切にしまっとけよ、お前の金をな。金はあり過ぎるなんてこたあ決してないもんだ。とはいうものの、お申し出のご好意だけは、それを受けたときと同じぐらいありがたいと思う」
「本気で言ったんだ」
と、ダンテスが言った。
「そいつを疑ってなんかいるもんか。ところでモレルさんとはうんとうまくいってるのか。かわいがられてるんだろ」
「モレルさんは僕にはいつだってとても親切だ」
「とすりゃあ、夕飯によばれて断わったのは、あんたが悪いぜ」
「なんじゃと、モレルさんの夕食を断わったと」老ダンテスが言った。「それじゃあのかたは、お前を夕飯に招いて下さったのか」
「そうですよ、お父さん」エドモンは、自分が受けた破格の光栄に驚く父を見て、微笑しながら答えた。
「では、なぜまたお断わりなぞしたのじゃ」
「少しでも早くおそばに帰ってくるためですよ、お父さん。早くお父さんに会いたかったんです」
「モレルさんのようないい人を、それじゃ気を悪くさせちまう」カドルッスが言った。「船長をねらうんだったら、船主の気を悪くさせるなあまずい」
「僕はあの人に断わる理由を話した。そしてわかってくれたと思う」
「いやさ、船長になるには、ご主人さまに多少はおべっかも使わにゃならんと言ったのさ」
「僕はそんなことをせずに船長になりたい」
「結構、結構、そうなりゃ、古くからの友だちみんなが喜ぶぜ。それに、サン・ニコラの城の向うに、もう一人、決して気を悪くなんかしないお人がいることも知ってるぜ」
「メルセデスのことかな」
と、老人が言った。
「そうです、お父さん」ダンテスが答えた。「お許しがいただけるなら、お父さんのお顔も見たし、お元気なことも、必要なものはみなお持ちのこともわかりましたから、カタロニアの人たちの所へ行ってくることをお許しいただきたいのです」
「行っておいで」老ダンテスは言った。「神がお前のために、お前の妻をお守り下さらんことを。私のために、息子をお守り下さったようにの」
「妻だと!」カドルッスが言った。「親父さん、ちょっと早すぎませんかね。あの娘《こ》はまだそうじゃねえと思うんだが」
「まだだ。でも、まず間違いなく」エドモンが答える。「近いうちにそうなるのさ」
「かまわん、かまわん」カドルッスが言った。「あんた急いでいいことしたよ」
「どうして」
「だって、メルセデスは美人だ。美人にゃ惚れた男どもはつきものさ。あの娘はとくにな。一ダースもぞろぞろくっついてら」
「まったくだ」
こう言ってダンテスは笑ったが、その笑いの下に、不安の影がちらっとかすめた。
「そうともさ」カドルッスが言った。「中にゃいいとこのやつだっている。だが、わかるか、あんたは船長になるんだ。そうなりゃ、あんたを断わる気にはなるめえよ」
「ということは」ダンテスは、不安をかくしきれない笑顔で言った。「もし僕が船長にならなかったら…」
「おい、おい」カドルッスが言った。
「いいかい、僕はあなたより、女一般に対してもっといい見方をしてるよ。とくにメルセデスについては。僕が船長になろうとなるまいと、彼女は僕を愛してくれると信じてる」
「結構、結構」カドルッスが言った。「結婚しようってときにゃ、信じるってのはいいことだ。ま、どうでもいいや。いいから、いつまでもぐずぐずしねえで、あんたが帰ったことをあの娘に知らせに行きな、明るい先のことも教えてやるがいいや」
「行くとも」
エドモンは父親に接吻し、カドルッスに挨拶のしぐさをして、部屋を出た。
カドルッスはもうしばらくいてから、老ダンテスにいとまを告げ、彼も階段を降り、スナック通りの角で待っていたダングラールのところへやってきた。
「それで」ダングラールが言った。「やつに会ったか」
「今別れた」
「で、やっこさん、お前に船長になれそうだなんて言ってたか」
「もう船長になったみたいに話したよ」
「あわてなさんな! どうもあいつは先を急ぎすぎてるようだ」
「ところがだ、モレルさんがやつにそう約束したらしいんだな」
「それじゃ、うんと喜んでたろう」
「つまり、それでひどく偉ぶっちまって。お偉がたになっちまったみたいに、もうこのおれに、なんなりとお役に立ちたいなんてんだ。銀行家みたいに、おれに金を貸そうなんてな」
「で、断わったのか」
「当り前さ。やつがはじめて触った銀貨は、このおれがやつの手に握らせてやったものなんだから、ありがたくお受けすることもできたわけだがな。だが今じゃ、ダンテス様はだれの助けもいらねえ。もうじき船長だ」
「馬鹿な。まだ船長じゃない」
「まったくのところ、そうならなきゃ結構至極かもしれねえ。そうでなきゃ、やつに話しかけることもできなくならあ」
「もしおれたちが望みさえすれば」とダングラールが言った。「やっこさんはいつまでも今のままさ。いや、おそらく今より悪くさえなる」
「なんて言った」
「べつに。一人言を言ったのさ。ところで、相変わらずやっこさん、あのカタロニアの娘に参ってるか」
「気もそぞろってやつだ。娘の家へ行ったよ。だが、おれの見込み違いか、そうでなきゃ、やつは向うの気に入るまいて」
「どういうことだ」
「言ったって仕方ねえ」
「お前が思ってるより大事なことなんだ。お前はダンテスが嫌いか」
「おれは横柄な野郎は嫌えだ」
「よし、そんなら、あのカタロニアの娘のことで知ってることをおれに言え」
「格別はっきりしたことはなにも知らねえ。ただ、おれは見たんだ。前にも言ったようによ、未来の船長様がヴィエーユ・ザンフィルムリーの道の近辺じゃ、あまりお気に召すまいと思えるようなことを」
「何を見たんだ。ええ、おい」
「つまりな、メルセデスが町へ来るときゃいつもカタロニアの男と一緒なのを見たんだよ。でっかくてたくましくて、黒目で赤ら顔、すごく明るい茶色の髪をした。あの娘は≪いとこ≫ってよんでる」
「ああ、その通りだ。それで、その≪いとこ≫があの娘に結婚を申し込んでると思うか」
「だと思うよ。二十一の立派な男が、十七の娘にほかに何をするってんだ」
「ダンテスはカタロニア人の家へ行ったって言ったな」
「おれの目の前で出かけてった」
「おれたちも同じ方向へ行って、レゼルヴ亭に腰を据えて、ラ・マルグのワインを一杯やりながら≪しらせ≫を待つとするか」
「誰が知らせてくれるんだ」
「おれたちは道の途中にいることになる。ダンテスの顔つきを見れば首尾がどうかわかるさ」
「よしきた。だが金を払うのはお前だぞ」
「もちろんさ」ダングラールは答えた。
こうして、二人は足を早めて目的地へ向かった。着くと、二人はワインを一本とグラスを二つ運ばせた。
パンフィル爺さんは、つい今しがたダンテスが通るのを見ていた。まだ十分もたっていなかった。
ダンテスがカタロニア人の所にいるのがはっきりしたので、二人はスズカケ、モミジスズカケの芽生えたばかりの葉の下に腰をおろした。枝の中では、一群の鳥たちが春のはじめの美しい日を讃える歌を歌っていた。
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三 カタロニア人
二人の仲間は、目を遠くに向け耳をそばだてながら、泡立つラ・マルグの酒をぐい飲みしていたが、そこからさほど遠からぬ所の、太陽と北風にいためつけられた禿山《はげやま》の陰に、カタロニア人たちの村があった。
むかし、不思議な移住者たちがスペインを発し、今なお存在する小さな岬に上陸した。彼らがどこから来たのかわからなかったし、話す言葉も耳なれぬものであった。プロヴァンス語のわかる彼らのリーダーの一人が、マルセーユ市当局に対して、その裸で不毛な岬を与えてほしいと要求した。彼らは、古代の水夫のように、この岬に彼らの船を引き上げたのである。要求が入れられると、三か月後には、この海の放浪者たちが陸に引き上げた十四、五隻の船のまわりに、小さな村ができた。
半ばモール風、半ばスペイン風に作られた異様な美しさを持つこの村は、今日、彼らの子孫たちが住んでいて、今も、祖先の者たちの言葉を話している。三、四世紀このかた、彼らは、かつて海を渡る鳥のようにいきなり上陸してきたこの小さな岬を離れることはなかった。その間、いかなる点でもマルセーユの住民とかかわりを持つことをせず、結婚も彼らの中だけで行ない、母国の言葉同様に、母国の衣裳と風習を固く守ってきた。
読者諸子には筆者とともに、この小さな村のただ一本の通りをたどり、一軒の家に入っていただかねばならない。外側を、太陽がこの地方の歴史的建造物に特有の、あの美しい枯葉色に染め、内部は、スペインの旅館の唯一の装飾であるあの白い色に塗られている家々の中の一軒である。
漆黒の髪とカモシカの目を思わせるビロードのような目をした美しい娘が、壁にもたれて立っていた。古代の絵に描かれているようなほっそりとした指先で、罪もないヒースをもみしだいている。花はもがれ、地面にその残骸が散らばっていた。その上、肘《ひじ》までむき出しの、日に焼けてはいるが、アルルのヴィーナスの腕を型どったかのような形の良い腕が、焼けるようなある種のいら立たしさにふるえていた。娘は、しなやかに反《そ》らせた足で地面を叩いていた。このため、誇らしげで大胆な非のうちどころのない脚が見えた。灰色と青の刺繍飾りのついた赤い木綿の靴下をはいている。
娘から三歩ほどのところに、二十歳から二十二歳ぐらいの背の高い青年が、椅子に腰をおろし、その椅子をガタガタゆすりながら古い虫の食った家具に肘をもたせて、不安と口惜しさの相剋《そうこく》に苦しむ様子を見せながら、娘を見ていた。彼の目は問いかけるようであったが、娘のきっと相手を見据える目が、相手をおさえていた。
「ねえ、メルセデス」青年はこう言っていた。「もうじき復活祭が来る。結婚の時期だよ、返事をしてくれ」
「私は百回も返事をしたじゃないの、フェルナン。それでもまだ私に聞くなんて、あなたどうかしてるわ」
「そんなら、それを繰り返してくれないか。おれがそれを信じられるようになるまで、それを繰り返してくれ。君のお母さんも認めて下さったおれの愛を、君は拒むのだと、百回目を言ってくれ。君にはおれの幸福などどうでもいいこと、おれの今もおれの死も、君にとってはなんでもないことなのだということを、おれに存分にわからせてくれ。ああ、君の夫になるのを十年ものあいだ夢と描き、おれの人生の唯一の目的だったこの希望を失うとは!」
「そんな希望を持たせ続けたのは、少なくとも私じゃないわよ、フェルナン。あなたに対して、ただの一度だって気を引くようなまねはしなかったわ。私はいつだって『私はあなたをお兄さまのように好きだわ、でもこの兄妹のような気持をそれ以上には取らないでね、私の心は別の人のものなんですもの』こう言ってたのよ。いつもそう言ってたでしょう、フェルナン」
「うん、よくわかってる。君はおれに面と向かうと、はっきりものを言うという、残酷な長所を持つんだ。だが、忘れたのかい、結婚は仲間同士でするというのがカタロニア人の間の神聖な掟《おきて》だということを」
「それは違うわ。掟ではなくて習慣がそうなってるだけよ。言っておくけど、そんな習慣を、自分の都合のいいように引っ張り出さないでほしいわ。あなたは徴兵されているのよ。まだ行かないですんでるのは、猶予《ゆうよ》されてるだけじゃないの。いずれは戦場へかり出されるんだわ。一度兵隊になってしまったら、私をどうする気なの。悲しい孤児《みなしご》で、財産もない。あるものといえば、お父さんからお母さんへ、そしてお母さんから私へと譲られた使いふるしの網がいくつかぶら下がってるこわれかけた小屋一つ。そんな娘をどうするつもり。一年前にお母さんが死んでから、私は、ほとんど他人様のお慈悲にすがって生きてきたってことを考えてちょうだい。ときどきあなたは、私があなたの役に立つんだってふりをするわ。でもそれは、あなたがとった漁の獲物を私に分けるのは当たり前だと思わせるためのもの。私は受け入れたわ。あなたが私のお父さんの兄弟の子供だからよ。私たちが一緒に育ったからよ。それから、なによりも、もし私が断わったら、あなたがあんまり苦しむと思ったからだわ。でもね、フェルナン、私はそのお魚を売ってお金にし、それで麻を買って紡いだけど、そのお魚が、恵まれたものだってことはよくよくわかってるの」
「メルセデス、たとえ君が貧しくて一人ぼっちだって、マルセーユ一の船主の娘より、マルセーユ一金持の銀行家の娘よりおれにとってふさわしいのなら、そんなことはどうだっていいじゃないか。おれたちには何が必要か。貞淑な妻、立派な主婦。この二つの点で、君以上の人を、おれがどこで見つけられるというんだ」
「フェルナン」メルセデスが首をふりながら答えた。
「妻が夫以外の男を愛している場合には、悪い主婦にもなるし、貞淑な妻であり続けるとは答えられないわ。友情だけでがまんしてよ。また繰り返すけど、それしか私にはあなたに約束できるものがないんですもの。私には、たしかにあげられると確信の持てるものしか約束できないの」
「よし、わかった。君は自分の貧しさには辛抱強く耐えられても、おれが貧乏なんでおじけをふるうんだ。そんなら、メルセデス、君が愛してくれたら、おれは運を試してみる。君はおれの幸運の女神だ。おれは金持になる。漁師の仕事を大きくすることもできる。銀行家にだってなれる。おれだって商人になれるんだ」
「あなたには、そんなことはみんなできっこないわ。あなたは兵隊なのよ。このカタロニアの村にいられるのは、戦争がないからなのよ。だから今のまま漁師でいることね。つまらない夢なんか描かないこと。そんなことをすれば、今よりもっと恐ろしい現実があなたの前に現われるわ。だから、私の友情だけでがまんして。私には、ほかのものはあげられないんだもの」
「なるほどもっともだよ。おれは船乗りになる。君が蔑《さげす》む先祖代々の服を捨て、ワニスを塗った帽子をかぶり、横縞のシャツを着て、ボタンに錨《いかり》のついた上着を着るんだ。君に好かれるには、こうしなきゃいけないんだろ」
「それどういう意味なの」と、メルセデスが威圧するような目を向けながら言った。「どういう意味なのよ。私にはわからないわ」
「おれはね、君がそんな服を着ただれかさんを待ちこがれてなけりゃ、このおれにそんなにむごくつらくは当たるまいと言ってるんだ。だがね、お待ちかねの男はたぶん移り気だよ。もし男がそうでないとしても、海は移り気だ」
「フェルナン」メルセデスが叫んだ。「私はあなたを良い人だと思ってたわ。でも私の思い違いだったのね。あなたは神の怒りを自分の嫉妬の味方にしようとするような、悪い心の持ち主なのね。ええ、そうよ、かくしなんかしないわ。私は、あなたの言った人を待ってます。愛してます。そして、もしあの人がもう来なかったら、あなたの言う移り気をあの人に責めるかわりに、私はこう言うわ。あの人は私を愛しながら死んだ、と」
カタロニアの青年が怒りのそぶりを見せた。
「あなたの心はわかってるわ、フェルナン。あなたは、私があなたを愛していないのをあの人のせいにするのね。あなたのカタロニアの短刀と、あの人の短剣とを戦かわせるつもり。それがなんの役に立つと思ってるの。もしあなたが負ければ、私の友情を失うだけ。もしあなたが勝てば、私の友情は憎悪に変わるわ。言っておくけど、ある男に喧嘩を売るのは、その男を愛してる女を喜ばせるには下の下の方法よ。いけないわ、そんな悪い考えを、そんなふうにつき進めてはいけない。私を妻とすることはできなくても、私を一人の友に持つ、妹に持つということでいいじゃないの。それに」と、涙に濡れうろたえた目で彼女はつけ加えた。「待って。待ってよ、フェルナン。あなたもさっき言ったように、海は信用できないわ。あの人が行ってからもう四月《よつき》になる。その四月の間に、私はいくつもの嵐の数を数えたわ」
フェルナンは心を動かされなかった。メルセデスの頬を流れる涙をふいてやろうともしなかった。けれども、その涙をあがなうためならば、その一粒一粒に、彼はグラス一杯分の自分の血液をも与えたことだろう。だがこの涙は、ほかの男のために流された涙なのだ。
彼は立ち上がった。小屋の中をひとめぐりしてから、また戻ってきて、メルセデスの前に足を止めた。暗い目をし、拳《こぶし》を握りしめていた。
「ねえ、メルセデス、もう一度答えてくれ。はっきり心は決まってるのか」
「私はエドモン・ダンテスを愛してます」娘は冷やかに言った。「エドモン以外のだれも夫にはしません」
「いつまでも愛せるか」
「私が生きてる限り」
フェルナンは、落胆しきった男のように頭をたれ、うめき声にも似た溜息をついた。それから、いきなり顔を上げると、歯を食いしばり、小鼻をふくらませて、
「でも、あの男が死んだら?」
「あの人が死ねば、私も死にます」
「もし、あの男が君のことを忘れたら?」
「メルセデス!」家の外で、明るい声が大声に叫ぶのが聞こえた。「メルセデス!」
「あ」と、うれしさに顔を紅潮させ、愛に身をはずませながらメルセデスが叫んだ。「わかったでしょ、あの人は私のことを忘れてなかったのよ。だって、ちゃんと来てくれたんですもの」
彼女はドアのほうへ飛んでいって、こう叫びながらそのドアを開けた。
「こっちへ来て、エドモン。私はここよ」
フェルナンは、色青ざめて、身をおののかせながら、ヘビを見た旅人のように後ずさりし、椅子につきあたると、崩れるように腰をおろした。
エドモンとメルセデスは抱きあっていた。開いたドアからマルセーユの強烈な太陽が、二人に光を浴びせていた。はじめは、二人とも周囲のものはなにも見なかった。大きな幸福感が彼らを世界から隔絶していたのだ。あまりに激しい喜びの発露であるために、苦しいときのうめき声のように聞こえる、あのきれぎれな言葉を交わすだけだった。
と、急にエドモンは、暗がりの中に浮かぶ、青ざめ、敵意に燃えたフェルナンの姿を見た。カタロニアの青年は、自分でも気がつかずに、ベルトにさした短刀をつかんでいた。
「ああ、失礼しました」とダンテスは、彼も眉をしかめて言った。「あなたがいるのに気がつかなかったもんですから」
そして、メルセデスのほうをふり向いて、
「このかたは誰」と、訊ねた。
「この人は、あなたの一番いいお友達になる人よ。だって、私のお友達なんですもの。私のいとこ、私のお兄さんなの。フェルナンよ。つまり、あなたの次に、私が世界中で一番好きな人。見覚えがない?」
「ああ、知ってる」
エドモンが言った。
そして、一方の手でメルセデスの片手を握ったまま、メルセデスを離さずに、もう一方の手を、心をこめてカタロニアの青年にさしのべた。
だがフェルナンのほうは、この友情のこもったしぐさに答えようともせず、まるで石像のようにおし黙ったまま、身動きひとつしなかった。
そこでエドモンは、さぐるような目を、おろおろしふるえているメルセデスに向け、さらに、暗い挑みかかるようなフェルナンの顔に向けた。
こうした二人を見ただけで、彼にはすべてがわかった。
怒りが彼の額に表われた。
「メルセデス、これほど急いで君の所へやって来たのに、敵に会おうとは思わなかったよ」
「敵ですって」いとこに怒りに燃えた目を向けてメルセデスが叫んだ。「エドモン、私の家にあなたの敵が、とおっしゃったのね。ほんとに私がそう思うなら、私はあなたをかかえてでもマルセーユヘ行くわ。そして、もう二度とここへは帰らない」
フェルナンの目が光った。
「あなたにもしものことがあったら、エドモン」と、メルセデスは続けた。フェルナンが心の奥底に秘めていた兇暴な考えを見抜いたことを示す、やはり手のつけられぬほど落着きはらった口調だった。「あなたにもしものことがあったら、私はモルジウー岬に登って、まっさかさまに岩の上に身を投げます」
フェルナンの顔が恐ろしいまでに青ざめた。
「でも、エドモン、違うのよ」彼女がさらに続ける。「ここにはあなたの敵なんかいない。私のお兄さまのフェルナンしかいないわ。心からのお友達として、あなたの手を握るはずよ」
こう言って、娘は命令するような目で、じっとカタロニアの青年を見据えた。まるでその視線に魅入られたように、フェルナンはゆっくりエドモンに近づき、手をさしのべた。彼の増悪は、力ない波のように、激しくはあっても、その娘が彼に及ぼしている力の前に砕けたのである。
しかし、エドモンの手に辛うじて触れたとたんに、フェルナンは、それ以上のことはとてもできない自分を感じて、家の外へ飛び出した。
「ああ!」気が狂ったように走りながら、両手を髪の中に埋めて彼は叫んだ。「だれかあいつをおれの前からいなくしてくれる者はいないか。おれは不幸だ、このおれは!」
「おーい、カタロニアのお人! おーい、フェルナン」
と、呼ぶ声がした。
青年はぴたっと足を止め、あたりを見まわした。そして、木陰でダングラールとテーブルの前に坐っているカドルッスの姿を見つけた。
「おい、どうしてこっちへ来ないんだ」カドルッスが言う。「友達に挨拶する暇もないほど急いでんのか」
「その友達の前には、ほとんど口つかずの酒びんもあるっていうのにさ」
ダングラールが言いそえた。
フェルナンはぼんやりした表情で二人の男を眺めた。そしてなにも答えなかった。
「まるっきり、ぼやっとしてるな」と、カドルッスの膝を押しながら、ダングラールが言う。「おれたちは見込み違いしてたのかな。思ってたようにはならないで、ダンテスが勝ったんじゃないか」
「なあに、まだわかるもんか」
こう言って、カドルッスは青年のほうに向きなおり、
「ええおい、カタロニアのお人、こっちへ来る気になったかね」
フェルナンは額を流れる汗をぬぐい、のろのろと青葉棚の下に入って来た。木陰が彼の激した感情をいくらか静め、その涼しさが、疲れきった肉体に安らぎを与えたようである。
「今日は。お呼びでしたね」
こう言うと、そのテーブルのまわりにあった椅子に、腰をおろすというよりは、むしろ倒れこんだ。
「あんたがまるで気が狂ったみたいに駈け出してて、海へでも飛びこむんじゃねえかと思ったから呼んだのよ」カドルッスが笑いながら言った。「だってよ、友達ってものは、酒を一杯おごるばかりが能じゃねえ。海の水を二杯も三杯も飲むのは止めさせなきゃ」
フェルナンはすすり泣きのようなうめき声を洩らし、頭を、テーブルの上に交差させた両拳の上に落した。
「それじゃ、こっちから言うがね、フェルナン」好奇心が礼儀もなにも忘れさせてしまう庶民の下司《げす》な根性をむき出しにして、カドルッスが口をきった。「あんた、まるでふられた恋人って顔してるぜ」
こう軽口をたたきながら、彼はげらげら笑った。
「馬鹿言え」とダングラールが答える。「こんな見事な身体をしている男が、ふられるはずがあるもんか。からかうのはよせよ、カドルッス」
「いやいや、このお方の溜息を聞いてみろ。さあさあ、フェルナン、その鼻面をこっちに向けて、おれたちに返事をしろや。ご機嫌いかがと聞いている友達に、返事もしねえって法はないぜ」
「身体の具合はいいんです」拳を握りしめながら、だが顔は上げずにフェルナンが答えた。
「は、はあ。わかるかダングラール」と、仲間に目くばせをしながらカドルッスが言う。「事の次第ってのはこうだ。あんたの目の前にいるマルセーユ一の漁師、善良で立派なカタロニアの若者フェルナンは、メルセデスという美人に惚れてる。ところがまずいことに、その美人のほうは、ファラオン号の一等航海士に首ったけ。で、ちょうど今日そのファラオン号が帰って来たもんだから。わかるか」
「いや、わからん」
「可哀そうにフェルナンはお払い箱ってわけだ」
「だからどうしたというんです」と、フェルナンが顔を上げ、カドルッスをみつめながら言った。彼は、だれか自分の怒りをぶつける相手はいないか、と思っていたのだ。「メルセデスはだれのものでもない、そうでしょう。だから、どんな男が好きになろうと、あの娘の勝手じゃないか」
「いや、あんたがそう思ってるなら話は別だ」カドルッスが言った。「おれはあんたを、カタロニアの男とばかり思ってた。カタロニアの男ってなあ、恋仇に恋人を乗っ取られて黙ってるような男じゃねえって聞いたがなあ。それに、フェルナンて男は、敵にまわしたらおっそろしく手強い奴だって話だったぜ」
フェルナンは自潮するような笑いを浮かべて、
「惚れたとなると、男は弱いもんだ」
「可哀そうになあ」と、ダングラールが、さも心の底からフェルナンを気の毒に思っているかのように口を開いた。「お前どう思う、フェルナンはこんなに急にダンテスが帰ってくるとは思ってなかったんじゃないかな。たぶん、死んじまったか、気が変わったか、ぐらいに考えてた。こんなことは、いきなりやって来やがるだけに、なおのことこたえるってわけだ」
「そうだとも、が、いずれにしろ」と、しゃべりながらも酒を飲み続けていたカドルッスが言った。泡立つラ・マルグのワインがそろそろまわりはじめている。「いずれにしろ、ダンテスが無事に帰ってきたんで困ってるのはフェルナンだけじゃねえ、そうだろ、ダングラール」
「そう、そのとおりだ。それに、そいつがもとで、やつはひどい目に会いそうな気がするんだがな」
「そんなこと言ったって」と、カドルッスはフェルナンのグラスに酒を注ぎ、自分のグラスにも九杯目か十杯目の酒を注ぎながら言った。ダングラールはほとんどグラスに口もつけていなかった。「そんなこと言ったって、それまでにゃあ、やつはメルセデスと結婚しちまう、美人のメルセデスとな。少なくとも、やつはそのために帰って来たんだ」
カドルッスがしゃべっているあいだ、ダングラールはつき刺すような目をフェルナンにそそいでいた。カドルッスの一語一語がフェルナンの心に、煮えたぎる鉛のように滴り落ちていた。
「で、式はいつだ」
と、ダングラールは訊ねた。
「まだ、ちゃんと決まったわけじゃない」
フェルナンはつぶやいた。
「まだだ。が、いずれ式は上げるさ」カドルッスが言った。「ダンテスがファラオン号の船長になるのと、おんなしぐらい確かだ。そうだろ、ダングラール」
この思いがけない不意打ちに、ダングラールはびくっとした。そして、カドルッスのほうに向きなおり、この攻撃が予《あらかじ》め計算されてのものかどうかを確かめるために、今度は彼のほうがカドルッスの顔をうかがった。だが、すでに酔いがまわってぼやけてしまったその顔に読み取れたものは、妬《ねた》みの色だけであった。
「それじゃ」と、みんなのグラスを満たしながら、ダングラールは言った。「美しいカタロニアの娘の新郎、エドモン・ダンテス船長のために乾杯しようじゃないか」
カドルッスは、だるくなった手でグラスを口に運び、一気に飲みほした。フェルナンは自分のグラスを手にすると、それを地面に叩きつけた。
「おや、おや、あれは何だ」カドルッスが言った。「山の上、カタロニア村のほうだ。見てみろ、フェルナン、あんたのほうがおれより目がきくからな。どうやらおれの目はかすみかけてやがる。まったく、酒ってやつはくせ者だ。よりそってならんだ恋人同士らしいがな、お手手つないでさ。神様、お許しのほどを、やつら、おれたちに見られてるなんて思っちゃいねえ。あ、キスしてら」
ダングラールは、目に見えてゆがんだフェルナンの顔の、苦悶の表情の一つをも見逃さなかった。
「フェルナン君、あの二人を知ってるかね」
と、彼は言った。
「ええ」聞こえるか聞こえないぐらいの声でフェルナンが答えた。「エドモンとメルセデスです」
「ほら、どうだい」カドルッスが言う。「おれにゃ誰だかわからなかった。おーい、ダンテス、おーい、別嬪《べっぴん》さん、ちょっとこっちへ来いよ。式はいつなんだ。てのは、ここにいるフェルナン君は、どうしてもそいつを教えてくれないんでね」
「黙らないか」ダングラールが、酔っぱらい特有のしつこさで、木陰から身をのり出しているカドルッスを、とめるふりをしながら言った。「自分の場所を動くな。恋人はそっとしといてやれ。ほら、フェルナンを見てみろ。お手本にするんだ。この人はものわかりが良い人だぞ」
おそらくフェルナンは、闘牛士の槍に猛り狂わされた猛牛のように、ダングラールの言葉に怒りをかきたてられ、こらえ切れなくなって、飛び出していくところだったのだろう。すでに立ち上がっていたし、仇にとびかかるため身を縮めているようであった。しかし、このとき、笑みをたたえ身体をまっすぐにのばしたメルセデスが、その美しい顔を上げ、澄んだ瞳を輝かせた。と、フェルナンは、もしエドモンが死ねば私も死ぬ、と彼を脅したメルセデスの言葉を思い出し、力なく椅子に腰をおとしたのであった。
ダングラールは、この二人の男をつぎつぎに眺めた。一人は酔い痴《し》れており、一人は恋のとりことなっている。彼はつぶやいた。
「こんな馬鹿者どもは、おれの役に立ちそうもないな。酔っ払いと腰抜けにはさまれてちゃ心配でしょうがない。片方は、妬み屋のくせに酒に酔ってやがる。妬みで逆上しなきゃならない場合なのに。もう片方は、鼻の先で恋人を取られちまったのに、子供みたいにただめそめそと泣き言を並べるだけのふぬけ。こいつは恨みは必ずはらす執念深いあのスペイン、シチリア、カラブリアの連中のように、燃えるような目をしてるのに。こいつの拳は、牛殺しの槌《つち》より確実に牛の頭もぶち割れるのにな。もちろんエドモンの運のほうが勝ちさ。やつは、あのきれいな娘を嫁にするさ。船長にもなって、おれたちを馬鹿にするさ。ただし…」ダングラールは唇に、蒼白い微笑を浮かべた。「ただし、このおれがなにもしなければの話」
「やい」カドルッスが、なかば立ち上がり、拳をテーブルに置いてわめき続けた。「やい、エドモン、友達のいるのが見えねえのか。それとも、もう偉くなっちまって、おれたちにゃ口もきけねえってのかよ」
「とんでもない、カドルッス」ダンテスが答えた。「偉いとなんか思ってない、そうじゃなくて、僕は幸せなんだ。偉いなんてことより、幸せっていうのは盲目なものらしい」
「そいつはよかった。よくわかったぜ」カドルッスが言う。「ええ、ダンテスの奥さん、今日は」
「まだ奥さんじゃありません。それに私の国では、フィアンセがまだ夫になってないのに、フィアンセの名前で娘を呼ぶと、不幸になるって言われてるんです。ですから、私をメルセデスって呼んで下さい」
「隣のカドルッスさんを許してやってくれよ」ダンテスが言った。「たいした間違いじゃないもの」
「すると、じきに式ってわけかな、ダンテス」
と、ダングラールが若い二人におじぎをしながら言った。
「ダングラール、できるだけ早く、だ。今日父の家で婚約をすませて、明日か、遅くとも明後日には婚約披露宴を、ここ、レゼルヴ亭でやる。友たちはみな来てほしいと思ってる。ということは、ダングラール、あなたも来てほしい。カドルッス、あなたもだ」
「で、フェルナンは」と、ねばっこく笑いながらカドルッスが言った。「フェルナンも招《よ》ぶのかね」
「妻の兄は僕にとっても兄だ。だから、こんな時に、その人が僕たちから離れてたら、メルセデスも僕も、心から残念に思うさ」
フェルナンはなにか答えようとして口を開いた。しかし声は喉の奥で消えてしまい、彼は一言も口から出すことができなかった。
「今日婚約、明日か明後日婚約披露…そいつは、またばかに急いだもんですねえ、船長」
「ダングラール」笑いながらエドモンが言った。「さっきメルセデスがカドルッスに言った言葉をそのまま言うよ。まだ僕にはふさわしくない肩書きでは呼ばないでほしい。不幸になるから」
「すまなかった」ダングラールが答えた。「じゃあ、ひどくお急ぎのようだ、とだけ言ったことにしよう。だって、われわれには十分ひまはあるじゃないか。ファラオン号は三か月たたなきゃ出港しないんだ」
「人はいつでも早く幸せになりたがるもんだよ。長いあいだ苦しいことばかり続くと、なかなか幸福が信じられないものなんだ。でも、こんなに急ぐのは、自分のためばかりではないんだ。僕はパリヘ行かなきゃならない」
「ほう、そうか、パリヘ。パリヘ行くのは初めてか、ダンテス」
「うん」
「なにか用事でも」
「僕のじゃない。亡くなったルクレール船長の最後の用事をしにね。わかるだろ、ダングラール、これはどうしてもやらなきゃならない。それに、大丈夫だよ、往き帰りの時間しかかからないから」
「うん、うん、わかった」
はっきり声を出してこう答えてから、ダングラールは、小さな声で、
「パリヘ行くのは、侍従長から預けられた手紙を届けに行くためだ。ありがたい! あの手紙が、おれにいいことを、すばらしい考えを思いつかせたぞ。ダンテス君よ、お前はまだ、ファラオン号の船員名簿の筆頭には記載されてないのだ」
こうつぶやいてから、エドモンのほうを向いて、立ち去って行く姿に、
「元気で行って来いよ」
と、叫ぶのだった。
「ありがとう」
ふり向きながらダンテスが答え、友情のこもった身ぶりを示した。
それから二人の恋人は、まるで天に登ることを許された者のように、ゆっくりと、そしてうれしそうに、道を歩み続けていった。
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四 陰謀
ダングラールは、二人の恋人がサン・ニコラの砦の角に消えるまで、その姿を目で追っていたが、姿が消えたのでふり向くと、フェルナンが、顔青ざめて身をおののかせながら、また椅子に腰をおろしていた。カドルッスは、酒席の歌を、ぶつぶつと口ずさんでいる。
「ははあ、ねえ君」とダングラールはフェルナンに言った。「この結婚は、だれもかれもうれしくなるってものでもなさそうだね」
「なにもかもおしまいです」
「メルセデスが好きだったんだね」
「心の底から」
「ずっと前から?」
「知り合ってからずっと、いつでも好きだった」
「それなのに、きちんとけりをつけもせずに、そこで髪をかきむしってるだけなのか。なんてことだ。私は君の国の人たちのやり方が、そんなふうだとは思わなかったよ」
「どうしろって言うんです」
「私が知ってるわけがないじゃないか。私のことか、いったいこれは。メルセデスに惚れてるのは私じゃなくて、君だと思うがね。探せ、さらば見出さん、福音書にもあるぜ」
「もうみつけたんです」
「何を」
「男を刺そうと思った。でも、女が、私のフィアンセにもしものことがあったら、自殺するって、おれに言ったんだ」
「馬鹿な、そんなことを言うもんだよ、だが決してほんとうにやりやしない」
「あなたはメルセデスをご存じないんです。あの娘は、一度宣言したら、必ずやる」
『阿呆め』ダングラールはつぶやいた。『あの娘が自殺しようがしまいが、おれの知ったことか。ダンテスさえ船長にならなきゃいいんだ』
「メルセデスが死ぬんなら」と、フェルナンが不動の決意をこめた口調で口を開いた。「おれのほうが、その前に死ぬ」
「これぞまさしく、ほんとの恋ってやつだ」カドルッスが、次第に酔いのまわった声で言った。「これぞまさしくだ。さもなきゃ、恋ってやつあ、おれにゃわからねえ」
「ねえ君」とダングラールが言った。「君はいい青年のようだ。だから私は、ええい、絶対に君をその苦しみから救ってやる。だが…」
「そうとも」カドルッスが言った。
「おい、お前はもうあらかたできあがってるぞ」ダングラールが言う。「その壜《びん》をあけちまえば、すっかり仕上りだ。飲め、そして、こっちのしてることに口を出すな。こっちのしてることは、頭がはっきりしてなきゃだめなんだ」
「おれが酔ってるだと。てやんでえ。オーデコロンのびんぐれえしかねえおめえの酒なんざ、まだ四本もあけてやらあ。パンフィル爺さん、酒だ!」
こう言って、カドルッスは自分の注文が本気だと思わせるために、グラスで机を叩いた。
「何て言ってたんですか」
途中で切れてしまった相手の言葉の続きを、早く聞きたくてじりじりしていたフェルナンが口を開いた。
「何てったんだっけな。忘れちまったよ。酔払いのカドルッスのやつに、考えてた話の続きを切られちまった」
「酔払いだよ、おっしゃる通り。酒をこわがるやつらはお気の毒さまってわけだ。悪い了見《りょうけん》を持ってるからこそ、酒につい口がすべって腹ん中を見せちまうんじゃねえかとびくびくしてやがるんだ」
カドルッスはその頃非常にはやった歌の最後の二行を歌い始めた。
悪いやつらは水を飲む
なにより証拠のノアの洪水
「あなたは言ってました、おれをこの苦しみから救ってやるって。『だが』って言いかけたんです」フェルナンは言った。
「そうだった、だが、と私はつけ加えたんだっけ……君をその苦しみから救うには、君の好きな娘とダンテスが結婚しなきゃいい。ところでその結婚は、ダンテスが死ななくたって、十中八、九お流れになりそうなんだ」
「死よりほかに、あの二人を引き離すものはありませんよ」
「こちこちの石頭だな、あんたは」と、カドルッスが言った。「ここにおいでのダングラールは、悪賢くて、ずるくて、ギリシア人みてえなお人だ。あんたが間違ってるってことをすぐ見せてくれるぜ。見せてやんなよ、ダングラール。おれはおめえのことを請けあったんだ。ダンテスが死ぬ必要はねえってことを言ってやんな。それに、ダンテスが死んじゃいけねえ。あいつはいいやつで、おれは、このおれはやつが好きなんだから。達者でいろよ、ダンテス」
いらいらして、フェルナンは立ち上った。
「言わせておけよ」と、ダングラールが青年を引きとめながら言った。「だいたい、こいつはすっかり酔払っちまってるんだ、あんまり咎《とが》めることもないさ。遠く離ればなれになってしまえば、死んでいるのも同じことだ。エドモンとメルセデスの間に、牢屋の壁があるとしたら、墓石がそこにあるのとまるっきり同じように、あの二人は離ればなれってわけだろう」
「うんだ。だけどよ、牢屋からはいつかは出るぞ」と、まだいくらか残っていた理性をかき集めて、カドルッスが話しにまといついてきた。「牢から出りゃ、しかもエドモン・ダンテスと呼ばれるからにゃ、きっと仕返しはするぜ」
「かまうものか」フェルナンがつぶやく。
「それによ」カドルッスがなおも言った。「どういう理由でダンテスを牢にぶちこむんだ。やつは、盗みも、人殺しも、闇討ちもやってやしねえ」
「黙ってろ」と、ダングラールが言った。
「いや黙らねえ。どういうわけでダンテスが牢にぶちこまれるんだか、聞きてえもんだ。おれは、やつが好きなんだ。ダンテス、おめえの健康を祝して乾盃だ」
こう言って、カドルッスはまたグラスを飲みほした。
ダングラールは、仕立屋のどんよりした目の中に、酔いがまわっていくのをじっと見ていたが、フェルナンのほうを向くと、
「だから、わかったな、あれを殺さなくてもいいってことが」
「ええ、まったくです。あなたがさっき言ったように、もし、ダンテスを逮捕させる方法があるのなら。でもそれが、あなたにはそれがあるんですか」
「よくよく探してみれば、きっとみつかるさ」とダングラールは言い、「だがね」とさらに続けた。「これはいったいぜんたい、私が首をつっこむことかな。私にかかわりがあるのかな」
「あなたにかかわりがあるかどうか、おれにはわかんないけど」フェルナンが、ダングラールの腕を掴みながら言った。「わかってるのは、あなたにはダンテスを特別憎むわけがあるってことだけだ。人を憎む人なら、他人の気持をとり違えることはない」
「私にダンテスを憎むわけがあるだって。誓って言うが、ぜんぜんないね。君が辛そうにしているのを私は見た。君の辛さが私の心を打った、それだけだよ。だが、私が、私自身のためになにかしようとしてるなどと君が思ってるんじゃ、さよなら、だ。ま、なんとか自分でやってみるんだな」
ダングラールは、今度は彼のほうが立ち上るふりをした。
「とんでもない」フェルナンがそれを引きとめながら言った。「待って下さい。結局のところ、あなたがあいつを憎んでいようが、憎んでいまいが、そんなことはおれにはどうだっていいんだ。おれはあいつを憎んでる。声を大にして言ってやる。なにか方法をみつけてください。男が死ななくていいんなら、あとはおれがやる。だって、メルセデスが、ダンテスを殺したら自分も死ぬって言ったんだ」
カドルッスは、テーブルに頭をのせてしまっていたが、顔を上げ、フェルナンとダングラールを、どんより鈍い眼差しでみつめた。
「ダンテスを殺すだと! 誰がダンテスを殺すなんて言ったんだ。やつを殺させなんぞしねえぞ。やつはおれの友達だ。今朝も、やつは自分の金をおれに分けてくれようとした。おれがやつに、以前おれの金を分けてやったようにな。おれはダンテスを殺させなんぞしねえ」
「馬鹿だなあ、誰があいつを殺すなんて言った。ただの冗談だ。あいつのために飲め」こう言って、ダングラールはカドルッスのグラスを満たし、さらにつけ加えた。
「われわれをほっといてくれ」
「よし、よし、ダンテスのために乾盃だ」カドルッスはグラスをあけた。「やつのために乾盃だ……乾盃だ……」
「でも、方法は。どうすればいいんです」
フェルナンが言った。
「なんだ、君はまだみつけられないのか、ええ?」
「ええ、あなたがみつけてやるって言ったじゃないか」
「そのとおり。フランス人がスペイン人よりも優れているのは、スペイン人が思いまどうのに対して、フランス人は考え出すという点だ」
「それじゃ、考え出してください」
フェルナンがじりじりして言った。
「ボーイ、ペンとインクと紙を持ってきてくれ」ダングラールは言った。
「ペンとインクと紙」フェルナンがつぶやいた。
「そう、私は会計係だ。ペンとインクと紙は私の商売道具。これがなけりゃ、私はなにもできない」
「ペンとインクと紙をくれ」
今度はフェルナンがどなった。
「そこのテーブルの上にありますよ」
と、ボーイが頼まれた物を指さしながら答えた。
「じゃ、そいつを持って来てくれ」
ボーイは、紙とインクとペンを持ち、それを木陰のテーブルの上に置いた。
「考えようによっちゃ」と、カドルッスが、その紙の上に手を落して言った。「闇討ちをくらわせるために森の角で待伏せするより、もっと確かに誰かを殺せる道具がそろってるようだな。おれはいつだって、一本のペン、一びんのインク、一枚の紙きれのほうが、剣やピストルなんかより、ずっと恐ろしいと思ってたのさ」
「この阿呆は、まだみかけほど酔ってはいないんだな」ダングラールが言った。「フェルナン、こいつに酒を注げ」
フェルナンがカドルッスのグラスを満たすと、正真正銘の飲んべえのカドルッスは、紙の上から手を放し、その放した手でグラスを持った。
この新たな攻撃にほとんど屈服して、カドルッスが、グラスをテーブルの上に置くというより落してしまうまで、カタロニアの青年は、その動きをじっと見ていた。
「それで?」
と、わずかに残っていたカドルッスの頭の働きが、この最後の一杯の酒で消え失せるのを見て、フェルナンがまた口を開いた。
「それでだ、たとえば、私はこう言いたかったのだ。ダンテスの今度の航海、その途中であいつはナポリとエルバ島に寄っている。こんな航海の後で、もしだれかが、国王の検事にあいつをボナパルト派だと告発したとしたら……」
「おれが、このおれが告発してやる」
と、青年が勢いこんで言った。
「よし。だがな、そうなると、その告発状に、君はサインさせられることになる。君が告発した男と、君は対決するわけだ。もちろん私が、君の告発を裏付けるものは提供してやる、よく知ってるんだから。だがな、ダンテスは永久に牢にいるわけじゃない。いつかは出てくる。牢にぶちこんだやつにとっては災難だ」
「おれの望みは一つしかない、あいつがおれに喧嘩を売りに来ることだ」
「そう。だが、メルセデスはどうする。君が、あの娘の大好きなエドモンの皮膚を、ほんのちょっと傷つけただけでも、メルセデスは君を憎むぞ」
「そのとおりだ」
「だめ、だめ。こういう事をやろうと心に決めたからには、いいか、こんな具合に、このペンをとり、インクにひたし、筆跡がわからぬように左手で、こんな内容のごく簡単な告発状を書くだけでいいのさ」
こう言って、ダングラールは、この教訓の模範を示すように、左手で、彼のいつもの筆跡とは似ても似つかぬ、逆にそり返った書体で、次のような数行をしたため、フェルナンに渡した。フェルナンはそれを低声《こごえ》で読んだ。『国王ならびに教会に忠実なる者として、検事閣下に対し、以下のことをお知らせ申し上げます。ナポリ、ポルト=フェライヨに寄港後、今朝スミルナより帰港したファラオン号の一等航海士エドモン・ダンテスは、ミュラー〔ナポレオンの義弟。ナポリ王国を与えられ、当時ナポリにいた〕より簒奪者〔ナポレオンのこと〕宛の手紙、および簒奪者よりパリのボナパルト委員会宛の手紙を託されました。
ダンテスを逮捕なされば、その証拠を入手できるでありましょう。この手紙は、彼の身辺、彼の父親の家、もしくはフェラオン号上の彼の船室内で発見されるはずであります』
「どんなもんだい」とダングラールが続けた。「こうなれば、君の復讐は一般的な意味を持つことになる。どっちにころんでも、君にそのお返しが来るようなことはないわけだ。事はひとり歩きするだけだ。この手紙を、こういうふうに折りたたんで、その上に、『検事殿』と書きさえすれば、もうそれでいい。万事終りさ」
ダングラールはおどけた様子で宛名を書いた。
「うんだ、万事終りだ」と、残った最後の思考力をふりしぼって、手紙の朗読を聞いていたカドルッスが大声を出した。彼は、このような告発が、どんな不幸をもたらすかを本能的に理解したのである。「うんだ、万事終りだ。ただしだ、そいつは汚ねえぞ」
こう言うと、彼はその手紙を取ろうとして腕をのばした。
「だから」と、ダングラールが、手紙を手の届かない所へ押しやりながら言った。「だから、おれが言ってることも、これは冗談なんだ。おれだって、ダンテスになにか悪いことが起こるとしたら、いの一番に腹を立てるさ、あんな良いやつにな。だから、ほら……」
彼はその手紙を手にとると、手の中でくしゃくしゃにまるめて、青葉棚の隅に放り投げた。
「ああよかった」と、カドルッスが言った。「ダンテスはおれの友達だ。あいつに悪いことをするのは黙ってられねえ」
「誰がいったいあいつに悪いことをしようなんて考えてるんだ。おれでもなきゃフェルナンでもない」
ダングラールは立ち上りながら、そして、坐り続けてはいたが、横目で、片隅へ投げ棄てられた告発状を見ているフェルナンの顔を見ながら言った。
「そうときまれば」と、カドルッスが言う。「酒を持って来い。エドモンと美人のメルセデスのために乾盃だ」
「もう飲み過ぎてるぞ」ダングラールが言う。「この上飲み続けたら、ここへ寝なきゃならないぞ、もうすでに、立ってられないくせに」
「おれが」カドルッスは、酔払い特有の強がりを見せて立ち上がりながら言った。「このおれが立ってられないだと。アクールの鐘楼にだって登ってみせらあ、ふらついたりなんぞしねえでな」
「よしよしわかった。そのとおりだ。だがそいつは明日にして、今日はもう帰る時刻だ。腕をよこせ、帰ろう」
「帰ろう。だがな、帰るのにおめえの腕なんかいらねえ。フェルナン、おめえも来るか。おれたちとマルセーユへ行くか」
「いえ、おれはカタロニア村へ帰る」
「そいつはよくねえ、おれたちとマルセーユヘ来な」
「おれ、マルセーユには用がないし、行きたくない」
「どうしてそんなこと言うんだ。行きたくねえのか、そんなら、まあ好きにしな、人みな自由だ。ダングラール、来い。このお方にゃ、カタロニア村へ行かせようじゃねえか、それがお望みだってんだから」
ダングラールは、カドルッスが素直になったこの瞬間を捉えて、マルセーユのほうへ彼を引っぱっていった。ただし、フェルナンが、より近く、より楽に行けるように、自分はリヴ=ヌーヴ岸壁を通るかわりに、サン=ヴィクトールの門を通って帰るのであった。カドルッスは、ダングラールの腕にぶら下り、よろめきながらついて行った。
二十歩ほど歩いたとき、ダングラールは後ろをふり返り、フェルナンが、例の紙片にとびつき、それをポケットに入れるのを見た。すぐさま、青葉棚の下から飛び出したその青年は、ピヨンの方向へ曲って行った。
「あれ、あいつは何してるんだ」と、カドルッスが言った。「やつは嘘をついたな。カタロニア村へ行くってったのに、町のほうへ行くじゃねえか。おーい、フェルナン、道が違うぞ」
「お前の見間違いだよ」ダングラールが言った。「あいつはヴィエーユ・ザンフィルムリーのほうへ、まっすぐ行ってるぞ」
「ちげえねえ。おれはたしか、やつが右へ曲ったと思ったんだが。まったく酒ってやつはくせものだ」
「よし、よし」ダングラールはつぶやいた。「今や事はおっ始まった。あとはもう、ひとり歩きしてもらうだけさ」
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五 婚約披露
翌日はよく晴れた日であった。一点のかげりもないまばゆい太陽が昇り、真紅の陽光が、泡立つ波頭を、ルビーのように色どっていた。
披露宴が、われわれがすでに知っている、あの青葉棚のあるレゼルヴ亭の二階に用意されていた。五つか六つの窓から光の差しこむ大広間で、一つ一つの窓の上には(理由はまるでわからないが)、フランスの大きな町の名が書かれていた。
これらの窓にそって、建物のほかの部分と同じように、木のバルコニーがめぐらされていた。
披露宴は正午ということになっていたが、十一時になると、もうこのバルコニーには、待ちかねた客たちが歩きまわっていた。それは、ファラオン号の船員の中から選ばれた者たちと、ダンテスの友人の兵士たちであった。みな、二人の婚約者に敬意を表して、最上の身なりをしている。
ファラオン号の船主が、一等航海士の披露宴に列席の栄誉を与えるとの噂が、列席者たちの間に流れていた。しかし、、ダンテスにこれほどの名誉が与えられるとは、誰しもまだ信じかねるのであった。
だが、カドルッスと一緒にやって来たダングラールも、この話をほんとうだと言うのだ。ダングラールはその朝モレル氏に会い、モレル氏自身が、レゼルヴ亭へ昼に来ると言ったという。
事実、二人のすぐ後から、モレル氏がその部屋に入ってきて、いっせいにわきおこったファラオン号の船員たちの歓声に迎えられた。船主の臨席は、彼らにとっては、ダンテスが船長に任命されるであろうとの、すでに流れている噂を裏書きするものであった。ダンテスは船の上では非常に好かれていたから、この善良な者たちは、船主の人選が自分たちの望みと、はからずも一致したことに対して、こうして感謝の意を表わしたのだった。モレル氏が入ってくると、人びとはただちにダングラールとカドルッスを、婚約者であるダンテスのもとに差し向けた。これほどのセンセーションをまきおこした重要人物の到来を彼に知らせ、早く来るように伝えるのがこの二人の役目であった。
ダングラールとカドルッスは走って行ったが、百歩も行かぬうちに、火薬庫の所で、向うからやって来る数人の人の群れを見た。
それは、メルセデスに付き添う、彼女の友達でやはりカタロニアの娘たち四人と、新婦となるべき娘に腕をかしているエドモンであった。メルセデスのそばにはダンテスの父親がおり、みなの後からは、暗い笑みを浮かべたフェルナンがついて来た。
メルセデスもエドモンも、フェルナンのこの暗い笑みには気がつかなかった。可哀そうに、二人は、あまりにも幸福で、自分たちと、彼らを祝福するかのような澄みきった空のほかは、なにも見えなかったのだ。
ダングラールとカドルッスは、与えられた使命を果した。そして、エドモンと、力のこもった親しい握手をかわした後に、ダングラールはフェルナンの横に、カドルッスは父親のダンテスの脇にならんだ。この位置が、一番みなの注目を集める場所だったのだ。
この老人は、すばらしいタフタの服を着ていた。切子《きりこ》面のついた鉄のボタンがついている。細いがたくましい脚は、遠くから見てもイギリスの密輸品と思える、班点模様のついた見事な靴下に包まれ、目にも鮮やかであった。三つの角《つの》のついた帽子から垂らされた白と青のリボンが波うっている。
そうして、古代の牧人の杖のような、ねじくれ、上の方が曲がっている木の杖をついていた。その姿は、一七九六年に、新たに開かれたリュクサンブールやチュイルリーの公園を闊歩《かっぽ》した、粋《いき》を誇った王政主義者を思わせた。すでに述べたように、この老人の脇にカドルッスが割りこんだのである。カドルッスは、これからうまい食事にありつけると思うと、もうすっかりダンテス親子と打ちとけた気になっていた。彼の記憶の中には、前夜の出来事が、ちょうど眠っている間に見た夢の名残りが翌朝目覚めた際の頭の奥に浮かぶように、おぼろげな姿をとどめていた。
ダングラールはフェルナンに近づきながら、探るような目をこの失意の恋人に向けた。フェルナンは新郎新婦の後を歩いていたが、メルセデスの念頭にはまったくフェルナンは存在しなかった。あの子供っぽいそして心楽しい恋の利己心から、メルセデスには彼女のエドモンしか目に入らなかったのだ。フェルナンの顔は蒼白であった。かと思うといきなり紅潮することがあったが、そのたびごとに、その赤みは消え、さらに色青ざめるのであった。ときおり彼はマルセーユのほうを見た。そんなとき彼は、無意識にびくんと身をおののかせるのだった。フェルナンは、なにか大きな事件が起きるのを待っている、少なくともそれを予期しているようである。
ダンテスの服装は単純なものであった。商船の乗組員だったので、海軍の制服と平服の中間の服を着ていた。この服を着けた彼の顔色は、フィアンセの美しさとうれしそうな様子に、いやが上にも輝き、一点のかげりもなかった。
漆黒の瞳と珊瑚《さんご》のような唇のメルセデスは、ギリシアのキプロスかケオスの女のように美しかった。彼女はアルルやアンダルシアの娘の、あの軽やかで無邪気な足どりで歩いていた。都会の娘ならば、その喜びをヴェールの下に、少なくともそのつややかなまつ毛の下に隠そうとしたであろうが、メルセデスは笑みをたたえ、周囲の者すべてに視線を注いでいた。その笑みと目差しとは、言葉ほどにも雄弁に、はっきりとこう言っていた。『みんなが私のお友達なら、みんな喜んでちょうだい。だって、私はほんとにうれしいんですもの』
新郎新婦とこれに付き添う人びとの姿がレゼルヴ亭から見えると、モレル氏はすぐさま下へ降りて行き、この連中を迎えに出た。モレル氏の後ろには、モレル氏とともにレゼルヴ亭で待っていた船員や兵士たちが続いた。モレル氏は、ダンテスがルクレール船長の跡をつぐことになろう、というダンテスヘの約束を、この船員や兵士たちにもあらためて伝えていたのである。モレル氏が近づくのを見ると、エドモンはフィアンセの腕を離し、彼女の腕をモレル氏の腕に通させた。そこで船主とメルセデスが先頭に立ち、昼食の用意ができている二階の部屋への木の階段を登って行った。後に続く列席者の重みに、その階段は五分もの間きしみ続けた。
「お父様」と、テーブルの中央で足を止めたメルセデスが言った。「お父様は私の右にお掛けになって下さい。私の左には、私のお兄様の役をして下さった方に坐っていただきたいと思います」
この優しい言葉が、まるで短刀の一撃のように、フェルナンの胸深くつき刺さった。
彼の唇が青ざめた。その男らしい顔の褐色の肌の下から、心臓に逆流するため、血の気が徐々に引いていくのが見えた。
この間に、ダンテスもメルセデスと同じ役目を果たした。彼の右にモレル氏を坐らせ、左がダングラールであった。それから彼は、みな好きな所に腰をおろすようにと手で示した。
強い香りを放つ茶色い肉の詰まったアルルのソーセージ、見事な穀をつけたエビ、バラ色の殻のついたアラヌノメ貝、とげの生えた殻に包まれたいが栗のようなウニ、南仏の食通に言わせれば、北仏のカキに優るというハマグリ、要するに、波が砂浜に運び、これに感謝する漁師たちが、海の幸の名で呼んでいる、あの美味繊細なオルドゥーヴルの数々が、すでにテーブルのまわりをまわっていた。
「ばかにしんとしてますな」と、パンフィル親爺自らメルセデスの前に運んできたトパーズのような黄色い酒を味わいながら、老ダンテスが言った。「ここにおいでの三十人の方々は、みなさん笑わせてもらいたくてうずうずしておいでのようじゃ」
「いやあ、新郎だからって、かならずしもうきうきしてるってもんでもない」カドルッスが言った。
「実は」ダンテスが言った。「僕はあんまり幸せすぎて、うきうきできないんだ。そういう意味であなたが言ってるんなら、おっしゃるとおりだ。喜びというものは時には変な効果をもたらすものだ。苦しみと同じように、胸をおしつぶすんだ」
ダングラールはフェルナンを見た。感じやすいフェルナンの心は、激情の一つ一つを吸いこんでは吐き出していた。
「驚いたなあ」ダングラールは言った。「君はなにかをこわがってるのかい。私には、その反対に、なにもかも君の思いどおりになってるような気がするんだが」
「だからこそこわんいだ」ダンテスが言った。「幸せというのは、竜が門を守ってるあの魔法の島の宮殿のようなものだ。手に入れるには、戦わねばならないはずだ。ところが僕は、ほんとうのところ、メルセデスの夫になるなんて幸せに、どうして僕が価したのかわからないんだ」
「夫ねえ、夫」笑いながらカドルッスが言う。「まだ夫じゃないよ、船長さん。ちょっと亭主ぶってみねえか、そうすりゃ、どんなあしらいを受けるかわかるぜ」
メルセデスは顔を赤らめた。
フェルナンは腰をおろしたままでいたが、苦しんでいた。わずかな物音にもびくっとし、ときどき、にわか雨の降り始めのような大粒の汗が、額を流れるのをぬぐっていた。
「そう言うけどね」ダンテスが言った。「そんな小さな違いを咎《とが》めだてする必要はないんだ。たしかにメルセデスはまだ僕の妻じゃない……(彼は時計を出した)。だが、あと一時間半でそうなるんだから」
みなが驚きの叫び声をあげた。老ダンテスだけは例外で、大きく笑うその口に、まだ丈夫な歯が見えた。メルセデスも微笑み、もう顔を赤らめなかった。フェルナンはわななく手でナイフの柄を握りしめた。
「あと一時間!」と、ダングラールも彼までが青くなりながら言った。「そりゃまたどうして」
「そうなんです、みなさん」ダンテスが答えた。「父の次に、この世で一番僕がお世話になっているお方、モレルさんが後ろだてになって下さったおかげで、問題はすべて解決しました。僕たちは結婚許可証を手に入れることもできました。それで、二時半には、マルセーユの市長さんが市役所で待っておられます。ところで、今一時十五分の鐘が鳴ったところですから、あと一時間半でメルセデスがダンテス夫人になると言っても、そんなにまちがってはいないと思います」
フェルナンは目を閉じた。炎が瞼《まぶた》を焼いていた。失神するのを防ぐために、彼はテーブルに身を支えた。が、いかにこらえても低い呻き声をおし殺すことはできなかった。その呻きは、一座の人びとの笑い声と祝いの声にうち消された。
「まったくうまくやってのけるじゃありませんか」父親のダンテスが言った。「これでも時間の無駄使いとおっしゃいますかな。昨日の朝着いて、今日の三時には結婚する。仕事をてきぱきやってのけるには、船乗りに限るってことですな」
「でも、ほかの手続きはどうする」と、ダングラールがおずおずと口を出した。「契約とか書類とか」
「契約はね」ダンテスが笑いながら言う。「契約はもう済んだんだ。メルセデスは無一文だし、僕も同じこと。だから、共有財産制で結婚するわけだ。これは書くこともあまりないし、手数料も高くない」
この冗談が、またどっという笑い声と歓声をまきおこした。
「とすると、婚約披露のご馳走と思って食べてたものは」ダングラールが言った。「なんのことはない、結婚披露のご馳走だったんだな」
「いやいや」ダンテスが言った。「ご心配なく、損はさせません。明日の朝私はパリヘ発ちます。往きが四日、帰りが四日。頼まれた用事を十分に果たすのに一日。ですから三月一日には帰って来ます。三月二日にはほんとうの結婚披露をいたします」
また大ご馳走にありつけるとの期待が、みなの心をさらに陽気にさせたので、食事が始まったときには、その静まりかえった雰囲気をかこった老ダンテスが、みんながお喋りしている中で、新郎新婦に、おめでとうを言おうとしても、そのひまがみつからぬくらいであった。
ダンテスは父のその気持を察して、これに愛情のこもった微笑で答えた。メルセデスはその部屋の鳩時計の時刻を見はじめ、エドモンにそっと合図した。
テーブルのまわりは、下層階級の人びとの宴会の終りにはつきものの、あのめいめい勝手な行動と爆笑の渦であった。自分の場所が気に入らなかった者は、席を立って別の話し相手のそばへ行っていた。みなが同時に話をし、相手が言っていることにではなく、自分の頭にあることだけに返事をしているのだった。
フェルナンの顔の青さが、ダングラールの頬にも移っていたと言ってよかった。フェルナン自身は、もう生きていなかった。火の海の中に投ぜられた罪人のようであった。人びとが席を離れ始めると、彼もすぐに立ち、広間を縦横に歩いて、歌声とグラスの触れ合う音から耳をふさごうとしていた。
カドルッスが彼に近づいた時、フェルナンがそのそばから逃げて来たらしいダングラールもやって来て、広間の隅で一緒になったところであった。
「まったくのところ」と、カドルッスが言った。ダンテスの思いがけない幸運を知って、彼の心に芽生えていた妬《ねた》みの名残りも、ダンテスの態度と、とくにパンフィル爺さんのうまい酒のためにすっかりぬぐい去られていた。「まったくダンテスってなあ良いやつだ。だからよ、フィアンセのそばに坐ってるあいつを見ると、あんたらが昨日たくらんでた、やつへの悪い冗談が、いけねえことをしたなと思えて仕方がねえ」
「だから」ダングラールが言った。「お前も見てのとおり、あれはあれきりで終っちまったじゃないか。フェルナン君があんまりしょげてるんで、はじめは、おれも可哀そうになっちまったんだ。だが、恋敵の結婚式の付添い人になるほど、ちゃんと心を決めた今は、もうなにも言うことはない」
カドルッスはフェルナンを見た。その顔は鉛色であった。
「まったく」ダングラールが続ける。「娘がきれいなだけに、犠牲も大きいってわけだ。くそっ! あいつもおれの船長になるんだが、運の良いやつさ。半日でいいから、おれもダンテスと呼ばれてみてえ」
「行きましょうか」メルセデスの優しい声がした。「二時を打ったわ。二時十五分にみなさんあちらで待ってるのよ」
「うん、行こう」
勢いよく立ち上りながらダンテスが言った。
「行こう」
列席者一同が一せいに言った。
この瞬間、窓の縁に腰をかけたフェルナンから目を離さなかったダングラールは、フェルナンが鋭く目を見開き、はじかれたように立ち上がると、またそのガラス窓の縁に腰を落とすのを見た。それとほとんど同時に、鈍い物音が階段から聞こえて来た。重々しい足どりの音、剣のがちゃがちゃいう音にまじった、なにか言い交わす人の声が、あれほど喧騒をきわめた会食者たちの大声を制し、みなの注意を集め、たちまち、不安にみちた静寂が訪れた。
物音が近づいた。ドアの板を叩く音が大きく三度聞こえた。人びとは隣の者の顔を驚いた表情でみつめた。
「法の名により」と、高らかに叫ぶ声がした。だれも答えなかった。
ただちにドアが開き、飾帯をおびた一人の警部が、伍長に率いられた四人の兵士を従えて、広間に入って来た。
不安は恐怖に変った。
「どうしたのです」顔見知りの警部の前に進み出ながら船主が訊ねた。「これは、なにかの間違いですな」
「モレルさん、間違いならば」と警部は答えた。「間違いならば、すぐ訂正されますよ。しかし、そうと確認されるまでは、私は令状を持参しておるのです。私の使命を果たすことが、どれほど私にとって遺憾ではあっても、使命は果たさねばなりません。諸君のうち、エドモン・ダンテスは誰か」
人びとはみな、青年のほうを見た。彼は、ひどく驚いてはいたが、しっかりした態度は崩さずに、一歩前へ出ると、こう言った。
「僕です。どんなご用でしょうか」
「エドモン・ダンテス、法の名により君を逮捕する」
「僕を遠捕する、ですって」エドモンはかすかに青ざめながら言った。「でも、なぜ逮捕なさるんですか」
「わしは知らん。だが、最初の訊問でそれもわかるだろう」
モレルには、この状況では、どうしようもないことがわかった。飾帯をおびた警部は、もはや一人の人間ではなく、聞く耳も口も持たぬ、冷たい法の石像そのものなのだ。
老ダンテスはモレルとは違って警部の前に走り出た。父親、もしくは母親には、どうしても理解できぬ事柄があるものなのだ。
老人は哀願し、嘆願した。涙も哀訴も無駄であった。けれども、その嘆きがあまりにも深かったために、警部も心を動かされた。
「ご安心下さい」警部は言った。「たぶんご子息は、税関か検疫の手続きに、なにか手落ちをなさったのでしょう。当局が求めている説明をご子息からお聞きできれば、釈放になると思います」
「こいつは、いったいどういうことなんだ」
と、カドルッスが眉をしかめながら、驚いたふりをしているダングラールにたずねた。
「おれに、何がわかる。おれはお前とおんなじさ。目の前の事を見てるだけだ。さっぱりわけがわからん。あっけにとられてんだよ」
カドルッスは、目でフェルナンを探した。フェルナンの姿は消えていた。
すると、前日の光景が、恐ろしいほどはっきりと、彼の脳裡によみがえるのだった。
前日、酔いが彼と彼の記憶との間に投げかけたベールを、眼前の悲劇が取り去ったのかのようであった。
「は、はあ」と、しゃがれ声でカドルッスが言った。「こいつは、昨日、あんたが言ってた冗談の結末なんだな、ダングラール。だとすりゃあ、こんな真似をしやがったやつはただじゃおかねえ。こいつはひどすぎるからな」
「とんでもない」ダングラールが叫んだ。「お前だってちゃんと知ってるじゃないか。それどころか、おれはあの紙切れを破いちまったんだ」
「破きゃしねえ。隅っこのほうへ、放っただけだ」
「黙れ、お前なんかなんにも見てやしなかった。お前は酔いつぶれてた」
「フェルナンはどこへ行った」
カドルッスは訊ねた。
「おれが知るか。だぶん用足しにでも行ったんだろうよ。だが、そんなことより、あそこで悲しんでる連中を慰めてやろうぜ」
事実、二人がこんな会話を交している間、ダンテスは、微笑みながら友人たち一人一人と握手をし、こう言いながら、自らすすんで逮捕されたのだった。
「ご心配なく。間違いだということが、すぐわかると思います。で、たぶん牢へも行かずにすむでしょう」
「そうだとも、おれが請合うよ」このとき、すでに述べたように、みんなのほうに近づいて来たダングラールが言った。
警部の後に続き、兵士たちに囲まれて、ダンテスは階段を降りて行った。
扉を開けひろげた馬車が、入口の前で待っていた。彼がそれに乗り、警部と二人の兵士がその後から乗り込んだ。扉が閉まり、馬車はマルセーユヘの道を走り始めた。
「さよなら、ダンテス。さようならエドモン」
バルコニーに走り寄ったメルセデスが叫んだ。
囚人は、フィアンセのはりさけた胸の鳴咽《おえつ》にも似たこの最後の叫び声を聞いた。馬車の窓から首を出し、彼は叫んだ。
「さよなら、メルセデス」
彼の姿は、サン・ニコラの砦の角に消えていった。
「諸君はここで待っていてくれ」と、船主が言った。「すぐ馬車を掴まえて、マルセーユヘ駆けつけ、様子を聞いてくるから」
「行って下さい、行って下さい」みなが叫んだ。「そして、早く帰って来て下さい」
ダンテスが行き、モレルも行ってしまった後、残された者たちは、みな一様にしばし不安におののきつつ茫然としていた。
老ダンテスとメルセデスは、それぞれに悲しみにうち沈み、しばらくは離ればなれになっていたが、やがて二人の視線が出会った。互いに、同じ不幸に襲われた犠牲者同土であることを感じとると、二人は互いの腕の中に身を投げかけた。
この間にフェルナンが帰って来て、コップに水を注ぎ、それを飲むと、一つの椅子の所へ行き腰をおろした。
それは偶然、老人の腕を離れたメルセデスが倒れこむように腰を落した椅子のすぐそばの椅子であった。
フェルナンは本能的に、自分の椅子を引いた。
「あいつだな」
と、そのカタロニアの青年から目を離さなかったカドルッスが、ダングラールに言った。
「そうは思わんな」ダングラールが答える。「あいつはそんな利口じゃない。ま、いずれにしろ、あんなことをやったやつは因果応報ってわけさ」
「あいつをそそのかしたやつはどうなんだ」カドルッスが言った。
「何を言ってるんだ、冗談にまでいちいち責任を持たなきゃならないってのか」
「そうだ、冗談に言ったことでも、それが人をぐさっとやるようなことになればな」
二人が話している間に、人びとはダンテスの逮捕のことを、あれこれ注釈をつけていた。
中の一人が言った。
「ダングラール、君はこの事件をどう思う」
「私はね、なにか禁制品を少しばかり持ち帰ったんじゃないかと思いますね」
「しかし、もしそうなら、君はそのことを知ってたはずじゃないか、君は会計係なんだから」
「そのとおり。ですがね、会計係が知ってるのは、会計係に知らせてくれた積荷のことだけですよ。私の知ってるのは、綿花を積んだってことだけだ。アレクサンドリアではパストレ氏のところから、スミルナではパスカル氏のところから積み込んだんだ。それ以上のことは私に聞いたって駄目だ」
「おお、そうじゃ、思い出した」と、このとるに足りない逮捕理由にすがりつくように、気の毒な父親がつぶやいた。「あれは昨日、わしのために、コーヒーとタバコを持って来たと言っておった」
「そらごらんなさい」とダングラールが言った。「それだ。われわれがいない時に、税関がファラオン号の立入り検査をやったんだ。そして、隠してあったのをみつけたんだよ」
メルセデスは、こんなことはまるで信じていなかった。その証拠に、このときまでじっとこらえていた悲しみが、一時に鳴咽となってほとばしった。
「さあ、さあ」老ダンテスが、自分でも何を言っているのかわからずに言った。「希望を持つのじゃ」
「希望を持つんだ」ダングラールが繰返した。
「希望を持つんだ」
フェルナンはこうつぶやこうとした。だが、この言葉が彼の息をつまらせ、唇は動いたが、声は一言も彼の口からは出なかった。
「おーい、みんな」と、バルコニーで外を見張っていた会食者のうちの一人が叫んだ。「馬車が来るぞ。あ、モレルさんだ。元気を出せ。きっと、いい知らせを持って来てくれたんだ」
メルセデスと老人とは、船主の前に駈け寄り、戸口のところで船主に出会った。モレルの顔はまっ青であった。
「それで?」
二人は声を揃えて大きな声でたずねた。
「それが、諸君」首を振りながら船主は答えた。「事は、われわれが考えていた以上に重大なのだ」
「まあ、あの人は無実です」
と、メルセデ人が叫ぶ。
「わしもそう思う。だが、告発の内容は……」
「どんな罪名なのです」
老ダンテスがたずねた。
「ボナパルト派だというのです」
読者諸子のうち、この物語が進行している時代に生きた人びとならば、モレル氏が口にした罪名が、当時どれほど恐ろしいものであったか、思い出していただけよう。
メルセデスが叫び声を上げた。老人は椅子に崩おれた。
「ああ、ダングラール」と、カドルッスがつぶやいた。「お前はおれをだましたな。あの冗談は実行されたんだ。だがな、おれはこの年寄りとこの娘が、悲しみのあまり死んじまうのを黙って見てなんかいねえぞ。おれは二人になにもかもしゃべってやる」
「黙れ、この阿呆」カドルッスの手を掴みながらダングラールが言った。「さもないと、お前の身も請合ってはやらないぞ。ダンテスがほんとうに罪がねえと誰が言える。船はエルバ島に寄った。やつはそこで降りたんだ。そして、まる一日ポルト・フェライヨにいたのよ。やつの罪をあばく手紙がやつの身体のどっかからみつかりゃ、やつの弁護をするやつは、仲間と思われるだろうぜ」
カドルッスは、すぐ頭にひらめいたわが身可愛さの本能から、ダングラールの理屈をもっともだと思った。恐怖と苦悩とでうつろになった目でダングラールを見ていたが、彼は一歩前進した後に、二歩後退してしまったのである。
「それじゃ、まあも少し待つとしよう」
彼はこうつぶやいた。
「そうさ、待つのよ。もしやつが無実なら、釈放されるんだし、ほんとうに罪があるなら、なにも謀反人のためにこっちが危い橋を渡ることはねえ」
「じゃあ、帰るとするか。おれはもうこれ以上ここにはいられねえ」
「そうだ、一緒に来い」帰る仲間ができたのを喜んでダングラールが言った。「あの連中には、勝手に、適当にお帰り願えばいいさ」
二人は去った。メルセデスに頼られる男となったフェルナンは、娘の手をとり、カタロニア村へ彼女を連れ帰った。ダンテスの友人たちは、半ば失神状態の老人をメラン小路へ連れて行った。
やがて、ダンテスがボナパルト派として逮捕されたという噂は、全市に拡がった。
「ダングラール君、君には信じられるかね」と、モレル氏が、会計係とカドルッスに追いついて言った。モレル氏は大急ぎでマルセーユに戻り、多少面識のあった検事代理ヴィルフォール氏から、エドモンについての情報を直接聞こうとしていたのである。「君にはこんなことが信じられるかね」
「そこですよ。前にも申し上げたとおり、ダンテスはなんの理由もないのにエルバ島に寄港しました。ご承知のように、この寄港が、私にはうさん臭く思えたんですよ」
「だが君は、その君の疑う気持を、私以外の誰かに話したかね」
「話すはずがありませんよ」ダングラールは声をひそめてつけ加えた。「あなたの叔父にあたられるポリカール・モレルさん、あの方は別のお方〔ナポレオンのこと〕にお仕えして、しかも自分の考えをお隠しになりませんが、あの方がおられるので、あなたがナポレオンをなつかしんでいると疑われていることは、あなたもご存じでしょう。エドモンに迷惑をかけ、ひいてはあなたにも累《るい》が及んではと、私なら思うはずじゃありませんか。船主さんだけには申し上げましたが、他人には絶対秘密にしておくのが部下の義務という場合がありますからね」
「よし、よし、わかった。君は立派な男だ。だからこそ、わしはダンテスがファラオン号の船長になった場合の君のことを、前もって考えたのだ」
「それはまたどういうわけですか」
「うん、わしはダンテスに、前もって君をどう思っているか、君を今のままのポストに置いておくのが厭かどうか聞いてみたのだ。というのは、わしにはわけはわからんが、どうも君たちの間が冷たいように思えたんでね」
「で、彼はなんと言ってました」
「どういう事情があったのかは言わなかったが、君に悪いことをしたと思うと言っとった。だが、船主に信用されてる者なら、私も信用しますと言っとったよ」
『偽善者め!』ダングラールはつぶやいた。
「ダンテスは可哀そうなやつだ」とカドルッスが言った。「あいつがすばらしいやつだったってことだけはたしかなのにな」
「そうだ。だがさしあたり」モレル氏が言う。「ファラオン号の船長がいないわけだ」
「いや、希望《のぞみ》を捨てちゃいけません」ダングラールが言った。「三か月たたなきゃ出港できないんですから、それまでにはダンテスが釈放されますよ」
「たぶんな。だがそれまでどうする」
「それまでのことなら、モレルさん、私がおります。私だって船の操り方は、長い経験を積んだ一流の船長に負けないぐらい知ってます。私をお使いになれば、あなたにだって好都合でしょう。エドモンが牢から出て来ても、あなたはべつに誰にも礼などしなくていい。もと通りエドモンが船長になり、私は会計係にもどるだけですむんですから」
「ありがとうよ、ダングラール。なるほどそうすれば、なにもかもうまくいく。それじゃ、船の指揮をとりたまえ。わしが許す。荷おろしの監督を頼む。個人にどんな悲劇が起ころうとも、事業にさしさわりがあってはならぬ」
「ご安心下さい。ところで、せめてあの気の毒なエドモンに会うことぐらいはできるんでしょうね」
「それはあとで言うよ、ダングラール。なんとかヴィルフォールさんと話をして、ダンテスのことをお願いしようと思ってる。あの人が熱烈な王党派だということは百も承知だが、それがなんだ、いくら王党派だろうと検事だろうと、あの人も人間だ。それに、あの人は悪い人じゃあないと思う」
「そうですよ。ただね、野心家だって話は聞きましたね。悪いやつと野心家とはよく似てますからね」
「とにかく」と、ため息をつきながらモレルが言った。「ま、いずれわかるさ。船へ行きたまえ。わしも後から行く」
こう言ってモレルは、二人と別れて裁判所のほうへ向かった。
「事のなり行きがわかったろう」と、ダングラールがカドルッスに言った。「これでもまだお前は、ダンテスの肩を持とうってのか」
「いや、とんでもねえ。冗談がこんな結果になるなんて、恐ろしいことだよなあ」
「まったく、いったい誰がやったんだ。お前でもなけりゃ、おれでもない。おれは、お前も知ってのとおりあの紙を隅っこへ捨てちまった。破っちまったと思ってたくらいだ」
「違う、違う。そのことなら、おれはちゃんと知ってる。くしゃくしゃにまるめられて青葉棚の隅っこにころがってるのを、おれは見たんだ。おれが見たあの場所に、まだあの紙きれがあってくれりゃあいいとさえ思ってるんだ」
「何を言う。きっとフェルナンは拾ったんだ。そしてそれを写した、あるいは写させた。いやたぶんフェルナンはそんな面倒なまねはしなかったろう。きっとそうだ。ああ! やつはおれの書いたあの手紙を出したんだ。幸い、おれは筆跡をごまかしといたが」
「でも、おめえは、ダンテスが謀反を企らんでるのを知ってたのか」
「このおれは、これっぽっちも知らねえ。前にも言ったとおり、おれはふざけてるつもりだった、それだけよ。おれは、道化役者みてえに、げらげら笑いながらほんとうのことをしゃべってたってことらしいや」
「どっちだっておんなじじゃねえか。おれは、これがえらいことにならねえためなら、いやせめて、こっちが巻き添えにならねえためなら、たいていのことはするぜ。だってそうだろ、こいつはおれたちに災難がふりかかるぜ、ダングラール」
「もし誰かに災難がふりかかるとすりゃ、それは、ほんとうに悪いやつにだ。ほんとうに悪いやつといやあ、それはフェルナンじゃねえか。どんな災難がふりかかるってんだ、このおれたちに。おれたちは、ただじっとしていさえすりゃあいいんだ。いっさいこのことには口をつぐんでな。そうすりゃ、雷も落ちずに、夕立は通り過ぎちまう」
「アーメン〔「かくあれかし」の意〕」カドルッスが別れの合図をしながら言った。彼は、頭をふりながら、ひどい心配事のある人がよくやるように、なにかぶつぶつ一人言を言いながら、メラン小路の方角に歩いて行った。
「これでよし」とダングラールは言うのだった。「思ったとおりに事は進んでるぞ。これでおれは船長の臨時代理だ。カドルッスの阿呆が、なにもしゃべらなければ、本物の船長ってわけだ。あとは裁判所がダンテスを釈放した場合だけだが。なあに」にやりとしながら彼は言い足した。「裁判所は裁判所だ。おれは裁判所を信じてるのさ」
こう言うと、彼はボートに飛び乗り、水夫にファラオン号まで漕いで行けと命じた。ご記憶のことと思うが、船主がファラオン号で会おうと言っていたのだ。
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六 検事代理
グランクール通りのメズサの泉の正面にある、ピュジェが建てた豪壮な古い家でも、この日、同じ時刻に、婚約披露の宴会が行なわれていた。
ただ、このシーンの人物たちは、町人や船員、兵士たちではなしに、マルセーユ社交界最高の顔ぶれであった。ナポレオンの時代に職を辞した元司法官とか、かつてフランス軍を離脱しコンデ公の反革命軍に投じた年老いた軍人たち、それに、何人かの青年たちであった。この青年たちは五年間の流刑の故に殉教者と呼ばれ、十五年間の王政復古の後には神と呼ばれた男〔ナポレオン〕への増しみから、かつて、息子たちのために四、五人の兵役身代りの者を金で雇うことまでしたのだが、それでも息子たちの将来に安心しきれないでいる家庭に育った連中であった。
人びとは食卓についていた。ありとあらゆる感情を火と燃やしての会話が交わされていた。この時代の感情は、南フランスにおいては、五百年もの昔から、政治的増悪に宗教的憎悪が加わってしまったために、恐ろしいまでに激烈で生なましいものになっていた。
世界の何分の一かを支配し、一億二千万の臣民が十もの異なる言語で「ナポレオン万歳」と叫ぶ声を聞いた皇帝が、エルバ島の王となり五、六千の住民を治めていたわけだが、その男がこの宴席では、フランスならびに玉座から永久に追放された男として扱われていた。司法官は、彼の政治上の失態を指摘し、軍人はモスクワ、ライプチヒの敗戦を語り、婦人たちはジョゼフィーヌとの離婚を口にした。この王党派の集団は、その一人の男の失墜ではなく、原則がうち破られたことがうれしくもあり、また勝ち誇る気持も抱き、自分たちのための人生がまた始まるような、悪夢からさめたような気がしていた。
サン=ルイ勲章をつけた一人の老人が立ち上がり、みなにルイ十八世のために乾盃しようと提案した。サン=メラン侯爵であった。
ハートウェルに亡命し、今フランスを平和に治める国王を思い出させたこの乾盃は、大きなざわめきを生んだ。グラスはイギリス流にさし上げられ、婦人たちは花束の花を食卓にまき散らした。詩的とさえ言える感動があった。
「あの連中がここにおりましたら」とサン=メラン侯爵夫人が言った。乾いた目、薄い唇、貴族的なものごしの、五十歳になった、今なお上品さを失ってはいない婦人である。「あの革命家の連中は、私どもを追放し、恐怖政治のときに、パン一かけらのお金で私どもの古い邸《やしき》を手に入れて、今もそこで心ゆくまで陰謀を企んでるのに、私どもはそれを黙って見過ごしているのですわ。あの連中がここにおりましたら、ほんとうの忠誠心の持ち主は私どもだってことを認めると思うんですけど。だって、崩壊しかかっていた王政側にあくまでもついていったのは私どもですし、あの連中は、その逆に、昇る太陽に頭をたれて財産を作ったんですもの、私どもは財産をなくしたというのに。あの連中も、私どもの国王陛下が、まさにルイ・ビヤンネメ〔愛されるルイ〕であり、あの連中のかついだ王位泥棒がまさしくナポレオン・ル・モーディ〔呪われたナポレオン〕でしかなかったことを認めると思うんです。そうではなくて、ヴィルフォールさん」
「奥さん、なんとおっしゃったのでしょうか……申しわけありませんが、お話をうかがってなかったものですから」
「若い者たちはほうっといておやり」と、祝盃をあげた老人がまた口を開いた。「この二人はこれから結婚するのだ。政治のことなどより、ほかに話すことがあろうじゃないか」
「すみません、お母様」と、真珠色の液体の中にただようビロードといった感じの目をした、金髪の美しい娘が言った。「しばらく一人占めにしてましたけど、ヴィルフォールさんをお返しします。ヴィルフォールさん、お母様がお話があるんですって」
「さっきの僕が聞いてなかったご質問を、もう一度おっしゃって下さるなら、喜んでうかがいます」
「いいのよ、ルネ」と、にっこり笑いながら侯爵夫人が言った。このひからびた顔に、まだこんなきれいな微笑が浮かぶものかと人は驚いたが、女性の心とはそういうものなのである。さまざまな偏見や礼儀作法に痛めつけられて、どのようにかさかさになってしまおうとも、心のどこかには豊かな笑みをたたえた部分が残っているのである。これこそは神が母性愛のためにとくにとっておいて下さった心の一部なのだ。「いいのよ……ヴィルフォールさん、私がいま言ったのは、ボナパルト派の連中は、私どものような、信念も情熱も忠誠心もないってことなの」
「いや、奥さん、連中は、少なくともそうしたもの全部に匹敵するなにかを持ってますよ。狂信です。ナポレオンはヨーロッパのマホメットです。彼は、野卑な、しかしとほうもない野心だけは持っているすべての連中にとって、単に立法者や君主であるばかりではなく、平等の精神の典型でもあるのです」
「平等の精神ですって」侯爵夫人が大声で言った。「ナポレオンが平等の精神の典型。それではいったい、ロベスピエールはどうなりますの。あなたのお話だと、ロベスピエールは、その地位をコルシカ人〔ナポレオンのこと〕に奪われてしまうことになりそうですけど。王位を奪っただけで十分ではありませんこと」
「いいえ、僕はその二人を、それぞれもとの台座の上に置いたままです。ロベスピエールは、ルイ十五世広場の断頭台の上、ナポレオンは、ヴァンドーム広場の円柱の上にです。ただ、一方は平等を下に下げ、一方は平等を上に持ち上げた。つまり、片方は、国王をギロチンのレベルにまで引きおろし、もう片方は、人民を玉座のレベルにまで引き上げたのです。こうは申しましても」ヴィルフォールは笑いながらつけ加えた。「二人がけがらわしい革命家ではないという意味ではありません。熱月九日〔ロベスピエール処刑の日〕と一八一四年四月四日〔ナポレオン退位の日〕が、フランスにとって喜ぶべき日で、秩序と王政との味方が祝すべき日であることは間違いありません。ですが、再起不能なまでに失墜した、私はそうあってほしいと思っていますが、そのナポレオンに、今なお狂信者がいるというのも、さっきのことで説明がつくと思うのです」
「ヴィルフォールさん、あなたがおっしゃっていることは、なんですか革命の臭いがするのにお気づき? でも、まあ許してさしあげましょう。ジロンド党員のご子息なら、この育ちの臭いが残っても致し方ありませんものね」
ヴィルフォールの額にさっと血がのぼった。
「父はたしかにジロンド党員でした。でも父は、王の死刑には賛成票を投じていません。あなたがたを追放したその恐怖政治の政府から、父も追放され、あなたのお父様が首を切られたあの同じ断頭台に、すんでのところで首をさしのべねばならなかったのです」
「そうでしたわね」この血なまぐさい思い出にも、眉ひとつ動かさずに侯爵夫人が言った。「ただ、同じ断頭台に登るにしても、その理由はまるで正反対ですわね。その証拠に、私の家族は、一人残らずあくまでも追放された王族のかたがたから離れなかったのに、あなたのお父さまは、早々に新政府と手を結ばれて、ジロンド党員だった市民ノワルチエが、ノワルチエ伯爵になられ、元老院議員にもおなりですもの」
「お母さま、お母さま」ルネが言った。「もうそんないやな昔のことは話さないことになってたじゃありませんか」
「奥さん、僕もお嬢さんと同じように、過ぎたことはお忘れいただきたいのです。神のご意志をもってしてさえどうにもならない過去の事を、非難してみてもなんの益がありましょう。神は、未来の事は変えることができます。われわれ人間には、過去を否定することはできないにしても、せめてヴェールをかぶせることはできましょう。私は、思想だけではなく、名前さえも父とは違うのです。父はボナパルト派でした。いや今でもそうかもしれませんが、父はノワルチエと名乗っています。私は王党で名前もヴィルフォールです。革命の樹液の名残りは、古い幹の中で死なせてやりましょう。そしてその古い幹から離れつつある新芽だけを見て下さい。完全にはその幹から離れることができない、いやあえて言えば、離れることを望んではいないのに、離れつつある新芽だけを」
「立派だ」侯爵は言った。「立派な返事だよ、ヴィルフォール君。このわしも、過ぎたことは忘れるように、と奥にいつも言っとるのだが、いっこうに聞き入れてくれんのでのう。君の言うことをきいてくれるといいが」
「結構ですわ」侯爵夫人が言った。「過ぎたことは忘れましょう。もうこれ以上、なにも申しません。ただ、これから先はしっかりしていただかなくては。ヴィルフォールさん、これだけはお忘れになってはいけません。私どもは、あなたのことを国王陛下に保証したのです。私があなたの願いで過去のことを忘れたように(夫人は手をさしのべた)、陛下も私どもの推薦で、過ぎたことはお忘れになって下さったのです。ただし、もしだれか謀反人があなたの手中に落ちたときは、あなたが謀反人たちとつながりがありそうな家の出であるだけに、人目も余計そそがれていることをお考えなさい」
「ああ、奥さん、私の職業と、われわれが生きている時代とが、私に厳格であれと命じています。私はそうするつもりです。すでにいくつかの政治犯の起訴を手がけ、この点で、私はその証拠を見せてきました。残念ながら、まだ終ったとはいえませんが」
「そう思いまして?」
「私は恐れています。ナポレオンのいるエルバ島は、フランスから目と鼻の先です。ナポレオンの姿は、フランスの海岸から見えると言っていい。これが心酔者どもに希望をつながせるのです。マルセーユには休職士官がうようよしていて、毎日つまらぬいいがかりをつけては、王党派に喧嘩をふっかけてます。このため上流階級の子弟の間では決闘さわぎが起きているし、庶民の間では人殺しまで起きています」
「そうですな」と、サルヴィユー伯爵が言った。サン=メラン侯爵の古くからの友人で、アルトワ伯爵の侍従である。「だが、神聖同盟〔一八一五年のロシア、オーストリア、プロシアの同盟〕が、あの男を移すというのをご存じかな」
「知っておる。わしらがパリを発つ頃、それが問題になっておった」サン=メランが言った。「で、どこへ移すのかな」
「セント=ヘレナヘ」
「セント=ヘレナ。いったいどこですの」侯爵夫人が訊ねる。
「ここから二千里も離れた島じゃ。赤道の向うの」伯爵が答えた。
「それはようございましたわ。ヴィルフォールさんもおっしゃいましたように、あのような男を、生まれ故郷のコルシカと、今でも義理の弟が支配しているナポリの間においておくなど、とんでもない気違い沙汰ですわ。あの男が自分の息子の王国にしようと思ってたイタリアの目の前ですし」
「残念ながら」と、ヴィルフォールが言った。「一八一四年の条約があるのです。この条約を無視しないかぎりナポレオンに手をつけることはできません」
「そんなら無視するさ」サルヴィユー伯爵が言った。「あの気の毒なアンギヤン公を銃殺した際、あの男は条約をきちんと守ったか」
「そうですわ。神聖同盟はヨーロッパからナポレオンを追い出し、ヴィルフォールさんはマルセーユから心酔者たちを追い払うことです。王が国を治めるか治めないか、どちらかしかございません。王がお治めになるなら、王党政府は強力でなければいけませんし、その政府で働く者は毅然たる態度をとるべきです。それが悪の芽をつみとる手段です」
「困ったことに」ヴィルフォールが笑いながら言った。「悪がなされてしまってから検事代理の仕事が始まるのです」
「それなら、悪をただすのがお仕事ですわ」
「お言葉ですが、悪をただすのではありません。こらしめるだけです」
「ヴィルフォールさん」と、サルヴィユー伯爵の娘でサン=メラン嬢の友だちの、若くて美しい娘が言った。「私たちがマルセーユにいる間に、すばらしい裁判があるようにしていただけません。私、まだ重罪裁判を見たことございませんの。とても面白いって聞いたんですけど」
「まさに、非常に面白いものです。作り話の悲劇ではなく、ほんもののドラマですから。そこにあるのは演技での苦しみではなく、ほんものの苦しみです。幕が降りれば、目の前の男は、家に帰り、家族の者と食事をとり、翌日また芝居をするために安らかに眠るのではなく、死刑執行人の待つ牢へ帰って行くのです。激しい感動を求めるたくましい人間にとって、これに匹敵する見物《みもの》はないことがおわかりでしょう。ご安心下さい。機会があったら、必ずお目にかけますから」
「あんなぞっとするようなことをおっしゃって……それでいて笑っておいでだわ」と、ルネが顔色を変えながら言った。
「何を言うのですか。これは決闘なのです……私はすでに、政治犯を含めて五、六人を死刑にしている……今こうしているうちにも、闇の中でどれほど多くの短剣がとがれているか、いや、すでに私に対して向けられているか、誰にわかりますか」
「まあ」次第に顔色を曇らせながらルネが言った。「それでは、まじめにおっしゃってるんですのね、ヴィルフォールさん」
「これ以上まじめになれないほどね」唇に笑みを浮かべながら、若き検察官が言った。「そちらのお嬢さんは好奇心を満足させるために見たいとおっしゃり、私は私の野心を満足させるためにやりたいと思っている見事な裁判をもってしても、事態はますます悪くなるばかりなのです。盲目的にただ敵に向かっていくように訓練されたナポレオン麾下の兵士たちのうちただの一人でも、弾丸を打ち、あるいは銃剣を構えて突撃するとき、反省などするでしょうか。自分たちの個人的な敵と思いこんだ男を殺すのに、彼らが一度も会ったことのない一人のロシア人、オーストリア人、あるいはハンガリー人を殺すとき以上に、ものなど考えるでしょうか。反省などしてはならない、おわかりですか。そうでなければ、われわれの職業は、許しがたいものとなってしまいます。私自身、被告の目の中に狂暴な光が輝くのを見ると、勇気が涌《わ》いてきます、興奮してくるのです。もう裁判などというものではない。戦いです。私はその男と格闘する。相手が反撃する。私がさらに強烈な打撃を加える。ほかの戦いと同じように、この戦いの結末も、勝つか負けるかです。弁論とはこういうものなのです。雄弁を生むものは危機感です。私の論告が済んだとき、もし被告が私に微笑んだりしたら、私は自分の喋《しゃべ》り方がまずかったのではないかと思います。言ったことがみな色あせてしまい、力のない、不十分なものに思えるのです。被告が、証拠の重みと検事の火のような弁舌にうちひしがれて、青ざめ首うなだれるときの、被告の罪を確信する検事の誇らしい気持を考えて下さい。被告は首うなだれる。その首はやがて斬り落されるのです」
ルネは小さな叫び声をたてた。
「見書な弁舌だ」列席者の一人が言った。
「こんな時代にはなくてはならぬ男だ」別の列席者が言った。
「この間の事件の際も、君はすばらしかったぞ、ヴィルフォール君」また一人が言った。「ほら、あの父親を殺した男だ。文字どおり君は、死刑執行人より前に、あの男の息の根を止めたな」
「まあ、親殺しの犯人なんか」ルネが言った。「そんな犯人はどうでもいいんです。そんな犯人には、どんな重い刑でも足りませんもの。でも、政治犯は気の毒ですわ……」
「ルネさん、政治犯はもっと悪質なのです。というのは、国王は人民の父であらせられる。王制をひっくり返そうとか国王を殺そうとすることは、三千二百万人の子供の父親を殺そうとすることになるからです」
「そんなことはどうでもいいんですの」ルネが言った。「私がお願いする人たちには、寛大な処置をとるってお約束して下さいます?」
「大丈夫です」と、ヴィルフォールはにっこりやさしく笑いながら答えた。「私の論告文は、二人で一緒に書くことにしましょう」
「ルネ」侯爵夫人が言った。「ハチスズメやスパニエル犬や着物のことならかまいませんが、夫のお仕事に口を出してはいけません。今は、剣がなりをひそめ、法官服がはばをきかすご時世なのです。このことで含蓄の深いラテン語の文句がありましたけど」
「剣ハ法官服ノ前ニ頭ヲタレルベシ」〔キケロの言葉。軍人政治をやめ平服の者が政治をとるべきである〕おじぎをしながらヴィルフォールが言った。
「私はとても、ラテン語など口にできませんもので」夫人が答えた。
「あなたがお医者さまだったらよかったのにと思いますの」ルネがまた口を開いた。「殺戮の天使は、いくら天使でも、私には矢張り恐ろしいんですもの」
「あなたはやさしい人だ」愛情こめた眼差しでルネを包みながらヴィルフォールはつぶやいた。
「ルネ」侯爵が言った。「ヴィルフォール君はこの地方の道徳上、政治上のお医者さまとなるのだよ。これは立派な役目じゃ」
「そういうお役目を果たしていれば、この方のお父さまがなさったことを、みなさんに忘れていただけるでしょう」執念深い夫人がまた言った。
「奥さん」ヴィルフォールは淋しい笑みを浮かべて、「前にも申し上げましたが、父は過去の過ちを悔い改めました。少くとも私はそう願っております。父は教会と秩序との熱烈な支持者となったのです。おそらく私よりもすぐれた王党派でしょう。と申しますのは、父は後悔の念を抱いてそうなったのに、私はただ情のおもむくままに王党派であるにすぎませんから」
このなめらかな言葉を言い終えると、ヴィルフォールは、己が弁舌の効果を見きわめるために、検事席で同じような言い方をしたあとで聴衆を見まわすように、列席者の顔を見た。
「ヴィルフォール君」サルヴィユー伯爵が言った。「まさにそのことをわしは一昨日、チュイルリーで宮内大臣に申し上げたのじゃ。ジロンド党員の息子とコンデ公磨下の軍人の娘といういささか奇妙な婚姻について、多少の説明を求められたのでな。大臣は十分に理解して下さった。こういう融合政策こそルイ十八世陛下のご政策なのじゃ。だから陛下は、われわれは少しも気づかなかったが、われわれの話を聞いておられて、急にこうおっしゃった。『ヴィルフォールは』よいか、陛下はノワルチエとはおっしゃらず、それどころかヴィルフォールと力をこめておっしゃったのだぞ。『ヴィルフォールは』とおっしゃった。『あれは出世するぞ。すでに一家をなしておる青年であり、わが党の士である。サン=メラン侯爵夫妻があれを娘婿に迎えることを余はうれしく思った。もし夫妻のほうから余にこの縁組みの許可を求めてこなかったならば、余のほうからすすめたことであろう』とな」
「陛下がそうおっしゃったのですか」ヴィルフォールは、有頂天になって叫んだ。
「陛下のお言葉そのままを伝えておるのじゃ。侯爵が本当のことを言うなら、侯爵も今わしが君に伝えた言葉と、半年前に娘と君との縁組みについて侯爵が陛下に申し上げた際の、陛下が侯爵におっしゃったお言葉とが、まったく同じであることを認めるだろうて」
「そのとおりじゃ」侯爵が言った。
「ああ、そうなりますと、私のすべてはあの立派な国王陛下のみ心の賜《たまもの》です。あのお方にお仕えするためなら、どんなことでもいたしましょう」
「ほんとによかったこと」侯爵夫人が言った。「それでこそ私はあなたが好きなのです。今ここへ謀反人が入ってくればよろしいのに。いい目に会えますのにね」
「お母さま、私は」と、ルネが言った。「私は神さまに、お母さまのお言葉をお耳にお入れにならぬよう、そして、ヴィルフォールさんの所へは、こそ泥とか破産した人とか気の弱い詐欺師ぐらいしかお寄こしにならぬようお祈りいたします。そうすれば安心して眠れますもの」
「まるで、医者の所へ、頭痛とか≪はしか≫とかハチに刺されたとか、ほんのかすり傷のような患者ばかり来てほしいと言っているみたいですね」ヴィルフォールが笑いながら言った。「もしあなたが、私を検事としてごらんになるのなら、それをなおせば医者の名誉となるような、恐ろしい重症思者が来ることを折って下さい」
このとき、まるで偶然の神が、ヴィルフォールの願いをききとどけるために彼の願いを待っていたかのように、召使いが入ってきて、なにごとか耳打ちした。ヴィルフォールは、失礼しますと言って席を立ち、しばらくしてからもどって来た。その顔は晴れやかで、唇には微笑が浮かんでいた。
ルネはうっとりと彼の顔を見ていた。青い目、顔色はさほどつややかではないが、顔を縁どる黒いひげ、こうしてながめるヴィルフォールは、まさしく気品のある美青年であったのだ。だから、暫時《ざんじ》席をはずした理由を青年が言うのを待つ娘の心は、すべて彼の唇に吸いよせられているようであった。
「お嬢さん、あなたは先程、医者を夫に持ちたいとおっしゃいましたね。私は、アスクレピオス〔ギリシアの医者の神〕の弟子〔一八一五年当時はまだこんな言い方がされていたのだ〕と、少なくともこういう点で似ています。つまり、いつの時間も私のものではない。たとえあなたのそばにいる時でも人が私を呼びに来る。たとえ婚約披露の席であってもね」
「でもどういうご用でいらっしゃらなければなりませんの」軽い不安を覚えながらその美しい娘がたずねた。
「ああ、私が今聞いたことがほんとうだとすれば、もう臨終の床にある病人のためですよ。今度こそは重症です。断頭台すれすれの病人です」
「まあ」青ざめながらルネが叫んだ。
「ほう」一同が口をそろえて言った。
「ボナパルト派の小さな陰謀が発覚したというだけのことらしいのです」
「そんなことが」侯爵夫人が言った。
「ここに告発状があります」
こう言ってヴィルフォールは読みはじめた。『国王ならびに教会に忠実なるものとして、検事閣下に対し、以下のことをお知らせ申し上げます。ナポリ、ポルト=フェライヨに寄港後、今朝スミルナより帰港したファラオン号の一等航海士エドモン・ダンテスは、ミュラーより王位簒奪者宛の手紙、および王位簒奪者よりパリのボナパルト委員会宛の手紙を託されました。
ダンテスを逮捕なされば、その証拠を入手できるでありましょう。この手紙は、彼の身辺、彼の父親の家、もしくはファラオン号上の彼の船室内で発見されるはずであります」
「でも」ルネが言った。「その手紙は、だいいち署名がございませんし、検事宛のものであなた宛ではありませんわ」
「そうです。が、検事は今不在なのです。不在の場合は、書簡は検事秘書のもとに届けられ、秘書がこれを開封することになっています。ですから、秘書がこの手紙を開封し私を探させました。私がみつからなかったので、秘書は逮捕命令を出したのです」
「それでは、犯人は捕まりましたのね」侯爵夫人が言った。
「まだ容疑者ですわ」ルネが言った。
「捕まりました。先程お嬢さんに申し上げましたように、もし、くだんの手紙が発見されれば、病人はきわめて重症です」
「その気の毒な人は今どこにいるんですの」
「私のところです」
「行きたまえ」侯爵が言った。「陛下のおんための仕事がよそで君を待っておるというのに、いつまでもわしどもと一緒におって、君の義務をおろそかにしてはならぬ。陛下のためのお仕事が君を待っておるところへ行くのじゃ」
「ああ、ヴィルフォールさん」ルネが手を組んで言った。「あまりむごくなさらないで、今日は私たちの婚約の日なんですもの」
ヴィルフォールはテーブルをぐるっと廻って、ルネの椅子に近づき、その椅子の背に身をもたせて、
「あなたを心配させないように、ルネさん、できるだけのことはしますよ。ただし、証拠がたしかなら、告発が事実なら、このボナパルト派の雑草は刈り取らねばなりません」
ルネはこの≪刈り取る≫という言葉に身ぶるいした。この雑草には首がついているのだ。
「さあ、さあ、こんな娘の言うことなど気になさらないことですよ、ヴィルフォールさん。この娘もそのうち慣れるでしょうから」
こう言って侯爵夫人はかさかさな手をさしのべた。ヴィルフォールはルネを見ながらその手に接吻した。その目はこう語っていた。
『今接吻しているのは、いや少くともそうしたいのは、あなたの手ですよ』
「幸先《さいさき》が悪いわ」ルネはつぶやいた。
「ほんとにしようのない赤ちゃんね」侯爵夫人が言った。「あなたの気まぐれやおセンチが国家の運命にかかわりを持っていることも、少しは考えたらどうなの」
「まあ、お母さま」
「奥さん、あまりよろしくない王党派の娘を許してやって下さい。私は検事代理の職責を良心に恥じないように果たすことをお約束します。言いかえれば、恐ろしいまでに厳格に」
だが、検事は侯爵夫人にはこの言葉を言いながら、フィアンセをそっと見やって、
『大丈夫。あなたの愛のためにも、むごくは扱いませんよ』その目はこう言っていた。
ルネはこの眼差しに、にっこり笑って答えた。ヴィルフォールは天にも登る心を抱いてその部屋を出た。
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七 訊問
食堂から外へ出るや、ヴィルフォールはその笑顔を捨て、自分と同じ人間に対して生死にかかわる判決を下すという崇高な役におもむくものにふさわしい、いかめしい表情に変えた。ちょうど慣れた役者がするように、検事代理は鏡の前でなん回も研究し、自由に顔つきを変えられるようになっていたのだが、今日ばかりは、眉をひそめ、表情を曇らせるのに、苦労するのであった。たしかに、父のたどった政治路線、もし彼がこの路線から離れなければ彼自身の将来をねじ曲げてしまいそうな、この過去のことを除けば、ジェラール・ド・ヴィルフォールは、今、人として望みうる限り幸福な男だったのである。すでに自分自身も財にめぐまれ、二十七歳の若さで高級司法官の地位を占めている。情熱的な愛ではないにしても、彼が検事代理にふさわしい理性的な愛情を抱いている若くそして美しい娘と結婚しようとしていた。人並はずれたその美貌を別としても、フィアンセのサン=メラン嬢は、当時もっとも宮廷のおぼえめでたい家族に属していた。そして、ほかに子供がいなかったから、婿のためにのみ用いられるはずの、父母の権勢の力に加えて、この妻は夫に五万エキュ〔一エキュは三フラン〕の持参金をもたらすことになっていた。しかもこれに、仲人たちが作り出した、あの残忍な言葉どおりに、もしものことがあれば、五十万エキュの遺産が加わるはずだったのである。
だから、これらのことを全部あわせて考えると、ヴィルフォールは、目もくらむような幸福感にひたり、しばらく心の目で自分の内部を見た後では、太陽にさえ汚点が見えるような気がしていたのである。
入口のところで、警部が待っていた。その黒い制服姿が、ヴィルフォールをたちまち天国から地上へ墜落させた。彼は、前に述べたように顔つきを変え警察官に近づいた。
「今帰った。告発状は読んだ。被疑者を逮捕してくれてよかった。被疑者ならびに陰謀について、君が集めた情報を教えてもらいたい」
「陰謀については、まだなにもわかっておりません。身につけていた書類のたぐいは、全部一束にして、封印し、お机の上に置いてあります。被疑者については、告発状でご存じのとおりです。名前はエドモン・ダンテス。アレクサンドリアおよびスミルナとの綿貿易をしている、マルセーユのモレル父子商会所属の三檣帆船ファラオン号の一等航海士です」
「船会社に勤める前に、海軍にいたことはあるのかね」
「いいえ、まだごく若い男ですから」
「何歳だ」
「十九か、せいぜい二十歳でしょう」
このとき、ヴィルフォールは大通りを通って、コンセーユ通りの角まで来ていたが、彼が通りかかるのを待っていたらしい一人の男が近づいて来た。モレル氏であった。
「あ、ヴィルフォールさん」検事代理の姿を見ると、モレル氏が呼びとめた。「お会いできてよかった。こんなおかしな、前代未聞の誤認がなされたことなど、お考えになれますか。私の持ち船の一等航海士、エドモン・ダンテスが逮捕されたのです」
「存じております。私はその男の訊問のために参ったのです」
「なんですと」ダンテスを思う心から興奮したモレルが続けた。「あなたは告発された男をご存じない。私は、この私は知っておる。あれほどおとなしく、あれほど誠実な、それに言わせてもらえば、商船のことなら、誰よりもよく知っておる男というものを、ご想像なさって下さい。ヴィルフォールさん、心の底から誓って、あれのことは私が保証いたします」
ヴィルフォールは、すでにご承知のとおり、この町の貴族階級に属しており、モレルは平民であった。一方は過激な王党派であり、一方は黙ってはいるがじつはボナパルト支持者と目されている。ヴィルフォールはさげすむような目でモレルを見、冷たく言うのだった。
「いかに個人生活の面ではおとなしく、取引きに関して誠実で、自分の仕事に有能ではあっても、政治的な意味での重大犯人にはいくらでもなり得るでしょう。そうではありませんかな」
検察官は、この最後の言葉を、船主自身にも適用したいような口ぶりで、それに力を入れて言った。そして、彼のさぐるような目は、場合によっては自分自身が寛大な処置を願わなければならない立場であることを知っているはずなのに、あえて他人のためにとりなそうとしているその男の、心の奥底までも見すかすかのようであった。
モレルは顔を赤らめた。政治思想となると、やましいところがないとは言いきれぬものを感じていたし、それに、ダンテスが彼に話した、侍従長との会見と皇帝がダンテスに言ったという言葉が、多少頭にひっかかったのである。にもかかわらず、心をこめ声を強めて彼はつけ加えた。
「お願いいたします、ヴィルフォールさん。あなたが当然そうあるべきように、正しいお調べをなさって下さい。いつもそうであったようにお慈悲をお願いします。そしてあの可哀そうなダンテスを一刻も早くわれわれに返して下さい」
この≪われわれに返せ≫という言葉は、検事代理の耳には、革命のひびきを持っていた。
『は、はあ、われわれに返せか。そのダンテスなるものは、そいつをかばう男が、こんな同志のきまり文句を口にするところをみると、どうやらなにか秘密結社の党員くさいな。たしか警部は、ダンテスは料理屋で逮捕したと言っていた。仲間が大勢いたとも言った。なにか集会をやっていたな』
こう心につぶやいてから、声を出して、
「ご安心下さい。被疑者が無実であれば、正しい調べをしてくれなどと私に頼むまでもなかったのです。ただ、その反対に罪を犯しているなら、今は難しい時世なので、罰を加えないとなると、とり返しのつかぬ先例となりましょう。ですから、私は私の義務を履行せざるを得ません」
こう言うと、ちょうど裁判所と背中あわせの自宅の戸口のところまで来ていたので、彼は、冷たく儀礼的に頭を下げた後、いかめしい様子を見せて家の中に入ってしまった。哀れな船主は、ヴィルフォールと別れた場所に化石のように立ちつくしていた。
控え室は憲兵や警官でいっぱいだった。その中央に、憎悪に燃える視線を浴びながら、落ちついた、逮捕された男が静かにじっと立っていた。ヴィルフォールは控え室を横切る際に、ダンテスを横目で見て、一人の警官から書類の束を受け取ると、
「逮捕者をつれて来い」
と言い残して姿を消した。
ただちらっと視線を投げただけであったが、ヴィルフォールには、これから取調べを行う男がどういう男であるかを知るには十分であった。広く明るい額からは頭の良さを、じっと動かぬ目とひそめた眉からは勇気を、象牙のような白い二列の歯の見える、軽く開けられた厚い唇からは率直さを、彼は読みとったのである。
第一印象はダンテスにとって有利であった。だがヴィルフォールはこれまでに、最初の心の動きは、それが良いものである場合は警戒しなければならぬ、という言葉を、深い政略的な意味を持つ言葉として、なん回となく聞かされてきた。彼はこの格言を、心の動きと印象という二つの言葉の間の相違にはまったく気づかずに、第一印象にも適用した。
だから、彼は、自分の心にしのび込み、ついで知性にまで力を及ぼそうとする、良き本能の衝動をおし殺してしまったのだ。彼は鏡の前で、よそ行きの顔つきを作ってから、自分の机の前に、暗い、相手を威圧するような表情で腰をおろした。
彼のすぐ後から、ダンテスが入ってきた。
青年は相変わらず青白い顔をしていたが、落ちつき、笑みをたたえていた。自分を裁く男に、くったくのないおじぎをすると、船主のモレルの客間にでもいるかのように、目で椅子を探した。
が、このとき初めて、彼はヴィルフォールの不透明な目にぶつかったのである。あの検事に特有な、自分の考えを読みとられることを望まぬ曇ったガラスのような目に。この目がダンテスに、自分が今、陰鬱《いんうつ》でもったいぶった顔を持つ、裁きの庭にいるのだということを教えた。
「君は誰かね、名前はなんという」ヴィルフォールが、部屋に入るときに警官から手渡された書類をめくりながらたずねた。一時間の間に、その書類は分厚いものとなっていた。探索の虫は、被疑者と呼ばれる男の哀れな肉体を、かくも急速に食い荒すものなのである。
「エドモン・ダンテスです」青年は、静かなよく通る声で答えた。「モレルさん親子の持ち船の、ファラオン号の一等航海士をしています」
「年齢は」
「十九歳」
「逮捕されたとき、君は何をしていたか」
「僕自身の婚約の披露宴に列席していました」ダンテスの声がかすかにふるえた。あのうれしかった一時《ひととき》と、今現に行なわれている陰鬱な儀式とのあまりにもひどいコントラストが彼を苦しめたし、ヴィルフォールの暗い表情が、メルセデスの光輝く顔をひとしお輝かせるのだった。
「君の婚約披露に列席していたのか」検事代理は、思わずびくっとした。
「はい、三年前から愛し続けてきた女《ひと》と、もう少しで式を挙げるところなのです」
いつもは情に動かされないヴィルフォールではあったが、この偶然の一致が彼の心を打ち、幸福の絶頂で逮捕されたダンテスのふるえる声が、彼の魂の奥底の同情心を呼びさました。自分も結婚しようとしている。自分も幸福なのだ。自分の幸せを人が邪魔しに来たのは、自分と同じように、すでに幸福を掴みかけた男の喜びを、自分にぶちこわさせるためだったのだ。
この哲学的な比較は、サン=メラン家の客間に戻ったとき、大いに受けそうだぞ、と彼は考えた。ダンテスがつぎの質問を待っているのに、彼は弁論家が、聞き手が往々にして真の雄弁と思いこんでしまう大向うの喝采をねらっての弁舌を組み立てるのに使う、あの対比をふんだんに用いた文句を、頭の中であらかじめ並べてみるのだった。
この短いスピーチが頭の中でできあがると、ヴィルフォールはその出来ばえに満足して微笑すると、ダンテスのほうに戻り、
「続けたまえ」と言った。
「何を続けろとおっしゃるのでしょうか」
「知っていることを話すのだ」
「どういうことをお知りになりたいのですか。知っていることはなんでもお話しします。ただ」今度はダンテスが笑ってつけ加えた。「前もって申し上げますが、たいしたことは知ってませんよ」
「簒奪者のもとで、軍隊にいたことは?」
「もう少しで海軍に入るという時に、あの人が失墜してしまったのです」
「君は過激な政治思想の持ち主だそうだね」
だれもヴィルフォールにそんなことは言わなかったが、犯人を追及する口調で問いを発するのは、彼には悪い気がしないのであった。
「この僕の政治思想ですか。こう言うのも恥かしい気がしますが、思想なんてものは持ちあわせたことがないんです。さっき申し上げたとおり、僕はやっと十九になったばかりです。僕はなにも知りません。なにかの役割を果たすようには生まれついてません。僕はつまらない男で、これからもこのままでしょうが、それでも僕が望んでいる地位が与えられるとしたら、それはモレルさんのおかげです。だから、私の思想といえば、政治思想なんかじゃなくて個人的な思想です。父を愛し、モレルさんを敬まい、ノルセデスが好きだという、この三つの気持ちから一歩も出るものではありません。僕が裁判所に言えることはこれだけです。あまり裁判所にとって興味のある話ではないでしょう」
ダンテスの話を聞いているうちに、あくまでも柔和で明るいその顔を見ていたヴィルフォールは、容疑者が誰であるかも知らずにこの男のために寛大な処置をしてくれと頼んだルネの言葉が、次第に蘇ってくるのを感じた。それまで永年、犯罪や犯人を扱ってきた経験から、ダンテスの一語一語に、彼の無実の証拠を見る思いがした。事実、まだ少年とさえいえそうなこの青年は、単純率直で、求めようとして得られるものではない、あの真心から出る言葉のみが持つ雄弁をそなえていた。自分が幸せであったから、幸せというものは悪人をも善人にするものであるから、彼はすべてのものに対してあふれるほどの愛情を抱き、心の底からあふれ出る優しさを、自分を裁く検事に対してまでも注ぐのであった。いかにヴィルフォールが彼に対して峻厳な態度を見せても、エドモンの目にも声にも態度にも、自分を訊問する男への愛情と善意以外は見られなかった。
『なんだ』ヴィルフォールはつぶやくのだった。『これは好青年じゃないか。これならルネの最初の願いをきいてやって、彼女のご機嫌をとり結ぶのに、そう苦労することもなさそうだ。そうなれば、人前では固く手を握ってもらえるだけだろうが、もの陰では甘い接吻をしてもらえるぞ』
この楽しい期待に、ヴィルフォールの顔がほころびた。そのため、彼が目を、自分の心からダンテスに戻してみると、検事の表情の動きをずっと追っていたダンテスも、彼の心と同じように、微笑していた。
「ねえ君、君は敵がいないかい」
「僕に敵がですか。幸い、地位のせいで敵ができるにしては、僕はあまりにもつまらない存在ですからね。気性のほうは少し激しすぎるかもしれませんが、下の者にはつとめて当りを柔らかくしているつもりです。部下に十人か十二人ぐらい水夫がいます。どうかお聞きになってみて下さい。みんな僕が好きで、僕を尊敬してるって言いますよ。父親のようにじゃありません、それにしては若すぎますからね、兄のようにです」
「だが、敵はいなくても、君を妬《ねた》んでいるものはいるだろう。君は十九で船長に任命されようとしている。君たちの職業では高い地位だ。また君は、君を愛しているきれいな娘と結婚するところだ。この世のどんな身分のものにとっても、めったにない幸せだからね。こう二つも幸運に恵まれれば、妬みを抱くものができてもおかしくない」
「ええ、おっしゃるとおりだと思います。僕よりもずっと人間というものをご存じなはずですから。いるかもしれません。でも、もし仮に僕の仲間の中に妬んでるやつがいるとしても、僕はそいつを知りたくありません。そいつを憎まねばならなくなりますからね」
「それは間違いだよ。いつでも、でき得る限り身の廻りをはっきり見ていなければいけない。実際君は立派な青年のように思えるから、普通の裁判の場合の規則をはずして、君を私の前に引き出した告発の内容を教えて、君が周囲に光をあてられるようにしてあげよう。これが告発状だ。筆跡に見覚えがあるかね」
ヴィルフォールはポケットから手紙を取り出し、ダンテスの前にさし出した。ダンテスは目を向け、読んだ。一まつの影が額をよぎった。
「いいえ、こんな筆跡は知りません。筆跡をごまかしてます。でもかなりのびのびした書体ですね。いずれにしろ、これを書いたのは達筆なやつですね」ダンテスは、感謝の眼差しをヴィルフォールに向けながら言い足した。「あなたのような方に取調べを受けたことをうれしく思ってます。まったく、僕を妬んでるこの男は、まさに僕の敵ですから」
この言葉を口にしたとき青年の目の中を走った光に、ヴィルフォールは、柔和な面持ちの裏に秘められた強烈な力を見ぬくことができた。
「それでは、正直に答えてくれたまえ。容疑者が検事に答えるのではなく、意に反した立場に追いこまれた人間が、自分のことを考えてくれる人に話すようなつもりでね。この密告の中に、ほんとうのことがあるかね」
こう言ってヴィルフォールは、机の上のダンテスが返した手紙をけがらわしそうに見やった。
「みんなほんとうで、みんな嘘です。僕の言うのはほんとうですよ、船乗りの名誉にかけて、メルセデスの愛にかけて、父の生命《いのち》にかけて」
「話したまえ」大きな声でヴィルフォールが言った。それから小さく、こうつぶやいた。
『もしルネが今の俺を見たら、きっとこの俺に満足してくれるだろう。もう、俺を首切り役人とは言うまい』
「それじゃ申しますが、ナポリを出港するとルクレール船長が脳炎にかかったのです。船には医者がいませんし、一刻も早くエルバ島へ行きたがっていた船長は、どこへも寄港したがらなかったので、病気はますますひどくなり、三日目の晩ごろには、もう死期のま近いことを知って、僕をそばに呼んだのです。船長はこう言いました」
『ダンテス君、君の名誉にかけて、わしがこれから言うことを実行すると誓ってほしい、きわめて重大なことなのだ』
『誓います、船長』と、僕は答えました。
『では、わしが死んだら、一等航海士であるから、君が船の指揮をとるのがきまりだ。君は指揮をとるのだ。そして、船首をエルバ島に向けい。ポルト=フェライヨで下船し、侍従長閣下にお会いしたいと言って、閣下にこの書状をお渡しする。そうすれば、だぶん閣下は、別の書状を君に託すだろう。そしてなにか君に使命を伝えるはずだ。その使命は、わしが果たすべきものだったが、ダンテス、君がわしの代わりに果たしてくれ。その手柄はすべて君のものとなろう』
『いたします。でも、船長のお考えほど簡単に閣下にはお会いできないんじゃないでしょうか』
『この指輪があればお会いできる。面倒なことはいっさいなくなるだろう』
こう言って、船長は僕に一つの指輪を渡しました。
臨終の時が来ました。二時間後には意識がなくなって、翌日亡くなったのです」
「それで君は何をした」
「なすべきことをしました。僕の立場に立ったら、誰しもがやったことです。いずれにしろ、今はの際の人間の頼みは神聖なものです。しかも、船乗りにとって、上の者の頼みは、履行せねばならぬ命令なのです。ですから、僕は船をエルバ島に向けて走らせました。翌日島に着き、全員に上陸禁止命令を出し、一人で上陸しました。予期したとおり、侍従長にお目にかかるのは厄介でした。しかし、僕の認識標の役をするはずの例の指輪を侍従長に届けると、すぐ簡単に会えました。侍従長は僕を迎え入れ、気の毒なルクレール船長の最後の模様を訊き、船長が予期していたように、手紙を一通渡して、僕に自分でパリに届けるようにと言われたのです。僕は約束しました。船長の最後の意志を果たすことだからです。僕は上陸し、大急ぎで船での仕事を終らせました。それからフィアンセに会いに行ったのです。彼女は今までになく美しく愛情こまやかでした。モレルさんのおかげで、宗教上の問題も全部片がつきました。そして、さっき申し上げたように、僕の婚約披露の席に列席していたのです。一時間後には結婚することになってました。僕は明日パリヘ出発するつもりでした。その時、今では検事さんも僕と同じぐらい軽蔑しておいでのようですが、その告発状のために、僕は逮捕されたのです」
「なるほど」ヴィルフォールはつぶやいた。「君の言ったことはみなほんとうらしい。で、もし君に罪があるとすれば、それは君が軽率だったことだ。だがその軽率さも、船長の命令ということで正当化されよう。エルバ島で渡されたという手紙をよこしたまえ。呼び出しにはいつでもすぐに応ずると約束したまえ。そうして、仲間のところへ帰るんだ」
「では、釈放されるのですか」有頂天になったダンテスが大声をあげた。
「そう。ただその手紙をよこしたまえ」
「検事さんの前にあるはずですよ。ほかの書類と一緒に僕から取りあげてしまったんですから。その綴りの中に、僕の書類も入ってるのが見えます」
「ちょっと待て」と、手袋と帽子を手にとろうとしていたダンテスに検事が言った。
「待て。その手紙の宛名は誰だったかね」
「パリ、コック=エロン通りの、ノワルチエ氏宛です」
たとえ落雷といえども、これほど電撃的な予期せぬ打撃はヴィルフォールに与えなかったであろう。彼はダンテスの身辺から押収した書類の綴りに手をのばすため半ば立ち上りかけていた肘掛椅子にまた倒れるように腰をおろし、あわただしく綴りをめくり、致命的なその手紙を抜き出すと、名状しがたい恐怖の刻まれた視線をその上に投げた。
「コック=エロン通り十三番地、ノワルチエ殿」次第に青ざめながら彼はつぶやいた。
「そうです」ダンテスが驚いて答えた。「ご存じなんですか」
「いや」ヴィルフォールが強い声で答えた。「国王陛下の忠実な僕《しもべ》が、謀反人など知るわけがない」
「それじゃ、ことは謀反に関係があるんですか」ダンテスは訊ねた。釈放されたものと思いこんでいただけに、はじめのものよりさらに大きな恐怖を抱き始めていた。
「いずれにしろ、すでに申し上げたように、僕が持って行くことになっていた至急便の中身は、僕はまるで知らなかったんです」
「そうだな」ヴィルフォールが低い声で言う。「しかし、君はその宛先の名前を知っておる!」
「その人自身に渡すために、名前を知らなきゃならなかったんです」
「で、君はこの手紙を誰にも見せてはいないな」手紙を読み続けながら、そして読むほどに顔色をますます青くしながら、ヴィルフォールが言った。
「誰にも見せてません、誓います」
「君がエルバ島からのノワルチエ氏に宛てた手紙を持っていたことは、誰も知らないんだな」
「僕に手渡した人以外には誰も」
『あんまりだ、これはひどすぎる』ヴィルフォールはつぶやいた。
手紙の最後に近づくにつれ、ヴィルフォールの額はますますその影を増した。血の気の失せた唇、わななく手、きらきら光る目が、ヴィルフォールの抱く苦痛にみちた不安の念を、ダンテスにさとらせるのだった。
読み終えると、ヴィルフォールはがっくりと落した頭を両手で抱え、しばらくうちのめされたままでいた。
「いったい、どうなさったというんです」おずおずとダンテスが訊ねた。
ヴィルフォールは答えなかった。が、しばらくすると、青い、歪んだ顔を上げて、またその手紙を読んだ。
「君はさっき、この手紙の中身は知らぬと言ったな」
「誓います、知りません。でも、どうなさったんですか、病気にでもなりそうなご様子ですが。呼び鈴を鳴らしましょうか」
「いや、いい」急いで立ち上がりながらヴィルフォールが言った。「動くな。一言もしゃべってはならない。ここでは命令を下すのは私なのだ、君ではない」
「検事さん」心を傷つけられたダンテスが言った。「あなたのお役に立てば、と思っただけですよ」
「役になど立ってもらわなくていい、ちょっと目まいがしただけだ。自分のことだけ考えろ、私のことなど考えるな、答えたまえ」
ダンテスは、当然この言葉の次に来る質問を待った。が、無駄であった。ヴィルフォールはまた、どっかと腰を落し、冷たい手で汗の流れる額をぬぐった。そうして三度《みたび》、彼は手紙を読み返したのである。彼は心ひそかにつぶやいた。
『ああ、もしこの手紙の内容をこの男が知っていたら、そして、ノワルチエがヴィルフォールの父親だと知るようなことがあったら、私はもう駄目だ、永久に駄目だ』
口が語らぬ心の秘密のとばりを、なんとか見破ろうとするかのように、彼はときおり、ダンテスの顔を見ていた。
「よし、その点はもう疑うまい」いきなりヴィルフォールが大声で言った。
「ああ、何をおっしゃるんです、検事さん」可哀そうな青年も叫んだ。「もし僕を疑っておいでなら、僕があやしいとお思いなら、訊問なさって下さい。いくらでもお答えします」
ヴィルフォールは、彼自身、大へんな努力をして声に落ちつきを持たせながら、
「君を訊問した結果わかった容疑内容では、当初私が希望したように、君を即時釈放する権限は私にはない。そのような処置をとる以前に、予審判事の意見を聞く必要がある。とにかく私が、君にどういう態度をとったかはわかってるね」
「それはもう。検事さんというよりはむしろ友達として振舞って下さいました」
「それじゃね、君をいましばらく拘留する。できるだけその期間は短くするから。君に不利な主たる資料はこの手紙だ。だから、ほら……」
ヴィルフォールは暖炉に近寄り、その手紙を火の中に投じた。そしてそれが灰になるまでじっとしていた。
「ご覧のとおり、私はこれをなくしてしまった」
「ああ、正義を守る方《かた》どころか、あなたは善意そのものです」
「だが、よく聞くのだ」ヴィルフォールがなおも続けた。「こんなまねをした以上、君は僕を信用できるだろうね、そうだね」
「もちろんです。なんでも命令なさって下さい。なんでも服従しますから」
「いや」ヴィルフォールは青年に近づいた。「いや、これは命令ではない。君に与えたいのは忠告なのだ」
「おっしゃって下さい。命令と思って従います」
「私は君を晩まで、ここ、裁判所にとどめておく。たぶんだれか私以外の者が君を訊問すると思う。君が私に話したことはすべて話していい。だが、手紙のことは一言も言ってはいけない」
「お約束します」
まるで、ヴィルフォールのほうが頼みこみ、容疑者のほうが検事を安心させようとしているかのようであった。
まだもとの紙の形をとどめ、炎の上を舞っている灰を見やりながら検事が言った。
「いいかね、あの手紙はもうなくなった。あれがあったことを知っているのは君と私だけだ。再びあの手紙を提示することは誰にもできない。だから、誰かがあの手紙のことを言ったら、否定するのだ。断乎としてその存在を否定したまえ、そうすれば君は救われる」
「否定します、大丈夫です」
「それでいい、それでいい」呼び鈴の紐に手をかけながらヴィルフォールが言った。
と、いざ紐を引くときになって、その手を止め、
「君が持ってた手紙はあれだけだな」
「あれだけです」
「誓いたまえ」ダンテスは手をさしのべ、
「誓います」
ヴィルフォールはベルを鳴らした。
警部が入ってきた。
ヴィルフォールは警部の近くに行き、その耳もとになにごとかささやいた。警部はただうなずいただけであった。
「ついて行きたまえ」ヴィルフォールがダンテスに言った。ダンテスはおじぎをし、ヴィルフォールに最後の感動の眼差しを送って、部屋を出た。
ダンテスの背後でドアが閉まるやいなや、力つきたヴィルフォールは、半ば失神したように筒子に倒れこんだ。
「おお、人生とか、運命とかは、いったい何に支えられているのか」彼はつぶやくのだった。「もしマルセーユに検事殿がおられたら、もし私の代わりに予審判事が呼ばれていたら、私は破滅だった。あの紙きれ、あの呪わしい紙きれは、私を地獄の底に叩きこむところだった。ああ、お父さん、いつになっても、お父さんは私のこの世の幸せの邪魔をなさるのですか。私は永久に、あなたの過去と戦わねばならないのですか」
と、いきなり、彼の脳裡に、思ってもみなかった一条の光がひらめき、彼の顔をも輝かせた。まだひきつっていた口もとに微笑が浮かび、うろたえていた目の焦点が定まり、ある一つの考えを見据えるかのようであった。
「そうだ。そうだとも。俺の身を破滅させようとしたあの手紙が、俺の運を開いてくれるかもしれないぞ。さあ、ヴィルフォール、ぐずぐずするな」
容疑者が控え室にもいないことを確かめてから、検事代理は自分も家を出て、フィアンセの家に急いだ。
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八 シャトー・ディフ
控え室を通るとき、警部が二人の憲兵に合図をすると、一人はダンテスの右に、もう一人は左に位置を占めた。検事の部屋と裁判所をつなぐドアが開けられ、しばらくの間、そこを通るとき、べつにそんな理由を持たぬ人びとでも、思わずぞっとさせられる、あの暗い大きな廊下を歩かせられた。
ヴィルフォールの部屋が裁判所につながっているように、裁判所は牢に通じていた。裁判所に接している陰気な建物で、牢の前にそそり立つアクールの鐘楼が、ぱっくり口をあけた窓々から、この建物をじろじろ見ているといった様子だった。
廊下の角をいくつも曲った後で、ダンテスは鉄格子のついた扉が開くのを見た。警部が鉄のハンマーで三回叩いた。その音はダンテスに、自分の心臓が叩かれているような思いをさせて鳴りひびいた。扉が開き、まだためらっているダンテスの背を、二人の憲兵が軽く押した。ダンテスはその恐ろしい敷居《しきい》を越えた。背後で大きな音をたてて扉が閉まった。今や彼は、違う空気を吸っていた。いやな臭いのするどんよりした空気を。彼は囚人となったのだ。
入れられた部屋はかなり清潔な部屋であった。鉄格子がはまり、かんぬきがかけられてはいたが。だから、その部屋の様子はダンテスにさほどの不安を与えなかった。それに、検事代理の言葉が、彼の耳には、甘い希望を約束するものとしてひびいていた。ダンテスには、あのときの検事代理の声は好意にあふれていたように思えたのだ。
ダンテスがこの部屋に入れられた時は、すでに四時であった。前に言ったように、その日は三月一日だったから、囚人はやがて夜の闇につつまれた。
すると、無用のものとなった視覚の力が加わって聴覚が鋭くなった。彼のところまで届くどんな小さな物音にも、釈放してくれるために人が来るのだと思い、すぐさま立ち上がって扉のほうに近づいた。だが、やがてその物音は、別の方角に消えて行き、ダンテスはまた椅子に腰をおろすのだった。
ついに、夜十時頃、ダンテスが希望を失いかけたとき、また物音がした。今度こそ自分の部屋に向かって来ると彼は思った。はたして、足音が廊下にこだまし、彼の部屋の前で止まった。錠前の中で鍵が廻り、かんぬきがきしむ。大きなカシの扉が開き、暗い部屋に、いきなりまばゆい二本のたいまつの光が見えた。
この二本のたいまつの光で、ダンテスは四人の憲兵が持つ銃とサーベルが光るのを見た。
彼は一、二歩前に出た。そして、警備が厳重になったのを見てその場に立ちつくした。
『僕を呼びに来たんですか」
「そうだ」憲兵の中の一人が答えた。
「検事代理の命令でですか」
「たぶんな」
「わかりました。いつでもお伴します」
ヴィルフォールが呼びによこしたのだと思いこんでいたから、この不幸な青年は不安をまるで感じなかった。彼は心は平静そのもの、足どりも軽く進み出ると、自分から兵士たちのまん中に立った。
通りに面した戸口の所に、馬草が一台待っていて、御者は御者台に坐り、一人の下士官がその横にいる。
「この馬車は僕のためなんですか」
「お前のためだ。乗れ」憲兵の一人が答えた。
ダンテスはなにか言いたかったが、馬車の戸が開き、押されるのを感じた。抵抗することはできなかったし、そのつもりもなかった。あっという間に彼は馬車の中に、二人の憲兵にはさまれて腰をおろしていた。別の二人は前の座席に坐った。それから、重い馬車は不吉な音をたてて走り出した。
囚人は窓に目を向けた。鉄格子がはまっていた。牢が変わったにすぎない。ただこの牢は動いていた。そして彼をいずことも知れぬ目的地へ運んで行くのだった。やっと手が通るぐらいの鉄格子を通して、それでもダンテスは、馬車がケスリー通りにそって走っているのがわかった。サン=ローラン通り、タラミ通りを通って、波止場のほうへ下って行く。
やがて、馬車の格子と、近くの建物の格子を通して、衛兵所の光が見えた。
馬車が止まり、下士官が馬車から降り、衛兵所に近づいた。十二人ほどの兵士が出て来て堵列《とれつ》した。ダンテスは波止場の街灯のあかりで、彼らの銃が光るのを見ていた。
『あんなに兵士を並べて、あれは僕のためなのだろうか』ダンテスは心につぶやくのだった。
鍵のかかっていた馬車の戸を開けた下士官が、一言も口はきかなかったが、この疑問に答えた。というのは、二列に並んだ兵士の間に、自分のために、馬車から港まで道があけられているのを、ダンテスは見たからである。
まず前の座席に坐っていた二人の憲兵が降り、次にダンテスが降ろされ、その後から彼の両脇に坐っていた二人の憲兵が続いた。人びとは、税関の水夫が鎖で岸壁につなぎとめているボートのほうに進んで行った。ダンテスが通りすぎる姿に、兵士たちはあっけにとられたように好奇の眼差しを向けていた。一瞬の間に、彼はボートの船尾に坐らされていた。相変わらず四人の憲兵にかこまれたままである。ぐらりと激しくゆれて、ボートは岸壁から離れた。四人の漕ぎ手はピロンの方向へ力強く漕ぎはじめた。ボートから一声叫ぶ声がして、港をふさいでいた鎖が下げられた。ダンテスは、フリウール〔マルセーユに入港を許されない船の投錨・検疫地点〕と呼ばれている位置、つまり港の外にいた。
広々とした戸外に出て、囚人がまず感じたことはうれしいということだった。大気、それはほぼ自由を意味した。彼は胸いっぱいに吹き寄せる風を吸いこんだ。その翼にのって、夜と海とのあの神秘な香りが運ばれてきた。しかし、やがて彼は溜息をもらした。レゼルヴ亭の沖を通過していたのである。逮捕されるまであそこで過ごしたあの一ときの幸せは、その日の朝のことだったのだ。あかあかと灯のついた二つの窓からは、ダンスパーティーの楽しげなにぎわいが彼の耳もとにまで聞こえてきた。
ダンテスは手を組み、天を仰いで神に祈った。
ボートはなおも進んで行く。テート・ド・モールを過ぎ、ファロの入江の正面を通り、砲台を通過しようとしていた。ダンテスには理解できない船の進め方であった。
「いったいどこへつれて行くんですか」
「じきにわかる」
「でも……」
「なにも言ってはいかんと言われてるんだ」
ダンテスは半ば軍人のようなものだった。返答を上官から禁止されている部下の者に質問をするのは、無意味なことだと思い、彼は口をつぐんだ。
このとき彼の脳裡を、じつにおかしな考えがかすめた。こんなボートではそう遠くまでは行けないし、さりとて行手に錨をおろしている船もないので、どこか離れた岸に降ろしてくれて、さあ自由だ、と言ってくれるのではないかと考えたのだ。彼は縛られていなかった。手錠をかけようともしなかった。これは良い兆《きざし》のように彼には思えた。それに、あれほど親切にしてくれた検事代理は、自分がノワルチエというあのいまわしい名前さえ口に出さなければ、なにも恐れることはないと言ってくれたではないか。ヴィルフォールは、彼の目の前で、あの恐ろしい手紙を焼いてしまったではないか。彼の不利になる唯一の証拠を。
だから、彼はあれこれ考えながら黙って待っていた。そして、闇にきたえ遠目もきく船乗りの目で、夜の闇の彼方に目をこらしていた。
ボートは燈台が光っているラトノー島を右手に見て、ほとんど岸をかすめるようにしながら、カタロニア村の入江に達した。囚人はさらに目をこらした。メルセデスがあそこにいる。彼には、暗い岸辺にぼんやりしたはっきりしない女の顔が浮かんでは消えるような気がした。
恋人が自分から百歩の所にいると、本能的な予感がメルセデスに語りかけぬと誰が言えよう。
カタロニア村には一つだけ灯がともっていた。その灯の位置をおしはかり、ダンテスはそれがフィアンセの部屋を照らす光であることを知った。その小さな部落の中で、メルセデスだけが起きている。大声で叫べば、青年の声はフィアンセの耳に届いたであろう。
つまらない羞恥心が彼を抑えた。まるで気違いのように大声を出したら、自分を見ているこの男たちはどう思うだろう。彼は、黙ったまま、じっとその灯を見すえていた。
その間もボートは進んでいた。だが囚人はボートのことなど眼中になかった。彼はメルセデスのことを考えていたのだ。
土地の起伏がその灯を見えなくした。ダンテスは向きなおり、ボートが沖へ出ているのを知った。彼が思いにふけり、灯を見ている間に、オールの代わりに帆がかけられていた。今やボートは風に吹かれて走っていた。憲兵にまた質問をするのは気が進まなかったが、彼は憲兵に近づき、その手を取りながら、
「ねえ、君の良心と、軍人としての名誉にかけて、お願いだから僕を哀れに思い、僕に答えてくれないか。僕は船長のダンテスだ。わけのわからない謀反のかどとかで告発されてはいるけれども、善良で忠誠なフランス人だ。いったいどこへつれて行くんだ。言ってくれ。船乗りとして誓う、僕は義務には従うし、運命は甘受するから」
憲兵は耳をぼりぼり掻き、仲間を見た。相手は、もうここまで来れば言ってもかまわないんじゃないか、というような顔をした。そこでまたダンテスのほうを見て、
「君はマルセーユの船乗りだ。それなのに行先を聞くのか」
「そう、ほんとに僕にはわからないんだ」
「およその見当もつかないのか」
「まるっきり」
「そんなばかな」
「いやほんとだ、神かけて誓う。教えてくれ、お願いだ」
「だが、命令されてるんでな」
「命令といったって、十分後、三十分、せいぜい一時間後には僕にわかることを教えてくれても、べつにさしつかえないじゃないか。それまでの、なん世紀にも思える不安な時間をなくしてくれるだけなんだ。君を友達だと思って頼んでる。ほら見てくれ、反抗するつもりもなければ、逃げるつもりもない。だいいち、そんなことはできやしない。どこへ行くんだ」
「目かくしでもされてないかぎり、一度もマルセーユの、港の外へ出たことがないというのでもないかぎり、行先はわかるはずだがな」
「わからない」
「よくあたりを見てみろよ」
ダンテスは立ち上がり、ボートが進んで行くらしい地点に目をやった。すると、前方二百メートルのところに、黒ぐろとけわしい岩がそそり立ち、その上にさらに珪石を積み重ねたように陰鬱なシャトー・ディフがそびえているのが見えた。
まさかシャトー・ディフとは考えてもみなかったダンテスの眼前にいきなり現われたその奇怪な姿、あたりに深い恐怖のただようこの牢獄、三百年来、マルセーユの名をその陰惨な言い伝えのゆえに高からしめているこの城の姿は、ダンテスを、断頭台を見た瞬間の死刑囚と同じ気持にさせた。
「ああ、シャトー・ディフ! いったいこんなところで何をするんだ」
憲兵がにやりとした。
「まさか僕をあそこの牢へ入れるためにつれて来たわけじゃあるまい」ダンテスが続けた。「シャトー・ディフは、重罪の政治犯だけを収容する牢だ。僕はなにも悪いことはしてない。シャトー・ディフに、予審判事かだれか、司法官がいるのか」
「たぶん、長官と看守と衛兵、それに厚い壁しかあるまいよ。さあさあ、そんなびっくりしたふりなんかしないでさ。まったくのところ、俺をからかうのが俺の親切へのお礼がわりとでもいうようだぜ」
ダンテスは憲兵の手を骨が砕けそうなほど握りしめながら、
「それじゃ、あそこへぶちこむために僕をシャトー・ディフヘつれて来たと言うのか」
「たぶんな。がどっちにしろ、そんなに強くおれの手を握ったって無駄だぜ」
「正式の訊問も、正式の手続きもなしにか」
「手続きはすんでる。訊問も終った」
「それじゃ、ヴィルフォールさんの約束は」
「俺はヴィルフォールさんが約束したかどうかなんてことは知らねえよ。俺が知ってるのは、これからシャトー・ディフヘ行くってことだ。あ、貴様何をする。おーい、みんな来てくれ」
電光のような早い身のこなしで、ダンテスは海に飛びこもうとしたのだが、憲兵のきたえぬかれた目は、早くもそれを察知したのであった。ボートの床を彼の足が離れようとしたその一瞬たくましい四本の手が彼を掴んだ。
彼は怒声を発しながらボートの底に倒れた。
「ふん」ダンテスの胸を膝でおさえながら憲兵が言った。「これが貴様の言う船乗りの約束ってやつだな。そんな手に乗る甘ちゃんじゃねえんだ。さあどうだ、ちょっとでも動いてみろ、頭に弾丸をぶちこむぞ。最初の命令には背いて、貴様に返事をしてやったが、二番目の命令には従うぜ」
こう言って、実際にカービン銃を下に向け、その銃口がダンテスのこめかみにおしあてられた。
一瞬彼は、相手が禁止した動作をやって、いきなりそのハゲタカのような爪で彼に襲いかかったこの思いもかけぬ不幸に、乱暴なけりをつけてしまおうと思った。だが、この不幸があまりにも思いもよらぬものであったという、まさにそのことから、ダンテスはこれが長く続くはずはないと考えた。それから、ヴィルフォールの約束が、彼の脳裡によみがえった。また、あえて言うなら、憲兵にボートの底で殺されるという死にざまは、いかにもぶざまでみじめなものにも思えたのである。
だから彼は、怒声を発し、怒りにまかせて己《おの》が手を咬みつつ、ふたたび船板の上に倒れた。
ほとんどそれと同時に、激しくなにかにぶつかってボートがゆれた。
漕ぎ手の一人が、ボートがぶつかった岩に飛び降り、滑車をすべるロープの音がしたので、ダンテスには、船が目的地に着き、岸につながれようとしているのがわかった。
事実、ダンテスの腕と襟首《えりくび》をおさえていた護送兵が、無理やり彼を立ち上がらせ、ボートから降ろし、城の門に向かって登る階段のほうへ引きずっていった。銃剣をつけた銃で武装した下士官が後に続く。
ダンテスも、無益な抵抗はしなかった。彼の歩みが遅いのは、抵抗するためというよりは、気力が失せてしまったためであった。彼は、酔払いのように、ただ茫然とよろめきながら歩いていた。新たに急斜面に並ぶ兵士の姿が見えた。いやおうなしに足を上げねばならぬ階段を感じていた。門をくぐった。その門が背後で閉められた。しかし、これらすべてのことは、まったく機械的に行なわれ、まるで霧を通して見る光景のように、彼はなに一つはっきりした形は見ていなかった。もはや海さえも。見ていなかった。とても越えられるものではないとぞっとする思いで囚人たちが見る、あまりにも広い絶望的なその海をも。
しばらく停止を命ぜられた。彼は精神を集中しようと努めた。あたりを見まわす。四方を高い壁にかこまれた四角い中庭の中であった。ゆっくりとした規則正しい歩哨の足音が聞こえる。二つ三つ灯《とも》っている城の中の明りが壁に投ずる光の中で、歩哨が通るたびに銃身が光った。
十分ほど待った。ダンテスが逃げられないと判断して、憲兵たちは彼から手を離していた。なにか命令を待っているようであったが、その命令が届いた。
「囚人はどこにいる」と、訊ねる声がした。
「ここにいる」憲兵が答えた。
「ついて来させろ。おれが部屋へつれていく」
「行け」憲兵が、ダンテスの背を押しながら言った。
囚人は、その男の後について行った。男は彼を、地下とも言える一室につれて行った。部屋の壁はむき出しで水滴がしたたり、涙にぬれているかのようであった。背のない椅子の上の臭い脂《あぶら》に芯をひたしたランプが、このぞっとするような部屋の光る壁を照らし、ダンテスに、自分を連れて来た男の顔を見せた。ひどい身なりの野卑な顔をした下っ端の看守である。
「ここが今晩のお前の部屋だよ。もう遅いんでな、長官さまはお寝《やす》みだ。明日、お前への命令をお調べになって、だぶん部屋替えをなさるだろう。それまでは、ほれ、ここにパンがある。水はこの水差しの中だ。隅っこに藁《わら》がある。囚人に与えられるのはそれだけだ。じゃあな」
こう言うと、ダンテスがなにか言おうと口を開くいとまも与えず、看守がどこにパンを置いたのか、水差しがどこにあるのかを確かめるひまも、寝床代わりのわらのあるほうに目を向けるいとまも与えずに、看守はランプを持って扉を閉めてしまった。稲光りに照らされたように、青白く、水のしたたる牢の壁をダンテスに見せていたその光を持って行ってしまったのだ。
だから彼は、闇としじまの中にとり残された。凍てつくような冷気が燃える額に降りてくるのを感じていた牢の円い天井そのもののような、闇としじまであった。
朝の陽差しが、この穴倉のような牢にまたわずかばかりの明りをもたらしたとき、看守が、囚人はそのままその牢に入れておくようにという命令を伝えに来た。ダンテスははじめいた所から一歩も動いていなかった。鉄の腕で、前の晩に彼が足を止めた場所に釘づけにされていたかのようであった。ただ、彼のくぼんだ目は、涙で腫《は》れた瞼《まぶた》のかげにかくれていた。身じろぎもせずに床をみつめている。
彼はこうして、立ったまま、一睡もせずに一夜を過ごしたのだった。
看守が彼に近づき、彼のまわりを廻ったが、ダンテスには看守の姿が見えていないようであった。
看守が彼の肩を叩くと、ダンテスはびくっとして、頭をふった。
「お前、寝なかったのか」看守がたずねた。
「わからない」ダンテスが答えた。
看守は驚いてダンテスの顔を見た。
「腹は空いてないのか」
「わからない」
「なんかして欲しいことは」
「長官に会いたいんだ」
看守は肩をすくめ、出て行った。
ダンテスは目でその姿を追い、半ば開いた扉のほうに手をさしのべた。が扉はまた閉じられた。
長い鳴咽《おえつ》に胸をひき裂かれる思いであった。胸いっぱいの涙が二すじの流れとなって溢れ出た。額を床におしつけ、これまでの生活を思い起こしながら、彼は長いこと神に祈った。この若さで、これほどむごい懲罰に値するような、どんな罪を今までに犯したというのか、とわれとわが身に問いかけてみるのだった。
その日はこうして過ぎた。辛うじて二口か三口のパンをかじり、数滴の水を飲んだだけであった。あるときは椅子に腰をおろして思いに沈み、あるときは、まるで鉄の檻《おり》に入れられた野獣のように、牢の中をぐるぐると歩きまわった。
とりわけ、一つの考えが彼に地団駄をふませるのであった。つまり、どこへつれて行かれるのかわからなかったために、あれほど落ち着いておとなしくしていた、海を渡っていたときならば、海へ飛びこむチャンスはなん回でもあったのだ。そして、一度飛びこんでしまえば、マルセーユでも指折りの潜水の名手である彼の力ならば、水面下に身をかくし、護送兵どもから逃れることもできたはずなのだ。岸に泳ぎつき、逃げ、どこか人里離れた入江に身をひそめ、ジェノヴァかカタロニアの船を待ち、イタリアかスペインヘ行って、そこからメルセデスに手紙を書いて呼び寄せることもできたではないか。暮らしについては、彼にはどこにいようと、なんの心配もなかった。どこの国でも、有能な船員は数が少ない。彼は、トスカナ人と同じくらいにイタリア語が話せたし、旧カスティリアの子供の程度にはスペイン語が話せた。そうすれば、メルセデスや父親と一緒に幸せに暮らせたはずなのだ。父親も呼び寄せるからだ。それなのに彼は今、父がどうなっているのか、メルセデスがどうしているのかも知らずに、シャトー・ディフに、この脱出不可能な牢に囚われの身となっているのだった。それもこれも、すべてあのヴィルフォールの言葉を信じていたからだ。こう思うと、彼は気も狂わんばかりであった。彼は、看守が持って来てくれていた新しいわらの上をころげまわるのだった。
翌《あく》る日、また同じ時刻に、看守が入ってきた。
「どうだい、昨日よりはおつむが冷えたかい」看守が訊ねた。
ダンテスは答えなかった。
「さあ、少しは元気を出すんだ。おれにできることで、なにかして欲しいことがあるかい。ええ、おい」
「長官に話がしたいんだ」
「なんだ」看守がじれったそうに言った。「そいつは駄目だって言ったじゃねえか」
「どうして駄目なんだ」
「だってよ、牢の規則で、囚人がそんなことを要求することは許されてねえんだよ」
「じゃ、何なら要求してもいいんだ」
「金を払うから、もう少しうまい物を食わせろとか、散歩とか、ときにゃ本なんかな」「本なんかいらない、散歩もしたくない、食事もこれで結構だ。とにかく一つしか欲しいものはない、長官に会うことだ」
「いつまでもおんなじことばかり言って、おれを困らせるんなら、もう食い物も運んでやらねえぞ」
「食べ物を運んでくれなけりゃ、餓死するまでさ」
この言葉を言ったダンテスの口調は、囚人が死ぬのをむしろ幸せと思っていると看守に思わせるものがあった。囚人は一人につき一日、約十スー〔一スーは二十分の一フラン〕の収入を担当の看守にもたらしていたから、ダンテスが死ねば、この看守はそれだけ収入が減るわけであった。そこで、声を和らげて、
「いいか、お前の望みは、これは駄目だ。だからもうこれ以上言うな。というのは、囚人の要求で長官さまがそいつの牢へ来たなんてこたあ前例がねえ。だがな、頭を働かすんだ、散歩は許可になるだろう。そうすりゃあ、お前が散歩している所へ、いつか長官さまが通りかかることだってあるかもしれねえ。そしたら話しかけてみな。長官さまが返事をなさるかどうか、そいつはあちら次第だ」
「しかし、そんな偶然が起こるのを、いったいどのぐらい待てばいいんだ」
「さあ、そいつは。一月か二月か、半年か一年だろうな」
「長すぎる。僕は今すぐ会いたいのだ」
「ああ、そんなかなえられっこねえことばかり考えるもんじゃねえや、さもなきゃ、二週間とたたねえうちに、お前は気違いになっちまうぜ」
「そう思うか」
「そうとも、気が狂っちまうよ。いつだって、気違いの始まりはこうなんだ。ここにもちゃんと先例があるよ。お前の前にこの部屋に入ってた坊さんの頭がおかしくなっちまったのも、釈放してくれたら長官に百万やるって言い続けだったせいだ」
「どのくらい前にこの部屋を出たんだ」
「二年前だ」
「釈放されたのか」
「いや地下牢に移されたんだ」
「いいか」とダンテスが言った。「僕は僧ではない。気違いでもない。いずれそうなるだろうが、不幸なことに今はまだ気は確かだ。だから、僕は別のことを言いたい」
「どんな」
「お前に百万やるとは言わない。というのは、そんな金を僕はお前にやれないからだ。だが、今度お前がマルセーユに行ったら、カタロニア村まで行って、メルセデスという娘に手紙を、いや手紙じゃなくてもいい、たった二行でいいから、届けてくれたら、僕はお前に百エキュやる」
「わしがその二行とやらを持ってって、もしみつかったら、わしはくびだ。この仕事は、臨時収入や食費をぬきにしたって年に千フランにはなるんだ。三百フランもうけるために千フランを棒にふるかもしれねえ危ねえ橋を渡る馬鹿だと思うのかよ」
「そんなら、いいか、よく覚えとくがいい。メルセデスに手紙を持って行くのが、いやせめて、僕がここにいることをメルセデスに知らせることすらいやだと言うのなら、いつか僕は扉のかげにかくれていて、お前が入って来たときに、この椅子でお前の頭をぶち割ってやるぞ」
「脅迫する気か」看守は一歩後ろへさがりながら大声で叫び、防禦の姿勢をとった。「お前の頭はどうかしてるんだ。あの坊さんもはじめは今のお前とおんなしだった。三日後にはお前も、あの坊さんのように、気が狂って縛っちまわなきゃならねえや。シャトー・ディフに地下牢があってよかったよ」
ダンテスは椅子を掴み、それを頭の上でぐるぐるふり廻した。
「わかった、わかった」看守が言った。「そいじゃ、お前がどうしてもって言うんだから、長官さまに言ってやるよ」
「よかった」と、ダンテスは椅子を地面に置き、その上に腰をおろしながら言った。頭を垂れ、ものすごい目つきをしたそのさまは、ほんとうに気が狂ってしまったかのようであった。
看守は出ていった。そして、じきに四人の兵士と一人の伍長とともに戻ってきた。
「長官の命令だ、この囚人をこの一階下に移せ」と看守が言った。
「じゃあ地下牢だな」伍長が言う。
「地下牢だ。気違いは気違い同士一緒にしとかなきゃな」
四人の兵士がダンテスを捕えた。彼はいわば体中の力がなえてしまって、抵抗もせずに兵士についていった。彼は十五段の階段を降りさせられ、地下牢の扉が開き、彼はこうつぶやきながらその中に入った。
「そのとおりだ、気違いは気違い同士一緒にしとかなきゃいけない」
扉が閉まった。ダンテスは手を前にのばして、壁に手が触れるまで前に進んだ。その隅に彼は腰をおろし、じっと動かなかった。次第に目が闇になれてくると、あたりのものが見分けられるようになった。
看守の言い分は正しかった。今やダンテスは、気違いとさして変わらぬ状態であった。
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九 婚約披露の夜
すでに述べたように、ヴィルフォールはグラン=クール広場への道を歩いていた。そして、サン=メラン夫人の家に戻ってみると、食卓についていた客たちは、客間に移ってコーヒーを飲んでいた。
ルネは彼の帰りを待ちこがれていたが、ほかの者も思いは同じであった。だから、彼はみんなからわっとばかりに迎えられた。
「よお、首切りの名手、国家の支柱、王党のブルータス、どうだった」中の一人が叫ぶ。
「またあの恐怖政治がわれわれに牙をむいているのかね」別の一人が訊ねる。
「コルシカの鬼が巣窟から出たのか」もう一人が言った。
「奥さん」と、ヴィルフォールは義母となるべき人に近づきながら言った。「おいとませねばなりませんが、そのお許しをいただくために参りました……侯爵ちょっと内密のお話しがあるのですが」
「ほう、じゃが、それではほんとうに重大事件なのじゃな」ヴィルフォールの顔を曇らせる影に気づいた侯爵が訊ねた。
「あまりに重大なので、数日間のおいとまを願わねばならないのです」ルネのほうを振り向きながら彼は続けた。「そういうわけなので、事がいかに重大であるかおわかりいただけると思います」
「お発ちになるんですの」この思いがけないしらせがひき起こした心の動揺をかくしきれずに、ルネが叫んだ。
「残念ながらそうなのです。行かねばなりません」
「行くって、どこへ」侯爵夫人が訊ねた。
「それは裁判上の秘密です。ですが、もしここに、パリヘ伝言のあるお方がおいでなら、友人が今夜発ちますから、きっと喜んで引き受けると思います」
みなは顔を見合わせた。
「君は、わしにちょっと話があると言ったが」と侯爵が言った。
「はい、お部屋のほうへ参りましょう」
侯爵はヴィルフォールの腕をとり、二人で部屋を出て行った。書斎に着くと、侯爵は、
「いったい何が起きたのじゃ、話しなさい」
「きわめて重大と考えられる事件で、そのために私はただちにパリヘ向けて発たねばならないのです。この際ですから、侯爵、あまりにもぶしつけな質問をお許し下さい。あなたは国債をお持ちでしょうか」
「わしの財産はすべて国債になっておる。およそ六、七十万フランじゃが」
「それだったらお売り下さい。売るのです。さもないと破産なさってしまいます」
「そういっても、ここからどうやって売る」
「仲買人がおありでしたね」
「おる」
「その男宛の手紙を私に持たせて下さい。その男に売らせるのです、一分、一秒も無駄にせずに。もしかすると、私も間に合わないかもしれませんが」
「なんだと、ぐずぐずしてはおられぬ」
こう言って侯爵は机に向かい彼の仲買人宛の手紙を書いた。是が非でも売るように命じたのである。ヴィルフォールはその手紙を大切に紙入れに挾みながら、
「さてこのお手紙をいただきましたが、もう一通いただきたいのです」
「誰宛の」
「国王宛のです」
「国王への」
「そうです」
「だが、わしが陛下に手紙を書くことはあまりにも恐れ多い」
「ですから、あなたに書いて下さいと申し上げているのではありません。サルヴィユーさんにそれをあなたから頼んでいただきたいのです。どうしてもあの方の手紙がほしいのです。それがあれば、拝謁を願い出るための手続きで貴重な時間を無駄にせずに、陛下のおそばに参ることができます」
「しかし、君には法務大臣がおるではないか、チュイルリー宮殿には出入りが自由な。大臣に頼めば君は昼でも夜でも陛下のおそばへ伺候できるはずではないかな」
「ええ、たぶん。しかし、私のたずさえておりますニュースの価値を、他人と分けてしまうのは無用のことと思います。おわかりでしょうか、法務大臣は私などほんの脇役にしてしまい、この件から生ずる利益を一人じめにするでしょう。侯爵、私は一つのことしか申し上げません、もし私がチュルリーに一番乗りできれば、私の前途は保証されます。陛下が忘れようとしても忘れることのできないようなことを、私は陛下にしてさし上げることになるのです」
「そういうわけなら、早速旅の仕度をせい。わしはサルヴィユーをここへ呼ぶ。すぐお目通りがかなうよう手紙を書かせよう」
「わかりました。お急ぎになって下さい。十五分後には駅馬車に乗っていなければなりませんから」
「馬車を邸の門前に停めさせなさい」
「必ずそういたします。奥様に、それからお嬢様によしなにおとりなしいただけますね、このような日においとませねばならないのは、ほんとうに心残りですが、と」
「二人はわしの部屋に呼んでおく、別れの挨拶ができるようにな」
「ありがとうございます。では手紙のことをお願いいたします」
侯爵はベルを鳴らした。召使いが現われた。
「サルヴィユー伯爵にお越し願いたいと申し上げろ」そして、侯爵はヴィルフォールに向かって続けた。「行け」
「それでは。すぐまた参ります」
こう答えてヴィルフォールは走るように部屋を出たが。門の所まで来ると、検事代理があまり急いで歩いていては、町中の平和を乱すおそれがあると考えて、司法官らしいいつもの歩き方に変えた。
自分の家の戸口の所まで来ると、彼は闇の中に、白い幽霊のような姿がじっと立ちつくしたまま彼を待っているのを見た。
それは、あの美しいカタロニアの娘であった。エドモンの様子がわからぬままに、自分で恋人の逮捕の理由を知ろうと日の暮れ方にファロを抜け出て来たのである。
ヴィルフォールが近づくと、娘はよりかかっていた壁から身を離し、彼の行く手をさえぎった。ダンテスが検事代理にフィアンセのことを話していたから、メルセデスが名乗らなくても、ヴィルフォールにはそれが誰であるかわかった。ヴィルフォールはその娘の美しきと気品とに目をみはる思いだった。娘が、恋人がどうなったかと彼に問いだしたとき、彼には、自分が被告で娘が裁判官であるような気がした。
「お話しの男はね」彼はいきなりこう言った。「重罪犯人なのだ。私にはどうしてやることもできない」
メルセデスは鳴咽を洩らしそうになった。そして、ヴィルフォールが通り過ぎようとするとふたたび彼をひきとめて、
「せめて、どこへ行けば、あの人が生きてるか死んでるかわかるのでしょう」
「私は知らん。あの男はもう私の手を離れておるのだ」
こう答えると、その鋭い眼差しと、哀願するような態度に辛くなって、彼はメルセデスを押しのけて家に入り、娘によって自分の胸にもたらされた苦しみを戸外に置き去りにするためでもあるかのように、ばたんとドアを閉めた。
だが、苦しみというものは、このようにして押しのけられるものではない。ウェルギリウスの語る死の矢のように、傷ついた男はそれを道づれにするのだ。ヴィルフォールは家に入り、ドアを閉めたが、客間に入ると足の力が抜けた。鳴咽にも似たため息をもらすと、彼は肘掛け椅子に倒れこんだ。
この病める心の奥底に生命を奪う潰瘍《かいよう》の芽が生じたのはこの時である。彼が自分の野望の犠牲《いけにえ》とした男、彼の父の罪をあがなわせられているその無実の男の色青ざめ威嚇するような姿が彼の眼前に浮かんだ。男と同じく色青ざめたフィアンセの手をとり、後ろに良心の苛責をひきずっている。その苛責は、古代の宿命にたけり狂った者たちのように病者をとび上らせるようなものではなく、折にふれ心を打ち、過去の行為の思い出に死の苦しみを味わわせるあのつらいひそかなもの音であった。その刺すような痛みが死に至るまでも根深く進行する病根をうがつ疵《きず》であった。
まだこのときには、ヴィルフォールの心に瞬時のためらいがあった。裁判官と被告との戦いという感情以外のなにものをも抱かずに、彼はすでになん回か被疑者に対して死刑を要求した。判事ならびに陪審員をひとしく引きずった彼の激烈な雄弁のせいで処刑されたこれらの被疑者たちは、彼の額に一片の影さえも残しはしなかった。それはこの被疑者たちが有罪であった、少なくともヴィルフォールがそう確信していたからである。
だが今度の場合は違っていた。終身禁固刑、彼はこれを、無実の男に、これから幸福になろうとしていた無実の男に適用したのである。彼は、その男の自由ばかりではなく幸せをもぶちこわしたのだ。今回は、彼はもはや裁判官ではなく、首切り役人でしかなかった。
それを思うと、さきに述べたあのひそかなもの音を感ずるのだった。これはその時まで彼が知らなかった、心の奥底に鳴りひびき、彼の胸を漠《ばく》たる不安でいっぱいにするもの音であった。それはちょうど、傷を受けた者が、傷口が閉じるまでは、激しい本能的な不安から、身をふるわせずには口を開け血のしたたる傷口に指を近づけることができないようなものであった。
だが、ヴィルフォールの受けた傷は、絶対に傷口のふさがることのない傷、ないしは、これがふさがるためには、その前にさらに血が流れさらに苦痛をもたらさずにはおかぬ傷であったのだ。
もしこの瞬間に、あのルネの優しい声が、彼の耳に寛大な処置をとるようささやきかけたなら、もしあの美しいメルセデスが入ってきて、『私たちを見守っておいでになり、私たちをお裁きになる神様のみ名にかけて、私のフィアンセを私にお返し下さいませ』と彼に言ったなら、そうだ、どうしようもない力の前にすでに半ば垂れているこの額は、がっくりと前に落ち、おそらく彼の凍るように冷たい手は、たとえそれがどのような結果を生む恐れがあろうとも、ダンテスの釈放令状に署名したに違いない。しかし、このしじまの中には、いかなる声もささやかれなかったし、その部屋のドアが開いたのは、旅行用の四輪馬車に駅馬がつながれた旨を告げに来たヴィルフォールの召使いが入って来るためでしかなかった。
ヴィルフォールは立ち上がった。むしろ、内心の戦いに勝利をおさめた男のように跳ね起きて、書きもの机に駈けよると、引出しの中にあった金貨を全部ポケットに入れ、片手で額をおさえなにか切れぎれな言葉をつぶやきながら、うろたえた様子で部屋中を一めぐりした。それから、召使いが自分の肩にマントを着せかけたのを感ずるや、馬車に飛び乗り、グラン=クール通りのサン=メラン邸に立ち寄るよう言葉短く命じたのである。
不幸なダンテスの刑は確定したのだった。
サン=メラン侯爵が約束したとおり、ヴィルフォールは書斎に夫人とルネの姿を見出した。ルネを見ると彼は身をふるわせた。彼は、彼女がもう一度ダンテスの釈放を求めるものと思ったのだ。だが、ああ、われわれ人間の持つ恥ずべき利己主義なのだが、言わぬわけにはいくまい、この美しい娘には、ただ一つの関心事しかなかった。ヴィルフォールが行ってしまうということしか。
彼女はヴィルフォールを愛していた。そのヴィルフォールが、まさに自分の夫となろうとする時に行ってしまおうとしているのだ。ヴィルフォールは、自分がいつ帰ってくるかを言うことができなかった。だからルネは、ダンテスを気の毒に思うかわりに、その罪の故に自分から恋人を引き離すこの男を憎んだのである。
これを知ったらメルセデスは何と言うであろうか。
可哀そうなメルセデスは、ラ・ロージュ通りの角で、彼女について来たフェルナンに会った。カタロニア村に帰った彼女は、息もたえだえに絶望にうちひしがれてべッドに身を投げ出した。フェルナンはひざまずき、メルセデスが引っこめようともしないその手を握りしめ、熱い接吻の雨を降らせていたが、メルセデスはまるで感じていなかった。
彼女はこうして一夜を過ごした。ランプは油が尽きると消えたが、明るさを感じなかったように、暗くなったことにも気がつかなかった。また夜が明けても、明るさを目に感じなかった。悲しみが彼女の目を覆い、エドモンの面影しか彼女には見えなかったのだ。
「あら、そこにいたの」
フェルナンのほうを向いて彼女は言った。
「昨日からずっと君のそばを離れなかったよ」
フェルナンが、苦しい吐息とともに言った。
モレルは諦《あきら》めなかった。彼は、ダンテスが訊問を受けてから投獄されたことを知ると、知人を一人残らず訪ねた。なにか力のありそうなマルセーユの有力者の門を叩いた。だが、すでにダンテスがボナパルト党員として逮捕されたという噂が流れており、この時代には、また王位につこうというナポレオンの企ては、どんなに無謀な者の目にも途方もない夢としか映らなかったから、モレルはどこへ行っても、冷淡、恐れ、ないしは拒絶に出会うだけであった。彼は一切の望みを失い、事態は重大であり誰もどうすることもできないことを思い知らされて家に帰った。
一方カドルッスは不安と苦悩にさいなまれていた。彼は、モレルのように外をかけまわって、ダンテスのためになにかしてやろうとするかわりに、第一カドルッスにはなにもできようはずもなかったが、カシス酒のびん二本をかかえたまま家に閉じこもり、酔いに不安をまぎらせようとした。しかし、このときの彼の精神状態では、良心を眠らせてしまうには二本の酒は少なすぎた。だから彼は、新たに酒を求めに行くには酔いすぎていたし、酔いが記憶を消してしまうほどには酔っていなかった。二本の空びんを前にして、脚がびっこな机の上に肘をつき、芯の長くなったローソクの炎がゆらぐ中に、ホフマンがポンチ酒に濡れた原稿の上にまき散らしたあの妖怪どもが、黒い幻想的な埃《ほこり》のように舞うのをじっと見ていた。
ダングラールだけは良心の苛責も不安も感じていなかった。ダングラールは楽しささえ感じていた。彼は敵に復讐したのであり、ファラオン号での、彼が失うのではないかと恐れた自分の地位を確保したのだ。ダングラールは、心を持つかわりに、耳にペンをはさみインクびんを手にして生れて来る、あの計算ずくめの男どもの一人だった。彼にとっては、この世は、すべて引き算か掛け算であった。ある男が減らしてしまうかもしれない総額を、ある数字が増やすというのであればその数字のほうが彼にとっては一人の男よりもはるかに貴重に思えたのである。だからダングラールは、いつもの時間に床につき安らかに眠った。
ヴィルフォールはサルヴィユー氏の手紙を貰うと、ルネの両頬に接吻し、サン=メラン夫人の手に唇をつけ、侯爵の手を握ってから、エクス街道上を馬車を走らせた。
老ダンテスは悲しみと不安とで息絶えんばかりであった。
エドモンについては、彼がどうなったかはすでにわれわれの知るところである。
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十 チュイルリー宮殿の書斎
ヴィルフォールには、しばらくパリヘ向かう街道上を走らせておくとしよう。彼は三倍の金を払ってひたすら馬車を急がせている。そしてチュイルリーの、あのアーチ形の窓のついた書斎へ通じる広間を二つか三つ通り抜けて、ナポレオンとルイ十八世が愛し、今日ではルイ・フィリップのものとなっているために有名な、この小さな書斎に入ってくる。
今この書斎では、偉い人たちによくある偏執的な気持からとくに好んでいるハートウェルから持ち帰ったクルミの机の前に腰をおろして、ルイ十八世が五十一、二の半白の髪の男の話をかなりいい加減に聞いていた。貴族的な顔立ちのすきのない身だしなみをした男である。ルイ十八世はグリフィウス版のホラティウスの余白に注をつけながら話を聞いている。この版は高く評価されているが、かなり不正確なものだ。国王の気のきいた哲学的言辞はほとんどこの書物の引用であった。
「で、どういうことかな」国王が言った。
「私は心配でならないのであります」
「まことか。七匹の肥えたる牝牛と七匹の痩せたる牝牛の夢でも見られたかな〔旧約聖書〕」
「そうではありません。その事なら、七年の豊作と七年の飢饉とを予言するものでありましょうが、陛下のごとき聡明なる国王のもとでは、飢饉など恐れることはありません」
「ではブラカス、どのような禍《わざわい》があるというのだ」
「陛下、私は、南のほうに嵐がかもされていると信ずるにたるものを持っております」
「とすれば公爵、予はおんみが間違った情報を得ておると思う。予は逆に、南の方には一点の曇りもない晴天であることを確かなすじから聞いておるぞ」
才人ではあったがルイ十八世は、だじゃれが好きであった。
「陛下、たとえそれが陛下の一人の忠実な僕《しもべ》を安心させるためでしかないにしても、ラングドック、プロヴァンス、ドーフィネに確かな男を派遣し、これら三地方の人心をさぐらせてはいただけぬものでございましょうか」
「ワレラ聾者ニ向カイテ歌ヲ歌ウ」
ホラティウスヘの注釈をつけ続けながら国王が答えた。
ブラカスは、このヴェヌーシアの詩人〔ホラティウス〕の半句がわかるふりをするために笑いながら答えた。
「陛下、陛下がフランスの善良な民の心にご信頼あそばすことは十分に正しいことと存じます。が、自暴自棄な企てを恐れても必ずしも間違っているとは思わぬのです」
「誰の企てか」
「ボナパルトの、少なくともその党派の」
「ブラカス、おんみは、おんみの恐怖心から予の仕事の邪魔をしに来たのか」
「私は、陛下、陛下のご安泰を思うと夜も眠れぬ思いでございます」
「待ちたまえ、ちょっと待て。予は、『羊飼(羊ヲ)ヒキ行キシトキ』という言葉にじつにいい注を思いついたのだ。待て、その後で先を聞こう」
しばらくのあいだ沈黙が続いた。その間にルイ十八世は、ホラティウスの余白に、できるだけ小さい字で新しい注を書き入れた。それがすむと、
「公爵、続けたまえ」と、他人の思想に注釈を加えたにすぎないのに、新しい思想を生み出したかのように思いこむ男の満足げな様子で身を起こしながら言った。「先を聞こう」
「陛下」ブラカスは一瞬、ヴィルフォールを自分の利益のために利用してやろうと思った。「私を不安にさせているものは、根も葉もない単なる噂でもなければ、根拠のない情報ではないことを申し上げねばなりません。思慮深い、私の信頼に十分答えてくれる一人の男、南仏方面を警戒するよう私が命じておいた男が(公爵はこの言葉を口にするのを一瞬ためらった)、駅馬車でパリに着き『国王の身に重大な危険が迫っている』旨を告げに参ったのです。そこで私がこうして馳せ参じました次第です」
「貴下ハ先祖ガ家ニ災ヲ導ク」
国王が注をつけ続けながら言った。
「陛下はもうこれ以上、このことは言うなとおおせなのでしょうか」
「いやそうではない。だがちょっと手をのばしてくれないか」
「どちらの手を」
「どっちでもよい、あそこへ、左へだ」
「ここですか」
「予は左へと言ったのに、おんみは右を探しておる。予が申したのは予から見て左だ。そう、そこだ。そこに昨日付の公安大臣の報告書があるはずだ……が、待て、ダンドレ自身が来た……」
ルイ十八世は言葉を切り、取り次ぎの者に向かって、
「ダンドレが来たと言うのだな」
取り次ぎの者は、事実、公安大臣が来たことを告げに来たのであった。
「さようでございます。ダンドレ男爵様がおみえでございます」取り次ぎの者が答えた。
「男爵には違いないな」ルイ十八世はうすら笑いを浮かべた。「入りたまえ男爵。入って、おんみが知っておるボナパルト氏についての最新情報を公爵に話してやりたまえ。どんなに事態が重大であっても、なにもかくしてはならぬ。さあ、エルバ島は噴火山かな。燃えさかるすさまじい戦火が噴き出そうとしておるか。戦火、オソロシキ戦火が」
ダンドレは肘掛け椅子の背に両手を置き、上品に身をささえていた。
「陛下は昨日の報告書をご覧下さいましたでしょうか」
「見た、見た。だが、公爵には報告書が見当らぬらしいから、その内容を公爵に話してやれ。簒奪者が島で何をしておるか、詳しく聞かせてやるのだ」
「陛下にお仕えする者ならば誰しも」と、男爵は公爵に言った。「エルバ島から届いた最近の情報には喝采せずにはいられぬでしょう。ボナパルトは……」
ダンドレはルイ十八世を見た。が、国王はまた注を書き入れるのに熱中していて、顔も上げなかった。
「ボナパルトは」と男爵は続けた。「死ぬほど退屈しております。毎日一日中、ポルト=ロンゴーネの鉱夫たちの仕事を眺め暮らしておるのです」
「うさ晴らしに身体を掻いておる」と国王が言った。
「身体を掻いている、どういう意味でしょうか」公爵がたずねた。
「そうなのだよ、公爵。おんみはお忘れかな、あの偉人、英雄、半ば神として崇められたあの男は、皮層病にむしばまれておるのだ、プルリゴ〔たむし〕にな」
「それに公爵」と公安大臣が言う。「近いうちに簒奪者が気違いになるのはほぼ確実だとわれわれは考えておるのです」
「気違いに」
「緊縛の要ある狂人にです。頭がすっかりぼけてしまって、さめざめと泣くかと思えば、げらげら笑い出すしまつ。いつかなど、海岸で海になん時間も小石を投げて五、六回うまく水を切ると、新たにマレンゴやオーステルリッツの戦勝を収めたほどの満悦ぶりなのです。これはまさに狂気の兆とあなたもお認めになるでしょう」
「いや英知のしるしかもしれぬぞ、英知のな、男爵」とルイ十八世が笑いながら言った。「古代の名将たちは、海に石を投げて気をまぎらわしたのだから。プルタルコスの、アフリカのスキピオン伝を見たまえ」
ブラカスは、二人ののんびりした様子にはさまれて、夢を見ているような気がしていた。ヴィルフォールは、自分が知った秘密がもたらす利益を、ほんのわずかでも他人に奪われまいとしてはいたが、ブラカスをひどい不安に陥いれるにたるほどのことはしゃべっていたのだ。
「さあ、ダンドレ、ブラカスはまだ納得がいかぬようだ。簒奪者の宗旨変えの件を話してやれ」ルイ十八世が言った。
公安大臣はおじぎをした。
「簒奪者が宗旨変えをした」と、公爵はつぶやきながら、ウェルギリウスの二人の羊飼いのようにかわるがわる口を開く国王とダンドレの顔を見た。「簒奪者が宗旨変えしたのですか」
「そうなのです、公爵」
「良い考え方にね。男爵、説明してやりたまえ」
「公爵、事情はこうなのです」と、大まじめに大臣が言った。「つい先頃、ナポレオンは閲兵式をやったのです。その際、二、三の老近衛兵が、……連中が近衛兵と言ってるものですから……フランスに帰りたいと申し出たのに対して、善良なる国王に忠勤をはげむようさとして、ひまを与えたのです。公爵、これは彼自身の口から出た言葉です。私は確信があります」
「どうだね、ブラカス。どう思うかね」と、目の前の大部な古典の注解書を調べるのを一時やめて、国王が勝ち誇ったように訊ねた。
「陛下、公安大臣か私か、いずれかが間違っているのです。が、公安大臣が間違っているはずはありませんから、おそらく私が間違っているのでしょう。しかし、陛下、もし私が陛下のお立場におりましたならば、先にお話しした人物に、とにかく訊ねてはみると思いますが。いえ、私はぜひその男にお訊ね下さるようあえてお願い申し上げます」
「いいとも、公爵。そなたが推すなら、誰とでも会おう。だがな、手に武器を持って会いたいものだな。大臣、これよりもっと新しい報告書はないのか。これは二月二十日付だ。今日はもう三月三日だぞ」
「ございません。が、私はそれを今か今かと待っていたのでございます。朝から家を出ておりますので、おそらく留守中に届いたことと思います」
「役所へ行ってみよ。そして、もし届いてなかったなら、その時は、その時は……」と、ルイ十八世は笑いながら続けた。「一通こしらえるんだな。いつもそうしておるのではないかな」
「とんでもありません、陛下。ありがたいことに、これでしたら、こしらえる必要などございません。毎日、きわめて詳細な情報が机上せましと参っております。地位も財産もない哀れな連中がよこすものですが、彼らは、実際には役に立っていませんが、お役に立ちたいと思い、その働きに対してささやかな恩賞にあずかりたいと思っているのです。彼らは偶然を期待して、自分たちの予言が、いつかはなにか思いがけない事件がおきて現実のものになることを夢見ているのです」
「よし、行きたまえ。予が待っておることを忘れるな」
「すぐ戻ります。十分後には帰って参ります」
「私は」と、ブラカスが言った。「私は、私の使者を呼んで参ります」
「待て、まあ待て」と、ルイ十八世が言った。「おんみの紋章を変えてやろう。翼を広げ、逃れようと空しくもがく餌食を爪に捕えた鷲だ。銘は捕エテ離サズ」
「お話|承《うけたま》わっております」と、ブラカスはじりじりして拳を噛みながら言った。
「このくだりについておんみの意見を聞きたいのだが。息絶エダエニ逃グルというのだ。知っての通り、狼に追われて逃げる鹿の話だ。おんみは狩人で狩猟官ではなかったかな。その二つの肩書からして、この息絶エダニというのをどう思うかね」
「見事な句と存じます、陛下。が、私の使者は、お話の鹿さながらなのです。二百二十里を馬車を走らせて参りました。しかも三日足らずのうちに」
「それはまたご苦労なことだな、公爵。三、四時間で届く信号通信があるというのに。そうすれば、その使者とやらも息など切らすこともなかろうに」
「ああ、陛下。陛下に有益な情報をお伝えしようと、はるばる息せき切って馳せ参じた男に対して、それはあまりのお言葉です。せめて、私にこの男を推挙いたしましたサルヴィユー殿のおためにも、暖かくその者をお迎え下さいませ、お願いでございます」
「予の弟の侍従のサルヴィユーか」
「まさしく」
「そうだ、あれはマルセーユにおったな」
「サルヴィユー殿が手紙をよこしましたのは、彼の地からでございます」
「あれも、その陰謀とやらをそなたに書いてよこしたのか」
「いいえ。ですが、私にヴィルフォールを推挙し、陛下のおそばに通してやってほしいと言って来たのです」
「ヴィルフォールだと」国王は大声を出した。「では、その使者はヴィルフォールと申すのか」
「さよう」
「マルセーユから来たのは、その者か」
「ヴィルフォール自身でございます」
「なぜ名前をすぐに言わぬのか」その顔に不安の色を見せ始めながら国王が言った。
「陛下、私はその名を陛下がご存じないものと思っておりました」
「そんなことがあるものか。あれは誠実で、立派な精神の持ち主だ。とくに野心家でな、それに、そなたはあの男の父の名を存じておるか」
「父親を」
「そう、ノワルチエだ」
「ジロンド党のノワルチエでしょうか。元老院議員のノワルチエ」
「そう、その通りだ」
「で、陛下はあのような男の息子をお用いになりましたのですか」
「ブラカス、いいか、おんみは何も聞いておらんのだな。予は、ヴィルフォールは野心家だと言ったのだ。栄達のためには、彼はなにものをも犠牲にする男だ。たとえ自分の父でもな」
「では、彼を呼び入れましょうか」
「ただちにだ、公爵。今どこにおる」
「下で、私の馬車の中で待っているはずです」
「呼んで来い」
「飛んで参ります」
公爵は青年のようなす早さで部屋を出て行った。心の底から王政を守ろうとする熱烈な忠誠心が彼を二十歳の青年にしたのであった。
一人残ったルイ十八世は、開かれたままのホラティウスに目をやり、
『心正シク志操堅固ナル者』
とつぶやいた。
ブラカスは、降りて行ったのと同じ早さでまた登って来た。が、次の間では彼は、国王の威光をふりかざさねばならなかった。ヴィルフォールの埃まみれの服、身ごしらえは、宮中に伺候する装いとはおよそ縁遠いものであったので、式部官ブレゼの神経をいたく刺激したのである。このような恰好で国王の御前に出たいという若者の申し出に、彼は仰天せざるをえなかった。だが国王のご命令である、とのただ一言で、公爵は、一切の面倒をのりこえてしまった。しきたりを守ろうとする式部官は、なおも文句を続けたが、ヴィルフォールは、国王の御前に導き入れられた。
国王は、公爵が国王を一人残した時と同じ場所にいた。ヴィルフォールがドアを開けると、目の前に国王が立っていた。若き司法官がまずしたことは、立ち止ることだった。
「入りたまえ、ヴィルフォール、入りたまえ」
と、国王が言った。
ヴィルフォールは頭を下げ二、三歩前へ進んだ。そして、国王が訊ねるのを待っていた。
「ヴィルフォール。ここにおるブラカス公爵が言うには、そなたは、なにか重大なことを言いに来たというのだが」
「陛下、公爵様のおっしゃることは、ほんとうであります。陛下ご自身それをお確かめ下されば幸せに存じます」
「まずはじめに、そなたの考えでは、みなが予に信じさせようとしておるほど、事態は重大なのか」
「陛下、事態は切迫いたしておると考えます。しかし、私が大急ぎで馳せ参じましたために、取り返しのつかぬ所までは至っておらぬことを望む次第であります」
「もしそなたが望むなら、詳しく話してみるがよい」と、ブラカスの顔色を変えさせ、ヴィルフォールの声を上ずらせている激しい心の動揺を、自分自身も感じ始めながら、国王が言った。「話してみるがよい。ただ始めから話してほしい。予は何事によらず秩序を重んずるのでな」
「陛下、忠実にご報告申しあげます。ただ、私もあまりに取り乱しておりますので、私の言葉に、よく分らぬ所がありましても、お許しいただきとう存じます」
こう相手に取り入るための前置きをしてから、ヴィルフォールは国王をちらっと見た。そして、この高貴な聞き手の好意をたしかめると、彼は続けた。
「私が能う限り速やかに陛下にお知らせするためパリヘ参りましたのは、大した結果ももたらさぬ、ありふれた陰謀を私の所管内で発見したためではありません。そんなものは、下層階級の者どもや軍隊の末端のほうでは毎日のようにたくらまれております。そうではなくて、真の謀反、まさに玉座そのものを脅やかす嵐をお報らせに参ったのです。陛下、簒奪者は三隻の船を艤装いたしております。なにごとか、おそらく向う見ずな事をたくらんでおります。向う見ずではありましょうが、恐るべきたくらみと存じます。今こうしております瞬間にも、奴はエルバ島を離れておるに違いありません。行先はどこか。私にもわかっておりませんが、間違いなくナポリか、トスカナの海岸か、あるいはフランスにさえ上陸しようとしているのです。陛下も、エルバ島の王が、イタリアおよびフランスと連絡を保っておりましたことはご存じでございましよう」
「存じておる」ひどく動揺しながら国王が言った。
「つい先頃も、サン=ジャック通りでボナパルト党員の会合があったと聞いておる。が、先を続けてくれぬか。どうしてそんなことを知っておるのか」
「マルセーユのある男を訊問した結果知ったのであります。私はずっと以前からこの男に目をつけておりまして、こちらへ発ったその日に逮捕させたのです。この男は荒くれた水夫で、私はかねてボナパルト支持者ではないかと疑っていたのですが、こやつはひそかにエルバ島へ行きました。彼は島でボナパルトの侍従長に会い、侍従長はパリのあるボナパルト党員への伝言をこの男に託したのです。そのボナパルト党員の名前はどうしても言わせることができませんでした。が、その伝言とは、その党員に、パリ帰還、陛下これは訊問の際の言葉そのままなのです、きわめて近い将来必ず決行されるパリ帰還にそなえて人心工作を命ずるというものなのです」
「で、その男はどこにおる」
「牢におります」
「そちは事態は重大と考えるか」
「重大であるからこそ、この事件は家庭内での祝いごと、つまり私の婚約披露の宴の最中に起こったのですが、私はフィアンセも友人たちも、一切を投げうち、陛下のみ前に私の心中の不安と、忠誠の証しとを差し出すために、すべてを他日に延ばしたのであります」
「そうだった、たしかサン=メランの娘との縁組だったな」
「陛下の最も忠実な僕《しもべ》の娘です」
「そうだ、そうだ。が、その陰謀の件に戻ろう」
「これは単なる陰謀などではないことを恐れております。これは謀反です」
「今のような時勢には、謀反は考えるのは易いことだが、目的を遂げるとなると難しい」国王が笑いながら言った。「父祖代々の王位に戻ったばかりのわれわれは、過去、現在、未来に同時に目を向けているのでな。十か月前から、大臣たちは地中海沿岸の警備を固めるため、警戒を倍加しておる。もしボナパルトがナポリに上陸すれば、ピオンビーノにすら到着する前に、全同盟軍が決起するであろう。トスカナに上陸すれば、奴は敵地に足を踏み入れることとなる。フランスに上陸したとしても、わずか一握りの兵をつれておるだけだ。国民から忌《い》み嫌われておる奴のことだ、苦もなくけりをつけてしまうことができよう。心配せずともよい。が、王国がそちに対して抱いておる感謝の念には変わりはない」
「あ、ダンドレ殿が戻られました」と、ブラカスが声を上げた。
事実このとき、ドアの所に、公安大臣が姿を現わした。顔は青ざめ、よろよろと、なにかに目がくらんだように、視線は定まらなかった。ヴィルフォールは退席しようと歩みかけたが、ブラカスがその手をおさえて引きとめた。
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十一 コルシカの鬼
ルイ十八世は、このうろたえきった顔を見ると、自分の前の机を荒々しくおしのけた。
「どうした、男爵、ひどくうろたえておるようだが。その取り乱したさま、そのためらいは、ブラカスが申したこと、またヴィルフォールがいま予にそれを裏づけてみせたことに関係があるのか」
ブラカスもまたあわただしく男爵に近づいたが、宮廷人士としての恐怖心が、政治家としての自尊心を満足させることを妨げた。たしかに、こんな場合、官憲の長たるものをこんな問題で侮辱するよりは、へり下っておいたほうが、彼にとってはずっと有利だったのだ。
「陛下……」男爵が口ごもった。
「どうしたのだ」ルイ十八世が言った。
公安大臣は、絶望の念に耐えきれず、国王の足下にひれ伏した。国王は眉をしかめながら一歩退き、
「話をせぬか」
「ああ陛下、とんでもないことになりました。私はまことみじめな奴でございます。とてもこの心の傷から立ち直ることはできますまい」
「話せと言っておるのだ」
「されば、陛下、簒奪者は二月二十八日エルバ島を脱出、三月一日上陸しましてございます」
「どこへか」せきこんで国王が訊ねた。
「フランスヘ。アンチーブの近くの小さな港ゴルフ・ジュアンに」
「簒奪者がフランスに、アンチーブ近くのゴルフ・ジュアンに上陸した。パリから二百五十里の所に、三月一日に。それをそちは、今日、三月三日になってやっとその報告を受けた……そちが申しておること、そんな馬鹿なことはあるまい。誤報であろう、さもなければそちは気が狂うておるのだ」
「ああ陛下、まぎれもなき事実でございます」
ルイ十八世は怒りと恐怖との名状しがたい表情を見せ、あたかも心臓と顔とに同時に弾丸を受けたかのように、すっくと立ち上がった。
「フランスに、簒奪者がこのフランスにおる! では、あの男を監視してはおらなかったのか。いや、さもなければ、腹を合わせてでもおったのか」
「陛下」ブラカス公爵が叫んだ。「ダンドレ殿のようなお人を裏切り者と責めることなどできませぬ。われら一同みな盲《めくら》であったのです。そして公安大臣はその一人であったにすぎません」
「ですが」とヴィルフォールは言いかけて、すぐに言葉を切った。「あ、申し訳ありません」彼は頭を下げた。「気がはやりましてつい。陛下、なにとぞお許し下さいますよう」
「話したまえ、遠慮なく申すがよい」国王が言った。「危急を知らせてくれたのはそちだけだ、これを防ぐ手だてをみつけるのに手を貸してほしい」
「陛下、裏切り者は南仏では忌み嫌われております。奴が南仏に足を踏み入れるならば、プロヴァンスとラングドックを奴に敵対せしめることは容易かと存じます」
「そう、おそらく」と大臣が言った。「しかし、奴はガップおよびシストロン経由で進撃している」
「奴が進撃している、進撃している」国王が言った。「とすると奴はパリヘ向かっておるのか」
公安大臣は沈黙したままであった。がそれは、完全な肯定を意味していた。
「で、ドーフィネはどうか」国王はヴィルフォールに訊ねた。「プロヴァンスのようにドーフィネをも奴に敵対せしめ得ると思うか」
「陛下、まことに残念ながら、厳しい現実を申し上げねばなりません。ドーフィネの人心は、プロヴァンスおよびラングドックのそれとは遠いへだたりがあるのです。山岳地方の者どもはボナパルト派でございます」
「そうか」ルイ十八世はつぶやいた。「奴はよく知っておったのだ。つき従う兵士の数は」
「陛下、私にはわかっておりません」公安大臣が言った。
「なんと、そちが知らぬ。そちはその情報を得るのを怠ったのか。なるほど、そんなことは大して重要なことではないからな」国王は相手が縮み上がるような笑みを浮かべながらつけ加えた。
「陛下、私にはそれを知ることが出来なかったのであります。至急報は、ただ上陸した旨の報告と、簒奪者のとった道すじしか伝えておりませんでしたので」
「その報告はどのようにしてそちのもとに届いたのか」
大臣は頭を垂れた。顔がみるみる朱に染まった。
「信号通信であります」と彼はつぶやくように言った。
ルイ十八世は一歩前に進み、ナポレオンがやったように腕を組んだ。
「このざまだ」怒りに顔青ざめながら国王が言った。「七か国の同盟軍があの男の天下を覆がえし、神の奇蹟により、二十五年の亡命生活の後に予は父祖の王座に戻った。その二十五年の間、予は、自分に約束されていたこのフランスの人および書物について研究し、探究し、分析したのだ。それが、予のすべての願いがかなえられたそのとき、己が手中に握っていた力が爆発し予を砕くとは」
「陛下、これは宿命でございます」と大臣がつぶやいた。このような重圧は、運命にとっては軽くても、一人の人間を押しつぶすには十分であることを感じていたのだ。
「それにしても、われらが敵がわれらに対して言っていた、『なにごとも学ばず、なにごとも忘れず』との言葉は真実であったのか。あの男のように、予も裏切られたのならば、まだしも諦めがつく。だが、予の手によって高官の地位に登った者ども、予の運命はすなわち彼らの運命であり、彼らは予の現われる以前には無に等しい存在、予なき後も再び無と化するのだから、自分の身よりも予の身を厳重に見守っていたはずの者どもに囲まれていながら、無能愚鈍の故にみじめにも身を滅ぼすとは。ああそうとも、そちの言うとおりだ、これは宿命だよ」
この恐ろしい非難の言葉の前に、大臣はただ深ぶかと頭を下げていた。ブラカスは汗まみれの額をぬぐっていた。ヴィルフォールは内心ほくそえんでいた。自分の重要性が増大していくのを感じていたからである。
「落ちて行くのだ」王国がのめりこまんとする深淵の深さを一目で見て取ったルイ十八世がなおも続けた。「落ちて行くのだ。そしてその墜落を信号で知る。おお、予は、嘲笑に追われてチュイルリーの階段を降りるよりは、兄ルイ十六世のように刑台に登ることを望むぞ。嘲笑、フランスでこれが何を意味するか、そちは知るまい。だがそちはそれを知らずにはおれぬのだ」
「陛下、お慈悲でございます」と大臣がつぶやいた。
「ヴィルフォール、近くへ来たまえ」と、国王が、王国の運命がさ迷いただよっている会話のなり行きを、一歩退ってじっと立ちつくしたまま見まもっていた青年に声をかけた。
「近くへ来て、大臣に、大臣が知らなかったすべてのことを、前もって知っておったと言ってやりたまえ」
「陛下、あの男がなんぴとに対しても隠していた計画を予知することは、事実上不可能でございました」
「事実上不可能、なるほど大そう立派な言葉だね。生憎《あいにく》と大そう立派な言葉は、大そう立派な人物同様ふんだんにあるものだ、予はできるだけ減らしたが。一つの省を持ち、部局を持ち、職員を持ち、密偵もスパイも、百五十万フランの機密費も持つそちに、フランスの海岸からわずか六十里の所で何が起こっておるかを知ることが事実上不可能とは。よろしい、ではここに一人の人がいる。この人にはそのような機関その他は一切無い。一介の司法官にすぎぬこの人は、そちの警察力のすべてを以てするより以上のことを知り得たのだ。そちのように、もし彼が信号通信を用いることができたなら、予の王冠をも救ってくれたであろう」
公安大臣は深い怨《うら》みのこもった眼差しをヴィルフォールに向けた。ヴィルフォールは勝者の謙遜の情をこめて頭を下げた。
「ブラカス、おんみにはそうは言わぬ」国王が続けた。「おんみはなにもみつけはしなかったが、少なくとも、自分の疑惑に固執するだけの聡明さは持ち合わせていた。ほかの者であれば、ヴィルフォールの情報を根も葉もないもの、あるいは、金が目当ての野心から出たものと考えたであろう」
この言葉は、一時間前に公安大臣があれほど自信たっぷりに述べた言葉へのあてこすりであった。
ヴィルフォールは国王の言葉の真意をさとった。誰か他の者であれば、賞め言葉に有頂天になってしまったかもしれない。しかし、これで公安大臣が決定的に失脚したと感じてはいたが、ヴィルフォールは公安大臣を不倶戴天の敵とすることを恐れた。事実、自己の権力を完全に握っていながらナポレオンの秘密を知り得なかった公安大臣も、失脚寸前の必死のあがきによって、ヴィルフォールの秘密を知るかもしれなかった。そのためには、公安大臣はダンテスを訊問するだけでいいのである。だからヴィルフォールは、大臣をうちのめすかわりに、大臣を救おうとした。
「陛下」ヴィルフォールは言った。「事はあまりに急に起こりましたので、これを防ぐことは、嵐でもまき起こす神の力でなければ不可能であったと、陛下もお認め下さると存じます。陛下が先程、私の炯眼《けいがん》のなせる業とお考え遊ばしたことは、まったく単なる偶然によるものなのです。私はこの偶然を、陛下に忠実な僕《しもべ》として利用したにすぎません。私を実際以上にお買いかぶりなさらぬよう、以前に陛下が私に対して抱いておられたお考えにまた立ち帰らねばならなくなりますから」
公安大臣の多くを語る目がヴィルフォールに感謝の言葉を述べていた。ヴィルフォールは、自分の計画がうまく行ったことをさとった。つまり、国王の感謝の念を失うことなしに、まさかの時にはあてにできる友を一人作ったのである。
「わかった」国王が言った。「さて」とブラカスと公安大臣に向かって、「もうそちたちに用はない、そちたちは退ってよい。あとは国防大臣の所管だ」
「幸い」ブラカスが言った。「軍隊は信頼できます。報告書によりますと、軍隊がどれほど陛下の政府に忠誠を誓っておるか、陛下もご存じのとおりでございます」
「報告書のことは口にするな。公爵、今では予は、それがどの程度あてにできるものかを知っておるのだ。おお、ところで報告書と言えば、男爵、サン=ジャック通りの事件について新たになにか知っておるか」
「サン=ジャック通りの事件!」叫び声を抑えきれずにヴィルフォールは声をたてた。
が、すぐに言葉を切って、
「お許し下さい、陛下。陛下への私の忠誠心が、すぐに忘れさせてしまうのです、陛下に対する敬意ではなく、陛下への敬意は私の心に深く深く刻みこまれておりますから、礼儀をわきまえる心を忘れさせてしまうのです」
「話すがよい、訊ねるがよい。そちは今日は訊ねる権利を持っておるのだ」
「陛下」と公安大臣が答えた。「まさにその事件につきまして新たに得た情報を陛下にお伝えするために、私は本日参ったのでございます。ですが、陛下の御関心がゴルフ・ジュアンの恐るべき事変に向いておられましたので。もう今となってはその情報も陛下はなんの興味もお持ちにならぬと考えますが」
「逆だ、逆だぞ。この事件は今問題になっておることと直接関係がありそうに思う。ケネル将軍の死を辿《たど》れば、国内での大陰謀が明らかになるかもしれぬ」
このケネル将軍という名前がヴィルフォールを身ぶるいさせた。
「まことに将軍の死は」公安大臣が続けた。「当初考えられましたように自殺によるものではなく、どうも殺人によるものと考えられそうであります。ケネル将軍は、行方不明になった時、あるボナパルト派のクラブから出て来たらしいのです。正体不明の男がその朝将軍を迎えに参りました。そしてサン=ジャック通りでの再会を約しました。その男が将軍の部屋に招じ入れられました時、将軍の髪の手入れをしておりました召使いが、その男がサン=ジャック通りと申したのをはっきり聞きはしたのですが、残念ながら番地を聞き洩らしました」
公安大臣がルイ十八世にこの情報を伝えていくにつれ、ヴィルフォールは大臣の口一つに運命がかかっているかのように、赤くなったり青くなったりしていた。
国王が彼のほうを向いた。
「そちの意見はどうかなヴィルフォール、予と同じではないかな? ケネル将軍は簒奪者に心を寄せていると考えられていたろうが、じつは全く予についておった、それで、ボナパルト派の待ち伏せの犠牲になった」
「おそらくそうでありましょう。が、それ以上のことはわかっていないのでしょうか」
「今、将軍に会合の場所を伝えた男を追っています」
「その男を追っているのですか」
「そう。例の召使いがその男の特徴を申し立てました。年は五十一、二、髪は褐色、黒目で太い眉、口ひげをたくわえています。青いフロックコートを着て、レジヨン・ドヌール勲四等の略綬を着けていました。昨日、いま申し上げた特徴とぴったり一致する男を尾行したのですが、ラ・ジュシエンヌ通りとコック・エロン通りの角で見失いました」
ヴィルフォールは肘掛け椅子の背に身をもたせていた。というのは、公安大臣が話を進めるにつれて、膝の力が抜けていくのを感じたからである。しかし、その男が尾行した警官の追跡をまぬがれたことを知ると、彼はほっと溜息をついた。
「その男を探し出すのだ」国王が公安大臣に言った。「今いてくれたらどれほどわれわれの役に立ってくれたか知れぬケネル将軍が、ボナパルト派によるにしろそうでないにしろ、もし殺されたのであれば、あれこれ考え合わせてみれば、予にはそうとしか思えぬが、将軍を殺害した犯人どもには苛酷な罰を与えねばならぬ」
ヴィルフォールは、国王のこの命令が彼に与えた恐怖心を顔に出さぬためには、全身の冷静さをかき集めねばならなかった。
「奇妙なことだな」国王が不快そうに続けた。「警察当局は、『殺人事件が起こりました』と報告すれば、それですべて報告は済んだと思っておる。そして、『只今犯人を追跡中です』と申せば、それで万事なし終えたと思っておる」
「陛下、少くともこの件に関しましては、ご満足いただけるようになると存じますが」
「よかろう、いずれわかるだろう。男爵、予はこれ以上そちを引きとめまい。ヴィルフォール、そちは長旅で疲れておろう、行って休むがよい。だぶん父君の所へ泊るのだな」
ヴィルフォールはめまいを覚えた。
「いえ陛下、私はトゥールノン通りのマドリッド・ホテルに宿をとりました」
「でも会ったのでは」
「陛下、私はまっ先にブラカス公爵様のお宅に馬車を向かわせましたので」
「だが、いずれは会うだろう」
「そうは考えておりません」
「ああ、それがいい」と、ルイ十八世は、それまで繰り返された質問が、決して底意なしに言われたものではないことをあらわにしながら微笑した。「そちとノワルチエとの間が冷たくなっているのを忘れておった。これまた王国に捧げたそちの犠牲だな、その償いをしてやらねばならぬ」
「陛下、陛下のお示し下さいました御厚情、それだけで私の望むなにものにも優る償いでございます。陛下にこれ以上なにもお願いするものはございません」
「まあよい、そちを忘れるようなことはせぬ、安心しているがいい。さしあたり、(国王は、青い上衣の上にいつもつけている、サン=ルイ勲章のわき、ノートル=ダム・デュ・モン・カルメル・エ・ド・サン=ラザール勲章の上の、レジヨン・ドヌール勲章をはずして、それをヴィルフォールに与えながら)さしあたり、これをつけているがよい」
「陛下、お間違えになっておられます」ヴィルフォールは言った。「これは勲四等です」
「そうだな、ま、そのまま取っておきたまえ。ほかのを取りにやる時間がないのだ。ブラカス、勲記をヴィルフォールに出すよう手続きを頼む」
ヴィルフォールの眼は、喜びと誇りとの涙に濡れた。彼は勲章を受けとり、それに接吻した。
「では陛下」ヴィルフォールは訊ねた。「どのようなご命令を下し賜わるのでしょうか」
「休むがいい、そちには今それが必要なのだ。そして、パリにいては予に仕える力はなくとも、マルセーユにおれば、予にこの上なく役立つのだということを考えよ」
「陛下」ヴィルフォールは頭を下げた。「一時間後に私はパリを離れるでありましょう」
「行け、そしてもし予がそちを忘れたら、国王というものは忘れっぽいのでな、遠慮せずに予に思い出させるがいい。男爵、国防大臣を呼びにやってくれぬか。ブラカスはここに残れ」
チュイルリーを出ながら公安大臣がヴィルフォールに言った。
「ああ君は、じつに幸先のよいスタートを切った。運もひらけたよ」
「その運は長続きするでしょうか」ヴィルフォールはおじぎをしながら命運すでに尽きた大臣に言った。そして目で帰るための馬車を探した。
河岸を一台の馬車が通った。ヴィルフォールが合図すると馬車は近づいて来た。彼は行先を告げ、馬車の奥に身を投げ、野心の夢をむさぼった。十分後に彼は自分の部屋に戻った。二時間後に馬を用意するよう言いつけ、昼食の仕度を命じた。
彼が食卓に着こうとしたとき、呼び鈴の紐が強くしっかりと引かれ、ベルが鳴った。召使いがドアを開けに行き、ヴィルフォールは自分の名が言われるのを聞いた。
「俺がここにいるのをもう知っているのはいったい誰だろう」と、青年はつぶやいた。
この時、ボーイが戻って来た。
「どうした。誰がベルを鳴らしたのだ。誰が私を訪ねて来たのだ」
「見知らぬお方で、お名前をおっしゃらないのです」
「なに、見知らぬ者で名前を言わぬ。で、どんな用件だというのか」
「じかに申し上げたいと」
「じかにか」
「はい」
「その者は私の名を言ったのか」
「その通りでございます」
「その男の様子は」
「そう、五十ぐらいの男の方で」
「背は低いか高いか」
「ほぼ旦那さまぐらいで」
「髪は、褐色かブロンドか」
「褐色、濃い褐色でございます。髪も目も眉も黒々とした」
「で着ているものは、どんな服を着ている」ヴィルフォールはせきこんで訊ねた。
「青い長い上衣をお召しです。上から下までボタンのついた。レジヨン・ドヌール勲章をつけておいてです」
「あの人だ」ヴィルフォールは顔青ざめながらつぶやいた。
「まったく手続きが面倒だな」と、二度にわたってその特徴を述べた男がドアの所に姿を現わしながら言った。「マルセーユでは、息子が父親を控えの間で待たせる習慣なのか」
「お父さん」ヴィルフォールが叫んだ。「やはりそうだった。僕はきっとあなただと思ったんです」
「それじゃもしお前がわしだと思ったのなら」と客は、ステッキを部屋の隅に、帽子を椅子の上に置きながら言った。「ジェラール、はっきり言うが、あんなに待たせるのは、あまりやさしいやり方ではないな」
「さがっておれ、ジェルマン」と、ヴィルフォールは言った。
ボーイは、驚きをありありと見せながら部屋を出た。
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十二 父と子
入って来たのはまさしくノワルチエだった。彼はボーイがドアを閉め終るまで、じっと目で追っていたが、おそらく控えの間で立聞きされるのを警戒したのであろう、すぐまたそのドアを開けに行った。この用心は無用のものではなかった。大あわてでジェルマンが立ち去った様子を見れば、この男も、われわれの最初の祖先が陥った罪〔アダムとイブの好奇心を意味する〕をまぬがれていなかったことは明らかである。ノワルチエは自分で控えの間のドアを閉め、戻って来て寝室のドアを閉めかんぬきをかけた。そして、驚いた様子で父のこうした動きをみつめ、まだその驚きからさめやらぬヴィルフォールに手をさしのべた。
「おやおや、ジェラール」と彼は、はっきりその意味をはかりかねる微笑を浮かべながら、青年の顔を見て言った。「わしに会うのがあまりうれしくない顔をしておるぞ」
「とんでもない、お父さん。僕はうれしいんです。ただ、お父さんがおいでになるなんてあまり思いがけなかったものですから、あっけにとられているんです」
「だが、わしのほうも」ノワルチエは腰をおろしながら言った。「同じことが言えそうだぞ。どうしたというのだ、二月二十八日にマルセーユで婚約すると言って来ておったのに、三月三日にパリにおるとは」
「僕が今パリにいるからといってお小言はおっしゃらないで下さい」ジェラールはノワルチエに近づいた。「僕はお父さんのために来たんですから」
「ほほう」ノワルチエが椅子の上に悠々と身体を伸ばしながら言った。「なるほど、伺いましょう、裁判官殿、これはおもしろそうだ」
「お父さん、あなたはサン=ジャック通りにあるボナバルト派のクラブのことをお聞き及びですね」
「五十三番地のか。聞いておる、わしはそこの副会長だ」
「そんなに落ち着いておられるのを見ると、僕はぞっとします」
「仕方があるまい、山岳党《モンタニャール》に追われ、乾草を積んだ馬車にかくれてパリを脱出、ロベスピエールの犬どもにボルドーの荒野で追い廻されたりすれば、たいていの事には慣れてしまうものだ。話を続けなさい。それでサン=ジャック通りのクラブでなにか起きたのかな」
「そこヘケネル将軍を誰かが呼び寄せたのです。将軍は夕方九時に自宅を出て、その翌々日セーヌ河で発見されました」
「だれがお前にそんな話をしたのか」
「国王ご自身です」
「それじゃ、わしのほうも、お前が話をしてくれたから、そのお返しに情報を提供してやろう」
「たぶんお父さんがおっしゃろうとする事を僕は知ってますよ」
「ほう、お前は皇帝陛下のご上陸を知っておるのか」
「しーっ、お父さん。お願いです、まず第一にお父さんのため、そして次に僕のためにも。ええ、僕は知っていました。お父さんより先に知ったのです。この三日間、僕のこの頭を灼《や》き尽す考えを、眼前の二百里の彼方に投げ届ける術のないのにじりじりしながら、マルセーユからパリまで大地を蹴たてて走り続けて来たのです」
「三日前だと、正気かお前は。三日前には皇帝はまだ上陸しておらん」
「そんなことはどうでもいいんです、僕は計画を知っていたのです」
「どうやって」
「エルバ島からあなたに宛てた一通の手紙によって」
「わしにか」
「あなたにです。僕は使者の紙入れからそれを押収したのです。もしあの手紙が誰か他人の手に渡っていたら、今頃はお父さん、あなたはおそらく銃殺されていましたよ」
ヴィルフォールの父親は笑い出した。
「ほほう、どうやら復古王政は、帝政からものごとを迅速にやってのける術を学んだらしいな。銃殺か、なるほどな。で、その手紙はどこにある。お前のことだ、どこかへ置き忘れでもしたのではないか」
「焼き捨てました。断片一つ残ってはいけないと思って。だって、あの手紙は、あなたの死刑宣告に等しいからです」
「お前の将来も失われるしな」ノワルチエが冷たく答えた。「が、お前が庇《かば》ってくれるから、わしはなんの心配もないわけだ」
「庇うどころか、救おうとしているのです」
「これはまた、えらく芝居がかってきたものだな。詳しく話しなさい」
「またサン=ジャック通りのクラブのことに戻りますが」
「警察の方がたには、あのクラブをえらく心にとめておられるようだな。どうしてもっとよく探さなかったのか、そうすればみつかったろうに」
「みつかりませんでした。が、追跡中です」
「きまり文句だ。警察の犬どもは臭跡を失うと、追跡中だと言う。政府が何もせずに待っておると、耳を垂れて、見失いましたと言って来るのだ」
「その通りです。ですが死体が発見されているのです。ケネル将軍は殺されたのです。世界中どこへ行っても、これは他殺と申します」
「他殺だと。だが、将軍が殺害されたという証拠はなに一つない。毎日のようにセーヌ河では死体がみつかるさ。絶望のあまり身を投げたり、泳ぎを知らぬので溺れたり」
「お父さんにもおわかりじゃないですか。将軍は絶望のあまり身投げしたのでもなければ、一月にセーヌ河で泳ぐ者などいないということも。いいえ、考え違いはやめて下さい。将軍の死は他殺なのです」
「誰がそう決めた」
「国王ご自身です」
「国王が。わしは国王は、政治には殺人など存在しないことぐらいはわきまえておる哲学者だと思っておったがな。いいか、政治には、お前もわしと同じぐらいよく承知しておると思うが、人間は存在せず、あるものはただ思想だけだ。感情などなく、ただ利害だ。政治では、人は殺さぬ、障害を除去する、ただそれだけだ。事件の経過が知りたいか。それではこのわしが教えてやろう。皆はケネル将軍をあてにできる男と思っておった。エルバ島から将軍を推薦して来たのだ。われわれの仲間の一人が彼の家に行き、サン=ジャック通りの会合に来るように伝えた。仲間に会えるからと言ってな。彼はやって来た。皆は彼に計画を洗いざらい話した。エルバ島脱出も、上陸予定も。そうして彼は何もかも聞いてしまい、一切を理解してから、もうそれ以上なにも聞き出すことはないとなってから、彼は、自分は王党だと言ったのだ。皆は顔を見合わせた。皆は彼に誓えと要求した。彼は誓うには誓ったが、まったくいやいやながら誓った。こんな誓い方は神を恐れぬ所業だ。が、とにかく皆は将軍を自由に外へ出してやった。完全に自由にだ。将軍は家には帰らなかった。それがどうだと言うのだ。われわれの所からは帰ったのだ。道でも間違えたのだろう、それだけのことさ。殺人だと、ヴィルフォール、まったくお前は人を驚かせる。検事代理ともあろうものが、こんな劣悪な証拠の上に論告を打ちたてるとはな。お前が王党の一員として職責を果たすために、われわれの仲間の首を落した時にも、わしが一度でも,お前は人を殺したと言ったことがあるか。ありはせぬ。わしはこう言った、『よし、お前は戦いに勝った。明日はお返しをするぞ』とな」
「ですがお父さん、お気をつけになることです。われわれのほうでするそのお返しは、すさまじいものとなるでしようよ」
「わしにはお前の言うことがわからぬな」
「お父さんは簒奪者の帰還を信じておいでですね」
「そうだ」
「間違ってますよ。フランス国内に十里も入らぬうちに、まるで野獣のように、追われ、狩り出され、捕えられてしまうでしょう」
「お言葉だがね、皇帝陛下は今、グルノーブル街道を進撃しておられる。十日か十二日にはリヨンにお着きになり、二十日か二十五日にはパリにお着きだ」
「民衆が立ち上がります」
「お迎えするためにな」
「つき従う部下はほんのわずかです。それに対して何箇軍団もの兵力がさし向けられるのです」
「みな陛下をお護りしてパリヘ入るだろう。ジェラール、まったくお前はまだ子供だな。お前は信号通信が、上陸後三日もたってから,『簒奪者カンヌに上陸、部下数名、目下追跡中』と言って来たので、一切を知っていると思っておる。だが、陛下は今どこにおられる、何をしておられる、お前はなにも知らぬ。お前が知っているのは、目下追跡中、ただそれだけだ。ところが、弾丸《たま》一発撃たずにパリまでそうして追跡というわけだ」
「グルノーブルとリヨンは国王に忠実な町です。不抜の防壁を築くでしょう」
「陛下の前にグルノーブルは歓呼して城門を開き、リヨンは全市をあげてお迎えするだろう。わしの言葉を信ずるがよい。わしらはお前たちと同じぐらい情報を得ておるのだ。われわれの警察もお前らのと同じぐらい有能なのだ。その証拠が見たいか。お前はわしに今度の旅のことをかくそうとした。だがわしは、お前がパリに足を踏み入れた三十分後にはもうお前の到着を知っていた。お前は御者にしかお前のアドレスを数えなかった。ところがわしはお前のアドレスを知っておる。その証拠に、お前が食卓につこうとしたまさにその瞬間に、わしはここへやって来た。呼び鈴をならせ、そしてもう一人前用意させなさい。一緒に飯を食おうじゃないか」
「ほんとうに」とヴィルフォールは驚きの目で父を見た。「ほんとうによくご存じのようだ」
「なにを言うか、簡単なことさ。お前ら権力の座にある者は、金で買える手段しか持っておらぬ。わしらには、権力を目指すわしらには、献身というものが与えてくれる手段を持っておるのだ」
「献身ですって」ヴィルフォールは笑った。
「そう、献身。内に燃える野心を、よい言葉では、献身と呼ぶのだ」
こう言って、ヴィルフォールの父親は、息子が呼ぼうとしない召使いを、自ら呼ぼうとして呼び鈴の紐に手をのばした。
ヴィルフォールがその腕を抑えた。
「待って下さい、もう一言だけ」
「言ってみろ」
「王政警察がいかに無能でも、一つだけ恐ろしい事実を知っています」
「どんなことだ」
「ケネル将軍が行方不明になった日の朝、将軍の家に姿を現わした男の特徴です」
「ほう、あの警察がそれを知っておるのか。でその特徴とは」
「褐色の肌、髪、ひげ、目は黒。顎までボタンのついた青いフロックコート。勲四等レジヨン・ドヌールの略綬。つばの広い帽子、籐《とう》のステッキ」
「ほほう、そんなことまで知っておるのか。ではいったいなぜすぐその男を逮捕しなかったのだ」
「見失ったからです、昨日か一昨日、コック=エロン通りの角で」
「わしはさっき、お前らの警察は能無しだと言ったな」
「はい、でもそのうちにきっとその男を見つけますよ」
「そう」のんびりあたりを見廻しながらノワルチエが言った。「その男が知らなければな。だが知っておる」そして笑いながら、「その男は顔と服を変えるよ」
こうつけ加えると、彼は立ち上がり、フロックコートを脱ぎ、ネクタイをはずし、息子の化粧用品一切がのっている机に近づいて、剃刀《かみそり》を手に取ると、顔に石けんを塗り、警察にとってはまことに貴重な手がかりとなっていたその危険なひげを、確かな手つきで剃り落してしまった。
ヴィルフォールはそうした父の姿を、恐ろしげに、だが感嘆の念もまじった眼差しでみつめていた。
ひげを落してしまうと、髪にも手を加え、自分の黒のネクタイの代りに、開いていたトランクの一番上にあった別の色のネクタイをつけ、青い上から下までボタンのついたフロックコートの代りに、ヴィルフォールの、裾の広がった茶のフロックコートを着た。鏡の前で、青年の縁のそり返った帽子を試してみて、それが似合うのに満足した様子であった。そうして、彼が暖炉のわきに置いた籐のステッキはそのままにして、竹の細身のステッキをそのたくましい手で掴むと、びゅっと一振りしてみた。これは、おしゃれな検事代理の歩き方に、彼の美質の主要な一つであるいきな様子を与えるものだった。
「どうだ」と彼は、この変装がすむと息子のほうに向きなおって言った。「お前らの警察がわしを見破れると思うかね」
「思いません、少なくともそうあってほしいと思います」ヴィルフォールはつぶやいた。
「さて、ジェラール、わしはお前の所にこれらの服その他みな残して行くが、あとの始末はお前が慎重にやってほしい」
「ええ、大丈夫です」
「よし、よし。お前が正しかったことがわかったよ。お前はたしかにわしの生命を救ってくれたらしい。が、まあ覚えておけ、このお礼は近いうちにするからな」
ヴィルフォールは頭を振った。
「まだわからんのか」
「少くとも、お父さんのほうが見込み違いをしてることを祈りますよ」
「国王にまた会うか」
「多分」
「国王に、予言者と思わせたくはないか」
「不幸の予言者なんて、宮中では歓迎されません」
「その通りだ。だがいつかは、感謝されるぞ。第二の王政復古にでもなってみろ、お前は偉人として通る」
「いったい何と言えばいいんですか」
「国王にこう言うのだ、『陛下、陛下はフランスの立場、各都市の世論、軍隊の士気に関して誤った判断をしておいでです。陛下がパリでコルシカの鬼と呼んでおいでの男、そしてヌヴェールで簒奪者と呼ばれている男は、すでに、リヨンではボナパルト、グルノーブルでは皇帝と呼ばれております。陛下はこの男が、狩りたてられ、追われ、逃げているとお思いですが、彼は、その捧持する旗のワシのごとく速やかに、進撃しているのです。陛下が、飢えのため死に瀕し、疲労のためうちひしがれ、逃走寸前とお考えの兵士どもは、坂をころげ落ちん雪玉のごとくふくれあがっています。陛下、お発ち下さい。フランスを真の主《あるじ》に、金でこの国を買ったのではなく、力で征服した者の手にお渡し下さい。陛下の身に危険が迫っていると申すのではありません。陛下の敵は、寛仁な態度を示すに足るだけの力は持っておりますから。そうではなくて、聖ルイ王の孫たる者にとって、アルコール、マレンゴ、オーステルリッツの英雄に生命を助けられるのは、あまりの恥辱でございましょうから』と、ジェラール、こう言うのだ。それとも、むしろなにも言うな。パリヘ来たことを人にかくせ。ここへしに来たこと、パリでしたことなど人に言うな。また馬車に乗れ。全速力でやって来たのなら、帰りはもっと急げ。マルセーユには夜にまぎれて入るのだ。家には裏口から入れ。そして、家の中で、そっと息を殺し、ひっそりと、とくに敵意のかけらも見せずに、じっとしておるのだ。というのは、今度こそわれわれは、いいか、苛責なき者として、敵の何たるかを知る者として行動するからだ。行け、ジェラール、行くのだ。この父の命令に従いさえすれば、あるいは、こう言ったほうが気に入るなら、この友の言葉を尊重しさえすれば、われわれはお前の地位はそのままにしておいてやる」ノワルチエは微笑しながらさらにつけ加えた。「これはな、またいつか政治がひっくり返って、お前が上、わしが下になった時、もう一度お前に救けてもらうためだよ。じゃ、さよなら、ジェラール。この次パリヘ来たら、今度はわしの家に泊れ」
こう言ってノワルチエは部屋を出て行った。危険な会話の最中もずっと失わなかったあの落ち着いた様子で。恐れおののき青い顔をしたヴィルフォールは窓辺に走り寄って、カーテンをわずかに開け、通りの角や壁のかげに身をひそめた二、三人の人相の悪い男たちのまん中を、悠々と落ち着き払って通って行く父の姿を見た。男たちは、黒ひげの、青いフロックコートを着、つばの広い帽子をかぶった男を逮捕するために、待伏せているらしかった。
ヴィルフォールは、胸をはずませながら、父親がビュシーの角を曲るまで、その場に立ちつくしていた。父の姿が消えると彼は、父が置き去りにした品物のほうへ走り寄り、黒いネクタイとフロックコートをトランクの一番底にしまい、帽子はねじってたんすの下に押し込み、籐のステッキは三つに折って火中に投じた。そして旅行帽をかぶると、召使いを呼び、なにか問いたげにしたのを目で制して、ホテルの勘定をすませ、馬をつないだままになっていた馬車に飛び乗り、リヨンではボナパルトがグルノーブルに入ったことを知り、大変な混乱に陥っている街道を走り抜けて、野心と名誉心とともに人の心に入り込む、あらゆる不安にさいなまれながらマルセーユに着いた。
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十三 百日天下
ノワルチエはすぐれた予言者であった。彼の言葉どおりに、事態は急速に進展した。誰しもが、この類のない奇蹟とも言えるエルバ島からの帰還を知っている。過去にこのような例はなく、また将来とも真似されることはあるまい。
ルイ十八世は、この手きびしい攻撃に対して、たいした防禦措置を講じなかった。人間への不信が、事件そのものさえも信じられなくしていたのだ。王政、いや彼によって再建された王国自体が、いまだ不安定であった基礎の上でゆらぎ、皇帝が一度身を動かしただけで、過去の偏見と新しい思想とのぶざまな混合体であったこの建物は、音をたてて崩れたのである。したがって、ヴィルフォールが国王から得たものは、感謝の念、それも今となっては、役にたたないばかりではなく危険でさえある感謝の念と、レジヨン・ドヌール勲章だけであった。ブラカスは、国王に命じられた通りに、勲記を彼のもとに丁寧に送り届けて来たが、ヴィルフォールは用心して勲章を人の目にふれさせなかった。
冒した危険の数と、その数々の功績とによって、今や百日天下の宮中で権勢を振うようになったノワルチエの庇護がなかったならば、ナポレオンは必ずやヴィルフォールを罷免したことであろう。こうして、一七九三年のジロンド党員、一八〇六年の元老院議員は、彼が約束したように、前日、自分を救ってくれた男を庇護してやったのである。
この帝政復活のあいだ、しかも帝政の再度の崩壊は予見するに難くはなかったから、ヴィルフォールの権力でなし得たことは、ダンテスが洩らしかけたあの秘密を圧殺することだけであった。
検事のみが、ボナパルト支持の気持が薄いとのかどで罷免された。
しかし、帝政が再び樹立されるや否や、つまり、ルイ十八世が出たばかりのチュイルリーに入り、われわれがヴィルフォールと共に読者をお入れしたあの書斎、クルミの机の上には煙草入れがまだふたが開いたままで半分ほど煙草が残っていたという、あの書斎から、さまざまな無数の命令を皇帝が発するや否や、マルセーユでは、司法官たちの態度にはかかわりなく、いつの場合にも南仏では消えることのなかった内戦の火の粉が、町の中にくすぶり始めるのが感じられた。もはや、復讐心は、家に閉じこもった王党派の者たちをとりまく非難の声や、一歩でも外へ出た者を追う公然たる嘲罵《ちょうば》だけではおさまりそうになく、一触即発の状態であった。
当然事態は急転して、あの人格者の船主、われわれが民衆の味方と規定したモレルは、権勢並びなきとは言わぬまでも、というのは、徐々に苦労を積み重ねて財を簗き上げた者がみなそうであるように、慎重かついささか小心であったから、熱狂的なボナパルト派からは日和見と目されひとりとり残されてしまったからだが、それでも、異議申し立てを行ない得る位置には立っていた。異議申し立てとは、ご想像どおり、ダンテスに関するものである。
上司は失脚したが、ヴィルフォールの地位はそのまま安泰であった。結婚はとり決められたまま、時節が好転するまで延期となった。もし皇帝が玉座に坐り続けていたなら、ジェラールには他の縁組みが必要であった。その場合には、父親が相手をみつけてくれたはずである。また、もし第二の王政復古がなり、ルイ十八世がフランスに戻れば、サン=メランの力も、そして彼自身の力も倍加し、縁組みは今まで以上にふさわしいものとなろう。
検事代理は、この時点では、マルセーユ最高の司法官であった。そんなある朝、彼の部屋のドアが開き、モレルの来訪が告げられた。
別の男であれば、大あわてでこの船主を迎えに出て、そうすることによって、自分の弱みをさらけ出してしまったであろうが、ヴィルフォールは、経験こそ乏しいが、少なくとも物事に対する本能的なかんを持つ、一段上の男であった。彼は、王政復古時代にそうしたように、モレルを控え室で待たせた。かたわらに人がいたためではなく、検事代理が人を待たせるのは当然という、ただそれだけの理由であった。そうして、十五分ほど、多少色合いの違う二、三の新聞に目を通した後に、彼は船主を部屋に入れるよう命じた。
モレルはヴィルフォールが打ちのめされているものと思っていた。が、彼が見出したのは、六週間前と同じ姿だった。平然と落ちつきはらい、庶民と上流人士とを隔てるあの越えがたい壁の彼方の、冷たくいんぎんな男の姿だった。
モレルは、自分の姿を見れば司法官がふるえ出すものと思ってヴィルフォールの部屋に入ったのであった。だが、机の上に肘をついて彼を待ち受けたこの訊問を職とする男の前に立った時、ふるえおびえたのは逆に彼のほうであった。
彼はドアの所に足を止めた。ヴィルフォールは、モレルを思い出せないような顔つきでじっと彼を見た。両手で船主が帽子をいじくっているあいだ、沈黙したままじろじろ見ていたあげくに、
「モレルさんでしたね」とヴィルフォールは言った。
「さよう、モレルてす」
「こちらへお寄り下さい」と、ねぎらうような手つきをしながら、「どういうご用件でおいで下さったのでしょうか、お話しいただけませんか」
「見当がおつきになりませんか」
「いえ、まったく。と申しましても、お役に立ちたいとは思っているのです。もし、私にできることであれば」
「あなたお一人でどうとでもできることです」
「では、ご説明願いましょう」
「覚えておいでと思いますが」モレルは話しているうちに落ち着きを取り戻し、それに自分の主張の正しさと自分の立場の有利なことに自信を持って続けた。「皇帝陛下のご上陸を知る数日前に、私はあなたに、一人の不幸な青年を救けてくれとお願いしに来た。船員、私の持ち船の一等航海士です。この男は、覚えておいでかな、エルバ島に関係あるかどで告発されました。この関係なるものは、あの当時は罪であったが、今では有利な資格と言えます。当時あなたはルイ十八世に仕えておられた。したがってあなたは彼を容赦しなかった。それはあなたの義務でした。今日あなたはナポレオンに仕えておられる。あなたはあの男を庇護してやらねばならない。これまたあなたの義務です。私は、あの男がどうなったのかをお訊ねしに参ったのです」
ヴィルフォールは、懸命に自分を抑えながら、
「その男の名は」と訊ねた。「どうぞ名前をお教えいただきます」
「エドモン・ダンテス」
もとよりヴィルフォールには、この名前を耳もとで聞かされるのは、決闘で二十五歩の距離から敵の銃弾を浴びるのと同じに思えた。だが、彼は眉一つ動かさなかった。
ヴィルフォールは心の中でつぶやいた。
『この調子では、まったく個人的な事情からあの男を逮捕させた、などと俺を責めることはできないぞ』
「ダンテス、エドモン・ダンテスとおっしゃいましたね」と、彼は繰り返した。
「さよう」
ヴィルフォールは近くの棚に置いてあった大きな帳簿を広げ、別のテーブルの所へ行き、テーブルからまた書類の所へ行き、船主のほうに振り向くと、ごくさりげなく、
「たしかに間違いありませんね」と言った。
モレルが、もう少し明敏で、こうした事情に明るい男であったならば、検事代理が、彼の所管事項とはまったく関係のないことに答えるのをおかしいと感じたはずである。そして、ヴィルフォールがなぜモレルに囚人名簿を見ろと言わないのか、牢の長官、または県知事に会いに行けと言わないのかいぶかしく思ったはずである。だがモレルは、ヴィルフォールの中に、いたずらに不安の色を見出そうとしていたのだ。不安など存在しない様子を見せられると,もはや懇切な態度しか見出せなかった。ヴィルフォールのねらいは的中したのだ。
「いや間違いありません」モレルは言った。「だいいち、私はあの青年を十年前から知っておるのです。私の会社に入って四年になる。覚えておいででしょう、私は六週間前に、あなたに寛大な処置をお願いに参った。今日あなたに正当な処置をお願いに参ったように。あの時あなたは、私を冷たくあしらわれた。そして、不興げに返事をなさった。それはあの当時は、王党の連中がボナパルト派に対して苛酷な態度をとっておったからだ」
「モレルさん」と、ヴィルフォールはいつもの落ち着いた調子で、す早く相手の攻撃をかわすように答えた。「私は、当時、ブルボン家が、フランスの王位の正当な継承者であるばかりではなく、国民によって選ばれた王朝であると信じていたからこそ王党派だったのです。ですが、われわれが眼のあたりに見たあの奇蹟的な帰還は、私に自分が誤っていたことを教えたのです。ナポレオンの才能が勝利を収めた。正当な王国とは、愛される王国のことです」
「よかった」人のよい正直さをまる出しにしてモレルが叫んだ。「そのようなお言葉を伺って、ほんとうに私はうれしい。エドモンの身の上もその分だと先が明るいように思います」
「ちょっとお待ち下さい」と、ヴィルフォールはまた別の帳簿のページを繰りながら、「みつかりました。船乗りですね、カタロニアの娘と結婚するところだった。そうだ、そうだった。今思い出しましたよ。事態はきわめて重大だった」
「どういうわけで」
「ご承知のように、私の所から出ると、あの男は裁判所の牢に入れられました」
「ええ、それから」
「それから私はパリヘ報告しました。あの男が所持していた書類を送ったのです。致し方ないでしょう、それが私の義務でしたから。逮捕後一週間たって、あの男はつれ去られたのです」
「つれ去られた!」モレルが叫んだ。「だが、いったいあの可哀そうな男をどうしたというのです」
「いや、ご安心下さい。フネストレルかピニュロルか、あるいはサント=マルグリット島かへ移されたのでしょう。行政用語でいう国外追放ですな。やがて帰って来ますよ、船の指揮をとりにね」
「いつ帰って来てもいい。あれの地位はそのままとっておく。だが、どうしてまだ帰らぬのでしょうか。ボナパルト政権に仕える裁判所がまずなすべきことは、王政下の裁判所が投獄した囚人を釈放することだと思いますが」
「そうむやみに責めないでいただきたい。なにごとによらず、法にのっとって処理しなければなりません。投獄命令は上から来た。釈放命令も上から来なければならない。ところが、ナポレオンはやっと二週間前にパリに戻ったにすぎません。免刑状も発送されたばかりなはずです」
「ですが、手続きを促進する方法はないものでしょうか、今やわれわれが勝ったのですから。私には友人もおる、多少顔もきく。判決破棄を獲得することもできる」
「判決はありませんでした」
「では、囚人名簿からの削除を」
「政治犯については、囚人名簿はないのです。政府には、時として、ある男を痕跡をとどめずに消えさせてしまうのが有利と考える場合もありますのでね。囚人名簿は探索に手がかりを与えることになりますから」
「ブルボン王政の頃にはそんなふうだったかもしれない。しかし今は……」
「いつだってそうなのですよ。政府は相ついでいくつもできますが、みな似たりよったりです。ルイ十四世の頃作られた刑罰を加えるための道具が今日なおそのまま使われています。バスチーユは別ですが。皇帝はつねに、ルイ大王自身がそうであったより以上に、牢の規則に関しては厳格でした。ですから囚人名簿に名をいっさいとどめていない囚人の数は数えきれないのです」
このような好意あふれる態度を見せられては、どんな確信を抱いていてもゆらいでしまったであろう。しかもモレルは、疑いさえ抱いてはいなかった。
「では結局のところ、ヴィルフォールさん、あのダンテスが早く帰って来られるようにするには、どうしたらいいとお考えですか」
「方法は一つです。法務大臣に請願書を提出なさい」
「ああ、ヴィルフォールさん、請願書がどんなものか、私どもはよく知ってますよ。大臣は日に二百通もの請願書を受け取り、その中の四通にしか目を通さない」
「ですが、私が提出したものなら、私の添え書をつけ、私自身が発送したものなら、大臣は必ず読みますよ」
「では、あなたが、あなたご自身が請願書の発送をお引き受け下さるのですか」
「喜んでいたします。ダンテスはあの当時は有罪でした。が今は無罪です。私が義務として投獄した者を、自由の身にするのも私の義務でしょう」
こうしてヴィルフォールは、まずあり得ないが、あり得るかもしれぬ調査の危険を、事前に封じてしまったのである。調査されれば、救いようのない身の破滅となるのだ。
「でも、大臣にはどう書いたらいいでしょう」
「ここへおかけ下さい」とヴィルフォールは船主に席をゆずりながら、「私が口述いたしましょう」
「それほどまでにしていただけるのですか」
「もちろんです。さ、時間の無駄使いはやめましょう、もうだいぶ無駄にしてしまいましたから」
「そうです、あれが待っている、苦しみ、絶望しているということを考えましょう」
ヴィルフォールは、あの囚人が、もの音一つせぬ暗闇の中で自分を呪っているかと思うと、身ぶるいした。だが、退くにはもはや彼は進みすぎていた。ダンテスは、ヴィルフォールの野心の歯車の間で粉砕されてしまわねばならぬのだ。
「どうぞおっしゃって下さい」船主が、ヴィルフォールの椅子に坐り、ペンを手にして言った。
ヴィルフォールは請願書を口述した。その中で、彼はすぐれた効果を発揮するために、(この点については疑う余地はなかったが)、ダンテスの愛国心と、ボナパルト政権のために彼が果たした功績を大いに誇張した。この請願書に描かれたダンテスは、ナポレオンの帰還のために最も活躍した者の一人になっていた。このような文書を見れば、大臣が、もしいまだその償いがなされていないとすれば、直ちに償いをするであろうことは明らかであった。
請願書ができ上ると、ヴィルフォールはそれを声を出して読み返した。
「たいへん結構です。あとは私に委せて下さい」
「で、近いうちに発送されるのでしょうな」
「今日すぐ出します」
「あなたの添え書をつけてですか」
「私が書き得る最良の添え書は、あなたがこの請願書の中にお書きになっていることが、すべて真実であると保証することですよ」
こう言うとヴィルフォールは、今度は自分が腰をおろして、その請願書の隅のほうに、保証する旨を書き添えた。
「あとはどうすればいいでしょうか」モレルが訊ねた。
「お待ちになることです。あとはすべて私がお引き受けします」
この確約がモレルに希望を蘇らせた。彼は、検事代理にすっかり惚れこんで、検事代理と別れ、ダンテスの年老いた父に、息子に会える日も遠くはないと伝えに行った。
ヴィルフォールのほうは、請願書をパリヘ発送するかわりに、大切に自分の手許に保管しておいた。今はダンテスを救うものであるこの請願書も、ヨーロッパの情勢および事態の進展の具合からすでに予想できるあること、つまり第二王政復古ということを考えると、将来はダンテスを恐ろしい危険に陥れるものであった。
したがって、ダンテスは牢に入ったままであった。地下牢の底に閉じこめられていた彼は、ルイ十八世が玉座を滑り落ちる恐ろしい音も、それにもましてすさまじい帝政崩壊の轟音も開かなかった。
だが、ヴィルフォールは、この男は炯々《けいけい》たる眼ですべてを見、注意深い耳ですべてを聞いていた。百日天下と呼ばれている、この短い帝政再現の期間に、二度、モレルはやって来て、主張をくり返し、ダンテスの釈放を求めた。その度にヴィルフォールは、約束したり希望を持たせたりしてモレルの心を静めてしまった。やがてワーテルローの敗戦がやって来た。モレルはヴィルフォールの所へは現われなくなった。船主は、年若き友のために、人間としてでき得る限りのことをしたのである。第二王政復古の下でさらに運動をし続けるのは、いたずらに自分の身を危うくすることだったのである。
ルイ十八世がふたたび玉座に登った。ヴィルフォールにとっては、マルセーユは良心を責めつける思い出のみの町であったので、彼は、空席となっていたトゥールーズの検事の職を願い出て、この職を与えられた。新しい住居に落ち着いて二週間後、彼は、ルネ・ド・サン=メランと結婚した。ルネの父は、昔日にもまして宮中のおぼえめでたかった。
百日天下のあいだじゅう、そしてワーテルロー以後、ダンテスが、人間からとは言わぬまでも、神から見放されて牢につながれていた次第は以上の通りである。
ナポレオンのフランス帰還を見たダングラールは、ダンテスに与えた打撃の実態を知った。彼の密告は、まさに的を射たのだ。犯罪へのある程度の資質を持ち、日常生活に対しては中程度の知性しか持たぬ男の常として、彼はこの不思議な偶然の一致を、神の摂理のなせる業と思った。
だが、ナポレオンがパリに帰り、ふたたびその傲然たる力強い声がなり響くのを聞くと、ダングラールは恐怖を抱いた。たえず、彼はダンテスが現われるのではないかとびくびくしていた。すべてを知り、いかなる復讐も辞さぬ、力強く恐ろしいダンテスが。そこで彼はモレルに海の仕事を辞めたい旨を申し出て、モレルにスペインの商社へ推薦してもらった。そして、三月の末、つまりナポレオンがチュイルリー宮殿に入って十一、二日した頃、その商社に手代として入った。彼はマドリッドに発った。以後彼の消息は聞かれなかった。
フェルナンにはなにもわからなかった。ダンテスがいない、ただこれだけが彼に必要なことであった。ダンテスがどうなったか、そんなことは知ろうともしなかった。ただ、ダンテスがいないこのあいだじゅう、彼は一方ではメルセデスにダンテスがいなくなった理由をごまかすことに頭をなやまし、一方では、メルセデスをさらってどこかへ行ってしまおうと考えていた。そしてまた時には、それは彼の生活の中でも陰鬱な時間であったが、ファロ岬の突端に腰をおろしていた。マルセーユの町とカタロニア村が両方とも見えるその場所から、彼は一羽の猛禽のように、淋しそうに、みじろぎもせずに、この二本の道のいずれかから、今は彼にとってもまた恐るべき復讐の使者となった美青年が、足どりも軽く昂然《こうぜん》と頭を上げて、やってくるのが見えるのではないかと目を見据えているのだった。こうした時のフェルナンの心は決まっていた。銃でダンテスの頭を射抜き、その後に、殺人に花を添えるために自らも死ぬのだ、と彼は心の中につぶやいていた。がフェルナンは自らを欺いていたのだ。この男は自殺するはずがなかった。彼は相変わらず希望を捨てていなかったからである。
そうしている間にも、激動する苦難のさ中にあった帝国は、最後の予備兵までも召集した。皇帝の声がなり響くや、およそ銃を執り得る者は、すべて国境を越えて突撃した。フェルナンも他の男たち同様に、自分の小屋とメルセデスを捨てて出征した。自分がいなくなった後には、あの恋敵が帰って来て自分が愛している女を妻にするのであろうとの暗く恐ろしい思いに胸をさいなまれながら。
もしフェルナンが自殺したとすれば、それはメルセデスと別れるときでなければならなかったのだ。
フェルナンのメルセデスヘの心尽し、彼女の不幸に対して抱いていたかに見えた同情の念、彼女のどんな些細な要求をも即座にかなえてやった気の配り方が、優しい心の持ち主に対して、献身のさまを眼のあたりにすることがいつでももたらすだけの効果は生み出していた。メルセデスは以前から、つねにフェルナンを友として愛していた。その友愛が、フェルナンに対する新たな感情、感謝の念にまで高まっていた。
フェルナンの肩に新兵の背嚢《はいのう》を背負わせてやりながら、メルセデスは言った、
「お兄さま、あなたは私のたった一人のお友だちなのよ、死なないで。この世に私を一人ぼっちにしないでちょうだい。もしあなたがいなくなったら、私はたった一人になり、ただ泣いているだけですもの」
出発の際に言われたこの言葉が、またフェルナンに希望を抱かせた。もしダンテスさえ帰って来なければ、いつかは、メルセデスが自分のものになるかもしれない。
メルセデスは一人この不毛の土地に残された。いまだかつてこれほど荒野と映ったことはなく、見はるかす彼方にはただ広大な海だけがあるこの土地に。涙に頬を濡らしながら、人がその悲惨な運命を語る狂女さながら、いつもその小さなカタロニア村のまわりをさまよう彼女の姿が見られた。ある時は彫像のように、おし黙ったまま身じろぎもせずに立ちつくして、南仏の灼熱の太陽の下でマルセーユの町を見ていた。またある時は、海岸の縁に腰をおろし、彼女自身の苦しみ同様に果てしのない海の嘆きに耳を傾けていた。こうして希望のない期待の残酷な交錯にさいなまれ続けるよりは、一歩前に身をのり出して、自分自身の身体の重みで深淵の扉を開き、そこに身を沈めてしまうほうが、よほどましではないだろうかと、たえずわが胸に問いかけていたのである。
それを実行しなかったのは、メルセデスに勇気がなかったからではない。彼女の心の支えとなって、彼女を自殺から救ったのは、彼女の宗教心であった。
カドルッスもフェルナンと同じように召集された。しかしカタロニアの青年よりも八歳年長だったし、妻帯者でもあったので、三回目の召集兵の仲間に入れられ、沿準警備に廻された。
老ダンテスは、希望だけが命の綱であったが、皇帝の失脚とともにその希望もついえた。
息子と引き離されてから五か月後の同じ日、時間も息子が逮捕されたのとほぼ同じ時刻に、老ダンテスはメルセデスの腕に抱かれて最後の息を引き取った。
モレルは葬儀費用の一切を引き受け、老人が病気中にこしらえたささやかな借金も払ってやった。
このような行為をすることは、善意以上に勇気のいることであった。南仏は火と燃えていたのだ。たとえ死の床にいる相手ではあっても、ダンテスほどの危険なボナパルト派の父親に援助の手をさしのべることは、犯罪だったのである。
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十四 怒れる囚人と狂える囚人
ルイ十八世が王位に戻ってから約一年後に、刑務監査官の視察があった。
ダンテスは、地下牢の底から、その準備のための物をころがしたりきしませたりする音を耳にした。上ではすさまじい音がしていたが、地下からでは、夜のしじまの中でクモが巣をはる音、牢の天井に一時間ごとに結ぶ滴《しずく》が定期的にしたたり落ちる音に慣らされた囚人の耳でなければ、とうてい開きとれぬほどの音でしかなかった。
彼は、生きている連中の住む世界に、なにかふだんとは変わったことが起きたことを知った。彼自身は、すでにあまりにも長い間、自分を死者と見なさざるを得ないような墓穴の中に住んでいた。
実際に、監査官は牢の各室、独房、地下牢を次々に視察した。なん人かの囚人が質問を受けた。性質がおとなしいか、頭が弱いために、牢の管理者たちの心証のよい連中であった。監査官は彼らに、食事はどうか、なにか望みはないかと訊ねた。
彼らはみな異口同音に、食事はとても食えたものではない、そして釈放してくれと答えた。
すると監査官は、なにかほかに言うことはないかと訊ねた。
彼らは首を振った。囚人にとって、釈放されること以外に、求めることがあろうか。
監査官は笑って牢の長官を振り返り、
「なぜこんなむだな巡視をさせるかわからんよ。一人の囚人に会えば百人の囚人に会ったのと同じだ。一人の言うことを開けば千人のを聞いたことになる。いつだって同じことしか言わない。『飯がまずい、俺は無実だ』ここには変わったのがいるか」
「はい、凶暴なのと気の狂ったのがおります。地下牢に入れでありますが」
「そうか」げんなりした様子で監査官が言った。「職務を全うしよう。地下牢へ降りるとしよう」
「お待ち下さい。少なくとも二名の護衛を呼びにやりませんと。囚人どもは、時とすると、まったくむだな絶望的な振る舞いに及ぶことがあります、生きているのが厭になって、ただもう自分を死刑にしてもらうためだけに。あなたがそんな振る舞いのとばっちりを受けぬとは限りません」
「では、適当な処置をとっていただこう」
二名の兵士が呼ばれ、監査官たちは階段を降りはじめた。悪臭がひどく、空気は汚れ、じめじめしているので、その場所を通るだけでも、視覚、聴覚、呼吸が同時におかしくなるようであった。
「これはひどい」監査官が、階段の途中で立ち止まって訊ねた。「どんな奴がこんな所に入っているのかね」
「最も危険な謀反人です。どんなことでもしかねない男と特に注意されている人物です」
「独房に入っているのか」
「もちろんです」
「入ってどのぐらいになる」
「約一年になります」
「はじめからこの地下牢に入れられたのか」
「いいえ。食事を運んだ看守を殺そうとしてからです」
「看守を殺そうとしたのか」
「そうです。今われわれの足もとを照らしてくれているその男ですよ。そうだな、アントワーヌ」
「私を殺そうとしたのです」
「ほう、だが、それではそいつは気が狂っているのか」
「もっと悪い。あいつは悪魔でございます」看守が言った。
「その件で上訴してほしいかね」監査官が長官に訊ねた。
「その必要はありません。ここに入れられただけでもう十分に罰を受けてますよ。それに、今では気違い一歩手前というところです。囚人をずっと見て来たわれわれの経験では、この先一年以内に完全に狂人になります」
「まったく、それがその男にとっては幸せだな。気が狂ってしまえば、苦しみも減るわけだ」
監査官が言った。
この監査官は、おわかりのように、人情味ゆたかな、彼が遂行している博愛主義的な任務にふさわしい男であった。
「おっしゃる通りです」と、長官が言った。「お説を伺いますと、あなたがこうしたことを深く研究なさっていることがわかります。でしたら、ここの男の牢から二十歩しか離れていない別の地下牢に、そこへは別の階段を降りて行くのですが、一人の老僧がいるのです。イタリアの政党の党首だった男で、一八一一年からここに入っています。一八一三年の末頃、頭がおかしくなりました。それ以後、身体つきがすっかり変わってしまいました。泣いたかと思うと笑い、痩せたかと思うと肥るというわけで。ここの男より、むしろその男にお会いになりませんか。この気違いぶりは、見てておもしろくて、胸など痛みませんから」
「両方に会おう、職務は良心的に行なわねばならないから」
監査官にとっては初めての巡視であった。自分に対するよい印象を当局に与えておきたかったのだ。
「まず、この男のほうに入ろう」
「結構です」
長官はこう答えて、看守に合図をして扉を聞けさせた。
大きな錠前がきしみ、錆びついた蝶番《ちょうつがい》がたてる悲鳴に、ダンテスは顔を上げた。彼は土牢の片隅にうずくまっていた。そこは、格子のはまった通気孔を通して、わずかにさしこむ光を浴びるという、無上の幸福が味わえる場所であった。たいまつを持った二人の看守に照らされ、長官が帽子をとって話をしている、二人の兵士に護られた見知らぬ男の姿を見たとき、ダンテスは今何が起きているかをさとった。上司の者に訴えを聞いてもらえる機会がついに訪れたことを知った彼は、手を組み合わせて走り寄った。
兵士たちはただちに銃剣をその前に交差させた。彼らは、ダンテスが兇暴な意志を抱いて監査官に突進して来たと思ったのである。
監査官自身、一歩後ずさりした。
ダンテスは、自分が警戒すべき男と目されていることを知った。
そこで彼は、人間の心が抱き得るあらん限りの優しさと謙遜の情をその瞳の色にこめて、居合わせた者が驚くような、いわば祈るような説得力のある話し方をした。彼は訪れた相手の心を動かそうとしたのだ。
監査官はダンテスの話を最後まで聞いた。それから長官のほうを向いて、
「この男はやがて信仰を持つのではないかな」と、低い声でささやいた。「気持もずっと静まったようだ。見たまえ、恐怖心がある。さっき銃剣の前で後ずさりした。気違いは銃剣をつきつけられても後ずさりせぬよ。この点については、シャラントン〔精神病院がある〕で私は珍しい観察をしたことがある」
こう言ってから、囚人のほうを向いて、
「要するに何を望むのかね」
「私がどんな罪を犯したのかと訊ねたいのです。裁判をして下さることを要求します。私は、私の事件を審査していただきたいのです。それでもし私が罪を犯したのなら銃殺にして下さい。が、もし無実なら、私を釈放して下さい」
「食事はいいかね」
「いいと思います。私にはわかりません。でも、そんなことはどうでもいいんです。大事なのは、あわれな囚人である私にとってばかりでなく、正義を司るすべての役人、またさらに、われわれを統治なさる国王にとっても重大なことは、無実の者が、恥ずべき中傷の犠牲となってはならない、自分に刑罰を与える者たちを呪いながら牢で死んではならないということです」
「今日はまたばかにおとなしいな」と、長官が言った。「いつもこんなじゃなかったぞ。看守を殴り殺そうとした時は、そんな話し方はしなかった」
「その通りです。私にいつも親切にしてくれたその方に、心からお詫びします。でも、仕方がないじゃありませんか、私はあのとき気が狂ってたのです。たけり狂ってました」
「もうそうではないというのか」
「ええ、牢の暮らしが、私の心を屈服させ、挫《くじ》き、疲れ果てさせてしまいました。こんなに長い間ここにいるんですから」
「こんなに長く? いったいいつ逮捕されたのか」監査官が訊ねた。
「一八一五年二月二十八日、午後二時です」
監査官は月日を数えた。
「今日は一八一六年七月三十日だ。なにを言うか、たった十七か月入っているだけではないか」
「たった十七か月! ああ、あなたは牢での十七か月がどういうものかご存じないのです。十七年、いや十七世紀にも相当します。とくに私のように、今まさに幸福になろうとしていた男にとっては。私のように、愛していた娘と結婚しようとしていた男にとっては。目の前に栄誉に満ちた生涯が開けていたのに、一瞬にしてすべてが失せてしまった。この上なく晴れた光の中から、この上なく深い闇へとつき落されたのです。愛していてくれた娘が、今も愛していてくれるのかどうかさえわからず、年とった父が生きてるのか死んでるのかさえわからないのですよ。海を渡る風と、なにものにも束縛されない船乗りの暮らし、広大無辺、限りなきものに慣れ親しんで来た者にとっての獄中の十七か月! 獄中の十七か月は、およそ人間の言葉が名づけ得る最もおぞましい犯罪のすべてを償ってあまりあるものです。私を哀れと思召《おぼしめ》して下さい。お慈悲をお願いしているのではありません。厳正さを求めているのです。特赦ではなくて正義を。裁判です、私が求めているのは裁判だけです。容疑者に裁判を拒否することはできないはずです」
「よしわかった、調べてみよう」
それから監査官は長官のほうを向いて、
「実際のところこの男は、私にあわれをもよおさせる。上に戻ったら、この男の収監状を見せてもらおう」
「よろしゅうございます。ですが、この男に関しては、恐るべき所見しか見当らぬと思います」
「あなただけのご決定で、私をここから出すわけにいかないことは私にもわかっています」ダンテスが続けた。「しかし私の要求をその筋に取り次いで下さることはできるはずです。調査を請求なさって、私を裁判にかけることはおできになるはずです。裁判、これが私の願いのすべてです。私がどんな罪を犯したのか、どういう刑に処せられているのかを知りたいのです。というのは、ご承知の通り、はっきりしないということは、どんな刑罰よりもむごいことなのです」
「明りをこっちに向けろ」監査官が言った。
「私には」と、ダンテスが叫んだ。「あなたのお声で、心を動かして下さったことがわかります。どうか、希望を持てとおっしゃって下さい」
「私にはそうは言ってあげられない。君の書類を調べることだけは約束しよう」
「ああ、そうしていただければ私は自由の身になれます。私は救われます」
「誰が君を逮捕させたのかね」
「ヴィルフォールさんです。あの方に会って、あの方と相談なさって下さい」
「ヴィルフォール氏は一年前からマルセーユにはいない。トゥールーズにいる」
「ああ、それでわかりました」ダンテスがつぶやいた。「私のたった一人の庇養者が遠くへ行ってしまったのです」
「ヴィルフォール氏にはなにか君を憎む動機でもあったのかね」
「いいえ、なにも。それどころか大へん好意を持って下さいました」
「それでは彼が残して行った君に関する所見,あるいはこれから先私に彼が言うことを信用してもいいんだね」
「一言残らず」
「よろしい、待っていたまえ」
ダンテスは膝をついた。両手を天にさしのべ、神に向かって、地獄に落ちた魂を救いに行き給うた救世主のように、地下牢に降りて来てくれたこの男のために、祈りを捧げた。
扉がまた閉められた。しかし、監査官とともに降りて来た希望の光は、ダンテスの牢にとどまった。
「すぐ収監簿をご覧になりますか」長官が訊ねた。「それとも僧のいる牢へおいでになりますか」
「一気に地下牢をみな終らせてしまおう。上の明るい所へ上ってしまったら、この陰気な職務を続ける勇気がなくなってしまいそうだから」
「ああ、もう一人のほうは、今の男とは違いますよ。あの気違いぶりは、正気な隣人〔ダンテス〕のように胸が痛みません」
「どんな気の狂い方なのか」
「いや妙な気違いですよ。途方もない財宝の持ち主だと思いこんでいるのです。ここに入った最初の年には、長官に、もし釈放してくれれば百万進呈しようと言いましてね。二年目には二百万、三年目には三百万、といった具合に金額が増えます。今年は、牢に入れられてから五年目です。きっと内密で話がしたいと申しまして、五百万さし上げようと言いますよ」
「ほ、ほう。なるほどそいつはおもしろい。でその百万長者の名は」
「ファリア神父です」
「二十七号だ」と監査官が言った。
「ここです。アントワーヌ、扉を開けろ」
看守が命令に従うと、監査官の好奇な目が≪気違い坊主≫の牢内に吸いこまれた。
この囚人はふつうこう呼ばれていたのだ。
牢の中央、壁からはがれ落ちた漆喰のかけらで地面に描いた円の中に、裸同然の一人の男が横たわっていた。それほど彼の着ているものはぼろぼろだったのである。彼はその円の中に、きわめて正確な幾何学的な線を描いているところだった。マルケルスの兵士に殺された時のアルキメデスのように、彼はこうして問題を解くのに熱中しているように見受けられた。だから、地下牢の扉が開く音にも、身動き一つしなかったし、たいまつの光が、彼が学問をしている湿った床を、ただならぬ明るさで照らすまでは、われに返らぬようであった。光を照らされて彼は振り返った。そして、彼の牢にまで降りて来たなん人もの人間を見て驚いた。
すぐさま彼は立ち上がり、みすぼらしいベッドの下に放り出されていた毛布を手にすると、大急ぎでそれを身にまとい、他人の前に出るために少しはまともな恰好をしようとした。
「なにか望みはないかね」と、監査官は、きまり文句をまた言った。
「わしがかな」驚いた様子で僧が答えた。「わしはなにも望まぬ」
「私の言葉の意味がよくわかっておらぬようだ。私は政府から派遣された者で、牢を訪ねて、囚人たちの訴えを聞くのが私の任務なのだ」
「おお、それならば話は別じゃ。二人でお話がしたいが」
「どうです」そっと低い声で長官が言った。「申し上げた通りに始まったでしょう」
「わしは僧ファリアと申すもの。ローマで生まれ、二十年間ロスピリオジ枢機卿の秘書をしておった。一八一一年のはじめ頃、理由もわからず逮捕されました。この時からわしはイタリアおよびフランス当局に釈放を要求しておりまする」
「なぜまたフランス当局に」と長官が訊ねた。
「わしがピオンビーノで逮捕されたからじゃ。ミラノやフィレンツェ同様、ピオンビーノもフランスのなにがしかの県の中心都市となっておると、わしは推定しておるからじゃ」
監査官と長官とは笑いながら顔を見合わせた。
「あなたのイタリア情報はあまり新しくありませんな」と、監査官が言った。
「なにせ、わしが逮捕された当時のものなのでな。皇帝陛下が、神により授けられた御子のためにローマ王国をお作り遊ばされたので、わしは、皇帝陛下がなおも征服を続けられ、イタリア全土をただ一つの王国に統一するという、マキアベリやチェザーレ・ボルジアの夢を実現なされたものと推定しておりましたのじゃ」
「幸いなことに神の思召しは、その壮大な計画に多少の変更を加え給うたようだ。あなたはだいぶ熱烈にその計画を支持しているようだが」監査官が言った。
「イタリアを強く幸福な独立国家とする道はそれしかない」
「そうかもしれない。だが、私がここへ来たのは、あなたとアルプスの彼方の政治論議をするためではない。さきにも言ったように、食事や部屋のことについて、なにか訴えることはないかと訊ねに来たのだ」
「食事は、ほかのどこの牢とも同じ、つまりおっそろしく悪い。部屋のほうは、ご覧の通りじめじめして不健康じゃ。が、地下牢としては、まあこんなものじゃろうて。ところで、問題はそんなことではない。わしが政府に対してなそうとしていることは、きわめて重大な秘密、莫大な利益となる秘密を教えようということなのじゃ」
「いよいよですよ」長官がそっと監査官にささやいた。
「それ故にこそ、わしはあなたにお会いできてうれしく思うておる、あなたがたに、わしの重要な計算を途中で邪魔されてしまったのだが。この計算がうまく行げば、ニュートン力学の大系はおそらく変わることであろう。二人だけでお話しができようかな」
「そうら、言った通りでしょう」長官が監査官に言った。
「なるほど、よくご存じだ」監査官は微笑しながら長官に言ってから、ファリアのほうに向き直り、
「それはできません」
「だが、政府に莫大な金が入るとしたら、たとえば五百万」
「ほ、ほう」と、今度は彼のほうが長官のほうをふり返って、「金額まで言いあてましたな」
「まあまあ」と僧は、監査官が帰りそうになるのを見て言った。「必ずしも二人きりにならなくともよいのじゃ。長官がわしどもの話に同席されてもさしつかえないのじゃが」
「あのな、まずいことにあなたの言うことはとっくにわれわれにはわかっているのだ」長官が言った。「例の財宝の話だろうが、違うか」
ファリアは、この嘲笑う男の顔をみつめた。その目の中に、偏見のない者ならば、必ずや知性と真実とが輝いているのを見たであろう。
「そうじゃ。そうでないとしたら、わしに何を話せというのじゃ」
「監査官殿」長官が言った。「その話ならこの坊さんと同じようにお話しできます。なにしろ四、五年前から耳にたこができるほど聞かされてますから」
「長官殿」僧が言った。「それは、あなたがあの聖書にある、目を持てども見ず、耳を持てども聞かざる者の一人であるということのしるしじゃ」
「政府は金持だ」と、監査官が言った。「ありがたいことにあなたの金を必要とはしていない。牢を出る日のために、その金は大事にしておきたまえ」
僧の目が大きく見開かれた。彼は監査官の手を掴んだ。
「だが、もしわしが牢を出なんたら、すべての正義に反して、この地下牢にわしが留められたままだったら、もしわしが、この秘密を誰にも伝えずにここで死んでしもうたら、あの財宝は滅失してしまうのじゃ。それくらいなら、政府とわしとでこれを利用したほうがよくはないか。六百万まで出そう。そう六百万をわしは捨てる。もしわしを釈放してくれるなら、わしはその残りでがまんしよう」
「まったくのところ」監査官が低い声で言った。「この男が狂人であることを知らされていなければ、こんな確信のこもった調子でしゃべられたら、この男の言ってることはほんとうだと思うだろう」
「わしは狂ってはおらぬ」ファリアが言った。囚人特有の鋭い耳が、監査官の言葉を一語も聞き洩らさなかったのだ。「財宝はたしかに実在するのだ。あなたと契約書を交すことを提案する。あなたはわしを、わしが指定する場所につれて行く。そして二人の目の前で地面を掘らせる。もしわしの言葉が偽りであれば、なにも発見できなければ、おっしゃるように、わしがやはり狂人であったなら、その時はわしをこの地下牢につれ戻すがよい。わしはここに永久にとどまるであろう。もはや二度と、あなたにもまたなんぴとにも、なにも言わずにここで死のう」
長官は笑い出した。彼は訊ねた。
「その財宝のある場所は遠いのか」
「ここからおよそ百里の所じゃ」
「なかなかうまく考えたな」長官が言った。「囚人たちが看守どもを百里ものあいだ歩き廻らせてやろうなどと考えて、看守がそんな散歩に同意したりしたら、それこそ機会がみつかり次第逃げ出す絶好のチャンスだ。そんな道中をしていれば、機会などいくらでもみつかるものな」
「よく知られた手だ」監査官が言った。「新しい発明というわけでもないね」こう言ってから彼は僧のほうを向いた。
「食事はいいかと訊ねたが」
「監査官殿、神に誓いなされ」ファリアが答えた。「もしわしの申すことが真実ならわしを釈放すると。そうすれば、わしは財宝の埋まっておる場所を申し上げよう」
「食事はよいのか」監査官は繰り返した。
「これならあなたにはなんの危険もないのじゃ。おわかりの通り、これはわしが逃げ出すための機会をこしらえておるのではない。人が財宝を深しに行っておるあいだ、わしは牢に残っておるのだから」
「あなたは私の質問に答えておらん」監査官がじりじりして言った。
「あなたも私のに答えておらん! よろしい、わしの言うことを信じようとせぬ馬鹿者ども同様、呪われるがよい。あなたはわしの黄金がほしくないのだ。わしの手もとにとどめておこう。あなたはわしの自由を拒まれたが、神がお授け下さるじゃろう。行きなされ、もう申すことはない」
僧は毛布をかなぐり捨て、漆喰のかけらを拾うと、また円の中央に行って坐りこみ、線を描き、計算を続けた。
「あれは何をしているのかね」引き返そうとしながら監査官が訊ねた。
「財宝の勘定をしてるんですよ」長官が答えた。
ファリアは、心の底からの軽蔑をこめた眼差しで、この皮肉に答えた。
監査官たちは外へ出た。看守がその背後で扉を閉めた。
「あの僧は、実際に宝物を持っていたことがあるのだろう」階段を登りながら監査官が言った。
「さもなければ、宝物を持ってる夢でも見たんでしょう。そして翌る日、目が覚めたら気違いになったというわけだ」長官が言った。
「まったく」監査官が、うっかり腐敗した世相を認めて、「ほんとうに金持なら牢になど入らなかったろうからな」
こうしてファリア神父にとっての思いがけぬ出来事は終った。彼は相変わらず囚われの身であり、おもしろい気違いという評判はますます高まったのであった。これが、カリグラとかネロといった、財宝をあくことなく求める者、不可能事を追求する者であったならば、この哀れな男の言葉に耳を傾け、彼が望んでいる大気を、あれほど高価なものに評価している外界を、そのためにはあれほどの代価を払おうと言っている自由を、彼に与えたことであろう。だが今日の帝王たちは、可能事の枠内にのみとどまり、不敵な意志というものを持っていない。彼らは、おのれが発する命令を聞く耳を恐れ、おのれの行動を追う目を恐れる。彼らはもはや、他に優越するおのが神性を感じてはいないのだ。頭に王冠を戴いた男、ただそれだけである。往時の帝王たちは、おのれをジュピターの子と信じていた、少なくともそうおのれに言いきかせていた。彼らは、神である父のやり方の名残りをとどめていた。雲の上のことは人の力は及びがたい。が今日の帝王たちは、容易に人を寄せつける。ところで、専制政治というものは、牢や拷問の実態が明らさまになることをつねに嫌うものであるから、苛酷な取り調べの犠牲者が、骨を砕かれ血まみれの傷を負った姿でふたたび世に出て来るのはきわめてまれであるし、それと同じように狂気もまた、精神的拷問の結果地下牢の汚泥の中で生じたこの不治の病も、ほとんどの場合それが生じた場所にそのまま周到に隠蔽《いんぺい》されてしまうか、あるいは世に出たとしても、どこかの陰気な病院に埋もれてしまうのである。医師たちも、うんざりした看守たちが引き渡す、荒廃した肉体の残骸の中には、もはやその身もとも、どんな考えを持っていたかも見出すことはない。
牢内で狂人となったファリア神父は、まさにその狂気の故に、終身刑に処せられたのであった。ダンテスについては、監査官はその約束を守った。長官室に戻ると、彼は収監簿を出させた。この囚人に関する所見の内容は次のようなものであった。
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エドモン・ダンテス
過激なボナパルト支持者。エルバ島脱出に重要な役割を果たす。
厳秘に付し、厳重な監視下におくこと。
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この所見は、帳簿の他の部分とは筆跡もインクの色も違っていて、ダンテスが投獄されてから書き加えられたものであることを物語っていた。
罪状はあまりにも明白で、抗《あらが》う余地はなかった。監査官は、所見にさらに書き加えた。
『なすべきことなし』
監査官の訪問は、言わばダンテスを蘇らせたのであった。彼は牢に入って以後、日付を数えるのを忘れてしまっていた。だが監査官が、また新たに教えてくれたので、もう忘れなかった。背後の壁に、彼は天井からはがれ落ちた漆喰で、一八一六年七月三〇日と書きつけた。そしてその時以後、時間の経過を正しく追えるように、彼は毎日印を刻みつけた。
日々が流れ、週が、月が過ぎていった。ダンテスは待っていた。はじめは、釈放の日を二週間後と考えていた。監査官が抱いてくれたらしい関心の程度の、半分を自分の釈放のために費やしてくれれば、二週間あれば足りるはずだ。その二週間が過ぎてしまうと、彼は、監査官がパリヘ帰る前に自分のことをしてくれると考えたのは馬鹿だったと思った。パリヘ帰るのは巡回が終ってからである。巡回は一か月か二か月続くだろう。そこで彼は、二週間の代りに、三か月後と考えた。その三か月も過ぎると、また別の理屈をつけて、六か月と考えた。日に日を重ねてその六か月が過ぎた時、彼は自分が十か月半待ったことに気づいた。その十か月の間、彼の牢獄生活にはなんの変化もなかった。彼に希望を抱かせるようなものはなに一つ現われなかった。看守は、例によって、なにを聞かれてもおし黙ったままであった。ダンテスは自分の感覚を疑い始めた。たしかに自分の記憶にあることと思っているものが、じつは自分の頭が生み出した幻覚なのではないだろうか、自分の牢に出現したあの希望の天使は、夢の翼に乗ってここまで降りて来たのではないだろうかと思い始めたのだ。
一年後に長官が変わった。前の長官はアンの砦〔ソンム県にあり、やはり牢として用いられていた〕の長官となり、なん人かの部下をつれて行った。その中に、ダンテス担当の看守もいた。新しい長官が赴任して来た。いちいち囚人の名前を覚えるのが面倒だったので、彼は囚人を番号だけで呼ばせることにした。この恐ろしい家具つきホテルには部屋が五十あった。ホテルの住人たちは、それぞれ住んでいる部屋の番号で呼ばれた。不幸な青年はエドモンとかダンテスとかは呼ばれなくなり、彼は三十四号と呼ばれることになった。
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十五 三十四号と二十七号
ダンテスは、獄中に忘れ去られた者がたどる不幸の段階を、正確にたどっていった。
まずはじめは、自尊心を持っていた。これは希望と、無実を信じる心から生まれるものである。それから、自分の無実を疑うようになってしまった。このことは、狂気についてのあの長官の言葉を裏書きしないでもない。そしてついに、彼は自尊心を失ってしまったのである。ダンテスは哀願した。まだ神にではなく人間に。神は最後の救いである。不幸な人間は、まず神にすがらねばならぬのに、他のすべての望みの綱が切れてからでなければ、神に希望はかけぬものである。
だからダンテスは、自分をこの牢から出し、別の牢に入れてくれと頼んだ。たとえそれがなお暗く、なお地下深くてもよい。悪い変わり方であっても、変化は変化である。そして、数日間はダンテスの気を紛らわせるであろう。彼は、散歩を、外気を、本を、楽器を求めた。がこれらのものいっさいが与えてもらえなかった。が、それでもなおかつ彼は求め続けた。彼は、新しく彼の担当となった看守に話しかけるようになった。この男は、前の看守よりも、もしそういうことが可能なら、なおいっそう無口な男であった。だが、人間に話しかけるということは、たとえ唖が相手であっても、やはり一つの喜びだったのだ。ダンテスは自分の声を聞くためにしゃべった。彼は一人でいる時にもしゃべろうとしたが、自分の言葉に彼はおびえた。
ダンテスがまだ自由の身であった頃、彼は牢獄の住人というものを、ぞっとする連中として思い描いていた。浮浪者、盗賊、人殺しが入れられていて、彼らは、わけのわからぬ乱痴気騒ぎや、恐ろしい仲間意識をともに抱くことに卑しい快楽を見出しているのだ。彼は、一言も口をきこうとしない、無表情な看守とは違う顔を見るためならば、そんな連中の入っている部屋に放り込まれることを願うようにさえなった。あの不名誉な着物を着て、足に鎖をつけ、肩に焼ごての跡をつけた徒刑囚の部屋が恋しかった。少なくとも徒刑囚たちには、自分たちの仲間がいる。彼らは外の空気を吸い、空を見ている。徒刑囚たちは幸福だったのだ。
ある日彼は看守に、どんな男でもいいから、たとえ噂に聞く気違いの坊さんでもいいから、誰かを合い部屋にしてくれるように言ってくれと頼んだ。この看守は、その能面のように動かぬ固い表情の下に、やはり、わずかばかりの人間味は残していた。この男は、顔にこそ少しも出さなかったが、心の底では、あまりにもむごい牢暮らしをしている青年を哀れに思うことがあったのだ。彼は三十四号の要求を長官に取り次いだ。しかし、長官はまるで政治家のように用心深い男だったので、ダンテスが囚人たちを煽動して、なにか暴動をたくらんでいるのではないか、脱走を試みるための仲間を求めているのではないかと想像した。だから彼は申し出を拒否した。
ダンテスは、人間に対して求め得るいっさいの手段をし尽したのであった。そこで、必ずそうなるはずだと前に述べておいたように、彼は神に志向したのである。
この世の至る所に播き散らされており、運命に打ちひしがれた不幸な者がそれを拾い集める、あの神に仕える言葉の数々が、彼の心を静めるためにやって来た。彼は、母に教えられた祈りの言葉を思い出し、そこに、かつてはわからなかった意味を見出すのだった。幸せな者にとっては、祈りとは、単調でなんの意味もない言葉のよせ集めにすぎない。が、一度不幸に襲われた日から、不幸な者は、そこに、神との対話を許される崇高な言葉としての意味を知るのである。
だから、彼は祈った。熱心にではなく、狂気のように。声を出して祈っても、今度は自分の言葉におびえるようなことはなかった。祈れば、一種の恍惚が彼を包んだ。自分が口ずさむ一語一語に、まばゆいような神の姿を見た。みじめな、そして潰《つい》え去った彼の人生のすべての出来事を、彼は全能の神のご意志のなせる業と思った。そこに教えを見出し、果たすべき務めを自らに課した。そして祈りの最後には、われわれ人間が、神に対してよりも人間に対して述べる機会を多く持つ、あの利己的な願いをつけ加えるのだった。『われらが人にその罪をゆるすごとく、われらの罪をゆるし給え』
熱烈な祈りにもかかわらず、ダンテスは牢につながれたままであった。
そうなると、彼の考え方は暗いものとなっていった。彼の目の前の雲が厚みを増していった。ダンテスは単純で無学な男であった。彼にとって、過去はとばりに閉ざされたままであった。学があれば、そのとばりを上げることもできたであろうが。彼には、地下牢の孤独と、不毛な思考の砂漠の中にあっては、過ぎ去った時代を再現することも、滅亡した民族を蘇らせることも、人間の想像力が偉大にもし、詩にも歌い、マルチニ描くバビロニアの絵のように、天の火に照らされた巨大なものとして眼前を過ぎる、古代の都市を再現することもできなかった。彼にはごく短い過去と、暗い現在と、まず望みのない未来しかなかった。おそらく永遠に闇の中で沈思するための、わずか十九年の光しかなかったのだ。だから、心の支えとなる気晴しのたぐいはなに一つとして彼にはなかった。年を超越して羽ばたくことのみを愛した彼のたくましい精神は、かごに入れられたワシのように、囚われの身を嘆くよりほかはなかった。だから彼は、ただ一つの考えにかじりついた。自分の幸福はなんらはっきりした理由もなしに、聞いたこともない運命のいたずらによって破壊されたのだ、と。彼はこの考えを、ためつすがめつ、あらゆる面から思い返し、攻撃をしかけ、いわば、ダンテの描いたあの地獄の残忍なウゴリノがロジェ大司教の頭を貪り喰うように、がりがりと貪り喰っていたのだ。ダンテスは、神の力を信ずるが故の、一時的な信仰しか持ってはいなかった。他の者が、事が成就すれば信仰を捨ててしまうように、彼もまた信仰を捨てた。ただ、彼の信仰はなんのご利益《りやく》もなかった。
敬虔《けいけん》な禁欲生活の次には憤怒《ふんぬ》が来た。エドモンは、看守を思わず後ずさりさせるほどの神を呪う言葉を吐いた。身体も砕けよと牢の壁にぶつけた。一粒の砂、一すじのわら、一吹きの風も、それがわずかでも気に入らないとなると、身の廻りいっさいのもの、とくに自分自身に対してすさまじい勢いで当り散らした。そんな時、あの密告状が、彼が見た、ヴィルフォールが見せてくれた、彼が手にふれたあの密告状が、心に蘇って来るのだった。その一行一行が、あのベルシャザル王の見た『メネ、テケル、ペレス』〔「数えたり、秤《はか》れり、分かたれたり」の意。旧約聖書ダニエル記の故事〕の文字のように、壁の上に炎となってゆらめくのであった。彼を、今いる地の底に陥れたものは、神のみせしめではなくて人間の憎悪のなせる業だと彼はつぶやいた。彼はその未知の男どもに、彼の燃えるような想像力が彼に思い浮かばせる、ありとあらゆる責め苦を与えてやると心に誓うのだった。どんなに恐ろしい責め苦も、その男どもには軽く、短かすぎるように思えた。なぜなら、責め苦の後には必ず死が訪れる。死には、安息ではないにしても、少なくともそれに似た無感覚というものがあるからである。
自分の敵どものことを考えて、死こそは平安そのものだ、残忍な刑罰に処するためには死以外の方法を求めねばならない、とわれとわが身に繰り返しているうちに、彼は自殺という、陰鬱な想念にとりつかれることになった。不幸の坂道をころげ落ちて行くうちに、この暗い想念に立ち至ったものこそは不幸である。それは、表面は澄んだ紺碧の水をたたえてひろがっているように見えながら、じつはそこで泳ぐ者は、彼をひき寄せ、捉え、のみこんでしまう海底の泥に次第に足をとられる死の海のようなものだ。一度これにとりつかれれば、神の救いの手が及ばぬ限り、万事休してしまう。あがけばあがくほど、その努力の一つ一つが着実に彼を死のほうへおしやるのである。
しかし、この精神の断末魔も、それ以前の苦しみと、おそらくそれ以後に続くであろう刑罰とにくらべれば、それほど恐ろしいものではない。それは、ぽっかり口をあけた奈落を見せはするが、その底にはなにもない、いわば一種のめまいを伴う慰めであった。ここに至って、エドモンはこの想念の中になぜかしら慰めに似たものを見出した。死の天使が音もなく降り立つであろうその牢獄の一隅からは、すべての悩み、すべての苦しみ、それに続くあの亡霊どもの行列も、飛び去って行くように思えた。ダンテスは、静かに自分の過去をみつめ、将来を恐怖の目で眺めた。そして、彼には唯一の憩いの場として映る中間点を選んだのである。
彼は、心のうちにつぶやくのであった。
『俺がまだ一人の男であった頃、そして、自由で権力を持った男として、他の者たちに命令を下し、それが実行されていた頃、いく度か俺は、空がにわかにかき曇り、海が戦《おのの》き怒号するのを見た。空の一隅に嵐がまき起こり、巨大なワシのように、大海原をその二枚の翼で叩くのを見た。そんな時、俺は自分の船が、まったく頼りない拠《よ》り所としか思えなかった。まるで巨人の掌中の一枚の羽のように、船自体がおののきうちふるえていたからだ。やがて、すさまじい波の怒号とともに、きり立った岩礁の姿が、俺に死を予測させたものだ。俺は死を恐れた。死を脱れるために、俺はなし得るすべての努力を払った。神と戦うために、人間のすべての力と、船乗りとしての全知能をふりしぼった。それは、あの当時は俺が幸せだったからだ。生命に立ち帰ることは、幸福に立ち帰ることだったからだ。死を自ら招いたわけではなく、自ら選んだわけでもなかったからだ。海藻と砂利を枕のしとねが、俺には堅すぎるように思えたからだ。神のみ姿になぞらえて作られたと信じているこの俺が、死後、カモメやハゲタカの餌食になるのが、俺にはがまんできなかったからだ。だが今は違う。俺はもう、俺に人生を愛させるすべてのものを失った。今は、死は、乳母が寝かしつける赤ん坊に微笑みかけるように、俺に微笑みかけている。今は、俺は俺の好きなように死ぬのだ。絶望と怒りにさいなまれた夜、この牢の中を三千回もめぐり、つまり三万歩、十里も歩きまわった末に眠りに落ちたように、精根尽き果てた末に眠りに落ちるだけだ』
こういう考えが頭に浮かぶと、青年はなごやかになり、愛想もよくなった。堅いベッドにも黒いパンにも、前よりはなじんで来た。食べ方は少なくなり、もはや眠らなくなった。まるで着古した服のように、いつでも好きな時に捨ててしまえる残りの人生が、どうにかがまんのできるものに思えてきた。
死ぬには二つの方法があった。一つは簡単で、ハンカチを窓の格子に結びつけ、それに首を吊るのである。もう一つは、食べるふりをして餓死を待つ方法であった。最初のやり方は、ダンテスに嫌悪を催おさせた。彼は、海賊をおぞましいものと教えられて育った。捕まれば船の帆桁《ほげた》に吊るされる連中なのである。だから、首を吊るというのは、いわば不名誉な刑罰であって、自らに課する気にはなれなかったのだ。そこで彼は、第二の方法をとることにして、直ちにその日から実行に移した。
すでに述べたような、希望と絶望との交錯を重ねるうちに、四年の歳月が流れていた。二年目の終りに、ダンテスは日を数えるのを止めていた。それ以後は、かつてあの監査官が教えてくれたためにそこから抜け出た、月日を知らない状態にまた落ち込んでいたのである。
『俺は死のう』ダンテスはこう言ったのだった。そして、死ぬ方法も決めたのだった。彼は死に直面したのである。そこで、決心がにぶらぬように、彼はそのようにして死ぬのだと、誓いを立てた。朝と晩の食事が運ばれて来たら、それを窓から捨て、食べたふりをするのだ、と彼は考えた。
彼は、心に決めたことを、その通り実行した。一日に二回、空だけがわずかに見える小さな格子のはまった窓から、彼は食物を投げ捨てた。はじめは陽気に、次はやや考えてから。そして次には、惜しいなと思いながら。この恐ろしい計画を遂行する勇気を持つためには、誓ったのだということを思い起こさねばならなかった。かつては彼に顔をそむけさせたその食事を、鋭い歯を持つ飢餓が、目にはいかにも食欲をそそるように、鼻にはいかにもうまそうに感じさせるのであった。時として、そういう食物の入った皿を、腐りかけた肉や、臭い魚や、黒くてカビの生えたパンにじっと目を据えたまま、一時間も手にしていることがあった。それは、彼の体内でなおも抗《あらが》い続け、時折り彼の決心をぶちのめしそうになる、生命の最後の本能であった。そんな時には、自分のいる地下牢がさほど暗くなく、自分のおかれている状態が、思うほど絶望的なものではないような気がしてきた。彼は今、二十四か二十五のはずであった。まだ五十年近くは生きられる年月が残っている。これは今まで生きて来た期間の二倍だ。これほどの長い年月の間には、シャトー・ディフの扉をおし聞き、壁を崩し、彼を自由の身にするような事件がなん回起きるか知れたものではない。こう考えれば、自ら進んでタンタルス〔ギリシア神話の人物。ゼウスから食物と水を禁ぜられた〕となった彼が、自分で口から遠ざけた食事に、口を近づけるのであった。しかし、誓いが彼の脳裡に蘇えった。そして、この心の美しい青年は、誓いを破ることによって自らをおとしめることをあまりにも恐れたのである。だから、彼は冷酷無残に、残されたわずかばかりの生命をすり減らしていった。そしてついに、運ばれた夜の食事を窓から投げ捨てるために持ち上げる力も失われた日が来た。
翌日はもう目が見えなかった。聴力もほとんどなくなっていた。看守は重病人だと思った。エドモンは、死のま近いことを期待していた。
その日はそのようにして過ぎた。エドモンは、なにか陶酔に似た感じを伴わぬではない、ぼんやりした麻痺感が全身を冒していくのを感じていた。胃の神経がひきつる感じもやわらいだ。灼けつくようなのどのかわきもおさまった。目を閉じると、夜湿地の上を走るあの鬼火のような、輝く光の一団が見えた。それは、人が死と呼ぶ未知の世界の黄昏であった。と、突然、夜の九時頃、彼が横たわっているそばの壁で、なにかひそかな物音がした。数多くの不潔な虫どもが、この牢内にやって来て音をたてることはあった。エドモンは、もうそんな些細なことにはわずらわされずに、眠りにつけるようになっていた。だがこの時は、絶食のために彼の感覚が昂《たか》ぶっていたせいか、実際にその音がふだんのものよりは大きかったせいか、あるいはまた、この崇高な瞬間にはすべてのものが重大な意味を持っているせいか、エドモンはもっとよく聞くために頭を持ち上げた。
それは、巨大な爪か、強い歯が、なにか道具を石におしあてていると思えるような、規則正しいなにかを引っかく音であった。
衰弱しきってはいたが、青年の脳裡に、囚人であれば誰しもが思い描くあの平凡な考えがひらめいた。『逃げられる』この物音は、すべての音が彼からは姿を消そうとしていたまさにその瞬間に聞こえて来たので、彼には、神がついに彼の苦しみを哀れと思召し、すでに足もよろめきつつ、墓穴の線に立っていた彼を、その場で立ち止まらせるためにこの音を彼の耳にお届け下さったもののように思えた。友人のうちの誰かが、頭が使い尽されてしまうほどにその人たちのことばかりを考えていた愛する人びとのうちの誰かが、今この瞬間に、彼のために、彼らと自分とを距てる距離を縮めようと努力していてくれるのではないと、誰が言えよう。
そんなことはない、おそらくダンテスの思い違いなのだ、死の門口にただよう夢の一つなのだ。
だがダンテスの耳は、なおもその音を聞き続けていた、その音は約三時間も続いた。それからエドモンは、なにかが崩れ落ちる音を聞いた。そして音は止んだ。
数時間後、音はまた、前よりも強くより近い所で聞こえてきた。すでにダンテスは、このなじみとなった仕事に興味を抱いていた。と、いきなり看守が入って来た。
死を決意してから約一週間、その計画を実行に移してから四日、エドモンは看守に一言も言葉をかけなかった。彼が病気に冒されていると思い込んでいた看守が、どんな病気にかかっているのかと訊ねたのにも答えなかったし、あまりじろじろと看守に見られるような場合には、彼は壁のほうを向いてしまったのである。だが今日は、看守がこのひそかな物音を聞きつけ、警戒して、いっさいをおしまいにしてしまうかもしれなかった。そうすることによって、それを考えるだけでも今はの際《きわ》のダンテスの心を恍惚とさせるなにかしら希望めいたものを、台なしにしてしまうかもしれなかったのだ。
看守は朝食を運んで来たのだった。ダンテスはベッドの上に起き上り、声を張り上げて、思いつく限りのことをしゃべり始めた。看守が持って来た食物の質が悪いとか、地下牢は寒くてやりきれぬとか。ぶつぶつ言ったり不平をならべたりして、その後でわめきたてても大丈夫なようにした。ちょうどその日、この病気の囚人のために、わざわざスープと新しいパンを願い出て、そのスープとパンを持って来てくれたのだが、その看守をがまんできなくしてしまった。
幸い看守はダンテスが≪うわ言≫を言っているのだと思った。彼は、いつもその上に置くことになっている、びっこの粗末なテーブルの上に食事を置いて帰って行った。
自由になったエドモンは、喜んでまた音に耳を傾けた。今や、その音は、耳をすまさなくても聞きとれるほどにはっきり聞こえていた。
「もう間違いないぞ」彼はつぶやいた。「明るくなっても続いているところを見ると、俺と同じような哀れな囚人が、脱獄しようとしているんだ。そばにいたら、どんなにでも手伝ってやるのに」
ついで、ふと黒い雲がこの希望の曙光の上をよぎった。不幸にならされてしまった彼の頭は、人生の喜びにはそう簡単になじめないのであった。たちまち、この物音は、長官の命令で隣りの牢の修繕をしている職人たちのたてる音ではないかという考えが浮かんだのである。
これをたしかめるのは容易であった。しかし、うっかり質問などしていいものだろうか。たしかに、看守が来るのを待って、その音を彼に聞かせ、聞いている時の彼の表情をさぐることは簡単だ。が、そのような満足を味わうことは、一時の満足のために、まことに貴重な利益を損うことではないのか。不幸なことに、その時のエドモンの頭は、中身が空っぽで、ある一つのことを考えるとがんがんしてしまい、なにもわからなくなるのだった。彼の頭には霞がかかっていて、一つの考えに精神が集中できないほどに衰弱していた。エドモンは、はっきりした思考力と明晰な判断力をとり戻すためには、方法は一つしかないことをさとった。彼は、看守が置いて行ったばかりの、湯気をたてているスープのほうに口を向けた。立ち上がり、ふらつきながらそのそばに寄った。椀を手にして、唇の所へ持って行き、名状しがたい陶酔感を味わいながら中の飲み物を飲み下した。
彼は意志の力をふるい起こしてそれだけでやめておいた。彼はかつて、飢えに体力の衰えきった末に救出された漂流者が、あまりに栄養に富む食物をがつがつと貪り食ったために死んだという話を聞いたことがあった。エドモンは、すでに口もとまで持っていっていたパンを、テーブルの上に戻した。そしてまた身を横たえた。エドモンはもう死のうとは思っていなかった。
やがて彼は、自分の頭が晴れてくるのを感じた。ぼんやりしていて捉えどころのなかった思考力のすべてが、脳というこのすばらしい将棋盤のそれぞれの目に、きちんともと通り並べられたのである。この盤の目が一つだけ多いということが、おそらく動物よりも人間を優位に立たしめているのであろう。今や彼は考えることができた。そして、論理を追って思考を強固なものにすることもできた。
そこで彼はつぶやいた。
「なんとか試してみなければならない。が、誰の立場も危険に陥れぬように。もしあの仕事をしているのが普通の職人であれば、壁を叩いてみればいい。そうすれば、誰が叩いたのか、なぜ叩いたのかといぶかって、すぐに仕事の手を止めるだろう。しかし、彼の仕事は、合法的なものであるばかりでなく、やれと言われていることなのだから、すぐまた仕事を始めるはずだ。しかし、もし逆にそれが囚人なら、俺のたてた音はそいつをおびえさせるはずだ。発見されるのを恐れるだろう。仕事を中止して、誰しもが床につき眠り込んでいると思われる夜になるまで、仕事を始めることはしないはずだ」
直ちにエドモンはまた起き上がった。今度は足もふらつかず、目まいもしなかった。彼は牢の片隅へ行って、湿気でもろくなった石をはがし、音が一番大きく聞こえて来る場所の壁を叩いた。
三回叩いた。
一回目で、まるで魔法のように音はたちまち止んだ。
エドモンは全身で耳をすませた。一時間たった。二時間たった。かたりとの音も聞こえてこなかった。エドモンは、壁の向う側の音を完全に沈黙させてしまったわけである。
希望に胸をふくらませて、エドモンは二口三口パンを頬ばり、いくらかの水を飲んだ。神が彼に授けたたくましい肉体のおかげで、ほぼ以前と同じ状態をとり戻すことができた。
その日が過ぎた。沈黙はまだ続いている。
もの音がふたたび始まらぬままに夜が来た。
「囚人だ」言い尽しがたい喜びを味わいながらエドモンはつぶやいた。
彼の頭に火がつくや、生命もまた、ふるいたたされたが故に、激しい勢いで立ち帰って来た。
その夜は、ことりとも音がせずに過ぎた。
エドモンはその夜、目を閉じなかった。
また朝が来た。看守が食事を持って入って来た。エドモンは前日の分はすでに食べてしまっていた。新しく運ばれたものも食べた。たえず、もはや二度と聞こえてこない音に耳をすまし、永久に止んでしまったのではないかとおののいた。彼は牢の中を十里も十二里も歩きまわった。長いこと忘れていた運動をすることによって、四肢に柔軟性と力とをとり戻させるために、通気孔の鉄格子をなん時間もゆすぶり続けた。ちょうど闘技場に入る前の闘士が、腕を屈伸させ、身体に油をこすりつけるように、運命との将来の格闘に備えていたのである。それがすむと、この狂ったような運動の合間々々に、あの音が戻ってきはしないかと耳をすまし、脱走のための仕事を中断せしめたのは、少なくとも自分と同じように一刻も早く自由の身になりたいと願っているもう一人の囚人なのだということを、少しも思いつかないその囚人の用心深さにじりじりした。
三日が過ぎた。一分一分と数えて過ぎた死ぬ思いの七十二時間である。
ついにある晩、看守がその日最後に訪れた直後、ダンテスがすでに百回もそうしたように壁に耳をおし当てると、ほとんど感じとれないくらいの、なにか壁がゆらぐような感じが、まったく音のしなかった壁の石におしつけた頭にかすかに感じとれるような気がした。
ダンテスは、動揺した脳を静めるために身をひき、牢の中を二、三回歩きまわった。そうして、また同じ場所に耳をおしあてた。
もはや疑う余地はなかった。壁の向う側でなにごとかが行なわれている。その囚人は、自分の仕事のやり方に危険を感じ、やり方を変えたのだ。おそらく、より安全に仕事を続けるために、その男は≪のみ≫を≪てこ≫に変えたのだ。
この発見に勇気づけられて、エドモンは、その疲れを知らぬ仕事師に、力を貸してやろうと決心した。彼はベッドをどけた。どうやら脱出作業はその後ろで行なわれているらしいのだ。そして、なにか壁に傷をつけ、湿ったセメントを落し、ついには石をはずせるような道具はないかと目で探した。
なにも見当らなかった。彼はナイフも刃物も持っていなかった。窓の鉄格子しかないが、すでになん回も、それがしっかり埋めこまれていることは確かめてあるので、今さらゆすぶってみるまでもなかった。
家具としては、ベッド、椅子、テーブル、桶、水差しがあるだけだ。
ベッドにはたくさんの金具がついているが、この金具はビスでとめられていた。ビスを廻して金具をはずすには、ねじ廻しが必要だった。
テーブルと椅子にはなにもついていない。桶には、柄がついていたのだが、今ではもうとれてしまっていた。ダンテスには、たった一つの方法しか残されていなかった。水差しを割るのである。そして、その破片の割れた角で仕事をすることだ。
彼は敷石の上に水差しを落した。水差しはみじんに砕けた。
ダンテスは二つか三つ、よく尖った破片を選んで、わらぶとんの中にかくし、ほかのは床に散らばったままにしておいた。水差しがこわれても、ごくあたりまえの出来事で、うさん臭く思われるはずはなかった。
エドモンは夜を徹して仕事ができるわけであった。だが、暗闇の中での仕事ははかどらなかった。手さぐりでやらねばならないからだ。やがて、その粗末な道具が、堅い石にぶつかって、鈍磨してしまうのを感じた。彼はベッドをもと通り壁におしつけて朝を待った。希望とともに忍耐力もまた彼に蘇ってきたのである。
一晩中彼は耳をすましていた。見知らぬ男が、地下の穴を掘り続ける音が聞こえていた。
夜が明け、看守が入って来た。ダンテスは、昨夜水差しからじかに水を飲もうとして、手がすべり、水差しを落して割ってしまったのだと言った。看守はぶつぶつ言いながら、前の破片を片づけもしないで、新しい水差しをとりに行った。
間もなく戻って来た看守は、これからはもう少し気をつけるようにと言って、出て行った。
錠前がきしむ音を、ダンテスは名状しがたい喜びを感じながら聞いた。以前は、それが再びかけられる度に、胸を締めつけられる思いがしたのだが。彼は、看守の足音が遠ざかるのを聞いていた。そして、その音が消えると、ベッドの所へ飛んで行って、これを動かした。かすかに牢内に入り込んでくる陽の光で、前夜の無駄な努力の跡が見えた。石のまわりの漆喰ではなしに石自体を削ろうとしていたのだ。
漆喰は湿気でもろくなっていた。
その漆喰がぼろぼろとはがれ落ちるのを見て、ダンテスの胸は喜びにときめいた。なるほどほんのわずかしかはがれ落ちない。しかし、三十分後には、彼はほぼ一握りの漆喰をはぎ取ることができたのだ。数学者が計算すれば、大きな岩にでもでくわさない限り、こうして二年も仕業を続ければ、二平方フィートの穴を二十フィートぐらい掘ることができるはずであった。
囚人は次々と流れ去っていったあの長い時間、次第にその流れが遅くなり、希望、祈り、そして絶望のうちに空費してしまったあの長い時間を、なぜこの仕事に使わなかったのかと悔むのであった。
彼がこの地下牢に入れられてから約六年になる。どんなに時間のかかる作業でも、その間にできなかったはずはない。それを思うといちだんと仕事に熱が入った。
三日間、極度に細心な注意を払った作業を続けた結果、ついに彼は、まわりのセメントを全部とり除いて、一つの石を裸にすることができた。牢の壁は玉石を積み上げてできており、その玉石の間に、補強のための切り石が所々に据えられていた。彼が今ほぼ露出させることに成功したのは、そうした切り石の一つであった。今度は、これをはずすためにゆり動かさねばならない。
ダンテスは自分の爪でやってみた。だが、爪ではとても無理であった。
水差しの破片を隙間にさし込んで、てこ代りにしようとすると、たちまち砕けてしまうのだった。
一時間ほどの無駄な努力の後に、ダンテスは立ち上がった。額には汗と苦悩の色がにじんでいた。始めたばかりというのに、もうやめてしまわねばならないのか。手をつかねて、なにもできずに、ただ隣りの囚人が仕事をしとげるのを待っていなければならないのか。隣の男も、倦《う》み疲れてしまうかもしれないのだ。
このときある考えがひらめいた。彼は立ちつくしたまま笑みを浮かべた。汗に濡れた額もひとりでに乾いた。
看守は毎日、ダンテスのスープをブリキの鍋《なべ》に入れて持って来る。この鍋には、ダンテスのスープと、もう一人の囚人のスープが入っていた。看守が食事の分配を、彼から始めるか、あるいはもう一人の囚人から始めるかによって、鍋が一杯だったり、半分しか入っていなかったりするのに、ダソテスは気がついていたのである。
この鍋には鉄の柄がついていた。ダンテスがねらったのはこの鉄の柄だったのだ。これを手に入れるためならば、それと引き換えに、一生のうちの十年を与えてもいいと思った。
看守は鍋の中身をダンテスの皿に注ぐ。木のスプーンでスープを飲んでしまうと、このように毎日スープを入れて貰う皿を、ダンテスが洗った。
その晩、ダンテスはその皿を、牢の入り口とテーブルの中間の床の上に置いておいた。看守は入って来て、皿を踏んづけ、こなごなにしてしまった。
今度はダンテスに文句が言えなかった。たしかに床に皿を置いたのはダンテスが悪い。しかし、看守も足もとを見なかったという弱味があった。
だから、看守はぶつぶつ言うぐらいがせきの山だった。それから、なにかスープを入れるものはないかとあたりを見廻したが、ダンテスはこの皿しか持っていなかった。ほかにどうしようもない。
「鍋を置いてけよ」ダンテスが言った。「明日の朝、飯を持って来た時に持ってけばいいじゃないか」
この言葉は、怠け者の看守をほっとさせた。そうすれば、皿を取りにまた上がって行って、降りて来て、さらにまた上がって行く必要はないわけだ。
彼は鍋を置いて行った。
ダンテスは喜びに身をふるわせた。
彼は大急ぎでスープとその中の肉を食べた。牢の習慣で、肉はスープに入れるのである。それから、看守の気が変わってまた来たりしないと見きわめがつくまで、一時間ほど待ってから、彼はベッドをどけ、鍋を手にして、その柄の先を、漆喰をはがした切り石と隣の玉石の間にさし込んだ。そして、その柄を≪てこ≫として使い始めた。
かすかに石が動いて、どうやらうまく行きそうに思えた。
はたして、一時間後には、その石が壁からはずれ、壁に直径一フィート半のくぼみができた。
ダンテスは注意深く漆喰のかけらを全部拾い集め、牢の隅へ持って行き、水差しの破片で床の灰色の土を削り取り、漆喰を土で覆った。
それがすむと、偶然、いやむしろじつにうまく想像力を働かせたおかげで、この貴重な道具を手に入れることのできたその夜一夜を十分に利用しようと、彼は夢中になって掘り続けた。
夜明けの光がさし込む頃、彼ははずした石をもとの穴におさめ、ベッドを壁におしつけて横になった。
朝食はパン一切れであった。看守は入って来ると、そのパンをテーブルの上に置いた。
「なんだ、別の皿は持って来てくれなかったのか」
「そうさ。お前はなんでもぶちこわしちまうからな。水差しをこわしたし、俺が皿を割ったんだってお前のせいだ。もし囚人たちがみんなそんなふうにものをこわしたら政府はとてもやっていけんよ。お前にはその鍋を置いとく。スープはその中に入れてやる。こうすりゃ、お前はもう持ち物をこわさんだろうからな」
ダンテスは目を天に向けた。そして、毛布の中で手を組んだ。
彼の手もとに残されたこの鉄の柄は、彼の過去を通じて、どんなに大きな喜びに見舞われた時にも決して涌き起こらなかったほどの、神への感謝の念を彼の心によび起こしたのだ。
ただ、彼が仕事をし始めてから、例の囚人が仕事を止めてしまったことに、彼は気づいていた。
が、そんなことはかまわない。これは作業を中止する理由にはならぬ。もし隣の囚人が彼のほうへ来ないなら、彼のほうから隣へ行くまでだ。
一日中、彼は休まずに働いた。新しい道具のおかげで、夕方には、十握りほどの玉石、漆喰、セメントなどの屑を壁からはずすことができていた。
看守が廻って来る時間になると、彼は、ねじ曲ってしまった鉄の柄をできるだけもと通りに直し、鍋をいつもの場所に戻しておいた。看守はその中に、スープと肉、いや正確に言えばスープと魚を注いだ。その日は精進《しょうじん》日〔肉を食べない日〕だったのだ。一週に三日、囚人たちは精進を強いられるのだった。もしダンテスがとっくの昔に日を数えるのをやめていなければ、これも日数を計算する手段になったはずである。
スープを注いでしまうと、看守は帰った。
今度はダンテスは、ほんとうに隣の囚人が作業をやめてしまったのかどうかを確かめてみたいと思った。
彼は耳をすました。
隣人の作業が中止されていたこの三日間と同じように、もの音一つ聞こえなかった。
ダンテスは溜息をついた。隣人が自分を警戒していることは明白だった。
しかし彼は気を落したりなどしなかった。一晩中働き続けた。が、二、三時間作業を続けた時、彼は障害物にぶち当った。鉄の棒ももはや歯がたたない。平らな面を、滑るだけである。
ダンテスはその障害物を手で触ってみた。そして、ぶち当ったものが桁《けた》であることを知った。
この桁は、ダンテスが掘り始めた穴を横切る、というよりも、完全に行手を塞いでいた。
今や、その上、ないし下を掘らねばならない。
不運な青年は、このような障害に出会おうとは全く予想していなかった。
「ああ、神様」彼は叫んだ。「あれほど、お祈りをいたしましたのに。私の願いを聞き届けて下さったものと思っておりました。神様、私の人生から自由をお奪いになったあげく、死の静けさをもお奪いになり、私をこの世にお引き戻しになられましたのに、ああ、神様、どうか私を哀れと思召して、絶望のうちに死なせないで下さい」
「神の御名と絶望とを同時に口にしておる者は誰じゃ」
一語一語区切るような声が、地の底から聞こえて来るように、暗闇のせいでなお陰にこもり、墓の底からの声のように、青年の耳に届いた。
エドモンは髪の毛が逆立つ思いがして、跪《ひざまず》いたまま後ずさりした。彼はつぶやいた。
「ああ、人間の声が聞こえる」
エドモンが看守以外の人間の声を聞かなくなってから四、五年たっていた。囚人にとって看守は人間ではない。カシの扉にさらにつけ加えられた扉であり、鉄の格子にさらにつけ加えられた格子である。
「お願いです」ダンテスは叫んだ。「あなたはしゃべって下さった。もっとしゃべって下さい。あなたの声は私には恐ろしいけれど。あなたはどなたですか」
「そういうそなたは誰じゃ」
「哀れな囚人です」ダンテスは答えた。彼のほうは、すぐに素直に答えた。
「どこの国の者か」
「フランス人です」
「名前は」
「エドモン・ダンテス」
「職業は」
「船乗りです」
「いつからここにおる」
「一八一五年二月二十八日から」
「犯した罪は」
「私は無実です」
「じゃが、なんのかどで」
「皇帝の帰還のため奔走したというのです」
「なんじゃと、皇帝の帰還。とすると、陛下はすでに玉座についてはおらなかったのか」
「皇帝は一八一四年に、フォンテーヌブローで退位し、エルバ島に流されました。でも、あなたご自身は、いったいいつからここにおられるのですか。なにもご存じないとは」
「一八一一年からじゃ」
ダンテスは身ぶるいした。その男は、自分よりも四年も余計に牢にいるのだ。
「よし、もう掘るな」と、その声が非常な早口で言った。「ただ、これだけ答えよ、そなたが掘った穴はどの位置じゃ」
「床すれすれの高さです」
「どうやってかくしておる」
「ベッドのかげに」
「そなたが牢に入れられてから、牢の者がベッドを動かしたことがあるか」
「一度も」
「そなたの牢は何に面しておる」
「廊下です」
「で廊下は」
「中庭につき当ります」
「しまった」と、声がつぶやいた。
「ああ、どうなさったのです」ダンテスが叫んだ。
「わしが計算違いをしたのじゃよ。わしの図形が不完全だったので間違ったのじゃ。コンパスが悪かったために失敗した。図形の上での線一本の違いが、実際には十五フィートの誤差を生んだ。それに、わしはそなたが掘っておる壁を、この城の外壁と思うとった」
「では、海を目ざしておいでだったのですね」
「そうしたかった」
「で、もしうまく行っていたら」
「海へ飛び込む。このシャトー・ディフをとりまく島、ドーム島でもチブラン島でも、あるいは海岸でもよい、泳ぎつけばわしは救われたはずじゃ」
「あんな所まで泳げたでしょうか」
「神がわしにその力を与え給うたはずじゃ。が、今はなにもかも駄目になった」
「なにもかも」
「そうじゃ。念を入れて掘った穴をふさぐのじゃ。もう掘ってはならぬ。なにもしてはならぬ。そして、わしの消息の聞ける日を待て」
「せめてお名前だけでも……。どなたなのですか」
「わしは……、わしは……、二十七号じゃ」
「あなたは、やはり私を警戒しておいでなのですね」ダンテスが訊ねた。
エドモンは、苦い笑いが円天井を通して彼の所まで昇って来るのを聞いたように思った。
「ああ、私は善良なキリスト教徒です」ダンテスは、その男が彼から離れようと考えているのを本能的に感じとって叫んだ。「キリストの御名にかけて誓います。あなたの、そして私の獄吏たちに、秘密をほんのわずかでも漏らすくらいなら、むしろ自殺を選びます。が、お願いですからそこにいらして下さい。私からあなたのお声を奪わないで下さい。さもないと、誓って申しますが、私はもう精も根も尽き果てましたから、壁で頭をうち砕いてしまいます。私の死をあなたは自分の罪として悔まねばならなくなりますよ」
「年はいくつじゃ。声は若い者の声のようじゃが」
「年はわからないのです。ここへ入ってから、月日を数えていませんから。私にわかっているのは、一八一五年二月十八日に逮捕された時、十九歳になろうとしていたということです」
「まだ二十六歳にはなっておらんな」声がつぶやいた。「その年ではまだ裏切り者にはならんものだ」
「とんでもない、誓います。さっきも言ったように、なん回でも言いますが、あなたを裏切るぐらいなら、この身を八つ裂きにしてしまいます」
「そなたはよくぞ話した。よくぞわしに嘆願した。というのは、わしはべつの計画をたてようとしておったのじゃ、そなたから離れてな。が、そなたの年を聞いて安心した。そなたの所へ行くから待っておれ」
「いつですか」
「機会をよくよく考えてみねばならぬ。わしの合図を待て」
「でも、私を見捨てはしないでしょうね。私を一人ぼっちにはなさらないでしょうね。私の所へ来て下さるんですね。さもなければ、私がそちらへ行くことを許して下さるんですね。二人一緒に逃げましょう。もし逃げられなかったら、お話をしましょう。あなたはあなたが好きな人たちの話を、私は私が好きな人たちのことを。あなたも誰かしら好きな人がおいででしょう」
「わしは天涯孤独じゃ」
「それなら私を、この私を好きになって下さい。もしあなたがお若いなら友達になりましょう。もし年をとっておられるなら、私はあなたの息子になります。私には、もしまだ生きていれば七十になるはずの父がいます。この父と、メルセデスという名の娘と私が愛しているのはこの二人だけです。父は私を忘れてはいない、これは確かです。でも、彼女は、彼女がまだ私のことを考えていてくれるかどうかは、神様のみがご存じです。私は、私が父を愛するように、あなたを愛するでしょう」
「結構、ではまた明日」
この短い言葉は、ダンテスを安心させるような口調で言われた。彼はそれ以上はなにも訊ねず、身を起こすと、すでにやったように、壁からはずした残骸を注意深く始末してから、ベッドを壁におしつけた。
この時から、ダンテスは心ゆくまで幸福感にひたった。もはや確実に孤独ではないのだ。もしかすると自由の身にさえなれるかもしれないのだ。最悪の場合、囚われの身のままだったとしても、仲間はいるのだった。ところで、二人で耐え忍ぶ囚われの身は、これはすでに半ば囚われの身ではない。共にする嘆きは祈りに近い。二人で共に祈る祈りは神への感謝に近いのだ。
一日中ダンテスは、喜びに胸をはずませながら地下牢の中を行ったり来たりしていた。時おり、その喜びに胸苦しさを覚えた。彼はベッドに腰をおろし、胸を手でおさえた。廊下でするどんな小さな物音にも、彼は扉の所に走り寄った。まだ顔も知らないのに、すでに友人としての愛情を抱いているその男を、獄吏が彼から引き離してしまうのではないかとの不安が、一、二度彼の念頭をかすめた。彼は心を決めていた。もし看守が彼のベッドを動かし、穴を調べるためにかがみこんだら、その時は、水差しを載せてある敷石で看守の頭をぶち割ってやるのだ。
彼はおそらく死刑になるであろう。だが、あの奇蹟ともいうべき物音が、彼に生命をふたたび与えてくれたあの時、彼はまさに倦《う》み疲れ、絶望の果てに死のうとしていたではないか。
夕方、看守がやって来た。ダンテスはベッドの上にいた。そこにいるほうが、未完成の通路をよりよくかくせるように思えたのだ。おそらく彼は、このうるさい訪問者を妙な目で見ていたのだろう。看守がこう言った、
「なんだ、また気違いにまいもどろうってのかい」
ダンテスはなにも答えなかった。声がふるえてあやしまれはせぬかと恐れたのだ。
看守は首をかしげながら帰って行った。
夜になった。ダンテスは、隣りの囚人が、闇としじまとを利用して、また彼との会話を始めてくれるものと思った。が、それは思い違いであった。夜は、彼の熱に浮かされたような期待に答えてくれる物音一つたてぬままに過ぎていった。だが、その翌日、朝の看守の見廻りの後で、彼が壁からベッドを離した時、等間隔に間を置いて三度叩く音がした。彼は大急ぎで跪いた。
「あなたですか、私です」
「看守は立ち去ったか」
「はい、晩にならなければもう来ません。十二時間自由な時間があります」
「では動いてもいいな」
「ええ、ええ、いいですとも。早く、今すぐ、お願いです」
と、突然、半分穴の中に身を入れたダンテスが、両手を置いていた土の部分が、彼の重みで動いたようであった。彼は後ろへ飛びのいた。すると、崩れた土や石の塊が、ダンテスの掘った穴の底に開いた穴に落ち込んで行った。そうして、ダンテスにはどのくらいの深さがあるのかわからない、その暗い穴の底に、一つの頭、肩があらわれ、そしてついに一人の男の身体全体が、今できた通路から、かなり敏捷な身のこなしで出て来るのが見えた。
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十六 イタリアの学者
ダンテスは、あれほど長い間待ち焦れていた、この新しい友を両腕に抱きかかえて、窓のほうへつれて行った。牢にさしこむほのかな明りに、友の姿をすっかり照らし出してみたかったのだ。
それは小柄な人であった。年のせいよりはむしろ苦労のせいで白くなった頭、白いものの混じった太い眉の下にかくされた射るような瞳、胸までも垂れ下っているまだ黒いひげ。深いしわの刻まれた顔、特徴的な日鼻立ちの大胆な線は、肉体よりはむしろ知的な能力を使う人であることを示していた。来客の額は汗にまみれていた。
着ているものは、ぼろぼろで、もとの形を見定めることもできなかった。
動作になにか溌剌《はつらつ》たる所があって、長い獄中生活がそう見せているよりは若そうであったが、少なくとも六十五にはなっているようだった。
彼は、青年の熱烈な歓迎の言葉を、一種の喜びを感じながら受けとめた。彼の凍りついた魂も、青年の熱い魂にふれて、一瞬、暖められ溶けていくようであった。
自由を見出せると考えていた場所に、第二の牢を見出したための失望は大きかったが、彼は青年の歓迎に心から礼を述べた。
「まず、わしが通った痕跡を、看守の目からかくす方法があるかどうかやってみよう。これから先無事にすむかどうかは、今までのことが彼らに知られずにいるかどうかにかかっておる」
こう言って、彼は穴の所に身をかがめ、石に手をかけると、その重い石を軽々と持ち上げ、穴の中にはめ込んだ。
「この石はだいぶ乱暴にはぎ取られたな」彼は首をふりながら言った。「道具は持っておらぬのだな」
「ではあなたは、道具を持っておいでなのですか」ダンテスが驚いて訊ねた。
「いくつかのものをこしらえたよ。やすりはないが、いるものはなんでもある。のみ、ペンチ、てこ」
「あなたの忍耐力と技術とが生み出したその道具をぜひ見たいものです」
「ほれ、これがのみじゃ」
彼はダンテスに、ブナの柄のついた鋭利で丈夫な刃物を見せた。
「何を材料にして作ったのですか」
「ベッドの鋲《びょう》じゃ。この道具で、ここまで来る地下道を掘った。約五十フィート」
「五十フィート!」ダンテスは慄然《りつぜん》たる思いで叫んだ。
「しっ、声が高い。牢の扉のかげで立ち聞きしておることがあるからの」
「誰もいないはずです」
「それにしてもじゃ」
「ここへ来るまでに、五十フィート掘ったとおっしゃいましたね」
「さよう。わしの牢とそなたの牢とを距てる距離はおよそそんなものじゃ。ただ、縮尺を作るための製図器具がないために、わしは、曲線の計算を間違えてしまった。四十フィートの楕円曲線のつもりが、実際には五十フィートになってしもうた。前に言ったように、外壁に到達し、その壁に穴をあけ、海に身をおどらせるつもりだったのじゃ。そなたの牢の前の廊下の下をくぐり抜けるつもりが、廊下に沿うて進んでしまった。わしの作業はなにもかも駄目になった。この廊下は衛兵たちがうようよしておる、中庭に面しておるからの」
「たしかにその通りです。が廊下は私の牢の一つの面に接しているだけです。私の牢には四つの面があります」
「さよう、たしかにな。だが、そのうちの一つは、大きな岩がそのまま壁になっておる。この岩に穴をうがつには、あらゆる道具を身につけた十人の坑夫が十年かかるじゃろう。こっちのは、長官室の基礎の部分になっておるはずじゃ。おそらく地下室に飛びこむこととなろう。当然鍵がかかっておって袋のネズミじゃ。それからこの面は、待て、これは何に面しておる」
その面は、陽の光がさし込む明りとりの窓があいている面であった。この窓は、陽の光がここまで来るには、次第に細くなって、子供ですら入ることができないぐらいの窓であるが、その上、三本の鉄格子がはまっていて、どんなに疑ぐり深い看守でも、ここから囚人が脱獄するなどとは考えないような窓であった。
来客は、質問しながら、その窓の下にテーブルを引き寄せた。
「この上にあがれ」と彼はダンテスに言った。
その言葉通りにダンテスはテーブルの上にあがり、相手の意図を察して、背を壁にもたせ、両手を前に出した。
牢の番号をつけられ、ダンテスがまだほんとうの名前を知らぬその男は、とてもその年からは想像できぬほど身軽に、ネコかトカゲのように巧妙に、まずテーブルの上にあがり、ついでダンテスの両手に乗っかり、手から肩に乗った。こうして、立てば牢の円天井につかえるので身をかがめながら、鉄格子の間に頭をすべり込ませた。こうして、上から下を見おろすことができたのである。
一瞬後に、彼は大急ぎで首を引っこめた。
「ほ、ほう。思った通りじゃ」
こう言いながら彼はダンテスの身体をつたってテーブルの上に滑り降り、テーブルから床へ飛び降りた。
「どう思っていたのですか」
自分もテーブルから彼の傍らに飛び降りて、青年が心配そうに訊ねた。
老囚は考えこんでいた。
「そう、その通りなのじゃ。そなたの牢のこの面は、外廊に面しておる。一種の巡警路になっておって、パトロールが通るし、歩哨が見張っておる」
「確かですか」
「わしは、兵士の軍帽と銃の先を見たのじゃ。兵士にわしの姿を見られはせぬかと思って、あわてて身を引いたのじゃ」
「それで?」
「そなたの牢を通っては逃げられぬことがそなたにもわかったろう」
「となれば」
と、青年は問いかけるように言った。
「となれば、神の思召しを待つだけじゃ」
老人の顔には深い諦めの色がひろがった。
あれほど長いあいだ育くんで来た希望を、これほどまで達観しきった様子で諦めることのできるその男の顔を、ダンテスは尊敬の念のまじった驚きを感じながらみつめていた。
「今はもう、あなたがどなたなのかおっしゃっていただけますか」
「おお、いいとも。わしがそなたにとって、なんの役にも立たなくなってしまった今でも、それがそなたの興味をひくのならのう」
「あなたは、私を慰め、心の支えになって下さいます。私には、あなたが強者中の強者のように思えるのです」
僧は淋しそうに笑った。
「わしはファリア神父じゃ。すでにご存じの通り、一八一一年以来このシャトー・ディフに囚われの身じゃ。一八一一年にピエモンテ〔イタリア北部の地方名〕からフランスに移された。当時、ナポレオンの権勢に屈していたかに見えた運命が、彼に一児を与え、この赤児がローマ王に任命されたと知ったのはその時じゃ。先程そなたが申したこと、つまり、その四年後にあの巨人が倒れようなどとは、わしには思いもよらなんだ。ではフランスは誰が統治しておるのか、ナポレオン二世か」
「いいえ、ルイ十八世です」
「ルイ十八世、ルイ十六世の弟だな。神の御意志は不可思議なものじゃ。自らがその地位にのぼせた者をおとしめ、おとしめた者をのぼせるとは、神の摂理とは、そもいかなるものであろうかのう」
一時おのが運命を忘れて、世界の運命に心を馳せるその男の姿を、ダンテスはじっと見ていた。
「そうじゃ、これはイギリスと同じなのだ。チャールズ一世の後にクロムウェル、クロムウェルの次にチャールズ二世、そしておそらく、ジェイムズ二世の次には、婿《むこ》か、親族か、オレンジ公といったのが出てくるのじゃろう。オランダの州連合の長が国王となる。そうなれば、また人民への譲歩じゃ。憲法じゃ。自由じゃ。そなたはそれが見られよう」と、老人はダンテスのほうをふり向き、予言者の眼もかくやと思われるような、深いらんらんたる目で彼を見据えながら、「そなたはまだそれが見られる年じゃ。きっと見られる」
「ええ、ここから出られたら」
「ああ、そうであった。わしらは囚人であったな、わしは時おりそれを忘れるのじゃ。わしの目は、わしを閉じこめておるこの壁をつらぬくので、自分が自由の身であるように思う時がある」
「でも、どうしてここへ入れられたのですか」
「わしか? ナポレオンが一八一一年に実現しようとした計画を、わしが一八〇七年に夢見たからじゃよ。イタリアを専制的な弱小国の巣にしてしまっておる小君主どものさ中にあって、マキアベリのように、わしはイタリアを強力で緊密な単一の大帝国たらしめようとした。わしは、わしの考えを理解したようなふりをしながら、わしを手ひどく裏切りおった、王冠を戴いただけの馬鹿者をチェザーレ・ボルジアごとき大人物と思うた。これはアレッサンドロ六世やクレメンテ七世の抱いた計画だった。がこの計画は永遠に成就すまい。彼らはこの計画をむなしくたてただけであったし、ナポレオンすら成しとげることはできなかったのだから。まことに、イタリアは呪われた国じゃ」
こう言って老人は、頭を垂れた。
ダンテスには、一人の男が、どうしてこのようなことに生命を賭けることができるのか、理解できなかった。もっとも、ナポレオンには会いもし話もしたからナポレオンのことは知っていたが、そのかわり、クレメンテ七世とかアレッサンドロ六世がどういう人物であるのか、まるで知らなかったのである。
ダンテスは、シャトー・ディフ全体にひろまっている看守の意見を、なるほどと思い始めながら、
「あなたは、みんなが……みんながご病気だと思っているあのお坊さんではありませんか」
「気違いじゃとみなが思うとる、そう言いたいのであろう、違うかな」
「そうは申せませんでした」ダンテスは笑った。
「そうとも」ファリア神父は苦笑した。「いかにもわしは、気違いで通っておる。ずっと以前から、この牢の者たちをおもしろがらせてきたのはこのわしじゃ。もしこの希望のない辛い住居に子供がおったら、さぞその子らを喜ばせたことだろうて」
ダンテスはしばらくじっとしたまま黙っていた。
「そうすると、逃げるのは諦めてしまうのですか」
「脱獄は不可能じゃ。神がその成就を望まれぬことを、あえて行なおうとするのは、神に逆らうことじゃ」
「なぜそんなに落胆してしまわれるのですか。一度やっただけでうまくやろうなんていうのこそ神の思召しに対して要求が大きすぎるというものです。今までに掘ったのとは別の方向に掘り直すことはできないんですか」
「また掘り直すと言うが、わしがどんなことをしたか知っておるのか。わしが今持っておる道具を作るのに四年の年月を要したことを知っておるのか。わしは、以前には動かすことさえできるとは思えなかった石を、一つ一つ露出させねばならなかった。このすさまじい労働のうちになん日もの日数が過ぎた。そして夕方、石自体と同じくらい堅くなってしまった古いセメントを、わずか一インチ〔約二・五センチ〕四方はぎ取ることができた時、わしがどれほど喜んだか、そなたは知っておるのか。掘り出した土や石を埋めるために、わしは階段の天井に穴をあけねばならなかった。階段の壁の隙間に、次々とその土や石を埋めたのじゃ。今ではもうその間隙《かんげき》もいっぱいになってしもうて、もはや一握りの砂さえ、どこへ拾ててよいものかわからぬのを、そなたは知っておるのか。そしてまた、わしの仕事もついにその目標に達しそうに思え、この仕事をなしとげるだけの力しか残っておらぬのを感じたまさにその時、神はわしからその目標を遠ざけてしまわれたばかりか、どこにあるのかさえわからなくなされてしもうた。わしはそなたに言う、なん回でも繰り返して言おう、自由を得るための試みは今後いっさい行なわぬとな。なぜなら神の御意志は、永久にその試みを失敗させることにあるのだから」
エドモンは顔を伏せた。脱獄できなかったためにその老囚が味わっている苦痛に、本来なら同情すべきなのに、友を得た喜びが彼にそうはさせてくれないのを相手に気取られないためであった。
ファリア神父はエドモンのベッドの上に腰をおろし、エドモンは立ったままであった。
青年は脱獄を考えたことなど、一度もなかった。あまりにも不可能に思われるために、やってみようという気も起こらず、むしろ本能的に避けてしまうような事があるものである。地下を五十フィートも掘る。その仕事に三年かけ、たとえ成功したとしても、海の上にそそり立つ断崖に到達するだけである。五十フィート、六十、いやおそらく百フィートの高みから身を投ずる。落ちて行く間に歩哨の銃弾に射殺されなかったとしても、どこかの岩で頭を砕くことになるであろう。こうした危険をすべてまぬがれたとしても、さらに一里〔約四キロ〕も泳がねばならぬ。これでは、はじめから諦めるなと言うほうが無理である。ダンテスがその諦めを死にまでおし進めてしまったことをわれわれは知っている。
だが今や、青年は一人の老人が、これほどまでに精力を費やして生命にしがみつき、絶望的な決意のほどの手本を彼に示すのを見たのである。青年は思い返し、自分にその勇気があるかどうかをおし測りはじめた。自分には思いもよらなかったことを一人の別の男が試みたのだ。自分より年をとった、力も弱く、彼よりも不器用な一人の男が、工夫と忍耐力とのおかげで、一歩あやまれば直ちに失敗につながる、この信じられないような計画を実行するために必要なあらゆる道具を作ったのだ。一人の別の男がこれをみなやってのけた。とすればダンテスにできぬことはなに一つない。ファリアは五十フィート掘った。自分は百フィート掘ろう。五十歳にしてファリアは、三年間をこの仕事に投じた。自分はファリアのたった半分の年齢だ。自分は六年かけよう。僧であり学者であり、聖職者であるファリアが、シャトー・ディフからドーム島、ラトノー島、ルメール島まで海を泳ぎ渡る危険を恐れなかった。船乗りであるエドモン、なん回となく海底にサンゴの枝を求めた勇敢な潜水の名手ダンテスが、一里の海上を泳ぐことをなんで躊躇《ちゅうちょ》しよう。一里を泳ぐのに彼にはどのぐらいかかるか。一時間か。彼は一度も岸に上がらずに、なん時間もの間、海につかっていたこともあるではないか。そうだ、ダンテスには、彼を勇気づける前例があればよかったのだ。他人がやったこと、あるいはやれたかもしれぬことならば、ダンテスもそれをやるのだ。
青年はしばし考えていた。
「あなたが探しておられた脱獄の方法がみつかりましたよ」
ファリアはびくっと身をふるわせた。
「そなたが?」こう言って頭を上げたその様子は、もしダンテスが嘘を言っているのでなければ、彼の失望もそう長くは続かぬことを示していた。「ほう、そなたが。どうやるのじゃ」
「あなたの牢からここまで掘った通路は、外廊と同じ方向に延びていますね」
「さよう」
「外廊からは十五歩ぐらいしか離れていないはずです」
「せいぜいな」
「それなら、通路の真中から、十字架の枝の形にもう一本通路を掘るんです。今度は前より正確な計算ができるでしょう。外廊に出口を作り、歩哨を殺して脱走するのです。この計画が成功するために必要なのは、あなたがお持ちのその勇気と、私が持っている力だけです。忍耐力のことは申しません。あなたはすでにその証拠をお見せになったし、私もそれを立証いたしましょう」
「ちょっと待て。そなたは、わしの勇気がどういう類いのものであるか、わしが自分の力をどういうふうに使おうとしておるか、それをご存じではない。忍耐力に関しては、毎朝前夜の仕事をまた始め、昼間の仕事を夜また続けるという点では、十分な忍耐力を持っておるとわし自身も考えておる。だが、よく聞いてほしい。それは、無実なるが故に罰せられてはならぬ、神の作り給うた一人の人間を解放することは、神に仕えることだとわしに思えたからじゃ」
「では、事態はもう変わったのですか。私に会った時以後は、ご自分が有罪であることをお認めになるのですか」
「いや、しかし、わしはそうなりたくないのだ。今までは、わしは物だけを相手にして来たと思っておった。ところがそなたが提案したことは、人間を相手にしておる。壁に穴をあけ、階段をこわすことはわしにもできる。だがわしは、人間の胸に穴をあけ、一箇の人間を損なうことはできぬ」
ダンテスは軽い驚きの色を見せた。
「自由の身になれるというのに、そんなことが心にひっかかるのですか」
「そう言うが、そなた自身、夜、テーブルの脚で看守を殴り殺し、その衣服を着て逃げなかったのはなぜじゃ」
「そんな考えが浮かばなかったからです」
「そなたが思いつかなかったのは、そのような罪に対しておじけをふるう本能、おそれというものをそなたが持っておるからだ。やってもいい単純なことをする際にも、われわれの生まれながら与えられている性向が、おのれの権利の線から逸脱せぬよう導いてくれるものだからじゃ。血を流すよう生まれついているトラは、ただ一つのことつまり嗅覚が近くに獲物のいることを教えてくれればそれでよい。それがトラの生まれつきであり運命なのだ。たちまち獲物に向かって跳躍し、とびかかり、引き裂いてしまう。それがトラの本能であり、トラはこれに従っているにすぎぬ。だが人間は、逆に、血を忌《い》み嫌う。殺戮《さつりく》を嫌うのは社会の掟ではない。これは自然の掟なのじゃ」
ダンテスは混乱したままであった。事実、この説明は、知らず知らずのうちに彼の頭の中、いやむしろ心の中に浮かんだことに対する説明であったのだ。頭に浮かぶ思想もあれば心に浮がぶ思想もある。
「それに」と、ファリアが続けた。「わしが牢に入ってからやがて十二年になるが、わしはその間に、あらゆる有名な脱獄を心に思い浮かべてみた。脱獄の成功の例はきわめて稀《まれ》じゃ。うまく行った脱獄、完全な成功に恵まれた脱獄は、綿密に計画され、長い時間をかけて準備されたものだけじゃ。ボーフォール公がヴァンセンヌの城を脱出したのも、デュビュコウ師がフォール=レヴェックを脱出したのも、ラチュードがバスチーユを脱出したのもみなそうじゃ。また、幸運が訪れて成功した例もある。これが一番よい。わしを信ずるのだ、機会を待とう。そして機会が訪れたらそれを利用するとしよう」
「あなたは待つことができました」ダンテスは溜息をつきながら言った。「あの長い仕事が、いつでもあなたにやる事を与えてくれたのです。心をまぎらすその仕事がない時にも、希望がおありでしたから心を慰められたのです」
「それに、わしはそれだけしかやらなかったわけではない」
「なにをなさったのですか」
「ものを書いたり学問をしたり」
「では、紙やペンやインクが貰えたのですね」
「いや、こしらえたのじゃ」
「紙もペンもインクもこしらえたですって?」ダンテスが叫んだ。
「さよう」
ダンテスは感嘆の眼差しでその男をみつめた。だが、相手の言うことがまだ信じきれなかった。ファリアはそのかすかな疑惑を読みとって、
「わしの牢に来たら、作品を全部お目にかけよう。わしの全生涯をかけた思想と研究と考察の成果じゃ。わしは、ローマのコロセウムのかげ、ヴェネチアのサン=マルコ寺院の円柱の下、フィレンツェのアルノ河のほとりでその想を練った。後に、わしの看守どもがシャトー・ディフの四つの壁の間で、これを完成する暇を与えてくれようとは当時は予想もできなんだ。『イタリア統一王国の可能性について』という論文じゃ。四折版の大部な書物となろう」
「それをお書きになったのですか」
「シャツ二枚の上にな。リンネルを、羊皮紙のように滑らかで平らにする方法を考えついたのじゃ」
「あなたは化学者なのですか」
「いささかな。わしはラヴォアジェ〔フランスの有名な化学者〕と面識があったし、カバニス〔フランスの有名な医師〕とも交際しておった」
「でも、そのようなものをお書きになるには、歴史のことも調べなければならなかったでしょう。本はお持ちだったのですか」
「ローマにおった頃、わしの書庫には五千冊ほどの書物があった。これらの書物を繰り返し読むうちに、選びぬかれた百五十冊の書物があれば、人間の知識すべての完全な要約とはいわぬが、少なくとも、学識ある者にとって有用なものはすべて揃うことに、わしは気づいた。わしは三年間を、この百五十冊の書物を繰り返し繰り返し読むことに捧げ、しまいには、ほぼ全部を暗記するに至った。牢におっても、ちょっと記憶の糸をたぐれば、完全に思い出すことができる。今ここでそなたに、トゥキュディデス、クセノフォン、プルタルコス、ティトゥス=リウィウス、タキトゥス、ストラダ、ヨルダネス、ダンテ、モンテーニュ、シェークスピア、スピノザ、マキアベリ、ポスュエを暗誦してみせることもできるほどじゃ。最も重要な人物のみを挙げたのだが」
「それにしても、ずいぶんいろんな国の言葉をご存じなんですね」
「わしは、現代語を五か国語しゃべることができる。ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、スペイン語。古代ギリシア語の助けを借りて、現代ギリシア語も理解できる。だが、話せないので、今勉強中じゃ」
「勉強なさってるのですか」
「さよう。自分の知っている単語の単語集を作り、自分の思想を表現できるように、その単語を並べたり、組み合わせたり、いろいろといじくりまわしておるのじゃ。およそ千ほどの単語を知っておる。辞書には、おそらく十万ほどものっていようが、ぎりぎり必要なのはそのぐらいなのだ。たしかに雄弁というわけにはいくまいが、十分にわかっては貰えよう。わしにはそれだけでよい」
次第次第に魅了されて、エドモンにはこの見知らぬ男の能力が超自然的なものに思えてくるのだった。なにかこの男に弱い点はないかと思い、彼は続けた。
「でも、ペンを貰えなかったとしたら、そんな大部のものを何でお書きになったのですか」
「すばらしいペンを作ったよ。材料がわかったら、ふつうのペンよりも、みなこのほうを使うじゃろうて。時おり、精進日に出る大きなタラの頭の軟骨でな。だから、水曜、金曜、土曜が来るのがうれしくてならぬ。ペンの手持ちが増える希望があるのでな。正直言って、歴史的著述はわしの最も楽しい仕事なのじゃ。過去にさかのぼれば現在を忘れる。歴史の世界を自由に、なにものにも縛られずに歩き廻っておると、わしは囚われの身であることを忘れてしまうのじゃ」
「でもインクは。何でインクを作ったのですか」
「むかし、わしの牢には暖炉があった。わしがここへ来る少し前にふさがれたらしいが、長年にわたって火が燃やされておった。だから中はべったり一面に煤《すす》だらけじゃ。この煤を、日曜ごとに与えられるブドウ酒に溶かす。これですばらしいインクとなる。特に人目を引きたい注は、指を突き、自分の血で書く」
「で、いつ見せていただけますか」
「いつでも好きな時に」
「ああ、では今すぐ」青年は叫んだ。
「ではついて来るがよい」
こう言って、僧はまた地下道に身体を入れ、姿を消した。ダンテスもその後に従った。
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十七 僧の部屋
身をかがめ、しかしさほど苦労もせずに地下道を通って、ダンテスは通路の反対側の入口に到達した。そこは狭くなっていて、人一人がやっと這い出ることができるぐらいの大きさになっていた。僧の牢には床に石が敷いてあり、ダンテスの牢で終ったあの苦しい仕事は、この牢の中でも一番暗い隅の敷石を持ち上げて始められたのだった。
僧の牢に入ると、すぐ立ち上がって、ダンテスはその部屋を仔細《しさい》に眺めた。ちょっと見にはなんのへんてつもない。
「よし、まだ十二時十五分じゃ。まだなん時間かある」僧が言った。
ダンテスは、僧がそれほど正確な時間を知る以上は、どこかに時計があるのかとあたりを見廻した。
「窓から入ってくるこの光と、わしが壁に引いたこの線を見よ。地球自体の動きと、地球が太陽の周囲に描く楕円運動との組み合せから生ずるこの線のおかげで、わしは時計を持っておる時よりも正確に時刻を知ることができる。時計は狂うことがあるが、太陽と地球の動きは決して狂わぬからな」
ダンテスにはこの説明はまるでわからなかった。山の後ろから昇り地中海に沈む太陽を見ていた彼は、いつでも動くのは太陽で地球ではないと思っていたからである。自分が住み、それでいてまったく感じない地球の二重の運動〔自転と公転〕など、彼にはあり得ないことのように思えた。彼がまだ大人になりきっていない頃旅をしたギュザラトやゴルコントの金鉱やダイヤモンド鉱山にも劣らぬ見事な学問の宝庫を、相手の言葉の一つ一つの中に彼は見たのである。
「さあ、早くあなたの宝物を見せて下さい」彼は僧に言った。
僧は暖炉のほうに行き、昔は炉床となっていた石を、彼が相変わらず手にしていた≪のみ≫で注意深くはずすと、そのうしろにはかなり深い空間がかくされていた。この穴の中に、僧がダンテスに話したもろもろの品物がおさめられていた。
「まず何が見たいかな」
「イタリア王国についての大論文を見せて下さい」
ファリアはその貴重な戸棚から、パピルスのようにリンネルをぐるぐる巻いたものを三つ四つ取り出した。幅四インチ、長さ十八インチほどの布の巻物であった。巻物にはいちいち番号がふってあり、字がびっしり書き込まれていたが、ダンテスにはその字が読めた。というのは、僧の母国語、つまりイタリア語で書かれており、南仏生まれのダンテスには楽にわかる国語だったのだ。
「それで全部じゃ。その六十八巻目の下の≪完≫の字はおよそ一週間前に書いたものじゃ。シャツ二枚と、持っておったハンカチすべてがそれに費やされた。いつの日にかわしが自由の身となり、それを出版する勇気のある出版屋がおれば、わしの名声は一時にして成る」
「そうでしょうね。きっとそうだと思います。では、これをお書きになったペンを見せていただけませんか」
「ほれ」
こう言って、ファリアは、絵筆ほどの太さの長さ六インチの棒を見せた。その先端には糸で、僧がダンテスに話したあのインクの跡がまだついている軟骨が結びつけられていた。鳥のくちばしのように削られ、ふつうのペンと同じように先に割れ目がついている。
ダンテスはつぶさにそのペンを見、これほど正確に切ることのできる道具を目で深した。
「ああ、ナイフのことじゃろう。こいつはわしの傑作でな。この包丁《ほうちょう》と同じように、古い燭台で作ったのじゃ」
ナイフはかみそりのような切れ味であった。
包丁は、包丁としても短剣としても使えるようにできていた。
ダンテスはこれらの品々を、外航船の船長たちが南の海から持ち帰る原始人によって作られた道具を、マルセーユの骨董《こっとう》屋で吟味するような具合に、入念に調べてみた。
「インクをどうして作るかはもう知っておるな。必要に応じて作る」
「一つだけ不思議に思うことがあるのですが、昼間だけでこんなにいろいろな仕事がよくできましたね」
「夜もある」
「夜ですって。あなたは猫のように、夜でもはっきりものが見えるのですか」
「いや。しかし神は、人間にその五感の劣っておる所を補うために知性を与え給うた。わしは灯《あかり》を作り出したのじゃ」
「どうやって」
「運ばれた肉から脂をとりのけておき、それを溶かし、一種の固型油を抽出した。ほれこれがわしのろうそくだ」
僧はダンテスに、イリュミネーションに使われているような一種のカンテラを見せた。
「でも火は」
「石と焦げた布があろう」
「でも付木《つけぎ》は」
「わしは皮膚病にかかったふりをした。イオウをくれと言ったら、くれたのじゃ」
ダンテスは手にしていたものをテーブルに置き、頭を垂れた。この頭脳の知力と忍耐力に圧倒されたのである。
「まだあるぞ」ファリアが続けた。「宝を全部同じ所にかくしてはならぬからな、これは一たん閉めてと」
ファリアは石をもとの所に置いた。そして、その上に砂を少し撒《ま》き、隣の石との間の離れている痕を消すために足でかきならした。それからベッドの所へ行き、ベッドをずらした。枕もとの壁の、ほとんど完全に密閉する形の一つの石のうしろに、穴があった。その穴の中に、長さ二十五フィートから三十フィートの縄梯子《なわばしご》が入っていた。
ダンテスはその縄梯子を調べてみた。どんな使い方をしても耐えられそうであった。
「こんなすばらしいものを作るのに必要な縄は誰に貰ったのですか」
「まず、当時わしが持っておったなん枚かのシャツ、それからシーツ。フェネストレルに入れられておった三年間に、これをほぐした。シャトー・ディフに移されたときにはそのほぐした糸を持ってくる方策がみつかった。ここでわしは仕事を続けたというわけじゃ」
「でも、シーツのへりの糸がなくなってほつれているのに気づかれませんでしたか」
「また、へりをかがっておいたのじゃ」
「何で」
「この針で」
僧は、衣服のぼろぼろになった所をめくり、身につけていた一本の長い魚の骨をダンテスに見せた。それにはまだ糸がついていた。
「そう」ファリアが続ける。「わしははじめ、鉄格子をはずしてあの窓から逃げようと思った。ご覧の通りそなたの所のよりは少し大きいし、いざ脱出する時にはもう少し大きくしてな。だがこの窓は中庭に面しておることがわかった。で、あまりに危険が大きいのでこの計画は諦めた。しかし、どういう状況が生まれるかわからぬからこの梯子はとっておいた。そなたに話した、偶然訪れる脱出の時のためにのう」
ダンテスは梯子を調べるような様子を見せながら、今は別のことを考えていた。ある考えが彼の脳裡をよぎったのだ。これほど鋭い頭脳を持ち、聡明で思慮深い人ならば、彼自身にはなにも見きわめることのできない彼の不幸の闇の中をも見通せるのではないか、と思ったのである。
「何を考えておる」ダンテスがなにか考えているのを、自分をひどく賞賛しているものと思った僧が、微笑を浮かべながら訊ねた。
「まず第一に、あなたが到達なさった目標に達するまでには、どれほど莫大な知力が必要であったろうかということです。もし自由の身だったら、あなたはどれほどのことをなさったことでしょうか」
「なにもできぬな、おそらく。わしのこの詰め込みすぎた頭は、つまらぬことに消えてしもうたことであろう。人間の知性の神秘な鉱脈を掘るには、不幸というものが必要なのじゃよ。火薬を爆発させるには圧力を加えねばならぬ。囚人の身であることが、あちこちに散らばっておるわしの能力を一点に凝集《ぎょうしゅう》させてくれた。狭い場所のおかげで、ちらばっておる能力が互いにぶつかり合ったわけじゃ。そなたも存じておろう、雲がぶつかり合って電気を生む。電気が稲妻を生み、稻妻が光を生むのじゃ」
「いいえ、私はなにも知りません」と、ダンテスは己の無知にうちひしがれながら言った。「あなたのおっしゃる言葉の一部は、私には意味がてんで掴めないのです。そんなにものを知っておられるあなたは、お幸せです、ほんとうに」
僧は微笑した。
「そなたはさっき、二つのことを考えておると言ったな」
「はい」
「まだはじめの一つしか教えてくれぬぞ。二つ目は何じゃ」
「二つ目は、あなたの過ごしてこられた人生は伺いました。が、私の人生はまだご存じではないということです」
「そなたの人生のう。まだ短くて大事件が秘められているとも思えぬが」
「大へんな不幸が秘められているのです。私がこうむるはずのない不幸が。私は、かつて幾度《いくたび》かそうしたように、神を呪ったりはもうしたくありません。私の不幸を誰か人間のせいにできたらと思うのです」
「ではそなたは、そなたが犯したとされている罪に関しては、無実だと言うのだな」
「全く無実です。私にとって最も大切な、二人の首、父とメルセデスの首にかけて」
「ほう」僧は、縄梯子のかくし場所を閉じ、ベッドの位置を直しながら言った。「ではそなたの今までのことを話してみるがよい」
そこでダンテスは、僧が今までのことと言ったことを話した。といっても、それはインドヘ一度行ったこと、近東諸国へ二、三回行った時のことだけであった。最後に彼は最後の航海のことを話した。ルクレール船長の死、侍従長宛の船長から託された包み、侍従長との会見、侍従長から託されたノワルチエ宛の手紙のこと、そして、マルセーユ到着、父との再会、メルセデスとの恋、婚約披露宴、逮捕、訊問、裁判所の牢に一時入れられ、シャトー・ディフに監禁される身となったこと。そこまで来ると、ダンテスはもうあとのことはなにも知らなかった。どのくらいのあいだ牢にいるのかさえわからぬのであった。
話が終ると僧は深く考えこんだ。
しばらくして僧が言った。
「きわめて意味深い法律の公理がある。わしがさっきそなたに言ったことと、結局は同じことなのだが、それは、ゆがんだ素質が悪念を生ぜしめぬ限り、人間の本性は罪を忌み嫌う、というのじゃ。けれども文明はわれわれに、さまざまな欲望、悪徳、偽の欲求を与えてしもうた。これが時として、われわれのよき本能を圧殺し、われわれを悪に導くことがある。そこでこういう格言が生まれる。犯人を発見するには、その犯罪によって利益を得る者を探せ。そなたがいなくなって利益を得る者は誰かな」
「誰もいやしません。私はまったくとるに足りない男だったんですから」
「そういう言い方はせぬものじゃ。その言い方には論理もなければ哲学もない。なにごとも相対的なものだよ。後継者が邪魔に思う国王から、非常勤の者から邪魔に思われる常勤職員に至るまで。もし国王が死ねば後継者は王冠を戴くことができるし、常勤職員が死ねば、非常勤の者は千二百フランの俸給が貰えるというわけじゃ。その千二百フランは、彼にとっては王室の歳費に相当する。一国の王にとっての千二百万フランと同じぐらい、彼にとってはその金が生きるために必要なのじゃ。人みな一人一人、社会の階層の最も低い者から最も高い者に至るまで、それぞれ自分の周囲に、あのデカルトの小世界のように、さまざまな渦《うず》とさまざまな原子を持った、利害で結ばれた小世界を持っておるのだ。ただこの世界が、社会的地位が上がるにつれて大きくなるだけじゃ。逆立ちした螺旋《らせん》が平均がとれて先端の上に立っておるようなものじゃ。ところでそなたの世界に戻ろうではないか。そなたはファラオン号の船長になるところであったな」
「そうです」
「美しい娘と結婚するところであったな」
「そうです」
「そなたがファラオン号の船長にならなければ得をする者はおらなかったかな。そなたがメルセデスと結婚しなければ得をする者はおらなかったか。まず最初の質問に答えなさい。順序正しく、これが問題を解く鍵じゃ。そなたがファラオン号の船長にならなければ得をする者がいなかったか」
「いません。船では非常に好かれていました。水夫たちに船長を選ぶ権利があったら、彼らは確実に私を選んだでしょう。一人だけ私を憎んでる男がいました。船を降りる少し前に私は彼と喧嘩をしてしまったのです。決闘を申し入れたのですが、彼は拒みました」
「ほ、ほう。してその男の名は」
「ダングラール」
「船では何をしておった」
「会計係です」
「もしそなたが船長になっておったら、そのままのポストにその男を置いておいたか」
「もし私の一存でできるのでしたら、そうはしなかったでしょう。というのは、あの男の帳簿には不正があるように思ってましたから」
「なるほど。では、そなたとルクレール船長の最後の会話の際、そばに誰かおったか」
「いいえ、二人きりでした」
「誰かに話を立ち聞きされた可能性は」
「あります。ドアが開いてましたから。それに……ちょっと待って下さい……そうです、ルクレール船長が私に侍従長宛の包みを手渡したちょうどそのとき、ダングラールが通りかかりました」
「よろしい。だんだんわかりかけてきた。エルバ島に寄って上陸した際、誰かをつれて行ったかな」
「誰も」
「手紙を渡されたのだな」
「はい、侍従長から」
「その手紙をそなたどうした」
「私の書類入れの中に入れました」
「では、その書類入れは身につけていたのか。公文書を入れる書類入れが、なぜ船員のポケットになど入るのじゃ」
「おっしゃる通りです。書類入れは船にありました」
「では、その手紙を書類入れに入れたのは船に帰ってからじゃな」
「はい」
「ポルト・フェライヨから船まで、その手紙をどうしておった」
「手に持ってました」
「では船に戻った時は、誰でもそなたが手紙を持っておるのを見ることができたわけだな」
「はい」
「ダングラールもな」
「ダングラールも」
「では、よいか、記憶をすべて呼び集めるのじゃ。密告状に認《したた》められていた文句を思い出せるか」
「思い出せますとも。三回も読んだんです。一語一語はっきり覚えています」
「わしにそれを言ってみなさい」
ダンテスは一瞬考えをこらした後に、
「こうです、原文通り言います。
『国王ならびに教会に忠実なる者として、検事閣下に対し、以下のことをお知らせ申し上げます。ナポリ、ポルト・フェライヨに寄港後、今朝スミルナより帰港したファラオン号の一等航海士エドモン・ダンテスは、ミュラーより簒奪者宛の手紙、および簒奪者よりパリのボナパルト委員会宛の手紙を託されました。
ダンテスを逮捕なされば、その証拠を入手できるでありましょう。この手紙は、彼の身辺、彼の父親の家、もしくはファラオン号上の彼の船室内で発見されるはずであります』」
僧は肩をすくめた。
「火を見るよりも明らかではないか。はじめから事が見抜けなんだとは、そなたもよほど単純|初心《うぶ》な心をお持ちじゃな」
「そうお思いですか」ダンテスは叫んだ。「としたら、なんと恥知らずな」
「ふだんのダングラールの筆蹟はどうじゃった」
「丸みをおびたきれいな字でした」
「その匿名《とくめい》の手紙の字はどうであった」
「傾き方が逆の書体でした」
僧は微笑した。
「書体を偽った、そうであろう」
「偽ったにしては、勢いよく書いてありましたよ」
「待ちなさい」彼はペン、と言うよりも彼がそう呼んでいるものをとり、インクに浸すと、字を書けるようにしてあった布の上に、密告状のはじめの二、三行を左手で書き始めた。
ダンテスは後ずさりして、恐ろしいものを見るかのように僧をみつめた。
「驚きました」と、彼は叫んだ。「この字はあの字にそっくりです」
「密告状が左手で書かれたものだからじゃ。わしにはかねてから気がついておることがある」
「どんなことですか」
「それは、右手で書かれた字というものは、それぞれ違うておるが、左手で書かれたものは、みな似ているということじゃよ」
「ということは、あなたはなにもかもご覧になったのですね、観察なさったのですね」
「続けよう」
「もちろんです」
「第二の質問に移ろうか」
「うかがいます」
「そなたがメルセデスと結婚しないことによって利益を得る者はいるか」
「はい、あの娘を愛している青年がいます」
「名前は」
「フェルナン」
「スペインの名前じゃな」
「カタロニア人です」
「その男に手紙が書けると思うかね」
「いいえ、私を短刀でぶすりとやったかもしれませんが、それだけです」
「さよう、それがスペイン人気質じゃ。殺人はする、が、卑劣なまねはせぬ」
「それに、あの男は、密告状に書かれていた事実はなに一つ知りません」
「誰かにそれをしゃべったことはないか」
「誰にもしゃべりません」
「恋人にもか」
「フィアンセにも」
「ではダングラールじゃ」
「ああ、今はもうたしかにそうだと思います」
「待て……ダングラールはフェルナンを知っておったか」
「いいえ……いや、思い出しました……」
「何を」
「私の婚礼の前々日、二人が一緒に、パンフィル爺さんの店の青葉棚の下のテーブルに坐っていたのです。ダングラールは愛想がよくて、からかうような調子でしたが、フェルナンは青い顔をして、落ち着かない様子でした」
「二人だけだったか」
「いいえもう一人いました。私のよく知ってる男で、きっとこの男が二人を知り合いにしたのでしょう。カドルッスという仕立屋です。でもこの男はもう酔払ってました。あ、ちょっと待って下さい……ああ、どうしてこれを思い出さなかったんだろう。三人が飲んでたテーブルのそばに、インクと、紙とペンがあった。(ダンテスは額を手で押さえた)なんという恥知らずな連中だ、なんという!」
「まだ知りたいことがあるかね」笑いながら僧が言った。
「ありますとも。あなたはなんでも深く掘り下げて、どんなことでもはっきりと見抜かれる方ですから。私は、なぜ一回しか訊問されなかったのか。なぜ裁判をして貰えなかったのか、なぜ判決なしに刑を受けたのか、それが知りたいのです」
「おお、これは少し事《こと》が重大だな。裁判には、余人が入り込むことを許さぬなにか暗い謎めいたものがあるのじゃ。今までやったそなたの友人たちのことは、まるで児戯《じぎ》に類することじゃ。が、今度のは、できる限り正確なデータを与えて貰わねばなるまい」
「それでは、どうぞ質問なさって下さい。あなたは私自身よりも、私の人生のことがはっきりおわかりなのですから」
「訊問したのは誰じゃ。検事か、検事代理か、それとも予審判事か」
「検事代理でした」
「年は若いか、年寄りか」
「若いです、二十七、八」
「よろしい、まだ堕落はしておらんな、が野心はある。で、そなたに対する態度はどうであった」
「厳格というより、むしろ優しい態度でした」
「検事代理に全部話したのだな」
「全部」
「で、訊問の途中で検事代理の態度が変わったか」
「一瞬の間でしたが、変わりました。私を窮地に陥しいれたあの手紙を読んだ時です。私の不運にうちのめされたようです」
「そなたの不運に」
「そうです」
「そなた、検事代理がそなたの不運を気の毒に思ったと、確かにそう言えるか」
「少なくとも私に同情して下さっているたしかな証拠をお見せになりました」
「どのような証拠じゃ」
「私の立場を悪くするあの手紙を焼き捨てたのです」
「どの手紙じゃ、密告状か」
「いいえ、手紙のほうです」
「確かじゃな」
「私の目の前で行なわれたことですから」
「となれば話は違ってくる。そなたが思うておるより、その男はずっと悪人かもしれぬ」
「あなたのお言葉を聞いているとぞっとします。この世にはトラやワニがうようよしているのでしょうか」
「さよう。ただ二本足のトラやワニのほうがずっと危険な代物《しろもの》じゃ」
「先を話して下さい」
「よろしい。検事代理は手紙を焼いた、そう言ったな」
「ええ、『見たまえ、君にとって不利な証拠はこれしかない。私はこれをなくしてしまうよ』とおっしゃって」
「その振る舞いは、自然なというにはあまりにも立派にすぎるようじゃ」
「そうお思いですか」
「断言できる。その手紙の宛名は誰であった」
「パリ、コック=エロン通り、十三番地ノワルチエ氏宛、です」
「その手紙がなくなることによって、その検事代理がなんらかの利益を得るとは推測できぬか」
「たぶん。というのは、これは君の利益のためだとおっしゃって、私に二回も三回もこの手紙のことは口外しないことを約束させました。宛名の名前を絶対に口にしないことを誓わせたのです」
「ノワルチエ」僧は繰り返した。「ノワルチエ。わしはさきのエトルリア女王の宮中でノワルチエという男と知り合いになったぞ。革命の頃ジロンド党員であった。そなたを訊問した検事代理の名はなんという」
「ヴィルフォールです」
僧はふき出した。
ダンテスはあっけにとられて僧をみつめた。
「どうなさったのですか」
「この日の光がそなたに見えるか」
「ええ」
「とすれば、今やわしにはこの透明で明るい光ほどにもすべては明白なのじゃ。可哀そうにのう。その司法官はそなたに対して優しかった」
「そうです」
「その立派な司法官が手紙を焼いた、ないものにしてしもうた」
「そうです」
「その誠実な首切り役人の元締が、そなたにノワルチエの名を口にせぬよう誓わせた」
「そうです」
「そなたも哀れな盲《めくら》じゃ、そのノワルチエが、いったい何者であるかそなた知っておるか。そのノワルチエこそ、その男の父親じゃ」
ダンテスの足もとに雷が落ち、地獄の底をのぞかせる穴をうがったとしても、この思いもかけぬ言葉ほどの、電撃的で強烈な効果はもたらさなかったであろう。彼は立ち上がり、頭をまるで割れてしまうのを防ぐかのように、両の手で抑えた。
「父親、あの人の父親!」
「そう、父親じゃ、ノワルチエ・ド・ヴィルフォールといっての」
一条の光が稲妻のようにダンテスの脳裡をよぎり、今まで闇の中に閉ざされていたいっさいのものが、一瞬にして鮮烈な光のもとに照らし出されたのであった。訊問の途中、ヴィルフォールがいく度か言葉をにごしたこと、手紙を焼いたこと、誓いを強制したこと、あの声、威圧するのではなく哀願するような、愁訴《しゅうそ》ともいうべきものだったあの司法官の声、こうしたことがすべて彼の記憶に蘇った。彼は叫び声をあげ、酒に酔った者のようによろめいた。そして、僧の牢から自分の牢に通ずる通路の入り口に走り寄りながら、
「ああ、私を一人にして下さい、考えさせて下さい」
自分の地下牢に戻ると、ダンテスはベッドの上に倒れこんだ。夕方、看守は、そこに腰をおろし、目を見据え、顔をひきつらせ、しかも彫像のようにじっと動かず口もきかずにいるダンテスの姿を見た。
一時間が一秒の速さで過ぎたこの数時間の沈思黙考の間に、彼はすさまじい決意をし、恐るべき誓いをたてたのである。
呼ぶ声がして、ダンテスは夢想から呼びさまされた。それはファリアの声であった。彼の所へも看守が廻って来たので、一緒に夕食をとろうと、ダンテスを呼びに来たのであった。狂人と認められ、それも愉快な狂人と思われているので、日曜日にはいくらか白いパンと、ブドウ酒の小びんもつけてもらえるという特典を彼は与えられていた。その日はちょうど日曜日だった。そこでファリアは、その白いパンとブドウ酒を若い友にも分けようと呼びに来たのである。
ダンテスはファリアの後について行った。ひきつった顔の表情はもとに戻り、ふだんの顔立ちになってはいたが、堅く断固とした顔の線が、いわば心に決めた決意を示していた。僧はじっとその顔をみつめていた。
「わしは、そなたの秘密をさぐる手助けをしたこと、わしがそなたに言ったことを後悔しておる」
「なぜですか」
「なぜなら、わしはそなたの心に、それまでは少しもなかった感情を注ぎ込んでしまったからじゃ、復讐という」
ダンテスは笑った。
「ほかの話をしましょう」と、彼は言った。
僧はなおもしばらくの間ダンテスの顔を見ていたが、やがて悲しげに首を振った。それから彼は、ダンテスが頼んだように、話題を変えた。
この年老いた囚人の話は、非常な苦しみをなめた人の話がそうであるように、数多くの教訓に富み、津々《しんしん》たる興味を抱かせるものであった。と言っても、彼の話は自分本位のものではなかった。この不幸な老人は、自分の不幸については一言も語らなかった。
ダンテスはその一語一語を、感嘆しながら聞き入っていた。彼がすでに持っている概念でわかるものや、船乗りという職業の範囲内の知識でわかるものもあったが、まるきり未知のことに触れるものもあった。ちょうど、それまで南の海ばかり航海していた船乗りを照らすあの北極のオーロラのように、それは、幻想的な光に映し出された新しい陸と海とを青年に見せるのだった。道徳、哲学、社会的問題についてきわめて高度な学識を持ち、常日頃その学問の中で喜びを味わい楽しんでいる、このような人について学ぶことができたら、知的な素質のある者にとっては、どれほど楽しいことであろうかとダンテスは思った。
「あなたがご存じのことを少し教えていただけないでしょうか。私と一緒にいてもあなたが退屈しないようにするためだけでもいいんです。私のように教育もなく無学な者と一緒にいるよりは、お一人でいらしたほうがあなたにとってはましなように思えてきたものですから。この願いを聞いて下さったら、もう逃げようなどとは申し上げないことにします」
僧は微笑した。
「ああ、人間の知識などというものは、たかがしれたものなのだよ。わしがそなたに、数学、物理、歴史、それにわしがしゃべれる三、四の外国語、これだけ教えてしまえば、わしの知っていることは、そなたは全部知ったことになる。これだけ全部をそなたの頭に入れるには、二年もかからぬだろう」
「二年ですって。それ全部が、私に二年で学べるとお思いですか」
「その応用までは無理だが、原則だけならできる。学ぶことは知ることではない。博識者と学者とは違うのだ。前者を作るのは記憶であり、後者を作るのは哲学じゃ」
「でも、哲学を学ぶことはできないのですか」
「哲学は学べるものではない。哲学は、もろもろの学問を習得し、これを適用する才のある者に集積された、それらの学問の綜合なのだ。哲学とは、キリストが足をのせ、天にお戻りになったあの光り輝く雲なのだ」
「ところで、何から数えていただけますか。私は早く始めたいのです。私は学問に飢えています」
「全部を数えよう」
実際にその夜直ちに、二人の囚人は学習計画をたて、翌日から実行した。ダンテスはすばらしい記憶力を持っていた。のみこみもきわめて早かった。彼の数学的才能は、数式によってすべてを理解する適性を彼に与えていた。それでいて、無味乾操な数字とか融通のきかない正確な線に還元されてしまう証明というものはあまりにも唯物的なものになりかねないのを、船乗りとして身につけていた詩情が補正するのであった。それに、彼はイタリア語を知っていたし、現代ギリシア語も近東を旅行した際に少しは習い覚えていた。この二つの言葉の助けを借りて、間もなく彼は他の言葉の仕組みを理解した。半年後には、彼はスペイン語、英語、ドイツ語を話せるようになりかけていた。
彼がファリアに言ったように、学問が彼の気をまぎらし、それが自由の代役を果たしていたのか、あるいは、われわれがすでに知っているように、彼が自分の言った言葉は厳重に守る男であったためか、彼は脱獄のことは二度と口にしなかった。毎日毎日が彼にとっては速やかに、そして、実り多きものとして流れて行った。一年後には、彼は別人となっていた。
ファリアのほうは、ダンテスがいることが、幽囚をかこつ身にとっての慰めとなってはいたが、日を追うにつれて、次第に暗い顔になっていくのにダンテスは気がついていた。ある一つの考えが、たえずその念頭につきまとい離れぬかのようであった。思いに沈み、思わず吐息を洩らし、いきなり立ち上がって腕を組み、暗い表情で牢の中を歩きまわったりするのであった。
ある日のこと、牢内をめぐる、すでに百回も繰り返したこうした散歩の途中で、ふと足を止め、彼は大声でこう言うのであった。
「歩哨さえいなければのう」
「あなたさえそれをお望みになるのなら、歩哨はいなくなりますよ」僧の脳裏に浮かぶ考えを、まるでガラスの箱の中を見通すように見通していたダンテスが言った。
「いや、前にも申したようにわしは殺戮は好まぬ」
「でも、その殺人の罪は、もし犯したとしても、それは私たちの生存本能、自己防衛本能によるものです」
「いずれにしろ、わしにはできぬ」
「でも、そのことをお考えになっておられるのでしょう」
「たえず、たえずじゃ」僧はつぶやいた。
「で、方法をおみつけになった、違いますか」ダンテスがせきこんで訊ねた。
「さよう。外廊に立つ歩哨の目と耳をふさぐことができればの」
「目も耳もふさぎます」青年が決意をこめて言い放ったその口調が、僧を慄然《りつぜん》とさせた。
「いや、とてもできぬ」
ダンテスは僧にこの話題を続けさせたかった。が、僧は首を振り、それ以上答えることを拒んだ。
三か月の月日が流れた。
「そなた、力は強いか」ある日、僧がダンテスに訊ねた。
ダンテスはそれには答えずに、のみを手にすると、それを馬蹄形に曲げてから、また真直にのばした。
「最後の最後の瞬間まで、歩哨を殺さぬと約束できるかな」
「はい、誓います」
「それならば、わしらの計画を実行できよう」
「やりとげるのにどのぐらいかかるのでしょうか」
「一年かかる、少なくとも」
「すぐ仕事にかかれますか」
「今すぐ」
「ほうら、この一年を無駄にしてしまったじゃありませんか」
「無駄にした、とそなたは思うのか」
「あ、申し訳ありません」ダンテスは顔を赤らめた。
「何も言うな、人間はつねに人間にすぎぬ。そなたは、わしの知った人間のうち最良の人間の一人じゃ。それ、これが図面じゃ」
こう言って僧はダンテスに、自分が描いた図面を見せた。それは僧の部屋とダンテスの部屋、それにこの両者をつなぐ通路の図面であった。この通路の中央に、鉱山の坑道のような横穴がついている。この坑道を通って二人の囚人は、歩哨が行き来している外廓の下まで行く。ひとたびそこまで達したならば、そこに大きな空間を作る。外廊の床の敷石を一つはずれるようにしておく。その敷石は、脱出決行の瞬間に、歩哨の体重で下に落ちる。いきなり落ちたために茫然として無抵抗の状態になっているその兵士にダンテスがとびかかり、縛り上げ、猿ぐつわをかませる。それから二人は外壁の窓から、縄ばしごをつたって、外壁を降り、脱出する、というのであった。
ダンテスは手をうった。目は喜びに輝いた。この計画は簡単で、成功は疑う余地がなかった。
すぐその日から、二人は穴掘り作業にとりかかった。この仕事は、長いあいだ仕事をしていなかった後のものであったし、どうやら、めいめいが心の中にひそかに抱いていた考えを継続するにすぎないものであっただけに、非常な熱意がこめられていた。
看守がやって来る時間にそれぞれの牢に戻るとき以外は、彼らの仕事の手を休ませるものはなにもなかった。それに、ほとんど聞きとれぬほどの足音にも、看守の降りて来る時刻を聞きわける習性を身につけていたので、二人とも不意を襲われるなどということはなかった。古い通路を埋め尽してしまうほどの、新しい通路から掘り出される土砂は、少しずつ細心の注意を払って、ダンテスの牢の窓か、ファリアの牢の窓から投げ捨てられた。用心しながらごく少量ずつ撒くと、夜の闇に風が跡かたもなく吹き散らすのであった。
道具としては、一丁ののみと、一本のナイフ、それに一本の木の≪てこ≫しかないこの仕事に、一年以上の歳月が費やされた。その一年の間、仕事を続けながらも、ファリアは、ダンテスを教育し続けた。ある時はある外国語、またある時は別の外国語で話しかけたり、人が栄光と呼ぶあの光り輝く生きたしるしを死後に遺《のこ》した、民族や偉人たちの歴史を教えた。また、ファリアは、社交界の、上流社会の人士であったから、その挙措《きょそ》振る舞いには、一種の愁いを秘めた威厳というものがあった。ダンテスは、その持って生まれた同化の才能により、彼に欠けていた上品な礼儀作法と、ふつうの場合は、上流階級の中でもまれたり、あるいは上流社会の人士と交わることによってしか身につけることのできない貴族的な身のこなしを、このファリアのもの腰から学びとり身につけてしまったのである。
十五か月後に穴は完成した。外廓の下には空間が作られた。歩哨が行き来する足音が聞こえた。自分たちの脱出をより確実なものにするために、月のない闇夜を待たねばならない二人にとって、恐れねばならぬことは一つだけであった。それは、その時機が来る前に、歩哨の重みで床が自然に落ちこんでしまうことである。この不都合が起きないようにするために、建物の基礎の中から発見した小さな梁《はり》を支柱にすることにした。ダンテスがこの支柱を据えつける作業をしていた時である。突然彼は、ファリアが悲痛な声をあげて彼を呼ぶのを聞いた。ファリアはダンテスの牢で、縄ばしごを固定するための鉤《かぎ》をといでいたのである。ダンテスは急いで牢に戻った。顔面蒼白となり、額に汗を浮かべ、両手をけいれんさせたまま牢の真中に立っている僧の姿が目に入った。
「あ、どうなさったのです、どうなさったのですか」
「早く、いいか、よく聞くのじゃ」
ダンテスはファリアの鉛色の顔を見た。青いくまのできた目、血の気の失せた唇、逆立った髪。ぞっとして彼は手にしていたのみを床に落した。
「いったい、どうなさったのですか」エドモンは叫んだ。
「わしはもう駄目じゃ。よく聞くのだ。恐ろしい病いが、たぶん致命的な病いが、やがてわしを襲うてくる。発作が起きるのじゃ、わしにはそれがわかる。すでに一度、投獄された前の年に、この発作に襲われた。これにはたった一つの治療法しかない。それを今そなたに言う。わしの部屋へ行き、ベッドの脚をはずしてみよ。脚の中はうつろになっており、そこに赤い液体が半分ほど入った小さなびんがある。それを持って来るのじゃ。いや、むしろ、いかん、わしがここにいるうちに人が来るかもしれぬ。まだわしに力が残っておるうちに、部屋に戻るから手を貸してくれ。発作の続いておる間に、なにが起こるか知れたものではない」
ダンテスをうちのめした不幸の打撃は大きかったが、それでも気を確かに持ち、彼はファリアを引きずるようにして、通路に入っていった。たいへんな苦労をして、僧を通路の反対側の出口までつれて行き、僧の部屋に入ると、ベッドに寝かしつけた。
「かたじけない」まるで冷たい水につかっていたもののように、四肢をおののかせながら僧が言った。「発作が起こった。まもなくわしは身体が硬直してしまうであろう。おそらく、ぴくりとも動かず、うめき声もたてまい。しかしまた、泡を吹き、身をこわばらせ、わめくかもしれぬ。わしの叫び声を人に聞かれぬようにするのじゃ。もし聞きつけられたら、わしは部屋を変えられて、永久にわしらは引き離されてしまうからじゃ。わしが動かなくなり、冷たく、いわば死人と変わらぬようになったら、このときはじめて、よく聞くのじゃ、わしの歯をナイフでこじ開け、口の中にこの液体を八滴ないし十滴注ぎこんでほしい。たぶんそれで生き返るはずじゃ」
「たぶん、ですか」辛そうにダンテスが叫んだ。
「助けてくれ、わしは、わしは……」
あまりにも急激かつ激烈な発作に襲われたために、この不幸な囚人は言いかけた言葉を最後まで言うことさえできなかった。海を襲う嵐のように、黒い雲が見る見るうちにその額を覆《おお》った。目は見開かれ、口はゆがみ、頬《ほお》は紅潮した。僧は、あばれ、泡を吹き、吼《ほ》えた。が、僧自身がダンテスに言いつけておいたように、ダンテスは毛布でその叫び声をおさえつけた。それが二時間続いた。そして、なにかの塊よりも動かず、大理石よりも青白く冷たく、踏みしだかれたアシよりも脆《もろ》く力尽き、ファリアは最後のけいれんに身をこわばらせ、鉛色になった。
エドモンはこの見かけ上の死が身体全体にゆきわたり、心臓までも凍らせるまで待った。それからナイフを手にして、歯の間に刃をさし込み、食いしばった歯をひどい苦労をしてこじ開けると、赤い液体を一滴二滴と数えながら十滴注ぎ入れた。そして彼は待った。
老人がぴくりともせぬままに一時間過ぎた。ダンテスは、自分が待ちすぎたのではないかと不安になった。両手を髪の中に埋めたまま、彼は僧をみつめていた。ついに、頬にかすかな赤みがさし、見開かれたままのうつろな目が、光をとり戻し、吐息がその口から洩れ、僧が身を動かした。
「助かったぞ」ダンテスは叫んだ。
病人はまだ口がきけなかった。が、彼は不安そうに扉のほうに手をさしのべた。ダンテスは耳をすました。看守の足音が聞こえた。七時になろうとしていたのだ。ダンテスには時間を頭におく余裕などなかったのである。
青年は通路のほうにとんで行き、そこに身を沈めると、頭の上で敷石をもとに戻し、自分の部屋に戻った。一瞬後に、彼の牢の扉が開き、いつものように、看守は、囚人がベッドの上に腰をおろしているのを見た。
看守が背を向け、その足音が廊下の中に消えると、それを待ちかねていたように、不安に胸をさいなまれていたダンテスは、食事をすることなど考えも及ばずに、さっき来た道を引き返した。そして、頭で敷石を持ち上げ僧の部屋に入った。
僧は意識をとり戻していた。が、相変わらずぐったりと力なくベッドに横たわっていた。
「また会えるとは思うておらなんだ」と、僧がダンテスに言った。
「どうしてですか、では、死ぬと思っておられたのですか」青年が訊ねた。
「いやそうではない。だが、そなたが逃げるための準備はすべてできておる。だから、わしはそなたが逃げるものと思うておった」
怒りに青年の頬か紅潮した。
「あなたを置いて。あなたは、私がそんなことのできる男と思っておられたのですか」
「今では、わしが間違うておったことがわかった。ああ、わしは力も弱くなってしもうた。気力もくじけ、疲れ果てた」
「元気を出すんです、体力もやがて戻って来ます」ファリアのベッドのそばに腰をおろし、その手をとりながらダンテスが言った。
僧は首を振った。
「この前のときは発作は三十分続いた。発作の後には空腹を覚えた。一人で起き上がることもできた。ところが今日は、右手も足も動かすことができぬ。頭もぼけておる。これは脳溢血の証拠じゃ。三回目の発作では、全身が麻痺して、直ちに死ぬであろう」
「いいえ、大丈夫ですよ、死になんかしません。たとえその三回目の発作が襲ったとしても、その時はあなたはもう自由の身です。今度のように、いや今度以上にうまく助かりますよ。だって、そのときには必要などんな治療でもできるんですから」
「いや、思い違いをしてはいかん。今の発作は、わしを終身刑に処してしまったのじゃ。逃げるためには、歩けねばならぬ」
「それなら一週間でも、必要とあれば一月でも二月でも待ちましょう。その間には力も戻るでしょう。逃げる準備はすっかりできているんです。いつ逃げるか、その時期は自由に決められます。大丈夫泳げるとお感じになる日が来たら、その日に計画を実行しましょう」
「わしはもう泳げぬ。この腕の麻痺は一時的なものではなく、もう直らぬのだ。そなたこの腕を持ち上げてみるがよい、どれほど重いか」
青年は腕を持ち上げてみた。その腕はだらりとまた落ちた。彼は溜息をついた。
「これでわかったじゃろう、どうじゃな、エドモン。わしの言葉を信ずるのだ。わしには自分がしゃべっていることがわかっておる。この病いの第一回目の発作に襲われて以来、わしはたえずこの発作のことを考えておった。わしは予期しておったのじゃ。というのも、これはわしの家代々の遺伝でな。父もまた祖父も、三回目の発作で死んだ。わしにこの薬を調剤してくれた医者も、これはほかならぬあの有名なカバニスじゃが、わしが同じ運命をたどると予言しておる」
「お医者さんだって間違いますよ。麻痺なんか私にとっては大したことではありません。あなたを背負って逃げます。あなたの身体を支えながら泳ぎますよ」
「いいか、そなたは船乗りじゃ、泳ぎも心得ておる。そのそなたには、そんな重荷を持ったのでは、海中を五十ひろ〔約百メートル〕も泳げるものでないことを知っておるはずじゃ。そなたのそのすぐれた心自体が信じていないそんな妄想を抱くものではない。わしは、わしを解放してくれるそのときまでここに留まろう。それは今となっては、わしの死ぬ時じゃが。そなたは逃げるのだ、行け。そなたは若い、身のこなしも軽く力もある。わしのことは心配しなくてよい。そなたがしてくれた約束は、今ここでなかったものとしよう」
「わかりました。それなら私もここに残ります」
こう言ってダンテスは立ち上がり、おごそかに片手を老人のほうにさしのべ、
「キリストの血にかけて、あなたが死ぬまであなたから離れぬことを誓います」
ファリアは、この、かくも気高く、純粋で、立派な青年の顔を見た。そして、まったく清らかな献身の情に輝いたその顔の上に、その誠実な愛情と誓いの堅さを読みとるのだった。
「では、お受けしよう、かたじけない」
こう言って僧はダンテスに手をさしのべ、
「そのような欲得を離れた献身は、やがてむくわれるであろう」と言った。「逃げることはわしにはできぬし、そなたも欲しないというのであれば、外廊の下に掘った地下道は埋めねばならぬ。歩哨が歩く際に、掘った場所の反響に気づき、監督官の注意をうながしたりするやもしれぬ。そうなれば事は発覚し、わしらは引き離されてしまう。不運にも手伝うてはやれぬが、そなた埋めに行け。必要とあれば夜いっぱいかけてもやり遂げるのじゃ。そして明日の朝、看守が帰ってからまた来るのじゃ。そなたに重大な話がある」
ダンテスはファリアの手をとった。僧は微笑してダンテスを安心させた。それから彼は、彼がこの老年の友に捧げていたあの尊敬と服従の態度を示してその部屋を出た。
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十八 財宝
翌朝、ダンテスが、ひとしく幽囚《ゆうしゅう》の身の友の部屋へ入ってみると、ファリアはおだやかな顔をして腰をおろしていた。
彼は、思い起こしていただきたいが、まだ使えるほうの左手で、一枚の紙を、小さな窓からさし込む光の下で拡げていた。その紙は長い間巻かれていたので癖がつき、すぐまるまって、拡げにくくなっていた。
彼はなにも言わずにその紙をダンテスに見せた。
「何です、これは」ダンテスは訊ねた。
「よく見るがよい」微笑しながら僧が言う。
「よくよく見てますよ。半分焼けてしまった紙しか見えません。妙なインクでゴシックの文字が書かれてますが」
「この紙はのう、今こそわしはそなたにすべてを語ることができる、わしはそなたを試験したからの、この紙こそわしの財宝なのじゃ。本日以後、その半分はそなたのものとなる」
冷たい汗がダンテスの額を流れた。この日まで、どれほど長い期間であったろう、ファリアといる時には彼はこの気の毒な僧が気違い扱いされる原因である、その財宝の話題を避けて来たのだ。本能的な心遣いから、エドモンはこの痛ましい音を出す糸にはふれぬようにしていたのだ。そしてファリアのほうは、財宝のことには口をつぐんでいたのである。ダンテスは老人がそれを口にせぬのを、狂気が去ったためと思っていた。ところが今、あのひどい発作の後にファリアの口から洩れたいくつかの言葉は、狂気にまた立ち戻ってしまったことの重大なしるしのように思われた。
「財宝ですって?」ダンテスはつぶやいた。
「さよう。そなたはどこから見ても気高い心を持った男じゃのう、エドモン。そなたのその顔の蒼さ、ふるえようから、今何を考えておるかわしにはようわかる。違う、安心するがよい、わしは狂人ではない。ダンテス、この財宝は実在するのじゃ。もしわしが手に入れることを許されなんだら、そなたのものとなる。みなは、わしを狂人と思ったから、だれもわしに耳をかさず、わしの言葉を信じようとはしなかった。だがそなたは、そなたはわしが狂人ではないことを知っていよう。まず聞くのじゃ、そしてその後で、信じる気になったら信じるがいい」
『ああ』エドモンは心の中でつぶやくのだった。『この人はまた気が狂ってしまった。この不幸だけは今までの俺にはなかったのに』
それから声を出して、彼はファリアに言った。
「あなたはあの発作でお疲れになっているのです。少しお休みになってはいかがですか。明日、もしどうしてもとおっしゃるなら、明日お話を伺いましょう。でも、今日は、私はあなたの看病がしたいだけなのです。それに」と、彼は笑いながら続けた。「宝物の話は、そんなに急がなくても」
「急ぐのじゃ、エドモン」と老人が答えた。「明日にも、明後日にも、三回目の発作に襲われぬと誰が言えよう。そうなったらおしまいなのだということを考えよ。さよう、たしかにわしは、わしを迫害した者どものせいで、この十の家柄の財産にも匹敵するであろうような財宝が失われてしまうことに、いくたびか苦い喜びを味わったこともある。こう考えればわしは、復讐してやったような気がした。わしは地下牢の闇の中で、囚われの身の絶望の中で、その思いをゆっくりとかみしめてもいた。だが今は、わしはそなたへの愛の故に、世の人びとを許す気になっておる。若く、春秋に富むそなたを見ておると、この秘密を打ち明けることがそなたにもたらす幸せを思えば、手遅れになりはせぬかと、わしは不安にうちふるえるのじゃ。そなたのような、その所有者たるにふさわしい人物に、埋もれた財宝の入手を保証できなくなりはせぬかと、わしは恐れるのじゃ」
エドモンは吐息を洩らしながら顔をそむけた。
「そなたはまだ信じられぬのだな、エドモン」なおもファリアが続けた。「わしの声はそなたを納得させるには至らぬのであろう。そなたには証拠がいるということがわしにはわかる。では、わしが今まで、なんぴとにも見せたことのないこの紙を読むがよい」
「明日」と、老人の狂気の進行に手を貸すことになるのを恐れてエドモンが言った。「その話は明日にしたほうがいいと思ったのですが」
「話は明日にしよう。が、この紙は今日読むのじゃ」
『いらだたせないほうがいいな』と、エドモンは考えた。
そこで、おそらくなにかの事故で半分なくなってしまっているその紙を手にすると、彼は読み始めた。
ローマ金貨にて二
に上るこの財宝は第二の口
最も遠き角
全て彼に譲ることを宣す
一四九…年四月二十五日
「どうじゃな」青年が読み終るとファリアが言った。
「でも、行が切れ切れで、言葉がちゃんと続いてませんね。火で焦げてて字が途中で切れちまってて、なんのことかわかりませんよ」
「はじめてそれを読むそなたにはそうであろう。が、わしは違う。幾夜も幾夜も、その紙の上に顔蒼ざめるまでかがみこみ、文章を復元し、内容を補完したこのわしはな」
「それで、この残りの意味をあなたは発見なさったのですか」
「わしはそう確信しておる。そなた自身で判断を下すがよい。ともかく、まずその紙の由来を話そう」
「黙って!」とダンテスが叫んだ。「足音です。人が来ます。私は帰ります、さようなら」
こう言うとダンテスは、紙の由来も説明も聞かずにすむのをありがたく思いながら、蛇のように、あの細い通路にすべり込んだ。話を聞けば、それは友が狂気に陥ったことを彼に確信させずにはおかぬと思ったからである。ファリアは、恐怖の念が一種の力を彼にとり戻させ、敷石を足でおしやり、隣接する石との間をうまくごまかすだけのひまがなかったので、その上にむしろをかぶせた。
来たのは長官であった。ファリアの病気を看守から知らされて、自らその程度を確かめに来たのであった。
ファリアは腰をかけたまま長官を迎え、相手に感づかれそうなしぐさはいっさい避けたので、彼の半身を付随にした麻痺を長官の目からかくしおおせることができた。ファリアが恐れたのは、長官が彼をあわれと思って、もう少し健康的な牢に移す気になり、その結果、年少の友から彼を引き離してしまいはせぬかということであった。が、幸いそうはならなかった。長官は、心の底ではいくばくかの愛情を抱いているこのあわれな狂人が、ほんのちょっと身体の具合を悪くしただけであると思いこんで帰って行った。
この間ダンテスは、腰をおろし頭をかかえて、考えをまとめようと努力していた。彼が知ってからのファリアは、すべての点において、あまりにも理性的であり、偉大であり、論理的であったので、これほどの知性が、ただ一点においてだけ理性から外れてしまうということが、彼には理解できなかった。財宝があるなどと思いこんでいるファリアが間違っているのか、それともすべての人びとがファリアに対して思い違いをしているのか。
友の部屋へまた行く勇気もなく、ダンテスは一日中自分の部屋にいた。彼はこうして僧が狂人であるという確証を得てしまう瞬間を先にのばしていたのである。そう確信してしまうことは彼にとっては恐ろしいことであるに違いなかった。
ところが、いつもの、看守が廻ってくる時間が過ぎると、青年が戻らぬのを知ったファリアは、青年と自分を隔てる距離をのりこえようと試みたのである。老人が自分の身体をひきずる、痛ましい努力をしているもの音を聞いて、エドモンはぞっとした。老人は片足は動かなかったし、片方の腕も使うことができなかったのである。エドモンは老人を引き出してやらねばならなかった。ダンテスの部屋に通じている狭い出口から、自力で出てくることはできようはずがなかったからである。
「いくら逃げても無駄じゃよ、わしはこうして追いかけてくる」善意に溢れた微笑を浮かべながら僧は言った。「わしの莫大な贈り物を受け取らずにすむと思ったろうが、そうはゆかぬ。話を聞け」
エドモンは、逃げ道のないことを知った。彼は老人をベッドに坐らせ、自分はその近くの椅子に腰をおろした。
「そなたも知っておるように、わしは、スパダ家最後の貴公子、スパダ枢機卿の秘書であり腹心であり友であった。わしがこの世において味わうことのできた幸せは、すべてこのすぐれたお方のおかげである。スパダ家の富裕なことは伝説的とも言えるほどのもので、わしも、『スパダほどにも金がある』という言い方をなん回となく耳にしたほどだが、この方ご自身は金持ではなかった。世間でそう噂していたように、この金持であるという風評の上に暮らしておられたのだ。この方の邸《やしき》はわしの天国であった。この方の甥《おい》ごたちをわしは教えておったのだが、その甥ごたちが亡くなり、あのお方がお一人になられてしもうたとき、それまで十年間わしのためにして下さった恩義にむくいるために、わしはあのお方のご意志に完全に服従することにしたのじゃ。
やがて枢機卿のお邸内のことで、わしの知らぬことはなに一つなくなってしもうた。いく度かわしは、睨下《げいか》が古い書物を調べ、一門のほこりにまみれた書類を夢中になってあさっておられるお姿を見たことがある。そこである日、わしが睨下に、そうした無益な夜ふかしと、それに続くうちのめされたようなご衰弱ぶりに関してお諌《いさ》め申したとき、苦笑を浮かべながらわしをご覧になり、一冊の書物を開いてわしにお見せになった。それはローマ市の歴史であった。法王アレッサンドロ六世伝の第二十章のくだりで、そこには次のような、わしには忘れることのできない記述があったのだ。
ロマニアの激しい戦争が終ったところであった。征服をなしとげたチェザーレ・ボルジアは、さらにイタリア全土を手中に収めるために金を必要としていた。法王もまた、戦いに敗れたりとはいえまだ脅威であったフランス王ルイ十二世と決着をつけてしまうために、これまた金を必要としていた。したがって、なにか妙味のある投機を企てねばならなかったが、窮乏の極に達していた貧しいイタリアでは、それはむずかしいこととなっていた。
そこで法王はあることを思いついた。二人の枢機卿を作るのである。
ローマで重きをなしておる人物、とくに富裕な人物二名を選んだ上での、法王の計画の第一は、まずこの二人が得ておる高位および顕職《けんしょく》を他に売りつけること。さらに、枢機卿職をきわめて高価にこの二人に売りつけることであった。
まだ第三の計画が残されておるが、それはやがて明らかとなる。
法王ならびにチェザーレ・ボルジアは、まず枢機卿となるべき二名の人物をみつけた。一人は、すでに法王庁内で一人で四つの顕職を兼ねておったジョヴァンニ・ロスピリオージ、もう一人は、ローマで最も名門であり最も富裕な貴族の一人であるチェザーレ・スパダじゃ。両者とも、法王のこのような知遇が高いものにつくことは感じていた。二人とも野心家であった。この二人に決まると、ボルジアは間もなく、彼らの職の買い手もみつけることができた。
この結果、ロスピリオージとスパダは、枢機卿職の代価を支払い、八人の者が、新たに枢機卿となった二人がそれまで占めていた地位を購《あがな》った。金儲けを策した者〔法王とボルジア〕の金庫には八十万エキュの金が収まった。
では、計画の第三に移ろう、そのときが来たから。法王はロスピリオージとスパダに数々の知遇を示し、枢機卿の印綬《いんじゅ》を授けたが、それは、この二人が、ローマに移り住むためには、彼らの感謝のしるしとしての金を払うために、財産をかき集め現金化せねばならぬはずと確信しておったからじゃ。そこで、法王とチェザーレ・ボルジアは、この二人の枢機卿を食事に招いた。
ここで法王とその息子〔チェザーレ・ボルジアは法王アレッサンドロ六世の庶子〕との間で意見が相違した。チェザーレのほうは、いつも親しい友人に対して用いておる例の方法を用いることができると考えておった。つまり、第一の方法は、あの有名な鍵を用いることじゃ。ある特定の者に、ある特定の箪笥《たんす》をその鍵で開けてくれと頼む。この鍵には、職人の手落ちで小さな突起がついている。箪笥の錠前はなかなかあかないようにできておって、無理をしておるうちに、この突起で指を刺してしまう。そのためその者は翌日死ぬのだ。それからまた、獅子の頭のついた指輪がある。ある人物と握手をしようとする時にチェザーレはこれを指にはめるのじゃ。この知遇を受けた手の皮膚をその獅子が咬む。その傷が二十四時間後にはその者を殺す。
だからチェザーレは、二人の枢機卿に、箪笥をあけに行かせるか、あるいは、めいめいに握手の栄誉を与えようと父に言ったのじゃ。だがアレッサンドロ六世はこう答えた。
『あのすぐれたスパダ、ロスピリオージ両枢機卿に対して、一回の晩餐の費用など惜しんではならぬ。どうやらその費用も、われらが手に戻りそうに思える。それに、チェザーレ、食べすぎの効果はたちどころにあらわれるが、刺し傷、咬み傷は、一日か二日たたねば効果があらわれぬことをお忘れか』
チェザーレはこの理屈にかぶとを脱いだ。これが両枢機卿が食事に招かれた理由じゃ。
晩餐の仕度は、サン=ピエトロ=イン=リアーノの近くに法王が所有しておったブドウ園にしつらえられた。両枢機卿ともその評判をよく聞き知っていた美々しい家であった。
ロスピリオージは、新たに身につけた高官の地位に有頂天になり、胃の調子を整え晴れ晴れとした顔付きで現われた。スパダは、慎重な男で、ただ一人甥のみを愛しておったので、紙とペンとをとり、遺書を認《したた》めた。この甥は前途有望な青年士官であった。
それからスパダは、この甥にブドウ園の近くで自分を待つようにと伝えさせたが、伝言を持った召使いは、甥に会えなかったらしい。
スパダは招待の慣わしを知っておったのだ。すぐれた文化の伝達者であるキリスト教がローマに拡がってこのかた、『皇帝、汝の死を望む』と言ってやってくる、暴君の百人隊長はいなくなり、そのかわりに、口辺に笑みを浮かべた法王の特使が、法王よりのお言葉として、『陪食〔一緒に食事をすること〕仰せつけらる』と言いに来るのだ。
スパダは二時頃、サン=ピエトロ=イン=リアーノのブドウ園に行くべく家を出た。法王はすでに待っていた。スパダの目に最初に飛びこんで来たのは、着飾り、しゃれのめした甥の姿であった。チェザーレ・ボルジアがその甥にやたらと恩寵をふりまいている。スパダは顔色を変えた。チェザーレは、皮肉のこもった眼差しをスパダに浴びせ、なにもかも見通しで、罠がぬかりなくしかけられていることを悟らせた。
食事が始まった。スパダには、甥に『伝言は受け取ったか』と訊ねることしかできなかった。甥は、受け取らぬ、と答え、質問の意味を十分読み取ったが、時すでに遅かった。法王の酒番が甥のためにとくにとりわけておいたすばらしいブドウ酒を飲みほしたところだったのだ。同時にスパダは、もう一本のびんが近づいて来て、ふんだんに自分にすすめられるのを見た。一時間後、医師が、二人ともドクアミガサタケの中毒にかかったと診断した。スパダはブドウ園の入口で死に、甥は自宅の戸口で息絶えた。そのさい甥は妻になにか合図をしたが、妻には意味がわからなかった。
ただちにチェザーレと法王は、故人の書類を探すという名目でその遺産の横領にとりかかった。だが、遺産は、紙きれ一枚であった。その上に、スパダはこう書いていたのだ。
『余は最愛の甥に、わが櫃《ひつ》の数々と、書物とを遺贈す。その中には、四隅金もて装丁《そうてい》せるわが祈祷《きとう》書も含まる。伯父の形見として長く愛蔵されんことを望む』
遺産相続人たちは、あらゆる所を探した。例の祈祷書を見て、みごとな装丁の書物だと感心はした。家具の類は分捕った。そのあげくに、富豪として名高かったスパダが、実際には一族のうちもっとも貧しい男であったという事実に唖然《あぜん》とした。宝と言えるものなどまったくない。書庫ならびに書斎に収められていた学問の宝庫以外には。
それだけだった。チェザーレとその父とは、探し、ひっかき廻し、探索を続けた。が、なにもみつからぬ。少なくとも、ほんのとるに足りぬ財産しかみつけることはできなかった。千エキュ程度と思われる貴金属と、同額ぐらいの銀貨じゃ。だが甥はその妻に、帰宅した際、
『伯父上の書類を探せ、本物の遺書がある』
と言い残しておった。
身内の者は、あの高貴な遺産相続人たち〔法王とチェザーレ・ボルジア〕よりさらに夢中になって探したであろう。が、それも無駄であった。パラティノの丘のかげの、二つの邸とブドウ園が一つ残されておった。が、当時は不動産というものはたいして価値がなかったから、法王ならびにその子息の貪欲さの対象にはならぬものとして、この邸とブドウ園は、遺族の手に残されたのじゃ。
年月が過ぎていった。アレッサンドロ六世は毒殺された。どのような手違いでそうなったか、そなたは存じておろう。チェザーレも法王と同時に毒を飲まされたが、生命はとりとめた。その代価として、蛇が脱皮するように全身の皮膚が脱け落ち、毒のためにトラの毛皮のような縞《しま》模様のついた皮膚になってしまった。やがてローマを立ち退かざるを得なくなり、夜間の小ぜり合いで人知れず殺されてしまい、歴史からもほとんど忘れられてしまうに至った。
法王が死に、その息子がローマを退散した後、人びとは、スパダ枢機卿時代の豪奢《ごうしゃ》な暮らしがまたこの一門に戻るものと思っておった。が事態はそうはならなかった。スパダ家の暮らしは安定せず、この陰惨な事件の上には永遠の謎が重くのしかかっていた。噂では、父よりも策略に長《た》けていたチェザーレが、二人の枢機卿の財産を、法王からまき上げてしまったということじゃ。二人と言ったが、ロスピリオージ枢機卿は、まったく手を打っておかなかったので、完全にまる裸にされてしまったのだ。
ここまでの所は、そなたにもさほど馬鹿々々しいとは思えぬのではないかな」
と、ファリアは微笑しながら言葉を切った。
「とんでもない。それどころか、じつにおもしろい年代記を読んでいるような気がしますよ。どうぞ、先をお続けになって下さい」と、ダンテスが言った。
「では続けよう。
一族の者はこうしてひっそりと暮らすことに慣れていった。歳月が流れた。子孫のうち、ある者は軍人となり、ある者は外交官となった。聖職者となったものもおれば、銀行家となったものもおる。ある者は財を築き、ある者は破産した。さていよいよ一族最後の末裔《まつえい》の代だ。わしが秘書を務めておった、スパダ伯爵じゃ。
わしはこの方が、ご自分の財産がその地位にそぐわぬのをしじゅう嘆いておられたので、伯爵の手にまだ残されておったわずかな財産を終身年金にふり変えることをおすすめした。伯爵はわしの言葉を入れ、こうして収入を倍にお増やしになった。
例の祈祷書はスパダ家に残されており、スパダ伯爵が所有しておられた。一族の者は、これを父から子へと、代々伝えておったのじゃ。というのは、発見された唯一の遺書のあの言葉が、この祈祷書を真に聖遺物《せいいぶつ》のように思わせ、迷信的とも言える尊敬の念をもって秘蔵されていたのである。これは、中世の極彩色《ごくさいしき》のきわめて美しい絵の入った書物で、金の目方が重く、大切な儀式の日には、つねに召使いが枢機卿の前に捧持してくるのであった。
邸の記録保存所に収められていた、あの毒殺された枢機卿の代のあらゆるたぐいの書類、証書、契約書、貴族証書の類を見て、わしは、この膨大《ぼうだい》な書類の山を調べ始めた。代々の数多くの召使い、家令、それにわし以前の秘書たちと同じように。真剣そのもの、夢中になって調査したが、わしはなに一つ発見することはできなかった。けれども、わしはすでにボルジア家の歴史を読み、さらに、ほとんど日を追わんばかりの正確なボルジア家の歴史を自ら書きさえしたのじゃ。スパダ枢機卿の死後、ボルジア家に、財産が新たにつけ加わった事実があるかどうかを知るのがわしの唯一の目的じゃった。そして、あの不幸の道づれとなったロスピリオージ枢機卿の財産以外には、つけ加わったものがないことを、すでに確めていたのじゃ。
したがってわしは、遺産はボルジア家にもスパダ家にも伝えられておらず、魔神に見守られて地下に眠るというアラビアン・ナイトの宝物のように、主《あるじ》なきままになっておるという確信に近いものを抱いておったのだ。わしは探した。計算した。三百年前からのスパダ家の収支を算定した。すべては徒労であった。わしはなに一つ知ることができず、スパダ伯爵は不如意《ふにょい》なままであった。
わしの保護者が亡くなった。伯爵は、財産を終身年金にふり変えた際、一族の書類と、五千冊よりなる蔵書、および例の祈祷書は除外なさっておられた。これらすべてを、当時現金で持っておられたローマ金貨千エキュをそえて、わしにお譲り下された。毎年ご命日にミサを上げること、スパダ家の系図ならびに歴史を書くことが条件であった。わしは正確にこれを実行した。
安心するがよい、エドモン、もうそろそろ終りじゃよ。
一八〇七年の、わしが逮捕される一月《ひとつき》前、スパダ伯爵がおなくなりになった二週間後に、つまり十二月二十五日のことじゃ、なぜこの記念すべき日の日付がわしの記憶にとどめられているかは、そなたにもじきにわかるが、わしはもうなん百回となく読んだあの書類を読み返しておった。わしはその書類を整理しておったのだ。というのは、邸はそれ以後他人の手に渡ることになっており、わしはローマを去りフィレンツェへ移り住むことになっておったからじゃ。所持していた一万二千フランばかりの金と、蔵書とそれにあの祈祷書をたずさえて。で、その仕事を精をつめてやっておるうちに疲れて、それに食事がいささか重かったせいもあって気分がすぐれず、両手に頭をのせたまま、わしは眠りこんでしもうたのじゃ。午後の三時であった。
時計が六時を打つのを聞いてわしは目を覚ました。
顔を上げたが、あたりはまっ暗じゃ。灯《あかり》を持って来させようとベルを鳴らしたが、誰も来ぬ。わしは自分で灯をともそうと思った。今までと違い、学者としての習慣を身につけねばならぬ折でもあったから。わしは片方の手に、すぐつけられるようになっていたろうそくを持ち、箱に付木《つけぎ》がなくなっていたので、もう一方の手で、なにか紙はないかと探した。暖炉にかすかに残っておった炎の火を移すつもりだったのじゃ。だが、暗闇の中だから、いらぬ紙きれのかわりに大事な紙を掴んではならぬと思い、わしはしばらくためらった。その時ふと、脇の机の上に置いてあるあの祈祷書に、上のほうが黄色くなった古い紙きれが一枚、しおり代りといった具合にはさんであるのを見たおぼえがあるのを思い出したのじゃ。代々これを受けついだ者たちの畏敬《いけい》の念が、数世紀の間、この紙きれをもとの位置にとどまらせていたのである。わしは手さぐりでこの不要な紙きれを探し、みつけたので、これをよじって、今にも消えそうな炎にかざし、火をつけた。
ところが、火が燃え上がるにつれて、わしのその指の下に、まるで魔法のように、白い紙の上に黄色っぽい文字が浮き出て来るのを見たのじゃ。わしはぞっとした。わしはその紙を握りしめ、火をもみ消した。わしは暖炉の火からじかにろうそくに火を移し、とうてい言い表わし得ぬほどの感動を抱きながら、そのしわくちゃになった文書をひろげてみた。そして、その文書が、強い熱を加えられてはじめて目に見えるようになる、ふしぎなあぶり出しインクで書かれたものであることを知った。三分の一を少し超えるぐらいの部分が焼失してしまった。それが今朝そなたが読んだ紙じゃ。ダンテス、もう一度読み返してみるがよい。そなたが読み終えたら、わしが、その切れ切れの文章と不完全な意味を補ってやろう」
こう言ってファリアは言葉を切り、その紙をダンテスに渡した。今度はダンテスは、錆《さび》に似た褐色のインクで書かれた、次のような文章を、くい入るように読み始めた。
本一四九八年四月二十五日、ア
仰せつけられたるも、余に枢機卿識を
余が遺産を召し上げられんおつ
クラパラ、ベンティヴォリオ両枢
をおもんぱかり、余はここに、余
スパダに告ぐ。余は、甥が余と共に訪れ
モンテ・クリストなる小島に、余の所
イヤ、宝玉の悉《ことごと》くを埋蔵せり。その存
その額およそローマ金にて二百
東の小さき入江より直線に数えて二十
洞窟には入口二
第二の入口より最も遠き
の悉《ことごと》くを、余が唯一の相続人たる余が甥
一四九八年四月二十五日
チェ
「では、こちらの紙を読んでみるがよい」
僧はこう言って、やはり各行が途中で切れている文章が書かれたもう一枚の紙をダンテスに渡した。
ダンテスはそれを手にして、読んでみた。
レッサンドロ猊下《げいか》より陪食
購《あがな》わしめしのみにてはご満足なさらず、
もりにて、余をして、毒殺されしかの
機卿の運命を辿らしめんとのお心なる
が包括受遺者たる甥グイド・
しが故に甥の知る場所、即ち
有にかかる金塊、金貨、宝石、ダ
在を知る者は余のみにして、
万エキュに上るべし。財宝は
番目の岩をもたぐれば見出されん。
箇所しつらえありて、財宝は、
角にあり。余は上記財宝
に遺贈するものなり。
ザーレ・スパダ
ファリアは燃えるような目でダンテスを見ていた。
「さてと」彼は、ダンテスが最後の行まで読んだのを見てとると、「その二枚の紙きれをつなぎ合わせてみるのじゃ。そして自分で判読してみるがいい」
ダンテスはその通りにした。つないでみると、次のような文章になったのである。
[#ここから1字下げ]
本一四九八年四月二十五日、アレッサンドロ猊下《げいか》より陪食《ばいしょく》仰せつけられたるも、余に枢機卿職を購《あがな》わしめしのみにてはご満足なさらず、余が遺産を召し上げられんおつもりにて、余をして、毒殺されしかのクラパラ、ベンティヴォリオ両枢機卿の運命を辿らしめんとのお心なるをおもんぱかり、余はここに、余が包括受遺者たる甥グイド・スパダに告ぐ。余は、甥が余と共に訪れしが故に甥の知る場所、即ちモンテ・クリストなる小島に、余の所有にかかる金塊、金貨、宝石、ダイヤ、宝玉の悉くを埋蔵せり。その存在を知る者は余のみにして、その額およそローマ金にて二百万エキュに上るべし。財宝は東の小さき入江より直線に数えて二十番目の岩をもたぐれば見出されん。洞窟には入口二箇所しつらえありて、財宝は、第二の入口より最も遠き角にあり。余は上記財宝の悉くを、余が唯一の相続人たる余が甥に遺贈するものなり。
一四九八年四月二十五日
チェザーレ・スパダ
[#ここで字下げ終わり]
「どうじゃ、読めたであろう」
「これは、スパダ枢機卿の遺書なのですね。あれほど長い間、みなが探していた遺書だったのですね」
「そう、まさにその通りじゃ」
「誰がこんなふうに復元したのですか」
「わしじゃ。残されていた紙片を手がかりに、他の部分を推察したのだ。紙の大きさから行の長さを推測し、わかっておる部分の意味から、かくされておる部分の意味を洞察した。ちょうど、上から来るかすかな光の名残りで地下道の中を歩むように」
「で、解読できたと確信なさったとき、どうなさいましたか」
「わしは発《た》とうと思った。事実、直ちに出立《しゅったつ》した。わしのあのイタリア統一に関する大著の始めの部分をたずさえて。だが、時あたかも帝国の官憲は、ナポレオンが子息を得たとき以後望んだのとは逆に、各地方の分割をもくろんでおって、わしに目をつけていた。わしのにわかな出発は、その真の目的を見抜くにはほど遠かった官憲の疑惑を招いてしもうた。そして、ピオンビーノで乗船しようとするところを逮捕されてしもうた」
「さて」と、ファリアはダンテスの顔を、慈父のものとも言える表情でみつめながら続けた。「今やそなたは、わしの知っておることをみな知っておる。二人一緒に逃れることができたら、わしの財宝の半分はそなたのものじゃ。そして、もしわしがここで死に、そなた一人が逃れることができたら、財宝はすべてそなたのものとなる」
「でも」と、ダンテスがためらいがちに訊ねた。「その財宝には、私たちよりも、もっと正当な相続人がいるのではないですか」
「おらぬ、大丈夫じゃ。一族の者はことごとく死に絶えてしもうた。それに、スパダ家最後の伯爵が、わしをその相続人としたのだ。あの象徴的な祈祷書をわしに遺贈することによって、その中に含まれていたものをも、わしにお譲り下さったのじゃ。いや、心配はいらぬ。たとえこの財宝に手をつけても、良心の苛責を受けることなく、これを自由にしてよいのじゃ」
「さきほどおっしゃいましたね、その財宝はおよそ……」
「ローマ金にして二百万エキュじゃ。今の金にして、およそ千三百万」
「とても信じられません」ダンテスはあまりにも莫大な額に恐れを抱いた。
「信じられぬ? なぜじゃ」老人は言うのだった。「スパダ家は、十五世紀の貴族のうち最も古く最も権力のあった家柄じゃ。その上、投機事業も企業もなかったあの時代には、このように金や宝石が一まとめにされておるのも珍しいことではなかった。今日でさえ、先祖代々受けつがれ、指をふれることのできぬ百万エキュものダイヤ、宝石のかたわらで、餓死して行くローマの貴族もおるくらいじゃ」
エドモンは夢を見ているようであった。信じかねる気持と歓喜との間をただよっていた。
「わしがこれほど長い間そなたにこの秘密を明かさなんだのは、一つにはそなたの心を試すため、もう一つにはそなたを驚かせるためにほかならなかった。わしの発作が襲うて来る前に逃れることができたら、わしはそなたをモンテ・クリスト島へつれて行こう。もっとも」と、彼は吐息を洩らしながらつけ加えた。「今となっては、そなたがわしをつれて行くのじゃが。ダンテス、わしに礼を言わぬのか」
「その宝はあなたのものです。あなたお一人のものです。私にはなんの権利もありません。あなたの縁者でもなんでもないのですから」
「ダンテス、そなたはわしの息子なのじゃ」と、老人が大声で言った。「聖職者であるわしには、妻帯は許されなかった。父親となることもできず、自由の身となることもできぬ囚人に、わしの心を慰めるものとして、神はそなたをわしにおつかわし下されたのじゃ」
こう言うと、ファリアはまだきくほうの腕を青年にさしのべ、青年はその首にすがりついて涙を流したのであった。
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十九 三回目の発作
あれほど長い間ファリアの夢想のたねであったその財宝が、僧が真の息子として愛している青年の将来の幸福を保証し得るものとなった今は、ファリアの目にはその財宝の価値が倍加したように映るのであった。毎日のように、彼はこの財宝の自由に処分できる額について長々と語った。この千三百万ないし千四百万の財産があれば、現代に住む一人の男がどれほどの善をその友人たちに施すことができるかをダンテスに説くのである。そんなとき、ダンテスの顔は暗く沈むのだった。彼がたてたあの復讐の誓いが彼の脳裡に蘇《よみが》えるからであった。彼は、千三百万ないし千四百万の財産があれば、現代に住む一人の男がどれほどの悪をその敵どもに対して加えることができるかに思いを馳せていたのである。
ファリアはモンテ・クリスト島を知らなかったが、ダンテスは知っていた。コルシカとエルバ島の間にあり、ピアノサ島から二十五マイルのところにあるこの島の前を、なん回となく通った。一度寄港したことさえあるのだ。この島は以前から、そして今でも無人の島であった。火山活動かなにかで、海底から海面に押し出されたと思われる、ほぼ円錐形の岩礁であった。
ダンテスは島の見取図をファリアに描いて見せ、ファリアは、財宝を見出すために用いるべき方法について、ダンテスにあれこれと注意を与えた。
だがダンテスは、老人ほど熱中もせず、またさほど信用もしていなかった。たしかに、今はもう、ファリアが狂人でないことははっきりしていたし、彼を狂人と思いこませたあの発見に到達したそのやり方は、ダンテスのファリアヘの賞賛の念を倍加させはした。しかし、この地下に埋もれた財宝が、かつて実在したと仮定しても、今なお実在するとは思えなかった。その宝を、架空のものとは思わなかったにせよ、少なくとも、今はもはや無きものと考えていたのだ。
そうこうするうちに、まるで運命の女神が、彼らの最後の望みを奪おうとでもするかのように、そして二人の囚人を終生牢からは出られぬ身であることを知らせようとするかのように、新たな不運が彼らを襲った。前々から崩れそうになっていた、海に面した外廊が改修されたのである。土台が直され、ダンテスがすでに半分埋めておいた穴が、巨大な岩石でふさがれてしまったのである。ご記憶のことと思うが、僧がダンテスに命じてやらせたこの処置が講じられていなければ、彼らの不幸はさらに大きなものとなったであろう。彼らの脱獄計画が発覚し、間違いなく二人は引き離されてしまったはずだからである。今のものよりさらに堅固で、さらに峻厳な扉が二人の上に閉されたことであろう。
「ご覧の通り」と、青年は悲しさをこめ静かにファリアに言った。「神は、あなたへの献身とあなたがお呼び下さった私の善行までも、私から奪おうとなさるのです。私は、永久にあなたのおそばを離れぬとお約束しました。それなのに、今では、その約束を破る自由すらないのです。私にもあなたにも財宝を手にすることはできません。二人ともここから脱出することはできないのです。それに、私の真の宝は、おわかりでしょうか、モンテ・クリストの暗い岩の下で私を待っている宝ではなくて、あなたがおいでになるということなのです。看守がいても、日に五、六時間はこうして二人で一緒に過ごすことができるということなのです。私の頭の中に注ぎ入れて下さった知性の光であり、私の記憶の中に植えつけて下さり、あらゆる言語の枝を生い茂らせたあのいくつかの外国語なのです。あなたの学識の深さと、あなたが基本原理を明快にして下さったおかげで、私のようなものにも平易なものとなった、あの学問の数々、これこそ私の宝なのです。これによってこそあなたは、私を豊かに、幸福にして下さいました。私の言葉を信じて下さい、そして気を落さないで下さい。私にとっては、これらのものは、なんトンもの金塊やダイヤの入った箱の数々よりも価値のあるものなのです。たとえそうした財宝が、朝、海の上に浮かぶ、陸地かと思えば、近づくにつれて霧となり蒸発し消えてしまうあの雲のように、あやふやなものではないとしてもなのです。少しでも長くおそばにいて、よどみなきお声を聞き、私の精神を磨き、魂を鍛え、いつの日にか自由の身になれたとき、どんな大きな恐ろしいことでもできるような体質を作り、あなたを初めて知った時、私が陥っていたような絶望など入りこむすきのないまでに身心を充実させること、これが私の、私の宝なのです。この宝は架空のものではありません。私はこれをたしかにあなたからいただきました。どのようなこの世の帝王たちも、たとえそれがチェザーレ・ボルジアであろうとも、これを私から奪いおおせることはできません」
こうして、この二人の不幸な男にとって、幸福な日々とは言えぬにしても、かなり速やかに流れる日々が続いた。あれほど長い年月、財宝に関しては沈黙を守っていたファリアが、今はなにかにつけてその話を繰り返すのだった。彼が予想したように、右腕と左脚は麻痺したままであった。そして、彼自身が財宝を手にする希望はほとんど失っていた。しかし、彼はその年少の友については、相変わらず釈放ないし脱出を夢見ていた。だから、この友が財宝を手にするのを、彼のために喜んでいたのである。あの文書が、いつの日にか紛失したりするのを恐れて、彼はダンテスにそれを暗記することを強制した。ダンテスは、はじめの一字から最後の一字まで、すっかり覚えてしまった。そこで彼は、二枚目の紙を破棄してしまった。一枚目のものを誰かがみつけ手に入れたとしても、その真意はわかろうはずのないことを確信していたからである。いく度かファリアは、数時間もかけて、ダンテスに指示を与えた。自由の身となった暁には、必ずやダンテスの役に立つ指示である。ひとたび自由の身となったら、自由となったその日、その時、その瞬間に、ただ一つのことしか考えてはならぬ。なんらかの方法でモンテ・クリスト島に行くこと。絶対にあやしまれぬ口実を設けて、自分一人島に残ること。そうなったならば、そうなってからはじめて、あのすばらしい洞窟発見に努める。そして指定の場所を掘ること。指定の場所とは、覚えておられよう、第二の入口から最も遠き角である。
が、さしあたり、迅速にではないにしろ、耐えきれぬほどのものではない日数が過ぎていった。すでに述べたように、ファリアは、片手、片足の機能は回復しなかったが、頭の明晰さは完全にとり戻していた。そうして、すでに詳細に述べたあの学問のほかに、無からなにかを作り出す、囚人独特の辛抱強い卓抜した手仕事を、この年少の友に少しずつ教えたのであった。ファリアは自分が老いていく姿を見るのを恐れ、ダンテスは、すでにほとんど消え失せ、もはや、夜、遠くのほうにかすかにただよう光のように、記憶の深い奥底に沈んでいる自分の過去を思い出すのを恐れて、たえずその手仕事に専念するのであった。時はこうして過ぎていった。まるで、不幸などには見舞われず、ただ神の意志の下に機械的に静かに過ぎていく暮らしの流れのように。
だが、この静けさは上べだけのもので、青年の心の中には、そしておそらくは老人の心の中にも、幾多の抑圧された衝動、おし殺された吐息がひそんでおり、ファリアにとっては一人残されたとき、エドモンにとっては自分の牢に戻ったときに、表面に現われてくるのであった。
ある晩のこと、エドモンは自分が呼ばれたような気がしてはね起きた。
彼は目を開けて、闇の中を見すかそうとした。
彼の名、むしろ彼の名をとぎれとぎれに口に出そうとしている悲痛な声が、彼の耳にまで届いた。
彼はベッドの上に起き上り、冷たい汗を額ににじませながら耳をすました。もはや疑う余地はなかった。その声は老人の地下牢から聞こえてくるのだ。
「ああ、もしかすると……」ダンテスはつぶやいた。
そして、彼はベッドをずらし、石をとりのけ、通路に飛び込み、反対側の出口に達した。敷石を持ち上げた。
前に述べた、あの妙な形をした頼りないランプの灯で、エドモンは青い顔をした老人の姿を見た。ベッドの縁にすがりついて、老人はまだ立っていた。その顔つきは、初めてそれが表われた時、あれほどまでにダンテスを怯《おび》えさせた、ダンテスがすでに知っている、あの恐ろしい徴候のためにひどくゆがんでいた。
「どうじゃ、エドモン」諦めきった様子でファリアが言った。「わかったであろう。そなたにはもうなにも言う必要はあるまい」
エドモンはうめいた。そして、なにもわからなくなって、扉に突進して大声をあげた。
「誰か来てくれ! 誰か来てくれ!」
ファリアには、まだエドモンを抱きとめるだけの力が残されていた。
「黙らぬか。黙らねば、そなた、身の破滅じゃぞ。今はもう、そなただけのことを考えるのだ。囚われの身ならそれを少しでもがまんできるものにすること、あるいは、脱走を可能なものにすることをじゃ。わしがここでやったことをそなた一人でまた始めからやり直すには、なん年もかかってしまう。わしらが往き来しておることを知られたら、即座に獄吏どもは、今まで作り上げたものをみなぶちこわしてしまうのだぞ。それに、大丈夫じゃ、わしがいま去ろうとしておるこの牢も、長いこと無人ではあるまい。また別の不幸な人間がわしの代りに入れられよう。この者の目には、そなたは救いの天使として映るのじゃ。その者は、おそらくそなたのように年も若く、力もあり、忍耐心も強いであろう。その者がそなたの脱走に力をかすであろう、わしは邪魔をしただけじゃが。そなたにまつわりつき、そなたを身動きできなくしていた、半ば死骸のようなこの身が、そなたからなくなるのだ。まさに神は、ついにそなたのためになることをして下さるのだ。神はそなたから奪うもの以上のものをお返し下さる。今こそわしの死ぬべきときなのだ」
エドモンは、ただ手を組み、こう叫んだだけであった。
「ああ、なにもおっしゃらないで下さい」
この思いがけない打撃に一時うちのめされた気力と、老人の言葉にうちひしがれた勇気とを取り戻して、
「そうだ! 私は一度あなたを救うことができたじゃありませんか、今度だって救けてみせますよ」
こう言って彼はベッドの脚をはずし、まだ三分の一だけ赤い液体の入ったびんを取り出した。
「ほら、救いの神の水薬がまだ残ってます。さあ、早く、今度はどうすればいいのか教えて下さい。新しい注意がありますか、言って下さい」
「望みはないのじゃ」と、ファリアが首をふりながら言った。「が、まあいい。人を作り給い、その心の中に、深い生への執着を植えつけ給うた神は、時にはひどい苦痛に満ちていながら、いつの場合にも尊いこの生命を永らえるために、人間があらゆる可能な手段の限りを尽すことをお望みになる」
「そう、そうですとも」ダンテスは叫んだ。「必ずお命をお助けすると言ってるんです」
「では、やってみるがよい。次第に冷たくなってきた。頭に血が上るのがわしにはわかる。わしの歯をがちがちいわせ、骨をばらばらにするあの恐ろしいふるえが、全身をゆすぶり始めた。五分後には発作が起こるであろう。十五分後には、死骸しか残るまい」
「ああ」悲しみに心をさいなまれて、ダンテスが叫んだ。
「この前の時のようにやればよい。ただし、あのときほど待つな。今回は、生命の泉が涸《か》れておる。それに」と、彼は麻痺した片腕片脚を示しながら続けた。「死のなすべき仕事は半分しかない。十滴ではなく十二滴わしの口に注ぎ入れ、それでも生き返らぬときは、残りを全部注ぎこむのだ。さあ、わしをベッドに運んでくれぬか、わしはもう立っておられぬ」
エドモンは老人を両腕に抱き、ベッドに寝かせた。
「エドモン、わしのこのみじめな生涯の唯一の慰めは、やや遅きに失したうらみはあるが、ついに神がわしに与え給うたそなたじゃ。はかり知れぬほどの価値のあるこの贈り物に対して、わしは神に感謝する。永久にそなたと別れねばならぬ今、わしはそなたの上に、世のあらゆる幸せと繁栄とのあらんことを祈る。そなたはそれにふさわしい男じゃ。わが子よ、わしはそなたを祝福する」
青年は、頭を老人のベッドにおしあて、跪《ひざまず》いた。
「が、とくにわしが今、この臨終に際して言うことをよく聞くのじゃ。スパダの財宝は実在する。神のみ心により、今のわしには距離も障害物も、もはや存しない。第二の洞窟の奥の宝が、わしには見える。わしの目は、大地の厚みを貫き、莫大な富の光にまばゆい思いをしておる。もしそなたが脱出できたならば、万人が狂人と思っておった哀れな坊主が、実はそうではない、ということを思い出せ。モンテ・クリストに走るのじゃ。わしらの財産を利用するのだ。使うがよい、そなたは、もう十分に苦しんだのだから」
激しいふるえが来て老人の言葉をさえぎった。ダンテスは顔を上げ、赤く充血している目を見た。血液が胸から額におし寄せて来たかのようであった。
「さらば、さらばじゃ」けいれんする手で青年の手を握りしめながら老人がつぶやいた。「さらばじゃ……」
「ああ、まだです、まだですよ、神様、どうか私どもをお見捨てにならないで下さい。この方をお救い下さい。どうか、私に、力をおかし下さい!」
「静かに、静かにするのじゃ」瀕死の老人がつぶやいた。「もしそなたに救けてもらえた場合は、引き離されんように」
「ああ、そうでした。そうですとも、ご安心下さい。きっとお救いします。それに、ひどく苦しんではおいでですが、この前の時よりは苦しみが軽いようです」
「いや、それは違う。わしの苦しみようが少ないのは、苦しむだけの力が弱まっておるからじゃ。そなたの年では生命を信じておる。信じ、希望を抱くこと、それは若さの特権じゃ。が、老人には、死の訪れが、より明確に見えるものなのじゃ。おお、死がそこにおる……近づいて来る……。そなたの手を、ダンテス。さらば……さらばじゃ……」
そうして、ありったけの力をふりしぼって、最後の努力をして身を起こし、
「モンテ・クリスト、モンテ・クリストを忘れるでない」
言い終えると、彼はふたたびベッドの上に倒れた。
発作はすさまじかった。よじれた四肢、ふくれ上がった瞼《まぶた》、血の泡、動きを止めた肉体。これだけが、一瞬前にそこに横たわっていたあの聡明な人間のかわりに、その苦痛に満ちたベッドの上に残されたものであった。
ダンテスはランプをとり、ベッドの枕もとの所につき出ている石の上にのせた。そのゆらめく光が、ゆがんだ顔、生気を失い硬直した身体の上に、不思議な幻想的な影を映し出した。
じっと見据えたまま、勇をこしてダンテスは薬を飲ませる瞬間を待った。
その時機が来たと思った時、彼はナイフを手にして歯をこじあけた。前の時ほど抵抗はなかった。一滴、二滴と十滴数え、彼は待った。びんにはまだ、彼が注ぎ入れた量の倍近いものが残っていた。
彼は待った。十分、十五分、三十分。ぴくりとも動かない。身はふるえ髪は逆立ち、冷たい汗が額を流れた。彼は自分の心臓の鼓動で秒を数えた。
そして、もはや最後の試みをすべき時が来たと考えた。彼は、ファリアの紫色の唇にびんを近づけ、開いたままになっていたので、こじあける必要もないままに、びんに残っていた液体を全部注ぎこんだ。
薬は電撃のような効果を示した。激しいふるえが老人の全身をゆすぶり、両眼は見るも恐ろしいまでにかっと見開かれ、悲鳴のような吐息を洩らした。ついでこのうちふるえる肉体が、徐々にまたもとの不動の状態にもどっていった。
目だけが見開かれたままであった。
三十分、一時間、一時間半たった。この懊悩《おうのう》の一時間半の間、エドモンは、友の上に身をかがめ、手を老人の胸にあてて、その身体が冷えていき、その心臓の鼓動が、次第次第に弱まり沈潜し、やがて消えていくのをじかに感じていたのだ。
ついに、生きながらえている部分はすべてなくなってしまった。心臓の最後のおののきが止まった。顔は鉛色になり、目はまだ開いていたが、その光は消えた。
朝の六時であった。夜が明け始めていた。
その柔かい光が、地下牢にもしのび寄ってきて、消えかけているランプのあかりを弱めた。不思議な光の反映が死人の顔の上をよぎり、時おり、ダンテスに生命が蘇ったかと思わせた。朝と夜とが戦っている間は、ダンテスはまだ、もしやと思うことができた。がついに朝の光が勝利を収めた時、この牢にいるのが自分と死体だけであることを彼は知らされたのである。
深い、どうしようもない恐怖が彼を襲った。それ以上、ベッドの外にだらりと垂れているその手を握り続けている勇気はなかった。彼がなん回閉じさせようと試みても無駄で、すぐまた開いてしまうその動かぬ白い目を、それ以上見続けることはできなかった。彼はランプを消し、注意深くそれをかくすと、その場を逃げ出して、できるだけうまく、頭上で敷石をもとに戻した。
それに、そろそろ看守が来る時間だったのである。
このときは、看守はダンテスの所へ先に来た。ダンテスの牢を出て、ファリアに朝食と下着を持って行ってやろうとしていた。
この男の様子には、前夜の出来事を知っているようなところは全然見られなかった。看守は出て行った。
この時、ダンテスは、あの不幸な友の牢でどんなことが起こるか、どうしても知りたくてたまらなくなった。そこで彼は、また地下道をたどり、向う側に着いた時、看守が手助けを求める叫び声を上げているのを聞くことができた。
やがてほかの看守たちが入って来た。それから、任務を離れたときにもそのくせの残る、兵隊特有のあの重い規則的な足音が聞こえてきた。兵士の後から長官がやって来た。
エドモンは、死体がゆすぶられてベッドが音をたてるのを聞いた。長官の声が聞こえる。顔に水をかけろ、と命じている。水をかけても生き返らないのがわかると、医者を呼びにやらせた。
長官が出て行った。ダンテスの耳に、嘲笑のまじった同情の言葉が聞こえてきた。
「やれ、やれ、この気違いも宝物の所へ行ったというわけだ、道中ご無事でな」
「なん百万も持ってるってのに、経帷子《きょうかたびら》一枚着せちゃもらえまいよ」
「なんの、シャトー・ディフの経帷子はそんなに高くはねえやな」
「こいつは教会のお人だから、たぶんなにがしかの出費はしてやるだろうぜ」
「とすりゃあ、袋をお恵み下さるってわけだ」
エドモンは耳をそばだてていた。一言も聞き洩らさなかった。しかし、たいしたことは聞きとることができなかった。やがて声が消え、牢内にいた者たちは立ち去ったように思われた。
けれども、彼は中に入る勇気はなかった。死者の番をするために、看守を残してあるかもしれないのだ。
彼は声もたてず、じっとしたまま、息を殺していた。
約一時間たった頃、それまでの静寂の中にかすかなもの音がして、次第にその音が大きくなった。
医師となん人かの士官を従えて、長官がまた来たのである。
しばらく沈黙が続いた。明らかに、医師がベッドに近づき、検死をしているのだ。
やがて質問が始まった。
医師は囚人の死因となった病気の説明をして、まさしく死んでいる旨を告げた。
無造作に交わされる質問と答えとが、ダンテスを怒らせた。この哀れな僧に対して彼が抱いている愛情の一部ぐらいは、誰しもが抱いて然るべきではないかと彼は思ったのである。
「あなたにそう言われて、私は残念に思いますよ」医師が老人はまさしく死んでいるとはっきり述べたのに答えて、長官が言った。「この囚人はおとなしくて、凶暴でもなく、彼の気違いぶりもおもしろかったし、とくに監視がしやすかったのでね」
「まるで監視の必要などありませんでした」看守が言った。「脱獄なんて一度だって考えずに、五十年でもおとなしくここにいましたよ、請けあいます」
「けれども」と、長官が言った。「あなたは確信を持っておいでだし、またあなたの学問を信用しないわけではありませんが、私自身の責任として、この囚人がほんとうに死んでいるかどうか早速確かめてみねばならぬと思います」
一時、まったく音がしなくなった。耳をそばだて続けていたダンテスは、その間に医師がもう一度、死体に手をふれ検査しているものと思っていた。
「ご心配ありません」医師が言った。「死んでいます、私が保証します」
「そうはおっしゃいますがね」と、長官がなおも言うのであった。「こういうような場合には、単なる検死だけでは十分ではないのですよ。所見はどうであれ、法に定められた手続きだけはきちんと踏んで下さい」
「こてを焼け」医師が言った。「しかしねえ、その気遣《きづか》いは無用ですなあ」
この、こてを焼けという命令は、ダンテスをふるえ上がらせた。
いそがしい足音と、扉のきしむ音、牢内を人が行きかう音が聞こえた。それからしばらくして、獄吏の一人がこう言いながら入って来た。
「炭火と≪こて≫を持って来ました」
しばらく沈黙が続いた後に、じりじりと肉の焼けただれる音が聞こえ、そのむっとするような吐気を催させる臭いが、ぞっとしながら耳をすますダンテスの所まで、厚い壁を貫いてきた。
人間の肉が焦げるこの臭いに、青年の額から汗がほとばしり出た。彼は気を失うのではないかと思った。
「ご覧の通り、まさしく死んでます」医師が言った。「こうしてかかとを焼いてみたのですから決定的ですよ。この哀れな狂人も、ついにその狂気がなおって、牢獄暮らしからも解放されたというわけです」
「たしかファリアという名前でしたね」長官に随行して来た士官の一人が訊ねた。
「そうだ。彼の言うところでは、古い由緒ある名前だそうだ。それに、大へんな学者でね、宝物のこと以外では、あらゆる点で理路整然としていたよ。だが宝物のこととなると、正直言って、まったく手に負えなかった」
「私どもの言葉で、偏執狂と呼ぶ一種の執念です」医師が言った。
「この囚人のことで、なにか苦情を言いたくなるようなことはなかったかね」長官が、僧に食事を運ぶ役の看守に訊ねた。
「まるっきり、ただの一度だってありませんでした。まるでその反対です。以前は、いろんな話をしてくれておもしろがらせてくれたくらいですし、女房が病気になったときなど処方を教えてくれて、おかげで直ったことさえあります」
「ほ、ほう」医師が言った。「同業者の世話をしたとは知りませんでしたなあ。では長官殿、応分のお取り扱いをお願いしますよ」医師は笑いながらつけ加えた。
「ええ、ええ。ご心配なく。できるだけ新しい袋に入れて、丁重に埋葬してやりましょう。それでよろしいですな」
「長官殿の見ておられる所で、その最後の処置をしなければいけませんか」獄吏が訊ねた。
「もちろんだ。だが急げ、一日中この牢にいるわけにはいかんからな」
また人が行き来する音が聞こえた。間もなく、布がごそごそいう音がダンテスの耳にも達した。ベッドのバネがきしみ、なにか重い荷物を持った男の重い足音が敷石の上にひびいた。それからもう一度、重いものがのせられてベッドがきしんだ。
「では今夜」と長官が言った。
「ミサをしますか」士官の一人が訊ねる。
「できないのだ」長官が答えた。「教悔師《きょうかいし》が昨日来て、一週間ばかりイエールヘ旅行をするから暇をくれと言うので、その間に囚人がどうかなることはないと請けあってしまったのだ。気の毒な坊さんだよ、こんなに急いで死にさえしなけりゃ、ミサもあげてやれたのに」
「かまうもんですか」と医師が、この職業の者に共通の無信仰なところを見せて言った。「これは教会の人だ。神様も、商売柄を考えて、司祭を地獄に送りこんで、地獄を喜ばせるようなことはなさらんでしょう」
この悪い冗談の後に、どっという笑い声が上がった。
その間に、埋葬の準備が行なわれていた。
「では今夜」と、それが済むと長官が言った。
「何時にしましょう」獄吏が訊ねる。
「まあ、十時か十一時だろう」
「死人に番をつけますか」
「そんな必要はない。生きていたときと同じように、牢を閉めておけばそれでよい」
こうして足音が遠ざかって行った。錠前ががちゃがちゃいい、かんぬきがきしむ音とともに、扉の閉まる音がした。静寂というよりも重苦しい沈黙、死の沈黙があたりすべてにただよい、青年の凍りついた魂にまで忍びこんできた。
彼は頭でそっと敷石を持ち上げ、牢内をうかがう視線を投げた。
牢内は空《から》であった。ダンテスは地下道から出た。
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二十 シャトー・ディフの墓
ベッドの上に、ベッドのたての方向に横たえられた粗い麻袋が、窓を通して入ってくるぼんやりした光にかすかに照らされていた。その大きなひだが、袋の中の細長く堅い物体の姿を見せている。これがファリアの経帷子《きょうかたびら》、獄吏どもの言葉によれば、ごくごく安価な経帷子なのであった。こうしてすべては終ったのだ。ダンテスと旧友との間には、すでに実質的な別離が存在していたのだ。もはや、死の彼方までも見すかそうとするかのように見開かれたままの、あの目を見ることもできなかったし、かくれたものを覆っていたヴェールをとりのけてくれた、あの巧妙な手を握ることもできなかった。彼があれほどまでになれ親しんできたこの有益かつよき友は、もはや彼の記憶の中にしか存在しないのであった。彼はその恐ろしい死の床の枕もとに腰をおろし、暗澹《あんたん》たる思いに沈むのであった。
孤独。彼はまた孤独となった。沈黙の中にふたたび落ちこんだのだ。眼前にあるものはただ虚無だけである。
孤独。彼を今なお現世につなぎとめていた、ただ一人の人間の姿も、声すらも、もはや存在してはいない。ファリアのように、末期《まつご》の苦しみを味わう死の門をくぐる危険を賭して、神のみもとに生命の謎を問いに行ってしまったほうがましなのではないか。
友により払いのけられ、友がいてくれたことにより遠ざけられていたあの自殺という考えが、ファリアの死体のかたわらに、また亡霊のように現われてくるのだった。
『もし死ねたら、俺はあの人が行った所へ行ける。そして、間違いなくあの人にまた会えるだろう。だがどうやって死ぬか。簡単さ』彼は笑いながら続けた。『ここにこのままいればいい。最初に入って来た奴にとびかかる。そいつを締め殺してやれば、おれはギロチン行きだ』
が、激しい苦痛のさ中においても、激しい嵐のさ中におけるように、大きな波と波の間に奈落《ならく》の底が見えるものであるから、ダンテスはこの不名誉な死の観念から後退して、即座に絶望から生と自由への激しい渇望へと移行したのであった。
『死ぬ! とんでもない。今死ぬなら、あれだけ生き、あれほど苦しんだ甲斐がない。かつてなん年か前に、俺が死を決意したあの時なら、死ぬのもいい。が今死ぬのは、俺のみじめな運命に、さらに手をかすことにしかならぬではないか。いや、俺は生きるぞ、最後まで戦うぞ。奪われた俺の幸せを、俺はふたたび手に入れてみせる。死ぬ前に、俺は、俺を苦しめた連中を罰してやらねばならぬということを忘れていた。それからまた、むくいてやらねばならぬなん人かの友もいるはずだ。だが今は、おれはここで人から忘れられようとしている。ファリアのようにならなければ、おれはこの地下牢から出られないのだ』
が、この自分の言葉に、エドモンは、ある考えがひらめいた者のように、身動きを止め、じっと目を見据えた。だが、なんと恐ろしい考えであったろうか。いきなり彼は立ち上がり、めまいを感じたかのように、手で額をおさえたまま、牢内を二、三回歩きまわり、またベッドに腰をおろした……
「ああ、こんなことを思いつかせたのは誰なのか」彼はうめいた。「神よ、あなたなのですか。ここから自由に出られる者は死者以外にはないのだから、その死者になりかわろう」
そして、この絶望的な決意をひるがえすだけの余裕を思考力に与えまいとするかのように、心に決めたことをもう一度よく考えて時間をつぶすことはせずに、直ちにその見苦しい袋の上にかがみこんで、ファリアが作ったあのナイフで袋を切り開いた。袋から死体を出し、自分の牢に運び、自分のベッドに寝かせて、彼自身がいつも頭をくるんでいたぼろを頭にかぶせ、毛布をかけた。冷たい額に最後の接吻をした後、どうしても閉じない目を閉じさせようとした。知性の光を失ったために見るも恐ろしいものとなっているその目は、相変わらず見開かれたままだったのである。夕食を持って来た看守に、ダンテスが寝ていると思いこませるように、顔を壁のほうに向けた。ダンテスはよくそうしていることがあったのだ。それから地下道に入り、ベッドを壁ぎわに引き寄せ、僧の部屋に戻り、戸棚から針と糸を取り出し、身にまとったぼろを脱ぎ捨てた。麻袋の中に裸の死体が入っていると思わせるためである。口の開いた袋の中に滑りこみ、死体が入っていた時と同じ姿勢をとって、中から口を縫い合わせた。
このとき、不幸にして誰か入って来たら、彼の心臓の鼓動の音が聞こえたことだろう。
ダンテスは、看守の夜の巡回の後まで待つこともできたのである。が、彼はそのときまでに長官の考えが変わって、死体が運び去られてしまうことを恐れたのだ。
そうなれば、彼の最後の希望までが失われてしまう。
いずれにせよ、もはや彼の計画は決まったのだ。
彼が心に決めていることはこうであった。
もし運ばれて行く途中で、墓掘り人足たちが、運んでいるのが死人ではなく生きた人間であることに気がついたら、ダンテスだと見破るだけの暇を与えない。ざくっとばかりにナイフで袋を上から下まで切り開き、人足どもの恐怖を利用して逃げる。もし捕まえようとしたら、ナイフにものを言わせる。
もし彼らが墓まで運び、墓穴に入れたら、そのまま土をかけさせる。その後で、夜だから、人足どもが背を向けたとたんに、柔らかい土をかきわけて逃走する。ダンテスは、土の重みが、おしのけられぬほど重くはないであろうと考えていた。
もしこれが思い違いで、逆に土が重すぎれば、彼は窒息して死ぬであろう。結構な話だ。どうせすべては終っているのだ。
ダンテスは前日から、なにも食べていなかった。が、朝は空腹のことなど考えなかった。そして、まだそんなことは考えなかった。彼が今おかれている立場はあまりにも不安定で、ほかのことを考える暇などなかったのである。
ダンテスが冒している最初の危険は、七時の夕食を運んで来る看守が、替え玉に気づくことであった。幸い、人の顔が見たくなかったり、あるいは疲れていたりして、なん回となく、寝たまま看守を迎えたことがあった。そんなとき、ふつう看守は、テーブルの上にパンとスープを置いて、話しかけもせずに出て行くのであった。
だが、今夜は、看守がいつもと違って、ふだんの黙り屋に似合わず、ダンテスに話しかけるかもしれなかった。そして、ダンテスが返事をしないのを見て、ベッドに近づき、すべてを発見してしまうかもしれなかった。
七時が近づくと、ダンテスの不安は深刻なものになってきた。心臓の上にのせた手は、その鼓動を抑えようとしていたし、もう一方の手は、こめかみを伝う汗をぬぐっていた。時おり戦慄が全身を走り、冷たい万力で心臓を締めつけられるようであった。ダンテスは死ぬのではないかと思った。シャトー・ディフの中になにも動きが感じられぬままになん時間かが流れた。最初の危険が去ったのをダンテスは感じた。これは幸先《さいさき》よい前兆であった。ついに長官が決めた時刻になり、階段のあたりに足音が聞こえてきた。エドモンは、いよいよその瞬間が訪れたことを知った。全身の勇気をふるい起こし、彼は息をつめた。息と同時に、動脈の急速な搏動《はくどう》をも止めることができたら、どれほど幸福に思えたことだろう。
足音が扉の前で止まった。二人の足音であった。ダンテスは自分を運びに来た二人の墓掘り人足だと思った。
二人が担架《たんか》を置く音を耳にした時、この予測は確信となった。
扉が開き、麻袋を通してあかりがダンテスの目に届いた。彼が入っている袋ごしに、二つの影がベッドに近づくのが見えた。三つ目の影が、カンテラを手にして扉の所にいる。ベッドに近づいた二人が、めいめい袋の両端を持った。
「あんな痩せっぽちの爺さんにしちゃ、ずいぶんまた重てえな」頭のほうを持った男が言った。
「一年に半ポンドは骨が重くなるって言うぜ」足のほうを持ちながらもう一人が言った。
「縛りつけたか」はじめの男が訊ねる。
「役にも立たねえ重てえものなんか担《かつ》ぐほど馬鹿じゃねえよ、あっちで縛りつけらあな」
「それもそうだ。じゃ、行こうぜ」
『なんのために縛りつけるのか』ダンテスは心の中でつぶやいた。
二人は、死んだと思っているものをベッドから担架に移した。エドモンは、死体のふりをするために、身をこわばらせた。担架にのせると、一行は、カンテラを持った男を先に立てて、階段を上って行った。
急に、冷たい刺すような夜の外気が彼を包んだ。ダンテスは、ミストラル〔フランス南部の北風〕だなと思った。快よいと同時に痛いような感動が彼をとらえた。
人足たちは二十歩ほど歩いてから立ち止まり、担架を地面に置いた。
担架を運んできた一人が離れて行く。ダンテスは敷石の上にひびくその靴音を聞いていた。
『ここはどこだろう』
「軽いなんてもんじゃなかったぜ」ダンテスのそばに残ったほうの男が、担架の縁《へり》に腰をおろしながら言った。
まずダンテスが感じたことは、逃げるということだった。が幸い彼は思いとどまった。
「やい、灯をこっちに向けねえか」さっき離れて行った人足が言った。「探してるもんがみつからねえじゃねえか」こんな乱暴な言い方ではあったが、カンテラを持った男はこの言葉に従った。
『いったい何を探しているんだろう。きっと、スコップだな』ダンテスは思った。
満足したような叫び声がして、墓掘り人足はどうやら探していたものをみつけたようであった。
「まったく苦労するぜ」別の男が言った。
「まったくだ。だけど死んだ奴はいくら待ったって、べつに損はねえや」
こう答えて、遠くにいたほうの男がエドモンの近くに来た。自分のすぐわきになにか重いものがどすんと置かれる音をエドモンは聞いた。と同時に、両足を一本のロープが、痛いほどきつく縛り上げた。
「縛ったか」なにもしないほうの人足が訊ねる。
「ああ、できた。でえじょぶだ」
「そんなら、行くとしようぜ」
担架が持ち上げられ、また進み始めた。
五十歩ほど歩いた所で、一たん立ち止り、門を開けた。それからまた進む。進むにつれ、城が建っている岩礁に砕ける波の音が、よりはっきりとダンテスの耳に聞こえるようになった。
「ひでえ天気だな。こんな晩に海に入るなあ楽しくはあるめえぜ」
「まったくだ、坊さんもずぶ濡れになるってわけだ」そう言って人足どもは笑った。
ダンテスにはこの冗談の意味がよくわからなかったが、それでも髪が逆立つ思いがした。
「よし、さあ着いたぜ」
「もちっと先だ。この前の時、途中でひっかかっちまって、岩で砕けちまったじゃねえか。翌る日、長官に貴様らは怠け者だとどやされたのを忘れちゃいねえだろう」
さらに四歩か五歩坂を登った。ついでダンテスは、頭と足を持たれて、ゆすられるのを感じた。
墓掘り人足どもが声を合わせて言った。
「一」
「二の」
「三」
同時にダンテスは実際に、虚空《こくう》の中に放り出されるのを感じた。傷ついた鳥のように、風を切り、下へ下へ、心臓も凍るほどの恐怖を味わいながら。たださえ急速な墜落を、なにか重い物がさらに下にぐんぐん引いてはいたが、ダンテスにはそれが一世紀も続いたように思えた。ついに、すさまじい水音と共に、彼は冷たい水の中に矢のように突入した。彼は叫び声を立てたが、その瞬間に水中に没したため、叫び声はかき消された。
ダンテスは海中に投げこまれたのであった。足につけた三十六ポンドの錘《おも》りが、海底めがけて彼を引きずりこんで行く。
海がシャトー・ディフの墓だったのである。
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二十一 チブラン島
ダンテスは、ただ茫然とし窒息しかけていたが、それでも息を殺さねばならぬと考えるだけの意志の力はあった。そして、前に述べておいたように、どのような事態にも備えて、右手に刃がむき出しのナイフを握っていたので、急いで袋を切り、腕と頭を袋から出した。が、その後は、錘《おも》りをつけたまま浮き上がろうとしても、なおも下へ引きずられるのを感じた。そこで彼は身体を曲げて、脚についているロープを探った。そうして、すさまじい努力の末に、今まさに窒息しようとする瞬間に、それを切り離すことができた。力強く足を一蹴りして、彼は自由の身となって海面に浮かび上がった。錘りは、危うく彼の死装束《しにしょうぞく》となるところであった麻袋を引きずったまま、底知れぬ海底に沈んでいった。
ダンテスは息だけつくと、すぐまた水中にもぐった。まず心がけねばならぬことは、人目を避けるということなのだ。
二度目に水面に顔を出した時には、落ちた位置から、少なくとも五十歩は遠ざかっていた。彼は頭上に、漆黒の嵐をはらんだ空を見た。雲が風に吹き払われ、一つまたたく星がきらめいているほんの小さな青い空の一隅を、時おりのぞかせていた。眼前には、努号する暗い海原がひろがっていた。嵐が近づいている時のように、波は泡立ち始めていた。そして背後には、海よりも黒々と、空よりも黒々と、御影石の巨人の、威嚇する化物のような姿がそそり立っていた。その黒々とした頂《いただき》は、獲物にふたたび掴《つか》みかかろうとして拡げた腕のようであった。一番高い岩の上で、カンテラが一つ、二つの人影を映し出していた。
ダンテスには、その二つの人影が、心配そうに海をのぞきこんでいるように思えた。
事実、あのおかしな墓掘り人足どもは、ダンテスが虚空を落ちながら上げた叫び声を、耳にしたに違いなかった。そこでダンテスはまた水にもぐり、かなり長いあいだ水中を泳いだ。これは、かつて彼がしょっちゅうやったことだった。ファロの入江で、彼は自分の周囲に彼のもぐったままの泳ぎの讃美者たちを集めたものである。人びとは彼を、マルセーユ随一の泳ぎ手と、しじゅう評したものであった。
泳ぐ方向を定めねばならなかった。シャトー・ディフの周囲の島々のうち、ラトノーとポメーグが一番近い。しかし、ラトノーとポメーグには人が住んでいる。ドームの小島もそうである。したがって、最も安全なのはチブラン島かルメール島であった。チブランとルメールの両島はシャトー・ディフから一里(四キロ)も離れたところにある。
それでもダンテスは、その二つのうちのいずれかの島に泳ぎつこうと決心した。だが、刻々とその濃さを増す周囲の夜の闇の中で、どうしてそれらの島をみつけることができよう。
この時、星がまたたくように、プラニエの燈台が光るのが見えた。
この燈台めがけて真直ぐに進めば、チブラン島はわずか左にはずれる。だから、わずかに左寄りに進めば、チブラン島にぶつかるはずであった。
が、すでに述べたように、シャトー・ディフからこの島までは、少なくとも一里はあるのだ。
牢にいた頃、ぐったりしてのらくらしているダンテスを見ると、ファリアはよくこう言ったものだった。
「ダンテス、そんなふうにだらけていてはならぬ。脱走を試みるとき、もし体力が維持されていなければ、そなたは溺れてしまうぞ」
重く苦《にが》い波の下で、この言葉がダンテスの耳もとに鳴りひびいた。彼は急いで水面に浮かび上がり、実際に彼が力を失っていないかどうかを試すために、波をかきわけて泳いでみた。運動不足を強制されていたにもかかわらず、自分の力も敏捷さも、少しも失われていないことを知ってうれしかった。小さい頃から戯れてきたこの水を、自由自在に扱えるのを感じた。
それに、恐怖心が、この絶え間なくせきたてる脅迫者が、ダンテスの気力を倍にした。彼は、なにか騒音が彼の所まで達しては来ぬかと、波の頂に身を乗り出して耳をすました。波のてっぺんに上がるたびに、す早く、見える限りの海面に視線を投げ、すぐまた濃い闇の中に身を沈めるように努めるのだった。ほかの波より少し高い波は、彼には追って来るボートに見えた。すると彼は倍の力を出した。それはたしかに彼をより遠ざけはしたが、いつまでも繰り返せば体力を急速に消耗させてしまうに違いなかった。
が、彼は泳いだ。すでにあの恐るべき城は夜のもやの中にかすみ始めていた。はっきりその姿を認めることはできなかったが、彼はなおもその姿を感じとっていた。
今や彼の全身に浸透していた、自由なのだ、という気持にかりたてられるように、彼は定めた方向に向かって、波をかきわけ、一時間が過ぎた。
『待てよ。泳ぎ始めてからそろそろ一時間になるぞ。逆風だから、泳ぐスピードは四分の一ぐらい遅くなるが、方角さえ間違っていなければ、もうチブランの近くに来ているはずだ。が、もし方角が違っていたら……』
戦慄が泳者の全身を貫ぬいた。彼は一時休むために浮き身を試みた。しかし、海は次第に荒れ始めていて、はじめ考えていたこの疲労軽減の方法が不可能であることを間もなく悟るのであった。
『よし、それなら最後までやるだけだ。腕が疲れはて、けいれんが全身をとらえるまで。そうなったら、海底に沈むだけだ』
彼は捨てばちな力をふるいおこして泳ぎ始めた。
と、突然、それまでも暗かった空がさらに暗くなり、濃く重い雲の塊が頭上に覆いかぶさって来るように思った。と同時に、膝に激しい痛みを感じた。するとすさまじい早さで想像力が働き、弾丸にやられたのだ、直後に銃の発射音が聞こえてくる、と思った。が、発射音は轟かなかった。ダンテスは片手をのばした。するとなにか堅いものに手がふれた。痛めなかったほうの脚を引き寄せてみると、大地に足がふれた。そのとき彼は、自分が雲と見誤ったものを見たのである。
二十歩ほどの所に、燃えさかる巨大な炉《ろ》の火がそのまま凝固したかに見える、奇怪な岩の塊がそそり立っていた。チブラン島であった。
ダンテスは立ち上がり、なん歩か前に歩いた。そして、神に感謝しながら、岩の上に身を横たえた。このとき、その岩肌が、どんなに柔かいベッドよりも彼には柔かいものに思えた。
それから、風や嵐、雨も降り始めていたが、疲労にうちひしがれていたダンテスは眠りに落ちた。肉体は眠っていても、その魂は思いがけない幸福を得た喜びに目覚めている者の、あの快い眠りであった。
一時間後に、ダンテスは目が覚めた。すさまじい雷鳴が轟いていた。嵐が猛り狂い、その努号する翼で大気をうちのめしていた。時おり空から火の蛇のような稲妻が落下し、巨大な渾沌《こんとん》の中に逆巻く怒濤《どとう》のような、波と雲とを照らし出していた。
ダンテスの船乗りの目に狂いはなかった。二つの島のうちの最初の島、彼は実際にチブラン島に泳ぎ着いたのであった。この島が裸の島で、木一本生えておらず、身をかくす場所もないことを彼は知っていた。しかし、嵐が静まったならば、彼はもう一度海に入り、ルメール島に渡るつもりであった。この島も草木の生えていない島ではあったが、より広く、したがってより安全なのである。
前にのめり出ている一つの岩が、一時的なかくれ場所をダンテスに与えてくれていた。彼はそこに身をよせた。と、ほとんど同時に、嵐は最高潮に達した。
ダンテスは、自分がその下に身をよせている岩がゆれるのを感じた。この巨大なピラミッド型の岩礁に砕ける波のしぶきが、彼の所まで降りそそいできた。
彼はたしかに安全な場所にいたが、地の底をゆするような轟音と、目もくらむような閃光のさ中にいる彼は、めまいに似たものに襲われていた。足もとの島全体がゆらぐようであった。そして、錨を入れた船のように、今にも、錨綱《いかりづな》が切れて、彼を巨大な渦潮の中につれ去ってしまうかに思われた。
このとき彼は、二十四時間のあいだ、なにも食べていないことを思い出した。腹が空いていた。喉がかわいていた。
ダンテスは、手と首をさしのべて、岩の窪みの雨水を飲んだ。
彼が立ち上がろうとした時、まばゆい神の玉座の足もとまでも空を引き裂くかに見えた稲妻が天地を照らした。この稲妻の光で、彼から一キロほど離れた、ルメール島とクロワジーユ岬の間に、吹きすさぶ風と波とに翻弄された一隻の小さな漁船が、波の頂から奈落の底へ滑り落ちて行くのが幻のように見えた。一瞬後には、また別の波の上に姿を現わし、すさまじいスピードで近づいて来る。ダンテスは叫ぼうとした。彼らに、そのままでは身の破滅であることを知らせるための、空中でうち振るぼろきれでもないかと探した。が、そのことは彼ら自身が、十分に知っていたのだ。また稲妻が閃《ひらめ》いて、ダンテスは、マストや支索にかじりついた四人の男の姿を見た。もう一人の男が、折れた舵の柄にしがみついている。ダンテスが見ているその男たちも、ダンテスの姿を見たにちがいない。絶望的な叫び声が、怒号する風に運ばれて彼の耳にまで達したからだ。葦のようによじれたマストの上には、ずたずたにちぎれた一枚の帆が、いそがしく風にはためいていた。突然帆をつなぎとめていた索が切れ、帆は、黒い雲の下を舞う大きな白鳥のように、暗い空の底に吹きとばされ、見えなくなった。
それと同時に、すさまじい衝撃の音が聞こえ、断末魔の悲鳴がダンテスのいる所まで達した。スフィンクスのように岩にしがみついて奈落の底を見下すダンテスに、新たな稲妻の光が、うち砕かれた小船の姿を見せた。残骸の間に、絶望にゆがんだ顔と、天に向かってさしのべられた手も見えた。
またすべては闇にのみ込まれた。恐ろしい光景は、閃光のきらめく瞬間しか続かなかった。
ダンテスは、自分が海中にころげ落ちる危険をもかえり見ず、滑りやすい岩の斜面を駈け降りた。目をこらし耳をすましたが、もはやなにも見えず、なにも聞こえなかった。叫び声も人のもがく姿も。嵐だけが、この神の手になる巨大な物だけが、風を吼え猛らせ、波を泡立て続けていた。
次第に風がなぎ、空は、いわば嵐によって色あせた、大きな雲の塊を西の方へ吹き寄せていた。前よりもいっそう輝きを増した星とともに青空が現われた。やがて東の方に、赤く細長い帯ができ、水平線上に、青黒い波のうねりを描き出した。波は躍り、その頂を一すじの光の矢が走り、波頭を金のたてがみに変えた。
夜明けであった。
ダンテスはその偉大な光景を前にして、まるで初めて見る者のように、じっと動かずただ黙っていた。事実、彼はシャトー・ディフに入れられて以来、この光景を忘れていたのだ。彼は城のほうをふり返ってみた。大地と海とを同時に、はるかにさぐるように眺め渡した。
その陰惨な城は、波のさ中にそそり立っていた。あたりを睥睨《へいげい》し支配するかのような、微動だにせぬどっしりとした威厳を具えて。
朝の五時頃のはずであった。海はしだいに穏やかになっていった。
『二、三時間すれば』ダンテスはつぶやいた。『看守が俺の牢に入って来る。そしてあの気の毒な人の死体をみつけ、それがファリアだとわかる。俺の姿を探してもみつからないから、急を知らせるだろう。そうなれば、あの穴も地下道もみつかってしまう。俺を海に投げこんだ連中が訊問される。やつらは、俺が上げた叫び声を聞いたにちがいない。直ちに武装した兵士たちを満載したボートが、逃げた囚人の追跡に向かうだろう、そう遠くまで行っていないことがわかっているから。大砲を撃ち、湾岸一帯に、裸で腹をへらした男に出会っても宿をかしてはならぬ旨を告げるだろう。マルセーユの密偵やらお巡りどもが海岸をしらみつぶしにするだろうし、シャトー・ディフの長官は海をしらみつぶしに探すだろう。そうなれば、海では追いつめられ、陸では包囲されてしまい、この俺はどうなる。腹はへっているし、寒いし、命の綱のあのナイフも、泳ぐのに邪魔なので、俺は手放してしまった。俺の身柄を引き渡して二十フラン稼ごうとする百姓にでも出会えば、俺はそいつの思いのままだ。俺にはもう力もなく、なにも思い浮かばず、決断力もない。ああ、神様、私の苦しみ方はまだ足りないのでしょうか。私にはできないことでも、あなたは私のためにして下されるのではないでしょうか』
体力を使い果たし、頭の中もうつろになったために一種の錯乱状態に陥ったダンテスが、不安そうにシャトー・ディフを見やりながら、この熱烈な祈りを口にしたとき、ポメーグ島の先端に、波をかすめて飛ぶカモメのような、大きな三角帆を見せている小さな船の姿が現われるのを見た。船乗りの目でなければ、それがまだ薄暗い航路の上を行く、ジェノヴァの小型帆船と見きわめることはできなかったろう。その船はマルセーユを出港し、ふくらんだ船腹の抵抗を少なくするための鋭角の船首で、きらめく泡を押しわけながら沖へ出ようとしていた。
『おお』ダンテスは叫んだ。『もし俺が、質問され、脱獄囚と見破られ、マルセーユヘ連れ戻されることを恐れさえしなければ、三十分後にはあの船に泳ぎ着いてみせるのだが。どうすればいい。なんと言おう。やつらをうまく欺せるような作り話はできぬものか。やつらはどうせ密輸商人だ。半分海賊みたいな連中だ。沿岸貿易と称して沿岸を荒し廻っている奴らだ。一文にもならない人助けをするよりは、おれを売り渡すほうを選ぶだろう。
待とう。
だが待ってはいられないぞ。死にそうなほど腹はへっているし、二、三時間もすれば、今わずかに残っている俺の力もすっかりなくなってしまう。それに、看守の来る時刻も迫っている。警報はまだ発せられていない。連中もおそらくまだなにも気づきはしまい。昨夜こなごなになったあの船の船員だと思わせることができる。この作り話はほんとうらしく見えるぞ。だれも嘘だなどと言いに来る者はいない。全員海にのまれちまったんだ。よし』
こう言い終えると、ダンテスは小船が砕け散った場所に目を向け、身ぶるいした。岩角に遭難した船員の赤い円帽子がまだひっかかっていた。そして、そのすぐそばに、船の残骸がただよっていた。力のない破城槌《はじょうづち》のように岩を打つ波のために、梁《はり》材が、島の波打ち際に寄せては返しているのであった。
一瞬のうちにダンテスは意を決した。彼はまた海に入り、帽子のほうに泳いで行き、それを頭にかぶると、梁を一本掴んで、帆船が進むと思われる進路を横切る方角を目ざした。
『これで救かったぞ』彼はつぶやいた。
この確信が彼に力をとり戻させた。
やがて彼は、逆風をほとんどまっこうから受けたその船が、シャトー・ディフとプラニエの灯台の間をジグザグに走っているのを見た。ダンテスは一瞬、その船が、沿岸ぞいに走らずに沖へ出てしまうのではないかと心配した。もし行先が、たとえばコルシカかサルディニアであればそうするのだ。だが間もなく船の操り方からして、イタリアヘ向かう船がいつもそうするように、ジャロス島とカラザレーニュ島の間を通り抜けようとしていることがわかった。
そうするうちにも、船とダンテスとの距離は、わずかずつではあるが縮まって来ていた。こちらへ斜航した際には、ダンテスから一キロほどの近くにまで来ることさえあった。彼は波の上にのび上がり、助けを求めるしるしに、帽子を振った。が、船の者はだれも彼の姿を認めず、船首をめぐらしてまた別の斜航を始めるのだった。ダンテスは叫ぼうかと思った。しかし、距離を目測して、自分の声は、海を渡る風と波の音に吹き払われかき消され、船までは届くまいと思った。
このとき彼は、用心して梁に身を託してよかったと思った。すでに体力はおとろえていたから、こうしていなければ、小型帆船に到達するまで海面に浮いていることはとてもできなかったであろう。あり得ることなのだが、小型帆船が彼に気づかずに通過してしまえば、ダンテスには、もはや岸に泳ぎつく力がないことは明白であった。
船がとっている進路にはほぼ確信があったけれども、ダンテスは、船が進路を変えて彼のほうにふたたび近づいて来るのを見るまでは、不安に満ちた眼差しで船の姿を追った。
船が近づいて来るので、彼は船に出会うように泳ぎ進んだ。が、出会う前に、船はまた舳先《へさき》をめぐらし始めた。
すぐさまダンテスは、渾身《こんしん》の力をふりしぼって海面に立ち上がらんばかりになり、帽子をうち振りながら叫んだ。遭難した船乗りが叫ぶ、海の精の嘆きにも似た、あの悲痛な叫び声であった。
今度は船のほうでも彼の姿を見、彼の声を聞いた。小型帆船はめぐらしかけた舳先をもどし、彼のほうに方向を変えた。それと同時に、船の上で、ボートを降ろす準備をしているのが見えた。
一瞬後には、二人の男を乗せたボートが、二組のオールで水をかきながら、彼のほうへ進んで来た。ダンテスは、もう不必要と思い梁を手放し、彼を助けに来る男たちの漕ぐべき距離を半減させようと力泳し始めた。
だが、泳者はすでにほとんど尽きていた自分の力を過信したのだ。すでに彼から百歩も離れた所でただ波間にただよっているその木片が、自分にとってどれほど有益であったかを知ったのはその時である。両腕はこわばり始めていた。脚は屈伸の自由を失った。彼の動きはぎごちなくせかせかと不規則なものとなった。胸はあえいでいた。
彼は大声をあげた。ボートの二人は漕ぐ力を倍にした。その一人がイタリア語で叫んだ。
「がんばれ!」
この言葉が届いた瞬間に、もはやそれを乗り越える力の失せていた一つの波が彼の頭上を通過し、泡で覆った。
彼は、水に溺れた者の、不規則で絶望的なあがきで水をかきわけ、また海面に姿を現わし、三たび叫び声を上げると、まるであの死の錘りがまだ足についているかのように、海の中へ沈んで行くのを感じた。
頭上を海水が覆った。水を通して、黒い斑点のある鉛色の空が見えた。
懸命の努力が、彼をまた水面に連れ戻した。その時、彼は髪の毛を掴まれたように思った。それからはなにも見えなかった。なにも聞こえなかった。彼は気を失ったのである。
ふたたび目を開けたとき、ダンテスは自分が航行を続けている小型帆船の甲板にいるのを知った。彼の最初の眼差しは、船がどの方向へ向かっているかを見るためのものであった。船はシャトー・ディフを遠ざかり続けていた。
ダンテスは弱り果てていたので、彼が発した歓喜の叫び声は、苦痛のためのうめきと受け取られた。
前に述べたように、彼は甲板に横たえられていた。一人の水夫が彼の四肢を毛布で摩擦していた。もう一人の男、ダンテスにはそれが彼に「がんばれ」と怒鳴った男だということがわかったが、その男が、彼の口に水筒の口をあてがってくれていた。三人目の男、これが水先案内兼船長であったが、この男は、前日は運よく自分は免れたが、明日にも自分が襲われるかもしれない他人の不幸に対して、たいていの人間が抱くあの利己的な同情心を抱いて、じっと彼を見ていた。
水筒に入っていたラム少量が、衰弱していた青年の心臓に力を与え、彼の前に膝をついた水夫が毛布でやってくれている摩擦のおかげで、ダンテスは四肢の柔軟さをとり戻すことができた。
「おめえ、誰だ」と、下手なフランス語で船長が訊ねた。
「おれは」と、ダンテスはひどいイタリア語で答えた。「マルタ島の船乗りだ。シラクサからブドウ酒とパノリンを積んで来た。昨夜の疾風《はやて》にモルジウー岬の所でとっつかまって、あそこに見える岩で船はこなごなさ」
「どこから来た」
「あの岩からさ。運よくしがみつけたんでね。船長は気の毒に岩で頭をぶち割られちまった。ほかの三人の仲間は溺れちまった。生き残ったのはおれ一人だと思う。あんたの船が見えたんで、あんな人っ子一人いねえ離れ島で、いつまでも待ってるんじゃかなわねえと思って、船の残骸にのっかって、ままよとばかりあんたらの所まで来ようとしたってわけだ。ありがとうよ」ダンテスは続けた。「あんたらは命の恩人だ。あんたらのうちの一人が俺の髪の毛を掴んでくれたとき、俺はもう駄目だったんだ」
「俺だよ」と、黒く長い頬ひげを生やした、明るくあけっぴろげな顔つきをした水夫が言った。「ちょうど間に合った。沈んでくところだったぜ」
「そう、そうなんだ」ダンテスは手をさしのべながら言った。「改めて礼を言うよ」
「まったく、手をひっこめようかと思ったぜ」その水夫が言った。「おめえのその十五センチもあるひげと、三十センチもある髪の毛だろ、とてもまともな男とは見えねえ、まるで山賊みてえだったぜ」
実際ダンテスは、シャトー・ディフに入れられて以来、髪を切ったこともなければ、ひげをそったこともないのを思い出した。
「そうなんだ。危い目にあったとき、十年間は髪もひげも切りませんと、サンタ=マリア・デル・ピオ・デルラ・グロッタに願《がん》をかけたんだ。今日がその満願の日なんだが、その日に死に損なったってわけだ」
「さておめえをどうするか、だ」船長が訊ねた。
「ああ、どうでも好きにしてくれ。俺の船は沈んじまったし、船長も死んだ。ご覧の通り俺はその運命は免れたが、まる裸だ。幸い俺はかなり腕のいい船乗りだ。最初に寄った港でおっぽり出してくれりゃあいい。そうすりゃあ、いつだって商船の口がみつからあ」
「おめえ、地中海をよく知ってるか」
「子供の頃から乗り廻してるよ」
「よい碇泊地《ていはくち》を知ってるか」
「どんな難しい港でも、目をつぶって出入りできない港はまずないね」
「それじゃあ、船長」とダンテスにがんばれと怒鳴った水夫が言った。「こいつの言うことがほんとうなら、このままこの船に乗せといたって悪くはねえんじゃねえですかい」
「そうだ、言ってることがほんとうならな」船長は疑ぐり深そうに言った。「だが、ひでえ境遇の時には、できようができめえがかまわずに大口をたたくもんだからな」
「おれは、言った以上のことをしてみせるぜ」ダンテスが言った。
「ほ、ほう」船長は笑って、「ま、じきにわかるさ」
「いつでもかまわんぞ」立ち上がりながらダンテスが言った。「あんたたちはどこへ行くんだ」
「リヴォルノだ」
「そんなら、なん回も間切り〔船を風上に進めるため斜航すること〕をやって大事な時間を無駄にするより、なぜぎりぎりに一気に間切っちまわねえんだ」
「そんなことをすりゃあ、リヨン島にぶち当っちまうからよ」
「二十|尋《ひろ》も離れた所を通れるぜ」
「じゃあ、舵を握ってみろ。お手並みを拝見しようぜ」
青年は舵の所に坐り、ちょっと舵を押してみて、舵がよくきくかどうかを確かめた。非常にきくとは言えないが、意のままにはなることがわかると、
「帆桁索《ほげたづな》につけ! はらみ索《づな》につけ!」と彼は言った。
その船の乗組員を構成している四人の水夫が配置についた。船長は水夫たちの動きを見ていた。
「索を引け!」ダンテスが続けた。
水夫たちはかなり正確にその命令に従った。
「さあ今度はしっかり索を固定しろ」
この命令が前の二つのもの同様に実行され、船はジグザグに進むかわりに、リヨン島めがけて進み始めた。そして、ダンテスが予言したように、右舷二十尋を余してその島を通り抜けてしまった。
「やったぞ!」船長が言った。
「やった!」水夫たちも言った。
そして、みな驚嘆しながら、この男の中にひそむとはとうてい思えなかった、目の輝きとたくましい肉体の力とを取り戻したその男の顔をみつめるのだった。
「これで」舵の柄を離してダンテスが言った。「少なくともあんたらの航海の間は俺が少しは役に立つことがわかったろう。リヴォルノに着いたときおれがいらなきゃ、向うでおっぽり出してくれりゃいいよ。最初の給料から、それまでの食費と、貸してもらう服の代は払う」
「いいとも」船長が言う。「あんまり法外なことを言わなきゃ、話はつきそうだぜ」
「人間一人の値段はおんなじさ、あんたがこの船の仲間に払ってる額をくれりゃ、それで手打ちだ」
「そりゃおかしいや」と、ダンテスを海から引き上げた水夫が言った、「あんたは俺たちよか、ずっと腕がいいもの」
「余計な口出しするな。ヤコポ、おめえになんの関係がある」船長が言った。「自分にふさわしいと思う給料で雇われてどこが悪い」
「そりゃそうだ」ヤコポが言った。「おれはただ思ったことを口にしただけだ」
「そんなことより、この人はまるっきり裸だ、おめえのズボンに上着を貸してやったほうがずっとましだぜ、おめえが着替えを持ってたらな」
「持ってねえんだ」ヤコポが言った。「だが、シャツとズボンならある」
「それだけあれば十分だ、ありがとうよ」ダンテスが言った。
ヤコポはハッチに滑りこんで行ったが、すぐまた服を持って上がってきた。ダンテスは言い尽せねほどの幸福感を味わいながらその服を着た。
「さてと、まだほかに欲しいものがあるか」船長が訊ねた。
「パン一切れと、それにさっきご馳走になったラムを一口。なにしろ長い間、なんにも食べてないんでね」
事実、彼は四十時間近くなにも口にしていなかった。
ダンテスにパンが運ばれ、ヤコポが水筒をさし出した。
「面舵《おもかじ》!」船長がふり返って舵手に叫んだ。
ダンテスは水筒を口に持っていきながら、同じ方角をちらっと見たが、水筒が途中で止まった。
「おや」船長が言った。「シャトー・ディフに何があったんだ?」
事実、白い小さな雲が、ダンテスの注意をひいた。その小さな白い雲が、シャトー・ディフの南の稜堡《りょうほう》の銃眼のあたりに現われたところだった。
間もなく遠い砲声が、この小型帆船の所までかすかに聞こえてきた。
水夫たちは顔を上げ、互いに目と目を見交わした。
「ありゃどういう意味だ」船長が訊ねた。
「昨夜、囚人が脱走したんだろうよ」ダンテスが言った。「それを知らせるために大砲を撃ったんだ」
船長はダンテスの顔に視線を注いだ。青年はそう言いながら、水筒を口にあてていた。しかし水筒の酒を、これほど落ち着いて、いかにもうまそうに味わっているのを見ては、たとえ、なにがしかの疑惑を船長が抱いたとしても、そんな疑惑は頭をちらとかすめただけで、すぐに消えてしまったにちがいない。
『いずれにしろ』と、ダンテスをみつめながら船長はつぶやいた。『それがこいつなら、それでも結構な話だ。腹のすわった奴が手に入ったってわけだからな』
疲れているからという口実で、ダンテスは舵の所に坐らせてくれと言った。舵手は仕事を代ってもらえるのがうれしくて、目で船長の許可を求めた。船長は、舵を新しい仲間にまかせてもいいと、舵手にうなずいてみせた。
そこに坐ったダンテスは、マルセーユの海岸に、じっと目を注ぎ続けることができたのである。
「今日は何日だ」シャトー・ディフが見えなくなったとき、そばに来て腰をおろしていたヤコポにダンテスは訊ねた。
「二月二十八日だ」
「何年の」さらにダンテスが訊ねた。
「なんだと、何年のだと。あんた何年かって聞いてるのか」
「そうだ、何年かと聞いてるんだ」
「今年が何年だか忘れちまったってのか」
「しょうがないじゃないか、昨夜あんまり恐ろしい目にあっちまったんで」ダンテスが笑いながら言った。「気が狂いかけてたんだ。それで、すっかり記憶がおかしくなっちまったままだ。だから、何年の二月二十八日かって聞いてるわけだ」
「一八二九年のだよ」ヤコポが言った。
ダンテスが逮捕されたのは、十四年前のまさにその日だった。
彼は十九歳でシャトー・ディフに入れられ、三十三歳で出たわけである。
悲痛な微笑が彼の口辺にただよった。その十四年の間にメルセデスはどうなったろうかとわが身に訊ねてみた。彼女は自分はもうその間に死んでしまったと思っているはずである。
ついで、あれほど長く、あれほど苛酷な獄中生活を彼に味わわせたあの三人のことを思い浮かべて、彼の目に憎悪の光が閃めいた。
そして彼は、ダングラール、フェルナン、ヴィルフォールに対する、彼がすでに獄中において口にした、あの仮借なき復讐の誓いを新たにするのであった。
この誓いは、今はもはや単なる脅し文句ではなかった。今となっては、地中海随一の快速船といえども、順風を満帆にはらみリヴォルノに向けて疾走するこの小型帆船に追いつくことはできなかったであろうから。
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二十二 密輸商人
ダンテスは、その船に乗ってから一日もたたぬうちに、船の連中がどういう連中であるかを知ってしまった。ファリア神父の教育を一度も受けたことがないのに、このアメリー号(これがそのジェノヴァの船の名前だった)の船長は、地中海と呼ばれるこの大きな湖の周辺の言葉を、アラビア語からプロヴァンス語に至るまで、大てい知っていた。このために船長は、通訳なしに、通訳というのはいつの場合にもわずらわしいもので、時には横柄でさえあるものだが、海の上で出会う船とであれ、海岸で拾い上げる小船とであれ、また、さまざまな、名前もわからなければ国籍もわからず、はっきりした職業も持たないような者たちとでも、自由に交渉ができるのであった。港に接した岸壁の敷石の上にたむろしていて、ただ見ただけでは暮らしを立てるものなどなに一つ持っているとは見えないから、天から直接授かるもので生きているとしか思えない連中と、である。もうおわかりであろう、ダンテスの乗った船は、密輸船だったのだ。
だから船長は、最初ダンテスを船に乗せたときには、ある疑惑を抱いたのだ。船長は湾岸一帯の税関にすっかり名前を知られていた。彼と税関吏のあいだでは、しのぎを削るだまし合いが行なわれていたので、はじめ、ダンテスを、商売の秘密を探りに税関が巧妙にもぐり込ませた密偵ではないかと思ったのだ。しかし、船をぎりぎりに進めて見事にやってのけたダンテスの操縦ぶりが、完全にその疑惑をはらした。それから船長は、シャトー・ディフの稜堡の上に羽飾りのように浮いた雲を見、遠い砲声を聞いたとき、一瞬、国王の出入時のように礼砲を以て遇される人物〔囚人のこと〕を船に迎えたのではないかと思った。しかし、これは言っておかねばならぬが、この新入りが税関吏であるよりは、そんなことは船長をさほど心配させなかったのである。それに、この第二の疑惑も新入りの落ち着き払った様子を見ては、第一の疑惑同様すっかり消えてしまった。
したがってダンテスは、自分の正体を知られずに、船長の正体は知ってしまうという有利な立場に立ったわけである。この老船長と水夫仲間が、どんな面から攻撃をしかけて来ても、巧みに切りぬけ、ほんとうのことは言わなかった。彼がマルセーユと同じぐらいよく知っているナポリやマルタのことを詳しく話して聞かせ、しかも彼の正確な記憶力にものをいわせて前の話と食い違うようなことは言わなかった。だから、いかに勘の鋭いジェノヴア人〔船長のこと〕も、ダンテスにうまくごまかされてしまったのだ。彼のおとなしい性格と航海の経験、それにとくにこの上もなく巧みな芝居が、彼のために有利に働いたのである。
それに、たぶんこのジェノヴァ人は、知らねばならぬこと以外は知ろうとせず、そう思うことによって得をすること以外は考えないたちの男だったのであろう。
お互いにそんな関係のまま、船はリヴォルノに着いた。
ダンテスはそこで、また一つのことを試してみねばならなかった。それは、自分に自分自身がわかるかということであった。彼はこの十四年間、自分の姿を見たことがなかったのである。若い頃の自分はかなり正確に覚えていた。一人前の男となった自分を見ようというのである。仲間たちは彼のかけた願《がん》がすでに成就していると思っている。なん回となく彼はリヴォルノに寄港したことがあったから、サン=フェルナンド通りの一軒の床屋を知っていた。彼は、ひげと髪とを刈らせるためにその床屋に入って行った。
床屋は、まるでチチアーノ〔イタリアの画家〕の名画の人物のように、長い髪と黒く濃いひげを生やした男を見て驚いた。この時代には、こんなにひげや髪をのばすことはまだ流行していなかった。今日の床屋であれば、これほど見事な髪やひげに恵まれた男が、それを刈り取ってしまうと言えばそのことに驚いただろう。
リヴォルノの床屋は、なにも言わずに仕事にかかった。
それがすみ、エドモンにも顎がきれいに剃られ、髪がふつうの長さになったことが感じられたとき、彼は鏡を持って来させて、自分の顔をみつめた。
上述のように、彼は三十三歳になっていた。十四年の獄中生活は彼の顔に、大きないわば精神的な変化をもたらしていた。
シャトー・ディフに入れられた時のダンテスの顔は、易々《やすやす》と人生の第一歩を踏み出し、未来をただ過去がそのまますんなり延長されるだけのものと考えている若者の、丸い、にこやかな、輝くような顔をしていた。今、それはすっかり変わってしまっていた。
丸顔は面長となり、笑みをたたえた口もとは、内心の決意を示す決然たるひきしまった線を見せていた。弓形の眉の上には、ただ一本の憂わしげなしわが刻まれた。目は、深い悲しみの色をたたえ、その底から、人の世を嫌う心と憎悪との暗い光がほとばしっていた。長いあいだ日の光と太陽の直射光線から遠ざけられていたその顔の色は、黒い髪に縁どられると、北方の人に見られる貴族的な美しさを持つあの艶《つや》のない色をしていた。彼が体得した深い学識が、その顔全体に知的な落ち着きを輝かせていた。その上、彼は生まれつき背が高かったのだが、体内の力が凝り固まったような、がっしりとしたたくましい体格になっていた。
骨ばってほっそりしたスマートな体が、丸みを帯び筋肉質のものとなったのだ。祈りと鳴咽《おえつ》と呪咀《じゅそ》とが変えてしまった彼の声は、ある時は不思議な優しい響きを持ち、またある時は太い、しゃがれ声とも言えるほどの声音《こわね》になっていた。
その上、たえずうす明りと闇とに慣らされた目は、まるでハイエナやオオカミの目のように、夜でも物を見分けられる不思議な力を与えられていた。
エドモンは自分の顔を見て微笑した。たとえ最も親しい友であっても、まだ彼に一人でも友が残されているとしてだが、彼をダンテスと知ることは不可能であった。ダンテス自身にさえ自分がわからなかった。
アメリー号の船長は、ダンテスほどの腕を持った男は、どうしても自分の部下に引きとめておきたいと考えたので、先の利益の分け前を前貸してやろうと言い、ダンテスはこの申し入れを受け入れたのだった。最初の変装をすませたその床屋を出ると、ダンテスがまず考えたことは、店に入って水夫の服装を一揃い買うことであった。ご承知の通り、これはひどく簡単なものである。白いズボンと、縞のシャツ、それに赤い円帽だけだ。
ヤコポが貸してくれたズボンとシャツを返し、この服装でエドモンはアメリー号の船長の前に現われた。エドモンは船長に、また彼の話を繰り返さねばならなかった。船長はその粋《いき》でしゃれた水夫が、まる裸のまま瀕死の状態で彼の船に引き上げられた、ひげぼうぼうの、髪に海草をからみつかせ、海水にびしょぬれだったあの男とは、どうしても認めようとしなかったのである。
その善良そうな顔つきにひかれて、船長はまた新しい契約条件を出した。が、ダンテスには自分の計画があったので、三か月の契約に応じただけであった。
それに、アメリー号乗組みの連中は、じつに活動的な連中で、時間を無駄にしない習慣を身につけた船長の命令によく従っていた。リヴォルノに一週間も滞在せぬうちに、そのふくらんだ船腹には、染色したモスリン、禁制品の綿、イギリスの火薬、当局が封印を忘れたタバコがいっぱいにつめこまれた。これらの物を、自由港であるリヴォルノから運び出し、コルシカの海岸に降ろし、そこからはまたどこかの山師連が、積み荷をフランスに運ぶのを引き受けるのであった。
船は出港した。彼の青春時代の最初の舞台であり、獄中にあっていくたびか夢に見たその紺碧の海を、エドモンはまた波を蹴たてて進んだのである。右にゴルゴーネ、左にピアノサの島を見て、彼はナポレオンとパオリ〔コルシカ愛国の志士〕の祖国に向かった。
翌日、例によって朝かなり早く、船長がデッキに上がって行くと、ダンテスが舷側にもたれて、不思議な顔付で、昇る日がバラ色の光を浴びせている花崗岩質の岩礁を見ていた。モンテ・クリスト島であった。
アメリー号は、左舷三キロほどの所に島を見ながらコルシカに向かって進んでいる。
ダンテスにとって重大な響きを持つ名前を持ったこの島にそって進んでいる間、彼は、海へ飛び込みさえすれば、三十分でその約束の地に到達できると考えていた。だが泳ぎ着いてからどうするか。宝を発掘するための道具もなければ、宝を守るための武器もない。だいいち、水夫たちは何と言うか。船長はどう思うか。待たねばならぬ。
幸い、ダンテスは待つということを知っていた。彼は自由を十四年間待った。自由の身となった今、半年や一年、その富を待てぬはずはなかった。
もし自由にしてやると言われたら、富などない自由をも受け入れたはずではなかったか。
それに、この財宝はまったく架空のものではないのか。ファリア神父の病める頭の中に生まれ、僧の死と共に死んでしまったものではないのか。
たしかにあのスパダ枢機卿の遺書は不思議なほど正確なものであった。
ダンテスは、その一語たりとも忘れてはいないあの遺書の文句を、始めから終《しま》いまで頭の中で繰り返してみた。
夕暮れが訪れた。エドモンは、島が黄昏のもたらすさまざまな色に変わりゆくのを、そしてついには誰の目にも闇の中に姿を没するのを見ていた。だが彼は、牢の暗さに慣れたその目で、その島の姿を見続けていたのに違いない。彼は最後まで一人デッキに残っていたから。
翌日、乗組みの者たちはアレリアの沖合いで目を覚ました。一日中、間切りを続け、夕方には岸に灯がともった。この灯の配置の具合で、荷上げができることを知るらしかった。というのは、この小帆船の斜桁《しゃこう》に旗のかわりに、角燈がかかげられた。そうして、射程距離にまで岸に近づいたのである。
ダンテスは、まさかの時の用意と思われるが、船長が二門の小さい長砲を砲座に据えつけたのに気づいた。城壁に具えてある砲に似ていて、あまり大きな音をさせずに、四ポンド砲弾を千歩の距離にとばすことができる砲である。
が、その夜はそんな用心は不要であった。すべて、この上もなく順調におだやかに運んだ。
四隻の小舟がひそかに船に近づき、おそらく儀礼的な意味であろう、船からも一隻の小舟が降ろされた。結局五隻のボートがさかんに往来して、午前二時には、積み荷全部が陸揚げされたのであった。
その夜のうちに、分け前の分配が行なわれた。それほどアメリー号の船長は几帳面な男だったのである。水夫一人につきトスカナの金で百リーヴル、つまりフランスの金にして約八十フランであった。
まだそれで航海が終ったわけではなかった。船は舳先《へさき》をサルディニアに向けた。空《から》になった船にまた荷を積むのである。
この二回目の作業もはじめのものと同様にうまくいった。アメリー号はついていた。
今度の積み荷はルッカ公国向けのものであった。積み荷の大部分はハバナの葉巻とヘレスとマラガ〔ともにスペインの酒の名産地〕の酒であった。
ルッカで、船長の永遠の敵である税関といざこざが起きた。税関吏一名が死に、水夫二名が傷ついた。ダンテスがその二名のうちの一人だった。銃弾が彼の左肩の筋肉を貫いたのである。
ダンテスはこの小ぜり合いをむしろ幸せに思い、自分が傷ついたことにも満足した。この苛酷な教師どもは、自分がどのような目で危険を見、どのような心で痛みに耐えるかを彼自身に教えたからである。彼は平然と笑って危険を見たし、銃弾を受けた時も、かのギリシアの哲学者のように、『痛みよ、汝は悪しきものならず』と口にしたのである。
そればかりではない。ダンテスは致命傷を受けた税関史をよくよく見た。活動に騒ぐ熱い血潮のせいか、はたまた人間的な感情が冷えきったせいか、死者の顔を見ても、ダンテスはほとんど心を動かさなかった。ダンテスは、己がつき進まんとする生き方の途上にあるのだ。そして、見定めた目標に向かって歩を進めているのだ。彼の心は、彼の胸の中で化石となりつつあったのである。
また、ヤコポは、彼が倒れるのを見ると、彼が死んだものと思い、直ちに彼のもとに駈けつけ、彼を抱き起こした。そして、ひとたび抱き上げた後は、まことによき友として彼を介抱したのである。
この世はパングロス博士〔ヴォルテールの『カンディッド』の中の人物。楽天家〕が考えたほどよいものではないが、ダンテスがそれまで考えていたほど悪いものでもなかったのだ。ダンテスが死ねば、その分だけ自分の分け前が増えるだけなのに、この男は、ダンテスが死んだと思ったときあれほど悲しんでくれたではないか。
幸い、上述のように、ダンテスは傷を負っただけであった。いつの頃にか摘まれ、サルディニアの老婆が密輸業者に売ったある薬草のおかげで、その傷口も速やかにふさがった。このときエドモンはヤコポを試してみようと思った。彼は、自分を介抱してくれたお礼と称して、自分の分け前をヤコポにやろうとした。が、ヤコポは怒って受け取らなかった。
エドモンを見た最初の瞬間からエドモンに対して捧げていたこうした気持のいい献身的な態度が、エドモンに、ヤコポに対するある程度の好意を抱かせていた。ヤコポはそれ以上のものは要求しなかった。ヤコポは本能的に、エドモンが今の地位よりはもっと優れた地位にあるべき男だということを見抜いていた。その優越性は、他の連中にはエドモンがかくしおおせていたものである。この善良な水夫は、エドモンが彼に対して抱くわずかばかりの好意で十分満足していたのである。
だから、帆をふくらます順風のおかげで、船が舵手一人の手をかりるだけでその紺碧の海を安全に航行している長い船上の幾日かの間、エドモンは海図を片手にヤコポの先生になってやった。ちょうどあの気の毒なファリア神父が彼の先生になってくれたように。彼はヤコポに、海岸の地勢を示し、羅針盤の偏差を説明し、人が空と呼び、神が蒼穹《そうきゅう》にダイヤの文字を描き給うた、頭上に開かれた巨大な書物を読む術《すべ》を教えた。
そしてヤコポが、
「俺みてえなつまらねえ水夫がそんなこと覚えて何になる」
と訊ねると、
「先行きどうなるかわかるもんか。お前だっていつかは船長になるかもしれん。お前の同国人のボナパルトは皇帝になったじゃないか」
言い忘れていたが、ヤコポはコルシカの男であった。
こうして次から次と航海を続けているうちに、はやくも二か月半の月日が流れた。かつて大胆な外航船の船員であったエドモンが、今は、腕っこきの沿岸航路の船員となっていた。彼は沿岸の密輸業者全員と面識を持った。これら半ば海賊のような連中が、相手を仲間だと見わける、隠語や合図も覚えた。
彼は二十回も、モンテ・クリスト島のそばを往復したが、ただの一度も上陸の機会を見出すことはできなかった。
そこで彼はある決心をした。
それは、アメリー号の船長との契約が切れたら直ちに小さな船を一隻、自分の金でチャーターする(ダンテスはさまざまな航海で百ピアストルほどの金を貯めていたので、それが可能だった)。そして、なんらかの口実を設けてモンテ・クリスト島に行くのである。
島に行ければ、自由に宝探しができる。
いや、まったく自由にというわけにはいくまい。島まで行った船の者が彼の様子をうかがうだろう。
だが、この世ではなんらかの危険を冒さねば何もできはしない。
獄中生活は、エドモンを慎重な男にした。だからできればいかなる危険も冒したくはなかった。
しかし、彼の想像力がいかに豊かであっても、行きたくてたまらぬその島へ渡るのに、誰かの船に乗せて行って貰う以外には、どうしても方法が思いつかなかった。
ダンテスがこう思い惑っていたある晩のこと、彼に大きな信頼を寄せ、彼を部下として引きとめておきたいと思っていた船長が、ダンテスの腕をとって、オグリオ通りの居酒屋につれて行った。そこはリヴォルノの密輸商のうちえり抜きの連中がよく集まる場所だった。
ふつうここで沿岸での商売の商談が行なわれるのである。すでに二、三度、ダンテスはこの海の≪取引所≫に足を入れたことがあった。そして、周囲約二千里(八千キロ)に及ぶ沿岸各地から集まってくるこの豪胆な海賊たちの姿を見て、もし誰かが、この集まってはまた散って行く連中を自分の意のままに動かせるようになったら、その男ははかり知れぬ力を握ることになるのではないかと考えていたのであった。
その夜の話は大きな取引であった。トルコの絨毯《じゅうたん》と近東およびカシミールの布地を積んだ船がある。この積み荷を積み変える安全な場所が必要なのだ。それからフランスの海岸に荷揚げしようというのである。
もし成功すれば分け前は莫大なものとなる。一人あたり五、六十ピアストルになる話なのだ。
アメリー号の船長は、荷揚げの場所としてモンテ・クリスト島を提案した。完全な無人島であるから、兵隊も税関吏もいない。したがって、オリンポスの山に異教の神々が住んでいた時代に、商人と盗賊の神であるマーキュリーによって海のまっただ中に置かれた島のように見える。現代のわれわれは、商人と盗賊を、さほどはっきりとではないにせよ、区別しているが、古代の人々はどうやら同じ部類に分類していたらしい。
このモンテ・クリストの名を聞いたダンテスは、歓喜の戦慄を覚えた。心の中の激情をかくすために彼は立ち上がり、世界中の言葉がごっちゃになったフランク語〔アフリカ、近東諸国の港で話されるフランス、スペイン、イタリア、トルコ、アラブの諸語の混合した言語〕が話されている、煙でもうもうたる居酒屋の中を一めぐりした。
彼がふたたび、商談をとりかわしている二人に近づいた時、すでにモンテ・クリスト島に寄港すること、この航海のために、翌日の夜出帆することが決まっていた。
意見を求められたエドモンは、その島なら安全この上もないが、この大きな取引を成功させるには、事を手早く行なうことだと述べた。
したがって、計画には変更が加えられなかった。翌日の晩帆をひろげ、海は穏やかだし風もいいので、なんとか翌々日の晩には、その安全な島の水域に入るべく努力をしようということになった。
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二十三 モンテ・クリスト島
長いあいだ苛酷な運命にさいなまれ続けた人間に、時折ふと訪れる思いがけない幸運から、ついにダンテスは、簡単で自然な手段で目的に達し、誰になんの疑いも持たれずに、島に足を踏み入れようとしているのである。
待ちに待ったその出発と彼とを距てるものはただ一夜のみであった。
その一夜はダンテスが過ごした夜のうちでも、とくにひどく熱にうかされたような一夜であった。一晩中、彼の脳裡には、あらゆる幸運と不運とが代わる代わる浮かぶのであった。日を閉じれば、あのスパダ枢機卿の遺書の文字が、壁の上に炎のようにゆらめき、一時うとうとすれば、まったく途方もない夢が頭の中に渦まくのだった。エメラルドを敷きつめた洞窟の中へ降りて行く。壁はルビーであり、ダイヤの鍾乳石が垂れ下っている。
恍惚とし夢中になって、エドモンはポケットを宝石でいっぱいにする。それから外へ出てみれば、その宝石はみなただの石ころに変わっている。そこでまた彼はその奇跡の洞窟に入ろうとする。ところが道はどこまでも、らせん状に曲りくねり、入口は二度とみつからなくなってしまっていた。彼は疲れきった頭で、アリ=ババの宝の洞穴をあの漁師の前に開いてみせた呪文の言葉を思い出そうとするが、どうしても思い出せない。すべては無駄であった。消えた宝はまた地下の魔人の持ち物となってしまったのだ。一時はそれを奪い取る希望を抱いたのだが。夜と同じように、熱に浮かされたような昼間がやって来た。だが日の光は彼に想像力の助けを得て論理をとり戻させた。その時まで漠然としていて定着していなかった計画を、彼ははっきりと決めることができた。
夕方が訪れた。それと同時に出航準備が始まった。この準備の作業が、ダンテスにとっては興奮をかくす手段でもあった。彼はそれまでに、次第次第に仲間の水夫たちに対して、まるで船長ででもあるかのように、命令する権威を持つようになっていた。彼の命令は明快で的確、それに実行しやすかったから、仲間たちは、す早くしかも喜んで彼の命令に服した。
老船長は彼に自由に振る舞わせていた。船長もまた、他の水夫たちよりも、そして自分自身さえよりも、ダンテスを一段上と認めていたのである。彼はこの青年の中に、当然後継者となるべきものを見出していた。そして、縁組みによってエドモンをつなぎとめてしまえる娘が、自分にいないことを悔むのであった。
夜の七時、すべての準備が完了した。七時十分、まさに燈台に灯《あかり》がともったその瞬間に、船は燈台の沖を通過した。
海は凪《な》いでいた。東南から涼しい風が吹いている。紺色の空の下を船は進んだ。そこにはその一つ一つが一つの世界である燈台に、神が次々に灯をともしていった。ダンテスは全員に寝てよいと言い、彼自身が舵を握った。マルタ生まれ(水夫たちはダンテスをこうよんでいた)がこう言えば、それだけで十分だった。皆はおとなしく寝に行った。
これは時折起きることなのであった。孤独から急に人の世に放り出されたダンテスは、時々、ふとむしょうに一人になりたくなることがあったのだ。ところで、海のまっただ中に浮かぶただ一隻の船の孤独ほど広大で詩的な孤独があり得ようか。夜の闇に包まれ、広大なしじまの中で、ただひとり神のみの眼差しに見守られた孤独ほど。
その夜の孤独は、彼のさまざまな思いに満ち、夜の闇には彼の幻想の灯がともり、しじまは彼の決意に息づいていた。
船長が目覚めたとき、船は満帆に風をはらんで進んでいた。風をはらまぬ帆はただの一枚もなかった。一時間に二里半以上の速力が出ていた。
水平線上に次第に姿を大きくしていくモンテ・クリスト島が見えていた。
ダンテスは船を船長に返した。そして今度は彼がハンモックに身を横たえた。しかし、一晩中まんじりともしなかったにもかかわらず、一瞬の間も目を閉じることはできなかった。
二時間後、彼はまたデッキに上がった。船はエルバ島を通過しつつあった。マレチアナの沖で、平たい緑のピアノサ島の北であった。モンテ・クリスト島の火焔のような頂が碧空《へきくう》の中につき出ているのが見えていた。
ダンテスは舵手に取り舵を命じた。ピアノサを右手にやりすごすためである。こうすれば、航程が二、三海里短くなると計算したのだ。
夕方五時頃、島はその全貌を現わした。傾きかけた太陽が注ぐ光を受けたとき特有のあの透明な大気のおかげで、島の細部に至るまですべてを認めることができた。
鮮やかなバラ色から濃紺へと移り変わる黄昏の色に染められていくこの岩の塊を、エドモンは貪るようにみつめていた。時折、急に額にほてりが上がってきた。額が赤くなり、目の前を赤い雲がよぎった。全財産を賭けた賭博師も、期待の絶頂にあったエドモンが味わったほどの苦痛をその骰子《さい》の一擲《いってき》に感じたためしはあるまい。
夜になった。晩の十時、船は接岸した。アメリー号はこの集合地点へ最初に到着した。
平素は自己を抑制できるダンテスも、この時はがまんできなかった。彼はまっ先に岸に飛び降りた。許されることなら、ブルータスのように、彼は大地に接吻したことであろう。
夜の闇があたりを閉ざした。が十一時、月が海のまっただ中に昇り、波の一つ一つを銀色に照らした。そして昇るにつれ、このもう一つのペリオン〔テッサリアの山。ジュピターに反抗した巨人たちが、天に昇ろうとして積み上げたという〕とも言うべき岩山の上に、白い光の滝となってたわむれ始めた。
この島はアメリー号の乗組員にとっては馴染みの島であった。よく碇泊する場所の一つだったのである。ダンテスは、近東諸国への航海の途次、この島をそのたびに見てはいたが、上陸したことはなかった。
彼はヤコポに訊ねてみた。
「今晩はどこで過ごすのかな」
「そりゃあ船の中さ」
「洞穴の中で過ごしたほうが気分がいいんじゃないか」
「洞穴って?」
「島の洞穴さ」
「洞穴なんて、おれは知らねえ」
冷たい汗がダンテスの額ににじんだ。
「モンテ・クリストには洞穴はないのか」
「ない」
ダンテスは一瞬茫然とした。が、すぐに、その洞穴はその後なにかのことが起きて埋まってしまったか、あるいは、用心の上にも用心する意味でスパダ枢機卿の手で入口がふさがれたということもあり得ると考えた。
そうとなれば、すべては閉ざされた入口を探すことにかかっている。夜探しても無駄である。ダンテスは調査を翌日に延ばした。それに、沖合二キロほどの所に信号が掲げられ、アメリー号のほうも同じような信号で応答した。仕事開始のときが来たことを告げる合図である。
接近しても安全であることを知らせたにちがいないその信号に安心して、遅れて来た船はやがてその亡霊のような、音ひとつたてぬ白い姿を現わし、岸から一|鏈《れん》〔一八五メートル〕の所に錨を投げた。
ただちに積み荷の積みかえが始まった。
働きながらダンテスは、たえず彼の耳の中、心の中でささやき続けられている胸の思いを、一言でも声に出して言ったならば、この男たちがどんな歓声を上げるだろうかと、その歓声を思いやった。しかし、このすばらしい秘密を明かすなどという思いとは逆に、彼は、自分がすでに喋《しゃべ》りすぎてしまったのではないかと恐れるのだった。右往左往したり、やたらと質問を繰り返したり、念入りに観察したり、しょっちゅう考えこんだりしていた自分の行動が、疑惑をよびさましてしまったのではないかと恐れた。が、少なくとも今の状況下にあっては幸いなことに、彼の痛ましい過去が彼の顔にぬぐうことのできない悲しみの影を落し、このかげりのかげから、ふと歓喜の光がのぞくことがあっても、それは実際には、一瞬の閃光にすぎなかった。
誰も怪しむものはいなかった。だから、翌日ダンテスが銃と弾丸と火薬を持って、岩から岩へ跳んでいるのが見える数多くの野生の山羊を撃ちに行きたいと言い出したときにも、皆はダンテスのこの遠出をダンテスが狩猟が好きなせいか、あるいは、また一人になりたくなったのだろうと考えた。どうしてもついて行くと言ったのはヤコポ一人だった。ダンテスはこれを拒まぬほうが、いいと思った。人と同行するのを嫌えば、怪しまれはせぬかと恐れたのだ。が、一キロも行かぬうちに、仔山羊を射つチャンスに恵まれこれを仕止めた。彼はヤコポに仔山羊を仲間の所へ持って行かせ、それを仲間に焼かせることにした。焼けたら、銃を射って合図してくれれば、自分の分を食べに戻るというのである。これと乾した果実とモンテ=プルチアノの酒一びんとで立派な食事の献立となる。
ダンテスは時どきふり返りながら先へ進んだ。一つの岩の頂に着いた時、彼は足もと千歩ほどの所に、ヤコポと一緒になった仲間たちの姿を見た。彼らはすでに、エドモンのおかげで献立の中心ができて豊かなものとなった昼食の用意にとりかかっていた。
エドモンは、一瞬、一段上の者が浮かべるあの優しいそして淋しい微笑を浮かべて男たちを眺めた。
「二時間後には」と、ダンテスはつぶやいた。「あの連中は五十ピアストルを持って出て行く。命を賭けてまた五十ピアストルを稼ぎに。そうして六百フランの金を握って、トルコの太守ほどの誇りとインドの高官ほどの自信とを抱いてどこかの町で湯水のように使い果たすために帰って行くのだ。胸に抱く希望が、今日の俺に、連中の富を軽蔑させ、この世で最低の貧しさと思わせる。だが明日は、失望が、その最低の貧しさを至上の幸福と思わざるを得なくするのではないか……いや、そんなはずはない」ダンテスは大声を出した。「そんなことになるものか。あの学者、判断に狂いのあったためしのないファリアが、この一点でだけ間違えるということなどあるはずがない。それにこんなみじめな低級な暮らしを続けるくらいなら、死んだほうがましだ」
三か月前、あれほど自由のみを希求していたダンテスが、今はもはや自由だけではあきたらずに、富を希求していたのである。罪はダンテスにあるのではなく、人間の力に限界を与えておきながら、とどまる所を知らぬ欲望を与え給うた神の罪である。そうするうちにも、ダンテスは二つの岩壁の間にかくされた道を進み、どう考えてもいまだかつて人が足を踏み入れたとは思えぬ、奔流のうがった小径をたどって、洞窟があるはずと思われる場所に近づいていた。海岸をたどり、どのように小さなものにも細心の注意を払って調べた結果、彼はあるいくつかの岩の上に人間の手で刻まれた傷がついているように思った。
すべての心に忘却のマントを着せかけるように、すべての物体にコケのマントを着せずにはおかぬ≪時の力≫も、ある規則をもって刻みつけられ、おそらく自分の足跡を示すためにつけられたそれらの目印は、残しておいてくれたようなのである。しかし、その目印は、時折、花をつけ、大きな花束となって咲きほこるテンニンカの茂みのかげや、他のものに寄生する地衣《ちい》の下に消えていた。そんな時、エドモンは枝をかきわけ、コケをはがさねば、また新たな迷路へと彼を導く目印を見出すことはできなかった。だがこの目印はエドモンに希望を抱かせた。これをつけた者が枢機卿でないはずがあろうか。その破局がこれほどまでに完全なものになるとは枢機卿にも予測できなかったが、その破局の間際に甥の道しるべとなるようにと、枢機卿がこの印をつけたのだ。この孤島は、宝をかくしたいと思う者にとっては恰好の場所である。ただこの目印が、その本来の目的の人物以外の者の目を惹きつけはしなかっただろうか。この島は忠実にその壮麗な秘密を守り続けただろうか。
しかし、土地の起伏にかくれて、仲間からは姿が見えないようにしていたエドモンには、港から六十歩ほどの所で、岩につけられた傷が終っているように思えた。ただ、辿りついた場所には洞穴など一つもない。どっしり腰をすえている巨大な丸い岩、これが目印の示す唯一の到達点のようなのである。エドモンは、自分が終点に達したのではなくて、逆に出発点にいるのではないかと考えた。
彼は道を逆にたどることにし、また引き返した。その間に仲間たちは昼食の仕度をしていた。泉へ水を汲みに行き、パンと果物を陸に運び仔山羊を焼いた。急ごしらえの串から仔山羊を抜きとったちょうどそのとき、彼らは、カモシカのように身軽にしかも大胆に、岩から岩へと跳び移るエドモンの姿を認めた。彼らは合図のために鉄砲を一発射った。狩人はただちに向きを変え、彼らのほうへ駈け戻ってくる。だが、己れの無鉄砲さを試すといわんばかりに彼が試みた跳躍の姿を、空中に皆が目で追ったとき、皆の心配を裏書きするように、ダンテスの足がすべった。岩のてっぺんでよろめく姿が見え、叫び声が上がり、見えなくなった。
皆が一せいに飛び出した。ダンテスに一目置きながらも、皆ダンテスが好きだったのだ。最初に駈けつけたのはヤコポであった。
ヤコポは、血を流し半ば意識を失いかけて倒れているエドモンを見出した。十三、四フィートの岩の上からころげ落ちたらしい。皆はダンテスの口に少量のラムを注ぎ入れた。すでにあれほどの効きめを現わしたことのあるこの薬が、今度も前のときと同じ効力を示した。
ダンテスは目を開け、膝がひどく痛み、頭が重く、腰にこらえきれないほどの激痛を感じると訴えた。皆は彼を海岸まで運ぼうとした。が、彼の身体に人が手を触れると、その作業を指図していたのはヤコポだったのだが、エドモンは呻《うめ》きながら、とても運搬に耐えるだけの力がないと言うのだった。
ダンテスにとっては昼食どころではないことが皆にわかった。が、ダンテスは、自分と違って昼食を抜く理由などまったくない彼らに、もとの所に戻ってくれと言った。自分はほんの少し休養をすれば大丈夫だから、帰りに寄ってくれればもう直っていようと言い張るのである。
水夫たちはなん回も同じことを言わせなかった。水夫たちは腹がへっていたし、仔山羊の臭いが彼らの所までただよって来た。海の男どもは体裁などつくろわぬ。
一時間してまた彼らはやって来た。それまでにエドモンができたことといえば、十歩ばかりの距離を身体を引きずっていって苔むした岩に身をもたせかけたことだけであった。
しかし、ダンテスの痛みはおさまるどころか、ますます激しさを増していくようであった。積み荷を、ピエモンテとフランスの国境、ニースとフレジュスの間に降ろしに行くため、どうしても午前中に出帆せねばならない老船長は、ダンテスに立ってみろと言った。ダンテスはこの言葉に従うべく超人的な努力をするのだったが、やる度にまた崩おれ、青ざめ呻くのであった。
「腰骨が折れたな」船長が低くつぶやいた。
「なんてったってこいつはいい仲間だ。こいつを放ってはおけねえ。なんとかして船まで運ぶんだ」
しかしダンテスは、ほんのわずかでも動かされれば激烈な痛みに襲われ、こんな痛みに耐えるよりはその場で死ぬほうがいいと言い張った。
「それじゃあ、どうとでもなれ。お前みたいないい仲間をなんの手当もできねえままほったらかしにしとくわけにはいかねえだろう。出帆を今晩まで延ばそう」船長が言った。
この申し出に、水夫たちは皆驚いた。もちろん誰一人これに反対するものはいなかったが。船長は厳格な男で、船長が一度やろうとした事を諦めたり、あるいはその実行を先に延ばしたりするのは、これが初めてであった。
だからダンテスは、自分のために船上の規律がこんなふうに破られてしまうことにはとても耐えられなかった。
「いけない」と彼は船長に言った。「俺がへまだったんだ。だからそのへまの報いをおれが受けるのは当然だ。ビスケットを少しと、銃と火薬と弾丸を置いてってくれ。仔山羊を射ったり、自分の身を守ったりするためだ。それに、あんたが迎えに来てくれるのが遅れたときには、住み家を作るからつるはしを一丁」
「だが餓死しちまうぜ」船長は言った。
「そのほうがましだ。ちょっとでも動けば、とてつもねえ痛さに見舞われるんだから」
船長は船のほうをふり向いた。船は出航準備が始まるとともに、小さな港の中でゆれていた。準備がすめばいつでも海に出られる。
「マルタ生まれ、いってえどうしろってんだ」と船長は言った。「お前をこのまんまほっとくわけにはいかねえし、かといって、ここにいつまでもいるわけにはいかねえんだ」
「出るんだ、出帆するんだよ」ダンテスが怒鳴った。
「少なくとも一週間は来られねえぞ」船長が言う。「それに、お前を迎えに来るには、また廻り道しなきゃならねえ」
「二、三日して、この付近に来る漁船かなにかに出会ったら、おれのことを頼んでくれ。リヴォルノまでつれ帰ってくれれば二十五ピアストル払う。もし出会わなければ迎えに寄ってくれ」
船長は思案顔であった。
「あのねえ、バルジ船長」とヤコポが言った。「なにもかもうまくいく方法がありまさ。船を出して下さい。おれが残って介抱する」
「おれと一緒に残って、分け前をふいにしようってのか」エドモンが言った。
「そうさ、別に惜しかねえ」
「まったくいい奴だよ、お前は。お前のそのいい心根には神様もほうびを下さるだろうよ。だがな、おれは誰の手もいらない。ありがとう。一日か二日休めば大丈夫だ。それにこの岩礁には、打ち身によく効く薬草がみつかりそうに思う」
こう言ったダンテスの唇を奇妙な微笑がよぎった。彼は心をこめてヤコポの手を握ったが、島に残る、どうしても一人で島に残るという決心は変えなかった。
密輸業者たちはエドモンが要求したものを残して、なん回も後ろをふり返りながら遠ざかって行った。そして、ふり返るたびにていねいに別離の合図をし、エドモンは、身体のほかの部分は動かせぬといった様子で、手だけでそれに答えた。
それから、彼らが見えなくなると、
「あんな連中に」とダンテスは笑いながらつぶやいた。「友情や献身のあかしを見るとは、まったく不思議だ」
そうして、彼は用心深く、海を彼から見えなくしている岩の上に、這い上がり、そこから準備を完了した小型帆船が錨を上げ、今まさに飛び立たんとするカモメのように船体をゆすり、出港して行くのを見た。
一時間後には、船の姿は完全に消えた。少なくとも彼が横たわっている場所から船を見ることはできなかった。
すると、ダンテスは、この野生のままの岩山の上を、テンニンカやニュウコウの間を跳ねまわる仔山羊のように、すっくと身軽に立ち上がり、片手に銃を、もう一方の手につるはしを持って、岩に刻みつけられているのに彼が気がついた、あの目印が導いて行く、例の大きな岩めがけて走りだしたのである。
「さあ今こそ」と、彼はファリアから聞いたあのアラビアの漁師の話を思い出しながら叫んだ。「開けゴマ!」(つづく)